<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[8528] 【王宮陰謀編完結】なんちゃってシンデレラ(現代→異世界)
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2016/12/14 21:28
(仮)なんちゃってシンデレラ【オリジナル】

ジャンルとしては、オリジナルの異世界ファンタジーになります。
魔法も幻獣もいませんが、お姫様が出てくるからファンタジーに分類。
和泉麻耶(33歳)職業:パティシエが、異世界の12歳のお姫様になって何とか生きていくお話です。
ややご都合主義的なところをありますが大目に見てやってください。


チラシの裏からオリジナル板に引越しにあたり、タイトルから(仮)と【オリジナル】をはずしました。(2009.05.12)

お薦めいただきタイトルに説明追加しました。(2009.06.06)

読み直しながら小説家になろうに微修正版を掲載。(2015.11.15~)
これが完結したら2の『王都の秘密』の連載をスタートの予定です。


【更新記録】

2009.05.06  プロローグ・1up
2009.05.07  2up
2009.05.08  3up
2009.05.09  4up&3手直し
2009.05.09  5up
2009.05.10  6up
2009.05.11  7up
2009.05.12  8up&4手直し
        チラシ裏→オリジナルに移動
2009.05.13  9up
2009.05.14  10up&8手直し
2009.05.15  11up
2009.05.16  12up
2009.05.17  13up&8.12手直し
2009.05.19  14up&12手直し
2009.05.23  閑話 女官と大司教up&11手直し
2009.05.24  15up
2009.05.25  16up
2009.05.27  17up
2009.05.28  18up&17手直し
2009.05.29  19up&17手直し
2009.05.30  20up
2009.06.02  閑話 王子と副官up
2009.06.04  21up
2009.06.05  22up
2009.06.06  23up&22手直し
2009.06.09  24up&1~7・10・12手直し
2009.06.10  25up&16・女官と大司教・22手直し
2009.06.11  24・25手直し
2009.06.19  26up
2009.06.20  番外小ネタ&26手直し
2010.02.07  番外小ネタ
2010.03.01  閑話 王太子と乳兄弟【1】【2】
2010.03.13  閑話 王太子と乳兄弟【中編】&【前編】編集
2010.03.14  番外小ネタ
       閑話 王太子と乳兄弟【後編】
2010.05.13  27、28up
2010.05.28  番外小ネタ
2010.05.31  29、30up
2010.06.12  31up
2010.06.24  32、33up
2010.06.27  34up
2010.08.03  番外小ネタ
2010.12.19  閑話 王太子と女官見習いと婚約者up
2011.06.12  35up
2012.01.11  番外小ネタ削除
       1~8手直し
       36up
2012.08.29  37up 
2013.09.24  38up
2013.09.26  39up
2013.10.01  40up
2013.10.26  41・エピローグup
2013.12.03  番外編 スクラップブックカードをめぐる三つの情景 再掲
2013.12.12  番外編 騎士の誇り再掲
2014.01.17  番外編 王太子妃殿下の菓子職人(1)再掲
        同 (2)up
2014.01.21  番外編 王太子妃殿下の菓子職人(3)up
2015.11.14  お遊びの現代編up
2016.10.01  番外編 君という謎のかたちup&書籍化お知らせ
2016.11.10  王都迷宮編プロローグ&1up
2016.11.15  2 後宮の朝 up
2016.11.25  3 いつもの朝食 up 
2016.12.01  4 戦場へ up
2016.12.14  5 覚悟 up




[8528] プロローグ
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2012/01/11 14:45
「……さ、寒い」

 家に帰り着くなり、私はその寒さに震えた。
 一人暮らしの家は、寒い。体感として寒いというだけではなく、こう、何か心理的にも。
 三十すぎて独身だからわびしいんだろって言われると言い返す言葉がないんだけど。

(でも、別に不自由感じてないし、淋しくないって言えば嘘になるけど、だからなりふり構わず結婚したいってわけでもないし……)

 一昔前だと負け犬女だとか言われたかもしれないけれど、別に負けたとかも思わないし。
 それに、自由に好きなことができる今の生活に満足もしてる。
 
「さーむーいー」

 誰も答えない暗い家の中で手探りで照明のスイッチみつけて、つける。
 今朝、出かけたときのままにテーブルの上に書きかけのレシピが置きっぱなしだった。

「お湯、お湯」

 電気ケトルのスイッチをいれる。
 家に帰ってくると、何か温かいものを飲んで身体を暖めるのがいつものルーティン。

「今日は何にしようかな」

 何かと声を出すのも一人暮らしの特徴かもしれない。つい、何でもなくても声に出して言ってしまう。
 こたえてくれる人はいないのに。
 テーブルの上の籠には、手作りの柚子茶とかいろんな味の生姜湯の素の瓶詰めや、ネットで買ったお気に入りの白桃烏龍茶の缶なんかがまとめていれてあって、お湯さえあればいつでも飲めるようにしてある。
 選ぶ楽しみっていうのが生活の潤いになると思うんだよね。
 
「今日は冷えるから、檸檬生姜湯にしよ」

 スライスした檸檬と生姜をハチミツに漬けてある。これは去年漬けたもの。ハチミツにしっかり漬かっていれば檸檬は腐らない。これをお湯に溶かすと甘くて、喉に良くて、身体の温まる冬にぴったりな甘いホットドリンクができる。夏だったら氷をいれて冷たくして飲んでも美味しい。いわば、ジンジャーレモネードだ。
 エアコンはあるけどあんまり使っていない。築二十二年の年代モノの平屋だから隙間風がすごいのだ。
 温まることは温まるけど、電気代がもったいない気がする。コストパフォーマンス的にイマイチな感じ。
 お湯を沸かしている間にコートを脱いで、寝室へと足を向ける。
 
「やっぱり、ここに忘れてたか……」

 ベッドサイドに置きっぱなしだった携帯電話を発見して、ちょっとほっとした。
 淡いピンクゴールドの色合いの携帯は、三年前の年代物。こんなに厚みのある携帯は今時ないって職場の子たちによく言われる。新しいモデルが発表されるたびに迷うんだけど、なかなか全てが気に入るような携帯が見つからなくて未だに買い替えられない。
 画面を見たら着信が七件も入っていた。
 半日見なくて七件が多いか少ないかは人によると思うけど、私にはだいぶ多い。

「あれ、匂坂先輩だ……」

 珍しく留守電が入ってたので再生してみる。

『まやちゃん?匂坂です。メールもリターンもないからたぶん携帯忘れてるんだと思うけど……帰ってきたら電話ちょうだい。仕事があります』
「……すいません。その通りです~」

 テレビや留守電やそういったものと会話してしまうのも一人暮らしが長い人間のクセのようなものだと思う。
 私は、携帯電話に手を合わせて小さく謝った。 





 私、和泉麻耶は、本業はパティシエで副業がワインバーの臨時コックをしている。
 女だからパティシエールって言うべきなのかもしれないけど、お店の名刺の肩書きがチーフ・パティシエなのでいつもパティシエって言ってしまう。どちらにしても、肩書きは料理人。
 本業で働いているのは銀座の裏通りにあるフルーツタルト専門店で、ここは雑誌にもしょちゅうとりあげられる人気の店だ。
 私は三人いるチーフの一人。
 お店には見習いも含めるとパティシエは12人いて、4人が一つのチームになってる。
 チーフの特権は、接客に出なくていいこと。接客しているとお客さんの声が聞けてそれはそれで嬉しいんだけど、私は作っている方が好きだから昇格したときは嬉しかった。
 仕事は嫌いじゃないけど、でもちょっと物足りないところもある。
 当然のことだけど、店ではレシピが厳密に決まっているから自分で工夫するとかそういう余地がないし、季節によって多少の違いはあれど、毎日、毎日、同じものしか作れないって言うのはちょっとストレスがたまる。
 
 そこを補っているのが、もう一つの職場だ。
 私は、週に一、二回、ローテーションで店が休みの前日の夜だけ、うちの店に勤めていた先輩の旦那さんが経営しているワインバーの厨房に入ってる。
 ここはお酒のメニューはあっても、料理のメニューがない。その日仕入れた材料で、お客さんの選んだワインに合う料理を作るのが売りの一つだ。
 オープンキッチンのカウンターは常にお客さんにみられているし、メニューがないっていうのはなかなか難しくて気が抜けない。お客さんとのコミュニケーションとりながらメニューを決めて作るから、料理なんだけど、なんか真剣勝負!って感じがする。その程よい緊張感がすごく好き。
 夜遅い割にはお給料は安いしちょっとキツいこともあるけど、味にうるさいお客様に鍛えられながらワインの味も覚えることが出来て、ここで働くのも、私には大事な時間になっている。
 休みの日にバイトしてるんじゃあ休みにならないんじゃないってよく言われるけど、例えば、休日を趣味に費やすのと同じって思えてもらえばいいかも。
 普通の人は、仕事が休みの日に趣味に時間使うでしょ。それと一緒。
 私の場合はそうやって自分の好きなことをしながら、バイト代までいただけてしまうのだから、まさに一石二鳥なのだ。




「……忙しいのかな?先輩」

 匂坂先輩にリターンしたけどかからなかった。
 メールをいれて、キッチンに立つ。
 料理人は家では料理したくないって人も多いけど、私は家でもする。
 いろいろ研究も兼ねているので斬新な献立ができあがることも珍しくない。もちろん、責任持って最後まで食べるのが基本だ……どうしても食べられないものができることもあるけど。

 大家さんちの離れであるこの平屋は、料理好きだったというおばあさんが住んでいたそうだ。
 そのせいで、台所はなかなか充実している。いろいろ考えられて設計されている。
 何よりも、オーブンがついてるのが最高だ。賃貸でオーブンがあるキッチンというのはすごく珍しい。このオーブンがこの家を借りる一番の決め手だった。

 今日の私の夕食のメニューはおでんだ。
 私はおでんを作るとき、土鍋を使う。一度煮込んだ後、鍋ごと新聞紙にくるんで毛布に包んで保温するの。朝それをやっておくと、帰ってきたときにはすごーく味がしみこんでいる。いわば保温調理。専用の鍋もあるみたいだけど、そんなの全然いらない。土鍋ならごはんだって炊けるしいろいろ使えるから一人暮らしでも大きめ土鍋は必需品だ。
 おでんを温めながら、大根や人参の皮のきんぴらを作ってて気がついた。

(辛子がない……)

 辛子なしのおでんなんて、プリンにカラメルソースがかかってないようなもの!私は断固として辛子を要求する!!な~んて、エキサイトしてみても一人暮らしだからね。自分で買いに行くしかない。

(仕方ないなぁ)

 徒歩三分のコンビニに買いに行く事にした。
 スーパーの方が安いんだけど、ちょっと距離がある。この時間じゃあちょっと行く気にならない。
 最近はどこも物騒だ。ここらへんは大通りも近いし、街灯も多いからまだマシ。こういう時は都会でよかったなぁと思う。
 コンビニのあかりが見えてほっとした。
 あのロゴの看板を見ると何となく安心するのは東京生活に馴れたせいだろう。
 もともとの出身は北海道の山ん中なんだけど、もう、東京に来てから10年以上が経った、

 横断歩道の信号が青になる。
 足を踏み出した瞬間にキキーッという耳障りなブレーキ音と誰かの悲鳴が聞こえた。

(……まぶし……)

 なんで眩しいのかわかったと思った瞬間に私の身体はふわりと宙に舞い、そして、意識はホワイトアウトした。





2009.05.06 初出
2012.01.11 手直し



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2012/01/11 14:46
(……知らない天井だ……)

意識が醒めた瞬間、目に入ったのは夜空が描かれた天井だった。

(知ってる星座がないなぁ……)

 ぼんやりとそんなことを考えて、それからそんな場合じゃないとハッとした。

(えーと、あれたぶん事故にあったんだよね。眩しかったのは車のライトで……でも、ここ病院じゃないよな……いや、特別室とかそういうのかな……うわ、店大丈夫かな……保険証、どこやったっけ……?)

 頭が急速に現実で回転をはじめる。

(いや、いや、考えてても仕方ないや……とりあえず看護婦さん呼ぼう)

 ナースコールのスイッチを探そうとベッドの上に起き上がって驚いた。

「……すご……」

 天井だと思っていたのは天蓋だった。
 そして、私が寝ていたのは美術館で見たことがあるようなお姫様ベッド。それも、かなり豪華なもの。
 ふかふかの敷布もさることながら、ベッドカバーの刺繍の精緻さに目を見張った。庭をそのまま縫い取ったかのように花で溢れている。春の花……ちょっと色合いがくすんでるけど。
 正直、こういうの大好きだ。美術館とか博物館とか好きだし、こういう手仕事も大好き。料理人になってなかったら……つまり、私がもう少し食い意地がはってなかったら、きっと美術方面に進んでたと思う。

「……あれ?」

 ふと気付いた。

(私の手、小さくない?)

 手が小さく、腕も細い。何よりも爪が……長く綺麗に揃えられている。料理をするから私はこんなに長くは伸ばさないのに。
 違和感……何か、すごくおかしいのに、それがわからない。

 そっと床につこうとした足が、思っていたのよりも短く……そして、間違いなく小さい。

(ち、縮んだの?私)

 そう思いつつ、頭のどこかに違う疑惑がわいている。なるべく考えないようにしてるけど。

 光を柔らかく透かす薄絹を開き、ぐるりと部屋を見回した。

(……これ、絶対に病院じゃない。ってか、日本ですらないかもしれない……)

 ちょっとしたホールくらいはありそうな広い室内……大きくとった窓からはレースのカーテン越しに陽光が差し込み、床は毛足の長いふかふかの絨毯に埋もれてる。
 それから、頭上にはシャンデリア……別にここ、広間ってわけじゃないと思うんだけど。

(なんか、ものすごくイヤな予感がする……)

 さっきから頭の片隅で考えてる疑惑の方が正しいかもしれない……。

(……そんなこと、ないはず)

 考えろ、私は自分に言い聞かせる。
 だって、そんなことあるはずないんだから。
 何度も、可能性を否定する。
 でも、何度見ても変わらないのだ。

(子供の、手……)

 ほっそりした……小さな手。
 指が長く、白い手。
 火傷の痕もないし、ちょっとしくじってペティナイフ刺しちゃった時の傷もない。
 爪も綺麗に整えられている。

(私……)

 だから、私はその可能性を考えないわけにはいかなかった。

(……死んだのかもしれない)

 あの夜に。

 そう考えたら、何かひやりとしたものが胸の中にさし込んだ。
 寝台に潜り込み、頭まで敷布をかぶる。
 別に寝台の中が安全ってわけじゃないけど、そうやって布団の中で小さく丸まっていたら少し落ち着いた。

 でも、そうしたら、更に気付いてしまった。

(……怪我、してないんだ……)

 私が交通事故に遭ったのはほぼ確定の事実だ。
 そして、状況だけを言えば無傷で済むようなものではなかった。
 絶対に、怪我をしたはずなのだ。
 それが無傷ということは……。

(………やっぱり)

 感覚は、『もしかして』と『やっぱり』の間を、めまぐるしく行き来する。

(う、生まれ変わりとか……そんな感じ……?)

 だって、『私』の意識があるのは絶対なわけで。でも、この身体は『和泉麻耶』のものじゃないわけで……だとすると、生まれ変わった自分っていうのが真っ先に思い当たるんだけど。

(いや、でも、それはないよ、絶対無い!……いや、でも、子供になってるっぽいし……)

 それに、ふかふかのベッドや絨毯の足触りの感触なんかがこれが現実であることを知らしめる。

(ゆ、夢オチってこともある……きっと……たぶん……)

 でも、どれだけ時間が経っても、何度瞬きしても、布団の隙間から見る光景はまったく変わってはくれない。

(ゆ、勇気を出そう……)

 もう一度、確認するために、もそもそと置きだした。
 布団の中から出て。絨毯を踏みしめてしっかりと立ち、周囲を見回す。

 直射日光の遮られた室内はほどよく光が差し込んでいる……美しく装飾された室内、磨きぬかれた調度類、それから、部屋中に飾られた花々……品の良い豪奢。ただ高価そうというだけでないセンスの良さがある。
 壁には絵やタペストリーがかかっていて、冷ややかになりがちな雰囲気を暖かいものにしている。
 どれも、風景や何かの物語の一場面っぽい。女性が好みそうな柔らかな色合いだ。

(とどめは、このお姫様ベッドか……)

 明るめの色合いの木材で、天蓋の柱部分は蔦がまきついたような彫刻が施されてる。
 その蔦の葉なんて、葉脈までリアルに掘り込まれていて……木製なのに、その質感を感じそうなほど。
 本当にステキなベッドで、こんな状況じゃなきゃ思いっきり満喫するところだ。

(外国ってより、ファンタジー小説とかそういう物語の中に入り込んだみたい)

 正直に言って、私はその手の物語が好きだ。
 ここではない……現実ではない世界の物語。けれど、それは物語だからだ。
 こんな風に物語に入り込むような状況を望んでいたわけじゃない。

(部屋の感じとしては、イギリスとかフランスとかの古いお屋敷っぽいかな……)

 英国旅行した時に見学したカントリーハウスっぽい。……カントリーハウスって田舎の家って意味だけど、ハウスっていっても『家』ではなくて『屋敷』あるいは『城』って言う方が正しい。
 今居るこの部屋は、そういう豪奢で重厚な雰囲気がある。
 ふと、正面の壁にかかっていた絵に目を留めた。
 くすんだ金色の額縁は年代物っぽい。
 背景は明らかにここの部屋で、描かれているのは幼い女の子。

(うわー、可愛い。天使みたい。ここんち関係者かな)

 年齢は十ニ、三歳くらい。淡い金の髪に青い瞳……肌は抜けるように白くて頬はほんのりバラ色で、絵に描いたような美少女だ。いや、絵なんだけど……え?
 苦笑して気付いた……これって……。
 半信半疑で手をあげた。
 絵の女の子も手をあげた。
 べろを出してみた。
 絵の中の女の子もベロをだした。
 ……訂正、絵じゃない。鏡だ。

「ええええええええええっーーーーーーー」

 私は盛大な絶叫をあげ、それから、あまりのことによろめいてベッドに逆戻りした。









 2009.05.06 初出
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2012/01/11 14:46
 目が覚めて三日目の朝だった、

(やっぱ、だめか……)

 どうやら夢オチではなかったらしい。
 この三日の間に、いろいろなことがわかった。
 まず、この身体……というか、今の私は、正真正銘のお姫様だ。

 アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーティエ。
 この国の貴族の中の貴族とでも言うような四大公爵家の筆頭たるエルゼヴェルト公爵を父に、現王の妹であるエフィニア王女を母に持つ由緒正しいお姫様。年齢は、12歳になったばかり。

 そして、ここは外国どころじゃなくて異世界だった。
 異世界……異なる世界。ほんと、その通りだ。
 目が覚めてから三日しかたってないけど、でも、ここが私の記憶にあるのとはまったく違う世界だということは、すぐに私にもわかった。
 なんでかっていうと、電気がないのだ。
 世界の中には、もちろん電気がない場所だってある。けれど、この室内の文化水準から考えて電気がないという場所は、おそらくは存在しない。
 私だって世界中のすべての国を知っているとは言わないけれど、でも、この国はあの世界のどこにもないと断言できる。
 ……電気がないから、当然エアコンとか、照明とかもない。だってね、この部屋のシャンデリアはね、油でつくんだよ。夕方になると、ながーい梯子をもって油いれにくる人と火を灯しにくる人がいるの。
 照明が、蝋燭とランプだって知った時、軽くカルチャーショックを受けたのは内緒だ。
 何かするたびにカルチャーショックの連続なので、変な話、ショックを受けるのにもだんだんと慣れつつあるけれど。

「姫様、お目覚め……あら、もう着替えてしまったのですね」

入ってきたのは侍女のリリアだ。
彼女は、私についている侍女のまとめ役のようなものをしているみたいで、他の子たちは、いつもリリアに指示を仰いでいる。
 黒いベルベットのシンプルなワンピースを白のレース衿とカフスで飾ったお仕着せを身につけ、ヘッドドレスももちろん白。いわゆるメイド服と呼ばれるデザインとよく似ているけれどコスプレでも何でもない。これは、彼女達にとっては、ごく当たり前の制服姿なのだ。

 私はこくりとうなづく。

「朝食はこちらにお持ちしますか?」

 もう一度うなづいた。
 リリアはかしこまりました、と言って引き下がる。

 状況がよく飲み込めるまでは口を開かないようにしようと思ったんだけど、未だにそれが続いているのは、状況がいささか複雑すぎてどうしていいかわからないからだ。
 大事になってしまって口を開くタイミングを逸してると言ってくれてもかまわない。

(まさか、ここまで大騒ぎになるなんて……)

 私の置かれている状況や周囲の事情がだいぶわかってから、まずかったかもしれないとは思ったけれど、でも……やっぱり、だんまり決め込む以外に手段はないような気もする。

(……どう考えても殺されかけたっぽいし)

 あちらの世界で私が交通事故に遭ったように、こちらの世界でアルティリエはバルコニーから落ちたらしい。
 『らしい』としか言えないのは、私がそれを覚えてないから。
 現在の私は、事故の衝撃で記憶を失い、更に声も失っている、ということになっている。

 リリアに限らず、私には何人かの侍女がついているのだけれど、彼女たちが私に話しかけたり問いかけたりする言葉から幾つかのことがわかっていた。

(事故、だとは思ってないんだよね……みんな)

 侍女たちは、ベランダから落ちたことを『事故』と表現はするものの、みんな、どこかそれを信じていないようなところがある。
 アルティリエが不注意でベランダから落ちたとは誰も思っていないのだ。

(それに、一人だけ……)

 殺されかけた、と口にした子もいた。
 でも、それも納得だ。だって、バルコニーから落ちたと言っても、このエルゼヴェルト公爵の居城は湖の小島の上に建っている城なのだ。
 アルティリエが落ちたバルコニーは三階。三階っていっても普通の三階建の家とかっていうレベルじゃなくて、ビルで言えばその倍くらいの階数……五、六階にあたるのではないかという三階だ。それにプラス崖の分の高さがあると考えたら、10階建マンションの屋上から墜落したのと一緒くらいだと思う。
 ちなみに、下は真冬の湖だ。

(ホント、よく生きていたと思うよ)

 私が滞在している部屋のベランダ……ちなみに一階……から下を見てつくづく思った。
 普通だったら絶対に助からない。アルティリエが助かったのは、アルティリエがまだ子供で体重が軽かった事と、とてつもなく強運だったからだ。奇跡的っていってもおかしくないと思う。
 ただ、中身が今の『私』になっている点で本当に助かったかっていうところはいささか微妙ではあるけれど。

(顔見たこと無いけど、三番目のお兄さん助けてくれてありがとう……)

 冬の湖でボートを浮かべて、どこぞの貴族のお嬢さんとデートしていた三番目の兄が即座に掬い上げて助けてくれたのだと噂できいた。彼がいなければ、墜落からは助かっても湖で溺死、あるいは凍死だっただろう。
 その点でも幸運が重なった。
 こんな奇跡のような幸運は、本当だったら宝くじを当てることに使いたいくらいだ。

(贅沢は言わないから、命の危険のない安全なところで生活したい……)

 ここは、アルティリエの生家だけれど、でもアルティリエにとって絶対に安全な場所ではない。

(だって……)

 つまり、アルティリエであるところの私は、かなり複雑な立場に置かれているのだ。

 この国では、フルネームを聞けばどういう血筋の誰なのかがわかるようになっている。
 簡単な区別だけど、名前が長ければ長いほど身分が高いと判断していい。一般市民は名も姓も一つずつだし、称号もない。

今の私のフルネームは、アルティリエ=ルティアーヌ=ディア・ディス=エルゼヴェルト=ダーティエという。

 アルティリエ=ルティアーヌというのが名前。アルティリエ=ルティアーヌ……これは『光の中で輝く光』を意味する。
 古代語で書かれた聖書の冒頭部分からとっている。
 つけたのは、私の母だ。私を産むのと引き換えのようにして亡くなった母と私のたった一つの絆が、この名前だ。

 そして、ディアというのは、王族を意味する称号。
 『ディア』は、王の子・孫に与えられる。例えば、王子や王女と結婚してもその配偶者には与えられない。私の『ディア』は王女である母の子であり、ひいては前王の孫であるから。
 『ディス』は、妃という意味で、王族と四大公爵の正式な結婚による配偶者にのみ与えられる称号。つまり、アルティリエは既婚者なのだ。
 アルティリエの夫は、現国王の王太子、ナディル殿下。
 王太子ということは未来の王様がほぼ確定。その正妃だから、女性の身分としては最高の部類に属すると思う。
 でもね、政略結婚に年齢は関係ないというけど、アルティリエはまだ12歳だよ、何なの12歳の人妻って!私なんて、33歳独身だったのに!
 まあ、個人的な事情はさておき、アルティリエが結婚したのは生後7ヶ月だったというから、もう何もいえないというか……私にはどうこうできるレベルの話じゃない。良いか悪いかを論じるとこ通り越してると思う。

 最後に姓。女性の姓は、結婚後は生家と婚家を結ぶからエルゼヴェルト=ダーティエ。
 これが未婚だと母の生家と父の生家を結ぶ。私の場合は順番が入れ替わるだけで組み合わせは一緒だ。
 エルゼヴェルトというのは父の姓になる。
   
 アルティリエの父は、現エルゼヴェルト公爵レオンハルト=シスレイ=ヴェル=アディニア=エルゼヴェルト。
 エルゼヴェルト公爵家はダーディニア王国有数の大貴族で武門の誉れ高い家柄でありながら、一族のうち必ず一人は教会に入り高位聖職者となる。
 また、学問にも秀でた者を多く排出し、学者として名を馳せる者も出るほど。
 現公爵は将軍職を預かり、彼の従兄弟は教会で大司教の地位にある。

(つまり、とっても有能な一族だってこと)

 だからこそ降嫁が実現した。

 母の姓であるダーディエ。それは、このダーディニア王国の王家の姓だ。
 私の……アルティリエの母は降嫁した前王の末王女エフィニア=ユディエール=ディア=ディス=ダーディエ。
 直系王族だから母の姓は一つしかない。
 王の子は、どこにいっても王の子であるという意味だという。
 エフィニアは先王ラグラスⅡ世の王妃エレアノールの産んだ末姫にして、エルゼヴェルト公爵妃だ。彼女は、アルティリエを産んですぐに亡くなっている。

 それが自分かと思うとちょっとどうしていいかわからなくなるけど、アルティリエは、王女と国内有数の大貴族の当主との正統な婚姻の間に生まれたこの上なく由緒正しい血筋のお姫様なのだ。しかも、幼いといえど王太子妃である。
 で、複雑なのは、今の私が王太子妃でありながら公爵家の唯一の後継者だってとこにある。
 それだけでも私が命を狙われるには充分だろうことがわかる。

(私にはどうしようもないんだけど……)

 廊下の方からカタカタと音がしてる。
 何度か聞いた音……朝食のワゴンが運ばれてくる音だ。
 わーい、朝ごはん!と思ったらおなかが小さく鳴った。
 こんな時でもおなかだけはしっかりすく。

(とりあえず、食べてから考えよう……)

 私は問題を先送りにした。……逃げたわけじゃない、決して。







 2009.05.07 初出
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/26 20:38
(しっかし、何度見ても奇跡だなぁ……)

 バルコニーに設置された椅子に腰掛けて、ぼんやりと湖を眺める。
 目覚めた初日はさすがにベッドから出してもらえなくて、昨日はちょっとしたプチパニックを起こして部屋を脱走。この広い城の中を迷走したあげく、墜落現場で眩暈をおこしてベッドに逆もどりした。

 今の私の部屋は1階だけど、湖の上に張り出したこのバルコニーから落ちるだけでもとっても危険だ。
 こうして危険のない場所から眺めているだけでもしみじみ自分の運のよさを感謝する。
 ほんとよく助かったものだ。

 意識不明で一週間寝込んだらしいけど、勿論覚えていない。一週間寝込んだ割には身体は何でもなかったと思う。
 目覚めた当初はずっと寝てたせいであちらこちら痛かったりもしたけれど、今は全然平気。打ち身が少しあるくらいでケガらしいケガもまったくしてなかったし。

(私を殺そうとしてた人、びっくりしてるだろうなぁ)

 アルティリエが落ちたとされるバルコニーは、三階の端。絶対にアルティリエが一人で行くような場所ではないと侍女が力説するような場所だ。

 そもそも、あそこは遊戯室なのだ。
 ビリヤードやダーツのようなゲームがあって、夜会の後で男性参加者達が煙草を楽しみながらゲームをしたりする部屋で、勿論、当日は使われていなかった。それに、遊戯室というのは、女性が足を踏み入れる事の少ない部屋なのだ。
 そして、そこが遊戯室だと知っている少女が、誰もいなかったとしても一人で行くような場所でもない。

 だとすれば、偶然の事故である確率は極めて低い。
 だいたい、アルティリエは一人でどこかに行くような子ではない。
 物心ついたときから王太子妃であるお姫様育ち。たぶん、アルティリエには一人でどこかに行くという発想自体がない。
 結果として脱走したことになった時もいろいろ大変だった。それはまた機会があったら話すけど。
 だから、護衛の騎士もお供の侍女達の誰一人も気付かぬうちに、彼女が絶対に足を踏み入れないような場所から落ちるなんてことはありえない。

 リリアなどは、あからさまには口に出したりしないけれど、アルティリエが誰かに誘拐され、ベランダから突き落とされたと考えている。
エルゼヴェルト公爵家側が必死になって取り繕い『事故』とは言っているが、これは実は『事件』だ。
 それも立派な『王太子妃暗殺未遂事件』。
 私が脱走しようとした影響もあるけど、リリアや護衛の騎士たちがぴりぴりしてるのも無理はない。

(私が覚えてれば、話は簡単だったけどね……ただ……事故でないという決め手もないわけだし……)

 ちょっと嫌な考えになってしまって、それを振り切るように首を振る。

 視線の先で湖面に映る白亜の城が揺れる。
 湖の上に建つ城というのは、絵的にはとっても綺麗だけど使い勝手が悪そうだ。
 お城のある小島と陸地を繋ぐのは、大人三人がかりでやっと動かせる巻き上げ機で上げ下げする跳ね橋だけ。
 あれ、毎朝、毎夕上げ下げしているのね。ひっどい音がするからそれで目が覚めたりもする。
 一度、下ろすときの音を聞いたら雷が落ちたかと思ったくらいすごかった。

(……巻き上げ機に油させばいいのに)

 いや、油さしたくらいではどうにもならないのかもしれないけど。
 溜息をついて、気配に振り向くとリリアが近づいてくる。

「お茶になさいますか?」

 私はこくりとうなづく。
 あんな事故のあとだからなのか、ベッドから出ても特にするべきことはなくて、時間は淡々と流れてゆく。

 朝は目覚めるとまず洗顔と髪のセット。
 それから着換えが終わるまでにだいたい40分~50分くらい。
 ああ、時間の単位は、分=ディン、時間=ディダと読めばいい。24時間で一日なのは変わらない。
 時計もちゃんとあるし、数字はアラビア数字とはちょっと違うけど、まあ読めるから問題ない。

 朝の身支度が終わったら30分くらいかけて朝食。
 朝食の後には挨拶を受けるものらしいけど、目が覚めてから私の元にやってくるのは、父である公爵だけだ。
 父といっても、アルティリエは生後7ヶ月から王宮暮らしだから娘という感覚は薄いんだろう。一緒に過ごすようなことはまったくなくて、朝の挨拶をするだけで後は一日中顔を合わせない。
 他に挨拶に来る人間はなく、私から誰かのところに挨拶に行くことはない。
 それは、この城には私に目通りするほど身分のある者は他になく、私が自分から挨拶に行くのは国王夫妻と夫である王太子殿下だけだからだとリリアが言った。そもそも、それすら幼いことを理由に現在は免除されているのだという。

(むしろ、放置状態っぽい)

 で、この挨拶が終わると自由時間。
 もしかしたら、王宮ではこの時間に習い事とかがいろいろあるのかもしれないけれど、実家とはいえ旅先であるここにはそれがない。
 私の周囲にいるのはリリアをはじめとする、数名の侍女達。
 彼女達は王宮の侍女であり、ここのお城の侍女ではない。制服も違う。王宮の侍女達だけが黒を着る事が許されている。

 彼女たちのまとめ役は、やっぱりとうか何というか、まだ二十歳そこそこだけど正式な女官として任官しているリリアだ。何でも王家直轄領の租税管理官である子爵令嬢だという。
 私が事故に遭ったことにとても責任を感じていて、言葉を失ったと思われている私にいろんな話を聞かせてくれる。少しでも声を───言葉を取り戻そうと努力もしてくれているのだと思う。
 以前のアルティリエはほとんどしゃべらない無口な子ではあったけれど、しゃべれないわけではなかった。
 無口なのとしゃべれないのは、結果にそう差はなくても意味はまったく違う。

(……ごめんね、しゃべらなくて)
 
 私は、アルティリエだ。
 こうしてここにいる以上、それが今の私の現実。
 けれど……こうして状況を確認するためと自分に言い聞かせながら口を開かないでいるのは、それがまだ認められないからかもしれない。

 医者の診断で、アルティリエは事故のショックで言葉を失い、ついでに記憶も失っているらしいとされている。らしい、というのは、私がしゃべらないから確認がとれない為。
 一言で言ってしまえば、ふんぎりがつかないでいるのだ。

 自分がアルティリエであることはわかっている。
 その置かれている状況もだいぶわかった。
 ……でも、積極的にアルティリエとしてこの世界で生きていく決断ができていない。

(優柔不断なだけなんだけどね……)

 アルティリエは可愛い。とびっきりの血筋で、かつ、王太子妃という身分もある。うまくやればこの世界でも生きて行けるだろう。
リスクもあるけれど、条件面だけで言えば元の世界とは比べ物にならない好条件がそろってもいる。
 それでも、私は元の世界を思わずにはいられない

(戻れないのに)

 それだけは何となくわかっていた。
 あの時、たぶん私の───和泉麻耶の生命は失われた。
 そして、私の魂はアルティリエに生まれ変わったのだと思う。

(……どう考えてもその可能性が一番高い)

 漫画とかで幽霊になってのりうつるとかあったけれど、それはその身体の人格が別にあったでしょ。
 でも、今の私は違う。一つの身体に一つの魂しか宿っていない。

(まあ、私にはどうしようもないんだけど……)

 溜め息を一つつく。
 目が覚めてから、自分ではどうしようもないことばかりで、溜め息の連続だった。

(記憶喪失っていうお医者さまの判断は都合がいいけど……)

 ちょっとくらい何かおかしくても、墜落事故のショックでごまかせる。 
  それに、アルティリエは相当無口だったらしい。

(何しろ、あだ名が人形姫だし……)

 使用人がアルティリエにつけたあだ名は『人形姫』。『氷姫』って言ってた人もいたっけ……どっちにせよ、なんとなくどんな子だったか想像がついた。
 不敬罪にならないのかな、とか思ったけど、まあ、私もお店でやってたからね。本社の人や店長にコードネームつけて話すの。
 だって、名前をずばりと言ってしまったら聞かれたときに言い訳のしようもないでしょ。





「お待たせいたしました」

 リリアが運んで来たワゴンからはいい匂いがしてくる。
 焼きたてのフィナンシェやマドレーヌを見た瞬間、私は思わずにっこりと笑った。
 わーい。おいしそう。

「姫さま……」

 一瞬、リリアの動きが止まる。
 私は小さく首をかしげて見上げた。

「いえ、何でもありません。さ、どうぞお召し上がり下さい」

こくり、と私はうなづく。この時は、まさか私が笑ったことをリリアが驚いたなんて思いもしなかった。
つまるところ、そんなにもアルティリエが人形だったということなんだけど。

(んー……おいしい!うわ、これ作った人、天才!レシピ知りたい!)

 綺麗なきつね色のフィナンシェは、たっぷりのバターを使った甘さ控えめの絶品。
 こういう焼き菓子は、きつね色を焦げ色にしないその焼き加減が一番難しい。甘さ控えめといえど、砂糖を使っているから焦げやすいし。

(んー、でも、これは砂糖より、ハチミツかな……うん。たぶん。ハチミツだ)

 ちょっとクセのある甘味がする。でも、ミルクを使っているからそのクセがいい感じなのだ。これ、絶妙なバランス。
 綺麗な琥珀色の水色の紅茶を飲みながら、二つ目に手を出す。

(この緑、なんだろう……ほうれん草?よもぎ?たぶん、抹茶ないしな……この国)

 緑色をしたフィナンシェ。何かの野菜の葉っぱだと思う。ちょっとほろ苦な感じがおいしい。

「それはザーデのフィナンシェです。ザーデは栄養価が高いんですよ」

 なぜか嬉しそうにリリアが説明してくれる。
 なるほど、と思いながらおいしくいただく。甘いもの食べるとどうしてこんなに幸せな気分になれるかな。すごい不思議だ。

(どうしよう、三つ目食べようかな、やめようかな……)

 ダイエットに気を配る年齢でもないんだけど、昼食が食べれないのは困るし。

「これは人参ですけど、あんまり人参の味もしません」

(別に私は人参平気なんだけど、アルティリエは嫌いだったのかな……)

 まあ、いいや、と思いつつ三つ目に手を伸ばす。
 人参本来のほのかな甘味がおいしい。これ作った人、名人だよ。弟子入りしたいくらい。
 野菜本来の味を生かしつつ、お菓子としておいしい。
 売り出したら絶対に売れると思う!あ、でも、砂糖とか貴重品そうだからコストパフォーマンス的に無理か。

 後にこのお菓子をめぐって、ちょっとした騒ぎになるんだけど、勿論この時の私は何も知らなくて、結局、アーモンドとレーズンもあわせて合計五個も食べた。

 なぜか、侍女たちがみんな満足そうだった。






 2009.05.08 初出
 2009.05.09 手直し(タグ間違えている時に見た方すいませんでした)
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/16 09:13
 何もすることないって、なかなか苦痛だ。
 食事の時間で区切りというか時間の感覚を取り戻してるけど、朝なんだか昼なんだか一瞬わからなくなったりもする。

(いい匂い……にんにく炒めてるっぽい)

 厨房が近くにあるのか、風に食欲をそそる臭いが混じっている。
 この国では、夕食はだいたい夜の7時前後。
 まだちょっと時間があるので、これからどうするかの基本方針を考えてみた。

 そもそも、ここにいる主目的である母の葬祀は終わっている。葬祀というのは、お年忌みたいなもので、ここで行われる葬祀はただの形式だ。母の遺体は王都の霊廟で眠っている。
 私の墜落事故がなければもうとっくに王都に戻っていたはずだ。

(でも、王宮に帰るって言っても、犯人、捕まってないし……よーく考えると王宮が安全って保証があるわけでもないし……)

「姫さま……いえ、妃殿下」

 つらつらそんなことを考えていると、リリアが珍しく私に『妃殿下』と呼びかける。
 彼女が妃殿下と私を呼ぶ時は、それが公の何かの用事であることを意味しているのだと、私はこの数日で理解していた。
 何?というように視線を向ける。

「……エルゼヴェルト公爵より、公爵夫人以下、子供達を拝謁させたいとの申し出がございました」

 瞬間、私は軽く首を傾げる。

「公爵閣下は、妃殿下に義母である夫人と兄君達をご紹介したいとお考えのようです」

 いや、意味はわかっているんだけど……ちょっと、考えてしまう。
 なぜならば、何度も言ってるように単純だけど複雑な事情があるからだ。


 ここでおさらいです。
 私は、公爵と王女との間の正式な婚姻により生まれた公爵令嬢で、今は王太子妃です。正式な婚姻とわざわざつけるのは、このダーディニア王国ではそれがとっても重要視されるから。
 それを踏まえた上で、私の立場と複雑な状況について状況を整理してみると、これが、何ていうかすごく昼メロ的だ。

 父であるエルゼヴェルト公爵にはアルティリエの他に五人の子供がいる。
 五人全員息子で、彼らを産んだのは、後妻に入った現公爵夫人ルシエラだ。
 ここでのポイントはまず、彼女は『妃<ディス>』ではなく、『夫人<フィス>』であるということ。
 『夫人』は『愛妾』ではない正式な妻ではあるけれど、『妃』の持つさまざまな権利を持たない。ルシエラは『妃』になれる身分ではないのだ。
 とはいえ、これは身分だけのことではない。実際には、ルシエラ以下の身分であっても『妃<ディス>』となった女性は何人もいる。
 でも、おそらくルシエラは永遠にその座につくことができないだろう。王家は絶対に彼女に『妃<ディス>』を認めない。

 というのにはもちろん理由がある。
 ルシエラの産んだ子供は上から、アラン・ディオル・ラエル・イリス・エルス……アランが二十四歳で最後のイリスとエルスの双子が十七歳だ。
 これ、年齢的におかしい!と思う人も多いだろう。だって、後妻に入った女性の子供の方が前妻の子である私よりだいぶ年上なのだから。
 でもこれは実に単純な事にすぎない。平たく言ってしまえば、彼女はずっと父の愛妾で、私の母がが死んで晴れて後妻になったというだけのことだから。

 私の父であるエルゼヴェルト公爵は、私の母、エフィニア王女が生まれた時に王女の婚約者になった。
 これは公爵家が強く望んだものであり、かつまた、年齢差があったにも関わらず、政治的な事情からか王家はそれを退けることがなかった。
 四公爵家と王家は互いに何代にもわたって通婚を繰り返しているのだけれど、中でもエルゼヴェルド公爵の配偶者はほとんど王家からの嫁入で、それが不文律と化しているようなところがある。
 だからこそ王家のスペアなどと呼ばれたりするし、女王が即位する場合の王配の第一候補は必ずエルゼヴェルドの人間なのだ。
 注意して欲しいのは、王女が生まれた時点で彼は既に十五歳だったことと王家よりも公爵家が強く望んだということ。
 この年齢差が後のすべての事象の元凶となった。

 父・レオンハルトがフィノス伯爵の一人娘であるルシエラと恋に落ちたのは彼が二十歳の時のことだ。
 この時点で母・エフィニア王女はまだたった五歳だった。婚約者といっても五歳児じゃあどうにもならないのが普通だから、レオンハルトとルシエラの仲は歓迎されないまでもわりと好意的に大目に見てもらえた。
 エルゼヴェルトは国内有数の大貴族であったし、一地方貴族にすぎぬフィノス伯爵にとって、娘が次の公爵の寵を受けることは願ってもないことだったからだ。
 王家に次ぐ四公爵家の当主に愛人の一人や二人いてもおかしいことではない。むしろ、いない方が珍しい。

 やがて二人の間には子供が生まれる。それが、長男のアラン。アランの生まれた二年後にはディオルが、そのまた二年後にラエルが……そして、その三年後には、イリスとエルスの双子が生まれた……でも二人は結婚していなかった。
 できるはずがない。彼は王女の婚約者なのだから。

 とはいえ、レオンハルトとルシエラはもはや夫婦同然だった。彼等自身の間でも、そして他者が見たとしてもそうだっただろう。最早、ルシエラは単なる愛人とは言えなかった。
 他に何人も愛人がいたのだったら別に問題になどならなかった。王女の降嫁する先として相応しいかどうかはともかく、何人もの愛妾に何人もの子供がいることはどこの国でも珍しい話ではないし、それなら事態もここまでこじれなかった。
 けれど、公爵には他に愛妾はいない。皆無というわけではなく、何人か手をつけた女はいるらしいが、ただそれだけだという。

(……一番感心したのは、手をつけた女性がいることまでよく知っている侍女達の噂話だ。すごいよ、侍女。どこの諜報部員なんだ)

この時点で、公爵は王女の降嫁を断るべきだったのだと私は思う。
けれど、彼は断らなかった……政略的なことや政治的なことやいろいろあったんだろうけど、私人としては、その判断は最悪だと思う。
その結果どうなったかというと……。

(そこで、私の今の状況を複雑にしてくれているお母さんの悲劇がおこるんだよね)

既に五人の子持ちの十五歳も年上の、しかも妻同然に遇している女性のいる男の下に、たった十五歳の王女が降嫁した……これは、王女にしてみれば悲劇だ。
この時点で、王女がルシエラに勝っていたのは身分だけだった。
この場合、若さは武器とはなりえない。明るく可愛らしい末王女は国民に人気があった。けれども、男の目には子供にしか映らなかっただろう。
女としての魅力も落ち着きも成熟も……そういう意味で男を魅きつける何かを十五歳の少女が持っていたはずがない。
しかも、ルシエラには五人の子供があった……ルシエラには愛されている自信があっただろう。
……せめてあと五年あれば、その立場は逆転したかもしれない。
肖像画を見る限り、王女は素晴らしい美貌の持ち主だった。彼女から生まれた自分の顔を見てもそう思う。

でも、王女にはその時間はなかった。

 私が生まれた……王女の亡くなったその夜、公爵は別邸で行われていたルシエラの産んだ末子の誕生祝いのパーティの席にいた。
 そして、彼はまだ年若い初産の妻の破水の知らせを握りつぶし、パーティをとりやめることもなく、その後、何度も訪れた本邸からの使者を無視しつづけてパーティを続けさせた。

 彼は愛人の子供の誕生祝いを優先させ、その為に私の誕生には間にあわなかった。
 普通は父親が名をつけるものだけれど、私を名付けたの母である王女だった。
 すごく綺麗な名前だと思う。聖書の冒頭の一節でもあるアルティリエ=ルティアーヌという名前が私はすごく好き。
 そして、エフィニア王女は、私の洗礼の為にそこにいた国教会の枢機卿……現在、最高枢機卿となられているジュリウス倪下に願ったのだという。
『お願いです。どうか、私とこの子を王都に帰らせて。ここにはもういたくない』
 それが、彼女の『最後の願い』となった。
 彼女がその一時間後に息をひきとったからだ。

 『最後の願い』というのは特別なものだった。
 教会の教えにおいて『最後の願い』は必ず叶えられなければいけないものだ。
 それが『最後の願い』と認められたものならば、教会は教会の持つ権威と権力をもって、その願いを絶対に叶える。その遂行にどんな障害があろうともだ。

 でも、だからこそ『最後の願い』と正式に認定されるのには厳格なルールがある。そうでなければ、故人の最後の願いだといって臨終の席にいた人間たちが勝手なことを言い出しかねないから。
 私が生まれたその夜であったから……その時であったから、皮肉にもすべての条件が整い、最後の願いが成立してしまった。

 ちなみにその条件は以下の四つ。

 条件1:国教会の高位聖職者の臨席→ジュリウス枢機卿
 条件2:騎士以上の位を持つ者二名以上の列席→王女の護衛騎士達 確実に二名以上
 条件3:故人の血族と姻族の列席→血族:故人の子である私・故人の異母兄であるキーディア大公/姻族:故人の姑である前エルゼヴェルト公爵妃・故人の義理の弟であるサウディア伯爵とその妻他
 条件4:故人が貴族であった場合は、故人の血族でも姻族でもない貴族の列席→王女の出産を案じた王家からの使者であるヴェルニ伯爵とファーン男爵

 よって、王女の最後の願いは叶えられた。
 翌日、公爵が駆けつけたときにはもうすべてが決まっていた。
 エフィニア王女は王家の霊廟に葬られ、私は王都のエルゼヴェルト公爵邸で育てられることが。

 降嫁した王女が実家である王家の霊廟に葬られるというのはまずもって前例がないことだった。その前例がないことが、最後の願いとはいえその場で認可されたあたりに言葉にしない事情が含まれる事をわかってもらえると思う。
 たった二年の結婚生活は、王女には苦痛しかもたらさなかったのだ。



「妃殿下、どういたしましょう?内々のお申し出ですが……」

 考え込んでしまった私にリリアが重ねて問い掛ける。

(三番目のお兄さんには個人的に会ってお礼を言いたい。でも、それとこれとは別にした方がいい気がする)

 私は小さく首を傾げ、それから首を横に振った。
潔癖なわけじゃないけど……私はアルティリエの記憶を持たないけれど、でもやはり、公爵と公爵夫人を許せないという気持ちが私の中にはある。

(お母さんが可哀想だ……)

 何か鼻の奥がツンとした。

(私は、アルティリエなんだ……)

 今更だけど。……これまでだって、自分がアルティリエだとは思っている。でも、やっぱり実感がなくて……自分に言い聞かせてるようなとこがある。
 でもこんな時、アルティリエと私はつながってるというか、本当にアルティリエなんだって思う。

 この胸に、ひたひたと満ちてくる感情がある……哀しみにも似た、何か。
 泣きたいような、叫びたいような何か。
 それは、この世界を知らない和泉麻耶が持つはずもないモノだ。
 いくら悲劇的……と思っても、所詮他人事ならば本を読んでるように、あるいは、ドラマを見たように通り過ぎることができる。
なのに、胸の奥に降り積もるものがあってそれを無視することが出来ない。
 ただ、話を聞いただけなのに、決して忘れる事が出来ないと思う。
だから……。

(お会いしません) 

 私がもう一度静かに首を振るとリリアがどこかほっとしたような顔で頭を下げた。




 2009.05.09 初出
 2009.05.12 手直し
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/26 20:40
 この国では、夕食は煮込み料理がメインらしい。
 今日は鴨の煮込みだった。
 味付けは塩と胡椒をメインに、幾つかの香草を組み合わせている。
 私の好みからするとちょっと香草がダメ。香りが強すぎる。ついでに、塩効き過ぎで鴨肉硬すぎる。
 せっかく油がのっていて良い感じの鴨なのに!

(柑橘効かせた鴨のコンフィ、それから、鴨南蛮もいいな。いっそ、鴨とネギを炭火で焼いて塩ダレで食べるとか……)

 ああ、私に作らせて欲しい。せっかくの鴨が台無しだ。
 昼間のお菓子の職人さんに比べたら腕が段違いだ。
 いや、私がうるさいだけかもしれないけど……。
 でも、やっぱり、この香草の量はいただけない……その香りの強烈さにちょっと泣きそうになる。

(下拵えもっと丁寧にしようよ。そうすれば肉も柔らかくなるし……こんな香草でごまかさなくても鴨の臭みだって消えるのに……)

 鴨には独特の匂いがある。それがおいしくもあり、どうしようもないまずさにもなる。鴨が嫌いって人は、だいたい、この匂いがダメみたい。

(この世界の人の味覚もそう私と違いはないと思う)

 食べ慣れているものとか、文化の違いとか、はたまた、食べる場所や一緒に食べる人間や雰囲気や……味覚にはいろいろな要素が影響するけれど、それでも『おいしい』ものは『おいしい』はずだ。
 私の中の基本ルールは、『旬の食材を、最適な時に、素材の味を活かしたシンプルな形でいただく』ことだ。
 高級な食材がすべてではなく、職人の腕がすべてでもない。

(空腹は最高の調味料!)

 呪文のようにその言葉をとなえて、私はパンを食べることにした。
 白い柔らかいパン。えーと、ハイジの白パンっぽいの。
 まだぬくぬくの焼きたての残り香がある感じでおいしそう。はむっと噛むだけでしっかりとした小麦っぽい味があってかなり気に入った。
本当はバターかジャムが欲しいけど、それは贅沢というものだ。目に付くところにはないから、パンだけで我慢した。
 パンとバターと塩で炒めたザーデを食べて、ハーブ水を飲んで食事を終わりにする。

(ごめん、これを全部食べるのは私には拷問だから……)

食事が終わると夜の自由時間になる。
私が手にしているのはリリアが持ってきてくれた本だ。王国の歴史書……どうやら、アルティリエは歴史が好きだったらしく、リリアが持ってくるのは歴史の本が多い。
今の私には必要な知識だからありがたいと思う。
 
(……アルティリエってすごい女の子だと思う)

 我がことでありながら、まるで他人事のように感心する。
 私にはアルティリエの記憶はない。でも、アルティリエの知識はある。
 無意識にそれを利用しているのは、まず、言葉。
 絶対に日本語じゃないし、それなりに使える英語でもフランス語でもないのに、わかる。読み書きにまったく不自由がなく、リリアが持ってくる歴史書には古いもの……古語でかかれているものも混じっているのに、理解するのにほとんど問題がなかった。
 別に頭の中で日本語に翻訳しているわけではない。ちゃんとダーディニアで使われている大陸共通語で考えている自分がいる。
 しばらくたつまで、自分が日本語じゃないのにちゃんと言葉がわかっていることを不思議に思わなかったくらいなのだ。

それから、少しづつ蘇ってきているいろいろな教養……例えば、ティカップを見た時に、そのカップに使われている技法だったり、窯の名前だったりが思い浮かぶことがある。
更には、地名を聞いた時に、その土地の名所や特徴だったりが頭に浮かんでくる……これは間違いなくアルティリエの知識だ。
比較対象がないから正確なところはよくわからないけれど、アルティリエは12歳の女の子としてはかなり博識なのではないだろうか?

何よりも私が感心したのは……アルティリエが自分の護衛の騎士と侍女の名前を全員フルネームで知っていたことだ。
フルネームでわかるってことは家系とか地位とかがちゃんとわかるということで、これ、結構大事なことだ。一人一人について把握していたということだからだ。なかなかできることじゃないと思う。

(王太子妃、か……)

 幼くても、アルティリエは王太子の妃としての自覚があったのだろう。
 目が覚めてすぐにはわからなかったいろいろなことが、こうやって落ち着いてくるとだんだんわかってくる。

(そしていつか……)

 私はアルティリエの記憶を取り戻すのかもしれない。
 のんきにしているけれど、本当はわからないことばかりで戸惑いの連続だ。何も見えない手探り状態の中に放り込まれた感じがする。
でも、時間を過ごしていくうちに、麻耶に、アルティリエが重なっていく。
 どこか白昼夢のように現実感が薄かった部分が、日々過ごす時間や浮かび上がる知識に裏付けされて明確に自分の中に刻まれていくかのように感じる。
 知識もまた記憶の一部であるには違いないから、いつか私は自分がアルティリエであることをまったく疑わなくなるのかもしれない。

「食後のお茶には、ロブ茶をご用意しました」

 ロブ茶は飲むとさっぱりするお茶。
 ほうじ茶+烏龍茶みたいな味で、油っぽいものを食べた後には必ず出てくる。油分を洗い流してくれるんだそう。クセのないプーアール茶みたいなものだ。

(ありがとう)

 お茶をだすとリリアは何か用があったのか、いつものように傍らに控えないで下がる。
 一人で食事を食べるのは慣れているから別に気にならない、
 ベトつく手を洗いに行こうと席を立った。
 こういう時は侍女を呼ばなきゃいけないんだけど、私の夕食の後片付けもあるし、彼女たちも交代で夕食をとる時間だから、遠慮した。
ドアに手をかける。

「……妃殿下が、公爵夫人との対面を断ったって?」
「らしいな。でも、当然だろ」
「そりゃあ、そうだ。いかに公爵閣下とはいえ、妃殿下に強制はできないもんな」

 男の声が聞こえて、思わず手を止めた。
 たぶん、護衛の騎士の誰か。顔みればすぐに名前もわかるんだけど、声だけではまだよくわからない。

(あれ?こっちって、もしかして、洗面室じゃなくて廊下?)

 ドアを開かないように注意して、そーっと逆側に戻る。
 洗面室で手を洗ってから席に戻るとすぐにエルルーシアとリディアが戻ってきた。
 私は食後のお茶も終わっていたから、首もとのナプキンを畳んでテーブルに置く。
 それがお茶も終わり、の合図。二人が片付けはじめたので、私はちょっとだけさっきの言葉について考える。

 護衛の騎士たちは、私が公爵夫人との対面を断ったことを知っていた。
 そして、それを当然だと思っていた。
 彼らの声には、いい気味だと言いたげな感じが漂っていたように思える。

(まあ、彼らは近衛だものね……当然といえば当然か)

 近衛というのは、王家の私兵に近い。王国法上は違うんだけど、実質的には私兵だと思っていい。
 それだけ王家に近く、部隊の性格上、王家に対して忠誠心が篤くなるのは当然だ。
 だから、エフィニア王女が亡くなったことを哀しみ、その原因であるルシエラ夫人に良い感情を持っていない人間が多いのだ。

(あまりにも、だもんね……)

 私の母である王女が亡くなって半年後、喪が明けるとすぐに公爵はルシエラを後妻に迎えた。
 本来であれば、正式な喪は三年に及ぶ。六ヶ月というのは仮喪にすぎない。
 慶事がある場合は仮喪を認め、喪明けを早めることが許されているが、この場合はあんまりにもあんまりすぎるとさすがに非難を浴びた。
確かに王国を支える四公爵の婚姻は慶事だが、それは王女の逝去がなければありえない慶事だった。まるで王女が死ぬのを待ちかねていたかのようだと噂された。

(早すぎる死だったから、暗殺ではないかという声もきかれたらしいし……)

 市井の小劇場や芝居小屋では、世間で話題になった出来事をすぐに芝居に仕立てて見せるが、公爵と公爵夫人を風刺した演目が人気で、その演目では、王女は公爵と公爵夫人に毒殺されたことになっているくらいだ。
 もちろん、名前は置き換えられているし、伯爵と伯爵夫人になっているらしいけど、誰だってモデルが誰かがわかっている。
実際には出産のせいであったけれど、そう思われてもおかしくないということだ。
  
 四公爵の正式な結婚には王の許可がいる。
 ルシエラと公爵が結婚するにあたり、国王陛下が許可を与える条件としたのが、王太子殿下と私の結婚であり、私に関する一切の権利を公爵家が放棄することだった。

(ここで重要なのは、放棄するのは公爵家側のみであって、私の公爵家に関するすべての権利はそのままだということだ)

 公爵はこれを無条件で呑んだ。
 公爵家は、王女の産んだ娘に対するさまざまな権利を失うが、それ以上に、彼はルシエラと正式に結婚しなければいけない理由があった。
 それに、政治的に考えて、娘が王太子妃になるということは貴族にとっては願ってもないことだった。たとえそれが、何の権利のない娘だったとしても娘は娘だという頭が公爵にはあったのかもしれない。
 私と王太子殿下の結婚は、彼に大きく利のあることだったのだ。
 まさか、後々、この結婚が彼の計算を大きく狂わせる最大の失策になるとは思っていなかっただろう、この時は。

(頭のいい人って時々、大チョンボやると思う)

 一方の国王陛下は、実際のところ、怒りの余り政治的な判断などはまったく頭になかったらしいと言われている。元々、陛下は政治とは無縁に生きている方である。
 異母妹を不遇のうちに死なせてしまった兄の行き場のない怒りは、既に他家に嫁いだ妹を王家の霊廟に眠らせ、彼女が産んだ娘を父親の手から完璧にとりあげるという行為につながった。
 そして、陛下はまるで公爵にあてつけるかのように、生後七ヶ月の私と王太子ナディル殿下の結婚を執り行ったのだという。
 普通、こういった場合は婚約しておいて、ある程度年齢がいってから結婚の運びとなる。だが、陛下はエフィニア王女の例をひき、このような間違いが二度とおこってはならぬとおっしゃり、年齢を理由に反対する者の口を封じた。
 正式な挙式こそ私が成長してから再度行うと定められたが、それ以外のすべてがきちんと正規に執り行われたのだった。
 つまり、私の婚姻は国と教会が認める正式なものなのだ。

(一番迷惑してるのが当事者である王太子殿下だと思うよ。15歳で相手は生後7ヶ月なんて……)

 国王陛下は愛する妹の身におこった出来事を赦せなかった。だから、彼女が残した私を自分の保護下において、以降、エルゼヴェルトにほとんど関わらせようとはしなかった。
 陛下の私に対する行き過ぎた厚遇は、公爵に対する八つ当たりと表裏一体を為している。

 普通、王太子妃に専用の宮はないのにわざわざ新たに王太子妃宮を建設させたし、更には、結婚祝として、20年以上前に領主家が嫡子なしとして家名断絶していて、長らく王家が預かっていたアル・バイゼルという都市を王太子妃領と定めた。
 宮の新築費用は慣例として妃の生家が婚姻のお祝いとして負担するものだし、実はアル・バイゼルは大きな港町を持たないエルゼヴェルト公爵家が自領とすることを悲願としていた都市で、それをわざわざ私に与えるのだから陛下の嫌がらせは強烈だった。

 しかも、生家といえど生まれてすぐに離れたこの城を、今回、私ははじめて訪れたというのだから徹底している。

(思うに……)
 
 公爵はせめて、あと三年待てば良かった。
 政略結婚の妻より愛人を愛してしまうこと自体については、私個人の感情はどうあれ、たぶんこの国の人たちはあまり咎めない。特に貴族階級の人たちは。
 けれど、公爵の王女に対する仕打ちはあんまりだった。
 国内有数の大貴族たるエルゼヴェルト公爵を面と向かって非難する人間はそれほど多くはなかったけれど、国民に人気のあった末王女の悲劇は、芝居だけではなく、吟遊詩人の歌にもなって他国にすら広まっている。
 でもこの時、公爵にはどうしても待てない理由があったのだ。

(ルシエラの妊娠……)

 この時、ルシエラは五度目の妊娠をしていた。
 ダーディニア王国の国法は、正式な婚姻から生まれた子供にしか相続を認めない。
 ゆえに、結婚していない時にルシエラの産んだ五人の息子達は、公爵がどれほど認知しようとも庶子にしかなれず、爵位も財産も土地も相続することができない。
 遡って嫡出子認定することはまったくの不可能ではないが、その場合、庶子であった者が生まれた時点において、庶子を産んだ女と正式に婚姻していたとしなければならない。

(公爵にはそれは絶対にできなかった……)

 なぜなら、公爵は王女が生まれた時から王女の正式な婚約者だったからだ。
 よって、この時、どれだけの人間が気付いていたのかはわからないが、エルゼヴェルト公爵家の相続権があるのは、アルティリエしかいなかったのだ。

(有り難迷惑だけど……)

 国法は嫡出子にしか相続を認めない。これは絶対で、国王陛下にも覆せない。
 例えば、国王陛下に子供がいても、その母がただの愛妾なら、その子供は王位を継げないのだ。

 だから、公爵はルシエラの腹にいた子供を庶子にするわけにはいかなかった。どれだけの悪評をかおうとも、どうしても結婚を急ぐ必要があった……生まれてくる子を嫡出子とする為に。

(そして……)

 ルシエラは私が一歳になる直前に男の子を産んだ。
 ……ただし、それは死産だった。
 それからルシエラは、何度か懐妊を繰り返し……でも、その度に子供は流れてしまった。
 一度流産すると流産しやすくなるのはよく知られていることだ。
 その後、ルシエラが子供を産む事はなかった。

 そして、今現在、誰の目にも明らかな事実。

『アルティリエ王太子妃は、エルゼヴェルトの唯一の嫡子である』

 ルシエラとの結婚にあたり、公爵はアルティリエに関するすべての権利を放棄したから、アルティリエはエルゼヴェルトの娘というよりは王家の娘に等しい。
 けれど、アルティリエがエルゼヴェルト公爵の唯一の嫡出子であることは変えようのない事実で、それがとても重要な意味を持つことになったのだ。

(ルシエラは今、四十一歳だっていう。絶対に子供が産めないという年齢ではないけど、たぶん、無理だと思うんだよね)

 友達に産科の看護士だった子がいるから聞いたことがある。流産はクセになるのだ。ましてや、四十一は高齢出産になる。ここの医療水準から考えても、おそらく、不可能。
 だから公爵は、ルシエラを離婚して新たに妃なり夫人なりを迎えない限り、もうアルティリエ以外の嫡出子を得る事はできないのだ。

(国王陛下の意趣返しは、思いもかけない切り札を産んだというわけ)

 このまま公爵が嫡出子を得られないと、エルゼヴェルトのすべてはアルティリエの……ひいては王家のものとなる。
 公爵は庶子である子供達に分家し、財産を分与することができる。けれど、それは国法により細かい規定があって、簡単に言うと、嫡子……次代公爵の同意が得られなければできない。

 アルティリエは、王太子妃とエルゼヴェルト公爵を兼ねる事はできないから、正式な公爵家の後継ぎとはなりえない。
 けれど、推定相続人であり、現在のところ、いつかアルティリエが産むだろう正式な相続人の代理人である。
 アルティリエの産む二番目の子供は、無条件で、生まれた瞬間から次のエルゼヴェルト公爵となるのだ。
 まあ、肝心の私が12歳では、まだまだそんなのは夢みたいな話だけど。





「姫さま、そろそろ、湯浴みをお願いいたします。お湯がご用意できましたので」

 リリアの声にはっとした。ちょっと考え込みすぎた。余計な方向に。
私は、わかったというようにうなづいて立ち上がる。
 あちらと違ってお風呂も結構大変だ。用意してくれる人も大変だし、入るのも大変。
 恥ずかしいけれど、一人では入らせてもらえないし。
 女の子同士で入るのと一緒、と思って我慢してる。

(……あれ?そういえば、王宮への連絡とかってどうなってるんだろう?)

 ちょっとだけ疑問に思ったけれど、お風呂に入ったらきれいさっぱり忘れてしまった。
 ……それを、後で、ものすごく後悔した。





 2009.05.09 初出
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し





[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2012/01/11 14:47

 目覚めて四日目の朝。今日も、状況はまるで変わらない。
 さすがにもう夢オチにも期待できなかったから、目覚めるとすぐに侍女を呼んでおとなしく着替えることにする。
 着換え……これが結構難物だ。手伝ってもらわないと着用できないものも多い。
 寝間着はいわゆるネグリジェで、寝苦しくないようにレースはだいぶ省かれている。それでも、お姫さまらしくとても可愛い。あちらだったらこのままワンピースで通用する。

(普通なら、下着はパンティでブラ……だけど)

 成人女性にはパンティやブラジャーがあるのかもしれないけれど、この世界の12歳の女の子用下着は、スリップに太腿が隠れるくらいのズロースだ。お姫様オプションで、シルク製の細かいレースが贅沢につかってある。
 そこに更にレースたっぷりのアンダースカートをはく。これはウェストが紐でしめるようになっていた。

(ここまでは一人でもできる)

 できないのが次。袖口にレースたっぷり、身体にぴったりとしたブラウスだ。
 なんでわざわざ背中ボタンなんだろう。しかも十二個も!前ボタンにすれば一人でも着替えられるのに。

(……でも、コルセットがない世界でよかった!)

 心の底からそう思う。コルセットのせいで腰骨が変形して、そのせいで早死にした女性もいたくらい危険な代物なのだ。ハロウィンの仮装パーティで一回だけつけたことあるけれど、あれは拷問器具の一つだと思う。
 このままでも充分平気なようだけど、その上にガウンと侍女達が呼ぶワンピースっぽい服を重ねる。
 これは、淡い水色に白いレースをふんだんにつかったもの。今日のものはすっぽりと頭からかぶるタイプで、アンティークドールほどフリフリではないけれど、まあ、いかにもお姫さまチックな格好ではある。

(ピンクハウスもアツキ・オオニシも着たことなかったけど、ちょっとクセになるかも……)

 手仕事のゴージャスなレースや刺繍は本当に素敵だ。女心を浮き立たせる。
 足元は薄い絹の靴下。靴下の最上部はゴム製のリングでちゃんとさがってこないようにとめるようになっている。これが成熟した女性だとガーターベルトを使うらしい。

(大人になったらガーターベルトの色っぽさで悩殺か、なるほど)

 ……ごめん、何を悩殺するのか目的ないまま横道にそれました。ガーターベルトってそこはかとないエロスを感じさせるアイテムだと思う。
 靴は布製。綺麗な刺繍がいっぱいされていて、きらきらしている。色はドレスに合わせた水色がベース。きらきらと加工した薄い金属の花を縫い付けているんだけど、もしや、これ本物の金や銀だったりするんだろうか……ちょっと恐くて聞けない。

(どっちにせよ、この刺繍の細かさはすごい。一財産になりそうな靴だ)

 底はゴムみたいなものでできている。
 ゴムみたいとしか言えないのは、私の知っている生ゴムの色と違って半透明の白濁した色をしているから。
 これ、後で知ったんだけど、王国の最南方領土ヴァリアスにしか生えない樹木の樹液だそうだ。ゴムとよく似た性質を持つ。

(う~、可愛い!)

 鏡の前で思わずくるっと回っちゃった。
 ナルシストはいっててごめんなさい。でも、本当に可愛いんだもん。ちょっと鏡に見惚れるくらいは許して欲しい。
 やわらかにウェーブを描く金の巻き毛。目は鮮やかな青とも碧ともつかぬ不思議な色。お母さんの肖像画も綺麗だったけど、この子も相当だ。
 将来、どれだけ可愛くなるか楽しみだ。
 ……自分のことだと思ったら、途端に自分の恥ずかしさにいたたまれなくなったけど。

 エルルーシアが、私の髪を綺麗に整え、ドレスと共布のリボンで留める。

「お似合いですわ」

 どのガウンに、どんなアンダースカートにするか、どんな靴下や靴をあわせるか、髪型や髪に飾るものまで含めて、私の侍女たちは研究に余念がない。
 満足そうに皆がうなづくので、何だかおかしくてちょっと笑った。
 ほんとにちょっと。口元が緩むくらい。
 なのに、そんな私を見てリリアが泣きそうな笑い顔を見せる。

(……そんなに、アルティリエってお人形だったんだ)

 我が事ながらちょっと涙出そう……。こんな些細な反応を喜ぶくらい無反応だったんだということを思い知らされるたびに申し訳ない気分にさせられる。





「姫様、今日はこの地方の料理を用意していただきました」

 リリアがいつものように夕食のワゴンを運んでくる。もちろん、私が口にする前に侍女達がよそいながら毒見をしている。

(生家でも毒見するってどうなんだろう……)

 でもまあ、それも仕方のない立場である……毒より、料理長の腕のほうが心配だけど。

「今日のスープはあさりです。姫様があさりをお好きだと聞きましたので特別に料理長が腕を振るってくれまして……」

(へえ、あさり好きなんだ)

 きっと侍女達の恐るべき諜報能力によって得た情報に違いない。

「あ、あの、もしかして、違ってました?」

 慌てたこの子はエルルーシアという。父親が王太子付武官だという下級貴族の娘だ。
 リリアより一つ二つ年下くらい。武官の家柄の出らしく、武術をおさめていて私の護衛も兼ねているそうだ。
 おおっぴらに剣を帯びて護衛している騎士達とはまた違うけれど。

 ううん、そんなことない、というように私は首を横に振る。
 アルティリエはともかく、私はそんなに好き嫌いはない方だ。まずいモノはダメだけど。
 ほっとしたエルルーシアは笑顔を見せた。

(あさりって、どこで採れるんだろう?)

 脳裏で地図を思い浮かべる。
 エルゼヴェルトの本拠地であるこのラーディヴは海にそんなに近くない。生あさりを活かしたまま運べるのは、この時期であっても最大三日くらいだろう。
 私の心の声を読んだのか、偶然なのか、そばかすを気にしがちなジュリアが笑って言う。

「このあさりは、妃殿下の所領であるアル・バイゼルから運ばれたものだそうですよ。ラーディヴとアル・バイゼルは、船ならば一日かからないそうなんです」

(川、遡れるのかな?……今度、詳細な地図見よう)

 侍女達の言葉に誘われて、白濁したスープを口に運ぶ。
 こちらでは、カトラリーは銀が主流。ナイフとフォークとスプーンの三つですべての料理を食べる。フレンチのコースのように何本もいろいろなカトラリーを使わないでいいから割と楽。
 今のところボロはださないで食事をしていられるので、マナーはそれほど違わないみたいだからだ。

(……これ、ちょっと生姜いれるべき。あと、白ワインを効かせればおいしいのに)

 良かった、香草入ってない。
 ここの料理長の香草の使い方はあんまり私には合わない。

「お気に召しましたか?」

 こくりと私はうなづく。ジュリアが嬉しそうに笑った。……可愛いなぁ。

 私はすっかり周囲の侍女達が気に入っていた。
 だって、可愛い子ばっかりなんだもん。そして、心から私に仕えてくれている。この心からっての言うのがすごくポイントだ。
 何もべったりそばにいてあれこれ世話やくって意味じゃない。いつでも私が必要とした時にその望みを叶えられるよう準備しながらも、用のない時は控えている。
 その完璧なまでのサービス!
 メイド好きな世のオジさんやオタクな子達の気持ちがちょっとわかった気がする。
 ……でも、『萌え』までは求めないでほしい。私には萌えのニュアンスはよくわからないから。





(さて、どうやって王宮に帰ろうか……)

 いろいろ考えたけど、とりあえず王宮に戻ることを基本方針とすることにした。
 今、手に入る範囲のさまざまな情報を総合した結果、覚えてないことが多くなるかもしれないし、わからないまま接する人が増えるかもしれないけれど、とりあえずここよりは王宮の方が安全だと判断したのだ。

(……夫とか、国王陛下や王妃殿下にどう接していいかわからないんだけど)

 会った事のない夫や義父母を信用してるというわけではない。
 ただ、単純に利害関係を考えれば、王家側の人たちには私を守る理由がある。
 私を殺すより守るほうが、彼らにはお得なのだ。

(それに、私が危ないってことはこの子達も危ないってことだし)

 いつも私と一緒に居る侍女達は、ある意味私と一蓮托生だ。
 墜落事件の謎の解明も大事だけど、できれば危険から遠ざかっておきたい。
 真相からも遠ざかるかもしれないけど、この場合慎重さが必要だと思う。

(何が安全で、誰を信じていいかを見極めたい)

 公爵が私を殺そうとしたとは思わないけれど、守ってくれる人とは思えない。
 朝の挨拶の時でさえ、娘の顔をまっすぐと見ようともしない人を信じろというのが無理な話だ。まして、エルゼヴェルトにおける今の私の立場はかなり微妙なのだから。

「……姫さま、どうされました?」

 考えながら食べていたせいで、たぶん、ボーッとしてたんだと思う。がりっと嫌な音がした。
 動きが止まった私を皆が怪訝そうに見る。
 手を口にやる……口元からポタリと落ちる滴……血だった。

「ひ、姫さまっ」
「きゃああああっ」
「だれか、お医者さまを!」

(……いや、騒がないで、違うから。アサリの殻がささっただけだから!)

 でも、私の心の声なんて聞こえるわけないわけで……。
 平気だって身振りで示してもこんな場合はまったくわかってもらえない。
 毒かもしれないと叫んでいる子もいる。

「あ……」
「姫さま!姫さま!」
「吐いてください。早く!」

 でも、意を決して口を開こうとすれば、更にポタポタと血がこぼれて大騒ぎになる。
 真っ青な顔で飛び込んできた医者には問答無用で無理やり水いっぱい飲まされて、それから、吐かされた。
 あさりの貝殻の欠片はすぐに取れた。刺さっちゃった傷がちょっとだけ痛い。

(毒なんて飲んでないってば!)

「失礼」

 医者が私を見る。どこか目つきがおかしいと思うのは気のせい?気のせいだよね?

(え?)

 悪夢を見た!!!!!!!!

 無理やり水をいっぱい飲まされて、いきなり口に指つっこまれた。
 っていうか、あなたの指の方が毒だ!手が汚いかどうかはわかんないけど、中年男の指なんて口に突っ込まれたら誰だって気持ち悪くなる!
 説明なしだよ。そりゃあ、毒だと疑ってれば一刻を争うのかもしれないけど。

(たーすーけーてー)

 私の抵抗なんてまったく無意味。12歳の子供がちょっと手足をバタつかせたところで、成人した男の力の前では役に立たないってしみじみわかった。
 押さえつけられて、無理やり吐かされて……何でもないのに、処置が終わった後はぐったりした。
 うがいと歯磨きはしっかりして、半べそでベッドの中の人になった。着替える気力がなくて下着姿だった。
 ……そのまま寝てしまったからって私を責めないで欲しい。
 気分としては暴行未遂とかそういう感じだったんだから。




 2009.05.10 初出
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/26 20:40
 その日、私はほとんど半日を寝台の中で過ごしてしまった。
 元々、朝は結構早いほうですっきり目が覚めるタイプだし、休日だっていつまでも寝ていたりはしない。
 今朝だって、疲れたからほんのちょっとだけ寝るというつもりだった。まあ、あんなことがあったので精神的にかなり疲労していたんだろう、
 目が覚めた時には陽光は、午後の……オレンジとも黄色ともつかぬ色みを帯びていた。三時を過ぎているからほとんど夕方に近い。
 ここでは、それだけ昼寝をしようとも、誰も私を起こしたりはしない。うわ、天国!とか最初は思ったんだけど、それがいつでも許されると思うと案外怠惰にはなれないものだった。

 私の寝すぎを誰も咎めることもなく、いつもよりノロノロとした早さで皆が私の着替えを手伝う。
 リリアの不在を目線で問うた。
 三人は迷い、それでも静かに回答を待つ私を前に、互いに譲り合った結果、ジュリアが口を開いた。

「姫様の毒殺未遂について調査をしているのですわ」

 アサリ流血事件が『王太子妃毒殺未遂事件』に発展していたのを知り、あまりのバカバカしさに噴き出しそうになった。
でも、次に慌てた。
 だって、毒殺未遂事件となれば、あの料理を作った人間が疑われると思ったのだ。
 あれが毒殺未遂事件なんかじゃないことを、私が一番良く知っていた。

(毒殺未遂だなんて大げさな……)

 それをどうにか伝えようとして、でも、まだどこか様子のおかしいジュリアに首を傾げてみせる。
 侍女には区別があって、昔は、正式な女官でないと貴人とは直接口をきくのは許されなかったという。今でもその名残があって、行儀見習いの子たちと私はあまり直接話すことがない。
 私の侍女の中で女官なのはリリアだけで、だからいつもリリアが私に話しかけるのだ。
 礼儀として目下のものから話しかけるのは禁止なれど、こういった日常生活のあれこれという部分でそれを守っていたら、何もできないので、そのあたりは暗黙の了解といったところになっている。

 私の身支度を手伝うジュリアは、うつむいて涙をこらえているようだった。目元もほんのり赤く、まるで泣きはらしたようにも見える。

(ジュリア?)

「申し訳ございません。……もう昼過ぎですから、髪は簡単に結うだけにしておきますね」

 私は知らなかった。……本当の事件が、私が寝た後に起こっていた事を。





「残念な事をお知らせしなければなりません」

 身支度を整えた私は、いつもの椅子に座る。
 どこかせわしなくやってきたリリアは、私の前で一礼し、改まった様子で口を開いた。
 どこか緊張した響きのあるリリアの言葉に、私は首を傾げた。まだ意識が醒めきってなかったせいもある。
 でも、次のリリアの一言で、頭から氷水をかぶった時みたいに一気に覚醒した。

「妃殿下、エルルーシアが亡くなりました」

 嘘だと否定してほしくて向けられた私の視線に、リリアは力なく首を横に振る。

「原因は、今朝の朝食です」

 私の食事は、侍女達が毒見をしながら給仕をしている。
 これは、生家であろうとも……いや、生家であるからこそかもしれない……信用できないという王家の警戒心のあらわれだ。
 何の料理に毒が盛られたかを知るために、彼女たちはそれぞれ食べる料理を別にしているのだそうだ。問題となったのは、あさりのスープとしめじと青菜の炒め物だ。この二つの毒見をしたエルルーシアが一時間くらいしてから腹痛を訴えたのだという。

「医師を呼んだ時はもう遅く、二時間ほど腹痛を訴え、昼過ぎに息を引き取りました」

 リリアの言葉がどこか遠く響く。
 椅子に座っているはずなのに、自分がどうしているのかよくわからなかった。
 五感のすべてが一気に奪われた気さえした。
 
「まだ何の毒を使ったかまではわかっておりませんが、おそらく遅効性の毒だと医師は言っておりました」

(それくらい、医者じゃない私にだってわかる)

 役立たず、と罵りの言葉を口にしそうになる己を抑える。リリアが悪いわけじゃない。
 心を落ち着けるために、深呼吸を何度もした。
 冷静にならなければいけない。
 怒りは、目を曇らせる。
 自分に何度も言い聞かせる……なのに、握り締めた手が、震える。

(……わかってる)

 この怒りは正しくない。
 自分でも気が付いていた。

 エルルーシアの命を奪った犯人に対する怒りは、確かに存在する。でも、それだけじゃない。
 私は……エルルーシアが苦しんでいた時、寝ていた自分が許せなかった。
 起きていたからといって何ができたというわけではなかっただろう。
それでも……何も知らずに寝こけていた自分に腹が立った。

(どうして……)

 胸に、渦まく怒りと悲しみ……それから、どうしようもない憤り。
何でこんなことが起こったのかと何度も何度も自問自答する。
 心の中は、煮えくり返るような怒りと涙腺を刺激する哀しみがぐちゃぐちゃに入り混じっている。
 ……でも、救いようがないことにそれだけではなかった。

(あのアサリ事件がなければ、私も食べていたかもしれない)

 アサリのスープが違う事は、私がわかっている。だって、私はこうして生きているし、ピンピンしていから。
 吐かされたとはいえ、もしあのスープに毒が入っていたのなら、命は落とさないまでも何らかの影響は受けただろう。だとすれば、毒が入っていたのは、しめじと青菜の炒め物だ。
 たぶん、あの騒ぎがなければ口をつけていたと思う。
 基本的に、一通りどの皿にも手をつけることにしているから。

 ……そのことに、心のどこかで安心している自分がいた。
 食べなくて良かった、と。
 そんな自分に気がついて、そのあまりものエゴイストぶりに泣きたくなった。
 エルルーシアはそのせいで死んでしまったのに、助かったことを喜ぶ自分がいた。
 自分の無事を喜ぶのは当然のことかもしれない。でも、そんな自分が恥ずかしく、そして、情けなかった。
 
(ごめんなさい……)

 エルルーシアにはこんな風に死ぬ理由はなかった。殺される理由なんてなかったはずだ。

(ごめんなさい、エルルーシア)  

 私の侍女だったことが、彼女を死に追いやったのだと思った。
 私は目を大きく見開き……そして、涙がこぼれた。
 
「姫さま……」

 リリアをはじめとする侍女達が、驚愕の表情で私を見る。
 アルティリエはたぶん、人前で泣いた事などなかったから。
 でも、涙を止められなかった。

 たった三日分しか知らないエルルーシアのことを思い出す。
 私に笑いかけた顔、驚いた顔、困ったような顔……いろんな顔。たった三日分だけど、ちゃんと覚えてる。
 なのに、もう彼女はいないのだ。

「エルルーシアは果報な子です。姫をお守りできたのですから……」

 侍女達は、泣かなかった。
 でも、皆、目が赤いから、きっともうたくさん泣いたんだろうと思った。
 目元をこする。
 
(泣いたらダメ……)

 王太子妃である私は一人の侍女の死に涙してはいけない……そう告げる心の声。わかってる。
 わかってる。わかっているけど、涙は止められない。
 だから、私は振り向いた。泣いている顔を誰にも見せないように。
 ベランダの外に立っていた騎士の一人がこちらを見ていたけれど、慌てて背を向けた。

 私は唇を噛み……下を向く。
 これは、泣いているわけじゃない。

 胸の前で手を組み……頭を垂れる。
 これは、祈っているだけ。だから、床に落ちる滴は見逃して欲しい。
 
 私は、この時初めて、本当の意味で自分が随分と遠くに……異世界に来てしまったことを感じた。
 この世界では、こんなにもあっさりと命は奪われてしまうのだ。


「……帰る」

 口をついて出た。

「姫さま、お声が……」

 リリアや侍女が目を見開く。

「エルルーシアを連れて、帰る」

 明確に紡がれた私の言葉に、リリアは私を見た。
 顔をあげた私は、リリアの瞳をまっすぐと見返した。
 たぶん、この時、私は決意したのだ……この国で生きていく事を。

「かしこまりました」

 リリアは膝をついて深々と頭を下げた。


 


 2009.05.11 初出
 2009.06.09 手直し
 2012.01.11 手直し





[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2012/01/11 14:53

 犯人は、台所のスープ番の料理人だったと告げられた。

(本当にそうかはわからない)
 
 刑事ドラマ風に言えば、『被疑者死亡により不起訴』だ。
 そう。彼は、死んでいた。
 エルルーシアが倒れた事で大騒ぎになっていた時にはちゃんといたそうだが、そのうちに姿が見えなくなって、見つかった時にはもう息をしていなかった。
 エルルーシアと同じ毒だったという。

(死人に口なし……)

 彼が犯人であった確たる証拠はなかったが、この手元にある私に提出された報告書によれば、エルゼヴェルトの司法官は、彼を自殺と断定している。そして、今後も捜査は続行するものの、彼が犯人であった疑いが濃いとかかれている。
 彼の無実を証明することはできず、そして、彼が犯人だと判断することは容易い。確たる証拠はなくとも、状況証拠だけで充分だ。
 司法官の言葉一つで、彼は既に犯人であるかのように仕立てられている。
 まるで、生贄の子羊。
 死者は弁明できない。

 後は、周囲が勝手に彼が怪しいとする事実を積み上げていく。
 周囲の人々の証言が幾つも書き添えられている。
 貧しかった事。賭け事が好きだった事。借金があって金を必要としていた事。常に金が欲しいと言っていた事。儲け話があると言っていた事……一つ一つはとるに足らぬ話だ。どこにでもある、特別に怪しむべきことではない話。
 でも、とるに足らぬそれらの一つ一つの出来事が積み重なると、彼が犯人であってもおかしくないという状況に見えるような気がする。
 ましてや、司法官がそれを公言しているそうだから、尚更だ。

(思い込みは強力だ)

 例え、それが真相でなかったとしても、思い込んでいる人にはそれが真の真相。
 そこには真実の重みが勝手に付加される。
 司法官は本当に彼が犯人だと思っているのか、あるいは、そう思い込ませようとしているのか、判断材料は乏しい。

 もう一通の報告書は、私の護衛隊から提出されたもの。
 ここはエルゼヴェルト領内なのでこの報告書は公文書ではなく非公式なものでしかない。
 報告者の名はナジェック=ラジェ=ヴェラ=シュターゼン伯爵。
 彼は、私の護衛隊長にして、司法官の有資格者だ。

 司法官というのは、裁判官と警察官の権限をも与えられている専門資格者で、『ヴェラ』という称号で呼ばれるが、厳密には『司法官』イコール『ヴェラ』ではない。
 『ヴェラ』とは『学者』というような意味で、大学を卒業した者をさす。
 大学を卒業した人間は全員が司法官となれるので、いつの間にか司法官も『ヴェラ』と呼ばれるようになった。
 この大陸のどこの国に行っても、『ヴェラ』を取得していれば、高位の公職に就く事ができる。そう。例え、元奴隷であっても。
 北の大国ローランド帝国の宰相は、元奴隷の『ヴェラ』だと聞く。

 大学を卒業しただけでなぜ法律の専門家になれるのか不思議だったけど、こちらでいう大学の仕組みを知って納得した。この世界の大学は、極めて高度かつ専門的な学術機関で、入学するのは難しく、卒業するのは更に難しい。
 入学資格は、満三十歳未満の入学試験に受かった者というだけなのだが、入学試験の範囲は実に多岐にわたる。試験科目は必須三科目の法律・歴史・言語の三つなのだが、歴史の試験で統一帝国時代の亜鉛精製法について問われたり、言語の試験で二帝国時代の経済について問われたりするので、あらゆる分野に通じていることが求められる。
 年によっては合格者が一桁ということもあるらしい。

 法律は、当然、国によって違う。基本は『大陸法』と呼ばれる旧統一帝国法だ。大学の学生はダーディニアを含む五大国の法律のすべてを学ぶ。法律・歴史・言語の必須三科目において可を得なければ、専門課程には進めないし、卒業など夢のまた夢だ。
 上級教育機関として王立学院があるが、どこの国でも王立学院は半ば貴族の占有物と化している。名高い私塾もあるが、それはあくまでも自国内でしか通用しない。
 地位や身分や権力に揺らぐ事のない、絶対の権威を持つ象牙の塔。それが、こちらの大学だ。
 あくまでも実力主義で、どんなに身分が高くとも、どれほど金を積もうとも、自力で入学試験に合格しなければ、足を踏み入れる事すら許されない。

 ちなみに、ナディル王太子殿下はこの『ヴェラ』をもつ。
 現在、大陸全土で『ヴェラ』を持つ王子は他にいない。即位すれば、史上初めて『ヴェラ』を得た王となると言われている。





 話を報告書に戻そう。
 当然のことながら、シュターゼン伯の報告書は当然だけど、エルゼヴェルトの司法官とは視点が違う。
 だから、同じ事実を書いていてもまったく印象が違う。
 貧しいのは農村の農民階級なら誰も一緒だし、村のバーで小銭をかけてダーツをしたり、サイコロ賭博やポーカーをするのは村の男達の当たり前の趣味で、ポーカーの負けがこんでいたといっても三連敗した程度で、次の月給には返せる。
 お金が欲しいが口癖な人間は別に珍しくないはずで、儲け話という単語はちょっと気になるけど、例えば、新しく作付けした新種の芋を村の市場ではなく町で直接売れば倍で売れる……それだって、農民階級の彼らにしてみれば、大きな儲け話だ。

(物事には裏と表がある……)

 裏表と言うほどに正反対とまではいかなくとも、光の当て方で見える景色が変わるように、視点が違えば浮かび上がる事実も違う。

(真実は一つなのに、見えるものは人によって違う)
 
 言い訳する彼はもういない。
 彼の為に反論してくれる人もいない。
 今はまだ証拠はなく、状況証拠による疑惑にすぎないけれど、そのうち、彼の荷物の中から、彼には不釣合いな大金や、あるいは、彼の使ったとされている毒薬が発見されたりするのかもしれない。
そんなの、後から放りこんだってわからないのに。
 
(……あるいは、本当に関わっていたのかもしれない)

 私が疑いすぎなのかもしれない。素直に状況証拠を信じればいいのかもしれない。
 疑わしいとされる証拠をたくさんつきつけられても何か釈然としないのは、彼がスープ番だからだ。
 あのあさりのスープは絶賛するにはちょっと足りなかった。でも、技術的にはしっかりしていたと思う。
 あさり自体はおいしく処理できていた。肉厚で大きめのあさりは煮過ぎずふっくらとしていた。歯ざわりも固すぎず、生っぽさも感じなかった……火加減が適切だったのだ。
 ガスがあるわけじゃない。レンジやタイマーがあるわけでもない。おそらくは直火でスープを作っていただろう彼が、スープを作る以外のことをできたとは思えない。
 あのスープの出来からして、何か余計なことをしている暇はなかったはずだ。
 
(スープはオーブンの隣だし、炒め物のストーヴはパン窯の向こうなんだよね……)

 報告書には台所の調味料の棚の位置まで記されている。どちらの報告書に添付されているものもかなり詳細だが、エルゼヴェルトから提出されているものは棚の中のどこに何があるかまで書かれていてすごく細かい。書いた人間の性格がにじみでてる。

 台所にいた人間なら毒を投入するチャンスはいくらでもあると思うかもしれないが、スープを作っていた一角と、炒め物を作っていた一角が離れすぎている。しかも、間にはパン窯とかがあって、当然、そこにも担当の人間がいる。
 彼が、炒め物を作っていたオーヴン廻りに近づいたと言う証言はない。
 盛り付けた後に入れるのもほとんど不可能だ。できあがってすぐに運んだとなっているし、そこに彼が近づいたという証言はない。

 当時、厨房には十人以上の人間がいた。すべての作業を監督していた料理長は、おかしなことをしていた人間はいないと証言している。
 腕はいまいちかもしれないが、彼を犯人と見なしている司法官を前に、消極的ながらも部下を庇うその姿勢は評価に価する。
 
(なんか、こんがらがりそう……)

 考えることがいっぱいあった。
 何も考えずに生きて来たつもりはないけれど、こっちにきてからものすごく頭使ってる気がする。
 司法官が半ば彼を犯人であるとしていることで、エルゼヴェルト公爵の立場はあまりよくない。……むしろ、密かに真犯人確実視されている。

(彼の家は、先祖代々、公爵家の小作農か……)

 小作農と領主の関係は、自主的に従う奴隷と主人に似ている。奴隷という身分でこそないものの小作農は領主の命に逆らうことなどできない。
 彼が公爵の命により、それを実行したと見なすことは極めて自然だ。
公爵は、何度も釈明に来ようとしていたらしいが、私の護衛隊長に言い訳は無用と言われ、リリアには取次ぎすら断られたらしい。

(まあ、普通、疑われる……ある意味、当然)

 でも、逆に私は今回は彼の関与は疑っていない。
 こんなわかりやすい手を使うとは思えない。
 エルゼヴェルトの城の中で、エルゼヴェルトの料理人が作った料理に毒を盛る……そこから導き出される犯人は……あまりにもわかりやすい図式だ。

(あの手の人は、こんな簡単な手は使わないと思う)

 エルゼヴェルト公爵ならば、絶対に自分でないことを証明できる状況と、絶対に自分が疑われないだろう手段を考え出すだろう。 
 あの公爵は、神経質で完璧主義っぽかった。あのタイプは、細かい事にものすごくこだわるはずだ。
 例外も勿論いるだろうけど、あの公爵は絶対に細かい。だって、調味料棚のリストは公爵の直筆だった。

 両方の報告書でわかった事実……エルルーシアが倒れてすぐに、私の護衛の騎士達はこの城の台所を押さえて、私の朝食に出された残りと残っていた材料をすべて調べたという。
材料そのものにはまったく異常はなかったらしい。調味料も。
毒を検出したのは、 私の部屋に運んだ『青菜としめじの炒め物』の皿だけ。
 フライパンは洗ってしまった後だったので、調理中に混入したのか、あるいは、調理後、私の部屋に運ばれる間に混入したのかは不明。
 台所から私の部屋まで『青菜としめじの炒め物』を運んだのはエルルーシア。どうやら侍女達は、自分が運んだものを自分で毒見しているらしい。

(毒物ってどんな形状だったんだろう?……粉末か……液体か……)

 廊下ですれ違いざまに混入とか可能なんだろうか?
 毒物についてはまだ調査中だが、おそらくリギス毒ではないかと書いてある。
 リギスは、花は鎮痛・葉は沈静の効果のある薬草だ。広く利用されていて、どこの家庭でも庭にリギスは植えられているし、女の子は嫁入り道具の一つとしてリギスの鉢植えを持参するというほど一般的なもの。
 ところが、トリギアスという二世紀くらい前の有名な錬金術師の残した書物によれば、この根を特殊な精製法で精製すると恐ろしい毒物ができるという。液体ならほんの一滴、粉末ならほんの小指の先ほどの量で大人十人がだまって殺せるという。
 この毒物の恐ろしいところは、即効性ではないところだ。内服してしばらくは何ともなくて、気付いた時にはもう遅い。吐き出しようがなくなっている。
 内臓を溶かし、やがて死ぬ。遺体の肌は爛れ、時間が経つと紫の斑点が出ると言う。

(まあ、特定できない毒薬はすべてリギス毒って言われるんだけどさ)

 実のところ、このリギス毒というのは幻の毒薬なのだ。『特殊な精製法』とやらはどこにも記録に残っておらず、毒薬の効能とトリギアスが死刑囚で実験したその観察結果だけが残っているにすぎない。
 リギスの根は茹でると食用になる。ちょうど、百合根みたいな感じで、何日か前の食事で食べた。ちなみに、すりつぶすと打ち身の薬にもなるらしい。
 あれがどうやったら毒になるのか謎だ。まあ、薬と毒は表裏一体なのでおかしいことではないけれど。
 
(……エルルーシアが狙いってことは、あるんだろうか?)

 エルルーシアに狙われる理由があっただろうか?と考える。
 明るく可愛らしい少女だった。剣の腕もなかなかだったという。いざという時に私の盾となるよう言いつけられていた。
 でも、何をどう考えても、結局、エルルーシアが私の侍女であったことと無関係とは思えなかった。



 2009.05.12 初出
 2009.05.14 手直し
 2009.05.17 手直し
 2012.01.11 手直し
 



[8528]
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2012/01/11 23:28

「妃殿下」

 呼びかけられて、意識が現実へと立ち戻る。
 目の前にいたのはシュターゼン伯だ。屈強な身体つきのいかにも武人らしいこの初老の騎士は、無駄なことは口にしない。でも、不思議と頼れそうな安心感がある。この人が『ヴェラ』を持つ学者でもあるのがとても不思議。
 北の出だと思われる薄い金の髪……北の民は銀髪か淡い色合いの金の髪を持つ者が多い。瞳の色で多いのは蒼か水色で、伯爵は水色。

(もっと不思議なのは、そんな人材が私の護衛隊長なことだけど)

「妃殿下、王都への帰還の日程表になります」

 膝をつき、両手で差し出す。
 私はそれを受け取った。

「ありがとう。世話をかけます」

 彼はやや驚いたように目を見開いたが、すぐに軽く目礼をして出て行く。急だったので帰還準備に皆忙しいのだ。
 目覚めてから、侍女達としか接していなかったが、事件の後、護衛騎士達の姿をよく見るようになった。これまではあまり目立たぬように護衛任務についていたようだが、「墜落事故」「毒殺未遂」と続き、もうそんなことも言っていられなくなったらしい。

(逃げるわけじゃない)

 ここより安全と思われる王宮に逃げ帰るわけではない。
 私に向けられた殺意……それを、はっきりと自覚した。
 これまで、私は明確に殺意を認識できていなかった。狙われていると言われていたのに、それをあまりにも遠いものに感じていた。
 けれど、今は違う。

(私の、敵)

 私の命を狙っている、敵。
 命を狙われるということを、本当の意味ではまだわかっていないかもしれない。
 でも、今、自分が日常的に危険の中に在るということをはっきり自覚している。
 職場と家とバイト先を行き来して、時々、友人と遊びに行ったり、愚痴ったりして、命の危険なんてまったく欠片も気にしなかった生活はもう遠い。

(報復する)

 私は聖人君子ではない。
 やられてだまって泣き寝入りするようなかわいい性格していない。
 右の頬を殴られたら、両頬殴り返す。馬鹿だとわかっているけど、売られたケンカは買うタイプだ。
 私が生きている事、それが、一番の仕返しになるだろう。
 でも、それだけでは絶対的に足りない。
 だって、エルルーシアはもうどこにもいないから。

(これが正統な怒りじゃなかったとしてもかまわない。八つ当たりでもいい)

 やられたら、やりかえす。
 アメリカでおこったテロのことを思い出した。大国が陥った泥沼。報復が報復を呼ぶ悪循環スパイラル……負の連鎖。
 でも、何もなかったことにはもうできない。

(そのくせ、私は弱虫で……この手は、小さすぎて……)

 だから、自分の手で裁くことができない……この手で人を殺すことは、できない。 
 例えどんなに憎んだとしても、どんなに殺意を覚える瞬間があったとしても、21世紀の日本で平凡に生きてきた人間にはそれを実行することは不可能だと思う。
 私ができること……それは……。

(犯人を明らかにする事)

 これは、実行犯と目されたスープ番の彼のことではない。
 彼に代わる別の実行犯がいたとして……その人間のことでもない。
 実行犯も勿論もちろん罪ではあると思う。
 でも、私を殺せと命じた人物。
 その人間こそが、本当の犯人だ。

(命じた人間を法廷に送り込む)

 それが私の考えた報復だった。
 間接的にしか手を下す事ができない私ができる精一杯。
 それを目標に動くのだ。
 
(しばらくは情報収集だ)

 自分で直接情報を集められない事が歯がゆく、墜落事件の記憶がないのが痛い。
 アルティリエは犯人を見ているかもしれないのだ。覚えていれば、この事件と合わせて一気に解決するかもしれなかったのに。
推理小説のようにいろんな人に聞いて回れればいいけれど、私がそんなことをすると目立ってしょうがないし、周囲に説明が出来ない。

 実のところ、墜落事件については、最初のうちはもしかしたらアルティリエの自殺の可能性もあるんじゃないかと疑っていた。

 ……人形姫と呼ばれていたその心の空虚さを何となく感じていたからだ。
 はっきりと自分から飛び込んだりしなかったとしても、危ないのをわかっていてそういう場所に行くような……そうして自分自身を試すようなことをしたかもしれないって思った。
 湖の上のバルコニーは風が強い。夜ともなれば尚更だ。アルティリエはすごく体重軽いから、そこでバランスを崩したりしてもおかしくない……未必の故意の事故。

(でも、今はそれは絶対ないって言える)

 少しづつ私の中にアルティリエが蘇るにつれ、そんなことはないと思えるようになっていた。
 アルティリエの心のすべてがわかるわけじゃない。ぼんやりと感じることがあるだけ。
 でも、ちょっと考えてみればわかる。
 浮かび上がってくるアルティリエの知識は、彼女が一生懸命勉強して身につけたものだ。

(何の為に……?)

それは、彼女が王太子妃に相応しい自分であろうとした為の努力だの証だと思う。
 だとすれば、そんな子が自分から危険な場所に行くはずなどなかった。
 彼女は自分が王国にとって意味を持つ者であることをちゃんとわきまえていたのだから。
 墜落事故は、事故ではなかったのだと今ならはっきり言える。

(だから……私は逃げない)

 逃げ出して安全なところに隠れるつもりはない。

(ただ、ここはアウェーだから、ホームに戻るのだ)

 敵は私を知っているのに、私は敵の影も形もわからないでいる。
 だから、せめて、ホームのアドバンテージが欲しい。
 それでも圧倒的に不利には違いないのだけど。

(でも、逃げないって決めたから)

 大丈夫。自分から危険に飛び込んだりしない。
 アルティリエが重ねて来た努力を無駄にしたりはしない。
 私は王太子妃だ。
 
(ただ、降りかかる火の粉を払うだけ)

 自己防衛は必須だ。
 それが、ちょっと過剰防衛になっても、それは許される範囲だろう。たぶん。





 翌日、すべての支度を整えてから、いつもの朝の公爵の挨拶を受けた。
 側で控えているリリア以外の侍女達は、馬車に忙しく荷物を運んでいる。護衛の騎士も、背後に立つ二名を除いては全員準備に追われていた。

「毒殺の危険があったのです。通常の護衛では不十分です。こんな急にお帰りになるなど……王都に連絡し、王太子殿下のご指示を受けねばなりません」

 王宮に帰ると告げた私に、エルゼヴェルト公爵は猛反対した。
 更にいろいろと理由を述べ立てる。
 まあ、気持ちはわかる。このまま釈明できずに返してしまったら大騒ぎだ。

「帰ります」

 でも、私ははっきりともう一度告げた。
 驚いたように公爵は私を見た。
 アルティリエに、こんな風に意思表示をされたのが初めてだったせいだろう。
 もしかしたら、声が出ることをまだ聞いていなかったのかもしれない。

「私は、王宮に帰ります」

 公爵の碧い瞳をまっすぐと見て、繰り返した。
 光の加減で青にも碧にも見える瞳。

(ああ……)

 私は、自分の瞳の色が、この人から継いだ色であることを知った。

「……エルゼヴェルトをお疑いか」

 公爵が、声を絞るようにして問うた。
 目を逸らすことなく、見返された瞳……初めて、彼と向き合っているのだと思った。、
 彼の一言が、並々ならぬ重みをもって発せられたのだと感じた。

 彼は疲れきっていた。
 身なりには相当気遣っているのだろう。短い顎鬚はきちんと手入れされているし、鋼の色合いを帯びた黒髪は艶やかだ。流行をとりいれた細身の長衣はシワ一つない。
 見た目は四十四という年齢よりも若く見えたが、その瞳には虚ろが見える。まるで絶望と諦めに浸る老人のようだ。
 私は、彼に伝わるようにと願いながら答えた。

「いいえ」

 はっと息を飲んだのが、公爵だったのか、それとも侍女や護衛騎士達だったのかはわからない。あるいは、双方だったのかもしれない。
 でも、どちらにも、私の答えはちゃんと伝わったとわかった。
 あえて、理由は述べなかった。
 どこに真犯人の目があるかわからない以上、余計なことはしたくない。
 今のところ、まだアウェーにいる私の唯一のアドバンテージは、アルティリエは十二歳の少女だが、三十三年の人生の経験値を持っているということだ。
 せいぜい、まだ十二歳の世間知らずのお姫様だと思って舐めきっていてもらわなきゃいけない。

「わかりました。……せめて、息子に護衛をさせることをお許しいただけませんでしょうか」

 公爵も特に問いかけはしなかった。ただ、どこか懇願するような声音で言った。 
 私は首を傾げる。公爵の息子に護衛が務まるのだろうか?

「公爵のご子息、ディオル様とラエル様は共に東方師団に所属しておられます」

 リリアが説明してくれた。
 ダーディニアの国軍は大まかにわけて六師団。東西南北の各師団に中央師団、それから近衛師団だ。これに、各貴族の私兵団がある。エルゼヴェルドは東の要だったから、公爵の息子が東方師団に勤務しているというのはおかしいことではない。
 ダーディニア貴族は、嫡子以外はただの人だ。次男以下の男児は聖職に就くか、軍人になるかくらいしか道がない。
 
「許可します」

 私はうなづいて、立ち上がる。
 公爵は、どこか安堵した表情で一礼した。
 正直、何度会ってもこの人が父という認識は生まれてこない。でも、自分がこの人とが血がつながっていることは何となく感じていた。

「世話になりました」
「いいえ。妃殿下におかれましては、道中恙無きようお祈り申し上げております」

 公爵がそう言って私の前で道中の無事を祈る聖印をきる。
 私はそれに応えてうなづいた。
 和解したと言える状況ではまったくなかった。私は母を想う胸の痛みを忘れる事ができない。
 けれど、歩み寄ったという気はしていた。
 たぶん、それは公爵も一緒だったのだろう。
 出立の際、公爵は外まで私を見送りに来た。

 私の馬車が見えなくなるまでずっと、公爵の姿は城の跳ね橋の上に在り続けた。





 2009.05.13 初出
 2012.01.11 手直し



[8528] 10
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/09 02:49
 10


 こちらで、初めて料理をしたのは、野宿を余儀なくされた為だった。

 エルゼヴェルトの城から王都まで、来る時は十日かかった。これは女子供……私のことだ……に合わせた旅で、日程に余裕をみて大きな街ばかりを選んで宿泊したからで、そういったことに一切頓着しなければ、だいたい五日くらいで着く。早馬なら三日。
 私達は、エルルーシアの遺体を運んでいると言う事もあって先を急いでいた。予定では、五日は無理でも六日~七日程度を考えていた。
 ところが、三日目のこと。順調に半分くらいまで来たところで、私の馬車の車輪がはずれてしまった。よく見れば車軸が磨り減っていて、交換をしなければならなくなった。車軸の交換はちょっと時間がかかる。

「……おそらく、時間的に次の街に入ることはできません。このあたりには町や村もありませんし……」

 ちょっと大きな街は夜になれば門を閉める。門を閉ざしたら特別な許可がない限り、街の中に入ることは出来ない。

「妃殿下のお名前で閉ざされた門を開くことは可能です」

 リリアが言葉を添える。
 私は首を横に振った。そういう無理はできるだけしない。無理を押し通さなければいけない事ではない。

「今夜は野営となりますが、よろしいですか?」
「はい」

 うなづいた。
 元々、天幕などの野営の準備はしている。
 この世界で旅をするというのはよほどお金に余裕がない限り、野宿は当たり前のことだ。現代社会で生きていた私などは、ホテルや旅館に泊まればいいとすぐ考えるけど、宿泊施設を利用できるのはそれなりに収入がある者だけ。
 専門の宿泊施設の数もそれほど多くはないし、少し大きな町にならないとない。宿泊施設がない場合は、だいたい皆教会に行く。教会で幾ばくかの喜捨をして空いている修行者用の宿坊に泊めてもらうのだ。

 私達の一行は、約80名ほどの大所帯だ。大きな街ではともかく、小さな町では分散したとしてもこれだけの人数が宿泊できる場所はない。
 昨日宿泊した町も小さく、私達は教会で休ませてもらい、騎士達は教会の周囲に天幕を張っていた。彼らにとって野営するのは当然の認識で、私達が我慢すれば問題ないことだった。

 氷月半ばの寒い時期だったが、このあたりはそれほど雪深くなる地域ではない。火を絶やさなければ一晩くらいは大丈夫だと思った。
 それに私は、毛糸のタイツをはかされ、全面に毛皮の裏打ちのあるフード付の外套を着せられ、毛皮の中敷をしいたブーツまで履かされているのだ。完全防備状態だ。
 街道から少し入った水辺が野営地と決められた。風除けの林もあり、見通しがきく場所だ。
 騎士達はテントを張ったり、馬の世話をしたりと忙しくしていて、食事のしたくは私の侍女たちの仕事と割り振られた。
 力仕事には役に立たないせいもあるが、少しでも早く食事にしたいのだろう。

「妃殿下はこちらでお休みください」

 騎士達が石を積んで簡単な暖炉を用意してくれて、そのそばに椅子を置いてくれた。
 寝るのは、馬を外した馬車の中。馬車の座席の背もたれを倒してクッションをしきつめれば簡易ベッドだ。そのわきに、二重になった小さな天幕も用意してくれる。
 荷馬車からは、積んでいた大鍋や野菜などが入った箱をおろされた。
 こうした旅では自炊が多い。宿屋ならともかく、教会や領主館に宿泊する事になった場合は、場所をかりて自分達で作るので、材料は多めに準備しているのが普通なんだそうだ。
 
「何を作るの?」
「主食が軍の携帯保存食のビスケットなので、スープを添えようかと思います。……狩りのうまいものが、雉を獲ってくれましたし」

 道中、狩りをしたりするのも当たり前。そうでなければ、新鮮な肉類はほとんど口に入らない。

「そう。楽しみね」

 私は小さく笑う。リリアや侍女達が嬉しそうに笑っている。
 笑顔の連鎖。沈みがちな気分が明るくなる。

(それにしてもこわいなぁ、その手つき)

 ダーディニアでは貴族の奥方や令嬢は、自身ではほとんど料理をしない。
 料理人と相談してメニューを決めたり、ディナーの采配をふるうことはあっても、自分の手で料理を作ることはほとんどない。これは身分が高くなればなるほど顕著な傾向だ。

「きゃあ」
「いたっ」

 ジュリアが剥いていた芋を落とし、アリスが指を切る。

「何やってるの」

 リリアが呆れ顔になる。
 さすがにリリアは器用だ。御料牧場の管理人の娘で料理経験のあるミレディと二人で奮闘している。
 別に料理が軽んじられているわけではない。
 むしろ、こちらでは料理人は高給を得られる専門技能職として認められている。使用人で一番給金が高いのは執事だが、腕の良い料理人はその執事に匹敵する俸給を得ることもあるという。
 貴族の館の料理長ともなれば、地元では名士扱いだし、農村の貧乏人が出世しようと思ったらまず料理人を目指すと言われている。

 ただ、調理設備がそれほど発達しているわけではなく、事故も多い。常に火を使う台所は危険な場所だから、婦女子に踏み込ませないと言う騎士道精神から、貴族の奥方や令嬢は台所にはあまり入らないものとされているらしい。
 市街や農村の人々の間においてはまったく逆で、調理は一家の主婦の大事な仕事で、男は邪魔をしない為にも台所には入らないこととされている。

(今日は、時間かかりすぎるとちょっと不満でそうだよね……)

 昼の休憩が満足にとれなかった。陽も落ちて来たし、おなかも減っているだろう。
 騎士達は野営になれているので手際がよく、既に準備を整えつつある。
 私達はともかく、騎士の全員がテントの内に入れるわけではない。半数以上が火の側で肩を寄せ合うことになる。せめて、体を芯から暖めるようなものを早く食べさせてあげたい。

「……私もやるわ」
「え?」
「本で読んだ料理があるの。身体が温まる料理。私が作るわ」

 ごめん、本で読んだっていうのは嘘です。野外でこれだけの人数分を調理するのははじめてだけど、この覚束無い手つきの侍女達よりはマシだろう。

「え、あ……」

 リリアに何か言われる前にさっさとアリスの使っていたナイフを手にする。
 本当は、おとなしく見ていようと思ってたんだよ。でも、何もしないでただ座っているだけなのは苦痛だったし、久しぶりに料理がしたかった。

「アリスは傷の手あてが終わったら、騎士達に鍋に水を汲んでもらって」
「はい」
「終わったら、調味料をその板の上に並べて」

 手が動く。小さくなってしまったけどちゃんとナイフは扱える。良かった。指先の感覚は鈍ってない。
  
「そこ、手が空いている人がいたらお芋の皮を剥いて。人参とダーハは剥かなくていいから綺麗に洗って……これくらいの厚みでこんな風に刻んで」

 手持ちぶさたそうな騎士にいちょう切りの見本を見せる。ダーハというのは緑色の大根。味もクセがなくすっきりしていて見た目も大根そのものなんだけど、色が中まで黄緑。時間があればこれでふろふきとか作りたい。

「きのこは軽く洗って、お肉は解体できた?そう。じゃあ、一口サイズに切って」

 この場合、必要なのはスピードだ。 
 並べられた調味料を見ると味噌があった。九州の麦味噌みたい味。舐めてみたら味もよく似ていたし、これはいい!と思った。麦味噌大好き。

(味噌仕立ての雉汁にしよう。生姜とネギたっぷりで) 

 生姜をたっぷり刻み、半分を味噌と混ぜる。そこにワインで洗い、塩を振った雉肉を漬け込む。本当は一時間くらい漬けて置きたいけど贅沢はいえない。
 一行の人数は総勢80名余り。この人数分を作るのはなかなか労力がいる。

「お椀とか人数分あるのかしら?」

 私の疑問に、かたわらにいた淡い金の髪の人が答える。

「騎士は携帯糧食を常に三食分携帯していますが、糧食が入っている缶の蓋が皿、容器部分がお椀代わりになるんですよ」
「そうなの?缶で熱くないの?」
「熱いですよ。でも、慣れてますから」

 初めて知った。
 あの缶で煮炊きもできるそうだ。飯盒みたいなものかも。……ちょっと欲しいと思ったのは内緒。いや、使うチャンスはなさそうだけど。

「あ、これを洗って。それから、そのきのこも洗って。鍋には油を多めに……そう」
 
 騎士団には料理番を担当する従騎士がいる。グレッグとオルという二人が、力がない私の代わりに実際の調理を担当してくれた。

「まずは、生姜を炒めて」

 半分残しておいた生姜にちょっとの赤とうがらしを刻んで混ぜる。
 じゅっという音と冬の夜の空気の中に立ち上る香りに皆がこちらに注目しはじめた。

「お肉を抜いて……味噌を全部いれて炒めて」

 火ががんがんに強くなってくる。味噌が焦げる香ばしいいい匂いした。
 それから、雉肉を炒める。味噌を先に多少焦がすのポイントね。
 鍋をかき回している棒が、交換した馬車の車軸に見えた。

「ああ、あれ、車軸ですよ。大丈夫です。表面は一通り削りましたから」

(いや、そういう問題じゃないから……いいや、気にしないようにしよう……)

 次いで、隣の大鍋でがんがんにわかしていたお湯を注ぎいれる。じゅわーっという音がして、猛烈な湯気が立ち上った。

「あつっ」
「妃殿下っ」

 手に滴がとんでびっくりした。私はびっくりしただけだけど、グレッグとオルはあからさまに顔色を変える。膝をついて謝罪しようとしたのを押し留めて手順を指示する。こんなのたいしたことないのに。

「大丈夫。ちょっとはねただけ。……あ、お野菜投入して」

 野菜が煮えたら、味を見ながら仕上げをする。お玉は普通サイズだった。鍋に落としたらきっとわからなくなってしまうだろう……それくらい鍋は大きかった。
 お玉でバケツにはいっている塩をがばっとよそって投入する。料理っていうにはあまりにも豪快すぎるけど、この量では仕方がない。
 最後の白ワインをどくどく注いだら、シュターゼン伯爵がもったいなさそうな顔をした。どうやらワイン好きらしい。でも、このお酒が味に深みをあたえてくれるんだよ。

「……もう、できたんですか?」

 さっきから待ちかねている金髪おにーさん。いかにもお坊ちゃん風の育ちの良さ。ついでに、これまで見た中ではピカイチ顔が良い。
 アリスやジュリアがさっきから意識しているのが丸わかり。

「ええ。あ、食べる前に好みでネギをいれて」

 ……あ、あれ?もしかして、この人、あれじゃないだろうか……えーと、護衛につけられた三番目のお兄さん。

「あの……」
「妃殿下、これ、うまいです。どこの料理ですか?」
「えーと……本で読んだの。生姜をたっぷりいれると身体が温まるって書いてあったからちょうどいいと思って……」

 確認しようとしていたら、知らない誰かから声をかけられる。名前が思い浮かばないからエルゼヴェルトの騎士かもしれない。彼と話している間に、兄らしき人の姿は視界から消えてしまった。今度見た時は忘れずに礼を言おう。
 漂う匂いに、行儀が良いはずの騎士達が歓声をあげて鍋に群がってる。

「……妃殿下、これ、すごくおいしいですわ」

 おそるおそる口にしたリリアが目を丸くしてる。なんか、いつの間にかリリアは私を姫と呼ばなくなっていた。
 いつからかな、と思ったけどちょっと思い出せなかった。
 でも、妃殿下と改まって呼ばれてはいても、何となく前より気持ち的には近い気がしている。

「良かった」
「殿下が料理の心得があるとは存じませんでした」
「心得と言うほどのものでもありません」

 シュターゼン伯の言葉に、笑みを返す。
 伯爵の顔が少し赤く染まったのは、火の照り返しじゃないはずだ。

(美少女の笑顔って、すごい威力だな) 

 おかげで追求されなかった。
 ……私がわかる範囲では、アルティリエにはないからね、料理の心得。
 本で読んだ知識だということで押し通そう。幸い、アルティリエがよく本を読んでいる子だというのは周知の事実のようだし。

 あちらこちらで、うまい、とか、よくわからないおたけびがあがってる。
 どうやら、味噌仕立ての雉汁の味付けは大成功のようだ。私はこういう野外での力技系の料理はそんなに得意じゃないけど、うまくいって良かった。

「殿下、どうぞお召し上がりください」  

 私の分も木椀によそわれて運ばれてくる。添えられた木匙。丁寧な仕事のされたもので手によく馴染んでつかいやすい。
 本当は銀のカトラリーよりもこっちの方が食べやすいのだけど、毒の予防も兼ねているのであれはあれで仕方がないのだ。

 あつあつの汁をふーふー言いながら食べるのはすごくおいしい。こうして、火のそばでみんなで集まって食べるのもそれに輪をかけている。考えてみれば、こっちに来てから誰かと一緒にごはんを食べるのは初めてだ。
 椅子に腰掛けているのは私だけで、後は皆、切り株をもってきたり、石に座っていたり、地面に木の枝を敷いたりして座ってる。
 身分の違い、というものをあからさまに目の当たりにする。
 私はこれを当然のものとして受け入れなくてはいけない。
 でも、それでも、エルゼヴェルトの城にいた時よりもずっと皆を近く感じていた。

「皆で食べるとおいしい」

 誰に告げることもなしにつぶやいた言葉に、隣に座るシュターゼン伯が目を細めた。

(忘れないでおこう……)

 赤々と燃える炎、立ち上るいい香りの湯気、陽気な騎士達のざわめき。
 きっとこんな機会はそうそうないから。
 王都につけば、今回のお忍びのためだけに組織された護衛隊も解散される。
 リリアのお酒でほんのり染まった顔、ジュリアのおかわりする時の笑顔に、アリスとミレディの内緒話をしている顔。エルルーシアの姿がここにないことに胸が痛む。
 でも、すごく温かくて、見ているだけで楽しかった。
 だから、ずっと忘れないでおこうと思った……きっと、思い出すたびに胸を暖めてくれる記憶になると思ったから。
 


 シュターゼン伯爵以下30名の護衛隊の騎士が、国王陛下の許可を得て私に剣を捧げたのは王都に帰ってすぐのことだった。



 2009.05.14 初出
 2009.06.09 手直し



[8528] 11
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/23 16:26
 11


 ドキドキしていた。
 かつてない緊張というやつだ。
 初めてこちらで目覚めた時も、初めて公爵に会った時も……いや、考えてみればこっちにきて緊張なんてしたことがなかった。パニくってただけかもしれないけど。
 まあ、元々の性格が楽観的で細かい事を気にしないせいもある。
 でも、さすがにその私も今はちょっと緊張してる。
 昨夜遅くに王都に帰りついたばかりなのに、起こされる前に目が覚めた。身支度だって、侍女達がものすごく着合いいれて整えてくれたの。

(初めて、王太子殿下に会うし!初対面はつたいめんだよ)

 今日は、朝の挨拶に代えて、国王陛下に帰還のご挨拶をする予定。そこには、王太子殿下が同席する。
 前のことはまったく覚えていないから、私にとってこれが殿下と初めて顔を合わせる機会となる。

(どんな人なんだろう……)

 気になってはいたのだ。だって、仮にもだし。
 折に触れ、こっそりと王太子殿下の人物評を収集して来たけれどよくわからなかったというのが本当のところ。
 だって、みんな言葉は違えど一律同じこと言うの。
 美しく、聡明で、武勇に優れ、ヴェラであらせられる王太子殿下。
 既に国政に参画し、次期国王として完璧な才能を持つ天才。
 眉目秀麗、冷静沈着、文武両道……褒め言葉ばかりが出てくるよ。
 ありえないでしょ!と突っ込みたくなった。そんな完璧な人、いないよ。絶対に猫かぶってるね!

(それに、他に愛妾なり妃なりがいないことも不思議なんだよね)

 ダーディニアの国王は四人の妃を娶ることができる。
 第一王妃から第四王妃まで。これ、昔は四公爵家から一人ずつ妃を出していた名残。近年は諸事情により、四正妃の座が全部埋まる事はあまりない。
 それでも、今の国王陛下は二人の王妃と二人の側妃と三人の愛妾をお持ちだ。
 側妃であるお二人はそれぞれ入宮の時期と家柄からいえば第二王妃、第三王妃となってもおかしくないのだが、子供がいないので側妃のまま留め置かれた。
 王妃と側妃では、宮の規模や使用人の数、その他の予算からしてまったく違う。どのくらい違うかリリアに聞いたら、単純計算で倍だって。勿論、生家の援助もあるので表面上の生活ぶりからは計れないことではあるけれど。

 王太子ならびに王子方は妃とすることが許されるのは一人だけだが、愛妾を置く事に問題はない。特に王太子は、いずれ国王となった時に側妃になおすこともできるし、家柄が許せば王妃とすることも可能だ。
 王太子妃たる私が幼すぎて、妃としての責務……平たく言ってしまえば、世継ぎを生む為の夜の生活ができない以上、王太子殿下に決まった女性がいないことが不思議だった。

(27歳の健康な成人男子が!)

 そう思ってたら、一人諜報部員みたいなリリアによれば、某侯爵未亡人やら、某男爵夫人やら、あるいは花街の高名な聖女……いわゆる高級娼婦を言う……達なんかのあとくされのないお相手とそれなりに楽しんではいるらしい。
 表向きは聖人君子のような王太子殿下だが、別に真面目一方の堅物というわけではないということがわかってちょっとほっとした。

「王太子殿下は、妃はお一人でいいと常々おっしゃっており、これまでに幾つかの縁談をお断りになっています」
「男色ってわけじゃないんでしょう?」

 戦国時代のお殿様の大半に男色経験があることを考えれば不思議じゃないと思って口にしたら、リリアにものすごい目で睨まれた。

ありえません!……男色というのは、まったく存在しないとはいいませんけど、国教会により禁じられているんですよ!」

 え、教会ってそういうのの温床な気がするけど。
 ……でも、リリアが恐いから、言わないでおく。

「……ロリコンっていうわけじゃないんだよね?」

 ロリコンだったら、一番危険だよね、私。
 いや、妃である以上、手を出されても何も言えないんだけど。

「ロリコンとはどういう意味ですか?」

 ごめん、これはこっちの言葉にはなかったか。

「……幼女に性的欲求を覚える類の男性のことよ」
絶対に、違います!

 リリアは顔色を変えて否定した。
 とんでもないことを聞いたとばかりに悪魔除けの聖印を切る。

「そうよね……あとくされのないお相手とは遊んでるんだもんね。でも……だからって別に私を特別に大事ってわけではないのでしょう?」
「はい。言葉を飾らずに申し上げれば、王太子殿下は妃殿下に対してエルゼヴェルトの相続人として以上の価値を認めてはいませんでした……私見ですが」

 この会話からもわかるだろうけど、王都までの帰途の間に、私はリリアを共犯者にすることに成功していた。
 共犯者っていうか……味方っていうか……うまくいえないけど、そういうの。
 だって、私一人ではできることなんか限られているから。

 リリアは、いつも影のようにそばに控えてくれている。
 特に、墜落事件の後は責任を感じてか私から目を離さない。その目をごまかして何かすることはほとんど不可能だ。これからのことを考えたら、リリアを味方にしなければ何もできないと思ったし、いろいろ考えたけど、私はリリアが信じるに足ると判断して、正直な事情を話した。
 さすがに、33歳の異世界人の記憶があることだけは言えなかったけど、それ以外は全部。
 墜落事件で目覚める以前のことはまったく覚えていない事。必要な知識が時々、記憶の底から浮かび上がってくることがある事。口を開かなかったのは、声がでなかったのではなく状況を観察していた事……元々、違和感を覚えていたというリリアはそれらの事実をすぐに納得してくれた。
 私がすらすらしゃべるのにもの凄く驚いていたけど。

 その上で協力を求めたのだ。
 このまま、ただ狙われつづけるのは嫌だと。
 墜落事件とエルルーシアの事件を調べて、犯人に思い知らせてやりたいと。
 リリアは当初、難色を示した。私の身を案じての事だ。
だから私は自分から危険に飛び込むつもりはない事とこの手でどうこうすのではなく、事件の全貌を明らかにして本当の犯人を法廷に送ってやりたいのだと告げた。
 絶対に一人にはならないことと、何でもリリアに相談する事を条件にリリアは私の味方になることを約束してくれたのだ。
 ……気心がしれたといえば聴こえはいいけれど、何かいろいろ容赦なくなった気がする。

「もちろん表面上はお優しかったですよ。妃殿下を気にかけ、誕生日の贈り物は欠かしたことがございませんし、妃として大切に遇されていました……どんな時でも儀礼の域からは一歩も出ませんでしたが」
「そう」

 まあ、そんなところだろう。
 人形姫と呼ばれるほどに周囲を拒絶していたアルティリエ……今のところ、例外がいたような様子はない。そして、その聡明さを誰もが誉めそやすような男が、そんな少女に特別な価値を認めるとは思えない。たとえ、定められた妻だったとしても。
 でも、よくできた王子様は幼い少女を無駄に傷つけるような真似はしなかった……立場をちゃんと慮ったとも言える。私の母のこともあるし、民の評判もある。
 何よりも、アルティリエは彼にエルゼヴェルトをもたらす存在だ。

「でも、政略結婚ってそんなものじゃないのかしら?」

 そう。政略結婚なのだ。
 彼と恋人同士なわけじゃなし、恋愛するわけでもない。
 ましてや、12歳と27歳。今すぐ男女間のドロドロに巻き込まれたりはしないだろう。
 お互いに思いやりをもって接し、互いの立場を守って生活できれば十分じゃないだろうか。
 
「……なぁに?」
「いえ……本当に記憶がおありではないのですね」

 半ば感心したようなリリアの声音。

「どうして?」

 リリアがなんでそんなことを言い出したのかわからなくて首を傾げる。

「……記憶喪失と言われても、日常的には特に記憶がないようにはお見受けしないんです。何しろ、妃殿下は必要最低限を満たさぬほどまったく口を開かなかったですし、何をお考えかは誰にもお話になりませんでした。お声を失っていたと思っていたあの時だって、声についてはほとんど皆気にしてなかったのです」

 必要最低限を満たさないって……すごい言われようだ。
 でも、だからこそ、こんな風に私が話しているのがとても新鮮で、そして、だからこそ記憶がないことが信じられるという。
 普通、女の子はおしゃべりが大好きなものだが、アルティリエは自由時間は、本を読んでいるか、勉強しているかがほとんどだったそうだ。

「長年、妃殿下の家庭教師を務めていたルハイエ教授とは言葉少なにでしたが、意見交換などもなさっておりました。お年こそ離れておりましたが、教授が妃殿下と一番近しかったと思います」
「その教授はどうなさったの?」
「残念ながら妃殿下がこちらをご出立前に風邪をこじらせてお亡くなりに……お年を召した方だたので……家庭教師の後任はまだ決まっておりません」

 リリアは悲痛な表情をする。

「残念だわ。……乳母は、いないの?」

 母がいない以上、乳母が絶対いたはず。

「妃殿下の乳母であられたマレーネ様は、私がこちらにあがりました年にお亡くなりになりました……暴漢に襲われて」
「そう…なの……」

 ここでも、アルティリエの周囲には危険と不幸の影が差す。
 何ていうか……一言で言ってしまうと運が悪いのかもしれない。

「アリスは、マレーネ様の姪になるんですよ。マレーネ様のお子様は男ばかりでございましたのでアリスが代わりにこちらの宮にあがったんです」
「へえ……」

 こんな風に話すのはリリアと二人の時だけだ。
 急にベラベラ話しだすのもおかしいから、普段はなるべく昔のアルティリエっぽく振舞うようにしている。これは真犯人に警戒させない為もある。
 でも、最低限の礼儀というか……お礼を言ったり、挨拶くらいはするし、笑みをこぼすことくらいはある。
 それだけで皆が驚くの。ほんと、これまでの自分に涙が出るよ。
 この一件が片付いたら自己改革をはかるから!絶対に!

「妃殿下の侍女は入れ替わりが激しいんです……よく狙われるので危険もありますから」
「そんなに狙われるの?外にはあまり出ないんでしょう?」
「はい。……王宮にいれば安全ですよ。ここの宮は後宮よりも警備が厳しいですから。でも、王太子妃であられる以上、外にまったく出ないっていうわけではありませんから」

 王太子妃には絶対にやらねばならない公務がある。
 幼い頃は免除されていたものも、最近では少しづつ増えているんだそう。

「今は月に一回くらいでしょうか……そのたびに、何かあるんですけど」

 だいたい事前に王太子殿下の兵に検挙されてますけど、三回に一回くらいは騒ぎになってますね、と苦笑する。

「騒ぎ?」
「はい。行列に火矢を射込んで霍乱して拉致しようとしたり……暴れ馬を乱入させて妃殿下を攫おうとしたり……いつの時もまったく無表情でしたのには驚きました。重ねて失礼を申し上げるようですが、人形姫とはよく言ったものだと思っておりました」
「覚えてないから別にいいけど、それもすごいね……」

 我が事ながら、逆に感心する。
 ああ、でも……拉致とか誘拐なんだ。……殺すんじゃなくて。
 その時と今では何が違うんだろう?

「……失礼ですが、殿下は、どのようなことなら覚えていらっしゃるのですか?」
「人の名前を聞くと経歴がぱっと浮かんできたりするの。でも、顔はあまり覚えていないからあまり役には立たない」

 視覚的な記憶というのは呼び起こすのが難しいものなのかもしれない。
 正直、リリアにナディル殿下の容姿を説明してもらったけれど、さっぱり思い浮かばなかった。

「お作法などは大丈夫でしたのに」
「習慣的な動作とかは忘れないものなんだと思うの。頭では忘れても身体では覚えてるから、なぞれば思い出すんだと思う」
「そうですわね。……くれぐれも殿下、挨拶の順番だけは、絶対に間違えないで下さいね」

 基本的に挨拶は、下位のものから先に口を開く。
 そして、挨拶の後に話し掛けるのは上位のものからが基本。
 挨拶のあと、自分が先に口を開くのは礼儀に反するらしい。
 まあ、それほど厳密なものでもないのだが、儀礼が必要な場では重要になる。

(エルゼヴェルトの城で公爵が挨拶しかしなかったのは、そのせいか……)

 誤解していたことをちょっと反省した。
 私はリリアには、必要な時はいつでも自分から口を開いて良いと言ってある。
 面倒なことだけど、階級社会というのはそういうもので、頂点に近い私がそれを破るわけにはいかない。

 この国で私より位が上なのは、国王陛下、第一王妃殿下、王太子殿下のみ。
 王太子殿下以外の第一王妃所生の御子と第二王妃殿下とその所生の御子は、王太子妃である私より身分が下だ。即妃や愛妾は言うに及ばず。

「気をつけます」

 私は真面目な顔でうなづく。
 リリアはちょっと目を見張って、それから笑った。笑うとリリアは年相応に見える。いつもは、五、六歳年上っぽい。

「なあに」
「いえ、嬉しかったんですわ」
「……私?」
「はい。……もし、これを言うのは、不敬にあたるのかもしれませんが……。もし、記憶がないせいで今の殿下になられたというのなら、ずっと記憶がないままでもかまわないと思うくらいです」

 そう思ってくれるのは嬉しかった。
 それは、今の私でいいってことだから。
 記憶のすべてが戻るかは怪しい……でも、もし戻ったとしても、私はもう人形姫には戻れないし、戻るつもりもない。

「妃殿下のご記憶に混乱があることは、それとなく宮中に噂を流してございますから、今後、多少おかしな行動をとったところでたいした問題にはならないと思います」
「ありがとう、リリア」

 すごいよ、リリア。手回し良すぎ。
 リリアが味方になってくれたことで、私の自由度は格段に広がった。そして、得られる情報量も桁違いになった。ここまでだとは思わなかった。
 リリアを味方に引き入れると決めるまでにあんなにもいろいろ悩んだことがバカバカしくも思えてくるほど。

 ……わからないことはたくさんある。
 本当はリリアの全部を信じることはまだ恐い。
 女官というには、リリアは知りすぎているような気がするから。

(でも……)

 信じると決めたのだ。
 だから、あとは私の決意一つ、気持ち一つでしかない。

「……そろそろ参りましょうか」
「もう、時間?」

 あんなに早起きしたのに。

「はい。やや早めの方が遅れるよりいいです」
「そうね」

 ゆっくりと立ち上がる。勢いよく立ったり座ったりするのはNG。
 
(……大丈夫)

 自分に言い聞かせる。
 リリアがいてくれる。それから、私に剣を捧げてくれたシュターゼン伯爵や護衛騎士達。
 私はこの世界でもう一人ぼっちじゃない。
 だから、自信を持って足を踏み出した。


 
 2009.05.15 初出
 2009.05.23 手直し


******************************

 王宮編。まずは王太子殿下との対面。




[8528] 12
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/09 07:52
 12



 王家の私的な居間だと言われて案内された場所は、天井が高くてかなり広いホールだった。
 これを見たら、どこが私的な居間なのだと二十一世紀の現代人は突っ込むだろう。ちょとしたミニコンサートができそうだ。
 そこに既に国王陛下をはじめとする王室の一家が揃っていた。私を除いて。
 普段なら、入場順も決まってる。王室内での順位の下から入って、最後が国王陛下。
 今日、私が最後なのは挨拶をするから。拝謁と同じで、一段下から王都帰還のご挨拶をする。

(こ、こわい、コワイ、恐い……。何でこんなににらまれてるの……)

 入室した瞬間に、強い眼差しが突き刺さった。
 注目されることは別に気にならない。でも、この視線はそういう類のものじゃないよ。
 一歩入った瞬間に、それまでのドキドキが凍り付いた。
 視線で人が殺せるなら死んでるんじゃないか?私。
 
 視線の源は、国王陛下の右に立つ青年……王家の銀と冬の空を凍らせたようなと言われる蒼銀の色彩を持っている……たぶん、私の夫、ナディル王太子殿下。
 なまじ顔が綺麗なだけに、その眼差しの冷ややかさがいっそう際立つ。

(……な、何かしたっけ?いや、私は初対面でしょ。しょっぱなからこの敵意って何なの、アルティリエとは儀礼上以上の何かはなかったってリリア言ってたのに!!)
 
