<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[7433] 華琳さま Level1 (真・恋姫†無双 再構成)
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2010/04/16 19:59
 こんなエピソードがあります。

 とある少年が、ある作家に今まで読んだ中で一番面白かったのは、吉川英治の三國志だ、という葉書をだしたところ、『三國志は元が面白いんじゃボケ。吉川の手柄じゃねえ』という答えが返ってきたそうです。

 ですよねー。

 というわけでして、これから始まるお話が面白くなかったら、それは素材が悪いんじゃなくって100パーセント作者のせいです。いやまあ、よく考えたらこれって、すべての二次創作に当てはまりそうなお話ですけどね。
 
 今回、恋姫の二次創作を書くということで。

 いろいろ悩みました。
 最初は講釈氏とかの形態をとって、最後に『講釈氏(パーソナリティ)は天海春香でした。続きは次回の講釈で──』とかやろうかと思ったのですけど、アイマスと恋姫はファンがかぶってないなということであえなくボツに。
 


 こほんっ。
 というわけで、恋姫の魏ルートをクリアした時点で、自分が一番読みたかったものを書くことにしました。

 よって、これは普通の男の子と、寂しがりで泣き虫なおひめさまの物語です。

 一言で言うと、曹操が無能、というおはなしです。




 ちゃんと調べて書いてますが、間違いとかあったら指摘おねがいします。





[7433] 一刀、華琳に無理難題を押しつけられる、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:52

 アーチェリーのフライト競技(矢をどれだけ遠くに放てるかを競う)におけるワールドレコードは、実に800Mを遙かに越すらしい。合金から削りだした弓と、カーボン製の矢、安定装置と照準装置、クリッカー等々、職人の研鑽と、現代技術を発達が、それだけの限界飛距離を実現したのだろう。
 

 むろん。俺の持っている弓は、そこらにある木から削りだした粗末なものだった。目算で計ったところによると、どんな熟練者がもっても、この弓の限界飛距離は、約60Mといったところか。
 それも60Mという距離はあくまで、矢の届く距離というだけで、実戦で人を射殺すには、まったくもって力が足りない。
 矢が、俺の手から離れてから──皮の鎧を貫き、相手兵士に致命傷を与えられるだけの貫通力を維持できる距離は、たかだが20Mが限度だった。


 三国志最強の武将である呂布が、自分の城の外壁から、曹操の幕舎の矢を射かけたというエピソードがある。たしか北方センセーの小説だったか。その時の距離は、およそ200M。特大の長弓から放たれた矢は、狙いを過たずに、曹操本人の横にあった、鎧に突き刺さったとされる。

 で。

 呂布が、おれは今、お前を殺すことができた。命を貸しにした代わりに、ひとつ願い事をきいてもらいたい、という問いを、曹操にするわけだった。これはまあよくある誇張に誇張を加えられた創作として、置いておくことにする。
 まあ、それはいい。
 例外中の例外をそのまま目標にするわけにもいかない。


 この時代における弓矢の射程範囲は、この距離だ。
 一般の兵士レベルが敵の鎧を貫ける距離は、やはり20Mが限度である。ここからは距離を伸ばすことは考えず、動く目標にどう当てるのかを考えた方がいい。

 もう一度、スタンスを取り直す。
 目標に向けて弦を引いた。

 ──重い。
 当然だ。この動作で、ともすれば人の命が消える。
 仮に、これが人の命の重さであるというのなら、もっと重くてもいい。

 この世界に放りこまれてから、剣と弓の修練は欠かしてはいないが、今でも日が暮れる頃には、両腕とそれに連なる筋肉が棒のようになる。










 

 うちの県の刺史(現在でいう行政長官)が、黒騎兵という私設の親衛隊をつくったことで、そのための軍馬が大量に必要になった。なお、その黒騎兵というのは、見目麗しい女性しか入れない曹操様ファンクラブである。大陸中から(無駄に)精鋭を揃えたらしく、(無駄に)大陸最強との呼び声も高い。

 はぁ、うらやましい。

 こっちは、日が昇ってから暮れるまで、ひたすら軍馬の世話だった。馬に糧秣を与えるのだって、立派に軍の役にたっていると頭領は言うが、こればかりやって一生を終えるわけにはいかない。この国で、曹孟徳の名は隅々まで轟いている。そこに仕官できるのなら、元の世界に戻るための手がかりのひとつも見つかるかもしれない。

「よう、一刀。精がでるな」
「あ、頭領。すみません、仕事を放りだして」
「いや、お前だけじゃない。昨日から、うちの若いのは、みんな仕事なんてしやしない。どいつもこいつも、剣やら矛やら斧やらを担ぎ出して、兵士の真似事だ。馬糞にまみれて生きるなんて、今の若いのには退屈なんだろうなぁ」

 頭領が、愚痴をこぼす。
 いい人なのだ。基本的に。そこいらの山賊が尻尾を撒いて逃げ出すぐらいの悪人顔だけど。しかし、たしかに否定できない。巷で話題になっている天の御使いでなくても、人はなにかの使命をもって、生まれてきたのだと思う。
 この世界に腰を落ち着けて、三ヶ月になるが、俺は最近、そう思うようになってきた。
 
 記憶喪失で行き倒れていた俺を助けてくれて、こうして軍馬の世話という仕事まで与えてくれている。ここで、身よりのない自分にとっての、家族のようなものだった。この人に助けられなければ、そこらに跋扈する盗賊に殺されているか、のたれ死にしていた可能性もある。感謝など、いくらしても足りない。

 けれど──

 俺は、この人たちに嘘をついている。記憶はそのままだ。この世界に放り出された直後以外、記憶はなにひとつ欠落していない。

 俺の名は、北郷一刀。

 この世界のひとたちが、当たり前に持っているような字は、ない。実家は鹿児島。今年、十七歳になった。日本で普通に日常を送る、どこにでもいるような、聖フランチェスカ学院の二年生。人に誇れる特技といえば、爺さんから教わった剣の扱い方ぐらい。朝起きて、学校に行って、いつも通りの授業を受けて──、そして、また当たり前の日常を過ごしていくと、なんの根拠もなく、そう信じていた。なにもかもが変わってしまう、三ヶ月前まで──


 目を開けると、見覚えのない景色が広がっていたあの日から。
 おれの運命は、変わってしまった。



 もう一度、繰り返す。

 おれの名前は、北郷一刀。
 十七歳。
 所属クラブは剣道部。 







 そして──この三国志の世界に放り込まれた、たったひとりの、異邦人だった。



















 陳留一武道会開催のお知らせ。(飛び入り歓迎)

 先日、そう書かれた高札が、陳留の四隅の門に立てられた。この陳留で武道大会を行うということで、ルールやら参加資格が書き連ねてある。目覚ましい活躍をしたものには、賞金が与えられた上に、隊長並みの給料で、兵士として取り立ててもらえる。さらに優勝したものには、客将としての地位まで約束されるという。

 当然のように高札の前には人が群がり、張り付いている役人に、高札の内容を読んでもらっていた。これの観戦は、鍬を持ったことがあっても、武器の使い方なんて知らない人々の、唯一の楽しみといっていい。
 

 数えて三回目となるこの武道会では、誰が優勝するのかという賭けの要素が強い。まあ、県の主催する公営ギャンブルという奴で、古代の剣闘士さながらに、どちらが勝つのかに札を張る、といった感じだった。


 数々の出場者の中で、優勝候補は、やはり夏侯惇だった。
 三國志においても、最強クラスの将である。前大会で、その武勇を目にする機会があったのだが、まさしく鬼神というにふさわしかった。

 猪突猛進が似合う猛将であり、誰からも分かりやすい戦いをする、曹孟徳の右腕だった。それでも万が一、彼女を打ち破ることができるのなら、あらゆる障害を飛び越えて、一足飛びに、曹孟徳直属の将軍の地位を手に入れられる。
 ただし──
 前二回の武道大会で、ただひとりの例外を除き、彼女に傷一つつけるどころか、三合打ち合ったものすらいないという。立ち会ったものは皆、その恐ろしいまでの闘気に呑まれて降参するか、棒と棒を合わせた次の瞬間に、どこかの骨を砕かれている。



 で、ただひとつの例外は、前回の準優勝者だった。
 観客たちは、前回の第二回陳留武道会、決勝の『夏侯惇VS華蝶仮面』の熱戦が、まだ瞼の裏に焼き付いているらしい。
 そういう事情で、当日の熱気は凄まじいものだった。会場自体が、喧噪の坩堝と化している。隣の済陰や東からの見物客も合わさって、全体がお祭り騒ぎのようだった。


 まったくもって他人事ではない。俺としては、これが登竜門といったところだった。将軍にまで登りつめるのなら、彼女との対決は不可避である。避けて通るわけにはいかないのだった。大会の前のくじ引きで、俺は一回線の第一試合を引き当てた。参加するのは、農家の次男三男とか、盗賊まがい恰好をした男とか、旅の武芸者やらが数多くいた。件の夏侯惇は、第二試合だった。


 トーナメント制でシードなどはないから、つまり、双方が順調に勝ち進めば、二回戦で激突することになる。まあ、いいところを引いた、と思っておこう。俺の目的は、優勝ではなく、夏侯惇に勝つこととなっている。なら、そこにたどり着くまで、なるべく手の内は晒したくはない。切り札を使うには、試合前の準備が必要なのだ。『アレ』なしでは、俺の身など十秒ももたないだろうから、一回戦に、なるべく弱い相手がきてもらわないと困る。
 我ながら、ものすごく都合のいいことばっかり願っているが、仕方ない。人外じみた猛将と事を構えないといけないわけだから、この程度の運は引き寄せられるべきだ。
そして意外や意外、その願いは叶えられることになる。うん、天の御遣いさまありがとうございます。俺は乱世に光を纏って現れるらしい英雄さまに、感謝の念こめた。くじ引きが終わり、トーナメント表の虫食いが全部なくなった。心臓の高鳴りを押さえ込みながら、対戦相手の名をを見ると──
 
「はい──?」

 ──荀彧という名前があった。






















『陳留の皆様こんばんはっ。さあ、この陳留一武道会も、好評に好評を重ね、ついに三回目に相成りました。まずは、『江東の二喬』、小喬ちゃん大喬ちゃんの二人のユニット、『天星黎明ついん★ず』によるオープニングです。では、どうぞ。『やっぱり世界はあたし☆れじぇんど!!』──ですっ!』

 放送席から、司会進行をつとめる眼鏡少女の呼び声と共に、姿を現した双子の少女が、どこからともなく照らし出されたカクテルライトとビームに照らされながら、歌っている。さすが、歴史に名を残す美少女というところか、しばし舞台の上を跳ね回る彼女たちに見とれてしまった。付き従うような管楽器部隊が、音楽と歌声に合わせて、高らかに空気を震わせた。観客のボルテージがさらに上がり、もうすでに叫ぶだけのひとつの生き物のようになっている。

 なんという熱気。
 大陸では、『天星黎明ついん★ず』は、『数え役萬☆しすたぁず』と、人気を二分している。興行という興行に引っ張りだこで、彼女たちを見に大陸の端から来ている人たちだって、決して少なくないだろう。

「青龍の方角からは、東の果ての小国からやってきた、北郷一刀選手。祖父に教わった剣術で武を証明するとのこと」

 俺は舞台の上にあがった。手には、二メートルほどの棍を持っている。武器はすべて刃止めされているので、なら最初からこちらの方が身軽でいい。命のやりとりにならない以上、むずかしいことを考える必要もないし。

 会場は詰めかけた人々で一杯になっていた。仕切りの板で観客席が分けられているだけで、舞台となる場所は、街の外の荒れ地だった。馬と馬を使う一騎打ちや、夏侯淵の弓矢を使った演目も用意されているので、少し板を組み替えるだけで会場を伸張できる。

「続いて、白虎の方角からは荀彧選手。おおっと、無手ですが、これはどういうことでしょう?」
 出てきたのは、猫耳頭巾をかぶった少女だった。
 出てくる有名人のことごとくが女性なのは、もう慣れたとして、なんでこんな武道会に参加しているのだろう。というか、武器さえ持っていない。

 俺の記憶に間違いがなければ、荀彧というのは、軍師だったように思う。三國志の軍師として、諸葛孔明を除けば、一番か二番ぐらいに有名なんじゃないだろうか? 政治はもちろんのこと、軍師としても超一流で、曹操が遠征をしている際の、本拠地の防衛責任者として、呂布、陳宮、張漠、郭萌を相手に、ひとつの城も抜かせなかったとされる。

 俺は、棍を構えた。
 外見はなんの変哲もないかわいい少女だった。立ち振る舞いに、違和感はない。武道を習ったもの特有の、矯正された動きは見えない。ただ、目の奥にぎらつく燐気のようなものが見えた。相手が武器をもっていないからといって、手加減できるような余裕は、こちらにない。、仙術かなにかで、影かなにか飛ばしてきても驚かないだろう。コーエーのゲームからして、軍師の必殺技はビームと相場が決まっているのだ。この世界に、そんなものがあるのかはさて置いて。

 ともかく。ここまではいい。そこまでは、普通の試合だった。

 そして──荀彧は、司会役から拡声器を奪い取ると、自分の考えをぶち上げ始めた。






















 陽の光を反射して、刃が反射している。
 荀彧の喉元に、凶器が突きつけられていた。愛用の黒刀を手に、殺意に似た感情を発しているのは、夏侯惇だった。炎を具現化したような闘気が、彼女の全身を覆うように、揺れる陽炎に変じさせている。

「念のために訊いておく。華琳(注、曹操の真名)さまを愚かと扱き下ろすのは、それだけの理由があってのことか?」

 観客席は、シンと静まりかえっている。
 ひとりの女性の怒気に、会場全体が金縛りにあっている。舞台の上にいながら、俺だって一歩も動けない。主役を奪われて、俺には怒る権利はあるはずだったが、もうそんな状況でもない。
 
「愚かとは言っていません。ただひとつ、曹操さまに足りないものがあると言っているのです」
「ほう? 聞かせてもらおうか。華琳さまに足りないもの、とは?」
 夏侯惇の声に、剃刀のような殺気がのっている。
 彼女にとっての、正念場だった。言葉の重さが一斤足りないだけで、突きつけられた黒刀が、彼女の首を刎ねるだろう。

「──私です」
「はぁ?」
 夏侯惇の目が、点になっていた。
 だれひとり状況が掴めていない。荀彧は続けた。曹操様にただ唯一足りないもの、それは、私です。
 ええ、私です。曹操様の目的のために、この荀彧をお使いください。突きつける刃すら目に入らない様子で、曹操のいるであろう貴賓席に囁く様子は、まるで場違いな愛の告白だった。
 ざわり、と周りの空気が動いた。観客席の熱気すべてを引き受けて、一段上に作られた貴賓席のカーテンの向こうから、少女がきざはしを下ってくる。

 曹操である。

「荀彧といったわね。その大言、覚えておくわ。そして、あなたはなにをもって功となすつもりかしら」
「──軍馬は、乗り手の意志によって進むもの。如何様にもお申し付けください」
「そうね。それだと──」
 彼女は、ふと思案するように、視線を宙にさまよわせた。
 そして、俺と目が合った。あ、やばい、なにかものすごく嫌な予感が。

「──そこの北郷一刀を、夏侯惇将軍に勝たせてみなさい」
「「はぁっ!!」」
 
 あまりにあまりな提案に、俺と荀彧の叫びが重なった。
 やばい。絶対巻き込まれると思ったが、これはいったいどういうことだ?


「………………」
 俺は視線で、華琳に訴えかけた。
 どうなってるんだおい、最初の打ち合わせと話が違うぞ。


「………………」
 それに対して、華琳がわずかに視線を動かした。
 うるさいわね。こっちの方がおもしろいじゃない。さっさとやりなさい。と、その瞳が雄弁に語っている。


「………………」
 俺は別に将軍になりたくなんてないのに、横暴だコノヤロウ。
 ──と、華琳に向けてアイコンタクトする。

 つい。

 ──あ、目を逸らしたよ。
 こいつ、都合が悪いとすぐこれだよっ!!





『え、ええと、話がよく掴めませんが、荀彧選手試合放棄により、北郷選手、二回戦進出となりますっ』





 そういうことになった。






 俺と華琳の関係は?
 俺が将軍にならねばならない理由とは?
 そして、肝心かなめの夏侯惇との試合の行方は?
 さらに、夏侯惇戦における、俺の切り札とは?





 ──すべて投げっぱなしにして、次回へ続く。





[7433] 一刀、アイドルをプロデュースする、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:52










 後漢の中平元年、塗炭の苦しみにあえぐ農民達。漢王朝は宦官による腐敗が横行し、重税と日照りによる飢饉により、国は乱れ、誰もが明日への希望を掴めずにいた。そして、そんな人々の前に、キラリと現れた新星が、三人組のアイドルグループ、『数え役萬☆しすたぁず』だった。



 皇帝への畏敬の念が血と肉に刻まれるように、宗教が、学のない人々の心の拠り所になるように、『数え役萬☆しすたぁず』の三姉妹の姿は、明日すら見えない民衆に、希望の光を照らしたのだろう。
 彼女たちについて膨れあがる民衆は暴徒となり、黄色の布を巻くことで、漢王朝への打倒を口にした。

 蒼天已死
 黄天当立
 歳有甲子
 天下大吉

(蒼天すでに死す、
 黄天まさに立つべし、
 歳は甲子、
 天下大吉)


 ただ、いつしか黄巾党という集団は、国の乱れにつけこみ、略奪と強盗を繰り返す暴徒集団に成り下がっていたが。



 で、
 我らが華琳さまである。
 間者やら諜報やらを数多く出し、そこまで掴んだのはいいが、そこから先が手詰まりになった。華琳の黒騎兵は精兵をもって知られるが、本拠地をもたず、どこからでも現れる敵を倒すには、一筋縄ではいかない。

『私も、ひとりのアイドルとして彼女たちに勝たねばならない、ということね』

 いやいや、ちょっと待て。 
 どこをどうすればそういう結論になるんだ。

 馬鹿には二種類いる。
 行動力のない馬鹿と、行動力のある馬鹿である。
 華琳はどう考えても後者だった。いや、多分、基本の方針は間違ってないのだろうと思ったから、俺は華琳にさりげなくアイドルプロデュースをすすめた。
 
『誰をプロデュースするのよ?』
「うーん」

 三國志は男の物語である。
 基本的に、お姫様とかは出てこない。じゃあ、やっぱり貂蝉とかいいかもしれない。と思って、華琳に調べて貰ったら、男かよっ!! なんだこれっ! と絶望しかかったところで、ああ──そういえば孫策の嫁と周瑜の嫁がいた、と思いついた。

 報告では、今度こそ女性で、しかも双子。さらにどっちも12歳ということだった。ちなみにこの時代、現実だと結婚適齢期は13から15歳だったけど、当然この世界ではそうなってはいない。どうもこの世界の法則が掴めないところである。

 まあ、ともかく、

 ──以上が、『江東の二喬』、小喬ちゃん大喬ちゃんの二人のユニット、『天星黎明ついん★ず』結成までのいきさつだった。





 うまくいけば、黄巾党をふたつに割れる。

 陳留そのものが全面バックアップの姿勢をみせ、ビラを刷りまくり、今年の軍資金すべてをつぎ込んで宣伝活動を行った。軽い気持ちで提案したつもりだったのだが、ものすごい大事になっていた。失敗したらもう後のない背水の陣である。古今東西の作曲家を集めて、曲を作らせ、『Flower of Bravery』という曲ができた。

 そして、黄巾党は、この華琳の、圧倒的な宣伝により、物量作戦の結果、沈むことになる。度重なる敗北により、アイドルの神聖を剥ぎ取る戦略、っていっていいのかこれ。かくして、『数え役萬☆しすたぁず』のラストライブをもって、『黄巾の乱』は終結するに至る。



 あとは僅かに残った残党を、秋蘭(夏侯淵の真名)の率いる黒騎兵が叩き潰した、

 ──以上。





 はぁ。
 もうやだこの三國志。

















 というわけで、前置きが長くなったが、そういうわけで、この陳留武道会も、黄巾党を再発させないための重要なイベントのひとつなのである。俺は一回戦を終えて、外の扉に、『Restroom(休憩室)』と書かれた部屋で休んでいる。なんで英語なのか。そんなこと言われても、実際書いてあるんだから仕方ない。俺に言われても困る。


「──で、あなたなんなの?」
 荀彧が、言葉で、斬り込んできた。
  
「ああ、俺は、曹操さまの馬の世話係、かな?」
 あと、相談役といったところか。この時代、大将だろうが兵隊だろうが、戦の間、自分の馬の世話は自分でする。それはそうだ。軍馬は自分の足と同じである。馬の調子を確認しなかったために討ち取られたりしたら、笑い話にすらならない。

 だから、大将が普段の世話役と、顔見知りであって、まったく不思議はない。というか、それなりに親しく話を交わせないと、まったく仕事にならない。どうして新入りがそんな重要そうな仕事をやっているかというと。華琳が、先輩や同僚たちを、顔が美しくないということで、近づけなかったからだった。もちろん、悪人顔な頭領もそこに含まれている。そんな理由で、この世界にきてすぐ、俺に白羽の矢がたったわけである。

 さすがに、真名を許されているというのは異例だが。



 それで、俺がこの大会に出る理由も、実はそれが関係する。
 半月前の話だ。

「ねえ一刀。どうしよう」
 と、華琳が血相をかえてやってきた。
 心なしか着ている服が、土にまみれたりとボロボロになっていた。

「この前買ったアレなんだけど」
「あ、この前買ったアレか」
 西涼からきた商人から、買ったアレである。
「私には扱えないということが発覚したのよ。どうしよう。黄巾党を退治したときに貰った恩賞、全部これに使っちゃったのに。がんばったのに、私にまったく扱えないんじゃあどうしようもないじゃない」
「ええと、そういうの確認しろよ。できただろ?」
「だって、スペックが通常の三倍なのよ。欲しいじゃない」
 どうしてこう、この娘は後先考えないんだろう。
「で、いくら遣ったんだ?」
「………………ぐらいだけど」

 俺は耳打ちされた金額に、天地がひっくりかえるかと思った。

 俺はこの世界の字が読めないので、詳しい計算はできない。
 ただ、頭領に軍馬の買い付けにつれていってもらったことがあるから、馬での換算はできる。華琳の買ったそれは、普通の軍馬に換算すると、150頭分という感じだった。

 たしかに、まあ──それだけの価値はある、と、いえるかもしれない。史実の三國志の中でも、コーエーのゲームでもまあ、限りなく最強に近いし。それも、扱えればの話だ。

「俺は普通に扱えたけどなぁ」
「なによそれ、ずるい」
 と、華琳が膨れていたが、やがて、なにかを思いついたように。

「これはもう、一刀に将軍になってもらうしかないわね」
「へ?」
 いきなりなにを言い出しますか、この娘。

「だって、無駄にするわけにもいかないし。それ、一刀にあげるから。それがあればそこらへんの雑兵には負けないでしょ。がんばりなさい、私のために」











 思い出すと、なにやらものすごく頭の悪い会話だった。
 華琳から貰ったそれが、つまり──俺の『切り札』となっている。
 俺は荀彧と打ち合わせを行う。会場の変更は華琳の方でやってくれるので、あとは俺の策に穴がないかの確認だけだった。

「勝機は?」
「ないこともない」
 俺は荀彧にその方策を話した。
 
「よくも、そこまでえげつないことを考えられるわね」
 俺の策を聞いた荀彧の感想はそれだった。
 つまり、当代随一の軍師である荀彧お墨付きということになる。  
 
「じゃあ、やるか」
 俺は、荀彧に右手を差しだした。
 彼女の表情が、怪訝そうなそれに変わる。

「なにそれ?」
「握手っていう、俺の国の礼儀なんだけど」
「お断りよっ。男が伝染したらどうするのっ!! ああもう、曹操さまの命令じゃなかったら、誰があんたなんかと同じ空気を吸うものですかっ!!」

 ケダモノみたいな男と、密室でふたりきりになるなんて御免よ、と、最初は扉を閉めることすら許さない雰囲気だった。いや、策をわざわざ盗み聞きさせてどうする、と説得するのに苦労したのだ。

 




 よって次回、ついに俺の切り札が明かされる。
 ──もったいぶってごめん。






[7433] 一刀、夏侯惇将軍を粉砕する、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:52









 続いて第二試合の『夏侯惇VS鉄竜』が行われたが、結果のわかっていることを長々と話すつもりはない。ダイジェストでお送りしよう。

 夏侯惇の相手は、鉄竜といった。身の丈八尺を越える大男であり、数々の大会で優勝をかっさらっているらしい。身体の構成物質の八割が筋肉ではないかと思われる体躯。脳まで筋肉が詰まっていそうだ。鋲のついたレザージャケットを着込んでおり、どこの世紀末からやってきたんだとツッコミを入れたくなる。刃を潰したマサカリは、直撃すれば人間を挽肉に変えることぐらいわけがない。

 試合開始前に、ちょっとしたパフォーマンスがあった。鉄竜は、オブジェとして飾ってあった石像を、握力のみで粉々に砕いてしまった。はっきり言おう。化け物だ。チンパンジーの握力は300kgほどらしいが、鉄竜の腕力も、それぐらいあるかもしれない。
 断言する。
 こんなのと一回戦で当たっていたら、俺は試合を投げ出して、地の果てまで逃げていた。



 ある意味、事実上の決勝戦といった感じである。
 が、勝負は一瞬でついた、夏侯惇はマサカリをはじき飛ばすと、翻るように大薙刀を相手の喉に突きつけた。水の流れを思わせるほどに滑らかだった。最初の右足を踏み込む動作から相手に刃を突きつけるまでの終端の動作に、いささかの淀みもない。

「ふん、あっけない。まだやるか?」
 夏侯惇の呼びかけに、鉄竜が奥歯までを剥き出しにしたのが見えた。
 鉄竜は突きつけられた大薙刀を無造作に掴むと、握力のみで砕き散らした。バキィ──という音がして、大薙刀の柄がふたつに折れる。

「なっ──」
 夏侯惇の動きが、一瞬遅れた。半分になった柄を握ったままで、なにができるわけでもない。鉄竜が夏侯惇の肩に、その丸太のような腕を伸ばした。その握力なら──人間の骨ぐらい、粉々に砕け散らすだろう。

 チェックメイト。終わったと、男は思ったはずだ。
 そして──男の命運は、そこで尽きた。

「ぎゃああああああああっ」
 野太い悲鳴があがった。見ると、鉄竜の丸太のような右腕が、どす黒く変色していた。

「いい判断だ。だが、私に腕力で勝とうなどとは片腹痛い」

 嘘だろ。
 おい。
 夏侯惇は、特別なことはなにもしていない。ただ、普通に自分を掴んだ腕を逆に掴み返して、そのまま関節と逆方向に捻り上げている。どれだけの圧力と圧力がぶつかったあげくの結果なのか、俺には想像すらできない。
 ただ──ひとつだけ理解する。あれは、もう、人の領域にいない。細い身体に、圧搾機械並みの力を内包している。曹操旗下、第一の剣、あれが夏侯惇だ。 

 勝てるのか、俺?
 ──あれに?

 気が変わったということで、今から逃げたらダメだろうか?















 一騎打ちこそ戦場の華である、という曹操の布告により、俺と夏侯惇の試合は、互いの馬と馬を駆っての馬上戦となった。ここまでは、華琳との打ち合わせ通りだった。俺としては、この状況下で、活路を見いだすしかない。

 ここから、貴賓席の、一段高いところから地上を見渡している華琳が見えた。
 華琳は美しく、その瞳は、ここに集まった民を、這いずるアリの群れを見下ろしているようだった。彼女の周りには、顔を晒した黒騎兵の少女たちが、せっせと華琳のためだけに動いている。

 そう、彼女は美しかった。
 どれだけ周りの人間が、高慢で不遜な態度をあげつらおうと、それだけは絶対に否定できないほどに。

 露払いのための者と、華琳の箱持ちと、彼女を満足させるためだけにいる侍女たち。曹の白地がくり抜かれた大傘が、華琳に当たるはずの直射日光を遮っている。
 そして、華琳は周りの行動に、蝋細工のような無表情でもって応えていた。それはそうだ。彼女は、高慢なお姫様を演じている。華のような笑顔は、限りなく一部のものにのみ見せられるべきだ。──それを守っているから、華琳は、あれだけの瑞々しいほどの美しさを保っていられる。

 あれは、観賞用の美しさではない。人の心を捉える魔性のそれだ。地べたに這いずる人々を配置することで、相対的に輝くような、残酷な美しさだった。あの外見の高慢さをともなった容貌を一度見てしまえば、中身の馬鹿さ加減など、大粒の宝石についた傷にすら及ばないものだと思えてくる。

 ──まあ、あいつは中身の方が本体なのだけど。

 史実の曹孟徳は、熱狂的な人材コレクターだったことで知られる。けれど、最後に、彼の周りに残った人間は、誰がいただろう?
 これはあくまで、史実の方の三國志を読み、ほんの一瞬思った、俺の解釈だ。曹操は寂しかったのではないかと。戦争で、次々と消えていく幕僚を見て、天下を掴んで、なお埋まらない己の空白を埋めるように、それが人材発掘というかたちをもって現れたのではないか?
  
 だから今の彼女が、どこにでもいる普通の寂しがり屋で素直じゃあない女の子が、ただなんの悩みもなく笑顔でいられるということが、とても貴重に思えてしまう。



 俺が、その笑顔のために、命を賭けてもいいと思えるほどに。



 開始位置について、夏侯惇は刃を潰した大薙刀を頭上で振り回している。うん、一撃まともに当たられたら、全身の骨がバラバラになって死ぬな。俺の戦闘力を仮に50としたら、多分夏侯惇は1500ぐらいはあるはずだ。当然、負ける気はない。華琳から貰ったアレは、その実力の差を埋めて、なお余りあるものだ。

 俺は、馬を開始位置につけた。準備は終えている。深呼吸して、棍を握りしめた。じっとりと、両手が汗で湿っている。勝つための算段はすべて整えた。やり残しはない。だから、これで負けたら、きっと悔いだけが残るだろう。

『双方とも、無様な戦いは許さないわ。この、曹孟徳の名を辱めぬよう励みなさい。天下に覇を唱えるものとして、私の誇りに相応しい戦いを──』

 真っ直ぐに夏侯惇の大薙刀と、俺の突きだした棍が直線上に結ばれた。
 視線が交錯し、あとはそこから目を離さなければいい。

 俺は、華琳から下賜された『切り札』に語りかけた。

「行くぞ。──絶影」

 ──絶影。
 史実における、曹孟徳の愛馬である。
 速度だけなら、赤兎馬と並ぶ。
 俺を乗せた黒い影が、軽やかさすら感じさせる動作で、足下の土を蹴りあげた。

「はじめっ!!」
 華琳の号令とまったく同時だった。俺の全身に、爆発するような推進力が加わり、馬上にて、俺は一条の稲妻となった。

 名の通り、影すら追いつけぬほどの速度で、夏侯惇の首めがけて斬り混んでいく。見た者が仙術の使用を疑うような神速。俺が棍を振りかぶる一動作で、すでにその身は夏侯惇の刃圏内に肉薄している。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
 双方の気合いが爆発した。
 俺の振りかぶった棍と、夏侯惇の大薙刀が、正面から激突した。
 絶影の速度と、夏侯惇の力が拮抗し、火花が散って、双方がはじき飛ばされた。

 俺は襲いかかってきた衝撃に耐えながら、奥歯を噛みしめた。やはり、正面衝突は分が悪い。
武器を合わせた衝撃で、掌に虫が這い回っているような痺れが襲ってきている。長期戦は不利だ。今の一撃で決められるのが理想だったのだが、やっぱりそうはいかないか。

 俺を乗せた絶影が、なんのダメージも受けていないように、夏侯惇の間合いの外を走り始めた。弾き飛ばされた衝撃で、夏侯惇の馬は、まだ動き始められない。その初動が、致命傷になった。

 絶影が背後をとる。
 背中を晒した夏侯惇に、俺が再び棍を構える。

 瞬間──

 夏侯惇の身体が、馬上で捻転した。

 ──即座に、衝撃がきた。

 回転力を加えられた大薙刀の一撃を、俺は縦にした棍で防いだ。全力で奥歯を噛みしめる。棍を持った両手から、衝撃が電撃となって全身を貫き、一瞬意識が飛んだ。遠くなった意識を、意志の力で引き戻す。俺は馬から落ちなければいい。あとは絶影がサスペンションの役割を果たしてくれる。

 馬上では背後をとったものが、絶対的に優位にたてる。背後を取られた夏侯惇は、今のように攻撃に多大な予備動作を必要とする上、不自由な体勢からの一撃は、本来の威力に遠く及ばない。当然、連続攻撃など不可能だ。

「くっ、この、逃げるなっ」
 また、攻撃の方法も悉く限定される。馬に乗った体勢から、どうやっても背後に突きは放てない。上段や下段から攻撃も然り。俺は、右に捻るか、左に捻るかの二パターンだけに備えればいい。あれだけ大がかりな動作だと、フェイントも意味がない。いわゆる、これは形を変えたドッグファイトなのだ。背後をとった時点で、九割九分、勝ちは決まっている。
 流石に、稀代の軍師ある荀彧の立てた策略だった。まったく歪みがない。俺の策を悪辣極まりないと言っていたが、これだって大差ない。鬼、変態、鬼畜、と罵詈雑言を受け続けた、その結果が出ている。

「ええいっ、黙って私に打たれんかっ!!」
 速度の差は歴然だった。
 夏侯惇の馬が方向転換するより、呆れるほどに遠回りした絶影が、彼女の背後を取り直す方が早い。華琳は絶影の速度を通常の三倍と称したが、まったくもって、その言葉に偽りはない。

 俺はただ馬を狙っていた。
 それが、俺がずっと考えていた、基本方針である。
 背後から馬の尻を突くだけだ。あらかじめ、実験済みである。痛みでパニックになった馬が、乗り手を振り落としてくれれば、それで勝負がつく。馬に対して、良心が咎めるが、あとで存分にいい餌をやっておくとしよう。
 夏侯惇将軍が、馬のコントロールを失う。
 会場は仕切りで覆われているだけだ。会場から出ても、即失格となる。上手く人波の薄いところまで誘導できれば──

 決して、驕っていたわけではない。
 けれど、夏侯惇は九割九分決まっていた盤上から、逆襲に転じた。

「え──?」
 夏侯惇の持っていた大薙刀が、彼女の手を離れる。俺が疑念を差し挟むまもなく、俺の腹部に衝撃が来た。

「か、はっ──」
 逆手に持ち直した大薙刀の石突きが、俺のアバラを砕いた。
 衝撃が、背中まで突き抜けた。目眩と共に、俺の全身から、気力が根こそぎ刈り取られる。まともに、空気が吸い込めない。呼吸困難となって、視界がなくなる。空気が足りない。意識がブラックアウトしかかった。
 絶影の上下運動が、一秒ごとに傷口を抉られるほどの痛みを与えてくる。

「ぐ………」
 油断、ではない。
 わかってて躱せなかったから、なお始末に負えない。
 まずい。
 体力の前に、まず集中力が持たない。
 全身に力が入らない。棍を握っているだけで、精一杯という有様だった。相手の一撃にやられる前に、確実に絶影から振り落とされる。
 俺は、最後の力を振り絞って、腿に力を入れた。

「頼む──」
 即座に俺の考えを読み取ったように、絶影が夏侯惇から離れた。柵と仕切りでひし形に切り抜かれた武道会場の、その一角で、絶影はその脚を止めた。端っこである。背後にも、左右にも逃げ場がない。完全に、前に進むしかできない。見た者は、韓信の背水の陣を思い浮かべるだろう。

「どうやら、きさまも馬鹿なようだな」
 夏侯惇は、追ってくることはしなかった。
 彼女は、俺と絶影から一直線上の、もうひとつの端、ぎりぎりに布陣した。

 夏侯惇将軍は、おそらくこう思っている。絡め取ったつもりだと、俺はこれから、やぶれかぶれの突撃を仕掛けてくると。ここまで手こずったのは、馬の性能差もあるが、武器が悪いからだ、と。ルールに縛られていなければ、最初の一撃で勝負はついている、と。

 それはひとつを除いて正鵠を射ていた。
 彼女のひとつだけの誤算。それは、絶影の性能を見誤っている。絶影にとって、この会場は狭すぎる。まるで、檻の中にいるようなものだ。この広さでは、トップスピードに乗れても、制動距離が足りなさすぎる。スピードを殺しきる前に、壁に激突するからだ。

 このひし形の端からの距離は、この狭い会場で描ける、一番最長の線だった。最初から絶影がトップギアを使えていれば、勝負はここまで長引かずに済んだ。

「夏侯惇将軍、ひとつだけ、言いたいことがあるんだが」
「ほう。冥土の土産になるかもしれん言葉だ。話すがいい」
「避けろ。あるいは、防げ。──死ぬぞ」
 それは、本来、一笑に付されるべき発言だった。

「は、ははははははははははははははははは。
 おもしろい冗談だ。その満身創痍の身体で、なにかができるというのなら、それを私に見せてみろっ!! ただし──貴様に逃げ場はないぞっ!!」

 夏侯惇は、馬の腹を締め付ける。
 そのまま馬上にて、一陣の疾風となった。

 一秒。
 二秒。
 三秒。
 四秒。

 夏侯惇が、会場の中心を越えた。
 さらに加速。

 ──疾風。
 それは。
 俺と絶影にとって、止まっているのと同じだった。

 絶影が動き始める。周りの観客の喧噪と野次と叫喚が、すべて雑音に落ちる。絶影から伝わる力とともに、正面以外の風景が斜線に変わった。

 ──音を、越えたと思った。後から思えば、それは近づいてくる夏侯惇の相対速度の差が見せる錯覚だったのだろう。耳から聞こえてくる叫び声に、自分が叫んでいるのだと思った。

 ──振りかぶる。
 俺は、夏侯惇の首筋に、全力で棍をふるった。
 人間の急所のひとつ。呼吸器官だった。どんな英傑でも、ここだけは鍛えられない。

 ──ガアアアアアッンッッ!!

 肉と骨を抉った衝撃はなかった。手に残ったものは、ひどく金属的なものだった。影の交錯の後で、俺は右手に残った手応えのみを証拠とした。

 手応えはあった。
 ふたつに折れた棍を手に、俺はそれだけを考えた。
 速度的にいえば、新幹線と普通列車の正面衝突だった。その速度の差に慣れていた分、俺の初動の方が早い。

 振り返ると、
 落馬した恰好のまま、信じられないという顔で、こちらを見る、夏侯惇将軍の姿。尻が地面についている。攻撃自体は凌いでも、絶影の速度をまともにうけて、馬上から弾き飛ばされたという感じらしい。

 ──勝った。
 どっと、冷や汗が出た。同じ事をもう一度やれと言われても、まったく自信がない。
 けれど──勝ちは勝ちだ。



『な、なんという大金星。私は、そしてここにいるすべての人々が、奇蹟を、そして歴史の変わる瞬間を、目撃しましたっ!! この第三回武道会まで、無敗を誇った夏侯惇将軍、ついに敗れるっ!! 北郷一刀選手、満を持して、三回戦へ進出ですっ!!』 



 夏侯惇将軍が、悔しさを噛みしめるように、立ち上がった。
 うわぁ。あれだけやって、ほとんどダメージを受けてないように見えるところが恐ろしい。こちらは、もう戦えないというのに。

 しかし、勝負には負けたけれど──試合には勝った。

「はふぅ──」
 俺は糸が切れた人形のようになって、馬上で絶影の鬣(たてがみ)に顔をうずめた。







[7433] 華琳、『へにゃ』となって、『ひぁっ』、となる、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:52








 華琳は、テーブルの上にほっぺたをくっつけて、『へにゃ』っとなっていた。

 両手両足を伸ばして、完璧にくつろいでいる。俺の国でこんなものがある、と言ったら次の日には完璧に再現されていた掘りゴタツに座って、天下に名だたる勇将たちが、これからの方針を話し合う場だった。
 あれから半月ほどたって、俺の怪我はほぼ完治した。優秀な医者がいるおかげだった。『元気に、なれぇぇぇっっ!!』と叫ぶやたらテンションの高い兄ちゃんであって、今は曹操軍で専属の医師をしているようだった。

 そして、俺の境遇に話は移る。
 あれから正式に、俺は曹操軍の将軍に、そして荀彧は軍師にとりたてられた。華琳は荀彧の策に目を輝かして、私以外に、こんなバカな策を考えつく人間がいたなんて、とえらくご満悦だった。それもそれでどうかと思う。──あとはそうだ。俺は、夏侯惇将軍の真名を呼ぶことを許された。試合という形式とはいえ、一騎打ちで勝った末であり、本人からも文句は出なかった。

 会議の机上だ。
 席次は、華琳の両翼に春蘭(夏侯惇の真名)と秋蘭(夏侯淵の真名)が並ぶほかは、特に決められてはいない。
 だから、席を右から順に、ぐるっと見てみると、

 華琳(曹操、総司令官)、
 秋蘭(夏侯淵、第二将軍)、
 桂花(荀彧、軍師)、
 俺(北郷一刀、第五将軍)、
 春蘭(夏侯惇、第一将軍)、

 ──となって、また華琳に戻ってくる。

 この時点での、華琳の黒騎兵は、200人ほどである。黄巾党の時は、大将軍から貸し与えられた5000ほどの手勢を(春蘭が)操っていたが、今は私兵が1500ほどいるだけだった。

「では、これからの曹操軍としての方針を話し合うわ。準備はいいかしら」
 荀彧が司会進行をつとめている。

 この間、華琳は州牧に格上げされた。
 この州には太守がいなかったため、華琳がそれを代行していた。だから、やることはさほど変わらない。
 いまは後漢王朝の末期であり、毎年のように飢饉や地震やら干ばつやらが起こっている。
 農民達はまったく下がらない税と、絶望的な収穫高に田畑を手放し、流民と化すか、盗賊に手を染めるか、宗教に救いを求めるか、という状況になっている。

 官吏は自らの懐を暖めることだけを考え、帝には民の嘆きは届かない。それが黄巾党を生み出し、異民族たちの叛乱が横行する──そして、さしたる力もない朝廷が、叛乱の蜂起に対して、遠征して軍を差し向けることすら出来なくなっている。そもそも、朝廷にいる将軍たちは、匪賊討伐で功が成った者たちではなく、将軍の位を金で買った者たちだった。実際に叛乱の鎮定など、できる能力はない。

 ──そのようなことを、荀彧が説明した。

「そして、朝廷は考えたの。ならば、各地の刺史の権力を強化して、直接、叛乱を鎮圧させればいい、と」

 ああ、なるほど。
 ──それが、州牧か。
 華琳の出世の裏側には、そんな事情が。
 しかし──

「なぁ、桂花。それって、まずいんじゃないか?」
「なによいったい」
 真名を呼ばれたことで、明らかに不快になっている。というか、苦虫を噛みつぶしたようになっている。死よりも辛い屈辱に耐えているような表情だった。真名を犯された、真名を犯された、とぶつぶつと呟いている辺りが凄く恐い。

「それ、少数とはいえ、軍権が分散するってことだろ?」
「ふぅん。あんたの蚤ほどの頭でも、それぐらいのことはわかるのね?」
「え、どういうことなの?」
「む、どういうことだ?」
 華琳と春蘭が、頭に疑問符を浮かべていた。
  
 ええと、別に華琳と春蘭の脳味噌が蚤以下だということを言いたいわけではない。

「だって、あれだろ。地方に軍権なんて持たせたら、よからぬことを考えるやつらとかが増えるんじゃないか?」
「北郷、その言い方は正確ではないぞ。増えるどころではない。すべての州牧が、集めた私兵を軍閥化させるだろう。太守や州牧の任に就いているもののなかで、漢王朝のために働こうなどというものは、ひとりも残ってなどいない。事実、太守(注、大名)たちは、与えられた郡を私領のように扱っている」
 
 今まで黙っていた秋蘭が前に腕を組んだ。
 桂花の意見も、それと同じようだった。
 
「ええ──、おそらく、高祖(注、劉邦)の時代から漢王朝が成って400年、その400年の中で、もっとも愚かな制度といっていいでしょうね。各地に跋扈する魑魅(ちみ)を狩りとるのに、魍魎(もうりょう)をもってするようなものよ」
「嫌われているなぁ。漢王朝も」
「当然だろう。褒められるところがない。政治は宦官に支配され、派遣された監察官は賄賂をとって、威張り散らすばかりではないか。皇帝は民に生かされていることもわかっていないのだろう」
 春蘭が言った。
 やるべき事をやっていないどころではない。漢王朝は、すでに大陸に巣くう手の施しようのない病巣のようだ。肺や胃なら、病魔に冒されても、摘出すれば生きていられないが、漢王朝はただの害以外の何者でもない。

 あ、そうか。
 ここまで聞いてようやく、劉備の異端さがよくわかった。流石、三國志の主人公。漢室の復興を旗印に戦い続けるような奇特な人間は、劉備ぐらいしかいなかったということらしい。

「英雄の資質は、多くの兵隊さんに、どれだけ多くのごはんを食べさせられるかで決まる、ということよ」
 華琳が、えっへん、と威張った。
 うーん。なるほど、王朝が瓦解するのが時間の問題だということを、俺は三國志の知識として知っている。これはまあ、打倒されて当然だった。たしか、皇帝の崩御から、事態が動き始めるんだったか。

「ということは、だ。俺たちはしばらく朝廷の命を受けて、盗賊退治に精を出しながら、力を蓄えろってことか」
「ええ、盗賊退治に使える兵は1500にまで増やしたわ。……っていうか、今の状況で、これ以上の増兵は無理よ。治安を完璧に守る代わりに、高い税金とってるんだから」

 曹操軍は、すべて常備軍である。
 今の俸禄で、盗賊退治に貼り付けるために養える兵数は、1500が限度だった。あとは有力な名士からの寄付や、華琳のおじいさんの蓄えを切り崩すことで軍を成り立たせている。華琳のおじいさんは、宦官の最高位を勤め上げた相当な名士だったらしい。巨万の富を築き上げ、華琳の父親は、その金を使って大尉(三公のひとつ。軍事の最高責任者)の地位についたこともあったという。家には唸るほどの金が眠っているのだろうが、それでも軍隊というものはべらぼうに金を喰い潰す。華琳が使える金などたかが知れているだろう。

「あとは、西園八校尉だな。せっかく与えられた肩書き。これをどう使うかだろう」
「ええと、偉いのか。その肩書き」
 なんかピンとこない。
 俺は秋蘭に説明を求めた。

「西園八校尉は、霊帝直属の近衛兵だ。ゆえに、華琳さまの独断では動かせない。必ず、なにかの名分がいる」
「……ええと、皇帝の親衛隊ということか?」
「──表向きはそうだ。先の話と密接に関係するが、西園八校尉は、軍権をもった州牧たちを牽制するための軍隊だ。他に、皇帝の威信を現実として見せつけるため、というのもある」
「地方の州牧が叛乱を起こせば、西園八校尉が立ちふさがるってことか?」
「それも少し違う。西園八校尉は近衛だ。軍事的にはそれ以上の意味はない。地方が叛乱を起こした時に、立ちふさがるのは大将軍(武官の最高官職)の任を務める何進の軍隊だろう」
「ええ、そして、西園八校尉は、その大将軍の何進に(政治的な意味で)対抗するための軍隊よ」
 桂花が付け足した。
「なんだそれは。わけがわからないぞ」
 春蘭が呟いた。まったくだ。
 桂花が説明を続ける。つまり、派閥争いよ。宦官と何進とのね。西園八校尉の筆頭は、宦官の蹇碩だもの。宦官と大将軍は仲が悪いの。隙あらば、どちらかを殺してやろうと思っているぐらいに。

 あと、ついでに軍の再編って理由もあったわね、と桂花が言った。
 ついででいいのかそれ。そっちをメインにもってこいよ。

「そうそう、十常侍の連中は、どうせ肉屋のおばさんが軍権のすべてを握っているのが気に入らないのよ」
 どうでもよさげな華琳の一言が、もっとも正鵠を突いているような気がした。
「おばさん、ねえ」
「うん。おばさん。元はお肉屋さんだったんだけど、美人の妹が皇帝に嫁いで、子供を産んだから太后になったわけ。それにともなって、その何進おばさんも大将軍に推挙されたのよ」
 華琳は拳を握っていた。
 おばさんと呼ぶことで、なにかを発散しているように思える。
「……おばさんおばさんと繰り返しているところからして、なにかその大将軍に恨みでもあるのか?」
「うむ、何進大将軍は、黄巾討伐の際の、華琳さまの上役だからな」
 春蘭が複雑そうな顔をした。
 ええと、つまり何進大将軍に華琳が無茶苦茶言われて、華琳が更にその下の春蘭に当たり散らしていたりするわけか。なんて不毛な連鎖だ。

「──今の王朝は、放っておけば、つけいる隙もでてくるわ。十常侍を中心とした宦官の専横、弁皇子と協皇子の皇位継承問題、民の叛乱は民衆のみならず、豪族に燃え広がっている。今動いてもいいことはないから、待ちの姿勢を取るべきでしょう。どうにかして帝を庇護できれば、そのまま近衛軍すべてを握れるのだから」

 桂花のまとめで、本日の会議は終了となった。

















「ぬう、華琳さまは最近、北郷ばかりをかわいがるな」
 今の今まで会議場になっていた掘りゴタツで、猫のように丸くなる華琳を、穴の開くほど見つめながら、春蘭が言う。

「え、どういうことだ。俺が華琳をかわいがるというのなら、わかるが」
「なんだと、それはどんな風にだ」
「いや、普通にこうやって」

 俺は華琳を両手で引き寄せると、懐に抱き込んだ。
 ひぁっ、という声が出た。ちみっこい身体が、すっぽりと俺の両腕のなかにおさまる。華琳が、ちょっと一刀、なにするのよいったい、と俺の腕のなかでばたばたと暴れているが、俺の腕を振り払うところまではいかない。華琳がかわいい。このかわいさはおかしい。

「うう、おもちゃにされてる、私」
 やがて、暴れ疲れたのかおとなしくなった。
「う、うああああああああああああっっ!! 北郷、貴様っ、私を殺す気かああああああああああっっ!!」
 春蘭が、華琳のあまりのかわいさに発狂しそうになっている。

「姉者、北郷、なにを遊んでいるんだ」
「………聞いてくれ秋蘭。華琳さまがかわいいんだ」
「やれやれ。それはいいが、少し北郷を借りるぞ」
 あ、流した。
「うむ。勝手に持って行け」
「なんでそこで春蘭が胸を張るんだ?」
 俺は腕をほどいて、華琳を解放した。俺は立ち上がると、無言で先立って歩く秋蘭の後をついていく。彼女は振り返らない。玉座のある建物を抜けて、庭園に出た。庭師の整えた植物が、季節の花を咲かせていた。
 ここから、他の人の姿を見ることはできなかった。
 ここまで無言だった。秋蘭とは華琳の次に付き合いが長い。俺が華琳にいろいろ入れ知恵していたことは、かなり最初からばれていて、それどころか俺の思いつきを実行できるところまで修正してくれていたのは、他ならぬ秋蘭だった。──ある意味、華琳と同じぐらい気心が知れている。

 けれど──張り詰めた雰囲気は、今までのなかで、覚えがないものだった。 

「話しておきたいことがある。いや、違うな。私が勝手に話すことだ。北郷は、ただ聞いてくれていればいい」

 秋蘭が、目を閉じていた。
 それは、寂寞の戻らない日々を、思い返しているようだった。

「話したい事って、華琳のことか?」
「ああ。そうだ、いや、やはり違うのか、よくわからない」
「ええと、華琳にお菓子を与えすぎだ、とか、そんな注意じゃないよな」
 いまいち、何の話かがわからない。
 秋蘭は目を伏せていた。怜悧な表情は、より鋭く。より悲しげだった。



「そうではない。これからするのは、私が、一生の忠誠を誓った──たったひとりの主の話」

 








「──もう一人の方の、華琳さまについてだ」






[7433] 秋蘭、昔を語り、一刀、誓いを新たにする、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:52









 捧げた感情は、正しく崇拝だった。

 彼女にできないことは、なにもないのだと思わされた。完璧という言葉も、神童という言葉も、天才という言葉も、彼女のために用意された単語だと思った。そう思う自分に、なんの疑いも抱かなかった。極限まで磨き上げた弓の腕もなにもかも、己の血肉の一片まで、華琳さまに覇道を補佐するためにある。

 そのために、一生を使っても悔いなどあるはずがない。
 後悔はないと、するはずがないと、そう思っていた。

 そう、秋蘭は語った。
 彼女の言葉は、もう、どこにもいない誰かを語るようだった。自分の思い出だけに残る輝きをかき集めるように、ただ胸に残る温もりを抱きしめるように。





 それは、覇王と呼ばれた少女の話だった。
 聞けば聞くほどに、今の華琳と重なるところなどひとつもなかった。自分を厳しく律し、民のことを第一に考え、広く天下に覇を唱える少女の物語は、ある日、突然終幕を余儀なくされる。  

 俺と華琳が出会う、ほんの少し前に、華琳はああいう風になったらしい。原因はわからない。覇気が抜けてしまったように、風船がしぼむように、曹孟徳としての才気のすべてを投げ捨てるように、ある日、突然、華琳は『普通の女の子』になった。

 その『普通の女の子』としての華琳しか知らない俺には、秋蘭の言葉に、なんの返答もできなかった。他人には、他人なりの忠義の形がある。俺が華琳に抱いている感情と、秋蘭が華琳に捧げた感情は、まったく違うものなのだろう。

「今の、華琳のことが、嫌い、なのか?」
 俺は、秋蘭に向き直った。
 その言葉で、積み上げたなにかが、崩れてしまいそうな、そんな気がした。
「嫌い、か。わからない。そういう問題でもないのかもしれない」
「いや、わからないってことはないだろう」
「そうだな、では北郷。そなたはどうだ。もし、今の華琳さまが、跡形もなく消えてしまって、まったく似てもにつかない性格をした、華琳さまの姿を模した全くの別人が、今まで華琳さまが居た場所に座っていたら──」

 ──おまえならば、どうする?

 不意打ちだった。
 考えたこともない。

 華琳の姿をしただけの人間が。
 華琳の声で、知らない言葉を語り、
 その昔の華琳が血と汗を振り絞って築き上げてきたものを、当然の権利として自らのものにしている。そして──周囲は、誰もそれを疑問に思わない。

 それは、想像するに、おぞましい光景だった。

「本来、私のやるべきことは、最初から決まっている。今すぐあの華琳さまと称する、偽物の首を刎ね、自らも自害すればいい」
「な────」
 秋蘭の言葉が、全身に染み渡る前に、
 俺は瞬間、腰に差した脇差しの重さを探っていた。秋蘭が、俺に背中をさらけ出すように、後ろを向いた。無防備な姿だった。あえて、隙を作っているようにさえ見える。

「冗談だ」
 秋蘭がさらりと言う。
 俺は、笑えなかった。
 冗談。冗談だって?
 曹操軍の腹心中の腹心である夏侯淵将軍が、冗談という体裁をとっていても、主への反逆を口にするということが、どれだけ迂闊なことか、彼女がわからないはずがないだろう。
 俺はこの世界の法律はわからないが、罷免されたり、打ち首になって当然なんじゃないのか、今の発言は。

「どうした。私は後ろを向いている。刺し殺すならば、今のうちだ。今なら、私を殺させてやろう」
「────ッ!!」
 完全に、手の内を読まれている。いや、むしろ挑発してこちらのアクションを待っているような口ぶりだった。自らの命をエサにしてでも、なにか探らなければならないことがある、のか?

「──秋蘭は、死に場所を探しているのか?」
「いや、私は、北郷一刀という男の本質を見たいと思っている。華琳さまが、初めて自分で選んで、自分で連れてきた将だ。私の代わりができるのかどうかぐらいは、見極めなければならないだろう。──しかし、さきほどの殺気は見事だった。一瞬だったが、本気で私を殺そうとしたな。それだけの忠義があれば、華琳さまの手伝いもできるだろう」

 秋蘭の言葉は、まるで遺言のようだった。
 意志の籠もったそれを、遮ることもできない。

 そして再び、秋蘭は語り出した。
 
 生まれたばかりの華琳さまは、自分が自分で在ること、ただそのことが、周りを困らせていることに、ひどく困惑しているようだった。彼女にとっては、自分になんの落ち度もないのに、人に嫌われるようなものだからな。私も、あまりの事の重大さに、気遣いなんて考えもしなかった。

 それはそうだ。

 今の華琳さまは偽物で、『それ』は、華琳さまの代わりに、そこにいたに過ぎない。
 記憶は戻ったか、と、一日に十回は聞かれる。そのたびに、華琳さまは目を伏せて、力なく首を振る。本人にしてみればどこも悪くないのに、国中の名医の前に引き出されて、一日中監視がつけられる。
 そういったことのたびに、華琳さまはごめんなさい、ごめんなさいと必死になって謝るんだ。私は、それを見て、同情の念などひとつも沸かなかった。ごめんなさいなんて、華琳さまは絶対に使わない言葉で、華琳さまには一番相応しくない言葉だったから。そんなときにだ、北郷──

「華琳さまが、お前と一緒にいるところを見た。華琳さまは笑っていた。私が、今まで一度も見たことがない。本当に魅力的な笑顔だった。そのときに、彼女が、笑えるということを、私ははじめて知ったんだ」
「……馬に乗りたいって、言われたんだ。秋蘭たちのために、その曹操さまに少しでも近づきたいって、そう言ってたよ」

 その俺の言葉に、秋蘭は、笑っていた。
 背負った荷物を、すべて下ろしたようだった。

「私が亡くしてしまった華琳さまへの忠義を、北郷、お前は持っている。おそらく、姉上にも負けないぐらいに。だから、私の夢を、華琳さまではなく、お前に預けよう。お前が絶望して、天下を諦めてしまうまで──」
「秋蘭」
「私は、姉上と同じように、華琳さまの一降りの剣だ。剣に意志など必要ない。あの方は、もっともあの方に相応しい生き方ができていればそれでいい。天下に覇を唱えることも、戦場で勇猛を奮うことも、一軍を手足のように操ることも、詩を作ることも、楽典を奏でることも、花を愛でることも、どれも彼女らしく、どれも曹孟徳らしい生き方だ。お前が、それを気づかせてくれた。だから──」

 秋蘭が、空を見上げた。
 この世界でも、空は蒼い。降り注ぐ日差しの明るさだけは、誰にも平等で、天井のない世界に、鳥が舞っている。
 
「だから、華琳さまを守ってくれ。私を、二度も主を守れなかった、無能な臣下にしないでくれ」


















「正統な権利を取り戻すために。復讐するは我に有り。私が天下に背いても、天下が私に背くのは許さんっ!!」

 おー、っと華琳が右手を思いっきり天に突き上げていた。隣には桂花もいる。ええと、どこから突っ込んだらいいんだろう。とりあえず、くだらないこと(断言)で、そんな名台詞を使うな。

「あ、聞いて一刀。秋蘭がひどいのよ。お菓子を食べるのは仕事を終えてから、とか。私が部屋に隠しておいたお菓子を、秋蘭が全部没収しちゃったのよ。悪虐だわ。ひどい悪虐の所行だわ」
「………………華琳は悩みがなさそうでいいなぁ」
「というわけで、一刀。ちょっとそこ歩いてくれる?」
「なにがそういうわけで、なのかわからないが、ええと、こう──か。ってええっ!!」
 地面が抜けた。
 踏みしめていたはずの靴に、何の感触もなくなって、自分の身体が数メートルほど落ちていく。一瞬の浮遊感があって、俺は穴に敷き詰められた大量の飼い葉にまみれていた。

「やった、成功ね。桂花の意見は間違いがないわ」
「はい。誰かを陥れるときは、この荀彧にお任せください」
 数メートル上で、華琳と桂花が話している。
 っていうか、この落とし穴は桂花の悪知恵か。

「ちゃんと人が落ちるということはわかったわ。あとは秋蘭をおびき寄せるだけね」
「いえ、華琳さま。生憎、これではあと一歩、衝撃が足りないでしょう」
「え、じゃあどうするの?」
「カエルやイモリなどの爬虫類や両生類を中に仕込んでおくのが妥当かと。とりあえず、そこの北郷を実験台に使いましょう」
 くくくくく、と桂花の、地獄の底から響くような笑い声が聞こえた。
「すばらしい意見だわ」
「ちょっと待てえっ!!」
 俺の意見は届かずに、華琳と桂花の声が遠ざかっていく。

「でも、なんで? こんな優秀なのに桂花の名前を、姉さまのところで聞いたことないけど」
「はい。袁紹さまは、私の献策を取り上げてくださいませんでしたので」
「人の意見を聞かないことが、姉さまの唯一の欠点だから。まあ、仕方ないわね。これからも私に仕えなさい」
「おーい。人を無視するなぁっ!!」

 結局、一時間後に通りかかった秋蘭に引き上げて貰うまで、俺はずっとそのままだった。ああ、もうやだ。寒いよう。暗いよう。













 次回→『華琳、匪賊討伐の指揮をとり、平原に八門金鎖の陣を敷く、とのこと』










[7433] 華琳、匪賊討伐の指揮をとり、平原に八門金鎖の陣を敷く、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:53




 この曹操軍に、将軍は五人いる。

 第一の将である、幾多の匪賊の首を刎ねてきた黒刀を操る猛将、夏侯惇(春蘭)。

 第二の将である、百歩先の敵の命を奪うとされた神箭手、夏侯淵(秋蘭)。

 第三の将である、九鈎刀を振るい、部下と共に戦野を駆け回る巨人、曹仁。(現在勝手気ままに俺よりも強い奴に会いにいく、とかいって出奔中)

 第四の将である、戦場での武勲よりも女性との噂による武勲の方ばかり喧伝されるオモシロ兄ちゃん、曹洪。(現在勝手気ままに運命の人を探しに行く、とかいって出奔中)

 そして、第五の将であり、自ら絶影を駆り、大陸最強の黒騎兵を自分の手足のように操り、旗下、12000(州牧として、華琳が自分の領土から集められる兵隊数の限界値)を従える、神将、北郷一刀。

 今現在、ふたりほど姿が見えないが、四海の隅々までに響き渡る呂布奉先の駆る騎馬隊5000──『黒きけもの』や、袁紹のところの、顔良、文醜、張郊の『三枚看板』、袁術の『八大神将』に一歩も劣らないラインナップである。

 ──これは、いったい誰の話だ。
 俺の知らないところで、いつの間にかこんなことになっていた。どおりで最近、道ばたで知らないおばあさんに拝まれたり、兵卒として仕えさせてください、という若い連中が押しかけてくるわけだ。
 中庭にいた春蘭と秋蘭に詰め寄ると、案の定、華琳がいろいろと在ることないことを、細作(シノビ)に命じて民衆の間に噂をばらまいたらしい。行動力のある馬鹿って、どうしてこう始末におえないんだろう。

「おい、ちょっと待て。ふざけんな」
「なにを言う。聞いただろう。今の曹操軍には、将軍がいない。兵を率いるのは貴様の役目だ。曹仁と曹洪が帰ってくるまでの間、貴様が指揮をとれ」

 明日の天気を語るような気軽さで、春蘭が言った。
 いや、無理だろ。ただの山賊討伐とはいえ、数千の軍隊とかを動かすのと、盗賊を捕まえたりするのはどう考えても違う。

「北郷。基本的にはおまえがいつもやっていることと同じだ。こちらが連れて行く兵力は1500程度。盗賊は、入った情報では100いるかどうか。いつも警備隊を使って、街で盗賊を捕まえたりしているだろう。それと同じに考えればいい」
 秋蘭が目をつぶった。
 おそらく、まともに戦闘にもなるまい。降伏の勧告をして、縛り上げるだけだ。やるのは新兵の調練なのだから、最初はそれぐらいで丁度いい。
 やることは、ただのお使いかなにかだ、と考えろ──それが、秋蘭の俺への返答だった。

「う、ううん。春蘭と秋蘭はどうする気だ?」
「決まっているだろう。本陣で華琳さまの守護を承る。華琳さまの護衛を、他の者に任せておけるものか」
「今回はそもそも新兵の訓練がてらの匪賊討伐だ。姉者と私も、いなくてもいいぐらいだからな。普段ならば、おまえにすべて任せて、私はここで茶を啜っている」

 言って、テーブルでお茶を飲む春蘭と秋蘭。

「それ、なにやら今回の匪賊討伐は、その普通じゃないように思えるんだが」
「そうだ。今回は華琳さまが総指揮をとる」
「う──」
 不安要素がひとつ増えた。
 なにをしでかすかわからない。戦にとって、これほど恐ろしいものはない、と思う。

「ちなみに、華琳って、軍を指揮したことは?」
「ないぞ」
「ない」
 異口同音。
 いや、まあ、想像してたけどさ。

「今まで、軍権は私たちに任せっきりだった。今さらながら、どうして軍の指揮をとりたいなどと言い出したのか。まあ、この変化はいいこと、なのだろうな、やはり」
「なに、安心しろ。お前がやられても、たかが盗賊の100人程度、この夏侯元譲が一息で撫で斬りにしてくれる」

 フォローか。それはフォローなのか。
 まあ、うん。いつかはやらなければいけないことだ。華琳が州牧に封じられたとはいえ、曹操軍は新興勢力だ。華琳の赴任前にも、今までも雑役はあったらしく兵はそれなりの質を維持しているようだった。俺に文官の才能はないので、詳しいことはよくわからない。けど──これぐらいはわかる。曹操軍は、あまりに急に大きくなりすぎて、軍の統制がとれていない。

 俺が華琳の口添えがあったとはいえ、あっさりと将軍の地位につけたのも、人手不足が深刻化しているからだ。兵隊が増えすぎて、武官も文官も不足しているのである。
 特に、文官など簡単に見つかるものではない。
 この時代の識字率は、悪い。異常なほどに悪い。ちなみに、俺の暮らしていた21世紀においてすら、中国人の半分以上は字がほとんど読めないし、書けないからだ。(今も、世界の非識字者の半分以上を中国が占めている)

 華琳の元の兵たちは精兵だったが、おそらく新しく吸収合併される兵たちは、そこまでの練度は期待できないだろう、とはまあ、文官筆頭の桂花の言葉だった。
 
 練度の違いは、作戦行動に支障をきたしかねない。
 俺にだって、それぐらいはわかる。将軍に取り立てられたとはいえ、戦などそう何度も起こるはずがないので、俺の仕事は街の治安維持だった。そこでは、ひとりの部下のミスで、隊全体が危険に晒されることもあった。

 乱世だった。
 すべてを救えない。戦で弱いものが死ぬのは、仕方ない。そんな、割り切り方をするようになった。しかし、その弱いもののために、本来死ぬべき者でないものが死ぬ、そんな例だってある。



 もちろん、それでいいだなんて思えない。
 さて、そこで俺にできることはないだろうか?
  








「なあ荀彧(桂花と呼ぶと話が進まない)、ちょっと教えてもらいたいことがあるんだが」
「ええいいわよ。自殺の名所なら西の門を出て、五十里(20キロ)ほど先にちょっとした崖があるから、そこから飛び降りるといいわ」
「………おい」
「おねがいだから、私の見えないところで死んで頂戴。あなたって、血の代わりに全身に精液が流れているんでしょう? 全身が破裂して死ぬのは構わないけれど、そんなおぞましいものを私と華琳さまに見せないでね」

 桂花は、振り向きもしなかった。
 桂花が、庭先に掃晴娘(てるてる坊主)を吊していた。
 切り紙で、ホウキを持った少女の姿を切り抜いている。日本のてるてる坊主の原型だった。やはり、雨を鎮める効力を期待されているらしい。

「ううん。そういうおまじないに頼るのは、軍師らしくないんじゃないか?」
 俺はなんとなく、思いついたことを言ってみる。
「あなた、軍師をなんだと思っているわけ?」
 桂花の問いに、俺は少し考えてから、
「戦に関する計略を絞り出して、仕える王を、補佐する役割、じゃないのか?」
「間違いではないけど、軍師の一番の役割はこれよ。気象予報」
「え?」
 俺は首をかしげた。

「出発の日が雨だったら最悪だし、火計で風向きを読み間違えたらこっちが全滅するでしょう。天候を占うのは、軍師の基本よ。そんなこともわからないの?」
 いや、わからねえよ。
 いや、そうか。七星壇で祈ったら風向きが変わったあげくに100万の軍勢を焼き殺した諸葛孔明なんて例もあるし、桂花の言っていることは真理かもしれない。

「俺になにか、できることないか?」
「なんのつもり?」
「いや、軍師の仕事について、知っておこうと思って」
「………………軍師の役割は、気象に加えて、天文、歴史、語学、刑法、地理、測量、工学、破壊工作、間諜、諜報、諜掠、軍学、詭弁、王佐、夏侯惇の操縦、献策、軍略があるけど、どれがいいの?」
 多いな。
 しかし、なんかひとつへんなの混じっていないか?

「別に今のままでいいでしょう。あんたは、私の仕事の半分はやってくれているし」
 桂花が、俺の心を見透かすように呟いた。

「軍師の役割は、主(あるじ)の不安と疑心暗鬼を取り除くこと。これが、軍師の仕事の五割よ。袁紹さまが、私の献策を取り上げてくださらなかったのは、それが原因」

 袁紹。
 華琳が心から尊敬する、彼女の(義理の)姉らしい。史実では早いうちに滅ぼされているが、多分この世界では相当に有能なのだろう。(──と、今の時点で俺はそう思っていた)



「俺は、華琳の精神安定剤か」
「ええ、それ以外一切なにも期待できない可哀想な男なんだから、それぐらいちゃんとやるといいわ」


 









 わらわらわらわらわらわらわらわらわら──と、本拠地から出てくる盗賊達が500を越えた辺りで、俺は数えることをやめた。
 山から降りて、めいめい武器を掲げて、好き勝手わめいている。団結力はなさそうだったが、士気は高い。1500を数える曹操軍を見ても怯む様子はなく、むしろ戦利品を掲げる有様だった。
 兵糧もあれば、酒や、衣服などもある。近くの村から掠ってきた少女たちの姿も見えた。鎧に返り血を浴びているものもたくさんいた。歳を問わず、首だけになった人だったものを掲げるのは、おそらく武将の真似事だろう。
 略奪の終わったあと、宴会をしている最中だったらしい。

「盗賊は、100に満たないんじゃなかったのか」
「済みません。華琳さま。情報に不手際があったようです」
「姉者、むしろあれは、この数日のうちに膨れあがったのではないか?」
「情勢は、常に変化するものよ。この場合は、与えられた情報に甘んじ、斥候を出さなかった北郷将軍の咎ではないかと。『減点10』」

 桂花がなにやら採点している。
 いいよもう、俺のせいで。

「戦ねっ。戦だわっ。ここから私の天下取りがはじまるのよっ!!」

 華琳はものすごくテンションが高かった。
 予想外である。ものすごくやる気だ。ひとりだと馬を御せないからって、俺のすぐ前で、一緒に絶影に乗っている姿は、とても情けないが。

「春蘭。全軍に伝えなさい。我々は八門金鎖の陣で、敵を迎え撃つわ」
「え、ええ──はい」

 春蘭は、少しだけ躊躇すると、伝令に言づてた。
 ほどなく、陣形が再編される。
 異論はない。むしろできない。この一戦は、敵を誅滅させることよりは、華琳の指揮官としての才を見ることにある。だから──明らかな間違いを犯すまで、口を挟めない。

 そして、勝者というのはどれだけ途中経過がみっともなくとも、最後に立っていればいい。 

「荀彧。八門金鎖ってたしか──」
「休、生、傷、杜、景、死、驚、開、の八門からなる陣であるために、『八門金鎖の陣』と呼ばれているわ。生、景、開門から入れば吉、傷、休、驚門は痛手を負い、杜・死門は死が待っているといわれているわね」

 真実、美しい陣形だった。
 九つに割った兵の塊が、戦場にひとつの絵を描いている。
 けれど、これ、どうやって攻撃するんだ? 限りなく虚仮おどしっぽいんだけど。

「なあ華琳。この陣形、意味あるのか?」
「なんとなくかっこよかったから。戦について、取り上げて欲しい陣形とかがあったら申し立てるように、って言ったら、曹仁が送ってきたのよ。いいところで気が利くわね」
 あ、思い出した。
 曹仁が単幅と趙雲にボロ負けした陣形だ、これ。

「さすが、華琳さま。部下に切磋琢磨させることで、まったく新しい次元の陣形を生み出すなんて。それに、各地に埋没している無名の英傑たちにも、等しく飛翔する好機を与えたことになるわ。『加点20』」

 ──それ、華琳にだけ採点甘くないか?

「じゃあ、次は戦いの前の舌戦ね。一度やってみたかったのよあれ」

 馬上で華琳が七星剣をぶんぶんと振り回す。
 うわ、あぶねえっ!!

 華琳はすー、すー、すー、と深呼吸を三回すると、天を衝くような大声で叫んだ。

「我が軍にあり、同じ曹の旗を仰ぐものたちよ!!
 我々の覇道は、ここより始まる。
 天より叩き売られたこの曹孟徳の才を汚さぬように、しっかりと戦いなさい。各自、親であろうと恩師であろうと、戦いの後に全力で屈服させるべしっ。同胞を助け、敵を挫き、勝利をつかみ取れッ!! 総員──雄々しく、勇ましく、華麗に突撃せよっっっ!!」

 華琳の七星剣が振り下ろされる。
 






 ──勝敗は、決した。



















 華琳率いる曹操軍は、矛の一合も交えぬうち、全軍が壊乱した。














「八門金鎖は、完全な待ちの陣形よ。突撃なんて命じたら、それだけで崩壊するに決まっているでしょう」
 
 後の、桂花の言葉である。



「ああ、曹仁なんて信じるんじゃなかった。使えないわね。あのハゲッ!!」



 ──こうして、
 史実に、覇王と称される曹孟徳の戦は、壮大なまでの責任転嫁から始まった。







 次回→『春蘭、血路を斬り開き、秋蘭、曹操の戦を見せる、とのこと』









[7433] 春蘭、血路を拓き、秋蘭、曹操の戦を見せる、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:53






 軍隊は、大質量の水のようなものだった。

 勢いが止まってしまった軍隊は、他の勢いにただ呑み込まれるしかない。
 それでも、完全に崩れきらないのは、俺たちのいる本営が剥き出しになっているからだろう。ここで華琳が討たれてしまえば、曹操軍はここで終わる。非常のときにこそ、底力がわかる。素人同然の新兵が、逃げ出したい恐怖のなかで、弓をつがい、戟を構えている。

 津波のように押し寄せる盗賊たちの中で、ただ一騎馬に乗って駆けてくる男がいた。凶悪そうな面構えで、戦利品であろう宝石をあしらった鎧をつけている。身なりからして、この男が指揮官というか、盗賊の首領だろう。

「はっ、喜べ。敵の大将はよほどの馬鹿のようだ。それに、あの将軍を見ろ。この間の武道大会で、素人に負けた女だ。敵は雑魚ばかりだぞっ!!」
「なるほど。勉強になる」

 馬と馬がすれ違いざまで、夏侯惇の黒刀が閃いた。

 斜線が光となって男の身体を貫通した。
 俺が、瞬きひとつしている間に決着はついてしまった。盗賊の首領は、赤い血を吹き出しながら、胴体ごと両断されて、自らの作った血だまりに身を沈めた。遅れて、盗賊の乗っていた馬の首が刎ねられているのに気づく。太い首が、まるで輪切りのようになっていた。あとに残るのは、噴水のように血を吹き出す泥肉だけだ。

「──が、この大剣、『七星餓狼』と我が愛馬、飛焔(ひえん)がある限り、貴様程度に遅れはとるものか」

 俺は、背筋に冷たいものがはいあがってくるのを感じていた。
 完全な状態の夏侯惇将軍とやっていたら、俺と絶影もああなっていたわけか。

 春蘭は、肉と骨を砕いたばかりの黒刀を再び構えなおした。

 そして、蒼天に誓うように黒刀を掲げる。



「踏みとどまれっ!!

 貴様らの背後に、守るべき主がいることを忘れるなっ!! 
 牙旗を立て直せっ!! 友を見捨てるなっ!! 我々の領土を土足で踏み荒らす不届き者どもに、戟と剣をもって天誅を下すっ!!

 曹操軍ここに有り、
 愚かな盗賊どもに、死をもって思い知らせてやれっっっ!!」



 春蘭の怒声と共に、曹操軍が反撃を開始する。千人以上の人間が同時に大地を踏み荒らす振動が、馬に乗っていてなお、腹に伝わってくる。











「おかしいな」

 俺の横で、秋蘭が呟いた。
 兵士達の張り上げる声に掻き消されそうだった。

「えっと、いったいなにが?」
「敵の首領が死んだというのに、ほとんど動揺が見られない」
「むしろ、動揺している敵と、していない敵の差が開いている、というべきかしら」

 桂花が戦場を眺めていった。
 絶望したような表情もあれば、むしろ自業自得だという表情もあった。最初から興味がない、といった顔も多かった。人望がない、というわけでもないだろう。情報だと盗賊団は100人ほどだったのに、実際は、500人を優に越えていた。華琳が善政を敷いているため、そうネズミやイナゴのように、盗賊が増えるはずもない。

 ──つまり。

「ほかの地域の盗賊と、共に宴会でもやっていた、というわけか」

 そういうことだろう。
 悪く考えれば、最悪の時期にきた。良く考えれば、他の県にはびこる盗賊どもを一網打尽にできる。

「頭を潰しても勢いが止まらなそうね。戦意を完全に潰しきるしかないようだわ」 
「まあ、他の首領が何人いるかは知らないけど、春蘭の強さを見た後だと、まず先頭にはでてこないだろうからなぁ」
 俺は言い切った。

 戦場で、春蘭は敵から見れば、悪夢と思うほどの虐殺を行っている。
 刃の届く距離に入ったものは、ただひとりの例外もなく首を刎ねられ、馬から叩き落とされ、腕を切り落とされ、全身から血を吹き出して死んでいく。あの黒刀は、触れただけで骨ぐらいはもっていく。
 それは、死の虞風のようだった。

「あ、あああああああっっ!!」
 恐怖に突き動かされ、失禁しながら、春蘭に戟を突き出す少年兵の顔面に、彼女はそっと優しく思えるほどの動作で、その黒刀の先端を突き入れた。
 ずぶり──という音がした気がした。潰れた顔から、粘膜と片目とどす黒い血を吹き出しながら、おそらく少年は自分が死んだことすら気づかぬまま、大地に還った。

 横から、盗賊のひとりが戟を刺しこもうとした。それより早く、春蘭の右腕が動いた。黒刀が貫通し、男は地面に縫い止められるようにして痙攣していた。身体に開けられた大穴から、自分の身体を構成する赤いものをこぼしながら、そのままの体勢で、二度と動かなかった。
 黒刀が振るわれるたびに、五つ、六つの命が散っていく。

 ──驚くほどに、簡単に命が消える。

 覚悟したはずだ。
 こういうことは。覚悟は将軍になったときにすませた。俺は人を殺す。力を持たなければなにもできない世界で、華琳のための戦をする。躊躇すれば、こちらが殺される。

 それがいいのか、悪いのか。
 考えるのは、自分が死ぬときか、俺が華琳の元を去るときだろう。



 そこに慈悲はない。
 正義もない。道徳もない。



 それでも──

 俺は、華琳の共犯者だ。
 彼女の重荷の半分を背負わないといけない。



「一刀。大丈夫? 顔色悪いけど」
 華琳の顔が、息のかかる距離にあった。俺の懐に覆い被さるようにして、華琳は絶影の鞍の上で、そのまま後ろ(俺)に全体重を預けて、ひっくりかえってくる。

「ああ、ちょっと戦場に酔っただけだ」
「うん。それはそれとしてね。そろそろ私の逆転の秘策が発動する感じだと思うのよ」
「……一応、聞くだけ聞いてみようか」
 ひっくり返ったままで、華琳が言っていた。
 どうしようもなかったら、口を塞ごう。

「一発逆転には、これしかないわ。十面埋伏の計を行うわ」
「華琳、それ、将軍が十人いないとできないぞ」
「ええっ、ほんとにっ!!」
 ああもう、いろいろとつっこみたい。

 ちなみに、十面埋伏とは、死神軍師と呼ばれた郭嘉が世に出した陣形だった。ものすごく分かりやすく言うと、多段時間差ジェットストリームアタックというところか。やられる相手からすれば、悪夢のような計だが、そんなものがこの混戦で使えるはずもない。























「秋蘭、桂花、そろそろ黒騎兵を突っ込ませるぞ。敵は春蘭に中央突破されて、ふたつに割れている。兵力の少なそうな、左を叩く。右は弓兵が牽制して、近づけないように」
「基本方針はそれでいいか。
 ──だが、必要ない。もう決着はつく。
 北郷。よく見ておけ、これが、私がこの身のすべてを捧げた、曹孟徳の戦だ」
「え?」

 秋蘭が弓に鷲の矢羽根のついた矢をつがえた。
 餓狼爪、と呼ばれる、百歩先の的を射抜くとされる、繊細な細工の施された剛弓である。まるで、それが夏侯淵将軍の身体の一部のように馴染んでいる。

 馬上から、彼女はその餓狼爪本体を、横に寝かせるようにして、弓弦を引いた。満月のような形に引き延ばされた剛弓から、ヒュ、と矢が放たれた。




 
 ──ビイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッッ!!!





 鏑矢が、意志を発するように、大気を引っ掻くような音を立てた。矢に穴を開けて、笛のような音を発する仕組みになっているのだろう。放たれた矢は、レーザービームのような速度と軌跡を描き、最後列にいたはずの男の額を砕いた。

 敵に、動揺が広がった。
 
 二射。
 三射。
 四射。
 五射。

 耳に反響する笛のような鋭い音と一緒に、音より速く飛来する兇器が、最後列にいた男達の額を砕いていく。

 的を射っているのではない。
 秋蘭は、隊というひとつの固まりを打ち砕いている。春蘭の突撃でも壊乱しなかった盗賊達が、完全に統制を失っていた。

 矢がひとつ撃ちこまれるたびに、ひとつの固まりが完全瓦解する。それは、軍という固まりの急所であって、その急所とは、各々の盗賊団の首領を務めている男達だった。
 




 どんな神業か。

 秋蘭は、さっきからタカのような目で、戦場のすべてをつぶさに観察し、弱点を探り当てていた。彼女に、見えないものはなにもない。いまや、この戦場のすべてが秋蘭の掌の上に落ちている。





 ──すべてが、凍り付いていた。
 時間も、敵の動きと味方の動きも、なべてすべて凍てつかせるように、秋蘭は声を上げた。視線だけで、射殺すような、冷徹な目には、なんの感情も浮かんでいない。





「──曹操軍、第二の将、夏侯淵が貴様ら賊徒に五つ勧告する。
 
 ひとつ、抵抗したものは殺す。
 ひとつ、動いた者は殺す。
 ひとつ、声を上げたものは殺す。
 ひとつ、音を立てたものは殺す。
 ひとつ、武器を捨てぬものは殺す。

 この五つを守れる者だけを助ける。

 ──以上だ」

 
















 それほど大きな声とも思えなかったのに、夏侯淵の声は冬の冷気のように身体の隅々までを凍えさせた。味方すら、だれひとり動けない。ただ、時が止まったように凍り付いて、動くものは、風に煽られる草木と、まったく空気を読まない華琳だけだった。

「は、ははははははは。なにいってやがる。てめえら、あいつらを逆にふんじばって──」




 ──ぱんっ!!




