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[8212] 異世界鍛冶屋物語(現実→異世界 日常系)
Name: yun◆04d05236 ID:a5675c7b
Date: 2013/03/12 00:07

 前書き

 はじめまして。

 このお話は、MMORPGなどで、生産・鍛冶・武器作製といったようなスキルに心惹かれる方の為のお話です。

 特殊な層を狙ってはいますが、通常の異世界物語としても楽しんでいただけるよう精進してまいりますので、よろしくお願いいたします。感想・ご意見などいただければ、ますます精進する所存です。

 それでは、お楽しみいただければ幸いです。


8月31日追記

 規約には一通り目を通したつもりでいましたが、ご指摘通り、習作もしくはネタを明記する旨の規約を破っておりました。投稿がかなり不定期になりそうなこともありますので、習作としてこのまま残して行きたいと思っております。

 また、感想でのコメント返しの禁止にも気づいておりませんので、該当の私からの感想欄へのコメントは削除いたしましたが、感想はいつもありがたく読ませていただいております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2010年9月1日追記

 チラシの裏よりオリジナル板に移動させていただきました。
 今後ともお楽しみいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

前書き :4/24追加 8/31追記
第1話 :2009/4/24追加

第2話 :2009/4/24追加

第3話 :2009/4/25追加

第4話 :2009/5/24追加 5/31一部修正

第5話 :2009/5/31追加

第6話 :2009/6/21追加

第7話 :2009/8/30追加 午後改行修正

第8話 :2009/9/29追加

第9話 :2009/10/19追加 10/21修正

第10話:2010/4/5追加

第11話:2010/8/30追加

(2010/9/1チラシの裏よりオリジナル板へ移動)

第12話:2010/9/5追加 9/7修正

第13話:2010/10/12追加

第14話:2010/11/29追加

第15話:2011/2/1追加

第16話:2012/12/16追加

第17話:2013/3/9追加

規約上、感想欄での感想への返事は控えましたが、コメント返し自体を禁止する条項ではないと思われますので、以下に感想への返事を書かせていただきます。
したがって、以下ネタバレを含む可能性があります。
本編未読の方はご注意ください。












―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

返信(2/1)
>これは鍛冶屋か
ごもっともで、鍛冶のシーン自体は全くと言っていいほど書いていませんでした。
今回の話には鍛冶シーンを入れる余地がありましたので、少し盛り込んでみました。

>仕事を通しての人との関わり
ここに重点を置いていましたが、確かに「鍛冶屋」という面をおろそかにしすぎた部分もあったかなと思います。今後少しずつ出していければ。

>続いた
続きました。

>うっかりと隙を見せる人
隙があるというよりは……今後をご覧ください(笑)


返信(11/30)

>睡眠時間が二時間
楽しんでいただけたようでなによりです。投稿時間が深夜になることが多いのは、あとちょっとで完成となるとついつい最後までやろうとして遅くなってしまうせいだったりします。

>ついに前進
>やっとくっついた
>話数は無い筈なのに長く感じる
名前が出てくるのが6話、人物として登場するのが8話、その後出て来なくなって12話から14話でメインなので、確かに出てきてから話数はあまりありません。
長く感じたのは投稿間隔のせいもあるのかなと思いますが、そう感じてもらえるよう意図してもいるので、上手く行っていたなら幸いです。

>”Cogito,ergo sum.”
その通りですね。修正しました。

>甘々で口から甘味料が駄々漏れになるようなストーリー
今回の後半でたいがい書きながら少し恥ずかしくなってきましたが(笑)
番外編で更に駄々甘な話を一つ考えてもいます。番外なので主役は違いますが。

>今回で完結?
もうちょっとだけ続くんじゃ。
と言うよりはこの話は第2部第1話という位置づけです。
もう少しお付き合いください。よろしくお願いします。





返信(10/31)
>一話ごとに主人公の剣へかける思いを考えるのも大変
どちらかと言えば考えるのはその話に出てくるゲストキャラの背景、性格だったりします。愛着が出てしまうのであまりキャラをひどい目に合わせにくくなったりするのはありますが…。主人公の性格はある程度固めてあるので、場面・人物に合わせて主人公をリアクションさせるのは実のところそれほど難しくはなかったりします。

>回想シーンには目印があれば
>過去の話と現代の話の見分けが付かない
今回の話では前編と合わせてここが上手くいかなかったようです。今後の参考にさせていただきます。
今回の話の編集は、手をつけると少し大がかりになりそうなので検討します。
ご指摘ありがとうございました。


しばらくシリアス風な話が続きましたが、またほのぼの系に戻る予定です。今後ともどうぞよろしくお願いします。


返信など(9/7)

>続きが気になる
ありがとうございます。後篇もできる限り早くお届けできるよう、鋭意努力いたします。

>途中で回想に入っていたことに気づくまで混乱した
確かにその通りでした。ついでに読み返して気になった部分を修正してみました。


感想返しなど(9/4)

20万PVを突破いたしました。ご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
今後ともゆったりとやって行く所存ですので、なにとぞよろしくお願いいたします。

>板移転
更新頻度があまり高くないという事でチラシの裏にいましたが、今後は少し更新頻度を増やす覚悟で板を移転しました。よろしくお付き合いください。
なお、次回更新は一週間以内を目標にしています。

>作者による感想欄でのコメント返し可
確かに他の作品ではよくしており、特段問題視もされていないようですが、私は感想数を眺めてにやにやする趣味の持ち主ですので、このうち○個は自分のコメント返しで…。など考えるのも面倒ですので、このスタイルで行こうと思います。

>丁寧な作り
>良作
ありがとうございます。そう言った感想がお話を作る力の源です。
初期の句読点に関するご指摘、ヴァンパイアの回の説明不足など、至らない点についてもコメントいただければ、取り入れられるものは取り入れて改善していきたいと思います。何かあればよろしくお願いします。

感想返しなど(8/31)

>久しぶりの更新
>もう少し早い頻度での更新
申し訳ありません。もう少しペースをあげてみようかと思います。
覚悟を込めて、近々オリジナル板へ移動しようと思いますので、そちらでも
何卒よろしくお願いいたします。

>この後どうなったのか
それについては、ご想像にお任せします。

>誤字
ご指摘ありがとうございます。修正しておきます。
ちょくちょく誤字・脱字はあると思いますが……。
のんびりと修正することにします。


久しぶりに感想返しなど(4/11)

>聖剣の刀鍛冶に似ている
コミック版を1巻だけ読んだ事がありますが、詳しくは知りません。どちらかといえば、様々な種族が次々出てくるという意味で一番参考にしたのは「怪物王女」というコミックかもしれません。

>久しぶりの更新
お待たせしました。去年の後半は忙しくてなかなか時間がとれませんでした。
今もそれほど時間がとれるわけではないのですが…。地道に続けていこうと思います。

>多種族の世界だからこそ自分の種族の歪みに気づく。
>三面六臂なら確かに最強の剣士だな。
>様々な種族が住んでいる世界なのですね。
様々な種族がいる世界で、それぞれが違い、ある部分で認め合い、ある部分で諍いを起こす、そういうお話を描いていきたいと思います。

>日常ファンタジーものですごく良い感じです。
>これからも楽しみに待っています。
ありがとうございます。ゆっくりとお楽しみください。


>部分的にヘルシングを取り入れた感じがたまらなく好みでした。
セリフ回しや全体の雰囲気が非常に好きな作品でした。『冷静で紳士的』という従来のヴァンパイアイメージも悪くないものですが、あの作品の狂気じみたヴァンパイア像は非常に面白いものだったと思います。

>この世界のヴァンパイアの文化というか、道徳と言うか、そのようなものはどうなっているのでしょう。
>ちょっと思ったのが吸血=吸血鬼になるだと無差別に吸わなくても多くなりすぎるんじゃないかな。
>吸血ですが、『仲間を増やす為の吸血』は食事の吸血とイコールなのでしょうか?
それとも、特定の手順をふむ必要があるとかなんでしょうか?

設定だけはしていたのですが、思いのほかそこが気になる方が多かったようでした。描き切れていなかった部分もあったかと思いましたので、一部修正をしました。

>よく考えてつくられているんだな、と思う
>ゆったりとしたときが流れています。
>ゆっくり着実に…わたしを愉しませてくれ!
ありがとうございます。勢いとノリの良い作品を書けるタイプではないので、ゆっくりでもしっかりとしたお話を、と思って作っていますので、そう言っていただけるのはとてもありがたいです。今後もゆっくりとお楽しみください。


返信(2012/12/23)
お久しぶりです。もの凄く久しぶりに投稿です。

今回は、(主人公側から見て)どう見ても悪役という立場の人間を登場させました。話題の中にそういう人物が出てくる事はありましたが、直接登場するのは初めてです。そう言うあからさまな悪役というのはあまり好きではないのですが、一度はこう言う話をかいておこうかな、と。

>二人への周りの評価
主に、くっついてからの方がむしろ面倒くさいと言う評価です。いいからとっとと話を進めろと(主にユキヒトが)思われています。ヴァレリアはもう期待されていません。

>ヘタレだったユキヒトが…
鈍感な訳でもないけど奥手な主人公(口は達者になりつつあります)という。初めは元の世界への未練とかそのあたりの事が絡んでいましたが、未だにグダグダしているのは元々の性格のせいなのでしょう。

いつにもまして鍛冶をしていない話だったなので、次回はちゃんと鍛冶をするお話です。それでは、また。

返信(2013/3/11)

>七氏さま
指摘ありがとうございます。修正しました。他にも何箇所か、誤字を修正しています。

>何で店名がデカルトの方法序説のあの言葉なのでしょうか?
余り深い意味はありません。

>教義的に巫女は純潔を求められるのか、どうなのか?
不問です。家庭の守護神でもありますので、むしろ産めよ増えよ。

>シオリの救済
恐らくこれまでで最も救いのない依頼人であったと思われる彼女ですが、救済話を書くかどうかは非常に迷うところではありました。
結局は、このお話は異世界ほのぼの職人系ストーリーなので、ご都合主義であれ救済する事にしました。私はやはり、ハッピーエンドが好きなのです。

それでは、今回もこのあたりで。





[8212] 鬼に鉄剣
Name: yun◆04d05236 ID:a5675c7b
Date: 2010/11/30 01:00







 彼の目に映るのは、輝きを放つ赤だった。

 それは、生命など持たない、物体に過ぎないそれが放っているとは思えないほどに、力強く、そして煌々とした赤だった。

 しかし、それに手を伸ばす訳にはいかない。それは、触れられるためにそこに存在しているものではなく、そして、鑑賞の為のものでもなかった。

 彼は、手にした鎚を振り下ろす。

 かぁん、と、高く、澄んだ音。そして鉄は、少しだけ、形を変える。

 かぁん、かぁん、かぁん、かぁん、と、立て続けに、鎚と鉄がぶつかる音が響く。真っ赤な鉄の塊が、少しずつ伸ばされて、形を変えていく。

 その行程を、彼は愛した。

 ただの無粋な金属の塊でしかないものが、自分の手によって、一つの意味を持つ姿へと生まれ変わっていく。それが、楽しくて仕方がない。そうして生まれたものの一つ一つを、愛おしいとすら思う。

 工房には、熱がこもる。鉄すらも溶かすほどの高温を扱っている以上、それは当然の事だ。その中で、鍛冶と言う重労働を行っているのだから、当然、彼の全身は、季節を問わずすぐに汗まみれになる。

 それも、彼には気にならなかった。時折、無造作に汗を手でぬぐう以外に、彼は鎚を振り下ろす作業をやめようとはしなかった。

 しばらく、金属同士のぶつかり合う音が、広くはない工房に響く。そして彼は、ふと、手を休めた。

「こら。工房に入って来ちゃいけないって、いつも言ってるだろう?」

 顔をあげた彼の視線の先には、工房の入り口に、自分で持ってきたのか、小さないすを用意して、ちょこんと座ったまま目を瞑る幼い少女がいた。言葉ではたしなめているものの、彼の言葉は柔らかく、彼が決して迷惑には思っていないということが聞いてとれた。

「ごめんなさい。でも、ユキヒトさんの作る音が、大好きなんだもの」

 少女は、瞳を閉じたままくすりと笑う。それは、その年の少女にしては、どこか控え目で、大人びた笑い方だった。

「危ないだろう」

「危なくないわ、だって近くまでは寄って行かないもの」

 続けた彼の言葉を、少女は歌うような声でいなす。やれやれ、と、彼は肩をすくめた。

「そこを動いちゃダメだぞ。鉄を打ってる間は、僕はそれ以外見えないんだから」

「分かってる。ここで、聞いてるだけ」

 彼がそれを認めると、少女は嬉しそうに答えた。彼は、右手を鎚から離して、苦笑いをしながら少しだけ頬を掻くと、再び表情を引き締め、鎚を手にした。

 工房の中には、長い間、彼の鎚の作り出す音が響き続けていた。少女は、頬を少し緩め、うっとりとした表情で、美しい音楽でも聴くように、それに耳を傾けていた。















 綾瀬 行人がこの世界に来たのは、三年前の事だった。

 ある日、突然、何の前触れもなく、彼は異世界へと放り込まれた。

 そこは、元いた地球とはまるで違う、それこそ剣と魔法の世界とも呼ぶべき、ファリオダズマと呼ばれる世界だった。

 ヒューマン、エルフ、獣人、竜、モンスター……さまざまな種族と、各地に残された、神代から存在する、とされる数々の迷宮、それを探索する事を生活の術とする冒険者、国家間での戦争に、モンスターたちの大増殖……。そう言ったあれこれが、ごく日常の風景として定着している世界。

 大学一年の学生として、受験戦争も終わり、だらだらとしながらも楽しい学生生活を送ってきた彼は、仰天した。当然のことながら、元の世界に戻る手段を探ろうとはしたのだが、所詮は一介の学生、そして何の力を持つ訳でもない彼に、『異世界につながる道』など探せようはずもなかった。

 それから三年がたった今とて、帰る事を諦めた訳ではないのだが、かと言って、事態が飲み込めてしまった当初の様に取り乱している訳でもない。三年もたてば、こちらの世界の人々とも様々な交流が出来た。彼らの多くは非常に気のいい人物であったし、今となっては、生活するための術も手に入れた。詰まる所、この世界での暮らしは、そう悪くないのだ。

 これは、異世界からやってきた青年の、鍛冶師、時々冒険者としての物語。

 世界を変えたりはしない、小さな物語。












 大柄な女が、山の中の道を歩いている。

 いや、大柄、で片付けられるような体格ではない。男であろうともそう滅多にはお目にかかれまい、と言うほどの身長に、子供が二、三人ぶら下がろうともびくともしまい、というような腕の太さ。太ももなど、小ぶりな樹の幹ほどもありそうだった。

 女性の額には、小さな角。ジャイアントと呼ばれる、鬼の末裔である種族の証だった。

 その種族の特徴としては、まず大柄な体格と、それに見合う凄まじい力があげられる。気質は、豪快にしてやや粗暴。武勇を尊び、決闘において勝ち取った権利は絶対、と言う掟が有名である。

 山道を軽々と歩く彼女の先に、一軒の家が現れる。扉の横には、小さな看板が下がっており、その看板には、剣の絵が描かれており、その剣の刀身には、『Cogito, ergo sum.』と刻まれている。躊躇いなく、彼女は近づくと、どんどんっ、と、かなり危険な音で扉を殴りつける。とはいえ彼女の表情に剣呑なところは全くなく、それどころか、やや上機嫌そうに緩んですらいた。

 種族の違いと言うもので、彼女としては、それがノックのつもりだったのだ。

「はい、どうぞ」

 あまり大きいとは言えない、しかし可憐な声で、家の中から答が返ってくる。その言葉に、彼女は扉を開き、少しだけ腰をかがめ、それをくぐった。

 中は、やや広い部屋になっている。正面にはカウンターがあり、その真ん中には、ちょこん、と、小柄な少女が、目を瞑って座っている。それを見て、彼女は小さく手を挙げた。

「よう、ノルン。ユキヒトは?」

 ジャイアントは、知性の無いモンスターもどきなどではない。気さくに声をかけると、カウンターに座っていたノルンはにっこりと笑う。

「あ、カレラさんですね。ご注文の品はできていたはずですよ。少し待ってくださいね」

 そう言うとノルンは立ち上がる。

 十一歳という年齢にしても、小柄で華奢な少女だ。腕など、掴めば小枝のようにぽきりと折れてしまいそうだった。その原因を知るカレラは、少しの同情をこめて、それを見た。すると、家の奥へと入ろうとしていたノルンが、くるりと振り返った。

「大丈夫ですよ。目が見えないのは、生まれてからずっとの事ですし、それをいまさらどうこう思ったりしません。確かに、もうちょっと運動が出来て、丈夫な体だったらな、って思う事はありますけれど、だけどそれも含めて、私です」

「……本当、ノルンは、目が見えない代わりに、目で見えないものが見えるんだな」

 いつものことながら、心でも覗いたような事を言う少女に、カレラは苦笑した。

「そんな事ありませんよ」

 ふふ、と、優しく笑うその笑顔は、やはり年相応と言うよりは、もっと経験を積んだ、それこそ一人前の女性のようで、カレラはやはりそれを少し痛ましく思ってしまう。

 その視線にも、あるいはノルンは気づいたかも知れないが、それ以上は何も言わず、ユキヒトを呼びに、家の奥へと向かった。杖を突いたり、足元に危ういようなところはない。彼女はこの家で多くの時間を過ごしてきたし、この家は、彼女に配慮されて、躓くようなでこぼこを極力排した作りになっている。

 すぐに、奥から人が現れる。

 現れた男は、必ずしも、目を引く体格ではない。

 カレラと比べればヒューマンの体格などほとんど例外なく貧弱になってしまうが、ユキヒト自身、ヒューマンの平均的よりは少し高い、程度の身長でしかない。

 全体的に引き締まった筋肉をしているのは、鍛冶師と言う職と、稀にではあるが冒険者として探索に出かけることもある為、訓練をしているからだ。

 顔立ちは、目鼻立ちにどこか力強さが感じられるし、眉のあたりはきりりと引き締まっていて、全体として受ける印象はなかなか凛々しい。顔立ちはごつごつとした厳ついものを尊ぶというジャイアントの美意識から言えばやや軟弱かも知れないが、ヒューマンとしては男らしい顔立ちだ、とカレラは思っている。

 とはいえその顔立ちも、ヒューマンの美意識からすれば、特別に際立ったものではないらしい。そのあたりの事は、種族の壁とでも言うべきもので、カレラのセンスでは分からなかった。

「できたか?」

「注文通りの出来だよ。……重いから一度に両方は持って来れなかったけど。はい、左手用」

 男……ユキヒトが、ごとん、と音をさせて、布で包まれた巨大な物体をカウンターに置いた。

「うん……」

 カレラはそれを、じっと見つめる。しかし、手は伸ばさない。

「……どうした?」

「いや……できれば、両方揃ってから、包みを解きたくて」

「……そうか、分かった」

 そう言って苦笑すると、ユキヒトはまた、奥へと戻って行く。

 カレラはそれを確認して、おずおずと、カウンターの上のものに手を伸ばそうとして、ふるふると首を振った。

「ダメだダメだ、我慢我慢……」

 ぶつぶつと呟き、カレラはうろうろと部屋の中を歩き回る。落ち着きなく彼女が歩き回るたび、どすどすと凄まじい足音が響き、家すらも小さく震わせているようだった。

「お待たせ。右手用だよ」

 すぐにユキヒトは戻ってくる。ぐるぐると部屋を歩き回るカレラに苦笑すると、先程にもまして大きな布に包まれた何かをカウンターに置く。

「……いいな? 開けるぞ? ダメだって言ってももう無駄だからな?」

 待ちかねた、と言う様に、カレラは確認する。

「最初から、俺は開けちゃダメだなんて言ってないよ」

 もう、抑えが利かない。カレラはそれに手を伸ばすと、びりびりと布を素手で引き裂いた。

 中から現れたのは、鞘に収まった、二振りの剣。

 がばっと、まずは大振りな方を手に取ると、急いで鞘から抜き放つ。そんなに慌てなくても、それは君のなんだから誰もとりゃしないよ、と、ユキヒトが言っているのが聞こえたが、そんな事は気にならなかった。

 刀身は広く、両刃。反りはない直剣で、持った手にずしりと伝わる重さが心地よい。ぎゅっと握ると、柄は太すぎず、細すぎず、手にしっくりとなじむ。そして何より、剣を包む、確かな魔力。

 続けて、小振りの方も抜いてみる。大振りな右手用のものと同様の、僅かに全体的なサイズを縮めたものだが、うまく工夫してあるのか、重心の位置は大きく変わらないのを感じる。

 今回の注文は、二刀流で扱う為の鋼鉄製の剣、頑丈さを魔力で増強し、各種の仕様をカレラに合わせたオーダー・メイド。完璧な仕上がりだった。

「うふ、うふふふふふふふ……」

 思わず、笑みがこぼれる。こほん、と、ユキヒトが咳払いをするのが聞こえて、カレラはふっと正気に戻る。 

「良い出来だわ。じゃあ、料金を」

 荷物の中から、用意していた袋を、どさっ、と、カウンターに置く。

「……本当に良い出来だわ。重さと言い、長さと言い、握り心地と言い……うん、完璧。何よりこの、魔法陣のかかり具合と言ったら……本当に……うふふふふふふ……」

「……気に入ってもらえたようでなにより」

 完全に危ない笑い方をしているカレラに対して、それでも大して引いた様子も見せずにユキヒトは言った。

「なあ……どうしてこんな山奥でひっそりと店を出すんだ? お前なら、大きな街で工房を開けば、あっという間に評判の名工になれるぞ? そりゃ、そうなったら私の剣も早々作ってもらえなくなるかも知れないが……いいのか、お前は?」

「まあ……名誉もお金も、それほど欲しい訳じゃないからな。それに、街中は……空気が悪い」

「……そうか」

 自分の事よりも、決して丈夫とは言えないノルンの為。それも分かっていたことだ。カレラは頷くだけにした。

「……じゃあな。また来る」

 二振りの剣を鞘におさめると、ひょい、と、カレラはそれを肩に担ぎ、そう告げた。

「待ってるよ」

「次も、理性を吹っ飛ばしてくれるような良い出来を期待してる」

「……程々に頑張るよ」

 肩にずしりと来る重みに満足を覚えつつ、カレラは店を出て行った。

















「……良いお客さんなのは、確かなんだけどなあ……」

 カレラが上機嫌で出て行ったあと、しばらくして、ユキヒトはぽつりと呟いた。

「……帰った?」

「帰ったよ」

 おずおずと、奥につながる扉から現れるノルンに、ユキヒトは笑って答えた。

「カレラさん、良い人だけど……納品の時は、ちょっと怖い」

「まあね……」

 ジャイアントの戦士の気質。

 武勇を尊ぶ彼らは、武具の収集家でもある。特に、自分専用に作られた性能の良い武器を所持する事は、彼らにとってのステータスであり、食事を削ってでも最上級の武器を作るための費用にすることで知られている。

 ジャイアントの戦士、カレラ。

 彼女は、その気質を極端なまでに備えた、詰まる所刃物マニアであった。

「まあそれでもやっぱり、良いお客さんだよ」

 ユキヒトは、独り言のように呟いた。

 異世界からやってきた青年が、盲目の少女と共に山奥で営む刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』。

 客には変わり種が多いものの、本日も平穏だった。












『猛き心と幾千の刃持つ鬼人へ この剣が貴女を妨げる全てを打ち砕かんことを 行人』






 





[8212] 願わくば七難八苦を与えたまえ
Name: yun◆04d05236 ID:a5675c7b
Date: 2009/04/24 01:16











「ふぅ……」

 ユキヒトは、小さく息をついた。

 今日は、注文されていた剣の納品日だ。元々仕事量が決して多い訳ではない彼は、納品の三日前には大抵注文の品は仕上げていたし、客もそれを知っているため、納品日前に受け取りに来る者もたまにいる。とはいえ、やはりそれも稀な事である。増して今は、今日納品の剣以外に、仕事がなかった。

 彼は、暇を持て余していた。

 ちらり、と、窓際に目をやると、ノルンは、椅子に腰かけて目を閉じ、じっと座っている。

 盲目である彼女は、普段から目を瞑っている。そうして静かに座っていると、起きているのか寝ているのか、そろそろ付き合いも長い彼でも判別できない事がある。

 元いた世界ならば、パソコンなり、読書なり、いくらでも暇をつぶす方法はあった。この山奥に工房を開く前、まだ鍛冶師になっていない頃ならば、魔術学院と呼ばれる、その名の通り魔術知識を専門的に教える教育機関に通っていたため、勉強することで時間も潰せた。

 しかし、この世界ではまだ印刷技術が発達しておらず、本は全て手書きの写本であり、紙もまた高価な代物であるため、そう簡単に手に入れられるものではなかった。こんな山奥では、暇潰しの方法すらないのである。

 暇を持て余すのは、ユキヒト以上に、店番を任せているノルンで、暇があれば彼女は、話をせがんでくる。

 自分では何も見る事が出来ず、体を十分に動かす事もままならない彼女だ。人との会話は、彼女の、唯一と言っても良い娯楽である。

「……ノルン?」

 小さな声で、ユキヒトは名前を呼ぶ。

 極力小さな声にしたのは、ノルンが非常に敏感な聴力を持っているためだ。

 生まれつき目が見えなかった反動か、ノルンは、聴覚や嗅覚が非常に優れている。大きな声、どころか、普通の声で名前を呼べば、深い眠りの中からであっても、ノルンは目覚め、返事をしてしまう。それも、自分が寝ていたことを悟られないように気を遣う事も多い。

 ユキヒトは、長い生活の中で、ノルンを起こさず、起きていた場合のみに返事をするぎりぎりのラインを見極めていた。余りにも限定的すぎるスキルの為、今のところ、それを習得した事を知っているのは、ユキヒト自身のみである。

 返事はなかった。どうやら、春のうららかな光の中、少女は居眠りをしているらしい。それを知って、ユキヒトは少しだけ頬を緩めた。

 刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』。本日も平和に、時間は過ぎていた。













 こんこん、と、ノックの音がして、ノルンが、はいどうぞ、と、声をかけた。

 結局あれからしばらく、ユキヒトは居眠りをするノルンを眺めて時間を潰していた。少女の居眠り姿を盗み見る、と言えば不埒な行為に違いはないが、春の穏やかな日の中眠る彼女は、一幅の絵画のようで、それを鑑賞する心は決して下卑たものではない、と、ユキヒトは内心に断言していた。

 さておき、ノックの主は、扉を開いた。

 扉を開けたのは、まだ、少年の域を抜け切れていない、あどけなさを残すヒューマンだ。

「こんにちは、依頼していたものを取りに来ました」

 声変りは流石に終わっているだろうに、ボーイソプラノのような高い声だ。体もやや華奢で、余り肉体労働に相応しいようには見えない。しかし彼はれっきとした冒険者であり、それも、かなりの実力を持つ、中堅どころと言っても良いポジションにある、と聞く。年齢からくる経験不足の感はあるものの、遠からず一流と呼ばれる実力を備えるだろう、と、その筋では有名らしい。

 彼の名は、ファル。ヒューマンの冒険者だ。

「ようこそ、ファルさん。ご注文の品は、完成していますよ」

「ありがとう。楽しみだなあ」

 にっこりと、ファルは笑う。そう言う表情をすると、どうにも頼りなげな子供のようで、とても将来有望な冒険者には思えない。とはいえ、その情報が伝わってきたのは、ユキヒトとしては最大限の信頼を置いている経路を通っての事だ。実際に戦っているところを見た訳ではないが、彼が才能ある若者である、と言う事を、ユキヒトは疑っていなかった。

「じゃあ、取ってくるか。ノルンはどうする?」

「ついて行きます」

「そうか」

 ユキヒトは、決してノルンが刃物に触る事を許さない。目の見えない彼女には、それは危険にすぎる。

 とはいえ、ノルンが家の中を歩き回るのを、ユキヒトは止めようとはしなかった。

 目が見えない、と言うのは、大きなハンディキャップではあるものの、かと言って、何もできない訳ではない。何もさせず、何もできないもののように扱うのは、彼女にとって失礼だ、と、ユキヒトは思っている。

 ファルの注文は、軽めでよく切れる片手剣。体格を考慮すれば、実に無難な選択と言えた。

 それと同時に、ファルは材料を持ち込んでいた。

 基本となる金属類は、ユキヒトの工房で用意している。鉄や銅、銀といった、通常の金属だ。

 しかし、例えば、ミスリルやモンスター素材など、特殊な素材は、持ち込まれれば加工するが、自前で用意してはいない。

 実のところを言えば、ユキヒトは、そう言った素材の扱いが、それほど得意ではない。

 鉄などの、ユキヒトが元いた世界にもあった素材は、ユキヒトにとって扱いやすいのだが、この世界に来て初めて見る素材は、どうにも性質が把握しきれていない。

 とはいえ、この世界で生きていくのだから、毛嫌いするわけにはいかない。むしろ積極的に扱うべきものだ。

 ユキヒトはそう考えているし、事実、金銭的に余裕がある時は、街に出てそう言った素材を買い求め、研究してもいる。

 ファルが持ちこんだのは、『鎧亀の甲羅』と呼ばれるモンスター素材だった。

 鎧亀とは、アーマードタートルと呼ばれるモンスターの略称である。その名の通り、非常に硬い甲羅を持ち、通常、剣などの刃物で倒すのは困難と言われるモンスターだ。その甲羅を細かく砕き、熱した金属に、仕上げの前に振りかけると、金属が強度を増す事で知られている。

 ファルがその素材を持ってきたところに、ユキヒトは感心した。

 軽さと鋭さを求めれば、どうしても、剣はやや細身にならざるを得ない。そうした剣は、えてして、折れやすい。

 ユキヒトとしては、出来る限り良質の鋼を使い、さらに日本刀の製法を参考に、硬度の違う複数の鉄を組み合わせることで、曲がりにくく折れにくい剣を作っているのだが、それにしても限界がある。

 自分の求める剣の特性をよく理解し、その弱点を正確に補強する素材を持ち込んだところなど、流石は有望な冒険者と呼ばれているだけはある、と思えた。

 工房の棚に、注文の剣は出来上がっている。それを手にとり、ユキヒトは元の部屋へと戻る。その間、ノルンは、とことことユキヒトの後ろをついて歩いていた。

 元の部屋に戻ると、ファルが、じっと、人の顔を見てくる。突然の事に面食らい、ユキヒトは、思わず言った。

「どうした、人の顔をじろじろ見たりして。そんなに物珍しいものでもないだろ」

「謙遜しないでください……ノルンちゃんみたいな可愛い子を山奥に監禁している世紀のロリコンの顔は、物珍しいものだと思います」

 ファルは、それまでと全く変わらない表情で、全く変わらない口調で、そんな事を言った。

 何故なのかは分からないが、ファルは、ノルンがいない場面だと、よくこういった事を言ってくる。と、言って、本気でそんな邪推をしている訳ではない事は分かっているため、ユキヒトは、大して相手をしない。

 今も、やれやれ、と言うように肩をすくめると、ひょい、と、後ろを振り返った。

「……だ、そうだが。ノルン、どう思う」

「監禁されてませんし、ユキヒトさんにそう言う事言う人は嫌いです」

「何というミステイク!? 背中に隠すなんて卑怯ですよこのロリコン!」

 小柄なノルンは、ユキヒトの背中に完全に隠れてしまっていたらしい。保護者であるユキヒトに全幅の信頼を置いているノルンは、彼の悪口を言うものにだけは容赦しない。容赦しない、と言っても、可愛らしく拗ねる程度なのだが。

「ごめんよノルンちゃん、これは軽いジョークと言うか季節の挨拶みたいなもんなんだよ。ああそうだ、飴をあげよう」

 突然早口になったファルが、慌ててフォローらしきものを入れ、それと同時に、本当に紙に包まれた飴を取り出す。用意周到なのか、本来は自分用のものだったのか。ユキヒトは笑ってしまうのを抑えられなかった。

「季節の挨拶で人を特殊な性癖の人扱いするのは失礼ですし、飴なんかで釣られる年じゃありません」

「嫌われた!? でも少女の口から特殊な性癖とか言われるとちょっと興奮するかもっ!?」

「ノルン、奥に戻りなさい。こういう可哀そうな変態の目で見られると、魂が汚れるぞ」

「はい。私、失礼します」

 いつも穏やかな彼女にしては珍しく、つん、とした声で言うと、本当に奥へと引っ込んでいく。

「くそぅ……なんて卑劣なロリコンなんだ……僕みたいな清純な魂の持主の事を、いたいけな少女に誤解させるなんて、貴方は悪魔ですか!?」

「勝手に自爆しといて良く言うよ」

 ユキヒトは、全力で苦笑した。

 普通なら、彼こそノルンを狙う特殊性癖の持主……と言っても、年の差は4つ程度である以上、それほど異常と言う訳でもないのかも知れないが……ではないかと疑うところかも知れないが、それは違う、と、ユキヒトは知っている。

 なぜならば、ファルには恋人がいる。同い年の、それも、少なくとも幼い雰囲気などは持たない少女だ。

「……で、聞きますが。帰ってくるつもりは、やっぱりないんですか、という伝言です」

 急に、表情をすっと真面目なものに変えて、ファルは切りだす。

 と言って、先程までのやり取りが、何もノルンを遠ざけるためだけの演技である訳でもない。どちらかと言えば、あちらの方が本性に近い、と、ユキヒトは思っている。演技派と言うよりは、切り替えの早い奴なのだ、と。

「返事はいつも通りだよ。そのつもりは全くない」

「そうですか」

 素っ気なく答えるユキヒトに、淡々と受け入れるファル。そこには、何度も繰り返したやり取りの空気があった。

「分かりました。ケイガルドさんには、ユキヒトさんは少女との山奥での秘密の生活が捨てられないらしい、とお伝えします」

「お前の場合は、本気でそう伝えるからタチが悪いんだよな……。自分でもそんな事思ってないくせに」

「何を言ってるんですか、いつでも僕は真剣です。真剣と書いてマジと読む男ファルとお呼びください」

「で、真剣と書いてマジと読む男ファル、いい加減にしないと殴るぞ」

「思ったよりも恥ずかしいっ!?」

 ばたばたと騒がしい。本気で一発殴ろうか、と思いながら、ユキヒトはため息をついた。

「……お前、あんまりそう言う事ばかり言ってると、今度お前の彼女が来た時、言いつけるぞ……?」

 ファルの恋人も、冒険者であり、ユキヒトの顧客の一人である。

「この悪魔! 僕に死ねと言うんですか!」

 一瞬の躊躇いもなく、ファルはユキヒトを罵倒した。

「……お前、ある意味すごいな」

 それまでの自分自身の誹謗中傷を棚に上げて、即座に、相手が全面的に悪い、と言わんばかりの面罵を出来るのは、切り替えの早さすらも越えたなにものかではないか、と、ユキヒトには思えた。

「貴方は彼女の本当の怖さを知らないからそう言う外道な事が言えるんです……」

「いや、十分知ってるつもりなんだけどな……」

「不十分です。ええ、もう、間違いなく」

「……あれでか」

 ユキヒトは小さく呟いた。ファルは、寒い訳でもないというのにぶるぶると震えている。

「まあ、でも、嵌まると抜け出せません。蟻地獄並です」

「お前、たくましいよな……」

 突然、けろっとした顔になるファルに、ユキヒトは笑った。

「さて……では、代金です」

「おう」

「あと、これはサービスです。ご所望だった、ミスリル」

 ごとん、と、ファルは無造作にカウンターの上に、その塊を置いた。

 ミスリル。代表的な魔法金属である。

 銀とよく似た光沢を持っているが、魔術的価値は高いものの柔らかく武器に向かない銀とは違い、魔術的価値は銀をもしのぐうえに、鋼よりも硬いという性質を持つ。

 いくつかの鉱山で採取が可能であり、手に入らない、と言うほどに希少なものではないものの、かなり高価な素材であることに違いはない。少なくとも、この様に、おまけ、としてどさりと置くものではない。

「おい、待て。流石にこれは高価すぎる」

「……まあ、これが全部ミスリルだったら、そうなんですけれど」

 今度は、ファルが苦笑した。

「ん?」

「……合金です。ミスリルと鉄の。悪質な商人が混ぜて売ってたんです。混ぜられたんじゃ、ミスリルとしても、鉄としても使えません」

「ああ……なるほどな」

 ミスリルの特性として、他の金属と混ぜたり、不純物の割合が高まると、その魔術的性質を失ってしまう事があげられる。そうなると、少し硬い鉄でしかない。

「……でも、ユキヒトさんなら、何か有効に使えるんじゃないですか?」

「どうだろうな、やってみないとどうにも」

 ファルが一瞬目を鋭くするのに、ユキヒトは穏やかに笑顔で返す。

「……それじゃ、今日は帰ります。剣、ありがとうございます」

「今度は彼女と一緒に来いよ」

「ええと。考えておきます」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、ファルははにかむように笑い、席を立った。















 彼は、この世界にあっては、非常に特別な人間であった。かといって、それは、彼が、この世界で並ぶもののないほどの無二の才を持っている、と言う事ではない。

 それは、彼の知識の為のものだった。

 この世界では、魔術と言う便利な技術がごく普遍的に使用されているせいもあってか、学術的な知識の発展が非常に遅れていた。世界はファリオダズマを中心に、天が回っているものだと信じられていたし、物が上から下に落ちるのは、それが当然だと考えられていた。地動説や万有引力と言った、地球では当然の知識が、全く存在しないのだ。この世界にあっては、例えば中学校の理科の教科書でも、禁断の知識の書となるだろう。

 ユキヒトとて、曲がりなりにも最高学府まで進んだ人間だ。この世界では、恐らく、自分こそが最も学術的知識を備えた人間であろうという事は、想像がついた。図らずも、ユキヒトは世界一の賢者になってしまっていたのだ。

 とはいえ、彼は、それを人に教えるつもりはなかった。

 それは、自分だけが知識を独占してしまいたいだとか、特別な人間でいたいだとか、そう言った理由からではなかった。

 世界は、その世界に住まう人々が進めていかなければならない、と思うのだ。この世界にとっては来訪者でしかない自分が、徒に過剰な知識を広めてしまえば、それは、この世界の未来に、夥しい影響を与える恐れがある。蝶の羽ばたきは、やがて嵐を呼ぶかもしれないのだ。ユキヒトには、そんな事に対する責任など、取れはしなかった。

 魔術学院で学んだ際に、魔術、特に魔法陣と科学的知識の重要な関連性にユキヒトは気付き、極めて優れた成績を残していた。

 つまるところ、魔術もまた、一つの技術なのだ。世界の理を理解し、その理の元に術式を組み立ててこそ、効率的で有効な術となる。

 ファリオダズマの魔術は、経験に頼りきったものであり、創造的発展はもはや望みがたい所に来てしまっている。しかし、もしも、彼らが、ユキヒトの持つ科学知識を習得し、それを魔術へと結びつければ、圧倒的な発展が訪れるのは、ユキヒトから見れば明らかだった。

 ユキヒトは、文系の学生であった。必ずしも、元の世界の最先端知識を山ほど抱えていた訳ではなかったが、このファリオダズマの人々とて、知性、という点で、元の世界とそれほど大差がある訳ではない。きっかけさえ与えてしまえば、後は勝手に、研究が進んでいってしまうであろうという事は、想像に難くなかった。

 だからこそ、ユキヒトは、自分の知識を隠した。自分が、技術革命の発祥になるなど、冗談ではなかった。

 ユキヒトは学院の卒業後の進路を、恩のある鍛冶氏の元での修行に決め、その通りに実行したが、学院からすれば、それは極めて優秀な能力の流出であり、未だに、誘いの声がかかるのだ。

 また、魔術と科学の関係性に気づいたユキヒトには、一つ、特殊な能力が身についてしまっていた。そして彼は、その能力にこそ、非常に感謝していた。

「……まあ、とはいえ、並べて世に事は無し」

 ポツリ、と呟くように言って、ユキヒトは、春の暖かな日差しの差す部屋で椅子に座り、カウンターにだらりと突っ伏して、昼寝を始めた。












『艱難辛苦を望んで往く若人へ この剣が君の望む道を切り開かんことを 行人』











[8212] 貴き種族の話
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/04/25 21:59





 竜はファリオダズマ最強の種族である。

 その通説を否定する者は極めて少ない。

 無理もない事だ。まずもって、単純に質量が違いすぎる。例え力自慢のジャイアントであろうと、自身の質量の30倍以上の巨体から生み出される力にはまず勝てない。更に、体表を覆う硬い鱗。並の剣では、眠っている竜に向けて全力で振り下ろしたところで、剣の方が砕けてしまう。

 そして極めつけは、高い知性と魔力。技術面ではエルフやヒューマンに劣り、特に魔法陣などは文化的にほとんど使用しないものの、その絶対的な魔力量の差で、最高の魔術使いと言う座までつかんでいる。

 ほとんど完全無欠と言っても構わない種族である。しかし、ファリオダズマでもっとも繁栄している種族とは言い難い。

 それは何故か。答えは単純であり、絶対的な数が少ないのだ。

 弱い種族、生き延びるのが難しい種族ほど、種の保存の為に多くの子孫を残すという。強靭な肉体に高い知性、更には長い寿命を兼ね備える竜であれば、ごくごく稀に仲間を増やすだけで種は保存されてしまう。

 竜はそれら全てを含めて、自らを貴種であると自称する。神からの寵愛を受けた種であり、生まれながらに尊い種族なのだ、と。

 とはいえ彼らは、排他的な種族ではない。思い上がった愚者が挑んでくるのを笑って許すような種ではないが、弱きものが助けを請う時、彼らは無償でその絶対的な力を振るう。モンスターの群れに蹂躙されかけた村が、一頭の竜によって救われたというのは、それほどに珍しい話ではない。また、自らが積極的に他の種族と交流しようとはしないが、請われれば公的な場にも姿を出す。その際には、その圧倒的な魔力を使って、ヒューマンと同様の姿をとる。

 また彼らは、宝石などの貴金属類、高価な魔術具などを嗜好することでもよく知られる。

 つまるところ竜は、貴族的な性質を多分に備えた種族であった。

「どうした? その様に妾を見つめて……。いくら妾の美貌に目を奪われるとて、惑うではないぞ、ユキヒト」

 妖艶に微笑むのは、齢百三十を重ねる、正真正銘、純血の竜種の女性である。

 艶やかな銀の髪は、その一本一本が糸のように細く、さらりと長い。綺麗な卵型の顔の輪郭と合わせて、女性であれば誰しもが羨望の溜息をつくほどのものだ。瞳の色はルビーのような赤。竜種には珍しくないものの、ヒューマンには滅多に見られないその色は、姿を変えていても彼女がやはり竜の一族である証明である。鼻筋は綺麗に通り、小さな口元は、意思を感じさせるようにきりりと締まっている。

 その美貌を前に、ややためらいがちな表情で、ユキヒトは重々しく口を開いた。

「シェリエラザード。君が美貌の持主だという事を認めるのはやぶさかではないけれど、女性として見るには少し年齢が足りないかな」

 確かに、美しい。しかし、その美しさは健全な若木のようなそれである。顔立ちも、整ってはいるがまだ幼さが抜けきらない。体つきからも、まだ幼さ故の硬さが取れていない。開花を予感させてはいるが、未だ蕾であった。

 彼女の名は、シェリエラザード。ヒューマンの十倍の寿命を誇る竜族としては、思春期真っ盛りの少女である。ヒューマンの判断基準でいえばあと五年で美女になりそうな彼女ではあるが、竜種である以上、女性としての魅力を存分に発揮するには、少なくともあと五十年は必要なのであった。

「詰まらぬのう……。妾が女として熟する頃には、そなたは男として枯れておるであろうよ」

「シェリエラザードさん……女性が、そう言うような事は仰らないものですよ」

 ノルンが、少し気恥ずかしげにシェリエラザードをたしなめる。それに対して、彼女はころころと笑って見せた。

「相変わらず愛い事を言うのう、ノルン。そなたは妾の許可なく大人になどなるではないぞ。ヒューマンやジャイアントは少し会わぬうちにこの姿の妾の背丈を追い越して面白うない。エルフやドワーフはましなのじゃがな」

「残念ですけれど……ヒューマンは、自分の意思で成長を止めたりできません。竜だってそうでしょう?」

「む……。まあ、そうか。しかし、面白うないのは事実じゃ。何とかせよ」

 長い年月を高い知性を持って生きてきた精神の熟練と、肉体的未熟からくる奇妙なまでの子供っぽさの同居は、幼い竜に特有のものである。

「それで……注文の、礼装用の剣だけれど。出来上がっているよ」

「性急なのはヒューマンの悪い癖じゃ。もう少し、ゆるりと再会を喜ぶ余裕を見せるが良いぞ」

「いや、性急と言われても俺にはこれが商売だからな……。渡して確認してもらうまでは、仕事中だ」

「ふむ……まあ良い。そなたのそう言った生真面目な線引きは、妾も好むところじゃ。妾の剣を持って参れ」

 剣を注文して作って貰ったと言うよりは、本来は自分の持ち物である剣を預けてあったような口振りだ。

 とは言えそれが、尊大にならないのは、貴種として育て上げられた教育の良さの賜物であろう。竜族は、己の力に見合った分だけ誇り高い種族であった。

 ユキヒトが席を立ち工房へ向かうと、例の如く、ノルンがその後ろをとことことついて行く。それを見て、シェリエラザードはにこりと微笑んだ。竜は基本的に穏やかな種族であり、特に弱い者には愛護の念を強く抱く特性がある。ノルンの雛鳥のような行動は、竜族にとっては非常に愛らしく感じるものなのだ。

 工房の棚の上、普段以上に厳重に布を巻いたそれを手に取り、ユキヒトは店頭へと戻った。

 シェリエラザードが差しだす手に、それを恭しく手渡す。彼女は、自らの手で布を解く。

 現れたのは、白を基調とし、金をあしらった文様を施された優雅な鞘。鍔の中心には宝石が誂えられ、柄も鞘に合わせて白。柄頭には小粒の宝石が埋められ、周りはやはり金で覆われている。

 それらは、ユキヒトの作ではなかった。ユキヒトはあくまでも刀剣工房の鍛冶師であり、彫刻や装飾は、自作の武器を少々飾ると言う程度であればこなすものの、本職ではない。

 今回、シェリエラザードの剣において、ユキヒトが担当したのは、その刀身だ。

 彼女は、鍔や鞘の装飾を確かめると、それをすらりと抜いた。その仕草は、熟練した剣士の様に滑らかであり、近寄りがたいほどの整った容姿と相まって、儀式めいた美しさすらあった。

「……ほぅ……」

 シェリエラザードは、その刀身に長く繊細な指を這わせ、初めて吐息を漏らした。

 アダマンタイト製の刀身は、やや青味がかった冷たい光を放つ。直剣、片刃。刀身には竜族言語で彫刻が施されている。柄に覆われて見えないものの、茎にはユキヒトの得意とする魔法陣。効果としては全体の強度を上げるシンプルなものではあるが、魔力との親和性が高いアダマンタイトに施されていることもあり、刀身に一層の凄味を加えていた。

 優雅な外見とは裏腹に、礼装用の剣というレベルには収まらない実戦仕様。それがシェリエラザードの要望であった。

「佳品である」

 愛撫するようにひとしきり刀身に指を這わせた後、シェリエラザードは剣を鞘におさめ、満足気に言った。

 シェリエラザードは、竜族の例に漏れず、眼が肥えている。ユキヒトとしては、己の作った品はあくまで実用品であると考えており、芸術品として評価されたいとは思わないが、その様に自分の剣を眺められるというのも、悪い事ではなかった。

「でも、良いのか? 礼装用の剣なんだろう? あまり実戦的なのもどうかと思うんだが」

「妾は、機能美を愛する。美しい装飾も結構であるが、やはり道具は使えねばならぬ。それに、案ずる事はない。礼装用の剣は、抜かぬことによって礼装用足りうる。抜いてしまった瞬間、たとえなまくらであろうと名剣であろうと礼装用にはならぬ。第一、妾が不埒者の襲撃でもうけ、傷を負うたらどうする。妾を招いたものの体面も傷つくであろうし、その様な事になれば責任問題じゃ」

 事もなげに、シェリエラザードは言う。疑問を覚えない訳ではないが、彼女が良しとするのであればよいのであろうと、ユキヒトは納得する事にした。

「さて、これでそなたの言う仕事は終わった訳じゃな」

「まあそう言う事になる」

「ではこれよりは友と語りあう時間じゃ」

「友、か……」

「何じゃ、不服だとでも申すつもりか?」

 心底以外だという声で、シェリエラザードは言う。傷ついたというよりも、きょとんとしたと言った方が正しいような声だった。

「そんな訳ないだろう。ただ、竜はあまり他の種族に心を開かないと聞いていたんでな」

「そのような事はない。誤解と言うものじゃ。とはいえ、友を選ぶのは何も竜に限った話ではあるまいよ」

「……選んでもらえるほど御大層な人間だとは思っていないんだけどな」

「馬鹿者。そなたはもう少し己を知るが良い」

 柔らかく、シェリエラザードはたしなめる。いかに外見上は子供とはいえ、一世紀を超える時を生きてきた彼女の事、その言葉は無碍にはできない重たさを持つ。

「そなたの作る剣には心が籠っておる。妾など、この剣が言葉を発さぬのが不思議に思えるほどじゃ。その様に佳き品を作る職人は、敬われてしかるべきであるし、わが友とするに何の不服もない」

 財宝の収集家である竜にその様に言われると、流石にむずがゆい。ユキヒトは、少し頬を赤らめた。

「……ところで、じゃ」

 こほんと、シェリエラザードは一つ小さく空咳をして見せた。

「そなた何故、それほどの腕を持っておる?」

「……うん?」

「無論、これがそなたの弛まぬ努力と生まれ持った才の賜物であることを疑う訳ではない。しかし妾の見識からすれば、鍛冶は経験の世界じゃ。故に、名工には長き寿命を持つドワーフが多い。ヒューマンでは、経験が十分に備わる頃には体力が衰えてしまう事が多いのじゃ。そなた何故、それほどの若さにして、熟練の名工に引けを取らぬ腕を持つのじゃ? まして、己で魔術を施す鍛冶師など、そうはおらぬ」

 職人とは本来、専門的なものである。ファリオダズマで理想とされる剣は、ドワーフが鍛え、エルフが魔法陣を施し、ヒューマンが装飾をしたものとされる。ドワーフは魔術を苦手とするし、エルフは力作業を汚れたものとして忌避する。ヒューマンは全てを行うが、それぞれの種族に専門性で敵わないとされるのが一般的だ。

 しかしユキヒトは、剣を鍛え、その上に自分で魔法陣も施す。しかもそれがどちらも、専門とされるドワーフやエルフの一流どころに決して引けを取らないのだ。

「そんなに難しい事じゃない。金属の声が聞こえるんだ」

 ユキヒトは少しだけ意地悪そうに笑うと、ややおどけた表情でそう告げた。

 それを聞いたシェリエラザードは、しばらくきょとんとした後、ふっと小さく微笑んだ。

「職人たるもの、己の技術の秘訣は明かせぬか。もっともじゃな」

 それに対してユキヒトは肯定も否定もせず、笑った。

「とはいえ、珍しいよな。竜族で、そんなに武器職人を評価してくれるって言うのは、さ」

 竜族は、装飾品や魔術用具は嗜好するものの、ジャイアントの様に武具を収集するという事はほとんどない。

 というのも、本来竜族には武装をする必要などそもそもないからだ。

 その鱗を凌駕するほどに硬い鎧も、その爪より鋭い剣も、製作は極めて困難だ。今のシェリエラザードのようにヒューマンの形態を取っている際も、周囲に自身の膨大な質量を転換した、質量を伴う魔力を纏っている。それは、竜の意思一つで結晶化し、最高の盾にも、剣にもなる。そのまま叩きつければ、他の脆弱な種族など簡単に押し潰す事も出来る。

 芸術品の一環として刀剣や鎧を集める者はいても、その機能性を求める竜と言うものを、少なくともユキヒトは知らなかった。

「確かに、妾とて剣を使うよりは元来の姿に戻る方が、戦闘能力としては高い。しかしな、ユキヒト。剣とは、弱き者の向上心の結晶の一つなのじゃ」

「……」

 穏やかな沈黙を保ち、先を促す。満足気に、シェリエラザードは頷いた。

「モンスターに肉体的に勝てぬヒューマンやドワーフも、武器を手にすれば戦う事が出来る。弱さをそのままにして置くものを、妾は許さぬ。それは甘えである。武器を手に取ったものは即ち、己の弱さに克とうとするものじゃ。その心を、妾は尊いものと思う。妾は弱くない。故に、弱き者の事は分からぬ。弱さ故に卑屈になる心など分からぬ。しかし、己が弱さに克とうとするその思いは、美しきものじゃ」

 きっぱりと、シェリエラザードは言って、どうだ、とばかりにユキヒトの目をまっすぐに見つめる。褒められるのを待つ子供のようなその視線にどこか微笑ましさを覚えながら、ユキヒトは微笑んで頷き、肯定の意思を伝えた。

「ところで、今回は一体何の式典に呼ばれたんだ?」

「ふむ。人間とエルフの街が協定を結び技術交換を行うというのでな、立会人として竜の出席を求めてきた」

 外交の締結の際、立会人に竜を立てるのは、珍しい事ではない。古くより竜は他の種族を庇護する立場であるとの姿勢を崩さず、他の種族も概ねはそれを受け入れている。

 とは言え竜の地位も、近年はかつてほどに圧倒的なものではなくなってきている。その象徴の一つが、今のシェリエラザードのように、人前に姿を現す際に人の形態をとる事である。

 実のところを言えば、竜族は遠い昔、一度人の姿をとれば元に戻る事が出来なかった。しかし、ある時から、己の重量を変化させなければ、元の姿に戻ることが可能であると言う事が発見された。とはいえ、人の小さな姿に膨大な質量を詰め込むのには何かと無理を伴い、現在ではその欠陥を補って、周囲に質量を伴う魔力を纏う、という方法で人の姿をとるようになっている。

 それはつまり、質量保存の法則なのだろうとユキヒトは思っている。

 『魔力』という要素は、元の世界には無かったが、このファリオダズマでは、ごく当然のように、物質を魔力に変換する、と言う事が行われている。しかし、おそらくはその物質も、消えてなくなっている訳ではないのだ。目には見えない何らかの形で、魔力以外のなにものかに変換され、空気中に放出されるか何かしているのだろう。

 かつての竜族の変身では、自身の質量を無造作に捨ててしまっていた。その為に元の姿に戻るには、圧倒的に質量が足りなくなってしまっていたのだろうと、ユキヒトは推測している。

「手を取り合うのは良き事じゃ。妾も、停戦協定の仲介などよりはよほど好ましく思う」

 今回の様な平和協定よりも、竜族の仲介を求める事が多いのは、戦争や紛争の終結ないし休止時だ。なぜならば、竜族が立ち会った終戦や停戦の協定を然るべき理由なく破るという事は即ち、竜族の立場を蔑ろにすることであり、その様な事をした瞬間、竜族は傷つけられた誇りの回復の為に行動を起こすからだ。その結果は、他の種族との戦争などより、よほどすさまじい被害を残す事になる。そのため、終戦や休戦の協定に竜の立会人を立てるのは、常識とされていた。

「相変わらず、戦争は多いのか」

「多いな。どうにもこの頃は、北東方面のヒューマンとドワーフがきな臭い」

 種族間の交流は進んでいる。大国の主要都市では、殆ど全ての種族が雑多に住んでいる事が多い。しかしながら、地方へ行けば、未だに種族間の差別や偏見も多く、種族ごとに町や国を作る地域も存在している。

「……ケンカは、嫌いです」

 それまで、邪魔をしないようにとでも言うように静かにしていたノルンが、小さく呟いた。

「妾も必要のない争いは嫌いじゃ」

「……必要な争いなんて、あるんですか?」

 争いの嫌いなノルンが、僅かに不快感をにじませた声でシェリエラザードに問いかける。シェリエラザードは、泰然と頷いた。

「ノルンは、ユキヒトと喧嘩をした事はないか?」

「……? いいえ、ありますけれど……」

「親しき仲でも喧嘩はする。それは、他人と共に生きる以上は止むを得ぬ事じゃ。時には喧嘩をしてでも、己の想いを相手にぶつけねばならぬ時もあろうよ」

「……そう言う事なら、分かる気がします」

「うむ。ノルンは賢いな」

 よしよし、と、シェリエラザードはノルンの頭を撫でた。ノルンは僅かにくすぐったそうに身をよじるが、結局はシェリエラザードのなすままに撫でられていた。

 そのまましばらく、三人はどうという事もない世間話に花を咲かせた。普段はおとなしいノルンも、少しはしゃいだ様子で、諸国を渡り歩くシェリエラザードに、様々な街の話をせがんだ。

 結局そのまま日が暮れて、シェリエラザードは刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』に一泊していくこととなった。












「世話になったな。それでは妾は行く。見送りはここまでで良いぞ」

 刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』の外、シェリエラザードは見送りに出てきたユキヒトとノルンに告げた。

「気をつけてな、シェリエラザード。いくら君でも、その姿のまま斬りつけられたりすれば、流石に危うい」

「うむ、妾とて分かっておる。案ずるな。妾はまだ死ぬつもりはない」

 にこりとシェリエラザードは笑う。竜は基本的に善意の種族ではあるものの、様々な紛争地に顔を出す事に違いはなく、逆恨みを買う事も少なくはない。

「では、離れておるが良い。危ないぞ」

 シェリエラザードは工房の隣、燃料とする為にユキヒトが樹を切ったため広く開けているあたりへと歩いて行く。何を始めるかを知っているユキヒトは、礼儀正しく後ろを向いた。

「見るでないぞ。こちらを見れば、ユキヒトと言えど許さぬ」

「分かってるよ。もうとっくに後ろを向いてる」

「……そなたは詰まらぬ男じゃ……」

 全く矛盾した事をシェリエラザードは言う。ノルンが、不思議そうに首を傾けた。

「………おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 シェリエラザードが、雄叫びを上げる。その瞬間、光が弾ける。ユキヒトは、ぎゅっと、目を閉じた。

『良いぞ。こちらを向くが良い』

 シェリエラザードの声が、上空から聞こえてきて、ユキヒトは振り返った。

 そこにそびえるのは、幼いとはいえ、小さな家ほどの大きさもある竜であった。銀の鱗を全身に纏い、赤い目の竜だ。

 先程シェリエラザードが後ろを向けと言ったのは、服を脱ぐためだ。服を纏ったまま竜の姿に戻ったのでは、服が裂けてしまう。そうなれば、次に人の姿に戻る時に着衣に困る。

 竜の姿になったシェリエラザードの威圧感はやはりすさまじい。しかしユキヒトは、臆する事なく笑った。

「相変わらず、見事な鱗だな」

『そうであろう。三国一の美女と名高い姉上の、百年前の生き写しと呼ばれるこの身じゃ。もったいないのう。そなたがヒューマンでなければ百年後にはまたとなきほどの美を見られたのじゃぞ』

 ヒューマンの身には、スケールの大きすぎる話だ。ユキヒトは苦笑した。

『さて、ユキヒト。妾から友情の証として、これを贈る』

 そう言ってシェリエラザードは、その巨大な手を差しのべた。

「これは……君の鱗か!?」

『うむ。この間鱗が生え変わった折に抜け落ちたものじゃ。持って行くが良い」

 ユキヒトは手を伸ばすのを躊躇ってしまう。

 竜の鱗は最上級の素材だ。もしも仮に売りに出せば、一般的な家庭が数年ほども生活できるだけの値段がつく。もっとも、竜の鱗が売りに出される事は滅多にない。

 竜の鱗を手に入れるには、竜を討伐、ないしある程度の傷を負わせるか、そうでなければこの様に竜自身に贈られるしかない。

 竜は弱者を保護するとともに強者を敬う性質がある為、同族を討伐したとしても、それが卑劣な手段によるものでなければ報復に出る事はないものの、そもそも討伐が不可能にも近い難事だ。

 また、竜に贈られた物を金に換えるなどと言う不敬をする者は、そうそういるものではない。その様な者に竜が己の鱗を贈る事もない。

『良い。そなたは妾の良き友じゃ』

 再度、促すように手を突き出してくるシェリエラザードに、躊躇いがちながらユキヒトは手を伸ばした。

『うむ。その鱗を用いて、佳き剣を作るが良い』

「ありがとう。そうだな。いつかもっと腕をあげたら、その時は自分の最高傑作に挑戦させて貰うよ」

『出来上がったら妾にも見せるが良い。楽しみにしておる』

 竜に戻ってしまった彼女の表情は、流石に読みにくい。しかし、笑っているに違いないとユキヒトには思えた。

『それではな。また会おう』

 傍らに置いてあった、人の姿をしていた際に携帯していた道具や服を入れた袋をつまみあげ、シェリエラザードが羽ばたく。凄まじい風が起こり、ノルンはユキヒトの服をギュッと掴んだ。

『さらばじゃ』

 凄まじい振動を起こし、シェリエラザードが大地を蹴る。そして彼女は、大空へと飛び立った。

 蒼穹に銀の竜が舞う姿は、例えようもなく美しいものだった。

 目が見えないノルンには、それを見る事が出来ない。それを伝える言葉すら、ユキヒトは持たない。それが歯がゆかった。

 何を思ったのか、ノルンは、にこりと笑った。

「とても綺麗な風でした。シェリエラザードさんが飛ぶ時の風が、私は大好き」

 その言葉を聞いてユキヒトは、こみあげてくる何かをこらえる様に、ぽん、とノルンの頭に手を置いた。














『いと貴き竜の幼き佳人へ 貴女の如く強く典雅な剣であらん事を 行人』








[8212] 汝は人狼なりや
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/05/31 17:06




 そもそも、モンスターとは何か。

 怪物。化物。異形の物。神に祝福されぬ生物。悪魔の産物……。

 様々な言われ方をするものの、いずれも何一つ明確な基準を示してはいない。

 とはいえ、ファリオダズマにはモンスターという存在に対する定義が存在する。

 曰く、魔術的要素を備える生物であり、同種族間以外での意思の疎通を行う事が出来ず、主に他種族に対して害を為す存在であること。

 例えば狼は他の種族と意思の疎通を行う事が出来ず、時として害を為す存在でもあるが、魔術的要素を備えていないためにモンスターではなく獣である。逆に子鬼と呼ばれる事もあるゴブリンは、ごく初歩的な魔術を扱うなど魔術的要素を備え、ゴブリン同士以外での意思の疎通を行うところを少なくとも確認されておらず、他種族に対して非常に攻撃的であることからモンスターである。

 とはいえこの様な定義は、大国の法律に定めるものであり、必ずしも絶対的に浸透しているものとは言い難い。辺境では竜をモンスター扱いする土地もあるし、極端になれば自分の所属する種族以外のすべてをモンスターとして扱うような場所すらある。

 その様な中で、ヒューマンとエルフは比較的モンスターとしては扱われない種族である。

 なぜか。それは、ヒューマンはファリオダズマで最も数の多い知的生物であり、エルフはそのヒューマンと非常に似通った容姿を持つためである。

 多数派は数を頼りに少数派を迫害する。それはいつの世も変わらない事だ。

 そして、見分けがつかないほどに似通っていれば親愛の情もわくが、中途半端に似通ったものはむしろ憎悪を招くというのもまた、一つの真理である。

 獣人種は自らそれを望んだことはただの一度もないが、常にそれを実証してきた。

 獣人にも大きく分けて二種類ある。普段はヒューマンと変わらない容姿をしているが、獣あるいは半獣半人の形態をとる事が出来る種族と、普段から半獣半人の姿をしている種族だ。特に強く迫害されたのは、前者である。隣でごく平凡に暮らしていた青年が、ある夜恐ろしげな獣の姿をしていた。それは確かにヒューマンの感覚では、そして知識がなければ、強い恐怖を呼び覚ます現象であろうが、かつてヒューマンの街では、その様な事が発覚すれば獣人はほぼ例外なく処刑されるという時代があった。

 長い長い抗争の歴史は続いたが、少しずつ対話も試みられるようになった。お互いがお互いに嫌悪感を持っていたのは紛れもない事実であったが、それにしてもお互いに与えあう被害がひどすぎた。これ以上の抗争はお互いの種の存続にかかわるというところまで行って、ようやくヒューマンと獣人は一応の和解を得た。

 しかしエルフは獣人を『野卑で品性下劣な蛮族』と忌み嫌い、最後の最後まで獣人を自分達と同等の知的生命と認めようとしなかった。結果、大都市ではヒューマンと獣人がごく普通に隣人として暮らしている現在においても、エルフと獣人は基本的に仲が悪い。

「……しかしそれは不合理と言うものだと思う。違うかな、ユキヒト」

 しかしどんな種族にも変わり者はいる。精悍な狼の顔に知的な銀縁の眼鏡をちょこんと乗せたワーウルフの青年は、滔々と続いた歴史の解説からついに自説の披露へと段階を移そうとしていた。

「我々は共通の言語を使う事が可能であり、交配すら可能なのだ。これはもはや同一の種と言っても過言ではない。少々の見た目の差異などそれこそ個性で片付けられるものだ。そも、エルフは我々を野蛮と言うが、それは常に迫害され、武器を手に取らなければ生き抜くのも難しく、文化的な成熟など望むべくもなかった時代の話に過ぎない。現在アカデミーに学ぶ獣人の数は、相対的に見てエルフやヒューマンに必ずしも劣るものではない。種として獣人が知性的に劣っているなどと言う事は断じてないのだ。もしもエルフが偏見にとらわれ、そう言った事実を鑑みることなく我らをモンスター扱いするというのならば、それこそ品性下劣と言うものだ」

「……アルディメロ。俺としては別に獣人を差別してるつもりはないんだから、講義はエルフの差別主義者の前でやってくれ……」

 延々と語り続けるアルディメロに、ユキヒトは深いため息をついた。

 その態度に、絶好調で自説をぶっていたアルディメロが、若干傷ついたようにうなだれる。

「……過ぎた知性もまた、迫害の因と言う事か」

「……」

 こいつ本当は全く傷ついていないんじゃないだろうかと、いささか疑いの目で見てしまうユキヒトだった。

「……私はアルディメロさんのお話、好きですよ」

「おお、ノルン。汚れなき魂を持つ者。君の様に理性的なものは、君のような歳には非常に珍しい。ご褒美に私の毛でもふもふして良いぞ」

「本当ですか? ありがとうございます」

 例によって椅子に座るノルンの前に、アルディメロは姫君にかしずく騎士のように首を垂れる。ノルンは、その頭のふさふさした毛を撫でて、その感触に微笑んだ。

 ノルンが言う事には、アルディメロの毛は柔らかく、撫でていてとても気持ちが良いのだそうだ。断固として犬よりは猫派のユキヒトにとっては、別に羨ましくない。アルディメロ本人に言えば、私は犬ではなく狼だと言って憤慨するのは間違いないため、あえて口に出そうとは思わなかったが。

「武器を取りに来てるのか講義をしに来てるのか分からなくなる奴だな、お前は」

「無論、両方だ。理性によりこの世の蒙を啓くのは知識人の義務であるが、同時に鉄拳を以ってしか正せぬ非道もある。言葉の力は偉大であるが、言葉しか力を持たぬのでは難しい局面があるのもまた事実」

「……だからってこの剣は知識人の使うものとしていささかどうだろうと思うんだが」

 到底腰に差す事など不可能な、背中に背負う為の大剣。湾曲したそれはシミターと呼ばれる片手剣に近い形状だが、ヒューマンの身では到底片手で扱う事は望めまい。片刃の刀身はぎらりと鈍く光り、抜いただけで山賊も逃げ出しそうな凶悪な剣であった。

「分かっていないな、ユキヒト。剣など暴力的な形であればある程良い」

「乱暴な奴め」

「馬鹿を言うな。これだけ凶悪な武器を持っている相手を暴力で屈服させようなど、馬鹿のやる事だ。故に、この剣を持っているというただそれだけで、無駄な戦闘がいくらか回避できるのだぞ」

「……前にヒューマンの使う片手剣は軽過ぎて木の一本も切り倒せはしないって嘆いていなかったか」

「無益な戦いの回避のためには、少々の威圧は必要であろう。言葉で言って分からぬ馬鹿を理性的に説得するには、聞く耳を持たせねばならぬ」

「理性的に説得、ねえ……」

 ユキヒトは以前、彼と共に道を歩いていて山賊に襲われたことがある。その経験からすれば、ユキヒトとしてはため息をつかざるを得ない。

「『噛み砕くぞ、この屑が』」

「……」

 吐き捨てるように言ったユキヒトの言葉に、ついとアルディメロは目をそらした。

「これが理性的な説得の言葉かね」

「いささか言葉が荒かった事は事実であろう。しかし私の意思はあくまで争いを避ける事にあった。あの状況においては圧倒的な力の差を自覚させることこそ争いの回避のための最善の手段であった」

「……まあ、そう言う事にしておくか」

「そう言う事にしておくも何もそれが事実だ」

 やれやれとユキヒトは肩をすくめる。その態度がアルディメロには少々気に食わなかった様子だったが、食ってかかるような事はしなかった。

 獣人種とヒューマンやエルフが長い長い年月を和解出来ずに過ごした原因は、三つあると言われている。

 一つに、ヒューマンの恐怖心。一つに、エルフの差別心。そして最後に、獣人の短気。

 いかに知性の鎧を纏おうと、その性質までもが容易に変化するものではなかった。

「……でも、実際にはアルディメロさんは乱暴な事をしなかったんでしょう?」

「うん? まあ……山賊は全力で逃げ出したからな。乱暴な事をする暇もなかった」

「じゃあ、アルディメロさんは優しい人です」

 穏やかに笑いながらノルンは断言する。

「……おお、ノルン! 心優しき者よ! 我が感謝はもはや言葉などという不完全な伝達手段をもってしては表わす事が出来ん!」

 跪いて手を取らんばかりのアルディメロを、苦笑いしながらユキヒトは見ていた。

 実際のところ獣人種の短気と言うのは、敵対する者に対してのみ発揮されるものである。

 獣は無為に争わない。食いもしない獲物をとる事もない。群れるのは、そうしなければ生きていけないからだ。それならば、群れの仲間を大切にしない筈もない。一方で自らを害そうとするものは全力を持って排除する。

 野生の本能を人間やエルフよりも強く残す獣人だ。そういった性質も強く持っている。だからこそユキヒトも安心してからかえると言うものだ。本当にただ短気ならば、殴りつけただけでそこそこに太い木をなぎ倒すような男と安心して会話など出来ない。

「それで、アカデミーの方はどうなんだ」

「悪いな。どうにもならん」

 ユキヒトの言葉に対してアルディメロは、即座に冷たい声で切って捨てた。

「全くこの世は不思議に満ちている。しかし解き明かせない不思議はない。それには何よりも諦めぬ信念と情熱が必要だと言うのに……。魔法に頼り過ぎればヒトは堕落する」

 アカデミーとはこの世界の学術機関である。最重要技術である魔法研究も、非常に盛んにおこなわれている。そう言った意味で、ユキヒトが学んだ魔術学院との交流も深いのだが、魔術学院が魔術の行使などの実践を重んじるのに対して、アカデミーはその理論を解き明かそうとする機関だ。そこには似て非なる性質があった。

「何故と問いかける事をやめてはならぬ。確かに究極の根源においては、その様に定まっているのだと結論せざるを得ない事もあるかも知れぬ。しかし我らは未だそこに至ってなどおらぬ。皆が何故この程度の段階で、問いかけをやめてしまうのか。私には分からん」

「……」

 ユキヒトは曖昧な笑顔を顔に張り付けたまま、それを聞いていた。

 ユキヒトの生きていた世界、魔法の無い世界でも、彼のような者たちが世界を進めて行ったのだろうかと思う。

 そして同時にひどく申し訳ないような、自分が不正をしているような気持ちにもなる。

 自分はおそらく彼の様々な問いにヒントを与えられる。彼にとって喉から手が出るほどに欲する知識を、大量に持っている。

 しかしそれを開示してはならないのだ。たとえ彼が見当違いの方向へ走っている時であろうと、それをそうと教えてはならない。

 そして彼ならば、いつか自分が誤っていたことに気付き再び別の方向へ走り始められる。ユキヒトはそう信じている。

「おお、そうだノルン。ユキヒトから果実酒を馳走になる約束をしているのだが、取ってきてはもらえんか?」

「……はい、分かりました」

「一人で大丈夫か?」

「大丈夫です」

 アルディメロの言葉に従って、ノルンはゆっくりと立ち上がると、家の奥へと向かって行った。

 パタンと扉が閉められるのを確認して、ユキヒトは口を開いた。

「……察するぞ。あの子は鋭い」

「良いのだ。ノルンには聞かせたくない話をしたいと言う事をあの子自身が理解してくれるならば、それが一番良い」

「俺としては、ノルンには聞かせたくない話はしたくないな」

「私のわがままだ。付き合ってくれ」

「……仕方ないな」

 やれやれと、ユキヒトは胸の前で腕を組んだ。

「……いつまで、こんな山奥に閉じこもっているつもりなんだ」

「分からない。ノルンがもう少し丈夫になって、町でも暮らせるようになるまでかな」

「……あの子は賢い。が、賢すぎて少々臆病な子でもある」

「……」

「事情は知らぬでもないが、結局のところそれはノルンの為にもならぬのではないか」

「……」

 彼がこういった事を言い出すのが、予測できなかった訳ではない。かと言って答えを用意していたのかと言うと、そんな事もない。

 お互いに言葉はない。沈黙だけがその場を支配していた。

「時間が必要なんだ。時間が解決してくれるはずだし、時間以外によっては解決されない問題なんだ」

「それは違うぞ、ユキヒト。問題を解決するのはいつでも意志の力だ。例え今は問題に向き合うだけの心になっておらずとも、いつか時が来れば向き合わねばなるまいよ。そうして乗り越えて初めて、問題は解決されるのだ」

「耳が痛いな」

 彼の言う事はいつでも正しい。だからこそ、彼の言う事を聞きたくない事もある。ユキヒトは苦く笑った。

「……それでも、今はまだ難しい。ノルンも……俺も」

「……仕方がないな」

 ふぅーっと、細く長くアルディメロは息を吐いた。

「責めている訳ではないのだ、ユキヒト。ヒトは己の事を己で決する権利を持つ。ユキヒトが真にそれを望むと言うのであれば、この山奥の時間の止まったようなこの家でただ静かに暮らしていくのもまた良い事であろう。ノルンもまた、それに反対するような事はあるまい」

「分かってる。ただ、まだ……今は……」

「……すまないな。金剛石が泥の中に埋もれていると知れば、掘り出したくなるのがヒトの性と言うものだ。たとえその金剛石が泥の中で、再び輝く時を自ら待っていると知っていたとしてもだ」

「ありがとう、と言っておくよ」

 なんだかんだで彼は、ユキヒトを高く評価してくれている。照れ隠しに笑いながら、ユキヒトは返事をした。

「……ごめんなさい、ドアを開けてください」

 それからしばらく沈黙の後、ドアの向こうからノルンの声がした。

 なぜわざわざドアを開けさせようとするのかと少しだけ訝しく思いながら、ユキヒトは言われたとおりにドアを開けてやった。

 そこには、お盆にアルディメロ所望の果実酒だけでなく、いくらかのつまみになるものと、生のフルーツや絞り器、そして少しのお菓子といったものを満載にして運んでいるノルンが立っていた。

「二人だけで楽しむなんて不公平です。私にもジュースを絞ってください」

 にっこりと笑って、ノルンはそれをカウンターに置いた。

「おお、ノルン。すまなかった。そんなに重いものを少女に持たせて大人二人が座っているなど、実に無神経。許してくれ」

「いいんです。私だって、おうちの中のお手伝いくらいできるんです」

 早速世話を焼こうとするアルディメロをやんわりと押しとどめて、ノルンは定位置である自分の椅子に座った。

 二人の為に果実酒をつぐと言う事はない。それは何も二人が昼間から酒を飲もうとしているのを批判するためではなく、こぼしてしまう可能性が高いからだ。

 初対面の人間が思うほどに何もできない訳ではないノルンだが、ごく普通の人間が当たり前にする事全てを簡単にできる訳でもない。

「……オレンジでいいか?」

「はい!」

 好物のジュースを前にして弾んだ声を上げる少女に、大人二人はこっそりと目配せをしあい、苦く笑った。











 アルディメロはその後しばらく果実酒を堪能した後、日が傾かないうちに刀剣工房「コギト・エルゴ・スム」を出た。

 山奥とはいえ、何日も歩かなければ人里にも出られないような真の僻地ではない。山道を小一時間も行けばふもとの村にたどりつける程度のものだ。そこから馬車を使えば、比較的大きな街へ行って買い物をし、その日のうちに帰ってくることも不可能ではない。

 酒に強いアルディメロの事、少々の果実酒程度で山道を踏み外すような事もない。ユキヒト作の凶暴な剣を背に、揚々と帰って行った。

「……」

 アルディメロを見送った後ノルンはユキヒトの背中に顔をうずめる様に後ろからぎゅっと抱きついた。

 ごめんなさいと小さく呟く彼女に、何も謝る事はないんだと返して、ユキヒトは彼女の頭を撫でた。












『常に賢き人狼へ 貴方と共にこの剣が力の正しき使い道を示さん事を 行人』







[8212] 蓼食う虫も食わないもの
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2010/09/01 19:06