 とりあえず、意識しないようにしよう。恐い、恐すぎる。
 絶対零度の風が彼の立つ場所から吹き付けてきてるよ。

 


「アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーティエ、帰還いたしました」

 両手を胸の前で交差させ、軽く膝を追って右足の爪先を後ろにつく。女性王族が国王陛下に敬意を示す礼だ。
 天井が高いせいで、消え入りそうにきこえる声。人によっては可愛いというかもしれないけど、聞き取りにくい。腹筋もっと鍛えよう。

「ティーエ、よく帰ったね」

 国王陛下……グラディス四世陛下がにこやかな笑みを浮かべる。
 青白い肌の色、王家の銀髪にアッシュグレイの瞳を持つどこか神経質そうな人。
 若く見えるが年齢はこれで五十三歳だ。四十を過ぎてから即位をしたこの方は、年の離れた異母妹の最後に最も心を痛めた。だからこそ、その遺児である私を気にかける。
 彼こそが王太子妃アルティリエの最大の、そして、最高の後ろ盾。

「ありがとうございます」

 礼を述べ、俯くように顔を伏せる。リリアに指導されたアルティリエの癖。
 そのかげでこっそり視界の端っこで周囲を見回す。
 陛下の左に寄り添う大柄な黒髪の美女が第一王妃ユーリア殿下。その隣のがっちりとした熊みたいな髭の大男がたぶん第二王子のアルフレート殿下。
 一段下に立つのが、第二王妃のアルジェナ殿下、彼女の横で手をつないで立つ母親譲りの赤毛の双子の少年少女が第四王子エオル殿下と第二王女ナディア殿下。
  
(側妃のお二人は来ていないのか)

「侍女のことは不幸な出来事だった。だが、もう忘れなさい。そなたに剣を捧げたものを護衛の中核に据え、警備の増員も図る。ここにいれば安全だ」
「……はい」

 忘れられるはずがない。でも、この場ではうなづいておく。
 陛下は満足そうにうなづいた。
 この方は私に優しい。彼はその絶対権力で私を庇護する。
 でも、それはアルティリエの為ではない。既に亡いエフィニア……私の母の為。

 彼は、私を見ていない。

「ティーエ、恐ろしい目に遭ったそうですね。もう大丈夫なのですか?」

 ユーリア王妃の温かな言葉。
 王太子ナディル殿下をはじめとする三人の王子とグラーシェス公爵家に降嫁したアリエノール王女を産んだ美貌の王妃。
 既に五十に手が届こうかという年齢であるのに、この方はまるでそれを感じさせない。三十代だと言われても信じられる。

「ありがとうございます。大丈夫、です」

 小さくうなづく。
 慈愛の微笑み……神経質で癇癪もちのグラディス陛下を支え、それをカバーし、国政にも並々ならぬ影響力をもつこの王妃の最も美しい表情。
 でも……何か怖い。キレイすぎて。
 美しく、優しく、慈悲深い……国母として民に敬愛されている第一王妃殿下。
 ある意味、王太子殿下はこの方によく似ている。
 
 そして……彼が、私を見た。

 その視線が既に圧力であるほどの、存在感。
 王となる者……ナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエ。
 ダーディエの血が産んだ稀代の天才と呼ばれる青年。
 彼は、静かに口を開いた。

「おかえり、ティーエ」

 甘い甘い声音。背筋がゾクリとした。
 彼に魅了されたからじゃない。彼が、恐しいからだ。
 ただ、純粋に、こわい。

(だって、おかしいよ)

 さっきまで、彼は怒っていたはずだ。
 明らかな怒りの気配。色で表現するならわずかに青みを帯びた白。
 知ってる?炎は白に近いほど高温なんだよ。
 その怒りの気配がさっと消え去り、そして、それを欠片もみせずに彼は笑っている。
 その切り替えの早さ……あるいは、その完璧なまでの外面が恐ろしい。

「ただいま帰りました、殿下」

 私は、ドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を折り頭を下げる。
 身体にしみついたスムーズな礼儀作法。誰の目にも優雅に美しく見える一連の動作。
 
「いろいろあったようだが無事で何よりだ。連絡が滞っていたので、こちらは多少やきもきしていたがね」

(……あ)

「申し訳ございません」

 アルティリエらしく、顔には出さないようにしてこたえる。
 言葉は少なく、なるべく口調は平坦に。
 でも、心の中は申し訳なさが渦巻いた。
 連絡が滞っていた心当たりが、ものすごーくある。帰還が遅れる連絡以降、きれぎれの噂しか聞いていなかったとすると、さぞやきもきしただろう、

(ごめんなさい)

 心配させてしまったのかもしれない。
 名ばかりとはいえ妻だし、幼時から見知っていれば情がわくこともあるだろう。

「まあ、意識のなかった君を責めるわけにはいかないし……記憶に混乱があると聞いたけれど、もう大丈夫なのかな?」

 浮かべられる笑み……母王妃によく似た自愛の微笑み。
 でも、空っぽの笑み。
 王妃と違うのは、彼がそれを自覚していることだろう。
 目にはその慈愛に反するような冷ややかな意志。

(……なんか、私に情とか、あんまりなさそうだ……)

 ごめん。即、否定。
 うん。そういう甘い感情は、この人にはないかもしれない。
 よく知ってるわけじゃないけど、なんかそう思うよ。ひしひしと思うよ。

「覚えていない事は、たくさんありますが……」
「が?」
「……問題ありません」

 私のその解答に、彼は興味を失ったような表情をちらりと見せる。
 それが、この時、私の見た彼の唯一の素の表情だったかもしれない。

「そう。ならば良かった」

 それはほんの一瞬のこと。
 彼は、すぐに柔らかな笑みを貼り付ける。

「……それだけかい?」

 陛下がどこか不満げな表情をする。
 いやいやいや、それだけでいいですから。
 これ以上、何か言って、藪をつついてヘビを出すような真似はしたくないです。

「この後、二人きりでティータイムを共に過ごそうと思っております……」

 後はその時に……と彼は笑う。
 何も知らなければ……感じなければ、きっと、うっとり見惚れることができただろう。
 でも、私は、気付いてしまったから無理。怖いだけ。

(い、いらないから。もうこれだけでいいから!)

 思いっきり首を横に振りたかった。
 無表情なアルティリエのお人形ぶりっこをしてなければ、首振り人形のようにぶんぶん振っていたに違いない。

「それはいい」
「ええ。ここのところゆっくり話す機会もありませんでしたし……」
「ああ、そうだ。ティーエもいつまでも子供じゃない。これからは、ちゃんと二人で過ごす機会を設けるように」
「はい」

 彼は綺麗に笑う。
 陛下のやさしさがありがた迷惑だと言ったらバチがあたるだろうか……嫌な予感がひしひしする。
 膝が、笑ってしまいそうだ。
 正直に言います。……すっごく、苦手なタイプ。ああいうサドっけありのバリバリ腹黒で粘着質っぽい人は思いっきりダメ。できることなら近寄りたくないです。
 お願いだから、助けて欲しい。
 脳裏に浮かぶのは、リリアと私に剣を捧げたシュターゼン伯爵。今の私が信じられる二人の人。

(あれが、夫だなんて……)
 
 あれ呼ばわりしてすいません。
 でも、彼が笑えば笑うほど、恐怖を感じずにはいられない。
 ……ユーリア王妃に感じたより、もっと怖いのだ。
 非のうちどころのない王太子殿下……二重人格だっていう推察はもはや確信に近い。
 なんで、夫がよりによって、一番苦手なタイプなんだろう。
 
 思わず、自分の運の悪さを呪いたくなるよ。
 嫌いと言わないのは、嫌いと言えるほど、彼を知らないからだ。
 美貌と言われるほどハンサムな夫なんていらない!
 天才なんて言われてる夫なんていらない!
 特別なものなんて何もいらない!
 普通でいい……むしろ、普通の人がいい。
 あんなどこもかしこも……ついでに厄介さも特別製みたいな夫はいらないから!

「陛下、ティーエの帰還の挨拶ももういいでしょう。僕たちはお先に失礼しますよ」

 いや、いいです。私はここにいたいです。
 なのに、つかつかと立ち寄って来た王太子殿下は、凍りついている私の目の前に立つ。

(…………?)

 ふっと鼻先を掠める甘さと苦さ。
 掴めそうで掴めない何か……浮かび上がるぼんやりとした記憶……何か大事なことを自分が思い出そうとしていると思った。
 それが、もう少しで形になると……はっきりと掴めると思った瞬間だった。

(……え……?)

 視界がぐらりと揺れる。
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

(ええええええっ!!!!!)

 ナディル殿下が、私を抱上げたのだ。
 お姫様抱っこではなく、小さな子供を抱上げるみたいに。
 国王陛下とユーリア王妃殿下が、満足そうな眼差しで私達を見ている。
 第二王妃殿下はあまり興味なさそうで、双子の王女の方が思いっきり私を睨んでる。王子のほうはおろおろして私と王女を見比べ、そして……ナディル王太子の実弟であるアルフレート殿下は、生ぬる~い眼差しで私を見ていた。なんかこう……ご愁傷様、とか、そういう感じで。
 私は、ただ殿下の腕の中で凍り付いていた。
 ヘビに睨まれたカエルの気分だった。  



 2009.05.16 初出
 2009.05.17 手直し
 2009.05.19 手直し
 2009.06.09 手直し

 



[8528] 13
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/17 08:11
 13



 王太子宮は、王宮の西の一角を占める。ゆえに、王太子宮を西宮と称し、転じてそれが王太子の異称ともなっている。
 当たり前の事だけど、王太子妃宮は王太子宮と接しているので同じく西側にある。私のために作られた一角なので建物が比較的新しく、内装なども現代的だ。装飾過多とも思える他の宮と違い、曲線を優雅に配したシンプルモダンなインテリアはすっきりとしている。
 主が幼い少女である為に、花柄や、淡い色調の美しい色に溢れていて、全体の印象として明るいのが特徴。
 王太子宮は私の宮とも似て装飾が少ない。ここは旧統一帝国時代の建物を利用しているので、だいぶ装飾を取り払ってるはずだ。どうやら、殿下はシンプルを好むらしい。
 実用美を重んじる調度類はきっちり磨き上げられていて飴色に光り、さまざまな色合いの青を基調としたインテリアは、高雅さを感じさせる。

(似合ってるけど、何か寒々しい気が……)

 外は雪が降り出しそうな曇り空だけど、テーブルの上にはお茶のしたくがしてあってカップから湯気が立ち上っている。暖炉にいれられた火もほどよい感じで部屋を暖めている。
 なのに、なんで、こんなに寒く感じられるんだろう……。
 カーテンとか絨毯とか寒色ばかりだからかな……もうちょっと、柔らかい色を混ぜればいいのに、なんて、つい、思考が関係ない方向に流れていく。
 だって、怖いんだもん。
 本当はわかってるよ、この寒さの原因は目の前の王太子殿下だってことは!
 ちょっとくらい現実逃避させて欲しい。何たって、ヘビの前のカエル状態なんだから、私。

 挨拶の席から拉致されてのティータイムは、異様な沈黙の中にあった。本当に静かなの。
 侍女がお茶を替えてくれたりする時にたつ、小さな衣ずれの音や紅茶を注ぐ音くらいしかしない。
 ここにはいない皆も含めて宮中で息を潜めてこの静寂を守ってる感じだ。
 勿論、私から口を開けるはずもないし……そもそも何を言っていいかもわからない。
 目の前の王太子殿下は、拉致して来たわりには自分の思考に没頭しているようで、窓の外を見て押し黙っている。
 したがって、双方無言で、ただお茶を飲んでいた。

 ……今いれてもらってるこれ、三杯目ね。
 
 お茶を入れてくれたのは、勿論、私付の侍女ではなく王太子殿下付の侍女だ。
 王宮の侍女の制服はお揃いの黒のメイドさんドレスに白いエプロン。どこの所属であるかはそのカフスとヘッドドレスのデザインでわかる。といっても、よく見ないと違いがわからないから、詳しい人じゃなきゃ見分けられない。

 王太子殿下付の侍女は異様な沈黙をまったく気にしていない。もしかしたら、慣れているのかも知れない。
 私はさっきからなんか居心地悪いけど。
 これって、お説教よりきくかもしれない。
 ずっと黙ってるのって難しい。あんまりよく知らない人と同じシフトで仕事する時、つい沈黙に耐え切れなくて無駄なことおしゃべりしちゃったり……それで、余計な事言って失敗しちゃったこともある。
 
「……あ」

 新しいお茶を口にして気付いた。さっきと茶葉が変わっていた。
 これ、最初のとはクオリティがまったく違う。
 赤みが強い琥珀色……口に含むとふわりと爽やかな香りが広がる。

「サギヤの初摘みだよ」

 殿下が口を開く。
 驚くほど、静かな声音だった。

「……サギヤ?」
「私の領地の一つだ」

 どうやら、サギヤという地域でとれたファーストフラッシュということらしい。ダージリンにも似てクセがなく飲みやすい。

「……ミルクをやめたのだね」

 問うこともなしにナジェル殿下が問うた。

「はい」

 こくりとうなづく。
 前は、いつもは紅茶にたっぷりのミルクと砂糖をスプーン2杯。あるいは、たっぷりのミルクで煮出してはちみつをいれていた。
 でも、今の私の好みはストレート。こんな良い葉はそのままの味を楽しまなきゃもったいないと思う!

(こんなに香り高い葉だったら、バウンドケーキに使ったら美味しいだろうな……あ、クッキーもいい)

 無言のままに王太子殿下の侍女が、私の目の前に焼きたてのパイを置く。
 フォークをいれた時のさくっという音に嬉しくなり、口に入れてちょっとがっかり。アップルパイだけど、ハチミツで煮たリンゴがちょっと失敗してる。
 ……シナモン入れれば良いのに。あと、煮過ぎ。ドロドロだ。ピューレ状に煮詰めてしまうより、少し形を残そうよ。レモンいれないから色が変色してるんだよ。
 ごめん……うるさくて。でも、王宮の菓子職人なんて、プロ中のプロなのに。
 プロがこの程度でお金もらってたら怒られるよ!……プロってのは、近所の奥さんにはできない技、できない味を提供するからプロなんだよ。
 私のこのアップルパイの評価は50点。
 どうやら、エルゼヴェルトのお城の菓子職人みたいな名人はそうそういるものじゃないらしい。
 
(まあ、えらそうなこと言っても、私もここでプロとして通用するかはわからないんだよね……)

 たぶん、菓子職人としての知識ならかなりのもの。これまで接して来た情報量が違うし、系統立てて学んでいる強みも有るから。
 腕にも自信がないわけじゃないし、舌にはかなり自信がある。
 でも、私が向こうと同じように作れるかといえば……かなり難しいと思う。
 なんでかというと、決定的な違い……調理器具。
 例えば、あちらのように180度で15分間、ムラなく焼き上げられるオーブンなんてこっちにはない。話に聞いた感じ、基本、直火だから。
 ストーブやオーブンがあるらしいけど、薪や炭が燃料なわけで……それらを私がまともに使えるようになるにはそれなりの修練が必要だろう。

 シフォンとかスポンジのケーキ類は難しいだろう。タルトだってどこまで焼けるか……。
 とはいえ、まったく何も出来ないわけじゃない。

(んー、こっちで作れるとしたら、ホットケーキとかドーナッツとかだろうな……あと、クッキーやビスケット……)

 繊細な温度コントロールをそれほど必要としない……あるいは、こちらの器具でも何とかなりそうなお菓子類。最初は無理かもしれないけど、こっちのオーブンの火加減さえつかめれば何とかなりそう。
 
(ああ……プリンとかは結構大丈夫かも。あとは、チョコとかは湯煎だからいけるか……温度はかるものってあるのかな?……待って、待って、もしかしたら、チョコレート自体が存在しないかも……)

 こっちに来て、チョコレート食べてないよ、そういえば。
 ちょっと愕然とした。
 チョコ、好きなのに。
 ……クランキー、バックに一枚必ず入れてるくらい好きだったのに。
 なんか、異世界に来た実感がものすごくした。
 チョコレートで自覚する自分がちょっとあれだけど。

 ……気を取り直そう。

(料理、は結構いけそうだよね。カレーとかおでんとかは喜ばれそうだし……あとシチュー類。デミグラスソースの作り方とか教えてあげたい)

 この間の雉汁でちょっと自信ついたせいもあるけど、料理は直火でもだいたい何とかなりそうだ。何も懐石料理をつくるっていうんじゃなし、煮込みやスープなんかだったら下拵えさえ手を抜かなければ大丈夫。
 基本のブイヨンのとり方や、かつおや昆布のダシをひければ大概は何とかなるし。
 
「……口にあわなかったのか?」

 問われて、そのまま「はい」とうなづいてしまっていいものか迷った。
 それで職人さんが罰を受けたりしたら困る。
 でも、その躊躇いが充分な回答になってしまったらしい。

「精進させよう」

 ごめんなさい、ここの菓子職人さん。
 がんばって勉強してください。

(あれ……?)

 不思議なことに気付いた。
 さっきから、目の前の殿下には恐いとか思わないで普通にしていられる。あのぞくぞくするような恐怖を感じない。ずーっと無言だったせいで居心地はあんまりよくなかったけど。

「何か?」

 ふるふると首を横に振った。
 侍女たちが綺麗に作ってくれた縦巻きロールが揺れる。今日は何本かの小さな縦巻きロールをツインテールにしてドレスと共布のリボンで留めてる。ロールがふわふわするのが可愛い。

「私の記憶にある限り、君が自分から私と目を合わせたのはほとんど初めてのことだね」
「………………………」

 それは、何て言っていいか……。
 えーと、謝った方がいい?でも、何か違うよね。
 思わず目線が泳いだ。

「しばらく見ない間に、随分と人間らしくなったものだ」

 ……この程度で、そこまで言われるんだ。

「話には聞いていたが、自分の目で見るまで信じられなかったがね」

 みんながあれくらいでびっくりするわけだね。

(……これがこの人の素なのかな……) 

 さっきもちょっとだけそんな気がしたけど。
 自分の宮にいるせいでリラックスしているのかな?
 でも、あの胡散臭い笑みがなくて良かったよ!
 何気にちくちく嫌味を言われているような気もしないでもないけど、あの、いかにも何か企んでます的な笑顔に比べれば全然平気。

(きっと、普段はあなたが恐かったんだと思うよ)

 絶対に告げられない言葉を心の中で呟く。
 口に出したら絶対に恐いことになる……それくらいはわかります。ハイ。
 あのね、子供って聡いんだよ。確かに王太子殿下の笑顔はよくデキてるけど……でも、私が怖いとか気持ち悪いとか思うように、気付く子はいると思う。……私が気付いたんだから、きっとアルティリエもそうだったんじゃないかな。確かめようはないけど。

「私は子供は苦手だし、好かれる方ではない自覚もある。だが、君は私の妃だ。慣れてもらわなければ困る」

 ナディル殿下は、いっそ冷ややかに聞こえる口調で言う。
 眼差しは絶対零度の氷の刃。
 これ、ちょっと気の弱い人が言われたら、胸が痛くなるかも。あるいは、その場で土下座して謝りたくなる。
 うん。顔が綺麗なだけに凶悪だ。
 
(この人、これで、一応、歩み寄ってるつもりなんだろうか……)

「聞いているのか?アルティリエ」
 
 苛立ちがやや混じる。
 威圧してるんですか……それ。
 12歳の女の子にはさぞ恐かっただろう。私とは別の意味で。

「……怒らないで下さい」
「怒ってない」
「怒っているように聞こえます」
「怒らせているのは、君だ」
「……怒ってないって言ったのに」

 やや上目遣いに殿下を見る。抗議の眼差しのつもり。
 ……あれ?
 殿下は押し黙っていた。
 ……ねえ、もしかして、耳、赤い?
 えっと……ロリコンって言っていいですか?

「……普通にお話して下さい」

 大きな声や、きつい口調で言われたら、何も言えなくなります。
 ちょっとだけ勇気がわいたので、そう言ってみた。

「これが私の普通だ」

 速攻で返される。

「……じゃあ、頑張って慣れるようにします」

(そうすればきっと苦手意識も薄まるに違いない)

 殿下は不思議そうな顔で私を見る。まるで、初めて見たかのような表情。
 私は、首を傾げる。

「……いや、私も、気をつけよう」

(おお、すごいぞ、私。なんか、このオレ様何様王子様っぽい人から譲歩を引き出したみたい)

 王太子殿下、もしかして意外に素直なのかな?
 ごめんなさい、ちょっと偏見持ちすぎてたかも。



 その後は、お互い、特に何かをしゃべることはなかった。。
 でも、最初の頃のような居心地の悪さはもうなく……二人でぼんやりと庭を眺めていた。
 冬咲きの白薔薇が綺麗だった。
 不思議だったけど、もう無言でいても気にならなかった。
 五杯も紅茶を飲んだから、お昼を食べられなくてリリアに注意された。




 翌朝のモーニング・ティは、サギヤの初積みのストレート。王太子殿下からの贈り物です、とアリスが教えてくれた。


 
 2009.05.17 初出






[8528] 14
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/19 07:57
 14


「よし」

 その日、私は朝から気合が入っていた。
 家捜しをすることにしたのだ。家捜しというか……自分の部屋の捜索。
 とりあえず、身の回りから調べよう!みたいな。
 なんでかというと、リリアいわく、アルティリエは日記をつけていたそうだ。日記……すごく役立ちそうだよ。
 アルティリエが何を見て、何を考えていたかを理解する助けになるに違いない!

 でも、目につくところにはなかったの。
 ライティングデスクの本棚や引出し……鏡台やベッドサイドの小箪笥とかにも。アルティリエが何か隠そうとしたら、基本は、この三つだと思ったの。他の場所は頻繁に侍女達の手が入るから。
 お姫様には、基本的にプライバシーってないんだよ。
 
「どうしたんですか?そんな格好で」

 今日の私は簡素なエプロンドレス姿。不思議の国のアリスをイメージしてくれればいい。探せばあるんだよ、こういうシンプルな服も。
 いつもよりレースとフリルが七割減ですっきりしてて動きやすい。でも、豪華なレースとか本物の宝石縫い付けてあったりする服は身分の高さと権威の象徴でもあるから、簡素すぎるとこうして不思議に思われる。

「ちょっと書斎を片付けようと思って」

 大掃除のつもりだからいいよね。これでも。
 最初、私が隠し場所と思ったのは、ベットまわり。私、よくベッドの下にいろいろ隠していたから。
 でも、豪華なお姫様ベッドの下にも中にもなかったの。よく考えれば、毎日のようにシーツとか替えられているし、掃除もされているから隠すには不向きなんだけど。

 次に目星をつけたのは書斎だ。
 書斎っといっても、ちょっとしたミニ図書館並の蔵書を誇る。
 かつての私が最も多く時間を過ごした場所であり、その私が唯一自分の意志を反映させていた場所。リリアが覚えている限り、何かを欲しいとほとんど望んだことがない私が希望を口にした事あるのが『本』なんだそう。
 本棚を見れば、その人のことは結構わかる。……私の住んでいた部屋の本棚は、フランス語の辞書と料理関係の洋書と自分がちょっとだけ監修に携わったお菓子本と……仕事に関する本ばっかりだったと思う。
 時々買ってたのは旅行雑誌で、好きな小説の類は全部図書館で借りてた。最近の図書館は曜日によるけど、夜もやっていたりして便利だった。

(そういえば、誰が私の荷物の処分とかしてくれたんだろう?……ああ、そもそもお葬式か)

 両親は既に亡く、兄弟姉妹はいない。反対されて結婚したという両親なので親族らしい親族もなかった。結婚考えるほど深いつきあいの人も今はいなかったし、仲の良い友人や仕事関係の知人達はいたけれど……そんなとこまではちょっと頼めないというか、申し訳ない。

(もし、と考えるなら、匂坂先輩夫婦かな……あ、でも、こういうのって会社がやってくれるのかな?)

 よく考えると天涯孤独みたいな身の上なんだから、もうちょっと考えておくべきだった。遺言残すなり何なりして。
 こんなことになるとは思わなかったからな。
 親しくしていたいろいろな人の顔が思い浮かぶ……もう会えない人たち。
 それから、好きだった二つの職場とオーブンが自慢の自分の台所を思い出し、北海道の……生まれ育った家を思いだした。……もう帰れない場所だった。
 ずっと、現状を把握しよう、ここに慣れようと思ってて、あちらのことをゆっくり思い出す暇もなかったけど、なんか……ちょっと気持ちが翳った。

「どうかされましたか?妃殿下」
「ううん……綺麗に整理されているのね、ここ」

 リリアの声に気を取り直す。

「妃殿下は汚したり、散らかしたりということをしませんでしたので」

 この書斎の本は、ジャンルで分類されている。いろいろな大きさの本があるから雑然としているようなんだけど、ちゃんと整理がされている。
 ちゃんと蔵書簿があるの。アルティリエが作ったんだって……半分以上、読んだ本なんだよ。

「……自画自賛になるかもしれないけど、これだけ読むのって凄いよね」
「勿論です。でも、妃殿下は隠しておられたので」
「え?どうして」
「妃殿下に求められている学問レベルをはるかに上回ってますから……教養レベルじゃないんです、あそこらへん」

 リリアは裏側の奥の棚をさす。

「教養レベルじゃないって?」
「大学の学生たちが読むような本なんです」
「……………………………そんなに頭良いの?」
「教授は将来の大学の入学を考えるよう薦めてらっしゃいました。このまま学習すれば入学も可能だと」
「……ごめん、たぶん、今は無理」

 知識はどっかに眠っているんだろうけど、本格的に試験とかは無理だろう。それに、私が10年以上前に卒業したのは、私立の家政科だから!政治も経済もまったく無縁だし!

「大丈夫ですよ。妃殿下がそこまで勉強していたことをご存知だったのは教授だけです。他は誰もご存知ありません」
「王太子殿下も?」
「殿下はこちらの書斎に入ったことはございませんし……教授も内緒にしておいて下さるとおっしゃっておりました」
「でも、本を買った記録とか……」

 あの王太子殿下は見てるよ、そういうの。

「あそこらへんの本の大半は妃殿下ご自身が写本したものですから……」
「……写本ってことは原本があるんでしょう?」

 だったら、そこからバレるんじゃないかな。

「教授からお借りして写しました……これも、教授は殿下にご報告はしていないはずです」
「なぜ?」
「…………妃殿下がそこまでの学問を究められるのは望ましくないからです」
「…………誰にとって?」
「ほとんどの皆にとって」

 その言葉にはいろいろな含みがある。
 まあね、こちらでの女性の役目はまず第一に子供を産むことだもんね。身分の高い家に生まれたなら尚更の事。
 血をつなぐこと……ひいては、家を守ること。それが最大の役割。
 男性にとって、我が子の母として恥ずかしくない程度に聡明であれば良いのだ。へたに知識があって、差し出口を挟まれたら困るだろう。

「……リリアは何で知ってるの?アリスやジュリアやミレディも知ってるのかしら?」
「いいえ。知っていたのは私とエルルーシアだけです」
「エルルーシア……どうして?」
「写本とかをお手伝いしていたんです。多少ですが、旧語や古語がわかりましたし……あの子達はそちらの読み書きはあまり。エルルーシアは、従兄弟が図書寮にいて……いろいろ教えてもらって製本してたんです」
「そう」

 意外な特技があったんだ。
 それにしても、勉強しているのも隠さなきゃいけなかったんだ。大変だなぁ。
 
「そういえば、三人は何してるの?」
「繕い物とお衣装の確認を……大丈夫ですよ、あの子達の大好きな仕事ですから」
「そうなの?」
「ええ。お衣装のことになると何時間でもやってますよ、あの子達」
「……全面的に任せるから」

 好みがないわけじゃないけど、その情熱にはかなわない気がする。
 本当によく似合うもの選んでくれるもの、あの子達。

「……このあたりは物語?」
「はい。小説がほとんどですね……流行りのものとか、あと恋愛小説とか……妃殿下が本をお好きなのは有名なのでご実家から定期的に届けられてきております」
「へえ……」

 糸で中綴じの薄っぺらいものがほとんど。紙質もそんなによくない。でも、冊数がすごい。これ、雑誌みたいなものなんだろう。
 印刷技術はそれほど発達していないんだと思うんだけど、これって活字組んでるのかな?それとも、江戸時代みたいに木とかに彫ってるのかな?とりあえず手書きではないようだ。
 
「姫さまがお好きだったのは、これですね」

 リリアが手にしていた冊子は水色の表紙に『空の瞳』とある。

「好み、知ってるんだ……」
「何度も読んでらっしゃいましたから……ですから、ご実家にも申し上げてこのシリーズは全部届けさせておりました」
「ふーん。何冊くらいあるの?」
「確か今は50冊くらい出てると思います」
「………………え、完結してないんだ?」
「波乱万丈のロマンス小説ですから」
「どういう話……?」
「統一帝国の皇子の幼馴染であった貧乏貴族の姫君が異国に流されて、その国の王と紆余曲折の末に結ばれながらも、他国に囚われて戦争に巻き込まれたり、奴隷として売られて砂漠の王の後宮にいれられたりする物語ですわ」

 ……何となくわかったかも。
 フランスの作家の書いたアンジェリークみたいなやつ。文庫本で二十冊を越えるあの歴史大河ロマンの傑作!私はフランスにいた時に年末の映画特集でテレビで見たけど。

「これ、もう一度読んでみる」
「では、そちらに置いておきますね」

 暇な時に長椅子でごろごろしながら読もう。
 『空の瞳』の函を抜いたら、抜けた棚の裏板に薄い冊子がくっついていた。もしや、隠していた何かを発見した?!とか思ったけど、『空の瞳』の外伝と書いてあった。函から抜けてただけらしいので、適当に函につっこんでおいた。

「あ、あった、日記」

 一番下の段の隅っこ。何冊かまとまってある。
 やった!今度こそ何か手がかりが!と思ったんだけど……。

「どうしました?」
「…………………ううん、何でもない」

 ……役に立たなかった。
 これまでのいろいろな事実から察するべきだったかもしれない……その無味乾燥な記述に泣きたくなった。

 例としてある日の日記を抜粋してみよう。

 ○月△日 晴れ
 7:00 起床
 8:00 朝食
 9:00 拝謁
 10:00 学習(歴史)
 12:30 昼食(マナー)
 14:00 学習(ダンス・法律)
 17:00 刺繍
 19:00 夕食
 20:00 就寝
 王太子殿下に贈るハンカチの刺繍をアーリエ夫人に教わった。
 歴史 クロイツァ平原の戦いの章
 ダンス ワルツ
 法律 成文法について

 といった具合にその日の行動と学習記録と何か一言が添えられているだけ。
 普通、日記って誰にも言えない想いを綴ったりとか……そういうものだと思ってたんだけど。これではただの行動記録だ。
 アリティリエの学んだ記録や何をしたかがわかるので、それを辿ることができて便利は便利だった。外出したこととかも書いてあるみたいだし。

(でも、ちょっと……)

 
 それから、一緒に学習ノートが並んでいた。
 これがよくできてるの。ちょっとした参考書並だ。これで後でこっそり勉強しようと思う。
 綺麗な青インクの文字はとても丁寧で、ちょっと丸みを帯びているのが女の子らしかった。

「……あ」 

 学習ノートの棚の間……ノートを取り出したときに一緒に滑り落ちた紙の束。

(何だろう?)

 色褪せた青い紐で結ばれたカードの束。封筒も全部とってある。
 それは全部、王太子殿下からのカードだった。
 別にとりたてて特別なことが書いてあるわけじゃない。
 贈り物に添えられていたものなのだろう。「誕生日おめでとう」とか「アルジュナの土産だ」とか……ほんと、走り書きの一言だけ。
 ……一番古いのが八年前のもの。最新のものが三ヶ月前。

(なんだ……)

 ちょっと嬉しくなって笑った。
 儀礼の範囲なのかもしれないけど、何もないわけじゃないじゃない。
 青インクで書かれた文字は、走り書きだけど読みやすい。
 たぶん、直筆なんだろうと思った。代筆ならもうちょっと何か書くだろう。
 そっと、その文字を指で辿る。
 アルティリエもカードくらい返したんだろうか?

(この間の紅茶のお返ししようかな)

 すぐにお礼のカードは書いたけれど、ここは一つ、お菓子でも作ろうか。

(んー……失敗ないようにするなら、クッキーかな)

 プレーンなバター味と、大人のレーズン入りと、いただいた紅茶味。
 たくさんつくって、お茶の時間に皆で少しづつ食べてもいい。
 うん、そうしよう。
 お菓子を作ろうと思ったら、向こうを思い出してもやもやしていた気持ちがふわっと軽くなった。お菓子って気持ちを明るくする効果があると思う。
 
「リリア」
「はい?」
「クッキー作るから、台所借りて」
「…………………失礼ですが、作れるんですか?」
「……たぶん」
「…………………わかりました」

 やや疑いの眼差し。でも、雉汁のことを思い出したのかもしれない。
 案外あっさり了解してくれたと思ったら、お菓子作りは貴族の女性の趣味としてはそんなに問題あるものでもないんだって。台所に入るのはダメだから、焼くのは料理人に任せなきゃいけないけど。




 ……居間のテーブルで作業する事になるとは思わなかったよ。台所ってそんな危険地帯だと見なされてるんだ。
 焼きあがったら、後片付けをしてくれた侍女達にもちゃんとプレゼントしよう。



 2008.05.19


******************************


 次回は閑話。別視点から。
 今週は、出張あるのでちょっと更新が不定期です。



[8528] 閑話 女官と大司教
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/26 20:47
 閑話 侍女と大司教






 私は神に祈らない。
 神など何処にもいない。
 ただ―――――罪だけが此処にある。







 夕暮れの残光が、石造りの床に影を落とす。
 聖堂というところはどういうわけかきまって薄暗い。昼間はもちろんのこと、夜ともなれば真の暗闇に閉ざされる。
 母女神を光と称えるはずの聖堂が闇を内包する……かつて、私はその闇に怯える子供でしかなかった。
だが、今では私もその闇の住人だ。
 金糸銀糸が縫い取られた重い聖衣をまとい、女神の薔薇香をふりまき、民を安寧に導く……そうなって初めて気付いた。
 昏いからこそ、母女神の導きの光がいっそう輝く事を。
 闇の中にあるからこそ、あんなにも美しく見える事を。
 なるほど、聖堂は地上における神の家。効果的に印象付けるための工夫が幾つも施されている。
 人の心をいかにして導くか……私はそれをこの闇の中で覚えたのだ。

(でも、この寒さだけはいつまでたっても慣れないな……)

 薄暗い事も天井が高い事も、物音が響く事もさほど気にはしないが、この芯から凍りつきそうな寒さだけはどうにも我慢ならなかった。
 建物が石で作られているせいもあるが、聖堂であるがゆえの天井の高さも無視できない。
 何よりもここは王太子宮に附随した聖堂で、利用者はほとんどいない。その為、まったく火の気がないのが寒さの一番の原因だろう。

「……殿下……いえ、倪下」

 密やかな声で呼びかけられる。
 待ち人来たりて……私は、小さく笑みを浮かべて顔をあげる。

「リリア」
「大変、おまたせいたしました」
「いや、大丈夫だ」

 久しぶりに会った乳姉妹は、以前よりもずっと快活そうに見える。

「……今回はお忍びでございますか?」
「そういうわけでもない。ただ、こちらに来たからと言ってすぐに父上や母上の顔を見る気にもなれなくてね」

 君も知ってのとおり、私は母上が苦手だから。
 そう私が言うと、リリアは困ったような表情を浮かべる。

「今の時間はお忍びということにしておいてくれ。……今の私はジュリアス最高枢機卿の使者に過ぎないから」

 内緒だ、とそっと唇に指をあてるとリリアは小さくうなづく。
 とはいえ、私が王宮に入ったことは兄上には伝わっているに違いない。
 門を通ってここに入った以上、父と母の目を盗む事ができたとしても兄上の目を盗む事はできないだろう。
 王宮に足を踏み入れることに問題があるわけではない。すでに王室を離れたとはいえ、私が王子である事実には変わりがない。
 私は、王子の持つ特権……世俗のそれ……を手離し、代わりに聖なる特権を手に入れた。どちらがいいと一概には言えない。
 大司教――――私の年齢を考えたら信じられないほどの地位だ。結局のところ、聖なる教会であっても俗世と切り離すことはできない。
 望んで聖職者と呼ばれるようにはなったが、私はまだ神を信じていない。

「お元気そうで何よりです。もっとよくお顔を見せて下さい。ちゃんと食事はとっていますか?好き嫌いをされていませんか?」
「相変らずだな、リリアは」

 私よりたった二ヶ月早いだけなのに、リリアは幼いころからまるで姉のように私に接した。
 実姉のアリエノールよりも、リリアのほうがずっと私の世話を焼いてくれたものだ。

「三年ぶりでございますもの」
「……前はギヒニアに行くまえだったっけ?」
「はい」

 物心ついてから私が神学校に入学するまで、私達はいつも一緒だった。
 離れることなど思いもよらなかった……私の乳母であり、リリアの母であるハートレー子爵夫人が亡くなるまでは。

「ギッティスへの移動、おめでとうございます」
「ありがとう」

 王都アル・グレアを含むこのギッティス教区の大司教とならなければ、私は今も北部の地方都市にいただろう。
 私の年齢で大司教位を得るのは極めて異例の事だが、これまでは教区が地方の辺境に近いような都市であり、私が第一王妃の産んだ王の子であることから表立って反対をするような人間がいなかった。
 だが、教区がギッティスとなるとこれまでのようにはいくまい。
 ギッティス教区の大司教は別名を『王都大司教』。へたな枢機卿よりもよほど大きな権力をもつ。

「……兄上のご意向だろうけどね」

 私がただ兄上と呼んだ場合、それは王太子である長兄を意味する。二番目の兄はアルと名前で呼ぶからだ。
 私の教区の異動に関して、兄上の意思が働いているだろうことを私は疑わない。
 アルは兄上を『死人すらコキ使う』と表したが、それは正しい。兄上は、いい加減、私が北部で逼塞して引きこもりをやっていることに痺れを切らしたのだろう。
 兄上は怠惰を嫌う。手抜きやサボりを許さない人なのだ。
 そして、近しい人間に対するほど厳しい。

「信頼されているのですわ」
「どうだろうな……信じてもらってはいると思うけれど、頼られているとは……ちょっと思えないねぇ……」
「それは仕方ありません。シオン様はわがままな駄々っ子ですもの」
「末っ子だからね」

 私には異母弟妹がいるが、彼らのことはよく知らない。ほとんど接しないうちに教会に入ったので彼らの兄だと言う自覚がなく、いつまでも自分が末っ子のつもりでいる。

「……ところで、それは何?」

 先ほどからリリアの持っている籠が気になっていた。

「ああ、これは、妃殿下が……」
「妃殿下……?アルティリエ姫?」
「はい。御前を失礼する許可をいただく時に、シオン様とお会いする事を申し上げましたので……そうしたら、これを」
「何だい?それ」
「…………おやつです」
「……は?」
「おやつですわ。最近、妃殿下はお菓子を作ることにご興味をお持ちなので」
「へえ……食べられるの?」

 お菓子つくりを趣味とする貴婦人は少なくはない。それと、食べれるものができるかは別の話だ。
 まあ、概ね食べれるものは、作っていると思い込んでいる当人の目を盗んで、菓子職人か料理人がすりかえていることが多い。

「召し上がってみてくださいませ。シオン様でしたら、即座に妃殿下に求婚したくなりますよ」

 くすくすとリリアが笑う。
 私が甘い菓子を今でも好む事を知っているからだ。
 幼い頃、私は大好きなリンゴのプディングを作る菓子職人と結婚するのだと言って駄々をこねた事がある。結婚すれば毎日リンゴのプディングが食べられると思っていたのだ。
 リリアは、信徒席の上に深いグリーンのストライプの布を広げ、籠の中身をだす。

「どうぞ」

 渡されたカップからは湯気が立ち上った。

「温かい」

 ちょっと驚いた。来る直前にいれたとしても、ここまでこの暖かさを保てる事が。

「これです。この布の中に軍で使ってる水筒の大きいものが入っているんです」
「へえ……」
「冷めにくいようにと妃殿下がカバーを作られて……」

 軍の水筒は飾り気のない金属製だ。そのままでは熱くて持てない。冬ともなると布で包んで、湯たんぽがわりに使うこともある。
 しげしげとそのカバーを見る。中に分厚く綿をいれ、水筒にぴったりな袋状。今度、教会でも作らせてみよう。

「……おいしい。これは何?」

 紅茶をアレンジした飲み物だということはわかった。
 ほんのりと甘く、紅茶とミルクの味がとても強い。そこにシナモンと何か香ばしい風味が添えられている。

「妃殿下は『チャイ』と言われました。古い文献で見つけた飲み物でダーディニア風にアレンジしたとか……殿下は古い文献のお料理などをよくご存知なのです」
「へえ……」

 身体が芯から温まる飲み物だった。紅茶の味を消さないシナモンやおそらくはちみつだろうほのかな甘味が絶妙だ。それにまったくミルク臭くない。

「こちらは、クッキーとパンケーキサンドです」
「パンケーキサンド?」
「パンケーキを小さめに焼いて、クリームを挟んでいるんです」

 薄い蝋紙にくるんだ、パンケーキサンドを受け取る。
 綺麗に丸く焼かれたパンケーキの間に何か黄色いクリームがはさまっている。
 私は薦められるままに口にした。
 王室に生まれ、大司教の高位にある今も毒物には注意を払わねばならない身の上ではあるが、リリアが薦めるものに間違いがあるはずがなかった。

「おいしい」

 素直にその言葉がこぼれる。
 卵とミルクの味がするクリームは、ちょっとだけリキュールがたらしてある。それが、アクセントになっていて、この菓子を特別なものにしている。

「クリームの味が違うんです」
「うん。……なるほど、これはちょっとすごいな。確かに、求婚したくなるね」

 この味が毎日食べられるなら、私も結婚を考えてもいい。
 国教会の高位聖職者は、修道の誓いをたてている独身主義者が多いが、別に婚姻は禁じられていない。ルティア聖教において、婚姻は聖なるもの。母女神の祝福なのだ。
 ただし、司教以上の高位聖職者の子供は親が聖職にある限り叙階を許されないという決まりがある。つまり、高位聖職者の子供は聖職者にはなれない。世襲を許さない仕組みだ。

「兄上にはもったいない」

 心底そう思う。兄上は味オンチではないが食べ物にさほど関心がある人ではない。きっと、この素晴らしさがわからないだろう。
 ……何しろ、三食とも軍の携帯糧食でもいいという人だ。事実、晩餐会でもなければ、携帯糧食と水で食事を済ませてしまう人なのだ。

「だから申し上げたじゃないですか、シオンさまが求婚したくなるような味だって」
「本当にね」

 よくよく味わうと、生地にも何か工夫があるようで、香ばしい味がしている。

「見た目は一緒ですけど、味は三種類あるそうですよ。それは後程確かめてくださいね」
「楽しみだね」

 カップに注がれる飲み物。リリアもおかわりを口にする。

「こちらのクッキーも今召し上がります?」
「一枚だけ」

 大き目に焼かれたクッキーを手にすると、なんだか、頬がゆるんだ。
 甘いものを食べると心がほっとする。だからこそ、私は菓子が好きなのかもしれない。

「何だい?」
「いえ……そんなお顔を久しぶりに拝見したと思いまして」
「仕方ないだろう。……好きなんだ、甘いもの」

 大人になれば味覚は変わるといわれたが、甘いものを好む嗜好は変わらなかった。
 教会への喜捨物に砂糖が多いのもそれに拍車をかけたかもしれない。
 これまで幾つかの聖堂に赴任したがどこの聖堂でも、修道女や修道士達が喜捨された砂糖を使って独自の菓子やらジャムやらを作って売っていたので菓子に不自由したことがなかった。
 幼い頃は甘いだけで喜んでいたものだが、今ではいろいろな味を知ったせいかちょっとうるさくなったかもしれない。
 手にしたクッキーは、見た目は、どこぞの農家で軽食代わりとして焼かれるような素朴なクッキーとそうかわらない。

(あ……)

 だが、口にした瞬間、それがまったく別物なのだとわかった。

「……本当にもったいない」

 思わず溜息をついてしまう。
 何種類ものシリアルやナッツに干しぶどうが入っているそれはいかにも腹持ちが良さそうだ。
 クッキーにしてはずっしりと重い。クッキー部分はさっくりとシリアルはぱりっと焼けていて、ナッツ類の香ばしさと干しブドウの甘味が絶妙だった。

「リリアも食べなよ」
「いえ、私はもう……作っている時にたくさんいただきましたので。……クッキーは一週間くらい。パンケーキは明日くらいまではおいしくいただけるそうなので、残りはお持ちくださいね」
「ありがたく」
「……どなかに差し上げる時は妃殿下のお手製ということは内緒にして下さい。これを作るのに台所に入られているんです」
「ああ……兄上にバレたら怒られそうだね」
「はい。……それに、台所にいる時の格好を知られたら……」

 リリアの視線が泳いだ。

「何?そんなかわった格好をしているの?だいたい、よく、王太子宮の料理人が台所にいれたね」

 王太子妃宮の厨房は、私がまだ王宮にいる時に騒ぎがあって閉ざされたはずだ。
 兄上が携帯糧食でほとんどの食事を済ませるような人なので王太子宮の料理人の数は少ないだろうが、それでも姫を台所にいれるのは難しいだろう。

「料理長は妃殿下の新しい侍女だと思ってます。……台所の洗い物をしている下働きの少女と同じ格好でしたし……」
「それは……まずいねぇ・……」
「わかってます。今回だけに決まってるじゃないですか。……何かあったらただじゃすみませんもの」

 リリアは胃が痛みます、と溜息をつく。
 兄上が知ったらきっと怒るに違いない。あの人は、変なところで過保護だ。
 先日、アルにボヤかれたが、姫がエルゼヴェルト領に里帰りしていた時はそりゃあ大変だったらしい。墜落事故や意識不明や毒殺未遂やらの情報が錯綜していたのだから気が気ではないのはわかるが、その怒気のおそろしさに誰も何も言えなかったそうだ。
 兄上は姫に対して特別な関心はないのだが、不憫な子供だとは思っていて、自分が保護することを決めている。その相手が傷つけられたら、きっとただではすまないだろう。
 けろっとして無傷で帰ってきた姫を危うく怒鳴りつけるところだったらしいが、鉄壁の猫かぶりで事なきを得たらしい。12歳の女の子が、兄上に怒鳴りつけられたら絶対にトラウマになる。賭けてもいい。

「うまくやっているのだね……」

 私は苦笑する。その中に淋しさが混じっていることは秘密だ。
 リリアが私の絶対の味方であることを知ってはいても、こうして子供みたいな独占欲を覚える。

「勿論です……と、言いたいところですが、妃殿下が記憶をなくされなければ今のようにはならなかったでしょう。ご記憶をなくしたせいで妃殿下は随分と明るくなられましたので」
「良いというべきか、悪いというべきか……」

 私達は会えなくなった分を手紙で埋めているから、おおまかな事情くらいは知っていた。
 そもそも、アルティリエ姫が人形のようになってしまった理由を、私は薄々察していた。確証はなかったが……。
 だからこそ、私はリリアを王太子妃宮へと送り込んだのだ。
 私は、誰にも何も言えなかった―――――言えぬまま王宮を逃げ出した私には、できることはほとんどなかった。
 何も言わずとも私の望みを叶えてくれる者は、リリアしかいなかった。

「姫を頼むよ、リリア。……もし、彼女に何かあったら、ダーディニアは内乱になる」
「承知しております」

 リリアは深々とうなづく。
 それは、大げさなことではなかった。
 アルティリエ姫こそがエルゼヴェルトの暫定相続者であることはほぼ確定している。
 王位は男児優先相続であるが、それ以外の爵位は一部の例外をのぞき男女を問わないことが多い。姫が二人子供を産めば、必ずどちらかはエルゼヴェルト公爵位を継ぐことができる。
 逆を返して言えば、姫が子供を産まなかったら公爵位は宙に浮く。

「今がどんなに危険な状態か……理解している人間がどれだけいるだろうね」

 東のエルゼヴェルト、西のフェルディス、北のグラーシェス、南のアルハン、……四大公爵家とか四公家と呼ばれるこれらの家は、それぞれがダーディニアの四方……各方面の地方諸侯をまとめた連合の盟主でもある。
 公爵家の世継ぎ問題は、エルゼヴェルトという一つの家、一つの一族の問題ではない。
 国家の枠組みで考えた時、エルゼヴェルトは東部の盟主であり、王家に対して考えた時、四公爵家の一角である……二重の要なのだ。
 王家はアルティリエ姫の子供を通じてエルゼヴェルトと王家とを密接に結びつける事は望むが、エルゼヴェルトを王室領として併合するわけにはいかない理由がここにある。

「一番危険なのは当代エルゼヴェルト公爵が亡くなり、妃殿下がまだ子供を産んでいないという状態が出現した時ですから、まだマシですよ」
「あんまりうれしくない指摘、ありがとう」

 実を言えば私は、アルティリエ姫と兄上が離婚して、姫がエルゼヴェルトの世継ぎとなることが一番だと思っている。……あの男のせいで、父上が絶対にそれを許さないが。

「……変な話ですが、もし、今、妃殿下がお亡くなりになるようなことがあったら、誰が相続人になるんですか?」
「純粋に国法に沿うなら、エルゼヴェルト公爵の実弟妹となる。が。知ってのとおり国内に残った公爵の実弟妹は亡くなっていて嫡出子もいなかった。庶子ならばラザス大司教がおられるが、あの方は学術肌であるし、そもそもが庶子だから相続権がない。
 そうすると、もう一代遡った公爵の実弟妹が対象となる。彼らは既に亡くなっているからその子供だね。……で、そうなると、父上と当代グラーシェス公爵と先代フェルディス公爵が対象になるんだ。勿論、この三者はそれぞれ継いでいる家があるから公爵位は継げない。だが、その嫡出子には等しく全員に権利がある。私が内乱になるというのは、そのせい」

 等しくというところが問題だ。等しい為に互いに争う。しかも、そこまで遡ると対象が多くなりすぎる。
 自分が継げぬことは我慢できても、他者がそれを手に入れることは許せないのが人の心というものだ。

「…………決着つかないでしょうね」
「だろうね。……これが他の貴族なら、家を潰して爵位を返上。領土や資産を三分割というのもありだけど、四公爵家にそれはできない。……だから、もし、今、アルティリエ姫が亡くなることがあったら、公爵は自分の意志がどうあれ離婚して子供を作るしかないね」

 そして、子供ができぬまま公爵が死ねば再び内乱コース一直線だ。
 リリアは私が何を示唆したかわかっていたので、何も言わなかった。

「……だから私はあの男が最低だっていうのだ。皆、彼を有能だというけれど、あの男はそもそも最低限の義務を果たしていない」

 世継ぎを作るのは貴族に生まれた男の最低限の義務だ。その為に、冷静に考えれば非人道的なことをどこの家だってさんざんしてきているし、そんな話はどこにだってある。
 伯母上の話が有名なのは、伯母上が世継ぎを産める身でありながら、ないがしろにされたからだ。

「私はね、リリア。エルゼヴェルト公爵が伯母上……エフィニア王女を悲嘆のうちに死なせたことはどうでもいいんだ。私は兄上達と違って伯母上の事をよく知らないから。
 ……だってさ、ちょっと考えてみるといい。あの話は伯母上の立場から見るから最低に見えるのであって、ルシエラの側から見たら、どんな困難をも乗り越えて絶対の愛を誓ってくれた最高の男ということになるんだよ」

 一族の反対、社会の反対をものともせずに、身分の差を乗り越えて妻にまでしてくれたのだ。まるで、流行の恋愛小説を地でゆく。

「それこそ女性向け流行小説の世界だ。……だが、私はそんなことはどうでもいい。所詮、私事にすぎない。だが、あの男は、ただ一人の女の為に国を内乱に導く種をまいた。あの男が私事を優先して最低限の公人としての義務を果たさなかったせいで、今のこの状態があるのだ。せいぜい、あの男には長生きしてもらわねばなるまいよ。せめて、姫が二人の子供を産むまでね」

 惚れたの何のと言うのなら、義務を果たしてからにするべきだろう。

「でも、私にとって一番腹だたしいのは、姫にとって一番の危険が、そういった理屈をまったく無視したところにあることだ……」

 そう。
 ……たぶん、私以外は誰も知らぬ危険。
 姫は確かに狙われている。
 例えば、他国からの……帝国あたりの刺客もいるかもしれないし、エルゼヴェルトの継承をめぐって四公爵家の他の家から狙われているかもしれない。
 だが、一番危険なのは、それらではないのだと断言できる。
 本当は兄上に話すことさえできれば問題の大半が解決するに違いない。
 けれど、私は兄上にすらそれを言えない。
 恐ろしいからだ。
 口に出して、それを真実にしてしまうのが恐ろしい。

「シオンさま」

 何かを決意したようにリリアが私を呼んだ。

「何だい、リリア」

 私は微笑を浮かべる。聖職についてから、常に浮かべるようになった微笑み。
 それが母によく似ていることに気付いた時は、吐き気を覚えた。

「エルルーシアが死んだ毒は、母と同じものでしたわ……」

 リリアが呟くように告げる。
 手紙に書かれることのなかったその事実。

「そう……」

(やはり……)

「……まだ、お話、いただけませんか?」
「……………ごめん」

 王宮に在る闇……その奥底で蠢く昏きもの。
 私はそれを知っているが理解してはおらず、誰がそれを理解しているのかを知らない。
 もしかしたら誰にも理解できないのかもしれない。
 ただ、罪はそこに在り、それは、告発できぬ私の罪でもある。

「……いいですわ」

 見捨てられたような気がして思わず顔をあげるとリリアはわらっていた。

「無理して聞き出したりはしません。シオン様が私にお話になれないのには、なれないだけの理由があるのでしょうから。……お気になさらないで下さい」

 リリアの笑みに安堵し、すぐに不安がおそった。こんなにあっさりと諦めるのはいかにもリリアらしくない。

「リリア、危険なことは……」
「致しませんわ。……ただ、私は妃殿下をお助けするだけです。その結果、真相にたどり着くことがあるのかもしれません」
「……何をするつもりだ?わかっているだろう?どこで誰に見られているのかわからないんだ」
「危ない事はいたしません」
「危ないかどうかを判断するのは君ではない。そして……」
「そして……何です?」

 強い目線に促されて、私は口にする。
 私はリリアにかなわない。

「……アルティリエ姫にこれ以上近づいてはいけない」

 リリアは答えない。答えない代わりに笑みを見せる。

「リリア、本当に危険なんだ!」
「矛盾しておりますわ、シオンさま。妃殿下をお守りせよと最初におっしゃったのはシオン様です。なのに、これ以上は近づくななどと……私は妃殿下の女官ですよ」
「矛盾しているのはわかっている。わかっているんだ……だけど……」

 リリアが駄々をこねた子供を宥めるような眼差しを私に向ける。

「シオン様、私はシオン様の乳姉妹ですわ」
「わかっている」
「でも、アルティリエ妃殿下の女官ですの」
「リリア……」
「シオン様を大切に思う気持ちは変わりません。ずっと思いつづけるでしょう……乳姉妹ですもの」
「だったら……」

 リリアは綺麗に笑う。そして、首を横に振って私の言葉を遮った。

「今、私のお仕えしている主はアルティリエ妃殿下なのですわ……シオン様」
 
 私はいつものように笑った。うまく笑えたかはわからない。

「……私は君に見捨てられたのかな、リリア」
「いいえ、シオン様」
「だったら、どうして……」
「私はずっとシオン様の味方ですわ。できる限りのことをしてさしあげたいと思っております。……でも、優先するのは妃殿下です」
「なぜ?」
「シオン様よりも、妃殿下の方が危なっかしいので」

 その回答にちょっとだけ気が抜けた。

「危なっかしいのかい?」
「はい。……記憶をなくしたせいで、何が危険かそうでないかわかっておられません。それに、妙な行動力もおありで」
「妙な行動力……」

 私は心底困っている様子のリリアに、つい笑ってしまった。

「笑い事ではありません。危険には近づかないと約束して下さいましたし、12歳とは思えぬ落ち着きと思慮と分別をお持ちですが、どうにも危なっかしいんです」
「……姫は、随分と変わったのだね」

 人形姫と呼ばれてた姫がそんな風に言われるようになるとは、何とも不思議なことだった。
 リリアが影ながら人形となってしまった姫に心を配っていた事を知っている私としては、報われて良かったと思うべきかもしれない。

「はい。……でも、本当は変わったのでも何でもないのかもしれません」
「どういうこと?」
「記憶を失ったせいで、単に妃殿下を縛っていた枷がなくなっただけ……今の状態が妃殿下の素の状態とも考えられます」
「なるほど、戻っただけってことか」
「今となってはもう、そんなことはあまり関係ないのです。……妃殿下は妃殿下ですから」

 そして、リリアは笑って付け加えた。

「……シオン様が、王子であろうとも、大司教であろうともシオン様であるように」
「リリア……」

 私はリリアを失ったわけではないことに安堵する。
 己の単純さが愚かしく、そして愛しい。
 リリアにそう言ってもらえる限り、私は私を見捨てないでいられるだろう。
 ―――― 時に、吐き気がするほどの嫌悪を覚えたとしても。

「私、そろそろ戻ります。シオン様は、王太子殿下の元に行かれるんですよね?」
「ああ」

 リリアは手早く片付けを済ませると、私にお菓子の包みを押し付けた。私はそれを聖衣の懐にしまう。白地に金糸銀糸で聖句や母女神の紋を縫いとったゆったりとした衣には物を隠す場所がいっぱいある。

「先に参ります」
「うん」

 私とリリアが王太子宮のこの小さな聖堂で会っていたとしても不思議に思う人間はいない。
 だが、今日は父上と母上のところに挨拶に行くつもりがなかったので、リリアと会った事がわかるとリリアの立場が良くないことになるだろう。

「…………そうそう、シオン様、ダメですよ。こんな誘導に簡単にひっかかっては」

 聖堂の入り口で立ち止まったリリアが振り返る。

「え?」
「今のこの時期、王太子殿下の元にジュリアス最高枢機卿殿下からの使者で新任のヴィッティス大司教がいらっしゃるなんて、勘繰ってくれといってるようなものですわ」
「あ……」

 神の国の昏い闇の中を歩き回り、一人前の住人になったつもりでも、私はリリアにはまだまだ及ばない。

「私に気を許して下さっているのは嬉しいですが、お気をつけて下さいね」
「ああ」
「明日以降に女官たちの間にはそれとなくひろめておきますわ。……シオンさまが新任のご挨拶がてら、王太子殿下におねだりにきたようだって」
「……何をねだったらよいだろうか?」
「ヴィッティス大聖堂の信徒席の改修費用なんていかがですか?去年、妃殿下の代参で参りました時のベンチのボロさ……失礼、古さに驚きましたもの」
「……そう。じゃあ、そうしよう」

 リリアがこう言うからには、兄上は何も言わずに用立ててくれるだろう。
 あの方は神を信じていないが、だからといって喜捨を惜しむ吝嗇家でもない。相応の理由があればちゃんと出してくれる。信徒席の改修なら文句はないだろう。

「リリア……」

 ドアに手をかけたリリアを呼び止める。

「はい」

 ドアから差し込む夕暮れの残光の中でリリアが振り向く。
 私は、眩しくて目を細める。

「……君は、神を信じるかい?」

「いいえ」

 静かな声音。

「……シオンさまは信じますか?」

「いや」

 聖職者にあるまじき答え。
 私達は互いに小さく笑った。







 私は神を信じない。
 神など何処にもいない。
 ただ―――――私の祈りだけが此処にある。








 2009.05.23 初出
 2009.06.10 手直し


******************************



おまけ 王太子と大司教



「……なんだ」

 私が最高枢機卿から預かった書面に目を通していた兄上が顔をあげる。
 思わず強く見つめすぎたらしい。

「……いえ」

 別に怒られているわけではないのだが、この人にまっすぐと見られるとどうも居心地が悪い。幼児体験のせいだろうか……。

「そういえば、アルティリエ姫とはどうですか?事故で記憶がないと聞きましたが……」

 話を変える事にした。下手なことを言って薮蛇になるのも困るので、一番無難な話題を持ち出す。

「……問題ない」

(なんだ?今の間は)

「本当に?」
「何が言いたい?」

 兄上は完全無欠の鉄面皮だ。感情と言うものを極力出さぬように自分をコントロールしているといえば聞こえがいが、私が思うに感受性に問題があるのだと思う。

「いえ。兄上が姫を必要としないのでしたら、私が父上に願い出ようかと思いまして……」
「何を?」
「私の妻に、と」

 兄上は思いっきり怪訝そうに私を見る。

「別に兄上に内緒で浮気なんかしてませんよ」
「当たり前だ」
「ちょっと姫の作ったお菓子にKOされまして……」
「……なるほど」

 そこで納得されるのが不思議だ。

(あれ……?)

 納得したということは、兄上も姫の作ったお菓子がおいしいと思っているということだった。
 私は思わぬことに新鮮な驚きを覚え、それから、小さく笑う。

「なんだ?」
「いえ……兄上のそのいつもの冷ややかさだと、12歳の女の子はさぞ怯えるだろうと思いまして」
「ああ。……そう言われた」
(あ、やっぱり)
「言われた?」
「そうだ。だが、これが私の普通だと言ったら……慣れるように努力すると言っていた」
「姫がですか?」
「………ああ」

 何か問題でも?という表情で兄上が私を見る。

「お変わりなりましたね」
「そうだな」

 兄上は誤解したようだったが、私が変わったと言ったのは兄上だった。幼い子供と会話が成立するような人ではなかったが、どうやらまっとうに話をしたことがあるらしい。
 これまでの目の前にいながら音信不通状態を脱却したのは大きな第一歩だろう。

「あれは変わった。私のように空虚な人間には人形が相応しいかと思っていたが、あれはもはや人形ではないようだ」
「兄上……」
「不憫なことだが、あれは私の妃だ。諦めてもらわねばなるまい」

 自嘲げな笑みでありながら、卑屈さは欠片もない。
 兄上はどこまでいっても兄上だった。
 兄上がこんなふうに姫をちゃんと認識して気遣っているのを初めて見たかもしれない。

「……もしや、所有権を主張されてます?」

 兄上は首を傾げる。

「おまえの言う意味がわからないのだが」
「いや、私の妃だとあまりにも強くおっしゃるもので」
「……事実だが?」
「いや、そうなんですけどね」

 どうやら当人には自覚がないらしい。

(へえ……)

 私は何だかおかしくなって笑みをもらす。

「返事を書くまで、しばし待て」
「はーい」
「語尾を伸ばすな」
「はい」

 兄上は相変らずだった。
 だが、以前とは違う事にも私は気付いていて、そのことが嬉しかった。
 ふと、いたずら心がわいて問いかける。

「……兄上は、神を信じますか?」
「いや」

 予測通りの即答だった。

「一応、兄上は将来の国教会の最高権威者になられるのですが……」
「わかっている。だが、私は気まぐれな神の御手などより人の力を信じる」
「知っています」
「宗教の最高権威者は、自身が信者であるよりも、信者を庇護する者である方がいいというのが私の持論だ。狂信的に何かを信じる人間がトップにあるのは危険すぎる」
「そうですね」

 父も母も熱心な信者なのだが、私達兄弟は姉を含めても熱心とは言いがたいだろう。
 母女神に縋るには、私達はあまりにも現実的な計算が働きすぎるのかもしれない。

(……ああ、でも……)

 考えてみれば、実質的に私達兄弟を育てたのは兄上なのだった。
 兄上を見ていて母女神への信仰心が芽生えるとは思えない。

「おまえは、神を信じるくらいなら私を信じておけ」

 傲慢なまでの物言い。
 滲み出る、その覇気とも言うべきもの……。

「はい」
私の陛下[マイ・ロード]

 私は笑みを浮かべてうなづいた。
 兄が私に示す未来[さき]こそが、私にとっての導きの光だった。




[8528] 15
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/24 12:00
 15



 実家からの使者と会うと決めたのはただの思い付きだった。思いつきじゃなければ、気まぐれ……どちらにせよ、これといった目的意識があったわけではない。



 王宮の生活は慣れると単調だ。
 同じルーティンの繰り返し。私的な外出なんてまずありえないし、この自分の宮から出るのにさえ王太子殿下の許可がいる。
 庭を歩くのでさえ護衛の騎士が二人つき、部屋の入り口という入り口には騎士が立っている。
 護衛は私に騎士を捧げた30名余りが交代で務めている。全員をよく知っているのでそれほど気にならないが、これが他の見知らぬ者になるとちょっと嫌だと思う。

(お姫様ってつくづく籠の鳥なんだな~)
 
 わかってはいるのだ。私は狙われていて、王太子殿下が守ってくれていることは。
 アルティリエの元を訪れることができるのは、王太子殿下の許可を得たものだけで、来客はほとんどない。
 殿下は、私が幼いことを理由にすべての拝謁希望を却下しているのだという。確かに陳情とかされてもどうしていいかわからない。そういったことは、王太子殿下が全部代わって手配してくれているそうだ。

 その王太子殿下が却下しきれないのが、エルゼヴェルトからの使者だ。権利はなかったとしても、エルゼヴェルトは王太子妃である私の実家であり後ろ盾だ。
 そして、私が暫定相続人である以上、その接触を拒む事もエルゼヴェルトからの献上品をさしとめることはできない。
 これまではリリアが全部対応していて、私は会っていなかったという。
 けど、私はちょっと退屈していたので実家からの使者と聞いたときに会う気になった。




「妃殿下には拝謁をお許しいただき、恐悦至極に存じます」

 金髪の美青年が膝をついて一礼する。アリスもジュリアもミレディも見惚れている。
 帰還の途上でも騒いでいたよね、そういえば。
 確かに王太子殿下とはる美形だった。彼は、王子様と言った時に誰もが思い描く王子様そのものだ。
 雰囲気が柔らかだし、愛想もいい。……王太子殿下が極寒の冬を思わせる美貌なら、彼はうららかな春の青空を思わせる。

(お兄さんかもしれない人だ)

 ラッキーだと思った。
 この人がお兄さんなら、これでやっと御礼が言える。
 私は彼の挨拶に小さくうなづいてみせる。

(……ちょっと待て。誰に確認すればいいの?)

 名乗らないのは既に知っていると思われているからなのだろうか?
 本人に聞いたらさすがにまずいだろう。
 私はリリアに目で訴える。お願い、こっち向いてー。
 リリアがすぐに寄ってきてくれた。さすがリリア。
 
「誰?」

 手にしていたレース付の扇で口元を隠し、唇だけでこそっと尋ねる。
 レースの扇は拝謁の時に王太子妃が手にする必須アイテム。自分が拝謁する時は持たなくてもいいけれど、受ける場合は必要。特にこういう時に。
 カンニングペーパを貼るのにちょうどよさそうだと思ったのは内緒だ。

「……妃殿下の異母兄君です。ラエル=クロゼス=ヴィ=フィノス卿」

 こそっとリリアも囁く。
 やっぱりそうか。良かった。

「先日はありがとう」

 驚いたように彼は顔をあげる。
 そういう反応にもだいぶ慣れたけどさ、今、軽く飛び上がったよね。驚きすぎじゃないかな、それ。

「妃殿下におかれましては、フィノス卿に湖で助けられた事、また、王都帰還の護衛をして下さった事をずっと感謝しており、お礼を申し上げたいと常々お気にかけておられたのです」

 リリアが代弁する。

「もったいないお言葉です」

 深々とお兄さんは頭を下げる。
 フィノス卿……この人には、エルゼヴェルトを名乗る資格がない。庶子だから。
 子の姓は、母の姓=父の姓で結ばれるけれど、庶子には一方だけしかない。
 そして、彼が名乗れる称号は自身で得た騎士爵の『ヴィ』だけだ。騎士であることはダーディニアの貴族として当然の事だから、他の称号を持つ場合は『ヴィ』は省略される。

「妃殿下、エルゼヴェルトよりこれらの品が届けられております」

 アリスが銀の盆に載せた目録を掲げる。
 私はそれに手を取り、ざっと目を通す。
 今回の献上の品である書物のタイトルや服用布地の種類や色などがかかれている。他には、エルゼヴェルト特産の果実酒やハチミツ、それから砂糖などがある。
 『空の瞳』の続刊が入ってるのに気付いて、嬉しくて笑った。
 他に娯楽がないせいで夢中になって読んだの、このシリーズ。

 なんでアルティリエがこれを気に入っていたのかわかったよ。
 空の瞳のヒーローである異国の王様がナディル殿下に似てるからだ。外見描写も銀の髪に蒼い瞳だし、性格が冷ややかなのも似てる。
 傲慢で高飛車な王が、主人公に対してすごく不器用でいつも誤解をまねくような言動ばかりとるの。でも、最終的にはちゃんとわかりあう。
 アルティリエは、この王に殿下を重ねていたんじゃないだろうか?……願望をこめて。真実はわからないけれど、そう遠くはないんじゃないかという気がしている。

「ありがとう」

 お礼を言った。あんまり多くを口にすることはできないけれど、感謝の気持ちだけは忘れたくない。

「妃殿下のお気に召したようで、何よりにございます。……他にも何かご希望がおありでしょうか?公爵が妃殿下がご不自由されているのではないかと案じております」

 その言葉に私は小さく首を傾げる。
 リリアがちょっと驚いた顔してる。たぶん、これまではそんなことを言ったことがなかったんだろう。
 ちょっと躊躇ったけど、これくらい許されるかな、と思って告げた。

「エルゼヴェルトのお城で食べたお菓子が食べたい」

 焼き菓子なら十日やそこら持つから、何かの機会に輸送してくれるかなって思ったの。
 あれは本当においしかった。あちらだったら行列できるよ。
 もう一度食べたいっていつも思い出してた。ちゃんとプロのお仕事してる職人さんのお菓子だよ、あれ。

 あのね、ここの職人の人って何となくで作ってるんだと思うの。目分量とか、これまでの勘とか、そういうので。
 でも、お菓子って繊細なものなのだ。分量はきっちり、手順だってきちんと定めどおりに。
 それが基本。
 例えば、「小麦粉のボールに牛乳を注ぐ」と「牛乳のボールに小麦粉をいれる」―――― 結果は同じだと思われるかもしれないけど、これは、お菓子の世界ではまったく意味が違う事だ。
 そして、その違いが出来をまったく違うものにしたりもする。
 ちょっと化学の実験みたいなところがあるかもしれない。いい加減にやる人はあんまり向かないの。
 私はここらへんのことを、大学卒業した後すぐに勤めたケーキ屋さんで叩き込まれた。
 
「かしこまりました」

 三番目のお兄さんは、すごくびっくりした顔をしたけれど、嬉しそうに笑った。
 嫌な笑いじゃなかった。
 だから、釣られて私もちょっとだけ笑った。
 私が彼を『兄』と呼びかけることはたぶんない。心の中でお兄さんと呼んでるのは、単なる呼び名で肉親と思ってるわけじゃないから。
 でも、血のつながりとかそういうこと関係なく接する分には、いい人だと思う。

「妃殿下は甘いものがお好きですか?」
「はい」

 おいしいお菓子は幸せな気分にしてくれます。
 そう言うと、三番目のお兄さんはかわいいなぁという風に笑った。
 私のほうが年上なんですけどね!

(まあ、この見た目だから仕方ないか……)

 お菓子なんてそれほどかさばらないから、何かのついでに持ってきてくれればいいな、なんて思ってた。例えば、お兄さんが実家に帰って、戻ってくるときとか。
 でも、もし、彼がお菓子のことを忘れてしまっても私は気にしなかっただろう。

 この時の私は、それが後にあんな大きな問題になるなんて思っていなかったのだ。




 2009.05.24 初出



[8528] 16
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/10 22:23
 16



 翌日、朝起きたら、居間には献上品が積まれていた。
 本当に山だった。

「……今日はこれで一日終わるね」
「そうですね」

 私とリリアの溜息をよそに侍女達はああでもない、こうでもないと楽しげだ。
 荷解きをしながら一つ一つをチェックするのは、ショッピングの後、家でワクワクしながら袋を開けるのとちょっと似てる。
 ここまで来ると、引越し荷物の片付けみたいでちょと何だけど……。

「服地から開けましょう」
「えー、小物からですよ、小物!細かいの先にやらないと絶対に後で面倒になりますから」

 うん、ジュリア、それは正しい。
 でも、私はもうすでに面倒になってるよ。
 今回は服飾品が多いので侍女達はちょっと興奮気味。
 私はもう、この『空の瞳』の続きだけで大満足なんですけど……。

「妃殿下、この飾り紐の模様、すごい凝ってます」
「綺麗ね。たくさんあるの?」
「30巻くらいあるみたいです」

 飾り紐っていうのは細い組紐だ。鮮やかな色合いで模様が織り込まれていて模様にはたくさんの種類がある。
 髪を飾ったり、服の飾りに使ったり、贈り物のリボンにつかったり、後、本のしおりがわりにつかったりと用途はさまざま。
 模様が細かいほど高価とされていて、私に献上されたもののように小花模様になっていたり、市松模様になっていたりするものは特別だ。

「……ならば、好きなものをニ巻ずつ取っていいわ。後は書斎の小箪笥にしまっておいて」
「「「ありがとうございます」」」

 この子達も自由に外に出られる立場ではないから、何かもらうたびに少しづつ分けてあげることにしている。リリアがあげすぎだといわない程度に。この加減が難しい。
 外に出られないとはいっても、私と違い王宮内であれば比較的自由にすごせるらしく、時には本宮の食堂に食事に行って、そこで仕入れたいろいろな話を聞かせてくれる。
 いつか、侍女ぶりっこして職員の食堂に行ってみたいというのも私の野望の一つだ。……リリアには内緒だけど。

「妃殿下、ご覧下さい、この織の見事なこと」
「……ほんと、きれいね」

 アリスに見せられた布は、縦糸と横糸の色を違えているせいで不思議な色合いになっている。

「これはノルックの作品ですわ」
「さすが、エルゼヴェルト」

 ミレディが感嘆の溜息をつく。

「どうして?」
「ノルックは今一番流行の工房です。この間、王妃殿下のご注文をお断りになったそうですよ。本宮勤めの子に聞いたんですけど」
「………………断るんだ」

 びっくり。

「正確に言えば、断ったのではなく、三年先まで予約がうまっているのでそれ以降でもよければ、と言ったそうなんです」

 リリアが解説してくれる。

「すごいね」

 普通、王妃殿下から注文が来たら、他をさしおいてもまず受けそうなものだけど。

「ノルックの工房は職人の集団ですから……でも、ノルックの工房がここまで名をあげたのは、エルゼヴェルト公爵家の庇護があったからです」
「そうなの?」
「はい。妃殿下に申し上げるのも今更ですけど、エルゼヴェルトは芸術の庇護者として有名ですから……」

 武のアラハン、美のエルゼヴェルト、知のグラーシェス、商のフェルディスと世間では言われているそうだ。
 最近は、少しづつ、リリア以外の子達とも話すようになっていて、リリアからは聞かないような話を聞いたりする。アリスからは実家のある北部の冬の厳しさを、ジュリアからは王都の貴族の生活ぶりを、ミレディからは牧場の話を聞いた。最初は驚いていた彼女達も、今では私が話すことにすっかり慣れつつある。

「この縦糸の蒼色は王太子殿下と妃殿下にしか使えないんですよ。王太子殿下の禁色なんです」
「きんじき?」
「はい。そ王家の銀が『ディア』を名乗る王族しか使ってはいけないように、国王陛下と王太子殿下には禁色が定められています。ご本人以外は妃である方しか使えない色です」
「……国王陛下の禁色って?」
「陛下が正装の際にお召しになる上衣の色……翡翠青と呼ばれるあの青色ですわ」
「……王宮の尖塔の旗の色や国旗の色?」
「そうです」

 納得。そういえば、各公爵家にも決まった色があったっけ。

「これで、正装用にガウンを仕立てられる?」
「公式のでございますか?」
「そう。使うレース類をすべてエルゼヴェルトの水色で。デザインはまかせます」
「……畏まりました」

 ドレスは正式の場合ガウンと言う。ドレスと呼ぶ場合は私的なものという意味合いが強い。
 リリアはちょっと考えてうなづいた。
 事情が事情であったので、これまで私と実家とのつながりは皆無に等しかった。が、ここにきて少しづつ歩みよる気配がある。
 父である人がその事実を政治的に利用しようともかまわない。
 それが目的でない事を私は知っている。彼はそれを無視することはできない。
 でも、利用できるとかできないとか、そういうのは結局付け足しだった。

 ―――――――――――贖罪。

 彼は一度は捨てた娘に贖いを求めていた。
 赦されることがないことをわかっているのに。
 瞳を合わせた一瞬で、私は彼のそれを知り、彼は私が知ったことを知ったのだ。





「……お疲れになりましたか?」
「……ちょっとだけ」

 私は紅茶のカップを受け取る。はちみつを垂らしたハーブティ。後味がさっぱりしている。
 献上品チェックは、途中、簡単な昼食を挟んで夕方近くまで続いた。
 それだけ、数が多かったという事だ。
 手織りが主であるこちらでは布は高価なものなので一財産だ。

「そういえば、アクセサリーとかなかったね?」
「そういった装飾品を本格的に着用するのは、花冠[かかん]の儀以降になります。妃殿下は次のお誕生日で花冠[かかん]の儀を行いますから、それ以降はきっとすごいですよ」

 花冠[かかん]の儀というのは貴族の女の子の通過儀礼の一つ。貴族男性だと、これが帯剣[たいけん]の儀となる。
 基本的にこれは男女ともに13歳~16歳の誕生日に行われる。
 この儀式が終わると貴族の子女は一人前とみなされるようになるの。
 本来は父であるエルゼヴェルト公爵の手によって行われるものだが、私の場合は既に婚姻しているので夫であるナディル王太子が行うのだという。

「そうなんだ」
「妃殿下には、亡き母君と祖母君から受け継いだ宝飾品がたくさんあります。エフィニア王女のお母上は美貌で知られたリーフィッドの公女で、リーフィッドはそういった細工物で有名な国なんです」

 だから、私の相続した品の中には大陸中に知られたような逸品が幾つかあるそうだ。

「管理は王太子殿下がなさっております。なまじこちらに置いておくことでそれを狙う賊が入るのは望ましくありませんから」
「なるほど」
「エフィニア様やアマリナ王妃のティアラもございますが、妃殿下が花冠[かかん]の儀で使うティアラは、当然、王太子殿下がリーフィッドに注文済です」
「生花の花冠[はなかんむり]じゃないの?」
「それは貴族の娘の場合です。妃殿下はディアでらっしゃいますから、花冠[かかん]の儀のティアラは銀で作ったものになります」
「へえ……。でも、13歳ってちょっと早くない?」

 儀式が許される年齢ぎりぎりだ。

「妃殿下の場合、正式な結婚の儀を早く執り行いたいと誰もが思っておりますから、仕方がないですわ」

 王太子殿下のご意向もありますから、というリリアの言葉に私もうなづく。
 私達は、ナディル殿下の意向に逆らう事はできない。いや、逆らう何かがあるわけでもないんだけど。
 命を狙われているらしいことをのぞけば、私は恵まれているのだ。経済的にも、その他の意味でも。
 その大半が、王太子妃であるということに起因している。
 まあ、私はエルゼヴェルトの暫定相続人であるから、何がなんでもすべて従わなきゃいけないっていうわけでもないけれど。

「姫さま、こちらの果実酒やハチミツなんかは厨房に届けてきますね」

 アリスたちは、お菓子は好きだが、その原材料にはあまり興味がないらしい。

「待った。それ、残して」
「え?」
「それと、そっちの小部屋を作業部屋にして欲しいの」
「妃殿下?」

 リリアが首を傾げる。
 隣には日常的にはあまり使っていないけれど、来客があれば必要になるかもしれない椅子などを置いてある小部屋がある。

「大きいテーブルは残していいから、絵とか椅子だけどこか別の場所にやって、あと絨毯も外してしまって」
「妃殿下、何を?」
「せっかくだから、お菓子作る時の作業部屋作ろうと思って……いつもそうじが大変でしょ。気をつけてるけどどうしたって粉は舞うし……絨毯のない場所があればいいなって思ってたの」

 王太子妃宮には台所がちゃんとあったそうだけど、以前、やはり毒殺未遂事件だか何だかがあって閉鎖され、潰してしまったらしい。
 せめて作業場だけでもあったら、だいぶ楽だなって思ってた。ちょっとした食品庫も兼ねて。
 シロップ漬けとか酢漬けとか作れるし……庭にベリーがなってるところがあるってシュターゼン伯爵が教えてくれたの。ジャムだって作りたい。

「ねえ、リリア。また今度、お菓子焼いてもいいでしょう?伯爵たちや皆に差し入れしたいわ、ついでに王太子殿下にも」

 私はにっこりと笑う。王太子殿下って言っておけば、リリアは反対しないだろうという読みがある。

「………………………妃殿下、その場合は、王太子殿下に差し入れをしたいとおっしゃって下さいませ。主客が転倒しております」

 王太子殿下が優先に決まってるじゃないですか!と文句を言われてしまった。

「はーい」

 そうか、王太子殿下をついでにしたらいけないのか。気をつけよう。

「騎士達に手伝いを頼んで、妃殿下のおっしゃるようになさい」

 リリアが皆に言いつける。

「「「はい」」」

 三人は乗り気な顔でうなづく。絨毯の掃除は大変だもんね。

「妃殿下」
「はい?」

 改まった口調で呼ばれた。……何もしてないよね?私。
 最近、容赦ないんだよ、リリア。
 覚えていないせいで時々とんでもないことする私が悪いんだけど。

「……妃殿下は、王太子殿下のことをどう思われてますか?」
「どういう意味?」
「お好きですか?ということです」
「好き嫌いを言うほど知らないわ。……でも、別に積極的に嫌いじゃない。恐かったけど」

 うん。案外いい人かな~とか思ってるよ。
 以外にかわいいとこあるかなって。
 ……底知れないところがあって、それがひっかかるけど。

「怖くても嫌いではないんですか?」
「うん」

 怖いのはわからないから。
 彼の空っぽの笑みとあの眼差しの理由を。
 私は、彼をほとんど知らない。

「……どうして、そんなことを?」
「いえ。妃殿下にはできれば王太子殿下と良好な関係を築いていただきたいと思っておりますので……」
「それは勿論だわ。夫婦だし」

 離婚とか認められないと思うのよ。基本的に。
 だったら、関係が良好の方がいいにきまってる。
 それに、思いっきり打算的で申し訳ないのだけど、私がここで安全に暮らせているのは王太子殿下のおかげなのだ。彼の庇護下にあるからこその安全であり、日常生活だ。これを失うわけにはいかない。

「積極的に殿下と共に過ごす機会を設けていただきたいのです」
「……なぜ?」
「平たく言ってしまえば、王太子殿下のお心を掴んでくださいということです。それが妃殿下の安全確率をあげるので」
「………………今以上に?」

 今だって充分守られてると思う。

「義務と積極的な意志との間には違いがあると思いませんか?」
「確かに」

 それはそうだ。

「それに王太子殿下と仲良くなることでデメリットはないと思うんです」
「うん」

 なんでもメリット・デメリットで考えるのは世知辛いけど、リリアの言う事はよくわかる。

「あと、こう言うと何ですけど……何かの動きがあるかもしれません」

 リリアは後半を声を潜めて囁く。

「こちらに戻って、これといったことは何もおこっておりません。……そもそも、これまでも宮内では、姫さまの身を直接傷つけるようなことは何もできていなんです」
「……そうなんだ」
「まあ、他にもいろいろな理由はあります。けれど、結局のところは妃殿下に幸せになってほしいと私は考えておりますので」
「しあわせ……?」
「はい。妃殿下は、別の男性を選ぶ事ができませんから……」

 そうだね。
 政治的な理由でやむをえない限り、離婚はないだろうし。

「……そうはいっても、できることは少ないよね」

 子供だから、せまるってわけにもいかないしね。

「今の妃殿下に夜這いは無理ですし、王太子殿下はお酒に強いから酔わせてどうこうでもきませんし……」
「ムリ、ムリ、絶対ムリ」

 リリアさん、恐い事考えないで下さい。それ、私には無理だから。年齢的な問題とかじゃなく、スキル的に。

「王太子殿下は迫られた時は、シラけた顔で痴態を見るような表情でご覧になるか、あの絶対零度の眼差しで一刀両断するか、にこやかな笑みを浮かべて対応しながら冷たいお言葉で切り捨てます」
「……どれもいや」

 そもそも、手練手管とか女の武器の使い方とか………………私にはそんな能力のもちあわせがないよ。

「………私に出来る事って言ったら、一つだけでしょう」

 そう。一つだけ。

「お料理、ですか?」
「うん。まずは、毎日、おやつの差し入れでもしようかと」

 うれしいな、リリア公認で毎日おやつが作れるぞ。

「……王太子殿下の為ですからね。護衛のためでも、侍女のためでも、ましてやご自身のためでもありませんからね」
「わかってます」

 根にもってるなぁ、リリア。




 こうして、極秘の『王太子殿下の餌付け作戦』……リリアに作戦名は絶対に口にしないよう念押された……は、スタートしたのだ。



 2009.05.25 初出
 2009.06.10 手直し


*********************************

ミッションスタート。やっとここまで来ました。やった。



[8528] 17
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/29 21:01
 17



 大理石が剥き出しになった作業部屋の中央には大きなテーブル。その上には、大理石製の作業板。壁には空になっている本棚や戸棚が幾つか据え付けられている。
 大半が空っぽだけど、昨日もらったばかりのハチミツとかお砂糖とか果実酒が既におさまっていて、ピカピカの銅製のボールがたくさん重ねて置かれている。

「おお、すごい」
「必要なものは少しづつ揃えるようにしますので」
「うん」

 嬉しいな。台所ではないけれど……私の作業場だ。
 居間から生み出したクッキーやシュガーパイ、それから、侍女に間違えられながら……私は自分で侍女だなんて名乗ってないよ、念の為……厨房に入り込んで作ったパンケーキサンド等々を思い出す。
 もう、高そうな絨毯に手洗い用の水や小麦粉がこぼれることを気にしなくていいし、厨房の黒ずんだ大理石の作業台を力いっぱい磨き上げてから使わなくてもいい。
 そっとテーブルを撫でる。嬉しい。人目がなければ机に頬擦りしたいくらい。

「今、ヴィグザム卿とレイエス卿が材料を運んできてくれますので」
「ありがとう」
「今日は何を作るんですか?妃殿下」
「パウンドケーキです」

 なんかたどたどしい英会話の練習みたいな会話だけど気にしないで欲しい。あんまりしゃべりすぎないように気をつけてるの。ボロだすと困るし。

「えーと、あの、焼き損ないとかあったらいただけますか?……あの、本宮の女の子達もぜひ一度食べたいって言っていて……羨ましがられたんです」

 アリスが一生懸命つっかえながら言う。
 リリアの方に視線をやる。よくわからないから、私では判断がつかない。リリアが大丈夫です、というようにうなづくのを目の端で確認する。

「いいですよ。……ジュリアにもミレディにもあげますね」
「あ、ありがとうございます、妃殿下」
「「ありがとうございます」」

 二人も嬉しそうに笑う。

「頑張って手伝って下さい。今日は護衛隊の皆さんにも日頃の感謝をこめて差し入れたいと思っているので」
「「「はい」」」

 きっと王太子妃宮に勤めていることを羨ましがられたのなんて初めてだっただろう。危険だから入れ替わり激しいってリリア言ってたし。
 この間、台所でパンケーキサンド作っていた時に料理人達も言っていた。
 西宮……王太子宮と王太子妃宮のある一角……は、王宮中で一番キツイんだって。
 王太子殿下は静寂を好む方なので、大きな音を立てると殿下の家令のファーザルト男爵がすっとんできて怒り狂うし、化粧品等の香りがお嫌いで、下手に香水の香りなどをそのあたりに漂わせていると大層不機嫌になられるという。
 だから、夜会に出席なさった日は大変らしい。
 その上、携帯糧食で食事を済ませてしまうくらいに食べることにこだわりがないのだけど、お茶やコーヒーの味が気に入らないと、以降、口をつけないんだという。
 無言の圧力……そっちのが怖いよね。文句を言われた方がまだ直しようがある。
 西宮では、殿下におかわりを申し付けられれば一人前だと言われているんだって。

 もちろん殿下だけではない。妃殿下……つまり私も困ったもので、女官の出入りがなければ本当にいるのかわからないと言う。
 殿下にはまあちょうどいい妃なのかもしれないが、せめて妃殿下には華やかににぎやかにやってもらわないと西宮中が死に絶えたように静まり返っちまう、と皆は口々に言った。
 確かにそれは一理ある、と思ったけど華やかにするのってどうるんだろう?とか考えちゃった。
 何を話し掛けても無反応だからあんたも大変だろう、なんて同情されてしまった。笑って誤魔化すのは、現代日本人の習い性だ。

 でも、いろいろ言われたから言うわけじゃないけど、台所の人たち、正直いってあんまり質が良くないと思う。悪い人たちだとは思わないけど、休憩中だからって、厨房内で煙草吸ってる人がいたのには驚いた。
 自分で巻いた紙巻煙草のような煙草。こちらでは煙草はそんな高価なものでもないのか、彼らが嗜好品として手が出せるくらいの値段らしく、半分くらいが吸っていた。
 ……私的には、煙草はありえない。
 煙草って味覚を狂わせるし、手に匂いがつくの。料理やってる人間はそれを嫌う人が多い。
 まあ、個人の嗜好だし、煙草の好きな料理人だっているけど……でも、厨房で吸っちゃだめだ。
 厨房は人の口に入るものを作るのだ。万が一にでも灰を落とすわけにはいかない。異物混入は恥ずべきことなのにその認識がない。
 下働きの子達は一生懸命だけど、実際に作っている料理人達に自覚がない。
 結構文句言ってたけど、今思えばエルゼヴェルトのお城のほうがおいしかったよ、ごはん。

「姫さま、いかがされました?」
「んー、王太子殿下の主食が携帯糧食なのって、興味がないってだけじゃなくて、あんまりおいしくないせいかなって……あ、でも、王太子殿下がそもそも拘らないから料理人の腕があがらないのか……」

 料理人を育てるのは客とよく言うけれど、これは本当にその通り。おいしいと言われれば料理人だって頑張るし、今日はちょっと味が濃かったと言われれば何故かを考える。
 先輩のところのバーで週一とはいえ、お客様と直接対面しながら作っていたことは、私にとって何よりもの修行になった。食べている人の意見が直接聞けるから。
 基本、プロの料理人の味はそれほどブレない。材料によって多少塩減らしたりとかはあるけど。でも、食べる人の体調とかでおいしく感じるかどうかっていうのは変わってくる。それを生で勉強させてもらったことは私の財産だ。

「どちらが先かはわかりませんけど、確かに王太子宮の料理人の腕はあまりよくないです。だから、あの子達は本宮に食べに行くのを楽しみにしているんですよ」

 いいなぁ、アリス達。私も本宮のお料理食べてみたい。
 まあ、おしゃべりも楽しみなんだと思いますけどね、とリリアは笑う。

「腕の問題だけじゃないんだけど……でも、王太子宮の料理人だから、私がどうこう言える問題じゃないんでしょう?」

 私に権限があれば徹底的なクリンレスをするのに!! とりあえず、オーブンは徹底的に掃除したけど。他のところは見てみぬふりをしました。ごめんなさい。
 ……後でリリアにオーブンの掃除など妃殿下のすることじゃありませんって嘆かれたけど。

「はい。残念ですが彼らは妃殿下の料理人ではございませんので妃殿下がクビにするわけには参りません。……本来ですと、妃殿下には妃殿下の料理人がいるのですが、一度、問題が発生した事があって、ここの厨房は潰してしまったそうです。今は服飾品を置いている部屋がそうらしいですよ」
「ああ………」

 あの無駄に広いホールのようなウォークインクローゼットはそういうことだったんだ。
 どこのダンスホールだって言うくらい広い部屋に図書館かと思うような棚とタンスが整然と並んでる。
 タンスの中には既に仕立て済のものが収納されていて、棚にはまだ服地のままのものを収納。だいたいの服地は巻物状態で保管されているんだけど、これがね……百本や二百本じゃないんだよ。お店開けるよ、高級品専門の。



「妃殿下、材料が揃いました」
「ありがとう」
「他に何か力仕事はございますか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとう」

 木箱を運んで来た赤茶けた短髪のヴィグザム卿と黒髪を肩のあたりで切りそろえたレイエス卿はどちらも二十代半ば。私の護衛たちの平均年齢は三十そこそこくらいなので彼らはやや若い。
 だが近衛全体からすると彼らは中堅どころとなる。
 だいたい、普通のステップを踏むならば、12歳過ぎで従騎士となり18前後で騎士叙任を受けるので、彼らは騎士となって最低でも五年以上になる。
 リリアの説明によれば、王太子殿下は私がエルゼヴェルトに里帰りするにあたって護衛の人数を通常どおりおさめたものの能力的に厳選を重ねたのだと言う。その全員が私に剣を捧げてくれたことは、私にとっての幸いだ。
 だが、申し訳ないと思うのは、『私の護衛』という仕事は彼らにとってはあまり甲斐のない仕事であることだ。
 いずれ報いる事ができれないいけど、どうなることやら。

「今日は何を作られますか?」

 手際よくミレディが作業台の上に材料を並べる。
小麦粉とバターと卵と牛乳……ナッツ類と乾燥果物類は欠かせない。それから、砂糖と樹蜜。
 円錐状の砂糖は専用のペンチで崩してから使う。樹蜜というのは北に自生するカリスという樹木から採るどろりとした琥珀の蜜液。樹蜜のあの独特の香りはメープルシロップによく似ている。主に北部地域でとれるんだけど、地域によってだいぶ味が違う。

「パウンドケーキをつくります」
 ケーキの基本――――――パウンドケーキ。味のバリエーションもいろいろあるし、シフォンケーキやスポンジケーキから比べれば失敗もしにくい。
 こちらは、食パン用の型が小さいから、ケーキ型にも応用できることは確認済だ。

「草蜜はいらないんですか?」

 草蜜は甘い蔓草から抽出したさらりとしたシロップ。これはちょっと青臭さがあるけど、柑橘類の汁とあわせて飲むとおいしい。

「うん。今日は使わない」
「妃殿下、昨日の壺です」

 アリスとジュリアが壺をを運んできてくれる。これ、昨日下ごしらえしておいたもの。
 薄い白磁の蓋つき壺の中身は、レモンのハチミツ漬けとブランデーに漬けた乾燥果物。乾燥果物は、軍の携帯糧食にも使われているということで、種類も結構ある。
 その中から、柔らかめの果肉のものを選んだ……アプリコット、プルーン、ブドウは三種類も!
 あー、なんか、ウキウキしてきた。

「殿下の好みはよくわからないから、殿下の分はブランデー効かせた物を作ります。殿下はブランデーを飲まれるかしら?」
「飲まれます。お酒は強いらしいですよ、王太子殿下」

 よし。なら平気。あれは、お酒飲む人もおいしく食べられるから。

「………………んー、とりあえず、小麦粉は3キロ振るって下さい」

 3キロはちょっと多いと思うよ、自分でも。でも、こっちのオーブンの性能……焼く担当の料理人の腕込み……は、ムラがありすぎるのだ。
 ちょっと焦げたり、焼きすぎた失敗作なんかは、護衛の騎士達が喜んでひきとってくれる。
 シュターゼン伯爵は甘辛両刀だし、シュターゼン伯爵の副官のロバートさんは超がつく甘党。一番最初にクッキーあげた時に涙流して、もう一度改めて剣を捧げてくれたくらいだ。
 基本的にこちらの人はお菓子は甘ければいいと思っているらしく、砂糖の量がおかしいものが多いんだけど、『適切な甘さ』とか『素材のおいしさ』というものも知って欲しい。

「オーブンを一台、一日中つかえるように手配してあります」
「ありがとう、ミレディ」

 ミレディは、先日、女官の見習いになることを決めたと聞いた。そのせいかリリアがびしばし教育していて、こういうところでいろいろと気を回してくれるようになった。

 侍女には、王宮で礼儀作法を学び、王族の身近に仕えた事を箔とするのが目的の花嫁修業タイプと、あちらでいうところのバリバリのキャリアウーマン、王族にそれぞれの職能をもって仕え女官を目指すタイプとがいる。
 アリスとジュリアは前者で数年のうちに結婚退職ということになるだろう。こちらで貴族の子女はだいたい16歳前後で婚約を決め、20歳くらいまでに結婚するのが普通だ。二人とも既に嫁入り先は決まっているらしい。
 ミレディは女官になると決めたことで、決まっていた婚約を保留にした。女官の結婚は禁じられていないが、王宮で主に仕える以上、まともな結婚生活は難しい。

「さて……じゃあ、はじめましょう」

 私はにっこりと皆に笑う。
 今日着ているのは薄いピンクの飾り気のないワンピース。それに、侍女達とお揃いのエプロン。髪もきちんと三角巾でまとめてある。動きやすくなければダメだよ、やっぱり。
 貴婦人に台所が危険だっていうのはドレスの裾とか袖にいろんなものひっかけるからじゃないかな?
 あんなじょろじょろした格好で台所に入るのは確かに危険だ。

「ミレディはそのレモンの皮の砂糖漬けは細かく刻んで。飾り用に……そうですね、四分の一程度は輪切りのまま残して置いてください」
「はい」
「ジュリアは粉を2回ずつ振るってカップ2杯ずつボウルにいれて下さい。アリスはバターをボウルにいれて練りながらこのカップ2杯分のお砂糖と混ぜ合わせて白くふわふわな感じにして下さい」
「わかりました」
「ふわふわですね」
「ふわふわになったら、卵3個を溶いたものを少しずついれて混ぜ合わせてね。これ一番大事です……終わったら、ミレディもアリスを手伝って下さい」
「はい」
 リリアと私はその間に型にバターを塗り、それぞれのバリエーションの準備をする。卵と混ぜるところまでいったら、また粉を振るい入れてざっくりと混ぜる。
 パウンドケーキは、基本材料の、卵・バター・小麦粉・砂糖が同量と覚えておけばそうそう失敗はしない。
 お行儀が悪いけど、ブランデー漬の果物を一個つまむ。

(お、いい感じだ)

 ブランデーが浸透するようにフォークでグサグサしといた甲斐がありました。こういう手間の積み重ねが出来上がりをおいしくする。
 そうそう、このブランデーがね、すごーくいいモノなの。ああ、寝酒にぜひいただきたいって思ったけど、12歳のお姫様のやることじゃないので我慢した。
 13歳の誕生日を迎えたあかつきには、せめてワインくらい飲めるように根回ししたい。

 今日はオーブンにはパン焼きを毎日していてオーブンを使い慣れている下働きの人を二人、確保してある。私が台所に入ったときに見所あるぞって思った人たち。
 実はこれ、私の野望の第一歩、自分でオーブン使えないから、プロのオーブン職人を育てようと思っているのだ。

 流れ作業で、次々とケーキだねを完成させて型に流し込む。
 プレーンとレモンと樹蜜にレーズン、それから、サギヤの紅茶。今は、セカンドフラッシュ。でも、香りの高さは相変らずでおいしいから使ってみた。

 第一回目の焼き上がりはまあまあ。
 焼き足りないものはなかったけれど、焼きムラはやっぱりあって、半分くらいはやっぱり焦げた。
 オーブンの職人さん達も呼びだして話を聞く。

「焼いている位置で火力が違うのだから、入れ替えをしたり、向きを逆にしてくれればムラもなくなると思いますけどどうですか?」
「ひ、妃殿下のおっしゃる通りだとおもいます」

 ……そこまで怯えなくてもいいのに。
 人形姫がアダ名でも私は人形じゃないんだぞ。

「ならば、そのようにお願いします」

 予め下準備はしていたので二回目の焼きはすぐにはじまった。
 パン型って数がいっぱいあるから良かった。
 殿下に差し上げる二本だけ、全部自分で作ったんだよ。
 ブランデー漬けの果物たっぷりのやつと紅茶で。焼き加減はオーブンと職人さん頼みだけど!

「リリア、紅茶をいれて頂戴。一休みしましょう」
「はい」

 コゲたもののコゲを切り落として、一口大に切り分ける。
 器は、オリーブグリーンの釉薬が綺麗な小さめカフェオレボウル。
 それに、泡立てた生クリームにミントの葉を添える。

「さあ、召し上がれ」

 生クリーム泡立てるの大変だった。
 泡だて器の原型みたいなものはあったんだけど、使いにくかったの。
 ……………電動のミキサーが欲しいとまでは言わない。せめてしっかりした泡だて器が欲しい。
 あと、銅のボウルは重すぎる……ステンレスってないのかな。薄くて軽いの。

「わあ」
「おいしそうです~」
「いただきまーす」
「いただきます」

 みんなのこの瞬間の顔が好き。

「おいしい」
「すごいです~」
「妃殿下は魔法使いですね」
「本当においしいです。これならきっと王太子殿下もお気に召すでしょう」

 四者四様の感想。笑顔がきらきらしてる。
 やっぱり、私はお菓子を作るのが好きだ。
 見た目とかで工夫するのも好きだけど、この笑顔を見ることができるのが何よりも嬉しい。

「パウンドケーキは本当はさめた方がおいしいの。好みだけど」

 だいたい三日くらい寝かせた方が味が馴染んでおいしい。
 でも、どうしても焼いてすぐ食べたくなるんだよね。
 
「リリア、後で、オーブンの人たちにこれを差し入れてくださいね」
「わかりました」

 オーブン担当の人たちにも差し入れをすることにする。
 自分達で焼いたものを食べるのは励みになるかな、と思って。

「妃殿下、ヴィクザム卿とレイエス卿にはよろしいんですか?」
「……まだ、焼いていますから。そうですね。二回目が焼きあがったら、今日の当番の皆さんを交代でお茶にお招きしましょう」
「「はい」」

 嬉しそうだね、アリスもジュリアも。婚約者いるんじゃなかったっけ?




 その日は一日、パウンドケーキ・デーになった。
 侍女総出でやっているし、シュターゼン伯爵がのぞきにきたりして、何か一大イベントになってしまった。
 何回か焼いているうちにオーブン担当の人達もコツをつかんだらしく、最後の焼きあがりは最高だった。
 私は2回目と3回目と最後の4回目にそれぞれ二本ずつ自分で作った。
 やっぱり一番できが良かったのは最後のやつ。ブランデケーキのブランデーをハケで塗りながら、王太子殿下にはそれを差し入れようと思った。

 焼きあがったのは全部で30本。
 そのうち8本が、私達のおやつ用。ちょっとコゲがあったり、中にいれた果物の量が多すぎて崩れてしまったもの。3本分はお茶の時間に皆で食べてしまった。
 残る22本のうち、8本を侍女達で分け、6本が私の取り分で8本を騎士達の詰め所に差し入れ。殿下は6本も食べないだろうと思ったけど、パウンドケーキは保存がきくから半分は自分の隠し食料にしようと思い直した。

「……随分厳重なのね」

 材料を仕舞う棚はすべて扉付で、リリアはそのすべてに鍵をかける。出来上がったパウンドケーキをずらりと並べて保管した棚は、扉に鍵をかけただけでなく、紙を張って封じをし、更に取っ手に鎖をかけて錠前をつけた。

「口に入るものに異物が混入するのが一番よろしくないと怒ってらっしゃったのは妃殿下ですよ」
「そうだけど……」

 毒の混入をリリアは恐れているのだろう。

「……私、また、狙われる?」

 最近ちょっとのんびりして注意が足りなかったかも。

「それはわかりません。私が案じているのは、妃殿下が直接狙われるというのではなく、妃殿下がおつくりになったものから毒が出ることです」
「それは……」
「念のための用心です。二重に鍵をかけてますし、この作業部屋にも鍵をかけます。この部屋の窓にも鍵はかけていますし、この室には隠し通路の類は一切ありません」

 目線をやれば、窓の取っ手にも鎖がかかっていて錠前がついていた。

「これだけつけておけば、まず大丈夫かと……。鍵は、殿下に玄関と戸棚の一本を、残りを私が持ちます。私のものと殿下のものがないと開かない仕組みです」
「わかりました」




 後片付けが終わった後、そのままソファで沈没した。
 思っていた以上に疲れていたらしい。

「……さずとも良い。このまま眠らせてやれ」

 男の人の声。耳に心地よい、響く声。

「しかし、王太子殿下……」
「このままでは姫が風邪をひいてしまいますよ、兄上」

 ……兄?誰のこと?

「リリア、寝室に案内して。兄上、運んでさしあげて下さい」

 誰だろう……。
 思考がまとまらない。目を開けようと思うのに、開くことが出来ない。

「…………これは、軽すぎるぞ。もう少し太らせるが良い」
「兄上、太らせるって家畜の話じゃないんですから……」

 そうだよ、しつれいな……デリカシーな……ぎる……。
 言い返したいのに、言葉を紡ぐ事もできず、私の意識はそのまま深い眠りの底にひきずりこまれた。



 


 2009.05.27初出
 2009.05.28手直し
 2009.05.29手直し



[8528] 18
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/28 17:07
 18



 夢を見た。
 王太子殿下に、『もっと太らないと食えない』と言われる夢だ。
 ここで色っぽい誤解をしないでいただきたい。
 その時の私の姿は仔豚だった。
 殿下のあの冷ややかな眼差しとその言葉に恐れおののいている哀れな仔豚だったのだ。



「なんか、ものすごくびみょーな夢を見た気が……」

 目が覚めたら自分の寝室だった。
 ここのお姫様ベッドの天蓋の中は海の底だ。『水底の白ユリ』という、こちらでは誰でも知っているおとぎ話をモチーフに、海底でゆらゆらと揺れる白百合と色とりどりの魚が泳いでいる光景が広がっている。話中に出てくる七匹いるはずの亀を探してるけど、まだ、最後の一匹がみつかっていない。

「妃殿下、お目覚めですか?」
「……うん。昨日、途中で寝てしまったのね」

 簡素なワンピースだったせいかそのままベッドに突っ込まれている。

「……あら」
「何?」

 リリアの視線の先、枕もとにキラリと光るものがある。

「何?」
「王太子殿下のカフリンクスですわ」

 リリアの指先には、大きな紫水晶と黒真珠を組み合わせカフリンクス……カフスボタン……がきらめく。
 品の良い豪奢……ヴィクトリア&アルバート美術館とかにありそうな品だ。

「王太子殿下?なんで?」
「昨夕、殿下がいらしたんです。妃殿下を寝台に運んでくださったのは王太子殿下ですわ」
「…………そのせいか」

 夢の原因はそれか。

「何がです?」
「何でもない」

 仔豚として食われる恐怖に怯えた夢の話なんてしても、たぶんわかってもらえないだろう。

「何の用だったの?起きなくてまずかった?」
「いいえ、寝かせておくようにとおっしゃったのは殿下ですから……たいした用事ではないとおっしゃっていました。シオンさま……ギッティス大司教が同行しておりましたので、おそらくそのせいかと……」
「ギッティス大司教って……リリアの乳兄弟よね?」

 先ごろ、首都を含むギッティス地域の大司教となったのがシオン様。称号は、殿下ではなく倪下。
 よくは知らないけど、大司教以上が倪下と呼ばれるらしい。
 ルティア正教には、キリスト教で言う教皇にあたる地位がない。最高権威者は国王陛下で、宗教的な指導者の最高位は最高枢機卿。現在は元王族のジュリアス倪下だ。

「はい。……先日のおやつをたいそう気に入ったようで……王宮に滞在中でらっしゃったので、昨日も匂いに釣られて来たんだと思いますよ。一人ではこれないから、王太子殿下にねだって」
「どうして一人では来られないの?」

 元王子様なら王宮はどこでもフリーパスじゃないのかな?

「聖職者と言えど、殿下のご許可をいただかなければこちらには来られません。こちらは、一応、後宮に分類されますから……成人した男性は出入りを制限されます。護衛が騎士である為に妃殿下はあまり意識されていないと思われますが」
「そうなの」

 そこまで厳しかったとは知らなかった。

「シオン様に王太子殿下を納得させる理由なんてありませんもの……残念ながら、妃殿下はお寝みでしたのでお目当てのおやつにはありつけなかったわけですが……」

 くすくすとリリアはおかしげに笑う。さすが乳兄弟だ。遠慮がない物言いをする。

「食いしん坊なの?」
「ええ。一緒に何回厨房に潜り込んだ事か……本宮でのお話ですけどね」
「リリアがそんなことするの?」
「何しろ、一緒に居たのがいたずらっこのシオン様でしたから」

 よく一緒にいろいろ怒られてましたよ、と笑う。
 どんな人なのかな、ギッティス大司教。リリアの乳兄弟ってだけですごく興味ある。
 王太子殿下と第二王子のアルフレート殿下って、見た目はあんまり似てないんだよ。大司教はどちらかに似てるのかな。



 身支度を整え、朝食の時間。朝食はこちらでメニューを注文することにした。
 パンとサラダ、卵料理、それにハムを焼いたものを添えて、スープとヨーグルトにジャムを添えたもの。
 変に工夫を凝らさなくていいホテルの朝食メニュー。
 毎朝作っていれば、きっと上達するだろう。
 心の中で文句を言っているだけでは状況は改善しないのだ。

「いかがですか?」
「パンはまあまあ。サラダはおいしい。卵は焼きすぎ。ハムは油でギトギトすぎ。スープは味が薄い。ヨーグルトとジャムはおいしい」
「……妃殿下」
「私の好みだから、と言えばいいんじゃない?腕が悪いとは言ってないわ」
「……言ってるのと一緒です」
「角が立たないようにうまく伝えてね、リリア」

 私はそっとナプキンで口元を拭う。
 出されたものは全部食べると教えられてきたし、実践もして来たけど、ここでは残す……残したものが無駄にならないことを知っているからできることだ。
 そもそも、この量は絶対に食べられない。メニューがホテルメニューだからってトレーにのせられて一人分が運ばれてくるわけではない。パンは籠いっぱいだし、サラダはボウルいっぱい。卵もハムも一皿ずつ……全部、軽く4、5人前はある。

「でも、これって残りは厨房の人が食べるのでしょう?自分達でまずいって思わないのかしら」
「王族としてはかなり質素な部類に入る食事ですが、一般市民にはごちそうですから……味は二の次です」
「味は二の次か……そうよね。私が味をうんぬん言えるのは、餓えていないからだもの」

 溜息。何度も思うことだけど、私は恵まれている。

「……先はまだ長いわ。諦めたらはじまらないものね」

 私は何もこれ以上豪華にしろと言っているのではなく、この材料をおいしく調理して欲しいと願っているだけ。おいしく料理され、おいしく食べてもらわないと材料だって可哀想だ。

「本日のご予定はいかがいたしますか?」
「……王太子殿下のご予定はわかる?よければ、お茶をご一緒できないかお伺いして。カフリンクスもお返ししたいし、ケーキもお届けしたいから」

 突然の訪問などはあまりしないほうがいいだろう。ただでさえ忙しい方なのだし。

「かしこまりました。すぐにお調べいたします」

 リリア、その含みのある笑みをやめてほしいです。何か恐いから。

「……その予定の件と一緒に、近衛の公館に行くことの許可も取ってきて下さい」
「直接行かれるのですか?」
「はい。……伯爵にお願いしたいこともあるので」
「使いを出しますが?」
「私がお願いするのですから、私が出向きます」

 それがスジだと思うのだ。
 リリアが小さな溜息をつく。

「……なぁに?」
「いえ。妃殿下がお人形でなくなったのは嬉しいのですが、下手に行動力があるのも困りものだと思いまして」
「これでも、だいぶ遠慮してます」

 お姫様ぶりっこしてます、かなり。

「……ずっと遠慮してて下さいね」
「状況によりけり、ですね」

 私は静かな笑みを浮かべ、リリアは溜息をついた。




 王太子殿下の宮は、相変らず静寂に包まれていた。
 私が案内されたのは、先日と同じ部屋だった。殿下は、もう白薔薇が咲いていない庭をぼんやりと眺めている。

「おはようございます、殿下」
「おはよう」

 ゆっくりと殿下は私を見る。あれ、もしかして不機嫌?何でだろう?

「昨日はすいません。寝入ってしまって……」
「いや。格別の用事があったわけではない」

 うん、やっぱり不機嫌だ。声のトーンとか、表情とかでわかる。

(おお、わかるなんて、なんか夫婦っぽいぞ)

「外出をしたいと聞いたが……」

 なるほど、それがひっかかったのか。
 だから、朝のお茶なんだね。……私としては午後のお茶のつもりでいたから、朝のお茶を指定されたのはちょっと意外だった。
 
「はい。近衛の公館へ……シュターゼン伯爵にお願いがあるのです」
「願い?」
「はい。……私の家庭教師であったルハイエ教授が亡くなられてからだいぶたちますが、次の家庭教師がまだ決まっておりませんので……伯爵にお願いできないかと思いまして」

 シュターゼン伯爵は武人でもあるが学者でもある。当然、私の家庭教師をすることができる。伯は私に剣を捧げているのだから、命じればそれでいいのだけれど、やはり、教えてもらう身としてはそれはちょっとどうかと思うので、直接依頼をしようと思ったの。

「何か知りたいことでも?」
「はい。いろいろとたくさん」

 にこやかに答えると、殿下はちょっと首を傾げる。

「………例えば?」
「例えば、食用のチーズが何種類くらいあるのか、とか」
「チーズ?」
「そうです。柔らかいものや硬いもの、白いものもあればオレンジのものもあります。原材料……乳牛や水牛やヤギの乳であるかなどで違いがありますよね。あと、製法によっても違いがあると思うのです」
「………………そうだな」

 何?その、困惑した表情は。

「別にチーズに限ったことではないです。食べ物って地方ごとに特色がありますよね」
「ああ」
「……そういうの、知りたいんです」

 何があって、何がないのか。個人的にとっても大事。

「………………知ってどうするのだ?」
「食べてみたいです」

 にこにこと私は笑顔を向ける。
 実は私には探している食材がある。そう、カカオ。コーヒーがあるなら、カカオだってあるはずだ。
 それから、サツマイモ。スイートポテトを作りたいです。それにいざという時にも役に立つし。
 あと、もし見つかればソバとワサビ!

「それで?」
「例えば、寒冷地で痩せた土地でも育つ作物がわかっていたら、それを他の地域の似たような土地で栽培する事も可能だと思うんですね」
「……なるほど、それはおもしろい。適した作物を作ることが出来れば、少なくとも餓える事はない」
「はい。……それに、あくまでも小麦に拘るなら、それを売って小麦を買ってもいいわけです」
「ああ」

 大切なのは、安定した生産高を得る事だ。

「あと、お酒やお茶。地域によって違いますよね。同じ麦酒でも北部と南部ではまったく違います。芋で仕込むお酒や、麦で仕込むお酒や、米で仕込むお酒……いろいろあります。きっと皆地元のものが一番だと言うでしょうが、それぞれがそれぞれにいいところがあると思うんです」
「そうだな」

 ダーディニアは広く豊かな国だ。国土が広いせいで、それぞれの地域では文化も習慣も気質もまったく違う。南部と北部などは同じ国とは思えないほど違うし、東部と西部もまた違う。
 建国時のいきさつから、多様な民族を内包する国家であるが、それゆえの争いも多い。特に南部と北部の人間は伝統的に仲が悪いと言われている。
  
「そういうのを知って、皆にも教えてあげたい。互いに良い所を認め合うようにすればいいと思うのです。……私は政治とかの難しいことはわからないですけど……『おいしい』は万国共通だと思うので」
 
 人によっておいしく感じる味は違うものだけど、『おいしい』と感じる気持ちは一緒だ。

「私は、この国のいういろいろなことが知りたいです。どこの地方ではどういうお祭があるか、とか。どういう風習があるか、とか。食べ物の違いだけでなく、……文化とかそういうものも知りたい」
「なぜ?」
「だって、自分の国のことじゃないですか」

 私の国……そう、ダーディニアは私の国だ。
 今は、はっきりと言い切れる。
 日本を忘れたわけではない。でも……それは、今はもう遠い。
 まるで夢だったように感じている。……鮮やかで生々しい夢。まるで胡蝶の夢のように。

「良い心がけだ」

 王太子殿下は、わずかに笑った。
 そう。今の、笑顔だと思う。本当にわずかだったけど……。

「歴史についてだいぶ学んでいたようだが……」

 あ、やっぱり、気づいていたのかな?アルティリエのしていたこと。

「はい。それも、無駄なことではなかったと思います」
「ああ、そうだ。無駄なことなどない」
「でも……あまり覚えていないのです。そのあたりのこと」

 うっすらと記憶はあるけれど、はっきりとしていない。

「……そうか。もったいないな」
「そんなことないですよ、別に大学に入学することがすべてじゃないですから」

 アルティリエは大学に入学するつもりだったかはともかくとして、いずれ、受験しようと考えていた。
 残されていたノートや論文の下書きを見ればそれはわかった。

「そうなのか?言語と歴史は水準に達している。……法律も一年もしっかりとやれば入学できないことはあるまい」
「…………なぜご存知なのですか?」
「自分の妃のことだ。知っておくべきだろう」

 リリア、バレてるよ。たぶん、知らないだろうって言ってたくせに。
 私は、少し温くなったお茶に口をつける。
 おやつはクッキー。ちょっと固かった。ちょこっと牛乳いれればさくっとするのに。

「……忘れてしまったから何とも言えないんですけど、入学するつもりはなかったと思います」
「なぜだ?」
「だって……学者になってどうするんですか?もっと、大事なことがあるんですよ」
「大事なこと?」
「……殿下、私は殿下の妃なのです」

 それが、アルティリエにとって一番大事なことだった。だから、アルティリエの署名はいつも王太子妃 アルティリエ[アルティリエ=ディス=ダーディエ]だった。

「だからといって学びたいという意欲を制限する必要はあるまい」
「学者になりたかったわけではありません。殿下に相応しい妃になりたかったのです」
「……………………そうか」

 大きく見開かれた瞳。こんな表情は初めて見る。
 何をそんなに驚いているんだ、この人は。

「そうです」

 私はきっぱりと言う。
 王太子殿下はちょっとだけ困惑したような表情をし、それから、また少しだけ口元をほころばせた。
 殿下が笑うと、何か企んでそうで怖いなぁと思ったのは内緒。


 
 たまりかねた殿下の秘書官が乱入してくるまで、私達はまた二人で静かにお茶を飲んでいた。




 2009.05.28初出



[8528] 19
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/29 20:56
 19



「妃殿下、王妃殿下からのお茶会のお招きがございました」

 差し出されたのは銀色のお盆の上のカード。双頭の竜の王家の紋章がエンボス加工されてる。
 すごい、どうやって作っているんだろう?すごく細かくて感心する。 
  
「……………困る。マナーとか覚えてないのに」
「王太子殿下と毎朝、お茶をご一緒している方が何をおっしゃってるんですか。問題があればとっくに殿下が注意してらっしゃいますよ。王太子殿下は厳しいんですよ、そういうの」
「だって、女の人のほうが細かいでしょう」

 女の敵は女なんだよ、リリア。

「お断りすることはできません。王妃殿下のお招きというのは、命令ですから」
「はい」

 気が重い。えーと、何か楽しいこと考えよう。

「あ、そうだ、リリア、今日はお夕食はこちらでとらないから」
「どうかしましたか?」
「王太子殿下が、たまには夕食を一緒に食べようっておっしゃったの」

 初めての夕食のお誘いだった。
 ちょっと嬉しい。
 朝のお茶も良いけど、夕食を一緒に取るって親密な感じするでしょ。

「まあ……良かったですわね」
「うん。殿下と一緒ならごはん、おいしいかなぁ?」
「殿下にまずいものは食べさせないと思いますよ」
「そうだよね」

 楽しみだよ。何が食べられるかな。
 夕食は煮込み料理が基本だから、食べられないほどまずいものってあんまりないと思うんだよね。

「で、現実逃避は終了して、王妃さまのお茶会ですけど」
「……うん」

 リリア、容赦なし。
 どうも、最近、立場が弱くなった気がする。

「明後日の午後になります。お衣装は先日仕立てあがったものがありますから」
「……袖とか、レースばっさばさじゃないよね?」
「大丈夫です。間違ってもお茶に袖のレース突っ込んだりしないようなデザインになってますから」
「ありがとう」

 笑い事じゃないんだよ。いま、ダーディニアの宮廷では、レースが流行ってるの。
 わざわざレースたっぷりの付け袖するくらいなんだから。男の人だってレースフリフリだよ。

「……王妃殿下と二人きりじゃないよね」
「違います。後宮の女性方全員をお招きですから」
「良かった」

 それだけでもちょっとは気が楽になる。

「王妃殿下が苦手でらっしゃいますか?」
「……………うん。実は」

 いや、王太子殿下も最初は恐かった。このタイプは絶対に無理だと思ったもん。でも、今は何でもないからそんな風に思うのは申し訳ないことだ。
 でも、あ、ダメ……とか、苦手……って思ってしまうのって、どうにもならないよね。理性でそう思うわけじゃないから。

「妃殿下は……4歳から9歳くらいまでを王妃殿下の手元でお育ちになったんですけど……」

 覚えてらっしゃいませんよね、その分だと、とリリアが苦笑する。

「うん。……えっ。じゃあ、ここの宮は空だったの?」
「はい。建設されてから1年とちょっと……妃殿下が4歳の時に、台所を潰すことになった例の毒物事件があったんです。それで、妃殿下は後宮の王妃様に引き取られたと聞きました」
「……………………ごめん、欠片も覚えてない」

 第一王妃ユーリア殿下……王太子殿下のご生母。つまり、私には義母であり、養母であるという方。
 なのに、まったく蘇ってくるものがない。
 ここまで綺麗さっぱり覚えてないのは珍しいよ。だいたい、おぼろげに何か覚えているのに。

「妃殿下が王妃殿下の手を離れ、こちらにお戻りになったきっかけは、王太子殿下に側妃をというお話が出たからなんです」
「そういう話があるのが普通だよね」

 年齢も年齢だものね。

「ですが、王太子殿下はそれをきっぱり拒絶されまして……自分の妃がいつまでも本宮にいるからそんな話が出るのだとおっしゃって、妃殿下をこちらにお迎えになりました」
「……で、一週間とたたないうちに賊に襲われて乳母が亡くなったと」
「…………はい」

 何故ご存知なのですか?とリリアが問う。

「殿下がいろいろ話してくれた。皆はそういったことを隠すだろうが、覚えていないことで危険に踏み込むかもしれないからって」

 あの淡々とした口調で事件の詳細を話してくれた。
 殿下の目線はとても客観的で、話もまとまっていてわかりやすい。
 ここ最近の話題は、だいたい殿下の知っている私の過去話だ。

「……………………お茶の時間にふさわしい話題じゃありませんよね」
「ナディル殿下にそれを言っても無駄」
「……そうですね」

 そこで納得されるのが王太子殿下の為人[ひととなり]だ。

「犯人はティレーザ家に雇われた三人の男と一人の女。女は、こちらの宮を開く為に新たに雇われた侍女だったと聞きました」
「そうです。ティレーザ家というのは、当時、国王陛下の寵妃とまで言われていた愛妾リリアナ様のご実家でした」
「乳母のマレーネ夫人は、当夜、こちらの宮に宿泊するはずだった王妃殿下と間違えて殺された……と」
「はい。……王妃殿下は夕食まではこちらにいらっしゃったのですが、お風邪を召して、万が一にも妃殿下にうつしてはならないとおっしゃって本宮にお戻りになったのです」

 王妃殿下が義理の娘である私の宮に宿泊するという意味があんまりよくわからない。
 離れたくないと思うほど仲が良かったのだろうか?

「私と王妃殿下は仲が良かったの?」
「さあ……こちらには当時を知る人間はほとんどおりませんから……私がこちらに参りましたのも事件直後ですし」

 まあ、そうだよね。うちの侍女たち皆若いし。

「私がお目にかかった時にはもう、妃殿下はほとんど周囲に関心を示していませんでした」

 そう。その時には私は既に人形姫だったわけか……。今度、殿下に聞いてみよう。いつからお人形になってしまったのか。

「襲撃犯はどうなったの?」
「賊はすぐに取り押さえられて、裁判の後、死刑を宣告されました。……この事件の処分はかなり大きなものになりました」
「どうして?」
「妃殿下が巻き込まれたことで、国王陛下が激怒されたからです。結果、襲撃を命じたディレーザ家の当主一家は領地召し上げ。家名断絶。当主とその子息は死を賜りました。リリアナ様は修道院に送られ、そこから出ることを生涯禁じられました。また、ディレーザに連なる家は貴族院の名簿から削除されました」

 貴族院の名簿から削除されるということは、貴族でなくなるということだ。
 張本人は自業自得だが、何処まで知っていたかわからない人々も数多く巻き込まれたのだという。

(でも……)

 私がエルルーシアを殺した犯人に望んでいるのもそういうことだった。
 
「国王陛下は温厚でらっしゃいますが、妃殿下に関する限りそれはあてはまりません。陛下の妃殿下に対するお心遣いは、並大抵のものではないのです」
「……ちょっと行き過ぎだよね」

 私が言うのも何だけど。
 ……それだけ、陛下は私の母に対する後悔の念が強いのだろう。

「そうですね。……でも、これまでもいろいろありました妃殿下に対する事件の犯人は、捕まれば死刑で、首謀者は家門断絶というのがパターン化しています」

 嫌なパターン化だ。

「事件後、陛下は妃殿下を後宮に戻すように命じましたが、王太子殿下がそれを止めました。『アルティリエは、後宮の女ではなく我が妃である』とおっしゃいまして」
「……王太子殿下は、後宮があまり環境がよろしくないからっておっしゃってたわ。後宮で女達のくだらない争いに巻き込まれたり、余計なことを吹き込まれたりするのも厄介だからって」
「もうちょっと言い方ってものがあると思うんですけど……」

 殿下は私と話す時、まったく言葉を飾らない。
 いつも不機嫌そうに見えるし、そっけない口調は、時々怒られてるんじゃないかと錯覚しそうな時がある。
 最初に見た時のあの空虚な作り笑いもなければ、甘い声音で話し掛けられることもない。
 
 ……私は、それでいい。

「でも、それが殿下だから……」
「随分と仲良くなられたようで、妃殿下の侍女としては嬉しい限りです」
「……リリア、からかわないで」
「からかってなんかいません。事実を述べたまでです」


 嘘ばっかり。絶対からかってる。
 そんなこと言われると意識するでしょ。別にそういうのじゃないのに。




 2009.05.29 初出



[8528] 20
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/05/30 15:51
 20



「…………………殿下、これが今日のお夕食ですか?」
「ああ、そうだ」

(こう来るか!)

 うん。本当にね。
 王太子殿下って私の予想の遥か斜め上を四回転ジャンプしてるような人だと思った。

「君が来るから、将官用のものを用意させた」
「………………」

 その気遣いの方向が何か違うと思うのは私だけでしょうか。
 目の前のテーブルには、縦に少し長い金属の缶。
 見たことあるよ……エルゼヴェルトのお城から帰ってくるときに。
 確かにあの時、ちょっと欲しいなーって思いました。その缶でお湯も沸かせるって聞いて。

「将官用の携帯糧食は乾燥果物の種類も豊富だし、ジャーキーも三種類ついてくる」
「………………」

 殿下の主食がこれだっていうのも知っていました。
 でもね、でもね、ワクワクしてた私の気持ちを返せ。
 殿下の為に作られる夕食ならおいしいかもしれない!と期待していた私の気持ちは思いっきり裏切られた。

「アルティリエ、どうかしたか?」
「………………いいえ。携帯糧食に将官用とかそうじゃないのがあるんだって初めて知りました」

 リリアに話したら絶対に笑われる。
 新しいドレスに着替えてきた私のバカ。

「これでなかなか種類が豊富なのだ。軍ごとに納入業者も違うしな」
「なぜ違うんですか?」
「一つの業者に固定すると賄賂やら何やらがはびこるからだ。その点、競争があるとわかれば価格もやたらとあげることができないし、工夫もする。基本的に常備軍というのは金喰い虫だ。できるだけ経費は省きたい」

 そうなんだ。……でも、軍隊にお金がかかるというのは本でも読んだことある。そういえば、新聞で読んだ自衛隊の年間予算の巨額さに眩暈がしたことあったなぁ。どこの世界でも軍隊というのはお金がかかるのは同じなんだな。

「殿下、食べ比べたりなさるんですか?」
「まあ、飽きるからな」
「………………そうですよね」

 毎日このシリアル入ったビスケットじゃ飽きますよね。
 私はあの旅行中に何回か食べただけだけど。
 ……何か、殿下は少し機嫌が良い。何か良い事があったんだろうか?

「……殿下、外で食べませんか?」
「外?」
「せっかく携帯用で持ち運びも楽なんですから」

 せめて、夜のピクニックと洒落こもう。

「外は寒いのではないか?」
「外套をとってきます」

 外に出るチャンスは逃さないぞ!
 自分のところの中庭しか知らないので、そっちの宮の奥に見える塔とか行ってみたい。

「いや……外出するとわかるといろいろうるさいから」

 外出って大げさな。あの塔の上とか、奥の庭にある東屋とかでいいんですけど。
 ああ、でも、いつも中庭に出るだけでもいつも護衛が二人もつくから……庭でも外出になるのかもしれない。
 私をじろりと見てちょっと考えていた殿下は、席をはずし、すぐに外套を手にして戻って来た。
 グレイのツイードみたいな生地のフード付の外套はなかなか可愛い。

「私が幼児の頃に使っていたものだ。サイズは問題ないだろう」

 ……どうせ、私は小さいですよ。
 



 抱き抱えられて、夜の庭を横切る。

「……自分で歩けます」
「歩幅が違うし、君は道をよく知らないだろう」

 確かに。私が知ってるのは王太子妃宮と王太子宮の一部だけだ。夜に外に出たことなんてまったくない。
 こちらの夜は、真の暗闇。
 街灯なんていうものは存在しないし、殿下は何も光源となるものを手にしていない。
 幸い、今日は月がとても明るいので目がなれればそれほど不自由がない。
 
「え……?」

 空を見上げて、気づいた。

(月が二つある……?)

「月が、明るいですね………二つとも……」
「そうだな」
「……ええ……」

(そうか、二つで普通なんだ……えーと、えーと、前に夜空を眺めたのは……あー、エルゼヴェルトから帰ってくる時だから……あの時は、月が出てなかった。……そうか、新月か……)

 記憶は、まるで雪が降り積もるように少しづつ蘇っている……そこに、私の33年間の記憶が混ざり、現在が重なってゆく。
 緩やかな統合……私はアルティリエで、アルティリエは私である。それに違和感を覚える事はもうない。
 でもこれは……久々にショックを受けた。うん、衝撃だ。

「月が珍しいのか?」
「……夜にあまり外に出たことがないので」

 珍しいどころか、初めて見ました、実は。

「それもそうだな」

 そういえば、夜にベランダに出ることすらなかった。暗くなるとブ厚いカーテンひかれるし……気づかなかったわけだ。

「……しかし、君は相変らず軽いな。ちゃんと、食べているのか?」
「食べてます。おやつもしっかり」
「そのわりには全然太らないじゃないか」
「……いいです、太らなくても」 

 別にがりがりっていうわけでもないし、食事制限なんてしてないですから。いや、時々、自主的に制限する羽目になったりしてるけど。でも、おやつで補給してるから!