 男の命運は、そこで尽きた。
 レーザーのような軌跡で飛来した秋蘭の矢が、男の額を砕いた。 

「ひいいいいいいいっ!!」
「い、いやだああああっ!!」

 




 ──ぱんっ。
 ──ぱんっ。






 パニックに陥って逃げだそうとする盗賊を、秋蘭は後ろから撃った。まるで幼子がアリをひとつひとつ潰していくように、それからの秋蘭の行動は、執拗かつ丁寧だった。








 ──ぱんっぱんっぱんっぱんっぱんっぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんっっ!!








 二十人ほどを三十秒ほどで鏖殺しつくした後には、平原が赤く染まっていた。流れ出す血が、地面に池を作っている。そしてそこには、呪縛が解けてへたりこむ盗賊達と、投げ捨てられた武器のみが残っている。

 秋蘭の、氷の戦だった。
 ひとつの集団という、形の見えないものの中心を貫き、果てにすべての敵の、心を砕く。

 その論理の究極を、俺は美しいとさえ感じた。即興で考えられた芸術だ。戦の恐怖などどこかに吹き飛んで、緻密に構成され、上演された舞台芸術に、俺は心を捕まれていた。 

 ──これが、
 これが── 

 カリスマ、と呼ばれるものか。

「なあ、秋蘭。これが──」
「そうだ。これが本来の、華琳さまの戦だ。私は、前に見たそれを再現したにすぎない」 
 





















 姓は曹、名は操、字は猛徳。
 中国史上、もっとも煌めくように輝いた、『悪』──か。

 俺は、震えを隠すように、華琳を抱きしめた。

 避けては通れない。

 華琳が、
 華琳である限り、

 どんな形であれ、華琳のために、


 


 ──俺は、曹操の影と、闘わなければならない。













 次回→『季衣加入イベント(タイトル未定)』 


 



[7433] 華琳、メイド喫茶を立ち上げ、一刀、豆腐をもとめんとする、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:53









「ぐっ、無念だ。この私が、こんなところで息絶えることになろうとは──」
「はぁ、美しいです。華琳さま──」

 春蘭と桂花が、死にかけていた。
 目の前にある現実になすすべもなく、その命を掻き消されそうになっている。当然のように、俺も似たようなものだった。眩しすぎて、直視すらできない。この世界には、触れてはならないものがあるのだと、改めてそう思う。これはやばい。放送事故だ。ありえない。

「おかえりなさいませ。ご主人様。──こちらへどうぞ」

 メイド服に身を包んだ華琳が、今入ってきた客を先導していく。

 メイド喫茶だった。昼間の混雑する時間帯を終えたということもあって、空席がぽつぽつとある。

 それでも、店の中は花が咲き誇るような喧噪に満ちている。華琳と同じく、メイド服に着替えた黒騎兵の少女たちが、中にいるお客達に給仕をしていた。そのさまは驚くほどに華やかで、リピーターがつくのもわかる気がした。

 外見は、普通の中華料理店となんら代わりはない。華琳が店の内装からのデザインまですべてを総括したらしく、やや少女趣味が過ぎるような気がするが、それもまあ我慢できる範囲だった。

「蓮ちゃん、11番のお客さま、お会計です。波奈ちゃん、14番のお客様にお水持っていってー」

 華琳が注文をとりに、ぱたぱたと動き回っている。
 かわいい。

 メイド服姿の華琳は、殺人的にかわいかった。容姿的に相当にレベルの高い黒騎兵の少女たちの中にあって、彼女の輝きは群を抜いている。断言しよう。かわいさは人を殺せる。

「はい。ご注文を繰り返します。水晶飽(蒸し団子)、ふたつ。皮蛋豆腐(ピータン豆腐)ひとつ、福建炒飯(あんかけチャーハン)ひとつですね。しばらくお待ちください」

 華琳は、こっちのテーブルに一瞬目を向けると、顔をしかめた。

 かつかつと靴音を立てて、俺と春蘭と桂花のいるテーブルの上に乗ったバケツプリンの上に、ソースで文字を書く。そういうサービスである。書かれた文字は、こうだった。





 『──さっさと帰れ』





 最初の一時間は、華琳も喜んでいた。メイド服スカートの端をつまんで、「おかえりなさいませ、ご主人様」とかやってくれていた。至福の瞬間だった。なに仕事をさぼってこんなことやってるんだ、と問い詰めにきたはずだったのだが、もうそんなことどうでもよくなっていた。
 三時間たったあたりで、華琳の態度がつめたくなりはじめた。視線を外して、空気と同じような扱いになっている。
 ちょうどお昼時で、随分と忙しそうだった。俺たちの席も、一番いい席から、一番見通しの悪い席に移された。

 そして、五時間粘った現在、帰れ──となっている。

 喜んでいるのは変態(桂花)ひとりだった。背筋を快感に灼きつかせて、放置プレイされている自分に酔っている。「ああっ、華琳さま、桂花は華琳さまの肉奴隷ですぅ」と、呟きながら、ものすごく幸せそうだった。(ちなみに、華琳自体は、自分にそういうケはない、とことあるごとに言っている)


「何度も言ってるでしょう。ここにいるメイドたちは全部、黒騎兵から選抜したんだから、ごろつきとかが暴れても、全部叩き出してくれるわよ」
「うう、でもぉ」
 春蘭がぐずっている。
 華琳は、俺と春蘭と桂花に目を向けると、

「一刀」
「な、なんだ?」
「春蘭」
「はっ、何でもお申し付けください」
「桂花」
「は、はい。華琳さま」



「──豆腐切れたから、買ってきなさい」












「この夏侯元譲、一命を賭して、主の所望する豆腐を買い求めてこようではないか」
「筋肉馬鹿はこれだから。体のいいやっかい払いじゃないの」
「なにを言う。きさまの役に立たない脳味噌で考えられることというのは所詮その程度のようだな」
 春蘭が、桂花を見下したような恰好をとる。

「……なんですって?」
「ふ、ならば貴様はただの豆腐を持って行くつもりか? なんの期待もされていないところに、誠心誠意の真心と一手間をかけるからこそ、日々の生活に潤いが生まれるのではないか」
「ぐっ──脳筋が、知ったようなことを」
 桂花には、抜け落ちていた考えなのだろう。
「桂花、本と向かい合うばかりで、実戦が足りないのではないか? 華琳さまになでなでしてもらいながら、満面の笑顔で、『よくやったわ、春蘭』と褒めてもらえるような考えのひとつやふたつ、貴様には思いつかんのだろうな」
「で、具体的には?」
 俺は口を挟んだ。

「………………」
「………………」
「………………」
「……さあ、豆腐を買いにいくぞ」
「結局それかよっ!!」
「あははっ。にぎやかですねー」

 それを横から見ているのは、流琉(るる)だった。
 三國志に詳しい人間になら、典韋と呼んだほうが覚えがいいかもしれない。そういえば、陳留の出身だった。史実だと陳留の太守である張莫の配下だったはずである。(この世界では、張莫はとっくに部下をつれて陳留から逃げ出している)

 料理人として、華琳がその味に惚れ込んだところを、武将としてスカウトされた、という経緯だった。
 今の彼女の役職は、将校だった。俺が曹操軍の大将ぐらいだとすると、彼女は少佐ぐらいいったところか。相当に偉いはずだった。戦場には不釣り合いとしか思えないような背の低い少女だったが、この世界では15歳にもなれば、自分の人生に責任を持たないといけない。それに、子供の重さほどもあるヨーヨーのような円盤と、目方八十斤の鉄戟を使わせれば、その武勇は曹操軍でも五指に入るぐらいだった。

 ──なお、華琳が流琉をスカウトしたときの様子だが、



「ねえ一刀。どうしよう」
 と、華琳が血相をかえてやってきた。
 心なしか着ている服が、土にまみれたりとボロボロになっていた。

「この前作ったアレなんだけど」
「あ、この前作ったアレか」
 この間、どこの軍勢よりも目立つようにと特注したアレである。
「我が軍では、扱えないということが発覚したのよ。どうしよう。この間盗賊から没収した戦利品、全部これに使っちゃったのに。頑張ったのに、我が軍で扱えないんじゃあどうしようもないじゃない」
「ええと、そういうの確認しろよ。できただろ?」
「だって、かっこよかったのよ。今までの三倍は大きかったのよ。目立つじゃない」
 どうしてこう、この娘は後先考えないんだろう。
「で、いくら遣ったんだ?」
「………………ぐらいだけど」
 耳打ちされた金額に、いいかげん堪忍袋の緒が切れた。

「お前に学習能力はないのか。おいっ!! 絶影の時といい、酒を造った時といい、メイド喫茶の時といい、何回目だとおもってるんだこらっ!!」
「らってらって、ひぁっこほかったんらものー」
 俺は華琳の口の端を掴んで、そのまま引っ張った。

「あの、華琳さま。兄さま、お取り込み中ですか?」
「あ、あら流琉じゃない。そんなことないわよ。どうしたの?」
「いえ、メイド喫茶に出したい品目がが決まりましたので、味見をお願いしようかと」
「それより流琉。聞いてくれ。じつはかくかくじかじかというわけでな」
「ええと、これが持ち上がらないわけですか?」
「ああ──」

 種明かしをしてしまおう。
 華琳が注文したのは、特注の牙門旗だった。
 その重さ、なんと500斤(100キロ)。持ち上げられるものなどいるわけもなく、兵士数人がかりで持ち上げないといけない、という有様だった。

「だめよ。数人がかりでなんて、かっこわるいじゃない」
「………………」
「ああっ。だめっ。ごめんなさいっ一刀。腕を、腕をひねるのはやめてっ!! いたいいたいいたいっ。ひぃんっ」
「えいっ」
「──はい?」
「あれ?」

 流琉が、我門旗を片手で持ち上げていた。
 彼女の身体の数十倍はある曹の字が縫い込まれた旗が、風になびいてぱたぱたと翻っている。 

「ねぇ、流琉。黒騎兵に入る気とか、ない?」

 まあ、つまりはそういうことだった。
















 春蘭が自らのキャラに似合わないことをいったせいなのか、ただのおつかいは、最初から暗雲が立ちこめていた。陳留の市は、税が安いこともあって、いつも盛況だった。豆腐のような生活必需品は、どこにいっても手に入る──そのはずだったのだが。

『売り切れ』

『次回入荷未定』

『SOLD OUT』

『のヮの さんの次回作にご期待ください』

 おい、なんで豆腐が売り切れるんだ?
 四つから五つほどの店を廻ったところで、まだ日が高いというのに、豆腐屋はすでに閉まっていた。

「春蘭、一応聞いておくけど、豆腐ってこの大陸で貴重品だったりしないよな」
「北郷。私を馬鹿にしているのか。安くて便利でおいしい、最高の大衆食品ではないか」
「だよなぁ」
「兄さま。いつもは、この店。日が落ちるまでやっていますよ」
「ここまで売り切れが続くと、なにか他の原因がある、と考えるべきね」
「他の原因って言われても──」

 街中を歩く俺たちの前に、ひとだかりが立ちふさがっていた。

「むぅ、無辜の民衆までが、私たちが豆腐を買おうとするのを邪魔するのかっ!!」
「いや、それはどんな陰謀だよ」
「………………」
「ん?」
 桂花が無言で指を指した先にあったものは、『月一、大食い大会開催、今回のメニューは特盛り四川麻婆豆腐。是非、君の胃袋を試してみないか。参加者求む』、だった。

「豆腐が、全部売り切れてたのは、このせいか」
「ふ、ふふふふふ、ならば、これに優勝すればいいのだな。余った豆腐ぐらいなら、廻してもらえるだろう」
「そうね。食べるだけ、か。春蘭。あなたにこれほど相応しい任務もないわね」
「ふ、桂花。おぬしと珍しく意見が合ったな」
「──いや、意見なんて合ってないうえに、馬鹿にされてるから」
「なんだとっ!!」
 気づいてなかったのか、もしかして。

「………………」
「ん? どうしたんだ、流琉」
 見ると、流琉が顎のあたりに手をあてて、考え込んでいた。
「いえ、兄さま。こういう大食い大会を見ると、わたしの探している子を思い出すなぁと」
「ああ、友達なんだっけ? たしかに心配だよな。この情勢だと、食べ物もロクに手に入らないし」
 俺も、頭領に拾われてなかったら、とっくに餓えて死んでいる。
「あははっ。餓えていることはないですよ。あの子なら、山の中の山菜を見つけて、一月でも二月でも生き延びられますから」
「それはすごいなー」
 はて。
 典韋の友達って、史実にそんなのいたっけ?













「それでは、月一恒例、大熊猫(ジャイアントパンダ)飯店による(飛び入り歓迎)大食い対決を取り行いたいと思います」

 司会進行は、陳留一武道会でアナウンスをしていた眼鏡の少女だった。
 いや、いいかげん何回目だ、という気もしてくる。参加する人間の半分以上は、すでにもう見たことがある人たちだった。春蘭に瞬殺された鉄竜とかもいる。いいかげん、こんな馬鹿な催しに参加する人間は、数が限られているということだろう。
 俺もいいかげんこれで、三回目だし。

 陳留一武道会のみならず、こないだは聞き酒大会とかやっていた。いつも以上にへにゃへにゃになった華琳と、虫を恐がるぐらいの泣き上戸になった春蘭、壁に向かってひたすら姉の愚痴を言い続ける秋蘭、俺を色仕掛けで落とそうとする桂花、と実に恐ろしいものが見られたのだが、まあ今はそれはいい。

「参加者なんと67名。ここから、前回優勝者の許緒選手と戦える、10人の戦士達が選ばれますっ!! では、第一回戦は灼熱地獄。さあ、二回戦、三回戦とレベルがあがっていくごとにより過酷になっていくこの地獄の中、はい上がってくるのはいったい誰だっ!! ではフードファーィトッ!! レディーゴーッ!!」

 始まる前から、すでに汗が噴き出していた。
 周りの熱気のさることながら、熱を閉じこめる羽織を着せられて、目の前には煮えたぎった溶岩焼きが置かれている。
 なんというか、食べる前から吐きそうだった。
 麻婆豆腐を口に入れていく。辛いっていうか、痛い。あまりの熱さと辛さに全身の毛穴から汗が噴き出している。実にひどい。味なんてわからない。

 はじまって10分で、実に40人近くがギブアップしていた。
 桂花は、俺の横で口から泡を吐きながら、そのまま骸(むくろ)を晒している。ときおり、ぴくぴくと動くことからして、生きてはいるらしい。
 春蘭は、見ると余計暑苦しくなりそうだった。気合いと熱気と愛とかそこらへんで、一番に完食して、今は筵の上で精神統一していた。
 俺は俺で、最後の一口を啜り終わると、俺は大の字に倒れ込んだ。

 ──すでに限界なんだが、これで一回戦か。

 二回戦が始まるまで、しばらく時間があった。

「兄さま。大丈夫ですか?」
 ぱたぱたと、借りてきた炭火焼き用の団扇(うちわ)で、流琉が俺に風を送ってくれていた。

 大休止ということで、昼食が配られたのだが、実行委員は頭が沸いているんじゃないだろうか。周りを見ても、誰一人配られた昼食に手をつけている人間はいなかった。二回戦の前に、さらに人数が半分になっているだろう、おそらく。もう俺も逃げたい。

「もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅ」

 俺の横で、配られたおにぎりをそのまま食べている少女がいた。流琉ではない。髪の毛を春巻きのようにまとめている、流琉と同じぐらいの年頃の少女か。

「ええと、食べると二回戦が辛くなるんじゃないか?」
「ボクなら大丈夫だよ。知ってる? 食べ物を消化するのにも、食べ物の力が必要なんだよ。だから、腹二分目ぐらいにはしておいたほうが、たくさん食べられるんだ。あ、兄ちゃん。それ食べないんなら、ボクが食べてもいいよね」
「ぜひ食べてくれ」
「うんっ!!」
 うへぇ。
 見ただけで気分が悪くなってくる。
 っていうか、とっくに腹二分目とか越えているだろう、どう見ても。

「──あれ、どこかで聞いたことのあるような声が、って──季衣っ!!」
「って、あれっ!! 流琉っ、どうしたの、こんなところで」
「それはこっちの台詞よっ。なんでこんなところにいるのよー!! って、ううんっ。季衣のことだから、動物的な本能でご飯をより多く食べられそうなほうに集まっていったに決まってるけど」
「へへへっ、あったりー」
「あったりー、じゃないわよっ。散々人に心配かけておいて、どうしてそんな悩みがなさそうなのよーっ!!」
「待て待て。流琉、この子が流琉の言ってた友達、だろ? 俺たちに紹介してくれないか?」
「流琉、この兄ちゃん誰?」
「わたしの仕事場の、上司だよ」
「へー、はじめまして。流琉の友達の、許緒っていいます」
「ふぅん、許緒っていうのか。っていうと、あの許緒か」
「どの許緒かは知らないけど、この許緒だよ?」
 許緒が不思議そうに首をかしげた。知的な流琉と違い、雰囲気的には華琳に似ている。
 端的に言うと、阿呆っぽくてかわいい。

 えーと、許緒というと、史実だと曹操の親衛隊の隊長だっけ? いや、うろ覚えで多分間違ってるだろうけど。
 曹操が死んでからも魏という国を支え続けた名将じゃないか。ふと思ったんだが、この子を華琳の傍につければ、春蘭と秋蘭は、夏侯惇、夏侯淵将軍として、独立して軍を率いることができるんじゃないか、とか思った。少なくとも、ああやって無様に軍が壊乱することもないだろう。
 
 笛の音が鳴った。よろよろと、ゾンビのように参加者が動き始める。二回戦が始まる合図だった。俺も、多分生きて帰れない死地に向かう。元気なのは、許緒ひとりだけだった。

 そのあと──
 
 許緒が圧倒的な強さを見せたり、俺が心なし半ばで倒れたり、春蘭がマジ吐きしたり、いろいろあったが、思い出したくもない。

「豆腐ひとつ買ってこれないなんて、ひどい無能ね。食い扶持を与えているのが、恥ずかしくなってくるほどだわ」
 許緒をなでなでしながら、華琳は珍しく尊大な態度だった。
「ぐぬぬぬぬぬぬ」
 お前の部下だからだよ、という喉まで出かかった言葉を、必死で噛み殺す。

「あの、兄さま。元気だしてください」
「ああ、流琉は優しいなぁ」
 そんな俺を見て、華琳はより機嫌が悪くなったようだった。なんなんだ、いったい。

 







 次回→『霊帝崩御し、袁紹、曹操、袁術、洛陽に集結す、とのこと』




[7433] 霊帝崩御し、袁紹、曹操、袁術、洛陽に集結す、とのこと(上)
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:53







 華琳の治める兗州は、決して一枚岩ではない。

 兗州の領郡は8つあり、東郡、陳留郡、済陰郡、済北国、東平国、任城国、山陽群、泰山郡となって、陳留以外の群には、それぞれ太守や国相がいる。華琳は州牧として、陳留を治めたうえで、それぞれの軍権を総括する権利を有しているが、それぞれの群の太守たちは、決して、華琳の部下ではないのだった。

 軍を出すよう、要請することはできても、出撃を強制することはできない。済北国相の鮑信、山陽郡太守の袁遺、東郡太守の橋瑁あたりは華琳との親しく、いざというときの協力をとりつけることはできるだろうが、誰がいつ不穏な動きをするのかわからない状況である。

 自分の州への抑えをおくために、夏侯惇と夏侯淵、それに荀彧の留守番は決定されたことだった。特にまあ夏侯惇(春蘭)は、黄巾党退治の時に、袁術の客将だった孫策に借りをつくったこともあり、奴がきているだろうからと、最後まで洛陽に行くことを望んでいたが、その願いも、最後には却下された。

 というわけで──

 大将軍(軍事の最高責任者)である何進に召し出されて、華琳が洛陽へと行くことになった。霊帝が崩御し(死んで)、十常侍に対抗するために、自らの手勢を集めて権力を盤石にしようという、そんな意向らしい。

 もとより、日和見はできない。
 外戚(皇太后の親戚)と、宦官の対立構図によって、この漢王朝はここまで腐敗した。何進につくということは、外戚に肩入れすることになる。どちらが正義とか悪とかではない。
 これから行われるのは、完全なる外戚の権力と宦官の権力との潰し合いであり、漢王朝で繰り広げられる、おそらくは最大にして、最低の権力闘争である。

 そこに、すでに理想の入り込む余地はない。

 毒をもって、悪を制す。
 皇帝を抱き、大義名分で対立軸を塗りつぶす。大陸の歴史上、幾多にも繰り返されてきた権力闘争の一コマだった。
 




 そういうことで、あまりおおっぴらに軍は動かせない。
 連れ従うのは、黒騎兵から選抜された四人と、俺(相談役)と、季衣(許緒の真名)と、流琉(典韋の真名)だけだった。最小限の人数といえる。あまり、武芸に秀でたものを連れて行っても、意味はない。
 洛陽の、天子の住まう宮廷に、俺たち程度のレベルの身分で入れるはずもない。中まで進めるのは、典軍校尉である華琳だけだった。あとは、華琳の西園八校尉の力でなんとかするしかない。

 が──、華琳の身を守るだけなら、これで十分すぎるほどである。
 
 香嵐(こうらん)
 夏月(かげつ)
 李華(りか)
 水(すい)

 この四人は、黒騎兵の中でも、武力のみなら最強の四人であり、四人一組のコンビネーションアタックは、春蘭すら圧倒するほどだった。



「でもさー、ねー、しょーぐん。季衣ちゃんと流琉ちゃんをさー。なんで自分の隊に入れちゃったのよー。このふたりなら、黒騎兵のなかでも、すぐに頭角を表せたはずよー」

 間延びした声を上げているのは、李華だった。
 黒騎兵の中でも古参であり、とにかくうるさい。
 間延びした口調とは裏腹に、この娘が口を閉じている方が珍しいほどだった。賑やかしというか、ムードメイカーみたいな感じなんだろうか。

「なに言ってるんだ。みすみす、季衣と流琉を、爛れたレズ集団の餌食にしてたまるか」
「ほえ?」
「はうっ」
 俺は季衣と流琉を引き寄せた。
 季衣と流琉は、本日付けで俺の軍に、将校として組み込まれている。華琳としては黒騎兵に入れるつもりだったようだが、良く考えれば、この無垢な宝石ふたつを、わざわざ穢されていくのを我慢できるはずもない。

「なによそれー。私面倒見いいから、かわいがりまくりよ。具体的に言うとお尻の穴の一筋まで舐め尽くしてあげるんだからね」
「だから、それをやめろっていうのに」

 黒騎兵とは、隊員の九割が同性愛者であり、まあ、そういうところだった。互いを真名で呼び合うことが隊の規約であって、ひとつの独特な固まりとして、華琳の剣としての役割を担っている。
 今のようになる前の、主君(曹操)の趣味がより反映されているということだろう。

「そんな、しょーぐんに、誰かがなにかを吹き込んだのね。きっと、この中に裏切り者がいるわー」
「はい。私が反対しましたから」
 夏月が、ツンとした態度で応じた。
 李華とは逆に、爛れた軍規の引き締めるほうの役割だった。ひとたび戦場に立つと、鬼気迫るようになっている。黒騎兵のなかで、まともなのはこの娘だけだった。もう少し経験を積めば、流琉と共に、秋蘭の後釜として十分通用するはずである。あと、歳に似合わず、やや説教臭いところはあるが。
 
「ちょっと夏月。それどういうことー」
「お姉様は不潔すぎます。それに節操がなさすぎです。我々は華琳さまの剣であり、なればそこに私情など挟むべきではありません」
「むきー、相変わらず、貞操観念の固まりみたいな女ねぇあんた」
「節操をもってくださいと言っているだけです。欲望に従うままでは、獣以下です」
「ええ、えーと、ふたりとも、ほら、みんな仲良く、ね?」

 割り込むように、香嵐(こうらん)が言う。
 黒騎兵の総隊長であり、まとめ役、なのだが、なぜかこの娘が介入して話がまとまったためしがない。というか、そこらにいるような普通の村娘にしか見えないのが不思議なところだった。上に立つものが、備えてしかるべき威厳みたいなものが、逆さにしてもひとかけらたりともない。
 剣技は曹操軍の中でも比べるものがいないレベルなのだが、武人特有の、そういうニオイが一切ない。
 ある一定以上の使い手は、どんなに隠そうとしても佇まいや目の光りに、隠しきれない癖や動きが染みつくものだが、香嵐には、そういう趣(おもむき)が一切無いのだ。
 
 よって、彼女の基本方針は不意打ちである。
 剣の持ち方からなにから、すべて素人のそれであるのに、結果的にすさまじく強い。歴戦の黒騎兵の総隊長として、要求されるのは、すべてを屈服させる強さのみ。彼女はその資格のすべてを備えている。

 ただし──

 威厳はまったくないため、部下の争いを涙目で見ているしかない。

「はぁんっ。李華ちゃんも、夏月ちゃんも、私の話ちゃんと聞いてよぉー」
「そうです。香嵐お姉様のいうことを、聞かないとダメです」
 口を挟んだのは、一番歳の若い、水(すい)だった。諭すような口調に、それを聞いて、爆発寸前だった李華と夏月が顔を見合わせた。

「ふん、今回だけは、水に免じて許してあげるわよ」
「む、水が言うなら、仕方ないですね。今回の説教はここまでです」

 毒気を抜かれたように、ふたりが、矛先を収める。

「ねぇ、水のいうことは聞くのに、なんで私の言うことみんな聞かないのかな。人徳とか? もしかして、私一人がまだ隊長だって思ってるだけで、みんなはもう私のこととっくに見限ってたりしない? 私、がんばってるつもりなのに、なのにっ!!」
「そんなことないです。私たち、隊長のこと大好きですよ」
「ああっ、水ちゃんは私の女神さまだよぉー」

 香嵐が水をぎゅっぅぅぅぅぅぅぅっ、と抱きしめていた。
 




 








 俺は、部屋の一角で繰り広げられている百合空間から目を切ると、とりあえずなにやら考え事をしている主君に目を転じた。ここは、大将軍である何進の私邸だった。広く、召使いも十人や二十人できかない。現太后に立てられた妹を有し、自らもこの洛陽にあって、一、二を争うほどの武力を有している。
 洛陽には、十常侍と何進の軍隊のほかに、有力な勢力はない。
 ほとんどが金で官位を買った無能どもであり、何進がここに集めようとしているのは、諸国のなかで、じっくりと牙を研いでいるものたちだった。

「つまりは、四人ね。私と、姉様と、妹と、董卓ちゃん」

 ええと、華琳(曹操)と、袁紹と、袁術と、董卓か。
 むしろ、董卓ちゃんって、呼び方がすでにすごいな。史実だとこいつら結局、全員殺し合うんだよな。というか、この四人が仲良くするって、どんな三國志だ。

「その董卓ってのは?」
「何進おばさんの子飼いの勢力よ。董卓ちゃんは争いが嫌いで、黄巾党の討伐の時に、なんの活躍もできなかったの。そこで、董卓ちゃんは罰せられるはずだったんだけど、何進おばさんが庇ったのよ。彼女の旗下である華雄将軍と、呂布将軍は、妾の下で武勇を振るって、黄巾党退治に、ものすごく貢献したって」

 その大将軍の何進って、元は肉屋なんだったか。たしかに、そんなだと子飼いの勢力なんて作りにくいだろうな。

 そこまで話したところで、この屋敷についている召使いたちの動きが慌ただしくなった。誰か、来客があったらしい。

 そろっと、俺と華琳と季衣は、入り口を覗いてみた。
 人影は四つ。
 どれも、見慣れない、が、ひとりを除いて、全員が恐ろしいまでの遣い手だった。

「季衣、勝てるか?」
「兄ちゃん、無理だよぉっ。特に、あの髪の毛が跳ねてる女の人、多分、ものすごいよ」
「だよなぁ」

 最初に、圧倒的に目を惹くのが、方天画戟、と呼ばれる武器を後ろに担いだ少女だった。視線はむしろ閉じかけていて、なんの感情も読み取れないが、佇まいそのものに、鋼が入っているような感じだった。

 そして、猫を思わせるようなくりくりとした目を横に動かしているお姉さん。はみ出るような胸に、さらしを巻いてそこに陣羽織を羽織っただけの恰好だった。不思議と、いやらしさがないのは、不思議だった。陣羽織と袴、そして履いている下駄。煌めくような将としての格が見えた。懐に抱いているのは、青龍偃月刀──か?

 あとは、彼女たちに庇われるように、後ろに控える、可憐なガラス細工を思わせるような、雪華のお姫様ひとりと、意志の光で人さえ殺せそうな、眼鏡をかけた少女。

「と、とうたくちゃーんっ!!」
「そ、曹操さんっ」

 ロケットのような推進力をもって、華琳は着ているものから髪やら肌の色まで、白い雪化粧のようにまとめられた雪華の姫に突っ込むと、そのまま抱き込んでごろごろと三回半ほど転がっていった。











[7433] 霊帝崩御し、袁紹、曹操、袁術、洛陽に集結す、とのこと(下)
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:53







 軍議だった。

 洛陽、何進の私邸のさらに奥まった一室に、綺羅星のような英傑たちが集っている。最も上座に座っているのは、この会議の主催者にして、十常侍、蹇碩を殺し、ついに西園八校尉をその手中に収めた、外戚──大将軍、何進。

 華琳が『何進おばさん』などと言っていたために、俺による彼女のイメージは、老舗ラーメン屋の姑とかそんなのだったのだが、実際の何進大将軍は、それを裏切るようにずっと若かった。二十代前半だろう。思えば、帝の寵愛を受けた妹がいるのだ。その姉も国を傾けるほど美しくて、なんの不思議もなかった。
 長く白い脚線美を見せつけるように、横に伸ばし、胸元をはだけさせているさまは、閨(ねや)で殿方に愛を睦むようだった。

「みなのもの、集まったようじゃな」

 なんというか、おばさんよりお姉さん、お姉さんというよりも女狐、って感じだろうか。唇に塗られた紫の紅が、すごく色っぽい。正直、目のやり場に困るなぁ。

 護衛もすべて外に出され、ここには最小限の人数しかない。
 何進に、曹操軍からは、華琳と、相談役である俺、袁紹軍からは、袁紹と、その参謀である 田豊(12歳の少年だった)。袁術軍からは、袁術と、その世話役である七乃さん。董卓軍からは、董卓と、その軍師である賈駆(かく)。

 四軍からふたりずつ。
 そして主催者である何進を加えた9人のみが、密室に詰めている。

「それでは、今の状況を説明しますね。ええと、十常侍の張譲さんと段珪さんが、何進大将軍が董大后を毒殺したとの流言を振りまいていることを確認してます。これは大変ですよぉ。このまま行くとあらぬ疑いをかけられて、窮地に陥りかねません。宦官さんたちは、完全に敵にまわりましたね。いますぐ宦官さんたちを始末しておくべき、これが我々の基本方針です」

 袁術軍の七乃さんが代表して、今の事態を説明していた。

「それはそれとして、機密は本当に大丈夫ですの? 武力は我々の足下に及ばないとしても、あのタマなしどもの手勢は、どこにでも沸いてきますわよ。連中、ゴキブリのように、どこにいるかもわかりませんもの。霊帝が即位した時、ときの大将軍薹武が我々と同じ事を企てたそうですけど、結局機密が漏れて殺されてしまったそうですから」
 華琳の姉である袁紹が、田豊少年に耳打ちされつつ、言った。
 けれど──
 彼女の言いたいことは、また別にあった。
 袁紹の視線が、そのまま瞳に力のない少女に突き刺さっている。

「袁紹さま。我が主君になにか不満でもあるのですか?」
「よ、詠(賈駆の真名)ちゃんっ」
「ええ、黄巾党討伐のときに、ただ震えているだけの臆病者だった董卓さんは、ここにいて本当に大丈夫なのかと。袁家は四代にわたって三公を輩出してきた名門ですけれど、それでもあのタマなしどものやっかいさは知っていますわ。相手は、ある意味、帝そのものですのよ」
 袁紹は、かわいそうなものを見るような目で、言った。

「なにが、言いたいんですか?」
 董卓は、引かなかった。
 虫一匹殺せなさそうな全身に、かすかな怒気が溜まっている。

「これはあくまで私の意見です。董卓さま、州牧の印綬を返上してください。戦えない州牧など、笑い話にもなりません。州牧は、民を率いる印です。自分の職務を果たそうとしない人間は、漢王朝を腐敗させた宦官にすら劣ります」
 
 田豊の言葉に、全員が、絶句した。
 というか、主(あるじ)である袁紹すら言葉を紡げないようだった。ここまで言い切るとは誰も想像していなかったのだろう。
 田豊、というとあまりにきつい正論を繰り返したために、主に殺された忠臣として有名だが、さすがに、これはない。俺の三分の二しか生きていない子供なのに、どうしてここまで腹が据わっているんだ。

「あんたに何がわかるのよっ。月(董卓の真名)は、優しいからっ!!」
「控えなさいっ!!私は、董卓さまに聞いているのです。敵の前に立てない人間に、なにも守る資格はないのですよっ!!」 

 一喝だった。
 食い下がってきた賈駆を、一蹴する。
 おい、これは直言とかそういうレベルじゃないだろ。しかも、他の領土の州牧に。12歳の少年に、場のすべてが呑まれていた。

「ガタガタブルブル。あ、あのちびっこ。ものすごくこわいのじゃ」
 あ、袁術(華琳の妹)なんて、ものすごくびびっていた。自分も同じちびっこだろ、なんてベタなつっこみは誰もやらない。
「あらあらお嬢様。おもらししたらダメですよぉ」
「まだ漏らしとらんわっ!!」
 ええと、落ち着け袁術。
 それから、すべての視線が董卓に集中した。彼女は目を閉じている生命活動を行っているのかと疑うほどに、静かに──目を閉じていた。華琳に抱きつかれて三回転半してから、俺はしばらく董卓を見ていたが、どこにいてもいるような、普通の少女だった。むしろ、その心優しい普通の少女が、このような重荷を背負わされているあたりに、彼女の不幸があるのだと思う。

 華琳と、同じだ。
 華琳は、戦争とかにおける頭のネジが緩いからまだいいとして、彼女は人の生き死にを見るのには、随分と優しすぎて。それはきっと、雨が降るように人が死んでいくこの乱世において、君主としては致命的な欠点なんだろうと思う。

 けれど──

「田豊さんの言うとおりです。戦えない州牧なんて、むしろ、滅びたほうがいいんでしょうね」

 鈴が鳴るような神聖さで、彼女は言った。
 大人でも怯むような獣の視線に射すくめられて、彼女は最後まで目を逸らさなかった。

「心配してくれて、ありがとうございます。でも、私は、私自身の手を汚してでも、勝利を掴んでみせます。大切な人たちを、守るためには、そうしなきゃいけないと思うから。人を殺めることに、躊躇いはあります。でも、それでも、理想を語るには、誰でもできるけれど、私は一生をかけて、理想を現実に近づける努力をしていこうと思っています」
「──失礼しました。董仲穎さまのお覚悟。たしかに見定めさせていただきました。ご無礼を、お許しください」

 田豊が、頭を下げた。



「こほんっ。それでどうする。宦官を誅滅するための、なにかいい意見はあるかえ?」
 何進が、議題を本題に戻す。

「いますぐ近衛全軍を率いて、殴り込みをかけるんじゃダメなの?」
「おおっ、さすが姉上。素晴らしい意見じゃ」
 華琳の意見に、袁術が賛成した。
 いや、まあ──実に身を蓋もない。

「華琳さんの意見に賛成ですわね。宦官ごとき、我々の武力をもってすれば、ケチョンケチョンのぽっぽこぴーですわ。田豊、それでよくて?」
「──問題ないでしょう。国の行く末を案じた懸案のすべてを十常侍は握りつぶし、そうした忠臣達をすべて謀殺しています。もはや、生かしておいてなにひとつ使い道はない連中かと」
 冷え冷えとした声が、密室に響いた。
 重い。さきほどの董卓との一幕で、田豊の意見は不思議なほどの重みをもっていた。もはや、子供の意見だと笑い飛ばせる人間は、ここにはいない。

 けれど──
 本当にそれで正しいのか?
 宦官は生殖の機能を奪われ、謀を巡らすだけの動物だという。この田豊クラスの謀略家が、相手側にいないとも限らない。

「鶏を捌くためには、牛刀で一息にやったほうがいいと思うけどな。追い詰めると、想定外の手に出てくるんじゃないか?」
「想定外の手、って?」
「……何進大将軍の、妹さんを人質に、とか──」

 ふと思いついたことだったが。
 反応は激烈だった。全員の目が、こちらを向いた。ええっ、と後ずさりしてしまう。さっきの董卓のあれが、どれだけの精神力に支えられての言葉だったのかが、よくわかる。

「たしかに一刀の言う通りよ。なにか策を考えて、何大后をこちらに呼び出しましょう」
「あまり策に拘りすぎると臭いをかぎつけられるわ。ボクにまかせて。むしろ、十常侍に、何大后を差しださせるようにするから」
「……どうするのじゃ?」
「何進大将軍が、弱気になっている、という噂を流せばいいわ。十常侍の連中は、何大后に取り入っているんでしょう? 喜んで、何大后を通じて兄を説得に当たらせようとするわよ」

 賈駆の策に、田豊の瞳の燐気が強まった。

 ──恐い。

 いや、気づいている。田豊がおそらく一番警戒しているのが、間違いなく、この賈駆だ。明らかに、袁紹が領土を広げていく上で、この賈駆文和が、最大の邪魔になると考えている。わかる。気づいたのは、むしろ必然だった。

 俺もそうだから、気づけた。 

 さきほど、董卓に難癖をつけて、賈駆の発言権を叩き潰しにいったことからも、それがわかる。あれは董卓の覚悟を問うのでもなく、資質を確かめるのでもなく、単純に彼女の軍師である賈駆の出鼻を挫くためだけのものだった。


 田豊は、俺と同じく、この賈駆が自分の主にとって、最大の敵だと考えている。 


 そうだ──

 劉備より孫策より、未だ表舞台に出てこない曹操より、俺はこの賈駆が恐い。
 三國志における、ターニングポイントはいくつかある。赤壁がそのひとつだった。曹操軍は、諸葛亮と呉軍の計略にかかり、八十万の兵隊を焼き殺され、天下への足がかりを失った。

 それは、いい。
 連環の計、だったか。タネの割れた手品など、なんの驚きもない。計略なら、タネさえ知っていれば、俺のレベルでさえ返し技のひとつやふたつ、思いつく。

 そもそも、劉備自体、警戒に値するのか疑問だった。
 天下三分にて、劉備は曹操と並んだ、とされているが、逆に言ってしまえば、そこが劉備の限界だったはずだ。

 赤壁と斜道(鶏肋のあれ)を例外とすれば、劉備が曹操自身を追い詰めたという事実はない。それでも警戒はしてもしたりないぐらいだったが、今は出てきてもいない登場人物に考えをとられるよりも、目の前の少女の恐ろしさを再確認しておいたほうがいい。

 賈文和(駆)。
 袁本初(紹)。
 呂奉先(布)。
 そして、馬孟起(超)。

 曹孟徳という姦雄を討ち取る寸前までに追い詰めたのは、おそらくこの四人に限られる。謀略戦において、天才である賈駆を最大の驚異として認識するのは、むしろ当然といえるだろう。

「噂を流すとなると、待ちの姿勢になりますねぇ。相手の行動を待つとなると、どんなに早くても一週間はかかりますよ」
「それでは、他にだれぞ、意見はあるか?」

 何進の問いに、誰も、手をあげない。
 今日のところは、これで解散となった。




















「美羽ちゃん美羽ちゃん(袁術の真名)。おみやげよ。とってきて間もない新鮮なハチミツ。美羽ちゃんのために持ってきたの」
「まことかっ。華琳姉さまー、大好きなのじゃー」
 抱きつく。華琳が、袁術を膝の上に乗せて、彼女の髪をくるくるに編んでいた。さっきまで、血も凍るような会議が繰り広げられていたとは思えないほどにのどかな光景だった。

「おお七乃、そこの下民(俺?)が、わらわの美貌に見とれておるぞ」
「それはそうですよぉ。お嬢様がかわいすぎるのがいけないんです」
「ふっ、そうであろ、そうであろ。──、って、ぎゃーっ!!」
 袁術が、いきなり悲鳴を上げた。
「ま、まさか、一刀が変態幼児性愛者だったなんて」
 華琳は驚愕しつつ、袁術の胸をギリギリと締め付けていた。
「いや、信じるなよ」
「だって、一刀ってば、いつの間にか七乃さんを真名で呼んでるしっ」
「いや、だってお嬢様のような人間が天下にふたりもいるなんて、思わないじゃないですかぁ。一刀さんのこと、他人だとは思えなくて」
 くらっとくる台詞だった。
 これは愛の告白だと勘違いしていいだろうか。

「ああっ、そういえば私の妹だけじゃなく、何進おばさんにまで色目を使って。あなたに節操とかそんなのはないのっ!!」
「いや、いいがかりだろそれはっ」
 俺は叫んだ。
 話がまずい方向に転がり始めている。

「部下の欠点を矯正するのも、主君としての役目よ」
「主君の欠点を矯正するのも、部下としての役目だけどな」
 華琳と俺はにらみ合っていた。
 ふと気づくように、袁術が周りを見渡す。

「そういえば、あ奴はどこに行ったのじゃ。客将ということで連れてきたはよいが、まともに姿も見せぬではないか」

 客将、といえば──あ、孫策か。
 
「そういえば、見ませんねえ。まあ、なるべく行動を束縛しないって条件で召し抱えたじゃないですかー」
「そうじゃったか? まあよい。う、ううっ、厠はどこじゃろ」
 袁術が、ぶるっと震えた。
 ちょうどそこを通りかかった武将に、声をかける。

「おい、華なんとか。厠まで案内してたもれ」
「……私は、小間使いではないのだが?」
「知っておる。何進の武将であろ。わらわのような名家の人間に、借りをつくらせてやろうと言っておるのじゃ。もし、わらわが召し抱えたときには将軍にしてやろうぞ」
「わー、お嬢様。その貸しを押しつけるような尊大な態度、びっくりしちゃいましたー」
「ふふふ、そうであろう。わらわの名門の血あってのものじゃな」
「ぐぅ、主の客人でなかったら、とっくに斬り捨てているものを」
 華なんとか将軍が、美羽の手を引いていく。
 先生と、受け持ちの子供のようだった。

「七乃さん。あの女の人は?」
「たしか、おかゆとか、かゆうまとかいう将軍さんですねー」
「華雄だっ!!」
 聞こえていたらしい。
 廊下の角からそんな声が聞こえた。

 え、でも──

「華雄っていうと、董卓の配下じゃなかったか?」
「ええ、でも、呂布将軍と華雄将軍は、さっき言ってたとおり、董卓さんのところじゃなくて、何進大将軍の下で黄巾党討伐に参加していましたから、実質、何進大将軍の部下でもあるみたいですねー」
「へえ」
「では失礼します。ああ、待ってください。お嬢様。私も行きますよー」
 ぱたぱたと、七乃さんが走っていってしまう。
 静かになった。動くのは、こっちの首を絞めようとしてくる華琳だけだ。いや、もうひとり。
 
「主が、ご迷惑をかける」
 すっ、と影の中から出てきたようだった。
 また、見たことのない女性だった。先の尖った宝石のよう、といえばいいのか、雰囲気としては、そんな女性だった。

「袁家の客将さんか」
「うむ、美羽さま(袁術)の元で世話になっている」

 孫策、ではない?

 春蘭から、孫策の特徴は耳にタコができるほど聞かされた。南の人たちは、皆、肌が浅黒いという。けれど、目の前の武将は、まったくもって彼女から聞いていた条件に一致しない。肌は雪を溶かしたように白く、戦うための武将としては美しすぎる。それでも、その手に担いでいる槍とその佇まいは、たしかに一流のものだった。

「君は──」



 ──だれだ?




















「北郷さぁんっ、華琳さまぁっ、大変大変。この屋敷、完全に敵に囲まれてますっ」
 走ってきたのは、香嵐(黒騎兵総隊長)だった。
「はあっ。どういうことだ、それ?」
「わかんないですよぉ。旗とかもなくて、今、夏月と李華と水が応戦してます」

 俺は右手で棍を掴み、青釭の剣を腰に佩いて、左手で華琳の首すじをひっつかむと、外に出た。かすかに、喧噪が聞こえていた。一段高い三階建ての建物が本宅で、周りを取り囲むようにしてあるのが別宅である。俺たちがいたのは別宅の方だった。というか、この屋敷広すぎるんだよ。
 ここからだと、どこに敵が、どれだけの数、いるのかがまったくわからない。

「なぁ、これはいったい何の騒ぎや」
「あ、張遼さん」
 張遼文遠。
 董卓軍の将軍だった。
 なぜか関西弁を喋る、活きのいい姉ちゃんである。
 昨日、その青龍偃月刀かっこいいですね、って言ったら、違う、これは飛龍偃月刀や。ここ、ここの部分が違うやろ、とか武器について小一時間レクチャーされた。

「正体のわからない軍隊に、囲まれてるんです。ああぅ、どうしてこんなことにぃ」
 香嵐が頭を抱えている。
「む、状況はつかめてないんやな。よっしゃ、ウチにまかしとき。ウチのそばから、離れるんやないでっ!!」  
 ぶんぶんと、飛龍偃月刀を振り回した。
 すごい頼もしい。その後で、季衣と流琉と合流し、どこまでも続く整地された石畳の上を歩き、正門を目指す。

 まばらに襲ってくる連中を、棍で突き倒す。
 なんだ、こいつら、まともに連携もとれていない。急遽、集められただけの烏合の衆のようだった。
 なにせ、俺でさえまともに撃ち合えるぐらいだ。それでも、それなりに数はいる。飛んでくる矢は、すべて流琉の鉄戟が撃ち落としている。

「ああうっとおしいなぁ。そもそも、出口はどっちなんや。戦いにくいことこの上ないわ」
「なら、ボクにまかせてっ」

 季衣は鉄球を振るうと、そのまま外壁に向けて──

「だああああああああああっっ!!」

 遠心力で強化された一撃を、叩き付けた。けたたましい音と共に、外壁が破壊された。ぼっかりと穴が開いて、壁の外への道ができる。

 外を見ると、見える範囲には、二十人ほどの手勢がいた。旗もなければ、鎧に特徴もない。こちらに気づいた連中は、張遼将軍が相手をしてくれている。飛龍偃月刀が閃くたびに、ふたつ、みっつの首が落ちる。軽やかな動きとともに陣羽織がはためくさまは、おそらく敵ですら見惚れるほどだった。

「で、連中の、身元を示すものとか、ないか? なにか、手がかりでも」
 旗がないんだから、まず期待できない。
「あの、一刀。私、いつまでこの扱いなのかしら」
 左手に吊られたままで、華琳がぼやいていた。
 そこへ、あっけらかんとした声が割り込んできている。

「裏で糸を引いているのは、十常侍、ではないですよねぇ。あの妖怪たちが、こんな直接的な手段にでるとは考えられませんし。おそらくは、敵対する董大后の手の者か、この間、何進さんに殺された蹇碩(西園八校尉筆頭、十常侍のひとり)の残党たちでしょうね」
 いつのまにやら、傍にきていた。
 答えを言ったのは、七乃さんだった。
 厠へ行ってから、そのままこっちに来たのだろう。華雄将軍と袁術もいる。 

「なんというか、意趣返しってやつかな」
「まあ、何進大将軍もいろいろと恨みをかっていますからね。宦官と外戚の対立って、ほんとに根深いんですよ。四代前の帝の頃から続いてるんですから」
「うーん。他の連中、大丈夫かな」
「兄さま。大丈夫、だと思いますよ。屋敷の警備兵の人たちだっているんですから」
 流琉のいうとおりだった。
 今日の密議をするにあたって、いつもより警備兵は増強されているのだろう。
 賈駆が董卓に対する備えを忘れるはずもないし、あとは袁紹か。

「あの、兄ちゃん。なにか聞こえない?」

 耳を澄ます、までもなかった。
 天に木霊する高笑いは、一度聞けば二度と忘れるはずもない。

「おーほっほっほっほっ。おーっほっほっほっほっほっほ」
「………………」
「兄ちゃん。これって──」
「アホや」
 張遼将軍が簡潔にまとめた。

「さ、さすがお姉様。こんな緊迫した状況で笑えるなんて、見事すぎるわ」
 華琳が感心していた。
 声の方に目をむける。言うまでもないが、そこにあったのは、俺が想像したとおりのものだった。



















「おーっほっほっほっほ。あなたたち、お出迎えご苦労ですわ」

 俺たちを迎えた袁紹は、高笑いをしていた。
 事態は、すでに掃討戦に入っている。うちの軍の夏月と李華と水は、もう呆れたように、壁にもたれるように立ちつくしているだけだった。

「いつまでぐずぐずしてますの。文醜さん、顔良さん、張郊さん。三人とも、さっさと片付けてしまいなさい」
「わかってるって、まかせな、姫っ!!」
 戦場を奔っているなかで、大刀を担いでいる少女が、敵の固まりに突撃した。
 おらあぁあああっっ、と叫び声を上げながら、策もなにもなく突っ込んでいく。とても当たり前のことながら、敵は少ない兵力すべてを集めて、彼女を囲みにかかった。逃げ道を塞ぐように、槍が突き出される。彼女は、自らの背ほどもある大刀の柄に手をかけた。
 
 ──光刃が閃いた。
 彼女の大刀が抜き放たれてから、一秒。
 縦横無尽に奔った──鞘から払われた斬山刀の光が、突き出された槍の群れを斬り落とし、包囲の一角を削り落とした。
 血の詰まった袋を解体したように、一秒前まで兵士だったもの達が、朱色の液体をぶちまけながら、裁断されてただのバラバラの細切れに落ちていく。

「おーっ、囲まれる私たち、そして、指揮をとるのは袁紹さま。これこそ、まさにっ、絶体絶命の危機っ、燃えてきたぜぇーっ!! 行くぞ斗詩、麗寒」
 その少女が、大刀を水平に掲げて叫んだ。

「ああっ、もう、文ちゃん、待ってよぉー」
「うん。貴様らすべて、我が主(あるじ)を呪う黒魔術用の生け贄にしてくれよう」
「ちょっと、張郊(ちょうこう)さんっ! 今、なにか聞き捨てならないこと言いませんでしたことっ!?」


 初めて、戦場で見る。
 あれが──袁家の『三枚看板』か。

 人間の骨など軽く打ち砕く、肉厚の大刀を振るっているのが、文醜将軍。
 鬼神のような強さだった。
 当然だ。彼女は、武力のみでいえば、三國志の登場人物のなかで、ベスト10に入るほどである。三國志では、関羽の引き立て役にされる役回りなのだが、まあ逆に言えば関羽クラスの実力者でなければ討ちとれないということでもあるのだろう。春蘭ですら相手が悪い。
 袁家最強の将の名は、飾りでも何でもない。
 そっちを崩せないと見たのか、もうひとりのほうの少女に敵の群れは襲いかかっていった。直線的な動きだった。そのまま一息に匕首をもって、全身を前に進むだけに使っている敵を、顔良将軍は、超大型のハンマーで横薙ぎにぶん殴った。

 がんっ──っ!!
 ──前に進むための推進力など、横殴りに加わった力に完全に掻き消され、かろうじて人の原型を留めたままで、敵は真横にバウンドして、そして二度と動かなかった。

 そして、三人目。
 おそろしく無造作だった。気だるげに右手を突き出すと、偶然その先に、敵の心臓がある──そんな戦い方にしか見えなかった。両手に槍を持ち、適当に振るったように見える槍の一降り一降りが、ひとつの空振りもなく敵の首を刎ねている。
 
 無駄というものをすべてそぎ落とすと、おそらくはああいう戦い方になるのだろう。
 愛用の槍には、墨で──『袁紹さま呪殺用、まじかるすてっき』と書かれていた。どこからどこまでが本気なんだろう。ともかく、これが張郊将軍だった。

 ともかく、あっちはほぼ片付いたらしい。
 まだ伏兵がいるかもしれない。黒騎兵の四人に、警戒を命じてからぞろぞろと屋敷に戻る。うじゃうじゃといた。この屋敷を守る警備兵と、兵士達があちらこちらで斬り合いを続けていた。

「う、動くな」
「黄巾の真似事か。お主とて、それなりの主人に仕える身であろう。婦女子を人質にとるなど、恥ずかしいとはおもわんのか」

 屋敷の廊下、庭を見下ろせる縁側のようなところで、にらみ合うように兵士数人と、さっきの袁術の客将だという少女が向かい合っていた。所属の知れない兵士は、おそらく逃げ遅れた小間使いの女性に短剣を突きつけ、人質をとっている。

「コノヤロウ。さっきから人を見下しやがって、丸腰でなにができるっていうんだ」
「聞こえなかった。もう一度、言ってもらおうか」
「なんだとっ!!」
 彼女は、首をすくめるように、掌を上に開いた。
 まったく完璧なタイミングで、中天の太陽の下に──おそらくは屋根の上から落ちてきた朱槍が、そのまま彼女の掌の中に収まった。軌道が半月を描く。ひぅん、と風が鳴ったが最後──

 彼女の腕が翻る。
 ──神の速度で奔った槍が、男の顔を穿ち貫いていた。

 遠くから見ても、残像と光しか見えなかった。

 轟雷に撃たれたように、おそらく男は、自らが死んだことにすら気づかなかっただろう。横にいた仲間が、悲鳴をあげて、弾かれたように動き始める。

 ただ右足と左足を交互に動かして、より遠くに逃げようとしていく。そして、右足と左足の動きに割り込んできた槍の一撃に、動作を中断させられていた。

 単純に、速度の桁が違う。

 槍の一撃で弾けた頭蓋が、ザクロを割ったようになっていた。彼女を囲もうとする兵士たちをただひとりも目に入らないように、彼女はこちらに向けて歩き出す。自らに向けて振り下ろされる剣と戟を、彼女は見もしなかった。

「ふ、美を介さぬ無頼の輩どもよ。我が槍の贄となるがいい」

 ただ、右腕を一降りする。
 刃が太陽の光に煌めくように、雪片が飛び散るがごとく、その白光に首が刈り取られていく。それは、まるで荘厳な一枚絵をみるようだった。彼女の前に立ちふさがるものは、ただの朱槍の一撃で砕かれていた。
 敵の真ん中を歩くように、無人の野を往くがごとく、彼女は袁術の前で歩みを止めた。

 強い。
 ただ、理由もなく、ただ強い。
 おそらく、この場にいる誰よりも。

 それほどの技量だった。袁術の客将だというその女性は、氷の様な相貌をもって、自らの腕と一体になった朱槍を振るっていた。


「おおっ、よくやったの。趙雲。褒めてつかわすぞ」
「はっ、ご随意に」


 ──え?
 ──ええっ?

 ──ええと、袁術。
 このちびっこ。今、なんて言った?



 常山の趙子竜。
 三國志を読んだことのあるもので、流石に趙雲を知らないものはいないだろう。
 ふと思い出した。彼女を称える、あまりにも有名な詩がある。









 昔日(せきじつ)長坂に戦い
 威風なお未だ滅せず
 陣を突きて英雄を顕わし
 囲まれて勇敢を施こす

 鬼哭と神号と
 天驚併びに地惨
 常山の趙子竜
 一身、都(すべ)て是れ肝なり














[7433] 何進誅殺され、炎漢、滅びのときを迎える、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:54






 人心の乱れた炎漢の末期に、天の国からの使者が、下界に降りてくるという言い伝えがある。その者は光り輝く衣を纏い、見たことのない知識と知謀で、主を補佐し、仕えた主の道を拓くという。

 天の御遣い。

 天の国からの使者を、そう呼ぶらしい。
 まあ、いい。
 どこのナウシカだそれは、という言い伝えだが、その天界からの使者を迎える主は、三人の義姉妹だという。いいかげんな言い伝えだと思うが、この時代は人物鑑定家の評が、出世のスピードに影響したほどだったから、名家の三人が義姉妹の契りを結ぶことで、広く名を世に示すことができた。
 まあ、というわけで、世の中にはスール制度というか、義姉妹の契りを結ぶお嬢様達が溢れかえった。

 袁紹(麗羽)。
 曹操(華琳)。
 袁術(美羽)。 

 この三人もその中の一組だった。今さら義姉妹の契りなどと、と──渋る袁紹と袁術を、華琳がとりまとめたようだった。三国志での、序盤(だけ)最強クラスの三人が揃ったころにより、この世界がどう変わっていくのか、さっぱりわからないところだが、はて。これもまあ、まぎれもない華琳の力だった。

 ことごとく、事態をややこしくする才能に恵まれているな、うちの主。











 あれから、五日が過ぎた。

 謀略戦の基本は、待ち、だと桂花が言っていた。
 待つことで、敵の油断を誘い、火攻めにするための青草が涸れるのを待つ。これが本当なら、最強の軍師は陸遜なんじゃないかと思うが、少なくともこのぽかぽかと暖かい陽気は、こちらを堕落させようという誰かの陰謀だと思う。

「ふぅわっ──」
 欠伸をする。

 俺は、何進大将軍の私邸の庭に寝転がっていた。俺の膝あたりを枕にして、華琳が熟睡している。重い。あまり振動を与えないように、首だけを横に向けた。



 離れたところで、流琉(るる)が、蒸籠(せいろ)で肉まんを蒸していた。

 俺もできあがったのをひとつ貰ったが、細かく砕いた豚肉とタケノコの配分比が絶品である。うむ、あとを引く味だ。華琳が自分の店(メイド喫茶)の料理長に抜擢しただけの腕は十分にあった。庭に広がっていく熱気と匂いにつられて、俺の腹の虫がもっと食わせろと騒いでいる。

「もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅ」
「はぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐ」

 流琉が築いた肉まんの山が、片っ端から無くなっていく。
 季衣と呂布が幸せそうに山と積まれた肉まんを分け合っていた。ふたりとも、恐ろしく隙だらけである。季衣の小さな身体はもちろんのこと、これだけの量をおさめてしまう呂布の胃袋にも、呆れを通り越して感心させられる。

 呂布がぽわわわわぁんと、頬を綻ばせながら肉まんをパクつくさまは、この世の天国を味わっているようだった。とりあえず、これが三国最強の将軍だとは、誰も思わないだろう。



 そして、さらに上もいる。
 赤い傘蓋を立てて、庭の一角を王侯貴族の煌びやかな場所に仕立て上げているのは、この私邸の主である大将軍の何進だった。呂布の飼っているらしい犬やら猫やらにまとわりつかれながら、俺に愚痴を言っているのが、この国の軍事における最高権力者だとは誰も思わないだろう。

「妾とて、昔は肉屋の看板娘じゃったしの。妹が皇后に取り立てられたときは、働かずに金だけもらって一日中ごろごろして過ごすのが夢だったのじゃが、なぜこんなことに」
 愚痴をきいていてわかったのだが、由緒正しいダメ人間だ、このひと。昼間から酒を飲んで、肩から胸の谷間までが開いた服を着ている。露出度が高い上に、ぶかぶかでサイズがあってない。いや、もとからこんな服なのか?

 なぜか動物に好かれるらしくて、呂布の拾ってくる犬やら猫やらパンダやら象やらの動物の世話をする役どころ、らしい。ああ、そっか。みんなのお母さんなのだな、このひとは。 



「あの──兄様。少し相談があるのですけど」
 振り向くと、流琉が、顔を赤くしていた。うちの大食らいと、はらぺこ将軍の食欲を鎮撫し終えて、一段落ついたということだろう。
 あとは、もじもじと黙ってしまう。

「厠か?」
「季衣じゃああるまいし、そんなことあるわけないでしょう」

 まあ、そうだ。
 一瞬、それは言い過ぎだと否定しようかと思ったが、最近、食って暴れて寝るだけしかしてない季衣を見ると、そんな擁護も空しくなってくる。
 保護者って、大変だなぁ。いや、大将軍と違って、俺は特になにもしてないんだけれど。

「みんなに、食べたい料理はないかと聞いてまわっているんですけど、趙雲さんが、えっと──その」
「ああ、さっき食べたい料理を書いてくれって言ってたな。それで──?」
「それで、あの──」
 流琉は、真っ赤になって、俺に、文字の書かれた紙を差しだした。
 趙雲のリクエスト料理は、これだった。

『メンマの女体盛り』

「………………」
「あの、兄様。どうしましょう?」
「どうもせんでいいだろ、これは」
 俺は紙を丸めて捨てた。
 ちなみに、三国志の時代だと紙は貴重品だった。現代の紙と比べると、ごわごわで、随分繊維が粗い、らしい。なんで断定してないかというと、『この世界』では紙は普通に流通しているからだった。まあ、瓦屋(数え役萬☆しすたぁずを崩壊させるためのビラを刷ったのを思い出していただきたい)があるんだから、多分活版技術もあるんだろう。相変わらず、なんて適当な世界観だ。
 
 はぁ──と、蒼穹を見上げた。
 なにも起こらない。
 今日だけは。四つの軍の将軍たちが集まって、衝突もなにも起きないはずもなく、昨日、一昨日と、毎日のようにイベントが行われている。

 昨日は、袁術軍の趙雲将軍と、袁紹軍の文醜将軍の一騎打ち。
 一昨日は、田豊と賈駆が、盤上で死闘を繰り広げていた。
 その前は俺も参加して、張遼先生の武器自慢講座が行われていた。
 張遼将軍の飛龍偃月刀、俺の青釭の剣、文醜将軍の斬山刀、呂布の方天画戟、趙雲の龍牙、などの天下に名だたる武器が並べられた。

 結果は。
 もちろん、俺の青釭の剣が優勝を勝ち取った。

 いや、半ば同情だったような気がするけれど。
 包丁だと骨を避けて切らないといけないけど、これは骨だろうがなんだろうが抵抗なく切り裂けると、華琳が魚やら牛肉やらを捌くのに使っていた奴だった。この時点で、ありがたみが欠片もないのだが、鋼鉄をバターのように引き裂く、三国志最強の宝剣である。
 というわけで、(こころなしか魚臭い)青釭の剣を俺がぶんどって使っているのだった。ふぅ。もうこれで、部下から馬の方が本体、だとか絶影がないとなにもできない、だとかは言わせない。

 なお、これと対をなす、倚天の剣だったが、華琳を問い詰めた結果、「知ラナイワ。ワタシガ宝物庫カラ持ッテキタノハコレダケダモノ」と、俺から目を逸らしながら言っていた。
 その態度からするに、漬け物石代わりか、戸を押さえるつっかえ棒代わりあたりにでもなっているんだろう、間違いなく。

 さすがに、肉を焼く串代わりになってたら、──いや、華琳でもそこまでひどくは、ない、よな?

 ──と、そんなことを俺に寄りかかって寝ている華琳の顔を見ながら思った。
 そこで割り込んでくる声。
 高い声。
 不協和音。

「おーっほっほっほっ。おーっほっほっほっ、あらごきげんよう華琳さん。相変わらず、だらしない顔してますのね」
 袁紹だった。
 なぜが、不機嫌な顔をした袁術をぬいぐるみ代わりに抱きしめていた。

「……あ、麗羽姉さま。おはようございまふ」
 あ、起きた。
 華琳が、欠伸をして目を擦っている。

「ああっ、ふたりとも。かわいらしいですわね。どこかのくるくる小娘(曹操)とは大違いですわ」
 袁紹は袁術を抱きしめたまま、華琳をぎゅーっと抱え込んだ。
「わぷっ」
 華琳が、その袁紹の大きな胸で溺れそうになっていた。

「おお、アニキ。なにやってんだよ、こんなとこで」
 袁紹から一歩遅れて、見えたのは、袁家の三将軍だった。
 先頭に立って話しかけてきたのは、文醜将軍。武力のみなら、趙雲に一歩も譲らない、袁紹軍最強の将だった。うちの軍における春蘭のポジションである。

「その、アニキってのはなんとかならないのか」
「ん? だって、きょっちー(季衣)の兄ちゃんだろ。つまりは、あたいにとってもアニキってことじゃないか」
 なにひとつ疑ってない晴れやかな表情で、サムズアップ。

「いや、ええと、きっと感性で生きてるんだよな。いいことだ」
「北郷さん。すみませんすみせん」
 ぺこぺこ頭を下げているのが、顔良将軍。
 戦えそうには見えない。押しが弱そうで、見ている限りいつも貧乏くじを引かされているような娘だった。

「まあ、いいじゃねーか。字(あざな)がないもの同士、仲良くしようぜ」
「そういうことなら、な」
 字ってのは、漢民族の文化なので、ないところにはない。
 うちの軍だと、流琉とかにもない。

「まあ、あたいらには字どころか、名すらないけどな」
「……ええと?」
「私たち、麗羽さまに出会う前は、北方で馬賊やってましたから」
「ひでー話だろ。麗羽さまが名をつけてくれることになったけど、あたいなんて、文(いれずみ)が袁家の美意識に合わないからって理由で、文醜だぜ」
「わたし、顔がいいからって顔良。はぁ──」
 えーと、三国志でも多分、一度聞いたら忘れない名前のベスト1,2である顔良文醜コンビだが、本気でそんな理由で名前付けられてたのか。しかし、ネーミングセンスと強さは比例しない。史実では魏軍五将軍である徐晃を討ち負かしているあたり、今の曹操軍にこのふたりに比肩し得る戦力はない。

 ──おそらく、春蘭でも勝てるかどうか。
 
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
 袁紹のおほほほほほほ、とはまったく種別の違う、地面を這いずる、ナメクジのような笑い声だった。

 感情が読み取れない。

 文醜、顔良と同年代の女の子だ。
 鴉の濡れ羽のごとき黒髪と、黒曜石のような瞳のない光。目の覚めるような美人だったが、言動と服飾の怪しさが、それを帳消しにしている。

 だぶだぶの黒いローブを着て、ナイトキャップのような黒の頭巾をつけるさまは、なにかの宗教集団かと思うぐらい怪しい。
 五斗米道や黄巾党とは、もちろん違う。
 なぜか──季衣と馬があったらしく、「きょっちー」「ちょこたん」と呼び合うなかだった。
 張郊(ちょうこう)である。
 後の魏軍五将軍という、三国志の光芒の一翼を担った、歴史に名を残す名将、のはずだった。
 
「あー、アニキ。ごめんな。悪い奴じゃないんだ。こんなんでもあたいたちの義姉妹だからな」
 熱血一辺倒の文醜将軍が、扱いに困っていた。
「そうよ。かんぷくさまのところにいた私を、召し上げてくれたの。三人で誓い合った日々が、今も思い出せるわ。
 ──蒼天よ、我らの誓いを聞き届けたまえ。閻魔大王よ。ご照覧あれ!! もし、この誓いを違わんことあらば我らの命を奪う──」 
 張郊が、目を伏せた。
 
「我らの命を奪うその代わりに、麗羽さまの巻き毛が、生え際からすべて成人男性の陰毛と入れ替わっちゃえば面白いのに──という誓いをしたのよ」
「ぎゃーっ!!」
 よほどおぞましいものを想像したのか、文醜が叫び声をあげた。
「最後、願望になってるぞ」
「正直は美徳だと、誰かが言っていたわ」
「おい麗寒(張郊の真名)、袁紹さまはそれでいいとしても、あたいの嫁である斗詩が、そんなのを見て怯えたらどうするんだよ。かわいそうだろ」
「これは失敬。麗羽さまの髪の毛はどうでもいいけど、斗詩を怯えさせるのは私の本懐ではないわ」
「──あなたたち、ずいぶんと好き勝手言ってくれてますわね」
 背後に、袁紹が立っていた。
「あ、麗羽さま」
「見なさい。私の妹たちが怯えているではありませんのっ!!」
「ガタガタブルブルガタガタブルブル」
「ガクガクブルブルガクガクブルブル」
 華琳と袁術が、互いに抱き合いながら本気で怯えている。感受性が強いというか、想像力が豊か、というのは場合によっては害悪だなぁ。

「あなたたち、三人とも今夜おしおきしますわよ。覚えておきなさい」
「え、ええっ。袁紹さま。わたしも入ってるんですかぁっ!!」

 顔良さんがいつも通り、とばっちりをくらっていた。




 











 美しい月夜だった。
 砕いた宝石をばらまいたような夜天に霞がかかって、静謐な大気はシンとした霊気に満ちている。風がビュウビュウと吹いて、それ以外に音一つない地を歩く。墨をぶちまけたような闇は、自身の足下すらロクに見えなかった。

 光源は、火のついた蝋燭と、群雲を貫いて頭上に瞬く月だけ。
 蒼い月が、洛陽という世界最大の都を照らしていた。光だけが、夜に鮮やかにその存在を誇示している。まあ、華琳の望みも、これと同じなのだろう。

 天に浮かぶ月のように、
 空を取り巻く太陽のように、

 ──つまりは、闇の中で、ひときわ輝く、光に、なりたいと。

 俺は足を止めた。

 こんななか、庭でひとり月を見上げている少女がいた。空を見上げて、白磁の肌に風を受けている。

 天に浮かぶ月。

 たしか、彼女の真名も、それと同じはずだった。



 ──月(ゆえ)。
   


「ええと、たしか──北郷一刀さん」
「それで合っていますよ。董卓さま」
 彼女の瞳が、こちらを捉えた。外見としては、どう見ても、董卓ちゃんといった感じなのだが、まさか州牧をちゃん扱いにするわけにもいかない。

「────」
「………………」
「………………」
「………………」

 沈黙。

 沈黙だった。
 触れただけで壊れそうなガラス細工のような少女だった。
 ううん、なにを話していいやら。

 普通の少女っぽいので、普通に話せばいいのだろうが、思えばこのくらいの少女の間で流行っているものはいったいなんなのか。さっぱりわからない。武芸やら戦術やらに傾倒してる連中が俺の周りに多すぎるせいだ。間が、もたなかった。

「ええと、邪魔だったかな?」
「いいえ、よければ、話し相手になってくれますか?」

 むう。
 ならばいい。
 彼女に言うことでもないかもしれないが、華琳の愚痴でも聞いて貰うとしよう。

「──というわけで、桂花の作った落とし穴地獄のために、関係ない人たちが落とし穴にはまる、といった二次災害が連発したんだ。二度とこんなことが起こらないように、桂花と華琳を首だけ残して自分たちで掘った穴に埋めたんだが、それでもまったく反省しなくてな」

 特に、桂花はひどかった。
 放っておけば、三日三晩でも俺を罵り続けただろう。牛のウンコ食って死ね、とか、カエルを喉につまらせて死ね、とか。悪口のバリエーションというものが、ほぼ無限にあるのだと思い知らされるぐらいの機関銃掃射だった。

「教訓としては、軍師はまず口から封じろ、というところかな」
「あ、あはは。それは、どう、なんでしょう?」

 董卓ちゃんは、苦笑いだった。
 むう、外したかな?
 
「曹操さんはいいなぁ。なんでもできて」
「え──」

 今、彼女の口から一瞬、あり得ない評価を耳にした気がするが、董卓の台詞を捕捉すると、多分こうだろう。

『曹操さんはいいなぁ。(やりたいことが自由に)なんでもできて』

 ってところだ。本気で華琳を尊敬しているなんてことはありえない。もしそんなことがあったら、こちらの精神が崩壊してしまう。



「いいわね。愉しそうねすごく」
 背後から恨みがましい声が聞こえた。
 誰の声なのか、まあ言うまでもない。

「駄目よ。董卓ちゃん。この男はね。女と見れば誰かれかまわずに色目をつかう、ヘンタイなの。十歩以内に、近づいたらだめよ」
 いつの間にか、俺の評価がひどいことになっていた。
 
「そんなことないです」
「そんなことあるの。それがこの男の手なのっ!」
 華琳がにじり寄ってきた。ええい、言いながら、俺の膝の上に乗るな。
 季衣が真似するだろうが。

「ところで、どこから聞いてた?」
 俺の質問に、華琳は首を傾げて、
「え、あの馬鹿な華琳がまた馬鹿なことを馬鹿な脳味噌で考えて馬鹿なりに知恵を振り絞って馬鹿馬鹿しいことをやろうとしているみたいだったから、俺があいつに自分が馬鹿であることを馬鹿馬鹿馬鹿と耳にタコができるぐらい馬鹿にしてやろうと──みたいなところ?」
「ちょうど中盤ぐらいだな」
「馬鹿ってなによ馬鹿ってっ!!」

 ぼかぼかと叩いてくる。いたいいたい。

「くすくすくす」

 見ると、董卓ちゃんが笑っていた。
 笑っているところをはじめて見た。すごくかわいらしかった。俺の力説したお話は不評で、これが受けるというのもこちらとしては複雑だが。

「聞いたよ。曹操さん。すごくがんばってるみたいだね」

 柔らかな口調だった。
 鳥肌が立つような、肌に粟が生じるような、女神のような包容力がある。

「そうなのよ。董卓ちゃんもね。前に会ったときは、両方とも太守でさえなかったけど、いっしょに、立派な主君になるっていう約束、果たせてるみたいよね」
「あはは、自信はないけどね」

 驚いた。
 華琳はものすごく自然に、素の董卓ちゃんを引き出していた。このあたり、付き合いの長さとかが影響しているのか。



 降るような月下、俺はただふたりの語らいを聞いていた。
 それは史実からは、考えられない光景だった。
 このふたりの関係性を、なんというだろう。 












 友達、だったのだと。
 少なくとも、華琳は董卓のことを、そう思っていたはずだった。

 ──最後の瞬間まで。

 華琳は、董卓をともだちだとずっと、信じていた。



 この二ヶ月後、反董卓連合結成ののち、董卓の首に、華琳が倚天の刃を振り下ろすその瞬間まで──ずっと。



















 翌日。
 細作から報告された情報に、それを聞いた全員が戦慄した。

 十常侍の手によって、早朝、何進大将軍はすでに誅殺された──と。

 切り離された首が、見せしめのように宮殿の門にかかっていた。確定情報だった。香嵐が個人的に放っていた細作も、袁紹軍、袁術軍、董卓軍の情報網すべてが、同じ情報を伝えている。本人はほとんど護衛もつけずに、今日の朝、誰にも知られないように洛陽宮にでかけた。あっという間の出来事だったという。

 叛乱の罪で、即刻、刑は執行された。

「どうして、バレたんだ?」
 理由によっては、今すぐここを引き払わなければならない。
 こちらを包囲していない理由が、不思議でしょうがない。この大将軍の私邸に、州牧が四人いるのだ。この時点で叛乱に与していることが明らかだった。
 
「何大后が、完全に宦官側につき、何苗が、裏切ったらしいわ」
「何苗、ええと?」
「だれじゃ、それ?」
「何進大将軍の弟よ。何進大将軍の腹心中の腹心」
「うっわあっ、あの時、叩き斬っとくべきやったなぁ。前からいけすかないヤツだと思っとんたんや」
 張遼将軍が、いまさらに自らの髪をかき回した。
 何進大将軍の元で戦っていた張遼将軍と呂布には、また思うところもあるのだろう。

「脇が甘すぎたというしかないわ。何大后は宦官に与するって、わかりきっていたのに」
「あら、そうですの?」
「はい。何大后はあちらについて当然ですね。だって、彼女は今の皇帝(霊帝の後に即位した弁皇子、少帝)の母親ですから。皇帝の母としては、宦官を取り除くなどもってのほか、ようやくすべてが順調にいっているのに、あちらとしては不必要にことを荒立てる必要はないでしょうからねぇ」

 あ、そういえばそうなのか。
 三国志演義では序盤すぎてロクに覚えていない。
 ここらへんの人間関係が複雑で、ただでさえ登場人物が交錯してわけのわからないことになっているが、これぐらいは覚えておくべきだった、と今さらに思う。

「何進大将軍は、まんまとおびき出された、か」
「どうしようもない、私たちの失策ね。まさか、十常侍もこんな単純な手を使うなんて」

 ──そして、単純すぎて防ぎようがなかった、と。いや、しかし──こちらの最重要人物が、のこのこ敵の目の前に差しだされるのを、誰も気づかないものか?
 まさか、なぁ。

「それより、これからどうするか、やろ?」

 黄巾の乱において、その討伐に功ありとして彼ら十常侍は諸侯に封じられた。本当に手柄を立てた兵士や諸侯たちが、正当な恩賞をもらえなかったのに、だ。
 彼らに、追い詰められた人間の気持ちがわかるぐらいのなら、この王朝はここまで腐敗していない。
 まだ、こちらに包囲の手が及んでいないということは、こちらを窮鼠だと理解していないということだろう。

「これより、私たちは洛陽宮に突入し、宦官を誅滅、帝を救いだすわ。私たちは全員、すでに何進大将軍に左袒している。わざわざ、衣を脱いで肩をあらわにする必要は、ないわね」

 賈駆が、全員の意思を試すように、言った。
 目をそらすものは、ひとりもいなかった。

 ──方針は、ここに可決された。
 
 歴史からいえば、ただの虐殺である。
 しかし、どのような理屈をつけても、ここを通過しなければ、絶対に太平の世はやってこないことも確かだった。



「ふむ、今際の際だ。宦官を殺すのは仕方ないが、略奪は起こるだろう。それはどうする?」

 趙雲の指摘は、もっともだった。
 ここでこれに目を瞑るようだったら、俺たちも宦官となんら変わらない。兵士が宮殿に踏み込んでやることなど想像はつく。殺戮と、略奪と、暴行である。

「財宝は、片手で持てる量のみ認める。剣を振れないほどに財宝を持っているものは、その場の将の権限で、斬首させる。後宮は、趙雲将軍と文醜将軍を門番につけるわ。押し通ろうとする人間は、なにものであろうと構わない。──斬り捨てなさい」

 賈駆が言い切った。
 どれだけの犠牲が出ようとも、この期に乗じなければ、滅亡するのはこちらだった。

「しかし、洛陽宮には、当然、官女もいます。それが兵に襲われるかもしれません」
「それは──」
「呂布将軍と、その配下をを前に押し立てて、厳罰で報いましょう。心理的な圧迫はあるはずです。こちらの握ることになる部下は、ほとんどが我々のものではない。軍規を徹底することは、無理です」
「それは、そうだなぁ。宮殿に突入するってこと自体が無理なのに、そこにそんな軍規を付け加えると、自分の腕を鎖で縛るようなものだ」
「兵士の士気については、問題なく。兵士の間には、金をばらまいて、噂を流布させています。今はもう、十常侍ひとりの首に、どれだけの恩賞が与えられるのか、という段階までいっています」

 ──腐ってやがる。

「そう、何進将軍の信望者は?」
「将軍に、呉匡がいます。宦官を抹殺することについては話を通していますから、間違いなく兵を挙げてくれるでしょう」

 田豊の舌が、滑らかに動いていた。

 ここにいるのは、

 曹操軍は、華琳と、俺と、季衣、流琉、そして黒騎兵の4人。
 袁紹軍は、袁紹と、文醜将軍、顔良将軍、張郊将軍、そして田豊。
 袁術軍は、袁術と、七乃さんと、趙雲。
 董卓軍は、董卓と、呂布と、張遼将軍、そして賈駆。 

 あとは、今は何進の副将のひとりである、華雄将軍の、ちょうど20人だった。

「呂布将軍、張遼将軍、華雄将軍、三人は昔使っていた兵を、そのまま使いなさい。袁本初さまと曹孟徳さまは、近衛を呼び集めてください。兵が集まり次第、洛陽宮に突入します。各自、配布した洛陽宮の地図をよく読み込んでおくこと、以上」

 賈駆の言葉が終わると、全員が動き出す。
 運命は動き出してしまった。永く、停滞していた時間がゆっくりと時を刻み始めた。

 高祖、劉邦が三尺の剣をとって、白ヘビを斬り、楚王、項羽との戦いの末に漢王朝を建てて、400年。

 事実上の、王朝の滅亡。
 永く歴史に名を刻むことになる、漢王朝の終わりの一日はこうして始まったといっていい。

 そして──
 これより乱世ののちに、三人の帝を擁立して戦う、三国の興亡と衰退の歴史をこう言う。





 ──『三国志』、と。














 次回→『宦官誅滅され、一刀、左慈と相まみえる、とのこと』








[7433] 宦官誅滅され、一刀、左慈と相まみえる、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:54







 天まで立ち上る煙が、王朝の終焉を告げていた。

 青鎖門には火がかけられ、洛陽宮に押し入ったこちらの兵士の行う虐殺によって、すべては赤く染まっていた。屠られた宦官の血によって、池ができている。この世界で、一番天国に近いはずだった場所は、一夜にして地獄へと変わっている。

 軍隊とは暴力機構であり、そこに正義の入る余地はない。一度動き出せば、腹が満ちるまで、あるいは目的を果たすまで止まることはない。どれだけのキレイゴトで飾っても、それが現実だった。

 目を覆いたくなる地獄だったが──しかし、不要な殺戮や陵辱は、数えるほどしかなかった。それに原因を求めるならば、それは数え切れないほどの兵士の返り血に染まった、一人の鬼神による。

 方天画戟が血を吸っていた。

 重さ140斤(28kg)の刃のかたまりが、その場に存在するすべてをなぎ払っていた。彼女の前では、普通の人間など、血の詰まった袋にしか見えなかった。歩く度に水音がするほどの紅い水たまりを生じさせた本人は、ただこの世界で最強の武を振るっていた。

 方天画戟が、横に一閃された。

 呂布は、音と同じ速度で、鉄の塊を薙いだ。大気を切る音は、けものの唸りそのものだった。
 立ちふさがった御林軍(宮廷を守る近衛)のひとりが、横に突きだした槍の柄で、それを受け止めようとしていた。

 蛮勇というべきだろうか。
 気づいていないのか。

 彼女の前に立った時点で、自らの命運は尽きていることに。そして、彼女が動き始めた時点で、彼の死はもう決定したことだった。
 
 鈍い音。
 ダンプカーと人間の正面衝突。
 例えるのなら、きっとそれが一番近い。
 振るわれた呂布の方天画戟は、生々しい音とともに男の槍の柄を撃ち砕き、勢いをそのままにアバラを完全粉砕し、それでも止まらない衝撃が、背骨までをコナゴナに砕いた。五メートルはバウンドして壁に叩き付けられた男の全身は、原型を留めぬほどに破壊されている。

 笑いたくなるほどの、圧倒的な武力だった。

 三国最強。



 呂布奉先。
  


 俺の見る限り、あの強さの源は、力でも速度でも技倆でもない。

 重さ2kgに満たない槍で、30kg近い方天画戟を相手取ることが間違っている。先日の武器較べの際に、一度触らせてもらったのだが、柄の部分を持ち上げるだけで精一杯だった。俺があれをあんな勢いで振り回したら、まともに扱えないとかそれ以前に、肩の骨が外れる。反動で腰が砕ける。

 ただ、呂布が扱うのを見れば、その重さなど見ているものにはいささかも感じられないだろう。それほどに自然で、それほどに馴染んだ武器ということだろうか。それを自らの手足のように自在に操るのはもちろん驚異だった。世界でも、彼女だけに与えられた天分だ。

 目の前にあるのは、当然の結果だ。

 勝敗を決したのは、圧倒的な質量の差だった。
 おそろしく単純に、大きくて重いものを、敵より早くぶつけている、といえばいいのだろうと思う。相手を一口で呑み込むけものの牙のように、相手の防御など、紙にひとしい。

 どんな英傑でも、一合で命運が尽きる。全速力のダンプカーを止められる近接武器がないように、あの方天画戟に耐えられる武器など、存在しない。一撃で武器ごと全身を砕かれる。今見たとおり、ヒトとしての原型が残ればもうけもの、といったところか。


















 夜は、すでに白みはじめていた。

 一昼夜の宦官掃討は、ほぼ最終段階に入っている。
 ただ、この時点で張譲の首をとれておらず、少帝も押さえられていないことが、焦りを呼んでいる。華琳と袁紹と袁術が眠気を噛み殺しながら陣を張って、報告を聞いていた。

 十常侍の首は、すでに七つ。趙忠、程曠、夏惲、郭勝は翠花楼の前で切り刻まれ、ほどなく曹節、侯覧のふたつの首も運ばれてきた。蹇碩の首は先日取ってあるから、あとは十常侍トップの張譲と、その弟分の段珪だけだった。

 南宮を落とし、いまは北宮を攻めている。

 この時代における洛陽は、世界でも最大の都であって、人口は100万ともいわれていた。後漢の首都である洛陽、その皇帝の住まう宮殿は広く、構成する柱のひとつひとつにまで意匠が施され、豪華絢爛に飾り立てられていた。

 地図で説明されたところによると、洛陽宮は、大きく分けて南宮と北宮が主な建物だった。あとは大尉府やら司空府やら司徒府やら永安宮やらがあるが、主な建物はこのふたつだった。門は12あって、俺たちが突入したのは、南のほうからだった。

「報告がありました。張譲と段珪は、ふたり、少帝と協皇子は張譲と段珪に連れ出され、北にある北芒山に逃亡した、と」
 知っていた。
 三国志演義の序盤、この逃亡劇の後に、少帝の、のちの献帝である協皇子は、董卓に保護される。労せずに──、董卓は最大の戦果を掠め取ったことになる。そのイベントが、この世界でどうなっているのかわからない。

 何進が殺され、ここまでの流れは俺の知っている三国志演義とほぼ同じだった。ただ、史実との最大の差異は、董卓がこちら側にいる、ということだった。まあ、最大の違いは、董卓が帝の廃立など考えもつかないような、普通の少女だということなのだが。
  
 ともかく、衝撃的な事実であることは変わりない。
 陣がざわめき始めた。

「え、なに。なにがまずいの?」
「帝が手中にあれば、たいていの無理は通せるけど、相手にとってもそれは同じ。このまま逃げられたら、あっちに大義名分をつくることになる。何進大将軍はもういないんだ。このままだと、こっちが逆賊になりかねない、ということだろ」
「それ、まずいじゃない」

 華琳が一息おいて、事態を飲み込んだらしい。華琳にもたれるように、袁術はすでにうつらうつらと船を漕いでいた。七乃さんの話だと、いつもは八時になると床に入るよい子らしい。気の張り詰めっぱなしで、疲れているのもあるのだろう。

「ええい、こんな一大事に、董卓さんはどこに行きましたのっ!」
「は、はっ。董卓様はすでに帝をお救いに、宦官を追跡中ですが」
「な、なんですってーっ。私の許可もとらずに、あの田舎者は、なにをしていますのっ!! 早く追いかけますわよっ!!」

 袁紹が焦っている。
 俺はこの世界の地形はよくわからない。
 よって、手元にあるこの洛陽周辺の地図(超貴重品)を見てみると、北芒山は洛陽の北東にあった。さらに北には北平県と河陽を寸断するように、真横に河水が流れている。渡河でもされたら、もう追いようがなくなる。追撃隊を編成して、虱潰しに探していくしかない。

「ちっ、何進を十常侍に差しだしたのが、裏目に出たかもしれないな」
 ぼそっ、と呟いた田豊のひとことに、俺の背筋が凍った。
 ええと、なに言っている。このちびっこは。
「何進大将軍を、やっぱりわざと行かせたのか? 殺されるとわかっていて?」

 俺の問いを、田豊は鼻で笑ったようだった。

「なにを怒っています? 
 剣を借りて人を殺す。これも兵法です。大将軍の仇討ちの後、我々が皇帝を補佐し、天下太平を成し遂げればよい。一を殺して、百を救えるのなら、誰だってそうするでしょう」

 悪びれた様子もない。
 この子供は、想像以上に悪辣だった。腹の中を割ったら、墨のように真っ黒いだろう。

「そんなことばっかりやっていると、最後には同じように殺されるぞ」
「それは光栄ですね。袁紹さまを狙われるのなら意見を取り下げますが、私の命が盾になるのなら、それはむしろ喜ばしいことでしょうから」

 正しい。

 鮮烈な正しさだった。
 ただし──人には受け入れがたい正しさだろうと思う。

「気に入らない、といった顔ですね」
「ああ、桂花と馬が合わない理由が、よくわかった」

 この子供軍師に、ほんの少しでも、華琳のような馬鹿さかげんがあれば、桂花を手放すようなマネはしなかっただろう。




 さて、これから。
 どうなるんだ? 今のところ多少の差はあれ、俺の知っている三国志演義の筋書き通りに進んでいる。このまま行けば董卓の暴虐が行われ、少帝が殺され、献帝が帝位につく。

 この世界で、それは起こらない、はずだ。

 ただ、少帝を、董卓が追っていった、というのが気にかかる。董卓の、いや──賈駆の気持ちはわかる。少帝をはやく助けることで、何進なきあとの董卓の発言権をすこしでもあげようというのだろう。

 ──本当に、そうなのか?