「……のわあああああああああああああああ!!」

 とんでもない声をあげて、少年がドアを開け室内に突入するなり、そのままカウンターを乗り越えて住居部分につながるドアへと突撃していった。

「いいですか!? 僕はここに来ませんでした!」

 叫びつつ、少年は家主の了解も得ずに住居部分へと逃げこんでいった。家主とて止める間の無い、まさにそれは疾風迅雷の動きであった。

「……ノルン」

 事態の割には落ち着いた声で、ユキヒトは同居する少女に呼びかけた。

「何でしょうか?」

 盲目の少女もまた、自らの定位置であるお気に入りの椅子に座ったまま、ゆったりとした声で返事をする。

「無理があるな」

「はい」

 二人が頷き合ったところで、こんこん、と、上品に扉がノックされた。

「どうぞ、あいています」

「お邪魔するわ」

 現れたのは、長い黒髪が目を引くヒューマンの少女だった。

 一言でその容姿を表現するならば、「隙のない近寄りがたい美人」と言ったところだ。

 その黒髪は相当に気を使って手入れをされているのだろう。傷んだ様子など全く見せず、闇を糸にしたような見事な漆黒だ。さらりとしたその髪は背中の半ばまで伸ばされている。肩にかかる髪を背中に流すしぐさなどには、年齢以上の女性らしさを備えている。

 全体としてすらりとした少女で、背も高い。顔立ちも、ほっそりとした輪郭と言い、ややつり気味の目元と言い、どこか冷たい印象の、年齢よりは良い意味で年上に見える美少女である。

 少女は、ノルンとユキヒトを順番に視界におさめた後、居住部分へとつながるドアに目をやりつつ口を開いた。

「ここに逃げ込んだ私の下ぼ……恋人を引き渡してくれないかしら」

「自分の恋人の事を下僕って言いかけなかったか」

「そんな些細な事はどうでもいいと思わない?」

 取り繕うでも誤魔化すでもなく、心の底からそんな事は些細な事だと考えている声で言うと、少女は一つ溜息をついた。

「引き渡さない場合は、貴方も敵とみなすわ」

「自分の恋人の事を敵扱いしていないか」

「些細な事ばかりを気にかける人ね」

 詰まらないと言う様に目を細めて、じろりとユキヒトを睨みつける。整った容貌をしているだけに、そういった冷たい表情が、彼女には殊の外似合った。

「とはいえ俺たちは事情も知らない恋人同士の喧嘩でどちらかに加担するような事はしたくない。勝手に逃げ込んだファルがどこにいるのかは分からないけど、入って探してもらっても一向に構わないぞ」

「ありがとう。それじゃ早速」

 そう言うと少女は、居住部分につながるドア……ではなく、自分がつい今しがた入ってきた、外へとつながるドアを開けた。

 そこには、こっそりと抜き足でどこかに逃げ去ろうとしている、先程逃げこんできた少年、ファルの姿があった。

「ファルくんのそう言う姑息で抜け目のない所、私は好きよ」

「……ブレンヒルトのそう言う理不尽なレベルで鋭い直感が僕は脅威だと思ってるよ」

 ブレンヒルト。それが少女の名前だった。

 ファルの恋人であるヒューマンの冒険者。刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』の顧客の一人であり、冒険者としての実力は恋人であるファルにも引けを取らない。

 ブレンヒルトは、じわりと汗をかきながらじりじりと後退しようとする恋人に無造作に近づきながら、物憂げに息をつきつつ言った。

「直感な訳ないでしょう? 私は貴方の気配なら、それこそ髪の毛一本が床に落ちているのすらも見逃さないわ」

「泣きそうだ! でも感動のせいか恐怖のせいかは分からない!」

「貴方が眼から体液を垂れ流す理由なんて知る訳ないわ。歓喜じゃない?」

「知らないとか言いながら勝手にレベルアップさせるな! あと体液を垂れ流すとか言うな! 涙がものすごく汚らしい物みたいだ!」

「何を言っているの。涙なんて魔術による解析によれば所詮汗や……」

「その先を女子が口にするのは絶対に止めろ!」

「女というものに対して幻想を抱きすぎね。これだからまともに女の子と付き合ったこともない男は」

「現在進行形でその男と付き合ってる女にだけは言われたくないな! ついでに僕の女の子に対する幻想はお前の手によってものすごい勢いで破壊され続けている!」

 こそこそと逃げ出そうとしていた割には随分と白熱した口調で、ファルは次々と突っ込みを入れて行った。しかしブレンヒルトはと言えば、涼しい顔をまるで崩そうとしない。

「ところで剣の作製を依頼に来たわ」

 これまでの流れを一切無視した上で、ブレンヒルトはユキヒトへと向き直って言った。

「ファルくんの剣の出来はとても良かった。そう……思わず取り上げて主に私が使ってしまうくらいに」

「……方向性としては同じでいいのか?」

「そうね。ただ、もう少し長めのものが良いわ。それと私はあまり直刀は好きでないの。あと、ファルくんは突きも結構多用するけれど、私はほとんど使わないわ」

 ファルに対する扱いはひとまず無視をして、ユキヒトはブレンヒルトの注文を頷きながら聞いていた。そのファルはと言えば、ブレンヒルトの注意がそれたように見えるものの逃亡を再開する様子はなく、恐る恐る部屋の中へと入ってきた。

「素材は? 鉄でいいのか」

「鎧亀の甲羅は用意したわ。後は少しだけれどオリハルコンも」

 オリハルコンは、武具素材として広く使用される魔法金属である。

 ミスリルほどの魔術に対する親和性はないものの、ミスリルとは違い合金にしてもその性質を失わないという特質を持ち、また金属として見れば硬度そのものはそれほど高くない事から、主に鉄やその他金属との合金として使われる事が多い。

 その性質から必ずしも武具を丸ごと作れるだけの量が必要と言う訳ではなく、汎用性は高いものの、どの金属と混ぜ合わせるか、またその比率をどうするかによってがらりと仕上がりを変えてしまう奥の深い素材でもある。

「……同じ仕様と思わせておいて微妙に上質に仕上げようとするのは何のこだわりなんだ」

「私負けず嫌いなの」

 ブレンヒルトの態度は、あくまでも淡々としていながらそこかしこに悪意が漏れ出る。ここまで来ると、ファルと付き合っているという事実でさえも彼に対する壮大な嫌がらせなのではないかとすら思えた。

 とは言え注文は注文である。その背後に明確に犯罪の影でも見えていない限りは、断る理由もない。

「それじゃあ報酬だが……」

「前回から違いは?」

「ない」

「じゃあいいわ。覚えているから」

「……そうか」

 こうやって遮られない限りは、ユキヒトは例え常連客相手であっても報酬の説明をする。

 金がなければ生きていくのは極めて困難だが、かといってそれで人間関係を壊すような事はしたくない。だからユキヒトは、報酬についてはしっかりと説明した上で仕事を引き受ける事にしていた。毎回遮られようと省略する事はないし、前回から変わっていれば例え相手がそれを拒もうとも説明する。

「それで、ファルは何か注文はあるのか?」

「いえ。今日の僕は単なる付添いです」

「……付添いってのが追われて逃げ回るって言う意味も持ってたってのは今日初めて知ったよ。で、理由は一体何なんだ」

「だってファルくんったら私が家で待っててねって言うのに勝手に外に出ているんだもの」

「三日間の探索に出るのに彼氏を家に閉じ込める彼女がいるか! 結構全力を出さないと脱出もできなかったぞ!」

 ユキヒトの問いかけに答えたブレンヒルトに、ファルが再び全力で突っ込みを入れる。

「食料と水は用意したわ」

「そう言う問題じゃないうえにそれはもう三か月前の話だろ。何でまた今日になっていきなりそれで僕を責め始めたんだよ……」

「ユキヒトさんのところにはノルンがいるってことを意識したら、つい」

「一体それのどこがトリガーなんだ!」

「私のせい……ですか?」

 自分を責めるような口調ではなく、むしろきょとんとしたと言ったような声色で、ノルンが言う。

「貴女が引き金になってファルくんが私に追われることになったというだけのことよ。もしも貴女が存在しなければ今日ファル君が私に追われる事にはならなかったというただそれだけのこと」

「お前のせいだとか断定するよりもさらにたちが悪い!」

 まったくもってその通りだったが、ノルンはくすくすと笑った。

「あいかわらずお二人は面白いです」

「貴女を楽しませてあげようなんて考えた事は、私、これっぽっちだってないわ」

 あくまで冷たく素っ気なく、平坦な声でブレンヒルトは告げる。そこには何かを取り繕うという意思は、かけらほども見られない。

 それでもノルンはひるまない。相変わらず楽しそうに、くすくすと笑っていた。

「嘘でもいいからそこはノルンちゃんを楽しませてやろうとしていたってことにしてくれよ……」

「随分とノルンを庇うわね。これは、制裁が必要かしら」

「待て! なんで僕の方じゃなくてノルンちゃんの方を向いて言う!」

「え、だってそっちの方が効果的じゃない」

「お前どのレベルで僕を苦しめたら満足するんだよ!」

 到底恋人同士である二人の会話とは思えないが、この二人の会話は、概ねいつもそのようなものであった。稀にファルに行くべき被害が飛び火する事はあり、そう言った時は流石に抵抗するものの、ユキヒトは実行に移そうとしない限りブレンヒルトがどれだけ物騒な事を言い出しても気にしない事にしていた。

 問題は、ブレンヒルトが余り冗談を言う性格ではなく、ファルがうまくフォローを入れてくれなければかなりの確率で被害が来ることだったが。

 その時、再びノックの音が部屋に響く。

「はい、どうぞ」

 鈴を鳴らすような声でノルンが答え、扉が開く。

「……あれ、今日ってば千客万来」

 入ってきたのは、身長30センチほどの小さなヒトだった。その背中には小さな羽根が生えており、空を飛んでいる。

「とりあえずはじめまして。あたいってばフェアリーのデジレ。以後よろしくお見知り置きのほどっていうんだっけか、こういうとき」

 ふわふわと飛んでファルとブレンヒルトの傍まで寄ると、フェアリーはぺこりと頭を下げた。

 フェアリー族。ヒューマンよりはるかに小さくひ弱な種族だが、その分平均的に高い魔力を備える。ノックも、扉を開けたのも、どちらも魔術を使ってのことだ。そうでなければこの様に小さな生物に、部屋の中に響くほどのノックをすることも、ヒューマン用に作られた扉を開ける事も出来るはずがない。

「あら、ご丁寧にありがとうございます。はじめまして、私はヒューマンのブレンヒルト・ディングフェルダー。ミュンファーに生まれ現在ベルミステンの冒険者協会に所属しています」

 ブレンヒルトは、柔らかく微笑み、礼儀正しくゆったりと一礼をすると、穏やかな口調で名乗りを上げた。

 驚愕の変わり身だったが、それに対して指摘を入れる者は誰もいなかった。

「僕はヒューマンのファル・オーガスト。クレイトスの生まれで現在は同じくベルミステンの冒険者協会所属です」

「おやや。あんたたちこそずいぶんご丁寧なお人たちだね。となるとあたいもちゃんと名乗んなきゃだめかしらん。あたいってばデジレ・エイジェルステット。フォリスタワルト大森林生まれ、ベルテチカの冒険者協会に所属の冒険者なんだわ」

 こちらはどちらかと言うと純朴に、先程同様にぺこりと頭を下げる。元々礼儀であるとかそう言ったものと縁の深い個性ではないのだった。

「ユキヒト、ユキヒト。あたいってば剣の注文に来たんだけど、この人たちもそうかしらん?」

「ああ、そうだ」

「そっかそっか、ご同業だもんね、そりゃ当り前だ」

 今度はユキヒトの顔の前まで飛んでいくと、あっけらかんと言う。

「デジレさんは、フェアリーの割に随分と……開放的なんですね?」

「ん? あたいってばつまはじき者だからね。エルフさんたちと一緒に毎日毎日森林浴って柄じゃなかったんだわ。まあたまには森に帰らないと魔力が補給できなくて干からびて死んじゃうけどね。その点ここはお気に入りだわさ。ヒトの手が入り過ぎてないさね」

 遠慮がちに言葉を選びつつ指摘するブレンヒルトに対して、からからとデジレは笑う。

 フェアリーとエルフは、余り故郷の森から出ようとしない。特にフェアリーは森にいる間はその加護を受ける事ができ、相当の魔法を遣う事が出来るが、森を出た瞬間からその加護を失い、通常の種族なら何もせずとも魔力は体力同様少しずつ回復するはずが、少しずつ魔力を消耗し、流石に一日や二日といった時間でそうなる事はないものの、最終的にはデジレの言う通り干からびて死ぬ。

 その存在自体を大きく魔力に依存し、森の持つ生命力や魔力と同調する事により生きていくことのできる種族。それがフェアリーだ。

 特性からしてそもそも森の外に出る事は少なく、そして森の中という狭いコミュニティーで生き続けたことから育まれたのか、閉鎖的な気質を有する種族であった。
 
「んで、ユキヒト。ミスリルが手に入ったからこれで短剣作って」

 にかっと笑うと、デジレは背負っていた袋から、鈍い光を放つ金属を取り出した。

「ちんちくりんってのもたまには役立つもんだわ。あたいってば武器やら作ってもらうのに材料費の安いこと安いこと。ま、流石にミスリルで作ろうと思うとちょっとかかるけどね。短剣が精一杯」

 実際、デジレの取り出した金属の塊も、ヒューマンであれば短剣など到底作れるような量ではなかった。せいぜい食事用のナイフでも作れるかどうかという量だ。

 しかし、フェアリーならば十分短剣を作れる。デジレの言は全く正しかった。

「細かい事はあたい分かんないし、全部お任せ。んじゃまよろしく」

「え? もう行ってしまうんですか?」

「ごめんよノルン。あたいってばここんとこしばらく街暮らしだったからさ、久しぶりの自然でテンション上がってるんだわ。森があたいを呼んでる! あとでもっかい来るから、その時ね!」

 残念そうなノルンに対して、少しも躊躇することなく告げると、デジレは入ってきた時同様、魔術で扉を開けてさっさと出て行った。

「……落ち着きのないフェアリーね」

 とたん、表情がすとんと抜け落ちたブレンヒルトが、容赦のない批評をした。

「お前のその芸はいつ見ても見事だと思う」

「私の売りだもの」

 ユキヒトのちょっかいに、怒るでもなく平然と返す。

 ブレンヒルト・ディングフェルダー。冒険者協会の前に学んでいたスクールでは優等生の呼び声高く、また面倒見が良く、相談に親身に応える優しさ、また間違いを堂々と正そうとする芯の強さから後輩の人気も高い人物だった。卒業の間際になって付き合いだしたファルとも、実力はあるがどこか落ち着きの無い所のある彼を良く支える、出来た恋人という関係で見られていた。

「良く知らない相手に隙を見せるだなんて、油断としか思えないわ。ひとまずは警戒心や敵愾心を持たれず、なおかつ与し易いとも思われずよ」

 そのための、親しみやすさと芯の強さを兼ね備えた優等生と言うキャラ作りだとは、本人の公言するところである。

「……の割には、ファルには随分厳しいよな」

「警戒しても仕方のない相手に自分を飾って一体何処で休めって言うのよ。ファルくんはそう、いわば私の安息の聖域。フェアリーにとっての森にも等しいわ」

「だったらもうちょっと優しくしてくれよ……」

「それじゃあ安らげないじゃない」

「冷酷だ!」

 ファルの呟きを、心の底から心外だと言う表情で否定するブレンヒルト。そのやり取りをユキヒトは苦笑して眺めていた。

 必ずしも恋愛経験豊富とはいえないユキヒトとしては、この二人がうまくいっているのかいないのかという事について正確な判断を下す事は出来ないが、それでも少なくともファルは、一人でユキヒトと会う時はそれなりに惚気るのだ。

 二人の馴れ初めについてなど詳しく聞いた事は流石にないが、どうやら最終的にはブレンヒルトからファルに迫ったらしいという事は、何かの拍子にファルの口からそれらしいことを聞いた覚えがあった。ブレンヒルトの言葉も、随所にちりばめられた悪意を丁寧に取り除いてやれば、ファルに対する惚気と取れる事を言っていない事もない。そうやって考えていけば、これで結構お互いに好きあった仲なのだとも思われた。であるならば二人が繰り広げるこれもまた、壮絶な痴話喧嘩なのであろう。

 人の個性は千差万別。ましてその個性同士の結びつき方など、ただ一人の物差しで測れるはずもなかった。
















 しばらくして、デジレが戻ってきた。その際には再びブレンヒルトは優等生の仮面を完璧にかぶっており、デジレもそれを少しも疑っていない様子だった。親しげな様子で、冒険者同士情報の交換などしていた。

 デジレもまだ十分成熟したという年齢ではない事もあり、珍しく年の近い相手が多くいたため、ノルンも終始楽しそうに話をしていた。やがて夜が近づくと、客の三人は刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』から出て行き、ユキヒトはノルンの為に夕食を用意した。

 少しはしゃいだ気持ちだったためか、ノルンは普段よりも多めに食べて、風呂に入るとすぐに疲れが出て眠ってしまった。

 ユキヒトは、自分の部屋でランプに明かりをともし、手紙を書いていた。

「……」

 黙々と、今日この日にあった事を手紙にしたためていく。

 手紙の受け取り手も、ファルやブレンヒルトと同じく、ベルミステンに住み、二人の事も知っている。

 ベルミステンは、この地方の中心都市だ。ユキヒトの学んでいた魔術学院もそこにある。自然、知人も多くそこに住んでいた。

『……そう言う訳で今日は2つ依頼があったけど、それを除いてはおおよそいつも通りの一日だった。ノルンも元気だ』

 すらすらとそこまでは書き終わる。そこから、ユキヒトは少しだけ考えて、続きをしたためた。

『いずれはそっちに戻りたいと思う。すぐに、という訳にはいかないけれど。それじゃあ、また手紙を書く。元気で』

 少し緊張したものの、何とか文字をにじませずに書く事が出来た。ユキヒトはペンを置いて、小さなため息をついた。












『情深き人の少女へ 対となるべき剣を持つ対となるべき者と永き時を共に過ごさん事を 行人』






[8212] エルフと死霊
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/06/21 23:04





 銀は、貴金属としては金と並ぶほどに有名であり、電気伝導率や可視光線の反射率が極めて高いなど、有用な性質を持ち、その美しい光沢から歴史上常に愛好され続けてきた金属である。

 また、月や女性の象徴とするなど、どこか神秘的な意味を人間はその金属に見出してきた。

 鉄には神秘のにおいがない。それは、鉄と言うものが日常に溢れた金属であり、また、太古から武器として用いられてきたという生々しい事実に基づくものであろう。鉄は実用的な金属であり、そこには徹底した現実がある。

 半面、銀は主に装身具や貨幣などとして用いられてきた。

 それは、その美しさや希少性から日常用品として用い難かったのもさることながら、武具や農具にするには銀が柔らかすぎる物質であったことも一つの原因だろうとユキヒトは思う。

 そう。銀は柔らかい。その柔らかさ故に、宝飾品として用いる時でさえ一般に純粋な銀は用いられず、合金の形で加工される。そんな物質が武器や防具として使われるはずがない。

 銀が武器として用いられる状況はただ一つ。悪魔退治である。

 銀はその神秘性から、悪魔退治の魔術具としてしばしば登場する。鉛の銃弾では死なない狼男も、銀の弾丸を撃ち込まれれば死ぬのだ。

 魔術など存在しない、あるいは存在が確認されていないユキヒトの世界においても、銀は魔的な要素を見出された素材であった。

 魔術が日常の技術として存在しているファリオダズマでも、銀はやはり魔術と大きく関連付けられる金属である。

 ミスリルやアタマンタイトとなど、魔術への親和性が極めて高く、その存在それ自体が魔力を放つ金属を魔法金属と呼ぶ。銀はそれらとは違い、自ら魔力を放たないという意味において魔法金属ではないが、魔力を増大させる触媒の役目を果たす、魔力の伝導性が高いなどの性質を備えている。

 その為に、ファリオダズマでは、銀を武器や防具として用いることがある。ファリオダズマでは銀は比較的ありふれた鉱物であり、それほど値段も高くないため、銀で武具を作ったところでとんでもないほどの値段になる訳でもない。

 とは言えそれも、魔術師の使用する魔術具としての場合がほとんどであり、剣や槍など、直接相手と打ち合う為の装備に向く金属ではない。

 しかし今、ユキヒトが鍛えているのは、極めて珍しい純銀製の剣であった。

 剣を打つのは楽しい。一心に鎚を振るい、思うような形が出来上がっていく過程など、思わず笑みがこぼれてしまう。

 それでも、今回の仕事にユキヒトは喜びを覚える事が出来なかった。

 普段よりもさらに細心の注意を払い、最高の出来のものをとの思いはある。決してつまらない訳でも、やりたくない訳でもない仕事だ。

 ただ、その剣の使われようを思う時、ユキヒトは堪らない気持を抱えてしまう。

 依頼人の名前はシオリ・ヨイノマ。

 『死霊憑き』のエルフである。











 知られている限り、ファリオダズマは二つの大陸と、その周辺に浮かぶ数多の島とで構成されている。

 航海技術はさほど発達していない関係から、まだ見果てぬ遠い海の彼方には未知の大陸が存在する可能性もあるが、現在のところまだそれを探しに行こうという気運は盛り上がっていない。今のところは大陸内部で争うのに忙しく、外にまでは目が向いていないというのが実情だ。

 大陸の周囲に浮かぶ島は、それぞれが大陸の中の国の領土であったり、独立した国家であったりする。そして、後者の例の一つとして、カミツ諸島とよばれるいくつかの島を領土とするカミツ国がある。

 カミツ諸島は大陸から比較的遠い事もあり、独特の文化を持っている。

 ユキヒトはその国に行った事はないし、その国出身の者の知り合いもそう多くはないが、伝え聞くところによれば、どうにも元いた世界の日本と共通するところが多い。

 今回注文された純銀の剣も、形態としては明らかに日本刀だ。

「……シオリさんは、今日いらっしゃるはずですね」

 珍しく、ノルンがそんな確認をする。その声は、どこか沈みがちな暗いものだった。

「ああ、そうだな」

 ユキヒトはそれに相槌を打ちながら、ちらりと扉の方を見た。

 今日来るはず、それは確かな事だ。ただし、死んでさえいなければ。

 シオリはユキヒトの知り合いの中で最も死に近しい存在だ。

 性格は無謀と言うにはほど遠いし、実力のほども確か。健康上の問題を抱えている訳でもない。それでもなお、彼女の持つ事情は重すぎた。

「……」

 ノルンが不安を感じているのが、ユキヒトにも分かった。しかし、気休めを言う事も出来ない。

 シオリはその抱えている事情から、夜にやってくることなどあり得ない。そしてその性格からいって、約束の日に連絡一つよこさないなどと言う事も考え難い。

 つまり、後数時間の間に現れなければ、何らかの深刻な事情を彼女が襲っているという事になってしまう。そしてその可能性は決して低くない。

 祈るような気持ちで、扉を見つめる。

 しかし、未だにノックの音は聞こえてこない。ユキヒトは小さく溜息をついた。

 来るかどうかわからない相手を待つというのは、かなり苦しいものだと思う。とはいえ彼女に罪はない。むしろ彼女は常々言っている。約束の日に自分が現れなかったなら、どうか自分の事はその日を境に忘れて欲しいと。

 そんな風に簡単に割り切れる訳はないが、だからと言ってこちらから何かを出来る訳でもない。それはもどかしい事だった。

「……昼食にしようか?」

「ごめんなさい、まだお腹がすきません」

「そうか」

 半ば以上答えを予想しながら投げかけた問いかけには、予想と全く違わない答えが返ってきた。

 元々食が細いのに加え、心配事があると食事に手をつけなくなるのがノルンだ。そのせいでまた体を弱くすることもある。

 そうして、ただじっとノックを待つ時間がすぎる。ただ待つ時間は長い。しかし、ノルンもユキヒトも、会話を楽しんでいるような心持ではない。時間とともにかすかな焦りにも似た感情にじわじわと侵されながら、その時をひたすらに待つ。

 そうしてどれほどの時間が過ぎたか、コンコンと控え目なノックの音が部屋の中に響いた。

「はい、どうぞ!」

 普段では考えられないほど大きな声で、ノルンは入室を促した。

 入ってきたのは、黒いフード付きの外套で顔や体をすっかり覆った人物だった。

「……久しぶりね。どうにか今回も再会できて、とても嬉しいわ」

 言いながら、その人物はフードを外した。

 大陸出身の者と比べて、ややふわりと丸い輪郭。垂れ気味の眼は黒曜石の様に黒い。髪を肩までも届かないほどに短くしているのは、趣味と言うよりは動きの邪魔にならないようにするためだと聞いている。

 そして、その耳は種族の特徴をあらわして、長くとがっていた。

「シオリさん……」

 ノルンは立ち上がり、とことこと近づいて行って、手探りでシオリの位置を探り当てると、きゅっと抱きついた。

「甘えん坊さんなんだから」

 シオリはノルンのしたい様にさせながら、ふわりと笑って頭を撫でた。

「ノルン、シオリさんは遠くから来て疲れてるんだ。外套くらいは脱がせてあげなさい」

「……ごめんなさい」

「いいの」

 そう言って、離れようとするノルンを逆にぎゅっと抱きしめる。

「……ここのところはどうしてたんだ、シオリさん」

「うん。普段と変わらないわ。傭兵稼業よ」

「……」

「大丈夫。余り強力な『死霊』は、このところ現れていないから、怪我もしていないの」 

 高い魔力を持つ者が死んだ時、ごく稀にその魔力が発散されきらず現世に留まってしまう事がある。一般に深い恨みや悔恨を持って生に執着しながら死んだ場合にそうなりやすいとされ、他の生物に害を為すような存在になる事も少なくない。それを『死霊』と呼ぶ。

 死霊は生前のような知性を残さない事がほとんどである。ただ本能的に、ある種の魔力に惹かれて集まってくるとされ、ファリオダズマに無数に存在する迷宮には、死霊が集いやすい魔力が満ちた迷宮も存在し、その中には死霊が群れをなしている。

 それとは別に、滅多に生まれるものではないが、死霊を引き付けやすい魔力を身にまとってしまっている者も存在し、そう言ったものを『死霊憑き』と呼ぶ。

 魔力は体質の問題であり、そう生まれついてしまったものは、決して死霊憑きと言う運命から解放される事はない。

 いついかなる時に死霊が現れるかは分からない。そして、死霊は理性を持たず、怨念ばかりを抱えた存在だ。死霊憑きの殆どは、そう長くは生きられず、死霊に殺される。

 そして、死霊憑きは一つの場所に留まる事を許されない。

 死霊憑きに呼び出された死霊は無差別に害を為す。一つの場所にとどまれば、死霊憑きだけではなく、その周囲に被害が及ぶ。

 死霊憑きである事が周囲に発覚すれば、恐ろしいほどの迫害が待っている。下手をすれば私刑により殺されかねない。その為死霊憑きの殆どは、必要最低限以外では人との接触を断つ。そして最後には、誰にも知られず独りで死ぬ。それが死霊憑きの宿命だ。

 シオリは、優しくノルンの体を離すと、外套を脱いだ。

「……剣を取ってくる」

「うん。よろしく」

 今回はノルンはついてこない。シオリの側から離れようとしなかった。

 先天的な体質でハンディキャップを負っているという共通点があるせいなのか、ノルンはシオリに懐いている。その半面で、ひどくシオリに対して遠慮もしているのをユキヒトは知っていた。

 ハンディキャップの為に自らできる事が制限され、周りの人間に手助けをしてもらって生きているノルンと、ハンディキャップは身体的な能力に影響を及ぼさないものの、その為に人の中で生きていけないシオリ。どちらがより苦しいのかは、ユキヒトには分からない。

 丁寧に白い布を巻いたその剣を手に取る。

 彼女の願いで、鋭く、鋭くその剣を鍛えた。柔らかな金属で出来た鋭いその剣を携えて、ユキヒトは戻る。

「お帰りなさい」

「……ノルン、今日は一体どうしたんだ」

 戻った先に待っていた状況に、ユキヒトは苦笑した。

 ノルンはシオリの為に出したらしい椅子に、ぴたりと自分のお気に入りの椅子をくっつけて、狭い訳でもない部屋の中で彼女にぴったりと寄り添うように座っていたのだ。

「……本当、どうしたのかしら。赤ちゃん返り?」

「赤ちゃんじゃありません」

 言いながらも、ノルンはシオリから離れようとしない。確かにその様はどこか、母親の指を必死で握る赤子のようでもあった。

「……注文の剣だ」

「うん。ありがとう」

 布を解くと、中から出てきたのは、ただただ無骨な黒い鞘だ。

 剣を飾らないでほしいというのも彼女の希望。

 彼女は静かに、左手でそれをとると腰のあたりに構え、右手で柄を握った。

「……しっ!」

 鋭く、小さく気を吐くと、彼女はそれを突然に抜き放ち、ユキヒトへと斬りつけた。

 ユキヒトは、反応するでもなく静かに、その剣の軌跡を見ていた。

 放たれた刃は、ユキヒトの首のわずかに左の空間を鋭く切り裂いた。

「祓い給え 清め給え 神ながら守り給い 幸え給え」

 きん、と音をさせて剣を鞘におさめながら、シオリは小さな声で、呟くように唱えた。

『オオオオオオオオオオォォォォォォォォ……』

 ユキヒトの背後へと突然に現れていた不気味な影が、呻くような声を残して霧散する。

 それこそがシオリの抱える呪い。『死霊』だった。

「ごめん、また迷惑をかけたね」

「いいんだ。こんな事迷惑だとは思っていない」

「でも、流石ね。私に斬りつけられて少しも動かないなんて。ちょっとでも動いてたら、首が危なかったのよ?」

「鋭すぎて動けなかったんだよ」

 冗談めかしてユキヒトは笑う。それにつられるように、シオリは少しだけ微笑んだ。

「……ごめんね、ノルン。また私、貴女達を巻き込んじゃった」

「……」

 ノルンは何も返事をせず、シオリの腹に顔を押し付ける様に、ぎゅっと抱きついた。

「ありがとう、ノルン。この世で私を赦してくれるのは、貴女とユキヒトだけ」

 その髪を梳かすように撫でながら、シオリは穏やかに笑った。

「ユキヒト、ありがとう。とてもいい出来ね。抜いた瞬間、ちょっとぞっとしちゃったくらい。本当に清浄な魔力。私の実家に奉納してある宝剣にだって見劣りしないわ」

「誉めすぎだろう」

 照れ隠しに少しぶっきらぼうに言うと、シオリは曖昧に笑う。

「……少しはゆっくりして行ってくれるんだろう?」

「でも……」

「……すぐに行っちゃ、嫌です」

 抱きついたノルンがきゅっと力を入れる。シオリは困ったようにその頭を撫でる。

「ありがとう。少しゆっくりさせてもらうから」

 諦めたような、安心したような、微妙に力を抜いた表情で言うと、シオリは優しくノルンの体を引き離した。ノルンはと言えば、少し不安そうな顔をしながら、迷惑になると思ったのか自分の椅子へと大人しく座った。

「無茶はしてないか?」

「大丈夫。自分の力は見極めているつもりでいるから。……でも、私が学んだ道とはずいぶん違う使い方になってしまっている」

「……何が違うもんか。シオリさんの剣は邪を祓う剣だろう。むしろ本来の使い方だよ」

「『祓う』と言うのなら、何よりも祓わなければならないのは、私自身なのにね」

「……シオリさんは、悪いものなんかじゃありません」

「……」

 抗議するように言うノルンに言葉を返す事はせず、シオリはノルンの頭を撫でた。

 シオリは元々、剣を神体として奉る神社の神主の家柄だ。剣を以って死霊を祓うというだけの事であれば、それは彼女にとっても本望であったことだろう。しかし、その死霊を自分が集めてしまうとなれば、それは全く話が違う。

 死の穢れを何より忌むはずの神社に生まれてしまった『死霊憑き』の彼女。自分が『死霊憑き』であると知った時、彼女にどれほどの絶望が襲ってきたか、ユキヒトには想像することしかできない。そして恐らくは、その想像ですら生温いのだろう。自分がそれまで生きて築いてきた常識が自分を全て否定してくるのだ。それは世界が崩壊するにも等しい衝撃であったことだろう。

 『死霊憑き』は、魔力の小さい幼い時期には発覚しない事が多い。しかし年を経て魔力が増大してくると、それに伴い死霊を呼び寄せるようになってしまう。シオリの実家は剣を以って穢れを祓うという家であり、シオリ自身幼いころから剣の扱いを学んでいる。そして、幸か不幸か、シオリはその道に類稀な才能を発揮した子供であったという。

 本来であれば奉納の剣舞として、そしてごく稀に『穢れ』に取りつかれた者の『祓』としてのみ使われるはずだった技術は、今や彼女の命を支えるものへと変わり、皮肉にもますますの磨きをかけられている。

「どう? 暮らし向きに変わりはない?」

「相変わらずだよ」

「そう。何よりね」

 彼女がこの静かな暮らし向きを何よりも羨んでいるという事実をユキヒトは知っている。言葉に困る事もあるが、出来る限りありのままに答えることが誠実だろうとユキヒトは考えている。

「どうなんだ、最近の世間は?」

「……少し騒がしい。商隊の護衛とか、盗賊団の討伐の依頼が増えてる」

 シオリの稼業は傭兵だ。金で依頼を受けて仕事をするという意味では冒険者に非常に近しいところがあるが、冒険者が主に迷宮の探索やモンスターの討伐を生業とするのに対して、傭兵はヒト同士の争いも範疇とするという違いがある。また、冒険者はそれぞれの街の組合に登録をしなければ正規の職業として認められず、かなりの管理を受けるのに対して、傭兵ギルドは単に仕事を紹介する以上の事をほとんどしない。余程評判が悪い傭兵には仕事を回さず、さらに悪くなればかなり荒っぽい『制裁』も加えるが、それだけだ。

 決して争いを好まないシオリがそのような職についているのは、他に術がないからだ。

 身元を明らかにせず、住所も定めず、ふらりと現れては仕事をしてすぐに去る。そのような生活をせざるを得ないものが、まともな職に就ける筈もない。

 静かな暮らしを望む者が、荒事の中でしか生きていく術を見いだせず、そして相応の技術を持ってしまっている。ままならないものだった。

 それからしばらくは、ただ穏やかに、日常の話が続いた。









 にこやかに談笑を続けていた三人だったが、ふとシオリが窓の外を見て言った。

「……もう、日が傾き始めているわ。楽しい時間って、本当に短いのね。それじゃ、私はもう行くわ」

 日が傾いていると言っても、まだ夕方ですらない、昼下がり程度の時間だ。ユキヒトは慌てて立ち上がった。

「もう少し、良いんじゃないか」

「だめ。黄昏時は、逢魔時よ。昼はヒトの時間、夜は魔の時間。黄昏時は誰そ彼の時。出逢ったものがヒトか魔かも分からなくなる、昼でもなく、夜でもない時間帯。ヒトの時間でもなく、魔の時間でもないその中間こそ、ヒトと魔が最も出逢ってしまいやすい時間なのよ。私の『死霊』も例外ではないわ」

「……」

「それじゃあ、私はもう行くわ」

 名残惜しさを振り払うようにきっぱりと言うと、シオリが立ち上がる。

「ありがとう。それじゃあまたいつか、会える時がくるまで」

 そう言って笑うと、シオリはドアへと向かう。ユキヒトは、とっさにその手を掴んだ。

「……一晩、泊まって行ったらどうだ? 一晩くらいなら、俺が番をしていてやるから」

 もうずいぶんと安心して寝た事なんてないんだろう、という言葉は飲み込んだ。それは余りにも残酷すぎる言葉だと思った。

「そうです! そうして行ってください!」

 ノルンもユキヒトに同調して、彼女には珍しい、必死の表情でそう言った。

 シオリはそれに対して、少し嬉しそうな表情で微笑むと、首を左右に振った。

「ありがとう。とても嬉しい。だけど、そう言う訳にはいかないわ」

「何でだよ、俺たちならそんな事、全然迷惑には思わない」

「……貴方の彼女に悪いもの」

 穏やかに返された言葉に、ユキヒトは押し黙る。シオリは、ゆっくりと続きを口にした。

「貴方は誰にでもとても優しいし、それは貴方の大きな魅力だけれど……。貴方が選んだのは私ではなくて彼女なんだから。他のどんな女よりも、彼女に優しくしてあげないと。彼氏がどんな女にも優しいって言うのは、彼女にとっては欠点よ?」

「……彼女に後ろめたい事をする訳じゃないし、彼女はそれくらい分かってくれる」

「彼女に後ろめたい事はしてくれないんだ?」

 冗談めかした口調で言うと、シオリはくすくすと笑った。

「分かってくれるのと、不満に思わないって言うのは、必ずしも等号で結べるものではないのよ」

 きっぱりと、何かを断ち切るようにシオリはそう言った。

「……さようなら。またいつか、会いましょう」

 そう言って出ていくシオリを、ユキヒトはもう引きとめることはできなかった。








 自分ならばきっと彼女を救えたのだろうとユキヒトは思う。

 例えばほんの数時間でも、安心して眠れる時間。例えば『死霊憑き』であることを知っても変わらずに傍にいてくれる相手。どちらも彼女が求めてやまず、そしてユキヒトが彼女に与えてやらなかったものだ。

 シオリは好ましい女性だと思う。しかしそれでも、ユキヒトが選んだのは彼女ではなかった。『死霊憑き』であることは関係なく、もっと惹かれる人がいた。それだけの事だ。シオリもそれを分かっている。だからこそ、線を引き、決してユキヒトに甘えようとしない。

「ねえ、ユキヒトさん」

「何だ、ノルン」

「……もしも、もしも私がいなくて、ユキヒトさんが私を守ったりしなくて良かったら、ユキヒトさんは、シオリさんを選んでいましたか?」

「ノルン。ノルンのその言葉は、同時に四人のヒトを侮辱している。ヴァレリアと、シオリさんと、俺と、ノルン自身だ」

「……ごめんなさい。でも……いつか、私がいたんじゃ選べない事を選びたい時が来たら、その時はきっと、私の事は忘れて、ユキヒトさんのしたい様にして欲しいの」

「……馬鹿な事を言うなよ」

「約束してください。そう言う時が来たら、自分を優先するって」

「……」

「私、きっと、一人でも生きていける様になるから」

「……分かった。でも、そんな寂しい事を言わないでくれよ。一人で生きていけるようになったらもう俺は要らないみたいじゃないか」

「そんな! 違います!」

「分かってるよ。でもな、ノルン。俺だって嫌々ノルンの世話をしてる訳じゃないんだ。大切な相手から、自分の事は忘れろとか一人で生きていけるようになるとか言われる身にもなってくれよ」

「……ごめんなさい。ありがとうございます」

「後ろの方はいらないな。別に感謝される事じゃない」

「……少しだけ、泣いていい?」

「泣きたいなら、いつでも泣けばいい」

 ユキヒトがそう言ってやると、ノルンはユキヒトに抱きついて、わっと泣き出した。

 おそらくは、甘えることでしか生きていけない自分と、甘えることを禁じて生きている人との境遇を思って。ノルンは大きな声で、泣き疲れて眠ってしまうまで、存分に泣いた。










「清浄なるエルフの巫女へ この剣が貴女の闇を斬り裂き一筋の光とならん事を 行人」











[8212] 鍛冶屋の日常
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2010/09/02 01:26









 ファリオダズマには科学が発展していない。

 それは純然たる事実であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 だがしかし、それを補って余りあるほどの技術である魔術が発展している。その為に、必ずしもユキヒトが元いた世界にあった科学的な道具の代用品がないという訳でもない。

 例えば、ファリオダズマには冷蔵庫がある。

 冷やす事で生鮮物を長持ちさせようという発想は、決して奇抜なものではない。問題はそれを実現できるかどうかだ。

 熱するのは簡単だ。火でも燃やせばよい。しかし冷やすとなると、これはなかなか難しい。ユキヒトの世界、ユキヒトのいた日本だとて、冷蔵庫が一般の家庭にまで行きわたったのは、歴史と言う観点で見ればほんのごく最近の事に過ぎない。

 しかしファリオダズマでは、冷蔵庫は決して珍しい器具ではない。ごく当たり前の道具として一般家庭に行きわたっている。

 と言うのも、ファリオダズマの冷蔵庫は、魔術を使ったものだからだ。

 内部に冷気の魔法陣を施した箱。それがファリオダズマの冷蔵庫である。

「……うーん……」

 ユキヒトは、自宅の冷蔵庫を眺めながら、唸り声を上げた。

 中身が乏しい。

 金がない訳ではない。確かに豊富にあるとも言えはしないが、食べ物に困るほどではない。しかしながら、人里離れた山の中に暮らすユキヒト達にとって買い物とは一大事であり、そうそう気軽に行くようなものではない。

 とはいえもはや流石に限界だ。これから下手に天気が崩れて山を降りられなくなろうものなら目も当てられない。買い物への出かけ時だった。

「ノルン、明日は街へ買い物だ」

「……分かりました」

 不承不承、ノルンは頷く。

 普通の子供と違い、ノルンは買い物が嫌いである。というよりは、街中が嫌いなのだ。

 目が見えない彼女にとって、周りに何があるか分からない環境と言うのは非常にストレスがかかる。万に一つ、保護者とはぐれようものなら、自力で家に帰る事すらままならない。かと言って、一人で留守番をしていられるほど、買い物とは気軽に短時間で終えられるものでもない。結局、ノルンは苦手な街中に定期的に出かけざるを得ないのだ。

「果物もいっぱい買ってやるから」

「約束ですよ」

 なだめるように言うと、少しつんとした声でノルンは答える。しばらく前に果物を使い果たしてしまった事で好物のジュースにこのところありつけていないノルンは、いやいやのふりをしながら、抑えきれずに頬を緩めていた。

「……何がおかしいんですか、ユキヒトさん!」

 それを微笑ましいと思いくすくすと笑ったユキヒトは、自分の半分ほどの年の少女に思い切り叱りつけられたのだった。









 早朝にユキヒトはノルンを連れて出発する。木々の葉は青々と良く繁り、夏の太陽の恵みを受けて生き生きとしているようにも見える。太陽の昇りきらない今であればこそ涼しいが、昼にもなれば相当に暑くなりそうな、良く晴れた日だった。

 普段は家の中で杖など付かずに歩くノルンだが、外出に当たっては木の杖を利用する。家の中で躓かずに歩けるのは、ノルンがその家に慣れ親しんでいる事と、目の見えないノルンの為、家の中は極力躓くようなものの無いよう、よく整理されており、家の構造自体も工夫されているからだ。

 一歩家の外に出れば、そこは山の中である。当然、道も良く整備されているとは言い難い。それどころか、下手をすれば足を踏み外して滑り落ちかねない。ノルンにとっては危険極まりない場所だ。

 ノルンに同情する者は多い。しかし、ノルンは別に同情など求めない。彼女は、目が見えないのは不便だろうと言う人間に、大体はこう返す。

『空を飛べないヒトは鳥にとっては不便な生き物かも知れませんが、でも空を飛べないと言って愚痴を言うヒトに会った事はありません』

 その台詞を初めて聞いた時、ユキヒトは締め付けられるような苦しみを味わったものだった。

 ノルンの言っている事が間違いだと思う訳ではない。しかし、それを言うならば、同じヒトである相手は持っているのに自分は持っていないと愚痴を言うヒトの、なんと多いことか。ノルンが普通のヒトと自分を、それこそ鳥とヒトの様に区別して認識しているのだとすれば、それは悲しい事だった。

 ノルンは右手で杖を操りながら、左手をユキヒトとつないで歩く。山道を歩くノルンの速度は、非常に遅い。整備されていない山で足を踏み外せば怪我は免れないし、運が悪ければ大きな怪我、さらに悪ければ生死に関わりかねない。正直に言えば、ユキヒトが背負って歩いた方が速いが、それはしない事にしている。

 ノルンにも自尊心はある。独立心は、むしろ強い方ですらあるだろう。

 出来ない事は多い。出来ない事を出来ると強がって無理をするほどに聞き分けがない訳ではないが、出来る事を出来ないと甘えるような事を良しとしない負けん気の強さも持っている。ファリオダズマに来てから大半の時を共に生活してきた少女の事だ、ユキヒトはその程度は理解していた。

 山の麓には小さな農村がある。特筆する事など何もないような、ただただ平凡な田舎の農村だ。野菜や卵ならばこの農村でも手に入るが、魚や肉、調味料や日用品を揃えようと思えば、流石にそれは難しい。

「おう、ユキヒトさんかい、久しぶりだな。今日は買い物かい?」

「ええ、今日は街まで」

 声をかけてくる村人に、ユキヒトは笑顔で返事をする。ユキヒトの生きていた現代日本とは違い、娯楽が少ない分コミュニティー内の人間関係は濃密だ。嫌われればそれほど恐ろしい事はないが、逆に好かれればこれほど頼もしいものもない。

 盲目の少女を引き取って二人で暮らしているという状況が、ともすれば誤解を呼ぶことはユキヒトも重々承知していた。だからこそ、この村の人々には、ある程度事情を説明してある。

 ノルン自身がかなりしっかりとした態度でそれを肯定した事もあって、村の人々には基本的に好意をもって受け入れられている。血の繋がりなどは一切ない事もその時に説明しているが、今では仲の良い兄妹の様に見られている。

「またガキどもにおとぎ話を聞かせてやってくれよ。ユキヒトさんのは聞いた事がないからってガキどもが喜ぶんだ」

「そうですね、また今度」

 ユキヒトのおとぎ話は、元の世界のものだ。不思議なもので、類似した内容のものもファリオダズマに多く存在しているが、やはり細かい点が違っている事も多い。子どもたちには、目新しい事も多いユキヒトのおとぎ話はなかなかに好評なのだ。

「何か買ってくるものはありますか?」

「今日のところは別にないな。ありがとよ」

 街への買い物は一日がかりの大事だ。村から誰かが行くことになれば、ついでの買い物を頼まれる事も珍しくはない。

 村人と別れ、乗合馬車の停留所へ向かう。

 田舎ではあるものの、朝と夕の一日二回、街へと向かう馬車はある。そうでなければ、生産した農産物を売る事ですら困難だ。

「……やれやれ、やっぱり暑くなってきたな」

「……はい、そうですね」

 まだ完全に日が昇ったとはいえないが、それでも朝日と呼ぶには躊躇するほどに高く昇った太陽は、容赦なく地面を熱する。木々や農作物が盛んに吐き出す水分で辺りは蒸し暑く、ただ歩いているだけでも汗をかく。

 ノルンは暑さに弱い。元々体力に乏しい彼女の事だ、立っているだけで体力を奪われるような暑さに強いはずもない。

「もうちょっとで停留所だ、がんばろうな」

「はい……」

 停留所には、申し訳程度ではあるがベンチと屋根があり、影になっている。じりじりと太陽に焦がされながら歩くよりは、幾分ましだ。

「……ふぅ……」

 ようやくたどり着いた停留所で、ノルンは大きく息をつくと、すとんとベンチに座る。

 停留所には他に人もいない。今日は街へ買い物に行くのはユキヒト達だけらしい。ユキヒトもノルンの隣に腰をおろして一息ついた。

「水はいるか?」

「欲しいです」

「少し待っててな」

 停留所の近くには井戸がある。ユキヒトは水をくみ上げると水筒に詰めて、それをノルンへ持っていった。

「ほら。冷たいぞ。あんまり急いで飲んじゃダメだからな」

「はい」

 素直に頷くと、ノルンはゆっくりと水を口に含む。

 ノルンは、自分の体が脆弱であることを知っている。

 無理のない事だ。元々、決して丈夫に生まれた訳ではないうえに、目が見えないせいでまともな運動も出来ない。消化器もあまり強くないのか食は細いし、すぐに体調を崩す。

 だからこそ人一倍自分の体に気を使うし、人の言う事を素直に聞いて無理をしない。

 忍耐と従順とは、彼女の個性であると同時に、生きるための手段でもある。無論、彼女自身がそんな事を計算している訳ではないだろうが。

 しばらくすると、乗合馬車がやってくる。街へ向かう馬車、と言っても、この村と街を真っ直ぐに繋いでいる訳ではない。同じような村をいくつか回り、街へと向かうのだ。そのせいで街と村との距離の割には時間がかかってしまうものの、それはやむを得ない。

「失礼します」

 断りを入れて、馬車へと乗り込む。中には五人ほどの男女が既に乗っていた。

 ノルンの杖と、手を引くユキヒトを見て、何人かがじろじろと無遠慮な視線をノルンに向ける。

 内心でユキヒトはため息をつく。彼らは、目の見えない彼女ならばその視線に気づかないと思っているのだろう。だがそんな事はない。ノルンは実のところ、非常に視線に敏感だ。一体どうやってそれを察知しているのか、ユキヒトにすらいまだ分からないが、彼女は自分に向けられる目を実に正確に把握する。

 現に今も、つないだ手に一瞬だけ力が入った。

 それはささやかな傷なのだろう。少し時間がたてばそんな事があった事も忘れてしまうような、些細な些細な出来事だろう。しかし心についた傷はなかなか治らない。そうやって彼女の心がどれくらいの傷を負ってきたのか。それを想像する時、ユキヒトの心は穏やかではいられない。

 小さな葛藤を乗せたまま、馬車はことことと動き出した。

 









「いらっしゃーいっ!」

 ユキヒトがその店に足を踏み入れた瞬間、大声が彼を出迎えた。

「えらい久しぶりやん。どないしてたん? うん、ノルンちゃんは今日もかわいくてええなあ。あっはっは」

 質問をして置きながら答えさせる気など毛頭なさそうな勢いでまくしたてると、何がおかしいのか一人で大笑いをするのは、ドワーフのハリエッタ。ユキヒトにとっては馴染みの人物の一人だった。

 くりくりとよく動く大きな目と、健康的によく焼けた小麦色の肌。ずんぐりとした体形は子供のようなそれであるものの、顔立ちは立派に成人した女性だ。そのギャップにユキヒトははじめ戸惑ったものだったが、それも昔の話。今ではすっかりとなれたものだ。

 ドワーフ。ヒューマン、エルフに次ぐファリオダズマ第三位の人口を誇る種族だ。

 寿命はエルフとほぼ同等であり、ヒューマンのおよそ三倍。背丈は成人してもヒューマンの半分ほどしかないが、体は頑健、また手先も器用であり、職人としてファリオダズマの中でも重要な位置を占める種族の一つである。

「こら、ハリエッタ。お客さんに向かってお前はなんちゅう口をきいとるんや」

 奥から現れたのは、背丈はハリエッタとほぼおなじであるが、初老に差し掛かった男だ。豊かなひげを蓄え、年の割にはがっしりとした体つきをしている。典型的と言ってよい姿のドワーフであった。

「ええやん、ユキヒトとはギブアンドテイクやろ? おとんもそんな堅い事言いっこなしやで」

「商売人として線は引かなあかんっちゅう話や。そんなんやったらお前の独立も当分先やな」

「ええもん、別にまだそんな焦って独立するつもりもないし」

「親のすねかじって生活しとるんを恥ずかしいと思わんのか!」

「立ってるもんは親でも使え言うやん」

「ええい、口の減らん」

 ぽんぽんと言葉を投げ合っているが、特段険悪な雰囲気と言う訳ではない。口が減らないのはお互いさまで、大陸南西部出身者の常であった。

 ハリエッタとリクド。ユキヒトが懇意にしている、鉄鋼業を営むドワーフの親子である。

 古の時代より鉱物と共に生きてきたのがドワーフ種族だ。鍛冶師も多いが、鉄鋼業から彫金、果ては鉱山業まで、金属のある所にドワーフの姿はあると言っても過言ではない。

「客だと思ってくれてるなら注文を聞いてくれないかな」

 くすりと笑ってユキヒトは言った。

 どうやら本日は二人とも好調なようだ。放っておくといつまでもじゃれ合っているだろうと判断して、ユキヒトは声をかけた。

「おお、すんませんな。で、今日は何が入用でっか」

「カミツの鋼と、銀と……アタマンタイトも少し」

「毎度おおきに」

「……カミツの鋼を仕入れられるのはこの辺りじゃリクドさんくらいだよ。本当に助かる」

「わしかてあんさんに教えてもらわなんだら、カミツの鋼なんちゅうもんを難儀してまで仕入れよとは思いまへんでしたけどな」

 カミツとユキヒトのいた日本との共通点の多さから、もしやと思い調べてみれば、カミツではたたら吹きによる製鋼がおこなわれていた。幸か不幸かそれにより生産される良質な鋼は大陸であまり知られておらず、生産量の割にそこまで高価なものではない。入手には少し手がかかるものの、ユキヒトの剣が他の刀剣工房よりすぐれた品質となる一つの要因になっていた。

「しかしまあ……あれは見事な鋼ですなあ……。仕入れはできても、うちじゃ作れまへんわ」

「製鋼法まで詳しくは知らないから、俺にも分からないけどね」

「売ってはくれるんでっけど、製鋼法は門外不出や言うて教えてくれんのですわ……。まあ職人が赤の他人にほいほい技術教えとったらおまんまの食い上げでっけどな」

「ごもっとも」

 いいあって、にやりと笑い合う。

 リクドは鉄鋼の仕事に誇りを持っている。様々な金属を組み合わせ、要求した通りの合金を生み出すその手腕は見事なものだ。ユキヒトも、魔法金属を他の金属と混ぜて使う時には、彼に意見を聴くことが多い。

 そんな彼に、よそで作られた鋼を仕入れて貰う事には流石に遠慮もあったが、カミツの鋼の質の高さを知ったリクドは、むしろ研究を行う為に手に入れるつてを作りたいと積極的に動いてくれた。おかげで今は、ユキヒトも比較的楽にカミツの鋼を手に入れられる。

「はぁ、相変わらずの金属バカっぷりやわ」

 その職人同士の会話に、心底うんざりとした、という声が横から割って入った。

「大体鉄鋼って暑くて汗臭いし何もええことあらへん。この際おとんの代で廃業にして……」

「アホ言うな!」 

 ハリエッタの愚痴を最後まで言わせず、リクドが一喝する。

「お前、うちの一家は十代前から続く鉄鋼の一族やぞ! わしで廃業なんかしたらご先祖様に申し訳がたたへんやろが!」

「ご先祖様言うたかてもう死んでるやないの……。何を遠慮せなあかんのかうちには分からへんわ」

「……お前、本気で言うとるんか……?」

 リクドが声を低くする。普段のじゃれあいとは明らかに違う空気に、ユキヒトは一瞬ひるんだ。

「ハリエッタさん」

 一瞬の沈黙を、可憐な声が打ち破った。

「……だめですよ。人が大切にしているものを茶化すような冗談は」

「……ん、ちょっと言い過ぎやったわ。ごめん」

 やんわりと、しかしきっぱりと言い切ったノルンに、随分と年上のハリエッタが素直に頷き、自分の父親に頭を下げる。

「……分かっとればええんや」

 少し決まりが悪そうにリクドは言うと、ふいとよそを向いてしまう。

「リクドさんも、本気じゃないって分かってるんですからそんなに怒らないでください」

「……かなわんなあ」

 リクドも、ノルンの決して強い訳ではない口調に苦笑して、すまんかったな、とハリエッタに謝る。

 ノルンは奇抜な事を言わない。それでもたまにただの一言で争いを納めてしまう事がある。

 それは、音だけの世界に生きる彼女ならではの、敏感な聴力と間の取り方からくるものだ。

 声から感情や心理を見抜くのはお手の物。ノルンに対して口先だけの嘘は通用しない。そして、沈黙すらも彼女からすればコミュニケーションの一つである。

 やれやれ、とユキヒトはため息をつくと、ノルンの頭にポンと手を置いた。

「後で、屋台でジュースを買ってあげよう」

「本当ですか? ありがとうございます」

 ノルンはそう言って、にこりと笑うのだった。












 それからユキヒト達は結局リクドやハリエッタと昼食を共にし、昼過ぎに日用品と食料の購入の為に市場へと向かった。

 市場と言っても、ちゃんとした店舗が立ち並んでいる訳ではなく、大半が屋台であったり、適当に設置した台の上に商品を並べたてた程度のものだ。

 それと言うのも、この市場で物を売っているのは、本職の商人と言うよりは、近隣の村の農家の人間が大半であり、商品は自分たちで作った作物がほとんどだからだ。

 決して商売が上手ではない者も多いが、人情味と活気には溢れている。便利だが無機質なやり取りになれたユキヒトにとっては、煩わしくもあり、また楽しい事でもあった。

 ノルンが、握っている右手をきゅっと握る。ヒトが多い状況では、ノルンは無意識に全身がこわばる。ユキヒトは意識して手を握り返した。それに気づいたのか、ぴくりとノルンの手が震え、それから少し力が抜ける。

「さて……じゃあまずはジュースの屋台に行こうか」

「……いいえ、後にしましょう」

「ん? どうして?」

「……もっと喉が乾いてた方がおいしいです」

 こういうところはやはり子供だ。おかしいと思う気持ちと、ほっとするような気持ちが同時にこみあげてきて、ユキヒトは少し笑った。

「また笑いました!」

「違う違う、馬鹿にしてるんじゃないんだよ」

 むくれるノルンの機嫌を取りながら、ユキヒトは歩みを進めた。ノルンがこうして素直に感情を表に出す事は、実のところあまり多くない、と言うよりは相手を選ぶ。せいぜいユキヒトと、シオリと、あとはなんだかんだと言ってファルくらいのものだ。ファルの場合は、それが親しみからなのかどうなのかは微妙なところではあるが。

 冷蔵庫はあるとはいえ、そうそう長い間生鮮食品を保存できる訳でもない。どうしても買い込むのは保存に向いた食品が中心になってしまう。それでは流石に味気ないので、数日以内に使う事を前提に新鮮さが売りの食材も少しは仕入れる。

「……醤油がないのは辛いんだよなあ……」

 この国には、魚を生で食べる風習がない。刺身が好物のユキヒトとしては辛いところだ。醤油にしても、カミツにならば似たような調味料があるかも知れないが、流石にそれを手に入れようという情熱までは湧いてこない。

 ファリオダズマに来て何が辛いと言えば、料理の味だ。ユキヒトは決して美食家ではなかったが、やはり料理の基礎ががらりと変わってしまうのはなかなかに辛いものがある。ノルンに料理ができる筈もなく、慣れない食材と調味料を使って慣れない料理をユキヒトが作るものだから、時々奇妙な味のものを作り上げてしまう事がある。魔術学院時代にある程度料理を学んでいなければ、今頃食事が作れずに困ったことになっていただろうとユキヒトは思う。

 とはいえ、ファリオダズマの食材も、元の世界と極端に違う訳ではない。同じようなものが多く、ただたまに見た事もないような食材が出てくるだけだ。それにも慣れ、最近ではようやく失敗作もそうは作らないようになってきていた。

 食が細いノルンの為にもおいしい料理をという気持ちはあるものの、そうそう簡単に料理の腕など上達するはずもなかった。

「……さて、そろそろジュース用の果物を選ぼうと思うけど、何が良いんだ?」

 食材や調味料、少し前に割ってしまった皿などを一通り購入した後、ユキヒトはノルンにそれを尋ねる。

「……桃がいいです」

 しばらく、腕を組んで唸りながら考えた後で、ノルンは顔をあげてそう言う。いかにも苦渋の決断と言う表情に、ユキヒトは笑いながら告げた。

「一つに絞らなくていいんだぞ?」

「桃とスイカとビワとブドウと……!」

「流石に欲張り過ぎだ」

 止まりそうにないノルンの勢いに、ポンと頭に手を置く。うー、と、ノルンは唸るような声を上げた。

「そうだな、三種類までだ」

「じゃあ、桃と……ううん……」

 桃はどうやら最優先らしい。買って貰う果物に真剣に悩む姿は年相応のもので、ユキヒトにはそれが少し嬉しかった。

 ファリオダズマでは、「大人」になるまでの期間が短い。義務教育もなく、農家などでは幼いころから手伝いをする事もあるし、ヒューマンであれば十五、六ともなれば職人としての修業を始めたり、どこかに奉公に出るのが当たり前だ。そう言った事情から、ファリオダズマではユキヒトのいた日本よりも幼いころから、ヒトは大人びた言動を取り始める。

 それを不憫に思ってはならないとユキヒトは思っている。この世界にはこの世界の正義や倫理がある。そうやってこの世界は回っているし、ユキヒトにはそれを覆すだけの力もアイディアもない。ならば来訪者として大人しくこの世界の理に従うだけだ。

 それでもユキヒト自身の常識が変化する訳でもなく、こういった形でユキヒトにとって年齢相応と思える振る舞いを見た時、心が落ち着くのは止めようのない事だった。

 まだしばらくは結論が出そうもないノルンを見ながら、ユキヒトは穏やかに微笑んだ。












 結局ノルンが選んだのは、桃とビワ、そしてオレンジだった。

 散々に迷った挙句、店先で匂いまで確かめてから決めた。店主も流石に驚いていたが、なかなかに理解のある人物で、余計な事は言わなかった。それがユキヒトとノルンにとっては、何よりもありがたい事だった。

「さて、夢中でノルンが果物を選んでいるものだから、帰りの馬車を逃してしまった」

「……ごめんなさい」

「冗談だよ。元々一泊してもいいかくらいの気持ちでのんびりしてたんだから」

 からかって言った言葉でしゅんとしてしまったノルンに、ユキヒトは髪をくしゃっと混ぜる様にして頭を撫でる。

「急ぎの仕事も今はないしな。たまには街もいいもんだ」

「……街は、騒々しくて、好きじゃありません」

「うん。でも、騒々しいってことは、ヒトが生きてるってことだろ。しんとしてるのは心地が良いけど、それは誰もいないって言う事でもあるからな」

「……」

 ユキヒトの言葉に、ノルンは少しうつむく。

「さて、久しぶりにバゼルさんのところで泊まろうか」

「……はい!」

 少し元気を取り戻したノルンの手を取って、ユキヒトは慣れた道を歩く。

 ユキヒトの住む村と街をつなぐのは、朝夕に一本ずつの馬車だけだ。それを逃してしまえば、街に留まらざるを得ない。

 宿泊施設には気を使わなければならない。ノルンのような人間に対して、ファリオダズマは十分に配慮の行き届いた世界とはとても言えないのだ。

 バゼルは、この街で宿屋を営む鳥人種の男だ。街で一泊する事になった時は、ユキヒトとノルンは常に彼の宿で世話になっていた。

 石畳の道をゆっくり歩く。整備された道は歩きやすい反面、転んだ時が危なくもある。田舎の泥道であれば、服が汚れる事はあっても大怪我にはつながらない。ただ、整備されていない分転びやすくもある。いずれにせよ、ノルンにとって道を歩くという行為は、常人にとってのそれとは大きく異なる事だった。

 やがて二人は、一軒の宿屋の前に立つ。看板には一対の大きな翼が描かれている。『白翼亭』。それが、その宿の名前だった。

 ユキヒトがノックをしようと手を挙げた瞬間、内側から突然にドアが開かれた。

「ようこそ」

 中から現れたのは、看板に描かれたとおり、白い大きな翼を背中に負ったヒトだった。

 金色の髪は緩やかにウェーブがかかっている。整えればそれなりに洒落た髪形にもなるのかも知れないが、適当に伸ばされたそれはまさに鳥の巣であった。

 どことはなくゆるんだ雰囲気の男だ。その癖それが不潔であるというような印象でもないのは、顔立ち自体がやや幼げな整い方をしているからであろう。

 獣人の中でも、鳥人種の個体数は少ない部類に入る。それというのも、鳥人種は実のところ、その大きな翼の割に空を飛ぶことができない。鳥人種は生まれながらに背中に巨大な邪魔物を二つも背負っているのだ。平和な時代ならばともかく、獣人とヒューマンの大戦争時代、それで生き抜いていくのは非常に困難だったらしく、その時代が終わった後、明らかに鳥人種は他の獣人と比べて人口が少なかったという。

 かつて鳥人種は、もっと体が小さく、魔術を使用してではあるが、飛ぶことが可能だったとも言う。

 その能力が失われたのはなぜだったのか、混血が原因とも、大気中の魔力がかつてと比べて減ったのだとも言うが、確かな原因は分かっていない。

「……この店はノックされると崩壊する呪いでもかけられてるんですか? 毎回毎回、何でノックする寸前にドアが開くんですか」

「失礼だなー。私が誇るこの安寧の城がそんなぼろ屋に見える? 単に私は私の宝を守るために周囲に完璧な結界魔術を施しているだけだよ。常連客の到来なんて十分も前から察知してる」

「公共の道に私的な結界を張らないでください」

 おっとりとそんな事を言うバゼルは、実のところかなりの魔術の使い手だった。ユキヒトと同じく魔術関連機関から引く手数多だが、全てを断って街で宿屋を営む変わり者だ。

「とーちゃん、おきゃくさん―? あ、ユキヒトさんとノルンちゃんだー!」

「お、ロック。どうした、まだ風呂に入ってないのか? かーちゃんに怒られるぞー」

 とことこと家の中から出てきたのは、バゼルをそのまま小さくしたような、くりくりとした目の少年だった。がおー、と、何の真似なのか両手をあげて脅すバゼルに、ころころと笑いながら足に纏わりつく様に、ユキヒトは少し微笑んだ。

「で、どうしたんだ風呂は」

「えっとね、今かーちゃんがマオねーちゃんとリュク兄ちゃんとバネットとファーと入ってる」

「あー、そっか。流石にそりゃ入れないなあ。じゃあ後でとーちゃんと入ろうな」

「うん、入る!」

「よしよし、偉いな」

 ごしごしとやや手荒に頭を撫でる父親に、ロックは気持ちよさそうに目を細めた。

「……どうでもいいですけれど、相変わらず鳥人種の人口問題に一家族で挑戦しているような家ですね」

 ロックは実にバゼルの5番目の子供で、現在のところバゼルには7人の子供がいる。あっはっは、と、バゼルは能天気に笑った。

「えっとねー、冬にはまたおとうとかいもうとがふえるの!」

「そうか、またお兄ちゃんになるんだな、ロック」

「うん!」

 嬉しそうに言うロックは、大家族に育っただけあって人懐こく、騒がしいくらいに明るいのを好む子供だった。

「しかしまあ……少しは自重したらどうなんですか、バゼルさん」

 ロックにしてもまだ5歳、その下に既に三人目となると、絶え間なくと言って過言ではない。しかもこの男は、子供が増えてくると自分の宿を改装して家族のスペースを広げてしまう。商売が成り立つのが不思議な宿であった。初回の改装は三人目が生まれた後、二回目は五人目、つまりロックが生まれた時だったと聞いているユキヒトは、そろそろ三回目の時期だろうと読んでいた。

「いやあ、奥さんが一人っ子で寂しがり屋さんなんだよねえ」

「どう考えてもそれは理由になってないでしょう」

「ふふふ、独り身だからってひがまない事だね」

 とても七人の子供がいる父親の表情とは思えない、恋人自慢をする学生の様な笑い方と表情で言うバゼルに対して、ユキヒトはため息をついた。

「ひがみじゃないですよ。ついでに独り身……はまあ独り身ですけれど、相手がいない訳じゃありません」

「ああ、ベルミステンにいるとか言う」

「ええ、まあ」

「さて……戯れはこれくらいにして。ようこそお客様、『白翼亭』へ。親鳥の翼の中に眠る雛鳥のような安らいだひと時をお過ごしいただけたならば何より重畳」

「お世話になります」

 バゼルの宿『白翼亭』。亭主とその家族は親しみやすく賑やかだが、その反面客室は落ち着いた装いの上、亭主の魔法により防音にも優れ、穏やかに行き届いたサービスを提供する宿だった。

 人嫌いという訳ではないが、見知らぬ他人と接する事に苦手意識を持っているノルンにとっても、室内に入れば外の気配を感じないですむその部屋は、ユキヒトと共に住まう今の家と同じようにくつろげる、数少ない場所だった。

「ノルンちゃん、今日は一緒にご飯食べる?」

 父親の足にしがみつきながら、にこにこと笑ってロックは言った。一瞬、ノルンが言葉に詰まる。その躊躇に気づいて、ユキヒトはすぐに言葉をはさんだ。

「ああ、今日はいろんなところ歩いて疲れたからな、一杯ご飯用意しておいてくれよ」

「とーちゃん、一杯ご飯用意しておいてね!」

「お客さんの希望じゃ断れないなー。まあ、期待しててよ」

「そう言う訳で、今日はみんなで食事だ。良いよな、ノルン?」

「……」

 少しだけ複雑な顔をして、しかし結局は微笑み、ノルンは頷いた。











 鉄を打つ。

 一意に、専心に、一心に、不乱に鉄を打つ。

 迷いがあれば、乱れがあればそれは必ず手に現れる。手に乱れがあれば駄作しか生み出されない。

 駄作を人に渡してはいけない。この時代、ヒトは剣に己の命を託している。まして、自分が生み出すのは量産品ではなく、全てが受注生産。己を見込んで依頼をくれた相手に対して、命を懸けて貰うに相応しい出来でなければ決してそれを渡してはならない。

 生きている限り、ヒトは迷わずにはいられない。心を乱さずにはいられない。だが、剣を打つ時、その迷いは忘れなければならない。ただ、風の無い湖面の様な心で、ひたすらに剣を打たなければならない。

 それを教えてくれた人に、もう会う事は出来ない。しかしその教えは、ユキヒトの中に確実に生きて、残っていた。

 かぁん、かぁん、と、澄んだ音が響く。その度に少しずつ、ユキヒトの世界が狭くなっていく。様々な過去も、未来も、全てが削られて行って、ただ剣を打つ現在、この小さな工房だけがユキヒトの世界の全てになって行く。

 ……マダ……マダ……モウスコシ……モウスコシ……。

 囁くような声が、ユキヒトに聞こえる。

 ……温度は……?