「もっと太らなければ、壊してしまいそうで怖い」
「は?」
「君は細すぎる。こうして抱えていてもわかるが……ちょっと力をこめたら、折れてしまう気がする」

 殿下は、武人としても名高い。まっちょな感じは全然しないが、服の上からでもしっかり筋肉がついていることがわかる。鍛えられた身体……きっと力を込めたら私の腕や脚なんてぽっきりだ。

「……子供ですから大人に比べれば小さいし、骨だって細いんです。殿下の力だったらぽっきり折れると思うので、取り扱いに注意してください」
「わかった」
 
 取り扱い注意!天地無用!ですよ。
 王太子殿下は、私を荷物か何かだと思ってるようなとこあるから注意してもらわないと。
 でも、目線が高くなるのは嬉しいし、楽ちん。首にしがみついていると、なんていうか……うん、お父さんとか呼びそうになるよ。

「どこまで行くんですか?」
「……せっかくだから街に出よう」
「街?」

 目がきらきらしてたと思う。

「ああ、夜は昼間とはまた違う顔がある。……君は昼間の街も知らないか」
「外になんてほとんど出たことがないです」
「そうだな」

 私が自由にできるのは王太子妃宮だけなのだ。
 王太子妃宮は、建物がロの字形に配置され、その周囲をとても高い塀が取り囲んでいる。ここの塀は王宮の他の塀の1.5倍の高さがあるそうだ。
 塀の東側の一角だけが王太子宮とつながる回廊に接続していて、ここには両端にそれぞれ二人の衛士が常時立っている。

 かなり広いから、閉塞感を感じたりはしないけれど、閉じ込められている感はある。
 四方を建物に囲まれた中庭から空を見上げる時、いつも、自分が檻とか籠の中にいるような気がする。まあ、お姫様なんてそんなもんだろうな、と思っているから今のところはそれほど不満でもない。
 物語のお姫様はよくお城を抜け出すけれど、そんなの私には無理だ。外に出る前に回廊を出たら迷子になるね。

「……いつか、必ず、籠の中から出してやる」 
「籠の中、ですか?」
「ああ。……あそこが君を閉じ込めるための籠であることは、あの場所を作り上げた私が一番良く知っている」

 耳元で聞く殿下の声。
 私は殿下の首にしがみつき、殿下は私の身体を抱き抱える。
 互いにこれ以上ないほどに近くにいるのに表情はわからない。
 殿下の声音に、どこか後悔の響きが入り混じっていたから、私は深く問うことはしなかった。
 代わりに、ちょっと笑って言った。

「随分と広い籠ですね」

 私一人の為に大げさです、と付け加えた。

「……………君は、おもしろいな」

 くつくつと殿下は喉の奥で笑いを漏らす。

「それ、褒め言葉じゃないですよね?」

 褒め言葉には聞こえない。

「いや、褒め言葉だよ。……おもしろい。君のような女は他に知らない」
「……どうせ子供です」
「いや……君は大人だよ。……少なくとも、記憶をなくした後の君は」

 息が止まるかと思った。

「どうした?」
「……いいえ。びっくりしました」
「何が?」
「………記憶を無くす前のことを、私はあんまり覚えていませんから、大人だって言われてもよくわからないです」

 あー、心臓ばくばく言ってます。殿下、気づいてるかな。
 今、全身でびっくりした。

「実のところ、私も記憶を無くす前の君をあまり知らない。報告は聞いていたが、直接接することはあまりなかった」
「なぜですか?」
「…………………自分の罪を思い知らされるからだ」
「私を見ると?」
「ああ」
「何かしたんですか?」
「………何もしなかった」

 それこそが、私の罪だ、と殿下は言う。

「君が、人形になったのは私の責任だ」

 殿下は何をご存知なんだろうか?
 知りたい、と思い、聞くのが怖い気もした。

「……どういう意味ですか?」

 でも、それは大事なこと。そのうち、聞こうと思っていたことだ。

「君が後宮にいた時、私は何もしなかった。無関心だったと言っても良い。私が気付いた時、君はもう人形になっていた」
「……何歳くらいの時ですか?」
「私が気付いたのは、8歳の誕生日を迎える少し前だったか……母上のところに用事で行った時に君がいて、君が一言も話さず、私をまっすぐと見もしないことに気づいた」
「……8歳、ですか……」

 人形と言われるほど心を閉ざしてしまったのは後宮にいた時なんだ……乳母が死んだ時なのかと思ってた。

「それまでは気づかなかった。……幼児に特別な感情をもつ嗜好はないし、何よりも私は忙しかった。あの当時は大学にも通っていた。また、北の方でシュトナック銅山を巡ってのシュイラムとの小競り合いも続いていた。君に関心を払う余裕がなかった」
 
 殿下はシュイラムとの一連の戦いで武名をあげた。北方師団の一大隊とアルハンの国境警備隊の混成部隊約三千でシュイラムの一万五千の大軍をイドラック平原で撃破したのだ。
 シュイラムでは、殿下は「黒太子」とか「黒の魔王」とか言われているそうだ。殿下の鎧が黒を基調にしているからなんだろうけど、彼らはよほど恐ろしい思いをしたんだなぁと思った。だって、『魔王』ってちょっとすごいよ。
 
「それが、普通だと思います」

 妃とはいえ、幼児を相手にしている暇がなかったことは容易に想像がつく。

「だが、私の怠慢だ。……例え、政略であろうとも君は私の妃であり、私が守らねばならなかった。エルゼヴェルトとの関係が微妙なものであり、公爵が強く出られない以上、私以外に君を守る人間はいなかったのに」

 私がそれを怠ったせいで、君は感情を無くした、と殿下は言った。淡々とした表情だったが、殿下がそのことに痛みを覚えている事をわかった。

「……すぐに取り戻そうと思ったが、君に執着していた父上が後宮を出す事を認めなくてね……仕方がないので、搦手から手を回し、側妃の話が持ち上がるように仕組んだ」

 え、すごいぞ、殿下。あれって殿下が自分で仕組んだことだったんだ。

「それを理由にやっとこちらに引き取った……直後のティレーザ事件のせいで、父上は後宮に戻せと騒いだが、塀を高くしてあんな鳥かごのような宮に作りかえることでやっと黙らせたのだ」

 籠は、中に閉じ込めるだけのものではない。
 ―――――――― 籠の中のものを守ること。
 それもまた、籠の役目だ。

「……ならば」

 殿下が私の言葉に耳を傾ける。

「……ならば私は、殿下がいいと言うまで、籠の中にいます」

 大丈夫。私は臆病だからちょうどいいです、と言うと殿下は弾けたように笑った。
 ……真面目に言ったのに。
 言っておくけど、ここ、笑うとこじゃないですから。
 



 初めて見る、王都アル・グレアの下町の一角は、光に溢れていた。

「すごい……」

 こちらに来て、こんなにも明るい夜をはじめて見た。
 どっからこんなに人がわいてるの?っていうくらい人がいる。夜の新宿もかくや……というようなランプの光・光・光。

「このあたりはユトリア地区といって、基本的に、国軍か王宮の人間を相手に商売をしている地区だ。飲食業が特に多い。兵舎には格安の食堂はあるが味のほうはそれほどでもない。このあたりの飲食店は兵舎の食堂に少し出せば格安でうまいものが食べられる」
「……殿下もこういうところで召し上がったことが?」
「ああ。何度か……まあ、私も携帯糧食だけで暮らしているわけではない」

 私は思わず疑いの眼差しを向ける。

「なんだ、疑っているのか?」
「……将官用の携帯糧食出されましたから」

 口を尖らせる。
 これは言わば初デートの時のディナーが乾パンと缶詰だったようなものではないだろうか。コンビニ弁当ですらない。

「あれは……そうだな、試したところもある」
「試す?」
「君がどういう反応を示すか、だ」
「?????」
「あれで怒りも呆れもせず、媚びもしなかった女は君だけだ、アルティリエ」
「……いつもそんなことしてるんですか?」
「まあ、概ね」

 殿下の顔を覗き込むと殿下は口元だけでにやりと笑った。
 ……とてもリラックスしているようだ。

「ああ、ここでは、殿下とは呼びかけないように」
「……何て呼ぶんですか?」
「私の名はナディルだよ、アルティリエ」
「ナディル様?」
「ああ。男でナディルという名前は珍しくない……特に私が生まれた後は」

 殿下にあやかって名付けた親が多いということなんだろう、きっと。

「君のことは……そうだな、ルティアと呼ぼうか」

 さすがに名がナディルとアルティリエではすぐにバレてしまうだろう。
 ただでさえ、王家の人間の肖像は市中にいやというほど出回っている。王都の観光土産用に肖像画カードや複製画などをはじめとし、絵皿やら絵付のカップやらが売り出されているからだ。
 私と殿下のものは人気が高いらしい。いくつか見せてもらったけれど、中にはものすごく似ているものもあって、なかなかあなどれない。

「ティーエと呼ばれるのは苦手だろう?」
「……はい」

 ティーエと呼ばれる中に含まれる甘さが苦手だった。どうしてかわからないけれど……それは、アルティリエの心に深く刻まれたものなのだろう。
 王太子殿下をのぞけば、国王陛下と王妃殿下くらいしか呼ばない呼び名ではあるけれど。

「……嫌っているのを知っていて呼んでいた。ティーエと呼ぶと、君はほんの少しだけ眉をひそめる。本当にそれくらいしか反応しなかったのだよ」
「………………………」

 なんだろう。なんかすごく突っ込みたいような。

「……何かな?その眼差しは」
「いいえ。でん……いえ、ナディル様には意外に子供じみた所がおありです」
「…………そう言われるのは、不本意だ」
 
 殿下がちょっとだけ苦い顔をされる。

「事実ですから」

 私はさらりと言った。




 夜の街の光と熱気と喧騒の中で、私は改めて殿下のことを考えていた。
 ナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエという人のことを。



 
 2009.05.30 初出




[8528] 閑話 王子と副官
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/02 23:14
閑話 王子と副官



「団長、あんた、また料理人いびり出しましたねっ」

 昼下がりの執務室におなじみの怒声が響く。
 俺の書記を務めていた部下は、それをすべて聞き終わらぬうちに即座に逃げ出した。
 相変らず逃げ足だけはピカイチだ。

「いやぁ、いびってないって。ただ、ちーっと手を出しちまっただけで」
「どこの師団の師団長様が、宿舎の食堂の専属料理人より腕がいいんですか。恐れ入って逃げ出すに決まってるでしょう、まったく」

 そりゃあ、俺たちはウマイもん食えりゃあ嬉しいですけど、あんたが毎日メシ作ってるわけにはいかんでしょうが。
 アリスティア=ヴィ=エッセルヴィード……俺の副官であるステイが、溜息混じりにぼやく。

「いやぁ、俺はいいんだけどよ」
「よくねーよ。あんた、団長の仕事あんだろ」

 確かにな。

「あんた、なんで料理なんか趣味にしてんですか」
「そりゃあ、部下を操縦すんには胃袋つかむのが一番だからだろ」

 まあ、俺が食い意地が張ってるって言えばそれまでだが。
 でもバカにしたもんでもないぞ。うまいもの食わせてやれば、訓練でも何でも励むからな、みんな。

「れっきとした王子様でしょうが……」
「おう。王子だぞ」

 そう。これでも、俺はこのダーディニアの王子である。王子には見えないとよく言われる。
 フルネームは、アルフレート=ヴィルヘルム=ディア=ディール=ダーディエ。
 母は、第一王妃ユーリア。同母の兄は王太子ナディル。妹がアリエノールで弟はシオン。兄弟仲は極めて良好だ。
 宮廷序列から言うならば、両親と王太子である兄とその妃に次ぐ五番目。
つまり、上から数えた方が早い高位王族だ。
 だが、初対面の人間は俺が王子だと言うとまず信じない。
 いかにも王族的な兄や弟妹を先に見ていると余計に信じない。俺は兄弟達とはまったく似ていないからだ。
 隔世遺伝とやらで父方の祖父に似ているらしく、確かに肖像画の間にある先代国王の肖像は俺にそっくりで気持ちが悪い。
 俺にそっくりだと言ったら、「あなたが祖父王にそっくりなんですよ、アル」と弟に憐れみの表情で言われた。まったく小生意気な弟なんである。

「ちゃんと適当にやってるって」
「……ちゃんと適当って矛盾してるだろうが」
「それにしても、逃げることねーよな。三日くらいは別に普通にメシ作ってたんだぜ、一緒に」

 なのに、四日目には夜逃げしやがった、あの料理人。

「そりゃあ、あんたが王子で師団長だって知ったからでしょうが……」
「別に王子だからってとって食いやしねえっての」
「あんた、王子としては規格外もいいとこっすからね。まあ、だから、俺にこんな口きかせたままでいるんでしょうけど」

 普通、王子様をあんた呼ばわりしたら不敬罪ですよ、とステイがいう。おまえに、貴方とか殿下とか呼ばれても気持ち悪いと言ったら、当然だと笑った。
実際、呼び方なんてどうでもいい。俺を呼んでいることが判れば別に。
 それに、こいつは別に俺を舐めてあんた呼ばわりしてるわけじゃなく、こいつにとってはそれが普通なだけだ。そこに敬意がないわけではない。
 それがわかってるから気にならない。

「別に口の聞き方なんて、公の場でだけ改めてくれればどうでもいいさ」

 俺もそんなに褒められたもんじゃないからな。昔、家庭教師のじじいには一言しゃべるごとに突っ込みいれられてて、一時は一言も口をきかなかった。

「あんたのそういうとこは、俺らにはいいんですけどね……。でも、よく王宮でやってこれましたね」
「……兄上がいたからな。事あるごろにかばってもらってた」

 授業ブッちぎって抜け出した事を礼儀作法の教師が父上にチクりやがった時も、母上の女官にバッタ袋……文字通りバッタが山ほど入った紙袋……をプレゼントして宮中大騒ぎになった時も、庭の池でおたまじゃくし育てておそろしい音量のかえるの合唱団をグロス単位でつくっちまった時も、全部、兄上が上手く始末してくれた。
 授業ブッちぎったのはジジイの授業があんまりにも退屈で仕方なかったからだし、バッタ袋は……庭でたくさん集めたバッタは俺の宝物で、俺としては宝物をプレゼントしたつもりだったのだ。
 おたまじゃくしもそう。あれがカエルになるとは知らなかったので、あちらこちらの池や噴水などから集めてきて大事に隠していたのだ。成長した後は恐ろしい目に遭ったが。

(いや、一番恐ろしかったのは、兄上があのカエルを処理した方法か……)

 兄上は、カエルの合唱団をユトリア地区の食肉業者にひきとらせたのだ。……食材として。
 あの見た目さえ思い出さなければ、淡白でクセのないカエルは食材としてなかなか人気がある。そして、引き取られた食材は兄上の命でジャーキーにされて軍の携帯糧食の中に入れられた。
 俺は知らなかったから食えた。
 兄上は知っていても食えた。
 弟は知っていたから食えなかった。
 ……俺と弟は、一生兄上に敵わないと思った。
 いや、敵わなくていい。幼心に絶対にこの人だけは敵に回してはならないと思った。

 そんなこともあり、俺は兄上に頭があがらない。今は国教会で大司教の位に在る弟のシオンも、西公グラーシェスの嫡男の妃となった妹のアリエノールもそれは一緒だ。
 たった二歳年上なだけのあの兄は、癇癪もちでどこか危ういところのある父王やどこまでいっても王妃としての顔しか持たない母妃に代わり、俺達弟妹の保護者であり続けた。
 今でも事あるごとに思う。あの人がいなければ、俺達はきっとまともに育たなかっただろう。

「王太子殿下にですか?」
「そう。……あの人、小せえ頃からあの通りの人だからな。頭はいい、口は回る、外面完璧!」
「外面完璧って……本当は性格悪いんっすか?王太子殿下」
「悪いに決まってんだろ。一流の政治家が性格良くてやってられっかよ」
「まあ、そりゃあ、そうですね。何せ海千山千の化け物達相手にしながら国政を動かすんですから……」

『一流の政治家は、性格が悪い』逆を返して言うならば、『性格が良い人は、一流の政治家たりえない』
 これ、俺の持論。いわゆる良い人って奴は、良い政治家にはなれないと俺は思ってる。
 極端な例をあげると、良い人には、「一人を見捨てれば百人を助けられる」場面でその一人を見捨てることができない。その一人を救おうとして、結局はそれ以上の犠牲を払うハメになる。
 そういう意味で言えば、兄上はこの国で一、二を争そうほど性格が悪いといえる。
 いざという時の判断が非常にシビアで決して情でブレることがないからだ。
 結局のところ、政治家ってのは、清濁を併せ呑む事が出来、小を殺して大を生かすことができる人間でなければできないのだと俺は思う。
 小も大もどちらも生かすなんて言うのは、ただの夢想家か博打打ちだ。成功すれば英雄で、失敗すれば極悪人。それでは、一国の政を担う人間にはなれない。

「覚えてるか?去年の熱病」
「……はい」

 実例を挙げるならば、去年の冬におきた伝染病の処置がわかりやすい。

「兄上がただの性格が良い人だったら、あんな徹底した隔離政策はとれなかったさ」
「……確かに」

 『五日熱』と呼ばれるこの熱病が最初に発生したのは、隣のレサンジュ王国だった。
 最初は咳や頭痛の症状が出、次に高熱が出る。高熱が続き、物を食べることが出来ず、水すら飲むことができなくなる。そして、熱が出て五日間のうちに約半数の患者が死に至るというこの恐ろしい熱病は、熱の五日を乗り切ることができれば、死に至ることが無い。もし罹患してしまった場合は、何とかこの五日を乗り切ることが対処法といえる。
 五日熱に効くような薬草や処方などはわかっておらず、罹患しないように注意することが一番の特効薬だと言われるほど。
 どうやって病が起こるのかは不明だが、この病にかかっている人間の間近で長時間生活を共にしていると感染すると言われている。
 今では、研究の結果こうしてわかっている病の詳細も、まだこの時はどういった症状なのか、どうやって感染するのか等、まったくわかっていなかった。
 だが、この熱病がレサンジュで発生したことを知った兄上は、即座にレサンジュとの国境封鎖と西部国境に隣接する地域のすべての移動禁止を布告した。

 レサンジュに隣接していたのはグラーシェス公爵領ネーヴェと王室直轄領ネイシュの二つの都市だった。
 ネイシュは王太子直轄領の一つである。ゆえに、兄上の布告は当然のことながら徹底された。
 関所の外にテント村が作られ、レサンジュからの旅人はそこに収容された。門は固く閉ざされ、急ぎの公用飛脚であっても書類以外は通る事は許されなかった。
 そして兄上は、王都にある大学に医学者や薬学者の派遣を要請し、医療部隊を作ってネイシュに送り込んだ。
 案の定、テント村ではすぐに五日熱が発生した。
 医療部隊は、レサンジュを出発した日付順にテントを決めて隔離し、発病した者は更に隔離された。

 徹底できなかったのはネーヴェだ。
 ネーヴェもまたネイシュと同じようにテント村を作り、熱病にかかった人々に対応していた。
 この町の人々の運が悪かったのは、この熱病に対してさほど危機感をもっていなかったグラーシェス公爵が兄上から派遣された医療部隊の輸送に便宜をはからずに到着が遅れていたことと、ネーヴェにグラーシェス公爵家の避寒の別荘があり、そこに公爵家の家族が来ていたことだ。
 ここに妹のアリエノールがいたら、この話はまったく別なものになったに違いない。だが、残念ながらこの時、彼女は初子の出産の為にグラーシェスの本拠であるサディアールの城にいた。
 よって、そこには公爵妃とその娘一家しかいなかった。
 彼らは、寒空の下、テント村の病人達を哀れんだ。特に病人に子供がいると聞いた公爵妃は心を痛め、自らの別荘を一時的に病院として提供すると申し出たのだ。
 伝染病であることはすでに布告され、空気によって感染する恐れがあるからこその隔離措置である。だが、治療にあたっていた町の医師のその反対は聞き入れられなかった。
 120人にのぼる罹患者とその予備軍である70名ほどの旅行者とを別荘に移動させ、直後に現地に到着した医療部隊の人間は、その措置に唖然としたという。
 不幸中の幸いというべきは、移動禁止措置があった為に、ネーヴェに入った旅行者がネーヴェから出る術がなかったことだ。
 ネーヴェにはすぐに西方師団から二個大隊が派遣され、都市自体を封鎖することになった。兄上は、公爵家の一族の移動も許さなかった。

 一週間もたたぬうちにネーヴェの町には五日熱が蔓延した。
 ネーヴェで足止めされた旅行者達や、一時的に病院となった別荘にいた公爵家の使用人達やその家族から町中に広まったのだ。
 ネーヴェにおける最終的な死者の数は、526人。
 まだ5歳だった公爵の孫娘の一人もその中に数えられることとなった。
 だが、2500人以上の罹患者を出した事を考えれば死者の数は割合としてだいぶ少ない。
 医療部隊の活躍のおかげだった。
 このことは大学における医療研究に新たな道を開いたが、それはまた別の話になる。

 そして、医療部隊による隔離政策が徹底されたネイシュにおいては、国境のテント村に留められた約700名のうち、罹患者の総数は300名程度。死者は、43名だった。
 これはテントが六人用で、その細かく区切られた空間を利用して隔離を実施した為、二次感染しにくかったことが最大の原因であると後に医療部隊のレポートは結論づけている。
 ネイシュのテント村は、一ヶ月もしないうちに本来の役目を終えていたが、以後、半年の間はレサンジュからの五日熱の病人が駆け込んでくる医療キャンプとして使われていた。
 レサンジュの国民の一割が犠牲になったと言われる五日熱は、ダーディニアにおいては、西部の一部でほんの少し流行しただけで終わった。

 国境封鎖や移動禁止措置を出した時、兄上は非難された。
 レサンジュ王国からは正式な抗議の使者が来たし、経済活動に影響が出るということで、欲の皮の突っ張った貴族達が御用商人につつかれて兄上に配慮を求めたが、きっぱり撥ね付けられていた。
 一部の貴族は父上を動かそうとしていたが、そうこうしている間に、大学経由でレサンジュでの惨状が伝えられ、国境のテント村で最初の死者が出たことが伝えられた。
 すると、今度は情勢が一変した。
 非難の論旨もまた変わった。
 国境に留めおいていることすら手温いとする者や隔離した者を犠牲にして自分達だけが助かるのかと国の姿勢を非難する者が出て、社交界を二分する大騒ぎ。
 夜会で場違いな議論が繰り広げられたりもした。ネーヴェでグラーシェス公爵妃が別荘を提供したことが伝わって来た時のエリンデュラ伯爵の婚約祝いの夜会の時が最も騒がしく聞き苦しかったかもしれない。
 
 この間、兄上は何も発言しなかった。噂も耳に入っていただろうし、幾つかの夜会には仕方なく……兄上は夜会が嫌いだ……出席されていたが、議論も平然と黙殺した。
 兄上は頑固でもないし、自分の考えに凝り固まっているというわけではないが、他者の意見に左右されたりしない。
 基本的に自分が他人にどう思われようと気にする方ではないのだ。
 だが、ネーヴェで五日熱が広がるにつれ、批判の声は小さくなり、やがて、まったく聞かれなくなった。
 
 グラーシェス公爵妃の優しさは本物だった。
 寒空の下、何日もテントで野宿させられている病人を見捨ててはおけぬ……ましてや、その中には自分の孫と同年代の幼い子供もいたのだ。そう思ったのも無理もない。
 彼女は常日頃、孤児院に特別の寄付をしているほど子供に対して慈愛深い。それは決して領民に対する人気取りや、世間に対するポーズからではなかった。
 俺も知っているが、あの温厚で穏やかな気質の老婦人のまったくの善意の人なのだ。腹に一物どころか三物も四物も抱えている夫や、底意地が悪く冷酷な息子とはまったく違う。
 だが、その善意が余計な患者を増やした事は否定できない事実だった。

 結果として、誰の判断が正しかったのかは歴然としていた。
 この五日熱に対する対処は兄上の名声を更に高めたが、本人はどんな称賛の言葉にも心を動かされた風はなかった。
 そして、この一件に関しては、以降、何も口を開くことはなかった。
 俺は、その方策が正しいとわかっていても、兄上ほど徹底してそれを実施することができずに、結果、どこかの時点で隔離を緩め、熱病を蔓延させていただろう。
 強い信念と強靭な心……俺は決して兄上に敵わない。だが、不思議とそれを口惜しく思わないのは、あまりにもレベルが違いすぎるせいかもしれない。

「でも、王太子殿下っていつも穏やかで優しい方じゃないっすか」
「優しいのと性格が悪いのとは別の話だよ、ステイ。……別に俺は兄上が優しいということを否定しているわけじゃない」

 兄上は、常に穏やかでにこやかだ。ほとんどの人間が、『王太子殿下』をそういう人間だと思っている。
 下々には格別お優しくいらっしゃる……よくそう言われている。
 確かに『王太子殿下』は、お優しい。
 民を守り、民を慈しみ、民を導く……それが己の責務と心得ているからだ。
 職務上で接する部下達、あるいは、西宮の使用人達は、優しいがやや気難しいところもお有りになる、と言うかもしれない。
 大概のことに執着を持つことがない兄上だが、こだわりのあることに関しては妥協を許さない面を見せるからだ。
 例えば、それは宮内を静寂に保つことであったり、嗜好品……紅茶や珈琲……を楽しむことだったりする。
 兄上の家令であるファーザルト男爵は、宮内を静寂に保つ事を己の責務と心得ており、神経質なまでに音をたてないことを使用人達に強制する。あそこの使用人達は、皆、諜報部員になれるんではないかと思うほどに気配を殺すことに長けている。
 常日頃側近くで仕える彼らであっても、『王太子殿下』が、優しく思いやり深く、穏やかな人柄であることを疑う者はいないだろう。

 だが……。
 素の兄上は、ただ優しいだけの人ではない。
 優しいだけの兄上しか知らぬのなら、それは、兄上に『個』として認識されていないからだ。それは無関心であるがゆえの優しさである。
 本当の兄上は、他人に厳しく自分には更に厳しい。そして、だからこその優しさをお持ちだ。

 そう。兄上は優しい。
 ……繰り返すたびに、頭の中に蘇ってくる過去に、思わず涙しそうになるが。

「……表情が、言葉を裏切ってますぜ」

 どうやら目が泳いでいたらしい。

「いや、優しいことに疑いはないんだ。ただ、いろいろと苛烈でな……」
「……苛烈?」

 兄上を表すにあまり縁のない単語であると大概の人間は思うだろう。
 だが、同じ戦場に立ったことのある者ならそれほど疑問には思わないに違いない。

(ああ、そうか……)

 兄上は戦場にいる時のほうが素に近いな、と気づいた。
 『個』と認識した人間に対してはわりとぞんざいな態度をお取りになるが、それこそが特別扱いだ。
 
「一つだけ教えておいてやる、ステイ。あの方が笑っている時は注意しろ。……素の兄上は滅多に笑わない」

 完璧な外面……鉄壁の猫かぶり……シオンがいろいろと言っていたが、素の兄上は人形姫ほどではないがどちらかといえば無表情だ。
 笑っている時というのは不機嫌の絶頂、ブチ切れる一歩手前なことが多い。
 それを俺たち弟妹はイヤというほどよく知っている。  
 正直に言おう。
 俺は何が怖いって笑っている兄上が一番怖い。
 不機嫌な時ほどにこやかな笑顔……それは、見た目だけはとても爽やかで清々しい。
 だが、その裏で煮えたぎる怒りを考えたら……素手で冬眠明けのクマの前に放り出されたほうがマシだ。

「俺が王太子殿下に間近で接する事なんてないでしょうよ」
「いや……今、何か事が起これば動かされるのはウチだろうな」
「事?何かキナくさいことでも?」
「……さて……まだ、不確定だな」

 副官であろうとも話すことができないことはある。
 俺がただの中央師団の師団長であるというのならば問題はないのだろうが、俺はまがりなりにも王子であり、それがゆえに手に入る情報も多い。
 国内外に火種は幾つかあるが、最大の火種……いや、あれはもはや火種というよりは爆薬に近い……は、兄上の手の中にあるから安心であるとも言える。
 最大の火種……王太子妃アルティリエ……エルゼヴェルトの推定相続人である12歳の少女。
 この国で最も厳重に守られている姫君。ある意味、国王である父上以上にその警護は厳重だ。

「近衛を動かさないってことはお貴族様絡みってことですな」
「ああ」
「王太子殿下が直接動くとなると、原因は、籠の中のお姫様ですかい?」
「そっちは直接には……いや、結局のところ、最終的にはすべてそれに行き着くのか……俺にはわからんが」
「この間、エルゼヴェルトの城でしくじったんでしょう?近衛の連中」
「……らしいな」

 確かに場所がエルゼヴェルトの城で、供を王宮のようにべったりと貼り付けるわけにはいかなかったという事情はある。
 だが、警護対象を見失い、見つけたときは冬の湖に落ちた後だったわけで、あれで姫の命が失われでもしていたら……。
 姫が助かったのはひとえに運が良かったからに他ならない。
 それも、ほとんど奇跡的ともいえるほどの運の良さだ。

(姫が死んでたら泥沼の内乱へ一直線だもんな……) 

 そんな事は、たいして賢いわけでもない俺ですらわかる。
 あれが事故だなんて可能性は万に一つもない。あの人形姫は、幼い頃より自分が狙われ続けていることを誰よりもよく知っている。そんな子供が、一人で抜け出す事などありえない以上、攫われて突き落とされたであろうとことは明白だ。
 あの時の兄上は本当に恐ろしかった。
 まあ、それも当然だ。
 あの時、近衛は姫を囮にしたのだ。王宮よりも警護が緩むと見せかけた罠。
 なのに、その罠をやすやすと噛み切られ、逆に護衛対象を絶体絶命の危険に晒したのだ。
 ……姫の護衛たちは姫に剣を捧げていなかったら、どこに左遷されていたかわからない。

「記憶がないんでしたっけ?お姫さん」
「……どうやら、そうらしい。そのせいで、まったくの別人のようだと兄上がおっしゃっていた」

 そういえば、そう言った時の兄上は何やら奇妙な表情をしていたと思う。
 どこかくすぐったいような……何とも不思議な表情だった。

(あんな兄上の顔は初めて見た……)

「ステイ、おまえ、詳しいなぁ」

 もしかして、兄上から直接話を聞いている俺より詳しいんじゃないか?

「情報ってのは、時に剣よりも命を守る刃になりましてね……まあ、あんたにはそんなことまったく関係ないでしょうが」
「悪いが、俺はそっちはまったく門外漢だ。そういうのは、兄上に任せている」

 俺がどれだけ足りない頭で考えをめぐらせたところで、兄上を越えることはない。ならば、疑問は兄上に問えばいいんである。
 これは、俺が考えることを放棄しているってわけじゃない。単なる分業であり、兄上に対する信頼である。

「あんたって人は………それで、裏切られたらどうすんですか。人間は嘘をつくし、誤魔化すし、都合のいい事実しか口にしない生き物なんっすよ」
「兄上がそうするのなら、それには理由があるからだ。だからまったく問題ない」
「なんですか、その盲目的な信頼は」

 ステイはあきれ返った表情を向ける。

「なんだろうな……俺たち弟妹は、兄上に育てられたようなもんだからかな」

 それぞれに乳母はいたが、そうでない部分……肉親にしか埋められない部分を埋めてくれたのは兄上だった。

「あんたと王太子殿下は三歳くらいしか違わないでしょうが」
「あー、俺と兄上の三歳は、俺とシオンの三歳とはまったく違うから!」
「何、そこで胸はってんですか」
「事実だ」

 あの人が、俺やシオンやアリエノールに気を配り、愛情を注いで導いてくれなければ今の俺たちはいない。

 だから、俺は決めている。

 シオンが神の国の闇を統べあの人を助けるのだったら、俺は戦場においてあの人の剣になると。
 あの人の敵を屠り、あの人の為に闘い、そしていつかあの人の為に死ぬ――――――ただ一振りの剣で在ろうと。

「兄上は俺の最大の自慢だ」

 俺があんまりにもきっぱりと言い切ったので、ステイは深い溜息をついた。





「……で、最初に話戻しますけど、メシ係はどうしましょうか?」
「あー、野営中みたいに持ち回りでメシ当番決めて作ればいいんじゃねえの?」
「んな暇あったら、書類の山片付けて、自分の部下の一人もしごくに決まってるじゃないっすか」

 その為に兵舎には専属料理人がいるんです!!ステイが呆れた顔をする。

「じゃあ、次を募集すればいいだろ。中央師団の宿舎の料理人だぞ、悪い給料じゃないんだから応募なら山ほどくるだろ」
「……うちの宿舎は、料理人に『竜の穴』って言われて恐れられてんですよ」

 唸るように言う。

「なんだ?それ?団旗にひっかけてんのか?」

 ダーディニア王家の紋章は双頭の竜。ゆえに、国軍の六つの師団は竜の紋を掲げる。

「あんたは知らんでしょうが、竜の穴ってのは、『竜の誇り』っていう流行小説の中に出てくる、地獄の猛特訓で剣闘士を養成する武芸集団の養成所のことです」
「それが何でうちの宿舎なんだ?」

 国軍中央師団第一宿舎……中央師団の幹部を含めた猛者達がささやかな我が家として生活を営む場だ。ただし、入居できるのは騎士階級以上のみ。一般兵士は第二宿舎に割り振られる。

「あんたのせいです。あんたが味にうるさいから!!何度も作り直させたりするから、それが地獄の訓練だって!料理界の『竜の穴』だって言われてんですよ!!」

 口は出すくらいならまだしも、作り直しはさせるわ、しまいには手もだすわ、料理人達にとっちゃ毎日が地獄なんですよ!!
 自覚しやがれ!と鼻息荒く言い切られる。
 いや、そんなこと言われてもな……。

「俺は別にそんなすごい味を要求してるんじゃねえって。腐りかけた肉をごまかす為に濃いソースぶっかけたり、ハーブぶちこんだりするんじゃなくて、素材本来の味を生かした、まっとうなもんが食いたいだけだって」

 別に斬新な味は求めていない。ただ、普通にうまいものが食べたいだけだ。
 別に王宮の晩餐会の一流の料理人の味を求めているわけじゃない。あんなの三日で飽きる。

「あー、王太子殿下は味に文句をつけるのは騎士らしくないとあなたに教えなかったんですかね」
「あの人に食い物の話しても無駄。味オンチじゃねえけど、食えればいいと思ってんだよな。……忙しすぎてまともにメシ食えない人だから」

 兄上は俺を動かす最大のキーワードだが、何でも兄上の名前出せばいいと思ってるなよ。

「なんっすか、それ」
「公務での晩餐会なんかじゃないとまともにメシを食わない。携帯糧食のビスケットを水か何かで流し込んでメシおしまい、とか平気でやるから」

 軍の携帯糧食は基本が何かの肉類のジャーキーと干した芋を中心とした乾燥野菜、それから栄養価の高いシリアル入りのビスケットバーが五枚で一食のパックになっている。
 ジャーキーは酒のつまみに最適。乾燥野菜とかは子供にやると喜ばれる。
ビスケットは腹持ちをよくする為に雑穀が入っていて、そのせいでややパサパサしている。
 まずくはないが、おいしいものでもない。少なくとも、普通に食事がとれる状況で食べようとは思わない代物だ。

「……王子様ってもっと良い物食ってんじゃねえんですか?」
「やろうと思えばいくらでも贅沢はできるけど、あの人、そういうとこ頓着ないからな……食べるのは純粋に栄養摂取。だから三食全部携帯糧食って生活を一週間続けても平気で居られる。……俺は絶対に嫌だけど」
「三食全部……俺も嫌っすよ」

 そんな無味乾燥の食事は、戦場でもない限り御免被る。
 けど、兄上はそれをどうとも思わない。
 思わないところに、兄上のどっかおかしい根っこがちらっと掠ってる。それが何なのか俺にはよくわからないのがもどかしい。
 兄上は、立派な人だ。時として、敵からも称賛されるほどに。
 けれど、何かがものすごく欠けているように思う。
 三つ下の弟のシオンは俺より頭が良いから相談したことがあるが、三日くらい後に泣きそうな顔で俺たちにはどうにもできないと思う、と言ってきた。
 そういや、あのすぐ後だったな、あいつが王子としての身分を捨てて神学校に入ったのは。

「兄上の執務室の机の一番下の引出しにはあっちこっちの携帯糧食がぎっしりつまってるから、マジで」

 これの補充、兄上の一番下っ端の秘書官が最初に覚える仕事だから。
 ちなみに、その半分くらいは俺が提供してる。

「見たくないっすよ、んなもん」
「俺も見たくねーよ。人生、食事の回数は決まってんだぜ。できればまずいもんは食いたくないだろうが」

 俺は当然の権利を主張してるだけだ。

「男なら、食うもんにうだうだ文句はつけないでおきましょうや」
「バカ、兵士には食いもんくらしか楽しみねーだろうが。それがまずかったらモチベーションさがるっての」

 訓練漬けの兵士にとって、楽しみはそう多くはない。
 仲間内でのカードや酒保で支給の酒……それから、何といっても三度のメシ、これに尽きるだろ。
 今はもう立場が立場で、身分もバレてるからたいしたことはできないが、俺は入団当初身分を隠していたので、普通に皆に混じってカード遊びもサイコロ賭博もやったし、下町の娼館も行ったし、一般の兵士とおんなじ鍋のものを一緒に食い、同じ樽の麦酒をかっくらって騒いだもんだ。
 騎士だ何だと言ってても、結局のところ、メシがうまければ大概の不満はおさまる。
 大隊長とか中隊長とかやってたころ、俺はよく将校用の携帯糧食の一つであるレバーのペーストの瓶詰めとか、ビーフの瓶詰めだとかをくれてやって不満を並べ立てる口を封じた。酒保の麦酒や葡萄酒の切符なんかの威力は絶大だ。
 胃袋を握るってのは、生活に直結してるだけあって、本当にデカいのだ。

「とりあえず、次が決まるまでは俺の邸の方の召使にでもやらせるか」
「邸に料理人はいないんですかい?」
「いるけど、いい年齢のおばちゃんでな」
「なるほど」

 うちの兵舎は女人禁制だ。基本、兵舎は女の出入りを禁じている。じゃないと、自室に女をツレこむバカがいるからだ。
 女が騎士や兵士になれないことはないが、国軍においては近衛にしか存在しない。

「まあ、とりあえず今日のところは外に出ようぜ」
「そうですね」

 宿舎の食堂がなくても、近くに食べに行く店がないわけじゃない。
 兵舎の敷地を一歩出れば、ユトリア地区……いわゆる下町だ。国軍の兵士相手の商売をしている店が並び、安いメシ屋にも事欠かない。
 第二宿舎の食堂の方がもっと近いんだが、第二ってのは騎士にはなれない一般の兵士達の宿舎なんで、俺たちが行くと騒ぎになる。奴らもメシくらい上官のいないところで落ち着いて食いたいだろう。
 だいたい、メシ時の話題なんて気に入らない上官やら貴族やらの悪口が八割だ。
 それでストレス解消しているんだから、邪魔しちゃ悪いだろ。





「あー、殿下」
「でんかってなんだよ。変な呼び方すんじゃねーよ」

 ステイにそんな風に呼ばれると気色が悪くて背筋がむずむずする。

「すいません、団長……あれ」

 ひどく呆けた顔をしていた。

「……あれ?」

 俺はステイの視線の方向を見やる。

「……兄上か」

 簡素な外套姿の兄上だった。
 別に兄上の姿が外にあるのは珍しいことではない。時々、街におりていろいろと見て回っているし、花街に足を踏み入れることがあるのも知っている。
 珍しいのは、その腕の中に誰か小柄な……たぶん、子供がおさまっていることだ。

「……隠し子ですかい?」
「滅多なこと言うなよ。……兄上はそんなヘマはしない」

 子供が何やら兄上の耳元で囁くと、兄上は小さく笑った。
 ただ不意にこぼれてしまった……意図せずに浮かべられた小さな笑み。
ほんの一瞬だけのそれ。
 きっと腕の中の子供は気づかなかっただろうし、兄上自身も気づいていなかったかもしれない。
 それを目にした時、俺は、一瞬、頭の中が真っ白になった。

「じゃあ、あれ、誰です?」
「知らん」

 ふつふつと湧きくるもの……この身の裡に浮かんでくる感情を何と言い表せば良かっただろう。
 シオンならうまいこと言うのかもしれないが、俺はそれを表すのに相応しい言葉を知らなかった。
 一番よく似た言葉を選ぶとするならば、それは『歓喜』。
 歓喜……あふれんばかりの歓び。
 どうあらわせばいいのかわからないほどの強い喜び。

(ああ、そうか……)

 俺は兄上が特別な存在を見つけたのが嬉しかった。
 あんな風に笑いかける相手ができたことが嬉しかった。

(シオンやアリエノールにも教えてやろう)

 きっと、あいつらも喜ぶだろう。いや、やきもちをやくかもしれない。
 でも、俺たちはきっと、あの子供に感謝する。
 兄上に笑顔を与えてくれたことに心からの感謝を捧げるだろう。

 ふと、子供が俺たちの視線に気づいた。兄上に何かを告げる。

「え、え、え、こっち来ますよ、団長」
「ああ。……何か問題が?」

 兄上達に複数の影供がついていることを確認して、俺もそちらに足をむける。兄上には護衛がついていないように見えて、必ずついている。どんなお忍びであろうとも、それは徹底されている。

「兄上」
「……どうしてここに?」
「うちの食堂の料理人が逃げ出したもんでメシを食いに。兄上は?」
「……ピクニック、というそうだ。……そうだったな?」

 兄上は腕の中の子供に確認する。
 こくり、とフードの頭が揺れた。

「ぴくにっく?」
「外で簡易な食事をすることだ」
「簡易な食事?メシ屋ならそこらにいくらでもありますが……」
「違う。食事も持ってくるのだ」
「持ってくる……?」

 子供の手が、外套の隠しからごそごそと取り出したのは……携帯糧食の缶だった。

「……………………………」
「……………………………」

 俺とステイは無言でそれを見た。
 それは、どう見ても俺の提供した携帯糧食にしか見えなかった。

「あー、兄上、それはちょっとどうかと思うんですが……」

 確かに兄上の夕食はそれなんだけどな……。

「ルティアは気に入ったようだが」
「気に入ってません。思っていたよりはおいしかったですけど!」

 鈴を振ったような声とはこういう声を言うのかもしれない。
 細く……でも決して耳障りには聞こえない高音。

「……アルティリエ姫?」

 こくり、とフードの頭がうなづく。
 なぜ?と思う一方で、妃なのだからおかしくないとも思い、だが、姫はほとんど口を開かないはずだとか、記憶をなくして変わったとか言っていたなとか何とかいろいろなことが頭の中でぐるぐると回る。

「もう、夕食は召し上がったんですか?」
「はい。そこの公園で」
「……もう少し早くお会いできれば、いい食堂を紹介したんですが……」
「バカ、ルティアと私が一緒で店に入れるはずがないだろうが」

 王家の人間の肖像は市中にいやというほど出回っている。王都の観光土産用に肖像画カードや複製画などをはじめとし、絵皿やら絵付のカップやらが売り出されているからだ。
 王家の人間の外見はそれらによって一般人の知るところとなっている。まったく似ていない物も数多く存在するから、出回っているといってもそれほど気にすることもない。
 俺は半月前から髭を伸ばしているが、街にでていても髭のおかげでほとんどの人間に気付かれないくらいだ。
 だが、兄上と姫の肖像は、ダントツNO1の売上を誇っている。
 見た目だけなら、どちらもつりあいの取れた美貌の持ち主で、姫がやや幼いことをのぞけば申し分ない組み合わせなのだ。
 俺以上に広く知られているだろうことは間違いない。

「ああ、そうかもしれません」
「……だったら、次は屋台がいいです。さっきの公園に屋台がありました」
「屋台……」
「屋台で買って、あの公園で食べるの」

 声が弾んでいた。
 フードをかぶっているのと、暗いので表情はよくわからないが、それでも姫が嬉しそうだということは俺たちにもわかった。
 
「また、連れてきて下さいますか?」

 ふわりと笑った気配。

「ああ」

 兄上はうなづく。

「ありがとうございます」

 姫はぎゅっと兄上の首にしがみついた。
 色気とか媚びとかそういったものとは一切無縁の、とても可愛らしいしぐさだった。
 兄上は満足そうに、その背に手をすべらす。

(うわ……)

 なんか、下手なラブシーンよりよほど恥ずかしいと思うのは俺だけか。
 いや、別にムラムラくるとかそういうんじゃねえぞ。
 けど、こうくすぐったいというか……。

「そろそろ戻ろうか」
「はい」

 ……いい夫婦なんじゃねえの。
 時折、1歳にならない花嫁を腕に抱いて仮の結婚式に臨んだ15歳の兄上の姿を思い出すことがある。
 とてもじゃないけれど、まともな関係が築けるとは思えなかった。
 そもそも、兄上と姫の結婚は、父上の八つ当たりによる完璧な政略以外の何物でもなかったのだ。
 だが……目の前の二人の姿は、充分仲睦まじくみえる。

「……ああ、明日、私の宮の料理人を差し向けてやる」

 ちょっと足を止めて、兄上は振り向いた。

「へ……?うちの宿舎にですか?」
「ああ。少しおまえのところで鍛えてくれ」
「……それはかまいませんが……」

 竜の穴だしな!
 そんな風に言われているなら、ちょっと本格的にしごいてもいいかもな。

「……キリルとネイはやらないで下さいね」
「それは誰だ?」
「下働きの子です。私のオーブン職人なんです。……あの子達がいなければ、朝のお菓子が焼けません」

 朝の菓子?なんだ、それは。

「ふむ。……では、その二人は君の料理人にするがいい」
「ありがとうございます」

 兄上はもう振り向かなかった。
 姫は俺たちに軽く会釈し、それから小さく手を振った。
 その姿が雑踏に消えたところで、ステイが息を吐く。

「なんだ、緊張してたのか?」
「ええ、まあ。……王太子殿下っすからね。……いろいろ言われてますけど、あれ、仲良いんじゃないんですか?」
「……悪くないと思うぞ、俺も」
「なんつーか……自然でしたよね、いろいろ」
「……そうだな」

 二人でいることが自然だった。
 特に肩肘張るのでもなく、見栄をはることもなく、殊更緊張しているわけでもない。
 まったくの自然体で……どことなく甘やかな空気があったように思える。

「……兄上の護衛にしては人数が多いと思ったが、半分は姫の護衛なら納得だな」
「影供、あんなにつけてるんですか?」
「兄上には二人だけだ。残りは全部、姫だろう」
「……多過ぎやしませんか?」
「多すぎるくらいで調度いい。……極端を言えば、父上の代わりはいるが姫の代わりはいないのだから」
「……キツいっすね、それ」
「事実さ」

 玉座には、父上でなくとも兄上がいる。俺やシオンもいる。
 だが、エルゼヴェルトの世継ぎは他にはいないのだ。




「……………さて、でははじめようか」

 俺はステイを振り向いた。

「何をっすか?」

 不思議そうな顔をしている。

「決まってる。屋台の味を調べるのだ」

 三日も有ればすべての屋台を食べ尽くすことができるだろう。
 兄上と姫が城を出る機会などそうそうにあるものではないから、次の機会までにはお薦めの店を絞り込む事が可能だ。

「……………あんた、どんだけブラコンなんです」

 額を押さえ、唸るような声音でステイが言う。

「何を言う。日頃、携帯糧食ばかりで済ませている兄上なのだ。たまにそれ以外を食べる時にはうまい物を食べてもらいたいと思うのは当然じゃないか」
「………はい、はい、わかりましたよ。おつきあいしますよ」

 まったく、何が言いたいのかわからん奴だ。




 一週間後、兄上にお届けしたユトリア地区の屋台マップは、姫に大層喜ばれたらしい。
 お礼にと届けられた姫のお手製だという胡桃やアーモンドを甘いキャラメルのようなもので固めた菓子はとても美味だった。
『1ヶ月以内にお召し上がりください』と書かれたカードが添えられていたことに気づいたのは、全部食い尽くした三日目の午後のことだった。







 2009.06.02 初出


*****************************

難産。いつまでたっても終わらなかったです。







おまけの短い後日談

「う~~~ん。う~~~ん……」
「……………何、唸ってるんすか」
「いや、他の地区の屋台マップを作ったら、またあの菓子をくれるかと思ってな」

 あの菓子は、本当にうまかった。

「…………………………あんた、いつかその食い意地で問題起こしそうっすね」
「いや、あの菓子は特別だ。……材料は特に珍しいものではないが味は非凡。素朴でありながら、繊細かつ上品だ」

 思い出しただけで唾がたまる。

「とはいえ、さすがに兄上の妃であられる姫に作ってくれとは頼めないからなぁ……」

 俺はシオンと違ってそれほど甘いものを好まないが、甘さと苦さとナッツ類の香ばしさが複雑に絡み合ったあの菓子だけは別格だ。

「あー、姫の護衛はよく、お茶に呼ばれるみたいっすよ。日頃のねぎらいも込めて交代で」

 何て羨ましい奴らだ。

「……っつっても、今更、俺が近衛に転籍は無理だろ?」

 半分本気、半分冗談で言う。

「言っとくが、師団長の転籍なんてぜったいに認められるわけねーから!!」
「そんくらい、俺だってわかってんよ。冗談だろ、冗談」
「あんたの冗談は時々冗談に聞こえねーんだよ!!」


 ステイの叫びに、俺はそっと耳を押さえた。



[8528] 21
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/16 09:01
 21



 人間、自分のやっていることってあんまりよくわかっていないことが多いと思う。
 夢中だと、周囲が見えなくなっているというか……。

(ううううう……恥ずかしい、何て恥ずかしいんだ、私!)

 いや、その……朝、目が覚めた瞬間、昨日のことを思い出したわけです。
 ピクニックデートね。そう、あれは紛れもなく『デート』だと思う。
 まあ、デートと言うにはいろいろ突っ込みたいところはあるんだけど、それは置いておいて……。

 回想。

(う~わ~、う~わ~、う~わ~)

 回想。

(ひぃぃぃぃ・……)

 回想。

(!!!!!!!!)

 ベッドの上で転げまわって、危うく落ちそうになった。
 それぐらい昨日の私の言動はどうかしてた!
 何?どこの乙女なんだ、私!
 もう一度言えって言われたら羞恥心で悶え死にできそうな言葉を口にしてたりするし! 
 回想するだけで、もうジタバタする。平静でいられない。
 何が一番恥ずかしいって……結局、私、ほとんど自分で歩いてないんですよ。
 衆人環視の街中で、ずーっと抱っこですよ。
 足が地面についたの、公園でごはん食べるのにおろしてもらった時だけだから!

「どうかいたしましたか?」

 思い出すたびに黙って座っていられなくなるので、リリアに不審げな眼差しで見られる。

「……ちょっと、昨日のこと思い出すと平静でいられなくて……」

 だって、恥ずかしすぎる。『携帯糧食はあまりおいしくはないですけど、殿下と一緒だからちょっとだけおいしかったです』とか真顔で言ってるんだよ、私。ありえない、ありえない、あーりーえーなーいー。

「ものすごく挙動不審ですよ、妃殿下」
「……ごめん、今日は一日ムリかも」
「明日には復活してくださいね。明日の午後は王妃殿下のお茶会ですから」
「……はい」

 ……なんか、朝からものすごい疲れた。
 なんなんだろうね、この、いてもたっていられない恥ずかしさって。
 でもさ、でもさ、殿下のがずーっと恥ずかしいこと言ってると思うんだよね。
 壊してしまいそう(以下略)なあたりなんて、もう一度聞いたら羞恥心でいたたまれなくなる。
 なのに王子様だから、殿下はそれが違和感ないの、まったく。言わば、かまぼこキザ。きっと、本人もそれを恥ずかしいなんて思ったりしないんだと思う。
 ……昨日の私はどうかしてたんです。きっと。




「妃殿下、本日のお茶菓子はどうなさいますか?」
「……簡単にガレットを作っていこうと思います」

 時間の都合のつく限り、一緒に朝のお茶の時間を過ごすのが私と王太子殿下の日課となりつつある。
 その時のお茶菓子は私が持参するようにしている。
 これ、餌付け作戦の一環ね。これは順調に進んでいると思う。
 だってね、何と、殿下はちゃんと私が持参したお菓子とそうでないものの区別がつくのです!素晴らしい。
 殿下は別に味オンチというわけでなくて、拘らないだけなのだ。

「ガレット、ですか?」
「はい。ジュリアの故郷である北部では一般的な食べ物なんですよね?」
「そうです。ジャムなんかをかけるとおやつになって、卵や前の晩の残りのお肉とかを添えると軽食になります。おかあ……母が作ってくれたガレットが私は大好きでした。うちはそれほど裕福な家ではなかったので、専属の料理人がいないので、家の中の大半を取り仕切っていた私の乳母が休んでしまうと母が手ずから料理するしかなかったんです」
 
 そんな母親の得意料理がガレットなのだとジュリアは言う。
 ダーディニアの北部地方では、そばは小麦よりも多く作られているらしい。でも、残念ながら日本の蕎麦のような食べ方はないみたい。
 ジュリア曰く、いろいろなそば粉の料理があって、そばがきのようなものもあるのに、麺である蕎麦に近い食べ物は聞いた事も見たこともないという。
 だから、私の『いつかダーディニアに普及させたい食べ物リスト』の上位に蕎麦は赤字でいれてある。
 不動の一番は、チョコレートだけど!カカオはまだ影も形も見たことないけど!

「ジュリアのお母さんとはちょっと違うかもしれませんが……軽食になるガレットを作ります」

 ジュリアの話をいろいろ聞いたおかげで、私は無事、国内でそばが生産されていることを知り、そば粉を手に入れることができた。クレープがすでにどこかで発明されているかどうかまでは知らないけれど、そのうちクレープも作るつもり。
 なぜ今回はクレープじゃなくてガレットなのか……それは、ガレットの方が甘味を減らすことができるからだ。

「……火の準備はできていますか?」
「はい」

 ミレディがばっちりです、と笑う。
 ふふふふ、作業部屋には新たに導入された秘密兵器があるのです。
 暖炉のない部屋ではどうやって部屋を暖めているのか……それを考えたことが、この秘密兵器発見のきっかけ。

 こちらでは、暖炉の無い部屋ではストーブを使っている。
 オイルを利用するものも最近できているらしいけれど、主流は炭火。
 いろいろな形状があるけれど、私のところにあるのは円筒形だ。もちろん、こういうところにあるものだから飾り気の無い網目状ではなく、美しく唐草が彫金されている優美なもの。この中の金属製の細長いザルに炭火をいれて使う。
 当然だけど、触ると火傷するくらい熱くなっている。金属だから。

 最初、そのストーブの上の部分を開いて使うことを考えた。でも、そんな面倒なことしなくてもいいって気づいたの。
 炭があるんだから、七輪、あるいは、火鉢でいいのだ。時代劇では火鉢の上でいつもお湯をわかしていたり、網をおいてお餅を焼いたりしている。ちょっとした作業なら充分利用できる。
 そういうものがないか一生懸命説明したら、アリスが、夜会などでアルコールランプと共に会場で料理を温めたりするのに利用されている器具があると教えてくれた。
 それが、『焜炉』だった。
 形状も使い方も七輪そのもので、それほど高価なものではない。竈の使えない家庭では、これ一つで煮炊きを済ませる家もあるんだそうだ。

「ちょうどいい感じですね」

 炭がいい感じに熾っている。
 鉄製のパンをのせて暖め、バターを落とす。
 あらかじめ混ぜておいた生地を薄く延ばす。ガレットは片面しか焼かない。その上に具をのせて焼いて、四方を折ってほぼ正方形状にし、それをフォークとナイフで食べる。
 でも、今回は一応お茶菓子なので手でも食べられるように一工夫。
 小さめに生地を焼き、具をのせる。具は、チーズと生ハム&チーズとじゃがいも&チーズのみの三種類。
 普通のガレットと同じように三方を折ったところで、半分に折って最後の一方で蓋をする。具をくるっと包み込む形状にするの。そうすると食べやすい。

「なんか、あんまりお菓子っぽくないですね」
「それが狙いです」
「狙い?」
「うまくいったら皆にも教えます。……うまくいかなかったら恥ずかしいからダメ」

 これはね、殿下に普通の朝ご飯を食べてもらうための布石なのだ。
 お茶菓子に軽食っぽいものをまぜていけば、そのうちに殿下がお茶の時間に朝ご飯を一緒にとられるようになるかもしれない……もしくは、朝食にこれを食べたいって言ってくれるかもしれない!という狙いなの。

「妃殿下、樹蜜の瓶はここに入れますよ」
「ありがとう、リリア」

 チーズだけのものは、樹蜜をかけて食べる予定。

「……あ、これはちょっと破れましたね。どうぞ食べて下さい」

 生地が破れてしまったものは、皆の試食用に提供する。
 茹でたじゃがいもは少し潰してクリームと塩コショウで味付けしてあるし、ハムチーズは、ハムの塩味とチーズの濃厚な風味があわさっておいしい。
 こちらはすべてが手仕事で丁寧に生産されているせいなのか、一つ一つの素材の味がしっかりしている。

「……クリームみたいな味がします。すごくおいしい。この味、大好きです」
「クリーム、少し入れてあります。じゃがいものを全部潰して牛乳を加えて味をととのえると、じゃがいものポタージュにもなります。あとで、レシピをつくりましょう」

 料理ってまったく同じ材料から、別なものができるから不思議。
 レシピをまとめていると特にそう思う。
 こちらにはお料理本とかレシピ本って存在していない。料理のコツとか味付けのコツとかそういうものは料理人達の間での秘伝扱いなのだ。そんな大げさな……とか思ったけど、レシピ本とかないのならそれも当然の話かもしれない。
 貴婦人達は基本的には台所に入らないとはいえ、料理をまったく知らない人間にディナーを整えることはできない。おいしい料理を夫に提供できることは花嫁に高い付加価値をつける。
 五年前に結婚したアリエノール王女は、嫁入りにあたり、王宮で名人と言われた料理人を二人連れていったそうだし、名高い料理人をつれて結婚する貴族のご令嬢の話は珍しくない。
 料理人を連れて嫁入りできるような身分ではないアリスとジュリアは、私が教えたレシピをもってお嫁に行くと言っていて、何か作るとそれをレシピにまとめている。

「残りの生地は、自由に使っていいです。換気を忘れないで。寒いからって閉めっぱなしはダメです」

 炭火は一酸化炭素中毒が怖いから。




「お供します」
「ありがとう」

 騎士達が護衛につくのは当然だが、リリアがいつも送ってくれる。
 私が殿下とお茶をしている間、余ったお菓子をネタに王太子宮の女官といろいろ情報交換をしているらしい。

「妃殿下、そういえば、エルゼヴェルト公爵が、昨夜遅くに王都のお邸に入られたそうですよ」
「公爵が?なぜ?」
「本日伺候なさることになっておりますので、すぐにわかるかと思います」
「何かあったの?聞いている?」
「いえ。特別な事件があったとは聞いておりませんし、手続きも通常どおりですから特に急ぎの何かがあるわけではないようです」
「そう……何でもないのならいいけど」

 冬というのは、ほとんどの貴族が自領で過ごす時期である。この季節、彼らは自領の内政に目を配り、時折は近隣の諸侯と語らって狩りなどの社交を楽しみながら過ごす。
 王都に残っている貴族といえば必然的に閣僚か軍人のどちらかで、四公爵の一人が、わざわざ冬の最中に王都にやってくるというのはよほどのことだと思ってしまうのが普通だ。

「何か問題が発生したのならばもっと大騒ぎになっていますし……ご心配なら、殿下にお伺いになったら良いと思いますよ」
「ああ……そうですね」

 殿下なら何でも知ってそう。……っていうか、知っていると思う。
 そう思ったら、何か安心できた。
 きっとそれが露骨に出ていたんだろう。

「……妃殿下が、殿下を頼りになさっているようで何よりです」
「だって、殿下なら何があっても悪いようにはしないもの」
「信頼されています?」
「ええ」

 別に殿下の何もかも全部を知っているってわけではないけれど、公正な方だと思う。
 不思議なのは、あれだけ明確な意志を持っている方なのに、自分のことになると途端に疎かになるところだ。

(なんだろうな……何かこうひっかかってるんだけど……)

 わかりそうでわからないというか……別に自分をないがしろにしているというわけではない。
 殿下ほど自分という存在を完璧に制御している人は珍しいと思う。制御……コントロール、それから、プロデュース。
 みんながみんな、口を揃えて「優しい」とか「慈愛深い」とか言うのは、あれ、殿下がそういう面を強く表に出しているからだ。
 人は誰でもいろいろな面があって、外に見せている面というのは自分がそう見せたいと努力している面だと思う。自分の意図通りに皆が見てくれるかどうかはともかくとして、よく見てもらいたいっていう努力くらいは誰でもするでしょ。殿下のはそれの完璧版。
 それがわかったら殿下のことは恐くなくなったし、いろいろ知るにつれて、信じられるとも思っている。
 そういう風にコントロールしている人って、わりとナルシズムに満ち溢れている人が多いんだけど、殿下はナルシストじゃないのだ。これ、気付いた時には結構驚きだった。
 むしろ、殿下にはナルシズムの源となるべき『私』の部分がほとんどないように思える。

(殿下には特別な何かってあるのかな?)

 例えば自分のことを考えたとき、私がお菓子作りや料理に熱心になるのは、あちらでの記憶に密接に関わってるからだと思う。あちらでの自分をなかったことにしたくないから……だから、強くこだわる。
 お菓子作ったり料理をすることが自分のアイデンティティの一部みたいなところがあると思う。
 殿下はそういうのあるのかなって考えた時、何も思いつくものがなかった。
 忙しくてそれどころじゃないのかもしれないけれど、特別な趣味はないし……絵画や音楽に造詣は深いけれど、陛下のようにそれに耽溺されるわけではない。
 かといって、仕事が大好きでどうしようもないっていう風でもない。

(あー、でも、弟殿下のことはかなり好きだよね)

 昨夜会った時、楽しそうだった。
 アルフレート殿下は、小さい頃、虫とかが好きでバッタ集めたり、セミのぬけがら集めたり、カエルの卵集めたりして後宮を恐怖に陥れていたのだと教えてくれた。
 殿下がそういう昔の話をしてくれたのが嬉しかった。

(でも、もっと、ご自分のことをお話して下さればいいのに……)

 殿下は弟殿下や妹姫などの話はするけれど、ほとんどご自分の話をしないのだ。

(よし、今日は何か一つ、殿下の昔の話を聞き出そう)

 自分が、殿下のことばかり考えている事に、まだこの時の私は気付いていなかった。




「おはようございます、殿下」
「おはよう、ルティア」

 ちょっとだけ、殿下が眉をひそめる。
 私は軽く首を傾げた。

「いや……今日は、何?」
「ガレットです」
「……ノールで食べたかもしれない」

 ノールは、南公たるアラハン公爵家の本拠地だ。

「あ、そちらの方のお菓子です。お菓子というより軽食風に作ってみました」

 殿下、甘いものはそれほど好まれないでしょう?と言うと、殿下は意外そうな顔でうなづく。

「……私は、そんなに単純なのだろうか?」
「おっしゃっている意味がよくわかりませんが」

 私は首を傾げた。殿下が単純だなんていったら、世の中単純な人しかいなくなっちゃうよ。
 言葉を飾らずに言えば、殿下はすごく難しい部類だと思います。……言わないけど。

「君は……私のことをよくわかっているように思う……」

 なんだ、そんなこと。

「……そんなによくわかっているわけじゃないです。でも、わかっていることだって少しはあります」
「なぜ?」
「……だって、いつも見ていますから」

 自然、にっこりと笑みが浮かぶ。
 殿下はそれほどおしゃべりな方ではない。でも、見ていれば、わかることはたくさんある。
 例えば、元が左利きなこと……フォークとナイフを時々、逆に持っているのに持ち替えずに普通に使っているからたぶんそうだと思う。

「……確かに菓子は苦手だが、君の作るものは悪くない」
「実は、知っています」

 私はくすりと笑う。
 殿下がなぜ私の作ったものがわかるか……それはたぶん甘さの違い。
 殿下が甘いものがそれほど得意でないことはすぐにわかった。最初のお茶の時のアップルパイで変な顔していたから。
 確かにあれはかなり甘かった。ハチミツたっぷりだったし。
 だから、最初に殿下に焼いたクッキーは甘さ控えめだった。
 次のパンケーキサンドのカスタードクリームも甘さ控えめの上にお酒をほんのりきかせた。それが大丈夫そうだったから、次のブランデーケーキは遠慮なくお酒をたっぷり使い、それがかなり好みだっていうことも知った。
 作りながらちゃんとリサーチしていました。
 最近は、殿下が安心して口に運んでいるのだって知ってます。

「これも、なかなかだ」
「ありがとうございます。……甘いのもなかなかですよ」

 おお、初褒め言葉!
 面と向かって言われたのは初めてだ。嬉しい。
 こう、餌付けできた喜び?いや、なんだろう。とにかく、嬉しい。

「樹蜜とチーズは合うのか?」
「これはそのハムや芋のものの中に入っているチーズと違ってクリーム分が多く、まろやかなチーズなので合うんです」

 いわば、クリームチーズ。クリームチーズってはちみつかけたり、ジャムと一緒にすくって食べるだけでおいしいと思う。
 チーズケーキ系は、かなり殿下の好みの味だと睨んでいるのだ。

「殿下は、小さい頃から甘いものはあまり?」
「いや……そういうわけでもない。……シオンほどではないが、それなりに食べていた」

 ふーん。やっぱり、大人になると味覚が変わるのかな。

「ギッティス大司教はとても甘いものがお好きなんだそうですね。リリアから聞きました」
「ああ。……あれは君が私の妃でなければ求婚するといっていた」
「そんなに好きなんですか?お菓子」
「……ああ。そのようだ」

 殿下が小さく笑う。

「どうかなさいました?」
「いや。別に……何も」 

 どこか満足げな笑み。……今の会話のどこに殿下が笑みを見せる要因があったのかさっぱりわからない。

「この後、時間はとれるか?」
「はい」

 私には『やらなければいけないこと』が基本的にない。
 強いて言うならば、危険に近づかず、安全な場所で成長することが仕事みたいなもの。
 あとは、自身の意志一つで、勉強するも怠惰にだらけるも自由なの。だいたいは、書斎で本読んだり、作業室でお菓子作ったり、レシピまとめたり、庭のハーブガーデン見に行ったりしている。

「エルゼヴェルト公爵の拝謁を受ける。同席するといい」
「はい。……あの、何かあったのですか?」

 そう。それを聞こうと思ってた。

「いや。格別のことはない。献上したいものがあるとは聞いているが……」
「献上?」
「……君に差し出したいものがあるということだ」
「私に?」
「そうだ。……いつも私のところで受け取ってチェックしてから君のところに行くことになっている。たまには一緒に受け取ってもいいだろう。公爵自ら参上するのも珍しいしな」

 おいで、と手を伸ばされ、おとなしく抱きかかえられていつもの居間を出る。
 廊下ですれ違う人たちは、皆、足を止めて慌てて頭を下げる。
 皆、なんでそんなに驚愕の眼差しを私達に向けているんだろうと暢気に考えていた私は、たぶん、頭の中の回路が何本か切れていた。




 暗くもなければ、強制連行でもない……抱きかかえられる必然性が何一つ無いのに何も疑問に思わなかった自分を激しく問い詰めたいと思ったのは、勿論、後の話。
 後悔先に立たずとはこのことを言うのだとしみじみ実感しました。




 2009.06.04 初出




[8528] 22
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/10 23:58
 22



「殿下、ならびに妃殿下におかせられましては、ご機嫌麗しく恐悦至極に存じます」
「あまり麗しくなどない。……が、わざわざこの時期に公爵が足を運んだのだ、顔くらい見せねばなるまい」

(なんか、不穏な空気が流れてるのは気のせいじゃないと思う)

 拝謁を受けたのは、殿下が私的にお客様が会うという居間。『私的』って言葉の使い方間違ってるよ、こっちの人たち。……この間、私が陛下に帰還の挨拶をさせていただいた部屋よりは狭いとは思うけれど、ホールであることにか
わりはないから。
 その天井が高く広いホールいっぱいに、なんか神経がちりちりするような逃げ出したくなるような空気が満ちている。

(公爵と殿下が仲悪いなんて知らなかったよ、リリア)

 つい、心の中でリリアにグチってしまう。
 いや、もしかしてリリアにとってはあまりにも当たり前の事実だから言わなかっただけかも。
 私はレースの扇で口元を隠すとみせかけ、小さく溜息をつく。
 彫刻と宝石とで飾られた椅子は私にはまだ大きくて、クッションが三つもいれられている。そのせいで座り心地はいいけれど、居心地はまったくよくない。

「先ほどまではルティアと二人、朝のティータイムを楽しんでいたのだがね」

 いかにも邪魔されたと言わんばかりの態度で殿下が足を組む。
 それがイヤってくらい様になっているんだよね。あの、爽やかでありながらさりげなく尊大な王子様バージョンに変貌してるんじゃなければ、ちょっと見惚れてしまったかも。
 私はもう一度扇の陰で溜息をつく。
 だが、公爵もさるもので、殿下の嫌味成分過多な言葉をあっさりとスルーして、にこやかな笑顔で私に向き直る。
 エルゼヴェルトで別れた時に比べるとだいぶ顔色も良いようだ。

「妃殿下が、当家に滞在中に菓子を気に入ったとを伺いました」
「……はい」

 え、もしかして、お兄さんが伝えてくれたのだろうか?
 もしかして、わざわざもって来てくれたの?
 うわー、すごい仕事早いよ、お兄さん。
 まだ十日くらいしかたってないよね。下手したら早馬とか使ったんじゃなかろうか、この話を伝えるのに。
 何か申し訳ないことをしてしまったかもしれない。

「その思し召しを有り難く思いまして……妃殿下が好きな時に召し上がれるように、職人を連れてまいりました」

(へ……?)

 言われた意味がよくわからなかった。なんで、職人さん連れてくるの?この場で作るとかそういう意味?

「それは感心なことだな……良かったね、ルティア」
「……え、はい」

 殿下がにこやかにおっしゃるから、思わずうなづいてしまった。
 良かったね、って言うって事は良い事なんだろうけど、意味がわからない。

「つきましては、妃殿下の宮に台所を復活させたく思います」
「………それは、困難な話だな」
「殿下にも異存のない話であると思っておりますが……」
「確かに吝かではない」

 そのもってまわったような言い方やめようよ。
 なんで台所?いったい何の話してるの?

「だが、問題は、工事の人間を一人一人を選別できるかだ」
「それは私の方で行います。決して、妃殿下を危険に晒すような真似は致しません」
「エルゼヴェルトにとって、ルティアがかけがえのないことはわかっている。……だが、そなたの言葉を疑うわけではないが、ルティアが狙われたのはそなたの居城での出来事だ」
「お言葉ですが殿下、護衛の不甲斐なさのせいでもあります。これまで、我らは妃殿下の側近くに寄るを許されていなかった。我が城中といえど、側近くに護衛を配せなければ手抜かりもございます」
「今も許したつもりはない」

 すいません。話にまったくついていけていません。
 この人たち、いったい何を話しているのだ。
 私には全然わからない。

「失礼ながら殿下、殿下に許される必要はございません。許す、許さぬはすべて妃殿下の御心一つであると心得ておりますので」

 慇懃無礼なまでの丁寧な口調で静かな笑みを浮かべる公爵に、殿下は口元を皮肉げに歪める。

「だ、そうだ。ルティア、いかがする」
「……いかがも何も、全然わかりません」

 なんかちょっと軽くムカついてます。
 二人して私を置き去りにして何の話してるんですか!
 関係ない話ならいいですよ。でも、何か私にすごく関係してるような話じゃないですか。

「……お菓子を下さる話じゃなかったんですか?それがなぜ職人さんの話になって、台所の話になって、この間の話になるんですか」
「公爵は君の望んだ菓子を作った職人を君にくれるというのだよ。職人だけもらっても肝心の菓子が作りようがないので新たに台所も一緒に建てて献上するということだよ」

 あっさりと殿下は言う。
 何で平然とした顔してるんですか、殿下。

「私はもう一度お菓子を食べたいとは申し上げましたけれど、職人さんが欲しいとか、台所が欲しいとか言ってません」

 そんなおねだり、これっぽっちもした覚えがありません。まったく。

「何か問題が?」
「気になることでもお有りですか?」

 殿下と公爵が不思議そうに私に問う。

(だめだ、この人たち……)

 いや、諦めたらダメだよ。
 私はおかしくないよ。
 お菓子がもう一度食べたいって言うのはそういう意味ではないはず。

「……もしかして、お菓子が食べたいというのは、そのお菓子職人さんを下さいって意味になるんですか?」

 そういう意味だったら、申し訳ないことをしてしまったと思う。

「いいや」
「とんでもありません」

 二人はあっさりきっぱり否定した。

「じゃあ、なぜ、そういうお話になるんですか?」

 二人がサラウンドで答えた。

「エルゼヴェルトの人間が君のものになることに何の問題がある」
「当家の人間が妃殿下にお仕えするのは当然のことです」

 うわ、同じ表情してるよ、この人たち。同類か。

「だから、私はお菓子が食べたかったんであって、その職人さんが欲しいとは言ってません!」

 もう一回食べたいと思っただけで、どうしてこうなるの。

「……もしや、妃殿下にはまだ当家の誠意をお信じていただけていないのでしょうか」

(うわぁ……そう切り返すんだ。やだな、この話の流れ)

 公爵は目を伏せて諦観の表情を形作る。ポーズだと言うのはわかっている。わかっていても、私はそれをただのポーズだとあっさり切り捨てることができない。

「誠意ね。そなたの口からそんな言葉が出るとは……」

 くつくつと殿下が嘲けるように笑う。
 殿下、そうしているとものすごい悪人っぽいです。いや、悪人では安っぽすぎるから……雰囲気として、魔王かな、うん。
 皆に退かれますよ、きっと。 

「少なくとも、私は妃殿下に対して誰よりも誠実でありたいと思っております。……妃殿下が近頃、菓子を作るのに興味をお持ちであること、いろいろと不自由していることをお伺いし、できる限りのことをさせていただきたいと思ったのです」

 それで職人と台所を献上ですか。
 大貴族の当主が考えていることってわからないよ。
 わからないけど、でも、ここで丸め込まれたらダメな気がする。

「ですが、妃殿下が当家の出す菓子職人を信じられぬとおおせであればそれは致し方ございませぬ。それも臣の不徳の致すところ……」
「そういうことではないです」

 信じる信じないじゃないから。問題ズレてるから。

「妃殿下……」
「記憶の無いルティアにそのように言うものではない、東公」

 公爵が何か言いかけたところに、殿下が静かに口を開く。
 口元には冷ややかな笑みを浮かべている。

(うわ、機嫌悪そう……)

 哀しいかな……殿下がただ私を助けるためだけにそう言ってくれたとはまったく思えない。

(程よいところで公爵を庇わなければ……)

 さっきまでは公爵にちょっと嫌味を言うだけの気分だったようなのに、理由はわからないものの今は正真正銘の不機嫌だ。

「ルティアは判断の基準とすべき記憶が無い。それをいいことに付け入るような真似をしてほしくはない」
「そのようなつもりは毛頭ありませぬ」
「……ではなぜ『現在』を選ぶ。これまでもいくらでも機会はあったであろうよ。記憶がなければ己の所業が許されると思ったか?自分がルティアに何をしたか、胸に手をあてて考えるが良い」

 公爵の何が殿下の怒りに触れたのかわからなかったけれど、殿下は静かに……でも、間違いなく怒っていた。
 激昂することなく冷静であることが、よりその怒りの深さを思わせる。

「思い出せぬか?ルティアが生まれた夜、おまえが「何だ娘か」と口にした事を忘れたか?三歳の娘が病の床で父親に会いたがった時、あの女の出産が控えているからと拒否したことは?マレーネ夫人が亡くなりルティアが一人になった時のことは?……おまえが忘れても、ルティアが忘れても、私は忘れぬよ」
「殿下……」

 私は殿下のことが心配になった。公爵を責めているその言葉が、殿下を傷つけているように思えたから。

「誠意……そなたは、エフィニアと結婚する時にもそう言ったのだ」

 冷たく言い放つ。
 エフィニア……それは、17歳で亡くなった私の母の名だ。

「……殿下、もういいです」
「ルティア」

 意外そうな顔で、殿下と……そして、公爵が私を見る。
 私はそっと隣の椅子の肘にかけられた殿下の腕に触れて、殿下に笑いかける。

「私は、もし、あの時のお菓子が今此処にあったら喜んでいただきます。とてもおいしかったから……殿下と一緒にいただきたいから」

 おいしいものは好きな人と一緒に食べるともっとおいしいと思う。

「……君は、彼を許すのか」
「許すとか、許さないとかではありません。……殿下、私は覚えていない。公爵が父であることは聞いたので知っています。……ですが、実感はないのです」

 私は、彼を知らない。
 彼を知っていた私は、それを忘れてしまったから。

「忘れるということは、死よりももっと酷いことなのだそうです……」

 本当の死は肉体の死によって訪れるものではなく、すべての人の記憶から忘れ去れた時に訪れるのだと誰かが言っていた。

「記憶がある限り、その人は心の中で生きている。……記憶とは、そういうものなんだそうです。私はそれを失いました。それは、その時に私は一度死んだということではないかと思うのです」

 殿下は私の顔をまじまじと見つめる。

(ああ、そうか……)

 自分で言っていて、何となくわかった気がした。

「……母の話を聞いて、私は泣きそうになりました。私が公爵を許しては母が浮かばれないと思いました。でも、そんな風に思う必要はなかったのです。だって、覚えていないのですから……」

 誰かの詩に、死ぬ事よりも忘れられる事の方が哀れだと言う一節があった。
 確かにその通りだ。

「殿下、私と公爵は血がつながっています。親子なのだと言われていますし、それを疑ったりはしません。……でも、私がこの先、公爵を「お父様」と呼ぶことがあったとしても、それはただの呼び方であり、そこに家族を呼ぶ愛おしさはありません。……私達はもう二度と家族にはなれないのです」

 彼の子供である記憶を、私は持たない。
 それが、公爵にとってどんなに酷いことであるのかわかってもらえるだろうか。

「なぜ?」
「……私はあの時、殿下のことも忘れましたけれど……まだ短い期間ではありますけれど、新しくいろいろな思い出を重ねてきました」

 違いますか?という風に軽く首を傾げる。

「……いや、違わない」
「そういう記憶があるから……大切な時間を一緒に重ねているから、私と殿下は家族であると思うのです。……血がつながっているだけでは家族ではないのだと思います」

 麻耶は早くに家族をなくしたけれど、決して一人ぼっちではなかった。
 知人は多かったし、友人だっていた。薄っぺらいつきあいばかりではなく、ちゃんと人間関係を築いていたと思う。
 淋しいと思うことはあったけれど、それは誰も居ない淋しさではなく、亡くしてしまった淋しさであり、思い出すがゆえの淋しさだった。
(父さんと母さんにが私を愛していたことを私は知っているから……)
 だから、ある意味、天涯孤独のような身の上であっても本当に孤独ではなかったのだと、今ならわかる。

「私と公爵は、残念ながら『家族』という形で時間を重ねる事はもうないでしょう。私は私の父であった公爵を覚えておらず、今はもう私の家族は殿下なのですから……。公爵には、それをとても申し訳なく思います」

 ごめんなさい。そう言いたい気持ちを留める。私が私である限り、彼には二度と娘を取り戻す術がない。
 エルゼヴェルト公爵は私をまっすぐと見つめる。
 私はそれをまっすぐと受け止める。
 不思議なくらいに心の中は静かだった。

「……父であったことなどなければ、忘れるような思い出すらなかった」

 殿下が不機嫌な声音で告げる。
 この後に及んでまだ機嫌悪いですか。
 しょうがない人だなぁと思い、何だかおかしな気分にもなる。
 可愛いとすら思えるこの心境はどういうものなんだろうか。

「それはわかりません。あの冬の湖で失われてしまったのですから……。今、ここにいる私は、公爵に対して特に他意はありません。だから、すべてこれからです。……今の私は、公爵の好意を嬉しく思います」
「……妃殿下」

 今、自分がちょっとずるいこと言ってるってわかってます。
 この論法でいくと公爵は今後も私に好意を示し続けなければならない。

「……この一件は殿下のよろしいようになさって下さい」

 詳しい事はよくわからないのでお任せします。と告げた。
 私的には受け取る気はない。けれど、そうはならないのだろうという気もする。たぶん、何かの思惑がその二つにはあって、それは私の関知しない理由があるようだから。
 いや、台所が手に入るとしたら嬉しいと思うし、腕の良い職人さんも大歓迎だ。
 でも……何度も言うようだけど、私が欲しかったのはお菓子だから!

(……今度から、発言には気をつけよう)

 お菓子が欲しいの一言が、こんな風に発展するなんて夢にも思わなかったよ。
 私はいったいどこで何を間違ったんだろう。
 誰か教えて欲しい。





「……ルティア」

 公爵と殿下は、また再び嫌味の応酬をして、結局、台所は新たに建築ではなく改装ということになった。
 前に台所だった部屋を改装するだけならばそれほど大掛かりではなく、職人の数も少なくて済む。職人は公爵が厳選に厳選を重ね、作業帰還中は彼らは殿下の宮の使用人の部屋に泊り込み、できる限り短期間で終了させることで決着した。
 その間は護衛を増やすらしい。これ以上護衛を増やしてどうするんだと思ったけどややこしくなるから言わなかった。
 職人さんについてはもう一度本人の意思を改めて確認した上で、本人が希望すれば勤務するという事になった。
 私の宮に勤めるというのは、日常生活が厳しい監視の目に晒されるということだ。覚悟していないとやっていけない。
 彼女の身については、何か事があったら公爵が責任をとるということでやっと殿下は納得された。

(まったく……)

 ちょっと精神的に疲れた。
 改めて思ったのは、私の母の一件というのは、知らぬところでも深く影を落としているのだと言うこと。
 そのうち、誰かにちゃんと聞きたいと思う。……できれば王宮の人でもエルゼヴェルトの人でもない人に。

「はい?」

 名を呼ばれてることに気付いてはっとする。

「……怒っているのか?」
「私が、ですか?」

 怒っていたのは殿下ですよね?と小さく首を傾げる。

「私は……別に怒ってはいない」

 嘘をつけ。

「でも、機嫌が悪かったです」
「それは……私はあの男を嫌いだからだ」
「……それだけですか?」
「ああ」

 まあ、それならそれでもいいですけど。

「………少し、腹立ちましたけど」

 殿下が私をまじまじと見る。

「だって、お二人がとっても仲が良いから」

 にっこりと私は笑った。そりゃあもうここぞとばかりの満面の笑みで。

「……仲など良くない」
「ケンカするほど仲がよいって言うんですよ、殿下」
「良くない!」
「隠さなくてもいいです」
「隠してなどいないっ!」

 あ、珍しい。殿下がムキになっている。

「私のわからないところで会話をなさったり、腹芸なさったりしてらっしゃるから妬きました」
「君が妬くようなことは何もない。今までも、そして、これからも、絶対に!だ!!!」

 殿下が力いっぱい宣言する。

「そういうことにしておいてさしあげます」

 殿下が絶句する。
 あんまり追い詰めると殿下は逆切れしそうだ。その場合、絶対に、恐ろしい事になるとおもったので、私は更に笑みを重ねて言った。

「新しい台所が出来たら、朝食はできるだけご一緒しましょうね」

 まずは朝食からでしょう。ちなみに、その際の朝食は、私が用意すること決定で!殿下側が用意したらまたあの缶が出てきかねない。
 私は殿下と「今日の朝食は北部師団の携帯糧食ですね」とか「南部のものはジャーキーの味付けが甘いですね」とかそんな会話を交わすようにはなりたくない。

 殿下はいろいろ言いたそうだったが、口に出したのは一言だけ。

「……問題ない」


 私は今日得た成果にとても満足した。




 2009.06.05 初出
 2009.06.06 手直し
 2009.06.10 手直し 



[8528] 23
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/16 09:26
 23



 ダーディニアの王宮は、別名を白月宮と言う。ダーディニアは、建国時よりこの宮を王宮としてきた。
 天にある二つの月が一つが白月、一つが蒼月と言うことからその名がとられていて、王都の王宮が白月宮、そして、東部の王室直轄領アル・エーデルドにある離宮が蒼月宮という。
 どちらも、アルセイ=ネイと言う放浪の天才建築家の設計によるものだ。
 アルセイの設計した建築物は建築主にすら知らされぬ謎が隠されていると言われているが、そのほとんどが遺跡として封印されている。彼の設計した建物を王宮としているのは大陸広しといえどダーディニアだけで、王宮のどこかに建物を研究している大学の学者達が住んでいるそうだ。
 
「すごいねぇ、これが六百年も前の建物だなんて信じられない」
「そうですか?地下部分はもっと古いらしいですよ。……統一帝国以前の遺跡の上に建っていますから」
「…………統一帝国以前というと……えーと、約600+800で最低でも1400年以上前か……そんな古いのに崩れないの?」

 私はざっと頭の中で計算する。歴史は結構得意。書斎にもいっぱい本があったし、かなり勉強していたらしのでいろいろ思い出すことも多い。

「崩れないみたいです。まあ、地下は立ち入り禁止ですけど」
「え、そうなの?」
「第一層は普通に使っていますが、それ以上は禁じられています。迷宮になっているそうですよ」
「迷宮……」

 なんかワクワクする響きだ。
 迷子常習犯の私にはどこだって迷路みたいなものなので一人で踏み込もうとは思わないけど。
 だって、王宮の広さのことを考えたら……生命に関わりそうな気がするよ。

「昔、シオン様が迷い込んで大騒ぎになりましたから……妃殿下は気をつけて下さいね」
「大丈夫。そんなとこ行く用事ないし……行くなら殿下に連れて行ってもらうから」
「それがよろしゅうございます」

 リリアがにっこり笑う。
 その笑みに何か生温かいものを感じるのは気のせいにしておく。

「正宮と後宮が、アルセイ=ネイの建築なんだよね?」
「はい。本宮には今ではどうなっているのかがわからない技術がたくさん利用されているんですよ。王妃様のお庭の噴水もその一つです。ぜひ、よく見てきて下さい」
「へえ……」

 このアルセイ=ネイの建築した部分だけを私達は本宮と呼んでいる。
 正宮は国の政庁としての公的なスペース。俗に文武百官と言われる役人や軍人のえらい人たちが仕事をしている。王家が主催するさまざまな催しや式典等の行われる大広間や国賓の為の宿舎なども附随している。
 逆に後宮は王家の私的な居住スペースにあたる。こちらには、陛下のプライベートな書斎や寝室、王妃様やその他の女性方や幼い子供達の部屋などがある。……現在ダーディニア王室における最も幼い子供は私なので、子供部屋は使われていない。

 私達が暮らしている西宮と正宮を挟んでその対面にある東宮は、かなり後世の建築になる。特に王太子妃宮は私の為に建設された建物だから、他と比べると建築様式の違いが一目でわかる。
 東宮には、王子宮・王女宮があり、現在の主人は、第二王妃の双子の子供達。第二王子であるアルフレート殿下もこちらに宮を持っているけれど、殿下は中央師団の宿舎か公邸にいらっしゃることが多い。
 ダーディニアでは王位継承権が高い王子王女は、自分の兄……もしくは姉が即位するまでは臣籍に降下しないので、通過儀礼が済むと、王太子以外の子供達は後宮から東宮に移ることになっている。今日のお茶会には、現在、東宮に住んでいるナディア王女が来る事になっているはずだ。

「リリア、なんで廊下なのに暖かいの?」
「それもアルセイのからくりの一つです。あまり知られていないことなんですが、地下に温泉があってそれを汲み上げて王宮中にめぐらせてあると言われています」

(地下に温泉って、どこかに火山があるんだ。へー。まあ、600年大丈夫ってことは、休火山なんだろうな)

 地下温泉を汲み上げたセントラルヒーティングって、すごいな。
 同時に何か不思議な気がする。
 勿論、私の知っているセントラルヒーティングとは違うだろうけど、原理や仕組みというのはあんまり変わりがないと思うのね。
 現代日本でそういうものがいつ頃できたのかわからないけれど、ダーディニアの他の技術レベルと比べるとセントラルヒーティングのシステムというのは特別進んでる技術に思える。……しかも600年前だよ?
 セントラルヒーティングがあるなら、もっと他のものがあってもおかしくない気がする。石油ストーブとか、車とか鉄道とか……。個人的にはアイスボックスじゃない冷蔵庫とか。

(こっちって石油がないのかな?……いや、だとすると照明用ランプや最新ストーブのあの液体は何なんだろう?)

 確かに石油系にありがちな匂いはしなかった。あれ……アルコールランプのアルコールって石油原料じゃないんだっけ?
 あー、物理とか化学とか……まったくわからない。文系だったから。こんなことになるならもうちょっとちゃんと勉強しておくべきだった。
 ダーディニアの技術……ひいては、こちらの世界の技術レベルというものを未だにはかりかねているのは、元々、そういう分野の知識が乏しいということが一番の原因。
 例えば、ライターとかあったらすごい便利じゃないかと思うけど、仕組みがわからないからうまく伝わらないし、良いか悪いかは別にしてそういう道具を作ることもできない。
 焜炉の時にこういうものないかなって説明する時も結構それで苦労した。

「知らなかった。……なんで私の宮にはそういう便利なものがないの?私のお風呂は温泉じゃないよね?」

 だって、私の宮は暖炉やストーブないと寒いし、寝室の隣にある浴室に備え付けられているのは猫足の可愛いバスタブで、毎日、みんなが一生懸命お湯をわかして運んでくれている。あれはすごい手間だと思う。

「その仕組みがわからないわけではないんです。学者達はそれをほぼ解明していると言われています。ですが、今、それを再現するとなると十年以上の歳月と莫大なお金がかかるそうですよ。……それでも、妃殿下の宮はまだいいです。水が中まで来ていますもの」
「中まで来てるって?」
「台所や洗濯室には水を汲むポンプがありますし、水洗室もあるじゃないですか……だから、トイレも最新式なんですよ」

 水洗室というのは、水を汲む部屋。水道はないけど、手押しポンプでギコギコすると水が汲める。
 トイレは壁に沿った貯水槽に水を溜めておく事で、あちらの水洗トイレと同じ機能が使える。便器は陶製で、これがトイレか……って見るたびに溜息ものの装飾がされてるけど。
 エルゼヴェルトのお城は、見た目は普通に腰掛式便器だったけど貯水槽がなくて、そのまま地下を流している水に流すようになっていた。うまく流れない時は備え付けの水甕から水を汲んで流すようになっているの。その排水の行き着く先は農場だって聞いた。
 ミレディに聞いたら、王宮も一緒で、王宮のそういう汚水は御用農場の奥にある処理場に辿り付くんだって。
 王都全体でもやはり幾つかそういう処理場があって、その周辺は必ず大規模農場になっているんだって。うまくリサイクルしてるみたい。

「ふーん。……ねえ、600年前はできたのに、どうして今は難しいの?それとも、600年前はそれ以上の時間とお金をかけたの?」
「いいえ。ネイの失われた技術があれば簡単らしいんですが……」
「失われた技術か……」

 失われた技術って何かロマンの響きがある。えーと……なんか、アトランティスとか古代文明とかって聞いてわくわくしていた子供の頃を思い出す。そういう感じしない?世界七不思議とか……オーパーツとか。
 私の通っていた学校の図書館にはそういうのばかり特集してる怪しい雑誌が入っててドキドキしながら読んでいたよ。あれ、アトランティス特集の次の号が恐山とイタコの特集だったりして、今思えばものすごくとりとめない雑誌だったって思うけど。

「夏はどうするの?温泉めぐらせてると暑くない?」
「夏は水に切り替えるんですよ。だから、逆に涼しいです」
「それは羨ましい。……ねえ、リリア、すごく詳しくない?」

 リリアは何でも詳しいけど、ちょっと詳しすぎるよね。
 そうしたら、リリアはちょっと困惑した表情で言った。

「本宮がネイの建築物であるせいと、研究チームがあることもあって、王宮の図書館には資料が豊富にあるんです」
「……それだけ?」

 別に突っ込んだわけじゃない。ただ、それだけでこんなに詳しくなるなんてって思っただけで。
 リリアは困惑に苦笑を重ねて言った。

「……シオン様の代わりに、ネイの建築についてレポート書いた事もあるので」
「え、大司教は、神学校に行かれたんじゃないの?」
「…………………実家にまで泣き付く手紙が資料と一緒に届きまして……」

 思わずふきだした。
 リリアもギッティス大司教には弱いんだね。
 送りつけられた資料にしたがってせっせと書いてあげたりしちゃったんだ。

「ねえ、こんど、ギッティス大司教にお会いしたいわ。いろいろお話を聞きたい」

 リリアの小さな頃の話とか聞いてみたい。

「機会がございましたら……。シオン様も妃殿下にお目にかかりたがっておりますよ。目当てはお菓子ですけど」
「じゃあ、今度、お茶にお招きするわ。……王太子殿下に申し上げて」
「そうですね。その時は、アルフレート様もご一緒の方がよろしいでしょう」
「第二王子殿下も?なぜ?」
「……シオン様だけだと暴走しますから」
「暴走?」
「お子様なんです」

 リリアがにっこり笑った。
 ……今、ちょっと恐かったよ。だから、それには詳しくは突っ込まないことにする。
 君子危うきに寄らずって言うもの。




 むせかえるような花の香りに満ちた部屋だった。
 明るい日差しの差し込む室内は、まるで温室であるかのようにそこかしこに花に溢れている。 

「ティーエ、よく来ましたね」

 部屋を覆い尽くすようなその花よりも美しい微笑みの女性……第一王妃ユーリア殿下。
 この方が27歳になる王太子殿下の母であるとはとても思えない。
 下手したら王太子殿下と並んで夫婦だと言っても通じる。この間そう言ったら、殿下は絶句して凍りついた。
 本気でイヤだったらしく、例のにこやかでありながら大変裏のありそうな微笑み全開でせまられて二度と言わないことを誓わされた。
 殿下はたぶんご両親があまりお好きではないのだ。微妙な事柄だから、はっきりと言うことは避けるけど。
 
(48歳だっけ?49歳だっけ?)

 近くで見ても破綻のない美貌の人だった。
 王家とか大貴族が美形揃いなのは珍しいことではない。だって、美貌と評判の女性を妻にすることが多いのだから美形の遺伝子をどんどん重ねていくことになるでしょ。
 でも、王妃殿下はただ顔形が美しいだけでなく……常にスポットライト浴びてるみたいに視線が引き寄せられる。オーラが出てるっていうのかな、こういうの。

 私の顔も美貌で知られたお母様にそっくりですっごく可愛いと思うけど、毎日見ていると何とも思わなくなるもんだよね。……自分の顔だし。
 殿下の顔もそう。殿下もすごい美形だと思うけど、見慣れてきたからそんなに意識しなくなってる。王子様オーラきらきらだと思わず見ちゃうけど、ドキドキはあんまりしない。慣れってすごいよね。

「お招き、ありがとうございます」

 そっとスカートをつまんで一礼する。
 今日は、正装のガウン姿。濃紺のベルベットを基調に、白のレースを贅沢に使ってる。ツインテールにした髪のリボンにさりげなく王太子殿下の禁色を使っているのがポイントなのだとジュリアとアリスに力説された。

「これを」

 王妃殿下の女官に手土産の真っ白な蘭の花束を手渡す。女官はマジマジと私の顔を見返した。

(?????)

 お茶会には何か手土産を持参するのが暗黙の了解になっている。
 『王妃の微笑』の別名を持つこの白い蘭は香りがそれほどきつくなくとても綺麗。小さな真っ白なカトレアと思ってもらえると近いかな。
 ある種の毒物の検出にも使える不思議な花なんだって。トキシン……つまり、生物毒に反応すると花びらの色が紫になるんだそう。
 これは王太子殿下が持っていくようにと届けて寄越したものをそのまま持ってきた。

 予定ではお菓子を焼くつもりだった。でも、殿下とリリアに反対されたの。
 とかく食べ物というのは問題をひきおこしやすい。毒でも仕込まれたら事だし、そうでなくても悪くなることもあるのだ、と。
 二人の忠告に反対する理由は無い。それに、三日前に正宮の食堂では集団腹痛事件が起きたばかりなのだ。寒いから食材が腐ったっていうわけじゃないと思うんだけど……。

(……本当は)

 本当は殿下とリリアの二人が私にそんなことを言うのは、何かされる可能性が高いと思っているからじゃないかって思った。
 リリアはお菓子を誰かに差し上げるという事にとても神経を使う。
 西宮内で食べる分には問題ないし、ちゃんと信頼できる人に直接差し上げる分には問題ないけれど、途中で他者の手を通ったらどうなるかわからないって言うの。
 ちょっと神経質かなって思うくらいだけど、思うなりの理由というか根拠がリリアにはあるのだろうと思って、それを全面的に受け入れている。私にはその手の知識がまったくないから。


「さあ、堅苦しい挨拶はもう良くてよ。こちらへいらっしゃいな」

 王妃殿下にそっと背を押される。私はこくりとうなづいた。
 室内には、第二王妃のアルジェナ殿下とナディア王女がもう来ていた。

(あれ、側妃のお二人とか来るんじゃなかったのかな?)

「お待たせしました」

 そっと二人に目礼する。
 それだけで、アルジェナ殿下とナディア王女は目を見張った。
 その驚愕っぷりに既視感。
 ……なんだっけ、ちょっと前まではよく見てたね。

(……人形姫しか知らないものね。しゃべりすぎないように気をつけないと)

 西宮の人たちはすっかり慣れているけれど、他の人たちはそうじゃない。
 それに、油断させるためにもあまり変わっているところは見せないってリリアと打ち合わせたのだ。……今の今まで忘れてたけど。

「皆様お揃いですわね、ちょうど良かった」
「焼きたてですのよ」

 アリアーナ妃とネイシア妃がワゴンを運んでくる。
 どうやら、お二人が給仕もしてくれるらしい。

「たまには女官なしで内輪だけでお話したいですものね」

 ユーリア王妃殿下がチャーミングなウインクをする。
 皆の間にふわりと笑みが漏れた。
 もし、この方が常に笑っているのでなければ……もし、他の表情を見たことがあったのならば……私はこの方に魅了されたかもしれない。
 普通に接した場合、ユーリア妃殿下はすごく魅力的な方だ。
 柔らかな笑み、穏やかな物腰、それから、人の気を逸らさない語り口……大臣達の誰もが一目置くという思慮深さ……この方の美貌というのは、生来のものよりも自身で得たものの方が多いのではないか。
 顔立ち自体で言うのならば、アルジェナ妃殿下の方が美しい。でも、目を離せないのはユーリア妃殿下の方だ。ちょっと怖いと思っている私でも、つい王妃殿下に見惚れてしまう。

「ティーエ、エルゼヴェルトでは大層怖い思いをしたそうですね」
「いえ……」
「アルティリエ姫は記憶がおありでないと聞きましたが……」

 ネイシア妃が心配そうな眼差しを向けてくる。
 漆黒の瞳に漆黒の髪……肌もやや浅黒い。ネイシア妃には南方の血が混じっている。南方の人たちは、身体能力に優れている人が多く、女性は極めて肉感的で……つまり、すごくスタイルがいい。

「はい」

 申し訳ありません、と頭を下げる。

「あら、そんなことはないのよ。忘れてしまっても、私があなたの母であることには変わりないのですから」

 優しい慈母の笑み。国民に、母女神のような……と形容される笑みだ。

「ありがとうございます」

 ひっかかりを覚えるのは、私が女性の多い職場でたくさんの女性を見て過ごしてきている経験があるからなんだと思う。
 違和感を覚えるのだ。

(たぶん……)

 ユーリア妃殿下は、端的に言うならば『女優』なのだ。本当は演じているというのともちょっとニュアンスが違うのだけれど、わかりやすく言えばそういうこと。女なら誰だって多少はその気があると思う。
 自分が可愛いとか綺麗であることを自覚している女は、自分の見せ方と言うのを心得ている。どうすれば自分が一番可愛いのか、あるいは、綺麗なのか……相手が自分に心を傾けるのかがわかっているのだ。
 ユーリア妃殿下の場合はそれのスペシャル版。最上クラスと言っていい。
 自分をどう見せればいいのか、どうすれば相手の心を獲れるのかをよく知っている。
 国王陛下が何人の愛妾を持とうとも、この方が第一の人であることは変わらない。それくらい、国王陛下はこの方を愛していらっしゃるのだと言われている。
 この方の立場を脅かしたのは、私の乳母が死んだティレーザ事件で生涯幽閉の身となった寵妃リリアナだけだったそうだ。

「エルルーシアには可哀想な事をしました」

 ドキンと鼓動が跳ねた。
 私は妃殿下を見た。

「エルルーシアは確か、ユーリア妃殿下のところのマリアの縁者でございましたね?」
 
 ネイシア妃が軽く首を傾げる。

「ええ。代々武官を排出している家の娘で……父親は王太子付の護衛ですし、剣を扱えるということでぜひティーエの護衛にと思いましたの」

(あれ?……何かおかしい?)

 ユーリア殿下が自分の息子を「王太子」と呼ぶことに驚いたんだけど、それだけじゃない。
 私はエルルーシアが王太子殿下付の武官の娘だと聞いていた。だから、単純にエルルーシアは殿下の紹介だと思っていたけれど、今の口ぶりではユーリア妃殿下の意図が働いていたという意味にとれる。

「ユーリア妃殿下はアルティリエ姫を実の娘のように思われておりますのね」
「勿論ですわ。アリエノールはあまり懐いてくれなかったので、ある意味、実の娘以上。……陛下も、自身の姫よりもずっとこの子を案じておりますから……」

(……それ、ナディア姫のいる前で言うことじゃないから)

 案の定、姫にはじろりと睨まれる。
 でも、記憶の無い私が言う事じゃないけど……ユーリア妃殿下に懐いていたような感じがないんだけどな。

「ティーエ、あまり食べていないのね。……近頃、あなたがお菓子を好きだと聞いたから、アリアーナが作って下さったのよ」

 たくさん召し上がれ、と、ユーリア妃殿下がスコーンらしきものを皿に取り分けてくださる。
 ティーエ、そう呼ばれる甘さに、背筋がぞくりとする。
 理性では、ユーリア妃殿下を素晴らしい方だと思うのに、その理性を全面的に信じる事ができないのは、妃殿下に「ティーエ」と呼びかけられると鳥肌たつせいかもしれない。
 生理的な怯え……私の中の忘れてしまった記憶がふるえるのだ。

「ありがとうございます」
「アルティリエ姫も最近お菓子作りをなさっているそうですね」

 ふっくらしたバラ色の頬……アリアーナ妃は先日四十になったばかりというが、もっと若く見える。美容に気を使っているんだろうな、この人たち皆。

「はい」
「ぜひ、今度教えて下さいな。姫のお菓子は一味違うとお聞きしましたわ」
「はい」

(ダメなら殿下が断ってくれるよね……うん)

「そういえば、ナディア姫はそろそろ婚約を考える時期になりましたね」

 話題が私からナディア姫に移ってほっとする。 

「はい。……陛下からは、一応、候補を打診はされておりますの」
「アルハンのお世継ぎはもうご結婚なさっておりましたわね?」

 アルハンはアルジェナ妃殿下のご実家だ。
 その血をひくナディア姫の嫁ぎ先としてまっさきに考えられるだろう。

「はい。先年、幸いなことに男の子に恵まれまして……」
「まあ、南家は安泰ですわね……では、ナディア様の結婚相手の候補は?」

 話題の中心であるはずのナディア姫は居心地悪そうにひきつった笑いを浮かべている。
 そりゃあ、そうだ。本心を言えば、余計なお世話だと思うもの。

「国内ですと南公のご嫡子ガリア様……ですが、ガリア様はまだ12歳でらっしゃるでしょう。この子が、年下はいやだと申しまして……」
「でも、王女殿下が四公爵家の外でご結婚なさるのはあまり良いこととは言えませんわ……おかわいそうなことになりますでしょう?」
「ええ。ディアナ王女の例がございますものね」

 何代前の王様の娘かわからないけど、ディアナ姫っていうお姫様がいた。
 彼女は弟の家庭教師をしていた貧乏伯爵と恋に落ち、紆余曲折の結果、初恋の人と結婚できたのはいいが、あまりにも貧乏な家に嫁いだ為に、自分の為の馬車すら持つことができずに外出もままならない生活をしたのだという。
 自分で料理したり、自分でドレスを縫ったり……とにかく、そのお姫さまはすごい苦労をしたそうだ。それで、よく身分違いの結婚はよくないっていう例にだされる。
 でも、お姫様が不幸だったのかは伝わっていない。誰も、その終わりを知らないのが何かちょっとおかしかった。まあ、幸せだったか不幸せだったかは本人にしか判別がつかないことだと思うけど。

「やっぱり、家格があまりにも違っては、いろいろと問題がありますもの」
「ですが、東家は……」

 視線が私に集中する。
 はい、わかってます。私が暫定相続人なのは。だから、すごーく貴重品扱いされてるってことも重々承知ですよ。

「東公のご子息は残念ながら相続する家がございませんものね。分家も許されておりませんし……まあ、分家するといっても、いただける爵位はせいぜい子爵がいいところですから……王家の姫の嫁ぎ先としては相応しくございませんわ」
「……では、シュナック殿下はいかが?ちょっとお年は離れてらっしゃいますけれど、王太子殿下とアルティリエ姫の例もありますし……」

 ぷちり、と隣に座るナディア姫の中で忍耐の糸が切れた音を聞いたと思った。

「あたしは、いつも美少年侍らせてるホモなんかまっぴらごめんだから!!ついでに、飲み物選ぶのさえママに聞いてくるなんて言ってる40男もごめんだから!!」

 ナディア姫はがっと立ち上がって、面々に宣言する。
 シュナック殿下って陛下の弟君だよね?……美少年趣味の人なんだ……へえ。
 
「ナディア姫、おかわりはいかが?」
「あ……はい」

 一瞬凍りついた空気は、ユーリア妃殿下のその一言でふわりと溶ける。ユーリア妃殿下はそっとその肩に手を置いてナディア姫を席につかせた。
 香り高い紅茶が姫のカップに注がれる。ついでに私のカップにも。
 ちょっと口をつけると、殿下からいただいたサギヤの紅茶と違ってかなり濃くて渋い。ミルクなしだと今の私の味覚にはきつい。お菓子が甘いから砂糖はいれないけどミルクはなみなみと注いだ。

「ナディア、言葉が過ぎますよ、はしたない」
「………………………」

 母君の言葉にナディア姫はぷいっと横を向く。ふてくされた表情……鮮やかな緑の瞳は、とても口惜しげだ。

(……腹芸とか絶対できないタイプだね)

 異母とはいえ、あの殿下の妹とは思えない感情の素直さだ。

(殿下、そういうの大得意だもんね……)

「ごめんなさいね、おばさんだから、ついつい下世話な話になってしまって」

 アリアーナ妃がふわりとナディア姫に笑いかける
 なのに、そう言っているかたわらから、ネイシア妃が問うている。 

「国外からもお話が来てますの?」
「ええ……でも、お話だけですわ。陛下もおっしゃって下さいましたの。わざわざ異国に嫁いで苦労することはないと」
「そうよねぇ」
「でも、住めばそこが都ですよ。愛する方が居てくださるのなら尚の事……」
「ユーリア妃殿下……」

 ユーリア妃殿下の故国はダーハルという小さな公国だ。今はもうダーハルという国はない。その地は現在、帝国の支配下にある。

「とは言いましても、ダーディニアの王室は婚姻政策をとらないですものね」
「仕方がございませんわ。それが、ダーディニアなのですから」

 アルハン公爵家の令嬢として生まれ第二王妃となったアルジェナ妃殿下は誇らしげに言った。
 王家に継ぐ四公爵家に生まれた彼女には、ユーリア妃殿下のその言葉に潜むニュアンスを正確に捉えることはできなかっただろう。いや、この場にいた他の方にもわからない。
 彼女たちはダーディニアで生まれ、ダーディニアで育ち、ダーディニアしか知らないダーディニアの名家の娘たちだから。
 でも、私には、少しだけわかった。
 私もまた、ユーリア殿下と同じく異邦人だった。
 私の心の何分の一かは、21世紀の日本で育まれたものだから。

(なぜ、ダーディニアは婚姻政策をとらないのか……)

 それは、何か明文化されていない決まりがあるのではないかと思う。
 ダーディニアは、別に鎖国しているわけでもなく、純血主義というわけでもないのに、王室の血を外に出す事を嫌う。
 ダーディニア王室において、他国から嫁ないし婿にとることはあっても、その逆はほとんどない。
 貴族間でも『血』がかなり神聖視されていることは確かだ。庶子に相続権がないことや、その厳しい相続規定を見ればわかる。……それが私の問題を厄介にしてるわけだけど。

「ナディア様は、もうお心を決めておりますの?」

 ユーリア妃殿下が問い掛ける。

「私は……別に……」
「陛下には、16歳の誕生日迄に自分で候補の中から選べないのならば、陛下が決めると言われておりますの」

(一応、選択肢があるんだ……へえ……)

 問答無用で命令されるのかと思ったよ。

「ユーリア妃殿下、参考までにお聞きしますけれど、アリエノール様の時はいかが致しましたの?アリエノール様がご自身で決断を?」
「あの子は自分で決めましたわ。……そういう子ですの」
「ユーリア妃殿下に似て聡明でらっしゃいますものね」
 この子ったら、自分ではまったく決断できませんのよ、とアルジェナ妃殿下は溜息をつく。
 ナディア姫は唇を噛み締めてぎゅっと紅茶のカップをにぎりしめている。……あんまり力をこめたら割れるんじゃないだろうかと心配してしまう。

(15歳で自分の結婚相手決めろって言われてもね……)

 33歳まで独身人生送っていた身としては何も言えないよ。
 ……そのツケを支払わされてるのか知らないけど、今は生後七ヶ月から人妻だけどさ。
 温くなったミルクティに口をつけようとして、顔を顰めた。
 むせ返るような花の香りにまぎれていて判りにくいけれど、かすかな異臭……これ、ミルク、腐ってる?

「どうかして?ティーエ」
「いえ」

 飲むのやめよう。おなか壊したら困るし。

「あら、もういいの?」
「はい」
「そんなこと言わずに、もう少しいただいたら」

 私は静かに首を横に振る。
 こういう時、人形姫ぶりっこしていると便利だ。いちいち説明する必要もなければ、相手が気を悪くしたかなんて気遣う必要もない。

「そう?残念ね」

 ユーリア妃殿下が優雅に微笑む。
 穿った見方をすれば、妃殿下が私に嫌がらせをしているということになるけれど、お茶を用意したのはネイシア妃とアリアーナ妃なわけで、誰がやったかはちょっとわからない。

(他の人が飲んでも困るよね……)

 どうしようか、と考えていたら、がしゃんっと耳触りな音がした。

「……もう、いい加減にして!私が誰と結婚したっていいでしょ。お父様は、私に選んでいいって言ったんだから!」

 ナディア姫が乱暴に立ち上がり、だんっとテーブルを叩く。
 どうやら、私がちょっと考え事していた間にも彼女の結婚話はまだ続いていたらしい。

「余計なお世話なのよ。ママも!あなた達も!」

 癇癪を起こしたナディア姫は、思いっきり目の前のテーブルクロスを引っ張る。

「きゃあ」
「ナディアっ」

 途端にテーブルの上は目も当てられない惨状になった。

(あ、やば……)

 こぼれた紅茶がガウンの裾を汚す。
 慌ててハンカチで裾をふく。
 まずいぞ、新しいガウンだから、汚したらきっと衣装に情熱を燃やしているジュリアとアリスが嘆くに違いない。
 私のその様子を目の端で見た、ナディア姫の瞳に後悔の色が浮かぶ。

「……来なさいよ」

 強引に手をとられた。

「ナディアっ」
「うるさいっ。ママは、金輪際、私にかまわないで」
「え?あ……」

 強く手を握られて強引に連れ出された。振りほどく隙が見出せぬまま、私は半ば引きずられるようにして王妃殿下の居間を出た。




(あー……どこに行くんだろう……)

 唇噛み締めて、ずんずん歩いているその思いつめている様子を見たら、ちょっと付き合ってもいいかな、と思った。
 ……半ばひきずられているようなもので、逃げられないというのもあったけど。
 やりきれなさというか、ああいうのを嫌う気持ちはわかる。
 雰囲気は優雅だけど、まあ、余計な世話焼きおばさんの井戸端会議の変種みたいなものだからね。
 ナディア姫は怒り心頭といった様子でずんずん歩く。
 えーと……どこ歩いてるのかわかってるのかな。私はもうまったくわかってないよ。
 
「……妃殿下」

声がした。聞きなれた声。

「……リリア」

 私は立ち止まる。ナディア姫もつんのめるようにして立ち止まった。
 リリアはナディア姫に優雅に一礼すし、姫はどうしていいかわからないように俯く。

「お茶会はもう終わったのですか?」
「……………………はい」

 戻る気にはなれないよ。
 私がうなづくまでのその沈黙と、何だか泣きだしそうなナディア姫を見て、リリアは何かを察したらしい。それ以上は問わなかった。

「リリアは?」
「私は正宮の兄の下へちょっと……。終わったのでしたら宮に戻りましょう。護衛も無く歩いていたら危険です」

 こくりと私はうなづく。

「ナディア様もいかがですか?」
「……え?」

 どこか途方にくれたような表情をしている姫が顔をあげる。

「よろしいですわよね?妃殿下」
「はい」

 何か一人にしたら可哀想だと思った。
 私が何か味方になってあげるとかはできないけれど、気晴らしに泊まるくらいはさせてあげられる。

「……いいの?」
「東宮と王妃殿下には使いを出しておきますし、王太子殿下のご許可もいただきますから」

 王太子殿下……の単語にびくりとナディア姫が震える。

「やっぱり、私……」

 こんなかわいい姫君に怯えられるような何をしたんだろう?あの殿下は。

「大丈夫」

 殿下はちゃんと話せば話のわからない人ではない。
 ……話す前に怖いと思うことがあるかもしれないけど。

「では、戻りましょうか」
「はい」

 リリアに先導され、今度は私がナディア姫の手をひいた。

「……ごめんね」

 小さな小さな声でナディア姫が謝罪の言葉を口にする。

「……平気です」

 応える代わりにぎゅっと握り返された手はとっても頼りなげだった。




 2009.06.06 初出



[8528] 24
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/11 00:01
 24



「……ルティア」

 西宮への回廊を通り抜けると殿下がいらっしゃった。

「殿下」

 私は軽く一礼する。

「……騒ぎになったと聞いたが」

 殿下は、私の前に膝を付いて私と目の高さをあわせてくれる。

(子供の扱いに慣れているのかな)

 私はたぶん12歳の少女の平均身長より小さくて、殿下は180前後だと思われるので、こういう時、こうして膝をついてもらうか抱上げてもらわないとちゃんと顔を合わせることができない。

「大丈夫です。ナディア姫が皆にいじめられたの」

 説明が長くなりそうだったので要約してみた。

「……ナディアが?」

 その時点で初めて気付いたのか、殿下はナディア姫にちらりと視線を向ける。

「そうです。だから、私のところに泊まるの。良いでしょう?」

 殿下の普通に冷ややかな視線にナディア姫は硬直している。これ、普通状態だから。別に怒ってないから大丈夫だよ。

「だからが、どこにかかるのかまったくわからないのだが……」
「ちょっとした家出です」
「……ここも、結局同じ家の中だ」
「いいんです。……虐められたから、一番安全な殿下の籠の中に逃げ込むの」
「……まったく、君は……」

 その後の言葉を、殿下は口の中で小さく呟いた。何ていったのかわからなかったけれど、殿下が仕方がないという風に笑ったので、私も笑った。殿下が笑ってくれるのが嬉しい。

「良いですか?」
「……ああ」

 殿下は私の頭をくしゃっと撫でる。頭に触れられるのって大嫌いだったはずなのに、それで嬉しくなってしまう自分が始末に終えない。
 『嬉しい』が循環して、殿下にも伝わるといいのに。

「私から、母上とアルジェナ妃には連絡しておく。認めるのはそなたの滞在だけだ、ナディア」
「はい、王太子殿下」

 ナディア姫はそっと頭を下げる。
 ふーん、王太子殿下って呼ぶんだね。やっぱり異母兄妹だから?

「……それは?」

 殿下が私のガウンの裾のシミに目をとめた。

「ああ……紅茶をこぼしました」
「紅茶?……その色が?」

 なんか漂白に失敗したみたいな、黄色みがかった色になってる。

「腐ったミルク入りです」

 だから飲みませんでした、と言ったら殿下が難しい表情になった。

「……そなたはミルクを使ったか?」
「いいえ」

 問われたナディア姫の顔色は蒼白だ。

(ナディア姫はそれどころじゃなかったよ……たぶん)

「リリア、ルティアを着替えさせたら、そのドレスを私のところへ」
「何か問題がありますか?」

 まさか、殿下がシミ抜きをして下さるわけじゃないよね。

「…………腐っていなかったかもしれない」

 そこまで言われて何を示唆されているかわからないほど鈍くは無い。
 いや、あの場でだってそれを考えなかったわけではない。でも、ちょっとあからさますぎるでしょう?
 あの場にいた人間が疑われるのが濃厚なんだよ。あまりにも芸がなさすぎると思ったの。
 ナディア姫が小さく震えている。

(……何をそんなに怯えているのだろう?)

「大丈夫だよ。死んでしまうほどの毒物じゃないと思うし」
「なぜそう思う?」

 殿下の声は厳しいままだ。

「あそこでもし私が死んだり、何かあったら、あそこにいた人が疑われるの当然でしょう?それに、私を狙ったものかわからないし……誰がミルクを使うかはわからなかったんだよ」

 アルジェナ妃殿下だってたっぷりいれてたよ。

「……貴女は、狙われていたの」

 ナディア姫が首を横に振る。

「え、そうなの?」
「だって、ミルクたっぷりにハチミツか砂糖がないと飲まなかったじゃない。……記憶をなくす前は」

 ああ、そうだった。
 私より私のことに詳しい人がたくさんいるってどういう状態なんだとかちょっと自分で自分に突っ込みたくなる。

「それ、そんなに多くの人が知ってるの?」
「ルティア、君のその好みは誰もが知っている」
「なぜ?」
「……父上が貴女のその好みの為に農場で何種類もの牛を飼育させ、いろいろな場所のハチミツを取り寄せていらっしゃるからよ」

 ナディア姫のその言葉に、国民の大半が君の好物は牛乳とハチミツだと思っているだろう、と殿下が付け加えた。

「…………………やりすぎ?」
「いや。その程度のことで揺らぐ財政ではない。……むしろ、その為に乳製品の市場が拡大し、養蜂技術がさかんになった。贅沢をするというのは別に悪い事ばかりじゃないのだ、ルティア」

 それでも、元一般庶民は心苦しく感じるんですよ。

「……まあ、いい。しばらく宮の外には出ないように」
「朝のお茶もですか?」

 唯一のプチ外出なのに!
 ……あれが外出っていうのも哀しいけど。

「……私がそちらに行けば同じだろう?」
「回廊歩いたり、違う景色見たり……アーニャとおしゃべりできないじゃないですか」

 アーニャは殿下付の女官。ちょっとだけえらい。確か、王太子付女官長補佐で、よく殿下情報を教えてくれるのだ。
 昨日は夜遅かったとか、ちょっと体調が悪そうだとか、財務大臣と冷戦やってたとか。

「アーニャというのは、アンナマリアのことか?」
「そうです」
「何を話すのだ?」
「いろいろです」
「いろいろとは?」
「殿下、女の子の内緒話を聞き出すなんて無粋ですよ」

 本人に貴方のこと聞いてますなんて言えるわけない!
 そんな恥ずかしい事!

「……アーニャを問い詰めたりなさらないで下さいね。そんなことしたら、怒りますから」
「私にか?」
「はい」

 私が怒ったところで何ができるわけじゃないけど、できる限りの強い決意を表しているつもりで睨みつける。

「…………わかった」

 その微妙な間と微笑みが何か不安です、殿下。





「……普通なのね」

 部屋着に着替えてくると、アリスがお茶をいれてくれていた。
 こちらでは一般的なグリーンティ……つまり、緑茶。
 ティカップに注がれるのが超違和感ある。お茶は湯呑みでしょう、湯呑み!妥協できるのは会社仕様マグカップまで!
 でも、こちらでは普通にティカップ。緑茶は紅茶の種類の一つという認識なのだ。

「何のお話ですか?」
 
 私はちょこんと自分の椅子に座る。
 ナディア姫はちょっと疲れた顔をしていた。

「貴女も、お、王太子殿下も」
「……よくわからないけど、いつもあんなです」

 最近、絶対にリリアにバカップル扱いされてると思う。
 あの生温い目を見るたびにそう思う。
 そんなんじゃないのに!

「あなたがそんな風に話せるなんて知らなかったし、王太子殿下があんな風にお話になるなんて驚きだわ」
「……記憶がね、ないのです」

 リセットしちゃったんですね、と私は笑う。

「で、頑なに口を開かなかった理由も、他の事も、全部一緒に忘れてしまったんです」

 だから、今は場所を選んでですが普通に話してます。と告げる。
 姫は、どこか自分が傷ついたような顔をしていた。

「内緒にしておいて下さいね」
「誰に?」
「西宮の人ではない人たちに」
「……わかった」

 真剣な顔でうなづく。説明しなくても、彼女にはそれを納得できる理由があるのだろう。

「……聞いてもいい?」
「何をですか?」
「以前も殺されかかったんでしょう?」
「そうです」

 私に向けられた殺意を理解した瞬間を、きっと私は忘れる事がない。

「恐く、ないの?」
「……恐くないと言ったら嘘です」

 いつも、恐いのを誤魔化してる。さっきだってそう。あれは毒じゃないって思いたくていろいろ言葉を尽くす。そうじゃない可能性を……逃げ道をいつも探してる。
 
「でも、ここにいれば大丈夫なんです」

 殿下が守ってくれるから、と言うとナディア王女は少し不思議そうな顔をした。

「何ですか?」
「前のあなたは王太子殿下のことも避けていたから……」
「え、そうなんですか?」
「ええ」
「おに……いえ、王太子殿下の女官が、貴女の好みを探るのに、私のところに今時の女の子が欲しがりそうなものをリサーチしに来てたくらいだし……」
「なんですか?それ」
「つまり、それくらいあなたは自分の意志を表明しなかったの。見てて腹立つくらいに」

 それでも、何とかあなたの気を引こうと貴女が関心持ちそうなものを調べに来ていたのよ、年齢が近いから……とナディア姫は複雑な感じの笑いを浮かべる。

「ほんとに、そこまでする何があったんでしょうね」

 今更ながら謎だ。
 何をどうすれば10歳にも満たない子供がそこまで思いつめる事ができるのか……。
 だって、嫌なことなんか一晩寝ればだいたい忘れるよ。子供なら特に。

「……ごめんなさい」

 いきなり謝罪された。

「はい?」

 思いつめた顔をした姫は、勢いよく頭を下げる。

「何ですか?」
「……あたし、知ってたの」

 ナディア姫、本当は一人称「あたし」なんですね。
 なんか気を許してくれてるみたいで嬉しい。

「何を?」
「……貴女が恐くて、辛くて、泣いてたこと」

 でも、見て見ぬフリしたの、とナディア姫が言う。

「いつのことです?」
「……子供の頃」
「そんなの時効ですよ。……そもそも、覚えてませんし」
「でも……たぶん、そのせいだと思うから……」
「私がしゃべらなくなったのですか?」
「そう。……だから、あなたが、王太子殿下に連れられて後宮を出て行った時、少しだけ安心した」

 やっぱり戻すって話になった時も、戻ってこなければいいって思ってた、と言う。

「なぜですか?」
「だって、あなたは避けてたけど、王太子殿下のところに居た方が後宮よりずっといいと思った。あたしが言うのも何だけど、後宮はあんまり居心地いいとこじゃない。……皆が、お父様の関心をひくために見えないところで張り合ってるから……」

 王の寵愛を競う……それが後宮の女の宿命だ。

「でもね、おかしいのよ。どんなに頑張っても、皆、貴女には絶対に敵わないの」
「私?」
「ええ。……お父様の絶対の一番は貴女なの。ユーリア王妃だって貴女には敵わないわ。だから、あなたは後宮中から妬まれてた」

(たぶん、それは違うと思いますよ……)

 陛下の絶対の一番は私ではなくて、エフィニアだ。

「口さがない者の間では、あなたはエフィニア王女とお父様の子だっていう噂もあったくらい」
「……え?そんなことありえるんですか?」
「ありえないわ。……だって、お嫁に行った王女は死ぬまで王都に帰ってくることはできなかったし、お父様はその間、ラーティヴになんて行ってないもの」

 噂は無責任なものだが、あまりにも酷すぎないだろうか。

「………………よく、そんなことが噂になりますね」
「宮廷雀っていうのは無責任なの。……でも、その噂を広めた人間は処分されたわ。あまりにも不敬がすぎるってね。噂の元になった貴族だけじゃないわ、後宮の女官も処分された」
「そうですか……」

 でも、ある意味、当たり前だと思う。だって噂どおりなら、わたしは異母兄妹間に生まれた子で更に異母兄に嫁いだことになってしまう。
 『血』ないし『血統』を神聖視する傾向にあるダーディニアだ。普通よりも過敏に対応するのは当たり前だろう。

「お父様は貴女を侮辱する人間は絶対許さないのよ」
「……やりすぎですよね」
「否定はしないわ。……でも、ずっと羨ましかった。ううん、正直言えば今も羨ましい」

 私ももっとお父様に構って欲しいと思うもの。と、口にするちょっと淋しそうな横顔。
 私がここで言えることは何もない。何を言っても、陛下の一番だと言われている私が言ったら、嫌味にしかならないもの。

「でも、それと同じくらい貴女じゃなくて良かったとも思ってた」

 だって、私には耐えられないもの、と力ない声でつぶやく。

「貴女は何もかもを与えられていたけれど、何も持ってなかった……」

 遠い眼差し……私が覚えていない過去を見る瞳。

「どういう意味ですか?」
「貴女が大切にしているものはいつも失われるの。……最初はお気に入りだったリボンや靴……それから、よく着ていたドレスが破られたり……大事にしていた金魚がテーブルの上でひからびていたこともあった。……陛下にいただいたカナリアが羽を折られて死んでいた事もあるわ」

 陰湿だなぁ。でも、女同士ってこういうのアリだよね。
 いつの時代もどこであっても変わらないんだね。

「リボンをなくした侍女も靴をわざと汚した侍女もクビになったわ。……ドレスを破ったのはその当時、後宮にいた女性の侍女で、主もろとも追い出された。金魚は誰だったかな……どっちにせよ、処分されたのは間違いないわ。……勿論、一番の大事件になったのはカナリアだったけど……」

 そりゃあ、国王陛下からの贈り物のカナリアが普通でない形で死んでたら問題になるだろうね。

「あなたが気に入ってたティカップは翌日には粉々になってたし、あなたの為に花を捧げた庭師は知らないうちにいなくなってて……噂では、理由ともつかぬ理由でクビになったって聞いた。……そうそう、あなたと仲の良かった侍女が、不寝番の翌朝に貴女の枕元で冷たくなってたっていうのもあったわ」

 確かそれ、貴女が発見したはず、と姫は思い出しながら並べる。

「……毒物ですか?」
「わからないわ。急な心不全で病死として処理されてしまったし……」

 対象が人間とかになってくると不穏だ。アルティリエの周囲には死の影がちらついていると思ったけど、案外的を射てるかもしれない。

(これ以上に、ナディア姫の知らない事件がもっとたくさんあっただろうし……)

 それらの出来事の一つ一つだけでなく、それに対して行われた処分もまた、幼い心に深い傷を与えたのではないだろうか?
 まあ、私が忘れてしまった今となってはもうそれを確かめる術はないけれど。
 自分が大切にしていた物、心をかけていた人……それらのすべてが失われていく……そんなことが延々と続いていたら、頑なに心を閉ざしてしまっても仕方がない気がする。

「……命令していた人間が、全部処分されたとは限らないんですよね」
「……うん」

 ナディア姫の感情が揺れる様が目に見える。
 彼女の危惧していることが、私にはわかってしまう。

(向いてないなあ……)

 きっと、ナディア姫は素直すぎて辛いことが多いだろう。
 何せ私と違って正真正銘の少女だ。身体にひきずられてどれほど幼い言動をすることがあっても、私はあちらでの33年間の記憶を持ち続けている。
 ……私は、覚えていない過去の話で怯えるほど、かわいい女の子ではない。

(あと一つ、知りたいことがあるんです……)

 私は立ち上がり、ナディア姫に近づいて背後からそっと抱きついた。

「アルティリエ姫……?」

 顔は見えないけれど、怪訝そうな表情をしていることがわかる。
 これで私がそれなりの年齢の男だったりしたら、超絶いかがわしい情景だよ、この体勢。
 ナディア姫が警戒心を抱かないのは、私が自分より幼い少女だからだろう。

「………何を、ご存知なの?」

 耳元で、囁くように問い掛ける。
 ビクッとナディア姫が震えた。
 ごめんね、と、謝らなければならないのは、たぶん私の方。……ズルい大人でごめんなさい。あなたの素直さを利用してしまう。

「……わ、私……」
「なぜ、私の紅茶がおかしいって思ったの?」

 抱きしめる腕にそっと力をいれ、ふきこむように耳元で囁く。
 傍目からみれば、私がナディア姫に甘えているように見えるかもしれない。

「………………」

 動揺。……そして、狼狽。
 癇癪おこしたのは本当だっただろうけど、テーブルクロスひっぱるのはちょっと不自然だった。
 私のガウンにこぼれた紅茶を見て、すぐに後悔していたから、わざとだと思っていたの。
 リリアはすごいね、私の目を見ただけでちゃんと私の望みをわかってくれた。

「……確かに隣の席でしたけど、姫にわかるほどひどい匂いはしてなかったです」

 あの部屋は花の匂いがきつかった。

「……わ、私……ミルクを……」
「使ってないってさっきおっしゃいましたよね?」

 小さくクビを傾げて微笑む。

「……見ちゃったから……」

 震える、声。

「……何を……?」

 震える、身体。

「……お母様が……自分が使った後、何かミルクにいれたの。もし、何か悪いもので、あなたが飲んでしまったら……それをお父様が知ったら……」

 まあ、ただでは済まないでしょうね。これまでの前例から言って。
 それはきっと、忘れてしまった私よりナディア姫の方がずっとよく知っている。

「……本当ですか?見間違いとかではなくて?」
「…………本当よ」

 ほとんど泣きそうな表情でナディア姫が振り向いた。
 気が強い美少女の泣き顔……絵になるなぁ。

「でも……お父様には言わないで。お願い」

 ぎゅっと私の両手を握り締めて、頭を下げる。

「お願い……もう二度とさせないから」

 私が止めるから。
 まるで祈るようにそう言われて……縋りつかんばかりの様子で……これで、断れるほど鬼畜ではない。

「言いませんよ。……大丈夫」

 そうか、アルジェナ妃かー……。

(後で殿下にあの毒が何だったのか聞こう)

 どれだけの分析技術があるかはわからないけれど、調べられるからこそ、殿下はガウンを届けるように指示したのだと思う。

「本当?」

 濡れた目で見上げられた。
 私が男だったら間違いなく揺らぐね。ほんと、可愛い。

「本当です」

 あのミルクの一件はこれで解決か……。
 でも、アルジェナ妃とは思わなかった。ちょっと見込み違い。
 単純に考えれば、一番怪しかったのはユーリア妃殿下だ。
 苦い紅茶をいれ、ミルクをいれるように仕向けることができたし、さらには飲むようにもすすめていた。そうでなくとも、あのお茶会はユーリア妃の主催なので、何かあれば全部ユーリア妃の責任ということになる。
 まあ、それではあまりにも単純すぎるから、そうなってたらなってたで疑っていただろうけど。

(ユーリア妃はそんな単純な方ではないよね……たぶん)
 
 何となくそう思う。

「で、アルジェナ妃殿下はなぜ私を?」
「たぶん、だけど……今度の建国祭で陛下は貴女に『女王』をやらせるつもりだから」
「……何ですか?それ」
「初代陛下の妻となった妖精の女王の役」
「は?」

 妖精?なぜ、いきなりおとぎ話?

「建国祭の一番大事な儀式は、妖精の女王が国王陛下に王権の象徴たる聖剣を与える儀式なの。妖精の女王の役は、王族か大貴族の15歳以下の娘が一生に一度だけやることを許されるの」
「……未婚じゃなきゃダメとかっていう規定はないんですか?」
「規定はないけれど、暗黙の了解としてそうなってるわ。……でも、貴女の場合は結婚してるって言っても、乙女なのは間違いないでしょ」
「そうですけど……」

 もし、そうじゃなくなったらみんながそれを知ってるとかっていう事態になりそうだなってちらっと思った。恐い、それ。……考えるのやめよう。

「私、今年が最後の機会なの。……建国祭の一週間後に誕生日だから。だから、お母様がお父様にお願いしたら、貴女にやらせるつもりだからダメって言われたんですって。……そのことを三日くらい前から、お母様、ずっと怒っていたの」

 別に私はこれからもチャンスがあるのだし、やらなくてもいいんだけどな。
 でも、国王陛下が言い出したのでは、誰も反論できないのだろう。

(私に拒否権ないだろうし……)

「…………建国祭っていつですか?」
「来月の五日から約二週間」
「あれが何だったかはわかりませんけど、あの薬をもし私が飲んでいたらどうなっていたんでしょう……?」

 私的には下剤程度と思っているけど……例えば下剤だったとしたら、今飲ませてもまったく意味が無い。だって、今、おなかを壊したところで、来月の五日にはあっさり元通りだよ?

「例えば、私がそれを飲んで……命に関わらない程度だったと仮定します。……でも、建国祭のそれをナディア姫ができるようになるとは思えませんが……」
「ええ……その通りよ」

 それは、まったく別の話だ。

「むしろ、成功した場合は大騒ぎになりますよね、犯人探しで」

 犯人と特定されてしまったら、第二王妃であっても無事で済みそうにない。……これまでに聞いた話から判断すると。

「浅はかなのよ……」

 再び顔色を悪くした姫が、吐き捨てるように言う。
 憎しみにも似た愛情……母を心配するからこそ、愚かな行動に怒りを覚える。

(健やかだなぁ……)

 ナディア姫は、後宮で育ったにしては奇跡的なくらい健やかな心の持ち主だ。すごく真っ当だと思う。
 でも、だからこそ生きにくいところがあるのだと思う。

(……あれは毒薬……だったのかな?)

 殺す気だったのなら、目的は果せる。けれど、簡単に足がつきすぎる。

「もし、ただ脅すだけのつもりなら、前もって何らかの形で辞退しろって私のほうに脅しておかなければダメな話ですよね」
「……あなたが、その話を知らないのに?」
「ああ……すぐに犯人がバレますね」

 アルジェナ妃が何をしたかったのか、まったく意味不明だ。

「……あの、ね……たぶん……ただ、あなたが酷い目に遭えばいいって思っただけだと思うの。ちょっと意地悪してやろうって思ったっていうか……お母様、そういう単純なところがあるから……」
「……………充分、酷い目に遭ってると思うんですけど」

 真冬の湖に落ちて記憶をなくし、侍女は身代りで毒死してるんですが、まだ試練が足りないとおっしゃるんでしょうか。

「ご、ごめんなさい……」

 ナディア姫は居たたまれない様子で視線を泳がせる。

「後宮って恐いですね」

 姫に言っても仕方が無い。

「恐いわよ。……お茶会の席でみんな和やかに話してたでしょ?でも、あの人たち、みんな仲悪いから」
「そうなんですか?」
「そうよ」

 きっぱりと言い切る。
 あんなににこやかな笑顔を向けてくれてはいても、裏では恐いことになってるんですね。

「……ネイシア様とアリアーナ様は犬猿の仲って言ってもいいくらいだし……お母様はアリアーナ様を白ブタって呼んでて、アリアーナ様はお母様を赤毛ザルって罵ってるの。表面上は誰もユーリア様には逆らわないけど、裏に回ればババアのクセにでしゃばるな、とか、若作りしすぎ!とか、酷いものなんだから」

 思い出すだけで歪む表情……女の争いは恐い。

「ネイシア様はちょっとアル中気味なの。お酒で紛らしてるのね。でも、それを隠してる。ネイシア様の侍女達は大変なの。すぐ物を投げたりするから」
「バイオレンス……」
「……でも、やっぱり、一番恐いのはユーリア様。ユーリア様は、いつもにこやかで、決して醜い顔をみせたことがないわ。……ママみたく口汚く罵ったりしないし、癇癪起こして侍女にあたったりもしない。いつも本当に穏やかで美しい笑顔ばかり。ユーリア様の侍女たちも口を揃えて言うの。ユーリア様の侍女でよかったって……でも、でもね…だからこそ、私は、ユーリア様が恐い」

 同じだ、と思った。彼女の感じているそれは、私の感じている恐さと一緒だ。

「……私も、そう思います」
「………貴女も恐いと思ってるの?」

 不思議そうに私を見る緑の瞳。

「はい」

 こくりとうなづく。

「そっか……」

 ナディア姫は小さく笑った。







「妃殿下、おやつですよー。焼きたてです」

 アリスが、トレーをもって満面の笑顔でやってくる。器用なアリスは、最近私のお菓子作りの良い助手だ。簡単な作業ならだいぶ任せられるようになった。

「おやつ?」
「……さっき、いろいろ食べそこないましたから」

 腐ってるミルクの出たお茶会でそれ以上何か口にする気にはならなかったの。

「ナディア様も、どうぞ食べて見てください」
「何なの?これ」

 さっきまでの気弱げな表情が幻だったかのような、不機嫌そうな表情……見事なまでの変貌。侍女には、泣いていたことなど欠片も見せない。
 きっと、それがナディア姫のプライドだ。その意地っ張りな誇り高さがひどく愛おしく感じられる。

「ちょっと甘めのスポンジの皮に豆を甘く煮たものを挟んであるんです」

 平たく言えばドラ焼きです。餡は前もって私が煮ておきました。瓶詰めで保存しておけば、今の季節ならアイスボックスにいれておけば五日くらいは余裕で大丈夫。

「濃いグリーンティでいただくとおいしいんですよ」

 ジュリアは最近、お茶をいれるのがとても上手になった。
 おやつにあわせて、いろいろ研究しているんだって。

「……おいしい」

 皆の注目の中、ふわりとナディア姫の頬が綻ぶ。

「……これってバター?」
「そうです。普通のと、バターを挟んだものと、生クリームをはさんだものがあります」

 アリスが説明する。
 ドラ焼きは、餡さえあれば銅パン一つで簡単にできるのでアリス達もだいぶ上手になった。挟むもの次第でバリエーションは無限だ。原理はパンケーキサンドも一緒なので生地の配合を変えれば、パンケーキサンドも作れる。

「……おいしい。腕をあげましたね」

 生地は表面がちゃんとキツネ色で、ふんわりもちもちしてる。餡はどうせすぐに使い切ると思ったから、砂糖控えめの甘み控えめ。小豆が大粒でおいしいからそれで充分なの。
 こだわりは、こし餡じゃなくてつぶし餡にしたこと。黒砂糖がないのがちょっと残念だったけど、いつか手に入れたいと思う。

「本当ですか?わー、嬉しい」
「今度、婚約者に食べさせてあげるといいですよ。……甘いものが苦手だったら、パンケーキサンドにして、甘さ控えめのほんのりブランデーをきかせたクリームを挟めばいいです」
「それ、私も作りたいです」

 『婚約者に』の言葉にジュリアも反応する。
 さすがだなぁ、二人とも。『婚約者』が関わると、ちょっと目の色変わるよ。

「じゃあ、次のお休みの前の日はパンケーキサンドで」
「はい」
「お願いします。……あ、私達は片付けをしてまいります」

 二人はいそいそと退出する。
 部屋の中には私達しかいなくとも、窓とドア……出入り口になるような場所には護衛の騎士達が立っている。ここにいる限り、私が真実の意味で一人になることは絶対にない。ここは私にとって絶対に安全地帯だ。

「仲が良いのね」
「……いろいろ、ありましたから。……本当によくやってくれているんです」

 エルゼヴェルトのあの城で目覚めた時から、どのくらいの時間がたったのだろう……まだ2ヶ月もたたないと思うけれど、気分としてはもう何年もたった気がする。

「……少ない人数で、この宮を維持するのは本当に大変だと思うのです。下働きがいるとはいえ、この棟に関しては彼女達の手だけで運営されていますから」
「四人だけしかいないの?」
「そうです。……私も掃除くらい手伝うわって言ったら、リリアに怒られました」

 リリアには妃殿下のすることじゃないと怒られ、主に掃除をさせるなど女官の名折れだとミレディには悔し泣きされそうになったので諦めた。

「……ねえ」
「はい?」
「……………」

 ナディア姫が何か言いたげな顔で私を見る。

「何ですか?」

 何か見たことのある表情だな……誰だっけ?
 記憶の片隅をかする光景がある。

(ああ……王太子殿下だ)

 昨日の朝、顔を合わせた時の殿下の表情によく似ていた。

「…………わ、私のことはナディアって呼んで良いわよ」
「じゃあ、私のことはアルティリエって……長いですよね……?」

 でも、ティーエと呼ばれるのはちょっと……遠慮したい。

「ルティって呼ぶわ。良いでしょ?ルティアだと王太子殿下と一緒になっちゃうから」
「良いですよ」

(……あれ、もしかして、あの時、殿下は名で呼ばなかったからあんな顔をしたのかな?)

 それに気が付いたら、何だかそれが正解な気がした。

(うわ、そんな単純な事?)

