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[5281] 影を往く (オリ有・百合有)
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2010/06/06 18:51


 << 前書き >>


 はじめまして、作者の青花(あおはな)です。

 本作は作者オリジナルのキャラクターを加えた原作再構成となります。

 特徴としましては、


 ・百合色が強い

 ・オリキャラが活躍する

 ・原作通りの恋愛模様とはならない


 以上の点が挙げられますので、お読みになられる方はご注意ください。

 また、ご意見・ご感想・ご批評など頂けましたら幸いです。

 それでは、本文をお楽しみください。




 ――――――――――――修正履歴――――――――――――――――――――――――


 2010/06/06 ― 外伝一之三の誤字脱字等修正

 2010/01/17 ― 第二十四話にて一部加筆修正

 2009/03/15 ― 第九話にて期末試験の結果発表の日程変更

 2009/03/01 ― 第三話・第七話・第九話の誤字脱字等修正

 2009/02/15 ― 第四話から第八話まで誤字脱字等修正

 2009/02/01 ― 各話の誤字脱字等修正

 2008/12/28 ― 各話の誤字脱字等修正・第二話の序盤に一つ場面を追加


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



[5281] 序話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/02/01 21:14


 三十畳ほどの、広い部屋だった。管理している人間の清潔さを教えてくれる綺麗な白い壁に、建物の年期を感じさせる罅の入った緑のタイル。床の上には規則的に並べられた会議机があり、壁の一面は大きなホワイトボードで覆われていた。

 その部屋の片隅、窓際最後列の席に一人の女性が座っている。透き通るような白い肌を持ち、長く艶のある黒髪を真っ直ぐに下ろした女性だった。年の頃は、おそらく二十前後。黒曜石を溶かし込んだようにも見える漆黒の瞳はツリ目がちで、けれどそこに剣呑さを感じさせないのは彼女の柔らかな面立ちの所為かもしれない。

 女性の前には一台のノートパソコンが置かれており、その両脇には書類が堆く積まれていた。それらの間を、彼女の手が忙しなく往復している。右の書類を見ては左の山へと移し、次いでその内容をキーボードで打ち込んだら、また右の書類へ。ルーチンワークを、何度となく繰り返していく。


「――――わかったよ、お爺様。大丈夫、そのくらいなら問題無いから」


 左肩と頬で挟んだ携帯電話に向けて、女性は優しく話し掛けている。時折、相槌と共に小さく首を動かしながらも、彼女が作業の手を休める事は無く、着実に書類の山は削られていく。


「うん……うん。じゃあ彼とはその方向で」


 不意に、女性の手が止まる。

 彼女は少しだけ迷うような感じで辺りに手を彷徨わせてから、隣の椅子に置かれている鞄へと伸ばしていった。ガサゴソと暫く探った後に取り出されたのは、可愛らしいラッピングが施された小さな箱だった。白魚のような指先が容易く包装を解いてしまうと、中からは六つ、種類の異なるトリュフチョコが顔を覗かせる。

 その内の一つを手に取って、口へと運ぶ。


「ん? あぁ、可愛い後輩からのプレゼントだよ」


 味わうようにゆっくりとチョコを咀嚼し終えた彼女は、微かに指先についたチョコを舐め取っていく。


「お爺様にも届いたよね? アレ、木乃香と一緒に作ったんだ。嬉しいでしょ? 可愛い孫娘達からの贈り物だもの――――――あぁ。いーの、アレくらいで。甘ったるいくらいが最高なんだから」


 楽しげに声を弾ませている彼女は、二つ目のチョコを手に取った。


「ん? そうだよ、叔父様にも送ってる。木乃香の名前でね。もしかして焼き餅妬いちゃってたり?」


 意地悪そうな笑みを浮かべながら、女性は窓の外へと視線を送る。

 とっくの昔に日は沈んでおり、ガラスの向こうに見える真っ黒な湖面の中では白い月が歪に揺れていた。視線を壁の時計へと移せば、そろそろ七時になろうかという時間だった。


「あはは。うん、そうだね。話を戻そっか」


 少しだけ困ったように、女性は眉根を寄せる。


「え? なんで? ――――――――あぁ、木乃香にも頼んでるんだ。わかった。駅までだね」


 言いつつ、彼女は肩に挟んでいた携帯電話を左手に持った。


「大丈夫。ヘマなんてしないよ。それじゃ、私も仕事があるから。うん、またね…………バイバイ」


 通話を切り、携帯電話を折り畳む。食べ掛けのチョコを口に放り込むと、女性は書類と向き合った。残るは僅かで、今までの作業量と比べれば造作無い。よし、と一声。彼女は気合いを入れて、勢いよく作業を再開する。

 それから暫し、紙の擦れる音とタイプ音だけが部屋の中に響いていた。












 ――――序話――――――――












「どーしよう、夕映ちゃん!」


 友人の切羽詰まった悲痛な叫び声に耳を傾けながら、彼女――――――綾瀬 夕映(あやせ ゆえ)は静かに手元のパックジュースのストローへと口をつけた。ズルリと一口。舌の上を滑り、喉元を流れ落ちていく柚の風味を感じながら、夕映は対面に座る友人の様子へ目を向ける。


「…………」


 先ほど叫んだ姿のまま、空と紺の瞳に涙を湛えた彼女の友人は、グッと堪えるように唇を噛んでいた。机についた手は小刻みに震えていて、常ならばその快活な性格を表すかのような明るい茶髪はどこかくすんで見える。

 重症だ、というのが夕映の率直な感想だった。

 時刻は五時過ぎ。冬の終わりが見え始めたこの時期では、そろそろ街が夜色への衣替えを始める時間であり、山の向こうに殆ど沈んでしまった夕陽に照らし出された二人もまた、暗い朱に染め上げられていた。放課後になったばかりの頃は多くのクラスメイトで賑わっていた教室も、部活に遊びにと少しずつ欠けていった今は静かなもので、最後まで残っていた彼女達を除けば誰も居ない。

 トン、と小さく音を立ててパックジュースを置いた夕映は、対面の友人に突き出すようにして右手の人差し指を立てた。話し始める、という合図だ。相手の方も心得たもので、自然と背筋を伸ばし、手を膝の上へと置いている。


「いいですか、アスナさん?」


 夕映の言葉に、明日菜(あすな)は仰々しく頷いた。


「なにもそう焦るような事じゃありません。コレはチャンスです」

「へ? でも……」

「大丈夫です。問題はありません。いえ、むしろ今までが問題だったのです」


 こちらの顔色を窺うようにしながら口を開いた明日菜の言を、夕映はピシャリと撥ねつける。そうして口を噤んだ明日菜の目の前まで人差し指を近付けてから、夕映は自信に満ちた調子で言葉を継いだ。


「たしかに今まで高畑先生は私達のクラス担任であり、英語の教科担当でもあったので日々の接点には事欠きませんでした。アスナさんは美術部に所属していますから、そちらでも機会はあるですしね」


 口を閉じたまま、明日菜は首を縦に振って同意を示す。


「けれど、所詮それは教師と生徒の関係に過ぎません。いくらアスナさんが高畑先生の事を想っていても、生徒として接している以上、アチラの受け取り方は教師としてのものにならざるを得ません」

「………………」

「ですが、これからは違うのです。高畑先生は担任でなくなり、英語の教科担当も降りられます。つまり教師と生徒という関係が薄れるという訳です。いいですか、アスナさん。貴女が目標としているのは、ただ高畑先生と一緒に居る事だけですか? 違うはずです。貴女は私にこう言いました、『高畑先生に好かれたい』と」


 気付けば明日菜は、夕映の話に引き込まれるように顔を寄せ、真剣な表情で耳を傾けていた。そんな明日菜に対して夕映は、噛んで含めるようにゆっくりと続きの言葉を紡いでいく。


「だからこそコレはチャンスです。教師と生徒という関係から離れ、新たにプライベートな関係を構築するのです。接する機会が減る? 減ればいいのです、そんなもの。そう、少ない機会だからこそ、アピールした時に強く印象付ける事が出来るのですから!!」

「おぉ……」


 段々と語調が強まり、最後には半ば叫ぶような形で夕映は言い切った。彼女の小さな拳は固く握られ、慎ましやかな胸はドンと大きく張られている。そんな友人の姿に対し、明日菜は頼もしそうに熱い視線を送っていた。

 キラキラとした希望と輝きに満ちた視線を受け止めながら、夕映は安心させるように柔らかな笑みを浮かべ、締めの言葉を口にする。


「ですから、アスナさん。なにも心配する事は無いのです。むしろ落ち込んでいて行動する事が出来なければ、折角のチャンスが不意になるですよ?」

「ッ。ありがとう夕映ちゃん! もう大好き!!」

「この事に関してはお互い様ですよ、アスナさん。お礼なんていらないです」

「うんうん。今度は夕映ちゃんの話を聞かせてね? 私、一生懸命応援するから!」

「えぇ、是非。アスナさんの意見は私としても貴重なものばかりですから」


 目を伏せながら、夕映は手に持ったパックジュースの中身を一気に吸い上げる。ズズズと音を立てながら紙パックを凹ませる。そんな彼女の様子を、明日菜は笑顔で眺めていた。

 教室の中はすっかり暗くなっていて、明かりを点けなければ相手の顔すらよく見えないような時間になっている。それでも彼女達は、暫し互いの相談事に花を咲かせて盛り上がった。








 ◆








 空には、ぷっくりと膨らんだ月が浮かんでいる。

 あれから更に時が経ち、辺りが完全に夜の帳に包まれた中、夕映は一人で月明かりの下を歩いていた。その隣に、明日菜の姿は無い。私用があった夕映は彼女を先に帰らせて、今、こうして目的地へ向かっている。

 別れ際に明日菜から送られた言葉を反芻しながら、夕映はコートのポケットから携帯電話を取り出した。


『頑張ってね』


 先程から何度となく見直している親友からのメール。その最後の文面を眺めながら、夕映は静かに夜道を進んでいく。

 親友が何を思っているのかも、何を伝えたいのかも、彼女は痛いほどに理解している。明日菜にしろ、親友であるのどかにしろ、一年近くも背中を支え続けてきてくれた事を、夕映はありがたく思っている。ただ今日の夕映には、友人達の応援が少し重く感じられた。


「ふぅ」


 小さく息を吐き出した夕映は、頭上に昇った白い月を眺めながら、ボンヤリと今日の出来事を思い返していく。


 ――――――担任の先生が変わる。


 HRで申し訳なさそうに担任から告げられたその言葉は、クラス中に小さくない波紋を呼び起こした。途端に騒がしく言葉が飛び交い始めたその中でも、先生は落ち着いた声で話を続けていく。次いで教えられたのは、次の月曜日に交代して、同時に英語の担当も降りるという事だった。

 それがまた、生徒達の騒がしさを加速させる。どうして、なんで。クラスメイトが繰り返す疑問の声に対し、やはり高畑先生は済まなそうにしながらも丁寧に説明を加えてくれた。

 最初に、英国にある姉妹校の推薦を受けた教育実習生であり、十分な経験を積ませる為にクラス担任と教科担当を任せるという事。

 次に、特殊な事情を持った人物であり、他の先生方では反発が起こる可能性がある為、プライベートで付き合いがある高畑先生が仕事を譲る形になったという事。

 最後に、経験不足故に頼りない所もあるかもしれないが教師として必要な知識は十分に持っているという事。

 説明された事は、概ねこんな感じである。それで納得のいった者、いかなかった者、各々で思う所はあるようだったが、少なくとも疑問を口にする者は居なくなった。

 そうして空気を消沈させたままHRが終わった後、ざわめきの中で夕映は制服の袖を掴まれた。強く、キツく。小柄な夕映の体が思わずよろけそうになるほど。相手は、夕映の予想した通り。騒ぎの間、ただの一言も喋る事の無かった明日菜だった。


 『秘密会議』


 彼女らの間でそう呼ばれている会合は、およそ一年前に夕映の呼び掛けによって始まった。なんて事は無い、お互いの恋愛相談をしましょうというだけの席である。女子中学生が友達同士で行う、他愛も無い悩みの打ち明け合いであり、励まし合い。当人達の恋愛事情が少し変わっている点を除けば、どこでも見られるような光景だ。

 それでも夕映がわざわざそんな席を――――しかもあまり親しくない人物との間に――――設けようとしたのには理由がある。


(…………恋愛事で最も私に足りてないのは、おそらく度胸でしょうね)


 夕映は同志が欲しかった。

 明日菜が高畑先生を好きだというのは、一年の時、同じクラスになってからすぐに気が付いた。彼女の態度は随分とあからさまだったから、その頃は恋愛方面に疎かった身でも容易に推測出来たのである。ただ当時の夕映は彼女に対して興味を抱いていなかったし、その想いも憧れによるものだろうと適当に片付けていた。

 その考えが変わったのは、はたして何時だったか。少なくとも、夕映が自身の抱く恋心に気付いた後だという事は間違い無い。彼女が恋をして、その事に悩んで、親しい友人達に相談しようかと考えていた時に思い浮かんだのが、明日菜だったのだから。


(我ながら随分と思い切ったものです。それだけ切羽詰まっていた、という事でしょうか)


 大して親しい訳でもなく、ただのクラスメイトでなければ、精々友人の友人という表現がピタリと填まるような遠い関係の相手だったが、明日菜の恋愛事情は夕映に深い共感を抱かせた。

 高畑=T=タカミチ。彼女達より一回り以上も年上で、その上クラス担任でもあった男性教諭。落ち着いた言動や解り易い授業で生徒からの人気は高いが、それはあくまで教師としてのものだ。明日菜のように男性として彼を意識している者は少数派だろうし、本気で恋を成就させたいと考えている者は更に限られるだろう。

 しかし明日菜は、その極々限られた内の一人だった。

 多くのクラスメイトは勘違いしているようだが、明日菜の気持ちは本物なのだ。直情的で、感情が空回りしやすいからその姿は滑稽に映り易いが、彼女は本気で高畑先生を好いている。その事実に気付いたからこそ、夕映は明日菜が気になった。決して普通とは言えないような恋愛に本気で挑もうとする彼女の姿が、あまりにも眩しく映ったのだ。


 何故なら――――――。


 想い、切なさから大きく息を吐く。

 お互いの意見を交わし合ったこの一年は有意義だった。理性で物事を捉えようとする夕映と、感情で行動しようとする明日菜。足りない所を補い合う良いコンビだと思っている。彼女のお陰で、夕映は親友達に自分の事を打ち明けられた。

 しかし目標は未だ遥か遠くに存在していて、よしんば近付けた所で、最後の一歩を踏み出す勇気があるのかどうか疑問だった。そんな自分がとても情けなく感じられて、その考えが余計に目標を遠ざけていく。

 俯く夕映に、一つ声が掛けられた。高く、澄んだ、綺麗に耳へと響く声だった。


「夕映じゃない。こんばんは、奇遇だね」

「――――――こんばんは、です。先輩」


 聞き慣れた声に顔を上げると、夕映が予想した通りの相手が、少し離れた所に立っていた。その姿を見ただけで途端に騒ぎ出す心臓の鼓動を感じながら、夕映は必死に平静を取り繕おうとする。

 同時に、メールをくれた親友に対して心中で感謝した。


「こんな時間までどうしたの? 女の子が一人歩きするには、ちょっと危ない時間だよ」

「それを言うなら、先輩だって同じではないですか」

「なるほど。まったくもって道理だね」


 くすりと、相手が笑う。それだけで頭がどうにかなってしまいそうな、魅力のある、たおやかな笑みだった。

 ダメだ、と夕映は思う。本当に、自分はダメだと思ってしまう。


「それじゃ、途中まで一緒に帰ろっか? 二人一緒なら、少しは安全だろうしね」

「えぇ。よろしくお願いします」


 ――――――そう、何故なら。同性を好きになった夕映の恋愛もまた、決して普通とは言えないのだから。




 □




「それで? 今日はどうしてこんな遅くまで学園に?」

「今度の月曜日に担任の先生が変わるらしく、その事で友達と話をしていたらこんな時間になりまして」


 吐き出した白い息を追い掛けながら、夜闇に溶けていくのを眺めながら、夕映は質問に答える。正直、隣を見上げる勇気は無い。今日の自分は、目が合うだけでもどうにかなってしまいそうだったから。そんな内心が表に出ないよう、必死に普段通りを装いつつ、夕映はこっそりと隣に目を向けた。勿論、相手の顔は見ない。


(ぁ……)


 袖の先から細い指先だけを覗かせた、白く綺麗な手がすぐそこにある。互いの距離はごく僅かしか開いてなく、歩く拍子にコートの袖が触れ合いそうな気すらした。別に夕映が意図した結果ではない。普通に歩いていたら偶々この距離に落ち着いただけで、他意がある訳ではない。そうだ、そうに違いない。

 馬鹿みたいに煩くがなり立てる自らの心臓にそんな言い訳を並べ立てながら、夕映は故意に歩くペースを落とす。それに気付いた相手も、夕映に合わせて歩調を落としてくれる。たったこれだけの事でも、彼女は込み上げる喜びを抑えられない。

 自らの安上がり具合に、夕映は思わず笑ってしまいそうだった。


「なるほどね。でも、その友達はどうしたの?」

「少し用事があったので、先に帰ってもらったです。それで、用事も終わって帰ろうとしていたら――――」

「私がやって来た、と」


 こくりと、夕映は小さく頷いた。

 本当の事を言うならば、遅くまで残っているというサークルの先輩を手伝いに行こうとしたら、相手の方からやって来たという状況なのだが、それは些細な事だろう。ただ残念に思うのは、最近忙しそうにしている先輩に、今日もまた一人で頑張らせてしまった事だ。


「先輩こそ、今日も遅くまで手伝いですか?」


 心配の色を含んだ夕映の声音に、隣を歩く女性は気まずそうに頬を掻いた。


「…………まだ、八時前じゃない。大学生にとってはなんて事無い時間だよ。それにほら、私の他にも残っている人は居るしね」

「先輩はここ最近ずっとではないですか。探検部の方にもあまり顔を出してないですし。のどか達も心配していましたよ」

「う~ん、それを言われると痛いなぁ」


 曖昧な笑みを浮かべた女性が、天を仰ぎながら言葉を継ぐ。


「まぁ、高等部時代の名残というか…………この時期が大変なのはよく知っているからね、暇を持て余しているお姉さんとしては、少しばかりお節介を焼きたくなる訳ですよ」

「まったく。張り切るのはいいですけど、風邪なんかひかないでくださいよ? まだまだ寒いんですから」


 ぶっきらぼうにそう言ってから、夕映は隣を歩く女性の顔を覗き見た。

 肌理の細かい透き通るような白色の肌に、それを一層際立たせる長く艶やかな黒髪。彫りは浅くとも淑やかな印象を強く抱かせる整った面立ちは、異性には憧憬を、同性には羨望を与えずにはいられない。小さめの顔の中でその存在を大きく主張する黒曜の瞳に見詰められれば、夕映ならずとも胸を高鳴らせるに違いない。

 些か誇張はあるかもしれないが、夕映から見た彼女――――近衛 洸(このえ ほのか)は、そんな、容姿に関しては日本女性というものを完璧に体現した、見惚れずにはいられないような美人だった。実家が京都にあるという話を以前に聞いた時は、なるほど、京美人というのは彼女のような人の事を言うのかもしれないなどと思ったものだ。


「そうだね、ちゃんと気を付けるよ。という訳で――――――ハイッ。心配してくれたお礼」


 夕映の前に、スッと何かが差し出される。赤、青、黄。それぞれカラフルな包装紙に包まれた、丸い棒付きのキャンディだった。一瞬その意図が分からなくて、夕映はつい洸の顔を見上げてしまう。目が合うと優しく微笑まれて、夕映の頬は瞬時に熱を帯びた。


「お一つどうぞ。こんな時間だしね、お腹、空いてるでしょ?」


 おどけたように右手で腹部を摩りながら、洸は左手に持ったキャンディの棒を軽く揺らす。

 そんな年上の女性の様子に、思わず夕映は笑みを漏らした。


「ハッピー・バレンタイン、ですか?」


 真ん中の青いヤツを抜き取りながら、ホンの少しの期待を込めて、夕映が返す。


「それもいいね。でも、コレはただのお裾分け。一杯貰ったからね、私はホワイトデーの方で参加するよ。勿論、夕映にもちゃんと返すから楽しみにしててね」

「あぁ、のどか達はちゃんと渡してくれたですか」

「しっかり受け取ったよ。うん、美味しかった。アレ、手作りでしょ? 凄くよく出来てたと思うよ」

「そ、そうですか。それはよかったです」


 火照った頬を隠すように夕映は俯いた。同時に、少しばかり気落ちする。本当は、自分の手で直接渡すつもりだったのだ。たとえ遅くなったとしても、渡すのは自分の手で。作った時には確かにそう決めていた。

 それが出来なかったのは、自分に対する恐怖からだった。

 今日の明日菜の話は、夕映としても他人事ではない。洸は大学部の二回生であり、もうすぐ三回生に上がる。この学園に居る時間は、おそらくあと二年と少し。長いようで短い時間だ。

 いつかは、離れる。目の前から居なくなる。その事を考えるだけでも夕映は胸が張り裂けそうで、想いのままに叫び出してしまいそうだった。勢い込んで明日菜をけしかけたのも、誰かが代わりに行動してくれれば少しは落ち着くのでは、という考えがあったからだ。

 勿論、明日菜に向けた言葉に偽りは無い。応援する気持ちだって本物だ。しかし言葉にはしなかった思惑があった事もまた、否定しようのない事実なのである。打算的に友人と接してしまった自分には、本当に嫌気が差す。だが、そうしなければ夕映は自分が何を仕出かしてしまうか分からなかった。

 それは、決して望ましい事ではない。


 ――――――どうせ、上手くいく訳が無いのに。


「どうかした? なんだか具合悪そうだけど、大丈夫?」

「あぁ、いえ。少し考え事をしていただけですので、お気になさらず」


 言いつつ、夕映は誤魔化すように渡されたキャンディへと手をつけた。青色の包装紙をペリペリと剥がしてやると、半透明な薄水色のキャンディが顔を出し、口に含めばふわりとソーダの香りが広がっていく。


「ならいいんだけどね。もしかして担任の先生の事かな? 今度変わるっていう」

「へ? っと…………そう、そうです! 今度来る先生の事を考えていたんです!!」


 稚拙だと、自分でも思う。本当に情けなくて、悔しくて、叫んでしまいたくなる。

 それでも今の夕映には、どうしても考えたくない事がある。だからいつも以上に声を張り上げて、身振りまで加えて、別の話にのめり込もうとした。口を閉じれば、それだけで涙が零れてきそうな気がしたから。




 二○○三年二月十四日。金曜日。

 多くの人にとって、多くの変化が始まる、その三日前。

 空気の澄んだ、雲一つ無い、綺麗な月の見える夜の事だった。












 ――――後書き――――――――


 本作を覗いてくださり、ありがとうございます。作者の青花(あおはな)です。

 まずは始まりの前の話ですね。オリキャラや本作における夕映の紹介的な話といったところでしょうか。色々とキャラを弄っていますから、読まれた方に馴染んで貰おうと四苦八苦しています。

 出来れば読者の興味を惹けるような始まり方にしたかったのですが、物語的には微妙なんですよね。殆ど何も起きていませんし。話の構成を考えるのはどうにも苦手なので、精進したいものです。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第一話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:2bbbedfc
Date: 2009/02/01 21:14


 ――――二○○二年七月――――――――




 射し込む光は柔らかで暖かく、吹き抜ける風は穏やかにして清廉。良き日だと、そう思った者は幾人居たのだろうか。その答えを知る者など居ないだろうが、彼が壇上から渡す限りでは晴れやかな笑顔しか見当たらない。

 メルディアナ魔法学校、卒業式。

 七年という修学課程を終えた生徒達が、今日、この場所から旅立っていく。僅かに五人という卒業生を見送るのは、百を超える列席者だ。家族が居て、教師が居て、後輩が居て。在学中に触れ合った近隣の者達までもが足を運んでくれて。辺境にある小さな村の中心は、今、確かに此処にあるのだと感じずにはいられない。

 だからこそ彼は、今一度この場の主役達を注視した。

 皆、幼い子供である。生まれて十を数えたばかりの子や、もうすぐそれに届こうかという子供達。未熟で、頼りなく、しかし夢と希望に充ち溢れた新しい息吹。何度となく繰り返し、今もまた口を衝いて出る激励の言葉は、そんな少年少女達へ贈る真摯な想いだった。


『――――卒業証書授与』


 長らく続いた式も、気付けば佳境だ。卒業証書を渡し終えれば、間も無く閉式を迎える。講堂内の緊張も自然と高まり、卒業生の顔も引き締まる。その光景を一頻り見回した後、彼は一枚目の卒業証書を手に取った。

 最初に呼ばれる名は、既に誰もが知っている。


「ネギ=スプリングフィールド君!」 


 七年という修学課程を五年で終わらせ、今年最も優秀な成績を残した少年の名前だった。自然と周囲の視線を集める当の本人は、しかしそれを気にした風も無い。ただ彼の方だけを真っ直ぐに見詰める大きな瞳には、希望と期待ばかりが充ち溢れている。


「はい!」


 力強い少年の返答に。高らかに踏み鳴らされた靴音に。

 彼は感じた。

 一つの夢が、ここから始まるのだと。

 故に、彼は贈るのだ。

 学び舎の長として。

 一人の魔法使いとして。

 少年の――――祖父として。

 旅立ちの切符と共に、ただ一言。



 おめでとう。












 ――――第一話――――――――












 魔法学校を卒業してから今日までの半年間、『日本で教師をする』という修業を与えられたネギは、在学時代にも増して勉学に励んできた。今まで一度も訪れた事の無い異国の地で、同じく経験の無い教職に就く。家族の心配は一入であったし、ネギ自身、周りに見せていたやる気の陰で不安を感じてもいた。

 言葉を覚え、文化を覚え、仕事の要領を覚える。魔法学校を何度も訪れては先生方の話を聞き、日本に行く前の予行演習だと幼馴染に言われ、以前は滅多に出掛けなかった都会へ繰り返し連れ出されもした。頑張って、努力して、心配する人々に大丈夫と胸を張れる自分を目指す。そんな思いから、ネギは出発の直前まで準備を怠る事は無かった。

 そうして今日、日本の空港に降り立ったネギが最初に感じたのは、漂う空気の違いだった。周囲を飛び交う言葉や、ふとした時に目にする文字。視界に入る人種分布も十数時間前と比べて大きく変わり、それだけでなく、人々の所作にまで微かな違和感を覚えてしまう。

 己の立つ場所が故郷とは違う国なのだとネギが実感するのに、三十分と掛からなかった。もしかしたら、これから始まる新たな生活に対する無意識的な不安がネギの神経を過敏にしていた、という理由もあったのかもしれない。

 なんであれ、飛行機の中ではち切れんばかりに膨らませていた期待の感情が急速に萎んでいくのを、ネギは感じていた。それだけではなく、立っている場所すらも覚束ない気がして、グルグルと目が回ってしまいそうな感覚すらある。

 とはいえ、何時までもボンヤリ突っ立っている訳にはいかない。約束の時間に遅れてしまっては、卒業からの半年間で必死に努力してきた事が、イキナリ無駄になってしまうかもしれない。日本人は時間に厳しいのだと、姉代わりの従姉弟は何度も口を酸っぱくして教えてくれたのだから。


(ココにはお姉ちゃんも居ないんだから、シッカリしないと!)


 うん、と。ネギは気合いと共に首肯する。回収した荷物を背負い、姉代わりである従姉弟が用意してくれた、利用する交通機関のメモを片手に持つ。それから、深呼吸を三回だけ繰り返す。


「――――日本へようこそ、ネギ=スプリングフィールド君」


 前方から声を掛けられたのは、その時の事だ。

 雑踏の中でもよく通る、澄んだ女性の声だった。その声に半ば操られるような形で、ネギは顔を上げる。すると、三メートルほど離れた場所に一人の女性が立っていた。

 腰元まで伸ばされた髪は綺麗な鴉の濡れ羽色で、見詰めていると吸い込まれそうなほどに深く澄み渡った漆黒の瞳は、真っ直ぐにネギの方へと向いている。白人のソレとは異なる透き通った白い肌をしていて、整った容貌には優しげな笑みを湛えていた。身に着けている物こそパンツにコートという洋風の装いではあったが、それでもネギの脳裡には大和撫子という言葉が思い浮かんだ。


「え~と……あれ? ネギ君で合ってるよね? もしかして間違えちゃった?」


 返事をしなかったからだろう、女性が気まずそうに頬を掻く。


「あ、いえ! 合ってます! 僕がネギ=スプリングフィールドです!!」


 慌てて訂正したその言葉に、向こうは安心したように息を漏らす。


「よかったぁ。人違いだったら大恥かいてたよ」

「えっと、それで貴女は……」

「あぁ、ごめんね。私は近衛 洸(このえ ほのか)だよ。君を麻帆良学園まで案内するよう、学園長から頼まれてるの。よろしくね」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 差し出された手を、反射的に握り返す。

 そうして握手を交わした瞬間、ネギは思わず洸の顔を見詰めてしまっていた。


「どうかしたかな?」

「あ、いえ。なんでもありません」

「ん。それじゃ、さっそく行こうか。時間も無いしね」

「はい、わかりました」


 背中を向けて歩き出した洸の後を追って、ネギも足を動かす。

 その一歩目を踏み出す時、彼の視線は先程握手した自らの右手へと向いていた。

 手を握るという、言葉にすればただそれだけの行為ではあるが、握手にも色々とある。上手い人に下手な人、力を込めるだけの大雑把な人も居れば、相手の事を確かめるようにキッチリと握り返す人も居る。国によっても変わってくると聞くし、握手という行為には個々の人柄がよく表れるのだと、ネギは思っている。

 そんなネギからすれば、洸の握手は奇妙なものだった。柔らかく、温かく、包み込むようにコチラの手を握ってくるのに、コチラから握り返そうとしたら急に力を抜いて離れていってしまった。変な人だと、ネギは思う。親しみを込めているのか、そうじゃないのか、よく分からない。それとも日本人は皆こうなのだろうか。

 前を歩く洸の背中を眺めてみても、ネギには答えが分かりそうになかった。

 ただ、ネギが日本で初めて知り合ったのが、そんな変わった握手をする女性という事だけは確かだった。








 ◆








「ほら、このトンネルを抜ければ麻帆良の敷地に入るよ」

「麻帆良……もうすぐ、ですか」

「そ。もうすぐ、だよ」


 トンネルの反響音で満たされた電車内に、人影が二つ存在している。足元に満杯のバックパックを置いて座席に腰掛けるネギと、その隣でショルダーバッグを抱えて座る洸だ。幾つかの交通機関を乗り継いでの長い道中で随分と打ち解けていた彼らは、仲良く並んで雑談に興じていた。


「それにしても、随分と少なくなりましたね」

「ん?」

「いえ、他の乗客の方が」


 そう言ってネギは、グルリと車内を見回した。

 誰も居ない。オレンジ色に照らし出されたこの場所には、ネギと洸の二人だけしか見当たらなかった。乗り始めの頃には一つも空席が無かったはずなのに、今では空っぽの車内に鈍い反響音だけが満ちている。別に問題がある訳ではないが、なんだか変な気分だとネギは思った。

 ああ、と得心がいったように洸が頷く。


「ココから先は終点までずっと麻帆良の敷地内なの。たしかに麻帆良は都市と呼ばれているけど、結局は私有地だからね。鉄道会社なんかと色々ややこしい取り決めがあるみたいで、許可証を持ってない人間は入れないというわけ。次の駅からは、また人が増えてくるよ。麻帆良に住む人達が乗り込んでくるからね」

「え? でも僕、そんなの――――」

「さっき切符を見せたでしょ? あれでいいの。そもそも許可が無いと発行されない物だからね」


 言われてネギは、握っていた切符に視線を落とす。

『麻帆良学園中央駅往き』

 一週間ほど前に、祖父から手渡された物だ。他にも航空チケットなどを含めて幾つか貰ったのだが、それらは此処に至るまでの道程で使い果たしている。しかし、なるほど。絶対に無くさないようにと祖父が強く言い含めていたのはそういう事かと、今更ながらにネギは理解した。

 同時に一つ、大切な事に気付く。


「あの……麻帆良学園について教えてくれませんか?」


 思えば、ネギは麻帆良の事をまるで知らない。この半年間は日本に行く為の準備にかまけてばかりで、肝心の赴任先については調べてこなかったのだ。既に目的地への到着まで一時間を切っており、今更という気がしないでもないが、まったく予備知識が無い状態に比べればマシだろう。


「そういえばお互いの国の話ばかりしてたっけ。いいよ、私が知ってる範囲で教えてあげる。ネギ君はどれくらい麻帆良の事を知ってるの? それによって話す内容が変わるんだけど」

「えっと、世界でも最大規模の学園都市という事くらいしか…………」


 申し訳なさそうに呟いたネギの言葉に、洸は目を丸くする。


「それだけ?」


 コクリと、ネギは小さく頷いた。


「そっかぁ…………んー、そうだね。話す事は色々とあるんだけど、とりあえずは――――――」

「?」

「自分の目で見てみようか」


 白く透き通った指先が、後ろの窓へと向く。それにつられて、ネギの視線も動いていく。

 やはりというか、見えるのは変わらず車内を照らし出しているオレンジ色のランプだけだった。等間隔で窓の外を流れていくそれが、一体なんだというのか。小首を傾げて洸に尋ねようとしたその時、ネギは気付いた。

 我の強いオレンジ色の光が、徐々に白み始めている。

 と、同時。


「――――――ぁ」


 世界から、音が消えた。

 実際にはトンネルから抜けた事で、騒がしかった反響音が消えただけだ。しかしこの時、確かにネギの世界には音が存在しなかった。そんなものは、彼の世界には必要無かった。

 ただ、目の前の光景に心を奪われる。

 トンネルを抜けた先、光を取り戻したその場所からは、麻帆良の全景が確認出来た。

 最も手前、山と学園都市との間には、客人である自分達を出迎えるかのように美しく煌めく雄大な湖が存在していて、その向こうでは競い合うように並び立ち、ひしめき合っている近代的なビル群が待ち構えている。そこから都市の中心部へ視線を移していけば、やがてビル群が退き始め、取って代わるように欧州風の建物が幅を利かせている。ネギにとっては故郷の村を連想してしまうそれらは中心部を拠点として広く分布しており、途切れた向こうにはまた別の建物群が存在するのだが、あまりにも遠すぎてよく分からないほどだった。

 一見してネギが判別できたのは、これくらいだ。勿論、完全に言葉通りという訳ではないし、他にも色々な建物が存在している。酷く大雑把に分ければこうなる、という程度のものである。

 それでも、ネギには十分過ぎる。

 凄いと思った。その広大さに、多様さに、ただ圧倒される。周りを山々に囲まれ、ある種の陸の孤島とも言えるこの場所で、これほどの発展を成し遂げているという事実に純粋な感動を覚えずにはいられない。

 ネギの故郷も山の中だ。自然豊かな場所で、麻帆良と同じく傍に湖もある。しかし電車を始めとした公共の交通網からは随分と離れているし、商店などの存在は最小限。建物だって昔ながらの趣ある物ばかりだ。

 だからこそ、余計に。

 初めて都市に足を運んだ時とは、また別の感慨が胸に去来する。


「ようこそ、麻帆良学園へ」


 隣から聞こえてきた洸の声に、ネギは静かに頷く事しか出来なかった。








 ◆








「ヤバイヤバイヤバイ――――! このままじゃ遅れちゃう!!」

「アスナー、なにもそんな急がんでも」


 一歩前へ進む度に周りの生徒達を十人単位で抜かしていき、一つ時計の針が進む度に心の焦りが増していく。雪崩の如く生徒達が大移動を行う朝の登校風景の中で、他の者達の十割増しで急ぎながら、明日菜は懸命に足を動かしていた。それこそ、ツインテールに結んだ髪が下に垂れる暇も無いほどだ。


「このかはのんびりし過ぎなのよ。元々はアンタが頼まれた事でしょ!」

「ごめんなー。アスナがウチよりも張り切っとるもんやから、つい……」

「仕方無いでしょ! 高畑先生に『新しい先生の面倒は私が見ます』って電話で言っちゃったんだから!!」


 ローラースケートを履いて並走している親友兼ルームメイトに、叫ぶようにして返事しながら、明日菜は昨夜の自分に対して恨み節をぶつけていた。

 夕映から貰ったアドバイス。その第一歩として、久し振りに高畑先生へ電話を掛けたのだ。

 別にそれは良い。高畑先生と話せた事に不満は無い。中等部に上がってからは担任という事での遠慮や、恋心の自覚から来る気恥かしさがあり、プライベートで話す機会はめっきり減ってしまっていたのだから。

 問題なのは、緊張の中で考え付いた話題が新任の先生に関する事だった所だろう。プライベートな付き合いがあるとは言っていたが、思っていた以上に心配そうな高畑先生の様子に、ついつい良い所を見せようと考えてしまい、気付けばそんな約束をしていたのである。


(そりゃ、自業自得だけどさ)


 一度首を振ってから、明日菜はギッと前方を睨みつける。

 幅の広い道を覆い尽くすように、何百何千という生徒達が走っている。路面電車は今日も満員で、停車中に追い越したバスの中も生徒で溢れ返っていた。所属する学校毎の種々様々な制服に彩られた街の風景は、明日菜にとっては見慣れた日常の一部である。

 ただ、この状況で各々の顔や背格好を正確に判別するのは困難を極めるのだが、それでも待ち合わせ相手と思われる姿は見当たらないと、明日菜は判断した。既に待ち合わせ場所に着いているのか、もしくは彼女達の後方で同じように走っているのか。失礼ではあるが、明日菜としては後者を希望したかった。


「あぁ、もうっ! 一つ早い電車に乗らなきゃダメだったのに!」

「ホンマになー。習慣ってコワイわ」


 まったくだと頷きながら、明日菜はコートのポケットから財布を取り出した。外した手袋は無造作に鞄に引っ掛けて、急いで財布の中から硬貨を一枚だけ抜き出すと、そのまま近くを走るバイク目掛けて放り投げる。


「おばちゃん、牛乳一つ!」

「はいよ! 毎度あり!!」


 張りの良い声と共に返ってきた牛乳パックを掴んだ明日菜は、落としていた速度を再び引き上げる。隣を走る木乃香も、明日菜に合わせて加速した。少し無理が入った、周囲の生徒の注意を惹くほどの速さだ。


「アスナー、走りながら飲むんは危ないえ?」

「わかってるわよ。ちゃんと学校に着いてから飲むって」


 言いつつ、普段は利用しない移動購買に感謝する。体力には人一倍自信のある明日菜だが、流石に本気で走り続ける事になれば疲労を免れない。今すぐではなくとも、水分補給が待っていると分かれば精神的には随分と楽になる。


「そうそうアスナー。担任になるの、どんな子やって?」

「……ホント、このかものんびりしてるけど学園長も相当よね。迎えに行かせるってのに、相手の事を伝え忘れるなんて。流石はアンタのお祖父ちゃんってトコかしらね」


 苦笑を返してくる木乃香を見て、仕方無いと明日菜は首を振る。

 学業に関しては自分と比べ物にならないほど優秀で、家事全般も難無くこなせるこの親友は、何故だか抜けた所がある。もう少し穏やかな表現をするなら、のんびりし過ぎな性格をしている。今回の件にしたって、彼女の祖父である学園長共々、相手の情報を何一つ確認しないまま待ち合わせに向かうという珍妙な事態を、昨晩まで気付かずにスルーしていたくらいだ。明日菜が高畑先生から色々と聞いていなければ、今頃はてんてこ舞いの大騒ぎだっただろう。


「写真を見た感じだと、真面目そうなガキってトコね。小さいメガネ掛けててさ、スーツなんか着込んでんの。髪はホラ、赤毛っていうんだっけ? なんかそんな感じ。この中じゃ見るからに目立ちそうな奴だから、きっとすぐにわかるわよ」

「ふーん。なるほどなぁ」


 感嘆した風な木乃香の声を聞きながら、明日菜は再び前方を走る集団を注視した。

 やはり、それらしき影を見付ける事は出来ない。


「けど十歳で先生か~。スゴイんやね、その子」

「スゴイなんてもんじゃないでしょ。ウチの学園は変わってると思ってたけど、流石にコレには驚いたわよ」


 数えで十歳という更なる驚愕の事実を聞いた時は、電話の向こうに高畑先生が居るというのに随分とはしたない声を上げてしまったのだから、明日菜としては恥じ入るばかりである。ただ、他の先生方では反発するかもしれないという事には納得がいった。自分の後任が小学校に通っているような年齢の子供では、誰だって不満を覚えるだろう。


「名前はたしか野菜と同じで……ネギ。そう、たしかネギ――――」


 脳裡に、昨夜聞いたばかりの名前を思い浮かべた明日菜は、


「――――スプリングフィールドです」

「へっ?」


 唐突に横合いから響いてきた聞き慣れない声に、間の抜けた声を漏らしてしまう。隣に顔を向けると、木乃香が驚いた様子で明日菜の向こう側を見ていて、慌ててそちらへ視線を移せば、そこには一人の少年がいた。

 日本人とは趣きの異なる顔立ちをした利発そうな子供で、鼻の上に乗せた小さな丸メガネの向こうでは、クリクリッとした純真そうなブラウンの瞳が覗いている。背には本人の体格と比べて大きめのバックパックがあり、布に包まれた、彼自身の身の丈ほどもある棒状の何かが括りつけられたソレのお陰で、傍目には随分と不格好なようにも見える。

 そんな、本来ならこの場とはまるで不釣り合いな少年が何者なのか、明日菜はすぐに気が付いた。思い出すのは昨夜、高畑先生から送られてきた携帯画像。撮った時期の問題か、若干雰囲気が異なるようではあるが、そこに映っていたのは確かにこの少年だ。


「アンタが…………」

「はい。本日からコチラの麻帆良学園で英語の教師をやる事になりました、ネギ=スプリングフィールドです」


 そう言って少年――――ネギは邪気の無い笑みを浮かべた。




 □




「へぇー、ウェールズから一人でなぁ。えらいんやね、ネギ君は」

「そんな事はありませんよ。これも一人前になる為ですし、ずっと色んな人のお世話になりっ放しでしたから」

「いやいや、ウチやったらネギ君みたいな事はよーできひんもん。せやから自信持ってもえぇと思うえ?」

「そーそー。曲がりなりにも先生なんでしょ? もっとドーンと胸張ってなさいよ。先生がオドオドしてちゃ生徒の方が困るんだから」

「えっと……ありがとうございます」


 予鈴数分前。学園の朝の内で生徒達の動きが最も慌ただしくなるその時間に、明日菜達は喧騒から少し離れた場所を歩いていた。

 楽しそうに雑談を交わしながら廊下を進む彼らは、目一杯に荷物を詰められた大きめのバックパックを揺らすネギを真ん中に、その両脇を明日菜達で固めるという形を取っている。万に一つも無いだろうとは思ったが、迷子を警戒しての事だった。

 そうして三人で目指しているのは、明日菜達がネギを連れていくように頼まれている学園長室だ。遠くから聞こえてくる喧騒をBGMに、他には誰一人として見当たらない廊下を歩く彼女達の会話は、中々に弾んでいる。

 明日菜や木乃香は子供であるネギに対して遠慮など無いし、どこか恐縮した風のあるネギにしても流石は英国人というべきか、会話になればよく舌が回るからだ。


「そういや、あんたの荷物ってそれで全部なの?」


 不意に、思い出したように明日菜がネギに尋ねた。


「ええ、そうですよ。宿泊先がどのような場所かわからないんだから荷物を多くしちゃダメだって、お姉ちゃんに言われたんで。余裕があるなら後で送ってもらえばいいだけですし」

「ふぅん。シッカリしたお姉さんなのね、助かったわ」

「えっと……?」


 送られてくる不躾な視線に疑問符を浮かべるネギに対して、明日菜はどこか可笑しそうに笑みを浮かべて答える。反対側を歩く木乃香も同様で、常の穏やかな雰囲気が尚増していて、随分と嬉しげな表情だった。


「ま、私達も昨日知ったばかりなんだけどね」


 重厚感漂う大きな木製扉の前に立った明日菜は、そう前置きして。


「アンタ、暫くは私達の寮部屋で暮らす事になってるみたいよ」


 ノックと同時に、そんな事を言った。


「…………へ?」




 □




 真紅の絨毯が敷き詰められた二十畳ほどの広い部屋。壁の一面を大きく窓に切り取られているその場所で、ネギは麻帆良学園の学園長と対峙していた。執務机に座り、豊かな顎鬚を撫で擦りながらネギと対面するその人物は、肩書きに劣らぬだけの落ち着きと貫録を醸し出している。

 初めに挨拶をしてから、およそ三十秒が経過していた。その間、学園長である近衛 近衛門(このえ このえもん)は直立するネギの様子を眺めていただけで、彼の後ろに控える女性――――指導教員の源(みなもと) しずな先生と紹介された――――共々、特に何も言ってはこなかった。

 正直、ネギとしては勘弁してほしい。両の眼を覆うほどに伸ばされた眉の奥で、はたして近右衛門は何を考えているのか。ネギにとって悪い想像しか浮かばないのは、魔法学校卒業からの半年間、散々に周囲から心配され続けてきた所為かもしれない。

 子供で、先生。
 子供の、先生。

 やっぱりこの人も思う所があるんじゃないかと、ネギはついつい邪推してしまう。緊張のあまり喉はカラカラに乾いているし、知らず握っていた拳は力が入り過ぎて開けそうになかった。この部屋まで案内してくれた明日菜達が早々に退室してしまったというのも、その状態を加速させている。


「…………フォッフォッフォッ」


 加えて、三十秒。初めの挨拶から合計一分の時間が経過してから、近右衛門はようやくその重い口を開いてくれた。それだけの事で、ネギは全身から力が抜けるような感覚を覚えてしまう。


「いやぁ、スマンのネギ君。写真を見てわかってはいたんじゃが―――――君が”アヤツ”の若い頃によく似ておったから、つい懐かしい気持ちになってしまっての。といっても、君の方が随分と賢そうではあるがな」


 ネギがその言葉に反応したのは、もはや反射の領域だった。


「ッ!? あ、あの――――!!」

「ほほっ、年寄りの昔話はまた今度じゃな。今は君の仕事についての話じゃ」


 機先を制するかのように重ねられた近右衛門の言葉に、自然、ネギの声は窄んでいく。


「…………はい」

「なに、この老木は暇を持て余しとるからの。茶菓子でも持ってきてくれれば、何時でも話し相手になるぞ」

「ぁ――――――ハイッ!」


 元気良く返事をしたネギに対し、近右衛門は頷きを返す。それから、咳払いも一つ。


「それではネギ君の仕事に関してじゃが、事前に通達したように最初は教育実習生という事になるかの。ただ、高畑先生の代わりに女子中等部ニ年A組の担任をしてもらう事になるがな。担当教科は英語じゃ。おおよそ一ヶ月――――――今年度の終わりまで頑張ってくれれば、来年度から正式に先生として採用しよう。クラスへの顔見せは…………えー、何時だったかの、しずな先生?」


 近右衛門の言葉を受け、彼の傍に控えているしずなは書類を持ち出した。確認するようにそれを一瞥した彼女は、紅いルージュに彩られた唇を苦笑の形に歪めてから、淀み無い口調で話し始める。


「今日の一時限目ですわ。色々と連絡事項がありますから授業前に高畑先生がHRを行いますが、彼は出張の予定が入っていますので」

「フォッ!? そ、そうじゃったかの?」


 近右衛門の声は本当に意外そうな響きを含んでいて、出会ったばかりのネギですら、彼が完全に忘れていた事を理解出来る。勿論、子供とはいえその事を口にしない程度の分別は持っているが。


「ええ。その為の授業プリントも用意してあります」

「ふぅむ。最近は珍しく忙しかったからのう、ちと気が回らんかったわい。まぁ、なんじゃ……ネギ先生、難しそうなら授業はせんと、クラスの子達と交流を深めるのもいいかもしれんの。まだ少し時間はあるから、その辺りはしずな先生と話し合って決めるといい」


 言われたネギは、しずなの方へと顔を向ける。向こうも同じようにネギへと視線を移してきて、目が合うと、優しくたおやかに微笑まれた。彼女の纏う空気は温かで、柔らかで、思わずネギは目を逸らす。任せなさいと、そう言われているような気がして、何だか気恥ずかしいのだ。容姿はまるで違うのに、纏う雰囲気が故郷に居る従姉弟に似ている気がして、つい甘えたくなってしまう。

 けど、それでは駄目だ。一人前になる為の修業なのだから、ネギには出来る限りの努力を行う義務がある。


「しかし、そうなると急いで準備をせんといかんな。他にも伝えたい事は幾つかあったんじゃが、また後日に、という事になるかの」

「えぇ、そのようになるかと」

「では最後に、ワシの方から少しばかりアドバイスといこうかの。何度も聞いた話かもしれんが、なに、これも決まり事みたいなものでな。修業開始の合図のようなものじゃよ」


 オホンと、近右衛門が咳払いをする。

 途端、近右衛門の纏う空気が変わったと、ネギは肌で感じた。息が詰まるほどに堅苦しいものではなく、柔らかで馴染み易いものでもない。ただ自然と背筋を伸ばしたくなるような、話に耳を傾けたくなるような、そんな、少しだけ張り詰めた空気だ。

 ネギは半ば反射的に息を吐き出し、心と体を落ち着けていた。

 身近に祖父という例があったからこそ、ネギには分かる。これから大切な事が話される、と。今までの儀礼的なものではなく、学園長として伝えたい事を、近右衛門は話すのだと。自然と背筋を正して、顔も近右衛門へと真っ直ぐ向ける。

 心なしか鋭くなった視線でその様子を確認した近右衛門は鷹揚に頷くと、ゆっくりと話し始めた。


「君の魔法の腕を、ワシらは問うつもりはない。魔法学校卒業生であるなら基礎の保障はされておるし、君が明確な進路を決めるまではどのような能力が必要かわからんしの。だからこそ覚えておいて欲しい、君が学ぶべきは魔法ではないと」

「…………修業の目的は、助けるべき人達を少しでも理解する事にこそある」


 知らず、ネギの口からは祖父からの教えが漏れていた。


「うむ、その通りじゃ。魔法が使えない人達の事を知りなさい。彼らの常識を、考え方を知りなさい。如何に魔法の技術が優れていようとも、一般社会に馴染めぬようでは意味は無い。一般人と共に歩めずして、『立派な魔法使い(マギステル・マギ)』は務まらん」


 決して急がず、だからこそ重々しく響く、近右衛門の言葉。


「勿論、最初は戸惑うじゃろう。失敗する事もあろう。だからといって恐れる事は無い。誰もが通る道じゃ、ワシらもフォローする用意はある。そこで悩む事こそが君にとって夢への第一歩となるじゃろう。まぁ、あまりにも過ぎるようでは修業は失敗とさせて貰うがの」


 長く、静かに、近右衛門は息を吐く。それだけで部屋の中は元の空気に戻っていた。ネギも体から力を抜き、僅かに姿勢を崩す。

 同時に、今の話を思い返す。

 魔法学校でも節目毎に先生方が口を酸っぱくして話し、従姉弟からも繰り返し注意された事ではある。しかし、十分に理解はしていたつもりだったのだが、思ったよりも難しいのかもしれない。

 魔法を使えない人。魔法使いではない人。知識としては知っているが実際に接した経験は殆ど無い。それこそ今朝の会話時間が今までの人生で最長だったほどだ。その時に大丈夫であったし、生活様式はあまり変わらないと聞いていたから安心していたが、本当に大丈夫なのだろうか。少しだけ、不安が頭をもたげてくる。

 そんなネギの考えが分かっているのかどうか、近右衛門は先程と比べて随分と気楽そうな口調で話し始めた。


「とはいえ、まずは実践じゃの。しずな先生、よろしく頼んだぞ」

「まかせてください、学園長」


 にこやかに返事をしたしずなが、くるりとネギへ振り返る。


「では行きましょうか、ネギ先生」

「あ、はい! お願いします!!」


 実際にやってみなければ分からない。たしかにそうだと、ネギは思った。まずは顔合わせと初授業。悩むのはそれからだろう。明日菜達との会話が上手くいったからこそ、そう考えられる。

 よし、と一息。ネギはしずなの後を追って扉を潜る。

 そうして廊下に出て扉を閉めた所で、しずなが話し掛けてきた。


「まずはスーツに着替えましょうか。荷物もどこかに置かなくてはいけないし……そうね、保健室にでも行きましょうか。あ、スーツはちゃんと持ってきたかしら?」

「はい、荷物の中に入ってますよ。皺にならないようにもしてますし」


 背負った荷物を揺らしながら応えたネギは、


「――――って、あぁ!?」


 次の瞬間に悲鳴を上げた。

 自分の背中に視線を向けて、ネギは焦燥も顕わに手をバタつかせている。そんな彼の様子を眺めていたしずなは、いかにも真面目ぶった様子で、しかし込み上げる笑みを隠せた風も無く、話し掛けてくる。


「別に学園長は気にしてませんよ」

「で、でも」


 可笑しげに言われても説得力が無いと、ネギは思う。とはいえ、確かに近右衛門が気にしていなかったのも事実だろうと感じていた。


(けど……)


 そんな問題ではないんじゃなかろうか。こう、礼儀というか作法というか、色々と根本的に失敗している気がして、なんとも収まりの悪い気分だ。幸先が良いとも言えず、堪らなく極まりが悪い。

 というよりも早々に退室した明日菜達はともかく、残る二人は気付いていて黙っていたのだろうか。もしそうなら、それは優しさなのか悪戯心なのか、どちらなのだろうか。後者ならば、先程までの遣り取り全てが一気に安っぽくなりそうだと、ネギは思った。


「はぁ~」


 電車を降りた時から背負い続けているバックパックの重さを感じながら、ネギは深く長い溜息を吐いた。












 ――――後書き――――――――


 以上、第一話をお送りしました。お読みくださった方、ありがとうございます。

 原作主人公であるネギ君の登場ですね。この作品でも原作ストーリー的な本筋では明日菜と共に頑張って貰う予定です。とはいえ、まだまだ彼らの説明回が続きそうなのが困りもの。上手くイベントと絡めて楽しくやりたいのですが、中々に難しいんですよね。構成力の無い自分が憎いです。

 麻帆良内に入るのに許可が要るとかは独自設定ですね。どうしようかとも思ったのですが、こうした方が色々と考え易いので改変させて頂きました。イメージは禁書目録の学園都市を緩くした感じでしょうか。今後も設定はドンドン弄っていく予定ですが、なんとか物語に齟齬が出ないよう頑張りたいと思います。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:2bbbedfc
Date: 2009/02/01 21:13


「うぅ、緊張するなぁ」

「大丈夫ですよ。少し元気が過ぎるかもしれませんけど、みんないい子ですから」


 あれから二十分、準備を終えたネギとしずなは、担当のクラスへと向かっていた。準備に手間取って遅れてしまったからか、廊下には二人以外の人影は見当たらない。休憩時間ともなれば存分に生徒達の話し声で賑わうであろうこの場所も、授業中は静かなものだった。聞こえてくる物と言えば、それこそ通り過ぎる教室から漏れてくる教師の声くらいである。

 そんな状況が、段々とネギの心を煽っていく。

 結局、ネギは授業を行う事に決めた。色々と準備をしてくれたというしずなに対する申し訳無さもあったし、自分がどれだけ出来るのか興味があったからでもある。

 移動や着替えに時間を取られた事もあり、用意する時間なんてものは無いに等しかったが、それでも最低限の知識は頭に叩き込んだ。覚える必要がある情報を、しずなが最低限に絞ってくれていた、という事でもある。

 教えるべきポイント、特に注意する点、それらをどのように話したら良いのか。大まかに言えばこの三点だ。範囲は用意された一枚のプリントに印刷された内容だけであるというから、随分と楽なものである。質問されるとすればどんな事があるかと尋ねれば、そこまで積極的なクラスじゃないからとリアクションに困る答えを返された、というのは余談だろうか。

 また、その他にも事前に高畑先生と相談して用意してくれたという引継ぎ用のノートも渡され、こまごまと今までの授業内容をメモしたテキストも渡された。

 至れり尽くせり、というのか。十分過ぎるほどの補助もあり、この僅かな時間の中でネギは少なからず授業に対する自信を持てた。

 だが同時に、思う所もある。

 初授業というハードルは随分と低くなった。それはつまり、これで失敗するのならば、この先も上手くいかない可能性が高い、という事ではなかろうか。明確にそうと決まっている訳ではないが、ネギにはそのように感じられた。


「そうそう、一つ渡し忘れていたわね」


 グルグルと教えられた授業内容の事を思い返していたネギの思考を遮る形で、しずなが呟く。


「授業の事ばかり話していたけれど、これが一番大切よね」

「えっと、これは――――」

「クラス名簿よ」


 しずなの言葉を聞くのと同時に、ネギは渡された名簿を開いていた。

 パラパラとページを捲っていけば、その中ほどで目的の物を見付ける。御丁寧に顔写真まで載せた生徒達の名前一覧だ。所属している部活動や委員会などについても載っているし、高畑先生が書いたと思われる一口メモも所々にある。

 数えてみれば、全員で三十一人だった。


「この人達が、僕の生徒になるんですね……」


 これだけの人数を先生として受け持つ事も、どの生徒も自分より年上であるという事も、ネギに深い感慨を与えてくれる。早く生徒達に会ってみたい。そんな思いが、心の中を満たしていく。授業風景を想像しての緊張もあるが、それでも期待の方が勝っている。


「ええ。ネギ先生なら、きっとすぐに仲良くなれますよ。神楽坂さん達も居ますしね」

「そういえば、アスナさん達も僕のクラスの生徒さんでしたっけ」


 話したのは学園長室へ辿り着くまでの十分あまりの時間だけだったが、親切な人達だったと思う。麻帆良学園の事を色々と教えてくれたし、自分を楽しませるように次々話題を振ってくれもした。特に明日菜からは、応援の言葉を幾つも貰っている。

 そこで、ふと思い出した。


「あの人達と、今日から一緒に住むんですよね?」

「そうよ。だから他の子達と比べても仲良くなり易いんじゃないかしら」


 ネギは名簿へと視線を落とす。

 出席番号八番の神楽坂(かぐらざか) 明日菜に、十三番の近衛 木乃香。まだ出会ったばかりではあるが、見知った顔がクラス内に居るというのは安心材料になる。異国の地ともなれば尚更だ。


「さぁ、着きましたよ」


 一つのドアの前で、しずなが止まる。見上げれば『中等部二年A組』という教室札が壁に掛けられており、間違いようも無く、ネギが担任を務める事となったクラスだった。

 こくりと、ネギは唾を飲む。

 既に高畑先生は立ち去ったのか、ドアの向こうからは生徒達の雑談が漏れ聞こえてくる。その声が、ネギの体を硬くする。薄い扉一つを隔てた場所に、自らの生徒となる人達が居るのだ。それを明確に知覚してしまい、否でも緊張が強くなる。

 だが、同時に。生徒達に早く会いたいと、先生として自己紹介をしたいと、そんな思いがネギの中で膨れ上がる。手は、震えている。緊張なのか、武者震いなのか。それは分からないけれど、不安だけは抱いてない。


「準備はいいですか、ネギ先生?」

「――――ハイ」


 低く、静かに、ネギは返事をした。

 とにかく、早く、教室の中に入りたい。その思いだけでネギの思考が満たされていく。静かに、息を吐いた。しずなにも届かぬほどに小さく、大丈夫と呟いた。姉代わりの従姉弟や、幼馴染、祖父の顔を思い浮かべた。


「――――――――ッ」


 そしてネギは、ドアに手を掛けた。












 ――――第二話――――――――












 麻帆良学園中央駅。ネギの案内という事で、彼が降りるこの駅までわざわざ電車に乗っていた洸(ほのか)は、今、構内に設置されたベンチに座りながら携帯電話で談笑していた。明るい話し声を漏らす彼女は左手で携帯電話を持っており、右手は文庫本を広げていて、隣には缶コーヒーを置いている。

 未だに彼女がこの場所に留まっている理由は特に無いのだが、登校する生徒達の波に巻き込まれないようベンチに座って文庫本を取り出したら、ついつい熱中してしまったのだ。加えて今は掛かってきた電話の事もあるので、移動するのは暫く先になるだろう。


「えぇ、そうですね。私もそう思いますよ」


 文庫本に栞を挟んで膝の上に置いた洸は、代わって右手に取った缶コーヒーで口を湿らせた。そうして、彼女は耳に当てた携帯電話へ意識を向ける。随分と遠回りをしていた通話相手だが、決心が着いたのか、ようやくコチラに尋ねたい事を口にする気になったらしい。

 此処まで来るのに一体どれだけの時間と話題を使ったのか。そんな事を考えて苦笑しながら、洸は予想される質問に答えるべく、頭の中で情報の整理を始める。そうして、洸が必要と思われる情報をピックアップし終えると同時に聞こえてきた相手の問い掛けは、彼女が考えていたものと寸分違わぬ内容だった。


『――――――それでどうかなネギ君は? 大丈夫そうかい?』


 電話口から響く男性の声は、まるで我慢の利かない子供みたいにフワフワと浮ついていて、それがまた普段のイメージと合わないものだから、聞いている側の洸は口元を綻ばさずにはいられなかった。

 今頃は別の駅で電車を待っているはずの相手は、はたしてどんな表情を浮かべているのか。きっと自分が見た事の無いだろうソレを想像しながら、洸は電話口に向けて言い聞かせるような柔らかい声音で返事をした。


「今のところは問題ありませんよ。自己紹介の時には生徒達の勢いに押されていましたけど、授業が始まってからは順調そのものです。緊張はあるようですが、特にミスをしている訳でもありませんし、私から見ても及第点はあげられそうですね。勿論これからの行動次第で幾らでも変わりますけど」

『それはよかった!』


 感情の爆発を堪え切れないという風に大きな声を上げた相手に、洸は苦笑する。

 彼がネギを大切に思っている事は以前から知っていたが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。この電話にしても洸にとっては予想外の事であり、掛かってきた時には何事かと驚かされたものだ。


「ですから安心して出張に行ってきてください。ネギ君の事ばかり考えて、つまらないミスなんてしないでくださいよ? もしも怪我を作って帰ってきたら、思いっ切り笑ってあげますから」

『ハハハ、それはイヤだなぁ』

「なら怪我しないよう頑張ってください。私はお手伝い出来ませんが、高畑先生なら問題の無い仕事でしょう」

『いやいや、プレッシャーは掛けないでほしいんだけどね』

「それでも貴方なら余裕だと思いますよ」


 新しく来た見習い魔法使い――――――つまりはネギの監視兼補助という任務さえなければ、高畑先生ではなく洸に任されていたかもしれない仕事だ、内容はある程度把握している。とある街で起きた、ちょっとした怪物騒ぎの解決だ。魔法使いとしての高畑先生の腕前を考えれば、どれだけ長引いても三日と掛からないだろう。

 それなのに、金曜日までは麻帆良に戻ってこないよう学園長から指令が下されているらしい。最初はその理由が分からず、首を捻っていた洸だが、今の会話からおおよそ察する事が出来た。

 つまりは新人であるネギへの過ぎた手助けなどを避ける為だ。最低限度の補助は必要だが、過保護になり過ぎては子供の成長を妨げる結果となる。高畑先生の頭を冷やさせる意味合いも込めて、今回のような仕事の割り当てになったのだろうと、洸は推測していた。


『いや、けど本当にありがとう。これで仕事に身が入りそうだよ』

「もう掛けてこないでくださいよ? 覗き見って、あまり気分のいい事でもないんですから」

『わざわざスマナイね。感謝してるよ』

「次に仕事で組んだ時に期待してますね」


 明るく話しながら、洸は一気に缶コーヒーを飲み干した。

 次いで彼女は空っぽになった缶を実に適当な動作で放り投げるが、それは綺麗な弧を描いてゴミ箱へと吸い込まれていった。


『ハハハ、了解したよ。それじゃあ電車が来たから、これで。ネギ君の事をよろしくね』

「ハイハイ、わかりましたって。無事にお帰りになられるのを祈ってますよ」


 通話の切れた携帯電話を折り畳み、洸は駅の改札口へと視線を移した。その向こうには幅の広い道が遥か遠くまで続いており、その、何時の間にか懐かしさを覚えるようになっていたかつての通学路を、先刻ネギが駆けていったその道を、彼女は静かに眺めていた。








 ◆








「えっと、つまりココの”It”は…………」


 ――――――視線を感じる。

 そう思って、ネギは密やかに息を吐き出した。

 初めての授業中、右手に持ったチョークの白線を黒板に走らせながら、ネギは背中に突き刺さる熱い視線に頭を悩ませていた。相手は分かっている。いや、分かっているからこそ分からないというべきだろうか。なんせ、ネギが受け持つクラスの生徒達ほぼ全員が視線の主だ、個人の特定など無意味に過ぎる。

 人前に出る事は決して苦にしないネギであるし、普段ならば逆にやる気へと変えてみせる所ではあるが、今日ばかりはそういう訳にもいかなかった。腕を動かせば、口を開けば、その都度反応する視線には、どんな意思が込められているのか。想像するしかないソレに、ネギは段々と神経が擦り減らされているような気がしていた。


(ふぅ…………)


 珍しがられているだけだとは思う。自己紹介をして生徒達に騒がれたのはつい先程の事であるし、自身の非常識さについては、ネギもある程度の理解を持っているつもりである。だから、この視線も自然な事なのだ。子供の先生なんていう、一風変わった存在へと向ける好奇の反応なのだ。

 そう思う。思うのだが、それでも騒ぐ心臓が止まらない。

 書いた文字は汚くないか。日本語はおかくしくないか。授業内容は間違っていないか。

 高畑先生が作ってくれたという引継ぎ用授業ノート片手に進めているし、今朝の明日菜達の会話から考えて、日本語も問題は無いはずだ。そう頭では理解しているのに、心がついてきてくれない。


「えっと、それではここの日本語訳を誰かお願いしますね」


 上擦りそうになる声を必死に抑えて平静を装いながら、ネギは振り向いた。

 途端、多くの生徒が示し合わせたかのようにネギから視線を外す。端から端へと視線を滑らせてみても、殆どの生徒がネギと目が合う前に顔を背けていく。当てられたくない、という事だろうか。


「え、え~と……その、誰か…………」

「ネギ先生、よろしいでしょうか?」


 思わず言い淀んだネギに声を掛けたのは、教壇の目の前にある席に座る女生徒だった。金髪に緑眼という日本人離れした容姿をした彼女は、ネギが自己紹介した時に騒いでいたクラスメイトを、一喝して諌めた人物だったと記憶している。名前についても確か、その時に聞いた気がする。


「あ、はい。いいんちょさんでしたか?」


 そんな風に、他の生徒達が呼んでいたはずだ。


「えぇ。このクラスの委員長を務めさせて頂いている、雪広(ゆきひろ) あやかです」


 が、どうやら間違っていたらしい。


「雪広さんですね、わかりました」

「それで、ネギ先生。私が訳したいのですが、よろしいでしょうか?」

「あ、いいんですか!? それじゃあ雪広さん、お願いしますね!」


 ネギにとってはまさしく渡りに船とでも言うべき申し出だった。嬉しさから知らず声も大きくなって、そんな子供らしい様子が生徒達の笑いを誘う。それにも気付かず、ネギは浮かれた様子であやかの言葉を聞いていた。


「――――そしてケイは家に帰っていった」

「そう、そうです! バッチリじゃないですか、雪広さん!!」

「ありがとうございます。でも、このくらい当然ですわ」

「アハハ、頼もしいですねぇ」


 優雅に笑って返すあやかに対し、同じくネギも笑顔で返す。


「え~、雪広さんが訳したようにココはですね…………」


 授業の終了まで、あと十五分。

 なんとか上手くやれそうだと、ネギは思った。








 ◆








「一目惚れ、ですか?」


 思わず出たのは、そんな言葉。友人からされた予想外の告白に、夕映は気の入らない声を上げていた。彼女の隣に座るもう一人の友人も似たようなもので、普段ならすぐにでも飛びつきそうな話題なのに、今は口を開いたまま驚きの表情で固まっている。


「うん」


 お昼休み、いつも一緒にいる仲良し三人組でお弁当を広げた、食堂の席での事だった。

 曰く、ネギ先生に一目惚れしてしまったと。

 そんな爆弾発言をしたのは、自他共に認める夕映の親友である、宮崎(みやざき) のどかだ。両の目が完全に隠れてしまうほど伸ばされた前髪が特徴的な彼女は、けれど隠しきれぬほどに赤く染まった顔を恥ずかしそうに伏せている。元来ふざけた冗談を言うような人物ではないのだが、その様子が他の何よりも雄弁に先の言葉の真実性を語っていた。

 しかし、これは、大丈夫なのだろうか。相手が自分達よりも年下の子供で、教育実習生の身であるとはいえ、曲がりなりにも教職に就く存在だ。思わしい結末は期待出来ない。実際に難しい恋に悩む身であり、恋の相談を受けている身だからこそ、夕映は強くそう思う。


「本当に、本当なんですね?」

「…………うん」


 少しの沈黙の後に返ってきた言葉は、小さくも、確かな意志の籠もった肯定だった。

 知らず吐きそうになっていた溜息を、夕映は慌てて押し込める。友人を気遣うべき場面のはずが、これでは逆ではないか。己を諌めた夕映は、次いで先程から固まったままのもう一人の親友――――早乙女(さおとめ) ハルナを睨みつけた。