 ダイジョウブ……ダイジョウブ……。

 ……もう少し、か……。

 囁く声に返事を返し、ユキヒトは再び鎚を振るう。

 ユキヒトが期せずして身につけた力、それは声なき声を聴く力だった。

 ファリオダズマには、魔術というユキヒトの元いた世界とは異なる理がある。しかしそれと同時に、ユキヒトのいた世界の科学の理もまた存在する。そしてそれは相互に密接に関係している。

 ファリオダズマには、魔力に対して深い理解を示す人物はいる。その反面、科学に対する知識は非常に疎かだ。

 双方の知識を身につけ、その相互関係に気づいたユキヒトは、全ての物質には魔的な性質と科学的な性質の双方が備わっている事を知った。そして、全ての物質は、外的な要因に対して物理的な反応だけではなく魔的な反応も返している。注意深く「耳を澄ませ」ば、本来言葉を発する事などないはずの物質からも、その魔的な反応を読み取ることができる。

 物質に対する魔的、科学的な理解がある程度以上に深い場合、そして極端なまでに集中している状況下であれば、という但し書きはつくが、ユキヒトはいわば、物質と会話ができるのだった。

 鍛冶師としての経歴が短いユキヒトが高品質の剣を生み出せるのは、その能力によるところも大きかった。ある程度素質はあったらしく、その能力を自覚する前も筋はいいと誉められてはいたものの、鍛冶に関するありとあらゆる複雑な要因を全て読み切れる様になるには、三年間は短すぎる。

 極端なまでの集中力を必要とする関係から、ここぞと言うタイミングで使用しなければとても体力が続かないため、量産に向くような力ではない。だからこそ、ユキヒトは作る剣を受注生産の一品物に限っていた。

 もっとも、量産品を作らないと言うのは師に当たる人物もそうだった。責任も持てないような数打ち物に誰かが命を託しているなどぞっとする、とは彼の言葉だ。

 とはいえ流石にそれだけではなかなか食っていくのは難しい。そのため、包丁などの日用の刃物も生産し、それを売って金を稼いでいるのも師から譲り受けた生活手段だ。

 ユキヒトが今打っているのは、自分用の剣だった。

 ユキヒトは決して荒事が得意と言う訳ではないが、人里離れた場所に住む以上、ある程度自衛の必要は生じてくる。元の世界では剣道を習っていたのが幸いし、少しは剣が使えた。

 とはいえそれで食っていく気もなかったユキヒトの事、あくまで自分の身を守るため、という程度の実力でしかない。平和な日本に生まれ育ったユキヒトの事、それ以上の力をつけるつもりもなかった。

「……さて、今日はこのくらいにして、ちょっと手の込んだ料理でもするかな……」

 一息をつけて、ユキヒトはゆっくりと立ち上がった。
















『いつか、断ち切らず受け入れるだけの強さを 行人』










[8212] 柔らかな記憶
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/09/29 01:50



 夏の終わりは、どこか寂しい。

 あるいはそれは、夢中で遊び続けた夏休みが終わる頃にもっと遊んでいたいのに、と考えていた幼いころの思い出を引きずっているからなのかも知れないが、長かったはずの日差しが短くなっている事に、あるいはふと気づいた風の涼しさに、ああ今年もこの季節が来たのだと少し感傷的な気持になるのは、自分ばかりではあるまいとユキヒトは思う。

「随分とたそがれた表情をしているんですね」

「ん……?」

 急に頭の上から声がして、ユキヒトは思わず首をのけぞらせて上を見た。

 落ち着いたブラウンの瞳が、覗き込むようにユキヒトを見下ろしている。やや鋭い切れ長の目だが、険があると言うほどではない。ほっそりとした輪郭で、全体的に鋭い印象はあるが、威嚇するような空気ではない。真上から見下ろされているおかげで、枯葉色の髪が覆いかぶさるように垂れてきている。

「ああ……こりゃ恥ずかしいところを見られたかな」

「恥ずかしい? 何故ですか?」

「……だって、川沿いの土手道で夏の終わりの夕方にたそがれた表情で座り込んでるんだぞ? 思春期真っ盛りのスクール生みたいじゃないか」

「夏の終わりはいつもどことなく寂しいものですから。それほど気にしなくても良いのでは?」

 意志の強そうなきりりとした顔を少しだけ緩めて、彼女はそう言った。

「まあでも、この体勢のまま話をするのも間抜けだな……。座ったら?」

 座っている自分を見下ろしている相手に、首をのけぞらせて話をしていると言う無理のある状況がいい加減おかしくなってきて、ユキヒトはそう勧めた。

「そうしたいのも山々ですが、私は警邏の途中ですので」

「硬いなあ。ほんの五分十分、一般市民と憩いの時間を持ってたからって文句は言われないだろう?」

「ほんの二月前に小隊長に昇格したばかりですから。普段以上に真面目に振舞っているのです」

 それは事実で、二月前にはユキヒトや彼の家主もそれを祝ったものだった。嬉しそうにしながらも、少し緊張した面持ちで、自分に務まるだろうかと呟いていた彼女だったが、どうやら立派にこなしているらしい。

 座ってゆっくりする気配はないと踏んで、ユキヒトは自分が立ち上がり、ヴァレリアと向き合った。

 ヴァレリアは、この街の騎士団所属の治安維持部隊の小隊長だった。ユキヒトのいた日本でいえば警察官に近い職業だったが、モンスターの大発生などの際には街の防衛に駆り出される事もある、なかなかに過酷な仕事である。小隊長とは、五人の部下をまとめる指揮官で、それほどに高い地位にある訳ではないものの、二十少しの年齢で、まして女性がその地位に就くのはなかなかに珍しい事だった。

 警邏中といった言葉の通り、腰には剣を佩き、簡易のものではあるが鎧を身につけている。

「嘘つけ。ヴァレリアはいつだって何か理由を見つけて真面目に振舞うんだろ」

「理由をつけなければ真面目に振舞えないんです。根が不精な性格をしているもので」

「知らないなら教えてやるけど、そう言いながらいつも真面目に振舞う理由を見つけてくるやつの事を真面目な奴って言うんだよ」

 そうやって言うと、ヴァレリアはくすりと笑った。

「それにしても、学院が休暇中とはいえ、少しくらい勉強してはどうなのです。図書館はあいているはずですよ」

「ぼちぼちはやってるよ。今日だって図書館帰りなんだ」

「ああ、それは失礼」

 律儀に頭を下げるヴァレリアに、ユキヒトはにやりと笑った。

「まあ、嘘なんだけど」

「嘘ですか! なぜ嘘をつくんですか!」

「……しいて言うなら、真面目すぎて人を疑う事を知らない知り合いが面白いリアクションを取るから……?」

「私ですか! 私の事なんですか!」

「どうだろうな」

 言うまでもないだろうと思いながら、ユキヒトは激昂するヴァレリアを軽くあしらった。

 ヴァレリアは非常にまじめな性格で、嘘が嫌いだ。とはいえこの様な他愛のないものは、嘘というよりは冗談に類すべきもので、彼女自身も本気で怒っている訳ではない。

「全く……私はそろそろ行きます。叔父さまとノルンにはよろしくお伝えください」

「分かったよ。……ああ、ヴァレリア」

「何ですか」

 立ち去ろうとするヴァレリアに声をかけると、生真面目な彼女はくるりと全身で向き直る。

「今日は確かにさぼってたけど、そこそこに勉強もしてるのは本当なんだ。だから、心配しなくてもいい。仕事がんばってな、サー・ヴァレリア」

「……はい!」

 二月前に与えられたばかりの称号をつけて呼ばれたのがくすぐったかったのか、ユキヒトが真面目に勉強をしているのが分かって安心したのか、それともユキヒトに労われたことが嬉しかったのか、ヴァレリアは少しはにかんだ表情で返事をした。

 年上の女性にそう言った表情をされるのがどこか照れくさく、ユキヒトはそっぽを向いて手を振った。









 ユキヒトの日々は、おおむね平和で幸せだった。

 ファリオダズマに迷い込んだのが一年と少し前。ある日目を覚ますとそこは薄暗い洞窟の中で、その上突然怪物に襲われたという最悪に近い迷い込み方ではあったが、幸いにも助けてくれた人物は無口で無愛想ながら根は親切な男で、帰る場所も行く先もないユキヒトを自分の工房に住み込みで働かせてくれた。その上今は、工房で働きながら魔術学院に通う為の学費まで工面してくれている。無論学費はユキヒトが借りているだけという形であり、卒業後には利子をつけて返す事になっているが、見ず知らずだった人間に快く金を貸してくれたことを、ユキヒトは心から感謝していた。

 ユキヒトが世話になっている男はオルトという鍛冶師で、腕の方は上々らしく、たまにではあるが一流と呼ばれる冒険者や、貴族階級の者までが刀剣の作製を依頼に来ることがある。幾らなんでもただ面倒を見て貰う訳にも行かなかったユキヒトは、弟子入りするような形で彼の仕事を手伝っていた。

 衛兵のヴァレリアはオルトの姉の娘、つまり姪に当たる女性で、時折工房に顔を出す関係からユキヒトとも親交があった。

 魔術学院にも気のいい友達は多く、おおむね平穏な人間関係を築けていた。

 夢見がちな性格をしていた訳ではないユキヒトではあるが、ゲームか漫画の中にしかなかったような世界で過ごす事に、興奮がない訳ではない。とはいえ実際に過ごしてみれば、住み慣れた現代日本との違いは歴然としており、かつての友や家族とも会えなくなった状況、帰りたくないと言えば嘘になる。

 無駄かも知れないとは思いながら、帰還の為の道を探ってもいる。魔術学院に入学し魔法を学んでいるのも、元はと言えばその目的の為だった。

 しかし、学べば学ぶほど、異世界へと通じる道を開くなどという魔法は荒唐無稽であることが分かるばかりだ。

 諦めたわけではない半面で、着々とこの世界で生きるための足場を固めてもいる。ユキヒトは堅実な性格をしていた。

「ユキヒトさん、お帰りなさい」

「ただいま、ノルン」

 戸をあけたとたんにとてとてと寄ってきたのは、オルトの娘のノルンだ。生まれつき目が見えず、体も決して頑丈とはいえない少女で、性格はやや内向的ではあるものの、決して暗いであるとか、ひねくれたと言うようなところはない。父親に似たのか、物静かではあるが優しく、素直な子供だ。

 母親は、やはりあまり体の強い人ではなかったらしく、ノルンを生んだ時に亡くなってしまったとユキヒトは聞いている。オルトがユキヒトを家に住まわせる気になったのは、ノルンの世話をし、話し相手になってくれる者を望んだと言うところもあるのだろうと、ユキヒトはヴァレリアから聞いていた。

「オルトさんは?」

「お父さんはお仕事中です」

「そっか」

 手伝いに行かなければと思いながら、ノルンを伴って家の中へ入る。

 鍛冶に限った話ではないだろうが、職人の道は厳しい。一年以上修行のような事をしているユキヒトとて、未だに出来るのは雑用のような仕事が殆どだ。一人で剣を打つなどまだまだ先の話に思えた。

「ノルン、ついて来ちゃダメだぞ」

「……お父さんのお仕事、おそばで聞いていたいです」

「ダメだって。怒られるのは俺なんだぞ」

 なぜか工房で鉄をたたく音を聴くのが好きなノルンが、抗議するような声で言うのをユキヒトはきっぱりと拒絶した。

 オルトはノルンが工房に入るのを嫌がる。仕事の邪魔という事もあるが、それ以上に危険だと言う。確かに目が見えないノルンがふらふらと歩いていて安全な場所であろうはずもない。ユキヒトもオルトの方針に大いに賛成で、事あるごとに侵入を試みるノルンを撃退すると言う重要な役割を任されているのだった。

「……」

「大人しくしてたら、またジュースを作ってあげるから、な」

 今日も今日とて、ノルンの抗議の沈黙を、好物のジュースで買収にかかる。

「……約束だよ」

 少し迷ったそぶりを見せながらではあるが、ノルンはそう言った。その言葉さえ引き出せればもう勝ちだ。ノルンは、父の教育が良かったのか、約束を違えることはしない。もちろん、こちらが約束を破った時には、ノルン本人だけでなく、父親のオルトにもこっぴどく叱られる事になるが。

「ああ、約束だ」

 忘れないようにしないいけないなと考えながら、ユキヒトは工房へと入って行った。ノルンは、もう追うようなそぶりは見せなかった。

 工房へ続く扉を開けたとたん、熱い風が吹きつけてくる。中へ入ると、ユキヒトは素早く扉を閉めた。

 かぁん、かぁんと、規則正しく鉄を打つ音が響く。ユキヒトが入ってきたことに気づいているのかいないのか。いや、気づいているのは間違いない。扉が開けられ、外の冷たい空気が流れ込んだはずなのだ。温度は鍛冶にとって重要な要素の一つだ。無論、扉を開けて閉めた程度の事で作っている刀剣が駄目になると言うものではないが、彼ほどの鍛冶師が工房の中にそれほどの変化が起きて気付かないはずはない。少なくとも、彼は工房の扉が開けられ、そして閉められた事は察知したはずだ。

 とはいえ、刀剣を鍛えている最中の彼はそれに完全に没頭している。工房の扉が開けられた事、閉められた事を察知したと言っても、その意味をいちいち考えたりはしない。ただそれが今鍛えている剣にどれほどの影響が出るかという事にしか、彼は関心を払わない。

 声をかけて自分の存在を知らしめることは、邪魔にしかならない。ただ、彼が自分の存在に気づいた時にいつでも指示を出せるよう、静かに部屋の片隅で待機しながら、彼が剣を鍛えるのをじっと見つめる。

 必要な技術は教えるがそこから先は天性の感覚だ、とは彼の言葉だ。教えられた通りの技術を身につけ、習った通りの手順で剣を鍛えれば、そこそこの品はできる。二流の使い手ならば十分に満足する程度の出来の剣だ。それ以上を求めるならば、それを越えた所にある言葉に出来ない何かを掴むしかない。

 片隅にいるだけでも、どこかぴりぴりしたような空気を感じる。いつも以上の、鬼気迫るようなオルトの仕事ぶりだった。

 自分が提案したことの重さを、今更ながらにユキヒトは知る思いだった。

 オルトが今鍛えているのは、ヴァレリアの剣だった。小隊長の就任祝いに一振り贈ってはどうかと、ユキヒトがオルトに提案したのだ。初めは渋るオルトを不思議に思ったものだった。珍しく、何故なのかと問うても明確な答えを示さない彼にユキヒトは多少苛立ったものだったが、苛立ち紛れに本気で追及して、ようやく引き出した一言にユキヒトは言葉を失ったものだった。

 曰く、『彼女が死ぬ時に握っていたのが俺の鍛えた剣だった、そんな事になったら俺はどうすればいい』と。一瞬怯んだユキヒトだったが、覚悟を決めて返した。『彼女が死ぬ時握っていたのが、オルトさんの鍛えた剣じゃなかった。そうなった時に後悔しないでいられるんですか』と。

 一瞬、ぽかんとした表情をしたオルトだったが、しばらく思慮をめぐらせるように目を閉じ、ゆっくりと目を開くと呟いた。『それは許せんなあ』と。

 そうして始まったヴァレリアの剣の鍛造だったが、それは完全にユキヒトの手が出せる領域の出来事ではなかった。普段から仕事中のオルトは恐ろしいほどの集中力を見せるが、今回はそれ以上だった。

 使い手が命をかけるに値するものしか依頼人に渡さない。それがオルトの信条だったが、今回の剣は彼にとって大切な姪の命を守るためのものだ。力が入らない訳もなかった。

「ユキヒト。相槌を打て」

「……良いんですか」

「お前が言い始めた仕事だろう。責任を取れ」

 いつの時点からユキヒトが工房に入った事を認識していたのかは分からないが、オルトは当然のように指示を出してくる。ユキヒトは、それに従って、剣をはさんでオルトと向かい合うような位置に座った。

 オルトが鎚を振るうその合間に、ユキヒトも鎚を振り下ろす。剣に魂を込めろ、とオルトは教える。小手先の技術だけで本当の剣は打てないものだ、と。

 その教えの意味するものがすべて理解できている訳ではないが、今この剣を鍛えている間だけは、彼の教えの通りにできるだろうと感じる。

 かぁん、かぁんと鉄を打つ音が響く。その度に生真面目で融通の利かない女衛兵に贈る剣ができていく。ユキヒトにはそれが嬉しかった。











 人間の英知の最大の結晶は何かと問われれば、ユキヒトはためらわずに、それは言語であり、次点は文字だと答える。

 いかに革新的な技術や学説も過去からの情報の伝達がなければありえない。人間は、過去を受け継ぎ未来へと遺す事で他の動物たちと決定的に変わったのだとユキヒトは考えている。

 書物は、その言語と文字を用いて過去の知識を封じた英知の塊である。図書館が例外なく静かであるのは、知性を持つ者であれば誰しも、その長い時にわたって過去の偉人達が残してきた英知に敬意を払わずにいられないからだ。

「……いや、そんな訳なくてそれがルールだからなんだけどな……」

 暇つぶしに、友人の一人が言いだしそうな大仰な表現で図書館が静かな理由を考えてみたが、大して時間も潰れなかった。やれやれと一つ肩をすくめると、ユキヒトは再び魔法陣の教本に目を落とした。

「……やっぱり、間違いなさそうだな……」

 そのページに書かれているのは、炎の魔法陣を強化するための技術についてだ。

 炎の魔法陣と風の魔法陣は相性が良い。ただし、風の魔法陣が強すぎる場合はその限りではない。

 その教本には、炎の魔法陣にどの程度風の魔法陣を取り入れるのが有効かについて論じてある。しかし、何故炎の魔法陣と風の魔法陣の相性が良いのか、それについては触れられていない。おそらくは、いや確実に、分かっていないのだろう。

 その法則自体を発見するのはさほど困難ではなかっただろう。実際に、炎に向けて風を送れば火は大きくなり、しかし小さな火に風をぶつければ火は吹き消されてしまう。魔法陣でも同じことが起こると言うただそれだけの事だ。

 結論から言えば、炎の魔法陣が強化されるのは、風の魔法陣のせいではない。

 燃焼とはつまり、発熱と発光を伴う酸化反応であり、燃える物質と酸素が存在している事が必要条件である。魔術による炎と通常の燃焼が違うのは、『燃える物質』が魔力によって代用されると言う点になるだろう。とは言え魔術も自然法則を完全に無視するものではなく、風の魔法陣により空気を集めることが、結果として酸素の供給となり、炎の勢いが増すのだ。

「……つまり、『酸素』の要素を持ってる魔法陣さえ見つけられれば、もっと効率よく炎の魔法陣を強化できる訳だ」

 その為には、酸素と関係がありそうな魔法陣を調べ、共通点を探るのが良いだろう。ユキヒトは、思いつく限りの魔法陣を調べ始めた。

「……いくつも魔法陣を並べて何をしているのだ。炎に……こっちは風か。これは水。こっちは……毒? 共通点が良く分からんな」

「アルディメロ。図書館では静かに」

「言われずとも周囲に勉学中の徒がいない事は確認している」

 ぬっとあらわれたのは、ヒトの体に狼の顔をした獣人、ワーウルフのアルディメロだ。

「アルディメロ、残念ながら目の前に勉学中の真面目な学生がいるぞ」

「真面目な学生とな。どこにいる」

 わざとらしくきょろきょろと辺りを見渡すアルディメロに、この野郎と小さく呟いてユキヒトは笑った。

 ふとしたことから知り合ったアルディメロは、恐ろしげな外見とは裏腹に理知的な性格の男だ。理知的ではあるが頭が堅い訳ではなく冗談も通じる、ユキヒトに取っては気の許せる友の一人だった。

「それで何か用か」

「ふむ。また師が学院に協力を依頼すると言う事でな、取次ぎを頼もうかと思っている」

「俺の知っている先生でよければ」

「頼りにしている」

 学ぶことに対して真摯なアルディメロの姿勢は、現代日本で勉学を強制され、大学に入ってからは自主的な休講を当然の権利の様に行ってきたユキヒトに取っては、どこか眩しいものだった。

 当然のように教育を受けることができる事、その尊さを知らなかった訳ではない。だが、それも所詮は「学んだ」事だ。勉強をする事が出来ない環境というものにユキヒトはおかれたことがなかった。勉強が嫌いなわけではなかったが、かといって強制されなければそうそう好んでした訳でもないだろうと言う気持ちもあった。

「しかし……お前はよく珍妙な発想をするな。その癖それが的外れにならない。不思議な事だ。今回のこれとて私にはよく分からんが、何かしら意味があるのだろう」

「意味があるかどうかは、やってみないと分からないけどな。それに俺は魔術学院の人間だ。効果があれば原理だのなんだのはどうでもいいんだよ」

「ふぅむ……私としては、因果の律を解き明かすことこそが最も効率的であると感じるがな」

「そっちはお前に任せるよ」

 実のところを言えば、ユキヒトはアルディメロの言う事の方が正しいと思っている。経験則のみを頼りに小さな進歩を繰り返すよりは、経験から法則性を発見する方がよほど大きな事だろうと。

 しかし、ユキヒトの持つ知識は、余りにこの世界の常識からはかけ離れ、進みすぎていた。ユキヒトとてそれを自分の為に少々役立てることはするものの、世界に大きく知らしめるような事はしたくなかった。

 結果、ユキヒトのスタンスは、アルディメロの様にこの世の真理を解き明かそうとするものではなく、今ある技術をとりあえず前進させると言うものにならざるを得ないのだ。その方法にアルディメロが求めてやまない知識を利用するのだから、矛盾と言えば矛盾であったかも知れない。

 口は良くないものの、何かと気にかけてくれる良き友人であるアルディメロ、その彼にすらユキヒトは秘密にしなければならない事が多すぎる。

 それが悲しくないと言えば嘘だった。









「たそがれた表情で川辺に座るのがこのところの貴方の流行りなのですか?」

 先日と同じ川辺に座っていると、先日と同じように頭上から声が降ってきた。

「まあ、そう言う時期だってあるだろ。オンナノコだけじゃなくてオトコノコだってそれなりに複雑なんだよ」

 そう言って笑ってみるが、我ながらどうにも弱々しい笑いになってしまったと言う事は自覚できた。

「故郷の事……ですか?」

「……半分は、そうかな」

 オルトとノルンには、正直にこことは違う世界から来たのだと説明をしていた。保護された時のこの世界にはありえないような洋服や、ユキヒトの様々な知識から、オルトとノルンはそれをある程度信じてくれた。そして同時に、余りそう言ったことを公にしない方が良いという助言をくれた。

 迷信がはびこるこの世界では、異世界からの旅人などというものがどう祭り上げられるか分かったものではないし、逆に不気味に思われてしまえば最悪私刑もあり得る。

 ユキヒトは、オルトとノルン以外には、事情があって故郷には戻れないし故郷の事もあまり喋りたくない、という事で通していた。それはオルトの姪でありノルンの従姉であるヴァレリアにも同じことだった。

「……」

 黙って、ヴァレリアはユキヒトを見下ろした。口を開きかけてはまた閉じるという事を何度も繰り返す彼女に、ユキヒトは笑って見せた。

「俺は、そこで安易な慰めの言葉を口にしないのがヴァレリアの良い所だと思ってるよ」

「……口が下手で、不器用なだけです」

「そうだな。でも、口が下手で不器用なのがヴァレリアのいいところなんだ」

「褒めていません!」

「俺にとっちゃ最大級の賛辞だ」

 いくつか言葉を思いついたのだろう。それを口にせず飲みこむのは、確かに器用なやり方ではないのだろうが、ユキヒトに取っては心地の良いものだった。

 何を言ったところで、ユキヒトの事情を深く知らないヴァレリアでは、口先だけの慰めにしかならないのだ。無論それはヴァレリアのせいではなく、事情を話せない、話さない自分の側の問題だとユキヒトは思っていた。

 安易な慰めを口にして、却って無神経に相手を傷つけることを避ける心、それは不器用ではあるかも知れないが純粋な優しさだとユキヒトは思う。こういったところはやはり、ノルンやオルトの親族なのだとそう思えた。

「全く……ユキヒトは、自分を心配している相手を茶化す悪い癖があります」

「心配してくれるんだな?」

「当たり前でしょう」

「……」

 臆面もなく、照れもなく堂々と言い放つヴァレリアに、むしろ自分の方が恥ずかしくなって、ユキヒトは少し赤面した。

「何を照れているんですか。大切な友人が沈んだ表情をしていれば心配をするのが当たり前でしょう」

「……かなわないよ」

 からかいがいのある初心な相手だと思っていると、純粋すぎてこちらの方が赤面させられてしまう。そんな相手だから、秘密を隠しているのは心苦しい。ユキヒトは苦笑いをした。

「大したことじゃないんだ。全部俺自身の気持ちの問題でしかない」

「そうですか」

 言って、ヴァレリアはユキヒトの隣に腰をおろした。

「いいのか? 真面目な小隊長」

「困っている市民の力になるのは衛兵の大切な仕事です。……何より私自身がそうしたいのです」

「そうか。ありがとう」

 仕事だからなのかなどと言う下らない難癖をつけるような事はしない。ユキヒトはくすりと笑った。

「……」

 ただ黙って、川の流れをぼんやりと見つめる。ユキヒトの住んでいた日本ではなかったような、きれいな水の流れだった。

「……昔、俺の住んでいた街ではさ」

「……」

「こういう風に川が街の中を流れてて。川岸には桜や柳が生えてて、春は満開の桜が綺麗だったし、夏の緑の葉をつけたところも良かった。秋は風が気持ち良かったし、冬はちょっと寒かったけど雪が舞ったりするのを見てるのが好きだった」

「良い場所だったのですね」

「……若いカップルが良くデートなんかしてて。よくカップルで座ってるんだけど、どういう訳だかそれぞれのカップルが同じ間隔をあけて座ってるんだ」

「……それは、何というか、奇妙な風景ですね」

「客観的に見れば、今の俺達も似たような感じかな」

「なっ!?」

 そうしたところでどうなるものでもないだろうに、ヴァレリアは素早く立ち上がった。

「相変わらず、こういう冗談には弱いんだな」

「分かっているならやめてください!」

 顔を真っ赤にしてヴァレリアは怒鳴る。

「そんな事言っても、お前もう二十……うおっ!?」

「女性の年齢を口にする時は、それなりの覚悟を持ってください」

 剣の切っ先をぴたりとユキヒトの喉元に合わせ、ヴァレリアは完全に据わった目をして言う。

 独り立ちが早いファリオダズマでは、結婚も比較的早い。種族によっては男性よりも女性の方が体が大きく力が強い事もあるためか、それほど男女で権利に差はないのだが、ヒューマン種族では社会に出て一線で活躍する女性というのはさほど多くない事も関係して、十七、八で結婚する者が多い。二十歳を過ぎて独身の女性ヒューマンは、口さがない者には「嫁き遅れ」「売れ残り」などと称される。

 十分に生活を出来る仕事を持っているヴァレリアの場合、単純な比較はできないだろうが、それでも古くからの友人のうちかなりの割合が結婚して子供を持っているものも多く、残っているものも秒読み状態の者がかなりの数となれば、心中に期するものがあるのは当然だろう。

 ファリオダズマに来て一年少しのユキヒトには、そのあたりの機微は未だ十分には掴めていなかった。

「……申し訳ありませんでした」

「分かれば良いのです」

 纏う空気はまだやや刺々しいが、ひとまずヴァレリアは剣を鞘に納めた。ユキヒトは、ひとまず胸をなでおろしつつ、座るように促す。ヴァレリアは、まだ少しむっつりとした表情ではあるが、大人しく座った。

「あの街に帰りたくないって言えば嘘になるけど、俺はこのベルミステンも結構好きだよ。ちょっと雰囲気も似てる気がする」

「……ユキヒトが嫌でなければ、ユキヒトの故郷の事を時々でいいので話してください」

「退屈だろ?」

「いいえ。とても楽しいですよ」

 そんなもんかねと呟いてユキヒトは頭をかいた。

「……住みなれない街で生きていくのは大変な事だと思います。ですが貴方には貴方に力を貸してくれる人がたくさんいるのですから、そう言う人を頼れば良いと思います。微力ながら、私も力を貸します」

「……ヴァレリアにはいつも助けてもらってるよ」

「はて、そんなに力になった覚えはありませんが?」

「……」

 落ち込んでいる時にさりげなく側にいてくれる、そんなにありがたい存在が他にいるかと、流石に照れくさくて言葉にはできず、ユキヒトはごろりと横になった。

 生真面目な小隊長は、どうやらしばらくは付き合ってくれるらしかった。その厚意に甘えて、ユキヒトは無言で目を瞑った。












 溶けた金属を目的とする形の鋳型に流し込んで冷やし固める鋳造と比べて、金属を叩いて形を整える鍛造は圧倒的に手間がかかる。

 しかし、鍛造に比べて鋳造では金属内部の空隙が大きくなり、強度が高まらない。日用品であれば手間をかけて強度を高めなくとも十分に使用できる。しかしそれが武器となると、生半可なものを持ち歩いていたのでは、それこそ命にかかわる。

 ファリオダズマでは武器を必要とするものは数多い。モンスターは時に街へと襲撃を仕掛けてくることもあり、常備兵力はかなりを備えなければならないうえに、各地の「迷宮」を探索する冒険者も相当の数に上る。街から街へと貿易をする商人は、盗賊、モンスター双方に備えるために傭兵を雇うのが普通であった。

 その一方で、優れた鍛冶師の数は多いとはいえず、その生産できる武器の数も限られている。結果、軍の上層部はともかく、兵卒に支給品として与えられる剣は、ひどい場合は鋳造の三流品である事すらある。

 ベルミステンはそれなりに豊かな街であり、流石に鋳造の剣ではないものの、それでもそれほど時間をかけて作られた訳ではない二流以下のものが支給される。幸いにと言うべきか武具の交換は手続きをとり、審査を通れば可能だ。ヴァレリアも流石に支給された剣には不満があったらしく、一年間貯金をして作ったという自前の剣を携行している。

 だがそれにしたところで、新米の衛兵が一年間で貯めた金で作れる程度の剣だ。はっきり言ってしまえば、二流品である。ヴァレリアの生真面目な性格は実の所、昔から通っていた剣術道場で培われたという側面もあるもので、剣の実力のほどはかなりのものである。そのヴァレリアの実力に剣がついて行っているとは言い難かった。

「……仕上がりだ」

 知り合いの鞘師に依頼して作らせた、白いシンプルな鞘にその剣を納めると、オルトは呟くように宣言した。

「良く手伝ってくれた、ユキヒト。この出来なら胸を張ってヴァレリアに渡せる」

「……」

 そんな言葉をかけられたのは修業を始めてから一度もなく、ユキヒトは思わず呆然とした。

「良い剣になった。気持ちの籠った良い剣だ」

 直剣、両刃。刃渡り約八十センチ。幅広の剣身で重量はかなりのものではあるが、その分丈夫だ。鉄にオリハルコンを混ぜた合金製で、その特徴であるやや赤味がかった色をしている。実戦のみを想定された剛剣であった。

「……それはオルトさんがヴァレリアを大切に思ってるから」

「それは違うぞ。二人……いや、三人分の気持ちだ。ノルンの奴、ここのところ仕事中はずっと祈ってたんだ、知ってたか?」

「いや、知りませんでした。何でオルトさんは?」

「娘の事くらい知ってる」

 長く、溜息をつくようにオルトは息を吐きだした。

「少しばかり疲れたな。次の休みにでも渡してやろう」

「喜びますね」

「昔からお転婆だったが、今になっちゃあれはもういっぱしの剣士だ。さて、ちょっと今日は根を詰めすぎたな。寝る。晩飯はいらんぞ」

「分かりました。お疲れ様でした」

 首をごきごきと鳴らしながら、オルトは工房から出ていく。

「ユキヒト。ここまで手伝わせたのは初めてだが、お前は筋が良い。あれにとっちゃ、人生で二番目に大切にする剣になるだろう。ありがとうよ」

「……二番目?」

「一番はまだ作られてない」

 何の事やらと首を捻るユキヒトに、オルトは微笑を見せた。














「……これを、私に……?」

 喜ぶというよりは呆然としたように、ヴァレリアは言った。

「何だ、嬉しくなかったのか? おいユキヒト、残念だな、失敗作らしいぞ」

「そんな訳ないでしょう!」

 わざとらしくがっかりしたという声を出すオルトの言葉を、ヴァレリアは大声で中断させた。

「この赤味がかった色、この魔力、間違いなくオリハルコンが使われています。現時点では魔法陣は施されていないようですが、それはつまり使い手が好きに魔法陣を選択できるという事です。なんらか特殊な効果をつけるもよし、剣としての完成度の高さを活かすために強度や切れ味を高めるもよし、選択肢はいくらでもあります。使いこなして見せろと言わんばかりの挑発的ですらあるような剣です。剣を志す者がこれを渡されて、心が震えないはずがありません!」

「相変わらず、剣に関しては大した鑑定眼だ」

「……すみません、少し興奮してしまいました」

「まあ気に入ってくれたなら何よりだ」

「しかし、こんな高価なもの……」

「妙な事を言うな。それは売り物じゃない。だから値段もないし、値段がないものは高価とはいえない」

「そうは言っても……」

 なまじその剣の価値が分かるからこそ、生真面目なヴァレリアは素直に受け取らない。ユキヒトにも気持ちは分からない訳ではないが、流石にじれてきて口を出した。

「それは、初めてオルトさんが俺に本格的に手伝わせてくれたものなんだ。ヴァレリアに渡すために全力で打った。それは、ヴァレリアの為の剣なんだ」

「ユキヒトが……?」

 問いかけるようにオルトを見るヴァレリアに、オルトは頷いて見せた。

「ユキヒトさんは、すごく一生懸命でした」

「……」

 続けて、ずっと静かに座っていたノルンが、駄目を押すようにきっぱりと言った。ヴァレリアはその言葉を聞いて、しばらく剣を見つめていたかと思うと、ゆっくりと顔をほころばせた。

「オルト叔父さま、ユキヒト。ありがとうございます。この剣に恥じない使い手になります」

「気負うなよ。剣なんて所詮道具だ。だが、それをお前に渡したいがために打っ倒れるぐらい真剣に鍛冶に取り組んだ男がいるんだってことは忘れてやるな」

「……ユキヒトさん、三回もお仕事中に水分不足で倒れちゃったんです。お水を飲むのも忘れてお仕事をしてたんです」

「いや、あんなに長時間手伝いをしたのは初めてだったから、ペースがつかめなかっただけだ!」

「そんなに慌てて否定したんじゃ、全力で肯定してるのとおんなじだろうが……って、ヴァレリア、お前ももういい年なんだからそれくらいで真っ赤に……うおっ!?」

「叔父さまと言えど、女性の年齢を安易に口にする者には相応の報いがあってしかるべきです」

「おいノルン、何とかしてくれ!」

「お父さんが悪いです」

「なんとっ!?」

 実の娘に裏切られて、オルトは悲痛な声を上げる。この状態になったヴァレリアに先日痛い目にあわされたばかりのユキヒトも、この時ばかりは被害が及ばないようにこそこそと小さくなっていた。

「この恩知らずどもめっ!」

「問答無用!」

 半ばは照れ隠しのヴァレリアに追われるオルトを、ユキヒトはノルンと一緒になって笑っていた。









「……大切な思い出だって、いっぱいある」

 言い聞かせるように、ユキヒトは呟いた。

「楽しかった事なら、思い出してもつらくはなくなってきた。もうちょっとだ。もうちょっとなんだ。だからもう少しだけ、待っててくれないか……」

 ユキヒトは手元の手紙に目を落とした。

 ヴァレリア・ロイマー。流麗な文字で、手紙にはそう署名がされていた。









「最愛の姪へ 不肖の弟子が君に剣を贈るまで君の身を守らん事を オルト」






[8212] 夜に生きる
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/10/21 22:12



 真夜中、ユキヒトは明かりを灯し、注文を受け付けるカウンターに座っていた。

 当然というべきか、常ならば傍らで椅子に座っているノルンの姿はない。基本的に規則正しい生活の彼女はこの時間、すでに深い眠りの中だ。

 ふと、明かりが消える。しかしユキヒトは慌てない。そのまま静かに佇んでいる。

 部屋の中は暗い。わずかな青白い月明かりだけが、カーテンを引いていない窓から部屋の中を照らしている。

 その月明かりの中に、影が落ちる。しかし、光に照らされるものは何もない。実体のないまま、影だけが唐突に出現する。

 それは影ではなく、黒い霧であった。室内に突如現われた黒い霧を見て、それでもユキヒトは小さくため息をつくだけだった。

「……依頼の品は出来上がってる」

「それは素敵だ。世の中には約束の刻限を守れぬ馬鹿どもが多すぎる」

 霧の中から声が響く。言葉に対して、ユキヒトはやや皮肉げに唇の端を持ち上げて見せた。

「それはどうだか知らないけど、約束の刻限を真夜中零時にする馬鹿なら俺の目の前に居る」

「どうした鍛冶屋、随分機嫌が悪そうだな」

 はじめはもやもやと何の形もとって居なかった霧が、徐々に人の形を成していく。それを見ながらユキヒトは一つ欠伸をした。

「知らないんなら教えてやるけど、ヒューマンってのはこの時間は睡眠の真っ只中なんだよ。お前だって用事があるから真昼間に日差しを完全に遮った密室で会おうって言われりゃ不機嫌になるはずだ」

「化け物相手にいい口の利き方だ。がぶりと行かれても知らんぞ」

 無言で、ユキヒトは左手を上げる。そこには、先日鍛えた自分用の剣が鞘に納まったまま握られていた。

「はっはっはっ! それでいい、それでいいぞ鍛冶屋!」

「ユキヒトだ。名前で呼べよ、ヴァンパイア」














 ヴァンパイアは『最もヒトに近いモンスター』と言われる種族だ。

 モンスターの定義に『同種族間以外での意思疎通を行えないこと』という項目がある。ヴァンパイアはヒトと共通の言語を用い、会話をすることは可能である。それにも関わらず、『会話をすることは出来てもあまりに思考に違いがありすぎるために意思疎通が出来ない』などという苦しい理屈をつけてまでモンスターとされるのは、その特殊な繁殖方法に原因がある。

 通常のような男女の交わりでも繁殖することは出来る。しかし、ヴァンパイアをヴァンパイアたらしめている最大の要因ともいうべき、もう一つの繁殖方法がある。

 それは、『吸血』である。ヴァンパイアに血を吸われた者はヴァンパイアになる。それも、元の種族の特性を残したまま、ヴァンパイアとしての特性を備えることになる。

 太陽や流水に弱い。霧や蝙蝠に身を変えることが可能である。魅了の魔術により魔への抵抗が弱いものであれば傀儡に出来る。異常なまでの回復力を誇り、心臓に白木の杭をはじめとする破魔の武器を打ち込む以外の手段ではそうそう殺すことが出来ない。そして、吸血した相手を自身と同じヴァンパイアにする。そういった特性だ。

 それは確かに一般的なファリオダズマの住民からすれば『不気味』な特性であるのだろう。彼らが主張するとおり、仮にヴァンパイアとそれ以外の種族が隣り合って暮らしていたとして、共存できるのかといわれれば難しい物があるのは間違いない。生活の時間帯からして既に方や昼の太陽の下、方や夜の月の下と別れてしまっている。他方が休んでいる間、他方は積極的に活動しているのだ。かみ合うはずもない。

 また、ヴァンパイアに寿命は存在しない。正確には、存在するのかもしれないが寿命により死んだヴァンパイアというものは現在までの歴史の中で確認されていない。その死因のもっとも大きな割合を占めるのは他者による殺害であり、大きく離された第二位は自殺である。害を為すものとされて討伐されるか、いつまで経っても訪れない終わりに絶望して自ら命を絶つか。それがヴァンパイアの宿命である。長短はあれ時間は有限であると考えるほかの種族と、命という物に対する考え方は当然大きく違ってくる。 

 しかし、ユキヒトは思う。果たして彼らは本当に『モンスター』であろうかと。

 もとより、ファリオダズマで言うところの『ヒューマン』しか居ない世界で育ってきたユキヒトである。顔が狼であるとか、身長が一般的なヒューマンの胸までしかないであるとか、耳が尖っているというだけのことでも、ユキヒトからすれば特殊なことだ。果たしてそれらとヴァンパイアの特性との間で、どれほど違いがあるというのか、と思うのだ。

 吸血を行うことで種族を変えてしまうという特性は確かに恐ろしいものではあるかもしれないが、ヴァンパイアにはヴァンパイアのルールがある。無差別な吸血を行う者は、ヒトからはもちろん、同族からも粛清の対象とされる。ヒトに友好的なものが多いとは言えないが、かといってヒトと積極的に敵対しているわけではない。それがヴァンパイアという種族だ。

 ヒトの側にも、ヴァンパイアと対話して関係を築こうという動きがないわけではない。そもそも、かつては獣人とヒューマンとてお互いに憎しみあい、滅ぼそうとしあっていた時期がある。それを思えば、ヴァンパイアとの和解とて、決して空想事ではないと信じる者が、ヒトの中には居る。

 ユキヒトとしては、そこまで強硬な信念があるわけではないのだが、相手次第では商売にも応じるという姿勢を見せている。実のところ、ほとんどの国家ではヴァンパイアとの取引を禁じる法律はない。そもそも意思疎通が出来ない相手と定義されている建前上、モンスターの一種であるヴァンパイアと取引を行うなどということは、通常では想定されない事態だ。動物との取引を禁じる法律がないのとそう変わらない。

 とはいえ、モンスターの中でも例外的な存在であるヴァンパイアと取引があることが公になれば良い印象をもたれないのは当然だ。ユキヒトとしても、そこには多少考えるところがないわけではない。

 オルトゥーレと名乗るヴァンパイアがユキヒトの元を訪れたのは、三月ほど前の深夜だった。就寝中に突然起されたユキヒトは驚いたし、それ以上に危機を覚えもしたのだが、オルトゥーレはまずは名乗り、自分にユキヒトを害する意思は一切ないと前置きをした上で、ヴァンパイアであることを明かした。

 驚きながらも用件を問うたユキヒトをオルトゥーレは気に入ったようで大いに笑い、その後剣を一振り注文したのだった。

「化け物から話しかけられたヒトの反応はそう多彩なものではない。無論貴様の反応も想定されるパターンの一つに過ぎなかった。しかし、極めて珍しいパターンの一つだ」

 そして今、オルトゥーレは出逢いの時を思い返し、上機嫌に笑った。

 いまやオルトゥーレは黒い霧などではない。完全にその姿を現していた。

 ぞっとするほどの美貌を備えた青年だ。金色の髪は奇麗に撫で付けている。形の良い鼻に、すらりとした輪郭。薄い唇には色気すら漂う。どこをとっても完璧としか言いようのない顔立ちであった。

 しかし、眼だけがその中で異様な雰囲気を醸し出している。赤い瞳と言えば、竜族の一般的な特徴と同じであるが、竜のそれが生気を伴うルビーの輝きであるならば、目の前の青年の瞳の色は、生命から零れ落ち、濁ってしまった血のそれであった。

「お気に召した様で何よりだよ。で、普遍的な反応をされたらどうするつもりだったんだ」

 つまり、逃げるなり、実力で排除しようとするなりの反応をされた場合だ。

「さあな。相手に同情すべき点があるなら見逃してやる」

「物騒な奴だな」

「忘れるなよ、私は『化け物』だ。貴様らヒトがそのように決めた」

「俺が決めたわけじゃない」

「だから私もヒトであるからと一括りの対応をしないようにしているわけだ」

 ヴァンパイアには、通常のヒトの感性では理解できないほど突飛な、あるいは少しずれた行動原理を持つ者が少なくない。そしてそれは、長く生きたヴァンパイアほどそうなっていく傾向にある。

 総じて彼らは退廃的であり、享楽的であり、刹那的であり、破滅的である。永遠とも言える時間が、ヒトとは異なる精神と理論を少しずつ育んでいくのだろう。

「それで、なんでその化け物がヒトの武器を作らせるんだ」

「ふん。ヴァンパイアの生は伊達と酔狂で出来ている。意味などない」

 オルトゥーレはくくくと喉を鳴らすように笑う。

「ヴァンパイアってのは難儀な奴らだな」

「時に縛られるヒトの子らには分かるまいよ、我らの愉悦と絶望が」

「……愉悦と絶望、ね」

「そう。愉悦と絶望だ。我らは永遠に生き続けられる愉悦と、永遠に生き続けなければならない絶望をともに抱えて生きている」

「……死なないわけじゃないんだろう」

「ある程度力のあるヴァンパイアなら、明確な自己の、あるいは他者の意思によってしか死ぬ事が出来んのだ。意志とはつまり、望みと言い換えてもいいな。他者、あるいは己が死を願わぬ限りは、生きていかねばならんのだ」

 ヴァンパイアは基本的に不死の存在だ。彼らには実のところ、食事も睡眠も必要ない。魔力さえ適度に補給していれば、ヴァンパイアは死ぬ事がない。ヴァンパイアの多くは、魔力の巡りの良い地に本拠地を築いてその中に魔力収集のための魔法陣を作る。中には、迷宮を占領し、その中に住まう低級の魔物を魅了によって傀儡とし、自らの住処を守る番兵に仕立て上げるヴァンパイアもいる。

 吸血は、もっとも効率の良い魔力の吸収方法であると同時に、魔術的儀式としての側面が強い。種族変更という、ヴァンパイアに固有の魔法といってもよい技能を使用するための儀礼だ。

「貴様は永遠を望むか?」

 唐突な問いかけに、少し考えた後、ユキヒトは左右に首を振った。

「ふん。何故だ。古来よりヒトの願いといえばおよそ不老不死であろうよ」

 オルトゥーレはつまらなさそうに、吐き捨てるように問いかける。ユキヒトは左手に握ったままだった剣をカウンターに置くと、小さなため息をついた。

「俺は期日の決まってない課題はいつまで経っても解決できない人間なんだよ」

「貴様に限らん。およそヒトというものはそういうものだ。故にヴァンパイアに職人は存在しない。我らは何も生み出さぬ。我らは何も遺さぬ。何故なら我らに未来はない」

「……」

「我らにあるのは膨大な過去と、いつまでもだらだらと続く現在のみだ。我らは未来を生きることなどない。我らはただ現在のみを生きる。意地汚くもただただ生き続けるのだ」

 ヒトが何かを遺そうとするのは、いつか自分に終わりが来ることを知っているからだ。自分という生命が終わってしまったとしても、自分という存在がかつてあったことを証明するために、ヒトは自分のいなくなった未来に何かを遺そうとする。

 ヴァンパイアにそのような必要はない。何故ならばヴァンパイアはいつまでも生きることができる。永遠を生きることができるものに、生の証を遺す必要はない。何故ならば、証を遺すまでもなく、生きているのだから。

「いつか我らの過去が我らを押し潰すその時まで我らは生きなければならぬ。我らは未来を思わず、ただ今このときの退屈をどうしのぐかのみを考えている。貴様もヴァンパイアになり1,000年も過ごせばわかる」

「俺はヴァンパイアになるつもりはない」

「賢明な判断だ。実に詰まらん。愚かな選択は愚かであればある程に面白い。私はとうに、理で考えることに飽いている」

「……そうか」

 伊達と酔狂で生きているという言葉に偽りはないのだろう。この目の前のヴァンパイアがどれほどの年月を生きてきたのか、ユキヒトは知らない。しかし、その眼には限りないほどの疲労が宿っている。おそらくは、途方もないほどの時間を彼は過ごしてきたのだろう。

 どれほどの出会いと、そして別れを繰り返してきたのか。あるいは、他者と交わることを絶ってどれほどの時間が経ったのか。

「鍛冶屋、私の頼んだ剣を持ってきてくれ」

「……ここにある」

 カウンターに隠れる位置に置いてあったその剣を、ユキヒトは取り出した。

「手際の良い事だな」

 そう言って手を突き出してくるオルトゥーレに、ユキヒトは剣を渡さず、それを鞘からゆっくりと抜いた。

 すらりと抜いたその剣身は、冴え冴えと白い。刺突を目的とした幅の細い剣であり、尖端こそ鋭く研ぎ澄まされているが、本来の刃に当たる部位はなまくらである。材質は破魔白金と呼ばれる金属で、魔力の流れを乱す性質をもつ、魔法破りの素材であった。その為魔法陣を施すことはできず、代わりというべきか剣の腹には文字が刻まれている。『主よ、憐れみたまえ』。依頼通りに刻んだ一節ではあったが、およそその依頼人に似合うものとは思えない。

「何故、この文字を?」

「ふん。何度も言わせるな。ヴァンパイアの生は伊達と酔狂。意味などない」

「……そうか」

 あくまで言い張る依頼人に、ユキヒトは細くため息をつく。

「一つ、確かめなきゃ、これの引き渡しはできない」

「ほう?」

「……その剣、自分の胸に突き立てるためのものか?」

 ヴァンパイアは生半可な方法では死なない。首を刎ねようと、胴を真二つに断ち切ろうと、ヴァンパイアは再生する。例えその体を焼き、灰にして数か所に封印しようと、灰を集めてしかるべき魔力が備われば、ヴァンパイアは復活する。ヴァンパイアを殺すには、破魔の呪具をその心臓に突き立てるしかない。

 格の低いヴァンパイアであれば、白木の杭で十分事足りる。しかし、長い年月を経て強大になったヴァンパイア、ヴァンパイアロードと呼ばれることもある上級の実力を備えた者たちは、それでは死に切らないという。強力な呪具を用いて心臓から流れ出す魔力を破壊して、ようやく彼らは死に至る。

 オルトゥーレがどれほどの実力を持つヴァンパイアなのか、正直なところユキヒトには分からない。しかし、狂気を帯びたその瞳が完成されるまで、途方もないほどの時間が必要であろうとは、薄々と感じていた。

「私はまだ死ぬ気はない。生きることに飽いてはいるが、死ぬことにも興味をそそられはしない」

「なら、これは何のために?」

「それを知ることを勧めはせんな。知ることは関わることだ。ヒトがヴァンパイアの世界と関わって良い事など何一つとしてない」

「なら依頼に来るな。迷惑な奴だな」

「くくく。貴様のその物言いを私は気に入っているぞ」

 その笑みには、怪しい魅力があった。ともすればそこに引き込まれそうになってしまう。魅了の魔術を使うヴァンパイアと相対するのは、ただそれだけで精神を消耗することだった。

「なに、ヴァンパイアからヒトにちょっかいを掛けることはない。下手なことをすれば掟に背くことになるからな」

「別に、好奇心で知りたいわけじゃない。自分の作ったものがどんな風に使われるか、それを知らずに渡すことはできない」

「それは依頼を受ける前に聞くべきことだな」

「話したか? 初対面の鍛冶屋にそんな事を」

「否だ。なかなかに理知的だな、貴様は。実に詰まらん」

 オルトゥーレは再び喉を鳴らすように笑うと、物憂げに顎に手をあてる。

「……同族狩りさ」

 少しの沈黙の後、オルトゥーレは言った。

「我らには我らの掟がある」

「らしいな」

「我らの掟には同族殺しの罪というものがある。その罰は処刑と決まっている。今回の罪人はなかなかに大物なのでな。それなりの武器を用意しなければ殺すことが出来ん」

 ヴァンパイアにはヴァンパイアの社会がある。いや、ヴァンパイアはヴァンパイア同士としか社会を形成できないとも言えるのかもしれない。

 いずれにせよ、その司法が極めて特殊なものであるのは間違いがない。

「……同族殺しか」

「面倒なことだ。だがそれがよい。どうせ暇潰し以外にする事などあろうはずもない。ならば手がかかれば手がかかるほど良い」

「暇潰しで、自分と同じ種族の相手を殺しに行くのか?」

「忘れるなよ、私たちは化け物だ。同じ姿をしているからといって、同じ常識を求めるな」

「……そうか。じゃあ、聞くだけ無駄かもしれないけど一応聞かせてくれ。なんだってあんたたちは、自分たちでルールなんか作って自分たちを縛るんだ? それも暇潰しなのか?」

 永遠に死なない種族であるならば、他の物の事など無視をしてただ己の楽しみのためだけに生きればよさそうなものだ。その質問を耳にすると、オルトゥーレは、ほう、と、感心するように目を細めた。

「ヴァンパイアは個としては狂った者ばかりだが、種としてはなかなかにまっとうだという事さ。天敵は増えないに越したことがない」

「……何の事だ?」

「貴様、ヴァンパイアと戦いたいと思うか? 狡猾で魔力は高く、霧や蝙蝠に変身してうろちょろと逃げ、殺しても殺しても復活し、挙句うかつに噛まれれば自分がヴァンパイア化の憂き目にあうような相手と殺し合いをしたいと思うか?」

「まっぴらごめんだな」

 うんざりした気持ちで、ユキヒトは答えた。誰が好き好んで、そんな相手と戦いたがると言うのか。

「しかもそいつらは、恐ろしく酔狂で何をしでかすか分からんときたものだ。そんな奴らとまともに戦えるのは、同じヴァンパイアくらいだろう。殺しても死なないのはお互いさま、思う存分にお互いの弱点、つまり心臓だけを狙って攻撃しあえる。霧や蝙蝠に変身して逃げるならば同じ姿になって追いすがり、噛まれたところですでに自分もヴァンパイアだ。ヴァンパイアと戦うのにこれほど都合のいい存在がほかにあるか」

「……」

「……我らは別に最も強い種族ではない。が、おそらくは最も相手にしたくない種族だ。同族であっても、そんな敵はこりごりなのだよ。我らは数を増やすのもまっぴらごめんだ。まして自分を殺しに来るかもしれん様な厄介な同族は積極的に排除せねばならん。基本的に我らは自分が可愛い我儘な種族なのだよ。可愛い可愛い自分を脅かすかもしれん存在を、なるべくならば増やしたくないのさ。生きている間はとりあえず生きていたいし、いい加減飽きて生きたくなくなれば勝手に死ぬ。そして仲間にするものは極力しっかりと選んでそれと心に決めた者を同族にする。元々の繁殖力は極端に低い種族だからな。自然に子を為そうと思えば、夜毎に交わっても五十年はかかる。そういう種族なのだよ」

「……何とも」

 筋が通っているような、はたまた論理がすっかり破綻しているような、それは奇妙な種族だった。

「むしろ私は、何故私の依頼を受けたのかを聞きたい。ヴァンパイアの依頼など、何故受けるのだ。無視するなり、逃げるなりすればよかろうよ」

 にやりと笑うと、その鋭い牙が見える。

「なんとなく、だな。あんたは不法侵入はしたけど、きっちり名乗って自分の正体も明かしたうえで依頼をした。不法侵入と時間のことは、あんたの事情を考えればある程度仕方ない。それは誠実な態度だったと思う。だからだ」

「貴様は面白いな」

「そうか? 当たり前のことを当たり前にしようと思ってるだけだ」

「相手によってその『当たり前』の変わる者のなんと多いことか」

 くっくっく、とオルトゥーレは肩を震わせる。

 ユキヒトには『常識』がない。ファリオダズマでの常識をユキヒトは知らない。だからこそ、会話ができる相手であれば、例えそれがヴァンパイアであろうとも、その考えるところを知りたいと思える。それは時に、ファリオダズマの住民からすれば途方もない事でもある。

「退屈ばかりの生ではあるが、時として興味深い者に出会うこともある。それこそが我らヴァンパイアの絶望なのかもしれんな。誰と会っても、どんな親交を結んでも、その相手は必ず自分より先に死ぬ。我らは必ず取り残される。それを逃れたければ、相手をヴァンパイアにしてしまうしかない。そして、ヴァンパイアにしてしまったが最後、変わらずにはいられん。結局のところ我らは、どこまでも孤独だ」

「……ヴァンパイアになってもならなくても、ヒトは変わっていくさ」

「ヴァンパイアにしてしまえば、その変り方すらも変えてしまう。いや、歪めてしまう。気に入ったものが歪んで壊れていく様は……実に絶望的だ」

 オルトゥーレはそう言って、深くため息をついた。

「詰まらん事を言ったな。感傷的になるとはまだ望みを捨て切れていないという証拠か。つくづく救いようがない」

「……お前さえよければ、また来いよ。ヴァンパイアになるのはまっぴらごめんだけど、時々話くらいならしてもいい」

 オルトゥーレの疲れた目は、それでも諦めきれないからこそなのかも知れない。諦めてしまえば、そこには絶望すらもない。

「ヴァンパイアを家に招くな。災厄が運び込まれるぞ」

「迷信だろ?」

「そうでもない。掟に背かずに相手をヴァンパイアにするための条件の一つが、その相手から家に招かれる事だ」

「一つってことはそれだけじゃないんだろう」

 ユキヒトのいた世界では、『ヴァンパイアは招かれなければ家に入れない』という話もあったということをユキヒトは思い出していた。まったく違うようでもあるファリオダズマと元の世界ではあるが、共通点も奇妙なほどに多かった。

「ヴァンパイアに心を寄せるな。ヴァンパイアにされるぞ」

「……そうか」

 さらりと答えるオルトゥーレの目には、自嘲とも何ともつかない何かが宿っている。

「実のところな」

「……ああ」

「私が殺しに行く相手は、お前によく似た男だったよ。ヒトであった頃はな。相手がヴァンパイアだと知ってなお恐れず、蔑まない男だった。奴と出会ったとき、私はまだいささか若かった。この永遠ともいえる生に、寄り添ってくれる友を求める程度にはな」

「……」

「そういう事だ。つまりは、そういうことなのだ」

 オルトゥーレは、事実や真実、そういったものを語るのを恐れるように、婉曲的な話し方をする。

「まったく上等な状況だ。どちらの結末にしろ、贖罪になる」

 くっくっくと、喉を鳴らすようにヴァンパイアは笑う。

 それは無邪気とすら言えるような、心底楽しそうな笑い声であった。だからこそ、ユキヒトの常識はひどい違和感を訴えた。

「……ヒトにはわからない、か」

「その通りだ。だから理解しようとするな。光は光、闇は闇。それで良いではないか」

 夜や闇。そういった属性に身を置く者をユキヒトはもう一人知っている。その人も、このヴァンパイアのように、どこか疲れた諦念を身に纏っている。

 夜に生きるとはそういう事なのかも知れなかった。しかしユキヒトは、それをそういうものだと認めることに抵抗を感じた。

「お前が、自分は『闇』だというのなら」

「うん?」

「……昼でもなく、夜でもない時間、逢魔時にまた会おう。昼は昼、夜は夜かも知れないけど、その間で、一瞬だけでも交わるはずだ」

「……」

「それに、俺の剣は俺が修理する。もし本格的な手入れが必要になったら、俺のところに持って来い。俺が生きてる間くらいは、俺がこいつの面倒は見る」

「そうか。私はこの剣の持ち手として貴様に認められたか」

 ユキヒトが差し出す剣を、オルトゥーレは恭しく受け取った。

「ふむ。良い出来だ。礼として金のほかにも一つ、私から貴様にくれてやろう」

 ひとしきり剣を眺めると、オルトゥーレは言った。それに対して、ユキヒトは首を左右に振った。

「依頼に対する報酬は金だけ受け取ることにしてる。……友人からの贈り物なら、遠慮せずに受け取る」

「それで貴様が満足するのなら、そういう事でいいだろう。くれてやるのは、呪文のようなものさ。もっとも、私が奴に殺されていれば何らの意味を持たぬことになるがな」

「……呪文?」

「不心得者のヴァンパイアが貴様の前に現れたなら、言ってやれ。四十四公が一、オルトゥーレ・ル・ヴィスを恐れぬのか、とな」

「四十四公……?」

「意味は、ある程度ヴァンパイアに詳しい者に聞けば教えてくれるだろうよ。高慢きちなヴァンパイアが真っ青になって逃げる姿は、実に面白いものだぞ」

 くっく、と、喉を鳴らすように、しかしかすかに愉快そうに笑う。

「ヒューマンの一生など、我らヴァンパイアからすれば、ほんの泡沫の夢のような儚いものだ」

「そうかもしれないな」

「だが、夢は夢であるからこそ良いのだ。夢を永遠にしようとしてはならんな。その代償が私のこの様だ」

「……」

「玉響、私は夢を見る事にしよう。また来る。死んでいなければな」

「……死から一番遠いヴァンパイアが、良く言う」

 その言葉に返事はせずに、オルトゥーレは現れた時と同じように、黒い霧になる。

 霧が晴れた後には、何も残らない。それこそ、彼こそが夢であったかのようだった。

「……まったく、まともな顧客はちっとも増えないな」

 ユキヒトは苦笑して呟いた。









『夜に生きる者へ 例え絶望が貴方を襲ってもそれが貴方を壊してしまわぬ事を 行人』








[8212] 剣神の憂鬱
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2010/04/05 01:39








 剣という武器は、世界のありとあらゆる地域に存在する。

 文化や風習、技術力にその地域で産出される素材、ありとあらゆる要素を超えて、それでも剣という武器が存在しない場所はない。

 剣はある意味で最も原始的と言える武器の一種であり、そしてもっとも洗練された武器でもある。

 また、どこにでもある武器でありながら、地域によって全く異なる形状を持つ武器でもある。同じ『剣』でありながら、それでも全く同じ剣は存在しない。

 主に刺突に使用されるレイピアの類もあれば、扱いに高い技術と体力を要する長大なツーハンデッドソードもある。盾とともに使用する片手剣が発達した地域もあれば、斬撃に適した長剣が主要な武器である国もある。

 それらを扱う剣技もまた、その土地によってそれぞれ異なる。更に、ファリオダズマでは、文化などの違いだけではなく、種族という絶対的な差異により、剣自体も剣技もまさに百花繚乱といったありさまで、数えきれないほどの剣とそれを扱うための技術が存在する。

 その中で、剣同士、一対一で戦うならば、もっとも強いとされる種族と剣、そして剣技が存在する。いささか反則的ではあるが、という但し書きはつくものの。

 その種族は、アシュラ種族。三面六臂と、絶え間ない闘争を特徴とする種族である。










「それで、私の依頼の剣はどこにあるのかな」

 にやりと笑って、今回の依頼人、アシュラのマーリートが言った。

 背は高い。元々ユキヒトはヒューマンの平均より少し高い程度の身長だが、それでもマーリートはユキヒトより頭一つ分ほども抜き出ている。

 体つきはややほっそりとしている。かといって貧弱なわけでは決してなく、引き締まってしなやかな筋肉は、いかにも敏捷そうな印象を与える。

 そして、アシュラをアシュラたらしめる、三つの顔と六本の腕。三つの顔は、今はどれも同じ、にやりとした笑顔を浮かべている。

「できているが……流石に、今回は疲れたよ」

 やれやれ、と、疲労の色が濃いぐったりとした表情をして、ユキヒトは答えた。

「まあ、私も自分の剣を一度にすべて新調するのは、流石に初めてだ」

「六振りも依頼するなよ……。この工房は俺しか職人がいないんだからな」

 アシュラの剣技は、最低三刀流、多くて六刀流という、あまりにも特殊なものだ。

 『闘うために生まれてきた』とも称される種族が彼らだ。死角はきわめて少なく、文字通り『手数』ではどんな種族にも劣らない。竜のようなそもそも問答無用の種族を除けば、その戦闘能力はファリオダズマに数多く存在する種族の中でもかなり高い位置に君臨する。

 アシュラは特殊な種族だ。ほとんどの種族は、種族同士で集まって生活をする。交流が進んでいる現在では、都市部においては数多の種族を見る事が出来るが、それでもやはり、その都市のルーツとなる種族が人口の比率として高い事がままある。田舎へ行けば今でも、ほとんどが同一の種族で暮らしている集落などいくらでも見られる。それに対して、アシュラは定住をしない。一族か、せいぜいが二、三十人ほどの集団で移動し、主に傭兵業で身を立てて生活する。ただひたすらに剣技を磨き、闘いの中に身を落とし、闘争の中で死んでいく。そういった、極めて特殊な種族だ。

 彼らに与えられる二つ名は多い。『闘うために生まれてきた種族』、『放浪する種族』、『最強の傭兵』、『破壊者』…。それらの二つ名は、その種族の特性をよくあらわしている。

「依頼をして迷惑がられる工房も珍しい」

「迷惑だとは一言も言っていないが……まあ、依頼を六度に分けてくれると非常に助かる」

「次回からは考慮するかな」

「ぜひそうしてくれ」

 軽口をたたきあって、お互いにくすりと笑うと、ユキヒトは一振りの剣をカウンターの上に置いた。

「とりあえず、一振り目だ」

「うむ」
 
 刀鍛冶と言えども、専門というものが存在する。

 ファリオダズマにはさまざまな種族が生活し、それぞれ体格も文化もかなり異なる。当然、剣にも大きな差が生じることになる。

 注文を受ければ大抵の刀鍛冶はそれに応えた品物を作るものの、それぞれに得意な剣、というものがある。ツーハンデッドソードの作製が専門の刀鍛冶にレイピアを依頼しても、そうそう高い品質のものを作れるものではないのだ。

 ユキヒトが主に扱うのは、オーソドックスな中剣、ないし長剣で、『斬る』ことを目的とする類の剣だ。

 そういった意味では、今回の依頼はユキヒトの専門の範疇という事になる。しかしその剣は、『非常に特殊』と分類される剣だった。

 刃は、ごく当たり前の、真っ直ぐでやや幅は狭く鋭い両刃だ。しかしその剣には、通常のような柄がなかった。

 柄があるべき刃の根元は、そのまま籠手になっている。籠手の内部には握りがあり、使用者は籠手をはめて、その握りで刃を固定する。

 拳を振るうようにふるわれるその剣は、通常の剣術とは異なる軌道を描く。ただしその反面、手首を固定するその装備は使用者への負担も大きく、使用者の少ない剣だ。

 アシュラ種族には、その剣の使い手が少なからず存在する。それを編み出したのはアシュラ種族だ、とする説もある。確かに、アシュラの六本の腕がそれを装備した時、複雑怪奇なその斬撃を回避できるものは、そうそういない。

「……」

 マーリートは、黙ってそれを腕にはめると、しばらくしげしげとそれを眺めた。

 しばらくそのまま静止していた彼は、ふと視線を上げると、じっとユキヒトを見詰めた。

 ユキヒトは、視線に応えるように、残り五振りの、最初のものと全く同じ剣を取り出す。

 マーリートは、差し出された剣を順番に腕にはめていく。

 そして彼は、ゆっくりと腕を動かし始める。滑るような動作で、その六本の剣が空を切っていく。滑らかではあるが、決して素早い動きではない。しかしそれは止まることなく、一つ一つ、確かめるように、どこか儀式めいたその動きは続いた。

 有機的に複雑に絡み合う動き。ユキヒトは、それを眺めながら、マーリートと対峙している自分を思い描いてみた。

 一太刀目、真っ直ぐに振り下ろされる剣は、下がってよける。受け止めれば残り五振りの剣を止めるすべがない。下がったところに、次の剣が突き出されてくる。

 その突きは弾いて対処する。次の一撃は薙ぎ払い。それもやはり下がってかわす。とはいえ、下がり続けても攻撃が途切れるわけもない。今度は自分から打って出る。真正面からの唐竹割。しかしそれは、念入りに二振りを交差して受け止められる。

 剣を受け止められたまま、さらに追加の斬撃が来る。下がってかろうじてかわすものの、もはや手が残っていない。追撃がさらに続いて、詰み。到底かなわない、という結論が残った。

「良いな」

 やがて、ゆっくりと動きを止めると、マーリートは呟くように言った。

「相変わらず、見ていて目が回りそうな剣術だよ。なんでそれで剣同士が当たらないのかが分からない」

「それの為だけに生きていれば、これくらいの事は出来るようになる」

「……それの為だけに、ね」

 ただ闘争の中に生き、死んでいく種族。その行動原理は、他の種族には理解しがたいのも事実だ。しかし、当のアシュラ種族はといえば、それを当然のこととして、疑問すらも抱かない。

「ところで、ノルンはどうしたんだ?」

 ふと、マーリートがその場にいない少女の名前を口にする。それに対して、ユキヒトは少し表情を曇らせて答えた。

「……ここのところ、少し調子が良くない」

「……そうか」

 刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』を訪れる客は、基本的にユキヒトにとって見知った顔ばかりである。山中に居を構えているのだ、ふらりと客が立ち寄るはずなどない。客は基本的に、ユキヒトの師であるオルトからの時代の顧客か、あるいはその顧客に紹介されて訪れる者ばかりだ。

 そういった者たちばかりだから、当然のことながらノルンの事も皆知っている。

「不憫な娘だ。己の魔力に蝕まれている」

「もう少し成長すれば、ある程度は耐性もできる」

「……その通りだ」

 自分に言い聞かせるようなユキヒトの言葉を、あえて否定するようなことはせず、マーリートは頷いた。

 ヒトは何かを失ったとき、それを補うために別の何かの能力を高める事がある。生まれつき目が見えないノルンは、鋭敏な耳や鼻と、そして高い魔力を持っていた。

 魔力というものは、個人の資質によりその量や質に違いはあれど、ヒトであれば誰でも持っている力だ。それを用いた魔術は、ファリオダズマでは日常を送るために不可欠な技術である。

 しかしながら、高すぎる魔力は、種族によっては有害になる。

 フェアリーのように魔力に依存して存在する種族もあるが、ヒューマンに限って言えば、特に幼少期に高い魔力にさらされるのは好ましくないとされる。例えそれが、自分の発する魔力であろうとも。

 とはいえ、一般的な子供であれば、少し体調を崩しやすいであるとか、せいぜいがその程度のものである。しかしながら、ノルンの場合は少し事情が違った。

 元々が盲目であるために体を鍛えることがままならない。そうでなくとも、一般的な子供より体が弱いのだ。体調を崩せば長期化しやすいし、下手をすれば深刻な事態にもなる。

 原因が生まれついてのものであるために、有効な対処法もこれといってない。成長し、魔力への耐性をある程度高めた段階で、ゆっくりと体質の改善に取り組むしかない。

「生まれついての宿命というのはあるものだ。幸せなものであれ、そうでないものであれ、それを避けることなど出来ん」

「お前、運命論者だったのか」

「別に運命論ではない。全てがあらかじめ定まっていると考えているわけではないが、それでも不可避の何かもあるのだろうよ」

「そうか」

 澄ました顔のマーリートは、ゆるゆると微笑んでみせる。無駄のない端正な顔立ちと体つきの彼は、黙ってそこに立っていれば、それこそどこか神聖な気配すら漂う。戦場では、文字通りの血の雨を降らすとは思えないような、静かなたたずまいだった。

「……前から聞いてみたかったんだが、どうしてアシュラってやつは、それこそ運命にそう決められてるみたいに、揃いも揃って闘いに行くんだ?」

「運命にそう決められているのさ」

 少し遠慮がちに切り出したユキヒトに、さらりと笑ってマーリートは返す。流石にユキヒトも言葉を失って、きょとんとマーリートを見返した。

「すまないな。冗談だ。運命ではなく、我々は我々の意思で戦場に赴いているのさ」

「それは何故なんだ」

「……宗教、というのがいちばん近い概念かな」

「なんだって?」

 宗教は確かに、時として……いや、かなりの頻度で、戦争の原因となる事がある。

 献身的な、敬虔なものほど、自分よりも信仰を大切にする傾向がある。それは決して悪い事ではないのだろうが、一部の者がその思考を少し誘導すれば、それは容易に違う価値観への敵対心へと燃え上る。

 宗教的にはいい加減にもほどがあるといわれる現代日本で育った若者であるユキヒトだ。信仰の為、という言葉は、ある種で最も理解に遠い部分にある。

「近い概念というだけで、別に特定の教義に従って闘うわけではないが、我々という種族は、常に探究しているのだ。戦場において、究極の剣というものを、な」

「……究極の剣」

「それはあるいは個によって違うかもしれず、あるいは全ての個に通じる普遍的な何かかも知れん。我らの始祖たる存在は、それの体得者だったともいう。そして我らは、いつまでもそこに向かって歩き続ける存在なのさ」

「ロマンチストなんだか物騒なんだか」

「どちらかといえば物騒な方だ」

 呆れてものも言えないとはこのことで、自覚しているならどうにかしろとユキヒトはため息をついた。

「とまあ、一般的なアシュラならこういうのだろうが、私は少し考えが違う」

「ん?」

「貴様はアシュラが厨房で包丁をふるうような生活をできると思うか」

「……」

 手と顔が一般的な種族の三倍ずつあるから、作業も他の種族の三倍を行なう事が可能かといえば、そういったわけでもあるまい。

 顔が三つあるとはいえ、思考は一つだ。マーリートが六振りもの剣を操るのも、『それの為だけに生きて』来た結果だ。

「結局のところ、我らのような歪な種族は、闘いくらいでしか役に立たないのだ。とはいえそれを認めるのも癪だから、求道的な思想を幼いころから施して、それに気づかないように闘いに没頭させるのさ」

「……それじゃあなんでお前はそれに気づいたんだ」

「知らん。いつの世にもどの社会にも、変わり者は生まれるんだ」

「そうかい」

 しかし果たして、それは幸せな事であろうかとユキヒトは思った。

 はるかな昔から、アシュラ種族はその生き方をしてきた。他の種族にとって理解ができずとも、アシュラ種族にとってはそれが最善であったという事なのだろう。

 闘いに優れる種ではなく、闘いしかできない種。それを自ら認めるのは、苦痛を伴う事ではないかと思われた。

「……それに、ある程度察しの良いものや、年長者なら、薄々気づいているだろうよ」

「なんだって?」

 どこか諦めたようなその言葉を、ユキヒトは思わず聞き返した。

「他のすべての種族から見て不自然な思想であるにもかかわらず、アシュラ種族だけにとっては自然。そんな事が本当にありうると思うか?」

「それは……確かに」

 種族によって価値観や文化はさまざまに異なる。それは事実だ。しかし、ともに社会を形成できる程度には共通した感性を持つ知性体同士だ。本当に、完全に理解できない思想など、そうそうあるはずがない。

「気づきたくないだけ、見なかったことにしたいだけ。個人ではよくある事だ。種族としてそれをやっているというのはどうかと思わないでもないがね」

「……普通に生きていけばいいんじゃないか? 闘いほど才能を発揮できなくても、普通に生きていくのに困るほど不器用なわけでもないだろう」

「普通……普通、ね。私はそれでも構わないと思うが、多分、無理なのだろうなあ」

「何故だ?」

「いつから続いているかも分らん種族のしきたりを変えようというのに、反発がないはずがないさ。そこそこの不満や、漠然とした寂寥を感じている者がいるとして、それでもそれなりに生きているんだ。変えられるはずがない」

「マーリートが個人的にしきたりから外れるなら?」

「それも無理だろう。私が仮に幸せに生き、それが種族に伝わったとすれば、混乱が生まれる。許されるはずなどないさ」

 ヒトには、変えようとする力と、元のままでいようとする力の両方が備わっている。長くそうであったものほど、元のままでいようとする力は強く働く。

 長く続いたという事は、利点があるという事だ。それでうまくいっているものを、あえて崩す必要はないと感じるのがヒトだ。少しの違和感や不満よりも、大多数の安定を優先するのは、種族として決して誤った事とはいえないだろう。

 個人というものを大切にする価値観の世界から来たユキヒトには、時としてそれが行き過ぎているように見える事もある。しかし、現代日本と比較して、『生きる』ということの難しさが格段に違うファリオダズマの現実を知るほどに、ユキヒトの常識で物事を図ることの無意味さも感じる。

「……」

 不満はないのか、と問うのは残酷な事に思われた。不満を押し殺して種族の為に、などという美談ではない。不満を表に出せば、命が危ない。

「マーリート」

 思わず、ユキヒトは口を開いていた。なんだ、と問い返すマーリートに、何かの考えがあるわけではなく、いつの間にかユキヒトの口は言葉を紡いでいた。

「剣の稽古をつけてくれないか」












 ユキヒトは、元の世界での高校時代、剣道部に所属をしていた。

 全国区で有名になるような選手ではなかったものの、県大会ではそこそこに名前も知れていた。当然、段位も持っている。

 それなりに自信もあったのだが、ファリオダズマで冒険者や衛兵といった仕事に就いているものと剣の稽古をすると、決まって同じ評価をされた。

 曰く、決して下手なわけではなく良く修練して洗練されているが、貴族剣術に近く実戦に向かない、との評価だ。

 その評価を、ユキヒトは苦笑しながらも受け入れざるを得なかった。

 剣道では有効部位さえ打たれなければ、一本にならないのだ。たとえば肩であるとか、足であるとかそういった部位はそもそも有効部位ではなく、そこを狙う技もなければ、そこへの攻撃に対する防御も修練していない。

 一方で、現実的には、足や腕を狙うのは有効な手段だ。腕に傷を負えば武器を振るうことは難しくなる。足にダメージを負えば、それまでどおりの足さばきは困難だ。

 とはいえ、実戦剣術が差し迫って必要なわけでもないのがユキヒトの立場だ。改めて剣術道場に通うなどの事はしていない。体をなまらせないために、剣道時代の修練をある程度こなしてはいるが。

 修練用の模擬剣は、二振りしかない。ユキヒトとマーリートで一振りずつだ。マーリートは、これでは自分の本領は到底発揮できないと冗談交じりに苦情を言ってきたが、ハンディキャップだと言ってユキヒトは取り合わなかった。

 本来の武器ではないとはいえ、マーリートは十分に強かった。

 そもそもからして、ユキヒトの振るう剣より、マーリートの剣は、速い。

 単純な事実であるが、それにより生まれる差は大きい。それは、同じタイミングで同じ部位を狙った場合、マーリートの剣の方が先にユキヒトに届くという事だ。

 もっとも、そんな相内覚悟のような攻撃をマーリートは仕掛けてこない。ユキヒトが迂闊な攻撃を仕掛けてくれば、その速い剣を活かして捌き、反撃に移れば良いのだ。

 一方で、ユキヒトとしても、それを理解したうえで、攻撃を仕掛けざるを得ない。

 そもそも受けに回れば、相手の方が技量も剣速も上なのだ。反撃もできずに防御に全力を尽くすことになり、どこかで破綻して負けるのが落ちだ。

 ユキヒトは、へその前あたりに左手が来るように両手で剣を持ち、剣先の延長線上が相手ののど元に来る程度の高さで保つ。剣道の中段の構えだ。

 貴族剣術と言われようと、実戦に向かないと言われようと、下手に我流で形を崩せば無残な事になるのは、剣道を学んだ時期に十分理解している。通用しようとしまいと、ユキヒトはただ自分の型を思い切りぶつけるだけだった。

 一方でマーリートは、ろくに構えもせず、だらりと剣をぶら下げているだけだ。

 ちなみに、六本の腕のうち、左右を向いている四本は腕組みをして邪魔にならないようにしている。今は、正面の左右の腕だけを使う、という意思表示だ。

 マーリートが構えを取らないのは、ユキヒトを侮ってのことではない。元々、その自然体こそが彼の戦闘態勢なのだ。

「……やああああああああっ!」

 剣道の試合であるまいし、声を発する必要などないのだが、染みついた習慣はそう簡単に除けるものではない。気勢を発して、ユキヒトは踏み込みつつ、正面から剣を振り下ろした。

 流石に、面、などと声を発することはしない。いくらなんでも、打つ部位を声に発するのは、剣道を知らないこちらの世界の人間には奇妙に過ぎる。

 反撃ができないわけではなさそうであったが、マーリートは様子見をするつもりか、ひとまずは右手に持った剣でそれを受ける。

 ユキヒトの両手での一撃を、マーリートは右腕一本で涼しい顔をして受ける。アシュラ種族は、筋力にも優れた種族だ。

「はあっ!」

 ユキヒトは負けが見えている鍔迫り合いに持ち込むことなく、すぐさまひきつつ、相手の左の胴を薙ぎ払う。

 剣道の胴は、通常、相手の右の胴を払う。左側を払うのは逆胴と呼ばれ、頻繁に用いられる技ではない。ユキヒトにとっても、慣れた技ではなく、違和感がある。

 それでもあえて逆胴を打ったのは、マーリートが右腕一本で剣を持っているからだ。普通の胴打ちでは、右手一本で受け止められる恐れがある。同程度の技量、筋力であれば、そのまま押し切って体勢を崩すこともできるかもしれないが、マーリートは筋力も技術もユキヒトを上回る。右手一本で抑えられる可能性は高かった。

 そして、そうなれば、ユキヒトの両手をマーリートが右手一本で抑えているも同じ状況だ。すぐさま詰め寄って、左の拳が来るだろう。剣の稽古といっても、これは剣道ではないのだ。

 一方で、左の胴打ちを防御しようと思えば、マーリートも両手で剣を持つか、あるいは右手一本で受けるのだとしても、右手と剣が邪魔になって左手は動かせない。追撃を封じつつ、一度間合いをあけるための選択だった。

「ふむ」

 一つ頷くと、マーリートは素直に剣の持ち方を両手持ちに変え、ユキヒトの逆胴を受けた。そのまま引いて間合いを取るユキヒトを追撃するでもなく、ユキヒトと似た、両手持ちの中段の構えをとった。

「悪くはないが、いささか消極的だ」

「そいつはどうも」

 にやりと笑って、講師的な物言いをするマーリートに、ユキヒトは少し獰猛に笑い返した。

 ユキヒトは基本的に穏やかな人間だ。争いを好む、などという特性は持ち合わせていない。しかしそれでも、剣を持って相手と対峙する時、闘争心を持たないでいるわけではない。

 県内ではそれなりに知られた選手だったユキヒトだ。負けず嫌いな面も持っている。

 マーリートは、ユキヒトに合わせた中段の構えをとっている。ユキヒトにとっては、それがありがたい。その構えからならば、どういった動きがあるか、ある程度は予測がつくうえ、攻略も慣れている。

 ……一手、指南してもらおうか。

 ユキヒトは、口の中だけで小さくつぶやいて、鋭く踏み込んだ。

 板張りの道場と違って、だん、という小気味のいい音がするわけではないが、ずしりとした土の感触を踏み締めながら、小さく、マーリートの剣を握る右手首辺りを狙った。

 マーリートは、すっと静かに一歩退きながら、剣を上段に振りあげる。狙われた小手をかわすと同時に、攻撃の姿勢にもなる合理的な動きだ。それだけに、ユキヒトにも予想がつく。

 そのままその剣を振り下ろしての面打ちか、それとも、その面打ちを防ぐために腕を上げたところで胴を抜くか。選択肢は大きくその二つだ。

 だが、ユキヒトはその二択に付き合わない。マーリートの剣速を考えれば、こちらの動きを見てから対応を変えることもできるだろう。むろん、一瞬遅れるだろうからそれを防げないわけでもないだろうが、かなり体勢を崩される。そうなればかなり苦しい。

 元々当たると思っていなかった小手打ちだ。止めるのもたやすい。すっと剣先を上げ、マーリートの喉元に剣先を合わせる。

 刺突が目的ではない。突きは腕も体も伸ばしきってしまう。かわされた時がかなり危険な技術だ。ただ、喉元に剣を突き付けられて、自由に動くことはできない。

「小癪だな」

「なんとでも言え」

 無理はしないという判断なのか、マーリートは後ろに下がってそれをやり過ごす。ユキヒトも追撃は難しく、やはりとどまった。

「……普通の中剣を使うのは久しぶりだったが、思い出してきたよ。そろそろ、こちらから行くぞ」

「……来い!」

 ユキヒトの踏み込みとは違い、ゆらりと静かにマーリートは前進する。しかしそれは、気迫に劣るという事を意味しない。ユキヒトは、気おされて後ずさりをしたくなるのを、かろうじてこらえた。

 再び構えは右腕一本に。左足で踏み込みながら、斬り落とすような肩口への斬撃。それは両手で持った剣でしっかりと受け止める。

 そのまま、ぐいっと剣を押しつけてくる。両足をしっかりと踏ん張り、ユキヒトはそれにあらがう。

 次の瞬間、押しつけられていた剣の圧力が弱まる。マーリートが、右足を一歩踏み出してきた事で、体勢が変わったためだ。

 そして、この状況で体勢を入れ替える事の意味が、ユキヒトにも分かる。圧力が弱まったのをいいことに素早く鍔迫り合いから逃れ、後ろへと下がる。

 ユキヒトの予想に違わず、マーリートが左の拳を突き出してくる。鋭い一撃だったが、予想をしていればよけられないほどでもない。マーリートの拳が空を切ると同時、ユキヒトはその手を狙って剣を振り下ろす。

