ああっ、夢を視ているのだ、と。
タダオ少年は思った。
眼前で。
儚く、愛おし気に、己を見詰める女性。
なんて綺麗なんだろう。
薄透けるその姿は、ほっそりとしなやかで。
まるで、この世ならぬ女神の様。
ああっ、でも、どうして泣いているのだろうか?
嬉しそうに。
哀しそうに。
寂しそうに。
どうしたら、笑ってくれるのだろう?とタダオ少年は思う。
この女性が、微笑んでくれたら、もっと、もっと綺麗に違いない、と想う。
ゆらゆらと、薄れていくその姿。
悲痛な表情で、女性が必死に声を上げようとしていた。
声にならぬ、その想いを、しかし、少年は識る。
ヨ・コ・シ・マ
代え難い大切なモノを呼ぶ、声無き声。
それに応え様とした、その瞬間――――
――――夢は終わった・・・・・・・・・。
それは、今も忘れ得ぬ幼少年の頃の夢。
その日を境に、俺には、ヒト為らざるモノが視える様になった。
所謂、霊能に目覚めたらしい。
まあ、ただ、視えるだけ、だったが。
その事をお袋と親父に話した当時の幼い俺は、お袋の伝手で、とある有名な霊視のバアさんの所に連れて行かれる事になる。
そのバアさんは、代金を絶対受け取らないと云う、珍しく、そして頑固なバアさんだった・・・・・・まあ、だからこそ、人望があり、お袋が頼った訳だが。
「気にするこたぁ、無いさね。今の坊は、ただ視えているだけ。強い想念を持つ霊は、霊能力者で無くとも見えるんだ、それを考えれば、そう神経質になる事は無い」
苦笑しながらバアさんは、それでもお袋を安心させる様に言った。
「強い霊能の素養があろうとも、この坊は、どこまでも、どこまでも、あんた等の子さ」
その言葉に、軽くお袋の肩を叩きながら、何故か俺の頭を撫でる親父を無視し、俺はバアさんに聞いた。
「なあ、俺はアノお姉ちゃんに、笑って欲しいんや。どないしたら、笑ってくれるんやろか?」
「別に何か特別な事をする必要は無いと思うがね。そうさね、坊のおトウちゃんより強く、おカアちゃんよりも賢くなれば良い」
それが、如何にトンでもないハードルか知ってる筈のバアさんは、破顔して答えた。
断っておくが、この時の俺は小学低学年生に過ぎなかったのだ。
だから、分別無く、その高いハードルに挑む事が出来たのだろうと、今になって思う。
「そっか、うん、がんばるで」
「ああ、がんばりな」
「・・・・・・・・なあ、バアちゃん、俺は、アノ姉ちゃんにまた逢う事が出来るんか?」
そんな、幼い俺の問いに。
くつ、と笑い、バアさんは答えた。
「それは、坊が、坊だけが、識ってる事さね―――そうだろう?」
そして、十余年の時が流れ。
舞台は、東京の地。
『絆~first step~』
美神美智恵は、彼女らしくもなく焦燥していた。
未来での魔神大戦を終えて、元居た過去へと帰還した美智恵は、夫の公彦と共に平安として生活していた。
だが、数年が経ち、ふと、未来での戦いの記憶が酷く薄れている事に気付いた。
霞の様に薄れた、過去であり未来である戦いの記憶。
どう云う事か?
そう思った時、全身が総毛立った。
雷鳴の様に、ひとつの仮定が、脳裏に浮かぶ。
薄れ行く未来の記憶―――それはつまり、確定していた筈の未来が、変わった、或いは変わろうとしているからではないのか?