「いいですか、ハルナ。デリケートな問題ですからね、この事は内密で頼むですよ」

「――ッ。わかってるって。いくら私でもそこまで無節操に話さないっての」


 途端に普段通りの明るい表情に戻ったお喋りな友人を念押しとばかりに一睨みしてから、夕映はのどかの方へと向き直る。

 その顔には、心配の二文字が色濃く浮かんでいた。


「色々と大変だとは思うですし、正直、考え直してほしいという気持ちはあるです。ですが、のどかが本気だというのならば、私達は全力で応援するですよ」

「そうだよのどかー。友達なんだからバンバン頼っちゃってよ。でさ、ネギ君のどの辺が気に入ったのよ。ホラホラ、恥ずかしがらずお姉さんに教えてごらん?」


 どこまでが本気なのかよく分からない口調のハルナだったが、それでも夕映は何も言わなかった。一々言った所で意味など無いだろうし、案外しっかりした所があるのは二年近い付き合いでよく知っている。

 それに、ハルナの質問に関しては夕映も同じ事を考えていたのだ。


(ネギ先生。ネギ……スプリングフィールド)


 高畑先生が予告した通りやってきた新しい担任は、どういう訳か生徒である彼女達よりも年下の少年だった。

 幼いながらも西洋的な彫りの深さを感じさせる顔立ちに利発そうな瞳を輝かせた彼は、確かに授業を行うのに支障無い程度には知識を持っているようだが、それでも思わずにはいられない。どうして子供が先生をしているのか、と。

 子供なのだ。確かに同年代と比べれば多少大人びているかもしれないが、まるで誤魔化しが効かないほどに、背格好から雰囲気まで。何から何まで。いくら新たな教育分野の開拓に熱心な麻帆良学園といえど、一体どんな思惑があるというのか夕映は不思議でならない。


(それに……)


 どうして親友は彼に一目惚れしてしまったのか。

 悪いとは思いつつも、ついそんな事を考えてしまう己を、夕映は止める事が出来なかった。


「えっとね。初めは怖い先生じゃなくてよかったとか、子供なのに先生なんて大変だな、とか。そんな事くらいしか思ってなかったの」


 でも、とのどかは続けて。


「自己紹介の時とか、授業の時とか。凄く緊張してるみたいだったし、本当に大変そうだったけど、一生懸命な姿が……その、カッコいいかなって感じたの。それにね、ネギ先生は目が本気だった」

「目、ですか?」


 首を傾げた夕映に対し、のどかは首を縦に振る。


「うん。目。一度も反らなかったし、話してる人の言葉を真剣に聞こうとしてた。それに……えっと、なんて言うのかな、子供だけど子供じゃないっていうか」

「子供だけど子供じゃない?」


 鸚鵡返しなハルナの言葉に、のどかは小さく頷いて返した。

 続けようとしたのか、彼女は口を開こうとして、けれどすぐにまた閉じた。或いは口にした本人すらよく理解していないのかもしれない。もっとも、今朝会ったばかりの相手の事だから、それが当然なのかもしれないが。


「まぁ理由はなんであれ、のどかの気持ちはわかりました。思った以上に本気なのですね」

「え~と、そうなのかな?」

「えぇ、目を見ればわかります」


 どこか自信無さげなのどかとは対照的に、胸を張って夕映は断言する。

 それこそ一年前に夕映が通った道だ、のどかの気持ちは本人以上に理解している自信が、彼女にはある。


「いやいや夕映、のどかの目は隠れてるって」

「ハルナ、うるさいです」


 すかさず茶々を入れようとする親友を切って捨て、夕映はのどかの目を真っ直ぐに見詰めた。ハルナの言うように前髪でスッポリと覆われているが、だからといってそこに隠された気持ちを読み違えるほど、浅い付き合いをしているつもりは無い。


「焦らずにいきましょう、のどか。まずは、お互いの事をよく知るのが肝心です。一目惚れというのなら、尚の事自分の気持ちを確かなものにするべきです」

「うん。ありがとー、ゆえ」

「いえ、かまいません」


 お礼を言うのどかに笑顔を返し、ふと、夕映は気付いた。


「そういえば、お弁当をまだ食べていませんでしたね」

「おぉっ!? そういやそうだったわ」


 テーブルの上には、可愛らしいデザインの弁当箱が三つ載せられている。

 包みを広げた所で先の話を切り出されたので、まだ誰も手を付けていなかった。時計を見れば、お昼休みがそろそろ半分を過ぎようかという所で、今から食べ始めれば丁度良い時間に食べ終われそうだ。


「んじゃま、続きはお昼を食べながらにしましょうか」

「お腹が空いていては出る案も出なくなりますからね。さぁ、しっかり食べて今後の事を話し合いましょう」








 ◆








 麻帆良学園は、世界でも名の知られた学園都市である。

 広大という表現が憚られるほどに広い敷地には病院や消防署といった各種施設を始め、商店街や住宅街など、生活の基盤となる地域も多数存在する。加えて自然も豊富で、街のアチコチに街路樹などが見られる他、大きな湖が存在しているし、敷地の外周部は殆ど全てが山で囲まれている。

 学園都市の中心となる教育機関も多様に存在し、下は保育園から上は大学まで、どころか、横にまで広がりを見せており、学園内だけでも多数の進路選択が可能となっている。

 そんな麻帆良学園である訳だから、中等部の、女子の、それも一校だけとはいえ数多くの教師が所属しているのだ。たとえ手が空いている者が少なくとも授業のコマが進めばその面子が変わる訳で、数が多いから次々に新しい人が増える訳で、気の良い先生達ばかりで。

 つまり何が言いたいのかといえば、次々と挨拶をしに来て、ついでに授業のコツなんかも教えてくれる先生方の相手をしていたネギが解放されたのは、昼食を含めて何もかも終わりクラスのHRへと向かう時間になってから、という事だ。


「はぁ~、疲れたぁ」


 そうしてHRまで終えたネギは今、明日菜に待ち合わせ場所として指定された、屋外にある銅像の足元に存在する段差に腰を降ろしていた。隣には魔法の杖がある。先程HRが終わるまではバックパックと一緒に置いていたのだが、やはり傍にある方が落ち着くと、暇になったのを機に持ち出していた。残った荷物も、今頃は新しい住居となる明日菜達の部屋へと運ばれているはずだ。


「おぉ! 本当に子供なんだぁ。やっほ~」

「あ、こんにちはー」


 生徒達との帰り道とは異なる場所にある為か、周りの人影はあまり多くない。それでも通り掛かる生徒というのは居るもので、一日にして広まった噂の中心人物である子供先生は、時折耳に飛び込んでくる挨拶に言葉を返す必要がある訳だ。

 はぁ、と再び息を吐いてから、ネギは雲一つ無い空を仰ぐ。


 ――――――大変な一日だった。


 朝早くに飛行機で日本に着いたと思えば、そこから慣れない交通機関を幾つか乗り継いで麻帆良を目指し。ようやく麻帆良に着いたと思えば、挨拶も何もかも手短に済ませていきなりの授業で教鞭を取る事になり。それが終われば今度は多くの先生方に出会い、色々と教えて貰い、そして今、非常に疲れが溜まっている。


「先生……か」


 小さく漏れた、ネギの呟き。

 今になって、ようやく実感が湧いてきた。疲労で気だるさを感じる体が奇妙に心地良く、今日だけで数回行った授業の緊張を思い出せば、不思議と笑みが浮かんでくる。

 ネギ自身、上手くやれたとは思わない。

 けれど。

 ただ人前に出るのとは異なるあの緊張感。

 授業が終わり生徒達の号令を聞いた時の安堵感と達成感。

 どれも、ネギが経験した事の無い特別なものだった。考えていたよりもずっと難しくて、大変そうではあるけれど、それでも頑張ろうと、今日一日を通して思う事が出来た。


「とりあえず、みなさんと仲良くなる事だよね。先生方も、生徒の事をよく知るのは大切だって言ってたし」


 よし、と一声。

 休憩がてらにと、ネギは今朝渡されたばかりのクラス名簿へと手を伸ばした。








 ◆








「――――結局、いい案は出ませんでしたね。ホント、どうしたものでしょうか」


 昼休憩での事を思い出しながら、夕映は学園の敷地内を歩いていた。肩に鞄を提げ、右手にパックジュースを持った彼女の隣には誰も居ない。普段から一緒に居る二人は、共に用事があるとの事だった。お陰で今の夕映は、コートを羽織っても尚寒い北風を受けながら、一人寂しく、当て所も無く、歩き回る羽目になっている。


「のどかは委員会で、ハルナは漫画研究会。残った私は人探し、ですか」


 ぼやくように小声で漏らしてから、夕映はどこか不満げにストローを口に含む。

 苛立ち紛れとでも言わんばかりに一気に吸い上げた所為で、半分近く残っていたジュースは瞬く間に無くなってしまった。最後に吸い上げ、ベコリとパックを凹ませた夕映は、傍にあったゴミ箱へとそれを放り投げる。見事に入った。こんなくだらない事は上手くいくのに、どうして目当ての人物は何処にも居ないのかと、ついつい夕映は嘆いてしまう。


「思った以上に見つからないものですね」


 辺りに視線を走らせるも、行き交い、擦れ違っていく人波の中に目的の人物は居ない。

 一つだけ、溜め息。

 放課後となってから、そろそろ一時間が経とうかという時間である。既に探す当ては全て訪ね歩き、ただ虱潰しに探していくしかないというこの状況に至って、夕映は若干の気だるさを感じていた。

 そもそも自分の用事という訳ではない。親友の為なのだ、これは。別に手を抜く訳でも、やる気が出ない訳でもないが、当の親友が用事で抜けた状況で、三十分以上も学園中を歩き回った人間の気持ちは察してほしい。


「ホント、ネギ先生はドコにいるのでしょうか」


 職員室には居なかったし、学園を案内しているクラスメイトも居ないらしい。中等部校舎を端から端まで探してもみたが、碌に目撃者すら居なかった。唯一分かった事と言えば、校舎の外に出たという事くらいである。

 そして、その情報を信じたからこそ、夕映はこうして寒風に吹かれている訳だ。


「…………踊らされていない事を祈るばかりですね。それほど動き回れるとは思いませんが、先生とは言ってもまだ子供、予想外の行動をする可能性は十分に考えられます」


 正直、そんな事は想像もしたくなかった。今日こそは洸の手伝いをしようという決意を曲げての行動なのだから、コチラの意思を折るような事態は勘弁してほしい。

 首を振って、萎えそうになる心をなんとか奮い立たせようとする。

 その時だ。


「アレが噂の子供先生かー。ホントに子供だったね」

「ホントホント、驚きだよね」

「うんうん。それに思ったより可愛かったし。あ~ぁ、2Aが羨ましいなぁ」


 通り掛かった女生徒達の、何気無い会話だった。


「……なるほど、ソッチですか」


 だが、今の夕映にとっては何より貴重な会話だった。




 □




 ――――はたして、ネギはそこに居た。中等部校舎から少し離れた場所にある、大学部エリアに続く階段下の広場。その場所に設置された銅像の足下に腰掛け、隣には布で包んだ棒状の物を置いたネギは、どうやら膝上に広げた何かを眺めているようだった。

 ダッフルコートを着込み、子供らしい大きく丸いブラウンの瞳を若干細めて、時折頷きながら視線を動かしているネギの様子は、なるほど、歳に似合わぬ落ち着きと聡明さを醸し出している。こういった所が親友の心を掴むのだろうかと、そんな事を考えながら、夕映は階段を降りていった。

 互いの距離が一メートルになるまで近付いても、ネギはまるで夕映に気付く様子が無い。彼は真剣な表情で膝に乗せた冊子のような物を眺めたまま、書かれている内容を何度も指でなぞっている。

 仕方無いと、夕映は更に一歩近付いてからヒョコリと体を傾げて声を掛けた。


「何をしているですか、ネギ先生?」

「へ? あぁ、綾瀬さんじゃないですか。こんにちは」

「こんにちはです、ネギ先生。それで、一体何を?」

「あぁ、すみません。これはですね……」


 言って、ネギは広げていた何かを夕映にもよく見えるようにしてくれた。


「あっ」

「待ち合わせの間に、少しでもみなさんの事を覚えておこうと思いまして」


 それはクラス名簿だった。

 夕映達2年A組に所属する生徒の名前や出席番号、委員会などが生徒の写真付きで載っているそれを、ネギは眺めていたのだ。


「そういえば、私の名前もすぐに――――」

「えぇ、もう顔と名前は全員覚えましたよ。これで明日からは大丈夫です」


 これが天才というものだろうか。笑顔で言い切ったネギの言葉を、夕映は感嘆と共に反芻していた。クラスの生徒、総勢三十一名。それも見慣れていないだろう東洋人が殆どだというのに、半日で覚えきったというのは驚きだ。普通の事だと言わんばかりにネギが平然としているのも、その感想に拍車を掛けている。

 だが、と同時に夕映は思う。

 自分にとっては好都合だ、と。


「…………では、私の出席番号はわかりますか?」

「もちろんっ。四番ですよね」

「正解です。では逆に、出席番号二十七番は?」

「宮崎 のどかさんですね」

「クラスで唯一漫画研究会に所属しているのは?」

「出席番号十四番、早乙女 ハルナさんです」


 矢継ぎ早に繰り出した夕映の質問に対し、ネギは淀み無く答えていった。当然のように全て正解である。誇張でもなんでもなく、先程言った事は本当なのだろう。

 改めて感嘆すると共に、夕映は好都合だと笑みを浮かべる。

 とにかくのどかの事を覚えてもらい、意識してもらう。それが、昼食時に出た案の中で唯一全会一致となった意見だった。もはや策とも言えない内容ではあるが、何をするにしても現状では情報が少な過ぎるのだと三人が気付いたのは、昼休憩の終了五分前の事だ。


「それでは私達三人に共通する事柄がなんなのか、わかりますか?」

「えっと…………図書館探検部に所属している、でしょうか。たしか、このかさんも入っているんですよね?」


 今度は少しだけ言い淀んで、それでも五秒と経たずにネギは正解を言い当てる。

 思わず夕映は、小さく拍手をしてしまっていた。


「お見事、正解です。ネギ先生は本当に凄いんですね」

「そんな事はありませんよ。生徒の方達と少しでも早く仲良くなりたいだけですから。ホント、今はそれだけで精一杯なんです」


 照れ臭そうに答えるネギの様子に、夕映は頬が緩むのを自覚する。

 教師として有能かどうかは一先ず置いておくとして、少なくとも人格面では非常に好ましい。それこそ、忌憚無くのどかの恋愛を応援しても良いかと、考えてしまうくらいには。


「それでですね、ネギ先生。私達の所属している図書館探検部なんですが、これがまた少々変わった活動をするサークルでして」

「そうなんですか?」

「はい。言葉で説明してもわかり辛いかもしれませんが、この学園には湖に浮かぶ小島の敷地を丸々全部巨大な図書館にしてしまった、『図書館島(としょかんじま)』と呼ばれる場所があるのです」

「あ、知ってます! 世界最大規模の図書館があるんだって、今朝このかさん達が言ってました」

(…………今朝?)


 そんな話題があっただろうかと思い返してみたが、夕映には思い当る節が無かった。


(そういえば、彼女だけは名前を呼んでいますね。ネギ先生が自己紹介された時も驚いた様子はありませんでしたし。いえ、それを言うならばアスナさんもどこか冷静な様子で見ていたような…………)


 近衛 木乃香と、神楽坂 明日菜。夕映の一つ前の席で隣同士となっている彼女らは学生寮でのルームメイトであり、毎朝一緒に登校している親友同士でもある。もしかしたら、今朝、自分達のクラスにやってくる以前に何かあったのかもしれない。

 そこまで考えてから、夕映は首を振った。


(詮索したところで、意味はありませんね)


 精々が好奇心を満たす程度だろう。それは今やるべき事ではない。加えて、自分達よりも親しいと考えられる二人の話題に興味を移されては堪らない。だから夕映は、一先ずその事を気にしないように決めた。


「えぇ、その図書館です。実はこの図書館がまた一風変わった所なのです。口で説明するのもいいのですが、百聞は一見に如かずという言葉もありますしね。どうでしょう、図書館探検部のみんなでネギ先生を案内しようと思うのですが、いかがですか?」


 途端に表情を明るくしたネギの様子を見て、夕映はこの話が上手くいった事を確信した。

 当日の付き添い役は、勿論のどかに決まっている。あくまで主役はのどかとネギであり、自分達は一歩下がって、気まずい空気が出来ないように気を配ってさえいれば良いのだ。


「いいんですか!?」

「もちろんです。赴任したばかりでお忙しいとは思いますが、お暇が出来たなら声を掛けてください。私達は何時でも構いませんから」

「はい! よろしくお願いしま――――――あっ」

「?」


 何かに気付いたような、ネギの呟き。


「――――――のどか?」


 その視線を追った夕映が目にしたのは、十数冊の本を両腕一杯に抱えた親友の姿だった。ゆらゆら、ふらふらと、体を左右に揺らしながら百段以上もある石階段を降りようとする姿は、なんとも危なっかしい。

 年度末が近付いたこの時期、先の話に出た図書館島を中心として、学園全土で数十も存在する図書施設全てが、一斉に図書整理を開始する。各施設では月末毎にも行っているが、この時期に行われるものはその比ではない。未返却や誤返却、在庫管理他、あらゆる情報と人材の交流を密にして行われるコレは、一年で最も忙しく、最も嫌われる作業だと言われている。

 クラスの図書委員だけではなく学園総合図書委員も兼任しているのどかは、近頃この件でよく駆り出されているし、今日も同じ理由で委員会に出ているのだから、彼女が此処に現れるのは別に可笑しくない。大学部に行くにしても、図書館島に行くにしても、此処は通らなければいけない場所だ。

 ただ――――。


「あんなに本を持って、危ないなぁ」


 まったくもってその通り。

 頑張り屋の親友に対して半ば呆れを込めて、夕映はそう思った。


「本当です。すみませんネギ先生、少し手伝いをしてこようと思うので、今日はこれで失礼します。先程の話については図書館探検部の誰かに言っていただければ、何時でも予定は組みますので」

「あ、はい。わかりました」


 頑張ってくださいね、というネギの言葉を背中に受けて、夕映は親友の許へと歩き出す。

 その、一歩目。

 のどかが階段を降り出して、十一段目。


「――――え」


 初め、発した本人である夕映ですら、その声の意味に気付けなかった。それほどまでに事態は唐突に訪れて、始まりと同時に理不尽な結末を用意してくれていた。

 のどかの体が傾いでいく。

 ゆっくりと、だが、確実に。足を踏み外した彼女は、階段の端っこを降りていた所為で、今、手摺りの存在しないソコから転落しようとしている。抱えていた本は宙を舞い、当の本人は何が起こったのかすら理解してないような表情で呆けている。


 ――――危ない。


 夕映の認識が追い付いた時、既にのどかの身は宙に投げ出されていた。地面までの高さは、おおよそにして八メートル。下に待っているのは、冷たく硬い石畳。どこから落ちようとも大怪我は免れない状況だ。

 助けたい、とは思う。だが、絶望的なまでに距離が遠い。のどかが地面と衝突するまでの僅かな時間で、誰がどうすれば十五メートルという距離を埋められるというのか。そんな方法、ある訳が無い。

 だから。

 ただの人間である夕映に出来る事は、非力な少女に出来る事は、今にも竦み崩れそうになる足を一歩でも前へ進め、刻一刻と背筋を這い上がりくる猛烈な悪寒に身を震わせる事だけだ。その先に待っているのが非情な現実だけだと分かっていても、真実、どうしようもないという事実。


 故にこそ、此処から先に待っていた結末を、夕映は非現実的な幻想だと受け止めた。


「――――え」


 まるで巻き戻されたテープのように漏れた二度目の呟きは、夕映の背後から吹き抜けた風によって齎された。腿まで伸びた夕映のおさげ髪を舞い上がらせ、制服の裾をはためかせたその風は、一瞬、夕映に正体を悟らせないほどの速さで通り過ぎていった。


 そして、もう一吹き。


 先刻とは違い、横合いから視界に侵入してきた風が、先を往く風に追い縋る。夕映がそれらの正体に気付いたのは、彼らが優に五メートルは離れた位置まで到達した頃である。

 ネギと明日菜だ。担任と友人が、凄まじい速度でのどかの落下予測地点へと駆けていく。それはもはや運動が得意という範疇に収まるようなものではなくて、夕映が認識を終えた次の瞬間には、目標地点までの距離を更に半分まで縮めていた。

 それでも、まだ、届かない。あと一歩、最後の踏み込みが間に合わない。不思議と、夕映にはその事が理解出来た。このままいけば、二人の目の前でのどかは地面に激突して、大きな赤い花を散らすだろうと。

 それはあんまりだろうと思った。碌に足も動かせていない自分と違って、二人は頑張っている。一生懸命に、のどかを助けようとしている。そんな二人に対してその仕打ちはあんまりだと、夕映は思った。

 だからコレは、今起こっている事は、あんまりな現実を受け入れられない自分の、陳腐な妄想なのかもしれないと夕映は思った。本当はもうのどかは地面に落ちていて、その華奢な体を真っ赤な血で染め上げているのかもしれない。そう思ってしまうくらい、この瞬間は非現実的な光景だった。


「浮い、て…………?」


 刹那の間だったかもしれない。足らない一歩を埋めるだけの、ただそれだけの間だったかもしれない。けれど、確かにのどかは浮いている。夕映の親友は、風に吹かれるようにしてふわりと、宙に留まっている。

 ――――――そして、たしかに届いた。

 気が付けばネギを追い抜いていた明日菜が、両の腕でしっかりとのどかを受け止めている。飛び込むような形で地面に倒れ込んでいる明日菜は随分と様になっていないようだけれど、今まで夕映が見た中では一番カッコいいと、素直にそう感じた。


「あっ」


 のどかの無事を確認したからだろうか、知らず力が抜けて、地面に座り込んでしまう。


(はは…………どうにも、気が抜けてしまったようです)


 随分と緊張していたのだろう。意識まで朦朧としてきており、いよいよ夕映は情けない気持ちになってきた。二人はあんなに頑張ったのに、自分はどこまで非力なのかと。


(駄目ですね、のどかに怒らなくちゃいけないのに。心配を掛けないでほしいです、て……)


 徐々に黒く染まっていく視界の中、冷静ながらも致命的に鈍くなっていく思考を感じる中で夕映が見たのは、のどかを抱き起こす明日菜と、銀色の棒を持って二人に駆け寄るネギ、そして薄く眼を開いた親友の姿だった。




「やれやれ、まさか初日からコレとはね。こういうの、ハプニング体質っていうのかな?」




 最後に夕映は、声を聞いた。

 誰より好きな女性の、何より好きな声だった。












 ――――後書き――――――――


 以上、第二話をお送りしました。お読みくださった方、ありがとうございます。

 二話とは言うものの、実質は一話後編ですね。余りに長くなったので分割させて頂きました。

 という訳で、原作の焼き直し的な話でした。のどか転落イベントは使い易くて助かります。残念なのはオリキャラに出番が無かった点でしょうか。早くアチラに出番を回して甘めの話が書きたいです。けど、そればかりだとネギ達のキャラクターが明後日の方向に飛んで行くから我慢なんですよね。まぁメインはエヴァンジェリン編からという事で。

 更新に関してはこれ以降は週一で、日曜日の夜に投稿する事を目標として頑張っていきたいと思います。数話分はストックがあるのですが、はたしていつまで逃げ切れるのでしょうね。とにかく精進です。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第三話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:2bbbedfc
Date: 2009/03/01 21:18


 山の向こうへ殆ど隠れてしまった夕陽によって半ばまで黒く染め上げられた帰り道を、明日菜はネギと一緒に歩いていた。気温の推移が登り坂に入り始めたとはいえ二月の北風はやはり寒く、二人は着込んだコートの下で小さく身を震わせながら、白い息をのんびり追い掛けている。少しばかり時間を外しているからか、周囲に他の人影は無く、静かな並木道に響くのは彼らの声だけだった。


「にしても驚いたわ、アンタを迎えに行ったらなんか夕映ちゃんまでいるし、本屋ちゃんは階段から落ちるし。流石に心臓が止まるかと思ったわよ」

「えぇ。僕もあの時は無我夢中でしたけど、後から考えてみるとホントにギリギリで……」

「まったくよ。夕映ちゃんは気絶までしちゃうし。ま、みんな怪我は無いようだったからよかったけどね」


 肩を竦めた明日菜は、徐々に夜の色に染まっていく空を仰ぎ見る。予定よりも遅い時間になってしまったが、まだ大丈夫だろうと彼女は頭の中で独り言ちた。いや、寧ろ丁度いいくらいの時間かもしれない、とも。

 あの後、何時の間にか倒れていた夕映を明日菜が背負い、落ちていた本はネギとのどかで分担して持つという形を取って四人は保健室へと向かった。当然だが夕映だけでなくのどかの診察を兼ねてもいる。幸いにして二人とも大した怪我は無く、少し待てば夕映の意識も回復するだろうとの事だった。

 よかったと胸を撫で下ろした明日菜だが、此処で困ったのも彼女だ。

 今日は木乃香に早く帰るよう頼まれていたのに、これでは予定が狂ってしまう。そもそもネギをあんな場所で待たせていたのも、他の生徒達に煩わされない為なのだ。かといって夕映達を放っておいてネギと帰る訳にもいかず、どうしようかと頭を悩ませていた明日菜を救ったのは、のどかが呼んだという一人の女性だった。

 近衛 洸(このえ ほのか)。大学部の先輩であり、木乃香の従姉妹でもある彼女を、明日菜はよく知っている。直接対面した回数はそれほど多いとも言えないのだが、親友と、恋愛相談者からの繋がりで情報だけは色々と持っていた。彼女なら安心だとその場は任せ、こうして今、明日菜はネギと共に帰路へついている。

 そんな、つい先程までの事を思い返しながら、最後に明日菜はのどかを助けた時まで意識を遡らせた。


(ホントに大変だったというか……)


 あの時は確か、ネギに声を掛ける直前だったのだ。帰宅の準備を終わらせ、歓迎会として美味しい日本料理を作るのだと言った木乃香の頼み通りに遅らせた待ち合わせ時間を前に、明日菜はネギが待っているだろう場所へと向かったのである。

 予想外だったのは、待ち合わせ場所にネギだけでなく夕映も居た事だ。

 夕映は変に騒いだりするような人物ではないと理解しているけれど、だからといってネギと一緒に住むのだと素直に話すのは躊躇われた。どうやって話を切り出そうかと考えながら近寄ってみると、何やら二人して明後日の方向を心配そうに見詰めていたのだ。

 何があるのかと思えば、明日菜が利用したのとはまた別の階段を降りているクラスメイトが居た。あまり親しくないとはいえ、夕映の親友である事からそれなりに知った仲である少女だ。その彼女が腕に抱える大量の本を見て危ないなと考えながら、二人に声を掛けようとしたその時、のどかは転落したのである。


 そして――――――。


「ところでさぁ、ネギ」


 何気無く、普段通りの調子で明日菜は話を切り出した。


「なんですか?」


 ネギも、いつも通り気負い無く返事をする。


「アンタは――――――『魔法』って信じる?」


 明日菜がそんな言葉を思いついた理由は、本人ですらよく理解出来ていなかった。

 ただ、あの時。のどかが宙に浮いた時。傍に居た明日菜は風を感じていた。不自然な、のどかを包み込むように渦巻いた風に驚きを感じながら、それでも彼女は走っていた。同時に、彼女は”見て”、”聞いて”いる。ソレがなんであるのかなんて明日菜には皆目見当もつかなかった訳だが、足りない頭で色々と考えた結果、何故か頭の中でスッキリと填まったのが『魔法』という言葉だった。

 こうして口にしてみると、余計にその感覚が強まったように思える。自然と唇から言葉が漏れて、音となって耳に響いてから頭の中で理解するような、そんな不思議な感じがしている。


「は、はい? えっと、その……なんですか、アスナさん? そんな魔法だなんて、馬鹿みたいな話あるわけがないじゃないですか。本の中だけですよ、魔法つか――――――」

「あの時さ」


 ネギの言葉を遮るように、明日菜は重ねる。


「アンタ、何故か変な棒を取り出したわよね? 銀色で三十センチくらいのヤツ。アンタはその所為で私に抜かされた」


 奇妙なまでの確信と、異様なまでの落ち着きが、明日菜の中にあった。

 喋っている本人ですら理解出来ない何かが、胸の裡で渦巻いているように思えてならない。だが、そんな事は明日菜にとってはどうでもいい。よくないのかもしれないが、今の彼女には気にしている余裕が無かった。

 冷静な声音とは裏腹に、先程から心臓が倍速で鼓動を打ち続けている。イヤな予感があった。何が悪いのかも理解出来ないが、とにかく手に汗が滲んで止まらなくなるような、そんな感覚が背筋を這い上がってきている。


「それに言ったわよね、”風よ”って。あの時たしかに、アンタは言った。どこの言葉なのかもわかんなかったけどさ、意味はなんとなく理解できたのよ。そのお陰で本屋ちゃんが助かったっていうのも」

「あ、あぅ……その…………」

「ねぇ、ネギ。教えなさいよ。アンタは魔法使いなの?」


 尋ねたい事がある。知りたい事がある。興味から出たものなのか、好意から出たものなのかも明日菜には分からないけれど、まずはその答えが聞きたかった。考えるのは後からだと、勝手に結論付けている。




「――――――――高畑先生は、その事に関係しているの?」




 ただ、何故だか無性に泣きたいと、明日菜は心の中で深く静かに思っていた。












 ――――第三話――――――――












「――――――以上が初日の報告になります」


 簡潔な言葉で締められた報告に、近右衛門は鷹揚に頷く。

 夜の帳の下で、静寂に支配された学園長室に居るのは二人の人物だった。オークの執務机に座り流れ作業で書類に判子を押していく、この部屋の主である近右衛門と、その彼の前で書類を持って直立している洸だ。

 報告を終えて口を噤んだ洸は、黒色の瞳で仕事に勤しむ近右衛門の姿を見詰めながら、ジッとその言葉を待っている。微動だにせず、口出しもしない。やがて、紙の擦れる音が二十回ほどもした頃だろうか。それまで黙って書類と向かい合っていた近右衛門が顔を上げ、洸と真正面から向かい合った。


「…………流石は”ナギ”の息子といったところかの。まさか初日から魔法をバラしてしまうとはな」

「宮崎 のどか、綾瀬 夕映の両名に関しては既に意識操作を完了しています。事故そのものを忘れる事はありませんが、不自然に思う事は無いでしょう。ですが先程の報告にありましたように――――――」

「アスナちゃんの事じゃな」


 はい、と洸は肯定する。


「神楽坂 明日菜については現状で意識操作・記憶処理共に施す事は困難と判断し保留としました。その結果、彼女はネギ=スプリングフィールドから魔法社会の情報を引き出す事となりましたが」

「いや、それでかまわんよ。お主もそう思ったからこそ、止めに入らなかったんじゃろ?」

「………………」

「ワシとてそういった事を期待しておらんかった訳ではない。でなければ一緒の部屋になどせんしの。まぁ、初日からというのは想定外じゃったが。ふむ…………タカミチ君には悪いが、これもまた運命なのかもしれんのう」

「私では判断しかねます」


 少し硬い声で短く返した洸に対し、近右衛門は大らかな笑みでもって返す。歳を重ねた者だけが出来る柔らかくも威厳のある表情だった。洸にとっては見慣れたもので、だからこそ込められた意思を汲み取るのは容易い。

 思わず緩み掛けた頬を、彼女はなんとか堪えた。


「言い訳にしていい言葉ではなかったの。まぁ、結局はワシにもわからんという事じゃ。正しい道がわかる者などおらんのじゃ、それが魔法使いであってもの。何時だって誰だって不安が付き纏う。だからこそ後ろを向き、過去を学び、そうして前へと進む勇気を得る」

「…………亀の甲より年の劫、という訳ですか」

「うむ。自らの経験は何より貴重な財産じゃ。振り返らず、前ばかりを見て成功出来る者などそうそうおらん。やる前から成功が決まっておる者はもっとおらん」


 じゃから、と。

 近右衛門は眉に隠された目を優しげに細めながら、


「この結果が失敗じゃったとしても、後悔する必要は無い。ただ、今日の選択があったという事を忘れなければよい。忘れずに、反省に活かせるならば更によい」


 温かな、祖父としての声音で告げた。


「それにの。もしも責任を取る必要があるなら、それはこの老骨の役目じゃろうて」


 洸は、返事をしなかった。黙したまま近右衛門を強い眼差しで見詰めて、それから、静かに頭を下げる。そのまま彼女は顔を上げる事無く、自らの職務終了と退室を告げた。濡れた感じのある、微かに震えた声だった。


「――――――では、報告が終わりましたので失礼させていただきます」

「あいわかった。遅くまでご苦労じゃったな」


 真っ直ぐに背筋を伸ばして歩き去る洸の背中を眺めていた近右衛門は、思い出したように声を漏らした。


「おぉ、そうじゃ」


 ピタリと、まるで機械のように洸が立ち止まる。


「いい茶菓子が手に入ったんじゃよ。どうじゃ、今度食べにこんか?」

「………………」


 直立したまま何かを考え込むように黙っていた洸は、やがて、十秒ほど経ってから振り向いた。

 その顔には先程までの硬い様子は無く、孫娘としての素直な表情が浮かんでいる。


「それじゃあ今度、エヴァと一緒に将棋でも打ちに来るよ。楽しみにしててね」

「ワシとしては恋人の一人でも紹介して欲しいんじゃがのう。ほれ、いい縁談話がこんなにも――――」


 そう言って執務机の引き出しから見合い写真の束を取り出す近右衛門に構わず、洸は扉の方へと足を進めた。勿論、後ろの方で色々と話している近右衛門の言葉なんて聞いてない。静かにノブを捻り、音を立てずに扉を開いた洸は、退室する直前、扉の隙間から顔だけをヒョコリと出して、


「ごめんね、お爺様。私が好きなのは女の子だから」


 未だ見合い写真を広げて何某かを喋っている近右衛門の反応も待たずに、音を立てて扉を閉める。後には呆然と扉を見詰める近右衛門と、そんな彼を見詰める写真の中の男達だけが残された。


「………………まったく。アレさえなければワシも安心できるんじゃがなぁ」


 心底疲れたといった様子の呟きが、窓の外の闇へと吸い込まれていった。








 ◆








 まだ日も昇り切らないような早朝の、澄んだ冷たい空気の中を、ネギと明日菜が並んで走っていた。明日菜はジャージの上着を、ネギはダッフルコートを、共に服の上から羽織っている。また明日菜の肩には鞄が掛けてあり、そこから顔を覗かせる新聞を次々とポストに挿し込みながら、彼らは人影の見当たらない住宅街を駆けていく。

 一つ、愛用の靴が音を鳴らす度。一つ、口から白い息を吐き出していく。そろそろ走り始めてから三十分が経とうかという頃だが、互いの呼吸に乱れは無く、明日菜は魔法使いだというネギの凄さを認識していた。


「――――――それで、アンタはその『修業』の一環で教師をやってんの?」

「その通りです。魔法学校の卒業生は、卒業証書に浮かび上がった『修業』をこなさいと一人前とは認められません。進路を決めるのも修業中か、修業が終わってからという人が多いですね。進路が決まればそれに合った魔法を覚えていくんですけど、その師匠も修業先で斡旋してくれますし」


 今は、明日菜の日課である新聞配達のバイト中だった。


「なんでそんな面倒臭い事をやるのよ?」

「簡単に言えば社会勉強です。僕みたいな魔法使いの村でしか暮らした事のない見習い魔法使いって結構多いんですよ。ですからそんな新人をいきなり現場に出したら大変だっていう考えがあって、まずは魔法使いの管理が行き届いた場所で働かせるんです。そこで魔法を使う場面とか、加減とかを学ぶ訳です」


 明日菜と比べて短い間隔で息を吐き出しながら、ネギが答える。


「僕くらいの年齢で卒業するのもそれが理由でして、大した魔法が使えない内に一般社会を経験させたり、実際に働いている魔法使いを見せて早くから進路を考えさせるのが目的です。魔法使いの仕事と言っても色々あるので、魔法学校で全部を教えていたら何年あっても足りませんからね」

「だからアンタは、魔法使いが一杯居るウチの学園にやってきた、と」

「はい。まぁ、僕みたいなヒヨッコは進路を考えるよりも先に、魔法がバレないように生活する方法を学ぶのが第一なんですけどね」


 そう言ったネギは、苦い笑みを浮かべていた。自分の現状について考えているのだろうと、彼が何を考えているのかはおおよそ見当がついた明日菜だったが、あえてそれに触れる事はしない。

 結局、昨夜の明日菜が知る事が出来たのは、ネギもタカミチも魔法使いであるという事だけだった。それ以上の事は、混乱が渦巻いていた明日菜の頭では質問する気になれなかったのだ。以降は言葉を交わさず、寮に帰ってからも普段通りに過ごす元気が無かった明日菜は、夕食を食べた後は早々に布団へ潜り込んだ。

 ただ、一晩経って朝起きた時に、彼女は異様なほど落ち着いた自分に気付いた。昨晩は色々と考え過ぎて、頭痛を感じるくらいグチャグチャになっていた思考が、何故かスッキリしていたのである。理由は分かるような分からないような、実に奇妙な感覚ではあったが、自然な様子で明日菜は寝ていたネギを叩き起していた。


(魔法使い、かぁ)


 今、こうして走っていて、ネギに質問をしていて、そんな自分が何を考えているのかは、明日菜自身よく理解出来ていない。それでもやはり、知りたいという欲求だけは確実に存在している。


「ふ~ん、なるほどね。てことはさ、やっぱり学園長も魔法使い?」

「そのはずです」

「…………おじいちゃんも魔法使いなのかぁ。何年もお世話になってるんだけどなー」


 通り過ぎた家のポストに新聞を挿し込みながら、感慨深げに明日菜が呟く。その内容に、ネギが首を傾げた。


「おじいちゃん、ですか?」

「そ、おじいちゃん。滅多に呼ばないけどね。私って両親がいないからさ、小学生の頃からずっとこの学園で育てて貰ってるの。学園長には一杯お金を出して貰ってるし、高畑先生にも色々と面倒見て貰ったしね」


 両親の事は、今では顔どころか名前すら覚えていない。近右衛門に尋ねた事すらない。自分でも随分と薄情な娘だとは思っているが、それほどまでに明日菜はこの学園での生活を気に入っているのだ。

 親友が出来て、悪友が出来て、好きな人も出来た。毎日が騒がしくも楽しくて、充実していて、記憶の片隅にすら残っていない両親の事で、その空気を壊したくはないのだ。


(ああ、でも…………)


 もしかしたら、両親は魔法使いだったのかもしれない。魔法使いだったから、娘の明日菜を、近右衛門が引き取ってくれたのかもしれない。昨日から胸の裡で疼く奇妙な感覚は、もしかしたら既に自分が魔法使いを知っていたからかもしれないと、そんな事を、明日菜はふと考えた。

 馬鹿馬鹿しい推理だ。けれど否定が出来ないくらいに、今の状況も馬鹿馬鹿しい。


(それに、ね)


 実は魔法使いの関係者でした、というなら明日菜的には嬉しい。

 魔法使いだと聞いてしまったからか、漠然と高畑先生が遠くに行ってしまったような気がして寂しいのだ。別に隣を走っているネギを見た所でそんなものは感じないのだが、やはり身近な人の知らない一面という事が大きいのだろうか。それとも、今までも困難に感じていた道のりに新たな壁の存在が見えたからだろうか。

 勿論、その程度で諦める明日菜ではないのだけれど。


「…………アスナさんは、寂しく思った事はないんですか?」

「ん? なにを?」

「その、両親が居ない事を」


 どこか申し訳なさそうに続けたネギの言葉に、明日菜は一瞬だけ目を丸くして、


「アハハ! ないないっ!! 私ってば両親の顔も覚えてないもん。それに学園長達だけじゃなくて、友達も一杯いたしね。このかとか、認めたくはないけどいいんちょとかさ」


 軽く笑い飛ばした。


「ま、そんな訳だから学園長にはお世話になってるの。このバイトだって、学費くらいは自分で払おうと思って始めたんだから。学園長は気にしなくてもいい、て言ってくれてるんだけどね」

「…………凄いんですね、アスナさんは」

「そうでもないわよ。ウチの学園だと中学でも奨学金あるからさ、本当ならソレが貰えるくらい勉強を頑張って、将来返せばいいんだけど、私ってばソッチの方はからっきしだからね」

「――――ッ。そんな事ありませんよ! 本当に立派だと思います!!」

「わ、わっ」


 鶏に代わって辺りの住民を根こそぎ起こしてしまうんじゃないか、なんて馬鹿な事を考えてしまうくらいネギの声は大きくて、思わず明日菜は立ち止まってしまった。それに合わせてネギも足を止めて、自然、二人は向かい合う形で立ち尽くしてしまう。

 ネギの視線は真っ直ぐに明日菜を見上げており、ただそれだけで先の言葉に込められた気持ちが伝わってきそうだった。子供故の純真さからか、ネギ個人の性格によるものなのかは分からない。ただ、運動の所為だけではない頬の火照りは本物だろうなと、我が事ながらに明日菜は思った。

 赤くなった頬を指で掻きながら、彼女は困ったように口を開く。


「…………なんていうか、照れるわね。そうマジになって言われると」


 口に出す事で余計に意識してしまったのか、耳まで赤くした明日菜は、そんな自分に耐えられないといった様子で大きく首を振った。


「――――――あぁもうっ! とにかく新聞配達続けるわよ! 大体、今はアンタの事情を聞く時間でしょうが!! なんで私の自分語りなんかになっちゃってんのよ!! この馬鹿ネギ!」

「えぇっ!? アスナさんが勝手に話し始めたんじゃないですか!」

「うっさい黙れ! チャッチャと走る!! チャッチャと喋る!!」

「なんか言ってる事が無茶苦茶ですよっ!?」


 先程までの倍以上の速度で住宅街を走り抜けていった二人は、結局、満足に話も出来ないまま新聞配達を終えて寮へと帰るのだった。








 ◆








 昼休憩の鐘が鳴ってからもうすぐ三十分が経とうかという時間帯に、夕映は学園校舎を歩き回っていた。昨日と同じで、傍に親友二人は居ない。また、目的が人探しである事も変わらない。ただし今日の探し人はネギではなく、彼と一緒に居ると思われる明日菜だという点では異なっている。

 今朝の明日菜――――木乃香もだが――――は、何故かネギと一緒に登校してきていた。

 通学電車から降りてくる所を、夕映は目撃したのだ。その後も下駄箱に着くまでは行動を共にしていたようであるし、授業中にネギが二人に視線を向ける回数は、他の生徒達よりも多い気がした。否、事実として多かったはずだ。


「予想通りなのかもしれませんが、まるで嬉しくありませんね」


 明らかに現状でネギが意識しているのは明日菜と木乃香の二人だ。のどかを意識させるとは言っても、彼女らが会話に割り込んできたら元も子もない。知り合いの少ない異国の地、親しい方に意識が向くのが自然だろう。

 だからこそ、協力を取り付ける必要がある。幸いにしてどちらも仲の良い友人な上、ネギを好きになる可能性は限りなく低い。明日菜としてはある意味複雑かもしれないが、まぁおそらくは大丈夫だろう。

 そう考えて昼休みに話し合おうと思っていたのだが、何故か明日菜は早々にクラス内から消えていた。木乃香も知らないと言うし、携帯に電話を掛けたら鞄の中に忘れていた。一体どうしたのかと、急いでお弁当を片付けてからハルナと共に探しに出たのだが、聞いた話ではどうやらネギと一緒に歩いていたらしい。


「間が悪いと言いますか、何と言いますか」


 早急に対処しないと本当に不味いかもしれない。そう思いつつ、夕映は早足で廊下を進んでいく。やはり聞いた話ではあるのだが、どうやら今日もあの二人は屋外に居るらしかった。


「まったく、なんなんでしょうね」


 ぼやきつつ、夕映は外へと続く扉を潜った。




 □




「――――で、今更の質問なんだけどさ」

「なんですか?」


 有耶無耶なままに終わってしまった早朝質問会の再開は、気付けば昼休憩の時間まで持ち越されていた。ネギへと群がる生徒達のお陰で、登校してから今まで、碌に話も出来なかったからだ。新しい玩具を与えられた子供の如くはしゃぐ女生徒達を前にしては、強引な所がある明日菜といえど、そうそう無理を通す事は出来ない。

 とはいえ、冷たい北風が身を震わせる季節にわざわざ校舎から離れた屋外ベンチを選んだ甲斐があったのか、今ばかりは周囲に人影は見られなかった。


「いや、ココに来てなんなんだけどね。アンタ、こんなに一杯話しちゃって大丈夫なの?」

「ハハハ………………ダメですね」

「あ、やっぱり?」

「――――いや、けどですね! アスナさんは大丈夫なんですよ!!」

「へ?」


 唐突に表情を明るくしたネギの言葉に、明日菜は目を丸くした。


「実は昨日の夜に学園長からメールが来たんですよ」

「メールって……アンタ、携帯持ってたんだ」

「昨日の朝に支給されました。それでメールの内容ですが、アスナさんには魔法使いの事を話しても構わない、という事らしいです」

「はぁ? なにそれ」


 理由を聞きたいのは自分の方だと、ネギは思う。

 昨夜、勢いに押されて自分は魔法使いだとバラしてしまったネギは、それから後はまるで生きた心地がしなかった。

 普通なら修業の中止どころか実刑に処されかねない失態である。如何にネギが半人前の子供といえど、厳罰は免れない。それこそ下手をすれば、修業だけではなく将来的な事も含め、全てが終わる。一般人に魔法の存在をバラしてはならない、というのは魔法学校に入学していないような幼子でも知っているような基本事項で、最も基本的な決まり事だからこそ、信用問題に直結してしまうのだ。

 目撃された所までは、まだ良かった。望ましい事ではないだろうが、それでも失態を取り戻すのは不可能ではない。しかし、自分から話すというのは言語道断だろう。もしも追及されたら申し開きのしようもない。

 お陰で木乃香が用意してくれたという日本料理も箸が進まず、味も分からぬまま機械的に口を動かす事しか出来なかった。仕舞いには木乃香に薬まで用意されて心配されたのだから、非常に心苦しい。そして食後には無理矢理ベッドに寝かされ――――布団が用意されていたが、慣れないだろうと木乃香のベッドだった――――、携帯電話に届いていたメールに気付いたのはその時だ。

 差出人は近衛 近右衛門。事前に登録してあったその名前を見た時、ネギは知らず体を震わせた。

 恐る恐る、心の中で謝罪の言葉を幾百と並べ立てながら開いたメールの内容は――――何故かネギの行動を許すというものだった。魔法学校で散々オコジョにされるなどと脅かされてきたネギにすれば、あまりにも信じ難い。

 自分の失敗を知られていた事に対する恐怖を感じながらも、ネギは何度もメールの文面を読み返した。けれども、内容は変わらない。だからといって安心など出来るはずもなく、しつこいほど確認のメールを送り、そして、朝起きてから昨夜と同じ文面のメールを見る事で、初めてネギは安堵の息を吐いた。

 ただ、結局その理由は教えられていない。尋ねる勇気も無い。


「僕にもよくわかりません。ただ、アスナさんだけは例外的に事情を話してもいいとの事でした。勿論、僕もアスナさんも他の人に話したらなんらかの罰則はあるらしいんですが…………」


 明日菜の様子を窺うように一度そこで止めて、


「高畑先生や学園長にも迷惑掛かるんでしょ? バラさないわよ」


 当然といった感じで返ってきた言葉に、ネギは安堵の息を漏らす。


「ふぅ。ありがとうございます」

「いいわよ、別に。アンタの為って訳でもないしね」


 ぶっきらぼうに返しながら、明日菜はお弁当の唐揚げを口に放り込んだ。それに倣うようにして、ネギも唐揚げに箸を向ける。一噛みで口の中に広がった肉汁に、ネギは自然と頬を緩ませた。

 木乃香が作ってくれたお弁当の中身はどれも美味しく、昨夜は碌に味わう事の出来なかった彼女の料理をネギは存分に楽しんでいた。唯一残念なのは、この場で木乃香に感謝を述べれない事くらいのものだ。


「ですからそういった事情もあるので、アスナさんには僕達の事を知って貰う必要があるんです」

「それって、私が変な事をしないように?」

「はい。あ、それとこの件に関しては魔法関係者にも話さないように、との事です」


 僅かに、明日菜は目を見開いた。


「…………高畑先生にも?」

「タカミチにも、です。その、本当に特別な事なんです。僕もまだ信じられないくらいで……ですから、えっとですね、気分のいい事ではないと思いますが…………お願いします」


 形容し辛い、小難しい表情を明日菜は浮かべた。唯一ネギに読み取れたのは明確なまでの不満であったが、彼には本当にどうしようもない事なのだ。折角見逃してくれるというのに、下手にごねてしまっては全てが水の泡となりかねない。

 ネギにとっても、明日菜にとっても、だ。

 だからネギは、ただ静かに頭を下げる。それ以外には、どう頼めばいいのか思いつかなかった。明日菜の声が掛かるまで、ネギは一分以上の間、顔を上げなかった。


「――――わかったわよ」


 ゆるゆると、明日菜はどこか不貞腐れたように首を振る。


「えっと、すみません」

「謝んなくていいっての。アンタが決めた訳じゃないでしょうが。ま、学園長に文句言うつもりもないけどね」

「あ…………はい」


 それきり、会話が途切れてしまった。

 互いに雑談を振る事も無い。風が髪を揺らし、遠くから生徒達の喧騒が聞こえてくる中で、二人は静かに箸を進めていく。時折、ネギが思い出したように明日菜の顔を見上げるが、不機嫌そうな彼女の表情にすぐ視線を落としてしまう。

 そんな時間が暫く続いて。


「――――――それで? 他に話す事はないの? なんか、私の方からだと聞き辛いじゃない」


 先に切り出したのは明日菜だった。


「そ、そうですよね! アハハハ…………いや、気が利かなくてすみません。他には……そう、魔法使いの目的とかでしょうか。魔法使いが目指している夢といいますか、そんな感じのです」

「ふぅん。やっぱりそういうのってあるんだ。なに? 魔王でも倒すわけ?」

「違いますよ! たしかに悪魔を倒すのも魔法使いの仕事ですけど、そういうのではないんです」


 空になった弁当箱を脇に置いたネギは、校舎の方を仰ぎ見た。

 窓ガラスの向こうに見える廊下では、多くの生徒が行き交っている。顔を知る者が居れば、当然ながら知らない者も居る。ただ、誰もが楽しそうに笑みを浮かべ、明るいを上げているのはこの場所からでも見て取れた。

 その何気ない学園の風景を眺めながら、ネギは少しだけ誇らしそうに胸を張る。


「僕達は、不幸な人々を一人でも多く助ける為に活動しています」

「不幸な人を助ける?」


 視線を校舎に固定したまま、ネギは静かに頷く。


「はいっ。困っている人を、傷付いている人を、一人でも多く助ける事が魔法使いの目的です。たしかに全員が直接的に活動しているわけではありませんが、みんながその目的に貢献しようと頑張っているんです」

「…………魔法使いみんなで、ねぇ」


 よく分からないと、そんな感じで呟かれた明日菜の声音に、ネギは苦笑する。

 まだまだ幼い子供とはいえ、大学卒業レベルの知識はあるのだ、現実離れした感覚だという事は一応ネギも理解している。けれど彼が目指す『偉大な魔法使い(マギステル・マギ)』とはそういった活動に従事し、功績を認められた者達の事を指すのだ。今でも魔法使いの間では最も尊敬を集めている存在であり、ネギが誰よりも憧れている人も、その代表例としてよく挙げられる。

 だから、決して夢物語ではないのだとネギは思っている。


「………………」

「………………」


 沈黙のまま遠くからの喧騒に耳を貸し、冷たく頬を撫でていく風に身を委ねていた二人は、


「――――ネギ先生、アスナさん。少しよろしいでしょうか?」


 唐突に掛けられたその声に、驚きも露わに顔を向けた。




 □




「本屋ちゃんが一目惚れ?」


 呆けた顔で呟いた明日菜に対し、夕映は静かに頷き返す。

 校舎の一角に用意された、それほど利用者の無い自動販売機スペースでの事だ。ジュースを持って設置されたベンチに腰掛けた夕映と明日菜、そしてハルナの三人は、この場所でちょっとした密談を行っていた。

 議題はズバリ、宮崎 のどかの恋について。


「そーいう訳よ。だからさぁ――――」

「うわっ」


 強引に肩を引き寄せられた所為で、明日菜の口から情けない声が漏れた。

 明日菜が抗議しようとハルナを睨み付けようとしたら、それよりも早く、互いの息が掛かりそうな距離まで顔を寄せられる。ニヤニヤと性質悪そうに口元を歪め、眼鏡の奥にある目を好奇心でギラつかせるハルナに対し、明日菜は半ば反射的に誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべていた。

 正直、傍で見ると非常に怖い。


「ネギ君と仲の良いアスナに協力を頼みたいわけよ」

「ええ、是非ともお願いしたいのです」

「はぁ!? え、ちょっ、私がネギと仲良いって……そんな事になってんのっ!?」

「ネギ先生はアスナさんとこのかさんだけは名前で呼ぶですし、今朝、一緒に登校してました。それに、先程も一緒にお昼を食べていたではないですか」


 冷静に返された夕映の言葉に、明日菜は天井を仰ぎ見た。

 言われてみればなるほど、彼女達の言葉には納得せざるを得ない。それに、確かにクラスの中で一番ネギと仲が良いというのは事実なのかもしれない。


(なんせ魔法使いって知ってるしねぇ)


 高畑先生などはもっと親しいのだろうが、こんな恋愛相談をされた所で迷惑にしかならないだろう。


「あ~、うん。たしかに仲良いのかも。アイツ、ウチの部屋で預かってるし」

「ほほーぅ。それはまた美味しそうなネタじゃないの。どれどれ、そんな面白そうな事をみんなに黙ってたのは――――この口かな?」

「……ふぁにふんのよ」


 明日菜はグニョグニョと頬っぺたを引っ張るハルナを睨み付けるが、向こうはまるで意に介した風もない。寧ろ余計に面白がってしまう始末で、頬に掛かる力が強くなってしまった。


「ハルナ、ふざけるのは後にしてください」

「はいはい。ホント、思い遣りのある友達を持ててのどかは幸せ者だね」

「それでどうでしょうか、アスナさん。手を貸してくれるですか?」

「そりゃもちろ――――――ッ」


 肯定の返事をしようと声を出し掛けた所で、明日菜は慌てて自らの手で口を押さえた。


「あの、アスナさん…………たしかにネギ先生は教師ですし貴女の身からすれば複雑かもしれませんが、のどかは本気なんです。どうか協力してくれませんか?」


 そうじゃない、と心の中で否定する。

 確かに教師であり年下の少年でもあるネギは、好きな相手としてはとても勧められたものではなく、似たような恋をしている明日菜としては積極的に応援したい気持ちと共に、諦めた方がいいという考えも存在している。

 だが、問題はそれだけではない。

 ネギは魔法使いなのである。しかも『修業』というよく分からない理由で教師をやっているのだ、将来的にはどうなるかわかったものではない。何かヘマをすればすぐに麻帆良から立ち去り、仲良くなれても言えない秘密が存在し続けてしまうような相手なのだ。正直、応援するには問題が多過ぎる。


(でも…………)


 明日菜が同じ立場なら、そんな理由で諦めるのは嫌だ。

 今だって少しは恵まれていると言っても、明日菜と高畑先生の関係はのどかとネギのソレとあまり変わらない。そして勿論、明日菜はこれからも頑張っていくつもりである。

 難しい問題だった。頭を悩ませた所で答えが出るのか、そもそも答えがあるのかも分からないような難題だ。のどかを応援したい気持ちも、彼女に辛い思いをさせたくない気持ちも、等しく存在している。


「お願いします、アスナさん。貴女ならのどかの気持ちがわかるはずです」


 分かる。痛いほどに理解出来る。だからこそ悩んでしまう。

 夕映の瞳に映る意思は、どこまでも真摯だ。隣で肩を竦めているハルナにしたって、一見すればふざけているようだが、瞳には似合わない心配の色が滲んでいる。二人の期待に応えたい、とは思う。応援したい気持ちも、確かにある。だがちょっと待て、と冷静な自分が心の中で言っている。このまま恋の手助けをして、その先に待ち受けているのはなんなのかをよく考えろ、と。


「アスナさん!!」

「頼むよアスナー」


 額に汗が滲み、知らず喉を鳴らしていた。

 迫る夕映とハルナを前にして、明日菜は――――――。








 ◆








「えっと……そういう訳なのでー」

「ネギ君歓迎パーティーのぉ」

「はじまりはじまりです」


 のどか、ハルナ、夕映という仲良し三人組の音頭と共に、そのパーティーは始まった。

 本来のメンバーであるネギ、明日菜、木乃香に先の三人を加えた計六人で、種々様々な料理が置かれた少し大き目のテーブルを囲んだ彼女らは、手に持ったコップ同士を軽くぶつけ合う。当然だが中身はお茶である。

 明日菜達の寮部屋で開かれたこの会食は、昨晩体調が芳しくなかった――――と思われている。実際、精神的には最悪だった――――ネギの為に、改めて腕に縒りをかけた料理を振る舞おうと木乃香が張り切った結果の事である。それに便乗する形で三人組が参加出来たのは、どうにか明日菜の協力を取り付けられたからだ。

 その明日菜は現在木乃香の対面に座る形で参加しており、複雑そうな表情をしてこのパーティーの主役を眺めている。彼女の横に二人並んで座っている夕映やハルナとは対照的に不景気そうな様子で、少しだけ場の空気から浮いていた。


「あ、これ――――」

「それは肉じゃがっていうんよ」

「えっと、いつもより少し甘めに味付けしたんですけど……その、お口に合いましたでしょうかー?」

「宮崎さんが作ったんですか? とっても美味しいですよ!」

「あ、ありがとうございますー」


 調理を担当したのはのどかと木乃香の二人であり、彼女らはネギの左右に座って色々と料理の解説をしている。のどかに至っては遠くにあって取り辛いおかずを、ネギの代わりに取り皿によそってあげたりと、実に甲斐甲斐しい行動をしていた。

 そんな様子をつぶさに観察しながら、明日菜は食事に箸をつける。三人の話に出た肉じゃがを口に運び、その木乃香とは違う味付けを舌の上で遊ばせた感想は、素直に美味しいというものだった。だが、そう感じたからこそ、明日菜は余計に眉間の皺を増やしてしまう。

 誰の為に作られたのか、誰に喜んで貰いたかったのか、そんなものは考えるまでもない。

 左方向から突き刺さる視線を感じながら、明日菜は一つ溜め息を吐いた。


「そういえば宮崎さん、お体の方は大丈夫ですか?」

「はいー。特に違和感もありませんし、保険の先生も問題は無いと言ってましたから」

「そうですか。安心しました」


 なんて事はない二人の会話は、けれど傍から見ている明日菜には可笑しく見えた。のどかの顔が異様に赤いのだ。首にまで伝播しているその赤みは、顔の半分を覆う前髪では到底隠し切れるものではないのだが、はたしてネギは気付いていないのだろうか。それとも気付いていて触れていないのだろうか。

 ネギの考えは明日菜には想像するしかないが、ただ、のどかの気持ちが本物であるという事だけは痛いほどに伝わってくる。同時に、高畑先生の前に出た自分もあんな感じなのだろうなと、そんな事を考えて苦笑する。いつも生暖かい視線を送ってくる親友の気持ちが、少し理解出来た気がする。


「ありがとうございます」


 不意に、隣に座る夕映がそんな事を言った。


「え? いきなりどうしたの?」

「いえ、あそこまで嬉しそうなのどかは久し振りに見ましたので、私もつい嬉しくなりまして。それもこれも、アスナさんが誘ってくれたお陰です…………ですから、そう思い悩まないでください」


 口元に笑みを浮かべた夕映の視線は、真っ直ぐにのどかとネギの二人へと向いている。それに倣って、明日菜も目線を移す。話題を振るのは専らネギの方であり、のどかはそれに答えているだけではあるが、確かに普段見掛ける彼女の様子よりも明るいかもしれない。

 いや、そもそもネギを高畑先生に、のどかを自分に置き換えてみれば想像するまでもない事だ。そう思うと、幾分気が楽になったように明日菜は感じた。


「…………そうね、これでよかったのよね」

「よくなかったとしても、私がよくしますから大丈夫です」


 慎ましやかな胸を張ってみせる夕映に、明日菜は思わず笑みを漏らす。なんとも頼もしいではないか。のどかにとっても、自分にとっても。そう、結局は一緒に頑張っていくしかないのだ。

 誰かを好きになるという事は、やめたくてもやめられない。

 好きになってしまった気持ちは、止めたくても止められない。

 だから恋する少女に出来るのは一つだけで、とにかく好かれる為の努力を続けるしかない。泣くのも笑うのも全てが終わった後。その時までは全力で足掻くべきであり、それが出来ないのなら本気の恋愛じゃないというのは、頻繁に夕映が口にし、明日菜も気に入っている言葉だった。

 いつも理性的に考えようとする夕映なのだが、こと恋愛においては感情的な意見を好む傾向にある。その辺りはやはり、思春期真っ盛りの女子中学生という事なのかもしれない。口にする言葉には論理性を求めても、理想とするものは夢見がちだったりするのが夕映なのだと、明日菜は思っている。


「言うねぇ~、ゆえ吉も」

「あ、ハルナ」

「自分の事になったらサッパリの癖にぃ」

「な、なにを言うですかハルナ……」


 ニタァと見るからに意地悪そうな笑みを浮かべるハルナに、夕映は頬をひくつかせる。明日菜にしても反応は夕映と変わらず、不気味さすら漂わせる友人の様子に乾いた笑みを浮かべるだけだ。


「ん~? バレンタイン前日の事を忘れたのかなぁ?」

「うっ」

「のどかにご教授願って折角作ったチョコを、あんだけ張り切って作ったチョコを、当日に自分で渡せなかったヘタレさんは誰よ?」

「あ、あれはですね……」


 言い淀んだ夕映の背中をバシバシと叩きながら、ハルナは朗らかに笑ってみせる。


「アッハハハ! だからアンタものどかも恋の事は私に任せなさいっての! ビシバシ鍛えてあげるからさ!!」

「異性を好きになった経験も無い人がなに言ってるですか。いやまぁ私も同じですが、そうではなくてですね」

「フフフフフ――――このパル様が恋愛物を何本書いてきたと思ってんの、シミュレーションは完璧よ!」

「それこそドコの漫画のキャラですか……」


 疲れたように溜め息を吐き出した夕映の様子に、明日菜は苦笑せずにはいられなかった。

 なんだかんだ言ってもやはり親友なのだろう、ここまで明け透けな態度の夕映は非常に珍しい。彼女は基本的に理屈を優先する人間なので、ここまで投げ遣りな態度を取る事はそうそう無いのだ。

 そんな事を考えながら、明日菜は自らの親友である木乃香へと視線を向ける。

 勿論、彼女にものどかの気持ちについては教えている。だからだろう、木乃香はネギ達の会話には積極的に参加する事は無く、時折相槌などを挿んで空気が崩れるのを防ぐに留めている。お陰でネギ達は対面に座る明日菜達の会話を気にする事もなく、自分達の話に没頭出来ているようだった。

 そうやって対面の様子を明日菜が眺めていたら、ふと思い出したように木乃香が手を打った。


「あ、そやそや」


 こんな時、木乃香の声は騒がしい中でもよく通る。

 この場でも誰一人として聞き逃す事は無く、自然と集まる視線も気にせずに、木乃香はマイペースに言葉を続けた。


「ネギ君は昨日ご飯の後すぐ寝てもーたから、この後はお風呂に入らへんとな」

「え?」 「へ?」

「ん?」 「はい?」

「ほほう」


 木乃香の思い掛けない発言に、各々呆気に取られたような声を漏らす。否、唯一ハルナだけは面白そうに顎に手を当てている。夕映がその様子に気付くよりも僅かに早く、彼女は楽しそうに身を乗り出した。


「いよーし! それじゃーこの後は大浴場で二次会とイキますか!! みんな水着を忘れんなよー!」

「ハ、ハルナ――――!?」


 騒がしい夜は、まだまだ終わりそうになかった。












 ――――後書き――――――――


 第三話を読んで頂きありがとうございます。作者の青花です。

 今回は状況をある程度整理した話ですね。まだまだ地均しといった感が強い回です。展開が少し拙速かなとは思うのですが、この辺りは中々上手くいきませんね。

 しかし、弄った設定やキャラクターがドンドン表面化してきてますね。明日菜とか二週目解放ルート突入状態みたいな事になっていますし。上手く収拾出来るように頑張っていきたいと思います。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第四話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:2bbbedfc
Date: 2009/02/15 21:12


 天気の良い日だ。窓の外に見える空には雲一つ無く、どこまでも澄んだ青色を背景に燦々と照る太陽が力強く自己主張している。お陰で気温もここ最近では珍しいほどに高く、暖房が無くとも苦労しない程度には室内も温かい。そんな、春の近付きを感じさせる気持ちの良い天気だというのに、何故だかその少女は睨むようにして窓の向こうの空を見詰めていた。

 自然なウェーブの入った金髪を陽光で煌めかせながら、彼女はサファイアを連想させる深い青の瞳に、白く輝く太陽を映している。どこか憎々しげに歪められた容貌はとても日本人のものとは思えず、十を数えるかどうかという外見と相俟って見る者には西洋人形という印象を抱かせるだろう。

 普段から利用する者が少ない特別教室であり、放課後となった今の時間帯では更に訪れる者が限られるこの場所で、少女――――――エヴァンジェリン=A=K=マクダウェルは、窓際の席に一人で腰掛けていた。頬杖をついた彼女の表情は見るからに不機嫌そうで、この教室に人が居ないのはそれが理由なのではないかと、ついつい邪推しかねないほどに他人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。

 そんなエヴァンジェリンに、一つの影が近付いていく。ニットのオフタートルに身を包み、黒いコートを腕に抱えた洸だった。気が付いた時には既に教室の中に居た彼女は、足音を立てないようにしつつ、滑るようにしてエヴァンジェリンの背後から歩み寄って行く。


「――――――ちゃんと扉から入ってこい、行儀が悪いぞ」


 互いの距離が一メートルにまで縮まった時、エヴァンジェリンが呟いた。その声を聞いて洸は足を止めたが、彼女の顔には変わらず楽しそうな表情が浮かんでいる。ツリがちな目を細め、口を笑みの形に歪めた彼女の様子は、悪戯好きな猫のようにも見えた。


「あ、やっぱり気付いてた?」

「当然だ。気付かれたくなければ、もう少し真面目にやれ」


 気だるそうな瞳を洸へと向けたエヴァンジェリンは、これまた面倒そうに口を開いた。


「それでなんの用だ? ここは中等部だぞ、大学生はお呼びじゃない」

「パーティーに参加していないようだったから、どうしたのかと思って。別に仕事で来た訳じゃないよ」


 言いつつ、洸はエヴァンジェリンの隣の席に腰掛ける。抱えていたコートを机の上に置き、頬杖をついた彼女の瞳は、変わらず気だるそうなエヴァンジェリンへと向けられる。

 二人は互いに見詰め合い、黒と青の視線を交差させる。


「………………」

「………………」


 それから暫らくの間、沈黙が場を支配した。洸もエヴァンジェリンも同じように口を開かず、けれどまったく対照的な表情を浮かべながら向かい合う。新たに第三者が教室へ入ってくる事も無く、不思議と外の喧騒も鳴りを潜めた、奇妙に静かな時間が過ぎていった。


「――――――ハッ、やはりぼーやのお目付け役はお前だったか。仕事とはいえ悪趣味な事だな」


 先に沈黙を破ったのはエヴァンジェリンの方だ。彼女は先程までの様子から一転して、愉快そうに口元を歪めている。

 対する洸は、参ったとばかりに両手を上げた状態で応えた。


「否定はしないよ。自分でもそう思うしね」

「だがうまくやってるみたいじゃないか、私ですら気付くのに時間が掛かったぞ」

「仕事用だしね、抜かりは無いよ。でも別に四六時中覗いてる訳じゃないからね? 彼の近くで”キーワード”が聞こえるか、魔法が発動しない限りは音声も映像もカットしてるし――――――あ、これは言い訳かな」


 ピッと立てられた洸の人差し指の先っぽで、BB弾程度の大きさをした黒い球体が浮いている。

 それを見せられたエヴァンジェリンは、呆れの表情を隠そうともしなかった。


「相変わらず器用な奴だな」

「数少ない取り柄ですから」

「抜かせ、この狸娘が」


 自らの言葉を笑い飛ばしたエヴァンジェリンに対して、洸は肩を竦めるだけで答えてみせる。


「ま、私の事はこれくらいにしとこうよ。それで、どうして茶々丸(ちゃちゃまる)も連れずこんなトコに?」

「茶々丸には後で様子を報告させるからな」

「ここに居る理由は?」

「私があのぼーやを歓迎する理由があるか?」

「歓迎の準備はシッカリとしてきたでしょう?」

「……………………」


 エヴァンジェリンは、返事をしなかった。静かに目を細めて洸を睨みつけ、それから、拗ねたように視線を逸らす。暫く窓の外を行き交う生徒達を黙って眺めていたエヴァンジェリンは、やがて時計の秒針が三周するくらいの時間が経ってから、ようやく口を開いた。