 おかしくなって自然に笑みがこぼれた。

「なあに?」
「いいえ、何でもありません、ナディア……いえ、ナディにしましょうか。その方がお揃いみたいです」
「い、いいわよ。る、ルティがそれがいいんなら」

 ナディが耳元をほんのり赤く染める。
 意地っ張りなとこが何かツボに入りそうです。噛んでるとこも、可愛い。

「では、ナディ。……お茶のお代わりをもらいましょうか。私、今、殿下からいただいたサギヤの紅茶がお気に入りなんです」
「ぜひ、いただくわ」




 ほんのり頬を染めたナディの笑顔は、とっても可愛かった。





 2009.06.09 初出
 2009.06.11 手直し


 *********************************

 なんか、新しい世界を見た気がしました。


 



[8528] 25
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2013/09/26 20:48
 25



 定番となった朝のお茶の時間は、最近は朝食タイムも兼ねている。だから、甘いものだけではなく、軽食になるようなものを用意するようになった。
 一人じゃない朝食が嬉しくて、準備するのにも力が入る。
 野菜たっぷりのスープは必須。デザートにはなるべくビタミン多そうな果物を選ぶ。今の季節は温室栽培のオレンジが多い。
 殿下は、最近、自分で作るオープンサンドがお気に入りだ。
 切れ目をいれた小さ目のバケットを軽く焼いたものと挟むための具をいろいろ準備しておくの。
 ハムや卵のフィリングに軽く焼いたベーコン。タマネギとレタスはさらしてぱりぱりにして、にんじんとじゃがいもは刻んで茹でてある。余った材料はそのままサラダやおかずとして食べる。
 栄養価の高いザーデは細かく刻んで摩り下ろしたニンニク少々と一緒にバターにいれた。
 そのままだと絶対に殿下食べないし。

「これは?」
「グリーンバターです。おいしいですよ」
「……悪くない」

 味見をした殿下は大丈夫だと思ったのか、普通にバケットに塗った。
 よしよし。思わず拳を握り締めてしまう。

(……食わず嫌いなだけなんですよ、もう)

 次はザーデのマヨネーズディップを用意しよう。
 意外に好き嫌いがあるんですよね、殿下。

「お野菜もはさんでください」
「いもは野菜だろう」
「じゃあ、にんじんもはさんでください」

 男の人って、ほんと野菜嫌いなんだね。上司とか同僚の男の子たちとお昼を食べたりすることあったけど、皆、サラダとか食べなかったし。メタボを気にしてる人が健康の為に!とか言って無理やり食べていたくらいで、好んでは食べない。

「……………もんだ……」
「問題あります」

 問題ないって言うのは、殿下の口癖。そう言うとみんな黙ってしまうのでよく使う。
 これと、ふんと鼻で笑うのと冷ややかな眼差しで口元だけで冷笑するのが必殺技。慣れてしまえば何てことないが、初心者にはなかなか高いハードルらしく、これが出ると、皆、反論できなくなるようだ。

「何が問題だ」
「にんじんには、身体に必要な栄養素が含まれているんです。……言っておきますけど、殿下がこれまで携帯糧食のビスケットだけで何年も大丈夫だったのは、若かったからです」

 まあ、あれはそれなりに栄養バランスとれてるしね。
 ビタミンが絶対的に足りないと思うけど。

「……………私は、まだ若い」
「いつまでも自分は若いと思っていたらダメですよ」

 そう思って気が付いたら、風邪ひいたらなかなかなおらなくなってたり、徹夜で飲み明かそうなんて言ってて0時を過ぎたらすぐに沈没してたり、ちょっと夜更かししただけで目の下にクマができてたりするのだ!
 不摂生が即座に身体に反映するんです、殿下!

「確かに年齢は君の倍だが……」
「倍以上です。はい、チーズも一緒にいれてあげますから。……このにんじんは甘くておいしいんです」

 殿下のバケットにチーズ込みでにんじんを挟むことに成功!
 よし!

「……私はあまりにんじんは好きではない」

 にんじん嫌いなことくらい知ってましたけど……。
 食事にこだわりがないのかと思っていたんだけど、こだわりが無いのではなく、こだわっている時間を惜しんでいただけみたい。
 料理人達をそのままにしておいたのは面倒だったからで、今はアルフレート殿下に押し付けることができて良かったと思っているらしい。
 なんていうか……殿下のことを、皆はいろいろ勘違いしていると思う。

「ダメですよ。そんなこと言ったら、殿下はザーデも嫌いじゃないですか。色の濃い野菜は栄養あるんですから」

 自分の口からは絶対に嫌いとは言わないけどちゃんと知ってます。

「………………」

 そんな目で見ても、無駄です。

「ダメですよ」

 私はにっこり笑った。
 笑顔は立派な武器の一つだよ。

「……わかった」

 殿下は仕方が無いという顔をする。
 これまで普通に食事をとらなかったのは、もしかして、好き嫌いが多かったせいかもしれないと疑ってしまいそうだ。
 携帯糧食ばっかりな食事はあんまりだと思っていたけど、案外あれはあれで殿下は好んで食べていたのかもしれない。

「チーズと一緒だとあんまり味わかりませんよ。生ハムもしっかり味がついてますし……それに、ほら、お花の形でかわいいでしょう?」
「花の形であっても味は変わらないと思うが……」
「可愛いんです!」

 強く主張する私を見て、殿下は笑った。
 ひき下がりませんからね。

(……だって……ちょっと疲れてるみたいに見えるの)

 野菜を食べれば健康になるなんて思ってはいないけれど、食生活はやっぱり基本だ。せめて朝食だけでも栄養バランスを考えたものを……と思ってしまう。
 私のこの小さな手でできることはあまりにも少ないから。

「……確かに甘いな」

 殿下はお花のにんじんを一つ、口にいれた。
 なんだ、ちゃんと食べられるじゃないですか。

「いい野菜ばかりだから、茹でただけでもおいしいんです」

 春になったらきっともっとおいしい野菜も出てくると思うけど、氷月だから種類がとても少ない。でも、本当においしい野菜だと思う。野菜にちゃんと味があるのだ。最も、だからこそにんじん臭くて嫌いなのかもしれないけれど。

「……ああ」

 ふと、殿下が手を止める。

「何か?」

 何だろう?

「……この間のティーパーティの時の薬だが……」
「はい。……何かわかりました?」

 ガウンのシミの解析、終わったんだ。

「……二種類あった」
「二種類?」
「一方がニルティアという薬草から抽出した下剤。もう一方がある種の蟻が持つ毒物」
「下剤がナディのお母様として……、別口の蟻の毒ですか……」

 ナディが問い詰めたところ、アルジェナ妃は簡単に白状したらしい。たいして考えもなく、ダイエット用の下剤を混入したのだという。娘にさんざん脅されて、二度とやらないと誓ったそうだ。
 ナディの話し振りを聞いていて、殿下とナディの血縁関係をものすごく深く感じたよ。
 ナディは否定していたけど、絶対に似てるから。

「で、その蟻の毒にはどんな効果が?」
「………冷静だな」

 殿下は面白がるような表情で私を見る。

「飲まなかったんですから全然OKです」
「そうか……」

 なぜか満足そうな表情をしてる。

「その蟻の毒は、神経を麻痺させる」
「………………マヒ?」

 うーん、それだったらアルジェナ妃の目的も達成できてしまうんですけど。
 もしや、下剤じゃなかったのか?それとも、両方だったのか?
 いや、でも、やっぱりナディのあの剣幕からすれば下剤だけだったと思う。

(だって、そっちが入ってるなら下剤いれる必要ないもの)

「摂取量と個人差によるが、一杯全部飲みきったら命にも関わるだろうな」
「匂いとか味などはわかっているのですか?」

 いったい誰がそんな毒を私に盛ったのか……。

「匂いはミルクを混ぜてしまえばわからない。……味は、おそろしく苦いそうだ。私は飲んだことがない」
「……飲んだことあったら困ります」
「私の毒見役がそれを口にしたことがある……幸い毒に慣らした身体で量も少なかったから、さほどのことはなかったが、それでもその者は今でも左手の小指に今も麻痺が残っている」

 殿下はまっすぐ私を見る。

「君が、口にしなくてよかった」
「えっと……」

 そっと私の頬に触れる、手。
 それから、殿下の氷の蒼の瞳を驚くほど近くで見た。視界の端を何かが掠める。

「…………………殿下、にんじん、抜かないで下さい」

 殿下は、小さく舌うちした。
 ………そこ、大人の武器を使って、子供みたいな真似をしないように。




 
「そういえば、アルが、君にお願いしたいことがあるそうだ」

 にんじん闘争で勝利を飾り、私はちょっとご機嫌な気分でサンドイッチの最後の一口を飲みこむ。

「アルフレート殿下が?私に願い事ですか?」

 何だろう?と思った。
 アルフレート殿下はとても親切な方だ。
 今度、いつ出かけられるかわからないのに、いろんな場所のおいしい屋台マップをプレゼントして下さった。今、三枚目になる。
 意外なことに、あのヒゲ殿下、絵がうまいの。中央師団の師団長という軍人というイメージとは結びつかなくてびっくりした。
 アルフレート殿下の下さる地図には、ファンシーな屋台の外観が細かく書き込まれていたり、おいしそうな焼き栗や煮込み料理の絵が書いてあったりする。コメント読んでると、全部食べたのかなって思うくらい詳しくて楽しくなる。
 向こうで言うガイドマップみたいなもので、侍女やナディとあれが食べたい、これが食べたいと眺めながらおしゃべりしているともっと楽しい。

「別に聞き入れる必要はないが、話は聞くだけ聞いてやってくれ」
「それは、勿論構いませんが……」

 殿下らしい言い草だけど、何か笑ってしまう。

「なんだ?」
「いいえ。……お茶のお代わりはいかがですか?」
「いただこうか」

 アルコールランプで温められていたお湯を使って、お茶をいれる。
 こちらの作法もあちらの作法も基本的なことは変わらない。注意するのは抽出時間かな。茶葉によって違うけど、こちらの葉は開くのが遅いから。
 ポットに入っているのは、いつものサギヤのお茶でなく、私のところでブレンドしたもの。
 こちらでも茶葉をブレンドするという発想はあるのだけど、おいしい組み合わせを探るのではなく、高級品で有名な産地の葉にそうでないものを混ぜてカサ増しするのが目的だったりするので、ブレンドはあまり好まれていない。
 でも、綺麗な水色が出て香りは高いのに味がちょっと足りないものに、味は良いけどイマイチ水色が悪いものをうまく組み合わせれば極上のものになる。

「……これは……」
「ルーベリーの葉とホラントの秋摘み葉をブレンドしました。……なかなかイケると思いませんか?」
 
 ルーベリーとホラントは、どちらも国内紅茶の大生産地だ。ほどほどの品質で一般普及品として他国に輸出もしている。
 サギヤや帝国領フラナガンの茶葉がとっておきの高級紅茶の最たるものであるとすれば、ルーベリーとホラントのものは日常的に飲むための紅茶といえる。
 これ知った時、すごくショックだった。
 サギヤの茶葉は、茶葉の王様って言われるほどの高級品なんだって。市場に出回ることはほとんどないけれど、市場に出る時は同じ重さの金と引き換えにされるほどのものなんだって。
 殿下が下さった紅茶がそんな高級品だとは知らなかったから、私、ケーキやクッキーにザカザカいれちゃったんだよ。
 おいしい茶葉はお菓子にしてもおいしいけど、おいしいけど……それを知った後、しばらく私の頭の中に『同じ重さの金』というフレーズがぐるぐるして回っていた。
 お姫様になってだいぶたつけど、馴染めないものはあるんだよ。

「悪くない。……これならば、Sクラスの格付けがされてもおかしくないだろう」

 茶葉は、シンジケートによって格付けがされている品だ。
 シンジケートは、ギルドとはまた違った枠組で存在する商業組合で、元は、茶葉の生産者の団体で茶葉の品質を守る為に情報交換をするグループだった。
 今は生産者だけでなく販売者や、茶道具を作る者なども含めた大組織となっていて、年に一度品評会を開き、茶葉の品質を格付けしている。

「お好みですか?」
「ああ」
「良かった。後でお持ちくださいね。準備させておきます」
「ありがとう」

 殿下がにっこりと笑う。
 やったね!
 この配合を見つけ出すまで、かなり苦労したんだよ。
 侍女達はどれもおいしいって言ってくれるんだけど、これぞ!っていう決め手に欠けていた。
 毎朝、これをモーニング・ティーにして頑張ったんだから。
 でも、殿下がこんな表情を見せてくれると、苦労した甲斐があったっていう気がする。

(あれ?あれれ……?)

 もしや、私、熱心に頑張ってたのって殿下を喜ばせたかったのかな?
 今、唐突に気付いてしまった。
 なんだ、それ。

「……どうかしたのか?」

 不意に覗き込まれる。
 うわぁ、顔、近い、近いです、殿下!
 思わず、顔面にクッションを押し付ける。

「殿下、反則です」
「………何がだ?」

 クッションを放り投げる。その口元にうっすらと浮かぶ苦笑。
 なんか、余裕の笑みにも見えてちょっと腹だたしい。

「そんな急に接近されるとびっくりするじゃないですか」

 ちょっとドキドキしたなんて言わないぞ。

「……そうか?」

 絶対に言うものか! 

「そうです」

 これは誓ってときめきなどではない。……ないはずだ。

「…………問題ない」

 殿下、顔伏せてますけど笑ってますね。

「ありますよ」

 余裕?余裕ですか?
 もしかして、私のドキドキとか全部わかってますか?

「……夫婦なのに?」

 顔をあげた殿下の顔には、まだ笑みが残ってる。
 真面目な顔してみても、わかるんだからね!

「親しき仲にも礼儀あり!です」
「夫婦なのだから、それくらい大目にみなさい」

 命令形か!
 うー、なんか、ちょっと口惜しいんですけど!

「……失礼します。王太子殿下、そろそろお時間になります」

 リリアが入ってきて、ほっとしてしまったのは何故なのか……。
 やれやれ、という表情で殿下は立ち上がる。

「……アルフレートは、午後のお茶の時間に連れてくる」
「今日は午後もご一緒できるんですね?」
「ああ。……アルの為に少し多めに菓子を準備してやってくれ」
「はい」

 嬉しいけど、ちょっと困る。
 なんか、ドキドキしそうで。

(アルフレート殿下もいるから、大丈夫だよね、うん)

 お見送りの為に立ち上がり、とことこと後をついていく。

(……背、高いなぁ)

 抱上げられていないと、それがよくわかる。
 子供と大人……その明確な差がはっきりとする。何か、ちょっと口惜しい。
 回廊には、殿下の秘書官であるラーダ子爵が蒼白な顔色で待ち構えていた。

(毎朝ごめんなさい、子爵)

 きっと子爵は胃薬が手離せないでいるだろう。
 
「……ルティア」
「はい?」

 逆光がまぶしくて額に手をあてる。

「………何があっても、この宮からは出ないように」
「殿下?」

 何度も言われたこと。今更確認するまでもないのに。

「誰に呼び出されてもだ」

 冷ややかな声音。そこには、私にはわからない感情が含まれていて……不安にも似た何かが胸をよぎる。
 私があずかり知らぬところで、事態はかなりのところまで進んでいるのだろう。

「いいね」

 眩しくて、念を押す殿下がどんな表情をしているのかわからなかった。

「……はい」 

 私はうなづいた。少しだけほっとしたような気配。

「じゃあ、また」
「はい。午後に」

 遠ざかる背中……殿下は決して振り向かない。
 ぼんやりと回廊の向こうに消える後姿を眺めながら思う。

(……何を、隠しておられるのだろう)

 皆、何かを隠している。
 王太子殿下も、リリアも、ユーリア妃殿下も……。
 私は、何を知っていて、何を知らないのだろう……?

(……わからない)

 でも、皆が終わりに向かって歩み始めている事を、何とはなしに感じていた。

   


 2009.06.10 初出
 2009.06.11 手直し


 ***************************

 いつの間にかPVが桁が変わっていました。
 こんなにも多くの人に読んでもらえたことに感謝します。
 いつも、ありがとうございます。
 これからもどうぞよろしくお願いします。



[8528] 26
Name: ひな◆ed97aead ID:1d9741d0
Date: 2009/06/20 01:42
 26



 青空が広がっていた。一昨日、昨夜と続いた吹雪が嘘のような青空だった。
 空を見上げ、はぁ、と本日何度目かの溜息をつく。
 溜息をつくと幸せが逃げるって言うけど、もう逃げまくってると思う。

「妃殿下、散歩をしてみてはいかがでしょう?」
「いい。雪に埋まるの嫌だし」

 ありがと、ジュリア。でも私の身長だと、この積雪量ではほとんど何も見えないの。雪かきしてくれたのはありがたいけれど……1m以上の雪の壁の間を歩くのはちょっと恐いよ。

「台所の工事の進み具合を見てきてはどうですか?」
「そんなに何度も見に行ったら、職人さん達の邪魔になるわ」

 あのねアリス、工事が着々と進んでるのは嬉しいけど、私が行くとみんな畏まってしまうから逆に申し訳なくなっちゃうんだよ。

「本宮の図書館から、何か新しい本でもお持ちしましょうか?」
「……資料の読みすぎで、しばらく文字はみたくない」

 シュターゼン伯爵から送られて来た資料はとても詳細だった。
 文字で追っただけの他人の過去が、生々しく浮き上がってきって少し疲れてしまった。あれは、気力がある時じゃないと読めない。

「私のことはそんなに気にしなくていいから。ありがとう」
「でも……退屈なさってらっしゃいますでしょう?」
「ううん。そんなことないわ」

 溜息の理由は退屈しているからじゃない。
 単にいろいろわかってきた事実が、気の重くなるようなものだったから。

「王太子殿下ももう三日もいらっしゃいませんし……」
「仕方がないわ。隣国で政変があったのだから」

 隣国エサルカルでクーデターが起こったという知らせが届いたのは三日前の昼過ぎのことだった。
 殿下とお約束していた午後のティータイムはそのせいで延期になった。がっかりしたけど、それは仕方のないことだと思った。
 隣国での出来事がダーディニアに少なからぬ影響を与えるだろうことは私にだってわかるもの。

「でも妃殿下、いくら忙しいと言っても、顔を出せないということはないと思うのです」
「殿下がお仕事を優先させるのはわかりきったことだし……そもそも、私を優先させるようだったら、ちょっとどうかと思うところです」

 悔し紛れとかじゃないよ。本当にそう思う。
 よく言われる究極の選択。ドラマとかである「あたしと仕事、どっちが大事なの?」っていうやつ。
 個人的な意見だけど、あの質問ほどバカな質問はないと思う。

 タルトの店で働いていた時、同僚の女の子が彼氏に言われたんだって。「俺と仕事、どっちが大事なんだよ」って。
 今時は彼の方が彼女にそれを言うんだなぁ、と思って変なとこ感心したんだけど、仕事と恋人を同列に並べる?そんなのありえないって思ったよ。
 並べられるものじゃないし……だって仕事だよ?それと恋人は別物だよね?
 まあ、恋愛にすべてを賭ける人がいることを否定はできない。それは個人の自由だから。
 でもね、それは自分ひとりで済む範囲でやってほしい。突然退職されてすごーく大変だったんだよ、あの時は。
 ……後に同じ決断を迫られた時、仕事を選んだ私がここにいるけれど。

「閉ざされたここにまで、外のあわただしい気配がわかるのだもの。政庁ではきっともっと忙しくしていて、昼も夜もないんじゃないかしら。……無理をして会いに来ていただくよりも、殿下には少しでも身体をやすめてほしいと思うの」

 優等生の回答ではある。でも、これは本心だよ。
 殿下の体調が一番心配。
 よく鍛えてる人だからそうそうのことでどうにかなるとは思わないけど、でも、元々がワーカーホリック気味なところがあるからこれ以上の無茶はしないで欲しい。
 殿下のスケジュールには休みというものが存在してないんだよ。『休日』って何のことか知ってる?と問い詰めたくなったくらい。

「妃殿下は物分りが良すぎます」
「そうかしら?」
「そうです。多少、わがまま言ってもいいんですよ」
「でも……殿下を煩わせたくないの。……私は、わがままを言ってそれを聞いてもらうことで殿下のお気持ちを量ろうとは思わないのです」

 わがままは、際限なくエスカレートする。
 最初は何てことない些細なことかもしれない。でも、そのうち感覚が麻痺してくるのだ。どちらも。
 わがままをきいてもらうことが当たり前だと自分が思うようになってしまうのが嫌だ。
 そして、本当に心から願った事を、単なるわがままと思われてしまうのはもっと嫌。

「妃殿下……」

 別にこれは物分りがいいからじゃない。ちょっとズルい大人の知恵。
 常日頃、わがまま言ってるとそれに慣れてしまうでしょう。でも、 滅多に口にしない望みならば……大切に思ってもらえるはず。
 切り札は、何度も切るものではない。

「お会いできないのは淋しいし、つまらないです。でも、大事な仕事をなさってるのですから……。私は、殿下の足手まといになるのではなく、せめて応援団になりたい」

 私のできることなんてたかがしれている……例え、33歳の私がここにいたとしても、できることはそれほどないだろう。手伝うなんておこがましいことは言えない。

「まあ、妃殿下……」
「ご立派ですわ」

 目がきらきらしてるよ、ジュリア、アリス。
 だから、そんなご立派なことじゃないんだってば。自分をよく知ってるだけ。

「妃殿下が、そういうお心がけの方で良かったと思いますよ、本当に……」
「リリア……ご苦労様でした」

 いつの間にか、殿下に差し入れをお願いしたリリアが戻ってきていた。

「ただいま戻りました。差し入れの籠は殿下に直接お渡ししました。お忙しそうでしたけれど……殿下のご側近の皆様も妃殿下のお心遣いに感謝されていましたわ」
「そう……」

 殿下の側近の方ってラーダ子爵くらいしか知らないわ。ファーザルト男爵は家令だから、側近とはちょっと違うものね。

「……どうぞ、殿下からです」

 飾りけのない白い封筒が差し出される。
 思わず自分の目が輝いたのがわかるよ。

「……ありがとう」

 殿下からのカード。嬉しい。
 メールとか電話があればもっと簡単に連絡がとれるし便利だと思う。
 でも、だからといって、そういう手段のない今がそれに劣るかといえばそんなことはない。
 不自由だとか不便だとか思うことはたくさんあるし、時々、泣きたくなることもあるけれど、でも、今には今の良いところがある。カードのやりとりは、メールや電話のスピードでは伝わらないものが伝わると思う。

「見ないんですか?」

 リリアがにっこりと笑う。

「まだもったいないから開けない」
 
 大切にハンカチに包んで胸元の隠しにいれる。
 そっと胸に手をあてる。
 何かすぐに見てしまうのがもったいない気がするの。

「妃殿下……そこはポケットじゃないですから」
「だって、便利なんだもの」

 胸元の隠しは、ハンカチを入れるようになっている。ハンカチは常に携帯しているのが貴婦人のマナーなの。
 開いている胸元が二重になっているから、出し入れするときは周囲に気をつけないといけない。
 ここにしまうのは、基本的にはハンカチ限定。だからこそ、ハンカチには特別な意味がある。
 ハンカチは、『心』を意味するのだ。

 ダーディニアにおいて、騎士は主に剣を捧げる以外に己の想う相手に捧げることがある。
 主に対するそれは命を賭けて仕えるという『誓約』であり、想い人にささげるそれは、命を賭けて貴女を愛します、という『誓言』であると明確に分けられている。
 『誓言』を捧げられた想い人は、その騎士に対して『姫』と呼ばれるようになるのだが、騎士が『姫』に対する想いというのは、肉体関係を伴わない崇高なものであるとされている。
 『騎士』は『姫』の誇りとなる者で在ることを己に課し、『姫』もまた己の『騎士』に相応しい『姫』であらんと己を磨く。その精神的な結びつきこそが、ダーディニアにおける貴族社会の根底にあると言っても良い。
 姫は誓言を捧げられた際、自分の身につけているものを何か一つ騎士に与えることでその誓いに応えるとされている。
 飾り袖や、飾りボタン、扇、それから、アクセサリーなど、身につけている物を与える事が多いが、ハンカチを与えられた場合、それは、『私の心は常に貴方と共にあります』という意味になるのだ。

「……じゃあ、書斎にいるから」

 そっと胸元を押さえて書斎へと弾む足取りで移動する。

「お茶をお持ちしますか?」
「ううん。いらないわ」

 だって、嬉しくて胸がいっぱいだもの。

「何?」
「いいえ、何でもありません」

 リリアの意味深な笑み。
 あのね、みんなして、そんな微笑ましげな目線で見なくていいから!





 書斎の窓際のソファコーナーで、ハンカチで包んだカードを大切にとりだす。自分の体温がうつったかのようなカードをそっと開いた。

(……?)

 一瞬、甘いような苦いような香りが鼻をくすぐった。

(……これは……?)

 どこかで嗅いだことのある香りだった。どこだっただろう?と考えるけれど、その思考はうまく形にならずにすぐに消えた。それ以上を追求しようとは思わなかった。
 だって、それよりも、手の中のカードに意識を奪われていたから。

 走り書きの青い文字……。
 書かれているのは、たった三行だけだった。
 先日は反故にしてすまなかった、というお詫び。
 差し入れはありがたくいただく、という感謝。
 それから、ナディル という名前だけの署名。
 あまりにもそっけなさすぎる、三行。

(……初めてだ)
 
 名前をそっと指先でなぞる。
 これまでは、王太子 ナディル=エセルバート というサインがされていた。
 けど……ここに書かれているのは『ナディル』というその名だけ。
 異母妹であるナディや、母であるユーリア殿下すら、王太子殿下を決して名では呼ばない……宮廷序列において、王太子殿下を名で呼べる者は国王陛下以外にいないからだ。
 ただし、当人が名で呼んでいいと言えば別。
 この間、夜のお出かけをした時に、お忍びの都合上、名で呼んでいいという許可はもらったけれど、それは今も有効なのかな?
 いや、でも、あの殿下の表情が名前で呼ばない不満だったと思うのは、私の一方的な想像にすぎないのだし……。

(……でも、この署名は、遠まわしに名前で呼んでいいという意味なのかも)

 いやいや、そんな風に思うのは、私の自惚れすぎなのかも!
 頭の中がぐるぐるになる。
 内容としてはたった2行だけのカードにこんなにも心を乱される。

(あ~、もう、何だかな~)

 自分でもどうしていいかわからない。深く息を吸って、ゆっくりと吐いて、深呼吸を一回。
 それから、もう一度カードを見た。
 走り書きだけど、殿下の字は綺麗だ。

(……殿下らしい)

 あまりにもそっけなさすぎる言葉。でも、これを書いたときの殿下の様子が目に浮かぶような気がする。

(嬉しい……)

 素直にそう思う。そっけないそのカードがとても嬉しくて、胸に抱いてころんとソファの上に上半身を倒す。
 逆さまになった視界……冬の雪曇りの合間の晴れ空が、さっきとは違う気持ちで眺められる。
 胸に湧き起こる、想い……くすぐったくて、じたばたしたくて、嬉しい。
 何でこんなにも自分が嬉しくなっているのかわからない。

(ううん……違う)

 本当はわかってる。
 認めるのがあんまりにも恥ずかしいだけで。

(……好きだなぁ、と思うわけだ……)

 あの、私の前ではいつも不機嫌みたいな顔の殿下が。
 口調は冷ややかだけど、中身はかなり心配性な殿下が。
 そして、ニンジンが嫌いで何とか食べずに済ませようとしている殿下が。
 
 きっとね、私だけしか知らない顔もあると思うの。
 殿下のいろいろなことを思い出したら、何か頬が熱くなった。
 きっと鏡をみたら赤面してると思う。

(す、好きでも別にいいんだよ。だって夫婦なんだし!全然、おかしくない!)

 何か思わず自分に言い訳してみたり。
 だって、夫婦なんだから!
 妻が夫が好きでも問題は無い。うん。ないはず!

(好き……)

 『好き』という、その単語がストンと胸におさまった。
 そうしたら、じたばたしたくなるような落ち着かない気持ちは影をひそめた。
 もうね、からかわれても仕方ないなって思う。
 殿下と朝に会えなくなってたった三日目だけど、自分の気持ちがよくわかった。

 いや、だからどうするっていうわけでもないんだよ。
 だって、私達、既に夫婦だから。世間一般で言う、ゴールはすでに済ませてる状態だもの。
 後はこう、徐々にね。……ふふふふ、今に見てろよ!なんだから。
 幸い、現在のところの私と殿下の関係は極めて良好だから、このまま餌付けの努力を怠らず、いろいろと頑張ろうと思う。
 
(さて……)

 いただいたカードを前にいただいたカードと一緒に重ねて、青いリボンで結んだ。
 元のように、本の間に挟んで仕舞おうとして、気付いた。

(ここに移って来てからも、ずっと隠していたんだ……)

 後宮にいた時、アルティリエが心をかけたものはすべて失われてきたとナディは言った。
 でも、ここに移って来てからも、アルティリエはこのカードを隠しつづけていた。

(なぜか……)

 それは、犯人がここにも手を伸ばすことができることを知っていたからだ。
 私は、深い溜息を一つついた。





 2009.06.19 初出
 2009.06.20 手直し

 **********************************

 お久しぶりの更新です。大変おまたせしました。
 PCが瀕死でどうにもならなくなってしまい、いろいろと……。
 辞書が真っ白になってしまったのとプロットがなくなってしまったのが痛いです。





[8528] 閑話 王太子と乳兄弟【前編】
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/03/13 20:08
 夢は叶わないから夢であり、叶うものは目標と言うのだと誰が言ったのか……。
 だとするならば、それは確かに目標だった。
 それは手の届く場所にあり、俺たちは思い描いた未来がやがて来るのだと信じて疑わなかった。




閑話 王太子と乳兄弟




 最悪の目覚めというものがあるとすれば、それは今だと毎朝目覚めるたびに思う。
 特に、今のように書類に突っ伏して朝を迎えたなんて場合はしみじみとその認識を新たにする。

「フィル=リン、殿下がお呼びだ」
「…………俺はいない。どこにもいない。奴には俺は消えたと伝えてくれ」

 俺は、振り向きもせずに言った。目の前には高くそびえるようにつまれた書類の山……今にも倒れてきそうだ。

「やだね。あの状態の殿下に誰がそんなことを言える?僕はまだ命が惜しい」

 レイ……レイモンド=ウェルス=イル=ラーダ=リストレーデは、ため息混じりに肩を竦める。まったく友達甲斐のない奴だ。物心ついたときからの幼馴染だっていうのに。

「つまり、お優しい王太子さまモードじゃなくて、大魔王様顕現中モードだろ……そんな奴に誰が会いに行きたいものか!だいたい、俺は今計算中なんだよ!3桁もあわねーんだよ!どこ行ったんだよ182袋の小麦」

 ややキレ気味なのはあれだ。メシ時以外、この狭苦しい資料部屋に缶詰させられているからだ。それも、今日で三日目。

「あー、それはひとまず置いといて、早く行った方がいいと思うぞ。あんまりご機嫌がよろしくないからな」
「奴が機嫌悪いのなんざ、いつものことだろ」
「言い直す。かつて類を見ないほどに、ご機嫌がよろしくないんだよ」

 レイ、単語の一つ一つに強調点うたなくていいから。

「はい、はい、だからそれもいつものことだって。ここのところ毎日、不機嫌指数最高値をぶっちぎりで絶賛更新中だからな」

 この三日の奴の不機嫌さと来たら……ちょっと言葉では言い尽くせない。
 一番不機嫌になったのが、今朝の朝食にいつもの携帯糧食ビスケットを出した時だったっけ……。
 携帯糧食に不平を漏らしたことなどまったくなかったのだが、幼な妻のお手製の朝食を二人で仲良く取る習慣ができてしまった現在、それに不満を覚えるのは至極当たり前だった。

(すっかり、エルゼヴェルトの姫さんに餌付けされちまってるからな……)

 口に出しては何も言わないが、相当気に入っていることくらい、奴の側近だったら誰でも承知している。
 奴にとっては、食べるという行為は栄養摂取以外の何物でもない。
質の良し悪しが判る舌はあるので味覚オンチではないのだが、所詮、まともな食事とか和やかな家庭の食卓というものがどういうものかわからないあいつは、真の意味での『味』というものがわかっていない。
 だから、この場合の餌は提供される『食事』ではなく『姫さん』だ。より正確に言うならば、姫さんと一緒に過ごす時間と言うべきか。

(そこまで気に入るような存在だったっけか?)

 幼馴染であり、乳兄弟であり、仕えるべき主でもある奴……我がダーディニアの王太子たるナディルの嗜好というものはだいたい押さえているつもりだが、女の好みだけはよくわからない。
 とりあえず後腐れない大人の女ばかりと付き合っているのは確かだ。かなりイイ女ばかりなのは、バカが心底嫌いなせいだろう。
 ここのところの様子を見るともうちょっと深くエルゼヴェルトの姫さんにチェックを入れたほうがいいかもしれん。

(まあ、ロリコンの心配だけはしてないけどな……)

 基本的にナディルは『子供』が嫌いなのだ。「弟」「妹」については家族補正が良い方向に働いていたから別格だったが、感情で理性を振り切る子供が嫌いだし、ついでに理性的に話ができないところも嫌っている。
 ちなみにナディルにとって『弟』『妹』に当たるのは同母弟妹だけだ。異母の二人にはほとんど関心がないと言ってもいい。
 そして、ナディルの判断基準は、別に見た目というわけではない。年齢と中身の成熟度は必ずしも一致しないというのが奴の持論なのだ。

(つまり、姫さんは子供じゃねーし、奴とまともに言葉が通じるタイプっつーことだな)
 
 俺は、このところ、ナディルの私的な関心のすべてを一身に集めている姫君の姿を思い浮かべようとして諦めた。
 金の髪と幼いながらもいかにも姫君らしい雰囲気を思い浮かべることはできるのだが、明確に顔かたちを思い浮かべる事が出来ないのだ。
 可愛らしい顔をしていたという記憶はあるのだが……こう、全体として靄がかかっている感じだ。
 たぶん、同じくらいの背格好で金髪碧眼の女の子の中に混ぜられたら、絶対に見分けがつかない自信がある。

(印象薄いからなぁ、あの姫さん)

 人形姫とか氷姫とかという呼び名で呼ばれているエルゼヴェルトの姫君は、これまで他者にほとんど関心を示さないことで有名だった。
 あれほど国王陛下の関心を集め、影の寵妃とまでささやかれるほどに陛下の好意を一心に集めていたとしても、彼女は陛下にさえさほど関心を示しはしなかった。
 ……これまでは。
 注釈をつけるのは、里帰りしている間に湖に落ちて記憶喪失になったせいで、なんだかだいぶ違う性格になったらしいといわれているからだ。ちらほらといろんな噂が俺の耳にも届き始めている。湖に落っこちたときにどこか頭を打ったのかもしれない。
 何にせよ、それが悪い変化じゃなかったことを喜ぶべきだろう。

(そのせいで、奴に気に入られたことが幸か不幸かは別として……)

「とりあえず俺は忙しい。用があるんならおまえが来いって……」
「だから、そんなこと僕が言えるわけないだろう」

 かつてはそんなこともなかったが、今のレイはナディルを苦手としている。ナディルの前に出ると、レイはまるで蛇ににらまれた蛙のようだ。
 多かれ少なかれ、俺たちはみんなそんなものかもしれない。
 そもそも、ひとまとめに王太子殿下の側近団と言われる俺達の中で何か一つでもナディルに勝てる人間はいないのだ。
 頭脳明晰、眉目秀麗、おまけに剣の腕もピカ一ときている。
 天は二物を与えずというが、ナディルに限って言えば、二物どころか三物も四物も与えていると言うべきだろう。奴と何かで並び立つことができるのは、せいぜいアル殿下くらいだ。
 あの殿下はあれで百年に一人の剣の天才と言われている。最も、どれだけ褒め称えられたとしても「個人の技量なんて、物量の前では無意味だ」とか笑い飛ばしてしまうところが、いかにも奴の弟らしいところだ。

「随分と楽しそうだな、二人とも」

 冷ややかな声がした。
 永久凍土の底から響いてくるような声が。
 ぐぎぎぎぎ……と、軋む音すら聞こえそうなぎこちなさで、俺とレイは振り返る。
 流れる銀の髪に絶対零度の眼差し……ダーディニアの王太子にして、我が主たるナディル殿下だった。

「あ、あ、あの……」

 レイ、びびりすぎ。

「主に足を運ばせるとは随分だね、ラグフィルエルド=エリディアン=イル=レグゼルスノウディルイルティーツク=アルトハイデルエグザニディウム」

 噛む様子も詰まることもなく、俺のフルネームを口にする。
 いちいちフルネームを口にするのは間違いなく嫌がらせだ。
 何しろひっじょーに長い姓なので俺は自分自身ですら間違えずに言えた試しがない。たぶん他の兄弟達も同じだろう。自分で覚えてないので、俺は自分のフルネームが好きではない。
 だいたい、こんな長い姓を持つ者同士が結婚するのが間違っているのだ。しかも、名前までややっこしいものをつけやがって。
 面倒なので俺はフィル=リンと名乗る。アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子でも何でもない……称号も何もないただのフィル=リンだ。最初に俺をそう呼び始めたのは、他でもないナディルである。

「で、で、殿下……フィ、フィ、フィル=リンは、その……」

 フォローすんつもりなら、せめて噛むな。ついでに弁護する理由くらい考えておけよ、レイ。

「あー……、殿下、ご機嫌麗しゅう」
「まったく麗しくない。おまえはいつから僕より忙しい人間になった?主を呼びつけるとは側近のあり方としてだいぶ違うと思わないか?」

 思いっきり尊大な微笑……遠くから見れば、優しげに見えないこともない。が、至近距離でそれを見せられ、冷ややかな嫌味攻撃をくらってる現在は決してそんな勘違いをすることはない。それは紛れもない冷笑である。
だが、こんなことくらいでおたついていたらこいつの乳兄弟なんざやってられない。

「申し訳ありません。わざわざご足労をおかけしまして」

 慇懃無礼なほどに丁寧な口調で宮廷作法の教本どおりの礼をしてやる。

「まったくだ」

 ふん、と鼻で笑う。俺の嫌味なんぞ、こいつにはまったく無意味だ。
いつの間にか、こいつはこういう尊大で嫌味な言動がよく似合うようになった。聞こえ良く言いかえれば、威厳というものがついたとも言える。

(……昔は違ったけれど)

「……姫さんに会えないことがそんなに不満かよ」

 無言でじろりと睨めつけられた。
 ……うわ、図星かよ。
 だが、こいつがそれを口にすることはないだろう。
 ナディルは、自分の私的な意志を口に出さぬことを常に心がけている。
 幼時、何気ない自分の一言で守役が解任されたことを教訓にしているのだ。

(いい加減、少しくらいはわがまま言ってもいいと思うがね……)

 鉄壁の自制心を誇るこいつとて昔からそうだったわけではない。だいたい、王族や貴族の子供なんてわがままに育つと相場が決まってる。周囲が殊更ちやほやするから当たり前だ。
 まあ、ナディルは幼いからほとんどわがままを言う性質ではなかった。周囲が心配するくらいに内気で繊細な子供で、たぶん、今のナディルしか知らない人間は子供時代の奴を見たら別人だと思うだろう。
 強く自己を主張することはほとんどなかったが、今のお優しい王太子殿下モードの時よりもよっぽど優しかった。……俺が気づいた時は、もうナディルは今の『お優しい王太子殿下』になってしまっていていたけれど。
 そのことに、俺は少なからぬ責任を感じている。
 誰がどうなろうとも、俺だけは、ナディルの側に立っているべきだった。……今はもう、昔の話で、ただの繰言にしかならないけれど。

「ちょこーっと顔見てくればいいじゃないか」
「訪問する理由がない」
「は?」

 名目上とはいえ、夫が妻に会いに行くのに、何の理由がいるんだよ、と思ってしまう。

「用もないのに行く必要はないだろう。……そんなこと言うなら、さっさと調査を終わらせろ」

(うへぇ、やぶへび)

 顔見るのが用事でいいじゃねーか、と俺は思うんだけどな。





「……ここ、計算違ってる」

 ナディルは、何気なく書面を眺めただけで、とんとん、と書類の中ほどを指さす。

「………………マジかよ」

 俺のこの書類の山と格闘していた時間を返せ
 チラ見しただけで何でわかんだよ。この天才学者様めおまえが最初っからやれよ

 こういうことがあるたびに、学者ってのはある種の異能力者だと思う。
 統一帝国設立から現在にまで渡る、およそ五千年に渡る歴史や帝国古語やら神代語やらの膨大な知識の習得が前提条件とされているのだからそれも当たり前かもしれない。
 一生の運を使い果たしてまぐれで大学に入学したとしても、授業についていけないなんてのはありふれた話だ。大学の入学試験に合格しただけで官吏登用試験のペーパーテストは免除だから、それだけでもすごいんだけどな。
 かくいう俺がそのタイプ。
 俺は、さんざんナディルに嫌味を言われながら、五年かけてやっと初級カリキュラムをクリアした劣等生だった。大学では劣等生であっても一般社会ではエリートだ。
 初級カリキュラムをクリアすると身分出身関係なく、それなりの地位を与えられる。今の俺は王太子殿下の「執政官」の一人だ。
 だが、ナディルは違う。ナディルはそんな異能力者達揃いの大学に在ってさえ『特別』と言われた人間だ。

「でなんでエサルカルの政変が原因で、俺らが災害援助物資の帳簿をひっくり返さなきゃならんのだよ……まあ、不正発見しちまったけど……」

 一週間前、隣国エサルカルで政変が起こった。
 親ダーディニアの現国王が幽閉され、弟の大公が即位。同時に五大国の一つであるイシュトラの姫の立后を宣言、ダーディニアとの友好条約を一方的に破棄してきたのだ。
 その使者がダーディニアに来たのは今日の朝だったが、俺達は既に三日前にはそれを知っていた。
 エサルカルと所領が接しているグラーシェス公爵がほぼ当日中に情報を得、即座に兵を召集すると同時に使者を王宮に送り込んで来たからだ。

「軍を動かすのは無料じゃないんだよ、ラグフィルエルドエリディアン」

 ちっ、まだ不機嫌かよ。
 ……だが、やはり軍を動かすわけか。

「そりゃ、わかってるけどな」
「備蓄している災害援助物資を遠征軍の糧食の一部にあてる。そうすれば、倉庫の物資の入れ替えもできて、不正も正せて一石三鳥だろう」
「……………さいですか」

 単に軍を動かす……だけでは、終わらないのがナディルだ。奴の計算は、単純に+2とはならない。もしかしたら、ナディルの耳には前から不正の件が耳に入っていたのかもしれない。
 よく言うなら超合理的精神とでも言うのかもしれないが、俺が思うに単なる貧乏性だ。

「……それの計算が終わったら二人とも会議室に来るように」
「正確な数量特定すんなら、一時間はかかるぜ」
「ならば一時間で済ませるがいい。その頃にはシオンも到着するだろう」
「……ギッティス大司教まで」
「ああ」

 ナディルは小さくうなづく。
こいつの言う「シオン」というのは、同母弟であるギッティス大司教シオン猊下のことだ。シオン猊下は王子としての地位を捨て、現在はダーディニアの国教であるルティア正教の大司教としてナディルを影から支えている。
 もう一人の同母弟であるアル殿下は中央師団の師団長として軍事面を補佐していたから、なかなかにバランスがとれていると言える。
アル殿下が近衛に入らなかったのはナディルの薦めによるものだ。王太子の義務として、ナディル自身は一時期、近衛に籍を置いており、その時に近衛に関してはがっちり掌握していたからこれ以上パイプを太くする必要を認めなかったのだろう。
 アル殿下は武官としてほぼ最高位を極めている。シオン殿下……いや、シオン猊下もいずれはルティア正教の最高枢機卿になられることだろう。

 最高枢機卿は、ルティア正教における最高位で、初代をのぞくと、常にダーディニアの王族枢機卿がその地位についている。
 ルティア教はおおまかに西方教会と正教会の二派に分かれているのだが、この二つは根源が同じ宗教でありながら、分裂後、長い時を経たことでまったく違う宗教のような変化を遂げている。
 それがもっともわかりやすいのが、最高指導者の名称とその在り様だろう。

 西方教会は、教皇という存在を戴き、母女神の最愛の御子と彼らが主張する教皇の権威が世俗君主よりも上であるとしている。
君主にその位を授けるのは教皇であるとして政治に積極的に介入していて、帝国とそれに近い国のほとんどが西方教会を国教としている。
帝国では皇帝の戴冠の際、教皇がその皇帝仗を授けることになっているほどだ。

 それに対し、正教会……西方教会に対しては東方教会と表現される事もあるが、正しくはルティア正教会といい、正教と略す……においては、明確に政教分離がはかられ、君主は母女神により王権を与えられた教会の最大の庇護者であり最高権威者であるとされている。
 聖職者の長は最高枢機卿であり、これは正教会の総本山である聖フィルシウス大聖堂を治める枢機卿を言う。だが、最高枢機卿は教皇のように西方教会の頂点に立つ存在という位置付けではない。強いて言うならば、枢機卿団のまとめ役という存在だ。

「エサルカルの国教は正教だ」

 その一言に俺は納得した。
 ダーディニアの国教もまた正教である。
 これは、かつてダーディニアの王位継承に教会が介入しようとした時に、ダーディニアが教会を拒否し、その時に西方教会から分裂してできたのが正教なのだから当たり前とも言える。
 ある意味、正教を作ったのはダーディニアであると言っても間違いではない。

 正教の成立当初、正教を国教としたのはダーディニアだけだった。
 だが、近年では正教に改宗する国が増え始めている。
 これは単純に考えたとしても、正教が君主にとって都合が良い点が多いからだと俺は思う。
 宗教というのは、政治的に無視できない大きな力となりうる。
 エサルカルは三代前の国王の時に正教を国教とした。
 正教のみならず他のあらゆる宗教を異端として厳しく弾圧している西方教会に違い、正教会では他の宗教を信じることを認めている。その寛容さが国教にふさわしいと時のエサルカル国王が自ら改宗し、国教の変更を布告したのだ。
 それからおよそ五十年、エサルカルは、国民の八割強が正教の信徒である。

「……教会側は何か言って来たか」

 無神論者のレイが軽く眉をひそめた。
 シオン倪下、がナディルに仇なす真似をするとは思わないが、正教会とダーディニアは深い絆で結ばれてはいても完全に一体なわけではない。正教会には正教会の独自の思惑があるだろう。

「あちらはあちらでこちらに肩入れする理由がないわけじゃない」
「理由」
「……王宮をたまたま訪問していたラグナシア枢機卿が国王と共に囚われているという。ぜひ協力させて欲しいと言ってきた」
「……なるほど」

 ラグナシア枢機卿は、エサルカルに三人いる枢機卿の一人だ。信仰心篤く、枢機卿団における発言力も強い。

「既にフィルシウスから、エサルカルの首都ヴィルアに、特使が派遣されている」

 正教の総本山は、ダーディニアの古都アル・ファドルにある聖フィルシウス大聖堂である。
 ダーディニアの人間は、正教がダーディニアの国教としてはじまったものである為に、他国でも同様に信じられているということをほとんど意識する事が無い。
 だが、フィルシウスの神学校には正教を国教と定める近隣諸国からの留学生も多く、正教会の教区は国家の枠組みにとらわれていない。良くも悪くも政治とは違う線引きがなされている。

「人質解放のためにか」

 俺は問う。

「当然だ。……教会はラグナシア枢機卿を絶対に見捨てない。最高の人質たりえるだろう」

 『正教会は政治には介入しない』―――― それが原則である。
 だが、だからといって政治に無関心でいるわけではない。
 時の権力者の在り様によって教会の在り様も変わる。教会は自衛の為と称し、教会独自の情報網を有しているし、場合によっては傭兵団を雇うこともあるほどだ。

「解放するかな」
「無理だろう。玉座を奪いながら、殺す決断もできない小心者だ。人質を解放などするものか」
「……………殺さないことが間違いのような言い草だな」
「少なくとも国王一家を殺しておかねば、クーデターは失敗する」
「なぜ」
「国王と王太子とその子供達が生きている限り、大公がどれほど自分が国王であると言い募ったとしても、僭称にしかならないからだ」
「……………どういうことだ」
「我が国に置き換えて考えてみればいい。父上……グラディス世陛下を退位させたとして、ナジェック叔父の即位が認められるかどんなに幽閉しようと、自分より上の王位継承権を持つ私やアルが生きている限り、その玉座は仮のものでしかない。そんなのちょっと考えればわかることだ」

 そして、時間が経てば経つほど殺してもクーデターの成功率は下がる、と言う。

「なぜ」
「アラが見えるからさ。……驚愕で思考能力が停止している間に他の選択肢のすべてを潰して、自分の立場を磐石なものにしておかねばならない。皆が気付いた時には他の選択肢がないようにな」

 クーデターというの時間との勝負なんだ、とナディルは言う。

「そういう意味では既に時機を逸している。今、殺したとしても悪名を追加するだけだし、そもそもクーデターだと他国に既に伝わっている時点でアウトだな。……イシュトラの姫を王妃として立后したというのもまずい」
「ヒモつきになるからか」
「それもある。だが、イシュトラの勢力を引き入れたことで、反大公で国内が一致団結する為の理由を与える」

 立后なんて大々的に宣言すべきじゃないな、とバカにしたようにつぶやく。

「内では争っていても、共通の外敵には一致団結することができる……そんな話は掃いて捨てるほどあるだろう」
「……おまえなら、成功するんだろうな、クーデター……」

 ナディルの口ぶりを聞いていたら、なんだか、こいつだったら間違いなく成功するだろうと思えた。

「私がクーデターを起こす意味があるのか今の状態で」

 我が国の国王は、グラディス世陛下だ。
 だが、最高権力者と言ったとき、人々が思い浮かべるのはナディルだろう。
 政も軍も、ナディルがその手に一手に握り掌握している。

「………………ない」

 そもそも、こいつは王太子なんである。
 何もしなくともいずれ国王の座は転がりこんでくるのだ。

そんなものになりたいだなんて、こいつは一度も思ったことなんかなかっただろうけど……


 俺の回答にナディルはつまらなそうに顔をしかめた。



[8528] 閑話 王太子と乳兄弟【中編】
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2013/09/16 08:57
 俺とレイが遅れて会議室に入ると、会議は既にはじまっていた。
 細長いテーブルの最上座にナディルの椅子が置かれている。
 その席に一番近い二つ……右側にアルフレート殿下が、左側にシオン倪下がすでに座っていた。共に略正装だということに含みを感じるのは、俺がナディル流の思考に毒されているせいだろう。
 アルフレート殿下の隣に座っているのは、グラーシェス公爵の嫡子にして、ナディルやアルフレート殿下の実妹、シオン倪下にとっては姉であるアリエノール王女の夫であるディハ伯爵クロード=エウスだ。

(公爵が送り込んで来た使者がディハ伯爵とはね……こりゃあ、事態は相当進行してるってことだな)

 ディハ伯爵が馬術に優れているということもあるだろうが、北方師団の派遣要請依頼を持って来たに違いない。
 グラーシェス公爵は、殊更、儀礼にうるさい老人だからして、わざわざ自身の嫡子をもってして、この使者にあてたのだろう。で、ディハ伯爵の隣に座っているのは、その副官であるヴェスタ子爵。
 ディハ伯爵の正面が、近衛師団長レーデルド公爵リィス=エデルでその副官のウィーリート公の姿が見えないのは、既に動いているからだろう。
 そして、その隣がナディルの筆頭秘書官であるラーダ子爵カトラス=ジェルディアだ。
 レイは俺の隣に座り、他にも俺には馴染の面々の顔が見られる。
俺も含め、ナディルの側近と呼ばれる者達……財務官ヴィグラード伯爵エーデルス=デーセル、書記官リウス子爵セレニウス=ファドル、ルイド伯爵ボーディウス=ラディエル、執政官ナルフィア侯爵ディーデルド=リフィウス……文官の主だった人間が雁首揃えて並んでいる。
 武官の面々がここにいないのは、すでに動いているからだろう。

 側近団のほとんどが、幼少時からのご学友というやつだ。
 王族や高位貴族の子供には、必ずそういう人間がいる。
 それほど年齢の変わらぬ貴族の男児が選ばれ、同じ教育を受け、寝食を共にする。
 世間一般で言う、幼馴染に近い。
 幼少時は、身の回りの世話係兼遊び相手として仕え、やがては側仕えの見習いをし、成人の後は側近となる。幼時から側近くで寝食をともにしていれば、自然、結びつきは強いものになる。
 俺は、そのもっとも典型的な例と言える。何せ、俺の母親はナディルの乳母で俺と奴は乳兄弟。だから俺は、ナディルが生まれたその瞬間から、ナディルの側近になることが定められていたようなものだった。

 我が家は爵位こそあるが、その実、それほど広い領地もなく、父が官吏として働くことでやっと生活が成り立つというような地方の田舎貴族だった。母はその正夫人だ。
 貴族女性が働く事はあまり外聞のいいことではない。男に妻を家においておけるだけの器量がないとみなされるからだ。
 だが、ナディルの乳母の募集があった時、母はそれに飛びついたし、幾つかの試験を経て、それが母に決定した時、父や祖父も含め家族全員が喜んだ。
 高位貴族の子供の乳母というのは、とりたてて特別な能力の無い貴族女性が就いても恥ずかしくないとされるほぼ唯一の職だったし、乳母の給料というのはかなりの高額であり、お仕えする子供が成長すれば、我が子がその家来として取り立てられることは間違いなかった。
 しかも、母がお仕えする若君……ナディルは、嫡長子で……いずれ家を継ぐだろう世継ぎの若君だった。

 ナディルの生まれた時の名は、ナディル=エセルバート=ディア=ダーハル=ダーディエ。

 そう。

 当時、ナディルは王族[ディア]ではあったが、王太子どころか王子ですらなかった。

 『王子』……王の息子。
 ダーディニアでは、王太子の子もまた王子と呼ばれるが、グラディス4世として即位なさった現国王陛下は、ナディル殿下が生まれた当時、王子ではあったが王太子ではなかった。
 陛下は前王ラグラス2世陛下の第5王子で、母親の身分から王位継承権は一つ繰りあがって第4位。上に三人の兄がいた。
 ダーディニアでは、高い王位継承権を持つ王子・王女は、兄姉が即位し、その継承順位がそれなりのところに下がるまでは王宮に留まる。それは、世継ぎ争いを起こさぬための安全策の一つだ。だが、陛下が王位を継ぐことなど当人をはじめ、周囲も誰一人として考えていなかった。
 だからこそ、ダーハルという小国の公女にすぎないユーリア様を正妃とすることができたし、そろそろ30歳を迎えようという年齢であっても政務を伴うような公職には就いておられなかった。
 いずれ自分より継承順位が上の兄らに子が生まれてその順位が下がれば、公爵位を与えられて臣籍に降下する。それが一般的なダーディニアの王子の身の処し方だ。
 当人一代限りは大公と呼ばれ、その子供は『ディア』の称号を許されるが、以降はただの『公爵』となる。ナディルは、『ディア』の称号こそ持つがただの公子で、いずれは公爵となるはずだった。
 
(陛下もその日を心待ちにしてたそうだからな……)

 音楽に造詣が深く、芸術を愛しておられた陛下は、当時から音楽家や芸術家の後援者として有名だった。実際、その方面に関しては並ならぬ才能と熱意とを持ち合わせており、当時陛下が後援していた芸術家の中には後に大成した者も多い。
 反面、政治的な事にはまったく関心がなく、自身の荘園の管理などは家令に任せきり、家令は指示をユーリア妃に仰いでいたという。
 それは陛下の美点であると周囲からは認識されていた。
 継承権が高いだけで王位に就くことなどない王子だ。なまじ政治に興味をもち積極的に介入されることは誰にとっても喜ばしいことではなかった。
 陛下は自身が臣籍に降下したら名乗る家名を既に『ノーヴィル』と定め、それを承認されてもいた。

(だが……)

 思いもよらぬことが起こった。
 まず、共に第一王妃の子供である第一王子と第二王子が外聞をはばかる事情によりほぼ同時に死んでしまった。
 それは、今も真相が明らかにされない王家の大醜聞[大スキャンダル]で、王宮では今もなお、決して話題にされることがない。
 ナディルが立太子し、その関係でこうして政の深くにまでかかわるようになった俺ですら、その真相を知らないくらいだ。その一件を脚色した芝居があったが、上演した劇場ごと潰されたほど。
 それでも、陛下にはまだ同じ第二王妃腹の兄、第三王子のニーディス殿下がいた。当時の近衛師団の団長であり、その武名が他国にまで鳴り響くほど出来物の兄が。

(けど、不幸は手をつないでやってくるもんなんだよな)

 その武勇優れたニーディス殿下が、市内を騎馬で巡回中に落馬し……それが原因で命を落とすとは誰も思わなかっただろう。
 原因は、殿下の愛馬の耳に飛び込んだ虻一匹。
 馬は殿下を振り落としたばかりか、思いっきり蹴り上げ、踏みにじった。暴走馬を取り押さえた時、殿下は既に息がなかったという。

(その結果……)

 はからずも、当時第五王子であられた陛下は、第一王位継承権者となってしまった。
 それは、周囲にとって……そして、当人にとっても、とても不幸な出来事だった。
 まだ王子であった陛下は、「政治に興味もなければ、自身に正しい判断が下せるとも思えない。己には国を治める器量がない。このまま臣下にくだることをお認め下さい」と父王に奏上したとも聞く。
 だが、それは認められなかった。
 当時、陛下に次ぐ王位継承権第五位は第三正妃の生んだ生後3ヶ月のシュナック殿下で、第六位が8歳のフェリシア王女、第七位のエフィニア王女は更に幼かった。
 その間に他の兄弟がいないわけではなかったが、ダーディニアにおいては、側妃ないし、愛妾から生まれた子供たちの王位継承権は、正妃から生まれた子供たちにはまったく及ばない。

(……だから、陛下は即位するしかなかった)
 
 過去、幼児や女王が即位したことがなかったわけではない。
 だが、それはやむをえなかった場合に限られている。
 陛下は、側妃腹とはいえ文官として堅実な手腕を持つ異母兄アーサー王子に継承権一位を譲りたいと考えていたが、それは父王に却下された。

 特例を認めてしまえば、それが前例となる。

 ダーディニアの王位継承権は年齢性別にかかわらず、正妃から生まれた子供が優先する。その原則を崩すことは許されなかった。後の世で継承権争いの種となるような事例を作ってはならないと言い諭されたのだ。
 結果として、王冠は、最もそれを望んでいなかった王子の下へと転がりこんでしまった。しかも、本人はまったく期待されていなかったにもかかわらずだ。
 しかも、悲惨だと思うのは、それを本人も周囲も知っていたことだ。
 王位についてからの陛下が、時々、常軌を逸したような我侭な行動をとるのは、そのせいなのかもしれない。




(ぼくは、しょうらい、がくしゃになってたいりくじゅうをまわるから、フィルはごえいでいっしょにくるといい)

(そーだな!おれはたいりくいちのけんしになって、ナディルをまもってやるよ!!)


 そんなことを言っていた俺たちの環境は激変した。
 陛下が立太子されると同時に、既に生まれていたナディルをはじめとする公子・公女には 『王の子[ディール]』の称号が与えられた。この場合は、後に王となることが定められた者の子という意味になる。
 ナディルら兄弟は、王子・王女と呼ばれるようになり……そして、ナディルは次の王太子と定められた。
 そう。ラグラス2世陛下は、息子であるグラディス4世陛下よりも孫のナディルに大きく期待していたのだ。
 もし、ラグラス陛下があと10年……いや、5年長生きしていたら、玉座は、グラディス陛下を跳び越して直接ナディルに譲られていたかもしれない。
 そして、その方がナディル以外の人間にとっては幸せな結果になったに違いない。

 小さい頃からそばにいる俺はよく知っているが、ナディルというのは昔から物静かなガキで、三度のメシよりも読書が好きな本の虫だった。
 図書室にいれば、時間がたつのも忘れて本に夢中になり、挙句の果てには気がついたら図書室に閉じ込められてる……なーんてことも、よくあることだった。
 ユーリア妃殿下は、図書室の係の者に必ずナディルの居場所を確認してから図書室の鍵を閉めるように言いつけたという笑い話があるくらいだ。何事もなければ、ナディルは公爵位を継ぎ、好きな本に囲まれて、好きな学問三昧の日々を送っていたに違いない。

 俺からすると信じられないことだが、ナディルは『勉強する』という事が好きで、苦にならない人間なのだ。実際に頭もいい。大学に入学するというだけで、それはもう証明されたようなものだった。
 ラグラス2世陛下が、政にはまったく向いていない息子よりも孫のナディルに期待したのもうなづける話だった。

(だから……)

 俺たちは、もうただの乳兄弟の幼馴染でいることはできなかった。
 主とそれに仕える側近……元より対等であろうはずもなかったが、それでも幼い俺たちの間にあった特別な何かは消えさり、明確な線引きがなされた。
 未来の公爵と下級貴族の乳兄弟がタメ口で話すことは許されても、未来の国王と下級貴族の乳兄弟がタメ口で話すことを、周囲は許さなかった。
 
 他のやつらも一緒だった。
 
 ナディルと俺たちの間には決して越えられない一線がひかれた。……かつてはたびたび踏み越え、対等に笑いあったこともあったが、それは遠い話となったのだ。

(そして……)

 頭の良い子供だったナディルは、それをおとなしく受け入れた。
 ……受け入れざるを得なかったのだ。
 ナディルの存在が、ユーリア妃殿下の地位に……そして、幼い弟や妹たちの未来に直結していた為に。

 陛下が王太子となられた時、第一妃となる娘は四公爵家のうちから選ばれるだろうというのが宮廷雀たちのもっぱらの噂だった。
 そもそも、ユーリア妃殿下は、陛下が『王位継承権第四位の第五王子』だったからこそ正妃として迎えることを許されたのだ。もし、グラディス4世陛下の継承順があと1つ上だったとしたら、どんなにグラディス陛下本人が望んだとしても、ダーハルのような小国の公女であるユーリア殿下は正妃となることはできなかっただろう。

 しかも、この当時既に、ユーリア殿下の故国たるダーハルは帝国に併合され、妃殿下には何の後ろ盾もなかった。
 その上、四公爵家にはそれぞれ陛下に差し出せる妙齢の娘がいたのだ。
 ユーリア妃殿下にあったのは、ただグラディス陛下の愛情と、陛下との間に生まれた四人の子供達だけだった。
 陛下がユーリア妃殿下を愛しておられることに疑いはない。だが、陛下が、四公爵から差し出される妃を拒めるとは誰も思っていなかった。それは妃殿下が一番良く知っていたに違いない。

 実際、エルゼヴェルドを除く三公爵家からは後宮に娘たちが送り込まれた。
 それが、第二王妃であるアルジェナ妃殿下であり、側妃であるアリアーナ妃とネイシア妃だ。

 ユーリア妃殿下の幸運は、ナディルという子供がいたことだと誰もが言う。

 ナディルはちょうどその頃、大学への入学を決めていた。
 大学という機関は、生まれや血筋などはまったく斟酌しない。学術的才能だけが物を言う。
 ラグラス2世陛下は、これから生まれるかもしれない血筋のよい未来の孫よりも、既に並外れて聡明だとわかっているナディルを選んだ。
 ナディルを未来の王太子……ひいては、未来の国王にする為に、陛下はユーリア妃殿下を『王太子の第一妃』そして、いずれは、『第一王妃』とするように定められたのだ。
 そうでなくば、ユーリア妃殿下の地位はもっと下……何番目かの王妃になれればよい方で、下手をしたら側妃とされていたかもしれない。
側妃というのは、妃とはつくものの、ようはただの公式に認められた妾にすぎず、そこに正式な婚姻関係は成立していないとされる。

 アリアーナ妃とネイシア妃は、子供さえ生まれれば即座に正妃となることができたのだが、あいにくお二方には子供ができなかった為に側妃に留まっているだけで、ユーリア妃殿下が側妃に落とされる場合とはまったく意味が違う。
 だから、もしそうなったとしたら、その妃殿下から生まれた子供たちは、当然、王の子[ディール]と呼ばれることはなく、側妃の子となってしまったことで、王族[ディア]という称号すら、理由をつけて剥奪されるおそれがあった。

 ナディル自身は、学問で身をたてるつもりだったから、身分がどうなろうと構わなかっただろう。
 だが、ナディルは、まだ幼い弟や妹たちを案じた。
 だから、何一つ文句を言うことなく、未来の王太子となることを受け入れた。


 ……それは、ナディルが、手に届くところにあった自身の望んでいた未来を諦めた瞬間だった。

 ナディルは、およそ挫折や失敗というものを知らない人間のように見えるが、そんなことはない。
 ナディルもまた、まったく王位など望んでいなかったにもかかわらず、玉座につくことを定められてしまった人間であり、自身の望んだ未来を奪われた人間でもあった。


 奴の口から、愚痴やら文句やらを一度も聞いたことがなかったけれど。






*************

 糖分ない回があと1回です。
 そして、やっと本編。
 このへん書くのは私もいろいろ足りなくなりますが、ここを書かなければお話が結末まで行かなくなるので。……すいません。
 



[8528] 閑話 王太子と乳兄弟【後編】
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/03/14 18:38
「殿下、エサルカルとの国境には北方師団をはじめ、北方の領主軍から成る方面軍が向かいます。中央師団を動かす必要があるとは到底思えません。ましてや、アルフレート殿下のご出馬を仰ぐ必要はないのでは……」

 ふと気づけば、既に話はだいぶ進行していたらしい。

「公爵、今回の戦は、対エサルカルというだけではない。その裏にいるだろうイシュトラ……おそらくは、今回の騒動の源である帝国……かの二国との戦の前哨戦になると思ってもらいたい」

 そこここで息を呑む気配がする。誰もがそうではないかと疑い、だが、考えないようにしていた事実を改めてつきつけられる。

「殿下は、帝国とイシュトラが手を結んだと?」
「さあ……確証があるわけではないが、最初からそう思っていたほうが気が楽だろう?」

常に最悪の事態を想定するのが、ナディルの癖だ。
だが、こいつにとっての最悪かどうかはまた別の話だ。
別々にこられるよりまとめて来た方が一気に片付けられて楽、とか思ってそうなのだ、ナディルの場合。

「しかし、両国に同時に侵攻されては……」
「そうさせない為にも、今回のエサルカル問題を速やかに解決せねばならない」
「我が国の国境は、イシュトラとは間にエサルカルを、帝国とはリーフィッドかレサンジュを挟んでいる。直接の侵攻には時間がかかる」

 その言葉に誰もがうなづく。

「アルフレートには、対帝国……演習として、リーフィッドとレサンジュ両国との国境にほど近いラガシュに行って貰う」
「……この時期に演習って、みえみえじゃありませんか?」

 くすり、とシオン猊下が笑った。場に不釣合いな笑み。穏やかな……ナディルと……そして、王妃殿下と同種の笑み。
 ナディルとシオン猊下は基本の顔立ちが似ている。確か、ディハ伯爵に嫁いだアリエノール姫もこの系統だ。
 繊細な顔立ちと華やかさ……ナディルが美貌だと思ったことは一度も無いが、シオン猊下やアリエノール姫は美しい容姿をしていると思う。俺はお二人とあまりなじみがないので、目の前にいないとはっきりと顔を思い出すことはできないが。
 アルフレート殿下だけが、やや違っていて、先王陛下によく似た力強さと無骨さを持つ。いかにも武人らしいのだ。

「みえみえでいいのだ。軍が移動する理由がつけばいいだけだ。あちらだってこちらが何に備えているのか、何のための演習なのかわかってるだろう」
「……そういうものなんですか?」
「そういうものだ」

 当たり前のようにうなづく。

「それで思いとどまればよし、思いとどまらないのなら……」

 ナディルは笑みを浮かべて言った。

「……叩きのめせばいい」

 冷ややかな声音に、一瞬、背筋がぞくりとした。
 どこか凄みを感じさせる笑み……ある種、陛下の狂気を感じさせるような笑みにも似ている。
 こういう時、俺はいつも、俺もナディルもずいぶんと遠い場所に来てしまったのだという感じがする。
 本音を言えば、俺は、こいつにこんな笑みをさせたくない。あの聖人君子じみた笑みも嫌いだが、この表情もあまり好きではない。

「それはそうですね」

 穏やかにやわらかく、シオン猊下も笑った。……ほんと、この人は、ナディルとよく似ている。

「私は戦は好まない。皆もそうだろう。……だが、敵が戦を欲するというのならば、剣を交えるを躊躇うことはない」

 ナディルはきっぱりと言い、それから俺たちを見回した。

「一戦に及ぶというのなら仕方があるまい。……彼らが二度とそんな気を起こさぬように徹底的に叩けばよい」
「……エサルカルには、かわいそうなことになりますね」
「仕方あるまい。愚かな王弟をもった報いと言うべきだろう」

 冷たい横顔。こいつがただ優しいだけの人間でないことは、俺たちはよく知っている。
 そして、それが後天的に身に着けたものであるということも。
 だが、時々それを忘れそうになるくらい、今のナディルというのに、慣らされてしまったような気がする。

「我が国がそうならなくて幸いですね。私は聖堂を牛耳るのが目標ですし、アルには兄上から玉座を奪うような気概もそんな頭脳も、おまけに兄上ほどの人望もありませんし……」
「シオン……」

 アル殿下がため息をつく。
 これは何もアル殿下に人望がないというのではなく、ナディルがまるで神の如く一部熱狂的に信じられ、特別視されているだけだ。
 普通に考えて、アル殿下やシオン猊下、それから既に嫁がれたアリエノール姫は王族として平均点以上だ。
 残念ながら下の双子の殿下達はよくわからない。時折聞こえてくる噂はまあそんなもんだろうというものが多い。

「クーデターを起こすこと自体は構わない。だが、失敗するなら最初からやらねばよい。周囲が迷惑だ。……国を巻き込んでのこの愚かな一件は、エサルカルにとって高くつくことになるだろう」
「失敗するつもりでクーデター起こす人はいませんよ、兄上」
「………………情に流されるからだ」

 ナディルは小さくそうつぶやいた。
 何をさして言ったのかはわからないが、エサルカルの国王一家と親交があったナディルのことだから、何かを知っていたのかもしれない。
 苦い表情をかみ殺し、周囲を見回す。

「補給に関して心配する必要は無い。一時的に、災害用備蓄庫を開くことを許可してある。また、既に各商家、組合にも手は回してある」

 都合の良いことに、我が国では三ヶ月前から、麦と塩の価格安定の為に供給量をコントロールすることをはじめており、更には、主要の作物やら塩やらの関税もあげたばかりだったので麦や塩といった必需品は、豊富に流通している。
 今回は、この騒ぎになってからそれとなく流通量を減らしており、その分は国庫におさめられているから、ちょうどいい。もしかしたら、それすらナディルの計算のうちにあったのかもしれない。

「皆は戦に勝利する……」

 ふと、ナディルはそこで何かを思い出したように言葉を切り、そして静かに言い直した。

「……戦に勝利する為に戦うのではない。自らの大切なものを守る為に戦うのだということを心に留めておくが良い」
「王太子殿下……」

 ディハ伯爵が目を見張った。

「これは守るための戦いなのだ、伯爵。
 国を、領地を、あるいは家名や家族を……それぞれに守るものは違うだろう。だが、決して失えないものであるということには代わりはあるまい。
 私とて、その気持ちは皆と変わることはない。そのことをよく心に留め、戦いに赴いて欲しい」
「殿下もご出陣を?」
「そうだ」

 水をうったような静けさとはこのことを言うのだろう。一瞬にして、室内は凍りついた。

「……アルフレート殿下のご出馬を仰ぎ、さらには王太子殿下のご出馬を仰ぐなど……」

 レーデルド公爵がやや震える声で難色を示す。
 それもまあ、当たり前だろう。
 これまで、継承権第一位のナディルと、第二位のアル殿下が二人とも同時に戦場にあったことは無い。
 ナディルは立太子された12歳の年より、アル殿下が成人して中央師団の師団長となるまで、常に戦場に立ち続けたが、その後は、戦場にでることはまったくなくなっていたのだ。

「それが必要なのだ、公爵」

 ナディルは静かに言った。
 そして、笑みを浮かべる。
 誰もが安堵するような強い笑み……ナディルがこんな風に笑うのなら大丈夫なのだと、誰もがそう信じ込まされるような笑みだ。

(狡猾だ……)

 こんな風に笑みを向けられると、それ以上の反論を口にしにくくなる。
 だが、実際に安心しても構わない。ナディルはあまりはったりというのを口にしない人間だからだ。

(……既に計算済か……)

 ダーディニアは、かつて王位継承権者を立て続けに亡くしている。その記憶は、まだ完全に癒えていない。
 だが、危険を承知した上で、それが必要なのだとナディルは判断したのだ。
 すべてがナディルの計算通りにいくかどうかは別なのだが、大概の場合、こいつの計算をはずれるような出来事はおこらない。

『徹底的に叩く』
 ナディルはそう言った。
 自分が出陣するつもりだったからこその言葉であると考えると、その言葉は更に重いものになるだろう。

「すまないが、近衛にも前線に出てもらうことになるだろう」

 普通、近衛というのはほとんど実際の戦場には出ないものだ。どの国でもそうだが、近衛は王族の護衛という意味合いが強いからだ。
 だから、近衛が出るというのは、どういう場合でも最終局面ということになる。

「……望むところです。我らが、ただの王宮の番人ではないことを知らしめてやりましょう」

 何か他にもいいたいことはありそうだったが、ここで言うことではないと思ったのか、レーデルド公爵は、ただ力強くうなづいた。

『王宮の番人』とは、他の師団の人間が近衛を揶揄する時に使う隠語だ。
 だが、実のところ、ダーディニアの近衛師団は実戦経験がなかなか豊富と言ってもいい。
 他の師団は、それぞれの該当地域での戦にしか介入しないが、近衛はナディルに従って常に戦場に立つことが多かった為だ。
 正式に立太子された後、この十数年の間にナディルは幾つもの戦を指揮しているが、大小合わせて一度たりとも負けたことが無い。
 これは冗談でも誇張でもなく、事実だ。

 ナディルは負ける戦をしない。

 ナディルに言わせれば、戦場に立った時には既にその戦の勝敗は決まっているという。
 そして、そこで負ける確率が高いと思えば、ナディルはどんな手をつかってでもその戦を口火が切られる前になかったことにしてしまう。
 ある意味、詐欺みたいなものだが、一度は敵の指揮官に一騎討ちを申し込んでこれを撃破、指揮官を人質にして軍を退かせ、いま一度は本国で和平交渉を成立させ、戦になる前に遠征軍を引き上げさせた。勿論和平交渉でうなづかせる為にいろいろ手を回したのは当然だ。

 だから、負けたことがない。

 それを、一番良く知っているのは帝国軍ではないだろうか。
 ナディルに敗れた帝国の皇子は、次期皇太子の呼び声も高かったそうだが、敗北し、人質となったことで皇位継承権を剥奪されたという。
 更には、大きな会戦で二回ほど戦い、いずれも手ひどく敗走している。特に7年前のリーフィッド侵攻時には、相当痛い目に遭わされている。その記憶を持つ兵も多いはずだ。

(5万対1万8千で……)

 吟遊詩人の歌では、帝国軍10万、対するリーフィッド・ダーディニア連合軍はわずか1万とされているが、実際には、そこまでの差は無かった。

 帝国軍5万は、リーフィッド軍8千と、ナディルの率いた救援軍1万の前に敗退し、その時、帝国の総司令官を務めた皇子は、失敗の責任をとらされて本国帰還の後に処刑されたとも聞く。
 あの国は皇子の数が多いが、ナディルに敵対したことで5、6人は数を減らしてるはずだ。



 ナディルは次々に指示を出し、一人ずつ皆が出てゆく。
 いつの間にか残っていたのは、俺と、公爵とナディルたち兄弟だけになっていた。

「殿下、本当に出るおつもりか……」

 どうやら、公爵はそれを問いただしたかったらしく、残っていたようだ。

「私の出馬はただのポーズだよ、公爵。実際の戦場に立つことにはならないはずだ」

 ナディルはごくまじめな表情で告げる。この口ぶりからすると、本当にそうなるかは半々というところか。

「私が出馬した、という事実で彼らが退けば良し、例え、一戦に及ぶことになったとしても我が軍が負けることはないだろう」
「それは、勿論です」

 レーデルド公爵は力強くうなづく。さっきまでここにいた面々は皆若いから、三十台後半の公爵は最年長になる。自身も王族であり、公爵の妻は、ナディル達には従姉妹にあたるレーディア姫だ。

「……俺は兄上のご出馬には今でも反対だ。兄上が出馬するとなれば、近衛が動く。……王宮が空になる」

 アル殿下が躊躇いながら口を開く。

「近衛の半分は置いていくよ。まさか、王宮を空にはできまい」
「……その師団長である公爵が兄上に従って従軍するのならば、機能は半分以下に割り引かれるとみていい。だいたい、父上が離宮に行幸しているせいで、ただでさえ人が少ないんだぞ。その状態で何かあったら……」

 アル殿下は、つくづく人がいい。
 そんな事実はここにいる人間は皆、承知だ。だが、それがわかっていてもそれを口に出すところがアル殿下の人の良さであり、甘さなのだろうとも思う。

「アル、兄上はそんなこと、百も承知ですよ。それでも、兄上が動くことが最上と判断されたのですから……」
「シオン、おまえまで……」
「兄上のお留守中は、私が王宮に戻りますよ。それで、納得してくれませんかね」
「………………」

 ナディルが従軍することは確定事項だ。
 そして、近衛がナディルに付き従うのは当然で……既に、今回の戦は、対エサルカルというだけではない。その裏にいるだろうイシュトラとの前哨戦であると考えられているし、そして……帝国もまた何らかの動きをみせるだろうというのがナディルの読みだ。

「……帝国との戦となれば、私が出ないわけにはゆくまい」

 帝国は、ただ帝国と呼ばれている。
 『戦乱のあるところに帝国あり』と言われる大陸の五大国の一つだ。

「かつての統一帝国の末裔を名乗り、大陸の再統一を目指している以上、彼らが諦めることはおそらくないのだろう。だが、十年二十年の長いスパンで、侵攻を諦めさせることはできないわけではあるまい……最も、頭がころころ変わるせいか、敗北の記憶をすぐに忘れるところはいただけないがね」
「……帝国の問題も、エサルカルの問題も、姫のことには関係ないでしょう、兄上」

 抑えきれない苦い感情がその言葉にはにじみ出る。
 ほんと、アル殿下は性格が良い。

「……彼女の為だけに、この機会を逃すことはできない」

 苦笑したナディルは言った。
 そのブレない判断こそが、ナディルだ。

「ですが!」
「あの子は、私達が思うよりずっといろいろなことをわかっているし、許容してもくれている。……聡明なのだ」

 ふと漏らしたわずかな笑みに、そこにいた全員が言葉を失った。
 それは何という笑みだっただろう。
 俺でさえ初めて見たかもしれない。
 ……幸せそうな笑み。
 そう。そこにあったのは幸福感だ。

 コンコンと小さく扉がノックされる。
 ほっと誰ともなしに息を吐いた。

「……ああ、入って構わないよ、リリア」

 シオン猊下の言葉に、扉が開く。
 いつものことだが、シオン猊下がハートレー子爵令嬢を察知する時のその神業じみた鋭さには驚かされる。

「すいません。会議中だとお伺いしましたので、廊下で待たせていただいておりました」

 お仕着せのスカートの裾をつまみ、軽く一礼する。
 幼時より王宮育ちの令嬢は、極めて優雅だ。

「……かまわない。シオンに用が?」
「いえ。……王太子殿下に妃殿下からのお届けものです」

 にっこりと令嬢が笑い、藤製の籠を差し出した。
 甘い匂いがふわりと室内に漂い、空気が色を変えたような気がした。殺伐とした空気がほのかな甘さに塗り替えられていく。

「殿下が口にされるものですので、直接お渡ししなければと思いまして」
「ご苦労だった。……ああ、ラナ・ハートレー、待て」

 ナディルは籠を受け取り、退出しようとした令嬢を呼び止める。
 なるほど、さすが正式な女官だけある。こういった場に長居しようとはしない。

「はい」

 だが、まるであらかじめ呼び止められるのがわかっていたかのような笑みで、彼女は振り向いた。
 ナディルは立ち上がり、部屋の隅のライティングデスクに常に置いてある四角いカードに何事かを書付け、封をして令嬢に渡す。

「ありがたく受け取った、と」
「かしこまりました」

 令嬢は恭しく受け取る。

「……何をしてすごしている?」

 あえて、名は口になかった。だが、それが誰のことをさしているのかは一目瞭然だ。

「殿下がいらっしゃいませんので、宮で少し退屈されているようですわ」
「……そうか」

 柔らかな表情でそれを聞く。

 やはり、俺は認識を改めるべきだった。
 エルゼヴェルトの姫さんは、間違いなくナディルの心を占めている。
それも、かなり大きな比重でだ。

「……それと、伯爵から報告書が届きました。……ネーヴェからです」

 その表情が、苦笑に変わった。だが、それはどこか誇らしげでさえもある。

「やはり、あの子は気づいたか」
「はい」
「できれば、出立の前にお話していただきたく存じます」
「……残念だが、その時間はとれない」

 だがそこで、ナディルの言葉にレーデルド公爵が口を添えた。
 おそらく、話の半分以上が公爵には見えていなかったに違いないが。

「そのようなことはおっしゃらずに、出立の前に時間を取られるがよろしいでしょう。殿下が何を守りたいのか、失礼ながら私めにもやっとわかりました」
「………?何の話だ?」

 ナディルは首をかしげる。
 ……賭けていもいいが、本気でこいつは気づいていない。
 察しが良すぎるくらい良く、常に人の百手先まで読むような人間なのに、自分のことになると途端に鈍くなる。

「いやいや、隠す必要はございません。ご夫婦のことなのですから」

 公爵はにこやかに笑った。
 公爵の勘違いなのだが、すべて勘違いと言い切れないところに難しさと面白みがある。

「……それと、宮から出ることはないと思うが、身辺には十分注意するように」

 ナディルは時間の無駄を嫌ったのだろう。なにやら意味ありげに笑う公爵をそれ以上追求せずに子爵令嬢に向き直り、幾つかの注意を与える。
 その熱心さが、公爵に新たな確証を与えることになっていることに、ナディルは気づいていない。

「はい」
「護衛も常よりも増やしている。……ああ、そういえば、エルゼヴェルトの息子もいたな」
「……妃殿下の異母兄弟の方ですか?」
「そうだ。……何番目だったかな。信頼がおけるようなら、側近くで使えば良い」
「……妃殿下は、特に避けてはおられないようです。兄上だという実感はないようですが」
「当たり前だ」

 ふん、と口元をわずかに歪める。

「妃殿下は、多くをお言葉にはなさいませんが、ご実家のこともちゃんと考えておられます。あまりないがしろにしないでさしあげてくださいませ」
「ルティアが、どうしてもと言うのなら考えよう」

 名を呼ぶ声音がわずかな甘さを帯びる。
 大切そうに呼ばれたその名は、おそらくナディルしか呼ばないだろう愛称で、それが決定打だった。

(……考えろ)

 俺は深く息を吸い、目を閉じる。
 深く思考する時に、目を閉じるのは俺と……そして、ナディルのクセだ。目を瞑って感覚を遮断したほうが、何となくいい考えが浮かぶような気がする。

「では、これは必ず妃殿下に。……お喜びになります」

(……………!!)

 令嬢の声が遠くに聞こえ、俺は自分に問いかける。
 本当にそれでいいのか、と。
 一瞬の閃き……むしろ、思い付きだった。
 だが、気づいたらそれが頭から離れなくなった。

 俺は、発言を求めて手をあげる。

「なんだ?フィル=リン」

 お、機嫌直ったじゃねーか。

「……あのな、俺、妃殿下の宮の家令に立候補するわ」

 シオン猊下やアル殿下、それからレーデルド公爵と……ハートレー子爵令嬢の視線が突き刺さった。

 王太子妃宮に家令がいないことを俺は知っていた。
 前の家令がナディルにクビにされてから、後任が決まっていなかったのだ。
 これは極めて異常なことではあったが……宮を切り盛りする責任者がいないというのは、普通、ありえない……現在の王太子妃の状況からして当たり前のように周囲は受け入れていた。
 ほとんど外出しない妃殿下であるし、女官がしっかりしているので、いなくても何とかやってこれたというのもある。
 だが、本来、家令がいない家というのはまずありえない。

「妃殿下の宮に家令はいない。誰かつけるべきだし、……今後、必要となるはずだ」
「それは、そうだが……」

 ナディルは考えをめぐらせている時のクセで口元に握った拳を当てる。

「あー、アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子、確かに妃殿下の宮にれっきとした家令がいないのはちょっと問題なのかもしれないんですが、あなたの仕事じゃないと思いますよ。仮にも執政官までなられた方が家令というのは……」

 先に、シオン猊下が口を開いた。おお、さすがだな。間違えずに俺の姓を口にできるなんて。

「ずっとやるっていってるんじゃない。俺は、今回は従軍しない。だからその間だけ、あの宮に出入りする理由が欲しい」

 あの宮の警備の厳重さはこの国で一番だ。
 もっとも、それだけあの姫さんが重要人物だということでもある。
 だが、それだけでは彼女を守れない、というのが、今の一番の問題だ。
 で、たとえば、ナディルの留守中に俺が気を配っててやろうと思っても、宮には入れなければ何もできない。

「……そうだな」

 ナディルはうなづき、そして言った。

「ならば、家令見習いに任じよう」

 ナディルの決断は早い。そして、俺が奴に信頼されていることを、密かにうれしく思う。

「なんで、見習い?」

 シオン猊下が思わず問う。それは、俺もそう思うけどな。

「正式に任命した後にすぐに変えては、あの子の評判に傷がつくかもしれないじゃないか」
「……いまさらだろ」

 じろりと睨まれた。
 けどな、人形姫って綽名の時点でもう遅いと俺は思うんだ。

「……アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子を家令見習いとして採用されるかどうかは妃殿下次第です」

 子爵令嬢が口を開く。

「フィル=リンではダメか?」
「妃殿下は人の好き嫌いを口にしたりはしません。ただ、何人か無意識で避ける方がおられますから……」

 それは好き嫌いとはちょっと違うようなんですが、と慎重に言葉を選んで告げる。その慎重さが彼女の最大の美点だろう。
 後に俺はそれを何度も思いしらされる。

「妃殿下がおっしゃるには、『好き嫌いを言うほどの記憶がない』ということなので、無意識下で避けている、ということになると思います。理由はまだわかりませんが」
「誰をだ?」
「護衛の騎士の何名か、それから、殿下の宮にいる数名の者……名前についてはお許しください。妃殿下自身が気づかれていないことのようなので、私からは申し上げられません」
「……わかった。とりあえず、近いうちに挨拶に行かせる」
「かしこまりました。……では、私はこれで御前失礼いたします」

 子爵令嬢はしとやかに一礼する。
 俺の家令見習い就任にどう思ったかは知らないが、おもしろがっている風だったから、きっと大丈夫だろう。女官を敵に回すとロクなことがないから、少しだけ安心した。

「あ、もし、お時間がとれなくなるとがっかりされるので、妃殿下には何も申し上げないでおきます」
「わかった」

 デキる女は違う、と俺は改めて感心する。気の回しようが格別だ。
 ついでに、たぶん、俺はこの女には絶対叶わないだろうな……と思った。
 まあ、シオン猊下をあそこまでがっちり握ってる時点で、大概の人間に勝ち目ないけどな。

「ラグフィルエルド=エリディアン=イル=レグゼルスノウディルイルティーツク=アルトハイデルエグザニディウム」

 毎度のことだけど、よく噛まねえな。

「はい」

 俺はまじめな顔でうなづく。まあ、こんな俺でも儀礼はちゃんとわきまえている。

「西宮王太子妃宮付の家令見習いに任じる」
「はい」

 恭しく一礼した。


 こうして、俺は妃殿下の宮の家令見習いとなった。
 任命書は、レイの筆跡で、勿論、俺のフルネームが書かれていた。
 ……赤字でナディルの訂正が入っていたけどな。







 ********************************


2010.03.14 初出


やっと終わり。
次回、本編。
HP0ですので、ちょっと休憩もらいます。






おまけ




「フィル」

 久々にそういう声を聞いた、とおもった。
 どこか頼りないようなところのある声。


「ん?」

 前にこの声を聞いたのはもうだいぶ前で、こいつがこんな声を出すなんてずっと忘れていた。

 何かを思い悩んでいるような沈黙。
 そして、ただ、それだけを口にする。

「頼む」

 視線はテーブルの上の書類に落とされたまま。
 だが、口元に当てた拳が硬く握られていた。

「ああ」

 俺は、ただうなづく。

「……安心しろよ。俺は、荒事にも向いている」

 そう。昔、俺はダーディニア一、いや、大陸一の剣士になるつもりだったのだ。
 今は文官だが、剣を持たないわけじゃない。

「わかってる」

 だが、それでも心配なんだな。
 大概のことは計算どおりと嘯くこいつが、慎重に慎重を重ね、更にはさんざん計算を重ねても安心しきれないほどに。

「任せとけ」

 俺は、何だか少しだけおかしくて、同時に嬉しかった。
 そして、失ったと思ったものをほんの少しだけ取り戻したような気がした。




[8528] 27
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/05/13 21:47

「妃殿下、こちらは、本日より家令見習いとしてこちらに勤めますアルトハイデルエグザニディウム伯爵公子です」

 朝一番にリリアに紹介されたのは、殿下と同じ年頃の……ちょっと変わった雰囲気のある貴族の男の人だった。
 貴族かどうかは服装を見れば一目でわかる。服装というのは、宮中序列に従ってすごく細かい規定のあるものだから。
 私の中の知識は、その人と一つの名前を結びつける。
 ラグフィルエルド=エリディアン=イル=レグゼルスノウディルイルティーツク=アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子。
 今のところ自身では爵位を持たない。もっとも、この人はいずれ爵位を授かるに違いない。王太子殿下の乳兄弟であり、共に大学に通った学友であり、殿下が信頼する側近の一人なのだ。

「どうぞ、フィル=リンとおよび下さい」

 ニヤリと笑う。学者という雰囲気はあまりない。むしろ、アル殿下とか……武人の人に近い感じがある。それも、折り目正しいというよりはもっと……くだけた感じ。

「フィル=リン?」
「はい。あまりにも名前が長いのでそれで通しています。うちの家の人間は、公式文書以外はすべて短縮した名前で通ることになっています」
「長い名前ですものね」

 小さく笑うと、フィル=リンは信じられないものを見た、という表情で目を見張った。
 こういう反応にももうだいぶ慣れてきたし、それを楽しむ余裕もある。
 今は、少しづつこの宮内では以前とは違うのだということを周囲に示していこうと思っているところ。いつまでも人形姫ぶりっこでもいられないし……とはいえ、公式の場ではまだ無表情の仮面を取り去ることはできないけれど。

「……何か?」
「いえ、失礼しました。妃殿下が以前とはだいぶご様子が違いますので驚きました」

 正直な人だ。
 でも、ただそれだけの人でもない。たぶん、観察……いや、計られてるのだと思う。
 『私』……王太子妃アルティリエがどういう人物であるのか。王太子殿下の妃としてふさわしいのかどうかを。

 フィル=リンは、王太子殿下の無二の腹心であると周囲に認識されていて、事実その通りなのだと思う。
 彼が来る前にリリアが言っていた。
 本来、大学まで行った人が……執政官という身分を持つ人が、一時的にとはいえ家令になることはありえないのだと。

『その上、王太子殿下の信頼をかちえているという意味では、ご兄弟以上かもしれません。シオン猊下がよく悔しがっていました。彼には絶対にかなわないのだと。……アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子というのは、そういう方です』

 そういう人がわざわざ『家令見習い』なんていう中途半端な役職で派遣されてくる。
 殿下、よっぽど心配してくれてるんだなぁと思って、少し嬉しかった。

(裏を返せば、それだけ危険になるということなのかも)

 うん。ありえそう。
 殿下が留守になれば、自然、この宮もいつもよりは手薄になる。隙ができるだろう。

(いや、殿下のことだからそれ狙って、罠とか仕掛けてるかも!)

 そういうのこっちにも教えておいて欲しいな~とか思ったけど、それでは罠にならないかもしれない。
 何にせよ、大概のところは私の知らないところで始まり、知らないところで終わっているのでそれほど気にすることでもない。
 これまでだって、私の知らないところでたくさんのいろいろなそういうことがあったはずだから。

(私が危険になったり、あるいは何か影響を被るというのは、殿下のそういう計画が失敗した時なのよね……)

 その最たる例が、おそらく私のエルゼヴェルトでの墜落事件であり、毒殺未遂事件……いや、こっちはちょっと違うか……なのだと思う。
 だから、失敗することはあんまり考えなくてもいい。………たぶん。

「リリアとよく話し合って、良いように取り計らってください」

 家令の仕事や職分なんてわからないし、他の事情があるかもしれない。何にせよ、リリアなら良いようにしてくれるだろう。

「かしこまりました」

 言葉少なに答えて、頭を下げる。いろいろと無駄なことを口にしないのは、なるほど殿下と親しい人らしいと思った。

「ありがとう」

 鷹揚にうなづいてみせる。
 これは、ある種の儀礼であり儀式だ。

「……では、リリア、私は図書室にいますね」
「かしこまりました。本日はお昼はいかがいたしますか?」

 一人ぼっちの朝食はもうとっくに済んでいる。
 味気ない朝食。
 チーズとろとろのオムレツや、カリカリなのにジューシィなベーコンも、一人ではあんまりおいしくない。

(殿下と一緒に朝食をとらないだけなのに……)

 ここしばらくはずっと殿下と一緒に食事ができる『朝』を中心に生活が回っていたんだなぁとしみじみ思う。
 国として大変な時なのに、私としては殿下とご一緒できない朝食の方が大事だったりなんかするあたりが小市民的だ。
 
 殿下とご一緒に朝食を取るようになってから、朝食とそれからおやつは元々、こちらで作るようになっていた。
 最近では差し入れをしたりする関係で、昼食もだんだんとこちらで作るようになりつつある。夕食だけは変わらずに西宮の台所で作られるものが運ばれてくるけれど、私が口にすることはあまりない。

 ……二度、異物が混入していた為だ。

 リリア達が即座に気づいた為に、騒ぎにすらならなかったけれど。
 毒物であったかどうかはわからない。今はまだ調査中だから。
 今作ってる台所が完成して、エルゼヴェルトから来る料理人さんが入宮したら、そんなこともきっと少なくなるに違いない。

「こちらで簡単に作りましょう」
「ご準備だけ整えておきます」
「ええ」

 私はぼんやりと考え事をしながら、図書室へと足を向ける。

(人って変わるもんだよね……)

 異物の混入程度では動じなくなった自分に少しだけ驚いたりもした。
 本当に怖いのは、そんなみえみえの……あからさまな悪意ではない。

 私の周辺の警備がとても厳重で、毒物に対してもとても敏感だということをわかっていながら……もし、わかっていないのだったら、犯人はただのバカだ……異物が混入されている。
 これは、私に対する警告であり、脅しにすぎないのだと思う。
 
(脅されるということは、真実に近づいてるということ)

 幾つかの知りえた事実とそこから導き出される推測。

 エルルーシア、幼馴染、彼女の故郷であるネーヴェ……頭の中を断片的な情報が駆け巡る。
 パズルのピースはまだ全部そろっていないし、登場人物も全員そろっているわけではないと思う。

 けれど、何となく予感がしている。

 何かが、失われる……あるいは、これまでぎりぎりのバランスで保たれてきた何かが壊れしまう……そんな、感じ。
 正直、怖いと思う。
 けれど、私はもう立ち止まることはできないのだ。

 死んでしまったエルルーシアの為ではなく、今となっては自分自身の為に。



「妃殿下」

(ん?)

「妃殿下」

 もう一度呼びかけられて、立ち止まった。

「はい?」

 フィル=リンだった。

「何でしょうか?」

 立ち止まって、見上げる。

(……身長も、殿下とほとんど一緒なんだわ)

 見上げる角度がほとんど一緒だ。

「お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「……かまいません」

(何だろう?)

 私は、フィル=リンを自分の図書室にいざなった。
 





*********************************


2010.05.13 初出




[8528] 28
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/05/13 22:18
「不躾なお願いをして申し訳ありません」

 確かに不躾ではある。基本、目上の人間に目下の人間が話しかけるのはマナー違反だし。
 それは親しさの度合いで緩和されたりもするけれど、私と彼は今日が初対面だ……私が今の私になってからという注釈付だけど。

「いえ。……お話とは?」

 私は小さくクビを傾げる。
 正直、今のこの時点で彼が私に何を話したいのかなんて推測もつかない。

「妃殿下は記憶を無くしたと聞きましたが、事実でらっしゃいますか?」

 丁寧に確認するように彼は口を開く。

「はい。……ただ、無くしたというと語弊があるかもしれません。思い出せないことや、知っているはずなのに知らないことがあるのです。……あと、わかってはいるのに、自分のことではないように感じるというか……」

 こんだけ予防線はっとけば、大丈夫だよね。

「記憶が混乱している?」
「どうでしょうか?混乱というほど、自分では整理がつかない状態ではないと思うのですが」

 記憶喪失ということにしたけど、実際問題として記憶喪失ですらないわけで……正直、自分でもどういう状態かはよくわかっていない。

(……何が知りたいんだろう、この人)

 ガリガリとフィル=リンは頭をかく。

「あー、申し訳ないんですが、普通に話しても?」
「かまいません」
「ありがとうございます」

 フィル=リンは、どうやら丁寧な話し方とかが苦手らしい。

「ぶっちゃけて言いますと、記憶喪失の人間ってのは、記憶を取り戻すことがあるんですよ」

 こっちが地なんでご容赦願いますと笑ったフィル=リンは、砕けた口調で話し始める。

(ぶっちゃけすぎだから……)

「で、記憶を取り戻す際、ほとんどの場合、記憶喪失だった間の記憶を無くすんです」
「はい」

(ドラマとかでもそうだったよね……)

 私はこくりとうなづく。

「ようはですね、妃殿下に記憶を取り戻してもらっちゃこまるというか、できるだけ今のままで居て欲しいわけですよ、俺としちゃあ」

 殿下の為に、とフィルは言う。

「殿下の為に?」

 正直、私は『殿下の為に』というこの言葉に弱いと思う。

「ええ」
「失礼を承知で申し上げれば、正直、俺は以前の貴女を知らない。いや、知ってはいたが印象に残っていない。それくらい、以前の貴女は影が薄かった。けれど、驚きました。今の貴女はまったく違う」

 今の貴女にはちゃんと存在感がある。と、フィル=リンはまっすぐと私を見て口を開く。
 何かを見定めるかのように強い眼差し。
 でも、今の私はそれに気後れすることがない。

「今だってそうです。かつての貴女は人と目を合わせることなどありませんでした。……以前の貴女で俺がおぼろげに覚えてるのは、その金の髪とどこも見ていないガラスの瞳だけでしてね」

 うーん、ひどい言われようだ。でも、彼が正直に口にしていることがわかるので咎めることはしない。

(殿下も似たようなこと言ってたし……)

「俺が今回、この宮の家令なんぞに立候補したのは、あいつ……ナディルにとって、貴女が特別な存在だとわかったからだ」
「……?」

 私は更にクビを傾げる。
 
「あなたは、ナディルの唯一の妃であり、エルゼヴェルドの推定相続人だ。確かにそれだけでも代わりはない。けれど、俺が言うのはそういうことじゃなくて……貴女が、ナディルに許された唯一だからだ」
「殿下に許された唯一?」
「そう。あいつが望み、あいつが自分のものにできる唯一」
「意味が、よくわかりません」
「あー、貴女さ、ナディルがただのお優しい王太子殿下だなんて思ってないだろう?」

 フィル=リンががりがりと頭をかく。これは、たぶんクセ。
 間がもたないときの。あるいは、照れくさかったり、ちょっと困っている時の。

「はい」

 私はうなづく。
 だって、私は知ってる。
 殿下が結構大人げない事や、ちょっと天然入ってるぽいことや、それから、子供みたいなところがあること。

「そういうのって特別だってのもわかってるだろ?」
「……たぶん」

 誰にでもそういう顔を見せるわけじゃないとは思っている。
 だからといって自惚れるほど、自分に自信があるわけじゃないけど。

「……ナディルは、人が言うほど順風満帆な人生送ってきたわけじゃない。むしろ、あいつは常に奪われ続けてきた」
「奪われ続けてきた?」

 それはひどくそぐわない単語だった。
 殿下なら自力で奪い返しそうだけど。

「そ。あいつはすべて計算づくみたいな人生送ってんけどさ。その基本は諦めなわけ」
「諦め?」

 また、そぐわない単語。

「王太子なんぞになりたかったわけじゃないんだよ、あいつは」

 どれだけ歳月がたっても、それだけは俺は断言できるんだ、とフィル=リンは言った。
 その横顔に何かもやっとする。
 何だろう、これ。

「えーと、そんなことを言いたかったんじゃなくて……あのさ、あいつは、すべて諦めたんだ。自分の夢も、人生設計も、目標も、全部諦めた。私生活なんてあるわきゃないし、好みなんて口にすることもない……いろいろさしさわりがあるからな。……で、今は『お優しい王太子殿下』ってのをやってるわけだ」

 わかる、と思った。
 私は知らないけれど、でも、彼の言っていることが理解できる。
 最初感じていた薄気味悪さというか、苦手だと思ったそれ……殿下がつけている完璧な王太子殿下の仮面の存在を、彼もまた感じているのだ。

「王太子なんかになった瞬間から、あいつは、延々と搾取され続けてる」
「……搾取?」
「そう。搾取。……あいつは己を削り、与え続ける……国に、そして、民に」
「……王は、国家に奉仕する存在である」

 これ、元は統一帝国時代の誰かが当時の皇帝を諌めた時の言葉。原文では『皇帝は、国家に奉仕する存在である』なんだけど、ダーディニアは、王制だからね。
 フィル=リンは軽く目を見開く。

「そうだ。けどさ……あいつはまだ王じゃないし、それでなくとも奉仕しすぎ。今のあいつには『私』ってもんがまったくない。ギブ&テイクっていうけど、あいつの場合、与える一方で、あいつには誰も与えてくれない」
「そんなことはないと思いますが……」

 だって、みんな殿下の為にいろいろしてると思うけど。

「あー、言い直す。あいつが望むものを、誰も与えてくれないんだ」

 それならわかる。
 殿下、難しそうだもの。実は結構好き嫌いも多いし。

「だから、あんただけなんだ」

 ついに貴女からあんたになってる。
 でも、フィル=リンが素で……掛け値なしの本音を口にしてることがわかってた。

「……は?」
「あいつはね、諦めることに慣れてる。むしろ、最初っから望まない。あいつにしてみれば大概のことは先が見えるからね。でも、あんたは違う」
「えーと……?」

 この場合、どう言えばいいのだろう。
 フィル=リンの砕けた口調にひきずられて、私も随分お姫様ぶりっこが剥がれてきてる。

「あんたはあいつの妻だ。こう言っていいなら、あんたはあいつのモノだ」

 やや反論したい部分もあるけれど、まあ、間違いではない。

「あいつが望んでも許される存在で……そして、誰もあいつから奪うことができない」

 物理的な誘拐拉致……あるいは、私が殺されるようなことがない限り、だけど。
 だって、何といっても私は殿下の妻で、殿下はいずれ国王となられるこの国の実質最高権力者なのだから、私を殿下から取り上げることのできる人間はいない。それは、国王陛下ですらできないことだ。
 正式な婚姻というのは、そういう強制力がある。

「ずーっと奪われ続け、このまま何もないまま終わるかもしれなかったあいつが、あんたに心を寄せた」

 ドキリとした。

「それは奇跡のような幸運と言ってもいい」

 フィル=リンはまじめな表情で私を見る。

「だから、俺はここに来たんだ。……あんたを守る為に」

 ちゃかす気にはならなかった。

「………随分と、唐突ですね」

 私は小さく苦笑する。
 でも、フィルのその言葉を疑っていなかった。
 今日着任したばかりの家令見習いで、いきなり、こんなぶっちゃけ話をはじめて、王太子妃を「あんた」と呼ぶような人だけど。

(……リリアの言ったとおりだ)

 殿下にとって無二の腹心……その通りなんだろう。
 乳兄弟っていいな~とうらやましく思う。リリアとシオン殿下もそうだけど、何ていうのかな……特別な絆があるような気がする。

「あー、本当なら、少しずつ信頼だの何だのを積み重ねていくべきなんだろうが、その時間が惜しいんだ。むしろ、その時間すら怖いっつーか。ちんたらそんなことやってる間にあんたに何かあってからじゃ遅いからな」

 だから、手っ取り早くこういう話をしたんだ、とフィル=リンは笑う。

「あいつからも頼まれてるからさ」

 ちょっと照れくさそうにまた頭をかく。

(あ、何でもやもやしてたかわかった……)

 これ、嫉妬だ。
 私の知らない殿下と彼のその絆に対する嫉妬というか……。
 男同士の友情って時としてものすごくホモっぽいと思うのは私だけだろうか。

「ナディルが王宮を離れている間、必ず貴女は狙われる」

 フィル=リンは言葉を改める。

「はい」

 やっぱり、と思った。

「でも、何も奴が好き好んで貴女を標的にしてると思わないでくれ。あいつにとって、貴女はかけがえのない唯一なんだ」
「大丈夫です。予想はしてましたから」
「へ?」

 私の言葉に、フィル=リンは何を聞いたかわからないという顔をした。

「殿下の乳兄弟で、側近で、本来家令見習いなどになるはずのない方が来る……心配してくれてるのかな、とは思いましたが、裏を返せばそれだけ危険なんだろうなと思いました。殿下が留守であれば宮に常よりも隙ができるのは当然ですし……殿下だったら罠くらいかけていそうだな、と」
「………………………」

 唖然とした表情がおかしくて、私は思わずクスリと笑う。

「間違ってます?」

 上目遣いに見上げた。

「……いんや……大正解。貴女すごいよ」

 心底驚いたという顔のフィルは、まじめな口調のまま問う。

「で、どう思いましたか?」
「どう?とは?」
「あいつが貴女を囮にしてること」

 私にはちゃんと『貴女』っていうのに、殿下は『あいつ』なところが、二人の親しさを感じさせると思うの!!

「殿下らしいなぁと」

 半ば予測していたのが正解でちょっと嬉しい。
 殿下の思考パターンがちょっと読めてきたのかも!

「……それだけ?」
「んー、こっちに教えておいてくれると心の準備できるのになぁ、とか、いろいろありますけど……失敗しない限り、私には別に影響ないからいいかなぁとか……」

 ぶっとフィルが吹き出す。

「あんた、ほんと、すげーよ」

 また、あんたに戻ってる。これって認められたと思ってもいいのかな?

 あははははは……と大笑いする声が響き渡る。
 あんまりにも大笑いするから、何事かと、いつもはひっそりと影ながら見守ってくれている護衛の騎士達が集まってきたくらい。

「なぁ」
「はい?」
「もし……もし、記憶を取り戻しても、あいつのことだけは忘れないでやってほしい」
「忘れないとは思うんですが……でも、大丈夫ですよ」

 これは記憶喪失ではないからそういうことはないと思う。
 でも、忘れてしまってもたぶん大丈夫。

「なんで?」
「だって、忘れてもきっと殿下のことを好きなのは変わりませんから」

 たとえば本当に記憶喪失になってしまったりしても、きっとこの気持ちは無くならないと思う。
 あの冬の湖でアルティリエの記憶は失われたけれど、でも、今の私の中に確かに息づいている。
 この気持ちは、突然生まれたものではなく、すべての延長線上にあるものだと思うのだ。

「記憶なんてなくなっても、一番大切なことは忘れないんです、きっと」

 フィル=リンは、笑いたいようなくすぐったいような表情をして、それからがりがりがりと頭をかく。

「どうしたんです?」
「何かすっげえかゆいっていうか、独り者にはわびしくなるっていうか、胸焼けするっつーか……」

「???????」
 
「いいです、あんたはそれで」

 フィル=リンが諦めたように笑った。

(……変なの)



 私は、彼が言ってることがよくわからなくて首を傾げた。


 



******************************

 2010.05.13 初出


 励ましの言葉とかいろいろありがとうございます。
 あと、矛盾点のご指摘ありがとうございます。
 内容にちょっと関わるところなので、訂正まで少しお時間いただきます。

 あと、なかなか更新できませんが、ちょっとずつ書いてますので……。

 






[8528] 29
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/05/31 08:27
 
 1週間もすると、フィル=リンは、家令見習い兼家庭教師代理という立場にすっかり落ち着いた。
 『家庭教師代理』というのは、私の現在の正式な家庭教師がシュターゼン伯爵で、伯爵が今出張中だから。

 なんで『家庭教師代理』になったかといえば、ひとえに、私のお茶に同席する為だ。
 基本、使用人とお茶を同席することはできない。けれど、家庭教師は別格。だって、『師』だからね。

 代理とか見習いとか何だかなーだけど、フィル=リンにはそれが似合ってる。

(どうせ、フィル=リンは殿下の物だし)

 つまり、臨時であっていずれ帰るということ。
 いま、フィル=リンがここにいておかしくなければ、肩書きは何でもいいのだ。本人もまったく気にしていないし。

「あー、ひ……妃殿下、おはようございます」

 リリアの一睨みにフィル=リンはこほんと咳払いをし、言葉を改める。

「おはよう」

 私はいつものようにうなづく。
 フィル=リンは、すぐに、私を『あんた』とか『姫さん』とか呼びそうになるのだけれど、リリアはそれを絶対に許さないの。
 フィル=リンが私を「あんた」と呼んだのを初めて聞いた時のリリアの豹変振りはすごかった。普段、楚々とした侍女っぷりが板についているだけに余計に恐ろしかったといってもいい。

「アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子、言葉遣いにはくれぐれも充分気をつけてくださいませ。妃殿下は寛容でらっしゃいますから何もおっしゃいませんが、貴方の無礼な物言いをそのままにしておきますと妃殿下が侮られますの」
「あー、気をつけマス」

 『くれぐれも』『充分』って重ねて強調してるよ。用法も語調も!
 フィル=リンは神妙な顔で聞いている。
 
「リリア、フィル=リンをそんなに怒らないであげて。別にフィルが私を軽んじてそう呼ぶわけではないのだから」
「妃殿下、ダメです。ここで甘い顔をしては。……気を抜くとどうせすぐに『あんた』とか言うんです。『あんた』ですよ『あんた』!いくら学者に変人が多いからって、妃殿下に対して『あんた』は許されませんよ!」

 リリア、表情変わってるよ……。
 学者って変人が多いんだね、初めて知った。
 普通、高等教育を受けるともっと礼儀正しくなるんじゃないかなと思ったけど、別に大学って礼儀を教えるところじゃないもんね。
私の知る『ヴェラ』が、殿下とかシュターゼン伯爵なので、どちらも理知的できっちりしているからそういうイメージが強かったのかも。

「アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子自身が妃殿下に敬意がないわけではないことは承知しております。が、それを聞いた者が妃殿下を侮るのです。その程度で侮る者などどうでも良いと妃殿下は思っておいででしょうが、本人の為にもならないことですから」

 きっぱりと言い切るリリアに、私はちょっとだけ嬉しくなった。

「……リリアは優しいね」

「は?」
「え?」

 リリアとフィル=リンがおかしな顔で私を見る。

「なんで、そうなるんです?」
「別に優しいわけではないと思いますが……」

 フィル=リンがおかしげな表情で問う。リリア自身も不思議そうだ。

「んー、でも、変な言い方だけど、結果としては優しいと思うよ。……だって、リリアに注意されたことによって気をつけるようになれば、結果としてフィルが酷い目にあう確率は減るし」

 二人とも考えてみようよ。私には、あらゆる意味で最強の保護者がついているんだよ?

「あ」
「……まあ、そう言えなくもないですね」
「回りくどいかもしれないけれど、結果としてはそうだと思うの。……だって、殿下はわりと過保護だと思うし」

 そういうのが耳に入ったら、殿下は絶対に不快に思われるだろう。
他は聞き流すことができても、自分のものであるフィルがそういうのは……たぶん、許さないと思う。
 フィル=リンが、やば、と小さく漏らす。

「だから、何かあったらフィル=リンのことは殿下に言いつければいいわ」

 その、うっかりしてた!みたいな表情がおかしくて私はくすくす笑う。


(それに……)

 私としては、国王陛下のなさりようも気になる。

(いろいろな意味で、出方の読めない方だし……)


「勘弁してください……マジで」

 意識を目の前に戻せば、フィルが心底参った、という表情をしている。
 本当に殿下には弱いんだなぁと思う。
 
 たぶん、殿下は、ご自身が侮られることは何とも思わないだろう。
その侮りなど鼻で笑い飛ばすに違いない。殿下は他者のそんな矮小な態度は気にも留めないに違いないと思う。
 けれど、私が侮られることをお許しにならないと思う。
 ……かつてはともかく、今はもう。
 
「わかりました。公子が暴言を吐いたら、次からは王太子殿下に申し上げることにしますわ」
「ご容赦ください。ラナ・ハートレー」

 フィルは即座に言葉を改めた。
 切り替えが早いなぁ。
 でも、リリアを苦手にしてたり敬遠してるって感じでもない。

「ならば、よーく注意を払ってくださいね」
「かしこまりました」

 フィルは軽く頭を下げる。フィルもやれば普通にできるんだね。
 そうだよね、王太子殿下の乳兄弟だもん。おんなじように礼儀作法とかやってるはずだもんね。



 二人を見てたら、なんか、これでフィル=リンとリリアの力関係というか立ち位置が完璧に決定したなぁと思ったよ。




********************

2010.05.31 初出






[8528] 30
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/05/31 09:46
 家令の仕事というのは多岐に渡る。そして、来客や訪問の取捨選択もその一つらしい。
 意外にも、と言ったら申し訳ないけれど、フィルは仕事はちゃんと真面目にする人間だった。

「王妃殿下のお茶会ですが、これはお断りですね」

 前回と同じ綺麗なエンボスの封筒の招待状を、欠席の封筒の山の一番上にのせる。
 こんなにたくさんの招待状が来ていることを、これまで知らなかった。
 内容はいろいろ。
 貴族の謁見の申し入れや、お茶会や夜会の誘い。私はこれまでまったく出たことはないのに、それでも招待状送ってくるのがすごいと思う。

「どうやってですか?」

 リリアが首を傾げる。
 どうやら、断ることに異存はないらしい。

「風邪ひいたってことにすればいいでしょう。ナディルの許可がなければ、王妃殿下とてこの宮に入るのは困難だ。見舞いに来るって言われたら、寝てるからって言って遠慮してもらえばいい。医師はこちら側の人間ですからうまくやらせます」
「わかりました」

 お医者さんまで口裏合わせる完璧な仮病。さすがだ。

「なので、ナディア姫と遊ぶ約束も却下です」

 淡いピンク色の封筒を上に重ねる。
 残念。ナディの秘蔵コレクション見せてもらう約束だったのに。

「はい」

 フィルのこの決定は殿下の意向に基づいているわけなので、私はこくりとうなづいた。

「殿下が宮を離れている間は、この宮から出ないことが一番です。当分の間、妃殿下はお風邪を召されたので外にはお出ましにならない、ということにしますので、残念ですが建設現場をのぞきにいくのもダメです」
「はい」

 うーん、ひきこもりだ……それこそ退屈しそうだけど、仕方がない。
 王妃殿下に対してすら仮病を押し通すのだから、徹底的にやらないとってことなんだろう。

「……物わかりいいですね、妃殿下」
「?」
「普通、貴女の年齢の子供はもっとわがままなものですよ」
「でも、危ないんですから」

 時々忘れそうになるけど、私には33年の人生経験があるのだ。そんな、子供みたいな駄々こねたりしないんだから。
 大人の女の包容力を隠し持ってるんだよ。……今のところ発揮できてないけど。

「そーいうとこが、ナディルには合うんだな、きっと」

 あいつ、言葉の通じない子供大っ嫌いだから、とフィルが笑う。

「私だってわがまま言うことありますよ。でも、言うべきタイミングはちゃんとわきまえてます。計算高いんです」

 切り札は大事なときに使うものだ。

「……さすが。ちっこくても、女ですねぇ」
「当然です」

 私はにっこり笑う。
 わがままはここぞというとっておきに言うものだ。
 ……それに、あんまり子供扱いもされたくないんです。
 フィル=リンはちょっとだけ笑って、まじめな表情でリリアに向き直った。

「ラナ・ハートレーは、王妃殿下ならびにナディア王女殿下にお断りのカードを代理で作成して届けていただきたい」
「わかりました。……王妃殿下には、私が直接お届けいたしましょう」
「よろしく」

 様子も伺ってきます、とリリアが私に唇だけで言う。
 この間のお茶会から……ううん、ずっとそれ以前から、リリアは王妃殿下に対して疑いを持っている。リリアは口に出しては言わないけど、この間のお茶会後に話したときの口ぶりではそうだった。

(……無関係ではないけれど……)

 何かこうピンとこなかった。
 確かにユーリア妃殿下は怪しい。怪しいというか、絶対に関わってることは間違いないし、確証もある。
 表向き、シュターゼン伯爵は自身の領地に帰っていることになっているけど、その実、私の依頼でいくつかの調査をしていて、その報告書が届いているからだ。

 ……けれども、私には妃殿下が犯人だとは思えない。
 んー、相当深いところまで関係はしてると思うんだけど、彼女が私を殺そうとしているとは思えないのだ。
 
(だって、彼女は王妃だから……)

 そう。彼女は何よりもまず王妃なのだ。
 妻であり、母である前に『王妃』であること、それが彼女には何よりも重要なことなのだ。
 そして、王妃である彼女は、『私』という存在がどれだけダーディニアにとって貴重なのかがわかっている。
 好き嫌いで言えば『嫌い』であってもそれはそれ。傷つけることはしても、たぶん、殺すことはできない。

(エルゼヴェルドの推定相続人である『私』はダーディニアという国を存続させるのに絶対に必要なパーツだから)

 今、私という存在が失われると、ダーディニアが内戦に突入する可能性は恐ろしく高くなる。即座に突入する、とまで言わないのは当代公爵がまだ健在だから。
 この国の王妃であることが何よりも最優先である妃殿下には、ダーディニアを内戦に陥れてまで、私を殺す覚悟というか、意思はないだろう。

「お願いします、リリア」

 気をつけてね、と声に出さずに伝える。
 リリアはにこっと笑った。
 無理は絶対にしてほしくない。でも、、実際のところ、王妃殿下のところがそれほど危険だとも思っていなかった。
 リリアは、シオン猊下の乳兄弟だ。リリアに何かあれば、シオン猊下が乗り出すことはわかりきっている。

「かしこまりました」

 リリアはスカートの裾をつまみ、一礼して出てゆく。幼いころから宮中で育ったリリアの挙措はとても優雅で、実は私も時々真似してる。
 扉がぱたんと閉まると、ほーっとフィル=リンは大きくため息をついた。

「そんなに緊張します?」
「……まあ」

 フィルや軽く肩をすくめる。

「ようは、慣れないってだけなんですがね……何しろ、物心ついた時から男所帯なので」
「殿下の側近の方は女性はいないんですか?」
「ええ、まったく。……こういうと誤解を招くかもしれませんが、あいつはかるーく女嫌いなところがあるので」
「そうなんですか?」
「ええ。……女嫌いの男嫌いの人間嫌いかもしれませんが」
「でも、決して口には出さない……ですね」
「ええ」

 私とフィルは顔を見合わせてにっこり笑う。
 きっと、私とフィルは仲良しになれるだろう。
 お互いにナディル殿下が大好きだから。


「確認しておきたいのですけど」
「何ですか?」
「……誰か、はわかりませんけれど、私を狙ってる人……まあ、その手先かもしれません…が、来るんですね?殿下の留守中に」
「そうです」

 まるで決まりきった事実というようにフィルはうなづく。

「それは、私を殺そうとしている人の方ですか?それとも、そうじゃない方ですか?」
「……ほんと、すげえな」

 思わずといった感じでため息がもれる。

「?????」
「あなたはナディルにとって最高の妃だってことですよ」
「ありがとう」

 その言葉の真意はよくわからないけれど、そういう風にほめられるのはとっても嬉しい。
 それが、殿下の乳兄弟のフィルの言葉だからこそ尚更に。

「たぶん、殺そうとしてる方です……判断に迷うこともあるんですが、殺そうとしている方も毎回どうしても殺そうっていうわけじゃないんですよね。まあ、こないだみたいに成功しかかったりとかもありますが……その次は、結構お粗末な襲撃だったし……」

 ほら、やっぱり私の知らないところでいろいろあるんだ。

「……ですが、ナディルは、今回で決着をつけるつもりなので、気を楽にしてそれを待っていてください」
「そうですね」

 ……たぶん、殿下には犯人の目星がついているのだろう。
 証拠とか確証は全然ないけれど、殿下に比べれば圧倒的に情報量の少ない私にも何となく思いつく名前がある。もしかしたら間違ってるかもしれないけれど。
 でも、それと同じくらい間違ってないんじゃないか、という気もしている。
 ようは、認めたくないだけなのかもしれない。
 
 けれど、ナディル殿下が決着をつける、というのであれば、私はそれを待つだけだ。
 だって、約束したもの。
 ここで待ってるって。
 まあ、正確にはここから出ないって約束だけど。
 
「あ、お菓子は作ってもかまわないですか?」

 それまで禁止されたら、ヒステリーおこすけど!

「……大掛かりでないのでしたら。侍女達が作ってると言えばいいだけなので」
「良かった」
「ま、本音を言えば、俺も食べたいですし。……妃殿下、貴女、最高の菓子職人になれますよ」
「ありがとう。もし、王太子妃じゃなかったら、絶対にお菓子屋さんやると思う。王太子妃はお菓子屋さんできないけれど、エルゼヴェルド公爵ならできるよね!」
「……まあ、できないことはないですね。商売をやっている家も多いですし」
「不思議ね。貴族が商業に従事するなんて、バカにされそうなものだけど」

 少なくも、ダーディニア以外の国ではそう。
 けれど、ダーディニアはちょっと違う。
 たとえば、北部諸侯の大部分は林業に従事しているし、南部諸侯は大農場主を兼ねているの。で、彼らは、自分たちで独自の販売ルートを持っていたり、開拓したりと経済活動に関して大変積極的なのだ。

「いや、直接商売はやっぱりほとんどないですよ。ですが、『持てる者』であってこそ、貴族としての義務が果たせる、というのがダーディニア貴族の信念ですから……『困窮している領主が領民に善政を施しても効果はない』って慣用句は、ダーディニアでできたくらいですし」

 フィルの言った『困窮している領主が領民に善政を施しても効果はない』っていう慣用句は『無意味』っていう意味で大陸中で広く使われているのね。
 確かにこの慣用句はダーディニアだからこそ生まれたものだ。
 貴族って、お金持ちで優雅にパーティ三昧!なイメージだったけど、全然それだけじゃないんだよ。

「私がレシピつくったお菓子が、ダーディニア中で販売されるのとかいいよね」
「レシピ?」
「作り方。……粉の配合とか微妙なんだから!」

 ダーディニアは、やっぱり別の世界の別の国で、よく似たものであっても向こうとはちょっと違う。
 そのちょっとの違いがお菓子には影響あったりするわけで、向こうのお菓子をダーディニア流にアレンジするのが結構楽しい。

「へえ~」
「いつか、チョコレート作るの夢なの」
「ちょこれーとってなんです?」
「それはね……」

 私は、フィルに「チョコレート」がどんなにおいしいお菓子なのかを熱心に吹き込んでおいた。
 ほら、ひきこもりの私より、殿下の側近のフィルの方がいろいろなものが手に入るかもしれないしね!

 何の変哲もない一日だと思ってた。
 また何事もなく今日が終わった、と思いながら寝て、次の朝を迎えるんだろうって思ってた。



 真夜中に、私の部屋にリリアのカフスが投げ込まれるまでは。






********************

2010.05.31 初出



読み直してもらうのは嬉しいけど、恥ずかしい……。
アラが目立つんですが、最後まで書いてから改訂予定です。



スクラップブック3は、このお話(勝手に名づけてる王宮陰謀編)が終わった後です。




[8528] 31
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/06/12 01:51
 そんな時間まで起きていたのは、リリアがまだ帰ってきてなくて不安を覚えていたからだった。

 別にリリアがこんな風に遅いことは珍しいことではない。
 一人諜報部員みたいなリリアだからして、私の知らないところでいろいろと暗躍しているのは知ってる。
 様子を伺ってくるとも言っていたから、遅くなるのは承知の上だったし、場合によっては今夜中に顔を出すことはないかもしれないとも思っていた。
 だから、アリス達が遅いと言い出したときには、にこやかな微笑みを浮かべて、リリアには大事な用事を頼んだから今日は帰らないかもしれないと言い訳もした。
 リリアなら大丈夫と思いながらも、今夜に限って不安がうち消せなかった。
 たぶん、リリアの行き先が王妃殿下の元だと知っていたせいだ。

 ガラスの割れる音がした瞬間、反射的にベッドから飛び降り、ガウンを上に羽織って音のした居間の方に走り出した。
 少しはしたないかなと思ったけど、これは非常事態だからと自分に言い訳する。
 居間に駆け込むと、既に何名かの騎士達が駆けつけていた。

(さすがだ……)

 エルゼヴェルドで私の身を危険にさらしたことを教訓としているためか、彼らの行動はとても迅速だ。

「……妃殿下」

 入り口に立つ私にすぐに気づいて、レイエス卿が膝をつく。

「何があったのですか?」
「何者かが建築資材の石塊を投げ入れたようです」
「……この宮にですか?」
「はい」

 だって、ここはどこよりも警備が厳重で、言葉を飾らずに言えば常に監視されているのに……そんなことできるんだね。
 
(ああ、でも罠って可能性もあるなぁ)

 わざと隙を作っておくとフィル=リンは言っていた。誘き寄せるのだと。
 この場に彼がいないところをみると、もしかしたら、今頃、犯人追跡中なのかもしれない。

 まあ、私の寝間に踏み込むのは不可能でも、夜は使っていない居間に石を投げ入れるだけなら誰にでもできる。
 こちらには防弾ガラスとか強化ガラスとかそういうのはないから、ちょっと硬いものを力いっぱい投げれば、ガラスなんて簡単に割れるし、力もそれほどいらない。
 庭にはちょっとした死角はいっぱいあるし、警備の目をくらますこともできる。

(まあ、可能性ばかりだけどね)

 防犯カメラとかないし、基本、すべてを『人』に頼っている以上、『絶対』はない。
 だから、どれだけ警備が厳重でも絶対に『不可能』とはいえないのだ。

 ちらりと視線をやれば、ガラスの破片は室内側に飛び散っていた。間違いなく、外からの衝撃で割れたことは確かだ。

(結構飛び散ってる……)
 
 投げるって発想だったけど、遠距離からパチンコのようなもので小石とかを飛ばしたのかもしれない。
 護衛の騎士たちが記録をとりながら割れたガラスを片付けている。
 庭のほうが昼間のように明るくなっているのは、多くの人が動員されて庭を調べているからだろう。
 一つ一つは電気を知る私には薄暗く感じられるランプや松明も、たくさん集まれば相当な光量になる。

「申し訳ござません。責任は私にあります」

 レイエス卿は、膝をついたまま頭を垂れた。
 彼が今夜の警備責任者なのだろう。

「いえ。殿下が出征なさっていて、いろいろと手が足りないことでしょう。賊が私の元に侵入したわけではありませんから」

 気にすることはありません、と私は真面目な顔で告げた。

「それに、いたずらかもしれませんし……」

 そう口にする私にレイエス卿はわずかに苦笑をみせ、それから深く一礼した。
 実際には、お互いそれを信じていないことは承知していた。でも、建前は必要だ。あんまり真実を追究しすぎると、彼の責任問題になってしまう。
 こんなことくらいで責任を取って降格とか、降格ならまだしも、除籍とかされてほしくない。

「妃殿下!」

 侍女のお仕着せ姿のアリスがやってくる。
 髪は結っていないし、化粧もしていないが、騎士たちがいることを見越して着替えて来たらしい。

「こんなところに……危ないですから、寝間にお戻りください」

 いつもと同じアリスの姿を見ると、何だか自分のガウン姿が恥ずかしくなった。まあ、12歳はまだ子供のうちだから周囲はそれほど気にしないだろうけど。

「……わかりました」

 少しだけ考えて、私は素直にうなづく。ここにいても不安は消えない気がしたし、私がいても何もできることはない。

 ふと、壁際の小卓の下に、紙くずがあるのが目についた。周囲をうかがうと、他にそれに気づいている人間はいないようだった。
 アリスがレイエス卿となにやら打ち合わせしている隙にそれを拾った。
 くしゃっと丸めたただの紙くずのように見えたけれど、拾い上げるとそれは紙だけじゃない重みがあった。

 中に何か包まれていることがわかった瞬間に、ドクンと心臓が一つ大きな鼓動をうつ。

 ガウンの袖の中でそれをぎゅっと握り締める……私の小さな手でも握りめられるくらい小さなもの……硬い感触がした。
 
「先に、戻っていますね」

 早口でつげ、私は小走りで廊下を抜け、寝間に戻る。
 そして、即座に扉を後手で閉めて扉をふさぐようによりかかった。
 
 目を瞑る。……何かの予感があった。 
 
 それから、そーっと紙くずを開く。

「嘘……」

 紙くずの中には、鈍く光るつや消しの金……カフスが一つ。
 見たことのあるデザインの……青い瑠璃石をあしらったそれはリリアのものだった。すぐにわかった。

 同じデザインのものを、アリスだってミレディだって持っている。
 けれど、これはリリアのものだ。

 リリアのそれは、シオン猊下がリリアに贈ったイヤリングを作り直したもので、瑠璃石の質が他の子たちのものとはまったく違うのだ。

(リリア……)

 イヤな感じがしていたのは、こんな瞬間を予感していたせいかもしれない。

(落ち着け……まだ、最悪の事態じゃない)

 これは、メッセージであって、リリアに何かあった証拠ではない。

(いやいやいや、帰ってこないんだから何かはあったから)

 一人つっこみ、一人ボケ……相当混乱してるんだと思う。
 気分を落ち着かせる為に、もう一度、大きく深呼吸をした。

(どうする……)

 リリアが何者かにカフスを奪われた……それは、囚われたと言い換えてもかまわないだろう。
 リリアはこのカフスを特別大事にしているから自分から誰かに渡すはずがない。
 そして、捕らえた者はこれを私へと届けた。

(いったい、誰が?)

 手がかりはどう考えても王妃殿下だ。
 けれど、私が王妃殿下のところを訪れて、「リリアが帰らないんですけど、知りませんか?」なんて聞いたら大騒ぎどころじゃ済まない。

(……やだな……)

 これは、脅しなんだと思う。
 さっさと私を呼び出したりしないあたりに、犯人の底意地の悪さ……獲物を嬲るような性質が透け見える気がする。

 カフリンクスを包んでいた紙を丁寧に広げる。そこに文字はない。
 薄く罫が漉きこまれているこの紙は、王宮の公用箋だ。
 右上には紋章がくっきりとプリントされていて、このクリーム色の地のものは王宮の本宮の部屋に備え付けのもの。
 本宮の人間だったら誰だって手に入れられるので、犯人を絞り込む手がかりにはまったくならない。

(……あちらの出方を待つしかない) 

 くやしいかな。リリアがいない私ができることなんて、ほとんどない。
 その上、個人的に何かを頼むことができる伯爵もミレディも今は留守にしている。

 ……思わずため息がこぼれた。
 情けないというか、やるせないというか……こんな時に、ただ相手の出方を待つことしかできないなんて生殺し状態だ。

(……リリア)

 生きていることはたぶん間違いない。そうでなければ、私にこれを届ける意味はない。
 殺したという事を知らしめたいのなら、こんな風に回りくどいことをする必要はないのだ。

(必ず、助けるから……)

 コンコンというノックの音に、びくりと身体が震えた。

「妃殿下?」

 入ってきたのは、湯気のたちのぼったカップをトレイにのせたジュリアだった。アリスはまだ居間から戻っていないのかもしれない。

「ブランデーミルクです、どうぞ」

 いつものぴしっとしたお仕着せ姿だったけれど、少し眠そうだ。こんな時間だから無理もない。

「ありがとう」

 ゆっくりと閉められたドアの隙間から見えたのは、騎士の姿。廊下に歩哨として立っているらしい。
 普段は、私の目に触れるところにはあまり入らない彼らだったけれど、こんな夜はやはりそういうわけにはいかないのだろう。

 ジュリアが中に来るのを待ち構えるようにして、口を開いた。

「ジュリア、お願いがあります」

 私はまっすぐとジュリアの目を見る。

「はい」

 ジュリアはちょっと姿勢を正して私を見返した。

「朝一番で教会に行くことはできますか?……殿下のご無事をお祈りしたいの」
「……それは……」

(うん、無理だってわかってます。だって、仮病中だもん)

「……殿下のご無事をお祈りしたいの」

 そういえば、まず頭から却下されることはない。
 『王太子殿下の為に』という枕詞がつくと、皆、とっても協力的になる。……これは、私だけが使える魔法の呪文のようなものだ。
 しかも何回使っても、いつ使ってもとっても効果的な万能の呪文。

「それでしたら、シオン猊下にこちらにいらしてもらえばいいですわ」

 ジュリアはなーんだ、と言いたげな表情で笑う。

(ありがと、ジュリア)

 彼女がそう言い出すことは計算の上だった。そう。計算通り!
 ……だから、その生温い笑みはよしてほしい。何か負けたような気になるから。

「妃殿下に外に出ていただくことは絶対にできませんけれど……シオン猊下は王太子殿下にお留守を頼まれたとのことで、毎日こちらに様子を見にいらしてますの。そのときにお伝えすればすぐに来てくださいます」
「そうなの?知らなかった」

 猊下がこちらに来ていることにまったく気づかなかった。まあ、いちいち報告があるわけではないから仕方ないけれど。

(良かった……)

 それは好都合だった。できるだけ早くシオン猊下と連絡をとりたい。
 私には何もできないけれど、シオン猊下ならばきっと打つ手があるに違いない。
 きっと、リリアが危険だということであればシオン猊下は相手が誰であっても退くことはない。

「猊下ご臨席であれば教会でなくとも、祈りの場所には充分だと思います」
「……そうね」

 できれば少しでも早くお会いしたい……どうすれば、今すぐにここに呼び出すことができるだろう……。

「猊下は、私の知らない間にこちらにお越しなの?」
「はい。猊下もお忙しい方でございますから、こちらにいらっしゃるのはいつも夜遅くか朝早くなんです……妃殿下にお目通りする時間ではないからとおっしゃって、いつも報告だけ聞いてすぐにお帰りになります」
「そう。……今夜はいらっしゃった?」
「いいえ」

 ならば、すぐに連絡がとれる可能性があるということだ。

「どうやったらすぐにシオン猊下にお会いできるかしら……」
「今夜はもう遅いですわ」
「でも、一刻を争うの……このままでは眠れないかも」

 リリアの無事を確認するまではきっと眠れないだろう。
 私は、頭の中でいろいろな可能性を検討し、却下する。
 どう考えても、私が不自然でなく、今すぐに猊下をここに呼び出すことは不可能だ。

「まあ……」

 真剣な私に、ジュリアはおかしげな笑い声をもらした。

「なあに?」
「妃殿下は、本当に王太子殿下のことがお好きなのですね」
「……突然、何言うのよ」

 突然の言葉に面くらい、どういう表情をしていいかわからなくて、視線を泳がせた。
 だって、そんなこと突然言われたって……そりゃあ、殿下のことは、す、好きだけど……。
 でも、こんな時に突然そんなこと言わなくてもいいのに。

(それに、ご無事をお祈りっていうのは、シオン猊下と連絡をとるためのただの方便なんだから!)