 それはマーリートも織り込み済みだったのだろう。素早く拳を戻すと、今度は両手で剣を握る。

「ハッ!」

 短い呼気とともに、右脇にやや低く構えた位置から、思い切り振りあげるような、剣道にはない軌跡の剣。

 鋭い。よけようとしてよけられるものではない。覚悟を決めて、重心を落とし、その一撃を剣で受ける。

 ぎぃん、と、鈍い音。凄まじい衝撃がユキヒトを襲う。一瞬、体が浮いたような気すらした。

 それが錯覚だったか事実か、それは分からない。しかし、ユキヒトは勢いに負けてよろけた。

 その時に、勝負はついていた。なおも数手、繰り出される剣をユキヒトは回避するものの、一度崩れた姿勢を取り戻すには至らず、ぴたりと喉元に剣先を突き付けられ、負けた。

 その瞬間、ぱちぱちぱち、と、拍手の音が響いた。

「ノルン! 寝てないとダメだろう」

 あわてて拍手の音の方を見れば、そこにいるのはノルンだった。流石に寝まき一枚で出てきたわけではないが、それでも少し厚手のローブを羽織っただけの姿で、ユキヒトがあわてるのも無理はない恰好だった。

「だいぶ、気分が良くなりました」

「病気はかかり始めと治りかけが肝心なんだ。無理してまたしばらく寝込むのは嫌だろう?」

「じっとお部屋の中にいるのも不健康です」

「まったく……」

 こんな軽口が出るようならば、確かにかなり良くなっているのだろう。とはいえ、安心はできない。マーリートを促して、ユキヒトはノルンをつれて、すぐに家の中へ戻った。

 素直に部屋に引き下がるつもりがないらしいノルンの様子に、ユキヒトは諦めて、せめて、と、少し厚手の膝かけをノルンにかけた。

「なんで出てきたりなんかしたんだ?」

 責めるつもりはないが、無理をしてほしくはない。ユキヒトはノルンに、理由を尋ねた。

「……ユキヒトさんとマーリートさんが、楽しそうだったから」

「……なんだと?」

 声を上げたのは、マーリートだった。

「お二人はとっても、楽しそうでした」

「……」

 確信めいた声で、きっぱりと言い切るノルンに、マーリートは押し黙って、その六本の腕をそれぞれ二本ずつ腕組みをした。

「楽しそう……そうか、楽しそうか……」

 しばらく、マーリートはぶつぶつと呟いて、何か考え込むような顔をした。

「どうしたんですか? あんなに楽しそうだったのに、楽しくなかったんですか?」

「……」

 ノルンの問いかけに、マーリートはしばらく沈黙していたが、やがて、くすくすと笑い始めた。

「くっく……。まさか、こんな幼子に教えられるとはな」

「?」

「楽しかった。ああ、楽しかったぞ、ノルン。ユキヒトと剣の稽古をして、私は楽しかった」

「そうですか」

 何よりだ、というように、ノルンはにっこりと笑った。

 その笑顔を見て、マーリートは、あっはっはっ、と、豪快に笑った。











 それからしばらく雑談を交わした後、マーリートは、清々しい表情をして去って行った。

「……マーリートさん、ご機嫌でしたね」

「……ノルンのおかげだよ」

「はい?」

 きょとん、と、ノルンは首をかしげる。今回のところは、ノルンが何かを察して立ちまわったわけでなく、純粋に感じた事を口にしただけだったらしい。

 マーリートが感じた事を、なんとなくユキヒトは悟っていた。

 運命やしきたりといった複雑な何かではなく、もっと簡単で、大切なもの。それにマーリートは気づいたのだろう。

「……後でジュースを作ってあげような。元気になったなら、少し何か食べられるか?」

「……すりおろしたリンゴなら」

 殆どジュースと変わらないじゃないか、と笑いながら、作ってあげると約束をして、ユキヒトはノルンの頭を優しく撫でた。

 上機嫌な様子のユキヒトに、ノルンも嬉しくなったらしく、元気にはい、と返事をした。















『剣の道を往く求道者へ 貴方が求めるものを見失わないように 行人』











[8212] 光の射す方へ
Name: yun◆04d05236 ID:7d24e2c9
Date: 2010/09/02 02:00





 とある昼、依頼もなく暇を持て余したユキヒトは、注文を受け付けるカウンターで本を読んでいた。

 ファリオダズマでは本は貴重品である。機械が発達していないこの世界では、印刷の技術も当然発展してはおらず、本はすべて手書きの写本である。加えて紙もまだ大量生産に至っていない。その為に書物は非常に高価な代物で、図書館や研究機関、そして上流階級の家くらいにしかないものなのだ。

 決して裕福なわけではないユキヒトが本を読めるのは、時折遊びに来るアルディメロに頼んで借りているからだ。アルディメロは獣人の中では名家と呼ばれる家の出で、母親が無聊の慰めに上流階級で話題の物語本などを集めたりするものだから、ファリオダズマでは珍しくなかなかの量の書物を所有している。

「ふぁ……」

 ユキヒトは小さく欠伸を漏らす。本の内容も、暇を持て余した上流階級の婦人に向けて書かれたものであり、ユキヒトが熱中するような内容ではない。しおりをはさんでカウンターに本を置くと、ユキヒトはひとつのびをした。

 ノルンも今日は、退屈のあまりか、体調が悪いわけでもないのだが昼寝をしている。

 差し迫った仕事もなく、買い物に行く用事もない。どうにも気が抜けてしまい、ユキヒトも、少し午睡をたしなもうかと腕組みをして椅子の背もたれに体重をかけた。

 静かで穏やかな時間、何を考えるわけでもなく、ただぼんやりとした思考。うとうととユキヒトの意識が薄くなってきたところに、こんこん、と、静かなノックが響いた。

「……はい、どうぞ」

 寝ぼけた声を出さないよう、一拍置いて少し意識をはっきりさせてから、ユキヒトは返事をした。

 返事を聞いて、ドアが開く。

 立っていたのは、ユキヒトよりはやや年上に見える男と、顔を長い布で覆って隠した女だった。

 男の方はヒューマン種族らしく見える。やや厳めしい顔立ちと体格で、金色の髪は短く刈り込んでいる。人相が悪いとは言わないものの、決して愛想の良い顔立ちではない。夜道で行き会えば、誤解であろうと警戒してしまいそうな男だ。

 女の方は、顔を布で覆っているのに加え、何のつもりか鎧を身に纏っているため、どの種族かは分からない。体格的にはヒューマンとさほど変わりない。脇には、何に使うものなのか小さなボードのようなものを抱えている。

 鎧といっても、流石に戦場で騎士が身につけるような全身鎧ではない。もしそうであったなら、小柄な男なのか、それとも女なのかは判別が難しかっただろう。とはいえ、胸当て、腰当てに籠手まではめて、迷宮探索に乗り出す冒険者レベルの装備である。

 工房に訪ねてくるのに適した格好とは到底思えず、ユキヒトはひそかにカウンターに隠した剣を引き寄せた。

「……オルト殿のお弟子、ユキヒト殿の工房で間違いないだろうか」

 男の方が、ユキヒトの警戒をよそに問いかけてくる。その声は落ち着いたもので、とりあえず強盗に押し入った者のようには感じられなかった。

「そうですが、貴方は?」

 師を知っているからといって、警戒を解いて良い理由にはならない。主に鎧姿の女に注意を向けながら、ユキヒトは問い返す。男の方は、ひとまず武装をしているようには見えない。

「ファッタで鎧鍛冶をしている、ゲールハルト・ボルクというものだ。わが師とオルト殿が懇意にされており、いくらか交流があった」

「……なるほど」

「……彼女の恰好で警戒されるのは分かる。今から、事情を説明しよう。アンゲリカ」

 ゲールハルトと名乗った男が声をかけると、女は顔に巻いた布を外し始めた。

 そこに現れた顔に、ユキヒトは苦笑いをしながらその格好の理由を納得した。

 豊かな黒い髪が目を引く。ややたれ気味の、優しげな紫色の眼をしており、愛らしさの漂う顔立ちの女性だった。

 だが、彼女にちょっかいをかけるものは少ないであろうと思われた。何故ならば、彼女の肌は、ヒューマンのものとは全く違う青いものだった。

「……ダークエルフ種族」

「ああ。……とはいえ、貴殿に偏見はないようで、安心だ」

 ダークエルフ種族は、種族の名が示すように、エルフに似た整った容姿と、高い魔力を特徴とする種族である。しかしながら、エルフはダークエルフを近縁の種族として認めてはおらず、このように呼ぶ。すなわち、「魔族」と。

 ダークエルフは、ヒトとして認められるようになって最も歴史の浅い種族だ。それより以前、「魔族」という呼称は他のすべてのヒトの間で公的に使われていたもので、その扱いはモンスターに準じるものだった。

 魔族はその傲慢さゆえに他の種族と対立し、結果、滅ぼされた。根絶やしにされる寸前であったが、竜種のとりなしによりヒトとして迎え入れられることになり、その際にダークエルフという種族名を与えられたのだった。それが、百年前の出来事である。

 ヒューマンからすれば長い百年という時間も、種族によっては短い。当時の戦争に参加した者が生存している種族も数多く、ダークエルフの地位向上は、まだまだ先の話になりそうな情勢であった。

「依頼は、彼女の剣」

 重々しく、ゲールハルトは口を開いた。

「彼女が生き延びるために必要な、優れた剣を打ってほしい」

 彼は、ユキヒトの目をじっと見つめながらそう言った。

「……ついては、彼女の闘いを見てほしい。一緒に来てはもらえないだろうか?」













 ファリオダズマでの庶民的な娯楽の一つが、「剣闘」である。

 剣闘士と呼ばれる奴隷身分の者が、獣やモンスター、時としては剣闘士同士で戦い合う姿を見、あるいは賭け事をする娯楽で、大抵の大都市には剣闘に使用されるコロシアムが存在する。

 現代日本の感性を持っているユキヒトにとって、剣闘が見物して面白い催しとは思えず、また周囲に剣闘を好む者もいなかったため、深くは知らなかった。

 ゲールハルトが連れていたのは、剣闘士の一人、アンゲリカという名のダークエルフだという。

 今、一行は、ゲールハルトの乗ってきた馬車で彼の居住地であるファッタへと向かっていた。

 今回はノルンも連れてきている。ファッタはそれほど遠い街ではないとはいえ、片道で三日ほどはかかる。留守番をさせることはもちろん、どこかに預けるにも不安がある日数であった。

「……しかし、お前たちは優しいのだな」

「ん、何がです?」

 突然に言うゲールハルトに、ユキヒトは問い返した。ゲールハルトは、その厳めしい顔を少し崩す。

「アンゲリカが言葉を発しないことに、何も言わない」

 ゲールハルトの言葉に、アンゲリカは困ったように笑った。その様子を見て、ユキヒトはゆっくりと口を開いた。

「……聞く必要がある事ならば、そちらから教えてくれるでしょう。聞く必要がない事なら、好奇心で触れていい事じゃない」

「好奇心を抑えるのは困難な事だ」

 馬車を器用に御しながら、ゲールハルトは会話を続ける。

「……実のところ、俺もアンゲリカからそのことは聞いていない。彼女にも聞かないでいてくれればありがたい」

「分かりました」

 始めから聞くつもりはなかったのだが、相手が確認を求めてくるならば応じるのに何の不都合もない。ユキヒトは頷いた。

 アンゲリカは確かに全く言葉を発しない。とはいえ、無表情というにはほど遠い。

 小さなボードを常に小脇に抱えており、コミュニケーションはそれに文字を書いて行う。必然、目が見えないノルンとは直接やり取りをする事が出来ず、ユキヒトが「通訳」をしてやらなければならないが、基本的にアンゲリカは善良な人間性を持っているようで、目の見えないノルンに何かと気を使っていた。

 ノルンにしても、直接のコミュニケーションは限られているものの、彼女の人間性には感じるところがあるらしく、穏やかに接している。言葉など些細な問題だとユキヒトは思っていた。

 ゲールハルトとアンゲリカがどういう関係なのかは分からない。だが、少なくとも彼女が身につけている鎧はゲールハルトが作ったものだという。どういった方向でなのかは知らないが、浅からぬ関係があるのだろう。

「……これは言っておこう。俺とアンゲリカの関係だが……そうだな、俺は彼女のスポンサーといったところだ」

 二人の関係についてユキヒトが思いを巡らせていたのを感じ取ったわけではないだろうが、ゲールハルトは自分たちの関係をそう表現した。

「スポンサー?」

「俺は彼女が勝てるように何かと手配をし、彼女の試合で賭けをして儲ける。彼女は俺のサポートを受けて勝利し、自分を買い戻す為の金を手に入れる。そういう関係さ」

 嘘だと直感的にユキヒトは思った。確かに表面的にはそういった関係なのかもしれないが、ただそれだけの関係ではないだろうと感じる。そもそも、ゲールハルトが、金の為にそうやって動く人間にはあまり思えなかった。

 とはいえ、自分でそういうものを嘘だと否定する理由もない。ユキヒトは口をつぐんだ。

 二人の本当の関係は何なのだろうかとユキヒトは思う。ゲールハルト本人が言うような関係には思えないが、かといって男と女という雰囲気でもない。どちらかといえば、保護者とその庇護下にあるものという気配ではあるが、到底血縁があるようには思えず、また、ゲールハルトが時折見せる遠慮したような態度の意味がよく分からない。

 当たり前の見方をすれば、鎧鍛冶とその常連顧客である剣闘士という関係と見るべきであろうが、それにしては随分とゲールハルトがアンゲリカに対して肩入れが強いようにも思える。

 ユキヒト自身にも思い入れの強い顧客は何人か存在する。彼らの為となれば、伝手のある職人を訪ねるくらいのことはするだろう。それはさほど不自然な事でもない。しかし、それにしたところで、ゲールハルトのアンゲリカへの接し方は丁寧なもので、到底被差別的な種族であるダークエルフの、それも奴隷身分である剣闘士に対するものとは思えなかった。

 現代日本という、完全な異世界から来た人間であるユキヒトにとっては、種族差別というものは今一つピンと来るものではないものの、教育というものが一般市民まで完全に浸透しているとは言い難いこの世界では、偏見や差別意識というものが現代日本と比べてかなり強いものであることは分かっていた。

 アンゲリカはといえば、ゲールハルトの言葉を聞いて、肯定するでも否定するでもなく、黙って落ち着いた表情をしている。

「……剣闘士については、詳しいかな」

「いえ、剣闘はあまり好きではなかったもので」

「少し説明しておこう。……良いかな、アンゲリカ」

 あまり愉快な話ではないのだろう。ゲールハルトは、当事者であるアンゲリカに確認をとった。彼女は、ゆっくりと頷いた。

 剣闘士はコロシアムに売られた奴隷である。剣闘士から抜け出すためには、コロシアムから己を買い戻さなければならない。

 剣闘士には少なくはない給金が与えられる。自分の試合に賭けられた金の総額のうち、一定の割合が給金として与えられるため、人気のある剣闘士になれば収入もかなりのものになる。また、自分の試合、自分の勝ちに限り、剣闘士自身も一定の金額の賭けをすることが認められている。

 剣闘士は人気と実績に応じてクラス分けがされる。ある程度上位のクラスになれば、コロシアムの外に住居を移すことや、街からの一定期間の外出も許される。アンゲリカは、街からの外出を許された剣闘士だという。

 剣闘士の生は過酷である。実力のないものは、あっという間に死を迎える。例え実力があろうと、日々苛烈になっていく争いに、いずれは限界を迎える。自由を勝ち取る剣闘士というものは、ほとんど存在しない。

 巧妙なのは、ほとんどいないというだけで、全く存在しないわけではない事だ。

 人気が出れば、より過酷な闘いへと向かわされる。その為には、優れた装備を求めなければならない。激しい闘いでは、装備の消耗もかなりのものになる。その為に給金は使われ、自分を買い戻すための貯金はなかなかに進まない。しかし、ほんの一握りではあるが自らを買い戻すことに成功する剣闘士もいるという事実が、剣闘士たちを夢という名の見てくれの良い鎖で縛る。コロシアム側にとっては良くできているが、ひどいシステムだとユキヒトは思った。

「……剣闘士などというのは耳触りを良くした言葉でしかない。実際には、剣奴という言葉の方が適切だろう」

「……剣奴、ですか」

 淡々と語るゲールハルトに、ため息交じりにユキヒトは言葉をこぼした。

 ノルンもゲールハルトの話を聞いている。元々がファリオダズマの住民であるノルンは、ある程度剣闘士の境遇について知っていたのか、眉をひそめるものの、言葉を発することはしなかった。

 アンゲリカは、そのノルンの手をきゅっと優しく握った。

「……」

 驚いたようにノルンは目を開いて、何かを言おうと口を開き、結局やめて、アンゲリカの手を握り返した。

「アンゲリカはあと少しで自分を買い戻せるというところまで来ている」

「そうなんですか」

 街からの外出を許可されるという事からも、上位のクラスにあることは分かる。この大人しく優しげなダークエルフの少女は、相当な実力を持つ戦士だという事だ。

「それだけに、ここからの闘いはかなり困難になる。スポンサーとしても最大の山場だ」

「……一つ、聞いても構いませんか」

 あくまでスポンサーだと言い張るゲールハルトに、ユキヒトは問いかける。ゲールハルトがゆったりと頷くのを確認して、ユキヒトは質問を口にした。

「彼女が自分を買い戻した後、どうするつもりですか?」

「……さあな。彼女の事は彼女が決めるだろう。それだけさ」

 一瞬の沈黙の後、何気ない口調で、興味なさげにゲールハルトは言った。

 アンゲリカは何も言わず、ただ淡く微笑んでいた。













 ファッタは、元をただせば大きな金鉱山のそばにドワーフが作った街で、特産品は当然のように金細工であった。

 ファリオダズマでは、銀はありふれた鉱物であったが、その反面金は希少な金属で、銀が庶民の日常のアクセサリーにも使用される身近な金属である半面、金細工を身につけることができるのは、貴族や大商人、豪農といった一部特権的な階級のみであった。

 それだけに有名な金鉱山をすぐ近くに持つファッタという街は、情勢の安定しない群雄割拠の時代には相当の争いに巻き込まれた土地である。その名残か、傭兵の一大拠点としても有名であり、かなり平和になった今の時代でも住民の気性はやや荒々しい。

 そんな街だけに、剣闘は非常に盛んで、コロシアムも大規模なものであった。

 ファッタについた翌々日、ユキヒトとゲールハルトは、アンゲリカの試合の見物の為、コロシアムに来ていた。

 ノルンは、ゲールハルトの家に置いてきた。それなりに不安もあったが、しばらくの間ノルンを一人で置いておく不安と、コロシアムに連れていく不安を比べた時、天秤が上がったのは置いておく方だった。幸い、面倒見を買って出てくれたゲールハルトの弟子だというヒューマンの少年は、人間性に問題もなく、半日の間預ける程度であれば信頼してもよい相手であった。

「……すごい熱気だ」

 アンゲリカの試合は最終の少し手前の時間帯に予定されている。それは、それぞれが昼の腹ごしらえも終え、帰宅を控えて最も盛り上がる時間帯である。

 広いコロシアムの事、アンゲリカの試合のみを執り行うわけではないが、その試合がコロシアムのメインリングで行われるという事実は、紛うことなく、彼女の試合がその日のメインイベントであることを意味していた。

「賭けごとは嫌いか?」

「何も分からないのに賭けるほど好きじゃないってくらいですかね」

 全く賭けようとしないユキヒトに、ゲールハルトが問いかける。ユキヒトは苦笑して答えた。

「そういう貴方も、別に賭けてはいないみたいですね」

「アンゲリカの試合の前に、資金を減らすのもばかばかしい」

 つまりは、勝てないらしい。ユキヒトは苦笑を深くした。

「……ノルンを、つれてこなくてよかった」

「確かに、あの子には少々刺激がきつかろうな……」

 飛び交う歓声の内容は、決して上品なものとはいえない。負けた腹いせに賭けていた剣闘士に罵声を浴びせる者、血を見た興奮からか街中で聞けば衛兵を呼ばれそうなことを口走る者、様々である。

 気のせいなのか実際にそうなのか、空気に血の臭いが混じっている気がする。嗅覚も敏感なノルンであれば、きっと耐えられないだろうとユキヒトは思う。

「……俺も、余りこの空気は好きになれそうにない」

「何よりだ。剣闘に一人新たに巻き込まないで済む」

「……」

 その様に言うのならばなぜ、アンゲリカのスポンサーなどをやっているのか。問いかけることはできず、ユキヒトはふと遠くのリングに目を向けた。

 偶然にもそこでは、一人の剣闘士が、豚の顔をしたモンスターであるオークの首をはねていた。湧き上がる、歓声と罵声。

 ユキヒト自身にも、モンスターとの交戦経験はある。命を奪ったことも、一度や二度ではない。それをやむを得ないと割り切る程度には、ユキヒトはこの世界に順応していた。

 それでもどこか、この光景にはユキヒトの心をささくれ立たせる何かがあった。ユキヒトは、すぐにそれから目をそらした。

「そろそろ、時間だ」

「ああ」

 始めから他の試合で賭けをするつもりがなかった二人は、かなり前からアンゲリカの試合が行われるリングに陣取り、良い席を確保していた。

 試合が近づき、観客がほかのリングから次々と集まってくる。メインイベントと位置付けられているだけに、やはり注目度はかなり高い様子だ。

 始めはざわめいていた観客たちだが、その時が近づいてくるに従って、少しずつ静かになっていく。緊張感が広まっていくのが、ユキヒトにも分かった。

 やがて、剣闘士の入場を知らせるファンファーレが鳴る。そのファンファーレも、これまでの試合のおざなりなものとは明らかに異なっていた。

 音楽が最高潮を迎えたところで、入場口から選手が姿を現す。その姿に、ユキヒトは唖然とした。

「なんだ、あの恰好は……?」

 短い、剣というよりは大型で肉厚なナイフといった風情の得物と、バックラーと呼ばれる形の腕に装着する丸盾。ここまでは良い。しかし、その他は、普通とはいえない恰好であった。

 胸と腰まわりを申し訳程度に覆うだけの超軽装備。その鎧のほかには一切の衣類をまとわず、ほとんど半裸といっていい状態だ。まだしも、ユキヒトの工房に来た時に身に着けていた軽装鎧の方が、装備としてましだ。夜の街の女たちでもこれほどの恰好はしていまいというその姿に、ユキヒトは思わず茫然とした。

 そのユキヒトをよそに、観客たちは大きな歓声を上げる。それに対して、アンゲリカは手を挙げることで応え、歓声は一層大きくなる。

「……剣闘士の装備は、あの程度のものしか許されない」

 いまだに衝撃から抜け出せないユキヒトに、ゲールハルトが告げた。

「俺では彼女の手助けとなる装備は、作ってやれないのさ」

 ユキヒトは言われて思い返す。今まで目に入ってきた男の剣闘士たちにしても、似たような姿ばかりだった。剣や盾も粗末なものであったから、そもそも鎧を買えないのだろうと深く考えてはいなかったが、どうもゲールハルトの口ぶりからはそれとは別の事情があるように思われた。

「……何故、剣闘士の装備はああなんだ?」

「……剣闘士の多くは、昼のコロシアムとは別に、夜には夜で別の仕事がある。女であれば特に、な」

 質問に対する答えは直接的なものではなかったが、十分だった。

「自ら望む者だけだ。確率は低いが、そこで見初められてコロシアムから買い取られる剣闘士もいる」

「……そうか」

 極力押し殺した声で、そう返事をするのがやっとだった。リングでは、アンゲリカが入場し終わり、より大きくなった歓声にこたえているところだった。

 やがて歓声がやむと、再び入場のファンファーレ。そして、アンゲリカが入場したのとは逆の再度にあるゲートが開かれる。

「……トロール!?」

 のっそりと現れたその姿に、ユキヒトは驚きの声をあげる。

 トロールは、極めて厄介な部類に入るモンスターの一種だ。

 容貌は醜く、巨体。力は極めて強く、ヒューマンであれば一発殴られただけでも無事では済まないが、知性はさほど高いとはいえない。

「……三体!?」

 続けて現れた巨体に、ユキヒトはまたしても声をあげる。

 平均的なヒューマンであれば、一体のトロールに対して五人以上の数的優位を保つ。それができない場合は、逃げるのが普通だ。

「あの程度なら、心配ないさ」

 しかしゲールハルトは、こともなげな落ち着いた声でそういっただけだった。

 にわかには信じがたいと思いながらも、ユキヒトに何ができるわけでもない。ゲールハルトの落ち着きを信頼し、まずは様子を見た。

 のっそりと、トロールがアンゲリカに近付いていく。周囲をヒトに囲まれているためか、気が立っているようにも見える。

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオ!」

 雄叫びをあげ、トロールの一体が手に持つ棍棒を振りあげ、突撃する。原始的な武器だが、知能が低い代わりに力の強いモンスターには使い勝手の良いものだろう。

 そして、トロールはモンスター、魔力をもつ生物である。知性が低いとはいえ、己の武器を魔力によって強化する、という技だけは使いこなす。木製の棍棒とはいえ、トロールがそれを振るえば、鋼鉄の鎧すら砕け散らす凶器となる。

 勢いよく振り下ろされた棍棒は、しかし、アンゲリカに当たることはなかった。

 派手な衝突音を残して、トロールの棍棒は、石で出来たリングに叩きつけられ、リングが破壊される。

 次の瞬間、棍棒を持つトロールの右腕が、空を舞った。

「ヴォオオオオオオオオ!?」

 悲鳴のような大声をあげ、トロールが勢いよく血を噴き出させる自らの腕を押さえる。

「……速い」

 それをしたのは、当然のことではあるが、アンゲリカだ。彼女は、棍棒を下がってよけるのではなく、むしろ間合いを詰めながらぎりぎりのところで回避し、トロールの振り下ろされた腕を斬り飛ばし、素早く離脱して見せた。

 その一連の動きが、尋常でないほどに速かった。目で追うのがどうにか、といったレベルだ。

 とはいえ、ほとんどの種族では致命的であるそのダメージも、トロールであればまだ決め手に欠ける。

 トロールは、斬られた腕を拾い上げると、耳障りな声でわめき散らしながら、その切断面を合わせる。

 それは決して、ダメージから来る錯乱によるものではない。現に、トロールが手を離しても、右腕は落ちる事がなかった。それどころか、トロールは確かめるように右手の指を握り、開いて見せた。

 相対するアンゲリカは、驚くでもなく冷静に、リングに転がる棍棒を、トロールから離れた位置へと蹴飛ばした。

 巨体と怪力。それは確かに脅威ではある。しかし、モンスターにとってその特徴は、珍しいものとは到底言えない。トロールを『極めて厄介な』モンスターにしている要因は、その異常な回復力、いっそ再生力といった方が正しいようなそれであった。

 腕を切り離したとしても、見ての通り回復してみせる。殺すには、ちまちまとダメージを与えて失血死させるか、首を落とす、心臓を貫くなど、再生力が追いつかないレベルの損傷を与えるしかない。それにしたところで、巨体と強靭な体を持つトロールにそれだけのダメージを与えるのは、容易な事とは到底言えない。

 トロールも、知性が低いなりに、見くびっていたらしい目の前の小さなヒトが容易ではない敵であることに気づいたらしく、三体がそろって身構える。腕を切り離した二体以外は棍棒を持っているし、素手のトロールにしたところで、殴り飛ばされれば盾で防いだところで相当のダメージを受けるだけの怪力だ。状況は、最悪といってよかった。

 しかし、アンゲリカは焦っていなかった。それどころか、ユキヒトの家や馬車の中では決して見せる事のなかった表情で、にやりと笑って見せた。そして、その「金色の」瞳を大きく開き、敵を獰猛に睨み据えた。

「え?」

 周囲が歓声をあげて恐ろしい喧騒であるにもかかわらず、ユキヒトが思わずこぼした声をゲールハルトは耳ざとく拾って見せた。

「……知らなかったのか。まあ、若いヒューマンなら無理もないな。あれが、闘いのときのダークエルフ種族だ」

 かつて傲慢さの為に全てのヒトと敵対した種族、ダークエルフ。結果として敗れたダークエルフは、しかしながら、ファリオダズマに二つ存在する大陸のうち、ユキヒトが現在住まうユラフルス大陸に当時四つ存在していた大国のうち、二つに深刻なダメージを与えるに至った。結果として二国は合併することで存続を図ることとなり、現在のユラフルス大陸には大国と言えるものは三つになっている。

 単に傲慢なだけではなく、相応の力を持った種族。個体数も含めた種族の総合力としてみれば、竜種にすら対抗しうるとまで言われていた種族だ。

 アンゲリカが、空を仰ぎ、口を大きく開く。それはあたかも、獣が咆哮するかのような姿だった。ただしやはり、声はない。

 獣が走る。そして虐殺が始まった。











 それからの展開は、一方的なものだった。

 一体のトロールは、一瞬に右腕と右足を切り落とされ、何が起こっているのかも分らない顔のまま首を落とされた。二体目は、振りあげた棍棒を振り下ろすより前に、心臓を貫かれた。そして三体目、初めに腕を切り落とされたものは、両手両足を斬られたまま放置され、失血により死んだ。

 熱狂する観衆に手を振って応えると、アンゲリカはリングを後にした。しばし呆然としていたユキヒトだが、ゲールハルトに促され、移動を開始した。

 ゲールハルトは、窓口で賭けの勝ち分を受け取ると、衛兵になにやら身分証を提示し、地下への階段へと向かう。ユキヒトはその後ろについて行った。

「……勘違いしないでほしいのだが、あれがアンゲリカの本質、というわけではない」

 ユキヒトがやや混乱しているのを理解していたのか、ゲールハルトはそう語りかけた。

「剣闘士はある程度観客を楽しませなければならない。自分の試合の賭け金が多くなければ、いつまで経っても自分を買い戻すことなどできはしない。そして、剣闘を楽しみにしている観客は、多かれ少なかれ、残酷で無残な結末を楽しむところがあるのさ」

「……だから、それに合わせて?」

「それもあるだろうな」

「それも?」

「……あとは自分で確かめてくれ」

 階段を降りきったところには、一人の衛兵が立っており、その横には、頑丈そうな格子状の扉があった。扉は二重になっており、二重の扉の先には同じように衛兵が立っている。

 先程と同じようにゲールハルトが身分証を見せると、衛兵は頷いて懐から鍵を取り出し、扉を開錠した。

 扉と扉の間の空間に入ると、入ってきた側の扉が施錠される。それを確認してから、逆側の扉が開錠される。随分と厳重な警備だった。

「ここは?」

「剣闘士たちの控室だ」

「……」

 控室というよりは、雰囲気は明らかに牢屋に近い。剣闘士はやはり奴隷身分なのだと、それを実感させる作りだった。

 慣れているのか、ゲールハルトは黙々と歩いていく。ユキヒトはその後ろをついて歩きながら、陰鬱な気分を隠しきれなかった。

 平和な日本に生まれ、こちらの世界に来てからも、基本的にはある程度教養の高い人間との交流が多かった。奴隷制があることは知っていたが、それをあからさまに感じることもなかった。今は剥き出しの現実に直面させられている。ユキヒトの感性からすれば、苦痛だった。

 逃げ出したくなるような気持と、逃げてはいけないという理性が混在する。ただ今まで見ないで済んでいたというだけで、これは紛れもないこの世界の真実の一面だ。否定したところで、そこにあるもの。この世界に確かに存在するものだ。

 だからこそユキヒトは、その薄暗い牢屋のような場所を、ゲールハルトの後を追って歩く。この世界に生きる一員として、美しくはない現実からも、目を背けてはいけないと思うのだ。

 やがて二人は、一つの扉の前に行きつく。

 頑丈そうな鋼鉄の扉だ。しかしその頑丈さは、侵入者から中で生活する人間を守るためのそれとは異なり、明らかに、中の人間の脱出を妨げる類の極めて重苦しい扉だ。

 ゲールハルトが扉をノックする。がんがん、と鉄をたたく耳障りな音がして、ユキヒトは思わずしかめっ面をした。ゲールハルトは、返事を待たずに扉を開く。

 少し不躾ではないかとは思ったものの、抗議するような筋合いでもなく、ユキヒトはゲールハルトの後に続いて、独房のようなその部屋の中へと入って行った。

 扉から想像ができる通りの、殺風景な部屋だった。かろうじて部屋の隅に椅子が置いてあるだけの、まさに何もない部屋だった。

 その部屋の真ん中に、少女がぽつりと立っていた。

 やや上向きの瞳は、何を見ようとしているのか、明らかに部屋の中のものに焦点はあっていない。遥か彼方の何かを見るように、ぼんやりとした目で、彼女はそこにいた。

 ゲールハルトは部屋に入ると、呆然と立ち尽くすアンゲリカのそばに座る。

「座ってくれ。しばらくは何をしても無駄だ」

「……」

 金色の瞳の彼女は、魂の宿ったヒトであることを感じさせないほどに虚ろな目のままに、ただ彫像のようにそこに立っていた。よく見ればかすかに上下している胸や、僅かに動くことのある指だけが、彼女が生きている事を示す証だ。

 促されるまま、ユキヒトは腰掛ける。椅子もない殺風景な部屋の事、木の床に座るとひやりと冷たかった。

 何かする事があるでもなく、ユキヒトはただ、アンゲリカの顔を見ていた。

 その金色の瞳の奥で、彼女は一体何を考えているのか。あるいは、考えることすらも放棄して、ただただ空白でいるのか。少なくとも、それがトロール三体を瞬く間に葬ったあの戦士と同一の人物であるとは、到底信じられなかった。ユキヒトは、吸い寄せられるようにその金色を眺めていた。

 どれほどの時間が過ぎたか、金色の瞳が、ゆっくりと閉じられた。そして彼女が次に目を開いたとき、その瞳の色は紫に戻っていた。

 ユキヒト達がそこにいたのを認識していたのかいないのか、彼女はゆっくりと部屋の中を見回すと、困ったように笑った。

 ゲールハルトが会話用のボードを渡すと、アンゲリカはそれに何事かを書き込み、ユキヒトへと見せた。

『ごめんなさい』

 そこに書き込まれた言葉に、ユキヒトは困惑した。

 彼女は一体、何を謝っているのか。どう返事をしていいのか分からずに沈黙していると、アンゲリカは再びボードに書き込みを行なった。

『怖かったでしょう?』

 何を言っているんだと、思わずユキヒトは呟いた。何も考えずに発してしまった言葉に、アンゲリカは疑問を覚えたらしく、少し眉を寄せた。

「怖かったかって? 怖かったよ。残酷だとも思った。ノルンを連れて来なくて本当によかったと思ったし、話も聞かせてやれないと思った。全部本当だ」

 自分が興奮しているのがユキヒトには分かった。考えなしに話してしまって、相手を傷つけるようなことを言ってしまっている。それでも言葉が止まらなかった。

 アンゲリカが、傷ついたというよりはどこか寂しそうに、泣き出しそうに、自嘲するように口元をゆがめる。その表情に、ユキヒトはますます自分が苛立つのを感じた。

「だけどそんなことはどうでもいいんだ。それでもあなたは、優しいヒトだ」

 よく分からないというように、アンゲリカは表情に疑問を浮かべる。

「あなたは優しいヒトだ。……あなたは悪くなんかない。あなたのしたことは恐ろしい事だったけれど、俺はあなたを恐れない」

 その言葉を聞いて、自嘲するようなさびしげな笑みが、少し優しく変わった。

 ユキヒトは宣言するようにそう言って、真っ直ぐにアンゲリカの目を見た。

「……教えてほしい。あなたがどうして戦う事になったのか。どうやって、その戦い方を身につけたのか」

 真摯な目をまっすぐに受けて、アンゲリカはゆっくりと頷いた。










『ダークエルフが戦争に敗れたのは、私が生まれる前の事です。ですから私には、戦争の前のことはよく分かりません』

 アンゲリカは、一文字一文字をゆっくりと書き連ねていく。思い出すことが苦痛となるような記憶は、言葉にすることですら心を刻む。まして、文章に書き起こさなければならない彼女ならば、ただ記憶を相手に伝えることも苦行のような作業であろう。

 それを理解してなお、ユキヒトはそれを止めず、じっと彼女の話を『聞く』。

『私が生まれたときには、ダークエルフは「敗北した種族」でした。今にして思えば、私の生まれた静かな村は、どこかおびえたようなそんな空気の村でした』

 逃げのびたダークエルフ達の小さな集落。彼女が生まれたのはそんな場所だった。

 かつて世界を敵にした傲慢なダークエルフは、自信を砕かれてひそかに生きていた。もっとも、そんなことを知らない子供たちは無邪気に遊びまわっていたのだが。

 静かに隠れた、閉じた世界。しかし、それしか知らない子供たちにとっては、光に満ちた優しい世界だった。

『ですがそれも、そう長くは続きませんでした。いえ、戦争が終わってから私が生まれるまで七十年、隠れ続けていられたのですから、とうとう見つかってしまいました、というのが正しいかも知れませんね』

 かつての大戦争の後、ダークエルフはその種族のみで集落を形成することを禁じられた。少数でありながら国すらも傾けた種族だ。固まって過ごしていれば、いつまた他のヒトたちに牙を剥くか分からない、という事だ。

『もっとも、その日、私たちの集落を襲ったヒト達が、そんな追い詰められた考えを持っていたとは思えませんが』

 当時のアンゲリカには知る由もなかったが、竜種のとりなしで絶滅は免れたものの、他のヒトからダークエルフに向けられる目は、温かいものではありえなかった。

 ダークエルフは奴隷身分。現在も続くそれは、世間一般では当たり前のものとされている価値観だ。

 実のところダークエルフへの差別は、恐れの裏返しであろうとユキヒトは考えている。平等の権利など与えれば、いつの間にやら立場を逆転しかねないほどに強いダークエルフ種族を恐れるあまり、対等などありえないとことさらに差別するのであろう、と。

『あの日、私たちの集落を襲ったのは、盗賊の群れなどではありません。正規の軍隊です』

 悲劇的なのは、一般大衆だけではなく、公的な権力ですらダークエルフへの差別を隠そうとしない事だ。悲しい事ではあるが、それがファリオダズマの一面の真実でもあった。

 文化や思想はユキヒトのいた世界と比べれば未熟。平等や自由といったものは、いまだ一部の知識人の間だけで唱えられる理想に過ぎなかった。

『ダークエルフの奴隷は、高額で取引されるそうです』

 ことさらさらりと書いて見せたその文章だが、ピリオドを打つ時に彼女の手が震えるのをユキヒトは見逃さなかった。

『私は、父と母に逃がされて、森の中に隠れていました。父と母は森の茂みに私を隠して、決して声を出さず、周りに誰もいなくなるまでここから出てこないように言いつけました。……体の小さな私は隠れていられましたが、その後、近くに隠れていた両親は見つかってしまいました。そうなることが分かっていたから、あえて両親は私とは別の場所に隠れたんでしょう』

 連れ去られていく両親に思わず追いすがりたくなった幼い少女は、しかし両親の言葉に従って、声を押し殺して森の茂みに伏せてそれをただ見ていた。

『その時から、私は声を失いました。どうやったら声が出せるのか、私はその時に忘れてしまいました』

 無理もない事だろうとユキヒトは思う。その不条理な恐怖が彼女をどれだけ傷つけたのか、他人には決して分からないことだった。

『夜が来て、朝が来て、そしてまた次の夜が来るまで、私はそこで震えていました。何かを食べたり、飲んだりしたい気持ちは少しもなかったけれど、それでも確実に体は弱ってきて、そのままでは死んでしまう事を私は悟りました』

 意識が朦朧として来て、彼女はとうとうその場から立ち上がり、動き始めたという。

 どの方向に、どれほど歩いたのはか分からない。ただ、夜が明けるころになって、結局彼女は動けなくなった。

『眠りたいという気持ちもありませんでしたが、ただもう体は動きませんでした。意識を失うときに、私はきっと自分が死ぬんだと思いました』

 しかし結果として、彼女は死ななかった。次に目を覚ましたのは、粗末な寝台の上で、結局彼女はとらえられたのだという。そして売られたのが、今の闘技場だ。

『父と母が助けてくれたこの身なのに、私には知恵も力も足りなさすぎた。だから私は、こんなところで死んではいけないんです。生きて、何か意味のある事を為さなければならない。そしてできれば、両親を取り戻さなければならないんです』

 決意を込めて、彼女はそう続けた。ユキヒトは、ギュッと歯を食いしばって、彼女の綴る彼女の人生を、目に焼き付けるようにじっと読み続けていた。

『私は高価な奴隷でしたから、闘いに出される前に訓練を受けました。すぐに死んでは、元が取れないという事のようでした』

 彼女が聡明だったのは、その闘技場の思惑を見抜いたこと、そして自分を鍛え、装備を整えるのに金を使うのを躊躇わなかった事だ。

『最初のうちしばらくは、ほとんど貯金をしませんでした。お金を払って闘技場の戦闘講習を受けたり、武器を買い替えたり。昔傭兵や兵隊をしていた闘技場仲間と親しくなって、戦い方を教えてもらったりもしました』

 彼女の経緯からして、兵隊をしていたものに対して、好意を抱けるはずはない。それでも彼女は、生き延びるために手段を選びはしなかった。

 そうして彼女は、実戦的な戦い方を次々に学んでいった。長い剣は取り回しが難しい。重く大きな盾は動きを鈍くし、体力の消耗を大きくする。数々の試行と訓練の末に身に着いたのは、乱戦に優れ、長時間の戦闘が可能な戦い方と武器の扱いだった。

 十分な実力を身に付けたと思ったときから、彼女は勝ち方に拘りはじめた。どうすれば、観客が熱狂するか。どうすれば、自分の試合が盛り上がるか。大切な自分の体に致命的な傷を負わないように気をつけながら、彼女は試合のたびに周囲を観察した。

 答えを見つけるのはさほどに難しくなかった。土台、剣闘は日ごろのストレスを解消するための見世物だ。であるならば、日常からかけ離れるほどに望ましい。

『楽しい事ではありませんでしたけれど、それでも生きてここまで来れました。あともう少しで、私は私を取り戻すことができる』

 そうやって体と心を傷つけながら、彼女は生きてきた。語るべきことはもうないと、会話用のボードを置いてアンゲリカはため息をつくように長く、一つ息を吐いた。

「……ありがとう。つらい記憶だったと思うけれど」

「……」

 書くのに疲れたのか、ゆるゆると首を左右に振ってアンゲリカは意思表示をした。気にするなと言う事なのだろうとユキヒトは理解した。

「あなたの今の剣を、見せてくれないだろうか」

 一瞬だけ、アンゲリカは躊躇するそぶりを見せ、それから鞘ごとユキヒトに自分の剣を渡した。

 ユキヒトはそれを両手で丁寧に受け取ると、まずは鞘から抜かずにそれを観察した。

 鞘におさめたまま攻撃を受け止めることもあるのか、いくつも傷がある。柄に巻かれた布は、余程使いこまれているのだろう、手垢で真っ黒になっている。

 鞘から剣身を抜き出す。そこには、想像した通りの剣があった。

 手入れが丁寧にされていることは見ただけでよく分かる。しかしその刃は、使い込まれて細かい傷を幾つ負っている。手入れのおかげでまだ使い物になる範囲だが、このままでは遠からず、本職の鍛冶師であろうと修復不能なレベルまで傷んでしまうであろうことは想像に難くなかった。

 短いが幅広の剣だ。いかにも頑丈そうなそれは、切れ味と言うよりは重量を活かして叩き斬るような使い方をする類のものだ。

「……」

 そっと、剣身に触れてみる。数えきれないほどの命を奪った凶器であることは間違いない。しかし、ただそれだけで片付けられない何かがあるのも確かだった。

「……これまで使った剣は、どうした?」

 何故そんな事を聞くのか、というように少し不思議そうな顔をしてから、アンゲリカはボードを手に取った。

『宿舎に保管しています。……壊れてしまったものも多いけれど』

「分かった。依頼は確かに受けた。あなたが使うのにふさわしい剣を、きっと用意する」

 そしてユキヒトは、一つ頷いてそう言った。

 ゲールハルトを促して、控室から出る。重たい扉を閉め、ゆっくりと通路を歩く。

「……何故、彼女の過去を問うたんだ」

 やや咎めるような声で、ゲールハルトは言った。

「必要ならばそちらが語るまで待つと、それは嘘だったのか」

「……魂を込めて剣を打つためには、それなりに相手の事を知らなきゃいけない」

「しかし……」

「そして、まだ足りない」

 きっぱりと言い放つと、ユキヒトはゲールハルトの顔を睨みつけるように見た。

「嘘をついているのはあなただ。あなたと彼女の関係、今こそ本当のことを言ってもらう」

「……」

「彼女の過去を聞いたことはない、か。確かに本当かもな。だけど、知らなかったってわけでもないだろう。彼女の過去を初めて知ったにしては、あなたは落ち着きすぎている」

「……」

「別に、責めるわけじゃない。今のあなたが彼女の味方だってことを疑うわけじゃない。彼女の過去に触れたくなかったのは、あなた自身じゃないのか?」

「鋭いんだな」

「過去に触れたくないのは、こっちも同じでね。なんとなく、同じ匂いがしたんだよ」

 自嘲するように言って、ユキヒトはうつむいた。

「……彼女は強いな。あんなつらい事を、ちゃんと他人に話せるし、今の自分を前に進ませられる」

 それに比べて自分はと、憤るように独り言を呟く。

「剣には、魂を込めないといけない。そのヒトの戦い方や剣に対する扱い、その剣を持って何を思い、何のために戦うのか。それを知らずに、本物の剣は打てない」

 ゲールハルトはなおしばらく沈黙していたが、力を込めて見つめると、やがて諦めたように溜息をついた。

「言葉にするだけなら、大して長い話にもならない。彼女が集落から出て気を失ったのを見つけたのが、私だったというだけのことさ」

「……」

「当時の私はまだ若く、思慮も十分ではなかったし、それなりに正義も信じていた。まさか、自分の所属している部隊が、盗賊だか奴隷商人まがいの事をするとは思っていなかったんだ」

 憔悴したように肩を落とし、ゲールハルトはポツリポツリと語った。

「言い訳がましいどころか言い訳でしかないが、ダークエルフが集合して生きるのは禁止されていたし、そういう意味であの集落は不正だった。解散させるのは法にかなった正当な作戦だった。とはいえ、解散させるだけだと本当に思っていたんだ。まさか国の正当なる軍が、ダークエルフを戦利品の用に売り飛ばすなど、考えてもいなかった。彼女にしたところで、体力を回復させるまで保護して、両親を探すなり施設に預けるものだと信じていたんだ」

 まだ基礎訓練の終わったばかりの理想に燃える新兵だったゲールハルトは、衝撃を受けた。

「それから二年は軍に勤めたが……まあ、良いところではなく悪いところばかりが目に付いた」

 結局軍にはなじめず、やめることになった。ゲールハルトは故郷のファッタに戻り、鎧鍛冶の職人に弟子入りをして次の人生を歩み始めた。

「彼女を見つけたのは、ほんの偶然だった。友人が強引に連れていくものだから仕方なく闘技場に足を運んで、そこで彼女を見つけた。あれからもう随分と長いときはたっていたが、ずっと彼女の事が気になっていた。成長してはいたが、あの時の彼女だと、すぐに気づいたよ」

 罪滅ぼしなんだろうなあと、ゲールハルトは呟く。大きなはずの体は、肩を落とすものだから、随分と小さく見える。

「私にとっての、過ちの象徴なんだ。だから彼女が自分を取り戻すまで、私はもう前に進むこともできない」

 格好の悪い話だよと言って、ゲールハルトははっきりそうと分かる自嘲の笑みを浮かべた。

 ユキヒトには、それを笑う事は出来なかった。











 過去と向き合うのは簡単な事ではない。

 まして一度背を向けて逃げてしまったことに、もう一度向かい合うのは難しい。

 それを超えなければ前に進めないと思っていても、嫌そう思うからこそ、超えるのが難しいそれに挑戦するのは苦しい。

 過去から学び、未来へとすすまなければならない。その通りだ。誰にでもわかる道理だが、誰にでも実践できる事でもない。

 過ぎてしまった事だから。もう同じ事は起こらないから。仕方のない事だったから。

 いくつも器用に言い訳を考えて、ヒトはどうしても嫌な過去から目をそらす。

「……だけどもう、終わりにしなきゃな」

 何通も重なった手紙を前にして、ユキヒトは独り言を言う。

「逃げるのはもう、終わりにしなきゃな」

 もう一度言って、ユキヒトは羽ペンを手に取った。























 過去を超えて未来へ進むヒトへ あなたの過去の闇をあなたの未来の光が照らしますように 行人








[8212] 鍛冶師と竜騎士(前篇)
Name: yun◆04d05236 ID:7d24e2c9
Date: 2010/09/07 01:35




「久しぶり、ですね」

 懐かしい声の、その躊躇う様な、距離を測るような調子に物悲しさと、そんな声を彼女に出させてしまったふがいなさに、ユキヒトは悔しさをかみしめた。

「……元気そうでなによりだよ」

 言いたいことはいくらでもあったはずなのに、初めに出たのはそんな気の利かない言葉で、やれやれとユキヒトは苦笑する。

「少し痩せたか?」

「心配をかける人がいたからでしょう」

 緊張をほぐそうかとそんなことを言ってみれば手痛い反撃。しかしそれの方がかえって、無用な遠慮が薄れてきたようで嬉しかった。

「中隊長の仕事は忙しいのか、竜騎士殿」

 彼女の昇進は、手紙で知っていた。称号で呼び掛けると、彼女は少し困ったように笑う。

「実のところ、それほどでもありません。……皆、どうにも私に遠慮がちで」

「それは……多少は、仕方ないんじゃないかな」

「私は為すべき事を為しただけです」

「知らないなら教えてやるけど、為すべきだからって言うだけで、普通は為せない事まで為してしまうやつの事を凄い奴って言うんだよ」

 いつかしたような問答をしてみても、あの頃のようには笑えなかった。彼女の笑顔は、変わらず少し困ったようなそれだ。

「私が本当に凄い人物なら、守るべきものはすべて守れたでしょうに」

「それができたら、もう神様だろう」

「……神様にはなれなくとも、せめて本当に大切な人達を守れる人間でありたかった」

「……」

 目を見つめながらそんな事を言われて、ユキヒトは言葉に詰まる。そんなユキヒトと、その背後に隠れるように佇むノルンに微笑みかけて、彼女……ヴァレリアは言った。

「お帰りなさい、ユキヒト、ノルン。ずっと待っていました」

「まだ、ちゃんと帰ってはこれていないよ。その前に、大切な事がある」

 ユキヒトはそっと背中を押して、自分の背後に隠れるノルンを自分の隣に並ばせた。

「……あの時の話をしよう。それが出来てはじめて、俺とノルンはこの街に帰ってこれる」

 そう前置きをして、ユキヒトは二年前の事を語りはじめた。








「ベルミステンは古い街です」

 季節は晩夏。暑さがしつこく留まり続けながらも、どこか涼しさの漂い始める季節。

 川辺に吹く微かな風に目を細めながら、ユキヒトはヴァレリアの落ち着いたアルトの声に耳を傾けていた。
 
 今日は非番のヴァレリアは、さすがにいつもの制服と略式鎧ではないが、白いブラウスに青いスカートと、清潔感はあるもののやや洒落っ気には欠けた服装だった。それも彼女らしいと、そんなことをユキヒトは思う。

「確かにたどれる歴史だけでも千五百年以上に渡ります。百年前の『ダークエルフ戦争』までは大きな戦が絶えず、それ以降も小競り合いの続いていますので、街自体がそれだけ長い間残っていることが珍しいのです。それ以上に確かな記録が残っているのは非常に稀有な事です」

 語られるのは、この街、ベルミステンの歴史。ユキヒトがそれを望むと、僅かに戸惑ったような顔をしたが、どうしてもとユキヒトがさらに求めると、ヴァレリアはそれを語りはじめた。

「要因としてはいくつかありますが、一つに、ユラフルス大陸の三大国のひとつである我が国、ロマリオ皇国の首都であったことがあげられます。我が国は少し特殊な国で……ロマリオ皇帝は『竜の末裔』を名乗っています。とはいえ竜は実際には竜以外の種族と生活を共にすることはなく、もちろん竜以外のヒトも住める国を作ったりはしません」

 特に用意していたわけでもないはずであるにも関わらず、彼女の話はよどみなく流れる。

「端的に言うと、ロマリオ皇国初代皇帝は、竜を妃に迎えたと言う事になります。ただし、それではやや正確性に欠けます。正確に言うならば、かつて竜だったがその姿を捨てヒューマンとなった女性を妃に迎えた、と言う事になります」

 当時の竜はヒューマンに変身すると元に戻ることができませんでしたので、とヴァレリアは補足する。

「へえ、ロマンチックな話じゃないか?」

「ええ、そうですね。竜とヒトの恋愛譚というものは各国に数多く存在するのですが、ロマリオ皇国においてはその数が特に多いのです。これは、初代皇帝とその妃の影響とも言われています」

「……ちなみに、ヴァレリアもそういう話は結構好き?」

「なっ……! わ、私はそういうのは、その、に、苦手です!」

 謹厳実直。質実剛健。清廉潔白。そう言った言葉がよく似合う彼女は、衛兵としては理想的ですらあるだろうが、それが異性へのアピールになるかと言えばなかなか難しい。ヒューマンの女性としては焦りもする年頃ながら、少女たちが恋の駆け引きを学んでいる間に剣の修練をしていた彼女は、剣では歴戦の勇士でありながらそちらの方面はと言えば初心な娘であった。

 そんなヴァレリアを、ユキヒトは好ましいと思っていた。だから彼女に合わせ、手の一つもろくに握らないような清純な付き合いを当面は続けている。……どうにも、彼女の叔父であり、自分の師であるところのオルトや、彼女の実家からは少々過激な言葉も聞かれないではないのだが、ひとまずのところユキヒトはそれを雑音としてシャットアウトしていた。

「話を続けます! ……こほん。とにかく、竜が変化した女性がロマリオの初代皇帝と結婚したこと自体を竜種は事実として認めています。しかし、竜種は竜の姿を捨てた時点で彼女を竜の仲間から外れたものとし、ロマリオ皇帝の血筋に対しても、竜種の仲間ではなく、あくまでヒューマンの皇帝の血筋としています。そう言った意味で、竜種はロマリオ皇帝家を『竜の末裔』とみなしていないことになるのですが、ロマリオ皇帝家がそう名乗ることに関して、禁止することもしていません」

 街や国を愛する気持ちは人一倍のヴァレリアであるが、彼女の語る歴史はあくまで公正な視点に基づくものであった。ロマリオ皇国には、皇帝家が「竜の末裔」を名乗る事を竜が禁止しない事をもって、竜はその事実を認めているのであると主張する者が大勢いる。しかしヴァレリアにはその手の偏りはない。

「また、ロマリオ皇国はファリオダズマで最も多数の『竜騎士』を抱える国でもあります」

 竜騎士とは、竜種にその武勇や知恵を認められたものを意味する称号である。その称号は元々竜が個人的に認めたものに対して名乗ることを認めたものであり、それ自体によって何らの権利をもたらすわけではない名誉称号だ。しかし、竜が他の種族に対してそれほどまでの評価を下すことは稀であり、結果として竜騎士の称号を持つものはファリオダズマでは多大な尊敬を受けることになる。

「ロマリオ皇国が多数の竜騎士を抱えるのは、他でもなくロマリオ皇家が自国の騎士に対して竜騎士の称号を与えるからです。これは、初代皇妃がヒューマンとなって後、夫たる初代皇帝に竜騎士の称号を贈ったことに因み、それ以来竜の一族としてロマリオ皇帝は自国の騎士のうち功績大としたものに竜騎士の称号を与えることとなっています」

 そう言いながら、ヴァレリアはその整った顔を、やや苦々しく歪めた。

「とはいえこれも『竜の末裔』同様自称に近いもので、他国からは『偽竜騎士』などと陰口を叩かれることもあります。竜種の対応はと言えば、やはりその称号の授与を禁止してはいませんが、かといって、ロマリオ皇国の竜騎士を、竜種が認めたものとして優遇することもありません」

 話の内容は名誉あるものとはいえず、誇り高い性格のヴァレリアとしては忸怩たるものがあるらしい。

「個人的には、竜騎士の称号を授与するのをやめた方が良いのではないかとも思うのですが。……いずれにせよ、そう言った微妙な竜との距離から、ロマリオ皇国はなかなかに手を出しにくい国だったらしく、また資源などの魅力にも乏しかったことから、その首都であるところのベルミステンは、異例なほどの長い歴史を築くに至りました」

 あるいはそう言った不名誉も、群雄割拠の時代を生き抜くためには必要な方便の一つであったのだろうか。そんな事を思いながら、ユキヒトはすらすらと続くヴァレリアの話を聞き続けた。

「ロマリオ皇国の発展と領土の拡大に伴い、地理的に徐々に中心地から外れていったベルミステンは、首都の座こそ三百年前に明け渡したものの、ユラフルス大陸最古の街の一つとして名が残ってます。歴史的価値の高い建築物、古く希少価値の高い書物なども数多く残るこの街は、これと言う特産こそありませんが、学術の都市として発展を続けています」

 再び誇れる内容になり、ヴァレリアはその頬をわずかに緩めつつ、一度ぐるりと辺りを見回した。

 つられるように、ユキヒトも周囲を見渡す。

 道路の石畳はきれいに掃き清められ、歩きやすく清潔な道だ。立ち並ぶ家々も、古くからそこにある風格を備えながら、一方で街に溶け込み親しみやすさを醸し出す。

 街を歩くヒト達の顔もどこか穏やかで、この街が豊かで幸福である事を感じさせた。

「古い街である為に、古くからの住民は伝統を重んじる傾向が強く、やや排他的な側面もありますが、近年の学術都市としての性格を持つところから新しい住民にはリベラルな気質がありますね」

 それは矛盾した二面性であるが、それをなんとなく包んでしまうような空気が、この街にはある。

「私の所属する軍隊と言うのは保守的な組織ですので、どちらかと言えば前者が有力と言うところです」

 最後には極々身近な話題に戻ってきて、ヴァレリアは街の歴史をそう締めくくった。

「……ところで、このような話、面白いのですか?」

 一通り話が終わったところで、少し不安そうにヴァレリアが尋ねる。それに対して、ユキヒトは少し意地が悪い笑みを浮かべた。

「同じような話をさせられる誰かさんも、いつも話が終わったら同じ様な事が不安になるから、今日は立場を逆にしてみた。……思ったより面白かったよ」

「……!」

 そう言われて、時折自分がユキヒトに故郷の話をせがむ事に思い当り、ヴァレリアは少し頬を赤くした。

「興味がない街の歴史なら、確かにあんまり面白くないかもしれないけど、……この街の事なら、面白く聞ける」

「……言い淀んだ部分は、何を言おうとしたんです?」

「何でもないよ」

 大切な人達が住んでいるこの街の事なら、面白く聞ける。そんなことを臆面もなく言えるほどに幼くはなく、ユキヒトは笑ってごまかした。

「良い街だよ。凄く」

「……色々と言われることがないでもないですが、私もこの街が好きです」

 そう言って二人、穏やかに笑い合う。

 ユキヒトの休日は、ヴァレリアと都合さえつけばこのように二人連れ立って、食事をしたりあるいはこのように語り合ったりという事が多かった。

 実のところを言えばお互いに言葉にして伝えあうことすらしておらず、客観的に見れば男女の付き合い未満でしかないそれだが、気持ちは理解しあえている。自惚れではなくそう思っているし、周囲もそれを分かっている。だからこそ駆け引きの仕方も分からないヴァレリアに代わってユキヒトを焚きつけているのだ。

 周りには周りの思いもあるようだが、彼女と自分には、それに見合った歩幅というものがある。それがユキヒトの気持ちだった。

「そう言えば、この間は魔法陣の施術をありがとうございました」

「結局、一年も悩んだな」

「……あれだけの剣ですから。悔いの無い選択をしたかったのです」

 一年前、ユキヒトの提案で、ヴァレリアの叔父でありユキヒトの鍛冶の師であるオルトは、一振りの剣を鍛え、ヴァレリアに贈っていた。ユキヒト自身が初めて本格的に相槌を打たせてもらった作でもあるそれを、彼女はそれはそれは大切にしていた。

 魔法金属であるオリハルコンを使用していることから、その本領は魔法陣を施してこそ発揮されるものであったが、ヴァレリアは付与する魔法陣にさんざん悩み、結局一年の時間をかけて結論を出したのだった。

「だったら、俺の施術で良かったのか?」

 魔術学院を卒業したばかりで、到底の名のある魔術師などではない。師が最高傑作のひとつとまで呼んだヴァレリアの愛剣に見合うだけの実力がはたして自分にあると言えるのか、自信はなかった。

「あなた以上に、あの剣を安心して任せられる人を私は知りません」

 何のためらいも見せず、かといって気負うでもなくただ自然にヴァレリアは答える。その信頼が、ユキヒトにはどこかくすぐったかった。

「そしてそれは間違っていませんでした。あの剣は思った通りの……いいえ、それ以上の剣になりました」

「……そりゃよかった」

「照れましたか?」

「うるさい」

 ぷいっとそっぽを向くユキヒトに、からかうようにヴァレリアは笑いかける。ここのところ、自分のどんな態度がユキヒトを照れさせるのか把握してきて、反撃に出ることもあるヴァレリアだ。

「そう言えば、今度『森の迷宮』へ探索へ行くとか」

「ああ……調査に向かうとかで、先生に頼まれた。魔法陣に詳しい人間が欲しいんだと。卒業した俺に声をかけてくるあたり、どうもまだ諦めてないらしいな」

 卒業の際にも引き留められたものだったが、ユキヒトとしてはそれ以上学院で学ぶよりは鍛冶師として本格的な修業を始めたいと考え断ったのだが、ユキヒトの資質はいまだに学院に惜しまれている。接点を絶やすまいと、定期的に何らかの声がかかるのだ。

「気をつけて」

「冒険者にも護衛を頼んでるし、別に深い階層まで潜るわけじゃない。問題ないよ」

 何度か迷宮に潜った経験はある。いずれも本格的な探索ではないが、元々それが本職でもないのだから当たり前だ。

 何の問題もなく、世界はただ穏やかだった。













「何だ、今日も晩飯が用意できる様な時間に帰ってきやがって。良いから朝帰りしろってんだ」

 川辺での語らいを終えて工房へ帰ったユキヒトに、オルトはそんな言葉を投げてよこした。

「オルトさん……仮にも俺の相手はあなたの姪ですよ」

「だからだろうが」

 とんでもない事を言ってよこして、オルトはユキヒトに向き直った。

「向こうの親も納得してるぞ。何が不満だ? 少しばかり年は行っているかも知れんが、器量よしで気性もいい。しかも丈夫で働き者だ。現にあれで、十四、五の頃は随分もててたんだぞ。気づきもせずに全部振ってたがな」

「何で世話になっている師匠とその娘さんの為に晩飯を用意しに帰ったらヴァレリアを気に入らないことになるんですか」

 苦笑いをしてユキヒトは返事をする。どうにも色気のある話が全く出てこない彼女は、親族一同を大いに心配させているようで、この機会を逃せば他にないと思っているような節がある。

 ユキヒトの感覚で言えば二十歳を少しすぎたばかりのヴァレリアに「年は行っている」などという言葉は違和感を覚えるのだが、この世界のヒューマンの常識でいえばそんなことはないらしい。

「……真面目な話、ヴァレリアの奴をもらってやってはくれないか、ユキヒト」

「……」

 急に声のトーンを変えたオルトに、ユキヒトは真っ直ぐ向き直った。

「何だかんだで、あれは家庭を持って幸せになるタイプの女だ。とはいえああも生真面目で隙がないと、男も寄って行きにくい。まして、あの年で小隊長になって剣の腕前も並の男じゃ太刀打ちできないとまでくるとな。あれで人見知りと言うか……知らない人間は警戒する癖もある」

「相手のある話ですよ、オルトさん。本人のいないところで決まるような話じゃない」

 逃げだなと思いながらも、ユキヒトはそう言って話を中断させようとした。

 二十歳ちょうどという年齢は、ユキヒトの感覚としては身を固めるのに早すぎる。ヴァレリアをどう思うのかというのとはまた別の次元で、ユキヒトにとってこの話題は避けたいものであった。

「だったら、その相手と話をしたらどうなんだ」

「……」

 ヴァレリアでは、自分を憎からず思ってくれていようと自ら話を進められるはずもない。ならばユキヒトが意思を固めない限りは話が進まない。当然の道理だ。

「……やはり……いや、いい、すまん。飯は何だ?」

 言いかけてやはりやめて、下手な話題転換。こう言った不器用さはこの家系の特徴なのだろうかと、ユキヒトはそんな事を思った。

 オルトが口にしかけた事が何なのか、ユキヒトにはなんとなく推測ができる。そして、それを言わないでいてくれたのはやはり、ありがたいことだった。

「……今日は川魚のフライです」

 感謝の言葉を口にすることもできず、オルトが話題をそらすためだけに口にした話題に乗る。逃げているという自覚がある分、苦い後味が残った。
















 実際のところ、ユキヒトにはヴァレリアに対して不満などない。関係を深めることに不服があるどころか、積極的にそうしたいと思う。

 それではなぜ自分から動かなければ関係が変わらないと自覚しながら、ままごとのような付き合いを続けているのかと言えば、元の世界への未練が原因だった。

 ファリオダズマに来てしまった原因は結局のところ分からずじまいで、元の世界への帰還の目途も全く立っていない。せめて他にファリオダズマに迷い込んだ異世界人でもいれば何かのヒントになるかも知れないが、そんな話も全く聞かない。すがる思いで習得してみた魔法にしたところで、やはり帰還のあてには出来そうにもない。

 現実的に考えてファリオダズマで生きていくしかないのだろうと頭では分かる。だからこそ真面目に鍛冶の修行もしているし、この世界での足場を着実に築いていっている。

 それでもまだ、決定的なところでユキヒトはこの世界の人間になりきっていない。自分をこの世界に縛り付けることになるような関係を築くには、ユキヒトにはまだ覚悟が出来ていなかった。

 仮に何かの奇跡が起こり、元の世界に戻れるという事になれば、ユキヒトは自分が帰還を選択するだろうと思っている。悪くない世界ではあるが、やはりここは自分の世界ではないのだ。

 その様な気持ちでいるために、ヴァレリアに対して踏み出すことができない。ユキヒトはそんな自分を正しく自覚していた。そしてそれをオルトに見抜かれていることも分かっていた。

「不誠実だよなあ……」

「何か言ったかね」

 ユキヒトの呟きに反応したのは、ケイガルド。ユキヒトの魔術学院での指導教官であった人物で、皇国でも名の知れた魔法陣の専門家だ。魔術の行使を旨とする学院の教官だけあって、五十歳を超えた小柄なヒューマンでありながら足腰は一向に衰えを見せておらず、日々フィールドワークに勤しむ魔術師だ。

「ああ、独り言です」

「……学生時分から君は優秀だが時々ぼんやりしたところがあった。迷宮内では気を引き締めてくれよ」

「気をつけます」

 気難しく偏屈なところがあるのは承知のことだ。言っていることは正しいが深刻に受け止めることもない。魔術学院での二年間の結論だ。

「そもそも、何故鍛冶師になろうなどと言うのかね。ヒトは己の才にあったことを仕事にすべきと思わないかね」

「思いますが……思った結果が鍛冶師なんです」

「ふん」

 あり得ないとでも言うように、一つ鼻で息をしてケイガルドは大げさにため息をついた。

「自己を正しく認識できないのは、それがどの方向であれ不幸な事だ。君が正しい自己認識を獲得したならばいつでも言ってくればいい」

 こんな言い方ではあるが、ユキヒトの魔術の才を高く買っているという事を意味している。何とも面倒なヒトだとユキヒトは苦笑した。

「後悔するようなことがあればご相談しに行きます」

「ふん」

 分かっているなら良い、それとも口先だけでこざかしい、どちらかの意味だろうと当たりをつける。いちいち気にしていても仕方がない。

「ところで聞いているかね、ここのところのモンスターの発生については」

「ええ……。このところ、街の近くでモンスターの目撃情報がちらほらと出ているとか」

 ヴァレリアに聞いた事だ。治安をつかさどる衛兵である彼女には、その手の情報が集まりやすい。

 まだ特段どうするというほどの事にはなっていないようだが、念のために注目しているとヴァレリアは語っていた。

「奴らの生態はいまだ謎に包まれている。解明できればいくらか安全も増そうがな」

「モンスター研究にも手を出すつもりですか」

「まさか。寿命が足りんにもほどがある。私の生まれがエルフかドワーフだったなら考えたかもしれんがね」

 ファリオダズマでは、種族ごとに「時間」と言うものに対する捉え方が大きく異なる。当然というべきか、寿命の長い種族ほど時間に対しておおらかであり、短い種族ほど時間を貴重とする傾向にある。

 研究などの分野では、時間に対する貪欲さ故なのか、短期に集中力を発揮するヒューマンなどの短命な種族もかなりの成果をあげている。むろん、知識量や長期の観測が必要な分野などにおいては長命な種族の貢献が大きく、それがこの世界のバランスだった。

 ケイガルドとしてはそれほど気にしている事象でもなかったらしく、すぐに別の話題になる。

 話題はベルミステンの時事をはじめ、ロマリオ皇国の政治、魔術研究に関する近頃の成果、その他雑多に移る。

 ケイガルドは偏屈である。その為彼の近くには人が集まらない。そんな中ユキヒトは彼を疎まない。人付き合いの下手なヒトだとは思っているが、魔術研究に対する熱意は本物であるし、何だかんだで正しいものは正しいと見抜く目がある。

「……さて、ついたね」

 ベルミステン近郊の森の中にある『森の迷宮』と呼ばれる迷宮は、都市であるベルミステンから徒歩で二時間という近さから、探索がすっかりと終わった迷宮だ。

 迷宮とはファリオダズマに点在する「不自然な洞窟」を総称したものである。それを作成したという記録はいかなる種族、いかなる国家の記録にも残っていないが、内部は恣意的なものが働いたとしか思えない構造を持ち、多くはモンスターの巣窟となっている。また一般的に迷宮には特殊な魔力が充満しており、その為に内部に長期間置かれた物質や生物に異変を起こすことがあるとされている。

 ファリオダズマに存在する魔術的要素を持つ武具を総称して魔術武具と呼ぶが、その大半はヒトが武具に魔法陣を施すことによって人工的に作られたものである。例外として、迷宮から発見された武具が極稀に特殊な魔力を帯びている事がある。そう言った「天然」の魔術武具の中でもごく一部は人工的に作られた魔術武具など及びもつかないほどの性能を秘めている事がある。しかしながらその生成過程については全く解明が進んでおらず、現在のところ偶然の発見を待つ以外にそれを入手する術はない。その事がまた、迷宮の探索が職業として成り立つ一因ともなっている。

「それでは、気をつけて探索開始だ」

 護衛として雇った冒険者たちを引き連れて、ケイガルドは迷宮へと入って行った。















 探索の目的は迷宮の魔力により変質をきたした生物ないし物質の発見だったが、結果としてそれは果たせなかった。

 もっとも、ケイガルド自身がそう簡単にそれを発見できるとは考えておらず、複数回の探索を考えていたうちの一度目に過ぎなかったため、さほどの落胆もなかった。

 昼下がり、太陽が傾いてきたところでベルミステンへ引き返していく。都市ではその内部を囲って城壁が設けられ、城壁の外側には堀がめぐらされるのが普通だ。夕方の定刻に城門は閉じられ、堀に架けられた跳ね橋は上げられる。ヒト同士での争いは少なくなったとはいえ、モンスターのはびこるファリオダズマでは、当然のことだった。

 夕方の閉門に間に合うように、一行は進行した。その時点では、まだ異変は何も起こっていなかった。

 それに気づいたのは、護衛として雇った冒険者の一人だった。迷宮のある森を出る直前、騒然とした気配を察知し、念のためにと一行をその場にとどめ、周囲の探索に出たのだ。

「……街がモンスターに襲撃されている!?」

 探索に出た彼がもたらしたのは、そんな情報だった。

「……もう城門は閉じられてるし、橋も上がっちまってる。街を囲っちまうくらいの大群だ。あんなモンスターの群れ、見たこともない……」

 そう報告するベテラン冒険者であるはずの彼は顔面を蒼白にしており、その表情にはとても冗談とは思えない真実味があった。

「ふん。となると我々は街へ近づかず、モンスターから隠れておくべきか」

「……そうなるでしょうね」

 そこまで大規模なものではなくとも、モンスターの街への襲撃は数年に一度はある事だ。街を守る常備軍ではその対策訓練も十分練られており、ベルミステンにおいてモンスターに城壁を突破された記録は、五百年前までさかのぼらなければ存在しない。

 大規模なものであれ、対モンスターの戦闘は下手をすれば対ヒトのものよりも練度が高い。信頼して勝利してくれるまで待つ以外に、彼らにできることなどあるはずもなかった。

 モンスターがそうやってヒトの街を襲う理由についても、実のところ解明はされていない。街を破壊したところでモンスターの利益になる要素は見当たらず、その過程で双方に被害が及ぶばかりだ。

 そう言った不合理で不条理な点からも、モンスターはヒトに対する敵として認定される。

 結局一行は、来た道を少し戻り、森の中でキャンプを行うこととした。見晴らしの良い場所に出てしまえばモンスターに発見される恐れがある以上、やむを得ない。

 しかし、問題もある。

 元々日帰りの予定であり、用意もそれに合わせたものでしかない。モンスターは街を囲うほどの大群だ。ならばそれの排除にも相応の時間がかかると考えるのが妥当だ。それまでじっと街の外で待機しておけるほどの用意がない。食料や水、野宿に必要なもろもろの装備がない。かといってベルミステンの近郊には身を寄せられる街もない。下手に移動をしてモンスターに発見されても厄介だ。

 状況は悪い。まさかこんなことになろうとは、一行の誰も想定していない事態だった。

 ひとまずはキャンプ地点を決め、見張りの手順や交代順を決める。焚き火をするかどうかでは少し議論になったものの、結局季節的に凍死は心配ない事、また火が目印になりモンスターに見つけられる事を避けるために焚き火はしないこととした。モンスターにも、明りの無い真夜中の森を歩きまわれるほどに夜目のきく種類はほとんどいない。

「……明日以降はどうするべきと考えるかね」

 ケイガルドにそう問いかけられ、ユキヒトは少し考え込んだ。

「難しいところですね。食料を探しながら現状維持か、そうでなければアルテノまで歩いていくべきか……」

 ベルミステンに最も近い街の名前をあげてみるものの、その街まで徒歩ならば一週間はかかる。その間都合よく食料を調達し続けられるかと言えば難しいところではある。現状維持にしても、食料を見つけられるかどうかという問題に加えて、近くに大量にいるというモンスターたちに見つかる可能性もある。

「……個人的には現状維持かと思います。移動はやはりリスクが大きい」

「ふん。私も同じ意見だ」

 決断には不安がつきものだ。特にこんな状況下では、判断の間違いが自分を含む全員の命の危険につながる。信頼するものに意見を聞くのも、当然のことであった。

 冒険者たちにも意見を求めれば、やはり同じように現状維持という答えが返ってきて、一行の方針は決定した。

 その日の夜は、特段何も起こらなかった。周囲をモンスターがうろつく気配もなく、ひとまずは体を休めることに成功した。

 翌日は、冒険者たちを中心に森で狩りをおこなうことにした。冒険者たちは流石に手慣れたもので、森に住む小動物をいくらか狩ることに成功し、昼食にもありつけた。

 五十を超えているケイガルドはともかく、若いユキヒトは何もしないわけにもいかず、午後からは狩りの手伝いをすることにした。

「……全く、ついてない」

 冒険者たちのリーダー格らしい、初めに異変に気づいて偵察に出た男がぼやく。

 名をランクースと言い、年は三十少しのヒューマンだ。ベテランと言っていい経験を持っており、ベルミステンの組合に所属する中では上位の実力を持つ冒険者だった。

「あんな大量のモンスター、生まれて初めて見たぜ。ベルミステンに住んでりゃ、モンスターの襲撃で困ることはないと思ってたんだがなあ」

「モンスターの動向は予測困難ですからね」

 不条理と不合理の塊ではあるが、ほぼ例外なくヒトを害する行為をとる。それがモンスターだ。ファリオダズマでは他のあらゆる災害よりもモンスターによる被害が大きいものであり、対策に注がれる力も他の災害とは比べ物にならない。

「大体、意思疎通をはかってる様子もないのに、なんで人の街を襲うときはいろんな種類が襲ってくるってんだ……」

「……本当に」

 ぼやきながらも、ランクースは周囲に動物の残す痕跡がないか調べていく。ユキヒトも見よう見まねできょろきょろとあたりを見回すものの、そう簡単に動物の気配など見つけられるものでもなかった。

「……ん?」

 ふと、遠くから何やらヒトの声のようなものが聞こえた気がして、ユキヒトは立ち止った。ランクースも何かに気づいたらしく、視線を鋭くすると、腰に挿した剣に手を当てた。

「……あっちだ。あんた、腕に覚えは?」

「……自分の身を守る程度なら」

 念のためにと、ユキヒトも剣を持ってきている。ランクースはユキヒトの返答に頷いた。

「ついて来てくれ。さすがに一人はまずい。でも、無理はするな」

「はい」

 先に立って走りだすランクースをおいながら、ユキヒトは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 モンスターと戦うのは初めてではない。しかしモンスターは今この周辺に大量に徘徊しているのだ。どれほどの数がいるのか、自分はそれと戦えるのか。不安は隠しきれなかった。