 なにか、見落としていないか?

 史実と重なる符号に、形にならないような胸騒ぎがした。杞憂であってくれればいい。
 今からだと、なにか策を講じられていた場合、それを破るのは無理だ。賈駆だ。賈駆だぞ。史実だと策を講じて失敗したことなど一度もない、後漢最強の謀略家(知力97)だぞ。諸葛孔明(知力94)でも周瑜(知力92)でも相手が悪い。太公望(知力98)か張良(知力100)あたりを引っ張ってこなければ、勝負にならない。

 そう、思っていた。
 そう思っていた俺の考えは、すべて裏切られることになる。


 こうして、
 ──事態は、賈駆の死から動き始める。 
















 鳳輦は、ひっくり返っていた。
 皇帝の乗り物のことを、総合して鳳輦という。

 あまりに急がせていたために、崖を曲がりきれなかったらしい。張譲も、段珪も、付き従った宦官たちも細い道のしたに投げ出され、みなすべて絶命している。しかし、違う。崖から落ちたことが死因ではない。彼らのすべてが一様に恐怖に顔を歪ませたままで、目や耳から血を吹き出している。崖から落ちた後の外傷らしきものはあるが、命を奪うほどの深い傷は、どこにもなかった。

「少帝たちの姿は、ないな」
「はい」
 嫌な予感は、さらに強まっている。今は、他の連中の到着を待つしかない。俺と護衛で付き従っている流琉だけが、崖の下にいた。

「ッ、兄様ッ!!」 

 ──殺気、だった。
 流琉の姿が、馬上から消えた。
 躍りかかってきた影が振り下ろした剣を、流琉が鉄戟で受け止めている。

「どけ。俺が用のあるのは、そこの北郷一刀だけだ」
「なっ」
 名前を呼ばれて、陽光に陰った男の顔を見た。

 見覚えがある。
 そうだ、忘れるわけがない。俺と同じフランチェスカの制服を着ていたところしか記憶がないが、小憎らしい顔にはたしかに凄みが浮かんでみえている。人を見下すような瞳の光は、一度見たら絶対に忘れないはずだった。本来なら、一番に探し出して、顔に拳の一発でも叩き込んでおかなければならなかった。

『──もう、戻れん。幕は開いた』

 白い光が、記憶にあった。
 漂白されてバラバラになっていた、この世界に飲み込まれる直前の記憶が、ようやく戻ってきた。

『飲み込まれろ。それが、お前に降る罰だよ』

 名前は知らない。
 なにを求めて動いているかなど興味はない。 

『この世界の真実を、その目で見るがいい』

 そうだった。博物館から鏡を盗み出したこいつに巻き込まれて、俺はこの世界にきていた。思い出せることはそう多くない。むしろ、すべて思い出してもわからないことだらけだった。
 ただ──俺がこの世界で生きるにしても、元の世界に帰るにしても、絶対に避けては通れない存在だと、それぐらいはわかる。

 絶影に命を下す。地面を滑っていく男の速度に一歩も劣らずに、殺気を込めた青釭の剣が閃いた。

「ふっ」
「チッ」

 まっすぐに突いた一撃は、男の肩先をわずかに掠めただけだった。

「相変わらず、話は通じなさそうだな」
「語る必要もないだろう。貴様は、今ここで死ぬのだからな」
「へえ、二対一で、ずいぶんと大層な口がきけるな。そもそも、なんでこんなところででてくるんだよ」
「我が主の酔狂だ。それ以外にない」
「へえ、おたがい、苦労していそうだなぁっ!!」

 俺の動きと一緒に、流琉の伝磁葉々が男をねらい澄ました。大木をなぎ倒す流琉の円盤を、男はわずかに身を沈めただけで避けていた。男の動きは、学園で戦ったときよりもなお鋭さが増している。

「あああああっ!!」

 そのまま、俺が左から横薙ぎに振るった刃を、男は逆手に持った短剣で防いだ。

 ──いや、防ごうとした。

 俺の手にほとんど手応えも残らぬまま、青釭の剣は、その短剣を紙のように斬り裂いて、持ち主の手首を飛ばした。その勢いのままでケーキにナイフを入れるように男の上半身を、半分ちかくまで深く斬り裂いていた。

 男が後ろに下がるのが遅ければ、上半身すら両断できていただろう。

 致命傷。

 人を殺した手応えすら残らないのは、青釭の剣の切れ味、だけではないだろう。千切れた手首からも、その上半身からも、まったく血がでていない。

「兄様。このひと、仙人ですっ」
「俺には、化け物に見えるぞ」
「そっちの子供の方の解釈で合っている。三国志を知っているのなら、拷問をうけようがなにをしようが、決して死ななかった方士の名を、知っているだろう」
「──左慈、か」

 烏角先生とも呼ばれる。
 史実のミカン好きが、なんでこんなことやってるんだ。







 風が吹いた。
 目を開けていられないほどの突風に、視界すべてを覆うぐらいの紙の札が舞っている。  

「やれやれ。姿が見えないと思ったら、左慈。いったいなにをしているのです」

 もうひとり。
 引き延ばされた影が、人のカタチをとった。

「干吉。なにをしに来た。こいつを殺せば、この外史は終わる」
「終わりませんよ。彼は、鍵ではない」

 干吉と呼ばれた男は、左慈よりいくらか年長のようだった。
 左慈が俺と同じぐらいだとすると、干吉は五つほど上、ぐらいだろうか。白の法衣に身を包んで、仙人というよりは先生といった感じである。

「なんだと。貴様。──なるほど。そういうことか。チッ、興が失せた。なりそこないの鍵を殺したところで、この外史を終わらせることはできない、か」 
「おい。結局人違いとか、どれだけ迷惑なんだよ」
「左慈が随分と非礼を働いたようで。私は、干吉と申します」
 干吉は、恭しく一礼した。

「……状況はわかってると思うけど、ひとつ、教えてくれないか?」
「ええ、部外者の干渉は好ましくありませんが。左慈の無礼を償う意味で、ひとつだけならば」
「俺が、元の世界に帰るには、どうすればいい?」
 それが、ずっと考えていたことだった。
 この世界で生きていく決心は、固めた。しかし、戻れるなら、いや、自在に行き来できるものなら、この世界との、そして華琳との付き合い方を考え直す必要があった。

「方法は、大きく分けて、みっつあります」
「みっつ、か」
「はい。ひとつはあの銅鏡です。あなたがこの世界に来るのに使ったあれ。しかし、破損しまったのでもう使えない。これは例外とします」
「ん」
「ふたつめは、左慈がやろうとした方法。この世界、我々が外史と呼ぶそれを構成している、我々が鍵と呼んでいるひとりの人間を捜し出して、殺すこと」
「………………」
「みっつ目は、その鍵と呼ばれる人間に定められているはずの、ゲームクリアの条件を満たすこと。これは、必ずしも鍵がやる必要はない。代わりにあなたが満たしてもいいはずです」
「あとのふたつは、そもそも鍵という人間を捜し出さなければ、話にならないな」
「ええ──左慈はあなたがその鍵だと思っていたようですが、いや──外史の先端を開けた以上、あなたにもかつてその鍵としての役割があったはずなのですが。ふぅ、仕方ないところです。我々は、三人目の鍵探しを始めなければならない」
「俺がひとりに数えられるとすると、その一人目の鍵というのは?」
「質問はひとつまでとの約束だったはずです。欲張りすぎはよくない」
「いや、オマケしてくれよ。そこが一番大事だろ」
「我々の盟主さまですよ。なんなら、今から、お会いになっていきますか? 気むずかしい方なので、気に入られるかは、あなた次第ですが」

 俺は、頷いた。
 干吉は、先導して歩き出す。

「流琉、戻ってくれないか? 董卓ちゃんや少帝を探すのは、みんなに任せて、俺はこのふたりの主とやらに用があるんだ」
「もしかすると、董卓ちゃんというのは、あの肌の白い女の子でしょうか?」
「知っているのか?」
「はい。盟主様といっしょにいますよ」
「………………」

 これは、どう考えればいい?
 董卓ちゃん達が、このふたりとグルなら、すべて説明はつく。盟主様というのが、イコール董卓ちゃんだという想像は、突飛だったが、ありえない可能性ではない。このふたりが、こんな場所にいるのは、俺を追ってきていたから。

 本当に、それだけなのか?














 ガラス玉のような瞳が、澄みわたる蒼天をみていた。突き刺さった矢はおそらく心臓まで達している。それだけが、わかった。心臓に矢の突き立った賈駆の死体にすがりつくように、温度を失った彼女の手を握っているのは、董卓ちゃんだった。

 賈駆が、死んでいる。
 なぜ?

 そして──彼女を気づかうように立っているのが、その盟主様、とやらなのだろう。まだ少女という年齢だった。

 盟主さまとやらの視線が、こちらを向いた。
 俺は、ただ彼女を一目みた瞬間、ここに立ち会ったことを後悔していた。

 一見してなんでもない立ち振る舞いのひとつひとつに、おぞましさがのぞいている。全身が、恐怖で震えている。目の前に立っているのは、ただの女性、そのはずだった。ヒューヒューと、喉から音が漏れている。傍にいるだけで、呼吸器官が圧迫される。

 俺は、彼女を見てはじめて知った。
 美しさと醜悪さは、正しく両立するものなのだと。卵のようなきめ細やかな肌を築ければ、この世の邪悪さすべてがわき出てきそうだと、根拠もなくそう思ってしまった。

「左慈、干吉。お客様なのね」
「はい」
「北郷一刀です。あなたは、日本の人、ではないようですが」
「干吉が説明していなかった? 私は、この三国志に生きる人間の身体を借りた、この外史の管理者よ。私はね。誰の味方でもなければ、誰の敵でもないの。そう、あなたたちになら、こちらの通称のほうが馴染みがいいかしら」

 そして、彼女は自分の呼び名を、愛を囁くように謡いあげた。

「私は──」





 ──天の御遣いと、呼ばれている、と。


 










 次回→『董卓、相国に昇り、献帝を擁立する、とのこと』











[7433] 董卓、相国に昇り、献帝を擁立する、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:54
 









 三国志。

 吉川英治やらの影響が大きく、日本ではまず、三国志といえば1800年前に起こった劉備、曹操、孫権の戦いの物語のことを言うが、その元々の意味は、魏書、蜀書、呉書のみっつのことを言った。
 元を辿れば俺がいるこの時代より、さらに100年の後に、蜀、魏、呉を平定し、魏王から帝位を禅譲され、天下統一を成し遂げた晋の武帝(司馬炎)の時代に生きた、ひとりの歴史偏遷官が記した、全部で65巻にも及ぶその歴史書。

 ──それを、本来の意味での、三国志という。

 恐ろしく簡素かつ明瞭に、事実をこと慎ましやかに書いたそれは、歴史に高く評価されることとなる。この300年後に、裴松之が注(いわゆる注釈)を加え、さらにその700年後に羅貫中が、農民達に伝わる柴堆(民間伝承)などをとりまとめ、三割とも七割ともいえるフィクションを書き加えて、劉備を善、曹操を悪として扱う、日本で広く知られることになる、三国志演義として完成させた。
 
「名乗るべきかしら。姓は陳、名は寿、字は承祚(しょうそ)周りからは、天の御遣いと呼ばれているわ」

 ──そして、三国志という話の基礎をまとめた、その歴史偏遷官の名を、陳寿という。


















「貴方は、ここでなにを?」
 俺は、陳寿と名乗った女性に聞いた。
 対峙した禍々しさは消えていない。人を目の前にしている気がまったくしなかった。人としての存在を放棄したような醜と紙一重の美は、俺にただ畏怖のみを与えていた。

「どうだったかな? 干吉ちゃん。どうなの? 私、基本昼寝してただけだし」
 陳寿が、言った。
 干吉が前に進み出る。

「──我々はですね、天の御遣いとその一行ということで、宮廷に招かれていたのですよ。盟主さまが、その御力で死者を蘇らせたり、石を金へと変じさせたりしていたのですが、昨晩宮廷での混乱に巻き込まれましてね。天子さまたちとともに、ここまで連れてこられた、というわけです」
「そうだったわ。じゃあ、そういうことで」
「………………」
 ネズミを追うつもりで、藪をつついたら、とぐろを巻く大蛇が出てきたと、そういうことか。
 この場合、ネズミが宮廷に巣くう宦官どもで、大蛇がこの天の御遣いサマなのだろう。
 いや、すでに頭から飲み込まれているのかもしれない。ただもう、捕食者の胃袋の中で、消化を待つ獲物の気持ちがよくわかった。

「……あの、天の御遣いさま、なんですよね」
 賈駆の死体にすがりついていた、董卓ちゃんが顔をあげた。
 雪を思わせる白い衣装と肌のことごとくが、空気に触れて酸化した血に染まって、どす黒い斑点をつくっている。
 全身が絶望に染まっている。俺には、そう思えた。

 賈駆が、死んでいた。
 
 おそらく、彼女はその死を、賈駆が息絶えるまでをその目で見届けたはずだった。その時間は想像で補うしかないが、それでも、賈駆は最後まで董卓をかばい続けたはずだった。

「詠ちゃんを──助けてください」
「ふぅん。でも、彼女はもう死んでいるわ。手遅れとは言わないけれど」
「だったら──助けられますよね。天の御遣いさま、なんですよね。
 詠ちゃんは、わたしをかばって矢にあたって、それで、血が広がっていって、でも、わ、わたし、なにもできなくて。手を握っていることしかできなくて、詠ちゃんの手を、少しずつ冷たくなっていく手を、ずっと握りしめていることしかできなくて、だから」
 董卓ちゃんが、藁にすがりつくように言った。

「あら、まあ──へえ。私は、困った人を見れば助けてあげたいとは思うし、それでかつ、あなたのような子は嫌いではないのだけれど、それでも、ね。なんの見返りも無しにそんなことをするほど、私が底なしに寛容で親切なように、見えるかしら」
 重い。
 見かけは董卓ちゃんと同じぐらいの年齢に見えるのに、人と話している気がしない。

「な、なんでもします。私に、できることなら」
「『できる』こと、と言ったわね」
「………はい」
「なんでも、『する』のね」
 
 董卓ちゃんの返答に、陳寿の口が半月のカタチに吊り上がった。
 悪魔との契約というものが、本当にあるのならば、それは、今のこのようなものを言うのだろう。

「いいわ。あなたの願いをかなえてあげる。大丈夫、あなたにしかできないことよ。だって、正史ではあなたが一度、やったことだもの。私が受け取るものは、あなたの志ひとつで構わないわ。それを、あなたの絶望と、引き替えにすることができるなら──」

 そうして、彼女は董卓ちゃんに、その条件を告げたようだった。
 俺は、それを聞くことは許されてはいない。
 董卓ちゃんの肩に手をかけようとする俺に、立ちふさがったのは干吉だった。

「知っていますか。悪魔の契約というものは、だれかに知られることで、その効力をなくすといわれています」
「それでも、あれを見逃せ、というのか」
 俺の言葉に、干吉は微笑をかえしただけだった。

「おや、私としてはあなたのためを思って言ったことですが。彼女が決めてしまった以上、どんなに言葉を尽くそうと、彼女の気持ちを変えない限り、この場で彼女を盟主さまからから引き剥がしたとしても意味はない。また別の場所を同じ事を願えばよいのですから。ここで、彼女の前に立ったところで、あなたが恨まれる以上の意味はない。私は、間違ったことをいっていますか?」

 そう言われてしまえば、返す言葉はない。
 でも、それでも、ここで──力ずくでも、彼女を止めるべきだった。

 俺がそう後悔するのは、これから三日もあとのことだった。
 

















「一刀さん。詠ちゃんをおねがいします」
 懇願だった。
 生気や目の光といった、人の生きる力のようなものが、すべて消えている。なにかを、諦めたような顔だった。

 覚悟を決めたとも違う、絶望を押し隠した、餓えた山犬の瞳だった。
 こちらに目をあわせようともしない左慈に押しつけられるように、賈駆の死体を投げ渡される。

 ──いや、
 生きていた。

 自らの血に染まった服を通して、わずかに肌の暖かみが伝わってくる。血を流しすぎたのか、肌は青白い。意識はまだ戻らないようだが、息もしている。かすかだったが、たしかにそこには生命の鼓動があった。

 賈駆は、生きていた。

 今は、それでいい。
 今は、それ以上のことを考えるのはよそう。

 視線がなんともなしに宙をさまよう。
 鳳輦がとめてある横には、山中の小屋があって、そこから出てきたのは、ふたりの少女だった。ひとりが11歳。もうひとりが8歳ほどだろうか。頭に至尊の冠を乗せていた。

「だれだ、あのふたり」
「え、天子さまですよ」
「え?」
 流琉の台詞に、俺は呆けたような声を返した。

「ええと、だって、協皇子と弁皇子っていってなかったか」
「はい。王朝では、女性でも皇子っていいますよ。王朝の基礎をつくった高祖(劉邦)や世祖(光武帝)がともに女性で、女性と男性の区別をすべて廃しましたから。高祖が漢中一番乗りのときにつくったこの四条の法令で、女性も、男性の名前や官職名を名乗れるようになったんです。そこで、高祖の偉業を称えて、女性の誇りを刻み込む意味で、真名ができたんですよ」
「だから──真名を呼ぶ、というのは特別な意味をもつのか」
「はい。真名というのは、私たちの誇りそのものですから」
 そうか。
 信頼したものに、真名を預ける。
 許されていないものが、真名を呼びかけた場合、著しく礼を欠いたことになる。それは、殺されても文句がいえないほどに無礼なことである。
 そういわれて、奇異な風習だなぁとしか思っていなかったのだが、そういう歴史の積み重ねがあって、彼女たちの正当な怒りがあるわけだ。

「天子さま。これから、洛陽に戻ります。準備を」
「ひっ」
 皇帝を継いだ(年長のほうの)少女は、ただ怯えるだけだった。
 あえていうならば、全身が賈駆の血にまみれた董卓ちゃんに、拒否反応を示したともいえた。
 なにかを喋ろうとしたようだったが、途切れ途切れの言葉は、聞き取れるだけの意味をもたなかった。

 これが、のちの少帝か。
 皇帝は、死後に功績に応じて、それに応じた諱(いみな)を与えられる。少帝というのはつまり幼くして死んだから少帝なのだ。漢王朝の皇帝を遡れば、もうひとり少帝がいたから、つまりは彼女は二人目の少帝だった。
 この間死んだばかりの霊帝は、官職をあろうことか金で売りに出して、政治を混乱させたあげくに、黄巾の乱を発生させる原因となった。『霊』という諱を与えられたのは、まあ当然といえば当然かもしれない。

 ちなみに、死後に与えられる諱なのに、俺たちさっきから普通にそういう呼び方してるのはどーしてなんだ、というツッコミは勘弁願いたい。たいていの三国志小説では、そこはスルーされている。というかまあ、『歴史』小説だから、別におかしくはないのか。

 そして──

「姉は自失しておられる。馬がないのならば、歩くことも厭わぬ。并州牧、董卓よ。お役目ご苦労であった。間違いなく、帝をお送りいたせ」
「はい。仰せのままに」

 毅然な態度で、董卓の前に立った幼い少女。
 ──彼女が、のちの『献』帝だった。
 










 董卓が、少帝を廃し、献帝を新しく立てたのは、中平六(西暦189年)九月の一日、これより三日後のことだった。

 嘉徳殿において、廃立を強行。

 李儒が策文を読み上げたのちに、少帝を玉座から引きずりおろし、献帝を玉座につかせ、自らを相国(宰相、三公の上)と名乗った。

 尚書の丁官が反対し、象牙の錫で打ちかかったのを、五体をばらばらにして、殺した。 

そして、彼女は自ら相国(宰相)の地位に昇ることになる。彼女の治世はおよそ100日ほどで終わることになるが、彼女によって殺された人間は、数万ではきかない。

 歴史は、彼女のことをこう呼ぶことになる。

 





 ──魔王、董卓。










 次回→『華琳VS月』










[7433] 華琳、鴻門宴に臨み、カニをむさぼる、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:54
「きぃーっ!! あの田舎者田舎者ッ!! 私たちの手柄を横取りして、許せませんわっ!!」

 袁紹が布を噛みながら、全身で悔しさを表現していた。

 いつまでも主のいない家に住み続けるわけにもいかず、招かれたのは袁紹の叔父の家だった。
 広さもなにもかも、この間まで住み着いていた大将軍の家と、その豪華さで遜色はない。いや、牛や馬の鞍にまでを飾り立てるような悪趣味さが入ってくるぶん、こちらの袁家の方がむしろ豪華さと潤沢さでは今までいた邸宅を凌ぐようだった。

 この部屋にいるのは、天子を得て、すべての権限を自分のものにし、果ては今上陛下の廃立を成し遂げた董卓への反感をもつものだけがいた。

 華琳と俺と、さっきから騒いでいる袁紹と、袁術とあと七乃さん。それに、新顔がひとり。
 司徒の王允だった。
 これをおうむる、と読んだヤツはラノベの読み過ぎである。ネタがわからない人はドクロちゃんを読め。つーわけで、王允おういんだった。華琳とは、前々から付き合いがあったらしい。

「大丈夫よ。絶対に信用できるから」
 華琳がそう言うからには、おそらくなにかあるのだろう。
 彼女が前々から、王允の家に伝わっている宝剣『七星』を持っていることも、なにか関係とかあるんだろうか。これ、春秋戦国の世、呉の王室に伝わった名剣、『魚腸』と並び称される、俺の青釭の剣よりもランクの高い、中国の歴史のなかでも屈指の名剣なのだが。
 まあ、後に趙雲の手に渡る青釭の剣と違い、三国志では一回しか出番ないけど。七星の剣。

 司徒(民政大臣)の位まで上がっていることから、老人かと思えば、二十代前半だった。線の細い、かなりのイケメンである。あと、男だった。えーと、史実だと貂蝉の義父だっけたしか。
 事実上、董卓を殺した男として知られる。董卓に反抗する人間をひとりあげろと言われれば、おそらくはこの王允がくるんだろうけど、なんでそこで董卓に対抗する相手として、華琳を選ぶのだろう。

 袁紹や袁術の力を当てにしているようにも見えないし。
 よくわからないところである。

 いや、王允ではなく、華琳がどこから人を引っ張ってくるのかが。
 華琳は、人脈だけなら、袁紹も袁術を凌ぐほどだった。洛陽にも、それなりの人脈をもっている。華琳も、いざとなったら鮑信ちゃんを頼ろう、と言っていた。
 ちなみに、鮑信というのは、いまこの洛陽で後軍校尉を張っている、兗州8群のうちのひとつ、斉北国の相だった。

 華琳の友人。
 かつ片腕であって、曹操軍としてみるのではなく、兗州牧としての華琳の地位を一位におくとすると、二番目にはこの鮑信がくる。

 

「お嬢さまー。どうするんです。このまま袁紹さんの家にお世話になりますか」
「うむ。まあ、よくわからんが、麗羽のヤツがくやしがるのを見るのはよいことじゃろ。しばらく見ているのもよかろ」

 袁術が、ない胸を張っていた。
 ふと、俺は口を挟む。

「いや、袁術。義姉妹の契りを結んだんなら、仲良くするべきだろうと思うぞ」
「ふん。下民は視野が狭いの。華琳ねえさまのたのみじゃから、あの麗羽めと義姉妹の契りを結んだのじゃ。でなければ、あのような疫病神なんぞ、まちがっても近づきたいと思わんわ」
 ガクガクブルブルと身体全体をふるわせているあたり、本気で嫌なようだった。いろいろあるんだなぁ。つーか、俺の呼び方は下民で固定なのな。

「でも、なぁ。面倒見はよさそうだぞ。袁紹」
 華琳をしつけたあたり、なんとはなしに大物っぽい感じもある。

「そういう問題ではないっ。麗羽めのヤツめ。わらわが幸せに浸っているところに、それをぶちこわしにやってくるのじゃ。何度あのものに煮え湯を飲まされたことかっ。お主も気をつけることじゃ。あやつ、他人の幸運を吸い取って、自分の幸福値に変換しおるからの」
「あら。そうですわ。美羽さんてば、華琳さんにばかりべったりで、私にまったくなついてくれないんですもの。姉と妹で親睦を深めに参りましょうか」
「ぎゃわーっ!!」
 袁術が、悪魔を前にしたようなすさまじい叫び声をあげた。
「なんですの。はしたない。私の妹が、軽々しく悲鳴をあげるものではありませんのよ。おどろくことなど、なにもないでしょう」
「れ、麗羽ねえさま。も、もちろんですわ。ほ、ほほほほほ」
「さて、叔父の家には温泉がありますのよ。華琳さんも誘って、三人で温泉に入るといきましょうか」
「わ、わらわは、とつぜん、急用を思い出したのじゃ。ぺ、ペットにエサのメンマをやらねば」
「洗いっこするのもいいですわ。久しぶりに邪魔が入らないですわよ」
「人の話を聞けーっ!! な、七乃ー。助けてたもれーっ!!」
「ああっ。もう、困ったお嬢様もいいなぁ」
 七乃さんは、うっとりして袁術を見送っていた。



 いいのかそれで。













 浴衣を着てゆったりしたあと、また袁紹の怒りが再発したようだった。
 酒をあおっていた。顔が赤い。
 テーブルの上にはつまみ代わりに、蒸した魚や筍を刻んで炒めたものなどが乗っている。
 あと、華琳も普通に酒を飲む。というか、こいつ自分で酒蔵をもっているほどの酒造マニアだった。

「四代続けて三公の地位についた、袁家の当主であるこの私に報いるには、何進なきあとの、大将軍の地位ぐらいは貰わなければおさまりませんわよ」
「あ、そういえば大将軍っていま、空位なのよね。何進おばさんが殺されちゃったから。あとは、だれがつくのかしら」
「普通に考えれば何苗(何進の弟。何進を裏切った)だったけど。この間、始末したろ?」
「当たり前でしょう。あんなの生かしておけないわよ。」

 裏切りには、速やかな死を。

 というか、始末しようと思ったら、味方に内応を疑われていて、すでに殺されていた、というのが真相だったりしたのだが。
 華琳は、最近、自分のキャラ立てに悩んでいるらしく、最近の口癖が『首を刎ねなさいっ!!』だった。アホだこいつ。

 ともかく、この議論は重要だった。
 この間まで同格だった袁紹、曹操、袁術をどう扱うか。論功行賞のむずかしさ、である。人は褒美を与えるときにこそ、その人物をどう扱っているかがわかる。論功行賞の不満が、戦乱に直結した例など、枚挙にいとまがないほどだった。(全部、七乃さんの受け売り)
 
「大将軍ねえ。兵の間からだと、呂布に、という意見が多いけどな」
「大陸の歴史上のなかで、最強の軍隊ができそうね」

 ──笑い事ではない。

 それは、こちらにむけるために使われる軍隊だ。もし、そんなものが成立した場合、呂布の率いる大将軍麾下30万と干戈を交えたが最後、骨も残さず殲滅される。というか、明らかに誰も勝てないだろう。
 その認識を全員が持ったうえで、俺たちが、これを笑い話にできるのは、その結論を知っているからだった。

 ──呂布は、それを断っていた。

 董卓は、呂布を大将軍の座につけたかったようだが、噂の本人はというと、ふるふる、と横に首を振っただけで拒否したらしい。たしかに、あの普段は心優しい呂布の性格なら、そんな大役、容れようとは思わないだろう。

 呂布が断った、となると──自動的に、呂布の下についている張遼将軍にもその芽はなくなる。じゃあ、消去法になるが、──華雄あたりか。
 いや、無理かな。華雄将軍には、どうやっても荷が重い。いや、能力的には何進大将軍も、無能といってぐらいだった。ってことは、誰がなっても同じなんじゃないのか大将軍。

「そういうことではないんですよ」
「七乃さん。なにか?」
「そもそも何進大将軍の一番の失敗とはなんでしょうか。実はですね。彼女の一番の失敗は、最後まで自らがこの国で最高の権力を有していたと気づけなかったことにあります。彼女の権力は、この国の誰をも凌いでいました。十常侍よりも皇帝よりもです。お嬢様の貴族主義と逆に、何進大将軍は平民根性が抜けてなかったんですね。十常侍なんて、獄吏に命じて全部、首を刎ねてやればよかったんです。大将軍は、刑法によって罪人を捌く権利があるんですから、事実、彼女はそれが可能な位置にいたんですよ。何進大将軍の罪をひとつ上げるのなら、やるべきことをやらずに、それを放棄したことです」

 うっわー、七乃さんがまじめなことをいっている。さすが現役の袁術軍で大将軍(朝廷の大将軍とは当然ながら別物。いわゆる元帥)を務めているだけのことはあった。

「あの、華琳さま。お客様です。董相国(董卓)さまからの伝言だそうで」
「董卓ちゃんから、なにかしら?」
 使者は、別室に待たせている。李華がもってきたのは、相国としての強制力をもった、招集状のようだった。
 
「今宵、各将と各、温明園にて宴会を行う。是非に来臨賜りますことを」

 ──と、書いてある。

 ぶっちゃけた話、上端に国章がついていて、招待状の右端に今日、19時から宴会の時間が書かれ、中央には『弁臨 董仲穎』とだけあった。これで上の意味になるらしい。中国語ってむずかしいよねぇ。中国語の難しさは、この簡素さにある。きてくれって意味なんだろうけど。
 きちんと、招待状は人数分あった。

「どうするかな、これ」
「鴻門宴(暗殺のための宴会)なんじゃないのー」
 李華(黒騎兵その3)がものすごく物騒なことを言ってきた。
「水。俺たちはこれからどうすればいい?」
「は、はいっ」

 水(すい)だった。
 黒騎兵その4、と呼ぶのはどうだろう。
 連れてきた黒騎兵では最年少ながら、軍師としての心得があるらしい。
 桂花が来る前は、曹操軍の軍師を務めていたようだった。荊州の水鏡女学院(全寮制)で軍学を学んだらしくて、この世界での諸葛孔明や鳳統士元の後輩だ、とは本人から聞いた話だった。

 ──うん。

 いや、俺はとりあえず頭を抱えた。この世界のトンデモ設定には慣れたつもりだった。メイド喫茶も時代を間違えたような小道具の数々もなにもかもツッコむほうがアレなのだと心に決めたはずだった。

 でもさ。

 ──なんだよ、水鏡女学園(全寮制)ってッ!!

 ふざけてんのか。(注、公式設定です)

 というかこんなの聞いて、華琳が真似したらどうするんだ。ヤツならやるっ!!
 来年の軍費のすべてをつぎ込んで、学園建設に乗り出して次代の軍師を育てようだとか言い出しかねない。
 ああ、と俺が近いうちに行われるであろう華琳の浪費にガクガクブルブルと身体を震わせているうちにも、水の説明は続いている。

「鴻門の会のような暗殺を警戒する必要性は、薄いでしょう。まず招待された人数が多すぎます。董卓さまに表だって敵対を表明している人は少ないのですから、これだけの人数を集める必要はありません。これだけの人数を一度に暗殺はできませんから」
「ふむ」
「それに、一番大きな理由が、これが招待ではなく、事実上の招集だということです」
「えーと、どう違うの」

 華琳は首をかしげた。

「招待は断ることができますが、招集は断れません。むしろ、この宴会の目的は、この招集を断った人間を敵として認識するということでしょう」
「つまり、行くべきだということ?」
「はい」
「わかったわ。使者を呼びなさい。──来たわね。ただし、ひとつだけ条件があると、董卓ちゃんに伝えてくれるかしら?」
 華琳は、使者へ向けて言った。
「は──」
「かたぐるしくしなくていいわ。ただの私用だから」
 そう言って、本当に私用だった例はほとんどない。それが判っているから、使者も表情を崩さない。

「董卓ちゃんに伝えなさい。宴会なら、私、カニが食べたいわ。たくさん茹でておきなさい、とね」

 あー。
 本気で、ただの私用だった。
 真面目に聞こうとした俺が馬鹿みたいだった。
 使者の人は、どういう意味かを計りかねて、はっ──と顔を蒼ざめさせたようだった。

 いや、いろいろと深読みしているようだが、これが董卓ちゃんだけにわかる符丁だとか、そういう展開は、いっさいないから。
 こいつがむやみやたらに自信満々な時は、たいていなにも考えていないときなのだ。













 
 各地の豪族たちにしたためられた招集状によって、温明園は賑わいをみせていた。
 豪華な十人掛けのテーブルが多くある、表座敷には豪華な料理が並んでいた。武官と文官たちが同じテーブルを囲んで、贅を尽くした料理に舌鼓をうっている。
 温明園は、数百年前から洛陽にある200人規模の大宴会場ということだった。足を載せることを躊躇うような高価そうな敷物に胡座をかいて、俺はあたりを見回した。

「はふはふはふ」
 まず、華琳はカニの身をほぐすのに全身全霊を賭けている。まわりの雑音すべてはもう耳に入らないらしい。彼女のテーブルには、他のテーブルの三倍のカニが積み上げられていた。
 袁紹はいない。
 主役は遅れてくるものだと思っているらしい。
 だから、十人座れるテーブルについているのは、俺と、華琳と、流琉と、袁術と、護衛の趙雲と、七乃さんだけだった。

「メンマさん。そんなにピリピリしてなくても大丈夫よきっと」
 なお、華琳は趙雲のことをメンマさん、と呼ぶ。
 武器は取り上げられて、趙雲は賑やかな宴席にあって、ぴりぴりとしている。

「そ、曹操どの。そのメンマさんという呼び方はどうにかならぬのか」
「だって、うちの店(メイド喫茶)でメンマラーメン大盛り、麺抜き、スープ抜き、なんて注文したの、メンマさんだけだもの。そもそも、メンマ壺を抱えながら言っても説得力ないじゃない」
 麺抜き、スープ抜きって、それメンマしか残らないだろ。
 華琳のカニだけではなく、趙雲の席にはメンマ壺が、袁術の席には壺いっぱいのハチミツが置かれていた。袁術も、上機嫌でクマのプーさんみたいに左手についたハチミツをなめていた。

 董卓ちゃんが、用意してくれたらしい。

 人が気づかないところまで気配りのきく、本来は心の優しい少女なのだろう。こういった気配りから、彼女の人間性が透けてみていた。そして、それはきっと不幸なことだ。心優しい少女が、永い歴史の中ですら随一の暴虐を奮った魔王の役割を割り振られている。繊細なこころとそのやさしさは、結果として彼女を傷つける結果にしかならないだろう。

 動きがあった。

 宴会場には上座が用意されており、そこには六人分のテーブルに一人分だけの料理が用意されていた。入り口に陣取っている警備の兵士が董相国様の入場を告げた。

「私の宴会にようこそおいでいただき、ありがとうございます」
 董卓ちゃんだった。
 まばらな拍手が、彼女を迎えた。
 座っている武官文官たちはそうそうたる顔ぶれだった。たかが──辺境の州牧ひとり、と露骨に侮っている雰囲気がある。廃位は、天に唾を吐きかけるような行為であって、帝を救った功績を盾にして、自身の栄達を計るだけの小物。

 董卓ちゃんに向けられるのは、そんな視線だった。

「諸侯に申し上げておきたいことがあります。天子は万民の主である。威儀そなわずは治世はおぼつかない。今上陛下は惰弱にして、その威儀に欠けるところがある。このたびは漢王朝安泰のため、少帝を廃し、献帝を立てることにしました。異存はないと思われるが、どうですか」
 董卓ちゃんは満座を見回した。
 誰も、応えない。
 答えられない。シンとした静寂に、董卓ちゃんが口を開こうとした、ところで──お祭りワッショイ、お祭りワッショイというかけ声が聞こえてきた。

 主役の登場だと、おそらく本人だけはそう思っているのだろう。
 
「おーっほっほっほ。おーっほっほっほっ」
 袁紹が御輿の上に座ったまま、園門に乗り付けていた。
 帯刀して席につくと、抜刀して、連れてきていた楽団に合図を送った。



 ジャーンッ!!
 ジャッジャーンッ!!




「このたびは、私を褒め称えるための宴会にお越しくださり、お礼をもうしあげますわ。さあ、無礼講ですわよ。この袁本初の名において、くつろいでいってくださいな」
「おおっ、よくわからんが、麗羽のやつめ、目立っておるの。わらわも一曲歌おうぞ」
「あ、あの、お嬢様ー。それはさすがに」
 飛び上がるような袁術を、七乃さんが抑えている。あと、華琳は相変わらずカニの身をほじくるのに夢中だった。

 この三姉妹、ほんとうに空気読まないなおいっ!!

「あ、あわてるな、これは孔明の罠だ」
「誰ですか、孔明って」
 流琉が律儀にツッコミをいれてくれていた。

「袁紹さん。人の招集した宴会でその振る舞いは、無礼ではないですか?」
「あら、西涼の田舎者には、荷が重いと思いまして。そもそも、礼というのは、目上の者に尽くすものでしょう。私と同じただの州牧が、帝位を鞠のように転がせると、本気でそう思っているんですの」
 董卓ちゃんと袁紹が、真っ向から対立する。

「まあまあ、袁紹さまに特別料理を用意したんです。見てくださいますか?」
 陳寿だった。
 参謀の李儒と一緒に、天の御遣いは、侍女に料理を運ばせてくる。
「あら、気がききますのね」
「ええ、袁紹さまをもてなすには、これ以上の料理はないと思いまして」
 陳寿がくすくすと笑っている。
 不吉なものを感じた。いたずらをしようとする子猫のような笑みに、ヘドロのようなものが混じっている。
「ひっ──」
 料理そのものを覆っている椀をとった袁紹が、声にならない悲鳴をあげた。

「──これは、どういうこと、ですの?」
「はい。あまり余計なことを口に出さいませんように。名門である袁家を、あなたの代で潰えさせる気はないでしょう」

 苦悶に顔を歪ませた男の首級が、皿の上に載せられていた。
 ──三公のひとつである太尉、張温の首だということが、周りの人間の様子や囁く言葉からわかった。

「陳寿さん。これは──」
 董卓ちゃんが、絶句していた。彼女も知らなかったのだろう。
「だって、董卓様の悪口を言っていたんですよ。董相国さまへの反逆は、九族まとめて死刑と、ついさっき決めたでしょう。だから、この人の親も奥さんも、子供も、親戚に連なるものまですべて殺しちゃいました。面白かったですよ。ふたりに槍を持たせて、子供を人質にとって殺し合わせるんです。途中で飽きて全部殺しちゃったけど、あれっ、もしかして相国さまもやりたかったですか?」
 董卓ちゃんは、なにも答えられない。
「この、逆賊がっ!!」
 懐に隠した短刀を手に、董卓に躍りかかったのが、ふたりいた。

「ああ、馬騰と、丁原ね」
 陳寿は、そのふたりを見もしなかった。

「──死ね」

 俺の視界が、赤く染まった。
 人間が、爆ぜた。内部からありえない力がかかったように、さっきまで人だったものが穴という穴から、赤を重ねたような色をまき散らす。高そうな絨毯から調度品やあたりのすべてを深紅に染めて、彼女は笑っていた。

 双方とも──特に馬騰などは、大陸でも屈指の武勇を誇る太守だった。

 それが、一瞬で。


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははあっはははははははははあはははははは──」


 死体を踏みつけにする。
 ぬめるような、ぐちゅっとした音が響いている。
 陳寿は、返り血に塗れて、さらに美しさを増しているように思える。
 すべてが赤い。戦場のように、人二人分の肉片がまき散らされていた。

「ああ──そうだ。この特別料理だけれど、皆様には、すでに振る舞っているのよ。そこの豆料理に入っている肉、なにを使っていると思うかしら?」
 俺は弾かれたように膳の上に乗っている料理を見た。まだ手をつけていない一皿。羊の肉かなにかだと俺は思っていた。

「私自らが苦労してつくったのよ。まずは野菜と材料をいれて、そのあとに目を抉って舌を抜かせた捕虜たちを煮立った大鍋に放りこみまーす。最初は油の音と天まで響くような人の泣き声が耳障りでしかたないけど、人の声が聞こえなくなってからも、材料がほぐれるぐらいよく煮込んだら完成。ただし、人肉ってあまり煮すぎると固くて食べられないのよね。切り分けて出したのが、その料理なんだけど、あら、箸が進んでいないようね。私の心づくしだったんだけど、気に入っていただけなかったかしら」

 居並ぶ諸侯たちには、箸や椀を落とすものが続出していた。食べたものを吐くものも多い。

 董卓ちゃんは、これを知っていたはずだ。
 積み上げられたカニとハチミツ壺とメンマ壺は、こちらを巻き込まんとする、彼女の優しさなのだろう。
 
「ねえ、董卓ちゃん」
 華琳が、立ち上がった。
 今の惨劇をなにひとつ気にしていないように、董卓に近づいていく。

「曹操さん。あなたも袁紹さんのように、私に異議が?」 
「あ、うん。それはいいのよ。どうせカニ食べるのに夢中できいてなかったし」
 華琳は、さらっと言った。

 ダメだこいつっ!!
 ちなみに、これ、謙遜でもなんでもなく、事実なのが恐ろしいところだった。ああ、もうダメだ。俺は死を覚悟していた。喋り始めたから、もう止められない。

「えーとね。董卓ちゃん。少帝ちゃんを廃位したんでしょう」
「はい──そうです」
「だったら、もう使わないでしょ。少帝ちゃん返して」
 華琳が、無造作に手を差しだした。一瞬、というかいくら考えても、華琳が言っていることの意味がわからない。
 董卓ちゃんが、困ったように俺を見た。
 ああうん。えーと。

「ええと、華琳。なに言ってるんだ?」
「董卓ちゃんが誰を皇帝につけても、私にはどうでもいいけど、少帝ちゃんは何進おばさんの姪なんだから、こんな危ないところにおいておけないじゃない」
「ああ、なるほど。って、──ええっ!!」
 俺はおどろくしかできない。華琳が、ここまでアホだとは思わなかった。そんな願い、通るわけがないだろうがっ!!
「私が、おとなしく返すと思いますか? 曹操さんが、天子の正当性を疑って、私を討つための旗印に──」
「しないわよ」
 華琳が、なにを言っているんだろう、このお馬鹿さんは、という感じで言った。
 なんというか、こう断言されると、董卓ちゃんが間違っているような気にすらなってくる。

「………………いいですよ。持って行っても」
「え?」
 董卓ちゃんの絞り出すような声に、俺は、呆けたような声を出していた。
 まさか、通るとは思わなかった。董卓ちゃんの表情に、明らかな侮蔑の光が浮かんでいる。

 ああ、そうか。
 賈駆の血にまみれた董卓ちゃんを、少帝は穢れたようなものを見るような目でみた。あんなの、どうやっても使いようがないとでも考えているのだろうか。むしろ、少帝を反董卓仲穎の旗印にするならば、望むところ。すべて叩き潰すまでと思っているのか。彼女の心境は、想像するしかない。

 ただ、ひとつだけわかる。
 董卓ちゃんは、こわれ始めていた。

 俺には、そう見えた。
 日本の92代目の総理大臣が、総理に一番必要な資質は、と訊かれたときに、『どす黒いまでの、孤独に耐える力』と応えている。董卓ちゃんに、こんな時に、一番そばに居てほしい少女が、ここにはいない。

 ──賈駆はまだ、眠り続けていた。

 龍衣を着た少女が引き立てられてきたのは、すぐだった。
 怯えている。しゃくりあげる声は、咽につまっていて、なにひとつ言葉の意味を成さなかった。聡明な妹はここにはいない。

 役立たず、と──董卓ちゃんは、口をそう動かした。それは、なにもできなかった自分を重ねているのか。
 どこにもぶつけようのない怒りを、腹に溜め込んでいる。

「ねえ、大丈夫よ。私は、あなたの敵じゃない。今まであなたがいたところには、誰もいなかったけど、ここには、私がいる。だから──ひとりで、よく頑張ったわね」
「う、うわああああああああああああああんっ!!」 
 皇帝の衣を着た少女が、華琳に抱きしめられる。ずっと堪えていたものが、溢れ出したようだった。

 それを見て、
 董卓ちゃんが、立ちつくしていた。
 自らが失ったものを見せつけられて、茫然自失しているように見えた。 

「曹操さんは、いつもそう、ですよね。私にできないことが全部できて、私、ずっとあなたみたいになりたかった」
「そう?」
 濁った闇の先に、憎悪と憧憬が、入り交じったような光だった。

「あなたが嫌いでした。私にできないことが、ぜんぶできるあなたが」
「そう──なにを無理してるのか、私にはわからないけど、私は董卓ちゃんが好きだよ」

 その言葉が、なによりも深く董卓ちゃんを傷つけたことは、きっと華琳には理解できなかっただろう。

 ──この日の宴会は、それで終わった。
















 洛陽の市といえば、道を埋め尽くすほどの人と商人の呼び込みの声、そして彼らが四海より持ち寄った海産物や農産品、手芸品から機織物、各地の特産、特需品が並ぶ、それは賑やかなものだった。
 けど、それも昔の話だ。
 一週間前のことが、おそろしいほどに昔のことのように思えていた。
 董卓ちゃんが洛陽を支配してからは、今の市は半分の賑わいもなかった。

「回りくどいことをしないで、直接来てくれればよかったのに」
 俺は指定された旅籠の、表座敷の、決められた席にいた。
 目の前に、旅装で固め、顔の半分を隠した彼女が座った。知らなければ、かろうじて若い女性であることがわかるだけだ。
「そっちはそれでいいかもしれへんけどな、こっちはそうはいかへんのや。今の、ゆえは猜疑心の固まりやからな。ウチにも、今も見張りがついとる。むろん、あんたにもやな」

 この関西弁で誰だかわかったと思うが、張遼将軍だった。
 俺に手紙ひとつ届けるのにも、相当な苦労があったのだろう。だからこそ、これにはかなりの手間がかかっているはずだ。俺がぶらぶら外出して、ただ酒を飲んで帰ってくる。その間、張遼将軍のことは無視されて、報告が董卓まで届くはずだった。

「普段でさえ、月には近づけん。あの陳寿とかいう女と、李儒がいつも近くにいるさかい。なぁ、一刀。帝を保護したとき、いったいなにがあったんや」
「ああ──」
 酒が運ばれてくる。
 見ると、いつも手にしていた酒の入った瓢箪は、今はもっていない。注文した酒が空になるまで、俺はことのあらましを話し終えた。

 賈駆が死んだこと。
 天の御遣いと名乗る女のこと。
 そして、その陳寿と呼ばれる、天の御遣いが、怪しげな道術(としか、説明できない)で、賈駆を生き返らせたこと。そして、それが故に、董卓ちゃんはその陳寿に逆らえないということ。

「──ことのあらましは、こんなところだ。できれば、信じて欲しい」
「………………せやな。ゆえがああなったことを思えば、どんな荒唐無稽な四方山話でも、信じたくなるわ」
「信じてくれるのなら、話は簡単だ。董卓ちゃんを止めなければならない。俺は、あのとき、どうやっても止めるべきだったと思う。こんなことになるのなら、最初からだ。契約をご破算にしても、賈駆の命を、諦めても、だ」
「簡単に、言うんやな」
 怒るでもなく、彼女は俺の話を聞いている。
 董卓ちゃんに、もう未来はない。満座の前で恥をかかされて、明らかに、もう董卓ちゃんは華琳を生かしてはおかないだろう。
 呂布の動きだけがわからない。情報はまったく入ってこない。史実だと、董卓は最後に呂布に殺されることになる。
 この世界でこれが繰り返されるとするなら、呂布は、董卓への裏切りの機を伺って、埋伏している可能性もあった。

 陳寿は、自分を傍観者と言っていた。
 彼女は、恐るべき相手だったが、それでも傍観者である限り、──干渉できる方法には限界があるはずだった。

「誰も、今の状況を望んでいない。董卓ちゃんは、自分を止めてほしいと思ってるだろう。これ以上は、張遼将軍の名にもかかわる。だから、俺たちと一緒に、戦ってほしい」

 そうだ。
 史実では、陳宮は、呂布に殉じた。
 高順は、その高潔さゆえに二臣に仕えなかった。
 だから、俺が口説き落とせるとしたら、おそらくこの張遼将軍だけだ。この裏切りは、張遼将軍の名を下げるものでは決してない。

 なにしろ、幾多の華々しい戦歴を誇る、魏の名将である。
 彼女の戦力は、決して無視できるものではない。

「一刀」
「ああ」
「詠を、頼む」
「………………え?」
 張遼が、わずかに目を伏せていった。俺の肌に、粟が生じる。

 ──同じ、言葉だった。

『一刀さん。詠ちゃんをおねがいします』

 なにかを諦めて、自分を殺し、豺狼やまいぬに身を落とした少女の姿が、今の張遼将軍に重なった。ああ──と、いまさらに気づく。なんて馬鹿なことを言ったんだろう。
 今の張遼将軍の心情を語るなら、秋蘭を思えばいい。いくら主に失望しても、その行いのすべてを否定したくなっても、秋蘭が華琳を裏切るなんて、あるはずがないのに。

 表座敷に、武装した兵士たちがあがってきた。
 店の主人が、懸命にそれを押しとどめようとしている。

「困ります。いまは、予約したお客様がいて」
「なにを言っている。そこのふたりしかいないだろうが」
 十五人ほどだった。兵士の喋っている言葉のなまりと、それに武具の特徴で、旗がなくてもどこの兵かの見分けはつく。
 もっとも、白昼堂々とこんな無茶な真似が許される軍は、たったひとつしかない。

「おい、そこの。たったふたりで店を貸し切って、なんの密談だ?」

 こちらを囲んだ。目の前には、我が物顔で歩き回る、董卓軍の兵士たちがいる。

「叛乱分子は、見つけ次第獄に落とせ。そう言われている。貴様らも獄吏の手にかかりたいか?」
 いい勘をしている。
 やっていること自体は、言いがかりなのだが、言っていることは、ほとんど正鵠をついていた。

「怪しいな。ひっとらえて牢に入れておけ。俺があとで直々に尋問してやる」
 隊長は、笑った。
 男の俺でも嫌悪感を催すような、下卑た笑いだった。

 董卓軍であること。
 それが、正義の御印であるかのようだった。
 その旗の下にいるだけで、そのすべてを正当化できるのだとそして、それはこの洛陽にあって、絶対の真実になっている。

「董卓軍やな。所属と名は?」
「なに?」
「洛陽の警備は、執金吾の担当やろ。アンタらは、こんなところでなにをしとるんや」
「ふん。そこのお嬢さんは、自分の立場がわかっていないようだ。ここで、足腰が立たないほど責めたててやってもいいんだぞ」
 後ろの数人が、つられて笑っている。
 初犯じゃないな。こいつら。
 おそらくは何回か、同じ事をやっているんだろう。

「この董卓軍は、帝を戴いている。つまり、俺たちが正義なんだよ」
「董卓軍か。奇遇やな。ウチもや」
 外套をはだけた。見間違えようのない特徴的な袴姿が外気にさらされる。董卓軍に身をおくものなら、彼女の姿は骨の髄にまでしみこんでいるはずだった。

「まず、この張文遠を前に、それだけの大口をたたけることは、褒めてやるわ」
「張遼、将軍──っ!?」
 驚愕の表情を貼り付けたまま、隊長の首が、胴体から離れていた。外套の下に隠し持っていた短刀が、弧を描いていた。
 首が落ちると同時に、兵達が色めきだった。

「なるほど、腰が立たなくなるまで、相手してほしいんやな。望むとおりにしてやろうやないか」
 鋭い瞳の光が、その場にいる全員の心臓を鷲掴みにしている。

「総員、兵舎まで駆け足。これより、調練を行う!!」
 なお、張遼将軍の調練は、時には死人が出るほどに、過酷なものという噂が立っている。連中は、間違いなく体液をすべて搾り取られるのだろう。



 外に出ると、人が減っていた。
 俺は首をかしげた。数台の馬車が道の真ん中を突っ切っている。

「あら、見慣れた顔じゃないの」
 馬を止めた。馬車の中から出てきたのは、陳寿だった。
 馬車の横には、戦利品として多くの首が下げられている。そこまではいい。俺が顔をしかめたのは、男のみならず、女や子供の首までかけられていることだった。

「聞いてよ。一刀くん。近くの街を視察してたらね。祭りなんかやってて、みんな働いてないのよもう。私たちがこうやって遠くを視察してるのに、農民が遊んでるのよ。理不尽だと思わない? だから──つい皆殺しにしちゃったのよ。ひどいわよね。ねぇ、董卓さま」
「う」
 董卓ちゃんが、横にいた。震えている。
「ほら、董卓さまもそう言って──」

「黙りぃや」

 普通の人間なら、射すくめられただけで凍死しそうな張遼の視線に呑まれて、陳寿の動きが、一瞬止まった。


「月。官職に空きがあったやろ」
「あ、はい。それが?」
「何進なきあとの、大将軍の任を、今の時点をもって、拝命した。ウチも、腹をくくったわ。帝を押し立て、天下に董の旗を打ち立てる。あんたの望みは、それで、いいんやな。それを邪魔するものすべてをウチが払ってみせる。ここに、それを誓うわ。だから、ウチを詠の代わりだと、そう思ってほしい」
「──しあ、さん」

 董卓ちゃんは、言葉を続けられないでいる。

「悪いな。一刀。これが、ウチの選択や。次に会うときは、戦場で、やな」

 それが、彼女の宣戦布告だった。
 蒼天に袴を翻し、彼女は張遼文遠でしかありえなかった。










 次回、『華琳と曹操』










[7433] 袁術、華なんとかを迎え、華琳、美羽ちゃん育成計画を発動させる、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:56






 蒼天、すでに死す。

 漢王朝は、死に体だった。
 誰一人として、漢王朝を復興しようとしているものなどいない。誰かが言った。

 乱世とは、誰でも王になれる時代だと。
 王朝が秕政(ひせい)をおこない、その元凶たる宦官がすべて滅せられても、事態はなにひとつ変わらなかった。

 後の世に来るのは黄巾の民達が願った黄天の世ではなく、凶賊を生かすために、民の苦しみであがなわれる、董卓の治世だった。



「私は、どうすればよいのだろうな」



 問いは、カタチにならずに、空に溶けていく。
 月が鮮やかな夜だった。天にある星が稀になるほど明るく、かささぎは南に飛んで行き、木のまわりを三度も巡って、どの枝にとまるべきか考えていた。
 山がいくら高くてもかまわない、海がいくら深くてもかまわない。

 そう、華琳は謡っている。

 月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶ
 樹を繞ること三匝、何れの枝にか依るべき
 山は高きを厭わず、海は深きを厭わず 

 曹操(NOT華琳)の作った詩を、華琳が詠んでいるらしい。意味はわかってないようだが。



「ふむ。わらわに仕える用意ができたのじゃな」
「そういうわけではないが。今の董卓さまは、まるで別人のようだ。お前のほうがいくらかマシだというだけだがな」

 華雄将軍と、袁術の会話だった。

「なんじゃ。あるじが気に入らぬのか」
「気に入らんな。今の董卓さまは、あの李儒とかいう参謀をとおして、よく判らないことを命令してくるだけだ。今までの董卓さまならば、前進、突撃、突貫、といった命令をくれたのだが」

 おーい。華雄。
 お前、それ、そのみっつしか理解できなかった、というだけじゃないのか?

「袁術。ひとつだけ約束してくれ。私は戦場で剣を振ることしかできん。だから、戦う理由をくれ」
「む。董卓は、どうだったのじゃ?」
「あの日、共に誓った志は、まだ胸にある。董卓さまが、皆が笑って暮らせる世の中を作ると、私に約束してくれた。私の武芸も能力も、そのためにあると」 

 華雄の言葉は、胸に響いた。
 ──董卓ちゃんは、今は逆のことをしている。

 君主は、強くなければならない。
 乱世には、ただ弱いということが、なによりの大罪になる。

 なにもかもが手遅れだった。
 君主は、強くあらねばならない。
 董卓ちゃんの優しさは、彼女だけのかけがえのないものだった。
 たくさんの人を、その優しさで救うことができたはずだ。けれど、彼女の優しさは、強さには結びつかなかった。 

「華なんとか。わらわはいそがしいのじゃ。おぬしごとき戦う理由など、わらわがわかるわけないであろ。自らの戦う理由ぐらい、おぬしが見つけよ。武将とは、そういうものであろうに」
「……そうだな。この華雄。お前に剣を捧げよう。この身は微才なれど、おまえが私を裏切らぬ限り、私はおまえを決して裏切らぬ。それを、私が、私自身に誓おう」
「うむ。──許す。華なんとかには、将軍の位を授ける。七乃、手続きをしてたもれ」
「はぁいっ。華なんとかさん、こちらですよー」



 董卓軍でも、屈指の名将である華雄が裏切り、袁術についた。
 史実にはない、歴史的といってもいいほどのエピソードだった。
 果たして、これはどういう波紋を物語にもたらすのか、誰にもわからないところだった。












 で──
 それが三日ほど前の話だった。

「うううううう。私のお嬢様がー、どんどん立派にーっ!!」

 七乃さんが泣いていた。
 字面だけ見ると、感動して泣いているように見えるが、彼女は思いっきり袁術の成長を嘆いている。

「アホなお嬢様がここは絶対、華雄将軍の気持ちを汲み取れずにいろいろアホなことを言いまくると思ったのになぁ。
 ああ、そうだったら、楽しかっただろうなぁ。お嬢様も、最近は、皇帝になるという野望にも気がすすまないようだし、私だけのアホなお嬢様が、私の手から離れていくなんてさみしいなぁ」

 ダメだ、この人。

 七乃さんは地面に『の』の字を書いていた。あと、なにげに重要そうなことを言っている。

「これ、私の美羽ちゃん育成計画なのよ」

 ──とは、華琳の話だった。

 話は、少帝ちゃんが、袁術に預けられるところまで遡る。
 さて、董卓ちゃんから奪還した少帝ちゃんだが、いつ暗殺されるかわからないような不安定な身だった。彼女の母である何大后は、すでに毒殺されている。

 歳の近いものに預けるほうがいいということで、袁術が選ばれた。
 少帝ちゃんは11歳であって、袁術と友人になってくれればいいと華琳は考えたようだった。あと、後で聞くところによると、別の狙いもあったらしい。

「美羽ちゃん。地位とかあると、なんでもできるようになるみたいに思うところがあるみたいだし、皇帝とか、実は、なってもいいことなんてないんだよって、少帝ちゃんと話すうちに嫌でもわかるでしょ」
「あー、意外に考えてるんだなぁ。っていうか、お前がそこまで考えられたことに驚いてるんだけど」
「なに言ってるの、一刀? 妹のお世話は、姉の嗜みよ。妹をかわいがることに、資格や理由なんていらないでしょ。言っておくけど、私の美羽ちゃんへの愛は、七乃さんに負けないわよ」

 華琳が胸を張っていた。

 あと、こっち。それぞれの年齢の話になるが、長女である袁紹が19歳。(三国志では、曹操より2歳年長とある)華琳が、俺と同じ17歳。で、袁術だが、13歳というところだった。

「仲良くできるかな」
「大丈夫よ。麗羽姉さまも、美羽ちゃんも、子供には寛大だから。田豊がなんで麗羽姉さまの軍師をやれてるのか、わかるでしょ」
「むぅ。それもそうか」

 ──と、そういう経緯である。
 回想シーン終わり。

 華雄を見ると、七乃さんが袁術軍入隊記念、木彫りの『1/16手乗り美羽ちゃん人形』を渡していた。服のひらひらや表情まで再現されていることからして、人形というよりも、フィギュアといったほうが近いか。

 七乃さんの超絶的な技倆により、彼女を写し取ったような精巧なつくりになっていた。
 プロの仕事だった。
 これ、春蘭の曹操人形とタメ張れるぞ。

「イカスわね。私が作成(エンチャント)した、『知らぬうちに髪が捻れてくるくるになっていく麗羽様人形』にも劣らない完成度だわ」
「おおっ」

 耳元で囁かれた声に、びくっとした。

「人を見てびっくりするなんて、失礼なのだわ」

 背後に立っていたのは、いつも通り目が死んでる、袁紹軍の黒魔法少女(張郊)だった。美羽ちゃん人形を手にとって、手触りを確かめたり、裏返して再現されたパンツの皺とかを確かめている。

「あ、たくさんありますから、張郊さんもどうぞ」
「ありがたくいただくわ。私の麗羽さま人形もどうぞ」

 で、その麗羽さま人形。

 制作時間、三秒。

 俺の脳裏によぎったのは、そんな単語だった。
 なんかいろいろとひどい。
 藁を人の形に編み込んで、そのまま首に縄をかけて、えんしょうさま、と筆で書かれている。どの角度から見ても、呪いの藁人形以外のなにものでもない。

「私の作った美羽さま人形は、愛でたりかわいがったり、色をつけたり一日中眺めていたりと、本物にも負けない魅力があって、用途はいろいろなんですよ」
「ふふふ、勝ったわ。いくらかわいくても、私の麗羽さま人形のように、燃やしたり、釘を打ったり、呪ったり、生け贄にしたりはできないようね」

 いや、あのな。張り合うところ、間違ってるだろ。
 やっぱりそういう使い方かよ。

「一家にひとつ、麗羽さま人形。家に置いたが最後、天災は起こるわ、黄巾党は跋扈するわ、職質は受けるわ、夜中ひとりで動き出すわ、寝ている間に不快な高笑いの幻聴が聞こえてくるわ、はたから見ていればという条件付きで、素晴らしい人形なのよ。どこが素晴らしいかというと、どんな遠くに捨てても、翌日には家の元の位置に戻っているところなんて素晴らしいわ」
「燃やせ、いますぐにっ!!」

 恐っ!!
 本気で恐っ!!

「あら、北郷さん。もう帰っちゃうんですか」
「まあ、華琳に言われてちょっと様子をみにきただけなので」
「それはそれは。曹操さんに、お大事にと伝えてください」














 お見舞いの温州みかんが山と積まれていた。
 たまに雪崩が起きて、ごろごろとみかんが山から滑り落ちてきている。すべて、袁紹が袁家の財力に物をいわせて、買い占めてきたものだった。

 もう、洛陽にはなんの用事もない。
 あとは本拠地に帰るだけなのは、俺たちも袁紹も袁術も変わらないのだが、思わぬ事で、俺たちは足止めをくっていた。

 華琳が、熱を出していた。

 もう二日、意識がもうろうとしていて、床から離れられない。こうなるのなら、華佗を連れてくるべきだった。
 風土病のような、深刻なものではないらしいが、原因がわからない。

「むぐむぐむぐ」
 華琳は俺が剥いたみかんを食べていた。顔が赤くて、元気がない。

「眠い。寒い。だるい。ちょっと一刀、どうにかしなさい」
 華琳は華琳だった。
 帰ってきてから、ずっとこの調子だ。
 具合が悪いのよりなにより、ひとりきりが耐えられないのだろうと思う。まあ、ワガママひとつで具合がよくなるなら安いものだが、そういうわけにもいかないだろう。

「眠いなら寝てくれ。ずっと手を握っててやるから」
「そうねえ。思えば、最近ふたりきりになる機会って、なかったわよね」
「そういえば、そうだな」

 どうでもいい言葉を交わす。

 当たり前すぎて、翌日には覚えていないような言葉たちだった。もとより、俺たちはふたり一緒にいること以上のことを、欲してはいない。

「あ、俺も眠い。ちょっとそこどけてくれ」
「えー、ちょっと一刀。病人の布団に入ってくるのやめなさいよ」
「聞こえない聞こえない」
 俺は華琳の胸に顔をうずめてから耳を塞いだ。
 ああ、おちつく。

「しかたないわね。もう」

 いつもの華琳だった。
 なんの前兆もない。だから、俺はこのあとのことを想像もできなかった。
 
 この世界での、この華琳は、イレギュラーだった。

 あえて考えないようにしていたのかもしれない。史実の曹操がどんな性格であろうと、俺にとっての彼女は、今の彼女以外の何者でもありえなかった。特に、なんの才能があるわけではない。彼女が見つけてくれなければ、俺はまだ頭領のところの小屋で馬番をしたままで、このどことも知れない世界で一生を終えていたのかもしれない。


 
『君主はひとりぼっちで、たったひとりで決めなければならないことがたくさんあるの。誰にも、心の動きを知らせちゃだめなんだって。君主は死ぬまで孤独だって。だからね。私を助けてくれるなら。だからね、一刀には──』



 一番最初に、彼女に出会ったときのことを、今さらに思い出す。



『──私の孤独を半分あげる。一刀はなにができるか考えているみたいだけど、裏切らないということだけを誓ってくれればいいわ。預けたんだから、絶対、途中で放り出したらだめよ?』



 時計の針が正しい時間を刻み始めるように。
 朝が来て、あまねく星空を天に還すように。



 遠い昔のように思える記憶が、白く濁っていく。








 次に目覚めたときに、彼女は消えていた。













「──華琳?」









 あとがき。

 ところで、袁術って何歳ぐらいなんだろうか。





[7433] 華琳、姿を消し、一刀、曹操に叛す、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:55






「──華琳?」





 薄闇を溶かしたような視界が、徐々に明るくなってきていた。水面に顔を出すようにして、徐々に意識が浮上してくる。
 なにかが、近くが動く気配がある。俺の喉に、手がかかっていた。寝ている俺に覆い被さるように、黒い影が迫ってくる。

「──え?」
 事態を把握できないままで、嫌な予感に突き動かされるまま、俺は横に転がろうとした。それを、上からかかった体重で封じられる。

 敵。
 董卓ちゃんの手のものか。自分の手抜かりに臍を噛む。しかし──どうやって入ってきた? 李華の作った防衛網は完璧のはずで、アリ一匹をいぶし出すことも可能だとか寝言を言っていたのだが、まったく役に立ってないだろ畜生。

 否。
 違う。
 侵入者、など、最初からいない。
 冷や水を浴びせかけられたような、強烈な、違和感があった。

「私の寝室に忍び込むなんて、命を捨てたようなものね」

 果物を剥くために使っていた短刀を、俺の咽元に突きつけていた。
 よく響くような、硬質の声だった。
 聞き覚えがある。当たり前だ。いつも聞いている声だった。
 それでも認めたくはない。

 ──華琳が、そこにいた。
 抜き身の刃を思わせる視線に睨まれただけで、氷の棒を突き入れられたように全身が冷えた。
 
 俺が好きだったはずのやわらかさとあたたかみは、まるで、最初からそんなものは存在しなかったかのように、消え失せている。
 外見は、見慣れた華琳そのものだったが、彼女の全身から滲むような覇気が、今までの印象すべてを塗りつぶしている。

「無謀、あるいは蛮勇というべきかしら。どこの手のものが、この曹孟徳の寝所に忍び込んだの?」
「あ──」
 声にならない。
 何だ。これ。脳髄にじわじわと染みこむ黒い絶望が、状況の認識を拒んでいた。

 だから。
 俺にできることは、力いっぱい、叫ぶだけだった。



「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!! 華琳がおかしくなったああああああああああああああああああっっ!!」
「え、ちょ」
「むずかしい言葉を使い始めたーっ!! 目つきが悪くなったーッ!! 主君が乱心したーっ!!」
「──とりあえず、黙りなさい」
「へぶっ!!」
 腹の辺りに体重の乗った一撃を撃ち込まれた。
 横隔膜が痙攣して、息ができなくなる。ちょ、なんだ。なんなんだよこれ。苦悶の表情を浮かべて、事態を推察しようとするが、華琳が乱心したという以上のことはわからない。
 そこで、この情景に割り込んでくるのがひとり。

「ふああ。あなたたちうるさいですわよ。イチャつくにも、場をわきまえなさいな」
 袁紹だった。
 絹で織られたネグリジェを纏って、しぱしぱと目をこすっている。

 彼女の代名詞というべき、あのくるくるの髪は、まだセットされていないらしく、今の彼女は、鮮やかなほどのストレートヘアーだった。うざっくるしいほどの髪型は、まったくもって影も形もない。

 というか、印象がまったく違っている。
 無意味に平伏したくなるほどの超絶美人だった。

 ──っていうか、誰だ、これ。

「はふぅ、どうしましたの、華琳さん。いつもより目つきが悪いですわよ。そういう目は感心できないですわ。あの小憎たらしい、くるっくる小娘を思い出しますわよ」
「麗羽、ここでいったいなにをしているの?」
 華琳(?)は、驚いたようだった。
 いるべき場所にいない人間がいるということで、目を見開いている。その態度に、袁紹が眉をしかめた。いくつかの瞬きの後で、ひとりだけ事態を把握したらしい。ああ──と壁にしなだれかかる。

「わ、わたくしの妹が、おぞましいくるくる小娘に、食い潰されましたわ」
 



















「念のために、言うけどあなたたちが、まとめて私をたばかっている、ということはないわよね」
「ええっ、そんな暇なことしませんよ」
 香嵐(黒騎兵その1)が、ぶーぶーと口を尖らせていた。
 
「半年も、意識を失っていた、ね。この私が、ずいぶんと無様を晒したものね」
「そういう言い方をすると、謙遜に思えるなー。実際ものすごく無様だったぞ」

 俺が指折り数えて、華琳がこの半年にやった(曹操の恥じ入りそうな)悪行の一部を羅列する。ええと、ニンジンが食べたくないという理由で、意味もなく市場に出回ったニンジンに高い税をかけようとして、秋蘭に止められたり、古今東西有名な軍略家(64人)を集めて、まったく新しい戦術を研究させようとしたが、あまりに脈絡無く集めすぎたせいでまったく意見がまとまらなかったり、占いに凝りまくって、トイレの壁を緑色に塗って、兵士達から苦情が殺到したり、袁紹の『冀州一武道会』の真似をして、『陳留一武道会』を開いて、数年分の軍費を荒稼ぎしたり、メイド喫茶のウエイトレスに、黒騎兵を駆りだして、支店を洛陽に出す計画を立ててたり──と良いこと悪いこと、まったく脈絡のないことを──と言葉を重ねたあたりで、曹操がもういいわ、と俺の言葉を打ち切った。

 明らかに、不機嫌になっている。
 永遠に続くのだと錯覚するような状況は、夢から覚めるように、今日、この日に終わった。前兆も別れの言葉すらもなく、曹孟徳は、華琳のいた位置を我が物顔で占めている。

 もうひとりの、曹操孟徳。
 いや、こちらが本当の、乱世の奸雄として歴史を覇を刻む、三国志の曹操だった。そこで、彼女の視線に気づく。じっと、こちらを値踏みするような視線を向けてきていた。

 ぽつりと、呟く。

「ブ男ね」
「………………」
 ──当然のように、華琳とは似ても似つかない。

『そうだな、では北郷。そなたはどうだ。もし、今の華琳さまが、跡形もなく消えてしまって、まったく似てもにつかない性格をした、華琳さまの姿を模した全くの別人が、今まで華琳さまが居た場所に座っていたら──』

 いつかの、秋蘭の問い。

『──おまえならば、どうする?』 

 秋蘭が華琳を受け入れられなかった理由が、今になってようやくわかった。
 俺も、納得しようとした。したはずだった。けれど、喉からわき上がるような、嫌悪に近いものは、隠しようもなかった。
 これは、華琳ではない。動作のひとつひとつが、こちらの癪にさわる。あと、こいつレズの親玉だったか。

 目の前の生き物を見た。
 喪失感が、全身を毒のように蝕んでいる。本人には、なんの落ち度もない。むしろ、彼女が一番の被害者だという理屈は、なにひとつこちらの感情を鎮める理由にはならなかった。
 この曹操の存在そのものが、華琳を穢しているような気さえした。

「それで、そこのブ男(俺)は、どうしてこの席にいるのかしら」
「いや、だって、仕方ないだろ。事態を把握していないクソチビが、わけのわからないことを言い出さないとも限らないし」
「へえ、クソチビというのは誰のこと?」
 曹操の存在感が増した。
 彼女の覇気に、針のような殺気が混じった。押しかかってくる壁のような圧迫感がある。
「わかるように言ったはずだけどな。お前以外に、クソチビなんていないだろ」
「愛人としての地位を利用して、将軍に成り上がっただけの男が、この私に随分な口をきくのね。いいわ、そういうの、嫌いじゃあないわよ。はたして、首を刎ねる瞬間にも、同じ台詞を吐けるかしら」
「って、ふ、ふたりとも仲良くしてくださいー」
「そ、そうです。兄さまも華琳さまもおちついて」
 水と流琉が、割ってはいる。
 結果的に、それがゴングになった。

「四人とも。そこのブ男を捕らえなさい」
「季衣、流琉。そういうことだ。返り討ちにしろ。このクソチビを折り曲げて敷物代わりにしてやる」

 大混乱になった。
 これからのことを話し合うための軍議は、一時間の中断を余儀なくされた。

 そして、夜が明けた。軍議は、実に七時間にも及んだ。俺と曹操の対立、軍の再編成から俺の処遇、当面の曹操軍はどう動くべきか。董卓ちゃんに対する態度。袁紹、袁術にどう接するべきか。

 七時間にも及んだ軍議の末に、出た結果が、俺を愕然とさせていた。

 ──なにひとつ、決まらなかった。
 泥沼は泥沼のまま、なにひとつ手を下せなかった。
 
 この結果に一番あわてたのは、当事者である俺と曹操だった。互いに、譲れるところは譲ろうとした。そもそもがだ、俺がここまで食い下がれるとは思ってもみなかった。ここまで長引いた原因には、曹操のプライドの高さもある。華琳が使いこなしていた臣下(俺)を、自分が使えないということは、外に自らの無能を知らしめる結果になる、おそらく、そうやって曹操は考えたのだろうと思う。

 それに、これが一番大きいのだろうが、彼女の人格が、いつまたひっくり返るかわからない、ということもある。華琳側の勢力を削ぎすぎると、結果的には自分の首をしめることになりかねない。

 整理してみた。
 史実では、これから反董卓連合がはじまる。袁紹を盟主にして、大陸の太守や相が数十万の軍勢を集結させる、三国志序盤、最大のイベントだった。
 劉備、関羽、張飛、公孫賛、孫堅、曹操、袁紹、袁術、華雄、呂布など、三国志でも一級の登場人物達が敵と味方に分かれて、死闘を演じる。連合側が勝てば、董卓ちゃんは殺されるだろう。

 だから、俺がやるべきことは、董卓ちゃんの助命だった。華琳なら、必ずやったはずだからだ。これさえ通るのなら、俺は一兵卒に落とされてもいい。そう提案した俺の意見は、見通しの甘い物だったらしい。

「それは、前の華琳さまだったら、通るとは思いますが」
「無理すぎ。董卓の首を獲るんじゃなくて、どうやって事態をおさめるのよー。そもそも、そんな理由で兵に死ねと命じられるわけなの? まあ、前の華琳さまなら、やりとげたかもしれないけど、それはあっちの華琳さまがいないと通らない意見だと思うわよー」
 曹操に届く前に、水と李華からすら反対意見が出た。
 このふたりは、特に華琳と曹操のどちらにもつかず、中立であろうと努力してくれている。俺も、これを覆すことはできない。

 途中から互いを罵るだけになって、もう議論どころではなくなった。よって、曹操を迎えた軍議は、なにひとつ決まることもなく終わった。つ、疲れた。あとに残るのは、肩までずっしりと張り付いた疲労感だけだった。

















 仮眠をとってから、表座敷に行くと、黒騎兵の四人が集まっていた。
 これからの対策を協議しているのかもしれない。

「あー。しょーぐん。ひとつ、出た結論があるんだけどー」
 李華が近づいてきていた。
「ん。なんだ」
「北郷将軍は、昨日の軍議を覚えていますか。いまの華琳様が、北郷将軍のことに関する評価で、あれは、私にとっての『夏侯嬰』がせいぜいね、と言っていました」
 透き通るような夏月の声が、寝起きの頭を揺さぶった。
「だれだっけ、それ? 武将か?」
 三国志より昔の、マイナーどころは頭に入っていない。
 聞き覚えはあるから、そこそこメジャーかもしれない。

「はい。夏侯嬰は、高祖(劉邦)の配下ですね。高祖と同じ沛県の出身で、馬車の御者をつとめたことで有名です。将軍の位に上り、汝陰侯になり、のちに文侯という諱を賜っています」
 凍るような夏月の言葉は、それ自体に清涼感があった。
「なんだか、有名なんだか有名じゃないんだかわからないな。褒めてるのか、それ。まさか、俺が厩舎で馬の世話してたことを揶揄してるわけじゃあないよな」
「はい。華琳様からの口から出たことに意味があります。華琳様の褒め言葉としては、子房(張良、知力100)より上です」
「……水。なんでそんなことになる?」
 曹操の意図が、さっぱりわからない。水の言葉を鵜呑みにすれば、曹操が俺を誰よりも高く評価しているなんて結論がでてくるけど。

「えーと、わかった。夏侯嬰って、劉邦軍56万で、項羽の3万の精鋭と戦って、ボロボロに負けた彭城の戦いで、高祖を追っ手から逃がした武将だ。高祖が、馬車を軽くするために自分の息子と娘を馬車から突き落としたのを見て、馬車を止めてから拾い上げて、説教したんだ。『自分の子供を見捨てるやつに、天下がついてくるかぁっ!! 私は斬られてもこれをやめないぞーっ!!』って」
 香嵐がはしゃいでいた。自分にわかる範囲で説明されたのが嬉しいらしい。
 ああー、項羽と劉邦にあったな、そんなエピソード。

「はい。あとは地味に韓信(国士無双の語源。指揮100)を雑兵の中から推挙してたりします。鴻門宴にもつれていかれてますし、高祖を語る上で、欠かせない武将ですよ」
 舌っ足らずな声で、水が説明してくれていた。
「いや、そういう地味に凄まじいことやってる武将とか、俺は大好きだけど。でも、劉邦を説教って、蕭何がいつもやってただろ。珍しくも何ともない。どうしてそれが、張良より上ってことになるんだ」
 うん。
 劉邦のこういうへたれなところが、部下に愛された所以だろう。
 さすが劉備のご先祖様である。まあ、子供を馬車から突き落とすのは劉備もやってるけど。

「話は変わりますが、華琳様のお父様は養子です。宦官は子供を産めませんから、どこからか子供をもらってきます。曹家の場合には、名門である『夏侯』家からだったんですけど」
「待て。えーと」
 だんだん、水がなにを言いたいのかわかってきた。
「はい。結論はでてると思いますが、夏侯嬰は華琳様のご先祖様です」
「──まじでか」
「まあねー。そこらに転がっているようなブ男を評価するのに、自分のご先祖さまは持ってこないわよねー、普通」
 李華がティーカップの取っ手に、人差し指をかけていた。

「華琳様の恐ろしいところね。なにひとつ見てないようで、しょーぐんのこと、一番正確に評価していること。前の華琳さまは、ただしょーぐんを誰よりも信じてただけで、正確に『評価』まではしてなかっただろうし」
「おい、まさか。そんなことはないだろ」
「あのねー。しょーぐん。ひとつだけ、忠告してあげる。徒手空拳で、あの曹孟徳と戦おうとするしょーぐんにね」
「忠告?」
 聞き返した。

「うん。──『曹孟徳を甘く見るな』」

「………………」
 黙り込む俺に、夏月が続けた。
「はい。こちらの華琳様は、気持ち悪いぐらいに優秀です。私たちが考えて考えて、考えて抜いて出した結論の、常に一歩先にいると考えてください。北郷将軍は、今までの華琳さまの印象が悪い意味での壁になっていると思いますが、今の華琳様は、存在からすべてが別物です」
「あれはもう、そういう生き物だとおもうしかないです」
 それが、夏月と水の、曹孟徳への評価だった。
 敬意だけではない。臣下に、きちんと畏怖を刻み込んでいる。一応、桂花やら田豊には及ばないにしても、軍師のなかでも上級クラスであるはずの水が、評価を諦めるあたり、曹孟徳というのは、どれだけ凄いんだよ。

「あ、兄ちゃんたち、あつまって、なに話してるの?」
 てけてけと歩いてきたのは、季衣だった。
 昨日の軍議は途中で退席したために、ひとりだけ血色がいい。当然のように、タレのついた串焼きのようなものを手に持っている。
「また食べてるのか」
「うん。華琳様にもらったの。でも──」
「ん、でも?」
「華琳様、ボクの好み、知ってたんだよね。外側だけ炙って、中の汁を閉じこめるの。昨日、今日で、話したこともないのに、流琉が教えたのかな」

 素朴な、疑問、といった感じだった。

「あ──」

 ──俺は、走り出していた。















 曹操は、書き物をしていた。
 ちらりと目を走らせると、兵法書の編纂らしい。

「あら、一刀じゃない。昨日の続きをする気になった?」
「いや、それは当分いい。それより曹操。お前、この半年のこと。覚えているのか?」
 俺の質問に、
「いいえ。覚えているのとは違うわね」
 曹操は、やんわりと、否定──するかのようにみえた。

「ただ、記憶が頭の片隅にあるだけ。あまり楽しいものでもないわよ。他人の日記を、盗み見ているような印象、といえば伝わるかしら」
「どうして、言わなかったんだ? それを、最初に言ってくれたら」
「見知らぬ人間を評価するにはね。思ったことすべてを吐き出させるのが一番いいのよ。あなた、私にずいぶんと不満があるようだったもの。おかげで、すっきりしたでしょう?」
「それだけ、か?」
「まさか。あなたは、最初に言ってくれたら、と言うけれど」
 ふっ、と曹操が笑っていた。
 こころなしか、泣いているようだと、俺は思った。
「それが、どうだっていうの? 覚えていたら、なにか変わったの? 覚えていたのなら、あなたは私を、『あの子』と同じく、扱ってくれるの?」
 責めるような口調だった。
 はじめて見た、曹孟徳という少女の、感情の発露だった。

「曹操──」
「──真名を呼んで。このまま私に仕えるのなら、位も今のままでいいわ。側において、慰みものぐらいにはしてあげる」
「でも、董卓ちゃんは助けられないんだろう。なぁ、──『曹操』」
 沈黙が落ちた。
 それは、俺が明確に発した、拒絶の意思だった。むかしのRPGであったような展開だと思った。せかいのはんぶんをあげよう、とでもいえばいいのかもしれない。元ネタは、聖書にて、サタンがイエスを誘惑する際の台詞らしいが。
 
 ──華琳と、一言。

 そう呼べば、すべて丸くおさまったはずだった。
 真名は、誇りだ。
 なにより、尊いものだという。
 つまり、今の曹操は、俺に、主君を売れと言ったのだ。
 
「やっぱりね。あなたが主張を曲げられないのと同じように、私も、私自身を変えられない。わかっていた、ことだけどね」
 ふと、思う。
 もし、他の出会い方ができていたのなら、俺は躊躇いもなく曹操の麾下に加わっただろう。俺は、曹操に恨みはない。
 ただ、彼女は、華琳の敵だった。利害関係からして、金輪際、それが変わることはないだろう。

「一刀。これは、通達と思いなさい。近く、遅くても今から三ヶ月以内に、大陸すべてをひっくり返す規模の、大規模な出兵があるわ。すべての兵を、この洛陽へと向けるほどの」
 曹操は、俺に背をむけた。

「人は、集まるのか。相手は、皇帝そのものかもしれないぞ」
「問題ないわ。こちらには、大義名分があるもの」
「少帝ちゃんか?」
「まさか。あれだけ多くの諸侯達のまえで、大見得を切ったんだもの、少帝を担ぎ上げることはできないでしょう」
「まあ、な。その言質がとれたから、董卓ちゃんは少帝ちゃんを解放した、ってのもあるだろうし」
「そんな手を使わず、天下の号令の下、正面から、地方軍閥すべての兵を挙げて、正道をもって、諸悪の根源である董卓を撃ち滅ぼせばいいのよ。──皇帝の、勅命をもってね」
「偽勅か──」
「麗羽は、賛成したわ。異論があるなら、実力で止めてみなさい」




















「聞いていたろ。さて、どうする?」
 俺は、彼女に訊いた。
 さきほどから、潜ませておいたメイド姿の少女を視界に入れた。

「言うまでもないでしょ。月は、ボクが助けるんだから」
「んー」
「なによ」
「神々しさがないな。やはり、華琳と同じレベルでそれを着こなせるのは、董卓ちゃんぐらいしかいないか」
「……もしかして、月にも同じものを着せる気じゃあないわよね」
「助けた暁には、そうするつもりだが、なにか文句でもあるか?」
「ないわけあるかっ!! だいたい、なんでこの恰好なわけ?」
「いや、予備がそれしかなかったんだよ。洛陽の支店を出すときのために、ここらにあったやつを貰ってきたんだし」
「ボクはメイドなんてやらないからね」
「当然だ」

 俺は、彼女に向き直る。
 諸葛孔明すら凌駕する、この三国志最高の頭脳を、ただのメイドに押し込めておく余裕は、俺にはない。──というか、そんなことするヤツがいたら、ぜひ一度みてみたい。よほどの馬鹿か、でなければ凄まじいまでの大物なのだろう。

 賈文和。
 神策鬼謀の代名詞。
 董卓軍の軍師にして、一度、地獄をみた少女が、そこにいた。


「さて、利害も一致したかな。単純にいこうか。互いのために、そして、お互いの主人に誓って、絶対に裏切らぬことを──」
「ボクは、月のために」
「俺は、華琳のために」




「「──共に、誓って」」




 杯もなければ、神を下ろすための儀式台もない。
 誓いは、自分の胸の中にだけあればよかった。

「いいわ。月のために、あんたに、私の真名を預けるから」
「詠(えい)、でいいんだよな。真名」
「ええ。それともうひとつ。私は、全力であんたの勢力造りに協力する。だから、なにがあっても、月を助ける努力をして」
「──もし、董卓ちゃんを、助けられなかったら?」
 董卓ちゃんを、助けられる可能性など、一パーセントもない。
 最善を尽くして、すべてがうまくいったとして、それでも、これだけは決めておかなければならなかった。

「……どうにもならないのなら、月の首を刎ねて」

 泣き顔を見られたくはないのだろう。賈駆──いや、詠が、俺の胸を顔をうずめてきた。途切れ途切れに、嗚咽が聞こえる。





「──だから、お願い。月を、見殺しにだけはしないで」
 




 その言葉が、伽藍になった頭の中で、いつまでも反響し続けた。











(第一部、完)










 あとがき。

 恐れていたことが起きてしまいました。
 無駄に、本当に無駄に曹操さんのキャラが立ってしまったのです。
 敵役なので、もうちょっと恨みを買いやすいキャラにしたかったのですが、妙に立派な感じに。

 まあ、というわけで、ようやく今回で作品がはじまった感じです。それで、この作品でやりたいことは、一刀VS曹操です。
 無印だと一刀の下に曹操がついて、真恋姫だと逆に曹操の下に一刀くんがつく、と。この関係性がおもしろかったので、膨らませてみようかと思ってます。

 二部は、当然ながら、反董卓連合編。

 ところで、今回から、一刀くんハーレムが作成可能になったのですが、呉からひとりふたり持ってきたいと思ってるんですよね。誰がいいでしょうか?