「――――――感傷さ」


 とても小さな、けれど万感の思いが込められた声だった。


「それは、好きな人の事を想って?」

「ああ。好きだったヤツの事を考えて……な」


 続きの言葉を促すような事はせず、洸は背中を向けているエヴァンジェリンを後ろから抱き締める。包み込むように柔らかな手付きのそれに、エヴァンジェリンは抵抗せずに身を委ねた。その状態で彼女は、どこか焦点の定まらない様子で、ガラスに映った己の姿を眺めながら、傍に居る洸に届くかどうかというくらいの声で呟く。


「流石はヤツの子供だよ。本当によく似ている」

「そうなの?」

「ああ。アイツはもっと馬鹿そうだがな」


 言葉の内容とは違い、懐かしむような、慈しむような口調だった。

 エヴァンジェリンの目線は相変わらず此処ではない何処かへ向いていて、鈴を鳴らしたかのように可憐な声は、此処には居ない誰かへ向けているように聞こえる。それでも洸は何も言わずに、ただそっと目蓋を閉じて、彼女の声に耳を傾けていた。


「だからだろうな、気付かされてしまったよ」

「…………何に?」

「私がアイツを愛していた事に。手酷くフラれ、こんな所に閉じ込めてくれた憎い相手ではあるが、やはり私はアイツの事が好きだったらしい」


 エヴァンジェリンの傷一つ見当たらない綺麗な指が、洸の頬を優しく撫ぜる。まるでその存在を確かめるかのように、ゆっくりと頤を滑っていくそれを、洸は黙って受け入れていた。そうして黙したまま、エヴァンジェリンを抱きしめる腕に少しだけ力を込める。

 やはりエヴァンジェリンは、洸の行為を受け入れる。彼女は身動ぎ一つせずに、穏やかな声音で話を続けた。


「だがそれも――――それすらも過去の事だ。どうやら今の私は、アイツを愛している訳ではないらしい。この五日間で、その事を否と言うほど実感したよ」


 だからこその感傷だと、囁くようにエヴァンジェリンは告げた。


「――――え?」


 洸の目が驚いたように見開かれ、何かを確かめるようにエヴァンジェリンの顔を覗き込む。その様子に、彼女はさも可笑しそうに目を細めた。それから、白い指でゆっくりと洸の唇をなぞる。


「喉が渇いた、血を寄こせ」

「あ、うん」


 呆然とした表情を浮かべる洸は、促されるままに自らの指をエヴァンジェリンの口元へと持っていく。


「阿呆。空気を読め」


 エヴァンジェリンの声はどこまでも柔らかく、粘りつくほどに甘かった。

 腕に抱かれた状態のままで僅かに体を捩らせたエヴァンジェリンは、無理矢理に洸と向き合い、視線を交わし合う。そのまま、未だ気の入らない様子でいる洸の頤を白い指で掴むと、


「コッチに決まっているだろう?」


 互いの唇を、ゆっくりと重ね合わせた。












 ――――第四話――――――――












 彼――――高畑=T=タカミチは珍しく焦っていた。いつもなら通り掛かる生徒達に挨拶をし、校則に違反している生徒がいれば注意をしたりしながら歩く学園校舎の廊下を、今日の彼は急ぎ足で移動している。時折掛けられる挨拶にもどこかおざなりな様子で返すタカミチの表情は、やはり普段とは違って焦りの色が濃い。

 その雰囲気を察してか、廊下で話し込んでいる生徒達の中には先んじて壁に寄る者もおり、そういった教え子達に表面上は落ち着きを装って礼を返すタカミチではあるが、当然のように彼の足が止まる事は無かった。

 一段飛ばしに階段を上がり、一階から二階へ、二階から三階へと移動したタカミチの視界に、目的地が飛び込んでくる。中等部二年A組。彼が一週間前までクラス担任を務めていたその場所の、見慣れた教室札を確認したタカミチは、安心したように息を漏らした。

 よしと小さく呟いてから、目的地まで残り僅かとなった距離を、更に速めた足で縮めていく。

 そうして、教室の前まで辿り着く。自宅に荷物を置いてから歩き通しであった為か、知らず額に滲んでいた汗をハンカチで拭い取り、やや乱れたスーツも整える。いつも通りの体裁を整えたタカミチは、ゆっくりと扉に手を掛けた。


「やあ、ごめんごめん。遅れちゃっ――――」

『高畑センセー! 出張お疲れ様~~~~!!』


 言い終わるよりも先に、教室中から少女達の声が耳へと届いた。同時に、大量の炸裂音が響いたかと思うと、タカミチの体に幾つもの紙テープが降り注ぐ。


「これは…………おっ」

「ほらほら高畑先生、コッチコッチ」


 クラッカー、とタカミチがその正体に思考を巡らせる暇もなく、今度はグイグイと背中を押されて、教室内に並べられた机の一角へと連れていかれる。


「久し振り、タカミチ!」

「あぁ、ネギ君。久し振りだね。麻帆良での生活はどうかな?」


 案内された先に居たのは、紙テープで全身をデコレーションされたネギだった。直接顔を合わせるのは随分と久し振りになる小さな友人の愉快な姿と、おそらくは同じような格好になっているだろう自分の事を考えて、タカミチは苦笑する。


「楽しいよ。みんな優しくしてくれるから、先生の方もなんとかね」

「それを聞いて安心したよ。ずっと気になってて、出張先でも中々身が入らなくてね」


 話しつつネギの隣に腰掛けたタカミチは、改めて教室の中を見回した。

 普段使用している講義机は全て教室の隅に固められ、どこから調達したのか、今タカミチが座っているような会議机が幾つも並べられている。机の上には大量のお菓子が用意されており、目の前の紙コップには、なみなみとジュースが注がれていた。


「え~、それでは主役の御二方が揃いましたので、これより『ネギ先生いらっしゃいパーティー』兼『高畑先生お疲れ様パーティー』を始めたいと思います」

『イェーイ!!』


 こういった時に場を仕切るのは、一年の頃からあやかの仕事だ。

 彼女の宣言により一層賑やかさを増す教え子達に苦笑しつつ、タカミチは手元のジュースに口をつける。それほど馴染みのない炭酸のピリピリとした感覚を舌の上で楽しみながら、若干渇いていた喉を潤していく。

 隣では早々に生徒達に囲まれたネギが、何やら色々と食べ物を貰ったりしている。クラスの子達に受け入れられているその姿を見て、タカミチはここ数日感じていた胸のつっかえが取れたように感じた。


「あの、高畑先生……」

「ん? おや、アスナ君じゃないか。こんにちは。どうだいネギ先生は? ちゃんとやれてるかな?」

「あ、はい。高畑先生ほどじゃないですけど、結構わかりやすい授業をしてます」

「ハハハ、ありがとう。しかし、そうかぁ。うまくやってるのか」


 感慨深そうに頷くタカミチを黙って見詰める明日菜は、何か話し掛けようと口を開こうとして、けれどすぐに閉じて、最後にはもどかしそうに首を振った。


「ほら、アスナさん。いつもの威勢はどうしたですか」

「アスナー、ここでもたついてどうするん」


 明日菜の後ろに控えた木乃香と夕映が、じれったそうに彼女の肩を叩く。


「そ、そうよね――――――あの、高畑先生!」

「ん? あぁ、すまないね、先に用事があったのはソッチなのに。何かな?」

「あ、あの……その、コレどうぞ!! クラスのみんなからです!」


 叫ぶように声を張り上げた明日菜が差し出したのは、小さめの紙袋だった。白地に淡い水色でクロスラインが入ったそれは微かな香りを漂わせると共にズシリと重く、タカミチは不思議そうに首を傾げる。


「えっと、ハーブティのセットです。ネギ――――先生に聞いたら高畑先生は意外に好きだと言っていたので。あと……その、最近また忙しそうにしてましたから、疲れに効くのを選んでおきました」


 徐々に明日菜の言葉を理解していくにつれて緩んでいく頬を、タカミチは抑える事が出来なかった。


「いやはや……これは嬉しいね。家で淹れた事は無かったけど、これを機に始めようかな」

「それじゃあ僕が教えてあげようか?」

「お、ありがとう。また今度お願いするよ、ネギ”先生”」

「うん! まかせてよ!」


 隣のネギに笑い掛けてから、タカミチは立ったまま所在無さげに手をもじつかせている明日菜に向き直る。


「本当にありがとう、美味しく飲ませてもらうよ」

「あ、いえ、そんな! クラスのみんなからのプレゼントですから!!」


 だから気にしないでくださいと、顔の前でバタバタと手を振ってから、明日菜は逃げるようにしてその場を離れていった。そうして勢いよく教室の隅まで移動していった友人の背中を見送った夕映と木乃香は、互いに顔を見合せて肩を竦める。

 そんな教え子達の奇妙な遣り取りを見て、タカミチは不思議そうに首を傾げた。


「では高畑先生、私達もこれで失礼しますです」

「失礼しまーす」

「ああ、君達もありがとう。ネギ先生と仲良くね」

『もちろんです!!』


 元気良く肯定の返事をしていった彼女らを見送ったタカミチは、気付けば随分と減っていた紙コップの中身を一気に飲み干した。炭酸が喉を刺激するのを感じながら、新しくジュースを注ごうとペットボトルに手を伸ばしたタカミチは――――――――横合いから現れた手に動きを止める。


「どうぞ、高畑先生」


 そう言って手にしたペットボトルを傾けたのは、ウェーブの入った金髪が目立つ、眼鏡を掛けた大人の女性だった。源 しずな。ネギの指導教員に任命されている同僚の登場に、タカミチは相好を崩す。


「ありがとうございます、しずな先生。貴女も呼ばれていましたか」

「ええ、みんな優しい子ですから。まぁ仕事の関係で今やってきたばかりですけれど」

「自慢の教え子ですからね。どうぞ。隣、空いてますよ」


 新たに満たされた紙コップを手にしたタカミチは、何時の間にか居なくなっていたネギとは逆隣となる席をしずなに勧めると、今度は未使用の紙コップに自分でジュースを注いでいく。そうして一杯になった紙コップを、隣のしずなに手渡した。


「ありがとうございます、いただきますわ」

「ええ、どうぞ。実はしずな先生にお聞きしたい事があるんですよ」


 矢も楯もたまらず、とばかりに切り出したタカミチに、しずなは眉尻を下げて頬に手を当てた。


「あらあら、それはネギ先生の仕事振りについてですか?」

「ハハハ…………やっぱりわかりますか?」

「えぇ。顔にしっかりと書いてありますわ」

「まいったな、そんなにわかり易いなんて…………それで、どうなんでしょう?」


 タカミチの視線は、先程から生徒達によってアチコチ教室の中を引っ張り回されているネギへと向いていた。どうやら今はトランプで遊んでいるらしく、難しい表情で手札と睨めっこしているネギに、周りの子達が色々とアドバイスを送っている。

 そんな微笑ましい子供達の様子に、頬に刻んだ笑みが深くなるのをタカミチは感じた。


「やはり子供だったり、経験不足だったりで未熟なところは目立ちますが、それでも及第点は十分にあげられると思いますわ。真面目な頑張り屋だから、職員室での評判もよろしいですし」

「それはよかった。なんだかんだ言ってもまだ子供、ちゃんと頑張っていける環境を用意してあげないと可哀相ですからね」

「えぇ、それはもうみなさん考えている事ですわ。新田先生なんて随分と張り切っておられるようで、指導する機会を今か今かと楽しみにされていましたもの」

「新田先生は厳しいからなぁ……ネギ君、頑張れよ」


 生徒達に囲まれて可愛がられているネギを眺めながらしみじみと呟いたタカミチに対して、しずなが苦笑する。そんな同僚の雰囲気を察して、タカミチは恥ずかしそうに頬を掻いた。

 歳を経て随分と落ち着きを持ってきたと自分でも思っているのだが、ネギと接していると、ついつい気持ちが若返ってしまう。自覚はしているのだが、だからといって抑えられるものでもないから困りものだ。


『友達になろう』


 初めてネギと会った時、タカミチはそんな風に声を掛けた。仕事でウェールズを訪れた折に、無理矢理休暇を捻じ込んで会いに行った少年へ掛けたその言葉は、嘘偽りの無いタカミチの本心だ。両親の居ない少年への同情ではなく、世話になった父親への感謝でもなく、あえて言うならば自らの童心がその言葉を引き出していた。

 未熟な魔法を一生懸命に練習する合間に、身の丈に合わない大きな杖を握り締めて遠くの空を眺めていたネギの姿は、今でも鮮明に思い出せる。そんな彼の姿がどこか幼い頃の自分と被って見えて、気付けば先の言葉が口を衝いて出ていたのだから。

 ネギを応援したい。遥か遠くにある夢を抱く者同士の友人として、先輩として、素直にそう思う。


(まぁ、だからこそ)


 ネギの傍からは外されてしまったのだが。

 しずなのように指導教員をする事も、担任と副担任という関係で補佐をする事も、選択肢としては用意されていたのだ。そのどちらでもない現状に落ち着いてしまったのは、裏の仕事が忙しいという理由だけでなく、過剰な評価を与えてしまう恐れがあったからである。

 納得はしているし、不満も無い。タカミチ自身、評価する側に回るよりも一緒になって努力したり、先輩としてアドバイスをしたりという近い立場にある方が性に合うと思っている。


(……あぁ、そうだ)


 機会があれば稽古でもつけてあげようかとネギの姿を探し始めたタカミチに、生徒達から声が掛けられた。


「おーい! 高畑先生もしずな先生もトランプやろーよ! ネギ君がスゴイ強いんだって!!」

「というかさ、こうなったら全員でトランプ大会でも開いちゃおうか?」

「あ、いいねソレ。じゃ、もう何セットかトランプを用意しないと」

「オッケー。購買にあったよね? ちょっと買ってくる。同じヤツじゃなくてもいいでしょ?」

「頼んだ! でも変な小細工すんなよー!!」


 わいわいがやがや。本当に楽しそうに騒ぐ生徒達の勢いには、流石についていけそうにない。こういった所は十分に年を取ってしまったのだと、妙に感慨深い気分になってしまう。ネギの友人と言った所で、年齢を誤魔化せる訳でもない。気持ちが若返ると言っても、やはりオジサンでもあるのだ。

 とはいえ、このまま傍観者を気取っている訳にもいかない。教え子からの折角の誘いなのだ、乗らない理由も無いだろうと、タカミチは紙コップの中身を空にして立ち上がる。それから、隣のしずなに声を掛けた。


「では行きましょうか、しずな先生」

「えぇ。あまり待たせる訳にもいきませんしね」


 そうして二人は、賑やかしい生徒達の輪の中へと混じっていった。




 □




 賑やかしく盛り上がったパーティーも、時計の短針が六の文字を指す頃には終わりを迎え、ゲストであるネギとタカミチは片付けをするという生徒達に追い出されるような形となり、一足先に教室を後にしていた。また、しずなは残している仕事があったらしく、五時を過ぎた頃に一人で職員室に戻っている。

 だから今、こうして人影の無くなった廊下を歩いているのはネギとタカミチの二人だけだった。彼らは各々で生徒達から貰ったプレゼントを抱えながら、楽しそうに談笑をしている。

 特にネギの状態は凄まじく、袋一つというタカミチに比べ、彼は両腕を一杯に使って支えなければならないほどの胸像を抱えている。あやかから贈られたソレは、驚いた事にネギをモデルとしており、彼としては恥ずかしいやら高価な物を貰って恐縮やらで大変だ。勿論他にもプレゼントはあって、胸像と腕との僅かな隙間で危ういバランスを保っている。


「本当に大丈夫かい、ネギ君? なんなら僕が少し持つけど」

「大丈夫だよタカミチ。それに折角貰った物だから、自分で持っていたいんだ」


 明るく言ってのけたネギは、アピールするように胸像を軽く揺らしてみせる。

 そんな、なんとも健気な様子にタカミチは胸の裡が温かく満たされるのを感じていた。まだまだネギは未熟な子供だと思っているが、それでも立派に成長してくれているようで、その事が実に喜ばしい。だからタカミチはそれ以上何も言わず、もしもの時にフォローし易いよう黙って互いの位置関係を調整した。


「でも安心したよ、クラスには馴染めてるみたいだね。どうだい、みんないい子だろう?」

「うん! まだ先生としてちゃんとやれてるかは自信が無いけど…………でも僕、あのクラスで頑張ろうって、そう思うんだ。アスナさんやこのかさんも優しくしてくれるし、それに少しでも応えたいな、て」

「いい心掛けだと思うよ。僕も応援する」


 真っ直ぐなネギの心意気に感心すると共に、タカミチは過保護な父親か、はたまた年の離れた兄にでもなったような気分に囚われて苦笑する。なんというか今の自分は、ネギのどんな行動でも褒めてしまいそうだとすら感じている。

 これでは駄目だと首を振ったタカミチは、気分を変えようと窓の外に視線を移した。ガラス一枚を隔てた向こう側はスッポリと夜の帳に包まれており、遥か遠くに見える山の上では顔を覗かせた月が自己主張している。

 明るい場所に居るからか屋外の光景は暗くて判然としないのだが、これから帰るのだろうと思われる生徒達の影がチラホラと見える。部活か、委員会か、それとも他の理由なのか。どうであれ無事に寮まで帰ってくれる事を願いつつ、タカミチはふと思い出したように手を顎に当てた。


「そういえばネギ君は、アスナ君達と一緒に暮らしているんだったね」

「そうだよ。でも、どうかしたのタカミチ? なんだか難しい顔してるけど」

「う~ん…………いや、なんでもないよ」


 顎に当てていた手を戻し、タカミチは気にするなと首を振る。

 同時に、はぐらかすように次の話題を口にした。


「しかしネギ君は凄いな。やっぱり目指してるのは『立派な魔法使い(マギステル・マギ)』なのかな?」

「うん! いつかは父さんみたいな『偉大な魔法使い(マギステル・マギ)』になりたいんだ!!」


 憧れを強く宿したネギの瞳に、タカミチは懐かしい気持ちを感じた。


「ナギさんか。あの人は本当に凄い人だったけど――――――うん、ネギ君だって頑張れば凄い魔法使いになれるさ。もちろん僕だって負けないけどね。どうだろう、将来はコンビでも組んでみるかい?」

「いいねソレ! ――――あ、そういえばタカミチは父さんと一緒に旅をした事があるんだよね? 今度その頃の話を聞かせてよ。前に会った時は殆ど話してくれなかったしさ」

「まだまだ僕が未熟だった頃の話だからなぁ……うん、機会があればね」

「それでいいよ。そうだ、学園長にも聞きに行かないと! ねぇ、日本のお茶菓子でオススメってあるかな?」


 瞳を輝かせてはしゃぐネギの様子を眺めながら、タカミチは柔らかな笑みを浮かべていた。子供故か、それとも夢を目指す者故か、眩いほどの力強さがネギにはある。

 ネギが尊敬する彼の父――――――ナギ=スプリングフィールドの事はタカミチもよく知っている。性格に関しては似てほしいとは思わないし、魔法使いとしても父を真似るような事はしてほしくないが、その功績ならば目標とするのは悪くないだろう。夢として目指すには申し分無い。

 それは遠過ぎるほどに遠いゴールではあるが、今のまま夢に向かって努力を続ければ、きっとネギは大成するだろうという、確信に近い思いをタカミチは抱いていた。それがネギにとって満足のいく結果であるかどうかは今のタカミチにはわからない。けれど、少しでもネギが目標に近付く為の手助けは出来るはずだ。


「――――おっと、学園長に呼ばれてるから僕はコッチだね」


 話に夢中になっていた所為か、危うく分かれ道を通り過ぎる所だった。

 危ない危ないと呟きつつ、立ち止まったタカミチは左へ曲がる道を指差した。


「僕はコレを職員室に置いたら、クラスの人達の手伝いかな。追い返されるかもしれないけど」


 ネギは視線で、抱えている胸像を示す。


「それじゃあタカミチ、またね」

「ああ。またね、ネギ君」


 互いに挨拶を交わし、二人は各々の目的地へ向けて歩き始めた。








 ◆








 風が頬を撫で、木々のさざめきが耳を擽り、黒衣に着替えた街が視界を覆う。麻帆良の中心部たる学園地域からは徐々に明かりが消え始めるこの時間に、洸は一人で中等部校舎の屋上に佇んでいる。喧騒からは遠ざかり、夜空に浮かぶ星月以外には見る者が居ないこの場所で、彼女は静けさに身を委ねていた。

 外気に冷やされ青みすら帯び始めた顔で、半分近く欠けた月を仰ぎ見ている洸は、魂を抜かれたかの如く気の入っていない表情をしている。微かに開かれた唇の隙間からは規則的に白い息が零れているが、それ以外の部分では、本当に生きているのかが怪しくなるほどに動きが見られない。


「――――――やられた」


 唐突に。

 僅かな動きを見せた唇の間から、小さな呟きが漏れた。それと共に、冷えて動きの鈍くなった洸の指が唇へと添えられる。無論そこに熱などあるはずもなく、触れた感触すら確かなものかどうか怪しい。なのに。その行為を切っ掛けとして、洸の頬は少しずつ生気を取り戻していった。


「まいったなぁ」


 また、呟き。本人の耳でさえ拾えているかどうか怪しいような、小さな呟き。けれどもまた洸の顔には生気が宿り、今度は微かに赤みさえも帯び始めている。彼女の視線は相変わらず月に注がれ、吐き出す息に乱れは見られなかったが、頬の変化だけは誤魔化しが効かないほどに明白だった。


「どうしよ」


 三度目の呟きと同時に、完全に赤く染まった頬を冷やそうと洸は手で顔を覆った。大きく溜め息を吐き、指の隙間から覗く月を見まいと下を向いた洸は、冷やすどころか逆に暖められた手を顔から離し、首を振る。

 洸が逃げるようにしてあの教室を立ち去ってから、もうすぐ三時間が経とうとしている。その間、洸はずっとエヴァンジェリンの事を――――より正確に言えば彼女にキスされた時の事を、繰り返し思い浮かべていた。

 彼女とエヴァンジェリンは、もう九年の付き合いになる古い友人だ。

 吸血鬼であるエヴァンジェリンは昔からまったく外見が変わっていないが、洸は随分と成長している。出会った頃は同い年と言っても違和感が無かったのに、今では正しく大人と子供である。同じクラスで勉学に励んだ事もあるというのに、なんとも寂しい事だ。


「嫌いじゃないんだけど、ね」


 出会い方は洸が経験した中でも間違い無く最悪の部類で、抱いた印象も決して良いものではなかったが、九年の歳月と思い出はそんな感情を容易く溶かしてしまった。それどころか、今では好意を抱いてすらいる。


「…………いや、それも違うか」


 恋愛的な意味合いで洸が初めて好きになった同性は、間違い無くエヴァンジェリンだ。何処に惹かれたのか、なんて問いに明確な答えは無い。強いて答えるとするならば、年月の積み重ねこそがソレに当たるだろう。

 唇を指でなぞりながら、とうに失われた感触を思い出そうと、洸は目を閉じる。

 余りにも唐突で、一瞬の出来事だった。それでも柔らかな唇の感触は脳裡に焼き付いていて、意識を向ければ容易く思い出す事が出来る。指先で触れる唇は少し渇いていたが、赤みを帯びた顔の中で、一際強烈な熱を持っているように感じられた。


「情けないなぁ」


 困ったように眉根を寄せた洸は、大きく息を吐き出した。

 嬉しくなかった訳ではない。寧ろこうして思い返すにつれて、抑えようの無い喜びが込み上げてきている。だけど、困る。そういうのは、凄く困る。エヴァンジェリンには好きな男性が居て、その想いがどれだけ強いのかもよく理解していたから――――――だから、諦めたはずだった。

 でも、結局は諦め切れなかったのかもしれない。何時の頃からかエヴァンジェリンとは彼――――――ナギ=スプリングフィールドの話を殆どしなくなっていた。それは、逃げだ。どうしようもなく情けない逃げだ。そうやって半端に逃げているだけだったから、こうして感情の在り処を見失ってしまっている。


「…………今更だよ、ホント」


 嫌いではなく、好き。好きだけど、愛かどうかも分からない。

 自分の事が、今の洸には理解出来なかった。それは、とてもではないがエヴァンジェリンに応えられるような心構えではない。そう、今の洸に考えられる選択肢など、初めから一つしか存在しないのだ。

 疲れたように首を振り、洸はキツく目を閉じる。

 その時だ。


「――――――お爺様?」


 ポケットに入れておいた携帯電話が、聞き慣れたメロディを響かせた。








 ◆








「どういう事ですか学園長! アスナ君が魔法と関わるだなんてっ!!」


 詰問するように叫んだタカミチの声が、学園長室に響き渡った。温厚な彼にしては珍しいその行為に、けれど微塵も動揺を見せなかった近右衛門は、落ち着き払った様子で顎鬚を撫で擦っている。

 そんな、余裕のある近右衛門の態度が、益々タカミチの苛立ちを募らせる。褒められたものではないと理解はしていても、湧き上がる激情は到底抑えられそうになかった。我慢しようとしても、口からは目の前の上司を責めるような言葉が零れ落ちそうになる。そんな自らの不作法を恥じ入る余裕すら、今のタカミチには無かった。


「学園長ッ!!」

「少しは落ち着いたらどうじゃタカミチ君。この件に関しては、君も覚悟しておったじゃろうに。あの子らと一緒に住まわせると決めた時、君もこのような事態は予測したじゃろう?」

「ッ。それは……たしかに考えなかった訳ではありませんが、彼が来て間も無いのにこれでは…………」

「うむ、君が不安を覚えるのも無理は無い。唐突であったからこそ対応出来んかったというのも、言い訳にしかならんじゃろう。じゃがな、タカミチ君。今更焦ったところで過去が変わる訳ではない。今は落ち着いて状況に対応し、最悪の事態にならんよう慎重に経過を見守るべきではないかの?」

「……………………」


 タカミチには、沈黙で答える事しか出来なかった。

 やり場の無い感情が握った拳を震わせ、出掛けた言葉は取り戻した理性と良識が喉の奥へと押し込める。それ以上の事は考え付かない自分が、ただ黙って立っているしかない自分が、タカミチはどこまでも情けなかった。

 学園長室を、静寂が支配する。

 項垂れ肩を落としたタカミチに、そんな彼を見守るように、黙して語らぬ近右衛門。何処からか聞こえてくる梟の鳴き声だけが、酷く場違いに部屋の中に響き渡っていた。


「のう、タカミチ君。今の君が感じておるものは、ワシにはきっとわからんじゃろう。君がどれほどの想いで今日まで努力してきたのかも、ワシには想像する事しかできん」


 じゃがの、と近右衛門は前置きして。


「このまま過ぎた事を延々議論したところで事態が好転せんというのはわかる。もちろん、君も頭では理解しておるじゃろうがな」


 やはりタカミチは黙ったまま、近右衛門の言葉に耳を傾ける事しか出来ない。


「今日はもう休みなさい。急な事じゃったからな、心の整理をつける時間が必要じゃろう」

「………………はい、わかりました」


 失礼しますと俯いたまま小さく呟いたタカミチは、そのまま体を反転させて扉へ向かう。足取りは重く、背中から漂う気は暗い。足を引き摺るようにして歩いた彼は、入室時の数倍の時間を掛けて退室していった。

 音を立てて閉じた扉を暫く黙って眺めていた近右衛門は、やがて大きく息を吐いてから愛用の椅子に深く体を沈める。次いで執務机の引き出しを開き、中から桃色の可愛らしい包みを一つ取り出した。

 渇き、深く皺の刻まれた指には随分と不釣り合いなそれは、先日孫娘達から送られてきたプレゼントの一つだった。チョコの方は既に食べ終えてしまったが、飴の入ったコチラは仕事の合間に少しずつ舐めている。

 桃色のセロファンでラッピングされたものを中から一つ取り出すと、近右衛門は包みを解いてから舌の上へと放った。大きい方の孫娘が好むような、ねっとりとしたクドいほどの甘さが口の中へ広がっていく。


「…………甘いのう」


 現実もこんな風だったら良いのにと、歳を重ねた今でも、近右衛門は思わずにはいられなかった。








 ◆








 何処をどう歩いて来たのか、何を考えて此処に来たのか、タカミチにはまるで分からなかった。いつも以上に冷たく感じる夜風の中で家路へついていたはずなのに、気付けば足はこの場所へと向いていて、その事に意識を傾け始めた頃には既に辿り着いていたというのが現状だ。


「世界樹、か」


 限界まで首を反らして見上げても天辺が確認できないほどに、高く大きく聳え立つ木がタカミチの前にある。年中枯れる事の無い豊かな葉を繁らせ、小高い丘から麻帆良を見守っているこの大樹には、昔から様々な都市伝説が付き纏う。若い頃のタカミチも願掛けをしに何度か訪れた覚えがあり、そういった点を含めて学園生達から親しまれている木だった。

 どうして此処に来てしまったのか。まさか神頼みに来た訳でもないだろうと、自らの行動の不明さにタカミチは苦笑するしかない。

 だが、どうせならそれも良いかもしれない。実際にちょっとはご利益があるのだし、彼が教師として麻帆良へ帰ってきた時に、一人の少女の加護を頼みに来たのも確かだ。

 神楽坂 明日菜。尊敬する人から頼まれた、大切な女の子。麻帆良へ連れてきた頃からは想像も出来ないほど感情豊かに育った彼女には、いつも温かい笑みを誘われる。

 パーティーの時に渡された袋を抱えながら、タカミチは過去へと想いを馳せた。


(ホント、昔は笑わない子だったのになぁ)


 一番覚えがあるのは、世捨て人を思わせるような無表情。次いで、微かに頬を歪めただけのシニカルな笑み。今と違ってどこか達観したような所があった幼い頃の少女は、周りの人に比べて未熟な自分によくそんな笑みを見せていた。ただ時折、本当に極稀に小さく浮かべる純粋な微笑が可愛く、それが見たくて少ないレパートリーから必死に笑い話を持ち出していた気がする。

 もっとも、返ってくるのは決まって冷笑だったが。


(だからこそ……)


 脳裡に、明日菜の朗らかな笑顔がよぎる。

 近右衛門の考えは、タカミチも理解している。そもそも明日菜には何時までも安寧の中で暮らしていける保障などまるでない。彼女の抱える問題は、ちょっとした切っ掛けさえあれば途端に抱え切れないほどの大きさになる恐れがある。ならば大事になる前にコチラ側へ関わらせ、いざという時に対処できる能力と知識を身につけさせようというのだ。更には味方も増やせれば尚良い。

 そういった意味では、ネギが麻帆良にやって来たこの時期こそが最適だという近右衛門の言葉には、タカミチも同意する。半ば押し切られる形であったとはいえ、ネギとの同居に賛成したのも、自分の意志で選んだ事だ。


(でも…………)


 想定していた時期よりも、明らかに早過ぎる。

 確かに彼女の過去を思えば、初日でネギの正体に辿り着いたのは運命的ですらある。でも、だからこそ怖くなる。運命が急かしているかのような早過ぎる接触は、明日菜の未来に待ち受ける波乱を暗示しているのではないかと、埒も無い事を考えてしまう。


「タカミチじゃないか。珍しいな、こんな時間に」


 無力感から強く拳を握った時、背後から声を掛けられた。すぐ近くから聞こえたその声に、注意を怠っていた己を叱責しつつも、表面上は平静を装ってタカミチは振り向く。


「やぁ。こんばんは、エヴァ」


 元同級生であり、現教え子でもある少女が夜闇に溶け込むようにして立っていた。黒いコートを身に纏い、月明かりを吸い込んで美しく煌めく金髪を風に遊ばせたエヴァンジェリンは、実に自然な様子で佇んでいる。

 暗闇を背景に白く浮かび上がった彼女の顔は、外見に似合わぬ優雅な笑みを刻んでいた。人形のようだとも評される幼き容貌にはいつも以上に自信が満ち溢れていて、一瞬、タカミチはこの小さな少女に見下ろされているような錯覚を覚えてしまう。

 馬鹿らしい考えだと振り払い、タカミチは極力普段通りに話し掛けた。


「随分とご機嫌な様子じゃないか、何か良い事でもあったのか?」

「そういうお前は酷い顔だな。ただでさえ女っ気が無いというのに、そのザマでは余計に遠退くぞ」


 何一つ遠慮の無いエヴァンジェリンの物言いに、タカミチは長年の付き合いながらも苦笑を禁じ得ない。いや寧ろ、付き合いが長いからこそ普段と変わらぬ少女の態度に苦笑が漏れるのだ。だが、そんなタカミチの様子にエヴァンジェリンは怪訝そうに眉を顰めた。


「本当に調子が悪そうだな、そこまで落ち込んでいるお前も珍しい」

「そんなに酷いか? 自分じゃいつも通りだと思ってるんだけどな」

「自覚が無いなら重症だな。さっさと帰って休む事を勧めるぞ」

「ハハ、手厳しいな」


 冗談めかして言ってはみたものの、痛そうに頭を押さえだしたエヴァンジェリンの姿を見るに至って、タカミチも自分の状態を認めずにはいられなかった。


「参ったな、これは」


 疲れたように息を吐き出して、世界樹の根元まで歩み寄った彼は、足を投げ出すようにして乱暴に座り込む。そうしてタカミチは世界樹の幹に背中を預けた後に、ボンヤリと生い茂る枝葉を見上げた。気の入らない表情でどこか不貞腐れた雰囲気を漂わせるその姿は、普段のタカミチを知る者ならば驚かずにはいられないだろう。

 かつての同級生であるエヴァンジェリンの前だからこそ、見せられる姿だった。

 胸ポケットから取り出した煙草を咥え込み、火を点ける。口中に煙を引き込めば、慣れ親しんだタールの味が染み渡る。燻らすように肺に煙を流し込み、少しばかり溜めてから、ゆっくりと白い息を吐き出していく。

 暫くそうやって口を慰めていたタカミチは、やがて小さく呟いた。


「なぁ、エヴァ」

「なんだ?」

「君は…………過去を忘れたいと、捨てたいと思った事は無いのか?」

「あるに決まってるだろう」


 スンナリと返ってきた言葉に、思わずタカミチは瞠目する。煙草を咥えた口を半開きにしたまま呆けたように己を見詰め続ける彼に、エヴァンジェリンは可笑しそうに話し掛けた。


「どうした、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。尋ねたのはお前だろうが」

「あぁ、いや。たしかにそうなんだけど……もっとこう、さ」

「ハンッ。なんだ、殊勝な態度でも期待したのか?」


 嘲笑うようなエヴァンジェリンの物言いに返す言葉も思い浮かばず、唯一タカミチに出来る事といえば、もどかしそうに口をまごつかせるくらいのものだ。


「真祖の吸血鬼として六百年以上も追われ続けてきたんだ、消し去りたい過去など、それこそ掃いて捨てるほどあるさ。当然だろう?」

「…………そうだね」


 話している内容とは逆に、エヴァンジェリンの表情には悲愴も諦観もありはしなかった。あるのはただ、見る者全てが気圧されるほどの強い自信だけだ。幼い外見には不釣り合いなほどに強烈なそれは、けれどこの上なく彼女に似合っているようにタカミチは思う。

 知らず生唾を嚥下しており、視線は勝手にエヴァンジェリンの挙動を追っていた。だがそれは仕方の無い事だと、そう思わずにはいられないほど、タカミチはこの小さな少女に圧倒されていた。


「で、それがどうかしたのか? まさかこんなツマラン事だけを聞きたい訳でもないだろう?」

「あぁ、うん。エヴァはさ、もしそういった過去を忘れて生きられるとしたら、それを望むのか? 吸血鬼とか賞金首だったとか、色んなしがらみを捨てて暮らしたいって、そう考えないのか?」

「どうでもいいな、そんなもの」

「へ?」


 手振りまで加えて心底つまらなそうに答えたエヴァンジェリンに、タカミチは言葉を失った。先程までの態度を含め、あまりに予想外過ぎる少女の様子に、一瞬、何を考えていたのかすら忘れてしまう。

 呆けたように口を開きっ放しにしているタカミチを見て愉快気に頬を吊り上げたエヴァンジェリンは、彼の様子など関係無いとばかりに言葉を続けた。


「どうでもいいと言ったんだよ。以前なら望んだかもしれんが、私は現状に満足しているからな。ハハッ、満足は大事だぞ? 終わり良ければ全て良し、というヤツだ。今に満足出来れば、過去には寛容になれる」

「けど、エヴァ…………」

「大体なんだお前は。出来もしない事で私にウダウダ悩めとでも言いたいのか? そんなのは暇を持て余してる学園長(ジジイ)にこそお似合いだろうが。私はまだまだ若いんだ、くだらん事を考えてる暇があるなら、新しい趣味でも探した方がよっぽど有意義なんだよ」


 そう言って鼻を鳴らしたエヴァンジェリンは、どうだと言わんばかりに腕を組み、座っているタカミチを見下ろした。

 夜闇の中で一際強く輝く青色の瞳が、射竦めるかのようにタカミチの顔を覗き込む。そこには何時に無く真剣な色が宿っていて、まるで魅了の魔法でも掛けられたかのようにタカミチは目が離せなかった。声も出せず、瞬きすら出来ず、知らず鳴らしてしまった喉だけが体の自由を教えてくれる。

 そんな状況。

 どれだけの時間、見詰め合っていただろうか。少なくとも三度、タカミチは梟の鳴き声を聞いている。やがて緊張から喉が渇き切り、目が痛みを訴え始めた頃になってようやく、エヴァンジェリンは口を開いた。


「お前が何を嘆いているのか、私は知らん。だがな、コレだけは言えるぞ。私は今の生活に満足している。この地に閉じ込められ、力も封印され、中学生なんぞをやらせれているが、それでも私は自分を不幸だとは思わん」


 そこで、エヴァンジェリンは静かに目を閉じた。

 けれどまたすぐに開いて、強い意志の宿った瞳でタカミチを射竦める。


「大事なのは形じゃない、中身だ。それを忘れるな。お前が誰の事を考えているのかは知らんが、そいつの意思を尊重してやれ。何を望み、何処を目指すのかを聞いてみろ――――――青い鳥は、案外近くに居るかもしれんぞ?」


 重みと冷たさを感じさせる中に、微かな温かみを潜ませた声だった。

 言い終えたエヴァンジェリンは、用事は終わったとばかりにタカミチから視線を外し、その身を翻す。纏ったコートが音を立て、宙に舞った金髪が月明かりを反射する光景を、タカミチは黙ったまま眺めていた。ただ静かに、闇へ溶け込むように去っていくエヴァンジェリンを、見詰めていた。


「――――――――アチッ!」


 何時の間にかフィルター近くまで進んでいた煙草の灰が手に落ち、その熱さでタカミチは正気を取り戻した。参ったなと苦笑しながら煙草を携帯灰皿に押し込み、落ちた灰も回収する。それから、タカミチはゆっくりと立ち上がる。スーツについた草の葉を払って、軽く伸びをした彼は、エヴァンジェリンの去っていった方向に顔を向けながらポツリと漏らす。


「満足してる、か」


 万感の思いを込めたその呟きは、夜風に吹かれて消えていく。

 けれどタカミチの表情には、込められた感情が確かに刻まれていた。


「まったく、誰の差し金なんだか」


 都合良くエヴァンジェリンが此処に来て、わざわざ自分を気に掛けてくれるなんて有り得ない。陰で誰かが動いたのは確かだろう。

 近右衛門だとは思うのだが、はたして交換条件はなんだったのか。タカミチはそんな事を考えながら、足元に置いていたプレゼントの袋を拾い上げた。


「ハハッ」


 何が可笑しいという訳でもないけれど、タカミチの口からは笑いが零れていた。

 相手の思惑通りというのは少々気分が良くないが、頭は冷やされたように思う。エヴァンジェリンの様子を見ていたら、幾らか不安も和らいだし、やる気も出てきた。

 気持ちを改めるように、タカミチは数度、首を振った。

 まずは明日菜の今後に関して、落ち着いて近右衛門と話し合う必要がある。明確な指針を決めて、しっかりと足並みを揃えなければ、出来るものも出来なくなってしまうだろう。


「………………」


 明日菜の過去については、いずれ話す必要性が出てくるかもしれない。半端に隠し続けるよりは、正確な知識を与えて、知らず危険に近付いてしまう状況を避けられるようにした方が賢明だろうかと、そんな事を考えながらタカミチは目を閉じる。

 思い出すのは、先程のエヴァンジェリンの様子だった。

 辛い過去があったとしても、今が楽しければ不幸ではない。苦しい環境にあっても、不幸とは限らない。彼女が言いたかったのは、つまりはそういう事だろう。そしてそれは、確かに間違っていないと思う。

 下ろしていた目蓋を上げると、タカミチは後ろを振り返った。彼の背後には、昔から変わらない姿の世界樹が悠然と佇んでいる。遥か過去の時代からこの地を見守ってきたその大樹に、タカミチは願わずにはいられなかった。だから彼は、学生時代から繰り返し願ってきた事を、今一度この場で口にする。


「――――――僕は、強くなりたい」


 せめて、一人の少女を不幸にしないくらいには。

 最後に世界樹に対して頭を下げたタカミチは、静かにその場から立ち去っていった。












 ――――後書き――――――――


 というわけで第四話をお送りしました。お読みくださってありがとうございます。

 頭の中での纏まりが悪くて非常に苦労した回です。最後の辺りは割と適当になってしまったので、その内修正が入るかもしれません。とはいえ、暫くは手を加える気力も湧きそうにありませんけど。

 そんなこんなでタカミチのお話でした。今後も頑張って貰う予定の彼に今回はメインをやって貰っています。これから先も頑張ってくれるでしょう。あとはエヴァンジェリンが初登場ですね。彼女のシーンは書くのが楽なので助かります。オリキャラのキャラ立てにも使い易いですしね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 閑話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/02/15 21:11


 夢を見ているのだと、エヴァンジェリンはすぐに気が付いた。

 だって彼女の前に立っている男はもう十五年も会っていない相手で、今の場面はまさしく十五年前に行われた別れの瞬間なのだから。夕陽に照らされた朱色の世界で行われたそれは、彼女にとっては思い出したくもない、けれど忘れられるはずもない記憶だった。

 そう。大嫌いな、でも大好きだった男との、最後の思い出だ。

 整った顔立ちに野性味を滲ませた、今、目の前に立つその男は、彼女が覚えている限りでは何時だって自信の二文字を顔に張り付けていた。今だってそうだ。彼女の恨みがましい視線を受けても、まったく罪悪感を感じていないような表情で笑っている。自分のやる事が間違っているだなんて可能性を、微塵も考えない男なのだ。

 だけど、或いはだからこそ、彼女は男が好きだった。

 大雑把で、繊細さの欠片も無いような奴だったけれど、この男は自分を取り繕うような事はしない。だから自分を助けてくれたのも、きっと打算なんて無くて、純粋に手を差し伸べてくれたんだと信じられた。


「まぁ心配すんなって。お前が卒業する頃には、また帰ってきてやるからさ」


 くしゃりと彼女の頭を撫でながら、男が約束した言葉。その言葉を素直に受け入れたのも、心の底から自分を信じるその馬鹿を、彼女が本当に信じていたからだ。だから果たされるに決まっている約束になんて構わず、この時はただ頭に乗せられた手の平の感触を味わっていたかった。自分から離れていくという、傍には居てくれないという男との思い出を、少しでも増やしたかった。


「光に生きてみろ。そしたらその時、お前の呪いも解いてやる」

「…………本当だな?」


 夕暮れの中で深みを増した赤毛を揺らして、口元にはいつも通りの自信に満ちた笑みを浮かべて、確かに男は頷いた。それは、彼女にとって何よりも信頼に値にするものだ。

 だから、信じたのに。信じていたのに。

 麻帆良学園の敷地から出られなくても、強制的に学校に通う必要があっても、約束があったからこそ頑張ったのだ。約束が果たされる時を夢見て、真面目に頑張ったのだ。近右衛門に警備の仕事を押し付けられても、周りの生徒を煩わしく感じても、いずれ赤毛のサンタがやってくると信じていたから、イイ子にして待っていたのだ。


(嘘ツキめ)


 三年経ち、彼女が卒業式を迎えても、男はやって来なかった。

 結局は、今こうして歩き去る男の背中こそが、最後に見た姿となってしまった訳だ。

 それでも一度目は我慢した。大雑把な性格の男だから、どうせ約束の事をウッカリ忘れてしまったのだろう。そう考えて、いずれ思い出して謝りながらやって来るのを待とうと、その時に笑ってやろうと、彼女は二度目の中学生を始めたのだ。


(どうして――――)


 なのに、男は死んだ。二度目の中学生活が折り返しを迎えた頃に、彼女が知る限りにおいて最強だと思っていた魔法使いは、実に呆気無く死んでしまったのだ。そして英雄と称えられていた男が死んだという噂は、瞬く間に魔法使い達の間で広まり、多くの情報から断絶されていた彼女の耳にまで、半年と掛からず届いてしまった。

 その時に心中で吹き荒れた感情が、一体なんだったのかは分からない。ただ、どうしようもなく暴力的な何かだったように思う。彼女自身でも抑えようの無いその激情が、最悪の選択肢へと体を衝き動かしたのだから。


(――――だが、感謝はしてやるさ)


 今から九年前、麻帆良学園には一つの噂が流れた。

 夜に出歩けば吸血鬼に襲われるというその噂は、貧血が原因で夜道に倒れる者が続出した事により大きな物議を醸し出したが、やがて被害者と思われる貧血者が出なくなると共に、人々の記憶からも徐々に忘れ去られていったのだった。












 ――――閑話――――――――












 優しく、小さく、体が揺り動かされる。

 規則的なものではなく、寝ている者の反応を窺うようにしながら何度となく繰り返されるそれは、あやしているのかと思うくらいに柔らかい手付きで、起こそうとしているはずなのに、より深い眠りへ誘おうとしているんじゃないかと、ついつい邪推してしまいそうだ。

 けれどもエヴァンジェリンはゆっくりと、だが確実に意識を覚醒へと近付けていた。既に懐かしい夢とは別れを告げ、新たに柔らかく温かな布団の感触が彼女を出迎えてくれている。重い目蓋越しに窓から射し込む朝日を感じ取り、布団越しに自分を起こそうとする誰かの手に気付いたエヴァンジェリンは、そこで違和感を覚えた。

 手付きがいつもと違う。

 どうやら従者である自動人形――――正確にはガイノイドと言うらしい――――ではない誰かが、自分を起こそうとしているらしい。ならば誰だろうかとエヴァンジェリンは考えるのだが、未だ完全な覚醒には至らない頭ではそうそう答えに辿り着けるはずもなかった。

 自分の与り知らぬ者が傍に居るのだから危機感を持つべきなのに、何故か彼女の心に焦りは無い。寧ろ胸の裡には安堵感が広がっていて、まだまだ覚醒直前のまどろみに身を任せたいという誘惑に駆られていた。温もりを求めて布団に包まり、ぬいぐるみを抱き締める腕に力を込めた彼女は、眩しさから逃げようと枕へ顔をうずめる。

 それでも相手は諦める気が無いようで、少しだけ揺り動かす力を強くして、何やら声も上げている。喋っている内容を理解するほど頭が覚醒している訳ではなかったが、流石に鬱陶しく感じてしまう。


「……うるさいぞ、洸。今日は休みだろうが」


 言ってから、エヴァンジェリンは傍に居るのが誰なのかを理解した。どうやら働きの鈍い頭に代わり、体の方が答えを導き出してくれたらしい。そして相手を認識した瞬間、エヴァンジェリンの意識は覚醒した。


「――――――洸?」

「そう、貴女の愛しい洸さん。ホラホラ、早く起きて。朝御飯が冷めちゃうよ」


 枕にうずめていた顔を動かして、ベッドの脇へと視線を向ければ、しょうがないといった感じでツリ目を細めた洸が立っていた。長い黒髪をうなじの辺りで一つに縛り、服の上にエプロンを掛けたその姿は、彼女が料理をする時のものだ。ただ、見慣れているはずのその格好に、エヴァンジェリンは何故か懐かしさを感じてしまった。


(…………あぁ)


 僅かに悩んで、すぐにその理由に気付く。

 洸に起こされるのが、随分と久し振りだったからだ。


「おい、茶々丸はどうした?」


 眠たそうに目を擦りつつ、緩慢な動作で上半身を起こしたエヴァンジェリンは、くぁっと小さく欠伸をしながら洸に問い掛けた。二年近く身の回りの世話をさせてきた従者の姿が、何故か今日は見えない。一階で食事の用意でもしているのかとも考えたが、そもそも家の中には自分を含め二人分の気配しか感じられなかった。

 そう思って尋ねたのに、どうしてか洸は呆れた表情で溜め息をつくのだった。

 少し、ムッとする。


「なんだ? 何が言いたい?」

「茶々丸はメンテナンスの為に大学部へ行ったよ。あの子はエヴァの指示だと言ってたけど?」

「……そうだったか?」


 首を傾げて記憶を漁ってみるも、エヴァンジェリンには思い当たる節が無い。そもそも定期メンテナンス以外で、というか定期メンテナンスであっても、茶々丸が世話を休む事は無い。ボディの大規模改修の時などは数日家を空けるのだが、そんな話は聞いていない。

 寝起きで血の巡りが悪い頭を使い、エヴァンジェリンがつらつらとそんな事を考えていたら、見兼ねたのか、洸は再び嘆息してから口を開いた。


「昨夜。高畑先生。交換条件――――――どう? 思い出した?」


 
目の前に突き付けられた指に視線を引き寄せられながら、エヴァンジェリンは思考を巡らせる。最近の記憶を一つ一つ掘り返していって、昨晩の就寝前に読んだ本の内容、晩御飯のメニューと順に遡っていき、


「…………あぁ」


 キッチリ思い出した。

 そして、今度こそ完全に意識が覚醒する。


「思い出した?」

「思い出した。タカミチの件だったな」

「そうそう。だから私は一日メイドさん。それじゃ、ちゃんと起きたみたいだから下で待ってるよ」

「――――――いや、待て」


 踵を返し、尻尾になった黒髪を翻して立ち去ろうとする洸の背中に、エヴァンジェリンが声を掛ける。すると、洸は足を止めて振り返り、小首を傾げて疑問符を浮かべた。それはいいのだが、此処でエヴァンジェリンは口を噤んでしまう。

 最初に尋ねようと思ったのは、昨日の事。電話が掛かってくるよりも、更に前。あの教室での出来事がまるで無かったかのように普段通り振る舞っている洸に、その心の内を尋ねたかった。それが出来なかったのは、自分自身の心の準備がまだだという事に気付いたからである。今から聞くのには、少々勇気が足りない。


「ん? なに?」

「――――――私は”昔のように”と言ったはずだぞ?」


 だから、エヴァンジェリンの口から出たのはそんな言葉だった。

 意味が分からないといった表情を浮かべた洸は、けれど次の瞬間には理解したようで、大きく目を見開いた。呆然と立ち尽くしたままエヴァンジェリンと見詰め合う彼女は徐々に頬を赤色に染め始め、やがて耳まで色付く頃になってから、ようやく口を開いた。


「…………つまり、着替えさせろと?」


 言葉は返さず、エヴァンジェリンは鷹揚に頷くだけで答えてみせる。それから暫く、困ったように眉根を寄せていた洸は、やがて観念したのか、一つ息を吐いてから降参したとばかりに両手を上げた。


「わかった、約束だもんね。それじゃ、いつも通りベッドに腰掛けてて」


 そう言って部屋の隅にあるクローゼットへ向かう洸を確認すると、エヴァンジェリンは言われた通り、下半身を動かしてベッドから足を下ろす。それから被っていた布団と抱き締めていたぬいぐるみを邪魔にならないよう脇へどけ、着崩れた寝間着を適当に直す。そこでふと、部屋の中が暖かい事に気付く。どうやら洸が暖房を入れておいてくれたらしい。


「そういえば、懐かしい夢を見たな」


 何故か、そんな言葉が口を衝いた。

 どうして言おうと思ったのかは、エヴァンジェリン自身にもよく分からない。クローゼットを開けて服を見繕っている洸の背中に懐かしさを感じたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、なんとなく、洸に聞いてほしくなったのだ。


「ふぅん。私がこの家に住んでた頃の夢?」


 選んだ服を腕に引っ掛けながらの、洸の返事。

 そんな彼女の後ろ姿を眺めながら、エヴァンジェリンも言葉を返す。


「いや、あのバカの事だ」

「え?」


 予想外だ、といった感じに気の抜けた声。

 クローゼットを閉め、半端に体を振り向かせた状態で、洸は硬直していた。


「だって、エヴァ――――――」


 まるで信じられないものを見たといった様子で目を見開いた洸は、何かを言い掛けて、けれどすぐに口を閉じる。首を振り、刹那、目蓋を下ろした彼女は、そのまま何も言わず、服を抱えた状態で戻ってくる。今の遣り取りの所為か、既に頬は普段通りの白色に戻っていて、その事をエヴァンジェリンは残念に思った。


「――――ほら、腕を上げて」


 ベッドの上に服を置きながら、洸が言う。その言葉に従いエヴァンジェリンがバンザイをすれば、洸はスルリとパジャマのトップスを抜き取った。素肌が外気に晒されるが、暖房が入っているお陰で身を震わせる事は無い。

 そうやって白無垢のような肌を惜しげもなく晒したエヴァンジェリンに、洸は実に手際良くスリップを着せてみせる。黒のシルク素材で作られたそれを身に着けたエヴァンジェリンは腕を下ろし、今度は腰元に手を当ててくる洸の、再び赤みを帯び始めた顔をボンヤリと眺めながら、懐かしそうに呟いた。


「九年振りといったところか?」

「……そうだね、大体それくらいのはず――――――ほら、浮かせるから体を倒して。魔力抵抗(レジスト)も無しだよ」


 ポンポンと軽く叩いてくる洸の手に従い、エヴァンジェリンは上半身を後ろに傾ける。ふわり、と一瞬の浮遊感。洸の魔力に包まれ、体がベッドから離れるのを知覚するのと同時に、一気にパジャマのズボンが膝下まで下ろされる。それが終わると再びベッドの上に座らされて、倒していた上半身を元に戻される。

 次いで洸は足元に屈み込み、ズボンを足首まで下ろしていく。ポンと右足を軽く叩かれ、それに従って右足を上げる。左足も同様だ。そうやって完全にズボンを抜き取られると、エヴァンジェリンが身に纏うのはスリップとショーツだけとなった。


「別に見慣れたものだろう? あの頃から成長した訳でもないしな」


 微妙に視線を逸らす洸に向けての言葉だった。

 何気ない風を装って話しているが、エヴァンジェリンの口元は意地悪そうに歪んでいる。


「…………とりあえず、傷痕は綺麗に消えたみたいだね」


 若干はぐらかして答えながら、洸はベッドの上に置いていたスカートを手に取る。控え目にフリルがあしらわれた黒色のそれを持ち、洸は再び屈み込む。彼女が指示するよりも早くエヴァンジェリンが揃えた両足を上げると、膝の辺りまで素早くスカートが通される。

 淀み無い手付きだが、洸が集中し切れていない事が、エヴァンジェリンには分かる。それがまた可愛く感じられたから、話を逸らしたのは見逃してやろうと、エヴァンジェリンは思った。


「封印されているとはいえ、私は真祖の吸血鬼だぞ。月夜と時間さえあればどうとでもなる」

「私の治癒魔法も少しは評価してほしいんだけど」


 洸がまた腰に手を添える。それに従ってエヴァンジェリンが体を倒せば、すぐさま浮遊感に包まれる。洸は手際良くスリップの上からスカートを通し、そのままお尻の上まで引き上げる。彼女が手早くホックを留めると、エヴァンジェリンの体は即座にベッドに下ろされる。淀みは無いが、確かにエヴァンジェリンへの気遣いがある柔らかな手付きだった。


「傷を作った本人が言う事じゃないな」

「そうかも――――――右腕、少し上げて」


 添えられた洸の手に導かれるまま、垂らしていた腕を持ち上げると、すかさず彼女は服の袖を通してくれる。今日の洸が選んだのは、袖口の広い白のフリルシャツだ。前開きとなっているそれを見て、洸は昔からこういった服を選んでいたと、エヴァンジェリンは当時の事を思い出した。

 そんな懐かしい記憶を掘り起こしつつ、彼女は左手を洸の頬に添える。赤みを帯びたそこは確かな熱を持っていて、エヴァンジェリンが触れると微かに震えた。それでも洸は、頑なにエヴァンジェリンを直視しようとはしない。


「……なに?」

「あの仏頂面が、ココまで可愛げのあるものに変わるとはな」

「…………うるさい。ほら、コッチも」


 口元を歪めたエヴァンジェリンの左腕を掴んだ洸は、そちらにも丁寧に袖を通していく。そうやって両腕を袖に通すと、次に洸は上から順にボタンを留めていく。どこかむず痒いその行為を受けながら、エヴァンジェリンはふと思い付いて口を開いた。


「あぁ、そうだ。結局、昨日のヤツはなんだったんだ?」


 最後のボタンに手が触れた所で、洸の動きが止まる。けれどそれは一瞬の事で、すぐに再開した洸はなんでもないように手早く最後のボタンを留め終えた。


「言ったでしょ? 高畑先生が悩んでるから、何か助言をしてほしいって」


 フリルシャツの襟首を整えながら、洸は普段通りの調子で話す。頬に差していた赤みは何時の間にか引いており、僅かながらに視線も鋭くなっている。考えるまでもなく、何かあるというのは明白だった。


「事情を知っているお前の方が適任だっただろう? タカミチと仲が悪い訳でもなく、ジジイとの仲介という意味も考えれば尚更だな。コチラが持ち出した条件を飲んでまで私に頼んだ意味はなんだ?」


 交換条件というのは冗談のつもりだった。暫く洸からは避けられるだろうと思っていたし、力を封印されたエヴァンジェリンに回ってくる仕事など、洸がやる気を出せば容易く終わらせられるようなものばかりだからだ。

 だというのに条件を飲むと洸が言った時、エヴァンジェリンは事態の奇妙さに気付いた。同時に自分の件が洸に軽んじらているようで不安な気持ちを抱かされたが、こちらは今日の洸を見る限り杞憂だったのだろう。

 昨夜の事を思い起こしていたエヴァンジェリンの視線の先では、彼女の襟元に黒色のリボンを巻き付けていた手を止めた洸が、迷うように視線を泳がせている。そうやって暫く悩んでいた彼女は、やがて諦めたように溜め息を吐いてから話し出した。


「エヴァが適任だったから。それだけの理由だよ。私には慰めに行く勇気は無かったし、余計に事態を拗らせる恐れもあったしね」

「ふむ。お前も関わっていたのか?」

「……………………」


 答えは無い。

 黙ったまま作業を再開してリボンを結び、形を整えると、洸は手を放した。


「うん、これでバッチリ! 似合ってるよ、エヴァ」


 洸は笑顔で数度頷いてから、そんな事を言った。どうやら話すつもりは無いらしい。それが分かっても、別に不快感は無かった。今更この程度の事で腹を立てるほど、此処での生活は短くない。だからエヴァンジェリンは、素直に洸に合わせてやろうと思った。

 ニヤリと笑みを浮かべて、彼女はまるで従者を傅かせるお姫様のように尊大な態度で口を開く。


「コチラを忘れているぞ?」


 そう言ってエヴァンジェリンは、傷一つ無い真っ白な素肌を晒している足を持ち上げる。確かに昔は傷があったので何も履かせなかったが、今は違う。気付いたのだろう、しまったとばかりに顔に手を当てた洸は、暫く唸った後、小首を傾げて可愛らしい声を出した。


「包帯でも巻いてみる?」

「出直してこい、馬鹿者」


 にこやかに笑ったエヴァンジェリンは、勢いよく洸に枕を投げ付けた。








 ◆








 湯気の立つ温かな味噌汁に、ほのかに甘い匂いを漂わせる玉子焼き。瑞々しい野菜が盛られたサラダの隣には鶏肉の梅肉和えがあり、手前には綺麗に色付いた焼き鮭の載せられた皿が置かれている。勿論、白いご飯だって忘れられていない。自らの指定席となっている椅子に腰掛けたエヴァンジェリンは、洸が用意したそれらの朝食を一つ一つ眺めていた。

 向かいの席には髪を解き、エプロンを外した洸が座っている。楽しそうな表情で両手を合わせている彼女と同じように、エヴァンジェリンも手を合わせる。もう何年も前からお馴染みとなっている光景だ。食べ始めるのは一緒に、挨拶も欠かさずに。初めて洸がこの家に来た時に煩く言っていた事だが、何時の間にかそれが普通になっていた。

 その空気に当てられたのか、エヴァンジェリンも洸も、昨日の事など無かったように自然な振る舞いが出来ている。


「では、いただきます」

「あぁ、いただこう」


 箸を手に取り、エヴァンジェリンはまず最初に玉子焼きへと手をつける。ふんわりと焼き上がったそれを箸で切り取って、一口大にした物を口へと運ぶ。噛めば程好い触感が歯に返ってきて、次いでほのかな甘みが口の中へと広がった。


「…………茶々丸と同じ味だな」


 暫く玉子焼きを味わった後、エヴァンジェリンが最初に抱いたのはそんな感想だった。するとサラダに箸を伸ばしていた洸が目を丸くして、それから可笑しそうに笑い始めた。声を出して笑う彼女に、エヴァンジェリンは気分を害したと、口を尖らせて抗議する。


「何がおかしい」

「だって、それと同じような事を前にも言ったじゃない」

「……そうだったか?」

「うん。エヴァが初めて茶々丸の料理を食べた時に。言った内容は逆だったけどね」


 洸は感慨深げに目を閉じて、懐かしそうに呟いた。

 柔らかな声音のそれに、エヴァンジェリンも穏やかな気持ちに包まれる。


「茶々丸もこの家に馴染んできたって事かな」

「……かも、しれんな」


 今度は味噌汁を口に含む。

 やはり、普段と変わらない、慣れ親しんだ味だった。


「…………何時の間にか、この味に慣れていたんだな。最後に料理を作ったのが何時だったかも曖昧だ。茶々丸が生まれる前は偶に作っていた気もするが、便利な世話焼きが居たからな」

「ふふふ。私の味が、この家の味かもね」


 嬉しげに、それでいて恥ずかしげに、洸が笑う。

 洸の言葉を、エヴァンジェリンは否定しない。年々この家に入り浸る回数が増えている目の前の人物は、おそらく家主である自分よりもこの家の事に詳しいだろうと、エヴァンジェリンは思っている。

 それが自然な事だと感じるようになったのは、はたして何時だったろうか。少なくとも出会った頃は色々文句を言っていたはずだ。なのに、気付けば洸が家に居る事も、食卓を共にしている事も、エヴァンジェリンは疑問に思わなくなっていた。


「まったく。家政婦見習いが偉くなったもんだな」

「その家政婦見習いに殺されかけたのはドコのダレでしょう?」

「力を封印されてなければ遅れは取らん」


 そうかもね、と軽く流す洸を見て、エヴァンジェリンは拗ねたように鼻を鳴らした。

 と、一つ思い出す。半年ほど前に洸から持ち掛けられ、以来着々と準備を進めてきた計画の事だ。エヴァンジェリンとしては鬱憤晴らしに丁度良いのだが、事後処理が実に面倒そうな気がして、イマイチ乗り切れないのだ。彼女自身もだが、特に洸が忙しく動き回る必要が有るだろうから。


「なぁ、結局ぼーやの件は実行に移すのか?」

「やるよ。ネギ君には悪いけどね」


 事も無げに、箸で鮭を切り分けながら洸が返す。


「上手くいっても、私の封印を解く気は無いのだろう?」


 この問い掛けには、洸は若干の躊躇を見せた。僅かながらに悩んだ後、彼女は箸を置いてエヴァンジェリンと真っ向から視線を交わし合う。それで、洸の答えはわかった。否、元からわかっていた事だ。所詮、この問い掛けは確認に過ぎない。

 何より、洸のそんな反応を引き出せただけでエヴァンジェリンは満足だった。


「…………確実な現状維持の為にやる事だからね。もしもの時の手札として封印解除も選択肢には入るけど、基本的には此処で飼い殺されて貰うしかないよ。登校する必要は無くなるかもしれないけど、それだけだし」


 沈みがちな声で答えた洸に対し、エヴァンジェリンは溜め息を吐いた。

 びくり、と洸が身を震わせる。だが、関係無い。寧ろ、面白い。

 大仰に首を振り、やれやれとでも言いたげに肩を竦める。


「まったく。気が利かん奴だな」

「…………ゴメン」


 目を伏せる洸を見て、エヴァンジェリンは口元に悪戯っぽいを笑みを浮かべた。


「せめて『私に飼われてください』くらいの事は言えんのか?」

「ゴメ――――――は?」


 呆気に取られた表情でポカンと口を開ける洸を見て、エヴァンジェリンは声を出して笑った。








 ◆








 燦々と照る太陽の日差しが心地良く、今日は絶好の洗濯日和だと洸は思ったのだが、生憎とエヴァンジェリンの家では優秀な乾燥機が年中無休で働いてくれるので、あまり関係無かったりする。今も衣類と布団を乾かす為に、それぞれ一台ずつ専用の乾燥機が稼働しており、手の空いた洸は掃除をしようとエヴァンジェリンの寝室に来ていた。

 寝室とはいっても明確に壁で区切らている訳ではなく、ログハウスの二階を寝室スペースと定め、床の上にベッドを置いているのだ。勿論、直接では床が痛むのでベッドの下には絨毯が敷かれている。また二階は殆ど一つの空間となっているのだが、隅には四畳半の茶室スペースが設けられており、そこだけは壁と障子によって他と区切られている。

 そんな場所で掃除をしている洸の周りは、静寂に支配されていた。

 移動に多少の不便を感じる程度に都市部から離れた森の中に、このログハウスは存在する。エヴァンジェリンがこの学園で暮らす事になった時、一般人・魔法使いの双方から離れていて、尚且つ管理の目が行き届く場所という事で此処が選ばれたのだ。

 だから周囲には他の建物が存在せず、耳を震わせるのは、木々の葉が風で擦れる音と鳥の鳴き声以外には、それこそ洸が箒で床を掃く音くらいのものだ。一階に居るはずのエヴァンジェリンも今は静かで、洸は黙々と床の目に沿って箒を走らせている。そうして端から端まで丹念に埃を掃いていく彼女は、時折一階に続く階段へと視線を向けては、またすぐに元へ戻すという行動を繰り返していた。


「はぁ……」


 溜め息。陽光が気持ち良さそうな外の天気とは裏腹に、洸の表情は暗く沈んでいた。彼女が考えるのは、勿論エヴァンジェリンの事である。二人で居た時は注意が会話などに向いていたから良かったが、一人になった途端、思考の迷宮に迷い込んでしまった。深く考え込むほどに答えから遠退くような気がするが、それでも悩む事をやめるなんて出来るはずもない。

 
昨日のエヴァンジェリンの行動。キスをされ、唇から血を吸われた直後に、耳元で囁かれた好きだという言葉。思い出すだけでも頭が沸騰しそうだ。本当なら心の整理をつける為に、最低でも数日の時間を要するだろう。それでも洸は、今朝、此処までやってきた。約束だからだ。出来るならしたくはなかった約束だが、どうしてもエヴァンジェリンに断られる訳にはいかなかった。


「ふぅ」


 また、溜め息。

 せめて普段通りの自分を取り繕っているつもりではある。けれど、ふとした時にエヴァンジェリンを意識してしまって、顔が凄く熱くなって、とてもではないが自分の動揺を隠し切れたとは思えない。


「ダメだなぁ、もう」


 昔は、出来たのに。エヴァンジェリンに自分の気持ちを悟られないよう、隠せたのに。まさか好きだと言われただけで、こうも容易く心乱されるなんて、洸は思ってもみなかった。悩んだ末の決心が今にもグラつきそうで、そんな自分があまりにも不甲斐無い。


「決めたんだけど、ね」


 そう、決めた。エヴァンジェリンに対する返事は、既に決めたのだ。それなのに洸は、未だ最後の一歩が踏み出せていない。臆病に心を震わせる意気地の無い自分に代わって、相手が言い出すのを待っている。それでいてエヴァンジェリンが何も言い出さない事に安堵を覚えているのだから始末に負えないと、彼女は自虐した。


「最低だよ、ホント」


 そんな自分に嫌気が差す。そう思って、洸はまた溜め息を吐いた。

 持っていた箒を壁に立て掛け、彼女は先程自分で棚の上に置いたぬいぐるみを手に取った。黒い毛色の犬を模したソレは、九年前に洸が贈った物だ。それなりに裁縫を得手としていた子供が作った、友達への贈り物。少々目の付き方などが歪だが、初めてにしてはまぁまぁの出来だと洸は思っている。

 もっとも、贈られた当人は。


「文句ばっかり言ってた癖に」


 起こす時は気付かなかったが、どうやらエヴァンジェリンはこのぬいぐるみをベッドに持ち込んでいたらしい。布団を洗おうとしてその事に気付いた時、思わず洸は泣きそうになった。今だって、目がカッと熱くなっている。