 走って行くと、徐々にはっきりと音が聞こえる。やはり、ヒトだ。それもどうやら、何かと争っているらしい物音がする。恐らくは複数対複数。自分たちと同じように街へ戻れなかった者達か。推測しながら、さらに足を速める。

 すぐに、物音のする地点に到達する。そこには、予測したのとは微妙に異なる景色があった。

 確かに争いはあったようだった。しかしそれはもう収まりかけていた。

 複数対複数、その推測も当たっていた。しかし一方は集団行動になれた訓練された集団だったらしく、一方を迅速に制圧していた。それぞれが纏う鎧には、揃いの紋章。それはベルミステンの正規軍の一隊が、モンスターの集団を制圧している現場だった。

 ユキヒトがたどり着いた時には、ベルミステン正規軍はモンスター集団の最後の一匹を斬り倒すところだった。そして、その最後のモンスターを斬った人物を見て、ユキヒトは叫んだ。

「ヴァレリア!」

「ユキヒト! 良かった、無事だったのですね!」

 凛々しい顔をほころばせて、ベルミステン騎士団治安維持部隊小隊長、ヴァレリア・ロイマーが声をあげた。












「……あの時は嬉しかったよ。何だかんだで、不安だったから。一番見たい顔を見られて、本当に嬉しかった」

「私も、あの時は不覚にも一瞬任務を忘れました。あなたがどうなってしまったのか、一切分かっていませんでしたから。無事な姿を見られて本当に安心しました」

「……」

 言葉を交わす二人と、黙ったままのノルン。ユキヒトは、ノルンがつないだ手にギュッと力を入れるのを感じて、少しかがみこんでノルンと顔の高さを合わせた。

「大丈夫か? ……少し、休むか?」

 ノルンとはよく話し合ったうえで、ベルミステンへと戻ってきた。あの時誰よりも傷ついたのは間違いなくノルンであったし、彼女はまだほんの子供に過ぎない。事件から二年という時間は、彼女の心を癒すのに十分な時間とは言えないであろう。

 向かい合うという決心はノルンに伝えた。ノルンもまた、ユキヒトのその決心に賛成してくれた。とはいえ彼女が本当にそれと向き合うだけの準備ができているのか、それはユキヒトには分からないことだった。

「……辛いなら、ノルンはここでおしまいにするか?」

 それも一つの道だと思う。その場合はまたあの山奥の家に戻ることになるだろう。ベルミステンに戻るのは早すぎたという事だ。それも仕方のない事、今回は自分とヴァレリアの心の整理だけにしても良いだろうとユキヒトは考えた。

 つないだ手が震えて、ノルンの動揺を伝えてくる。

「……」

 しばらくは言葉も発さず、ノルンは震えていた。仕方のない事だとユキヒトが思った瞬間、ぎゅっと強くノルンが手を握ってきた。

「……大丈夫です。続きを話しましょう」

「……」

 その言葉を聞いて、ヴァレリアがノルンに近付いてきた。そして何も言わないまま、ノルンをぎゅっと抱きしめた。

「……強い子です。ノルンは本当に、強い子……」

 その言葉を聞いて、ノルンが泣き出しそうな表情になる。しかし涙をこぼすまいとするように、ノルンの閉じた目に、強い力がこもった。

「……分かった。続きを話そう」

 ノルンの強さに応えるためにも。ユキヒトは再び、口を開いた。



[8212] 鍛冶師と竜騎士(後篇)
Name: yun◆04d05236 ID:7d24e2c9
Date: 2010/10/12 03:23


 何故ヴァレリア達ベルミステン騎士団がこの場にいるかと問えば、その答えは救出に来たからだというものだった。

「……騎士団がわざわざ、城外に取り残された民間人を?」

 ざっと見渡せば、騎士たちは約五十人。小隊が十個、すなわち中隊規模だ。

「ま、ただの民間人と冒険者じゃ、助けには来てくれなかっただろうな」

 怪訝な表情を見せたユキヒトに対して皮肉げに言うのは、冒険者のリーダーであるランクースだった。

「そちらにおわすのはお偉い魔術師様だ。大陸でも魔法陣研究をしてる中じゃあ名前を知らない奴はいないってくらいのな。学術の街ベルミステンとしちゃあ、見捨てるわけにゃあいかなかったってことだろうよ。そのおかげで俺も助かるんだから文句なんざないがね」

 世知にたけた冒険者らしく、騎士団の耳には入らないように小声でこっそりと教えてくれる。

 なるほどそういう事かと思ってみれば、ケイガルド自身もそれを承知しているらしく、普段から不機嫌そうな顔が、苦虫を噛み潰したという程度ではきかないような凄まじい表情になっている。

 ケイガルドにしてみれば純粋な探究心で究めたものを、その様に国策的に保護されるのは一種の屈辱であるとすら感じているらしい。自分の研究の意義など一切分かってもいない癖にという言葉が聞こえてきそうな表情であった。

「あの姉ちゃんとは知り合いか?」

「ん? ……ああ、ヴァレリアの事ですか。知り合いというか、まあそんなところです」

「ありゃあ、相当な使い手だな」

 僅かに見ただけで実力のほどを見定めるのは、流石にベテランの冒険者だ。

 通っていた剣術道場では師範代の免状まで持っている彼女だ。衛兵はその性質上武道を奨励されるのは当然で、剣術はその中でも必修と言って過言ではないが、ヴァレリアの実力はその中でも際立ったものだった。

「あの年で風格がある。間違っても戦いたくねえ相手だな」

 冒険者に必要なのは実力。それは間違いがない。だがそれ以上に大切なのは、勝てない相手と戦わないすばしこさだ。

 彼らは兵士ではない。請け負った仕事にもよるが、基本的に彼らは勝てないと知りつつ戦う事、生きて戻れないと分かる戦場に立つ事はない。そんなことからは逃げればいいのだ。

「綺麗な顔しておっかねえこった」

「女性を捕まえておっかないはないでしょう」

「……小娘でもあるまいに」

 ユキヒトの感覚でいえばヴァレリアの年齢は、年上と言えどまだ頼りなさを残していても少しもおかしくないし、ランクースのような中年からすればそれこそ小娘扱いされるような若さだ。またファリオダズマでは、男女の権利が比較的近しいところがあると言えば聞こえはいいが、中世騎士的な女性はか弱く守るもの、という様な価値観も殆どない。ユキヒトの常識とこの世界の常識は、こんなところでも微妙に齟齬を生じさせる。

「いずれにしたって、おっかないくらい強いヒトは、今は頼りがいがあるでしょう」

「そりゃそうだ」

 あっさりと頷くランクース。切り替えの早さも冒険者には必要な資質の一つだ。

 ちょうどそこに、騎士団からの招集がかかった。










 ベルミステンへの帰還は、翌日昼。騎士団主力がモンスター勢に対して攻勢をかけるのに紛れて街へと入る。実際にはもっと細かい作戦があるのだろうが、素人が聞いたところで分かるわけもない。大まかな部分だけを聞かされることとなった。

 夜。昨夜とは違い、騎士たちが見張りに立ってくれるために、ユキヒトや冒険者一行は見張りをする必要がない。翌日の戦闘も騎士団任せと言うわけにはいかない冒険者たちは、早々に眠りについて体力の確保に余念がない。

 ユキヒトはと言えば、見張り当番を終えたヴァレリアと会っていた。

 周囲に幕を張り巡らせ、その中でランプを使う。昨夜とは違い、発見される事よりもむしろ奇襲される事の方が警戒度が高い。例え見つかったとしても、それに気付いてさえいれば十分撃退は可能だ、という自信の表れだった。

「叔父さまとノルンが心配していましたよ、ユキヒト」

「だろうなあ……。俺のせいってわけじゃないけど、悪いことしたな」

「……もちろん、私も心配していました」

 その言葉の意味するところが、一年前とは微妙に変わってきていることに気づかないほどにユキヒトは鈍くはなかった。

「心配をかけてすまなかった」

「先程自分で言っていましたが、ユキヒトのせいではないでしょう」

 真摯に謝るユキヒトに、ヴァレリアはそう言葉を返した。その声に宿る安堵感と柔らかな感情に、ユキヒトは面映ゆいような気持を抱いた。

「明日の作戦はどうなんだ、危険はないのか」

「危険の無い作戦などありえません。とはいえ、成功の見込みの少ない作戦と言うわけではありません。元々、いつまでも籠城しているわけではなく、城を出て野戦で片をつけることは想定されていた作戦のうちですし、それに便乗して我々は街へ入るだけです」

 嘘をつかない、かといって徒に不安を煽るわけでもない優等生的な回答は、彼女の状態が平静であることの証明だった。

 ベルミステンは現在では学術の街だ。栄えた街であることは事実だが、諸々の物資の生産能力は人口と比べて必ずしも高くない。近隣の街から通ってくる商隊なしには、日常生活もままならないのが実情だ。二日三日でどうにかなるわけではないものの、早期に包囲は解かなければならない。となればいつまでも籠城しているわけにもいかず、野戦は当然の選択肢ではあった。

「……さすがに今回は持ってきたんだな」

 ヴァレリアの腰に佩く二振りの剣を見て、ユキヒトは感慨深く言った。

「勿論です」

 ランプのかすかな明かりに照らされたヴァレリアの表情は、微笑んでいた。

 ヴァレリアは二振りの剣を腰に佩いている。片方は一年前にオルトが贈った剣だ。ユキヒトも相槌を打たせてもらい、つい先日は魔法陣も施した。もう一振りは、ヴァレリアが衛兵になって一年後個人的な蓄えから購入した剣だ。

「本当に気に入ってるんだな。この剣の話になるとヴァレリアはよく笑う」

「……気に入っているのは事実ですが」

 どこか照れたような、それでいて憮然としたような声の理由は、ユキヒトには分からなかった。そんなユキヒトにヴァレリアはひとつ溜息をついた。

「盗まれそうになった時なんかすごかったじゃないか」

「あれは……! その、私も未熟だという事です」

 帯剣したまま警邏をしていた際、剣に目をつけたかっぱらいがヴァレリアから剣を盗もうとした事があった。結局盗めなかったのは無論のこと、大切な剣に無断で触れられ、あまつさえ盗まれそうになった事に激怒したヴァレリアは、普段は罪人と言えど無傷での逮捕を旨としているのを忘れ、犯人の前歯を全てたたき折る拳術を見せた。

 ただし本領でないうえに怒りにまかせた一撃は精彩を欠いたのか、犯人の歯でその時にはめていた皮の籠手が破れ、手の甲にも傷を負った。剣士として手を大切にするヴァレリアが、珍しくも負傷しているのを不審に思って理由を尋ねた時の、怒りと羞恥が混ざり合った表情が、ユキヒトの目に焼きついていまだに忘れられない。すっかり治ってしまうまで、ユキヒトはその傷をなかったことにした。

 今でこそ、からかいの種にもできるようになった出来事だが、当時のヴァレリアは、手という単語が出ただけでピクリと反応するほどにその出来事に対して敏感になっていた。

「綺麗に治って良かった」

 だからこそ、冗談にもできる。つまらない盗人の歯ごときと引き換えに彼女の手に傷痕が残るなど、話にならない。ユキヒトは心底そう思う。

「……ユキヒトはずるい」

「ずるい?」

「なんでもありません」

 到底納得できない評価にユキヒトが聞き返すと、ぷいと、ヴァレリアはそっぽを向いてしまう。

「……なんだかよく分からないけど、ごめん」

「よく分からないなら謝らないでください」

 不機嫌の原因がユキヒトにあるということは否定せず、ヴァレリアはユキヒトの言葉にそう返した。

「いや、その……ごめん」

「また謝る。……良いですよ。本当は別に怒っているわけではありませんから」

 困った人だというように、ヴァレリアは笑った。困った人なのは時々そうやって意味の分からないタイミングで不機嫌になるヴァレリアの方だと内心で思いながら、そう愚痴るとオルトとノルンの父子が何故かそろって深い溜息をつくものだから、最近は心の中だけで愚痴る事にしている。

「今回は、この剣を使う事になるような、そんな気がするのです」

 緩んでいた頬を引き締め、凛とした表情で言うと、ヴァレリアはオルトの剣にそっと触れた。

 ヴァレリアは普段の警邏では基本的にオルトの剣を持っていかない。重要な案件や、危険があるとあらかじめ分かっている現場に駆け付けるときなどは、今回のように二振りとも携帯する。

 それは何故なのかと問いかければ、剣の消耗を抑えるためと、剣に頼らないようにするためだという答えが返ってきた。

 いかな名剣と言えど、使えばある程度の傷は止むを得ない。だからこそヴァレリアのような剣士は剣を振るう技術だけではなくその手入れも徹底して身につけるし、定期的に鍛冶師に剣の状態を見せる。

 血や脂は剣の切れ味を鈍らせる。剣同士で打ち合えば刃こぼれをすることもある。本当に大切な場面でこそオルトの鍛えた剣を使いたいと、ヴァレリアは普段はそれを使わずに温存する。

 そしてもう一つ、生真面目なヴァレリアが言うには、それは優れた剣を使っているという慢心を起こさないための措置なのだという。

 技量の差にもよるが、オルトの剣を用いれば、そこらのなまくらならば剣ごと両断することも可能だとヴァレリアは断言した。むろんそれはヴァレリアの実力をもってすればという話であり、ユキヒトにはどんな名剣を用いようと、剣で剣を両断するという事が可能な気が全くしなかった。

 とはいえそのような無理を通すような剣術はヴァレリアの好むところではなく、それが可能な剣を普段から使っていたのではいざという時にその剣を使えない事が生死を分かちかねない。彼女はそう言って、わざわざ普段は明らかに見劣りがする剣を使っている。

「……勘か?」

「ええ」

 ヴァレリアはなかなかに勘が利く。特に根拠はなくとも、彼女がそうなるのではないかと予想したことはしばしば当たった。

 それならば、明日は厳しい日になるかも知れない。ユキヒトは漠然とそんな事を思った。

「……」

 会話が途切れ、静けさが訪れる。ユキヒトは、一つ大きく息を吸った。

「……聞きたい事があるんだ」

「何ですか?」

 ユキヒトの真剣な声に、ヴァレリアのそうでなくとも伸びた背が、さらにぴんと張り詰める。躊躇いで一呼吸置いた後、ユキヒトはその質問を口にした。

「……今回のこの任務、志願したのか?」

 彼女の所属は治安維持部隊である。騎士団所属には違いないが、軍事と言うよりは警察を司る部門であり、モンスターの襲来時も出撃の優先順位は低い。少なくとも、このように特殊な任務を帯びた少数部隊に組み込まれやすいような所属ではないのだ。

 それでも彼女はここにいる。ならばそこには何らかの意思が働いたと考えるのは不自然な事ではないだろう。

「……」

 しばらく、ヴァレリアはじっとユキヒトの目を見つめる。切れ長の目に見据えられて、ユキヒトは心臓が少し早く鼓動するのを感じた。

 一体自分はどんな答えを望んでいるのか、ユキヒトには分からなかった。

 志願したと言われれば嬉しいのかも知れない。憎からず思っているヒトが、自分の為に危険を顧みず駆けつけてくれたのであれば、それを喜ばないものなどいるだろうか。しかしその反面、そう答えられることを恐れる気持ちが自分の中にある事も、ユキヒトは自覚していた。

 ユキヒトの覚悟が決まる前に、ヴァレリアが口を開く。自分で問いかけておきながらまだ答えを言うのは待ってほしいと思ってしまうあたり、自分は身勝手だとユキヒトは思った。

「志願してはいません」

 きっぱりと、ヴァレリアは言う。その答えに微かな落胆と、しかしどこか安心をユキヒトは感じた。その相反するような感情の説明をつけることは、ユキヒト自身にもできそうになかった。

「……でも、選ばれて嬉しかった。私は小隊長で、私の隊の任務は治安維持ですから。部下たちの為にも私情で本分から外れる危険な任務を志願するわけにはいきません。それでも、選ばれたのならば私は躊躇わずに己の全力を尽くせます」

 しかしそれも、ヴァレリアのその言葉ですっかりと解けた。

 それが自分の望んでいた答えなんだとユキヒトには分かった。

 そうやって生真面目で分別があり、少し不器用で、その上にひどく素直で時々どきりとするような事を言うのが彼女の魅力なのだとユキヒトは思う。そして、自分の為にそんな彼女に己を歪めて欲しくなかった。それでいて自分の事を気にかけて欲しいという我儘までも全て満たしてくれるヴァレリアが、ユキヒトには嬉しかった。

「……ありがとう」

「変な事を言いますね。いったい私は何でお礼を言われたんですか?」

「……はは。なんでだろうな。本当にありがとう」

 不思議なほど穏やかな気持ちになって、ユキヒトは思う。

 ああ、自分はこの人にこんなにも惹かれているのだと。

 ベルミステンに帰ったら、今までとは少し違う気持ちで彼女と向き合ってみようと、そんな事をユキヒトは思った。

 









 明日は厳しい一日になるからというヴァレリアの言葉に従って眠りに就いたユキヒトは、朝まで眠りを妨害される事もなく、穏やかな気持ちのままに目を覚ました。

 確かに厳しい日となるかも知れない。危険な目にあう可能性もあるだろう。それでも今のユキヒトには、それを恐れる気持ちが殆どなかった。

 しかし何を恐れる事があるというのか。傍らには、この世界で最も信頼するヒトがいる。ただそれだけのことと言えばその通りだ。それでもただそれだけで、自分でも不思議なほどに安心と勇気を得られる自分をユキヒトは感じていた。

 一行は森の端、もっともベルミステンに近い辺りまで進行していた。計画としては、騎士団主力が出陣し、ある程度モンスターを蹴散らし、優位な状況になったのを見計らって、ベルミステンへ帰還することとなっている。

 騎士団主力とモンスターたちとの戦闘については、一行は揃ってさほど心配していない。確かにベルミステンはヒト同士の争いの脅威に晒されなくなってから随分と経つが、ロマリオ皇国の主要な街の一つであり、有事ともなればそれなりの兵力の供出を義務付けられているために常備軍の戦力はかなりのものだ。そもそも騎士団が警察機能も司っている関係から、都市の規模が大きくなればヴァレリアの様な衛兵の数は増え、いざとなればその治安維持部隊も都市防衛に駆り出される為に、防衛力は街の規模にほぼ比例して大きくなる。

 確かに今回のモンスターの襲撃は見た事がない規模のものだ。しかしベルミステン騎士団の実力と数を考えれば、十分退けられる数と判断されていた。

「それでは、移動開始です」

 森の端とはいえ、ベルミステンまではそれなりの距離がある。直接視認することはできないが、戦闘は既に開始されている時刻だ。

 騎士団に促されて、一行は出発する。

 森から抜けたとはいえ、まだ十分に視界が確保できる開けた場所ではない。騎士団が機敏に周辺を警戒し、安全を確認しながらの進行だ。決して速いとは言えないが、それでも確実に進んでいく。

 途中、モンスターと遭遇する事もあったが、向こうも本隊からはぐれているものらしく、大した数でもなければ、当然のことながら連携も取れていない。あっという間に騎士たちに斬り伏せられる。

「……危険になったら自分の身は自分で守れって言われてもな……。こう楽勝じゃ、気も緩むぜ」

 見事な練度を見せる騎士たちに、半ばあきれたようにランクースは言う。ベテランの冒険者だけに、そうは言いながら周囲の警戒は怠っていないものの、その感想もただの軽口と言うには真情の入った言葉だった。

「あの姉ちゃんはやっぱりすげえな……殆ど首を一薙ぎか。お手本みたいな剣術だ」

 そんな腕利きの騎士たちの中にあっても強い輝きを放っているのがヴァレリアだ。贔屓目なしに見て、その剣術の鮮やかさは群を抜いていた。

「……ええ」

 短く、ユキヒトは返す。

 ユキヒト自身、ヴァレリアと剣の稽古をした事は数えきれないほどあっても、彼女とモンスターの交戦を見るのは初めてだ。そしてこうも違うものかと、殆ど惚れ惚れとするような思いを抱く。

 もちろん、ユキヒトとの剣の稽古の際にヴァレリアが手を抜いているわけではない。ユキヒトなど、ヴァレリアは手加減という言葉の意味、もしくはその仕方を知っているのだろうかと半ば本気で疑っているほどだ。

 しかしそれでも、稽古と実戦は違う。相手を打ち倒そうという気迫と、相手の命まで奪い去ろうという殺気は、明らかに異なる。

 ヴァレリアと対峙すると、稽古の時ですら足が竦むほどの気迫をぶつけられる。あり得ないとは思いながら、ヴァレリアと真剣を交えることになれば、自分が正常に動けるという自信がユキヒトにはなかった。

 殆どの敵はランクースの言う通り、、鮮やかに一閃、首筋を斬られている。モンスターと言えども生物、その部位を斬り裂かれて生きていられる種族は多くない。とはいえ狙うのが難しい部位だ。それを狙うのはどうやら、剣の消耗を考えての事らしいとユキヒトは気づく。

「……しかも、あの剣、どう考えても使ってない奴の方が業物だな」

「鋭いですね」

 ヴァレリアの趣味も考慮して、オルトの剣には余計な装飾が施されていない。鞘に収まったまま抜かれる気配すらないそれだが、見るものが見ればその剣に宿る強力な魔力に気づくだろう。魔法金属であるオリハルコンとオルトが選りすぐった良質の鋼の合金製、更にユキヒトが一世一代の思いで施した魔法陣が宿る魔法剣だ。見るものが見れば、その剣が並のものではないのは分かる。

「どこの刀剣工房と魔術師の作だ? 見ただけで分かるレベルの業物なんぞ、なかなかないぞ」

「刀剣工房『湖亭』オルト・ハインの作です。魔法陣は……俺が」

「お前さんが?」

 不躾なほどにまじまじとユキヒトの顔を見るランクース。その視線にわずかに居心地の悪いものを感じながら、ユキヒトは一つ頷いた。

「さすがにあの大魔術師ケイガルドがわざわざ探索に連れてくるだけの事はあるな。その若さで大したもんだ。刀剣工房は『湖亭』か。今度一振り、作ってもらうかね」

「お待ちしています」

「……?」

 飲み込めない、というように怪訝な表情をするランクースに、ユキヒトはにやりと笑った。

「俺は『湖亭』の見習い職人なんです」

「おいおい……あれだけの魔法陣を扱える魔術師の上に刀剣工房の職人? 欲張りすぎだろう」

「『湖亭』のオルトさんに恩があるんです。それに、鍛冶も好みにあったもので」

「そうかい。しかしまあ、魔術師を抱えた刀剣工房か、大したもんだ」

 通常、刀剣工房で魔術師を抱えている事はない。むろん、ある程度以上の刀剣工房になれば、顧客から作製した刀剣に魔法陣を施したいというオーダーも増えてくるため、付き合いのある魔術師というものも自然にできる。しかしながら一流の魔術師に魔法陣を依頼すればかなりの金額が必要になるため、必ずしも施されるとは限らない魔法陣の為に工房で魔術師を抱えるのはコストパフォーマンスが悪すぎるのだ。

 ユキヒトの場合、実際にはオルトの弟子であってもお抱えの魔術師ではなく、貰っている給金にしたところで鍛冶師見習いとしてのものである。オルトもそのあたりは弁えていて、工房の顧客に対して弟子であるところのユキヒトが魔術師である事を明かす事もないし、ユキヒトに対して魔法陣の施術を要請する事もない。

「さて……そろそろ、ベルミステンが見えてくるころか」

 小高い丘の頂点に差しかかり、そこからならベルミステンが見えるはずだった。そこで戦況を確認後、ベルミステンへ向けて一挙に進行する。その予定だった。

「戦況は……おお、流石ベルミステン騎士団だな」

 ランクースが戦場を眺め、ほっとした声で言った。

 打って出たらしい騎士団は、街から随分と離れた地点までモンスターたちを追い返している。まだ交戦は続いている様子だが、この押し込んだ状況であれば、勝利も間近であろう。

「それでは、迅速に街の中へと入ります」

 騎士たちは流石に気を緩めた様子はなく、冒険者達とケイガルド、ユキヒトを真ん中に包むように布陣し、行軍を始める。

 救出対象であるケイガルドがそれなりの年齢である事を考慮しているのか、やや早足ではあるものの遅れそうになるほどでもない。前線も遠く、ベルミステンにたどり着くまでにその近くを通らなければならない事もない。危険はどうやら無いようだった。

 ヴァレリアの勘も今回は外れたらしいなとユキヒトは内心で胸を撫で下ろす。

 その時、遠くから爆発音がした。

 何の音かと、音がした方を見る。どうやら騎士団とモンスターたちが戦闘している辺りから音がしたという事は分かるが、何の音かは分からない。騎士団の面々にもそれは分からなかったらしく、彼らもまた一瞬足を止め、音の方を向いた。

「……何だ?」

 ユキヒトは小さく呟く。なぜか今の音に、ひどく不安を覚えた。

「……」

 そして、再び同じ音。今度は数回、立て続けだ。

 ファリオダズマにも火薬は存在する。しかし、それを戦闘に用いるという習慣はない。代わりとなるのは魔法だ。しかしながら威力のある魔法を精緻に発動させるのは非常に難しく、魔法による攻撃は交戦に入る前、遠距離からと相場が決まっている。

 では果たして、この爆発音は何なのか。少なくとも、ベルミステンの騎士団によるものではない。そうであるならば、護衛の騎士たちがこのように怪訝な表情をするはずがない。

「……え……?」

 呟いたのは、誰だったか。そこには信じられない光景があった。

 騎士団が後退している。いや、はっきりと言えば、潰走している。パニックに陥ったように、隊列もなく、秩序もなく、てんでばらばらに逃げ去っている。

「……総員、全速力でベルミステンへ! 護衛対象を脱落させるな! 駆け足、始め!」

 何が起こったのか、詳細は分からない。しかし、異常事態である事だけは確かだ。中隊長が叫ぶと、立ち止まっていた騎士達が、一斉に走りはじめる。

「……ユキヒト、走れますね!?」

 後衛をつとめるヴァレリアにせかされ、ユキヒトも走りはじめる。隣では、ケイガルドが思いきり渋い表情をしつつ、同じように走り出していた。

 距離からして、騎士たちより前に街へ入れるかは微妙なところだ。そして、騎士たちが街の中へ入ってしまえば、門を開けておく道理などどこにもない。そうなれば結果は火を見るよりも明らかだ。ならば今はとにかく全力で走る。それだけだ。

「くそ、何だってんだ!」

 ランクースが走りながら悪態をつく。それに応えたのは、ケイガルドだった。

「ふん。筋道を立てて考えれば分かる。ヒトが行わない交戦状態に入ってからの大規模魔法による攻撃。それによる騎士団の潰走。そんな事が出来る種族はそう多くない。メデゥーサか、キメラか、あるいはデモンか……いずれ、最悪の部類だ」

 モンスターは魔術的要素を備える生物である。中には、ヒトのように魔術を用いて敵を攻撃する種族もある。ケイガルドがあげたのは、それらの種族のうち、特にそれに長けた種族だ。

 流石に魔術の専門家だけに、ケイガルドの推測はかなり正確なものであるように思われた。それだけに、事態は最悪だった。

 それらの種族と言えど、流石に単体でこうも連続で大規模な爆発を起こすような魔術を扱えるわけがない。危険度最上位に分類されるそれらのモンスターが、まず間違いなく相当数。

「……最悪だ……」

「ふん。そう言っているだろう」

 五十人程度の集団でどうにかできる話ではない。とにかくベルミステンへ逃げ込む事、それだけを考えるべき状態だった。

 とにかく全力でベルミステンへ。交戦を行なっていたベルミステン正規軍も、今はその体面を保つことすら忘れて、ひたすら街を目指して走っている。

 一部の部隊はまだ踏みとどまっているのか、今のところモンスターの追撃が激しいようには見えない。とはいえ、この状況では遠からず支えきれなくなるだろう。時間との戦いだった。

 爆発音は、断続的に続いている。仲間の為に踏みとどまった勇敢な騎士たちのうちどれほどが、無情にもその体を引きちぎられた事だろうか。それは確かに無視できない悲劇ではあったが、今のユキヒトにそれを思う余裕はなかった。なんとなれば、己とてしばらく後には同じ運命をたどる可能性があるのだから。

 ひたすらに走る。騎士たちは野戦用の鎧を身に纏っており、その点、軽装備の冒険者たちと比べれば負担は大きい。とはいえ一行で最も足が遅いのは、救出対象である魔術師のケイガルドである。ままならない行進に、特に雇われ者に過ぎない冒険者たちがかなりのストレスをため込んでいるのをユキヒトは感じた。

「……くっ……」

 味方の戦況を横目に、ヴァレリアが小さく声を漏らす。踏みとどまる部隊もついになくなったのか、ついにモンスターによる激しい追撃が開始された様子だ。戦闘のうち被害が最も甚大になるのは撤退時である事は常識である。まして、殿をつとめる部隊もろくにない有様では、戦闘以前に虐殺でしかない。

 その日、ベルミステン騎士団は、その長い歴史の中で対モンスター戦において最大の被害を記録することとなった。










「……痛恨の極みでした。亡くなった方、重傷を負い任務に復帰できなかった方の中には、私の知り合いもいます」

「何もかも自分のせいみたいな顔をするのは、やめた方がいい」

「分かってはいます」

 本当に分かっているのかと重ねて問いたくなるような、深い懊悩を刻んだ表情のままに、ヴァレリアは答える。

「あの日、何が悪かったのかと問われれば……皆が皆、油断していたのでしょう。モンスターに知性などなく、よって戦術などという高度なものを使用するはずもない。戦力を隠しているはずもないのだから偵察もそこそこ、伏撃も警戒せずにひたすらの力押し。ヒト相手であれば、散漫と言われて仕方のない戦闘です」

「でも、モンスター相手であればそれが常識だった。むしろモンスター相手の場合は、力押しの短期決戦の方が重要だった。だから、落ち度があったとは言えないよ」

「……私があの場にいれば何かを為せたと、その様な事は思っていません。死んだ、もしくは重傷を負った者の名前が少し違うだけ、それだけのことでしょう。それでも……上手く割り切ることはできません」

 少しうつむいて、ぎゅっと唇をかむヴァレリア。たかが一介の小隊長が、あの大惨事を食い止められたはずもない。それでも、剣技に優れた彼女がその場にいれば、周りの幾人かが逃げる時間を稼げたかもしれない。彼女が真剣にそんな事を考えている事を、ユキヒトは知っていた。

「……続きを、話そうか」

 何故彼女は自分よりも他人を大事にしてしまうのか。それを悲しく思いながら、ユキヒトは言葉を続けた。












 一行が門の付近まで来た時、ほとんどの騎士たちはベルミステンへの帰還を果たしており、モンスターはかなり街に近い位置まで追撃をして来ていた。

 外壁の上に立つ騎士たちが、弓や魔法でモンスターに攻撃を加えているが、それもモンスターのあまりの数に、ほとんど足止めもできていない。

「……突破!」

 中隊の指揮をしている騎士が、短く鋭い声を発する。指示を受けて、前衛の騎士たちが剣を構える。

 帰還が遅れている一行の前には、すでに一部足の速かったモンスターたちが群れをなしている。それをわざわざ迂回していたのでは、街から遠ざかり、モンスターに近付く一方だ。切り捨てながら進む、それを一行は選択した。

 流石に精鋭の選抜隊だけの事はあり、ゴブリンやコボルドといった下級のモンスターは、鎧袖一触だ。

 あっという間にモンスターを突破し、門を目指す。周囲にはもはや、逃げ遅れた騎士たちもいなくなっている。

「……門が……閉じ始めてる!」

 退却はほぼ完了し、これ以上門を開けていたのではモンスターが乱入する恐れがあるのだろう。門は閉じられ始めていた。

「全速前進! 取り残されれば死ぬぞ!」

 いかに精鋭と言えども、これからモンスターの群れを再度突破し、安全な場所まで逃げるなどという芸当は無理だ。突破した先からモンスターが群がってくる状況、いつ魔術を行使し騎士団を潰走に追い込んだ上級モンスターが現れるかも分らない。

 前衛が道を切り開き、中衛はその道を広げつつ中心の護衛対象を守る。後衛が追撃を振り払い、ひたすらに前進する。

 流石に騎士たちも余裕がなくなってきたらしく、護衛がやや雑になりはじめる。冒険者たちもそれぞれの得物を手に、襲いかかってくるモンスターたちを切り捨てながら走る。

 護衛対象であるところのケイガルドは、流石に年齢から体力の限界が訪れているらしく、もはや足を引きずるようにして走っている。

「ケイガルド師、手をお貸ししますか?」

 いまだ余裕を見せるヴァレリアがそう声をかけるが、ケイガルドは、息を荒くしながらも首を左右に振る。弱音や泣き言を言わないのは、偏屈な老人なりの意地と言うところなのだろう。

「……了解しました」

 近づいてくるモンスターを切り捨てながら、ヴァレリアは頷き、遅れがちなケイガルドのそばに寄った。ユキヒトもまた、偏屈なかつての師をかばう位置で走る。

「……ふん。この……ような、偏屈…老人など、捨て置けば……よい、のだ。自分……命が、他人のそれより、大事なはず……なかろうが」

 ぜぇぜぇと荒い息の合間を縫うように、ケイガルドが言う。それを聞いて、ヴァレリアはあろうことか、にこりと微笑んだ。

「その様な悪態がつけるようなら、まだまだお元気ですね。もうひと頑張りお願いします」

「……ふん」

 ヴァレリアの言葉を聞き、ケイガルドがわずかながら足を速める。ヴァレリアはそれに手を貸すことはなく、ただすぐ後ろを走った。

 群がるモンスターたちでは、ヴァレリアの足止めにもならない。流石にすべてを防ぐことはできなくなっているが、ヴァレリアとその部下たちが討ち漏らした僅かな数程度であれば、ユキヒトでもどうにかできる。ひとまずは安定した状況だ。

 とはいえ、その安定もきわどい事は分かりきっている。疲労があるのはケイガルドだけではない。ユキヒトとて相当の疲労を感じているし、表面上は平然とした顔のヴァレリアにしたところで、わずかながら太刀筋が乱れ始めている。

 予想外の事態であるからこそ醜態をさらした騎士団ではあるが、敵に脅威となる上級モンスターがいると分かっていれば対策も立てようがある。危機ではあるが、一度体勢さえ立てなおせば、致命的ではない。まずは街へ逃げきること、それが何より肝心だ。

 ようやく、前衛はモンスターの群れを突破する。ベルミステンの堀にかかる跳ね橋に先頭がたどり着いた。

 そうなれば後は、中衛が前衛のこじあけた穴を広げ、後衛がそれに続くばかりだ。

 最重要の護衛対象であるはずのケイガルドは、足の遅さがたたり、最後衛の位置まで来ていた。周辺を護衛するのは、ヴァレリアの小隊くらいのものだ。ケイガルドに合わせていたのでは全部隊が立ち遅れる。やむなしの措置だった。

「……抜けましたか!」

 流石のヴァレリアも、感情を隠しきれない声をあげる。

 ヴァレリア達最後尾も、跳ね橋までたどり着く。重い扉は、閉めるにも時間がかかる。

「……むっ!?」

 その時、体力の限界が訪れていたケイガルドが、足をもつれさせて倒れる。

「!?」

 ヴァレリア、その部下の騎士たち五人、ユキヒトが足を止める。振り返れば、モンスター達はすぐそこまで迫ってきている。

「立てますか!?」

「……むう……」

 ユキヒトが焦りから声をかけるが、ケイガルドの手足はぶるぶると震え、簡単には立ち上がれそうにもない。

「……皆、ケイガルド師を抱えて走りなさい!」

「しかし、それでは!」

 とても、肉薄しているモンスターからは逃げられない。そう言おうとする部下に対して、ヴァレリアは手に持っていた剣を鞘に納めた。

「この場は、私が食い止めます!」

「ヴァレリア!?」

 元々使っている剣に代わって、オルトの剣を抜き、ヴァレリアが凛々しく宣言するのに、ユキヒトは悲鳴のような声をあげた。

「待て……わしのような老いぼれの為に、若いものがあたら命を捨てるでない……」

 ケイガルドが、息を切らせながらそう言う。偏屈だが、誇りの高い男だ。自分の為に他人を犠牲にするなど、耐えられないのだろう。

「行きなさい!」

「しかし、小隊長!」

「命令です、聞けないというんですか!」

「……!」

 ヴァレリアの言葉に、部下たちがぴんと背筋を伸ばす。

「小隊長……御武運を!」

 一人がケイガルドを抱え上げ、残りの四人も後退する。

「ヴァレリア!」

「ユキヒトも連れて行きなさい!」

 声をあげたユキヒトだが、ヴァレリアの部下が引きずるように連れていく。

「……貴方に施してもらった魔法陣……無駄にはなりませんでした」

 ヴァレリアが、剣を構える。その横顔がかすかに微笑んでいるのが、ユキヒトには見えた。

「はっ!」

 ヴァレリアが気勢をあげると、青白い半透明の障壁が現れる。

 ユキヒトがヴァレリアの依頼を受けて施した魔法陣。それは、魔力に反応し魔法の障壁を張るという仕掛けの施された魔法陣だった。

 ヴァレリアは魔法の扱いが上手くない。それを補うための魔法陣だ。

 剣としての完成度はもう十分。それより、剣だけでは救えない人を救うために、剣とは異質の力を。それをヴァレリアは望んだ。

「ヴァレリア……ヴァレリア!」

「いい加減に聞き分けてください! 小隊長があそこに残っているのは、貴方を逃がすためでもあるんだ!」

 ヴァレリアの部下の言葉に、ユキヒトは理解してしまった。それが、どうしようもないほどに、本当の事だと。

 不器用な彼女の、下手な好意の示し方。だから彼女は、笑って死地に立つ。

「……っ!」

 それが分かってしまったからこそ、ユキヒトは門に向けて走り出す。ヴァレリアの部下たちに囲まれ、かつての師を追い立てるようにして、街へと向かう。

 門はもはや閉じられる寸前だ。ヴァレリアを見捨てるという宣告にも等しいその事実が、ユキヒトの心をかきむしる。

「ああああああああああああああっ!」

 自分でもよく分からない叫び声をあげて、ユキヒトは騎士たちとともに門の中へと駆け込む。

 ぎぎぎ、と重い音を立てて門が少しずつ閉じられていき……

「ああああああああああああああああああああっ!」

 叫んで、ユキヒトはその門から再び外へと飛び出した。

 直後に、ずしんと重い音を立てて、門が閉ざされる。退路を失ったユキヒトの心は、不思議なほどに穏やかだった。

 門が開かれることはない。援軍もない。もちろん、この辺り一面を囲うモンスターの群れを蹴散らす手段もない。それらすべてを十分に理解してなお、ユキヒトの気持ちは澄み渡っていた。

 ユキヒトは走り、橋の半ばで魔力障壁を用いてモンスターを押しとどめているヴァレリアの隣に立つ。

「ユキヒト……」

 魔力障壁を維持しながら、ヴァレリアが彼の名前を呼ぶ。その声には、様々な感情が込められていた。悲しみ、怒り、呆れ、そしてかすかな喜び。

「……どうしてですか」

「ヴァレリアに死なれて生きていくくらいなら、ヴァレリアと一緒に死んだ方がましだ」

「我儘ですね。貴方が死んで悲しい思いをする人は、たくさんいるというのに」

「……返す言葉もない」

「私だって、貴方には生きていてほしかった」

「すまない」

「でも……私は、少しだけ嬉しかったです」

「そうか」

「剣を抜いてください。障壁を解除します」

 魔力に反応して生成される障壁である以上、維持しているだけで消耗する。ユキヒトは頷いた。

 そうして、闘いは始まった。











 長く、息を吐く。

 どれだけの時間が経ったか。もはやはっきりとした事は分からない。少なくとも日は暮れていない、分かるのはその程度だ。

「……どうですか、まだ、行けますか」

「どうだろう、分からないな」

 周りには、数えきれないほどのモンスターの死体。しかしながら、こちらも無傷と言うわけにはいかない。

 ユキヒトの使っている剣はもはや刃こぼれで殆ど切れない鈍器と化している。ヴァレリアも、ユキヒトをかばいながら戦う結果、鎧を何度もたたかれ、かなりひしゃげている。二人とも傷は数えきれず、服や鎧を濡らす血はモンスターからの返り血だけではなく、少なからず自分自身のものが含まれている。

「……いよいよキツイな」

「……私は、後悔していませんよ。ユキヒトはどうですか?」

「後悔はしてない。まあ、先生がこけなけりゃ、今頃はもうちょっと楽しい未来の事を考えられてたかな、っていう気はしてる」

「違いありません」

 この期に及んでも、ヴァレリアは笑った。気負いのないその笑顔を見ていると、まだ戦えるんじゃないかと言う錯覚がユキヒトを襲った。

「さて、あとどれくらいか分かりませんが……最後まで戦って見せましょう」

「こうなってから泣き喚いたんじゃ、格好悪いしな」

 手に持った剣の重さがいい加減腕に辛い。投げ出してしまいたくなるのは山々だが、ユキヒトは無理をして剣を構えた。

「さあ、来い!」

 モンスターに言葉が分かるはずはないが、景気づけに大声で叫ぶ。

『よく耐えた、ヒトの子よ!』

「!?」

 突如響いた『声』に、ユキヒトは顔をしかめた。

 それは、空気の振動による音声ではなかった。頭の中に直接響くようなそれは、魔力を使った、テレパシーに近いものだった。

『そなたらの勇と武、我が見届けた。後は任せるがよい!』

 辺りを見渡すが、その魔術を使っているらしい者の姿は見えない。ヴァレリアを見ると、彼女は眼を細め、空の遥か彼方を見つめていた。

 ユキヒトも、その視線を追う。ふと、空に一点、黒い影のようなものが見えた。

「……?」

 それが何なのか分からず、ヴァレリアと同じように目を細め、それを凝視する。

「……! ヴァレリア、魔力障壁張れるか!?」

「……なんとか!」

 近づいてくるものに気付き、ユキヒトがあわててヴァレリアに問いかける。ヴァレリアはそれに応え、意識を集中して魔法陣を発動させる。

 近づいてくるのは、とてつもなく巨大な火の玉。見たこともない超大規模魔術だった。

 着弾、轟音。モンスターの群れのど真ん中に直撃したそれは、ユキヒト達の立っていた場所から相当遠くであったにもかかわらず、凄まじい暴風を巻き起こした。障壁がなければ、ユキヒト達も、少なくとも立ってはいられなかっただろう。

「……なんと……」

 風が収まり、見れば、大きなクレーターができている。直撃を食らったモンスターは、欠片すらも残らなかっただろう。馬鹿馬鹿しいまでの威力の魔術だ。

「……あれは……竜種か!」

 空の黒い点は、徐々に大きくなってくる。そのシルエットを見て、ユキヒトは声をあげた。

 ヒトの守護者、絶対の強者、気紛れな救世主。それが猛烈な勢いで空を飛んでいる。

『竜種ファフリム・ドゥラが命じる! ヒトの子らよ、門を開け反撃に移れ! よもやベルミステンに勇士は二人きりと言う事はなかろうな!』

 テレパシーとともに、再び魔術の発動の気配。モンスター達は算を乱したのか、早くも散り始めている。

「グオオオオオオオオオオオオオ!」

 今度は、鼓膜を震わせる猛烈な雄叫び。それとともに、先ほどと同じ魔術が再びモンスター達に叩きこまれる。

 翼を振るい、竜が舞い降りてくる。ユキヒトとヴァレリアが戦っていた跳ね橋を渡りきった位置に着地すると、竜は周囲のモンスター達を意にも介さず、ユキヒト達の方を向いた。

「見事なり、ヒトの子よ。同胞の危機を前に躊躇わず、死地にあって諦めぬそなたらの勇気、我が見届けた。そなたらのごとき者がおるがゆえに、ヒトの世界は面白い」

 優しいとさえ言える口調で、ファフリムと名乗った竜は言った。安堵と同時に体力、魔力双方が尽きたのか、珍しい事にヴァレリアががくりと膝をついた。

 慌ててユキヒトは彼女を支える。礼を言うだけの余裕もないのか、ヴァレリアはぜいぜいと荒い息をつくばかりだ。

「そなたら、ツガイか? 良くかばい合い、良く戦っておったな」

 はじめ、ツガイという言葉が何を意味しているか分からず、しばらくきょとんとした後、番い、という漢字に行きついて、ユキヒトは顔を赤くした。

「いや、俺たちは別にそういうわけじゃ……」

「そうか。睦まじく見えたがな。まあ良い。……む?」

 何かに気づいたファフリムが、手をかざす。魔力障壁を張った瞬間、その障壁を叩くように爆発が起こった。

「小賢しいわっ!」

 不意打ちを狙ったらしい上級モンスターの魔術攻撃をあっさり防ぐと、ファフリムは敵を一喝し、その巨大な腕を振るい、周囲の何匹かを斬り裂いた。

 その頃になって、門を開閉する装置を動かす音が響き始めた。ベルミステンは反撃に移ろうとしていた。

「ヒトの子よ。名を聞かせてくれ。我はファフリム・ドゥラ。ベルビオ山を住処とする竜の一族だ」

「ベルミステン騎士団所属、ヒューマンのヴァレリア・ロイマーと申す。ご助力、誠にかたじけない」

「刀剣工房『湖亭』見習い職人、ヒューマンのユキヒト・アヤセです。救援、深謝します」

「ヴァレリアにユキヒトか。その名、しかと覚えた」

 名乗り合うと、竜はモンスター達の方へと振り返り、威嚇の咆哮をあげた。






 疲労の激しかったヴァレリアは、流石に反撃作戦には参加しなかった。ユキヒトともに騎士団に保護され、門の中へと入る。

「……流石に……疲れました」

 言葉の通り疲労の極致にあるようで、ヴァレリアに普段の凛とした雰囲気はなかった。力が抜け、弛緩して、しかしどこか満足げにふわりと笑う様は、普段以上の女性らしさのようなものをユキヒトに感じさせた。

「お疲れさま。……もたれかかるか?」

 だからだろう。周囲がばたばたして自分たちに注目しているものなどないとはいえ、道端の石畳に胡坐をかいて座りながら、そんな事を言ってしまったのは。

「……お願いしてもいいですか?」

「……うん」

 ヴァレリアも極度の緊張から解放された直後だったせいなのか、しばらく驚いたように目を開いた後、微笑んで普段はとても言いそうにない事を言った。

 少しばかり恥ずかしいとも思ったが、言ってしまった以上反故にもできない。覚悟を決めていると、ヴァレリアは血塗れになった鎧を外し、ユキヒトの体を背もたれに、すとんと身を預けた。

「……うん、良い座り心地です」

「そうか」

 ユキヒトの肩に頭を預け、ご満悦のヴァレリアに、返すべき言葉もなく生返事をする。

 汗臭くはないかと気になったが、口を開きかけて、それを尋ねればヴァレリアの方こそ自分の汗を気にするだろうと気づき、そっとしておこうと決めた。

 ヴァレリアは完全に体重を預けて来ている。ユキヒト自身の疲れも相当ではあり、負担にならないといえば嘘だが、そこは魔力すらも使いきっているヴァレリアの為、意地を張って耐える。

 余程疲れているらしく、ヴァレリアは眼を閉じ、すうすうと規則正しい呼吸をし始める。居眠りをする彼女を見るのは初めてで、ユキヒトはくすりと笑った。

 ユキヒト自身も、少しばかりの眠気を感じたが、ヴァレリアに寄りかかられた現状では、流石に眠ることもできない。

 やれやれと思いながら、しばらく放心する。

 生きているんだなと、当たり前と言えば当たり前のことを思う。門を飛び出した時、死ぬ覚悟があったのかと言えばそんなことはなかった。それでもあの場所は確かに死地であったし、それを自覚してもいた。

 生きている。死んでいない。自分の力で切り抜けたわけではなく運が多分に関係したが、それでも生き残った。それだけが事実だ。

「……おいおい、見せつけてくれるじゃねえか」

 安堵とともに目を閉じていると、耳になれた声がして、慌ててユキヒトは眼を開く。慌てた拍子にびくりとしてしまい、その動きでヴァレリアが目を覚ます。

「……うん? ああ、ユキヒトすみません、少し眠って……」

「ヴァレリアのかわいらしい寝顔なんぞ、赤ん坊の時以来じゃねえか?」

 寝ぼけて何かを言いかけたところでオルトのからかいが入り、ヴァレリアはがばっと起き上がった。

「叔父さまこれは違います違うんですええもう全く違います見たものは正しくありません忘れるのが良いと思います忘れてください」

「息継ぎくらいしろ」

 跳ね起きて言い訳じみた何かを息もつかずに話しだすヴァレリアに、オルトはにやにやと笑いながら言った。ううう、と小さく唸ったヴァレリアだが、次の瞬間、ふらりと足元をよろけさせた。

「危ない!」

 居心地が悪く座っているわけにもいかなかったユキヒトが、倒れそうになったヴァレリアを支える。

「す、すみません……。少しばかり、血が足りないようです」

「……こんな場所にいる場合じゃないな。診療所へ行こう」

「……大丈夫? ヴァレリア姉さま」

 オルトが連れて来ていたノルンが、心配そうに声をかける。それに対して、ヴァレリアは微笑んだ。

「大丈夫ですよ、ノルン。少し疲れているだけです」

 無論ただの強がりだが、そうとは感じさせないほどの力強さがその声にはあった。

「……叔父さま、申し訳ないのですが、自分では手入れができそうにありませんので、私の剣の手入れをお願いしても良いでしょうか。かなり使い込んだので、両方本格的な手入れが必要だと思うのです」

「全く……こんな時くらい剣の事は忘れろ。新品みたいにしてやるよ」

「頼みます」

「ユキヒト、お前のはどうする?」

「俺のは、もう無理ですね。廃棄処分です」

「そうか、分かった」

 ヴァレリアは、ふらつきながらもオルトに剣を手渡す。

 ユキヒトとヴァレリアは、オルト、ノルンに支えられ、診療所へと向かった。










 診療所には数多の怪我人がいたが、ユキヒトとヴァレリアは二人で一つの部屋を与えられた。

 ヴァレリアは、その様な厚遇を受けるわけにはいかないと他と同じ扱いを希望したのだが、竜に認められた勇者をその様な扱いはできないと、半ば強引に部屋に入れられてしまった。

「……何でしょう、何か……思いもよらないことになっているような気がします」

「……今日は考えるのをやめとこう」

 疲労と怪我による失血で、まともな思考ができる状態にない。それに加えて用意されたベッドのほど良い寝心地は、容赦もなくユキヒトの意識を奪い取っていく。

「お休み、ヴァレリア。また明日……」

「はい、お休みなさい。私ももう、今日は、考えるのが億劫です……」

 そう言葉を交わして、二人は眠りに落ちた。





























 その翌日。目覚めた二人は、刀剣工房『湖亭』での火事と、工房主オルト・ハインの死去を知らされた。




























「……聞いた当初は、ただの火事と言う話でした。不運ではあるものの、良くある話と。しかし、何かがおかしかった」

 オルトがそんな初歩的なミスをすると思えなかった。そもそも、それを知らせに来た衛兵の態度がどこかおどおどしていた。

「だから私は……あの夜、何が起こったのかを自分で調べました」

「……」

 繋いだ手が、痛いほどに握り締められる。ノルンの不安と恐怖を少しでも和らげられるならばと、ユキヒトは優しくそれを握り返す。

「……あの夜。何が起こったのか。ノルン……話してくれますね?」

「……はい」

 殆ど泣きそうになりながらも、ノルンは返事をした。









 その夜。もはや帰ってくる事はないと覚悟すらした大切な人たちが無事に帰ってきた日の夜、ノルンは興奮のあまりなかなか寝付けなかった。

 寝付けないのは父であるオルトも同じであったらしく、帰るなり仕事をはじめ、夜になっても続けている。よっぽど二人が帰ってきたのが嬉しかったんだと、ノルンはそのこと自体も嬉しく思った。

 従姉のヴァレリア。活発で、礼儀正しく、強い従姉。自慢の従姉。憧れの従姉。

 兄のようなユキヒト。物知りで、穏やかで、優しい兄。同じく自慢で、憧れの兄。

 二人は仲が良い。もっともっと仲が良くなれば良いとも思うが、それについては早々急に話が進まないらしい。父や伯父、伯母が時々話しているのを聞く。父も叔父叔母も、二人が結婚することを望んでいるらしい。そうなれば良いなとノルンも思う。

 今日、二人が街に帰ってきた直後、ヴァレリアがユキヒトにもたれかかって居眠りをしていたと父は言っていた。ヴァレリアは、見たこともないような安心しきった緩んだ表情だったと。

 いつもきちんとしている従姉のそんな顔を、自分の目で見る事が出来ないのはノルンにとってつらい事だが、起きた時の少し寝ぼけて緩んだ声を聞けば、従姉がどれだけ気を許していたかは分かる。それで自分には十分だとノルンは思った。

 興奮してどうにも眠れない。ノルンはベッドから起きだした。

 父はまだ仕事をしているのだろうかと、工房の方へ歩いていく。外を歩くときは杖を使うが、この家の中ではそんなものも必要ない。どこに何があるのかはしっかり頭に入っているし、ノルンの為に部屋の中はいつもきちんと片づけられていて、何かに躓く恐れもない。

 工房に続くドア。防音の為に鉄製になっていて重いそれを、ノルンは体を押しつけるようにして開く。工房に入ればしかられるのは分かっているが、こんな日くらいは許してほしい。そう思って、ノルンはドアを開く。

 瞬間、鼻につく異臭に気がつく。

「……」

 何の臭いだ。いや、分かっている。これは、今日の昼間に嗅いだ臭いだ。

 汗と、血の臭い。

 汗の臭いはいつもの事だ。仕事中の工房の中は暑く、父もユキヒトも汗だくで仕事をしている。その匂いは嗅ぎ慣れたものだ。

 血の臭い。何故血の臭いがする。分からない。何故、工房で血が流れている。いや、そもそも、血を流しているのは誰だ。こんなにもはっきりと臭うほど、大量の血を流しているのは、一体誰なんだ。

「……ノルン……」

 その苦しげな声が、ノルンの敏感な耳にははっきりと届いた。届いてしまった。

「逃げろ……」

 父の声。呻く様な、父の声。血を流しているのは、他の誰でもない、父であるオルト……。

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 全てを理解し、ノルンは絶叫した。










「お父さんが……。お父さんです、お父さんが血を流していたんです……」

 魘される様な声、蒼白な顔。悪夢を見ているような語り方に、それでもユキヒトとヴァレリアは話を止めなかった。

「怖くて怖くて、私は叫んでいました。なんで、どうして、全然分からなくて、ただ、怖くって……」

 とうとうノルンが、こらえていた涙を流す。

「ずっと叫んでいたら、息が苦しくなって、でも自分じゃ呼吸もできなくて、ずっと叫んでて……そうしたら、何かが爆発した音がしました。それで私は吹き飛ばされて、倒れて気を失ってしまって……次に起きたら、診療所にいました」

 それだけ言って、とうとう声をあげて泣きじゃくるノルンを、ユキヒトはぎゅっと抱きしめた。

 ヴァレリアは、何かに耐えるように目をつぶり、ぎゅっと拳を握る。しばらく泣き続けたノルンは、叫ぶように続きを話し始めた。

「……でも、でも、でも、でも! 本当は知ってるんです! 何かじゃない。爆発したのは、何か分からないものなんかじゃない! 私です! 爆発したのは、私の魔力だったんです!」

 生まれつき目が見えないノルンは、その他の感覚がヒトより鋭い。嗅覚。聴覚。触覚。味覚。そして……魔力。

 恐怖の絶頂が、力の制御も知らないノルンに魔術を使わせた。ただ乱暴に、原始的に、魔力を爆発させた。ただのヒトであればそんなことで魔術と呼べる規模の何かを発動することはできない。ノルンの高い魔力だからこそ起こった現象だった。

「だから……だから、あの日、あの時まだ生きていたお父さんを殺したのは、わ、私かもしれない!」

 少女の悲痛な告白に、ユキヒトはノルンを抱きしめる手にさらに力を込めた。

「私が、私が殺したの! お父さんを、お父さんを! 大好きなお父さんを!」

「……いいえ。貴方の父を……叔父を、オルト・ハインを殺したのは、私です」

 震える声で、ヴァレリアが言う。

「私は調べました。あの夜、何が起こったのかを。叔父さまは、あの夜、強盗に入られ、刺されました。強盗の目的は……私の剣です」

 ヴァレリアが両手で自分の顔を覆う。剣を持たせれば恐れを知らない猛者である彼女が、か弱い少女のように震える。

「竜に認められた騎士の剣。もちろん表の市場に出せるものではありませんが、裏に回れば、そう言ったものに莫大な金を出す好事家は数えきれないのだそうです。何か自分を取り巻く状況が大変な事になっているような気がしていたのに……。私は、何の手も打たなかった!」

 罪を告白する罪人そのものの表情と声で、ヴァレリアは叫ぶ。

「だから、ノルン……。私なんです。全ての原因はこの私。だから貴女は……私を憎んでいい。貴女がそれを望むなら、貴女に刺されて死んでも構わない!」

「わあああああああああああああああああ!」

 そんなことは聞きたくなかったと、ノルンは大声で泣き喚く。抱きしめるユキヒトを、かつてない力で振りほどき、ヴァレリアの元へと突進する。

「お父さん! お父さん! お父さん! 返して! お父さんを返して! 返してよ! 返してよおおおおおおお!」

 本当の元凶はヴァレリアなどではないと、そんなことは分かっているはずのノルンが、泣きながら何度もヴァレリアの胸を叩く。癇癪を起した幼い子供そのままのその行動を、ヴァレリアはただ受け止めた。

「……一番醜いのは、俺だ」

 やがてノルンが疲れ切り、小さくぐすぐすと鼻をすするだけになった頃、ユキヒトは呟くように言った。

「……ヴァレリアを助けに行かなければよかったと思った。結局のところ俺はそんなにヴァレリアの助けになれなかったし、ヴァレリアなら多分ファフリムが助けに来てくれるまで、一人でも耐えきれた。だから俺が助けに行った意味なんかなくて、オルトさんのところに帰ってれば、そんなこと起こらなかったって、そんな風に考えた。真剣に、そんな風に思ってしまった」

 殆ど恐怖するような思いで、ユキヒトはその思いを吐露する。

「……ヴァレリアの事、見捨てればよかったなんて、そんな事を思ったんだ。大事なヒトのはずなのに。誰よりも大事なヒトなのに、見捨てればよかったなんて……俺は!」

 その事がユキヒトには許せなかった。余りにも薄情な自分にぞっとした。何より許せないのは、そんな気持ちをいまだに捨て切れていないことだった。

「誰も彼も、自分のせいだと思って。そんなんだから、いつまで経っても、俺たちはこの街に帰ってこれなかった」

「私だって、あの日から一歩も前になんて進めていません。ファフリム殿から竜騎士の称号を贈られて、異例の昇進をして中隊長になったところで……。結局私の時間はあの日のまま、止まってしまっている」

「……」

 こうなる事は分かっていた。あの日の事を話しあえば、ここに行きつく事は分かっていた。

「どうすれば、決着をつけられるんだろうって思ってたんだ。ずっと。全員が納得できる答えはどこにあるんだろうって。それがなきゃ、俺たちはもう前になんか進めやしないだろうと、そう思ってた」

 長く長く、ユキヒトは息を吐いた。

「無理だ。俺たちは結局、あの時のことをそれぞれずっと後悔し続けなきゃいけない」

 断ち切るように、ユキヒトは言った。

「……もう、取り戻せないんだ。後悔は後悔として、ずっとそのままなんだ。いつか納得できる時が来るかもしれないけど、時々夢にも見るかもしれない。もう、そう言う事になってしまってるんだ」

 過去をなかった事には出来ない。過去に起こってしまった事はもうどうにもならず、それが悔やむべき事柄であるならば、もはや取り返しようのないそれを、人は後悔することしかできない。

「それでも、前に進むしかないんだ。納得できなくても、どこかで折り合いをつけなきゃいけないんだ。……そういうものなんだ」

「それは、苦しい事ではありませんか? 答えが欲しいと思うのは、いけない事ですか?」

「苦しい事だろうし、いけない事ではないと思う。もしかしたら、いずれ何かしらの納得はできるかもしれない。だけどそれには、一人で考え込んでたんじゃ多分だめだ。現に俺たちは結局今まで、あの時から一歩も進めてないだろう?」

「……だけど……」

「怖いのは分かる。言葉にしたくもないし、思い出したくもない事だ。だけど本当に怖いのは……いつまでもそれにとらわれたままでいる事の方だ」

「……」

「何回も思い出して、悲しい思いもするだろうけど……とにかく、前に進むんだ」

 それが正しい事なのかも分らない。それでも、そうしなければならないんだとユキヒトは思った。

 疑問を持たず、自分の道を行くヒト。挫折を知らず躊躇いなく未来へ進むヒト。己の道をひたすらに究めるヒト。誇りを持つヒト。諦念を抱きながらももがき続けるヒト。過去を振り払うためにただ現在に打ち込むヒト。

 様々なヒトと出会ってきた。それぞれが己の道を歩いていた。皆前に進みながら、足を止め、停滞した自分の事を気にかけてくれた。

「オルトさんの剣、今はどうしてる?」

「……使えていません。ずっと、家の倉庫に押し込めています」

 問われてヴァレリアは眼をそらす。それが、ヴァレリアが心に負った傷の形だった。

「俺に、鍛え直させてくれ。それができたら……新しい剣を一振り、打たせてほしい」

「……分かりました。あの剣、貴方に託します」

 覚悟を決めたように、ヴァレリアは頷く。それに対して、ユキヒトは頷き返した。

「ノルン」

「……はい」

「オルトさんはノルンに逃げろと言った。つまりもう自分は助からないと思ってたんだ。だけど、それだけじゃノルンが自分を責めるのを止めることはできないだろう」

「……!」

 びくりと、ノルンが震える。

「……俺は、オルトさんが死んだのはノルンのせいじゃないと思ってる。だけど、もし、本当にもし、それがノルンのせいだったんだとしても、俺はノルンのそばにいる。ノルンが平気になるまで、いつまででもそばにいる」

「……はい」

 うつむいて、ノルンが唇を噛む。甘くはない。それでも、それがノルンの望むことだった。

「……もう一度始めよう。この街で。前に進むんだ。行きつく先は分からなくても、きっと……」

 そのあとの言葉は紡げず、ユキヒトは空を見上げた。

 太陽が、眩しかった。














『最愛のヒトへ 君と再び始めることを誓って ユキヒト』







[8212] 得るものと棄てるもの
Name: yun◆04d05236 ID:7d24e2c9
Date: 2010/11/29 02:05



「……少し、休んだ方がいいんじゃないですか……?」

 遠慮がちにかけられた声に、ユキヒトは手を止めて窓の外を見た。

「……ああ、いつの間にこんな時間になってたんだ」

 昼食の後から仕事を始めたにもかかわらず、外の光はすでに赤い夕陽となっている。気づいてみると自分の全身にも随分と疲労がたまっている。これ以上仕事をしていたのでは思わぬミスが出ると、今日の仕事を終える事をユキヒトは決めた。

「最近、お仕事しすぎだよ……。病気になっちゃうよ」

「うーん、最近は集中して仕事ができるから、つい……。大丈夫だよ」

「……」

「分かった分かった。じゃあ、明日はヴァレリアも非番だから、一日休みにしてヴァレリアをお昼に呼ぼうな」

 心配そうな表情をするノルンに、ユキヒトは笑って言うと、ぽんぽんと頭を撫でた。

 山の中の工房では、年齢に不相応なほどの聞き分けの良さを持っていたノルンだったが、心に痞えていたものを吐き出したためなのか、ユキヒトに対して素直に心情を吐露する頻度が高くなった。

 結果として随分と大人びていた彼女は幾分、幼さを感じさせる行動をとるようになった。言葉も年齢の割には、そして家族に対するものとしては異常なほどに丁寧だったのが、少し砕けた子供らしさを見せるようになっている。

 ユキヒトがかつての『湖亭』跡地に工房を建て、そこに移ってから一年が経った。山の中の工房には看板を立て、ベルミステンの『湖亭』跡地に新たに工房を立てる事を記しておいた。懇意にしている顧客には手紙を送ったものの、現在地がつかめない顧客も何人かいる。

 工房の経営は順調だった。ユキヒト自身の力量に加えて、オルトの時代からの顧客、さらにはベルミステンで最も有名な騎士のひとりであるヴァレリアの愛剣を打った事が評判となり、以前とは比べ物にならないほどに注文が来るようになった。

 全てが上手く行っているわけではない。ノルンの体調は相変わらずであるし、やはり父を思い出すのか夜中に時折泣いているのをユキヒトは知っている。自分自身も完全に吹っ切れたわけではなく、ともすれば過剰なほどに仕事に打ち込んでしまうのが、一種の逃避であることも分かっている。

「さて、晩飯作るか。ノルン、何が食べたい?」

「……グラタンが良いです」

 やけどしないように気をつけようなと、ユキヒトは笑った。















 刀身は竜の鱗製。それは極めて金属に近い性質を持つが、加工には鉄とは比べ物にならないほどの高温と、繰り返しの鍛練が必要となる。その代わりに、仕上がりさえすれば、魔力への反応、強度ともミスリルすらもしのぐファリオダズマ最高の素材だ。

 そもそも竜の鱗は金で買う事が難しい素材である。一部特権階級のみが持つどころか、一部特権階級ですら手に入れるには相応の幸運と時間を必要とする。

 緩やかに反った刀身は、金属と有機物の中間の、妖しいような輝きを放つ。個体により鱗の色は違うが、今回は白銀。竜種の鱗の中でも特に美しいとされる色合いだ。

 柄頭は竜の頭、柄は竜の体、鍔は広げた翼、鞘は尾と、剣全体が竜を模した意匠に彩られている。持ち主自身はあまり派手な装飾を剣に施すことを好まないが、その意匠の見事なところは見た目だけでなく、剣自体の使い勝手を全く落としていないところにあった。

 当初剣の持ち主は装飾を拒否しようとしたが、ユキヒトが、使い勝手を落とさない事を条件に腕利きの装飾師を探し出し、試作品を作らせてまで持ち主にそれを了承させた。

 結局出来上がったその剣を、持ち主自身もいたく気に入っている。とはいえ彼女が評価するのは、美術品としても一級と言われるその意匠ではなく、純粋なその剣の使い心地であった。

 長い時間をかけ、使い手自身の要望を丁寧に盛り込み、刀身の長さや太さに反り、全体の重量のバランスはもちろんのこと、柄の太さでさえも本人の手の大きさに合わせて慎重に慎重に作られた。それは、技術だけで作り上げられる領域を超えた、作り手と使い手の絆の強さを表す出来であった。

 刀身の素材である鱗の提供者であるところの、竜種に珍しい刀剣愛好家シェリエラザードなど、それを見たとたんに譲ってくれと見栄も外聞もなくその持ち主に懇願し、丁重に断られて拗ねたという事実がある。更には自分の鱗をもう一枚提供して自分用の刀剣を依頼しようとしたところで、同行していた姉に叱られて涙目になるという、竜種にあるまじき失態まで演じていた。

「……余程の事がない限り抜かないようにしていますが、持っていないと少し不安になるほど、私に馴染んでいるのです」

 その剣を持参した使い手……敬意と、幾分の国への揶揄を込めて、『ロマリオ皇国唯一の竜騎士』と呼ばれる彼女、ヴァレリア・ロイマーは剣について一通り語り終え、にこりと笑った。

 実際には、ロマリオ皇国には『竜騎士』の称号を持つ者が彼女のほかにも多数存在する。しかしそのいずれも、ロマリオ皇帝が授けたものであり、純粋な竜種から認められたのは、ヴァレリア唯ひとりである。

 ロマリオ皇国ほど大きな国にしては、それはかなり特殊な事態で、そこにはやはり皇帝が竜の末裔を『自称』していることが影響しているとの見方が一般的である。その風聞の真偽のほどはともかくとして、ユラフルスの三大国の中でロマリオ皇国が最も竜種との交流が疎らであるのは、皮肉ながらも厳然たる事実である。

「だからって、私服で行動する非番の日まで持ち歩くのはやめにしろってば」

 ユキヒトとしては、自分が贈った剣をそれほどに大事にしてくれるのはありがたい半面気恥ずかしくもあり、ついついぶっきらぼうに言ってしまう。しかしながら、ヴァレリアはと言えばそんなユキヒトに、分かっているとでも言いたげな余裕のある笑顔を向けるばかりだ。

「大切なものですから。肌身離さず持っていたいのです」

 下手をすれば寝るときに抱きしめて寝ていそうだと思ったユキヒトだが、怖くて確かめられない。万に一つ肯定されると彼女に対する見方が少し変わってしまいそうだった。

 全く、と声というには小さすぎる何かを口の中で転がして、ユキヒトはヴァレリアを見た。

 相変わらず、私服と言っても華やかさには欠ける。清潔感があり爽やかな印象ではあるものの、彼女を知らないものにその私服を見せて職業が衛兵だと言われれば十人が十人、ああなるほどと頷きそうだ。

「……この頃、仕事の方はどうなんだ?」

 自分の話題の無さに呆れそうになりながらも、他に彼女と話ができそうなことを思いつけず、ユキヒトはそれに水を向けた。

「順調です。相変わらずどうも妙な遠慮はされますが……結局のところ、私の側の問題だったのでしょうね」

 ユキヒトがベルミステンに帰ってくるまで、彼女は急な出世と周りの態度の変化についていけず、まともに仕事がこなせない状態になっていた。

 ユキヒトがベルミステンに帰って来て以降、正確にはユキヒト、ノルンと彼らが街を離れることになった原因となった事件について語り合ってから、彼女の心境にも変化があった様子で、仕事に対しても意欲的に取り組み始めた。

 まずはできることからと、配下の小隊の訓練の見直し、特に剣を中心とする武術の奨励を行なった。モンスター相手に大被害を受けた騎士団では再建がまず重要であったが、新たな衛兵を大量に募った結果、質の低下が大きな問題となっていた。

 ヴァレリア自身も、時間の許す限り積極的に訓練に参加した。

 半ば英雄として祭り上げられている彼女だが、昇進後の二年間でほとんど何の実績も残せなかったことでやや評価を落としていた。しかしながら一般の隊員にも細かく目を配り、剣の指導を丁寧にこなしていったことで、再び騎士団内、特に下層からの評価を取り戻した。

 驕らず、分からない事は分からないと謙虚に認めて教えを請う姿勢、そして教わった事を吸収して中隊長としての任務も着実にこなしていく彼女に、当初はあまりいい顔をして見せなかったベテランの補佐官たちの態度も好意的に変わっていっているという。

 彼女には元々、それをするだけの能力があった。ただ、それを発揮できなかった。その原因が己にあるのだとあっさりと認められるのが、彼女の長所なのだろうとユキヒトは思う。

「失った信頼を取り戻すには、失うのにかかったよりもずっと長い時間がかかります。私は私のできる事を着実にこなして、それを取り戻したい」

 いずれ彼女ならば、ただ一度の英雄的行為と竜種との親交によりその地位を得たなどとは言われないようになるだろう。

「応援しているよ」

「ありがとうございます」

 そんな彼女の事が眩しくて、ユキヒトは笑った。

「ユキヒトも順調なようですね。工房の評判は折々に聞きますよ」

「……そりゃあ、『竜騎士』相手に愛剣を打った工房の悪口を言う様な奴はいないだろ、良い方のしか入ってこないよ」

 半ば照れ隠し、半ばは本気でそう言う。

 中途半端な仕事はしていないと自負している。それでも、かなりの数をこなしているのだ。今までよりも顧客の要望や癖を細かく把握しきれてはいないし、全てが全て、使い手にぴたりとあう作りになりきっているかは分からない。

 そこのところに自信を持てるかどうかは、やはり経験が必要なのだろう。

「ユキヒトさんは最近少しお仕事をしすぎなんです。ヴァレリア姉さまからも注意してあげてください」

 もう自分の手には負えないと、少し拗ねる様な声でノルンが言う。

「……ユキヒト。今月が期限の仕事は、どれだけありますか? もう引き渡しが終わったものも含めて、です」

「ん、と……」

 その視線と、自分の仕事ならば完璧に把握しているノルンの手前、嘘もつけずに正直に言うと、ヴァレリアはその秀麗な眉をピクリと動かした。

「多すぎますね」

 それを聞いて、ヴァレリアはずばりと切り捨てる。

「……」

「熱心であることと休養を取らない事を混同してはなりませんよ。貴方が倒れれば結局のところ貴方の仕事は遅れるのです」

「返す言葉もない」

 自覚はあっただけに、ユキヒトは少し肩身の狭い思いをした。

「全く……ノルンの為にも、少しは時間を作ってあげてください」

「ヴァレリア姉さまの為にも、ね」

「こ、これ、ノルン」

 悪戯な表情で言葉を付け加えるノルンに、ヴァレリアは頬を赤くしてたしなめる。

「……そういえば、そっちは非番の日は普段どうしてるんだ?」

「私ですか? ええと……道場に稽古に行ったり、隊員たちに稽古をつけたり、街を見まわったり……あ、ええと、図書館に行くこともありますね!」

 明らかに途中で何かに気づき、図書館をつけたした。じとっとした目でヴァレリアを見ると、ユキヒトは追撃を決行した。

「……図書館で見る本は?」

「……戦術の教本や過去のモンスター襲撃の資料などです」

「……」

 正直に白状したヴァレリアに、ノルンが頭を抱えた。ヴァレリアも実際のところ殆どユキヒトと変わりがない。

「ユキヒトさん、ヴァレリア姉さま」

「はい」

 かたい声で名前を呼ぶ少女に、大人二人は姿勢を正して返事をした。

「午後から二人でお出かけしてください」

「え? いや、その……」

「文句でもあるんですか」

 目が見えていたならばじろっと睨んだであろう。ノルンは声を固くしてぎゅっと肩に力を入れる。

「……まあ、まずは昼飯にしよう。せっかくヴァレリアもノルンも好きなメニューを揃えたんだからな」

 まずは答えを保留。せせこましいやり口で、ひとまずユキヒトはその場を乗り切った。









 ノルンも決して不機嫌だったわけではなく、昼食の間は終始穏やかであった。

 しかしながら、昼食も終わり、後片付けも済ませた頃になると、ノルンがにっこりと笑って再び言った。

「それじゃ、二人でお出かけしてきてください」

「そうは言うけれどな。俺もヴァレリアも、特にどうしようと計画を立ててたわけじゃないし……」

「何年も住んでる街を二人で歩くのに、どうして前もって計画がいるんですか」

「……ノルンを置いていくわけにはいかないでしょう」

「最近は少し調子が良いです。大体、ユキヒトさんがお仕事を始めたら、半日くらい放っておかれるのはいつもの事です」

 ノルンは笑顔で大人二人がおずおずと切りだす言い訳を次々と切り捨てていく。

「そもそも、二人で出掛けるのが嫌なんですか?」

「いや、そんな事はない」

 殆ど反射的にきっぱりと言い切ってから、あ、と隣を見ると、ヴァレリアが熟れたトマトのように赤くなっている。

「……で、何の問題があるんですか?」

 何の問題もありませんと、養っているはずの少女に頭を下げる家主がそこにいた。

 結局のところノルンに押し切られる形になり、午後からは出かけることになった。とはいえ、ノルンを一人で家に残すことに不安があり、ヴァレリアの実家にノルンを預けるという決着になった。

 ヴァレリアの実家では、ノルンを預けることに難色を示されるどころか、理由を伝えると大喜びされてしまった。いっそ今日は帰って来なくてもいいとまで口走った母親の前で、ヴァレリアは頬を引き攣らせて夕飯前には帰ると宣言した。

 ちなみにその時、剣は彼女の両親に取り上げられた。持っていくと主張した彼女に対して馬鹿な事を言うなと一蹴して、さっさと片付けてしまう手管は、流石にヴァレリアの親を二十年以上も続けているだけの事はあった。

「……相変わらずだな、ご両親」

「……迷惑をかけます」

 完全武装で五時間の行軍をこなし、その後剣の稽古をしても平然とした表情を崩さないヴァレリアが、ぐったりと疲れ切った表情で頭を下げる。

「とはいえ、この頃確かに仕事ばっかりだったしな。良い機会だと思うよ」

「私も、暫く仕事の事を全く考えない時間と言うものを持っていなかったように思います」

 少し肩の力を抜いて、ヴァレリアがほほ笑む。生真面目な彼女の事、仕事中にはなかなか見せない表情だろうと思うと、ユキヒトは独占欲が少し満たされるのを感じる。

「とはいえ、どうしましょうか」

 街歩きなどなかなかしないのであろう、ヴァレリアが少し困ったような表情をする。本当にふらふらと街をさまよっただけで帰れば、二人揃ってノルンとヴァレリアの両親にまた理不尽な説教を受ける。ユキヒトが想像できたその未来と同じものが見えたようで、ヴァレリアは頭を抱えた。