[7433] 曹洪、難題を持ち込み、北郷隊、出動する、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/09/08 11:26






 保身を極めたという意味で、三国志の登場人物のうち、賈駆に並ぶ文官はいない。
 なにせ、当時の曹操の長子(曹昂)を殺し、護衛隊長だった典韋を殺すようなことをやってなお、曹操の幕僚に取り立てられて、さらに天寿(77歳で死去)まで全うしている。

 官渡の前の、もっとも自分を高く売れる時期に、曹操に降ることを主君に説き、のちに曹丕(曹操の後継者)の後継人として、魏の重臣のなかで、筆頭の立場を貫いた。

 曹操は、生涯のうち、30戦して6敗ほどしているが、この黒星のひとつは、賈駆によってつけられたものである。

 俺の記憶によると、史実でここまで曹操に牙を剥いたうえで許されたのは、賈駆を除くと、陳宮しかいないはずだった。

 まあ、陳宮は呂布に殉じて、死んじゃったけど。

 ともかく。

 これから自分の勢力を築きあげるにあたり、詠(賈駆の真名)をどう使いこなすかで、俺の行く末が決まるところだった。



「んで、ボクはいつまでこの恰好してればいいのさ」

 詠は、ひらひらのメイド服姿だった。

 私のやることは正しい、私のなすことも正しい、かわいいも正しい、ということで、前に華琳が、宮殿お付きの侍女の制服をかわいさ三割り増しのメイド服に変更させた。
 よって、メイド服は、侍女の制服となっていて、当人たちからも評判はいい。彼女を陳留の街に馴染ませるための、必須といっていいアイテムだった。

「ずっとだろ。ここまできたらもう、ドM軍師(桂花)、ちびっこ軍師(田豊)あたりと並ぶ、メイド軍師として四海に名を轟かすってのはどうだ」
「どうだもこうだもあるかっ!! はぁ、やっぱりこのバカに味方するのは早計だったかなぁ」
「なに言ってる。メイドさんは、陳留ではそんな奇抜ってわけでもないぞ。さすがに華琳が、黒騎兵の制服にしようとして却下されたが、いやまあ却下したのは俺だけど」
「前から思ってたんだけど、あんたの主人、大丈夫なの?」

 詠がジト目で言う。

「──それはあまりに残酷な問いな気がするから、深く触れないでくれ。一応、三人いる侍女のうちのひとりってことにしている。曹操の目も眩ませられるだろうし、まあ半分はそういう理由だな」
「あとの半分は?」
「はっはっはっ。そんなの俺の趣味に決まって──」
「死ね」

 飛び上がった詠のニードロップが、俺のみぞおちに突き刺さった。

「ごぶっ!!」

 視界が歪む。
 俺は襲いかかってきた吐き気にもんどりうちながら床を転がった。

「あー、隊長に詠も、楽しそうなことやってんなぁー」
「ちょっと真桜。これをどっからどう見れば、見れば楽しそうだなんて思えるのさ」

 警邏の仕事から詰め所に戻ってきた真桜が、床に転がってのたうっている俺を見ていた。

「んでも、隊長は喜んでるみたいやで」
「ああ、最近これが快感になってきてな」
「この変態がっ!!」
「ごふっ!!」
 

















 俺の立場は、実のところなにひとつ変わっていない。
 秋蘭が、自らの首を賭けて、曹操に説いてくれたらしく、お咎めのようなものはなかった。。
 曹操が指揮する予定の兗州軍3万のうち、曹操の本隊が1万。第一から第四将軍までで、残りの2万を割る。ちなみに、第五将軍である俺に与えられた兵士は、一兵もない。

 配下の武将を全部取り上げられただけで、俺は未だに曹操軍の将軍のままだった。
 まあ、将軍なんてものは率いるべき軍がなければなにもできないので、曹操は穏便かつ無理なく俺の牙を抜きにかかった、といえる。
 
 それから、俺の麾下に入っていたはずの季衣は夏侯惇将軍(春蘭)付きの副将になって、流琉は夏侯淵将軍(秋蘭)の副将になった。
 さすがにこうなってしまうと、俺も詠も、季衣と流琉を引き抜くのはどうやっても無理だった。

 というわけで俺はしかたなく、平時にやっていた陳留の警備隊長のような役割をしている。
 盗みの解決やら、不法に止められた荷馬車の撤去、道がわからないおばあさんなどに道案内をしたり、と──それなりに充実している。

 俸禄も出るし、部下も扱えるし、寝る場所もある。

 反董卓連合の集合場所は、この陳留であって、各諸侯が集まる前に、ひとかどの勢力を造り上げなければならない。

「隊長ー。むずい顔して、どないしたん?」

 真桜(李典)だった。
 街でよくわけのわからないようなからくりを展示しては、爆発させていたのを、俺が警備隊に組み込んだ。もとは兗州の山陽群の出で、曹操の董卓誅滅の義兵募集につられて、凪(楽進)、沙和(于禁)とともに、この陳留にやってきたらしい。

「めずらしく、考え事して、隊長熱でもあるのん?」
「なんだその言い方。そろそろ動き出さないとな、と思ってたんだよ」

 俺の名は、民衆の間ではそれなりに通っている。
 黄巾党を叩き潰した実績(やってたことはアイドルプロデュースだが)もあるが、華琳がひたすら俺の評判を高めたのが効いていた。

 凪(楽進)など、根がまじめなこともあるが、俺の隊に組み込まれることが決まった時には、もう感無量で、この人のために死のう、とか言われて、言われた俺が引くような有様だった。

 ともかく、この忠誠心は武器になるはずだ。今、俺が手駒として使える唯一の戦闘要員なので、こっちの生命線のようなものである。

 なお、この三人には、俺がこんな警邏の仕事をしていることについて、首脳部の派閥争いに負けて、こんな閑職に追いやられた、と説明してある。

 まあ、嘘ではない。
 ──というか、限りなく真実に近い。
 これは華琳と曹操の派閥争いであって、それ以上でもそれ以下でもない。これ以上曹操派が増えると始末に負えなくなるので、こちらも力を蓄えないといけない。
 
 ひとまず、俺が今自由に動かせるのは、詠(賈駆)と、沙和(于禁)、真桜(李典)、凪(楽進)の、この四人だけだった。

 あと、警備隊は街ごとに配置された警備隊(北郷隊)の調練は、沙和が一手に引き受けている。



「動きがトロいっ!! きさまらはヨチヨチ歩きのクソ虫お嬢ちゃんかー」
「ち、違うであります。小隊長どのっ!!」
「呆けた顔をするなー。返事の前にはサーとつけろー」
「さー。です。小隊長どの」
「さーいえっさーだ。復唱しろクソ虫ども、なのー」
「さーいえっさー」
「全然聞こえないのー。クソ虫にたかる羽音に掻き消されるような声でなにを言いたいんだかわかんないの。もっと大きな声を出せ、チ●コ切り落とすぞー」
「さーいえっさーっ!!」
「よし、全員整列。遅れたヤツは、タマ切り取って、ケツに詰めてやるぞ、なのー。きさまらは卒業の日まで、クソにたかるウジ虫以下の存在だ。
 気をつけっ。マス掻きやめっ!! どうした早くしろっ、きさまらに較べればじじいの交尾のほうが、よっぽど気合い入ってるぞー」
「さーいえっさーっ!!」

 動作に一足の乱れもなく、声をあげる兵士たちを前にして、沙和が叫ぶ。全員が揃って大地を踏みならす振動が、腹のそこにまで伝わってくる。



「おじょうちゃんたちは北郷隊を愛しているかー?」
「生涯忠誠! 命を懸けて! 闘魂っ!! 闘魂っ!! 闘魂っ!!」
「草を育てるものは?」
「血だっ!! 血だっ!! 血だっ!!」
「わたしたちの商売は何だ、おじょうちゃん?」
「殺せっ!! 殺せっ!! 殺せっ!!」

 沙和のアメリカ海兵隊式のシゴキで、北郷隊のモラルと練度は最高を維持している。曹操の黒騎兵とすら対等にやりあえるのではないかと思えるほどだった。
 ただ、基本、入れ替えのない警備兵なので、戦場にもっていけないのが致命的すぎる。せめて、100でも200でも、使える手勢がいればなぁ。

「隊長。外からこちらを覗いていた、怪しい子供を捕らえました」

 凪だった。
 忠犬といった感じで、俺の次の指示を待っている。

「うわぁぁんっ。このキズのお姉さん恐いよー。おねーさーんっ!!」

 凪の手に吊り上げられた、いたいけなその子供は、拘束を解かれるなり、真桜のおっぱいに飛び込んでいった。

「凪も融通がきかんなぁ。こんな子供にまで、恐がられることないやないか」
「む、しかし」

 凪が言い返そうとして、そこで黙ってしまう。

「まあ、凪は、職務に忠実だってことだ。──で、真桜のおっぱいに顔をうずめて、なにやってるんだ。曹洪」
「むぐむぐ。はい。おひさしぶりです。一刀義兄(あに)さま」

 曹洪が、真桜のおっぱいに顔を埋めながら応えていた。
 曹操がまだ華琳だったころに、二度ほど会ったことがある。華琳のいとこであり、第四将軍の曹洪(♂)だった。15歳らしいが、2歳ほど幼くみえる。

 能力としては、可もなく不可もなく。
 運命の人(自分をかわいがって、養ってくれる人)を探しに行くとかいって、出奔中だったのだが、さすがに曹操の逆鱗に触れる前に、帰ってきたらしい。
 将軍の位にありながら、出奔をくりかえすようなのをふたりも将軍に上げているあたり、曹操軍の人材不足は深刻である。

 夏侯惇(春蘭)、夏侯淵(秋蘭)の、個人的な武勇に騙されがちだが、彼女らはあくまで曹操の親戚類者だった。

 基本的に、首脳部を自らの親類で固めるのは、あまりうまいやり方ではない。ぽっと出の、弱小勢力である劉備とかがやる人材構築であって、この規模の軍隊がやるというのは、いろいろと問題が多い。
 とはいえ、将軍ともなると、能力だけではつとまらない。それなりの学問を収めていないと、前線の小隊長が席の山ということもあるが、将軍の第一条件は、まず、裏切らないことだからだ。

 ──曹操の家系は、宦官だった。
 故に、袁家や孫家のように、当主三代に渡って仕えるような家臣はいない。徳川家康のように、主君の飛躍を信じて、自ら倹約する家臣などがいれば、彼女の覇道も、もう少したやすいものになったはずだった。

 つまりは、名家と、それ以外の差はつまり、自らのために働いてくれる家臣が多数いること、そこに集約される。俺があれだけ曹操軍において優遇されたのは、そういう裏事情もある。

「で、曹洪。いったいなんなんだ?」
「は、はい。一刀義兄さまに相談があります。大変なんです。曹仁兄さん(曹操軍第三将軍)が、華琳姉様に、謀反を企んでいるんですっ!!」
「はぁ──」

 ──もう一度言う。
 将軍の条件とは、まず裏切らないことである。













「で、件の曹仁は、いったいなにしてるんだ?」
「はい。盗賊達を集めて、自分の手勢をつくろうとしてます。数は1000までは集まったんですけど、それ以上は伸び悩んでいるみたいです」
「それで、曹操を突こうとしているのか」
「いえ、謀反というのはいいすぎでした。独立と言うべきですね」
「いいんじゃないか。謀反で」

 俺は、曹洪にそうこたえた。
 この時期に独立など、謀反とそう違いはないだろう。

「にしても、曹操は、無視せざるをえないか」

 兗州牧として、あちこちを飛び回って勢力を強化している最中である。華琳がやりのこした、というかサボっていたところを、曹操が纏め直しているところ、ともいえる。
 片腕の鮑信を使い、州牧として令(州牧がつくれる法律)を発行し、当時の富豪である衛茲にスポンサーになってもらい、董卓ちゃんを討つために、民衆から義兵を募る。
 調練は苛烈で、奮い落とされるものや、死者も何人か出ているという。

 こちらに目を向けるどころか、眠る暇もないのではないかと思うが。ちくりと、胸を刺すトゲのようなものがあった。

 ──本当は。
 華琳のために、曹操を助けるのが一番いいのかもしれない。

 俺がいれば、彼女の負担を、一割でも削れるはずだった。それでも。決めてしまった。決めてしまったのだ。もう、迷うことは許されない。両方に情が移ったあげくにがんじがらめになれば、それが一番悪い。



 俺一人で、できることは限られている。
 決意と覚悟だけで、押し通せることなどほとんどない。もう一度、華琳に会うまでに、俺は俺の心に、整理をつけておかなければならない。



 反董卓連合まで、曹操の麾下は、三万までは膨れあがるだろう。編成の途中で、流石に1000の賊徒に関わり合う時間はどう考えてもない。完全に、黙殺される可能性が高い。

「それで、今は、どこにいるんだ。曹仁は。ここいらにはいないだろう」
「はい。今は、袁術の勢力下にいます。揚州、長江の北あたりで、まだ地元の海賊と小競り合いをしているはずです」
「わかった。時間をくれ。場合によっては、直接、曹仁と話してみる」
「お、お願いします。義兄さま」



 そこまでの情報が、間諜などに傍受されていい限界点だった。
 とはいえ、今のところ俺に間諜はついていない。というか、ひとりだけいるのだが、あまりにこちらへの監視がザルすぎて話にならない。

 どれだけザルかというと──

「あふぅー。杏仁豆腐でできたお城なの。わぁーい」

 ──これぐらいザルだった。

 巴音(黒騎兵その5)が、机によだれを垂らしている。
 居眠りしているばかりで、さっぱり仕事なんてしている様子はない。李華(黒騎兵その3)が曹操から俺への監視を命じられて、そんなちまちましたこと、やってられないということで、一番やる気のないのに雑務を投げ渡した結果だった。

「しょーぐん。適当に誤魔化しておくからー、華琳様への報告書は書いておいてねー」
「いや、それはどうかと思うぞ」

 ともかく、巴音が引き取りにきた李華と青青(黒騎兵その6)に文句を言って、ここからが本当の会議だった。

 兗州牧になって、率いる兵力は数万にも及んでなお、首脳部は、半年前のまだ手勢が数百のころから、ほとんど変わっていない。

 そこに、俺たちの生きる道がある。
 逆にいえば、この反董卓連合で、俺に目が向かないこの一瞬が、最初で最後のチャンスだった。
 噂だと、曹操の陣営には、郭嘉と程昱が加わったらしい。このまま曹操の陣営が強化されていくと、こちらがまったく動けなくなる。

 詠という切り札が気づかれていないうちに、こちらにどれだけ優秀な手勢を引き込めるかだった。

 しかし──

「なあ、詠」
「無理よ。曹仁の1000を引き入れても、没収されたらそれまでだし、月を助けるのに役に立つわけでもないしさ」
「むう、それでも、曹操の耳に入らないうちに、電撃的にカタをつける、というのは?」
「そう、うまくいくと思う?」
「無理か」
「その場は凌いでも、曹操に対するあんたの叛意自体がバレてるんだから、適当な時期に一回家捜しされたら終わりでしょ。だから、小手先の迷彩は、墓穴を掘るだけ」
「むう」

 それはそうだ。

「叛乱をやる際に、一番隠さなければいけないのが、叛乱をやるということそのものよ。なぜなら、頭を潰せば終わるんだから」

 詠は、そのまま続けた。

「そもそも、私たちが欲しいのは、軍隊じゃなくて、戦時の洛陽に潜入して、帰ってこれる力量をもった特殊部隊よ。曹仁ってのがどれだけの武将なのか、ボクは知らないけど、注目すべきはこっちでしょうね」

 机の上に広げた地図をみた。
 揚州は、西から東に流れていく長江で、陸が半分に分断されている。陳留からも遠すぎるというわけでもなく、四人五人で移動するなら、馬を飛ばせば10日もかからない。

 今は袁術が、反董卓連合のため、自らの集められるだけの兵力を、寿春に集めているはずだった。
 詠が指したのは、長江に添うように、曹仁が小競り合いを続けている海賊たちのことだ。



「たかが400で、曹仁とやらの兵力1000と渡り合うんだから、よほどの精兵揃いなんでしょうね。だからこの盗賊団を、丸ごとすべて、ボクたちの麾下に置くことにするわよ」
「できるのか、そんなことが」
「はん。忘れてない? ボクはね。月に、天下をとらせるつもりだったのよ」
「疑って、悪かったよ。──じゃあ、その方策を聞こうか」


 
 長江一帯を本拠地とする、江賊が、400ほど。

 そして──

 曹洪から聞き出した、その頭領を務める女武芸者の名前を、錦帆賊(きんほぞく)──甘寧、といった。














『賈駆、甘寧を奸計にかけ、一刀、孫呉の姫君と出会う、とのこと』









[7433] 七乃、辣腕を振るい、一刀、孫呉の姫君と出会う、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:57





 まずは、呉の──いや、孫策の置かれている状況について整理してみよう。

 最初に語るべきは、孫堅について。

 実は、孫策、孫権の父である孫堅ひとりを語れば、呉の九割を語ったことになる。
 それほどまでに彼の生涯は鮮烈であった。

 すさまじい英傑だったらしく、もし生きていたとすれば、曹操ですら一歩も二歩も遅れをとっただろう。弱小である一豪族が、いっさいの裏工作をせず、ただ自らの武力のみで長沙の太守にまでのし上がるさまは、その武力が尋常でなかったことを示している。

 袁術に予州刺史に任じられ、破虜将軍という号を貰っている。
 彼はひたすらに漢に対する忠義を掲げていた。彼を動かし、闘い続けた理由はひたすらそれのみだったといっていい。

 孫堅はその37歳という短すぎる生を終えるまで、ひたすらに漢王朝への忠誠を貫いた。

 さて、ここが大事なところである。

 衰退した漢の復興を助けることで、自らの勢力の正当性を示し、名のある武将やスポンサーを引き込む。その名声が、のちに袁術から独立する正当性と大義名分を与えることになると考えたのかはわからない。

 けれど、孫策自身は、そう信じているはずだった。もっとも、もしかしたら孫策はそこまで考えていなくて、ただ偉大すぎる父親の影を追っていただけなのかもしれない。

 まあ、ともかく、孫堅の悲願──果てた炎漢を復興するために戦い続けること。のちに孫呉の誇りとして、自らの娘が思い描こうとする思想。

 これを、

『漢室匡輔』

 ──という。

 しかし、圧倒的な武力はそれが失われたときに反動としてかえってくる。

 孫堅の死後、抑えていた勢力は霞のように霧散した。
 家臣団も、バラバラになって袁術の勢力に組み込まれている。各々の家臣たちは、孫策と別の場所に配置され、連絡を取り合うことすら一苦労だった。

 それでも、諦めることだけはできないはずだった。誇りのために、彼女の父が果たせなかった夢を叶えるために、彼女の生の意味はある。

 叛乱の時を待ち、袁術からの独立の秋(とき)を見定めている。

 いつか、呉という国が、大輪の華を咲かすことを信じて──

「──と、そういうことなんですよー。あはっ。いい話ですよねー」

 七乃さんが、孫堅と、そしてその娘である孫策の、いままでの状況を、語り終えた。語りに、淀みも歪みもまったくない。

「勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた烈士である」

 ──これはまあ、あの天の御遣いであり、元は三国志を編纂した、陳寿の評である。

 七乃さんの評価は、歴史が孫堅に下した評価と、ほぼ一致する。
 やや想像で補うところもあったが、基本的にはただ冷徹に、事実だけを述べていた。孫策の最大の敵であり、袁術の懐刀である彼女が、当人の孫策自身以上に、孫策のことを理解している。不気味だった。自分とさして歳も変わらないだろう彼女が、人を喰らう魔物のように見えた。

 ああ──と、ふと、確信に近い思いがあった。 

「なにがいい話かというと、その叛意をはじめとして、隠れ家や、重要な家臣団の能力、物資の流れから、叛乱の規模まで、すべて私にばれていて、私が下す命令ひとつで、その夢がはかなく消えてしまうことです。
 あー、もう。孫策さんも、かわいそうですよね。分不相応な夢をみるピエロさんって、こういうひとのことを言うんでしょうか」





 ──孫策は、彼女に殺されるだろう。

 













 ここで、話は、半日ほど前にまで遡る。

 寿春。
 反董卓連合の集合場所である、曹操の陳留からもっとも近い場所として、袁術の兵隊は現在進行形でここに集められている。
 俺たちの目的地である長江への通り道であって、物資の補充や噂の収集などのために、ここで一泊していくことになった。甘寧をこちらに引き入れるための最終確認や、曹仁をおびき寄せるためのエサの調達から、七乃さんに後ろ盾になってもらうなど、この寿春でやることはいくらでもある。

 街はにぎわっていた。
 兵士たちが集まっているということで、その恩恵を預かろうと商人たちが中央通りに軒を連ねている。忙しく働き廻っている人。人々が談笑している姿が見えていて、それは花を敷き詰めたような情景だった。

「あーっ。これ阿蘇阿蘇の最新刊なの」
「なぁ隊長。茶店でお茶していこうやー。ここんとこずっと野宿やったし、冷たいお菓子とか食べたいやん」
「こらっ、ふたりとも、我々は遊びにきたわけではないのだぞ」

 騒ぎ立てる沙和、真桜、凪の三人は、予想の範疇だった。
 俺たちは真桜の案を取り入れて、外でお茶できる茶店のようなところに腰を落ち着けた。実際、彼女の言うとおり、陳留から寿春まで、野宿ばかりで、落ち着いて休む暇はなかった。
 山道越えがなかったのが、唯一の救いだったが。
 馬に乗ってばかりで、腿もパンパンに張っている。

 あまり休んでばかりもいられない。特に、俺の乗っている絶影は一目をひく。袁術が今いるという王城のほうで預かってもらわないと不安で仕方ない。いや、盗まれるのが、じゃなくて、馬泥棒が絶影に返り討ちにされるのが、である。

「ヘンね」
「そうだな」
 詠と俺は眉をひそめた。
 まがりなりに、俺と部下の三人は、陳留の治安を守る仕事をしている。詠は董卓ちゃんの下で、彼女のすべての人が幸せに暮らせるように、という夢を実現させるために働いていた。
 そんな俺たちだから、疑問におもうことがある。

 袁術といえば、あの袁術である。
 統治が、いきすぎている。
 善政が敷かれているのは一目でわかった。
 七乃さんがブレーンについているとはいえ、あのちびっこに、これほどの統治能力があるか?

 たしかに、このクラスの統治をずっと続けられるのなら、孫策の這い出てくるような隙間はいっさいなく、劉備、曹操、孫策、袁紹らに負けずに互角以上に張り合えるだろう。

 それでも、釈然としない。
 そもそも、史実において袁術といえば、私欲を優先し、民衆を顧みない典型的な暴君として通っていた。
 命からがら敗走したあと、とある農家で水を求めると、農民は水が入った瓶を倒して「さっきまで水はあったがね。今なくなっちまった。血ならまだ少しは体に残っているが、それ以外は、全部お前に吸い取られてしまったからな」と応えた。それに対し、袁術は「おおっ、私は民に水一杯も恵んでもらえない領主だったのか」と、そこで初めて気づき、血を吐きながら絶望して死んでいった。

 ──という話が、横山版三国志にある。
 まあ、これは完全にフィクションだが、おそらく袁術の死に様としては、これが一番有名なはず。

 おかしなカリスマはあるにしろ、あのちびっこにここまでできるとは思えない。

 それより。
 とりあえずはまあ、七乃さんに会うことである。
 これで疑問にある程度の答えは出るだろう。

『私たちの本拠地に来ることがあれば、これを門番に渡してください』

 別れ際に、七乃さんから貰った『1/16美羽ちゃん人形メタリックフレーム』だった。袁術の勢力圏では、このフィギュアが割符や通行証代わりとして機能する。見せるだけで、門番の顔色が変わった。

「こ、これは張勲さま(七乃さん)が、たったひとりしか作らなかったという美羽さまメタリックフレーム版っ!! このツヤやかなテカリと風を孕んだような服のエッジ。袁術さまのツルペタを引き立てるようなこのフリルの配置が絶妙じゃないか。豪邸と引き替えにしても手に入れたい好事家も多かろうに」

 ええと、そんなすごいのか。

 たしかに、七乃さん作成の美羽さまフィギュアは、手に取ったものを魅了するだけの魔力があった。
 美羽さま人形の、ぱっちりとしたふたつの目が、こちらを見上げていた。感情の無さが、逆にその無垢さを引き立てるようになっている。その存在感が、袁術の一番かわいい一瞬を切り取ったのだと確信させていた。
 疑問はあるにせよ、絶対に複製が不可能、という意味で、きちんと通行証としての役割は果たされている。
 
 女性四人は、宿の手配やら必需品の買い出しやらで、ここには俺しかいない。特に詠は、いろいろとむずかしい立場だった。
 元董卓軍の軍師である。この寿春に顔を知っているものはおそらくいないだろうが、袁術の城に顔を出すことで、最悪敵との内通を疑われかねない。

 というわけで、ここは俺ひとりだった。
 凪は最後まで俺がひとりで行動することを渋っていたが、さすがに、袁術の城の中で、命の危険はないだろう。
 と、思い。

 そして、俺はその判断を、いきなり後悔した。

 玉座で繰り広げられているのは、斬った張ったに発展しそうな状況だった。可視できそうな濃密な殺気が、玉座の間全体を押し包んでいる。

「それでは、どうあっても、呉の旧臣たちを呼び寄せる許可は貰えない、と?」
「当然じゃろ。おぬしに二万の兵力を指揮させてやろうというのじゃ。将も過不足なく用意させてある以上、そこまでする必要もあるまい」
「しかし──この間の黄巾党のときは許可をっ!!」
「あのときとは状況が違いますからねー。あれは結局、兵を出そうとしたらもう黄巾党のみなさんは解散してしまってましたし。曹操さんがおかしなことやって、あっという間に解決しちゃいましたからねぇ」
「うむ、さすが華琳姉さまじゃの」

 あー、なんか知らんが、もめてる理由は俺のせいなのか。
 玉座の袁術に喰ってかかっているのは、浅黒い肌をした女性だった。すらりとした肢体に、可憐さと凶暴さが、矛盾無く同居している。
 その女性は、袁術に対する抵抗を諦めると、なにが起きているのかわからない俺の横を通って、高く踵を鳴らしながら去っていった。
 
 ──あれが、孫策伯符か。
 江東の虎、とはよく言ったものである。
 すれ違っただけで、全身が粟立った。
 あれは、誰にも恭順しない、孤高のいきものだ。
 目と目が合っただけで、喉元に刃を突きつけられたかと思った。あのプレッシャーは、曹操と較べてまったく遜色がない。

 ──誰にも、飼い慣らせないだろう。
 手を差し伸べようとすれば、腕ごと喰いちぎられるだけだ。

『──いますぐ殺せ』

 俺なら、そう言うだろう。あれを部下として使いこなす器量は、俺にはない。


「あらー。北郷さん。しばらくです。私に会いにきてくれたんですか。だめですよぉ。私に惚れられても、私にはお嬢様がいますから」
 七乃さんが俺に気づくと、こちらに駆けてきていた。

「そうだったらよかったなぁ。いや、ほんとうに。今度会うときは、ただ七乃さんに会うためだけにここに来たいなぁと思うんだけど、とりあえず今回は違うということで」
「あら、残念です」
「それより、なにがあったみたいだけど。今のは孫策将軍、かな。ずいぶんと怒らせるような真似をしてたみたいだ」
「うむ。七乃。下民に説明してやるがよい」
「はいー。反董卓連合の軍編成で、孫策さんが文句をつけてきたんですよ。こんな感じなんですけど」
「なんだ。これ」
 七乃さんから、渡された割り振り表を見て、俺は色をうしなった。
 
 総司令官、袁術。

 大将軍、張勲(七乃さん)。

 その下にくる上級将軍の位にあるのは、四人だった。

 破虜将軍である孫策、
 冠軍将軍である紀霊、
 揚烈将軍である華なんとか(華雄)
 威烈将軍である趙雲。

 さらに、その下に袁術の八大神将がくる。
 
 そこまではまったく問題ない。
 問題は、次の三人だった。

 外交担当の陸遜、
 内政担当の周泰、
 財政担当の呂蒙。

 なにやってるこいつら。
 どういうことだ。
 不得手ってレベルじゃあないぞ。

 俺はその紙片を睨みながら、これについて考えていた。

 これを理解するには、少しばかり三国志の知識が必要になる。

 陸遜は、三人の中で一番有名だろう。
 三国志の後期に、蜀の諸葛亮と、魏の司馬懿仲達、それと並んだのが呉の陸遜だった。彼(彼女?)を評価するのなら、ただ一言、呉で最強の将軍という言葉だけで事足りる。欠点としては、どうも空気が読めなかったらしい。それぞれに別の皇太子を担ぎ出して、首脳部がふたつに割れた際(二宮の変)、どちらにつくか、という選択を迫られたときに──どちらをも批難するような正論を言ったため、結局、両方の恨みをかって、粛正されている。

 というわけで、そんな陸遜を外交担当につけるのは、資源の無駄どころか、おそろしいまでの暴挙である。

 残りふたりも同様だ。
 周泰は、全身が傷だらけの名将で、諸侯が集まった宴の際、孫権は服を脱がせ、自分を守るために全身に刻まれた傷のひとつひとつを本人に解説させ、諸侯を納得させた、というエピソードが残っている。
 呂蒙は、関羽を討ち取った武将として有名だが、それよりもまず、獣王クロコダインが言っていた、『男子三日会わんとすれば、刮目して見よ』の語源となった人物である。なんで、ここまで鮮烈なエピソードの残る武将を、内政担当と財政担当にするのかさっぱりわからない。
 
「なにか、おかしいところでもありましたか?」
「おかしいといえば、この寿春自体がおかしいと思うなぁ。ここまでの善政を敷く理由なんかあったっけ?」
「いえ、私もここまでのことをするつもりはなかったんですけど、たわむれに閑職へ追いやった孫策さんの部下達200人ぐらいが、意外に活躍してくれているんですよ。まあ、慣れないことで、本人たちは不眠不休らしいですけど」
「それで、孫策が文句をつけにきた、と?」
「はい。だって、目に見えて効果を上げている以上、そんな簡単に役職を動かせないですし、民衆から英雄と慕われている孫策伯符の名に、傷がつきますよと教えてあげたんですけど、どうして怒っちゃうんでしょうねぇ──お嬢様」
「うむ、不思議じゃの」
 袁術が眠そうになっていた。
 むずかしい話に、頭がついていけなくなっているのか、頭がぐらんぐらん揺れている。

「あ、ちょっと待ってくださいね。北郷さん。お嬢様を寝かしつけてきますから。そのあとで、ちょっとした昔話をしましょうか」
 
 袁術をあやしながら、七乃さんは言った。

「孫策さんの父親である、孫堅さんのことです──」

 そして、時間は冒頭へと巻き戻る。













 俺は戦慄していた。
 孫策の考えを、この時点で七乃さんほど読み取っている人間はいないだろう。

 孫策の力を削ぐ、ということは誰だって思いつく。
 俺でさえ危険に感じたぐらいだ。粛正という選択肢は、地位さえあれば、どんな愚鈍な人間でも思いつくぐらいの、三流の策とすらいえる。

 ただ──
 どうして、彼女が──この時点で無名とすらいえる陸遜、周泰、呂蒙の力量と資質を完全に把握しているのか。

 こういう人事ができるのなら、彼女らを最大限に生かすような使い方もできるはずだ。だから、このままだとこの三人が、いや、孫家のすべての武将が、歴史に名を刻むようなこともなく、闇に葬られるだろう。

「私が、会ったばかりのひとに真名を許すような、あたまユルユルな女に見えましたか?」
 愛の告白のようだと、そう思った。
 俺を見る七乃さんの瞳には、愛情から恋慕、憎しみから哀れみまで、あらゆる感情が嵐のように荒れ狂っているようにみえる。

「──たいしたことないですよ。優秀な人材を飼い殺しにする。策略としては下の下ですし、北郷さんにだって、これぐらいはできるでしょう」
 刺さった。
 七乃さんの言葉の刺が、深く刺さった。

「無理だよ。俺には、七乃さんのようなことはできない」
 七乃さんは、無駄に俺を評価してくれているらしい。
 が──
 俺が孫策に感じたのは、畏怖以外のなにものでもない。

「絶対に、懐かないような虎を飼っているようなものだろ。隙を見せたら、喰い殺される」
「はい。私だって同意見ですよー。でも、お嬢様が使える物はなんでも使うとの申し出ですから」
「待て。すると?」
「はい。これは、お嬢様の案です。曹操さんの教育で、ある程度、自分が置かれている立場っていうのが、わかってきてるみたいですね」
「華琳の教育で、あのちびっこ。人の動かし方を覚えたか」
 ──性質が悪い。
 それも、君主の資質と言われれば、それまでだが。

「こういうお嬢様の行動って、ええとー、なんていうんでしたっけ?」
「陰険、いや、違う。──狡猾、かな?」
「あ、はい。それです」
 七乃さんは、夢見心地になった。
 ぱっちりとした瞳に、キラキラと星が瞬いている。
 夢見るような眼差しだった。

「お馬鹿なお嬢様もいいですけど、あのお馬鹿極まりないお嬢様が、少しずつ成長していくのを、見届けるのも楽しいかなぁと、最近思ってきまして」
「まあ、気持ちはわかる気がする」
「あと、北郷さんについて、心の底から、よかったと思うんですよ」
 ふふっ、と七乃さんが微笑んだ。
 彼女が素でみせた、思わず魅きこまれそうな笑顔だった。

「なにが、です?」
「はい。──お互いが、敵でなくて」

 一瞬だけ、空気が凍り付いた。
 殺気に限りなく近しいものが、俺と七乃さんの間だけに漂ったと思う。

「……それで、北郷さんの用事を、まだ聞いていませんでしたけど」
「ああ──そういえばそうだった」
 俺は、曹仁のことについて語った。
 長江の辺りに、盗賊を集めて待陣しているらしいので、その手勢を引き取りにきたということ。ついでに、敵対する錦帆賊もどうにか籠絡してみよう、ということ。

「うーん。その錦帆賊なんですが、ちょっと気になることがあるんですよー」
「へえ、聞かせてもらいたいなぁ」
「実はですね。孫策さんが、密かに旧臣たちに連絡をとっている疑いがあるんですよ」
「疑い、か。形跡じゃなく?」
「はい。それが問題です。見える流れとかはすべて潰しているはずなんですけど、どうしても物資や人の流れを見ていると、ほんの一時だけ掴めない瞬間があって。物の流れとかも、どうも帳尻が合いすぎているような気が」
「つまり、錦帆賊が盗賊稼業の傍らで、孫策と繋がっている疑いがある、と?」
「そうです。ただし、証拠はありません。泳がせてボロを出すのを待っているんですけど、なかなか尻尾をだしてくれないんですよね」

 ──甘寧か。
 やはり、孫策と繋がっているのか。











「つまり、甘寧はすでに孫策と繋がっているってこと?」
「いや、この場合、どっちかっていうと、孫権だな。妹のほうだ」

 あのあと、七乃さんが持っているありったけの情報は貰ってきた。一時期、孫権のボディーガードというか、剣術指南役をやっていたらしい。
 まだ、どこかでつながりが、ある、と考える方が自然だろう。

 宿に泊まった後で、俺と詠とで、情報を見聞する。
 三人娘のなかで、真桜と沙和がぎゃーぎゃーと騒いでいた。

「えー、ウチの力作どないすんねん。これ作るのめっちゃ骨が折れてんでー」

 真桜の抱えているのは、空気で膨らませる等身大ダッチワイフだった。胸の辺りに、ペンで『かんねい』と書かれている。髪をつけて、目と鼻をつけただけの粗末なつくりだった。この時点で、最大限に相手を愚弄していることこの上ない。

「そうなのー。隊長ひどいー。せっかく練習したのにー」

 沙和が、そのかんねいダッチワイフを抱き上げて、裏声で囁く。
 『ワガハイ、かんねいでござるよ(例文1)』、『この短刀のきれあじ、きさまのからだでためしてみるがよい(例文2)』、といった感じで、具体的に言うと、相手が言った台詞をそのままこの、かんねいダッチワイフに喋らせるだけで、相手を激昂させられるという優れものだった。いや、多分甘寧の口調って、そんなんじゃないけどな。

 当初は、これと桂花直伝の落とし穴を組み合わせた大捕物を予定していたのだが、甘寧についての情報を総合した結果、ボツになった。

「仕方ないでしょ。ボクの見立てだと、甘寧って、義理と侠で動くような堅物っぽいから。こんなの出したら、一生追いかけ回されるわよ。ボクは面白いからいいけど、コイツの首を飛ばすのは、月を助け出してからにしないと」
「……詠。途中から本音が漏れてるような気がするが」
「まあ、策が通用しないぐらいの堅物っていうのはね。逆に扱いやすいということでもあるわ」
「無視かよ」
「つまり、甘寧の心を動かせるのは、たったひとりだけ。まあ、なんとかなるんじゃない?」

















 孫策に、将軍位を与える代わりに、彼女はずっとここに囚われているらしい。

 いわゆる軟禁。 
 人質、というヤツだった。
 護衛と監視を兼ねた侍従が数人。
 あとは、囚われのお姫様本人。
 この大きな屋敷から、一歩も外に出ることを許されていない。並みの貴族の息女たちと扱いは変わらないにしろ、その囚われの姫の心は、ずっとまだ見ぬ戦場へと向いているはずだ。
 
「何者だ?」
 声が、かかった。

 俺は一目で、彼女に、目を奪われたのだと思う。
 彼女自身を構成するすべてが、誇りで煮固められたような少女だった。
 紫髪翠眼の、美貌の少女である。
 見慣れない俺に、警戒の眼差しを向けている。こんな状態でも、気品はまったく失っていないようだった。

「これから、甘寧を、口説き落としにいく」
「──!?」
 彼女は、表情は動かさず、驚きを喉の奥に押し込んだようだった。

「元の主に、なんの挨拶もないのは、礼儀に外れると思ったんでな。──とまあ、そういうことだ」
「何者だ。きさま」
「北郷一刀という。珍しい名前だけど、あまり気にしないでくれ。漢民族の出じゃないんだ」
「なるほど。おまえが、曹孟徳の懐刀か」
 そこで、孫権の睨むような視線が、より強まった。

「あれ、俺のことを知ってる?」
「当然だ。おまえが早々に黄巾党を叩き潰さなければ、姉様が孫家の再編をする時間が稼げたはずだ」
「あー、ごめん。それは悪いことをした」
「おまえは、私をからかいにきたのか?」
 ちょっと、呆れたような声だった。

「いや、ちょっと外に出てみないかと、誘いをな。甘寧はおそらく、お前に対する忠義を通すだろう。つまりだ。孫権仲謀。だからその場に──立ち会え。あんたには、そのための義務があるはずだ」
「拒否権は?」
「とりあえずない。なに、孫策の立場はわかっているつもりだ。そっちは配慮する。返事ははやく頼む。できれば、手荒なことはしたくない」

 隣には、凪を控えさせている。彼女に当て身を喰らわせて、ここから連れ出すなど、朝飯前だった。

 孫策に対する袁術預かりの人質が、今度は甘寧に対する俺預かりの人質になる。
 俺が言っていることは、つまりそういうことだった。 

 俺の言葉に、孫権が目を閉じた。
 目を開いたときには、その目には、揺らぎようのない力があった。

「いいだろう。今から、おまえを、見定めさせてもらう。──連れて行け」

 ──彼女の返事は、べつに必要なかったのだが。

 まあ、抵抗されるよりはいい。

 というわけで、俺は孫権に対して、監視の侍女に怪しまれずに、この屋敷を抜け出す方法について、説明を始めた。










 あとがき。

 ええと、ヒロインが乗っ取られそうな感じが。
 華琳さまは大丈夫なんでしょうか。

 はやくしろー。まにあわなくなってもしらんぞー(棒読み)

 よって、次回より、蓮華さまLV40がはじまります。

 なんで、蓮華か。
 このサイトに彼女がメインヒロインの話が、一個もなかったからだよっ!!





[7433] 一刀、歴史の表舞台に立つ、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/04 08:48




 まず、人質らしく、孫権には目隠しと耳栓で五感を封じさせてもらったあとで、話し相手として真桜と沙和と凪をつけて、隣の馬車に放りこんでおいた。

 とりあえず孫権の拉致が、すんなりいったので、あとは目の前の問題を片付けなければならない。

 具体的に言うと、馬車に同乗しているちびっこふたり組。

「まあ、それはそれとして、ふたりとも、本気でついてくるつもりか」
「当然じゃろ。おぬしたちだけで、こんな面白そうなことを独り占めしようなどと強欲もいいところじゃ」
「……美羽姉さま。一刀さまは遊びにいくわけじゃ、ないとおもうけど。──でも行きたいな。だめかな?」
「ほれ、水仙(少帝ちゃんの真名)もそう言っておるぞ。はやく連れてゆくのじゃ」
「──ああもう。このちびっこどもは」

 七乃さんの目をくぐり抜けて、逃げてきていたらしい。俺の前にいるのは袁術と少帝ちゃんだった。

 袁術は長い髪の毛をくるくるにまとめている。
 多分、変装しているつもりなんだろう。
 着ている服はそれなりに年期が入っていて、おそらくは公家の子のようないつもの衣装より、こちらを身に纏う機会が多いのではないかと思うぐらいだった。
 多分、これがはじめてではない。たまに、好き勝手に城を抜け出しているんだろう。

 そして、隣にいるのは少帝ちゃんだった。
 華琳が董卓ちゃんの元から救い出したのを、今は、袁術預かりになっている。
 11歳ということで、袁術と姉と慕っているようだった。
 人を収める才能とか、人の上に立つ才能とは微塵も見えないが、それでも元来、人なつっこい少女らしい。
 さっきからずっと俺の腕をつかんでいる。

 あの色気ムンムンな何進大将軍(故人)の妹の娘、ということで、あと三、四年もすればスタイル抜群の美人になるだろう。

「失礼なことを考えておるな。わらわは名門の出じゃぞ」
「ふーん(棒読み)」
「むぅ、信じておらぬな。宦官の子(曹操)とめかけの子(袁紹)などとは、素材からして違うのじゃぞ」
「……で、おねしょは直ったのか?」
「いえ、週に一度は──」
「こらぁーっ、水仙。わらわの秘密をばらすでないわっ!!」
「っていってもなぁ」

 俺が少帝ちゃんと顔を見合わせた。

「──あんたたち、なに遊んでるわけ?」

 馬車の仕切りを開いて、詠が目を細めていた。

「む、誰かと思えば、董卓軍の軍師ではないか。ちょうどよい。おぬし、そういうわけで、このわからず屋を説得するがよい」

 ああ、詠がうちにいるのがバレた。

 バレるのは、かまわないが、口止めは必要だった。
 袁術も、董卓軍から華雄を引き抜いているので、彼女を売られる心配はおそらくないだろうが、詠が自分の陣営にいることが、曹操に知られると随分と面倒なことになる。

「いったい、なんなの?」
「うむ、おぬしでもよい。わらわたちも連れてゆけ」
「あのね。こっちには孫権がいるのよ。ボクたちが袁術と繋がっていることがバレたら、引き抜き工作が意味をなさないじゃないの」
「問題ないじゃろ。孫権めはわらわの顔を知らぬし、わらわも孫権の顔は知らぬ。下手なことを言わねばバレる心配はあるまい。おぬしらも、わらわを、そうじゃな、孫権の前では、鳳仙と呼ぶがよい」

 ちなみに、鳳仙というのは、少帝ちゃんの妹の、今の皇帝である献帝の真名らしい。ややこしいなぁ。

「──いや、これがあるから、バレるだろ」

 俺が手に持っているのは、お馴染み美羽さまフィギュアだった。
 街中でも職人の手によって大量生産されており、キティちゃんのごとく、予州、揚州、荊州の三州の各街で、服装やバージョンを変えた、ご当地美羽さま人形が流通していた。孫権の前で、袁術の真名を呼べない理由もこれだった。

「そんな精度の高いもの、十指にも満たぬわ。寿春に流通している人形は、こんなのじゃ」

 袁術が懐から出したのは、美羽さまフィギュア? だった。
 ええと──出来がひどい、というかこの時代の技術だと、これでもマシなほうなのか。
 っていうか、忘れがちだけど、俺がいるのは中国だった。
 中国製フィギュア、ときくとひどさが理解できるかもしれない。 

 美羽さま人形の、生気のないふたつの目が、こちらを見上げていた。明らかに造形が狂っており、どこの部族が祈祷する邪神像だ、という有様だった。その存在感は、見ているだけで呪われそうだった。

 うわっ、目が、目が汚れる。

 ──俺は、俺の美羽さまフィギュアで目を休めよう。

「む、それは七乃の最高級品ではないか。わらわの代わりに大事にするがよい。とある好事家が、それと同じ大きさの金と引き替えようとした逸品じゃからな」
「……すごいな」
「まあ、話がまとまったなら、ボクはそれでいいけど。それでそろそろ孫権の扱いについて話し合いたいんだけど」
「孫権か。むぅ、下民は七乃からなにか聞いておるか?」
「いや、そういえばなにもなかったな。なにかあるのか?」
「うむ。七乃が、孫権について気になることを言っておっての。わらわとしては、心配のしすぎだと思うのじゃが」
 袁術が、言葉を選び始めた。
「不穏だな。聞かせてくれ」
「ならば、話してやろう。孫権のことを、七乃はこう評価しておった。──孫策とは、器が違う、と」

 ──器が違う。

 どちらの意味とでもとれる言葉だった。
 孫策より上なのか、それとも下なのか。

 ──俺には、孫権という将が、孫策よりはるかに上だと、そういうニュアンスに思える。

 詠も、困惑しきっている。

 孫権仲謀とは、言葉を交わしたし、実際にこの目でみた。孫策伯符もだ。そして、その上で、100人中99人がおそらく、孫権よりも孫策の方が器が上と答える、と──俺はそう思う。それは、俺と詠も含めての話だ。

 ──が。
 それでも。

 100人中、99人が孫策の器量が上だと答えたとしても、
 孫権のほうが器量が上だと答えた、その最後のひとりが、七乃さんだったら、どうなる?

「──七乃は、こう言っておった。孫権は、孫策とは違い自軍につける、という方策すらとれない。できるだけ刺激せず、爆発物を扱うように慎重に、ただ、飼い殺すしかないと。厳重な監視のうえで、軟禁した末に、老いていくのを待つのが最上の策だと。──殺せという命令すら、寝た虎を起こす引き金になるような気がして、こわくてできないと、そんなことを言っておった」

 なんだそれは。

 七乃さんの見立てだ。

 そこまでの評価を下すからには、おそらくは間違いないだろうが、俺には孫権のどこに、そこまで彼女を恐れさせるものがあるのかがわからない。
 そんななかで、ただひとつだけわかること。

 俺は、七乃さんが恐れた、その、トリガーを引いてしまっている。
 たとえ、孫権の器が、曹操に比肩するものだったとしても。俺はどうやら、これから虎穴に入り込んで、虎子を引き出さなければならないらしい。













「恋(呂布の真名)を捕まえたときのことを思い出すわね」

 詠がぼやいていた。

 俺たちは長江のほとりに腰を落ち着けて、1000の手勢とともに放浪しているらしい曹仁をあぶり出す準備にかかっていた。第一段階はすでに仕込み終えて、今は第二段階に移る途中だった。

「呂布か。どうしたんだ?」
「元はね。恋は、人里離れた森の奥に、動物たちといっしょに暮らしてたんだけどね。こうやって料理の匂いをかがせて、おびきだしたところを網で捕獲したのよ」
「ふぅん」

 まんまケモノだなぁ。

 それはそれとして、今回もその呂布捕獲作戦の、焼き直しみたいな感じになるだろう。

 大軍を動かすのに、一番気をつけなければいけないのが、食料の調達である。1000もの盗賊たちを養うだけの食料が、どこからともなくポコポコと沸いてくるわけもなく、近くからの街からとか、貴族の馬車を襲ったりとかの、略奪が基本となる。

 まあ、あっちにはあっちの事情はあるのだろうが、曹仁の軍勢も、甘寧の錦帆賊も、とにかく迷惑きわまりないという意味で一致している。

 というわけで、基本的に、曹仁と甘寧が争っている理由は、基本的には縄張り争いだった。まったく生産性のカケラもない軍隊とか盗賊とかが戦い争う理由は、だいたいそれだった。

 詠の策略は、ほぼ想定どおりに機能していた。

 囮の馬車を出して、ふたつの勢力に同時に情報を掴ませる。馬車で運ぶ物は、塩と米でいい。
 あとは、曹仁と甘寧が、その馬車の所有権を巡って、勝手に縄張り争いをしてくれる。
 すでに、衝突したという報告は入っていた。

 たかが食物で、殺し合いにまでは発展しないだろうが、小競り合いぐらいにはなるだろう。

 わりと芸のない二虎競食だったが、詠の話によると、こういう大ざっぱな策ほど、細やかな配慮がいるらしい。以下、陳留での元盗賊をやっていた、うちの頭領(一話参照)と、詠の会話をここに置いておく。

「こんな感じにしたいんですけど」
「だめだな。小手先の迷彩は、見破られるだろう。砂とかじゃあなく、本物を詰め。財宝じゃなくていい。米でかまわない」
「え、どうして」
「お嬢ちゃん。きちんと『誰を』騙すか頭に入っているか? その規模の盗賊団になると、街道を待ち伏せるわけだが、まず斥候を出す。それに轍を見れば、食料を積んでいるかどうかぐらいわかる。そういった目利きがいるかどうかで、生存確率がまったく違ってくるからな。連中は毎日毎日馬車ばっかり見ているんだ。そういう連中の勘っていうのも、バカにしたものじゃあないぞ」
「勘、ですか」
「ああ、勘だ。この時勢に、名の売れていて、いまだに潰されずに残っているというのは、その錦帆賊とやらに、きちんと鼻がきくやつがいるということだ」
「経験者の話は、違いますね。やっぱり」
「よしてくれ。俺はただの厩の頭領だ。一刀。わかったらさっさと曹仁を連れ戻してこい。せっかくの良馬が、乗り手もなしに遊んでいるのは悲しいからな」

 こんな感じだった。

 あんな顔とナリで、ただの厩の頭領なんてやっているのはおかしいと思ったのだが、やっぱり若いころは相当に名の売れた盗賊団を率いていたらしい。

 で──第一段階の、曹仁と甘寧を噛み合わせる、というところまではうまくいったので、あとは仕上げをやればいい。
















 まず、豚を熱湯につけおく。
 皮も食べることになるために、俺たちは二十匹ほどいる子豚たちの毛を剃っていく。俺は、他人の血を吸うよりも料理に使うことの方が多い青釭の剣でさくっと首を刎ねていく。
 っていうか、便利すぎる。
 華琳を叱れないなぁ、これ。

 そのあとで、特製の酒と五香塩と、凪特製のジャンを塗り込んで、刺又で吊った豚を、丸ごとトロ火で炙っていく。熟練の技が必要だった。外の皮をぱりぱりに、それでいて中まで火を通すために、内臓からなにまで、綺麗に取り除く必要があった。

 土でかまどを作って、使い終わった米を炊いていく。

 袁術は馬車の荷台に腰掛けて、薄めたハチミツをストローで啜っていた。少帝ちゃんは、さっきから俺の助手のようなことをしている。

 詠ですら、なんでボクがこんなことを、と、ぶつぶつ言いながら、火加減を調節している中、特大の飯ごうに米を入れて、水を注いだ時点で、固まっている少女がいた。困ったように眉を寄せて、おろおろしている。

「蓮華ちゃん(孫権の真名)、もしかして、お料理したことないとか?」
「か、かき混ぜればいいのだろう。水の量はこれでいいのだな」
「肩の力入りすぎなのー。うん、そうしたら一度水を捨てて」
「うむ、こう、か?」
「えええっ!! いきなり垂直にしちゃだめー」
「え?」

 沙和の言葉も、後の祭りだった。
 孫権が20kgぐらいはあるだろう飯ごうをそのまま垂直にした。水と一緒に、半分ぐらい米が地面に流れていく。

「あ、あああああああああああっっ」
「す、すまん。加減がわからなくて」
「う、ううん。半分残っただけでも、いいの」
「あーもう。蓮華も沙和も、なにやってるんや」

 炭を集めている真桜が、ふたりの周りの惨状に、顔をしかめた。

「──つ、次は失敗しないようにする。頼む、もう一度やらせてくれ」
 孫権は、ガチガチと、肩に力が入りまくっているのがわかる。

 心配だ。

 七乃さんの警戒も、取り越し苦労なんじゃないのかと錯覚しそうになる。なにか、猫を被っているんじゃないかと思ったが、そんなこともないようだった。俺の見る限りでは、生きることそのものに不器用そうな、かわいらしい少女のように見えた。もっと、肩の力を抜けば、もっと魅力的なのにと思わないでもない。

 だが──
 必ず、あるはずだ。

 七乃さんが、孫策伯符を顎で使って、
 孫権仲謀を軟禁するしかなかった理由が。

 俺はこの世界にきて、いろいろな人に出会った。

 凄い連中ばかりで、尊敬できる人も数多くいた。俺が彼女たちに勝てるものなど、なにもないだろう。

 だから、

 ──俺は、他人への侮りで、人の器を見誤ったりは絶対にしない。そんなもので、自らの瞳を曇らせることなんて、あってたまるものか。

 そう──

『──たいしたことないですよ。優秀な人材を飼い殺しにする。策略としては下の下ですし、北郷さんにだって、これぐらいはできるでしょう』

 七乃さんの、俺への評価を思いだす。
 ──俺にだって、それぐらいはできるはずだ。

「で、蓮華だっけ? 三人には真名を許しているようだけども……」

 ヒュッ──と、俺の目の前をなにかが通り過ぎていった。
 突きつけられた刃と共に、ぱらぱらと髪の毛が落ちていく。

「前髪がっ!! 前髪がざっくりといったんですけどっ!!」
「……次は、その首が飛ぶと思え」

 脅しでもなんでもなく、その瞳は本気だった。

「あかんなぁ。隊長、女の子の真名を軽々しく呼ぶもんやないで」
「そーなのー。たいちょーには、女の子のいたわり方がわかってないの」
「──はっ、ああ。すまない孫権。そういうことか。つまり、もっと感動的な場面で呼んで欲しいという可憐なオトメゴコロがなせる技──いえ、なんでもありません。もう言いませんごめんなさいすみませんちょっと調子にのってたんです出来心だったんですお金とかあまりありませんけど、どうか命だけは助けてーっ!!」

 突きつけられている料理用の包丁の刃が、俺の頸動脈に強く当てられていた。無言かつ無表情であるところがすごく恐い。
 解体して並べられた豚を見るような目だった。

 ひぃっ。

「凪ちゃん。たいちょーを助けなくていいの?」
「そーだそーだ」
「平気です。この距離なら、隊長の頸動脈が、完全に斬り裂かれる前に、止められます」

 凪は、味の微調整に余念がないらしい。
 まともに料理ができるのが沙和と凪しかいないために、凪の負担は相当なものだった。俺への対応が後回しになっても、仕方ないかな。仕方ないよね?

「それ、完全にってことは、半分ぐらいは切られるってことかなあ」

















 数百人分の食料を作るのは、薪集めや下準備からはじめると、さすがに半日がかりの大仕事だった。
 やることがなくなると、疑問も出てくる。凪たちの疑問は、

「曹仁たちが、地の利の加わった錦帆賊に勝てるか」

 ──ということだった。

「そもそも、ウチたち、曹仁将軍ってどんなんかしらへんけど、討ち取られてたりしたらどないするん?」
「ああ、それについては考えてない」
「お前は、なにを考えているんだ?」

 孫権が、さすがに口を挟んできていた。

「問題ないって。曹仁はな、頑丈さだけで将軍になったようなやつだから。どんな死地からでも生還できるのが取り柄だ。棒で撃ちかかっても、アザひとつ残らない」

 俺は、目で指し示した。

 近くで、嘶き声がした。
 馬首を巡らせたあとで、絶影が、殺気を放ち始めた。
 8人しかいない集まりである。戦えるのは、そのうち半分にも満たない。斥候を出す余裕はなく、索敵は、もっぱら絶影の勘に頼ることになっている。

 敗走のルートをここに絞り込んだのも、そのためだった。

 さすがの詠といえど、リアルタイムに入ってくる情報なしで策は組み上げられない。相手側の選択肢を削っていき、常にこちら側から相手の動きを操作していかないといけない。一度でも守勢に廻ろう物なら、あっという間に全滅する。

 砂塵が舞い上がる。
 曹仁が、俺の姿を見とがめていた。率いている配下を見ると、ボロボロに負けたようだった。誰も彼もがしょぼくれている。

 曹仁は、全身から血を流していた。
 明らかに致命傷だった。
 手勢を救うために、最後の力を振り絞っている。前の情報では曹仁が集めた手勢は1000ということだったが、今はもう半分以下になっていた。

「義兄。なにやっているんだ。こんなトコで」

 二メートルほどの巨躯が、ふらついていた。

「お前を待ってたんだ。まずは、座れ。そして、飯を食え」

 俺は、肉と野菜をかき混ぜた煮立った鍋と、炙られ、塩を含ませた脂のしたたる肉と、大量に炊かれた米を示した。
 後ろの連中が、薫りに喉を鳴らしている。

「おいおい。後ろから錦帆賊の連中が追撃をかけてきてるんだぞ」
「知ってる。それはなんとかしておく。なに、隊伍を乱しているような連中だ。──凪、ひとりで止められるな」
「──どうということはなく」

 凪が、敗走してくる曹仁の手勢を掻き分けて、前に出た。

 料理に群がる曹仁の手勢は、作物に群がるイナゴの大軍のようだった。皿に盛るなどというまどろっこしいことはせずに、焼いていなかった生肉まで、すぐになくなってしまっている。

「ああ、二週間ぶりのまともなメシだった」

 曹仁の、首の筋肉が盛り上がったかと思うと、流れる血の勢いが目に見えて減った。刺されたり、突き刺さった矢傷は、もう塞がりかけている。
 いいかげん、こいつも化け物だなぁ。血を補うためのメニューだとはいえ、回復の速度が尋常ではない。

「先遣隊か」

 凪が、二組の騎馬兵のちょうど中心を抜けた。それと同時に、ふたりの兵士が、馬上から天に跳ね上がった。すれ違いざまに、凪が馬のヒ腹に、一撃を叩き込んでいた。防波堤となって、来る連中すべてを塞いでいる。

 ──それでも、いずれは突破されるだろう。

「さて、メシは食ったな。俺は、北郷一刀という」

 用意した食料は、綺麗に空になっていた。鍋の底にも、一片の米粒も残っていない。
 俺の名前に、周囲がざわつくのがわかった。さすがに、黄巾党を叩き潰した男の名は、民衆にも知れ渡っているらしい。
 
 それは、華琳が俺の風評をあげるために、相当な軍費をつぎ込んだということで、笑い話にできるようなことではないが。

 誇れるものではないと思う。

 それでも、こんな虚名でも、無惨に敗走した手勢を、もう一度生き返られる手助けぐらいにはなるらしい。 

「今より、この手勢の指揮権を一時、預かることになった」

 ここより先は、歴史にも書かれていない。

 今までのように、歴史に刻まれた誰かの足跡を辿っていくことはできない。その刹那刹那の選択が、正しいという保障はどこにもない。

 ──俺は、

 ここで、
 この瞬間から、

 自らの意思で、

 ──この世界に介入する。

 自分の意思だった。

 俺は、どこにでもいるような女ひとりのために、死ぬと、決めた。曹孟徳をはじめとした、すべてを敵にまわしてもだ。

 なら──

 もう悩むことには、なんの意味もない。否定の言葉を連ねることは簡単だ。言い訳ならいくらでも思い浮かぶ。けれど──今必要なものは、戦う理由のはずだった。

「逃げる時間は終わった。なに、心配はいっさいない。撒いたエサによって、すでに分断は終わっている」

 今頃、曹洪が自分の手勢100を使って、背後を攪乱しているはずだった。
 けっしてまともにぶつかるなといい含めてある。背後に気を取られているうちに、前方を突き破らせてもらう。首魁自らがそっちに釣られてくれれば、あとは烏合の衆と変わらない。


「──槍をとれ。襲いかかってくる連中、すべてを、突き殺せッ!!」

 鬨の声が上がる。
 俺はむしろ、自らの胸に反響するように、その言葉を叫んだ。















「名声というのはね、こう使うのよ」

 詠の台詞は、凄絶な、事実のみを述べていた。
 賈文和の崩しがあったとはいえ、おどろくほどあっさり、俺の手勢は錦帆賊を蹴散らしていた。

 ──甘寧は、すでに捕らえ、残った連中には、投降を呼びかけている。

「ボクはね。古今東西、あらゆる兵法書を読んだわ。軍略もなにもかも精通しているし、でもね、ボクは王にはなれない」
「なにをいきなり」
「兵法書にはね。戦争の方法、王を補佐する方法、軍を動かす方法は書いてあっても、王になる方法なんて、一言も書いてないから」
「………………」
「だから、王様は誰かの真似はできない。ずっと孤独なのよ」
「みんな、俺を立ててくれるけれど。本来、俺にそんな力はない。あるのは、華琳が残してくれた、虚名だけだ」
「あんた、思い上がってるでしょ。あんた、自分に限界をつくれるほどに偉いの? だったら、あんたを必死に押し立てようとしているボクが、馬鹿みたいじゃない」

 詠は真剣だった。
 稀代の軍師に、ここまで言わせている以上、ハンパな答えは許されない。

「ボクがいる。あんたの苦しみは肩代わりできないけど──」

 息を止めた。
 深い視線が、こちらを見上げている。

「それでも、横にはボクがいる。どれだけの困難が立ちふさがっても、あんたが往く道はすべてボクが拓いてみせる。あんたには、ひとりの男として、そして、北郷一刀として、あんただけにしかできないことがあるわ。虚名でも、これだけのことができた。ううん、虚構なんて言わせない。ボクは、北郷一刀という虚構を、本物にしてみせる──」

 だから──

「ボクを信じてくれる限り、あんたが、負けるはずはない」
「──わかった。もう二度と、お前の傍以外で、弱音は吐かない」

 そう、自らの心に誓いを立てた。

 剣戟の音と、突かれたものが出す、うめくような悲鳴は続いている。
 死体となった者、逃げる者、武器を捨てる者、敵、味方問わず、傷を負った者が怨嗟の声が耳に張りつく中で、



 俺は──甘寧の前に立った。














 あとがき。

 原作ゲームで、一刀くんが慕われる理由としては、今回の話にある、

 ──俺は、他人への侮りで、人の器を見誤ったりは絶対にしない。

 って台詞がすべてなんじゃないかなぁと思ったり。偽善者っぽくない一刀くんを書けてればなぁと思ってます。







[7433] 曹洪、調子に乗った報いを受け、甘寧孫呉への忠義を貫く、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/07/28 02:47

「ねえねえ。くやしい? 負けてくやしい?」

 曹洪が、縄で縛られて身動きのとれない甘寧にむけて、周りをぐるぐると廻りながら、嘲りの言葉を繰り返していた。

「……私を、どうする気だ?」
「はん。なに言ってやがる。敗北した女戦士の末路なんざ、ひとつしかないだろうが。部下の前でそのとりすました顔が快感に歪むさまを存分に見せつけてやるんだよ。もちろん、いくら懇願しても許してやらないぞ。名の聞こえた錦帆賊の首魁が、快感に負けたうえで、ただの女に堕ちていくさまを、存分に演出してやるよ」

 くけけけけけけ、と三流の悪役的な表情を見せて、曹洪が言葉で甘寧を嬲っていた。

 弱いものを踏みつぶし、強いものにはおもねり、自分を守ってくれそうな美人のお姉さんには媚を売る、という、なんというかこれ以上ないほどに正しく人間のクズだった。

「あははははははは。その夜泣きするいやらしい身体が、どこまで耐えられるか見物だな。孫呉の誇りとやらをオカズにして、せいぜい堪え忍ぶんだなぁっ。憎い男に屈服したうえで、自分から求めるようになる過程を、最初からずっと見ててやるよ。快楽がはじけて脳天を貫いたうえで、後ろの穴で感じさせてやるからなぁっ」
「………………………」
「………………………」
「………………………」

 当然、周りの人間は全員引いていた。
 なお、曹洪の戦術を纏めると、姑息、という一言で済む。

 さっきまで、たった100の兵力で、歴戦の錦帆賊を幻惑し、パニックを発生させ、挟み撃ちにした上で、叩きのめしていた。
 率いる軍に粘りがないために、正面決戦には向かないが、奇襲と、追撃戦と、掃討戦と蹂躙戦において、曹洪は、曹操軍においてずば抜けた力を有している。性格はとてもアレだが、将軍を張れるだけの実力はたしかにあった。

 愚直を旨とする曹仁の部隊とは真逆に位置する。
 なお、こっちは防衛戦と、陣地戦と、撤退戦において真価を発揮する部隊である。どちらも曹操軍には欠かせない役割を担っているんだが、ええと、いいかげんに身内の恥を晒しているだけな気がしてきた。

「たいちょー。止めなくていいのアレ?」
 沙和が、俺の袖を引いていた。

「あー、曹仁将軍と曹洪将軍が、なんで隊長をアニキと慕っているのか、ようわからんかったんやけど、これを見て納得したわ」
「真桜。それはつまり、俺はあいつと同類だということか?」
「ええと、隊長。謙遜なさらずに。きちんとふたりに対して、頼れる義兄としてまとめているではありませんか」
「凪? 微妙にそれ、話噛み合ってないぞ?」
「うむ、まったくもって褒め言葉にはなっておらぬの」
「(コクコク)」
 袁術と少帝ちゃんは、曹仁の身体の影に入っていた。大きな巨体が、日差しを遮ってくれるらしい。

「──殺せ。ひとりの武人として、このような扱いは屈辱極まりない。きさまらに、一片でも武人の誇りが残っているのなら、首を刎ねろ」
「ああ、まったくだ」

 俺は甘寧の前に立った。

 ──銀光が宙を裂いた。
 俺の手に収まっている青釭の剣は、甘寧を縛りつけている縄だけを、一撃の下に切断していた。俺の技倆だと、そこまで正確にはいかず、服もちょっとは切れたかもしれない。

「どういうつもりだ?」

 甘寧は怪訝な顔をしていた。
 彼女は、自由になった手をどうしていいかわからないようだった。

 近い。
 彼女の技倆ならば、無手でもそのまま俺の頸椎ぐらいは破壊できるだろう。おそらく、一秒かからない。俺も、孫権を切り札として、こちらに握っていなければこんなことをしようなどとは思わない。

「そ、そうだよ。どういうつもりなんだよっ!!」

 曹洪が、後ろで焦っていた。
 自由になって、最初に自分が害されると思っているらしい。
 ここからのこいつの行動は、実に予測したとおりだった。甘寧も、これだけわかりやすければ世話はないのだが。

「ボ、ボクはおねえさんのことを、最初からすばらしい好敵手だとしんじてたよ。ほら、たたかいはなにも生まないし、これまでのことは水にながして、手をとりあってがんばっていこうじゃないか。そう、ボクらはこの広大な中華の大地に生まれたかけがえのない仲間なんだからさ」

 ──反転。
 さっきまでの台詞をすべて忘れたように、目からボロボロと涙を零す。自分が、まだ幼さの残る美少年であることを利用した、すさまじい茶番だった。実際、これで騙されるヤツもいるだろう。

「お前、ちょっと下がってろ」
 甘寧に向けてこびへつらい始めた曹洪を後ろに下げる。

「さて、一度死んだつもりだというのなら、なんでもできるな?」
「貴様、私になにをさせたい?」
「俺は、北郷一刀という。選ばせてやる。俺に降るか。それとも孫家に殉じるか。ああ、もちろん錦帆賊もぜんぶ一緒に召し抱えさせてもらう」
「そうか、貴様があの」
「知っているのか」
「貴様さえいなければ、黄巾の動乱に乗じて、今の数倍は勢力を拡大できていたと、我が主がぼやいていた。貴様を捜し出して八つ裂きにする、とな」
「………………」
 どう考えても、逆恨みだろそれ。
 うわ、こわい。超こわい。
 ちなみに、我が主っていうのは、孫権じゃなく、孫策のことだろう。

「どーも、人の行動ってのはどう他のに繋がるかわからないな」 
「軍門に降れ。我がアニキは、貴様のような性欲処理専用のメスブタでも、ありがたく飼ってくれるとの申し出だ。今みたいな流民や乞食どもの公衆便所の境遇から、救い出してくれるというんだ。断る理由なんてないだろう」
「──凪」
「はい」

 いいかげん、話が進まない。
 さっきから、曹洪のせいで話が中断されてばかりだった。

 俺が視線で合図すると、凪が手に持っていた大きな袋に曹洪を詰め込みはじめた。「ああっ、どうして。褒めたつもりだったのにっ!!」とわめきながら、袋詰めされた曹洪を、凪は馬車に放りこんでいた。

「ああ、無礼は詫びる。あくまで、無礼だったことだけだ。曹洪の言っていることは、別にまちがってもいないだろう。錦帆賊だったか、この行動のどこに誇りがあるんだ? 渇こうと、決して盗泉の水は飲まないのが、義侠の理屈だろう?」
「──たしかに、そうだな。どんな理屈を並べても、略奪された人間にとっては、私は、屍肉を漁る狗雑種(のらいぬ)でしかない」

 甘寧が、自虐的に呟いた。
 曹洪の言ったことを、そのまま受け入れているということだろう。狗雑種ってのは、サノバビッチとほぼ同じような意味になる。日本語には、これに該当する単語は存在しない。中華でも、最底辺のスラングに値する言葉だった。

 ──なんで俺がそんなこと知っているかというと、とある武侠小説に、狗雑種という名前の主人公がいたからである。

「このまま朽ちていく気か。孫策は張勲(七乃さん)に完全に頭を抑えられている。このままいつまでも盗賊が続けられるはずもないだろう。今の時点で、尻尾ぐらいは捕まれているからな。近いうちに、軍隊に揉み潰されるぞ」
「北郷殿。ご配慮、感謝する。私を高く買ってくれていることはわかっている。命を助けていただいたその余恩に、全身全霊をもって報いるべきであると、思う。そこまで、言われて、武人としてただ光栄であると答えるしかない」

 そこまで言って、甘寧は、だが──と続けた。

「それでも、私の忠義は、理由など必要としないものだ。私は、生涯、仕える主を変える気はない。珠は砕けても光を失わず、竹は焼けてもその節を曲げず。私は、真っ直ぐに道を歩いてゆきたい。もし、このまま孫呉の悲願が叶わぬとしても、私は身命を賭して、主の傍にいる。あの方が、己の道を歩むのならば、その露払い程度はできるだろう」

 甘寧は、孫権の名を一度も出していない。
 まさしく、臣下の鑑だった。有能な臣下は千金に勝るというが、彼女はそれを地でいっている。

 俺に対する詠のようなものだ。
 本当に、孫権にはもったいないぐらいの臣下だった。まあ、俺にもだが。

「──もう一度言う。
 私を、今、ここで、殺せ。
 命を救われた恩も、あのかたへの忠誠に較べれば、塵芥も同然。私を殺さなければ、後に貴様の災いとなる。私は、畜生に身を落としても、必ず、貴様に牙を剥くぞ」
「見上げた忠誠だが、気に入らないな。死んでなんになる?」
「私が、主君へできる精一杯のことだ。結果は問題ではない」
「違うな。全然違う。──本当に、主君を思うなら、どんな手段を使ってでも生き延びろ。
 騙せ。
 誤魔化せ。
 耐えろ。
 泥を啜れ。
 恭順して機会を待て。
 ──そして、肝を舐めてでも、受けた屈辱を、絶対に忘れるな」

 口から衝動のままに言葉が突いてくる。

 甘寧の瞳が、揺れている。
 戸惑ったように、俺を見ていた。

「──そして、あの時に、自分を殺さなかったことを、死ぬほど後悔させてやれ」















 俺の台詞が、誰と誰のことを言っているのか、その場にいる人間では詠にしかわからなかっただろう。俺は彼女に目配せすると、馬車の中で今までの会話を聞いていた少女を、舞台に上げた。

「というわけだ。お前を連れてきたのは、そういうことだが。主君を通さなければ、やっぱり話にならないらしい」
「──そうね。すまない一刀。たしかにこれは、私が始末するべき問題のようだわ」
「れ、蓮華、さま?」
「ひさしぶりね。思春」

 孫家のなかで、彼女だけに与えられた美しい紫髪が、首筋を撫でる風に靡いていた。ふたりとも、表情は晴れない。孫権の目に迷いはなく、ひとつの決意をもって、彼女は甘寧の前に立っているようだった。

 孫権が、甘寧の前に歩み出ていた。 
 俺がいいと言うまで、彼女には馬車の奥に隠れていてもらっていた。切り札は最後までとっておく、ということもあるが、俺は俺の力だけで、甘寧を説得しなければならなかった。それに──

『見知らぬ人間を評価するにはね。思ったことすべてを吐き出させるのが一番いいのよ。あなた、私にずいぶんと不満があるようだったもの。おかげで、すっきりしたでしょう?』

 俺は神様じゃあない。
 彼女が胸に抱く不満は、すべて把握しておく必要があった。そういう意味で、俺は曹操に倣うべきところは多くある。

「ありがとう。思春。あなたの忠誠は、生涯忘れないわ」
「れ、蓮華、さま?」
「あなたの犠牲の上でしか成り立たないような誇りを、私は、孫呉の誇りだとは思いたくはない。だから、思春。あなたは彼に降りなさい」
「嘘。なぜ、そんなことを言うのです?」
「思春、私は、あなたに死ぬことを禁じたはずよ。ましてや、無駄死になど言い訳のしようもない。だから、彼ならば私よりずっとあなたに活躍の場を与えられる。それが、きっと、あなたのために、一番いいことのはずよ」
「お断りします。そのご命令だけは」
「思春。私は、あなたのためを思って言っているのよ。このままで、どうなるの。ここで彼の誘いを断ったら、役人に引き渡されて首を落とされるだけでしょう?」
 
 まったくだ。
 わざわざ檻車まで引いてきて、孫権にプレッシャーをかけている。
 俺はなにひとつ強制していない。ただ、甘寧の命を救うためには、孫権はこう言わなければならない。

「私の誇りなど、問題ではないはずです。蓮華さまは、これから部下のひとりひとりの犠牲に胸を痛めていくおつもりですか。それは、大国を収める指導者として失格です。私は、私の誓いを違えたりはしません。たとえ九泉(冥土)の底にあっても、私は孫呉の夢と寄り添わせていただきます」

 全員が、絶句していた。
 もちろん、孫権も、俺も。

 彼女は、孫権の、在るかもわからない未来のために、犬死にすると言った。まさか、甘寧が、ここまでガッチガチの石頭だとは。

 詠の策だと、これで墜ちるはずだった。
 必中の策などというものはないから、よくて五割、みたいな成功率だと本人は言っていたが、今回はなにからなにまですべて上手くいって、完全に詠のてのひらの上でこの謀略は完結するはずだった。

 というか、というか、なぁ──これだけやって墜ちないとかありえないだろう。
 一分前までは、これで王手がかかったと思っていたのに、正直これでダメだというのなら、もう甘寧を引き抜く方策などひとつもないということになる。

 あ、完全に詰んだ。
 彼女の中の、孫権への絶対的な忠誠心を崩す方法が、見つからない。

「もういい。檻車に乗せろ」
 俺は吐き捨てた。
 檻車の構造は、それ自体が首枷になっている。中央に仕切りのように一枚の板が通され、開いた穴に首を固定する。座ったままで首を固定され、縄で両手を後ろに縛られる。まさか、使うことになるとは思わなかった。そういうものだとわかっていても、甘寧ほどの武将が受ける待遇ではない。

「一刀。なんとかならないの?」
「俺に言うな。聞いてただろう。ここで見逃したら、間違いなく俺を殺しに来るぞ。なにせ、本人のお墨付きだ」
「………………そうね」

 孫権がうつむいた。

 ええと、あれか。所詮俺は道化か。
 待て、冗談じゃない。ここまでやって引き抜けませんでした、てへっ。で、済むはずがない。

 やばい。

 ──甘寧を引き抜くことを前提に、孫権を連れ出した以上、引き抜けなかった今になって、いや、引き抜きが成功していたとしても、俺は随分とやばい立場にたっているんじゃないかと思った。

 そして、その予感は的中する。
 最近、嫌な予感ばっかり当たる気がするんだけど、気のせいかな。

「ええと、七乃さん。もしかして、怒ってる?」

 寿春の城についた矢先に、俺は七乃さんの前に出頭した。
 俺は袁術の小さな身体を前に出して、その背中から彼女を伺っていた。目の奥の燐気は、揺るがない瞳の先にだけ見えるものだと言われている。いつもと同じ仕草で、いつもと同じ状況のはずなのに、どうしてこんなに恐いんだろう。

「怒ってませんよー。仕方ない人だなぁー、と思っているだけです。私はやさしいですから、顔面の皮を剥ぐぐらいで許してあげようかと思っているんですよ」
「いや、ちょっと七乃さん? それ、世間一般では激怒してるっていうんですけどっ!!」
「あははっ。気のせいですって」
「いや、絶対違うから。笑顔のまま、焼きごてを近づけないでっ!! ほら、とりあえず袁術をもふもふして落ち着いてっ」
「……さっきから、わらわになにをしておるのじゃおぬし」
「もふもふしてるに決まってるだろう」

 俺は膝の上に載せた袁術をもふもふとしてから、七乃さんの前に差し出した。

「あのですね。一刀さん? 私が、そんなので騙されると──ああ、でも、お嬢様はかわいいなぁ」

 もふもふもふもふもふ、と袁術を抱きしめながら、話を続ける。

「さっきからおぬしら二人とも、わらわの扱いが適当極まりないのじゃが」
「えー、そんなことないですよー。ともかく、お嬢様をつれていったことも、孫権さんを連れ出したことも不問にできるといえばできますけど、それで甘寧さんは無事引き抜けたんですか?」
「いや、実はかくかくじかじかとこういうわけで、見事に失敗しました。いやぁ、あそこまで絆が強いとどうしようもないね。断金の交って、ああいうのを言うんだろうきっと」
 あっはっはっはっはっ、と──俺はつとめて明るく答えた。
 ちなみに結果から言うと、その俺の態度は、七乃さんの心証をがしがしと降下させることになった。
 彼女は外に立っている見張りの兵士をひとりつかまえて、

「あ、そこの人、ちょっと用意してほしいものがあるんですよ。はい、身投げするときに抱えるのに適当な石と、人を縛るのにちょうどいいような縄と、あと、長江のサメをおびき寄せるのにちょうどいい豚の生き血を桶一杯分もらえますか? あ、そうだ。一刀さん。痛みは感じないので、大丈夫ですよ。一刀さんの首から上は孫策さんの引き出物にしますから」
「っておい。待ってくれ。そもそも長江にサメとかいるのかよっ!!」
「いますよ。食用にもなります。産卵のために長江を遡るサメを見て、登竜門という言葉ができたらしいです」
「待て待て待て。落ち着いてくれ、まだあわてるような時間じゃない。つまりあれだろ。結果的に、この状況下から、袁術のためになる手段をとればいいんだろ。結局、まだ間に合う。そのはずだっ!!」
「あー、はい。それはそうですね。甘寧さんの処刑は明日なので、それまでにどうにかするならかまいませんよ。私も、無駄に孫策さんの恨みを買うのはごめんですし」
「難儀じゃの。七乃、孫権めを連れ出したのが、そんな気に入らぬのか?」
「うう、最悪、孫策さんとの全面戦争になりかねないですよ。これから大規模な出兵があるのに、滅亡覚悟で噛みつかれたら、それどころじゃないじゃないですか」

 七乃さんの許可はもらえた。
 しかし、どんどんハードルが高くなるな。

 で、七乃さんの孫権への警戒が異常に高いのは、相変わらずなのか。
 んー、もしかして、甘寧が石頭なんじゃなくって、問題は孫権にあったりするのか。本人の異常なまでのカリスマとかが、ぴかぴかと作用しているとか、そんななのか?