 凄く嬉しくて、心が温かくなって――――――そんな自分がどこまでも情けなくて、涙が出そうだった。


「エヴァ、魘されてなかった。昔は、あんなに……」


 ギュッと、洸はぬいぐるみを抱き締める。

 まだお互い、素直に友達だと言えなかった頃の、思い出の品。それをこんなにも大切にしていてくれた事が本当に嬉しくて、けれど今になって知りたくはなかったと身勝手な不満もあって、頭の中がグチャグチャになってしまいそうだ。


「大切なのに。エヴァの事は、凄く大切に思っているのに――――――どうしてッ」


 嘘だけはつきたくない。なのに、どうしても本当の気持ちがわかない。

 素直に好きだと言えたなら、どんなに楽だったのだろうか。








 ◆








 二階の掃除を終わらせ、次は昼食の準備をするからと降りてきた洸は、どこか元気が無かった。纏う空気は重く、瞳に宿る光は弱い。今にも溜め息を吐き出しそうな、そんな様子。エヴァンジェリンはすぐに洸の変調に気付いたが、あえて尋ねる事はしなかった。今の洸が悩むとしたら、それは自分の件かタカミチの件かのどちらかだろうから。

 そのどちらも、エヴァンジェリンから尋ねる事は出来ない。

 タカミチの件は、きっと教えてくれないだろう。否、洸では教えられないのだろう。彼女の立場とは、そういうものだ。だから、タカミチの事は構わない。尋ねても意味など無いし、尋ねようとも思わない。

 また、エヴァンジェリンは自分の件も駄目だと考えている。午前中、一階に一人で居た時に悩んだ末での結論だった。朝食を食べ終える頃には彼女自身の心構えは出来ていたのだが、予想以上に洸が動揺している。朝食中も、何度かそちらの方に水を向けようとしたのだが、悉く洸は話題を逸らした。それも普段とは比べ物にならないほど拙い方法で、だ。

 だから、自分からは聞けない。洸から話題に出す時まで待つべきだと、エヴァンジェリンは決めたのだ。

 そんな訳で、昼食の席は朝と比べると随分と静かなものになった。お互いに話題を決めかねているように微妙な空気が食卓に漂っていて、碌に会話をしない内に、気付けばお皿が空になっていた。

 そうして今、エヴァンジェリンは窓から差し込む陽光を避けるような場所に設置されたソファに座っていた。彼女の周りには、傍にあるテーブルの上も含めて人形やぬいぐるみで埋め尽くされている。その中にうずもれるようにして小さな体躯をソファに預けながら、けれど人形のような相貌には確かな熱を感じさせて、エヴァンジェリンは存在している。


「まったく、難儀なものだな」


 自分と顔を合わせたくないとでも言うかのように、今度は地下室へと降りていった洸の事を思って、エヴァンジェリンは首を振る。

 洸に好きな人が居た事も、その相手が女性である事も、エヴァンジェリンは知っている。失恋した事だって、それとなく聞かされている。だから、多少なりとも自信はあった。聞かされた当時はともかく、今の洸がその恋を引き摺っている様子など無かったし、同姓だから対象にならないという訳でもないはずで、自分は最も仲の良い部類に入る存在だと思っていたから。


「つくづく私も欲が深い」


 自嘲するように、彼女は口元を歪めた。

 もしかしたら、受け入れられるかもしれない。

 その可能性を考え始めたが最後、日に日に膨れ上がっていく欲望を、エヴァンジェリンは抑える事が出来なかった。それでも今まで我慢してこれたのは、好きだった男の事があったからだ。あまりにも半端な別れ方をしたから、どうにも踏ん切りがつかなかった。

 だがそれも、ネギが現れるまでの事だ。

 初めて教室でネギの容姿を見た時、エヴァンジェリンはそこにナギの姿を幻視した。纏う雰囲気はまるで違ったが、面立ちは驚くほど似ており、あの男が子供の頃はきっとこんな姿だったのだろうと、素直にそう思えて、自然とエヴァンジェリンの胸には懐かしい記憶が去来した。そして、驚く。かつての熱い激情はそこに無く、あるのは純粋な懐古だけだったからだ。

 思い出になるという事の意味を、エヴァンジェリンは教えられた。


「――――――ふぅ」


 腰掛けているソファに、更に深く体を沈めて、エヴァンジェリンは息を吐く。そうしなければ、胸の裡に溜まった熱でどうにかなってしまいそうだった。段々と鼓動が速くなり、頬が紅潮してくるのが知覚出来る。

 最近はいつもこうだ。気が付くと感情が理性の手綱から解き放たれて、好き勝手に暴走しようとする。しかも、本来なら抑えに回るべき理性が中々それを止める気になってくれないのだから、まったくもって困ったものである。


「今のままでも、満足だったんだがなぁ」


 自分と洸は親友だと、エヴァンジェリンは胸を張って言う事が出来る。だからだろうか、昔、ナギを追い掛けていた頃に感じていた焦燥が、今は無かった。確たる絆があるから、一方通行ではない想いがあるから、彼女は現状でも十分に幸福を感じらている。

 なのに、足りなくなった。忌憚無く洸を好きだと思えるようになってから、日増しに思考が加熱していくのだ。もっと特別な存在になりたいと、彼女の一番になりたいと、心が訴え掛けてくる。放っておくと頭の中の奥底まで溶かしてしまいそうなほどの熱を持って、感情が理性に働き掛けてくる。だから、昨日のような行動に出てしまった。

 唇に感じた柔らかな感触と、そこから舐め取った血の味が、脳裡に蘇る。

 自然と頬が緩まるのを、エヴァンジェリンは感じ取った。


「――――それで? 何か用でもあるのか?」


 エヴァンジェリンが左を向くと、地下に続く階段の前で静かに佇んでいた洸と目が合った。洸は微かに身を震わせたが、それだけだ。彼女は決して視線を逸らそうとはしない。その澄んだ黒い瞳は弱々しく震えながらも確かな意思を宿していて、エヴァンジェリンは彼女が何をしたいのかすぐに気が付いた。

 また一つ、鼓動のテンポが速くなる。体の芯から、熱が宿る。

 けれどそんな様子はまったく見せずに、エヴァンジェリンは悠然たる態度で洸の言葉を待った。


「エヴァは、さ。私が隠し事をしていたら怒るかな?」


 洸の口から出てきたのは、予想とは異なる内容だった。

 その事に首を傾げながらも、エヴァンジェリンは問い掛けに対する答えを口にする。


「隠し事なんぞ今更だろう? お前の立場では私に教えられん事など、それこそ掃いて捨てるほどあるはずだ」

「…………それが『千の魔法使い(サウザンド・マスター)』に関する事でも?」


 一瞬だけ、エヴァンジェリンの思考が停止する。


「彼は生きてる。ドコで、どんな形で生きているのかはわからないけど、死んでいない事だけは確かだよ。私は五年も前からこの情報を知ってた――――――エヴァに教えるかどうかの判断も、任されてた」


 洸が何を言っているのか、初め、エヴァンジェリンはよく理解出来なかった。あまりにも予想外の事だったので、思考が追い付いてきてくれなかった。けれども、理解せずにはいられない。落ち着こうと、一つ深呼吸をする頃には、頭の中で整理もついた。そうして言葉の内容を理解して、エヴァンジェリンは長く深い溜め息を吐き出した。

 びくりと、怯えたように洸が体を震わせる。

 洸が何を言いたいのかは、おおよそ理解した。それでもエヴァンジェリンの心には、まるで怒りが湧いてこない。否、怒りはあるのかもしれない。こんなつまらない事を気にする洸には、少々思う所がある。だが、まずは洸の勘違いを正す事が先決だと、エヴァンジェリは不敵な表情を浮かべてから返事をした。


「怒らんさ」


 刹那、洸は泣き出しそうに顔を歪めて、けれどすぐに目を瞑って首を振る。


「エヴァ、それは今だからこそ言える事だと思う」

「そうかもしれん。だが、どの道結果は変わらなかっただろうさ」


 エヴァンジェリンは、傍にあった兎のぬいぐるみを手に取った。

 洸に贈られたソレを腕の中に抱きながら、彼女は艶然とした様で言葉を続ける。


「結局はソコに行き着くんだよ。これでも色々と悩んだんだぞ? ナギが好きなはずなのに、どうしてお前に惹かれてしまうのか。思考の海に溺れて眠れなかった夜もある。自分への苛立ちから物に当たった事もある。そうやって、考えて――――――考え抜いた上で、今の私は、ナギではなくお前が好きなんだと理解した。ぼーやの事はその確認に過ぎん」

「エヴァ…………」

「ナギでは無理だ。ジジイやタカミチなど論外だ。アイツらとお前とでは根本から違う。だからこそお前に惹かれたんだと、私は理解した。女でもいい、寿命有る人間でも構わない。お前だから、近衛 洸だからこそ、私は好きなんだ」


 それは、紛れも無くエヴァンジェリンの本心だった。

 初めは二人が似ているからかと思ったが、違う。二人との記憶を一から積み上げて、色々な角度から評価して、ようやっと気付けた。似ているようで、二人はまったく反対の人物なのだと。

 そうして理解した上で、洸に好意を抱いている事を、エヴァンジェリンは認めざるを得なかった。

 エヴァンジェリンの意思が伝わったのだろう。悩むように、迷うように何度も口を開き掛けては閉じ直し、その度に小さく首を振っていた洸は、やがて決心したのか、真っ直ぐにエヴァンジェリンを見詰め返してきた。


「エヴァは、大切な人だよ。私に、最初に出来た親友。好きだって言ってくれたのは、少し驚いたけど、素直に嬉しく感じてる。同性を好きになるっていうのは、私もだから、嫌だとは思ってないし」


 詰まり気味に話しながら、洸は自らの胸元を苦しそうに握り締める。


「でも、親友だから。一番の親友だから。親友だって……思ってきたから――――――――だから、ゴメン」


 洸の手が、小刻みに震えている。目尻には微かに光る物が見え、よく聞けば声が掠れている事も分かる。

 どれだけ彼女が真剣に語っているのかが、エヴァンジェリンには我が事のように理解出来る。だから、悲しくは無かった。本気で自分と向き合ってくれただけでも十分だと、エヴァンジェリンは思った。これなら納得出来ると、そう思った。


「エヴァが真剣なのは、よくわかってる。だからこそ、ダメ。今の私には、中途半端な気持ちしか存在しないから、そんな状態でエヴァの気持ちに応える事は出来ない。それは、エヴァに対して、凄く失礼だと思うから」


 ゴメンと、もう一度だけ洸は言って、それで、終わり。

 目に一杯の涙を溜めた洸は、けれど俯く事はせず、静かにエヴァンジェリンの言葉を待っている。


「…………まったく、泣き虫なのは相変わらずか」


 スンと、洸が小さく鼻を鳴らす。


「わかったよ。お前の気持ちはよくわかった。そこまで言うなら仕方無い。私だって子供じゃないんだ、納得しよう」


 そうは言っても、ぬいぐるみを抱き締める腕に力を込めずにはいられなかった。鼻の奥がツンとして、目がカッと熱くなる。けど、悟られてはいけない。此処で自分まで泣いてしまっては、きっと収拾がつかなくなると、エヴァンジェリンはそう思った。大体、予想していなかった訳ではない。返事の仕方だって、ちゃんと考えていた。


「だがな、洸」


 だから、今の自分が出来る精一杯の強がりで、考えていた通りに話すだけだと、エヴァンジェリンは己に言い聞かせる。

 同時に、心の中で自嘲する。我ながら諦めの悪さも一級品だと、そんな事を考える。


「私は諦めるつもりはないぞ。お前も言っただろう? 『今の私は』とな。聞く限りでは可能性は十分にあるようだし、これからは色々と頑張らせて貰うさ。覚悟しておけよ? いずれは私をただの親友とは思えなくしてやるからな」

「でも、それだとエヴァが――――――ッ」


 何かを言い掛けた洸に向かって、エヴァンジェリンは勢いよく持っていたぬいぐるみを投げ付ける。


「いいか。昨日の件を含め、全ては私が決めた事であり、私の意思でやった事だ。お前は変な気を回さずに、私に振り回されていろ。ただ、嫌なら嫌と言え。少しは考えてやる。何も言わないなら、私は好きにやるぞ」


 投げられたぬいぐるみを手に持ったまま、洸は無言で立ち尽くしていた。顔を歪め、今にも零れそうなほど目に涙を溜めた彼女は、何か言いたそうに唇を震わせている。それでも言葉を決めかねているのか、彼女は何も言い出さなくて、ただ時間ばかりが過ぎていく。けれどもエヴァンジェリンは何も言わずに、ただ洸の言葉を待っている。


「ゴメン」


 ――――――でも、ありがとう。


 一筋の涙と共に、洸はそんな言葉を零した。

 エヴァンジェリンは、やはり黙ったまま、一つの頷きだけを返した。








 ◆








 彼女、絡繰(からくり) 茶々丸がログハウスへと戻った時、窓からは一つも明かりが漏れていなくて、彼女は自らの主が外出しているのだと考えた。玄関を潜る時には挨拶をしたが、それは誰かに向けたものではなく、彼女自身の律義さから口を衝いて出たものだ。だから、なんの仕事が残っているだろうかと、過去のデータから可能性の高い順にリストアップしながら家の中に踏み入った茶々丸は、そこに存在する人影に酷く驚いた。ガイノイドであるが故に顔色には表れなかったが、予定外の出来事に、数瞬、処理が滞る。


「…………マスター?」


 窓から射し込む月明かりだけが光源となる部屋の中で、暗闇に溶け込むようにして、茶々丸の主であるエヴァンジェリンは存在していた。僅かにウェーブの入った艶やかな金髪を無造作に遊ばせ、人形の中に埋もれるようにしてソファに寝転がっている彼女は、腕の中にぬいぐるみを抱いている。兎を模したソレは、確かエヴァンジェリンのお気に入りの一つだったと、茶々丸は記憶している。


「茶々丸か」


 目線だけを動かして、エヴァンジェリンが小さく呟いた。


「はい、ただいま戻りました。洸さんはもうお帰りに?」

「…………そうだ。今夜は見回りがあるらしくてな、準備に時間が掛かりそうだったから早めに帰らせた」

「? 何か特別な事でもあるのですか?」

「いや、そういう意味ではない」


 言ってから、エヴァンジェリンは目を閉じる。何か脳裡に思い浮かべていたのか、暫く黙ったままそうしていたエヴァンジェリンは、やがて思い出したように目蓋を上げ、青色の双眸で茶々丸を捉えた。


「今は何時だ? 大体でいい」

「午後九時を少し回ったところです」


 即座に返した茶々丸の言葉に、自嘲するように口元を歪めながらエヴァンジェリンは頷いた。


「結構な時間だな。道理で空腹を覚えるはずだ」

「夕食を食べられていないのですか? でしたら、すぐにお作りしますが」


 問い掛けと同時に、茶々丸は冷蔵庫に残っている思われる材料と、ここ数日間の食事メニューを考える。

 それらの情報を考慮して、最適と思われるメニューを幾つか導き出し、あとは実際に冷蔵庫の中身を見ればすぐに作り始められるという所にきて、エヴァンジェリンが口を開いた。


「――――――いや、遠慮しておこう」


 二年近くエヴァンジェリンに仕えてきて、茶々丸は初めてそんな事を言われた。だから、どう対応していいのかすぐには結論が出なくて、そうやって茶々丸が戸惑っている間に、エヴァンジェリンが次の言葉を口にする。


「お前の料理には満足している――――――――ただ、今は他の味が食べたい気分なんだ」


 再び目蓋を下ろし、ぬいぐるみをキツく抱き締めるエヴァンジェリンになんと答えればいいのか、やはり茶々丸には分からなかった。












 ――――後書き――――――――


 以上、閑話をお送りしました。お読み頂いた方、ありがとうございます。

 なんだか作者的にはまだシックリきてないのですが、とりあえず洸とエヴァンジェリンのお話です。今後の話に広がりを持たせる為に優柔不断な事になっていますが、一応は一段落、といった所でしょうか。まだまだ難しい関係ですけども。

 この二人の話は色々とネタがあるので助かるのですが、逆に有り過ぎて気付いたら変な流れになっていたりして困ります。書いてる時は楽しくても、見直しでの調整が妙に多くて疲れるコンビです。とはいえ、これからも色々と頑張ってくれるでしょう。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第五話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/02/15 21:11


 満月を越え、夜毎に闇の中へと身を隠し始めた月の下で、ほのかに照らし出された広大な森が静かに息衝いている。吹き抜ける寒風が葉音を奏で、黒に黒を塗り重ねたかのような墨色の木々が書き割りを演じるその場所を、二つの影が移動している。膝下まで伸びた草花が好き放題に繁茂した、獣道ですらない場所を進んでいくその影達は、共にうら若い女性だった。

 一人は洸。近衛 洸だ。羽織るコートは黒色で、トップスもボトムスも黒色で、ブーツもグローブも黒色という夜闇に溶け込むような服装で固めた彼女は、余裕の表情を浮かべながら淀み無い足取りで進んでいる。ただ彼女の黒い瞳が映しているのは進む先である道無き道ではなく、隣を歩いている女性――――――否、少女だった。桜咲 刹那(さくらざき せつな)という名前を持つその少女は、周囲を警戒するようにアチコチへと視線を配りながら、真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いている。

 首を動かす度に結われたサイドポニーを揺らし、足を進める度に佩刀も揺らしている、真剣な表情で職務に励む後輩を見ながら、洸はのんびりとした様子で歩いていた。そんな、一見すればやる気が無いとも取れる態度の洸に、隣の刹那は何も言わない。知っているからだ。表面的には気楽そうな洸が、裏ではこの『見回り』に必要な情報を集めているという事を。

 見回り、というのは文字通りの意味であり、一般の治安組織などには任せられない魔法関連の問題を警戒して魔法使い達が行っているのだ。例えば今夜は、悪霊になりかけていた狐の霊を一匹、成仏させている。他にも土地の魔力溜まりが変異しないように監視したり、不用意に迷い込んだ妖精に注意を促す事もある。これらは一般の土地ならばそうそう起こる事では無いのだが、麻帆良は一級の霊地なので、それなりの頻度で発生している。

 一応、最近では情報伝達技術の発達に伴い広域監視の精度も上がっているのだが、やはり見落としがあるし、問題の解決をする為には現場に人員が居なければならないので、今の二人のように歩いて見回りを行う必要がある。


「この周囲も異常無しですね。注意するほどの澱みもありません」

「ん、正解。次のエリアで今日は最後だけど、まだ大丈夫? 眠くない?」

「はい。問題ありませ――――ん」


 小さく、刹那は眠たそうに欠伸を噛み殺した。目敏くそれに気付いた洸がクスクスと笑い声を漏らし、刹那の頬がカッと赤くなる。

 恥ずかしそうに顔を伏せた彼女は、消え入るほどに小さな声で抗議した。


「ち、ちがうんです」

「わかってる。よい子の刹那ちゃんは夜更かしなんてしないもんね、この時間はいつもおねむだもんね」

「そ、そう――――――って、そうじゃなくてですねっ!?」

「ところで刹那、周囲の状況は?」

「あっ!? わっ、ひ、ひゃい!!」


 慌てて首を巡らせ報告しようとした刹那だったが、今度は舌を噛んでしまったようである。目に涙を溜め、痛そうに口を押さえる刹那の姿に、また笑いを誘われる。再度、洸が声を出して笑うと、刹那は恨めしそうな顔をして軽く睨み付けきた。本人としては怒っているつもりなのかもしれないが、痛みから口をまごつかせる姿と相俟って非常に可愛らしい。


「お、お戯れはよしてください。今は見回り中ではないですか」

「大丈夫だよ。既に問題無い事は確認してるから」

「うっ」


 洸が余裕の表情で言い切ると、刹那は困ったように口を閉じた。彼女が見せた抵抗と言えば唯々不満を乗せた視線を送り付けるくらいのもので、加えて洸を喜ばせる結果にしかならいのだから、なんとも可哀相なものだ。


「刹那はまだ中学生だし、夜回りに体が慣れてないんだね。体力があっても、リズムの乱れは仕方無いよ」


 ポンポン、と宥めるように洸が頭を撫で付けてみても、刹那は俯いて口を閉ざすばかりだ。彼女の頬には未だに赤みが差しているが、その足取りに迷い。ただ、確実に遅くなってはいる。

 恥ずかしがっているのか、はたまた悔しがっているのか。

 なんであれ、この生真面目な後輩は見ていて飽きないなと、歩く速度を落としながら洸は思った。


「……うぅ。今日の洸様は少しお戯れが過ぎると思います」


「そう? そうかもね。今日は、少し落ち着けてないかもしれない」


 刹那の頭に手を置いたまま、洸は明後日の方向へ視線を向けて、目を細める。けどそれも、刹那が気付けないほどに一瞬の事だ。すぐさま元の表情へと戻し、手を刹那の頭から離した洸は、隣を歩く彼女の方を見て何気無くといった口振りで話し始めた。


「ところで、ネギ先生の仕事振りはどう? 木乃香にも聞いたんだけど、あの子の評価は甘いから」


 尋ね掛ければ刹那は即座に顔を上げ、慌てて答える。


「あ、はい! えっと、特に問題は無いと思います。少しずつですけど授業も解り易いものになっていますし、クラスメイト達からも親しまれていますから。ただ……やはり子供ですので、みなさんが悪ノリした時には流されていますね」

「なるほど。頑張ってるみたいだね」

「そうですね…………ええ、本当によくやっていると思います」


 洸は首を傾げた。

 どういう訳か、刹那が浮かない表情を浮かべているのだ。憂いを帯びた視線を前方の暗闇へと向ける彼女は、今にも溜め息を吐き出しそうな雰囲気である。足取りも更に重くなっており、この状態では仕事になりそうもない。困ったと、ついつい洸は眉根を寄せる。

 そんな洸に気付いても暫く黙ったままでいた刹那は、やがて道無き道を抜け、ちょっとした森の広場になっている場所に辿り着く頃になってから、ようやく口を開いた。躊躇いがちに話し始めた刹那の顔は余りにも苦しそうで、自然と洸の気持ちも引き締まる。


「――――ネギ先生は、お嬢さまと同じ寮部屋に住んでいますよね?」

「そうだね。木乃香も喜んでるよ。部屋が賑やかになったって」

「つまりそれは、その…………お嬢様に”コチラ側”の存在を知らせるという事でしょうか?」


 広場の中央に差し掛かろうかという時になって、刹那は足を止めた。洸を見上げる彼女の黒い瞳は深く澄み渡り、奥底に潜む意思を剥き出しにして表現している。そして、その意味を取り違えるほど、彼女らの仲は浅くない。刹那が何を心配しているのか、彼女が言葉にしていない部分まで含めて、洸は正確に理解した。

 二人とも何も話さず、暫し、静寂が訪れる。

 その間、どうするか悩んでいた洸だったが、結局は知っている事を全て話す事にした。その内容が、どれほど刹那を驚愕させるか理解しているが、だからこその誠意でもある。ただ、その裏で話しても大丈夫な相手であるのかどうかを判断していたのは、偽りようの無い真実であり、そんな自分が、洸はあまり好きではなかった。それらの真意を欠片も表に出さない事についてもまた、同様である。


「学園長はその可能性も十分に考慮してるよ。基本は今までと変わらず、偶発的に魔法と接触しない限りは不干渉としてるけど、学園長はそういった事故が起きるのを期待してる。そして、場合によっては直接教える可能性も考えてる。今は、西との関係に決着がつくかもしれない大事な時期だからね。何があるかわからないもの」


 洸の言葉に、刹那は衝撃を受けたように目を見開いた。信じられないといった表情で、彼女は呆然と洸を見上げている。その心の内を正確に理解しながら、それでも表面上は平静を通した洸は、黙ったまま刹那の次の言葉を待っていた。


「し、しかし長は! お嬢様のお父上は!?」

「西の長も一応は同意してるよ。後手に回り手遅れとなるくらいならば已む無しってね――――――――とはいえ、結局は消極的な賛成でしかない。学園長はあえてその意味を取り違えるつもりだよ」

「ならば長の意思は…………」


 洸は、無言で首を振る。

 それだけでも刹那には十分だった。


「まぁ、実際に行動に移されるかどうかはまた別なんだけどね。けど、コレは生まれの問題で、何時までも目を背けてはいられないっていうのは、覆しようの無い事実でもある。この意味、刹那ならわかるよね?」

「それは、ですが……」


 俯いたまま言葉に詰まり、今にも泣き出しそうな顔をした刹那に対し、洸は仕方無いとばかりに肩を竦める。神妙にしていた表情を元に戻し、一メートルと開いてない距離を一歩で埋めた彼女は、未だ顔を上げない刹那の頭を押さえつけるようにして乱暴に撫でた。


「わ、わっ」

「私達で守ってあげればいいだけの問題でしょ。悩む必要なんてないない!」


 刹那が手で押さえようとするのにも構わず、グシャグシャと髪型を崩すようにして撫でる洸は、努めて明るい声で喋る。戸惑った様子で刹那が見上げてきても、気にしないとばかりに笑顔で返すだけだ。


「刹那は優秀な部下ですって報告書に書いてるんだから! しっかり働いてくれないと困るよ~?」

「あ、はい――――へっ!?」


 素っ頓狂な声を上げた刹那の手を取って、洸は歩き始める。

 よろけそうになった刹那も、洸の歩調に合わせて隣に並ぶ。それでも混乱したように目を彷徨わせていた刹那は広場を抜ける頃になってからようやく、洸の顔に視線を定めて、勇気を振り絞るようにして声を張り上げた。


「あのっ! 洸様!!」

「何かな?」

「先程の言葉は――――」

「本当だよ」


 驚いたように、刹那は洸を見詰める。

 ポカンと口を開け、手を引かれるままに足を動かす刹那の姿は、なんとも滑稽だった。


「刹那は優秀だよ。私の見立てなんだから間違い無し!」


 軽々と言い切ってみせる洸に、刹那は何も言わなかった。気恥かしそうに頬を染め、握られた手に力を込めるだけの彼女に益々笑みを深くしながら、洸はえっへんとばかりに胸を張る。それから人差し指を立てて、真面目ぶった様子で話を続けた。


「という訳で、優秀な刹那さんは仕事を頑張りましょう。さっきから私だけ働いてる気がするしね。疲れはしないけど面倒なんだよ? 遠視魔法って。だから早くこの働き者なお姉さんに楽をさせてくださいな」

「……………………」

「ん? どうしたの刹那?」


 洸の問い掛けに、刹那は首を振るだけで答える。


「いえ……なんでもありません。そうですね、しっかり頑張らせていただきます」


 よろしいと、洸の声が木々の合間を通り抜けていった。












 ――――第五話――――――――












「不覚だ」


 柔らかな木漏れ日が射し込む森の中を、刹那が歩いている。昨夜のものとは異なり、麻帆良の都市部からほど近い所にあるこの森を、刹那は日頃から朝の鍛錬に利用していた。今も肩に掛けている刀袋の中身は到底一般人に見せられるような物ではないし、それを使って鍛錬している自分も、同じく人目に触れさせない方が良いからだ。

 また、純粋に刹那がこの場所を気に入っているという理由もある。豊かな緑のあるこの場所は空気が綺麗で、特に早朝の低い気温の中では世界が澄み渡るような感覚すら受けるのだ。その中で身も心も引き締め、固い土を踏み締めて刀を振るう瞬間が刹那は好きだった。

 そんな訳で普段ならば漂う草木の香りを楽しみながら歩く道程なのに、何故だか今日の刹那は暗い表情を浮かべている。心なしか足取りも重く、小柄な体躯に満ちる気力は常の半分もあるようには見えない。


「不覚だ」


 再び呟いた刹那は、浮かない様子で天を仰ぎ見る。まだ地平から顔を出したばかりの太陽は視界に入らなかったが、雲一つ無い青空がそこにはある。文句のつけようも無い快晴だった。そして、異様に眩しかった。寝不足で充血気味の目を擦りながら、刹那は盛大に溜め息を吐き出してみせる。

 昨夜の見回りが終わったのが深夜零時前。洸に見てもらいつつ報告書を纏め終えたのが零時半で、学生寮の自室に辿り着いたのは一時過ぎだった。そこから更に就寝支度をした事を考えると、中学生にしては少々遅かったかもしれないが、刹那にとっては大した問題ではない。体力は人並みどころではないし、若さに任せた回復力もある。たとえ徹夜であったとしても二、三日はへこたれない自信がある。

 だが、今日の刹那は非常に疲れていた。肉体的な問題ではなく、精神的な疲労が大きいのだ。昨夜、ベッドに入って横になったはいいものの、何故か気分が高揚して眠れなかったのである。一度寝返り、二度寝返り、静かな部屋の中に繰り返し響く時計の針の音を数えている内に、気付けば夜明けの時間が迫っていた。なんとも馬鹿らしい話である。あまりの馬鹿らしさに、カーテンの隙間から射し込む光を見た時、刹那は夢の中に居るんじゃないかと思ったほどだ。


「不覚だ」


 再三の呟きと共に、刹那は大きく溜め息をつく。

 何よりも問題なのが、気分が高揚した理由だった。とある人物の事を考えて夜も眠れない、なんて表現をしてみれば如何にも思春期の中学生的で乙女チックな感じもするが、その相手が問題だった。

 洸である。つまり、同性である。

 刹那的には自らの根本を揺るがすような大問題だった。確かに洸への憧れを持ってはいる。仕事は出来るし、美人だし、後輩の面倒見だってよい。麻帆良に来てからの二年間で世話になった事は数限りないし、理想の自分を思い描くとするならば最初に浮かぶ相手というのも間違いは無い。そういった意味では、刹那の心の多くを占める人物だというのは確かだ。


「だが、昨夜のアレではまるで――――――」


 ――――――懸想しているみたいじゃないか。


 口の中で消えていったその考えに、刹那は瞬時に頬を染めた。

 集まった熱を振り払うために何度か首を振ってみるが、到底治まりそうにない。

 自分はノーマルだと、刹那は思っている。確かに異性と話をした経験など碌に無いし、未だ恋愛というものを意識すらした事も無いのだが、将来の事を想像した時に漠然と浮かぶのは男性の隣を歩いている自分だ。まかり間違っても女二人という事は無い。確かに最近は自然と目で追い掛けている事が多くなったし、洸に笑い掛けられるだけで訳も無く嬉しくなる。けどそれは憧憬から来るものであって、決して恋愛感情などではない。そんなはずはある訳が無いと、自分に言い聞かせる。


(あぁ、でも…………うぁ)


 心当たりが、無い訳ではない。これほどまでに心臓が浮かれている理由は、見当がつく。

 昨夜の洸の言葉だ。優秀な部下だと、そう言ってくれたのが、素直に嬉しかった。よく出来たとか、凄いよとか、洸に褒められた事はこの二年間で数え切れないほどにある。けどそれは、不出来な刹那にしては、という枕詞が付くものだと思っていた。なんせ初めて会った時から洸には情けない所ばかり見られているし、その頃から成長したのかと訊かれたら、正直自信が無いとしか言えない。


(優秀な部下、かぁ)


 まさか認められているだなんて、露ほども思わなかった。自分と洸の距離は、もっと遠いのだと信じて疑わなかった。

 だから、きっと、その事が嬉しくてこんなにも心が浮付いているのだろう。もしかしたら、なんて夢見てしまったのだろう。


「ッ。いや、だから私はそうではなくて! …………もう、なんなのだろうか」


 深く、深く溜め息を吐き出した刹那は疲れたように近くの木に背中を預けた。幸い今日は日曜日、休日だ。寮へ戻る前に火照った体を冷ます事が出来る。暫く休もうかと、緩慢な動作で刹那は光を透かす枝葉を仰ぎ見た。


「ん?」


 その時だ、微かに耳を震わせる話し声に刹那が気付いたのは。

 余り離れてない場所から聞こえてくるそれに、刹那は知らず舌打ちしていた。悩んでいたとはいえ、不注意が過ぎる。これでは本来の任務にも支障が出るかもしれないと、声の聞こえてくる方へと静かに歩み寄りながら刹那は自らを諌めた。


「アレは――――――」


 太い樹木の陰に身を隠し、顔だけを覗かせた刹那の視線の先には、二人の人物が居た。




 □




 それは非現実的な光景だった。

 女子寮の傍にある森の奥へと分け入った先にある小さめの広場。そこにある大きな石に腰掛けた明日菜は、眼前で繰り広げられる情景に唯々口を開けて驚く事しか出来なかった。

 地面に生い茂る草花の絨毯はまるで文様を描くかのようにそよぎ、それを舞台として折れた枝が時折ぶつかり合いながら跳ね回る。一、二、三とリズムに任せて騒ぐ彼らの上空では落ち葉が好き勝手に遊び回り、辺りでは木々が体を揺らして拍子を取る。滅多なようで、雑多なようで、その実、規則性に満ちた不思議な森の踊りだった。明日菜の口から漏れるのは賞賛の言葉よりも感嘆の溜め息ばかりで、左右で微妙に色の異なる瞳は驚きに見開かれたまま固まっている。


 事の起こりは、少し遡る。


 今朝、新聞配達のバイトも無いからと、休日の楽しみとばかりに惰眠を貪ろうとしていた明日菜は、枕元から聞こえてきた物音に気付いて目を覚ました。二段ベッドの上段を自分用として使っている彼女の頭上で音が鳴るという事は、ベッドの隣に存在するロフトで誰かが作業しているという事だ。つまりそれは、一週間ほど前からロフトを居住スペースとしている居候が何かしているという事でもある。

 眠気から目蓋を擦りつつ携帯電話の時計を見ればまだ六時過ぎで、休日は各々好きに朝食を取るという説明を忘れたかとも思ったが、どうやらそれも違うらしい。最近見慣れ始めたコート姿の子供先生に気付いた明日菜は、ムクリと好奇心が起き上がるのを感じた。同時に意識が完全に覚醒し、大事そうに杖を抱えて部屋を出ようとするネギの背後から彼の首根っこを掴んだのは十秒後の事だった。


 ――――――――そして今に至る。


「えっと、大体こんな感じです」


 広場の中央に立ち、高く杖を掲げていたネギが、腕を下ろすと共にやや気恥ずかしげに口を開く。

 楽しそうにはしゃぎ回っていた折れ枝や葉っぱなどはゼンマイが切れた玩具のようにポトリと地に落ち、先刻まであれほど賑やかだったこの場に静寂が満ちていく。その事を残念に感じながらも、明日菜は立ち上がって激しく手を叩いた。


「スゴイじゃない! ホントに魔法使いみたいだったわよ!!」

「あ、いえ。本当に魔法使いですから」

「いやー、もっとこう火とか水とかさ、そんなの想像してたのよ。こう派手にドバーって感じの。でもやっぱこういうのもいいわよね。なんか絵本の魔法使いっぽくて」


 魔法の練習がしたいと言ったネギをこの場所に案内したのは明日菜だ。この一週間、彼女の前でネギが使った魔法と言えば、のどかの件を除くと、箒で空を飛ぶというものだけだった。

 それはそれで心躍るものがあったのだが、やはり他の魔法を見てみたい気持ちはある。ただ初日以降はネギも警戒心を強めたようで、三日前に近右衛門に呼び出されてからは更にその傾向が高まり、明日菜はついぞ魔法を見る機会に恵まれなかった。だからこそ、明日菜はネギが魔法を練習したいと言った時に喜んでこの場所へ案内したのだ。


「出来ない事もありませんけど、僕の得意な属性とは違いますからそういうのはあんまり…………」

「あ、属性とかもあるわけね。なんかホントにゲームみたいよね」

「ゲームの事はよくわかりませんけど、多分そんな感じです。あ、なんなら今から少し勉強してみますか?」


 嬉しそうに瞳を輝かせて尋ねてくるネギに対し、明日菜は苦笑しながら顔の前で手を振った。


「いいっていいって! そういうゲームやんないし、頭痛くなりそうだし。あっ。そういやアンタ、本屋ちゃん助けた時のちっちゃい棒のヤツどうしたの? いつも持ってるのはそのおっきいのだし」

「あぁ。それならココにありますよ」


 コートの内側からネギが取り出したのは、銀色に光る、短く細い棒だった。

 長さ三十センチ程度のその棒を手に持ったネギは、それを明日菜に向けて差し出す。


「コッソリ魔法を使う時に便利だからって、ネカネお姉ちゃんがプレゼントしてくれた物なんです。流石に杖としての性能はコッチと比べると劣りますけど、初心者用の杖とかに比べたら大分良いんですよ」


 言いつつネギは、示すように大きな杖を持つ手を動かした。


「へぇ~、なるほどね。従姉弟のお姉さんだっけ? ネカネさんって」


 銀の指揮棒とでも表現出来そうな杖は、明日菜が考えていたよりも重かった。使用する分には支障は無さそうだが、見た目とは少し異なる感じを受けるので、その辺りで明日菜は使い辛そうだと感じてしまう。材料の問題なのだろうかと、彼女は適当に考えた。


「はいっ! 小さい頃からずっと一緒に暮らしてるんです」

「なんか私に似てるとか言ってたけどさ、ホントなの?」

「えぇ。雰囲気や面影が似てますよ。お姉ちゃんはもっと優しそうですけ――――――アタッ」


 手に持った杖で、明日菜はネギの額を小突いた。


「一言多いわよ。そういや一昨日の朝は似てるからって言ってたけど、アンタどんな生活してたのよ?」

「あう……えっと、向こうに居た頃は一緒に寝てたので、多分その所為だと思います。よく覚えてませんけど、夜中に起きた時そのままアスナさんのベッドに潜り込んじゃったんじゃないかと」

「一緒に、ねぇ。アンタって変な所で妙に子供っぽくない? 授業とかはちゃんと出来てるのに」


 明日菜の言葉に、ネギは曖昧な笑みを浮かべるだけで答える。


「ま、二回目が無いならいいけどね」

「それは大丈夫です。日本に来る事が決まってからは別々に寝てましたから。一昨日のは寝惚けてただけです」


 自信満々に胸を張って言い切るネギに、呆れた表情をしながらも明日菜は何も言わなかった。ホームシックという奴だろうから、あと一回くらいなら見逃してやってもいいかなと、そんな気分なのだ。


「期待してるわよ。ほら、杖。お姉さんのプレゼントなんでしょ? 大事にしなさいよ」

「もちろんですよ」


 明日菜から杖を受け取り、大事そうに懐へ仕舞ったネギは、ふと思い出したように声を上げる。


「そうだ! アスナさんも今日の図書館島探検に行きませんか? 宮崎さん達が案内してくれるんですよ」

「あ~、このかが言ってたヤツね。そうねぇ…………」


 昨日誘われた時は断ったのだ。確かに話を聞く限りでは図書館島は楽しそうな所ではあるし、普段寄り付かないだけにこういった探検くらいは参加してもいいかという思いはある。それでも断ったのは、休日は昼過ぎまで寝ていたいという気持ちがあったからで、主役はネギとのどかなのだから変に予定を狂わせてしまっても悪いと考えたからだ。


「オッケー、私も参加するわ。帰ったらこのかに言わないとね」

「そうですか!」


 結局はこうして起きているのだし、二度寝という気分でもないのだから別に構わないだろう。そんな風に適当に考えての返答だったのだが、思いの外ネギは嬉しかったようで、随分と瞳が輝いている。


(う~ん。これは少しマズッたかも)


 少しだけ、明日菜は後悔した。なんだか予定外に懐かれ過ぎているような気がする。

 魔法使いという事情を知っているのは自分だけだから仕方ないのかもしれないが、出来ればのどかの方に行ってくれる方が望ましい。協力すると言っているのに邪魔をしてしまうようでは、申し訳が立たないではないか。


「うわぁ、楽しみだな~。それじゃ、残りの練習も急いで終わらせますね!」


 明るく話すネギの声を聞きながら、明日菜はのどかの事を考えて若干憂鬱な気分になった。








 ◆








「………………来てしまった」


 今にも溜め息を漏らしそうな暗い響きの呟きを零した刹那の前には、大きな建物が存在していた。学園校舎に合わせて西洋式となっているこの施設は、学園生の間では『図書館島』の愛称で親しまれている場所だ。

 著名な建築家を欧州から招いたとも噂されるその偉容は、およそ一世紀に及ぶその歴史を物語るかのように煤け、所々で欠けている。だからといってその美しさが損なわれているかといえば否であり、寧ろその一つ一つがこの建物が生徒達と共に歩んできた足跡のように感じられて、どこか神聖な物のように思えた。

 滅多に訪れる事の無いこの場所を前にして、刹那は射竦められたかのように足を動かせなくなっていた。肩に担いだ刀袋がズシリと重く、普段は体の一部のように扱っている愛刀が、自分を地面に縫い止めようとしているのではと、馬鹿な考えを巡らせてしまいそうだ。

 刹那の任務は要人の護衛だ。

 様々な要因が重なった結果ではあるが、学園長の孫娘である木乃香を陰ながら守るという大任を授かっている。麻帆良学園の一側面である関東魔法協会の理事を務める近右衛門の孫娘であり、世界有数の魔力保有量を持つと言われる木乃香だが、父親の教育方針で魔法といった”裏”の存在は知らない。故に自衛手段を持たない彼女を心配した近右衛門達が、二年前に護衛として任命したのが刹那だった。

 実際に刹那が危険人物を排除する事は非常に稀というか、麻帆良に乗り込んでくるような馬鹿そのものが希少な存在ではあるのだが、それでも彼女は常に木乃香の安全に気を配っている。麻帆良の外に出掛ける時は勿論、内部であっても移動中などは特に注意して見守っている。そうして学業や鍛練、他の仕事などの時間を除けば殆どを木乃香の護衛として陰に控えている刹那だが、そんな彼女でも近寄らない場所がある。


「どうしよう…………」


 それが此処、図書館島だった。この場所は洸の管轄なので、木乃香の護衛任務も彼女が引き受ける事になっている。洸は遠距離であっても監視・移動出来るタイプの魔法使いであり、一介の剣士である刹那と比べれば護衛に向いているというのは確かだ。また要警護ポイントである地下部分には多数の罠が仕掛けられており、地理に疎い刹那では緊急時における迅速さに欠ける恐れがある。


 ――――――というのは、表向きの理由だと刹那は考えている。


 実際には木乃香の為にと護衛任務に励み過ぎる自分を心配した学園長達が休憩時間代わりとして設けた規則だと、刹那は当たりをつけていた。彼女としてもそのような心遣いをされるのは吝かではなく、洸なら安心して任せられるという事もあり、木乃香が図書館島に居る間はプライベートな時間を過ごさせて貰っている。勿論、連絡さえあれば何を措いても護衛を再開するが。

 そういった理由で普段は図書館島に寄り付かない刹那なのだが、今日の彼女は違った。明日菜とネギの会話を盗み聞いた事で木乃香の予定を再確認出来たのはいいが、どうにもタイミングが悪かったとしか思えない。よりにもよって悩みの核心となる人物が関係しているのだ、その後の煩悶とした刹那の様子は筆舌に尽くし難い。

 寮に戻ってからも散々に悩み倒して、気付いた時には誘蛾灯に惹かれるかのようにフラフラと足がこの場所へ向かっていた。ただ目的は刹那自身にも分からず、結局はこうして最後の一歩を踏み出せずにいる。


「む? そういえば洸様は?」


 いつもならば何らかのリアクションがあるのに、今日はまだ何も無い。たとえ誰かと会話中でもコチラに連絡を寄越すくらいなら造作も無いはずなのだが、はて、急な仕事でも入ったのだろうか。落胆とも安堵ともつかない微妙な心境で、刹那は後ろを振り返る。

 そこには幾人もの人が行き交う、長く大きな橋が存在している。

 湖に浮かぶ小島の敷地を丸々使っている図書館島へは、この橋を渡らなければ入れない。刹那にとっては特に問題の無い距離ではあるが、頭を悩ませながら時間を掛けて渡って来たこの橋を何もせずに引き返すのは、中々に辛いものがありそうだった。


「それで? 刹那はなんの用で来たのかな?」

「ひぁっ!?」


 唐突に背後から掛けられた言葉に、刹那は飛び上らんばかりに驚いた。思わず体を震わせると共に、サイドテールに結った髪も大きく揺れる。バクバクと心臓が騒ぎ出し、何が起こったのだと急いで思考を巡らせる。

 だがクスクスと響く笑い声に気付くと、彼女は恨めしげな表情で後ろを向いた。


「ごめんごめん、そこまで驚くとは思わなかったんだよ」


 まるで悪気の無さそうな顔で謝る洸が、すぐ傍に立っていた。この距離まで気付かせなかった相手が凄いのか、ただ自分が不注意だっただけなのか。どちらにしろ、何を言っても意味は無いだろうと、刹那は己を諌めるだけに留めた。


「いえ、コチラも不注意でしたから」

「ありがと。それでどうしたの? ここまで来るなんて珍しいじゃない」

「それは…………」


 言葉に詰まる。自分でも分からぬ内に来てしまったのだから、答えなど分かるはずもない。とはいえ何も話さないというのも変に思われるかもしれないしと、必死に思索を巡らせる。また表面上では、首を傾げて疑問符を浮かべる洸を見上げて、間を持たすように曖昧な笑みを浮かべる。それで何が通じたのかなんて知らないが、相手も同じく微笑する事で返してくれた。


「えっと、その。偶にはココに足を運ぶのもいいかと思いまして」


 悩んだ末に口から出たのは、そんな玉虫色の内容だった。

 それでも洸は納得してくれたようで、笑顔で頷いてくれている。


「丁度ネギ君がみんなに案内を受けてるトコだしね。後を追いながら私が説明してあげるよ」

「あ、はい。よろしくお願いします」

「おっけー。それじゃあちょっとついて来て」


 そう言って踵を返した洸の後を追って、刹那も歩き出す。

 木製の大きな扉を潜ると、洸は本棚が並ぶ図書スペースへは向かわずに、多目的で使用される会議室などが存在する区画へと移動し始めた。時折擦れ違う人々は誰もが洸と知り合いのようで、親しげに挨拶を交わしていく。中には後ろに居る刹那に興味を示す者もおり、そういった人達から掛けられる言葉には彼女が遠慮がちに返事をする。

 やがて周囲に自分達以外誰も居なくなると、洸は近場にある扉の一つを開いた。彼女に促される形で先に入室した刹那の視界に入ったのは、ただ机と椅子が並べられ壁にホワイトボードが掛かっただけの普通の会議室だ。なんの目的があって此処を選んだのかと洸に尋ねようとした刹那は、振り向いた瞬間、腕を強く引っ張られた。


「わっ!?」


 誰が、とか。なんの為に、とか。そんな事を考えるよりも先に、刹那は顔に当たる柔らかな感触に思考を停止させた。温かなソレと、背に回された二本の腕。碌に頭は回らないが、不思議とされている事は理解出来る。


(だ、抱き締め――――ッ!?)


 瞬時に頬が沸騰しそうなほど熱を帯び、体が緊張から硬直する。放さないとばかりに強く力を込められた洸の腕が、余計にその状態を加速させる。結局、洸の胸に顔を埋めさせられたまま、刹那はギュッと目を瞑る事しか出来なかった。

 だが、それも僅かな時間の事だ。五秒も経つ頃には、洸は自分から離れていった。


「ぁ」


 思わず声を漏らしそうになり、刹那は恥ずかしさから俯いてしまう。


「ごめんごめん。驚かそうと思ったんだけど、少しやり過ぎちゃったかな?」

「い、いえ。私が未熟なだけですから」

「とりあえず、木乃香達に追い付いたよ」


 洸の言葉を聞いた刹那は、驚いたように顔を上げる。

 そこで初めて、刹那は此処が先程までとは違う場所だと気が付いた。周りには幾百という本棚が緩やかな弧を描いて並んでおり、先刻の会議室とは似ても似つかない。そういえば魔力の動きを感じたようなと、今更ながらに気付く自らの未熟さに刹那は恥じ入った。混乱していたとはいえ、あまりにも情けない。同時に、鮮やかな手際でそれを行ったと思われる洸に感服する。


「転移魔法…………ですか。お見事です」

「私の得意分野だもの。このくらいは造作無いよ」


 少し離れた場所に立つ洸は得意気な表情を浮かべて、右手の人差し指で刹那の背後にある本棚を指していた。それに従う形で体を傾けて、本棚の向こう側を覗き込むと、やや離れた場所に複数の人影が見て取れる。計六人となるその人物達の顔は、どれも見慣れたものばかりだった。勿論、洸の言った通り護衛対象である木乃香も含まれている。


「お嬢様…………」


 見て取った感じでは部屋全体が大きな円形となっているらしく、その中央に位置する場所に彼女らは陣取っていた。広い部屋の中心部には丸型の深い穴が開いており、更にその真ん中に円形の足場が存在している。周囲とは計六本の通路で繋がれているそこは何故か芝生が敷き詰められていて、一本の巨木が植えられていた。

 木乃香達は六つあるベンチの一つを三人が使い、残る三人が適当に立つという形をとって雑談に耽っているようである。手に握られているジュースは、おそらく傍にある自動販売機で買ったものだろう。

 そんな状況の中で、楽しげな表情で話に興じている木乃香を見て、刹那は胸を撫で下ろした。木乃香に限って有り得ないとは思うのだが、一人だけ友達の輪から外れていやしないかと、いつも確認してしまう。今日も大丈夫だと、一抹の寂しさと共に刹那は頷いた。


「どうかな、刹那。感想は?」

「そうですね、アチラとコチラを繋ぐ通路に手摺りが無いのはどうかと。落ちたらキケ――――ん?」


 反射的に返事をした刹那は、頭上から響いてきた含み笑いに疑問符を浮かべた。


「図書館よりもまず木乃香、と。過保護だね、刹那は」

「うっ」


 サッと刹那の頬に朱が差した。自覚が無い訳ではないが、改めて他人に言われてみると、なんとも気恥かしい気持ちになる。洸が生温かい視線を送ってるから、尚の事そう感じてしまう。

 せめて赤くなった顔は見られまいと、刹那は一層身を乗り出して木乃香達の様子を観察する事にした。そんな行動すらも楽しいと言わんばかりに悪戯っぽく目を細めた洸は、刹那に体重を預けるようにして、同じく木乃香達の様子を覗き始めた。


「木乃香にばっかり構われたら、お姉さんは寂しいんだけど――――――ねぇ?」

(う、うぁ…………)


 耳元で囁くように話す洸の声に、刹那は背筋を震わせる。よく通る洸の声が、脳を揺り動かすように響いて思考力を奪っていく。甘い匂いが鼻を擽っていき、服越しには洸の体温が伝わってきて、このままでは理性が溶かされてしまいそうだった。

 そんな、先程とはまた別の理由で熱を帯びた頬を、刹那は懸命に首を振って冷まそうとする。


「? 刹那?」

「いえ! なんでもありませんから!!」


 訝しむ洸に対し、慌てて否定の言葉を口にした。咄嗟の事で叫ぶようになってしまったが、それでも木乃香達には届かないよう配慮出来たのは、この二年間で染み付いた護衛としての性かもしれない。


「本当に大丈夫ですから、お気になさらず」


 念を押せば、なんとか洸も納得してくれたようでそれ以上尋ねてくる事は無かった。ただ、コチラを気遣ってくれたのか、くっついていた彼女の体が静かに離れていく。その事を少し寂しく思い、次の瞬間には何を考えているのかと刹那は己を叱咤した。


「っと、木乃香達が移動するみたいだね」


 洸の言葉に、刹那は逸れていた意識を木乃香達に向け直す。

 ワイワイと賑やかしく雑談をしながら通路を歩いている彼女らは、どうやらコチラに向かって来ているらしい。洸に指示を仰ごうと後ろを振り向いたら、彼女は既に避難を開始していたようで、ゆっくりと遠ざかる背中が目に入った。


「……………………」


 行動の素早さに感心するべきか、自分を放置した事を責めるべきか。少し悩んだ刹那だったが、コチラを振り返り、悪戯が見つかった子供みたいな表情で手招きをする洸を見ていたら、別に良いかという気持ちになった。

 苦笑を浮かべて、木乃香達が来る前にと刹那も歩き出す。


(まぁ、その。優秀な部下ですしね)


 上司の茶目っ気くらいは見逃してやるべきだろう。

 そんな事を考えながら、刹那は洸の所まで歩いていった。












 ――――後書き――――――――


 以上、第五話でした。お読み頂きありがとうございます。

 今回の刹那の登場で一応はオリキャラ周りの恋愛要員は出揃いました。今後はエヴァ・夕映・刹那の三人で回していく予定です。まぁ微妙に恋愛キャラになるかもしれない子があと三人ほど居るのですが、一応は現在の予定という事で。

 あと、ようやく期末テストイベントが見えてきました。八話から突入なので、あと三話ですね。序盤の山場なので頑張りたいです。とは言っても、地底図書室とかメルキセデクの書とかはやらないのですが。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第六話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/02/15 21:10


 今日の予定が決まったのは、三日前の木曜日にネギが話を持ち掛けてきたからだ。日曜日なら空いている、と。それが本当に暇が出来たからか、はたまた他にやりたい事があっても、コチラの約束を優先して消化しようという気遣いによるものなのかは分からなかったけれど、夕映は主役であるのどか以上に張り切って準備を進めてきた。

 それらがどれほどの効果を齎してくれたのか、神ならぬ身では拙い想像に任せる事しか出来ないのだが、少しでもプラスに働いてくれているのならば夕映としては満足だ。きっと、ハルナだって同じように思っているだろう。


(――――頑張りましょう、のどか)


 休憩所に植えられた木に背中を預けながら、夕映は先程からネギと談笑しているのどかへ視線を向けた。

 数日前に三人で相談して決めた、のどかのイメージチェンジ。とは言っても髪型を少し変えただけなのだが、それだけでものどかは随分と可愛くなったと思う。元から素材は良いのだ。引っ込み思案な性格と長過ぎる前髪が災いして目立っていなかったが、ちゃんと顔を見せて笑っていれば、それだけでも異性を惹きつけられるほどの器量好しである。

 事実としてネギもしっかり褒めてくれたのだし、この選択は間違っていなかったのだろう。

 のどかは、近頃よく笑うようになった。別に以前が笑わなかったという訳ではないのだが、その頻度と質が少し変わってきていると、夕映は思っている。話題に関しても同様で、ネギ先生が嬉しそうだったとか、元気が無さそうだったとか、悩みがありそうだったとか。近頃は口を開けば出てくるのはネギの事ばかりである。

 僅か一週間でコレなら、この先はどうなっていくのやら、と少し呆れたほどだ。ハルナにその事を話せば一年前の夕映にソックリだと言われたのだが、端から見れば自分もアレほどだったのかと、思わず頭を悩ませてしまったというのは余談だろうか。


(まぁ……たしかに私も酷かったような気はしますがね)


 手に持ったパックジュースのストローに口をつけながら、夕映は自らの想い人の事を考えた。

 初めて出会ったのは麻帆良学園に入学した日、まだ図書館探検部に所属していなかった頃の事だ。噂に名高い図書館島がどのような場所なのかと、式が終わったその足で向かったのだ。流石に利用者は少なかったのだが、それでも本棚の多さに圧倒されて、入口に立ったまま呆けていた夕映に声を掛けたのが洸だった。

 柔和な笑みを浮かべて、こんにちは、とあの澄んだ声で洸が話し掛けてきた時の事は、不思議と記憶に残っている。まだまだ無関係な他人でしかなかった頃なのに、何故か頭から離れなかった。或いはその時から、この想いは始まっていたのかもしれない。


(実際、不思議と縁があったようですしね)


 そして洸は、地上部分だけではあるが、今日の夕映達のように図書館島の案内を申し出てくれたのだ。諸事情があり、実は少しばかり鬱陶しく感じてもいたのだが、意地を張っても仕方無いかと、素直に厚意に甘えさせて貰った。とはいえ、その日はそれだけだ。彼女に礼を言って別れた後は、もう会う事も無いだろうと思っていた。


 次に出会ったのは――――――、


「しっかし、夕映はさぁ」


 隣から聞こえてきたハルナの声に、夕映は思考を中断させられた。思わず睨み付けるようにしてハルナを見てしまうが、キツイ視線を向けられた本人は訳が分からないと首を捻るだけだ。当然である。

 仕方無いとばかりに、夕映は溜め息を吐く。それから、実に面倒そうに口を開いた。


「どうしたですか、ハルナ?」

「なーんかゾンザイな扱いだね。ま、いいけどさ」


 肩を竦めたハルナは、ベンチに座って話しているネギ達の方を目線で指す。


「最近はのどかを応援してばっかだけどさ、夕映の方はどうなのかと思ってね。あんまり会えてないでしょ?」

「…………一昨日に会いました」

「どうせ少ししか話せなかったんでしょ。帰ってきた時の顔見ればわかるって」


 しょうがないなとでも言う風に頭を振るハルナに対し、夕映は何も言葉を返せなかった。この一週間は寧ろネギの方を追い掛けていたので、洸と会った回数は僅か二回だけ。月曜日にあったのどか転落事故の時と、金曜日に今日の事を相談しにいった時である。

 週に二回も会っていれば十分な気もするのだが、以前は平均で週四回だ。碌に話せなかった事も併せて考えると、夕映にとって少なからず不満があるのは事実だった。けれど、そんな事を言ってられないのが今の状況なのだ。のどかにとっては分が悪過ぎるような現状だが、望みが無い訳ではない。そう思いたい。だからこそ、手を抜くなんて選択肢を、夕映は選べない。


「のどかにとって大事なのは今の時期です。ココで良い印象を持って貰えれば、それだけで大きなアドバンテージになるです。先生と仲が良いのは私達だけではありませんし、気を抜く事は出来ません」

「そーだけどさー、夕映が自分の事を疎かにしたらのどかも辛いっしょ」

「それは……そうですが」


 眉根を寄せた夕映は、再びのどか達の方へと視線を向ける。

 頬を染めて、既に二本目となっているジュースに頻繁に口をつけているのどかの姿を見て、夕映は苦笑を浮かべた。実に分かり易い。何度もネギへ視線を送っているのに、目が合うと途端に逸らしたりと、その様子は非常に微笑ましかった。

 応援したい、と思う。この一年間応援してきてくれた親友を、今度は自分が手伝ってあげたい。それは、夕映が心の底から願っている事だ。だが、ハルナの言う事にも同意出来る。折角協力して貰っているのだから、自分の事を疎かにするのも気が引ける。


(なにより、私が我慢出来ないでしょうからね)


 結局はハルナの言うように、のどかを応援しつつ自分も頑張らないといけない訳だ。明日菜という先例があるとはいえ、より直接的な協力が増える分、コチラの方が大変である。


「…………忙しくなりそうですね」

「ま、器用にやんなよ。なんなら二人ともこのパル様に任せてくれてもいいしね」

「それだけはありえませんね」


 空になったパックをゴミ箱に捨てながら、夕映はこれからの苦労を思って苦笑した。












 ――――第六話――――――――












 ネギが生徒達に連れられて図書館島にやって来てから、もうすぐ四時間が経過しようとしている。途中に休憩や昼食を挿み、地上階の全てと地下二階までを案内されたネギが図書館島に対して抱いた感想は、とにかく凄い場所だという事だった。

 まず、なんと言っても広い。一つの階だけを取ってみても本棚の数は四桁で収まらず、ともすれば六桁にすら届くのではないかという気すらしてくるほどだ。小島の敷地を丸々使っているというのは伊達ではないと、ネギは入ってから十分と経たずに実感している。

 また、この図書館島は非常に変わった構造をしているという事も、ネギは理解させられた。地上階に関しては、桁外れに広いという点を除けば普通の図書館とそれほど違いは無い。休憩室のように一部は珍しいデザインとなっているが、気にするほどでもないだろう。

 問題は地下に存在する階だ。何故か湖の水を利用しているという巨大な滝があったり、その滝は本棚を崖に見立てて作られたものだったり、オマケに滝を見る為の展望台まで存在していた。しかも装甲防火扉が付いているという妙に近代的な通路まであったりで、此処は本当に図書館なのかと頭を抱えたほどだ。

 しかし昼食中にのどかを始めとした図書館探検部のメンバーから聞いた話によれば、これから行く場所はそれ以上に変わっているらしい。詳しい事は教えてくれなかったのだが、そこを知らなければ真に図書館島を訪れたとは言えないほどの所だとか。しかも必要な装備という事で探検部員の四人はバックパックとヘッドライトを用意していて、なんとも本格的である。

 だからネギは、今、前を歩くのどかの背中を追いながらウキウキとした気分でその場所へと案内されていた。


「えっと、ココがそうです」

「うわぁ――――」


 感嘆の息を漏らして、ネギは呆けたような表情で立ち尽くした。

 のどかが立ち止まったのは、高さにして四メートル、幅にして二メートルはあるだろう扉の前だった。彼女の向こうでは如何にも堅牢そうな鉄の扉が、煉瓦造りの壁に埋まるようにして静かに佇んでいる。

 図書館島の裏手から出て、更に外周の浅瀬を移動する事でようやく辿り着いたこの場所で、時の流れから置き去りにされたかのようにヒッソリと存在しているその扉は、けれど訪れる者を拒まんとばかりに厳然とした様子で立ち塞がっている。


「ウチここ好きなんよー。なんかワクワクしてきーひん?」

「あ、わかるかも。いかにもって感じのトコよねー」

「どうよ? 我が図書館探検部のみに伝わる秘密の入口は」

「まぁ学園側には知られてますが、そこはご愛嬌という事で」


 後ろから聞こえてきた声で、ネギは我に返った。

 振り向けば少し遅れていた明日菜達が到着したらしく、賑やかしくこの場について語り合っている。


「それでは開けますね-」

「のどか、手伝うですよ」


 全員が集まったのを確認したのどかが扉へと近付いていき、それを見た夕映も彼女の後に続いた。

 大きい上に鉄製の扉なので、おそらく一人では開けられないのだろう。ただ、此処で黙っていられないのがネギだ。二人で開ける事の意味を悟った訳ではないが、何をするのかは理解出来た彼は、自然と声を上げていた。


「あ、いいですよ! 僕が開けますから!!」


 生徒に、それも女の子にそんな事はさせられないと、ネギは慌てて扉へと駆け寄っていく。そうして二人よりも先に、他の所よりも少しだけ綺麗になっている扉の取っ手へと手を掛けた。

 冷たく硬い、ザラついた鉄の感触が手の平に返ってくるのを感じながら、ネギは力を籠める。


「お~、男の子だねぇ。でもソレ重いから大変だ――――――って、おぉ!?」


 ハルナが言い終わるのを待つまでもなく、ネギは容易く扉を開けていた。

 ギィと、それが唯一出来る抵抗とでもいった様子で、悲鳴のように甲高い音を立てながら、巨大な鉄扉はゆっくりと己が内を晒されていく。その奥から顔を覗かせたのは、昼間でも先を見通す事が出来ないほどに暗い、煉瓦造りの階段だった。しかしネギは、その深淵に続いているようにも見える地下への階段に怯えるよりも先に、後ろから聞こえてきたハルナの言葉に息を呑んだ。


「うはー。高等部の男子でもキツそうなのに…………ネギ君スゲー」


 彼が振り返ると、まず傍に居たのどかと夕映が目に入った。次いで、少し離れた所に立っている明日菜に木乃香、そしてハルナの三人を見付ける。ポカンと口を開けたままの者、目を丸くしている者、各々反応は別だが、驚きを表現しているという点では変わらない。ただ、唯一明日菜だけは呆れたように顔を手で覆っていた。


(あう……)


 しまったと、ネギは素直にそう思った。

 魔法使いの身体能力は、一般人に比べて高い。より正確に言うならば、普段から余剰魔力を身に纏っている魔法使いは、簡易的な身体強化魔法が掛かっているのと似たような状態であり、通常時であっても年齢以上の行動が容易く出来るのだ。だから、この程度の扉を開けるのはネギにとっては普通の事で、彼の故郷であれば幼馴染の女の子でも余裕でこなせるレベルである。

 ただ、どうやら此処では普通という訳ではないらしい。集まる視線と背中に流れる冷や汗を感じながら、ネギはまた一つ賢くなった。もっとも、まるで喜べる状況ではないのだが。


「――――そういやネギの故郷ってスゴイ田舎だったわよね!」


 微妙に固まった空気を崩したのは、明日菜の大声だった。唐突に耳が痛くなるほどの声を上げて、その場の注目を一手に引き受けた彼女は、視線だけで必死にネギへと合図を送ってきている。数秒、明日菜の意思に気付くのに時間を掛けたネギであったが、それでも自分が何をすべきかは理解出来た。

 小さく頷いた彼は、すぐさま明日菜と同じように大きな声で、彼女の言葉に応じた。


「そうなんですよ! 周りに山や原っぱしかない所なんです! だから体力には自信あるんですよ!!」

「……はー、そーなんかぁ。そういえばネギ君、登校する時はウチらについてこれとるもんな」

「アスナの走りについていけてんのっ!? うひゃー、そりゃスゴイわ」

「ちょっとハルナ、それって私が体力バカだって風に聞こえるんだけど」

「事実じゃん?」


 うがー、と唸る明日菜に、挑発的な笑みを浮かべるハルナ。彼女らの遣り取りには置いてけぼりだが、どうにか話を逸らせた事にネギは安堵した。なんとか助かったと胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐き出していく。

 そこに、夕映から声が掛けられる。


「――――まぁ、こんな所で油を売ってる場合でもないですし、先に進みましょう」

「油を売る……ですか?」

「無駄話をして時間を浪費する、という事です」

「あ、そういう意味ですか。たしかに移動しながら話せばいいですしね。みなさーん、早く降りましょうよ!」


 ネギの言葉に、各々元気の良い返事をしてくれる。そうして途端に騒ぐのを止めて近寄ってくる三人に、ネギは思わず苦笑した。

 授業を受け持っている生徒達の性格は――――目立った人物に限られるが――――この一週間でおおよそ把握出来ている。どのクラスに行ってもみんな明るく歓迎してくれて、授業もよく聞いてくれている。ただA組の生徒達は取分け元気で、注意が他の事に移り易い。興味を惹く何かがあればすぐに誰かの注意が逸れて、しかも他の生徒達までそれに乗ってしまうのだ。そのため話題の移り変わりも激しく、ネギは度々置いてけぼりを食らってしまう。それこそ、自分の話題でさえ理解出来なくなる事があるほどだ。

 けれど、ネギはそんな生徒達が嫌いではなかった。授業中に騒ぐのだけは勘弁してほしいが、いつも自分を巻き込んで賑やかしくしてくれる事は、とても嬉しく感じている。歓迎会を開いてくれた時も、驚きと共に大きな喜びがあった。

 確かに教師と生徒という関係を考えれば、少し仲が良過ぎるのかもしれない。それでも勉強漬けだった魔法学校時代と比べて、幼馴染みくらいしか仲の良い友達が居なかった頃に比べて、今の生活はとても楽しく、自分から距離を置く事なんて出来そうもなかった。

 これは、子供の我侭なのだろうか。今度タカミチに相談してみようと、そう決めて、今はただ楽しもうとネギは思った。


「ではー。図書館島地下三階へご案内しますー」

「はい、よろしくお願いしますね!」


 歩き始めたのどかの後を追って、ネギも暗闇の中へ身を進めていく。

 日本に来てから、今日で一週間になる。

 そろそろ従姉弟のネカネに手紙を書こうと思うのだが、はたして何枚で収まるだろうかと考えて、ネギは嬉しそうに微笑んだ。




 □




「――――――図書館島がこれほど多くの蔵書数を誇るようになったのは、二度の大戦中、戦火を避けるべく世界各地から貴重書を掻き集めようとした事に端を発します」

「その時に貴重書だけじゃなくて、本と名のつく物はなんでも集めようとしたらしいんだよねー。とにかく学園のコネを全部使ってさ」

「せやからドンドン本が増えてって、入りきらんくなったんは地下に用意した本棚にしまうようにしたんよ」

「それでもスペースが足りなくなったので、少しずつ地下を増築しましてー」

「結果、無計画に、しかも際限無く増えていった地下空間の全貌は、誰にも把握出来なくなってしまったのです。一説によれば元から地下には巨大な空洞があり、それを利用する事が出来た為に歯止めが利かなくなったのでは、と言われています」


 暗闇に支配された階段を、探検部の四人が用意したヘッドライトで照らしながら、ネギ達一行は慎重に降りていく。誰かが一段降りる度に足音が壁に反響し、ライトの明かりが心許無く揺れる。慣れている探検部員は平気な様子だが、そうでないネギと明日菜は恐る恐るといった感じで足を進めていた。

 最初の頃に比べれば慣れてきたようだが、それでも一歩々々確かめるように階段を降りていくネギ達の様子を見守りながら、夕映達探検部員は二人の気を紛らわせるように話を続けていく。


「そこで、調査をする為に麻帆良大学が提唱し、発足したのが――――――」

「私達が入ってる図書館探検部なんです」

「中・高・大合同サークルなんよ」

「で、図書館探検部員だけが入る事を許可されてる場所が、今向かってる地下三階から下のトコなんだよね」


 巨大な鉄扉を潜ってから、もうすぐ五分が経とうとしている。その間ずっとライトだけを頼りに、代り映えの無い幅二メートルほどの階段を降り続けていたからか、少しネギ達の足取りが重くなっているように夕映は感じた。先頭を夕映とのどかが、最後尾をハルナと木乃香が担当する形でネギと明日菜を挟んでいる為それほど目立ってはいないが、確実に二人の歩みは遅くなっている。