「……そうだな、じゃあちょっと、買い物に付き合ってくれるか?」

 ユキヒトは、少しの悪戯を思いついて、そう切り出した。本当の目的を素直に言えば、合意を取り付けるのに時間がかかるという判断だった。

「分かりました」

 ユキヒトの本当の狙いに気づくはずもないヴァレリアは、方針を示されてパッと笑う。

「それじゃあ、行こうか」

 計画を立てていないなどとノルンに言い訳をしたものの、何年も住んだ街だ。ノルンがばっさりと切り捨てた通り、目的さえ決まっていればあえて計画など立てずとも十分に行くべき場所は頭に浮かぶ。

 商業地区へは馬車を使わなければ時間がかかる。共同馬車の駅に向かう道中、ユキヒトは遅ればせながら、明るい気持ちになってきた。

 しかしまあ、十以上も年下の女の子に場をセッティングしてもらうってのは相当に情けないなと内心に愚痴り、ユキヒトは少し苦笑した。

 奥手なうえに有名人な想い人を持つと苦労すると考えそうになって、相手のせいにするのは卑怯だと思い直す。

 今も時折、明らかに好奇心交じりの視線を感じる。彼女に気づいてちらちらとこちらをうかがってくるその態度に、ユキヒトは居心地の悪さを感じる。

 釣り合いという言葉は、他人が気にしているのを見れば馬鹿馬鹿しくも思えるが、自分が当事者になってみればなかなかどうして気になるものだ。何とは無しに噂を聞けば、彼女の元には縁談もいくつも持ち込まれている事が知れる。中には、かなり御大層なところからの声もかかっているという。

 そんな彼女が私服姿で街を歩き、その隣には男とくれば、好奇心もやむをえまい。問題なのは、堂々と胸を張れない自分だとユキヒトは思う。

 自分は果して彼女にふさわしい人間だろうかと、そんな事を考えていると知られれば、隣に立つ彼女はきっと怒るだろうと思う。

「ん、あれは……」

 共同馬車の駅に、知り合いの姿を見つけてユキヒトは声を漏らす。

「おおい、ファル」

「ユキヒトさん。珍しいところでお会いしますね」

「いや、共同馬車の駅なんて偶然知り合いに会う可能性はかなり高い場所だと思うけどな……」

「工房以外でユキヒトさんにあった事がないので、工房から一歩出たら死ぬ病気にかかっているのかと思ってました」

「そんな病気が存在するはずがあるか」

 相変わらず、真面目な顔で素っ頓狂な事を言うやつだとユキヒトは笑った。

「ユキヒト、そちらの方は」

「顔を合わせるのは初めてだったな。ファル、紹介しておくよ。名前くらいは知ってるかも知れないけれど、ヴァレリア。ベルミステン騎士団の騎士だ。ヴァレリア、こいつはファル。冒険者で、変な奴だ」

「へぇ! 貴女が、あの! お噂はかねがねお聞きしています! はじめまして!」

「は。いえ、その……はじめまして」

 ファルのテンションの高さと言うよりは、ユキヒトに変な奴呼ばわりされて全くそれにコメントしない点に戸惑いを覚えたらしく、ユキヒトの方をちらちらと伺いながらヴァレリアはファルに挨拶をした。

「ユキヒトさん。貴方と言えど、私の下僕を変態扱いするからには相応の覚悟があるのかしら」

「……お前、恋人を下僕呼ばわりするのを躊躇しなくなってないか」

「流石に変態扱いはされてない!」

「ファルはファルで下僕呼ばわりされる方は良いのかよ」

 後ろから聞こえてきた言葉に振り返ってみれば、ファルの恋人、冒険者のブレンヒルトがそこにいた。どうやら何かの用事で外していただけで、今日は連れ立って出かけていたらしい。怒っているのかどうなのか、半目でユキヒトをにらんでくる。やや鋭い眼、怜悧な顔立ちだけに、そう言った表情がことさら似合う。

 突っ込みどころの多い連中めと呟いて苦笑すると、ヴァレリアが何故か一つ頷いた。

「聞き覚えのある声が聞こえましたね」

「……えっ」

「しかし私の知り合いのはずはありませんね。その知り合いには、さんざん口が悪いのを直すように言い渡してあるはずですから」

「あら師範代。ご機嫌麗しゅうございます。このようなところでお会いするなんて、奇遇ですね」

 くるりと振り返って微笑んで見せるヴァレリアに、ブレンヒルトがしれっと挨拶をする。

「……知り合いだったのか?」

 どうやら知らない仲ではないらしいやり取りに、分かりきった事ではあるもののヴァレリアに確認をする。彼女はそれに、こくりと頷いて返事をした。

「ええ、まあ。私の通っている道場の、門下生の一人です」

「なんと、まあ」

 世間は思いのほか狭いらしい。

「さて、ブレンヒルト。私が禁止した、他人を貶す様な乱暴な言葉が貴女の声で聞こえてきたように思いますが、どういう事でしょうか」

「まあ。私によく似た声の方が近くにいらしたのかしら。奇遇な事もあるものですね」

「……次の私の非番は六日後です。道場に来なさい」

「……その日は……」

「用事などありませんね?」

「……はい」

 がっくりとうなだれるブレンヒルトと言うものを初めて見て、ユキヒトは思わず、おお、と呟いた。

「……え、ブレンヒルトがうなだれてる」

「いや、お前ですら初めて見たのかよ」

 ファルの呟き声に、反射的にユキヒトは突っ込んでいた。

「うなだれるという仕草をする事が出来ない体の構造になってるんだと思ってました」

 本気で驚いた声と表情で言っているファルに、ユキヒトは驚きを超えて笑いがこみあげてきた。

「……ファルに私の弱点を知られたわ……。かくなるうえは、記憶の抹消を狙うしか」

 ブレンヒルトがぎゅっと拳を握りしめる。

「ブレンヒルト?」

 にっこりと、魅力的と言っていい笑顔でヴァレリアがブレンヒルトに微笑みかける。それに対してブレンヒルトは、握っていた拳をぱっとほどくと、あさっての方向に目をやった。

「あら、ほんの冗談です。まさか私が不意打ちで後頭部を強打することで記憶の抹消を狙うなんて、ありえません」

 どうやら弱点と言ったのは本当らしい。相当に動揺しているようで、それはもはや弁明ではなく自白だった。

「……師匠と呼ばせてください! 胸の大きさ的に僕の好みからは外れですが!」

 とりあえず、ユキヒトはあらぬことを叫んだファルの後頭部を、黙って強打した。









 結局ファル、ブレンヒルトの二人と合流し、四人で商業地区へと向かった。

「そっちは何の用事だったんだ?」

「ブレンヒルトの用事に付き合った記憶は探さなくても嫌になるほど出てきますけど、僕の用事にブレンヒルトが付き合ってくれた記憶は一生懸命探さないと出てきません」

「事実だとしたら随分悲しいな」

「ブレンヒルト?」

「……事実です」

 沈痛な面持ちでブレンヒルトはそれを肯定する。逆らっても無駄と体に叩きこまれているのだろう。

「全く……貴女の甘えん坊は治っていないという事ですか」

『……は?』

 ファルとユキヒトが全く同じタイミング、全く同じ表情で聞き返す。つまり、虚をつかれて完全にポカンとした顔だ。

「……う……」

「甘え方が下手なくせに根っこのところで甘えたがりなのですから。甘えたい相手にはもっと言葉を選びなさいと言ったでしょう」

「……くっ……」

 きっと、ファルを睨むブレンヒルト。いや僕が何をした、と小さく呟くファルにユキヒトは同情した。

「……ファルに私の内面の真実を知られたわ。もうファルを殺して私も死ぬしか」

「お前と僕の関係をもう一度見つめ直す時が来たようだな!」

「ファルに弱みを握られるくらいなら心中した方がましよ!」

「一周通りこして好かれてるんだか憎まれてるんだか分からねえよ!」

 二人ともどうやら今いるのが公共馬車の中である事を忘れているらしい。

「落ち着け。ブレンヒルト、ここは公共馬車の中だけど、そのキャラがどこかに知れ渡る可能性は考慮しなくていいのか?」

 気心の知れた相手以外には優等生の仮面をつけるブレンヒルトである。その指摘に、はっとした表情になる。

「くっ。私のここまでの苦労が……やっぱり、ファルを殺して私も死ぬしか」

「お前実は僕を殺したいだけだろう!?」

「女の独占欲を笑って許すのも男の度量のうちじゃない」

「度量で殺されたら元も子もない!」

「……ブレンヒルト、お前本当にヴァレリアの事怖いのか……?」

 いつも通りどころか、いつにも増してファルへの迫害がひどい。

「思い出させないで! 必死に現実逃避しているんだから!」

「……ブレンヒルト。どうやら私が思っていたよりも貴女の病理の根は深いようですね。徹底的に矯正してあげます」

 どうやら相当腹に据えかねたらしく、ユキヒトでもそうそう聞いた覚えのない低い声でヴァレリアが言う。それに対してブレンヒルトは、絶望的な表情を浮かべた後、にこりと笑ってファルに向き合った。

「ファル。私がこの性格で貴方に会えるのは、今日が最後みたいだから言っておくわ。少し意地悪もしてしまったけれど……私、貴方の事、大好きだったのよ?」

「なんでちょっといい話風にまとめようとしてるんだよ! お前つい今しがたまで僕の抹殺狙ってただろ! ギャップに萌えるじゃないか!」

 実は矯正しなくても、少なくともこの二人の関係という意味では全く問題ないんじゃないかとユキヒトが疑い始めたところで、まあそれは置いといて、とファルがあっさり話題を転換する。

「ユキヒトさんたちは何を買いに?」

「うん……服をな」

「服ですか。私では見立ての役には立てなさそうですけれど……」

 申し訳なさそうに呟くヴァレリアに、悪戯心が刺激される。ここまでくれば本人が納得しておらずとももう引き返すこともできまいと、ユキヒトは企みをばらすことにした。

「良かったら、そっちの買い物が終わってからでいいから付き合ってもらえないかな。……ヴァレリアの服の見立てに」

「……は?」

 ヴァレリアが事態を把握するよりも、ブレンヒルトが反撃材料と見なす方が早かった。にまぁ、と擬音がつきそうな笑みをブレンヒルトが浮かべて、それを見た瞬間ファルが小さな声で、うわぁ、と呟いた。次の瞬間にはブレンヒルトは、その笑顔を見事なまでの優等生スマイルに変えた。

「お世話になっている師範代の為ですもの。全面的に協力します」

「いつもこんな恰好だからな。悪いとは言わないけど、流行の服の一揃えでも見立ててあげて欲しいんだ」

「師範代の場合、素材が良いですから見立てが楽しそうだわ」

「す、少し待ってください……。自分で着る服は、その、自分で選びたいのですけれど……」

 ブレンヒルトの丁寧な口調の裏に潜む危機を敏感に察したらしく、やや腰の引けた口調のヴァレリアに、ユキヒトは笑う。

「たまにはいいじゃないか。何も自分の服を他人に選ばれるのは我慢ならないなんて訳じゃないだろ?」

「……そういうわけではありませんが……」

 強いこだわりを持って服装を決定しているわけではないのは、普段の言動から明らかだ。

「師範代の魅力、このブレンヒルト・オーガストが存分に引き出して差し上げます」

「何ナチュラルに人の名字名乗ってるんだよ! お前はブレンヒルト・ディングフェルダーだ!」

「間違えた。だって毎晩羊皮紙の端に百回くらい書いてみて微笑んでいるのよ?」

「……くっ! 99.9%の確率で嘘でわざとで単なる嫌がらせだけど、嘘だと断言して本当だったときに傷つけるから指摘がしにくい!」

「嘘だろ」

「嘘でわざとで単なる嫌がらせよ」

 この二人の会話のテンポに慣れているユキヒトがさらりと指摘し、何を当たり前のことをと言う様な口調でブレンヒルトが肯定する。

「でも、ブレンヒルト・オーガストって名前を書いてみて真っ赤になった事があるのは本当だったりするかも知れないわ」

「するかも知れないのか」

「確率は半々ね」

「結構高いな」

 自分の行為なのになんで確率が関係してくるんだ、などと言えば、ブレンヒルトは恐ろしく冷たい目をして、ふんと鼻で笑う。普通の感性の人間には耐えられないレベルで完成した冷笑だ。

「ファルはどちらに賭けるのかしら?」

「まずは何を賭けるかからはっきりさせようか」

「そうね……外したら一生私の言う事を聞くっていうのはどうかしら。その代わり当たったら三十秒間何でも貴方の言う事を聞くわ」

「お前の辞書に等価交換という言葉は載っていないのか!」

「何よ。私とあなたの存在価値を考慮すれば十分平等な条件じゃない。このゴミが」

「え。そんな直接的な分かりやすい言葉で罵倒するなんて、どこか調子が悪いんじゃないか」

 心配すべきポイントが明らかにずれているが問題ないだろうと判断して、ヴァレリアの方へ向き直る。

「……私はどこで後輩育成の道順を間違ったのでしょうか……」

 怒りを通り越して虚しさの領域に達した様子で、ヴァレリアは茫然と呟いていた。

「……目をかけて育ててきた後輩なのですが」

 ヴァレリアに目をかけられてこれだけひねくれて育つのも一つの才能ではなかろうかと妙なところでブレンヒルトに感心しつつ、ユキヒトはぽんぽんとヴァレリアの頭を撫でるように叩く。少しくすぐったげに、ヴァレリアは身をよじった。

「師範代が乙女の表情をしてる。初めて見た」

「なっ……」

 目ざとくヴァレリアの照れた表情を見つけたブレンヒルトがするすると寄ってくるとからかうように言う。

「だ、誰が乙女です! 私を愚弄しますか!」

「きゃー、師範代こわーい」

 明らかな棒読みの声で言われてしまう程度には、今のヴァレリアには迫力が欠けていた。

「ファル、ヴァレリアが暴走する前にブレンヒルトを止めろよ」

「僕が止めた程度で止まる様な生易しい人じゃありません」

「……」

「そんなところが好きなんですよねー」

 あっけらかんと続けたファルに、負けるよとユキヒトは小さく呟いた。













 結局のところ、常識人のうえ有名人なヴァレリアは公共の場所であまり騒がしくするわけにもいかず、ブレンヒルトにからかわれるままに耐えていた。

 馬車を降りる間際にぼそりと、覚えていなさいとヴァレリアが呟いた瞬間、ブレンヒルトの表情が凍りついたが、悔いはありませんと返して晴れ晴れと笑った。

「あんな良い表情、そうそう見られません。僕には被害がないし、超得しました」

「……あら、ファル。本気で言っている? 私の彼氏は、彼女を一人死地に向かわせる様な甲斐性無しだったのかしら」

「……どうやらこの子の悪戯好きを加速させた者がいるようですが、その者をこの子と一緒に心身ともに徹底的に鍛えることに吝かではありません」

 暗い表情で笑うブレンヒルトに、呑気に推移を見守っていたファルの表情も凍りつく。

「え。何このとばっちり」

「……彼女の手綱を握るのも彼氏の役目ってことだろ」

「何他人事な感じで評論してるんですかこのロリコン野郎! 彼女の事もどうせ薄い胸が気に入ったんでしょう!」

「人聞きが悪い上に違うわ!」

 不名誉極まりない決め付けをしてくるファルに、流石にユキヒトもどなり返す。やり取りを聞いていたヴァレリアがファルの頭にぽんと手を置いた。

「ファルと言いましたね」

「……? はい、そうですが」

 改めて名前を確認するヴァレリアに、ファルは怪訝な表情で返事をする。

「人の身体的特徴について、その様にあげつらうのは、良い趣味とは言えませんね」

 微笑んで、ヴァレリアはファルの頭を握りつぶそうとでも言うように、頭に置いた手にギリギリと力を込め始めた。

「頭が割れるように痛い!」

「割れないとはなかなか丈夫な頭です」

「割るつもりなんですか!? ぐしゃって! スイカみたいに!?」

「リンゴなら割った事がありますが……。今ならその時以上の力を出せる様な気がしています」

「うわ! うわわ! 今、ミシッていった! ミシッて!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐファルをしばらく締め上げてから、ヴァレリアは手を離した。

「全く。次はこの程度ではすませませんよ」

「……はい」

 痛みが相当にひどいらしく、げっそりとした表情でファルが頷いた。

「ブレンヒルト、女性用の衣料品店は殆ど当てがないんだが……。良い店はあるか? 大きい店の方がいいのかな」

 ノルンがいる以上、全く無縁というわけにもいかないのだが、目が見えないノルンはやはり服装にも深いこだわりはなく、極々標準的な、着やすい服を買っているだけで、詳しくなれるほどに店をめぐるわけではない。

「そのあたりはこの私、ブレンヒルト・オ…ディングフェルダーに任せればいいわ」

 言い間違いかけて訂正する。かといって今回は本当に単純に言い間違いかけたのかと言うと、それはユキヒトには分からない。ブレンヒルトには、愉快犯的とでも言うべき、気紛れで無意味なひっかけが多い。

「……本当に私の服を見に行くつもりなんですか……」

「こんなところで嘘ついて何になるっていうんだよ」

「それはそうなんですが……」

 居心地が悪いというように、ヴァレリアは身を小さくする。

「安心してください、師範代。その色気の欠片もない格好ばかりをしているのは大体想像がついています。ばっちりとお似合いの服を見繕って差し上げます」

「い、色気など……」

「要らない、と言えますか? 本当に?」

「……う……」

 言葉に詰まるヴァレリアに、勝ち誇ったようにブレンヒルトが笑う。

「話し合いは終わりました。さっそく服屋に向かいましょう」

「……お前の彼女は実に恐ろしい奴だな」

「でしょう?」

「何で誇らしげなんだよ」

 先程までのげっそりした顔が嘘のように明るい笑顔を見せるファルに、ユキヒトは肩を落とした。

 大都市らしく、商業地区に行きかうヒトの種族は様々だ。最も多いのはヒューマンで、それは大陸の多くの地域においてそうだ。ファリオダズマにおいて最も数が多い種族がヒューマンである。加えて、ベルミステンは種族間抗争の激しかった時代からヒューマンの街だ。古くからの住民はことさらヒューマンの比率が高い。

 通りに出ている店も、やはりヒューマンを対象にしたものが多い。食料などは基本的にどの種族もそう大した違いはないのだが、衣服など身につけるものとなると種族間ではやはり体格が違う。好みや感性も種族によってやや異なるため、一つの店で複数の種族の衣服を扱うのは非常に難しい。大きな衣料品店では幾つかの種族に向けたものが置いてある場合もあるが、小さな店では特定の種族のための専門店が一般的である。

 また、工場と言うものがまだ十分に発達していないファリオダズマでは、それぞれの店が針子を抱え、商品となる衣服を縫っている。小さな店では、ほとんどの場合経営者自身ないしその身内が針子をしている。その分融通も効き、オーダーメイドの様な事もしてくれる店が多い。

 ブレンヒルトが先導していったのは、そういった小さな店の一つだった。

「私のお気に入りの店の一つです」

「ブレンヒルトさんにはよくしてもらっていますぅ」

 にこにこと笑うのは、ブレンヒルトやファルよりもさらに年下に見える店員だ。やや小柄でふっくらとしており、やや舌足らずなところが余計に幼さを感じさせる、愛らしい様子の少女である。名をアーミルといい、店の娘で、針子も兼ねているとブレンヒルトが紹介する。すっかり優等生の仮面を被っているという事は、この店で本性を現してはいないらしい。

「年は若いけれど、衣服に関してとても勉強熱心で流行も良く知っています。任せて間違いありません」

「そんな、買いかぶりですぅ。私なんてまだまだ……」

「このように謙虚で可愛らしいところも、応援したくなる理由ですね。技術的には確かに大型店の有名針子のようにはいかない部分もありますが、仕事は丁寧です」

「仕事が丁寧なのは、飾ってある服を見れば分かります」

 大分ペースを取り戻したのか、ヴァレリアもにこりと笑って言った。

「……私は流行には疎いですが、軍属である分丈夫な服については多少目が効きます。飾ってある服はどれも、よく仕立てられた長く着られるものです」

「ありがとうございますぅ! その……ひょっとして、騎士団のヴァレリア・ロイマー様でしょうかぁ……?」

 ファリオダズマに写真はないが、公式行事に出る機会も多く、新聞には挿絵として似顔絵も載せられるヴァレリアである。広くベルミステンの市民に顔を知られている。

「ええ。ベルミステン騎士団のヴァレリア・ロイマーです。様は結構ですよ。私は公僕ですから、市民の方に敬称など付けられても困ってしまいます」

 そう言った反応にも慣れているらしく、微笑みを絶やさずにヴァレリアは対応した。

 アーミルがきらきらとした目でヴァレリアを見る。モンスターの襲撃により多大な被害を受けたという事実から一般市民の目を逸らすためにも、英雄の存在は不可欠だった。その為にヴァレリアは、その功績をやや過剰なまでに宣伝されている。

 ヴァレリア自身、騎士団の思惑に気づいており、それを快く思ってはいないものの、組織の意思に対抗することができるほどにヴァレリアは力を持たず、そして当初はその気力もなかった。叔父の死に茫然としている間に英雄に祭り上げられてしまい、今はそれを幾分窮屈にも思いながらも、与えられた職務を精一杯にこなすことに決めている。

「私の通っている剣術道場の師範代でもあるの」

「そうなんですかぁ!」

 アーミルはにこにこと笑う。馴染みの客が連れてきた意外な有名人に興味津々と言ったところだ。

「師範代はあまり服には詳しくないの。だから貴女に一式任せたいのだけれど……」

「私で良いんですか……?」

 驚きと興奮と少しの不安をにじませておずおずと言う彼女に、ヴァレリアは笑って言った。

「服には詳しくありませんが、このように丁寧な仕事をする貴女にぜひ、服を作ってもらいたいと思います」

「……はいっ!」

「それで、師範代はあまり服には詳しくないから、型とかそのあたりは、私と……そっちの男性が決めます」

「ん、俺か?」

 急に指名を受けて、ユキヒトは思わず自分を指差す。

「その人はユキヒト・アヤセさん。師範代の剣を鍛えた鍛冶師さん。師範代ととても仲が良いのよ」

「わぁ……」

 含みを持たせたブレンヒルトの言葉に、本格的に色恋に目覚め始める年頃の少女がますます目を輝かせる。

「……」

 ヴァレリアは幾分気恥ずかしそうな表情をするものの、流石にそこで慌てては逆効果と分かっているらしく、落ち着いた様子を崩さなかった。

「それじゃあ、どんな感じがお好きですかぁ?」

 さっそく商売っ気のある表情を見せるアーミルに、やはりファリオダズマらしい早熟さを感じながら、ユキヒトは店を見渡した。

 せっかくならばオーダーメイドで作ってもらいたい。とはいえ店に展示してある既成品が参考にならないわけではないだろう。ユキヒトはじっくりと彼女が作ったという服を眺めた。

 女性の衣服について詳しいわけではない。だからこそファルやブレンヒルトに同行してもらったのだが、やはり二人に任せきりと言うのも面目が立たない。

 改めて眺めてみると、女性の衣服と言うものは実にバリエーションに富んでいる。工場で機械生産された製品ではないことも無関係とは言えないだろうが、店内に展示してある服はどれ一つとして同じ型ではないと言っても過言ではない。

「こんな感じはどうですか? 師範代」

「……どうも、その、このようにヒラヒラした飾りは私には……」

「この程度のレースがダメって、師範代、貴方本当に女ですか」

 ブレンヒルトはブレンヒルトで、楽しそうにヴァレリアに服をいくつもあてがい始めている。しかし近頃のベルミステンの若い女性の流行は、ヴァレリアにとってはやや感性に合わないものらしく、服を差し出されては渋るという事を繰り返している。

「……上品で落ち着いた感じに一揃えだとどんなのが良いかな。背が高いから、あんまり『女の子』って感じじゃない方が良い。色合いも落ち着いた風で」

 ユキヒトは、数多の服の中から彼女に似合うものを発掘することを早々に諦め、大まかな方針だけを伝えてプロに任せることにした。

「そうですねぇ、そういうご要望でしたら……」

 広いとは言えないながら多数の服が置いてある店内を、アーミルは考えながらも迷う様子は見せずに歩く。

「……んーとぉ、こっちと、これと……あっちの方が良いかなぁ……?」

 ぶつぶつと独り言をつぶやきつつ、アーミルが服をそろえていく。選ばれた服は、注文通り派手ではないものの、普段のヴァレリアの真面目一辺倒の、言ってしまえば地味な服とは違い、上品な華やかさがあった。

 しばらく服をとっかえひっかえし、最終的に何通りかのパターンを選ぶと、アーミルはにっこりと笑った。

「こんな感じでしょうかぁ。……サイズがちょっと合わないかも知れないのもありますが、それはご注文いただければ」

「……うん、いいな。ヴァレリアに見せてみよう」

 流石にアーミルは幼いながらもプロだった。ユキヒトの漠然とした注文だけで、思った通りの服を選んでくれた。

 ヴァレリアとブレンヒルトはと言えば、ずっと同じような事を繰り返していたらしい。ファルはと言えば、出番はなかったはずだがにこにこと二人を見守っている。ユキヒトは、それだからしょっちゅうブレンヒルトの買い物に駆り出されるのであろうと、馬車の中で聞き出した二人の普段の生活を想像してみる。どちらかと言えばヴァレリアの方が、女の買い物に不本意に巻き込まれた男のような疲れた表情であった。

 とはいえ成果がなかったわけでもないらしく、いくらかヴァレリアとブレンヒルト、両方の眼鏡にかなったものもあるらしく、それらしき服が何着か取り分けられていた。

「疲れてるとこ悪いけど、こっちで選んだ服も少し見てくれるか?」

「いえ、疲れてなどいませんよ」

 明らかに嘘だったが、自分の為の買い物なのだということも自覚しているヴァレリアはそう返事をする。

「少しお手伝いさせていただきましたが、ユキヒトさんのお選びになった服ですぅ」

 え、と思わずアーミルの顔を見そうになったとたん、ヴァレリアから死角になる背中辺りをぎゅっと抓られる。しれっとした顔でそれをしたのは、いつの間にか後ろに回り込んでいたブレンヒルトだ。

「あら、ユキヒトさん。なかなか良い趣味をしているじゃない」

 加えた一言の裏に『黙っていろ』というメッセージを感じて、ユキヒトはひきつるような苦笑をした。

「ユキヒトが……」

「ああ……うん……」

 半ば以上嘘であり、微妙に居心地が悪いのだが、どこか嬉しそうにつぶやくヴァレリアを見ると、そうとも言いだしにくく、ユキヒトはあいまいに肯定した。

「ありがとうございます」

 礼を言うと、ヴァレリアは服を一つ一つ丁寧に広げて見始める。

 その横顔を見て、彼女を連れて服を買いに来てよかったとユキヒトは思った。

 それからしばらく、ヴァレリアはその服を真剣に検討し、結局、ユキヒトやブレンヒルト、ファルもアドバイスをしながらいくつかの型を選び、オーダーメイドの為に採寸をした。

 ヒューマンの女性としては長身のヴァレリアにぴったりのサイズの服というものは、なかなか置いていない。アーミルの店の服も、既成品はヴァレリアが着るには少しばかり窮屈だった。

「さて。ところで私は一つの目的の為だけに動くことをよしとしません」

 ヴァレリアの採寸が終わったところで、おもむろにブレンヒルトが宣言した。

「アーミル、貴女良い裁ちばさみが欲しいって言っていたわね?」

「え……? はい、お家にあるのは古くてちょっと切れ味が悪くなっちゃってぇ……」

「ユキヒトさんは専門は刀剣の鍛冶師だけれど、日用の刃物も扱っているのよ。腕の方は……ファルも私も、師範代も彼の顧客と言えば大体想像がつくかしら」

「包丁でも鎌でも、一通り打てる。……もちろん、はさみもね」

 アーミルの目が期待できらきらと輝いている。

「今は少し仕事が立て込んでしまっているから、渡しは来月になるけれど、それでよければ受けるよ」

「お代はどれくらいでしょうかぁ?」

 真っ先にそれが出るのが、やはり商売人だ。むしろそれを好ましく思いながら、ユキヒトは報酬を説明する。

「うん……それくらいなら……。お願いしますぅ!」

 思い切って、という風にアーミルは依頼をする。

「左利用の裁ちばさみだね。承りました」

「はい! ……え? あれ? わたし、左利きだって言いましたっけ……?」

「君の動きを見てて左利きだと思ったけど……違ったかな?」

「いえ、左利きですぅ。はぁー、良く見ていらっしゃるんですねぇ……」

「癖みたいなもんでね、顧客はよく観察するんだって師匠の教えなんだ」

 一つ一つの動きを注意して見るんだと、そう教えられた。相手の利き手を間違えるようでは話にならない。

「……初対面の針子の利き手より、見るものがいろいろあるでしょうがこの甲斐性無し」

「!?」

 後ろに回ったブレンヒルトの、絶妙に声量を調整された呟きがユキヒトの耳に突き刺さる。慌てて振り返るが、ブレンヒルトは優等生スマイルを浮かべているばかりだ。ともすれば自分の空耳かと思ってしまいそうになる。

「……正確な引き渡しの日は、また追って連絡するよ」

「はい、楽しみにしてますねぇ」

 ブレンヒルトの言葉には気づいていないらしい。アーミルは無邪気ににこにこと笑っている。

「よろしく頼みます」

 気配に敏感なはずのヴァレリアも、上機嫌なせいなのかブレンヒルトの態度に気づいた様子がない。

 一行はひとまず店の外に出る。すると例によってブレンヒルトの表情から愛想がすとんと抜け落ちる。

「さて……本命は終わったわ。次は、間に合わせね」

「……ん?」

「まさかこれで終わると思っていたわけではないでしょう?」

 平然としていたのはファル一人。ヴァレリアとユキヒトは、どうやらここからが長そうだという事に今更ながらに気付き、表情を引き攣らせた。







 それから結局五つの店を回り、ヴァレリアはすっかりブレンヒルトの着せ替え人形と化した。

 三店目の時点ですでにぐったりとしていたヴァレリアは、最後の方になると判断力を失って、趣味とはやや離れたものも購入していた。ブレンヒルトもどうやらそれを狙っていたらしく、後半になるほど、やや露出度の高い、流行ではあるがヴァレリアは眉をひそめそうなものを購入のラインナップに潜ませるようになっていった。

「……最後の店では下着まで見立てられました……」

「師範代の下着ったら、予想通り白の面白味も何もないやつなんですもの」

「……」

 怒る気力もなくなったのか、そんなことを暴露されても、ヴァレリアはがくりと肩を落とすばかりだ。

 服も、二店目で購入したものに着替えさせられ、初めに着ていた服は折りたたんで買い物袋の中だ。まだヴァレリアの理性が働いている間に購入したものだけに大人しいデザインのものではあったが、やはり普段よりは華やかだった。

 ちなみに、買った服は持ち歩くのが困難なほどの量になったために自宅への郵送を依頼した。

「あー、面白かった。こんなに色々服を見て、着せて、買って回れるなんて」

 それだけ楽しみながら、合間に自分の服も買っている。女の買い物とは恐ろしいと、元の世界でもファリオダズマでもまともにそれに付き合ったことがなかったユキヒトは戦慄した。

「ファル、お前、良く平気だな……」

 平然とした表情を最後まで崩さなかったファルに、ユキヒトは若干の畏敬の念すら込めつつ話しかける。

 ファルはと言えば、余裕とどこか諦念の様なものを感じさせる笑みを浮かべて言った。

「慣れです」

「……そうか」

 犠牲にしたものの大きさを感じさせる態度に、ユキヒトはそれ以上の追及をやめにした。

「それじゃ、師範代、ユキヒトさん。そろそろお別れね」

 公共馬車も元の居住地区までたどり着き、上機嫌なブレンヒルトが言う。

「ええ……。お疲れさまでした」

「そうだ。そろそろ一度剣を見せに来いよ。二人の事だから大丈夫だろうけど、手入れを見る」

「分かりました。よろしくお願いするわ」

 このしばらくの間に、二人は冒険者として名の知れた存在になりつつあった。ユキヒトの剣も大事に使ってくれている。

「……それじゃあ師範代、ごきげんよう」

「またいつかお会いしましょう!」

「ええ。……六日後にまたお会いしましょう」

『……』

 くっくっく、と、喉を鳴らすように暗く、ヴァレリアは笑った。

「……逃げたらどうなるか……聡明なあなたたちに、説明の必要はありませんね……?」

「……くっ。逃げきれないか……」

 無念、と肩を落とすブレンヒルトの肩に、ファルがポンと手を置いた。

「……貴方も一緒よ。死なば諸共……」

「結局最後まで心中かよ!」 

 顔をあげたブレンヒルトの言葉にファルが突っ込みを入れつつ、二人は去って行った。

「……騒がしい二人です」

「年相応だろ。……良い子たちだよ」

「……それは認めざるをえませんが」

 本人たちの前では言えませんねとヴァレリアは笑う。

「帰りましょう。……夕飯は、私の家で食べていってください」

 どうせ母はノルンとユキヒトの分も用意していますと続けて、ヴァレリアはゆっくりと歩きはじめた。

 日も暮れはじめた道を、二人で歩く。赤い夕日は郷愁を誘う。川べりの慣れた道、並木の葉はもう落ちて、冬の気配が色濃くなっている。

 かつて生きていた世界で、似たような道を歩いた記憶がよみがえりそうになる。忘れようとして忘れられないものが、鈍く胸を刺す。

 考えるべきことはたくさんあった。日々の忙しさにかまけて、それを置き去りにしたままな事は分かっている。

「……」

 少し風が吹いた。冬の夕暮れ、川沿いの道に風が吹けば、当然に寒い。

「ユキヒト」

「うん?」

「お願いがあります」

「なんだ?」

「……」

 躊躇うように、ヴァレリアは一瞬目を伏せて、それからしっかりとユキヒトの目を見ていった。

「手を、繋いでくれませんか」

「……」

 寒いからというだけではないことも、彼女が求めるものがただそれだけのことではない事も理解できて、ユキヒトは沈黙した。

「私の気持ちは理解してもらえていると思います。……貴方の気持ちも、おそらく、ただの私の勘違いではないと思います」 

 返事をするのが難しい。もちろんそれはその通りなのだが、中途半端な言葉で肯定してしまうには、暗黙のままの関係が長すぎた。

「……でも、私たちの間には、あまりにも何もない。約束の言葉も、誓いの証も、……体のつながりも」

 意図したのではないというのは言い訳だろうかとユキヒトは思う。しかし無意識にでもなんでも、それを恐れている自分がいたのも確かな事だ。

「……貴方の故郷の事を、聞かせてください」

「……」

 唐突にも思えるその話だが、彼女が何故それを言い出したのか、ユキヒトにはそれも理解できた。

「私に教えられないと思って黙っていた事を、今こそ教えてください。そうでないなら……終わりにしましょう」

 きっぱりと、ヴァレリアは言い切る。しかしその手が、瞳が、唇が震えるのがユキヒトの目には分かった。

 帰りたいという希望。この世界に根を下ろすことに対する忌避。戻れないのではないかと想像する恐怖。身軽であろうとしたのは事実だった。そしてそれが彼女を傷つけていることも知っていた。

「……多分、とても信じられないような話だ。だけど、本当のことを話す。都合の良い事を言うけど、信じて欲しい。君に嘘だと思われるのが、多分一番痛い」

 そして彼女が嘘だと思うという事は、彼女を永遠に失うということも意味するだろう。本当のことを言って彼女を失うのでは、あまりに心が痛すぎる。

 それでも、それらしい嘘をつくことはできないと思った。彼女は確実にそれを見抜くだろうと思えた。自分の嘘を見抜くくらいには彼女は自分の事を知っているとそう自惚れたかった。

「……俺の故郷は、こことは別の世界だ」

 躊躇いながら、ユキヒトは語り始めた。

 故郷の街のこと。そこに住む家族と友人。その世界での常識。持っていた価値観。そう言った一つ一つを、確かめるようにゆっくりと話していく。

 ヴァレリアはそれを、頷きもせずにじっと聞いている。わずかに、全身に力が入っているようにも思える。嘘だと思って身を固くしているのかと不安にもなりながら、ただ懸命に、本当のことだけを語る。

「……そうして気がついたらこっちの世界にいて、偶然オルトさんに拾われて、そこからはヴァレリアも知っている通りだよ」

 語り終えて、ユキヒトは長く息をついた。息は白く残って、もうそんな季節になっていたのかと思わせた。

「……荒唐無稽で、嘘だと思うかもしれないけど……。何一つ、嘘はついていない」

「信じましょう」

 躊躇いもせずに、ヴァレリアは頷いた。

「……」

「信じると言ったのです」

 返事をできずに固まったユキヒトに、ヴァレリアはもう一度言った。

「……貴方は、そんな顔と声で嘘をつける様なヒトではありません」

「……そうか」

「理解できました。帰れない故郷。異邦であるこの地。帰還を諦められないのであれば、この地に縁を作ることに憶病になるのも分かります」

「……」

「……それでも、私は、私のこの手を、貴方に取ってほしい」

 ヴァレリアが、すっと真っ直ぐに手を伸ばす。請う様に掌を上にするのではなく、掴み取ろうとするように手の甲を上にしているのが彼女らしさなのだろう。

 その手を取るという事の持つ意味に、ユキヒトは震える。

 人生は等価交換だという者がいる。何かを得るために何かを棄てなければならないのだと。その手を取ることで得るものと失うもの。彼女とこれまで生きてきた世界と、どちらかを選べと彼女は求める。

 ごめん、と小さくユキヒトは呟く。その言葉に、ヴァレリアの手が震えた。



























「……親不孝だな、俺は」

 ヴァレリアの震える手を握って、ユキヒトは言った。

「元の世界を棄ててでも、ヴァレリアが欲しい。……俺は、ファリオダズマで生きていくよ。これから、ずっと」

「……ユキヒトっ!」

 繋いだ手をぎゅっと引き寄せて、少し強引に抱き寄せる。今まで我慢してきたのだ、これくらいは許されるだろうと、彼女をぎゅっと抱きしめる。

「……好きだ。愛してる。ヴァレリアのこと、何よりも大事に思っている」

「……」

 耳元に囁くと、火がついたようにヴァレリアの顔が赤くなる。

「……今夜、ご両親に挨拶しようか。娘さんを下さいって」

「それは……! 嬉しいのですけれど、その、は、早すぎるのではないでしょうか……」

「……うん。さんざん待たせてごめんな。今更、急ぎ過ぎることはないよな」

 でもこれくらいは良いだろうと言って、ユキヒトはヴァレリアと唇を重ねた。





















「……音がなんだか楽しそう」

 工房で依頼の品を作っていると、ノルンがふと声をかけてくる。ユキヒトは手を止めて、ノルンの方を向き直る。

「……いつの間に潜り込んだんだ」

 全く気付かなかったぞとユキヒトは笑う。集中しすぎですとノルンは返して、ユキヒトに質問を重ねる。

「何を作っているんですか?」

 こんな風にノルンがユキヒトの仕事の邪魔になる様な事をするのは極めて珍しい。ユキヒトは嫌な顔をせず、そのノルンの疑問に答えた。

「ようやくいろんな仕事がひと段落したからな。この前言った、ヴァレリアの服を縫ってもらう針子さんから頼まれた裁ちばさみだよ」

「それでそんなに嬉しそうなんだ」

 ノルンはにこりと笑う。

 ヴァレリアとの関係の変化については、既にノルンも、ヴァレリアの両親も知るところだ。耐性のないヴァレリアは、その後真っ赤な顔が一向に収まらず、その癖手を離すことも嫌がった結果、彼女の家に着いた時には、何かがあった事は一目瞭然の状態で、ヴァレリア自身が全て白状させられた。

 やはりノルンにすすめられて二人で出掛けなければ、あの日そんな事にはならなかった。アーミルの店でのやり取りも、ヴァレリアの背中を押した要因の一つだと彼女から聞かされれば、その仕事に熱が入り、また機嫌が良くなるのも当たり前の話だ。

「オルトさんも、喜んでくれるだろうさ」

「お父さん……ヴァレリア姉さまの事、気にしてたから」

「うん。……そうだな」

 少し身を固くしながら、それでもノルンは笑って見せた。

 がんばっていこうなと、ユキヒトはノルンの頭を撫でた。























 若き職人へ 君の真摯な仕事が多くの人に幸せをもたらすように 行人







[8212] 復讐するは我にあり
Name: yun◆04d05236 ID:5c7607ed
Date: 2011/02/01 01:39






 ベルミステンの冬は厳しい。

 雪が積もるのは比較的乾燥した気候もあって厳寒期に一度二度と言う程度ではあるが、地の底から這い上がるように冷気が押し寄せてくる気候である。

 それも影響してか、紅茶、コーヒー、ココアと言ったものの消費量が多く、茶葉は名産に乏しいベルミステンにあって唯一、そう呼べるだけの生産量と質を誇っている。

 盆地にある都市であるために、夏もまた相当に暑さが厳しく、寒暖の差が激しい。それが原因であるかは定かではないが、家計に占める被服費の割合が大陸の一般と比較して高い事も知られている。

「……と言う事で、コートも一着新調してはいかがでしょうかぁ?」

 そう言ってニコニコと勧めるのは、依頼の服をヴァレリアに引き渡す針子のアーミルだ。商売っ気が強いのは依頼をし、依頼を受けた時に知っている。ヴァレリアもまた、仕方ないというように笑っている。

 量が多かった事、鋏を受け取ってからアーミルの仕事を開始すると約束したことがあって、依頼からはかなり経ってからの引き渡しになった。そのおかげで冬が深まり、アーミルの営業につながる結果を呼んだ。

「確かに、私の持っているコートではこの服に合うとは思いませんね」

 それを自分で判断できるようになったのは格段の進歩ではないかとユキヒトは思う。彼女の両親からの情報では、最近はこっそりと同僚などからファッションについて教えてもらっているらしいとのことだ。自分の動向が両親から恋人に細大漏らさず伝えられているという事実を、今のところ彼女は知らない。

「裁ちばさみ、とっても使いやすいですし、お代の方は勉強しちゃいますよ? なんだったらユキヒトさんも注文してくれるならもっとがんばっちゃいますぅ」

「紳士服も扱ってたのか?」

 しっかりと営業範囲を広げようとするアーミルに苦笑しつつ、ユキヒトは返事をする。

「ユキヒトは、コートはどうなのですか?」

「前に住んでたのが山の中だからな、防寒用のちょっとごついのを一着持ってる」

「……お揃いとか、作れちゃいますよ?」

 以前のブレンヒルトの仄めかしを覚えていたのか、それともその会話に何かしら感じるところがあったのか、アーミルが声は遠慮がちながら興味津々に目を光らせつつ、そんな事を言い出す。ヴァレリアはそれに、顔を赤くしつつやや上目遣いで、顔色を窺うようににユキヒトを見た。

 案外というべきかヴァレリアはそう言ったことに憧れをもつタイプであるらしい。その片鱗はここのところいくつも見ていることもあり、ユキヒトとしても簡単にヴァレリアの意向は察知できる。

 そうも分かりやすいと逆に意地悪をしたくもなる。しかし、最近になって分かった事ではあったが、ヴァレリアは拗ねると長い。出先でなければそれもまたいいと思えるのだが、今彼女を拗ねさせてもこのおしゃまな針子を喜ばせるばかりだ。

「見本を見せてくれるか? 紳士服の見本もあるのかな」

 ぱぁっと顔を明るくする彼女に尻尾が生えていたならば、間違いなくちぎれんばかりに振っているだろうと、ユキヒトはヴァレリアの表情を見ながら思った。

 次から次へと見本を出してくるアーミルを前にして、やや困惑しながらも楽しげにそれに対応しているヴァレリアの姿は、少し前からは想像もできないものだった。彼女がその様に変わった原因が自分であることは明確であり、ユキヒトにはそれがこそばゆくも誇らしい。

 あれこれと見本を見ながら注文をつけるヴァレリアに、前回を知っているアーミルもやや驚き顔だ。学んだことを最大限活かそうとしているらしい彼女に、舞台裏を知っているユキヒトは微笑ましいものを感じながらその様を眺める。

 感性自体が大きく変わったわけではないヴァレリアの事、やはりやや無難な、冒険のないデザインを選んでいるが、それでもやはり、地味なばかりのデザインではなく、シンプルながらもすらりとした印象の、ヴァレリアのイメージにも合うものを選んでいっている。どうやら彼女にファッションの指南をしているという同僚は、彼女の魅力についても理解が深いらしいとユキヒトは推測した。

 結局ユキヒトの出番はなく、ヴァレリアがデザインを全て決めてしまった。紳士用の見本はなかったが、任せてくださいとどんと胸を叩くアーミルは根拠こそないものの自信に満ちており、選択肢がそこにはなかった。

「毎度ありがとうございますぅ」

 様々な意味で満足らしいアーミルが、ニコニコと笑って見送ってくれる。店をいくらか離れたところで、ユキヒトはヴァレリアに話しかけた。

「いつの間にあんなに服に詳しくなってたんだ? 凄いじゃないか」

「ヒトは進歩する生き物なのです。私とていつまでも同じ私ではありません」

 ふふんと胸を張る彼女が微笑ましくて、ユキヒトはヴァレリアの頭にぽんと手を置いた。

 子供扱いにも思われるが、ヴァレリアがその様なスキンシップを好むことを既にユキヒトは知っている。どうやらブレンヒルトの甘えたがりの本質を見抜いたのは、彼女自身に少なからずその様な資質があったかららしいとユキヒトは分析している。

 有名人である分、あまり人目の多い場所で露骨な事は出来ない。特に彼女は、軍属の英雄として知られる人物であり、硬派のイメージである。公衆の面前でべたべたとしているのでは軍全体のイメージダウンにつながる。彼女もそれを弁えていて、人前では繕って見せている。

 彼女としても上手く距離感が掴めない部分があるらしく、ユキヒトに対して過剰に素気なくしてしまっては、人目につかない場所に入って言い訳をするという様な事を何度も繰り返した。

 ユキヒトとしては、十分彼女の態度の理由も分かっていたのだが、その彼女の言い訳をする姿が、率直に言って面白く可愛らしかったために、あえて安心させる様な決定的な言葉を言わずそれを楽しんでいたのだが、つい先週それがばれて思い切り拗ねられた。なんとかなだめすかして、服を取りに行くのに付き合うという条件で許しをもらったユキヒトだった。

「……冬ですね」

「そうだな、冬だ」

 分かりきった事を言ってくる彼女が、何を考えているか、ユキヒトには手に取るように分かる。寒さにかこつけて手を繋いで良いものかどうかと迷っている彼女に対して、少し辺りを見回して、どうやら人目はなさそうだと判断して、その手を取る。

「冷たいな。ちゃんと温かくしなくちゃだめだぞ」

「……ユキヒトの手が温かいだけです」

「今度は手袋を買いに行こうか」

 他愛のない会話を交わす時間が、宝石のように輝いて思える。自分は幸運だとユキヒトは思う。

 大きな通りに出る前に名残惜しく思いながらも体を離す。ヴァレリアも、それには逆らわずに、一歩だけユキヒトから遠ざかる。それを寂しくは思わない。彼女の本心は、手が離れていく一瞬前に、ほんの微かに力を込めた指先にこそ籠っている事を知っている。

 それでも彼女は、少し不安そうにこちらを見てくる。それに対して少しだけ頷くと、彼女は穏やかな表情で微笑んだ。

 お互いに、言葉で多くを語るのは得意ではない。気持ちが正しく相手に伝わっているかは、いつも不安だ。

 それだからこそ、相手を大切に思っている事を行動に示すことは大切だ。

 一歩離れた立ち位置、たまたま指と指が触れあう事もない程度の、微妙な距離。それでもその距離の意味を間違えないように。

 会話はなくとも、その沈黙はむしろ心地が良い。

 別れる前、辺りを少しうかがってから、ユキヒトはヴァレリアを抱き寄せる。初めの頃は体を固くしていたヴァレリアも、今はごく自然にユキヒトに体を預けるようになっていた。

 口づけは唇を合わせるだけ。それ以上はまだヴァレリアが怖がるのを、ユキヒトは察して理解していた。周りで見ているものからは溜息をつかれるほどにゆっくりでも、それが彼女と自分のペースだとユキヒトは思い定めている。

 不器用に誠実に、二人は恋をしていた。











 思いつめた表情の青年が刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』を訪ねてきたのは、よく晴れた日だった。

 傭兵か、冒険者か、その類の職業についている人物であることは、一見して知れた。ヒューマンと思しき容貌だが、ユラフルス大陸の出身ではない者と思われた。背はやや低く、細身だがしなやかな印象がある。黒い髪に黒い目、顔立ちもユラフルスのものとは少し異なり、年齢の割にやや幼げに見える作りだ。もう一つの大陸、アリオロイ大陸の、それも北方の出の典型だ。

 青年は一通りのあいさつを交わした後、何故か沈黙した。

 こちらから話しかけたものかとしばらく迷っていると、躊躇いがちに口を開きかけてまた閉じるという事を繰り返すため、何ともタイミングがとりにくい。

 やがて、ぐっと奥歯をかみしめたかと思うと、青年は絞り出すように言った。

「……オレの魂と引き換えに、剣を一振り打ってほしい」

「……もう一度言ってくれますか?」

 思いつめた表情の彼が言った言葉が、今一つ上手く認識できずに、ユキヒトはそう聞き返した。

「オレの魂と引き換えに、剣を一振り打ってほしい。『古都の魔人』ユキヒト・アヤセ」

「……とりあえず、その訳の分からない二つ名から説明してくれ。あと貴方の名前と」

 やや呆けた表情のノルンとヴァレリアが控える室内で、気恥ずかしい思いに頬を赤くしながら、ユキヒトはとりあえずは穏やかに、質問を返す。

 ここのところヴァレリアは、非番の日のうち少なくはない割合をユキヒトの工房で過ごす。生真面目な彼女のこと、道場や図書館通いをやめたわけではないのだが、それと同等程度には、ユキヒトとの時間を確保するようになっていた。工房を休みにしているわけでない日は、ノルンと二人で表の注文を受けるカウンターを預かってくれることもある。

無論、ベルミステンの英雄であるところのヴァレリアが鍛冶屋の店番などしていると知られれば厄介なことになるのは目に見えていたため、客がくれば、工房で剣を打っている事の多いユキヒトを呼びに行くなど実際に立ち働くのはノルンである。とはいえ、盲目のノルンの側についていてくれるという、ただそれだけでユキヒトとしては随分と安心できる。

 青年は、少し驚いたように目を開いて、やや不安そうに口を開く。

「……ここは、刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』で間違いないだろうか? 『ロマリオ皇国唯一の竜騎士』ヴァレリア・ロイマーの剣を打った」

「……それは間違いない。なんと言うか、不幸なことに」

 それを間違えていないという事は、青年の言う怪しげな二つ名も、どこでかは分からないが自分を指すものとして通ってしまっているらしい。ユキヒトはぐったりとカウンターに突っ伏しながら言った。

「……ベルミステンに、依頼人の人生を聞き取り、気に入れば死後の依頼人の魂と引き換えに魔剣を打つ鍛冶師がいると聞いて……」

「いるか、そんなもん! 少なくとも俺じゃない!」

 ユキヒトにしては珍しく、初対面の依頼人に全力で怒鳴った瞬間、こらえきれないというように、ノルンとヴァレリアが吹き出す。

「……あながち大外れでもない辺りがまた何とも……」

「噂って、こういう風に広がって最後には原形を留めなくなるんですね……」

 好き勝手に論評する二人に、釈然としないという表情の依頼人。その依頼人よりさらに憮然とした表情のユキヒトは、一度深くため息をつくと、依頼人と正面から向き合った。

「……依頼人の事を何かと聞かせてもらうのは本当だ。師匠からの教えで、良い剣を打つためには使い手を深く知らなきゃいけないって言うんでな。魔剣っていうのは……まあ、うちの工房で魔法陣も施すから、間違いとも断言しきれない。依頼人の魂と引き換えっていうのは出鱈目だ。そんなもんで腹が膨れるか。普通に報酬はお金だよ」

 恐らくはユキヒトが剣を打った顧客のうち誰かが、ユキヒトの工房の事を話したのが発端だろう。広がっていくうちに微妙に脚色されていき、最終的にはあんまりな噂が完成されたという事だと思われた。

 まさか自分がいつの間にか魂を奪う魔人にされているとは思いもよらず、出来ればその噂が流れている地域に乗り込んで根絶してしまいたいとすら思った。

「……しかし、魂を譲り渡してでも優れた剣が欲しいとは、穏やかではありませんね」

 不意に、ヴァレリアは表情を厳しくして言った。

「ノルン。部屋に下がっておいでなさい」

「はい」

 ノルンは血生臭い話を好まない。この先の話の不穏さを感じ取ったヴァレリアの言葉に素直に従い、ノルンは退場していった。

「私は、ヴァレリア・ロイマーと申します。どうせユキヒトに語るつもりであったのであれば、私にも聞かせていただけませんか?」

「『ロマリオ皇国唯一の竜騎士』!?」

 ベルミステンでは顔も知られたヴァレリアだが、流石にファリオダズマの情報伝達力では、遠くの国にはその顔までは知られていない。

「……俺はいまだに、貴方の名前すら知らないんだがな。とりあえず誤解は解けたところで、少し落ち着いて話をしてくれよ」

 どうやらこの依頼人は思い込みの強いタイプらしいと、少し疲れた気持ちになりながらユキヒトは告げた。

「……オレの名前は、ソルスケル・シーモア……」

 どうにか誤解を解いたらしい青年は、ゆっくりと口を開いた。

 彼が語り始めたのは、彼に纏わる悲劇だった。

 大陸を旅してまわる行商を生業とする一家。豊かとはいえないながらも、優しい父と母、可愛い妹とともにある日々。厳しくも楽しい旅の生活。いつかはどこかの街で店を構える、庭のついた家を立て、商売を大きくして楽しく暮らす。父の語る夢に妹ともに目を輝かせ、寒い日は一つの毛布に固まって眠り、晴れた夜には星座を数え、雨の日には雨宿りをしつつ母のお伽噺に胸を躍らせる。

 そんな毎日も、ある日唐突に終わりを告げる。

 いつもと同じ旅の途中。山道に唐突に現れる盗賊団。斬り殺される父と母。逃げまどう中、捕らえられる妹。山の斜面から転がり落ちる自分。

 死ななかったのは単純に悪運が強かっただけだ。そして彼はその後も生まれ持っていたらしい悪運を発揮していく。

 彼は死ななかった。十歳にして傭兵稼業に足を踏み入れ、何度も死にそうな目にあいながらそれでも彼は生き抜いた。十六になった今は、大分危険も嗅ぎ分けることができるようになった、一端の傭兵である。

 そして彼は探していた。妹、そして仇を。妹は兄のひいき目を差し引いても、愛らしい少女だった。殺されなかった可能性は高い。奴隷として売られているならば、まだ生きているかもしれない。そして仇。むき出しの肩に入れていた刺青と、顔に走る刀傷。恐怖と怨恨とともに脳裏に深く刻み込んだその盗賊団のリーダーの顔を、ただの片時も彼は忘れたことなどない。

「……オレはついに仇を見つけた。オレは命を賭けてでも、復讐しなければならない」

 そうやって語り終えると、ソルスケルは、きっと睨むように、強い意志のこもった眼でユキヒトを見た。

 それに対してユキヒトは、静かにヴァレリアに視線を送る。ヴァレリアは、ゆっくりと左右に首を振った。

「……自殺志願者に打つ剣はない」

 それを確認してユキヒトは、きっぱりとそう言った。

「なっ……!」

「問いましょう」

 ヴァレリアは姿勢を正し、真っ直ぐな目でソルスケルを射抜くように見据えると、鋭く問いを発した。疑問は許さない。その怜悧な響きに、ソルスケルが背筋を伸ばした。

「仇の首領の名は」

「……知るもんか。奴の顔は分かる。それで十分だ」

「盗賊団の構成人数は」

「十四、五人ってところだ」

「構成員のうち主要な者の経歴は」

「盗賊団は盗賊団だ」

「貴方の戦略は」

「真正面からたたきつぶすだけだ!」

 簡潔な問いを次々に放ち、そこまで来たところでヴァレリアは息を継ぐように問いを切り、静かな目でソルスケルを見つめた。

 その真摯な目の前に、ソルスケルはつと視線を逸らす。

「話になりません」

 ずばりと切り捨てると、ヴァレリアは深くため息をついた。

「貴方が望んでいるのは報復ではありません」

「何!?」

「復讐は虚しいなどと高尚な事を述べるつもりはありません。時にはそれが必要なこともありましょう。しかし、戦であれば勝たねばなりません。その為の情報収集を、貴方は全く怠っている。まして貴方が、十人を超す敵を向こうに回して切り抜けられるだけの勇士とも思えない。彼を知り、己を知れば百戦も危うからぬところですが、彼を知らず、己も知らぬ貴方は、百戦して終に勝つことはないでしょう」

「……」

 ぎりぎりと歯ぎしりをするソルスケルに、ヴァレリアは一層冷たい目を向けた。

「その様に悔しがる振りなどしなくて良いのです。貴方は私の言った事を全て己で理解している。貴方が望むのは報復ではなく己の死です。何故、その様に死に急ぎますか」 

 ヴァレリアほどに正確に洞察していたわけではないが、ユキヒトも似た様な見解だった。

 彼の語る彼の過去を、嘘だと思うわけではない。しかし彼の言葉ほどに、彼が仇討ちを望んでいるようにも思われなかった。

 人は静かに狂う事が出来る。本当の怒りは人を冷酷にする。仇を目の前にしているという状況であればいざ知らず、その居場所を突き止めたという局面において、増して幼少期から刻まれた深い恨みを果たそうとするならば、このように短絡的に暴発するものではない。

 仇討ちを真に望むのであれば、それが可能となる様に戦略を練るだろう。相手が、彼が幼少のころから活動している盗賊団であるならば賞金も架けられているはずだ。傭兵であればその賞金を餌に仲間を集めることも可能であろう。

 それをしようとしない裏には、何かの理由があると考えるのが妥当だった。

「……失礼するっ!」

 怒りもあらわにソルスケルは席を立つ。ユキヒトもヴァレリアも、それを止めようとはしなかった。

 バタンと、音も荒く扉を閉め、ソルスケルが工房を出る。高い足音が遠ざかっていくのを確認し、ユキヒトは長く息を吐いた。

「……お客を一人なくしちまったかな」

「また来ますよ。彼は」

 何気ない口調で断言するヴァレリアに、ユキヒトは疑問の目を向けた。

「……まあ、次は本当の事情を語ってくれるのではないでしょうか」

 ユキヒトの無言の問いに応えることはなく、ただヴァレリアはその予測を口にした。

 一体何を根拠に言っているのやらと思いながらも、ユキヒトはその予測が恐らくは実現するのであろうと、漠然と予感した。









 数日の後、ユキヒトはノルンを伴い、アルディメロを訪ねていた。

「……ふむふむ。『古都の魔人』か」

 にやにやと笑いながら、アルディメロはノルンの語った内容を反芻した。ユキヒトとしては忸怩たるもののあるその二つ名だが、ノルンは実に楽しげにそれを暴露していた。

 無論、暴露するといっても依頼人の素性までは話さない。ノルンはそれを知る前に自室に戻っているし、例え知っていたとしてもそれを他人に話すほどに慎みのない少女ではない。

「出世したな」

「ありがとよ」

 アルディメロの揶揄に、投げ遣りに返す。

 魔術学院時代からの友人は、ユキヒトの元の世界への未練もあって必ずしも多くはない。決していないわけでもないのだが、やはり最も親密なものとなるとアルディメロになる。迷信のはびこるファリオダズマにあって理性の力を信じる彼は、現代日本人として合理性を身につけてきたユキヒトにとっても小気味の良い存在だ。

「だが、悪意のない噂の流布の結果として興味深い事象ではある。惜しむらくは、拡散の過程が見えずただ結果のみが提示されている事か」

「噂を蒐集するなんて言ってみろ、お前でもただじゃおかないぞ」

「難しかろうな。せめて発生地が分かればその地域からの距離と噂の変化をたどることもできように。いや、むしろ噂の蒐集を行う事で噂の発生源の特定が可能か…? それもまた、興味深い主題ではある」

 まあ片手間に研究できることではあるまいと、あくまでユキヒトへの配慮ではなく己の都合のみで結論を下したアルディメロに、ユキヒトも苦笑いしかできない。

「その様な噂を立てられるほどに、お前の作った剣の出来が良かったという事だ。確かに迷惑な事ではあるが、ある面では名誉でもあろうよ」

「だからってお前が『ベルミステンに寿命の半分を奉げれば知りたい事を何でも一つ教えてくれる悪魔がいる』なんて噂を立てられたら気持ち良くないだろ」

「御免被る」

「……しれっというあたりが本当にいい性格してるよ」

 良い性格をしているが、憎む気にはなれない。その程度には親しい友人だ。

 実家は名家であり、金持ちでもあるのだが、それを鼻にかけることもない。良い意味での選良意識があり、己こそが世界を良くするのだと気概を持った男である。立派なものだと友人ながら、時折ユキヒトは感心してしまう。基本的には真面目な男であるが茶目っ気もあり、冗談を好む。

「……しかし、もしもそんな者が存在するのであれば、会ってみたいと思ってしまうな」

「……会って、寿命の半分を犠牲にしてまで、一体何が知りたいんだ」

「一生をかけてでも知りたいことなど、山ほどもある。だが、実際にそのような者が知識を授けてくれるといえば……興味はあるが、断らねばなるまいな」

「寿命の半分は惜しいか?」

 違うと知りながら、ユキヒトは問う。アルディメロはそのからかう様な表情に、分かっていると穏やかに笑って返す。

「まさか。……知識を欲するがために超常たる者にそれを請うなど、学術の徒としてそんなみっともない真似ができるものか」

 それをみっともないと切って捨てられるのが彼の彼たる所以だろう。その姿勢がユキヒトには嬉しかった。

「とはいえ、いざその様な者を目の前にすれば、自分が知識欲に負けずに冷静に対処できるか、それについてはいささか自信がないな」

「ま、それがヒトってものだろう」

 だからユキヒトは、アルディメロの前では隠し事をしなければならない。冗談半分に出してしまった例えが、図らずもこの世界における自分自身に似たところのある存在だと気づいて、ユキヒトの胸が痛んだ。その痛みが幾度目であるかはもう覚えていない。しかし、慣れることはなかった。

「おかしなものだ。ヒトは己が己であるために己の欲すら制御せねばならん。その様な生物が他にあるか。欲求を叶えることを是とする野性と、より高度に生きるために欲求を抑える理性と、一体いずれが生物の本質であるか。野性がなければ生きられず、理性がなければ繁栄できず。そのいずれもが本質で無いとするならば、両極の間にある中庸こそが本質か……」

 後半を問いかけているのは、その場にいるユキヒトやノルンというよりは己自身であるらしい。声はやや小さく、ぶつぶつと呟く様にアルディメロは言う。

 学問が未成熟なファリオダズマでは、学者の多くは哲学者の側面を持つ。専門が細かく分かれるほどに個々の学問が発達してはおらず、探究心の究極は哲学的な問いかけに収束する。アルディメロもまた例外ではなかった。

 疑問の海に沈みかけたアルディメロに、ユキヒトはパンと耳元で手を鳴らす。

「哲学は一人になってからするように」

「ん、あ、ああ。すまん」

 問いかけにのめりこみ始めていたらしく、アルディメロの反応は鈍い。アルディメロにはいったんそれに集中すると、周りが見えなくなる癖があった。強制的にこちらの世界に戻ってこさせると、彼にしては珍しい表情を見せることが多いために面白い。

「何にせよ、お前の商売が繁盛しているのは事実だ。重畳、重畳」

「集中力が切れたからってあからさまにお茶を濁すなよ」

 幾分マイペースなところもある友人に、ユキヒトは笑った。

「さて……そろそろお暇するか」

「また来るがいい。お前がこの街に帰ってきてくれて嬉しいよ」

「ありがとう。俺もこの街に帰ってこれて嬉しい」

 社交辞令でもなくそんな事を言ってくれる相手と言うものは心地が良い。からからと笑う人狼は、ユキヒトにとって心の底から良い友人であった。











 酒場からの喧騒に気づいたのは、アルディメロ邸から帰る途中、商店街で少し買い物をしていた時だった。

 夕暮れ時、まだ酒場が繁盛する時間には少し早い。その割に妙に騒がしい酒場が一軒あった。

「……中、喧嘩してます」

「……やれやれ。まだ日もあるうちに」

 聴覚の優れたノルンが、騒がしさの理由を聞き分けると、ユキヒトはあからさまに溜息をついた。

 ユキヒトは酒を飲んで馬鹿騒ぎをすることを好まない。元の世界では未成年であったし、ファリオダズマに来てからも、師であるオルトがあまり正体をなくすような飲み方をしなかったこともあって、酔っ払いや彼らが起こす騒動と言ったものに対して冷淡になる傾向があった。

「行くぞ、ノルン」

「……ちょっと待ってください。なんだか、聞き覚えのある声がします」

「……何?」

 知り合いに酒癖の悪いものは少ない。ノルンとも面識があるとなればなおのことだ。

 さっさと離れたものか、様子を見るべきか。迷ううちに、バタンと乱暴に酒場のドアが開いて、中から男が一人、突き飛ばされて出てきた。

「畜生! 馬鹿にしやがって!」

 男は叫ぶが、答えは桶でも使ってきたのか、ずぶぬれになるほどの量の水だった。

「畜生、畜生……!」

 ぶつぶつと呟く男は、あからさまに顔を赤くしており、酔っているのは歴然としている。その顔を見て、ユキヒトはもう一度溜息をついた。

「自殺志願かと思ったら酒場で酔っ払って喧嘩か? それもこんな日のあるうちから。下らないな」

「何だとぉ!?」

 顔をあげたのは、まぎれもなく先日の依頼人、ソルスケルと名乗っていた青年だった。

「そんなずぶぬれで泊ってる宿にも帰れないだろう。一度うちに来い」

「うるせぇ! お前に何が……」

「何も分からないけどな、お前が今最高にみっともないってことだけは分かるよ」

 その後も何かブツブツと言っていたが、それ以上は声をかけずに歩きだすと、結局ついてくる。このような、あからさまにどこかで問題を起こしたと分かる格好で宿に戻れば、翌日からは泊めてもらえない可能性も高かった。

「……」

 ノルンは、ユキヒトに手をひかれながらどこか彼に対して気遣わしげな表情をしている。その表情はむしろ彼を傷つけることをユキヒトは知っていたが、あえてそれをノルンに伝えようとは思わなかった。

 工房に帰りついて、ユキヒトはタオルと自分の着替えを一揃え用意して渡した。こんな時期に水を浴びせられたのだから、酒を飲んでいるとはいえ温まりたいところかもしれなかったが、ボタン一つで済む日本とは違いファリオダズマでは風呂の用意はかなりの時間を要する重労働だ。そこまでしてやる義理はなかった。

 いい加減体が冷え切っているらしく、着替えてからもがちがちと歯を鳴らすソルスケルに、ユキヒトは紅茶を出してやる。

「……申し訳ない……」

 頭も冷えて、酔いも大分覚めてきたらしい。ソルスケルは謝ってから、その紅茶に手を伸ばした。

「俺はあんたを連れて帰っただけだ。酒場にはちゃんと金を払ったのか?」

「……」

「明日、ちゃんと払ってくるんだな」

 流石に今日は出せる顔もあるまい。とはいえ同じ商売人として、踏み倒しは阻止する必要があった。

「……で、どうする。帰るか? それともここで事情を話していけば少しはすっきりするか?」

 少なくともこのように荒れた原因の一端はこの工房での出来事にあるだろう。そう思えば少しは責任も感じる。

「……申し訳ない。今日は帰る。酒が抜けてから、事情は説明しに来たい」

「そうか。まあ、止めないよ」

 思い込みの激しい男ではあるようだが、案外最低限のところでの常識も持っているのかも知れない。後日説明に来るというのであれば、止める理由もなかった。

「送らないぞ」

「……そこまで恥知らずなつもりはない……」

「十分恥ずかしい奴だ」

「……」

 手厳しいユキヒトの言葉に反論するではなく、恥ずかしげに小さくなって、ソルスケルは工房から出て行った。

「酔って乱暴になるヒトは嫌いだけど……あの人は、ちょっと可哀想」

「そうか」

 ノルンには何か違いが分かったのだろうかとユキヒトは思う。ユキヒトにはよく分からなかった。酔っぱらいは酔っぱらいだ。

「上手くいかないんだと思います」

「……何が?」

「分かりません。だけど……あの人から感じるのは、もどかしいという気持ち。どうしようもない事を、どうしようもないんだって納得できない気持ち……」

「……」

 それを感じ取ったノルンの心境、どうしようもない事をそうと納得できないのは一体誰かと、そう心の中に問いかける。

 考えても仕方がないと頭を振って、ユキヒトはその考えを振り払う事にした。










 翌日、ユキヒトが鍛冶場に火を入れるより前に、ソルスケルが工房を訪ねてきた。

「……昨日は見苦しいところを、申し訳ない」

「荒れるのは勝手にすればいい。けど、赤の他人に迷惑をかけるのはやめにしろよ」

「……」

 年下の、それも反論できないほどの非がある人間に対してこのような態度は幾分大人げないだろうかとも思いながら、ユキヒトは再度注意をした。案の定というべきか、ソルスケルは黙ってうつむく。ここで妙な反発をしないのは、やはり自分に非があったことを認められている証拠と思うべきだろう。

「さて、話したい事があるなら聞く。ただし、聞いたからって何かができるとは限らない。それを期待してるなら、何も言わずに出て行ってくれ」

 冷たいようだが、この程度まで突き放しておいた方が良い。あくまでも他人、下手に感情移入しても仕方がない。

 ノルンはすでに部屋に下がらせている。これから先、どんな話になるかは分からない以上、始めからノルンを同室させないのが無難だった。

「……以前この工房に来た時にした話は、全て本当だ」

「ただし、語っていない事がある?」

「……」

 台詞を先取りすると、ソルスケルは黙ってうなずく。

「初めに言っておくけど、それを無理に語れとは言わない。別に珍しい事じゃない。ヒトにはそれぞれ、話せることと話せないことがある。必要だと思えば聞かせてもらおうおうとすることはあっても、何も強制じゃない」

「いや、オレは誰かに聞いてほしかったのかも知れない」

「聞かせる相手は選べよ。俺は貴方の何でもないんだ。赤の他人に話して聞かせていい内容なのか?」

「……赤の他人だから良いのかも知れないな。少なくとも、俺は、俺がする話を別の傭兵がしていたら、そいつとだけは組んで仕事をしない」

「随分だな。まあいい。聞いた内容が何にせよ、他人には話さないさ。ただし、犯罪に関わっている場合は例外だ。善良な市民の一人として衛兵に出頭してもらう」

「オレの過去が、何かの罪に問われるならば、あるいはその方が気も楽かもしれない……」

 ソルスケルは、自嘲を隠そうとしない表情で言った。

「オレは、山賊に襲われた時……山の斜面を転がり落ちて助かった。それは本当だ。ただ、本当は……多分、オレは、妹を見捨てて、囮に使って、自分だけ逃げた」

「多分?」

 自分の行為にそのような言葉を冗談でつける知り合いがいないではないが、少なくともこの場面にそぐうとも思えず、ユキヒトは聞き返した。

「……オレは、命の危険に対して鼻が効くようにできているらしい」

「傭兵には必要な資質だな」

「そうかもしれない……だが、オレは、危険がせまったときに、ほとんど無意識に周りにあるものすべてを利用して生き延びてる」

「……?」

「仲間を囮に使ったり、戦線が崩壊した瞬間に逃げたり、仲間の救援に行かずひたすら隠れていたり……様々だ。オレは一度も重傷を負ったことがない代わりに、味方を助けたこともない」

「随分逃げ足が速いんだな」

 傭兵などと言う生業をしていれば、ある程度当然のことだ。とはいえ気持ちの良いものでもない。幾分冷たい声になってしまったのは、やむを得ないところだった。

「初めは俺も、少し憶病で、逃げ足が速くて、悪運が強いだけだと思ってた。でも、後で考えて見ると、俺が助かるチャンスはそこしかなかったっていう選択ばっかりだったんだ。しかも、俺がそうすることで、もしかしたら助かっていたかもしれない奴が何人も助からなくなってたことも多かった」

「……」


「……気づいて、怖くなった。もしかしたら俺は、とんでもない奴かもしれないと思って。怖くなっても、仕事はやめられなかった。俺みたいな奴は、もう今更まともな仕事になんかつけない。傭兵で食っていくしかないし、仕事をすると今度は誰かを犠牲にして生き残る、ずっとそんな繰り返しだ」

 ソルスケルは、語りながら頭を抱える。彼なりに悩み、苦しんでいる。それは間違いのない事実だった。

「気づいてしまったら、もう、考えるのをやめられない。オレが、一番初めに命拾いをした時……。あの時は、どうだったかって」

 相槌も打てない。ただ彼の言葉を頷くこともせず静かに聞いていた。

「道の前も後ろもふさがれてて、もちろん子供の俺に山賊を倒して逃げるなんてこと出来るわけもない。かなり急な斜面だったから、転がり落ちればまさか追ってくることなんてできない。大怪我どころか、死んだっておかしくないような場所だった。……妹を連れていけたかっていうと、難しかった。妹が怪我をしたらとても連れてどこか安全な場所まで行けるとも思えなかったし、そもそもぐずる妹を連れてたんじゃ、斜面まで逃げる前に捕まえられそうだった」

「それを全部計算して、一人で逃げたって?」

「その場で考えてたわけじゃない。でも、オレはいつも、気づいたらそうやって、自分一人が助かる様な事ばかり……」

 それが悪なのかと言えば、単純にそうと断じるのも難しい。彼が自分で思いつめているだけで、彼の言う事が客観的事実に基づいているかと言えばそれは分からない。彼の自責の念が、彼をそんな風に追い詰めているだけという事も十分に考えられた。

「……ここまでの話は分かった。それで、何故剣を?」

「あの山賊を見つけた。オレは、今まで何もかもから逃げてばかりで……。半端なんだ。だから、あいつらを殺して、仇を討てたら、今度こそもっとまともな人間になれる気がしたんだ」

「……」

「集団で行ったら、きっと、負けそうになったら逃げる。多分……逃げてしまえる。それじゃダメなんだ。勝つか、死ななきゃダメなんだ。そうじゃなきゃ俺は、まっとうな人間になれないんだ」

 悲壮な決意をその眼に刻んで、切々と彼は訴える。その気持ちは、ユキヒトにも理解ができた。

 ユキヒトは考える。果たして彼に剣を打つべきだろうかと。

 彼の言う、まっとうな人間と言うものがどういうものであるのか、おおよそは分かる。しかしながら、彼のいう方法でそれになることができるかと言えば、それはユキヒトには疑問だった。ヒトが、何か一つのことをきっかけにして以前の自分とまったく別の存在になれるとは、ユキヒトには思えない。

「まっとうな人間ってのは、一体なんだ?」

「……逃げたり、騙したり、見捨てたり……ずるしなくても生きていける、そういう人間だ」

「……」

 しばらく考えて、ユキヒトは結論を出した。

「分かった。剣を打とう」

「本当か!?」

「ただし、条件が二つある」

 そしてユキヒトは、その条件を口にした。











 何度目かは分からない。ソルスケルが地面に叩き伏せられた。

「典型的な我流剣術です。基礎と言うものがなっていない。それでは本物の剣士には勝てません」

「……うぅ……」

 ソルスケルは、鉄製の模擬剣を杖のようにして立ち上がる。膝はがくがくと震えており、全身から酷い汗をかいている。

 叩き伏せた側、ヴァレリアはといえば、平然とした表情だ。少しばかり顔は上気しているものの、彼女は剣を振るう時、入念な準備運動を欠かさない。その準備運動により体を温めただけであり、殆どその場から動きもせずにソルスケルを良い様にあしらっている。

「剣を杖として使ってはいけません。剣が痛みます。一度目の忠告ですので見逃しましょう。次からは容赦をしません」

 実際に、彼女の部隊で訓練中に剣を杖として使ったものは、その日は足腰が立たなくなるほどに徹底的にしごかれる。

「まあ、貴方の癖は大体分かりました。それでは基礎を教えましょう」

「……」

「返事がありませんね」

「よろしく頼みます……」

 よろしいと頷いて、ヴァレリアは剣を構えた。

「私たちのように、両手持ちの長剣を使う場合、重要なのは左手です」

「……」

「その程度は分かっていると思いますが、力を入れれば早く、強くなるというわけではありません。貴方の場合、左手が握りこぶしを作るように指と指がくっついている。それでは余計な力が入ります。小指にはある程度力を入れますが、他の指は心持ち間隔をあけて握るようになさい」

 ヴァレリアの指導に従い、ソルスケルは剣を握り直す。

「振りあげ、振り下ろす際は、基本的に左手が体の中心線を通るように。右手は舵を取るだけ。左手で振るのです」

 一度ゆっくりと振りあげ、そして振り下ろす。やってみなさいと促されて、ソルスケルはそれを真似る。

「極力頭を上下させないこと。視線がぶれれば、敵を見失います。常に平静に、常に着実に」

 すり足で前進しながら、振りあげた剣を振り下ろす。言葉の通り、彼女の上半身はほぼ上下に振れない。滑るような移動だった。

 再度促されて、ソルスケルがその通り、一度素振りをする。

「いいでしょう。これがどれだけ体に馴染んでいるか、それが重要になります。毎日素振りをなさい。初めは速く振る必要はありません。正しく振りなさい。正確に振れるようになれば、少しずつ速く振れるようになりなさい。しばらく、素振りをしていなさい」