「というわけで、詠。甘寧を得られて、孫策と七乃さんを両方とも納得させて、八方丸くおさまるような策とかないのか?」

 事態は急を要する。

 結局、詠に丸投げだった。
 もうなんだかわからない。俺が死ぬか、甘寧が死ぬか、どうしてこんな二択を迫られているんだろう。すでにもう、俺の手で解決できるレベルを超えている気がした。

 賈文和。
 後漢末における最高の謀略家とはいえ、ここまでこんがらがった事態を打開する策なんてあるわけが──
 
「──ないこともないけど」
「そうだよな。ないよな。そんな都合のいい策なんて──あるのかっ!!」
「いや、あんたが席を外している間に、もう解決しておいたし。あんたに任せても、進展しないじゃない」
「……優秀すぎる軍師をもって、俺は幸せだ」

 感動を通りこして、俺は呆れていた。
 むう。しかし、どんな魔術を使ったんだろうな、こいつ。

「ちなみに、一応聞いておくけど、あんた妻帯はしてないわよね」
「してるわけないだろ」
「じゃあ、そういうことよ。──孫権を娶りなさい」
「………………………は?」
「──そういうことになった」
 孫権は、さっきから横で茶を飲んでいた。

「なに、考えてるんだ?」

 俺は、そんな場合ではないと思いつつも、非難のまなざしを詠に向けた。

「いや、誤解しないでほしい。私が、詠さんに言い出したことよ。まあ、婚約ということになると思うけど」

 答えたのは、孫権だった。

「どういう風の吹き回しなんだ?」
「思春の心は、もう動かせないから、私が、孫呉を誇りを保ったままで彼女を救うには、もうこうするしかないの。私がここを離れれば、思春もついてこざるを得ない、でしょう? 私があなたの配下になれば、当然、思春も配下として使えるわ」
「いや、理屈だとたしかにそうだが」
「あなたは、天下に聞こえた英雄よ。なにせ、私たちができなかったことをやったのだから」

 黄巾党の壊滅。
 たしかに、後生に名を残すほどの手柄、らしい。アイドルを強行スケジュールで働かせてただけなので、実感はまったくないが。

「姉さま(孫策)が、前に言っていたわ。孫呉の名を高めるためのひとつの手段。英雄の血を入れることで、庶民に我々の名を喧伝することができる」
「孫権、お前はそれでいいのか?」
「もう決めてしまったわ。私には、思春のような断金の意思はない。理由は、とても些細なことよ。私は、私の意思で道を拓いていきたいと思ったの。それに、同じ孫呉の大義を掲げていても、姉さまと私の夢は、きっとどこかで食い違う」
「そうか」
「それに、思春『も』あなたのことが好きよ。見ていて、私にはわかるもの」

 ──それが告白なのだと、本人だけが気づいていないようだった。

 ああ、だめだ。
 甘寧と同じように、彼女の心も、もう変えられそうにない。

「もちろんそれは、あなたの許しがあってのこと、だけど」

 孫権は、媚びるでも、やましいことをしたというでもなく、真っ直ぐにこちらを見ていた。澄んだ目だった。海の色よりも深さがある。サファイアよりも純度の高い瞳が、光をたたえている。

「うん。わかったわ。こちらはそれで文句はないわよ」
「即答かよっ。っていうか、詠。お前が答えるのか」
「こっちにも選択肢なんてないでしょうが。いくらあんたでも、種馬としての役割ぐらいなら、できるでしょ。はいはい。ぶつぶつ文句言わない」
「俺の扱い、なんかひどくないか?」
「そう? 正当だと思うけど。あんたの意思とか、そんな一番どうでもいいもの、最初から考慮されるはずないでしょ」
「いや、でもな」
「──私では、不足か?」

 彼女の碧眼に、憂いが灯った。
 俺の言葉にいちいち表情を曇らせる彼女は、どこからどう見ても魅力的だった。

 やばい。華琳に、どう言い訳しよう。










 あとがき。

 ドラクエのせいで更新が遅れました。ごめんなさい。
 いや、すごくチマチマとやるゲームだこれ。錬金ばっかりやってストーリーがまったく進まない。






[7433] ゼブラ仮面あらわれ、七乃心情を吐露する、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/08/09 01:58










 大詰めだった。

 いちいち寿春くだりまで来たこの遠征も、あとは孫策の説得を残すのみだった。ただ、逆に言ってしまえば、最後の最後、ここで詰めを謝れば、盤上ごとひっくりかえされる、ということでもある。

 孫策の懐柔。
 これが多分、おそらく、一番むずかしい。
 袁術と七乃さんがノータッチなら、それほど事態はややこしくならないだろうが、蓮華(孫権、真名を許された)の話を聞く限り、いずれ、袁術と孫策の激突は絶対に避けられないように思える。

 史実だと、結果的にどっちも自滅したけどな。
 どうせつぶし合って、ロクな結果にならないんだろうから、俺のことなんてほっといてくれてもいいんじゃないかと思うが、はぁ。

 最初の、孫策の第一印象と思い返す。
 かなりの激情家のようだった。
 白と黒、敵と味方をはっきりと分ける性格のように思えたし、蓮華の話でも、それは事実らしい。その分、一度認められればこれほど頼もしい味方もいないだろうが、今の俺が彼女の前に立っても、孫策を納得させることはできないだろう。

 どちらかといえば、俺は袁術と七乃さんの側に立っている。
 俺と孫策は、今の時点では互いに滅ぼし合う敵だった。蓮華と利害は一致しても、孫策と利害が一致するとは思えない。
 
 三十六計逃げるに如かず。
 というわけで、逃げたいのだが、このまま蓮華と思春(甘寧、真名を許された)を連れていっていいものか。
 ここで逃げたら、孫策との関係は、流石に修復不可能になるよな。

「ふむん」
「なにを悩んでいるの。あなたは」
 
 蓮華がお菓子を作ってくれていた。蓮華の処遇が宙に浮いている間、元の軟禁生活を続けていたので、有り余った時間で、沙和に料理を習っているらしい。

 俺のために。
 俺のために。
 それから、俺のために。うん、大事なことなので、三回言いましたよ。
 沙和が指導のちに、蓮華は米すら研げなかったのに、今は短期間でずいぶんな上達を見せていた。
 まさに劇的ビフォーアフター。
 好きな人においしいものを食べてもらえるように、という匠の願いを込めた工夫がちりばめられたりするのだろう、きっと。
 なお、凪はあれはあれで、舌と料理はプロ級なのだが、極端な辛党なので、お菓子作りにはあまり役に立たない。
 真桜は言わずもかな、からくりやら人形を作らせたら右に出る者はいないだろうが、ナマモノにはさほど興味がないらしい。
 俺は蓮華の作ってくれたスコーンのようなものをポリポリとかみ砕きながら口に入れていた。ちょっと、固いな。

「姉さま(孫策)のことなら、大丈夫よ。咲夜(魯粛の真名、初登場。性格、苦労人)にすべて説明を頼んでおいたから」
「いや、それで済めばいいけど。というか、魯粛さんそのうち心労で死ぬだろ」
 胃薬、胃薬、と、今日も痛む胃をさすっているのだろう。人が良すぎるせいですぐにやっかいごとを押しつけられる、かわいそうな女性だった。ちなみに、孫策、周瑜と同じ歳らしい。
 彼女は、先日、甘寧が捕らえられたと聞きつけて、孫策が送ってきたメッセンジャーだったのだが、蓮華はその魯粛さんに婚約の知らせを持たせて、そのまま送り返してしまった。

 多分、今頃、孫策はその知らせを受けて、激怒しているだろうことは想像に難くない。いや、多分、今からでも遅くはない。
 逃げよう。
 あとのことは、あとで考えよう。
 ほら、昔の藺相如の故事とかあるし、今は逃げることで、のちに説得できる要素とかがあるかもしれない。

「北郷殿。どこへ行かれるおつもりか?」
「ええと、思春。そこ、どいてくれないかなぁ?」
「いえ、我があ、る、じ、っ!! のっ!! 夫となる方ですから、やはり一時も目を離すことなどできません。曹操軍の将軍ともなれば、やはり重責となって、精神にも相当な負担がかかるはずです。ええ、どのような凶行でも奇行でも、はじめから病人とわかっていれば、耐えられるでしょう」
「どこからツッコむべきか。とりあえず、よほど人を精神異常者に仕立て上げたいらしいな」

 思春としては、この婚約には反対も反対。
 大反対らしい。
 思春によると、孫呉のためにならないということだが、別にそんなこともない。
 家の生存確率を高めるために、兄弟がそれぞれ別の勢力につくというのは、日本の戦国時代ではよくある話だった。多分、この三国志の世界でも、ありえない話ではないはずだ。一番わかりやすい例として、呉の重臣だった諸葛孔明の兄貴と、蜀の軍師だった孔明本人とかがいる。

「そこまでよ。思春。一刀への言葉は、そのまま、私自身をなじる言葉だと思いなさい」
「申し訳ありません。出過ぎた真似をしました。蓮華さま」
「まったくだ。俺は文句言うばかりの役立たずを、部下として迎えたつもりはない。せめて、実績を立ててから俺に文句をつけろ」
「チッ」

 ──舌打ちされたっ!?
 明らかに、今、舌打ちしましたよね、この人。
 珍しく、俺が良いことを言ったのに。

「あのね、思春は、自分だけ、仲間はずれにされて拗ねているのよ。ごめんなさい。なんの相談もなしに、身の振り方を決めたのは、悪かったと思っているわ」
 蓮華が頭を下げた。
「あ、い、いえ、蓮華さま。けっしてそのような。このような者のために、頭を下げる必要などないでしょう」
「あのな思春。相変わらずむっつりしてるなぁ。可愛い顔が台無しだぞー」

 ──なにげない言葉のはずだった。
 が。
 思春は俺の言葉に一瞬固まると、顔を茹でたタコのように真っ赤にして、ずざざざざざざざざ、と──、すごい勢いで後ずさりしていった。

「き、き、き、き、きさまっ!! 私をからかっているのかっ!!」
「……からかっているつもりはないんだけどなぁ」
「ならばなんだというのだ。わ、私お、きゃわいいなどどっ──」

 あ、噛んだ。実際すごくかわいい。
 未知の感情に触れるように、びくびくとこちらを伺っている彼女は、実際にとても魅力的だった。

「……もう、思春。あなたはもっと自分の魅力を自覚しなさい。私から見ても、あなたはすごく魅力的よ」
「な、なにを言うのですか蓮華さま。私に、そんなものは必要ありません」
「──ふぅん。さっきから一刀に、文句ばかりつけているけど、どんな男なら思春のお眼鏡にかなうのかしら」
「ええと、蓮華さん。いきなり、ナニをイイダすんデスか?」

 そんなことを言うと、思春は我が意を得たり、と話し始めた。

「蓮華さまの夫となるべき相手など、決まっているだろう。
 知謀に優れ、親を敬い、徳において相手を圧倒し、民衆を差別することなく、恩沢を均しく施し、覇によって自らの軍に道義の網を整え、決して驕らず、民衆たちのものの見方、聴きかたを知り、敵と当たれば勇鷲たる威容にて死力を尽くし、数をかりて相手を脅かすことのない、剛直としたお方だ」
「即答したよ、このひと」
「あの、それは──」

 蓮華が口ごもる。
 当然だ。そんなの誰もが夢見る理想であって、『ボクの考えたさいきょうガンダム』と変わらない。

 そもそも、徳と覇って、両立するのかそれ。
 劉備と曹操の能力を全部いいとこどりでもしなければ、そんなの無理に決まっている。光の翼とゴッドフィンガーとヴェスパーとデストロイモードを全部載せれば、最強になると主張するようなものである。

 こいつ、最初から俺を認める気なんてないんじゃないのか?

 うむ。
 いいだろう。
 挑戦と受け取った。

 この機会に、どちらが主でどちらが臣下なのかを、はっきりさせておこう。

「あーなるほど。つまりそれが思春の好みの男なわけだ」
「……待て。貴様、いったいナニを言っている?」
「だって、蓮華の夫ってことは、思春の主ってことだろ。──ということはだ。つまり、思春の好みでモノを言っているとなる」
「そ、それはそうなるが……」
「っていうか、その条件だが、そんなことでいいのか?」
「なんだそれは。まるで、貴様が今挙げた条件を、すべて備えているという口ぶりだな」
「ああ、そう言っているんだが」
「なに?」

 思春が、怪訝な顔をした。

「──知謀なら詠がいるし、親は共働きで元気だし、徳において相手を圧倒するのと、民衆を差別しないのと、恩沢を均しく施すのは蓮華に任せて、自分の軍に道義の網を整えるのは沙和がいるし(あれが覇かどうかは微妙だが)、民衆たちのものの見方、聴きかたを知ることぐらいは俺にもできるし、戦場で勇鷲たる威容にて死力を尽くすのは、なにより思春がいるだろ。剛直とか残りは、凪に任せて、ほれ。──今、ここで、俺に足りないモノなんてひとつもない」
「………………」

 思春が、ぱくぱくと口を動かしている。
 というか、真桜が余ったぞ、どうしてくれよう。

「あはははっ。これは、もう思春の負けね」
 蓮華が、吹き出した。曇天もかくやという思春の表情と裏腹に、蓮華は、晴れやかで、快闊な笑顔を見せていた。

「ぐっ」
「ほら、そろそろ俺で妥協しておけ」
「む、むむむ」 
 思春が、苦虫を噛みつぶすように言った。

「なにがむむむよ。ほら」
 蓮華が、思春を俺の前に出す。
 
「わかった。貴様を認めてやろう。私の命はお前のものだ。この先、どうあっても、お前よりも先に死ぬことを誓おう。ただし、ひとつだけ。──蓮華さまを決して悲しませるな」
「もし、その誓いを破ったなら?」
「問題ない。貴様は、なにも心配する必要もない。その瞬間、貴様の首から上がなくなっているだけだ。後悔する時間すら与えるものか」
「──やっぱり?」

 俺は空を見上げた。 
 七乃さんといい、孫策といい、思春といい、南のみなさんは、首を刎ねるのが大好きだなぁ。

「そして、もうひとつ」
「ひとつだけじゃなかったのよ」
「これで、正真正銘の最後だ。私に勝った以上、他の誰にも負けることはゆるさん」

 ええと、これ。
 もしかしてデレなんだろうか。
 わかりにくいツンデレだなぁオイ。

 

















「流石、北郷さん。追い詰められてからがゴキブリのようにしぶといですね」
「……それ、褒められてないのはわかるけど、まあ褒め言葉として受け止めておく」

 別の日。
 寿春の城。民事と軍事を司る行政府の、すべての最高責任者でもある、七乃さんの執務室だった。客を歓待するための椅子とテーブルの一式もあって、兵法書や古今東西の希少本が本棚に並んでいる。部屋をみた限りでは、袁術軍の大将軍の部屋と言われて、それを疑うものはいないだろう。

 ただ、七乃さん個人の仕事部屋として見た場合、部屋に飾られた美羽さまフィギュアによって、かろうじてそれがわかるぐらいだった。
 きちんと掃除が行き届いており、埃ひとつ舞わないようだった。もっとも、私の部屋に後で来てください、とか言われていたので、もうちょっと色気のある展開になってもよかったんじゃないかと思わないでもない。

 まあ、俺は全身疲労で立てないので、そんな展開には間違ってもなるはずがないのだけれど。

「それで、孫策さんとの話は、まとまったんですか?」
「なんとか。俺が矢面に立って、孫策の名代であるゼブラ仮面とやらと話したんだが」
 
 ゼブラ仮面。
 俺の前に現れたのは、シマウマの仮面を被った、長身の女性だった。
 目撃した趙雲による話だと、同じ『華蝶の眷属』だとか言っていたが、俺には意味がまったくわからなかった。本人は最初から最後まで、愛と正義の使者だと言い張っていたけれど。

「ああ、周瑜さんですね」

 七乃さんが、あっさりと正体をばらした。

「そういうネタバラシは、感心しないなぁ」

 呉の最強軍師が、ひどいかっこうだった。俺の資質を計るとかで、無理難題を押しつけられた結果、俺は全身筋肉痛で苦しんでいるわけだけれど。で、その俺の苦難とかは、ただの一種の姑いびりのようなもので、なんの意味もなかったらしく、俺が苦しんでいる間に、蓮華はあっさりと周瑜(ゼブラ仮面)の協力を取り付けてきた。

「咲夜だけでは荷が重い。雪蓮は、私が説得しておこう」

 ──意外や意外。
 周瑜さんは、どうやら孫策ではなく、蓮華の肩を持ってくれたらしい。本人には本人の考えがあるのだろうが、孫策を説得するのに周瑜を使うというのは、まあ言われてみればそれしかないかな、という道理ではある。

「あ、あと──七乃さんが危惧していたことは、だいたいわかったよ」
「なんのことですー?」
「蓮華のことだ。袁術から聞くところによると、七乃さん、ずいぶんと蓮華を危険視しているみたいじゃないか」
「理由がわかったんですか? ……それなら、ぜひ拝聴したいですね」
「昨日、蓮華と凪で、模擬戦というか、立ち会いをやったんだ。いつも思春と稽古をつけるばかりだったから、初見の相手にどう立ち向かうかの、経験を積みたかったらしい」
「ふぅん。そうなんですかー」
 気のない返事と裏腹に、七乃さんの瞳に燐気が灯りはじめた。
 周りの空気が、粘ついたように重くなるような錯覚は、戦場でのそれとそう変わらない。

「まあ、凪相手に一勝もできなかったのは当然だが、最初と最後で、動きが別人のようだった。見ていて、異常な速度で、動きが洗練されていくんだ。蓮華のやつ、勘が鋭い、というよりは──素材が違う、というべきなのか」

 ロールプレイングゲームでいうと、次のレベルアップまでの必要経験値が、他人の四分の一とかで済むとか、そんな能力なんだろう。

 そう思えば、反則極まりない。

 僅かな実戦値を、彼女は莫大な経験値に変換する。
 ──それはまるで、宝石が美しく研ぎ澄まされていくように、世界でも彼女だけが持ち得る能力だった。

「………………」
「最初は、気づかなかった。袁術を通して、七乃さんから蓮華の評価を聞いていなかったら、あやうく見逃すところだった」
「北郷さんは、気づかないと思っていました。私も、最初は気づきませんでしたから。孫権さんには、すごく愛されているようですし」
「だから、そんなことで──俺の目が曇るとでも?」
「いいえ、絶対に油断しないこと。私が北郷さんを評価している部分はそこですよ」
「今なら、蓮華のことを、七乃さんが爆発物だと例えた理由もわかるよ。最終的な器がどれほどになるのかはわからないけれど、あれだけの大器なら、蓮華になにか危機がせまったなら、孫策たちは自らの興亡を賭けてでも、彼女を取り返しにくるだろうな。それを鎮められるのは、俺の首を差しだすことぐらいか」

 ──なるほど。
 周瑜が協力的なのもうなずける。

 ひとつの国として見た場合、この状況は健全な状態とはほど遠い。事実、彼女一人を七乃さんに握られただけで、孫策は一歩も動けなくなっている。
 孫呉の国に、蓮華は絶対に必要としても、孫策がいるこの今、現時点では、蓮華は孫策の足枷にしかなっていない。なら、周瑜のとるべき選択肢としては、蓮華を俺に預けるというのも、ありといえばありだった。

「ところで、これ。おいしいですね」
 七乃さんは、ハチミツがけのスコーンを口にしていた。

「ああ、蓮華の手作りだから。わりと苦労して作ってくれたみたいだ」
「──あは」

 七乃さんが、皮肉げに口を歪ませた。
 見ただけで全身に怖気が奔るような、小悪魔じみた表情だった。

「愛されてますね」
「まあ、そうかな」
「幸せそうですね。愛っていうのは、水のようなもので、それをうける器は、水瓶のようだと思うんですよ」
「ええと、その心は?」
「いくら水を注ぎ込んでも、器に穴が開いていたら、染み出していくばかりですよね」
「……七乃さんは、なにが言いたいんだ。俺には見当もつかないな」
「北郷さんも、よくもぬけぬけとそんなことが言えますね。孫権さんのことなんて──欠片も愛してなんていないくせに」

 七乃さんの言葉に、

 ガツンとハンマーで頭を殴られたような、そんな衝撃があった。

 ──ああ。

 そうか。
 不覚にも気づかなかった。──『この』気持ちは、そういうことか。

「別に、そういうわけじゃない。蓮華のことは、大切に思っている。会ったばかりでよくわからないけど、大切に思おうとしている、と思う。それは、愛ではないと思うけど」
「ですよね。北郷さんには、曹操さんがいますから」

 彼女の言う曹操とは、華琳のことだろう。
 いいかげんややこしくて仕方ない。

『そう? 正当だと思うけど。あんたの意思とか、そんな一番どうでもいいもの、最初から考慮されるはずないでしょ』

 今になって思えば。
 俺ですら気づかなかった俺の気持ちを、七乃さんと、詠だけは気づいていたということか。いや、違うな。全然違う。あえて、目をそらしていた、とそういうべきだろう。

「そういうのとも違うかな。俺は、この国の人間じゃない」
 俺は言い切った。
 ぐちゃぐちゃにかき回された気持ちを、言葉で刻みつけておきたかった。

「華琳を助けて、この情勢に一応の決着をつけたら、俺は、自分の国に帰らないといけない」

 この世界に放り出されて、半年と、少し。
 俺は、霞む記憶のなか、いまでは遠くなってしまった元の世界に、思いを馳せた。記憶が薄れていくのがこわい。ここで、骨を埋める理由が、日に日に増えていくのがわかる。からみつかれたように、日々をすごしていくなか、ここの世界での一瞬一瞬は、たしかに俺にとっての現実だった。
 ──それでも、あそこには待ってくれている両親と友達がいる。俺には、それを捨てることなんてできない。戦いで、死ぬのは構わない。それでも、この争乱を、生き残ることができたいのなら。


「だから、できるだけ、ここに自分を残すことなんてできない──と?」
「そういうことかな。七乃さんは、俺を馬鹿だと思うか?」
「はい。当然じゃないですか。あと、思い上がりがすぎるぐらいですね」
 
 華琳に聞いても、詠に聞いても、同じ答えが返ってくるだろう。

「本当は、孫権さんの説得に失敗したなら、お嬢様の下働きでもやってもらおうかと思ってたんですけど。無理みたいですね、もう」
「なら、最初からそう言ってくれ。寿命が縮まるから」
 
 石を抱かされて、長江に沈められてサメのエサにされるなんて、冗談じゃない。

「言えませんよ、そんなの。言えるわけないじゃないですか。江水(長江)に沈めるのと、わけがちがいますし」
「どういう意味だ?」
「──本気だってことです。口に出したら、冗談ですまないじゃないですか」

 それは、告白のようなものなのか。

「やめよう。俺たちは、こうやって軽口を叩きあっているのが一番いい」
「まあ、それもそうですねー。あえて、私も割り込むつもりもないです。私は、勝ち戦しかしませんから」

 七乃さんは、気にした風もなかった。
 もとより、俺は、
 ──彼女の気持ちに応えられない。

「七乃さんのことは、好きですよ。決して、華琳の敵にならないだろうから」
「ええ、私も北郷さんのことは好きですよ。決して、お嬢様の敵にならないでしょうから」



 その会合は、そこで終わった。










 
 NEXT→ 『程昱、諸刃の陣を敷き、春蘭、にゃーとなり、にゃーにゃーにゃーとなる、とのこと』







 あとがき。

 誰がヒロインなのか、わからなくなってきた。いや、ほんとに。とりあえず、ここで一区切り。

 一応、七乃さんも詠も蓮華も思春も、そして華琳さまも、だれひとりいなくても成立しない話になっていると思います。

 あ、あと蓮華のレベルが上がりました。これで、蓮華さまLV41になるわけですよ。











[7433] 程昱、諸刃の陣を敷き、春蘭、にゃーとなり、にゃーにゃーにゃーとなる、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/08/24 13:33








 曹操軍には、軍議というものは存在しない。

 曹操の前に並べられたすべての言葉が、一般的にいう軍略の基礎となり、そこいらの立ち話で軍の機密が語られ、閨の中での言葉が、後に屈強な敵兵を塵殺せしめる戦術の根本となる。
 これは間諜を防ぐという意味もあるが、それ以上に曹操本人の性質の方が大きいはずだった。

 とある殺人鬼は、詩を詠うように人を殺したというが、曹操にとっても、詩を詠うように戦術を組み上げるということなのだろう。彼女にとっては、戦いとは一種の創作物に過ぎない。

 時に、傑作もあれば駄作もある。

 その場の直感と信念に従い、そして必要な策であれば、自らの考えを否定することも厭わない。彼女はなにより──冷酷非常で道徳に篤く、勇猛かつ繊細で、激情しやすく慎重で、率いる軍は規律高く、民の信望を集めている。

 大胆と臆病。

 幾多の、相反する要素を、自らのなかで矛盾なく使いこなしている。
 つまりは、並みの、いやそこいらの将のもっている資質で、彼女の持っていない資質はない、ということだ。それは、もちろん、俺に対してもそうだ。だから──こと曹操に限って、俺に対して油断する、なんてことは絶対にありえない。

 さて。
 ──それを、踏まえたうえで、



「曹操から、俺への行政府への出頭命令が届いたんだが、つまり、どういうことだ? 明らかに怪しいんだが。呼び出されて首斬られたりしないか?」
「そんなわけないでしょ。ただ単に、軍議はもう終わってあんた抜きで方針はすでに決定されているってことよ。決定事項を通達するから、来いってことよね」
「ふむ」
「それより、どうするの? いくつか仕掛けられることはあるけど?」
「やめとこう。黒騎兵を甘くみるものじゃない。李華(黒騎兵その3)がどんな悪辣な罠を仕掛けているのかわからんし」

 身辺警護のすべてを受け持っている、高飛車な少女を思い出す。
 弱いものを苛める趣味はないわよー、と、彼女は中立を保ってくれている。曹操もそうだが、あれもいいかげん敵に廻したくはない。

 陳留に帰ってきてから、三日。

 俺は、晴れ渡った空の下、自分の名義になっている大きな屋敷で、メイド服姿の詠にお茶をついでもらっていた。
 端から見て、ただとろけているように見えるはずである。

 ──で、俺が今いる屋敷について、説明がいるだろうか。

 南で新しい事業を興すということで、陳留から引っ越すという大商人に、格安で貸して貰った屋敷だった。人が住んでいないと汚れが積もっていくばかりということで、帰ってくるまでの間、自由に使ってよいという許可をもらっている。

 中華らしく、とにかく広い。米などを貯蔵しておく蔵などの付属物も含めると、フランチェスカの学院の敷地と変わらないぐらいだった。



 出世したものである、我ながら。

 この世界に来てしばらく、俺が頭領の元で馬の世話を任されていた時には、木板の隙間からすきま風が吹き付けてくるようなボロ家で、同じ厩の先輩達と雑魚寝をしていた。俺はそれに不満はなかった。

 元の世界でも、そうだったし。
 時計塔のついた華美な校舎や、淑女の集まる黎明館と違い、フランチェスカの男子寮は突貫工事のプレパブ小屋だったから。
 俺の部屋は二階だったのだが、安っぽいスチールの階段を降りるのが、なんともわびしい。

 高級マンションと見まがう女子寮とは、まさしく雲泥の差だった。もっとも、寮費は安いし、黎明館では女子と同じものを食べられたので、不公平という感じはなかった。ああ、現代が恋しい。及川はどうでもいいが、不動先輩(公式戦無敗。剣道部主将。黒髪美人)とか元気かなぁ。

 閑話休題。
 もとより、曹操軍の将軍たちは、皆、私生活を飾らない。

 曹仁は割り当てられた部屋が狭い、と──壁をぶち抜いて二部屋をつなげてしまったぐらいで、曹洪だって生来のドケチぶりを発揮して、城の一部屋で我慢しているぐらいだ。まあ、奴ら四人ともは別に実家があるのでどうでもよい。夏侯家も、曹家も、どちらも高祖の代から続くかなりの名門のはずだった。

 アタマである曹操自らは、まあ、好き勝手してるからなぁ。黒騎兵(ハーレム)作っているし。



 ──というわけで、俺は自らの器に不必要なほど大きな住居を構えている。趣味で剣道場も作ったし、真桜のためのからくり工房も庭の隅にある。詠がどこからから呼び集めていたり、俺の徳を慕ってくる食客とかも、いつのまにか住み着いていた。

 これでも、遠慮した方だった。

 曹操に兵力を奪われたとはいえ、今の俺には、街の一区画を借り受けるぐらいの力はある。今俺が使っている屋敷は、前述した通り、元々住んでいた大商人ものを借りているだけだったが、それに伴い、雇い入れていた使用人たちも、そのまま引き継いでいた。

 いまも、詠と同じ恰好をさせた少女たちや、小間使いの少年たちが自分の仕事をしている。装飾の華美さやら、庭のレイアウトは俺の趣味に合わないが、逆にこれぐらいの方がカモフラージュにはいい。

 さすがに、ここから詠を割り出すことはできないだろう。

 実際、詠という木の葉を隠すために、この屋敷という森を作るのは、仕方ないことだった。なにげに、思春の錦帆賊400を住まわせて、まだ部屋に空きがあるぐらいだ。



 ただ。
 やっかいなのは、華琳と曹操は、記憶を共有しているという一点。



 だから、詠と、それに董卓ちゃんの顔は、すでに曹操にバレている。あ、あと季衣と流琉にもか。黒騎兵の四人は、どうなんだ? 警戒すべきは夏月(黒騎兵その2)ぐらいか。いちど、代表者に話を通さないといけないのだが、誰に言えばいいんだ。普通に考えれば、リーダーの香嵐なんだろうが、どうも頼りないし。軍師の水(黒騎兵その4)は人を動かせない。最年長の睡蓮さん(黒騎兵その8)かな、やっぱり。

 まあ、それはあとで考えるとしよう。

 俺の今の状況は、思った以上に綱渡りだった。

 破綻しかかっている状況を、詠が無理矢理につなぎ合わせているだけで、いつ終わっても不思議じゃない。極端な話だと、曹操が華琳に戻っても、俺は華琳になにを言えるんだろうか。
 華琳が華琳のままで得た記憶は、おそらく、曹操にも還元されるだろう。

 つまりは──俺が曹操に叛意を抱いていることを、華琳にすら隠し通さなければならないということでもある。
 


















「いってらっしゃい。ちょっと待って、襟が曲がっているわ」

 城へ出頭する日。吉日とはいかなかったが、蓮華が見送ってくれている。まるで新婚さんのようだった。
 俺の前に立って、久しぶりに袖を通した、軍袍の襟を直してくれる。

「すまない。じゃあ、曹操とやりあってくる」
「ええ、がんばって」

 俺は、表に待たせている馬車の荷台に乗った。そんなやりとりがあってから、日が真上に来た頃。

 行政府に出頭したあと、曹操の建造した玉座の間に入ったところには、春蘭の言うとおり、春蘭、秋蘭、曹仁、曹洪の四将軍が揃っていた。春蘭と秋蘭はしばらく顔を合わせていなかったが、変わっていないようだった。

 それに、はて──桂花の姿がないが。

「おそいぞにゃー。お前以外はすでに揃っているぞにゃー」
「ええと」

 ──しばらく見ない間に、春蘭が壊れていた。

 にゃー、ってなんだ、にゃーって。
 あ、曹仁が春蘭から目をそらしている。

「秋蘭。おまえんところの姉はいったいどうしたんだ?」
「……北郷、二ヶ月ほど前、何進大将軍に呼ばれて、お前があちらの華琳さま(Not曹操)と洛陽に行こうとした時、姉上が自分も行くと駄々をこねていたのを覚えているか?」
「ああ、あったな。そんなこと」

 ──結局、留守番になったけど。
 この不安定な時期、本拠地から、あまり人を裂くことはできなかった。
 結局、黒騎兵の四人と、季衣と流琉をつれていくことで話はまとまった。春蘭は最後まで、自分が行くと渋っていたのだが、華琳の説得により、留守番に決まった。決まったって、あれ?

 そのときは気にしなかったが。
 そういえば華琳は、あれだけしつこかった春蘭を、どうやって説得したんだろう?

「うん。それで結局、あちらの華琳さまが交換条件を出してな。なんでも、帰ってきたあと、一日だけ姉者の着せ替え人形になったあげるから、と」
「それで、春蘭が折れたか。破格の条件っぽいな。それで、今春蘭が、にゃーにゃー啼いているのと、結局どんな関係があるんだ?」
「……姉者は、華琳さまにメイド服にネコミミをつけて、にゃーと啼いてくれという希望を出すつもりだったらしいが」
「なんだそりゃあ」
 まったく、なにを考えてるんだ。
 ちょっと想像してみる。

 ええと、華琳があれだろ。
 彼女が着るためだけに誂えられたようなメイド服を着て、ヘッドセットのかわりにふさふさのネコミミをつけて、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、消え入りそうなかぼそい声で、「にゃー」っと啼く、と。

「がふっ!!」
 想像してみて、軽くイキかけた。
 やばいかわいすぎる。

 致死量だ。
 一瞬、気が遠くなったぞどうしてくれる。

「それで、姉者はメイド服とネコミミの詰め合わせを床で暖めながら、一日千秋の思いで華琳さまの帰りを待ちわびていたわけだが」

 そこで、秋蘭の顔が曇った。

「ああ、オチは読めた。メイド服とネコミミセットを手に出迎えた春蘭の前に、帰ってきたのは華琳じゃなくて曹操だったと」

 ──うっわー、期待させた上でそれか。
 哀れすぎるな。俺だったらショックで絶望して死んでる。いや、冗談でなく。

 いや、別に曹操は悪くないんだろうけど。俺は詠と別ルートで帰ってきたので、そこらへんの事情がわからなかった。

 秋蘭が、遠い目をして話を、続ける。

「あれ以来、姉者の精神は崩壊し、未練がましく語尾に、にゃーとつけるようになってしまったのだ」
「いや、それは嘘だろ。どうせ曹操が罰ゲーム代わりに命令してるんだろ」
「ふ、よくぞみやぶったにゃー。そのとおりだにゃー」

 春蘭がまじめくさって言うが、この語尾だと、さっぱりシリアスにならない。

「──待て。そういえば、桂花は? 姿を見ないけど」
「ああ、兄貴。あの娘なら──死にそうな顔でふらふらしてたぞ」
「うん。あのメスネコなら、今頃書類の山と格闘してるよ。うちの組織、内政できる人材が極端にすくないから」
「あー、それは大変だなぁ」

 曹仁の目撃証言と、曹洪の説明に、うっわー、今だけは武官でよかった、と思う瞬間だった。
 おそらく、ここにいる全員が、そう思っているだろう。

 あと、曹洪の桂花の呼び方は、メスネコなのな。
 たしかに、それっぽい猫耳フードを被っているけど。あーと、ちょっと思ったんだが、曹洪と桂花の会話が想像つかない。

 ──精液臭いだとか、
 ──うぜえんだよ年中発情してやがるメスネコが、だとか、

 延々と互いを罵っていそうだ。

 そこまで考えたところだった。
 弛緩していた空気が、一瞬で張り詰める。

 見慣れない少女ふたりを後ろに侍らせて、磨きぬかれた床に覇王の足跡が響いている。小さなからだに、不敵な表情は、見間違うはずもない。刃を散りばめたような独特の空気は、現れる前からでも嗅ぎ分けられるほどだ。
 
 ──曹孟徳。

 そして、後ろに控えるのは、見たことのない少女がふたり。眼鏡をかけた凛とした少女と、どこかふわっとした雰囲気の、瞼の重そうな少女だった。随分と奇抜な恰好をしている。アタマの上に、どっかの博覧会のオブジェを乗せていた。アンテナのように見えるが、なにを受信してるんだろうか。

 おそらくは、どちらかが郭嘉で、どちらかが程昱なのだろう。

「桂花以外は、全員揃っているようね。これより軍議を始めます。
 まず、私たちは、一週間後、四海の英雄諸侯たちとともに、洛陽に攻め上ることになるのだけれど、もちろん、私自らが白旄(指揮棒)を振ることになるわ」
「敵の推定予測は、こんな感じですねー」

 眠そうな方の少女が、いろいろと書き込まれた地図を机の上に広げた。

 洛陽にたどり着くまでに、抜けなければならない要衝は、ふたつ。

 ──すなわち、汜水関と、虎牢関だった。

 どちらかに、いや、おそらく虎牢関に、呂布がいる。あと、詠の話だと陳宮も。そして、洛陽にいるのは三十万の近衛と、董卓ちゃんによって、大将軍に任じられた張遼将軍か。

「敵の総兵力は、50万にもなるでしょう。それでも、我々に対処するために当てられる兵力は、最大で20万がいいところでしょうねー」
「ほう、程昱殿。なぜそのような試算を?」

 秋蘭が手を挙げた。
 あ、やっぱり、アンテナをつけた眠そうな少女のほうが、程昱らしい。

「はい。西涼の馬孟起(超)が、あえて連合に参加せず、洛陽に刃を突きつけられる位置に20万の軍勢をもって布陣する、という連絡がありました」

 これは、地図を見るとわかりやすい。
 偽の勅書をもって、洛陽に攻め上る反董卓連合(俺たち)は、東から進軍することになる。そして、馬超率いる西涼軍は、動員できる最大兵力20万で、洛陽の西に布陣する。

 実際に戦闘が起こるかはわからないが、それでも20万に対抗できるだけの兵力を、董卓ちゃんは洛陽に配置しなければならないはずだった。精強きわまりない西涼軍と戦うには、どう考えても、30万の兵力はいる。少なくとも、これで軍をふたつに割れる。異民族への侵攻も欠かせないし、彼女が実際にこちらを迎え撃つために使える兵力は、随分と限られるはずだった。

 しかし、西涼の全兵力を動員してきたか。

 あのうさんくさい天の御遣いに、父親(馬騰)を殺されて、まだ二ヶ月ほどしかたっていない。馬超も、怒り狂っているのだろう。
 いや、それは董卓ちゃんに向けられる怒りだ。俺と詠が、董卓ちゃんを救出するうえで、最大の難関は、この西涼軍なんじゃないか?

「そして次に、曹操軍の編成を見直したわ。この反董卓連合に参加する兗州軍は、総勢10万。うち、3万を陳留軍として私自らが、残りの、東群、山陽、済北のみっつからなる兗州軍7万を、鮑信が指揮します」
「ああ、鮑信ちゃんか」

 済北の相であり、曹操の右腕のような役割をしている。刺史である曹操が一番偉いとして、二番目に偉いのが、鮑信ちゃんだと考えてもらえばいい。

「そして、我々曹操軍についての編成を布告するわ。第一右翼に夏侯惇将軍の兵を5000。第一左翼に北郷将軍の兵を5000。第二右翼に曹仁将軍の兵を7000。第二左翼に曹洪将軍の兵を7000。副将は夏侯淵将軍を伴い、本隊6000を私自らが率います。なお、北郷将軍には軍師として程昱をつけ、夏侯惇将軍には、参謀として郭嘉をつけます。なにか、質問は?」
「つまり、私と北郷で先鋒争いをしろということだにゃー」

 手をあげたのは春蘭だった。

「ええ、そうね春蘭。そうとってもらってもかまわないわよ」

 曹操が、薄く笑った。

 俺は考え込んでいる。曹操の意図がいまいち掴めない。
 経験不足は程昱を使って補え。それで、実戦の実績を積ませてくれる、ということだろうか。
 ──編成がまともすぎて、なんともいえない。まあ、俺は俺で確認したいことがないわけではないが。

「自分の手持ちに限って、編成はやり直していいんだよな。いや、俺がやっている警備隊に、何人か目をかけているのがいるんだ」
「構わないわ。好きなようになさい」

 自らへの信頼が、そのまま言葉になっている。
 曹操の瞳にこもっている色を、俺は判別できなかった。



















「随分と、趣味が悪いわね」

 開口一番、詠はそう言い切った。
 さきほどまでの軍議にて決まったことを、彼女は布陣図として紙に書き出す。その布陣図を見る彼女の眼差しは、一枚の紙を通して、これから行われる戦いを見通すようだった。

「俺には、どうして、曹操がまるで掌を返すようにして、俺に一度取り上げた兵力を預けたのかがわからないんだが」
「簡単なことよ。あんたがお目付役だと思っている、程昱って軍師が、この軍の本当の将軍だってことでしょ」
「は、どういうことだ?」
「つまり、あんたに与えられた5000の軍は、あんたに指揮権があるように見えるけど、実際は程昱の手のうちにあって、曹操の命令ひとつで、こっちに襲いかかってくるってこと」
「おい」

 それが本当なら、最悪だ。
 こちらの一挙手一挙動までが筒抜けになる上、両手両足を縛り付けられているのと変わらない。

「まるで、どちらでも斬れる両刃の剣ね。この布陣を、諸刃の計とでも名付けようかしら」

 まともすぎる、なんてとんでもなかった。
 気を抜いた瞬間に、こちらの息の根を止めにくる謀略は、悪辣どころではない。しかし、程昱に将軍やらせるって、どういうことだ、と考えて、思い当たることがあった。

 あ、たしか程昱って、史実だと、将軍の経験とかなかったか?
 そうだ、たしか官渡で将軍で、指揮能力の高さを、存分に見せつけていたような気がする。
 ──うわっ、危ねえっ。
 煌びやかな軍師としての才能に惑わされて、程昱の本質を見誤るところだった。

「つまり、程昱が、事実上の第六将軍ってことか」

 ──王手とすら見まがうほどの最善手。

 いや、今語られたこと自体は、わりとどうでもいい。
 最重要なのは、俺への監視に、よりにもよって「あの」程昱を持ってきたという一点のみだった。

 さて、程昱だ。

 優秀ということはわかるが、史実では、印象的なエピソードがないために他の軍師の影に隠れがちである。だが、程昱の非凡さがわかるエピソードがないわけではない。

 呂布に城を追われ、曹操のもとに逃げ込んできた劉備を、曹操が受け入れたのちに、ただひとり、程昱のみが「劉備を、今すぐ殺すべきだ」と進言したとある。史実における、程昱の人を見抜く瞳は、ほぼ予知能力と呼んでさしつかえのないものだ。

 郭嘉でも桂花でも、俺はここまで警戒しない。
 あのふたりなら、なんとか目も眩ませられるだろう。
 曹操が、俺への監視に、よりにもよって程昱を持ち出したことに意味がある。程昱相手に、偽装が通用するとは思えない。

 曹操のことを甘く見たわけではないが、こちらの想定を越える速度で、最短で距離を詰められている。俺が気づいていないだけで、すでに詰んでいるのかもしれない。

 やばいな、
 いくら詠がいても、どこかで脇の甘さはできる。そして、敵はその一度で充分なのだ。知恵比べで、勝てる見込みがない。

 このままだと、ジリ貧だ。
 どこまでいけば、曹操の手のひらから逃げられるのかも、予測がつかない。俺がここまで読み切るのも計算して、焦った俺が馬脚を表すのを待っているという気さえしてくる。
 
「そうね。ここは動かないことが最善でしょうね。曹孟徳が送り込んでくるぐらいなんだから、どんな小さな動きからでも、こちらの意図を読み取られるわよ。忍耐力の勝負になるわ。程昱自身はだませなくても、程昱の使う手勢まで精鋭揃いというわけにはいかないわね。そっちを騙せるようなら、彼女の行動をある程度は束縛できるはず」
「無駄だ」
「え?」

 詠が、聞き返してくる。
 前半までは無条件に同意するが、後半部分はまったく間違っている。

「防御に廻ったら、終わりな気がする。だから、いまのうちにあっちの前提条件を全部崩すまでだ。曹操から許可はもらってある。いまの程昱の子飼いになっているだろう上級将校を、すべて罷免する。編成をすべて組み直し、蓮華、思春、凪、沙和、真桜に1000づつ指揮をさせる。あとは沙和に伝えてくれ。あと三日、ギリギリまで調練をやる。一緒にまとめた海兵隊訓練式ノートの、上級編までの使用を許可する、と」
「ちょ、強引すぎないそれ?」
「詠。董卓ちゃんを助けるんだろう? 俺の立場なんて心配せずに自分の主の心配だけしていればいい。この時期に、俺の兵力をもう一度取り上げるような真似はできないだろう。それに、確実に意のままに動く5000の兵が手に入るんだ。逃す手はあるか?」

 俺の言葉に、詠の瞳から色が失せた。

 メイド服姿の少女は、すでに脳裏にどう効率的に兵力を奪うかを考え始めている。俺の目の前に、後漢末最大の謀略家の姿が、そこにあった。

「将校の何人かは取り込めるか? 不満は、凪をぶつければ押さえ込めるだろ」
「ううん、この際禍根は断つべきよ。下に落とした上級将校が、程昱になんらかの情報を売る恐れがあるもの」

 つまり、後腐れなく、殺すということだ。

「そうか。細かいことは、思春と相談してくれ」
「ええ、それで──兵のほうだけど」













「長駆をやらせます。そのなかで、上位の1000名を選抜してください。戦闘能力は磨けば光りますが、粘りだけは教えられない。その兵たちのもつ、天性のものです」
「んー。ウチはこだわりはないわ。ただ、泥の中で平気で眠れる連中を中心に選抜してや。徹夜が平気な連中をなー」
「歩兵が大部分か。ふん、体格の大きな連中を選抜しろ。このような短期間の調練でできるのは、息をひとつに合わせた槍衾だけだ」
「私は、弓兵隊を率いることになったわ。猟師や、手に職をつけた人間を頂戴。あまり、若い兵は駄目ね。教えるのがうまい連中がいいわ。私も、彼らから学ぶことがあるでしょうし」
「え、ええと、わ、私はー、どうしようー」

 5000の兵を一度解体し、それぞれの指揮官の下に組み込む。

 凪は先鋒として、早さと粘りを、
 真桜は壊乱せず、ひたすら戦い続けられる兵を。
 思春はなによりもまず統率を。
 蓮華は経験のある兵たちを求め。

 そして、沙和は、そこからあぶれた連中を率いることになった。

 っていうか、わりと好き勝手に言っているなぁ、こいつら。

「しかし、さすが、曹操自らが纏めなおした兵力だな。弱卒がほとんどいない」
「あのね。それでも、これは沙和に負担がかかりすぎるわよ。事実、沙和の部隊が、弱卒の寄せ集めになっているわ」
「あと、一週間ある。連中が、沙和の下で、どれだけ化けられるかが勝負だな」
「まあ、沙和の調練方法は、誰にも真似できないけど。ずいぶんと分の悪すぎる賭けになるわ。勝算はあるの?」
「実のところ、あんまりないな。駄目なら、最悪半分は錦帆賊と入れ替えることになるかな」
「……よくわからないわ。沙和にだけ負担をかける理由なんて、ひとつもないはずよ」
「なあ、詠。俺はいつか、曹操に打ち勝つために、春蘭と秋蘭と戦うことがあるかもしれない。あまり考えたくない話だが」
「──ええ」

 詠が頷いた。

「そして、俺の手持ちの指揮官の中で、春蘭に秋蘭と、正面から戦って勝てる可能性があるのは──沙和だけだ」
「………………」

 彼女が、息をのむのがわかった。

「というわけだ。そのまま、賭けには違いない。ただ──ひとつだけわかることがある。うまくいくかなんて俺にはわからない。
 ──それでも、沙和にできないのなら、曹操本人にすらそれはできない。できあがるのが、最強の隊か、それとも最弱の隊か。俺の運命を、沙和に賭けてみようと思っただけだ」











[7433] 英雄諸侯集結し、反董卓連合はじまる、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/09/08 11:27





 汜水関は、狭きを重きとして設計された、天下の要害である。

 四方を断崖絶壁に囲まれた死地に存在しており、一塊が何十メートルもある大岩が、延々と積み重なって絶壁を作っている。
 ここにいる全員が生を受ける遙か以前から、風雨に耐え、悠久の時間を経て、なおそのカタチを崩していない。見ているだけで、圧倒された。人の力では、何万人寄り集まってもこの自然の芸術は再現できないだろう。

 それは、戦略的にも大きな意味をもってくる。
 この汜水関だが、大軍を展開する隙間はそうなく、一度に送り出せる兵力は、20000が限界だった。包囲殲滅には相手の兵力の10倍。そして、城攻めには、防衛側の兵力の5倍の数が必要といわれている。

 ──つまり、相手側は汜水関に最低で4000の兵力を貼り付けるだけで、こちらの反董卓連合20万の動きをすべて封殺できる。

「それで、うちの軍師の意見を聞いてみたいんだが、この状況、どう思う?」
「?」
「いや、そこで不思議な顔されてもな」
「ぐー」
「寝るなっ!!」
「おおっ。びっくりしました」

 口調とは裏腹に、まったくもって、びっくりなどしていなかった。
 なんだこのゴーイングマイウェイっぷりは。
 同じ軍師だとしても、詠とタイプがまったく違う。いまいち、この不思議娘との距離感が掴めないところでもあった。

 ──程昱(真名、風)。

 俺が指揮する北郷隊5000の、軍師だった。
 曹孟徳が、俺を監視するために貼り付けたとはいえ、三国志の中でも十指に入る軍師である。そう、程昱だが『まだ』──俺の味方だった。使えるところでは使っておくべきだろう。

「……そもそも、籠城というのは兵法の中で、最も下策と言われています。援軍がこなければ戦略的に意味をなさないし、基本的にただ敵をそこに縛り付けられるのみ。そんな状況自体、戦史を紐解いてみてもそんなに多くありませんね」
「ふむ」
 程昱が、今の状況を分析していた。

「でも、おにーさん。この場合は、その他もろもろの理由に目をつむってでも、敵は籠城策をとるべきなんです。なぜだかわかりますかー?」
「籠城は下策っていうけど、こちらが相手よりさらに下の策を使っているからだろ。こっちは、大軍をただ集めただけで、結束どころか、他の勢力と協力しあう動きすらない。袁紹を盟主に仰いだとしても、いったい誰が従う事やら。というか、この場合、戦わないことが最上の策なのか。なにもせずに籠もっていれば、三ヶ月後にはこの軍勢は半分以下になっている。烏合の衆ってのはこういうのを言うんだろうなぁ」
「あ、はい。そのとおりですねー」

 詠が言っていた考えをそのまま言うと、程昱はコクコクと頷いていた。

 つまり、こういうことである。
 大軍に策など必要ないというが、それは裏を返せば、大軍はただ正面突破しかできない。
 例えば、この場合、洛陽に至るにはこの汜水関、虎牢関を抜ける最短の方法と、ぐるっと南から迂回する方法がある。
 けれど──ここまで軍勢が膨れあがってしまえば、事実上、南の迂回経路など方策に組み込めない。

 補給の問題点もあるにしろ、一番の問題は統率だった。
 そもそも、準備期間が短すぎる。兵の質にばらつきがあるし、そんな連中を率いて街を通り抜けて進むのである。悪夢としか思えない。略奪は起こるだろうし、最悪内紛でも発生し、洛陽にたどり着くこともなく全滅しかねないからだ。

 これほどの大軍を総括する方法はただひとつ。
 諸侯と兵士たちの目先に、常に攻略目標を吊り下げつつ、今、自分が行っていることに疑問を抱かせないようにすること。

 こちらの方策は、正面決戦しかない。
 なら、相手側はそれをスカせばいい。敵がまともに戦おうとしないこと。ただそれだけで、こちらは勝手に自壊する。俺たちが恐れているのは、それだった。

 袁紹の檄文に応じ、大陸全土からこの汜水関に布陣している英雄諸侯とその兵士たちは、20万にも及ぶ。見渡す限りの中華の大地を、兵士たちが隙間もなく埋めていた。地平の向こうまで、翻る旗の数と尽きることのない人の群れは、俺にただ危うさしか感じさせなかった。

 ──この反董卓連合を、壊滅させる方法。 
 詠は、今の時点で20を越える方策があると言っていた。

 うちの軍師ながら、相変わらず想像を絶するほどの有能さである。
 詠があのまま董卓ちゃん側についていれば、こちらはただの烏合の衆、あっさり壊滅させられていたような気もする。
 あ、ちなみに、俺が詠に一番効果的な手段は?

 と、訊くと──

「一番犠牲が少ないのはもちろん離間だけど、一番効果的というなら、洛陽の街に引き込んでの決戦でしょうね。統率もろくにとれていない兵士たちに洛陽を略奪させ、その隙に攻勢に出る。古今東西、首都に兵を入れて統率を保てたのは、高祖の軍ぐらいよ。洛陽を灰燼に化してもいいなら、こんな寄せ集めの兵ぐらい簡単になぎ払えるわ」

 ──わあ、さすが謀臣。
 言うことがいちいち物騒だった。
 ちなみに豆知識だが、史実だと賈駆は、董卓の死後に壊滅状態にあった漢王朝を、ほぼひとりで切り回していたとされる。董卓と賈駆は、史実において、取り上げるほどのエピソードがあるわけでもない。この世界において、詠が董卓ちゃんの軍師をしているのは、その功績を買われてのことなのだろう、おそらく。

 とりあえず、詠と程昱をそのまま使えるのが、俺の最大のアドバンテージだった。これだけで、相手が名の知れた英雄だとしても、互角以上にやりあえる。

 指揮官には、後の、魏五大将軍である凪(楽進)と、沙和(于禁)。それに存在がチートそのものの真桜(李典)と、単独の武力のみなら呉の将軍の、いや、今の曹操軍のなかでも最強である思春(甘寧)、三国志最大の内政能力をもつ蓮華(孫権)。
 今の時点で、我ながらよくこれだけかき集めたなと思うほどの、最強の布陣だった。

 俺は、汜水関の城壁の上に腰掛けながら、思った。
 確たる理由も、率いる主もなく、本気で漢王朝の未来を考えている人間などどれほどいることか。誰もが、貧乏くじを引かされることを恐れている。結束にヒビを入れてやれば、簡単に終わるだけだった。
 袁紹の檄文に応じ、皇帝の勅命という大義があるにしろ、本当に命を賭けて洛陽を奪回する諸侯がいるのかどうか、疑問符がつくところである。

 さて──

 前置きが長かったが──ここからが本題である。

「で、問題は」
「はい。なぜ、その上で、汜水関がこれほど簡単に破れたのか、ですねー」

 急展開で、悪いが。
 ──つまり、汜水関は、すでに陥落していた。

 俺たちは、まだ飛び散った血痕が真新しい城壁の頂上にいる。
 敵はすでに四散して、近くに見えるのは、輜重を運び、陣を作って兵を休める味方の兵士たちだけだった。亀の甲羅に閉じこもった敵を、どう炙り出すのかを散々議論したのだが、それはまったくの徒労に終わった。

 先鋒である孫策の軍が、三日かからずに抜いてしまったからである。
 むろん、孫策の軍勢が精強であったわけでもなく、相手側にそれほどこの汜水関を守る気がなかったような様子だった。
 むしろ、敵の罠の一環ではないかと思われる。

 で、なければイゼルローンや、ア・バオア・クーや、ラピュタなみ(イメージ的に)の防衛ラインを、こうも簡単に落とせるわけがない。

 ──余裕か、油断か、もしくは、後方でなにか不確定な様子でもあるのか。それとも陳寿あたりの介入か。

「うむ、まったくわからんな」
 俺は程昱と、メイド服姿で後ろに控える詠に向けて、そう言った。
「………………」
 詠はただの曹操軍の将軍付き侍従のひとりとして、この戦に付き添わせている。こっちの軍で、顔を知っているのは、曹操と季衣と流琉のみ。使い古されてはいるが、その分効果的な策だった。
 メイドが実は黒幕の軍師だったんだよ、と──むしろ、これを見破れるのなら、それは賢いとか神算鬼謀とかを通り越して、ただの精神異常者である。

「まあ、出立は明日だ。情報収集というか、見知った顔に挨拶してくる」

 大陸のほとんどの群雄が、ここに集まっている。
 華琳の妹である袁術と、俺の愛人である七乃さんと、蓮華の姉である孫策と、その軍師である周瑜と、華琳の姉である袁紹と、曹操の右腕の鮑信ちゃんと、俺が知っているのはそれぐらいだった。
 反董卓連合軍のうち、俺が顔を合わせたことがないのは、韓馥、陶謙、公孫賛、そして彼女の麾下にいるらしい、劉備か。

 ここにいるなかで、もっとも警戒すべきなのは、やはり劉備なのだろうか。なにせ、主役である。
 三国志の主役。敵か味方かの見極めなどを除いても、純粋に興味があった。現時点で、どれだけの英傑を有しているのかも。関羽と張飛はいるだろうが、孔明はどうだ? まあ、エンカウントするとこちらの身が危ないのは、孫策だったりするが。

 盟主を決める諸侯の軍議にも、俺は出席を許されなかった。
 俺がいても、なにもやることはなかったけれど。
 
 丁度、食事時である。
 あちこちに炊飯の煙が立ち上るなかで、俺はボディガード代わりに季衣と流琉を連れて、そこらへんを廻っていた。これだけ多くの兵が集まれば、それだけトラブルも増える。一般の兵士たちは軍ごとに、自分の陣地が決められていて、そこから出ることは許されない。
 当然だった。でなければ、すぐに刃傷沙汰になるだろう。軍隊など、存在するだけでそこにいる兵士たちのストレスを弱火でじっくりコトコトと煮込んでいるようなものである。聞けば聞くほど大軍の運用というものはどうしようもない。
 というか、他人事じゃあないのか。うちの軍も練度の高さは折り紙つきだが、いいかげん限界も把握しておくべきだった。

「袁紹はいるかー」

 というわけで、俺が最初に訪れたのは、華琳の姉である袁紹のところだった。
 盟主である袁紹に話を通して、滞在の許可をもらわないといけなかった。盟主のところにいれば、重要人物を見れる機会も増えるだろう。見張りの兵士に誰何され、俺は曹操軍の将軍であることを名乗った。

「うううう、あら、北郷さんではありませんの」
 袁紹は、フリルで飾り立てられたひときわ大きな大天幕の中で、自作の華琳さま人形を抱きながら痛哭していた。華麗であるはずのこの部屋自体、じめっとした雰囲気に沈んでいる。

「ひさしぶりですわね。洛陽で会ったとき以来ですか」
「あー、うん。もしかして、この数ヶ月、ずっと悲しんでたとか」
「いえ、華琳さんのことは振り切ったはずでしたのですけど、あのチンクシャ小娘(曹操)を見ていると、愛らしい私の妹が、どうしてあんなおぞましい姿に変貌してしまったのかと」
 袁紹はおいおい泣いていた。
 どうしようか、このひと。
 いっそこの際、袁紹といっしょに天幕の隅で膝を組みつつ、華琳のことを思って泣き腫らすのもいいかもしれない、とか思う。

「ごめんなーアニキ。麗羽さま、アタマ悪いから」
「なんですの、その言いようはぁっ。あなたたちには私の気持ちなんてわからないですわー!!」
「ああもう。めんどくさい人だなぁ」
 隣で文醜将軍がアタマを抱えていた。

「ううん。でも、いつまでもこの調子じゃ困るし。北郷さんに協力してもらって、麗羽さまを立ち直らせようよ」
「おお斗詩。さすがあたいの嫁。さすが知力32っ」
「文ちゃん。……34だよ?」
「なんのことですか?」

 流琉は純粋に疑問符を浮かべているようだった。
 いや、多分わからなくていいと思う。
 すると、文醜将軍は知力27で、袁紹は知力16ぐらいだろう。おそらく。華琳も同じぐらいか。

「うーん。それはそれとして、どーするの、いっちー」
「そうだなきょっちー。おお、こんなのはどうだ。アニキに、あたいの胸を揉んでもらう。あたいが暴漢に襲われたってことにすれば、さすがに麗羽さまも黙ってみていられないはずだっ」
「ぶはっ!!」
「だめだよそんなのっ」
「だめですそんなことっ」

 まったく同時に、季衣と流琉から反対意見が出た。

「なんだとぅ、あたいの名案をっ、ああもう。
 ここまできたら大奮発だ。斗詩の胸も揉んで良いぜ。さあ、アニキっ。この斗詩のやわらかい胸を見て、我慢できるかっ? うりうり」

 悪魔に魂を売り渡したみたく、顔を喜悦に歪ませて、ひひひひひひひひひ、と──喉の奥から声を上げながら、文醜将軍が顔良さんの服に手をかける。

「ちょ、文ちゃん。ひ、ひああっっ、そこやめっ。だ、だめだよぉっ」
 顔良さんの胸が、文醜将軍の指の形に添ってカタチを変えている。
「えーと」
 もしかして、俺をダシにしてそれをやりたかっただけか。俺そっちのけで、ふたりだけの百合空間がくりひろげられているんですが。

「えーと、季衣。見ちゃだめだからね? 兄さまも、いつまで見ているんですか?」
「違うぞ。──違う。我を忘れてたわけじゃあないからな」
「華琳さんに言いつけますわよ」
「ぶはっ」
 いきなりの声に、振り向くと袁紹が立っていた。

「あなたたち、私を除け者にして、いったいなにをやっていますの?」
「おおっ。さすがあたいだ。出した策がドンピシャリだぜ。田豊に代わって、あたいにも軍師として、戦場で采配とかできそうだなぁ」

 無理だから。
 後退とか撤退とかができないと采配とかできないから。
 袁紹軍壊滅フラグだから、それ。

「別に、あなたたちにつられて出てきたわけではありませんわ。さっきから、伝令が呼んでますもの」
「ん?」
 あ、本当だ。気づかなかった。

「も、申し上げますー」
「すまんっ。本初はいるかっ!!」
 伝令が言い終わらないうちに、飛び込んできたのは見たことのない少女だった。紅の軍袍に、純白の甲冑で身を固めている。特徴はとくになく、普通オブ普通。なんていうかベストオブ普通選手権、三年連続優勝しているのではないかというぐらいの普通っぷりだった。
 いや、かわいい女性なのだが。

「あら、伯珪さん?」

 袁紹は知っているようだった。
 はて、こっちの女性が袁紹の真名ではなく、字を呼んでいることからして、伯珪というのが目の前の彼女の字なのだろう。真名ではなく。

 はて、伯珪。
 ──伯珪。
 ──知らんっ!!

 えーと、本気でダレだろ。さすがに姓はともかく、名や字までは覚えていられない。これで誰も覚えてないような雑魚武将だったら笑う。いや、それはないか。袁紹が覚えているぐらいなので、それなりに名の通った武将であるはずだ。

「公孫賛さま、急用ですか」
 と、顔良さん。
「………………」

 ──ああ、公孫賛か。
 有名な武将じゃないか。序盤で趙雲を配下にしてたり、劉備と同門だったりと、いろいろ見るべきところはあるが、まず一番にくるのは白馬騎兵の精強さだろう。
 味方にすると頼りなく思えるが、堅実すぎて敵には決してしたくないタイプだろうか。少なくとも俺は相手にしたくない。公孫賛の騎馬隊の強さというか、数の多さは、大陸でも有数だろうから。馬超がこの連合に参加していない今、突破力だけなら最強じゃないか? 待て、すると彼女の配下に劉備がいるのか。

「いや、急ぎってわけじゃない。けど、今すぐ、見て貰いたいものがあるんだ」

 合いの手も、疑問符さえ許さないような、真剣な表情。

「なんですの? つまらないものでしたら怒りますわよ?」
「つまらないってことは、絶対にない。むしろ、胸くそが悪くなるようなものだ」
「はあ。よくわかりませんけれど」
 怪訝な顔をしつつ、袁紹はずっと手に持っていた華琳さま人形を地面にそっと置いた。大天幕を出ると、公孫賛さんの手勢だと思われる少女たちがいた。その中のひとりが丁度入ってくるところだったらしく、先頭で天幕を出た俺とぶつかった。

「ふぎゃあっ」
 いきなり、横方向に力がかかった。
 地面に転ばされ、少女の靴の裏が、俺の顔を踏みつけている。

「ああ──益体もない。この私サマの靴の裏側が、どこぞとも知れぬ下賤なものの垢で汚れてしまったではないか。なんだその目は。見られると私サマの美しさに目垢がつくであろう」

 ひどく、袁紹よりずっと偉そうな声がした。
 地面に顔をつけたままで、俺は、目と顔だけを上に向けた。

 ──天女がそこにいた。
 蒼天に、黄金で編み込んだような艶やかな髪を靡かせている。曇りもない宝石のような瞳に、桜桃のような唇に、そこからわずかにのぞく真珠のような歯。普通ならただ嫌悪感しか覚えないようなただの薄笑いが、人の心を蕩かす笑みに見えてくる。

 ──誰だ?
 一目で、高貴な出だと窺い知れる。
 本気で、誰だ。
 まさか、これが劉備だったりしないよな。

「け、憲和ちゃん。ちょ、ちょっとすみません。この子、誰にでもこうなのでっ!!」
「なんだ玄徳。このようなものにお前が頭を下げる必要もないだろう」

 横にいた、人の良さそうな少女が、俺に向かってぺこぺこと頭を下げていた。
 玄徳とか言っている以上、こっちの胸の大きな娘が劉備なんだろうか? 

「簡雍のお姉ちゃん。相変わらず、それは無礼だと思うのだ」
「は? 簡雍って、これ簡雍か?」

 横にいた、季衣と同じ歳ぐらいのちびっこの囁きが、耳に入った。彼女の小さな身体に、おっそろしく不釣り合いな曲がりくねった矛のようなものを背中に背負っていた。えーと、これ──蛇矛か。四メートルほどある武器を扱う武将など他にいないので、やっぱりこのちびっこが張飛なんだろうけど。季衣や流琉といい、ちびっこキャラは巨大武器を使わなければいけないという法則でもあるんだろうか?
 ──まあ、それはともかく、彼女の口からぽろっと出てきた名前。

 ──簡雍。
 簡雍って、こっちが正真正銘の脇キャラじゃないか。
 俺は魂が口から抜け出たように、じーっと簡雍に視線を注いだ。

「うわっ、キモいぞこいつ」
「なんだとこんちくしょう」

 簡雍っていうのは、史実において、劉備陣営における後方支援全般を司っていたとされる。ほぼ丸投げといっていいその権限の大きさに、

「なぜ簡雍をあれほど重用するのです?」

 と、新参の文官が劉備に質問したらしい。
 で、劉備はしみじみと、昔、故郷で筵売りをしていたことを思いだし、こう言ったという逸話が残っている。

「あいつは、昔、俺の草履をよく買ってくれたからなぁ」

 劉備は、そうしみじみと言ったらしい。

 ──はい、キレイにオチがついたところで。

 俺はとりあえず俺を踏んでいる簡雍の足を払いのけた。
 彼女は、すこしよろめいたあとで、

「なんだ。私サマの靴を舐められる機会など、そうあるわけでもないのに」

 この偉そうな態度は本当に偉そうなだけで、自らの美貌以外の、なにを後ろ盾にしているわけでもないらしい。

「あなたたち、なにを遊んでますの?」
「別に遊んでいるわけじゃないから。ほら、季衣とそこのちびっこも喧嘩するな」

 いつの間にやら、季衣と張飛が取っ組み合いなって地面に転がっていた。ぐぎぎぎぎぎぎ、歯を食いしばりつつ腕を組み合わせている。腕に血管が浮かび、歯を磨りつぶすような勢いで両手に力を込めていた。
 ──互角。
 いや、どちらかというと季衣が押されている。うわ、単純な握力のみなら、曹操軍で最強であるはずの季衣が押されるということは、もう、これはどう考えても張飛しかいない。

「だって、このチビがボクの頭のこと、春巻き頭だとか食べたらおいしそうだとか言うんだよーッ!」
「こ、こいつが、鈴々のことをチビって言ったのだ。自分だってチビのの上に、ぺったんこのくせに」
「じ、自分だってぺたんこじゃないかーッ!!」
「ふん、鈴々には桃香お姉ちゃんがいるから大丈夫なのだ。成長したら、お姉ちゃんみたいな胸になることが決定されてるのだ」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」

 そこで、そこにいる全員の目が、劉備の胸に釘付けになった。
 あーたしかに、華琳の四倍ぐらいはある。

「な、なんでそこでみんな私のほうを見るのかな?」
「いいなぁ」
 ぼそっ、と流琉が呟いていた。

 ──たしかに、うちの軍でこれを越えるとなると、真桜ぐらいしかいない。

「うむ、すべてにおいて優れに優れているこの私サマでも、この胸以外になんのとりえもない平和ボケ娘には勝てぬな」
「……はー、まったくなのだ。冗談はおっぱいだけにしてほしいのだ」
「ひーどーいーよー。ふーたーりーとーもーっ!!」
 劉備が両手を挙げると、簡雍と張飛が逃げていった。

「ぐぬぬぬぬぬぬ」
「うぐぐぐぐぐぐ」
 
 あ、張飛が無駄口を叩いて背中を向けた隙に、季衣が蹴りを決めて、体勢をひっくり返してマウントをとった。さすが。

「──おまえら、私のことを忘れてるんじゃないだろうな?」

 あ。
 公孫賛の姉さんが、小刻みに震えていた。
















「ってわけだ。公孫賛の姉さんが見せたかったものってのは──」

 日が暮れた後で、主だったメンバーを集めて、作戦会議を開いている。程昱は曹操に呼ばれて、席を外していた。

「拷問された、死体?」
 嫌なことを聞いたという風に、蓮華が聞き返す。
「ん、ああ。初日の小競り合いで、何人か捕虜にとられただろ。うちの軍からも。死体が城壁の裏に晒されるように、両手両足の指がすべて潰されてて、人間の尊厳を穢す方向性で、モノとして壊されていた」

 顔は判別不能で、灼けた鉄の器具で、顔の皮を剥がされ、爪は両手両足を問わず、ひとつも残っていなかった。最後には陰茎を切り取られて、口に詰められていたあたり、拷問としてだけではなく、明確な悪意が透けて見えていた。
 果たして、ここまでやる必要性があるか?

 それを語り終えた。周りは、沙和ががくがくと震えているぐらいで、あとはみんなで考え込んでいる。

「詠、敵が、ここまで──やる理由はなんだ?」
「まず、情報でしょうね。相手側がどれだけの兵力を備えているのか。参戦している英傑たちの名前。こっち側の内部事情とか、引き出さなければならない情報はいくらでもあるもの。これがわからないと、策が練りようがないから」
「いややわぁ。西涼の戦ってこんななん?」
「そんなわけないでしょ!? どういうことかしら? 総指揮は、陳宮が執っているんだろうけど、あの子にここまでできるとは思えないし」
 
 陳宮。
 結局、洛陽の時は留守番の役だったらしく、顔を合わせることはなかったが、呂布の軍師をしているらしい。
 史実では、脳筋である呂布に与したばかりに、その知謀を封じられ、結局破滅することになった。

 ──この世界では、ふたりで、互いに武力と知力を補っているらしい。知恵のついた呂布。それは、もう無敵なんじゃないか。手を組んだときの恐ろしさとしては、天下無双といって不足はない。

 もしかしたら、この世界で、最強のコンビかもしれない。

 敵と味方としてのケジメをつけるために、詠は陳宮の、そして、呂布の真名を呼んでいなかった。

「ちょっと待って。詠さんが敵の立場なら、いったいどうするの?」
 と、蓮華。
「え──ボクなら、汜水関をわざと抜かせたあと、抜けた谷の裏側あたりに兵を埋伏させておく、かな? 大軍が四分の三ほど行き過ぎたところで、全軍で突撃」
「それぐらいの策なら、大将が気づくんちゃう?」
「そうですね。曹操さまなら気づきそうです」

 凪がむずかしい顔を、いつもよりさらにむずかしくしていた。

「だが、気づけても、防げるとは限るまい?」

 思春の意見も最もだった。
 これだけの大軍で、緩むなという方が無理がある。

「うーん、いくつか敵の狙いを絞れるか?」
「絞るまでもないわ。陳宮の策はただひとつの方向にしか働かないから。つまり、呂布の騎馬隊を、どう効果的に運用するかだけど──」
「第一の関門だな。なぁ、詠。──昔の仲間と、戦えるか?」
 
 詠の身体が、一瞬、ふるえた。

「その質問に、意味があるの? もう、月を討つために、これだけの人数が集まったのよ。」
「すまん。失言だった」
「──戦えるわよ。あのままの月を見ているよりはずっといい。この悪夢を、終わらせなきゃって、そう思ってる。これは、ボクの戦いなのよ。誰にも渡すつもりはないもの」
「そう──だな」
「──もちろん、いいえ……やめにするわ」
「?」

 言うべきでないことを、飲み込んだようだった。

 この時。
 彼女が、なにを考えているのかまで、知ることはできなかった。

 ──後漢末、最大の謀略家。

 後にこう呼ばれる彼女の知謀が、世辞でもなんでもないということを、俺はこれからの戦いで知ることになる。







 次回→『詠、裏の裏の裏をかかれ、陳宮全面埋伏を行う』



 前回の沙和のことについての捕捉。

 
 沙和(于禁)だが、三国志演義においては大将軍に推薦されていたり、曹操軍で最強の兵を率いていたという記録もあるらしい。厳格すぎて人望はなかったらしいけれど。

 作者が好きなのは、このエピソード。
 略奪を処罰され、于禁に対して逆恨みをした青州黄巾兵が、曹操に「于禁が謀反を起こした」と、偽りの訴えをした。

 曹操は、まさかと思いながらも于禁討伐の兵を送り出し、その兵たちが背後に迫る中で、于禁は部下に命じて塁を築かせた。
 なぜ曹操に弁明をせず、疑いを深めるような真似をするのか、という部下の訴えに、「今は敵が目の前にいる。今陣を築かずにどうして敵に対抗するのだ。弁明など、敵を追い払ってからすればよい!!」、として取り合わず、陣営を設け、正面に迫った敵を撃退したという。

 敵を追い払ったあとで、于禁は曹操の前に進み出て、彼は曹操に対し、部下にした説明を繰り返した。曹操は、「そなたは、あのような切迫した場面で、よくもまあ軍を整え、陣を固め、他人の誹謗を放っておいて、敗戦を逆転勝利にかえたものだ。古の名将といえど、これになにひとつ付け加えることはできまい」

 ──と、于禁の行動を絶賛し、多大な恩賞を授けたとされる。

 作者が、演義で一番好きなエピソードなのだが、漫画とかで描かれていないために、知名度低いんだよねえ、このエピソード。実際、作者も演義本編読むまで知らなかった。どうして、これほどの名将の評価が低いかというと、実は続きがあるから。

のちに、関羽に対して命乞いをしたせいで、評価はいまひとつなのである。さらに、曹操、ここで呟く。「于禁は三十年も私に仕えていたのに」とか散々言われ、晩節を汚したとまで評された。

そのあと、曹操の死後、後継者である曹丕は、曹操の墓の前に、あらかじめ、于禁が降服し、命乞いをするありさまを絵に描かせておいた。于禁はこれを見ると、羞恥と腹立ちのため病に倒れ、死去した。(毒を仰いだという説もある)

つーか、曹丕ひでぇ。

というわけで、もっと評価されるべきだと思う。

評価されるべしべしべしっ。







[7433] 陳宮、裏の裏の裏を見通し、全面埋伏をおこなう、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/09/08 11:25








 史実において、袁紹と曹操が雌雄を決する戦いである──官渡の前哨戦にて、関帝が一合の元に、顔良を斬り捨てた話は有名である。

 曹操麾下の勇将である魏続、宋憲、徐晃を次々に打ち破り、袁紹軍の二枚看板と呼ばれる強さを存分に見せつける顔良。
 その鬼神のような猛将に対抗する手段がなく、手駒が尽きたところで、曹操は、当時、彼の元に身を寄せていた関羽を投入することを決めた。

 ほんの一合で顔良の首を挙げた関羽。
 ──結果的には、顔良は関羽のかませ犬としての役割でしか、歴史に名を残せなかった。いや、それはいい。

 俺がしたいのは、関羽の話でもなければ、顔良の話でもない。

 関羽のかませ犬である顔良。
 それはいいとして。さらにそのかませ犬のさらにかませ犬にされた連中の心情は如何ばかりか。徐晃はまだいいところを見せたが、呂布陣営からの降将である魏続と宋憲なんかは、あっさりと首を刎ねられてしまった。哀れ以外の感想が浮かんでこない。

 ──が、話の本題は、このかませ犬のかませ犬として描かれる、魏続と宋憲である。
 呂布陣営からの降将とか言っている時点で、なにが言いたいのか想像がつくと思う。最後に、呂布を裏切ったのが、このふたりである。さて、史実においてはこいつらが裏切ったせいで呂布は死んだ。この世界では、どうなるのやら。

 すでにこの時点で、俺がもっている三国志の知識は、敵の能力評価ぐらいにしか役に立っていない。正攻法で呂布を討ち取る方法を考えるべきなのだろう。

 さて。

 詠に聞いた話によると、董卓軍最強の将である飛将軍──呂奉先の配下として仕える八将が、

 張遼。
 高順。
 魏続。
 宋憲。
 威覇。
 曹性。
 成廉。
 郭萌。

 ──である。

 あ、あとは軍師である陳宮か。

 張遼は大将軍の地位について、呂布よりも偉くなってしまっているので、この戦場には姿を現さないだろう。呂布配下筆頭のひとりがいないだけで、ずいぶんと楽になるはずだった。

 魏続、宋憲の説明は終わったので、ここから数人ピックアップするとなると、やはり呂布の副官である高順、そして──史実にて夏侯惇の目を抉ることになる、曹性だろうか。

 野にひしめく数万の軍隊が、こちらに向き合っていた。林立する旗は、前述した『高』、『魏』、『宋』、『威』、『曹』、『成』、『郭』──であり、ゆえに距離を挟んで展開されている軍は、呂布の率いる精兵に間違いはない。

「おかしいですねー。大将旗が見えないところです。どういうことなのでしょう?」
「ああ、『呂』の旗がないのはどういうことだ?」

 ──呂布が、いない。
 俺の視力では、この距離から、荒野になびく旗の文字を読み取ることは不可能である。

「凪。なにか見えたら教えてくれるか」
「はい。隊長。おまかせください」

 俺は横に凪を置いていた。
 彼女は、俺の副官扱いになっている。
 剣道にも、一眼二足三胆四力という言葉がある通り、目の良さは、なににつけても大切だった。彼女を傍においておけば、目の前の兵力の動きを逐次教えてくれるし、雰囲気とかで、埋伏の場所などを指示してくれるかもしれない。事実、隊を分けての調練では、彼女の隊の生存率はずば抜けていた。
 
 曹操軍が布陣しているのは、なだらかな丘の上だった。ここからは、広い戦場のほとんどが見渡せる。虎牢関から数里、やはり──董卓軍は虎牢関に依って戦うつもりはないらしい。

 戦場に、波紋が広がっていく。
 鯨波(とき)の声が広がった。

 先頭には、『高』の旗があった。
 高順が、その騎兵隊を率いているようだった。すべてが黒く染め上げられ、馬も馬甲をつけて凛々しさは増していくようだった。

 曹操の黒騎兵と、威容はひけをとらない。
 ならば、実力は?