 隣を見たらのどかも気付いていたようで、顔を見合わせれば、お互いに何も言わず小さく頷いた。それから、二人は黙ったまま歩く速度を僅かに落とす。勿論、ネギ達には勘付かれない程度にだ。


「私達はまだ中学生なのでー、三階までしか入れないんです」

「とはいえ十分に楽しめるですよ。もうすぐ到着しますので、どんな場所なのかは実際に見てもらった方が早いかもしれませんね」

「あ、そうなんですか。楽しみですね、アスナさん!」

「そうねー。さっき行ったトコも凄かったけど、それ以上なんでしょ?」


 俄かに活気付いた二人の様子に安堵しつつ、夕映は密かに明日菜を睨みつけた。午前中に案内していた時から思っていたのだが、どうにもネギの意識は明日菜に向かい易いようで、事ある毎に話題を振っている。

 確かに一緒に暮らしているのだから仕様が無いのかもしれない。故郷に居るお姉さんと明日菜が似ている事も聞いている。それでも、どうにかならないのかと、ついつい夕映は考えてしまうのだ。

 当人である明日菜は夕映の視線に気付くと、居心地悪そうに片手を上げて謝罪の意を示すものだから、結局は怒るに怒れず、彼女は疲れたように溜め息を吐く事しか出来ない。隣を歩く親友にも少しくらいは危機感を持ってほしいのだが、現状でも頑張り過ぎなほどに頑張っているのは理解しているので、そんな事を言える訳が無かった。


「あ、ゆえー」

「えぇ、着きましたね」


 そうこうしている内に長かった階段とは別れを告げ、五メートルほどの短い通路と、その先にある木製の扉が新たに一行を出迎えてくれた。目的地へのご到着だ。普段の倍とは言わないが、考えていたよりも時間が掛かった道程の事を思い返しながら、夕映は後ろを振り向いた。そこには安堵の表情を浮かべるネギと明日菜が居て、自然と頬が緩んでしまう。

 さぁ本日のメインイベントだと、夕映は隣に居るのどかと視線を交わし、手筈通りに、と声に出さず意思の疎通を行う。


「お待たせしました。この先が我々図書館探検部の活動場所となる――――――」

「図書館島地下三階ですー」


 扉の両端に立った夕映とのどかは、取っ手を握り、ネギ達を招き入れるようにゆっくりと開いていった。




 □




「うわっ、スゴ……」

「わぁ! 見てるだけでもワクワクしてきますね!!」


 扉を潜ったネギと明日菜を待ち受けていたのは、『本の迷宮』とでも称するのが相応しいような空間だった。

 地下という事もあって非常に暗く、要所に設置されている照明ではとても全てを見渡せそうにないが、それでも闇に浮かび上がる灯りを見れば恐ろしく広い空間という事だけは分かる。そして、きっと途方も無い数の本棚が、この空間に存在しているのだろう。

 ネギ達が居るのはそれなりに高さのある階層のようで、手摺りの向こうでは照明で照らしてもボンヤリと床が見えるかどうかといった深さまで本棚が存在しているようだった。そこに降りていくまでの順路も一見した程度ではよく理解出来ず、右に左に奥へ手前へと点在する階段を駆使すれば何時かは最下層まで辿り着けるのでは、くらいの事しか言えない。明らかに上から下まで続けて移動出来るような構造ではなかった。

 また局所的に見れば綺麗に並んでいる本棚ではあるのだが、道中に説明されたような理由からか、完成されたパズルを無理矢理に組み合わせたような違和感を醸し出している。その上、照明と同じくらいの頻度で小さな木が植えられていたり、地下一階で見たものに比べれば可愛らしいが、何故あるのか疑問に思わずにはいられない小型の滝があったりと、実に混沌とした様相を呈していた。

 全体の印象としては、整然と区画整理されていた上の階と比べて雑な感が否めず、結果として複雑怪奇な構造になっているように感じられた。しかし、それがまたこの場所の神秘性を高めているのだろうとも、ネギは思った。


「ここから見える場所全てが地下三階です」

「この階なら私達も殆ど把握しているのでー、案内は任せてください」


 呆然と室内の様子に圧倒されていたネギと明日菜の後ろから、探検部の四人が扉を潜って入ってくる。全員が悪戯の成功した子供みたいな表情をしていて、それだけこの場所に自信があるのだろうという事が窺えた。

 それも当然だろうと、ネギは思う。確かに地下の一、二階も凄かったが、アチラはどこか見世物的というか、アトラクションのような所があるのだ。それと比べたら、やはりこの場所は違う。照明が少ないという理由もあるのだろうが、雑多な印象を受ける本棚の配置や階層構造が隠れ家的な雰囲気を演出していて、実に心を擽られる。


「普段は部外者の立ち入り禁止なんだけどね」

「今日は許可して貰っとるから大丈夫なんよ」

「そうなんですかー。わざわざありがとうございます」


 感謝の言葉を口にしつつもネギの視線はアチコチに彷徨っていて、その足はすぐにでも動き出したいと言うかのようにコツコツと床を叩いている。隣の明日菜が未だ呆気に取られているのとは対照的なその様子に、探検部の四人は自然と頬を緩ませていた。


「喜んで貰えたようでよかったです。ただ、そのー。ここから先は少し危ないので――――」

「のどかにシッカリとついていってください、ネギ先生。アスナさんは私が補助しましょう」


 そう言って夕映は明日菜の、のどかはネギの隣へと並ぶ。

 同時に、ネギが不思議そうに首を傾げた。


「危ない…………ですか?」

「ところでネギ先生」

「あ、はい。なんでしょう?」

「アチラの本棚にある――――――あの本が何かわかりますか?」


 夕映が指差した方向を追ってネギは右手へと視線を動かすが、当然というか、目に映るのは木製の大きな本棚と、そこに収められた本だけだ。おそらくはその内の一つを指していると思われるのだが、どうにも夕映の意図が掴めない。尋ね返そうかとも考えたけれど、生徒の言う事だからと、ネギは真剣な表情で本棚と睨めっこを始めた。

 そうやって眼鏡の奥の目を細めて暫く悩んでいたネギは、


「あっ!」


 唐突に目を見開いて声を上げた。


「うわぁ~、アレって凄く珍しい本じゃないですか。さすがですね~」


 確認するように夕映に尋ねつつも、ネギの足は既に本棚へと向かっている。

 軽い足取りをして、浮かれた表情で本の背表紙を見詰めていたネギは、何一つとして気付けなかった。薄く笑みを浮かべている夕映にも、その彼女を驚いたように見ているのどかにも、興味深そうな表情をしたハルナにも、何か言いたそうな木乃香にも、だ。

 軽い足取りのまま進んでいくネギは、カチリと、足元のタイルが音を立てて沈んだ事にも気付けない。


「――――へ?」


 気の入らない、間の抜けた声。

 小さく、掠れたような風切り音と共に、ネギは額に強い衝撃を受けて倒れた。




 □




「非殺傷……ですか?」

「そ。図書館探検部が把握している範囲に限られるけどね」


 図書館島地下三階。その一角で本棚に背を預けながら、刹那と洸は話をしている。

 彼女らは互いの顔を見ておらず、双方とも視線は一点に集中させていた。幾つもの本棚の隙間を抜けた先にあるその場所には、ネギ達が集まっている。そこでは額を赤く腫らしたネギが目尻に涙を浮かべており、傍ではのどかが、水に濡らしたハンカチで必死に冷やそうと頑張っていた。それらの原因を作った夕映はといえば、これがまた素直に頭を下げて謝っているようで、逆にネギが居心地悪そうに構わないと手を振っている。


「ココでの怪我の原因は学園側が意図的に仕掛けていたトラップだもの。万が一大怪我でもされた敵わないってわけ。新しいエリアでの探索が認められてるのも、一部の教授と熟練した大学部メンバーだけだしね。その探索チームでトラップを解除して、他の部員が新しく設置し直すのがウチのルールなのよ」


 そう言って洸が指差したのは、ネギの近くに落ちている矢だった。

 矢とは言っても、先端に付いている鏃は鋭利に光を反射する金属製ではなく、鈍い鼠色をした、丸みを持ったゴム製である。ネギの額を見事に赤く腫れ上がらせたソレは本の隙間に仕掛けられていたもので、探検部員なら誰でも知っている洗礼用トラップだ。


「はぁ――――しかし、元々は盗掘者対策として設置されていた物なのでは?」

「ココまで侵入出来る相手に半端な罠なんて意味無いでしょ。ちょっと注意を惹ければ、それで十分なの。学園側の人間でもココを把握出来ているのは少数だしね。そういう意味でも本格的な物は仕掛けられないのよ」


 肩を竦める洸に、なるほど、と刹那は頷いてみせる。

 一般的な警察機関だけでなく、多くの魔法使いまでもが目を見張らせているこの学園には、正規ルート以外で入るのは困難を極める。それを抜けてこの場所まで辿り着けるとすれば、洸の言うように相当な手練に違いない。そんな相手に一般人を含める探検部員でも解除出来るような罠が効果的かと言えば、やはり否だろう。

 刹那ならば、罠の起動後からでも大抵は無効化出来る。それ以上と予想される侵入者であれば、何をいわんやだ。


「一応は念を入れて魔法処理もしてあるよ。まぁ、それは図書館島全体に言える事だけどね」

「なるほど――――――って、洸様!?」


 洸は近くの本棚から適当に本を一冊抜き出すと、おもむろに流れ落ちる滝の中へと突っ込んだ。突然の蛮行に驚きの声を上げる刹那の様子も知らぬというように余裕の表情を浮かべた洸は、五秒ほど激しい水の流れに晒した後で、のんびりと本を抜き出した。

 ほら、と差し出された水滴塗れの本を、刹那は反射的に受け取ってしまう。


「あの、洸さ――――あっ」


 困ったように洸を見上げた刹那は、そこで気付いた。水浸しのようにも見えた本だったが、実際には濡れている訳ではなく、水は全て表面で弾かれている。一振りしてやれば、それだけで殆ど元通りの状態に戻った。あとは適当な布で拭けば問題無いだろう。

 魔法、という単語が刹那の頭をよぎる。自らは剣士であり、それほど魔法に精通している訳でもないので意識していなかったのだが、改めてこの学園が魔法使いによって管理されているのだと、彼女は思い知らされた。


「図書館探検部の中では、特殊な防水処理がなされているのでは、という風に考えられてるよ。納得出来ない人もいるけど、正解がわかるようなものでもないしね。大学部にも幾つかサンプルとして送られてるけど、ソッチはソッチで”コチラ”側の人のトコだし」


 刹那から返して貰った本の水滴をハンカチで拭い、元の場所に戻しながら、洸は説明を続けていく。


「学園側としてはこんな部活は無い方がイイんだけどね。本を管理する分には助かってるけど、やっぱり怪我の恐れはゼロじゃないし、本当に危険な所に入らないよう監視しなくちゃいけないもの。もしかしたら魔法に気付く人が出てくるかもしれないしね」

「……その、お嬢様が入られている部活にこのような事は言いたくないのですが、取り潰しというのは?」


 本当に言い辛そうに発言しながら、刹那は遠く離れた場所で談笑している木乃香へと視線を固定する。楽しそうな表情を浮かべているその姿を見て、刹那は即座に今の発言を後悔した。

 そんな刹那の様子を眺めながら洸が浮かべたのは、困ったような苦笑である。


「あるよ、そういう話はね。最近はそういった選択肢も考えられてる。まぁ、当初の見積もりが甘過ぎたとしか言えないような状況ではあるけど、それ以上抑えつけていたら暴発しかねないという理由もあったみたいだし、難しい所だよね」


 話しつつ、洸がソッと刹那の肩に手を置く。その意味に気付いた刹那は、無言で頷いた。

 ネギが回復したのか、二手に分かれて行動を開始した彼らの内、木乃香が居るグループを追い掛けようと、二人は足を動かし始める。距離を置き、相手が振り向いても死角に入る場所を移動しながら、洸は話を続けた。


「今でもサークル内で噂されているように、当時の学園側が示した強硬な拒否の姿勢が図書館島に眠る”秘密”の存在に真実味を与えてしまってる。だから強行すれば暴走する人が出るかもしれないし、大学部主導の調査という面もあるしね。結局は、私のように内部から現状維持の為に頑張るしかないってわけ」


 難儀な話だと、そう思って聞いていた刹那は、ふと洸の顔を見上げて首を傾げる。

 肩を竦める洸の黒い瞳には、話している内容とは対照的に優しい色が浮かんでいたのだ。


「まぁ、でもね――――――」




 □




「私達は図書館探検部が大好きですからね。細かい規則も多いですが、全ては探検部を守るためですから」


 そう話す夕映は、隣を歩く明日菜に誇らしげな笑みを見せた。更にその隣に居る木乃香も頷いて同意を示し、次いで少しだけ眉を逆立てて、怒った風な表情を作ってみせる。続けて上げた声も、彼女にしては珍しい、些か荒げたものだった。


「せやから、アスナもあんま勝手に動かんよーに!」

「怪我の心配はしていませんが、迷子になられると少々厄介です。ホント、ウチの不祥事には煩いんですよね」


 両サイドからの言葉に、明日菜は参ったとばかりに両手を上げた。この場所に不慣れなのは理解しているが、なんだか自分だけが子供扱いというのは納得いかなくて、ついつい口を尖らせてしまう。


「わかった。わかってるって。もー、子供じゃないんだからそんな心配しなくてもいいじゃない」


 明日菜の言葉を聞いた夕映と木乃香は、互いに顔を見合わせる。

 数秒間だけ視線を交差させて、二人はニッコリと笑みを交わすと、明るい声で明日菜の言葉を肯定した。


「そうですね、アスナさんなら大丈夫だと思うです」

「せやねー。アスナはウチらよりずっと運動が出来るもん」


 何度も頷く二人は、何故か笑ったまま明日菜から少しずつ離れていく。

 その様子に気付かないまま、明日菜は彼女らに同意した。夕映達と同じように頷きを繰り返しながら、明日菜は足を進めていく。


「そーそー、体力にだけは自信あるんだか――――――」


 奇妙なほどに、踏み応えの無い床がある。

 踏み応えが無いというか、体重を掛ければ掛けた分だけ沈み込んでしまうような、理解が及ぶ前から感覚的に恐怖を煽ってくれそうな代物だ。実際に明日菜が視線を向ければ、およそ二メートル四方のタイルが明日菜の足下辺りを起点として下側に折れ始めている。その先にあるのは、当然だが不思議の国なんて素敵なものじゃなくて、唯々暗闇だけが顔を覗かせている。


 つまりコレは、


「ら?」


 落とし穴。


「キャアァァ――――ッ!?」


 前のめりに倒れると同時に感じた浮遊感に、明日菜は甲高く悲鳴を上げていた。


「ぐえっ!」


 だがそれも、長くは続かない。

 すぐに全身へ衝撃を感じて、明日菜は潰れたヒキガエルのような可愛くない声を上げた。


「――――っと、このように初心者には優しくない場所なので、くれぐれも油断しないようお願いします。不手際があったら私が先輩に怒られるので、その時は素直に恨みますから」

「………………ハイ」


 顔に食い込む網の感触に痛みを覚えながら、明日菜は上から降ってきた夕映の言葉へ、深く静かな反省と共に返事をした。




 □




 一方、夕映達と別れて行動していた残りの三人は、現在のんびりとした様子で、何故か本棚の上を歩いている。先頭を行くのはヘッドライトとバックパックを装備したハルナで、長い黒髪を好き勝手に遊ばせながら軽快に足を進める彼女の後ろを、のどかとネギが慎重に歩きながらついていく。

 此処に来てからそれなりの時間が経過しているが、未だにネギはこの場所に慣れていないようだった。無理も無いと、のどかは思う。現在歩いている本棚一つを取ってみても、下には暗闇しか確認できないほどの高さがある代物だ。特にネギは最初に矢が当たった所為で臆病になっているらしく、ネットが張ってあるという説明を聞いた今でも、のどかの手を強く握って離そうとはしない。


「…………そういえば、どうして罠を仕掛け直すんですか? 今は本が盗まれたなんて話も、誰かが盗みに入ったなんて話も、全然聞かないんですよね? なら解除出来たものは、そのままにしておいた方がいいと思うんですけど」

「えっと、練習のためなんです。大学部の先輩の中にはまだ探索してない、本当に危ない罠のあるエリアに行く人達もいますし、もしかしたら見落として解除されてないものがあるかもしれないので、そういった事も考えて危険性の低い場所を用意して練習するんです」


 罠に掛からないようネギの手を引きながら、のどかが答える。

 半歩ほど前を歩いて先導している彼女の顔はもうずっと真っ赤に染まっていて、その事をネギに気付かれないよう、のどかは必死に罠を探すフリをしていた。心臓は休む事無くバクバクと煩くがなり立てており、触れ合う手の平からその事がネギに伝わってしまわないかと、のどかは心配しっ放しだ。


「降りれる階に制限があるのもさ、その辺が大きいんだよねー。下の階にいくほど罠がキツくなるってのもあるし…………ほら、降りた後には登らなくちゃいけないでしょ? ドンドン下の階に進んだのはいいけど、疲れて戻れなくなりましたー、なんて間抜けな事になりかねないわけなのよ。というか、実際になった子が居るしね」

「ですからー。そういったペース配分の事も含めた練習用の施設としても、ココは機能してるんです」


 話しながらのどかは、幅一メートルに満たない本棚の上を、罠のスイッチを避ける為に端に寄る。そのルートを綺麗になぞるような形で、手を引かれたネギも後をついて行く。本棚同士の間にある隙間を――――この時ばかりは手を離して――――飛び越える。そして、再び強く手を握られて、痛くなるほどにのどかの心臓が高鳴った。


「みなさん色々と頑張っているんですね」

「まぁね。ココなら面白い本も珍しい本もいくらだって見付かるし、探検してるだけでも楽しいしさ、探検部が無くなるのはみんなイヤなんだよね。だから、学園が文句を言えないように色々やってるわけ。幾つか交渉材料もあるしね」

「ネギ先生が最初に見た本はダミーでして、本当の貴重書がある場所は私達だけが知ってるんです。たしかに本来の目的からは少し外れていますし、図書館島は学園のものですけど―――――――ココは私達にとっても凄く大切な場所ですから」


 そう言ったのどかとハルナは、どこか誇らしげな笑みを浮かべていた。




 □




「だから、ね。新しく探検部に入る関係者にも、ココを好きになってほしいんだ。仕事と思ってやるような人は、探検部には必要無いってね。まぁ、次に誰が入ったとしても、私の引退までには探検部の仲間にしてみせるけどね」


 そう言って洸は、柔和な笑みを浮かべた。それは元々の顔立ちが優しい彼女には殊更似合う表情で、思わず刹那は見惚れてしまう。

 洸を見上げたまま呆けたように口を開けている刹那は、傍から見れば滑稽以外の何物でも無いだろう。けれど洸は、ただソッと刹那の頭を撫でるだけだった。恥ずかしい、と普段の刹那なら思う状況だ。きっと耳まで赤く染めて、慌てて声を上げるのがいつも通り。


(…………?)


 けど、今の刹那にはそれよりも気になる事が存在していて、彼女の思考は恥ずかしがるほどの余裕を持っていなかった。

 刹那の頭に手を乗せる時、洸は何かを言おうと口を開き掛けて、けれどすぐに閉じた。その時に一瞬だけ浮かんだ表情の意味を、刹那は不思議と理解出来た。それは、この二年間で培ってきた洸との関係に起因するのかもしれない。だって、幾度となく自分は彼女にそんな顔をさせてきたのだから。

 原因は分かっている。でも、どうしようもない。

 そんな自らの情けなさを思い、刹那は歯噛みして俯いた。


「ん? 刹那?」

「………………洸様は」


 小首を傾げる洸に、刹那は下を向いたまま問い掛ける。


「私が図書館探検部に入る事を――――――お望みですか?」


 返ってきたのは洸の手が優しく頭を撫でる感触だけで、だからこそ刹那は、自らの推測が間違っていないのだと確信した。

 今の問い掛けは、きっと洸を困らせている。顔を上げれば、間違い無く苦笑している彼女が見られるだろう。それが分かっているからこそ、刹那は悔しさから身を震わせる。洸の願いを叶える事は、少なくとも今の刹那には出来ない。

 図書館探検部に、つまりは木乃香と同じ部活に所属するという事は――――――――刹那にとって恐怖だった。


「スミマセン」


 故に、口から出たのはそんな言葉。自分の弱さには反吐が出そうになるし、二年経っても成長出来ていない事には悔しさを禁じ得ないが、それでも無理なものは無理なのだと、刹那は心の中で言い訳する。


「でも」


 だから。


「――――――いつか、必ず」


 どうして自分からそんな事を言ってしまったのか、刹那は不思議で仕様が無かった。








 ◆








「というわけで、本日の図書館島探検ツアーはこれにて終了です」


 地上へ戻り、図書館島の入口付近にあるベンチに座りながら、夕映はそう言った。


「くぁー。好き勝手に歩き回るのもいいけど、たまには誰かを案内するのもいいねぇ」


 大きく伸びをしながらのハルナの言葉に、図書館探検部のメンバーが同意するように頷いた。ゲストであるネギと明日菜も含め一様に疲れた表情をしているが、そこには確かな満足感が覗いている。

 午前中から始まった図書館島案内も、終わった今ではもう夕刻で、湖面は山向こうに隠れようとしている夕陽によって赤く照らされていた。計六時間にも及んだイベントの成果は、ベンチに体を預けているネギ達の表情を見れば明らかで、夕映も十二分に満足している。あとは寮に帰ってからのどかとハルナに別行動中の話を聞いて今後の対策を練れば、本日の予定は終了である。


(それと…………)


 赤く染まった図書館島の外観を仰ぎ見て、夕映は明日からの事へと思いを馳せた。

 残念ながら今日は無理だったが、明日の月曜日こそは洸に会えるはずだ。自分の忠告を聞いてくれたのかどうかは分からないが、この一週間は図書整理の手伝いも控えているようで、図書館探検部の方にも顔を出しているらしい。まぁ、今度は夕映の方が出ていない状況であった訳だが、それも今日で終わりだ。

 明日は洸と会える。そう思うだけで、溜まった疲れが消えていくような気すらした。自然と口元も綻び、体の奥からは落ち着かない、むず痒い感覚が湧き上がってくる。そんな様子に気付いたらしいのどかと目が合ったが、夕映は手を振って誤魔化した。


「んじゃま、そろそろ帰りますか。ずっとココに居てもしゃーないしね」

「せやね。あ、そや。今日は一緒に晩御飯食べへん? 今からなら準備も間に合うし」

「お、いいね~。夕映やのどかもオッケーだよね?」


 勿論、否は無い。

 即座に肯定を返した夕映とのどかにヨシと頷いて、ハルナは立ち上がる。それに従う形で、他の五人もベンチから立ち上がった。そうしてみんなで固まって、橋の上を歩き出す。ハルナを先頭とするこの集団の中心には自然とネギが収まっており、その事に奇妙な感慨を抱きながら最後尾を進んでいた夕映は、ふと気付いた事実に首を傾げた。


(ふむ……)


 ネギの右隣には相変わらず明日菜の姿があるが、その逆、左側にはのどかがちゃっかり収まっている。本来であればその位置に居るであろう木乃香は、並ぶ三人から離れ、若干遅れている夕映の横へとやってきた。常の穏やかな表情ではなく、僅かに苦笑している彼女を見て、夕映は事態を正確に把握する。そして、親友の進歩を喜んだ。

 同時に、少し羨ましく思う。着実に想い人に近付けている事を。

 自分はどうだろうかと、夕映は考える。洸とは読んだ本を薦め合ったり、一緒に街へと出掛ける事もある。図書館島のイロハは彼女に教わったし、この半年くらいはテスト前に勉強を見て貰ってもいる。だから、仲は良いはずだ。多分、木乃香を除いたら探検部で一番と言っても良いくらいには。でも、結局は先輩と後輩という枠組みの中に収まってしまっている。

 そこまで考えた夕映は、溜め息を吐こうとして――――――すぐに気付いて止めた。


(えぇい。ここで落ち込むから私はダメなんです!)


 あの引っ込み思案なのどかが、これほどまでに積極的に頑張っているのだから、自分も負けてはいられない。そんな気概で挑むべきだと、夕映は自ら発破を掛けた。それから、一度だけ図書館島を振り返る。日没を前にして続々と利用者を吐き出していく、慣れ親しんだその建物を見詰めながら、夕映は心の中で誓いを立てた。


(――――――今年こそは、先輩との距離を縮めてみせます)


 今年の抱負と言うには、少し時期が遅かったかもしれない。

 見守っていたのは、昇る太陽ではなく、沈む太陽だったかもしれない。

 それでも夕映は満足だった。いつもより強気になれた事で、少しだけ自信を持てたから。












 ――――後書き――――――――


 という訳で、第六話をお送りしました。読んでくださった方、ありがとうございます。

 今回は改変設定満載な図書館探検部の説明と、各キャラの関係を再確認といった感じの話でしょうか。なんだか作者の迷走具合がそのまま文章に表れた気がしないでもないです。無計画はよくありませんね。

 次回は体育の授業です。ウルスラの方々は出てきませんが。期末テスト前にもう少しネギと生徒達の関係を印象付けたいので、気合い入れて書きたいと思います。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第七話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/03/01 21:17


 図書館島探検のあった日曜日から五日が経ち、少しずつ慣れてきた教師稼業に励みながらも、ネギは日々の生活に新たな習慣を加えていた。それは日が昇るか昇らないかの内から始められる、森の中での魔法訓練だった。杖を片手に一人だけで森の奥へと分け入って行うそれを、ネギは日曜日から毎日続けている。

 訓練と言っても仰々しいものではなく、明日菜に見せたような簡単な魔法を幾つか使用し、感覚を忘れないようにする程度のものだ。極力派手な事はしないし、攻撃魔法なども殆ど使わない。それこそ森に隠れ住む魔法使いといった様子で、息を潜めるようにしてネギは練習している。その気遣いが報われているのか、はたまた純粋に人払いの魔法の効力なのか、未だ誰かに見付かる兆しは無い。

 初日の騒動を除けば、ネギは殆ど完璧と言っても良いくらいの素行を見せていた。教師としてはまだまだ未熟なのだが、それでも段々とスムーズに授業を行えるようになっているし、生徒達との仲も良好だ。魔法がバレるような危うい行動もしておらず、そもそも初日にのどかを助けた事自体は責められるものではない。唯一の減点対象と言えば、自分から明日菜に魔法の事を話した件くらいのものだ。


(とはいえ、ね)


 そんなネギの様子が気に食わないと、鬱蒼と茂る木々の一つに背中を預けながら、洸は思っていた。否、より正確に言うならば、彼女はネギの事を心配していた。

 将来的にどのような職に就くとしても、ネギが魔法使いとしてやっていくのは確定事項と言っても相違無い。だというのに、近頃のネギは魔法を使う事そのものを恐れているような節がある。確かに、人前でみだりに魔法を使用する事は許されていない。かといって全くの無使用というのも、また問題なのだ。

 結局の所『修業の極意』とでも言うべきものは、如何に小賢しく人目を盗んで魔法を使うかにある。どの程度の魔法ならば誤魔化しが効くのか、どんな時にどんな所へ注目されているのかなど、一般人の意識する点を、失敗を踏まえながら学んでいくのが大切なのだ。


(魔法を使ってくれた方がいいんだけどなぁ)


 一つ溜め息を吐いて、洸は木の裏側にある広場で魔法の練習を続けているネギを盗み見る。

 ネギが手にしている身の丈ほどもある大きな杖も、朝のこの時間が終われば御役御免だ。命と同じくらいに大事な物と聞いているが、最近のネギは余り杖を持っているイメージが無い。肌身離さず持ち歩いている事は確かなのだが、殆ど杖に手を伸ばさないのだ。手入れの最中でも、誰かが近付けばすぐに隠してしまう。勿論、ゾンザイには扱わないが。


(初めに脅かし過ぎた…………と言っても今更だね)


 せめてのどか転落騒動の時に労いの言葉を掛けておくべきだったかと、洸は後悔していた。叱るよりも前に、褒めておくべきだったのだ。決して失敗ではないと教えておくべきだったと、今になって思う。ネギ自身のどかを助けた事は後悔していないだろうが、その後の警告がネギの中であの出来事を負の方向に傾けている。

 今のネギは魔法の使用に対して少しネガティブな方向に意識が傾いており、あまり望ましい状態とは言えない。魔法を使う時に失敗した場合の事をまず考えているようでは、上手くいくものも上手くいかなくなる。失敗をしたとしても、次に活かそうと思えるポジティブな姿勢こそが大切なのだ。大人になればまた別だが、子供の内ならそうあるべきだと、洸は思っている。


(…………とにかく、何か方法を考えないとね)


 例えばネギの他に、麻帆良学園には生徒として修業をしている者が複数居るが、そういった者達が初めに失敗し易い出来事が治癒魔法だった。魔法学校を卒業する者は大体が十前後の年齢であり、まだまだ外で遊ぶ事が多い時期である。生徒として修業を受けるという事は同年代の子供達と一緒に遊ぶ機会も当然ながら多い訳で、大抵は一週間としない内に友達の誰かが転んだりして怪我をする。

 そんな時に慌てて駆け寄り治癒魔法を掛けてしまうのが、見習い魔法使いがよくやってしまう失敗だ。魔法使いの子供にとっては普通の事だし、元々の性根が優しい彼らは、友達が痛そうにしているとつい手を差し伸べたくなってしまうのである。

 勿論よくある事なので待機している魔法関係者がすぐに対処するのだが、この時はまず褒める。褒めてから注意を促す。よくやった、えらい、友達も喜んでた、ホラもう走り回ってる、けど次にやる時は気を付けよう、大騒ぎになったら大変だから。といった具合だ。

 注意は必要だが、やってよかったという気持ちを抱いて貰う事が大切なのである。


(つまりは魔法を使わざるを得ない状況を用意して――――――)


 強制的に誰かを助けさせる。出来れば半端なお手伝いレベルではなく、のどかの時みたいに危機的状況であるのが望ましいが、高望みは良くない。とにかくネギに達成感を覚えさせ、コチラの意思を伝えられれば良いのである。


(とはいえ、ね)


 まさか人様の不幸を願う訳にもいかないし、人為的にそのような状況を作るのは本末転倒にも程がある。さてどうしたものかと、練習を終え女子寮へと戻っていくネギの背中を見送りながら、洸は頭を捻った。

 洸がネギのような新人の面倒を見た経験というのは、実は殆ど無かったりする。一人前の魔法使いとはいってもまだまだ若輩者である事には変わりないし、どちらかと言えば実働の方が洸の専門だ。知識ならば豊富にあると自負しているのだが、如何せん経験不足と言う外無く、自信を持ってコレと言えるような対処法は思い付かない。

 知り合いの魔法先生――――ネギとは違い一人前の魔法使いとして学園に勤めている――――の誰かに相談してみるか、それともネギと同じ見習い魔法使いに尋ねた方が良い案が出るだろうか。


(エヴァは………………うん。とりあえず誰か魔法先生に話してみようかな)


 最初に躓いてしまうと後々まで響き易く、あまり悠長に構えてはいられない。最悪、口頭での奨励だけでも視野に入れておくべきだ。とはいえ、上手く説明しなければ変に気負わせてしまう恐れがあるので、これも注意が必要である。


「ま、なんとかしないとね。それじゃ私は戻るけど、刹那も早く部屋に帰りなさいよ? 学校に遅刻なんてしたら怒るからねー」


 最後に離れた木の陰で息を潜めていた後輩へ声を掛けてから、洸は空気に溶け込むようにしてその場から消え去った。あとに残されたのは生い茂る木々が奏でる木の葉のさざめきと、それに紛れて恥ずかしそうに唸る一人の少女だけだった。












 ――――第七話――――――――












「今日は屋上でバレーボールだっけ?」

「えぇ、そのはずです」


 夕映は制服のシャツを脱ぎながら、明日菜の問いに答える。

 現在は休憩時間中で、次の授業は体育だった。彼女らが居る教室の中では他のクラスメイト達も同様に制服を脱ぎ、体操服に着替えている最中だ。周りに満ちたクラスメイト達の雑談による喧騒をバックに流しながら、席が前後となっている夕映と明日菜、そして木乃香は他愛も無い話に花を咲かせていた。

 いつもは通路を挟んで夕映と隣同士となっているハルナも会話に混ざるのだが、今日の彼女は前の席の柿崎 美砂(かきざき みさ)と雑談に耽っているようだ。漏れ聞こえてくる内容から察するに、誰かの恋愛話らしいと夕映は理解した。二人とも噂好きという性質である為、その関係で何かネタを拾ってきたのだろう。

 ちなみにのどかの席は明日菜の右隣、つまりは木乃香の席の二つ前であり、彼女だけは少し離れた位置となっている。


「ひゃー、寒そうやなぁ。ウチ体育館がよかったわ」

「仕方無いですよ、一学年だけで二十四クラスもあるですから」


 そう言って体操服のシャツを手に取った夕映は、ふと視線を感じて動きを止めた。それは半ば直感のようなものであったけれど、すぐに肌の上を走るむず痒い感じを覚えて、気のせいではないと確信する。


「どしたの夕映ちゃん?」

「あ、いえ……」


 明日菜の問い掛けに曖昧に返事をしながら、夕映は誰か見ているのかと首を巡らせる。

 すると、一人のクラスメイトと目が合った。この教室の中で、唯一制服のままで居る彼女は、何故か面白がるような視線で夕映を眺めている。殆ど話をした経験の無いクラスメイトのそんな態度に、夕映は疑問符を浮かべた。


(エヴァンジェリンさん…………?)


 何か自分に用でもあるのだろうか。そう考えて夕映が尋ね掛けるよりも前に、エヴァンジェリンはふいと視線を外すと、そのまま教室から出ていった。どうやら、いつものようにサボるらしい――――――なんて事を考えるよりも先に、夕映は最後にエヴァンジェリンが見せた表情が気になった。


(むむむっ)


 嘲笑だ。それも、夕映の胸の辺りを見て。

 言葉にはされなかったが、その意味する所を夕映は正確に理解した。

 むぅと唸り、彼女は足元を見下ろしてみる。何一つとして邪魔になるようなものは無くて、容易く自分の足を見る事が出来る。まぁ、つまりは胸が無いのだ。断崖絶壁である。勿論ブラジャーなんて着けているはずも無く、愛用のキャミソールが描くのは今日も今日とて代わり映えの無い地平線だった。


「夕映ー? ホントにどしたん?」

「…………なんでもありません」


 なんだかもの凄く不愉快な気分になった夕映は、乱暴に体操服のシャツを着ると、鼻を鳴らしてエヴァンジェリンの居た場所から目を逸らした。確かにスタイルは良くない。身長だって未だ百四十に届かないチンチクリンだ。その事は夕映だって認めるし、もうすぐ中学三年生になるというのにこれでは、将来性に期待なんて言葉も出てこない。


(ですが、エヴァンジェリンさんにだけは言われたくありません!)


 自分以上に背の低い彼女が、何を以て嘲笑うというのか。そう思い、夕映は憤慨した。


「お~い。夕映ちゃ~ん?」

「私は大丈夫です! ――――あ、いえ。本当に問題ありませんから」

「そ、そっか」


 つい荒げてしまった声に驚いた様子の二人に弁解しながら、夕映は密かに決意する。

 胸を大きくしようと。背を伸ばそうと。以前から考えてはいたのだ。洸の身長は百七十半ばもあり、女性としてはかなり高い。夕映との身長差は三十センチ以上で、並んで歩いたら非常にバランスが悪い。スタイルだって一目瞭然だ。

 だから、その事を気にしていた夕映にとって、ある意味これは良い機会なのかもしれない。というか、そうとでも考えなければ、次にエヴァンジェリンと会った時に酷い口論になりそうだった。


(えぇ、そうですね。エヴァンジェリンさんには感謝しないといけないかもしれません。先程の件は忘れませんが)


 唇を真一文字に結び、夕映は拳を強く握った。








 ◆








 生活の変化にも慣れ、授業でも緊張しなくなってきたこの頃、ネギは次のステップとして、生徒にとって理解し易い教え方を考え始めていた。その成果の一つが、今、職員室にあるネギの机の上に広げられた一枚の紙である。初日にタカミチが用意してくれた物を参考にして、初めてネギが作った授業プリントだ。


「えへへ……」


 一時間掛けて完成させたプリントを手に取って、ネギは笑みを浮かべる。

 あとは指導教員であるしずなに添削をしてもらえば完成だ。きっと、タカミチが作成した物に比べたらまだまだ拙い出来だろう。それでもネギは、生徒の為に自分から何か出来たという事実が純粋に嬉しかった。

 それもこれもタカミチのお陰だと、ネギは机の上に開いた教科書へと視線を落とす。注意すべき点をタカミチが書き込んでくれているコレがあるからこそ順調に授業が出来ているのだと、ネギは思っている。

 魔法の助けがあったとはいえ、彼は僅か三週間で日本語の基礎をマスターしている。それに加えて英語を母国語としている事もあり、正直、日本人が英語を理解する上で何が重要なのか理解出来ない。そう、ネギと生徒達との間には才能や国籍といった埋め難い溝が存在しているのだ。そこを橋渡ししてくれているのが、このタカミチが残してくれた膨大なメモであり、指導教員のしずなである。

 いずれなんらかの形で感謝の意を示そうと思いながら、ネギは丁寧な手付きで教科書を閉じた。


「少しよろしいですか、ネギ先生?」


 その時、柔らかな女性の声がネギの耳を震わせた。

 ここ最近ですっかり聞き慣れてしまったその声に振り向けば、予想通りネギの指導教員であるしずなが立っていた。普段と変わらない穏やかな雰囲気を纏った彼女は、出席簿と一冊の教科書を左手で抱えた状態で佇んでいる。また何か新しく覚える事でもあるのだろうかと、この頃の生活を振り返ってそう考えながら、ネギは返事をした。


「あ、はい。なんでしょうか」

「実は体育の先生が体調を崩されて、お休みになられたんですよ」

「そうなんですか? それはまた…………えっと、お気の毒様ですね」

「えぇ。それで、二年A組は次が体育の授業じゃないですか」


 しずなの言葉を聞き、すぐに時間割を思い浮かべたネギは、確かにそうだと首肯する。そうするとしずなも同じように頷いて、持っていた教科書をネギに見せた。ネギにとって見覚えのあるそれは、間違い無く体育の教科書である。


「ですからネギ先生には、代わりに体育の授業を見ていただきたいんです」

「あ、はい。わかりました」


 半ば反射に近い形での肯定だったが、改めて考えてみても問題が無かったので、ネギが訂正する事は無かった。そうしてネギの返事を聞いたしずなは安堵の表情を浮かべ、持っていた出席簿と教科書を差し出してくる。勿論、ネギはすぐに受け取った。


「では、お願いしますね。今日は中等部校舎の屋上でバレーボールの予定です」

「わかりました。具体的には何をすればいいんですか?」


 教師としての心得などは散々聞かされてきたし、明日菜達からも他の先生がどんな授業をしているのか聞いているが、流石に体育だと範囲外だ。だから失敗をしないようにとネギが尋ねれば、しずなは困ったような表情を作り、申し訳無さそうな声で話し始めた。


「ごめんなさい、私にもよくわからなくて。でも、クラスの子達ならちゃんとわかるはずよ」

「わかりました。授業前に訊いてみますね」

「えぇ、それがいいと思うわ。あとは……コレを」


 鍵を一つ、ネギは渡される。


「体育倉庫の鍵よ。コートは前のクラスがそのままにしているはずだから、ボールの準備だけをすれば大丈夫だと思うわ」

「はい、わかりました」

「私は仕事があって手伝えませんけど、頑張ってくださいね」


 最後に優しく微笑んで、しずなは癖のある金髪をふわりと翻して立ち去った。

 その背中を見送ったネギは、早速といった感じで教科書を捲っていく。まず最初に目次から辿ったのは、バレーボールに関して書いてあるページだ。実際に開いてみると、そこにはルールやポジションについて載っていた。流石は教科書と言うべきか、思っていた以上に詳しく説明されていて、知らずネギは前屈みになっていく。


「――――――バレーボール、か」


 一行ずつ指でなぞりながら書かれている内容を確認していたネギが、ふと声を漏らす。

 ネギは、こういった集団でやるスポーツをした経験が殆ど無かった。魔法学校には一つとしてコートは用意されていなかったし、そもそも遊ぶ時には大して数が集まらない。他学年の生徒との仲は決して悪くなかったが、元々の人数が少ない所為で、一度に集まる人数は五人くらいが精々だったのだ。

 だからだろうか。


「…………こういうのもいいなぁ」


 自然と、ネギはそんな言葉を呟いていた。








 ◆








「あれ、ネギ? なんでアイツが居るのよ?」


 屋上に続く扉を潜った明日菜は、その先に待っていた担任の姿に訝しげな声を上げた。彼女の視線の先に居るネギは見慣れたスーツ姿のままだが、何故か一杯のバレーボールが入った籠が隣にあり、まるで体育教師のよう、というかそのまんまだ。けれどネギは英語教師であり、他の教科を担当する事は無いはずである。


「ホントです。代理でしょうか?」


 明日菜の隣を歩いていた夕映も首を傾げている。後続のクラスメイト達も似たようなもので、皆一様に疑問符を浮かべていた。

 とはいえ、二年間の中学生活で染み付いた習性か、全員が自然とネギの前に整列していく。そうして集まっていく生徒達の様子に満足そうな笑みを浮かべたネギは、手元の出席簿と整列した生徒の間で視線を往復させながら話し始めた。


「え~、今日は体育の先生がお休みになられたので、代わりに僕が授業をやる事になりました」

「あ、やっぱそうなんだー」

「リョーカイで~す」


 納得したと口々に声を上げる生徒達に頷きを返してから、ネギは並んでいる彼女らの一角へと顔を向けた。ネギの視線の先に誰が居るのか、考えなくても明日菜には分かる。この二週間で半ばお約束と化した事なのだから。


「えっと、すみませんが雪広さん、何か特別にやる事はありますか? バレーボールをやるというのは聞いているんですけど、具体的には何をすればいいんでしょう? 実は僕、バレーボールをした事が無くてよくわからないんですよ」


 ネギは、授業に関する事はまず委員長のあやかに尋ねる。それは彼女がクラス委員長であるという以外にも、授業中によく発表をしたり、授業外での手伝いなども申し出たりする事から生まれた信頼感が理由なのだろう。学校の事ならあやかに訊く、というのがネギの中では当然の事となっているように明日菜は感じていた。

 これについては夕映も脅威を感じているようで、ハルナと一緒になってアレコレと対抗策を考えているようだ。その一つが明日菜達の寮部屋で勉強会を開く事であり、最近は割と遅くまで部屋の中に英語という名の呪文が響いていたりする。ただ初めの頃は辟易していた明日菜だが、慣れというのは怖いもので、ここ数日ほどは自然と輪の中に混じっていた。


「特に問題は無いと思いますわ。号令はコチラでやりますし、準備運動についても保健委員の和泉さんが居ますから。バレーボールは以前から授業でやっているので、みなさんも手順はわかっているでしょう」


 ですが、と一際声を大きくして言ったあやかに、クラスメイトの視線が集まった。彼女はそれを確認すると、大仰な動作で手を広げ、続きを話そうと口を開く。あやかの言葉が向けられる先は、おそらくネギだけではない。初等部の頃から付き合いのある明日菜には、幼馴染みが何を言おうとしているのか理解出来た。理解した上で、止めようとはしなかった。


「ネギ先生はバレーボールをした経験が無いと仰りました。その歳で大学をお出になったのです、あまり遊ぶ時間が無かったのでしょう――――――そこで皆さん! 今日はネギ先生にも授業に参加していただく、というのはどうでしょうか?」

「へ?」

「おぉ! さっすがいいんちょ!!」

「賛成ですー!」


 あやかの言葉に理解が追い付かなかったのか、ネギが間抜けな声を上げる中で、逸早く反応したのは鳴滝姉妹だった。クラス内で最も背の低いコンビであるこの双子は、小さな体躯を跳ねさせて随分とノリ気な様子だった。そんな二人のはしゃいだ声につられたのか、他のクラスメイト達も続々と賛同の意を示し始める。


「私もサンセー、見てるだけじゃネギ君もつまんないでしょ」

「だね。保健室行けば予備の体操服もあるんじゃない?」

「でも女子用のしかないと思うよ?」

「いやいや、ネギ君なら大丈夫だって」


 賑やかしく話を進めていく生徒達の会話に置いてけぼりにされたまま、ネギはポカンと口を開けて未だ事態を把握出来ていないような顔で突っ立っている。いい加減このクラスのノリに慣れてもいいとは思うのだが、二週間ではまだまだ経験値が足りないらしい。

 まったくもってしょうがない奴だと苦笑しながら、明日菜はクラスメイト達の会話に混ざろうと手を挙げた。


「じゃあ私が保健室まで連れてってく――――――」

「お待ちなさいアスナさん」

「――――――なによ、いいんちょ?」


 一も二も無く言葉を遮ってきたあやかに、明日菜は面倒だといった表情で問い返す。そんな明日菜の様子に気付かず、自らの胸元に手を当てたあやかは、自信に満ちた表情で話し始めた。


「ここは委員長であり、この件の提案者でもある私が行くのが筋というものでしょう」

「はぁ? 意味わかんないわよ。大体、ショタコンのアンタに任せれる訳ないでしょ」


 そう、ショタコンだ。小さな男の子が好きという性癖を、この幼馴染みは持っているのだ。また、明日菜の経験から言わせて貰えば、ネギは彼女のストライクゾーンど真ん中である。だから、最近のあやかがタカミチが担任をしていた時以上に熱心な様子で委員長の職務を果たそうとしているのも、その辺りが理由だろうと思っている。


「んな!? なんて事を言うんですアスナさん! ネギ先生が誤解したらどうしてくれるんです!!」

「誤解って…………事実でしょ」

「まだ言いますか! 私は委員長として、不慣れなネギ先生の手助けをしたいと思っているだけです。ですからネギ先生、どうぞ私と共――――――――に? あら? ネギ先生?」


 キョロキョロと辺りを見回すあやかの様子を眺めていた明日菜は、不意に屋上の出入り口へ顔を向ける。すると、扉の隙間に長い黒髪が消えていくのが見えた。それを黙って見送った彼女は、暫く目を瞑った後に肩を竦める。口元には、確かな苦笑が刻まれていた。

 勝ったのは図書館組、つまりはそういう事だと理解する。さて、未だにネギの姿を探しているあやかをどうやって言い包めようかと、明日菜はそんな事を考えながら彼女に近寄っていった。




 □




 体操服に着替え終えたネギが戻ってくる頃には、生徒達によっておおよその段取りが決められていた。とにかくまずは経験してみれば良いという事で、準備体操を終えるなり二つあるコートの片側に放り込まれたネギは、現在、呆気に取られた様子でボケッと突っ立っている。やはり、急な展開に追い付けていない。

 そんな彼の手を引いて、チームメイトに決まった明日菜が割り振られたポジションまで移動させていく。後衛の右列。初めは試合全体が見易い後衛に長く居た方が良いだろう、という配慮からだった。


「で? アンタ、バレーボールのルールは知ってんの?」


 自らはバックセンターの位置に立ちながら、明日菜は未だに呆然としているネギに問い掛ける。そうすれば、ようやく事態に頭が追い付いたようで、ネギは急いで明日菜の方に顔を向けて返答する。


「あ、はい! 教科書に書いてあるルールは全て覚えましたから、多分大丈夫です」

「流石というかなんというか…………とりあえず、試合は十五点先取で一セットね。ラリー制でポジションのローテもあるけど、反則は結構いい加減に考えてればいいわよ。どうせ授業だしね。ま、やってれば雰囲気で大体わかるでしょ」


 とりあえず始めるわよと、そう言って明日菜は手を高く挙げる。何時の間にかチームメイトや相手チームも配置に就いていたようで、明日菜の合図で全員が体勢を整えた。それに気付いたネギは、慌てて明日菜の姿勢を真似る。


「んじゃ、いっくよー!!」


 全員の準備が出来た事を確認したのか、相手チームの明石 裕奈(あかし ゆうな)が大きな声を上げた。

 コート外に立つ裕奈の手にはバレーボールがあり、彼女がサーブを打つのだという事が窺える。つまりはサーブ権も既に決まっているという事で、本当にこれから試合が始まるのだと、改めて認識する。

 実際にプレイしてみるとバレーボールはどんな感じなのか、一度だけテレビで見たプロの試合を思い出しながら、ネギは緊張から喉を鳴らした。流石に最初からネギを狙ってくる事は無いと思うのだが、万が一という事もある。それに記憶通りのスポーツであれば中々に展開が早かったはずだ。

 固まって全然動けなかった、なんていう格好悪い結果だけは避けようと、密かにネギが気合いを入れると同時に、裕奈はボールを高々と放り上げた。予想よりも遥かに高く上がったボールの意味をネギが理解するよりも早く、隣の明日菜が驚きから声を上げた。


「って、いきなりジャンプサーブ!?」


 明日菜の言葉通り僅かな助走から飛び上った裕奈は、その勢いのままボールに手を強く叩き付ける。

 速い、とネギは思った。小気味良い音と共に弾き飛ばされたボールは、本当に速い。けれど、ネギに焦りは無かった。何故なら、自分の居る場所には飛んできていないから。白線を描いてボールが向かうのは、反対側のレフトバック、木乃香のポジションだ。

 だからネギは、まるでテレビでも見ているかのように落ち着いた様子でボールの軌道を追っていて、


「――――ぁ」


 ダン、と気付いた時にはボールは音を立ててコートに突き刺さっていた。

 つまりは、相手の得点。サービスエースである。


「う~ん、流石はバスケ部。球技はお手の物って感じかしら」

「綺麗に入りましたね」


 感心したような明日菜の呟きに合わせながら、ネギは先程の場面を思い返す。裕奈のジャンプサーブから打ち出されたボールは本当に速くて、木乃香は殆ど動けていなかった。その木乃香は笑顔で今のサーブを凄いと褒めているが、ネギが思った事は違う。


(さっきのサーブ……)


 返ってきたボールを持ち、再び構えた裕奈は、最初からサービスエースを決めたからか、実に得意気な様子だ。その目は次の狙い場所を探るように動き、やがて決まったのか、薄桃色の唇を赤い舌がチロリと舐める。ボールを放り上げる動作に入った裕奈を眺めながら、ネギは自分の方に来ればいいのにと考えた。


(僕なら、返せたかな?)


 それは多分、ちょっとした勝負心。








 ◆








 一つの施設としては非常に広大な土地を有する図書館島であるが、その中に用意されているのは、膨大という表現が可愛く思えてくるほどの蔵書だけでなく、様々な用途を目的とした部屋も多数存在している。

 最も数が多いのは会議室であり、主に委員会や図書館探検部の集まりで使用される他に、資料の関係で大学部から使用予約が入る事も少なくない。次いで図書館探検部の部室が多いのだが、コチラは部屋の種類が複数ある。彼らが集めた数々の資料を収納する大部屋に、それと隣接した情報を整理する作業部屋以外にも、探検用装備を置いておく部屋や、探検部用の休憩部屋などが用意されている。その他の部屋数はどれも似たようなもので、偶に特別な用件で使われるだけの部屋が殆どだ。

 今、彼らが集まっている部屋もその一つである。

 部屋の中央にある木製のテーブルを囲む形で用意された四方のソファには、三人の男性と、二人の女性が座っていた。入口に最も近い位置にある一人掛けのソファには洸が、彼女の対面にはもう一人の女性が座り、残る二つのソファには男性三人が別れて腰掛けている。五人の前には湯気の立つカップが置かれていて、それぞれに紅茶や珈琲が注がれていた。


「ふむ。つまりはネギ君が魔法を使おうとしないのが問題となるのではないか、と。つまりはそういう事だね?」


 そう言って洸に問い掛けたのは、色黒の男性だった。

 やや前傾の姿勢でソファに腰掛けている彼は、興味深そうな表情を浮かべている。


「えぇ、その通りです。ガンドルフィーニ先生」

「魔法を使わない魔法使い、か。確かに心配だね」


 頷いて同意を示すのは、ガンドルフィーニの隣に座る、四角いフレームの眼鏡を掛けた明石教授だ。

 用意された紅茶に口をつけた彼は、顎に手を当てて何事かを考え始めた。


「珍しいケースですね。大抵は逆の方向に走るものですが」

「だからこそ悩ましいという訳だ、僕達に意見を仰ぐくらいに」


 ストレートの長い髪と細いフレームの眼鏡が特徴的な女性――――――葛葉 刀子(くずのは とうこ)が感想を漏らすと、タカミチも同意するように頷く。


「はい。正直、どう対処すればいいのかわからなくて」


 この場に集まった彼ら四人は、洸とそれなりに親しい魔法先生だった。

 かつてはその下で色々と学んだ経験もある洸は、現在の自分が悩んでいる件について、彼らに相談しようと思ったのだ。本当なら他にも何人か此処に呼ぶ予定だったのだが、その人達は時間に空きが無かったので、現在のこのメンバーとなっている。


「ふぅむ。それほど急ぐ必要が無い気もするけど、放っておくには少々心配だね」

「そうですね。前例が少ない分、方針も立て辛くなりますし」


 明石教授と刀子の言に、洸も同意する。と、そこで彼女は思い出したようにガンドルフィーニへと顔を向けた。


「ガンドルフィーニ先生の所の高音はどうだったんですか? 彼女は魔法の使用に厳しそうなイメージがありますけど」

「いや、確かに彼女はルールをよく守るんだが、同時に正義感が強い子だからね。一般人にバレなければ大丈夫と言って、寧ろ積極的に魔法を使う子だったよ。こちらに来たばかりの頃は、年上の不良生徒に喧嘩を吹っ掛ける事も日常茶飯事だったしね」


 当時の事を思い出したのか、ガンドルフィーニの顔にはなんとも言えない苦笑が浮かんでいた。手に持ったカップを傾けて喉を潤した彼は、記憶を掘り起こしているのか、眼鏡の奥の目を閉じながら懐かしむような口調で言葉を続ける。


「愛衣君と仮契約を結ばせたのもそれが理由でね、パートナーが居れば少しは無茶も控えるんじゃないかと思ったんだよ」


 言い終えたガンドルフィーニがテーブルにカップを置いた所で、明石教授が訳知り顔で口を挟んだ。


「なるほど。実際に妻子持ちとなった者の経験則という訳だね?」

「ッ!? ――――――な、ななな何を言うんですか明石教授!!」

「いやいや恥ずかしがる事は無いよ。僕も娘が居る身だからね、君の気持ちはよくわかる」

「ですから、そういう事ではなくてですね!」


 傍目にも分かるほどに黒い肌を赤く染めたガンドルフィーニに、彼の必死の否定を笑顔で受け流す明石教授。俄かに始まった言い合いを前にして、洸は助けを求めるようにタカミチへと視線を送る。けれども彼は肩を竦めて苦笑するだけで、刀子の反応も似たようなものだった。放っておけと、つまりはそういう事らしい。

 だから洸は、素直に先達の意見に従う事にした。明石教授達の話は無視して、彼女はタカミチへと話し掛ける。


「でも、パートナーというのは良い考えかもしれませんね。やる事は逆になりますけど。まぁ、パートナーとまではいかなくても、誰か魔法使いの友達が出来れば――――――って、そういえば高畑先生はネギ君と親しい間柄でしたね」


 洸が視線を送ると、タカミチは首肯した。


「でしたら…………そうですね、春休み中にでも彼を連れ回してくれませんか? 広域指導の方でも見回りが強化されますよね? 彼も高畑先生と一緒なら安心でしょうし、上手い具合にやる気を出させてあげてください」

「それは構わないんだけど、いいのかい?」

「はい。クラスの子達とも仲良く出来ているようですし、新しい環境には十分馴染めていると思います。ですから、そろそろ関係者との接触を図ってもいいでしょう。高畑先生の方だっ――――――――スミマセン、まずはそのニヤけた顔をどうにかしてください。思わず考え直してしまいそうです」

「へ? あ、いや! アハハハ……」


 慌てて口元を手で覆ったタカミチが、誤魔化すように渇いた笑い声を上げる。その様子を、呆れた風な表情で刀子が見ている。カップに口をつけ、落ち着いた態度で周囲の状況を見回した彼女は、一度目を閉じ、またすぐに開けると、洸の方に顔を向けて話し始めた。


「特に問題は無いと思いますから、一先ずはそれで様子を見ましょう。ただ――――」


 刀子から向けられた訝しむような視線に、洸は首を傾げた。


「高畑先生の代わりに貴女がやっても構わないと思うのですが、それでは駄目なのですか?」

「…………考えてませんでした」


 洸にとっては本当に想定外だったその問い掛けに、彼女は目を丸くしてそう答えた。








 ◆








 危ない、とネギは思った。

 ネットを一つ挟んだ所で高く飛び上がっているのは、大河内(おおこうち) アキラだ。ポニーテールにした黒髪を大きく揺らす彼女は水泳部のエースであり、その身体能力の高さは今回の試合で否と言うほどに思い知らされている。そんなアキラの長身を活かした鋭いスパイクは、敵チームであるネギ達にとっては脅威以外の何物でも無い。

 現在相手コートで宙に浮いているボールは間違い無くベストタイミングでアキラの手と重なり、強烈な勢いでこちらのコートに落ちてくるだろう。その場合、こちらのチームが対応出来る可能性は非常に低い。


(大丈夫……)


 それでもネギは、自分の守備範囲に来れば必ず拾うと気合いを入れて、決して見逃すまいとボールを注視した。

 と、ほぼ同時。アキラの手がボールに触れた。


 ボールの行方は――――――、


「ネギッ!!」


 鋭く飛んでくる明日菜の声。それを聞くが早いか、ネギは半歩左へ移動する。その場で腰を落とし、両腕を前に伸ばした彼の視線の先には――――――白いバレーボール。ネギがその軌道を完全に見極めるのよりも、腕に走る衝撃の方が先だった。


「ッ!?」


 僅か十五分余りのバレーボール経験しかなく、その内でレシーブをした回数はたったの五回。それでもネギは、狙った方向へとボールを打ち上げれた。高さも十分。変な回転が掛かっている訳でもない。責任は果たせたと、満足感と共にネギは小さく笑みを浮かべた。


「ナイスですわ!」


 ボールが飛んでいった先で待ち構えているあやかの称賛。それを聞いて笑みを深くしながら、ネギは斜め後ろへと視線をずらす。丁度ツインテールを揺らした明日菜が第一歩目を踏み出した所だった。


「失敗は許しませんわよ!!」


 上手い、とネギは思った。あやかのトスで弾かれたボールはふわりと浮かび上がり、緩やかに弧を描いていくそれは、頂点に達する時には最高のアタックチャンスを約束してくれている。

 そのチャンスを活かしてくれるのは、


「わかって――――」


 高く飛び上がった明日菜だ。


「――――る!」


 勢いよく、明日菜の腕が振り降ろされる。


 ――――――ッ!!


 大きな音を立てて、ボールは相手コートに叩き付けられた。つまりは得点が入ったという事だ。それを理解した時、ネギは知らず息を吐き出していた。やや緊張していた体から力を抜き、彼は得点ボードの方へと顔を向ける。得点係をしてくれていた生徒――――朝倉 和美(あさくら かずみ)が笑みを浮かべて、グッと右手の親指を立ててくれた。

 彼女が左手を乗せている得点ボード。その内容は十五対十三となっており、コレで試合終了だ。


(勝った……)


 ネギが考えられたのは、ただそれだけ。乱れた息を整えようともせず、彼は気の抜けた表情で得点ボードを見詰めていた。その額には汗が滲み、頬は赤く染まっている。僅か十五分足らずの、ちょっとした運動でしかなかったはずなのに、ネギの体は驚くほど疲れを訴えていた。ただ、不思議と嫌な感じはしなくて、寧ろその疲労感を心地良いとすら思っている。


「お疲れ様でした、ネギ先生。勉強だけでなく運動もお出来になるのですね。この雪広 あやか、感服いたしましたわ」

「あ、雪広さん」


 背後から聞こえてきた声に振り向けば、そこには満面の笑みを湛えたあやかが立っていた。ネギほどではないが彼女も頬を上気させており、僅かに肩を上下させている。


「いやー、ネギ君スゴイね! いいんちょとアスナ以外は問題無いと思ったんだけどな~」

「うん。最後のスパイクを拾うとは思わなかった」


 ネット越しに話し掛けてきたのは、裕奈とアキラの二人だ。バスケットボール部と水泳部。バレーボールが専門ではないが、運動部に所属している彼女らの身体能力は凄まじく、今回の試合で最も苦労させられた相手だ。

 そんな彼女らに褒められれば、ネギとて悪い気はしない。


「あ、はい。えっと、その…………」


 ただ、何か返事をしようとしたネギは、そこで言葉に詰まった。故郷で友達と遊んだ経験と、今日のバレーボールとでは何かが違う。魔法を上手く使う事にばかり気を取られていた頃とは、何かが変わっているのだ。だから、どんな言葉を返せばいいのかと、暫しネギは迷ってしまった。

 そうして口をまごつかせていると、ネギは上から頭を抑えつけられた。


「わっ」

「お疲れ様。いい感じだったわよ」


 明日菜だった。彼女はネギの頭に手を乗せたまま裕奈達の方に顔を向けると、サッパリとした表情で口を開く。


「ゆーな達もお疲れ~」

「そっちもねー。楽しかったよ」


 頭上で交わされる会話につられてネギが視線を動かすと、ネット越しにアキラと目が合った。


「…………あ、あの」

「ネギ先生もお疲れ様。多分もう一試合くらいあると思うけど、大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です」


 答えてから、ネギは少しだけ逡巡するように視線を彷徨わせる。けどそれも一瞬の事で、すぐにアキラと目を合わせたネギは、僅かに口元をまごつかせた後、躊躇いがちに口を開いた。


「あの、大河内さん」

「なに?」

「えっと――――――お疲れ様でした」


 笑顔で頷いたアキラを見たネギは、胸の裡を風が吹き抜けていくように感じた。








 ◆








 部屋の中が夕焼けで赤く染められる頃になると、仕事があるからとガンドルフィーニや明石教授、刀子が順に退出していき、残された二人は洸の淹れた紅茶を楽しみながら雑談に耽っていた。ソファに体を預け、何気無い話題に花を咲かせて、彼らの時間は過ぎていく。けれど洸は、その空気に何処か気まずさが混じっているように感じていた。

 時折、彼女の顔色を窺うような視線を寄越しつつ、タカミチはどこか落ち着かない様子で座っている。何か話がある。その事にはすぐ気が付いた洸だったが、内容については想像に任せるしかない。心当たりとしてはネギの件と明日菜の件とでそれぞれ幾つかあるのだけれど、さてどれがくるのだろうか。脳裡で様々な状況を想定しながら、洸は試しに水を向けてみた。


「どうかしましたか? 先程からソワソワしてますけど」

「あ~、いや。あんまりにもソファの座り心地がいいものだから、こんな部屋を使わせてもらっていいのだろうかと思ってね」

「かまいませんよ。普段は滅多に使われませんから、偶に誰かが利用した方が良いんです。許可なんてすぐに下りますし」


 赤々とした紅茶が注がれたカップに口をつけながら、洸が答える。

 白々しいと、そう思ったのは洸かタカミチか。どこか乾いた空気が漂う中で、暫し二人は無言の時を過ごした。部屋の中には、時計の秒針が時を刻む音ばかりが響き、時折、その合間にカップの立てる音が混じる。本当に、ただそれだけの時間。


「………………」

「………………」


 やがて、洸のカップが空になるくらいの時間が経過して、


「実は、春休みに入ったら弟子を取るつもりなんだよ」


 不意にそんな言葉を漏らしたのは、手に持ったカップをボンヤリと眺めていたタカミチである。紅茶の中で揺らぐ自分と向き合う彼の表情は、何か大事なものが抜け落ちたかのように色を失っていて、それを見た洸は、タカミチの言葉が意味する所を正確に理解した。

 だからか、洸は知らず息を呑んだ。

 全くの想定外という訳ではなく、寧ろ洸としては奨励したい事であったが、本当にタカミチがそんな選択をするだなんて思ってもみなかった。確かめるようにタカミチの顔を見詰めてみるが、やはり他の意味に取る事は出来ない。その彼は顔を上げると、瞳に強い意志を宿らせて洸を見詰め返してきた。


「…………君は、どうしてアスナ君を魔法に関わらせようと思ったのかな?」


 穏やかな、それでいて嘘は許さないという凄みを利かせた、タカミチの問い掛けだった。

 あの時――――――ネギが明日菜に問い詰められた時、洸がわざと止めに入らなかった事を、彼は知っている。それは別に、驚くような事ではない。洸自身が望んだ事なのだから。故に、誤魔化す事などは考えず、洸は自らの真意を話そうと思った。

 タカミチには知る権利があり、同時に知る必要もある。

 洸は視線に、タカミチに負けないほどの力を籠める。


「現在の麻帆良は、ある意味では深刻な人材不足です」


 微かな驚きを示したタカミチの動きを、洸は目線で制した。


「たしかに各種人員は充実し、専攻分野では一流と呼んでも差し支えない技術を持った関係者も少なくありません。しかし、私が問題としているのは手足となる彼らではなく頭――――――つまりは近衛学園長の後継者が不在という事です。大した仕事をしていないなどと陰口を叩く者も居ますが、それは学園長が今までに築き上げてきた土台があるからこそです。慌ただしく動き回る必要が無いように、各方面への根回しを続けてきたからこそ、落ち着いていられるのです」


 そこで、洸はティーポットからカップへと紅茶を注ぎ、一口、それを飲む。


「学園長個人のコネクションやネットワークは数多く、そこに存在する信頼関係も同じくです。学園長や理事という地位が与えてくれる力なんて、案外小さなものですからね。それだけだと、内に抱えた爆弾を爆発させかねない程度には」


 僅かに目を伏せて、物憂げに洸は話を続けていく。明日菜だけではない。かつては莫大な賞金を懸けられていたエヴァンジェリンだって、その代表だ。また、それ以外にも扱いに注意が必要な案件は幾つか存在する。

 心当たりがあるのだろう、タカミチは真剣な表情で洸の話に耳を傾けていた。


「学園長は既にかなりの高齢です。今は健康そのものですが、万が一の事態も十分に考えられます。そして彼が倒れた時、その代わりを十全に務められる者など誰一人として存在しません。たしかに通常の運営だけならば問題無いかもしれませんが、それ以外の事にまでは手が回らないでしょう。一応、その人の成長を待つという意見も考えられなくはありませんが――――――」

「――――――まず間違い無く、爆弾のどれかは爆発する」


 タカミチの言葉を、洸は首を動かすだけで肯定する。

 現状を維持する為には近右衛門と同じ志と、彼と同等の力、それも魔法の実力ではなく統率力に顔の広さ、老獪な交渉術といったものが必要となる。その全てを都合良く兼ね備えた優良物件など、そうそう存在する訳が無い。少なくとも、洸が知る限りでは存在しない。

 近右衛門は若手の育成に力を入れてきたが、生憎とその方針の中に彼の後継者という欄は無かった。或いは彼自身も気楽に思っていたのかもしれない、魔法界全体にその名を轟かす若き英雄と懇意にしている事で、自らの死後も安泰だと。


「最低水準に至るまでに、少なくとも五年は掛かるでしょう。これは決して楽観視できるような時間ではありません。特に彼女――――――――神楽坂 明日菜は、何時までも学園内に留まっているとは限りません。この学園を忘れる事は無いでしょうが、将来は外で生活する可能性も考えられ、もしそうなれば、彼女を守る為に一層の注意を向ける必要があります」


 明日菜がその選択をする可能性は決して高くないが、楽観視して足元を掬われるような事があれば本当に笑えない。なればこそ、確実に迎えるであろう破綻よりも前に、機を逃す事無くどこかで危ない橋を渡っておくべきだと、洸は考えている。

 そして、今が好機なのだと、洸も近右衛門も考えたのである。


「何時までも腕に抱えられるだけの赤子で居られては困るんです。これから先も、私達が同じだけの力を持ち続けられるとは限らないのですから、減らせる負担は少しでも減らしていくべきでしょう………………私の考えは、こんな所です」


 言い終えて、洸はカップの中の紅茶を一気に――――出掛かった情けない言葉と共に――――飲み干した。そうして彼女は、話をする為に前へ傾けていた体を、ソファに深くもたれ掛けさせる。同じく体を後ろに倒したタカミチは、白い天井を仰ぎ見て、疲れたように顔を手で覆った。

 長く静かに息を吐き出したのは、はたしてどちらだったのだろうか。


「………………こんな時、君が学園長の血縁だという事を実感させられるよ」

「…………ありがとうございます」


 それから、一拍だけ間を置いて。


「君に、一つだけ頼みたい」


 タカミチは落ち着いた声音で、そう告げた。

 対する洸が何か返事をするよりも早く、彼はその頼みを口にする。


「彼女を見捨てないでほしい」


 たったそれだけの言葉を紡いで、タカミチは口を閉じた。その顔は相変わらず天井を向いており、彼がどんな表情をしているのか、洸には窺い知る事が出来ない。けれど、彼女は十分にタカミチの言いたい事を理解していた。