 指示を出して、ヴァレリアはそばで見守っていたユキヒトの方へ近づく。

「それで、一体どういう事なのですか? 彼に稽古をつけろというのは……」

「……何故と言う事はないんだけど、彼にはこれが必要な気がしたんだよ」

「そうですか。……私と貴方の為の時間を潰すのですから、きちんと埋め合わせはしてもらいますよ」

 少し恨みがましく、ヴァレリアはユキヒトに告げる。

 ヴァレリアにとって自由になる時間は決して多くない。ベルミステンでは兵も指揮官も、多くが死んだ。兵の数も足りないが、何より指揮官が絶対的に不足していた。

 兵の訓練には時間がかかる。しかし、指揮官の養成にはさらに時間がかかる。ベルミステン騎士団は、いまだ再建を果たしたとは言えない状況だ。

 指揮官については、ベルミステンもまたロマリオ皇国の一都市である以上、国からの支援として他の都市からの転属である程度補っている。しかしながらロマリオ皇国では伝統的に、都市所属の騎士団はその都市の出身者で人材をまかなう。良質な人材を絶え間なく確保するには、何より仕官生の数を増やさなければならない。

 そこで、ヴァレリアの出番になる。英雄として市民に人気のある彼女が、志あるものの仕官を呼び掛け、またその試験にも積極的に関わっていく。厳しくなる訓練にも、彼女の存在によって士気を保つ部分がおおいにある。

 そうなるとどうしても彼女の軍務の時間は長くなる。一般的な騎士と比べると、彼女の非番は圧倒的に少ない。

「仰せに従うよ」

 確かにユキヒトにも、彼女のプライベートな時間を、このように使うことに対して、申し訳ないという気持ちと惜しいという気持ちがある。ユキヒトにも人並みの独占欲と言うものがあった。

 二人が話をする少し遠くでは、ソルスケルが言いつけを守り、ゆっくりながら正確な素振りを行なっていた。














 原材料となる鋼は、山奥に住まっていたころと同じように、今でもドワーフのリクドから購入している。刀匠としてはやはり、自分で納得の行った素材を使いたかった。

 燃え盛る炭の中に鋼を置き、真っ赤になるまで熱する。熱した鋼は、鎚で叩いて扁平な板にする。

 言葉にすれば単純な作業、しかし、幾度も幾度も、鋼を叩き、鍛えていく。つまるところ鍛冶とは、鉄を叩く作業をひたすらに繰り返す仕事だ。

 叩き続けて、板状になったところで、水につけて冷やす。急激に冷やすことで、不純物が剥がれ落ちる。再び熱し、切り分けて形を整え、テコと呼ばれる長い棒状の鉄製の道具の先に乗せる。

 ここから、重要な「鍛錬」が始まる。

 切り分けたもの重ねて更に熱し、鎚で叩いて接着する。火花を散らし不純物が飛び散っていくが、当然、凄まじく熱い。初めの頃こそそれに怖じ気づきもしたものだったが、もはや火を恐れるような感性はユキヒトにはなくなっていた。 

 地金を叩く鎚もかなりの重量がある。鋼を鍛えるのに使うのだから、相応に頑丈なものでなくてはならない。こちらも、初めて振るった時にはすぐさま腕が上がらなくなった。

 接着ができたところで、ワラの灰を表面につけ、さらに泥をつける。再び炭の中にいれ、芯までじっくりと「沸かす」。

 十分に熱されたところで取り出し、再びワラの灰をつけて炭の中へ。取り出し、再び鎚で叩く。

 ここまででようやく、テコの先で材料となる鋼が固まり、折り返し鍛錬が始まる。

 金具を鎚で叩きこみ、半分のところで折り目を入れる。同時に、水をかけて小規模な水蒸気爆発を起こさせ、不純物を飛ばす。折り返して再び鎚で叩きつつ、不純物を取り除く。再びワラの灰と泥をつけ、火の中へ。

 火の中へ入れている間も、もちろん単に見ているだけではない。絶えず風を送り、火の勢いを強くして温度をあげる。ぼんやりとしていられる時間などない。

 取り出して鍛錬し、再びワラの灰をつけて、火の中へ。最後にもう一度取り出して接着し、これで一度の折り返し鍛錬となる。

 芯鉄なら7度から10度程度、皮鉄ならばその倍程度、折り返し鍛錬を繰り返す。何度も繰り返すうち、どんどん不純物が取り除かれて行き、始めの塊から半分以下の大きさにまでなる。ただひたすらに、繰り返し繰り返し、鉄を打つ。ここで出来た地金が使い物にならなければ、当然出来上がるものも駄作だ。ただただ、一心に鉄を打ち続ける。

 その日は、ひたすら地金の折り返し鍛錬だけで作業が終わった。

「……毎日こんなことをしているのか……?」

「それが俺の仕事だ」

 呆れたように言うソルスケルに対して、ぜぇぜぇと肩で息をしながら、ユキヒトは答える。汗まみれの服が肌にへばりつき、気持ちが悪い。それに気づくのはいつも、作業が終わってからだ。

「鋼なんてまだましな方だ。魔法金属を混ぜれば、折り返し鍛錬が30回必要になる事だってある。……ヴァレリアの剣を打った時の竜の鱗なんて、芯鉄が50回、皮鉄は80回だった」

「……」

 絶句するソルスケルに構わず、ユキヒトは水を飲み、呼吸を整える。

 ユキヒトがソルスケルに出した二つの条件、それは、ヴァレリアの剣の稽古を受けることと、彼の剣を鍛えている間、毎日その作業を欠かさず見に来ることだった。

「さて……晩飯の用意だな」

「!?」

「ここに住んでるのは俺とノルンだけだ。まさかノルンが料理できるとでも思うか?」

「……」

 驚愕の表情で固まった後、ソルスケルは首を左右に振る。流石に昼食の用意が出来るほどの余裕はないことが多いため、鍛冶をする日はノルンの分を含め、適当な昼食を出前で頼むか、朝のうちに作っておいてそれを食べることが多い。

 流石に夕食まで朝から用意するのは難しく、毎度外食するのでは金の無駄だ。それ以上に、山奥の工房ではそもそも外食と言う選択肢がなかった。その頃からの習慣で、今もユキヒトは仕事の後に夕飯を作る。

「……どうして……」

「……」

 小さく呟いて、しかしソルスケルの疑問は完成せず、だからユキヒトも答えはしなかった。

 恐らくはその疑問に答えるのはユキヒトであるべきでなく、ただソルスケルが自分自身で答えを見つけるべきなのだろうとユキヒトは思う。

「何だったら、食べていくか?」

「遠慮する。手伝えもしないのに夕食をごちそうになるわけにはいかない」

「正直だな。覚えてみたらどうだ? 傭兵ならいらない技術ってわけでもないだろう」

「……考える」

 ヴァレリアの訓練を受けているときにも思ったのだが、本来この男はなかなかに素直なのではないだろうかとユキヒトは推測する。幾分極端なところを見せる部分もあるが、おおむねはまともな感性をしている。

「明日も同じ時間から鍛冶をする。遅れないように」

「……」

 約束が守れないようであれば剣は引き渡さないと、そう言っている。不本意であれ何であれ、剣が欲しいのであれば、彼は工房に通わざるを得ない。

「……貴方に鍛冶を教えたヒトは、どんな人だった?」

「うん……? そうだな……。誠実な人だったよ」

 一言で言い表すには、自分にとって大きすぎる人だった。言葉を探して、それですべてが言いあらわせるとは思えなくとも、最も適切に近いと思われたその言葉を選んだ。

「……そうか」

 小さく呟いて、彼は考え込むように視線を下げた。












 来る日も来る日も、鉄を叩く。工房で汗まみれになりながら、ただひたすらに鉄を叩く。

 見た目だけでは何が変わったのかさえ分からないささやかな変化を起こすためだけに、時間をひたすらに費やし続ける。

「……ふっ! ……ふっ!」

 重い鎚を振る腕は、自然と頑丈に、太くなる。その様にして鍛えられた体であっても、一日中は鎚を振るう事などできない。

 疲れ、肩で息をして、水分を補給し、暫く息を整えて、そして再び鎚を振るう。

 何度も何度も叩き続け、折り返しては火にくべ、そしてまた鍛える。単調ともいえるその作業は、しかしながら漫然とできるものではない。失敗は取り返しがつかない。常に集中力を保ち、鉄の状態を慎重に見極めることが重要だ。

 芯鉄と皮鉄、その両方の鍛錬が終われば、皮鉄をぐるりと曲げ、芯鉄を包み込むようにして、熱する。真っ赤に熱したそれを鎚で叩き、接着する。ワラの灰と泥を塗り熱しては叩く。何度も何度もそれを繰り返して、確実に皮鉄と芯鉄を一つにする。

 作業がそこまで進む頃には、すっかりソルスケルも息を潜める様に真剣にその作業に見入るようになっていた。

 少しずつ、しかし確実に、彼の為の剣は出来上がっていく。魔人ではなくただの人が、剣を生み出していく。妖術ではなく、技術と魂が剣を仕上げていく。だからこそ意味があるのだと、ユキヒトは思う。

 傍で見ている青年は何を感じているだろうか。自分は一体、何を伝えられているだろうか。気にならないわけではないが、気にしていたのでは剣が疎かになる。ただただ鍛冶に打ち込むことでこそ、彼に何かを伝えられるはずだ。そう信じ、ユキヒトはそれに没頭していった。












「……何か、ご指導は」

「有りません。一朝一夕に、一体貴方は何を得たつもりですか。反復なさい。貴方から聞きたいことがあるというのならば、答えるのもやぶさかではありません」

「分かりました」

 冷たいようにも聞こえるヴァレリアの言葉に、反駁するでもなくただソルスケルは素振りを繰り返した。

「……間違っていないでしょうか」

 幾度か振った後、手を止め、ソルスケルは問いかける。

「幾分、スムーズになりました。よく繰り返したようですね。次は全身の動きを一つ一つ意識しながら振るようにしてごらんなさい」

「はい」

 素直に頷き、彼は素振りを再開する。

 静かに見守るヴァレリアは、それでもぼんやりとしているわけではない。その素振りを一つ一つ、確かめるように見つめ、正しく振れていると思えば小さく頷く。ユキヒトは二人を邪魔しないように、静かにその場に佇む。

「……風を切る音が、一定で、綺麗です」

 剣術など分かるはずもないノルンだが、その鋭敏な耳でそう評した。ヴァレリアはそれを聞いて、にこりと笑う。

 静かな中に、ただ青年の剣を振る音だけが、いつまでも響いていた。












 引き渡しの日、少し緊張した面持ちのソルスケルがカウンターの向こうで待つ。ヴァレリアもその日は非番で居合わせていた。

「……さて。どうする?」

 剣を差し出しながら、ユキヒトは問いかけた。内容を随分と省略したその質問も、ソルスケルには意味が通じたらしい。彼は小さくうなずいた。

「これから、どうするか……まだそれは分からないけれど、とにかく、すぐに山賊退治に向かうのはやめにする」

「そうか」

 何気なく答えて、ユキヒトは恭しくその剣を差し出した。

「どうぞ、お客さま。貴方の為に生み出された剣です。若輩の身ではありますが、全霊を込めて打たせていただきました」

「ありがたく頂戴します」

 丁寧に両手で、ソルスケルはそれを受けた。

「……ずるをせず、真面目に生きていくために必要なのは……多分、復讐じゃないんだな」

「さあ。俺には分からないよ」

「……何もかも、後ろめたかった。だから、白か黒かが欲しかった。後ろめたくて、どうしたらいいのか、分からなかった。生きているって実感が、どうしようもないくらい乏しかった。……今は、とにかく、生きてみようと思う。毎日を一生懸命に、ただ生きていくってことを……今まで誰も、教えてくれなかった」」

「そうですか」

 少しばかりそっけないとも思える態度だが、彼女はむしろ嬉しいと思ったときにこそそういう態度を取ってしまう。それを知っているユキヒトは、ヴァレリアの態度に少し笑みを浮かべた。

 傭兵と言うものは多くが、刹那的な生き方をする。危険度の高すぎる仕事であるがために、未来の事を思わず、今その一瞬ばかりに生きる者が多い。

「気が向いたら、騎士団に来なさい。今の貴方ならばベルミステン騎士団はいつでも歓迎するでしょう」

「考えて、それが正しいと思ったら。ありがとうございます」

 丁重に頭を下げる彼は、やはり根元のところでまじめで素直な男なのだろう。

「一度だけ、この剣で素振りをしたい。許してもらえますか?」

「許しましょう。表に出なさい」

 ヴァレリアが頷き、ユキヒトとノルンも連れだって外へと出る。

「……」

 惜しむようにゆっくりと、ソルスケルは剣を抜いた。中段に構える。落ち着きがある。一方で緊張がある。良い状態だとユキヒトは思った。

 静かに剣が上がる。頂点に達したところで、ソルスケルが一歩を踏み出し、同時に剣が振り下ろされる。ひゅん、と風を切る音がした。

 剣を鞘におさめ、一礼する。顔をあげ、ソルスケルがまっすぐにヴァレリアの目を見ると、彼女は小さく頷いた。

「未熟です。精進なさい」

「はい」

「しかし、悪くはありませんでした」

 剣の指導者としての彼女は、無暗に褒めるという事をしない。称賛に値するものを見ればそれを惜しんだりすることはないが、剣に関して言う限り、彼女の見る目はかなり厳しい基準を持っている。彼女にしてみれば、それは評価の言葉だった。

「ありがとうございました」

 深く頭を下げ、傭兵の青年は去って行った。














 道に迷う人へ ただ一歩前に進む勇気を願って 行人










[8212] 正しい力の使い方について
Name: yun◆04d05236 ID:a811c628
Date: 2012/12/16 12:33




 ファリオダズマの多くの国にとって、貴族階級とはかつての戦士階級にあったものである。

 ファリオダズマではヒトの集落の創成期において、モンスターとの戦闘を行いつつ開拓を行なう必要があり、また異種族との戦争に敗北すれば略奪を受け、酷ければ集落が滅亡するなど、戦いの重要性は非常に高かった。

 原始の戦闘においては個々がそれぞれに武勇を振るったともされるが、原始の集落の生産能力では、平時においては生産性のない職業兵士を常備することなど不可能であり、事が起これば、普段は農耕や牧畜で日々の糧を得る集落の青年達が戦いに赴いていた。やがて集落が大きくなるにつれ、自然発生的に集団戦闘の概念が生まれ、指揮官と兵卒が生まれた。

 集落の指導者が指揮官になったケースもあれば戦闘の指揮官が日常生活においても権力を握るようになって行ったケースもあるが、いずれにせよ、やがて集落の指導者層と戦闘の指揮官層は合一され、政治と軍事を司る貴族層の形成がなされていった。

 その様な起源を持つために、貴族の義務とはすなわち、集落を守り、また発展させるために戦う事であった。ユラフルス三大国の一つ、北方の獣人族を中心とする神聖グールリム帝国における初期の名君、『征服帝』の二つ名を持つファッテンⅠ世が遺した『闘わざる者貴族に非ず』という言葉に、それは端的に表れているとされる。

 現在のファリオダズマでは多くの国家が警察機能を兼任する常備軍を保持し、末端の兵卒は平民階級が占め、そこから昇任し指揮官となるものも多い。また多くの国では官僚への登用に試験制が採用され、政治の世界も平民に開かれていると言える。しかしながら、まだ平民に十分教育が行き届いているとは言えない現状、政治は貴族階級と一部特権的平民階級のものであり、軍事にしろ、将軍のようなトップは貴族が占めているのが現実である。

 その一方で『ダークエルフ戦争』以来、大陸全土を巻き込むほどの大規模戦争は絶えていることもあり、近年では貴族の官僚化が進んでいる。それに伴い、貴族の義務としての戦いは忘れ去られつつある。貴族の間にあったはずの尚武の気風は、特権階級としての贅沢と驕慢にとってかわられつつある。

 ユキヒトの目から見れば、これでインテリ層の形成と一般市民への教養の普及が進めば、市民革命も遠くはなかろうと思われたが、ユキヒトのいた世界とファリオダズマの違いはと言えば、貴族階級には家系的に高い魔力を有するものが多いという事があげられた。

 魔力とは遺伝的要素も大きく絡む能力である。特に魔術の技術体系が確立していない太古の戦闘においては、魔術を行使できる個人戦闘能力の高い者は相当に魔力の高い者に限られ、彼らは自然に指揮官階級、貴族階級へと組み込まれていった。古くから貴族同士の婚姻を繰り返していた関係から、現在においても、大陸に名の知れた魔術師と言えば貴族の名家の出が多いのが現実であり、数が少なく力の強い貴族階級が数が多く力の弱い平民階級を押さえつけるという図式が成立している。

 現在のファリオダズマにおいて、貴族とは平民にとって、搾取階級であり目の上の瘤と言って過言でないが、かといって排除するには力の強すぎる存在であった。













「……ユキヒトさん、お客様です……」

 買い物から工房に帰ると、ノルンが少し怯えたような表情で出迎えてきた。仕事がある日には、日中に買い物に行くと言う事はないのだが、今はノルンやヴァレリアの意見から、定期的に休日を設けている。今日は定休日で、表の看板にもその様に示しているのだが、どうやらそれにもかかわらず来客があったようだ。

 ノルンは幾分人見知りをする性質だが、客が来たというだけで萎縮することはない。注文を受け付けるにしても、鍛冶場をほったらかすわけにもいかないため、顧客の初回の訪問はノルン一人で受けることが多いのだ。そのノルンが妙にびくびくしているのは一体どうした事かといぶかしみつつも、ユキヒトは落ち着けるようにぽんぽんとノルンの頭を撫でた。

「お留守番お疲れ様。偉かったな」

「……はい……」

 どうにも歯切れが悪い。不審に思いつつも、ユキヒトは工房の、注文を受けるカウンターのある部屋へ入る。

 そこに待っていたのは、身なりの良い男だった。髪は白くなった初老の男だが、背筋はしゃんとしており、覇気を感じさせる顔つきだ。

 恐らくは貴族階級か、それに関わる人物。とはいえ相手が明らかにしない限り深く詮索しないのがファリオダズマでの商売のコツだ。

「こんにちは。留守にしており申し訳ありません、工房主のユキヒト・アヤセです。しかし、本日は表の看板通り、定休日です。何か急ぎのご依頼でしょうか?」

 深く詮索しない代わりに、特別扱いもしない。ユキヒトはオルトから続くその姿勢を貫いていた。それに対して男は、ふんと少し気取った風に冷笑した。

「……この私が、こんな工房に剣の注文をしに来たと?」

 鋭い目に冷たい言葉。一瞬で確信した。この男は、絶対的な権力を振るう事に慣れ切った、典型的な高慢貴族の類だ。

「ノルン。部屋に戻っていいぞ」

 極力優しい声で、ユキヒトはノルンに柔らかく話しかけた。これからの会話はノルンに聞かせるべきではないものになる。そう直感した。

 ノルンも、その場の空気が理解できているようで、こくりと頷くと早々に部屋から退出していく。それを確認してから、ユキヒトは口を開いた。

「刀剣工房に、剣の注文以外で何の御用件が?」

 この高圧的な態度でノルンを怯えさせたのかと思えば腹も立つが、この世界で貴族と対立することは非常なリスクを伴う。ある程度は下手に出ざるを得ない。

「……ヴァレリア・ロイマー様は貴様には過ぎた女性だ」

「……」

 その言葉に、むしろ心と頭がすっと冷えていくのをユキヒトは自覚した。

 この男の目的が分かった。なるほど、それならばこの工房に刀剣の依頼でなくやってくるだろう。

 英雄であるところのヴァレリアは、この世界からすればややとうが立った年齢ではあるものの、結婚に適さないと言うほどの年齢ではなく、また英雄として都合のよい事に、見目も麗しい。平民出身であるにしては異例な事に、貴族からの求婚も受ける立場なのだ。

「彼女は私の主の妻となるべき女性だ。平民は早々に手を引くがいい」

 どうやら目の前の男は、ヴァレリアに縁談を持ち込んでいる御大層な身分の者の使いらしい。お前に彼女の何が分かっているという言葉をかろうじて呑み込んで、ユキヒトは一つ深く息を吸い込んだ。

「ヴァレリアが誰とともにあろうとするかは、ヴァレリアの意思の問題です」

「ヒトには分というものがある。彼女の分は貴様ごとき虫けらと釣り合うものではない」

 感情の変化を感じさせず淡々としたその語りが、男が本心からそう思っていることを示している。何を言ってもこの男には無駄だと、疲労感とともにユキヒトは悟った。

「お帰りください。なんと言われようと俺からヴァレリアと別れるつもりはない」

「貴様はすぐにその発言を後悔することになる」

 ただ事実を告げるだけという様な、淡々とした口調。この男は、自分に彼女を諦めさせるためだけに途方もない力を使ってくる。それは分かったが、ユキヒトには一向に怯む気持ちはなかった。

「お帰りください」

「そうか」

 にたりと笑って、男は工房から出て行った。

 結局最後まで、名乗ることもしなければ、こちらの名を呼ぶこともなかった。

 そして何より、ヴァレリアの主体性を認める発言を一切しなかった。

「やれやれ。……立派な貴族も多いっていうのは聞くけどな」

 そうでない側の代表例の様な男を見て、ユキヒトはため息を深くついた。













 ある程度予想できたことではあったが、受けていた仕事の大半が、突然のキャンセルを受けた。何故なのかと問うが、顧客たちは微妙な態度で口ごもるばかりだ。製作に取り掛かっていたものについてはキャンセル料の支払いにも素直に応じてくれたものの、関わり合いになりたくないというその態度の意味は全く分からなかった。そしてその後、注文がぱったりと途絶えた。

 仕事がないというのは、不安なものだ。

 自営業で仕事がないという事は、即ち収入がないという事だ。多少の蓄えはあるものの、それとて事態が解決しなければいずれ底をつく。別の仕事、例えば肉体労働に従事すれば生活できないこともないだろうが、天職とも思う鍛冶を手放して別の仕事に就くなど、考えたくもなかった。

 自分の腕が悪かったならば、諦めて別の仕事を探すこともできよう。しかしユキヒトには、今回の事態が全く納得いかなかった。

 苛立ちが募り、ストレスがピークに達しつつあった頃にアルディメロが飛び込んできた。

「正当な注文に対して、貴族を貴族と思わない高慢な態度で断った、ねえ……」

 アルディメロから市井に流れる噂として聞かされた内容を反芻し、ユキヒトは大きく溜息をついた。

「実際はどうだったのだ?」

「仕事を意味もなく断った事はない。まあ、最近はヴァレリアとノルンに言われて、納期を長めに設定してはいるけど」

「分かってはいたがな」

 やれやれとアルディメロは肩をすくめる。

「竜騎士殿の絡みだろうな」

「……まあ、そうなんだろうな」

 察しの良い友人も善し悪しだ。言わなくとも様々な事を分かってくれるが、言わないでそっとして置きたいことにも気づいてしまう。

 今ユキヒトは、ベルミステンでも最も有名な鍛冶師の一人に数えられる。同業者からのやっかみなどももちろんあるが、ベルミステンの英雄、ヴァレリアが顧客の一人であることもまた周知の事実であり、下手に手を出そうとする者はいない。

 あえて手を出してくるのであれば、公表はしていないヴァレリアとのもう一つの関係を知っていて、なおかつそれを疎ましく思う者。すなわち、ヴァレリアを手に入れようとしている者であると考えるのが妥当だ。

 ユキヒトの顧客を把握する情報網、そして注文を取り消させるだけの圧力。かなり高位の貴族が相手であることは間違いあるまいとユキヒトは推測した。

 今回の風聞、キャンセルをした者とて、噂が真実だと思った為にキャンセルされたとは限らない。むしろその可能性は低いとユキヒトは考えている。

 問題になるのは、『相手が貴族である』と言う事実なのだ。

 噂の真偽は別として、ユキヒトは貴族の不興を買った。その結果としての風聞である。ユキヒトに関わるものには、同様にその貴族からの不興を買う可能性がある。それが問題なのだ。

「……竜騎士殿に出てもらうのが早い解決策ではないのか?」

「いや……ヴァレリアには言わずに解決する。まあ、多分ヴァレリアの耳にはすぐ入るだろうけど……ヴァレリアは動かない方がいい」

「そういうものか」

 彼は真っ直ぐである分、謀略には疎い。恐らく相手の狙いはそれであろうと思われた。ヴァレリアに早々に出張ってもらえば、次に流される風聞は『自分の不始末を英雄に尻拭いさせる情けない奴』といったところだろう。そもそもユキヒトには相手の名前すらも分からない。恐らくは貴族階級で、ヴァレリアに縁談を持ち込んでいる者である可能性が高いという程度だ。

「ここのところ忙しくしてたからな、ちょうど良い休みだよ。つつましく暮らすならしばらくはもつくらいの蓄えもある」

 原因さえ分かれば腹もくくれる。ユキヒトは蓄えの金額と、切りつめて生活をすればどの程度もつかの計算を頭の中で始めた。

「堅実な奴だ」

「子供一人養ってれば堅実にもなる」

「……困ったら言え。少しなら貸してやれる」

「ありがたいけど、そんなに長くかけるつもりもないよ」

 長くかければ様々な意味でヴァレリアの負担になる。当面のところは、相手の名前を特定するところからだろう。相手の目的がヴァレリアを手に入れることであるならば、関係者が聞けばあからさまに嘘と分かる風聞を流した男の元へ、彼女が赴くはずもない。

 とはいえ、貴族に対してコネはない。何度か、貴族らしきものから注文を受けた事はあるものの、本来の身分は明かしてこなかった。こちらから深入りしてもおらず、伝手を使う事は出来ない。

「ふむ、伝えて良かったと考えるべきか。また様子を見に来るぞ」

「ああ、ありがとうアルディメロ。進展があったらこっちからも知らせるよ」

「無理はしないようにな」

 そう言って、アルディメロは出て行った。





















 アルディメロは自分の言葉に忠実に、数日おきに様子を見に来てくれる。

 噂はどうやらますます酷くなっているらしい。事実として、このところ工房には全く客が来ない。いい加減気も滅入ってくるが、屈するわけにもいかない。鬱々とした気分になりながらも、表面上はつとめて明るく、ユキヒトは振るまっていた。

 アルディメロが来ていたある日、扉がノックされる音がして二人は一斉にそちらを向いた。

 この状況では訪れる人も滅多にいない。一体何者かと思っていると、室内に声が響いた。

「失礼するにゃ」

「む……」

 声を聞いた途端、アルディメロがピクリと反応を示し、わずかに警戒の体勢になる。すぐにドアが開き、小柄な人影が室内へと入ってきた。

「初めましてにゃ。あたしは猫人族のニルフリ・クリラって者だにゃ。状況は分かってるから安心するにゃ。あたしは味方だにゃ」

 頭の上から突き出た耳、尻から生える尻尾、くるくるとした目、一見して獣人種と分かる女性が、ぺこりと頭を下げて自己紹介をした。

 吊り気味の目、金色の癖のある髪、小柄ながら引き締まった敏捷そうな姿。猫人種の典型的な特徴を備えている。

「にゃっ、ワンコもいたのかにゃ」

 彼女は室内をくるりと見回してアルディメロの姿を認めると、にたぁっと笑いながら、からみつくようにそう言った。

「私は犬ではない、狼だ!」

 理知的な彼を怒らせるのに最も手っ取り早い言葉を使って挑発する彼女に、あっさりと乗ってアルディメロは怒鳴る。

「そのツッコミは正直飽きたにゃ。ネコは飽きっぽいのにゃ。もっと斬新にゃツッコミを考えてくるにゃ」

「私がお前に楽しみを提供してやる義理はない」

「別にいいにゃ。勝手にからかって楽しむにゃ」

「……自己紹介をさせてもらえるかな」

 何やら客人同士でやり取りをし始めた二人に、何故か遠慮がちな気持ちになりながらユキヒトは呼びかけた。

「……これは失礼したにゃ。ワンコが絡んでくるからついつい相手をしちまったにゃ」

「誰が!」

「ほらまた。しょうがにゃい奴にゃ」

「……むむっ……」

 反論のしようがないというよりは、それをしていると相手の言うとおりに話が進まないという事を理解して、アルディメロが渋い表情で押し黙る。

「こっちの事は知ってるみたいなのに自己紹介ってのも何だけど……ようこそ、刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』へ。工房主のユキヒト・アヤセです」

「よろしくにゃ」

「それで……状況は分かっているっていうけど、どういう関係の方かな」

「騎士団関係者にゃ。簡単に言ってヴァレリア中隊長の後任の小隊長にゃ」

 それだけで、どちらの側の人間かは分かる。ユキヒトは、知らず知らず肩に入っていた力を抜いた。

 この状況で騎士団関係者が訪れてくれるのはありがたい。それと同時に、ヴァレリアがどの程度今回の事を知っているか、どう考えているかが気にかかる。この状況になってから、気兼ねしてヴァレリアには会えていない。

「ま、もちろん中隊長もこの工房がどういう状況かってのは分かってるにゃ。超気にしてるにゃ。その癖にゃんか公私混同とかその辺を気にしてこの工房が担当区域に入ってるあたしにも調査命令出さにゃいにゃ。ぶっちゃけ悪質にゃ風聞の流布の疑いがある案件にゃ。調査命令出さにゃいとか、逆に公私混同にゃ」

 彼女の話を信じるならば、ヴァレリアは彼女の上司のはずだが、彼女に遠慮は見られない。ヴァレリアの後任というのでありながらそれであれば、彼女が英雄として祭り上げられてから態度を変えた人間ではないだろう。むしろユキヒトはそれをありがたく思った。

 しかしそれに対して、アルディメロが牙をむくような表情で噛みつくように口を開いた。

「貴様、軍属でありながら上下関係を歯牙にもかけぬその態度は何だ」

「そりゃそうかもしれにゃーけど、ワンコに言われる事じゃにゃあよ。にゃんの義理があってそんにゃこと言うのかにゃー?」

「くっ……」

 アルディメロにしては、そんな難癖の様な文句は珍しい。まして、あっさりと相手に手玉に取られている様はますます珍しい。

 どういった意味でかは別として、アルディメロにとって彼女は何かしら特別な存在なのだろう。

「……アルディメロ。彼女とはどういう関係だ?」

「……家が近所の腐れ縁だ」

「幼馴染のお姉さんに対してにゃかにゃか良い言い草だにゃー、ワンコ。昔のお前は可愛らしかったにゃ。例えば……」

「やめい!」

 見た目には分かりにくいが、どうやら彼女の方が年上らしい。良いように弄ばれるアルディメロは、憤懣やるかたないという様に席を立った。

「ユキヒト、今日は失礼する。近々また連絡する!」

「あ……ああ。待ってるよ」

 どすどすと足音も荒く、アルディメロは家から出ていく。後には、にゃはははは、などと気楽な笑い声をあげる自称彼の『幼馴染のお姉さん』が残った。

「……仲が良いんですね」

「おっ、にゃかにゃか話が分かるにゃ。まあ、世が世にゃらあたしはあのワンコのお嫁さんだにゃー。あれで可愛い奴だにゃー」

 にゃははははははと、さらにあっけらかんと笑い飛ばす。語られた内容は、真実であるならばなかなかに衝撃的なものだった。

 力が強く大柄な狼人種の中でも立派な体格の部類に入るアルディメロと、獣人の中では小柄な猫人種のニルフリ。また猫人種は種族の特性として大きなくりくりと動く目などの外見から年齢以上に幼く見えるため、並べてみると親子ほどにも年が離れているようにすら見える。実際の年齢は逆転しているようであり、また立場もやり取りから察するに対等以上のものなのだろうが、外見的にはなかなかに倒錯した組み合わせだった。

「……それで、今日は調査に来てくれたんですか?」

「にゃっ、ノってこにゃいのかにゃ。ちょっと残念にゃ」

 へにゃっと尻尾をしおれさせながら、ニルフリはがっくり肩を落とす。そんなにショックなのかと何か声をかけようかと思えば、まあいいにゃ、と小さく呟いて顔をあげてにぱっと笑う。

「さあ、きりきり吐くにゃ。どんにゃ貴族野郎が来てどんにゃ不当にゃ要求押しつけて去って行ったのにゃ。さっさと吐かにゃいと痛い目にあうにゃ」

「……それは犯人側の取り調べのときの言葉じゃないんですか」

「細かい事を気にすんにゃ」

 少なくとも本人が気にしていないのは明らかだ。ユキヒトは少し苦笑いをした。

 アルディメロにしたのとほぼ同じ話を、ニルフリに繰り返す。ニルフリは途中、頷いたり相槌を打ったりと適所で反応を返してくれる、話しやすい相手だった。

「ふむふむ。にゃるほどにゃあ。まあ予想はしてたけど中隊長に手ぇ出してる奴なのにゃ。その線で洗うにゃ」

「……相手は貴族なんでしょう。そう簡単に行くんですか」

「そこは腕の見せ所にゃ」

 あっさりと言うと、尻尾をぴんと立てる。

 尻尾を持つ獣人の場合、多くはその動きで感情を表してしまう。それを恥として体に紐などを用いて固定したうえで服に隠すものも多いが、それはかなり窮屈な事でもあるらしく、ニルフリの様に気にせずにありのままふるまうものもいる。

「それと、今注文はほとんどにゃいって本当かにゃ?」

「ああ……仕事の量をちょっと減らしてたところに、キャンセルの山でね。お恥ずかしながら閑古鳥が鳴いてる始末だよ」

「にゃはは、キャンセルするにゃんてアホにゃ。あたしにゃんか中隊長の剣見てから打ってほしくて打ってほしくて、ずっと我慢してたのにゃ。ちょうどいい機会にゃ。注文するにゃ! あたしのナイフを頼むにゃ」

 ファリオダズマに住まう種族の中で、猫人種は腕力において下位に位置する。しかしながら敏捷性や柔軟性といった身体能力は高く、また夜目が効き器用な手先を持つことから、ヒューマンと獣人の戦争時代には、優れた暗殺者として名を馳せた種族だ。血生臭さのだいぶ薄れた現在では、軍事関連では主に諜報員などとして活躍している。

 その能力から、正面からの戦闘は得手としておらず、長剣や槍といったある程度以上に重量のある武器は使用しないのが普通だ。

「……ありがたいんだけど、事件の可能性のある案件の調査中に、一方の当事者に仕事の注文をする衛兵っていうのは倫理的にどうなんだ?」

 今の状況であれば、注文はのどから手が出るほど欲しい。確かに自分は被害者であり、彼女の注文を受けることに本来であれば何ら後ろめたい事もない。しかしながら今相手にしているのは、この世界では圧倒的な力をもつ貴族階級の人間であり、隙となる要素は出来る限り排除するべきであった。それらの計算とは別に、ユキヒトの倫理としてニルフリに言った言葉通りの考えもある。

 味方をしてくれるのはありがたい。だが、事件はあくまで公正に裁いてもらわなければ困る。全くの被害者であり、自分に非は何一つない。それは事実だが、それを公正な目で事実として認定してもらわなければ、世間は認めてくれない。

「にゃっ!? むむむ……これは痛いところを突かれたにゃ。さすがあの石頭ワンコの友達だにゃ」

「……全部終わったら、最優先で注文を受け付ける事を約束するよ」

「むぅ、にゃかにゃかにゃ落とし所にゃ……。まあ、がんばるにゃ」

 とはいえこの程度ならば許容の範囲内であろう。もちろん、貴族とのいざこざを知って注文を取り下げた者たちに、解決後のキャンセルの撤回などということを認めるつもりもない。納期が近づいていたものに関してはきっちりキャンセル料も取っている。新たに注文しなおすということであれば、拒否する理由もないと思ってはいるが、臆面もなくそれができる者は、なかなかの面の皮の厚さだとも思っている。

 ふと、ヴァレリアに会いたくなった。普段はつとめて考えないようにしているが、もうどれくらい会っていないのかと、指を折って数えてみる。

 17日間と、当然のように答えが出た自分に、少しだけ苦笑する。ファリオダズマに来るまでは、こんなにも誰かと会えない事を苦痛に思ったことはなかった。

「……ダメだな、どうにも」

 ユキヒトは軽く頭を左右に振った。















「……ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さま」

 小食のノルンだが、この頃は余計に食事の量が減っている。指摘するべきかどうかはまだ決められない。ノルンは当然、自分の食事の量が減っている事も、それに気づかれている事も知っているはずだ。

 ノルンに対して甘すぎる自分をユキヒトは自覚している。それが決して彼女の為にならない事も知りながら、どうしても彼女に対する時、彼女を何としても傷つけない事を最優先にしてしまう。

 生まれながらにハンディキャップを持ち、母を知らず、父を亡くし、それでもひねくれず、一生懸命に生きている。そんな彼女を守ってやりたいと思わないはずがない。彼女が望むのは一人でも生きてける強さを手に入れることであり、彼女を甘やかすのはかえってその望みを阻害することになると知っていたとしても。

「……ユキヒトさん、大丈夫ですか?」

「ん? 俺……?」

 そんな悩みと裏腹に、ノルンは心の底から気遣わしげな声で、そう言った。意表を突かれて、ユキヒトは思わず聞き返した。

「……平気そうに振舞っているユキヒトさんの傍にいるのが、何よりも辛いです。……ヴァレリア姉さまだったら、きっとユキヒトさんだって我慢せずにもっといろんなことを言えるはずなのに」

「……」

 誇らしさと情けなさで、鼻がつんとするのを自覚して、ユキヒトはかろうじて涙を留めた。

 ユキヒトは、ファリオダズマに来る前は学生だった。自分で食い扶持を稼いだことも無く、親の庇護下で不自由なく生きていた。ファリオダズマに来てからは、ノルンの父であるオルトに保護され、そして仕事を教えてもらった。

 幸運にも、ずっと誰かに支え続けてもらった。自分が今生きているのは、有形無形のオルトの遺産によるところが大きい。今回の事は、初めて、生きていくための糧を得る上での困難に当たり、自分の力で解決しなければならない事態なのだ。

 不安だったし、誰かにこの理不尽をぶちまけたかった。そんな自分を、ユキヒトはノルンの言葉で知った。自分がこんなにも消耗していたことに、今の今まで気づかなかった。

「……心配かけたな、ノルン」

 ポンと頭に手を置く。

「明日、一緒にヴァレリアに会いに行こう」

 例えば自分と彼女の立場が逆だとしたら、自分が彼女にどうして欲しいか。例えそれがマイナスにしかならないのだとしても、会いたい。それでもきっと、自分が会いに行くことで相手を追い詰めるかもしれないと思えば、会いに行けない。

 弱音を吐きに行こう、と情けない決断をユキヒトは下す。少なくとも彼女はそれを迷惑だとは思わないと、ほんの少しだけ心の中でのろける。

「それがいいよ」

 ノルンが、少しほっとした声を出すのを聞いて、そんなにも彼女を不安にしていたのかと、今更ながらにユキヒトは驚く。誤魔化すように、ユキヒトは口を開いた。

「じゃあ、明日は少し歩くから、ノルンはもう少し食べないとダメだな」

「……うん」

 ストレスで食が細くなるのはノルンの性質だ。ここのところストレスを与えていたのは間違いなく自分で、その元凶がどの口でという気持ちもある。それでも、体力のない彼女の事、食事を怠るとすぐに体調を崩してしまう。

「貴族の人の事、お父さんから聞いたことがあるの」

「……そうか、なんて言ってた?」

 ノルンが自分から父親であるオルトの話をする事は珍しい。いまだに完全に消化できていないのだろう。それが、無理にでも何かを伝えようとしている。ユキヒトは、ゆっくりと頷いて先を促した。

「貴族っていうのは昔、子どもだったり、私みたいに体が弱かったり、年を取って上手に体を動かせなかったり、そう言う人たちを守って戦ってくれた人たちだったって」

「……うん」

 魔術学院に通っていた時代に、一般教養としてファリオダズマの歴史にも触れている。その事実を、ユキヒトも知っていた。

「そう言う偉い人たちだったから、みんな尊敬していたって。だけど、今は、立派な人もそうでない人もいるって」

「……」

「貴族だから悪い人っていう訳じゃなくて、普通の人たちにも良い人や嫌な人がいるみたいに、貴族にも良い人や嫌な人がいるんだって。だから、相手が貴族だとか、そうじゃないとか、そんなことで判断をしちゃいけないって」

 一般市民の中には、貴族と言うものを頭から毛嫌いするものが少なくない。オルトはそうではなかったらしい。

「……私、ユキヒトさんとヴァレリア姉さまにこんな風な意地悪をする人、大嫌いです」

 貴族であるかどうかに関わらず、ただその人の行動を見て判断をする。ノルンは自分の価値観を持って、相手を敵と定めた。








 このところヴァレリアと連絡を取っていなかったため、次の彼女の非番がいつなのかは分からない。

 しかし、彼女の勤務時間ならばある程度把握をしている。

 元々治安維持部隊は、重大事件が起こっていない限り、定例外の業務は入ってきにくい。配下部隊の訓練を見直していた時期はかなり忙しくもしていたようだが、一定の効果が出てきてからはそれもある程度収まっており、時間的な余裕も生まれている。

 ここのところは夕食を家族で食べられるのだと語っていた事も思い出し、夕食の支度が始まる前の時間に、自分たちの分も含めて食材を持ち、ヴァレリアの家に向かった。

「まぁ、いらっしゃい」

「伯母さま、お久しぶりです」

 ヴァレリアの母であるマーサ・ロイマーはオルトの姉である。子の出産の際に妻を失った弟を何かと気にかけ、手助けをしてきた人物で、ノルンにとっては母にも近い存在である。

 目が見えず、体も丈夫でないノルンが赤子であるうちは、仕事に入れば早々面倒を見れないオルトでは到底世話をできなかった。ある程度手がかからない年齢になるまでは、オルトが仕事の日はほとんどマーサが育てた様なものだ。

 しっかりとした子供であり、弟か妹を欲しがっていたというヴァレリアも積極的にノルンの相手をしており、今ノルンがヴァレリアを「姉さま」をつけて呼ぶのもその為の習慣である。

「こんにちは、今日はまた料理を教えていただこうと思いまして」

「という名目でヴァレリアに会いに来てくれたのね、ありがとう」

 目下の悩みは一人娘のヴァレリアが婚期を逃しつつある事だ。

 とはいえ実際には、政略結婚の話ならばいくらでも舞い込んでいるはずなのだ。

 しかしながら、ヴァレリア自身も、彼女の両親もそれをよしとはしていないらしく、あいも変わらずユキヒトにプレッシャーをかけてくる。ユキヒトに対して、来ている縁談の話をする事はないのだが、どうやら来る話は全てきっぱりと断っているらしい。

 平民の身分で、貴族からのその様な話をきっぱり断るなど、かなりの胆力である。世が世なら無礼討ちにされてもおかしくない。

「……まあ、実際今日は少しヴァレリアと話をしたくて」

「どうぞ、ゆっくり話をして行って。泊まってくれても構わないのよ。あの子と同じ部屋なら」

「いや、それは流石に」

 百歩譲ってヴァレリアと同室で寝ることになったとしたところで、彼女の両親が一つ屋根の下にいて、それも性格からして聞き耳を立てている事を疑うべきであるにもかかわらず、ヴァレリアとどうこうできるはずもない。

「あの子なら多分、夕食の支度が出来たくらいに帰ってくるはずよ。全く、手伝いもしないで食べる量だけは一人前なんだから」

「ヴァレリアの仕事は激務ですから」

 国で唯一の竜騎士も、母親にかかれば単なる娘でしかない。今この街で最もヴァレリアの肩書に縛られない人間、それが彼女の両親であるのは間違いない。

「お手伝いできることはありますか?」

「うん、お野菜をたくさん洗ってもらおうかしらね」

 生まれた時からノルンを知っているマーサは、ノルンの出来る範囲で手伝いをさせることを躊躇わない。それがノルン自身の為にもなると信じている。

 家に入ると、部屋はいつでも片付けられている。

 家具は新しいものではない。大して高級でもないそれらはしかし、元々が丈夫な作りのものを、しっかりと手入れをして丁寧に使っている。傷みも見えない訳ではないが、何ともいえずそれが温かい。

 玄関の近くの壁には、少しずつ高い位置に移動していく傷がいくつも刻まれている。それはヴァレリアが幼いころに、背丈を測ってつけたものだとユキヒトは教えてもらった。ユキヒトの胸より少し低い位置を最後に刻まれなくなったその傷は、ヴァレリアがヒューマンの平均女性よりずいぶん背丈が高い事を気にし始めて止まったのだとマーサは笑った。

 極々一般的な庶民の家である。今のヴァレリアの給金であれば、もっと立地も良く、敷地も広い家に引っ越すなど簡単だろうが、ヴァレリアがそれを望む事も、両親が娘にそれを求める事も無い。

 いつだったかオルトが、ヴァレリアを指して、『家庭を持って幸せになるタイプの女』と評価したことがあった。あの評価は事実であろうと、ユキヒトも思う。

 家庭的な趣味と性格かと言えばそんな事もないが、持っている価値観は、ごく平凡な庶民のそれだ。彼女が、英雄として祭り上げられている現状を、狭苦しくすら思っている事をユキヒトは知っている。

 人の能力や周辺の評価と、その人物の人格や志向が、必ずしも一致するとは限らない。

 ユキヒトは、長く息を吐いた。溜息と言うほどのものでもないが、憂鬱を表すものであったのも確かだろう。

「ただいま戻りました。お客さまですか?」

 玄関から、自宅に戻ったにもかかわらずかなり硬い言葉遣い。その落ち着いたアルトの声を聞いて、ユキヒトは自分の口元が緩むのを感じた。

「ユキヒトさんとノルンよー、そんなに警戒しないでも大丈夫!」

「……!」

 流石にヴァレリアと言えど、普段の家の中ではそこまで丁寧な言葉を使っているわけではないと言うのは聞いていた。客がいる事を察知して、『余所行き』の対応をしたのだろう。

 僅かに緊張した様な空気が漂って、とつとつとつ、と、廊下を歩く足音がする。

 がちゃ、と音をさせて、ドアが開かれる。そこに立っていたのは、略式鎧もそのままの、衛兵姿のヴァレリアだった。

「あら、この子は、そんな物騒な格好して。着替えくらいしてから来なさい」

「……ユキヒト」

 少し呆けたような彼女の声。母親の声も耳に届いていないらしい。彼女にとって、この訪問はそれだけ意外だったのだろうか。

「久しぶり」

「そうですね、18日ぶりです」

 さして考え込む様子でもなく、日数を口にする彼女は、やはりずっと気にかけてくれていたと言う事なのだろう。

 もちろん、彼女が自分を訪ねて来ないのは、自分の立場を悪化させない為の配慮なのだと頭では分かっていた。その一方で連絡を取らない日々が重なるごとに、彼女は自分の事などもうどうでもよくなってしまったのではないかと、そんな益体もない考えが脳裏をよぎったのも事実だ。

「……ニルフリは順調に捜査を進めているようです。少し、先入観の強過ぎるきらいが、無いでもないのですが……」

「うん、それはありがたいな。でも、今日は別に、そんな話がしたくて来た訳でもないんだ。そりゃまあ、ちょっと参っちゃってるし、愚痴も言うかもしれないけど……どうにかしてくれっていいに来た訳じゃなくて、こう言う時、話を聞いて欲しいのが、ヴァレリアだっていうだけなんだ」

「……」

 しばらく、困ったような表情で固まっていたヴァレリアだが、やがて、ゆっくりと微笑んだ。

「分かりました。着替えてきますから、少し待っていてください」

 求めているのは、衛兵としての彼女ではなく、ただ一個の人間としての彼女。その意図は恐らく正しく伝わったのだろう。

「あの子ったら、母親の言う事はひとっつも聞かずに……」

 台詞の割には嬉しそうな声で、マーサは呟いた。

 とんとんとんと軽快な音を立てて、彼女は階段を上がっていく。彼女の部屋は二階にある。そこで着替えをして、戻ってくるのだろう。

 再び姿を現した彼女は、ふわりとしたフレアスカートに、少しフリルのついたブラウスといういでたちだった。

「……外に出るわけでもないのに、随分おめかしをして……」

「そ、そんな事ない!」

 じとっとした目で見る母親に、言い訳する様に言葉を返す。

「そうなのか? わざわざ綺麗な格好をしてくれたんなら、嬉しいけどな」

「……」

 火がついたように、顔どころか首まで真っ赤になるヴァレリアを、相変わらずからかいがいがあるなとユキヒトは笑った。

「そんなヒラヒラがついた服で食事して、汚さないでよ。洗濯するのはどうせ私なんだから」

「だ、大丈夫……」

 初めてブレンヒルトやファルを伴って彼女の服を見繕いに行ったときは、ほんのわずかのフリルも拒否していた。彼女も少しずつ変化していっているのだろう。

「……お姉さま、可愛い」

 目の見えない彼女の事、恰好が、という意味ではなかろう。その初々しい反応が、と言う意味だ。

 竜騎士として凛とした姿を見せるよう心がけている家の外では、少し見せられないようなヴァレリアの反応だった。

「ノルンまで……」

 ヴァレリアは、テーブルに着くとぐったりと突っ伏す。それをくすりと笑って、ユキヒトはその向かいの席に座った。

「ノルン、お手伝いはもう良いから、あっちのテーブルに行っておいで」

「はい、分かりました」

 二人だけでは話題も続かないだろうと、ノルンを派遣してくれる。実にありがたい配慮だった。

「元気でしたか?」

「健康状態は何の問題もなかったよ。ヴァレリアは?」

「そうですね、体調は悪くありませんでした」

 つまりお互い、体調以外のところで問題があったと言う事だ。それはもはや確認が必要な事でもない。

「もう、お姉さまも、ユキヒトさんも、そんなお見合いみたいな……」

「いや、お見合いでいきなり相手の体調を尋ねたりはしないだろう」

「……うん……」

 ノルンも若干緊張があるのかもしれない。言動が的を外していた。

「何を緊張しているのでしょうね、私達は」

 ふと、おかしくなったと言うようにくすくすと笑って、ヴァレリアは一度、ぴしりと背筋を伸ばした。

「心配していました。会えて安心しました」

「心配かけてすまない。ヴァレリアに負担をかけてるのが心苦しかった」

 相手に心配をかけたくないと思うのは当たり前だが、相手を心配するのもまた当たり前だ。ごく自然に、それを確認し合う。

「初めに言っておくけど、連絡を取らなかったのはヴァレリアの負担になりたくなかったからで、身を引こうと思ってたなんて事はかけらもない」

「……知っていました。こちらも言っておきますが、連絡を取らなかったのはかえってそれで貴方を不利な立場にする事を恐れてのことであり、ずっと貴方の事を気にかけていました」

 そうに違いないと自分の心の中で確信していても、あえて相手に言葉にしてもらいたい事もある。自分の心の中をよぎった益体もない考えは、彼女の心に差した影でもあるだろう。

 こうやって、鏡で写したような相似の悩みをお互いに持てている間は、自分達は大丈夫だろうと思う。どちらからともなく、くすりと笑い合う。

「相手が特定できれば、ふざけるなと怒鳴りこんでやりたいところなのですが……」

「特定できてもそれはやめておいた方がいいな。いくらヴァレリアでも、下手をすれば貴族全てに喧嘩を売る事になりかねないようなまねは、得策じゃない」

「……分かってはいるつもりです」

 彼女なりに、相当のフラストレーションを貯めていたのだろう。思慮深いとは言えない欲求を口にするのを、ユキヒトはたしなめた。

「まあ、そんな事はどうでもいいんだ。それより、ここのところ、どうしていた? ずっと話が出来ていなかったから。何か、面白い事はあったか?」

「……そうですね、私の補佐官の話ですが……」

 苦しい日常だとて、四六時中暗くしていてはヒトは生きていけない。ユキヒトが求めるのは、ヴァレリアの、明るい部分の話だ。

 彼女の周りには、彼女を理解してくれる仲間がいる。自分にとってのアルディメロの様に、支えとなってくれていることだろうと思う。彼女は大丈夫、そう思える材料が欲しかった。

 普段よりいくらか饒舌に、彼女は彼女の日常を語る。心配させないようにあえて明るく振舞ってくれているのは分かっている。それを申し訳なく思う気持ちもあるが、それ以上に、そうしてくれる彼女を愛おしく思う。

 夕食が完成し、食事が始まって、それでも彼女はまだ穏やかに日常を語る。ユキヒトもまた、それを頷きながら聞く。これ以上は何もいらないのではないかとすら、ユキヒトには思えた。

「……ほら、いい加減、夕食を済ませな。折角人が作ったんだから、冷めきる前にね」

 マーサが苦笑しながらそう言って、ようやく二人は、目の前の食事に集中する事にした。
















 結局その日は、ヴァレリアの家に泊まる事になった。それも、彼女の両親が冗談半分に望んだように、ヴァレリアとユキヒトは同室だ。

 とは言え流石に、二人きりと言う訳ではない。ノルンが、ヴァレリア、ユキヒトと一緒に寝たいと主張した為に、客間に三人、布団を並べて寝る事になったのだ。

 そう言った背景を考えれば、ノルンが真ん中になり、両脇にヴァレリア、ユキヒトとあるべきかも知れないが、真中はヴァレリア、その左手側にノルン、右手側にユキヒト、と言う並びになった。これもまた、ノルンの望んだ順番だ。

 ヴァレリア、ユキヒトと一緒に寝たいと言う希望は嘘や気遣いだけと言う訳ではないのだろうが、ノルンの望みは、自分が二人と一緒に寝ること以上に、二人に一緒に寝させる事であるように思われた。

「……すぅ……すぅ……」

 床についてよりしばらくは、珍しく少し興奮した様子でヴァレリアやユキヒトに何かと話しかけていたノルンも、今は規則正しい寝息を立てて深い眠りの中だ。

「可愛いものです」

「山に住んでた頃は、思えば随分無理をさせた。あの頃無理をして大人みたいに振舞っていた分、今は少し子ども返りをしているんだろうな」

「本来であれば、もう少し大人として振舞わせるべき年かもしれませんが……どうしてもその気になれない。私も甘いのでしょうか」

「……それを聞くたびに、俺のいた世界とは常識が違うんだなって思うよ」

「……」

 少しの沈黙。ユキヒトはそこに、わずかなためらいの気配を感じた。

「……あの」

 やがて、意を決したように、ヴァレリアが口を開く。

「どうした?」

 何を言ってくるか、と、ユキヒトは少しの緊張とともに聞き返す。再びの短い沈黙の後、ヴァレリアがおずおずと口を開く。

「……手を握って寝ても構いませんか」

「……。……くっ……くくっ……」

 しばらくぽかんとした後、ユキヒトは、堪え切れずに笑い声を洩らした。

「う……! な、なしです! やっぱり、今の発言、なかった事に……!」

 大いに慌て、声だけで分かるほど狼狽するヴァレリアに対して、ユキヒトは堪え切れない笑いを洩らしながら、そっとその手を隣の布団の中へと忍ばせ、きゅっと彼女の手を握った。

 はじめ、驚いたようにびくりと身を振るわせて、それから、恐る恐ると言うように、手に力を入れて握り返す。堪え切れない笑いをこぼしながら、ユキヒトは言った。

「今更、それくらいの事でわざわざ重大事みたいに言わないでくれよ。俺が断るかも知れないと思われてたんなら、そっちの方がよっぽどショックだ」

「……子どもっぽくありませんか?」

「子どもっぽいと何の不都合があるんだ? ここには俺とヴァレリアと、寝てるノルンしかいないのに」

「……私は、自分はもっと自制心のある女だと思っていたのですが」

 憮然としたような、その癖どこか甘さを含んだ声で、ヴァレリアは呟く。

「少しも浮かれてくれなかったら、俺の立場はどこにあるんだ」

「だとするなら、貴方が少しも浮かれてくれない私の立場はどうなるのです」

「俺が浮かれてない? 少しは自覚して欲しいもんだ」

「……もう。貴方はまた、そう言う事を、簡単に……」

 照れがない訳ではない。しかし、どうにもヴァレリアは、そう言った気障ったらしい言葉を好む傾向がある様で、ユキヒトとしては、体が痒くなりそうな思いをしながらも彼女の希望をかなえている。自分の中にそんな語彙があった事も、ユキヒトにとっては意外だった。

 こうしていると、世界が段々と狭くなって行くような気がする。この暗く、三人が並べばそれだけで全てのような小さな部屋こそが、世界の全てであるとすら思えてくる。

 一体自分は何を思い悩んでいたのだろう、と思う。

 元々自分は、異邦人だ。この世界でなにかを手に入れる事を望むような立場にない。

 この小さな世界で手を握り合っている女性と、その彼女の向こうで健やかな寝息を立てている少女。幾人かの友。それ以上を望む必要などないのだと思う。

 穏やかな気持ちで、ユキヒトは眠りへと落ちて行った。






「下手人を特定したにゃ」

 妙に時代がかった言い回しで、ニルフリは報告してきた。

「そうか、ありがとう」

「……そんにゃ悟りを開いたみたいにゃ顔して言われても、感謝されてんだかわかんにゃいにゃー……」

「悟りを開いた……。そんな顔してるか?」

「してるにゃ。あと中隊長も似たようにゃ顔をしてるにゃ」
 
 ヴァレリアも少しは落ち着いた気持ちで日々を送れているらしい。それは何より、とユキヒトは微笑んだ。

「あやしいにゃー。にゃんかいい事あったのにゃ?」

「良い事か……。別にそう言う訳でもないんだけど」

「ふーん……ま、いいにゃ」

 好奇心と飽きの早さ、猫の特性を存分に発揮しつつ、ニルフリは扉の外へ向かった。

「と、言う訳で行くにゃ」

「え? 俺もか?」

「にゃ。そうじゃにゃきゃ意味にゃいにゃ」

「……そうか、良く分からないけど、まあそう言うなら行くよ。ノルン、大人しく留守番してるんだぞ」

「……うん」

 ノルンは心配そうな表情をするものの、同行しても役に立たないどころか、足手まといになる事は十分に承知している。大人しく頷いた。

 ニルフリは迷いなく、すたすたと歩いていく。小柄な割に歩くのは速い。ともすれば小走りしそうになりながら、ユキヒトはついて行った。

「あたしは貴族ってのは嫌いだにゃ。あいつら、貴族以外を対等の相手としてみにゃいにゃ。みんにゃ、見下してやがるにゃ」

「そうでないヒトだっているだろう」

「そりゃそうだにゃ。猫人族にだって真面目で勤勉にゃ奴がいるってくらい、あたりまえの話だにゃ。だけど大半の猫人族がさぼり屋で気紛れだってのと同じくらい、貴族ってのは貴族以外を見下してるにゃ」

「……」

 一部がそうだから全体もそうだと決めつけるのは正しい事ではない。それと同時に、一部の例外がいるからとその集団を擁護することもまた、正当性に欠ける。

 わざわざそんな事を考えているわけではないのかも知れないが、彼女は何気ない言葉で本質的な事を言う。

「昔はそうじゃにゃかった事は分かってるにゃ。でも、もう、賞味期限切れだにゃ。新しい時代を始めるべきなのにゃ」

 冷めていると言っていい表情で、ニルフリは呟く。彼女はアルディメロと幼少の頃からの関係だと言う。『世が世ならば彼の嫁』と言っていたが、それは恐らく、婚約者か何か、その様な立場にあった事がある、と言う事だろう。それならば、貴族ではないが名家の出身であるアルディメロとも釣り合う家格の生まれである可能性が高い。

 つまり、この猫人族の特徴を色濃く発揮する女性は、インテリ階層に所属しているのだ。貴族に対する不満を言う、それだけならば庶民にも可能だ。しかし、その時代の終焉と、次の時代の幕開けを、おぼろげにであれ語れるのは、教養の証拠であろう。

「だからあたしは、貴族が相手であっても、許しはしにゃい」

 らしからぬと言うべきか、きっぱりとした口調で、彼女は断言した。

「……」

 その表情に、並々ならぬ決意を感じ、ユキヒトは押し黙った。それは幾分かの私情を挟んだものであるかも知れないが、彼女は己の職務を逸脱しているわけではない。口を出す事ではないとユキヒトは思った。

 彼女がその様に考えるに至った背景、それがなんであるのかは分からない。あるいは、背景などないのかもしれない。理由のない反感など、珍しいものでもない。

 いずれにせよ、彼女が様々な意味で自分の味方である事には間違いがない。今最も重要なのはその事だ。

 尻尾を左右に振りながら、ニルフリが前を歩く。その動きはせわしなく、若干の緊張が感じられた。

 奔放に見える彼女だとて、この世界の常識の枠の中に生きている。貴族に逆らうことにもつながりかねないこの任務に、緊張を覚えないはずもなかった。

「……中隊長は」

「ん?」

「政治とか、そういう舞台に立つヒトじゃにゃいのにゃ。あのヒトは……すごいヒトだけど、まともにゃ人にゃのにゃ」

「……政治の舞台に立つヒトはまともじゃないみたいな口ぶりだな」

「当たらずとも遠からずにゃ。ああいうのは、特別にゃ訓練を積んだ特殊にゃ層がやるもんにゃ。普通のヒトでしかにゃい中隊長を巻き込むんじゃねえにゃ」

 この世界では、ユキヒトのいた世界以上に、政治という世界が遠い。政治は貴族の物。普段はそう言って隔離する癖に、貴族にとって都合がいい物は勝手に巻き込もうとする。その身勝手さに、ニルフリは憤っている。

「……」

 少しずつ、周囲の景色が変わってくる。ごちゃごちゃと込み合ってはいるが活気のある街並みから、整理された大きな屋敷の立ち並ぶ静かな区画へと入って行くと、街を歩く人の数も減っていく。

 貴族、あるいは豪商、そう言った者達の家が立ち並ぶ、この区画は、閑静で、平和で、良い環境であると言う事は否定しようもない。

 そんな中を、決闘に挑むような表情の獣人に引き連れられ、ユキヒトは歩く。

 怒りがない訳ではない。不当な方法でヒトの仕事を奪った、そんな相手を赦しがたく思う。

 恐れもある。ユキヒトのいた元の世界、元の国に、貴族制などと言うものはなかった。近しいものがなかったかと言われれば、否定しきれない部分もあったかもしれないが、少なくともユキヒトに関わりのある世界ではなかった。

 それが何故か、今、貴族の元へ、直接的に殴り合う訳でないにしろ、対決しに行く事になっている。

 不思議と言えば不思議な巡り合わせだ。今一つ実感がわかないところでもある。

 それでも、彼女との穏やかな日々を本当に取り返すために、これは避けて通れない戦いだ。

 ユキヒトもまた覚悟を決めて、少し強く一歩踏み出した。














 それは、立派な建物だった。

 最近に建てられたものではない。古くから、この区画……かつての王城を取り巻いて位置する、この国最古にして最高級住宅街に存在していた、つまり、それなり以上の身分の貴族であると言う事だ。

「ま、遷都があってから、本当の一番は新都に譲っちまったけどにゃー。でも歴史で言うにゃらこの区画が一番だにゃ」

 ベルミステン出身者は、街の歴史の古さを誇る事が多い。貴族は嫌いであっても、生粋のベルミステンっ子であるニルフリもまた、例外ではない。

「とはいえまあ、こりゃあ古いだけでそんにゃに凄まじくはにゃあよ。大規模にゃ改修もしばらくやってにゃあみたいだし、門構えももっとすごいのがいくつもあったにゃ?」

「……そういわれれば、まあ、そうかもしれないな」

「そもそも、本当の大貴族一線級ってにゃあ、その辺の内輪でくっつくもんにゃ。年齢一桁同士で婚約にゃんてのも珍しくにゃあし。中隊長に割となりふり構わず手を出しに行くのは、次男、三男以降で一発当てにゃあ立ちいかねえようにゃのとか、売り出し中の新興の連中とか、歴史はあっても最近ぱっとしねえのとかだにゃあ。ま、流石にそれでもかにゃりの力はあるんだけどにゃ」

「って事は、今回のは最後のタイプかな」

「にゃっ、何でわかるのかにゃ?」

 ピン、と尻尾を立てて、ニルフリはユキヒトの方を振り返った。 

「そりゃあ……大貴族でも次男、三男っていうのなら、家自体はもっと立派なはずだろう? 売り出し中の新興貴族なら、勢いはあるだろうから、家はもっと新しいか、土地柄にひかれて古い家を買ったにしろ改装するんじゃないかな。となってくると最後っていう選択肢しか残らない」

「うん、正しいにゃ。さて、んじゃあいくにゃ」

 堂々と、正面からニルフリは乗り込んでいく。目的を考えれば当然ではある。衛兵として、犯罪行為を糺しに来ているのだ。こそこそとしていてはおかしい。

 門の前に立ち、ノッカーを手に取ると、コツコツ、と、二回それを鳴らした。

「……どちらさまですか」

 扉の中から出て来たのは、中年の男。身なりの整った男ではあるが、まさか家人がいきなり出ては来ないだろう。使用人、執事か何かであろうかと思われた。

「ベルミステン騎士団治安維持部隊第十六小隊長、ニルフリ・クリラだにゃ。この館の主、マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセンにかかった嫌疑の件で調査に来たのにゃ。とぼけるのは為にならにゃーから、出てくるが良いにゃ」

「何やら我が主に濡れ衣がかかっているようですな。それで、隣の方は?」

「被害者にゃ。取り調べに必要ににゃるから連れて来たのにゃ」

「……主に報告してまいりましょう。しばし、お待ちを」

「逃げたりしたら、それだけで罪ににゃるからそのつもりでいるのにゃ」

 初めからかなり高圧的に出ている。何か策でもあるのかと思ったが、ここまでは完全に単なる正面からの突撃だ。大丈夫か、と不安に思いながらも、ユキヒトはそれを表には出さず、ポーカーフェイスを保つ。

「……さて、これで多分、家には入れるのにゃ」

「そうなのか?」

 執事らしき男が中に入って行くのを見届けてから言うニルフリに、ユキヒトは思わず尋ね返した。

「門前払いを食らわそうとしたら、逃亡の恐れありで突撃だにゃ。そう言う風に匂わせたし、潔白だってんなら家の中に入れざるをえにゃーよ」

「なるほどな……」

 単なる正面突破ではあるが、それが有効だからこそらしい。

 しばらく待っていると、彼女の言葉の通り、主から通すようにとの指示があったと先程の男が言ってよこした。当然と言う顔をして、ニルフリは館の中へと入っていく。

 館の中のインテリアも、歴史を感じさせる非常に立派なものだ。このところ調子の上がらない貴族とは聞くが、それでも庶民からすれば理解不能なレベルだ。これで足りず、強引にヴァレリアを奪って行こうと言うのだから、業が深い。

「……ったく、結構由緒正しい家柄にゃのににゃあ……。真面目に生きてりゃあ、この街の誇りだってのに……」

 ぼやく様に、ニルフリが言う。奔放に見えて、伝統や格式を重視する性質であるらしい。

 やがて、一つの扉の前に辿り着く。執事らしき男は、その扉を恭しいしぐさで二度叩いた。

「旦那さま、先ほど申し上げた客人をお連れしました」

「お通ししろ」

 言葉こそ丁寧だが、敬意は全く感じられない。不快になる声色だった。

 男が扉をあける。ユキヒトとニルフリが室内に入り、あとを追うように男が入り、扉を閉めた。

 ユキヒトにとっては、無暗に広いとさえ感じられるような、広い部屋だった。

 執務室とでも言うべきなのだろうか、余り生活のにおいはしない部屋だ。あるのはいくらかの本棚と、一番奥に大きな机。そしてそこに、明らかに執事らしき男とは風格の違う堂々とした態度の男がいた。彼が、この家の主、マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセンで間違いなかろう。

 この街の貴族の大半がそうであるように、ヒューマン種族。金髪に青い目、年は二十代の後半にさしかかった頃だろう。

 女性であれば嫁き遅れとも言われるが、男で、責任のある仕事をしていればそうも言われない。それも、ユキヒトのいた世界とそれほど変わる事はない。

「……私に何らかの嫌疑がかかっているとか?」

 椅子に座ったまま、男が余裕のある態度で口を開いた。

「マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセン。貴方のようにゃ名家の当主が、この様にゃ犯罪行為に手を染めるとは、大変残念だにゃあ。風聞の流布および営業妨害の疑いで、治安維持第三中隊の本部までお越し願いたいにゃ」

「風聞の流布? 身に覚えがないな。流石に身に覚えがない事で衛兵の詰所には行けない。私にも立場と言う物がある」

「容疑を否認するにゃ?」

「身に覚えがない、と言っている」

 余裕のある態度は全く崩れない。それだけ自信があるのだろう。

 実際に、風聞の流布の大元をたどるのは難しい。街に流れる噂も、ユキヒトの工房がさる貴族に対して無礼を行ない不興を買ったという内容であり、そのさる貴族と言うのが誰なのかを特定するものではない。

 唯一証拠と言って良さそうなのが、ユキヒトの工房を訪れた初老の男だが、あの男も今は姿を現していない。そして、それにしたところで、被害者であるユキヒトの証言頼みになる。信憑性の点で問題があるだろう。

「現時点で認めるにゃら、大事にはしにゃーよ。噂は勘違いが呼んだものだって声明を出して、ユキヒトに謝罪すりゃあ不問だにゃあ」

「身に覚えのない事を認める事も出来ないし謝罪など当然できない」

 その後もしばらくは、罪を認めるように説得するニルフリと、全く身に覚えがないという姿勢を崩さないマルクスというやり取りが続く。この状況を打破する何かをニルフリは用意しているのかと、ユキヒトは多少の焦りを覚え始めた。

 いや、そもそも、この男が今回の犯人だと言うニルフリの調査、それすらも本当の事なのだろうか? それが誤りであったならば、ニルフリ自身や治安維持部隊、ひいてはヴァレリアの立場も悪くなろう。同行した自分も、全く無関係とはいくまい。

 ユキヒトは、嫌な汗がにじみ出てくるのを感じた。

「どうあっても容疑を認めるつもりはにゃいんだにゃ? これ以降は、無事で済ますわけにはいかにゃくにゃるにゃ」

「認めるつもりはないと言うより、事実無根だ。君もいい加減にしつこい。こちらこそ、君の不当な告発について告訴する事になるぞ」

 苛立ちを込めた声で、マルクスが言う。あまり早くから激昂したのでは痛い腹を探られたように見えるが、この様にしばらくニルフリの話に付き合った後であれば、勘違いであってもしつこい彼女にいい加減腹を立てたと言うようにも思える。

「んじゃ、証人を連れてくるとするにゃ」

「……証人? ここで裁判でも始めるつもりかな?」

「そんにゃつもりはにゃあよ。貴族である貴方を尊重した結果だにゃ。最後まで話は聞くもんにゃ。おーい、ワンコ、入るにゃ」

 ワンコという呼びかけに疑問を覚えると、後ろのドアががちゃりと開いた。

「……だから私を犬と呼ぶなと……」

 現れたのは、やはりと言うべきか、アルディメロだった。彼が証人とするならば、弱い。せめて彼が剣の作成を依頼しており、圧力を実際にかけられたと言う様な事があれば良いが、今の彼の立場は、市井の噂を耳にしたユキヒトの友人に過ぎない。

「……貴様の言う通り、連れて来た。良いのだな?」

「にゃ。ここまで来ちまえばもう全面戦争しかにゃあよ」

「……」

 一瞬、アルディメロが、マルクスに対して憐みの視線を送ったような気がした。その理由を考える暇もなく、アルディメロは、一度廊下に戻ると、一人の男を連れて再び室内に入った。

「……あ」

 ユキヒトはその顔に見覚えがあった。依頼をし、そして噂の後にキャンセルをした依頼人の一人だ。

「じゃ、証言頼むにゃ」

「……わ、私は、刀剣工房《コギトエルゴスム》に剣の作成を依頼していた者です」

「名乗りたまえ。不躾だと思わないかね?」

 ぎろりと、マルクスが男を睨む。男が小さく後ずさりするのが、ユキヒトにも見えた。

「安心するにゃ。名乗っても問題にゃあよ」

「……サウロ・カルニセルと申します」

「その名前、古くからのこの街の住民ではないようだな」

「それと証言がにゃんか関係あるかにゃ? さ、続けるにゃ」

 ニルフリはその自信ありげな態度を一向に崩さず、サウロと言う名の元依頼人に、先を促す。

「……依頼をしてしばらく、噂を聞きました。工房主のユキヒト・アヤセ氏がさる貴族の不興を買った、と。新進気鋭の工房にはよくあると言えばよくある様な噂でしたので、さほど気にはとめませんでした」

「……」

 それは、今回の噂の不思議な点でもあった。今までも、同じような風聞はあったのだ。しかし、いずれも大した効果はなかった。どれもこれも、信憑性に欠ける単なる噂でしかなく、実際に工房は常に好調であったからだ。

 それが今回は、突然キャンセルの山。これまでの噂と、今回の噂、何が一体違うのか、それは分からなかった。そして、実際に大量に行われたキャンセルが、少なくとも世間一般には、噂の信憑性を高める材料となっていた。

「しかしながら、今回は、さる貴族の使いだと言う方が、私の家を訪れたのです。今回の噂は事実であり、かの工房との関係を維持するなら、私にも不利が及ぶ、と……」

「その貴族が、私だと?」

「い、いえ……。その方は、名乗られませんでしたので」

「茶番もいい加減にして欲しいな。私とて、暇と言う訳ではないのだ」

「茶番をしてるつもりはにゃあよ。執事長のエトヴィン・ボイムラーを出すにゃ」

「……何故かな」

 マルクスが、わずかに身を硬くした。彼の余裕に溢れた態度が、初めて僅かでも崩れたと見える瞬間だった。

「こう言う仕事は、信頼できる部下じゃにゃあと任せられにゃい。その判断は正しいにゃ。でもまあ、ごく少数の人間でその仕事に当たったおかげで、周辺の聞き込みやらにゃんやらで、一人は特定できたのにゃ。今回、依頼人達を脅し、あるいは買収して、依頼をキャンセルさせたうちの少なくとも一人は、エトヴィン・ボイムラー。あんたの執事長にゃ」

「……そこの彼が、そう言ったのかな?」

「違うにゃ。でも、顔を見りゃあ自分のところに来た人間かどうかは分かるってことで、ついてきてもらったのにゃ」

「……君、サウロ君と言ったか。余り適当な事を言って、私達を煩わせるものではないよ」

「……」

 サウロがつばを飲む。彼の緊張は、ピークに達しつつあるようだった。

 風聞の流布と営業妨害。確かに犯罪行為ではある。しかしながら、懲役を科されるほどの重い罪と言う事ではなく、おそらくは、罰金刑である。体面を気にする貴族の事、それでも十分な傷とはなるが、それだけに、報復も考えられる。

 ニルフリの言う通り、この貴族の男が全ての黒幕であったとしても、彼には、真実を証言するメリットが小さい。貴族に目をつけられると思えば、デメリットが大き過ぎる。彼が真実を知っていたとして、それをそのまま証言するとは思えなかった。

「ご託は良いのにゃ。やましい事がにゃいと言うにゃら、エトヴィンを連れてくるのにゃ」

「……ヴォルフ、エトヴィンを連れてこい」

「は、承知いたしました」

 マルクスが、ここまで案内をしてくれた執事風の男に声をかけ、男が返事をする。分の良い賭けとは思えない。しかし、実行犯の一人を引きずり出す事にはどうやら成功する様だ。

「……」

 ニルフリが、アルディメロに近付いて、何事か耳打ちする。アルディメロは頷くと、口を開いた。

「私は退出させてもらう。ニルフリに頼まれて、彼をこの場に連れて来ただけだからな。私はアルディメロ・レーヴェレンツ。何かあればいつでも呼び出していただいて構わない」

「……引きとめる理由もない。自由にしたまえ」

 一礼し、アルディメロは部屋から出て行った。何か中途半端なタイミングではあるが、彼を巻き込むのは本意ではない。その方がいいとユキヒトは思った。

 やがて、ヴォルフと呼ばれた男が、一人の男を連れてくる。その顔に、ユキヒトは見覚えがあった。ユキヒトの工房に、ヴァレリアから手を引くように言いに来た男だった。

「……!」

 ここに来て、ようやくではあるが、ユキヒトにも確信が持てた。この貴族は間違いなく、今回の騒動の、黒幕だ。ニルフリの調査力は大したものだったらしい。

「何かご用ですか、旦那さま」

 澄ました顔で、執事長エトヴィンが言う。

「この者たちに見覚えがあるか」

「いえ、どちら様ですかな」

 促すマルクスに対して、ユキヒトとサウロをちらりと見て、エトヴィンは平然と言い放った。

「さて、この様な結果だが」

「サウロ・カルニセル。どうにゃ、あんたに依頼を撤回する様に言ってきたのは、この男かにゃ?」

 マルクスたちのやり取りに全く関心を示さず、ニルフリはサウロに尋ねた。

「……言うまでもない事だが、この場で事実に反する事を口にするのであれば、君には相応の報いを受けてもらわねばならんよ」

 マルクスが、ぎろりとサウロを睨みつける。暑くもないのに汗を流すサウロは、蛇に睨まれた蛙だ。

「……」

 これでは到底、真実の証言など出来そうにもない。ニルフリは一体、どういうつもりなのか。焦る内心とは裏腹に、打てる手はない。

「気にすんにゃ。本当の事を言えば良いのにゃ」

 ニルフリが、気楽そうな表情でサウロに言う。ごくりと唾を飲み、汗をぬぐい、サウロは口を開いた。

「……私は、この男に依頼を撤回する様に言われました。その際に金を渡されました。断りましたが、強引に置いて行かれました。ですが、手をつけておりません。これが、その金です」