 口に出して言うことができない言い訳。
 確かにナディル殿下のことは心配だけど、でも、それほど心配はしてないの。
 だって、殿下だもの。
 ……どういうわけか、私の中には、ナディル殿下に対する無条件の信頼がある。
 私は、少し温くなったブランデーミルクを飲んで、照れくささをごまかした。

「……夜も眠れないほどに王太子殿下がご心配なのですね」

 わかります、とでも言うようにジュリアはうんうんとうなづいている。
 何か、ものすごく勘違いされている気がする。でも、否定はできないし、何だかものすごくいたたまれない。

 コンコンとノックの音が響いて、正直、ちょっとだけ救われた気分になった。

「はい」

「ギッティス大司教猊下がおみえになり、妃殿下への面会をお求めになっております」

 ドア越しに聞こえたのは、レイエス卿の声だった。
 あまりのタイミングの良さにジュリアと顔を見合わせる。
 ジュリアの口元には笑みが浮かんでいて、いかにも何か言いたげ。
 私としてはどういう表情をしていいかわからなくて困ってしまう。

「お待ちいただいてください」

 ジュリアが私の代わりに返答し、扉の向こうで、伝言を持ってきたレイエス卿が軽く息をのむ気配がしている。
 そりゃあそうだろう。こんな時間に面会なんて、普通ならばありえない。あまりにも非常識だ。

「ちょうど良かったですわね、妃殿下」
「うん……でも、どうして今日にかぎって、面会を求めたのかしら……」
「事件というほどのことではありませんが、事件があったばかりで妃殿下がまだ起きていることをご存知になったからでは?」
「そうかもしれないけれど……」
「何にせよ、タイミング良かったんだからいいじゃないですか」
「……そうね」

 ふと何かが頭の片隅をかすめた。
 何か大事なことを忘れているような気がする。

「妃殿下、早く着替えませんと……」
「ええ」


 けれど、それはうまく形にならないまま霧散して、後にはざらりとした違和感の輪郭だけが残った。





 ********************

 2010.06.12 初出



 内容的にはあまり進んでませんが、嵐の前の静けさということで……。

 感想ありがとうございます。全部大事に読んでいます。
 チョコレートに関してはいずれ小ネタで。
 ちゃんとお返事できなくてごめんなさい。



[8528] 32
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/06/24 01:35
 シオン猊下と対面したのは、作業室の隣……よくお茶に使ったりする部屋だった。
 居間は公的な空間でもあるため、私にはちょっと広すぎる。だから、私はこの小さめの部屋を使うことを好む。
 まあ、現在は居間を使えない理由があるわけだけど。

「このような夜分にお目通りの許可をいただき、ありがたく思います。アルティリエ妃殿下」
「いえ」

 にこやかなシオン猊下は柔らかな笑みを見せる。
 やっぱり兄弟なんだなぁと思う。笑い方がそっくりだ。

(どっちかというと私的にはあんまりよくない意味で……)

 爽やかかつ完璧な王子様笑い……シオン猊下は今は聖職者だけど……は、どこか空虚な感じがする。
 でも、王太子殿下がそうであるように、対外的にはもうこの笑みがはり付いちゃってるんだと思う。
 だって、ナディに見せてもらったスクラップブックカードのシオン猊下はほとんどがこの表情していた。

「怖い思いはされませんでしたか?侍女からは、こんな時間まで眠れなかったと聞きましたが」
「……大丈夫です」

 私は目を伏せる。本当は心配しているのは殿下よりもリリアだ。
 でも、傍らにジュリアが控えているから下手に口に出すわけにもいかない。急に人払いなんてできないし……。

(そもそも、ここで人払いなんてしたらマズいから)

 12歳の私がそこまで意識するのもおかしいかもしれないけれど、この宮は王太子殿下の後宮になる。そこで、夫以外の男性と二人きりになりたいというのはちょっとどころかかなりマズいと思う。

「……兄上のことがご心配ですか?」

 私が口ごもったのを、猊下は別な意味にとったらしい。

「え、ええ……」
「兄上なら大丈夫ですよ。兄上は、負ける戦は決してなさらない」

 うん。殿下のことはそれほど心配していません。
 どう言ったらいいんだろう……わざとらしいけれど、ジュリアにお茶でもいれに言ってもらおうかなと思ってジュリアを見ると、ジュリアは何を誤解したのか私にうなづきを返し、笑みを浮かべて口を開いた。

「妃殿下は、王太子殿下がご心配のあまり、夜もあまり眠れないとか……。その為、殿下の戦勝を祈願なさりたいとおおせなのですわ、猊下」

(ちっが~う!)

 笑みを含んだその言葉に、一瞬、シオン猊下はぽかんとし、それから破顔した。

(それ、ちがうから!!)

 誤解だから!そこまで心配してないし、別に眠れなかったのはそのせいじゃないからね!
 口に出して言いたいけれど、言うわけにはいかないのがつらい。

「それは良いことですね。兄上もお喜びになることでしょう」
「聖堂への外出はご無理でしょうが、猊下が導師として祈願の儀式を行ってくだされば妃殿下もご安心なさると思うんです。……そうですよね?」
「う、うん……」

 ここでうなづくのは何かちょっと違うような……。いや、殿下のご無事を祈ることに不満があるわけじゃないんだよ。ただ、誤解されてるのが気になるだけで!

「勿論、おひきうけしましょう」
 
 シオン猊下は力強くうなづき、それから、ちょっと考えて言葉を続ける。

「ですが……せめて、西宮の聖堂に場所を移しましょうか。さすがにここは祈りの場には不釣合いです」
「でも……」

 ジュリアはためらっていた。
 王太子殿下の留守中に私がここから出ることは絶対禁止事項。それが基本ルールだ。しかも、今は判断を下すリリアがいない。
 他の者が言い出したなら即座に却下なのだけれど、それを口にしているのが、王太子殿下が留守の様子見を任せた実弟のシオン猊下だというところにジュリアのためらいの原因があるんだろう。

(……これは話がしたいというサインなのかしら?)

「こっそり行けば、大丈夫ですよ」

 シオン猊下はいたずらに誘うような表情で言う。思わずひきこまれてしまいそうな魅力的な表情に、ジュリアがちょっと頬を染めた。

「いかがです?妃殿下」

 柔らかな笑みを浮かべてるけど、目はあんまり笑ってない。

「……わかりました」

 迷うことはほとんどなかった。
 これが私と心置きなく話をするための提案なのか、あるいは、もっと違う別の目的なのかはわからない。

(だって、あまりにもタイミングが良すぎるもの……)

 世の中が、そんなに都合よくできていなことを33年+12年の人生を送っている私は知っている。

(でも、この申し出にのってみるしかない)

 現在の状況は手詰まりなのだから、どのみち他の選択肢はない。
 私が抜け出すことのマイナスとプラス……迷惑をかけるだろう人たちや他のいろいろなことが頭をよぎる。

(でも、優先順位の一番はリリアを助けること)

 気持ちの整理がついたわけではない。けれど、一番大事なことを間違えなければいい。
 そして、幾つかの可能性を頭に思い浮かべる。

(たぶん、どう転んでも私の目的は達成できるだろう)

 だったら、それでいい。
 こう言うのも何だけど、結構度胸のあるほうだ。
 決めるまでにいろいろと悩むこともあるけれど、一度、決めてしまえば、後は腹を括ってしまえる。
 親兄弟も親族もなく一人で生きるということは、幾つもの決断を自分だけで下す繰り返しだったのだ。
 ちょっと思い出すのがイヤになるようなこともやっぱりいくつかあったし、いろいろ鍛えられてもいる。
 多少の不測の事態はどうとでもできるはずだ。

「騎士の方には……」

 ジュリアが不安げな表情をみせた。

「申し上げないほうが良いでしょう。騒ぎになりかねませんし」
「でも……」

 シオン猊下は柔らかく笑って言う。

「妃殿下は風邪をひいて臥せっていることにもなっているし、ほんの1時間足らずのことだよ、ジュリア」

 言い聞かせるように名前を呼ぶとことかダメ押しだと思う。

(似てるなぁ……)

 いつだったか、私の目の前でアル殿下を丸めこんだ王太子殿下と
 シオン猊下と王太子殿下は雰囲気がよく似ている。
 でも、本当は顔立ち自体は、実はアル殿下と王太子殿下のほうがよく似ているのだ。
 アル殿下の性格が王太子殿下とはまったく違うのと、髪の色や瞳の色が違うのでそれに気づく人は少ないだろうけれど。

「……妃殿下?どうかされましたか?」

 私の視線に、シオン猊下が軽く首をかしげる。

「いいえ……何も」

 そう答えた私に笑みかけ、シオン猊下は更にジュリアに畳み掛ける。

「ジュリアが妃殿下の身代わりをつとめてくれれば、きっと大丈夫だから」
「身代わりだなんて……」
「たいしたことじゃない。妃殿下の服を着て寝室に戻って、代わりに寝ていればいいだけだから」
「でも……」

「ジュリア、お願いします」

 私も言葉を添えた。
 
 
「……妃殿下がそうおっしゃるのでしたら」

 不安げなジュリアに、私は大丈夫ですというようにうなづいてみせた。




 ****************************************

 2010.06.24 初出

 



[8528] 33
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2010/06/24 01:47

 夜の中、息を潜める。
 周囲に人の気配はなかった。

(なんか、不思議……)

 表面的にとはいえ、こんな風に独りになるのは、『私』として目覚めてから初めてかもしれない。エルゼヴェルトのお城での墜落事件以来、 皆、私を一人にすることをとても恐れていたから。

(どきどきしてる……)

 それが、王太子殿下との約束を破るせいなのか、それとも、別な予感からなのかちょっと自分でも判別がつかない。
 ぼんやりと空を眺める……二つの月が中空にかかっているのを見ても、今はもう特にどうとも思わなくなっている。最初は衝撃だったけど。

(慣れたってことなんだろうな……)

 吐く息が白かった。
 室内とはいえ、夜ともなればこの季節はかなり寒くて、私はマフラーを巻きなおす。
 薄い皮の手袋のおかげで指先は温かい。室内だけど、コートも着て完全防備だった。
 コートの下はジュリアのお仕着せで……そのほうが動きやすいし、もしもの時に都合が良かろうと借りてきた。
 ジュリアのお仕着せは私にはちょっと大きめだったけど、簡単に糸で留めてサイズを詰めてある。何箇所かささっと留めただけなのに、ほとんど不自由を感じない。

(ジュリア、器用だなぁ……)

 裁縫は特殊技能だし、中でも刺繍は、貴族の子女の教養の一つとされるくらい重要視されている。
 何たって手工業の世界だから、ドレスの装飾なんかも全部手作業だ。基本は刺繍で、あとはモールやレースや宝石なんかを縫い付けたりする。
 裁縫の技能をかわれて仕える専門の侍女もいるくらいで、その侍女の腕が女主人のおしゃれ度に直結してるといってもいい。
 私の場合、それがジュリアとアリスだった。
 とはいえ、私はそれほどそういった方面に関心がなかったのでいつもお任せで、これまで、彼女たちの技術を実感することがあまりなかった。今夜、思わぬことでそれを再確認したといってもいい。

(今度、いろいろ作ってもらってもいいかもしれない)

 もっと動きやすく、装飾のあまりないシンプルなドレスを作ってもらったら便利に違いない。
 


 こんこん、と小さくガラスがたたかれる。
 びくっと身体が震えた。心の準備をしていても、やっぱり驚く。

 静かにテラスの履き出し窓が開いた。

「……いらっしゃいますか?」

 押し殺した声は、シオン猊下。一度、宮から出て改めてこっそり戻ってきたのだ。
 これは内緒の外出だからして、それなりの偽装が必要になる。

「ここです」

 言葉少なくこたえた。
 窓のわきの壁に背中をつけて膝をかかえて座っていた私を、猊下は見下ろす。私はパタパタとコートの裾をはたきながら立ち上がった。

「……変わった、格好ですね」

 私を見て、少し考えたシオン猊下は、言葉を選んでそう言った。

「そうなんですか?このコートは殿下からもらったものなんですけど」

 私はコートの裾をつまんで、見回す。別におかしいところはないと思うけど……。
 まあ、強いて言うなら、このグレイのフードつきのコートは、私の持っているコートの中では一番簡素な品だ。
 あのお出かけの後に殿下からいただいたもので、特別に私サイズに仕立ててくれた物。軽いのに少しの水ならはじくし、風も防ぐし、裏にポケットがいっぱいあって便利。化学繊維のないこちらのことを考えるとすごーく機能性に優れているんだから!

「兄上……」

 シオン猊下はがっくりと肩を落とした。

「何かおかしいですか?」
「……そのコートが男性物なのは言うまでもありませんが、そのデザインは軍用の品なんです」

 騎士団の従僕用に採用されている品で、妃殿下のような方が身につけるものではないです、とため息混じりにつぶやく。

「かまいません。いつものふわふわコートでは気軽に動き回ることもできませんから」

 見た目は濃い目の灰色のてるてる坊主みたいな感じ。結構かわいいと思う。
 色が色なのであんまり目立たないし、シンプルなのがいい。
 デザインが軍用であっても別に問題ない。どうせ、コートの下は侍女のお仕着せ着てるくらいなんだから。

「妃殿下へのプレゼントはもっとロマンティックなものにしていただきたいと思うのですが……」

(殿下にロマンティック!!)

 思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
 夢見てるなぁ、シオン猊下。



「どうぞ」
「ありがとう」

 差し出された手に、そっと手を重ねる。
 さすが、元王子様。エスコートがとっても上手。

(あれ?)

 さっきまでは庭はまるで昼間のように明るくなるほどたくさんの人がいたはずなのに、今はもう誰も居ない。人払いでもしたんだろうか?
もっとこそっと行かなければいけないかと思っていたのに。

「どうかしましたか?」
「……騎士の人や護衛の人がいないので」
「ああ……今、ちょうど、調査の中間報告をやってるんですよ、裏のほうで」
「なるほど」

 抜け出すには絶好のタイミング、というわけだ。
 猊下にエスコートされて、暗闇の中でも、私はまったくつまづくことなく歩を進める。
 こういうのって初めてかもしれない。

(殿下は……ほとんど、私を歩かせないから……)

 殿下と外出したのは一回きりだったけれど、庭を散歩したりとかは何度かある……でも、あれを散歩と言って良いかはちょっと疑問だ。だって、私はほとんど歩いていないもの。
 基本、殿下は私をものすごーく小さな子供だと思ってる気がする。

 ……そんなことを思い出していたら自然に笑みがこぼれた。

「どうしました?」

 きっとシオン猊下にも私が笑みを浮かべているのがわかったんだろう。

「いえ……ちょっと思い出していました」

 誰のことを、と言わずとも猊下もすぐに合点する。

「そんなに兄上が心配ですか?」
「……いえ。本当はそういうわけでもないのです」

 戦勝祈願はただの言い訳にすぎないから。というと、ピタリと猊下の足が止まった。
 つんのめって、危なくぶつかりそうになる。

「では……なぜいらっしゃったのです?」

 平坦な声音。
 言葉に熱がこもるのを無理やり押さえつけているような、そんな印象を受ける。

「……猊下と内緒話がしたかったので」
「僕と?」
「はい」

 私はうなづいて、にっこりと笑いかけた。

「僕と何を話したかったのですか?」

 強張った声。
 『私』ではなく『僕』という一人称。猊下は、自分がそういっていることすら気づいていないのかもしれない。

「リリアのことを」

 息を呑む音が聞こえたような気がした。







 ****************************************

 2010.06.24 初出

 この続きは今週中に。

 



[8528] 34
Name: ひな◆ed97aead ID:7b8e0c5d
Date: 2013/09/16 09:32
 聖堂は常に光を絶やすことがない。
 聖堂で常に光を放っている『常夜灯』と呼ばれるランプは、一晩中、柔らかな光をともし続ける。
 どういう仕組みになっているかはわからないけれど、このランプは特にオイルを足したりすることなく、一晩中ついている。聖堂がその独占販売権を持つ照明器具で、聖堂における喜捨の約三分の一近くがこの常夜灯関連のものだと殿下から聞いたことがある。

 基本、聖堂は、窓が小さく光があまり差し込まないつくりになっている。
 だから、昼は薄暗いのだが、夜は逆に明るく感じられる。

(確か、照明効果とか計算してあるんだよね)

 たとえば天井の高さ、それから多用されている白や金、いささか過剰すぎると思えるほどのきらめく装飾……すべてが神の威光と荘厳とを形作る。
 正直、こんな時じゃなければ、いろいろ見て回りたい。
 祭壇の彫刻もすごいけど、天井や壁もすごいし、床だってモザイクでなにやら意味ありげな意匠が並んでいる。

「あまり知られていませんが、この西宮の聖堂も、アルセイ・ネイの作った建築物なんですよ」

 ご存知ですか?とシオン猊下が問う。

「……本宮だけではなく?」

 唐突な話題。シオン猊下は何かを迷っているようだった。その横顔に、あの笑みがない。
 だから、私も静かに言葉を紡ぐ。

「ええ。この聖堂は……当時は聖堂ではなく、離宮だったのですが……すべてがネイの作ったものではない為に、ネイの建築物であるという認識はされていません。具体的に言うと信徒席の前参列から祭壇にかけてのあちら側がネイの建築したもので、後はすべて後代のものです」
「へえ」

 純粋に感心した。床の模様は同じように見えるが、確かに多少色合いが違う。

「妃殿下はネイについて知識があるのですね」
「興味があったので少し調べましたし……猊下の代わりにネイのレポートを書いたリリアの講義も受けましたから」

(それだけじゃないけど)

 にっこりと笑って言うと、シオン猊下の顔が思いっきり引きつった。
 えーと、嫌味のつもりはなかったけど、もしかしたら、これは痛烈な皮肉になってるのかも。
 ……あんまりしゃべらない方がいいかもしれない。何かこう口の回りが良すぎる感じがする。
 こういう時って言わないでもいいこと言ってしまうんだよね。うん。自重しよう。
 軽い興奮状態にあるのか、眠気とかはほとんど感じていない。
 沈黙には慣れているので、私は特に居心地の悪さを感じることもなく、こっそり周囲を観察していた。こんな時になんだけど、どれだけ居ても飽きないかもしれない。

(すごいなぁ……)

 正面の祭壇のレリーフは、聖書の冒頭の天地開闢の部分を描いている。たぶん、こうやって信徒席に座ってみるのが一番いい角度にできてるんだと思う。よく見えるもの。
 もちろん、私の名前の由来となったシーンだってある。
 わりと夢中になって見ていたら、シオン猊下が口を開いた。

「………わかって、いらっしゃるんですね」

 陽気さも、押さえつけられた激情も、何もなかった。
 それは、問いかけではなく、ただの確認だった。
 ……立ち上がった猊下の表情は、影になっていてよくわからなかった。

(やっぱり)

 理解するより先に納得する自分がいた。

「……そういうわけでもなかったのですが」

 でも、私は最初からこの展開を予測していたように思う。
 そう。たぶん、シオン猊下が私との会見を求めたときから。

(そっか……)

 ふと、気づく。
 ざらついた違和感の正体が何だったか……何がそんなにもひっかかっていたかを。

「猊下は王太子殿下の信頼を裏切るようなことはなさらない。でも……リリアのためならば、誰が相手でも退かないだろうと思っていました。だからこそ、リリアのことをお話したかった……」

 シオン猊下にとってリリアは優先順位の一番だ。それは、これまでのいろいろなことから私には疑いようもなかった。
 そして、誰が相手でも猊下はリリアのことであれば退くことはない……そう思ったのは私だけではなかったということ。
 猊下は、リリアのことであれば、王太子殿下が相手であってすら退くことはないのだ。

「なぜ、リリアのことを?」

 私はコートのポケットからカフスを取り出す。

「これが、届きましたから」

 一つだけ……片方だけのカフス。
 なぜ、片方だけだったのか……それは、もう一方が別の人間の手に届けられていたからに他ならない。
 シオン猊下も、ポケットから同じように片方だけのカフスを取り出した。

「これがリリアのものであることは近しい人間ならわかるでしょう。……同じデザインであっても、他の子たちのものとは石の質がまったく違いますから」

 私の言葉にシオン猊下はうなづく。

「これが私に届けられた、ということはメッセージだと思いました……だから、少しでも早く猊下にお伝えしようと思ったのです」

 私には何もできることがなかったから、と口にする。

「……元は、イヤリングだったんです」

 猊下がぽつりとつぶやいた。

「リリアから聞きました。……いつも身につけておきたかったから、私の侍女になるときに作りかえたのだと」

 当然ながら、侍女は装身具をほとんど身につけない。宮中はドレスコードが厳格であり、侍女にふさわしいとされるものしか許されていないのだ。
 勿論、今の私の格好は論外。猊下が『変わった格好』と評したのは控えめな表現と言える。

「自分の決意と覚悟の象徴なのだと教えてくれました」
「……そんなことまで?」
「仲良しですから」

 きっぱりと言うと、シオン猊下が小さく笑った。

「そのようですね」

 空気が柔らかくほどける。
 こんな場合なのに、ちょっとだけ和んだ。

「正直、妬けます」
「いっぱい妬いてくださってかまいませんから」
「……すごく負けた気になるのは気のせいですか?」


 シオン猊下の言葉に、私はただ笑った。




 ゴーンと遠くで鈍い鐘の音が鳴る。
 川向こうの大学特別区にある時計台の鐘の音だ。

「……遅いですね」

 高い位置にある小さな窓を見上げて、私は言う。
 明ける気配はまだないが、夜のうちにすべて終わらせてしまいたいと思っていた。

「は?」

 猊下はものすごーく間の抜けた表情で私を見る。

「さっさと片付けて戻らないと、不在がバレてしまいますから、早く来て欲しいと思いまして」
「え、いや、でも……」
「たぶん、夜のうちに戻れば何とかごまかせると思うのです」

 何度も言うけど、大事にはしたくなかった。

「しかし……」
「あ、猊下は、必ずリリアを助けてくださいね。私は大丈夫です」
「アルティリエ姫……」

 『妃殿下』と頑なに呼び続けていたシオン猊下が、ちょっと間が抜けた表情をして、思わずといった感じで私の名を呼んだ。

「何ですか?」
「あの、僕を許してくれるんですか?」
「許すも何も、猊下、何かしましたっけ?」

 私は軽く首をかしげる。
 私は心底本気でそう思っていた。
 一応、形としては猊下が私を誘きだしたということになるのかもしれないけれど、実際のところ、ここに来たのは私の意志だった。
 ようは、シオン猊下の立場があちら側というだけで、あとは私の思い通りになりそうだったので、どうでもよかったとも言える。

「今はまだしてません。でも、姫をリリアと引き換えにしようとしています」
「ああ……別に問題ありません」
「いや、あるでしょう。普通に考えて」
「予測の範囲内です。大丈夫ですよ」

 猊下がマジマジと私の顔を見つめる。
 そんな風に見られても、実際まだ何もされてないし、憎むとかそういう気持ちもさっぱりわかなかった。
 そもそも、猊下自身、脅されて加担しているのだ。私に何か意趣があるわけではない。事情を考えれば、仕方のないことだと思う。

 最もそう思えるのは、私だからなのだとも言える。
 年齢どおりの子供でしかなかったら、きっと、どういうことかまったくわからず、裏切られた気分で絶望していたに違いない。

「……誰が来るかわかってますか?」
「何となく想像はしてますが、当たっているかはわかりません。……でも、私の想像通りなら、私が物理的に傷つけられることはないでしょう」
「……ええ、物理的には」

 猊下は、そこで初めて憎悪にも似た表情を閃かせた。
 昏い翳り……負の感情を感じさせる何か……でもそれは、ほんの一瞬だけのことだった。

「申し訳ありません」

 猊下が何について謝ったかわからず、私は首をかしげる。

「……僕はずっと知っていたのです。貴女がつらい目に遭っていたこと。それが誰の手によるかも」

 でも、それを告発することができなかった、と猊下は目を伏せる。

「昔の話は忘れました」
「姫……」
「覚えていないことを謝られても困ります」

 事実、覚えていない。
 一度、リセットしちゃってるから。

「しかし……」
「大丈夫ですよ、私はもう以前の私じゃありませんから」

 安心させるように笑ってみせる。
 そう。今の私は、何も言い返せない子供ではなく、傷つきやすい柔らかな心の少女でもない。

「それはわかります。ですが……」
「さっきも申し上げましたけれど、猊下はリリアを助けることだけ考えてください」
「……ここで貴女の身とリリアを引き換えにすることになっています」
「そう。良かった」

 私はほっと安堵のため息をもらす。それだけが心配だった。
 リリアが無事に帰ってくるのなら、私の目的は達成される。

(その後はちょっと大変だけど……)

 でも、大丈夫だと勝手に決め付ける。
 ちょっと出たとこ任せな感はあるけれど、きっと平気。
 それは半ば自分に言い聞かせているようなものだった。でも、今の私はそれだけで充分だった。

「妃殿下」
「はい」

 シオン猊下は、静かな衣ずれの音をさせて立ち上がると、優雅な動作で一礼し膝をついた。
 私はきょとんとした表情でそれを見ていた。
 目の高さがそれほど変わらないので、猊下の顔がよく見えた。
 ナディの言葉を借りれば、聖職者ではダントツ一番人気であるという猊下は、確かに美貌と呼ぶにふさわしい容姿の持ち主だった。どこか神経質そうなところもまた魅力なのだと聞いた。

(私は殿下の妃だから、別に猊下がどれだけ美貌でも関係ないけど!)

 その蒼の瞳がやや緊張を帯びて見えて、私は軽く首をかしげた。
 猊下はそっと私の右手をとり、それから、自身の額を軽く押し付けた。
 ちょっとだけ驚いた。
 それは、最高の敬意の証だ。
 大司教たる猊下は、国王陛下にだってこんな礼はしなくてもいい。

「猊下?」
「シオンとお呼び下さい、妃殿下」
「シオン猊下?」
「ただの、シオン、と」
「シオン、ですか?」
「はい」

 シオン猊下は、私の口からもたらされた響きに満足そうに笑う。

「本当はお名前で呼びたいところですけれど、兄上が怖いので止めて置きます。そうですね……妃殿下は兄上の妻ですから……僕は、義姉上とお呼びしますね」

 えっと……。
 何て言えばいいんだろう?
 もしや、これは懐かれたの?
 確かに義理の姉だけど……見た目12歳の私を「義姉上」と呼ぶ21歳の猊下って違和感あるような、ないような……。
そして、シオン猊下はまじめな表情で宣言した。

「こたびの一件は、義姉上がお戻りになったら、いかようにも償わせていただきます」

 その言葉には、確かな誠意がこめられていて、私は戸惑う。
 私には、償ってもらうようなことなどなかったから。

(えーと、これからちょっと面倒なことがあると思うけれど、ある意味、それは自分で選んだ結果のことだし)

 私は何も知らずに引き渡されるわけでなく、自身の意思で引き渡されるのだから、償うとかそういうのは何か違うような気がするのだ。

「……それよりも、リリアに怒られることを覚悟しといた方がいいですよ」

 リリアは絶対に怒るから!
 平手の一発や二発覚悟しといたほうがいいと思うの。

「それは、覚悟しています」
「あと、バレたら当然、殿下にも怒られますね」

 一緒に怒られてくださいね、と私が言うと、猊下は視線をさまよわせて言う。

「……僕は、兄上には、殺されるかもしれません」

 泣き笑いのような表情から、思わず目をそらす。
 うん。それに近いものはあるかもしれない。私は怒られるくらいで済むと思うんだけど。
 殿下は、あれで結構、激しい方だと思う。ふだん効きすぎるくらい効いている抑制の箍がはずれたらと考えるだけでちょっと恐ろしい。

「大丈夫です。そのときは、とりなしてあげます」
「本当に?」
「ええ」
「きっとですよ」

(とりなしきれなかったら、ごめんね)

 一応、心の中で謝ってみた。たぶん、私の心の中の声が聞こえなかったことは、シオン猊下には幸いなことだっただろう。

(猊下って、結構、ヘタレな性格なのかも……)

 でも、猊下はまだ二十歳そこそこだから仕方がないかもしれない。普段、堂々としているからそれほど意識しなかったけれど、あちらで言えばまだ大学生くらいだ。

「それに、とりあえず、バレなければ大丈夫ですから!」
「バレなければって……無理ですよ、今頃、フィル=リンあたりが貴女の不在に気づいてます」
「大丈夫。フィルの弱みは握ってます」
「……義姉上」

 シオン猊下の眼差しに信じられないとでも言いたげな色が混じる。
 え、フィルの弱みなんて簡単じゃないですか。
 
「でも、やっぱり、貴女を渡すのは……」

 落ち着きなく立ち上がった、シオン猊下の瞳が躊躇いの色を帯びる。

「この期に及んで迷わないで下さい……いいですか、優先順位を間違えたらダメです。一番大事なものを間違えないで。二兎を追うものは一兎も得ずなんですから」

 あ、今、ちょっとお説教口調混じったかも。義姉上とか呼ばれるから、つい。

「ニトヲオウモノハイットモエズ?」
「えーと、同時に2つのことをしようとして、どちらも成功せずだめになってしまうこと
です」
「……わかりました」

 おお、素直だ。育ちが良いってこういうところに出るよね。
 シオン猊下は、私をまっすぐに見てうなづく。それから、私の隣の席に座った。
 真新しいベンチは、柔らかなカーブを描いていてなかなか座りやすい。

「大丈夫です。私だって何も備えなしに行くわけではないのですから」

 猊下の眼差しに、私は小さくうなづいてみせる。

「申し訳ありません。貴女はこの国で一番安全が確保されなければいけない人なのに……」
「……大丈夫。エルゼヴェルトの推定相続人としての自覚はちゃんとありますから」

 それに、臆病な方だと思う。好奇心がないわけじゃないけれど。

「いえ、それだけではありません……すいません。それ以上はまだ僕の口からはお話できないので」

 詮索しないで下さい、とすまなそうに言う。

「いえ」

 それ以外に何があるのだろう?とちょっとだけ気になった。
 だって、ほら、自分のことだし。


 けれど、ギーッという嫌な音がして正面扉が開き始めたら、その疑問はすぐに頭の片隅に追いやられた。




********************

2010.06.27 初出

ちょこっと手直ししました。
ミスみつけてしまったので……。

次回は閑話。主人公の知ることのない今回の戦のあたりをちょこっと。





[8528] 閑話 王太子と女官見習いと婚約者
Name: ひな◆ed97aead ID:bff098dc
Date: 2013/09/26 20:50
 初めて見た時、その子は泣きながら庭に何かを埋めていた。
 まったくの無表情だったが、私にはその子が泣いているように見えた。
 その子がいなくなった後、こっそりそこに近づいてみた。
 掘り返された真新しい土……木で作られた粗末な十字架に小さなシロツメクサの花輪が飾られていた。

「……金糸雀よ」

 声に振り返った。黒のお仕着せに青いカフス……とても若く見えたけれど目の前のこの女性は正式な女官だった。

「姫さまが飼っていた金糸雀が死んだの」

(あれが、姫さま……)

 ああ、そうか、と思った。
 光をはじく黄金の髪……ダーディニアの黄金の薔薇と呼ばれたエフィニア王女と同じその髪を持つアルティリエ王太子妃殿下。
 彼女こそが、私の主となる方だった。





閑話 王太子殿下と女官見習いと婚約者





「あなたが、ミレディアナ=レナーテ=ドナ=アディラ?」
「はい」
「私は、リリアナ=エルリーナ=ラナ=ハートレー。王太子妃殿下付の女官です。あなたの上役になります」
「失礼しました。すいません、勝手に庭に出てしまって……」
「いいえ、かまわないわ。……先ほどのことは他言無用よ」
「え、あ、はい」

 ラナということは、この女性はれっきとした貴族の令嬢である。それも、宮中貴族ではない世襲貴族のご令嬢だ。
 ダーディニア貴族は、その成立の事情から世襲貴族と宮中貴族とに分けることができるが、世襲貴族の方が圧倒的に格が高い。というのは、世襲貴族は独立領主であるのに比べ、宮中貴族は王臣であるからだ。
 簡単な見分け方としては、領地に付随する爵位を持ちその領地の名が爵位名となっているのが世襲貴族。功績により王家から爵位と俸禄を与えられた者で姓を爵位名としている者が宮中貴族だ。
 そのどちらをも兼ねる人間もいるが、優先されるのは領地が付随する爵位であり、叙爵された年代が古い爵位である。
  
(まあ、王太子妃殿下付の女官なら当たり前か……)

 王族の傍近くに仕える侍女は、最低でも騎士爵以上の家柄の娘であることが条件である。
 かくいう私の家も準男爵だ。騎士爵よりやや高い身分を持つ家柄ではあるけれど、その実は、御料牧場……王室の所有する農園や牧場の管理人に過ぎない。
 だが、身分は高くなくとも御料牧場の管理人を務める家というのは裕福だ。
 職務の性質上、殊更私腹を肥やすようなことをしなくともさまざまな余禄があり、下手な伯爵家など及ばぬ財を誇る。
 だから、私の姉たちは全員15歳を前にして婚約が決まり、貴族女性の適齢期とされる20歳前後で早々に嫁いでいるし、私自身も北方に領土を持つ伯爵家の次男と婚約していた。
 私が王宮に侍女としてあがったのは、ある種の箔付けの為だった。貴族女性として、王宮で侍女勤めをしたことがあるということは、最高の花嫁教育を受けたとみなされる。
 格上の伯爵家に嫁ぐにあたり、私が引け目を感じないで済むようにと考えた父の心づくしであるといってもいい。

「隠しておいても仕方がないから先に言っておくけど、姫様の周囲では不穏な噂が絶えないわ。事実、いろいろなことが起こってもいる。でも、ここは王宮なのだから、多少のことは仕方がないと思って頂戴」
「多少って命の危険があったりもするんですか?」
「……それなりにね」

 さらりと言われた。

(お姉様もいろいろあったって言ってたっけ)

 5歳上の姉 アリーダは、16歳からの3年間を第二王妃殿下にお仕えした。後宮では文字通り、どろどろした女の争いの中に投げ込まれ、日夜いろいろと気苦労が絶えなかったらしい。

 だが、実際のところ、私が巻き込まれたのは女の争いなんていう生易しいものじゃなかった。
 別に女の争いをバカにするわけではない。時と場合によってはそれもかなり過酷なものではあることは承知している。
 でも……アルティリエ妃殿下の周囲にまとわりつく薄暗い……王家や大貴族の闇の部分のほうが私にはよほど恐ろしかったのだ。




□□□




「アヴィラ家のご息女?」
「はい。そうです。アルティリエ妃殿下の侍女を務めております」

 私は、居並ぶ鎧姿の騎士たちの前でしとやかに侍女ぶりっ子なしぐさで一礼してみせる。
 王宮生活もすでに4年目ともなれば、宮中作法もそれなりに身についていて、意識するまでもなく滑らかに身体が動く。
 それは、彼らにも十分に伝わったらしい。天幕内のどこかはりつめ空気がほんの少しだけ和らいだ。

「妃殿下の侍女が、なぜこのようなところに?」

 それは当然の質問だった。

「休暇をとって、婚約者の実家へなかなか進まない婚約破棄の話し合いをしに行く途中でした」
 
 私はあらかじめ用意しておいた答えを口にする。
 婚約破棄については確かにこじれていたが、実際のところは、妃殿下に依頼された調べものの為に退出する言い訳に使っただけだった。
 でも、たずねた騎士は少しぎょっとした表情をした。そりゃあそうだ。いきなり婚約破棄とか言われると驚くだろう。
 しかも私本人が直接相手の家を訪れるようとしているなんて、普通では考えられない。
 私も先方のおうちを訪ねるつもりはあったが、挨拶するだけのつもり。だって、すでに事態は私の手に負えない。

「親同士の間で話は決まっているのですが、ちょっと話し合いがこじれていまして……先方にお伺いする為に近道をしようと思っていたのです……」

 我が家は王宮の御料牧場の管理をしている。御料牧場はこの近くにもあって、うちの人間はこのあたりの地理に詳しい。勿論、地図に載っていない道にだって知っている。今回はそれが仇になった。

(軍がこの道を移動の為に使うなんて!!)

 普通、こんな間道は軍は通らない。
 確かに『道』ではある。概ね、全行程にわたり小型の馬車が通れるくらいの道幅はあるし、ところどころがかなり悪路にはなるものの、それなりに整備されている場所もある。
 だが、街道ではないのだ。
 街道ではない以上、途中で補給をしたり、休息したりはできないし、物資を運ぶ大型の馬車はもちろん通れない。
 だから、「軍はそんな道を行軍しない」と私は思い込んでいた。

 けれど、身軽な騎馬の隊だけで駆け抜けるのならば……物資だけ別ルートをとれば、それはまったく問題がないし、街道を通るよりもずっとはやい。
 よく見ていれば、彼らは10人程度を一隊として時間を少しづつずらして出発している。少人数の騎馬隊は、この間道を抜けた先のどこか……おそらくは、私たちが目指すトゥーラか、その先のエキドナ平原あたりで終結するのだろう。
 
(国境まで、一日は短縮できるわ)

 それに気づいたら背筋がぞわぞわっとした。
 すごい、と単純に思った。
 この道を使用する為に少人数の騎馬隊を編成したこともそうだけれど、知らない人からしてみればおそろしいほどの早さで我が軍が国境に到達したように感じるに違いない。
 そして、同時に、自分たちがすぐ解放されないだろうことが簡単に予測がついた。

(たぶん、軍事機密よね)

 普通だったら軍の行軍と一緒になったとしても咎められることはない。軍が通り終わるまで足止めをくうくらいで終わりだ。
 けれど、この間道のことといい、今現在の状況といい、拘束されるだろうことは間違いないような気がする。 
 それを思って私はため息をついた。
 何ていうか……うまくいかない時ってとことんツイていない気がする。



□□□




 そもそものはじまりは、先月のはじめ、お父様から来た手紙だった。
 その長い長い手紙は、要点だけを言うならば、『マーレ子爵がおまえとの婚約を破棄しないと言い張っている。説得して欲しいと伯爵はおっしゃっている』ということだった。
 マーレ子爵というのは、私が婚約していたアーサー=ルドヴィア=ディス=ラドヴィックのことだ。
 正直、うんざりした。

(だいたい、婚約破棄だってムシが良すぎると思うのよね)

 私とアーサーが婚約したとき、アーサーはティルヴィア伯爵家の次男だった。
 次男ということは、家を継がず分家をするということだ。伯爵家には、レイモンド様というれっきとしたお世継ぎがいらっしゃって、三ヶ月前までは彼がマーレ子爵だった。
 ティルヴィア伯爵家では、嫡子こそがマーレ子爵を名乗る。アーサーがそう名乗るようになったのは、レイモンド様がお母上の小間使いと駆け落ちして廃嫡されたためだった。
 次男で分家するから私と婚約していたのであり、伯爵家を継ぐ身となったアーサーと私とでは身分が釣り合わないと先方は考えた。
 そして、当然のように婚約破棄が申し入れられた。
 我が家はそれを婚約不履行で訴えることも出来たのだけれど、私が止めた。

(何もいいことないしね)

 元々、親同士の決めた婚約でそれほど思い入れがなかったこともあるし、准男爵の娘が未来の伯爵夫人の地位を望むのは分不相応であるというのも理解できる。
 何よりも、私には女官になる話があったから、私にまったく非がないということを明らかにしてくれるのなら婚約破棄しても良いと父に言ったのだ。
 結果、父は伯爵に恩を売る形で婚約破棄が成立した。
 私はそれで良いと思っていた。

(政略結婚なのに、反対されてムリを押し通して結婚するなんてごめんだもの)

 ところがだ。
 婚約のもう一方の当事者であるアーサーがそれを拒否したのだ。
 私としては、まったくその理由がわからなかった。
 あちらは北方騎士団に従騎士として入団し、私は王宮に侍女としてあがっている身の上であれば、年に一度も会う機会はない。
 これまで会ったことのあるすべてを足しても両手で余るほどの回数だ。
 そんな私との婚約を拒否する理由がわからなかった。

(特に何があるってわけでもなかったし……)

 私は、すぐに手紙を書いた。
 お父様と伯爵の間で決められたシナリオ通りに、私が妃殿下の女官になること。そして、女官になるからには中途半端なことはできないので婚約を破棄したいという手紙を。
 それに対するアーサーの返事は便箋にデカデカとたった一言。
『嫌だ』
 それを目にした私が、思わずそれを真っ二つに引き裂いたとしても誰もとがめないだろう。
 何が嫌なんだ、このクソガキ!
 思わずそう罵りそうになったが、口には出さなかった。そこで押し留まるのが淑女教育を受けた娘というものだ。

 そして、私がどれだけ手紙の上で言葉を尽くしても、アーサーからの手紙は『嫌だ』の一点張りだった。
 なので、私は説得を諦めた。そもそも、婚約破棄を言い出したのはあちらなのだし、私はできるだけのことはやった。
 後は親子間で話をつけてほしいと思った。

 そんな中、リリア様……そして、妃殿下に調査を頼まれた。
 『エルルーシアの足取りを追って欲しい』と。
 こじれている婚約問題を解決する、というのは退出の理由にはうってつけだった。

(……っていうか、言い訳くらいに使えなきゃ腹立つし)

 噂にはなるだろうが、私は女官になるのだから別に気にする必要もなかった。



 □□□



 エサルカルの国王一家が幽閉されたことは、旅の途上で聞いた。
 戦争が起こるのだと皆が口々に噂していて、王宮に比べるとあまりにも乏しい情報の中で、私はいろいろとやきもきした。
 まあ、私がやきもきしたところで何がどうなるわけでもなく、結局、命じられていた調査を続行させる以上のことは何一つできなかったのだけれど、せめて、少しでも早く仕事を片付けて王都に戻ろうとしていた矢先にこの始末だ。

(ついてない……) 

 ため息をついた私に、三十過ぎだろうか、やや険しい表情をした騎士が問う。

「ミレディアナ嬢、近道とはいえ、どうして地図にも出ていないこんな道を選んだのですか?」
「早いからです。地元の人間なら知っていますし……私の家は御料牧場の管理の家でございますので、管理している牧場間の流通経路については隅々まで知っているという自負がございます。急がなければならない時、あるいは、腕に自信があるか、馬術に自信があればこの道を選びますわ」

 この道は、裏道のわりにはそこそこ道幅があり、馬車も通れる。なのに、地図にも載らず、あまり利用者がいないのはこの先の一部が灰色狼の生息地である森を通る為と、水場がほとんどない為だ。

「女性がいるのに?」
「旅には慣れていますし、何度も利用していますから」

 私はにっこり笑う。多少誇張があるかもしれないが、利用したことがあるのは事実だ。
 対する騎士さんが私の笑顔に困ったように視線をそらした。しゃべり口調がぶっきらぼうなのは、女性と話すのに慣れていないせいかもしれない。

「しかし……」
「私たちもこんなところで行軍する部隊と遭うなんて思ってもおりませんでした。勿論、わかっていたら選びませんでした」

 急いで帰りたかっただけだもの。軍と鉢合わせするのなら、この道は選ばなかった。
 すでに出陣したとか、これから出陣なのだとか、いろいろな噂も聞いていたけれど、まさか既に出陣していて、更にはその出陣した部隊と遭遇するなんて誰が思うだろう。
 軍の移動ルートなどはもちろん軍事機密に類することになるから明らかにされるはずfがないのだけれど、この道はちょっと盲点だと思う。

(舗装されてないから、馬術に自信がないと難しいし……)

「私たちも驚いているんです。この道を軍が利用するなんて……」
「……軍にも地元の人間はいるものだ」

 背後から声がした。
 聞きなれたというには恐れ多い、だが、最近はよく聞いていた声。
私の尋問というか、質問にあたっていた騎士が立ち上がって敬礼する。
かまわなくて良い、というように王太子殿下は軽く手をあげそれを押しとどめた。

「殿下」

 びっくりして思わずぴょこんと立ち上がった。優雅でない動作に気づいて、ちょっと恥ずかしかった。
 そして、私は宮中でよくそうしているように王族に対する礼をとる。
左手を軽く握って胸の前に置き、右手でスカートの裾を軽くつまんで、足を引き、心からの敬意を込めて頭を下げるのだ。できうる限り動作が優雅に見えるよう心がけることを忘れない。
 この礼が優雅に美しくできるようになると、概ね、花嫁修業が終わったとみなされる。

「良い。このようなところでそなたの顔を見るとは思わなかった」

 ええ。私もです、殿下。
 頭の中をいろいろなことが駆け巡る……私が妃殿下のお望みでエルルーシアの調査をしていたことは、たとえバレバレだったとしても殿下には内緒にしなければいけない。

「お恥ずかしながら、私としても不本意な次第でして」

 妃殿下に依頼された調査については、実はそれほど手がかからずに終わった。
 王宮に入る前のエルルーシアの足取りを追うことはそう難しくなかったし、エルゼヴェルトでの調査報告書も既に王宮に送ってある。
 私が王都から離れたこんなはずれにいるのは、言い訳に使った以上、ティルヴィアの伯爵の屋敷にご挨拶に伺わなければならないからだ、そうしないと、後で調べられたりした時に言い訳ができない。

「不本意?我が妃の女官になることがか?」
「とんでもありません。妃殿下の女官になることは我が身の誉れ、我が家の名誉でありましょう。私はアルティリエ妃殿下に正式にお仕えできることを心から嬉しく思っております」

 殿下は私の回答に満足げにうなづいて下さる。

 私は、妃殿下の正式な女官になることが決まっている。
 現在は女官見習いという身分で、半年して試験に受かれば女官として採用される。
 女官の試験には実は武術という項目もあるのだが、私は実はそちらが得意だったりする。
 私の望みもあったのだが、おそらくリリア様の計らいなのだろう。私の願いを汲んだ形で、王家から我が家に対して女官になるかどうかの打診をして下さった。
 これは我が家としてもとても名誉なことだった。
 ただの侍女であるのならばともかく、妃殿下の正式な女官だ。男性の地位で言うならば、王子殿下の側近に望まれたようなものだ。
 ましてや、アルティリエ妃殿下は王太子殿下が即位の暁には間違いなく王妃となられる方であり、国母となられる方と定められてもいるのだ。その信頼を得、お側近くにお仕え出来るなど、貴族の娘として生まれてこれほど名誉なことはない。

「不本意なのは、妃殿下に心置きなくお仕えする為に婚約破棄をしたのですが、双方の家が納得しているのにご本人が承知してくれないのです」

(……ほんと、あの子、どういうつもりなのかしら)

 マーレ子爵 アーサー=ルドヴィアは、私より3つ年下の17歳。
 記憶にあるのは、彼が北方騎士団に入団する時の祝宴の時だから、もう3年前になる。
 柔らかな金の巻き毛に緑の瞳が綺麗な、無口がちでおとなしい子だった。
 覚えているのは3年前の彼であり、今ではきっとかなり大人びているに違いなかったが、私には成長した彼が想像できなかった。思い出すのはいつもどこか幼さが残る少年の横顔だ。

「婚約を破棄するのか?」
「はい。私は社交生活もそれほど好きではありませんし、そもそも家におさまっていることが苦手です。女性の嗜みである刺繍とか、音楽の素養もまったくなく、貴族女性としては落第に近いんです。……でも、妃殿下のお傍で仕えさせていただけるのでしたら、この私にもできることがあります」

 お祖父さまやお父様の手伝いでいろいろな公文書の下書きとかをしていたから……御料牧場は報告書が多い……書類仕事が苦にならない。それから、幼い頃から習っていた武道も、普通の貴族の子女としてはちょっと大きな声では言えない技能だが、傍仕えの女官ならば特技の一つとして認めてもらえる。

「そなたは、よくやっている」
「ありがとうごさいます」

 殿下の言葉に、私は恭しく礼をする。
 思いがけないお褒めの言葉に、ちょっとだけドキドキした。

(好みじゃないけど、褒められると嬉しいかも)

 王太子殿下は確かに素晴らしい美形なのだけれど、私の好みはどちらかというと第二王子殿下のようながっちりしたタイプの男性なのだ。
 クマみたいで可愛いと思うの、アルフレート殿下って。

「あまりにもこじれるようだったら言うが良い」
「ありがとうございます」

 私はその一言をとてもありがたく思う。
 殿下のお言葉であれば、アーサーも逆らえないだろう。

「……私もそろそろ行かねばならない。そなたはこのまま王宮に帰るが良い。供をつける」

 殿下のおかげでどうやらすぐに解放されるらしくて、私は安堵した。

「いえ、殿下のお手を煩わすわけには……」
「礼には及ばぬ。単なる護衛というだけではない。そなたがまっすぐ王宮へ戻る監視も込みだ」
「は?」
「あれの傍らに人が少ないのは心配なことだからな」
「……………」

(か、過保護だわ……)

 薄々わかっていたことではあった。
 たぶん、王太子殿下はもうかつてのように『誰にも』『等しく』『優しく』なんて接することはできないだろう。

(だって、特別な人ができてしまったもの)

 ただ一人だけの特別な存在------------アルティリエ妃殿下。
 それは素敵なことだと思う。

「それと、ここで私と会った事は他言無用だ」
「……軍事機密、ですか?」
「そうだな」

 殿下は小さく笑みを浮かべる。殿下にとっては、機密というほどたいしたものではないのかもしれない。

「……妃殿下にもですか?」
「そなたが王宮に着く頃には、我らがここに居た事などもうどうでもよくなっている。あれに話す分には別にかまわない」
「良かった」

 妃殿下に、殿下がご無事な様子をお話したらきっと喜ばれるだろう。

「気をつけて戻るが良い」
「……はい。お心遣いありがとうございます」

 私は出来うる限り優雅に腰を折り、礼をする。
 殿下は軽くうなづいて天幕を出て行った。

(あれ?私、このまま帰ったらまずくない?)

 退出の理由に使ったのだから、伯爵家に挨拶に行く予定だったのに。

(バレバレだってことかな……)

 苦笑した。
 王太子殿下は、知らないことがないんじゃないかと思うくらいあらゆる事柄に精通している。
 そして、おそらくは私の事情もご存知なのに違いない。
 私は馬車へと足を向ける。

「どうしたの?」

 御者のハインツが困ったような顔をしている。

「あ、お嬢様。いえ、あの……」

 困惑の原因はすぐにわかった。

「……ミレディアナ嬢」

 馬を連れて現れた青年が、どこか親しげに私の名を呼ぶ。
 でも、私にはまったく覚えがなかった。
 王太子妃宮に出入りできる男性は決まっているし、妃殿下の近衛の方々でもない。

「……どちらさまですか?」

 私より頭一つ分以上高い身長。すらっと……というよりは、ひょろっと感じられる細い身体……その、その金の巻き毛に既視感を覚えた。

(……何か記憶をかすった気がするわ)

「……僕です」
「僕?」
「……アーサーです」
「は?」

 私は、ぱかっと口を開けたまま青年をもう一度よく見た。
 身につけているのは濃紺の北方騎士団の従騎士の制服。手も足もすんなり長く、こう言っては何だがなかなかうまく成長していた。
 父である伯爵はずんぐりむっくりなのにかなり身長が高いのは、きっと母である伯爵夫人の血だろう。女性にしては背の高い伯爵夫人は、女性の平均身長よりやや高い私よりも長身なのだ。

「アーサー?アーサーってティルヴィア伯爵家のアーサー?」
「ええ、そうです」

 柔らかく微笑む表情に、どきっとした。
 おとなしい恥ずかしがりやの少年は、いつの間にか見上げるほどに成長していて、まったく別の……男の人になっていた。

(北方騎士団も動員されているのか……)

 現実逃避気味に、頭の中では全然別なことを考える。
 エサルカルとの国境は西部から北部にかけてだ。北方騎士団が動員されていてもおかしくはない。ないのだけれど、どうしてここに……と思ってしまうのは当然のことだろう。

「ほんとのほんとに?」
「ええ。正真正銘本物のあなたの婚約者です」
「えーと……」

 婚約破棄したと思うんですけど。

「まだ婚約証書は破棄されていませんから。……よって、婚約破棄も成立していませんから!」

 私の心の声が聞こえたかのように、アーサーはきっぱりと言った。

「いや、それはそうなんだけど……」

 確かに書類上とか公的には『まだ』だけど、互いの家の家長が承知しているんだから成立したも同然だと思うんだけど。
 アーサーが重ねて口を開こうとしたところに、おそらくはアーサーの騎士である人から声がかかる。

「おい、アーサー、ここで話すのも何だ。どうせ王宮まで時間はたっぷりあるんだ。後にしろ。出発するぞ」
「はい」

 アーサーはその言葉に表情をひきしめてうなづいた。

(いい表情するなぁ……もうあの子だなんて呼べないわね)

 そして姿勢を正し、ほれぼれするようなビシッとした敬礼をしてみせる。
 ちょっとだけ私は見惚れた。……あくまでも、ほんのちょっとだけ。

「ドナ・ミレディアナ……王太子殿下の命により、王宮までお送りさせていただきます」
「…………はい」

 王太子殿下の命に他の返事ができるはずがない。

(……なんか、してやられた気分だわ……)

 確かに礼には及ばぬ、とおっしゃるわけだった。
 考えようによってはこうして当人と直接顔をあわせて自分たちで話をしたほうが話が早いような気がするが、もはやその段階は通り過ぎているという気もする。

「ミレディアナ嬢、参りましょうか」

 アーサーがにっこりと笑って、エスコートの為に手を差し伸べてくれる。

「……………ありがとう」

 笑うとどこか幼げで、わたしの記憶の中にある少年と一致した。
 正直、どう接していいか悩む。
 いきなり成長して現れたのも驚きだけど、事情もなかなか複雑なわけだし……。

「どうかしましたか?」
「いえ……」

(早く戻りたかっただけなのに……)
 
 王宮までの道のりが、果てしなく遠いもののように思えた。





 **************************
 2010.12.19 初出


 気がつくとあっという間に4ヶ月も経っていました。
 正直、詰まってましたが何とか終了。
 次回、本編に戻ります。
 のんびり更新ですが、どうぞお付き合いください。



[8528] 35
Name: ひな◆ed97aead ID:bff098dc
Date: 2013/09/26 20:53
 急に射し込んだ光がまぶしく、思わず目を細める。
 柔らかなシルエット……逆光で誰とはわからなくとも、女性だと確信した。

「……随分と奇妙な服装だこと」

 冷んやりとした夜の空気に平坦な声音が響く。
 いつもとはまったく違う、抑揚のほとんどない声。
 でも、その声の主を、私はもちろん知っていた。

「……王妃殿下……」

 隣のシオン猊下が息を呑む。

 王妃殿下はどこか無表情なままに、後ろ手でドアを閉める。
 ぎぃっと鈍い音を立てて、また静寂と闇の世界が戻ってきた。
 闇といっても、祭壇の常夜灯があるから、まったくの闇というわけではない。けれど、扉の向こう……一定間隔で煌々と光が灯されている宮殿の廊下に比べると、やはりここは暗い。

(でも、心地よい暗さだ)

 こちらの世界で、私は始めて暗さにもいろいろ種類があることを知った。

「母上……」

 猊下は険しい表情で、王妃殿下を睨みつけている。

(険しいっていうか……)

 まるで敵に遭遇したかのような敵意にも似た眼差し……実母に向ける表情として、いささかふさわしくないもののように思える。

(たぶん、猊下はご存知だったんだわ……)

 自身の母が、関わっていること。
 そして、もしかしたら、こうしてここに王妃殿下が来ることさえも予想していたのかもしれない。

「まあ、私も人のことは言えないわね」

 王妃殿下は薄化粧こそしてはいたが髪はおろしていたし、ガシュークと呼ばれる雪豹のコートの下にちらりと見えた薄物はもしかしたら夜着なのかもしれない。
 相手が身内とはいえ、こんな格好で人前に出るなんて貴婦人としてはあるまじきことだろうし、一分の隙もないいつもの様子からは考えられないことだった。
 とはいえ、そんなことは瑣末なことだ。

「お一人でいらしてのですか?」

 驚きは勿論ある。
 でも、ある意味、私にとっても予測の範囲内だった。
 王妃殿下が関わっていることは絶対なのだから、別にここに来るのが殿下でもおかしくはない。

(お一人、というのは予想外だったけれど……)

「こんな時間に王妃が後宮の外に出るなんてことになったら大騒ぎなのよ。一人でこっそり来るしかないじゃない」

 確かにそうだ、と思う。
 後宮……本宮の王族の私的生活空間部分を総称してそう呼んでいる。本宮の公的なスペースをかつては前宮とか表宮と呼び、それに対して後ろに位置するということでそう呼ばれていた。今は後ろにあるかというとやや微妙な部分もあるのだが、そもそもは場所を示しているだけの呼称にすぎない……から、王族女性が出るには、煩雑な手続きが必要なのだ。
 それらをしている時間はなかっただろうし、そもそも、これは知られたくない類のこと。

「護衛もお連れにならなかったのですか?」

 妃殿下は、護衛もお供の侍女すら連れていなかった。
 こっそり来るにしても、それにはちょっと驚いた。

「貴女が一人のようにね」
「別に一人ではありません」
「……シオンはあなたを守る役には立たないわよ」

 上の子たちとは違って、武術にはまったく才能がないのよ、と王妃殿下は皮肉げに笑った。
 シオン猊下はそれについては何の感情も示さなかったが、その眼差しの険しさは変わらない。
 身内ならではの根深い何かがあるのだろう、と思う。

(私にはあんまりわからないことだけど……)

 想像はできても、理解はできない。
 そこまでの強い感情を抱くような何かは私にはなかったし、それ以前に、もう私には近しい肉親というものが存在していない。

(ああ、私は、どちらにせよ肉親との縁が薄いんだわ……)

 麻耶はとっくに両親と死別していたし、アルティリエは出生時に母を亡くし、父は存在はしていてもあまり認識していないので、そこに何らかの感情が生まれる余地がない。
 妙な共通点を発見したなと思いつつ、妃殿下に告げる。

「シオン猊下に守ってもらわなくても大丈夫です。私、逃げ足速いですから」
「おもしろいことを言うのね」

 王妃殿下は、まるで珍しい生き物でも見るかのような眼差しで私を頭の上から足の先までじっくりと眺める。
 それは値踏みの視線だった。女が、ライバルの女を見定めるときのような。

「……本当に記憶をなくしてしまったのね、ティーエ」

 その声にいつものようなねっとりとした甘い響きはない。
 ただ、名を呼ばれた時は、少しだけ嫌な感じがした。
 私は、ティーエと呼ばれることにとっても嫌悪感がある。

(たぶん、それは……)

 そう呼ぶ相手に対する、私が忘れてしまった記憶に関わっているのだろう。
 頭で覚えていなくても、身体が反応している……たぶん、そういう類のこと。

「……幸か不幸かはわかりませんが」

 周囲の人達は、今の私を受け入れてくれている。
 そのことは勿論嬉しいし、幸せなことだと思う。
 けれども、私がここにいるのは、記憶と共に幼いアルティリエが失われたからで、手放しで幸せだと言えることでもない。
 私はそのことを決して忘れない。

「……幸い、なのでしょう。王太子にとっては」

 王妃殿下はそっと目を伏せた。
 愁いを含んだ横顔はとても綺麗で、なるほど未だに国王陛下の寵愛が衰えないと言われているのがわかるような気がする。

「……リリアをお返し下さい、王妃殿下」

 静寂の中に、私のさほど大きいとは言えぬ声が響く。
 王妃殿下は、リリアの行方を知らぬとも、自分は関係ないとも言わなかった。
 無言の肯定。
 ……リリアが帰ってこないことに自分が関わっているのだと。

 だから、私はもう一度繰り返す。

「リリアを返してください」

 声を荒げることなく、まっすぐと見上げて。
 王妃殿下のその瞳は、虚ろだった。
 そして、軽く首を横に振り、私達に告げた。

「彼女は……今頃は、もう西宮に戻っていることでしょう」

 ほっとシオン猊下が息を吐いた。私も小さく安堵のため息をつく。

「無事、なのですね」
「……何もしていませんし、させてもいません」

 疲れたような声音。
 私と猊下は顔を見合わせて、互いにその事実を喜ぶ。
 そして私は、リリアの元に駆けつけたいと思いつつも、躊躇ってる猊下の背をそっと押した。

「義姉上……」

 行きなさい、というようにうなづいてみせる。
 シオン猊下は心配そうな表情をしながらも、でもうなづいて駆け出した。





「大丈夫よ。リリアは自分の足で戻ったわ……といっても、聞いていないわね、あの子」

 王妃殿下の口調がまるで母親のようで変だと思い、変だと思うこと自体がおかしいのだと気付く。

(だって、真実、殿下はシオン猊下の母親なのに)

 けれど、どれほど母のようであろうとも、目の前のこの人は真実の意味で『母親』ではないのだと思う。
 それほど多くの時を過ごしたわけではないけれど、そう感じた。
 
 ふと、私を凝視する殿下に気付く。

「……?」
「ねえ、なんで、あなたはここに来たの?ティーエ」

 いつものあの慈愛の笑みを浮かべていないユーリア殿下は、私などよりよほど人形めいて見える。

「リリアを取り戻すためです」
「たかが女官一人のために?}

 ユーリア妃殿下は、唇の端を歪めた。

「たかが、ではありません」

 私にとって、リリアはたかが女官なんかではない。

「あら、貴女、あの子を信じているの?だとしたらとっても驚きだわ。あなたの周囲で起こったいくつかはあの子が起したことよ。あなたの侍女を殺したのも、リリアかもしれない」
「それは、ありません」
「あら、なぜそんなことが言えるの?記憶もないくせに」
 挑むような表情で、妃殿下は言った。
 私は首を横に振る。

「……確かに、私の周囲でおきたことのいくつかに、リリアは関わっているかもしれません。でも、それとこれとは別です」

 リリアはあまりにも有能すぎ、あまりにも知りすぎている。
 でも、同時に、リリアが私に対して誠実であることを私は知っているのだ。
 私には言わないことがあるし、言えないことだって勿論あるだろう。だからといって、それは私が彼女を信じない理由にはならない。
 ぼんやりとしかわからないけれど、たぶん、リリアは何かを探していて……その為に、隠したり、言わなかったりすることがあるのだ。
 
「随分な信頼ね」

 リリアを信じているのは確かだ。でも、エルルーシアに関しては、リリアが関わってないだろうことを私は知っている。
 私は、深呼吸を一つする。

(正念場だ……)

「王妃殿下は、私の死んだ侍女の名前をご存知ですね?」
「……そうね。だって、私はあなたの母代わりですもの」

 それだけじゃない。

「エルルーシアがナディル殿下付の武官の娘だったから、私は、その縁で彼女が私の侍女になったと思っていました。確かにそれは間違っていません。彼女の父親はナディル殿下の武官ですし、その口利きがあったことも事実です」

 それがどうしたの?というように、妃殿下の視線は話の先をうながす。

「でも、母親はかつてあなたの女官だったのです」

 妃殿下はうっすらと笑みを浮かべた。

「ええ、そうよ」

 あっさりと彼女はそれを肯定する。
 だから、私は先を続けた。

「表面上、彼女は父の縁を辿ってこの西宮に勤めたことになっています。けれども、本当はそれ以前に母の縁で王宮にあがっていたのです……そして、この西宮に勤めた。あなたの命令で」
「それが何か問題かしら?」

 穏やかな表情。なのに、それが怖い。

「エルルーシアは、あなたの命令でいろいろなことをしたようですね」
「……証拠があって?」
「妃殿下、そう問いかけるのは、暗にそれが事実なのだとおっしゃっているのと同じことです」

 私は、わずかに微笑んでみせる。頬が引き攣らないように、できるだけ余裕に見えるように。
 本当は怖いのだ。でも、ここで退くわけにはいかない。

(だって、これは私の戦だから)

 私は剣を手にとることはできない。
 そういった能力もなければ、心構えもないし、覚悟だってない。
 でも、今、この場から逃げようとは思わない。

「ねえ、エルルーシアが死んだのは、あなたを守る為にリリアが殺したとは思わないの?あの子だったら、それくらいはやってよ?」

 あの子は、生粋の後宮育ちなのだから、と笑う。

「同じことを何度おっしゃっても無意味ですよ。何度言われても、私の答えは変わらないです」

 動揺を誘っているのか、あるいは別の意図があるのか。

「もしも、私の為にリリアがそれをしたとするのなら、それは主である私が負うべきことでしょう。でも、リリアではありません」
「そうまではっきりと言い切れる証拠が?」
「……証拠がそんなにも必要ですか?」

 残念なことに、明確な証拠というのはそれほど多くはない。
 そして、私がどんなに頑張ったところで、物的証拠というのはほとんど見つけられなかった。
 あるのは、状況証拠とそれを元にして組み立てた、穴だらけの推理。

「あら、あなたは証拠もないのに人を糾弾するの?」
「私は糾弾なんてしていませんし、するつもりもありません」

 そう。これは糾弾などではない。糾弾できるほどの何かを私は持たない。

「ただ、確認してるだけです。……わたしは、知りたいだけですから」
「何を?」
「……『私』がなぜここにいるかを」

 私がそう言った本当の意味は王妃殿下にはわからなかっただろう。

 アルティリエであり、和泉麻耶でもあった『私』。
 『私』という意識がどういうものなのか、定義することはたぶん誰にもできない。
 私は、麻耶の生まれ変わりがアルティリエで、アルティリエという意識が殺された為にその過去世である麻耶の記憶が蘇ったと考えているけど、それが真実かは誰にもわからないことだ。
 でも、幼いアルティリエの意識が失われた為に『私』がここに存在していることは事実だ。
 だからこそ、知りたい。

「本当は、犯人を捕まえたかった。捕まえて裁判を受けさせたかった。……でも……それが不可能なことがわかりました。だって、この国には貴族を裁く法は存在していても、王族を裁く法は存在していない」
「ええ、そうよ」

 妃殿下は驚いた表情をし、そしてどこか苦味を帯びた表情で笑った。

「だから、私はただ知りたいのです」
「知ってどうなるものでもないのに?」
「知れば、同じ過ちを繰り返さぬよう努力することができます」
「奇麗事ね」
「……だから、努力と言っています」

 私は笑ってみせる。
 同じ過ちを繰り返さないと言い切ることはできないのだ。それはどうにもならないことかもしれないから。誰が悪いわけでもなく、どうしようもないことも世の中にはあるのだと今の私は知っている。
 けれど、知らないより知っていたほうが、避けられる確率も高い。
 妃殿下は、驚きの表情で私をしげしげと見る。

「ティーエ、あなた……いったい……」

 私はもう、嫌ということも非難することもできず、自分の心を閉ざし、声をなくしてしまった幼い子供ではない。
 私は答える代わりに、話しはじめる。

「……エルルーシアの実家は北部にあり、エルゼヴェルドの城で私を毒殺しようとした犯人にされた人もまた、北部の生まれでした」

 北部……今、戦場になろうとしている……あるいは、なっている地域。

「事件というのは、だいたい、過去の幾つかの出来事の織り成す結果で……だから、どうすればエルルーシアが死ななくて済んだかはわかりません。エルルーシアが死んだことを聞いたその時、私はかっとなって怒りを覚え、自己嫌悪を覚え、そして、その感情の赴くままに走り出しましたが、実際にはとても的外れでした……」

 でも、それでこうやって現在につながっているのですから無駄とは思いませんけれど、と私は付け加える。

「エルルーシアはある事件では加害者であり……そして、あの毒殺事件では被害者となりました。遠因となる出来事はいくつもあって、複雑に入り組んでいて……正直、そのすべてをわかったわけではありません」

 たぶん、すべてを解明することはできない。
 中心となる出来事はいくつかわかっているけれど、それらが元となり波紋が広がるように連鎖した出来事がたくさんあるのだ。当事者にだってわかっていないことがたくさんあるだろう。

「でも、結局はたった一つの出来事が元になっているのです」

 私は小さな吐息を漏らす。
 妃殿下は、どう判断してよいかを迷うといった表情で私を見ていた。

「……でも、だからこそ、私にはあなたの動機がわかりません」
「私の動機?」

 私が問うた意味を咀嚼しながら、妃殿下がおうむ返しに言葉を返す。
 私はまっすぐとその瞳を見て問う。

「……あなたはなぜこの国を壊そうとし……そして、また守ろうとするのですか?」

 二律背反。
 それは、ほとんどすべての事件にあてはまる。

 私の問いに、妃殿下の顔から完全に表情が消えた。


 *******************

 2011.06.12

 今回はクライマックスへの前フリ。

 いろんな場所でご心配をおかけしていましたが、無事です。
 報告兼ねて、ちょっと短いですが更新させていただきました。
 掲示板は後ほどゆっくりと。



[8528] 36
Name: ひな◆ed97aead ID:bff098dc
Date: 2013/09/16 08:47
「……ティーエ、あなたは自分のことについてどのくらい知っているのかしら」
「私のこと、ですか?」

 突然、自分のことをたずねられて驚いた。

「ええ、そうよ」
「記憶がありませんからそれほど多くは知らないですが……母が、陛下の異母妹で、父はエルゼヴェルト公爵だということくらいしか……」

 あと、言うまでもないけれど、夫がナディル殿下だということ。

「じゃあ、あなたのお母様のことは?」
「前の国王陛下であるラグラス3世陛下と第四王妃エレアノール殿下との間に生まれた陛下の末の異母妹だと聞きました……あと、ナディル殿下がお転婆なところのある人だったと……」
「王太子が?」
「はい。いろいろなことを話して下さいました」

 殿下の話の中の母の姿は、活発な少女だった。
 音楽が好きで、動物が好きで、遠乗りがとても好きだった、と。
 私は侍女たちの噂話の中の悲劇の主人公である母よりも、殿下の話してくださった母の話のほうが好きだった。ナディル殿下の記憶の中に、ちゃんと彼女は生きていたから。

「あなたは、エルフィナ姫に生き写しというほどに似ています。そして、エルフィナ姫の母であったエレアノール妃にも」
「エレアノール王妃……」

 名前だけは何度も聞いた。この国で絶世の美女と言ったらまず前の第四王妃エレアノール殿下の名があがるという。
 ダーディニアの北西部と接したリーフィッドという細工物で有名な小国の公女だった女性で、私の母を生んですぐに亡くなっている。

(けれど、その実像は曖昧だ)

 美貌で知られ、先王陛下の寵愛を一心に受け、リーフィッドという小国の公女でありながら、これまでこの国で他国の者がなった前例のない正妃になった。
 婚姻外交をほとんどしないダーディニア王室においてこれは類をみない珍しい出来事であり、ある意味、この方がいたからこそユーリア妃殿下と陛下の結婚は許されたのだと誰もが言う。

「私の娘、アリエノールは、エレアノール王妃からお名前をいただきました。つけたのは陛下です」

 無表情の仮面をつけた妃殿下が言う。
 頭の中で、その言葉の裏を考えてみる。
 エレアノールのダーディニア読みが、『アリエノール』。
 王族の姫に美貌で知られた王妃の名をあやかってつけるのは、別に珍しいことではない。そして、父親が名づけるのももちろん普通。
 けれど、妃殿下がわざわざこんな風におっしゃるということは、普通じゃない意味があるということなのだろうか。
 もしそこにあえて何かがあると仮定するのであれば、そこに陛下が何らかの思い入れを持っていたということなのではないだろうか?

「陛下は、エレアノール王妃をずっと愛しておられます」

 その言葉にはまったく感情が含まれていなかったけれど、王妃殿下は、わずかに視線を揺らした。
 それが、何よりも彼女の心のうちを表しているように思えた。
 予測はしていたけれど、私は何と言っていいかわからなかった。
 陛下にとってエレアノール王妃は父王の妃であり義理の母であるはずだ。
 まあ、心の中でいくら愛していても構わないけれど、ユーリア妃殿下がご存知ということは有名な話なんだろうか?
 私はたぶん噂に疎いほうだからアレだけど、でも、初めて聞いた話だ。

(敬愛とかっていうニュアンスじゃないよね、妃殿下のこの口ぶりでは)

 義理の母子といえど、たぶん、たいした年の差はないはずだ。
 だって、その子供同士である私の母とナディル殿下もほとんど年齢が違わないのだから。

「エレアノール王妃の祖国リーフィッドと私の祖国ダーハルは同じくらいの国土を持つ、同じ様に小さな国でした。隣国同士であったこともあり、古くから通婚を繰り返していました。どちらの国も国主たる大公の配偶者は互いの国から迎えるのが通例となっていました。……それがどういう意味かわかりますか?」

 私は素直に首を横に振った。
 二つの国の公家がどちらも何代にも渡って血を重ねてきた意味、と言われてもピンとこない。

「両大公家はとても縁が深く、どちらかの公家がその血を絶やしてしまった時は、もう一方の公家から世継ぎを迎えるという密約があったほどの血の濃さを持つということです。……私の母とエレアノール様の父君は姉弟でした」

 私は、妃殿下の次の言葉を静かに待つ。
 まるで凪いだ海のような静かな空間だった。
 どこか厳かな空気の漂う中で、私は深呼吸を一回して、そっとコートの上から胸元を押さえた。
 カサリと小さな紙の音がした。それだけで不思議なくらい心が落ち着いた。
 そして、ユーリア妃殿下はまったく別の問いを口にした。

「ティーエ、あなたは、私の祖国のことを知っていて?」

 声に、わずかに甘さがにじむ。
 それが望郷の想いなのか、故郷への愛情なのか私にはわからない。

「……私が生まれる前に、帝国の侵攻を受け、併合されたと聞いています」

 妃殿下は遠い眼差しで宙をみつめ、そして誇らしげに私に言った。

「ええ、そうよ。山間の小さな小さな国だった……私は、その小さな国の、ダーハルの世継ぎ姫でした」

 『ダーハル』というその名を、王妃殿下は大切そうに口にする。

「私にはまだ幼い妹が二人居て……私は長女だった」

 呟く王妃殿下の心はこの場にはなく、不思議と安らぐ暗闇の中、向かい合った私達はこうして向かい合っていながらお互いのことを見ていなかった。
 王妃殿下は、殿下の記憶の中にある懐かしい祖国へと心をとばし、私は殿下の姿をぼんやりみながら、ナディル殿下のことを想った。

(ナディル殿下は、きっと、このことも最初からご存知だっただろう……)

 妃殿下のことを。そして、それ以上のことも。

(殿下は何でもご存知だから)

 私はたぶん、殿下の手の平の上でじたばたしているだけなんだろうなと思う。ちょっとムカッとすることもあるんだけど、それ以上に、じくりと胸が痛んだ。

「父には男児がなく……でも、父は側室はとらなかった……母を愛していたからです。だから、長女である私はいずれ婿をとり、女公となることが決まっていました。その為に、幼い頃から教育も受けていたのですよ」

 妃殿下はひっそりと笑みをこぼす。それは見たことのないような笑みで……そのほうがずっと美しいと思った。いつものあの笑みは、どこか怖いものを孕んでいる気がする。

「私は、自分が女公となり、ダーハルをを守るのだと思っていました。その未来を疑ったことなどありませんでした」

 かつて、まだ陛下が第五王子殿下であった時代、家令は妃殿下にすべてのお伺いをたてていたのだと聞いた。
 私はそれを聞いて不思議に思った。
 その噂を教えてくれたリリアやフィル・リンは、陛下がまったく政治や表向きのことに興味がないということの例として教えてくれたんだけど、じゃあ、妃殿下は何でそういった判断が……ううん、決断ができるのかって。

 私にも王太子妃としての所領というものがある。
 けれど、私は何もできていない。
 本当は自分の所領のことくらい、自分で何とかしようと思ったのだ。
 真実幼かったアルティリエと違って、私は十年以上社会人経験のある大人なんだから、頑張れば何とかなるんじゃないかなって。

 でも、間違ってた。

 最初、私は、領地を経営するということは会社の経営のようなものと思っていた。領主は社長で、領民が社員。
 でもね、これ全然違うの。似ているようでまったく違う。
極論だけど、わかりやすく言ってしまえば、社長が責任を持つのは社員のお給料で、領主が責任を持つのは領民の生活だということ。
 生活……それは、よりよく生きるということ、その全て。

 お給料は生活の糧ではあるけれど、その全てではない。
 つまり、それだけ責任が重いということ。
 領主の決断一つ、命令一つで、民は生き、あるいは、死ぬ。
 この世界では、それが当たり前で普通のことだった。

 そして、私にはそんな重大な決断はできなかった。
 自分の決めたことで、誰かが死んだり、あるいは酷い目にあったりしたら……それでもそれが間違っていなかったと、一番良い道だったのだと胸をはって言えるほどの覚悟は、私にはない。
 
 でも、王妃殿下には、それができた。
 つまり、それは王妃殿下にはそれだけの覚悟と素養があったということで……その理由の一端がわかったような気がする。
 ユーリア王妃殿下は国を治める者として育てられていた……だから、今の妃殿下が在るのだ。

「私はダーハルであり、自身こそがダーハルという国そのものだと思っていました。統一帝国の時代からダーハルを治めてきた大公家の娘として生まれた誇り……私は少し、人よりもその誇りが強い子供で……公家の誰よりも、いいえ、民の誰よりも私こそがダーハルを愛しているのだと言って、よくお父様を困らせたものでした」

 淡い緑の瞳が更に遠くを求める。
 王妃殿下の言葉に宿る熱。それが、私の中にある何かに触れる。
 何か違うと思うのに、その強い思い……熱に気おされる。

「私はまだ幼く、愚かで、無知で、そして、傲慢だった。大公家の一の姫、世継ぎの公女として大切に育てられた私にとって世界の中心はダーハルでした。そんなことあるはずがなかったのに」

 泣き笑いにも似た表情。

「転機が訪れたのは、私が、花冠の儀を迎えて3年……そう、私の婿探しが本格的にはじめられた頃でした」

 転機……王妃殿下の運命の転換点。それは……私にもわかる。
 陛下との出会い、あるいは、陛下との結婚。

「陛下が……当時は、ダーディニアの第五王子であったヴィダル殿下がダーハルを訪れたのです。公宮は大騒ぎでした。でも、私や妹たちには関係がなかった……当時既にエレアノール公女はダーディニアに嫁いでいましたが、そんなことが私達にあるなんて思いもよらなかった」
「なぜですか?」

 ユーリア王妃は、今もこんなにも美しい人だ、幼い頃はさぞ美貌の少女だったと思うのに。

「母が美しい人だったので、私も自分の容姿にはそれなりに自信がありました。でもね、そんなことは関係ないとも思っていました。王家や王族や貴族というのはね、だいたいが美しい容姿を持つものです。なぜだかわかりますか?」
「……美しい伴侶を求めるから。あるいは、それが許されるから」
「ええ。そうです。つまり、そういった家では代々、美しい者の血をとりこんでゆくものですから、ある意味、美しく生まれつくのは当たり前なのです」

 代々の好みでいろいろ揺らぎはあるだろうけど、それでも、遺伝要素に美形の形質が含まれ、それが重ねられてゆくのだ。美しい子供が生まれる確率は確かに高くなる。

「だから、私は自分の容姿にそれなりの自信を持ちながらも、さほどの価値があるとも思っていませんでした。
何よりも……私は知っていました。大陸行路の道筋にあり、貴石を豊富に産出するリーフィッドと違い、ダーハルは小さな山間の農業国でしかなかった。地図を見た時、ダーハルとリーフィッドはどちらも面積もさほど変わらぬ小国ででしたが、その中身はまったく違っていました。ダーディニアがそんな小国と婚姻を結ぶ必要はまったくなかった……あなたのお祖母さま、エレアノール妃殿下は例外中の例外なのです」
「例外中の例外……」
「エレアノール公女は生まれる前から、ダーディニアに嫁ぐことが定められていた方でした」
「……なぜですか?」

 何かこう、ひっかかるものがあった。
 母と私……私達が陛下に例外扱いされ、同時に私達の婚姻の特別さに共通する何らかの因子。
 それはたぶんエレアノール公女からはじまっているのではないか、と思う。

「エレアノール様の母君がエルゼヴェルトの姫君だったからです」
「エルゼヴェルト……」
「ええ、そう。……あなたの生家です、ティーエ」

 エルゼヴェルト。その名がここに出てきたことに、少し驚き、そして納得もした。
 私の生家……王家のスペアと影で呼ばれることもある東のエルゼヴェルト。

「細かい事情は別として、エレアノール公女がダーディニア王家に嫁いだ事は、四公家の姫でなくとも王妃になれるという一つの先例を作りました。実際にはこれはまったくそんなことはなかったのですが」

 ダーディニアの婚姻政策というのはとても特殊だ。
 特に特徴的なのは、王女はまず国外に嫁がないということ。そして、王の妃はエレアノール王妃殿下、ユーリア妃殿下という二つの例外をのぞけば必ず国内から……それも、四公爵家から求めていること。
 けれども妃殿下の言葉の意味を考えると、エレアノール王妃は例外として考えるものではないような気がする。

「先王陛下のお言葉に誰もが納得したとおり、エレアノール様の肩書きはリーフィッド公女ですが、実質的にはエルゼヴェルト公爵家の姫の扱いだったのですから」

 私はその言葉にうなづく。なにとなくいろんなことがのみこめた気がした。

「……ともかく、エレアノール殿下の例があったから私が第五王子の妃になることは、許されました……私は四公爵家の血など欠片もひいておりませんでしたが、陛下は王位継承権とは無縁になるはずでしたから」

 ユーリア妃殿下の穏やかな様子が、不意に硬質な空気を帯びた。

「許されずとも良かったのです。前例など、なければよかった!」

 その声が、叫びにも似た響きに変わる。

「私は、ダーディニアの王子の妃になどなりたくなかった。私はダーハルの女公となって、ダーハルを守りたかった。……ねえ、知っていて?ダーハルが失われた時、ある人はね、私に言ったのよ。妃殿下は最高の幸運をお持ちだわ、ってね」

 王妃殿下は、その秀麗な面に、自嘲にも似た笑みをひらめかせる。
 
「何が幸運なの?他国に嫁いでいたから私だけが生き残ったこと?大国の王子の妃になったこと?それとも、夫となった人が国王になったこと?私が生んだ子供が、稀代の天才と言われるほどに頭が良かったこと?そのせいで王妃になれたこと?……どれ一つをとっても、私が望んだことなんてなかったわ。私が望んだことなんて一つも叶わなかった!!」
「ユーリア妃殿下……」

 感情が迸る。押さえようとしても押さえきれないもの。激情にも似た何か。
 妃殿下の背後にゆらりと立ち上る青白い陽炎が見えたような気がした。

「……ダーハルの公宮で開かれた歓迎の宴の時に、宴の主役たるヴィダル王子は、私に目を留めました。吟遊詩人の歌では、王子が私に一目で恋をしたということになっています。でも、そんなことはまったくなかった。だって、ヴィダル殿下は……陛下は、最初から私を見る為に、ダーハルにやってきたのですから」

 私は意味がわからなくて首を傾げる。

「でも、私はそれを知らなかった。そして、知らぬまま、淡い思いを抱きさえもしたのです……でもね、それは微熱のようなもので、子供が絵本の中の王子様に憧れるのと変わりがないものだったのです。だって、私はダーハルの世継ぎだったのだもの。それ以上に大切なものなんてなかった」

 妃殿下の祖国への思いは充分すぎるほどわかった。
 理解できたとは言わないけれど、私があちらの世界に対して抱く思いと少し似ていると思う。
 でも、私なんかよりも、もっともっと激しいもので、私は少し怖かった。
 こんな熱は、私の中にはない。私はこんな風に、何かを愛したことがない。
 この胸に抱くナディル殿下への想いは熱っぽさを持つけれどもっと柔らかな、思い出すだけで何か赤面したくなるような、優しくて恥ずかしくてくすぐったいものだ。
 こんな、まるで伝染しそうな熱は私はもっていなかった。

「陛下のことを、お厭いですか?」
「いいえ……いいえ」

 妃殿下は激しく首を横に振った。

「淡いものではありましたが、私は確かに陛下に恋をして……そして、一番大切なことすら、どうでも良いと思った瞬間があったのです。ヴィダル殿下はとてもお優しかった……だから、殿下に求婚されたとき、私は嬉しかった。婚姻を結ぶのは無理だとわかっていましたが、そう言っていただけたことが嬉しかった」

 妃になどなりたくなかったと叫ぶ一方で、求婚されたことが嬉しかったと妃殿下は言う。
 その明らかな矛盾。
 でも、たぶん、どちらも本当だ。妃殿下の言葉はどちらも嘘ではなく、だからこそ、妃殿下は取り戻せない過去を後悔し、選ばなかった未来を思い現在から目をそむけようとする。

(けれども……本当はわかっているはずだ)

「『私は婿をとり、国を継がねばならないから殿下の妃にはなれないですが、嬉しかった』と、そうお伝えする練習までして……うまく申し上げることもできました。なかったことにされましたが」
「なかったこととはどういう意味ですか?」
「殿下は、断られることなど思ってもみなかったようでした。そして、笑って私におっしゃったの。『ユーリア、貴女はよくわかっていないのかもしれないが、私が望み、我が父がそれを了承した以上、これは決定事項なのですよ』と。そして、私がお断りを申し上げたという事実はなくなりました」
「……………」
「私は意味がわかりませんでした。……でも、結果は確かに殿下のおっしゃった通りだった。お断りしたはずなのに、翌日には私が殿下に嫁ぐということは決定事項となっていました。嫌だという私の言葉を誰も聞かなかった……むしろ、そのたびに言われたものです。『ご冗談を』と」

 想像がついた。
 人は自分を基準に物事を判断しがちだ。そして、自分がそう思ったからというだけで他人もまた同じように思うものだと思っている。

「ご家族も同じ様におっしゃられたのですか?」
「いいえ。父はちゃんと私の言葉を聞いてくれました。でも、だからといって結果が変わるわけではなかった。……父は、私に聞き分けてくれるように言いました。ダーディニアに睨まれては、ダーハルのような小国はひとたまりもないのだから。と」

 確かにその通りだ。
 ダーディニアは大陸有数の大国の一つだ。その国力も、その国土の広さも桁違いであり、何よりも、ダーディニアの軍の強さは大陸に鳴り響いていた。
 後に帝国に攻められたダーハルがたった三日で陥落したことを考えれば、そのお父上の言葉も当然だっただろう。

「私は訴えました。世継ぎの公女なのだから外の国に嫁ぐなんてできないと……でも、父は言ったのです。ダーハルを継ぐのは妹たちでもできる。と。ダーディニアの王子の妃となって、内からではなく、外からダーハルを守ることができるのはおまえだけなのだ、と。だから、聞き分けてくれと。……私はうなづきました。……今だから言えることですが、結局のところ、私は理由を探していただけなのです。初恋の人の元に嫁ぐための理由を」

 そして、私はヴィダル殿下の妃となりました、と王妃殿下は自嘲気味に笑った。

「そんな風に嫁いだにも関わらず、私は祖国を救うことができませんでした。外から守るようにと父がいってくれたのにも関わらず、私は何一つ祖国の為に役立つことができなかった……」

 その笑みが自嘲に見えたのは、その先に起こったことを私が知っているからだろうか。
 きっと、この先どんなに優しく微笑まれたとしても、私は、この人がただの穏やかな……慈愛の人だとは、思わないだろう。

「嫁いだ当初は幸せでした……私は、なぜ殿下が私にそんなにも執着されたのかを知りませんでしたから」
「執着、ですか?」
「ええ。……私の絶望は、殿下の執着の理由を知ったときに始まったのです」
「……愛しているから?」

 私の言葉に、妃殿下はああ、とこらえきれなかった嘆息を漏らす。

「あなたはどこまで知っているの?ティーエ」

 私に向けられた眼差しには、何もなかった。
 慈愛も、敵意も、挑むような鋭さも何もなかった。
 ただ、何もかも諦めたような女がそこにいた。

「私が知っていることなんてそう多くはないです。だって、私、覚えていないのですから」

 私は内心のさまざまな思いを押し殺して、にっこりと笑ってみせた。
 無邪気に、そして、誰よりも美しく見えるように。

 それこそが、私の武器なのだと、今の私は理解していたから。






 2012.01.11 更新


 ********************


 あけましておめでとうございます。
 今年の目標は完結です、って毎年言ってる気がするなぁと思いますが、うん、今年こそ!と思っています。
 どうぞよろしくお願いします。

 2012.09.16 修正
 



[8528] 37
Name: ひな◆ed97aead ID:bff098dc
Date: 2013/09/16 09:28
「……随分と王子の妃らしくなったのですね」

 私の笑みに、ユーリア妃殿下は目を軽く見開いて、そして笑いを滲ませる。

「妃ですから」

 正直この幼さでは失笑ものだけど、でも、私は胸を張る。
 ナディル殿下の妃であることが、私の誇りだ。

「……そうね」

 もっとも、ナディル殿下が目の前にいたらこんな風にいえないよ。恥ずかしすぎる。

「妃殿下は、陛下が妃殿下をエレアノール公女の身代わりとして求めたとお考えなのですね」
「ええ」

 即答だった。ユーリア妃殿下の中で、それはゆるぎない事実なのだろう。

「私とエレアノール公女はよく似ていると評判でした。……姿形以上に声がよく似ているのだと……陛下は何度かそうおっしゃり……昔は、私をエレアノール様の愛称でお呼びになっていました」

 妃殿下は微笑んだ。
 諦めたような……それでいて諦めきれぬような、曖昧な笑み。

「……愛称……」
「ええ」

 妻を他の女の愛称で呼び、更には娘にその女の名前をつけるというのは、やはり普通ではないように思う。

「……皆は私が一番の寵愛を受けていると言いますが、陛下が真実愛しているのはエレアノール様だけです。だから、その血をひくエルフィナ姫……ひいては、貴女に執着される」

 妃殿下の眼差しが、私を貫く。
 私の背後に、母や、あるいは母を産んだエレアノール妃の姿を求めるかのように。

「……私は陛下を愛するのと同じ様にこの国を愛し、同時に、陛下を憎むようにこの国を憎んでいます。私を王妃にしてくれたこの国が大切で、けれども、私の祖国を救ってくれなかったこの国などどうなってしまってもいいと思うのです」

 熱を帯びたその声は、どこまでも静かで……妃殿下は、また遠い目をする。

「仁慈の国母よ、慈愛の王妃よ、と褒めたたえられても、実際にはそんなものでないことを私が一番良く知っています。なのに、取り繕うことを止められず、王妃であることに固執する……己の愚かしさ、浅ましさに身震いがします」

 もう、自分でも自分がよくわからないの、とユーリア妃殿下は笑った。
 私は口にしようかどうか躊躇いながら、口を開いた。

「……矛盾は誰の中にでもありますから」

 これは何も妃殿下のことばかりではない。
 だって、犯人を見つけて法廷に送り込むのだと硬く決意したのはほんの二ヶ月足らず前のことでしかないのに、今の私にその気は皆無だ。
 心変わりが早すぎと責められても仕方がないのだけれど、でも仕方ない。
 それが不可能だということもあるのだけれど、全ての罪を問うとしたら、妃殿下だけではなくナディル殿下にもまた大きな罪があることになるのだ。

(殿下はご存知だったのだから……)

「大人びた口をきくようになったこと」
「……お褒めの言葉としてうけとっておきます」

 最近、自分でも忘れそうだけど、これでも精神年齢は見た目の倍以上だから!





 ゆらりと常夜燈の光が揺れる。
 私はぼんやりとそれを眺めながら、リリアと猊下は会えただろうかと考える。
 きっと猊下はリリアに怒られているだろうし、もしかしたら拳骨くらいくらってるかもしれない。
 あの二人は何となく姉弟みたいな感じがしていて、圧倒的にリリアの立場が強い。

「……あの娘の母親であるマリアは、私が輿入れをした時に共にダーハルから来ました」

 あの娘というのはエルルーシアのことだろう、と私は無言でうなづき、その言葉に耳を傾ける。
 かすかに熱のこもる声音は、しっかりと私の耳に妃殿下の意思を伝える。

「マリアと私は乳姉妹です。マリアは、私が王太子を……当時はただの公子にすぎませんでしたが……産んですぐの頃に、後妻ではありましたが、望まれて南部のイケア子爵家に嫁ぎました。王家が国家間の政略結婚をほとんどしないこの国では、国をまたいでの婚姻はそれほど多くはありません。それぞれの地方が一つの国と言っていいほどに広い国土を持つこの国では、国内貴族同士の婚姻相手に困らないということもありますが、結局のところそれほど歓迎されていないということなのでしょう」

 王家がその婚姻相手を異国に求めることはまずないから、貴族たちもまたそれに倣う。
 その源は何なのか、いろいろ考えてみたけれどわからなかった。
 ファンタジー小説だと、『血筋で継承される何か』とか『血筋に宿る何か』とかあるんだけど、このダーディニア王家に何があるのか私は知らない。そのうち、機会があれば殿下に聞いてみようと思っていた。
 それはたぶん、ダーディニアの王家とエルゼヴェルド公爵家を結ぶ血の秘密だ。
 エルゼヴェルドがなぜ筆頭公爵家なのか、そして、王女の降嫁がエルゼヴェルドに多い理由もそのあたりに原因があるのだろう。

(そして、それもまた、おそらくはこの今の状況の原因の一つなのだ)

「イケア子爵家は小身ではありますが世襲貴族の家柄です。そして、先妻の子がすでに嫡子として在りました。マリアはそれは苦労したと思います。時々くれる文にはそんなことはまったく書いていませんでしたが、我が身を考えても容易に想像がつきます。……それでも、望み、望まれて嫁いだのです。幸せなのだろうと思っていました」

 妃殿下はそこで息をつき、自分の裡から言葉を捜すかのようにそっと目を閉じる。

「……幸せでは、なかった、と?妃殿下の乳姉妹であったことを利用されたのですか?」
「いいえ、私には利用できるほどの何かはありませんでした」

 首を振る。

「利用するためだったのならばまだマシだったのだと思います……少なくとも、それであれば私が妃であるうちは形ばかりであっても尊重されたでしょうから」

 まあ、王妃殿下の乳姉妹がどれだけの影響があるのかはわからないけれど。

「当時、陛下はまだ臣籍降下を待つばかりの王子殿下でしかなく、私もまたその妃でしかなかった。元々、政治的なことに関わることをお嫌いになる陛下です。その妃の乳姉妹になんて利用価値など、ほとんどなかったでしょう。……だから、当初は純粋に愛されて望まれていたはずです。少なくとも、子爵本人には」

 周囲はそうではなかっただろう、という言外の意を私はちゃんと聞き取る。
 この国は、正統な血筋に重きをおいている。
 陛下がどれほど王になりたくないと思っていてもその継承権順位を無視することができなかったように、それは絶対だ。

「あの娘が生まれてすぐに、先妻の産んだ子が亡くなりました。五日熱でした。
 ……当時、五日熱は原因不明の病でした。今でこそ、だいぶいろいろなことがわかってきましたが、治療方法も予防方法もなく、ただ神に祈ることしかできなかった……かかってしまったら、まず助からない病でした。
 それで、マリアは随分と責められたようでした。マリアが看病をしていたのに熱を出すこともなく、病におかされることもなかったことも責められる原因の一つだったとか……とはいえ、私はずっとそんなことは知りませんでした」

 王妃殿下はやや自嘲気味に笑う。

「私は私で、陛下の御心に不安を抱き、眠れない日々が続いていました。強引に望んで妻にされたことを、あるいは、傍近くで常に強く求められることを愛されていると思っていられたのなら良かったのかもしれません」

 でも、私は自分をごまかしきることができなかったのです。と、妃殿下は言う。

「……そんな私が、マリアの力になることなどできようはずもなく、私が知らぬ間に、マリアと子爵との結婚はなかったことにされました。……私がお断りした言葉がなかったことにされたように」
「なかったことに?」
「ええ」

 ああ、そうか。私の中にはエルルーシアが子爵令嬢だという知識がない。
 調べてもらった範囲でもその話は出ていない。なかったことにされているからなのだろう。

「子爵はマリアとエルルーシアを追い出し、レナン伯爵家の出戻った娘を後妻にしました。せめて普通に離婚すれば良いものを、小国の貴族の血を持つ娘を正式な娘と認めぬと『なかったこと』にしたのです」
「それは……」
「ええ、遡及婚姻までする念の入れようでした」

 遡及婚姻は、婚姻日を過去に設定し、そこから正式に婚姻していたと聖堂が認めることだ。
 これは遡って嫡子認定する為の手段のひとつで、私の父のエルゼヴェルド公爵もできることならばそれをしたかっただろう。
 けれど、条件がそろっていてよほどでないと認められない。
 公爵は条件がだめで認められなかった。でも、イケア子爵は、そのよほどのことをしたのだ。そこまでして異国の血を嫌ったのだろうか?
 私は、これまでそこまでの排他性を感じたことはなかったのだけれど、少し認識を改めなければならないのかもしれない。

「南部諸侯は保守的な傾向がありますが、そんなことまで考えるのはそのごく一部の傾向にすぎません。
 マリアは世継ぎの公女であった私の側近となるはずだったのです。もちろん身元もしっかりしています。ですが、この国では、ダーハルのような小国のその貴族の娘といったところで何の価値もなかったのでしょう。
 もちろん、その異国の血を嫌ったというだけでなくほかにもいろいろな要因はあったのでしょうが、子爵がマリアとエルルーシアを捨て、更には踏みにじるような真似までしたことにかわりありません」

 確かに。本当にひどいやりようだと思う。
 遡及婚姻までして、子供を否定する……それは、エルルーシアの心にどんなに影を落としただろう。

「……その頃、その事実を知った私は憤り、でも、何もできなかった……私にできたのは、マリアを再び私の侍女とし、あの娘を小間使いとすることでその暮らし向きの手助けをすることくらいでした。私には、マリアのおかれた立場をよくしてやることも、その名誉を回復してやることもできなかった……」

 ぎり、と妃殿下はこぶしを握り締める。

「でも、幸いなことにそんなマリアにも再び春が巡ってきました。マリアに求婚する男が現れたのです」

 エルルーシアは庶子ではなかった。庶子だったら、たぶん私の侍女にはなれない。彼女はれっきとした北部の下級貴族の娘だったのだ。
 だとすれば、わざわざエルルーシアを実子とするためにマリアさんと遡及婚姻までした相手がいたはずだ。

「当初、マリアは決して彼の求婚にうなづことしませんでした。
 当然です。とてもひどい目に遭ったのですから……。
 けれど彼はあきらめず……やがて、マリアもうなづきました。新たにマリアの夫となったのは、後に王太子の侍従武官となったドラス準男爵です」

 ドラス準男爵は、ナディル殿下の立太子後につけられた武官の一人だ。名前だけなら私もよく知っている。顔はわからない。
 『私』になってからは、会っていないから。

「彼は北部の貧しい騎士の家に生まれ、剣の腕をかわれてその地位にまで上り詰めました。不器用ではありましたが、恐ろしげな見た目に反してやさしい男でした。エルルーシアを庶子にしない為にと遡及婚姻までしてくれた男をマリアは愛し、エルルーシアはとても懐きました。
 ……私は、神はいるのだと、不幸はそのままであることはないのだと嬉しく思いました。彼らが幸せに暮らせるよう、私は祈りました」

 捨てる神あれば拾う神あり、といったところだろうか。
 私もまた、エルルーシアの為にその幸いを嬉しく思った。過去のことではあったけれど。
 そして、深呼吸を一回してから口を開く。

「……幸せになったことをそんなにも喜んだ方が、その娘に毒を渡したのですか?私を殺すために」

 私はまっすぐと妃殿下を見つめる。
 何一つ見逃さぬように。

「いいえ」

 妃殿下は首を横に振る。この国では珍しい黒髪が揺れる。

「私は……鳥籠の扉を開けるように命じたり、あなたの茶器を割るように言ったことはありますが、それだけです……どれも、罪に問われるようなことではありません」

 驚くほどあっさりと妃殿下は自分がしたことを告げた。
 些細なことばかりだから、と思っているのだろう。確かに一つ一つをあげればたいしたことないし、何らかの罪に問えるようなものもない。

(嫌がらせの域をでるものでもないし……)

 けれど、それらが複合して……延々と続いたら……しかも、その黒幕が保護者といってもいい存在の一人だったとすれば、アルティリエが人形になったのも無理はないだろう。

(殿下が、自分にあまり関心がなかったことも知っていただろうし……)

 助けはない、と思ったかもしれない。
 あるいは、殿下が助けてくれるかもしれないという希望があったかもしれない。
 でも、終わりのない嫌がらせを思うと、ため息しかでてこない。

「生きてさえいれば良いとお考えだったのですか?」
「……さあ」

 先ほど自身でも言っていた通り、たぶん、妃殿下にもわからないのだろう。
 相反する思いはどちらも同じだけの強さを持ち、妃殿下の心を揺らす。
 ふ、と祭壇の方からどこか苦味を帯びた甘い匂いが強く香ってきて、顔を軽くしかめた。私はこの香があまり好きではない。

「……ティーエ、今のあなたはそれを知ってどうするのかしら?」

 妃殿下は、艶やかな笑みを浮かべる。
 一瞬にして、変貌した、と感じた。
 それは、目を見張るような劇的な変化だった。

 目の前にいるのは、先ほどまでのひっそりとしおれた風情の女性ではなかった。
 その瞳には強い意志が宿り、慈愛の笑みの仮面をつけている。
 
(もう、いつもの王妃殿下だ……)

「先ほども申し上げたとおり、知りたかっただけですから」

 私は、なぜ私が私になったのかを知りたいだけだった。
 全てではなくとも、自分で納得できるだけの真実が欲しい。

(ナディル殿下の隣に立つために)

「……エルルーシアを私の侍女に望んだのは妃殿下ですか?」
「いいえ」
「そう、ですか」

 おぼろげにパズルがつながりはじめている。はっきりと断言はできないし、それがすべてではないのだけれど。

「ティーエ、あなたは誰なのですか?」

 一瞬、どきりとした。

「私は……」

 何と答えればいいのかと思いながら、結局口に出せたのは一つだけだ。

「私は、ナディル殿下の妃です」

 問いの答えではないような気もしたけれど、他の答えを私はもたなかった。
 口に出すと少しだけ恥ずかしいように思えたけれど、でも、それ以上に嬉しかった。
 自分がそう言い切れることが単純に嬉しい。

「そういうことではなく……記憶喪失になってからのあなたはまるで別人のようだわ」
「別人ですから」

 私はできうるかぎり、柔らかな笑みを浮かべる。

「あの冬の湖で、私は一度死にました。ここにいるのは、以前の私ではないのです」

 心の底から真実を述べているつもりだけれど、たぶん、私の思う意味では伝わっていないだろう。

(別人というか、生まれ変わりだと思うけど…)

「……王太子を愛しているのね」

 ユーリア妃殿下は不思議な笑みを浮かべる。

(!!!!!!!!!!!!)

 表情筋がちゃんとポーカーフェイスをつくってくれたか、初めて自信がなくなった。

(あ、愛してるって、愛してるって……)

 そんなこっぱずかしい単語、口にできるはずがない。
 いや、他人のことならいくらでも言えるよ。でも、自分は無理。そんなの絶対無理。
 だいたい、今のこの流れで何がどうなってそういう質問になったの?!
 でも、ここで真っ赤になって口ごもるのは下策中の下策だ。

(笑え、私!)

「はい」

 私はできるだけ、優雅に微笑んでうなづいてみせた。
 ユーリア妃殿下が驚いたように目を見張る。
 それ以上は何も言わない。
 ただ、笑顔だけを見せる。
 人形姫と呼ばれた少女の満面の微笑みは何を言うよりも雄弁に語るだろう。

「……私は、あなたを殺したいと想ったことは一度もありません。あなたの母君も、あなたの祖母君もです」
「では、なぜ、あなたはこんなことを?」

 答えてくれるとは思わなかったけれど、私は問うた。
 殺そうとしたほうが妃殿下ではないとする、でも、延々と続く一連の嫌がらせや、人死や、その他のさまざまなことに、この方は間違いなく関わっていたのだ。

「さあ……」

 それから、ユーリア妃殿下は綺麗に笑った。 

「私が殺したいと思ったのは、この世にたった一人だけ……」

 謳うような響き。

(……それは、陛下だ)

「陛下だけです」

 誰よりも愛し、同時に、誰よりも憎む。
 それはこの国に対する妃殿下のお気持ちそのものだ。きっとそれらは不可分のものなのだろう。

 妃殿下は軽やかに立ち上がる。

「そろそろ戻ります」

 聞きたかったことが聞けたわけではないけれど、引き止めようとは思わなかった。
 リリアが戻ったのならば、今夜はもうそれでいいと思えた。

 吐く息が白く、室温がかなり下がっていることがわかる。もしかしたら、外ではまた雪がふっているのかもしれない。
 私は立ち上がらずに、妃殿下を見上げる。

「……お気をつけて」

 何と言うべきか、ふさわしい言葉を見つけられなかった。
 おかしいのはわかっているんだけど。

「それは、私よりもあなたの方だわ」

 ユーリア妃殿下がおかしげに言う。
 ええ、私もそう思います。

「……ティーエ」

 扉のところで、妃殿下が振り返った。

「はい」

 私は小さく首をかしげる。

「……それは、エレアノール様の愛称よ」
「………………」

 扉の隙間から光が差し込み、その眩しさに目を細めている間に、妃殿下は出ていった。
 私は深く深く溜息をつき、そして、祭壇に目をやる。

「そうなのですか?」

 答えはなく、けれども、祭壇の陰から人影が現れた。
 長い長い夜だ、と思いながら、私はそっと胸元を押さえる。カサリと音を立てるその感触が私の気持ちを奮い立たせた。



 ***************

 2012.08.29 更新 

 生存報告になりましたでしょうか。
 今夜はちょこちょこ手直ししてますが、気にしないでください。

 2013.09.16 修正



[8528] 38
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/09/26 20:37
 自分が無力であることを、私は知っている。
 和泉麻耶として生きていた頃も、そして、アルティリエとして目覚めてからも。
 アルティリエである現在の方が、無力感を噛み締めることは多いかもしれない。
 王太子妃という誰もが羨んでやまぬだろう高位にある身は、実はがんじがらめの鳥籠の中にあり、結婚十二年になる夫に会いたい時に会うことすら、ままならない。

「……いつから気づいていたのかね」

 静かな静かな声だった。
 暗いところから出てきたせいで明かりがまぶしいのだろう。額に手をやって、目を細める。
 穏やかなご様子で、こちらに戻ってからお会いした時とはまったく違う方のように見える。
 いや、これもまたこの方の一面ではあるのだろう。人は、さまざまな貌を持つ。
 向ける貌は相手によって違えば、その時々によっても変わるのだ。

「さあ……いつから、というのならば、憶えてはおりませんが、もうずっと以前からだったように思います。確信したのは、こちらに戻ってからですが……」

 言葉を選びながら答える。
 そこにはいろいろな意味がこめられている。

 アルティリエはたぶん知っていた。
 今の私はおぼえていないけれど、でも、何となくわかっていた。
 複雑にもつれ合った事柄のその中心にいるのはこの方なのだと ──── この方以外にありえないのだと。

 幾つもの出来事があり、そこからまた新たな出来事が派生し、それらがまるで重なりあう波紋のように互いに影響を及ぼしあい、今がある。

(まるで、どしゃぶりの雨の日の庭の池の水面のような……)

 その池がどんな色をしていたのか、今は誰も知らない。

 私は目の前の方に視線をやる。
 いつもの豪奢さとはまるで違う簡素な服装だった。
 刺繍や飾りはほとんどない。白いシャツと黒皮のパンツに兵士の支給品のような黒のブーツに毛皮の裏打ちがされた黒のマント……こういうありふれた格好をなさると、普段が普段なだけによほどでない限りこの方だと気づかないだろう。

(推理小説風に言うなら、黒幕なわけだけど……)

 予想はしていたけれど、でも、やはり目の前でこうしてそれを直に確認し、こうして対峙していると何だか驚きを通り越してうまく考えることができない。
 
(正直、私にできることはないのだけれど)

 この方を裁く法はなく、罪は関わったすべての者にあるのだとすれば、罰することができる者はなく、何を罰すれば良いのかもわからない。

(ただ……私が知りたいだけで)

 何を意図したものだったのかは知らないが、結果として生み出された孤独と絶望こそが、あの冬の湖でアルティリエを貫く刃となった。

(だから、私がここにいる……)

 そのことを思うと、いつも、意識がどこかに吸い込まれそうな……不思議な心地がする。

「そういう意味ではない。いや、そういう意味であっても構わないのだが……」

 見つめられて、まっすぐとその視線に応える。
 私は不思議なくらい落ち着いていた。
 冷静というか、感情がすごくフラットだった。今なら何を言われても動じない気がする。

「……陛下がこの場にいらっしゃることを、というのならば、妃殿下とのお話の途中からです」
「気配を絶っていたつもりだったのに」

 気づかれていたとは、とつぶやきを漏らす。
 私はゆっくりと立ち上がって、陛下に対する礼を執った。
 普通の聖堂の信徒席ならば、並べられたイスの間にスペースが少ないのでその場で礼をとることはできないけれど、ここは王太子宮の聖堂で、王太子とその妃の席とされているこの席は特別席だ。今の流行ではないが、かつての儀礼用のガウンは、バニエで思いっきりスカートがドーム状になっていて、そういう場合でも大丈夫なように空間がゆったりととられている。だから、今、この場で礼をとっても不自由はまったくない。

「この場での儀礼は滑稽だと思わないかい、ティーエ」

 ティーエというその呼び名にこめられるどこかねっとりとした甘い響き。
 耳にするたびに、なぜか背筋がふるえ、いつもひどく落ち着かない気がしていた。

(それは、そう呼ぶのがこの方だから……)

 そして、たぶんその呼び名に対するこの方の思い入れをアルティリエが知っていたからだ。

「はい、陛下。ですが、礼をとらずとも良い理由はありませんので」
「礼は不要だよ。楽にしなさい」

 その言葉に、私は顔をあげる。
 すべての事件の元凶がこの方にあるのだと理解しているけれど、二人きりでこう対峙していても、それほど怖いとは思わなかった。震えてもいなかった。でも、実はそれは麻痺してしまっているのかもしれない。

「なぜ、私がここにいると気づいたんだい?」
「この聖堂はこの席ともう二列分の席の箇所まではネイの建築物なのだと聞いていましたし……ネイのからくりについては、私、だいぶ詳しいのです」

 この聖堂に隠し通路の出入り口がある。具体的に言うならば、祭壇の裏側。陛下はそこを利用したのだろう。
 あの口ぶりだとシオン猊下もご存知だったのかもしれない。私がさっき感心みせたのは、猊下が西宮に仕えている者でも知らないような詳細をご存知だったからだ。

(王子であったからご存知なのか、それとも、枢機卿だからなのか……)

 私はナディル殿下から教えていただいた。
 それを知られたら生ぬるく微笑まれそうな気がして、シオン猊下の前ではよく知らないフリをしていたけれど、私はネイについてけっこう詳しいのだ。

(主に殿下のせいで……)

 朝のお茶の時に話題にしたのが、運の尽きだった。
 たぶん、それについて語ったら日が暮れるだろう。
 簡単に説明すると、ダーディニアの王宮の地下は迷宮なのだ。そしてそれは、統一帝国時代の遺跡である。
 この王宮は、単に遺跡の上に建っているというだけではなく、全貌は未だ明らかではないけれど、その遺跡をも組み込んだ仕掛けが幾つもあるのだという。大陸でも他に類をみない希少な建築物なのだそうだ。
 アルセイ・ネイは、なぜか、遺跡についてもよく知っていた。遺跡そのものをというよりは、遺跡に利用された技術についてとても詳しかったらしい。
 ネイ以降、失われた帝国時代の技術は、再び喪われたという。

「それに、お好みの紙巻の香りがしましたから」

 独特の甘苦いその香りは、陛下のお好みの紙巻煙草の香り。
 それはオリジナルブレンドで、お手元にいつもあることとそれほど高価ではなく褒美として気軽に下げ渡せる為、御下賜品となることの多い品だ。

 思えば、私が私として目覚めたその時も、かすかにこの香りがしていたような気がする。
 別にその場に香りが残っていたいうわけではなかった。ただ、直前に嗅いだそれの印象が強く焼きついていたのだと思う。

(……たぶん、犯人がその香りをさせていたから)

 だから、目覚めて以降、この香りに気づくたびに身体が竦むような……理由のない焦燥感に脅かされるような気がしてならなかった。
 これは、最初は自分でも理由がよくわかっていなかったけれど、少しづつアルティリエのことを知るたびに、わかってきたことの一つだ。
 とはいえ、陛下ご自身が手を下したとは思わないけれど。

「……余でなくとも、余の周囲の人間ならば喫っていてもおかしくないだろう」

 陛下は少しおかしげな表情で言う。

「ええ。本宮にいる者ならば手に入れること自体は難しくないでしょう。ですが、陛下からいただいた品を、しかもこのような場所で火をつけることはないと思いました」

 仮にも国王陛下にいただいた品を、聖堂の暗がりに隠れている最中にすったりはしない。しかも、特徴的な香りのするものだ。

(そもそも、ここは聖堂で、しかも隠し通路にいたのだし)

 普通だったら、大切に保管しておいて、何か特別な時に吸う。

「だから、私がここにいると?」
「はい」

 私はうなづく。
 そんな風に無造作に吸うことができるのは、本来の持ち主である陛下だけだ。

「なぜだね?」
「何がですか?」
「煙草で時間を潰すことはおかしなことではあるまい。それに、貴族ともなれば嗜みの一つでもある。下賜されたものとはいえ、単に私の好みの配合というだけで、これより高価なものはいくらでもあるし、味も格別というわけではない……それを有り難がる理由がどこにある」

 陛下にはその理由がわからないらしい。

「国王陛下にいただいた物ですから」

 その一点で、それは特別なものになる。

 昔、近所に住んでいた警察官を退官した酒井さんのおじいちゃんがそうだった。
 まだ禁煙とか喫煙の健康被害とかっていう言葉がそれほど幅をきかせていなかった頃、菊の御紋のついたタバコは皇室の御下賜品の一つだった。警察官だったおじいちゃんは、一度だけ陛下の行幸の警備をしたことがあって、その時にタバコを一箱いただいたのだと言っていた。
 何歳の時にその警備をしたのかは知らない。でも、おじいちゃんが退官してだいぶたったその時に、タバコはまだ半分以上残っていた。
 おせんべいの缶にいっぱいの乾燥剤と一緒に入れられて、ずっと神棚にあった。
 最初にあけたのは娘さんが結婚した時、それから、孫が生まれた時や結婚記念日など、おじいちゃんにとっての特別な日に一本ずつ大切に消費されていた。

「……余は、名ばかりの国王だというのに?」

 夜の中に吐き出される白い息に、記憶の中にあるタバコの煙が揺らぐ。
 今となってはそれはひどく遠いものだ。

「陛下はおかしなことをおっしゃいます」

 名ばかりとおっしゃるが、国王陛下は国王陛下以外の何者でもない。
 
「事実だろう?」
「陛下は、国王陛下です。……ナディル殿下がおっしゃっていました。国王たる重責は我が身のものではないのだ、と」

 たとえ、実務のほとんどを王太子である殿下がこなしていてその権のほとんどが殿下にあるとしても、それでも、殿下は国王陛下ではないのだ。

「くやしげに?」

 陛下はくっと口の端を吊り上げる。どこか嘲るように見える表情だった。
 言われたことがあまりにも予測の範囲外だったので、一瞬理解できなくて、ちょっとの間、ぽかんと間抜けな顔をさらしてしまった。

「ティーエ?」
「……いえ、陛下は、殿下のことをご存知ないのですね」

 妃殿下もそうだったが、陛下もまた、自分の子供のことをわかっていないように思う。
 殿下がそんな風に思う方だったら、もう少し楽に生きられるのではないだろうか。
 いや、私がそんなによく知っているかといえば、そうでもないけれど、少なくとも陛下たちよりはマシだ。意欲だってある。

(私は殿下のことを知りたいし、わかりたいと思う……)

 ささやかで、でも大それた望み。
 けれど、それは私が諦めない限り、叶うだろう。

(私は王太子妃だから)

 殿下に寄り添って生きる権利が自分にあることを嬉しく思う。
 だから、私は会話として話がずれることを承知で、微笑って告げた。

「殿下と陛下はよく似ていらっしゃいます」

 陛下は、そんな私をみて何度も目をしばたかせた。
 人形姫の擬態はもうとっくに脱ぎ捨てている。
 誰かのこういった表情にも、もう慣れきってしまった。

「……似ているのか?」
「はい。自嘲気味に笑う顔とか、冷ややかに露悪的に物を言う声の調子とか……そっくりです」
「そっくり、か……」
「はい」

 私ははっきりとうなづく。
 
「あれは余とは違い、あらゆることに才能のある子供なのだがね」

 昔から、鳶が鷹を生んだとよく揶揄されたものだ、と苦笑する。

「それは殿下の努力です。才能の一言で片付けてしまったら殿下に失礼です」

 殿下の事を、誰もが『天才』であると褒めそやす。
 でも、それは酷いことだと思う。
 『天才』だから、何ができても当たり前なのだと扱われる…・・・それは、理不尽ではないだろうか。
 確かに才能はあったのかもしれない。
 けれども、それを磨いてきたのは殿下だ。
 子供の頃は神童と呼ばれても、大人になれば只の人ということも多い。
 今なおも、天才だといわれているのは、殿下のたゆまぬ努力の賜物なのだと思う。

「そなたは……」

 陛下はさらに何かをいいかけ、でも、その言葉を呑み込んだ。

「そんなにも、私は違いますか?」
「正直、我が目を疑っている」
「……妃殿下にも申し上げましたが、別人ですから」

 私は笑みを重ねる。
 陛下の表情が困惑の度合いを深める。

「何も覚えておりませんでしたから」
「記憶がなくとも、そなたがティーエであることは変わるまい」
「そうでしょうか?」

 私は首を傾げる。
 ふと、自分の小さな手を見た。
 ただ、それだけのことでこぼれ落ちる違和感。
 それでも以前よりはずっとそれは小さくなった。
 ここは王太子の宮の聖堂で、目の前には国王陛下がいらっしゃるというのに、一瞬、自分がどこにいるのかわからないような気持ちになる。

(何ていうところに来てしまったのだろう……)

 来てしまったというと何だか能動的だが、正確に言うのならば、気がついたらここにいたのが正しく、イメージとしては流されてきたというのがぴったりくる。

(流されただけかもしれないけれど、でも、ここで生きているのは私の意思だ)

 人形であることを止め、残されたかつての記憶のままではない『私』として生きている。
 夢のようだと思いながら、でも、夢ではなく…・・・何だかふわふわとした気持ちになるのを小さく首をふって振り払う。

(私は、ここにいる)

 おとぎ話の中ではないここで、生きている。

「ああ、そうだ」

 陛下の言葉尻にわずかに苛立ちが入り混じる。

「……記憶というのは、その人間を形作る重要な要素だと思います。私は、エルゼヴェルトのお城で記憶を失い、失ったことで今の「私」になりました」

 記憶がそのままその人そのものとイコールで結ばれるかはわからない。
 けれど、それなしではその人とはいえないのではないかと私は思っている。

「……何も、わからない私に殿下はおっしゃいました。どれほど以前とは違っていようとも、ここにいる私こそが、殿下の妃であるのだと。それは記憶の有無で変わるものではないのだと」

 その言葉が、私を落ち着かせてくれた。
 アルティリエであることを忘れた「私」を、ナディル殿下は肯定したのだ。
 そのことがどんなに嬉しかったか、きっと殿下は知らない。
 私はまっすぐと陛下を見て、言葉を継ぐ。
 
「思い出せなくとも良い。これから、思い出を積み重ねれば、それがかけがえのない記憶になるだろう、と」

 陛下の眼差しが揺れた。
 私はそっと胸元を押さえる。
 その薄紙のかさついた手触りが、私を支える。
 甘苦い紙巻の香りが、ユーリア妃殿下を支えたように。

「……そんな気の利いたことが言える男なのだな、あれは」

 陛下は少しだけ笑みを見せる。

「はい」

 陛下は私を見、それから、何かをたどるように遠くを見て、口を開いた。 

「……あれが我が子であるということはわかっているのだが、どういうわけか、私は子供というものに昔から関心がもてなかった。我が子であれば違うのかとも思ったが、王太子は元より、師団長にも枢機卿も同じだった。娘は……アリエノールは少し違ったが、それもたいした関心にはならなかった」

 アリエノールという名。
 陛下の口からご自身の御子の名前がでたのは初めてのような気がする。

(それが、ご本人ゆえに口にのぼったかは別にして……)

 あまりにも名前でお呼びにならないので、名前を覚えていないのかもしれないという疑惑をもっていたのは秘密だ。それは、いろいろな意味で酷すぎる。

「王家というところは、それで通るのだ。子の世話をするための人間は他にいる。親が何することもなく、子は育つ」

 衣食住に不自由することなければ育つというのは間違いだと思うけれど、今問題とされるのはそこではない。

「余もそう育ったが、あの当時、そうはなるまいと思っていた父と同じなのだと気づいた時は少々、愕然とした」

 自嘲するような表情に殿下のそれが重なる。
 どれほど似ていないと言われても、やはり似ているところはあるものだ。

「だが、それをどうこうしようという気はなかった。関心がもてないのだから、仕方があるまい。……だから、あれのことも、他の弟妹らのことも、ユーリアに任せきりでほとんど知らない」

 ひどく残酷な言葉だと思ったけれど、これもまた真実なのだろう。
 陛下が、言葉を飾ることなく語るのを、私は真剣に聞く。

「それでも、あれらが幼い頃はまだ同じ屋敷で暮らしていたからそれなりの出来事があったし、思い出すこともある。……私が国王になってから生まれた双子とは、ほとんど縁もなくてね。我が子という認識に欠けるようなところがある」

 私はたぶん情が薄いのだね、と陛下は何でもないことのようにおっしゃる。
 認識がないと言い切られないだけマシなのか、いやいや、そういうことではないだろうと心の中で一人で突っ込む。
 ナディの面影が頭の片隅をよぎると、胸がジクリと痛んだ。

(まあ、確かに親子関係破綻しているけど)

 私とエルゼヴェルト公爵も大概だが、陛下達も大概だと思う。
 ご兄弟でいる時はそうでもなかったのに、これが親子となると、途端に越えられない壁、ないし、おそろしいほどに深い溝が出現する。

 正直に言って、これは私が何かしたところでどうにかなる問題ではないだろうと思う。いや、どうにかするというような烏滸がましい気持ちはまったくないけれど。
 家族間のデリケートな問題は、他人が間に入るとよけいにこじれる、というのが、私の経験則だ。

(陛下は気づいておられるのだろうか?)

 さっきから一人称が「余」であったり「私」であったりしている。たぶん「私」が素だ。

(気を緩めているのか……)

 とりあえず、リラックスというほどではなかったとしても、それほど身構えてもいない様子に見えた。
 逆に私はやや緊張している。

(突然、怒り出すことがあるって聞いたし)

 私は直面したことがないのでよく知らないけれど、陛下はひどい癇癪持ちだという。
 突然怒り出すこともしばしばで、本宮に仕える者達はとても注意をはらっているのだとも。
 ただ、陛下は暴力に訴えるような方ではないので、手をあげられたことがある者はいないらしい。

(陛下が、この場で私に何かするとは思わないけれど)

 でも、手を伸ばしても届かないくらいの距離はとっている。

(本当は……)

 本当は、全部ほっぽらかして寝台に籠もってしまいたい。イヤな話は聞きたくないし、目を背けてしまいたい。
 でも、そうしたら、何もわからないままだ。
 陛下がうっすらと笑みを浮かべた。
 どこか楽しげな様子だったけれど、何かそれが嫌な感じがして思わず一歩さがって、ベンチに阻まれた。

(逃げちゃダメ……)
 
 私は籠の鳥で、陛下もまた玉座の囚われ人だ。余人を交えずにこんな風に話ができる機会はそうはない。
 王室というのはとても風通しが悪く、しち面倒くさい手順を踏まねば何もできない。そして、手順を踏んだとしても尚どうにもならないところがある。

(たぶん……)

 逃げても、誰も責めない。大概の人にはそれは知られないだろうし、それで何かとがめられることもない。

(でも、殿下にはおわかりになるだろう)

 目を背けてしまったら、ここで逃げ出したら、殿下の隣に胸を張って立つことができない気がする。
 だから、私は、深く息を吸い込んで深呼吸を一つする。

(私は、大丈夫)

 自分に言い聞かせる。

 アルティリエがなぜ失われたのか。
 それを知ることで、私はけじめをつけることができるだろう。
 だから、私は逃げない。

(終わりにする)

 そう決めた。
 そして、たぶん、そう言えるのは私だけなのだ。

 ***************

 2013.09.24 更新 
 
 



[8528] 39
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/09/26 21:50
 私にわかっていることはそう多くはなく、それらの隙間を推理というには恥ずかしいような想像で補っているのが現状だ。

(それも穴だらけで)

 そもそも証拠なんてないし、もう犯人探しをしているというわけでもない。

「かけなさい」

 陛下はそう言って、あまり広くない左側の通路を挟み、斜め後ろの席に座って私のほうに身体を向ける。
 私は自分の席に座ったまま、陛下のほうを向いた。
 隣同士にも前後にもせずに通路をはさんでいるのは、貴婦人への心遣いだ。
 幼い私に対しても、陛下はちゃんと既婚の貴婦人としての扱いを忘れない。

(シオン猊下の頭にはそんなこと欠片もなかったなぁ、たぶん)

 リリアのことで頭がいっぱいだったのか、私が幼すぎてまったくそんな対象に思えていなかったのか……たぶん両方だろう。

「さて、何から話そうか……ずっと、こんな日が来るだろうと思っていたが、実際にそうなってみると何だか不思議な感じがするものだ」

 陛下は、とても機嫌が良いように見えた。躁鬱の激しい方なのだが、声のトーンから考えると、今は、やや躁状態にあるように見える。

「予測なさっていらっしゃったのですか?」
「いや、予測ではない。強いて言うならば希望というべきだろう。余は、そろそろ終りにしたいと思っていた」

 不自然な朗らかさで、陛下は言う。

「ただ、幕を引くのがそなただとは思っていなかった。今のそなたであれば納得するが、かつてのそなたには不可能であったから……それができるのは、王太子だけだろうと思っていた」
「なぜですか?」

 確かに、かつての私には不可能であるというのは全面的に賛同する。

「ユーリアは私の意に添わぬことはしないし、師団長は気づいてもいなかった。アリエノールは……あれは、見てみぬふりをするだろし、大司教は逃げ出したからな」

 他の人間では、陛下に意見することができない、ということなのだろう。たぶん。

「王太子は……あれは、国を守るためならば私を殺せる男だ」

 私はたぶんそうだろうと思っていたけれど、同意を示すことはしなかった。何が咎められるかわからない。
 それに、ナディル殿下は私にはとても優しい人なのだ。

「だから、あれが私に引導を渡し、国王になるその日を待っていたのだ」

 陛下が、柔らかな笑みを浮かべる。
 この方が、そんな表情をするのを私は見たことがなかった。

「殿下は、そんなことを望んでおられません。王太子になりたいとすら思っておられなかった……」
「そうなのかもしれない。……だが、人は変わるものだよ、ティーエ」
「でも、殿下ご自身の幸福は玉座にはありませんから」

 少しだけむっとしたので、きっぱりと言い切った。

「……おやおや。では、あれの幸せはどこにあるのだね」

 ここで、私の隣ですと言えればたいしたものなんだけど、そんなこと言えるはずがない。

「…………図書室です」

 ぷっと陛下が吹いた。

「確かにそうかもしれぬな。何しろあれは幼い頃から本の虫だった……あれについた家庭教師たちは、あれは学者として歴史に名を残すであろうと全員が口を揃えて言っていた。それでいいと、私もユーリアも思っていたのだよ」
「……それこそが、殿下の夢でした」

 殿下は、歴史がお好きだ。
 ご自身の研究テーマは「喪われた文明の遺跡」と「アルセイ・ネイ」について。
 あの一人諜報部員なリリアですら知らないようなのだけれど、殿下はネイについてかなり詳しい。
 ダーディニアがネイと縁が深いこともあったが、何よりも、殿下の心をとらえたのは、統一帝国以前の現在よりも遙かに進んでいた「喪われた文明」についてだという。最近の研究では、ネイは、その失われた文明の継承者だったのではないかと考えられているようだ。
 ダーディニアの王宮は、そのネイが設計・建築指揮したものであると同時に、喪われた文明の技術を使って建築された世にも希な建物だし、国内には、ネイの事跡が数多く残っていることから研究もしやすい。
 ネイの研究をしている者にとって、このダーディニアは聖地なのだという。
 殿下は大学を卒業されるまで、大学の王宮調査チームの責任者としてその建築技術の研究をしていたそうだ。
 その手の話をされる殿下はとても雄弁だ。普段とはまったく違う方向にだけれど。
 お話もおもしろかったが、いきいきとした表情で目を輝かせていた。
 そんな殿下と一緒にいられるのが、私は何よりも嬉しかった。

「殿下の夢は、大学で研究者になること……そして、許されるのならば、隣に私の母に居て欲しいと夢見たことがある、と」

 陛下は、小さく息を呑まれた。
 それは、私がはじめて見る、陛下の動揺だった。
 どこか飄々としていて浮世離れしたところのある陛下は、何かに驚くということがあまりない。

「……それは、無理な話だな」

 ほろ苦い、笑み。
 私は丁寧に言葉を選んで更に切り込む。

「……エルゼヴェルト公爵には長年連れ添った女性が居て、既に子供が何人もいました。それは当時、大変な醜聞だったと聞きました。王女が嫁ぐ相手としてふさわしくないのではという声があったとも」
「ああ、そうだ……だが、妾がいたことが問題だったのではない。あれほどの大貴族なれば側妾の一人や二人居たところで何ほどのことでもない。だが、あれは、王女と婚姻を結ぶのに別れるそぶりすら見せず、平気で妾に敷地内の離れ屋敷を与えた」

 それは王家に対する侮辱だ、と吐き捨てるその声音に、冷ややかな……憎しみが入り混じる。

(憎悪……)

 瞳の底に燃える青白い炎。
 それは決して消えることなく胸を焦がし続ける業火だ。

(陛下は、忘れておられない)

 ナディル殿下にあったのは、怒りだった。
 もう母が亡くなって十二年がたつというのに、尚も残る怒り……それが、私と話すことで少しづつ風化していく気がする、と殿下はおっしゃった。私はそれが嬉しかった。殿下の役にたてているような気がした。

 だが、陛下のこれは決して褪せぬ憎しみだ。
 私という存在は、それを和らげる助けにはならないのだ。
 尽きせぬ憎しみ……ぞくり、と背筋が小さく慄いた。
 それは、角度を変えれば私にも向けられるものだ。

「では、それなのになぜ婚約をそのままお認めになったのですか?」

 私にいろいろな話を聞かせてくれたシュターゼン伯爵は、私見ですが、という注釈つきで、婚約は当然破棄になるだろうと思っていたと言っていた。その為に、伯爵は陛下に、ナディル殿下が母に好意をもっていることをそれとなく告げたとも言っていた。
『私は、姫にエルゼヴェルトに嫁いでほしくなかったのです。自分では何もできないから、殿下にかこつけて裏から働きかけた……結果は、思っていたのとは逆に作用しましたが』と、苦笑というには苦すぎる表情で彼は言った。

(そう。逆に作用した)

 ナディル殿下はご存じないから別のことで伯爵が家庭教師をやめさせられたと思っているようだが、私は、伯爵が殿下の好意をこの方に告げたことが理由だったと予測している。

「認めたことなど一度もない」

 憎々しげな声音。その表情が思いっきり歪む。
 でも、当然だった。
 王女の降嫁に際し、たとえ建前であったとしても身辺整理をするのは当たり前だった。なのに、公爵はそれを怠ったのだ。しかも同じ敷地に側妾を住まわせるなどルール違反もいいところだ。
 それを、陛下が許せるはずがない。

(それは、エルゼヴェルトの驕りだ)

 当時、降嫁に反対する者はとても多かったのだという。
 しかも、母はおかしな噂すらでるほど陛下にこの上なく溺愛されていた。
 誰がみても不実とわかる男の元に嫁がせるくらいなら、陛下のお手元でのんびりと暮らす方がずっと幸せだっただろう。
 それに、母はまだ成人したばかりだった。公爵と違って婚姻を急ぐ理由はまったくなかったのだ。

「……できなかったのだよ。どうしても」

 喉の奥から搾り出すように、陛下はその言葉を紡ぎ出す。

「ずっと、不思議でした。母を誰よりも大切に思ってくださっている陛下が、なぜ、みすみすわかっていた不幸に母を追いやったのが」
「わかっていた不幸と言うのか?」
「男の人は、十五も年が離れていて、しかも、すでに長年連れ添った妻同然の愛人のいる男の元で、まだ成人したばかりの少女が幸せになれると本気で考えられるものなのでしょうか?」

 私の問いに陛下は、ひどく苦々しい表情になる。
 それは、何よりも雄弁な答えだった。

「殿下のような方ならまだしも、話で聞いただけで公爵のなさりようは酷いと思います」

 十五違いは私も同じこと。なので、何となくフォローじみたことを口にしてしまう。

「……幸せになれるということを疑わなかったのは、何も知らなかったエフィニアだけだ」
 
 疲れたような声音。
 実年齢よりも若くみられることの多い陛下だったが、今は、ひどく年をとってみえた。

(ここにもある矛盾)

 陛下は、私の母たるエフィニアを愛していた。
 そして、エフィニアの子だからこそ私に執着し、それが今の私への行き過ぎた厚遇につながっている。
 だが、ならばなぜ、母の悲劇を止めなかったのだろう。

 わかっていなかったとは思えない。
 そして、止めることができなかったとも思わない。
 誰よりも愛する妹王女の不幸を、この方が何することなく見逃したのが不思議だった。

「いろいろなお話を、聞いたのです……私が直接お話を聞けた方は数えるほどでしたし、その当時を直接知っていた者は更に少なかった。皆、誰かの又聞きにすぎませんでした。
 それでも、少なくない人数の者が母の降嫁が取り消されなかったことを不思議に思っていた……結果論かもしれません。
 でも、こんなにも母を……エフィニアを大切に思っておられる陛下が、不幸になることが目に見えてわかっていた公爵との婚姻をそのままお認めになった理由がわかりませんでした」

 母の話をしてくれた時のナディル殿下の声が、耳の奥で蘇る。

『私は、陛下が彼女の結婚をとりやめるだろうと思っていた。……異母とはいえ、あれほどまでに溺愛している妹を、他の女にかまけている男にお許しになるとは思ってもいなかった』のだと。
 だから、婚姻の為、王宮から花嫁行列が出て行ったその瞬間でさえも、形だけのもので彼女はすぐに戻ってくるのだと、心のどこかで思っていたのだ、と。

「ナディル殿下は、私の母が初恋だったのかもしれない、とおっしゃっていました。そして、自惚れかもしれないが、たぶん、嫌われてはいなかったと」

 陛下は私の言葉に天を仰ぐかのような様子で嘆息を漏らす。
 
「殿下と母はさほど年齢も離れていません。血筋的にも年齢的にも釣り合いは悪くなく、さまざまな条件的にも、公爵とよりも相応しいように思えます」

 そうなっていたら、今ここに私は絶対にいないのだけれど。

「それに、疑問に思ったのはそれだけではありませんでした。……自身の不行状があったとしても婚約破棄されることはないのだと、なぜ公爵は知っていたのでしょう?何が公爵をそれほどまでに増長させていたのかが不思議です」

 誰もが婚約破棄されても当然だと思っていたのにも関わらず、当の本人だけはまったくそんなつもりはなく、むしろ、事態を悪化させていたように思える。
 母が父に嫁いだのは、先代公爵の喪が明けた15歳の時。
 私の祖父である先代公爵がいた時点では、父もそれほど目立つようなことはしていなかったのだが、祖父公爵が亡くなって二月ほどで、上の子供たちを本城にひきとり、更には母との結婚を控えた時期にルシエラと下の子供たちを敷地内の別邸に住まわせた。
 ダーディニアの国法上、ルシエラの子供達には相続権がない。が、公爵の子息としての教育を受けさせてやることはできるのだ。
 だがそれは、側妾を置くことに関してわりと寛容なところのあるダーディニアであっても外聞のよくないことだった。

「エフィニア本人が乗り気だった。年上の、大人の男に見える婚約者に、エフィニアは憧れていた。……そもそも、エフィニアの婚約は父王が定めたことだ。しかも、エルゼヴェルトは『王妃の家』。王家とは不可分だ」

『王妃の家』……それは、そもそもが初代エルゼヴェルト公爵が建国王の王妃の弟であり、以降、三代続けて第一王妃を輩出したことに由来している。
 四公爵家の第一位。その格は、「エルゼヴェルトを妻にも母にも持たぬ王はない」と言われるほどで、いろいろな意味で別格なのだ。
  
「だから、陛下には止めることができなかったと?」
「……ああ……私には、どうあっても止めることができなかった。私は認めたわけではない……諦めたのだ」

 苦しげだった。ご自分のお子様達には関心がないとおっしゃる一方で、私の母、エフィニアのことになるとこんなにも苦しまれる。
  
「それは、なぜですか?」

 理由があるのだ。不幸になるとわかっていてもエフィニアと公爵を結婚させなければいけなかった理由が。

「………………」

 陛下はうなだれるように床を見、口を開こうとしない。

(まあ、すんなりお答えいただけるとは思っていなかったけど……)
 
「では……」

 私はもう一度深呼吸をした。ぎゅっと拳を握り締める。
 こういう場合は、まったく違う質問を投げかけるほうがよいだろう。
 迂遠ではあるけれど、少しづつ確信に切り込んでいければ良い。
 
(ただ、これを口にするには覚悟がいる)

 口にするために勇気をふりしぼる。
 脳裏の片隅をいろいろな人の顔が思い浮かんだ。

「……なぜ、陛下は私を狙うのでしょう?」

(言ってしまった……)

 陛下が、はじかれたように顔をあげた。
 その目が驚愕に見開かれている。
 内心では、自分で言い出した事ながら、そこまで驚きを露にする陛下に私も驚いている。
 けれど、そのまま畳み掛けるように、問いを重ねた。

「なぜ、私は大切に慈しまれる一方で、生命を狙われるのでしょう?」

 そう口にしたら、心細いような、ひどく泣きたいような気分になった。

(殿下……)

 殿下にお会いしたかった。
 あの少しぶっきらぼうな口調で、いつものように名前を呼んで欲しかった。
 何も言わなくてもいい。ただ、そこにいてほしかった。

(もう、なかったことにはできない)

 言葉には、言霊というものがあるという。
 口にした瞬間にその言葉に魂が宿ると言われるように、その問いもまた口に出した瞬間から力持つ問いとなる。
 
「陛下は、なぜ、私を憎んでおられるのでしょうか?」

 それは、夜の静寂の中に思いのほか大きく響いた。






 くっくっくと押し殺した笑いが漏れる。
 陛下が笑っていた。あるいは、嗤っていたのかもしれない。
 肩を小刻みに震わせ、喉の奥で声を押し殺している。
 そして、顔をあげた。

「すごいな、ティーエ。本当にすごい。それは、自分で気がついたのだろう?王太子が君にそんなこと話すわけがない」

 その瞳が、どこか危うい光を宿している。
 熱を帯びた眼差しは、陛下をまるで別人に見せる。

(こんな方だったのだろうか?)