 だから。


「――――――わかりました」


 同じように、酷く簡潔な言葉だけで、洸は返事をした。












 ――――後書き――――――――


 第七話を読んで頂き、ありがとうございました。

 ネギをメインに据えた話にしようと思いつつ、バレーボールの描写が大変でゴッソリ尺を削ってしまった回でした。多人数で動きのある状況って酷く難しいです。この辺りは今後の課題でしょう。あとはオリキャラ側で色々とありましたが、最後の場面などは土壇場で追加した部分なので、気になった点が御座いましたら御指摘して頂けると助かります。

 全体的に少し荒くなってしまったかな、と見直したら思ったので、気力が湧けば細かい部分で色々と修正が入りそうで怖いです。視点の移し方や地の文の配分など考えてはいるのですが、やはり中々上手くいかないものですね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第八話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/02/15 21:08


 日本という異国の地で始まったネギの教師生活は、日々慌ただしくも順調に過ぎていき、気が付けば三週間が経とうとしていた。一枚捲られたカレンダーが示す通りに、暦の上では春となる三月を迎えたこの頃、ネギは生徒達が勉学に励めるよう一層の努力を尽くそうと意気込んでいる。

 というのも、一週間後に控えた期末試験に備えて先週からテスト週間に入っており、今や中等部全体が勉強一色に染められているからである。試験問題をどうしようかと頭を悩ませている先生方や、明らかに増えた質問に来る生徒達の空気に当てられて、少しでもテストで良い点が取れるようにとネギも張り切っているのだ。

 もっとも、当然の如く生徒達の中には勉強に不熱心な者達もおり、特にネギが担任を務めている二年A組はクラス全体が普段と変わらない賑やかな空気のままなので、ここ最近の彼はその件で頭を悩ませていた。彼女らの姦しさは嫌いではない。それもまた彼女らの長所であると思っているネギは、だからこそ勉強をしろと口を酸っぱくして言うつもりは無かった。


(でもなぁ)


 廊下を歩きながら、ネギは持っていたA組の成績表を開き、その内容を見て表情に影を落とした。学年でもトップクラスの成績を誇る生徒が数人居るが、クラス全体を見れば決して良いとは言えない。学年最低クラスの四人を筆頭にして、半分よりも下の生徒が殆どだ。


(むぅ……)


 個々人の成績とは別に記載してある、クラス平均の項目。そこに書かれている順位は一年の一学期――――麻帆良では学年が上がってもクラスの変動は無い――――の頃からずっと二十四位だった。全二十四クラスの中で二十四位、つまりは最下位という事である。最初からずっと。他の先生方にこの事を尋ねてみても、苦笑いと共にA組だからと返された。

 その事が、なんだか凄く悔しい。別に彼女達は頭が悪い訳ではない。決して優秀とは言えないかもしれないが、丁寧に教えてあげればちゃんと理解出来るだけの素養はあるのだ。やる気さえ出させる事が出来れば、もっと上を狙えるはずなのだ。だからこそ、仕方無いで済ませたくはない。


(頑張ってない訳じゃないんだけどなぁ)


 成績表と睨めっこしながら、ネギは眉根を寄せる。

 不謹慎な考えかもしれないが、見た感じではA組以外にもやる気の無いクラスは幾つかあるから、生徒達が少しでも頑張ってくれれば最下位脱出も夢ではない。折角ネギが赴任してから初めてのテストなのだし、どうせなら思い出に残るものにしたかった。


(本当ならアレが欲しいんだけど…………流石に無理だよね)


 通り掛かった教室の中を覗き見ると、そこには金色に輝く花を模したトロフィーが飾られていた。

 生徒の勉強意欲を促進させるという目的で、麻帆良学園ではクラス単位の平均点で順位を発表しており、見事一位となったクラスには次のテストの時まであのトロフィーが預けられるのだ。だから自分が先生として何か出来た証として、せめて明日菜達が卒業式を迎えるまでに一度くらいはA組に飾りたいと、近頃のネギは思っている。


「あらネギ先生、ちょうどいい所に」

「はい?」


 A組に向かう足を止めぬまま、どうすれば良いだろうかと知恵を絞っていたネギに、後ろから声が掛けられた。彼が振り向けば、右手に白い洋式封筒を持ったしずなが歩いてきている。


「何か御用ですか、しずな先生?」

「えぇ。学園長からコレを預かってきたの」

「――――――え?」


 しずなが差し出した封筒を受け取ったネギの体に、若干の緊張が走る。彼の思考をよぎったのは、また何か失敗でもしたんじゃないかという恐れ。思い当たる事は無かったが、気付かない部分で落ち度があった可能性は、ネギには否定のしようがない。簡単な連絡事項であればメールで済ませる近右衛門がわざわざ紙媒体を用いている事も、ネギの不安を助長する要因だった。


「あっ!?」


 知らず震え掛けた指を止めようと力を込めたら、クシャリと封筒が音を立てて歪んだ。慌てて指を離そうとしたネギは、そこで封筒の表面に書かれている文字を見て目を丸くした。


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」

「で、でもこれ……」

「詳細は中の手紙に書いてあるから、それを読めばわかると思うわ」

「あ、はい」


 ゆっくりと、落ち着いた声音で話すしずなのお陰で、ネギもそれ以上慌てる事は無かった。心の中に波立った静かな驚きと共に、彼はマジマジと渡された封筒を見詰める。白い上質な紙の上に書かれているのは、宛名であるネギの名前と差出人である近右衛門の名前、そして『課題』の二文字だった。












 ――――第八話――――――――












「みなさん、今日も一日お疲れ様でした。期末テストまで残り一週間ですから、少しくらいは勉強してくださいねー」


 ここ最近の決まり文句となった言葉を残して、ネギがHRを終える。そうして日直の挨拶と共に放課後へと完全に突入したクラスの賑やかしさの中で、のどかは席に座ったまま不思議そうに首を傾げて、教室から出ていくネギの姿を眺めていた。

 なんだか可笑しい。何処が変、と具体的に指摘出来る訳ではないけれど、のどかはネギの様子に違和感を覚えていた。初めてのテストを前にして、教師として緊張しているのだろうか。少なくとも授業の時は普通だった気がするのだが、もしかしたらこの数時間で何かがあったのかもしれない。

 一度疑問が首をもたげてしまうとやはり気になるもので、質問に行った時にさり気無く聞き出す事は出来ないだろうかと、そんな事をのどかは考えた。とはいえ、流石に一人で実行する勇気は無い。夕映達にも一緒に行って貰おうと後ろを振り向いたのどかは、ふと視界に入ったクラスメイトの様子に意識を奪われた。


(アスナさん…………)


 最近は夕映だけでなく自分とも仲良くなり始めた彼女が、ネギが出て行った扉の方を見ながら訝しげな表情を浮かべている。

 明日菜もネギの変調に気付いたのかもしれない。そう考えるだけで、のどかは胸の奥にチクリと痛みが走ったような気がした。彼女の事は嫌いではないし、自分の応援をしてくれているのだから、こんな感情を抱くのは不謹慎なのかもしれないけれど、それでものどかはネギと近しい立場に居る明日菜を羨まずにはいられないのである。


(…………ッ)


 誰かを好きになるというのは、不思議な事だとのどかは思う。最近は吸い寄せられるように視線がネギを追っており、ただ近くに居るだけでも胸が熱くなる。話していれば頭の中がふわふわとした幸せな気持ちになって、時には自分でも可笑しいと思えるくらいに大胆な思考をしてしまう事もあった。

 夕映達には一目惚れと言ったけれど、まさしくその通りだ。

 初めて教室に入ってきた時の緊張した様子や、クラスメイト達の質問責めに目を回している姿は素直に可愛いと思った。同時に、子供だけど大丈夫だろうかとも。けれど、クラスメイトが離れ、自己紹介をしようとした時にネギが見せてくれた、輝くような澄んだ瞳が、鮮烈な印象を与えてくれたのだ。

 それこそ、一目惚れとしか言い様が無い。本当に、たったそれだけの事で、心奪われてしまったのだから。経験の無い胸の高鳴りに、頭から離れないネギの姿。初めは戸惑う事しか出来なかったけれど、今ならハッキリと分かる、これが恋なのだと。ネギの一面を知る度に、否、彼と共に居るだけでも際限無く惹かれてしまいそうだ。


(っと、いけない)


 気付けば思索に耽っていた己を、のどかは戒める。元から本の世界に没入し易い性質ではあるのだが、最近は読書中以外でも思考の海を彷徨う事がある。ネギの事を考えている時だ。夕映にも時折注意されるのだし気を付けなくてはと、のどかは気を引き締めた。

 そうして彼女は鞄を持って立ち上がり、夕映達の居る場所へと歩いていった。




 □




「いつも通りだと思ってたけど、やっぱ恋する乙女は違うねぇ」


 放課後になったばかりで人通りの多い廊下を、夕映にのどか、ハルナの三人が歩いている。のどかの頼みでネギに質問をしに行く途中であり、向かう先は職員室だ。当初はこれに加えて明日菜と木乃香も誘ったのだが、アチラはアチラでタカミチの所へ行くつもりだったらしく、それならば仕方無いと別行動になった次第である。


「私も特に違和感は無かったように思いましたが…………まぁ、のどかが言うのなら間違い無いでしょう」


 各々手には英語の教科書を持ち、腕や肩には鞄を提げている。擦れ違う生徒の中には同じように教科書を持っている人が居たり、通り過ぎる教室を見ればノートと格闘している者も居る。そんな、期末試験を前にして熱が高まっている学園の空気を肌で感じ、夕映は苦笑した。なんだか、自分達まで真面目な生徒になったみたいだと。

 ハルナも同じ事を考えていたのか、軽く辺りに視線を巡らすと、彼女は感慨深そうに口を開いた。


「しっかし、私達が授業の事で質問に行くとはね~。ちょっと前までは考えられなかった事だよ」

「まぁ、動機は不純ですけど、ちゃんと身に付くのですから勘弁して貰いましょう」


 夕映の言葉に、ハルナがにししと笑う。お互い、決して優秀な生徒ではないのだ。


「そうかなー? 最近の夕映は凄く頑張ってると思うけど……」

「アハハ! ダメダメのどか。夕映なんか不純の塊じゃん。前は六百八十番とかでバカレンジャーって呼ばれてたのに、この間のテストだと七十九番だよ? もー、アンタどんだけ先輩が好きなのよ! ってね」

「…………まぁ、否定はしないですけどね」


 面を膨らしながらも、夕映はそう言った。

 実際、洸に勉強を見て貰うようになってからは、飛躍的に成績が上がってきている。正直、夕映自身でも信じられないほどに。これも偏に洸の教え方が良いからだと言いたい所だが、一概にそうとも言い切れない。確かに洸が教え上手だというのは事実だが、それ以上に彼女が勉強を見てくれるという事に意味があるのだ。

 やる気が違う。それこそ朝から晩まで勉強漬けでも構わないと思えるくらいに。洸と一緒に居られる事を思えば、あれほど嫌いだった勉強も読書と同じくらいに楽しく感じられて、その成果はテストの点数として明確に表れていた。


「そういえば。ゆえー、今日は図書館島に行くの?」


 途端、夕映は不愉快げに眉を顰めた。


「…………先輩は今日、友達とお出掛けらしいです」


 だから、図書館島に行く意味は無い。否、洸が薦めてくれた参考書を利用するのならば無いとは言い切れないが、夕映にとってそんなものは微塵の価値も無い。彼女が好きなのは、あくまでも洸と一緒に過ごす時間であり、勉強をする事ではないからだ。

 そんな夕映の内情を理解しているのか、顔を見合わせたのどかとハルナは眉尻を下げた。勿論、夕映は彼女らの様子に気付いている。しかし胸の裡にわだかまった感情は如何ともしがたく、困らせると分かっていても平静を装う事は出来なかった。今頃は顔も知らぬ誰かが洸と街を歩いているのだろうかと考えると、見当違いだとは思いつつも、憂鬱な気分になる。

 一つ、溜め息。


「……?」


 と、同時。鞄の中の携帯電話が震えた。腕に微かな振動を伝えるだけのそれに夕映が気付けたのは、全くの偶然だろう。けれどメールの差出人を確認した夕映は、自らの女の勘が働いたのではないかと、思わずそんな事を考えてしまった。


「ッ!」


 近衛 洸。差出人の名前だ。

 俄かに沸き立った感情を抑えながらメールの内容を確認した夕映は、


「――――――え?」


 呆然と、気の抜けた様子で声を零した。








 ◆








 暦の上では春を迎え、日々の天気にも恵まれた所為か、心なしか街を歩く人々の表情も穏やかになり、その数も増えたように感じられるこの頃、とある喫茶店の中に洸とエヴァンジェリンの姿があった。お茶の時間を楽しむには丁度良い時間帯である為か、決して広いとは言えない店内はそれなりの客で賑わっていたが、二人はそれらから少し離れた奥の方の席に座っている。

 例の一件から、およそ二週間振りとなる顔合わせだった。とはいえ、品の良い木製テーブルに向かい合って座る彼女らの間に緊張した空気は無く、至って自然な雰囲気に包まれている。待ち合わせた当初こそ若干のぎこちなさを感じさせたが、そこは十年近い付き合いのある親友同士、一応の決着がついた今、ホンの僅かな会話だけでいつもの調子を取り戻していた。


「期末試験でクラスの平均点が学年最下位ならぼーやはクビ――――――――面白い事を考えるじゃないか」


 落ち着いた洋楽をバックに、エヴァンジェリンは楽しげな口調で話す。彼女の小さな手には先程運ばれてきた紅茶のカップが握られており、香り立つ湯気の向こうでは小悪魔を思わせる意地悪そうな笑みを浮かべている。対する洸は、紅茶に少量のミルクを注ぎながら、気難しそうな表情で答えた。


「正確には実習期間の延長だよ。それに、コッチとしては面白いなんて言ってられないしね。見習い魔法使いが教師をやるだなんて前代未聞だから、色々と頭を悩ませてる。まったく、修業内容を精霊任せにしてるからこんな事になるんだよね。ある程度は勝手に決めてもいいと思うのに、本国のお偉いさんはそれだと認めてくれないし…………」

「それでも真面目にやる辺り、実にお前らしいよ」


 クツクツと喉の奥を鳴らしながら、エヴァンジェリンは口元へとカップを運んだ。ダージリン特有の爽やかな香りが口の中に広がり、その質の良さに彼女は頬を緩める。


「しかし目的はなんだ? 面倒な『課題』なんぞ与えずに、さっさと雇えばいいだろうが」

「安心させる為だよ、一般の先生方をね」


 綺麗に混ざったミルクティーを一口飲んでから、洸はそう答えた。


「子供が教師をやるっていうのは色々と無理があるからね。一般の先生方の中には不安に思ってる人も多い。書類の上ではちゃんとした教師のネギ君だけど、やはり子供は子供、大丈夫かなと疑問を抱くのは、まぁ自然な事だよね」


 洸はカップをテーブルの上に置くと、今度は中央にあるクッキーの盛られた皿へと手を伸ばす。焼き立てなのか、まだほんのり温かいバタークッキーを一枚摘まんだ洸は、瑞々しい桜色をした唇にそれを挟むと、パキリと音を立てて二つに折った。

 モグモグと、少し頬を膨らせて咀嚼していく。


「だから、そんな人達を少しでも安心させる為に、教師としての実績を作って貰う必要があるの。そして都合の良い事に、A組には万年最下位という実に分かり易い指標が存在する。ちょっとでも順位を上げれたら、教師としての実力があると言えなくもない」

「不安が不満に変わる前に、ガス抜きをしようという訳か」


 刹那、自然な動作で洸が持っていた残り半分のクッキーを奪い取ったエヴァンジェリンは、それを自らの口へと放り込んだ。あまりに予想外の略奪劇。サクサクと音を立ててクッキーを咀嚼するエヴァンジェリンを、洸は目を丸くして見詰めている。そうしてクッキーを完全に食べ終えると、エヴァンジェリンは獲物を甚振る猫のような表情をして口を開いた。


「どうした? 何か問題でもあったか?」

「……………………」


 暫く考え込むように沈黙していた洸は、やがて緩慢な動作で首を振ると、落ち着いた声音で話し始めた。


「ううん。あんまりにも色気に欠けてたから、少しビックリしちゃっただけ」


 洸の言葉に、今度はエヴァンジェリンの方が虚を衝かれたと目を丸くする。

 だがそれも一瞬の事で、すぐに口を三日月形に歪めた彼女は、堪らないと言わんばかりに笑い出した。


「クッ、ハハハ――――――いや、スマンな。こういった事には不慣れなんだ、次は善処しよう」

「期待してるよ。ま、この二週間でシッカリ充電した洸さんは無敵だけどね」


 今度はチョコクッキーを手に取った洸は、それを直接エヴァンジェリンの口元へと運んだ。あーんと、楽しそうな表情で言ってのける洸の様子を眺めながら、エヴァンジェリンは素直に口を開ける。そうすれば、甘味の強いチョコクッキーが唇の間に挿まれる。


「とりあえず、そろそろ話を戻そっか」


 笑顔のまま、可愛らしく小首を傾げた洸の問い掛け。モグモグと口を動かしながらエヴァンジェリンが頷くと、洸は脇に置いていた鞄から一枚の紙を取り出した。A4サイズのそれを洸から受け取ったエヴァンジェリンは、ザッとその内容に目を通していく。


「――――――ふん、なるほどな」


 一通り読み終えたエヴァンジェリンは、そんな言葉を漏らす。紙に書かれていたのは、最初の試験から前回の試験までの、各クラスの平均点を折れ線グラフにしたものだった。彼女が在籍する二年A組の線がどれなのかは、すぐに分かる。一番下にあるものを見ればいいのだから当然だ。

 ただ、こうやって少し見方を変えるだけで、新しく見えてくるものもある。


「最初のテストだと二十三位とは7.3点差があった。かなりの差だね。けど、前回のテストではそれが僅か0.3点差にまで縮まってる。そこに至るまでの経過は、そのグラフに書いてある通りだよ。テストの難易度による得点の変動はあっても、二十三位との得点差が広がった事は無い。ここ数回の伸びは特に良いしね」

「タカミチの置き土産という訳だ」


 こくりと、洸は笑顔で頷いた。


「正しくは先生方の努力の賜物だけどね。まぁそんな訳で、ちょっとした起爆剤でもあれば高確率で最下位脱出は約束されてるの」

「胡散臭いやり口だな。納得しない奴も出るんじゃないのか? 気付いてる奴だって居るだろ」

「最下位脱出には変わりないよ。成績を落とさないというだけでも、立派に役目は果たしてるしね。もし二十位くらいになれたら、これはもう認めざるを得ないだろうし、その為の手段も考えてあるよ」


 勿論、正攻法で。と、そう言って目を細めた洸を見て、エヴァンジェリンは不審げに眉を寄せる。それは真っ先にエヴァンジェリンが思い浮かべた手段が、彼女にとって些か面倒なものだったからだ。


「私にテストを真面目に受けろとでも言うのか?」

「ううん。エヴァに言っておきたいのは、わざと低い点を取らないようにって事。イジワルはダメだよ?」


 自らの推論を否定し、まるで子供を嗜めるように話す洸に、エヴァンジェリンは口を尖らせる。彼女は頬を膨らませると、不愉快だといった様子でカップに口をつけた。先程からの態度も含めて、実は本当に意識されてないんじゃないかと、そんな気がして凄く悔しい。洸もそんなエヴァンジェリンの雰囲気で察したのか、眉尻を下げながら口を開いた。


「もー、そんな事で怒らないでよ。なんだか私ま――――――ッ」


 洸が言い終わる前に、エヴァンジェリンは彼女の胸元を掴んで自分の方に引き寄せた。自らも身を乗り出し、そうやって互いの息遣いが聞こえるほどに顔を近付けると、洸は目を見開いたまま喉を鳴らす。驚きで揺れる黒色の瞳を間近で見詰めながら、エヴァンジェリンは空いていた方の手を洸の顎へと添える。

 微かに身を震わせた洸の吐息が、エヴァンジェリンの鼻に掛かった。


「………………」

「………………」


 共に、何も言わない。

 観葉植物が障害となり、周囲からこの席は見辛い。また注意が逸れ易いよう、洸が小細工をしている。つまり、邪魔者は存在しない。その事を理解しているからこそ、エヴァンジェリンは黙ったまま洸の顔を少しだけ下へと向けた。どちらかが、ホンの僅かにでも相手に近付けば、互いの唇が触れ合うように。

 それでも洸は石像のように固まったままで、だからこそエヴァンジェリンは大きく口を歪めて笑みを形作った。


「――――――私としては、この手を振り払わない理由を聞きたいんだがな?」


 酷く甘い声で、エヴァンジェリンが呟く。


「ッ!?」


 それから、三秒後。沈黙していた洸はようやく言葉の意味を理解したのか、即座にエヴァンジェリンの手を払い除け、音を立てて体を後ろに倒した。普段は透き通った白色をしている彼女の顔は耳まで赤く染まっており、興奮からか、桜色の唇は小刻みに震えている。

 彼女の様子を見て、エヴァンジェリンは満足そうに頷いた。洸とは対照的に落ち着いた動作で席に着いた彼女は、今の騒ぎでも零れる事の無かった紅茶へと、悠然たる態度で口をつける。


「…………この、バカ吸血鬼」


 暫くエヴァンジェリンの様子を見ていた洸は、絞り出すようにしてそんな言葉を呟いた。








 ◆








 日が沈む直前の茜色に染まった帰り道を、ネギはトボトボと歩いている。隣には明日菜も木乃香も居ない。教師としての仕事が増えてきた最近はこうして帰宅時間が合わない事も多く、ネギは少しだけ寂しく感じていた。けれど、同時にそれはネギが日々進歩している事の証左でもあり、寂寥感を押し流すほどの充足感も存在している。

 それに、今日みたいに本当に一人だけで帰るというのはまだ二回目だ。明日菜は隠したがっていたようだが、やはり同じ建物に住む者同士だと鉢合わせる機会はままある。日を置かずして、ネギが明日菜達と同居している事はバレていた。その為こうして帰り道を歩いていると、偶々時間帯が合った生徒と出くわして、そのまま一緒に帰る事も多い。

 ただ今日のネギは、部屋に帰るまで誰にも会いたくないなと、そんな事を考えていた。


「…………」


 コートのポケットから、ネギは微かに皺が入った封筒を取り出す。学園長から送られてきたこれには、ネギの『課題』に関して色々と書かれている。彼はその内容を正確に理解していたが、何か特別な行動を起こそうとは思わなかった。

 もしも生徒達に話したならば、きっと協力してくれるだろう。全員が、ではないかもしれないし。全力で、という訳でもないかもしれない。だが、クラスの平均点は確実に上がるはずだ。そうなれば、ほぼ間違い無くネギは『課題』をクリア出来る。

 理解している。否、信頼している。

 だから、誘惑はあった。この修業を無事に終える事はネギが目指す夢への第一歩でしかなく、こんな所で躓きたくは無い。また、初日のミスもある。これ以上の失敗は、もしかしたら修業に大きな影響を及ぼすかもしれない。それでもネギは、生徒達の協力を仰がないと決めたのだ。理由はある。少し子供っぽいと、彼自身でも思うものが。


「あっ」


 気付けばネギは、寮に着いていた。考え事をしている内に随分と歩いていたらしい。慌てて周囲を見回したネギは、近くに誰も居ない事に胸を撫で下ろした。今は、生徒とは顔を合わせたくない。明日菜と木乃香に関しては心の準備が出来ているのでいいのだが、例えば放課後に質問をしにきたのどか達には、思わず相談しそうになってしまった。


(そういえば少し様子がおかしかったけど、何かあったのかな?)


 寮の扉を潜り、エレベーターへと向かいながら、ネギは先程会ったのどか達の事を思い返す。あの時はネギ自身も慌てていて気にしなかったが、今思えば何処かぎこちない様子だった気がする。もしも悩みがあるのなら、相談に乗った方が良いかもしれない。

 そう考えながら降りてきたエレベーターに乗り込もうとしたネギは、


「え?」

「あっ」


 エレベーターに乗っていた明日菜と目が合った。

 見詰め合ったままお互いに沈黙していたのは、二秒ほどだ。すぐさま気を取り直した明日菜が、柳眉を逆立ててネギの腕を掴む。その力強さに思わず身をよろめかせたネギにも構わず、明日菜は強引に彼をエレベーターの中に引き摺り込んだ。


「来なさいっ!!」


 ネギの耳元で叫ばれた明日菜の声には、かつて彼が聞いた事が無いほどの怒気が含まれていた。




 □




 ネギ=スプリングフィールド教育実習生が来年度から正式に教師として採用される為には、彼が担任を務めている二年A組の期末試験におけるクラス平均点が二十三位以上となる必要がある。もしも今回の試験で学年最下位であったならば正式採用の話は一時流れ、また別の機会になんらかの評価試験が行われる。

 それが、学園長である近右衛門がネギに課した『課題』であるらしい。夕映からのメールでこの事実を知った時、明日菜は驚くと同時に納得もしていた。どうにもHRの時のネギは様子が可笑しかったのだ。話す声には力が入っていなかったし、いつもはシッカリと生徒を捉えている視線も彷徨いがちだった。絶対に何かある。そう思っていた矢先の連絡に、明日菜は溜め息をつくしかなかった。

 また、胸の裡にある何かに火が付いたのを、明日菜は感じていた。

 悩んだ末に寮の前でネギを待ち構えようと決めたのも、今、ネギを床に正座させてこの件について問い詰めているのも、きっとそれが理由だろう。幸い、木乃香は此処に居ない。夕飯の食材を買ってから帰ると言っていたので、今頃はタイムセールの荒波を泳いでいる事だろう。だから、今なら思う存分に話し合える。


「で? どーしてアンタは、そんな大切な事を言わなかったのよ?」

「むぅ……」


 不服そうに口をヘの字に曲げ、ネギが唸る。

 その態度が、明日菜の癇に障る。言い様の無い苛立ちがお腹の底に溜まり、それにつれて目つきがキツくなっていくのを、彼女は自覚していた。だからといって、この気持ちを治めるつもりは無い。寧ろ一層の怒りを表現するように、明日菜は真一文字に口を結んでネギを睨み付ける。

 それでもネギは、何も言わない。大きく丸いブラウンの瞳にありったけの不満を籠めて、彼は明日菜を見上げている。気に入らない。そうは思うが、こんな事で怒っては駄目だと、明日菜は大きく息を吐いて気分を落ち着けた。


「アンタ、一人前の魔法使いになりたいんでしょ? その為に先生やってんでしょ? だったらこーいう大切な事は隠さずにさ、クラスのみんなに協力してくれるよう頼めばいいじゃない。みんなだってアンタの事は気に入ってるし、すぐ力になってくれるわよ」


 ふるふると、駄々を捏ねる子供のようにネギが首を振る。


「――――――ッ。あぁ、もう! わけわかんないっ!!」


 苛立ちを紛らわすように、明日菜は自らの髪を掻き乱す。

 不愉快だった。ネギが自分達に頼ろうとしない事も、力になれると胸を張って言えない自分自身も、とにかく面白くなかった。


「…………だって」

「なによ?」


 一瞬だけ、今まで以上に強く口元を結んでから、ネギは不貞腐れたような表情で話し始めた。


「だって、悔しいじゃないですか」

「……………………はぁ?」


 呆気に取られた様子の明日菜には構わず、微かに目を潤ませて。


「たしかに、みなさんなら僕の為に頑張ってくれると思います」


 膝の上に乗せた拳を、ネギは震えるほど強く握った。


「僕……先生になって一杯頑張ってきたんです。プリントを作りましたし、授業のやり方も色々考えました。それなのに生徒の優しさに甘えるなんて――――――――凄く、凄く悔しいじゃないですか! 先生なのにっ! 沢山やってきたのにっ!!」


 最後には半ば叫ぶようにして話し終えたネギに対し、明日菜は驚きで何も言えなかった。

 ネギは大人しい優等生だと、明日菜は思っている。声を荒げた所など見た事が無いし、クラスメイト達にからかわれ続けても全く文句を漏らさない。明日菜にとっては面倒極まりないと思うような仕事だって平然とこなしている上に、色々な先生に自分からアドバイスを貰いに行く事も多い。そんな、絵に描いたような優等生だ。

 お陰で、当初は多少の心配をしていた同居生活も特に問題は無く、時折ネギが見せるちょっとした失態も、苦笑と共に受け入れる事が出来ていた。だからこそ、この事態に対して驚きが大きい。子供っぽい所があるとは思っていたが、それでもこんな言葉がネギの口から出てくるだなんて、明日菜は考えていなかった。


「………………」

「………………」


 目に涙を溜めて、若干肩を上下させているネギと、その対面で正座している明日菜。喉を唸らせて警戒する野良猫のような強い意志が籠ったネギの視線を受けていた明日菜は、暫く何も言わずに見詰め合った後、頭痛を抑えるように自分の額へ手を当てた。


「――――――最下位だったとしても、クビとかそーゆーのになる訳じゃないのね?」


 こくりとネギが頷いてみせると、明日菜はしかめっ面をして、これ見よがしに大きな溜め息を吐いた。それから左右に首を振った彼女は、不機嫌さと呆れを滲ませた声で、次のような事を言った。


「わかったわよ、好きにしなさい」

「…………へ?」

「だーかーらぁ、わかったっての」


 目を見開いたネギを正面から見据える明日菜の渋面は、決してその言葉が決して本意ではない事を物語っている。

 事実、彼女としては不本意極まりない。A組の駄目さ加減をよく知っており、その筆頭でもある明日菜からすればあまりにも分の悪い賭けであるし、もしも最下位を脱出出来なければ、ネギの事を気に掛けているタカミチはさぞ残念がるだろう。それは、明日菜にとって本当に心苦しい事だ。


「はぁ。ったく」


 けれど明日菜は、前言を撤回する気は無かった。


「アンタがそこまで言うんだったら、もう反対しないわよ。ハルナ達には私からちゃんと説明しといてあげるから、安心しなさい」


 子供にしては随分と聞き分けの良いネギがここまで言うのだから、無理に反対しようとまでは思えない。完全に納得出来た訳ではないが、それでも明日菜はネギの意思を尊重する事に決めた。きっとタカミチもこうするだろうと、そう考えれば収まりもつく。


「い、いいんですか……?」

「まぁ、アンタの問題だしね。そう五月蠅く言うつもりは無いわよ」


 若干顔を逸らして話す明日菜の言葉は、どこか素っ気無い。

 それでもネギは嬉しそうに瞳を輝かせて、口元を綻ばさせた。


「ありがとうございます! 僕、一杯頑張りますね!!」

「はいはい、頑張んなさい」


 ヒラヒラと手を振り、この話はこれで終わりだと、明日菜は髪を揺らして立ち上がろうとする。そんな明日菜に、ネギが声を掛ける。明るく弾んだ、実に子供らしい元気のある声だった。


「それじゃあ晩御飯まで勉強しましょう! 実は予想問題を作ってみたんですよ!!」

「………………えぇ!?」








 ◆








 相坂(あいさか) さよはテストが嫌いだ。

 これだけを聞けば割と何処にでも居る生徒だと言えるかもしれないが、彼女の事情は少しばかり特殊である。さよは、別に勉強が嫌いな訳でも、テストを受けるのが厭な訳でも無い。授業で学ぶ内容で頭を悩ませるような事は無いし、テストの問題を解くのが面倒だとも思っていない。さよは非常に真面目な生徒なのだ。

 ならば、どうして彼女はテストが嫌いなのか。別に、難しい理由ではない。単純に、さよがテストを受けられない状況にあるからだ。そう、受けられない。日々の授業には一度も休まずに参加している彼女は、しかし一度としてテストを受けた事が無かった。


 ――――――幽霊だからだ。


 より正確な表現を用いるならば、地縛霊と呼ばれる存在に相当する。彼女自身、何時頃から幽霊となったのか記憶が定かではないが、気付いた時にはこの学園の中に居たのだ。それも、何故か生徒の一人として。

 生前の自分は学園生だったのだと、今では見なくなった古いタイプの制服を着ている事から判断しているさよだが、未だに彼女の名前が名簿に載っている理由は知らなかった。ただ、昔はその件で頭を悩ませていた彼女ではあるが、何十年と経った今ではまるで気にしていない。考えても答えは分からないと思ったからであるし、何より、クラスメイトが居るという現状に満足していたからだ。

 幽霊であるが故にその姿を見れる者はおらず、声を届けられる相手も見付からないさよだが、だからこそ、彼女はクラスメイトの事が好きだった。賑やかしく教室の中で騒ぐ彼女達に囲まれていれば、まるで自分もその輪の中に混ざっているように感じられ、常日頃から胸にわだかまっている寂しさが紛れるのだ。

 そして、彼女がテストを嫌う最大の理由は此処にある。


「はぁ……」


 外では日が落ち、室内の明かりすら落ちた暗い教室の中で、さよは嘆息する。普段であれば人気や明かりを求めて近くのコンビニまで足を伸ばしている時間だが、今日の彼女は考え事をしていた所為で未だに教室に残っていた。


(今回も0点なのかな…………0点ですよね)


 麻帆良学園の定期試験では、二十年ほど前からクラス毎の平均点に順位をつけるようになっている。目的は生徒達の競争心を煽る事にあり、当時徐々に増え始めていた試験サボり対策の一環として導入された制度だ。

 基本的にエスカレーター式で進学出来る麻帆良学園では、極端な事を言ってしまえば一度も試験を受けなくても高等部まではほぼ確実に上がれる。そこで当時問題になったのが、試験サボりである。内申書など関係無いと考えた生徒の中に、面倒だからと試験を休む者が居たのだ。全体で見れば決して多いとは言えない数だったが、周囲に悪影響を及ぼす可能性もあり、放っておく訳にはいかなかった。

 この問題の対策として講じられた訳であるから、クラスの平均点を出す時には一つのルールが適用される。それは、休んだ者も平均点を出す時の母数に含めるというものだ。つまり休んだ者の数だけ全教科0点の生徒が増え、平均点が大幅に下がるという訳である。勿論サボりの生徒を対象としているので、医師の診断書などで正式に欠席したのだと証明出来る者は除外される。

 ただ、何事にも例外は存在するものだ。


(また最下位になっちゃうのかな)


 さよにテストをサボるつもりは無い。寧ろ彼女はテストを受けたいと常々思っている。けれど彼女の姿を見れる者はおらず、その声は誰にも届かない。結果としてテストを受けられず、また診断書などを用意出来ないさよは、必然的にサボり扱いとならざるを得ない。

 彼女は、それが嫌だった。

 二年A組が万年最下位の烙印を押されている一因が自分だという事を、さよはよく理解している。クラスの力になる事が出来なくて、逆に足を引っ張るばかりだという事を、否と言うほど自覚している。

 だから彼女は、テストが嫌いなのだ。


(そういえば、どのクラスでも一位を取った事が無いような…………)


 窓際最前列の、六十年前からずっと指定席となっている自分の席に、さよは体を預ける。

 こんな風に、まったく物に触れない訳ではない。生き物相手は無理でも、無生物であれば触れるくらいは出来る。身近にある軽い物、例えば筆記用具などであれば、割と簡単に動かす事も可能である。だから環境さえ整っていれば、テストは受けられるのだ。

 でも、それは無理な願いなのだろう。

 吐息を漏らしたさよは、机に頬をくっつけて誰も居ない教室に視線を巡らせた。昼間は賑やかで温かなこの場所も、夜になれば一転、しめやかで冷たい空間になる。その雰囲気は暗くて、寂しくて、何より怖い。

 だからか、寒さなんて感じないはずなのに、さよの体が小さく震えた。

 地縛霊とはいえ、さよは行動範囲に多少の融通が利く。その為近場にコンビニが出来てからは、明かりと人気のあるそこで彼女は夜を過ごしていた。お陰で随分と久し振りになる夜の学校が、以前にも増して恐ろしく感じられる。


「うわわっ」


 早くコンビニに行こうと、慌ててさよは席から立ち上がる。

 その時だ。ガラリと音を立てて、教室の扉が開いたのは。


「ひぁっ!? ――――――あ、なんだ」


 何事かと足の無い体を跳ね上がらせたさよは、教室の出入り口に立つ人影を見て胸を撫で下ろした。先生が見回りに来たのかと、そう思って扉を開けた人物の顔を確かめようとした彼女は、すぐに首を傾げる事になる。

 教室に足を踏み入れたのは、一人の女性だ。上背のある体躯に、腰元まで伸ばされた癖の無い艶やかな黒髪。窓から射し込む月明かりで辛うじて判別出来る面立ちは、ややつり上がった目を持ちながらも柔和な印象を抱かせてくれる。年齢はおそらく二十前後だ。

 教師ではない。勿論、生徒であるはずもない。しかしさよは、その人物に見覚えがあった。何故なら、今のクラスメイトの一人と非常によく似た顔立ちをしているからだ。細部の造りは異なるし、体つきともなれば大きく違いがあるが、姉妹と言われれば誰もが納得してしまいそうなほど似ている。

 と、そこまで考えてから、さよは気付いた。

 この女性がクラスメイトに似ているのではなく、クラスメイトがこの女性に似ているのだと。二年前にも同じような出来事があった。昔のクラスメイトそっくりの女の子を入学式で見た時にも、さよは同様の感想を抱いたはずである。


「近衛――――洸さん――?」


 意識せず、さよは女性の名を口にしていた。誰かに向けた訳ではない。元より誰かに届くものでもない。ただ驚きから、自然と漏れただけの言葉だ。返事の無い問い掛けの空しさを、彼女はよく理解している。

 だからさよは、次に聞こえてきた声に耳を疑った。


「あ、覚えててくれたんだ。嬉しいな」

「………………え?」


 女性、洸は間違いなくさよの言葉に返事をした。それは、有り得ない事である。今までだって、さよの存在に気付いた者が居なかった訳ではない。この教室に長らく伝わる幽霊の噂とは間違い無く彼女の事であり、興味本位で生徒達が正体を暴こうとした事も、霊能者を呼ばれた事もある。

 それでも、さよの姿を明確に認識出来た者は居ない。声を聞けた者も居ない。

 だから、こんな事は有り得ない。そう、思うのに。


「久し振り、相坂さん。五年振りかな? まぁ、あの頃の私には見えてなかったんだけどね」


 記憶にあるものよりも幾分か大人び、また柔らかさを増した笑みを浮かべて、洸が歩み寄ってくる。彼女の黒い瞳は間違い無くさよを捉えており、その言葉が向かう先も同じくだ。もう、訳が分からない。さよにとっては非常識極まりない状況に、思考が追い付かない。それでも確実にさよの動悸は激しくなっていき、何かを期待するように洸を見詰める視線に熱が籠もっていく。


「さてと、何から話そうか色々考えてきたんだけど…………」


 顎に手を添えた洸は僅かに考える素振りを見せ、一瞬、彼女の視線がさよから逸れる。すると、まるで金縛りが解けたかのようにさよは動き始めた。慌てて手を動かし、口を何度も開閉させて洸に話し掛けようとする。でも、何を言えばいいのか分からなくて、その事が余計に頭を混乱させて、結局は声を出せぬままに時間が過ぎていく。

 そうこうしている内に、再び洸が口を開き、


「テスト――――――受けてみたくない?」


 月光に照らし出された相貌に朗らかな笑みを刻んで、彼女はそんな事を言ったのだ。












 ――――後書き――――――――


 第八話を読んで頂き、ありがとうございます。

 とうとう期末テストイベントに突入です。様々な要因により図書館島イベントの方は無くなりましたが、他の所で埋め合わせていこうと思っています。そんな理由もあり、幽霊な子に登場して貰いました。地味に恋愛キャラ候補なのですが、基本方針としてはオリキャラの友達として活躍して貰うつもりです。数少ない、というか二人しか居ない同級生キャラですしね。

 あと、申し訳ないのですが来週の更新はありません。ここ暫くは一話ストック状態でリレーしてきたのですが、この度ついにストックを切らしてしまったので、一週間掛けて一話分ほどストックを作ろうと思います。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 閑話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/02/15 21:06


 幽霊を始めてから六十年余りが経ち、その間、さよは学園に関係する事ならば色々と経験をしてきた。修学旅行といった学園を離れる行事は流石に無理だが、学園内であれば可能な範囲ギリギリまで行動しようとするのが彼女だ。体育祭や学園祭は勿論、以前あった学園創立百周年記念祭などといった一度限りの行事にも欠かさず参加しているし、日常生活でも思い出したように高等部や大学部に訪れる事があり、昔のクラスメイトが成長がした姿を眺めたりしている。他にも研究室でやっている実験を見学したり、図書館で本を読んでいる人の後ろから一緒になって読書に勤しむ事もある。

 ただ、そんな彼女でも未だに経験していない事が、当然ながらある。授業で発表出来ないなどといった事は問題の根本的な解決が困難なので除くとしても、根が真面目なさよは、あまりルールから外れるような行動は出来ないのである。今の状況などは、まさにそれだ。本日、初めて自分の意思で授業をサボる事となった彼女は、数時間経った今でも落ち着かない様子で辺りを見回していた。


「うわー。街中なのに人が一杯ですね。この人達もサボりなんでしょうか?」

「違う違う。大学部は春休みだし、高等部でも卒業式は終わってるからね。殆どはそういった人達だよ」


 どこか感心した様子で声を漏らしたさよに対し、洸が苦笑を浮かべて説明する。彼女の言葉通り、二人の周囲を行き交う人々の多くは十代後半から二十代前半と思われる外見をしており、さよは納得したとばかりに何度も頷いた。


「なるほどー。中等部も来週が卒業式ですしね」


 彼女達が歩いているのは、学園都市内部に複数存在する商店街の一つだ。昔からあるこの商店街は学園校舎に合わせて欧州を意識したデザインの建物が並んでおり、加えてさよが拠点としている女子校エリアから近い事もあってか、彼女にとって非常に馴染み易い雰囲気をしている。前を歩く洸の背中を追い、ゆっくりと移り変わる街の景色を視界に映しながら、さよはその事を実感していた。


「調子はどう? この辺りはいい感じ?」

「はい。学校ほどじゃないですけど、凄くいい感じです」

「ふむ……なるほどね」


 カモフラージュとして携帯電話に話し掛けながら、洸は器用に右手だけで小型の手帳に何かを書き込んでいく。やがて書き終えた洸が手帳とボールペンを仕舞い込むと、それまで黙って眺めていたさよが話し掛けた。


「あのー。朝からずっとやってますけど、なんの意味があるんですか?」


 朝早くにさよを伴って外出した洸は、学園都市の各地域を練り歩きながら、こうして彼女に調子を尋ねている。

 住宅街と中等部を始めとして高等部に大学部、図書館島や世界樹などを巡る中で、その意味を理解しないまま洸の質問に答え、学校をサボって付いてきたさよだが、ふと疑問が首をもたげたのである。


「コレ? コレはさよがどんな性質を持っているのか調べてるんだよ」

「はぁ……そうなんですかー」


 よく意味が分からないといった様子で声を漏らすさよに対して苦笑すると、洸はそれほど広くない横道へと入っていった。

 煉瓦敷きの道を行き交う人々の数は途端に少なくなって、並び立つ商店の雰囲気もどこか落ち着いたものへと変わる。控え目に看板を掲げた喫茶店や、窓の向こうに可愛らしい小物を陳列したアンティークショップ。楽器店の前では一人の男が釘付けになっており、隣の古本屋では数名の客が小難しそうな分厚い本を見繕っている。

 そんな道を変わらぬ調子で歩きながら、洸は話を続けた。


「たとえばココだと、少し調子が良くなるでしょ?」

「ん~……あ、ホントですねっ」


 洸に言われた通り、僅かではあるが調子が良い事に気付き、さよは目を輝かせた。齢六十を数える幽霊でありながらも、子供みたいな様子を見せるさよを横目で眺めつつ、洸は次の言葉を継いでいく。


「基本的には中等部校舎から離れていくほど力は落ちる。でも完全に無くなる訳ではなく、ある程度弱くなった段階でそもそも離れる事が出来なくなる。勿論、例外はあって、学園の校舎に分類される場所――――――高等部校舎や、大学部の研究棟なんかでもそれなりに調子は良くなるみたい。あとは…………ココみたいな欧州風の建物とか、世界樹の近くもそうだね」


 先程仕舞った手帳を取り出して確認しながら、洸は再び横道に入っていく。すると今度は商店街から抜け出る道だったようで、視界に入ってきたのは近代的なデザインの建物が立ち並ぶ住宅街だった。付近には特にアパートやマンションが目立つ、人通りの少ない路地を歩く洸を追い掛けるさよは、彼女が話す内容に知らず感嘆の息を漏らしてしまう。


「スゴイんですね。自分の事なのに全然気付きませんでした」

「移動制限に比べて変化が乏しいみたいだからね。こうやって調べようと思わなきゃわからないよ」


 正午を回ったからか、身形を整えた若者が一人、また一人とアパートやマンションの扉から出てくるのを眺めていたさよは、ふと気が付いた。周囲の景色には、どこか見覚えがある。ずっと前に訪れた経験がある場所という事ではなく、つい数時間前に似たような街並みの中を歩いた記憶があるのだ。

 そう、確か洸が住んでいるマンションがこの辺りにあったはずだと、昨夜一晩を過ごした部屋の事を思い出したさよは、自然と口元を綻ばしていた。


「ちなみに今のは場所に関係する事で、さよは状況によっても――――――って、どうしたの?」

「いーえ。なんでもありませんっ」


 首を傾げる洸に対して、さよは宙に浮いた体を揺らして答える。

 洸が納得いかない様子で訝しげに目を細めているけれど、気にしない。本当になんでもない、つまらない理由で笑っているのだから。そんな事を考えて、さよはますます笑みを深くした。


「……いいけどね。話を戻すけど、状況によってもさよの調子は変わるみたいだよ。人が多い場所よりも、少ない所の方がいいみたい。かといって少な過ぎてもダメみたいだけ――――――――人の話はよく聞きましょうって、私の在学中にも言われてたよね?」


 見覚えのあるマンションを探し当てた瞬間、さよは一目散に飛んでいった。そうしてマンションの前に辿り着いた彼女は、大きく手を振って呆れたといった表情を浮かべた洸へと呼び掛ける。


「洸さーん! ココですよね? 洸さんの住んでるトコって!」

「もう。しょうがないなぁ」


 なんだか凄くウキウキするのだ。洸の部屋にお邪魔するのはこれで二度目だが、それでも浮かれる心が抑えられない。ただ、お喋りをするだけでも。洸の食事を眺めるだけでも。彼女の寝顔を見ているだけでも。昨夜は楽しかった。きっと、今日も楽しいだろう。

 この後は何をするのかと、乏しい経験から拙い想像を膨らませながら、さよはゆっくりと歩いてくる洸を待っていた。












 ――――閑話――――――――












 まずは食事だと、そう言って洸が台所に立ってから、どれだけの時間が経ったのか。さよの見ている前であれよあれよと言う間に手際良く昼食を完成させた洸は、現在、定位置となっている席に座って順調に食を進めている。メニューはオムライスにサラダを添えただけという手軽な物だが、オムライスにクリームソースが掛けられている辺りが少し珍しいかもしれない。

 洸の対面にはさよが腰掛けており、微かに透けている体をフワフワと揺らしながら昼食が終わるのを待っている。そんな、楽しそうに食事風景を眺めている彼女を少し気に掛けながらも、洸は着々とオムライスを削っていく。キノコとタマネギだけでさっぱりとした味に仕上げたホワイトソースがケチャップライスとよく合い、洸としても十分に満足のいく出来となっていた。


「そういえば」


 右手に持ったスプーンで湯気を立てているオムライスを掬う洸を黙って眺めていたさよが、ふと思い出したように呟きを漏らす。彼女の声に反応して、オムライスに向けられていた洸の視線が上げられる。

 モグモグと頬を動かしていた洸は、暫くして嚥下すると、口を開いてさよに尋ね掛けた。


「どうしたの?」

「いえ。魔法使いなのに食事は普通なんだなぁ、と今更ながらに思いまして」


 なんとも言えない表情をした洸は、刹那、沈黙した後に、


「いやいや。たしかに魔法が使えるし、魔法使いとしての身分もあるけど、体の方は一般人と大きく違う訳じゃないからね? 私だって魔法が使えなかったら、合気柔術の達人止まりだよ」


 大きく首を振って否定した。


「なるほどー。でも、洸さんくらいの年齢で達人なんですから、やっぱり凄くないですか?」

「あぁ。それは鍛え方の違いかな。上限は個人の素質によるけど、成長速度は総じて速いよ、魔法使いはね」


 皿の上にスプーンを置いた洸は代わりにコップを手に取ると、水の入ったそれに口をつけた。こくりと一度だけ喉を鳴らし、水を嚥下した彼女はコップを元の位置に戻し、次いで右手の人差し指をピッと立てる。

 その様子を見て背筋を伸ばし、赤い瞳に期待の色を滲ませたさよに好感を覚えつつ、洸は頭の中で内容を整理しながら話し始めた。


「私達は魔法で身体強化が出来るんだけど、コレを使うと単純に腕っ節が強くなるとか、足が速くなるとかだけじゃなくて、反射神経や動体視力、バランス感覚なんかも含めてあらゆる面で強化されるんだよね。だから普段は運動が苦手な人でも、十年に一人の逸材レベルに――――――ううん。実際にはもっと凄いかな。まぁ、その感覚で訓練出来るから、必然的に飲み込みが早くなるんだよ」


 くるくると人差し指を回しながら、洸は更に続けていく。


「魔法を解いても、体で覚えたものが全て消える訳じゃない。身体能力の変化には戸惑うし、そこを調整しても強化した時の動きを再現出来る訳じゃないけど、普通に訓練するよりもずっと効率が良くなるのはたしかだよ。腕の良い人の教えを受けられるのなら、それこそ常人の何倍もの速度で上達する。勿論、実際に強くなる為には多くの実戦経験が必要だけどね」

「なるほど~。あ、でもでも」

「ん? なに?」


 両手を合わせ、何かに気が付いたように声を上げたさよに対し、洸は疑問符を浮かべる。何か気になるような点でもあっただろうかと彼女が先の内容を思い返していると、さよが問い掛けの続きを口にした。


「体の方が変わらないのなら、どうして普通の人は魔法を使えないんですか? あぁ、いえ。魔法が使えないのは呪文とかの関係で納得出来るんですけど、魔法使いって魔力とかが感じ取れるんですよね? でも、それって普通の人には出来ないじゃないですか」

「ん~。この問題に関してはさよも似たような事が言えるんだけど――――」


 考え込むように額に指を当てた洸は、口を開くとそう前置きして。


「まぁ、つまりは『ルビンの盃』なんだよ」

「…………えっと、たしか人の顔に見えるヤツですよね?」


 不思議そうに尋ねるさよを真正面から見詰め返して、洸は頷く。

 通称『ルビンの盃』、或いは『ルビンの壺』と呼ばれるそれは錯覚現象を利用した騙し絵であり、しばしば教科書に載る事もある有名な作品だ。デンマークの心理学者であるルビンが発表したこの絵は、白と黒の二色だけで描かれており、白に注目すれば盃に見え、黒に注目すれば人の顔に見えるという物である。


「そう、ソレ。つまりは錯覚。まずは貴女の話からするけど、さよは少し変わった幽霊なんだよ。私達がいつも幽霊を見る時に注目するのが黒の部分だとしたら、さよは何故か白の部分に存在してるんだ。だから、私達がどれだけさよを見付けようと頑張っても、そもそも見てる場所が違うんだから出来るはずがない。中には違和感を覚える人も居るんだろうけど、明確に認識できる人は稀だろうね」

「なるほどー」


 スプーンを手に取り、食事を再開した洸の様子を眺めながら、さよは納得したように頷く。


「つまり魔力も同じようなもので――――」

「殆どの人は感覚が鈍くなってるけど、普通の人だって無意識の内に魔力を認識してる。ただ、魔力の存在を知らないから気付こうとはしないし、元々のイメージが無いから何が正解なのか感覚的に掴み辛くなってるんだよね。それでも、魔法使いの指導の下でそれなりに時間を掛ければ、ちゃんと魔力を扱えるようになるよ」


 洸がオムライスを掬い、口に含む。少し頬を膨らせて咀嚼した後に飲み込むと、彼女は暫し悩むように視線を彷徨わせた。


「う~ん。広げようと思えば幾らでも広げられる話題なんだけど、一度にしてもお互い疲れるだけだしね。続きはまた今度にしよっか。午後はまた別の――――――――どうかした?」


 何故だか目を丸くしたさよを見て、洸は疑問符を浮かべる。

 どこか変な所でもあっただろうかと先の言葉を思い返してみるが、心当たりは無い。さっぱり無い。そうして小首を傾げた洸がさよの赤い瞳を見詰めていると、彼女はハッと気付いたように小さく肩を震わせて、一転、雲一つ無い青空のように朗らかな笑顔を浮かべた。


「そうですね! また今度お話しましょう!!」


 胸の前で両手を合わせ、見た目通りに明るい声でそう言ったさよに、今度は洸の方が目を丸くする。食事の手を休め、暫し思索を巡らせていた彼女は、間を置かずして笑みを浮かべた。それから洸は桜色の唇を開いて、穏やかな声音で言葉を紡いだ。


「さよにテスト勉強は必要無いみたいだし、午後は一杯遊ぼうか。折角のサボりなんだしね」

「ホントですかっ!?」

「本当だよ。だから、食べ終わるまでちょっと待っててね」


 今にも飛び上らんばかりに目を輝かせたさよを見ながら、洸は穏やかな笑みを浮かべていた。








 ◆








 洸が昼食を終え、使用した食器類を洗い終わる頃には、午後の予定はおおよそ決まっていた。そこに至るまでの議論は、正直白熱したと言って良い。主に意見を出したのはさよであるし、洸も彼女の意見を尊重しようとしたのは確かなのだが、流石に数が多過ぎた。二桁に及ぶ場所を個別に楽しみながら回っていては、半日で終われるはずが無い。よって、さよの悲鳴が飛び交う中で洸が一つ一つ選別していった結果、本日の午後の予定は次の二つに決まった。

 映画とショッピングだ。前者はさよの強い希望から、後者は洸の意見も交えた結果である。

 そうして今、彼女らは映画館にやって来ていた。上映三十分前という開場直後の時間帯の為、まだまだ席に空きは見られるが、場内を一通り見回した洸は、あえて最後列の一番端の席を選んだ。

 初めて映画館に来たというさよの事を思えば、もっと良い位置に陣取るべきなのだろう。だが、その彼女が居るという事を考えると、もしもの時に備えて周囲の人間は少ない方が望ましい。二つの選択肢を秤に掛けて、洸は後者の方が良いと判断した。最も楽しめる状態ではないかもしれないが、台無しになるような事態だけは絶対に避けたいという思いからだった。


「映画かぁ……実は結構久し振りなんだよね」


 愛用のバッグを腕に抱えながら、洸はそんな事を呟いて席に座る。それから彼女はすぐに隣の座席を準備して、バッグから取り出した小さな人形を置いた。長く白い髪に、赤い目をした可愛らしいその人形は、一目でさよを模した物だと分かるほどよく似ている。


「あ、さっき話してた人形ですね」

「そうそう。これで、ココに居る間は周りの人にもさよの姿が見えるようになる。人間としてね」


 左手の中指に填められた銀色の指輪を一撫でした洸が、人形の頭に触れる。すると、彼女の指先から微かに光が溢れた。ほうと、その情景を見て感嘆の息を漏らしたさよに対し、洸は照れたように頬を掻く。


「簡単な幻術だけど、ココから移動しなければ効果は保障するよ」


 話しながら、洸は人形を置いた席をさよに勧める。それに従って彼女の隣に腰掛けたさよは、瞳を輝かせてすぐさまスクリーンに顔を向けた。彼女の手は膝の上に置かれ、背筋は真っ直ぐ伸ばされている。まるで子供みたいなその様子に、洸は苦笑を禁じ得なかった。


「楽しみなのはわかるけど、今からそんなんじゃ持たないよ?」

「へ? 何か言いました?」

「ううん。なんでもないよ」


 口元を綻ばせたまま振り向いたさよに対し、洸は仕様が無いと首を振る。左手首に填めた腕時計を確認すれば、上映まで二十五分以上ある事が分かるが、この調子なら大丈夫だろうと洸は背もたれに体を預けた。

 と、ここで先程買ったパンフレットの存在を思い出す。

 時間を潰すのに丁度良いと、膝上に置いたバッグに洸が手を伸ばした所で、


「そうだ! 洸さんっ!!」


 元気の良いさよの声が彼女の耳を震わせた。


「どうしたの?」

「ポップコーンですよ、ポップコーン! 買いましょうよ!」

「え?」


 予想外の言葉に、洸は間の抜けた声を上げてしまう。

 丸くなった目がさよに固定されて、バッグに伸ばしていた手の動きは止まる。けれどそんな洸の様子には構わず、さよは明るい笑顔で話し続けた。その表情には一片の曇りも無く、この世の春とばかりに陽気を振り撒いている。


「あと、コーラもお願いしますね!」

「…………りょーかい。ちょっと行ってくるから、パンフレットでも見て時間潰しといて」


 視線を彷徨わせ、暫し悩んだ後に、洸はそう言って立ち上がった。財布を始めとした貴重品を持っている事を確認し、席にはバッグを置いていく。そうして売店に行こうと通路に足を踏み出した瞬間、消え入るほどに小さな声が、洸の耳を震わせる。

 周囲の音に紛れる必要は無く、互いの間にある距離が掻き消してくれる必要も無い、口の中で溶けて消えるような、微かな呟き。誰かに聞かせる為の物ではないだろうそれを、鋭敏な洸の聴覚は拾ってしまう。


「――――――ッ」


 洸は一瞬だけ足を止めて、またすぐに歩き始めた。

 長い黒髪を揺らし、徐々に増え始めた人影を横目に、洸は出入り口へと向かう。心なしか目つきは鋭く、表情は硬い。彼女自身その事を自覚していたが、それでも普段通りを装うつもりは無かった。否、装えそうもなかった。やがて出入り口となる扉を潜り、場内よりも随分と賑やかしい喧騒に包まれると、洸は頭に手を当てて、深い溜め息を吐き出した。


「雰囲気だけでも、か……」


 取り敢えず、一番大きいサイズの奴を買ってこよう。たとえ食べるのが自分一人だとしても、それくらいはするべきだろうと考えて、洸は足早に売店へと向かっていった。




 □




 ポップコーンを右腕に抱え、左手にコーラのペットボトルを握った洸が戻った時、さよは席に座ったまま膝の上にパンフレットを広げていた。中々に器用なものだと感心しながら洸が近付いていくと、彼女に気付いたさよがパンフレットから視線を外し、顔を綻ばせる。細められたさよの赤い目がポップコーンの入ったカップを捉えれば、彼女は一層笑みを深め、胸の前で両の手の平を合わせた。


「おかえりなさい、洸さん! おっきいの買ってきてくれたんですねっ!!」

「うん。これくらいの方がそれっぽいじゃない?」


 座席に残していたバッグを退けて代わりに座ると、洸はさよとの間にポップコーンのカップを置く。たったそれだけの事でも満足しているようで、さよはやや青白い顔に喜びの色を浮かべている。彼女が喜んでくれるなら、洸としても本望だ。


「それにしても映画ってスゴイんですねー。もう、さっきから楽しみでしょうがないんですよ」


 膝の上に開いたパンフレットへと視線を戻し、さよは普段よりも少し高くなった声で話す。その様子に、洸は自然と笑みを誘われる。


「小説の方は読んだんだっけ?」

「はい! 色んな人が読んでましたから、こっそり後ろから見てたんですよー」


 これから上映されるのは、数年前に英国で一作目が発表されると、瞬く間に世界的ベストセラーとなった小説を映画化した物である。日本でも四作目まで出版されているのだが、映画となっているのは今日観る二作目が最新版だ。

 上映開始日は昨年の末であり、本来ならとっくの昔に上映終了となっているはずなのだが、住民の多くが学徒で構成されている麻帆良ではこういった人気作の寿命は非常に長く、期間ギリギリではあったがこうして映画館で観る事が出来た次第である。


「そういえば、魔法使いでもこういったお話って楽しめるんですか?」

「んー、人に依るかな。私は全然気にしないしね」


 魔法使いを題材にした作品だからといって、その内容を深くまで考察する魔法使いはそうそう居ない。確かに一つ一つの事象に細かく文句をつける者が居ない訳ではないが、大抵の魔法使いは本当に気にしないものだ。


「そうなんですかぁ」

「そうなんですよ」


 洸はポップコーンを一つ掴み、口の中に放り込む。少し辛過ぎるくらいの塩味が効いていて、彼女の好みには合わないはずなのだが、不思議と美味しく感じられた。雰囲気も調味料の一つとはよく言ったものだと、思わず感心してしまう。


「あと、こういったお話の中に出てくる魔法って実際にはどうなんでしょう。やっぱり同じような事って出来るんですか?」

「場合によりけり、かな。再現出来るヤツも多いけど、難易度は結構変わるしね」

「箒で飛んだりとかは出来るんですか?」

「勿論。まぁ、媒体が箒とは限らないけどね」


 感心したように頷くさよを見て、洸は微笑を浮かべた。


「また今度、色々と見せてあげる」

「わぁ! 本当ですかっ!!」


 喜びの声を上げるさよと真正面から見詰め合って、洸は大きく頷いてみせた。








 ◆








「凄かったですね! 本物かと思っちゃいましたっ!!」


 映画館を出た途端に大きく声を上げたさよに温かな視線を送りながら、洸は携帯電話を取り出した。雑踏を進む中で開いたそれを耳に当て、通話中であるようなフリをする。十分な精度の幻術を移動中ずっと維持するというのは、流石に骨が折れるからだ。さよが物理的な肉体を持った存在であればまた話も変わるのだが、生憎と彼女は幽霊なのである。


「そうだね。よく出来てたと思うよ」


 沢山の人で溢れ返る映画館前から早々に離れながら、洸の足は次の目的地へと向けられていた。目指す先は、多くの服飾店が立ち並ぶ繁華街だ。といっても、今日は服を買いに行く訳ではない。春物を新調しようかと悩んではいるが、それはまた今度の話である。


「ま、映画の話は帰ってからゆっくりしよう。今は買い物だよ、買い物」

「はーい。でも、何を買うんですか?」

「ん? さよの部屋に置く家具や小物だよ。何も無かったら寂しいじゃない」


 そう。これから買いに行くのはさよの物だ。洸が住んでいるマンションの部屋にはまだ空きがあり、物置にしているような事も無い。だからその内の一つをさよに貸し与えるというのは、別に苦ではなく、寧ろ日々の生活が賑やかしくなりそうで、洸としては歓迎したいくらいだ。幽霊なので一緒に暮らしていてもお金が掛からないというのも大きい。


「――――――?」


 隣に並んでいたはずのさよの姿が見えない事に気付き、洸は立ち止まった。どうしたのかと、慌てて周囲を探った洸は、すぐ傍にさよの気配がある事を理解して安堵の息を吐き出した。

 本当にさよの霊体は探し辛い。幽霊としての実力は並み以上だというのに、その所為ですぐに見失ってしまう。能力として見れば優秀なのだが、本人にとっては疫病神以外の何物でもない辺り、世の中ままならないものだ。

 そんな事を考えながら振り向いた洸は、やや後ろで足を止めていたさよの表情を見て首を傾げた。


「さよ?」


 彼女はまるで幽霊でも見たかのように、信じられないといった様子で洸を見ている。呆然と口を開いたままの彼女に、洸もなんと声を掛ければいいのかすぐには判断がつかず、互いに黙ったまま見詰め合ってしまう。

 その状態が暫く続き、通り掛かった人とコートの裾が触れ合ったのを切っ掛けとして洸が問い掛けるよりも早く、躊躇いがちにさよが口を開いた。その表情には多くの困惑と、僅かな期待の色が滲んでいる。


「あの……私の部屋って…………?」

「あぁ。話してなかったかな? ウチはまだ部屋が空いてるし、さよも宿無しのままじゃ大変でしょ?」


 当然の事のようにサラリと言い切った洸に対し、さよは呆気に取られた様子で目を見開いた。それから、また少しだけ沈黙が続いて、雑踏の中で二人だけが取り残されたような時間が過ぎていき。

 さよがクシャリと顔を歪めると同時に、洸は前方へと視線を戻す。


「…………ッ……っ」


 背後から微かに聞こえる、鼻を啜るような音。それに気付きながらもあえて触れる事はせず、洸は空いていた右手をコートのポケットに突っ込み、すぐに出す。それはまさしく一瞬の事であったが、その僅かな時間で彼女の右手は黒い何かで覆われていた。

 一見すれば黒い手袋のようにも思えるが、実際には違う。手袋なのは確かなのだが、その素材は『影』であり、洸が魔法を用いて即席で作った物だ。転移魔法と並んで洸が最も得意とする魔法がこの『操影術』で、文字通り影を操る魔法である。いつもは簡易的な使い魔の作成に使用している魔法だが、こうして影を身に纏う事も出来る。

 そして、この手袋越しであればさよと触れ合えるというのは、昨晩の内に実証済みだ。


「ほら、さよ。行くよ」


 後ろを振り向く事はせず、手袋をした右手だけを小さく動かしながら、洸は普段通りの声音で話す。

 彼女の言葉に返ってくる声は無かったが、数秒の後、右手の指先に触れるものがあった。温もりは無く、指先に伝わる感触は実に曖昧なものだったが、だからこそ、洸はそこにさよの存在を感じ取れる。僅かに引っ掛けられる程度の、指先だけの繋がり。それを確かめた洸は、ゆっくりとした足取りで次の目的地へと歩き始めた。




 □




 二人が訪れたのは、偶に洸が利用する生活雑貨店だった。学生の多い麻帆良では、特に新入生を中心としてこの手の店は需要があり、手頃な値段で良質な物を売っていると評判だ。洸が選んだ店もそういった面での評価が高く、少し早い時期とはいえ、来年度から大学部に進学すると思われる親子連れの姿などもチラホラと見える。そんな人達を横目に、様々な家具やインテリアが展示されている中を通り抜け、まず最初に洸達が訪れたのは二階にあるベッド・寝具のコーナーだった。


「わぁー。色々とあるんですねっ」


 大小だけではなく、形状も多岐に渡って存在する種々のベッドの間を飛び回りながら、さよが感心したように声を上げる。そんな彼女の様子を目を細めて見守りながら、洸は再びバッグからさよの人形を取り出した。


「さよ、こっち来て。また使うから」

「あ、はーい」


 さよが近くに来たのを確認して、洸は幻術を発動する。効果範囲は半径二十メートルと少々不安は残るが、無詠唱で手早く済ませようと思えばこんなものだ。離れた位置に居る相手であれば認識阻害の魔法も十分な効力を発揮するので、そちらと合わせれば問題無い。


「よし。これでココに居る間は問題無いよ」


 結界の起点となる人形に偽装を施し、傍にあるベッドの陰に隠せば、準備は万端だ。周囲に怪しむ人間が居ない事を確認すると、洸はさよの方を向いて、にこやかに口を開いた。


「それじゃ、まずはココでさよのベッドを探そっか」

「はい! ……でも、本当にいいんですか? 私は別に何も無くても生活出来ますけど」

「いーの。折角の部屋なのに、殺風景なままじゃ寂しいでしょ? これでも稼いでるんだから、遠慮しないでいいよ」


 話しながら、洸はさよの手を引いた。力は必要無い。あまり強く握っては霊体を傷付ける恐れがあるし、さよは宙に浮いているので、彼女が抵抗しようと思わなければ、容易く引き寄せられる。

 キャッと小さく悲鳴が聞こえるのにも構わず、洸は近くにあるベッドを指差した。


「ほらほら、これなんかどう? ダークブラウンのパネルベッド。私の好みなんだけど」


 洸が指差した先にあるのは、特に凝った加工をしている訳でもない、シンプルなデザインのパネルベッドだった。一つも丸みが見られない角ばったデザインのそれは、暗い色彩と合わさる事で見る者にスマートな印象を抱かせる仕上がりとなっている。素っ気無い感じが洸の趣味に合うのだが、どうやらさよはお気に召さないらしく、彼女は難しい顔をして唸っている。


「う~ん。これはちょっと……」

「そう? まぁ、たしかにさよには合わないかもね。柔らかいデザインの方が良いかな? 色もアイボリーなんかが似合いそう」

「…………あのっ」

「ん?」


 視線を巡らせて、丁度良い物は無いだろうかと品定めを始めようとした洸に、さよが躊躇いがちに話し掛ける。彼女の声を聞いて洸が振り返れば、やや伏せられた赤い瞳が見上げてきており、さよの白く細い指が傍にあるベッドを指していた。

 気に入った物があったのかとベッドに視線を移した洸は、検分するように全体をジロジロと見回し、口元に指を当てて五秒ほど考えた後に笑顔を浮かべると。


「ダーメ。値段で選んだでしょ」

「やっぱりですかぁ」


 肩を落とし、さよが項垂れる。

 彼女が選んだ物は決して悪くなかったのだが、洸としてはもっと色々と悩んでから決めてほしいのだ。これから一緒に住む事になるのだし、下手な遠慮などせず、さよには本当に気に入った物を選んで貰いたい。その結果が先程の物であると言うのならば、喜んでそれを贈ろう。しかし値段で適当に選ぶというのならば、洸は断固として拒否するつもりである。