 高順が率いる、大陸最強の黒の騎兵隊。
 5000のそれが、固まって動き始めた。一際目立つ名馬に乗った精練な将が、先頭になって突っ込んでくる。
 ほぼ、一騎駆けに等しい速度で駆ける高順に、磁石で吸い付いたように後続の兵士たちが続いている。
 縦の陣形。騎兵隊そのものが一本の強靱な槍となって、陣形が楔をつくる。それを迎え撃つのが、横一列に並んだ公孫賛の白馬陣だった。すべて白い毛並みで揃えられたそれは、外側から折れ曲がるように、V字型に高順の騎兵隊を、包囲していく。

 白の軍と、黒の軍が大地を鳴動させて激突した。

 ──理想的な左右からの挟撃、だった。
 公孫賛の戦術に間違いはなく、左右から高順はただ押し包まれて首を討たれると──誰もが思った。
 高順が手勢の騎兵を二手にわけ、左右からの敵の包囲に対処する。そのアクションを起こすには、高順が一手遅れた形になる。ほんの一拍の決断のはやさは、公孫賛の方が勝っていたと、見ていた誰もが思う。

 けれど──
 そこから高順隊は、すべての予測を撥ね返した。

 ──加速。
 直前で、高順隊の速度が上がった。
 ただ一直線に。左右からの包囲が完成する直前──高順が兵の壁をまっすぐに打ち破り、駆け抜けていった。

 ──正面を抜かれた。
 遠くで見ていてわかるほどに、白馬騎兵の動きが混乱していた。一度抜かれただけで、統率のとれない烏合の衆のようになっている。騎馬の後ろに備えていた歩兵達が、戟で槍衾をつくってなんとか崩壊を喰い止めているが、それでもすでに立て直せるような状況じゃあない。

 副官である凪が、目を見開いた。

「公孫賛将軍、──敗死」
「──は?」
「言葉の通りです。はじめの突撃で、公孫賛将軍の、首が跳ね上がりました」
「……ちょっと、待て。こんな、あっさりとか?」
 
 信じられない。
 冷や水を浴びせられたようだった。凪の眼を疑うわけではないが、一軍の将がここまであっさりと負けるような展開が、あっていいのか?
 ──公孫賛が、死んだ。

 この無様なまでの白馬騎兵の混乱っぷりは、そう考えれば理解できる。けれど──汜水関を落としたという驕りがあったとはいえ、一撃で討ち果たされるなど、屈強と音に聞こえた白馬陣が、あまりに簡単に破られすぎている。

 ──迂闊すぎる。
 そうとしかいえない。呂布に首を落とされるならまだしも、ここまでたやすく負けていい理由はないはずだ。先鋒というのは、負けてはいけないからこそ先鋒なのである。そして、その俺の疑問に答えるように。
 
「ああ──そういうことですか」

 馬の上で、程昱がそっと呟いていた。
 壊乱しながら抵抗を続ける目の前の両軍を、冷たい目で見つめている。

「なにかわかったのか。──というか、わかることなんてあるのか? 見たままじゃあなくて?」
「いえいえ、おにーさん。とんでもないです。これはですね、詰め碁のような精緻な策といえます。よくもまあ、これほどまでに性質の悪い策を思いつくものだと、私はおもうのですよ」

 珍しく、相手の策に感服したように説明を続ける程昱に、俺は疑いのまなざしを向けた。彼女は、両手の指を組み合わせて、俺に向けて説明を始めた。

「相手はですね。公孫賛軍の突撃を誘って、正面から首を落とした。結果としても現実としても、やったことはこれだけなのですが、裏では十重二十重の情報戦がくりひろげられていたはずです。おにーさん。戦いの前の、公孫賛将軍の様子は、どんな感じでした?」
「そうだな」

 言うまでもない。
 部下を二度と見られないような有様にされ、先鋒を、盟主である袁紹に願い出ていた。 

「部下を二度と見られない形に切り刻まれて、怒り狂ってたな。あまり表には出さなかったけれど、俺にはよくわかった。先鋒をかってでたのも、そのためだし──っておい。ちょっと待て。この敵の策って、もしかして──公孫賛だけを狙いうちにしたものなのか?」
「──おそらくは、そうなのでしょうね。
 話を続けると、こうなります。部下の敵を討ちたい公孫賛将軍からみれば、自分の騎兵隊の実力を見せつけたいところです。相手が同数で、さらに大陸最強の騎兵隊の名をもっているのなら、なおさらでしょう。けれど、彼女の白馬騎兵は、横一列の陣形でこそ真価を発揮する部隊。相手の挑発に乗ってしまったばかりに、ただの一撃で首を落とされることになった、ということでしょう」
「──それだけ、なのか?」

 疑問があった。
 程昱の説明は、簡潔にすぎる。

「──それだけ?
 いいえ。一見ただのぶつかりあいに見えたでしょうが、ずいぶんと手が込んでいましたよ。誰の策かはわかりませんが──馬超が参戦していない今、最強の突破力をもつ白馬騎兵の力をひとにぎりたりとも発揮させてもらえず、怒りで状況の判断力を鈍らせて、犠牲を出さず、将の首だけを断つ。とても、──これは、曹操さまでも防げなかったでしょう。黒騎兵自体に通じない策なので、相手側が標的にできなかっただけかと思われます」

 坦々としているが、言っていることはとんでもなかった。

「それほど、なのか?」
「はい。騎兵隊の力の源は、その突破力ですねー。
 けれど、突撃の瞬間を相手に読まれれば、その威力は半減します。
 騎兵というのは歩兵と連携し、その機動力を利用できるからこそ最強の兵種であり、単純に正面からぶつかったのでは、その優位性は半分以下になります。それを踏まえた上で──敵の高順隊は、あえて正面から突撃してきた。敵の先鋒は下策。それは、公孫賛将軍にも、わかっていたはずです」
「………………」

 俺は考えていた。
 ただ布陣するということそのものを、公孫賛への餌として撒いたということか。
 
「しかも、想像ですが、敵は突撃の速度を、あえて緩めていた。目の前に、自分より練度の低い(ように見える)騎馬隊がいる。味方を拷問され、判断力をなくした公孫賛将軍が、どういう気持ちになるか。北郷将軍にも、わかりますよね」
「──その程度か。本物の騎兵運用というものを見せてやる、と思うな」
「ええ、そうです。
 相手と同じ陣形で、正面から蹴散らす。公孫賛将軍は、それで勝てると思ったでしょう。けれど、陣形も戦術も、汜水関を抜かせたのも、わざわざ公孫賛将軍の配下をむごたらしく拷問にかけたのも、すべては──」

 程昱は、目を閉じた。

「──公孫賛将軍の、奢りと油断と、怒りを誘うために」

 俺は唸っていた。
 たしかに、精緻に考えつくされている。騎兵という兵種は、指揮官の資質がまず勝敗をわけると教えられた。
 怒りに身をまかせた時点で、陳宮のてのひらの上だった。

 ──なら、どうすればよかった。
 戦場で相まみえたときには、すでに勝敗を占うような時期ではなかったのだろう。そう、勝敗はずっと前に、公孫賛の人となりを捕まれた瞬間に決していたはずだ。

 部下と領民に優しく、部下は精強で、仲間を決して見捨てない。戦術構想そのものは凡庸で、初戦で奇策をうってくる可能性はゼロに近く、それでいて、無視できないだけの戦闘力がある。

 ──そうか、策に嵌めるには、うってつけか。

 ぞく──と、背筋が凍っていた。
 まるで詰め将棋のようだ。
 花を摘むように、たやすく、命を奪う。

「そこまで裏の裏の裏までを考え尽くすものか?」
「優れた謀士なら、これぐらいはやるとおもいますよ。兵法にも適っていますし」
「いや、おそらくもうひとつ理由があるんじゃないか。劉備に白馬騎兵は使えない。いや、ここにいる諸侯の誰にもだ。つまり、敵は将ひとりを討ち取っただけで、この戦場にいる10000の兵力を、そのまま無力化したってことだ。これが意味するのは、つまり──」
「ええと、おにーさんが言いたいのはこういうことですか? この、呂奉先の軍隊だけで、この反董卓連合すべてを殲滅するだけの秘策と自信があると」

 程昱に言い返す暇はなかった。
 そして、その間にも事態は推移している。
 
「曹孟徳さまからです。北郷隊は、今の陣から百歩前進するように」

 本隊からの伝令だった。
 囮に使われる、という懸念はすぐに振り払った。どのみち、先鋒である。血を流すことを、覚悟しなければならない。
 けれど──その疑惑はすぐに晴れた。
 隣の春蘭隊も、同じように動きはじめた。ということは、後詰めである曹仁と曹洪も動くだろう。他の陣営は、誰も動けないでいる。なぜ──公孫賛が討たれたか、誰も把握していないのだろう。

 動き始めたのは、曹操軍本隊だった。
 その用兵は、神速に近い。
 曹操は、最強である黒騎兵の1000だけを連れて、俺が気づいたときには、高順隊の側面に回り込みつつあった。

 待て待て待て。
 信じられない。たった今、不用意に前に出て、首を刎ねられた大将の姿を見たばかりである。あえて、同じ愚を重ねるというのはどういいうことだ。

「さすが華琳様。あんな光景を見せられた直後、突撃など、誰にもできません。敵も、それを織り込んでいたはずでしょうし」
「同じ愚を二度重ねることで、敵の裏をかく、か」

 公孫賛を討ったのは、こちらの全軍に心理的なブレーキをかけるのも目的のひとつだったか。
 それが、曹操にだけは通用しなかった。たしかに、理性でそれが敵の裏をかけるとわかっていても、誰にもやれないだろう。それをあえてやるのは、他の諸侯など比較にならないほどの、自らの軍への信頼なのか。

「黒騎第一隊から、第四隊まで、突撃ッ!!」

 曹操が倚天の剣を中空に掲げ、愛馬である爪黄飛電にまたがり、黒騎兵の先頭に立って駆けはじめた。
 黒騎兵。
 すべて女性で固められた曹操直属の親衛隊は、その軍勢を1000まで膨れあがらせていた。黒の具足と馬甲で固められた、曹操の意のままに動くとされる、大陸最強の一角だった。

 第一隊隊長、であり総隊長である香嵐(こうらん、黒騎兵その1)
 その麾下である、
 巴音(りおん、黒騎兵その5)、
 白湖(はくれい、黒騎兵その9)、
 吹雪(すいせつ、黒騎兵その12)。

 第二隊隊長、夏月(かげつ、黒騎兵その2)
 その麾下である、
 青青(せいせい、黒騎兵その6)、
 文華(ぶんか、黒騎兵その10)、
 芳鈴(りんほう、黒騎兵その13)。

 第三隊隊長、李華(りか、黒騎兵その3)
 その麾下である、
 暁宝(ぎょうほう、黒騎兵その7)、
 彩華(あやか、黒騎兵(裏)その10)、
 小明(しゃおめい、黒騎兵その14)。

 第四隊隊長、水(すい、黒騎兵その4)
 その麾下である、
 睡蓮(すいれん、黒騎兵その8)、
 菲(ふぇい、黒騎兵その11)、
 末莉(まつり、黒騎兵その15)。

 黒騎の兵が、四隊に分かれて突撃する。
 曹操の命を待たず、それぞれの隊長と小隊長の指示で、どんな乱戦でも壊乱せずに戦い続けられる、大陸でも唯一の軍勢だった。

 打ち鳴らされる鉦鼓と共に、曹の旗が掲げられた。
 程昱が俺に説明してくれたことを、おそらく曹操は、ただの一拍で理解しているからこその速度だった。味方すら欺くような勢いで、壊乱する白馬騎兵ともみあう高順隊を横殴りに殴りつけた。

 さらに左翼に布陣していた孫策軍がそのまま面包囲を行う。
 兗州軍を率いる鮑信ちゃんの軍勢が、二万の兵力で正面から敵を押し包んでいく。

 反董卓連合軍と、虎牢関を守護する呂布の軍隊との戦いは、序盤戦にして、四軍が入り乱れる地獄絵図と化した。





 






 

 曹操軍は、閉じられていく包囲網の出口に、神経質なほどに注意を払っている。
 高順隊は、曹操と孫策と鮑信ちゃんに、三面包囲をかけられて、もうすぐで水も漏らさぬ包囲網が完成するところだった。

 外に敵が大量にいる時点で、内側に包囲をかけるのは、賭け以外のなにものでもない。包囲している側は、内側の敵を閉じこめるのに夢中で、外側の圧力にはまったくの無防備になる。ほんのわずかな手勢でも、通すわけには行かない。

 曹操が、そんな賭けにでたのは、あの高順隊だけは、今ここでどうやっても討ち取らなければならないと決意したからだろう。つまり、練度や動きの早さから判断して、今押し包んでいるのが、董卓軍50万のうち、最強の5000である。
 あれを、呂布が率いたら、と考えると──寒気がするほどだった。ここで、一兵も残らず殲滅するしかない。

 だから。
 包囲網の完成まで、敵を近づけないのが俺たちの役割になる。
 宋憲。
 ほぼ同数の相手と、俺たちはにらみ合いを続けている。
 敵を動かさなければ、それでいい。タイムアップでも、俺たちの勝ちだ。

 春蘭のほうは、魏続を抑えている。
 曹洪が、威覇を。
 曹仁が曹性を抑えて、こちらのカードはすべて切り終えている状況だった。

 俺は俺で、宋憲とのにらみ合いを崩すわけにはいかない。
 なにか敵に一アクションでもあれば、その隙をついて責め上がれるのだが、敵は不動の姿勢をとっている。同じ兵力で同じ兵力が拘束できている以上、これ以上の働きを求められるのは酷だった。

 そこで──

 敵の陣地の裏側から、抜け出てきた、300ほどの騎兵隊が、眼に入った。
 すべてが騎馬。
 黒の具足を身に纏い、そのすべてがひとつの生き物のように戦場を無人の野をゆくがのごとく駆けている。

 鳥肌が立った。
 凪がうめき声をあげる。旗もない。だが、尋常な調練であのような動きにはならない。戦場で敵を殺したわけでもない。それでも、存在そのものが異常だった。
 ──わかる。
 300騎の統一された軍馬の質は、その一頭一頭が、絶影となんの遜色もない。

「隊長。アレはっ!!」

 凪が震えている。
 顔面が蒼白になっている。
 精鋭は、強い気を放つ。それを感じ取って、兵の強弱を見抜くのだと彼女は言っていた。けれど、あれは俺にもわかった。見ただけで魂が消し飛ぶかと思った。

 あれが、本命だ。
 冗談でも何でもなく、あの300騎が、こちらを全滅させるだけの力を持っている。
 おそらく、曹操も気づいただろう。
 けれど──動けない。
 ここで包囲を解いたら、あの300騎と内側の高順から挟撃を受ける。俺たちは魏続とにらみ合い、曹操軍と孫策軍、兗州軍は、外からの攻撃に無防備になっている。

 ──まるで、あの300騎を駆け回らせるために、すべてがお膳立てされているのではないかとすら思った。

 詠の言葉を思い出す。
 俺が、敵の狙いを絞れるかといった時に、彼女はなんて答えただろうか?



『絞るまでもないわ。陳宮の策はただひとつの方向にしか働かないから。つまり、呂布の騎馬隊を、どう効果的に運用するかだけど──』



 ──まさか。



 その、300騎に立ちふさがったのが、鮑信ちゃんの本隊だった。
 予備隊扱いになっている。こちらの5000を抜けられたら、もう遮るものはない。彼女の号令と共に、歩兵が槍衾を作った。



 ──勝敗は、この瞬間に、決した。



 今まで、微動だにしなかった右翼の宋憲と、左翼の魏続が連動して動き始めた。

 動きに、一糸の乱れもない。
 なめらか──と表現されるほどの動き。
 左右から押し包まれた兗州軍の前衛が、左右から押し潰される。無防備になった本隊に、300騎が突っ込んでいった。

 概念だけは知っていた。
 今使われたのは、ややオリジナルとやや異なるが、日本でこの1000年以上のち、戦国の世で使われることになった、寡兵をもって大軍を討ち果たす高等戦術。まず、囮でもって敵を引きずり出し、前衛を本隊から引き離したところで、囮が反転、さらに左右に伏せさせた伏兵で、突出した部隊を、蛇の頭を断つように狩る。

 芸術的なまでの、三面殲滅。
 悪夢のようだった。こちらが三面殲滅をしようとしたはずが、敵にそれを奪われている。

 ──方天画戟が、風をくらって銀閃を描く。

 島津のお家芸であるその戦術を、俺は畏怖とともに呟いた。



「──釣り、野伏」

 
 
 ──鮑信ちゃんの、首が、落ちた。


















 頼るべき将を失って、すでに包囲網など維持できるはずもない。
 決壊した濁流のように、大軍が寡兵にさんざんに翻弄されている。曹操も、孫策も、将を討たれて混乱する味方の兗州軍を前にして、包囲のために広げた自軍を再編するのが精一杯のようだった。
 俺たちも、混乱の中で、魏続と宋憲を追うどころではない。次のアクションをとる余裕がない。

 全方位からの圧力を支えきった高順の騎兵隊は、ほとんど目減りしていなかった。こわれた包囲網を抜け、海に生きる魚が、魚群を作るように無名の300騎を中心として、再編される。
 その軍勢はわずかの時間で、5000にまで膨れあがった。

 ──旗が、掲げられた。

 それは、深紅の──『呂』の牙門旗。
 先頭にいるのは、三国最強である──飛将軍、呂奉先。

 その旗を中心として、敵はまとまっていた。黒の騎兵隊が、ひとつの生き物のように動き始める。『黒きけもの』のように、ひとつの生き物とすら見まがうそれは、大陸最強の将と、そして──大陸最強の騎馬隊だった。

「やられました。兵に兵を隠せさせる、全面埋伏ですか」

 程昱の言葉が遠い。
 兵士たちが、パニックに陥っている。
 呂布を出すのなら、たしかにこのタイミング以外ない。ただ旗を掲げるだけで、全軍の戦意を奪ってしまった。

 誰も追いつけない。奔りながら再編し、5000騎にまで膨れあがった呂布の騎馬隊は、そのまま、背後で機をうかがっていた、袁術軍四万に襲いかかっていった。











[7433] 飛将軍、──虎となして、これを射る、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/10/09 03:18







 袁術軍の十絶陣は、すでに第七陣まで打ち破られていた。

 掲げられる呂の旗の前に、元々大混乱に陥っていたところを、さらに呂布の正面突破が加わる。

 最小部隊(弩士一名、戟士二名、剣士二名)をいくら重ねても、いささかのその突進力は緩まなかった。呂布軍の一斉突撃は、集団の中に、四トントラックをいくつもぶつけているようなものだ。

 ──ただ、理由もなく、粉砕される。
 寄せ集めとはいえ、袁術軍の擁する40000の兵力をもっても、呂布軍の中で精鋭だけが集っている5000を止められない。

 堅牢なはずだった、袁術軍の十絶陣が、混乱のなかで、ズタズタに引き裂かれていた。

 ──呂布は思う。
 突破力は、誰にも劣らない。戦場で死なせないために、苛烈な調練を強いてきた。この軍は四日間までなら、水と塩と、携帯したわずかな干飯だけで行軍できる。

(ちんきゅの策は、すごい)

 呂布は、舌を巻いていた。

 自らの武だけでは、これほどまでにたやすく袁術軍の十絶陣を突破できない。
 戦場を駆ける呂布の姿は、まるで鬼神そのものだった。後に続く騎兵隊を自らの手足のように使っている。迎撃に出てきた袁術の騎兵隊に、彼女は方天画戟の一撃を、返礼とした。

 ──鎧袖一触。
 鎧の袖が触れるだけで、周りのすべてが薙ぎ払われる。
 
 血しぶきが舞う。
 輪切りにされた人体が地面に落ちるよりも速く、呂布が方天画戟を振るうたびに、二桁に相当する数の歩兵が挽肉に変わっていく。

 すでに確認していることだが、袁術軍に、対騎兵用の装備と準備はない。鹿砦(ろくさい)の設置には、場所の選定をはじめ、いくらかの時間がかかる。いくら大将軍張勲(七乃)が切れ者といえど、移動中にその類の準備を整えることは不可能だった。

 それでも、このまますんなりと目的の首を取れるはずもなく、奥の手のひとつやふたつは、用意してあるはずだった。
 そして、ここまでくれば呂布にも、相手側の切り札の想像はついた。
 この時代における歩兵の最小の部隊人数は、五人。弩士一名、戟士二名、剣士二名である。しかし、見える範囲では、弩士の姿が極端に少ない。

 攻撃の基本となる弩士を部隊編成から外すことは、まず考えられない。
 時間をかければ、数に勝る相手に殲滅される。だから、こちらの策が袁術軍の頭を潰すことであるということは、すでに看過されているはずだった。

 この情報を踏まえたうえで、大将軍七乃がとるべき策はなにか。彼女は、いくつかの可能性を思索した。

(──想像は、ついた)

 そのあとで──
 彼女は、自らの愛馬の鬣を撫でた。

 龍蹄──赤兎。

 詩に──九天より飛び降り来たる火竜と詠まれることになった──最速の汗血馬である。これに較べればどんな馬も見劣りするし、その威容は旗から見て、あまりに目立ちすぎる。天に向かうような鬣(たてがみ)には、雑毛が一本もない。全面埋伏の際には、全身に黒い布を被せていたせいで、あまり目立つ動きができなかった。ようやく、飛将軍といわれた自らの武勇が、十全に発揮できる。

「──行くよ、赤兎」

 乗り手の意志が手綱から伝わった。短い嘶きと一緒に、速度が上がる。
 周りの風景が、斜線に落ちる。
 空気の質が変わり、呂布は視線をあげた。

 彼女の前方に、『袁』の大将旗が、聳え立っていた。

 袁術軍の、本陣。

 あそこを強襲すれば、袁術軍四万を、そのまま無力化できる。


















 本陣の抵抗は激烈だった。
 ここまでくれば、どちらの兵士にも、後退は許されない。
 左右の陣から一斉に放たれた矢の群れが、凄まじい勢いをもって飛来する。左右の方陣からの矢を、呂布軍はあえて、そのまま受けた。

 ──三発目までは、撃たせる。
 呂布軍の精鋭は、血を流し、声を上げずに死んでいく。致命傷を受けた馬が膝を折った。次々と脱落していく部下を前にして、呂布はただ耐えることで受け流した。ただ陣形をまとめ、小さくまとまっている。

 ──けれど、四発目は撃たせない。
 圧倒的な速度。敵の陣地がみるみるうちに近づいていく。どれだけの犠牲を払おうと、ここで首をひとつとれば、勝ちがみえる。

 呂布は、背負った強弓を構えた。弓弦が、半月を描き、限界まで引き絞られる。目方400斤の、大人五人でようやく曳けるそれを、彼女は自らの両手のみで扱っていた。筋肉が軋む。精神が深いところに沈んでいく。唸りを立てる空気も、周りで繰り広げられる戦場の喧噪も、向けられる殺気も、死にゆくものたちの断末魔も、呂布の耳には入らない。
 二発目は、ない。
 この厳戒態勢だ。一度目を失敗した瞬間、こちらの狙いを悟られるはず。

(──、一撃で、終わらせる)

 呂布の距離から、袁術の姿は伺えない。本陣には、流れ矢を防ぐために、小姓が大盾を構えている。狙える隙間などほとんどない。もとより、あの大将軍が、自らの主を危険にさらすはずがない。

 けれど──

 その分、大将軍七乃本人は、無防備に近かった。

 全軍の指揮のために、馬上で全身を晒している。弓の射程距離には、まだかなりあるという判断だろう。
 ──けれど、この強弓ならばその考えの死角を突ける。呂布にとって、ここから彼女を狙撃することなど、飛ぶ鳥を射落とすよりも容易いことだった。

(いいですか。恋どの。狙うのは、大将軍張勲の首ひとつ。彼女の首をとるだけで、袁術軍は終わるのです。なにせ、軍事の総指揮から兵糧、内政のすべてと、兵の調練から、軍師としての役割まで、彼女ひとりが総括しているのですから。あの大将軍張勲さえいなくなれば、たとえ袁術軍が何十万の兵をもっていようとそれは烏合の衆。恐るるに足りません。恋どのー。吉報をお待ちしておりますぞーっ)

 これまで、陳宮の策に、間違いはなかった。
 そして、これからもだ。

 呂布は、米粒ほどの的でも射抜く自信はあったが、全身を晒している七乃自体、大きな的だった。し損じることはまずない。ここから目標まで、およそ半里(200m)。この一射で、終わりだった。

 ──風切音が、鳴った。
 一条の矢が、大気を引き裂いて、呂布の手からはなれた。

 誰にも視認できない速度。

 ──的中。

 放たれた矢は、狙いを過たず、大将軍七乃の鎧の中心に命中した。結果は見るまでもない。この矢は、鋼鉄にすら突き刺さる。あんな鎧で、この矢を防ぐことはできない。一秒後に、馬上から、ぐらりと、糸が切れたように、大将軍七乃が崩れ落ちた。
 
「──全軍、突撃」

 呂布の合図と共に、全軍が、本陣に突撃をかけた。即席の柵を、縄をかけて引き倒す。障害物はない。袁術軍は、大将軍を失い、すでに組織という体を成していない。それでも、万が一がある。本陣にいるのは、袁術をはじめ、組織の中核をなすだけの力をもった人物だった。大将軍張勲に信頼されていないために、その能力を使いこなせていないにしろ、他の陣営に奔らせるわけにもいかない。

 月(ゆえ)の障害になるものは、すべて取り除いておかなければならない。これからはじまるのは、戦争という名の、一方的な虐殺だった。

(あ、恋どの。袁術は生かして連れてきたほうがいいかもしれないのです。捕虜交換として、交渉に仕えると思うのです)

 出陣する前に、陳宮に言われたことを、思い出す。
 前方は混乱して、すでに陣形もなにもない。歩兵はすべて逃げ去って、そして──そのあとの光景に、呂布は目を疑った。まるで陣形の薄皮を剥ぐように、整然と三列に並んだ弩隊が現れた。

 ──完全な埋伏。 




(──罠に、かけられた!?)



 呂布の驚愕と同時に、

「撃てッ!!」

 ほとんど無傷で、立ち上がった大将軍七乃が、配下の弩隊に、命を下す。
 かき集めた1000の弩兵が、一斉に矢を放った。ありとあらゆる方向から飛来する矢が、呂布の軍勢を横殴する。むろん、七乃には、万全の策を組む余裕はなかった。ここで、弩兵があと1000あれば、呂布の軍を一兵残さず殲滅することもできただろう。

ゆえに、七乃の、『現時点での』策は、ここで尽きた。
 














「なんだ、その鎧?」

 呂布が、探るような目を向けている。
 呂布は、すでに本陣に踏み込んでいる。後方はともかく、本陣に一度踏み込んでしまえば、矢など射かけられるものではない。すでに、七乃の命は呂布に握られているといっていい。
 それでも──呂布が手を下せないのには、理由がある。

 七乃は笑った。
 呂布の軍は、敵の本陣で、孤立した形になっている。真っ直ぐに本陣を突かれたが、時間を稼げば稼ぐほど、袁術軍が有利になる。
 それは呂布もわかっているはずだ。だが──その千金のような時間を消費しても、呂布には、確かめておかなければならないことがある。
 自らの武勇を誇るような人物ほど、なぜ──自らの一撃が通用しなかったのか、その疑問に耐えられないはずだった。ハンパな一撃ではなかった。強弓での遠距離射撃は、呂布の切り札に等しい。どんな例外でも、認めるわけにはいかない。
 偶然なのか。
 必然なのか。
 二度、同じ事ができるのか。
 それとも、あれは七乃だけに許されるのか。

 ──その秘密は、七乃の着ている鎧にあるはずだった。
 
「さすが、呂布さん。気づきましたか。この鎧は、矢なんて通さないんですよ」

 呂布は、ここで今すぐ、大将軍七乃を討ち取るべきだった。
 それでも、一度口を開けば、最後まで聞かずにはいられない。戦場の雰囲気を塗り替えて、そういう空気を作り出すのも、駆け引きのひとつである。

「なぜ?」
「はい。答えてあげます。これは、曹操さんの倚天剣や、北郷さんの青釭の剣と同じ材質である百煉鋼で作られた、筒袖鎧(とうしゅうがい)という鎧です」

 呂布の連環鎧や、曹操軍に正式採用されている魚鱗鎧とも違う。
 いわゆる西洋のスケイルアーマーだった。それも、三国志最高の切れ味を誇る青釭、倚天と同じ材質で作られている。

 百煉というのは、鋼鉄の品質のなかで、最上のものとされる。
 鉄を折りたたんで鍛打する工程を『煉』といい、良質のものを『三十煉』、皇室やときの為政者のために献上する最上級のものを『百煉』という。特に、『百煉』の鋼でつくられた武具は、宝剣やそれに等しいものとして、扱われることになる。

 一刀の使う青釭の剣なら、一枚の鋼をひたすら鍛えればいいが、この鎧は筒状の袖のすべてがオーダーメイドで重ね合わせてある。国を傾けるだけの金と気が遠くなるほどの複雑な工程と、領土すべての職人の数を注ぎ込んで、ようやく完成した代物である。

「私が彫り上げた美羽さま人形を売って作った軍資金で、お嬢様はこれを送ってくださったんですよ。私が戦場で傷を負わないようにって。私としては、杏仁豆腐でできた城とどちらにしようかすごく迷ったんですけど。──ああっ、七乃はお嬢さまの愛で、できていますっ!!(← 七乃、ヘ ブ ン 状 態 ッ !!)」

 七乃は、キラキラと瞳の中に星を飛ばしたままで、自分の腕で自分の身体を抱きしめていた。思わず、背筋を奔り抜ける快感に、身を震わせている。















「わかった。──おまえ、もういい」
「はぁ、呂布さんが風情がないですねぇ。お断りします。さて、お嬢様がさびしがっていると思うので、私はこれで失礼します。後悔は、冥土でやってもらえますか?」

 ほんの少しの、時間的な空白。
 ギリギリだったが──間に合った。

 援軍。
 左翼の指揮をつとめていた華雄隊5000と、右翼の指揮をつとめていた趙雲隊5000。そのふたつが、左右からそれぞれ、真っ直ぐに呂布の首をめがけて、つっこんでいった。

「呂布か。同じ戦場を駆けたのも昔の話。今の私は、袁術軍の将だ。是非もなく、首をもらう。死んで恨むなっ!!」
「七乃殿も、無事なようでなりより。洛陽で会って以来か。呂奉先。天下無双の技の冴え。この常山の趙子龍が受けてやろうっ!!」

 左右二方向からの同時攻撃。
 すでに、七乃の手のひらの上で、状況が推移している。華雄の金剛爆斧。人の背丈ほどの大岩を、コナゴナに打ち砕く一撃が、凄まじい勢いで迫る。それと同時。右から来たのは、趙雲だった。手に馴染んだ朱槍が、呂布に光の速さで襲いかかる。共に必殺。どちらを喰らっても、ただではすまない。

 そして、正面から、だめ押しのように、

 七乃の差し出す、閃光がひらめく。
 ──袁術親衛隊正式採用鋼剣が、呂布の喉元に向けて、突き出された。

















「──どう、して?」

 口から血を吐き出しながら、七乃は呆然と呟いた。

 完璧なはずだった。

 負ける要素は、なにもない。

 大岩を粉々に砕く華雄の斧を、呂布はたった二本の指で止めていた。だがそれで──終わりだ。
 たとえ呂布といえど、この態勢から趙雲の槍の神速は躱せない。
 たとえ避けても、二発目、三発目が、矢継ぎ早に繰り出される。故に、右からの趙子龍の槍を、呂布は、あえて無視した。

 目的を見抜かれたということだろう。
 ここは、呂布の足を止められれば、それでよかった。ふたりの率いてきた趙雲と華雄の騎兵隊で押し包めれば、それで呂布はともかく、呂布の軍に、生還の目はなくなる。

 ──詰みだった。
 ここで、ただ呂布を足止めするだけで、袁術軍の勝ちは決まる。

 血しぶきが舞う。
 趙雲の槍が、呂布の腹を貫いた。
 が、致命傷には遠い。
 ──脇腹を、急所を避けてわざと貫かせていた。それに、どれだけの速度をもっていても、一度完全に突き刺した槍は、引き戻せない。

 そして、この時点で、呂布の利き腕はなんの拘束も受けてはいない。趙雲の槍を受けるのに使うはずだった利き腕で、呂布は正面の七乃を迎撃した。

 この角度ならば、突きはない。
 呂布はただ、横に払うしかない。

 一撃なら、耐えられるはずという七乃の確定予測を裏切って、方天画戟の刃は筒袖鎧を泥の塊のように刺し貫き、彼女に致命傷を与えていた。

「──え?」

 それは、彼女の予測にはない。張力750キログラムの超強力弩でも射抜けなかった、稀代の宝鎧。たとえ、呂布の方天画戟が、同じ百煉鋼で作られていたと仮定しても、これほどの切れ味を付加することはできない。

「おまえ、強かった」

 呂布は、華雄の金剛爆斧を二本の指で横に捻った。それだけで、彼女の体が宙に投げ出される。最初の一撃に全力をこめていた華雄に、それに抗うすべはない。
 呂布は趙雲から距離をとると、血で塗れた腹腹を触った。思った以上に、傷が深い。すぐに動けなくなるということはないが、手当てしなければ、命が危ない。

「目的は達した。撤収する」

 大将軍、七乃の死は、袁術軍の壊滅と同義である。
 袁術軍に軍師はいない。それは、曹操軍に死間(死ぬことを前提としたスパイ)として、入っている詠からの報告でわかっている。

 呂布は、七乃に対して、心のなかで、最大の敬意を抱いた。
 彼女が、『切り札』を、戦場で使ったのは、これがはじめてである。こんな些細な負傷も、七乃の首を天秤にかければ、充分におつりがくるほどだった。

 結論を言うならば、七乃の判断に間違いはない。油断があったわけではない。ただ──彼女は呂奉先が、なぜ『飛将軍』の名を冠されているのか、そして──数々の異名の中から、なぜその異名を好んで使っているのか、そこまで洞察が及べば、あるいは別の可能性もあったかもしれない。

 ──とある、伝説がある。

 ──虎となして、これを射る。

 『前漢の飛将軍』、李広の逸話であり、呂布の飛将軍という名は、ここからとられている。李広は、代々弓術の家系に生まれた。そんな彼がある日、狩猟にでると、草むらのなかにうずくまるものを見かけた。てっきり虎だと思い、矢を射かけると、矢はそれに突き刺さった。李広が落ち着いてそれを見てみると、虎だと思ったものは、ただの石で、矢はそれに突きささっていた。
 石に矢が突き刺さる。こんな話は聞いたことがない。が──しかし、それから、いくら同じ事を繰り返しても、二度と石に矢が突き刺さることはなかった。

 矢が突き刺さったのは、獲物が虎だという確信からで、信念さえあれば石をも貫けるという故事となって、現代にも残っている。一心、岩をも通す、という言葉は、この逸話からでた言葉である。

 呂布のその力は、彼女自身にとってもわからないことだらけだった。李広がその神技を残せたのは生涯にたった一度きりで、矢は二度と石に刺さらなかった。

 だが、呂布の神技にそのような制限はない。
 彼女の人生の中で、この『切り札』が必要なほどに、自らが追い込まれたのは、さきほどが初めてだった。

 陳宮が調べてくれた逸話と、彼女の能力が符合しただけの話。
 故に、呂奉先が、李広『ごとき』の異名である『飛将軍』の名を名乗っているのは、そのためだった。

 そして、呂布は煮えたぎる悔恨の中にいた。

 ──はじめの一撃。
 半里(200m)先からの遠距離射撃。あの時点で、彼女がこれほどの精神状態に達していたのなら、油断も慢心もなく、筒袖鎧など貫き通して、最初の一矢で終わっていたはずだ。

 すくなくとも、敵の射線に引きずり込まれて、騎馬隊の四割近くを失うような無様はやらかさなかった。

(次は、ぜったいにないッ!!)

 三国最強、呂奉先。
 これほどの力を従えても、できないことはある。部下を救えないこともある。まだ彼女は、果ての見えない、武の途上にいた。
















 黒い塊が動き始めた。
 弩の一斉射撃で数は減らしたにしろ、まだ呂布軍は、半分以上が無傷である。あれの一斉突撃を喰らった瞬間に、今度こそ、袁術軍は壊滅する。

「七乃っ!! 七乃っ!! しっかりするのじゃっ」

 薄れゆく意識と、冷えていく自らの身体を理解しながら、七乃は複数人の手で馬上に押し上げられているのがわかった。筒袖鎧は、すでに脱がされている。もう、自分一人で自分の身体も支えられない。筒袖鎧を裂いて、刃は心臓にまで届いていた。だから、渇いていく自分を自覚しながら、七乃は思う。最後に、最後に、ひとつだけ、お嬢様に、気持ちを伝えさせてください──と。

「……お、お嬢様? お怪我はありませんか?」
「わ、わらわのことなどどうでもよいっ!! て、敵がすぐそこにきているのじゃ。いまなら、まだ逃げることができる」
「……お嬢さま、──七乃は、ここまでです。私を置いて、ここから逃げて……くださ……い」
「なにを言う、そんなことができるわけがなかろうっ!」
「いい人生でしたよ。お嬢さまと寄り添えて。だから、お嬢さまも、答えを……出さないといけないです」
「な、ななの?」
「お嬢さまは人の上に立つひとです。生まれたときから、それを強制されてきましたよね。かしこいお嬢さまなんて、お嬢さまじゃあないとずっと思ってきましたけど……さいきん、考えがかわってきたん……です」
「………」
 
 袁術は、黙って聞いていた。
 おそらく、七乃と最後に交わすべき会話を、このまま終わらせるわけにはいかなかった。

「だから、……あの世で、私の主人を誇らせてください……ね。私のお嬢さまはすごいんだって。だから、お嬢さまに仕えたことを、私に、後悔させないでください」

 そこが、リミットだった。
 趙雲は、馬上に袁術を引き上げた。懐に抱く。
 背後からの圧力だけで、心臓が止まるようだった。ここにいるだけで、心臓が切り刻まれているような気がしている。
 馬を奔らせた。
 振り返る余裕はない。
 呂布の騎兵隊は、もう目と鼻の先にいる。

「七乃。待て、七乃が、まだ──」
「お嬢様は、もう、七乃がいなくても、大丈夫ですよね?」

 それが、彼女の、
 最後の、言葉になった。

 ふっ──と、七乃の体が、糸の切れた人形のように馬上から転げ落ちた。
 視線だけが、つよい意思をこめて、ただ忠誠を誓った主を見つめていた。

 追撃してくる2000の騎兵に、抗う気力も方法もなかった。七乃の身体が、地に落ちた。地面に横たわった彼女の身体が、馬蹄にかけられて踏みにじられていく。

「あああああああああああ──」

 袁術は、たしかに、その一部始終を目に焼き付けていた。七乃の身体が、ただの肉泥になるまでに、さして時間はかからなかった。あとは、黒の大軍に蹂躙され、彼女の死体すら見えなくなっていった。



 以上が、袁術軍、壊滅までの一部始終である。





















[7433] 袁術、絶望に沈み、詠、策を明かす、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/10/22 18:32







 駆けつけたときには、すべてが終わっていた。

 折れた旗と、馬蹄にかけられて蹂躙された死体が、地面に転がっていた。ほどなく腐乱がはじまり、鳥たちに啄まれるのは明らかだった。

 地獄絵図というのは、こういうのをいうのだろう。見ていて、吐き気を催すほどの光景。持ち主のいないあらゆる武器が地面に投げ出され、墓標のように打ち捨てられている。負傷兵は一カ所に集められ、下を向いている兵士たちの誰も彼もが、目に力を宿していなかった。

 理解せざるをえない。

 袁術軍は、終わった。

 たった半刻ほどの戦闘で、袁術軍40000のうち、5000ほどを失う結果になった。趙雲と華雄の主力が丸々残っているにしろ、どれだけ戦えるものか。

 呂布の武勇は、そこに居合わせたすべての人間の魂を打ち砕くのに十分すぎた。





 あれから、一日が経過している。

 死体を埋めている暇もなく、そんな気力のあるものは誰もいない。戦場で散ったものは、朽ちるのが道理。そうわかっていても、やるせないものがある。

 七乃さんの死体は、結局見つからなかった。
 生存しているという望みは、ない。

 死体は残らなかった、
 ただそれだけの話。

 彼女は、最後まで袁術の無事を願っていたという。
 それが、趙雲から聞いた、七乃さんの最後だった。


 魂が、ささくれだっているのがわかった。

 
 ──なんだこれ。

 行き場のない鬱屈した気持ちが、胸のなかを反響している。七乃さん。殺してでも死なないと思っていた。
 恋や愛ではなかったけれど、かぎりなく心を通い合わせられたと思っていた。

 その想いも、ただ圧倒的な武力に、踏みつぶされることになった。それで終わり。いいのか。

 それで。

 七乃さんがいなくなっただけで、彼女の願いはすべて消え失せるのか。胸の中にわだかまっているのは、理由など必要としない類の怒りだった。

 だから、義理は果たさないといけない。彼女がもしここにいたのなら、ただ──袁術の無事だけを願っているはずだから。

 袁術は、ずっと食事も取らず、自分の天幕に閉じこもっているらしい。なにをしていいのか、わからない。そういうことだろう。
 七乃さんの亡骸でもあれば、あるいは気持ちの整理でもついたのだろうか?

 トップだけがそれなら、まだいい。

 トップの無能は、下が補えばいい。けれど──袁術軍は、将軍や文官たちもなにもかも、七乃さんがいなければロクに機能しないようだった。袁術軍は、七乃さんがいるかいないかで、まるで別の軍のようになっている。

「我ら三人揃って、七乃殿ひとりに及ばぬ、か。情けないことだな」

 趙雲が、空を見上げていた。

「そおねぇ。七乃ちゃんがいなくなって、それで終わりじゃあ、私たちが将軍位を受けている理由がないわ。いくらなんでも、不甲斐なさすぎよぅ」

 紀霊将軍(初登場)だった。

 おっぱいの大きなヘビ皮とかがよく似合いそうなおねーさんである。袁術麾下のなかでは、もっとも古くから苦楽を共にしてきていて、袁術と七乃さんとの華雄将軍と同じタイプの脳筋らしい。愛用の三尖刀は、多くの賊たちの首を刎ねてきている。態度には出していないが、もしかしたら、七乃さんが亡くなって、一番辛いのは、彼女かもしれない。

「いつまで、そうしているつもりだ?」

 華雄将軍。
 先ほどから、天幕の外を、落ち着きなく歩き回っている。もう二刻以上、彼女はそうしていた。

 そして──

 袁術軍全体が、黒い澱に沈むなかで、彼女だけが、自らの職務を果たそうとしていた。

「もう、よい」
「──よい、とは?」
「もう、どうでもよい。もう、わらわにはなにもない。七乃がいないなら、わらわが戦う意味などないではないか。首謀者の首など、欲しいものにくれてやればよい。帰りたいものは帰らせればいいのじゃ。わらわは、もう、疲れた。……ひとりにしてたもれ」
「それが、お前の答えか」
「………………七乃、ななのぉ」
 
 聞こえるのは呟きだけだった。

 彼女への返事ではない。
 薄っぺらな天幕ひとつが、今は鉄よりも厚く感じた。袁術は、なにも寄せ付けていない。ほんの数メートルの距離。しかし、今はそれ以上の距離が、袁術と華雄の主従の関係を、遮っていた。
 
「──そうだな、ならば、私ももうお前に言うことはない。ただ、私の願いも、七乃殿と同じだ。お前に仕えたことを、私に誇らせてくれ、とまでは言わない。ただ、私は変わってしまった董卓さまと、お前を天秤にかけて、お前を選んだ。──ただ、それだけを、後悔させないでくれ」
「………………」

 また、返事はない。
 それでも、今の華雄の言葉が、袁術の心にまで届いたのだと信じたかった。

 いまなら、まだ立て直しが可能なはずである。幸いといっていいのか、七乃さんの死体は残っていない。ずっとは無理だとしても、この連合による戦いが終わる間ぐらいは、七乃さんの死を隠せるはず──、という俺の甘い予測は、ブワッ──と、全身を襲う数千もの細い糸のような殺気を受けると同時に、コナゴナに吹き飛んだ。

 ──敵意。

 それを、そうは呼ばない。

 敵意、というのは、数多の動物のなかで、人間だけがもつに至った感情である。

 だから、こちらに近づいてくる一人の人間から放たれているものは、敵意ではなく、ただの純化された──俺たちのいる周りすべてをどす黒く塗りつぶすほどの、捕食者としての殺気だった。

「どうしたの? まるで、お通夜のような雰囲気ね」

 俺の耳に聞こえてきたのは、その場にはまるでそぐわない、空へ抜けるような、快闊とした声音だった。

 浮ついているとすらいっていい。
 自分自身の、膝が震えるような感覚がなければ、ピクニックに行くと言われても信じてしまっただろう。

「──孫策、殿?」
「ええ、あれから丸一日。なんの指示もないから、心配になっちゃって。なにか異変でも起きたんじゃないかって。どうしたの? 七乃ちゃんの姿がないことに、なにか関係があるのかしら?」

 よくも、ぬけぬけと。
 すでに、敵意を隠そうともしていない。

 飢餓に狂った虎のようだった。長い間、檻に閉じ込められた末に、獲物を前に舌なめずりをしている。

「──あいにくと、あるじは体調が優れないみたいなのよぅ。孫策ちゃん、できれば出直してきてくれるかしらぁ」

 紀霊将軍が、一歩前に出た。

「いいえ、なにか用があったわけでもないの。伝言で構わないわ。いいかしら」
「……あら、ご機嫌伺いのハチミツは間に合っているわよぉ」
「戦闘のあとで、丸一日、指示がないから私も困っているのよ。どうかしら、ずいぶんと痛手を受けたみたいだし、このあとの戦は私が引き継ぐというのは」
「────わかった。それでいい」

 趙雲がそう言った。
 その答えで満足したのか、孫策は俺に一瞥もくれずに帰って行った。

 後ろでは、最後まで周瑜がアタマを抱えていた。

 うわぁ。
 なにをしにきたのかまったくわからない。
 彼女の叛意など七乃さんにとっくに捕まれていたにしても、今の時点での恫喝は彼女自身の首を絞めるだけのはずだ。

 今までずっと、袁術の下で耐えてきた孫策にとって、ここでしくじったら元も子もない。今の会見に、意味があるとは思えないが。

 ──周瑜は諫めたはずだ。

 それを振り切っているあたり、孫策個人の問題なのだろう。
 曹操なら、どんなデメリットがあろうと、自分を曲げず、この状況で100パーセント今の孫策と同じことをするだろうが、孫策ってそういうタイプだったか?

「好きになれぬな。あれは。──まるで獣のようだ」
「趙雲。そんなことを言っている場合か? ほぼ、七乃殿の死を確信しているようだったが。どこから漏れたのだ?」
「いや、本人の勘──だろうな、多分」

 蓮華が言っていた。

 ──姉の勘は、決して外れないと。

 孫策、さすが、三国志の主役級だった。いちいち能力がハンパない。俺たちがない知恵を絞って考えつくした偽装を、勘の一言で見破られてはどうしようもない。

 ええと、考えたくないが、読み合いに関しては、曹操を上回るんじゃないのか、もしかして。

「ふぅ」

 こんなときに、皆の気持ちをほぐしてくれる七乃さんは、もういない。

 袁術は、まだひとりで閉じこもっている。

 だから、もし、この世界で、彼女に気持ちを届けられる人間がいるとするならば、たったひとりしかいないはずだった。

 ──華琳なら、袁術に、どんなアクションをとるだろうか?

 俺は、まだ曹操の中で眠り続けている主を思い返して、問いかけてみた。




















 世界が紫を重ねたような顔を見せて、大地のすべてが眠りについている。

 いわゆる草木も眠るような時間。普通なら天幕の中で眠りたいところだったが、敵の本隊が虎牢関にいる以上、夜襲の備えは絶対に必要だった。篝火で辺りを照らし、見回りのみならず、付近の哨戒もしなければならない。
 
 本日は、俺の軍が夜番だった。

 昼によく寝ておいたのだが、警戒すべきことは多い。
 まあ、沙和と真桜と凪と思春と蓮華に任せれば、うまくやってくれるだろう。虎牢関に依らず、外に埋伏を置いているようなケースをはじめ、考えられる想定外については、詠がすべて挙げて説明してある。不意をつかれなければ、そうそう、この警戒を抜けられるものではない。

「おにーさん。まずいことになったかもしれないのですよ」
「ん、程昱。なにかあったのか?」
「曹操さまが、内通者を疑っているようです」

 内通者。

 スパイ。
 裏切り者だった。
 だれかが、こちらの機密情報を、敵に流していると、そう言いたいらしい。

「それは、あまり考えたくないな」
「しかし、確実にいるといっていいはずです。なにしろ、敵に迷いがなさすぎますし。それぞれの軍において、誰がどれだけの力をもっているかを知っていなければ、大将だけをねらい打ちにして首を狩っていくようなことはできないはずです。こちらがわから情報が流れていると仮定すると、それでいろいろなことが説明できます。すくなくとも、将軍レベルの高位にある人間が、意図的に情報を流しているはずだということですねー。私も同感なのですよ。あとは十六諸侯の誰かが裏切っているのか、それとも曹操軍と兗州軍に裏切り者がいるのか、曹操さまは今、洗い出しにかかっている最中なのです」
「裏切り者、か」
「おにーさんも容疑者のうちですよ」
「……うへぇ、公明正大に生きてる俺に、随分な仕打ちだな」
「……疑われても仕方ないと思うのですけど。おにーさんなら、曹操軍と兗州軍、それに孫策の軍と袁術軍と袁紹軍で、それぞれの中心人物と役割がわかっているはず。そのまま、誰を取り除けば効果的か、きちんと理解していますよね」

 程昱の言葉に、俺は真剣に考えた。

「まあ、そうだが。それだけで犯人扱いは無理がないか?」
「いいえ、そうでもないですよ。相手は、ほぼ複数の諸侯の性格から配下の性格まで、完璧につかんでいるみたいですし。それだけの情報をもっている一定以上の地位がある人間、となると、数人まで絞り込めます」

 そうだ。

 袁術軍において、組織のアタマである袁術ではなく、七乃さんを狙うということ自体、袁術軍にそれなりに食い込んでいなければ出せない結論だった。たしかに、そうなれば、俺も容疑者のひとりとして席を埋めることになる。

 ──だれが、やった?

 こちらの策も陣営もすべて筒抜けなのに、相手側のことは、ほとんどなにもわかっていない。というか、俺はずいぶんとやばい立場にあるということだろう。曹操陣営についている程昱が、泳がせる間もなく、俺にそれを忠告してくれている以上、曹操はさすがに俺がそんな馬鹿な真似をしないと、それぐらいはわかってくれているということか。

 しかし、それでもまずい。

 俺は、元、董卓軍の軍師である詠をかくまっている。
 本格的に調べられたら、隠し通すことはできないだろう。胸を張って、潔白だといえないところに、俺の後ろ暗さがある。

 今の時点で、尾行ぐらいはついているかも。
 ならば、なにか疑念をもたれるような行動は慎むべきだ。

「隊長。ちょいと見てもらいたいものがあるんや。こっち来てや」
「ん、なんだ真桜」
「ちょっとウチの軍の編成のことなんやけどなー」
「あ、ああ、すぐに行く」

 俺は程昱との話を打ち切って、外に出た。

 見張りの目を避けて、死角にまわると彼女に、耳打ちされる。
 俺は、眉をひそめた。

「──それは、たしかか?」
「まちがいないわ。隊長。ふたりじゃ足りないし、だれか連れてくるのはどうや?」
「あまり大ごとにするべきじゃないな。なにが飛び出してくるかわからない。思春、そこにいるな?」

 ──ちりんっ。
 呼びかけに答えるように、鈴の音がした。

「前からおもっとったんやけど、思春さんって、どこに潜んどんのやろ?」
「そういうのは考えるだけヤボだと思うぞー。ときたま俺への殺意を感じるあたり、夜道に気をつけるようにと思うけどな」

 俺は、息を殺して、真桜がマークしている兵士達の後をつけていた。
 まだ断定はできないが、これはさっき言っていたスパイと無関係だとは思えない。

 ──三人か。

 一人一殺の計算になる。

 いや、情報を引き出す必要があるので、殺さずに無力化しなければならない。こういうのは陳留の警邏で慣れているし、真桜に関しても、一流ではないにしろ、戦闘力は常人を遙かに凌駕している。

 問題はないだろう。

 気配をできるだけ無に近づける。
 俺たちが目で追っている三人は、この軍に溶け込んでいた。そして、近くにいた少女と話し出す。その会話は、俺の位置からは聞き出すことはできない。

 目立つことは目立つ。
 事実、それを見とがめた周りの兵達に誰何されるが、彼女の顔をみて、警戒を緩めたようだった。

 しばし会話を続けたあとで、三人は元の配置に戻った。

 そして──その三人と会話していたメイド姿の少女の足音を確かめると、彼女の口を塞ぎ、俺はそのまま死角へと引き込んだ。

「──なんのつもり?」

 俺の腕の中で行動の自由を奪われても、彼女は、いつも通り、不敵な表情を崩さなかった。

「なに、大したことじゃない。真桜が、自分が調練している部下の顔を、全員覚えていてな。見慣れないのが三人ぐらいいるって報告してきたから、後をつけたまでだ」
「そこまで気がまわらなかったわ。驚かないのね?」
「いや、驚いているよ。
 ただ、華雄に言われて、見当はついていたからな。はじめは陳宮の策だと思っていたが、華雄の話だと、陳宮にあんな精密で効果的な策は練ることができないらしい。──策ってのいうのは、隠そうとしてのその軍師本人の性格が滲み出るもので、彼女の話だとああいった策は、知る限り、賈文和ひとりしか実現できないということだ」
「へえ、長く隠せるようなものではないと思ってたけど、それでももうちょっとごまかせるとおもってたわ。まあ、手抜きして、この時点で恋(呂布)を失うわけにもいかなかったし、ボクのミスってことでいいわよ」
「で、──詠。なにをしている?」

 俺は、詠の身体を解放した。

 後ろでは真桜が見張っているので、逃げることはできない。
 詠の戦闘能力は、絶無に近いので、噛みつかれることもないだろう。

 後ろでは、ドサッと砂袋が落ちたような音がした。

 思春の仕業だろう。さっき詠と会っていた三人が、地面に投げ出されて、気絶していた。真桜が懐を探ると、封をされた封筒が出てくる。さっき、彼女がこの三人に渡していたものだった。送り先は、当然、董卓陣営だろう。

「……ああ、ほんの少しだけ、誤解と行き違いがあるみたいね」
「──誤解?」
「あんたのことだから、私が月(ゆえ)のために、この軍に死間(殺されることを前提としたスパイ)として潜り込んで、董卓陣営に情報を流していたと思ってるんでしょ?」
「──違うのか?」

 ──公孫賛の軍と、兗州軍と、袁術軍を壊滅させた。

 ある意味、そんなことをできるということが、逆説的に彼女が犯人だということを示している。
 ここでの密会を押さえたこともあり、動機も十二分にある。

 状況のすべてが、彼女が犯人だということを示していた。
 どのような奇蹟を使っても、ここから逆転できる要素など、見つかるはずもない。

「言うべきことは、よっつほどあるけど。
 まずひとつめ。たしかにそうよ。この虎牢関の戦いの絵図は、私が描いたものになるかしら。あえて、もう少し分かりやすく言いましょうか。大将軍七乃は、ボクが殺した。ええ、それで間違いないんじゃない?」
「なぜ──?」

 多分、それは一番否定してほしかったことだった。

 問いに対する返事はない。
 俺の問いに、詠はただ首をすくめただけだった。
 
「そしてふたつめ。私が届けようとした、この三人に今渡した封筒。あんたはこれを董卓陣営への内通文書だと思っているようだけど、それは間違いよ」
「だったら……」
「中身、見てもかまわないわ」
「………………」
「宛て先はたしかに董卓陣営だけれど、そこからさらに陳宮に、別のところに送れと書いてあるわ」

 俺は、無言でその封筒の封を破いた。

 詠の言ったことに、矛盾も、間違いもなかった。
 封筒の中には、たしかにそう書かれた指示書と、そして、もうひとつは、馬超の軍にあてられた、手紙だった。いや、宛先は、韓遂となっている。

 韓遂。
 馬超の父の馬騰と義兄弟の契りを結んだ仲であり、この世界では、馬超の後見人となっているらしい。

 書かれている内容を見る限り、ご機嫌伺いの手紙のようだった。
 差出人の名は、陳宮となっていた。ただ、異様なのは、その手紙は、大事そうなところの文章が、一部、墨で、黒く塗りつぶされていた。

「偽手紙、か」

 史実に、そのまま、馬超と韓遂の仲を引き裂くのに、賈駆がそのまま『偽手紙』という謀略をつかったとされている。

 ──離間を仕掛けるということだろう。

 馬超と韓遂の、ふたりの仲を裂けば、西涼軍の戦力は半減する。
 これにより、史実においては、馬超と韓遂の仲は修復不可能なものになった。

「策は、こうか? 陳宮に任せて、あえて不必要な大人数で、韓遂のところに使者を送る。どんな馬鹿でも、明らかな敵が、腰を低くして韓遂だけを尊重すれば、どうやっても、同盟相手の馬超に疑念を抱かせることができる。止めにこの手紙。
 あからさまに馬超にこの手紙を渡す場面を見せておけば、馬超は韓遂に手紙の内容を見せることを要求する。
 そして、手紙はこのとおり、ところどころ不自然に塗りつぶされた後がある。韓遂は最初から塗りつぶされていたと主張するだろうが、まあ、それを信じるやつはいない。誰でも、自分にとって不都合な内容を塗りつぶしたと解釈するだろう」
「……よく、わかったわね」

 詠が目を剥いていた。
 自分の策を、ここまで完璧に言い当てられるとは思わなかったのだろう。
 俺も、この世界にきてようやく、はじめてマトモに、三国志の知識が役立った気がしていた。

 しかし──その手紙の内容は、疑惑をより深めるものだった。
 信じたい気持ちは強い。
 短い間でも、ずっと一緒に戦ってきた。
 裏切られたなんて思いたくはない。けれど、どう検分しても、詠が裏切っているとしか思えない。

「そして、みっつめ。ボクは、別にあんたを裏切ってはいない。というより、陳宮が勝手に袁術軍を攻めたのよ。北郷一刀と大将軍七乃の仲は陳宮に報告を挙げておいたから、陳宮はそれを逆利用したつもりなんでしょうね。
 結果的に見れば、ボクが大将軍七乃を殺したようにみえるもの」
「だから、それがどうしたんだ?」
 
 それは、あまりに稚拙な言い訳だった。
 そうだ、言い訳にしか思えない。
 自分が悪くないなどと主張されても、その策の犠牲になって、七乃さんは死んでいる。

「ええ、だから、万が一にでも裏切らないように、陳宮としては、ボクの退路を断った、そういうつもりでしょう。保険をかけるあたり、陳宮も侮れないわね。まあ、ボクはたった今、その陳宮の策を逆利用しているわけだけど」
「──逆、利用?」
「ええ、あなたが、今、ここで、大将軍七乃を殺したことを許してくれれば、それだけで陳宮の策は意味をなさなくなる。ええ、とても簡単なことでしょ。まさか、七乃さんを殺したことを、あんたが許すなんて、陳宮は夢にも思っていないだろうし、それを基盤にして、陳宮の裏をかくこともできるわ」
「俺が、そんな取引に応じるとでも思うのか? あれだけの犠牲を出しておいて」
「あれだけ? だから、最小限の犠牲に止めておいたじゃない。『ボクとあんた』の、個人的な私憤で、そうなんの罪もない兵士を殺すのもはばかられたし、将の首をいくつか貰って、軍ごと壊滅させただけで、一般の兵士にはほとんど被害は出ていないはずよ。
 別に、あなたを除け者にしたわけではないし、あなたが信頼していないわけでもない。あんたの心ひとつで、これから何人死ぬかが決まる。私としては、あんたをこれ以上なく高く評価しているのよ。
 ──ここで、激情にかられてボクを殺すようなら、最初からボクだって、こんな策をたてないもの」

 俺は、それで覚悟が決まった。
 詠の、その喉もとに剣を突きつける。

「言いたいことは、それだけか?」
「………………」

 彼女の、冷ややかな瞳が、俺を見つめていた。

 詠は、俺の口を塞ぐのに、これ以上の理屈を積み重ねなかった。

 彼女は、
 これ以上言い訳をするのでもなく、
 命乞いをするのでもなく、

 ──ただ一言だけを呟いた。
 
 そして──

 その後の、たった一言で、俺の喉まで出かかっていた呪詛と、反論のすべてを封殺した。











「──裏切る気?」









「なに──?」

 一瞬、なにを言われているのが、わからなかった。

「そして、これがよっつめだけど、勘違いしているみたいよね。曹操軍にもぐりこむ関係上、表面上はあんたの部下っていうことになっているけど、ボクとあんたの関係は対等なはずよ。あんたとボクが交わした契約は、全力であんたの勢力作りに協力するってことだけだもの。ボクがどんな裏工作をしようが、それがあんたの邪魔にならない限り、ボクの策に口を出せない。そういうものだと、思っているけれど」
「………………」
「ボクは、絶対に妥協なんてしない。どんな手段を使っても、月(ゆえ)を助けてみせる。かつての仲間を裏切ろうと、どんな悪辣な手を使おうと、いざとなったら、どれだけの兵の屍を晒してもよ。大将軍七乃の死ひとつで立ち止まる、あんたとは違うわ」

 ああ──そうだ。

 俺よりは、彼女のほうがずっと、天秤に乗せているものは多い。
 この先に立ちふさがるのは、すべて彼女の、かつての仲間と、その部下だった。悪夢じみている。想像するだけで、全身がふるえた。

「──あんたとボクは共犯関係にある。誰が死のうが、どこの軍が壊滅しようが、どうでもいい。私には、もう、どうでもいいのよ。
 反董卓連合も、張遼の洛陽本隊も、馬超の西涼軍も、呂布の虎牢関防衛軍も、最後には──すべて共倒れにさせるつもりなんだもの」

 凄まじい宣言だった。
 あらゆる諸侯が頭脳と血を振り絞るなかで、彼女だけがただひとり安全な場所から戦局を眺めている。
 詠の策がどれだけ無残に打ち破られようと、彼女にはなんのダメージもない。

「そして、最後に勝ったひとりを、ボクたちで始末する。とても現実的で、一番楽な方法でしょう? だから──」

 ボクに協力するつもりがないのなら、せめて邪魔だけはしないで。

 夜の闇に消えていく彼女の背中に、俺は、なにを言えなかった。










 次話 → 『断金』












[7433] 蓮華、断金の誓いを語り、一刀、詠を泣き落とす、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/10/27 02:29







 夜はさらに更けてきている。

 詠に去り際に言われた通り、三人の間者は解放していた。
 もう、判断の余地はない。ここから曹操の目をごまかすために、なにもなかったことにするしかなかった。覚悟を決めて、この状況のなにもかもを、飲み込むしかない。

 それも、きっと詠の描いた絵図どおりなのだろう。

 なにも、言い返せなかった。
 信頼を預けているつもりが、彼女にとって俺は、行動をカモフラージュするためだけの、便利な隠れ蓑にしかすぎなかったということだろうか。

 実力以上のことをやった、ツケが、まわってきている。思えば、あれだけの軍師を、無利子無担保で使って、反動がないはずもない。

 自分自身が情けなかった。
 ただの道化。魔法が解けているのにも気づかない、裸の王様のようだった。

 ──自問する。
 詠なしでどうやって、これから先の状況を切り抜けていけばいい? いや、こうやって考えることすら馬鹿馬鹿しいまでに、結論は明快だった。

 無理だ。
 どうにもならない。

 北郷隊の舵取りは、ほぼすべて、彼女の言うがままにしてきた。
 前方に呂布、背面に曹操の監視がついていて、詠がいない状況で、今までのように立ち回れるわけがない。

 俺は天幕のなかで、これからのことについて思案しながら、なにをするでもなくゴロゴロと横に転がっていた。なにひとつ解決しない。このままこうやっていると、人間が腐っていくような気がしてくる。

「なにをしているの。あなたは」

 俺の様子をみにきたらしい蓮華が、目を丸くしている。

「──話は、聞いた、か?」
「ええ、詠さんのことでしょう。一通り、事のあらましは理解しているつもりよ。あと、詠さんには監視として、思春をつけているわ。彼女がここから出ていくはずもないし、方法もないだろうけれど、一応念のために」
「あ、ああ」

 蓮華は、黙って俺のすぐそばに腰を下ろした。
 目をつぶって、なにも言わない。そのまま沈黙が横たわって、夜気が肌に染みるようだった。
 そのままの態勢で、茶をたてるぐらいの時間が過ぎてから、彼女はその口を開いた。

「少しだけ、話をしてもいい?」
「ん、ああ」

 きっと、気をつかってくれているのだろう。
 今は誰の顔もまっすぐに見れなそうだが、せっかくの好意だった。ただ聞くだけなら、さして負担にもならない。俺は、なんとかそれだけを答えた。

「とある呉という土地に、英雄を父にもつ少女がいました。その少女には、姉がひとりいます。志半ばで父が亡くなったあとで、その姉は、父の夢を受け継ぐことに決めました」

 孫策と蓮華の話らしい。
 落ち着いた語り口は、心を落ち着かせてくれた。滾々と流れるような話を、俺は口を挟むでもなく聞いていた。
 続けられた話で語られたのは、父の死。すべての終わり。家臣が散り散りになり、それをかき集めて袁術の下で再起を図ったこと。そして──

「姉さまが、人を集め始めて、はじめに集まってきたのは、冥琳だったわ。決して裏切らず、同年同月同日に死ぬと言った姉とその親友を見て、少女はああなりたいと思ったの。そのときの誓いは、脳裏に焼き付いているし、暗誦もできるわ」
「なんて、いうんだ」

 興味が沸いていた。
 ──孫策と周瑜の、断金の誓い。
 鉄をも断つぐらいの固い絆ということらしいが、本物に立ち会った彼女の話は、より立体的で、迫真に迫っていた。

「──ふたり心を同じくすれば、その利きこと金を断つ。同心の言は、その香り蘭のごとし。われらふたり、義姉妹の契りを結び、ここに断金の交わりをもたん。天を父と拝し、地を母と拝す。香を焚き誓いをもうけ、天に順い道を行う。父を輔け、呉の安寧を明月に誓う。神明照覧あれ。われら、同年同月同日に生まれるを願わず、ただ同年同月同日に死すことを願うのみ」

 なめらかに、詠うように、蓮華はそのかつての「誓い」を口にした。

「姉さま(孫策)と、冥琳(周瑜)の、断金の誓い──よ。私は、あのときのことを、よく覚えている。私の原点みたいなもの、といえるかしら。いつか、私もあのふたりのようになれたら、と思って。──まだ、その夢は叶うことはなさそうだけれど」
「そうか。思春は、違うのか?」
「思春は思春よ。そういった目で見たことはないわ。思春はむしろ、股肱というよりは、身につける剣のようなものね」

 あー、どちらかというと、曹操における春蘭みたいなのか。
 たしかに、まったく違うだろう。春蘭がいなくても、曹操は曹操であることを辞めたりはしない。どちらが欠けても成り立たないぐらいのものを、蓮華は求めているか。孫権にとっての軍師といえば、陸遜以外ないのだろうけれど。

「刎頸の友と同じか。たしかに、その場に立ち会いたいとも思うな。そんな人と人との誓い、一生に一度見られればいいほうか」
「ええ、私も、そう思っていたわ。でもね、つい最近、この誓いと同じものを見たの。息が止まるかと思ったわ。姉さまと冥琳のふたりと、同じだけの重さをもった誓い。どちらが欠けても成り立たないような誓いよ」
「なんだそれ。大物なのか?」
「大物よ。少なくとも私だけは、そう信じているもの」

 蓮華の瞳に、慈愛の色が混じっていた。

「まあ、そうだけど。それで、どんなのだ?」
「ええ、こんなのよ。あんたの苦しみは肩代わりできないけど──それでも、横にはボクがいる。どれだけの困難が立ちふさがっても、あんたが往く道はすべてボクが拓いてみせる。あんたには、ひとりの男として、そして、北郷一刀として、あんただけにしかできないことがあるわ。虚名でも、これだけのことができた。ううん、虚構なんて言わせない。ボクは、北郷一刀という虚構を、本物にしてみせる。だから、ボクを信じてくれる限り、あんたが、負けるはずはない──って、ちゃんと、今でも暗誦できるのよ。私は」
「うあ」

 息が止まった。
 ──俺と詠の誓い。
 あれから、まだ二ヶ月もたっていない。
 けれど、今では、なんの意味もない。すべてが壊れてしまっていた。どれだけ他人の気持ちを揺さぶったとしても、もうそれに価値があると思えない。

 すべて間違っていた。
 けれど、手遅れになった今になって、その言葉で胸が痛むのを感じた。それは、なんなのだろう?

「実際、それを聞いて、私はあなたたちについていくことを決めたのよ。私はね。こう思っている。この詠さんの言葉に嘘なんてなかった。あなたたちふたりの関係は、私が羨むぐらいのものよ」
「でも、俺は」
「一刀、ひとつだけ言わせて」

 彼女は、そっと両手で俺の頭を抱え込んだ。







「──あなたは、なにも間違っていない」








 その言葉で。
 ──霧が晴れた。
 蓮華のそのたった一言で、頭の中のすべてが明瞭になるのわかった。
 顕微鏡のピント合わせのように、視界のすべてがクリアになる。

 俺は、顔を上げた。
 そのままで、まっすぐに、蓮華の顔を見つめていた。

「ひとりよがりだなんて言わないで。私から見たら、あなたたちは、私にとって理想の主君と臣下よ。あなたと詠さんを知っている人なら、誰でもそう答えるわ。あなたがするべきことはなに? こうやって腐っていること? 違うでしょう。あなたがやるべきことは、昨日までの自分を続ける事よ。いつものあなたは、こんなつまらないことで倒れたりはしないはず」

 彼女の言葉一つが、土に染みこむように俺の言葉をうった。
 そうだな。
 彼女は、俺を高く見積もりすぎているきらいがあるが、今ぐらいは彼女の望む自分であるべきだ。
 すると、いくつか疑問が出てくる。

「蓮華、なんで、詠はあんなことを言ったんだと思う?」
「その場にいなかった私には、詳しいことはわからないわ。でも、詠さんが、言うべきことでないと判断したのなら、きっとそれが正しいんだと思う。それが、あなたにとって不都合なことであるはずがないでしょう」
「でも、敵への内通だぞ。いくらなんでも、俺に一言だけでもあるべきだろう。俺は、詠に信頼されていないのか?」
「むしろ、逆じゃないかしら。詠さんの前の主は、董卓さんでしょう。その董卓さんの人となりはわからないけれど、彼女に、詠さんは策のすべてを話していたと思う?」
「………………」

 ──ないな。

 断言できる。
 詠の性格だ。なんでもひとりで抱え込もうとするのが、彼女の悪癖だ。董卓ちゃんを汚れさせないために、汚れ仕事をすべて自分で抱え込んで、知らせることすらしなかった。そうに決まっている。董卓ちゃんと詠の関係性を知っていれば、それぐらいは推察できる。

「言われてみれば、あいつらしい行動じゃないか」

 ──なんだ。
 情報はあったじゃないか。
 信頼に胡座をかいていたのは俺の方だ。
 こうなる前に、詠の異変に、俺は気づくことができたはずなのだ。彼女が、董卓ちゃんのために責任を背負い込むことはわかりきっていたことなのだから。

「なぁ、蓮華。あいつは、詠は、俺を利用するだけ利用しただけだったのか。それとも、責任を背負い込んで、俺の分の貧乏くじまで全部抱え込んで、裏切りの汚名も、かつての味方殺しも、董卓ちゃんがやった暴虐の責任も、ぜんぶ抱え込むつもりだったのか。いったい、どっちだと思う?」
「それは──もうわかっているんでしょう?」
「そうだな」

 ──なんて絶望的な不器用さだ。
 あれだけ自在に策を使いこなし、あらゆる軍勢を手玉にとる詠が、実は自分の気持ちひとつコントロールできないなんて。

「そうだな、董卓ちゃんがいないんだから、せめて俺がついててやらないと駄目だな」

 蓮華が言ったことの真意は、すべてここに集約されるのだろう。
 まったく、さっきまでの自分は、なにをやっていたんだ。悲劇の主人公を気取って、彼女に責任のすべてを投げ渡して、あげくの果てにこんなところで蓮華に胸を借りている。

「そういう言い方も、よくないわよ」
「ああ、俺の軍師は、あいつだけだ。それは、絶対に変わらない。思春に頼んでくれ。詠を連れてくるように」
「いいけど、彼女を説得する策なんてあるの?」
「その場のノリとかじゃあ、だめかな?」
「基本としては、それでいいと思うけど、どうせ口で言いくるめられるぐらいなら、こんなのはどう?」
「──あー、もしかして、言われてみればそれしかないのか?」

















「ボクの処分は決まった?」

 彼女の態度は、ふてぶてしいほどだった。
 与えられる死を前にして、彼女の瞳には微塵の怯えも見られない。そこには、諦めも狂気の色もなにもなく、ただ自分の置かれている立場を、冷徹に第三者の立場から見ているひとりの謀略家がいた。それが、どれだけの覚悟から発せられているものなのか、今になってようやく俺にもわかった。

「ああ、言っておくことができた。あの時の誓いは、全部白紙に戻す。董卓ちゃんを助けるのも、共犯者の話も、全部まるごと無しだ」
「え──?」

 なにか言葉を返そうとする詠に、俺はたたみ掛けた。

「詠。頼みがある。今まで、一度も言ったことがなかったけどな、今までの関係すべてを精算して、改めて、俺の部下になってくれ」
「……それはなに? 命を助けてやるから、言うことを聞かそうってこと?」
「いや、今までとなにも変わらないってことだ。俺は詠を利用して、詠は俺を利用する。──いや、それも違うな。とりあえず、最初に董卓ちゃんのために死ぬのをやめてくれ」

 ──部下の顔を全部覚えている真桜なんてイレギュラーさえなければ、彼女は、最後に、自らの命を絶って、情報を流したという汚名もすべて被って、それで終わらせるつもりだったのだろう。

「なんなのさ。それ。ボクになにを求めてるの?」
「ん、率直に言おう。──俺のものになれ」
「なっ──」

 詠の顔が、紅葉のように赤く染まった。

 蓮華曰く、詠さんを口説き落とすには、得意の理屈に持ち込ませないことと、なにを言われても、聞く耳なんて持たず、自分の要求だけを突きつけること、だそうだった。多分、蓮華もこのやりかたで思春を落としたのだろう。

「なに考えてるのあんた。ボクがそんなことを承諾するとでも思う?」
「ふざけんな。この状況でお前を失って、俺にどうしろっていうんだ。スパイ疑惑までかけられてるんだぞ」
「そんなこと? こういうのは第一容疑者になっちゃえば逆に安全よ。あんたに迷惑はかからないわ」

 詠が言いたいのは、よく刑事ドラマでわざと自分を疑わせるようにし向ける犯人とかがいるが、それと根本的には同じ事だろう。

「それが余計なことなんだよ。曹操を裏切っているのは、──俺だ。詠じゃない。そんなところにまで気を遣われるのは、よけいなお世話を通り越して、俺への侮辱に等しいだろ」
「ちょっと、さっきと言ってることが違うわよ。ボクにどうしろっていうのさ」

 さっきまで言っていたことを、一瞬にしてひっくり返す俺に、詠はあとの言葉を紡げないようだった。蓮華によると、この時の言い分は理不尽であればあるほど効果的らしい。このタイプは、理屈立て反論してくるので、それを封じられると弱い。つまりは馬鹿に話は通じない、ということだ。

 ──うむ、詠を正面から論破するのは不可能だが、俺はこういうのだけは得意だ。

「俺を見捨てないでくれぇ。助けてくれよぅ」

 俺はそう言って、詠の腰にすがりつく。
 両腕で彼女にしがみついて、絶対に離さない構えだった。うむ、孔明の庵を訪れた劉備の気持ちがよくわかる。27歳の若造に一団の舵取りを任せようとした劉備は、きっとこれぐらい必死で、かつ、なにも考えていなかったに違いない。

「さっきから、あんたなにがしたいのよ」
「言ってるだろ。いいから俺のものになれ」
「それが、わけわからないって言ってるのっ!!」
「俺のやり方は、わかるはずだ。できるだけ、犠牲を少なくして、この戦いを終わらせる」
「綺麗事ね。できるはずがないわ。月(ゆえ)の救出だって、上手くいくかもわからないのに」
「俺だけなら、な。でも──詠なら、なんとかできるはずだ」
「はぁっ!? 結局、全部ボクに丸投げなわけ?」
「ああ、そうなるな」
「──ちょっと、なにそれ」
「ただし、それさえ守ってくれるなら、なにをしてもいい。全部の責任は俺が負う。俺を囮にしてもいいし、むしろこういうのはもっとやれ」
「ボクに、そんなことは──」
「できる。──できるに決まってる。賈文和という謀略家の実力を、俺ほど評価してるやつは、どこにもいない。だから、このとおりだ。おまえにしか、頼めないんだ。だから、一方的に利用する関係でもなくて、利用しあう関係でもなくて、共犯者でもない。俺が、誰よりも信頼できる、一番の部下になってくれ」
「結局、泣き落とししか、できないの?」

 詠の返事は、相変わらず冷たい。
 が──それでも、俺の気持ちは彼女に届いている。
 詠も、迷っているはずだ。
 さっきから、無意識なのか意識的なのか、彼女は俺への明確な返事を避けている。

「だな。でも、詠を、泣き落とせるのは、俺しかいない。だろ?」
「むぅ」

 腰にすがりつく俺を見下ろして、詠はしばらく考え込んでいるようだった。

「……わかったわよ。やるわよ。やってやるわよもう。ボクの意志も、頭脳もなにもかも、あんたに預けるわ。好きなように使いなさい。──ただし、返品はきかないわよ」
「ああ、もう頼まれても離さないからな」

 詠をぎゅーっと抱きしめる。

「ちょっとどこ触ってるのよ。そこは自重しなさいよ。このヘンタイがっ!!」
















 次回→『賭 博 黙 示 録 レ イ ハ』









[7433] 諸侯会議を開き、賽子に天命に乗せる、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/10/27 02:28











 全諸侯たちを集めての会議は、二度目になる。

 もっとも、一度目とはかなり出席する諸侯の数も減ったし、その様相も目的もかなり様変わりしているが。ただ大ざっぱな方針と、ひとまずの盟主を決めるだけだった一度目の会議と違い、今回の出席者たちは真剣そのものだった。あの袁紹が、うかつな口を開けないぐらいに、事態は切迫している。

「それで、これからの方針ですが──」

 袁紹軍の陣地の中で、全員分の椅子が用意されて、輪を囲むようにして、これからのことを話し合っている。
 
 出席している人々には、強い緊張感が漂っていた。

 出席者は、その諸侯と、配下を三人まで。

 そういうわけで、前回と違い、曹操軍の将軍の代表として、俺が会議に出席することが許されていた。曹操軍からは、曹操本人と、俺と、郭嘉と、秋蘭が参加していた。曹操から事前に言いつけられたことによると、できれば麗羽(袁紹)の相手をしてなさい、とのことだった。

 目立った参加者を見ていくと、まず、盟主である袁紹は当然いるとして、司会進行のちびっこ軍師、こと田豊。あとは袁紹軍の『三枚看板』のうちのふたり。文醜将軍と顔良将軍もいる。

 あとは孫策のところ。
 孫策本人と、周瑜は当然いるとして、あとは、蓮華から教えられた外見の特徴に照らし合わせて、黄蓋。それに程普か。どちらも、孫堅のころから仕えている古参の武将だった。
 
 ──戦力になるのは、ここまでである。

 鮑信ちゃんが討ち取られたせいで、兗州軍は頭のもがれた獣同然だったし、公孫賛軍は、公孫賛本人が首を刎ねられたせいで、主力の白馬陣が丸々使えない。袁術軍は、軍師の役を兼任していた七乃さんが戦死したせいで、士気が壊滅的なレベルまで落ち込んでいる。その他の諸侯たちは、それに怖じ気づいて、会議には一応参加しているが、消極的な発言を繰り返すばかりだった。主に、韓馥と孔由のことである。

 一応、公孫賛軍からは、劉備、張飛、孔明が参加している。
 そして、袁術軍からは華雄、趙雲、紀霊が席に座っていた。

「撤退すべきだ。事実上の兵力の三分の一を失って、戦い続ける意味などなかろう」
「馬鹿な。一方的にやられたままでおめおめと逃げ帰るというのか。いいだろう、戦闘の意志なきものは去れ。我々だけでも戦うぞ」

 先ほどから、意見はふたつに割れていた。
 つまり、進むべきか引くべきか、である。

 先ほどからまったくもって平行線であり、意見は纏まる気配を見せない。袁紹など、明らかにあくびを噛み殺しているような有様だった。それでいいのか盟主。いや、いいわけがないのだが。いいかげん、爆発しそうである。

「では、そろそろ結論を決めましょうか」

 さらりと、そんなことを言い切ったのは、田豊だった。
 幼さが多分に残る顔に、闇夜に光る猫のそれのように、見る者の背筋を凍らせるほどに、瞳に酷薄な光が浮かんでいる。
 
 さて──どうしたものか。
 軍議において、双方の妥協点をさがす、なんて選択肢は最初からない。軍議においては、多数決こそが最も愚かしい選択である。民主主義の最大の弱点のひとつは、戦争時にまともに機能しないということだからだ。

 戦争においては、ある意味での単純さこそが重要になる。だから、この時代においても、軍閥のトップとなっている州牧たちに、ここまでの権限が与えられているし、現代においてもそれは変わらない。
 
 中庸な意見など、なんの意味もない。常識的な意見は、敵に読まれてそれで終わる。歳若いとはいえ、『俺の』詠と同じレベルにある最高クラスの軍師が、そんなことも考慮していないとは思えないが、さて。

「各陣営から、決死隊を募ります。そこの決死隊は、この場所に配置。ここまで呂布を誘い込み、決死隊で呂布を討ち取ります」

 田豊が地図を示した。
 虎牢関から少し離れた平地に、埋伏に最適な場所がある。そこに呂布を討ち取れるだけの少数の精鋭を潜ませる、というのが田豊の策だった。怖じ気づいている諸侯たちも、部下を決死隊に参加させることで、面目を保つことができる。そういうことだろう。なにせ、この戦いの最大の手柄は、董卓ちゃんの首でも何でもなく、呂布の首ひとつ。つまり、それが田豊の出した妥協案だった。

 しかし──

 当然ながら、これ、
 クリアしなければいけない前提条件がいくつかある。

「田豊、といったかしら。まず、この策は敵が虎牢関から出てこないと使えないけれど、それについて、策はあるの?」

 曹操から、当然のつっこみが入った。

「当然ありますよ。呂布側は前回、あまりにも上手く勝ちすぎた。どの道、防衛戦では呂布の騎馬隊がまったく役に立たない以上、近いうちに動きがあるでしょう。もちろん出てこなかったら、捕まえた捕虜を、虎牢関の前に並べて目の前で殺すなり、『煙で燻す』──とか、いろいろ方法もありますし」

 田豊は笑った。
 さらっと──とんでもないことを言うな、このちびっこは。
 捕虜を処刑する、はわかるが、煙で燻すとはどういうことだろうか。

 まず、前提として──

 虎牢関は、要塞ではない。

 高さ二十メートルほどの、狭道を塞ぐ、横にだだっ広い(二キロぐらいか?)一枚の分厚い壁である。まあ、要塞ではなく関所なんだから当然なのだが。
 煙で燻しても、大した効果が見込めるとは思えないのだが、その口調からして、俺の想像を絶するぐらいのえげつない策であることぐらいはわかった。

「ふむ、敵はあくまで、虎牢関を守っているのだ。その利を捨てて出てくる以上、このあたりの地形は我々より遙かに周到に調べ尽くしているであろう。みすみす、こんなところに誘い込まれるとは思えぬな」