 心底おかしげに笑っていた。
 なんだか、見るたびにこの方は別人であるように思える。

「ああ、確かにそなたは別人だ」

 私の人形姫ではない、とうたうようにつぶやく。
 人形姫、というその言葉に、もう心は波立たない。

「なぜ、気がついたのだね?」

 席を立った陛下が、いつのまにか私の目の前に立っていた。
 あわてて立ち上がろうとした私の肩に手をやり、そのまま席へと押し戻す。覆いかぶさるように上から覗き込まれて、反射的に身をひいた。
 でも、ひききることができなくて、驚くほどの近さでその瞳を覗き込む。

「私は、君に気づかれるようなヘマを、いつしたのかな?」

 銀を帯びた蒼氷色の瞳は、私を映しているのに、私を見ていない。
 そして……。
 
(こんなにもわらっているのに)

 ひどく虚ろだった。その空洞が見えるような気がした。
  
「先ほど申し上げました。……もう、随分と前だと」

 声が震えずに答えられたことに内心安堵する。

「ああ、あれはここにもかかるのか」

 ハハハハハ、と、陛下は高笑いし、私から離れる。
 その笑声はどこか物悲しさを帯び、天井高くに吸い込まれていった。
 私は笑わなかったし、笑えるような気がしなかった。

「なぜ、なのですか?」

 否定してもらえなかったことに、胸が痛む。
 できることならば、私を疑うのかい?と、笑い飛ばして欲しかった。
 ううん。否定してもらえるのならば、何を言ってるんだ、と怒られても構わなかった。
 けれど、陛下は笑みを浮かべるだけだ。

「私が湖に落とされたのは、陛下の思し召し、だったのですね」

 何度も重ねられる身の危険。本当に生命の危機を覚えたのは数えるほどだったが、目覚めてから二ヶ月たらずで、すでに何度おかしなことがあったことか。

「思し召し、か……君は、いったいどこまで知っているんだろうね?ティーエ」

 それは私にもよくわからない。わが身の危うさが、私にはよく理解できていないのだ。

「……私が知っていることなど、そう多くはありません」
「でも、君は実に言葉の使い方が的確だ」

 素晴らしい!と、陛下は大げさに手を広げる。
 どこか仕組まれたような、何だか操り人形みたいな動作だった。

「……ありがとうございます」

 何をどう口にしていいかわからなかった。

 予想はしていた。
 でも、予想と、事実を目の当たりにするのとではまったく違う。。
 だって、陛下は私の最大の庇護者なのだ。そんな人が実は黒幕なのだと、それを我が目で見ることは想像しているのよりもずっとキツイことだった。

「私は、君がなんで私なのだと思ったかにとても興味があるよ。だって、私は嘘偽りなく君を愛しているし、一度だって君を哀しませるようなことも、君を痛めつけるようなこともしたことがない。多少、行き過ぎるところもあったかもしれないが、常に君を大切に守ってきたはずだ。なのに、なぜ、私だと思ったのだろう?」

 教えてくれないか、と陛下は笑みを浮かべる。
 その笑みは優しかったし、慈しみに満ちていて、決して見せ掛けだけのようには見えない。
 だが、その一方で私を狙うのもまた、陛下なのだ。

(矛盾する感情……愛情と憎悪が共に並び立つ)

「君は、私が犯人だといわなかったし、私が殺せと命じたとも言わなかったね」
「……はい」

 陛下が実行犯であるなどとは思ったことがない。
 高位王族というのはほとんど一人になることができないようにできているし、物理的には自由であっても、その実、常に拘束状態にあるようなものだから、秘密裏に何かを行うことはほとんど不可能だ。
 そして、陛下は私を「殺せ」と命じることはできなかっただろう。

(陛下は『国王』であられ、私がエルゼヴェルトの推定相続人である為に……)

 なぜ、そこまでエルゼヴェルトが特別なのかは、表面上は、四公爵家の筆頭であるからという理由しか知られていない。
 けれど、それだけではないのだ。

(それだけの理由では、足りない)

 私は目の前の陛下に、改まった気持ちで視線を向ける。

(答えは、この方がしっておられる)

「その通りだよ。私は君を傷つけるようなことは何一つしていない。私は、誰よりも君を愛していると自認しているのだ」

 どこか得意げにすら見える表情。
 最高に機嫌が良いように見えるその様子。
 
「私が殺せと命じたことがないということを知っているのに、君は私が生命を狙っているというのだね」
「……生命を狙っている、というほどではないのかもしれません。ただ、結果としてそうなってもいいと思っておられたのだと思います」

 アルティリエはいつそれを知ったのだろう。
 そして、どれほど恐ろしかっただろう。 
 国王陛下に生命を狙われるということの意味がわからぬほどアルティリエは幼くなかった。

(アルティリエは、聡明な子供だった……)

 ある意味、その聡明さが彼女を殺したとも言えるのかもしれない。
 きっと気づかなければ、彼女は彼女のままでいられたのだ。
 でも、彼女は気づいてしまった。

(ナディル殿下にふさわしくありたいと、学び続けていた為に)

 その皮肉に胸が痛む。
 何も知らない子供でいられれば、絶望することなどなかったのだ。
 
「なぜだい?」

 誰にも言えずに一人で抱え込み、どれだけ心細かったことだろう。
 でも、どうしても誰かに相談することはできなかったに違いない。

(相談した相手に災いが降り懸かることを恐れたから)

 もしかしたら、これまでに亡くなった人の中に、アルティリエが相談した人がいるのかもしれない。

(たとえば、家庭教師だった教授とか……乳母とか……)

 そうだとすれば、教授は病死だったけれど、アルティリエは自分のせいだと思ったかもしれない。
 乳母については、彼女をかばったという事実もあり、もっと直接的に自分のせいで殺されたと思ったかもしれない。

(殿下には……)

 きっと、言えなかった。
 殿下にこそ一番頼りたかっただろう……。
 でも、あなたの父親が犯人なのだと告発することが、アルティリエにはできなかった。

「それは、陛下しかご存知ないことだと思います」

 少なくとも、私は知らない。

「ああ、そうだね。……うん、そうだ」

 くすくすと、おかしげにわらう。
 ならば、とその唇が笑みを形作った。

「……ならば、なかなか良い分析の褒美に教えてあげよう」

 口元にその笑みを貼り付けたまま、陛下は続ける。

「……私は、賭けをしようと思ったのだよ」
「賭け?」

 今、この場ででるにはあまりにもそぐわない単語に、私は首を傾げた。

「そう。賭け、というのがわからないのなら、遊戯と言い換えてもかまわない」

 陛下はごく穏やかな口調で話を続ける。
 なぜか、背筋がゾクリとした。

「……陛下?」

 何かが頭の奥で警鐘を鳴らしている。
 それは聞いてはいけない類のものだ。

「遊戯の相手は、王太子。そして、景品は君だよ、ティーエ。君が持つ、この国だ」

 ぐらりと目の前が揺らいだような気がした。
 



 ***************

 2013.09.26 更新

 誤字脱字チェックありがとうございます。
 それと、コメントもありがとうございます。
 返信まったくなくて申し訳ないですが、全部読ませていていただいています。
 その一言が書くための燃料になってます。 



[8528] 40
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/10/14 20:31
 私がこの国を持つという意味が、私にはわからない。
 ただ、納得はする。
 というか、あらゆる符号がそれを示している。
 この国……ダーディニアにとって、『私』はとても大切な存在なのだと。
 そう。もしかしたら、国王陛下以上に。

「何か得心したような顔をしているね」
「あまりにも皆が私に過保護な理由がそれなのだろうと理解できました。なぜ私がそこまで特別なのかはわかりませんが」
「……それは長い長い話になるから場所をかえないかい?ティーエ」

 ここは寒すぎる、と陛下が言う。

「申し訳ありませんが、私は西宮からは出られません。殿下とお約束しましたから」

 本当はあれは西宮ではなく王太子妃宮をさしていたんだろうけど、拡大解釈して西宮ということにする。苦しい言い訳なのはわかっているけど、単に自分のやましさをごまかすための建前なのでそれでいい。

「私の命令でもかい?」
「はい」

 私のうなづきに陛下は眉をひそめて不快を示される。

「……国王の命よりも王太子の命を優先すると?」
「いいえ。義父の命よりも夫の言いつけを守るだけです。お許しくださいませ」

 私はひょこっと立ち上がって、ふわりとワンピースの裾を揺らして軽く一礼し、また元のように座る。
 陛下は、くつくつと喉の奥をならして笑った。

「それは咎められないな」

 その言葉に笑みを浮かべてみせる。内心、どれほど逃げ出したいと思っていても、怖気づいていても、それでも笑う。

「せめて、壇上に行こうか」
「……はい」

 促されるまま、祭壇の置かれた一段高くなった壇上に足を踏み入れた。
 祭壇周辺には、天井からいくつもさがっている常夜灯がある。それが暖房器具がわりになっていて、信徒席側に比べれば段違いの温かい空気に包まれている。
 更に、信徒席の床は大理石のモザイクなのだが、ここは磨きぬいた床板で美しい文様が寄木細工で描かれている。下からの底冷えがないのも、この場所が暖かく感じられる理由の一つだろう。
 陛下は、司教席と司教補佐が腰掛ける椅子を向かい合わせにして、私に司教席を勧めた。私が一礼して司教席の長椅子に腰をかけると、陛下は腰の剣を私と自分の間の床においた。
 これも、貴婦人に対する心遣いの一つだ。
 もし、不埒なことをしたらこの剣もて我が胸を刺して構わないという意味である。

(現実問題として、これ、私には抜けないと思うけど)

 飾り気のない無骨な実用一辺倒の剣は見るからに重量がある。持ち上げることができるかも怪しい。
 
「……私の話をする前に、君の話を聞いておきたい」
「私、ですか?」
「そう。何がきっかけだったのだろう?」

 陛下はどうあっても、私がなぜ陛下を疑ったかを知りたいらしい。
 何というほど明確な何かがあったかといえば、実はないのだ。
 一つ一つは些細な違和感だったり、疑問だったり、新たに発見した事実だったり……それらの積み重ねが収束した結果というべきだろう。

「一つ一つは些細なことなのです。……例えば、私の大切にしているものがいつも失われること……管理の厳しいといわれている西宮の、更に最も出入りが制限されている私の宮で、なぜそんなにも頻繁に物がなくなったり壊されたりするのでしょう?単純に考えて、内部犯を疑うのが当然の流れです」
「そうだね」
「私の宮にいて不思議に思われることなくそれらに手が届くのは言うまでもなく侍女達です。私の侍女はなかなか定着しないことで知られています。女官であるリリアは別としても、これまでの侍女達は短ければその日のうちに、一年保てば褒賞に値するといわれるほど入れ替わりが激しかった。何らかの処分を受けた者も多かった……彼女達について調査してもらうとおもしろいことがわかりました」
「おもしろいこと?」
「全員とは言いませんが、そのほぼ全員が本宮に近親者が勤務しており、その大半が後宮に何らかの縁を持っていたのです。」

 後宮は、陛下の私的空間だ。そこに縁のある人々は、何らかの形で陛下の影響下にあると考えられる。

「それが?」
「亡くなったエルルーシアもそうでした。彼女は、王妃殿下の命で私に仕えていたのです」
「ふむ」

 陛下を見上げた。こうして見る分には普通の中年男性だ。既に五十を越えているけれど、見た目はだいぶお若い。
 ただ、少し痩せすぎではないだろうか。
 普段目にしているのが護衛の騎士かナディル殿下なので、余計にそう思うのかもしれない。
 彼らは別に太っているというわけではないのだが、よく鍛えているせいで、陛下のような線の細さを感じさせない。

「西宮に移り、リリアが来た頃からそういったことは激減していたといいます。それは、西宮の最奥の王太子妃宮に入ることが困難になったこと、リリアという専属女官の目を盗むことが難しかったこと。そして、度重なる事件のせいで陛下が私に何かした人間を決して許さないということが周知の事実となっており、さまざまな要因がそれを阻んでいました……ですが、ゼロではなかった」

 だからこそ、アルティリエは大切なものを隠していた。

「亡くなったその侍女を疑っているのかね?」
「……私が、この王宮に戻ってきてから、そういった事件は一度もないのです」

 すべてがエルルーシアの仕業であったとは思わない。
 けれど、彼女が誰かの……おそらくは王妃殿下の……手であったことは事実だろう。ユーリア妃殿下も否定をされていない。

「考えすぎだろう。そもそもユーリアが、自身の信頼できる侍女をそなたの側近くに仕えさせるは当たり前だ。あれはそなたの母代わりなのだから」
「その言葉だけを聞けばそうなのですが、彼女は表向き、ナディル殿下の縁で宮殿にあがっていたことになっているので」
「表向きというのは、虚偽なのかね?」

 虚偽であれば厳罰に処さねばならぬ、と陛下は眉をひそめた。

「虚偽ではありませんが、絶対的に正しくもなかった……なぜ、隠していたのか……別に隠すようなことではないはずです。でも、王妃殿下とのつながりを知られたくなかったからなのではないでしょうか?」

 ナディル殿下に、それを知られたくなかったのだと考えるのは穿ちすぎだろうか?

「だとすれば、そなたを狙っているのは私ではなく、ユーリアなのではないのか?」
「いいえ」

 私は静かに首を横に振る。

「なぜだね」
「妃殿下は、王妃であることがご自身のすべてのように思っておられますから」

 ユーリア妃殿下は、王妃であるご自身に強く執着している。
 愛する祖国の滅亡を救えなかったことやご自身が身代わりであると思っておられること等、それらのすべてとダーディニアの王妃であることが引き換えのように思っているようなところがある。
 まるで、王妃である自分にしか価値がないとでもいうように。
 そんな妃殿下が、ダーディニアが国としてあるために必要な私を害するはずがない。

「妃殿下は、陛下の意向を汲んだだけなのではないでしょうか」

(何よりも、あの方は私にそれほど関心がない)

 関心がない、と一言で言ってしまうと語弊がある。強いていうならば、特別な何かがあるわけではないと言うべきか。
 妃殿下にとって私に何らかの価値があるとすれば、それは陛下が私に執着なさっているという点だけだ。
 だから、陛下というファクターをはさまないで私に何かをしようとは考えないと思う。
 つまり、彼女の言っていた『ささやかな嫌がらせ』さえも、私は彼女自身の意志ではないと思っているくらいだ。

「私の?」
「はい」

 私は首を縦に振る。
 陛下は答えない。

「ユーリア殿下は、私に何かするほど私を愛しておられませんから」

 私の言葉に、陛下は笑みを浮かべた。
 
「陛下は、何もなさらなかった……ただ、ごらんになっていただけだった。ご自身の言葉ひとつ、あるいはその言動一つに右往左往する人々を」

 この国の政治を動かしているのは、ナディル殿下だ。
 陛下は政に関心がなく、口を挟もうとしない。
 そんな陛下が日々、何をしておられるか……それは『社交』だ。
 夜会や舞踏会……あるいはお茶会や音楽会……陛下はそういった催しがお好きで、毎日、どこかで開かれている何らかのイベントにこっそり参加している。
 お忍びの参加という体裁をとって参加しなければならないほど、陛下の夜会や音楽界等の各種催しへの行幸は盛んなのだ。

(政治的権力からは離れておられるが、貴族たちへの影響力は大きい)

 政治的権力が伴わなければ影響力などないだろうと考えるかもしれないが、仮にも国王陛下である。実権はナディル殿下にあれど、陛下はナディル殿下にそれなりの影響力をもっていると周囲にみなされているのだ。
 
「今回のこともそうでした。陛下は、殺したいというよりは、仮にそれが私の死を招いてもかまわないと考えておられたのだと思いました」

 殺そうとしている……あるいは、私が死んでも良いと思っている人たちと、さほど直接的ではなくとも私を狙っている人たち……これらの間に何の違いがあるのか。
 フィル・リンは違いがあると考えていた。殺そうとしている者と嫌がらせをしている者は別であるのだと。目的がまったく違うのだから同じであるはずがないのだと。
 確かに別物ではある。
 私も違うのだと思っていた。でも、そのどちらに所属するかは、そう大した差ではなかった。
 なぜならば、実行する手がどれほど違っていたとしても、それを動かす意思はひとつだったからだ。

「本当にそなたにはわかっているのだね」

 どこか甘さを孕んだ声だった。

「証拠は何一つありませんけれど」

 陛下は、床に片膝をついて、私と目線の高さをあわせる。
 慈しみに満ちた眼差しだった。

「君を害そうと思ったことなどないのだよ」

 その手が、私の髪をそっとすくう。背筋がびくりと震えたが、私はその手をはねのけなかった。
 事の、その中心にいたのが陛下だとしても、この方が私を大切に思ってくださっていることは否定できない。今、こうしている陛下に嘘はないのだ。

「でも、結果として、あの時までの私は失われました」

(あなたこそが、アルティリエを殺したのだ)

 そう思うのに、なぜか責めることができない。
 ただ、胸が締め付けられて息苦しかった。

「君はこうして傷一つなくここにいる」
「身体的には、ですね。でも、心は別です。……だから、私は思い出すことができないのでしょう」

 身体が覚えている事。
 不意に襲いくる泣きたくなるような切なさだったり、理由のない恐れだったり……あるいは、どうあっても胸の片隅から消えない淋しさだったりするそれは、きっとかすかな記憶の残滓だ。
 医師は何かの拍子に思い出すかもしれないと殿下に言っていたが、私はもう思い出さないだろうと思っている。

(『私』が、ここにいるから)

「何度も申し上げていますが、記憶が失われるというのは、それまでの自身を失うことです。私の中にはそれとわかるような記憶はいっさい残っていませんでした。それまでに過ごしてきたすべてを私は失い……それは、それまでの私が殺されたということに他ならないのだと思います。陛下に私を殺すつもりはなかったとしても、予測しなかったわけではありますまい」
「ティーエ……」
「……なぜ、私はあの冬の湖で殺されたのでしょう?」

 さっきも問うた同じ問いを、言葉をかえて繰り返した ──── 陛下の眼差しが揺らぐ。
 他国の人間にも狙われているかもしれない。あるいは他にも狙う者がいるのかもしれない。
 でも、これほどまでに守られている私の身に迫ることができる者はそう多くはない。

「陛下の私に向ける優しさを嘘だとは思いませんでした……でも、怖いと思いました。妃殿下もそうです。何も覚えていないのにこわかった。……最初は、殿下のことも怖かったのです。でも、それはすぐに消えた。なのに、陛下や妃殿下を怖いと感じることは消えなかった」
  
 私の中には確かにアルティリエがいて、その記憶の残滓がある。

「ティーエ……」
「愛することと憎むことはとてもよく似ています」

 それはユーリア妃殿下をみていればわかることだ。
 私はまっすぐと頭を上げる。

「……ティーエ」

 その声音がどこか悲痛な色を帯びる。

「陛下は、私のせいで母が亡くなったとお考えなのですね」

 息を呑む音がする。

「私を産んだせいで母が死んだのだと」

 私は陛下を見る。
 陛下もまた、私を見る。

 エフィニアの子ゆえに、私を愛する。
 だとすれば、そのエフィニアを死に至らしめた私に対しては?
 どちらも同じ私には違いないが、どちらが陛下の中で大きいのだろう。
 ううん。どちらかである必要はない。それは表裏一体だ。
 ただ、時として、どちらかに傾くだけだ。

 交わした視線を先にはずしたのは陛下だった。

「そなたに罪はない……そなたのせいではない……わかっているのだ」
「でも、私を産むことで母が亡くなったのは事実です」
「……違う……いや、違わないのかもしれない。だが……」

 それから、まるで何かにつかれたかのように、違う、違う、違う……と何度も繰り返し、激しく頭を振った。そして……陛下の表情が苦悶に歪む。

「……余が……憎しみを募らせたのはあの男だ」

 余の可愛いエフィニアを死に追いやった男、と陛下は地の底から響いてくるような憎悪の響きでエルゼヴェルト、と呟かれる。

「あの男を殺してしまいたいと思った。ああ、頭の中では、何度も何度も殺したとも。だが、現実には殺せない。余のエフィニアを殺した男を、余は殺すことができない。あの男が死ねば、そなたの身が危うくなる……エフィニアの遺したそなた……ティーエの血を引くそなたの身が危うくなる。そんなことをゆるせるものか」

 ティーエ、そう呼ばれたのは私の名ではない。

「そなたは、余の可愛いエフィニアの娘、だが、同時に殺しても飽きたらぬあの男の娘でもある。愛おしくて大切でならないのに、憎らしいとも思う。そなたの身を守らねばと思う反面、そなたさえいなければとも思う」

 入れ替わる躁と鬱が、めまぐるしく陛下の表情を変えていた。

「なぜ、エフィニアの婚姻を止めることができなかったのかと問うたな。……確かにそなたの言うとおり、無理をすれば婚約を破棄することもできただろう……だが、婚約を破棄してどうする?エフィニアを誰と結婚させるのだ?……ああ、候補は他にもいたとも。王女が嫁すは最高の栄誉だ。……だが……」

 陛下はその言葉を口にするのをおそれるように、口ごもる。
 私はまっすぐと陛下を見つめ、その先を促した。

「だが、一番の候補は、王太子だったのだ」

 ひどい笑いだった。陛下はあまりの皮肉だった、と頬を歪める。

「素行に多大な問題があるとはいえ、エルゼヴェルトを退けるのだ。次の相手はそれなりの相手でなくばなるまい。だが、あれはその条件に合っていた。我が父王に王太子と定められた身だ。まったく問題はあるまい。……誰もがそう思っただろう。エルゼヴェルト以外の三公からも、その提案があったくらいだ」
「それではいけなかったのですか?」

 答えを知っているのに、私は問うた。

「余は、それだけは認められなかった。どうしても認められなかった。エフィニアを王太子の妃にしない為には、あの男に降嫁することを許すしかなかった」

(それは……)

「幸いなことに、エフィニアはあの男に恋をしていた。一方的なものだったが、エフィニアは降嫁する日を指折り数えてさえいたのだ」

 騙されていたのだが、と呟く。

「……そなたの言うとおり、余はわかっていた。恋に恋をするように理想の男を公爵に映してのぼせていたエフィニアは何も知らなかったが、私は知っていた。知っていたが止めなかった……止められなかった。あれの婚約破棄を認めることはできなかったからだ」
「婚約破棄が成立し、ナディル殿下との婚姻が成立したら困るから、ですね」

 私は慎重に確認をとる。陛下はうなだれながらも、首肯した。

「余は、後悔した。ああ、そうだ。余は王になどなるつもりはなかった。なれるはずなどないと思い知らされていた。
 すべて諦めていたから、ユーリアを娶った。それが、ささやかな余の抵抗であったのだ。
 なのに……余の思慮のなさが……ユーリアを望んだ余の浅慮が、エフィニアを殺した。余がユーリアを望まなければ……婚姻などせず、子など持たなければエフィニアは死ななかったのだ。ティーエの遺したたった一人の子が……」

 泣いているのだと思った。
 涙はどこにもなかったけれど、泣いているのだと。

 シュターゼン伯爵やフィル=リンの知る、かつてのご一家は、ごく普通の家族だった。
 子供にあまり関心がなく少々扱いにくい父親とそんな父親との間をうまくつないでいた聡明で優しい母親、仲のよい子供たち……だが、降ってわいた王冠の存在が、その家族の様相を変えたのだという。
 だが、果たしてそれだけだったのだろうか?

「私はあの男が憎かった。憎くてならなかった。殺しても飽き足らぬ……だが、現実には殺すことなどできないのだ……あの男の罪は許しがたい。だが、罪ならば私にもある」
「……………」
「そなたは、可愛いエフィニアの娘……だが、愛しいと思うのに、そなたもまたエルゼヴェルトであるという事実が、心に棘のように突き刺さる」

 そなたはエフィニアの娘であると同時にあの男の娘でもある。と、陛下は苦々しい口調で言う。

「おそらくは、その余の逡巡を、側にいた者達はそれぞれに受け止めたのだろう」

 相反する二つの感情。
 まったく異なる二つの望み。
 ある人には募る愛しさが伝わり、ある人には押し殺しきれない憎しみが伝わる。

「誰が最初にはじめたのか……はじまりは、他愛ない嫌がらせだった。そなたの気に入りのドレスを汚したり、あるいは、大切にしていたカップを壊したり……そのたびに、泣いているそなたを抱きしめ、その背をなでた」

 小さな小さなそなたは、私の腕の中で泣いた。
 目下の者には涙を……弱さを見せてはならぬ、それが王族の教えなのだ、そなたが泣けるところは限られていた、と陛下は言う。

「……そなたはとても辛抱強かった。それでも、我慢できないことはあるものだ。……そなたが私に縋り、私の言葉に慰められていることに、私は歪んだ満足を覚えた。そして、それに気付いて愕然としたのだ。あまりもの自分の醜さに吐き気を覚えさえした」

 私は、震える拳をぎゅっと握り締める。

「エフィニアに生き写しのそなたを見ていると心が和んだ。だが、その反面、そなたを傷つけることで愉悦を覚える自分がいるのだ」

 余の密かなその愉しみに、まずユーリアが気づいた、と陛下は昏い笑みを浮かべて言う。

「ユーリアは何も言わずとも、私の望みを汲んだ」

 ささやかな嫌がらせが繰り返された。
 妃殿下の手は、陛下の手である。
 自身の手で傷をつけ、自身で慰める。
 滑稽で醜悪な図式。

「そして、それはユーリアの思惑を越えて周囲に広がり……急激にエスカレートした。……そこが後宮だった為に」

 閉ざされた空間。
 女たちの嫉妬と羨望がうずまき、ある意味、現実から隔離された場。
 そんなところに火種が生まれたのだ。
 傍目から見れば、ユーリア殿下が嫉妬心から、アルティリエを虐めているようにも見えただろう。
 そして、アルティリエは後宮中から嫉妬されていたのだ。

「余の関心を買うという一点において目的は同じであったが、手段はそれぞれに違っていたな。
 ある者は、そなたに罵声をあびせて貶めようとしたし、ある者は些細というには悪辣すぎる嫌がらせをして虐め苛んだ。
 また、ある者はそれからかばってみせることで余に最も影響力を持つといわれていたそなたの口から自身の賛美をひきだそうとした。後宮中がそなたを目の敵にしていた。
 余は、女という生き物の醜悪さを目の当たりにしたよ」

 だからといって、今更幻滅するということもなかった、と陛下は口にし、それから付け加える。

「何しろ、最も醜悪なのは私であるという自覚があるからな」

 穏やかな様子なのに、その言葉にはどこか底のしれない熱がある。
 まるで、さきほどのユーリア殿下のように。

「そなたを肉体的に傷つけることは許されなかった。傷を負わせなかったとしても、挨拶に来なくなるほどのことを起こした者も許さなかった」

 ほんのわずかでも傷をつけることを許したら、どんな大怪我をするかわからない。だからそこには慎重に目を配ったのだ、と陛下は言う。

「そなたが失われることがあってはならない……危険な状態にあることはわかっていた。すべてが私の思い通りに運ぶわけではない。暴発することとてありえるのだ。
 ……それなのに、救いようないことに、そこに至っても余は余の腕の中でそなたが涙を流すたびに、あるいは、どうしてもたえきえずに一つずつ感情を亡くしていくたびに、心が震えた。傷つけたのは自分であることに昏い喜びを覚え……そして、それでありながらそなたを傷つける者を憎み、厳罰を与え、我が手でそなたを庇護することに酔っていた」

 そのどうしようもない泥沼。
 救いがない、と思う。
 幼いアルティリエに抵抗する手段がない。 

「やがて、そなたの侍女が怪我をしたり……死者も出た。随分と噂にもなった……それでも、後宮だけでおさまっていればまだよかった。
 だが、騒ぎは表にも飛び火したのだ。無関係な人間が何人か死んだ……
枢機卿の乳母や、王太子の学友やら……私は何が起こったのかわからなかったよ」
「………………」
「悪意というものは伝染するのだと知った」

 そなたが何も関わらないところで思いもかけないような事件がおきたのだ、と陛下は言う。
 誰もが、心の中に隠し持つ悪意。
 誰だって腹をたてたり怒りを覚えることはある。それが現実の事象に結びつくことはそう多くはない。
 人は理性ある生き物だ。そして、『時間』は感情をも昇華することができる。
 でも、陛下の悪意は、他者の悪意に火をつけてしまったのだ。それが罪となるほどに。

「人とはどこまでも欲深く、醜悪なものだ。余は、それをただ見ていた」
「止めようとは思わなかったのですか?」
「直接見知った者ならばともかく、どういう影響で何が動き、誰がどうしたのか……もう私にもわからなかった」

 陛下は無表情に言葉を重ねる。
 
「私は傍観者だった。いや、新たな火種を投げ入れることさえした。どうでもよかったのだよ。私は大概のことに関心がない」

 むしろ、おもしろい見せ物のように思っていた、と陛下は無慈悲とも思えるような発言をする。
 時々、身の程知らずにもそなたを傷つけた人間を処分するのも、退屈しのぎには良かった、と

「他者が何人死のうと気にならなかった。私には何もない。……やがて、王太子が気がついた。本格的に国政に関わり、まだ大学にも通っていた時期だったのだが、あれは細かなところにもよく気がつく」
「気付いた殿下が、私を後宮から連れ出したのですね?」
「そうだ」

 陛下は大きくうなづく。

「そこでまた新たな事件がおこった。……いや、あれは、私が起こしたというべきなのか……。
 私の寵姫とされていた女がいた。以前からずっと余計な野心を抱いていた女だ。女はずっと、妃になりたがっていた。それも、側妃ではな、王妃にだ。
 確かに私の正妃の座は二つしか埋まっておらぬ。だが、なぜ己が残る座に座れるなどと考えたのか……余にはその思い上がりがまったくわからぬ。
 正妃の地位が、なぜ四公家の娘にしか許されなかったのか……ユーリアがその地位に在るから自分もなれると思ったか?
 狭い後宮の中で華やぐことしか考えておらぬ愚かな女……自分の美貌が私を虜にしているのだと思い込んでおった。私がそれまで何も言わずにあれの望みをかなえてやっていたのは、あれとは話をする必要を認めなかったからだ」

 酷薄な表情は、外面を整えている時の殿下との相似を強く感じさせる。

「そもそも、あの女を選んだのは、あの女がエフィニアの最も近しくしていた学友だったからにすぎぬ。あれは黙って座っていればよかった。余はあれを見るたびに、たやすくエフィニアの思い出をたどることができたのだ……」

 あれらはいつも二人でいたから、とつぶやくその眼差しは、遠くに向けられている。

「ただそれだけの価値であったのに、よくぞ思い上がったものよ。あれはティーエなど知らないと言った。ティーエを狙ってなどいないと。狙っていなくとも、巻き込まれれば同じであろうに。
 あれは、最後まで、自分だけは許されるだろうと……後宮に戻れるのだろうと思っていたようだ。
 私がティーエを狙ったものを許したことなど一度もないというのに。余の側近くにありながら、何を見ていたのか不思議だった」

 寵妃など、その程度のものだ、と陛下は嘯く。

「そなたが西宮に居することになって私は心のどこかで安心した。王太子は本当に出来の良い子だった……あれの元にいるのならば、きっと守られるのだろうと思った。……だが」

 陛下はそこで言葉を切り、そして嗤った

「だが、安心するのと同時に、どうしようもなく心が揺らいだのだ」
「……………」
「余は、そなたを王太子に奪われたと思った」
「私たちの結婚を決めたのは陛下であったはずですが」
「ああ、そうだとも。エルゼヴェルトから取り戻すのにそれが一番の方便だった。同時に、四公爵家の者ではない母から生まれた王太子には絶対にそなたが必要だった……どんな手をつかったとしても絶対に必要なのだ。だから、それは最適な理由になった。余は、もう二度とそなたをどこにもやるつもりがなかった」

 吐き捨てるような語尾に、憎しみと怒りとがほの見える。
 『エルゼヴェルト』はそれほどに憎しみをかきたてる存在らしい。

「王太子の元にそなたが連れ去られ……半年もせぬうちに事はおさまりつつあった。あれは、事の本質がどこにあるのかよくわかっていたようだった。まあ、そうでなくばこの国を治めることなどできまい。……巧みに実権を握り、私の周囲に統制を加えるようになっていた」

 陛下を止めることはできない。陛下は何もなさっていないのだ。
 だが、その周囲を止めることはできる。
 陛下の手足となる人々、陛下の影響で動く人々を統制することで、事の沈静化をはかったのだろう。

「……………」
「そして、私は、そなたの心が王太子に傾きはじめていることを知った」

 ある意味、それは当然だ。
 泥沼な状況に投げ入れられていた幼い少女が、自分をそこから助け出してくれた相手に心を傾けぬはずがない。
 ましてや、その相手は夫なのだ。想っても許される相手だ。
 普通ならば。

「救いようのない私は、喜ぶより先に怒りを覚えたよ。そなたを奪われた、という思いが一層つのったのだ。それは、エフィニアのことを私に思い出させた」
「殿下は陛下の御子です」
「ああ、そうだ。……だが、私ではない。私にはあれがエルゼヴェルトと重なった……私からエフィニアをうばったエルゼヴェルトに」
「似ているところなどございません……殿下はユーリア妃殿下と陛下の御子です。エルゼヴェルトの血など一滴もひいていない」
「ああ、そうだ。だが、その事実もまた私の怒りをかきたてる……あれが一滴でもエルゼヴェルトの血をひいていれば、そなたを与えずともよかった」

 陛下は笑う。
 私はやりきれない気持ちになった。

「……今のこの事態に、陛下は関わっておいでなのですか?」

 エサルカルの政変からはじまる帝国軍進攻にいたるまでの流れに、この方は何か果たす役割があったのだろうか?
 だが、まさか、という思いしか浮かばない。
 ダーディニアは、婚姻外交こそないものの別に鎖国をしているわけではない。
 友好国は王都に大使館を構えているし、こちらからも派遣している。
 だが、陛下は外交には積極的に携わっていないのだ。

「さて……余は、帝国やらエサルカルやらの匂いがする謁見者に多少のリップサービスはしたが、売国奴になった覚えはないな」

 陛下が好んで許される謁見者は、音楽家や芸術家だ。
 陛下は『芸術の庇護者』として知られている。普通、どこの国でも国王陛下への謁見はそれなりの身分でなくば叶わないが、ダーディニアでは、陛下の御心をひくような一芸をもっていればそれが叶う。
 たとえ敵国と認識されている帝国人であったとしても、高名な音楽家、あるいは画家であれば許されるのだ。
 
(多少、身分が怪しくても)

「……何をされたのですか」
「何もしていないよ、ティーエ。ただ、あれらの使者を名乗る者の話を笑って聞いてやっただけだ。何度かうなづいてもやった。それだけで今のこの事態があるとしたら、その方が驚きだよ」

 もし、そうなのだとしたら、帝国もエサルカルも随分と単純なことだ、と陛下は口元を歪める。

「余の身辺に帝国やエサルカルの手の者が入りこんでおることが不思議か?」
「はい」

 陛下の身辺は、殿下の統制の下にあるのだとさっきご自身でおっしゃっていたはずだ。
 エサルカルはまだいい。エサルカルは政変の前は友好国だったのだから。
 だが、帝国は完全に敵国だ。特に、ナディル殿下は、帝国では悪鬼羅刹のような扱いだと聞いた。帝国にとって我が国は最大の敵国であり、我が国にとってもそれは同じだ。
 敵国とのかかわりが疑われるような人間が、陛下の側近くに在ることが見逃されるとは思えない。

(我が国……)

 自然にそういう発想が浮かぶこと、それがこのダーディニアを示すことに気付いて少し驚いた。

「余は、心底、政を疎んじているのだが、そうとは思わない人間が多くてな。権力というものはよほど魅力的なものであるらしい。できもせぬくせに、王太子から実権を取り戻してやるともちかけてくる人間が多いのだよ。王太子に実権を奪われ、それを取り戻したいと余が思っていると思い込んでおるのだ」

 なぜ、余がそんな面倒くさいことをせねばならぬのだと、陛下は溜息をつく。

「余は、政に関わらぬ。そう決めておる。王太子には済まぬと思うことがあるのだ……だから、おかしな者がおれば、ちゃんと王太子に伝えもする。王太子はちゃんと知っていた。取り締まることばかりがすべてではない。顔がわかっているスパイなどスパイでも何でもない。ただの伝書鳩だ」

 そう口にされる陛下を見ながら、やはり、この方は生まれながらの王族であるのだと思った。
 政を厭い、それを公言し、ご自身で遠ざけているのにも関わらず、支配する者としての意識が根付いている。

「……そなたは、自分が何の為に生まれてきたのか考えたことがあるか?」

 陛下の言葉に、私は目を大きく見開いた。
 全身が震えた。

(ある)

 私ははっきりきっぱりとそう答えられる。
 というよりは、目覚めてからずっとそれを考えていた。
 なぜ、私の記憶が蘇ったのか。
 私がここにいる意味を知りたかった。

「私は、それを確かめたくて、賭けをはじめた」
「それが、私を挟んで殿下と対峙されることだと?」
「王太子を試そうと思ったのは確かだ。だが、それだけではない……ただ、そなたは、この国そのものを象徴しており、王太子は変革であり、未来から吹く風であり、新しい血だ。私は……変えようのないこれまでの歴史であり過去であり、王家の歴史に澱んだ汚濁そのものだ。
 そなたという存在が唯一無二のものになってしまった時、私達が象徴するものに思い到り、運命の皮肉、のようなものを感じたものだ」
「運命、ですか?」
「ああ……人ではどうにもならない何か、計算や謀ではどうにもならない何か……私はそれに抗い続けてきたつもりだった。けれど、結局私がたどり着いたのは私が逃れたいと思ってきたその続きでしかなかった」

 この方は、何に抗ってきたのだろう。
 記憶のない私には、この方に対する何らかの思い入れや強い感情に欠けている。あるのは、アルティリエのもっていたその欠片と、どうしようもないやるせなさだ。

「陛下と殿下がなさってきた賭けの勝利条件は何ですか?」

 陛下が一方的に賭け、と考えておられたとしても、殿下が気付いていなかったわけではないだろう。
 ただ、殿下は、先延ばしにしておられたのだと思う。決着をつけることを。
 だって、単純に決着をつけるのならば、本当は陛下を押さえてしまうのが一番良い。陛下を軟禁なり幽閉なりしてしまうのが最適なのだ。
 それでも殿下はそれをしなかった。

「勝利条件か……」

 陛下は、私を見て、小さく笑った。
 私抜きで向き合ってくだされば良いのに、と思うのだけれど、それができないのがこの親子なのだとも思う。
 断絶っぷりが酷すぎる。たぶん、二人きりにさせたら無言でそのまま朝までとか平気ですると思う。
 何といっても、国王陛下と王太子殿下だ。どちらもスルースキルは最大限に鍛えられている。

「……もう、詰んだよ。そなたがここに来た時点で、王太子の勝ちだ」
「なぜですか?」
「私が勝負から降りるから……王太子が相手ならばいくらでも続けられるが、そなたとは無理だ」

 陛下は、私の頭にそっと手をやる。

「私は、本当にそなただけは大切なのだよ」

 陛下がそう心の底からおっしゃっているのだと、わかるのがイヤだった。どうしようもないやりきれなさが募る。
 さんざん傷つけたのは自分のクセにと恨み言を言いたくなる。
 
「では、殿下でなく私の勝ちですね」

 何だか悔しかったのでそう告げた。

「………え?」
「陛下が負けたのは殿下にではなく、私にですね、と申し上げたのです」
「ああ……余は、そなたに負けたのだな」
 

 陛下は大きく目を見開き、そして、それならばゆるせる、と呟いた。



 ***************

 2013.10.01 更新
 
 見込みが甘くて、40では終わりませんでした。
 まだ、続きます。すいません。



[8528] 41
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/10/26 09:18
「長い昔話になるが、そなたには聞いてもらわねばなるまい」

 余には時間がない、と陛下は笑う。

「おそらく、王太子と話す時間はとれぬであろう」

 殿下は今、国境か……あるいはその周辺にいるだろう。
 開戦の知らせはまだないので、戻りはまだ先になる。一月先になるか二月先になるかは状況次第だ。
 時間がないというのはどういうことなのだろう、と思いながら、ふと、その顔色の悪さに病ではないかと気付く。

「陛下?」

 私が問うまでもなく、陛下は何を聞きたいのかわかったのだろう。
 柔らかな笑みを浮かべて先に告げた。

「余の生命はあと一月にも満たぬのだそうだ」

 穏やかな口調だった。まるで、明日の天気は晴れだと告げるような何気ない声のトーンで、私は一瞬何を言われているのかわからなかった。

「なぜ、ですか」

 平坦な自分の声に、頭のどこかで、ああ、そうなのか、と納得している。

「一年前だったか……、もう少し前だったか……胃に痛みを覚え……宮廷医師の診断の結果、胃の腑によくない腫物があると判明した。触れてそうとわかるほどのものでな。血を吐くようになったら三月もたぬだろうと言われた。その時だったのだ、最後の賭けをしようと決めたのは」

 陛下は軽く首をかしげ、そして遠くを見る。何を見ていたのか……それは、あるいは、私の知らぬ過去をみていたのかもしれない。
 その瞳には、どこか懐かしむような、何かの痛みをこらえるような色が浮かんでいる。

「……終わりにするために?」
「そうだ。かつてないほどにそなたに危険が迫ったのは私が思いつめていたからなのだろう。私が名も覚えていない彼らは、時として驚くほどに鋭い」

 彼ら……陛下の手足となる人々。だが陛下にとって、彼らは彼らという集団でしかない。それらの人々の末端に、エルルーシアや、あるいは、あのエルゼヴェルトのお城のスープ番の人がいたのかもしれない。
 もう帰らぬ彼らを思う時、哀しみにも似た何かが胸を浸す。
 私にできることは忘れないことだけだけど。
 
「……やがて医師が言っていたように、腫物はだんだんと硬くなりはじめ、他のところにも少しづつ同じようなものができているように思えた。私は焦ったよ。このままでは決着がつく前に、自分が死んでしまうのではないかと」

 だが、間に合った、と陛下は笑う。私は笑みを浮かべることが出来なかった。
 めまぐるしく頭が回る。
 胃の腑の腫物やしこり……胃癌なのだろうか?
 私にはその類の医療知識があまりない。
 この世界の医療水準がよくわからないが、この言い回しを聞いている分には、あまり発達しているように思えない。

「とうとう、半年前に血を吐いた……打ち切られた生命の期限からはもう三ヶ月も長く生きておる。私の執念もたいしたものだと我ながら思ったのだが、先日、侍医に言われたのだ。もって、あと一月だとな。だんだんと食べられなくなっているのがよくないらしい」
「……そんな……」

 陛下が、死ぬ?
 やっと、その事実をぼんやりと理解した。

「知っているのは、医師とそなたとユーリアだけだ」
「どうしてですか?!」

 他のお子様方も、他の妃方も知らないのだと陛下はおっしゃる。

「ままならぬ人生だった。余の望みは何一つかなわなかった……せめて、死ぬときは自分の思う形で死にたい」

 何を口にすればよいのかわからなかった。
 どのような慰めも、励ましも陛下には届かないと……無意味だと思った。そもそも、こんな場面で何を言えばいいのかもわからない。自分がどんなに物を識らないかをつくづくと思い知らさされる。
 
「余は、これまで、ささやかな抵抗を繰り返してきた……今となっては何一つ意味がなかった。むしろ、すべてが裏目にでたといってもいい。最後まで負け続きだったが……そなたに負けるのは悪くない気分だ」

(私はとても勝ったとは、思えていませんが)

 ただ腹立ち紛れに口にしてしまったのだが、陛下にはあの言葉が必要だったらしい。

「私も負けたが、王太子も負けた」
「え?」
「だって、そうだろう。この結末はあれですら予測していなかったはずだ」

 くっくっと喉の奥で笑う。
 
「いえ、でも殿下ですから……」
「……何らかの形でそなたが抜け出すことまでは予測の範囲だったかもしれない。ユーリアと対面することもまた予測していたかもしれない。だが……そなたがユーリアを退け、私と対面することは……考えたことはあっても、ありえないと思っただろう」
「なぜですか?」

 殿下なら何でも知ってる気がするのは、私の欲目なのか。

「私が誰よりもそなたを愛していることを知っているから……私が自分から己が犯人であることを示唆すような真似はしないと思っていただろう」

 愛している、という言葉は、私に対して言われているはずなのに、陛下の眼差しは私ではない誰かの面影を追っている。

「愉快だよ……あの、失敗などしたことがないような男が、帝国もエサルカルもその手のひらにのせて転がしてきた男が、十五も年下の幼い少女にしてやられたのだ」
「……殿下はきっと負けたなんて思いません」

 拗ねたような響きになっていたとしたら、これほどまでに断絶していながらも、実は陛下が最も殿下の事を理解しているのではないか、と思えたからだ。

(たぶん、私にはわからないこと)

 こちらの世界で育たなかった私には、王であることも王族であることも、心底理解できたとは一生言いきれないと思う。
 妃殿下のおっしゃったことも、陛下のおっしゃったことも、頭ではわかるのだ。
 ユーリア妃殿下の誇りも、陛下が賭けをされたその御心も、意味はわかるのだが、共感できるのはほんの一瞬だけだ。アルティリエだけではない私は、一番大事なのはそんなことではない、と思ってしまう。

「いいや、あれはそなたには敵わない、と思うだろうよ」

 陛下は心底楽しげだった。 
 私は小さく溜息をつく。

 遠くで明けの三点鐘が鳴っていた。
 午前三時……いつもなら間違いなく夢の中にいる時間だ。
 なのに、眠気を感じている暇もない。

「夜明け前に戻るためには、話を急がねばなるまいな」

 陛下は笑いをおさめて口を開いた。
 それは、私の生まれるずっと以前の話であり、また、まだこの国ができたばかりのその頃の話だった。







「そもそもの事の始まり、その原因が何であったのか……と問うならば、それは、このダーディニアという国の成り立ちのせいだろう。だが、直接的にというならば、それはティーエの……先の第四王妃エレアノールの出生のその事情だった。言葉を飾らずに言うならば、エレアノールの母が、この国を裏切ったことと言ってもいい」

 陛下は祭壇に目を遣り、それから、私を見て続ける。忙しない足踏みの音が、ひどく気になった。
 陛下もまだ何かを迷っておられるのもしれない……貧乏ゆすりとは違うのだけれど、しきりに足踏みをするその音がちょっと気になってしまう。周囲が静かだから余計に響くのだろう。

「エレアノールの母は、エルゼヴェルト公爵姫エリザベートだ。王家から降嫁した王女を母を持つ直系の公爵姫だ。エルゼヴェルト公爵の妃というのは、王女がなるものというのが暗黙の了解だ。そして、エルゼヴェルトの公爵姫が王室に嫁ぐのもまた暗黙の了解である。それは我が国が存続するための約束事であり、密やかに守られ続けてきた……だが、エリザベートはそれを破った。エリザベートが恋した男はリーフィッドの公子だった。後に大公となったが、所詮は弱小国の大公に過ぎぬ。本来あれと婚姻を結べるような相手ではない。……あれは、自分がエルゼヴェルトだという自覚がなかった。己が大切にされてきた理由を考えたことがなかったのだろう。だからこそ、あんな利敵行為ができたのだ」

 憎々しげな口調に、ちょっと後ずさりたくなる。
 椅子に座っていなければ、絶対に後ろにさがった自信がある。

「なのに、だ。我らはそれを認めないわけにはいかなかったのだ。あれの産んだ子供の権利を守る為に」

 確か、エリザベート大公妃が産んだお子様は先々代の大公殿下とエレアノール妃のお二人で、現在の大公殿下はひ孫にあたるはずだった。先代大公殿下は早くにお亡くなりになっていて、いま、エリザベート様の血をひくのは、その大公殿下と私だけだとリリアに聞いた気がする。

(えーと、ハトコになるんだったような……)

 系図がちょっと曖昧というか、記憶が怪しいのだけれど、血縁であることは確か。

「周辺国が帝国に併合される中、リーフィットのみが未だ独立を保っているのは我が国が援助しているからに他ならない。だが、これはもう必要がない。帝国との関係次第だが、いずれリーフィッドは我が国の領土となる」
「……それは、どういう意味なのでしょう?」

 領土併合宣言か、あるいは、征服宣言なのだろうか。

「エリザベートが死んだ今、リーフィッドに援助の必要はないのだ」

 エリザベート大公妃はたいそうな長寿を保ち、つい先頃の春にお亡くなりになった。
 『リーフィッドの春の女神』と呼ばれ、最後までその柔らかな微笑みで周囲を魅了されたという。

「なぜ、そこまでエリザベート様を?」

 エリザベート様ゆえにこれまで援助をしてきたのだと言わんばかりの口調に、つい問うた。

「エリザベートが、エルゼヴェルトだからだ」

 当たり前のようにおっしゃるが、怨念がこもっていそうな声音になっている。
 この方は、エルゼヴェルトというその名がどれだけ憎いのだろうか。

「そして、それこそがわが王家の秘密なのだよ、ティーエ」

 陛下の目が、強い光を帯びる。

「王家の秘密……」
「これを知ったら、君は逃げられない。それでもいいのかね?」
「構いません」

 私はこくりとうなづく。
 別に気負っているわけでもなく、即答できたのは、逃げるつもりなど最初からないからだ。

(私は殿下の隣に立つのだから)

「…………」

 けれど、陛下はなかなかお話下さらない。
 考えがまとまらないのか、私には話せないことがあってそれをどうしようか迷っておられるのか……。

「陛下、まず、私が気づいたことをお話しますから、間違っていたら教えてください」
「……ティーエ……」

 ここは私から誘導するべきだろう。聞きたいことはたくさんあって……でも、時間は有限なのだから。

「ずっと、不思議に思っていました。それは、エルゼヴェルトと王家の関係についてです。さっきの陛下のお言葉で、はからずもそれについては確証を得てしまったようなものですが……話の整理の為に繰り返し申し上げますね」

 私の書斎には、本と共にたくさんの地図や家系図があった。
 その中の二枚……王家の家系図とエルゼヴェルトの家系図には書き込みがあった。
 名前の下にひかれた赤い線は王家に嫁いだエルゼヴェルトの姫君。青い線は王家からエルゼヴェルトに嫁いだ王女達。王家の家系図とエルゼヴェルトの家系図はほとんど同じ配色の繰り返しだった。

「王家の家系図には正妃は必ず記載されています。王妃の家と呼ばれるエルゼヴェルト……それは、言葉通りの意味でした。エルゼヴェルトを母にも妻にも持たぬ王はいないのです」
「ラグレース2世」

 陛下は何代か前の王の名を告げる。

「確かに、彼の母はグラーシェスの姫でしたが、その母はエルゼヴェルトの姫でした。そして、第一王妃は王族でした。が、父方の祖母は王女で母方の祖母はエルゼヴェルトの姫でした。一代おいてはいますが、それはほとんどエルゼヴェルトといってもかまわない血の濃さだったと思います」
「そうだ」
「エルゼヴェルトの直系公爵姫は、まず国王なり、王太子なりの妻になるのです、必ず。そして、二人目以降の姫がいれば、それは王族か他の三公爵家に嫁ぐのです。……系図を見る限り、外へ嫁いだのはエリザベート姫だけでした」
「ああ、その通りだ」
「そして、ほとんどの場合、エルゼヴェルト公爵姫の産んだ子供が玉座につきます。公爵姫が子供を産まなかった場合、あるいは、その子供が王として不適合である場合にはじめて他家の妃が産んだ子が玉座につく……でも、本当にそれは他家の姫なのでしょうか?その疑問は、国母となられた方の婚姻前のフルネームをみればわかります。未婚の姫の姓は、母姓=父姓。そこで母姓にエルゼヴェルトをもたぬ方はほとんどなく、王家の血とは逆を考えれば、第二のエルゼヴェルト……そう。こういっては何ですが、表に出るエルゼヴェルトなのではないでしょうか?」
「なぜ、そう思うのだね?」
「相続法ですわ。通常、正式な婚姻から生まれた嫡長子が相続権一位のはずです。でも、王家はその限りではありません。我々には秘されている王室法により、その相続が正しいかどうかが決まっています。そして、だいたいの場合、エルゼヴェルト公爵姫が産んだ子供は順序を覆すのです。まるで、エルゼヴェルトの血こそが王位継承の理由であるかのように」

 私は陛下に視線で問いかける。
 それは、なぜなのかと。

「気付いたのは、それだけかい?」

 陛下はそれだけでは答えてくれる気がないらしい。

「……もう一つあります」

 だから、私も仕方なく最後の札をだす。

「何かな?」

 これは、少し曖昧で自信がない。けれど、大事なのはそれをさも当たり前のように言い切ること。

「優遇されるのは女児だけです。これだけ血を交わし、王家のスペアとさえ言われるのに、直系王族が断絶した暗黒時代……後にランティス1世となったのはフェルディス公爵家の嫡男でした。……ダーディエを姓に持つ王族達をさしおいてなぜ彼が玉座についたのか……それは、彼の妻がエルゼヴェルトの公爵姫だったからなのではありませんか?」
「ああ……ほとんど満点だよ、ティーエ、素晴らしい」

 陛下は手を叩いた。足を踏み鳴らす。まるで行儀の悪い酒場でのように振舞う。

「そうだとも。そなたの言う通りだ。ランティス1世が玉座についたのは、エルゼヴェルトを妻にしていたからだ。エルゼヴェルトというのは、本来、その血をつないできた女児だけを言うのだ」
「その血?」
「そうだ。……エルゼヴェルトの初代は、系図上では、建国王の王妃の弟にあたる。だが、我らの認識においては、エルゼヴェルトの初代というのは王妃殿下をいう。エルゼヴェルトの初代公爵は王妃殿下のお産みになられた王女を妻とした……この方が二代目だ。三代目というのは二代目の王女が産んだ姫だ」
「母系で考えている、と?」
「そうだ。男では、時に血が途切れることがあるからな……自身が知らぬ間に」

 そうですね。
 これだけ王家が代を重ねていれば、途中、そういうこともあったかもしれません。

「エルゼヴェルト公爵家というのは、真のエルゼヴェルトである姫達を守りはぐくむ為にある。だから、エルゼヴェルトは玉座についてはならないのだ。これは建国王の遺言でもある。エルゼヴェルトが王家のスペアと世間は言うが、それは物を知らない人間の言うことなのだよ」

 すいません。私、それを信じてましたよ。もう絶対に口に出さないけど。

「そして、真のエルゼヴェルトの血というのは細いものだった。それはもう最初からわかっていたのだがね……」

 女系ですから、男系に比べれば当然だと思います。ダーディニアのみならず、どの国においても出産は未だ危険を伴う。ましてや、血の濃い大貴族ともなればそれは更に危険度を増す。

「そして、その血はもう何代も、たった一人しかその血を継ぐ人間を生み出せていなかったのだ」

 ああ、そうなのか、と。今、やっと私はわかった。

「……そして、私が、その最後の一人なのですね」
「そうだよ、ティーエ」

 陛下は静かに笑った。






 エレアノール妃、エフィニア王女、そして、わたし……祖母から母へ。母から娘へ……母系で守り継がれるエルゼヴェルト。
 その名の本来の範囲は、随分と狭いものらしい。

「……その、今の事の発端となったその当時、エリザベート姫だけがエルゼヴェルトだったのですか?」
「正確にはもう一人いた。グラーシェス公爵妃だ。だが、彼女は女児を産まなかった……その当時、既に彼女は妊娠が難しい年齢になっていたから、実質、エリザベートだけだったといてもいい」
「一代も途切れずに母系でつながってなくてはならないのですか?」
「いや……建国祭の儀式で認められた乙女は、その資格があるとみなされる。といっても、先ほどのそなたの言葉を借りるとするならば、それは、『ほとんどエルゼヴェルトといってもかまわない血の濃さ』を持つ者の中のごく一部の者しか該当しないらしい」

 このあたりはわたしたちにもわからないのだ、と陛下はおっしゃる。

「だから、私たちはそなたたちを……真のエルゼヴェルトの血筋を守ることを最重要視している。そなたたちは、間違いなく扉を開けるのだから」
「扉を開く?」

 陛下が何を言い出したのかよくわからない。

「エルゼヴェルトとは、本来は、エル・ゼ・ヴェルートという。意味がわかるかね」
「姫と鍵……いえ、鍵の姫?」

 旧帝國語で『姫(エル)』『鍵(ヴェルート)』だ。
 私はそんな単語を聞いたことがなかったから、おずおずと答えた。

「正解。我らはその儀式を経た娘を『鍵の姫』と呼ぶ。それがエルゼヴェルトという姓の語源であり、本来の意味だ。……それは、扉を開けることからきている」
「扉?」
「そう……鍵の姫にしか開けない封印の扉があるのだよ」
「は?」
「この王宮に三箇所、地下にも二箇所。それから、大学都市にも判明しているだけで二箇所。ターフィッドの遺跡にもそれがあることが判明している。帝國時代の遺跡の最奥はだいたいがその封印の扉だ」

 わたしたちだけが開くことのできる扉。

「なぜ、エルゼヴェルトだけがその扉を開けるのですか?」
「……さあ。仕組みはわからない。一説には、その扉は妖精王によって封じられたのだと言われている。妖精王の封印というのは、世界中にあるのだ。……どんな屈強な兵士にもあけることができず、何をしても決して破壊することができない。だが、鍵の姫がそれに触れればたちどころに開くのだ。……初代王妃が妖精の姫であったといわれるのはそのせいだ」

 なるほど。おとぎ話にも理由はあるらしい。

「では、私が触れればすぐに扉は開くのですか?」
「いや。それには儀式が必要なのだ。建国祭の儀式を経ることによって、それが可能になる」

 そんな意味のあるものだとは……ナディに聞いたときはただのセレモニーだと思ったのに。
 っていうか、どんな仕組みなんだろう?
 だって、この世界には魔法とか、そういうどんな不思議もそれで解決!というような都合の良いものがない。
 例えば、私の記憶の中にあるものでそれに近いものを探すとしたら、何らかの認証システムのある自動ドアだ。
 そして、何らかの認証システム……諮問認証も、音声認証も、網膜認証も個人識別のものであって、血統を見分けるものではないはずだ。

(もしかして、建国祭の儀式の中で個人識別の登録するんだろうか?それを血筋と絡めてるだけ?いや、それにしては厳格すぎる)

 母系でのつながりのみと限定されるほど、『エルゼヴェルト』という血統は厳しく守られている。一代でもそれを離れれば、基本、それは認められないものなのだ。よほどの例外……建国祭の儀式での認証……がない限り。
 本当は、そんなにやりたがっているのなら、あの役目はナディに譲っても良いと思っていた。また翌年やればそれでいいと思っていたから。でも、ただのお祭りのセレモニーではないかもしれないとなると、私の一存で代わるというわけにはいかないだろう。

「……エリザベート姫はその儀式を済ませていたのですか?」
「ああ。そうだ。……鍵の姫が他国にあるなどと考えただけでぞっとする出来事だった。わが父は、何度エリザベートを殺そうとしたかわからない。そのたびに、エルゼヴェルト公爵が懇願した。エレアノールにはまだ
母が必要だと。エレアノールが乳離れした後は、この老いぼれに免じてエリザベートを助けてくれ、と。そして、彼が亡くなってからは、その息子が願った。そなたの曽祖父と祖父だがね」

 そなたの曽祖父と祖父はちゃんと理解していた。だが、そなたの父はまったく理解していないのだよ、と陛下は嗤う。 

「あれは知っているくせにわかっていない」

 奇妙な表情だった。
 皮肉げな笑みに、どこか憐憫の情が浮かぶ。

「この状態に、今もっとも責任があるのが私であることを私は否定しないが、だが、何よりも最も責任があるのは……自らの責任を果たさなかったエリザベートだ。そして、そのツケを払わされることになったのが、彼女の娘であったティーエ……君ではない。父の第四妃となったエレアノールだった。エレアノールは、母親が果たさなかった義務を果たす為に、生まれたその瞬間から、我が王家に嫁ぐことが定められていた。意地の悪い言い方をすれば、エリザベートは己が幸せの為にわが子を犠牲にし、祖国を裏切ったのだ。……我が父は彼女の帰国を絶対に認めなかった。当たり前だ。国を裏切り、現在にまで続くこの問題のそもそもの発端は、たかが小娘のはじめての恋とやらにあったのだから」

 怒り心頭だった。私の父について口にする時とはまた違う。父に対する憎悪は内向きだが、このエリザベート姫に対する怒りは外向きだ。

(それは、この怒りが私人としてではなく公人……国王としてだからなのだろうな)

 私は犠牲者の立場だが、似た様なことは言われている。

(エルゼヴェルト公爵は身分の低い女を妻に迎えたいがために、一人娘を王家に売った、と)

 爵位があってもルシエラは、公爵の妻となれる身分ではないと民は見ているのだ。
 私は、どちらかというと陛下が私のことを取り上げたのだと思っていたし、それはある意味では正しいのだけれど、でも、売ったというその言葉もまた正しいのだとわかった。

(だって、私に関するすべての権利と引き換えたのだから)

 あ、と声が漏れた。

「どうしたんだい、ティーエ」
「いいえ。エリザベート大公妃といい、我が父といい、私の実家の人間は恋の為に道を過る傾向にあるのだなぁ、と」

 それを過ちと言ってしまうのはちょっとアレかもだけれど。

「そうだね。……エルゼヴェルトは、実は情熱的な一族なのかもしれない」

 陛下が今口にされたエルゼヴェルトは、実家の姓の方をさすのだと思う。
 エルゼヴェルトと言われると鍵の姫を言っているのか、姓を口にされているのか判断に迷う。

「年齢から言えば、エレアノールは私の兄……王太子であった第一王子の妃となるべきだった……だが、王太子は拒否した。なぜ問題のない妃を離縁して他国の血が混じった女を妃として迎えねばならないのだ、と……彼は後でたいそう悔いたのだがね」

 何しろ、エレアノールは美しかった、と陛下は記憶を辿るかのように目を細める。

「生まれたときに我が王室に入ると定められていた彼女は、乳母も侍女も女官もダーディニアから派遣され、すべてダーディニア風に育てられていた。エレアノールは、夏になると避暑の為にエルゼヴェルトに滞在するのが決まりだった。私はそこでエレアノールと……ティーエと出会ったのだ」

 うっとりとした声音。
 思い出しているのは、その当時のエレアノール妃の姿だろうか。

(確かにそういう扱いでは、エレアノール妃は、リーフィット公女というよりはエルゼヴェルトの姫だ)

「それほど頻繁に会えた、というわけではないが、幼いころの思い出のいくつかを私たちは共有していた。楽しかった……私はダーディニアしか知らなかったから、ティーエの語るリーフィットの話が好きだった」

 幸せな記憶なのだろう。陛下は、小さく笑みを浮かべる。

「それはティーエにも同じことだったのかもしれない。ティーエは、私から王都の話をきくことを好んだ。……私たちが恋に落ちるのに、時間はかからなかった」

 それは、幸せな時間だったのだよ、と陛下はつぶやく。

「私は、陛下に願い出た。エレアノールを妃にしたいと。彼女を愛しているのだと」

 私はそれを許されないなどとは思っていなかった。と、陛下は口元に自嘲の笑みを浮かべる。

「私は五番目とはいえ正妃腹の王子だった。しかも、私の母はエルゼヴェルトの姫であった。第一王子と第二王子を産んだ姉が早くに亡くなった為に再び王家に嫁いだ直系公爵姫だ。だから私は、幼いころから願ってかなわぬことなどなかったのだ」

 正妃腹のこの上なく血統正しい王子……それは、何一つ欠けることない幸せが約束されていたのだろう。
 
「だが……許されなかった。私ではダメなのだと父上は言った。エレアノールは王太子に嫁がせるのだ、と。私は懇願した。エレアノールが……ティーエが欲しいのだと何度も訴えた。私は王太子と私に違いなどないと思っていた。ただ生まれ順が違うだけだと思っていた。だから、何でもすると縋ったのだ。……だが、父は冷たく突き放しただけだった。『そなたは玉座に就く器にあらず』と。そんなことはわかっていた。エルゼヴェルトの血をひく王子が四人もいたのだ……内心は父は姫を望んでいたのに違いなかった。その為に二人もエルゼヴェルトの姫を娶ったのだ」

 陛下の表情は悲痛に翳る。

「当時の私はそんなことも知らず、王位に就くことなど考えたこともなく、ただ甘やかされて育っていた。早く大公となりわずらわしい公式行事から開放されることだけを願っていたのだ……」

 私は、何一つ学んでこなかった。と陛下は己を哂う。

「政に関わることなど望まれていなかった。私に求められていたのは、王族として王家を支えること……その最も重要な役割は、血の保持だ。王族か四公家から妻を娶り、国を支える血筋正しい王族を育むことを求められていた。私は、勉強すると言った。ティーエが手に入るのなら、政を学び、この国の為に誰よりも力を尽くすから、と。だが、父は信じてはくれなかった。今にして思えば……私がどれほど学んだところで、ナシェルのようには到底いかなかっただろう。父にはその事がわかっていたに違いない」

 殿下は別格だと思うと私は思ったが、言わなかった。
 それをいったところで、陛下の慰めにはまったくならなかったから。

「だが、私は再び懇願した。第一王子がティーエの顔を見ることもなく拒んだことで、その身が宙に浮いたからだ」

 だんっだんっと強く床を踏み鳴らす。
 諦め切れなかったのだ、という呟きが聞こえた。
 この方にもそんな情熱があったことを、私は不思議に思った。

「だが、私は再び拒否された。父王は言った。そなたでは守りきれまい、と。その時の私には、その言葉の意味がわからなかった。そして、私達は逃げ出した……二人でならば、どこででも生きていけると思っていた」
「駆け落ちを、なさったのですか?」

 そんな話、聞いたことがなかった。
 陛下が玉座についたから、なかったことにされたのだろうか?

「駆け落ち、と呼べるほどのものではなかった。たった三日で連れ戻された。私とティーエが不在だったことすら、明らかになっていなかったよ。ただ、戻ったときには、ティーエが第四王妃となることが決定しており……私は外遊に出された。三年間、王都に戻ることをゆるされなかった」

 あの時が一番苦しかった、と呟く。

「そして、旅の空で私は、ティーエが女児を出産して亡くなったことを聞いた。……絶望したよ。もう二度と会えないのだと……もうその声を聞くことも、その姿を見ることさえもできないのだと。葬儀に出席することすら許されなかった。だから、決めた」
「何を、ですか?」

 この答えを、たぶん私は知っている。

「そなたは知っているはずだ」

 陛下のまなざしが、私をまっすぐと射る。

「……ユーリア妃殿下との婚姻、でしょうか?」
「そうだよ、ティーエ、やっぱり君はわかっているのだね」

 熱を帯びた瞳が輝きを増す。
 ダーディニアの血を持たぬユーリア妃殿下と直系王子である殿下が婚姻することは、エルゼヴェルトの公爵姫が外に嫁ぐのと同じくらいありえないことだったのだ。
 第五王子だから許されたと噂されていたが、本来は絶対に認められないことだったのだ。
 これはもう、エルゼヴェルトがどうこう以前の問題だった。
 わかりやすく言えば、ユーリエ妃殿下との婚姻は陛下にとっては貴賎結婚に等しい意味を持っていたということだ。
 貴賎結婚。身分が大きく隔たる婚姻を言うが、これはユーリア殿下の身分を低いと言っているわけではない。
 エルゼヴェルト……鍵の姫の血統を守ること、その血をしっかりと自家と重ね合わせることを目的としてきたダーディニア王家にとって、エルゼヴェルトの血をひかぬどころか、わかる範囲ではダーディニア貴族の血
すら流れていないユーリア殿下は、まったく論外であり、彼等の価値観外にあったということだ。
 ユーリア殿下が今、王妃として誰からも敬愛され、貴族達の間からも自然に王妃としての尊崇を集めていることを考えると、どれだけのご苦労と努力をしてきたのだろう、と考えてしまう。
 もし、陛下が玉座におつきになることがなかったならば、きっと、ナディル殿下の代からは、表面上は王族公爵家と遇されたとしても、その実、ダーディニア王族と呼べるほどの血の濃さはないとみなされただろう。

「私は王族であることを捨てたかった……でも捨てきれず……引き換えにユーリアとの結婚を認めさせた。これで、私は無理でも私の子供たちは血の頚木から逃れることができるのだと思った。君の言うとおりだよ、ティーエ。王家が表に出るエルゼヴェルトとはうまい言い方だ。王家の姓はエルゼヴェルトでもおかしくないほど、かつての王家とエルゼヴェルトは近しい血を持っていた……我が父王の時まで」
「ですが、陛下が玉座におつきになったことで、その様相ががらりと変わった」
「そうだ。元々、私は玉座につけるはずがなかった……だから、ユーリアとの結婚はその時の私のできるささやかな……でも最大の抵抗だった。私は私の血を、この国のためになど使うまいと思っていたのだ。だから、その抵抗の事実だけで、私は我慢しようと思った……ティーエを失ったことと引き換えにできることなど何もなかったが、子らを血統の檻から自由にしたという満足で私は生涯を終えるつもりだったのだ」

 でも、私はとことん間の悪い男だったのだ、と陛下は口にする。

「間が悪い、というよりは運が悪いのか……あれほど望み、懇願し、全身全霊をかけて欲したのに手に入らなかった王太子位が私に巡ってきた。何という皮肉だと思ったよ。あんなにその地位があればと願ったときには
、望むことすらかなわずに拒絶されたのに、完全に諦めたその時になって転がり込んできた。……馬鹿共が女をとりあって殺し合いなんかした為に」

 ガンガンガンと陛下は足を鳴らす。その怒りをこめるかのように。
 この馬鹿共というのは当時の第一、第二王位継承権をお持ちだった陛下の一番目と二番目の異母兄君達のことだろう。

(フィル・リンは今も明らかにされない理由による大醜聞だって言っていたけど、女性をとりあっての殺し合いじゃあ、確かに言えない)

「……第三王子殿下は落馬ではないのですか?」
「公にはされていない事実だが、バカ共が取り合った女は、兄上の婚約者だった。そのせいで、王太子の家臣が兄上が企んで殺し合いをさせたのだと思い込み、馬に細工をしたのだ。結果、兄上は落馬し、お亡くなりになった。全ての原因が、女をとりあっての殺し合いだというのは間違ってはいまい」

 陛下にとって、同母兄弟である第三王子殿下だけが兄上と敬称で呼びかける対象らしい。

「あの年は、ダーディニアにとってまさしく『魔の一年間』であった……王太子の地位が転がり込んでき私にとってもだ。私は、何度も固辞した。固辞というよりは、話に耳を貸すことすらしなかった。ユーリアを妻にしている私には国王の資格はないのだと。父王とて、私は玉座につく器ではないと言ったはずだ、とね」

 あの時の言葉をそのまま返してやったのだ、とつぶやく陛下の横顔は、驚くほどに邪気がなかった。

「だが、父王は冷静な方だった。ユーリアを離縁しろとは決して言わなかった。それを言ったら絶対に私が玉座にはつかないことをわかっていたのだろう。それを言った人間とは、私は今もって口をきいていないのだからね」

 陛下は好き嫌いが激しいのだと言われる。たぶんそれは、こういうところからきているのだろう。

「それが、なぜ一転して玉座におつきになられたのですか?」
「ユーリアを認めるといわれたのだ。正式に第一王妃に任じてかまわない、と」
「……それは異例中の異例では?」

 ダーディニア王室は血統をとても重視しているのだ。
 それを、貴賎結婚に等しい間柄を認め……エルゼヴェルトどころかダーディニア貴族の血すらひいていないユーリエ殿下を第一王妃にだなんて、随分と思い切ったものだ。
 ダーディニア王室史上、四公爵家の血をひかぬ王妃は……エルゼヴェルトの血をひかぬ王妃はユーリア殿下だけだ。

「その通りだ。……父上は、私の数段上手をいかれる方だった……最初から私がかなうはずもなかった。私は秘密を明かされ、玉座につくことも、他の妃を迎えることも拒むことはできなくなっていた」
「秘密、ですか?」

 鍵の姫以外の王家の秘密とは何なのか。

「王家の秘密……そして、建国の真実。建国の真実とは鍵の姫と表裏一体のものだ。私はうなづくしかなかった。私は強くない。建国以来、連綿と繋いできたものを私の手で断ち切ることができなかった。そして……どれほど疎んじたとしても私は王子だった。王の子として生まれたのだ……この国に対し、責任がある。それを捨て去ることができなかった」

 大事なことだ、と思った。
 陛下の言葉の一つ一つが、真実の欠片だった。

「だが、私は最後の抵抗をした。……私が玉座についたとき、ナディルの立太子を認めるのならば、王太子になると言ったのだ。私は、頑強な血統主義者の父をはじめ、彼らは絶対に許さないと思った。だが……父はうなづいた。それでいい、と」

 私は泣きたくなったよ、と陛下は肩を落とす。

「他の妃に子供が生まれても、絶対に私は王太子はナディルしか認めないといったのに、彼らもまたそれにうなづいた……自分の娘や妹たちに子が生まれても決してその立太子を望まないと。私のささやかな抵抗は無駄に終わった」

 世間で流布している話とはまったく違っていた。
 だって、先王陛下はナディル殿下の優秀さに目をつけたのではなかったのか?

「いや、確かに血統主義者である父の意識を変えさせるくらい、あるいは、老人たちが期待をかけるくらい、あれは……ナディルは優秀だったのだ」

 陛下の口から殿下の名が出たこと、そしてそれが殿下を褒める言葉であることに喜びを覚える。いや、だから何だっていうんだけど。

「大学に入学を許される人間はある種の異能者だ。卒業した者などは、頭の中に図書館が丸ごと入っていると言われるほどなのだぞ……そなたは、王太子やシュターゼンが身近にいるためにわからないのかもしれないが、ヴェラ……大学の卒業資格を持つ者など、人としての種が違うのではないかとまで言われるほどの頭脳を持つのだ。そしてそんな人間がごろごろといる大学内にあってさえ、ナディルは天才と言われた……そもそも、十歳にもならぬうちに入学が許可されるなど、前代未聞だったのだ」

 殿下が想像以上に天才であったことを聞かされるが、それでもピンとこない。
 すごい!とは思うものの、殿下は殿下だ。

「父は考えたのだ。普通に考えれば、ナディルに王座に就く資格はない。だが、そもそもダーディニア王家とは何なのだ?と。父はどこまでもこの国の王だった。我が王家は鍵の姫を守るためのものなのだと考えた。……鍵の姫を守るのは、血のみにあらず、というのが当時の父王の結論だった。当時の鍵の姫はエフィニアだ。そしてそのエフィニアを守るのに一番ふさわしいのは私だと父は考えた。私に足りない能力は息子であるナディルに埋めさせればいい。そして次の鍵の姫を守るに足る技量をナディルは持っている、と認められていた」
「反対はなかったのですか?」
「あったさ。だが、彼らだって納得した。これまで、直系王族が途切れたことは二度ある。その時だってそうしてきた……王族の血も四公爵の血も、しょせん、鍵の姫を守るためにあるものだ。だから、エフィニアから生まれる最初の女児は、絶対にナディルの妻になると定められていた」

 生まれる前から私と殿下の結婚は決定されていたというその事実に軽くめまいがする。
 ちなみに、それを運命だなんて喜ぶような能天気さを私は持ち合わせていない。

「もし、女児が生まれなかったらどうなさったのです?」
「その為の第二王妃だ。もし、ナディルの妃になる姫が生まれなかったら、ナディルは廃嫡になることが決まっていた」

 ぶるりと身体が震えて、私は自分自身を抱きしめる。

「……殿下はご存知なのですか?」
「さて……あれのことだから、知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。どちらにせよ、今となってはどうでもいいことだ」

 そなたはここにナディルの妃としているのだから、と陛下は哂う。

「そなたはこの世でただ一人の『鍵の姫』。そして、ダーディニアの王権をナディルに与える姫である」

 建国神話と一緒だな、と陛下はおっしゃった。

「……鍵の姫がイコール王権を与える者なのですね」
「そうだ」

 眩暈がするような気がした。
 何というか……映画や小説とかで言うならば、設定盛りすぎ。どれか一つで十分ですよって思う感じ。

「王家は鍵の姫を……そなたを守るためにこそあるのだ」
「……陛下は守ってくださいませんでしたね」

 つい、皮肉が口をついてでる。
 だが、陛下は口元だけでわらった。

「そんなこともない。傷つけもしたが、守りもした。差し引きゼロにはならないだろうが」
「なりませんから」

 こんな風に軽口を叩けるのだ、と思ったら、何かもうそれでいいかなという気になってくる。

「鍵の姫の……その最初の方、初代国王の王妃というのはどういう方なのですか?」

 エル・ゼ・ヴェルト……ヴェルトは『鍵』と訳すが、古くは『宝』という意味もあった。
 『宝の姫』……彼女を自分の宝と建国王は思ったのではないだろうか。
 それはもう歴史の彼方の話だけれど。

「妖精の姫と言われている初代国王の妃について、伝えられていることはほとんどない」

 陛下は、そなたはどこまで気付いているのだろうね、と苦笑して口を開いた。

「はい」

 だからこその妖精の姫なのだ、と私は解釈した。
 身分らしい身分がないから、おとぎ話でごまかしているのだろうと。

「だが、私たちは知っている。……建国王は、彼女を守護するためにダーディニアという国を興したのだ」

 建国史の最初にはこう書かれている。
『建国王は、地が荒れることを嘆く妖精の姫の心を守るために立った』と。
 歴史だよ?おとぎ話とか物語ではないんだよ。
 妖精の姫はない、と誰もが思うだろう。
 
「秘されている初代王妃の名はアルティリエ=ルティアーヌ……姓はない。彼女には姓など必要なかった」
「なぜですか?」

 背筋がぞくりと震えた。
 何か、予感のようなものがあった。

「この世界を統べし一族の生まれだったから……私はエフィニアがそなたにその名をつけたと聞いて、運命の皮肉を感じずにはいられなかった」

 ぞくぞくとしていた。
 逆なのだ。まったくの逆だった。
 『この世界を統べし一族』その言い回しを私は知っている。それは、失われた統一帝國の皇室のことだ。

「彼女は……アルティリエ姫殿下は、統一帝國の最後の直系皇女だった。その名は歴史書には必ずのっている」

 帝國では直系皇女を姫殿下という敬称で呼ぶ。直系皇女と認められるのは、四后妃から生まれた皇女だけ。ダーディニアの王室体系というのは、統一帝國のそれを一部取り入れていたから、似ているシステムがいくつかある。

「最後の皇女……」
「そうだ。……あの恥知らずの帝国が自らが統一帝國の後継であるとどれだけ名乗ろうとも、それはただの僭称だ。寄せ集めの帝国貴族が建国した国の自分勝手な言い分にすぎない。だが、ダーディニアは違う。最後の皇女殿下の血と鍵とを今日まで正しく守護してきた。我らは鍵の姫を守る影の騎士であるのだ」

 我らがそれを声高に語ることはないがね、と陛下は言う。
 とまらない足踏みは、陛下が実は興奮していらっしゃるからなのだろうか。

「なぜですか?」
「ダーディニアは帝國直系の血を守るために建国されたのだ。決して後を継ぐためではない。降りかかる火の粉を払うことはするが、何もわざわざケンカを売ることはないのだ。名前などどうでもいい。我らのもとには鍵があるのだから」

 名より実を取るということなのでしょうか。

「そして、鍵があるからこそ、大学がこの地にあるのだよ」
「大学、ですか?」

 思いがけないことをいわれた気がした。

「そうだ。まあ、これは王太子に聞きなさい。あれのほうがずっと詳しいのだから」

 陛下のまなざしに、どこか私をからかう色があったように思えた。

「あと、そなたはもう一つ覚えておきなさい」
「はい」

 私は姿勢を正す。わざわざそんな風に言うなんて、大事なことなのだと思ったから。

「王太子には継承権がない。王太子の継承権はそなたと婚姻するから生まれるものだ。だからこそ、この国はそなたが持つと言った。エフィニアが亡い今、王太子に継承権を与えることができるのはそなただけだ」
「でも、そんなことは……」
「国王以外は四公爵だけが知る。彼らもまた、鍵の姫を守る者達である。だが、それは当主しか知らぬこと。たとえその嫡子であっても公爵位に就くまでは知らされない。……そなたが妃にならなくば、王太子は玉座に就くことはない。双子のどちらかが玉座に就く。それは決定事項だ」

 陛下は、やはり国王陛下なのだ。と、不意に思った。
 自分を無能だ何だとおっしゃるけれど、ちゃんと国王陛下の仕事をなさっているではないか、と。

(殿下は、ご存知だったのかな)

 だから、いつも国王たる重責は我が身のものにあらず、と言っていたのだ、と思う。

「王太子殿下は陛下の御子であるのに……」
「ああ。私はそれを疑ったことはないな……ただ、我が国の国法でそう定められているというだけだ」
「……それを、王太子殿下はご存知ないのですね」
「ああ。……万が一、王太子が玉座についたとしても、王太子の子はそなたの子以外に王位継承権が発生しない。たとえ、相手が正式に第二王妃となったとしてもだ」
「『エルゼヴェルトを母にも妻にも持たぬ王は存在しない』」

 脳裏に浮かんだ言葉を、私は無意識になぞる。

「そうだ。もはや、エルゼヴェルトはそなたただ一人だ。そなたが子を産まねば、この国は終わる。他の女が産んだ子を玉座になどつけてみろ。それだけで内乱突入だ。我らは鍵の姫の騎士たる誇りを持っている。鍵の姫の血以外を守る気などない。……まあ、滅びるのなら、滅びてしまえと私は思っているがね。つまるところ、この国の行く末はそなたの選ぶ先にあるということだ」

 何でこの国の行く末とかという大それたものを、私が選択しなければならないのか。

「我らはまもるためにこの国をつくった。……まもるべき者が無くなれば滅びるが道理」

 陛下はやわらかく微笑う。

「……滅びたりはしませんから」
「そうかい?」
「はい。……子供、いっぱいつくりますから!今はまだ無理ですけど!」

 この身体はまだ幼い。だからこそ、まだ結婚式が行われていないのだ。
 ……いったい何の羞恥プレイなんだろう。自分で子作り宣言なんて。

「それは楽しみだね」

 くすくすと陛下は笑う。
 からかわれているとわかっているけれど、それでも顔が赤くなるのがとめられない。
 でも、私は更に告げた。ここで退いてなるものか、だ。

「子供なんて、いくらでも作りますとも。殿下だってきっと協力して下さいます。それで、この王宮中に子供の声を響かせてあげます。うるさいって言われるくらいに」
「おやおや……それはすごいな」
「だから、安心なさってくださいね……」

 私は笑った。それから、小声で囁くように言った。

「おじいさま」

 この方に、いろいろと思うことはある。
 けれども、人形の顔ではない心からの笑顔を覚えておいてもらいたかった。
 陛下は目を見開いて、それで、同じように笑ってくださった。
 
「……そろそろ行かねば」
「はい」

 私も立ち上がった。
 少しだけ凍えた身体でそっと礼をとる。

「……ではな」
「はい」

 陛下は、祭壇を降りて扉に足を向けた。ちがうルートでお戻りになるらしい。
 私はその後姿を見守った。
 涙でその姿がにじむ
 どうにもならなかった。
 そう。もう、どうにもならない。
 誰も何もできない。
 だって、終わりは、もう、ずっと前に決まっていたこと。
 陛下が最後の賭けをはじめたそのときには決まっていたこと。
 私は、ただ最後を決めただけ。
 陛下の死で終わるはずのそれを無理やり今にしただけ。
 これでよかったのだと思う反面、これでよかったのかとも迷う。
 
(ううん。これで、いい)

 無理やりな終わりであっても、終わりなのだと決めれば物事はそこに向かって流れてゆく。
 陛下だって明るい顔をなさっていたと思う。
 妃殿下がどうなるかはわからないけれど、きっと、陛下に最後まで寄り添っておられるだろう。

 何が変わったわけではない。
 なのに、私の中で確かに何かが終わって、そして何かが始まった。
 だから、私はまっすぐと顔をあげる。
 もう、人形姫ぶりっこは必要ない。

「……フィル=リン?いるのでしょう?」

 私は暗がりに呼びかける。
 コンと小さな音がして、祭壇の影からフィル=リンが姿を現した。

「姫さん、あんた、俺を殺す気かよ!なあ、あんた、俺のこと嫌いだろう?そうなんだろう!」

 なんで陛下がくるんだよ。そんなこと、俺聞いてない。全然聞いてない!とぶつぶつと呟く。
 何でだろう?軽くパニックを起こしている。

「そんなことないよ。別に。……ああ、でも、今夜のこれは内緒ね」

 私はそっと唇の前に指をたてる。
 シオン猊下もユーリア妃殿下も、私が一人で来たと思っておられたようだが、あれだけいろいろ言われていて一人で宮の外に出るほど私は無謀ではない。

(保険なんだけどね)

 見た目どおりの少女ではない私はズルいのだ。
 フィル=リンという保険をかけておいた。
 壇上にあがったのも単に温かいからというだけの理由ではなかったのだ。

「はいぃ?」
「だって、抜け出したことがバレたら殿下に怒られるかもしれないもの」
「そりゃあ、当たり前」
「だから、内緒」

 ね、と私は上目遣いに見上げる。

「いや、内緒にったってさぁ」
「……ねえ、陛下も同じ秘密の通路を使って来たのでしょう?どうしてみつからなかったの?」

 渋るフィル=リンに、私は話をかえる。

「そりゃあ、必死でほっせえ隙間に隠れたからだろ。あのな、中は広いの。別に上と変わらない。迷路みたいになってんし、隠れるとこ少ねえけど。……くっそ、ほこりまみれだ」

 髪や背中にクモの巣や埃がまとわりついていた。

「やだ。ここではらわないで。汚れるわ」

 今夜、ここには誰もいなかったんだから、と私が言うと、フィル=リンは憮然とした表情になる。

「なぁに?」
「あのよ。姫さん、あんた、陛下が来るって知ってたのか?」
「まさか」

 でも、予測はしていた。
 五分五分だと思った。
 たぶん、妃殿下から本音を引き出せたから、陛下が現れたのだろう。

「ねえ、話、どこまで聞いていた?」
「あー、妃殿下の話はほとんど聞こえたけどな……陛下の話は前半はともかく、後半……姫さんが陛下を追い詰めてからはほっとんどアウトだ」」
「どうして?」
「陛下の貧乏ゆすり?あの足踏み鳴らすのが、隠れてたとこにおっそろしく響くんだ。耳の奥がまだガンガンとしてやがる」
「……そう」

 良かった、と思った。王家の秘事がいろいろな人の耳に入るのはよくないだろう。
 これまで真実だと思っていたことが、実はまったく正反対の意味を持つこと。そんなことは誰も知らなくていい。

「……目に見えることだけが真実ではない、か……」

 私は心優しい王子様の言葉を思い出す。
 確かにその通りだった。

「何の話をしてた?……最後、何か和解みたいなことになってたのはわかってる。でも、ひどいこと、言われたりしたんだろう?」

 フィル=リンは……殿下は、陛下が私に対する感情が愛憎半ばすることを承知していたのだ。だからこそ、こんな風に心配をする。

「ううん。大丈夫。私、結構強いから」

 私はにこっと笑ってみせる。
 愛想笑いといえど、この顔で笑うのはとても有効なのだ。
 多少なりとも『私』を知るフィル=リンでさえ、頬が緩むくらいに。

(陛下は、やはり陛下なのだ……)

 フィル=リンの努力は無駄なものだったらしい。
 せめてもの情けで私はそれを言わないことにした。

「で、これからどうすんだ?姫さん」
「……とりあえず、戻ります。それで、私は熱をだしたことにしてください。元々、風邪をひいたことになっているのだから問題ないはずです」
「何するんだよ」
「寝るんですよ。何だかすごく眠くなりました。……一睡もしていないんですよ」

 難しい話はもう終りだ。
 フィル=リンが胡散くさげな表情で私を見る。

「なあ、俺はいいけどよ、ナディルには話してやってくれよ」
「え?」
「陛下との話」
「どうしてです?」

 どこまで殿下に話していいか、ちょっとまだよくわからない。
 あまりにも情報量が多すぎて、何か飽和しちゃっているとこがあるから。

「どうしてって……姫さん、あんた、ナディルの嫁なんだから!」

 フィル=リンは深い溜息をつく。

「わかってますよ。私、殿下、大好きですもん」

 私は笑う。何か惚気てるっぽいかなぁと思ったけれど、いいんだ。惚気でも!

「ちょっと待て。なんで俺に言うんだよ。ナディルに直接言ってくれよ」
「殿下には恥ずかしくて言えません」

 だって、本人になんていえるわけないじゃないですか。
 すっごくテレます。

「なあ、あんたやっぱ、俺のこと嫌いだろ!」
「別にそんなことありませんよ」
「俺、絶対にナディルに殺されるだろ、これ」
「言わなきゃいいんですよ」

 多少の秘密があったほうがスリリングでいいですよ、と言ったら、そんなもんいらねえと言い返された。

 



 そして、この夜が、私が陛下と言葉を交わした最後となった。





 2013.10.26 更新




[8528] エピローグ
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/10/26 10:14


 目を閉じて、数える。


 私の好きなもの。
 甘酸っぱい大粒のイチゴとほんのり甘くてコクのあるクリームをつかったふわふわショートケーキ。
 それから、サクサク胡桃の歯触りと香ばしさと濃厚なチョコクリームがのハーモニーがたまらないチョコレートケーキもいいね。
 チョコ大好き。ダーディニアにはチョコがないらしいことが、目下の私の悩み。
 それから、季節の果物をほんのり甘いコンフィチュールにしてコクのある生クリームと卵にほんのりバニラが香るカスタードクリーム使ったフルーツパイ。これは私の大得意。
 ああ、口にいれたらふわーっと溶けるチーズスフレも捨てがたい。出来たてなんて、そのおいしさに涙が出るよ。これはいつか殿下に召し上がっていただきたい。きっと殿下もお好きな味だから。

 お菓子だけじゃない。
 よーく味のしみたおでんだって大好き。あ、絶対に芥子は添えて!柚子胡椒もたまにはいいけど。
 それから、よーく脂ののった焼きたてのアジの干物!これに白いごはんとお味噌汁と糠漬けは鉄板の組み合わせ。
 あー、胡椒とニンニクいっぱいきかせたマグロのテールステーキもいいね!これにキンッキンに冷たいビールなんてもう天上の至福だと思う!
 熱燗だって嫌いじゃない。自家製のイカの塩辛をつまみながらちびちび飲むのは最高。もちろん、これは真冬の寒いときね。

 仕事も大好き。
 朝一番の厨房の空気。
 磨きぬかれた台の上に季節の色とりどりのフルーツを並べたときのその光景。
 きれいな焼き色にしあがったアップルパイの匂い。
 明るく光のさした店内の満席の様子。
 笑いさざめくその空気に、食べてくれたお客さんの笑顔。
 カトラリーの音と心地よいおしゃべりの中にちりばめられたおいしいの言葉。

 おうちも好きだった。
 古くて隙間風があったりしたけれど、それでも住めば都。
 自分で気に入った家具や食器を買い揃えてつくった自分の巣だった。
 ここならば安全なのだとちゃんとわかっていた。
 休みの日に、自宅のオーブンで焼くチョコブラウニー。
 大家さんにおすそ分けにいって、庭の夏みかんをもらったこともある。

 アルバイトのバーも好き。
 いつもボサノバかジャズが流れていた。
 時々、生演奏をするミュージシャンが来ていた。
 きっと先輩のお店じゃなければ、私一人では足を踏み入れないようなおしゃれなお店だった。
 先輩のダンナさんも、先輩も、バイトの八巻くんも、お客さんも、みんな優しい人たちだった。
 たぶん、みんながそれぞれいろんな事情があって、自分のことでいっぱいだったりもしたのに、誰かが悩みを口にしたら、みんなで真剣に向き合った。
 ストーカーに悩まされていた女の子のために、みんなで交代で護衛したこともあったっけ。
 ここで、お客さんと対面していろいろなおつまみや料理を作ったことはすごく私の力になった。

(確かに、好きなものがいっぱいあった)

 嫌なことや辛いこともいっぱいあったのに、もうあまり思い出せない。
 麻耶の記憶は遠く、だんだんと薄い膜がかかってるようなそんな感じになってきている。何だろう、自分のことのはずなのに、ビデオか何かで見ている感じ。
 でも、そのことが私には嬉しい。
 アルティリエであり、麻耶である私……アルティリエの記憶はほとんどおもいださないけれど、私は自分がアルティリエであることを疑ったことはない。
 どちらでもあり、どちらでもない今の私を、私は大切にしようと思う。

(大切に生きるのだ)

 生きること。
 何かを為すことなんかできなくてもいい。
 ただ、私はこの世界のこの国……ダーディニアで生きていく。

(たぶんそれがアルティリエの願い)

 私がなぜここにいるのか……それは、アルティリエが生まれかわって生きることを願ったからだと思うのだ。
 
(あの冬の湖で)

 こんこん、という軽やかなノックの音とともに声がかけられる。

「妃殿下、殿下のおなりにございます」

 扉が開かれる。
 別に寝転がっているわけではないから、いつ開けられても困らないけれど、ちょっと目を見張った。
 
「……どうして?」

 思わず、聞き返してしまった。
 今日の予定にそんなことはなかったはずだ。

「……妻に会いに来るのに理由が必要か?」

 目の前に、私の夫たるナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエ殿下の姿があった。
 それは、相変わらず絶好調の冷ややかさだった。表情がとても険しい。
 執務室からそのままおいでになったのだろう。服装が外向きのものだった。
 ぶるり、とミレディと新人の侍女見習いの子が身体を震わせている。
 最近の殿下は、その声と眼差しで気温を下げるのだと噂されているのだけれど、これを見るとそれもありかもと思えるから不思議だ。
 陛下がお亡くなりになって、殿下はお変わりになったと誰もが言う。
 これまでの誰にでも優しい殿下、はどこにもいない。

(最初から、そんな人いなかったんだけど)

 今の方がずっと素の殿下に近いと思う。 

「はい」

 私は殿下が会いに来てくれたことがうれしくて、でも、深くうなづく。

「妻なのにか!」

 殿下が、目をぱちぱちとしばたかせた。
 私のその返しは、どうやら想定外だったらしい。

「妻だからです」

 私は笑う。

「ちゃんと会いたかったからって言ってくれませんと」

 ナディル殿下はきょとんとし、それから、釣られたように笑った。

「そうか、ちゃんと言わなければダメか」
「はい。言ってくださったら、私、もっと嬉しくなれます」

 私は、はにかんだ笑みで殿下を見上げた。
 立ち上がっても、まだ身長差はまったく縮まっていない。
 殿下は困ったように笑って、それから私の前で膝をつく。

「……会いたかった、ルティア」

 そっとまるで宝物を扱うように大切に抱きしめられた。
 殿下の香水なのだろうか……どこか柑橘系の香りが周囲に広がる。
 この腕の中にいれば、何があっても大丈夫なのだと思える安心感。

「私もお会いしたかったです、殿下」

 自然と会いたかった、という言葉が口をついて出る。
 お世辞とか、計算とかそういうものではなく、ただ、それだけの想いでいっぱいになってしまう。
 びくっと殿下の肩が揺れた。
 あれ?何かまずった?

「……どうかしましたか?」
「……不公平だ」
「はい?」
「そこは、名前で呼ぶところだろう」

 殿下は大真面目だった。

「わかりました」

 私はちょっと笑いたい、と思いながらも、そこで笑いをこらえる。
 だって、ここで笑ったら絶対に面倒くさいことになる。
 それから、軽く深呼吸をして、その名を呼ぶ。

「…………ナディルさま」

 私だけが呼ぶことを許されている名を、唇にのせる。
 大切な名を、大切に呼ぶ。
 それは、とても幸せなことなのだと、私は知る。

「もう一度」
「はい」

 私は素直にうなづく。

「……ナディルさま」

 何度呼んでも、それは慣れることがなく。
 呼ぶたびに幸せがこみあげる。

「うん」

 ナディルさまは、満足そうに笑った。

 それを見た新人の侍女の子がぽーっとのぼせたような表情をしている。
 うん。仕方がないよね。ナディルさまはステキだもの。
 ふふん。妻である私は寛大なのです。
 ぽーっとしてたり、きゃあきゃあ騒いでいたりしても何も言いませんよ。
 いちいちそんなことに目くじらたてていたら神経がもちません。
 何たってナディルさまはすっごくモテるんですから。

「今日は一緒に夕食をとれないかと思ってね」

 ナディルさまのお誘いに思わず笑みがこぼれる。

「嬉しいです」

 思わずぎゅっとその首筋に抱きついて、それから少し身体を離して、ナディルさまを見上げる。
 抱きついているのも好きだけど、ナディルさまの顔が見えないのは寂しいのだ。

「まあ、まだ服喪期間中だから、たいしたものは出ないが……」
「ナディルさまと夕食がとれるだけで嬉しいです」

 現在は、半年前に薨去なさった国王陛下の服喪期間中である。
 服喪期間は食事もいろいろと慎んだものとなる。
 元が軍の携帯糧食で構わない方なので、何を出されても文句はないのだろうが、私を気遣ってくれる。
 私ももちろん、服喪期間なので保存食以外の肉、魚類を使った食事はしていない。
 ただ、私のところはレパートリーが豊富なので、本宮の料理長が作ったものよりもナディルさまのお気に召すことが多いのだ。
 朝食は一緒!を毎日実践していますよ。
 餌付け計画はとっても順調なのです。

 ただ、元々、忙しかったナディルさまだけど、最近は環をかけて忙しい様子なのが心配だった。
 陛下がお亡くなりになったことで、これまで陛下のされてきた仕事も回ってきたこと。それから、それに伴うこの本宮への引越しや、エサルカルのクーデター事件の後始末や、それと関連した出兵の後始末……あげればキリがない。
 仕事が後から後から湧いてくる状態なんだそうだ。
 フィル=リンなんか、見るたびに真っ青な顔してる。

「嬉しいことを言ってくれるのだね、ルティア」

 ナディルさまはそっと私の髪を撫でる。
 優しい手つきがくすぐったくて、うれしくてじたばたしたくなる。
 うん。挙動不審な言動はしないように心がけています。
 私、ナディルさまの妃ですから。

「あー、殿下、そろそろ執務室に戻ってくれませんかねぇ」

 ものすっごく渋い顔をしたフィル=リンだった。

「フィル=リン、久しぶりですね」
「ええ。姫さんもお元気そうで」
「はい。殿下のおかげです」
「……なあ、その二言目には惚気るのってクセ?もうクセになってんの?」
「はい?」

 半眼でこっちをしらっと見ているフィル=リンに首を傾げる。

「いいじゃないか、可愛くて。私は嬉しいよ、ルティア」
「ありがとうございます?」

 意味がわからないけれど、ナディルさまがにこっとしてくれたので、私もにこっと笑う。

「あのさ、砂吐きそうなんですけど!どうしてあんた達、そうなんだよ!寄ると触ると、甘ったるい空気垂れ流しやがって!!」

 フィル=リンがよくわからない逆切れをおこしていて、私とナディルさまは何がなんだかわからなくて顔を見合わせた。

「……アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子?」

 そして、目の前のフィル=リンにひんやりとした声がつきささる。
 それはまさに氷姫の吐息のごとき、凍りついた声が。

「あえっ?」
「……アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子。私、何度も申し上げましたよね?殿下や妃殿下が御気になさらないからってそんな乱暴な言葉遣いはおやめくださいと」

 お使いにいっていたリリアだった。
 思わず、三歩くらい後ろに下がってしまいそうな様子でにこにこ笑っていた。
 王宮というところは不思議で、にこにこ笑っているときほど要注意である。 

「あ、え、その……」 
「何度申し上げればわかっていただけるのです?」
「あー、申し訳ない。ラナ・ハートレー」

 二度としません、といわないのは、フィル=リンの誠実さだろう。

「謝る相手が間違っています」
「申し訳ございません、殿下、ならびに妃殿下」
「うん」
「はい」

 私達はその言葉を受け取ったというようにうなづく。

「殿下、殿下もお悪いです。この言葉遣いを野放しにしておくなんて!」
「ああ……すまない。つい、ね。昔のままのようで嬉しくてそのままにしてしまうのだ」
「そう言うのは、お身内だけのときにしてくださいませ」
「わかった」

 きりっとした表情で堂々と述べるリリアに、殿下ははっきりとうなづく。
 どこか面白がる様子なのは、もう殿下にこんな風に話す人がほとんどいないからだ。
 あと二週間で仮喪の期間が終わる。そして、仮喪が明けたら戴冠式だ。
 殿下は正式に国王陛下となられる。

(でも、きっと、フィル=リンは次回も同じことで怒られる)

 そして、きっとリリアはまた同じようにフィル=リンをやりこめる……場合によっては殿下に意見もするのだ。
 
(ナディルさまが、それを楽しんでおられるから)

 私は、ナディルさまの笑っている横顔を見ながら、自分も笑っていることに気付く。そのことがしあわせだと思えてならない。
  
(私はここで生きていくから……)

 心の中で、先ほど数えていたあちらの思い出に別れを告げる。

(ここで、幸せになるから……)

 忘れてしまうわけではないけれど、でもきっと、それはだんだんと遠くなるだろう。

「ルティア」

 なんだろう?ナディルさまの声が、いつもよりちょっとだけ険しい響きを帯びている。

「はい」
「……いや、こういうことはちゃんとするべきだな」

 殿下は、腕の中の私をそっと床に下ろした。
 それから、私の前に膝をつく。

「ナディルさま?」

 いったい何事なのか。膝をついた殿下は、私の右手をとり、その手に額をつける。

「アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーティエ」
「はい」
「このナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエの妻になっていただけますか」

 それは、正式な求婚の言葉だった。
 既に婚姻は結ばれているから、矛盾があるのはわかっている。
 でも、これはナディルさまが、ナディルさまの意志で口にしてくださったのだ。
 そのことが嬉しい。

「はい」

 嬉しくて、嬉しくて、涙がこぼれる。
 本当に嬉しいとき、涙が出るというのは本当だ。

「ナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエは、我が剣と我が魂に賭け、貴女だけを愛し、貴女だけを守り抜くと約する」

 そう言って、ナディル様がそっと私の手に口付けた。
 簡易なものであったけれど、これで誓約は成る。
 次の瞬間、わっと歓声があがった。

「おめでとうございます、妃殿下」
「ありがとう」
「妃殿下、うらやましいですー、あんなステキな求婚してもらえるなんてー」

 おとぎ話の中みたいな求婚だった。
 女の子が夢見るそのものみたいな。

「しかも、殿下に!」
「殿下かっこいいですー」
「妃殿下、おめでとうございます」
「ありがとう」

 侍女達や護衛の騎士達からも祝福の声がかかる。

「……なあ、何で今更なことやってんの。殿下」
「いや、本で読んだのだよ。私達は既に結婚して12年になるわけだが、ちゃんとこういうことはしなければなるまい。私達は年齢差があるし、生活範囲もまるで違う。そんな相手に気持ちを察せよ、というのは無理な話だ。……それに、いつも素直な心のままに私を大切にしてくれているルティアに、私もちゃんと返さねばなるまい」

 私ばかりがもらう一方では続かないだろう、とナディル様が笑う。
 今日は、笑顔の大安売りの日ではなかろうか。

「ナディルさま」
「何だい?」

 ナディルさまはいつも私と目線の高さを合わせるために膝をついてくれる。

「私は、ナディルさまの隣に立ちます。いつも一緒です」
「うん」
「………大好きです」

 愛してる、とは言えなくて、ただ大好きだと告げる。
 それが私の精一杯だった。
 耳元が暑かった。きっと真っ赤になってるだろう。
 おかしい、33年の経験値はどこに行った!と心の中で突っ込むほど。

「うわ、あざとい、姫さん、あざとすぎる!」

 フィル=リンが真面目くさった顔でわけのわからないことをつぶやいていて、ナディルさまが口元をおさえてうつむいていた。

「その表情は、反則だ」

 反則?何が?
 こんなに真っ赤で恥ずかしいのに。

「……ナディルさま?」

 


 答えはなくて、私はその腕の中にぎゅうっと抱きしめられた。
 







 なんちゃってシンデレラ END


 2013.10.26 更新



 実に四年半にわたる物語におつきあい、ありがとうございました。
 後ほど改めてあとがきを書かせていただきます。
 ただ、これだけは言わせていただきたい。
 ここの、読んで下さっている皆様のおかげで最後まで書けました。
 ありがとう。



[8528] あとがき
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/10/27 22:34
まずは、最後までおつきあいいただきありがとうございました。
4年半前の投稿が最初でした。
書き始めたときからプライベートもだいぶ変わりました。
長いですよね、4年半って。

こちらにたどり着いたのは、エヴァの二次を好きな作家さんが書いていたことがきっかけでした。
途中、何度も投げ出しながらも、そのたびに感想を下さっていた皆さんの言葉に励まされました。
半年以上音信不通でも、感想下さる方がいる!と。
それまでいただいた感想も読み返して、書くための燃料にしていました。
最後まで書けたのは、ここの皆さんのおかげです。
ありがとうございました。




さて、このあとは雑談というかいいわけで(笑)

まず、連載中にここに掲載して消した番外編ですが、完結後に掲載しますと言っていたのですが、ファイルをなくしてしまいました。
申し訳ありません。
春にして~くらいしか確実に手元にないので、それだけは再掲載させていただきますが他はちょっと不確定です。
見つけたら再掲載いたします。

2013.10.27 追加
テキストファイルありますよーのお知らせありがとうございます。
幸い、親切な方にご協力をいただいて、ファイルを入手することができました。
お申し出いただいた皆様、どうもありがとうございました。
おいおい、番外編として追加していきたいと思います。


以前からずっといっていた改訂をする予定です。
完結したので、やっと心おきなく改訂できます(笑)。
途中で改訂すると絶対に最後まで書けないと思ったので我慢していました。
回収していない伏線、伏線としきれていない箇所、書くのが面倒でカットした場面等、とくにカットした場面はそれがないから意味がわからないことがあって、具体的に言うと一番はエルゼヴェルトという姓の意味についてで、最終話にそれを無理やりつっこんだので説明的になりすぎました。
少しづつ……内容忘れない程度のペースでなおしていきたいと思います。

誤字脱字教えてくださっている方、ありがとうございます。感謝です。改訂版に反映させていただきます。

それと、あえて回収していない伏線は続編分です。(忘れてる分もたぶんあります)
なろうさんで書いているものが一息ついたら、成長したヒロインと相変わらずの殿下の様子を書きたいと思っています。

長々とありがとうございました。

2013.10.26 ひな






御礼小ネタ

ある日のフィル=リンと殿下
エピローグの少し前


「あー、何読んでるんですか、殿下」

 時刻は既に零時を回っている。
 日中があまりにも暑い為、夜のほうが作業効率が良いといって残業続きのナディルだったがいい加減に休んでもらわないと部下が大迷惑である。
 本人は超人かもしれないが、俺たちはタダの人間なのだとフィル=リンは声を大にして言いたい。
 もちろん、一言だって本人に言うことなどできないのだが。

「ルティアの気に入っている読本だよ。これが、なかなか侮れない」

 ペラリと見せた薄い本は、普段、ナディルが好んでいる書籍類とはまったく趣を異にしている。

「何読んでるんです?」
「空の瞳という……何だろうな、恋愛冒険政治謀略後宮小説とでも言うような……」
ナディルは少し首を傾げる。

「あー、いいです。わかりました。何となく。……んなもん、読む暇あったら、ちっとは睡眠とれや」

 このまま寝台に叩き込みたい、とフィル=リンは思う。
 どう考えても働きすぎなのだ。
 かといって部下に任せていないというわけではない。
 ナディルは何もかも自分で抱え込むタイプの上司ではない。
 むしろ、できる人間には仕事をどんどん放り投げる。

(一国の君主、というのはそれだけ激務だということだ)

 特に、今の情勢は一触即発とまでは言わないが、かなり厳しい状況だ。
 エサルカルのクーデターは結局失敗に終わったものの、その傷跡は深い。そして、一時は敵対したその国に対し、無条件で援助をするわけにはいかない。

「何をいう。私とルティアは15歳も年齢差があるのだぞ。親子でもおかしくないのだ。愛することは簡単だが、愛されることには努力がいる。私は努力を惜しむつもりはない」
「……そんな女向けのベタ甘な、いつか王子様が的恋愛小説読みながらそんなこと言っても、まったくサマにならねーから!」

 本人大真面目な顔で、心底そういっているのはわかっているが、微妙に滑稽である。

「何を言う。これは私の大事な教科書なのだ」
「は?教科書?これで何が学べるって?」
「12歳の女の子の夢見る求婚の作法」
「はいぃ?」

 求婚って誰にだよ、とか突っ込む気はなかった。この目の前の男が望むのはただ一人しかいないのである。それはもう充分すぎるほどわかっている。

(姫さんはとっくにあんたの嫁なんですけど)

「私はあまり情趣を解す男ではない。人よりちょっと優れているといえるのは頭脳くらいなものだ。だとすれば、ちゃんと情報を収集し、こうして分析をして、あれの好みをできるだけ理解し、それに近づくようにすればいいのだ」

 ふと見れば、机の上には小山のようにその同じ装丁の薄い本が積まれている。
 しかも、何やらラインをひいたり栞をはさんだりしてある。
 何やら表をつくって真剣に分析なんかしているようだ。この男が、部下にも任せずに自分自身でここまで真剣に分析する事柄など、そう多くはないだろう。

「なあ、あんた何をはじめんの?戦争でもすんの?」

 そこで初めてナディルは笑って言った。

「妻を攻略するのだよ。私ばかりが征服されているのは不公平だからね」



 END






[8528] 【番外】スクラップブックカードをめぐる三つの情景 その1
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/12/03 01:56
 ルパート=イシュール=ヴェム=オストレイ=デール(22)は、悩んでいた。

 名からわかるとおり、彼は東部の名門デール伯爵家の子息である。母も同じ東部の名門オストレイ伯爵家の娘で、家格のつりあいもとれた二人の間に生まれた気楽な三男坊だ。
 既に結婚している二人の兄にはどちらも息子がいるので、伯爵家の家督が彼のところまで回ってくる事などまずありえない。
 継ぐ領地はないが、義務も無い。いたって身軽な立場である。
 食べていくには不自由ないようにと亡くなった祖父から小さな荘園を譲られているから生活の苦労はないし、政治だの社交だのに関わらなくて良いというのは彼には願っても無いことだった。

 とはいえ、貴族たる者、社会に奉仕する者たらねばならぬ。
 だが、学者を目指すほどの頭もなければ、聖職者になるほど信心深くもない。王立学院を卒業すれば文官になれることは知っていたが特に勉強が好きなわけでもなかったので、消去法の結果、ルパートは国軍に入隊した。
 当初、所属していたのは東方師団だったが、つい最近、近衛師団に転属になった。

「何をそんなに悩んでいるんだ?」
「あー、うー、妹達に王都にしかないっていうカードを頼まれててさ」

 近衛師団が駐屯するのは当然ながら、王都である。
 ルパートが王都勤務となったことを知った二人の妹達は、目をきらきらさせて彼に迫った。『妹のおねだり』という名のそのミッションは、彼が遂行するにはなかなか過酷そうな気配を漂わせている。

「カード?ああ、スクラップブック?」
「そうなんだ。二人とも、夢中でな」

 スクラップブックは、男女の別なく流行している趣味の一つだ。蒐集する人間の嗜好やセンスが反映され、手軽であるのにみんなで鑑賞して楽しむこともできることから、年々その人気は高まっている。
 気に入った絵葉書やカードや印刷物等の切り抜きをスクラップするだけで、はじめるのにそれほどハードルが高くないせいか、だいたい周囲に一人くらいはスクラップブックを趣味としている人間がいる。

 例えば、花の図柄ばかりを集めている者や動物物ばかりを集めている者、あるいは異国の風景ばかりを集めている者等、テーマを決めて収集している者も多く、スクラップと一口にいってもこれがなかなか奥が深い。
 中でも特に流行しているのは、有名人の肖像だ。蒐集の対象となるのは、だいたいスクラップブックカードと呼ばれる肖像カードだ。女優や俳優、高名な吟遊詩人等々。ダーディニアにおいては、王室の方々のものが特に人気が高い。

「王都にしかないものっていうと……やっぱ、あれ?」
「ああ」

 近年、『写真』という新技術が開発されたというが、まだまだ一般の人間の手に届くものではないので、これらの肖像はすべて人の手による絵……細密画ということになる。
 画家の作風により同じ人物でもまったく違っており、その違いを楽しむのが通なんだとか。年頃の少女たちは何種類の王子の肖像を集められたかを競っているとも言う。

「……ブラック・ベリーか」
「そうだ……」

 ルパートは溜息をつく。
 少女達の間で最も人気が高いのは、カードの裏が黒いベリーのイラストで統一されているブラック・ベリー商会のものだ。
 ブラック・ベリー商会は王都の土産物店で、王族のカードの種類の豊富さを最大の売り物にしている。
 連日、店は大変な賑わいを見せており、その九割までもが女性客だ。

「あそこに男一人で行く勇気は、俺にはないよ」
「あー……僕もちょっとそれはね」
「なあ、ラエル」
「……イヤだよ、一緒になんて行かないよ」
「いいじゃんか、行ってくれよ~、頼むよ。幼馴染だろ」
「それとこれとは話が別」
「女の子大好きじゃん、おまえ」
「僕は普通に女の子を好きでいたいから、ああいうところにはいかないの。ああいうところでは本性がわかるだろ。僕はまだまだ女の子に夢見ていたいんだよ」
「ラエル~」

 ルパートは情けない声をあげる。
 この幼馴染は、女好きでタラシだという噂が先行しているが、単に女の子に優しいだけだ。そして実は、優しいのは女に対してだけじゃない。

「妹たちのためなんだよ~。な、頼む」
「カトリーヌとエレーナの為って言われたら断れないじゃないか……、このシスコンめ」
「るせ、しょうがねーだろ。あの満面の笑顔で『お願い、お兄さま』なーんて言われたら、断れるかって」
「うわー、絶対チョロいと思われてるよ」
「いいの。妹っていう生物はそれだけ優遇されるべき存在なの」
「……まったく、仕方がないなぁ」

 溜息を一つ。結局、何だかんだいって付き合ってくれるのがラエルだ。

「……ほら、行くよ」

 ルパートの二人の妹達を可愛がってくれているということもあるが、基本的に優しいのだ。
 それでいて、優柔不断というわけではない。

(こいつ、許容範囲が広いんだよな……)

 度量が広いと言うべきかもしれない。

「さーんきゅ。持つべきものは心優しい幼馴染だなぁ」
「お世辞を言っても何も出ないよ」
「ははは、お世辞じゃないって」
「……ルパートが、王都に来ることになったのは僕のわがままだからさ」

 ちょっと責任感じているんだ、とぼそりと呟く。それから、照れくさそうにそっぽ向いた。

「気にすんなよ。……妹姫、だろ」

 ルパートはラエルが異動願いなんか出した原因を知っている。

「妹だなんて呼べないよ。身分が違う」

 ラエルは、エルゼヴェルト公爵の庶子だ。
 庶子とはいっても、ラエルの母は今はエルゼヴェルト公爵夫人であるので、家督相続の権利がないだけで地元では普通にエルゼヴェルトの若様で通っている。
 エルゼヴェルトの相続権を持つのは、王室より降嫁したエフィニア王女から生まれた姫君だ。公爵にとって唯一の嫡出子であり、ラエルにとっては異母妹にあたる姫君で、彼女は国中の誰もが知る事情により生後七ヶ月から王太子妃として王宮に在る。

「でも、妹は妹だろ。だからおまえ、わざわざ近衛に転属なんて願い出をしたんだろ」
「…………心配だっただけだよ。だって、あの子、狙われてるんだよ。父上にあんなに言ったのに握りつぶしやがった。……あの墜落は事故なんかじゃないのに」
「それは仕方ないだろ。……疑われてるんだから、公爵……」

 先日、その王太子妃殿下は、実に十年以上ぶりで里帰りを果したのだが、城のベランダから冬の夜の湖に墜落するという事故に遭遇した。
 ラエルはその時に湖にいて……その夜の夜会に来ていた女の子と湖でボートに乗っていたのだ……運良く、妃殿下を助けあげた。
 妃殿下は記憶を失ったものの命には別状なく、王都に無事に帰還された。だが、滞在中に侍女の毒殺事件が起こるなどして、その身辺が不穏である事は確かだった。

「……だいたい、犯人の姿はよく見えなかったんだろ」
「…………うん」

 ラエルは、後で王太子妃殿下が落ちたということがわかったベランダに小柄な人影がいたと主張していて、あれは事故じゃないのだとずっと言い張っていた。
 結局、父親と兄達に黙るように言い諭されたのだが、ずっと納得していなかったらしい。
 王太子妃殿下の帰還のお供をして献上品をお届けした後、王都から戻ってきてすぐにいきなり軍に異動願いを出したのだ。
 国軍は六軍にわかれていて、ラエルやルパートが所属していたのは東方師団。当然、東部諸侯の子弟が多く在籍しており、国軍と諸侯との関係は深い。
 庶子とはいえ、東公エルゼヴェルトの子息であるラエルはそのまま東方師団にいれば何もしなくてもそれなりの地位に就く事ができる。

 だが、これが近衛となるとがらりと事情が変わる。
 近衛は王家の私軍に近く、元々、高位貴族の子弟が多い。
 軍において庶子であることは特に問題にされないが、ラエルの立場や家族事情というのは王家にとっては極めて腹立たしいものになる。
 よって、王家にごく近しい近衛師団において、ラエルの立場はあまり良いものとは言えない。ちょっとしたいじめ、に近いものがあるのだ。

(それでも、こいつは帰るって言わないからな……)

 近衛に転属になったからといっても、ラエルの事情が事情でもある。妃殿下の側近くに配されることなど不可能だ。
 口をすっぱくして言い聞かせたのに、結局ラエルはそれを聞かなかった。

(まあ、昔っから、言い出したらきかないからなぁ)

 何かあった時に、近くにいれば手助けできるかもしれない……というのがラエルの言い分で、単に距離が近いだけではできることなどないと言ってもきかなかった。
 ラエルを一人で王都にやるのが心配で、結局ルパートも一緒に転属願いを出したのだ。
 公爵がルパートの転属も必ず一緒に押し込む事は計算済だ。
 一部では血も涙もないような男と思われているが、あれで、公爵は子供に対する細やかな気遣いをする人間だ。近衛への転属は案外あっさり認められた。
 騎士として叙任されていて、かつ、素行に問題がなければ異動はそれほど難しいことではない。

 だが、近衛とはいえ、こちらで配属されたのは正宮の警備部隊だった。
 公爵にごく近しいラエルは、本当ならば警備部隊という裏方になることはない。
 だいたい正宮の警備なんて、西宮からほとんど出ないという妃殿下とは顔を合わせることもない。
 顔どころか影を見ることすらなく、時折、噂話がやっと聞こえてくるくらいだ。

(なのに、諦めないんだよなぁ……)

 それでもクサらずに正宮の端っこの門の警備をしているのだから頭が下がる。
 ラエルはとかく顔のよさでいろいろ言われている男だが、中身だって悪くない。

(カトリーヌかエレーナのどっちかがこいつの嫁になればいいのに……)

 そうすれば妹はきっと幸せになれる、と確信できるくらい、ルパートはラエルという人間を買っている。




「……あそこだよ、ルパート」
「おお……すげえ」

 王都で最も地価が高いと呼ばれる一角に、その店はある。
 統一帝国時代の建築をマネた白壁……この白さを保つ為に、この店では月に一度、壁を塗りなおしているのだという。
 店の前にはピンクや水色や黄色や……さまざまな色合いのドレスの女性達が列をなしていて、さながらファッションショーの楽屋だ。
 田舎から出てきたばかりというような少女がいれば、最新流行のマーメイドラインのドレスに身を包む貴婦人も居る。
 一人で来ている者はほとんどなく、だいたいが数人のグループで、ぺちゃくちゃとおしゃべりしながら列に並んでいる。時折、ぽつんと混じっている男性は、ルパート達と同じくきっと誰かに土産として頼まれたのだろう。

「あそこに突入するのはちょっと躊躇するよね……」
「敵に突入するより恐えぇ」
「女性客が九割以上だから……それに、何か明らかに場違いだもんね」

 男性客は心なしか居心地悪そうだ。

「……でも、女性王族のカードだってあるんだろ?」
「ブラックベリーは、女性王族や女優や……いわゆる男性向けのカードは取り扱ってないんだよ。そっちは姉妹店のベリー・ベリーに任せてるから」
「……よくわかんねーけど、そいつらが商売がうまいだろうってことだけは何となくわかる。でもよ、例えば国王陛下と王妃殿下が一緒に居るカードなんかはどこで売ってんだ?」
「それはどちらでも。……マニアになると、同じ画でブラック・ベリー版とベリー・ベリー版を揃えるんだってさ」
「同じ画ならどっちだっていいじゃんか!」
「彩色の絵の具がちょっと違うんだって。だから、肌の質感が違うんだってさ……」

 ラエルはどこか遠い目で説明する。
 ルパートはなにやら別の世界を覗いたことがあるらしい幼馴染の言葉を黙って聞いてやった。こういう時、深くは突っ込まないでいてやるのが、友情を長続きさせるコツだ。 
 二人が馬から下りると、どこかからか子供が寄ってくる。

「馬、預かるよ、30分で銅貨1枚」

 見たところ年齢は十歳前後。着ているものもこざっぱりとしているから、近所に住んでいる子供か何かかもしれない。

「2時間で2頭で6枚。延長したら30分で1枚ずつ」
「OK、それで手をうつよ。水はやった方がいい?」

 どうどうと交渉する様子も慣れている。

「じゃあ、水代で2頭で1枚追加」
「わかった。任せて」

 子供は目を輝かせてうなづいた。思っていた以上に値切り幅が少なかったことと、水代の追加が嬉しかったのだろう。
 こういう場所には馬車を止めておいたり、馬を止めておくスペースはあるが、専門の厩務員を置いているわけではない。
 そこで、だいたいこういう近所の子供なんかが馬の番をして小銭を稼いでいる。
 相場は1時間に銅貨1枚。ラエルが口にした額は相場よりもやや高いといえる。

「……やさしーな、ラエル」
「そんなんじゃないよ」
「だって2時間もかからないだろ」
「ルパート、あの列、舐めてるだろ」
「……何?そんなにすごい?」
「ざっと見たところ、中に入るまでに1時間ちょっと。中で目的のものを全部手に入れるのに30分ってとこか」

 ラエルの横顔は厳しい。
 とりあえず、二人は列の最後尾に並ぶことにした。だが、彼らが並んだ後にも次から次へとならんでゆくし、乗り合い馬車から先を争そうようにしておりてくる女性の集団もいる。

「そんなに時間かかるものなのか?」
「ああ。……で、誰と誰のを買うの?手分けしよう」
「………王太子殿下と大司教倪下、あと近衛のウィ―リート公爵があれば」
「おうたいしでんかーっ、一番多いじゃないか……」

 ぐしゃぐしゃとラエルは自分の髪をかきまぜる。

「そうなのか?」
「当然だろう。あの外見だぜ?」
「いや、でも、既婚者だろ?」
「そんなの、憧れる気持ちには関係ないだろ?……別にお会いしてどうこうできるわけじゃないんだから」
「まあ、確かに」

 彼らの身分であれば、王太子と直接対面することは不可能ではない。ラエル自身は、王太子妃への献上品を届に行く事が多いこともあり、それなりに面識もある。
 女の子であっても、社交界デビューできる程度の貴族の家柄であれば必ず一度はお目にかかることができる。社交界デビューした少女は、その翌年に必ず国王陛下主催の建国記念のパーティに招待されることが決まっているからだ。
 だが、それであったとしてもやはり王太子という立場は特別である。二人とも、会ったことがあるだけに余計にそう思うのかもしれない。

「……で、どういうのを買うの」
「どういうのって?」
「絵の雰囲気とか、画家の指名とか……ないの?」
「ああ。できるだけたくさん欲しいって…………何?そんな数あんの?」
「あるんだよ。全部買ってたら破産すんぞ」
「え、マジ?」

 ブラックベリーのカードは、通常のものならば1枚あたり銅貨2枚。極めて安価でありながら、王都土産として名が通っているのでまとめ買いする人間も多い。

「マジ。昔の奴はプレミアついて高かったりするし、特装版とかあるし」
「特装版ってなんだ?」
「彩色にまでこだわって、金箔や銀箔まで使ってる高級カード」
「……………何すんだよ、それ」
「さあ……。商売うまいんだよ、ここは」

 次から次へと新作を出すことで常に飽きられない工夫をしている。また、『限定』や『特装』といったプレミアカードを出す事で競争心を煽るところもうまい。

「あー、何買ったらいい?」
「ブルーラインシリーズっていう、初心者向けの青い縁取りのカードがいいと思う。人気もあるし、女の子が好みそうな肖像が多いから。選択するのが難しかったら、セットものを買えばいい」
「セットもの?」
「そう。異国セットっていうのは、殿下が他国のいろいろな民族衣装を着ているシリーズだし、フラワーセットっていうのは背後にいろんな花を背負ってるシリーズな」

 わずかずつ進んでいく列にあわせ前に足を進めると、ショーウインドウの中にさまざまなカードが拡大されてディスプレイされているのが目に入る。

「……なあ」
「突っ込んだら負けだよ、ルパート」
「……ああ。俺もそんな気がする」

 見なかったことにした時点で、既に敗北している気がしないでもない。

「……で、どういうのが喜ぶと思う?」
「とりあえずオーソドックスに白馬の王子様セットにしたら?普通の感じのものがセットになってるから……ほら、ああいうの。二人とも今まで買ったことはないんでしょう?」
「ああ。……地方では手に入らないからな」
「優良顧客ともなるとカタログ販売もやってるらしいけどね」
「……へえ」
「まあ、王都土産ってのがウリだから、地方に支店ってのはあんまり考えてないみたいだよ。ああ……あれが一番人気の白馬の王子様セット」

 ラエルが目線で指し示す。

「……………………………………なんていうかさ、王太子殿下も大変だよな、こんな恥ずかしい格好いろいろとさせられて」

 白馬にまたがり爽やかな笑顔を浮かべている殿下。
 どこかの庭を背景にポーズを決めにこやかに微笑まれる殿下。
 書斎で本に目を通す殿下。
 ……確かに絵的ではあるが、現実にこんな人間が周囲に居たらどん退きするだろう。
 こんな背後に薔薇しょってる人間、ルパートだったら目を合わせないようにして避けるし、できればお知り合いにはなりたくない。

「有名税って奴じゃない。お、ウィーリート公爵あった」

 店先においてある分厚い冊子をめくっていたラエルがなにやらメモしている。

「なんだ?それ」
「品番。ディスプレイされてるのは人気があるのか新作だけだからな。ここで品番メモって出してもらうんだよ」
「へー」
「……あと、大司教倪下は王子殿下だった子供の頃のものしかここにはないんだけどどうするんだ?」
「え、なんで?」
「聖職に就かれてからは、聖堂近くの教会の許可を得た土産物店でしか売ってない。もちろん、ここの支店がある」
「………………あー、つきあってくれるか?」
「………………次の休みなら」

 さすがに一日に二回もこれに並ぶ気にはなれない。

「何だよ」
「いや、おまえがあんまりにも詳しいから……」
「ガールフレンドにねだられて、何度か買いに来た事があるんだよ」
「優しいねぇ」
「ただのパシリでしょう」

 口元に浮かぶ苦笑。

「……………………どういうガールフレンド?」
「ニディアルド子爵令嬢」
「……なるほど」

 それは、社交界でも有名なわがままお嬢様の名だ。

「おまえ、なんであのわがままお嬢の言うこと聞いてやってんの?」
「あれで二人きりになると可愛いとこあるんだよ。それに、お互いギブ&テイクだからいいんだよ」
「ギブ&テイク?何をテイク?」
「彼女の異母姉は、イーゼル商会の代表の元に嫁いでいるんだ」
「イーゼル商会って……本屋?」
「そう。娯楽本の出版もしている。ルパートの好きな『竜の誇り』もそうだし、あと、妃殿下がお好きな『空の瞳』というシリーズを出しているんだ」
「ああ……本好きだって言ってたっけ?」
「そう。だから、いろいろと便宜をはかってもらってる」

 いちはやく新刊をもらったり、印刷部数があまり多くない番外編を取り置いてもらったりね。とラエルは笑う。

「なるほどね……」
「残念なことに『空の瞳』のシリーズは作家が亡くなってしまったから、今残ってる原稿を出版した後、続きがどうなるかわからないんだけどね」
「シリーズ物は難しいよな。作家が変わって人気が出ることもあれば、逆に人気が落ちることもあるし……」

 こういった娯楽本の原稿料というのは極めて安い。しかも、原稿買取方式なので、何部刷ろうとも作家にはほとんど関係が無い。
 よほどの流行作家でなければ専業で食べていくことはできないので、だいたいが二足のわらじを履いているものが多い。
 『竜の誇り』シリーズは、大学の入学試験に落ちつづけていた二人の兄弟が生活費稼ぎに書いたものがはじまりだというのは有名な話で、彼ら兄弟は現在は王都で貸本屋を経営し、『竜の誇り』の原作者におさまっている。
 彼らの原案の元に、何人かの作家が竜の誇りの世界から派生した物語を書きつづけていて、主人公が違うそれぞれのシリーズにそれぞれのファンがいる。

 フランシーヌ編という男装のヒロインの活躍するシリーズは女性ばかりの歌劇団で歌劇として上演されたことがあるし、一番オーソドックスな戦争で孤児となった少年が一流の剣士として成長していくクイン編は芝居小屋の小芝居としては定番の演目としてよく取り上げられている。

「続きが出版されないこともあるしね」
「でもさ、変な作家に勝手に続きを書かれて出版されるくらいなら、未完の方がマシじゃないか?」
「確かにね。続編ってファンにしてみればこりゃあないだろうってのが多いからね。でも、物語ってENDマークをつけないと評価できないと思わないか?」
「終わりよければすべて良しだよな」
「確かにそれはある。まあ、僕としては良い作家に続きを書いて続いて欲しいと思うよ。このまま終わりでは、妃殿下が大層がっかりされるだろうからね」

(……シスコン)

 口には出せない一言。
 だが、いつかそれを面と向かって言える日がくればいいのに、とルパートは思う。

(この妹バカめ!)