 そんな洸の気持ちを理解したのか、暫く床のタイルと睨めっこしていたさよは、顔を上げると、むんと両の拳を握った。


「もー。こうなったらトコトン付き合って貰いますからね!」


 一瞬だけ、洸は目を見開いて、


「その意気だよ、さよ」


 朗らかな笑みを浮かべて答えた。








 ◆








 深夜一時過ぎ。窓の外では白い月が地平へと降り始めたその時間に、徐々に消えていく街明かりに倣うようにして、洸は自らのベッドの中で毛布に包まれていた。腕の中には黒猫のぬいぐるみを抱き、枕元のライトにはほのかな明かりが灯っているその状況で、彼女は傍に居るさよとお喋りをしている。

 姦しいと言うほどではなく、かといって密やかと表現されるようなものでもない。丁度この部屋の中を照らし出している明かりのように柔らかな話し声が、夜の冷たい空気を震わせている。


「洸さんって意外に可愛いトコありますよね。この部屋も家具は落ち着いた感じの物ばかりですけど、ぬいぐるみや絵本が一杯ですし」


 楽しげなさよの言葉に、洸も笑う。

 彼女が言うように、此処にあるぬいぐるみや人形の数は非常に多い。洸が抱えている物だけではなく、机やソファの上、専用のケースの中などにも色々なぬいぐるみや人形が置かれている。絵本に関しては、この部屋に唯一ある本棚がそれだけで埋まっているほどだ。


「人形集めは友達の影響で、絵本の方は――――――」


 そこで、洸は何かを思い出すように目を閉じる。

 彼女の口元は微かに弧を描いていて、今にも楽しげな笑い声が漏れてきそうだった。


「小さい頃、私がお爺様に読んで貰った物だよ。今は、私が茶々丸に読んであげてる物でもあるけど」

「茶々丸さん……?」

「そう。さよのクラスメイトでもある、絡繰 茶々丸だよ」


 ぬいぐるみを抱き締め直したのか、布団に包まれた洸の体が、少しだけ動く。

 目を閉じたままの彼女が何を思っているのか、さよには分からない。ただ洸の顔を見れば、きっと楽しい事なのだろうなと、考えなくても理解出来る。見ているさよの方まで嬉しくなってくるような、そんな表情だ。


「あの子はまだまだ子供だから、色々と教えてあげないとね」


 洸が、目蓋を上げる。その下から覗いた黒色の瞳にどんな感情が色付いているのか、さよにはよく分からなかった。ただ、温かなものだという事だけは間違い無く、洸を見ていたさよは、自然と笑みを浮かべていた。

 会話が止まる。お互い何を話す訳でもなく、何をするでもなく、柔らかな表情を浮かべたまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 特別な理由は無い。あえて言うなら、居心地の良い雰囲気を壊したくなかったからかもしれない。黒と赤。互いに目を逸らす事無く、見詰め合ったまま清閑な空気に身を委ねる中で、時計の針が時を刻む音だけが部屋の中に響き渡っている。


「――――――自分の部屋には行かないの?」


 暗闇の中、柔らかな明かりに照らし出された洸が呟いた。その表情は穏やかで、微睡んでいるのか、目蓋は半分落ちている。

 閉店間際まで粘り、散々二人で悩み抜いた結果、どうにか部屋の体裁を整えられる程度には調度品を揃えられた。レイアウトに関してアレコレと意見を交わしていたのは二時間ほど前の事で、殺風景だった空き部屋も、今では立派に女の子の部屋となっている。


「洸さんが寝るまでは、ここに居ます。どうせ私は眠れませんから」


 半ば闇に溶け込んでいるようにも見える透けた体を宙に浮かせて、さよが答える。

 昨日までとは違い、今日からは帰る場所がある。二人の手で見栄え良く整えられたさよ専用の部屋は、彼女にとって二番目に大切で、居心地の良い場所となってくれるだろう。たとえ調度品の多くに利用価値が無かろうとも、それは変わらない。


「そっか」


 再び、静寂が場を支配する。

 二人は変わらず見詰め合ったまま、何時までこの時間が続くのかを理解しないまま、何もせず場の雰囲気に身を任せている。そんな、奇妙に居心地の良い時間が長らく続いて、唐突に何かを思い立ったように洸は目を閉じ、またすぐに開いた。


「さよは、さ」

「なんですか?」


 優しく輝く月のように穏やかな表情をして、さよが答える。


「私が貴女と知り合った理由が、ネギ君の課題の為だけだ――――――て言ったら、どう思う?」


 黙ったまま、さよは目を閉じる。

 また暫く、時計の針が進む音だけが部屋に響いて、


「――――――多分、泣いちゃうくらい悲しくなると思います」


 酷く落ち着いた声音で、さよは言葉を紡いだ。

 返事を聞いても洸は黙ったままで、何かを待つように、黒い瞳でさよを見詰めている。


「でも、きっと泣けません」


 シンと、まるで全ての音を吸い込む雪原のような、冷たく柔らかい静寂。時計の音すらも消えて無くなったのかと錯覚してしまう空気の中で、さよは目蓋を下ろしたまま、変わらず穏やかな声音で言葉を継いでいく。


「悲しい事は、今まで沢山ありました。卒業式が終わっても、私だけは卒業できません。昔のクラスメイトが亡くなったって知るのは、本当に運が良い時だけです。ただ普通に生きてる人を見るだけで、胸が苦しくなる事だってあります」


 でも、とさよは一息挿んで。


「本当に悲しいのは、辛いのは、そういう事じゃないんです――――――私が何よりも悲しいと思うのは、誰一人として、私の気持ちに気付いてくれない事なんです。泣いても。笑っても。怒っても。喜んでも。誰もわかってくれない事なんです」


 目蓋を上げ、赤い双眸を洸の顔に向けて、


「だから、きっと泣けません。洸さんが居るだけで、私を知る人が居るだけで、凄く幸せなんです。信じられないくらい幸運な事だと、思ってるんです。それ以上の事を望むのは、私には過ぎた贅沢だと思います」


 さよは静かに言い終えた。

 弱々しく、柔らかな明かりだけが光源となっている部屋の中で、二人は互いの顔を見詰め合う。そうしてまた、何もしない時間が暫く続いた後、洸は眩しそうに目を細めて、すぐ傍に居るさよの顔を見上げた。


「一日、さよと一緒に過ごしてさ。凄く楽しかった――――――――ん。それだけ」


 言って、洸は目を閉じると、口元まで毛布を被ってしまう。

 その言葉を聞き、様子を見ていたさよの表情には、


「はい。私も凄く楽しかったです」


 日溜まりのような微笑みが浮かんでいた。












 ――――後書き――――――――


 以上、閑話をお送りしました。お読み頂いた方、ありがとうございます。

 最初から最後までオリキャラとさよ、二人だけのお話です。友達です。まだまだ友達同士です。しかし、予定していたよりも大分距離が近い気がします。当初は同居予定など無かったのに、気付けばこんな話になっているのだから不思議なものです。

 さよには今後も思い出したように登場して貰うつもりです。さよ朝倉コンビは結構好きなので、多少形は変わりますが、結成して貰う予定もあります。さよはその時に役立ってくれるでしょう。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第九話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/03/15 21:11


 綾瀬 夕映は決して優秀な生徒ではない。記憶力・理解力という点で言えば一角のものがあるかもしれないが、如何せん本人にやる気が足りていないのだ。大の読書好きであると同時に大の勉強嫌いでもある彼女は、日々の授業にもう少し身を入れるだけでも試験の点が上がるだろうと親友達に言われながらも決して実践する事は無く、半年前までは学年最低クラスの低空飛行を続けていた。

 そんな彼女が、どういう訳か今では学年の上位一割に食い込めそうなほどに成績を上げている。担任には驚かれると共に喜ばれ、親友の一人には盛大に笑われたこの変化の理由は、なんて事は無い、好きな人の為だった。初めは部活の無いテスト週間中に会う口実として持ち出した勉強会も、今では少しばかり目的が変わり、良い点を取れた時に見せてくれる好きな人の笑顔の為となっている。

 今でも勉強は好きではない。一人での勉強はやる気が出ないし、普段は滅多に教科書を開く事も無い。しかし、以前のように教科書を見るのも嫌だとは思わなくなっているし、テスト週間中であれば一人で勉強する事もある。確実に進歩はしていると、彼女自身も感じており、その事がまた想い人への好意へと転換されるのだから手に負えない。

 しかし昨日からの夕映は、テスト週間中だというのに勉強に身が入っていなかった。洸に教えて貰っている時は頑張っていたのだが、のどか達と一緒に勉強する時はどうにも集中出来ていない。今だってそうだ。ネギの『課題』を思えば気を抜く暇など無いというのに、教科書の問題に取り組んでいる彼女は上の空な様子で、先程から一ページたりとも進んでいない。


「ほらほら、また止まってるよ~?」

「わかってます」


 隣で同じように教科書とノートを広げているハルナの言葉に、夕映はぶっきらぼうに答える。

 三日後に控える期末試験に備えた、試験勉強中での事だ。図書館探検部の四人に明日菜を加えた計五人で集まり、普段から夕映が洸と共に利用している図書館島の一角で開かれた今日の勉強会は、ネギの課題対策の一環である。

 課題の事を知った日から四日が経ったが、彼女達はネギの意思を汲み、同居している木乃香を除けば、この件を誰かに話すような事はしていなかった。元々明日菜に判断を委ねたのは夕映達なので、彼女が決めた指針に従う事に異論は無い。ネギの気持ちを聞いたならば尚更で、反対など出来るはずもなかった。

 とはいえ。それで心配の芽が摘めた訳ではなく、自分達に出来る協力をという事で、こうして勉強に精を出しているのである。


「むぅ……」


 シャーペンを持った状態で、夕映が唸る。普段なら簡単に解けるはずの問題でも今の彼女には難しく、回らない頭を無闇に加熱させるだけだった。そうしてまた、彼女の思考は彼方へと飛び立っていく。先程から、ずっとこの繰り返しである。


「ったく、もう」


 流石にこれ以上は何かを言うつもりも失せたのか、ハルナは仕様が無いといった様子で肩を竦めた。彼女の逆隣に座っているのどかに至っては最初から口を出す気は無いらしく、温かな視線で夕映を見守るだけだ。

 そんな親友達の態度にも構わず、夕映は物憂げな溜め息を吐き出す。頭の中に浮かぶのは、今日も今日とて洸の事ばかりだ。否、特に今日は酷い。本当に頭から離れてくれなくて、端から端まで一色で染め上げられてしまっている。


「………………」


 携帯電話を開いて時間を確認すれば、洸が合流すると言っていた時間まで、あと十分を切っていた。時刻の隣にある日付の部分には、三月十四日の文字が表示されている。ホワイトデー。その単語が、夕映の脳裡をよぎる。

 間接的とはいえ夕映が洸にチョコを渡してから、今日で一ヶ月となる。日本独自の習慣に則りなんらかのお返しをくれるのだと、洸は言っていた。気になる。気になって仕様が無い。お陰で昨日から勉強に集中出来ないでいる。

 普通に考えれば手作りお菓子の類だろう。ただの先輩と後輩という間柄であり、しかも女同士だ。特別なお返しなど初めから期待していない。それでも好きな人から何か貰えるというだけで膨らむ期待感は、到底抑えられそうになかった。


(あと、七分ですか)


 今頃は各所でお返しを配り終えて、こちらに向かってきている頃だろう。高い身長や、柔和さの中に凛々しさが潜む面立ち、面倒見の良い性格などが相俟ってか、バレンタインデーの時、洸は結構な数のチョコを貰ったらしい。

 別に珍しい事ではない。女子校に通っていたらしばしば見られる光景だ。部活や委員会で男性と触れ合う機会があるとはいえ、気軽に渡せるのは身近な同性である。イベントの雰囲気を楽しむ程度に憧れの先輩に渡すというのは、実際によくある事だ。中には”本物”も居るらしいが、夕映は自分以外にはそういった人物を知らない。

 とまれ。そういった手合いの対応を終えてから、洸は来ると言っていた。この僅かな扱いの違いに優越感と充足感を覚えるのは自らの卑小さ故だろうかと、そんな事を考えながら、夕映は進みの遅い携帯電話の時計を眺めている。


 ――――――あと、五分。


 その時だ。


「みんな頑張ってるみたいだね。調子はどう?」


 聞こえてきた洸の声に反応し、思わず立ち上がった夕映を、はたして誰が責められるだろうか。












 ――――第九話――――――――












「そう。同じ弧に対する円周角は角度も同じになるから、この二つの角は角度が同じという事になるね」

「じゃあ五十七度、と……いやー、ありがとうございます。なんか差し入れまで持ってきてくれたみたいですし」

「気にしなくていいよ。好きでやってる事だし、差し入れは余り物だから。一段落ついたら休憩所で食べよう」

「いいですね~。そんじゃま、ちゃっちゃと終わらせますか!」


 綺麗な指を開かれた教科書の上に走らせている洸の言葉に、ハルナが活気付く。

 彼女らの会話に出てきた差し入れというのは、机の端に置かれている六つの小袋の事だ。クッキーが入っているというそれは、お返しとして洸が作った物の余りを分けたとの事で、先程から美味しそうな匂いを微かに漂わせている。

 そんなこんなでやる気を出してノートと向き合い始めたハルナの左隣では、相変わらず夕映が気の入らない様子でシャーペンを握っていた。といっても、少し前までとは理由が違う。洸に関する事というのは同様だが、考えている内容は大きく変わっていた。

 別に、みんなにもクッキーが用意されていたから気落ちしている訳ではない。

 寧ろ、その逆だ。


「――――ふふっ」


 小さく笑みを零した夕映の視線の先には、一つの紙袋がある。オレンジ色の素材に白抜きでロゴだけを印刷しているという、シンプルなデザインのプレゼント用紙袋。その中には、鈴の付いたリボンが包装紙に包まれて入っている。先程確認したので間違い無い。

 洸がくれたこのお返しは、自分だけに宛てられた特別な物だろうと夕映は思っている。少なくとも去年の記憶を掘り返した限りでは、こういった物を誰かに渡していた覚えは無い。この半年で大きく順位を上げたご褒美でもあるらしいが、嬉しい事には変わりなかった。

 両の耳横で三つ編みを作っているので、このリボンはそこを縛るのに使う予定だ。洸も同じ事を考えてくれたのか、贈られたリボンは二つで一セットとなっており、長さも丁度良いくらいだ。それもまた、夕映を浮かれさせる要因となっていた。


「夕映、腕が止まってる。喜んでくれてるのはいいんだけど、そろそろ進めないと一人だけ居残り授業になっちゃうよ」

「は、はいです!」


 後ろから飛んできた洸の声に、夕映は背筋を伸ばした。

 洸に教えて貰えるのなら居残りでも良いかと少しだけ思った夕映だが、知られたら怒られるので、流石に口に出すような事はしない。また、このままでは一人だけ休憩が無くなる恐れもあり、夕映は気合いを入れて教科書と向き合った。既にリボンを貰ったが、クッキーだって食べたいのだ。


「どこか解けそうにない所はある?」

「……多分、大丈夫だと思います」


 よし、と笑顔で頷いた洸に、夕映は胸を撫で下ろす。

 軽く問題を見ただけではあるが、ここ最近の勉強が成果を上げているのか、難しいと思うようなものは無かった。僅かに思案した後にノートへ解答を書き始めれば、洸は背後から移動していった。

 次に向かう先は、明日菜の所だろう。

 夕映の対面に座る彼女はこの面子の中で最も成績が悪く、学年でも最低クラスとなる七百番台の常連である。だというのに中々質問をしようとしないので、勉強の進みは非常に遅い。よって先程から洸が小まめにチェックを入れ、詰まっていないか確認しているのだ。


「――――うん。よく出来てるよ。下地が無いから苦戦してるみたいだけど、理解力そのものは悪くなさそうだね」

「あ、ありがとうございます」


 本人にとっては予想外だったのか、洸の褒め言葉に対し、明日菜は躊躇いがちに答えた。慣れていないのか、どこか居心地が悪そうにしている明日菜の後ろから、彼女が解いた問題一つ一つを改めて洸が解説していく。

 普段は当事者の立場にあるその光景に時折視線を送りながら、夕映は自分の問題を着々と解いていく。洸に答えた通り、多少梃子摺る問題はあっても、根本的に解き方が分からないといったものは無かった。


「ネギ先生、大丈夫かなー?」


 左隣から聞こえてきた言葉に、夕映は腕を止める。声の発信源であるのどかの方を見れば、ノートにシャーペンを走らせている彼女が憂いの籠められた溜め息をつくのが確認出来た。


「……大丈夫でしょう。パルも珍しくやる気を出しているようですし、アスナさんも問題無いようですから」


 のどかの心配は理解出来る。此処に居る五人の内で、実際に戦力として期待できるのは明日菜とハルナの二人だけだ。のどかと木乃香は元々真面目に勉強する優等生であったし、夕映もこの半年間で大きくテストの点を伸ばしている。平均点で言えば三人とも九十前後となっており、中でものどかは一つ飛び抜けている。

 つまり、この三人は成績が頭打ちに近い状態にあるのだ。十分に勉強したとしても、数点でも伸びれば良い方だろう。長期的に見ればまた変わってくるかもしれないが、自分達は今回のテストで結果を出したいのであって、将来性などというものは考慮に値しない。

 だからこそ、余地のある二人に期待するしかなかった。


(しかし……)


 のどかに言われたからか、夕映の脳裡にも一抹の不安がよぎる。

 思い出すのは、今日のネギの姿だ。初めに気付いたのはやはりのどかだったが、彼女に言われ、夕映もネギが気落ちしている事に気が付いた。否、確かに普段よりもやる気に満ちており、宣言通りに頑張っているようではあったのだが、昨日や一昨日に比べると些か失速している感じがしたのである。

 本人に尋ねたら大丈夫だと返され、過度の干渉は避けるべきだろうという考えから一度は振り払った心配の念が、再び胸の裡に纏わりついてくる。この四日間、相変わらず気楽な調子で過ごしていたクラスメイト達の姿が、それを助長していた。


「まー、頑張っちゃうけどさ。心配ならもう少し戦力を増やしてみたらどうよ?」


 完全に教科書の問題から意識を外して頭を悩ませ始めた夕映に、今度はハルナが声を掛けた。


「ハルナ、それではネギ先生の意思に反するです」

「いやいや、勿論ネギ君が嫌がる事はしないよ。例の件は黙ったまんまね。んで、単に勉強会として誘うわけよ。それで集まってくれたならやる気があるって事だし、多分ネギ君も納得してくれるでしょ? 流石に数を集めたら怒られると思うけどさ」

「むむっ」


 確かにそれなら無理ではないかもしれないと、夕映は唸り声を上げる。

 クビになる事は無く、決してリスクは大きくない状況ではあるが、やはりネギの『課題』を成功させたいというのが、此処に居る全員の共通する願いだ。のどかの応援という面だけではない。日頃から親しくしている彼の喜ぶ姿が見たいと、そう思っているのだ。


「うーん。いい……のかな?」

「ウチとしては賛成したいけど……」


 のどかに加え、勉強していたはずの木乃香までもが会話に参加してきた。見れば彼女だけではなく、明日菜の方も手を止めてこちらに視線を向けてきており、その後ろでは洸が仕様が無いといった様子で肩を竦めている。


「それじゃ、少し早いけど休憩にしよっか」


 当然のように提案してきた洸に対し、全員が賛成の言葉を口にした。




 □




 休憩に入ってから二十分が経ち、色々と白熱した議論が一段落ついた所で、夕映は休憩所を抜け出していた。試験前の為か、いつもと比べて中学生の利用者が多く見られる通路を歩きながら彼女が目指すのは、洸が居ると思われる区画だ。彼女は話し合いには加わらず、少し本を探したいと行き先を告げて早々に退出していったのである。

 一応の決着がつき、完全な休憩時間に移行したので、夕映は洸に会いに行こうと思った訳だ。勿論、クッキーは紅茶と一緒に美味しく頂いている。また、みんなで食べてもいいと言われた洸の分に関しては他の四人に掛け合い、丸々持ち帰り用として確保させて貰った。


「――――この辺りでしょうか」


 洸が居ると言ったのは、夕映にとっても馴染み深い区画だった。歩き慣れた通路を進みつつ、夕映は本棚の間を一つ一つ覗いていく。綺麗な直線状に本棚が配置されている区画なので、さして苦も無く調べる事は出来るのだが、問題はその広さだろう。この区画だけでも四桁近くの本棚が存在しており、端から端まで見て回るのは少々骨が折れる。

 とはいえ、図書館島に慣れている夕映にとっては尻込みするほどではない。寧ろこうして洸を探し回る時間さえも楽しく、何時彼女に会えるだろうかと心を躍らせながら、夕映は歩みを進めていく。


「あっ」


 発見は、予想よりも早かった。

 ヒョコリと首を傾げて夕映が覗いた通路の先、十メートルほど離れた位置に、洸は居た。手には文庫サイズの本を広げており、物凄い速さでページを読み進めている。見慣れたその光景に一つ息を吐くと、夕映は洸の方へと歩み寄っていく。そうして互いの距離が最初の半分ほどに縮まった頃、洸が本から顔を上げた。


「ん? あぁ、話し合いは終わったんだ」

「はい。三人ほど声を掛けてみようという事で決まりました」


 歩みを止める事無く問い掛けに答えた夕映は、最終的に、少しだけ洸との距離を開けて立ち止まった。本当ならもう少し近付くつもりだったのだが、どこか決まりの悪そうな表情をした洸の様子が、最後の一歩を躊躇わせたのだ。


「一夜漬けすらしていないと断言出来る人達なので、たった数時間の勉強でも効果は見込めます。それに、誘い易い性格をした人達でもありますから。勉強会となると渋るかもしれないですが、その時は素直に諦めるつもりです」

「そっか。私が言えた義理じゃないかもだけど、お節介にならない程度にね」

「い、いえ! 先輩が教えてくれたから私達もこの件を知る事が出来たですし、決してお節介なんかじゃ……」


 夕映の言葉に洸は嬉しそうに目を細め、ありがとうと口にした。それだけで、夕映の頬はカッと熱を帯びる。何か喋らなくてはと唇を小さく震わせ、視線を彷徨わせた夕映の視界に、洸が持っている本の表紙が映った。そのタイトルに、夕映の視線は釘付けになる。

 彼女の視線に気付いたのか、洸は一つ頷くと本を閉じて表紙がよく見えるようにした。改めて見ても、当然だがタイトルが変わる事は無い。夕映にとっては、酷く見慣れた本だ。


「おじい様の本ですよね?」

「そう。綾瀬 泰造氏の著作だよ」


 綾瀬 泰造(たいぞう)。哲学者だった、今は亡き夕映の祖父だ。夕映が心から尊敬している彼は、生前に数冊の本を出版しており、洸が持っているのはその中でも最後に書かれた物である。本人が言うには一般向けで、半ば趣味として書いた物だったらしい。その内容は彼の様々な人生観を広く浅く紹介したものとなっており、特に恋愛関係の事を大きく扱っているのが特徴だ。


『愛を知らぬ者が、本当の強さを手にする事は永遠に無いだろう』


 この本の中で、夕映が最も気に入っている一文だ。他にも夕映の心に響く言葉が随所に存在し、彼女の恋愛観の基礎は間違い無くこの本によって形成されている。そんな、今でも読み返す事の多い愛読書の一つだ。

 と、ここで夕映は首を傾げた。


「たしか、以前におじい様の本は全て読んだ事があると言ってませんでしたか?」

「そうだね。この本も何度か読んでるんだけど、最近、少し気になる事があったから」


 困ったように眉尻を下げた洸を見て、夕映は益々頭の上の疑問符を増やしていく。同時に、胸の奥で冷たい不安が渦巻くのを感じた。洸が手にする見慣れた本が、何故だか酷く不吉な物に思えて、知らず夕映は喉を鳴らしていた。

 彼女の様子に気付いているのかいないのか、洸は本を持ったまま胸元に手を当てると、静かな声音で尋ね掛けてきた。


「夕映は、さ。『恋』ってどんなものだと思う?」


 その問い掛けの意味を正確に理解するよりも先に、夕映の心臓がひとりでに跳ねた。


「ど、どうしたですか? そんなイキナリ」


 夕映の問い掛けに洸は軽く辺りを見回した後、一歩、互いの距離を詰める。

 そして、近くに来た彼女に夕映が頬を染めるのよりも早く、洸はとんでもない事を口にした。


「少し前にね、告白されたんだ」


 ヒュッ、と。夕映は目を見開いて息を呑む。

 そんな夕映の変化に気付いていないのか、純粋に驚いているだけだと思ったのか、洸は変わらぬ調子で話を続けていく。


「断ったんだけど、結局は保留みたいな形になっちゃってね。だから、最近はずっと悩んでるんだ」


 どういう事だろう、と夕映は最初に考え。助かった、と次いで安堵が胸の裡に広がった。もしも付き合い始めたと言われたのならば、暫くは立ち直れない自信がある。勿論、洸に恋人が出来たからといって身を引くつもりは無いが、流石にショックは大きいだろう。準備をしている最中に奇襲を受けて敗北など、それこそ悪夢以外の何物でもない。

 一先ず落ち着く為に夕映は深呼吸をしようと息を吸って、


「――――――譲れないものです」


 口から出たのは、何故かそんな言葉だった。


「え?」

「私にとって『恋』とは、譲れないものです」


 自然と続けた言葉に、洸は得心がいったと頷いてみせる。

 そんな、すぐ傍に立つ彼女の黒い瞳を真っ直ぐ見詰めながら、夕映はまた口を開いた。


「たとえ相手に他に好きな人が居ても、自分の事を見てくれなくても、諦められないもの。他の何を措いても、譲る気になれないもの。それが『恋』なのだと、私は思っています」

「……少し、耳に痛いね」


 呟いた洸の声はとても儚く、だからこそ夕映の耳に強く残ってしまう。

 けれどその真意を夕映が訊くよりも早く、洸が柔らかな表情で尋ね掛けてきた。


「夕映には、誰か好きな人が居るの?」

「ッ!?」


 自らの問い掛けがどれだけの意味を含んでいるのか、きっと洸は気付いていない。

 当然だ。寧ろ気付かれている方が、夕映としては困る。だから今の言葉は、洸にとって自然と浮かんだ疑問なのだ。親しい後輩の事が気になって、ちょっとした好奇心から生まれた問いなのだろう。仕方無い。夕映と洸は同性なのだから、仕方無い。

 そのくらいは、夕映だって理解している。だから、怒りは湧いてこない。


「…………居ます。誰よりも好きな人が、私を好きになってほしい人が、一人だけ居ます」

「そっか。上手くいくといいね」


 でも、堪らなく悔しくて、夕映は痛いほどに強く拳を握った。

 いつも、いつも彼女は思うのだ。


「あ、ありがとうございます――――――ッ」


 臆病な自分なんて、消えてしまえばいいのにと。








 ◆








「ふぅ~。今日も疲れたなぁ」


 エレベーターを降り、歩き慣れた女子寮の廊下を進みながら、ネギが独り言ちる。三日後が試験という事もあり、一段と増えた質問者の他に、試験監督を担当する時間やクラスの確認、テスト採点の受け持ちや採点基準の打ち合わせなどで忙しく、今日は普段よりも遅い帰宅となっている。その足取りは疲れから重くなっており、初めての試験を前にしての緊張もあってか、顔色は優れなかった。

 六百四十三号室。もう一月近い付き合いとなるその扉の前に辿り着き、ネギは取っ手に手を掛ける。


「あれ?」


 どうやら鍵が掛かっているらしく、回そうとした取っ手が音を立てて止まった。


「まだ帰ってないのかな?」


 首を傾げたネギは鞄の中から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。手首を捻れば、軽い音を立てて鍵が開く。


「う~ん。誰も居ないなら書類の整理でもしてようかな」


 鍵を仕舞い、扉を開けたネギは、部屋の中へと入っていく。玄関で靴を脱ぎ、僅か数メートルばかりの廊下を歩けば、いつも生活しているリビングへと辿り着く。そこには予想通り誰もおらず、明かりを点けようと、ネギは記憶を頼りに壁に手を這わせた。


「あ、あった」


 程無くして、指先にスイッチの硬い感触が返ってくる。

 ホッと一息。安堵したネギは、すぐに明かりを点けた。そうして蛍光灯の白い光に照らされた見慣れた部屋の姿が、ネギの目に映る。ソファにテーブル、明日菜達の勉強机や二段ベッドなどが普段通りそこにあり、もはや彼にとっては日常となった光景が確認出来た。


「――――ぁ」


 零れた呟き。ネギの耳にだけ届き、儚く空気に溶けていったそれは、胸の空虚さから生まれたものだった。

 誰も居ない部屋というのは、こんなにも寂しいものだったのだろうか。此処に居ればいつも響いてくる二人の声が無くて、人影の無いこの場所には、気温の所為だけではない冷たさを感じてしまう。だが同時にネギは、そこに温かさを感じていた。今のネギが感じている寂しさは、日頃満たされている事の裏返しだ。つまり、彼女らが温かな日々を与えてくれているという証左なのだ。

 部屋の入口に立ち尽くしたまま、ネギはその事を実感していた。自分はもう、此処の住人なのだと。


「……まだ、頑張ってるんだよね」


 鞄を握るネギの手に、自然と力が入る。

 今日の明日菜達は、図書館島で勉強会を開いているらしい。場所や時間帯を変えながらも月曜日から五日連続となる勉強会は、彼女らにとっては随分と珍しい状況なのだと聞いている。

 勿論、ネギにとっては嬉しい事だ。五人が頑張っている理由は、よく理解している。理解しているからこそ、彼女らへの感謝と共に、自分自身に情けなさを感じてしまうのだ。この五日間で、自分は一体何が出来たのだろうかと。

 多くの生徒に呼び掛けた。小テストも実施した。しかし、あの五人を除けば一体何人の生徒がネギの努力に応えてくれたというのか。それこそ五人も居れば良い方ではないのかと、教室に満ちる遊惰な空気を感じ取ったネギは思うのだ。明日菜達もそれとなく試験勉強をするように促してくれているようだが、それが逆に辛い。


「頑張らなくちゃ」


 立て掛けられた梯子を使い、ネギは自らの私室代わりとなっているロフトへと上った。ウォークインクローゼットの上部に用意されたこの場所は、四平方メートル程度の床面積を持ったL字型の空間となっており、今はネギの私物で埋められている。

 いつもの位置に鞄を置き、週末の内に処理しておきたい書類を取り出したネギは、しかしそれらに手を付ける事無く、畳んである布団へと倒れ込む。ボフリと音を立てて一番上にある枕に顔を埋めると、そのまま、彼は息を吐き出した。

 スーツに皺がつくのにも構わずに体を反転させて、天井を見上げる。見慣れたそれは、ネギがこの部屋の住人だという証だった。


「――――――ッ」


 体を起こし、先程出した書類の中からネギは一枚だけ抜き取った。今日、しずなに渡された来年度の授業計画書だ。初めてなのだから早い内からよく考えておくように言われたコレは、自分に対する期待の表れなのだろうとネギは思っていた。

 十日後には期末試験の結果が発表される。それからでも決して遅過ぎるはずは無いのに、試験が始まる直前というこの時期に渡されている。普段と変わらぬしずなの笑顔が無言の真意を伝えているようにも感じられたのは、ネギの気のせいではないはずだ。


「はぁ」


 溜め息。掛けられる期待を重いと感じたのは、ネギにとって初めての事だった。

 飛び級自体はさほど珍しい訳でもない魔法学校だが、修学課程を二年も縮める生徒となれば少し話は違ってくる。そう、ネギは極めて優秀な生徒だった。一年だけ飛び級した一つ上の幼馴染みよりも、更に頭一つ分飛び抜けていたのがネギだ。周囲の人間から期待や羨望の眼差しを向けられる事は多かった。

 ただ、これまではやる気に変えてきたそれらも、今回は重荷にしかなっていない。


「………………」


 自らの左手を見詰めて、ネギは拳は握る。

 手応えが無いのだ。どれだけ授業を重ねても、生徒達との時間を過ごしても、努力が実っている気がしない。魔法学校在籍時代なら、頑張れば頑張った分だけ成長しているのを実感出来たのに、今はそれが無かった。生徒達の気持ちが知りたいと、強くそう思う。

 学ぶ事と、教える事は違う。

 ネギにそう教えてくれたのは、魔法学校の校長をしている祖父だった。ネギが修業の内容を知った日の夜から、時折、思い出したように繰り返し言い含められたその言葉。当時は何を当然の事を言っているのだと思っていたが、今になり、ネギはようやくその意味を理解する事が出来た。自分と他人。気にしてみて、初めて分かった両者の距離は、考えていたよりもずっと遠かった。


(魔法を使えば、みんなの気持ちもわかるのかな……)


 出来るはずもない。その一歩を踏み出した瞬間、教師としてのネギは決定的な敗北を迎える事になるだろう。

 焦りがあった。試験という明確な結果を前にしての焦りが、ネギの胸の裡に渦巻いていた。ただ生徒達と賑やかな日々を過ごすだけで楽しかったはずなのに、今は試験の事ばかりが気に掛かる。こうして一人で悩んでいると、余計にその傾向が強くなる。

 一つ、ネギは溜め息をつく。どうにも思考が暗くなっていた。

 紅茶でも飲んで気持ちを落ち着けようと、自分用のティーセットにネギが手を伸ばした所で、


「ただいま、と。あー、疲れた。やっぱ勉強は性に合わないわね」

「ただいま~。アスナは最後らへんになると、いっつも眠そうにしとるもんなぁ」


 明日菜達が部屋の中へと入ってきた。

 聞き慣れた声がネギの耳を震わせ、首を捻れば、見慣れた姿が目に入る。言葉通りに疲れた様子の明日菜は、鞄を持ったままソファに座り込み、そんな彼女に笑い掛けながら、木乃香は机の上に鞄を置く。いつもと変わらない、日常としか表現しようのない光景だ。

 でも、どこかくすんで見えた部屋の中が、たったそれだけで鮮やかに彩られたような気がした。


「ネギー、帰ってるんでしょ? って、居たわね」


 転落防止用の柵に手をつき、身を乗り出すようにしていたネギを、明日菜が見上げる。彼女の視線に晒され、ネギはハッとした表情で二人に焦点を合わせると、気の抜けた声で挨拶した。


「あっ。二人ともお帰りなさい」

「ごめんなー。遅くなってもうて。すぐにご飯作るから」

「アンタも頑張るわね――――――って、どうしたのよネギ?」


 キッチンに向かう木乃香を見送った明日菜が、ぼんやりとした様子のネギに声を掛けた。対するネギは暫く返事をしないまま明日菜を見詰めていたが、やがて緩やかに首を振ると、笑みを浮かべて口を開いた。


「いえ、なんでもありません」


 ――――――ただ、頑張ろうと思っただけで。


 口の中で消えていったその言葉は、ネギの決意の表れだ。もはや日常の一部となった彼女らの為に、楽しい時間をくれる生徒達に胸を張って先生だと言えるように、あと少し、彼は頑張ろうと思った。








 ◆








 テーブルの上には熱いお茶が注がれた二つの湯呑みと、同じく二つの、羊羹が乗せられた皿がある。向かい合って座る洸と近右衛門の前にそれぞれ一つずつ置かれたこれらは、この時間の為に洸が淹れたお茶と、近右衛門が用意した茶請けだった。二人が居るのは中等部にある学園長室であったが、普段とは違い、今はプライベートな時間を過ごす為に利用している。

 今日は三月十四日だ。生憎と木乃香は不参加であるが、先月のお返しの受け取りも兼ねて、こうして孫娘と祖父の触れ合いとなった訳である。そのお返しも渡し終えて、今は洸の鞄の中で封を開けられる時を待っている。

 故に、これからは雑談の時間だった。


「ネギ君の方はどうじゃ。上手くいっとるか?」

「さよが試験を受けられそうだし、概ね問題無いよ。ただ、少しお節介が過ぎたみたい。自分の力で頑張りたいってさ」

「ふむ。なるほどのう」


 手にした湯呑みを傾けた近右衛門は、一口飲み、ハァッと満足げな息を吐き出した。


「試験通過は殆ど確定事項。ならば、あとはどちらに転んでも構わんじゃろう。達成感を得て次を見据えるも良し。悔しさをバネに一層の努力に励むも良し。ワシらはネギ君が一人で抱え込まんように気を配っておればよかろう」

「…………私としては、上手くいってほしいんだけどね。次はコッチの我儘に巻き込んでしまうから、今回は気分良く終わってくれた方が、私の気が楽だ。未熟者に事情を話せるほど、安全な橋じゃないしね」


 切り分けた羊羹を口元に運び、洸は味わうようにゆっくりと咀嚼する。彼女は笑みを浮かべて美味しいと感想を漏らしたが、その裏に潜む感情を近右衛門は見逃さなかった。しかし彼が尋ね掛けるよりも早く、洸が明るい声を上げる。


「そうそう、お爺様に相談したい事があるの」


 機先を制される形となって、近右衛門は出掛けた言葉を飲み込んだ。


「……なんじゃ?」


 近右衛門が問い掛ければ、洸は恥ずかしそうに頬を染めて、目を伏せる。それから、気持ちを落ち着けるように深呼吸を繰り返した。自分から話を持ち出したというのに、心の準備が出来ていないようだ。或いは会話の主導権を握る為、急いで口にしたのだろうか。

 暇を持て余す中で孫娘の考えを推測しながら近右衛門が湯呑みに口をつけた所で、


「その、エヴァに告白されました」

「ッ!? ゲホッ! ゴホッ!!」


 洸が話した内容に彼は盛大に咳き込んだ。


「あの、お爺様? 大丈夫?」

「ん。オホン――――うむ、大丈夫じゃ」


 どうにか調子を整え、近右衛門は返事をする。そうすれば、洸は安心したように胸を撫で下ろした。浮かし掛けていた腰を落として、彼女は再び話す体勢となる。一方で近右衛門は気持ちを落ち着けようと、テーブルに置いた湯呑みを口元へと運んだ。


「それでね、私も昔はエヴァの事が好きだったんだけ――――――あの、お爺様? 私は真剣に悩んでるんだけど」

「エホッ! オホッ――――――あぁ、あぁ。ワシも真剣じゃとも。真剣にどこで育て方を間違えたのか悩んどるよ」


 胸元を軽く叩き、荒くなった息を整えながら、近右衛門は空いた手で痛む頭を押さえる。

 同性を好きになったと初めて洸から聞かされたのは、はたして何年前の事だっただろうか。当時は女子校特有の麻疹のようなものだと考え、そう気にもせず助言したのだが、まさかこんな事態になるとは思わなかった。失恋したと涙ながらに言ってきた時は、胸を痛めると共に安堵したというのに、何年経っても洸が男を好きになる事は無く、遂にはエヴァンジェリンに告白されたという。

 本当に、真剣に、頭の痛い問題だった。

 後頭部を除いて完全に禿げ上がった才槌頭を押さえながら、近右衛門は洸と目を合わせて問い掛ける。


「つまりは、あの時に好きになったと言っておったのがエヴァンジェリンという訳じゃな?」


 こくりと、洸は無言で頷いた。


「むぅ。しかし、あのエヴァンジェリンがのう。ナギの背中ばかり追い掛けておったというのに」

「だから私も諦めたんだけど…………やっぱり、今でも好きだったのかもしれない。好きだって言われて、凄く嬉しかった」

「なんじゃ、相談というのは恋人の紹介じゃったのか?」


 今にも溜め息を零しそうな近右衛門の言葉を、洸は緩やかに首を振って否定する。

 おや、と近右衛門は疑問符を浮かべた。てっきり今夜は枕を濡らして今は亡き娘夫婦に謝る事になるかと思ったのだが、どうやらまだ大丈夫らしい。とはいえ、もはや半ば以上手遅れの領域に足を踏み入れているようなので、そう遠くない未来に位牌の前で頭を下げる事になるだろうと、彼は軽い諦観と共に覚悟を決めた。

 と、同時。若干思い詰めた様子の洸に気付き、近右衛門は再び疑問を抱く。彼にとっては望ましくない事態だが、彼女にとっては喜んで然るべき状況だ。普通に考えれば、そのはずだ。なのに、どうして暗い表情を浮かべるのだろうかと。

 そんな近右衛門の疑念が届いたのか、洸は力の入っていない声で話し始めた。


「自信が無いんだ。エヴァは親友だって、私は胸を張って言える。けど、ずっと恋人として居られるのかって考えた時、すぐには答えが出なかった。たしかに、好きなんだと思う。でも一度は親友で構わないって諦めた私が、最後までその想いを貫けるのかな、てさ」


 手にした湯呑みに視線を落とし、洸は桜色の唇を寂しげに歪める。湯呑みを握る彼女の手は微かに震え、黒色の瞳は映し出された自らではなく、もっと別の何かに向けられているように思われた。


「それにね。何時の間にか、エヴァを好きになる事を怖がるようになってたみたい。今以上にエヴァを好きになってしまったら、いつか本当に取り返しのつかない無茶をするんじゃないかって、そんな事を考えるようになってた」

「…………今でも、十分に無茶をしておると思うがのう」


 洸は苦笑し、一口、お茶を飲んだ。


「そうだね、自覚はあるよ。でも、だからこそ越えてはいけない一線を越えるんじゃないかって、そう思ったんだ」

「…………なるほどのう」


 豊かな顎鬚を撫で摩り、眉に隠れた目を細めた近右衛門は、しみじみとした呟きを漏らす。次いで、彼は羊羹を切り分けて口に運ぶ。くどくない、上品な甘さが口の中に広がり、素直に美味しいと感じた。そうして近右衛門は羊羹を食べ進めていき、暫し会話が止まる。洸は何も言わない。彼女は近右衛門を見詰めて、静かに彼の言葉を待っている。

 やがて羊羹を一切れ食べ終わり、お茶で喉を潤すと、ようやく近右衛門は話を再開させた。


「それで、お前はどうしたいんじゃ? 相談と言うからには、何か聞きたい事があるんじゃろ?」

「うん。一応は断ったけど、エヴァはそれでも諦めないって言った――――――――情けない話かもしれない。でも、この状況を嫌だと思ってない私が居る。だから、もう一度シッカリ自分と向き合って、ちゃんとした答えを出したいと思ってる」


 持っていた湯呑みをテーブルに置いた洸は、黒曜石を溶かし込んだようにも見える瞳に、強い光を宿らせていた。


「今の話に対する意見が聞きたいというのと、お爺様自身がお婆様とどんな道を歩いてきたのかを、私に聞かせてほしい」

「ワシとしてはあまり協力したくないんじゃが…………しょうがないのう」


 まだ心の中に抵抗はあり、気は乗らない。それでも孫娘の頼みとあらば聞かざるを得ないと思うのは、年寄りの性だろうか。自らへの呆れから近右衛門は首を振り、次いで懐かしい記憶を一つ一つ掘り起こすと、彼はしわがれた声でゆっくりと話し始めた。

 その夜、遅くまで学園長室の明かりが消える事は無かった。












 ――――後書き――――――――


 そんな訳で、第九話をお送りしました。お読みくださった方、ありがとうございます。

 各方面の現状確認的な話です。あとは夕映のちょっとした進展ですね。日程に入っているのでホワイトデーの話を書こうと思ったら、何故かこんな話になってしまいました。本当は夕映に優しい話にするはずだったのに、気付けば一番苛められていたから不思議です。

 早くエヴァンジェリン編に移りたいとは思うものの、春休みもイベントが一杯なんですよね。自分の無計画さが恨めしい。とはいえ、まずは期末テストです。キッチリと纏められるように頑張りたいと思います。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/03/01 21:14


「昨日も言ったようにこの時間は自習ですので、好きな教科の勉強をしてください。でも、寝るのはダメですからねー」


 元気の良いネギの声が、教室の中に響く。教壇に立つ彼の前には、今日も誰一人として欠席者の見られない生徒達が各々の席に座っており、やる気を見せるネギの様子に温かい視線を送っている。親しみの籠められたそれは教師にとって一つの喜びかもしれないが、残念な事に、本当の意味で今の彼を喜ばせられる生徒は数えるほどしか居ないのを、さよは知っていた。

 しかし、決して現状は悪くないとも、彼女は感じていた。


「英語ならプリントが用意してありますので、自分で何も持ってきてない人は取りにきてくださーい」


 手に持った紙の束を掲げて、ネギは明るく生徒達に語り掛ける。その言葉に反応して、チラホラと席から立ち上がる生徒達が表れた。彼女らは一様に気恥かしそうな表情を浮かべながら教壇へと歩いていく。そんな生徒達を見て、仕様が無いといった感じで眉尻を下げたネギは、それでも声の調子を崩さずにプリントを渡していく。


「はい、佐々木さん。ゆっくりで構いませんから、頑張ってくださいね」

「うん! お姉さん頑張っちゃうからねっ」


 愛嬌のある笑顔を浮かべ、元気な声で返事をしたのは、出席番号十六番の佐々木 まき絵(ささき まきえ)だ。

 成績に関しては明日菜と並んでA組の中でも最低クラスなのだが、近頃の彼女は中々に真面目な生徒だった。といっても、別に大幅に授業態度が良くなった訳でもなければ、目に見えて賢くなった訳でもない。ただ以前と比べて幾分積極的な態度で授業に取り組むようになっただけだ。ノートをキチンと取ったり、偶に自分から発表しようとしたりと、その程度の事に過ぎない。

 ネギの事を気に入っていると、まき絵は言う。確かにそれは事実のようで、彼女は特に英語の授業でやる気を見せているし、授業中に彼が子供っぽく喜びを表現した時などに最も楽しそうにしているのはまき絵だった。勿論、明日菜やのどか、あやかを始めとしてA組の殆どの生徒がネギに対して好意的ではある。ただ、ネギを気に入っているという表現が似合うのは、まき絵が一番だ。

 それは、ともすればネギ以上に子供っぽい所のあるまき絵だからこそ生まれる印象だった。彼女は、初めて弟が出来た小さな女の子のように張り切りを見せ、それ故に、最近は些か真面目になったのである。ネギに、格好良い所を見せる為に。

 もっとも上手くいった事は殆ど無いのだが、それもまた彼女の愛嬌だろう。


「う~ん。今度のテストは意外にいいトコいくかもね」


 出席番号三番の朝倉 和美が、さよの隣で小さく呟いた。

 報道部に所属する和美は日常的に周囲の情報を収集しており、今も愛用の手帳に何かを書き込んでいる。だがそれが終われば、彼女もまた自らが用意した数学の問題集に取り掛かる。気楽な様子ではあるが、それでも振りだけではなく、ちゃんと問題を解いている。他の生徒達も似たようなもので、手を休める事もあれば、友人と軽い雑談に耽る事もあるのだが、完全にだらける事は無い。

 気まずいのだ。クラス全体でのお祭り騒ぎならばネギは翻弄されるしかないのだが、こういった半端に静かな時間なら、彼にも余裕がある。教室を見渡して、生徒達の様子を確かめる事が出来る。だからといって余程煩くしない限りはネギも注意はしないのだが、表情に悲しげな影を落とす彼に気付けば、騒ぎ続けるのは難しい。結果として、少しの間ではあるが真面目になるのである。

 微々たる変化かもしれない。いつもクラスメイトを見ていたさよや和美しか気付けないような、僅かな違いかもしれない。何よりも、ネギが望み、努力した末での結果ではないかもしれない。

 だがそれでも、生徒達にとってプラスとなっている現状は喜ぶべきだと、さよは思っている。教師が生徒を導くだけではなく、生徒が自分達だけで成長するだけでなく、みんなで前へ進んでいく場所が学校なのだ。

 それは、みんなの輪から外れざるを得なかったさよの持論だった。


(うん。今日も問題無いですね)


 心中で独り言ち、さよはクラスメイトの観察を止めた。

 A組の様子を報告するというのが、洸からさよに与えられた任務である。正確にはさよが洸に必死に頼み込み、どうにか考えて貰った役割であるのだが、それはさておき。この仕事は詰まる所、ネギの補佐の一環であるらしい。タカミチが担任だった頃との違いを、また日々の変化を知る事で足りない部分の指導計画を立て、他の先生方にカバーして貰おうという訳だ。

 現在は指導教員のしずながその役目を果たしているらしいが、ネギが正式採用となれば誰か別の人員を用意する必要がある。だから、考えてみればさよの申し出は非常に有り難かったと、洸は言っていた。その言葉は、さよにとって何にも勝る報酬だ。

 だからこそやる気があるし、割と自信もある。これでもさよは、六十年も中学校に通い続けている存在だ。時代による変遷はあるが、卒業までに修めておくべき事は、生活態度なども含めて熟知している。教師についても同じくだ。


(頑張りますっ!)


 むんと両の拳を握って、さよは気合いを入れるのだった。












 ――――第十話――――――――












 以前、二年A組には『バカレンジャー』と呼ばれる五人組が居た。俗に言う戦隊物のTV番組をもじった渾名であり、全体的に成績のよろしくないA組の中でも特に順位が低い、学年最低クラスの点数をテストで取る五人に付けられていたものである。

 過去形だ。最近では滅多に使われる事が無い。その理由は単純で、メンバーの一人が順位を大きく上げた事により、バカレンジャーの名に相応しくなくなったからである。流石に四人ではバカレンジャーと呼称する訳にもいかず、この渾名は封印の運びとなったのだ。

 とはいえ。それで残る四人の成績が良くなるはずもなく、彼女らは相変わらずA組の馬鹿代表としてクラスメイトに認識されていた。だからこそ夕映は、彼女らに可能性を見出したのである。元バカレンジャーの夕映は、たったの一時間であっても勉強をする事の重要さをよく理解していた。故に彼女は、バカレンジャーの残る三人を新たに勉強会に参加させようと考えたのだ。


「けど、ホンマにあの三人が参加してくれるとは思わんかったわ」

「まき絵さんの存在が大きかったですね。彼女が初めに賛成してくれた上に、他の二人を誘ってくれましたから」


 土曜日の夜。テーブルを囲み、ジュースの入ったコップを手に持って話し合っているのは、最近では馴染みの仲良しグループとなってきている、図書館探検部員に明日菜を加えた五人だ。少し前に夕食を終え、今はハルナ達の部屋で明日の予定について話し合っている所だった。ネギは居ない。全員の心に燻ぶる後ろめたさが、この件について彼と話し合うのを躊躇わせていた。


「あのまきちゃんがねぇ。ま、ノリの良い性格だし最近はちょっとやる気出してるみたいだし、こんな事もあるか。素直に感謝だね」


 話しながらコップに口をつけるハルナに頷きを返すと、夕映は言葉を続けた。


「勉強会は明日の午後からで、休憩時間を多めに取りながらやる予定です。私達の勉強時間は少なくなりますが、それを補って余りある効果を期待出来るので大丈夫でしょう。夜にシッカリやれば問題無いと思いますしね」

「さんせ~。私もそろそろキツくなってきたから助かるわ」


 テーブルに突っ伏して安堵の息を吐き出した明日菜に、木乃香達が笑みを零す。

 そんな周囲の反応に、彼女は面を膨らせて不満を表した。


「もう、笑わなくたっていいじゃない。大体なんでハルナはそんなに元気なのよ。アンタだって普段勉強しないでしょーが」

「フッフッフッ。同人とはいえ、漫画家を舐めて貰っちゃ困るねぇ。持久力には自信があんのよ」


 中身が残り半分となったコップを揺らし、その向こうで余裕の表情を浮かべるハルナを見て、明日菜は眉尻を下げる。次いで溜め息を吐くと、彼女は情けない顔のままでぼやいた。


「はぁ~。もしかしたらアンタには勝てるかなって思ったんだけどなぁ」

「それはアスナが夢見過ぎだって。これでも順位的には学年の真ん中ぐらいなんだよね~、私って」

「げっ」


 口端をひくつかせた明日菜は、そのままガックリと項垂れた。そんな彼女の様子に、夕映は苦笑する。

 夕映には、明日菜の気持ちがよく分かる。普段から勉強に慣れていないどころか拒絶反応すら持っている人間だと、モチベーションを維持するだけでも一苦労だ。しかも精神面はどうにかなったとしても、今度は体の方が突然の変化に付いて来れなくなる。勿論、数日も経てばある程度は慣れてくれるのだが、やはり一週間近くも連続すると辛いのだ。

 とはいえ、明日菜の立場を考えればこれでも持った方だろう。明日菜とネギは確かに親しい関係にあるが、だからと言って夕映が洸の為に頑張るのとは訳が違う。彼女が夕映の予想を超えて面倒見の良い性格だったというのも一つの理由だろうが、試験勉強以前から自分達の英語の質問会に参加していたのが大きな助けになっていると、夕映は考えている。

 世の中とは案外面白く回っているものだと、そう思いながらコップに手を伸ばした夕映は、


「のどか……?」


 難しい表情をしている親友に気付いて首を傾げた。声が聞こえたのか、夕映の方に顔を向けてきたのどかは、決まりの悪そうな様子で落ち着き無く指を絡ませ合っている。交わし合った視線からは躊躇いのようなものが窺え、その事が夕映を不安にさせた。


「えっと、その……やっぱりネギ先生にちゃんと教えた方がいいんじゃないかなー?」


 決して大きくない声で話したのどかの言葉は、しかしこの場の全員が聞き漏らす事無く理解した。途端に空気が停滞し、四人の表情に気まずそうな色が浮かぶ。まさしく淀みだ。心の淀みが、表面に浮き出ていた。

 誰もが考えていて、けど、口に出さなかった事である。多分、ネギが許してくれる範囲だろう。そうは思いつつも自信が持てなくて、結局は言えず仕舞いで此処まで話を進めてきた。今更中止にするというのは考え辛い。だがやはり、黙っているのも辛い。

 そんな周囲の無言の真意に誰もが気付きながらも、誰一人として声を発しない中で口火を切ったのは、意外にもハルナだった。


「あ~…………やっぱ、ネギ君には話しとくべきだよねぇ」


 楽天的なハルナにしては珍しい気後れした様子の声に、他の四人が頷く。


「ナイショにされとるって知ったら悲しむやろうしね」

「うん。たしかに話したら怒られるかもしれないけど、話さないままでいるのはダメだと思う」

「まぁ……義理を欠く行為と言えるでしょう」


 一度切っ掛けさえ出来れば、やはり出てくるのはこんな言葉ばかり。全員が胸の裡にある淀みを流し出そうとするかのように、次々と賛同していく。部屋の中の空気も緩み、各々の表情に再び柔らかな雰囲気が宿る。


「まっ。ダメって言われたらネギに謝る。まき絵ちゃん達にも謝って予定をキャンセル。それでイイでしょ」


 明日菜の言葉に、全員が安堵した様子で頷いた。








 ◆








「それで? ネギ君は何が聞きたいのかな?」


 見ている者を安心させる穏やかで余裕のある表情を浮かべたタカミチが、椅子に座るネギの前にカップを置く。注がれている鮮やかな赤色をした液体からは、白い湯気と共に梅を思わせる香りが漂い、ネギはローズヒップティだろうかと当たりを付けた。


「ありがとう。えっと、それでさ。タカミチは教師としての自分にちゃんと自信を持ててるのかな、て思ったんだ」


 喉の渇きから、ネギは目の前に置かれたカップを手に取り、口をつける。こくり、と音を鳴らして嚥下すれば、ほんのりとした酸味がもたらす穏やかな味わいが口の中に広がっていく。同時に体の内側から温かくなってきて、それだけで心が落ち着くような気がした。

 今日、ネギがタカミチの家を訪れたのは、少し前から考えていた事である。教育実習生としてこの一ヶ月を過ごし、色々な人達と触れ合ってきた事で生まれた疑問などを、教師としても魔法使いとしても大先輩であり、頼れる友人だと思っているタカミチに相談しようと考えていたのだ。正式な担任という立場で生徒達の前に立った時、決して恥ずかしい振る舞いをしないように。

 そうして様々な質問を用意してきた中で先の問い掛けが最初に出てきたのは、昨晩、明日菜達に聞かされた今日の予定が理由だろう。勉強会をするというのは問題無く、寧ろ喜ばしい事ではあるのだが、やはり新たに三人も参加させると言われた時は、ネギの心に衝撃が走った。嬉しさと悲しさを端として、それぞれ等量に、だ。

 無理に誘った訳ではないというのも、珍しくやる気を見せているという事も、明日菜達の言葉なのだ、信じられないはずがない。胸の裡にはむず痒さと共に温かさが満ち、僅かばかりの達成感すら覚えた。

 でもやはり、暗い影が心に住み着くのだ。自分は心配される側の存在であって頼られる側ではないのだと、そんな自らの不甲斐無さを突き付けられた気がして、まるで小さな氷柱でも刺さったかのように、鋭く冷たい痛みが、昨晩からネギの胸の奥に居座っていた。


「ふむ。教師としての自分、か」


 仕方無い、とネギは思う。この一ヶ月の記憶を掘り返してみれば、ネギが生徒達を統率出来た覚えなど無かった。何時だって彼は手を引かれる側で、元気一杯の生徒達に先導されてばかりだったのだから。確かにそれ自体には感謝しているし、納得もしているが、今度の試験結果如何では正式な教師となる身としては、やはり不安が残るのである。

 自分は、生徒の足を引っ張っているだけなんじゃなかろうかと。

 だからというか、今のネギは余計に試験の結果が気になっていた。一つでも良い。少しでも良い。自分の力で成果を上げられたのだと信じられるものがあれば、それを糧にして四月からも頑張れるのではないかと、そう思ったのだ。


「少なくとも、二年前までは褒められた教師じゃなかったと思ってる」

「えっ?」


 顎に手を添えて考え込んでいたタカミチの言葉に、ネギは驚きから声を上げた。見開かれた彼の瞳の先ではタカミチが苦笑し、手元のカップを口元へ運んで傾けている。それから、タカミチは続きを話し始めた。


「僕がこの学園に勤め始めたのは七年ほど前の事なんだけど、当時は単に授業をするだけの非常勤講師として雇われていたんだ。今とは違って高等部の方で教えていたしね。まぁ魔法先生の多くは似たようなものだよ。僕みたいに外から仕事を拾ってくる人は居ないけど、協会関連の仕事や魔法生徒の指導があるから、クラス担任とかになる事は滅多に無い。両立出来なくなるからね」


 四角いフレームの眼鏡の奥で、タカミチは目を細める。過去に思いを馳せているのか、はたまた違う何かが見えているのか。それは、ネギには分からない。しかし、タカミチの纏う雰囲気が僅かに変化した事だけは肌で感じられた。


「二年前。今のA組の生徒達が入学した時に、学園長に頼み込んで担任にして貰ったんだ。常勤講師になってね。そうして実際に担任になってみて、初めてわかる事があった。僕は今まで、生徒達の事を全然考えれてなかったんだ、てね」

「…………そうなの?」


 問い掛けに返ってきたのは、迷いの無いタカミチの首肯だった。

 少し、ネギには信じられない話だ。彼から見たタカミチは何時だって頼れる大人であったし、明日菜達が話してくれる事もその認識を強固にするようなものしかなかった。けれどネギの対面に座るタカミチはとても冗談で言っているような雰囲気ではなくて、彼は本当にそう考えているのだという意思が伝わってくる。


「担任の他にも美術部の顧問や広域指導員の仕事も与えられて、生徒の存在がグッと身近に感じられるようなったら、色々と見えてくるようになったんだ。時に諌めて、時に頼られて、常に生徒達の規範となるよう心掛ける。そんな当然の事が、僕には出来ていなかった。ビジネスライクなんて言葉で着飾った所で、結局は言い訳にしかならない」


 強い後悔を滲ませたタカミチの声音に、ネギは喉を鳴らした。微かに覚えた渇きから、彼はカップに口をつける。


「非常勤講師という立場を甘く見ていたんだろうね。授業を行うだけとは言っても、生徒から見れば教師という事にはなんら違いは無いのに、僕はそれをまるで意識してなかったんだ。魔法使いの方も教師の方も評価だけは良かったから、調子に乗っていたというのもあるかもしれない。技術があった所で、心構えがなってなくちゃ意味が無いのにね」


 視線を落とし、細く長く、タカミチは息を吐く。


「気付いてみればなんとも自分が情けなく思えてね。段々と魔法使いの仕事を減らして、生徒達にもっと目を向けようと頑張ってきた。とはいえ、まだまだ未熟もいいトコだろうけど」

「で、でも! アスナさん達はタカミチの事を凄くいい先生だってッ!」


 そうだ。明日菜達に教師の事を尋ねた時、最初に出てくるのは何時だってタカミチの話だ。確かに以前の担任であり、英語の教科担当でもあったのだから、話題になり易いのは当然かもしれない。けれど彼女らがタカミチに抱く敬意は本物で、ただ先生だからという理由だけだとは到底思えない。

 そんな気持ちから生まれたネギの言葉に、タカミチは嬉しそうに笑みを浮かべた。


「ありがとう。けど、僕はネギ君こそ良い先生だと――――――ううん、良い先生になれると思ってるよ」

「いや……そんな、僕なんかタカミチに比べたら…………」

「ハハハ。尻込みさせちゃったかな?」


 穏やかな笑い声を上げるタカミチに対し、ネギは小さな首肯で返す。

 自らへの不安から今日は此処を訪れたのだが、こんな話を聞いてしまっては益々自信が無くなってしまう。教師としての自分は何一つとして変わっていないけれど、自らに課せられた責は余計に重く感じるようになってしまった。こんな調子で、本当にこれから先も問題無くやっていけるのだろうかと、心に影が落ちてしまう。

 そう思い、自然と俯いたネギの顔を上げさせたのは、柔らかな声で紡がれたタカミチの言葉だった。


「大丈夫。ネギ君は、もう教師としての一歩を踏み出してるよ。だからこそ、今日はココに来たんだろう?」

「――――え?」

「初めから教師としての務めを完璧に果たせる人なんて居ない。けれど、全ての教師は教え子の事を気遣ってあげるべきだと、今の僕は思ってる。君は、自分の事だけを考えて相談しにきた訳じゃないだろ? 昔の僕よりもずっと先生をしているよ」


 それに、とタカミチは続けて。


「生徒達は、別に君だけで預かってる訳じゃない。この学園全体で預かってるんだ。困った時、迷った時、その他、どんな時でも僕達を頼れば良いし、相談すれば良い。ネギ君自身の成長と、何より、僕達の生徒の為にね」


 見る者を安心させる落ち着いた笑顔と共に、タカミチは言い切った。

 そうして暫し。彼の言葉の意味を一つ一つ噛み砕き、消化していったネギは、やがて口元を綻ばせて、


「うん。僕、頑張るよ!」


 力強い声で、そう言った。








 ◆








「あうー。やっぱり勉強は大変アルねー」

「むぅ。拙者も体を動かすのは得意でござるが、頭の方は少々……」


 現在時刻は午後の四時を回った頃。ベンチに座り、手には缶ジュースを握った状態で疲れた声を漏らすのは、出席番号十二番の古 菲(くー ふぇい)と、出席番号二十番の長瀬 楓(ながせ かえで)だ。明日菜達に誘われ、共に声を掛けられたまき絵が乗り気な事もあって勉強会に参加した彼女らだったが、やはり慣れない勉強は疲れが溜まるようで、現在は三度目の休憩の最中だった。

 彼女達が居る場所は図書館島一階にある小さな休憩所であり、大き目の通路を挟んだ向こう側には、整然と並ぶ本棚群が見て取れる。

 他の六人は居ない。一時間と少し前に二度目の休憩を全員で取っており、まだ余裕のありそうな彼女らを見て、二人が遠慮したのだ。ただ菲達にとって予想外だったのは、まき絵が休憩の誘いを断った事だった。顔に疲れの色を滲ませ難しいと呻いていながらも、彼女はもう少し頑張ってみると言ったのである。

 だから此処に居るのは楓と菲の二人だけなのだが、自分達だけで休むというのは、やはり気まずいものがあった。特に、同類と思っていたまき絵がこの場に居ない事が彼女らの心に焦りにも似た熱を燻らせていた。

 勉強をした方が良いのではないか、という思い。それは確かにあるのだが、如何せん二人は勉強嫌いなのだ。居心地が悪いという理由だけでは、どうしても倦怠感の方が勝つ。故に、小まめに休憩を挿みながら少しずつ問題を解くという現状に甘んじているのだ。


「まき絵もよくやるネ。私には無理アルよ」

「最近は妙に張り切ってるようでござったからなぁ」

「そうアルか?」

「そうでござるよ。ネギ坊主の前では特に」


 話しながら、楓は年下なのに自分達の先生をしているという、変わった少年の事を思い出していた。

 身の丈は百八十近くあり、容姿はそれ相応。備えた落ち着きは年齢不相応と言われる楓であるが、教室で初めてネギを見た時は流石に驚かされたものだ。頼れる大人であったタカミチの後任が年端もいかぬ可愛らしい少年だというのは、予想外にも程があった。

 子供、というのが楓の第一印象だ。捻りも何も無い率直な感想でしかないが、それほどまでに意外だったのである。しかし、よく観察してみれば単なる十歳児ではないという事が理解出来た。教師としては確かに未熟者としか言い様が無かったが、その瞳に宿る聡明さと意志の輝きには目を見張るものがあり、現在、ただの子供という評価は楓の中で覆されている。


「ネギ坊主アルかー。たしかに、子供の前では情けない姿を見せたくないアルね」

「うむ。まぁ……ネギ坊主も大分先生らしくなってきたが、今一つなり切れてないでござるからな」


 背筋をピンと張り、大きなブラウンの瞳で生徒を見据え、淀み無く話を進めていく。こなれてきたのか、それとも自信がついたのか、近頃の授業をしている時のネギは、実に教師らしくなってきた。もっとも、まだまだ子供らしい一面も見せるし、授業外となれば完全に子供扱いと言ってもいいぐらいではあるのだが。

 そんな事を楓が考えていたら、隣に座る菲が得意気な様子で話し始めた。


「千里の行も足下に始まる、ネ。私が進むのは武の道だが、同じ歩む者として、ネギ坊主は大成すると思うアルよ」

「で、ござるな。しかし、古の口からそんな小難しい話が出るとは予想外でござるよ」

「ふふふ。故郷に居た頃は色々と教えられたアル。日本語じゃなかったら他にも話せるヨ」

「う~ん、なんだか悔しいでござるなぁ」


 顎に手を当てて唸る楓を見て、菲は面白そうに笑みを浮かべた。すると今度はその菲を見て、益々楓は唸り声を上げる。

 しかし、それも少しの間だけだった。やがてどちらからともなく二人は立ち上がると、持っていた缶ジュースの中身を一気に飲み干して、近くのゴミ箱へと捨てる。それから彼女らは顔を見合わせ、互いに薄く笑った。


「では、偶には拙者も勉学に励むとするでござるか」

「私も武道以外に現を抜かしたい気分アルね~」


 やはり、どちらからともなく。

 足を踏み出し。


「負けぬでござるよ」

「それはコチラの台詞アル」


 二人は勢い良く駆け出した。

 勉強をしている六人に合流した彼女らが、マナーが悪いと夕映に怒られるのは、これから一分後の事だった。








 ◆








 静かなものだと、さよは思った。いつもは話し声で満たされているリビングの空気が、今は酷く大人しい、と。

 さほど厚みが無く、一匹の猫が、柔らかなタッチで表紙に描かれた絵本を手にする彼女の視線の先には、ソファに寝転んで眠りこけている洸の姿がある。癖の無い、長く伸ばされたみどりの黒髪を綺麗に揃え、行儀良く体を横たえた洸はまるで幼子のようにも見え、普段と比べて随分と可愛らしく感じられる。これで自らの身の丈よりも大きな化け物を相手取って戦う事もあるというのだから、魔法使いは本当に凄いと思う。

 もっとも、単に魔法使いとして職を持ち、生活していくだけであれば、そんな技術は必要無いらしい。個々の職に対する知識と理解、それと最低限必要な魔法を修めており、問題無く運用出来るのなら、一人前と言えるのだとか。勿論、一流ではない。そして数多くある職業の中で戦闘技能を必須とする仕事は少なく、そちらに気を回す暇があれば知識を蓄える方が有益だと洸は言っていた。


「………………」


 手に持った絵本をテーブルの上に置き、さよは寝ている洸の傍まで飛んでいき、彼女の寝顔を覗き見た。普段ならまず目につく、ツリがちな黒の双眸が閉じられている所為か、元来の柔らかな面立ちと相俟って、眠っている洸からは酷くあどけない印象を受ける。

 自然とさよの口元には笑みが浮かび、優しい気持ちが胸に去来した。


「ホント、寝顔は可愛らしいんですよね」


 けどやはり、起きている時の方が良い。その方が、彼女らしい。

 洸は大人だ。それは年齢的なものだけではなく、精神的な意味合いも含んでの事である。見識があり、面倒見が良く、常に落ち着いている。中学時代もシッカリした人だとは思っていたが、その頃から真っ直ぐ成長出来たのだと、素直に信じられた。実に彼女らしく良い大人になったと、さよは感じている。

 そうだ。洸は成長した。否、彼女に限らず、誰もが成長していく。


「私は……どうなんでしょうね」


 こうして友達が出来て、帰る場所が出来て、本当に今の自分は恵まれていると思う。

 でも、だからこそ、これから先の事が分からなかった。降って沸いたこの幸運を持て余すばかりで、何をすれば良いのか、まるで考え付かないのだ。友達が欲しいとは思っていたけれど、本当に出来るとは思ってなくて、今はただ、現状に戸惑う事しか出来ていない。洸に仕事を都合して貰ったのも、ただ与えられる幸せを甘受するだけの自分が嫌だったからだ。