一度浮かんだ疑惑は、消える事無く美智恵を苛んだ。
そして、遂に美智恵は、自分を死去していると信じている娘に見付かる危険性を犯しても現状を確認する為に東京に出る事を決めた。
其処で美智恵は、驚愕する事になる。
魔神大戦まで後十数ヶ月。
美神令子の除霊事務所に、横島忠夫と云うバイトは存在していなかった。
「あっ、先生、今月の月謝っす」
ノートと筆記用具を片付けていた横島は、大切な事に気付いて、用意していた月謝袋を机の中から引っ張り出した。
テキストをバックに詰め込んでいたDr.カオスが、それを受け取り破顔する。
「おおっ、何時もスマンのう小僧」
万年貧乏と化しているかつての錬金術大家にとって、この定期収入が正にライフラインであった。
「いやいや、錬金術を家庭教師の月給並で学べるのなら、安いもんっすよ」
へらっと笑いながらも、横島の瞳には、彼の母親にも似た好奇心と云う知性の光があった。
Dr.カオスは、それを好ましく思いながら、次のGS免許試験には、何として合格せねばならんな、と自らを律する。
見栄もあれば、立場もある。
何より、カオスから見れば、この程度の教示、本来なら金を取る程のモノでは無いのだ。
「しかし、お主とて、両親からの仕送りはさほど多くは無いのじゃろ?」
「ええ、まあ。でも、今のアルバイトのお陰で、結構懐は温かいっすから、気にしないでください」
それに、学校の勉強だけじゃ物足りないっすから、と。
カオスの問いに、横島はお気楽にひらひらと手を振って答える。
懐が温かい、と云うのは本当だ。
真っ当なアルバイトではあるのだが、横島の高校生と云う立場上、大っぴらに出来ない為、秘密にしてはいるが。
週二日のアルバイトとしては破格の月収20万の給与を、彼は貰っていた。
そして、母である百合子に叩き込まれた経済観念によって、必要な事にお金を注ぎ込む事に何の躊躇も無い横島である。
必要だと判断した事を、何度と問われても、面食らうだけであった。
「あっ、マリア」
おっと思い出したと言いながら、炊事場でグラスを洗っていたカオスの助手であるアンドロイド・マリアに声を掛ける。
「冷蔵庫に、お土産の桃が入ってるから持って行ってくれよ、箱入りのヤツ」
「・・・よろしいの・ですか?横島さん」
無表情に小首を傾げるマリア。
「ああ、遠慮せず持っていってくれ」
沢山有って困ってるんだ、腐らせるよりマシだろ?と笑う横島。
「YES・横島さん」
「気を遣わせてすまんな、小僧」
「いえいえ」
バイト先の本社から送られてきた暑中御見舞いだが、桃に罪は無い事だしな、と内心思いながら、手を振る横島だった。
横島忠夫。
かつて、美神美智恵が“未来で“体験した魔神大戦において、キーパーソンとなった少年。
彼に押し付ける事となった悲劇を思いながら。
美智恵は、娘の心の支えとなる筈の少年の行方を追った。
程なく見付かった少年は、未来で出会った彼のまま、しかし、美神令子の側には居なかった。
そう、思われた。
しかし、それは違ったのだ。
理由は、直ぐに知れた。
その少年は、未来で出会った少年とは、僅かな差で違いがあった。
子供っぽく、明るく朗らかで、明け透けで、無類の女好き。
そんな基本的な人柄は変わっていない。
けれど、少年は、未来で出会った彼とは違い、両親から受け継いだ才能を遺憾無く発揮していたのだ。
学校では成績優秀でスポーツ万能、でありながら、その性格から、未来での彼と同じ様にクラスに溶け込んでいた。
アルバイト先の大手チェーン店でも、その商才を遺憾無く発揮し、本店からは既に就職勧誘が行われている程だった。
つまりは、真っ当な経済観念を持ち、他人にも認められていると云う事。
その状況で、命懸けでありながら時給250円と云う非常識な美神除霊事務所に勤めるだろうか?
あり得ない。
状況が許せば、横島少年と接触し、美神除霊事務所への勤務を仄めかす積りだった美智恵は、頭を抱えた。
それに、両親から受け継いだ才能を発揮している事については、それこそ僅かな差と言って良かった。
未来での彼も、確かにその片鱗を見せてはいたのだから。
本当の問題は、もうひとつの僅かな差。
それは確かに僅かな差でしかないが、美智恵にとっては、美神家にとっては大きな壁であった。
無類の女好き。
それは、その言葉だけなら、未来での彼と同じだ。
しかし、女好きとは言っても、好みか好みで無いと云う個人の嗜好が当然付く。
未来での彼は、基本的に美人、美女なら、それこそ種を越えて好んだ。
その中で特にグラマラスな美女を。
そして。
今、この刻に居る彼も基本的な好みは同じだった。
ただし、スレンダーな体形の美女を特に好むと云う違いがあったが。
ああっ、なるほど、それならば娘の色香に迷う事も無かった筈だ、と何処か遠くの事の様に美智恵は思った。
時間跳躍で彼の過去に介入する事も一瞬考えた。
が、しかし、未来である過去で、時間跳躍能力は禁じられてしまった。
恐らくアレは、言葉だけでは無く、何らかの処置がしてある筈だ。
少なくとも、自分ならば、そうする。
「・・・・・・・・令子・・・・・」
見えない未来に、娘の事を思いながら美智恵は暗然と呟いた。