 過去を変える事は出来ない。だが、新しくはじめることはできるはずなのだ。
 兄妹としてでなく、血がつながってる他人としてでかまわない。「はじめまして」とか「こんにちは」からスタートして少しづつ歩み寄ることができればいい、と、この心優しい幼馴染の為に思う。

(そうしたら、思いっきり、今まで俺が言われた言葉をかえしてやるよ)

 ルパートは願う。

(いつか、きっと……)

 祈るような気持ちで願い続けるのだ。





2009.06.20 初出
2013.12.03 再掲




[8528] 【番外】スクラップブックカードをめぐる三つの情景 その2
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/12/03 02:02
 それは、まるで一幅の絵画のような光景だった。
 美しい二人の少女が、微笑み会いながら会話を交わしている様子は、どこか陽だまりの温かさを感じさせるような……見るものを幸せへと誘うような情景でもあった。

「スクラップブック~?ナディ、そんな趣味があったんですか?」
「んー、どっちかっていうとカード集め。他のものは集めてないし、スクラップブックじゃなくて、専用のカードケースにいれてるから」
「へえ……見せてくれるんですか?」
「い、いいわよ。ルティだから特別よ」
「ありがとう、ナディ」

 ふわりとアルティリエが笑うと、ナディアは頬を染める。

(ナディア姫様ってわがままで意地悪だって聞いてたけど、全然そんなことないわよね)

 気の強い美少女が照れてはじらっている姿は、ひどく微笑ましいものだ。

(それとも、うちの妃殿下がタラシなのかしら……)

 ジュリアは、そんな二人の様子をちらりと見ながらお茶をいれる。
 今日のお茶は、ダーフールの緑茶だ。ここのところ妃殿下は緑茶がお好みで、緑茶にあった菓子……ということで、豆を甘く煮たものを使う菓子をよく作る。
 これがあるといろいろなお菓子に使えて便利なのだが、おいしく作るのには修行が必要らしく、ジュリア達が味付けするとどうしても甘すぎてしまう。
 今日のお菓子は、そば粉を練って丸めたものを茹で、それに甘く煮た豆をかけるだけのお手軽さなので、定番おやつになっている一品だ。

「んー、おいしい……。ここのお菓子は本当においしいわ。うちの侍女にも見習わせたい」
「気に入ってくれて嬉しいです。……もうすぐ台所も完成しますし……完成したら、職人さんが来てくれるんですよ」
「お菓子の?」
「はい。エルゼヴェルトのお城でお菓子を専門に作っていた料理人さんなんです」

 すごーくおいしいお菓子を作るの、と嬉しそうに口にするアルティリエの姿に、ナディアが微笑む。

(目の保養~)

 思わず、眼福眼福と呟いてしまいそうな麗しい光景だ。

(嫌だわ、何かオヤジくさい)

 ジュリアは気をつけようと自身に言い聞かせた。





「とりあえず今日は王太子殿下の持ってきたのよ」
「殿下の?……汚すといけないですから、あちらで見ましょう」

 二人はお茶もそこそこにソファコーナーに移動する。
 大き目のソファに大きいクッション。ナディアは黄色のクッションの手触りが好みらしく、それを自分専用にしている。

「三冊もあるんですか?」
「あら、これは最近のだけよ。それでこれが最新作なのよ。見て」
「うっ……」

 クッションを抱えたアルティリエは凍りついた。

「え、どうしたの?」
「な、なんですか、この破壊力抜群な代物は」
「え?……殿下よ?」
「ぶっ……」

 口を押さえて噴き出す。

「ルティ?」
「す、すいません……」
「何かおかしい?」
「いえ、殿下が、殿下が……っく……」

 抱きしめたクッションに顔をうずめ、ソファの上で笑い転げる。

「いったい、どこの王子様ですか……こんなポーズとって……」

 きらきらと周囲に光の粒子を振りまく爽やかな笑顔の殿下のカードにアルティリエが笑い転げる。


「……あ、ありえない……」

 日常生活の中という設定なのだろう。ティカップを口元に運び、にこやかに微笑みかけるナディル……これもありえない。ナディルのにこやかさは不機嫌さと紙一重だ。

(そもそも、殿下が本当に笑うのは極めて珍しいんですよね)

 極めて珍しいどころか、実の弟妹達ですら数えるほどしか見たこと無い事をアルティリエは知らない。
 王太子妃宮からほとんど出ることのない彼女が話をする人間は極めて限られている。アルティリエの知る王太子ナディルが、他人の知るそれとかなりかけ離れていることに彼女はまだ気付いていない。

「どこって、あ……王太子殿下はダーディニアの王子でしょう?」
「そういうんじゃないんですってば……」

 やっと笑いがおさまったと思ったら、白馬にまたがり剣を天に向けて掲げているナディルのカードを発見してしまい、アルティリエはまたしても笑いの発作に襲われる。

「なあに?そんなにおかしい?」
「だって、本物知ってるとありえないじゃないですか、そんな爽やか笑顔」

 何だか見ているだけでむずがゆくなりそうで、とアルティリエはジタバタと足をバタつかせる。

「何言ってるの、王太子殿下は素敵じゃない」
「ナディ、夢見すぎですよ。殿下は確かに素敵な方だと思いますが……いくら有名税とはいえ……こ、これはないと思うんです」

 アルティリエにしてみればアイドルのブロマイドのようなものか、と思えるのだが、それにしても恥ずかしすぎる。

 イシュトラ風のターバンの衣装や、エーデルト風と言われるちょうちんブルマーな王子様スタイル、極東の島国ヤーダの袴姿などさまざまな格好をしている。百歩譲ってコスプレくらいならまだいいが、その胡散臭そうな笑顔や不自然に顎にあてられた手や、ウインクしている表情や……画家の考える王子様補正が笑うしかない代物だ。

(こんな人がいたら、絶対に避けて歩くわ)

 きらきら光の粒子を振りまき、薔薇の花を背負ってる男なんてお近づきになりたくないというものだ。

「あなた、そんな風に笑ってるけど、あなたのカードだって勿論あるんだからね」
「私のカードですか?」
「そうよ。王族なんだから当然でしょ」
「……見てみたいような、見たくないような……」
「あら、可愛かったわよ。去年の冬の白いドレスが一番多かったわ」
「…………持ってるんですか……」

 軽く首を傾げる。

「べ、別にルティのカードを集めたわけじゃなくてよ。私のコレクションは、王室全般に渡ってるんだから」
「へえ、すごいんですね」

 アルティリエは素直に感心している。
 だが、ナディアの侍女達がここにいたとしたら、きっと何か言いたいことがあったに違いない。

 彼女達は、アルティリエのカードを集める為に、王都内のベリー・ベリーの本店、支店に朝一番で並ばされた。
 男ばかりの列に並ぶのも勇気がいるし、彼らをかきわけて店内で目的のものを手に入れるのだって一苦労だったのだ。

「殿下の小さな時のカードとかもあるのよ」
「それは見てみたいですね」
「でしょう。それからね……」

 二人の少女は顔を寄せ合って、くすくすと笑いながら楽しそうに話をしている。
 女の子にとって、おしゃべりの種がつきることはなかった。







 2010.03.14 初出
 2013.12.03 再掲



[8528] 【番外】スクラップブックカードをめぐる三つの情景 その3
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/12/03 02:09
「兄上、プレゼントですよ」

 王太子宮にギッティス大司教たる元第三王子がいることは珍しくない。
 ギッティス大司教に就任以来、聖堂よりも王宮にいることの方が多いのではないかと密かに噂されているくらいで、当人も周囲もそれに特に違和感を覚えていないのが呆れてしまいたくなる現在の状況だった。

「………シオン?」
「妃殿下にお会いできなくてイラついていると、フィル=リンから聞きましたので……」

 プレゼントをお持ちしたんですと恭しく差し出す。
 ナディルはわずかに不思議そうな表情で差し出された封筒を開く。
 二つ折りカードの片側に、美しい彩色の細密画がはめ込まれていた。

「……ルティア?」

 美貌の少女だった。好みとは違ったとしても、誰もがその美貌を褒め称えるだろう幼い少女。
 光をはじく黄金の髪は緩やかに波うち、透き通るような肌はわずかな薔薇色を帯びている。鮮やかな碧の瞳は夢見るように細められ、口元にはわずかに笑みを浮かべていた。

 王太子妃アルティリエ……そこに描かれているのはまだ幼い彼の妻だった。
 画家の腕は相当に良いのだろう。その筆致は、柔らかな肌の質感や、ガウンの繊細なレースを見事に描き出している。

「城下で評判の土産物屋の特装カードです。私の一番お薦めの画家の作品です。よく似ているでしょう」

 確かにそれはとてもよく特徴を映していた。

(本物にはだいぶ劣るが……)

 だが、夫である彼が、本人を思い出すよすがには充分なるだろうと思えるほどによく似ている。

「土産物……?これが?」
「特装シリーズですから何枚もあるわけじゃありませんよ」
「………………………」

 無言のまま見入っているナディルの横顔からは、何を考えているか窺い知る事はできない。

(あー……バレてんのかな……)

 シオンは、軽く眉根を寄せる。

「えーと……私的に一番可愛らしいカードをお持ちしたんですが……」
「…………………なぜ、羽根?」

(ひっかかるのは、そこですか……)

「嫌だなぁ、兄上。それは妃殿下が天使だからですよ」

 一部にほんのわずか薄紅を帯びた白のドレス姿……背には、小さな白い翼がのぞく。

「ルティアは確かに天使のように愛らしいが……」
「………………そうですね」

(………………び、び、びっくりした。兄上の惚気なんぞ聞いてしまった。あまりのことに、心臓がバクバク言ってるぞ)

 シオンは、一瞬、自身が不整脈をおこしたような錯覚をおぼえる。 

「しかし、この光の環は何だ。死人のようで不吉ではないか」
「……いえ、天使です。光の環は天使のお約束ですよ、兄上」

 だが、ナディルはどこか不満げに眉を顰めた。

(あー……何がご不満なんでしょうか、兄上……?)

「ルティアの姿が、土産物として安売りされているのは腹だたしい」
「……は?」
「王室の人間のカードに関しては、規制をかけるべきではないだろうか……」

 至極、真面目な顔で言葉を紡ぐ。

「えーと、兄上、それは何かのご冗談ですか……?」

 王太子ナディルは、時として真面目な顔で冗談を言う。
 ……大半の人間が冗談だということ気づかなかったが。

「いや、本気だ」
「あー、兄上、これは特装カードですから安売りなどされていませんよ」
「だが、土産物として買える程度のものなのだろう」
「特別装丁ですから!限定品ですし、高価なんです。それに、これは本当に特別中の特別ですから!!」
「王室の人間の容姿が、誰にでもわかるというのはあまりよくないことではないかと常々思っていたのだ。……ルティアの場合、誘拐の危険性も高い」
「いやー……今更ですから」
「そう言って規制しなければ、いつまでたっても状況は変わらないじゃないか」

(あー……兄上、いくら姫君が可愛いからって横暴ですって)

 しかも、いかにももっともらしい理由を持ち出してくるところが狡猾だ。


「えーと……」
「シオン、夫が己の妻に不埒な思いを抱く人間に対し報復するのは当たり前のことだと思わないか?」

 淡々とした静かな口調だった。

「………あのですね、それは、現実の生身の場合でして……似姿に恋する人間まで含めるのはちょっとその……」

 シオンは、淡々としているからこそ、そこに凄味を感じるのは己の考えすぎだろうか、と思わず現実逃避したくなる。

「シオン、ルティアは私の妻なのだよ」

 にっこりとナディルは笑う。

「妻に対する危険を未然に防ぐのは夫の大切な義務だ」

 私は喜んでそれを果そうと思うのだ、と告げる言葉はどこまでも穏やかだ。
 単にその言葉だけを聞いていればいたってまともに聞こえるが、それは錯覚だ。

(兄上、それは姫のカードを購入した不特定多数の人間を全部処分するという意味なんでしょうか……)

 そんなことは不可能だと言い切れない恐ろしさが、ナディルにはある。

「……………こんなにもよく似た愛らしい姿が他の男の手にあるかと思うと殺意がわく」

 シオンは背筋がぞくりとするのを感じた。
 抜き身の刀を喉元につきつけられたような感覚……確かにそれは言葉どおりの殺意であったに違いない。

「……兄上、市販の一般的なカードはここまで精緻ではありません」
「そうなのか?」
「ええ、そうです。それは、兄上の為に私が特別に画家に描かせたものをカードに仕立てさせた本当に特別な品ですから」
「普通は、ここまでは似ていない?」
「はい。……この姿が、一度もお目にかかったことのない人間に描けるはずがないじゃないですか」

 こくこくとシオンはうなづく。

「なるほど」
「ですから、カードの規制まではちょっと……」
「だが、今後、このように特別なものが出回らないとは限らないではないか」

 ナディルはいたって真剣な顔で言う。

「大丈夫です。私の方で監視するようにしておきますから……」
「そうは言っても、そなたも忙しいだろう」
「とんでもありません。これくらいはさほどのことでもありませんし……」

 シオンは必死だった。
 カード規制なんていうことになったら、騒ぎになること必定だ。

「ブラックベリーの代表とは、いささか面識もございます。充分、注意させますから」
「自主規制、か……」
「はい。……そうだ。今後、発行されるものにつきましては、毎月兄上のお手元にも届けさせるようにしますよ。それをご覧になればおかしなものが出てないことはおわかりになるでしょうし……」

 ふむ、とナディルは小さくうなづく。

「どうしても差し支えがあるものについては発行停止、あるいは、回収させるようにしますし!」
 シオンは畳み掛けるように言った。
「……わかった。そなたがそこまで言うのなら、任せよう」
「はい。どうぞ、お任せください」

 シオンは、無事にうまく乗り切れたことにほっと胸を撫で下ろした。

(……あれ、ところで、どうしてこんな話になったんだろうか?)

 首をかしげていたシオンは、ナディルがいつもとはわずかに違う笑みを浮かべていたことに気づかなかった。






2010.05.29 初出
2013.12.03 再掲





 ↓↓↓↓↓↓

 おまけのおまけ




「あーあ、シオン倪下がまた丸め込まれてるよ」
「からかうつもりで逆に利用されてりゃ、世話ないっての」

 王太子ナディルの側近たちは、皆若い。だが、こぞってその能力には定評がある。
 ナディルは無能をひどく嫌う。上に立つ者が愚かであることは万死に値するとさえ言う男だ。その側近がバカではやっていけない。

「……仕方ないだろ。アル殿下もそうだけど、あそこんち弟妹、みんなナディルに騙されすぎ。いい加減、あれが大魔王だって知るべきだ」
「フィル=リン、言い過ぎだ」

 秘書官であるラーダが注意を促す。注意を促しているだけであって否定はしていないことに本人は気づいていない。

「何言ってんだよ、乳兄弟である俺くらいしか事実を口に出せないだろ。これで、あいつは妃殿下のカードを毎月たいした苦労も無くタダで手に入れられるんだぜ。絶対、今のはそこまで計算してたね!」
「おまえは、一度、殿下の寛大さに感謝するが良い」
「はい、はい」
「いや、一度じゃ足りないでしょ、フィル=リンの場合」
「あー、百回くらい?」
「るせ」
「ま、シオン猊下は一生敵わないだろ。……俺の知る限り、ナディルに勝てるのは妃殿下だけだね」
「なんじゃ、そりゃ」
「そのくらいタダ者じゃないのさ、あの妃殿下は」
「おまえが、妃殿下と敬称で呼んでるくらいだし?」

 からかうような言葉に、フィル=リンは肩をすくめる。

「こえーんだよ、ラナ・ハートレー」
「説教でもくらった?」
「あー、似たようなもん」
「美人なのにな」
「ばーか、美人は怒ると怖いんだぞ。これは世界の真理だ」
「……うちの殿下もこえーもんな」
「そこで、ナディルの名を出すあたりがおまえ終わってるから」
「フィルに言われたらおしまいだっての!」


 彼らは知らない。
 背後に、彼らの敬愛する主が引きつった笑みを浮かべた弟を従え、静かな笑みを浮かべて立っていることを。



 そして、その後におこったことは、誰も知らない。





 スクラップブックカードをめぐる三つの情景 END





 提供してくださったS様、ありがとうございました。
 おかげで再掲載できます。
 あと、すいません。再掲なのにsageチェックいれわすれてあげてしまいました。



[8528] 【番外】騎士の誇り
Name: ひな◆ed97aead ID:3dd63f76
Date: 2013/12/12 15:28
 その子供に初めて会った時、そのあまりの線の細さと繊細さに、この子が王族として生きることは相当に辛いことだろうと思った。





「……今日の講義は以上になります。何か質問はございますか?妃殿下」

 ひょんなことから、王太子妃の家庭教師を兼ねることになったのはつい最近のこと。
 当の生徒になりたいというご本人が自分で依頼に来たのにも驚いたが、そのご本人が以前とはまるで比べ物にならない快活なお人柄になっていたことにも驚いた。
 なるほど近頃、西宮が活気づいているのはそういうことか、とも納得した。

「アルセイ=ネイという人は、経歴がなぞの人なのですね」
「はい。ネイの前身は不明です。ネイがエレディウス3世の求めに応じてこのダーディニアの王宮建築家になった時、彼は既に老境にさしかかっていました。大陸各地でいくつかの建物を建築していたことがこれまでの研究でわかっておりますが、彼がどこで生まれ、どこで学んだのかはわかっておりません」

 王太子宮は常に恐ろしいほどの静寂を保つことが求められているので、我々近衛の間では『沈黙の宮』と呼ばれ恐れられている。あそこの家令はその眼差しだけで人を沈黙させる。
 これまでは妃殿下の宮も同様……いや、それ以上に静まりかえっていた。妃殿下本人が『人形姫』などと呼ばれ、存在しているかいないのかわからないほどだったからだ。
 エルゼヴェルドが毎週のように献上を繰り返すのは、実は、妃殿下が生存していることを確かめる為だとまことしやかな噂が流れていたほどだった。

「明日から行っていただく北のほうには、ネイが建築した聖堂があるんですよね?」
「はい。ネイが最後に建てたと言われているネーヴェの聖堂は、現在の聖堂建築の元となったと言われいる建物です」
「小さな窓に大きなステンドグラス……鏡とガラスを効果的に使った装飾が特徴、でしたね」
「そうです。もっとも、ガラスやステンドグラスというのはネイの再現した『失われた技術』の一つで、やっと近年再現できるようになったものです」

 先日の我らの失態が原因で記憶喪失になってしまった妃殿下は、一つ一つの記憶を確認するように口に出す。そうやって記憶を呼び覚ましているのだろう。
 申し訳ないようにも思うのだが、記憶喪失後の妃殿下の変化が周囲に良い影響を与えているせいで、記憶喪失というのも一概に悪いものではないのかもしれない、とも思う。

「それと、ネイの建築物一般に言える特徴ですが、必ずからくりと呼べるようなものが備わっています」
「からくり?」
「たとえば、壁につくりつけの燭台を軽くひねって押すと壁がくるりと回転するとかですね」
「……本宮にもあるのですか?」
「はい。幾つかはとても有名です……先ほどの回転する壁は法務省の長官の執務室と国王陛下の衣裳部屋に存在していることがわかっています。後は、蝋燭に火をつけるとスライドする扉とかですね。他にも、まだまだ解明されていないからくりはたくさんあるようですが……」

 正直、家庭教師にと乞われた時には躊躇したのだが、妃殿下は驚くほど聡明で努力家な子供だった。
 たった12歳とは思えぬほどのその豊かな知識は、彼女が努力して身に着けたものだ。
 知識というのはただ漠然と身につくものではない。語学などはセンスが物を言う部分もあるが、基本は反復による習得だ。
 つまるところ、当人に学ぶという意思がなければ、それは知識として身にはつかないのだ。
 そして、子供が知識だけを増やせば頭でっかちになりがちだが、彼女は不思議なくらいバランスが良かった。
 この年齢の子供に言うのも何だが、思慮深いのだ。
 それは、類いまれな美質であると思われる。
 王太子妃でなければ……いや、エルゼヴェルトの推定相続人でさえないのだったら、私は、彼女が大学に通うことを進言しただろう。

(それは決して叶わないが……)

 残念ながら、大学で妃殿下の安全を確保するにはかなりの困難が伴う。妃殿下の御身を万が一の危険に晒すことは決してできない。

 だが、妃殿下の家庭教師というのは私にとってなかなかに楽しい役割となった。
 妃殿下の宮で供されるお茶やお茶菓子が魅力的なのもさることながら、家庭教師というレッテルを手に入れたことで、私が妃殿下と一緒にいてもまるで不自然ではなく、かつてと比べると格段に護衛しやすくもなったからだ。

「私も見てみたいです。ネーヴェの聖堂は難しいとは思うんですけど……」
「そうですね」

 しかし、おそらくそれは叶わないだろうということを私は知っている。
 元来、女性王族の遠距離の外出はかなり煩雑な手続きが必要だ。しかも、妃殿下は特別な身の上である。
 更に、先日の事件以来、現在はこの厳重な王太子妃宮の外から出ることすらほぼ全面禁止状態と言ってもいい。本人に自覚はないかもしれないが、ほとんど軟禁状態である。

「……せめて写真があればいいのに」

 小声でつぶやきをもらす。

「写真は、まだ研究中の技術ですから……妃殿下は、どちらかで写真をご覧に?」

 ふと、疑問に思った。
 『写真』という技術はそれほど世に出回っているものでもない。だが、妃殿下の夫がナディル殿下であることを考えれば、特に不思議なことではなかった。
 多くの人間が知ることではないが、あの方もまた特殊な立場にあられる。

「いえ…………その……話に聞いたものですから」

 少しだけ困ったような表情が微笑ましい。

「……とても熱心な研究者がおりますので、十数年もすれば世に広がっていることでしょう」
「ご存知なのですか?」
「ほんのわずかですが、大学で教鞭をとっていたことがりまして……その時の教え子の一人がとても熱心に研究しておりました」

 写真に特別な情熱を燃やしていた教え子を思い出しかけて止めた。あの特別な情熱は、私には理解できないものだった。

「そうなのですか。楽しみですね」

 にこっと笑みを浮かべる。
 近頃の妃殿下は『人形姫』と呼ばれていたことが嘘のように表情豊かだ。もっとも、これは寛いでいられるこの宮内だけのことに限られる。
 公式の場では常にかつてと同じ無表情を装っている。
 その方が安全だという女官の言葉に私も同意した。彼女が変化することを望まない者も多い。
 
「今度、殿下にお願いしてみます。……ネーヴェの聖堂は無理でも本宮くらいは良いと思うんです。先日の王妃殿下のお茶会の時は、結局、噴水も見られませんでしたし……」
「…………王太子殿下に?」
「はい」

 妃殿下は笑顔のままでこくりとうなづいた。
 あの王太子殿下に対し、ここまで無邪気にふるまえるのはある種の才能に違いない。

「もちろん、もう少しお暇になったら、ですけど」

 声のトーンがやや下がる。

「そうですね」

 翳った表情……心の底から案じているのが容易に伺える。

(良かった……)

 この様子からすると、妃殿下と王太子殿下の仲は良好と言って良いのだろう。
 それは、我ら仕える者からすれば喜ぶべき事だ。
 何しろ妃殿下は、本人が望む、望まないにかかわらず、未来の国母となることが決定している。殿下との仲が良好であるにこしたことはない。
 こんな風に真剣な表情をすると、妃殿下は驚くほど大人びて見える。

(……エフィニア姫……)

 その横顔が、遠い面影に重なる。そして、同時に何かほのかに甘いものが身体の裡(うち)を満たす。





 元々、妃殿下は生母たる故エフィニア王女に生き写しといって良いほどによく似た容姿をしているのだが、これまではまったく印象が違っていたせいでその相似を感じることがあまりなかった。
 だが、近頃は、まるで時が巻き戻ったかのように錯覚する瞬間がある。

「伯爵?」
「すみません。少々、昔を思い出しておりました」
「……母のことを、ですか?」
「ええ、……誰か別の者にも言われましたか?」
「いえ。ナディ……ナディア姫の持っているカードで母の肖像を見て、あまりにも自分が似ていて驚いたものですから……」

 双子のようによく似てますよね、と屈託なく笑う。

「陛下や殿下が、私を見るたびに思い出すのもよくわかります」

 ドキリとした。
 陛下のアルティリエ妃殿下に対する強い執着の源は、当然ながらエフィニア姫に由来する。

「殿下も、ですか?」
「はい。……殿下は、私の母が初恋だったかもしれない、とおっしゃっていました」

 くすくすと妃殿下は笑う。

「……殿下がそのようなことを?」

 私はひどく驚いた。

「はい」

 私の驚きように、妃殿下は軽く首をかしげる。

「あ、いえ、殿下がそれを妃殿下におっしゃられるとは思わなかったものですから」

 秘めた想い、というものがあるとするならば、ナディル殿下のエフィニア姫に対する想いこそが、まさにそれであっただろう。
 


 生母は違えど……そして、年齢が異なれど、陛下とエフィニア姫はとても仲の良い兄妹であった。
 エフィニア姫は、音楽に特に深い関心を寄せており、その点が年齢の離れた兄妹を結び付けていたのだ。
 当時はまだ王子であった陛下の宮には音楽家も数多く滞在し、日常的にサロンコンサートなどが開かれていたから、エフィニア王女はしばしば兄王子の宮に滞在することがあった。
 そんな中、エフィニア姫とナディル殿下は、幼馴染のように、あるいは、姉弟のように育った。
 そして、やや内向的な気質の有る少年が、快活な年上の美しい少女に魅かれるのはある意味当然の事であり、性格が穏やかで芯が強く聡明な少年に、自分がそれほど知的でないというコンプレックスを持っていた少女が魅かれるのもまた当然のことだった。
 それは決して一方通行のものでなかった。
 ……『恋』であったかどうかは私は知らない。
 ただ、彼らの間に、互いを想う、密やかで優しい感情が確かにあったことを私は知っていた。
 国王の末王女といずれ王族公爵となるであろう公子……エフィニア姫がエルゼヴェルドと婚約していなければ、いずれそれは婚姻という話が持ち出されてもおかしくない組み合わせだった。
 だが、姫の婚約が動かせないものである以上、それは決して口に出せる類のものではなかった。
 やがてエフィニア姫は嫁ぎ……そして、目の前の少女を遺して逝った。
 


 
「伯爵は当時のことに詳しいのですか?」
「……ええ、まあ」

 私はあいまいにうなづく。
 妃殿下は柔らかな表情のままで私をまっすぐと見つめていた。その瞳に促されるかのように、私は口を開いた。

「当時、私はまだ公子であったナディル殿下の家庭教師を務めておりました」
「そうでしたか」

 解任された身なので、私はそれをほとんど口にしたことがなかった。殿下もまたそれをほとんど口にされることがなかったから、そのことは大概の人間の記憶の中で風化しているに違いない。

「皆も知っての事情で私は母を知りません。そのうえ、陛下がひどく過敏に反応されるせいか、私は母の話を誰かから聞くこともほとんどありません。それは、とても淋しいことだと思うと言ったら、殿下が少しだけお話してくれました」

 あの殿下ですから、話が弾んだというわけではないのですけれど、とアルティリエ妃殿下は笑みを重ねる。

「それで、初恋だと?」
「かもしれない、です。殿下ご自身にもわからない、と。それでも、殿下が母を大切に想ってくれていたことは充分にわかりました。だからこそ、母のことは殿下の心の中で、ずっと傷になっていたと思うのです」
「傷、ですか?」
「はい」

 妃殿下はこくりとうなづく。

「殿下はわりと理性の強い方ですけれど、エルゼヴェルド公爵に対する時だけ、感情的になります。……たぶん、ずっと公爵のことを許せなく思っているのでしょう」

 妃殿下は実父であるエルゼヴェルド公爵を、意識して口にしない限り『父』とは呼ばない。
 そこに特に感情的なものがあるわけでなく、ただごく自然に呼ばない。
 その事実が、妃殿下の生い立ちというものを何よりも明確に示しているように私は思う。

「……でも、それは同時に、自分を許せないことでもあるのだと、私は思うのです」

(……ああ)

 その言葉を聴いた瞬間、私の中に、泣きたいような、笑いたいような……どう言っていいかわからない感情が生まれた。
 それは、何がどうと明確にわかるようなものではない。
 けれど、確かなことが一つある。
 この少女がいれば、彼はきっと幸せになれるだろう。そのことが、私には嬉しかった。

「で、今は私にそのことをお話してくれるくらい、傷は癒えてきたのだと思うのです」

 良い傾向なんだと思います、と妃殿下は柔らかに微笑む。

「本当につらいことは誰にも話せませんから……」
「そうですね」

 私は同意し、心のそこからの笑みを返した。
 自身がこの少女を守る為に剣を捧げたのは、何もこの少女を守りたいと思っただけではない。
 この少女を守ることが、彼を守ることにもつながると思った為だった。
 それが決して間違いではなかったのだと確信する。

「……妃殿下」
「はい?」
「今度、殿下が幼かった頃の話をしましょうか」

 不意に、これまで誰にも話したことのない話を彼女に聞いて欲しいと思った。

「それは素敵ですね!」

 その表情がきらきらと輝き、私は目を細める。

「伯爵が北からお帰りになったら、お茶会をしましょう」

 お好きなお酒をうんときかせたケーキを焼きますね!と小さな拳を握り締める。

「はい」

 私は笑顔で席を立った。

「私の留守中に何かあれば、表向きのことは誰に頼んでもよろしいですが、内々のことはユーリッドに。……妃殿下の思し召しの通りに動くよう申し付けてあります」
「わかりました。ありがとう。……私的な調査に使って申し訳なく思います」
「いえ。剣の主のお役にたてることが、我ら騎士の喜びでありますから」

 誰もが目をそむけてきたこと。隠されてきたもの。忘れようとしてきたこと……妃殿下が明らかにしようとしていることはそういったことで、そして、私にも決して無縁のことではないという予感がある。

 ……だから、もし、終わりが来るのなら、これまで取り繕うようにして美しく整えられてきたものが崩れさるというのなら、彼女にこそ、その決着をつけて欲しいと思うのだ。

(殿下もまた、そのお気持ちなのだろう……)

 彼もまた同じなのだと、なぜだか私は確信していた。
 もしかしたら、まだ自身ではずっと彼の師のつもりでいるのかもしれないと気づき、少しだけおかしく思う。
 私が、彼を教え導いていたのは彼が目の前の妃殿下と同じ年頃のことだったというのに。 

「気をつけて行ってきてください。帰ってきてお話を聞かせて下さるのを楽しみにしています」
「妃殿下も、重ねて御身お気をつけ下さい」
「はい。充分注意します」

 妃殿下は柔らかに微笑む。
 何を知ったとしても、その笑顔が彼女から失われることはないだろう。
 その強さが、今の妃殿下にはある。

(人は、変わる……)

 それを体現しているのがナディル殿下であり、そして、アルティリエ妃殿下だった。
 ナディル殿下に過去の面影はなく、そして、今の目の前の妃殿下から、かつての無表情な姫君を思い出すことは難しかった。
 私には、それが未来であり、希望であるように思えるのだ。





「隊長」

 妃殿下の前を辞すと、廊下で待ち構えていたらしい人影から声がかかる。

「ユーリッド?」

 ここで待っていたということは急ぎ耳に入れるべきことがあるということだ。

「……一報が入りました。おそらく、隊長の留守中に派兵があります」
「気にするなとは言わないが、それは我らの戦ではないな」

 派兵……つまりは、戦だ。
 エサルカルの政変が我が国に戦をもたらす。それくらいは少し目端が利く人間なら誰もわかることだった。
 そして、それは、おそらくは今回限りの事ではない。

「承知しております」

 だが、我らが敵とするのは、妃殿下を狙う者であり、宮中の闇に潜む輩である。
 単に剣を振り回してどうこうできる相手でもなければ、意気揚々と自慢できる類の戦功があるようなものでもない。

「これを機会に王太子殿下は膿を出してしまう所存のようで」
「……協力するのはかまわない。だが、エルゼヴェルドの城でのこともある。向こうの言い分は言い分として、独自に策は練っておけ」

 二度の失敗はない。

「わかりました」

 さる大貴族の庶子という生まれのせいか、無口がちであまり人目をひかないこの青年は、私の従騎士だったこともあり、多くを言わなくとも理解する。

「妃殿下をお守りする。我らはそれだけでいいのだ」

 名誉も、手柄も必要ない。
 ただ、あの笑顔が曇ることがないようお守りできればそれで良い。
 それこそが、我らの誇りであり、剣を捧げたものの存在意義である。

「はい」

 ユーリッドが小さな笑みを浮かべてうなづいたことに、私は満足した。






 あの線の細く、繊細だった子供はもうどこにもいない。
 だが、私の剣は今も、あの存在を守る為にある。


 



 騎士の誇り END



 2013.12.12 再掲



[8528] 【番外編】妃殿下の菓子職人(1)
Name: ひな◆ed97aead ID:024f2000
Date: 2014/01/18 01:20

 うちは、貧しかった。
 代々小作農の家だから、貧しいのはどこも一緒だ。でも、うちの場合、早くに父さんが死んでしまって、母さんの働きだけではあたし達は食べていけなかった。
 だから、姉さんも私も十歳になると下働きとして働きに出た。
 最初に勤めたのは司祭さまのおうちで、ここではお給料はない。でも、ごはんを食べさせてもらえたから、貧しい家だと口減らしになる。
 で、ここにはそういう子供が常に2、3人いて、掃除や洗濯やそういった仕事の要領を覚える。2年くらいで仕事と行儀作法を覚えたらちょっと裕福な家にお勤めする。
 司祭さまのおうちは、いわば、使用人の学校みたいなものだ。

 運が向いて来たきっかけは、15歳の時。
 私より三年先に勤めに出た姉さんが、ご領主様の別邸の下働きになったことだった。姉さんはそこでお城の警備の兵士と知り合い、結婚した。姉さんの旦那の縁で、私はお城に勤めることになった。
 一番下っ端の台所の小間使いだったけど、お屋敷のお給料はそれまでに比べればだんぜん良かった。家に仕送りすることもできたし、そのおかげで弟を町の学校にやれた。

 台所の下働きは朝早くから夜遅くまでキツイ仕事だったけど、その分いいこともある。
 その一つが、食事。
 ご領主様やそのご家族の食べた残り物は、高級使用人が食べることになっているから私達のところには回ってこない。でも、お出しした後に残ったものについては担当の料理人の裁量に任されていて、焼き物番のイーダさんは、よくそれを私たち下働きにも分けてくれた。
 仕事はきつかったけど、みんないい人だった。

 中でもあたしに良くしてくれたのは、お菓子番のロッドさんだ。

 ロッドさんは、味見と称して焼きあがったばかりのお菓子をくれたりした。
 あたしは、初めてお菓子を食べた時の感動をいまでも忘れない。

 焼きたてのお菓子……そのきつね色の焼き菓子は、口の中でほろほろととけて、バターの香りとハチミツの甘さにうっとりした。口の中で何がおこってるのかわからなくて、びっくりした。
 それから、世の中にこんなにおいしいものがあったのかと溜息がこぼれ、母さんや妹にいつか食べさせてやりたいと思った。
 
 そのお菓子が二番目に運が向くきっかけとなった。
 お城の使用人に休暇というものはほとんどない。代わりに、二年に一度……場合によっては年に一度、里帰りを許される。
 里帰りの時は、皆、お土産をたくさんもっていく。街でないと手に入らないような洒落た服地やリネン、綺麗な色のリボン、それから、貧しい家ではなかなか買えないお砂糖や塩漬けハム等々。お給金をやりくりしてたくさんのお土産を持っていくのは、見栄もあったけど、いつも心配してくれている家族に自分は大丈夫、ちゃんとうまくやってるよ、と教える意味もあった。

 あたしは、あのお菓子を食べさせてやりたかった……あの時は名前も知らなかったフィナンシェというお菓子。
 だから、それを作ったロッドさんに頼み込んだのだ。材料は買ってくるから作り方を教えて欲しいと……。
 お菓子を作りつづけて五十年というロッドさんは、あたしには無理だと言った。あんまりにもがっかりするあたしに、ロッドさんは苦笑して言ってくれた。
「仕方ねえな。じゃあ、俺が作ってやるから俺の仕事手伝えよ」と。
 あたしはうなづいた。
 ロッドさんの言うように手伝いながら、お菓子を作るのにはものすごく手間がいることをはじめて知った。
 母さんや弟妹達が、私が持って帰ったフィナンシェを食べて笑ったのを見て、あたしは幸せな気分になった。

 それから、あたしはロッドさんの言いつける仕事をほとんど一手に引き受ける下働きになった。年をとったロッドさんには面倒な事もいっぱいあったから。
 ジャムを作る時の下準備はいつだってあたしの仕事だったし、煮詰めるのもあたしの仕事だった。
 あたしが役に立つようになると、ロッドさんはあたしにいろいろなことを教えてくれるようになった。
 オーブンの使い方や、焼き加減を見ること……果物のジャムを作るのに適切な砂糖の量……砂糖はずーっと南の国から運ばれてくる貴重品だけど、昔は今よりももっともっと高価だったことや、砂糖をケチると長持ちしないことも教えてくれた。

 いつの間にか、厨房の人たちは、あたしをロッドさんの弟子と呼ぶようになっていた。




 お屋敷に来て8年後、ロッドさんが風邪をこじらせて亡くなった。

 あたしは、ロッドさんの跡をついで、お菓子の担当になった。
ご領主さまのお城には、五人の男のお子様がいて、毎日のようにたくさんのお菓子を作った。
 凝ったものではなく、プレーンなスコーンとか大きなビスケットとか、そういうものばかり。たまに凝ったものや贅沢な材料を許されるのは、パーティがある時だった。
 お菓子を焼かない時は、ロッドさんがそうしていたように毎日ジャムやシロップ漬けなんかを作ったり、ハーブを乾燥させたものを仕分けしたりしていた。

 結婚を申し込まれたこともあったけど、あたしは仕事が好きだった。村に戻って、ただの農夫の女房におさまって、毎日スープを作るだけの生活はイヤだった。
 あたしは結婚を断り、髪を短く切った。男みたいに。
 最初はいろいろ言われたけれど、そのうち誰も何も言わなくなった。
あたしは言い訳をする気はなかったし、何も言わなかった。
 時々、奥様のお茶会の為の特別なお菓子を焼いたり、限られた中で工夫を凝らすのも楽しかった。



 嬉しかったのは、王宮にお嫁に行ってしまっているこのお城のたった一人のお姫様がお帰りになった時だ。

 ご領主さまがわざわざ厨房に来て、菓子を山ほど焼くように言いつけなさった。何をどれだけ使ってもいいし、足りなければ何を取り寄せても構わないと言われて、あたしはシロップ漬けの果物を贅沢に使ったプディングをつくったり、パイを焼いたりした。
 お姫様は驚くほど小食な方だったけれど、お菓子はお気に召してくださったらしい。ご領主様からはわざわざお褒めの言葉をいただいた。

 だから、お姫様が湖に落ちたと聞いたときは心配したし、目が覚めたと聞いた時は、どれが気に入るかと迷ってしまって結局たくさんの種類のフィナンシェやマドレーヌを焼いたりもした。
 お姫様には若い侍女がたくさんついているので、毎日、お菓子を楽しみなさっていると聞き、いろいろなお菓子が焼けて張り合いがあった。

 その後の、お姫様の朝食に毒が入ってて、お姫さまの侍女が亡くなった時の騒ぎは恐ろしいものだった。
 厨房で働いていた人間は全員がえらい騎士さん達に何度も問い詰められ、細かいこともいろいろと聞かれた。お菓子用の小さな台所で仕事をしているあたしには関係がなかったけれど、それでも何度も騎士さん達が話を聞きにきた。
 すぐに、犯人がスープ番のジョンだったと噂が流れた。
 死んでしまったお姫さまの侍女と一緒にいたところを何人もの人間に見られていたのだと聞いた。
 ちょっといい加減な男だったけど、信じられなかった。
 だって、厨房で働く人間は、みんな、自分達が人の口に入るものを作ってることをよくわかっている。
 食べる物を作るということ……それが命に関わる事である事をあたし達はイヤってほどよく知っているし、そのことに誇りを持っている。

 料理長は安く作ることしか頭にない人で、食費を削減するために執事さんが選んだ人だけど、それでも、ちゃんとそれだけはわきまえている。
 ダメになった材料を捨てる時はぶつぶつと一日中文句を言いつづけてるけど。
 ……でも、噂で聞くように、よそのお屋敷のようにダメになりかけた材料を使ったりはしない。




 執事さんに呼ばれたのは、事件の余韻がまだ醒めていない時だった。

「エルダ、おまえには、王宮にあがってもらうことになるかもしれない」
「は?」

 あたしは、何を言われたのかわからなかった。
 あたしにとっては、村からご領主様のお城のあるこのラーティヴまでが世界のすべてだった。
 それでも、あたしの世界は広い方だ。村の人間には、村から出ないで一生終わる人間だってたくさんいる。
 そんなあたしには、王都なんて異国と一緒だったし、王宮なんて夢の世界だった。

「おまえの菓子を妃殿下がたいそうお気に召したようでな」

 執事さんは、私達使用人にとって王様みたいな人だった。使用人に関するほとんどすべてのことは執事さんの職務範囲だったし、実際、あたしたちのお給料のことや仕事のことで最終的に権限を持っているのは執事さんだった。
 あたし達のような使用人は、ご領主さまやそのご家族と近しく接する機会はほとんどと言って良いほどなかった。

「ひでんか……」
「公爵さまの末の姫君の称号だ。姫君は王太子殿下のお妃であらせられる」

 このお城の末のお姫様がまだ一歳にならない時に一番上の王子様とご結婚なさっていることは、国中の誰でも知っている話だった。
 あたしは、お姫様がお城に行かれてすぐにこのお城にお勤めしたから、当時の話はあんまり知らない。

「現在、事情があって妃殿下のおそばにはエルゼヴェルトから付いているものが一人もいない。それを公爵さまは大層案じておられる」

 事情とやらは知らないけど、ご領主様のお妃だった……姫様を産んだ王女様が最後の願いで王都に帰りたいと言ったことなら知ってる。
 このお城にお嫁に来て、毎日泣き暮らし、たった17歳で亡くなったらしい。
 だから今の王様は、ご領主様からお姫様をとりあげる為にご自分の一番上の王子様のお妃にしたんだってのが、下働き達の間で話題になったことがある。王様は、うちのご領主様とは不仲なのだ。

「はあ」

 あたしはそう返事をするしかなかった。
 ご領主様が何を心配しているのかはよくわからなかったし、自分がどうすればいいのかもわからなかった。

「何、そう案ずる事もない。王宮に上がるといっても、おまえは、妃殿下のお気に召す菓子を作ればよいだけだ」

 執事さんの言葉にあたしはほっとした。
 それだったら、あたしの仕事だ。

「その為に、宮には新しく厨房を建設する。既に公爵様がその申請をなさっている」
「新しい厨房……」
「そうだ。材料はセイリズに言いつけるといい。何でも手に入れさせる」

 セイリズの名前はあたしも知ってる。
 有名な食品卸の店で、五大国のすべてに店を出している。
 オレンジを南から持ち込み、巨大な温室で育てて売り出したのもセイリズだし、北の方でしか作られないアルコール度数の強い『マジェラ』というリキュールを売っているのもセイリズだけ。
 でも、セイリズの一番のもうけの種は砂糖だって死んだロッドさんが言っていた。南大陸から安い砂糖を大量に仕入れるだけじゃなくて、アノーラ地方に砂糖を作る大規模な農園も作ったんだって。
 そのおかげで、値段もだいぶ安くなって、街のちょっとした家なら常に家に砂糖があるし、村でもジャムを作る時に砂糖を使えるようになった。

「あの……ここで作ったジャムとか、シロップ漬けやジャムの一部は王都に持って行ってもいいですか?」
「かまわない。必要なものは何を持って行ってもいい」

 良かった。漬け込んだ味っていうのはすぐにできるものじゃないし、ジャムだってこれだけの種類を作るのにはものすごく時間がかかる。

「わかりました。私の荷物はすぐに用意できますが、食品庫の整理があるので三日下さい」
「うむ」

 この執事さんが急いでいると言うことはよほど急いでいるんだろうと思った。
 本当は一度実家に帰りたかったけど、手紙を書いてすませることにした。
 あたしの村は、ここから馬車で二日くらいのところにある。靴磨きの子に1シュク硬貨を渡して言付ければ郵便を出しておいてくれるだろう。

「王都についたら、必要なもののリストを作っておきなさい」
「……鍋とかもですよね?」
「そうだ」

 お姫様が気に入ったお菓子の為に新しく厨房を作って、器具も全部いれて……どれだけのお金がかかるんだろうと思ったら眩暈がした。
 だって、あたしが普段ジャムに使ってる銅の鍋一つを買うのだって、あたしの一か月分のお給金では買えないのだ。

「王宮にあがるのは、あたし、一人ですか?」
「下働きを二人つける。心当たりがあるなら言うがいい」
「……もし可能なら、あたしの一番下の妹を」
「どこにいる?」
「ラーティヴのご城下のクロイツ卿のお屋敷で住み込みの小間使いをしています」

 末の妹のアリッサは、とても内気な子であたしや姉さんはいつも心配だった。年が離れてるってこともあるけど、まわりが大人だったせいでみんなが先回りしてしまうから、自分の意見をあまり口にしないおとなしい子になった。
 でも、言いたいことも言えない子はお屋敷勤めはかなり辛い。同じ城下にいる姉さんからの便りでは、それでもがんばっているらしいけれど、せめて一緒の職場で働ければあの子も少しは楽になるんじゃないだろうか。

「わかった。手配しよう」
「ありがとうございます!」

 ダメ元のつもりだったので、執事さんがすぐに手配してくれそうだったのが嬉しかった。

(つまり、それだけ大事な仕事ってことだ)

「以後、おまえは妃殿下の菓子職人だ。それを忘れずに仕事に励め」
「はい」

 あたしはうなづいた。
 難しい事情はわからなかったけど、いつも王様みたいな執事さんがあたしなんかの希望を叶えてくれるだけの大事な仕事なのだということはわかった。

 ……でも、結局のところ、あたしにできるのはおいしいお菓子を作ることだけだった。
 仲の良い小間使いと下働き達が、お別れのティーパーティを開いてくれて、ご領主さまのことや、王様のことや、お姫様と王子様のこと……いろんな噂を聞かされたけど、あたしの頭にはまったく残らなかった。

 ただ、執事さんの言葉がずっと頭の中でリフレインしていた。

(妃殿下の菓子職人……)

 あたしは かつてそう思ったように一人前の菓子職人になれたのだろうか。
 その答えはきっと王都で見つけられるに違いなかった。










 2014.01.17 再掲



[8528] 【番外編】妃殿下の菓子職人(2)
Name: ひな◆ed97aead ID:024f2000
Date: 2014/01/17 23:05
 王都は、人が多いところだった。
 馬車の中から見る街並みに目を見張ったが、ラーティヴに初めて足を踏み入れた時ほどではなかった。
 後で聞いたところによれば、ラーティヴの街並みの美しさは大陸有数であると吟遊詩人たちが口々に歌うほどなのだという。
 王都は立派できらきらとした建物がたくさんあるけれど、あたしはラーティヴのどこか上品な感じのする落ち着いたたたずまいが好きだ。
 きらきらはしていないけれど、あちらこちらにいろんな意匠が凝らされていて綺麗だと思う。
 『美』のエルゼヴェルトの本拠地だからね、と、教えてくれた人は言っていたが、あたしには難しいことはよくわからない。

 ただ、単純に料理の材料ということになると海が近くないラーティヴよりも、王都の方がいろいろな材料が手に入れやすかったし、珍しいものもたくさんあった。
 砂糖一つ、蜂蜜一つとったとしても、味わいの違うものが何種類もあったし、あたしが名前も知らないような国から運ばれてきているというものもあった。
 それから、生活の便利さで比べても、王都のほうがずっと上だった。
 ラーティヴのお城には水道室が下の方の階に何箇所かあるだけだったけれど、王都のお屋敷はどこのフロアにも水道室があった。
 しかも、厨房では入り口に近い一角に水場があって水道が据え付けられている。いつでも水道をひねれば水が使えるのだ。王都では井戸水を汲む必要がないことに、あたしはすごく感心した。
 あたしの助手になったアリッサは大喜びだった。
 何といっても、水汲みが一番の重労働なのだ。
 キッチンメイドにとって、水汲みは一番辛い仕事だといってもいい。あたしも真冬に水汲みをしながら、手のあかぎれが割れて涙をこぼしたことがある。
 アリッサの手がそんなことにならないことが嬉しかった。
 
「姉さん、ローベリーのヘタとり終わりました」
「ありがとう」

 ローベリーは冬に雪の中でとれるべりー類の一種だ。実の一つ一つが小さいが、ぶどうのように房でなる。白い雪の中にローベリーの赤い実が見えるのはとても美しく、冬にあたしがよく作るクリームチーズケーキはその様子を模しているものだ。

「こっちは粒が大きめだから、これは甘さ控えめでフォンダ酒をちょっときかせたコンフィチュールにするよ。白晶砂糖をもってきて。一等のだよ」
「はい」

 白晶砂糖は、白いザラメ砂糖だ。白ければ白いほど等級があがり、値段もあがる。一等が一番白く、特等となるとまるで水晶の欠片のような透明感があるものになる。等級の違いは見た目だけではない。甘みも濃く雑味がないものになるから、より素材の味をいかしたものを作ることが出来る。
 コンフィチュールやジャムに使うのは、三等か四等くらいのものでいいのだが、王都に来てから作るものはすべて一等のものを使っている。
 一等の白晶砂糖を使うと、ジャムもコンフィチュールも仕上がりが違う。果物が色鮮やかにつやつやしていて、透明度が高いものができる。まるで宝石のようにさえ見えるのだ。
 費用のことさえ考えなければもちろん一等で作ったほうがいいに決まっているのだが、何といっても一等の白晶砂糖は値が張る。
 その値段の高価さに比べれば、多少の仕上がりくらいは目を瞑るのが現状だ。
 けれど、あたしが王宮にあがる時にもっていくものは王太子妃であるお姫さまの口に入るものなので、最高級の材料を使うように言いつけられていた。

(王太子殿下のお妃様……)

 まだ十歳をいくつか越えただけのお姫様が、すでに二十代後半の王太子殿下の妻であるということに違和感を持つのは、たぶん、あたしが貴族じゃないからだろう。

 代々、エルゼヴェルトのお姫様は結婚が早いと言われている。
 五歳までに婚約、十五前後で婚姻というのが普通だとラーティヴにいた頃に誰かが言っていた。筆頭公爵家のご息女だからなのだと誰かが自慢げに言っていたのも覚えている。
 でもそれを聞いた時、あたしは、何だかまるで攫われていくようだと思ったのだ。

 あたしがお仕えすることになるお姫様なんて、その見本みたいなものだと思う。だって、お姫様は一歳にならぬうちに……というよりは、王都までの旅に耐えられるようになるとすぐに王都へと行かれ、一歳になる前に王太子殿下とご結婚なされた。
 一歳にもならない赤ん坊が親元から離されるなんて、理由が何であれおかしいことだし、更にそれが結婚だなんて、王様のなさったことでなければ頭がおかしくなったんじゃないかと疑うところだ。

 ただ、お姫様の……というか、お姫様の母君である亡くなられた王女殿下と御領主様の事情は誰もが知っていたから言えることなんかなかったし、特にあたし達のようなエルゼヴェルト領の人間はその話題になるととたんに口をつぐむしかなくなる。だって、言えることがあるはずがない。
 ご領主様は良いご領主様だったし、あたしは尊敬もしているけれど、王女様のことはとても褒められた振るまいだったとは言えないからだ。

(お姫様は、どう思っておられるのだろう)

 ラーティヴにはそれほど長い滞在ではなかったし、事件もいろいろあったから、お姫様は城の人間の前にも姿を現すことがほとんどなかった。
 たぶん、御領主様も罪悪感があるのだと思う。だから、自分の娘だってのに、王太子妃であるお姫様に対してかなりよそよそしい。お姫様も居心地があまりよくなかったに違いない。
 あたしは何となく心情的にお姫様の味方だった。
 お姫様が、初めておいしいと言ったのがあたしのお菓子なのだとお姫様の侍女達から聞いた日から。

「こっちの選り分けた方のヘタもとって」
「はい」

 選り分けてはねたほうのべりーの籠を目線で示す。
 ちょっと傷があったり粒が小さくとも、傷のところをのぞいてジャムにしてしまえば気にならない。ジャムはお菓子にもつかえるし、お茶にいれてもいい。それに、パンに柔らかなチーズとジャムを塗っただけのものは奥方さま……公爵夫人が一番好む軽食だ。
 貴族とはいえそれほど大身でない家の生まれである奥方様が好むのは素朴な味のものが多いのだ。
 お姫様はどんなお菓子もおいしいと食べてくださったけれど、特にお気に召したのは焼き菓子だったように思う。特にあたしが力をいれた野菜を使ったものは、いつもよりたくさん召し上がってくれたと聞いた。

(王太子殿下にもお菓子をさしあげることはあるんだろうか?)

 王太子殿下がお菓子をお好きだとは聞いたことがなかったけれど、まだ幼いお姫様と一緒にお茶を飲んだりすることはあるのかもしれない。
 
(そういえば、お姫さまと王太子殿下との夫婦仲についてって、全然聞かないな)

 ラーティヴのお屋敷に居た頃ならば話はわかるが、王都のこのお屋敷でも聞かないのは不思議だった。
 王族の方の噂話はいろいろと耳に入るし、王太子殿下だけの噂ならばそれなりにいろいろと聞く。幼いことを理由にほとんど行事にも参加されていないせいもあるが、お姫様の噂はあまりない。
 王太子宮の奥深くで殿下に守られていらっしゃるのだ、という程度だ。
 お二人に関してということになると、皆無だった。十五歳も離れていれば夫婦仲も何もあったものではないのかもしれないが、ほんとに全然聞こえてこなかった。

 あたしは別にそれほど噂に詳しいほどではないのだけれど、厨房と言うのは噂の宝庫なのだ。特にお菓子を専門で作っているから接する人間は圧倒的に女性使用人が多く、女性の使用人と言うのは何でもなかったとしてもそういった噂には大変詳しいものだった。
 その彼女達の口にさえのらないのだから、よほど厳重に守られているのだろう。

「お姫様っていいね、毎日、こういうものが食べられるんだね」

 アリッサが羨ましげに呟く。

「おいしいものが食べれても、お姫様は大変なんだよ」
「綺麗な服だって着れる。宝石だっていっぱいもってるんだよ、少しくらい大変でもすっごく羨ましい」
「その代わり、まだ小さな時からたくさん勉強もする。お姫様の礼儀作法がどれだけ厳しいかわかるかい?お辞儀をする角度だって、スカートをつまむ角度だってちゃんと決まってるんだよ」
「えーっ」
「それにお会いする相手によって、お辞儀の仕方もちがうし、初めて会う外国からのお客様とも仲良く接しなければいけないんだよ」

 人見知りなところのあるアリッサは、それはいやかもしれないという表情をする。

「それに、物心ついた時から、母親も父親も兄弟も誰もいないところで暮らさなきゃいけなかったんだよ」

 どんなに裕福で、どんなに不自由ないように育ったとしても、家族がいないというのは、あたしには不幸に思える。
 お姫様の幸福も不幸のあたしにはわからないけれど。

「お姫様は、綺麗な格好をして笑っていればなれるってもんじゃないからね」
「でも、うちのお姫様は、王太子殿下のお妃さまだわ。王太子殿下ってすっごく格好良いんですって!この間、メイドのセシリアがスクラップカード見せてくれたの」

 すっごく素敵だった!とアリッサが両手をくんでうっとりとした表情を浮かべる。

「今度、半日のお休みがもらえたら、わたしも買いに行くんだ」
「……王宮にあがらなければね」
「え、王宮にあがったら、お休みないの?」
「そういうわけじゃないけど、外出はかなり制限されるみたいだね」

 王宮にあがる時は一生奉公の覚悟で、といわれたのは昔の話だが、今だって充分にそれに近いようなことはあるのだ。そして、私達が行くのは王宮で最も手続きが厳重で、出入りが厳しいといわれる西宮だ。エルゼヴェルトからあがる私たちは、かなり気をつけなければいけないに違いない。

(でも、未だに、いつ王宮にあがれるのかわからないんだよね)

 出発もその旅程もかなり急がされたのにも関わらず、あたしはすぐに王宮にあがることはできなかった。
 台所が建設中だからというだけでなく、隣の国の王様が代わったからだ。
 前の王様はこの国と仲が良かったらしいけれど、新しい王様はこの国と戦をしようとしているのだと聞いた。
 エルゼヴェルトの人間は、戦といわれてもピンとこない。というのは、エルゼヴェルトの御領地はダーディニアの奥座敷と言われるような位置にあるせいで、直接的な戦火にさらされたことがほとんどないからだ。
 これまでに二度ほどあったという内乱の時でさえ、ラーティヴを巻き込むことはなかった。

 ただ、兵士になった幼馴染のジョーはリーフィッドで戦争になった時に戦死した。
 戻ってきたのは、一房の髪と聖堂でいただいた祝福のメダイユだけだった。
 同僚だったという兵士が届けてくれたものだった。
 兵士でさえなければ、それほど関係がないと思っていたけれど、王都では皆がまだおこっていない戦の心配をしていた。
 王都に住んでいる人間は、王宮関係の仕事をしている者が多く、兵士の数も多いから、身内に必ず一人や二人兵士がいる。誰もが不安そうで、戦とは無関係ではいられないようだった。

「こっちのヘタ取りも終わりました」
「うん。ありがとう」

 ベリーはとても丁寧に下処理してあった。
 力任せにではなく、ベリーを潰さぬようにヘタの芯までちゃんととってある。

(案外、向いてるかもしれないね)

 お菓子には細かい作業が苦にならない人間が向いているとあたしは思う。
 もしくは食い意地がはっていて、おいしく食べるためならどんな苦労も厭わない人間だ。
 アリッサは前者で、あたしはたぶん後者。

「姉さん、お姫様はこのジャム、喜んでくれるかしら」

 べりーと砂糖を弱火でことこと煮詰めてゆく。蜂蜜を加えるのはまだだ。
 色がかわらないように檸檬を使うのはお約束で、この時期はあたしは青檸檬を使う。青檸檬の香りとローベリーの香りはすごく合うのだ。ローベリーの甘さがひきたつ気がする。

「どうだろうね。お姫様のお好みはまだわからないからね」

 ラーティヴ滞在中に、あたしのお菓子を随分と気に入ってくださったのはわかったけれど、何が好きかとか、どんな味がお好みかとかはまだ知らない。
 
(あたしはお姫様の菓子職人になったのだから)

 お姫様のお好みのものを作るのがあたしの仕事だ。
 王宮にあがったら、少しずつお好みを探っていかなければならないだろうなんて、あたしはぼんやりと考えていた。

「喜んでくれるといいな」

 ジャムをつくるのには手間がかかる。
 他のお屋敷ではどうしているか知らないけど、あたしはジャムをつくるときに水を加えない。
 場合によってはラザル酒とかデラーナ酒とかワインを加えることもあるけれど、基本は果物と砂糖だけで作る。
 果物と砂糖だけだとすごく焦げやすいから、火は弱めにして、焦げないようにかきまぜていなきゃいけない。もちろん、こまめにアクをとりのぞく必要もある。
 でも、丁寧に丁寧に作業をしていると、ちゃんと綺麗で美味しいジャムができる。

「そうだね」

 あたしは、お姫さまの菓子職人であるという意味がまだよくわかっていなかった。
 ただ、お姫様がおいしいと思ってくれるようなお菓子を作りたいと思った。
 幼いお姫様を笑顔にするようなお菓子を。





「あなたがエルゼヴェルトからの菓子職人?」
「はい。エルダと申します。ラナ」

 目の前の若い女性が、ラナ・ハートレー……お姫さまの女官長であることは、ここに来る前に三番目の若君に教えられた。
 まだ二十を越えたか越えないかという年齢にしか見えないのに、お姫さまの女官長という高い職位にある人らしく、とてもてきぱきしている。
 年齢はたぶん、お屋敷の執事や侍女長達の半分以下だと思われるのに頼りなげな感じはまったくしない。

「アリッサと申します」

 か細い声でアリッサが名を口にする。

「下働きがもう一人くると聞いておりましたが?」
「その予定だったのですが、エルダの目がねにかなわず、当面はこの二人だけということになりました」

 今は王都の近衛に勤めている若君は、片膝をついたまま申し述べる。
 あたしとアリッサも顔をあげてはいるが、膝はついたままだ。

「そうですか。わかりました」

 手にした書類に目を走らせながらラナがうなづく。
 それから、ふと何かを聞きとめたのか、書類から顔をあげた。

「頭を下げなさい」

 そういって、ご自身も立ち位置をかえ、頭をさげる。
 一緒に居た侍女達も同じ様にして、素早く頭を下げた。
 扉の開く音がして、誰かが入室してくる。

「……それが新しい料理人か?」
「はい。殿下」

 サラリと衣ずれの音がする。
 この宮で殿下と呼ばれる男性がいたら、それは王太子殿下に違いなかった。

「面をあげよ」

 顔をあげたあたし達が見たのは、王太子殿下がその腕の中から、それはそれは大切そうに幼げな少女をおろしたところだった。
 まばゆいばかりの金の髪……あたしを見たその瞳は、御領主様と同じ青だった。






 2014.01.17 初出

 
 ちょっとだけ続きます



[8528] 【番外編】妃殿下の菓子職人(3)
Name: ひな◆ed97aead ID:024f2000
Date: 2014/01/22 01:38
「気楽にしてね」

 人形のようだとよく言われるお姫様は、あたしとアリッサに優しく微笑んだ。
 確かにお人形のように綺麗で整った容姿をされている。
 でも、この瞳をみれば、もう誰もお姫様を人形だなんて思えないだろう。
 御領主様と同じ青の……でも、キラキラと輝く瞳。
 容姿ももちろんだったが、この瞳こそがお姫様を最も強く印象付ける。

(なんて、可愛らしい……)

 あたしは、ただ、あたしの新しい主になるお姫様に見惚れていた。
 アリッサもだ。
 血はつながっていないものの、奥方様……公爵夫人も美しい方だと思ったが、お姫様はそのとりまく空気が違っていた。
 そのおかげで、あたし達は、王太子殿下の御前だということをそれほど意識せずに済んだ。
 あたし達を引き合わせた三番目の若君はとっくにもう御前を下がっていて、何か粗相をしても誰もかばってくれない状態だったのにも関わらず、あたしは、こんな方が本当にいらっしゃるのだと、ただただお姫様に見惚れることしかできなかった。

「姫さん、普通、この場で気楽になんてできるわけねから」

 横から口を出したのは、フィル=リンと名乗ったこの宮の家令見習いだった。年の頃は、王太子殿下と同じくらい……家令というにはまだ年若すぎるが、その口調からすると昨日今日になったというわけではないらしい。
 あたしはやっと意識を現実に向ける。
 謁見室からティールームに場所を移したが、もちろん、あたし達が同席できるわけではない。
 王太子殿下とお姫様が席についてお茶を待つ傍ら、あたし達が片膝をついて控えているという形だ。

「え、ああ、そうね。殿下がいらっしゃるのでは、楽になんてならないのね」

 納得、とお姫様はうなづかれる。
 確かにその通りではあったけれど、それを口に出せるのはきっと目の前のお姫様だけなのだろう。
 フィル=リンの顔色が目に見えて青ざめた。
 王太子殿下が不機嫌そうにじろりと彼を見ると、フィル=リンは俺は悪くないと声にすることなく言い募り、必死で首を横に振った。もちろん、王太子殿下はそれを冷ややかに一瞥して捨てた。

 
「ルティア」

 そして、殿下はその名を口にされる。
 お姫様の名前は、私でも知っている。
 アルティリエ=ルティアーヌ……聖書の冒頭の一節からとられたその名。
 その意味するところは、『光の中で輝く光』。
 それは転じて女神をあらわし、名前としては最上級の格を持つ。
 王侯貴族でないとつけないような名前だけれど、筆頭公爵と王女殿下との間に生まれ、すでに王太子妃であられる方のお名前なのだからまったく問題ないのだろう。平民は絶対につけられない。
 でも、お姫様にはぴったりなお名前だと思う。
 王太子殿下はその名前を愛称で、とても優しく口にされる。

「はい?」

 お姫様はにこっと笑みを浮かべて王太子殿下を見あげる。
 王太子殿下はその笑顔につられるように笑みを返し、それから少し困った表情をなさった。

 
「……ルティア」

 さっきとは微妙に違った……心底困っているという声音だった。

 あたしはそれほど王太子殿下の事を知っているわけではないけれど、うちのご領主様と大変仲が悪いことは知っている。そして、とても厳しい方であるということも。
 そんな方が、こんな表情をなさるとは思ってもいなかった。
 そんな殿下を見て、くすくすとおかしげにお姫様は笑った。

「安心なさって。殿下を追い出したりしませんから!」
「……ああ」
「私は殿下が一緒に居てくださったほうが安心で気楽にしていられるのに、どういうわけか誰も同意してくれないの」

 あたし達の方を見てほぉっと溜息をつく様子もまた大変に可愛らしく、思わず同意をしてさしあげたくなってしまうのだが、生憎、王太子殿下と同席していて気楽にできるほど場慣れしているわけでも、肝が太いわけでもなかった。

「……姫さんが本気で言ってんのはわかってるけどよ、ナディルがいて気楽にできる人間いねえから。……かわいそうだから、さっさと用件済ませてやれよ」

 いちゃつくのは二人きりでしろ、と、フィル=リンがどこかヤケになったような表情で言う。

「フィル=リン」

 冷ややかな声音。

「じ、事実だろ」

 おそらく、フィル=リンは王太子殿下のご学友の一人なのだろう、とあたしは判断する。若君たちとそのご学友たちの様子にそっくりだった。
 そうでなくば、ここが私的なティールームとはいえ、見習いとはいえ家令と名のつく人間がこれほどまでに親しい口をきくことを許されるはずがない。

「いちゃつくなんて人聞き悪いです、フィル。ちゃんと私、節度はわきまえていますから」
「……今の状態がわきまえてるかどうかはさておき、姫さんがわきまえてるのはわかってんの。わきまえてないの、この人だから」

 フィル=リンの視線は王太子殿下に注がれ……王太子殿下はその視線を真っ向から受け止め、表情をまったく変えずに言った。

「問題ない」
「問題だらけだっての。だいたいだな、あんた、わきまえてるって口にするなら姫さんを膝の上に乗せんな!」

 そう。
 場所を移すにあたって、王太子殿下はお姫様を歩かせなかった。
 当たり前のようにそっと抱き上げて、当たり前のようにこの部屋にお連れになり、そして、あたりまえのように自分の膝の上に座らせた。
 ……ゆったりとした一人用ソファはちゃんと二つ用意されているのに。

「……何が悪いんだ?」

 王太子殿下は真顔だった。
 お姫様は別に足がお悪いわけでも、身体がどこか悪いわけでもない。
 ただ、まだ幼くてお小さいだけだ。

「全部だ、全部!……姫さんも止めろよな!どうしてここくると、箍はずれんだよ、毎回、毎回!」
「ただのスキンシップだ」
「ただのってのは何にかかるんだよ。え。スキンシップっていうにはお前のそれはおかしすぎるんだよ!」
「これでも、ずっと抱きしめていたいのを我慢しているのだが……」
「本気で言ってるのかよ、それ。頼むから、やめてくれよ」
「ずっと腕の中に閉じ込めておければいいのに、と思っているよ。そうすれば誰にも傷つけられることがない」
「ひぃぃぃぃぃぃ……頼む、もう何も言うな。言わないでくれ」

 おそらくは、あたし達がびっくりするくらいの貴族であるだろうフィル=リンは、涙目になりながらがりがりと頭をかきむしっている。
 王太子殿下が口にした言葉に、アリッサとそう年齢が変わらないように見える侍女たちはうっとりとしていた。もちろん、アリッサもだ。
 あたしはその言葉にうっとりするより先に、むずがゆくなる。恥ずかしくて聞いていられない、というやつだ。
 顔がいいってのはトクなもので、王太子殿下が口になさる分には気持ち悪いとか芝居じみているとは思わないのだが、これが他の人間が口にしていたら即座に回れ右で逃出すだろう。

「ナディルさま、フィルをあんまりいじめたらかわいそうです」
「本音だよ。フィルをいじめるために言っているわけではない」
「知ってますけど。……でも、からかう気がないわけではありませんよね?」

 ふわふわと笑うお姫様はサラリと王太子殿下の甘いお言葉を流し、フィル=リンに助け舟をだしてやる。
 その様子をみれば、お姫様はいろんな事情を全部わかっているのだろうと理解できる。
 年齢以上にずっと大人な方らしい。

「まあね……ルティアは、うっとりとしてくれないのか?」
「くすぐったいとは思いますけど、もう慣れました。……ダメですよ、ナディル様。いつも言われていたら慣れてしまうんですから」

 効き目がありません、と笑う。
 その表情は、無邪気なようであり、すべてを知り尽くしているかのようでもある。

「……それは残念だ。でも仕方があるまい。どうしても口から出てしまうのだ。私的な場であるのだから、多少のことは許してほしい」

 王太子妃宮というのは、いわば王太子殿下の後宮であり、当然、そこはプライベートスペースだ。
 この場にいるのは、あたしも含め、私的な人員ばかりである。

「別にかまいません。嬉しく思いますから」
「ルティアが少しでも嬉しく思ってくれるのなら、それでよい」

 それは仲睦まじい御夫婦の姿だった。
 見た目こそ確かに差はあるのだけれど、当たり前のように寄り添っているお二人の姿は、何だか見ているだけで嬉しくなった。

(お菓子を作りたい……)

 今のこの気分をあらわしたようなふわふわとしたあまーいお菓子が。
 そして、それを召し上がっていただきたい、と思う。

(お二人に……)

 攫われるようにしてお嫁に行ったお姫様は、ちゃんとここで幸せを掴んでいらっしゃる……そう。掴んでいらっしゃるのだ。しっかりとご自身の手で。
 そのことがあたしにもはっきり理解できた。
 このあたしの新しい主となったお姫様は、決して自分の無力さを嘆いたり、男の身勝手をぼやいたりしないだろう。

「あのね、エルダ」

 王太子殿下に微笑みかけていたお姫様が、ふと、私のほうを見た。

「はい」

 名を呼んでくれたことが単純に嬉しい。
 人にもよるのだが、公爵夫人は使用人の名を呼ばない方だったので、余計にそう思うのかもしれない。

「あのね、私、ふわふわのケーキをつくりたいの」
「ふわふわの、ケーキですか?」
「ええ」

 この時、あたしはまだお姫さまの言うケーキというのがどういうものなのか、知らなかった。

「ふわっふわのスポンジにふわっふわのクリームで、最初だからやっぱりイチゴショートがいいと思うの。やっぱりケーキの基本だもの」

 意味不明の単語の羅列で、何を言われているのかわからなかった。

「それは、食べ物なのか?」
「ええ。甘くて口の中でとろけるお菓子です」
「ふむ」
「エルダが来てくれたので、きっと作れます。……楽しみにしていてくださいね」
「ああ」

 目を細めて、それはそれは可愛くて仕方がないという表情で王太子殿下は、腕の中のお姫様をみる。

「口の中いれるとふわっととけて、うっとりするくらい甘くておいしいんですよ」
「そなたと食べるなら、私には何でもおいしく感じられるよ」
「私もです」

 恥ずかしげに、でもはっきりとお姫様はうなづく。

「……でも、ケーキは特別なの」

 そして、はにかんだ表情で付け加える様子に、侍女達も、護衛も、それから、フィル=リンやあたし達の上役のラナ・ハートレーまでもが口元を押さえて身を震わせた。
 もちろん、王太子殿下は言うまでもない。どうしていいかわからない様子で微笑まれ、それから、そっとお姫様を抱きしめた。

「そなたは、私の宝物だ」

 お姫様もそっとその首に手を回す。

「うれしいです」

(……ケーキというお菓子の次だってことを、殿下は突っ込むべきじゃないだろうか?)

 首を傾げているあたしに、そっと抱きしめられているお姫様はにこっと笑い、秘密だというように唇の前に指を一本立てた。
 だから、あたしも笑みを浮かべてうなづいた。






 後に、お姫様が王太子妃殿下ではなく王妃殿下となられ、だいぶたった頃にあたしは聞いた。
 
「妃殿下は、お菓子で例えるならどのくらい陛下をお好きですか?」

 もちろん、からかい半分だ。
 頭の片隅にあの時のケーキが特別だと言っていた言葉があったことは否定しない。
 あたしは、妃殿下にそんなことを聞けるくらいよくしてもらっていたし、妃殿下はご自分と同じようにお菓子を作るあたしに気を許してくださっていた。

「そうね……チョコレートと同じくらい」
「ちょこれーと、ですか?」
「そう。幻のお菓子なの……大好きなのに」

 ほぉと溜息をつかれる。

「二度と食べられないかも」
「妃殿下にも作れないのですか?」

 あたしの知る限り、妃殿下は世界最高の菓子職人だった。
 あたしは妃殿下の忠実な弟子であり、専属職人で……妃殿下はあたしをご自分の手だとおっしゃってくださっていた。
 あたしには、それが誇りだった。

「だって、材料が手に入らないんですもの。そもそも、まだ発見されていないのかも……」
「陛下におねだりすればどのようなものでも手に入るでしょうに」
「私のちょっとした楽しみのためだけに権力の濫用をしてはいけないと思うのよ」

 すごーく心は揺れるんだけど、と妃殿下は笑う。
 既にお子様もいらっしゃるというのに、いつまでたってもどこか少女めいた雰囲気をおもちだった。

「妃殿下は、不思議なお菓子をいっぱいご存知なのですね」
「……夢で、見たのよ」

 どこか遠い眼差しで、妃殿下は言った。

「夢で……」
「そう」

 その遠い眼差しに少しだけあたしは不安になる。
 でも、すぐにその瞳は、今を映し、あたしを見る。

「私が作るお菓子にはね、秘密がいっぱいつまってるの」

 妃殿下は柔らかく微笑った。

「秘密が、お菓子をより甘くするのよ」

 私達の手は秘密を作り出す手なの、といたずらっぽく呟かれたのを、あたしは生涯忘れることはなかった。



 



 製菓技術の革新は、世界帝国となる直前のダーディニアにはじまったと言われている。
 今日にも残るさまざまな菓子……甘酸っぱい林檎のパイ『ド・ラリエ』や一番最初のケーキの名をもつ『ガトル・フレザ』、王妃殿下のクッキーと言われる『クーク・リュヴァ』等、多くのお菓子がその時代に生まれた。
 自身も類稀な菓子職人であったと伝えられるナディル1世の妃アルティリエが考案したそれらの菓子は、彼女の専属菓子職人であったエルダ=マウの養女が菓子店『ラ・リュヴァ・ドーニュ』を開いたことで広く世に広まり、多くの職人達によって伝えられた。

 アルティリエ妃の自筆と伝えられるレシピは、ダーディニア歴史博物館をはじめとする各所に今も幾つか残る。
 つい先頃、専門家の鑑定の結果、王妃の自筆レシピだということが明らかになったダーディエの老舗菓子店『ラ・リュヴァ・ドーニュ』に伝わる同名の『ラ・リュヴァ・ドーニュ』……【王妃の秘密】という意味の名をもつチョコレートケーキもその一つだ。

 ほろ苦いチョコレートスポンジに甘酸っぱいベリーのジャムと甘いチョコレートクリームをはさみ、表面をチョコレートでコーティングしたそのケーキが『ラ・リュヴァ・ドーニュ』の厨房で初めて作られたのは、レシピを書いたアルティリエ妃の没後百五十年あまり後……新大陸でカカオが発見されてから実に二十年以上の月日が経過した後のことである。
 当初マゴットと呼ばれていたその木の実を「カカオ」、そこから作られたその原料を「チョコレート」と呼ぶようになったのは、『ラ・リュヴァ・ドーニュ』の職人達がレシピに従いその名で呼んだからに他ならない。
  
 アルティリエ妃の生きた時代、ダーディニアにはまだチョコレートはおろか、カカオも存在していなかったと言われている。
 なぜ、アルティリエ妃がその存在を知っていたのか、また、どうしてそのレシピを書きえたのか、今の私達に知る術はない。
 絶世の佳人であったといわれる王妃の秘密は、今も私達を魅了してやまない。


(×××年1月21日 帝都新聞文化面コラム「甘いお菓子の甘い秘密」より引用)








 妃殿下の菓子職人 END

 

 *************


 2014.01.21 更新



 感想と修正箇所ご指摘ありがとうございました。

 ちょっといろいろ甘さが欲しかったのですが、何かまだ足りない気もしています。
 続編でも触れられない気がしたので、チョコレートについてをここで明かしておきました。
 後の歴史みたいなものもちょっとだけ。
 新聞記事風って難しいですね。

 ※未来の日付と過去の日付修正しました
  時の狭間で迷子状態でした。
  ご指摘ありがとうございました。



[8528] なんちゃってシンデレラ IF お遊びの現代編
Name: ひな◆ed97aead ID:eedc6b74
Date: 2015/11/14 19:35
 自分がかつてこの国の王妃だったなんて口にしたらきっと、「お疲れですのね」とか「ご公務がおつらいのですね」ときっと言われてしまうだろう。
 大の仲良しの双子の又従兄弟たちだったら信じてくれるけど、きっとものすごい面白がって根堀り葉掘り聞かれるだろう。
 ……結論、この秘密は一生墓の下にまでもっていく。
 身分的には別に今だって王妃とさほど遜色ないけれど、王妃は王妃でも彼女は今でも特別な尊崇を集める方なので、自分がその生まれ変わりだとか絶対に口が裂けても言えない。


 旧ダーディニア王国の最後の王妃 アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディシス=エルゼヴェルト=ダーティエ。
 それが前世の私だ。
 最後の王妃と呼ばれるのは、別に国が滅びたわけではない。
 私の死後、王国だった国が帝国へと政体を変えたからだ。
 正確に言えば、帝国を名乗ったのは私の孫の時代なのだけれど、本当は初代皇帝であるはずの孫が、初代皇帝は私の夫であったナディル陛下であると公式に定めたために、私が最後の王妃と呼ばれるようになった。
 生前は名前から『光の王妃」とか、ナディル陛下の唯一の妃であったことから『幸福の王妃』などと影ながら呼ばれ面映い思いもしていたけれど、後の歴史書においては更に酷かった。
『女神の娘』だとか『麗しの聖王妃』『慈愛の国母』などと公式の歴史書の記述に頻出する美辞麗句に、何度も突っ込みたくなったほど。
 享年は三十三歳。
 ナディル一世妃 アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディシス=エルゼヴェルト=ダーティエの公式の列伝の記述は、『まだ若く美しい盛りで亡くなった王妃をナディル一世は生涯にわたり愛し続けた。彼は最愛の妃へ贈るとして王妃の死後に建設した公共施設の全てに王妃の名を冠し、それらの孤児院や学校などは現在も帝立の施設として残されている』という記述で筆を置いている。
 その為、政治的に特別な功績を残したというわけではなくともアルティリエ王妃の名は歴史のあちらこちらに出てくるし、何よりも、この国の皇族は皆、アルティリエ王妃の血筋である。
 この国の国民でアルティリエ王妃を知らない人間はまずいないし、この国の女児に多い名は『アルティ』とか『ティリエ』などの王妃の御名を一部いただいたものだ。

 そして、現在の私もまた、彼女の血を引く一人である。
 妃殿下とそっくり同じ名前をつけられた、アルティリエ・ルティアーヌ=リチェール=ディア=エルゼヴェルト。
 ダーディニア帝国(正式名称は、ダーディニア及び東部ラスティニア連合帝国)の五公家の一たるエルゼヴェルト公爵家の一員である。

 私がアルティリエ王妃としての記憶を思い出したのは、五歳の時だった。
 公務で外遊中だった両親と共に交通事故に遭い、両親に助けられて目覚めた病院で私は気づいた。
 王妃としての最後の記憶もまた花に埋もれた部屋だったので、鏡の中の自分が幼い少女であることに気づくまで、何がなんだかよくわからなかったし、夢を見ているのだと判断した私を誰も責めないと思う。
 迂闊なことを口走らないためにはじめは口を開かないで過ごした。この類の経験は二度目だったのでそれなりに肝も据わっていた。
 両親が亡くなった幼児に対し、誰もが腫れ物をさわるような扱いだったので、多少のおかしなところは事故のショックのせいにされ、誰かに不審を感じられる前に私は自分の立ち位置を把握した。
 一週間もすればだいたいの事情はわかったが、わかった瞬間には気絶したくなったものだった。

 アルティリエ・ルティアーヌ=リチェール=ディア=エルゼヴェルトという幼児は、両親を亡くしたことで、この国有数の大貴族たるエルゼヴェルト公爵家の唯一の後継者となっていたからだ。
 アルティリエの父は当時の皇帝陛下の末子である第四皇子ジェラール=オルドーヴァ=ディア=ラスティア=ダーディエで、母はエルゼヴェルト公爵家の後継者であるノーチェス子爵エフィニア=ユディエール=リチェール=リィス=エルゼヴェルト。
 アルティリエは、その二人の間に生まれた唯一の子だったのだ。
 
 それからの日々は、もう毎日が驚きの連続だったように思う。
 成人前の少女……というよりか、むしろ幼女……でありながらも、エルゼヴェルト公爵家の唯一の後継という重責を負うことができたのは、己に王妃であった自覚と記憶とがあったからだ。そのせいで、自身の前世の死をしみじみかみしめる暇もなかった。
 思い出すだけで何だか目が潤んでくるのはたぶん気のせいではないのだが、十年たってみればそれなりに自分の中でも整理がついている。
 ただ一人生き残った私を両家の祖父母は溺愛した。
 通常の五歳児であったならばかなり困難だったであろう日々も、成人し三男一女の母としての人生経験済みだったために、何とか乗り越えることができた。
 というか、中身が私でなければ、どうしようもないお嬢様になっていたような気がしなくもない。それくらい、周囲の人々は皆、私に甘かった。








「……は?え?」

 それを目にした瞬間、口していたコーヒーがへんなトコロに入って、盛大にむせた。

「姫さま?」

 綺麗にのされて皺一つなかった新聞を思わず握り締めてしまう。

「……………」

 けれど、視線はその第一面から目をそらすことができなかった。
 
「姫さま、大丈夫ですか?」

 専属侍女のリリアが首を傾げている。落ち着いているといわれることの多い私の狼狽の様子にいつもと違う異変の気配を感じたのだろう。

「……ええ。ちょっとむせただけ」

 私は心の中でやや強引に態勢を立て直し、もう一度改めて新聞に目をやる。
 その写真は、先日、公務で皇宮に参内した時のものだ。

「どうかなさいましたか?」

 リリアが重ねて問うた。
 今時、侍女なんて職業があることを驚く人がいるかもしれないが、ダーディニアにおいてはさほど珍しいことではない。
 立憲君主制を国家政体としているダーディニアでは、貴族制度もそのまま維持されている。爵位のある家には今もあたりまえに執事や家令、侍女や従僕といった職業の人々がいるし、皇宮にもそういったスタッフがたくさんいる。
 名目が昔ながらのものだからといってもその仕事内容は千差万別で、かなり変わった部分もある。
 リリアの場合は、侍女といってもお手伝いさんや小間使い的なものではなく、私の秘書といったような性格が強いだろう。彼女の父が私の家庭教師だった縁で、去年、三年間の留学から帰国した後、私の専属侍女になった。
 先頃25歳になったばかりなのだが、何事にも動じない性格とその肝の太さで、海千山千のおじ様たちと渡り合っていて、今ではリリアが来る前のことが思い出せない。
 旧王国時代より筆頭公爵家であった我が家は、所領も多く、働いているスタッフも多い。だいたいは、何代にも渡り我が家に使えてくれている者ばかりである。
 今は皇家や貴族といえどかつてのような特別な優遇制度はないし、税金だって普通にかかる。しいて言うならば、爵位に付随する所領とそこに存在する建築物に関しては、爵位相続者が所有する限りにおいて税金の類が一切掛からないということくらいだろうか。
 三回の大戦を経て帝国の在りようも様変わりした。
 旧ラスティニア王国の領土のうち、帝国に残ったのは東部だけ。三分の二は独立し、更には幾つかの自治領や大公領を経て、現在はラスタ共和国やダーハル連合国という国になっている。そんな中、かつてのそのままの家門を維持している家はそう多くはない。
 中には、爵位はもっているがアパート暮らしの公務員という人もいると聞くし、一昨年結婚なさった第ニ皇子殿下……現ロディニア公爵殿下の妃となられたリディアーヌ妃は伯爵家の出身だが、代々学者のお家柄で、お住まいになっていたのは3LDKの公団住宅だったと聞く。一時期、公団住宅のプリンセスとかなり騒がれていた。
 我が家も、先見の明のあったご先祖様と蓄財の才のあるお祖父様がいなければ、きっと名ばかりの貴族になっていただろう。
 
「うん。これがね……」

 私は手にしていた新聞を広げてみせる。

 デイリー・エンパイア……ゴシップ紙というほど下世話ではないものの、わりと柔らかい切り口で芸能ニュースや社交界のさまざまな話題をとりあげている新聞を手に取り、デカデカと一面に掲載されている写真を見せる。
 私は毎朝、帝都新聞と帝国経済新聞とデイリー・エンパイアの三紙にさっと目を通しているが、社交界のニュースに関しては、この新聞が一番詳しく早い。
 ただし、『噂』レベルのニュースもとりあげるので、そこは注意が必要だ。

 デイリーエンパイアの主たるニュースは主に社交界に関すること……すなわち、皇族あるいは貴族関連のものだ。
 これにはもちろん、皇帝陛下に関することも含まれている。
 皇帝陛下のご予定や前日のご公務の様子などについてはほぼ毎日見開き二面分を費やしているし、皇族の中には、コラムを執筆している者もいる。
 このニュースで最も多く関心を集めているのはおそらく貴族の冠婚葬祭───特に婚姻関係の記事だろう。中でも、ここ数年、まるで月間連載のように毎月騒がれているのは皇太子殿下の結婚相手についてだ。話題になる相手は毎回違う。皇太子殿下ご婚約決定か?!いうコピーはもう誰もが見飽きているものだった。
 殿下が三十歳を越えてからは報道もかなり加熱していて、そのマスコミの過熱報道っぷりがニュースになることもあるほどだ。これは何もデイリーエンパイアだけの話ではない。
 大変そうだなぁと傍観するだけの立場だったのだが、どうやら私も当事者の一人になってしまったらしい。
 自分の写真がそのコピーとともに新聞の一面を飾っているのを見るというのは、そうそうにできない経験だと思う。

「イマイチですね。姫様は左斜め三十度からのお顔が一番かわいらしいですのに」

 写真を目にしたリリアは残念そうに溜息をつく。

「そんな突っ込みいらないです」
「腕が悪いですわ、このカメラマン」

 嘆かわしいというように首を横に振ったリリアに私は小さく苦笑して言う。

「だから、それはいいんだってば。そうじゃなくて、私はいつレイエス殿下と婚約するような話がでるほど親しくなったのかなぁって思ったの」

 亡くなった父が当代陛下の末の弟であった為に、皇太子殿下と私は従兄弟同士になる。
 帝室法により皇帝から三代の子孫はディア(殿下)の称号を許される皇族で、私もその一員なのでそれなりに殿下とも面識はある。
 皇族にはさまざまな公務があり、未成年であればだいたいは免除されるものの、新年参賀や春先の建国記念祭、秋の皇帝陛下の公式誕生日の三つは必ず参加することになっているから、年に三回は必ず顔を合わせる機会があるのだ。
 更に、私は十歳の時にエルゼヴェルト公爵であった祖母から爵位を継承したから、その他の公務の機会もあって皇宮に参内することも多い。
 でも、だからといって個人的に親しくお話ができるか?といえば、ちょっと疑問だ。
 当代陛下のお子様は三人いらっしゃって、三人ともが皇子なのだけれど、どの方ともそれほど親しいとは言えない。

「親しくないんですか?」
「ないです」

 はっきりきっぱりとそう言い切れてしまうくらい、私には親しくさせていただいた記憶がない。

「皇太子殿下と個人的なお話をなさったことは?」
「それなりにあるけれど、特にこれといって特別な話をした記憶がないから」
「そうなんですか?」
「ええ。……それに、殿下と私では年齢が違いすぎるわ」

 皇太子であられるレイエス殿下は34歳。私はあと半年で16歳になるところ。正直言って倍以上年齢が離れている。
 それに、生きていれば私のお父様とお母様は36歳なのだ。殿下は、結婚相手というよりお父様といっていい年齢である。第二皇子であるロディニア公爵が32歳。一番末のクリストファー殿下でさえ29歳だ。
 私の意識としては彼らは従兄弟というよりは親戚の叔父さんとか、そういう感じだ。

「そんなものですか?」
「そんなものよ。それに、話題もないし」

 私の最大の趣味はお菓子作りだけれど……これは、パティシエだった過去の記憶のせいだ……皇太子殿下は甘いものをまったく召し上がらない方だ。そういえば、殿下と同席したお茶会で、あまりにも話題がなかったので、出されているプチ・フールを食べ続けたせいで1.2キロ太ったことがある。それから十日間、夕食後のウォーキングの距離は倍となり、夢もみないほどよく眠れた。あれはかなりきついので、それ以来、どんなにおいしそうでもちゃんと手が止まるようになった。

 逆に皇太子殿下のご趣味は、スポーツだ。
 観戦もお好きだけれど、ご自身でなさるのもお好きで、特にお好きなのはヨットと乗馬。ヨットは国際なレースに出場なさったこともあるし、乗馬も国内最高峰のレースに何度か出たことのある腕前だという。もっとも、これは全部デイリー・エンパイアの記事による知識だ。
 正直にいえば、私はあまり丈夫な性質ではないし、運動神経がそれほど良いわけでもないので、スポーツ観戦はともかく自分でするほうはあまり好きではない。
 たしなみとして乗馬はするけれど、それは狩猟の際に足手まといにならない程度で、スポーツとしての乗馬にはまったく興味がない。だいたい、スポーツ全般にそれほど興味がないのだ。

 日常生活だって、文字通りの箱入り娘である私と、次の皇帝である殿下とではまったく異なるだろう。
 殿下は、休日は好きなヨットか乗馬を楽しまれるようだが、私は、自分のキッチンで試作品を作るか、あるいは我が家の図書室や図書館で昔の料理レシピの研究をしていたい。果樹園や農園や温室に行くのもいい。新鮮な野菜や果物はお菓子に欠かせない。

「姫さまは、どちらかというとインドア派ですものね」
「そう。家にいるのが好きなの」

 果樹園も農園も温室も帝都の邸の敷地内である。
 外出には運転手がいるし、護衛がつくし、付き添いと従僕も必須だ。私一人の外出のために総勢十人程度が必要となる。これはもうほぼお決まりのルールだ。でも、その仰々しさがあまり好きではない。
 しかもそれだけ仰々しくしたとしても自由にどこにでも行かれるわけではない。
 お忍びであれば、動員する護衛は倍になることがわかっていれば、早々にわがままも言えない。
 王妃であった頃はもっと籠の鳥であったのに今の方が耐え難く思うのは、陛下がいらっしゃらないからだ。

(ナディルさまが、いない)

 私に籠の鳥であることを感じさせなかった陛下がそばに居ない。
 ただそれだけで、私の世界は色が褪せる。
 私はもうかつての私ではないのに、記憶があるがために想わずにはいられない。

「私の世界が狭いのはわかっているけれど、仕方がないわ」

 仰々しいお供つきの外出をするくらいなら家にいるほうがいいと思ってしまう。さすがに自邸の中では護衛はつかない。
 私が私になって以来、邸や別邸を含めた公爵家の縁の場所と所領、そして皇宮くらいしか行ったことがない気がする。
 
「それに、春からは大学にも行くし、成人もするのだから、公務にもいろいろ幅が出てくるわ。外国へ行くことはないと思うけれど……ちょっとずつ、自由になる幅だって広がってくるはずだから」

 私が今の私となるきっかけとなった五歳のときの交通事故は、ダーハル連邦での公務の際に起こったものだったから、成人したとしても私が外国へ行くことはまずないんじゃないかと思う。
 
「渡航禁止なんですか?」
「別に明確に禁止されているわけじゃないけど、パパとママがダーハルで交通事故にあったから、私も同じ様なことがあったら困ると思われているの」
「姫様が学校に通ったことがないのもそのせいですか?」
「それもあるけど……通ったことがないわけじゃないのよ。一度だけあるのよ。一般の人と同じ七歳で帝都の聖ルティアーヌ学院に、一週間だけ」
「一週間だけ?」
「学校で怪我したの。足の骨折で全治二ヶ月。……ほら、何たって私はエルゼヴェルトの相続人で皇族でしょう。先生方がそりゃあ気をつかってくれたのだけれど、予期せぬ事故ってのはどこでもあるのよ」
「事故っていっても校内ですよね?」
「そうよ……ちょうど、聖ルティアーヌでは貴族ではない子供を受けいれる試みをはじめていたの。私が入学する二年前からかな。で、生粋の貴族だと七歳になるまでの間にそれなりに教育されて身分っていうのが何となくわかっているのだけれど、一般の子にはわかっていない子もいたの。聖ルティアーヌに入るくらいだからそれなりの教育を受けている子が多かったらしいんだけど、何人かそうじゃない子達がいてね。で、何の因果か、目をつけられたのよ、そういう子に」
「目をつけられたというと?」
「気に入られたの。で、私を思い通りにしようとしたわけ。具体的には自分と一緒に遊べとかそういうことね。でも、私は彼らの態度を好まなかったし、自分勝手にできないことがたくさんあったから断ったの。そうしたら、癇癪をおこしたその子供に階段から突き落とされたのよ」

 リリアが額に手を当てて、ありえないと首を横に振る。

「落ちるって思ったところまでしか覚えていないんだけどね。まあ、目が覚めたときには、退学決定で、家庭教師が五人ばかり決まってたわ」

 既に引退したり、大学を定年退職したというお年を召した方ばかりだったけれど、それぞれの分野で一流の先生方ばかり。正直、七歳児には過ぎた教師陣でした。

「学校については詳しくは知らないし、私はあんまり気にしなかったのだけれど、大問題になっちゃったみたいで」
「それは当然だと思いますよ」
「当時はまだ、お祖母さまが元気でいらしたのだけれど、お祖母さまは元より、皇太后となられていた祖母様に伯父様……陛下のお怒りまでかったのね。子供同士のこととはいえ、下手をしたら生命にも関わることだからって。親ごさんは商売をしていたけれどお店を手離して、一家で他国に移住したって聞いたわ」
「もしかして、それはプロペスター家のお話ですか?」
「そうかもしれない。ごめんなさい。その子の名前を覚えてないの」
「……そうですか」

 リリアは複雑な表情をしたが、記憶力には限りがあるし嫌なことは忘れるに限る。恨みがましくいつまでも覚えていられないのだ。 
 まあ、そんな事情だからして、私が学校に通わないことは速やかに決定され、以降、この年になるまでずっと家庭教師達と学んできた。
 それでも、やはり学校にあこがれる気持ちというのはある。
 前世ではもちろん学校に通ったことなどなかったのだけれど、ナディル様から大学時代のお話を伺って羨ましく思っていたのでその憧れは結構強いかもしれない。

 帝国の大学教育は、周辺諸国ともかなり違っている。
 帝国で大学というのは、ただ一つ。帝都アル・グレアにおける特別教育機関だけをさす。
入学するのは難しく、卒業するのは更に難しい。
 必須習得科目は歴史と法学。大学で一年次を修了しただけで、この国では初級公務員になれるし、卒業すれば弁護士資格と上級公務員資格が無条件で与えられる。
 皇族はこの大学に入学し、一年次を修了することが求められる。
それが、 国民の規範となるべき貴族の、その頂点たる皇族の最低限の必須教養とされているのだ。

(元々、わが国において学校教育はそれほど盛んではない)

 初等教育と中等教育の過程は義務教育なのだが、学校で学習することは義務ではない。
 家庭教師に教わってもかまわないし、私塾でもかまわない。親や兄弟に教わってもいい。もちろん学校もあるが、その学校も公立もあれば私立もあるし、それぞれの学校ごとに力をいれていることが違っていて、さまざまな選択肢がある。
 ようは、年に四回ある統一テストで必要単位を取得し、上にあがる条件を満たせばいい。
 例の事件以来、私はずっと家庭教師につい、すでに高等教育過程まで修了している。大学の入学許可試験にも合格済だ。合格したのは去年だったのだけれど、前回の轍をふまぬように大学側にもいろいろと準備することがあって、入学は今年になった。
 私は、この春からようやくアル・グレアの右岸にある帝都大学に通うことができるのだ。

「リリアも大学は帝都大学だったのよね?」
「はい」
「……ごめんね。せっかく卒業したのに逆戻りで」
「いえいえ。問題ありません」

 私が大学に行くのだから、当然、リリアも行く。というのは、未婚の貴族女性の外出には付き添いがつくのがルールだ。それはたとえ大学であっても変わらない。

「大丈夫ですよ。付き添いがいる生徒は姫さまだけではありませんから」
「何人くらいいるの?」

 リリアの言葉に少しだけほっとした。今年から同じように通う皇族がいるのは知っているけれど、やはり気になる。目立つことは仕方がないとはいえ、悪目立ちするのは避けたいのだ。

「付き添いのいる女生徒は姫様以外にも十人以上いらっしゃいますし、大学院にもいらっしゃいます。男性ならば、爵位を持つ生徒も珍しくありませんし……貴族の子女の数は、帝国のどの大学よりも多いと思いますよ」
「そうなの」
「まあ、姫様が最も高位であることは間違いありませんが」
「それは仕方ないと思うわ」

 私はエルゼヴェルト公爵で皇族でリチェールだから序列が特殊だ。
 儀式の時はだいたいが、国王陛下と皇太子殿下の間になる。
 もしかしたら、この新聞記事の遠因はそこにあるかもしれない。よく一緒に並んでいるからといっても別に仲が良いわけではないのに。

(陛下は……ナディル様は生まれ変わっているのかしら)

 生まれ変わりなんていうものがそう何度もあるようなものなのかわからない。
 そして、私のようにこんなふうに記憶が蘇ることはあまりないことなのだろうとおもう。

(私のことを覚えていなくてもいい)

 覚えていなくても、この世界にいてくれさえすれば、今度は私からナディル様を追いかけるから。
 私は小さくきゅっと手を握り締めた。






 2015.11.14up



 ※昔、エイプリールフールのお遊びにしようと思って書いていた現代編のファイルがでてきたのであげておきます。
 ※これはIFなので別に続編ではありません。 








[8528] 【番外編】君という謎のかたち
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/10/01 02:46
 幼い頃、世界の全ては不思議に満ちていた。


「ねえ、ラナ、なんでそらはあおいの?」
「それは、母女神様の目の色を映しているからです」
 乳母は優しく笑って言った。
(めがみさまのあおいめをどうやってうつすの?……そもそも、めがみさまってなに?)

「ねえ、ロイ、なんでふゆはさむいの?」
「それは、母女神様が御子の死を嘆いているからです」
(みこってだれ?なんでめがみがなげくとさむくなるの?)

「ねえ、ロルカ、めがみさまってなんなの?」
「あー、すいません、公子。俺は腕っぷしには自信があるんですが、学がないもんで。母女神はルティア正教のえらーい女神だってことしかわからんです」
「ルティアせいきょうってなに?」
「母女神を信じる教えですな」
「しんじるとなにがあるの?」
「……俺みてえな学のねえ人間は、ただ、信じるだけですよ」
(なんで、じつざいしないそんざいのふたしかなものをしんじられるんだろう?)

 舌足らずな口調で周囲を質問攻めにする幼児に手を焼いたのは、家人よりも母親だった。
 気難しい夫の世話をしながら所領を正しく差配し、多くの使用人たちを使って家政にあたっていた彼女には、三歳になったばかりの幼児の疑問を解決することよりも大切なことがたくさんあった。
 それでなくとも、生まれたばかりの二人目の子供はまだ乳児で、目が離せない。
 よって、彼……ナディル=エセルバートには、家庭教師が与えられた。
 大学に在学中の伯爵家の次男坊は、わずか十八歳で正式に騎士の叙勲を受けた位を持つという変り種だったが、正しい知識を持ち、偏った宗教観を持たない彼の教えは、後々までにナディルに多大な影響を与えた。



「まあ、殿下にも、そんなかわいらしい時代があったのですね」

 目の前の彼を見て何を想像したのか、ただそこに存在するだけで可愛らしい彼の妃……アルティリエは、ほぉと小さな溜め息をついた。

「いや。たぶん、まったく可愛くなかった。……答えにくいような質問ばかり並べていたような気がするし、質問攻めにして侍女を泣かせたこともある」

 彼がかわいらしかった時などどれだけさかのぼっても存在しないだろう。強いて言うならば、まだ物言えぬ乳児の時であれば多少はかわいげがあったかもしれない。少なくとも彼は、物心ついて以降、『かわいい」などと評されたことは一度もなかった。

「……いったいどんな質問をすれば泣くようなことに?」

 不思議そうに首を傾げる。

「誰もが当たり前のように抱く普通の疑問だが……たとえば、空がなぜ青いのか、とか、雪がなぜ降るのか、とか……あと、宗教というものに懐疑的で、その関係の質問は随分と答えにくかっただろう」
「……三歳児、だったんですよね?」
「ああ」
「ナディルさまらしい、と申し上げるべきなのでしょうね」

 くすくすとおかしげにアルティリエは笑う。
 柔らかな笑みは愛らしく、彼女が笑むだけで周囲が華やぐような気がする。

「きっと、私が問われたら困ってしまって、泣く事になったかもしれません」

 美しく整えられた指先が、テーブルの上のプレートから小さめの焼き菓子をつまむ。

「殿下、これはサツマ……ではなく、ロシュタ芋のタルト、こちらがカボチャのタルトです。どちらも自然な甘みがおいしいです」
「……ロシュタ芋?」
「はい。北部のロシュタという村で栽培されているお芋です」
「なぜ、そんな田舎の村で栽培されている芋がここに?」

 素朴な疑問だった。

「新しく入った侍女のマーゴの故郷なのです。この芋はマーゴのところに送られてきたものを分けてもらったのです」

 小さなカップのような焼き菓子の表面に見える蜜色の層が芋なのだろう、と見当をつけたものの、芋という野菜をナディルはあまり好んでいない。もそもそとした口触りもどうかと思うし、口の中にいつまでも残っている感じがする。
(いや、そもそも野菜をあまり好んだ覚えがないな)
 だが、アルティリエは、健康の為にといって何かと彼に野菜をとらさせようとしている。
 食事のときもそうだし、こうして、お茶菓子に使っても食べさせようとしていた。
(別に、好まないからといって食べられないというわけではないのだが)
 食べるのを嫌う様子をみせると、アルティリエがさまざまに工夫をこらして何とか彼にそれをとらせようとする様子が愛らしくて、つい心にもない好き嫌いを口にしたりもする。

「ゆでてつぶしたものを裏ごししてあります。クリームで伸ばしてあるから滑らかなので、ナディルさまのお嫌いな、もそもそした感じはないと思いますよ」
(不思議なのは、好まない理由など口にしたことがないのに、ルティアがそれを心得ていることだ)
「……そうか」
「どうぞ、召し上がってくださいませ」

 そう言って、アルティリエは毒見だというように、菓子を口に運ぶ。
 やわらかくほころぶその表情に、ナディルの頬も緩んだ。……おそらく、己が思っている十分の一も表情筋は動いていないことはわかっていたが。

「……ああ」

 口の中を紅茶で示してから、焼き菓子を口に運んだ。
(これは……)
 砂糖のものではない、自然な甘さが口に広がる。ナディルの知る芋とはまったく違った滑らかな舌触りで、ほんのわずかだけバターが香った。

「さつ……いえ、ロシュタ芋は甘いのです。なので、ほとんどお砂糖を使っておりません。丁寧に裏ごしして、癖のない蜂蜜を少し。それから、クリームをいれています」
「ほう」
「あのね、ナディルさま。このお芋は、すごく繁殖力が強いのです。しかも、痩せた土地でも育ちます……村では、このお芋のおかげで、どんなに不作の年も飢え知らずなんだとか……」

 アルティリエの瞳がまっすぐと彼を見た。碧の奥に青がきらめくその瞳は、エルゼヴェルトだけが持つ奇跡の色だ。

「……ルティア?」
「前に、申し上げましたでしょう?痩せた土地でも育つ作物をみつけたら、皆にも教えたい、と」

 くすり、と目の前の幼い少女が微笑った。

「……ああ」
 ナディルはゾクリと背筋を走る戦きに身を震わせる。
 幼い妃の、その言葉を忘れていたわけではなかった。
 だが、さほど時もおかずにそれが実現されるなど思ってもいなかった。

「種芋も確保してあります。……どうぞ、役立ててくださいませ」

 背筋を貫く快さに、息を吐く。
(……面白い)
 ただ幼いというだけで片付けられない少女の真価を、彼は未だ計り切れていない。

「……アルティリエ」

 その名を、紡ぐ。

「はい」

 手を伸ばした。

「……殿下?」

 おっとりとしたところのあるアルティリエは、まったく無警戒だ。

(……私の、ただ一人の妃)

 頬に触れ、それから、そっとひと撫でする。

「あの、くすぐったいです……」
 
 触れていたそのぬくもりから、手を離すのが惜しかった。

「……母女神など、信じたことはなかったのだがな」

 神と言う無形の不確かなものを信じる心をずっと不思議に思ってきた。
 だが、目の前の少女を、彼の唯一の妃と定めたのが神であるというのならば、生まれてはじめて、心からの感謝を捧げても良い、と思う。

「何かおっしゃいました?」
「……いや、何も」

 ナディルが二つ目の菓子に手を伸ばすと、アルティリエはとても嬉しそうに笑った。

(……ルティアは、なぜこんなにも嬉しそうなのだろう)

 幼い頃と違い、今の彼はさまざまな智慧を得、『世界』を識っている。
 もはや、不思議に満ちていた世界はどこにもない。

(なのに、目の前の妃がなぜ笑っているのかがわからない)

 他国の簒奪者の考えは手に取るようにわかっても、アルティリエの心を計ることも想像することもできない。
 それが面白くて、妙におかしかった。

(……私は、楽しいのかもしれない)

 目の前に、少女のかたちをした謎がある。
 常に、彼の予測を軽々と飛び越えてしまうような謎だ。
 
「殿下、どうぞ」

 白い指先が、つまんだ菓子を口元に差し出した。
 断られるなんて思ってもいない満面の笑顔が彼に向けられている。

(……ああ)

 この謎は、そう簡単に解けることがあるまい。
 だからこそきっと、ナディルは焦がれ、追い求めるようになるのだろう。

(でも、それも案外悪くない)


「……殿下?」

 そして、信じきっているその瞳を裏切ることは、彼にはできなかった。





君という謎のかたち FIN

*************


2016.10.01 更新


このたび、KADOKAWAビーズログ文庫より書籍化が決まりました。
2016.11.15に「異世界で王太子妃はじめました。」というタイトルで1巻が発売する予定です。
読んでいただいた皆様のおかげです。ありがとうございます。



[8528] 王都迷宮編 プロローグ
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/11/10 00:48

 夢をみていた。

 夢の中にいて、夢だと理解していた。

(……だってこれは、今の『私』じゃない)

 今よりもずっと小さな手。
 この手は今の私のものではない。

(爪が整えられていないし、肌の色が違う)

 ほとんど外に出ないせいで、美白に気を使ってもいるわけでもないのに、肌が透き通るように白いのがアルティリエの肌の色だ。

(これは、麻耶の手だ……)

 そして、目の前に広がるのは、今の己が決して目にするはずがない景色。

(ここは、ダーディニアじゃない)

 王太子妃宮の庭でもなければ、王宮のどこかでもない。
 そして乗っているのも、贅をつくし、居住環境に配慮した自分の馬車ではない。

(パパのおんぼろ軽トラだ……)

 硬いシート……それから、ほんの少し生臭い魚の匂いがする。

「まったく、これはまいったね」

 声がした。
 震えるほど懐かしい声が。
 ためらいながら、運転席を見上げる────そこには、記憶にあるままの父が、居た。

(……パパ……)

 ともすれば、フロントガラスが真っ白く見えそうなほど激しく降る雪……それはもう吹雪と言っていいほどの勢いがあった。

(これ、たぶん、あの時だ……) 

 小学校の一年生か、二年生だったと思う。
 父と一緒に隣町に届けものに行ったことがあった。
 本州とは季節が違うと言われる北海道でも遅い春の兆しが見られるようになっていた頃だった。まだ、完全に春だと言い切るには寒い日も多くて長袖は手放せなかったけど、さすがにぶあついダウンコートはクリーニングに出していた。
 父が仕事で使っている軽トラックは、普通の車より目線がちょっと高くなる。助手席によじのぼって、ふだんとは違う目線の風景を見る楽しかったから、幼い私はよく父のお届けものにつきあっていた。

「パパ?」
「麻耶、見てごらん。雪で道が見えなくなっちゃってるよ」

 あまりにも激しい雪の勢いに、ほんの少しだけ恐怖を感じた。
 でも、隣の父を見上げて、それで安心した。

(……パパがいるから、へいき)

 幼い私にとって父は誰よりも強い存在だった。父がいれば怖いことなんて何もなかったのだ。
 真っ白な視界に、父はのろのろと歩くような速度にまでスピードをおとして注意深くハンドルを握っていた。

「この先の自販機のところで車を止めるから」
「はーい」

 何度も通る道だから、どこに何があるかはよくわかっている。
 それでもこんな天気になると、見慣れたはずの風景がまるで別世界のように見えた。

「まっ白だね。……もう、はるなのに」
「そうだね。こんなことなら、明日にすればよかったなぁ」

 自販機が二つ並んでいるだけの小さな空き地……護岸壁沿いに自販機が二つ並んでいるだけのスペースのその壁沿いに車をよせれば、助手席側は激しく叩きつけてくる雪から逃れられる。
 ゴウゴウと聞こえるのはたぶん波の音で、少しだけ心細くなって父のジャンバーの袖を掴む。父は大丈夫だというように私の頭を撫でた。
 このあたりは雪がそれほど多くない地域だ。そのかわりに、すごく冷え込むのだが、こんな吹雪の日は年に何度もない。
 しかも、四月だ。北海道といえど四月にこんなにすごい雪が降るというのはものすごい珍しい。

「くるま、雪がつもってうまっちゃわないかなぁ?」
「埋まりそうになったら、パパが雪かきしてくるよ。スコップも積んでいるからね」

 ノーマルタイヤに戻してなくてよかった、という父の呟きの意味を、このときの私はよくわかっていなかった。
 ただ、とりあえず、まだうちに帰れないことはわかった。

「ちょっと待ってなさい」

 父が車の外に出る。ややしてもどってきた父の手にはいつものココアといつものミルクコーヒーの缶があった。

「はい、麻耶」
「ありがとう、パパ」

 熱いココアの缶を手袋の手で受け取る。プルトップを開けてもらって、ふーふーとさましながら一口飲んだ。
 ココアの濃厚な甘さと温かさがほっと心を暖めてくれる。
 そして、一安心したら、案ずるのはもう一人の家族のことだった。

「ママ、きっとしんぱいしてるね」
「そうだね」

 あの当時、携帯電話はまだまったく普及していななくて、一部の富裕層が車に移動電話と呼ばれるものを備え付けてたりするくらいで、ポケベルさえ、一般的ではなかった。
 こんな風に突然帰れない事態になっても、それを伝えることも、理由を説明することもできなかった。

(……そういうの、今とちょっと似てるかも)

 ダーディニアにおける主たる通信手段は手紙だ。
 郵便配達網はかなり発達しているらしく、郵便馬車は特別な便宜をはかられているという。
 ただし、スピードに重きをおいていない為、手紙が届くよりも先に自分が帰りつくというようなこともあるらしい。
 貴族間では、正確さと速さのことを考えて、使者や使い番といった役目の使用人がいるが、場合によっては伝書鳩という手段もあるという。
 そんな状態だから、物理的な距離がそのまま情報伝達のスピードとほぼ比例する。
 現代日本では、携帯電話が普及したことで、時間差がなく連絡がとれるようになったが、ダーディニアではそんなことは夢のまた夢でしかない。

(確かに携帯電話があればなぁって思うことはある……)

 そうすれば、もっとこまめに連絡がとれて、一緒に過ごす時間もとれるのではないかと思うのだ。

(そうすればお夜食差し入れにいったりとかできるし……もっとスキマ時間を活用できると思うんだよね)

 もちろん私のスキマ時間ではない。ダーディニアで一番忙しい人のスキマ時間だ。

(でも、連絡をとりたい一番の理由はそれじゃないけど)

 ただ、声が聞きたい。
 ただ、話がしたい。
 今、こうして夢の中で父と話しているように。

(夢の中とはいえ、パパに会えて嬉しいのに、やっぱり殿下のことを考えちゃうんだな……)

 それが何だか照れくさくて、でも少し嬉しい。

「あのね、今日のよるごはん、まやのすきなシチューなんだよ」
「え?今日、シチューなのかい?」

 父の表情がぱあっと明るくなった。

「そうだよ。とり肉のおだんごのシチュー!まやもとり肉のおだんご作るの手伝った!!」
「あー、なんだ、ホワイトシチューかぁ」
「ざんねんでした。パパの好きな茶色いシチューは、おきゅうりょう出たらねって、ママ、言ってた」
「……だよねぇ」

 父は母のつくるビーフシチューが大好きだった。
 去年の誕生日に圧力鍋を手に入れた母の作るそれは、国産じゃないお肉でもとろっとろで素晴らしくおいしいのだ。

「おなか、すいたね、パパ」
「本当だね」

 残念なことに、車の中には食べ物がまったくなかった。
 父は母と違って甘いものをそれほど好む人ではなかったから、おやつを持ち歩く習慣がない。

「……あ、まや、クッキーもってる」

 出掛けに、食べ切れなかったおやつをティッシュにくるんでそのままもってきたのだ。

「はい、はんぶんつ」
「いや、麻耶が全部食べなさい」
「だめ、はんぶんつ!」

 二つに割った片方を差し出す麻耶に、父は泣き笑いのような顔を向けてそれを受け取った。
 あの時のクッキーはとてもおいしかった。
 別に特別なものでも何でもない市販のクッキーだったけれど、父と半分ずつ、それもおなかの減っているときに食べたことで忘れられない味になった。

(たぶん、この時の経験のせいで、私、いっつもカバンに何かいれておくようになったんだよね)

「もうパパはおなかいっぱいだよ。残りは全部、麻耶が食べなさい」
「えー、まだキャラメルあるよ」
「パパはもう大人だけど、麻耶は子供でこれからたくさん大きくならないといけないからね。……だから、麻耶が食べるんだ」

(半分くらい食べたって、どうしようもなかっただろうに……)

 なのに、優しく父は笑った。

(……どうしよう、泣きそうだ……)

 懐かしくて、嬉しくて……どうしようもなく慕わしかった。

「麻耶」
「……なあに?パパ」

 父が何か言った。
 なのに、それがうまく聞き取れなくて聞き返す。

「……パパ?」

 真顔の父が、自分を見つめていた。

「しあわせにおなり」

(え……?)

 そんな言葉を父からかけられた記憶など一度もなかった。

(……あ、でもこれ、夢だもんね……)

 父の手がそっと頭の上に置かれた。
 最初から夢とわかっている夢だった。
 なのに、もう堪えられなくて涙がこぼれた。

(……私は幸せになるから大丈夫だよ、パパ)

 安心してほしいと思って、涙を流しながらも笑って見せた。




 *************

 2016.11.10 更新


 新章をはじめました。
 王都迷宮編ですが、章タイトルは変更するかもしれません。
 たぶん1章目と同じくらい長くなりそうです。
 1については変更なしですが、新章からはサブタイトルもいれておきます。

 



[8528] 1 新しい御世のはじまり
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/11/10 00:56
 まるでスイッチが切り替わるかのように意識がパチリと覚醒した。
 のろのろと起き上がる。
 王太子妃宮では海の底だった寝台の天蓋の風景は、後宮に引っ越してきてから光の庭へと変わった。
 光の庭は、ダーディニアの建国王とその王妃となった妖精王の姫君が出会った舞台だ。
 朝露に濡れる淡い色調の花々が瑞々しく縫い取られた春の庭は、まばゆいばかりの金糸銀糸の光をうけてきらきらと輝いている。
 しかもこれ、実は外側と内側で縫い取られている柄が違う。その精緻な刺繍は、もはや芸術作品だ。
 ぎっしりと刺繍が施された分厚い帳はまったく光を通さないので、今が朝なのかそれともまだ夜なのかがまったくわからない。
時計はあるけれど、寝台の中にもちこめるほど小さくないのだ。

「あ……」

 顔が濡れていた。

(夢……)

 最初からわかっていたのに、こうして現実に戻ってきても、何だかまだ夢の中にいた感覚から抜け切れない。

(久しぶりに、麻耶の夢を見たな)

 二十一世紀の日本で菓子職人として働いていた和泉麻耶の三十三年の記憶を持ちながらも、ダーディニアという国の王太子妃アルティリエとして過ごして一年と少しになる。
 麻耶としての記憶がよみがえるきっかけは、アルティリエが生命を狙われたせいだ。
 麻耶の記憶が目覚めた当初は随分と戸惑ったし、悩みもした。麻耶の記憶を持ちながら、アルティリエとして生きる決意をかためるまでもいろいろなことがあったけれど、今はもう迷うことはまったくない。
 麻耶の記憶を持つアルティリエとしての自分を疑うことがないからだ。
 方や、二十一世紀の日本人。方や、ダーディニアという異世界の王太子妃。
 共通点はまったくないのに、違和感はほとんどない。

(それでも、こんな風にあちらのことを夢に見ると心が揺れる)

 『私』であって『私』ではない『私』。
 違和感はほとんどなくとも、決して同一になることはないだろう。
 たぶん、私はそれをそっと抱えて生きていくのだろう。

(誰かに話して信じてもらえるようなことではないし……)

 私自身、時々、夢なのかもしれないと思うことがあるくらいだ。
 寝間着の袖でそっと涙をぬぐう。
 グラーシェ山羊の毛で織ったという肌触りの良い毛布の中からそっと抜け出す。毛足の長いフカフカの絨毯の感触が足に触れた。

(……まだ、誰も来ないけど、今って何時なんだろう……)

 いつも、目覚めるのは誰かが起こしに来る時だ。不思議なことに、起こされるほんの三十秒くらい前に目が覚める。
 時々は、控えめなリリアの呼びかけで目覚めることがあるものの、だいたいの場合はその直前にぱっちりと意識が覚醒する。
 今日のような例はとても珍しい。

(何だろう……何か、変な感じがしてる)

 服喪期間が終わったせいなのかな?と考えても、よくわからなかった。
 ダーディニア国王の逝去による服喪期間は一年だ。
 至尊の地位にあった方の喪なれば三年が妥当であると言われるかもしれないが、かつてと違い、昨今の政治情勢で三年もの間、玉座が空であることは認め難い。
 よって、新たな国王の即位という慶事を理由に、国王の喪は一年とすることが暗黙のルールとなっている。
 前の国王グラディス四世陛下の葬祭儀礼は、昨日の葬礼ですべて終わる。
 その間、十二歳になったばかりだったアルティリエは十三歳の誕生日を迎えた。
 十二歳と十三歳なんてたいして違いはないだろうと思っていたのだけれど、周囲の見方はまったく変わってしまった。

(初潮がきたんだよね……)

 口にするのははばかられるけれど、今や王宮勤めの誰もが知っている。
 皆が知っていることを知ってから三日間、恥ずかしくてどうしようもなくて寝室にこもったから!
 なのに、やっと諦めがついて寝室から出れば、皆に「おめでとうございます」と祝福の言葉をかけられるのだ。
 あやうく人形姫と呼ばれていた時に戻りそうになったから!
 顔の筋肉ひきつっていたから!!

(救いなのは、殿下が苦笑していたことくらいか……)

 十五歳年上の夫であるナディル王太子殿下とはだいぶ打ち解けたていると思う。
 夫であることはちゃんと認識している。
 それなりに好かれている自信だってあるし、自分の好意だってちゃんと自覚している。
 けれど、やっぱり私たちの間には年齢の差というものが立ちはだかるのだ。

(当たり前だけれど、『お渡り』というものは未だないわけだし)

 というよりは、建国祭が終わるまでは絶対にない。
 初潮を迎えたことで、周囲がどれほど期待しようともそれだけは自信を持って言える。

(まだ、成人の儀も済んでいないし)

 正直、今来られてもちょっと困るのだ。
 何しろ、この身は十三歳の少女にすぎない。それも、あちらの世界で言うならばだいぶ未成熟な十三歳だ。
 この身で閨に侍るというのはちょっとどころかだいぶ問題があると思うのだ。

(とはいっても、殿下は私以外の妃をとることができないから)

 はっきりと誰もがそう認識しているわけではない。
 でも、少なくとも四公爵の間ではそれが確定の事実だった。
 ダーディニアの国王は公式には四人の王妃を娶ることが許されているのに、残念ながら殿下は私以外の妃を迎えることができないのだ。

(この国は、私が産む子供にしか玉座を許さない)

 すごく責任重大ではあるのだけれど、張本人である私にはあまりピンと来ていなかった。
 たぶん、十年後にも子供が生まれていなかったら追い詰められて真っ青になると思うけれど。

(まあ、殿下に限っていうならばあと三年くらいは余裕で大丈夫だと思う)

 ナディル殿下は別に幼女趣味ではないし、周囲の圧力に押し負けるような方ではないのでたぶん双方ともに不本意な形で強制的にお床入りをさせられるようなことはないだろう。
 ただ後宮に移ったことで、周囲が浮き足立っているだけだ。

(その後宮も、当分は私だけの住居ということになるわけで)

 後宮に移ったことで、私に仕える女官の数は桁が二つ増えた。
 片手で足りる人数だったのが、今や三桁の数の女官がいる。侍女も含めればその倍にはなるだろう。
 後宮を滞りなく運営するためにはそれくらいの人数が必要で、殿下の即位を控えた今、いろいろな家が後宮に侍女を送り込もうとしている。

(それも大半が側妃候補として……)

 それを思うと溜め息をつきたくなる。
 側妃というのは、『妃』の位を与えられるというわけではない、実際には公妾だ。国王の子供を産もうともその子供は王族ディアの称号も与えられない。
 国王の庶子に与えられる爵位は一代伯爵と爵位に伴う年金のみ。
 それは、どれだけ側妃が寵愛されようとも決して変わらぬ不文律だ。

(ただ、国王の庶子というのはうまく立ち回ればそれなりの地位に就けないわけではない)

 ダーディニアでは男女を問わない長子相続である貴族家が多いので、女性相続人の一定数いるから、婿としての需要があるのだ。

(それに実際のところ、ナディル殿下が私以外の妃を持てないことは明らかにできることではないから、最初は側妃でも子供を生んで妃に成りあがろうって人がいないわけじゃない)

 ナディル殿下の新しい侍女の中に、既に何人かそういう人がいるのを知っている。
 そういう人はすぐにわかるのだ。
 殿下と私がいるときの視線が違うから。

(侍女としてはとっても無礼なんだよね)

 私の侍女ではなくとも、私は王太子妃だ。
 殊更、子ども扱いしたり、さりげない嫌がらせをするのはどうかと思う。
 幼くとも、ナディル殿下の即位と共に私は王妃となるのにそれがよくわかっていない人が多いらしい。

(一難去って、また一難というか……)

 これまで私は王太子妃宮で何重にも守られて生活してきた。
 ナディル殿下はもちろんだし、亡くなられた国王陛下は私の最大の後ろ盾だった。
 けれど、陛下が亡くなったことで私は後ろ盾を失くしたと思われていて、そのあたりで与しやすいというか……ようは、舐められているのだ。
 ────まだ、幼いから。
 ────ぶっちゃけて言ってしまえば、殿下と肉体関係がないから。

(命を狙われる危険が薄れたと思えば、次は女の戦いか……)

 正直、自信はあんまりない。
 元々、そっち方面は疎い方なのだ。
 あちらの世界でもどちらかといえば受動的で受身だった。女子力を投げ捨てたとまでは言わないけれど、あんまりなかったと思う。
 今はそれなりに頑張っているつもり。
 この一年の間に重ねてきたいろんな記憶もあるし、二人で過ごしてきた時間だってある。

(胃袋もがっつりつかんでる自信あるから!)

 朝のお茶が朝食兼用となり、朝のひと時を供に過ごすのはすでに私と殿下の決まりきったお約束だ。

(これで充分な気がするんだよね、とりあえず)

 あちらとこちらでは婚姻の制度自体が違っている。
 一夫一婦を守れなんて言ったら頭がおかしいと思われるし、独占できる人だとも思えない。
 何よりも、私はまだ殿下のお相手ができるわけではないので、仕方がないと思うのだ。

(つまり、その女性が私の立場をちゃんとわきまえてくれるのなら、殿下が女性をお側においてもいいと思う)

 むしろ、それが当然だと思う。

(殿下は健康な成人男子なわけだし、それが許される立場なのだし……)

 元々、私が後宮に移るのは、即位式の後でということだったのを、自分が移るときに一緒にと言い張ったのはナディル殿下だ。
 私を後宮に移さないのならば自分も王太子宮から動かないとまで言ったらしい。
 情熱的で素敵です、と、新しく来た侍女のマーゴがうっとりとしていたが、実際のところ、王太子宮が空だと王太子妃宮の警護体制がかなり手薄になるという現実的な理由が大半を占めている。
 王太子妃宮は元々念入りな警備体制がとられている宮ではあるけれど、王太子宮との行き来がなくなると完全に孤立してしまう。
 孤立し、かつ、閉ざされている宮というのは、一度入り込まれてしまうと外の目がまったく届かなくなって逆に危険なのだ。

(かといって後宮が安全ってわけでもない)

 国王陛下の死とともに、私の周囲に色濃く漂っていた危険はだいぶ薄まった。
 でも決してそれが無くなったわけではない。依然、私は狙われやすい立場だし、何よりも我が身を真っ先に守らなければいけないのだ。
 それでいながら、これからの後宮生活において私はきちんと後宮を治めなければならない。

(できれば、あからさまに殿下狙いの子が後宮に配置されませんように)

 頭では納得していても、目の前で見たら感情では許せなくなるかもしれないし。
 あれやこれやと考えていたら少し肌寒くなって身体が震えた。

(何か羽織ろうか……)

 それとも着替えてしまおうかと思ってぶ厚い帳を開こうと手をかけた瞬間、まだわずかに冷ややかさを帯びた早春の空気が震えた。

(え?……鐘の音……?)

 その音で時刻を聞き分けようとしたけれど、荘厳な鐘の音は一つや二つではなかった。

(これって……)

 鼓膜が破れそうな大音量、というわけではない。だが、鐘の音は王都中に響き渡っていることだろう。
 王都アル・グレアには全部で十二の鐘楼があり、その音で王都の人間はその時間を知る。日中は五小節分の決まったメロディを、日が落ちた後はその時刻を表す鐘を一つだけ鳴らすのが決まりだ。
 今、鳴っているのはメロディだ。
 でも……。

(五小節よりも長いし……これは刻を知らせる音じゃない……)

 重なり合う、高い音、低い音……共鳴するその音色に目を閉じる。
 音の響きの中に吸い込まれそうになりながら、旋律を辿った。
 地方出身の職人は、この鐘の音を聞き分けることができるようになってやっと半人前と戯れ歌にあるが、物心ついた時から王都育ちの私には、さほど難しいことではない。

(記憶がなくても、こういうのって覚えてるんだよね……)

 それに、私の音楽的教養のレベルは自分で言うのも何だけど、かなり高いほうなのだ。

(陛下のおかげだ……)

 そういう教養を私に教えてくださったのは亡くなられたグラディス四世陛下だ。
 陛下は、芸術方面にとても関心があり、殊に音楽に関してはご自身でさまざまな楽器の演奏をなさるくらいお好きだったし、造詣も深かった。
 私の母が音楽をとても好んでいたために、幼い私にもいろいろと教えて下さり、今も折々に浮かび上がってくる記憶がある。

(この曲は、『サグリザ』だ)

 サグリザというのは、ダーディニアで大切な式典などで演奏される特別な曲だ。
 いつ、誰によって作られたのかはわからない。
 元々は流浪の楽師の間で演奏されていたものを、未だ国家とならぬ時代のダーディエ家の当主が気に入り、事あるごとに自家の楽師に演奏させるようになり、やがて、式典などで演奏されるようになったとも聞く。

(鐘で演奏するの、初めて聞いた)

 王都中のすべての鐘楼の鐘を使っているのだとわかる。
 こちらの鐘はあちらでのお寺の鐘とはまた違っていて、複数の鐘を持ち、はじめから旋律を演奏するものとして設置されている。
 ちょうど、あちらでいうカリヨンとよく似ている。
 けれど、こんな風に幾つもの鐘楼の音を重ね合わせて演奏できるものだなんて、初めて知った。

(重なって、響きあう……何ていう音なんだろう……)

 奏でられる音色は、深く厚みのある音でちょっとやそっとでは揺るがない。その響きあう音の中に意識を委ねると、どこか遠くへと運ばれてしまいそうな気がする。

「おはようございます。妃殿下。もうお目覚めでらっしゃいますか?」

 控えめなリリアの声に、遠くへと飛んでゆきそうだった意識が連れ戻された。

「起きているわ」

 帳がさっと開かれる。差し込んできた光のまぶしさに目を細めた。

「……ねえ、リリア。この鐘の音は何の知らせ?夕べは何も聞かなかったけれど……」

 私が起き上がっているのを確認したリリアの合図で、アリスやミレディが洗顔などの用意を整え始める。

「これは、新しい御世が始まったという言祝ぎの鐘ですわ」
「?????まだ、ナディル様は即位されていないけれど?」
「はい。正しくは、お亡くなりになられた国王陛下の喪が明けたという知らせです。喪が明けたことにより、未だ即位はなされておらずとも、王太子殿下の御世がはじまったということになるので、言祝ぎの鐘とされています」
「慶事のはじまりを告げる鐘なのね」
「はい」
「時間は決まっているの?」
「はい。当日の日の出、と定められています」

 なるほど。次の間の柱時計に目をやれば六時半になろうとしているところ。中途半端な時間だから時計が狂ったのかと思ったけれど、日の出にあわせられているのなら納得だった。


 荘厳な鐘の音は、朝の光の中で、新しいはじまりらしい明るさと希望に満ちた調べを王都中に響かせていた。




 *************

 2016.11.10 更新


 書籍化に対するお祝いの言葉ありがとうございます。
 理想郷で連載していた当時、何度もくじけながらも決して忘れないでくれた方達のおかげで最後まで書きあげることができました。本当にありがとうございます。

 1巻が11/15、2巻が12/15と二ヶ月連続刊行予定です。
 もしご購入いただけましたらカバーをはずしてみてください。
 おまけがあります。



[8528] 2 後宮の朝
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/11/15 08:01
 リリアに促されて、元の宮から持って来た鏡台の前に座る。
 運ばれてきた琺瑯びきの洗面ボウルにはちょうどよい温度のお湯がはられていて、そこにリリアが白いパウダーを振り入れる。
 成分はよく知らないけれど、これは保湿効果があるのだ。水がわずかにとろみを帯びて、手に取るとしっとりと馴染む。
 乳白色のぬるいお湯でぱちゃぱちゃと顔を洗う。汚れを洗い流すのと同時に保湿成分を馴染ませているイメージだ。
 ふわふわのタオルで水気をふき取ったらさらに化粧水を重ね、ぷるぷるになったところをクリームで仕上げる。

 そこまで終わったら、次は着替えだ。
 王太子妃宮では寝室の隣が身支度を整えるためのドレッシングルームがあり、洗顔などもそこでしていたのだけれど、後宮に引っ越してきてからは寝室としているこの室内で洗顔も含めて身支度を整えるようになった。

(王太子妃宮は動線がちゃんと考えられていたんだけど、ここはなぁ……)

 私が使うために寝台が運び入れられて寝室として使っているものの、この部屋は元々は寝室として使うことを想定されていない。
 元の寝室よりも倍以上広いから、寝室以外の用途で使っても全然かまわないけれど、何となく落ち着かない。
 でも、隣接している部屋はドレッシングルームとするにはとても狭く……日常使うための衣装を収納やさまざまな小物類を収納した上で身支度を整えるほどのスペースがないとリリアに判断された。
 今は完全にクロゼットルームとして使っている。
 私の個人的な意見を述べるなら、いったい着替えるためにどれだけの広さを必要と思われているのか謎だ、というところだ。
 確かにこうして何人もの侍女達に身の回りの世話をしてもらいながら着替えるためにはそれなりの広さが必要ではある。

(一人で着替えるのっていろいろな意味で難しいし……)

 十三歳になったその日から、ソフトなものとはいえコルセットを使うようになった。コルセットを身に着けるのは一人では難しい。コルセットなしでも着られる服がたくさんあるけれど、やはりコルセットをつけるとシルエットが綺麗なのだ。
 その心をしっかり繋ぎ止めておかねばならない夫を持つ身であれば、少しでも綺麗に見える努力を惜しむことはできない。
 私にだって乙女心の持ち合わせというものはあるのだ。

(それにデザイン的な流行もあるし……)

 今は、胸部をレースで飾るデザインが流行している。そのせいで、ブラウスもワンピースタイプのガウンも背中でとめるボタンが主流だ。そうなるとどうしても手が届かない箇所が出てくる。だいたい基本的にはこちらの衣装というのは誰かの助けを借りて着ることが前提でできているので、一人では綺麗に着るのが難しい形が多い。

(クリノリンとかなくて良かった)

 ソフトなタイプのコルセットはどうしようもないにせよ、私は絶対に拷問器具みたいなコルセットは流行させたくないし、スカートをふくらませるためのクリノリンやそのほかの器具も流行させたりはしない。

(今のファッションリーダーはアリエノール王女なんだっけ)

 彼女がそういうものを思いつかないことを祈るばかりだ。
 でももし、そういうものが流行しそうになったら、全力で違うものを流行らせて阻止しようと思う。

(どんな方なのかな?アリエノール姫)

 ナディル殿下の妹君で、話に聞く限りではとても勝気そうな方だ。アル殿下やシオン猊下を見ていればわかるけれど、おそらくはアリエノール姫もブラコンの気があるだろう。
 仲良くできると良いな、と思う一方で、女同士特有の難しいこともあるから、あまり過剰な期待はしないでおく。

(夫婦仲はとても良いって、殿下がおっしゃってたっけ) 

 ダーディニアでは、嫁いでも、王女は王女だ。
 私の母のエフィニアも嫁いでも『殿下(ディア)』の称号で呼ばれ続けたし、今はディハ伯爵夫人であるアリエノール王女もそう。
 ディハ伯爵というのはグラーシェス公爵家の嫡長子に受け継がれる爵位の一つだからアリエノール王女はいずれ、グラーシェス公爵妃となられるのだろう。

(そういえば、アリアーナ様は、グラーシェス公爵家の縁の方だった)

 アリエノール姫のことから連想して、つい先頃、この後宮を去った妃様方のことを思い出す。
 陛下がお亡くなりになられて、後宮は一新された。
 ユーリア妃殿下、アルジェナ妃殿下はともに王都の離宮を与えられてひきうつり、側妃のお二人やお手のついた妾妃方もすべて爵位とそれに伴う年金とをいただき、後宮を去った。
 以後、亡くなられた陛下に操立てする限り、その称号と年金が彼女たちのこれからを保障する。

(ここまできれいさっぱり一新することってあんまりないらしいけど)

 ナディル殿下は、陛下のお手がついた方やその下に仕えた者は、誰一人後宮に残ることをお許しにならなかった。
 だいたいの場合、自分の生母となる方はそのまま王宮でお暮らしいただくのが普通だというし、たぶん、ユーリア妃殿下が望まれたのならば、殿下はそれを拒まなかったと思うけれど、妃殿下はご自分から、離宮への移動を希望された。
 最後にお会いしたユーリア妃殿下は、後宮には思い出が多すぎる、とだけぽつりとおっしゃって離宮へと行かれた。
 ご生母すら残らないのに、他の女性が残れるはずがない。
 他国では、先代の後宮をそのまま次代の王が引き継ぐというところもあるのだというが、ダーディニアではそれはありえない。イシュトラやシェイラムとは習慣が違うといえばそれまでで、互いに決して相容れない部分でもある。

(私の安全を守るためにだとリリアは言ったけれど、ご本人は何もおっしゃらなかった)

 私を後宮に移すにあたって、だいぶ後宮に手を入れているのだという。まだいろいろと改築が終わっていないため、仮住まいで不自由をかけると殿下には言われたので大丈夫だと笑顔でうなづいておいた。

(その改築とかが私のためではなく、殿下がこれから後宮にいれる人たちのために行っているという噂もあるんだよね)

 後宮に来て思ったのは、後宮という閉鎖された世界では本当にさまざまな噂が飛び交うのだなということ。
 あちらの世界での私は噂にあんまり興味がなかったのでとても疎かったし、スルーしていればそれで良かったのだけれど、こちらではそうはいかない。

(私は後宮をおさめなければいけないのだから)

 もちろん、リリアやミレディ、アリスやジュリアもとても助けになってくれる。
 けれど、アリスとジュリアは即位式が終われば宮中を退出し、夏前に結婚することが決まっているし、リリアはいずれ私の女官長になることが決まってはいてもまだ年齢が若い。
 リリアは少しだけ悔しそうに、ナディル殿下はおそらく年長の……誰もが決して文句を言えないような人間を王妃の女官長として派遣するだろうと言っていた。

(候補は、アル殿下の側近の方のお母様とかフィル=リンのお母様の名が挙がってるんだっけ)

 あと十年年齢がいっていれば、とつぶやいた言葉を私の耳はしっかりと聞き取ったけれど、あと十年リリアが年が上だったらきっと出会えなかったと思うし、リリアをこれほどまで信じるようになったかはわからない。

(うまくやっていける人ならばいいけれど)

 そう思う反面、殿下がおかしな人を送り込むはずがない、とも思った。
 ナディル殿下は、過去のあれやこれやを悔いているせいでとても慎重なのだ。

(新しい侍女をいれるのにもすごく厳選しているみたいだし)

 本当はあと十人くらい増やさなければいけないらしいけれど、新しく入ったのはまだマーゴ一人だけだ。
 マーゴは政庁に努める法務官の孫娘で、北方のすごく寒い地域に小さな領地があるという。先頃まで領地の小さな村で暮らしていたのだけれど、先を案じた祖父がツテを辿ってマーゴを後宮に出仕させたそうだ。
 両親をすでに亡くし、身内といえば法務官の祖父だけで、祖父は自分が亡くなった後のことを案じたのだという。

(まあ、それは心配するよね)
 
 祖父は法務官としてそれなりの地位にあるが、官僚貴族の地位というのは一代限り。領地は特別な特産品もなく、北方らしく土地はそれほど豊かではない。そんな小さな土地を持参金にしたところで、良い結婚は整わないのだという。
 十五歳のマーゴは、リリアやミレディのように女官になることを目指していますと言った。私のところに勤めることがかなって運が良いと喜んでいた。
 リリアは、これからは行儀見習いの侍女もそうだけれど、女官志望者が増えるだろうとも言っていた。
 王妃の女官というのは、男性でいう高級官僚なので、働くことを希望する女の子にとっては憧れの的なのだという。

(後宮の侍女には、女官と行儀見習いの二種類の分類以外に、殿下のお手つきになることを狙うタイプと出世を目的としたキャリアウーマンタイプがいるっていうわけか……両極端だなぁ……)

「妃殿下、どうですか?」

 ミレディが髪型を確認して欲しいと私に鏡を向ける。
 ナディル殿下の唯一の妃として初めて公の場に出るにあたり、成人女性のように結い上げることも検討されたのだけれど、結局、サイドを編んで垂らし、宝飾ピンで飾ることにした。
 これまでよくしていたツインテールは幼く見えるということであまりしないようにしようということになっている。

「良いです」
「サイド、ひきつれていませんか?」
「大丈夫です。痛くないし、ピンもささっていません」
「良かったです」

 水晶細工の花がきらめく飾りピンは値段を聞くのが怖いような素晴らしい品だ。黄水晶、紫水晶、緋水晶、緑水晶、蒼水晶に銀水晶……さまざまな色合いの水晶で作られた小さな花が私の髪の上に散っている様子はとても豪華だ。

(まだティアラを身に着ける年齢ではない私の苦肉の策なんだけど)

 成人前の少女が宝飾品を身につけるのはあまり品の良いことではないとされている。そんな少女の年齢でほぼ唯一許されているのが髪飾りなのだ。

(あえて背伸びはしない)

 皆はあえて私を成人として扱うようにしたがっているけれど、どうせあと三ヶ月もすれば花冠の儀なのだ。
 ここであえて無理をする必要はないと思う。
 皆が、ナディル様には私という妃がいるのだということを強く印象付けようとしてくれているのはわかるけれど、変に大人びた格好をするほうが子供であることがより強調されるものだと思う。

(それに、私も覚悟しているし)

 ダーディニアのこれまでの歴史を紐解いてみても、妃を複数持つのが倣いだ。
 これまで結果としてただ一人の妃を守った例は数えるほどではあるが存在している。でも、そんな愛妻家と言われるような王であっても妾はしっかりいるのだ。
 ただ一人の女性を守ったというのは初代の建国王くらいなもので、その建国王についての記録は散逸した部分も多いから定かではない。

(なるようにしか、ならないし……)

 私は私のできることをするだけで、この件については殿下のご意向が優先だと思っている。

(でも、一度、殿下に後宮にはどれくらい女性を入れるつもりなのかお聞きしたほうがいいのかしら?)