 次、周瑜である。
 さすが、呉最強軍師、現状認識に誤りがない。
 
「ええ、だから、袁紹軍と曹操軍と孫策軍で、包囲をかけた上で、ここまで押し込みます。つまり、こういうことになりますね──」

 田豊は碁石を取り出すと、白を味方、黒を敵と見立てて、説明をはじめた。俺は、懐疑的だった面々が、あっという間に説得されていく一部始終をみていた。

 説明自体は単純にすぎた。あまりのわかりやすさに、感嘆のため息が出たほどだった。おそらく、主の袁紹に策を理解してもらうために、磨きぬかれた説明スキルなのだろう。袁紹軍の軍師としての苦労が忍ばれるところである。

「しかし、この策は、一度は呂布の正面突破を受け止める必要性があるわ。そこが勝敗の分かれ目かしら。その役は我々でなくともいいんじゃないの?」

 孫策が言った。
 持ち前の勘が、最初の激突で、多大な死者が出ると告げているのだろう。

「いいえ、同数で同数の兵力を拘束できることが、この策の前提です。一番兵力のある袁紹軍が、その役にまわるわけにはいかないでしょう。作戦の都合上──」
「私と、曹操軍のどちらかが捨て石になれ、と?」
「そこまでは言っていませんが、普通に全兵力で殴りかかるよりは遙かに少ない犠牲で勝敗が決するはずです」
「そこは、袁紹軍が押さえに回って、曹操軍と孫策軍が共同で代わりをやれば解決できる問題なんじゃないかしら」
「待て、孫策どの。随分と勝手な言いぐさではないか。立場を弁えて欲しいものだな。呂布の正面突破を受けたとはいえ、袁術軍はまだ壊滅したわけではない。私たちにも参加する権利はあろうっ!!」

 これまで、一度も発言のなかった、袁術軍から華雄が口を挟んできていた。

「あら、そうなの? 主君である袁術ちゃんがいないし、もう逃げ帰りたいのかと思っていたわ。それで、袁術ちゃんと七乃ちゃんは、どうしたの。姿ぐらい見せてくれてもいいんじゃない?」
「いま、全力で立て直している最中だ。なにも心配することはない」
「──ふぅん。立て直せるとも思えないけれど。もう一度呂布の正面突破を受けきれるのかしら」
「それは──」
「ああ、うるさいですわね。田豊なんとかなさいな」

 あ、袁紹が投げっぱなした。退屈かつ、まったく進まない話の流れに、限界がきたらしい。これを平然な顔で捌いている田豊も、なにげにすごい。袁紹軍においては、日常の風景なのだろうが。
 
「意見はまとまりそうにないですね。では、神占に頼る、というのはどうでしょう。少なくとも公平ではありますし。『これ』の勝者に、参加する軍を決めてもらいましょう」
「神占とは? まさか、占いで決めるなどと言い出さぬだろうな?」
「そのまさかですよ。ただし、決めるのは人ではなく、賽子で、です。一番大きい目を出したものの意見に従う、それでいいでしょう」
「ふん、望むところだ」

 華雄が、一番に参加を表明した。

「賽子(サイコロ)の出目で決めるというわけね。いいんじゃない? それで──麗羽も参加するのかしら」
「……おーっほっほっほっ。華琳さん、わたくしに勝負を挑むなど、いつからそんな身の程知らずになりましたの? コテンパンのギッタギッタにしてあげますわ」
「私の道は天命が知るのみ、私に全部、札を張りましょうか」
「──そうね。賛成よ。ただし、ひとつだけ、条件をつけさせてもらえる?」

 目を瞑っていた孫策が、口を開いた。
 すでに、勝負ははじまっているということだろう。この、事前の仕込みで、勝負がひっくりかえることも、充分にありうる。

「そちらの人たちにも、参加願えないかしら。もちろん、賭けは抜きで。私たちの勝敗には関係しないけれど。ある程度の人数がいたほうが、私としても場の流れが読みやすいわ」

 指定したのは、文醜将軍と顔良将軍と、郭嘉と俺だった。まいった。無関係でいたかったのだが。孫策としては、サンプルが多いほうが、勘の精度も上がるということだろう。とりたてて断る理由などないが、さて。

「あたいはやるぜ。なにせ頼まれなくても参加するつもりだったからなぁ」
「文ちゃん。そこ威張るところじゃないよ」
「私はかまいませんが。もちろん、華琳さまのお許しがあってのことですが」
「……ああ、わかった。いいだろ」

 他の三人が乗り気のようだったし、断るのも場を乱すだけのようだった。俺たちは勝敗に無関係だというが、仮に俺がトップをとれたなら、ある一定までの発言力はもてるはずだ。

 ──やるしかない。

「で、種目は?」
「これできめましょう」

 田豊は、賽子を四つ掌に載せていた。
 ああ、そういえば中国のサイコロは、一ではなく、四の点が赤く塗られているのだ。そこから続けた田豊の話を鵜呑みにするのなら、この時代、賽子とは賭博の道具ではない。『偶然』という神の降りる現象を、支配するための宝具そのものである、とのことだった。

「チンチロリンなら、賽子が三つのはずね。四つ出したということは、牌九かしら」
「そうです」
「──どんなルールなんだ?」
「簡単ですよ。賽子を四つ転がして、出た目の数が一番多い者が勝ちです。ただし、出た目の十の位は切り捨てられます。出目の合計の一の位だけで争う以上、牌九の名の通り、九と十九が最強となり、一〇と二〇が最低の役となります。数の合計が十を超えたらそこから十を引き、二十を越えたら、二十を引くと考えるとわかりやすいでしょう」
「──役は?」
「いくつかあります。すべての賽子がゾロ目なら、それで役ができます。あとは例外として、ゼロ点の場合でも、例外としてどんな数よりも強くなる組み合わせ。それに最強の役がひとつです」
「わかった」

 ──よかった。
 勝敗は、出目の合計数で争われる。
 聞く限り、麻雀のように、技術と経験を競うような複雑なものではないらしい。
 技術と、イレギュラー性を完全に排した、その通り、賽子を振るうものの運だけを証明するもの、ということか。

 勝つか負けるかで、天国か地獄かが決まる。なにせ、負けたものが呂布の正面突撃を受け止めなければならない。勝ったものがおいしいところを総取りできるが、それ以上に、負けた陣営が、第二の袁術軍のような被害を被りかねない。

「はじめに、行かせていただくわ」

 曹操が、四つの賽子を握りこんだ。
 回転して、用意されたテーブルに落ちた賽子の目が、すべて真上を向いた。五、六、三、三 合計で十七点。いや、十の位を計上しないから、『七』点。

「まあ、こんなものね」
「すげえなあ。おい」

 九点が最高だから、七点は三番目にいい目だ。
 敵は、孫策と華雄と袁紹だけだ。引き分けも加味するなら、もう、七割以上負けない。安心はできないが、このまま勝ち逃げも、充分に考えられる。後で振る人間に、充分にプレッシャーをかけられる得点である。

「もちろん、次はあたいが行くぜー。おりゃああああああっっっ」

 文醜将軍が、無駄な叫び声をあげながら、賽子を四つ投げた。それぞれの賽子は、ひとしきりテーブルを跳ね回った後で、ピタリと動きを止めた。上の面が晒される。四、二、三、一だった。合わせて、十になる。一の位はゼロだから、ゼロ点。

「──昞十(へいじゅう)ね。はじめて見たわ。こんなの」

 ──最低点だった。

 一の位がゼロになる最低の出目を、昞十と呼ぶそうだった。ぎゃあああああああああああっっと頭をかかえて悲鳴を上げる文醜将軍を、他人ごとのように見ながら思う。

「次は誰だ? まさか、最低点は二度続けては出ないだろうけど」

 これはこれで、厄落としとしては最適なのかもしれない。まさか、この人数でふたりも最低点が被るようなことはないだろう。すると、場の流れからして、ここで──孫策が出るか、と思ったが、彼女にはまだなんの動きもなかった。

「ちきしょーっ!! こうなったら、斗詩ぃ。かたきを取ってくれよう。麗羽さまから書物を貰って、知力が2上がったんだろ? さあ、行けっ、あたいの嫁っ。知力36っ!!」
「う、うんっ。文ちゃん。そうやって、しがみつかれたらサイコロが振れないよぅ。えいっ」

 顔良将軍が、てのひらからただ落とすように、ころころと賽子を転がしていた。出目は、五、一、三、五、出目の合計は十四。すると点数は、『四』点ということになる。普通より少し悪いぐらいだった。

「じゃあ、次は俺で」

 汗ばむ手で、サイコロを握りしめた。
 柄にもなく緊張する。出た出目の数で、なにかが変わるというわけではない。最高の役を出せば、少しばかり発言権が上がるというだけのことだ。それでも、これだけの諸侯の耳目を、一身に集めるというのは心臓に悪い。
 サイコロをテーブルの上に放り込むと、四つのサイコロが気まぐれによく跳ねた。出目の合計数が明らかになる。二、五、三、三、すると合計は十三点。よって、点数は『三』点だった。

 あたりから、ため息が漏れる。田豊が、得点ボードに点数を書いていた。

「アニキー。信じてたのに、あたいのかたきを取ってくれるんじゃなかったのかよー」

 文醜将軍が、なにか言っているが、無視だ。
 あー、しかし、微妙すぎる。うむ、俺に博打の才能はないな。運に頼らない方法で、勝てる手段を考えよう。──後で、真桜に六しか出ないサイコロとか作れないか聞いてみようか。

「では、次は私だ」

 華雄将軍だった。
 今までのは、所詮前座にすぎない。このギャンブルは、ここからが本番だった。
 曹操は、出目の『七』を出している。つまり、彼女は自分の意見を通すためには、必ずそれ以上の役を出さなければならない。

 運命の一投。
 ──小さな賽子の出目で、運命は決まる。
 投げられた賽が動かなくなって、上を向いた賽子の出目を数える。そこにいる誰も彼もが、口を開かず、瞬きを多くして、数え間違いがないかを何度も確かめていた。肌に刺さるほどの沈黙だった。四、五、五、四、合計、十八点。

 ──得点は、『八』点。
 まず、はじめに、『七』点の曹操が脱落した。

「さあ──孫策どの。賽子を振ってもらおうか。それで、この会議は終わる」

 華雄は、使い終わった賽子を、孫策の目の前に滑らせた。ピリピリとした雰囲気が、華雄と孫策の間を通り抜けている。すでに、九割がた勝負はついてしまっている。孫策は、『九』を出す以外、勝つ手段はない。ここで、十分の一の確率を引き当てられるのか、英雄としての資質を試されるところだった。

 しかし──

 ここで、最後に孫策が逆転する、なんて──本当にそんなことができるのか?
 ここまで積み上げたものを、一度で崩すだけの強運などありえない。この場での奇蹟は、曹操と華雄が使い果たしたような気さえする。

 ──だったら、できることは、イカサマか。

 俺たちを引き込んだのも、注意を分散させて、賽子あたりをすり替えるための時間稼ぎとすれば、納得もいく。このゲームはシンプルである。ポーカーやバカラのように、読み合いや舞台装置のようなものを必要としない。だから、イカサマを仕掛ける方法は限られると思う。そのはずだ。衆目を欺ける方法は、考えるまでもなく、ひとつしかない。

 どこかで、賽子をすり替える。

 それだけ──だった。
 ──これだけ単純なギャンブルに対し、他にイカサマを仕込む余地はないだろう。カイジで出てきた四五六賽か、もしくは──

「いいえ、まだ──遠慮するわ。そこの曹操軍の軍師さんが残っているわよ。私は、最後の最後で構わないわ」
「は、はぁ──それでは私が次に振らせていただきます」

 こんな重い空気の中で、話を振られて、郭嘉は狼狽しているようだった。出目にも、その彼女の感情を写し取ったようだった。一、三、一、六、合計が十一。得点は『一』。その注目が机上に集まる中で、俺はただ──孫策の挙動を見ていた。

 だめだ。
 ──なんの、異常も見つけられない。

 田豊が出目を記録したのを見届けてから、孫策の日焼けした、たおやかな細い指が、四つの賽子を拾い上げた。

「私は勘が鋭くて、ね。場の流れが読めるのよ。『いつ』投げれば、最善の結果を出せるのか。この順番、この時に、私に賽を持たせた時点で、あなたの負けよ──」

 孫策の指から、賽子が離れた。
 賽子が放物線を描くなか、賽子の軌道が、一瞬だけ、わずかに『ブレ』た──そんな気がした。唾を飲み込む。

 ──間違いない。
 この自信。
 すでに、賽子はすり替えられている。原理はわからないが、賽子が投げられた以上、もう止めることはできない。俺は呆けたように、その結果を受け止めるしかなかった。

 跳ねる賽子の目は、二、五、六、六、合計は十九。
 得点は、『九』。この牌九での、最高数だった。目の前の結果は、おそらく偶然が介入する余地などなく、神がかった技術によるものなのだろう。四つの賽子の目を、自分の望むように出すということが、どれだけ困難か、俺には想像すらできないが。

「あら、じゃあ──最後は私の番ですのね」
「袁紹殿。少し待ってくれ。その賽子を、改めさせてもらう」
「あら、趙雲さんでしたかしら。なにか気になることでもありますの?」
「……その賽子が、途中ですり替えられた可能性がある」

 さっき──ほんの一瞬だけ、孫策の投げた賽子の軌道がぶれた。俺が気づくぐらいだから、他に気づいた人間がいてもおかしくはない。趙雲は、その賽子をひとつ持ち上げた。

「外見に問題はない。……重心に狂いもない。鉛が入っているわけ、ではない?」
「あら、問題ないようね」
「いや、しかし──そうだ。袁紹殿。この賽子を──」
「まさか──神占の宝具を割って確かめるわけにもいかないでしょう。董卓軍との戦闘中に、天に唾を吐くような真似はできないわ。袁紹さんも、同意見だと思うけど」
「たしかにそうですわね。縁起が悪いですわ」
「なっ──!?」

 袁紹が孫策の意見に、頷く。
 なお、この時代の戦争においては、神経質なほどに縁起をかつぐ習慣があった。軍の出立も、吉日を選んでやっていたせいで、この時代までロクに戦法が発達しなかった、らしい。これは、この世界に来てから仕入れた知識なのだが。

「貴様、まさかここまで計算して──」
「生憎と、なんのことだがわからないわ」
「あなたたち、さっきからなんの話をしていますの?」

 あー、袁紹はもうこの会話の裏側に、まったく気づいていなかった。
 どんどん空気が悪くなっていく。っていうかこれ、俺の詠が好きそうな策だった。卵を割らなければ中身がわからないように、中身がなにかあるとわかっていても、割ることができなければ、イカサマを証明できない。

「──もう、めんどくさいですわね」

 最後に、袁紹が無造作に、賽子を投げた。
 コロコロと転がった賽子が、四つとも机上で止まる。

「お二人が、なにを揉めているのかわかりませんけど、私の勝ちなのですから、それで問題ないでしょうに」

 自信がありすぎて、確信にまで昇華されている。

 賽子の目は、一、二、二、四。
 ──出目の合計は、『九』点。

「──至尊宝」

 呆然とした、曹操の呟きが、いやに耳に残った。
 全員の目線が、机上に釘付けになった。

「えっと、曹操? ただの九点じゃないのか、これ?」
「いいえ。これは牌九における最高の役よ。一、二、二、四の組み合わせの九点はあらゆる宝子(役)のなかで、最強よ。相変わらず、麗羽。常軌を逸した豪運ね」

 すげえ。
 一撃で決めた。
 小細工を擁したわけでもなく、ただ運だけで役を引き寄せた。






「──親の総取り。これで、終わりですわ」



 そうして、いくつかのわだかまりを粉砕して、結局、最初の田豊の予定通りになった。つまり、曹操軍と孫策軍は、正面から呂布を受け止めなければならない。



















[7433] 田豊、斜線陣を敷き、袁紹、呂布を封殺する、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2009/11/13 22:18






「……ちんきゅ、あんなの見たことない。どう思う?」
「うむぅ。あんなヘンテコな陣形。見たことがないのです」

 三国最強の武将が、虎牢関の外壁の上で風に吹かれていた。

 呂布は、遙か眼下の風景を見ていた。

 彼女は、ろくに補修もされていない古びた石の壁に、背中を預けている。この建物は、守るべき立場からすれば、これほど頼もしいものもなかった。毅然として、そこに立っていた。なにせ、この虎牢関と、すでに落ちた汜水関は、前漢や春秋戦国を通り越して、800年前の、殷の時代から存在している。

 そのため、ずいぶんと、あちこちガタがきている。

 かなり補修が入って、何度か立て直されてはいるが、手つかずの場所も多い。しかし、その防衛力は異常だった。虎牢関は要塞ではなく、狭い道を塞ぐ分厚い一枚の壁であり、突破するには三つある鋼鉄の扉の、どれかを破らなければならない。

 ──そして、その眼下。
 見えるのは、反董卓連合だった。
 そこから見える大将旗は、みっつ。

 『袁』、『曹』『孫』であり、それぞれが左翼、中央、右翼を担当している。総兵力は八万近くになるだろう。
 だが。
 頭上から睥睨して見れば、その陣形の異質さがよくわかる。

 ──袁紹軍の左翼が四万。
 ──曹操軍の中央が二万。
 ──孫策軍の右翼が二万。

 左翼に人数が随分と偏っていた。

 まるで素人が組んだような陣形だった。
 なにかを誘っているようにも見えない。ただその左翼は正面に進むことだけを考えているようで、異常にバランスが悪い。意識も規律も文化もまったく異なる三つの混成軍をまとめ上げるなど、孫子でさえできないだろうから、当然だと陳宮は考えていた。

「馬鹿にされたものなのです。人数があれだけ違って、同じように攻めかけられるはずがない。恋どのが、あれだけ叩いたというのに、まだこりてないのですか」
「──あれが、正真正銘、最後の攻撃だと思う」
「当然なのです。あれを打ち破れば、あちらに次の札はない。ねねたちの勝ちなのです」

 呂布と陳宮は、そう結論づけた。
 そして、それはまったくもって正鵠を突いている。
 だからこそ、あの三軍は窮鼠となって、全力で立ち向かってくるだろう。

「隊長。軍師どの。出撃の準備、完了しました」
「……うん。高順。ごくろうさま」
「いえ、当然のことです///」

 ──高順。
 呂布が率いるこの虎牢関防衛軍、総司令官補佐、兼、呂布隊の副隊長だった。
 着込んだ鎧がよく似合う、手足がすらりと長い、長身の女性だった。一度戦場に立てばいささかの揺らぐことのない氷のような美貌。
 それが、呂布を前にして、とろ火で炙られたように溶けて、てれてれとしていた。

「それであの、洛陽から派遣されてきた軍監さまが、挨拶したいらしいです。追い返しますか♭」

 高順が、びしっと右手の親指を立てていた。

「……会う。呼んできて」
「その必要はないわよ。もう来ちゃったから」
「──なんの用?」
「呂布ちゃんてば、睨まないでよこわいこわい。こちらもお仕事として、董卓さまからの命令を伝えにきたのよ」

 呂布は、目の前のこの女を、まったく信用していなかった。
 この女がきてから、自分の主は変わってしまった。この女や得体の知れない怪しいものたちを傍において、昔からの家臣は、誰一人近づけなくなった。

 陳寿。
 天の御遣いと呼ばれているらしい。

 乱世に現れて、仕えるべき主を見定め、この乱れた世界を正しい方向に導く存在だと言い伝えにはある。しかし──呂布としては、むしろ、彼女が自分の前に現れてから、すべてが狂い始めたような気がしていた。

「……月は、なんて?」
「洛陽がごたごたしてるから、一週間以内に蹴りをつけてきなさい──だ、そうよ。洛陽の本隊が、馬超と韓遂の西涼軍と、小競り合いをはじめたわ。本格的な激突も、近いでしょうね」
「……本気なのですか? たやすく勝てる相手ではないのですよ」
「私に言われても知らないわ。一度勝てたんだから、二度目も勝てるでしょう?」
「……本当に、それ、月の命令?」
「疑り深いわねえ呂布ちゃんは。それなら、はやく下にいる連中を片づけてきたらどう? 恐れ多くも董卓さまに反抗する愚かな連中を追い払って、洛陽に凱旋すればいいわ。そうしたら、董卓さま直々に、お褒めの言葉をかけてくれるそうよ。よかったわねー」
「………………」

 呂布は、陳寿に背を向けた。
 もう話すことはなにもないということだろう。
 あとは、彼女のほかには、外壁で見張りをしている数人の兵士達だけが残される。

「……嫌われたものね。まあ、しょうがないけど」

 陳寿は肩をすくめた。

「ねえ、干吉ちゃん。中間管理職は辛いところよねぇ」

 陳寿はふりかえると、いつの間にか傍に寄り添っていた白の方衣姿の男に同意を求めた。

「……それは、意見を差し控えさせていただきます」
「あら、正直ね。まあいいわ。それにしても──」

 陳寿は、虎牢関の外壁の上から、布陣している反董卓連合の三軍を見渡した。

 いびつな陣形。
 およそ戦理に沿っているとは考えられない。

 普通の軍ならあれでも通用するだろうが、相手は呂布である。かすかな緩みすら致命傷となりかねない相手なのに、あのような陣形でまともに戦えるはずもない。あのままだと、袁紹軍のほとんどが遊軍と化すだろう。まあ、まともな軍師ならそう考えるわね、と陳寿は心の中でほくそ笑んだ。

「──斜線陣。えげつない陣形をつかうものねぇ。古代ローマで発明された、最強の陣形だけど、思わぬところに遣い手がいるものだわ」
「あのふぞろいな陣形は、斜線陣というのですか。どのような陣形なのです?」
「一言で言うのなら、極限まで無駄をそぎ落とした、お手本のような包囲陣形、かしらね。──強いわよ。古代の戦争における、それからの戦闘を劇的に変えたとされる三大発明ってのがあるんだけど。
 ひとつは、鐙(あぶみ)。馬に乗ったときに騎手の身体を支えるためのものね。馬上でふんばれることによって、騎兵の戦闘力は格段に上がったとされているわ。ふたつめは、長弓。射程距離が数百メートルと言われているみたいね。相手の届かないところから一方的に攻撃できることの利点は言うまでもないでしょう。織田信長の鉄砲隊ぐらい無双ができたんじゃないかしら。
 ──そして、三つ目があの、斜線陣よ。メインで攻撃する部隊が、ああやって倍の兵力で押し包む陣形なんだけど、まあ見ていればわかるわ」

 くすくすくす、と陳寿は上機嫌に笑った。
 これから始まる地獄絵図に、幼子のように胸をときめかせている。

「──そこまでわかっているのなら、教えて差し上げればよかったのでは? 知らぬままぶつかったら、いくら呂布といえど、負けるかもしれませんよ?」

 干吉は、喉に手をあてて、考えていた。

「美学がないわね。干吉ちゃんは。私たちは歴史の傍観者。あまり介入すべきではないわ。こういうのは、こっそりとドミノ倒しのように、最小の介入で最大の効果を出すから面白いんじゃない。それに、せっかくいろいろ仕掛けを用意したんだもの。──せめて、一刀くんと曹操さまご一行には、最終ステージの洛陽までたどり着いて貰わないと、お話が盛り上がらないでしょう?」

 彼女は、にたぁ──と笑った。
 げらげらげら、と陳寿の顔が粘土でこねたように歪に崩れている。彼女の笑う様は、人間の顔面の可動域の、限界に挑戦するかのようだった。

「くすくすくすくす、あはははははははははは。いけない。楽しくなってきたわ。そういうわけで、すごくすごく残念だけれど、呂布ちゃんには──ここで死んでもらいましょう。ああ──楽しみだわ。いったい、呂布を討ち取るのに、どれだけの血が流れるかしら。土に還りゆく英雄達の返り血と悲鳴を肴にして、我々はここで見物といきましょうか」
 











 虎牢関の門から出て、布陣した呂布の騎兵隊が、推行陣を敷いている。

 後退も小細工もなく、ただ敵をまっすぐ、『貫く』ためだけの陣形である。思わず、喉が鳴ってしまう。生半可な陣営を組んだが最後、そんなもの紙細工のように突破されるだろう。

 呂布の突撃を、真っ向から受け止める自信は、どこにもないし、どれだけの死線を越えても得ることはできなさそうだった。

 けれど──できるできないは別にして、やらなければならない。
 突撃を受け止めるのも、先鋒としての、北郷隊の仕事のうちだった。それは、先鋒を承ったときから決まっている。相手が呂布だからとはいえ、今さら、できませんなどと言えるわけがない。

 決死隊のメンバーは、すでに所定の場所に、潜んでいる。
 決死隊というと使い捨てのように聞こえるが、ほぼこの反董卓連合のベストメンバーが集まっていた。決死隊のメンバーだが、200名ほどで、その中で名のある武将だけをピックアップすると、こんな感じになる。

 まず、公孫賛軍から、劉備と張飛と関羽。孔融のところから、太史慈と黄忠、あと武安国。袁術軍から、華雄、趙雲、紀霊。あと八大神将。

 蜀の五虎将(関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠)が四人まで揃っているのだから、おそらくはこれでなんとかなるだろう。袁紹軍と曹操軍と孫策軍の将がひとりも割けない状況で、これだけの将をかき集めたのだ。これで満足するしかない。

 今現在、真桜の隊が全力で陣地を作成している。
 どんな強力な突撃でも、抜かれたら最後だ。こちらは必ず、受け止めなければならない。突っ込んでくるのは、孫策のところか、俺のところか、春蘭のところか、まあ三分の一だろう。いや、裏をかいて厚みのある袁紹軍に突撃していく可能性もある。すると、確率は四分の一。

 ──いや、必ずこちらに来る、そう考えるぐらいで丁度いい。
 前回は、睨み合いだけで、直接戦闘まではいかなかった。
 事実、これが、北郷軍の初陣になる。
 田豊の作戦に従うなら、ただ耐えるだけでいい。
 あとは、呂布の突撃を受け止めることがどれだけ困難か、その難問に挑戦することだけだ。

 呂布の騎兵隊は目減りしている。前回のように、敵陣営の情報が流れているわけでもないこの状況で、騎兵隊が突っ込んでくることはない。

 まずは歩兵と歩兵の激突になる。
 そして──田豊の策が噛み合えば、その小競り合いだけで勝負は決するはずだった。半分以上、呂布の騎馬隊が出てくるまえに勝敗が決せられる。

 双方の大将が檄を飛ばしている。
 陣太鼓の音が、前進を告げていた。
 ひとつ、こちらもそれに倣うとしよう。俺は沙和に伝言を頼む。これより行われるのは、北郷隊最強である沙和鬼軍曹による、最終突撃命令だった。

「これよりきさまらは貴様らは一人前の戦士になるのー。泣き言を漏らすな、クソをもらせっ!! きさまらは、北郷隊を愛しているかーっ!!」
「給料分ッ!!
 給料分ッ!!
 給料分ッ!!」
「よしっ。ブタどもいい返事だっ!! 命を賭け、誇りを賭けろっ!! 貴様らはクソなのっ。けど、仲間を見捨てるやつはクソ以下の固形物なのー!! 勇気をもって敵にあたれっ!! 総員奮闘せよっ。がんばれば、きまぐれな女神が、ケツに奇蹟をつっこんでくれるのーっ!! 私はむずかしいことは一切言わないのっ。ただ、自分の場所を死守しろっ。ほんの一刻だけ、この場所を動かなければ、私たちの勝ちなのー!! 総員、戦闘準備ッ!!」
「おおおおおおおおおおおっっっ!!」

 砂煙をあげて、双方が激突する。

 歩兵と歩兵が噛み合う。
 ──リミットは、三〇分。
 それだけでいい。それだけ耐えきれば、こちらの勝ちだ。

 田豊の策は、しごく明快だった。






    ●●● ●●● ●●●
    ●●● ●●● ●●●
     ↓   ↓   ↓

     ↑   ↑   ↑
    ○○○ ○○○ ○○○
    ○○○ ○○○ ○○○
    ○○○
    ○○○




 味方を白、虎牢関の防衛軍を黒とする。
 左の白が袁紹軍、
 真ん中の白が曹操軍。
 右の白が孫策軍と考えていい。

 左翼だけを厚くし、中央と右翼は同数の兵力を拘束する。









      \ガガガガガッ/
   ○●●● ●●● ●●●
   ○●●● ●●● ●●●
   ○○○○ ○○○ ○○○
   ○○○○ ○○○ ○○○
   ○○






 そうしたら、相手を同数の兵力で足止め。
 左翼は、余った兵力で左から回り込む。










     ○○
    ○○●●●●●● ●●●
    ○○●●●●●● ●●●
     ○○○○○○○○○○
      ○○○○○ ○○○




 相手を拘束したまま、左から回り込んだ兵力で、相手をひたすら圧力をかけて押し込む。こうなったら、もう黒に生きる目はない。この状況に持ち込めば、すでに相手の軍は崩壊しているはずだ。

 理想的な、包囲陣形である。

 遣い手の田豊の話によると、
 ──これを、斜線陣というらしい。

 そして──もう負けはない。
 左から高速で、文醜将軍と顔良将軍の騎兵隊が、横から敵に突っ込んでいった。すでに、八割以上、包囲は完成している。俺は、悲鳴を上げて、臓物をまき散らし、なぎ倒されるように命を狩られていく敵の兵士たちを見ていた。多方向から攻撃を受けて、すでに敵はもう戦意を維持できないようだった。一方的な蹂躙がはじまり、すでに一部では追撃戦に移行しているところもある。

 呂布の騎兵隊は、すでに包囲網のなかに閉じこめられている。
 こちらの恐れていたことは、呂布に戦場を自在に駆け回られることだった。だから、いまはもう、騎兵の長所を、これで完全に封じたかたちになる。おそらくは、この包囲網から、槍を突くように研ぎ澄まし、一部分を裂くようにして、呂布の突撃がある。しかし、それも、こちらがコントロールしている状況の範囲内だった。

 俺の隊の損害は、きわめて軽微。
 ──死人、怪我人をゼロとまではいかなかったが、予想よりはずっと少ない。けれどいくら少ないといえど、自分の部下を死なせることの痛みに、人数の多寡など関係あるはずがないのだ。

「袁紹軍だが、今まで未知数だと思っていたが、すさまじく強いな」

 ほぼ、予知に近いほどの袁紹の豪運と、俺の詠に匹敵する田豊の神算鬼謀が揃っているのだ。弱いはずがない。まるで無駄のない動きをしている、大陸でも屈指の軍隊であるはずの、曹操軍と孫策軍が霞むほどだった。

 華琳のどうしようもない指揮(華琳の指揮11 曹操は87)を見ているので、その姉のも、あまり大差がないのだと思いこんでいたが、呂布軍を片手でひねるように叩き潰したことで、その認識を大幅にあらためる必要があるようだ。

 少なくとも、敵にまわして、勝てる気がしない。
 さらに、戦略はおそらくすべて袁紹の運で構成されているために、俺の詠の知略が通じるとも思えない。あれ、もしかして、無敵じゃね。

「おにーさん。呂布の騎馬隊が、動き始めたそうなのですよ」
「ついに、か」

 表向きの軍師である程昱に、そう報告をうけた。
 全身が、緊張でひきつるようだった。あれだけは別格だ。
 すでに虎牢関防衛軍の負けは動かないが、呂布の働きによっては、無理やり引き分けぐらいにはもちこまれる可能性もある。

 どこか、包囲を破れる場所を探しているのだろう。

 黒備えの、大陸最強の騎兵隊。
 どこに──くる?
 















「退屈ですわね。まるで、手応えがないですわよ。これ、わざわざ私が出てくるまでもなかったのではなくて?」

 袁紹は馬上で頬杖をついていた。
 愛用の華琳さま人形を抱きしめながら、刻々と変化する戦場を俯瞰している。

「……まさか。麗羽さまがいるからこそ、兵士たちは皆、命の続く限り戦おうとするのです。常勝将軍などというのは、いないとそれだけで兵士たちの士気が落ちるのですから」
「おーっほっほっほっ。当然ですわ。それで田豊。呂布さんの首を、わざわざ他の者たちに取らせるつもりですの?」
「はぁ、麗羽さまには、なにかほかに策でもあると?」
「ええ──アレを使いますわ。冀州から延々と運んできたのは、このためではなくて? 我が軍の秘密兵器ですわ。いますぐ麹義さんに伝えなさい。ようやく、私らしい戦ができますわ。心が躍りますわよ」

 袁紹の発言に、田豊がげんなりしていた。

「秘密兵器というと、ああ、あの移動にやたら手間がかかる上、一発撃つごとに分解整備が必要で、方向を変えることもできず、斜面ではまったく役に立たないあの欠陥兵器ですか?」
「あの威力とかっこよさと派手さに較べれば、そんな欠点、些些なことですわ。名家に生まれた私に、あれほどふさわしい兵器もありませんわ。麹義さんも出番がないと拗ねるでしょうし」
「いや、たしか使ったあとの分解整備が大変すぎるから、絶対に使わせないでくれという下からの悲鳴が」
「なにか言いまして?」
「いえ、すぐに手配します。それで、どこに移動させましょうか。一度決めたら動かせないうえ、配置する場所を間違えたら、なんの役にも立ちませんが」
「ここ──ですわね」

 袁紹は、自らの霊感に導かれるままに、地図のただ一点を指した。
 それだけで、なんの疑問もなくすべてが動き始める。彼女の勘が外れることは絶対にない。絶対的な大将への信頼のみを拠り所にして、袁紹軍は最強を誇っている。一度決まったことに、田豊はもう言葉を重ねなかった。

 袁紹が指さした場所は、包囲網のもっとも厚い場所。
 すなわち呂布は、ただ愚直にこちらの本陣のみを狙ってくるという読みだった。本人に聞いても、ここが一番見晴らしがよさそうだからですわ、という意見しか還ってこないだろう。聞けば聞くほど、判断が陳腐になるということだけはわかっている。彼女の思考など問題としない。

 ただ──呂布がこのポイントを通ってくるという事実のみがあればいい。

 伝令から、麹義隊の配置が完了したと、連絡があった。

 麹義(きくぎ)の弩隊。
 史実にて、公孫賛の白馬騎兵を全滅させた実績をもつ、袁紹軍最強部隊だった。ちなみに、三国志における知名度は絶無に等しい。官渡の戦いという最大の見せ場前に粛正されているからだった。

「──撃て」

 ヒュンッ──ッ!!

 動き出した呂布の騎兵隊、包囲網を紙のように喰い千切ったその突進力は、その出始めに、完全に封殺された。

 すでにその場所は、袁紹の指示によって呼び込まれたクロスファイア・ポイントだった。埋伏した強弩兵たちが、荷車に乗せた五人がかりで動かす強弩に張りついている。石火矢の合図とともに、一斉に放たれた矢は、常識では考えられないほどの推進力を与えられ、呂布の騎兵隊を殺戮していく。

 あまりに一方的だった。
 悪魔的な勘の冴えが、あらゆる不利を覆している。

 呂布の騎兵隊は、この一撃のみで全滅し、






 ──呂布の命は、ここで尽きた。







 次回→『呂布、陳寿と契約し、春蘭、片目を失う、とのこと』





[7433] 呂布、陳寿と契約し、春蘭、片目を失う、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2010/01/14 02:05







 崩壊は、一瞬だった。

 風切音よりも速く射出された『何か』に、ぶつかって、馬上から人が消えた。
 首から上がなくなった死体は、まだマシなほうだった。腕が千切れ飛んだり、上半身そのものが消し飛んだものもいる。腸や内蔵をぶちまけながら、身体の一部を欠損させ、破裂した肉の塊になって、地面に投げ出されていく多くの兵士たち。

 ──こうなってしまえば、いくら呂布の騎兵隊といえど、立て直しようがなかった。袁紹軍の強弩は、数多くの問題を孕んでいるが、逆にいえばそれさえ克服すれば、戦力差も突破力も無視して、一部隊を消し飛ばすぐらいの力はもっている。

 袁紹軍の強弩は、台車に乗せて、馬の馬力を使い、五人がかりで弦を引かなければならない。野戦兵器というより、性質は攻城兵器に近く、命中率を気にしなければ、射程は一キロ近い。

 故に、一射一殺。
 呂布の突進力などこれに較べれば、なんの役にも立たない。
 逃れるすべなどあろうはずもなく、あとに残るのは、人の姿を止めないほどに破壊された兵士たちの残骸だけだった。

「ぐ、ああっっ──う」

 呂布は、泥濘のなかで呻いていた。
 なにか細い糸のような殺気の塊に、身体の左半身を抉りとられた。
 
 彼女が理解できたのはそこまでだった。
 大型の槍ほどもある矢が、呂布の鎧と身体を貫通してもなお勢いを緩めず、さらに二、三人を巻き込んだことなど、彼女に理解できるはずもない。

 もとより、このような待ち伏せは、完全に意識の外にあった。

 袁紹軍最強部隊、麹義(きくぎ)の弩隊の放ったうちの一矢が、愛馬、赤兎の首から上を血と脳症と体液と肉の塊に分解し、さらに呂布自身に致命傷を与えていた。右肩から先が吹き飛び、彼女は泥のなかで、冷たくなっていく自分自身に必死に抵抗していた。

「ちんきゅ──?」

 近くに、屍体が転がっている。
 いや、それを屍体とすら、形容していいのか。
 泥で汚れてしまっているが、その軍師の着る一張羅は、呂布のよく知る彼女のものだった。ただし、彼女が確認できたのは、胸から下だけだ。

 陳宮の身体には、胸から上がついていなかった。
 頭があった場所にはなにもなく、残された身体は、ピクピクとわずかに痙攣を繰り返している。
 元から小さな身体は、さらに小さくなって、ただ身体に残った血液を吐き出し続けていた。

「────ァァッ!!」

 叫んだはずだった。
 魂が毀れそうなぐらいの絶叫を響かせたはずだった。
 けれど、彼女の慟哭は、うめくような声にすらならなかった。
 陳宮の死を悲しむだけの生命力はもう、呂布には残されていない。
 
 彼女自身も、状況はほとんど変わらない。
 ショック死しなかっただけで僥倖。
 かろうじて、人のカタチを維持しているだけで、生きているのが奇蹟と思えるレベルだった。このままだと、周りの部下達と同じ結末を迎えるだけだ。

「ううん。あらぁ、呂布ちゃん。あっけないわねぇ。三国最強がこんなところで死んじゃうなんて、視聴者が納得しないんじゃないの? 世が世なら、放送事故レベルよもう」

 軍馬と兵士達の苦痛のうめき声が響くなかで、たった今、築かれた屍体の上に体重を預けている少女は、その地獄にはまるでふさわしくない。

 けれど──彼女が喜悦の感情を見せるだけで、彼女自身がその地獄を作り出したように錯覚させてしまう。

 どこから現れたのか、どこにいたのか。
 そんなもの、歴史の観測者である彼女には、まるで最初から意味を持たない質問だった。

「さて──どうしようかしら。私もね、ここまで呂布ちゃんがあっさり殺されるとは思ってもみなかったのよ。だから──私とあなたで、取引をしたいと思うの」

 陳寿は、そうやって笑いかけた。

 それに対する、呂布の意思表示は、明確だった。
 少なくとも、陳寿はそう判断した。
 返ってくるのは、死の淵にあってなお煮えたぎっている視線と、パンパンに張った袋に針を刺したときに出るようなヒュウヒュウ、という呼吸音のみ。

「答えはノーね。でも、まあ、仕方ないわね。これは貸しでもなんでもなく、ただの私の純粋な好意としてあげる。
 ──天地の理に従い、坤よ降れ、陽の気よ上れ。天地和合して万物生み育て、上下和合して心を通じ合え。象に曰く、雷の地中にあるは複なり。先王もって至日に関を閉じ、商旅行かず、后は方を顧みず。なんたらかんたらるーららるーるー、じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ、以下省略──」

 地面に転がる屍体に、淡い緑色の光が集まっていく。
 蜜を集める蝶のように集まっていく光の洪水。光の淡雪が、戦場を一種、幻想的な風景へと変じさせていた。

「途中から人名になってましたが」
「いやねえ干吉ちゃん。ノリよノリ。こんな長い呪文に意味なんてあるわけないじゃない。でも、じゅげむじゅげむが人名だなんて、よく知ってるわね」
「はあ。あちらの世界に行く際に、一通り知識は仕入れましたので」
「いい子ね。やる気ない左慈ちゃんに見習わせたいわ」

 軽口を叩いているが、さすがの彼女にも疲れの色が見えた。
 息が弾み、疲労の極みで、目が落ちくぼんでいる。それも、彼女が為し得た奇蹟と較べて、あまりに軽すぎる代償ではあったが。

 集まった光がすべて溶けて消えることには、屍体の群れのすべてが息を吹き返していた。
 どれほどの奇蹟をもちいれば、こんなことが可能なのか。
 約、三千人に及ぶ人間の瞬間蘇生。視界に入る分、彼女が把握できる限り、何人でも生き返らせることができる。
 たやすく行使された奇蹟に、干吉が息を呑んでいた。
 自分が本調子でも、これほどの奇蹟は為し得ない。この世界で、彼女は神に等しい。彼女に与えられたゲームマスター権は、ここまでのことを可能にしている。

「まあ、これはこれでいいのかしら。
 ──聞いているかしら、呂布ちゃん?
 改めて言っておくけれど、私は、あなたの強さも命の総量にも、なにも手を加えていない。ここから逆転するなんて狂気の沙汰だけれど、それもいいかもね。呂奉先は、ただ持っているものだけで最強であらねばならない。気高く誇りを胸に抱いたまま、血に狂うといいわ」

 陳寿は、目を細めた。



「いいえ、そんな気遣いはいらないわね。呂奉先に足りないものなど、なにもない。足すという行為自体が、あなたに対する侮辱であったはず。そのまま、その姿があなたの一番美しい姿なんだもの。──この世界の主として、ひとつだけあなたに、絶対の真実をあげる。──その誇りを失わない限り、まぎれもなく、あなたが三国最強よ」

















 生き残ったのは、五百にも満たない。
 そのはずだった。半死半生の騎兵隊が、こちらに突っ込んできた。
 突然、地からわき出てきたように、三千ほどの騎兵隊が出現している。
 歯を食いしばる。
 呂布の突撃。
 半分近くまで減っているとはいえ、その突破力は、決して侮れるものではない。そうわかっていたはずなのに、第一陣が、まるで勝負にならずに突破される。圧倒的な機動力に、こちらはもう後手に廻るばかりだった。

 黒きけものが、四つに割れた。
 そのそれぞれが独立した生き物のように、曹操軍を翻弄している。
 一つ目のけものの突撃に対応しようとすれば、二つ目のけものに横腹を食いやぶられる。それをフォローしようとしたところで、三つ目、四つ目がそれを予測していたように動き始めている。

 隙は見えない。
 死角など、そんなものはおそらくない。

 戦場はすでにパニックになっている。
 俺の元に、指示を求める伝令の体をなしていないような悲鳴が山のように届いていた。それでも、なにもできない。俺たちは、ただ耐えるしかない。いくら呂布の騎兵隊とはいえ、二万いる曹操軍を全滅させるだけの動きなどできるはずもないのだ。

 駄目だ。
 一撃で、包囲網を粉砕された。

 ここを崩すわけにはいかない。出口を作られたが最後だ。
 完全な包囲殲滅という前提が崩されれば、ここから勝敗をひっくりかえされることもあり得る。包囲網は、どこか一カ所を空けておいて、敵を追い詰めすぎないようにするのが定石だったが、今回の戦では政治的な要素が、それを許さなかった。

 この野戦が実現しているのは、双方において短期決戦が必要な事情があるからで、ここで連中を逃がしたなら、そのまま亀のように虎牢関に閉じこもって、二度と討って出てくることはないだろう。

 ──最悪なのは、曹操軍が全滅することではない。
 相手側に虎牢関に閉じこもられて、籠城されるのが俺にとっての最悪である。そうされたなら、すでにガタガタになっている反董卓連合は崩壊する。難攻不落の虎牢関を墜とすだけの士気と兵力はもうどこからも沸いてこない。
 二度と、董卓ちゃんを助ける機会など、廻ってこないだろう。


 一直線に本陣に。
 呂布の『黒きけもの』がとる軌道は、予測した、そのままだった。
 けれど、それを止められない。
 止めることができない。

 土嚢で堤防を築いても、圧倒的な流れが、すべて押し流してしまう。前線が抜かれるなかで、背後を見る。本陣に、変化が生じていた。

「おい──ちょっと待て。なんだアレ?」
「おおっ。おにーさん。華琳様は、あれで呂布を止めきれないことを見越して、自らを囮とした戦闘を望んでいるみたいですよ。本隊をそのままに、夏侯惇(春蘭)将軍と夏侯淵(秋蘭)将軍の部隊を、左右に布陣させてます」

 程昱が、それを報告する。
 呂布を相手に、陣地に引き込んでの殴り合いは、狂気の沙汰と呼ばれるものだった。

「いや、戦力差が開いてるとはいえ、無茶だろ。くそっ、呂布と正面から殴り合うなんて、正気の沙汰じゃない。全員、呂布隊の後背に食らい付けっ。本陣をやらせるなっ!!」

 どれほどの訓練を積めば、あんな動きができるのだろうか。
 馬群そのものがひとつの生き物に見えるほどに、統率された呂布の騎兵隊が、本陣の歩兵を切り崩しにかかっている。

 ──ただ、粉砕されている。
 表現としては、それが一番近いだろう。
 凄惨という言葉も、生ぬるいほどの地獄が現出している。

 人が輪切りにされ、原型など止めてはいない。一秒前まで人だったものが、陶器を砕くようにして土に還っている。飛び散る人の手足と、水たまりができるぐらいの血の河ができていた。

 屍山血河となった戦場で、未だ戦意を保てているのが、奇跡と思えるぐらいだった。

 むろん、曹操軍が弱いわけではない。
 なにせ本隊だ。募集された兵士たちから、特に優秀な者たちが選りすぐられている。大陸でも最高クラス兵の質をもってして、兵力の数で圧倒してなお、ここまで一方的に蹂躙されている。

 そして、
 乱戦のなかで、ひときわ異彩を放っているのは、方天画戟を振るうひとりの鬼神の姿だった。

 なんだ、
 なんなんだあれは。
 違う。
 違いすぎる。
 かつて見た彼女と、流琉の作った肉まんを頬張っていた彼女と、類似点を見つけることが、どうしてもできない。どうやっても消せなかったはずの、まとわりつくような気怠げな雰囲気は、もう一切ない。

「あああああああああああああああああああああっ」

 訊くものの魂が砕けそうな咆吼が、戦場を圧している。
 迷いも願いも想いも救いも、すべて切り捨てるように、彼女はただ、敵を屠るために、一撃一撃に全存在を賭けていた。目に映るすべてを敵と見なして、目の前の兵士たちを肉片に変えている。飛び散ることすらできない血煙が、呂布の全身を深紅に染め上げていた。

 人を殺すためだけの特化された生物。

 あれの前に立つということは、自殺することと変わりがない。

 それでも──

 怯え、腰が引ける軍勢のなかを、切り裂く彗星のように突き進む閃光が、呂布の進路を塞ぐ。

 夏侯惇と、夏侯淵。
 つまりは、春蘭と、秋蘭。

 ともに、曹操軍の最高戦力だった。

 秋蘭が、馬上で餓狼爪を引き絞る。
 一度に装填された三本の矢が、それぞれ呂布の急所に合わせられていた。そして、風を裂く音がした。
 ──放たれた矢は、三本。
 しかし、風音はひとつに重ねられている。釣瓶打ちした矢がそのまま呂布の喉元、そして残りの二本が、乗っている馬の胴体を狙いすます。

 逃れられるものはいない。
 ひとつの間違いもなく、標的をあの世に送ってきたレーザーのごとき、必的の矢。
 それに対して、呂布はなんの反応もしない。

「えッ──?」

 矢が、鎧を貫いたのだと確信した瞬間に、呂布の左手がわずかに動いた。なめらかに、そっと麦の穂を撫でるようにして、俺が気づいたときには、呂布は放たれた矢すべてを摘み取っていた。

 おい。待て。
 それは、どれほどの神業なのか。あまりに自然すぎて、息をすることすら忘れてしまうほどだった。

「はああああああああっっ!!」
「たああああああああああっっ!!」

 季衣と流琉が、鉄球と大型ヨーヨーを呂布に向けて放った。宙を裂く鉄球が、横薙ぎに振り落とされる。同時に、巨大ヨーヨーが、地面を削りながら、唸りをあげて迫っている。

 四対一。
 それで、ようやく互角に廻っている。
 剣戟音とともに、刃の光が乱れ飛ぶ。
 呂布は、四人がかりで繰り出される、煌めく刃の光、そのすべてを見切っていた。いや、檻を破って暴れまわる凶暴な獣を、四人でかろうじて押さえ込んでいるといった方が正しい。数の有利などなんの慰めにもならない。曹操軍の四人は、たちまちに防戦一方に追い込まれていった。

 春蘭、
 秋蘭、
 季衣、
 流琉、
 
 一人欠けただけで、この包囲は崩れ落ちる。そして、それは時間の問題に思えた。だが、それを食い止め、状況を変えたのは、意外にも流琉だった。

 流琉の巨大ヨーヨーが、変則的な動きを見せる。
 俺が動画で見たヨーヨープレイを元に、真桜にいろいろ魔改造させた流琉の伝磁葉々は、いくら呂布といえど見切れまい。俺が監修したベアリングと遠心クラッチで、やばいぐらいに性能があがっている。

 アラウンド・ザ・ワールドの軌道を描く巨大ヨーヨーを、呂布は方天画戟で防いだ。なんのダメージも見受けられない。それでも、ヨーヨーの使い手である流琉は表情を動かさず、専用の手甲をつけた右腕のバレルロールで、ヨーヨーの糸を巻き取った。

 ブレインツイスターブランコの動きを見せるヨーヨーの糸が、蛇が獲物に巻き付くようにして、呂布の利き腕の動きを絡めとった。綾取りにも似た神業に、呂布は絶対に対応できない。それほどの、魔術を見ているような動きだった。変幻自在の動きで、自らの全身を縛っていく糸に、呂布の表情が歪む。

 そして、

 その瞬間を狙い、空間を埋め尽くすように、踊る三次元の刃たち。春蘭の七星餓狼、矢継ぎ早に放たれる秋蘭の矢と、季衣の鉄球と、絡みついたままの流琉の巨大ヨーヨーが、呂布の死角を縫って、四つ同時に襲いかかる。

 すべてが必殺。
 ひとつよけ損なった瞬間に、勝敗は決定する。
 呂布は、命切るほどの雄叫びをあげると、一瞬で、そのすべてを迎撃した。

 呂布は、絡み取られた右腕に見切りをつけると、右足で方天画激を跳ね上げた。
 季衣の鉄球に、方天画激がぶつかる。方向を逸らされた鉄球が、正面から飛び込んできた春蘭の全身を横殴りに直撃した。

「か、はっ──」

 春蘭の体が、ぐらりと傾いた。
 続けて、咳き込む。それは、回復不能なほどのダメージを喰らったと、人目で理解できるほどの状況。

 呂布を包囲する一角は、崩れた。
 あとは、もう打開策はない。残りの三人が、血と肉と骨に摺り潰されるのを、ただ見ているだけっ。

「凪っ!!」

 俺は叫んでいた。
 白い影が、俺の横から消えた。
 戦場へ飛び出た彼女は、瞬くほどの速度で、呂布に向けて突進する。勝機はない。けれどもう、こうするしかない。
 秋蘭も、流琉も、季衣も、戸惑っていた。
 凪は俺の部下だ。
 けれど、それをあの三人はほとんど知らない。攻撃の方法のわからない味方と、歩調を合わせることが、できるだろうか。

 呂布が、方天画戟を振りかぶった。
 風圧だけで人を殺せそうな一撃が、凪を直撃した。

 柄での一撃だったが、それでも人間の身体を二十メートルほど吹き飛ばすぐらいの威力はあった。そのはずだった。

 大質量同士の正面衝突のような、凄まじい音がした。
 呂布という大砲から撃ちだされた方天画戟の直撃を受けて、それでもなお、両足を地につけて、凪はその場に立っていた。

 呂布の顔に、驚愕が張りつく。
 方天画戟の感触に、異質なものを感じ取ったか。

 硬気功。
 凪の切り札である。少林派、ならびに中国拳法の奥義だった。自らの体に気を充填させ、一時的に体の強度を上げる。
 呂布は、ぶっ叩いた凪の身体に、鋼鉄の感触を感じたはずだ。

「ウチも忘れんといてやぁーっ!!」

 真桜が、螺旋を描く大型ドリルを槍に見立てて、空中から呂布を強襲する。

「たいちょーから、特別手当をもらって、お洒落するのーっ」

 沙和が、愛用の双剣を手に突っ込んだ。

 呂布の表情が、はっきりと歪んだ。

 持ち主である真桜の身体をすっぽり覆い隠すほどに巨大な、螺旋を描く大型ドリルが、受け止めた方天画戟と接触し、耳障りな音と共に、火花を散らす。三人の戦術は完璧だった。連携としての総合力だけなら、先ほどの四人を遙かに凌ぐ。 

 未だ流琉のヨーヨーで右腕を封じられている呂布には、完璧な連携をみせる三人は、やや相手にしづらいようだった。このまま、季衣と流琉と秋蘭の三人が加われば流石の呂布とて打ち破れる。

 そして──そう思わせることが、三人の狙いだった。

「……六人、がかり」

 呂布のつぶやき。

 完璧な伏線だった。
 呂布の意識の外からの、『七人目』の奇襲。完璧なタイミングで、さらに無音で飛来した殺意の塊に、呂奉先は反応できない。

 そのはずだった。

 だから、それを避けられたのは、魔性の勘というしかない。その反応速度は、野生の黒豹を思わせた。予備動作なしに、瞬間移動に近しい速度で、横に飛ぶ。

 ありえない。
 遠くから見ていて、それでも一瞬見失うほどだった。明らかに、人間の反射神経というものを、超越している。

 ──勘なのか。やはり。 
 戦場というフィールドにおいて、その勘の精度は、孫策のそれを凌駕する。
 それでも、避けきれなかったのか、思春が放った短刀が、二本、呂布の左手に収まっていた。

「………………」

 七人目。
 戦場の逆光に溶け込んでいた思春が、苦虫を噛みつぶしたような顔になる。彼女の短刀に塗られた致死性の毒。それを使わせたことは、思春のプライドをズタズタに引き裂くものだ。

 だからこそ、効果は絶大だった。
 傷をおわせなくとも、触れただけで骨を侵す猛毒であり、その対象は、短刀をつまみ取った呂布の五本の指も例外ではない。

 どす黒く肥大した自らの左指に、呂布は顔をしかめた。
 短刀を地面に投げ捨てるも、すでに遅い。短刀をつまみ取った小指と薬指、中指が元の二倍以上の大きさに肥大していた。皮を焼き、骨を侵し、神経を引き裂く猛毒に浸されている。

 これで、両手の自由は完全に奪った。
 呂奉先の代名詞である方天画戟は、これで使えない。
 方天画戟が使えないなら、曹操軍の武将七人の波状攻撃を防ぐ方法は、存在しない。

「降伏しろ。──最強と名高い呂奉先の命、ここで潰えるには惜しい。貴様ほどの武将ならば、我が主も高く遇してくれよう」
「………………」

 秋蘭の言葉に、戦場の時が止まる。

 呂布が、この降伏勧告を受けるかどうか。

 秋蘭自身にも、返答は予測できているはずだった。それでも、多対一という負い目も重なって、そう言わずにはいられなかったのだろう。呂布が、董卓ちゃんを、見捨てるはずがない。それができるのなら、彼女はこの戦場にはいない。

 案の定、呂布の返答は、予測したとおりだった。

 ふるふる、と、首を振っただけで、彼女はその誘いを拒絶した。

 そして──

 呂布は、毒に蝕まれた三本の指を自ら口に咥えると、そのまま、勢いよく食い千切った。

「────ッ!!」
「──ひっ!?」
「………なん、だと?」

 周りの驚愕を意に介さず、そのまま呂布は、噴出した自身の血液で、付着した毒を洗い流している。

「指が二本あるなら、方天画戟はつかえる。……おまえら、強かった」
「な、なめるなぁあああああっっ!!」

 秋蘭が、餓狼爪を構えた。
 標的を探す一瞬、そのときには、すでに呂布は彼女の視界にいない。

「が、ああっっ………っ」

 飛び散る鮮血。まずは、秋蘭の体が、串刺しにされた。
 その返しの一撃で、流琉の身体が吹き飛んだ。

「──もう、おまえたちの動きは、見切った」

 呂布の背後から、ドリルを構えて突進した真桜が、気づいた瞬間には、呂布と正面から正対してしまっている。
 タイミングを、完全に外された。振りかぶった致死の一撃が、カウンターで真桜と捉えた寸前、その交差上に、凪が割って入った。

 ──凪が、両足を広げて、歯を食いしばる。
 骨が砕ける音。ガードした腕がありえない方向に折れ曲がっている。まともにくらえば、背骨を完全に粉砕され、即死を免れない衝撃を、凪は硬気功で、大部分を殺しきった。

「ぐはっ………………」

 ──凪の身体が、血を吐いて崩れた。
 無効化するどころではない。生きているだけで、幸運に感謝しなければならない。一撃目で、ヒビの入った全身に、二撃目が止めとなった。

 倒れた彼女に、呂布が方天画戟を向けようとしたところに、地面に伏していた春蘭が跳ね起きた。小回りがききにくい方天画戟の反対側から、最短の突きを繰り出す。

 血飛沫が散った。
 呂布の貫手が、春蘭の右目を抉っていた。
 けれど、切っ先は鈍らない。春蘭は、抉られた右目などなんの障害にもしなかった。この瞬間を掴むために、片目の代償は安すぎる。

 春蘭が七星餓狼を突き出す。

 ──最後まで、目標を貫くことなく、呂布のカウンターの一撃を受けて、七星餓狼は、コナゴナに砕け散った。



 



 次回、『華琳と曹操 その2』










[7433] 曹操、眠りにつき、華琳、命令を下す、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2010/01/19 10:31








 そして──呂布が、曹操軍八人をすべて打ち倒すのに、それほどの時間はかからなかった。
 春蘭は右目を抉られ、愛用の黒刀を砕かれ、腹に致命の一撃を受けている。秋蘭は、おそらくこのなかで一番の重傷だった。方天画戟をまともにうけて、今も血だまりが広がっていっている。うちの軍には、死者でも引き戻すといわれる、奇蹟の熱血医師がいるので、心停止してから数分以内なら救い出すこともできるだろうが、それも、時間の制約がある。

 残りの六人も、怪我の大小はあれ、立ち上がれないぐらい痛めつけられていることに間違いない。季衣と流琉、両腕を砕かれた凪、真桜と沙和に、思春も、一薙ぎでやられてしまっていた。
 うちの軍で、まともに戦える将は、すべて使い切った。後詰めの曹仁と曹洪は、もう間に合わないだろう。

 死人が出ていないのだけが、救いだった。
 ──とはいえ、むろん楽観視できる状況ではない。なんとか生き残っているというよりは、生かされているというべきか。

 呂布にとって、彼女たちは雑魚に等しい。
 彼女の目標は、曹操の首ただひとつ。
 この後に及んで、これ以上軍を統括する将が討ち取られれば、反董卓連合は、この場をもって崩壊する。逆にいえば、こちらは曹操さえ守り通せば負けはしない。それでも、状況は限りなく最悪に近かった。

 呂布が、春蘭たちを殺さないのは、遊んでいるわけではない。
 曹操に対して、出てこいといっているのだ。

 最悪なのは、人質が八人もいることだった。つまり、ひとりふたりぐらい欠けても、人質として効果を発揮する。呂布はもう、八人のうち、誰かを切り刻むことを躊躇わないだろう。

 そして──

 おそらくは、

 ──その状況のすべてを理解した上で、

 黒騎兵の少女たちを引き連れて、覇王を自負する少女は、呂布の前に立ち塞がった。














「一対一の立ち会いが、望みよ。それでいいかしら」

 当たり前のように、曹操は言った。
 台詞に、怯えも淀みもまったくない。彼女は、この絶体絶命の状況にあって、彼女自身を貫いていた。
 けれど、わからないはずがない。彼女はこれからの自分の運命を、理解しているはずなのだ。

 ──殺される。
 彼女に、方天画戟の一撃を避けることはできない。

 例え、ここでいかなる奇蹟が起こったとしても、勝負としておそらく成立しないレベルで、曹操は、呂布に傷一つつけることもできず、絶命する。

「けれど──その前に秋蘭だけでも、治療させたいわ。この砂時計が落ちるまでの間、時間をもらえるかしら」
 曹操は、侍従のひとりに持たせた、一抱えほどもある大きさの砂時計を、示して見せた。完全に砂が落ちきった状態から、上下を反転させる。銀色の砂が重力に従って落ち始めた。
 これが、俺たちの命が吹き飛ぶまでの時間だと思うと、笑えないところだ。
 砂時計の砂が落ちきるまで、三分といったところだろう。

「曹孟徳としての誇りにかけて、一度受けた決闘を、反古にすることはしないわ。もちろん、これは信じてもらうしかないけれど」
「──わかった」

 呂布は、それを認めていた。
 曹操は、自らが胸に抱いた誇りだけで動いている。

 曹孟徳には、自分の命を投げ打って、部下を助けるなどというロマンティシズムは、最初から持ち合わせていない。彼女が自分の部下を救うのは、どちらかといえば、ついでにすぎない。ただ、彼女にとって、逃げるという選択が、死よりもなお許し難いものである、というだけだった。

「代わりに、それ以外のだれひとり、そこを動くな」

 呂布の騎兵隊が再編される。
 彼女の命令ひとつで、完全再編された騎兵隊が、すべてを引き裂くだろう。
 そう、曹操の提案は、むしろ呂布を有利にするものだ。もう──俺たちは、まな板の上の鯉だった。あとは、料理人の思うがまま、料理されるだけだ。

 ──俺に、なにができる?
 呂布と、戦うというのは論外だ。一割どころか、一パーセントの勝率もないのに、戦おうとするのは、蛮勇とさえいわない。
 ただの自己満足に、自分の命など賭けられない。


「華琳さま。鞘の紐が、ほどけかけています」
「ええ」

 決闘に、馬は必要ない。
 下馬するのに、曹操は黒騎兵の少女たちの助けを借り、死地を向かう準備をするために、今一度、服装を正させる──つもりだったのだろう。

 そして──

 香嵐(黒騎兵その1)は、呂布の視線の死角から、抜き取った倚天の柄で、曹操に当て身を喰らわせた。わずかな悲鳴は、密集したざわめきに掻き消される。気を失った曹操は、呂布の目には映らない。一瞬の早業だった。

「程昱──これは、どういうことだ?」
「打ち合わせ済みです。……このまま、おにーさんは華琳様を連れて、逃げてほしいのです」

 その提案は、俺にとって、まさしく青天の霹靂だった。

 ──明らかな、独断。
 曹操が目覚めたら、首謀者は首を刎ねられることは間違いない。冗談ではなく、曹操は程昱相手にも、本気で刃を向けるだろう。参謀の役割は、主の求められた状況で最善の働きを見せることだけであり、これは完全に自らの権限を逸脱している。
 いや、軍そのものがなくなるのだから、その仮定に意味なんてないか。

「──この選択肢を残すために、夏侯淵(秋蘭)さまは、あなたを重用していたはずです。もちろん、おにーさんがいなかったら、私だってこんなことはしないのですよ」
「命令違反は、俺に許された特権みたいなものか」
「はい。──おにーさんの仕事は、ここからでしょう」
「簡単に、言うなあ」

 たしかに、誰にもできない。
 それほどに、俺の失うものは、計り知れない。
 単純に考えて、凪、真桜、沙和、思春。それに、敵から逃亡したとして、指揮官としての名誉も、すべて失う。ここで逃げたとしても、曹操軍を再起させるには、最低でも十年の時間を必要とするだろう。

「わかった。世話をかけた」
「──いいえ。臆病なのですよ。私たちは。華琳様が目覚めたときには、すべて終わっているでしょう。絶影なら、赤兎馬にも劣らないはずです。おそらくは、逃げ切れるはずなのですよ」
「曹操は、俺を恨むと思うか?」
「さあ、でもひとつだけ。お願いがあります。できれば曹操さまが目覚めたあとで、真名を呼んであげてください」
「──考えておく」

 どれだけ駒を討ち取られても、キングさえ守りきれば、少なくとも負けることだけはない。逆に言えば、だからこそ呂布は、あの八人を殺さずにいる。ここで曹操に逃げられれば、少なくとも反董卓連合を勝たせることだけはできる。

 ──最悪の選択肢だった。
 そう、理屈でわかっていても、それを選べるような人間が、いったいどれだけいるというのだ?
 わかっている。
 わかっているのだ。

『──だから、華琳さまを守ってくれ。私を、二度も主を守れなかった、無能な臣下にしないでくれ』

 かつての秋蘭の願い。
 俺は、他のすべてを切り捨てても、曹操を救うしかない。

 ──詠が、そうやって、味方のすべてを敵にしたように。













 ──が。

 しかし──

 そして、俺は今になってすら、『彼女』のことを甘く見すぎていた。
 呂布のことではない。
 程昱のことでも、曹操のことでもない。

 こんな──致命的でどうしようもないタイミングで、さらに状況をカオスに落とし込む少女を、俺はひとりしか知らない。

「あー、もう!? なんか起きたら腹に硬いもので、殴られたような痛みがっ!!」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………は?」

 状況が把握できなかった。
 曹操(?)は、今初めて長い眠りから醒めたというふうに、ぎゃーぎゃーと騒いでいる。まさか、まさかまさかまさか──よりによって一番役に立たないこのタイミングで、なんでこーなるッ!!

 っていうか、そもそも叩いたから直ったのか、もしかして。
 曹操の姿をした彼女は、こちらに目をつけると、事態の推移についていけない黒騎兵の少女を置き去りにして、こっちにやってきた。
 香嵐に叩かれた腹がまだ痛むのか、ぴょこぴょことぎこちない歩き方になっている。覇王を名乗る少女なら、間違いなくしないであろう歩き方だった。

 ──間違いない。

 華琳だ。

「あのね、一刀?」

 すぅ、と、華琳の目が細められた。
 曹操とはまるで別の、それでいて重苦しい独特の重圧が、彼女の身体から発せられていた。

 待ちこがれていた言葉のはずだった。
 本来なら、感動的なシーンになるはずだった。
 曹操軍興亡の瀬戸際のはずだった。
 俺は、今から人生で二度とないほど重要な選択を迫られているはずだった。

 そして──彼女は、いつもそうするように、その重苦しい雰囲気すべてを吹き払って、俺に尋問をはじめた。

「蓮華ってダレ?」

 ──まず、この状況で最初に訊くことがそれかい。
 目が据わっていた。
 なにより彼女の表情は真剣そのもので、誤魔化したりはぐらかしたりはできそうにない。

「いや、待て。質問の意図がわからない。そもそも、どうして蓮華のことを知っている? できれば三十字以内で答えてくれ」」
「曹洪が──」
「ああ、うんわかった。それ以上、言わなくて良い」

 日和りやがったな、あのガキ。
 蓮華と思春を引き入れてからすぐ、曹洪は曹操に捕まって、洗いざらいぶちまけさせられたんだろう。予想はしていたが。むしろ、やってないほうがおかしいと思っていたけれど。
 一応、これを警戒して、あらかじめ曹仁と曹洪の前では、詠をただのメイドとして扱っていたので、核心の部分まではばれていないだろうが。

「いや、曹操だったときの記憶は、そのままあるのか。っていうか、おい。それなら今は、どれだけせっぱ詰まった状況なのか、わかるだろう」
「当然じゃない」

 なぜだが、華琳は胸を張っていた。
 脱力しそうになったが、考えてみればやることは、なにも変わらない。砂時計の砂は、もう半分以上落ちている。もう猶予はほとんどない。

「ふたりで、逃げよう」
「──どういうこと?」
「ここに留まることに、なんの義理もない。普通の女の子であるはずのお前が、こんな戦争に駆り出されてることのほうがおかしいんだ。お前は、曹操とは違う。なんの責任も感じる必要はない。だから」
「みんなを見捨てろってこと──?」

 華琳を目の前にして、心の箍がはずれたのか。
 今、俺が話している言葉が、本心なのか、彼女を説得するための方便なのか、俺自身にも判断がつかない。

「一刀は、それでいいの?」

 華琳は、責めるでもなく、そう聞いてきた。

「私は、嫌よ」
「──華琳?」
「そうね。私はもうひとりの私とは違う。私が、ここに留まる理由は、『彼女』とは、きっと全然、別の理由だと思うから」
「………………」
「自分自身の誇りなんてどうでもいい。でもね、私はここにいるみんなを見捨てられない。春蘭は、私を支えてくれた。一番最初に敵にぶつかるのは、彼女の役目だし、今も、私のために傷ついてる。他の誰がそっぽを向いても、春蘭だけは私に対する態度を変えずにいてくれた。私は、春蘭に本来返しきれないぐらいのものをもらってる。
 そして、秋蘭は厳しかったけど、私に優しくできない分だけ、一刀の立場を保とうと努力してくれた。秋蘭がいてくれたから、私はなにも考えずに、笑っていることができたと思う。
 季衣は、一番付き合いが短いけど、純粋に私を慕ってくれた。まだ、果たしてない約束も、たくさん残ってる。流琉は私の店の調理主任だもの。教え込まなきゃいけないことも、教えて貰わないといけないことも、まだまだたくさん残ってる。
 春蘭も、秋蘭も、なんの実績もない私を支えてくれたの。だから、逆の立場になった今、私が最初に逃げ出すわけにはいかない。でしょう?」

 ──そう、か。
 彼女が、死地に赴こうとするのは、義務感なんかじゃあない。
 彼女は、曹操の影に負けることなんてなく、彼女自身の人生を生きている。

 呂布の前に立つ。
 それは──自分がそうしたいからで、曹操の意志など、一粒も入っていない。

「………………」
「一刀。はやく、私をあそこまで連れて行きなさい」

 華琳は、もう揺るがないようだった。
 わかっている。俺は、この娘に勝てたことは一度もない。

「──ダメだ」
「一刀。お願いしているわけじゃないの。これは、──命令よ。いままで、一度もあなたに命令なんてしたことなかったけど、私の最初の命令として、これを聞きなさい」

 華琳の言葉に、俺は顎を噛み合わせた。
 自分自身の声が震えていた。俺は、そうやって、次に用意していた説得の言葉をすべてかみ砕いた。

「そうか、命令か。──命令なら、仕方ないな」

 秋蘭、すまない。
 約束を守れなかった。
 心中する覚悟は、決まった。彼女がその道を選んだのなら、俺はそれを輔佐することしかできない。

「ごめんね。私の、わがままにつきあわせて」

 呂布は、背後に騎馬隊を整列させていた。あれがこちらになだれ込んできたが最後。曹操軍は終わる。それで、いい。天下取りも中途半端だったが、ここでこうやって終わるのも、仕方がない。

 華琳は、そうやって、呂布の前に立った。
 倚天の剣を掲げる。奇蹟は起きない。彼女が呂布に勝てる可能性など、ゼロに等しい。

「……首を差しだせば、部下の命は助けるが」
「逆なら、話し合いの余地もあるのだがな。私の屍を乗り越えていけ」

 貫かれた右目を押さえたままで、春蘭は立ち上がった。砕けて使い物にならなくなった七星餓狼を捨てて、沙和の双剣を手にしている。次に、凪が立ち上がった。砕けた両腕をもてあまして、それでも盾ぐらいにはなれるだろうという覚悟だった。

 堤がきられた。
 大地の鳴動とともに、呂布の騎兵隊がすべてを埋め尽くす。
 槍を構えた鋼鉄の質量が曹操軍に襲いかかる。たちまちに、華琳の姿はこちらに突撃する騎兵たちに遮られて見えなくなった。手負いの春蘭たちが、再び叩き伏せられるまで、それほどの時間は必要としないはずだった。

 そして、大陸最強の騎兵隊が、曹操軍のすべてを刈り尽くす。

 ──寸前で、突如乱入してくる戦力があった。いや、それは人ですらない。人の手によって解き放たれたブタの群れは、呂布の騎兵隊と曹操軍の間に乱入し、バリケード代わりになっていた。

 勢いは止まらない。
 騎兵隊が、ブタに足をとられて落馬している。

「──なんだ、これ」

 踏みつけられるブタと、落馬する騎兵たちの悲鳴で、戦場が大混乱に陥っていた。それでも、すべての騎兵を止めるまでには至らない。
 五騎がほどが、こちらを向いた。
 兵士達を踏みつぶしながら、大将首ひとつを狙ってくる敵。手に馴染んだ、馬上棍を構える。大将自らが闘わなければならない時点で、すべに敗色濃厚だが。近くで見る限り、隙はいっさいない。五騎すべての馬は、立ち回りを見る限り、能力も絶影と遜色はない。勝てるか──?

「なっ──」

 飛んだ。
 歩兵の頭上をまたぎ、こちらの首を一直線に狙ってくる。

 あ、やばい。
 落下の速度と馬の体重の乗った、凄まじい一撃だった。ひとつめの槍を、なんとか避けたあとで、残りの四騎がこちらに迫っていた。

 一斉に槍が突き出される。

「──にゃははっ。お兄ちゃん。だらしないのだ」

 ──死んだ、と思った。
 走馬燈が見えたほどである。一瞬に濃縮された十七年間を幻視したのちには、向かってきた騎兵は、すべてが叩き伏せられていた。

 たったひとりで、戦場に乗り込んできた、その少女に、戦場が押し戻されている。

 彼女が、手にするは、八丈蛇矛。
 一瞬の交差ののちに、新たに突撃してきた十騎を越える騎兵が、すべて宙に跳ね上げられていた。転がされた馬で、バリケードを作っているのだろう。たったこれだけで、黒きけものの突進力の、ほとんどが奪い取られていた。

 彼女は彼女の思うまま、自らの身長の倍はあろうかという、特徴的なカタチの矛を、自在に振り回している。

 ──強い。
 理不尽なまでの強さ。
 伝説とまで言われた武勇。曹操軍における誰と較べても、まるで比較にならない。三国志における、間違いなく最強の一角。

 戦場に降る陽光に照らされて、未だ幼さの残る表情を不敵に歪ませている。小さな身体ながら、その繰り出される一撃は、呂布にまったく劣らない。三国志に心奪われたことがある人間なら、必ず一度は、その圧倒的な強さに憧れる。

 ──張飛。

 史実では程昱に、『一人で一万の兵に匹敵する』とまで言われた武勇は、この世界でもいささかもスポイルされていないようだった。

「うっわー。敵がいっぱいなのだ。ここで逃げるなら、見逃してやるけど」

 普通なら、黙殺される台詞も、彼女が言うとまったく別の意味に聞こえてしまう。事実、その言葉で明らかに歴戦の騎馬隊が、動揺している。完全な、武将としての格が違う。長坂で万の軍勢を食い止めたように、彼女にとっては数多くある武勲のひとつでしかないのかもしれない。

 それでも、
 限りなくこの戦場にあるすべての殺意が質量を伴って、彼女に殺到する。

「止まらない。ならば──」

 少女は、八丈蛇矛を風車のように振り回し、名乗りをあげた。



「張翼徳の蛇矛の一撃ッ。受けられるものなら受けてみよ、なのだッ!!」




















 華琳は眼を閉じていた。
 けれど終わりの瞬間は、やってこなかった。自らの悲鳴は、金属と金属がぶつかる音に、掻き消される。

 彼女は眉を動かした。

 そして、おそるおそる、眼を開く。
 おかしいのだ。呂布の方天画戟を受け止められる武将も、そして──武器も、そんなものはこの世界に存在しないはずだった。それほど、もうひとりの自分の記憶を通して見た、呂奉先という少女の武力は常識知らずで、並外れていた。

 目の前には、大きな薙刀があった。
 柄に彫刻された青龍の意匠が、華琳の目を惹く。

 そして──それが自分に向けて真っ直ぐに振り下ろされた呂布の方天画戟を、真っ正面から受け止めていた。

 背を向けて、彼女は立っていた。

 美髯公の名の由来となった、絹のように輝くしなやかな黒髪を、宙に踊らせて。手には、ふたつとない逸品として名高い、青龍偃月刀を構えて。

「あなた──は?」

 華琳は、声に出した。
 死への恐怖と安堵がない交ぜになり、腰が抜けそうになっている。
 そして──彼女の疑問を振り払うようにして、全身が鋭い刃で構成されたような黒髪の少女は、高らかに自らの戦場で名乗りをあげた。

「我が名は関雲長。劉玄徳が一の配下、幽州の青龍刀なりっ!! 非情の刃、乾坤一擲となりて、その身にとくと味あわせてくれよう。呂奉先。──矛を構えろ」

 凛とした、凍り付いた彼女の声に、呂布の表情が、明確に歪んだ。
 呂布の嗅覚が、目の前の少女の武力が、自分の匹敵するものであることを教えている。そして、彼女との戦いが、自らのすべてを賭けた死闘になるということを。

「関係ない。月(ゆえ)の邪魔になるものは取り除く。──どけ。もし、刃向かうなら、殺す」
「笑止。こちらにも引けぬ理由がある。その方天画戟が飾りでないのなら、力づくでくるがいいッ!!」

 関羽と呂布。

 ──最強の名をかけて、青龍偃月刀と方天画戟が交差した。










 次回 →『孔明、韓信の故事を警戒し、華琳、関羽にひとめぼれする、とのこと』






[7433] 孔明、韓信の故事を警戒し、華琳、関羽にひとめぼれする、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:9f5383e3
Date: 2010/04/16 20:01








 関羽と呂布の死闘は、すでに百数十合を交えるまでになっていた。
 方天画戟と青龍堰月刀の光が、あらゆる武将の理解を越える速度で乱れ飛んでいる。その光景は本人たち以外には視認できず、近づくものは、自分が死んだということにも気づかぬままに全身を切り刻まれることになる。

 このふたりの戦いは、まさしく大陸最強を決めるに相応しい。

 最強と最強の激突。
 万夫不当と万夫不当。
 力も技も速度も、すべてが神の領域。
 俺の目に映るのは、甲高い衝撃音と、互いの獲物が擦り合わされる青白い火花のみ。使っている技術も、そこに至るまでの研鑽も、なにもかもが理解できない。

 呂布が、方天画戟を振りかぶる。
 一降りで、戦場そのものを薙ぎ払うとすらいわれる、呂奉先の方天画戟である。

 受け止めたものは、未だかつていない。
 本来、これを受け止めるという発想すらない。

 が──
 大降りの一撃を、関羽は正面から迎え撃った。
「ぐっ──」
 ミシリ──、と。
 背骨の軋むような音が、聞こえてくるようだった。
 地面に超加重がかかった証明である、地面にめり込んだ靴のあとが、遠目からでもわかるほどだ。
 呂布も、関羽も小細工のようなものはない。
 懐に隠し持った道具など最初から持たず、ふたりの武将は自らの獲物のみを恃みにしていた。
 
 邪魔も入らない。
 戦場の音も絶えて、息を呑むように皆、たったひとつのものに視線を注いでいた。戦場の中心に、呂布と関羽だけがいる。

 猛獣の共食いに似た死闘。
 そこには神話説話に彩られるような音光明媚な一騎打ちの情景など存在していない。関羽の太刀筋も、翻る鮮やかな黒髪も、たしかに目を惹くものだ。しかし──実力が伯仲しているからこそ、互いが受ける反動は凄まじかった。
 受け止める一撃に、肩が外れそうになり、握る獲物から伝わる衝撃が、筋繊維を断裂させている。向けられる刃物に精神をすり減らし、直撃どころか、受け止めた衝撃だけで、全身が軋んでいる。
 尋常でない自らの武を支え続けながら、自分の命を削っている。呂布も関羽も、文字通りに、『身を削りながら』戦っている。本来は、すでに終わっているはずだ。
 見ていられない。
 消耗は凄まじいだろう。
 100キロの速度で正面衝突したダンプカー同士が原型を留めないように、人の姿など保てないぐらいに、グチャグチャになっているほうが、物理法則としては正しい。
 すでに双方とも、獲物を握っていることすらできないはずだ。

 それでも、絶え間なく方天画戟と青龍偃月刀は火花を散らしていた。雨霰のように降り注ぐ一撃一撃が、大岩を破壊させるだけの威力をもっている。
 限界まで振り絞られた握力が、ギリギリのところで一線を繋いでいる。
 どちらも、武器を離した瞬間に負けが決定する。

 こんな戦いに、矢を射かけられるような、勇気あるものはいない。
 ただ、俺の含めて、なにか、途方もない瞬間に立ち会っているという実感だけがあった。民衆の口の端に語られ、唐や宋や明の時代を超えて、現代にまで語り継がれる伝説。三国志の一騎打ちにおいて、一番に有名になるのは、おそらくこれなのだろう。

 ──しかし、徐々に優劣は傾いてきている。
 ここ数日の戦場を、ほぼひとりで支えているといっても過言ではない呂布と、これが反董卓連合に参加してからの初戦闘である関羽では、あまりに前提条件が違いすぎる。利き手の指三本を失い、趙雲に刺された脇腹の傷も癒えていない呂布にとって、持っている戦力の六割を出せればそれで感謝しなければならない。

 そして、それを踏まえた呂布と関羽の戦力比は、わずかに関羽に傾いていた。
 互いに傷を負い、消耗を繰り返しながら、じりじりと、呂布が防戦一方に押し込まれていくのが、素人目にもよくわかった。このままの調子で状況が推移するのなら、あと数十合後に、青龍偃月刀が呂布を刺し貫くだろう。

 が──

 結果的に、そうはならなかった。
 戦闘はそこで打ち切られる。さっき俺を救ってくれたブタの大軍が、砂塵をまき散らしながら、戦場になだれ込んできていた。

 ギリギリでつなぎ止めていた集中が、切れる。
 限界まで達した疲労が、一瞬の空白を与える。

 そして、それは呂布にとって、致命的な隙になった。

 ──呂布の首が落ちる。

 そう間違いなく確信できるタイミングで、関羽が青龍偃月刀を横に薙いだ。

 え──? 
 外した?