「……!?」

 ユキヒト、マルクス、エトヴィンの三名が、弾かれたようにサウロの顔を振りむいた。サウロの顔面は蒼白で、どう見てもマルクスに、貴族の力に怯えきりながら、手にもった布の袋を差し出している。それが、彼の言う強引に置いて行かれた金なのだろう。

 その様子からして、彼が語った事は、真実であろう。しかし、何故真実を語るのか、そちらの方が分からないような有様だった。

「……さて、マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセン。お縄についてもらうにゃ」

 そんな中、一人冷静なニルフリが、淡々とマルクスに告げる。その言葉にようやく正気を取り戻したのか、マルクスは、はっと気付いたような顔をすると、見る見る顔を真っ赤にした。

「貴様、偽りを用いて貴族を陥れようなどと、恥を知れ! どうなるか分かっているのか!」

「全く同感だ、偽りを用いて他人を陥れるなど、恥を知るべき所業だな」

 突然、聞いた事のない声が割り込んでくる。

「誰だ!?」

 扉の外から聞こえた声に、冷静さを全く失っているマルクスが怒鳴る。

 静かに扉が開く。そして、見慣れない男と、顔馴染みの少女、それ以上に親交のある男女が入ってくる。

「……久しいのう、ユキヒト」

 外見に似合わない、老成した言葉遣いと仕草。銀色の髪に、赤い瞳。幼い竜は、ゆったりと微笑んだ。

「シェリエラザード、何で君が……?」

「そこの猫に言われて、私がお連れした」

 憮然とした表情で言うのは、先程退出したはずのアルディメロ。一行を案内して来たのは、彼であるらしい。

「ニルフリ……私は、聞いていませんよ」

 頭痛がする、と言うように、顔を右手で覆っているのはヴァレリアだ。

「言ったら反対したにゃ?」

「当たり前でしょう! まったく、あなたと言うヒトは……」

「よい。むしろ、妾は知らされなければ怒っていたぞ」

「ヴァレリア・ロイマー殿、貴女ともあろうお方が、この様な茶番に加担するなど……」

 マルクスが、憎々しげにヴァレリアを除く一行を睨む。

「そもそも、貴君らは何者か。部外者は早急に去っていただきたい!」

 彼の苛立ちはどうやら頂点に達しつつあるようだ。貴族の力の前に屈しない平民がいる事、そして自分が追い詰められつつある事、それが認めがたいのか、八つ当たりの様な事を始める。

「部外者か。ふむ、確かに部外者とも言えよう」

 見慣れない男は、悠然とした態度で答えた。

 かなりの偉丈夫である。獣人の中でも大柄なアルディメロと比べても、決して見劣りしない。引き締まった肉体は、大柄であっても鈍重な印象ではない。

 顔立ちは、やや厳めしいが、短く刈った髪がよく似合う男らしいものだ。髪の色は落ち着いたブラウン。そして、その赤い目にはどこか穏やかさを感じさせる温かみをも備えていた。

 その特徴に、ユキヒトがはっと息をのんだ瞬間、マルクスが再び怒鳴り声をあげた。

「であろう! ならば……!」

「にゃー。まさか、公正に裁いてもらう為にわざわざお越しいただいた竜のお二方を、追い出す奴がいるにゃんて驚きだにゃ。ましてこの国で」

 にやりと笑うと、ニルフリが、わざとらしく呟いた。

「……!?」

「名乗りがまだであったな。これは失敬した。俺はファフリム・ドゥラ。ベルビオ山に住む竜だ」

「妾はシェリエラザード・アルノーリドヴナ・オサトチフ。同じく、竜じゃ」

「な……あ……」

 赤い目は竜種に多い特徴。ヒューマンには滅多に表れないそれを見逃していたのは、失態と言えた。

 まして、ファフリム・ドゥラと言えば、ヴァレリアが英雄とされたモンスター襲撃事件において、街を救いに駆け付けた竜だ。この街で、その名を知らぬ者、感謝の念を覚えない者はいない。

「……ご、ご無礼を……」

「良い。その様に瑣末な事は気にしない。公正な判断の為と呼ばれたが、我らは席を外した方が良いかな?」

「と、とんでもない!」

 竜種を追い出してしまったのでは、例え無罪を勝ち取ったとしても、真実がどうあれ、貴族の力を使っての事と判断されて止むをえまい。マルクスは、今までの態度はどこへやら、慌てた様子でそれを否定した。

「……さて、サウロ・カルニセル。この場での偽証は罪に問われる恐れがあるにゃ。それを心得たうえで答えるのにゃ。ユキヒトの工房へのあんたの依頼を、断る様に脅迫したのは、この男で間違いにゃーか?」

「つい、一月ほど前の事です。間違える訳がありません。この男です」

 まだやや白い顔である事は間違いなく、足が震えているのも見て取れる。しかしはっきりと、彼はマルクスの執事長を見て言った。

「サウロ・カルニセルの他にも、証言しても良いってヒトを確保してるのにゃ。なおかつ、サウロの家にエトヴィン執事長が入って行ったのを見たって証人もいるのにゃ。弁明は?」

「誤解だ! 私は知らない!」

 マルクスも、顔を赤くし、暑い訳でもなかろうに、額に汗をにじませながら、かろうじて声をあげた。エトヴィンは、同じような表情のまま、口を開く事も出来ずに固まっている。

「複数の者から、その男の手により脅迫が為されたとの証言がある事を、どのように説明する? 我が竜騎士の名誉に関わる事だ、慎重に答えられよ」

「……我が竜騎士?」

 ファフリムに認められた竜騎士と言えば、ヴァレリアだ。今回の件は、無論最終的には彼女を狙っての物ではあるが、直接的に彼女の名誉を傷つけるものではない。そこに、不審の念を抱いた様にマルクスは聞き返した。

「ユキヒト・アヤセは、俺がその称号を名乗る事を認める竜騎士だ。以前の戦いでヴァレリア・ロイマーとともにたった二人、街を守るために闘った勇気、そして、我らの鱗を見事な剣に仕立て上げた鍛冶師としての技量を、俺は称える」

「!?」

 その場の人間すべてが、ファフリムの方を向き直る。

「……ずるいのではないか? ユキヒトの鍛冶師としての技量を認めたのは、妾が先だぞ」

 一番早く正気を取り戻したのは、同じ竜であるシェリエラザードだった。口を尖らせて、ファフリムに対して文句をつける。

「俺は、勇敢なヒューマンの番に称号をやるつもりだった。それをこの男、鍛冶師にそんな称号はいらんと拒否したのだ。……が、元々、竜騎士などと言う称号は、勝手に我らが与えるものだ。受け取ろうが受け取るまいが、俺はこの男を竜騎士として認めている。まして、鍛冶師としても優秀と言うのは、シェリエラザード、お前が認めたところだろう」

「……まあ良い」

 むくれつつも、シェリエラザードは容認すると言う姿勢を見せた。

「さて、こりゃ大変だにゃあ。ユキヒトはヴァレリア中隊長と違って、ただの民間人だにゃ。その気ににゃれば、別にこの街に留まる必要もにゃいにゃ。竜が腕を認める竜騎士の工房……どの街で開業しても大繁盛間違いにゃあよ」

 続いて冷静に戻ったらしいニルフリが、にんまりと笑ってそんな言葉を続けた。

 元々、この国は、《竜の末裔》を自称しながら、純粋な竜に認められた竜騎士がおらず、竜族を自称する王家が与えた称号としての竜騎士しか存在しなかった国家だ。だからこそ、ヴァレリアの価値は、この街だけにとどまらず、国家レベルで貴重なものだったのだ。

 そんな中、民間人であるユキヒトに竜騎士称号が与えられた。軍に所属するヴァレリアとは異なり、民間人の彼は、街に縛られる事はない。この街で不都合な噂を流す者がいるなら、別の街へ行けばいい。そして、堂々と言ってしまえば良い。前の街では、妬みから来る噂で不快な思いをした為、住居を変えた、と。

 そうなれば、その噂を流した者がただで済むわけがない。《竜の末裔》が治める国で、最も尊ばれるべき《竜騎士》を、街からみすみす手放す原因となった者。それが貴族であっても、権威の失墜は免れまい。まして、この家は、今となっては落ち目となったかつての名門でしかない。

 事ここに至って、立場は逆転した。

「す、全て私が独断で行った事だ! 我が主がヴァレリア様とのご縁を望んでいる事を知り、独断で動いた!」

 エトヴィンが、慌てた大声で叫ぶ。せめて主を無関係にしようとしたその忠節は、褒められるべきものだったかもしれない。しかしファフリムは、冷やかに笑った。

「事実か?」

「……は、はい……」

 すっかりとおびえた表情になったマルクスが、明らかな保身のための嘘をつく。ファフリムは、心底蔑んだ目で彼を見て、冷たく続けた。

「つまり貴様は、部下の掌握すらままならず、独断による犯罪行為を許し、善良なる市民に多大な迷惑をかけたと言う訳だ。名誉ある貴族として、この事態の始末は、いかようにしてつけるのだ?」

「……」

 マルクスはもはや言葉もなく、がくりと膝をつき、うなだれた。














 主従ともどもの出頭を命じ、一行は家路についた。

 明日にも、事件の全容は、ユキヒトの竜騎士称号の正式な授与とともに、新聞報道に載ることだろう。そうなればもはや、この街でユキヒトに手出しをできる者はそうはいなくなる。そして、彼の貴族はその立場を完全に失う事になる。

「……なんだか、情けないな」

 ぽつりと、ユキヒトは呟いた。

「ん? にゃにが?」

 反応したのは、今回の功労者と言うべき、ニルフリだった。

「いや、結局俺は何もしてないな、と……。今回の事は、俺が何とかするべき事だったのに……」

「……本気で言ってんにゃら、あんた悪いけど馬鹿だにゃー」

 心底呆れた、と言う様に、ニルフリは溜息をついた。

「な!?」

「悪いが今日ばかりはそこの猫に同意するぞ、ユキヒト」

 余りの言い草に思わず声をあげると、じとりとした目でにらみつつ、アルディメロが追撃にかかってきた。

「あたしの任務はこの街の治安維持だにゃ。不当な風聞で仕事を奪われそうにゃヒトがいる、その解決があたしのやる事じゃにゃくて、一体誰のやる事だっていうんだにゃ?」

「……でも、竜まで引っ張り出して来て……」

「妾はむしろ知らされなければ怒ると先程も言ったであろ。第一、我らの力を不当に使うというならまだしも、我らは、公正な裁きを頼まれただけじゃ」

「それは、でも、味方をしてくれると分かっていて……」

「それの何が悪い?」

 悪びれもせず、ファフリムは言い放った。

「ユキヒト、お前は少しばかり、力を使うと言う事に憶病すぎる。あの貴族の男のような不当な力の使い方はともかく、今回は自己の防衛だ。何を遠慮する事がある」

「力を使うって……俺には別に、何の力も……」

「それは違うな」

 力強く、ファフリムは断言する。

「この場にいる者は全て、それぞれ理由はあるだろうが、見返りを求めず、自分の力をお前に貸して良いと思っている者だ。お前だから、力を貸していいと思っているのだ。そのこと自体が、お前の力だよ」

「……」

「得心がいかんと言う顔をしているが、例えばあの男は、貴族としての権威と金の力で、ユキヒトの顧客を脅迫し、依頼を撤回させた。では、貴族の権威とはなんだ?」

 立ち止まり、ややオーバーな仕草で、ファフリムは両手を広げる。

「今でこそ、貴族の権威なるものは、理不尽な、ただそう生まれついたと言うだけで与えられた物の様に思われる。しかしそれは違う。本来は、そうすることが必要だったから、そうなったものなのだ。彼らは戦いで誰よりも血を流し、人々を守った。そして、人々を守るゆえに、指示に従わせる為の正当な力を得たのだ。俺は、今の貴族の権威が、単に理不尽なだけの物とは思わん」

「それでも、正しく手に入れた力でも、使い道が正しくない」

「そうだ。今の貴族は、かつての貴族の持っていた気高さを失いつつある。故に、その正統に得た筈の力も、いつかは衰えていくであろうよ。そして今の話は、個人にも当てはまる事なのだ」

 ファフリムはその厳めしい顔に、わずかな笑みを浮かべながら続けた。

「ユキヒト、お前の生きてきた姿勢が、お前に味方を作った。お前に味方したいと思う者の力は、お前の力だ。その力は、お前が今までのお前である限り、そして使い方を間違えない限り、お前の力であり続けるであろう。そうでなくなった時、お前は、お前の力を失う」

「……」

「ヒトとのつながり、絆だとて……いや、絆こそが、ヒトの持つ最大の力なのだ。今回の件は、お前の持つその力が、あの男の理不尽を払いのけた。そういう意味では、お前の力で解決したと言える」

「まぁ、それを誇ろうとせぬからユキヒトにはその力があるのであろうがな」

 シェリエラザードは、その可憐な顔立ちに相応しい、花の咲くような笑顔を見せた。

 どうやら褒められているらしい。何とはなく恥ずかしくなって、ユキヒトは頬をかいた。

「とはいえ、今回の騒動の原因の一端が、お前のはっきりせん態度にあるのも確かな事だ」

 こほんと一つ咳払いをした後、ファフリムは、その厳めしい顔を、どこかいたずらな風に歪めて笑った。

 その笑顔に何やら嫌な予感めいたものを覚えて、ユキヒトは一歩後ずさる。それを見て、他人の窮地に鼻が利くらしいニルフリが、にゃふふ、と、嫌な笑みを浮かべた。

「お前が、さっさとヴァレリアと番にならんのが悪い。さっさと責任を取れ」

「せ、責任って……。そもそも、何でそんな、色々と知っている風なんですか!?」

 この言動は、明らかにヴァレリアと自分の関係の進展を、事細かに知っているものだ。今回の騒動で、流石にそんな事をわざわざ説明しているとは思えない。

「この街は、ファフリム様の管轄だにゃー。あん時以来、にゃにかとヴァレリア中隊長の事気にしてくれてるから、ちょくちょくご報告入れてんだにゃー」

「やはりニルフリだったのですか! ファフリム殿が色々とご存知なのは!」

「あたしだけだと思ってんなら甘いと言っとくにゃー」

「くっ……」

 ヴァレリアには何やら心当たりがあるらしい。じろりとニルフリを睨むものの、顔を真っ赤にしていたのでは迫力もない。

「中隊長はこう言うヒトにゃんだから、ユキヒトはもっと攻めるべきにゃ。まさか結婚を前提にせずに付き合ってるとかいわねーにゃ? もしもそうだったら、これはもう、えらい事にゃ」

「うむ、この年齢まで来たヒューマンの、この手の女にそれは酷じゃな」

「竜とはいえ子供の貴女に言われたくはありません!」

「竜とはいえ子供の妾に言われるほど、そなたが分かりやすいのであろ」

 ころころとシェリエラザードが笑う横で、ヴァレリアはがっくりと肩を落とす。

「ふふっ」

 そうやって、案外にリアクションが大きいから、皆してからかってくるのだと言う事に、ヴァレリア自身はどうも気づいていない。ユキヒトはそれを、おかしく思った。

「……そもそも貴方が、もう少ししゃんとしてくれれば、こうやって辱められなくとも済むのです! 貴方はもう少し、どうにかしてください!」

「お、俺のせいか!?」

「そうです!」

「待て、落ち着いてくれ、決していい加減な気持ちでいる訳じゃなくて……」

 腹立ち紛れではあるが、一概に八つ当たりとも言えない。ユキヒトは微妙に痛い個所をつかれ、慌てて弁明を始めるのだった。





























好奇心旺盛なる衛兵へ その心が正しき道に使われる事を願って 行人



















[8212] 神に祈りを、ヒトに希望を
Name: yun◆04d05236 ID:bb84007c
Date: 2013/03/10 08:44
 その女は、音もなく工房に出現した。

 それは、出現、と言うほかにはない登場だった。扉は閉まったまま開いた気配もなく、何の前触れもなく、唐突に彼女はそこに立っていた。

 長く豊かな黒髪、閉じているだけで微笑みの形になる唇、少しふっくらとした輪郭、深い知性を湛えた穏やかなまなざし。神秘的ですらある空気を纏って、彼女は唐突に出現した。

 いかにも女性的な、柔らかそうな体の線は、大きな包容力を感じさせる。女性の美としてのひとつの完成型とすらも感じさせる、見事なバランスを保っていた。身にまとう長い布を幾重にも纏った様な見慣れない様式の服すらも、神秘性を感じさせるスパイスだ。

「……」

 どこから入ってきたのか、どうやって出現したのか、そもそも一体何者か。投げかけるべきいくつもの問いは、彼女の神々しいまでの姿に、ユキヒトの口から出ていく事はなかった。

 やがて、彼女はゆったりと視線をめぐらせ、ユキヒトの存在に気付く。

「……あぐっ!?」

 と同時に、奇声がその口から発される。気品を感じさせていたゆったりとした仕草が固まり、慈母の趣すらあった顔立ちが、ゆでた蛸の様に真っ赤になる。

「あ、く、あ……。えと、工房の中……入るつもりじゃなくて……座標、間違い……。評判、聞いて……」

「……」

 更に口から出て来た言葉で、最初の印象は完全に台無しになった。どうやら目の前のこの正体不明の女は、コミュニケーション能力に相当な欠陥を抱えているらしい。

「……色々疑問はありますが、まず、貴女はどこのどなたでしょうか?」

 相手が慌てていると、自分は冷静になる。その事実を再確認しながら、ユキヒトはそれを問いかけた。

「あぐ……。あ、わたしは……アメノホカゲヒメ……。ホ、ホカゲとお呼びください。な、何者かと言われますと、ええと、い、一番近いのは……」

 しばらく考えを巡らせるように沈黙すると、彼女はこう言った。

「……神です」









 






 ファリオダズマにおける最もポピュラーな信仰は、多神教のカイスト教である。

 いくつもの種族・民族が、どの種族が覇権を握ると言う事もなく集合し、共同生活を送るようになって以来、文化や風習、思想なども次第に混ざり合っていった。

 宗教もまたその流れに逆らう事が出来ず、様々な種族の信仰が混ざり合って行った結果、最終的には全ての種族の神々が同居するごった煮とも言うべき宗教が主流になっていった。

 格の高い神もいればそうでない神もいるが、明確な最高神と言うべき存在はない。大きなところでは太陽を司る神や死を司る神、大地を司る神や海を司る神がいる一方で、風邪を引いて苦しい時に祈りを捧げると症状を緩和してくれる神などという、風邪薬のような神もいる。

「わ、我々神とは、信仰心を糧としてその力を増大させる、その……魔力生命体とでも言うべき存在です」

「……」

 突如として出現した神を名乗る女性は、たどたどしいながらもそういったあれこれを説明してくれる。意外な事にと言うべきか、口調がいちいちもたつく事を除けば、その説明は非常に分かりやすいものだった。

「つまり、貴女の本体は魔力であると?」

「今は、分かりやすいように肉体を構成していますけれど……本質的にはそうです。肉体を構成する座標を、この建物の外にして、普通に訪ねようとしたのですけれど……設定に失敗して、工房内にいきなり出現してしまいました」

 神として実力不足です、と、恥ずかしげにうつむく。

 神と名乗る女性など、不審者以外の何物でもないが、とはいえ、どうも彼女の個性では、上手く人をだます事も出来そうにないうえに、出現としか表現しようのない登場も、常人にできるものではない。

 神と言うのが適切かどうかは置くとして、尋常な存在でもなさそうだ。そして、どうも、悪いものではないように思われた。

「……ユキヒトさん、お客さまですか?」

 そんな事を言いながら、やや不審な表情のノルンが工房に入ってくる。

 通常、注文受付のある部屋を通らずに工房に入る事は出来ない。そして、受付のある部屋にヒトが入れば、例えノルンが自室にいたとしても、大抵の場合は気付く。ノルンに気付かれずに工房に入るというのは余り考えにくい事態であり、だからこそ、不自然に思ったのだろう。

 ちなみに、工房とノルンの自室は離れている上に工房には防音も施されており、通常、作業の音もノルンの部屋までは届かないようになっている。工房近くを通りかかった際に中から会話らしき声が聞こえたため、気にかかったのだろう。

「……誤魔化せますか?」

 ひそやかな、ノルンには聞こえない程度の声で、ホカゲが囁く。神と言う素性を隠したいのだろうか、とユキヒトは思った。何故自分には明かせてノルンには明かせないのかという疑問もあるが、とりあえず悪い人物ではない様子である事もあり、要望をかなえるべく、ユキヒトは口を開いた。

「ああ、お客さんだ。珍しいな、受付の部屋に入った気配に気づかなかったのか」

 流石に、受付の部屋にいたのであれば、気付かないなどあり得ないだろう。しかし今日のノルンは自室にいた。いくら気配に敏いノルンと言えど、別室にいたのならばそれに気付かない事もあり得る。

「……うん、ごめんなさい」

「いいえ。私こそ、勝手に工房まで入ってきてごめんなさい」

 年下相手には比較的強いのか、にっこりと笑ってホカゲはノルンに謝った。

「ノルン、部屋に戻っていていいぞ」

「はい、分かりました」

 除け者にするわけではないが、子どもに依頼内容を聞かれたがらない依頼人も多い。ノルンも特に拘る様子は見せず、素直に工房から出て行った。

「……さて、貴女が神様であるというのは良いとして、神様が何故、刀剣工房に?」

「そ、それはもちろん、刀剣作製の、その……依頼に」

 ノルンがいなくなると、再び緊張し始めたのか、途端に口調から滑らかさが失われる。神と言う割に、ひどい人見知りだった。

「それは何故?」

「先程申しましたように、我々神と言うものは……信仰心を糧にする魔力生命体ですので……あの、信仰心を、集める事で、力をつける事が出来るのです」

「はい」

 いちいち会話がもたつくが、ここまでくればもうこれは彼女の個性と割り切るしかあるまい。ユキヒトは彼女の話にゆっくりと耳を傾ける事にした。

「ええと、信仰心を集める為に、神殿を築き、信者さんを集めたいのですが、つまり、その、奉っていただく為の神体が必要なのです」

「作った剣をご神体にしたいと?」

「はい、そうです」

 そこばかりは淀みなく、力強く頷く。どうやら、その事は強く心に決めているらしい。その態度にむしろ違和感を覚えて、ユキヒトは問い返した。

「何故、剣を? 貴女は……その、剣をご神体にする様な神様には見えませんが。それに、何故俺に?」

「私は、あの……こう見えて、家庭の平穏と鍛冶を守護する神なのです。それで……こ、この辺りに、神殿を構えたいと思ったのですが、ええと、この街の鍛冶屋でもっとも神体にする剣を打つのに適した鍛冶師が、あの、貴方だったのです」

「……家庭の平穏と鍛冶?」

「は、はい……」

 随分と大きなものを守護しているように思われるが、その割には、言っては悪いが力のある神に見えない。思わず、じっと見つめていると、ホカゲは、その整った顔を真っ赤にした。

「……あの……」

「あ、ああ、失礼しました」

 居心地が悪そうに声をかけてくる彼女に、正気を取り戻してユキヒトは、礼儀正しく目線を逸らした。

「その……私が、そんなにたいそうな神に見えないと言う事だと思いますが……」

「……う……」

「確かに、ええと、私は……今のところ、力のある神ではありません。守護していると言っても、その……私の守護が届くのは、せいぜい、ご町内の範囲内です」

「……つまり、このご町内限定の、家庭と鍛冶の守護神と言う事ですか?」

「はい、その、そう言う事になります」

 随分とローカルな神もいたものだが、ユキヒトの居た国でも八百万もの神がいるという信仰があった。それだけの数がいれば、そんな神もいるのかも知れない。

「それで、ええと、報酬なのですが……」

「……あ、あの……私は、その、神ですが、神殿もないのでお布施も貰った事がなくて、その……」

「お金はない、と?」

 顔を真っ赤にしてこくりと頷く神に、ユキヒトは頭を抱えた。

「……そもそも俺には、貴女が本当に神様なのかも分らないし、依頼料も無しに剣を作れと言われるのは、流石に……」

「あ、あの! お金をお支払いすることはできませんが、その代わり、あの……私の加護を、貴方に授ける事が出来ます!」

「……加護、ですか」

「は、はい! 私の力なら……ええと、鍛冶の途中で火傷をした時、治りが少し早くなります。後は……家族と喧嘩をした時、仲直りがちょっとしやすくなります!」

 本当だとしても、何とも微妙だ。その微妙さが、逆に彼女の話の信憑性を高めている様な気はする。

「ええと……私が神だと言う事について、少しお疑いの様子ですが……。とりあえず、その、一度本来の魔力体に戻ってから、実体化して見せましょうか?」

「……まあ、確かに、そんな魔術は聞いた事ありませんね……」

 似たようなものとしては変身魔術があり、竜族の様に本来の質量よりもずっと小さい姿に変身して見せる者もいる。しかし、全身を完全に魔力としてしまう、いわば自分自身を消滅させてしまうなどと言う魔術はありえない。魔力はあくまである種の力であって、それ自体に意思はないと考えられている。自分を全て魔力化すると言う事ができたとして、その時点で自分の意思が消えてしまい、再構成が不可能になるはずだ。

「とは言え、いきなりこの工房内に現れたんですから、そう言う事が出来るのは認めます」

「あ、ありがとうございます……」

「……でも、その、言いにくいんですが、貴女の言う『加護』は、どうも、効果を実感するのが難しそうで……」

 これだけ困った依頼人も珍しい。とても悪人には思えない為、依頼料さえ払ってくれるのならとりあえず依頼は受けられるが、金がないと言われてしまうと、非常に困る。

「ええと、それじゃあ……後は、神殿の周りを少し、聖域化と言うか……清浄な状態に保てますけど……」

「……ちょっと待ってください」

 その言葉に、ユキヒトは思わず、ずいっと彼女に顔を近づけた。彼女は、恐れる様に身を竦ませたが、それにも気づかず、ユキヒトは真剣な面持ちで、彼女に詰め寄った。

「もう少し、その話を詳しく聞かせてください」




























 真っ赤に燃える炭の中から、紅く輝く金属の塊を引き出す。

 あの硬く冷たい塊を、熱して柔らかくし、鍛え上げようと、最初に発想したのはいったい何者なのだろうか。不可解な事を考えるものだが、こちらの世界にも、あちらの世界にも、そしてどの大陸にも、その技術は存在した。それはあるいは、人間の本能に刻まれた行為なのかもしれない。

 ベースとなるのはカミツの鋼。その良質な鋼に、銀と、代表的な魔法金属のひとつであるアダマンタイト、今のところカミツでのみ採掘される同じく魔法金属のヒヒイロカネを混ぜた合金は、ユキヒトに取って初めて扱う素材だ。

 その素材を指定したのは依頼人たる神、ホカゲだ。加工の仕方や、加熱具合の見極めなど、鍛冶の神を名乗るだけあって、事細かに教示してもらえた。『声が聞こえる』鉄や銀はともかく、魔法金属の加工技術を教えてもらえるのは有り難かった。

 鎚を取り、少し目を閉じ、静かに息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 かすかに目を開け、真っ赤な金属を金敷にのせて、鎚を振り上げる。

 きぃん、と、澄んだ音が鳴る。ユキヒトとノルンが愛してやまないその音。今はその音に聞き入るではなく、ただ、無心に鎚を振るう。

 金属の温度、強度の具合、全体の均一性……鎚を振るう間に考慮すべき事柄は多い。しかし、ユキヒトにとって、本当にいい仕事が出来るのは、余分な思考を排除して、無心に鎚を振るっている時だった。

 師であるオルトからも、極力余計な思考は削ぎ落とせと言われていた。無論それは、何も考えずに漫然と打てと言う事ではない。僅かな違和感も逃さないよう感覚は研ぎ澄ましながら、目の前の鍛冶に全てを打ちこみ、雑事に心を惑わされるなと言う事だ。

 この仕事はユキヒトに取って、その教えを忠実に守るべき仕事になった。無論、普段の仕事からそうではあるが、今回は、少しでも余計な事を考えてしまえば、途端に心が惑う。そういう仕事になってしまった。

 逆に言えば、それだけ大切な仕事だ。何としても、最高の出来の物を作らなければならない。

 叩いて鍛えた金属の塊を、慎重に眺める。そして再び、炭の中へ。

 青白い炎が微かに上がる。その美しさにも心をとらわれることなく、ただ、剣が熱されて行くのをじっと見つめる。

 ホカゲに教わった目安の通り、紅く輝き始めたそれを再び取りだす。そして再び、鎚を振るう。

 鍛冶の音は途絶える事なく、延々と続いていた。


















 ファルは、ユキヒトからの呼び出しに応じ、工房へと顔を出していた。

 剣の手入れ関連で工房に呼ばれる事はあるものの、今回の様に日時を指定して必ず来るようにと言伝がある事は今までにない。一体何の用事かと、わずかに緊張しつつ、彼はカウンターのある部屋に座っていた。

「何よ、そわそわして。落ち着きなさい、みっともない」

 傍らには、当然のようにブレンヒルト。こちらは例によってと言うべきか、ふてぶてしいまでに平然とした顔だ。

「いやあ、結局ブレンヒルトの性格は変わってない事がヴァレリアさんにバレて、その事で呼び出しだったらどうしようかと……」

「脱出口と逃走経路の確認は十分かしら」

 途端に前言を翻し、がたっ、と、イスから立ち上がり、きょろきょろと落ち着きなく、ブレンヒルトが周りを見渡す。

「どれだけ怖いんだよ! そしてそんなに怖いのに何で性格はそのまんまなんだよ!」

「私の心は、暴力なんかに屈しない!」

「台詞だけ見れば格好いいな!」

「……相変わらずお前らは、いつ見ても楽しそうで何よりだよ」

 部屋に入ってみればぎゃあぎゃあと騒いでいる二人に、ユキヒトは半ば以上呆れつつ声をかけた。

「……あら、騒いでなんておりませんわ」

 一瞬でも、今聞いた騒ぎは幻だったかと思わせる様な、つんと澄ました声でブレンヒルトは答える。ユキヒトは苦笑した。

「安心しろ、ヴァレリアはいないから」

「あらそう、猫を被って損をしたわ」

 正々堂々猫を被っていた事を認め、あっさりと普段通りに戻る。その変わり身の早さは、見習いたいとは思わないが感心するものだった。

「で、何で僕達を呼び出したんですか? 前回の剣の手入れからそんなに時間も経っていないし……」

「ああ、今日は剣の関係じゃないんだ」

「……と言う事は」

「依頼をしたい」

 すっと、一瞬、二人が目を細める。

 ふざけた雰囲気はかき消え、そこに座っているのは、まだ若いながら、プロフェッショナルの冒険者だった。

 冒険者に依頼を行なうためには、二つの方法がある。冒険者ギルドに依頼を持って行く方法と、冒険者に直接依頼を行なう方法だ。

 前者はギルドに仲介料を支払う必要がある反面、依頼料は適切なものをギルドが助言してくれるうえに、依頼を受ける冒険者も実力が適切な者をギルドが選定してくれる。

 後者の場合、冒険者との直接交渉となるため、依頼料も相場を知らなければ高い要求をされる可能性があり、依頼内容に適切な実力を持つだけの冒険者を探し出せるかという問題もあるが、逆もまた然りだ。

「内容は?」

「人を探して欲しい。……正直に言うと、どこにいるかさっぱり分からない。でも、出来るだけ早く見つけて欲しい」

「その人物を探すための手がかりは?」

「……そうだな……」

 てきぱきと、二人は確認を行なってくる。ユキヒトはそれに丁寧に答えて行く。

「……なかなか難しい内容ですが、承知しました。引き受けましょう」

「すまない、頼む」

「しかしまあ……本当にユキヒトさんは、色々な人と知り合いですね」

 仕事の話は終わりと判断したのか、ファルはわずかに柔らかい表情で、少し呆れた様な声を出した。

「何故かはわからないけど、依頼人は変わった人が多くて、こっちも驚いている」

「これは、変わっているってレベルかしらね……。まあ、良いわ。なるべく急ぐのね」

「すまないけど、頼む」

「……じゃあ、依頼料は、完了までの日時に応じて変動させましょうか。そうですね、一月以内なら満額でどうですか? その代わり、満額は相場より高めにさせてもらいますけれど」

「うん、それなら助かる」

 自動車も鉄道もないこの世界のこと、大陸のどこにいるか分からない一人のヒトを探すのに、一月以内なら破格の早さだ。多めの依頼料を払ってでも、できる限り早く見つけたい事情もある。

「……ユキヒトさんは、いろんなヒトの事情を、自分で抱え過ぎる様な気がします」

 僅かに眉を寄せた、心配そうな表情で、ファルが言った。基本的に飄々としている彼の事、そう言った顔をするのは珍しかった。

「ん……?」

「ヒトはそれぞれ、自分で自分の事を解決しなければならない義務があります。他人に同情するのも、手を貸すのも、美徳だとは思いますけれど、それで自分の事がおろそかになるのは、本末転倒ですよ」

「……まあ、そうかもしれないな」

 この世界は、ユキヒトがいた元の世界に比べて、物事の考え方がシビアな面がある。モンスターと言う人類の天敵と言うべき存在があり、また、医療技術の発達も不十分であるため、死と言うものが、非常に身近にある世界だ。

 多くのヒトには他人までを気にしていられる余裕がない。他人への同情など、贅沢や、あるときには思い上がりですらある。

「……それは、私が普段貴方に言っている事だと思うけれど。貴方が余計な事に首を突っ込むから、私はいつも苦労しているわ」

「……ん? あれ、そうだったかな?」

 しかし、そんな世界でも、ヒトは優しさを忘れずにいる。ユキヒトはくすりと笑って、二人を眺めた。

























「……とても良い状態です」

 依頼をしてきたときからしばしば、ホカゲは、工房を訪ねて来ては作製途中の剣を見て行く。時には、鍛冶を見て行く事もあるし、助言もくれる事がある。鍛冶の神を名乗るだけあって、その助言は非常に適切なものだった。

「まだ鍛錬が足りないと思うけど……」

「それは確かにそうですが、現時点では非常に良いです。このまま鍛錬を続けていただければ、良い具合に仕上がると思います」

「なるほど」

「……」

 今日は同席しているノルンが、少し首をかしげる。それを見たホカゲが、急に顔を赤くした。何事か、とユキヒトが思っていると、弁解するようにホカゲが口を開いた。

「……あ……。私、依頼人であるにもかかわらず、作製途中の物にあれこれと……。す、すみません、職人の誇りを無視した、出過ぎた行いでした」

 慣れてくるに従って、ホカゲが口籠る回数も減っていたのだが、慌てたらしく、初めて会った頃の様につっかえつっかえの口調になる。

「いえ、俺は……未熟な身とは依頼してくれている人たちに申し訳が立たないので言えませんが、もっと向上していくべき身の上です。貴女のおかげで、助かっています。そんな風に言う必要はありませんよ」

 確かに、一度任せられた以上、知識もないものに仕上がりもしていない状態であれこれと口を出されれば、職人として面白くないだろう。しかし相手は、鍛冶の神を名乗る人物であり、そう名乗るだけの事はあって、非常に適切な助言をくれている。あれこれとおしつけがましい訳でもない。言葉通り、むしろ助かっている。謝られる筋合いではないとユキヒトは思った。

「ごめんなさい、依頼人の方がそんな風に鍛冶に詳しい事、なかったので、少し不思議に思ってしまいました」

 自分の態度が、ホカゲにその様に気を使わせたのだと察知したノルンが、ぺこりと頭を下げる。

「わ、私こそ、ごめんなさい。あの……なまじ知識を持っているものだから、職人さんに任せた後にまであれこれと口出しを……」

 本当に恥じ入っている様子で、ホカゲは言葉を続ける。鍛冶の神と言うだけあって、鍛冶師の誇りについても本来は拘りがあるのだろう。

 とは言え、自分自身の神体にしようとしている剣、いわば自分の第二の肉体とでも言うべきものだ。口を出したくもなるのだろう。

「全員で謝り合っててもしょうがない。もうこれで終わりにしましょう」

「……はい、分かりました」

 まだ少し赤い顔をしたホカゲが、それでもこちらの意を汲んで頷いてくれる。

「でも、依頼をされる方が、作製途中の物を見て、良い状態だと仰るというのは、今までにありませんでした。とてもお詳しいんですね」

「はい、ええと、まあ。それなりには」

 鍛冶の神に対して言っていると思えば、それなりにひやひやとするような内容ではあるが、ホカゲ自身がノルンにそれを隠している以上、やむをえまい。何故なのかは分からないが、彼女はノルンに対して、神であると名乗る事はないし、ユキヒトにも口止めをしていた。

 世界最大宗教であり多神教であるカイスト教には、鍛冶の神も、家内安全の神も既にいる。ホカゲに言わせれば、それらの神は鍛冶や家庭全体を守護する神であって、いわば自分の上位に当たる存在だ、と言う事だ。とは言え、直接会った事がある訳でも、指揮下にある訳でもないらしいが。

 そもそも、力のある神であれば、そうそう人前に実体化して現れる事などないと言う。神の降臨は本来非常に重大な出来事である。力のある神は普段、全世界に満遍なく加護を与えねばならず、その分存在は希薄にならざるを得ない。実体化となれば、全世界に散っている魔力をある程度一か所に集める必要があり、その場所以外に対しての加護が手薄になる。それは、下手をすれば世界のバランスを崩す行為であると言う事だ。

 幸か不幸かホカゲは非常に力の弱い神であり、その加護が得られないからと言って世界に大きな影響はない。そもそも、加護を与えているのがご町内のレベルである。その為に、しばしば実体化してはユキヒトの仕事を見に来ているのだ。

「ノルンちゃんは鍛冶の音を聞くのが好きだそうですね」

「はい。危ないから工房に入っちゃダメってよく叱られるんですけれど」

「ふふ……。それは、その通りかもしれませんね」

 子ども相手に丁寧過ぎるほどに丁寧ではあるが、少し話し方が滑らかになる。やはり、子どもの相手は比較的得意なのだろう。

「ある地方では、かつて鍛冶は神事でした。鉱石のほとんどとれないその地方では、それを加工できるのは、高い技術と知識を持ち、神官を兼ねる支配階級のみでした。その地方では、鍛冶をする姿を見る事が出来る者は限られていましたが、鍛冶の為に特別に設えられた小屋の外では、鍛冶の音を聞く事を許されたと言います。その神聖な音を聞く事で民衆は神事に参加し、また加護を得る事が出来ると考えられていたのです」

「へぇ……地方単位で、私みたいな事をしていたヒト達がいるんですね」

「鍛冶は定められた手順を忠実にこなして行く作業でもありますから、ある種、儀式的とも言えますね。そう言ったところが、宗教的なものと結び付いたのでしょう」

「なるほど……」

 子ども相手の雑談と言うには随分固い内容ではあるが、ノルンは嬉しそうに聞いている。元の世界では、大学の文学部に所属していたユキヒトにとっても、なかなかに興味深い内容の話だった。

「その地方、他の地方からの金属が入って来る今はどうなっているんです?」

 横から、ユキヒトが口を出す。ホカゲは、振りかえってにこりと笑った。

「その地方の祭事に、今もその儀式的な鍛冶は残っています。また、鍛冶師が、貴族とまでは行きませんが、医師や教師と言った職業並のかなり高い社会的地位にある職業として認識されており、他の地方と比べて、インテリ階層がその職についている例が多く見られます。独自の加工技術が発達していますが、門外不出とされており、その品は希少価値がついてなかなかの値段で取引されています」

 すらすらと説明するホカゲ。どうやら、子ども相手のほか、自分の専門に関する内容であれば、人見知りの性質はいくらか姿を潜めるらしい。

「独自の加工技術か……興味深いですね」

「……実用的な鍛冶技術かと言うと、そう言う訳でもありませんので、貴方の仕事のお役に立つかと言うと少し疑問ですが……」

「そうですか」

 自分のせいではあるまいに、申し訳なさそうに言うホカゲがおかしくて、ユキヒトは笑った。

「いずれにせよ、貴女の依頼、しっかりと仕上げます。状態が気になるなら、いつでも訪ねて来てください」

 ユキヒトにとっても、重要な仕事になったこの依頼。普段の仕事から手を抜かないのが信条ではあるが、まして気合も入っている。力強く、ユキヒトは断言した。

「はい、分かりました。よろしくお願いします」

 それに対してホカゲは、はにかむように笑って、そう答えた。
























 尾行されている事に気付き、しかし彼女はそれを悟らせまいと、歩みを一切止めず、また視線も動かさなかった。

 心当たりはあり過ぎてどれだか分からない。とは言え、素直にやられてやるつもりも微塵もない。

 尾行者はおそらく二人。離れたところに分隊がいる可能性も否定できないが、とりあえずは間違いあるまい。

 ごく自然な動作で路地を一つ曲がり、そこで反転。刀に手をかける。

 問答無用で斬り殺す、と言う訳にはいかない。恨みは山の様に買っているし、恨み以外でつけ狙われる心当たりも大き過ぎる。それでも自分は、獣ではない。向かって来る者全てを食い殺していれば、それこそ己の死期を早めるのがオチだ。

 それでも、自分をつけまわす様なヒトが、まともな者でもあるまい。少しは痛い目を見てもらっても構わない。

「……」

 こんな姿、彼には見せられないなと考えて、手をかけた刀の下、もう一振り佩いた刀の柄を、そっと撫でる。

 時々、自分は既に発狂してしまっているのではないかと思う事がある。今の様に、ひどく暴力的で短絡的な解決方法を、さほどの躊躇もなく選択してしまえる様な時だ。

 そんな時に、彼が作った刀を撫でる。そうすることで、かろうじて、ヒトらしい自分を取り戻せるような気になる。

 時々それを、惨めに思う。彼の心はもう他の女の物で、その女は自分では敵わない素敵なヒトで、仕方ないと諦めている自分がいて、それでもすがってしまう自分がいる。それが、狂おしいほどに、見苦しい。

 こつりと、自分が先ほど曲がった角からヒトの靴音がして、思考を強制的に打ち切る。

「……ふっ!」

 だん、と、一歩を力強く踏み出し、同時に刀を抜き放ち、そのまま斬りつける。

「う、うわっ!?」

 思いのほかに若い声。そして動揺した様なその悲鳴とは裏腹に、俊敏な動きで、鞘に収まったままの剣で、彼女の抜き打ちを防ぎに来る。ぎぃん、と、鈍い音を立てて、彼女の刀は弾かれた。

 ちっ、と、短く舌打ちをする。そんな下品な仕草も、故郷を離れてから身につけてしまったものだ。

 素早く剣を引き、正眼に構える。尾行の技術から、それなりの技量はある相手だと言う事は分かっている。

「待った! ちょっと待った! 僕達は貴女の敵ではありません!」

「……」

 もう一人はまだ姿を見せていないにもかかわらず、僕達、と、複数であることを示唆する言葉を使う。確かに、敵意があればそんな事はするまいと思う反面、周到な罠である可能性も否定しきれない。

「と言うか、これ以上僕を攻撃しないでください! 貴女の安全を保証できません!」

「……?」

 何か不思議な事を言い出した、と思うと、彼の陰から人影が飛び出してくる。

「……!」

 その人影が、抜き身の剣を携えているのを見て、やはりそうかと、迎撃の為に人影の方へ向き直る。

「……ストーーーーーップ!」

 と、先に彼女の抜き打ちを防いだ方が、叫びながら彼女と新たな人影の真ん中に入り込む。

「……何をするの、ファル。この女は敵よ」

「待った! 斬りつけられた事は事実でも、このヒトはユキヒトさんに探すよう頼まれたヒトだ!」

「……ユキヒト?」

 意外な名が出て、彼女は正眼に構えた剣を、ついと下ろす。

「彼の知り合いなの?」

 短く、問いかける。まだ、自分の事をよく調べている刺客と言う可能性も、消えたわけではない。

「警戒心が恐ろしく強いから気をつけろ、って言われた通りですね……。シオリ・ヨイノマさん。ユキヒトさんからの依頼で、貴女を探していました」

 呼びかけられて、シオリは思わず、ユキヒトに作ってもらった銀の剣の鞘を撫で、それからもう一度気を引き締め直す。

「……ユキヒトの依頼で? では一体、何故私に斬りつけようとしてきたのかしら」

 流石に、彼が自分の暗殺を依頼するとは考えにくいし、考えたくもなかった。

「貴女が私の男に斬りつけるからよ。ユキヒトの依頼だろうと、関係ないわ」

「いや、そこは考慮しろよ! 僕達の仕事は信用が第一だろ!?」

 完全に憎しみの籠った目で睨みつけて来る斬りつけて来た方……女だと言う事には今気がついた……に、男の方が素早く突っ込みを入れる。

「プライドを守るか、仕事を辞めるかなら、私は迷わず仕事をやめるわ」

「恰好いいな! でもその場合僕がお前を養う事になるだけだからそっちを選ばないでくれ!」

「私ならこの仕事を辞めても、貴方を養えるくらいには稼げるわ」

「本当にそうなりそうで微妙に憂鬱だな!」

 突然、漫才の様な事を始める二人。なるほどこれはユキヒトの友人だろうと、ようやく少し警戒を解く。

「……分かった、分かったから、とりあえず貴方達、名前は?」

「僕はファルです」

「ブレンヒルトよ」

 意外なほど素直に、二人は名乗る。どうにも毒気を抜かれて、シオリは苦笑した。

「それで、ユキヒトが何故私を?」

「……僕達も、その理由は聞いていません。とにかく、探して、連れて来て欲しい、と」

「貴方達の様なヒトが刺客だと疑う訳ではないけど、ユキヒトの依頼だと言う事を示す証拠はあるかしら」

「直筆の手紙が。内容は、もちろん見ていないので何とも言えませんが」

 言って、封筒を差し出してくる。シオリはそれを、警戒心は解かないままに受け取り、中から便箋を引っ張り出す。

 少し癖のある、しかし読みやすい、シオリの知る彼の文字が飛び込んで来て、それだけで嬉しくなってしまう事を自覚しながら、シオリは手紙を読み始めた。

『シオリさんへ

 久しぶり。もう、店を移した事は知ってくれているかな? 前の工房にはそう書いた看板を立てておいたのだけれど。今は、ベルミステンに戻って、親父さん……ノルンの父親がやっていた工房のあった場所で、新しく開店している。

 話は二人から聞いてもらえただろうか。といっても、二人にもシオリさんを探して連れて来てくれと依頼しただけだから、それ以上の事は何も分からないとは思うけれど。

 とても重要な用事がある。内容は直接伝えたいからここには書けないけれど、ベルミステンの工房まで来て欲しい。仕事もあるとは思うけれど、なるべく早く。

 一方的で本当に申し訳ない。どうか、よろしく。                          行人』

 読み終わり、便箋を元通り折りたたんで、封筒の中に戻す。それから、ふっと、苦笑と冷笑の中間のような笑みを浮かべる。

「随分一方的な事が書いてあったわ」

「へぇ、珍しい。依頼の仕方もなんだか妙に急いでいた様子でしたし、よっぽどの事なんでしょうね」

 お陰で依頼料がちょっと吹っかけ気味でした、などと呟いて呑気に笑っているこの男は、なるほど裏表が小さくて使い勝手がよかろう。

 さてどうするか、と僅かに悩む。

 彼の呼び出しであれば、確かに応じたいし、応じるべきであろうとも思う。しかしながら自分の体質を考えた時、ベルミステンのような大きな街に赴く事には、恐怖がある。街中で『死霊』を呼び寄せてしまった場合、全てを即座に処理できるか分からない。

 ベルミステンの英雄、ヴァレリアと懇意にしている彼ではあるが、だからこそ、『死霊憑き』を街中に招いた事が発覚すれば、難しい立場に置かれよう。ユキヒトも、頭の回転の鈍い男ではない。それが分かっていない訳ではないだろう。とすれば、そのリスクを考えてもまだ伝えたい、それも手紙ではなく直接伝えたいほどの重要な用事ということか。

「……貴方達、退魔の心得は?」

「冒険者ですので、まあ、一通りと言ったところです」

「ユキヒトにも困ったね。私のプライバシーを尊重してくれたのはありがたいけれど、正直、貴方達、依頼を引き受けるのに必要な情報を十分提供されていないよ」

 ここまでの様子から、自分が『死霊憑き』だと知らされていないと判断して、シオリは自嘲するように笑った。

「私は『死霊憑き』だけど、それでも、私をユキヒトのところへ連れて行く?」

「あらそう。私の予想通りね」

 覚悟を持って告げたシオリに、あっさりとブレンヒルトは言った。その言葉に、思わずシオリは硬直した。

「いや、百個くらいはあげた予想の内一つに入っていたっていうのを、予想通りって言うのはどうなんだよ」

「予想の中に入っていたのは事実でしょう」

 遠慮がちに告げるファルに対して、堂々とブレンヒルトが答える。あっけに取られていると、二人はこちらを向き直って、笑った。

「ユキヒトさんが言うんですよ。『恐らく帰り道はとても危険になる。理由は話せない』ってね。馬鹿じゃないでしょうかね、あのヒト。そんなこと言われて、普通、引き受けますか?」

「……現に貴方達は、引き受けたみたいだけど」

「つまり僕達は馬鹿って事です。って誰がですか! 失礼な!」

 勝手に自分を貶したかと思えばすぐさま憤慨し始める不思議な生物を、シオリはまじまじと眺めた。

「彼の持病なの。見なかったふりをしてもらえると助かるわ」

「……そう」

「おい、勝手にヒトを奇病の患者にするんじゃない!」

「分かっているわ、大丈夫よ」

「やめろ、そんなに優しい目をするんじゃない! 本当に病気になったような気になるから!」

「それで、何故貴方達はそんなに怪しい依頼を受けたのかしら」

 どうにも真面目な空気を保つのが難しい相手だ。シオリは話を元に戻そうと、ぎゃあぎゃあと騒ぐファルをいったん無視した。

「そりゃあ、ユキヒトさんの依頼だからですよ」

 すると、今この瞬間まで妙なテンションで騒ぎまわっていたファルから、こともなげにあっさりとそんな答えが返ってくる。

 その答えにたじろいで、思わず口を閉ざし、ファルの顔をじろじろと見る。

「ヒトの男の顔をそんなにじろじろ見ないでくれる?」

「いや、明らかにそう言う意味の視線じゃないから! 無駄な喧嘩を売らないでくれ、頼むから!」

「大丈夫、私、背が低くて童顔の男に興味はないの」

「なんとぉー!?」

 どうにも、この二人との会話は、良く脱線するが、それに一度は乗ってやらないとなかなか前にも進まない。少しずつ分かってきて、軽く会話に乗ってやる。内容は事実ではあるが。

「で、ユキヒトの依頼だから、って、何故それが理由になるの?」

「……あのヒトは、ああいうヒトですから。僕達が断ったら、もう、引き受ける人なんていないでしょうね。不都合な何かを隠して依頼とか、そう言う事が出来ないヒトです。僕達の仕事っていうのは、そう言うのを見抜くところも含めてだっていうのに」

「頭が悪くはなさそうなのに、馬鹿正直で危なっかしいと言うか……。助けてあげなきゃいけない様な気になるのよ、あのヒトは」

「……そう」

 どうやら彼らも、ユキヒトに魅かれた類のヒトであるらしい。彼の善意は、時に向けられた方が困惑するほどに、純粋だ。良家の箱入り娘を想起させることすらある。余程善意に満ち溢れた環境で生きて来たのか、とも思うが、本人は極々一般的な庶民の出だと言う。

 良く分からないところもあるが、基本的に善人で、真面目だ。だから自分も、つい、甘えたくなってしまう。

「いいわ、私をベルミステンに連れて行って」

















 ファルから、シオリの発見を連絡されたのは、依頼から一月経つまであと三日、と言うタイミングだった。

 きっちりと満額の依頼料になる期間に収めてくる二人は、流石と言うべきだろう。

 ホカゲの依頼の剣は、なかなか難しい合金を使っている事もあって、まだ仕上がってはいない。しかし、最終段階までは進んでいる。

 初めは金属の塊に過ぎなかったものが、今となっては立派に刀剣の形になっている。

 刀の形に打ち延ばす『素延べ』。ここでの形が、最後の刀の形を決める。焼き入れの際の反りを考慮し、形を仕上げる。刀の素材は初めて扱う合金ではあるが、反りの程度の目安はホカゲに教えられている。

 余り大きくは反り過ぎないように、との依頼だ。かと言ってまっすぐでもなく、緩やかにカーブを描く様にして欲しい、と。

 儀式用の剣だけに、見た目の美しさには気を使って欲しいとのことだ。ホカゲと、そしてシオリのイメージを頭に浮かべつつ、ユキヒトは形を慎重に決めて行った。

 刃の側を薄く叩きのばし、続いて峯側の形も整えて行く。歪みは許されない。一鎚ごとに、力の加減を間違えないように、ただ手元に全ての神経を集中させる。

 形が整ったところで刀身全体を加熱。そして冷却して『火造り』の工程が終わる。

 冷えたところで黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、また小槌で叩いて棟と刃の直線の修正を行う。専用の大振りなかんなで凹凸を削って、『空締め』の完了だ。

 かんなの削り跡を砥石で砥ぎ下とす『生砥ぎ』を経て、水を含む藁灰で油脂分を落とし、そして乾燥。ここまでは、既に終わっている。

 今日は、『土置き』と『焼き入れ』を行う予定だ。この工程が終われば、あとは仕上げの段階へと進む事になる。

 形を仕上げた刀に、粘土、砥石の粉、炭の粉を混ぜた焼場土を盛っていく。均一に盛らなければ、均一の焼は入らない。丁寧に焼場土を盛りつけ、伸ばす。

 思い通りに土をおけた事を確認し、大きく息をつく。窓の外を見れば、日は暮れている。ユキヒトは、室内の明かりを全て消した。

 鋼は、ある温度以上から急激に冷やされる事によって、強度を増す。その性質を利用して、剣を熱し、水で急激に冷やす事で剣の強度を高める工程を『焼き入れ』という。その際に、剣の反りが生まれる。ここまでの工程にどこか不備があれば、また、温度の見極めを誤れば、それだけで全てが台無しになる、最も難しいとされる工程だ。刀身の温度は、熱せられた刀身の色を見て判断する。その為に、焼き入れの際には、部屋を暗くするのが普通だ。

 単に熱するだけではない。刀身全てを、均等の温度にしなければならない。炭の中に入れ、熱しては引き出し、刀身の確認をして再び熱する。

 赤くなった刀身は、やがて、白に近い輝きを発するようになる。その色が、全体に満遍なく広がるまで、じっくりと熱し続ける。

 刀身全てが輝いて、その時が来る。ユキヒトは、ためらわず、その刀身を水へと落とす。

 じゅううううううう、と音を立てて、水が急激に沸騰する。この用意した水の温度は、鍛冶師が弟子にすら明かさない、まさに焼き入れの肝となる部分だ。ユキヒト自身、こればかりはオルトから教わったのではなく、自らの経験と、彼だけが聞く事のできる『金属の声』から割り出した、独自の技術、鍛冶の要だ。

 水の中で急激に冷える刀身が、緩やかに反っていく。それは優美な、どこか女性的ですらある曲線だった。

「……」

 なおも蒸気を発する水を見つめ、刀身が十分に冷やされるのを待つ。鍛冶の成否を左右するその瞬間も、やがて終りを告げ、ユキヒトは水の中から刀身をゆっくりと引きだした。

 ここからの工程は、基本的に仕上げの工程だ。刀の出来の大半は、もはや決まったと言って良い。

「お疲れさまでした」

 いつからそこにいたのか、ホカゲが声をかけてくる。例によって、工房の中に『出現』したのだろう。

「工房内に直接現れるのはなるべく控えてください。驚くし、何度も続くとノルンが不審に思います」

「え、ああ……えと……はい、ごめんなさい」

 それほど強く言ったつもりはないのだが、かぁっと赤くなって、ホカゲは答える。

「……それで、そこで見ていて、出来はどうですか?」

「はい。とても良いです。これが、私の神体になるんですね……」

 うっとりとした目つきで、ホカゲはその刀を眺めた。どこか、気恥ずかしくなってくるような視線だった。

「後は、シオリさんという方を待てばいいんですね」

「依頼をした冒険者が見つけたようですから、今この街に向かっています。到着までに仕上げないといけないですね」

「はい。よろしくお願いします」

 この刀は、今までの仕事の中でも五本の指に入る仕上がりだと感じる。このところはしばらく、ひたすらこの刀にだけ打ちこんでいた、その甲斐があった。

「……無事に、ここまで到着してくれよ……」

 シオリの『死霊憑き』について、二人に説明をするかどうかは、最後まで迷って、結局できなかった。二人がそれで怯むとは思わなかったが、シオリとしては自分のいないところでその情報を広められるのは不本意だろう。そっちを優先してしまった。

 その判断が正しかったか、それは今も分からない。その判断の為に、二人を余分な危険にさらした可能性もある。それを思うと、心苦しい。

 ただ、三人が無事にこの街につく事を、ユキヒトは祈った。


















 暦の上では、春が近付いている。

 しかしまだ、風は冷たい。突然暖かい日が来たかと思えば、翌日はまた急激に寒くなる。それの繰り返しで、いつしか春は訪れる。

 故郷では、気の早いヒト達が今年の桜の開花時期について口にし始めている頃だろうか。あの美しい花を、シオリはもうしばらく見ていない。

 もう二度と帰れない故郷。今更それを、改めて思い出して感傷的になるのも、少し違う気がする。

 果して彼は、自分に一体何の用だろう。分からないが、楽しみでもある。自分を『死霊憑き』だと知って、なおも疎まずに付き合ってくれるヒトなど、そう多くはない。今となっては、友人と呼べる数少ないヒトの一人だ。

 今やベルミステンの街の中。『死霊憑き』が発覚してからは、滅多に近寄らなかった街中だ。緊張はある。今も、自分を探しに来た冒険者の二人、ファルとブレンヒルトに付き添われてはいるが、いつ死霊を呼び出してしまうかと、気が気ではない。

 時刻は真夜中。夜は妖の時間。死霊も出現しやすい時間ではある。しかし、ヒトが出歩かない時間でもある。

 考え方としては二通りだった。死霊は現れにくいが、現れればまず間違いなく目撃される昼間にユキヒトの元を訪れるか、死霊は現れやすいが、素早く処理できれば人目にはつきにくい夜に行くか。

 冒険者二人とも相談をしたが、結局、昼に死霊が現れてしまえばもはや致命的で取り返し様がないという点を重視し、夜の移動となった。

 暗がりから暗がりへ、人目を避けて、こそこそと。時々虚しさに襲われるが、自分にはそれが相応しいとも思う。思えば、自慢だった長い黒髪を、前回思う存分に梳いたのはいつだっただろう? 艶やかさも失われてしまったし、傷みも激しい。

 溜息が出そうになる。以前は、この髪の手入れに、一日に一時間は使っていたように思う。今は、そんな暇があれば、体を休めるか刀の手入れでもしている。

 いけないな、と、自分を戒める。普段はもうすっかり気にしなくなったそんな事が気になるのは、これから彼に会うからだ。

 彼はもう他の女性と心を通わせている。横恋慕は惨めでしかない。しかしもし、彼女と自分が、対等の立場であれば、自分はこんなに簡単に諦めただろうか、とも思う。

 本来それほど気の弱い方ではない。奪ってやるとまでは思わないにしろ、そんなにあっさりと負けを認めもしなかったのではないかと思う。

 一つ、溜息をつく。これ以上は、詮無い事だ。どうあれ、『死霊憑き』であるのが自分。そうでない自分を空想するのは、楽しい事かも知れないが、建設的な事ではない。

「そろそろですよ」

「そう。ありがとう」

 先導してくれるファルが告げてくるのに、極力平然を装って返事する。意味はないが、意地だ。

 やがて、一つの家に辿り着く。その瞬間、シオリはまたも溜息をついた。

 あの山奥の工房にそっくりだ。……いや、彼の経歴を思うなら、あの山奥の工房が、この家にそっくりなのだろう。正確には、焼け落ちる前、ここに建っていたであろう家と。

 このところは新規の顧客も大幅に増えたようだが、山奥の工房時代、彼の顧客の多くは、彼の師から引き継いだ者と、その紹介だったと聞く。自分は、珍しく、評判を聞きつけて訪ねたという口だ。

 穏やかで、しかしどこか空虚な男だった。とんでもなく親切だったかと思うと、迷子になって途方に暮れる子どものように見える時もあった。初めは多分、その、空虚さに心が引かれた。自分自身、とんでもないほどの空虚を抱えているから、何かが共感できるような、そんな気がした。

 初めて訪れたのは、退魔用の純銀ではない、普通の刀を依頼する為だった。彼は、得意な剣術や魔法の使用の有無といった基本的な事の他、様々な事を尋ねて来た。自分の根幹をなす部分、どこで生まれ、どこで育ち、何を是とし、何を否とし、何を喜び、何を悲しみ、どうやって生きて来たのか。そう言った事だ。

 後になって聞いたところによれば、飛び込みの客にそこまでするのは稀だと言う事だった。彼も、自分に、何かただならぬものを感じたのだ、と。

 『死霊憑き』の事を明かすつもりはなかった。初めは面倒を避けるため、やがては、彼に嫌われる事を恐れて、だ。

 自分が『死霊憑き』になってから、それほどに深い交流をした相手は、初めてだった。だから、つい、彼の工房に入り浸り過ぎた。

 初めて彼の工房で死霊を召喚してしまったとき、これで全てが終わりだと目の前が真っ暗になる様な気持ちと、何を普通のヒトになったつもりだったと自嘲する気持ちで、胸がいっぱいになったのを覚えている。

 無駄と思いながら謝罪した自分に、彼は怒るではなく、心配と同情をした。独りで生きて行くのは辛いのではないか、と。

「……お人よし」

「え?」

「何でもないよ、独り言」

 この扉をくぐったところは、おそらく、注文受け付けの為のカウンターがある部屋になっているのだろう。そこに彼がいる。その事に歓喜と、絶望を感じる。

 手を伸ばしても届かない葡萄を、それでも酸っぱいと思えない狐。それが自分だ。

 手をあげ、こんこん、と、ノックをする。

「どうぞ」

 彼の声が、そう促す。それに導かれるように、シオリはドアを開けた。

 正面、カウンターの向こうに、彼が座っている。つい、と、唇の端を持ちあげて笑う。明るい笑顔ではない。どちらかと言えば皮肉げな表情になっているだろう。それでも今はそれが、精いっぱいの笑顔だ。

「お久しぶり。こんな街中で私に一体、何の用?」
















「お久しぶり。こんな街中で私に一体、何の用?」

 皮肉な笑顔を浮かべながら、彼女はそう言った。会うたびに、彼女の表情には疲れの色が濃くなっていく。それでも、かろうじて間に合った。その事にユキヒトは安堵した。

「ファル、ブレンヒルト、ありがとう」

「書類が整ったら連絡しますから、報酬をお願いします」

「ああ、もちろん」

 二人は、幼いながらに流石はプロだ。余計な詮索はせず、さっさといなくなった。それを見届けて、改めて、ユキヒトはシオリと向き合った。

「急に呼び出してごめん、大切な用事がある」

「何? 結婚が決まったから式に招待したい、とか言われたら、流石に怒るけど」

「……そう言う用事じゃないかな」

 彼女なりの冗談なのかもしれないが、余り笑えない。

「君に、巫女をやってもらいたいんだ」

「……え?」

 しばらくぽかんとした後、シオリは急激に目を吊り上げた。

「面白くないし、不愉快」

 本気で怒っている。それがはっきり分かる、今までに聞いた事もないほどにきつい物言いだった。

「冗談じゃない。本気で言ってるんだ」

「『死霊憑き』が一か所に留まれる訳ないでしょ。それは、私だって、そう出来たら、どんなに素敵かと思うけれど」

「この前、神様に刀の作製を依頼された」

「……は?」

 何を言っているんだ、と言う、呆れた目で見られる。少しひるみそうになるが、ユキヒトは言葉を続けた。

「その神様は、お金は払えないっていうけど、神殿の周りを聖域化できると言ってて……。だから俺は、『死霊憑き』をその聖域に匿って、死霊を寄せ付けない事はできるか聞いた。その神様は、出来る、って……」

 焦るあまり、あまり上手い説明にはなっていない。シオリの目からは、段々と怒りは消えて行き、代わりに、憐みの色が浮かんできた。

「……刀、もう渡しちゃった? その『神様』に」

「いや、まだだけど……」

「そう、良かった。……ユキヒトは、あまりそう言うの、引っかからないかなって思ってたけど」

「……あ、あの、その、詐欺じゃないです……」

「!?」

 突然後ろから声を掛けられて、シオリは驚愕の表情で、刀に手をかけつつ振りかえった。

「わ、わ、その、あ、危ないですから、刀は……!」

「……貴女、誰。私の後ろを取るなんて……!」

 本気で警戒した声で、今にも斬りかかりそうな顔をしてシオリが言う。それに対して、突如シオリの背後に出現したホカゲは、わたわたと手を左右に振って、敵意がない事を示そうとしている。

「……ホカゲさま。だから、急に出現するのはやめてくださいと、何回も言っているのに……」

「ご、ごめんなさい……。詐欺師だって疑われてたみたいだったので、慌てて、つい……」

「この方が、アメノホカゲヒメさま。ご町内の家内安全と鍛冶を司る神様だそうだ」

「……どんなトリックを使ったの? 部屋の中にはユキヒトしかいなかったし、その後、ファルとブレンヒルトが出て行って、扉を閉めた。隠れる場所なんてないし、あったとしてもそこから出て来た時に私が気配に気づかないわけがない」

「わ、私は、神ですので……肉体は仮初の物に過ぎません。本体は魔力です。ただ、魔力のままでは貴方に何かを伝える事もできませんので、肉体を構成して降臨したのです」

「訳の分からない事を……」

 刀に掛けた手に力が入る。今にも抜き放ちそうな気配に、慌ててユキヒトは割って入った。

「待った! 疑うのも無理はない! 確かに怪しい、それは分かる!」

「あ、怪しいって……」

 ホカゲが遠慮がちに不満を表明するが、それに構ってはいられない。ユキヒトは言葉を続けた。

「でも、彼女の鍛冶の知識は本物だった。彼女の依頼に基づいて、彼女の助言を受けて打ったのが、この刀だ」

 ユキヒトはシンプルな黒い鞘に収まった刀を差し出す。シオリは、警戒心を全く隠さない目でホカゲを見据えながら、それを受け取る。

「……!」

 それを抜き、刀身を目にした途端、シオリは目を見開く。

「……ヒヒイロカネ……」

 一目でその刀身に使われている金属の正体を見抜くと、刀身に指を這わせる。

「信じられない……加工方法は特定の鍛冶師だけに伝わる秘伝なのに……」

「少しは、信じてくれる気になりましたか?」

「……いいえ、ヒヒイロカネの加工方法を知っていたことと、妙な魔法を使うのは事実かもしれないけれど、それを以って神様とは言えるかどうか分からない」

「では、何を以って、私の神たる証明としましょうか?」

 少しずつ慣れて来たのか、ホカゲの態度がゆったりとし始める。そのホカゲに疑わしげな目を向けたまま、シオリは刀を鞘に納め直し、それを突き出した。

「鍛冶の神だと言うのなら、この刀に祝福を与えてみなさい。私だって、かつては神に仕えていた身、それを見れば、真贋の区別はつくつもり」

「分かりました、良いでしょう」

 ホカゲは答えると、刀を受け取り、両手で持つと、そっと目を閉じた。

 余分な力などどこにも入っていない様な、自然体の姿勢。それでいて背筋はすっと伸び、凛々しい印象を与えてくる。

 ふわり、と、ホカゲが浮いた。シオリは目を見開いた。

 宙に浮く魔法が、ありえないとは言わない。しかし、こんなにも自然に、何の無理もなく地面から離れる、そんな魔法は、想像がつかなかった。

 ホカゲが薄く眼を開く。閉じているか開いているか、それも曖昧なほどの薄目で、良く見れば微笑んでいると取れなくもないほどに微かに口角をあげ、どこか恍惚としたような表情だった。

「この刀に、ふさわしきもの宿れ」

 歌うような声で、ホカゲは言った。 

 突如、光が室内を満たす。そのまばゆさに、シオリは思わず目をそむけた。

 一瞬後、光は収まった。浮いたのはただの錯覚だと言わんばかりに、ホカゲは地面に立ち、シオリに向けて刀を捧げるように差し出していた。

「どうぞ、確認してください」

「……」

 今更必要はないと感じながらも、シオリはその刀を手に取り、抜いた。

 材質は先程までと同じ、仕上がりもユキヒトの作だけあって上々。しかし、先程までとは、決定的に違うほどの清々しい魔力に満ち溢れている。

「認める。認めるわよ。確かにあなたは鍛冶の神様みたいだね」

「そうか、じゃあ……!」

「ただ、一つ、確認させて欲しい事がある」

 珍しく、前のめりになるユキヒトに、シオリは制止をかける。

「確認?」

「……少し、そこの神様と二人で話したいの。ユキヒトは少し、出て行ってもらっても良いかしら?」
























「……さて」

 ユキヒトが出て行った部屋で、シオリはホカゲと向かい合った。

「私に、何か?」

 余裕のある表情は崩さないまま、ホカゲはシオリに問いかけた。

「そうね、話をしたい事があるわ」

「何でしょう?」

「貴女の正体について」

 きっぱりと断じる。ホカゲは、特にひるむでもなく、ただ、すっと背筋を伸ばした。

「……穏当な言葉づかいではありませんね」

「かも知れない。まあ、別にそれほど不穏な話をするつもりはないけれど……」

「私の正体と言いますと?」

「正体……と言うよりは、由来、もしくは縁起とでも言うべきかしら。それについて、私なりの推測がある」

 シオリは、ホカゲの目をじっと見た。気の弱い者ならば、睨みつけられているとすら感じたかもしれない鋭い視線を、ホカゲは涼しい顔で受け流した。

「貴女は、どうにも、不自然すぎる」

「不自然……ですか」

「もしくは、こう言った方が良いかな。都合が良過ぎる」

「……」

 不穏な話をするつもりはないと言いながら、追及する様に言うシオリに対して、やはり、ホカゲに動揺はない。ただ、そのほっそりとした右手人差し指の指先を、思案するように顎にあてた。

「都合が良い。神と言うのはそもそも、そんなものではありませんか? ヒトの願いをかなえるという側面がある以上、都合の良い部分があるのは当たり前ではありませんか?」

「確かにそうだと思う。でも、余りに、特定の人間にとって都合が良い存在ね、貴女は」

「特定の人間と言うと?」

 シオリはここに来て初めて、躊躇うように言葉を切る。しばらく思案するそぶりを見せ、それから、意を決したように顔をあげ、その名前を告げた。

「……ノルン」

 ホカゲは、曖昧な微笑みのまま、肯定も否定もせず、それを指摘したシオリと正対した。

 両者は言葉を発しない。ただ、黙って見つめ合う。しんと、張り詰めたような沈黙が、その場を支配していた。

 やがて先に口を開いたのは、シオリだった。

「家内安全。鍛冶への加護。そして、『死霊憑き』の救済。これが、ノルンの願いでなくて、一体何なの?」

「はっきりと仰ってください。貴女の推測を」

「貴女は、ノルンが生み出した神。違う?」

「……」

「元々、あの子は……信仰心はあっても、既存の神様をあまり信用していなかったのではないかと思うの。……生まれながらに母と視力を奪われた。成長してからも健康を得る事はなく、一人では生きて行くこともままならない脆弱な存在のまま。それでも愛を持って守ってくれていた父親までも、殺されてしまった。もしも神様と言うものがあるのなら、あの子はそれを、恨んでいてすらおかしくない」

「そうかもしれませんね」

「それでもあの子は、恨まないし、僻まない。信仰心も捨てない。彼女にとって、生きて行くと言う事は、何かを頼ると言う事だから」

 痛ましい、と言う表情を見せて、しかしシオリは言葉を続ける。

「信じる神様はいなくとも、信仰心を捨てられないのなら、もう、自分で神様を生み出すしかない。そうして生み出されたのが貴女。以上が、私の推測よ」

「……なるほど」

「違う?」

 曖昧な誤魔化しは許さない、とばかりに、睨みつけるようにシオリがホカゲを見つめる。ホカゲは、しばし思案するような表情を見せた後、一つ溜息をついた。

「おおよそ、間違ってはいません」

「どこが間違ってた?」

「ほぼ正解と言って問題ありませんが、流石に、ノルンだけによって生み出された存在ではありません。ノルンの思いと、無意識に放出された魔力を核とし、この町内で平穏を願う住民たちの祈り、それが私を形作りました」

「……そう」

 その程度は、誤差の範囲内だろう。推測はほぼ正確だった。

「それを確認して、どうします?」

「別に。知りたかっただけ。……あの子は、何で、自分ではなくて、私を救済する神様を願ったんだろう」

 ひとり言のように呟くシオリに、ホカゲは答えない。

「……」

 しばらくの沈黙があり、やがてシオリは、厳かに跪いた。

「……アメノホカゲヒメ様」

「はい」

「巫女の役割、謹んでお受けいたします。ただし、一つ、約束を」

「何でしょうか」

「……私が貴女への信仰を集め、貴女の力が増した暁には、どうか、貴方を生み出した彼女にも、救いの手を」

「神として、約束しましょう」

「……」

 しばらくの沈黙の後、ありがとう、と、小さくシオリは呟いた。

 誰に向けられたかはっきりとしないその言葉は、空中に溶けて、やがて消えた。






















 シオリの行動は迅速だった。

 カイスト教系の神アメノホカゲヒメを祀る宗教として行政に申告、許可を得ると、傭兵時代に蓄えたと言うかなりの金を全て吐き出し、それでも足りないと見るや二振りの刀……今やベルミステンで最も有名な鍛冶師であるユキヒトの、希少なベルミステンに居を構える前の作、それも特注の魔法陣入り……を躊躇なく担保に差し出して金を借り、即座に神社の建設を開始した。

「本当はご神体も担保に入れようかと思ったんだけどね、ホカゲ様が泣いて止めるから」

「そりゃそうだろう」

 ユキヒトは、苦笑しながら答えた。ホカゲからすれば、依代である神体を担保に入れられるなど、身売りも同然だろう。自分に仕える筈の巫女がそんな暴挙に及ぼうとすれば、それは泣きもするはずだ。

 今は、ヴァレリアを伴って、シオリを含む三人で、建築中の神社を見守っている。

「土地にもいろいろ条件があるから、それなりに費用が出て行くのよ。大きくするつもりだから周りの土地を買える様な場所が良いし、方角とか、魔力的な安定性とか、大体加護してるのがユキヒトの町内なんだからあんまり離れた場所っていう訳にもいかないし」

「そうか」

 随分と生き生きとしている。期待していた通りだったが、こうも上手くいくとは思っていなかった。

「……それで、ホカゲさまと、あの日何の話をしていたんだ?」

「内緒。女同士の話を聞き出そうだなんて、ユキヒト、それはやめておいた方が良いよ」

「……」

 気になることと言えば、この様に、彼女が巫女を引き受ける様になった経緯を確認しようとするとはぐらかされてしまう事だ。

「良いのではないですか。どうあれ、彼女が平穏を手に入れた事には違いありません」

 今日は同行しているヴァレリアが、微笑みを浮かべて言う。それを横目に、シオリはにこりと笑った。

「そう言えばユキヒト、ご寄進ありがとう。信徒第一号だね」

 何故か目が笑っていない。その事実に気付いたユキヒトは、何とはなしに冷たい汗が背を流れるのを感じつつ、極力自然な笑顔を心がけつつ、答えた。

「……そりゃあまあ、ホカゲさまの加護も受けてる訳だしね。効果のほどはイマイチ実感しにくいけど」

「ご神体も寄進として奉納してもらったって扱いになってるし、本当に感謝してる」

 だったらどうか、横目でヴァレリアをちらちらと見ながら言うのをやめてもらえないだろうか、とは言えず、ユキヒトはできの悪い彫像のように固まった。

「……そろそろ行きましょうか、ユキヒト。ノルンを私の家においてきていますので、気になります。今日は夕食でも食べて行ってください」

「……あ、ああ、うん、そうさせてもらおうかな……」

 ヴァレリアはヴァレリアで、どうも穏やかならぬものを感じさせる声色になっている。シオリの態度を、挑発ととらえているようだ。

「嫉妬深い女からは、男は逃げて行くものよ」

「ご忠告どうも。策を弄する女も、男は好まないと聞きます」

「ふふ。何の事?」

 お互いに笑顔だが、どう考えても和やかな雰囲気とは言いかねる。

 会わせるのは初めてだが、どうやらこの二人、相性が良くなかったらしいと、ユキヒトは頭を抱えた。































天におわしまさぬ神へ なべて事も無き世に平穏を 行人
























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