 私にだって心の準備というものがある。

(ナディル様が即位なさる以上、私はいつまでも幼い王太子妃のままではいられないのだ)

 皆が大人として扱おうとするだけではなく、私自身にもちゃんと自覚は芽生えている。

(だって、私はナディル様の王妃になるのだから)

 王妃は、後宮の女性の管理こそが妃の最大の仕事だ。
 ユーリア妃殿下はそれをしっかりとなさっていた。妃殿下が未だに苦手な私だけど、その点についてはすごく見習わせてもらいたいと思っている。

(ただ、守られるだけでいたくない)

 手助けをするという名目で政治に口を挟む妃も過去には在ったというが、私はそういうことがしたいのではない。

(私には私のやるべきことがあって、その中でナディル殿下のお役に立ちたい)

 ただ可愛がられて守られるだけの……寵愛を受けるだけがすべての妃になるつもりはない。

(もちろん、寵愛を受けることは大事なことだけど)

「妃殿下、くるっとまわってくださいますか?」
「ええ」

 ガウンの丈がいつもより長めなのでシルエットを気にしていたリリアの言葉に従って、私はくるりと回ってみせる。
 靴も踵が少しあるものにした。ただし、細いものではなく太目の踵なのでバランスをくずすようなことはそうそうないだろう。
 単純だけど、少しヒールがあるだけで大人びた気分になる。 

「お似合いですわ」
「ありがとう」

 リリアの賞賛に笑んでみせる。
 日中のガウンは、銀をベースにしたものに好ける白のレースを重ねたもの。
 動くたびにレースのスカートが下の銀のスカートを透かして、それはそれはエレガントな装いなのだ。

(白って花嫁衣裳みたいで、ちょっと心が浮き立つかも)

 ナディル様のお心を掴むことをおろそかにするつもりはない。
 好きな人に好きになってもらえることが、どんなに幸せなことか……それがどんなに特別なことなのか、知っている。

(でも、可愛いと思われているだけなのは嫌だ)

 可愛いと思われるのが嫌なわけじゃない。
 それだけだと思われるのが嫌なのだ。
 だから、私はもう幼さを理由に王太子妃の……そして、王妃の務めから逃げるつもりはない。

(まあ、幼さゆえにできないことはいっぱいあると思うけど)

 本音を言えば、他の女性を入れるのはもちろん嫌だ。
 まだ十三歳の妃ならば、泣いてわがままを言えば最初の何人かが入ることは阻止できそうだけれど、幼さを武器にするのは諸刃の剣だし、これはいずれ使えなくなる手で、そのせいで面倒くさい女だと思われたりするのはマイナスだと思う。

(ただ普通に務めを果たすだけ)

 妃として当たり前のことを当たり前にする。
 そこに年齢は関係ないと思ってもらわなければならない。

(とりあえずは派遣されてくる女官長とどれだけうまくやれるかかな)

 今、後宮の女官たちをとりまとめているのは、元王太子宮の女官長だ。
 リーズフェルド伯爵夫人というご年配の方で、この方はナディル殿下が即位なさるのを期にお暇をいただくことになっている。


(来月の建国祭の後にはちゃんと正式な室に移れるって言ってたっけ……)

 後宮のこの室に越してきて随分とたつが、未だにこの広さには慣れない。
 王太子妃宮に比べて、一部屋一部屋がとても広い。

「本日お召しいただくガウンは白を基調に、翡翠青と銀を多用したものになります」

 今日、宮中ではいくつかの儀式がある。
 だから、正式なガウンを着用予定だ。
 今日の為に作られた特別な品で、私はとても気に入っている。

「妃殿下、本日のご予定を申し上げます。……着替え後、軽く朝食をお召し上がりいただき、葬祭殿での儀式にご参加の後、昼餐会にご出席となります。この昼餐会にご参加なのは四公爵家とそれに次ぐ大貴族。昼餐会のあとに王太子殿下と共に四公爵の謁見にご臨席いただきます」
「わかりました」
「そして夜が主だった貴族たちの参加する正宮大広間での夜会になります」
「舞踏会になるのかしら?」
「はい。……妃殿下は、王太子殿下以外と踊る必要はございません。まだ、成人前ですから」
「成人前なのに参加なのはいいの?}
「はい。王太子殿下の要請でございますので」
「そう。わかりました」

 いきなり公式行事が目白押しだ。

「さ、妃殿下、急ぎましょう」
「え?」
「……いつもほどの時間はございませんが、王太子殿下が朝食をご一緒にされたいとお待ちですわ」
 ミレディが笑う。

「……やだ。たくさんお待たせしてしまったかしら?」

 昨日までの予定では、朝食は別々にということだったので、ちょっと慌てた。
 でも、嬉しい。

「急なことだから気にしないようにとおっしゃっておりました」

 立ち上がってそわそわしはじめた私を、皆はほほえましいという表情で見る。
 もうこの手の視線には慣れっこだけど、でもやっぱり少し恥ずかしかった。



2016.11.15 更新


本日、書籍版一冊目の発売日です。
良ければ、そちらの感想などもお聞かせください。



[8528] 3 いつもの朝食
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/11/25 00:43

「おはようございます、ナディル様。お待たせしてしまいました?」
「おはよう、ルティア。いや、さほどでもない」

 侍女が、さっと殿下の目の前の書類函を下げる。
 少しでも時間ができれば仕事をするのがナディル殿下だ。
 わりと真面目で勤勉なところがある。

(……ちょっと社畜が入ってるかも)

 まあ、ナディル殿下は雇われている立場ではなく雇っている立場なわけだけど……。

(でも、殿下はたぶん公僕としての意識が強いと思うのよね)

 王太子……そして、国王。
 奉仕される者ではなく、国、あるいは国家に奉仕する者であるという認識がいささか強いように思う。

(フィルたちの話を聞いてもそうだし、これまでのいろいろからすれば、あんまり手抜きをなさる方ではないのよね)

 殿下は、何でも平均点以上にできてしまう方だ。
 できることだから、それを拒否はしない。
 もちろん、自分で仕事を抱え込む方ではないのだけれど、相手の力量を見極める目もお持ちなので、無理な仕事をふらないから、最終的には殿下がしなければいけないことというのはそれなりの量になると思われる。

「……ルティア」

 殿下は立ち上がって椅子をひいてくれた。

「ありがとうございます、ナディルさま」

 できるだけ優雅に見えるようにそっと浅く腰掛ける。
 いつもはあらかじめいくつか置いてあるはずのクッションがない。

(……だーれーだー)

 王太子宮にあるのは大人用の椅子ばかりだ。それも装飾の関係でやや大きめに作られているものが多い。 
 私には大きくて、背もたれによりかかれるくらい深く座ると膝が座面にのってしまうので、浅めにしか座れない。その隙間を埋めるために私が使う椅子にはいつもクッションが用意されているのに、それがどこかに片付けられてしまっている。

(偶然か、故意か……これ、ちょっと気にしておくべきところだよね)

 こっそりと小さな溜め息を一つつく。

「ドナ・ヴィッセル、クッションを」

 目ざとい殿下が軽く眉根を寄せた。

(あ、これ、ちょっと不愉快に思ってる表情だ)

 誰が何をしたのかわからないけれど、故意にせよ、そうでなかったにせよ、それなりの注意を受けるだろう。
 私に対して殿下はとても過保護なのだ。

(もし故意なのだとしたら、陛下という後ろ盾がいなくなったから、と思ったのかもしれないけれど……)

 どうしてナディル殿下という夫兼保護者がいる私に対して、どうこうしようと思えるのか謎だ。

「……まあ。申し訳ございません、妃殿下。気がきかない子ばかりで……」
「いいえ。大丈夫よ、アーニャ」

 アーニャ……元王太子付き女官長補佐だったアンナマリア・エルレーヌ=ドナ=アリスティア=ヴィッセルは、即位式後に、後宮女官長に就任することが内定している。
 後宮女官長というのは、後宮に住むすべての女官、侍女の長だ。後宮女官長はいわば国王の女官長で、直接的には王妃の支配下にはない。
 で、ありながら、後宮の最高位にあるのは王妃で、さらには王妃には王妃の女官長がいるので、後宮女官長の人事というのはとても難しいものなのだと、フィル=リンは教えてくれた。
 そして、後宮女官長は、後宮とつく役職でありながら、正宮で働く女官(侍女含む)たちの長でもある。
 というのは、正宮で働いてはいても、すべての女官の所属は後宮だからだ。その証拠に、すべての女官、侍女たちの住居は後宮にある。
 王太子の女官長であるリーズフェルド伯爵夫人は、だいぶ前からお暇を願い出ていたけれど、後任人事が決まらなかったことと、国王陛下の崩御とが重なって今の今まで宮中に留まり続けていた。
 王太子付き女官長補佐は三人いたけれど、その中で最年少だったアーニャの抜擢は、私との仲の良さが理由だと殿下は言っていた。
 職務能力については三人とも優劣つけ難いから、それ以外の部分で決めたのだと。
 後宮は私の住居だから、私に対して最大限に配慮できないような女官長では意味がなかろう、といつもの口調でさらりとおっしゃった。
 そう言ってくれる殿下のお気持ちがとても嬉しい。
 そして、次期女官長という多忙な身でありながら、時間の許す限り、己自身で私の用を勤めようとしてくれるアーニャの心遣いが嬉しい。
 アーニャは、私の愛用のクッションをそっといつも通りに背に入れてくれる。

「いつもありがとう」
「とんでもございません。もったいないお言葉です」

 最近知ったことだけど、アーニャは、元々は母の……エフィニアの侍女だったことがあるのだという。リリアが当時を知る人から聞いてきたのだけれど、たいそう、仲の良い主従だったという。
 アーニャの私に対する気配りや好意には、きっとそういう記憶があるのだと思う。

(いつか、お母さんの話を聞けたらいいな……) 

 ナディル殿下の思い出だけではない、母を知りたい。

(殿下の初恋だったというお母さんがどんな人だったのか知りたい)

 べ、別にこれは嫉妬とかじゃないんだからね。
 私はとてもよく似ている容姿をしているらしいことはわかっている。
 でもほら、やっぱりいろいろ気になるでしょう?

 わたしが落ち着いてしばらくすると朝食が運ばれてくる。
 朝食を作るのは私の料理人だ。
 時間が許す限り、朝食は私ととると殿下はお決めになった。
 もう、朝のお茶のお菓子という体裁をとらなくてもいい。
 それだけでも後宮に来て良かったと思う。

(遠慮がいらないってことだもの)

 朝食のメニューは野菜が中心だ。
 ちょっと隙をみせるとすぐ野菜を避ける殿下に野菜をたっぷりとってもらうメニューにしている。
 まずは、レタスとチェシャ菜を中心とした葉野菜のグリーンサラダに摩り下ろしたたまねぎと人参をたっぷり使った食べるドレッシングをかけて。これだけだと手をつけなかったりするので、蒸し鶏を裂いたものを混ぜ込んである。
 それから、ふわふわのスクランブルエッグと分厚いハムのステーキ。
 パンは胡桃たっぷりの胚芽パンで、ザーデのバターも添えている。
 きれいな金色のコンソメスープには、人参や大根や芋類などの小さめ角切り野菜がたっぷり入っている。
 そして、デザートには温室育ちのビタミンたっぷりのオレンジが添えられる。

「このサラダ、お野菜もシャキシャキですし、ドレッシングもいい出来ですね」
「ああ、そうだな。……野菜はそれほど好まないが、肉があるから悪くない」

 ドレッシングは何度も試行錯誤をしてやっとたまねぎと人参の最適な分量をみつけだした。これができるまで、私の新しい料理人たちは毎食野菜サラダ尽くしで、とても健康的に痩せた者が出たらしい。
 口ではそれほど褒めなくとも、殿下が本当に悪くないと思っているのがわかる。

(だって、普通に召し上がってらっしゃるもの)

 本当に嫌いなものだと、食べるスピードが早くなるのだ。できるだけ早く飲み込もうとでもいうように。

「卵もふわっふわですね」
「ああ。火加減が上手になった」

 殿下のそのお言葉を聞いた給仕の女官が小さく目を見張る。
 お褒めの言葉というのが、相当珍しいのだろう。
 ふわっふわのスクランブルエッグはバターに塩コショウだけのシンプルな味付けなのだけど、卵の黄身がとても濃くて、本当においしいのだ。

(この卵でプリンつくりたいなぁ)

 絶対にナディル殿下もお好きだと思う。
 カラメルをややほろ苦めにした大人味プリン……この卵とここの牛乳だったら最高においしいはず!

「このハムはどこのハムだ?随分と味が良い」
「ミレディの実家である御料牧場に指示をして、特別に作ってもらいました」

 分厚いハムは表、面にやや焦げ目をつけている。
 料理人たちには、脂が焦げすぎない程度に焦げ目をつけることを指示していた。脂の焦げた匂いはすごーく食欲をそそるから。

「特別に?」
「調味料に漬け込んで、煙で燻してもらってあるんです」

 ようは、それほど熟成していないソフトタイプの生ハムをステーキにしたと考えてもらうといいかもしれない。

「そうすると、ぎゅっと濃縮したお肉の旨み味わえるハムのなるのですが、乾燥を進めて熟成させると長持ちもします」

 焼いて食べるのはとても贅沢ですね、と笑うと、殿下は首を傾げる。

「燻製したということか?」
「はい。……何かおかしいですか?」
「いや、そういうわけではない。ルティアはいつも新鮮さにこだわるから、燻製や瓶詰めなどは好まないのかと思った」
「私、そういう意味での差別をする気はありませんわ。燻製も瓶詰めも缶詰も、どんな保存食だって大事な食材です。もちろん、見た目にもこだわりません。食材にあるのは、おいしいか、まずいかだけです」

 大事なことなので真面目な顔で告げる。
 あ、でも、携帯糧食は別ですから!

「ナディルさま、おいしい!は、正義なのですわ」

 そう。おいしければ、その形状も見た目も問わない。
 味が良ければ、たいがいのことは許すことが出来る。

「……おいしいは、正義か……」
「はい。……私、レバーとかはそれほど好みません。でも、おいしくつくったレバーパテは最高だと思いますし、臓物の入っていない『ギュルスク』なんて、『ギュルスク』ではありませんでしょう?」
「……そうだな」

 『ギュルスク』というのは、ダーディニアの名物料理の一つだ。元々は、東部と北部の境目あたりの地域で食べられていた壷煮込みシチューで、何代か前の国王陛下の大好物だったことから王都で爆発的に流行し、名物料理となった。
 たまねぎや生姜をたっぷりといれ、モツやスジなどをぐつぐつに煮込んでドロドロになっているブラウンシチューなのだけれど、熱々をたべるととってもおいしい。
 私はこれを殿下がお忍びで連れ出してくれたユトリア地区の屋台で食べた。

「魚介は基本、新鮮なものが良いですけれど、お肉は熟成が大事です。チーズだって新鮮なものがおいしいものもあれば、熟成させたものがおいしいものもあります。おいしい!というのは一つの側面からだけでははかれないのです」
「ルティアは賢いな」
「……殿下、からかってらっしゃいます?」
「いいや。本音だよ。……君と話をするといつも驚かされる」

 私は殿下の言っている意味がよくわからなくて首をかしげた。バカにされているというわけではないけれど、賢いと思われるような話をしているとも思えない。

「ルティアのところの料理人は、何を作ってもうまいな。このパンも格別だ」
「皆、勉強熱心なのです」


 私の料理人は、前の王太子妃宮で下働きだったキリルとノイに加え、アル殿下のところから帰ってきたサージェと新しく雇い入れた二人、それから、エルゼヴェルトからきた御菓子職人のエルダを加えた六人でチームを組んでいる。

「このスープもとても味わい深い」
「干した野菜の皮などを利用したブイヨンで作りました」
「ぶいよん?」
「旨みが凝縮した煮汁です」
「……君といると口が驕ってしまう」
「殿下は、驕るくらいでちょうどいいです。携帯糧食ばかりではどうかと思いますから」

 一緒に食事をとらない昼や夜などは未だに携帯糧食を召上っていると聞く。
 いずれ、そちらのほうも私のほうで何とかしたいところだけど、無理に押し付けるつもりはない。

(朝食やお茶菓子のおいしさをもっともっと知ってもらおう)

 それで、昼や夜は物足りないと思ってもらうのだ。

(殿下がご自身に望んでもらうのでなければ、長続きはしないもの)

 お菓子と軽食の差し入れはこれまで通りドンドンしてゆくつもり。

(次の目標は昼食よね)

 一歩ずつ着実に進んでゆくべきだろう。
 
「今日の昼餐会では四公を紹介しよう。そなたが事故で記憶がないことは皆承知しているから、特に気にせずともよい」
「はい。何か特別にお話しなければいけないことなどはございますか?」
「いや。特にない」

 四公のうち、会った事があるのは父である東公くらいだ。
 何だかんだで残る三人とは直接の面識がない。

「他に気をつけることは?」
「四公が君に敵意をもつことはないし、彼らの君への忠誠を疑う必要はないだろう。ただいろいろと世話を焼いてくるかもしれないから、その点だけ気をつけなさい」
「世話を焼く、ですか?」
「……彼らにとって君は特別だ、ということだ」

(それはたぶん、私が唯一のエルゼヴェルトだから……)

「鬱陶しければ無視して構わない。君は、それが許される身だから」
「……わかりました」

 そううなづきはしたものの、実際にはよくわかっていなかった。
 楽観的な私は、あっさりと殿下とご一緒なのだから問題ないと判断する。

(ナディルさまがいるなら、大丈夫)

 自分でも不思議なくらい、絶対的な信頼を寄せていた。

「ナディル様、オレンジも召上って下さい。瑞々しくておいしいですよ」
「……ああ」

 少し甘さよりも酸っぱさが勝るけれど、この時期に食べられる新鮮な果物は貴重だ。

(まあ、ほとんど毎日オレンジばかりだけど)

 冬摘みのベリーもあるけれど、生食で食べるにはちょっと酸っぱすぎる。

(今日は無理だろうけれど、近いうちにケーキでも焼こうかな)

 エルダにレシピを教えて焼いてもらってもいい。

(オレンジケーキか……ううん、冬積みのベリーでタルトを焼いてもいい)

 湯気のたちのぼるロブ茶が出されると、そろそろ朝食を終わりにしてくださいの合図だ。
 名残惜しいけれど、そろそろ立ち上がらなければいけない。

「ごちそうさまでした」

 ナプキンを置いて、立ち上がる。

「……ルティア」

 同じように立ち上がった殿下がこちらに歩み寄ってきた。

「はい?」

 殿下は、私の手をとると袖口のボタンに愛用している紫水晶のカフスをかぶせる。

「アクセサリーは渡せないが、カフスならば問題ないだろう」
「?????」
「お守りだ」

 何のお守りだろう?と思ったけれど、殿下が何となく満足そうだったので問うことをやめた。

(あ……)

 己の上に影が落ちたと思ったら、そっと殿下の髪が頬を撫で、額に口付けを一つ落とされた。

「では、また後ほど」
「…………はい」

 最近、何かスキンシップが増えたような気がするのは私の気のせいなのか……また生ぬるい笑みを見せられることはわかっていたけれど、あとでリリアに聞いてみようと思った。





 2016.11.25 更新

 書籍版の感想ありがとうございます。
 隅々まで読んでいただいて嬉しいです。
 新章、のんびり進めますがどうぞおつきあいください。

 
 書籍版ご購入の方、もし、まだ気付いていなかったら、ぺろんとカバーをめくってみて下さい。
 簡易なものですがおまけの地図をつけてあります。



[8528] 4 戦場へ
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/12/01 17:01

「妃殿下、そのカフスはどうなさったのですか?」

 さすがにリリアは目ざとい。
 わたしが部屋に戻ってくるなりすぐにそれに気付いた。
 自分の持ち物を誰かに渡すのには意味がある。
 特に身近に持つものであればあるほど、その持ち主との親密さを示すと言われている。

(カフスというのはかなりの親密度よね)

 中には特別な意味のある品がある。
 女性の持ち物であれば最も特別なのは手巾(ハンカチ)だろう。男性の持ち物であれば自家の紋が入った愛用の品、武人であれば剣や短剣などの武具類は殊更、その意味が重んじられるものだ。
 でも、カフスや指輪やネックレスなどの装身具というのは、男女ともに身近なものであるから親密さを示すという意味はあるものの、手巾(ハンカチ)のような特別な意味はなかったはずだ。

(しいて言えば、虫除けかしら?……ううん、虫除けの必要はないわよね。別に私に虫がついたわけではないのだし)

 ナディル殿下には虫が山ほどついていると思うけれど、私にはそんなものはいないだろう。もし、いるとしたら、それは私の身分やら付随する地位やら財産やらが目当てであって、私自身についているわけではない。

(むしろ、ナディル殿下に虫除けが必要なんじゃないかしら)

 ここは乙女の切り札である手巾(ハンカチ)を使うべきか!と思ったけれど、そうじゃないんだよね、と思い直す。
 手巾(ハンカチ)は、あくまでも心なのだ。虫除けアイテムとしてひけらかすものではない。

(中には、もらったハンカチを剣の柄に結んで己の勲章とする男の人もいるって聞いたけど……)

 ナディル様はそういう方ではない。

(それに、親密さをあらわすために何かをお渡しするというのも今更な気がするし)

 どれほど年齢的に不釣合いであろうとも、私たちは夫婦だ。
 親密さを改めて示す必要があると思えないし、そもそも、私には殿下以外の選択肢など、最初から存在しない。

「殿下がお守りに、ってつけてくれたの。……紫水晶だと何のお守りになるのかしら?」

 こんなことまでこだわるのか!って思うくらい、こちらでは身に着けるものの一つ一つに意味がある。
 マントや手袋の『長さ』なんかも身分で決まっていたりするし、女の子なんかは、ドレスのスカート丈はおおまかな年齢で決められている。
 幼児は膝丈、少女は膝から床の半分くらいの丈、花冠を終えたばかり……デビュタント前後あたりはふくらはぎがかくれるくらいで、それ以降は踝が隠れる長さだ。
 みだりに脚をみせるのははしたないので、こちらにはミニスカートというものが存在しない。

 それから、『色』にも意味がある。
 禁色というその人以外に使ってはならない色があることからわかるとおり、色の意味は重要だ。
 それと同じように『宝石』にもいろいろな意味があるのだ。
 
「別にそういう意味ではないと思いますよ」

 リリアに促されて、鏡台の前に座る。

「では、どういう意味なの?」

 今日はスケジュールがきっちりと決められている日だ。
 本格的に王太子妃としての公務にデビューする日、と言ってもいいかもしれない。
 なので、朝から皆、とても忙しない。
 私一人がのんびりしているのは申し訳ないかもしれないけれど、私まで忙しなくするとみなが焦ってしまいそうなので私はあえてのんびりとする。
 
「……そのカフスは、王太子殿下のご愛用の品ですわ」
「ええ」

 私も何度もこれを使ってらっしゃるところを見たことがある。というか、よほど色が合わないということでなければ、いつもこのカフスを使っているはずだ。

「ご愛用の品というのはその持ち主を象徴すると考えます。……つまり、妃殿下に自分の者を身につけさせるくらいお心を傾けてらっしゃる、という王太子殿下の主張でございましょう」
「誰に対しての主張なのかしら?……もしかして、陛下が亡くなられて、私の立場が揺らいだと考えている人たちに対してなのかしら?」

 唇にのせていた淡いベージュピンクを薄布で拭いとる。
 こちらにはティッシュペーパーというものが存在しない。代わりに使われているのが薄ーいガーゼのような布だ。
 これはたぶんどこかで再利用しているのだろうけれど、私は使い捨て。もったいないと思う一方で、それが当然だとも感じている。

「もちろんそれもあるでしょう。でも、それ以上に根本的なものだと思いますわ」
「こんぽんてき?」
「はい」

 リリアは自信たっぷりにうなづく。

「よく、わからないわ」

 首をかしげたら、動かないでください、とミレディに注意された。
 着替える時間はないけれど、髪型を多少変えるのだ。
 それから、手袋と扇子も白から水色のものへと交換される。
 この水色はエルゼヴェルトの色だ。

「重ねて申し上げますけれど、そのカフスは王宮に出入りする貴族ならば、王太子殿下の持ち物だと知らぬものはないほどのお品です。……今日の昼餐会に参加するほどの身分の者ならば間違いなく殿下の意図を理解するでしょう」
「意図?」
「……私は、これを、王太子殿下が、妃殿下を自分と思えとおっしゃっていると受け取りましたわ。各々、解釈はいろいろありましょうが、何よりものお守りだと思います」

 王太子殿下の御心が誰の物であるのか一目でわかりますもの、とリリアは嬉しげな笑みを浮かべる。
 鏡の中ではどんどん再びのメイクが進んでゆく。
 ほっとタオルで顔を拭われたあと、再び、化粧水と化粧オイルで肌を整える。
 おしろいはしない。おしろいなど使わなくても、肌はつるつるでしっとりなのだ。

(マスカラとかつけまつげはないけれど、アイライナーとかアイシャドウはもうあるんだよね)

 化粧品は実に多彩だ。見ているだけで心が浮き立つようなかわいい入れ物に入っていて、鏡台の上はまるで色彩のパレッドだ。
 
「そこまで大げさな意味かしら?」
「……妃殿下、ほぼ毎日使うようなご愛用のお品ですよ?それを、妃殿下にお渡しになったのですよ」

「あのねリリア、殿下って以外に面倒くさがりやなところがあるの。だから、ご身分にふさわしいものであればそれほど身に着けるものにこだわらないわ。ほぼ毎日使ってらっしゃるのも、選ぶのが面倒くさいからだと思うわ」

 紫水晶というのは、ナディル様の禁色とも相性が良い。
 デザインもシンプルだし、お気に入りであるには違いないだろう。
 でも、果たしてリリアが思っているほど深い意味をがあるかどうか……。

(ううん。ナディル様がそう思っているという事実ではなく、これを見た者がどう考えるか、なんだわ)

 リリアのように考えるよう思考を誘導するのが、ナディル様の目的なのかもしれない。
 そして、それは間違いなく私のためなのだ。

「そんな風に王太子殿下のことを評すのは妃殿下だけだと思います」
「……そうね、私もそう思うわ」

 ほんの少しの誇らしさとともにそう思う。
 己が踏み込める範囲が他の人間よりも広いこと。
 そして、わずかなりとも心を許されていること。
 それが、今の私のほんのわずかなアドバンテージだ。

(そんなの、年齢差で全部パァになっちゃうくらいささやかなものだけど)

 本当は一番のアドバンテージは、正式な唯一の妻であるということなのだけれど、これはわりと両刃の剣なので振りかざすような真似はしない。

「ねえ、リリア」
「はい」

 私はごくごく薄くしかメイクをしない。年齢的なこともあるし、本当はメイクなどしなくても充分なのだ。
 目元は何もしていなかったのを、アイラインをいれて、うすく色を重ねる。


「……正直に言ってね」
「はい」
「……殿下の身の回りに、側妃志願の方がいるのかしら?」

 だいぶ遠まわしな聞き方だけれど、これが私が問うても許されるぎりぎりの線だと思う。

(私は王太子妃だから)

 王太子妃としての品位を保つねばならない。
 でも、やっぱり気になることは気になる。

(クッションの一件もあるし……)

「……王太子殿下の引越しにあわせて、正宮付としてあがった者の中に何名かそういう目的の者がいるということは把握しています」
「そう」
「排除なさいますか?」

 リリアが真顔で問う。
 ここで私がうなづいたら、どういう手段をとるかはわからないけれど、たぶんリリアは何とかしてくれるのだろう。
 それが不穏な手段だったらちょっと困る。
 リリアに側にいてもらうのはそんなことのためではないのだ。

「ううん。何もしなくていいわ」

(……キリがないし)

 ここで、今回送り込まれている人員を排除しても新しいのが来るだけだ。

(それくらいなら、わかっているままのがいい……)

 誰がどういう人間なのか線引きがはっきりできているほうがわかりやすいから対処のしようがある。

「でも、妃殿下……」
「ナディル様のお相手がそういうあからさまな者の中から選ばれないことを祈るけれど、お好みはわからないでしょう?」
「……まったくお好みではないと思いますよ。たぶん」
「なら、余計にそのままでいいわ。とりあえず、誰と誰がそうなのかを教えてほしいの」
「……わかりました」

 悩むようなリリアの表情に、付け加えた。

「リリア、こういうことはこれから増えると思うの。それをいちいち全部排除することはできないわ。……私は、ただそういう人がいるということを知っておきたいだけなの。知っていれば、もしもの時に対処ができるでしょう」
「もしもってどういう時ですか?」
「……たとえば、 ナディル様がいきなり誰かを側妃としたい、と言ってきたら、私、間違いなく動揺するし、もしかしたら、泣き喚いたりするかもしれないわ」
「妃殿下が泣き喚くところなど、想像がつきませんけど」
「イヤだわ。私だって泣き喚くことくらいあるのよ。……だからね、殿下のお気に召す女性ができたとき、隠したりしないで教えてね。……私、心の準備をするから」
「心の準備でございますか?」
「ええ」

 マーゴに花が咲いたような美しいカラーパレットを広げてみせられて、口紅は淡いローズピンクを選んだ。
 この年齢でメイクをするのってどうなんだろうと思うけれど、女にとって装うことは必須の戦闘準備みたいなものだ。

(自信ないけど、そのときは女の戦い、がんばるから!)

 このとき私は、リリアに思いっきり誤解されていることに気付いていなかった。
 リリアは、私がナディル様の妃としてナディル様の選んだ女性を受け入れる覚悟をしたのだと思っていたのだけれど、私はまったく逆のことを考えていた。

(苦手でも必要なことだから)

 正面から受けて立つ気まんまんだった。
 仕方がないのだ。
 私はまだ十三歳の少女で、務めを果たすことが出来ない。
 そういう方が必要だといわれれば、それを認めるしかないのだ。

(まあ、さすがに十三歳の妃に愛人認めろとは言わないだろうから、もうちょっと配慮はあるかもだけど)
 そして私は、ただの十三歳の少女ではなく、三十三年間生きた女性の記憶を持つ。その記憶が、私に泣き寝入りを許さない。

(はじめるまえに逃げ出すなんてありえないから)

 そのうえ、ナディル様の妃として後宮を統率するということは、女性問題から目をそらすことも放置することもできないということだ。
 せめてあと五年年をとっていたかった、とは思うものの、ないものねだりだった。

(今の私が、何とかするしかないんだから)

 心の中で、自分に言い聞かせた。
 ふと、気付くと、なにやら侍女達が心得顔でうなづいている。
 どういうわけか、私が気付いたときには既に皆の間で、私はとても健気な耐える決意を固めたという認識が固定化していた。
 そして、その誤解を解く術は私にはなかった。

(まあ、問題もなさそうだし、そのままでもいいよね)

 ちょっとずるいことを言うのならば、そのほうが都合が良かったということもある。

「そういえば、リリア、たぶん、あと三十分もしたら殿下がお迎えに来てくださるから」

 予定では控えの間で待ち合わせだったのだけれど、さっき朝食のときにナディル殿下がご自身で迎えに来てくださると言っていたのだ。

「……わざわざこちらに?」
「ええ」

 リリアは、殿下は意外に独占欲がおありなのかもしれません、と小さく呟いて、いつもの生温い表情をみせた。
 相変わらず意味がわからない、と思いつつ、私は鏡に微笑んだ。

(よし)

 そっと扇子を握りしめる。
 何となく、はじめての戦場に向かう見習い騎士の気持ちがわかるかもしれないと思った。





******************

 2016.12.01 更新




 
 書籍版のご購入ありがとうございます。
 感想等いただけると大変励みになります。
 この作品はここからはじまった作品なので、規約等で禁止されない限り、こちらでも掲載していきたいと思っています。
 



[8528] 5 覚悟
Name: ひな◆ed97aead ID:5ec86d9d
Date: 2016/12/14 21:27
「では、行こうか」

 約束したとおり、殿下はわざわざ私の部屋にまでお迎えに来てくださった。

「はい」

 そのことが嬉しくて、「ありがとうございます」と付け加えると、殿下は何を言われたのかよくわからない、という表情をした。

「お迎えに来てくださってうれしかったのです」
「……公務の一環だ」
「でも、嬉しいです」

 心の底からの笑みを、何のてらいもなく向けることができるのが嬉しい。

(妻ですから、こういう時、遠慮しなくてもいいのです)

 好意を告げるのにためらう必要がない。
 だから、思う存分伝えたい。

(言葉では、伝えきれないのが残念です)

 ここで無邪気に抱きついたりできればいいのだけれど、それをするには三十三年分の記憶が邪魔をする。

(恥ずかしくて、そんなことできないですから!)

「君は、こんな些細なことを喜びすぎだ」

 殿下は不機嫌そうにもみえる表情で小さな溜め息を一つついた。
 でも、私はちゃんと気付いていた。
 どこか困惑したような様子でありながら、殿下の口元には小さな笑みが浮かんでいる。

「ナディル様のお気持ちは、どんな些細なものであっても嬉しいものですから」

 好意に好意を返されること。それがとても嬉しい。
 それにちゃんと理解もしている。

(あえてお迎えにきてくれたのは、私の為だ)
 
「君は大げさすぎる」
「そうでしょうか?」
「ああ」

 ナディル様がエスコートのために私に向かってのばした手に、そっと己の手を重ねる。
 絹の手袋ごしに触れた手に大きな安心感を覚えた。
 ここで手をつなぐことが嬉しいと口にすることはぐっと堪えた。少しはしゃぎすぎだ。

(大げさなのはナディル様のほうだと思う)

 これから積極的に公務に参加してゆく私の安全のために、殿下は余計な障害は一つ一つ丁寧にとりのぞいていくことに決めたようで、椅子の件も、たかがクッション一つのことなのに、きちんと原因を究明することをアーニャに申し渡したし、こうして予定を変更して迎えに来るくらい気遣って下さる。

(そこまで大げさにする必要はない、と言ったのだけれど)

 でも、殿下は静かに首を横に振ったのだ。
 ただ一つのささやかな悪意を見過ごしたことで、もっと大きな悪意をよぶことにはなりたくないのだと。

(悪意は伝染する)

 その実例を私たちは知っているのだ。
 後宮という特殊な閉鎖空間において、それが及ぼす波紋を、その影響を殿下は案じたのだろう。

(これまでのことがあるから……)

 そのためにいまの『私』が、存在しているから。

(陛下の影響を排除したと思ったら、今回のことがあって、ナディル様は少しお腹立ちなのかもしれない)

 一新したはずの後宮で再び悪意が芽吹くことをナディル様は許すつもりがないのだろう。

(徹底してるから……)

 ナディル様はそういうところ、まったく手抜きをしない方なのだ。




 私たちが歩く長い長い廊下はロングギャラリーになっている。
 ここに飾られているのは、ダーディニアの歴史から題材をとった作品ばかりで、どれもその時代の高名な画家が描いている大作ばかりだ。
 一度ゆっくり見たいと思いつつ、まだ果たせていない。
 まだ安全が確保されていないとして、極力、己の領域としている一角から出ないようにと言いつけられているせいだ。
 
(これは、一度、デートに誘ってみようかしら)

 デートという名の王宮案内をしてもらうのが目的だ。殿下と過ごす時間を増やし、さらには中も深めることができるという一石二鳥のアイデアだと思う。

(……うん。悪くない)

 王宮内なら即座にダメだしはされないだろうし、何だったらバスケットにお菓子と水筒をいれてピクニックとしゃれこんでもいい。
 私は、実現までの手順を頭の中でシミュレーションしていく。

「ルティア」
「……はい?」

 名を呼ばれてナディル様に意識を向けた。
 私にはいつも甘い眼差しに目線を合わせる。

「昼餐の出来について、総料理長があとで講評をいただきたいとのことだ。可能であれば近いうちに時間をとってやってくれ」
「わかりました。リリアに調整してもらいますね」

 本日の昼餐のメニューは、殿下からの依頼で私が決めた。
 もちろん、正宮の料理長と綿密な打ち合わせをしている。

(結構大変だったけど……)

 職人気質の強い料理長で縄張り意識も強かったのだけれど、そこは、それ。
 何といっても、『おいしいは正義』なのだ。
 普段、後宮で殿下が召し上がっている朝食を出したら、それですっかり静かになった。
 以後は、後宮の厨房でよく顔を見るようになった。
 後宮の私の料理人たちは私の専属の料理人という扱いになっているので、料理長の部下ではないのだけれど、料理長がいると緊張するらしく、慣れるまではいろいろと大変だった。
 別に自分の部下じゃない者にいばりちらしたりするような人ではないのだれど、王宮総料理長の肩書きは、皆を萎縮させるには充分だったのだ。

(エルダはあんまり気にしていなかったみたいだけど)

 でも、結局のところ、料理人というのは職人気質が強い。彼らにとって一番大切なのは目の前の料理をよりおいしく作り上げることだ。
 だから、作っているうちに皆が料理長の身分を忘れた。
 そして、料理長もまた一人の料理人でしかないことを理解すれば、その後は特に問題はなかった。

「……どのような料理が出るのか楽しみだ」
「殿下のお口にあうと良いのですけれど……」
「君が作るものは何でも美味い」

(よーし)

 思わず手にしていた扇を握り締める。
 もちろん、ナディル殿下に預けている右手はそっと添えているだけ。まちがってもその手をはしたなく力いっぱい握り締めたりはしない。

(まあ、この身体では握力なんか全然ないんだけど)    

「今回は少し趣向を凝らしております」
「趣向?」
「はい。四公爵が全員揃うということだったので……」

 四公爵家────その当主全員が揃う機会というのはそう多いわけではない。
 今年は殿下の即位等の国家行事等が続くので、揃って拝謁という機会が再びあるかもしれないが、ダーディニアの四方守護という四公爵家の役割からすれば彼らが全員王都に集うというのはあまり良いこととはいえないからだ。
 
「どんな趣向を?……いや、聞くのはやめておこう。楽しみがなくなる」
「はい。どうぞ一緒に楽しんでくださいませ」

 ナディル殿下はどこかいたずらめいた目をして、笑った。
 私も笑みを返す。
 瞳を見交わすだけで、何となく通い合うものがある。

(それだけで、満たされた気持ちになるのは何でなんだろう)

 それって夫婦として一つ上のステップに進んだってことなのかな、と思いながらも、何かちょっと違う気もする。
 エスコートしてもらっているのだけれど、たぶん傍から見れば私が手を引かれて歩いているようにしか見えないだろう。
 頭二つ分くらい違うこの身長差が憎い。

 回廊のところどころには警備の近衛騎士が立っていて、その視線はさりげなく私たちに向けられている。
 後宮に通じるこの回廊の警備は他の場所に比べて厳しく、私たちが真の意味で二人きりになることはない。

(息苦しい日常……)
 
 それが、王族として生きるということだ。

(そんな日常に、小さな風穴を開けたい)

 アルティリエとしての記憶をもたなくて、ただただ必死で生活していた時期を過ぎてみれば、この、あらゆることが定められベッドとトイレでしか一人になれないような生活というのは、時として耐え難いものと感じるものだった。

(あちらの世界にいたころは考えもしなかった……)

 あちらでは、基本的に一人だった。
 何もかもを自分で決められる代わりに、すべてを一人で負っていた。

(ほんのちょっと孤独で、でも自由な生活)
 
 今では、私には一人になる自由なんて欠片もない。
 部屋のどこにいても必ず侍女はいるし、部屋の外へ出る時には必ず侍女を複数連れるように言われている。

(私の警備が厚いのは、私がエルゼヴェルトだからってこともあるけれど)

 どこにいても、人の目がついてまわるのはもう仕方がないことだ。
 そしてそれは、ナディル様も一緒だ。
 もうしばらくすれば、殿下ではなく陛下となられるナディル様は私とは別の理由でお一人になることがない。

(だから……)

 ぎっちぎちに定められたスケジュールを繰り返す日常の中に、私は彩を添えたい。
 私との朝食がそういう時間になってくれればいいと思っているし、その権利を……そういう時間を少しでも多く確保したいと思っている。

(それで)

 できることならば、ナディルさまに心を躍らせるような小さな驚きを与えたい。
 
(ささやかな楽しみというか、ワクワクするようなそういうものをあげたい)

 私に政治や国を治めるための差配なんてできない。
 その助けになるような意見を述べることもできない。
 だから、私は私にできることでナディル様の支えになりたい。
 
(ナディルさまは、何もかもが予測通りなのだとフィルが言ってたから……)

 予測のつかない何か……決まりきったと思われているものを変えたい。
 玉座の重圧を負わねばならないナディルさまのお心を慰めるようなひとときをこの手でつくりたい。

「……ルティア?気分でも?」
「いいえ。大丈夫です。ちょっと緊張しているだけです」

 安心してください、というように小さく笑みを浮かべてみせる。
 ナディル殿下は、わかったというようにうなづいた。

(気合をいれないと)

 私はもう人形姫であることをやめた。
 今日は、それを公に示す第一歩なのだ。

「私がいる。……君が緊張する必要などまったくない」

 覗きこむ蒼銀の瞳は、暖かな光を帯びている。

「……そうですね。ナディルさまがいらっしゃるのなら何も心配することなどありませんよね」

 そういわれて見ればそうだ、と思って、あっさり肩の力をぬいて相槌をうつと、殿下は顔に手をあてて天を仰いだ。

「……ナディルさま?どうかなさいまして?」
「……ルティア」

 ここでナディル様は溜め息を一つつく。

「はい」
「……君はもう少し、人の言葉を疑うことを覚えたほうがいい」
「……ナディル様を疑うのですか?」
「そうだ。……君は私を信じすぎる。私を含め、人はどれほど誠実に見えたとしても、忠義をささげているようにみえたとしても、結局のところ、自分に都合の良いことしか言わないものだ」

 小さく首を横に振って、ごく真面目な表情で告げる。

「別に問題ありません」

 私はふるふると首を横に振る。

「ルティア」

 少し咎めるような響き。
 でも、私はもうそれを怖いと思うことはない。

「私はナディル様を誰よりも信じておりますから」

 それはもう大前提だ。

(ナディル様を信じられないなんてありえないし……)

「……ルティア、私はその言葉に値する男ではないよ」

 なのに、ナディルはその丹精な顔に能面のような無表情を貼り付けて告げる。

(……これ、たぶん困惑していらっしゃるんだわ)

 何となくわかる。

(というか、今更、何をおっしゃってるんだろう)

 今のアルティリエが在るがゆえの罪悪感のせいか、はたまた、別に理由があるのか……。

(そういうの、ナディル様のキャラではないと思うのですけれど)

 別にどういうナディル様であっても、ナディル様はナディル様なのだけれど、どうこたえればいいかわからない。

「ナディル様」

 だから、そっとその名を紡ぐ。
 上から覗き込む顔……その瞳に目を合わせ、まっすぐと見上げて告げた。

「……私がナディル様を信じるのは大前提です。それが崩れたら、世界が成り立ちません」

 ナディル様の目が軽く見開かれる。
 これ、間違いなく驚いている顔だ。

「ですから、どんなにナディル様がそれを否定しても無駄です」
「ルティア……」
「信じているというのは、他者に少し否定されたくらいで揺らいだりはしません。────たとえ、それが本人の否定であっても」

 私にとって、信じるというのは覚悟をすることだ。
 だから、私は自信をもってナディル様に笑んでみせた。

(覚悟なら、もうとっくにしています) 

 この世界で生きていくのだと決めたあの夜に。




 *********


 2016.12.14 更新




[8528] 6 昼餐会【前編】
Name: ひな◆d13cf26c ID:ab94230f
Date: 2019/06/28 01:16
 儀礼官が、昼餐会の行われる小ホールの扉を開けた瞬間、室内にいた人達の視線が私たちに突き刺さるように集中した。

(……わぁ……)

 私は心の中でだけ声をもらす。
 これは別に歓声をあげたわけではない。むしろ、逆だ。

(ものすごく注目されてる……気持ちはわからないでもないけど)

 探るような……あるいは、試すような眼差し──『私』を見定めようとする人々。

(何かもう、しょっぱなからクライマックスみたいな感があるよ)

 向けられた視線にこめられているものを考えると、思わずため息をこぼしたくなる。

(敵意というほど鋭いものではないけれど……)

 でも、決して優しくはない何かを裏に潜ませている。
 このまま放り投げてしまいたいと思いながらも、私は絶対にそれをしない────できるはずがない。

(私はアルティリエ=ルティアーヌなのだから)

 麻耶であり、アルティリエである『私』。
 私の中の失われたアルティリエの為にも、私はしっかりと立たなければならない。。

(私は、もう決めたのだから)

 ここでナディル殿下と共に生きること。
 そして、殿下の隣に立つことを。
 ナディル殿下が即位すれば、私は王妃になる。私は己の意思に関わらず、国政に影響を及ぼす立場になるのだ。

(しかも、唯一の『エルゼヴェルト』だ)

 公にはできない理由により、表面に見えている以上に私はこの国の重要人物だったりする。
 この昼餐に招かれている四公はそれを知っているはずだから、余計に視線が鋭いのだろう。
 ナディル殿下は、四公については私の守護者なのだから心配する必要はないのだとおっしゃったけれど、イコールそれが無条件で私の味方であるという意味ではないと思う。

(……義務と意思との間には、大きな溝があるものだもの)

 ナディル殿下の時と一緒だ。義務にせよる責任感からだけではなく、自由意志による積極性を持ってもらうことこそが、私にとってよりよい環境を作る手助けとなる。
 この世界で生きると決めたからには、より過ごしやすい環境を手に入れることが大切だと思うのだ。

「……ルティア?」

 殿下が私の名を呼ぶ。
 柔らかなその響きに、少し臆しかけた心がしゃんとした。
 私は殿下に何でもないのだというように小さく笑ってみせる。

(大丈夫)

 己に言い聞かせる。
 だって、私の隣には殿下がいるのだ。
 私の絶対の味方だと信じられる殿下が。
 だとすれば、視線が多少鋭いことなど気にする必要などない。

(難しく考える必要なんてない)

 公務デビューを成功させようとか、皆に好印象を持ってもらおうとか、そういうのはとりあえず後回しでいい。
 大事なことは一つ。と、私は心の中で自分に言い聞かせる。

(今日の最大の目標は、殿下に昼餐をおいしく食べてもらうこと!)

 殿下には、昼餐でしっかりと食事をとってもらう。それができれば、後のことはおまけでいい。

(二兎を追ったら失敗するもの)

 ナディル殿下の首席秘書官であるラーダ子爵は、いつもボヤく。
 殿下は公務の席ではほとんど召し上がらないのだと。
 だいたいの場合、公務の終わった後に書類を見ながらいつもの携帯糧食を口にするのがお定まりのコース。せめて、多少なりとも栄養になりそうなものを口にしてほしいと言う。

(携帯糧食は、栄養バランスは結構いいんだけどね)

 そして、正宮総料理長もよくボヤく。
 正宮の総料理長は、リドリー=レヴェ=エルランスという。騎士爵の血筋である郷士の一族に生まれたという彼は、正宮の料理長となったときに、一代爵位である『準騎士』を授かった。
 仲良くなってからわかったのだけれど、見た目の厳つさに反して中身は好々爺なおじいちゃんだ。
 元々は亡くなられた陛下の料理長の下で働いていた料理人の一人で、本来なら総料理長になどなれる身分ではないのだという。
 アル殿下とはまた別の意味でナディル殿下の料理人は長続きしないらしい。

(それはわりと納得できる)

 何しろ、殿下はこれまで食べることをあまりにもないがしろにしてきている。
 リドリーがこれまで続けてこられたのは、辞めなかったから……諦めが悪かったからなのだそうだ。
 料理人として、主が己の料理よりも携帯糧食を好んで食べるというのは、屈辱だ。
 いや、ナディル殿下の場合は諦めが先に立ち、屈辱を通り越して泣けてくるのだとリドリーは言った。
 彼と私が仲が良くなったのは、殿下の食事事情を改善しよう同盟の仲間になったからだ。
 リドリーは二言目にはいつも言う。
 せめて携帯糧食じゃないものを口にしてもらいたい、たとえ自分の料理ではなくとも、と。
 王宮にいる人間は、あまり素直に本心を言葉にしない。だから、そういう中で彼の言葉はとっても素直に心に響く。
 飾ることなく、誤解を恐れることなく言葉にできる彼はすごいと思う。
 でも、更にリドリーをすごいと思えるのは、私のような小娘に教えを乞うことができるところ。

(……普通はできないよ)

 だって、リドリーは私が生まれるずっとずっと前から料理人だったのだ。宮廷料理人と呼ばれる身であれば腕に覚えもあるだろう。
 そんな人が、私のような子供に素直に教えを乞うなんて、なかなかできることじゃない。
 しかも、私は子供であるばかりか、料理人ですらないのに。
 
(結局は、私も彼も同じところに行き着くから……)

 だから、私たちはお互いを認めることができた。



 食事というのは、ただ『食べる』だけのことではない。
 殿下は、もうそれを知っている。
 この間、フィルに教えてもらった ──── 私との朝食やお茶の時間は、殿下にとってもう特別な時間になっているのだと

(『ぜーったい、あいつは言わないけど、あれで姫さんととる食事を楽しみにしてるんだぜ』って、言ってた……)

 もちろん、一緒にいて楽しんでくれているのはわかる。
 でも、そうやって第三者から教えてもらうとまた違った嬉しさがあるものだ。
 私だけの独りよがりではないんだと証明されたような気がするから。

 だから、彼らにもちゃんと知ってもらいたかった。
 ラーダ子爵も料理長もボヤくけれど、二人がやっていることは何も役立っていないわけではない。

(だから、二人にも協力してもらった)

 ラーダ子爵からは殿下の最近の体調などを教えてもらって、それをもとにして私は昼餐のメニューを組み立てた。
 おいしく食べるのには、体調が整っていることが一番大事!
 いくつかは当日の様子で、味付けやメニュー自体を変更するようにも言ってある。

(今日の昼餐は、一味違うのだ)

 ラーダ子爵からの情報をもとにして、私と王宮料理長が二人三脚でつくりあげた。
 メニューづくりも、素材選びも随分とこだわったのだ。

(予算なしってすごいよね……)

 私の公務デビューにあたって、殿下は万事不都合のないよう。そして、予算を惜しまぬようにと言ったという。
 王宮の公式の昼餐だから私が直接作ることはできなかったけれど、それでもだいぶ我儘を聞いてもらった。

(料理長の腕は確かだし、デザートはうちの子たちが仕上げに行っている……)

 最初は覚束ない手つきだったアリス達も、今はもうすっかり手慣れたもので、新しい侍女たちの指導役になっているほどだ。
 そして、昼餐の最後を〆るデザートを任せられるのは、やっぱり彼女たちだった。
 デザートの良いところは、選んだメニューにもよるけれど、すべてをその場で出来立てを提供する必要がないこと。
 今回はメインが林檎と胡桃をいれたベイクドのチーズケーキで、すでに昨日のうちに焼き上げてある。
 アリス達には昨日、本番と同じ盛り付けをしてみせたので、慣れている彼女たちならばきっと完璧に仕上げてくれるだろう。

(別にそれほど珍しいものをだすわけじゃない)

 こういう席で奇をてらったものは必要ない。
 昼餐だから華やかさは必要だろうけれど、それは盛り付けや器の選択でどうとでもなるものだ。

(日頃食べなれているものが一番!)

 とはいえ、殿下が一番食べなれているのは携帯糧食なので、それはのぞく。

(細工は流々、あとは仕上げを御覧じろってやつだわ)

 打つべき手はすべて打った。
 あとは結果を待つだけだ。


 儀礼官が私たちの到着を告げ終わると……これ、ちょっとした決まり事で、私たちのフルネームを呼び上げることになっている……室内ににいた全員が立ち上がった。

「……ルティア」

 ナディル殿下が小声で名を呼び、私の顔をのぞきこむようにして目を合わせる。

「はい」

 私は大丈夫ですよという意味をこめてにこやかに笑むと、殿下の瞳が和らいだ。

(うん。大丈夫)

 あんまり緊張はしていなかった。
 今日の最大の目標を思い出してしまえば、緊張なんかする必要がない。
 そして、殿下が醸し出す穏やかさに反し、室内の空気がひどく緊張を孕んでいることに気づく。

(……何だろう?別に私にだけっていうわけじゃないみたいだけれど……)

 私に対する視線だけではない気がする。
 なんかこう目に見えない火花があっちこっちで飛び散っているような……。
 とはいえ、ここにいるのはダーディニアを代表する大貴族のそれも当主夫妻のみだ。表面上は大変に穏やかで静かな空気が流れていて、どこか優雅な気配すら漂わせている。

(……なのに、みんな眼光鋭すぎるんだよね)

 油断していないというか、互いに隙を伺っているというか……優雅な空気の裏には、ピリピリとした緊張感がある。
 私はそれを気にしないようにして殿下のひいてくれた椅子に座った。
 そして、殿下が自分の席に着くと、全員が着座した。
 儀礼官が独特の抑揚のある節回しで昼餐会の開始を告げる。
 そうしたら、どこで合図をしたのかわからなかったけれど、音楽が始まった。

(生オケなんだよ、この音楽)

 仕切られているせいで私たちからはまったく見えないけれど、この小ホールの舞台にあたる部分で楽団の人たちが演奏している。レコードとかそれに類するもののないこの世界では、音楽を聴こうと思ったら生演奏を聴くしかないのだ。
 ムジーカという巨大なオルゴールみたいな自動演奏機もあるのだけれど、その機械も奏者が必要だし、そもそもがこのホールはムジーカが備えられていない。
 王宮で演奏するだけあって生オケの人たちの腕は確かで、私は半分だけ耳を傾ける。

(あ、これ、陛下がお好きだった、『ウェルディアーナ』だ)

 歌劇『ウェルディアーナ』の主題となるメロディは、高音の澄んだ金管楽器の音色からはじまるのが特徴的だ。
 緩やかなメロディは食事の邪魔にならない程度の音量で、場の空気を柔らかなものにしてくれていた。

(歌劇の内容自体は、まったくもってドロドロ愛憎劇なんだけど)

 なのに、奏でられる音楽は軽やかで明るい。
 音楽が軽やかだからこそ、物語の登場人物たちの愛憎劇がより際立つのかもしれない。

「ルティア」
「はい」
「エルゼヴェルトはいいとして、他の者たちを紹介しよう」

 相変わらず殿下はエルゼヴェルト公爵に厳しい。
 私に一番近い席についているエルゼヴェルト公爵が軽く目礼するのに、私はうなづきを返した。

「そして、フェルディス公爵夫妻」
「妃殿下にお目にかかれましたこと、恐悦至極にございます」
「お目にかかれて光栄でございます」

 エルゼヴェルト公爵の隣に座る燃えるような金の髪の偉丈夫が軽く頭を下げ、傍らのほっそりとした公爵妃もそれに合わせて一礼した。
 私は、その挨拶を受けたという証にこくりとうなづく。

「それから、その隣がアルハン公爵とご息女だ」
「妃殿下にお目にかかれましたこと、まことに喜ばしく思います」
「お会いできるのを楽しみにしておりました」

 若すぎる奥様なのかと思っていたら、娘さんだった。
 確か、アルハン公爵の奥様はすでに亡くなられている。
 後妻でモメているという話をちらりと耳にしたことがある。
 私は二人に軽く目礼した。
 親子というにはあまり似ていないが、もしかしたら娘さんはお母さま似なのかもしれない。
 この令嬢は確か、ナディにとって従妹になるはずだ。

「それから、そちらがグラーシェス公爵夫妻だ」
「妃殿下におかれましては、ご無事のご成長何よりにございます」
「今度、我が家にぜひいらしてくださいませ。エフィニア様のお好きだった自動演奏機がございますの」

 謹厳そうな老人はにこりともしないで私を寿いでくれたが、奥方のほうはあふれんばかりの笑みを浮かべて言った。
 私は老人にうなづき、殿下の方を見る。私の予定は私が決められるものではない。

「ディス・グラーシェス、アルティリエはまだ王宮から出さぬ。建国祭が済むまでは」

 空気がやや緊張の色を増した。

「かしこまりました。おいでいただくのを、楽しみにしておりますわ」

 緊迫した空気を知ってか知らずか、公爵妃はにこやかに笑う。
 品の良い優し気な老婦人だ。
 信心深く、奉仕活動に熱心だと聞く。
 優しげに見えるし、とてもやさしい方なのだとお聞きするけれど、本当に優しいかはわからない。

(とはいえ、本当の優しさが何かなんて、私にもわからないんだけどね)

 エルゼヴェルト公爵以外の三公爵が女性を伴っている。
 ダーディニアにおいて、正式な社交というのは夫婦単位で行われるものなのだ。

(ナディル殿下は、これまでは常に一人参加だったんだよね)

 仕方のないこととはいえ、そのことが心苦しく、同時に口惜しい。

(これからは、できるだけ一緒に参加するのです)

 私は決意をこめてぐっと拳を握り締める。
 殿下がこれまでお一人様参加だったのは、正式な妻である私がまだ花冠前であまりにも幼かったからだ。
 
(エルゼヴェルト公爵は……まあ、連れて来られないよね)

 彼には、この席に連れてこられるパートナーがいない。
 王族……それも次期国王が主催する場に同伴できるのは『妻』か『子』。あるいは、『姉妹』だ。
 彼の妻は、正式に公爵夫人ではあるが、『妃』ではない。だから、この場に参加させるためには、王宮側への打診が必要になる。
 でも、たぶん、打診しても許可はおりないだろう。
 何よりも彼女が『夫人』になった事情……つまりは、彼の正式な『妃』であった、私の亡くなった母の事情があるから。

(そもそも、殿下の公爵に対する態度からして、かなり冷ややかなわけで……)

 お優しいと言われるナディル殿下が絶対的に塩対応する数少ない相手がエルゼヴェルト公爵なのだ。
 それは夫人に対してもあまり変わらないだろうというのがリリアの意見だ。
 というか、下手をしたら視界にいれない可能性もある、とフィルは言っていた。
 彼らのそのあたりの判断を、私は妥当なものだと思っている。 

「御久しゅうございます。妃殿下」

 改めて、というようにエルゼヴェルト公爵が頭を下げた。

「……一瞥以来ですね、こうしゃ……東公」

 公爵と呼びかけて、呼びなおした。
 ここにいるのは全員が公爵家の人々で、公爵だけでも四人いるから、呼び方には気を付けなければいけないだろう。

「はい」

 エルゼヴェルト公爵は口元に笑みを浮かべる。いつもの殿下とのやりとりの中で透け見える腹黒さが漂っていた。

(……これって、もしかしたらまずかったのかしら)

 皆が私たちのやりとりに軽く目を見開いたり何か物問いたげな表情をみせていることに気づいた。
 たぶん、今のほんの数言のやりとりで、私と公爵との間が近しくなっているのだとここにいた皆が判断しただろう。
 和解とまでは行かずとも、以前のようにまるっきりの没交渉というわけではないことは充分わかったはずだ。
 ナディル殿下が面白くなさそうにエルゼヴェルト公爵をジロリと睨んだが、公爵はそれを黙殺した。

(んー、でも無視はできないし……)

 王家との関係を修復しつつあるよ!アピールに使われたかもしれない、と思いつつも、私はそれを許容した。
 私のことになると途端にいろいろ過敏になる殿下については、あとでちゃんとお話ししておこう。

「それでは、はじめようか」

 ナディル殿下の不機嫌なその言葉で、波乱含みの昼餐会はスタートした。




*******

トリップ忘れたので変更しました。



[8528] 7 昼餐会【後編】
Name: ひな◆d13cf26c ID:ab94230f
Date: 2019/06/28 01:19
 ダーディニアにおける正餐は、コース料理になっている。

 コースの最も基本の形は、まず食前酒。それから、前菜にあたるハムやチーズなどの盛り合わせ。
 それから、火を通した野菜料理、魚料理、肉料理がだされる。
 魚料理か肉料理のどちらかで、煮込み料理であることが多く、野菜料理はその付け合わせとされることがほとんどだ。
 そして、最後に生の野菜……つまりサラダか生の果実がデザートとして出され、食後のお茶で終わる。

 今回、私はこれをより手が込んだコースに仕立てた。



(ふっふっふ。一品たりとも手抜きはありません)



 まず食前酒に用意したのは林檎酒だ。
 女性も参加することから飲みやすい果実酒を選んだが、甘いものが苦手な人もいるかもしれないのでそれほど甘くない種類のグレーダ種の林檎酒にして、さらにはそれに飲み口がさっぱりとする青檸檬を絞った。



(甘すぎると料理にはあいませんしね)



 それから、前菜にあたるハムやチーズの盛り合わせのかわりに、ハムとチーズをたっぷり使ったキッシュにした。

 運ばれてきた皿は、目の前で保温器からだされて供される。保温器から出された時、豊かなバターの香りが漂った。

(さあ、食べて、食べて)

 暖かなうちに食べて~と念じる。

 さっくりとしたタルト台をベースに4種のチーズをバランスよくミックスし、4種のハムの半分はダイスに、半分はやや厚めの千切りにカットし、王宮農場でしか飼育されていないというフェロー種の黄身が濃くて大きい卵に混ぜた。ハムのカットを変えたのはそれぞれの歯ごたえや塩加減が違うためだ。ハムもチーズもバランスには苦心した。

 殿下の方をちらりと見ると、わずかに目を見開いて、それからふっと笑いを漏らした。



(もしかして、もう気づいたのかしら……)



 まさかね、と思いつつも、ナディル殿下のことだからわからない。

 私の前にも運ばれてきた皿は、見た目は完璧だった。



(焦げ目もおいしそうだし、チーズのとろけ具合も完璧!!)



 大きいカトラリーを手にとり、一口大に切り分けて口に運ぶ。

 糸をひくとろとろチーズに顔が緩むのがわかる。だってもう漂ってくる香りだけでもおいしそうだ。

 その一かけらを口にしたら、ふわりとバターが香った。それから、舌に触れるハムの塩味……濃厚な玉子とチーズが絶妙なハーモニーで寄り添い、口の中で幸せを奏でている。



(おいし~い)



 周囲を見回せば、それぞれに軽い驚きだったり、小さな笑顔をみせたりしていて、ちょっとしてやったり!って気分になる。



(これぞ、計算通り!)



 それからこっそりと横を見た。すました顔でキッシュを口に運んでいる殿下だけど、目元が緩んでいるのがわかる。



(なんか、ちょっと可愛いかも!)



 殿下に『可愛い』だなんてちょっとどうかしているかもしれないけれど、でも何だか可愛い。えーと、何だろうな……ああ、うん。これ、ギャップ萌えだ。そういう感じ。たぶん、他の人にはまったく賛成してもらえないと思うから口には出さないけど。

 次は火を通した野菜料理。配膳をする人たちは空気を読むのがうまい。

 それぞれがキッシュを食べ終わり、一息ついたところを見計らって料理を運んできてくれる。

 野菜料理は、シンプルに温野菜にした。旬のおいしい野菜を選び、蒸して彩りよく盛り合わせた。

 こちらの野菜はもともと味が濃いけれど、蒸るとさらにそれが凝縮される。



(あま~いかぼちゃにホクホクのお芋。それから、ほろ苦さが独特の旨味になっているザーデに、ほんのりと甘いラグラ人参……黄蕪も玉ねぎも何もつけなくたって充分なんだけど……)



 温野菜の皿の脇には、ニンニクとアンチョビをベースにバターと生クリームで整えたソースを添えてある。

 私にとっては食欲をそそるニンニクだけど、匂いも味も強烈すぎるということでダーディニアではあまり好まれていない野菜の一つだ。風邪をひいた時の民間療法薬みたいな使われ方がもっともポピュラーな使われ方だと知った時はすごくもったいないと思った。



(確か、これも北部が名産地だったっけ……)



 気候が厳しい北部では収穫できる農産物の種類が偏っている。寒冷地なのだから仕方がないともいえる。

(まあ、そのせいで酒造りが盛んだってわかったけど)



 今回の昼餐会のメニューを作るにあたっていろいろ教えてもらったり調べたりした中で特に嬉しかったのは、ダーディニアがこの世界有数のお酒大国だとわかったことだ。

 麦酒に米酒、それからありとあらゆる果実でつくられる果実酒……ジャガイモやトウモロコシからもお酒を造っていた。蒸留酒もあれば、ブレンドした混合酒もある。特に北部地域には名高い醸造所が多い。

 農産物はあまり豊富でない代わりにお酒が豊富で、グラーシェス公爵領の領都であるセドナは酒飲みの都と称されているとも聞く。



(いつか行ってみたいところの一つよね)

「……これは……」



 北公が目を見張る。

 その独特の匂いが何によるものかすぐにわかったのだろう。しげしげと添えられたソースをみて、それから、フォークにさしたジャガイモに少しだけソースをかけて口に運んだ。

 野菜の味をそのまま楽しんでもいいし、ソースをつけて食べてもいい。

 でも、このソースは野菜をあまり好んでいないナディル殿下が、野菜をおかわりするくらいよく食べる最終兵器だった。案の定というか、グラーシェス公爵も無言でひたすら野菜をソースにつけて食べ続ける。

 そして、横目でこっそり盗み見た殿下も。



(食べてる、食べてる)



 室内はとても静かだった。

 こちらでの食事のマナーとして、別に無言で食べなければいけないというものはない。

 むしろ、こういう席では互いに和やかに談笑しあい食事を進めていくものだが、皆が夢中になって食べている。



(うん、うん。わかる。……おいしいもの食べてるときって無言になるよね)



 それから、皆がだいたい野菜を食べ終わり、空気が緩んだところで小さなガラスのカップが運ばれた。

 カップの中には白いどろりとした液体が入っていて、その上を金色の液体が薄い層をつくっている。



「……これは?」

「ヨーグルトです。お口直しにどうぞ。上にかかっているのははちみつです」



 添えられている小さな棒で攪拌してから飲む。カップは小さいので私でも三口くらいで飲めてしまう。きっと殿下だったら一口だろう。



「……なるほど。口の中がさっぱりするな」



 殿下は感心したという表情をみせた。

 別にヨーグルトは特別珍しいものではない。カードラという鶏や鳩を煮込むダーディニアの家庭料理のベースに使われたり、料理の味付けに使われることが多く、こんな風に単体で飲みものとして出されることはこれまでになかったからだろう。

 殿下が口にしたことで、他の皆も口にする。

 こういった正式な食事会では、主催者が最初に口をつけてそれから皆が食べるというのがマナーとされている。

 これは毒など入っていないことを証明し、だから安心して食べていいという意味なのだと前に殿下が教えてくれた。

 今はさほど厳しくないマナーの一つだけれど、それを理由にして私は絶対に人より先に料理を口につけないようにと殿下には言われている。

『個別の皿にいれれば無意味ではあるが、それでも気を付けることは無駄ではない。常日頃から用心することが大事だからな』

 たいした過保護っぷりなのだけれど、それが嬉しいと思ってしまうのが乙女心というやつだ。

 酸味があるけれどまろやかなヨーグルトで口の中がさっぱりしたところで、タイミングよく魚料理が運ばれてくる。



(……配膳を指揮してるのは誰なんだろう)



 湯気のたちのぼる皿を見れば、作られてすぐに持ってきたことがわかる。

 それでいながら、室内の空気が和んだところにもってくるあたり、タイミングもばっちりだ。

 こういうところがさすが王宮だと思う。

  魚料理は、この時期とてもおいしいという東の海でとれた鯛をポワレにした。

 表面はカリっと、中はしっとりと。特に皮はカリカリにするのがポイントだ。



(殿下は、基本的にシンプルなものがお好きなんだよね)



 付け合わせは南部で獲れた太くて甘いアスパラだ。バターでソテーした白と緑のアスパラを交互において、その上にオリーブオイルで蒸し焼きにした鯛をのせ、白ワインをベースにしたネギと生姜のソースを添える。

 ソースはたっぷりのネギと生姜を刻み、白ワインと塩胡椒で味を整えただけのシンプルなもの。適切な塩加減がとっても大事で、もうちょっと濃い方がいいかなと思うくらいのやや薄味にするのがポイントだ。

 これ、魚料理のソースとしてだけじゃなくて実はお肉にも合う。からっと油で揚げた鶏の上にかけたりするともう手が止まらない味なのだ。



(この鯛、ほんとおいしい……鯛茶漬けとかもいいかも)



 ダーディニアでは魚の生食の習慣はあまりない。

 絶対にないわけではない。聞くところによると、港町などではマリネのような料理があるという。



(お寿司とかも食べてみたいけれど……ああ、でも、炊いておいしいお米にはまだ出会えていないんだよね……)



 かつての記憶の中で当たり前のように食べていた白米には出会えていない。

 煮込み料理の付け合わせになる穀物として長米種の米はあるけれど、ダーディニアはパンを主食としている食文化圏にあり、米はあまり一般的ではない。



(たぶん一般的には、スープの浮き実になる穀物……くらいの認識だし) 



 白米を恋しく思うこともあるけれど、どうしようもなく欲するほどでもない。

 私は刻んだネギとしょうがを千切ったパンの上にのせて口に運んだ。



(うん。上手に焼けてる)



 カトラリーの脇の小さな籠に盛られたパンはクッペとブール。

 皮はパリッで中はしっとりしている。どちらも私が好きなパンだ。



「……殿下、料理長を替えましたか?」



 南公が口を開いた。



「いや。リドリーのままだ」



 殿下が少しだけ面白そうな表情で答える。



「随分と味が変わったようでしたので」

「そうだな」



 うなづきなながら殿下が私の方を見たので、にこっと笑ってみせた。

 その眼差しが柔らかな色を帯びる。どこか甘くも見えるけれど、殿下は私を自分が守らねばならない大切な物だと思っているので基本私には甘いから、たぶんこれは平常運転のうちだ。



「とてもおいしゅうございます」



 つい、という感じでアルハン公爵のご令嬢が呟きをもらす。

 アルハン公爵がそれを咎めようとでもいうような表情で口を開く前に、グラーシェス公爵妃がうっとりとした声音で同意を示した。



「本当に」



 それから、殿下のほうを向いて続ける。



「王太子殿下、王宮ではこんなにおいしいものがいつも饗されておりますの?」

「……いつも、というわけではない」

「まあ……」



 殿下は軽く首を横に振り、そして、何か言おうと口を開きかけたけれど言葉にするのを躊躇う様子を見せた。



(?????)

「……おおっ」

「え?」

「……ほぉ」



 控えめに漏らされる驚嘆の声。

 運ばれてきた肉料理に皆が気を取られた。



(そうでしょう。そうでしょう。まあ、最初は驚くよね)



 ちょっと深みのあるスープ皿に盛られているのは大きな肉塊に、ごろっと大きめに切られた根菜だ。



(塩漬け豚と根菜のポトフです)



 お肉はスープ皿半分を埋めるんじゃないかと思えるほどの大きさの塊のままだ。

 ただしこれ、とろっとろに煮込まれている。それこそ箸で切れるくらいに。



「これはずいぶんと野趣に富んだ……」



 東公が軽く眉を顰める。口調からすると、感心しているというよりはたぶん嫌味。

 何しろ、殿下と東公はいっそ仲良しだよね、あなた達! と思うくらい顔を合わせれば舌戦を交わす仲だ。



(うるさいですよ、そこのお父様)



 余計なことを言う前に食べなさい! と念じて、東公の方を睨む。私の視線に気づいたエルゼヴェルト公爵はぱちぱちと目をしばたたかせた。

 盛り付けはもっと上品にもできたけれど、あえて塊にしたのはインパクトを与えるためだ。この分厚さは、肉好きが見たら泣いて喜ぶだろう。

 肉用のナイフをいれると刃が柔らかな塊の中にあっさりと沈む。

 誰かが静かに息を吞んだ。



(驚くのはまだ早いから!)



 私はちょっとドヤ顔をしながら、切り分けた一切れを口に運ぶ。

 瞬間、頬がゆるんだ。だって、しょうがないよね! 口の中でおいしいお肉がとろけてるんだもん。

 ほぉ……とどこかで小さな息が漏れて、はあ、と、恍惚の吐息が漏らされる。



(んー、おいしい~。さっすが料理長!)



 それから、煮込まれてよく味のしみた蕪を口にした。

 野菜の旨味とお肉の旨味のつまったスープは、綺麗な黄金色をしている。一口口に含んだら、それだけで幸せな気分になれる。



「ルティア」

「はい?」

「これは何の肉だ?」



 よくぞ聞いてくれました。という気分で、私は答える。

 皆が耳をダンボにしてるのわかってるからね!



「塩漬け豚です」

「……しおづけぶた?」



 アルハン公爵令嬢が言葉の意味がわからない、とでもいうように首を傾げる。



「はい」



 私はこくりとうなづく。

 メインを何にするかは、さんざん悩んだのだ。

 肉をメインにすると決めても、肉にもいろいろある。

 料理長の一番のおすすめは、今の時期に脂がのっているものが手に入りやすいホロホロ鳥だったけれど、今回はあえて豚肉を使うことにした。それも、とりたてて特別ではない保存食の塩漬け豚を。



(ラーダ子爵が言っていたんだよね。備蓄の塩漬けの豚肉の入れ替えをするから使い切りたいって)



 王宮ではかなりの量の食料が備蓄されている。

 それは災害時に王宮を維持するためのものだけでなく、王都に住む人々や軍を維持するためのものでもある。長期保存できるものを選んではいるものの、定期的に入れ替えは必要だ。

 特に今回は、軍で備蓄していたものと王宮で備蓄していたものの入れ替え時期が重なってしまったらしく、値崩れ必至なのだという。下手したら手数料をとられるかもしれないとまで言っていた。



(そういうのを自分達で消費できれば一石二鳥だと思うの)



 王宮で消費すれば歳費の節減にもつながるし、仲介する商家の手数料もかからなければ、売買のためのさまざまな手間も時間もかからない。



(もちろん、全部を使い切るのは無理だとおもうけど、できなかった分は、払い下げではなくていっそ下げ渡してしまえばいい)



 たいした収入にならないというのなら、孤児院や教会に寄付してしまえばいいのだ。

シオン猊下曰く、教会というのはだいたい孤児院を併設しているのだが、どこの孤児院も経営はいつもギリギリなのだという。



(備蓄食料がおいしく食べられる工夫ができれば、きっと喜ばれると思う)



 備蓄食料が買い叩かれたり人気がないのは、保存性の高いものは味が二の次であるからで、それがおいしく食べられるのならきっと飛ぶようになくなるだろう。



(ただ、そういうところは王宮のようにいろいろな調味料や食材があるわけじゃないから、そういう縛りで考えないと……)



 だから、頭の中ではいろいろ考えていることはあるけれど口にはしない。



(これは、いろいろ調査が必要なことだと思う)



 皆、私が口にしたらきっと多少の無理があっても押し通してしまうから、私は迂闊な発言をしてはいけないのだ。

 少し落ち着いたら、シオン猊下にまたお話を伺おうと思っている。



「……もしかして、備蓄の塩漬け豚か?」

「はい」



 ナディル殿下の言葉に私は笑顔でうなづく。



「殿下はお肉がお好きなのに、塩漬け豚と聞くとうんざりした顔をなさるので」

「うんざりした顔をしていたか?」

「はい」



 食べるのが嫌というよりはそれにまつわるもろもろが面倒だったのかもしれないけれど。



「添えてある粒マスタードをつけて食べてみてください。味が変わっておいしいですよ」



 これだけとろっとろに煮込まれていると、あんなに大きいと思った肉塊でも、ぺろっと食べられてしまうのが不思議だ。

 殿下は素直に添えてある粒マスタードをのせて、肉を口に運んだ。



「……ああ、私はこちらのほうが好みだな」

(……知ってます)



 だから、ちょっと盛り付けが美しくなくなると思いながらもマスタード添えたんだから!



「よろしゅうございました」



 私は澄ました顔で言う。

 うふふふ。これ、大成功だよね。

 早く料理長や子爵に教えてあげたい。絶対、今日は完食だよ!



「これは手間がかかるのか?」

「それなりに」

「……建国祭の晩餐で出すことは可能か?」

「可能ですけれど、今日と同じ料理では芸がないのでは?」

「これだけ美味であれば、同じものが出ても四公は気にしないだろう」



 うん、うんと力強くうなづいているのはアルハン公爵だ。他の三公爵もうなづいているから異存はないのだろう。



「でも、トマトの煮込みもおいしいんですよ。それから、キャベツと蒸し煮にしてもおいしいですし……」

「……妃殿下、塩漬け豚にはそんなにいろいろな食べ方があるのですか?」



 アルハン公爵令嬢が目をきらきらさせて問う。



「はい。あまり人気がないと聞いて驚きました」



 おいしいメニューがたくさんありますのに、と私は笑う。



「今日はあえて野趣に富んだものにしましたの」

「なぜです?」

「お肉を好きな方には大きな塊のほうが喜ばれますし、柔らかさがよくわかると思いまして」



 煮込み料理に使うには塩抜きをするけれど、そのまま薄切りにすればハムのようにも使える。



(そもそも、塩漬け豚ってパンチェッタなんだよね)



 そう考えるとメニューは格段に広がるし、パンチェッタって確かスモークすればベーコンになるはずだ。



(あれ? もしや、ベーコンにすればもっと長もちするのかな?)



「ではルティア、建国祭の晩餐でまた違った料理を食べさせてくれ」



 殿下が上機嫌な顔で言う。



「はい」



 私は満面の笑みでうなづいた。




[8528] 幕間 王女殿下と公爵令嬢
Name: ひな◆d13cf26c ID:ab94230f
Date: 2019/06/28 01:20
「ごきげんよう、ナディア様」

「ごきげんよう、レナーテ」



 第二王女ナディア=ミレーユにとって、目の前の年上の従妹は誰よりも仲が良い従妹であると同時に気の抜けない相手でもある。

(レナーテは、デキるから……)

 ナディアは己があまり出来の良い子ではないことを理解している。

 王女として生まれたから些細なことで皆が褒めたたえてくれるが、ナディア自身は平凡な娘にすぎない。

 それに対し、母の実家であるアルハン公爵家の令嬢であるレナーテは、幼い頃から才女として有名だった。

 礼儀作法をはじめとし、ナディアが苦手な学問にも優れ、貴族令嬢の嗜みである刺繍の上手としても知られている。ハープなどの楽器の演奏はさほど得意とはしていないと言いながらも素晴らしく弾きこなすし、芸術方面の知識にも優れている。

 十五歳の時にナディアにとっても共通の従弟である当時のアルハン公爵の嫡子と婚姻を結んだものの、夫となった相手を一月足らずで亡くした。その直後に当時のアルハン公爵であった祖父が亡くなってレナーテの父が公爵となったので、居残ったのか出戻ったのかよくわからない形で今もアルハンの姓を名乗っている。

 一月足らずの婚姻をレナーテの父親はなかったことにした為に、彼女はアルハン公爵令嬢と呼ばれている。二十歳を過ぎて結婚していないことも、彼女の場合は瑕疵とはならなず、むしろ、その才を惜しまれていると言われているほど。

 現在のところ、公爵家の家督はレナーテの兄であるレオンが継ぐということになっているのだけれど、公爵はレナーテに婿をとるかもしれないと昔から噂されている。

(それもこれも、レオンの出来が悪いと言われているせいね)

 すでに三十近いアルハン公爵家の嫡男は、昔からあまり評判が良くない。

 ナディアにしてみればとても優しい従弟で大好きなのだが、世間の評価は低い。

 彼の価値は、王太子ナディルの学友だったことだけだと言われているくらいだ。それも、たった半年で返された。

(別におかしなことをするとか、ものすごいバカだとかっていうわけじゃないけれど、レオンの不運は、レナーテが妹だったことよね)

 何でも人並み以上にできるレナーテが幼い頃から最も近くにいたこと……レオンの不幸はそれに尽きる。

(私だってしょっちゅう比べられるし、ものすごく嫌なのに、兄妹だなんて最悪だわ)

 レオンはレナーテより五歳も年上で、しかも男で、更には同母の兄妹なのだ。ナディアどころではない比べられ方をずっとしてきただろう。

(でも、レオンは優しいままだ)

 ぐれたり、ひねくれたりしなかったし、身を持ち崩すこともなかった。

 それだけでもすごい、とナディアは思っている。

 彼女の双子の弟であるエオルは、出来の良すぎる異母兄達に比べられてすっかりひねくれているから猶更だ。

(私はアリエノールお姉さまと比べられることがあまりなかったから……それに、レナーテと比べられるほうがずっと嫌だった)

 たぶんそれは外見がよく似ているせいだろう。アルハン公爵家に特有の燃えるような赤髪ときつくみられる顔立ち……ややおっとりした風のある母よりも、ナディアの顔立ちはずっときつい。

(見た目が似ているのに、中身はまったく違うって言われ続けてきたのよね……)

 ナディアは、自分の性格がひねくれた半分くらいはそのせいだと思っている。

「こちら、献上品の目録ですわ。どうぞおおさめくださいませ」

 受け取った目録を侍女が捧げる銀のトレイの上にのせる。

「いつもありがとう。公爵に……伯父上によろしく言っておいてください」

「もったいないお言葉でございます。父もよろこぶことでしょう」

 レナーテは、つややかな赤髪を赤毛を結い上げて白い真珠で飾っていた。これだけ大きな真円の真珠は、南の海を領するアルハン公爵家でなくば手に入らないだろう。

 ガウンは光沢のある淡いクリーム色で、同色のレースが重ねられている。同布で作られた靴の刺繍はおそらく自分で刺したものだろう。赤やオレンジや白の薔薇が足先に美しく花開いていた。

「……で、昼餐会はどうだったの?」

 レナーテの訪問が、昼餐会の後、夜会までの時間つぶしなのだとわかっているナディアは、今一番の関心事に水を向けた。

 もちろん、夜会にはナディアも参加する。

(ルティの初めての夜会ですもの……緊張していたら、私が助けてあげなければ)

 ナディアは、王太子妃たるアルティリエとはとても仲良くしている。

 あちらがどう思っているかはわからないけれど、ナディアはアルティリエを一番の友達だと思っているのだ。

 そのアルティリエの初めての夜会である。しっかりもののアルティリエのことだから大丈夫だと思うが、何かあったときはできるだけ自分がフォローするという心づもりをしているのだ。

(とりあえず、レナーテと今日のガウンの色がかぶらなくてよかった)

 赤い髪に似合うガウンの色はそれほど多くない。

 よく似ている自分たちが同じ色のガウンを着たら、間違いなく自分はただの引き立て役だ。年の差だけの違いとはいえぬほど、自分たちの体形には差異がある。



「とっても、とっても、素晴らしかったですわ」



 よほど感動したのだろう。レナーテは手を祈りの形に握り、目を輝かせている。



「……昼餐会だったわよね?」



 その感動が何によるものかよくわからなかったナディアは首を傾げた。



「ええ。……あんなにもおいしいお料理をいただいたのは初めてです」

 うっとりとため息をつく。

「お料理?」

「はい。最初の食前酒から始まり、最後のデザートに至るまで、それはもう計算されつくされた素晴らしいお料理でした……まるで音楽のようでしたの」

「音楽?……お料理が?」

「はい。計算されつくされた味のハーモニー……料理の数々に込められたテーマも素晴らしかった……」



 ほぉと漏らされた吐息は、どこか甘さが滲んでいる。



「レナーテの言っている意味はよくわからないけれど、おに…王太子殿下の宮のお菓子はすごくおいしいのよ。ルティが……アルティリエ妃殿下がとてもお料理に造詣が深いから」

「ええ。デザートにいただいたプディングがそれはそれはおいしくて……。あの濃厚でありながら優しい甘さ……口の中でとろける舌ざわり……それからわずかに甘いブランデーの味を感じるほろ苦さ……あれはもしや神のデザートなのではありますまいか」

「……ちょっと大げさじゃないかしら。確かにプディングは最高だと思うけど」



 アルティリエと二人でナディアのスクラップカードコレクションを見ながら、三つも食べて夕食が入らなかった日のことを思い出した。



「ナディア様は、プディングを召し上がったことが?」

「勿論。ル……アルティリエ妃殿下のお招きで、王太子妃宮ではよくお茶をしたし、後宮にお移りになってからも二人でお茶会をしているの」



 ちょっとだけ自慢げな響きで言ってしまったが、レナーテはナディアが思う以上にそれに食いついた。



「なんて、羨ましい」

「え?」

「私、これまで誰かを羨ましいと思ったことは一度もございませんでしたが、今、初めてナディア様を羨ましく思います」



(これ、もしかして私、貶されているのかしら?)



「こうなったら、私も奥の手を使って後宮に入るべきですね」

「え?」

「私、ずっと父から打診されておりまして」

「何を?」

「後宮への出仕をです」

「出仕って……それって……」



 あと一月足らずで即位する王太子ナディルの妃の座は一つしか埋まっていない。

 そして、アルハン公爵令嬢であるレナーテは正妃になる資格がある。



「ナディア様はご存知ありませんでした? 妃殿下と婚姻前の王太子殿下の最も有力な婚約者候補は私でしたのよ」



 レナーテは、少し恥ずかしそうに笑った。




[8528] 8 お昼寝
Name: ひな◆d13cf26c ID:ab94230f
Date: 2019/06/28 01:21
 昼餐会は何事もなく、無事に終わりました。────そう。私の胃に物理的な大ダメージを与えた以外は!

 最初はだいぶ緊張していたけれど、習うより慣れろというようなもので、案外なんでもなかった。もしかしたら、私は案外図太いのかもしれない。



「……おなかいっぱい」

「……姫さま……お残しになればよろしかったのです」

「おいしいってわかってるものを残すなんて無理だよ!」

「姫さま、姫さまの胃はそれほど大きくないのですから……」



 リリアがしょうがない子を見る目で私を見ている。



「わかっています。わかっていますけど!……だって、おいしかったんですもん……」



 お皿に盛られたものを残すことに罪悪感を覚えるのは、麻耶の感覚が強いせいだろう。

 私が残したものは無駄にはならないとわかっているけれど、でも、やっぱり残すことに抵抗を覚えるのだ。

(それにさ、まずくて食べられないっていうんじゃなくて、むしろすごーくおいしいんだから)

 それに、今日のメニューはすべて、料理長やラーダ子爵と苦心したその成果だったのだ。残せるはずがない。



「リリア」

「はい」



 アリスがいれてくれた胃をなだめるためのお茶を飲みながら、私は真顔になってリリアの方を見た。

 夜会がはじまるまで謁見やら会議やらが目白押しのナディル殿下と違い、私は部屋で休むよう言われている。しばらくは時間の余裕があるので、



「……それで? なんで私の皿が大盛だったの?」



 大盛りといっても、それは私にとっては、ということだ。

 育ちざかりではあるのだけれど、残念なことに私の胃はそれほど大きくはなくて、量は食べられない。

だから、私に給仕されるものはいつでもだいたい殿下の召し上がる半分の量なのだ……お菓子以外は。

(なのに、普通に一人前来たからね)



「……残念ながら、わかりません」



 リリアが溜息をつきながら首を横に振る。



「わかっている範囲で申し上げますと、間違えたのは給仕係です。……妃殿下へお運びするはずのものは、すべて保管に回されていました」

「保管? それはどういうもの?」

「王宮で王族のために用意される食事は必ず一食以上余分に作り、保管されます。保管期間は二日間。これは、万が一毒物が盛られた場合の調査用です」

「そう。今日の昼餐会の給仕の指示をしていたのは誰?」

「エリニアです」

「えりにあ?」

「エリニア=ネルケ。後宮の下級女官で平民です」

「保証人は?」



 そう尋ねたのは、王宮にただの平民は勤められないからだ。



「ナスティア子爵です。ナスティア子爵は、法務院に勤務しており、エリニアはその妾腹の娘になります」



 貴族の保証を受けられる平民だけが、王宮に勤めることができる。けれど、貴族はそう簡単に平民の保証人になどならないものだ。

(でも、それが自分の子供なら話は別)



「そう」



 そして、実は保証人がいても平民は正しくは侍女や女官にはなれない。

 リリアは下級女官と言ったけれど、本来、そんな役職はない。女官は女官でしかなく、下級とか上級という区別はないのだ。

 けれど、平民でありながらその能力を認められて、特別に本来は平民には任せることのない仕事をすることになった時、その人は女官相応と言われる地位を与えられる。それを通常の女官と区別するために下級女官と呼んでいる。

 エリニアの場合はそれに該当しているのだ。



「では、ナスティア子爵は、私に何か思うことがあるの? それとも、エリニア自身があるの? それを調べて教えてくれる」

「……はい」



 やや間があった。もしかしたら、リリアの知己なのかもしれない。



「……妃殿下は、エリニアが故意にしたとお考えなのですか?」



 表情が少し硬い。



「あのね、カトラリーも私のものではなかったの。……どちらか一つであれば、間違いということもあると思うけれど、両方とも間違いというのはおかしいと思うのよ」



 私の手は小さい。そして、あまり力もない。だから通常のカトラリーは重いのだ。最初の頃は普通のものを使っていたけれど、殿下と朝食をとるようになってから、殿下の配慮で専用のカトラリーを使うようになっていた。

(平民でありながら下級女官になるほどの能力のある人が、単純な間違いを重ねるとは思えない)



「……はい」



 リリアがうなづく。無表情な中にもちょっと躊躇っているような……あるいは納得いっていないような様子がうかがえる。

(リリアは、殿下に比べれば全然わかりやすいです)

 殿下のポーカーフェイスっぷりはリリアを数倍上回る。



「リリア、その顔だと誤解してると思うのだけれど、私はエリニア=ネルケが悪意でそれをしたとは言っていないわ」

「妃殿下?」

「私用のお料理に何か不備があったから、通常のものにしたのかもしれないわ。……同じようにカトラリーが使えないような何かがあったのかもしれない。私は、別に彼女を罰したいわけじゃないわ。……ただ、どうしてなのかが知りたいだけなの」



 理由があったのか、不備があったのか……純粋に間違いだったとしても構わないし、嫌がらせだったとしてもそれはそれ。私は単に因果関係を知りたいだけなのだ。



「妃殿下……」

「別に嫌がらせだとしても、これくらいで処分したりはしないわ」



 嫌がらせだとしても随分とささやかなものだし、被害は私のおなかが物理的にいっぱいになったくらいだ。咎めるほどのことはない。

 嫌がらせというのなら、かつてのほうがよほどひどい嫌がらせが多かったと思う。

(……話に聞いただけで、覚えていないのだけど)

 とりあえず今のところ、生命を脅かされるようなことはないのだから、さほど気にしなくてもいいだろう。

 リリアは安堵した表情で一礼し、退出しようとする。



「あ、待って。他の人のことも聞いちゃいたい」

「他の方、ですか?」



 もちろん、昼餐会の前に四公爵のおおまかなプロフィールは頭にいれてある。

 でも、幾つか聞きたいというか確認したい点があるのだ。



「そう。面倒くさいお父様は置いておくとして……まずは、グラーシェス公爵。前もって聞いていた通りの厳しい方っぽいけど、奥様には甘いのね?」



 グラーシェス公爵の第一印象は、痩せぎすで狷介。一言でいうならば、子供が一目で怖いと思うような



「はい。公爵妃はエレーヌ=セフィラ様とおっしゃいます。ご存知の通り、エレーヌ様はエルゼヴェルトのお生まれで、グラーシェス公爵にとっては二度目の奥様になります。公爵は十二歳の時に七歳年上の奥様を迎えて、十五歳でその最初の奥様を亡くした後、三十を過ぎてから再婚なさいました。エレーヌ様は当時十五歳。……ちょうど、殿下と妃殿下と同じような年齢差でございますね。婚姻前は側女があったといいますが、婚姻後はエレーヌ様お一人を守っておられるそうです」

「政略結婚ではなかったの?」

「政略結婚でございますが、年齢差がおありのせいで、公爵はエレーヌ様の保護者のようなお気持ちでいらっしゃるようです。常に庇護する騎士としてあられ、エルゼヴェルト公爵令嬢として箱入りに育ったエレーヌ妃を守っておられます」



 たぶん、婚姻して五十年近くたつはずだ。今の私には五十年後なんて考えられないほど遠い先だけど、その仲睦まじさは羨ましい。

(……ただ、あの方、ちょっと夢見がちっぽい感じがしたよね)

 とても上品なマダムといった雰囲気があるグラーシェス公爵妃だったけれど、ちょっと空気読まないとこあるなぁと感じたのは、たぶん気のせいではない。



「フェルディス公爵夫妻は、あんまり強い印象がないのだけれど……」

「フェルディス公爵は、公爵の位につかれてまだ三年ほどです。北公と同年代の御父上の後を継がれたのですが、先代のフェルディス公は随分と強烈な性格をなさっておりましたが、ご子息はまったく似なかったと言われております」



(ああ、うん。わかる。ずっと押さえつけられていたんだね)

でも、だからといって彼が印象の薄い穏やかなだけの人と思うのはたぶん間違いだ。

(商のフェルディスを継いだ方がそれではやっていけないはずだもの)



「奥様はどちらの方なの?」

「アルハンです。アルハンの赤毛を受け継いではおられませんが、亡くなられた先代公爵と同母の妹姫にあたります」

「アルハン公爵は食べることがお好きなようだったわ」

「はい。……といっても、味にとてもうるさいという方ではありません。生粋の軍人であらせられますので、王太子殿下ではありませんけれど、携帯糧食が続いても文句を言わない御方です」



 私はミレディに手伝ってもらいながらガウンを脱いで、部屋着に着替える。



「奥様は亡くなられてどのくらいたつの?」

「七年ほどになるでしょうか……王族の血筋の姫君でした」

「ご令嬢はその方のお子様なの?」

「はい。お世継ぎのレオン様と本日ご一緒にいらしていたレナーテ様は公爵妃所生のお子様方です」

「ご令嬢も、食べることがお好きなようね」

「アルハンの一族はわりあいそういう傾向にあります。武人が多いせいかもしれません」



 そういえば、食べることが身体を作ることだというのが、アルハン公爵家の家訓の一つだとナディル殿下からお伺いしたことがある。



「ご子息の方は知らないけれど、軍人なの?」

「いえ。……レオン様は、軍にはお勤めではありません。アルハンに生まれながら文官気質の強い御方で、よく廃嫡の噂が出ます」

「どうして?」



 それから、マーゴに促されるままにベッドへとのぼる。

 この年齢で昼寝なんて!って思うんだけど、奨められるのだから仕方ない。



「レナーテ様の評判が高すぎるせいで、悪目立ちしているようなところもありますが」

「ふーん」



 リリアが上掛けをめくって、寝ろとばかりに場所を作る。



「それでは、妃殿下。二時間ほどお眠りくださいませ」

「……うん」



 あんまり眠くないけど、と思いながらも目をつむる。

 もしかしたら、自分が思っている以上に疲れていたのかもしれない。

 視界が閉ざされて三分としないうちに、私は深い眠りに落ちた。








[8528] 9 夜会のはじまり
Name: ひな◆d13cf26c ID:ab94230f
Date: 2019/06/28 01:22
 夜会の席では、飲食をしないようにと言われている。

 もちろん、昼寝のあとだからといって、昼餐会で食べたものがすぐに消化されたはずもなく、これ以上食べなくて良いことにちょっとだけ安心した。

 夜会は舞踏会だから日中と違って食事はメインではないけれど、壁際のテーブルにはいろいろな料理が並んでいると聞いた。ビュッフェみたいに好きなものを好きなだけとっていいそうだ。

(まだ、消化しきれてないけど)



「ルティア、大丈夫か?」

「……はい」



 私は柔らかな笑みを浮かべてみせる。

 熱があると言われたけれど、私の体感では少し暑いかなって思うくらいで特に気にするほどのことはない。

 殿下を見ると、頬が緩む。

 一緒に居られるだけで心が浮き立つ。

 私の腰に回される手……抱き上げられるのではなく、こうしてエスコートしてもらえることが嬉しい。

(我ながら単純だなぁ)



「寄りかかっていなさい」

「……大丈夫ですよ?」



 少し暑いと感じているだけで、別に眩暈がしたり、歩けなくなったりするわけではないのだ。



「無理はしないように」

「はい。もちろんです」



 小声で会話を交わす私たちの前で、儀礼官が私と殿下の訪れを高らかに告げ、合図のラッパが鳴らされる。

 大広間へと続く正面扉が重々しく開かれた。



(眩しい……)



 きらめくシャンデリアはもちろんのこと、そこここに常夜灯がともされている。

 これだけの灯火があると、電気ではなくとも夜を感じさせないくらいに明るくなる。

 やや甘みのある薔薇の香りが漂っているのは、高級な蝋燭が惜しげもなく灯されているからだ。



「……どのくらいの人数がいらっしゃっているのでしょう?」

「最大で二百五十を少し越えるくらいか」



 私たちはこっそりと言葉を交わす。



「二百五十……」

 それが、夜会の出席者として多いのか少ないのかはわからない。けれど、『私』が戻ってきてからそんなにも多くの人が一か所に集まっているのを見るのは初めてだ。

(……おしのびで連れて行ってもらったユトリアでだって、そんなにたくさんの人が集っていることはなかった)

 夜も賑わう繁華街での様子を思い浮かべる。



「今日の夜会の招待状を受け取ったのは、男爵以上の百二十八家だ。招待状の文面からその当主夫妻だけに出席する権利がある。もちろん、妻がいなければ妻の代わりに娘や婚約者を連れてきてもかまわない。ただし、妾や愛人は不許可。だから、すべての家が二人ずつ参加するとしても最大で二百五十五人。そこに王族……私と君、それから、アルと双子を足しても二百六十人だ」



 なるほど二百六十人と思いながら、開かれたドアから大広間に足を踏み入れる。

 ここは最も格式が高く、最も広い大広間で、それだけの人がいても、詰め込まれているという感じはまったくしない。

 私たちに向けられる視線……そして、張り詰めた空気に心がほんの少しだけ怖気づく。これが初めての夜会なのだから当たり前だし、私はこんな風に注目されたりすることに慣れてない。

そこから現実逃避するために別のことを考えようとして気づいた。

(……あれ、二百六十一人じゃないのかな?)

 私の考えたことがわかったのだろう。殿下はちょっと私に笑いかけて続けた。



「エルゼヴェルトの参加者が二人になることはない」

「あ、なるほど……え、参加資格がないんですか? 公爵夫人」



 そういえば公爵は一人参加決定だよね、と思ってから、あれ? 後妻の人は参加資格がないのかな? と改めて疑問に思う。



「単なる制度上、ルール上のことならば資格はある。彼女は公爵夫人だから。でも、王家が主催する……あるいは、王族の出席する催しに彼女は出席しない。というよりは、できないだろう。いくら東公といえど、私たちの気持ちを逆なでしてまで夫人をつれてくる気はもうないだろう」

「もう?」

「何度か連れて来たことがある。が、私やアル、アリエノールも彼女が来たら退出する」


 きっぱりと殿下は言った。

 私は、殿下にエスコートされてて二つに割れた人垣の真ん中を歩きながら、にこにこと両側の人たちに愛想を振りまく。もちろん、誰が誰だかなんてわからない。

 殿下も、こんな内容の話をしているとは思えないほどにこやかな表情をなさって知己らしい相手と目線だけで挨拶を受けたり、会釈を交わしたりしている。


「……根深いのですね」

「そうだ。……個人的な感情を政治的な判断に反映させてはいけないというのは当然のことだが、この一件だけは例外だ。別に公爵夫人個人がエフィニアに何かしたということはなかったが、彼女の存在と彼女が成したことがエフィニアを……王女を殺したのだと私たちは考えているからな」


 うん。この話、何度聞いても現在進行形なんだよね。もう十年以上前のことなのに。


「……ナディル殿下は、母が死んだことを私のせいだとは思わないのですか?」

「……なぜ、君のせいなんだ?」


 心底不思議という表情で殿下は私の方に視線を落とす。


「私を生んだせいで身体を損ねたことが死因なのだと思います」


 私は皆に笑顔を振りまくために見上げていた視線を戻す。殿下は私が目をそらした理由を理解したのだろう。私の背に添えた手がそっとなだめるように動かされた。


「……身体がさほど丈夫ではなかったことも死因の一つではあるのだろう。だが、最も彼女を蝕んだのは、公爵と当時は愛人でしかなかった公爵夫人の無神経な在りようだった。愛人がいたことについては私がとやかく言うことではない。だが、領地での結婚式を終えたその夜に、同じ敷地内の離れに住まわせた愛人の元に通う新婚の夫に、エフィニアが心を痛めなかったと思うか?」

「いいえ」


 本当の気持ちは母本人にしかわからない、と言いたいところだけど、それだけはきっぱりと言い切れる。仮に政略結婚相手の上に心がなかったとしても、その初夜に夫となった相手が愛人の元に通うことを許せる妻はいないと思う。

(……ありえないことだけど、それを感情的には許せたとしても政略結婚なら絶対に許してはいけないわけだし)

 政略結婚だからこそ守らねばならない筋というものがある。

 公爵がしたことは、政略結婚の新妻をないがしろにしたというだけではない。妻の実家である王家をないがしろにし、この上ない屈辱を与えたのだ。

そのことを今現在も、王家は赦していない。亡くなられた陛下はもちろんのこと、ナディル殿下もだ。



「この一件に関しては、君がどんなに口添えをしようとも決して赦すことはない」

「え、なぜ私が望むんですか?」

「記憶のない君は、公爵夫人に同情しかねないから」

「……私が一番大事なのはナディル様なので、できる限りナディル様の御心に添いたいと思ってますよ? そうおっしゃるナディル様のお気持ちを無視して、顔も知らない公爵夫人のために口添えをする気は毛頭ありません」


 殿下の足が、一瞬、止まった。


「ナディルさま?」

「……いや……何でもない」


 眼差しが和らぐ。

 いつも以上に甘く見えるその目の色に、私はにこっと笑った。殿下も笑みを返してくれる────たぶん、他の人には殿下が笑ったようには見えなかっただろうけど。


 そして、上座に置かれた豪奢な二つの椅子……仮の玉座にエスコートされたときにはもう、私の中に夜会に対する緊張など欠片も残っていなかった。




[8528] 10 ファースト・ダンス
Name: ひな◆d13cf26c ID:ab94230f
Date: 2019/06/28 01:24
 緩やかな弦の音が、耳になじんだメロディを小さく奏でていた。

(『ランドルリーチェ』)

 元々はエルゼヴェルト地方の民族舞踊の曲で、その後、歌劇『花の女王』の主題曲となって誰もが知る人気曲となり、円舞曲に編曲されて今では夜会で必ず何度か演奏される定番曲になった。
 この曲が夜会で一晩のうちに何度も演奏されるほど人気があるのは、『春の女王』が今も人気の歌劇であること、それから、曲が短くて踊りやすいせいだろう。

(……まだ、もうちょっと準備中かな)

 フルオーケストラがそろうと絢爛絢爛と花が咲き誇る様を思わせる堂々たるメロディになるのに、まだ弦が数本しか参加していない今は、どこか物悲しく聞こえる。

(あと、三分くらいかな……) 

 頭の中で、流れるメロディに合わせながらステップの最終チェックをする。
 この夜会での目標は、とりあえずファーストダンスを滞りなく終わらせることだ。 

(そもそも、私と殿下の身長差でダンスしようというのが、無理があるんだけど!)

 頭二つ分くらい違う身長差ではホールドするだけでも一苦労だ。
 だから、今日この日のためにたくさんの準備をした。
もちろん練習もしたし、武器も準備した。

(私にとって、ここは戦場だ)

 初めての夜会。
 そして、ほとんど初めての社交の場。
 もう緊張はしていないけれど、少しだけ気は重い。
 
(……できる限り美しく在ること。そして、殿下の隣に立つこと)

 自分に言い聞かせる。それが、王太子妃である私の大切な役目だ。
 うっすらと施したメイクも、艶やかな真珠を編み込んだ新しい髪型も、それだけで一財産になりそうなガウンもそのための武器で……そして、今の私にとっての最大の武器はこの小さな足を包む靴だった。
 ガウンと同布で作られた高さ十二センチのハイヒールは、見た目は大変エレガントな代物だ。もちろん、熟練の職人によって丁寧に作られたオーダーメイドである。

(このかかとで絨毯に穴が開けられそうなピンヒールは秘密兵器なんだから!!)

 光沢のある深みのある濃紺のシルクタフタにいろいろな青の色合いのロゼフィニアがグラデーションで刺繍がされている靴は、ぱっと見は花束のようにも見える。地に刺繍しただけではなく刺繍素材を使った造花で飾られ、素材がよくわからないけれど白い踵部分にも刺繍と同じくらいの繊細さでロゼフィニアが彫刻されている。

 ロゼフィニアというのは、七枚の花弁を持つダーディニアの国花だ。
 夜色を基本にさまざまな青の色合いのカラーバリエーションを持つ花で、王族の紋章のモチーフに必ず使われ、大学の校章にも使われている。
 大学の学徒の校章をのぞけば、ロゼフィニアで身を飾ることができるのは王族だけと決められている。そういう特別な花のモチーフで私の身を飾らせるあたり、ナディル殿下には何か思惑があるのだろう。

(靴下もガウンもこの花だし……)

 ほとんどストッキングのような薄手の靴下は、靴と同じ刺繍職人の手による刺繍の施されたもの。夜色のガウンはやはり同じようにロゼフィニアがモチーフだ。すべて一式、ナディル殿下がプレゼントしてくれたものである。

(殿下の贈り物ってものすごく素敵なんだけど、お値段が凄そうなんだよね……)

 しかも、公式の場で一度着たドレスを再度公式行事に着ていくことはできない。

(もしかして、私、ものすごく貢がせてるのでは?)

 え? これも、餌付けが成功しているおかげと考えるべきなんだろうか?
 ほどほどでいいのだけれど、どのあたりまでがほどほどなのかがわからないのが悩みどころだ。

 ランドルリーチェのどこかもの哀しくも聞こえるメロディは、演奏する楽器が増えていくごとに次第に厚みを増していく。

(あ、金管が加わった)

 少しづつ参加楽器が増えてフルオーケストラがそろったところで、最初のダンスははじまる。

(……そろそろかな)

「準備はいいか?」

 こっそりと小声で問われる。

「はい」

 私はうなづいて、それから自分の足をみる。
 この年齢でこんなハイヒールを履くなんて、足に良くないことはわかっている。わかっていても、そうしなければいけないことはある。
(これは、乙女の意地なんだよ)
クッションになるような中敷きやら何やらで、この上なく足にぴったりとフィットしていても、やはりハイヒールはハイヒールだ。
(つまり、軽く拷問的というか……まあ、負担ではあるよね)

ハイヒールは履きこなすのに努力がいる靴だ。訓練がいると言い換えてもいい。
(最初は、ただ立つことさえ大変だった……)
 美しい立ち姿をキープできるようになるのに二週間。それから、リリアの及第点に達する歩き方ができるようになるまでそこからプラス三か月がかかっている。
(それから、本番と同じデザインの正式なガウンを着て、この靴で歩くのも大変だった)

 普段着と正式なガウンの一番の違いはスカート丈だ。花冠前の私に許されるのは最も長くてミモレ丈とロング丈のちょうど真ん中くらい。普段着はだいたいミモレ丈なのだけれど、正式なガウンは最大限の長さで作っている。
(今回は、ペチコートのレースをのぞかせているからさらにちょっと長いかな)

 成人女性のくるぶしがちょうど隠れる丈ではハイヒールの意味がまったくないけれど、今のこの丈は、ハイヒールの足をとても魅力的にみせてくれる。注意しなければいけないのは、ダンスの時にステップを間違ったらすぐわかってしまうということ。
 すべての楽器の音が揃うと、ナディル殿下が立ち上がった。

「……踊っていただけますか?」

 ナディル殿下が、私の前に膝まづいて手を伸べる。

「よろこんで」

 私はそっとその手に己の手を重ねる。
 お互いわかっていても同じ問答を繰り返す。様式美だ。
(……せめて、あと十……いや、二十センチは欲しいな……)
 これだけ頑張っても、そっと背に回された手の位置はかなり上の方だ。気を抜けば、すぐに足は宙に浮いてしまう。
(……うん。できる)
 目をつむって、深呼吸を一つ。
 それから、まっすぐと殿下を見上げた。殿下の眼差しが、私を案じる色を宿している。
 私は大丈夫だというように小さくうなづいた。
(視線が痛い……)
 もちろん、殿下に対しても熱い視線が注がれているけれど、この場で最も視線を集めているのは私だ。
(公式の場に出るのはほとんど初めてだからなぁ……)
 金管が澄んだ高音を響かせ、それに合わせて足を滑らせる。
 殿下はつないだ手を上にあげ、クルリと私を回転させた。
(足元は見ない)
 どんなにステップが危うかろうとも下を見る必要はない。
(殿下にお任せすればちゃんとリードしてくださるもの)
 クルクルと回りながらフロアを一周する。 

 私はできうる限りの優雅さでもって一緒に回りながら、柔らかな笑顔を振りまいた。



[8528] 11 ナディア姫と秘密の話
Name: ひな◆ed97aead ID:640108d3
Date: 2019/11/09 11:46
「……ルティ」

 第二王女であり、ナディル殿下の異母妹であるナディア・ユリシア姫……ナディが来たのは、ファーストダンスが終わった直後だった。

 痛むつま先と攣り気味のふくらはぎを気にしながら仮玉座の隣の椅子に座ったと思ったら、まるで待ち構えていたかのようにやってきた。ナディはすごくせっかちなところがある。

(あ、これ、終わるの待ってましたね。絶対)

 三分足らずの曲を踊るだけで精一杯だったので、ナディが来てくれてすごく嬉しかった。ナディとお話していれば、次のダンスに誘われることはないからだ。

「……王太子殿下、妃殿下とお話させていただいてもよろしいですか?」

 ガウンをつまんで略式の挨拶をした後、ナディは、やや思いつめたような表情で口を開いた。

 最初は殿下とはまともに会話ができなかったナディだけど、何度も私のところに遊びに来るうちに慣れたせいでだいぶ緩和された。なのに今は、久しぶりに顔色が悪くなるくらい緊張している。

(まあ、兄妹の親密さはあんまりないけど……)

 たぶん、殿下は自分が庇護する対象ではない異母妹にどう接するのかよくわかっていない。

もちろん、私も正解を知っているわけじゃないし、そもそも正解があるようなものでもないけれど、殿下のナディへの接し方は王太子が貴族令嬢に対する時のそれでしかない。強いて言うならば、名で呼ぶことだけが特別なくらいだ。

「構わない。……ルティア、ナディアとここにいなさい。飲み物を持ってこよう」
「ありがとうございます」

 大変の気の回る殿下は、私とナディを二人にしてくれる。
 自分がいたらナディが話しにくいということを理解しているのと同時に、私が熱があるせいで暑く感じているから冷たいものをと考えたのだと思う。

 夜会の席では何も口をつけないようにと言われているけれど、殿下が持ってきて下さるのならば話が別だ。

「どうしたの? ナディ」

 どう話していいかわからない様子のナディに、私から声をかける。

「ルティ、ごめんなさい」
「え?」

 いきなり謝られて首を傾げた。

「……いきなりこんなことを言って本当に申し訳ないのだけれど」
「……どうぞ」
「あのね……その……」

 躊躇うナディは、何度も言いかけながらも口を閉ざす。

「……ナディ?」

 仮の玉座は上座に置かれていて、皆は一定距離からは近づかない。別に仕切りがあるというわけじゃないけれど、そういうルールなのだ。

(視線は痛いくらいだけど!)

 ナディは王族だから、自分から来ることができる。でも、王族ではない者は、呼ばれなければ自分からここまで来ることができない。
 そして、王女であるナディが話している限り、他の人間はナディを押しのけて私に話かけることはできないのだ。

(王宮儀礼ってほんと細かいから……)

 でも、だからこそ、殿下は私とナディをここに置いて席を外したのだと思う。
 そうでなければ、私に過保護な殿下が私たちだけで置いていくはずがない。

(この夜会での最大のお仕事は終わりました! あとは、殿下の隣でにこにこしてるだけです)

 退出しても構わないと言われているけれど、ダンス終わってすぐに部屋に戻ったら、いかにも義務のためだけに出て来たみたいだから、ちゃんとタイミングははかるつもりだ。

(それに、ちょっと牽制もしておきたいんですよね!)

 とりあえず、いろんな噂だけが先行している状態だから、ここで一つ、私たち、実はすっごい仲良しなんです! っていうところをみせておきたいのだ。
 私だっていろいろ腹黒く企んだりするんです。

「ナディ、新しいガウンですね。やっぱり、オレンジ似合いますよ」

 私はナディににっこりと笑いかけて、話をかえた。

「ありがとう。この髪色だから合う色は限られてるから……ルティが私にもオレンジが似合うって言ってくれたから」

 素直なナディは嬉しそうにその話にのってくる。ナディは、ファッション関係の話が好きだし、流行にも詳しい。流行を作り出すタイプではないけれど、情報収集は欠かしていないのだ。

「ええ。すごく似合ってます」

 ナディのガウンはピンク系統が多かった。それも、割とどピンクな色合いの物が。
 もちろんナディに似合う色ではあったけれど、ちょっと子供っぽかったのは事実だ。

(同じピンクの色合いでも、もっと淡い色あいのものや、サーモンピンクっぽい色合いやグレイッシュピンクっぽいものだと違うんだけど……あとはデザインよね)

 今の流行はレースが過剰なくらい使われているもので、これはある意味、財力の誇示でもある。
 レースというのはほんの少しだけでもかなり高価なのだ。
 実は、ナディの今日のガウンは二人でデザインを考えたものだ。

 レースは流行ではあるけれど多用するのはどうかと思うので、使い方はポイントを絞った。
 オレンジのガウンの色自体よりもやや淡い色合いのレースを胸元と袖口に使っている。手袋は白だけど、オレンジの小花の刺繍を散らしてある。

 成人しているナディの夜会用のガウンはデコルテが開いていて、その胸元を大ぶりの首飾りで飾った。……このあたりは流行通り。基本を押さえつつ、自分なりの個性を出したっていう感じにまとめてある。

「その真珠の首飾りは、お母さまの物では?」

 見たことのあるデザインだった。
 白い小粒の真珠と大粒のコンクパールとで美しい模様を編み上げたそれは、ナディのお母さま……アルジェナ妃殿下の自慢の一品だったはずだ。

「そうよ。母からもらったの。もう大人なのだからって」

 ナディはちょっとだけ嬉しそうだ。

 何だかんだ言ってもお母さまのことを嫌いにはなれないのだと言っていた。

 つまらない嫉妬……ナディの言い分だ……で、私に何かしようとしたりとか、口うるさいこととか、ナディの結婚についてああでもないこうでもないといつも文句ばかりでどんな候補も結局、却下することとか……そのくせ、嫁き遅れる心配ばかりしているのだという。

(どこの世界でも、こういう悩みは一緒なんだな)

 私はあちらでは十代の終わりに、こちらでは生まれた直後に亡くしていて、母と言う存在とあまり縁がないから話に聞いただけだけど。

(少し、羨ましい……)

 私には、近しい血縁関係……つまるところ、親子や兄弟や姉妹関係……だけにある疎ましく思うほどの近しさを理解できない。

 あちらにおいても、こちらにおいても、『私』は家族の縁に薄いからだ。

(それでも、話だけはよく聞くから……)

 口に出して言えば、あなたにはわからない、と言われるだけなので、私はそっと口を閉ざして話に耳を傾ける。そのせいで、実例だけはかなり豊富にしっていると思う。

 ナディの場合、妃殿下が郊外の離宮に行かれて物理的に離れたことで、ほど良い関係に落ち着いたように思える。

 近すぎると嫌なことが目に付いてお互いに細かいことで角突き合わせるけれど、離れていると互いに思いやることができるものだ。

「美しい真珠ばかりですね。さすがアルハン」

 真珠、と言えばアルハンの特産で、だからなのか、アルジェナ妃殿下のアクセサリーは真珠がとても多かった。
 赤い髪だと白い真珠が映えるということもある。

「白い真珠が一番人気があるのだけれど、真珠にもいろんな色があるの。中でも、これに使われているような薄紅のパールはすごく珍しいのよ。伯父様が次の誕生日に髪飾りを贈ってくださるというから楽しみにしているの」
「へえ」
「ルティのガウンも素敵ね。王太子殿下はいつもご趣味がいいわ」
「……なんでそこで殿下なんです?」
「だって、ルティの物は全部王太子殿下のご指定でしょう?」
「そうですけど……え? それ、有名ですか?」
「有名っていうか……基本、妻の身を飾る品は夫が贈るものだもの」
「……ああ、なるほど」
「基本っていうだけよ。ルティの場合は、お父様やユーリア様、実家からの献上品なんかもあるでしょう?」
「ええ、そうですね」
「でも、こういう改まった席では王太子殿下のものだけにしておくのよ」
「はい」
「……そのカフス、殿下の物でしょう?」

 ナディが私のガウンの袖口を注視する。

「ええ。……殿下がつけてなさいって」

 昼餐会のガウンから着替える時もリリアたちは忘れずにこれを付け替えたのだ。

 幸いというか、計算通りなのか……紫水晶は、私の今日の夜色のガウンともよく合っている。

「いただいたの?」
「え、貸してくださっただけだと思いますけど?」
「わけないじゃない。使いなさいってことは下さったってことよ。それに、殿下が新しく使っていらっしゃるカフス、青玉石だものルティの色じゃない」
「え?」
「やだ。気づいてなかったの? あれ、貴女の瞳の色そのものの色合いよ。すごーくあの色捜したと思うわよ」
「え?」
「あんなに濃い色合いの青玉石は珍しいし、加工してあるとはいえかなり大きいと思う」

 ちょっと、何言うんですか、ナディ! こんなところで!!

 顔がすごく暑い。絶対に赤くなってる! と思って、慌てて扇で隠す。

「それに、その靴もとっても素敵ね」
「あー……見た目はとってもかわいいんですけど、これ、結構、拷問靴なんですよ」
「拷問って……え? 大丈夫?」
「ええ。……すごく綺麗で可愛いんですけど、訓練しないと履けないんです。踵が高いから、慣れない人だとよちよち歩きになるんですよ」
「え、そうなの?」
「そうなんです。ここだけの話、私と殿下が何とかダンスを踊るための苦肉の策なんです」
「……身長差があるものね」
「ナディとエオル殿下が羨ましいですよ。あんまり差がなくて」

 ナディのパートナーは双子の兄弟のエオル殿下だ。
 おそらく、どちらかに婚約者ができるまではずっとそうだろう。

「双子だから……でも、エルは不満みたい」
「何がです?」
「私とパーティに出るのがよ。不満だったらさっさと婚約でも何でもすればいいのに」
「それ、お互い様になるから言わないほうがいいですよ」
「そうなんだけど……」

 ナディは不満げに少しだけ口を尖らせる。
 そんな他愛のない話をしていたからか、ナディの顔色が少し良くなった。だんだんと落ち着いてきたのだろう。

「……それで、どうしたんです?」

 何か困ったことでもありましたか? と話すように促すと、ナディは小さく首を横に振った。

「……私じゃないの」
「ナディでなければ、エオル殿下ですか?」
「違うわ」
「では、誰の困ったことなんです?」
「貴女よ、ルティ」
「私?」
「ええ。……私の従妹……アルハン公爵令嬢であるレナーテを知っていて?」
「はい。今日の昼餐会でお会いしました」

 あの食べるの大好きっぽいご令嬢ですよね。

「……もしかしたら、レナーテが後宮に入るかもしれないわ」

 周囲が憚られたのだろう。ナディは扇で口元を隠して、ものすごーく小さな声で言った。

「……えーと、それは、殿下の妃として、という意味ですか?」

 私も自分の扇で口元を隠して問う。
 まったく聞いてない話だけど、ナディはたぶん令嬢側から聞いたのだから、間違いというわけではないのだろう。

(ナディル殿下に話がとおっているかどうかは別にして)

「ええ」

 ごめんなさい、とナディが顔を伏せた。私には何もできなくて、とつぶやく声音に口惜しさが滲んでいた。別にナディの謝ることじゃないのに。

「ナディが気にすることじゃないですよ」
「でも……アルハンから、貴女のライバルを送り込むなんて」

 ナディは己が王女であることをよく理解している。そして、同時に母の実家であるアルハン公爵家とのつながりを大切にしていた。

「……ライバル、ですか?」

 ピンとこなかった。

(というか、私が産んだ子供しか世継ぎになれないことがわかっているのに、自分の娘を妃にというのはどういう意図なんでしょうか?)

 ライバルというには最初から立場に差がありすぎる。

他の国であれば、子供さえできてしまえばこっちのものだと考えるのかもしれないけれど、ダーディニアではそれはあり得ない。

それに、昼餐会でお目にかかった限りでは、アルハン公爵もご令嬢も悪い方には見えなかった。

(悪い方っていうか……裏で腹黒く立ち回るタイプじゃないですよね、お二人とも)

 人は見た目ではわからないというけれど、見た目でわかることだってたくさんある。

 裏で立ち回るタイプなのは、おとーさまとか、殿下とかだろう。

「レナーテ様って、殿下のことをお好きなのですか?」

 昼餐会の様子を見る限り、そういう気配はなかったのだけれど。

「……たぶん、そういう意味では別に好きじゃないと思うわ。……レナーテの好きな人を知っているわけじゃないけれど」

 ナディは少し考えてから、口を開いた。

(ナディル様を好きで好きでしょうがなくて、ただ傍にいたいからってわけじゃないのか)

 そういう理由で押しかけ嫁に来るというのなら、話はわかる。令嬢を殿下の第二王妃としても、今の状況では公爵家としてはまったくメリットがない。むしろデメリットの方が多い。それでも、娘の希望を叶えたいと言うのなら意味はわかる。

 でも、そうでないのなら、何を考えているのだろう?

「……あの、失礼ですけど、レナーテ様って公爵家で持て余されているのですか?」

 扇を持ち直し、その影で再びこっそりと尋ねる。

「え?」

 ナディが目を丸くした。何を言われたのかわからない、という顔だ。

「そんな風には見えませんでしたけれど、アルハン公爵に嫌われているとか?」
「ないわ。それは絶対にない。……伯父様にとってレナーテは自慢の娘よ。だからこそ、これまで再婚もさせずに手元に置いていたのだから」
「再婚?」
「……遡及離婚しているから。形式上はレナーテは未婚の公爵令嬢だけど、本当は一度結婚しているのよ」
「へえ……」

 遡及離婚……過去に遡って、結婚をなかったことにすることだ。
 昼餐会前に簡単に教えられた出席者のプロフィールやその後に教えてもらったいろいろな話の中にはその情報はなかったように思う。

「結婚していた相手は私たちの従弟なのだけれど……身体が弱くてね。まあ、だからこそ身内で、当時からしっかりしていると有名だったレナーテが花嫁に選ばれたの。レナーテが公爵家を差配することも考慮の上でね」
「お相手はもう亡くなっているんですね?」
「そうよ。結婚生活なんてほとんどなかったんじゃないかしら」
「……それは哀しいことですね」
「そうね。……でも、そういえば、レナーテはその時のことは全然話さないわ」
「遡及離婚をなさったのでしたら、表立って口にできることはありませんから……」

 誰もが知っていることであったとしても、教会がその記録を抹消した以上、それはなかったことなのだ。口にできるはずがない。

(そこまでして未婚にした令嬢を、第二王妃にする理由はまったくないんだけど)

「……意味がわかりませんね」
「……どうして?」
「アルハンのメリットがまったくありません」
「でも、レナーテはもう子供が産めるわ。後宮に入れば、たぶん、ルティよりも先に子供を産む」

(もし実現すればそうですけど。……でも、その子供は玉座に座れないんです)

「……たとえば、レナーテ様が殿下の第二王妃になって、子供が生まれて……それで、私が後で子供を産んだら、どちらの子供が後を継ぐと思います?」
「…………たぶん、ルティの子供だと思う」

 少しだけ考えて、ナディが言った。

「ええ。私もそう思います。では、ナディにわかるそういうことがアルハン公爵にわからないと思います?」
「ううん。伯父様は剣術馬鹿だけど、それはわかるわ。それに、伯父様はレオン……跡継ぎのレオンよりもレナーテに婿を取って継がせるつもりじゃないか、なんていう噂もあったくらいだから、レナーテに後宮にあがることを奨めたって聞いてちょっとびっくりしたくらいなの」
「……逆にそのせいかもしれませんね」
「え?」
「公爵は跡継ぎを替えるおつもりはないですけれど、レナーテ様を大事にしていたらそういう噂がでてきてしまった。……否定しようにも、そういうことって面と向かって聞く人間がいませんから、否定のしようがありませんよね」
「普通、聞けないと思うわ」
「でも、否定しないと跡継ぎのレオン様にも、レナーテ様にもいいことではありませんから……特定の個人の名をあげるといろいろ噂になったり問題になりますけど、殿下の名をあげるのはセーフだと思うんですよね」

 噂になるだけなら年中噂になっているし、そういう話をすれば公爵の真意を察することは難しくないだろう。

「せーふ?」

 ナディが可愛らしく首を傾げる。

「えーと、大丈夫ってことです。殿下の元にあがるとかあがらないとかというのは、話だけなら毎日山盛りですから、決まるまで誰も本気にしませんよ」

 少なくとも、私は本気にしない。

「でも、そういう話をレナーテ様やレオン様にすれば、お二人にはちゃんと公爵のお考えは伝わると思うんです」
「そうね」

(あと考えられるのは、公爵がよっぽど殿下に心酔してる場合かな……)

 その場合は、レナーテには酷い話になるだろう。

「……もし、本当にそういう話になったら私、絶対に反対するから! だから、ルティ、私のこと、信じてね」
「もちろんです」

 互いに扇の陰で内緒話をする私たちの姿は、おそらく会場中の注目の的だっただろう。 
 それがどういう意味を持つのか……第三者の目にどういう風に映るかを私はわかっていなかった。




[8528] 12 退出
Name: ひな◆ed97aead ID:640108d3
Date: 2019/11/09 11:53
「ルティア」
「……殿下」

 振り向くと、そこには殿下がいた。
 手にはガラスの杯を二つ。

「少し、飲みなさい」

 殿下は一口自分で口にしてから、私に杯を手渡す。

「ありがとうございます」

 中に入っていたのは檸檬の輪切りを浮かせたハーブ水だ。

「……これは?」

 舌にとても慣れた味だった。

「秘書官が、君にはこれだと君の宮からこちらに持ち込んで用意していた」
「まぁ、ラーダ子爵にお礼を申し上げておいてくださいませ」

 殿下が昼餐を完食したのがそんなにも嬉しかったんだろうか。
 口にするかわからない私の飲み物まで準備してくれていたなんて、有り難い心遣いだ。

「……ナディア」
「え、あ、はいっ」

 相変わらずナディは、殿下に弱い。
 名を呼ばれただけで、しゃちほこばったすごーく怪しい動きになる。

(ほんと、可愛いなぁ、ナディ)

 たぶん、ブラコンなんだと思う。

「どうぞ、ナディア姫」

 殿下の後から顔を出し、ナディに杯を差し出したのは、レイモンド・ウェルス執政官だ。
 フィルほどではないけれど、何度かお話させていただいたことがあるので顔なじみと言ってもいいだろう。

「ありがとう」
「中は妃殿下と同じですよ」

 私の方を見る緑の瞳に、すぐに教えた。

「いつものハーブ水です」

 ナディは少し安心した表情で杯に口をつける。

「……私、ハーブ水をいただくようになってから、おなかを壊さなくなったわ」

 私の宮では、生では水を飲まない。
 お茶だったり、ハーブ水だったり……最低でも湯冷ましを用意している。

「ああ、それは、火をいれるからですね。生水はあまり飲まないほうがいいですよ。私も飲まないようにしています」
「一度沸かしたほうかいいってこと?」
「ええ。……ハーブ水は、ハーブを煮出すために沸かしていますから、殺菌されるんです」
「さっきん?」
「はい。えーと……生水にはおなかによくないものが入っていることもあるんですけど、沸騰させるとそれがなくなるので……」
「そう。……今度から、私の宮でも飲み物は全部わかしたお水を使うようにするわ」
「それがいいですね」

 あと大事なのはうがいと手洗いですと教えておく。

「わかったわ。……ルティ、少し体調が悪いのではなくて? 顔色が良くないわ」
「そうですか? ……自分ではあんまりわからないんですけど、少し熱があるみたいなんです」

 たぶん、わりとアドレナリンが過剰分泌中なんだろう。疲労とか体調悪いのとかがあんまりわからない。

「……ダンスももう終わってるのだから、部屋に下がっても良いんじゃないかしら。無理はしないで」
「ええ。ありがとう、ナディ。……落ち着いたら、またお茶にしましょうね」

 私の言葉に、ナディがぱあっと表情を明るくする。

「ええ。……それまでにもう少しレナーテから話を聞いておくわ」
「ありがとう」

 またね、というように、そっとお互い手を振り合った。



◆◆◆◆◆◆◆



「……話は終わったか?」
「はい」
「では、そろそろ部屋に送ろう」

 殿下が立ち上がるのと同時に、周囲の視線もまた動く。

「よろしいんですか?」
「ああ」

 殿下とお話をしていた黒髪の鋭い目つきをした人が、私と殿下を何度か見比べて、目をしばたたかせる。そして、その人は流れるような動作で膝をついて乞うた。

「……王太子殿下、どうか私に妃殿下をご紹介くださいませんか?」
「……不本意だ」

 殿下がボソリとつぶやいた。

(……不本意って何が?)

「この期に及んで往生際が悪いと思いますが?」

 くすくすと笑い声がする。

「……致し方があるまい」

 ナディル殿下は深いため息をついて言葉を続けた。

「……ルティア、これはクロード・エウス。北公の嫡孫で妹の夫だ」
「……素直に義弟とおっしゃって下されば良いのでは?」
「まあ、そうとも言うな。だが、私にとっておまえは義理の弟というよりは副官という認識が強いからな」

(フィルが右腕なら、この人が左腕ってところなのかな……)

 ナディル殿下の空気が少し和らいでいる。
 たぶん、殿下にとって特別な人なのだ。

「……ありがとうございます」

 クロードは、わかりにくいけれどほんの少しだけ頬を緩め、そして私を見上げた。

「ご紹介に預かりました、クロード・エウスと申します。かつて、殿下が近衛に在籍していた当時、副官としてお仕えさせていただいておりました」
「伺っております。……どうぞ、今後とも殿下に忠実にあってください」

 軽く目礼して、手を伸べる。

「はい」

 クロードは私の手をとって、そっと唇を寄せた。
 これ、すごく恥ずかしいけど、王太子妃が男性貴族から挨拶をうけるときの一般的な作法。
 手を伸べて甲に口づけを許すのは、あなたの忠誠を受けますよ、という意味だ。もちろん、手袋はしたまま。
 これ、生の手に口づけを許すのは特別な意味になる。

(そもそも、公式行事の席で手袋なしというのはありえないけどね)

 クロードが微妙な表情で何か問いたげに私を見る。
 私は問われている意味がわからなくて首を傾げた。

「……では、クロード、あとは頼む」

 立ち上がった殿下が、今度こそ私の退出の為に手を伸べる。

「かしこまりました」

 クロードは恭しく頭を下げた。

「よろしいのですか?」

 私は殿下の手に自分の手を重ねながら問うた。

「構わない。元々、私はあまり夜会には出席しない」

 そう。こういう夜会への出席をいつもされていたのは陛下だ。
 ナディル殿下の仕事量を考えたら、今後の夜会の出席は必要最低限になるだろう。つまり、国王となったナディル様がご自身で主催されるものだけになるのだと思う。

「私が代理で出席できるようになればいいのですけれど……」
「必要ない。代理なら執政官でも、秘書官でもかまわない」
「そうなのですか?」
「ああ。彼らが代理で出席できないようなものは、元々、私が絶対に出席しなければいけない類のものだけだ」

 痛む足をおして、殿下のエスコートで出口へと足を向ける。

(あともう少し……)

 もの言いたげな人々には、笑みを浮かべて手を振った。
 ダーディニアでは、下位の者が高位の者に話しかけることは不作法とされている。だから普通なら、ナディル殿下にも私にも自分達から話しかけることはしない。

 なのに、声がした。

「ごきげんよう、王太子殿下」

 おっとりとした声音はどこか不思議な艶やかさを帯びている。

(……グラーシェス公爵妃エレーヌ様)

 昼餐会でお会いしたその人が柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
 殿下は冷ややかな一瞥を公爵妃に向けたが、公爵妃は殿下の険しい表情にはまるで気づかないかのようににっこりと笑った。

「殿下、どうか、お時間をいただけませんこと?」

 小さく首を傾げる。たぶん、自分が断られることなど考えたことがないのだろう。
 だが、殿下はあっさりと一刀両断した。

「断る」

 公爵妃が何を望もうとしているのかまったく私にはわからなかったけれど、ナディル様が断ってくれたことが嬉しかった。
 さっきまで何も感じていなかったのに、今は身体が重い。一気に身体に重石がのしかかってきたかのような疲労を感じていた。

(別に薬なんか飲んでなかったけど、ドーピングが切れたみたいだ)

 頭や身体は重く感じるのに、足元だけがふわふわしている。

(……眩暈がしてるのかな?)

 一刻も早く宮に戻りたかった。

「……殿下、私が大叔母様にお願いしたのです」

 公爵夫人の背後から見知らぬ女性が顔を出す。
 ナディル殿下の表情がさらに冷ややかなものになった。

「アルティリエ妃殿下、どうぞ、私が王太子殿下のお時間をいただくことをお許しください」

 先ほど、殿下がはっきりと断ったからか、私を名指しした。
 淡い金の髪に紫の瞳……年のころは二十二、三といったところだろうか。でも、こちらの貴婦人と呼ばれる人たちは美容にとても力をいれているせいか、皆、若く見えるのでもう少し年上かもしれない。
 私は返事をする代わりに軽く首を傾げて、どうしましょう? というように、殿下を見あげる。可であれ否であれ、ここで返事をしてしまうと彼女の不作法を許したことになる。

(……幼い私なら聞き入れると思うのは大間違いです)

 これを許してしまうと、この先、こんな風に一方的に呼び止められることをすべて許すことになってしまう。
 まあ、いろいろ理由をくっつけても、結局のところ私は、虎の威を借るキツネ的な必殺技『殿下に丸投げ』を出すだけなので、殿下にお任せしますという顔でぎゅっと殿下の手を握り締めた。

 瞬間、ゾクリと悪寒がした。
 何かこう背筋がひんやりとしたものに触れたような……。
 そぉっと私は上を見る。
 何度見ても美しいその顔に、笑みが浮かんでいた。

(……あ……)

 これ、すごくヤバいやつ! と反射的に理解した。考えるとかそんな間もなく、ただもう本能がそう判断した。
 穏やかでにこやかな笑み……まるで上機嫌に見えるほどの。
 でも、これ反対なのだ。

 絶対に怒ってるから!

「……グラーシェス公爵」

 低い低い声で殿下が老公爵を呼んだ。
 さざめいていた空気が凍り付いたように静まり返った為、その声は思いのほか響いた。



感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
1.4476268291473