 青龍偃月刀が、なにもない宙空を狩りとっていた。

 関羽の表情に、わずかの逡巡が見えたのを最後に、呂布が赤兎に跨った。ふたりの、おそらくは歴史的な邂逅は、終わりを告げる。両者の姿は砂塵に覆い尽くされるように見えなくなった。

「なんだ、今の?」

 ──関羽が、呂布を救ったように見えた。
 俺の見間違いだろうか。ここで、最大の手柄を見逃す理由は一切ないと思うが。いや、そんな場合じゃない。まだ戦闘は完全に終わったわけではない。凪と真桜と沙和と思春を回収しないといけない。
 片目を貫かれた春蘭とか、怪我人も数多くいる。

「それに、華琳は、どうした?」

 疑問に答えたわけではないだろうが、華琳はそこにいた。
 ぺたんと土の上に腰を下ろして、精神をまわりから切り離している。彼女は、目はうつろで、名残惜しそうに先ほどの戦いの後を見ていた。
 戦場の空気は、普通の少女には、耐え難いものなのだろう。
 張りつめた心が切れてしまったかのように、彼女はただ関羽を見ていた。

「うふふふふふふふふふふ」

 とか思ったら、なにか不気味に笑い声をあげていた。
 ええと、戦場の殺気にあてられて、幼児退行でも起こしたか、とか思ったが、そういうわけでもないようだった。

「はぁ──」
 華琳は、なにやら顔を紅潮させて、うっとりしていた。

「──ああ、関羽さま。どうしてあなたはそんなに美しいの?」

 顔を赤らめてぼーっとなっている華琳を、俺はとりあえず蹴り倒しておいた。















「わざと逃がした?」
「はい。そうなります」

 虎牢関の戦いから、三日が過ぎていた。
 曹操軍の指揮官クラスのほとんどが傷を負った。兵士たちの犠牲もかなりのものだ。呂布の黒騎兵を正面から受け止めた犠牲は、かなり大きい。
 事実、曹操軍の戦力は半壊している。
 俺と程昱は、天幕のなかで、これからのことを話し合っていた。
 春蘭と秋蘭が指揮を執れない以上、俺がこの軍のナンバー2に繰り上がっている。
  
「関羽の名はこの一件で広がりを見せました。あのまま戦闘を続けていれば、呂布を討ち取ることができた可能性を、諸侯たちすべてに見せつけたからです。しかし、戦場に呂布を討ち取ることより、あえて討ち取らないことに、劉備軍にとっての利があるとすれば?」
「すまん、言っていることがわからん」
「簡単なことなのですよ。この曹操軍に、呂布の突撃を受け止められる武将が、もういない」
「そうだな。片目を失った春蘭、未だ死線をさまよっている秋蘭、季衣と流琉もしばらく戦えないし、俺の手勢も半壊した」

 凪は両腕を砕かれ、思春は全身ズタボロ、真桜はお手製のカラクリを動かすのに使う気を使い果たしたとかで、一週間はもう前線には立てないとか言ってきたし、一番怪我の軽い沙和だって、骨が何本か折れているらしい。

 いや、問題はそんなところにはない。

『──お前達の動きは、もう見切った』

 とか言っていた。あれは誇張でもなんでもないだろう。
 もしかしたら曹操軍全員が万全な状態であったとしても、今度はどうなるかわからない。おそらく、勝つことはできないだろう。

「つまり、呂布を止められるのが、反董卓連合に、関羽しかいないとなると──?」
「ああ、そういうことか。関羽の価値が上がるな」
「はい。それに反董卓連合は袁紹閥です。華琳様と袁術以外は、まともにやって、手柄が転がってくるとは思えません。それとの兼ね合いもあるはずです」
「たしかに、呂布を倒してしまえば、狡兎死して走狗烹らるになるな。獲物のウサギを取り尽くした後は、猟犬も煮て食べられるのみ。
 関羽は用済みか。
 俺が袁紹なら、わざわざ外部の人間に最大の手柄をくれてやる気には、ちょっとならないな。無名の武将と互角だったなんて、もしかして呂布って大したことなかったんじゃないのか、とか難癖をつけて、手柄をうやむやにすることを考えるだろう。あのガキ(田豊)。そういうのが専門だろうしなぁ」
「だから、劉備軍は、呂布をあえて討ち取らないことで、自分の価値を示した、ということですねー」
「なるほど」

 ──よくわかった。
 物騒な話だ。
 戦場の華であるはずの一騎打ちにすら、各々の諸侯の利害と、緻密な戦略構想がかぶさってくるあたり、一瞬の気も抜けないところである。

 さすが劉備軍。
 武と知略で、最高ランクの部下を揃えている。
 関羽にそこまで洞察する知能はないはずだが、誰の策かは論じるまでもない。諸葛孔明の策は、この世界でもまったく鋭さは変わっていないようだった。

 さて。
 少しだけ、状況を整理してみよう。
 関羽、あるいは張飛にしか呂布を討ち果たせない、と決めつけるのは、それはそれで危険だった。

「ふむ」
 どちらにしろ、呂布を取り除かなければ先へは進めないわけで、だったらこの反董卓連合だけではなく、三国志の登場人物そのものに、呂布を討ち果たす可能性のあるヤツはいない、か?

 ──コーエー的にステータスを並べてみると。

 ええと、呂布の武力を100として、
 張飛が98、関羽が97、趙雲が95、馬超が同じく95、黄忠が94、文醜が92、華雄が91、顔良が90、張遼が90、夏侯惇(春蘭)が89なんだろうが片目を失ったことで、武力は10は下がるか。夏侯淵(秋蘭)は87、甘寧(思春)が同じく87、楽進(凪)が86、許緒(季衣)が85、典韋(流琉)83、というところか。
 かなり適当に数値化しているが、大きく外れることはないだろう。

 ──ダメだな。
 在野かなにかに、まだ出てきてない武将がいるかなと思ったが、三国志における上位陣はほぼ埋まってしまっている。

 しかし、武力1の差が凄まじくでかいなーこれ。

「ちょっとふたりとも。さっきから訳のわからないことを言っていないで、どうでもいいから、はやく関羽をわたしのものにするための策を考えなさい」

 この間まで、曹操がいたはずの席に座っているのは、当然のように華琳だった。

「なぁ、華琳。お前、ノーマルじゃあ、いや、女に欲情する性癖とかあったか?」
「ないわよそんなの。わたしはただ純粋に、関羽に憧れているだけよ」
「……えーと、レズと百合の違いか」
「なにをわけのわからないことを言ってるのよ」
「しかし、関羽をこちらに引き抜くのは、不可能とは言いませんが、むずかしいところではありますよ」
「風(程昱の真名)ちゃん。そこをどうにかするのが軍師の仕事のはずよ」
「無茶言うな。劉備と、件の関羽と、張飛は、義姉妹の契りを結んでいるらしい。お前と袁紹と袁術みたいなものだ。引き抜けるわけないだろう。そう簡単に引き抜けるなら、俺だってとっくに張飛を引き込む手段を考えてる」

 張飛。
 あれは凄まじい。なにせ、呂布が亡き後の、まぎれもない三国志最強である。俺には凪がいるので、高望みする気はないのだが、敵にするべきではないことだけはわかる。

「むー」

 華琳がむくれていた。

「ひとまず、劉備軍に対する情報が足らないのです。そうですね、助けていただいた恩に報いたいということで、劉備たちを迎えての宴会でも企画するのはどうですか?」
「それはいいわね。どうせしばらくやることもないし」
「まあな」

 今では落ち着いているが、華琳は恐ろしく多忙で、先ほどまで寝る間もないぐらいだった。兵を纏め直すのは俺たちに丸投げだったが、片目を失った春蘭に泣きついたり、潰れた目のために手製のアイパッチを作ってみたり、袁紹のところに行って存分に愛でられていたり、袁術のところに行って、いろいろ姉として相談に乗っていたり、桂花となにやらを画策したり、俺とベッドの中でいちゃついたり、蓮華に後ろから蹴りをいれたり、と──溜め込んだ宿題を一日で片付けるぐらいあちこちを飛び回っていた。

 ちなみに、虎牢関は、未だ堅固にこちらの行く手を阻んでいる。
 戦況は進むもできず、退却するにも犠牲がでかすぎる。すでにもう千日手に陥っているのだが、そのことについてはあまり心配していない。
 これについては、田豊がそのうち陥落する、とか言っていた。詳しいことはわからない。
 あの腹黒なちびっこ軍師が、根拠のないことを言うわけがないので、またロクでもないことを考えているんだろう。
 おー、こわいこわい。あれも敵にするには強すぎる。あの謀略の切れは、俺の詠とほぼ同等だった。ここは流されるまま、黙ってみていることにしよう。

「うーん、これは。でもねぇ。ああすればいいのかしら」
 華琳は、床をごろごろと転がりながらなにかを考えているようだった。

 さて。
 ──俺が当面考えなければいけないのは、当然のように曹操軍内の派閥争いだった。曹操本人がいなくなったところで、まだ郭嘉や程昱がいる。
 程昱は華琳を操縦するために、性格の把握に努めるだろう。
 が──
 程昱が、華琳の性格を把握するまでに、それなりの時間がかかるだろう。
 とりあえず、董卓ちゃんを助け出すまでに、それを引き延ばしたい。
 華琳がなにも騒動を起こさないということはありえない。この三日、俺は華琳に監視をつけず、彼女の思うままにさせてきていた。
 騒動をダース単位で起こしているはずである。

「ちょっと一刀。とても素敵なことを思いついたのよ」
「なんだその聞く前からロクでもないと確信させるような前フリは」
「関羽を手に入れる方法よ。一番確実な方法を思いついたわ」
「あー、なんだそれ?」

 そして、次に言った華琳の台詞が、周りの時間を停止させた。

「──劉備を殺しましょう」

「え?」
 最初、俺は華琳の台詞を理解できなかった。
「………………」
 程昱の表情が変わる。今、初めて、『華琳そのもの』を見た、と──そんな表情だった。

「だって、劉備を殺さないと関羽が私のものにならないじゃない」
「ああ、そういうことか。うーん、まあ悪い策ではない、のかな?」

 仮にも曹操なら、自らのプライドに縛られて、絶対に打てない一手である。
 意外に悪くないのかもしれない。関羽と張飛、それに孔明が守っているだろう大将を殺すことが、ほぼ不可能に近いという現実を加味しないならば。

 いや、ダメか。
 失敗したリスクもでかすぎるし、呂布との兼ね合いもある。関羽が、劉備を越える忠誠を捧げるだけの価値を、華琳に見いだせるかどうか。

「しかし、どうする? 口で言うのは簡単でも、やるのは不可能だろう。軍の大将を殺すことがどれだけ困難か」
「ああ、それなら心配ないわ」
「え?」
「もう殺してあるから」
「は?}
「よいしょっ、と──」
 ずるずると音をたてて、天幕の奥の方から、華琳がズタ袋のようなものを引きずってきた。
 袋を縛っていた、糸をほどく。

「………………」

 ──劉備だった。
 本当に、劉備だった。
 後頭部を鈍器のようなもので殴られたらしい。
 うつぶせに地面に倒れたまま、どくどくと地面に血が吸い込まれ続けている。ときおり、ぴくぴくと痙攣していることから見るに、生きてはいるらしい。

「どうしたんだ、これ?」
「えーとね。十分ぐらい前かしら。劉備が私に挨拶にきたのよ。護衛もつけずに。ほら、最初は殺すつもりなんてなかったんだけど、後ろ姿を見ていたら、つい、ほら殺意がよぎってね。ちょっとばっかり。大丈夫よ。姿は見られていないし、死人に口なんてないしっ。あとは近場に埋めてしまえば証拠はなくなるわ」
「………………」
「というわけで」
 華琳は、親指と人差し指を咥えて、ピィーーッという音を鳴らした。

「はいっ。華琳さまの衣服を暖めておきましたぁっ!!」

 がばっと。
 天幕の華琳の衣装箱の中から、桂花が飛び出してきた。
 うわぁ、飼い慣らしてやがる。

「………………」
「ねえ桂花。劉備を埋めるための、いい感じの穴とかあるかしら?」
「はいっ。北郷を落とすために堀りすすめていた、特製の落とし穴が、この下に」

 衣装箱の中が、空洞になっている。
 深さ一メートルほどの落とし穴がそこにできていた。

「よいしょ」
 華琳が、そこに劉備の死体(?)を投げ込む。
 ところで、華琳と桂花が劉備の上に土をかけ始めたんだが、そろそろ止めたほうがいいんだろうな。これ。

 華琳を蹴り飛ばしながら、考えを進める。

 よって、

 劉備の王道と、華琳の覇道。

 このふたつがどれだけ混じり合わない水と油なのか、俺はこれからさんざんに思い知らされることになる。






 次→ 『北郷一刀 VS 劉備玄徳』








[7433] 華琳、劉備陣営を買収し、劉備その志を語る、とのこと
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:02fc2729
Date: 2012/06/17 23:10





「劉備陣営を買収しましょう」

 僕らの華琳さまは、流石にまったくこれっぽっちもブレがなかった。

「桂花ちゃん。説明して」
「はいっ」

 桂花がてれてれしながら前に出てきていた。
 華琳が私の蕭何、とか言っているかわからないが、うちの軍の内政全般を司っている桂花があれこれと説明を始めた。
 華琳は軍略については素人同然なので、必然的に桂花となにやら悪企むことになる。というかさっきまで現在進行系で企んでいた。
 
「要するに、ひとりかふたりぐらい要職の人間を金で転ばせればいいのよ。劉備陣営なんて、見るも哀れに赤貧に喘いでいるような寄合い所帯じゃない。いっそのこと、陣営をまるごと買い上げてしまうのはどうかしら」

 一方、桂花は自分の能力を十全に生かしうる主を得て、水を得たサカナのようにピチピチと跳ねていた。
 水魚の交わりとでもいうべきか。
 水とサカナのように切っても切れない関係という意味だが、見ていて微笑ましいともいえる。どっちが水でどっちがサカナなのかは諸説あるだろうが、おそらく桂花がサカナで華琳が水だろう。
 華琳なしだと桂花が喘ぎながら死んでいくという意味で。

「――まあ、策としては割とマトモかな?」

 華琳の策にしては、口をはさむほどヒドイわけでもない。
 内通者を作って、劉備の死(死んでない)を有耶無耶にする。
 考えるべきは、誰を狙い打つか。そして、なにで転ばせるのか。財宝かそれとも地位か、それとも?

「で、あるのか金とか」

 ひとまず、転ばせるなら金か。
 程昱がブンブン首を振っていた。
 それはそうだろう。これだけの大規模な出兵の最中である。軍費なんてすでに底をついていても不思議ではない。

「えーと、ちょっと待っててね」

 華琳がこっちにお尻を向けつつ、衣装箱をひとつこっちに運んできた。なにが入っているのかわからないが、随分と重そうである。
 そして、華琳はそのまま蓋を横にずらした。

「ええっ」

 俺は眩しい黄金の煌きに目を奪われた。
 衣装箱を覗き込む。鋳造された金の塊が大量に詰め込まれている。透明な石のようなものから精巧な龍の彫り物、金、銀の首飾り、珊瑚の飾り、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙の飾りなど。玄妙な青色が彩色された陶磁器に、あとは七星剣が乱雑に突っ込んである。あとは俺の足ぐらいの太さの香木なんてのも入っていた。

「こんなところよ。へそくりぐらい用意しているわ」

 明らかにへそくりとかいう規模ではない。
 経営しているメイド喫茶のアガリなのだろうが、県や郡ぐらいなら丸ごと余裕で買えそうだった。

「す、凄いな。一番単価が高いのはどれだ。やっぱり七星剣か?」
「そうですねー。すべて財宝としては、一級品ばかりのようです。特筆するのならこの白香木なんかが、皇帝への献上品としても通用する逸品だと思うのですよ。風のお給金何年分でしょうか」

 程昱が目を止めていたのは、人の胴ほどもある木の幹だった。
 いわゆるところの香木か。
 キラキラと輝く財宝より、これが一段抜けているのは意外だった。

「それは七乃さんにあげようかとおもったやつだけど、この際、仕方ないわね。これを全部ばら蒔いていいから、誰かを転ばせてみなさい」
「まあ、これならなんとかなるのかもしれんが」

 まさしく大盤振る舞いだった。
 劉備陣営を金で転ばせる。
 プラン自体は悪くはないだろう。広く考えてみよう。長く劉備軍にパイプを作ることにもなるのは、決して無駄にはならない。さて問題は劉備陣営の、いったい誰をねらいうつべきか。というわけで、考えてみる。

 孔明。
 できるはずがない。

 関羽。
 千里行の故事を見る限り、絶対に裏切るはずもない。信義とかで全身を煮詰め、弱者を守り強者を叩き潰す関羽にとって、裏切りとか離間などは、彼女のもっとも嫌うところだろう。

 そして、張飛。
 却下だ。こんなところで張翼徳の信用を失うわけにはいかない。個人的にもすべての財産を引き換えにしても張飛を得たいところなのだが。やっぱりこんなことぐらいで引き抜けたら苦労ないよなぁ。

「しかし意外ですねー。華琳さまはまず最初に関羽を口説き落とすべきだと主張すると思ってたのですが」

 程昱の指摘に、

「だ、駄目よ。こんなことで関羽の信用を失いたくないわ」

 とか、華琳は恋する乙女のようなことを言っている。

 畜生、畜生、俺は半分あてつけというか関羽への嫉妬みたいな感情を持て余していた。全力で邪魔することを心に誓いながら、俺はアレをコレコレしはじめた。
















「お姉ちゃんが帰ってこないのだ」
「どっかで迷子になってるんじゃないか? 実際広いし、どこ見ても人の群れだしなぁ」
「本当にそうならいいのだがな。失礼を承知で言わせていただく。北郷殿、その天幕のなかを検分させていただきたい。すでに一刻以上経っている。これは明らかに普通ではない」

 見張りの兵士と問答していた関羽と張飛が、俺にそう言っていた。
 時間稼ぎのために、見張りの兵士には劉備はここには来ていないということを言い含めてある。
 けれど、劉備はふたりには曹操さんのところに行ってくるよ、と言付けぐらいはしてあっただろう。となると本当に迷子になっていない限り、こちらが嘘をついていると疑う、というのが普通の思考だろう。実際に嘘をついているわけでもあるし。

「……………」

 無言でこちらを見透かすような孔明の視線が、とても怖い。
 嘘を見抜かれるか? 
 俺はその瞳に思わず、目を逸らそうとして――

「おおこわい。野盗あがりとは聞いていましたが関雲長にはタカリを働くアレがあるのですかー」

 横から助け舟を出された。
 程昱がわざとらしく驚いてみせていた。いや、本当にわざとらしい。さっぱりやる気が感じられない。
 いや、元からこんなだったかもしれないが、さらにテンションダウンしている。華琳の奇行に付き合うのがどれだけ気力を消耗するものなのか、振り回されてみてよくわかっただろう。桂花と対照的である。

「なんだと?」

 関羽の餓狼のような双眸が、俺たちを捕えた。
 呂奉先に相対したときと同質の殺気を浴びせられて、俺たちが耐えられるはずないだろう。ごめんなさいごめんなさいと土下座して謝りたくなる衝動にかられた。けれど、そこで意外な場所から声が降ってきた。

「なんだ三人とも。雁首揃えて、お目当てはこれだろう」

 くたり、と白目を剥いて気絶している劉備が、乱暴に放り出されていた。完全に地面に投げ出しているあたり、遠慮のカケラもない。

 先ほどまで、俺が調略していた人物が、劉玄徳を地面に放り投げていた。

 その人物は、白羽扇を口元にあてていた。
 後の蜀最強軍師のトレードマークとして、長く人々に愛されることになるアレだった。
 彼女は、いつもどおりといえばいつもどおり、沸騰しかける場の雰囲気をものともせずに、悠久とそびえる泰山のように悠然と佇んでいた。

 ――むろん、孔明ではない。
 そして孔明本人は、か、簡雍さん、わたしの白羽扇をかえしてくださいー、とほわわはわわと涙目になっていた。

「こんな感じで、玄徳は嬉しさの余り失神しているようだ」
「簡雍さん。あの、桃香さまなんですが、口から泡を吹いてないですか?」
「ああそうか。先ほど抱きしめたときに、少しばかり強く抱きしめすぎたかなにかだろう」

 というわけで、簡雍だった。
 仙女と見紛う傲慢不遜な金髪美少女は、むしろそのまま劉備を踏みつけそうな態度である。抱え込むように白香木を抱きしめている。

「――簡雍どの」

 関羽がわなわなと震えている。

「桃香さまへの数々の狼藉。同じ大志をもった仲間とはいえ、見過ごすわけにはいかぬっ。そこになおれっ!!」

 関羽の大音声が、辺り一帯を震わせた。
 超一流の武将である関羽のそれは、音波というカテゴリを超えて、すでに物理的な衝撃波に近い。
 間違いなく十分に兵器として通用する。
 一瞬、意識が飛びかけた。

 それで、簡雍はどうしたかといえば、

「は」

 と、乾いた笑いを返しただけだった。

 すげえ。
 調略する相手に、簡雍を選んだ俺の判断に間違いはなかった。

 頼もしすぎて逆にこれでいいのかと思えるぐらいである。

 なお、簡雍との話し合いは、白香木と、劉備軍の一月分の食料でカタがついた。

 公孫賛が死んで、劉備軍は頭を失った形になっている。
 よって幽州軍の客将として寄生しているだけの劉備軍は、無駄飯喰らい以外のなにものでもなく、こういう申し出はありがたかったのだろう。
 簡雍は現在進行系で、白香木に頬ずりしているが、今のところそれをツッコむ精神的余裕は誰にもない。

「それで簡雍のお姉ちゃん。なんでこんなことになっているのだ?」
「ふむ、曹操どのから同盟の誘いがあってな。一時的に我々は曹操どのの軍の指揮下に入ることになる。玄徳と一緒に話を聞いて、たった今了解したところだ」
「なっ!! いや、それが桃香さまの決断なら、それを尊重するつもりだが」
「それがひとつ問題があってな」

 簡雍がそのあと、

「ちなみに玄徳の意思など問題なく、私サマが勝手に決めた」

 と、いけしゃあしゃあと言い切った。
 当然、周りはすべて絶句している。

「食料援助などの好条件を考えると、断るという選択肢などなかったのだから仕方ない。独断というわけではない。提案を受ける以外の選択肢が存在しないだけだ。みんな貧乏なのが悪い。そうだろう、孔明」
「は、はい。簡雍さんのやり口と態度はともかくとして、現状ではこれはたしかに受け入れるしかないです」

 孔明が、同意を示していた。
 こちらが譲歩しまくっている。条件がうますぎて胡散臭いぐらいだ。垂涎、といえるぐらいの好条件を提示しているのだから当然だ。

「なにを言っている。桃香さまの決定なら、是と非のどちらでも従うべきだ。金など後からどうにでもなる問題だろう。志を折ってしまっては、なんのための大義か。民に対してどう申し開きをするつもりだっ!!」

 関羽がヒートアップしていた。
 彼女なりに譲れないものがあるらしい。ここであっさり折れるようなら関羽は関羽たり得ないことぐらいは俺にもわかる。

「ふふふふふ、なるほど。金など後からどうにでもなると言ったか。なあ、二月ほど前に、金が尽きたということで、関羽ちゃんは滞在していた街の酒家にて給仕の仕事を請け負ってきたな」
「そ、そんなこともあった、な。実に屈辱的ではあったが」

 関羽が、遠い目をしていた。

「その際、尻を撫でてきた店主を半殺しにし、店を半壊させてくれたのは、どこの関羽ちゃんだったか?」
「ぐっ!!」
「なあどこのお馬鹿関羽ちゃんだったかなあ。出稼ぎに行って、逆に借金を拵えてきた薄ら馬鹿関羽ちゃんは。壊れた店を補填するのに、どれだけの金額がかかったかもう忘れてしまったのかなぁ。そんな自分では一銭も稼いだこともないかわいそうな関羽ちゃんが、私サマの方針に対して文句をつけているように見えるのは気のせいだろうか?」
「ぐ、ぐううううう」

 関羽は、無念を噛み殺していた。
 というか、今更だが仲が悪いのかこいつら。

 史実では、簡雍は孔明とかに対しても、横柄な態度を崩さなかったという。つまりこれはこれで三国志に忠実ということなのだろう。

 華琳の様子を見てみるとなにやら陶然としていた。
 様子をよく伺ってみると、『ドジっ娘』、『関羽』、『素晴らしい』などという単語をぶつぶつと呟いていたので、もうちょっと放置して夢を見させておくことにした。とりあえず、客将の扱いで関羽で命令できるようになったので、華琳の病気も少しは落ち着くのではないかと思われる。




 











 劉備軍の首脳陣を招いて、カタチばかりの小規模な祝賀会が催された。
 宴としてはかなり味気ない。
 戦況としては敗北していて、現在も虎牢関で足止めをくっている状況なんだから仕方ないといえる。
 士気が無視できないレベルまで低下している現在、ここで軍規まで緩めるわけにもいかない。
 酒もなく、いくつかの点心が振舞われているだけだった。
 ここで活躍しそうな流琉も、今は呂布戦のケガが響いてベッドから動けない。
 流琉がいないせいで、せっかくの点心の質まで落ちている。軍の弱体化で一番に煽りをくらうのは食料なんだから仕方ない。ないないづくしで、もう泣くしかない。

 いくつかの面々に面通しを行なったあと、俺は関羽がいないとわめく華琳を連れて歩いていた。

「うう、関羽がいないわ。切ないわ。いっそのことうちの店に関羽の彫像でも飾ろうかしら。商売繁盛の祈願でもしようかしら」

 華琳がぶつぶつと言っている。
 俺はこれが原因で、後に商売の神様とでも祀り上げられるなんてオチがついたら嫌だな、なんて思っていた。

「劉備の姿も見えないな」
「関係なくない?」
「なくはないだろ。ふたりともいないってことは、関羽が劉備の護衛をしているって可能性が高い」
「ますます気に入らないわね」
「なにがだよ」

 俺が言うと、華琳がジト目でこちらを睨み、

「それで、一刀はおっぱいにでも誘惑されたの?」

 とか言ってきた。
 なんていう言い草だ。
 違うぞ。俺のマイブームはぺたんこだ。神々しいぺたんこだ。張飛に対して、涙を呑んで仮想敵扱いをしなければならない俺の引き裂かれそうなハートは決壊寸前だった。

 これから、俺は関羽に対して、妹さんをくださいと言いにいかないといけない。

「あんな小さい子に手を出すつもりなの、あんたはどこまで」
「違うぞ。俺は張飛を妹として迎えたいだけだ。桃園の誓い的な意味でっ!! もちろん娘でも可だ」
「もう勝手にやってなさいよ。ただし私の関羽に手を出さないでよ」
「いつから関羽はお前のものになった」

 俺は辺りに気を配った。孔明から聞いた情報が正しいなら、ふたりともおそらくこのへんにいるはずだ。

 少女が直立していた。
 ものすごく綺麗な置物のようである。立っているだけで目を引くのは、その立ち振る舞いが一流の武芸者のものだからだろう。
 烏の濡れ場色の髪が、夜に溶けていた。

 そのまま関羽に誰何された。
 緊張して、華琳の動きがカタついたみたいにぎこちなくなっていた。

「劉玄徳と話がしたいんだが。せっかくの顔を合わせる機会でもあるし」
「桃香さまは、いま――」

 関羽が言いよどんでいる。

 おや、と。
 俺は心のなかで疑問符を浮かべた。

 客人に対応しない理由がない。本来なら、客を優先できない理由があるはずないのである。スポンサーに対する挨拶は最優先事項だろうに、なにやら陰謀を練っていると因縁をつけられても弁護できないところなんじゃないかこれは。

「桃香さまは今、兵士たちと語らっています。参加していかれますか?」
「ふ、当然じゃない。是非招待に与らせていただくわ」

 華琳は、関羽の前で格好でもつけたいのか、曹操の真似とかしていた。あと用法はあってるけど、使い方間違ってるから。

「我が主人は、暇さえあれば兵たちと語り合っています。これも桃香さまの仁徳あればこそです」

 兵士たちと語っている。
 それは、見てみるとそのままの意味だったし、それだけの意味だった。

 だが、その異様さはひと目で見て取れた。

 ――なんだあれ。

 劉備が、風の音をきくように、兵士たちの言葉に耳を澄ませている。

 言葉を返すわけでもない。
 励ましの言葉のひとつもかけているわけでもない。

 なのに。
 兵士たちのひとりひとりの言が、劉玄徳に染み込んでいくようだった。

「なんだ、あれ?」

 息を呑む。
 劉備とは、精霊かなにかだったか?
 そこには一種、異様な雰囲気が取り巻いていた。
 なにか尊いものが具現化しそうな、近づくだけでその空気が砕け散りそうな気がして、俺はそこから一歩も踏み込めなくなった。

 兵たちは憑き物が落ちたようになっている。
 なんだ、俺は今、なにを見ている? 自分に問いかけてみるが、答えはみつかりそうにない。

「うんっ。みんなありがとう。あのね、ちょっと曹操さんたちと話してくるねっ」

 関羽に呼び止められて、劉備はこちらに歩いてきていた。
 無意識に華琳から距離をとっているような気がする。遺伝子レベルで、殺されかけたことがトラウマにでもなっているのかもしれない。

「随分と慕われているようで」
「あ、あははっ。恥ずかしいな。聞かれてたかな」

 劉備は顔を赤らめている。
 調子はそう良さそうではない。いろいろ消耗しているのもあるだろう。主な理由は華琳に殺されかけたせいで血とかが足りないのだろうが。

「言っていることが腐れ儒者みたいね」

 華琳は思ったままを口にだしていた。
口先だけの正論を言うクズ、という意味である。
 劉邦の時代から悪口として成立していた、由緒正しい中華のスラングだった。

「そんなこと言われても困るよ。民のみなさんを助けたいって気持ちは、ホントのことなんだから」

 劉備はぶーたれていた。
 関羽の視線が険しくなる。それに華琳はがーんっ、とショックを受けていた。
 関羽はどうでもいいが、その反応に一挙手一挙動に敏感に反応する華琳はとてもかわいい。

「私はみんなを助けたい。力のない人たちが虐げられている世の中は間違ってると思う。少しでもそういう人たちの力になりたくて、愛紗ちゃん(関羽の真名)や鈴々ちゃん(張飛の真名)たちと旅を続けてきたの。
 三人だけじゃなにも変えられなかった。だから、たくさんの人たちが賛同してくれて、それに背を向けるようなことはできないし、恥じるような真似もできません。私が会ったひとたちはみんな凄いひとだったけど、私も負けるわけにはいかないよ」
「へー、すごいわ。あこがれるわー」

 ボソッ、と――華琳が口の中で、この女もう一回殴り殺そうかしら、とかいう形に動かしているような気がするが、おそらく気のせいだろう。俺の気のせいであってくれ。

「むがーっ!!」

 俺はおかしなことを言う前に、華琳の口を塞いでおいた。

「装備の統一もされていないし、話していた連中は義勇兵なんだろ? 独立するときのために、公孫賛のところの兵を引き抜こうとでもしてるのか?」

 公孫賛の幽州兵たちは、正規兵である白馬騎兵以外は義勇兵で固められていた。だったら、と思ったのだが、関羽の話によるとそれは俺の勘違いであるらしい。
 
「これは北郷殿も異なことを。あれらはすべて、桃香(劉備)様の徳を慕って、集まってきた義勇兵たちです」
「数は?」
「桃香さまが単独で集めた義勇兵の数は、五千ほどですが、それがなにか?」

 俺は最初、その言葉の凄まじさを、理解できなかった。
 少なくともこれは、簡単に言えるようなことでも、できるようなことでもない。

 なんだ、関羽はなにを言っている?
 最初、俺を担ごうとでもしているのかと思った。

「兵士たちの募集の高札を出したりしたわけでもなく?」
「はい。言うなれば、あれこそが桃香さまの王の資質でしょう。万人に自らを重ね、あらゆる人々に手を差しのべることができる。だからこそ、民衆たちは桃香さまの徳を慕うのです」
「愛紗ちゃん。それ褒めすぎだよぉ。曹操さんたちも、すごく魅力的でしょ。ごはんいっぱい食べてるんだろうなぁって思うし。みんな誘われたらそっちに行っちゃうんじゃないかなって」
「桃香さま」
「でもね。みんなが幸せに暮らせる国にしたい。そう思ってる」

 彼女は、果てしなく途方もない――夢を語っている。
 そしてどこにでもいそうな普通の少女には、それを実現できるだけの力がある。正直、ここまで恐ろしい能力だとは思ってもみなかった。

 劉備はこの時点でどこの太守でも州牧でもない。
 民に安寧を保証できる、最低限の地位すらないはずだ。
 地位にも宗教にも、そして実績にも頼らず、有り余る金にも頼らず、ただ個人の『徳』のみで兵を集めている。すくなくともここにいる兵士たちは、夢を託す主人として劉玄徳を選んだということだ。人を惹きつけるに足る器。三国志の主役を張るに相応しい、ありとあらゆる人々の共感を勝ち取る能力。

 戦時だ。

 もっといい士官先などいくらでもあっただろう。劉備の元に集った義勇兵たちは、その栄誉を捨てて、最底辺の境遇に甘んじている。明らかに異常というしかない。

 五千の兵。

 史実の話である。
 反董卓連合にあたり、曹操はそれだけの兵を集めるのに、実家を破産寸前までに追い込んだ。 
 孫策はそれだけの兵を袁術から引き出すのに、玉璽を担保にしなければならなかった。

 五千というのは、そういう数である。
 劉備だけが、自らの徳のみで押し通して、なにひとつ失ってすらいない。戦略シミュレーションゲームで例えるなら、彼女の陣営だけ失った兵士たちの補充費用がかからない、みたいな凄まじい能力である。

 そして、そこまでの覚悟がある私兵集団が弱卒なはずもない。

 そして、詳しく聞き出した劉備軍の実態は、さらに俺を唖然とさせた。

「軍隊組織すら浸透させていないということか?」
「うん。だって、みんな仲間だし」

 阿呆かこいつらは。
 兵たちを仲間というのはいい。それが劉備というカリスマを最大に活かすということを意味するからだ。そこまではいいとして、なぜ少し軍組織をほんの少し使うことを考えない。いくらなんでも命令伝達ぐらいは張り巡らせないといけない。劉備軍には、強さを持続させるノウハウが存在しない。このままだと関羽も張飛も孔明でさえも宝の持ち腐れで終わる。

 組織として長所と短所のアンバランスさが凄まじい。
 これでは組織というよりただの宗教団体や革命集団みたいなものだ。こんな集団が天下をとってみろ。劉備が存在している地方だけが繁栄し、劉備の威光の届かない地域はまるで麻のように乱れるぞ。

 目が合った。
 普通の女の子のように笑っていた。これがすべて演技だったとしたら凄いと思うが、そんなことはおそらくないのだろう。笑いかけられるような少女を普通とは言わない。

 劉備。
 この少女の底が読めない。読めるはずがない。

 こんなもの奇貨ですらない。
 いや、奇貨というのは、いつか値段がつくかもしれないから塩漬けしておこうという素材のことだとして、この場合はむしろ逆か。
 今は値段が高止まりしていても、いつ暴落するかわからない貨幣みたいなものだ。臣下としての俺が必要とされるとしたら、むしろこちらだったな、と有りうるかもしれなかった選択肢に想いを馳せた。

 おそらく、正常な判断はできていなかった。後から思い返して、俺は魂を触られたような悪寒に、痛みで正気に戻される。

 華琳の口を塞いでいた俺の指に、

「がうっ」

 と思いっきり噛み付かれた。

「いてぇっ!!」

 そして、我に返る。

 俺は無言で華琳の鼻の穴に指を突っ込んだ。そこから改めて、俺と華琳の不毛な争いが再開された。

 そして俺は、その劉備とともに在ったかもしれない未来とその可能性を、二度と浮かび上がってこないように、意識の底に沈めようと努めた。






 次回、『華琳の董卓ちゃん救出作戦(企画編)』







[7433] 袁紹通達を下し、一刀、詠にセクハラをする、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:02fc2729
Date: 2012/07/02 15:04








「先ほど、盟主である袁紹軍から全軍に通達があったわ。数日中に虎牢関は落とす。洛陽への行軍準備をしておくこと――だそうよ」
「なんだそれは?」

 報告は突然だった。
 なんの具体的な説明もなく、一方的に指示だけを通達される。
 なんだろう。袁紹のやることは、まったく意味がつかめない。準備しろと言うだけ親切なのか、はて。
 蓮華も、同じように困っていた。

「なんなのかしら。貴方の主人みたいに、袁本初の言っていることが掴みづらいわね」
「虎牢関を落とす、ねえ。出来もしないことを言ってるだけじゃないか? 呂布は取り逃がす羽目になった。もう一度戦うだけの戦意なんて、どこからどうやってもかき集められないだろう?」
「そうね。うちの部下たちはともかく、これをこのまま伝えたら、逃亡兵が多数出るんじゃないかしら」
「いや。というより、俺の兵たちも戦える状況じゃないぞ?」

 首脳部で細かい仕事を片付けていた俺を、蓮華が迎えてくれていた。
 俺は彼女にタオルで額の汗を拭いてもらう。虎牢関の前で足止めを喰らい、やることのひとつもないはずなのに、やけに忙しいのは何故だろう?
 呂布との激突からすでに五日。
 反董卓連合はやれることもなく、食糧を失っていくだけだった。

 なにもしない、というのは思いの外エネルギーを使う。
 よって、やれることがあるのはいい。それがまあ袁紹の命令であってもだ。

 しかし、戦力が足りないのは確かだ。
 曹操軍もそれに組み込まれている俺の隊も、半分近くの戦力を失っている。

 俺個人の部下のうち、凪も沙和も真桜も思春もまだ治療中だ。
 とうてい戦場で指揮できる状況ではない。

 曹操軍で、無傷な曹洪、曹仁、そして俺の詠と蓮華だけのガタガタな戦力で、呂布をどう討ち取れというんだ? 
 このままだと、半分以下の戦力での再戦を余儀なくされる。
 ランチェスターの法則ではないが、今度は勝負にならない。ただ戦意のみで押し切られる。戦えるのは前回、一方的な大勝利を収めた袁紹軍ぐらいのものだ。
 
 ――もう一度戦えば、必ず負ける。
 それが現実だろう。

「それが実は、袁紹軍が単独で虎牢関を落とすといっているらしいのよ」
「まあ、たしかに連中はほぼ無傷だが」
「できるのかしら?」
「できない、とも言い切れないのがあの陣営の恐ろしいところだが」

 本気で、単純な力押しと、袁紹の運と、田豊の鬼畜戦術でどうにかしてしまいそうである。
 誰も否定できないことは、袁紹軍がここまで最大の戦果を挙げていることだ。
 まさかここまで強いとは。呂布の黒きけものたちを一度は全滅させ、虎牢関防衛軍のほとんどを削りきった。

 ここまでの戦功一位は、間違いなく袁紹軍だ。
 それを踏まえてみると、手柄を立てたくて焦っているとは考えられない。すると、本気で十全な策があるということなのか。

「まあいいか。考えるのは俺の仕事じゃないし」
「まったく、やる気があるのだかないのだか。詠さんは貴方のように暇なわけではないのよ?」

 蓮華が顔をしかめていた。
 今のところ、一番忙しいのは詠だろう。うちの軍にも負傷者が続出している以上、どうしても洗濯などの雑務は積み重なっていく。本業のメイドの仕事を手は抜けない。俺はその判断を、詠の仕事が終わる夜にまで待たされることになる。

「そう。袁紹軍の、というより田豊の考えてることはだいたいわかったわ」

 暗い天幕の中を、ゆらめく蝋燭の光源だけが揺らしている。
 俺の話を最後まで咀嚼して、詠の言ったセリフはそれだった。

 やはり、こいつだけ別格だ。
 俺の詠はたったあれだけの情報で、袁紹軍の命令の裏側にあるものを、ひとつ残らず汲み取ったらしい。

「たしかにこれしかないでしょうね。この策が上手くいったなら、一兵も失わず虎牢関を、それも単独で落とせるわ」
「なんだそれ。離間か。それとも二虎競食か?」
「あえて説明しないわ。見てればわかる。どのみち、口にするだけでいろいろと汚れそうな策ではあるし」

 俺は首をかしげた。この時代一番の謀略家である詠が、そこまで言うとなれば、本格的に恐ろしい謀(はかりごと)なのだろう。
 それは詠の表情に、隠しきれない嫌悪の情が浮かんでいることから読み取れる。

 むしろ――
 詠が言葉を続けた。

「この状況としての策としては最上だろうけど、でもこれって袁家の美意識とは対極にあるような策なのよね。全軍に通達したということは、田豊は袁本初を説き伏せたということになるけど」
「え、ええと?」
「軍師の領分を逸脱しているってことよ。主君の望む献策をするのが軍師の仕事。ボクだって月の考えまでは変えられないし、反対されることが目に見えているわ」

 うーむ。
 俺と華琳の関係にも適応できそうな含蓄のある話だった。
 自分の主に在り方と真逆の献策を飲ませられるのが、あのガキの一番恐ろしいところなのかもしれない。そういえば、昔、華琳がこんなことを言っていた。

『大丈夫よ。麗羽姉さまも、美羽ちゃんも、子供には寛大だから。田豊がなんで麗羽姉さまの軍師をやれてるのか、わかるでしょ』

 自分が子供だということに対する主君の甘さを、田豊は遠慮なく突いているということなのか。いや、これはこれでひとつの忠誠のカタチなのか。オーベルシュタインみたいな奴だ、とか考えてみる。

 まあ、結論としては。
 ――ひとつだけ、間違いないこと、俺と詠が微塵も疑っていないことがある。

「あのガキが落とすと言った以上、確実に虎牢関は落ちるんだろうな」
「それは間違いないわ。ただどうあってもこんな策、ボクなら月(ゆえ)には渡らせられないわね。ボクが単独でやるならともかく」
「あのな。詠。そういうのはやめろっていったろ?」

 なにもかもひとりで背負いこもうとする。
 そうやって、自分自身を削り落としていくのが、この娘の悪癖なのだと、今の俺はよくわかっている。

「わかってる。あんただってやらせる気はないわ。だから田豊の策は、ボクには使えないってことになるわね」

 今までのこの少女だったら、力不足に嘆いていたのだろう。
 けれど今の彼女は、きちんと前を見据えることができる。

 詠の印象は、ずいぶんとやわらかくなった。
 これは、彼女が良い方向に変わっていく兆しなのだと思っておくことにしよう。きっとそうだ。

「だから、そんなことに言葉を費やしても意味はない。むしろ、これからの話をすべきね」
「洛陽に進軍したあとのか。どうやって攻めるのか、とか?」
「いいえ、そのあとのよ。洛陽を落としたあとで、いったいどうすべきなのか。論功行賞でなにを要求するべきなのか、とか。そのころには、ボクが使い物にならなくなっている可能性もあるし、そこまで教えておかないといろいろと不都合があるでしょ?」

 ――詠が使いものにならなくなる可能性。

 飛び出した物騒すぎる言葉が、俺の背筋を冷たく濡らした。

 だが、言われてみればそうだ。
 誰だって、軍師とはいえ、戦場で討ち倒される可能性もある。あの天の御使いを相手にする以上、なにが起こっても不思議ではない。

 だが、彼女が想定している事態は、実のところただひとつだろう。

 董卓ちゃんが、死ぬ場合の仮定。
 そのショックで、一時的にでも自分が使い物にならなくなるはず。
 だから、他人に振り分けられるリソースは、すべて振り分けておこうという彼女の気遣いだということか。

 本来、余計なお世話だとでもいうところなのだろう。
 だが彼女ひとりがいなくなるだけで、俺の部隊は完全に機能停止に陥る。彼女の判断は、正しすぎるほどに正しい。

「――だから、このあとの方針をすべて伝えておくわ」

 遠い。
 立つ鳥跡を濁さず。
 俺と詠の契約は、董卓ちゃんを助けるまでだ。
 董卓ちゃんの救出に、成功しても失敗しても、彼女はいなくなる。これはこれで、転機のようなものなのかもしれない。

「そうだな。いつまでも、詠に頼りきりになるわけにもいかないか」
「あの、詠さん。あなたさえよければ、すべてが終わったあとも、この部隊に留まってくれないかしら」
「蓮華」

 叶わないと知りつつも、言わずにはいられなかったのだろう。
 蓮華が、悲痛ともいえる表情を浮かべている。

「あのね、馬鹿じゃないのあんたたちは」

 詠がため息をついた。

「そうね。ごめんなさい。あなたにはあなたの主君が――」
「何言ってるの。そういう意味じゃないわよ。別にどこにもいったりしないわ。今のは当然やっておくべき、ただの引継ぎの話じゃないのさ」
「え、ホントか?」

 詠の様子を伺ってみると、単に呆れているようだった。

「それとも、あのときの言葉はすべて嘘だったの? ボクはとっくに、心も頭脳もあんたに預けたはずだったんだけど」
「――詠」
「最後まで見届けるつもりよ。あたりまえでしょ? いまさら、なにがあってもその気持ちは変わったりはしない」

 それに、と彼女は続けた。

「ボクの力が必要なんでしょ? そして、それと同じように、ボクにもあんたが必要なの。月に天下を取らせるって夢はなくなってしまったけど、貴方は代わりの夢をくれたじゃない」
「本当だな。本当にどこにもいかないな?」
「言ってるでしょ」

 やわらかな言葉は、きらめくような輝きを帯びていた。
 詠は、神聖な約束を守るかのように言った。

「あんたが私を捨ててしまわない限り、ボクは――もうずっと前から、あんたひとりのものよ」

 ――胸が詰まった。
 大事なものは、詠の紡ぎ出した台詞に、すべて込められていた。

 震えるような心地よさがあった。
 蓮華に先を越された。両手を広げて、全体重を込めて、抱きつく。遠慮なんてしてやらない。
 この手に抱いた温もりが、消えていかないことを確かめる。
 二度と離さない。
 俺は蓮華とふたりがかりで、抗議を声をあげる詠をもみくちゃにしはじめた。



















「董卓ちゃんは、必ず助けてみせる」

 改めて、作戦を練ることになった。
 改めて洛陽での董卓ちゃん救出作戦を見直してみる。わかっていたことではあるが、ぶっつけ本番の要素が高すぎる。

 地図を広げてみる。
 改めてわかるのは、洛陽の中心部にある北宮と南宮の常識はずれな広さだった。
 後漢末最大都市は伊達ではない。この広さの前では、多少の土地勘など慰みにもならない。実際に洛陽で数千の兵士を動員してなお、十常侍たちの数人を逃している。

 董卓ちゃんの首級を狙っている数々の諸侯の思惑を押しのけて、彼女を確保して逃げ出すなどと、正気の沙汰とも思えない。

 必要な情報がなさすぎて、賭けが成立しないレベルである。

「これでも、だいぶマシにはなったのよね。一厘もなかった可能性が、一割ぐらいに引き上げられたんだから」
「いろいろあったからなぁ。可能性が百倍になっても、まだそんななのかよ」

 手勢はもういくらあっても足りないぐらいだから、ないものねだりをしても仕方ない。今、切実に欲しいのは情報だ。確実な情報がひとつあるだけで、成功率がまるで違ってくる。

 せめて、と考える。
 ひとつでも情報があれば、他の諸侯が知らないアドバンテージがひとつでもあれば、そこにすべてを賭けることができる。このままだと、一か八かのバクチすら打てない。

 かすかに、鈴の音が鳴った。
 思春からの合図だ。
 どうあっても、華琳には詠の姿を見られるわけにはいかない。華琳と曹操は記憶を共有しているからだ。よって、思春には傷だらけの身体をおしてもらって、護衛についてもらっている。

 最優先での警戒対象にて、華琳の来襲に対しては鈴の音一回で合図するようにしていた。というわけで、華琳が俺たちのいる天幕の仲を覗いてきた。

「ねーねー、一刀。なんでこんな暗いところで軍議してるの?」

 華琳が、外と内を隔てている布に手をかけていた。

「――なにしてたの?」

 蓮華といる俺を見とがめて、華琳が明らかに不機嫌になった。
 詠は天幕の裏側に隠したので、華琳の目には映らないだろう。ただ、なにか隠していることは悟られたみたいだった。
 本人のアホっぷりと、女の勘というものはまったく別のものであるらしい。
 
 今まで詠がいた位置に誰もいないのでは怪しまれる(華琳はそういう勘は鋭い)ので、そこには今まで隠れていた思春を座らせている。

「なにって、董卓ちゃん救出作戦の最後の詰めをやってるんだよ」
「いい意見とかは浮かんだの?」
「いいや」

 難航している。
 というか、こんなものに作戦など立てようがない。

「がんばりなさい。応援しているわ」

 結局こいつはなにしにきたのか。
 つまり方針はこちらに丸投げであるらしい。
 華琳が元に戻った(?)ことで、とれる方策は広がったはずだったが、件の華琳を上手く使う方法が思いつかない。
 軍内部で意見がひとつになったのは利点ではあるが、特筆すべきはそれだけだ。董卓ちゃんを助けるにあたり、事態はほとんど好転していない。

「華琳を通じて、袁紹に助けてもらうのは?」

 という案を詠に出してみたが、すげなく却下された。
 ――理由は下記のようなものだ。

「代わりになにを要求されるのかが問題よ」

 と、俺の詠は言っていた。

「どうあっても生贄は必要になるわ。これだけの兵力と手間と死者を出して、実は首謀者である董仲穎が無実だったでは済まされないでしょうね」

 いや、そんなことないんじゃないか、と俺は思った。史実では洛陽が灰塵と化し、諸侯たちは労なく引き返している。

 と思ったが、この場合言葉の綾だろう。

 取引として、要求されるものに応えきれないということか。
 明確に情が通じそうなのは劉備軍のみであり、董卓ちゃんの首級は、州ひとつと引き換えにできるほどの価値を有する。

 袁紹が華琳に無条件に甘いとはいっても、

『ねぇ、麗羽姉さま。お願いがあるの。州ひとつちょうだーい』

 とか言って、これが受け入れられる可能性は流石にない。言い換えれば董卓(月)ちゃんの助命は、これに匹敵する暴挙だということだ。やはり、隠密に誰にも知らせず、秘密裏に逃がすしかない。

 というより、董卓ちゃんを一時匿うだけで大問題である。最悪こちらが朝敵と見倣されてまったく文句がつけられない。

 みたいなことを、詠はぽつぽつと話していた。仮定の話とはいえ、主君の首に値段を付ける気持ちは如何ばかりか。

 とこんなことを回想してみるが、それで事態が変わってくれるわけでもない。

「せめて、董卓ちゃんが普段どこに詰めているのかが分かってさえいれば」
「ああ。そういえば言ってなかったわね。董卓ちゃんなら最近はずっと嘉徳殿の方に閉じ篭ってるそうよ」
「……………………は?」

 うちの主人が、また阿呆なことを言い出したのだと一瞬思ってしまった。

「ええと、本当なら喉から手がでるほど欲しい情報なんだが、いったいどこから手に入れた情報なんだ?」
「どこからって、王允が調べてきて情報をよこすのよ。三日前に伝書鳩を使って届いた情報だから、そんな昔の話でもないわよ」

 微妙に知っている名前が出てきた。
 洛陽にいたときに、一度顔を合わせたことがある。
 言葉も交わさずに終わってしまったが、あのとき華琳とどんな関係性をもっているのかまでは聞けなかった。
 多分、王允がかつて豫州の刺史をしていたころにでも知り合っていたのかと思って、あまり気にはしていなかったのだが。

 王允。
 今は、三公のひとつである司徒の位にあるはずだ。詠のいない董卓ちゃんに政(まつりごと)が行えるはずがないので、今のところ洛陽という大都市のライフラインを握っているのは、つまり王允ということになる。

「信用できる情報なのか? 裏をかかれる心配は?」
「ないわよ。この間、私が主君の命を救ってあげたことに、いたく感激してくれたらしいわ。いろいろと情報を流したりしてくれるのよ」
「えっと、待て。王允の主君って誰だよ?」
「なに言ってるの。少帝ちゃんよ」
「あ、ああ」
「あのね一刀。もしかして私がなんの下心もなく、少帝ちゃんを助けるなんて危ないことをしたとでも思ってたの?」
「思ってました。ごめんなさい」
「まったくもう。そんなわけないじゃない」

 華琳の瞳に、きらめくような知性の輝きが見えた気がした。

「私のメイド喫茶を洛陽に出店する計画は、着々と進んでいるのよ。司徒(財務担当)である王允に恩を売っておくのは当然じゃないの」
「予想通りの反応ありがとう」

 むろん、そんなものすべて気のせいだった。

 華琳のあまりのブレなさに涙が出てきた。
 資料などで司徒、司空、大尉のみっつは、たいてい三公とひとくくりにされるために勘違いされがちだが、この三つは別に立場的に同列ではない。
 司徒は今でいう総理大臣みたいな役職であって、ほかのふたつである行政大臣と軍事大臣と比べてランクがひとつ違っている。

 史実では、王允は娘である貂蝉を使い、董卓と呂布の仲を裂き、董卓の打倒を果たすことになる。ゆえにここで王允の名前が出てくるのは、あるいは必然であったかもしれない。

「なんとかなりそうだな」

 董卓ちゃんは、嘉徳殿に篭っている。
 それが本当ならば、まったく話が違ってくる。
 連合軍は、董卓ちゃんを探す際、優先順位が高い順にしらみつぶしにしていくだろう。

 華琳に頼めばいいし、盟主が袁紹なら最悪、俺でも発言権を確保できる。
 あとは俺たちが、嘉徳殿のエリアの捜索を願い出ればいいだけだ。広すぎる洛陽をすべて調べるのは不可能だ。ならば、このエリアを決め打ちするしかない。

 完全なバクチだ。
 だが、手探りで進むしかなかった今までより、ずっと進展が見えた。
 これは、命を賭けるだけの価値があるものだ。


















「もっと楽しいことを考えよう」
「え?」

 唐突な話題の持ち出しに、詠はなにやらキナ臭いものを感じ取ったらしい。メイドの仕事を終わらせた詠を、俺はずっと待っていた。暇だというのも半分ぐらいの理由としてある。これは、反董卓連合が始まる前の、色褪せかかっている俺の記憶だった。陳留に帰ってきたばかりの、家を買ったあたりだったか。

「あははははは、よし董卓ちゃんを取り戻したら、陳留に家を建てよう」
「家ならもうあるでしょうが。なにトチ狂ってるのよ」

 詠がジト目で睨んできている。

「あのね。そんなこと言っても、月を匿う場所を探すのも一苦労よ?」
「心配するな。ちゃんと董卓ちゃんの役職も確保済みだ」
「前も似たようなこと言ってた気がするけど、まさか月をメイドにしようとかそんな下心を抱いてるわけじゃ」
「まさかもなにもそのものズバリだが。ちゃんと董卓ちゃんの分のメイド服も用意しているんだぞ。えーとな、試作品はこれなんだが、ちゃんと董卓ちゃんの白い肌に合うように、薄い色の生地を使っている。詠の荷物に入ってた董卓(月)ちゃんの着替えから寸法を起こしたから、多分ピッタリなはず」
「あんたね。その情熱を他に傾けなさいよ」
「ああ、華琳の着たメイド服は実に神々しかった。もしかすると董卓ちゃんのメイド服姿はアレを超えるやもしれん」
「…………」
「万が一、いや億が一似合わなかったときも、『水着』、『セーラー服』、『ネコミミ』と一式揃えてしまったんだが、どうだろう。ああ心配するな。仲間外れにならないように、詠の文もセットで用意してあるからな」
「…………」

 俺の演説はなお続いている。
 その途中、詠の表情から色が消えたことに、俺はそこで気づくべきだった。

「なお、こんな風に」

 俺は詠の後ろに廻ると、腰のあたりでほつれている糸を一本引いてみた。

「って、ええっ!!」

 詠が悲鳴をあげる。
 俺が糸を引っ張るごとに、メイド服が分解されて肌が晒されていくのに気づいたからだった。

「ここをこうやるとメイド服がほどけていくという、俺の故郷の伝統芸能である『よいではないかよいではないか』を完璧に再現してみたわけだ。ああ、これを董卓ちゃんにやる日が楽しみだなぁ。というわけで、絶対に董卓ちゃんを助けよう。俺の男の夢を、実現するためにっ!!」

 俺は痛いぐらいに拳を握り締めた。

「な、なんなのよこれ。悪趣味にもほどがあるわよ?」
「悪趣味とは手厳しいな。でも、糸を全部引いて出てくるものが下着とどう違うのか、俺にもまったくわかっていないんだけどな。あっはっはっはっは!!」

 ――ブチイィィィィッ!!

 詠のこめかみの辺りで、堪忍袋の尾かなにかがちぎれ飛ぶ音がした。

「ねえ。ごしゅじんさまー。もうちょっとこっちにきてくれない。えい、なにか胸がもやもやしてくるしいのー」

 あれ?

 おおっ。
 どんな化学変化が起こったのかはわからないが、場を和ませようという俺の冗談(99%本気)は、詠にとって好ましい方向に向かったようだ。いろいろあったが、今この瞬間に、俺と詠は真の主従として完成をみたのだろう。

「ああ、詠、どうした。さあ、こっちにおいで」
「じゃあ、遠慮なく――」

 詠が距離をとって、しっかりと助走をつけて俺の胸に飛び込んできた。

「死ねええええええええっ!! この変態ガアアアアアアアアアアアアッッ!!」
「ひでぶっぅぅぅ!!」

 助走をつけ、全体重を乗せて下から突き上げた詠のアッパーカットが、俺の顎を打ち砕く。ごふぅ。
 
「っていうか一体なに考えてるのよっ。変態かなにかかしらって、ああそういえばあんたは元から変態だったわね」

 グリグリと詠の靴の裏で踏みにじられながら、俺は快感に身を震わせていた。

「ああもう、足が汚れる」
「なぁ、詠」
「なによ、一体」
「董卓ちゃんを取り戻したら、三人で出かけよう。山でもいいし、そこらへんに足を伸ばすだけでもいい」
「はいはい。考えておくわ」
「お弁当を持っていくのもいいな。ちゃんとお茶ぐらい煎れられるようになったか?」
「あ、当たり前じゃないのさ」
「まずくても、問題ないか。董卓ちゃんなら、文句も言わずに飲んでくれるだろ」
「なによその言い草。そうよ月のためよ。あんたのために練習したわけじゃないんだからねっ!!」
「ひぃっ。ツンデレだっ。ツンデレ神が降臨なさられたっ」
「うるさい。足にしがみつくなぁっ!!」




 ――そして、
 まぎれもなく幸福だったこの時のことを、後から俺は時折、思い返すことになる。




 ここからは、終幕まではあっという間だ。
 果たして、俺はなにかを残せたのだろうか?

 こうして挙げられた願いが実現することは、ついになかった。

 彼女の願いは、ひとつとして叶うことはなく、
 詠と董卓ちゃんが再び笑い合う未来が実現する可能性は、塵と消えた。

 俺は彼女の笑顔を取り戻すことはできず、
  かけた願いは踏みにじられ、希望は潰え、

 ――そして、
 ただ悲嘆と後悔と絶望だけを残して、








 ――この物語は、鮮血の結末のみをもって終幕を迎える。








 次回→『田豊の虎牢関落とし』







[7433] 田豊、虎牢関を堕とし、袁紹ハコーネを目指し旅立つ、とのこと。
Name: 塩ワニ◆edd3c1be ID:02fc2729
Date: 2012/08/18 10:31



 俺は昔の話を思い出していた。

 元の世界で聖フランチェスカに通っていたころ、及川や早坂や芹沢さんなどと一緒にバーベキューをやった時のことだ。
 たしか最高気温を更新しようとかという真夏のことだった。あんな時期によく焼けた鉄板や燃え上がる黒炭と向き合う勇気を持てたものだと今更ながらに思う。あのとき、俺達はたしかに勇者だったかもしれない。

 ――と、それはいいとしてその問題はその後だった。
 引き取り手が来るまで網やら本体などのバーベキューセットを俺の部屋にしまっておくことになった。きちんと後始末をし、バーベキューの痕跡を消し、紙皿やら割り箸やペットボトルなどもすべて捨て終えたあとのことである。

 それから一週間ほどが過ぎた。
 部屋を常に、五、六匹のショウジョウバエが飛んでいた。うっとおしくてまともに部屋にもいられない。なにかハエを引き付けるものでもあるのだろうかと、原因を探ろうと部屋をひっくり返し、俺は放置されていたバーベキューセットの入ったダンボールに手をかけた。つまり、俺はその瞬間破滅のドアを開けたことになる。



 そして、そこで俺は地獄を見た。



 凄まじい悪臭が吹きつけた。
 原因はまぎれもなく、ダンボールの底で息を潜め、誰からも忘れ去られていた白くブヨブヨになったパック入り牛肉セット。(放置期間、一週間)

 ――それを贄として蠢く、ハエの黒い塊が一斉に解き放たれ、俺の部屋は一瞬にして地獄へと叩き落とされた。



 昔の思い出である。

 真夏に生肉を常温で一週間ほど放置すると、どれだけの地獄が現出するのかというちょっとした体験談である。

 ――夏。

 それは、ひとり暮らしをはじめた学生が、この世の地獄を体験する季節。さあ、みんなも気をつけようね。肉を真夏に常温で放置するとか、狂気の沙汰だよ。食べ物を腐らせない。当たり前のことのように思えるが、これを実践している実家の母は偉かったのだなぁと思うことしきりである。

 まあ、今はそんなことはどうでもいい。

 田豊の虎牢関落としは、つまりコレを何十、何百倍の規模でやる大規模な嫌がらせ作戦であるらしい。

 先の戦いで死んだ敵味方の死体は、よい具合に腐敗、発酵が進んでいる。

 強烈な直射日光にさらされ続け、さらに先日雨が降ったせいで水を吸って肉がグズグズになり、肉が崩れ落ちた腐乱死体を虎牢関の正面に並べる。

 風向きはまっすぐに酉の方角(西)。
 つまり田豊は、貴重な食料を食いつぶしながら、この風向きを待っていたようだった。風向きの予測は軍師の基本技能であるが、ここまで物騒なことを考えられるのはこのガキか孔明ぐらいだろう。

 火をつけると、脂の乗った人の死体はよく燃えた。なんの着火剤もいらないぐらいだった。そして殴りつけられるような腐臭を含んだ黒煙が、虎牢関へと吹きつけていった。

 吐くほどの悪臭を付与しながら、火元の袁紹軍の連中でさえ耐えられないぐらいの似非科学兵器みたいなものが完成していた。

 分厚い壁に遮られて、向こうの様子はまったく伝わってはこない。
 ここで一斉に戦いを仕掛けるべきかと思うが、袁紹軍が相手の軍へプレッシャーをかけるための『見せ』兵を置いているだけで、直接戦うことまでは想定していないらしい。この煙だけで、田豊は勝負をつけるつもりのようだった。

 詠の言っていたことを思い出す。たしかにこれは袁紹軍の美学と対極にあるような策だった。真桜によると、唐辛子とかを煙に含めば、リスクを少なく効果も縮小されるものの、同じような効果が見込めるということだが、それもいいかもしれない。唐辛子爆弾という言葉を聞いたことがあるが、きっとそういうことなのだろう。

 袁紹軍から聞いたことによると、この――『蚊遣り火』は、とか言っていたので、最初は虫を燻す生活の知恵かなにかを軍事転用したものだと推測される。

 ふと。
 思い出した。
 黒田官兵衛の漫画かなにかで、こんな策を使っていたことを思い出す。
 
 そして、俺はあのガキの恐ろしさに背筋を震わせた。
 戦国時代でも随一の軍師と同じ策を思いついたとかそんな理由ではない。黒田官兵衛は、これにより現出したあまりの地獄と敵の民衆ごと巻き込んだことにより、策を実行した本人として、精神に深い傷を負ったとされる。

 うちの詠を見て貰えれば分かる通り、軍師などというものは本人の引いたモラルと、畜生にも劣る反則的な行為を天秤にかけて常に苦しんでいるような職業だ。

 おそらく、黒田勘兵衛のそう長くもない寿命を削りとった外道極まりない策をもちいてなお、あの田豊とかいう糞ガキはなんの良心の呵責も感じていないのではないかと思わせる。あのガキの恐ろしいところは、そこだ。

 だが、これは。

 軍師の資質としてはともかく、軍閥の一端としてはまぎれもない弱点ですらあり、あるいはこれは、袁紹のカリスマ性を失わせる愚策であるのかもしれない。

 三国時代屈指の名門である袁紹が、こんな策をとったという事実は、決して彼女の風評にいい影響をもたらさないだろう。

 ――とか思ったのだが、さて?









「つまり、狙うべきは人ではなく馬です」

 田豊はそう言った。
 作業服のようなものを着ている。袖とか裾のあたりがダブダブになっているあたり、その筋のお姉さんたちにはたまらないものがあるのかもしれないが、今はそんなことを考えられる状況でもない。ツンとした刺激臭が、胃の奥を突き上げさせた。

 こびりつくような腐臭。
 ――というものは、歴戦の武将たちにとっても耐えられないものであるらしい。袁紹陣営のの大天幕に詰めている武将たちは、誰一人この策を支持しているものはいない。俺や華琳や劉備や関羽や孫策や趙雲やら、そろそろ顔なじみになってきた面々も、一様に顔を顰めさせている。

 田豊は、自らの体にこびりついたその匂いだけで話の主導権を握っていた。
 染み付いた匂いも、天幕が密閉されているのも、そのまま意図的であることは間違いない。
 なんていうか、言葉足らずの説明自体も、このガキの策の一端なのだろう。田豊の武将ホイホイにかかって、すでに追及の手は止まりつつある。

 以下。
 このガキの説明はこういうところだった。

「呂布の立場からすれば、この虎牢関を守りきっても、洛陽の本隊が破られればなんの意味もないという状況です。この呂布の部隊自体が董卓軍本隊への後詰めの意味をもっている」
「ふむ」

 言われてみればそうだ。
 ここを凌ぎ切っても、後方で董卓ちゃんを討たれればなんの意味もない。
 馬超の西涼軍はすでに洛陽への布陣を終えているらしい。こちらの反董卓連合と挟撃ができるのが理想だったが、それも絵に書いた餅になりそうである。

「だったら答えは簡単です。直接対決の必要はありません。相手に選択肢を与えて、迷えるだけ迷わせておけばいい。虎牢関を防衛すること自体が割りに合わないとあちらが判断してくれれば、自ら洛陽まで下がってくれるでしょう」
「狙うのは、馬といった意味は?」
「あの煙は人よりむしろ馬を狙ったものです。馬は繊細な生き物ですから、強烈なニオイを嗅がせれば体調不良に落ち込むでしょう。馬さえ無力化すれば、呂布の部隊は洛陽までたどり着けません。さらに、実力の八割以上を封殺できます」
「…………」

 いいことずくめだ。
 効果的といえばここまで効果的な策もない。

 馬ね。馬か。
 厩で馬の世話をしていた俺としては、あまり馬を痛めつけるのは感心できないのだが。いやむしろ、これは俺が考えつかなければいけない策だったのかもしれない。

「理屈はわかる。効果的であることもわかっている。だが、この一件で我らが盟主(袁紹)の評判は地の底に落ちるだろう。これから先もこのような策を続けるつもりなら、この連合自体が危うくなるという考えはないか?」
「なにが言いたいのです?」

 切り込むように発言したのは、周喩だった。
 田豊は周瑜がなにを言いたいのか、おおむね気づいてはいるのだろうが、効果的な位置でカウンターをとるためなのか、まずは相手の出方を待っている。

「我々が第二の董卓となるわけにもいくまい。天下の安寧を願い、天子をお救いするためには、誰にも恥じる必要のない戦いを見せる必要がある」

 ああ、これは。
 正論に見せかけた暴論だ。

 が。
 れっきとした言いがかりではあるものの、連合から離脱する理由として、十分な正統性が認められてしまう。

 この時代、評判というものはれっきとしたひとつの力であり、なければなにもかもまわっていかない。事実、袁紹の勢力が今の時点で最強を誇るのは、武力よりも人材よりも、まずはその名声に拠るところが大きい。

 多分、周瑜としては本気で言っているわけでもないのだろう。一撃ガツンとやって、話の主導権を握るのが目的なのか。田豊自らが得意そうな誘導法だった。なんというか狐と狸の化かし合いといった感じもしてくる。

「うるさいですわね貴方たち。朝っぱらから、いったいなにをやっていますの?」

 そして、話の中心人物はいつもどおり遅れて現れた。
 袁紹だった。そのまま寝起きだった。この人相変わらずこっちのほうが可愛らしい。寝起きのロールにハリがないのが、いい感じに作用している。まあ事態を飲み込んでいなさそうなのはいつものことだから、いまさら気にするような神経の細い奴はいない。

 さて。
 田豊の策をどう呑み込んだのか。

 袁紹の盟主としての器が試されるところでもある。
 周瑜のそれはただの言いがかりとしても、少なくとも袁紹にはこの連合をまとめる盟主として、その疑問に答える義務がある。

「うわっ。なんですのこの臭い。なにか腐ってません? 貴方たち、よくこんなところに居られますわね?」

 もうダメだこれは。
 想像したとおりといえば想像したとおりだったのだが、袁紹は袁紹だった。この時点で取り返しがついていない。いっそのこと曹操でもいれば『この無能』と『このちびっ子』という不毛極まりない足の引っ張り合いでもみれたかもしれない。

「それで、どういうことですのこれは」
「つまりえーと」

 なぜか俺が説明するはめになった。田豊が悪辣極まりない策を高じた。それに対して、勝ち方が優雅で美しくないと他の諸侯が文句をつけている。

 ちょっと事実からは異なるが、袁紹への説明としてはまず分かりやすさが優先される。まあ、文句が出ることもないだろう。

「どこに謝る必要があるのかわかりませんわ」

 袁紹は、そう言った。
 周瑜が眦を釣り上げる。

 ここにいる諸侯の望みは、一言で言えばまず旗幟を明確にしろ、なので――この一言は待ち望んでいたことだった。わかりやすく言ってしまえば、数秒前の彼女には、田豊の策を支持するのかしないのかという選択肢があった。

 そして、彼女は田豊の策を、完全に支持することを決めてしまった。

「そもそも貴方たちの言っていることはおかしいですわ。ただ貴方たちが無責任なだけではありません?」

 むぅ――?
 袁紹の切り返しに、周瑜が少しだけ怯む。

「責任というのは、高貴な家柄であるわたくしのような人間のみに与えられるものですわ。貴方たちの口から責任という言葉が出てくること自体、ちゃんちゃらおかしいことですわね」

 おや。
 意外と、というか明確に筋が通っている。
 単独で虎牢関を落とした以上、本来誰からも非難される云われはない。周瑜が言っていることも、相手が盟主という座にかこつけて、-ちょっと叩いてみようというだけのものだった。

 一度袁紹が本気になった以上、力関係も実績においても、なにひとつとして袁紹を非難できるものなどいない。

「だから――」

 袁紹の声に、やわらかなものが混じっている。

「田豊、貴方もそんな自分だけが責任を背負い込むような真似をしなくてもいいんですのよ」
「は?」

 本人にとっては不意打ちだったのだろう。
 田豊は袁紹にそのまま抱き上げられてしまう。袁紹は諸侯たちの中でも背の高いほうだった。二十センチぐらいの身長差があることがよくわかる。

 未だ強烈な腐臭が田豊にこびりついているが、袁紹はそれをものともしていなかった。

 腐臭。
 というのは、なににも例えようがないとよく言われる。 

 人間には拭い切れない生理的な嫌悪感というものがある。袁紹は嫌悪感もなにもかもを、完全に押し殺していた。これは、見た目ほど容易いような行為ではない。

 茶番劇だ。
 なのに、足に力が入らない。

 なんだこれ。
 足ががくがくと震えている。突き上げる感動に、胸がいっぱいになっている。

「困ったことなら、わたくしに相談すればいいだけの話ですわ。そんなことでわたくしは怒ったりしませんのに」

 いつの間にか、ほんのりといい話になりかけていた。

 納得できない。こんなもので納得するのは劉備ぐらいだ。

 だが――
 あんな年下の子供を、よってたかっていたぶろうとしていたのかというバツの悪さだけが後味として残った。

 だけれど、もう誰も袁紹の盟主としての格を疑うものはいなかった。
 彼女には明確なひとつの連合体を背負って立つ志の高さがある。こんな真似は劉備にすらできない。華琳にも、無理――か?

 つまらない謀略よりも、袁紹の器が上回った。それだけが俺にもわかる事実として残った。
















 解散した後のことである。
 あのあとすぐに、虎牢関陥落の一報が入った。

 というより、気づいたときには虎牢関はもぬけの空だった、というのが近いらしい。投稿を前提とした非戦闘員たちだけを張り付かせ、ギリギリまで発覚を遅らせたというのが真実だったようだった。

 どのみち、相手のほうが足は早い。
 即座に見破ったからといって、追撃できるわけでもない。あっちはこちらの数分の一ほどの人数なのだ。撤退だけに専念されたならまず追いつくことはできない。

 こちらの連合軍のほうは、準備を整えつつ、整然と進んでいくしかない。
 
 よって、逆襲のリスクをほぼゼロにできるまで踏み込まなかった袁紹軍というか田豊の対応はおそらく正しい。

 決戦は、洛陽でつけることになる。
 馬超の西涼軍と洛陽の本隊が入り混じり、戦力比もなにもかもどうなるのか俺には理解がまず及ばない領域だった。

 とりあえず、俺と華琳が次にとる行動は決まっている。
 詠の立てた策を基本方針として、董卓ちゃん救出のためのタネを、いまのうちに蒔いて置く必要があった。
 
「というわけで、董卓ちゃんをふんじばってごめんなさいさせないといけないわよね」
「まあそうですわね。あの司州の田舎者がごめんなさいごめんなさいとぺこぺこ謝る姿を想像するだけでご飯が三杯ほどいけますわ」

 華琳と袁紹はずいぶんとほのぼのとしていた。
 本当にごめんなさいと連呼させただけですべてが解決するのならなんて素晴らしいことだと思うが、実際それで許されるはずもない。

 彼女が暴虐の限りを尽くしたことの代価は、本人の命以外に交換できるものもないだろう。

「というわけで、いまのうちに割り振りとかしたいのよ。マトモに探すと日が暮れても終わらないのは前回ので身にしみたし」
「――?」

 頭の上にはてなマークを浮かべている袁紹に、田豊が耳打ちする。
 ああ、と前に洛陽宮での宦官掃討のことを、ようやく思い出したらしい。

「そうですわね。十常侍たちを取り逃がしたせいで、そもそもこんなややこしいことになっていたのを忘れていましたわ」

 袁紹が思い出したところで、本格的に洛陽に着いてからの手順を詰めることになった。どこから手をつけるのか、董卓ちゃんがどこにいるのかを田豊からの意見を聞きつつ絞り込んでいく。

 董卓ちゃんは嘉徳殿にいるという情報は、さすがにバレてはいないようだった。あとは近くのエリアを探すことを申し出ればいい。実際洛陽に入ってしまえば、どこの誰も、他の諸侯の足取りを追う余裕はなくなるだろう。

 そして、これはあくまで華琳と袁紹のみの決め事だ。

 他の諸侯は必要ない。
 言っても聞くような連中ではないだろうし、好きにさせておいて問題無いだろう。この時点でいろいろと策を巡らすと、逆に意図を辿られる危険性が高い。

 袁紹は洛陽の地図へと目線を落とした。
 彼女はただ、視線を這わせただけだった。

「――じゃあ、わたくしはここを最初に探しますわ」

 心臓に凍った針を通された。
 脳が理解を拒絶していた。盤石だった詠の策に胡座をかいていたせいで、反応が一瞬遅れた。

「えーと、姉様。なんでそこなの?」
「この嘉徳殿とかいう偉そうな建物が気に入らなかったんですのよ」
「…………」

 待て。
 こちらの前提を、一撃で潰された。その表情に裏はない。引き寄せられるように、袁紹は一発で正解を引き当てていた。

 ああ、そうだなぁ。
 むしろ袁紹がここを選ぶということは、華淋が得た情報の正しさを証明している。きっと董卓ちゃんは間違いなく嘉徳殿に篭っているのだろう――と確信さえ持てる出来事である。

 ――まずいだろこれ。

 袁紹の想定の上を行くということそのものがこちらの浅知恵だったのだろうか。董卓ちゃんの救出は、ほぼ不可能ごとだという実感はあった。
 だが、想定の時点で躓くとはさすがに思ってもみなかった。

 華琳も、さすがに冷や汗をかいている。下手に抗弁しようものなら、隣の田豊の目をくぐり抜けられると思えない。最悪、こちらの目的まで見抜かれる恐れもある。

「なにを焦っているんです?」
「いや」
「まさかそこに、敵の首魁が隠れているわけでもないでしょうに?」

 ――こ、このガキイイぃぃぃっ!!

 ほんの一瞬だけ、全身が硬直した。
 そして、田豊にはその一瞬のみで十分だった。
 凍りついた世界を、田豊の双眸が蛇の舌が這うように行き来した。カマをかけられた、と気づいたときにはすべてが遅い。

「――ああ」

 田豊がわずかに、口元を歪ませた。
 その動作だけで確信する。

 こちらの意図を読み取られた。
 おそらくはすべて。
 
 董卓ちゃんがここにいること。そして俺達がそれに気づきつつ、なにもいわなかったことまでが、一発で白日の下に晒された。

 ゾクリと、悪寒が走り抜ける。
 余裕をもって袁紹と田豊の主従関係を観察していたが、出てきた結果はとんでもない。まるでドリームチームだった。袁紹が暴走しているとか田豊が暴走しているとか、そのような見方はほんの表面上のことだった。

 お互いに、能力のすべてを引き立てあっている。あまりに噛み合いすぎて、ノミの一撃を打ち込む隙間もない。おい、本気で劉備と孔明や、俺と俺の詠さえ超えるぞこのコンビ。

「すまん。ちょっともおよしてきた」

 とりあえず、一時撤退を決め込む。
 華琳の首根っこを掴んで、天幕の外へと避難した。
 
 オーバーヒートした頭を、外の空気に触れることで冷やしてみる。自問する。さて――そどうするかなんて決まっている。

「華琳、どんな手段を使ってもいい。袁紹の足を止める手段はないか?」
「え?」

 華琳の顔がぱあっと輝いた。

「本当に、『どんな』手段でもいいのね?」
「ごめんなさい。暴力関係はすべて抜きでお願いします」

 いきなり不安になった。
 さすがに劉備の時のように、後ろから鈍器で殴りかかるような真似はしないだろうが、華琳だから正直なにをやってもおかしくはない。

「仕方ないわね。麗羽姉さまを騙すのは心苦しいけど、董卓ちゃんの命がかかってるわけだから」
「おおっ!!」

 なんか華琳なりの案があるらしい。
 どのような事態を引き起こすか不安ではあるものの、袁紹には華琳をぶつけるのが最適解だというのは間違い無いだろう。

 天幕の中に引き返す。

「なんだ?」
「いえ、別に」

 田豊はこちらがもがく様を楽しんでいるつもりらしい。
 いや、違う。
 いちいち袁紹にこちらの意図を説明する手間を惜しんだということだろう。まあ、袁紹に事の通りを理解させるのがものすごい手間を要するというのはなんとなくわかる。くくくくく、今にその余裕を後悔させてやる。

「あのね、姉さま。さっきから気づいてはいたんだけど」
「はい。華琳さん。どうしました?」

 華琳は遠慮がちに袁紹に向き直った。

「――ねーさま。すごく臭い」

 鼻を抑えつつ、華琳は年頃の女子が父親に言うようなことを言い放った。
 たしかに臭い。
 華琳は嘘を言ってはいない。

 腐臭というのは一度こびりつくとちょっとやそっとでは消えないらしい。
 田豊を抱きしめたときの残り香は、どうやっても消えずに袁紹の身体に残っている。

「はうっ」

 そして、その一言は袁紹を一撃で昏倒させた。
 電撃に撃たれたように、そのまま地面にダイブする。

「匂いが完全に伝染ってるわ。人としてどーかと思うぐらいの臭さよ」
「あわ、あわわわわわわわっ!!」

 自分ではわからないのか、袁紹はくんくんと自分の袖あたりのニオイを嗅いでいた。

「麗羽さま。先ほどから黙っていましたが、実は目の前のふたりの意図は――」
「そんなこと今はどうでもいいことですわっ!!」

 クソガキが、袁紹の胸に抱きしめられてバタバタともがいていた。そのまま田豊はおっぱいの海に溺れている。

 あ。
 そのまま締め落とされた。
 がくんっと、白目を剥いた田豊の首の角度が、なかなかヤバイ方向に曲がっている。

 ちなみに、この瞬間俺のこのガキへの呼び方が、糞ガキからエロガキにランクアップした。袁紹を間接的に利用し、華琳は董卓ちゃんを助けるにあたり最大の障害である田豊を手早く処理したあと、さっそく本丸の攻略に手をつけていた。

「大丈夫よ姉さま。私が聞いた噂によると、ここから洛陽への道を東に逸れたあたりに――」

 華琳はさきほど使っていた地図の一点を指し示す。

「伝説の秘湯ハコーネがあるらしいわ」

 華淋がそんなことを言い出した。
 華淋が、またバカなことを言い出していた。
 華淋が、性懲りもなく頭のおかしいことを言い出していた。

 おい、それ俺がこっちの世界に来たときに持ってきてた修学旅行のパンフレット説明じゃないのか。目ざとくそれを見つけた華琳に、修学旅行先の箱根に対して、実に適当な説明をしておいたことをいまさら思い出す。

 俺の故郷有数の温泉街であり、ときに神の使いが襲撃し、有事は要塞都市になり、汎用人型決戦兵器が地下からせりあがってくるという日本人なら誰でも知っている常識をこと細かに説明しておいたことが、なんか今になって役に立っているようだった。















「伝説の秘湯ハコーネ。そうですわね。こんなニオイをさせたまま、洛陽までは踏み込めませんわ」

 袁紹は洛陽攻略の手順やらアレコレを完全に白紙に戻していた。
 今にもハコーネを探す旅に出かけそうな有様である。

 なんというか、恐ろしく巧妙な心理トリックだった。
 そういうことにしておかないと、もうそろそろ俺の精神がもたない。むしろ真面目に考えていた俺はなんだったんだろう。ちなみに田豊は、まだ口の端から泡を吹いたままそこらへんの端っこに転がされていた。

 最後の決め手はニオイだった。
 倫理的に問題のある策を使い、最後にはその策そのものに足を掬われたあたり、世の中はよくできているのだなと言うしかない。

 
 袁紹の豪運も、田豊の知略も、最後にはすべて華淋が自分のかわいらしさだけで握り潰した。

「一応確認しておくが、ハコーネなんて本当にあるのか?」
「あるわけないじゃないそんなもの」

 よかった。
 あったらあったでどうしようかと思うところだった。

「当然でしょ。あったらとっくに占領してお風呂屋を始めてるわよ」
「まあそうかもしれないが」
「こんなところね。すべて後腐れなく解決したでしょ?」
「助かった。たしかに助かったんだが、いっさいのフォローなしでいいんだろうか? ハコーネなんて実際存在しないわけだし」
「なに言ってるのよ」

 華琳はわかってないわね、と首をすくめた。

「大丈夫よ。姉さまなら、歩いているだけで温泉の鉱脈ぐらい自力で見つけ出すから」
「マジでやりかねないあたり怖いなそれ」
「まったく、肩ぐらい揉みなさい。さすがの私もこんなでまかせと適当さで何回もやっていけないわ」
「いや、いつもどおりだろ。というか、お前の人生そのものだろそれ」
「一刀。なにか私に含むところでもあるのかしら」

 華琳のぽかぽかというミッキー・ロークばりの猫パンチが俺に直撃していた。
 俺はちゃんとそれにつきあってやる。
 ぎゃあー、とかぎゃはー、とか適当に奇声を上げていると、どんどん華琳の顔が険しくなってきていた。

「なにしてますの、貴方たち?」
「姉さま止めないで。今日こそはこの男に自分の立場をちゃんと思い知らせないといけないのよ」
「そんなことよりも――」

 袁紹が華琳を正面に置く。

「わたくしの留守はあなたに預けますわ。盟主として、私の代わりに皆さんをまとめるんですのよ?」
「はーい」

 華淋がかわいく手を挙げた。
 彼女は、俺にちょっと耳打ちする。

「というわけで、ついでに盟主の座も譲ってもらったわ。思いもしない副産物だったわね」
「……………それを副産物の一言で片付けられるお前がたまに怖い」

 そのあとで華琳は本格的に盟主の引き継ぎ作業に入った。
 しきりに華淋が袁紹の手を引っ張っている。

 いまさら言うことでもないが、本当に仲のいい姉妹だなこいつら。

「ねえねえ。麗羽姉さま。盟主ってなにすればいいのかしら?」
「決まってますでしょう。華麗なこと、ですわ」
「わーすごい。じゃあ、全軍に姉様を称える歌でも歌わせておけばいいの?」

 俺は何も知らない。
 俺は何も聞いてない。

 今までのはすべてただの前哨戦なのだとは思いたくもない。
 俺にはここから、華琳を止める気力など残っていない。
 目の前で行われている恐ろしい決め事に対して、俺は完全に不干渉を貫くことに決めた。








 次回→『華琳VS月 その2』







 


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.24173903465271