「なーんか、辛気臭い顔してるね」

「へっ!?」


 予想外の唐突な呼び掛けに、さよは驚きから声を上げた。よく見れば洸が寝転んだままの体勢でうっすらと目を開けており、眠たそうに瞬きを繰り返している。それから小さく欠伸を噛み殺すと、彼女は緩慢な動作で上半身を起こした。


「それで、どうしたの? 悩みでもある?」


 微かに涙の滲んだ目を擦りながら、洸が問い掛ける。ただ言っている事は中々に真面目なのだが、寝起きの為か今一気の入っていない表情をしており、今の彼女には何処かアンバランスな可笑しさがあった。普段の洸を知っているから尚更だ。

 だから、つい。さよは小さく吹き出してしまう。


「あ、ヒドイ。コッチは心配してるのに」

「ふふ――――すみません。なんだか可笑しくて」

「もうっ」


 白魚のような指を口元に添え、控え目に笑うさよを見て、洸は呆れた様子で息を吐いた。次いで軽く伸びをすると、彼女はソファから立ち上がり、壁に掛けてある時計へと顔を向ける。

 時刻は午後五時前。あと一時間もすれば、山の向こうに日が沈むだろう。


「私は今から準備して晩御飯の材料を買いに行くけど、さよも付いてくる?」

「あ、えっと…………今日は、遠慮しときます」

「おっけー。それじゃ、私は出掛ける準備するから」


 言って、洸はリビングの出入り口となる扉へと歩いていく。

 長い黒髪を左右に揺らしながら徐々に遠ざかっていく彼女を見ていたさよは、しかし扉を開けようと洸が取っ手を握ると、大きな声で彼女を呼び止めた。それはさよ自身が意図した事ではなく、自然と口を衝いて出てたものだった。


「あ、あの!」

「ん?」


 振り返り、首を傾げる洸。その、不思議そうにしている彼女に何を言えばいいのか、刹那、さよは迷う。だが、やはり。さよの口は、彼女自身の意思を離れて、ひとりでに言葉を紡いでいた。


「洸さんには…………夢って、ありますか?」


 キョトン、と。そんな表現が似合いそうな様子で、洸が目を丸くする。

 しかし幾許もしない内に彼女は笑みを浮かべ、


「あるよ。今は休業中だけどね」


 そう答えた。


「休業、ですか?」


 頭に疑問符を浮かべたさよに対し、洸はただ笑顔だけを返してくる。そうして彼女は今度こそ扉を開き、リビングを出ていった。

 扉の隙間に消えていった黒髪を見送ったさよは、暫し沈黙を保った後、


「……夢、かぁ」


 ただそれだけを、小さな声で呟いた。








 ◆








 日頃から利用しているスーパーで夕飯の食材を買い終え、他には特に入り用な物は無いという事で真っ直ぐに家路についた洸は、現在人通りの少ない道を一人で歩いていた。未だ冬の冷たさを感じさせる風が頬を撫で、コートの裾をはためかせる中で、彼女はピンと背筋を伸ばし、確かな足取りで歩を進めている。

 手に持つビニール袋が時折音を立て、存外に靴音が大きく耳に響く物静かな路地。既に日は沈み掛け、等間隔に設置された街燈が灯り始めた中で洸が考えるのは、自らの夢の事だった。出掛けに掛けられたさよの言葉が、今でも耳に残っている。

 彼女に言ったように、夢はある。小さな頃から抱いていた大切な夢だ。

 祖父の後を継ぎたいと、子供の頃から思っていた。麻帆良の長になりたいと、それだけを考えて走り続けてきた。目指す理由は途中で形を変えたが、終着点だけは昔からずっと変わっていない。次の代ではなく、次の次の代になった時に、この地を治めていたいと。



(もっとも……)


 やはり、さよに言ったように。半年ほど前から休業中だ。


(悪い友達、か)


 昇り始めた月を見て、洸は苦笑した。

 エヴァンジェリン=A=K=マクダウェル。齢六百を数える真祖の吸血鬼にして、十五年前までは六百万ドルの賞金を掛けられていた賞金首でもある彼女は、現在、呪いによってこの地に縛り付けられている。『登校地獄』と呼ばれるその呪いは、対象を指定した地域から出られなくし、更にはなんらかの教育機関に強制的に通わせるという効力を持っている。『千の魔法使い(サウザンドマスター)』と呼ばれ、英雄と謳われたナギ=スプリングフィールドによって掛けられた、風変りな呪いだ。

 また、この呪いを掛けられている者を対象とした封印結界が、学園側によって施されている。こちらはエヴァンジェリンの魔力を封印するものであり、これにより現在の彼女は普通の人間と殆ど変わらない存在となっていた。

 行動の自由と強大な魔力。この二つを制限されているのが、今のエヴァンジェリンだ。


(意外と、聞き分けは良いんだけどね)


 ナギが約束を破った事に対しては文句をつけているが、自身がこの地に封印されている事自体は受け入れているようだった。力尽くで彼を自分に縛り付けようとした報いだろう、と。昔は色々と言っていたはずなのだが、この辺りは心境の変化だろう。

 その理由は、言わずもがな。


(でも、だからこそ……)


 知らず手に力を込めていた洸の耳を、


「あ、やっぱり洸さんだ」


 幼い子供の声が震わせる。

 驚いた洸が気配のある後方へと顔を向ければ、少しだけ離れた位置を見知った少年が歩いていた。普段とは違って私服の上にコートを羽織っている彼は、人懐っこい表情を浮かべてこちらに近付いてきている。


「ネギ君?」

「はい。タカミ――――高畑先生の家にお邪魔した帰りなんですけど、洸さんはお買い物ですか?」

「そうだよ。晩御飯の食材を買い出しにね」


 手に持ったビニール袋を揺らしながら、洸が首肯する。その間も近寄ってきていたネギが彼女の隣に並び、一緒に歩き始める。黙ってそれを見ていた洸は、はたして彼とこうして言葉を交わすのは何時以来だったかと、そんな事を考えた。直接言葉を交わすのは、随分と久し振りになるな、と。


「そうですかー。あ、そうそう」

「ん? どうしたの?」

「洸さんも魔法つか――――」


 ネギが全てを言い切る前に、洸は彼の唇に指を当てて黙らせる。しまったと、慌てた様子で視線を辺りに巡らせ始めたネギを見て一つ頷いてから、彼女は魔法を発動する。洸の左手に填められた指輪から淡い光が漏れ、それを見たネギが驚きに目を見開いた。


「あ、あの……」

「会話の偽装魔法。何を話していても、周囲にはただの談笑として受け取られるようになる」


 戸惑うようなネギに対して笑顔を見せて、


「と、まぁ。見ての通り私は魔法使いだよ」


 洸はにこやかに言い切った。その彼女を見て、ネギは安堵したように息を吐く。

 自分が魔法使いである事をネギに教えたと、洸は以前に近右衛門から聞いていた。なんでも、初めは木乃香が魔法使いであるかどうかを訊きに来たらしく、話の流れでそうなってしまったのだとか。勿論、監視任務については隠したままだ。


「それで、どうかしたの?」

「あ、はい。えっと、洸さんも『立派な魔法使い』を目指してるんですか?」


 真ん丸の瞳に期待の色を滲ませて見上げてくるネギに、洸は苦笑する。出来ればネギの期待に添えたい所だが、生憎と洸の夢は違う。昔は選択肢の一つとして考えた事もあったが、祖父の後を継ぐという思いを揺るがすほどではなかった。


「ううん。私は目指してないよ」

「そうなんですか……」


 残念そうに、ネギが肩を落とす。

 やはり、同じ夢を持つ同志は多い方が嬉しいのだろう。


「ネギ君は『立派な魔法使い』になりたいんだよね?」

「はい! それで、何時かは父さんみたいな『偉大な魔法使い』になるんです!」


 一転して輝きに満ちた表情を浮かべるネギを見て、洸は自らの顎に手を添える。

 予想通りと言えば、この上なく予想通りだった。彼女が聞いた情報そのままと言ってもいい。ネギが抱く夢は、魔法使いの子供としてはかなり平凡な内容だ。特に昨今の見習い魔法使いは、それこそネギが言ったように、彼の父であるナギ=スプリングフィールドに強く憧れている者が非常に多い。

 とはいえ、その中から実際にナギのようになれる魔法使いは現れないだろうと、洸は思っている。

 彼は、時代が生んだ英雄だ。圧倒的な才気。広く受け入れられる人格。強い仲間達。そして何よりも、英雄へと駆け上がる為の舞台。全てが揃う可能性など皆無に等しく、たとえ本人が今の時代に生まれたとしても、同じだけの名声は得られないだろう、と。


「サウザンドマスター……か」

「どうかしましたか?」


 ネギが不思議そうに見上げてくるが、洸はなんでもないと首を振る。

 隣を歩く少年が将来的にはどれほどの高みに届くのか、或いはどれほどの人を救えるのか。それに関しては、洸はあまり興味を持っていない。確かに有望な存在かもしれないが、全くの未発達段階である現状では、どうにも評価し難い。取らぬ狸の皮算用。彼女にとって用があるのは、今の自分でも予測出来る範囲内の事柄だ。


「ねぇ、ネギ君」

「なんですか?」


 ネギは『ナギの息子』であり、同時に『英雄の息子』でもある。彼が生まれた時から備えているこれら二つの要素は、時として彼自身が何もせずとも価値を持つ。そしてネギにとっては不幸な事に、この時期には彼の肩書きを必要とする案件が二つ存在していた。

 一つは『ナギの息子』を必要とする洸個人の我儘であり、もう一つは『未熟な英雄の息子』を必要とする関東魔法協会の案件だ。


「教師の仕事は楽しい?」

「はいっ!」

「……そっかぁ」


 迷い無く言い切ったネギに対し、洸は困ったように笑う事しか出来なかった。












 ――――後書き――――――――


 以上、第十話でした。お読みくださった方、ありがとうございます。

 今回で期末テスト編は殆ど終わりですね。一応は次の話でも結果発表などで少し触れる予定ですが、予定が詰まっているので軽く流すつもりです。中々各キャラに出番を作ってあげれないんですよね。大変です。ついでに魔法関連の設定を考えるのも大変です。一つ一つの繋がりにはいつも悩まされます。

 あと、申し訳ないのですが、来週の更新はありません。今回の話が難産だったので、再びストックを切らしてしまいました。ですから次回の更新は三月十五日の日曜日となります。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十一話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/03/15 21:11


 辺りにはざわめきが満ち、落ち着かない雰囲気がそこかしこから感じられる。ネギ達が居る入口ホールには多くの生徒達が溢れ返り、先程から喜びや落胆の声が彼らの耳を刺激している。だが、ネギはそれらに意識を割く余裕は無かった。彼の視線はこの場所に来た当初からずっと天井から降りているスクリーンに釘付けで、真一文字に結ばれた口からは一言たりとも漏れていない。

 期末試験のクラス成績発表会。生徒主体で行われるそれを、ネギは明日菜達に伴われて見にきている。実はメイン会場となるこの場所以外でも学園内のテレビなどを通して結果を知る事が出来るらしいのだが、やはりその場で直接結果を知りたかった。

 昨晩の寝付きは、正直悪かった。否、昨晩だけではなく、期末試験の最終日である先週の水曜日からずっと、寝る前の時間は不安との戦いだった。他に何かを考えるにしても、まずは試験結果が分からなければ先行きの見通しは付かず、だからといって、寝るまで誰かに付き添って貰う訳にもいかない。もっとも、一度だけ明日菜の布団に引っ張り込まれた事はあったが。


『――――では、第二学年のクラス成績を良い順に発表しましょう! ちなみに学年平均点は73.9点でした!』


 マイクとスピーカーを通してホール内に響いた声を聞き、ネギはいよいよかと喉を鳴らす。

 第一学年の発表に要した時間は十分足らずだった。ならば、十分後にはネギの進退は決まっているだろう。彼自身でも気付かない内に拳を握り込んでいて、額には汗が滲んでいた。意識が集中しているのか、はたまた結果を知りたいという意識ばかりが残っているのか、擦り切れるように周囲の音が消えていき、ブラウンの瞳からはスクリーンを除いた全てが闇に飲み込まれていく。


「いよいよ、ね」

「ですね」


 些か緊張した面持ちの明日菜と夕映の声も、ネギの耳には届かなかった。

 発表が始まるのを今か今かと待っている彼は、顔を見合せて苦笑する彼女らにも気付かない。


『まずは第一位! 二年F組! 平均点は80.8点です!』

「…………」


 グッと握った拳に力を込めて、そう上手くいくはずが無いと、ネギは心を落ち着ける。自分の頑張りではまだまだ届くはずが無いと、言い聞かせる。それでも心の何処かで残念に感じているのは、きっと仕方の無い事なのだろう。


『お次は第二位! 二年S組! 79.8点でした!!』


 まだまだと、ネギは心の中で呟く。

 順位が発表される度にどよめき、拍手が飛び交う中で彼はジッと息を潜め、耳をそばだてている。一つ、また一つと新しい順位が発表されていくが、A組は未だに呼ばれていない。発表されたクラスは既に十を数え、もうすぐ折り返しを迎えようとしている。張り詰めたワイヤーがキリキリと悲鳴を上げるかのように、ネギの余裕が徐々に無くなっていく。

 暖かさが原因ではない汗が頬を伝い、歯の根がカチカチと小さく音を鳴らしていた。

 その合間にも、また一つA組ではないクラスの成績がスクリーンに映し出される。


(やっぱり……)


 上位半分の中に入る事は無理だったかと、ネギが考えたその時、


『――――――第十二位! なんと、二年A組!! 平均点は74.2点です!!』


 そんな言葉が、ネギの耳を震わせた。

 周囲の生徒達が一際大きくざわめいて、明日菜達が甲高い声を上げる。しかしネギは、それら全てを意識から外していた。続いて発表される他のクラスの成績も耳に入らず、頭の中では先程の言葉が延々と繰り返されている。第十二位。全二十四クラス中の、十二番目。ギリギリではあるが、上から数えた方が早い順位だ。


(…………A組は、十二位)


 最下位脱出どころの話ではない。これは、もしかしたら、もしかしたのかもしれない。握っていた拳が自然と震え、胸の奥からは強い熱が込み上げてくる。声は、出なかった。痺れたように舌が動かなくて、思考も上手く回らない。スクリーンに映し出される内容は次々と変わっているはずなのに、ネギの目には先程のA組の成績が焼き付いたままだった。


「やったじゃない!」


 ただ一言。そして、荒々しく頭を撫ぜる手の平の感触。

 心にスッと染み渡ったそれらに、目の奥を熱くしたネギは、そのまま、黙って頷きを返すのが精一杯だった。












 ――――第十一話――――――――












 試験の結果発表もつつがなく終了し、学園の雰囲気が完全に放課後のそれへ変わると、各所で放送に注意を向けていた生徒達は、思い思いに過ごし始めていた。明日の火曜には終了式があり、その後は約二週間の春休みへと突入する。中高に関しては全寮制となっている麻帆良学園ではこの時期に帰省する生徒も多く、家に帰る前にルームメイトやクラスメイトと遊び倒そうという思いや、試験が終わったという解放感から、数日の間は街が賑やかしくなるだろう。

 そうしてアチコチから響いてくる楽しげな喧騒に耳を傾けながら、洸は開いた手帳を見詰めて難しい表情をしている。手帳に書かれているのは春休み明けまでの仕事の予定であり、残り二週間余りとなった休暇は中々に忙しくなりそうだった。ネギの監視任務に関してはタカミチに任せられる時間が出てくるので多少楽になるのだが、問題は中高が春休みに入った事によって生じる新たな仕事だ。


(指導……か)


 戦闘技術に関する講師としての要請が、二件入っている。

 一つはガンドルフィーニからで、彼が指導している魔法生徒――――――高音=D=グッドマンと佐倉 愛衣(さくら めい)の二人に色々と教えてほしいとの事だ。コチラに関しては以前から何度か頼まれているので、洸も気にしていない。修業期間が残り二年余りとなった高音の事もあり、寧ろやる気はあると言っていい。

 問題は、もう一つの要請だ。タカミチから持ち掛けられたコレは、洸にとっては色々と頭を悩まさずにはいられないものだった。面倒などとはまかり間違っても思わないが、あまりにも突飛な内容に戸惑わずにはいられない。


(なんだって、こんな……)


 女子校エリアの端にある、他のエリアとの境界近くに設置されたベンチ。春の温もりを運び始めた風が吹き、生徒達の明るい笑い声が響くその場所で、洸は眉を顰めて溜め息をつく。とにかく、タカミチともう少し話を煮詰めなければならないと、彼女は腕時計へと目をやった。午後一時五十二分。待ち合わせの時間はもうすぐだ。

 と、折良くこちらに近付いてくる男性の姿が洸の目に入る。愛用のスーツを着込んだタカミチだ。こちらの存在に気付いたのだろう、僅かに足を速めた彼は、申し訳なさそうな表情をしながら右手を上げた。


「やぁ、こんにちは。待たせたかな?」


 同じく洸も右手を上げて、


「こんにちは、高畑先生。お呼びしたのは私ですから、気にしないでください」


 挨拶を返す。それから座っていたベンチの隣をタカミチに勧め、用意していたペットボトルを取り出した。


「どうぞ。ただのお茶ですけど」

「ありがとう、頂くよ。それで、なんの用なのかな? と言っても、大体予想はつくんだけどね」


 ベンチに腰掛け、洸の手からペットボトルを受け取ったタカミチは、そう言って苦笑する。言葉通り、彼には話の内容が分かっているのだろう。何せ昨日の今日だ。依頼内容も考えれば、十分に予測可能な範囲のはずだ。故に、洸も変に言葉を取り繕う気は無く、率直に自らの疑問をぶつけるつもりである。

 先程まで頭の中で整理していた事柄を一つ一つ思い浮かべ、必要な情報を抜き出した彼女は、軽い呼気と共に言葉を吐き出した。


「では、遠慮無く。まず、神楽坂 明日菜――――――彼女に戦闘技術を教えるのは構いません。どんな系統を目指すのかは知りませんが、助力を惜しむつもりはありません。ただ、そのですね…………」


 そこで洸は一旦話すのを止め、思索の為に視線を彷徨わせる。

 ここから先が問題だった。講師の役割以外にも頼まれたもう一つの彼女の役目は、魔法使いにとって非常識とも取れる内容だ。講師の一環と言えば確かに納得出来なくもないが、洸としてはタカミチの真意を聞くまで承諾するつもりは無かった。


「どうして、私が彼女と『仮契約(パクティオー)』をしなければならないのでしょうか?」


 古くから使われる魔法の一つに、『パートナー契約』というものがある。文字通り魔法使いが特定の人物と『相棒(パートナー)』と呼ばれる関係を結ぶ契約魔法であり、魔法詠唱中の無防備状態を打開する為に考えられたものだ。魔法使いのパートナーとなった人物は
『魔法使いの従者(ミニステル・マギ)』と呼称され、契約によって得られる力と自身の技術を駆使して敵から主人を守護するのがその役目だ。もっとも、昨今では戦いの為という意味合いは薄れ、一般の魔法使いの間では恋人探しの口実に使われる事すらあるほどだ。

 とはいえ、この契約が軽々しく行われるものではないというのは、今も昔も変わらない。かつてと比べればその重みを減じたのは確かだが、やはり心を通わせ合った相手と契約するのが普通だ。間違っても顔見知り以上友人未満の間柄で行う事ではない。たとえそれが、『本契約』ではなく『仮契約』であったとしてもだ。

 それを理解しているだろうに、どうしてタカミチがそんな要求をしてきたのか、洸にはよく分からなかった。


「――――あまり難しく考えず、単純に訓練の効率化と思ってほしい。契約は、時としてパートナーの眠れる才能を喚起する。アスナ君であれば間違い無く、と言ってもいいだろう。それに魔力供給が出来るようになれば、彼女が魔力を感じ取る上で大きな助けにもなる」

「アーティファクトも手に入るでしょうしね」


 洸の言葉に対し、タカミチは静かに頷いた。

 契約した従者には、本人の資質に見合った魔導具が一つ、或いは一組、与えられる事になっている。アーティファクトと呼ばれるそれには数え切れないほどの種類が存在するとされているが、契約本来の意味もあってか、戦闘に役立つ物が多い。


「彼女のアーティファクトがどういった物になるのか、それがわかってからの方が指導計画も立て易いしね」

「まぁ言いたい事はわかりますし、一理あるとも思います。ただ、それなら高畑先生が契約してもいいではないですか」


 ペットボトルを傾け、一口、洸はお茶を飲んだ。

 タカミチが明日菜と契約すれば話は早い。互いに深い親愛の情を抱いているようだし、いきなり契約などというものを迫られるのだ、信頼を置ける人物が相手だった方が、明日菜の説得もスムーズに進むだろう。


「たしかに、それが道理なんだろうね。けど、知ってるだろう? 僕は呪文詠唱が出来ない体質なんだ。もしかしたら契約にもなんらかの影響が出るかもしれない。だからここは、正統派な魔法使いである君に頼みたいんだ」

「……なるほど」


 呟き、洸は天を仰いだ。そうして、彼女は暫し口を噤む。

 確かに、タカミチの言う通りかもしれない。パートナー契約を結べば、主従間で特定の魔法が使えるようになる。先程言った魔力供給もその一つで、主人の魔力を使用して従者に身体能力を強化する魔法を掛けるのだ。勿論、詠唱が必要である。となれば、彼が契約した場合には上手く発動しない恐れもある。もっと言えば、そもそも契約失敗の可能性すら考えられる。


「それに一応とはいえ仮契約を結んだ相手なら、君も気に掛けてくれるだろ?」

「ッ!?」


 驚きから洸が隣に顔を向ければ、そこではタカミチが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。けれど瞳に潜む意志の光は本物で、先の言葉が嘘偽りの無い彼の本心であるという事が、洸には読み取れる。

 自然、洸は肩を落として項垂れる。


「…………私って、そんなに信用無いんでしょうか」

「まさか。十分信用してるよ。だからこそ、こうして話してる訳だしね」

「それでも不安は消えてくれませんか」

「消えてくれないね。今はまだ、安心していいような状況じゃない」


 何処か力強さを感じさせるタカミチの声に、洸は頬を掻いた。

 僅かな、違和感。この件について語る時の彼は、こんな表情をしていただろうか。タカミチとの話題に上ったのは数えるほどしかないけれど、彼はいつも影を帯びていたという印象が強い。少なくとも、前へと向かう輝きは感じられなかったはずだ。

 明日菜が魔法に関わり始めたのを切っ掛けとして、心境になんらかの変化が現れたのか。変化があったとして、それはプラスだろうかマイナスだろうか。要らぬ焦りを与えてしまったのではなかろうか。多くの疑問が、洸の脳裡を通り過ぎては消えていく。


「………………」


 再びペットボトルに口をつけ、洸は中身を一気に喉に流し込んだ。コクリと喉を鳴らす度に冷たいお茶が体の熱を奪い、先走る思考に歯止めを掛ける。そうして残っていた半分ほど飲み干した彼女はペットボトルから口を離し、短く息を吐いた。

 分かる訳が無い。まだ始まったとすら言えない状況の中で、何を考えるというのか。そう自らを諌め、しかし心に留めておこうと考えながら、洸は隣に座るタカミチへと視線を向ける。彼は洸の方を見て、意外そうに目を丸くしていた。


「わかりました。引き受けます」


 意識して力を込めた洸の返答に、タカミチは益々目を丸くし、


「ありがとう! 助かるよっ!」


 嬉しそうに笑顔を浮かべた。








 ◆








 雲一つ無い、見事な快晴。山や野原は瑞々しい緑に包まれ、春の香りが風に乗って届けられると共に、ウグイスの鳴き声が辺り一帯に木霊するその中で、ネギ達一行はなだらかな山道を歩いていた。生い茂る木々が空気を澄ませ、時に息が詰まりそうなほど生命の息吹を感じさせるこの場所は、普段彼らが過ごしている女子中等部校舎の傍にある裏山だ。期末試験の結果が分かり、昼御飯を食べ終えた彼らは、ハルナの提案でちょっとしたハイキング気分で此処を訪れたのだった。

 先頭を進むのは発案者のハルナで、彼女の両隣には夕映と木乃香が並んで歩いている。そして彼女らの後ろをネギに明日菜、のどかの三人が、同じく並びながら付いてきている。ハルナと木乃香は手にビニール袋を持っており、その中身はお菓子やジュースの類である。これから赴く場所で先んじてネギの就任祝いをやろうと、先程コンビニで買ってきた物だ。


「うわぁ。近くで見るとやっぱり大きいですね!」


 綺麗に整備された山道を歩き、木々のさざめきに耳を澄ませながら、ネギは天を仰ぐように首を曲げて声を上げた。その視線の先には天を覆わんとするかのように大きく広げられた、太い木の枝がある。生命力に満ち溢れた緑の葉で空の青を塗り潰そうかという気概すら感じられそうなその枝の数々は、五十メートル以上も離れた場所から一行の頭上にまで続いている。

 元を辿れば、一本の大樹。両手を広げた大人が何十人集まればその幹を囲む事が出来るのか、どんな建物を隣に置けば高さを比べるに値するというのか、きっと想像の遥か上をいくのだろう、という想像しか出来ないほど桁外れの巨木だ。名前は『世界樹』。正式な名称はこの中の誰も知らないが、麻帆良に住む人々の間ではこの愛称で親しまれている。


「久し振りにココまで来たけど、やっぱデカイね~」

「世界一高く、大きな木だと言われてますからね。これらの項目がギネスに載っていないのは、学園が世界樹の申請を行わない所為で、決めるに決められないからだという話もあるほどです」


 既に根元近くまで姿を現した世界樹の威容は、まさしく圧巻の一言だ。幹に深く刻まれた無数の皺、随所に見られる大きな瘤、巨体を支える根の数々は広く盤踞し、樹皮には過ぎ去った年月を思わせる暗い色合いが滲んでいる。その枝葉が覆い隠す地面は真昼であっても濃い影が落ちており、まるでこの場所だけ時計の針が先に進んでいるかのようだった。


「へぇー。そうなんですかぁ」


 喋りながら、ネギは感心した風に世界樹を仰ぎ見る。

 山道が終わり、ようやく辿り着いた世界樹の根元には結構な大きさの広場が存在していた。それは、あたかもこの場の主に恐れ慄いた他の木々が、自ら退いた結果のようにすら思える。ある種の神々しさすら感じさせる世界樹には、そう思わせるだけの何かがあった。


「けど、ギネスに載れるのって凄いじゃない。なんでしないんだろ?」


 明日菜の疑問に対し、夕映は少し得意気な表情を見せる。


「つまりはですね、アスナさん。世界樹は学園の象徴ではありますが、広告塔ではないという事ですよ。世界遺産の登録申請に関しても同様ですが、外部のメディアにあまり騒がれたくないという訳です。世界樹は見世物ではありませんからね」

「せや。付加価値はあるんかもしれんけど、世界樹はウチら麻帆良に住む人が愛しとればえぇ、て姉様も言うとったし」

「ですね。まぁ、現在の麻帆良の知名度や財政状況、世界樹の研究や保護の点であまり利点が無いという理由もあるようですが」


 夕映と木乃香の話に、明日菜は納得したようなしていないような、実に微妙な表情で頷いた。


「あ~、うん。多分わかった」

「ま、そんな事情は夕映みたいに調べるのが趣味の人間が知ってるだけでいいっしょ。私らにはカンケー無いしね」


 そう言ってハルナは世界樹を見上げ、楽しそうに笑みを浮かべる。つられて、ネギも仰ぎ見た。根元に集まった彼らに届くのは、幾重にも折り重なった枝葉の間を通り抜けた僅かな光だけだ。仄暗く、物静かで、けれど不安は感じない。そんな不思議な空間に神聖さを与えてくれるのは、今、目の前にある光景なのかもしれないと彼は思った。


「うわぁ……」


 感嘆の声が、自然とネギの口から零れる。

 重なり合い、擦れ合いながら陽光を透かす、無数の木の葉。日の当たる場所によって様々に明るさを変えるそれらは、まるで、何かの模様を描いているようにも見える。不規則で、不揃いで、風が吹く度に万華鏡の如く形を変えていくその光景に、ネギは圧倒されるしかなかった。凄いと、頭に浮かぶのはそんな気の利かない言葉だけで、他には何を考えればいいのか分からない。


「気に入って頂けましたか、ネギ先生?」


 隣に立つのどかの問い掛けに、ネギは黙って頷きを返す。すると彼女は嬉しそうに微笑み、同じように世界樹を見上げた。そんな二人を見て肩を竦めたハルナは、手に持ったビニール袋を揺らし、大きな声を上げた。


「んじゃま、眺めも良いしそろそろ始めよっか!」

「リョーカイや。ほな、場所は……」

「ココで良いじゃん。どうせ明日の終了式が終わったら、暫く制服は着ないんだしさ」


 近くにある丁度良い太さの木の根を軽く叩きながら、明日菜は逸早く腰を下ろす。続いて夕映、ハルナも手頃な根っこに腰掛けたのを見た木乃香は微苦笑を浮かべ、自らも三人に倣った。


「ほらほら、そこの二人も何時までも突っ立ってないで、早く座りなよ!」

「あ、はーい。ではのどかさん、その辺に座りましょうか。苔とかもありませんし」

「はい、ネギ先生」


 そうして全員が座ったのを確認すると、ハルナは買ってきたペットボトルジュースを配り始める。炭酸飲料や果汁飲料など各人の好みに合ったジュースを一つ一つ確かめながら渡していき、全員に行き渡ったのを確認した彼女は、ネギの顔を見てニカッと笑った。


「今日の主役って事で、ネギ君が音頭を取ろうかッ」

「あ、はい。えっと……」


 何を言えば良いのか、刹那、ネギは悩んだ。自分が教師として正式に就任する事を記念してのプチパーティー。やはり感謝の言葉でも述べるべきだろうか、だが小難しい話はこの場に似つかわしくない。簡単な言葉で何が良いだろうかと考えながら、五人の顔を順に見ていったネギは最後に目を瞑り――――――すぐに開けた。

 それから、満面の笑みを浮かべると。


「みなさん、これからもよろしくお願いします!」


 ネギの言葉を受けた五人も笑顔を浮かべ、


『よろしく、ネギ先生ッ!!』


 学園都市中に響かせるように、大きな声で返事をした。








 ◆








「――――――では、大停電の件はコチラに全面協力してくれる、という事でよろしいですね?」


 隣に座るタカミチの顔を見据えて、洸は心持ち低めの声を出して尋ね掛ける。訊かれた彼は眉尻を下げ、苦笑を浮かべながらも、迷いの無い動作で頷いた。その瞳に宿る感情がなんなのか、洸はすぐに気付く。彼女自身と同じ、若干の後ろめたさと妥協の色だ。その事を理解しているからこそ、洸は何も言わない。否、言えなかった。


「異論は無いよ。僕だってエヴァの友人だ、協力しよう」


 タカミチの言葉に、洸は静かに頷いた。

 麻帆良では年に二回、『大停電』と呼ばれる日がある。その日は午後八時から午前零時までの四時間、学園都市全体のメンテナンスを行う為に麻帆良全土で一斉に電力の供給が停止されるのだ。街中から人工の灯りが去り、同時に静寂が訪れるその夜に備え、洸は一つの計画を考えていた。学園全体に影響しかねない、けれど秘密裏に行う計画だ。


「学園長の方はこの件についてどんな……?」

「知らせてはいますが、最低限の取り計らいと事後の流れを少し誘導して頂くだけです。この”事件”はあくまでも『闇の福音』の独断であり、他の何者も関与していないという形を取ります。ですから、我々が加担したという疑念を抱かれる可能性は出来る限り排除していくつもりです。計画が露見してしまえば、色々と面倒な事態になりかねませんから」


 闇の福音、エヴァンジェリン=A=K=マクダウェルの魔力封印を一時的に解除する。それが洸の考えた計画だった。学園側が彼女に施した封印結界は、魔力の代わりに膨大な電力を利用している。故に、大停電の夜は封印を解除するには持って来いの状況なのだ。勿論予備システムは存在するが、そちらを停止させるだけであれば難易度は高くなく、停電に乗じれば全体への影響は小さい。


「サウザンドマスターへの復讐と、彼の血縁の血を利用した解呪。この二つを理由に闇の福音が動いたとするのが、表向きの理由です。なので、私達もそのように証言しなければなりません」

「わかってる。それでいて、停電終了間際までネギ君への助けに入れない状況だった、と説明するんだろ?」


 洸は黙って首肯した。

 どうして封印を解除する必要があるのか。その理由は、サウザンドマスターがエヴァンジェリンに施した『登校地獄』の呪いだった。正直に言ってしまえば、術式が子供の落書きの如く滅茶苦茶なのだ。明らかに感覚任せの適当な掛け方をしており、洸や近右衛門が数年掛けても完全には解析出来ていないほどである。

 問題となるのは、その点だ。現在は封印中につき一時取り下げとなっているが、エヴァンジェリンは六百万ドルの賞金首である。その身柄を預かり監視を任されている麻帆良学園が彼女に掛けられた呪いを理解出来ていないというのは、外部だけでなく内部の人間にさえ知られてはならない大問題だった。何故なら、呪いの正確な点検が出来ないというのは、管理能力の欠如に他ならないからだ。

 この事実が公になれば、エヴァンジェリンが処刑される可能性すら出てくる。

 元々封印状態のまま放置している事が異常なのだ。如何に不死身を誇る真祖の吸血鬼と云えど、魔力が無い状態であれば相応の準備をするだけで容易く葬れる。魔法界における『闇の福音』の評価を考えれば、処刑という判断はなんら可笑しくはなく、ナギという英雄の言葉がなければ監視に留めるという処置は有り得なかっただろう。


「私達が参戦した場合、戦闘の激化は避けられません。そうなれば最低でも街の一角を吹き飛ばす程度の事はしないと真実味は薄くなりますし、戦闘跡が酷ければ『闇の福音』に対する魔法使いの警戒心が大きく上がります。ですから、今回はネギ先生に時間を稼いで貰うという形を取ります」


 ナギが死んだとされてから、十年が経った。呪いの経年劣化を気にする内部の声や、魔法界にある本国からの査察要求は年々強いものになってきており、何時までも誤魔化してはいられない。特に現在はナギの息子であるネギが修業として麻帆良に身を置く事が決まって以来、彼の安全の為にもと本国は再三に渡って査察を申し入れてきており、正直、限界は近かった。

 呪いの解析を終わらせる必要がある。その為には、魔力封印の結界が邪魔だった。呪いを対象とし、その上から重ね掛けしている為、解析時には不要なフィルターとなるのだ。逆に言えば、これさえなければ残り僅かとなった作業が一気に終えられる公算は大きい。

 勿論、結界を解除する案など普通に考えて通るはずが無い。そもそもの理由を碌に話せない事もあり、賛成意見は全く望めなかった。かといってトップに立つ近右衛門が強権を発動すると、事が事であるだけに今後の組織運営に関わりかねない。


「サウザンドマスターの息子が闇の福音を抑えたというのでまず一つ。数えでようやく十歳に届くかという少年を闇の福音が仕留められなかった事でもう一つ。実害がほぼ皆無であるというのを更に一つ足し、計三つの論旨で周囲の反感情を抑えます」

「ふむ……大丈夫かい?」

「封印と電力の関係を知る者は少数ですから、無理ではありません。大過無く終われば安堵感が生まれますから、パフォーマンスとして呪いや封印を掛け直せば、それなりに説得もし易くなるでしょうしね。彼らを説得出来ればあとは大丈夫です。外部に漏らせる話題ではありませんので、内々で処理出来るでしょう」


 ならば逆に考えれば良いというのが、洸の計画だった。事前に案を通し、正式な作戦として実行出来ないのであれば、突発的な事件を起こし、事態の収拾がついてから事後承諾にも似た形で無理矢理押し切ろうというのだ。理想を言えば事件ではなく偶発的な事故を装いたかったのだが、その場合は冗談では済ませない責任問題が発生しかねない為、断念せざるを得なかった。

 だからこそ、”事件”としてエヴァンジェリンにネギを襲わせる。彼女ならば仕方無いと思わせる『闇の福音』に対する魔法使い達の恐れで、システム管理者などの責任回避を図るのだ。またエヴァンジェリンにはネギを襲う理由があり、その点でも周囲への偽装として役に立つ。加えて彼女の戦略的敗北を上手く演出すれば、闇の福音に対する不安を和らげられるかもしれない。勿論その逆も十分に有り得るが、エヴァンジェリンに危害が及ばないレベルなら問題は無い。


「最大の懸案事項は、やはり……」

「ネギ君、だね」


 タカミチの言葉に、洸は表情を固くして頷いた。夕暮れが近付き、都市部へと移ったのか、随分と小さくなった喧騒の中で目を閉じた彼女は、ペットボトルを持つ手に力を籠める。容易く身を軋ませたペットボトルの立てる音が、少し耳に痛かった。

 これは我儘だと、洸は思っている。私を優先し、公を蔑ろにした愚かな行為だと。四時間に及ぶ一部監視システムのダウンと、それに伴う各種人員の緊急配備。想定外の事故又は事件が起きた時の被害の拡大や、その事を懸念する各員の精神的負担等々。考えれば切りが無いと思えるほどにマイナス要素が多いというのに得られる利益は非常に少なく、それを利益と思える人物も極僅かである。


「ネギ先生がどう対処するか――――――いえ、彼の精神状態にどんな影響が出るのか、それが問題です」


 少なくとも計画発案当初は、洸にとってネギの重要度は非常に低かった。それ故に彼への配慮に欠いた点が多い事を、洸は否定しようとは思わない。間違い無く事実だからだ。


「心の問題は難しいからね。出来る限りのフォローはしようと思うけど……」

「現在の彼がどう考えているのかはわかりませんが、襲撃時にあまり刺激を与えないよう指示しておきます」


 互いに顔を見合せて、洸とタカミチは頷き合う。

 今の自分にとってネギがどれほどの価値を持っているのか、洸にはよく分からなかった。好ましい性格をしているとは思う。しかし、ネギと直接言葉を交わした経験は数えるほどしかなく、その正確な立ち位置を洸は決めかねていた。この一ヶ月間を振り返ってみると、もしかしたら彼との接触を無意識的に避けていたのかもしれないと、そんな考えすら浮かんでくる。

 首を振り、洸は天を仰いだ。


「六年……でしたか」

「うん。もう、それだけの時間が経った」


 僅か一夜にして、ネギの住んでいた村は滅ぼされた。生き残ったのは三人だけ。他の村人は石となり、生きているとも死んでいるとも言えないような状況で、ヒッソリと安置されているらしい。両親の居なかった少年は、たったの一夜で多くの隣人までをも失ったのだ。


「忘れられる事でも、忘れていい事でもありませんよね」

「……うん」


 悪夢の再現となるのだろうか。ネギを襲うのは彼の生徒であり、真祖の吸血鬼でもあるエヴァンジェリンだ。過度に傷付けないように気を付けるとは言っても、それを知っているのはコチラだけで彼には分かるはずが無い。その大きな瞳に現実はどう映るというのか、洸では想像する事しか出来ない。酷く、重い気分にさせられる想像だ。


「?」


 肩を叩かれ、洸が隣に視線を移せば、瞳に強い意志を燃やしているタカミチと目が合った。

 なんですかと、彼女がそう尋ねるよりも先に、彼が口を開く。


「エヴァの事も、ネギ君の事も、どちらも上手くやる。いや、やらなくちゃいけない。そうだろ?」


 力の籠った、強い意志の乗せられた声だった。

 タカミチの言葉を聞き、その意味を理解した洸は目を瞑ると。


「――――勿論です」


 赦しを請える立場ではない。だからといって、諦めも悲観も抱いていいはずが無い。

 最後まで全力を尽くす。より良い結果を目指し続ける。それは、至極当然の事だった。








 ◆








 空と山々の境界線。昼と夜との境目に、今、太陽が沈もうとしている。その輝きは眩い黄金のようにも見え、照らし出され、朱の色に染め上げられた麻帆良の街並みは、ただそこに存在するだけで価値あるものなのだと感じさせられる。世界樹の太い枝の上に立ち、葉の隙間から覗くその光景は、まるで濃緑の額縁を用いた絵画のようで、徐々に滲み出した暗い色合いすら酷く美しいものに思える。

 何より、と。ネギは周囲を見渡した。右には明日菜が、左にはのどかが立っており、共に夕暮れの麻帆良を眺めている。彼女らの口元は緩やかな弧を描き、その表情はとても穏やかなものになっている。少し離れた枝には木乃香に夕映、そしてハルナが居て、三人もまた同様に下界を見下ろしていた。

 良い。凄く良い。温かな何かが胸の奥からジワジワと込み上げてきて、ネギの目尻は自然と緩み、笑みが浮かぶ。

 二週間後には、正式な教師として彼女らの担任を務める事になる。それで生活に大きな違いが出る訳ではないけれど、やはり心構えはしておかなければならない。まだまだ未熟とはいえ他の先生方と同じ立場になれるのだ、タカミチの後任としても気を引き締める必要がある。何より今度からは自分だけで生徒達の成績を評価するのだから、そういった事も意識しなければならない。

 不安はある。テスト週間が始まってから今日までの三週間は、自身の未熟さを再確認させられた時間だった。まったく上手くいかず、どうすれば良いのかも分からない。日に日に濃くなっていった心の影は未だ晴れず、胸の奥底に残っていた。それこそ、この景色みたいに暗い気持ちが僅かに滲んでいるのだ。

 けれど、実際は逆だと、ネギは思っている。夕陽ではなく、朝陽。これ以上沈む事は無く、ドンドン自信をつけていくのだ。タカミチの言葉や、今日の試験結果が勇気を与えてくれている。きっと上手くいくと、そう信じられた。


「せや、ネギ君。この世界樹にはなー、ちょっとした伝説があるんよ」

「あ、ここで告白したら上手くいくってヤツ? ベタだよねー」


 木乃香とハルナの言葉に、ネギはそちらに顔を向けた。彼女らは麻帆良の街並みから視線を外して、世界樹の枝に腰を下ろしている。


「ちゃうって。一番有名なのはそれやけど、元々はなんでも願いを叶えてくれるゆーのんがあったらしいんよ」

「へ~、そりゃ初耳。けど、なんでもって言われると逆に夢が無いんじゃない?」


 二人の話に耳を傾けながら、ネギは世界樹を見上げた。夜の足音が近付いてきた所為か、少し上からは暗闇に染まっており、幹も枝も碌に見る事が出来ない。不思議と不安は感じなかった。寧ろ温かな安堵感が胸の裡に広がっている。

 魔力だ。雄大な大海原を思い起こさせる強大な魔力が、この世界樹には宿っている。人というちっぽけな存在の尺度で測ろうと考える事自体が愚かしく感じられるほどの、圧倒的な力が奥底で蠢いているのだ。けれど威圧感は無くて、包み込むような柔らかさだけが感じられる。この魔力こそが安堵感を与えてくれているのだろうと、ネギは思った。


「何か願い事でもしてみますか? 思うだけならタダですし」


 黙って世界樹を仰いでいたネギに、夕映が問い掛ける。


「願い事ですかぁ」

「なんかないの?」

「そうですね…………」


 明日菜の言葉に、ネギは頭を捻る。

 願い事。そう尋ねられて最初に思い浮かんだのは、四月からの教師生活の事だった。タカミチの後任として、生徒達から親しまれ尊敬されるような教師になれるよう頑張りたいと、そんな考えが浮かぶ。

 と、ここでネギは大きく首を傾げた。


「あれ?」

「どうしたんですか、ネギ先生?」

「あ、いえ……」


 のどかに対し曖昧な返事をしながら、ネギは浮かんだ疑問へと意識を飛ばす。

 自分は魔法使いだ。杖を使えば空を飛べるし、風を起こしたり光を生み出す事も出来る。今だって毎朝の魔法練習を欠かさずにやっており、これまでに覚えた魔法なら中々こなれてきたと思っているし、最近は新しい魔法にも手を出し始めたほどだ。何より、教師というのは魔法使いとして一人前になる為の修業としてやっている事だ。

 それなのに願い事として初めに思い付いたのは教師に関するものだというのは、どういう事だろうか。魔法使いとして大成したいとか父のようになりたいとか、いつもならすぐに考えるはずの夢について出てこなかったのが不思議だった。


「…………ふふっ」

「ネギ?」


 訝しむ明日菜になんでもないと答え、ネギは笑みを浮かべたまま麻帆良の街並みを見下ろした。もう半ば以上が紺色に染まり、家々の明かりが付き始めたその光景は何処か幻想的で、しかし何処までも人工的な美しさがある。

 この街に来て、一月と少しが経った。まだまだ知らない所ばかりだが、ちょっとした裏道まで知っている所もある。たとえば女子寮の辺りや、明日菜の新聞配達ルートなどは、此処からでもすぐに気が付けた。何時の間にか、ネギ自身でも驚くほど麻帆良という土地に、教師という立場に馴染んでいた。魔法使いとしての自分を、少し忘れてしまいそうになるくらいに。

 ただ、何故か悪い気はしなかった。そんな自分が何処か可笑しくて、楽しくて、自然と口元が綻んでしまう。


「願い事、ありました」

「へぇ、どんな?」


 隣の明日菜を一瞥し、ネギは悪戯っぽく笑った。


「秘密です」

「え~。そう言われると余計に知りたくなっちゃうじゃん」


 不満を漏らすハルナには構わず、ネギは黙って山の向こうに消えていく夕陽へと視線を移す。

 教師としての生活も、何時かはあんな風に終りが来る。ネギは魔法使いであり、彼が目指す場所はそちら側にあるのだから。しかし、今を否定しようとは思わない。その何時かの為だけに、今があるとも思わない。

 此処には、彼の居場所がある。ネギ先生の、居場所がある。


 ――――――――だから。


 新しく麻帆良の一員となった自分を、どうか温かく迎え入れてほしい。

 そんな事を、ネギは世界樹だけではなく、この街全体に対して願うのだった。












 ――――後書き――――――――


 第十一話をお送りしました。お読み頂いた方、ありがとうございます。

 一応は区切りが付いたと言いますか、教師としてのネギの基礎工事が終了した感じです。今後は春休み、吸血鬼編と続く中で魔法使いとしての面も少しずつ構築していく予定です。あとは出番の少ない生徒達の話も書きたい所です。

 吸血鬼編に関しては今回の話で説明した感じの概要です。いっそイベント自体を消失させても良いかとも考えたのですが、折角だからやっておこうという事で、些か無理矢理ではありますがこのような理由付けをさせて貰いました。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十二話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/03/29 21:14


 三月二十六日、水曜日。今日は、麻帆良学園中等部全校の春休み初日だ。各人の試験結果を通知表と一緒に渡され、昨日の終了式では個々人によって浮かれたり落ち込んだりと表情は様々だったが、今日は短いとはいえ纏まった休みの初日という事で誰もが陽気な様子で街に繰り出している。そんな生徒達の為を思ってか空には雲一つ見られず、天気予報も今週一杯は快晴だと太鼓判を押している。お陰で気温は暖かく、吹く風は穏やか。天高く昇った太陽の日射しは決して強過ぎず、肌を通して活力を与えてくれている。

 本当に素敵な日だと、擦れ違う人々と同じように明るい笑顔を浮かべながら明日菜は思った。足取りは羽のように軽く、胸の裡は太陽そのもの。今ならどんな事を言われても笑って聞き流せるのではないかと、そんな気すらしてくるほどだ。

 とはいえ明日菜が喜んでいる理由は、春休みだからという訳ではない。天気が良いからでもない。こんなにも彼女が浮かれている理由は、現在向かっている場所にある。タカミチの自宅だ。一時期は明日菜も住んでいたそこに、今日はお呼ばれしたのである。

 この予定が決まったのは昨晩の事で、タカミチから掛かってきた電話が発端だった。近頃ではそれほど珍しいものではなくなってきたタカミチとの通話は、今年度も欠席が無かった事や期末試験の成績が良かった事についての労いから始まり、他愛無い世間話、春休みの予定と移っていき、最後に今日のお誘いがあったのだ。


(そういえば、お正月以来だっけ……)


 中等部に上がってからはスッカリ足が遠退いていたが、それでも全く縁が無くなった訳でもなく、年に何度かはお邪魔する事もある。確か、最後に訪れたのは年初めのはずだ。木乃香が実家のある京都へと帰るので、タカミチと一緒に年を越すのは明日菜にとって毎年の恒例だった。だから今回もその例に漏れる事無く、二人で大晦日を過ごしたのである。


(あの時の高畑先生、カッコ良かったなぁ)


 三ヶ月前の事を思い出し、明日菜はやや熱っぽい息を吐いた。

 身寄りの無い明日菜を気遣ってくれているのか、正月の雰囲気を出そうと、タカミチは色々としてくれる。その中でまず思い出すのは衣装の事であり、学園都市内部にある龍宮神社へ初詣に行く時の和装の事だった。彼は自前の紋付き袴を着込み、明日菜にはレンタルの着物を用意してくれるのだ。麻帆良に戻ってきた木乃香と共に近右衛門の所へ挨拶に行く事と併せ、明日菜にとって欠かす事の出来ない年始の行事である。


「――――っと」


 気付けば、タカミチの家の前に到着していた。職員寮ではなく、住宅街に建てられた一戸建て。近頃では訪れる度に懐かしさを覚えるようになったかつての自宅を前にして、明日菜は小さく喉を鳴らす。昔は遠慮無く潜っていた玄関の扉も、今ではお邪魔しますの一言を必要としている。タカミチは気にしなくていいと言ってくれているのだが、明日菜としてはそういう訳にもいかない。

 だって、それは違う。明日菜が望む場所は、そこではないのだ。彼に感じていた温かさや安堵感、そしてほのかな熱が『恋』という形を得た時に、彼女はその事を自覚した。今のままでは、物足りないのだと。


(けど……)


 インターホンに指を伸ばした明日菜は、ボタンを押し込む直前で動きを止める。左右で僅かに色合いが異なる彼女の瞳は、閉じられた玄関の扉へと向いているが、その思考は全く別の所を彷徨っていた。


(魔法使い、かぁ)


 知らなかった。気付かなかった。タカミチが魔法使いだなんて、明日菜は予想だにしなかった。

 一緒に住んでいた時にも教えてくれなかった、彼の秘密。否、教えてくれないのは今も変わらない。その事自体には納得しているし、仕方無いとも思っている。まだまだ初心者もいい所だが、魔法について最低限の理解は持っているつもりだ。


(でも、何時かは――――)


 教えてほしい。そうして、もっとタカミチの近くに行きたい。

 桜色の唇を真一文字に結んだ明日菜は、小さく喉を鳴らしてから、ゆっくりとインターホンのボタンを押し込んだ。












 ――――第十二話――――――――












「えぇ……初めは普通に魔法を教えるだけで良いと思いますよ」


 瑞々しい緑葉が燦々と降り注ぐ陽光を透かし、柔らかな日射しが地面を照らす。豊かに葉を茂らせた木々の間を涼やかな風が吹き抜けていき、それと共に草木のざわめきが耳を揺らす。そんな生命の息吹が感じられる森の中に、洸は居る。彼女は左耳に携帯電話を当て、そこから聞こえてくる声に耳を傾けていた。

 相手はタカミチで、今回の議題は明日菜の魔法教育に関する事だ。洸との約束を取り付けた彼は、早速とばかりに今日から明日菜との話し合いを始めるらしく、今後の方針についてこうして最終確認をしているのである。


「――――そうですね。今の彼女は魔法使いとしては赤子同然ですし、一つずつ、順序立てて教えていくべきでしょう」


 風に弄ばれ、頬に掛かる艶やかな黒髪を、洸は指で払う。その柔らかな面立ちは真剣な色を帯び、ツリがちな黒目は一層鋭く細められており、彼女の雰囲気を察してか、周囲には小動物の気配が一つも感じられなかった。


「ただ…………はい。停電の時には彼女にも参加して貰うつもりです」


 洸は鬱蒼と茂る草木の奥へと一瞬だけ視線をやり、またすぐに虚空へと戻す。


「彼が麻帆良で最も信頼を寄せているのは彼女ですから、精神的な負担を和らげられると思います。たしかに下手を打てば全くの逆効果となりますが、主導権はコチラが握れるはずなので、全体的に見れば成功率の十分な引き上げになるでしょう」


 一番の問題は、エヴァンジェリンの加減。二人を追い詰め過ぎれば、彼らは限界まで膨らんだ風船が破裂するかの如く、呆気無く心の均衡を崩してしまうだろう。特にネギは、生徒である明日菜が一緒という事で酷くショックを受けるかもしれない。しかし最後の一線を越えなければ、逆に明日菜が精神安定剤の役割を果たすはずだというのが、洸の予想だった。


「彼女には私達のメッセンジャーをやって貰います。つまり、余裕が出来れば私達が参戦する事、電力が復旧すれば闇の福音は力を失う事などを彼に伝えて貰う訳です。そうすれば、少しは心に余裕も生まれるでしょう」


 小さく、息を吐き。視線を辺り一帯に巡らせ。


「彼女にとっても、良い経験になると思います――――――――いっそ、それくらいの気持ちでいきましょう。不満は前へと進む活力に変えられますが、不安は足を竦ませるばかりですから。では、コチラもそろそろ戻らなければならないので、また後ほど」


 最後にそう言って電話を切ると、洸は携帯電話を折り畳んで仕舞う。それから暫くの間、洸は黙ったまま虚空へ視線を向けていたが、やがて緩やかに首を振ると、シッカリとした足取りで森の奥へと歩いていった。




 □




 踝に届くかどうかという程度に草が伸びた原っぱ。およそ二百メートル四方に渡って木も建物も見付からないこの場所は、学園都市の郊外にある森を奥深くまで分け入った先、麻帆良を囲む山々との境界付近に、静かに存在している。学園都市に住む多くの人は存在すら知らず、生涯訪れる事も無いだろうこの野原には、現在、三つの人影があった。

 遮る物が無く、天を仰げば眩く輝く太陽と直接相対するこの場所は程好い暖かさを保っており、草花の香りを目一杯に吸い込みながら寝転がればさぞ気持ちの良い事だろうと、童心を掻き立てられずにはいられない。しかし、現在この場所に居る三人の雰囲気は、とても原っぱを笑顔で駆け回るといった様子ではなかった。


「――――――ッ」


 鋭い呼気と共に繰り出された、しなやかな蹴り。羚羊のような足が弧を描き、影を引く。見る者に寒気を感じさせる、鋭利な力強さ。天頂から相手を叩き割るかの如きそれは、けれど容易く防がれる。硬く、それでいて柔らかい。まるで衝撃が全て吸い込まれるような、奇妙な感触を洸は覚えた。

 黒衣の怪人。下半身は無く、上半身のみで宙に浮く異形が、洸の蹴りを阻んでいる。顔には白い仮面、身には黒の外套。頭からは両端に白の十字架を縫った黒い布を幾重にも重ねて髪のように垂らし、両手は純白の包帯で隙間無く覆われている。頭頂部の高さは、軽々と二メートルを超えているはずだ。

 怪人が纏う外套の裾が不自然に浮き上がり、交差し、振り降ろされた洸の足を止めていた。その隙間から下を覗けば、未だ状況を理解出来ていないと思われる少女の姿が見て取れる。高音=D=グッドマン。外套の内側に深く抱かれ、色素の薄い綺麗な金髪を風に弄ばれながら、彼女は驚いた様子で上を向く。そうして青い瞳が、足を振り下ろした洸の姿を映し出す。

 互いの視線が交差したのは一瞬。次の瞬間には洸は宙を蹴り、高音は腕を振り上げていた。


「これでどうですッ!」


 黒衣の怪人は、高音の意思を介さずに彼女を守る鎧であり、彼女の意思に従い敵を滅ぼす剣でもある。

 怪人が纏う外套の懐から背面から、黒く平べったいリボン状の何かが伸び、高速で離れていく洸に追い縋る。その数、二十弱。ある物は洸の背後で地面に突き刺さり、ある物は草を刈り取りながら地を這い、ある物は一直線に獲物を狙って空を切る。鞭のようにしなり、鋼のように硬く、刃のように鋭いそれは、否、それだけでなく黒衣の怪人も含め、全ては影で出来た存在だ。

 操影術。洸と同じく、高音はこの魔法を得意としている。


「ッ!?」


 約十メートルの滑空を終え、洸が着地。位置関係は、高音の後方。そして洸の前方には、もう一人の少女が居る。彼女、佐倉 愛衣は驚きに目を見開き、何も言わずに呆然と立ち尽くしていた。洸との距離はおよそ十メートル。形としては洸が挟み込まれた状況だ。だが彼女にはまるで悲観した様子は無く、口元には余裕の笑みすら浮かべている。

 両肩の横と、頭の上。撃つタイミングを逸したのか、洸が蹴りを繰り出した直後から、計三箇所に拳大の火球を浮かべたままの愛衣。そんな彼女へ向け、着地から一瞬で次の一歩を踏み出した洸の背後で、刹那、影の攻撃に迷いが生じる。振り向いた高音が、状況を把握したのだろう。高音は前衛、愛衣は後衛。高音が抜かれた時点で、未熟な二人は本来の実力を発揮出来なくなる。


「いきます!」


 両手で持った箒を強く握り締め、愛衣が叫ぶ。

 切っ掛けはその声。滞空していた火球が、勢い良く洸へと迫りくる。と、同時。小さく洸が手を振った。刹那の内に、虚空から水球が現れる。大きさは拳大、数は三。出現直後に高速で飛び立ったそれらは、両者の中間、そこからやや洸よりの地点で火球と衝突する。

 相殺。蒸発。音を立てて蒸気が生まれ、互いの姿を霧の向こうに追い遣った。直後、洸は足の裏に力を籠め。高く、速く、地面を削り取るようにして跳び上がる。地上から約五メートル。宙に居る洸の眼下では、先程の蒸気がたちまちの内に掻き消されていた。山々から吹き降ろす風によるものではなく、愛衣の手によって、だ。

 愛衣はアーティファクトである箒で地面を掃き、強力な風を起こしていた。

 全体・武装解除。範囲内に居る者の武装を強制的に解除する、非殺傷型戦闘用魔法の一種だ。当然ながらその効果にも限度はあるが、洸の衣服を吹き飛ばすくらいの事はやってのけるだろう。互いの視界が蒸気で制限されていた事と併せて考えれば、相手に隙を作らせる選択としては悪くない。

 だが、現状においては判断を誤ったと言う他無かった。


「アッ!?」


 洸の後背を狙っていた影が動きを止める。その元を辿れば、洸を止めようと自身も彼女に追い縋っていた高音が、武装解除を防ごうと黒衣に守られながら身を固めていた。

 武装解除程度では、彼女の守りを破れない。

 しかし、その足を止めるには十分過ぎる。


「ご苦労様、愛衣」

「――――ッ」


 まるで威嚇するように音を立て、洸は愛衣の背後に降り立った。愛衣が急いで振り返ろうとするが、時既に遅し。ツインテールに結ばれた彼女の茶髪をあやすように撫で付けて、洸が優しく笑う。


「はい。おやすみなさい、と」

「へ?」


 愛衣の目蓋がストンと落ちて、体からも力が抜ける。倒れそうになる彼女を片腕で抱き止め、洸はようやく持ち直した高音へと涼やかな視線を送った。対する高音は唇をキツく結び、鋭い目つきで洸を睨んでいる。そんな彼女を見た洸は鷹揚に頷き、腕の中に居る愛衣を離れた場所へと転移させる。そうして身軽になると、洸は改めて高音と正面から相対した。


「さて。これで一対一だけど、まだやる気はあるよね?」

「当然ですッ!!」


 力強い高音の返答に笑みを浮かべ、洸は一歩を踏み出した。








 ◆








 以前来た時から、否、明日菜が住んでいた頃から大して変わっていない、慣れ親しんだ部屋の内装。派手な所の無い、タカミチらしい落ち着いた雰囲気が漂うこの場所に、明日菜は深い安心感を覚えずにはいられない。ただ、今の明日菜の心中を占めているのは、安堵感ばかりではなかった。

 彼女の対面にはこの家の主であるタカミチが座っており、二人の前には青い花が描かれたティーカップが置かれている。立ち上る白い湯気の向こうに見えるタカミチの表情は穏やかでありながらも真剣な色を帯びていて、その為、明日菜は恥ずかしさによるものだけではない緊張を覚えていた。

 話し始めてから、およそ五分が経過している。その間にタカミチが話した内容を考えれば、確かに軽い雰囲気で居られるものでもないのかもしれない。最初はリラックスしていた明日菜も、途中からは真面目な顔で耳を傾けていた。

 だが、同時に。明日菜は話を聞き、理解して、大きな喜びを感じている。表には出していないが、それでも抑え切れない感情がお腹の底から上ってきてむず痒い感覚を与えてくれている。

 自然と緩みそうになる口元を必死に抑えながら、明日菜はタカミチに問い掛けた。


「あの、高畑先生」

「なんだい、アスナ君? 疑問があるなら答えるよ」

「つまり、その……私に魔法を教えてくれるという事ですよね?」


 タカミチの話を整理した明日菜は、多分そういう事なのだろうと受け取った。最初にタカミチが魔法について話し始めた時は聞いてもいい話なのだろうかと驚いたものだが、どうやら自分の知らない所で色々とあったらしい。


「うん。そう受け取ってくれて構わないよ。魔法使い見習いという扱いになるけど、空いた時間に魔法の勉強をするという以外には特に変わった事は無いから、安心してほしい」


 耳触りの良いタカミチの声に、半ば無意識に頷き返しながら、明日菜はカップに手を伸ばして口元へと運んだ。清涼感のある爽やかなミントの香りに、リンゴみたいな甘さが混じったハーブティ。一口飲めば、少し心が落ち着いた気がした。


「どうかな? 僕としては魔法使いになるのかどうかはともかく、試しに魔法に触れてみるのはいいと思うんだけど」

「えっと、高畑先生が教えてくれるんですよね?」

「勿論。出来る限り時間を作るつもりだよ。ただ、僕も仕事があるから、他の人にも手伝って貰う事になるかな」


 若干躊躇いがちに話すタカミチの言葉を聞きながら明日菜は俯き、小さく口元を綻ばせた。

 構わない。そのくらいの事は、全然構わない。むず痒くなるような喜びがお腹の底から湧き上がってきて、それと共に体中に熱が伝播していく。嬉しかった。魔法という秘密を共有出来る事が、純粋に嬉しかった。勿論、タカミチが直接教えてくれるという事もその一因である。魔法を介した教師と教え子とはいえ、プライベートに近い状態で親密に出来るのは本当に喜ばしい。

 だからか、明日菜は自然と口を開いていた。


「あの――――魔法、教えてください。教わりたいです」


 その言葉を聞いたタカミチは、どこか安堵したように眉を下げた。


「よかった。断られたらどうしようかと思ったよ」

「断るだなんて、そんな……」


 気恥ずかしげに、明日菜は視線を下へ向ける。温かなタカミチの視線を感じ、どうにもムズムズするのだ。だから気を紛らわようと、彼女は話を進める為にタカミチに問い掛けた。


「それで、何時から始めるんですか?」

「うん。それなんだけどね」


 タカミチは一度、壁に掛けてある時計へと目線を送る。


「実はアスナ君の魔法の勉強を手伝ってくれる人と、会う約束をしているんだよ。だから、日程については彼女と話し合ってからかな」

「……女の人なんですか?」


 仕方無いと言うべきか、最初に明日菜が引っ掛かったのはこの部分。瞳を揺らす彼女は、不安そうに声を潜めて尋ね掛ける。その事をどう受け取ったのか、タカミチは優しく微笑んで頷くと、噛んで含めるようにゆっくりと話し始めた。


「やっぱり、同性の方が親しみ易いだろうと思ってね。それにアスナ君も知ってる人だから、きっと仲良くやれるはずだよ」

「あ、ありがとうございます」


 自然、明日菜の頬が緩む。よかったと、心の中で呟く。

 じんわりと体の奥底から湧き上がる喜びを噛み締め、明日菜は自らの気持ちを再確認した。自分の事を考えてくれている。些細な事であっても、当然だと言える事であっても、好きな人が相手なら、それだけで感情の昂りが抑えられなくなる。


「っと」


 カップに口をつけてニヤけた表情を誤魔化そうとした明日菜は、重要な事を聞いていない事に気が付いた。


「私の知ってる人って、誰なんですか?」

「思い当たらないかい?」


 問い返してくるタカミチに、明日菜は素直に首肯する。

 魔法関係者であり、女性でもある人物。そう言われて明日菜がすぐに思い付くのは、木乃香ぐらいである。だが、彼女は違うはずだ。以前ネギが学園長に呼ばれた時に確かめさせたのだが、木乃香は魔法の存在を知らないという回答を貰っている。親友である明日菜の目から見ても、やはり木乃香が魔法関係者というのは考え辛く、おそらくこの情報は正しいはずだ。

 ならば他に誰が居るだろうかと自らに問い掛けた明日菜の脳裡に、知り合いの顔が一人ずつ流れていく。まず最初に、クラスメイト。しかし彼女らは多分違うと、明日菜は即座に候補から外した。ネギからそんな話は聞かないし、タカミチの話し振りから受ける印象も、もっと年上の女性といった感じだ。

 では同じく学校関係で教師などはどうだろうかと考えて、該当する人物が居る事に気付く。


「しずな先生ですか?」


 タカミチは首を振って否定し、次いで答えを口にした。


「洸君だよ。ほら、このか君の従姉妹の」

「へ? ――――――あっ。なるほど」


 言われてみればと、明日菜は納得する。

 木乃香が違うからと勝手に候補から外していたが、確かに有り得ない話ではない。


「それで今日は彼女と色々話す予定なんだけど、アスナ君も参加してくれるかな?」

「えっと。お邪魔じゃないのなら、是非……」

「アスナ君に関する話だからね、邪魔だなんて思わないよ」


 恐縮する明日菜を安心させるように、タカミチが笑い掛ける。

 それからもう一度時計を見た彼は視線を彷徨わせながら、


「待ち合わせまでは少し時間があるけど…………先に行って待っていようか。美味しいクッキーを出してくれるお店らしいしね」


 事も無げに、そんな事を言い切った。








 ◆








「はい。それでは実際に手合わせをして私が感じた事と事前情報を併せて、今後の課題について話していきたいと思います」


 雲一つ無い快晴の下で、日溜まりのような笑顔を浮かべた洸が明るい声で話す。心地良い春風が草花を揺らし、運ばれる香りが鼻腔を擽る野原。その只中に立つ彼女の前には、高音と愛衣の二人が意気消沈した様子で座っている。陰気というほどではないが、肩を落とし眉尻を下げた彼女達からは、悔しさや不満が綯い交ぜになった遣る瀬無さが感じられる。

 結局、先程の模擬戦では洸に一撃も与えられずに、彼女らは敗北した。いつもの事と言えば、いつもの事だ。双方の実力差を考えれば当然の帰結だと、洸は思っている。通算にして二桁に及ぶ戦績の中で、一度も勝率が動いていないのがその証明だろう。

 とはいえ、二人が成長していない訳ではない。以前と比べたらあと一歩で攻撃が当たるという瞬間は増え、また決着までの時間も少しずつ伸びてきている。それに見習い魔法使いの中で見れば、高音達の実力は頭一つ飛び抜けていると言ってもいい。


(ま、これくらいで満足するようなら、それはそれで困りものなんだけどね)


 現状への不満は、向上心や創意工夫へと繋がる。現場に出た時に馬鹿な事を言い出さないのなら、寧ろ歓迎出来るくらいだ。


「勿論、二人にはまだまだ改善すべき点が一杯あるよ。貴女達にはそれだけの才能がある。とはいえ、一遍に全部やっても十分な効果は見込めないので、今日は中でも重要な事について話します」


 やや心配そうな表情をして見上げてくる高音達に対し、ゆったりとした落ち着かせるような口調で洸が話す。


「まずは高音からだけど、貴女はもっと守りに意識を割いた方が良い」

「守り、ですか?」


 意外そうに尋ねてくる高音に、洸は然りと頷いた。


「たしかに『黒衣の夜想曲』は優秀な自動防御だけど、攻撃面に関しては平凡の域を出ない。高音自身の魔法を含めてもね。だから攻撃に集中するだけだと、どうしても決め手に欠けてしまう。そこで、もっと自動防御を活かした戦い方に変えましょうって事だね」

「その……具体的には?」

「難しい事じゃないよ。まず『黒衣の夜想曲』で相手の攻撃を防ぎ、それに合わせて貴女が反撃する。つまり、防御と反撃を一組として考えながら戦いに臨むわけ。今の高音は正面から攻撃を防げば安堵し、不意打ちを防げば驚くといった風に、出来るだけ早く反撃しようという意識に欠けてる。防御と攻撃を切り離して考えてる訳だね。でもそうじゃなくて、防御と攻撃を同時に行うよう心掛けるの」


 攻撃と防御を容易く両立出来る事が高音の強みだと、洸は考えている。

 通常、攻撃する瞬間というのは大なり小なり隙が出来るものであり、そこを狙えれば戦闘はかなり楽になる。とはいえ受け手側も防御または回避行動を取る必要がある訳で、現実にはそうそう上手くいくものではない。

 だが、高音は違う。彼女は自身を守りながら、相手が攻撃する瞬間を狙う事が出来る。この特性を活用すれば、彼女の近接戦闘能力は飛躍的に上昇するはずだと、洸は半ば以上確信していた。


「攻撃を防がれた攻め手には、確実に隙が生まれる。そこを狙わない手は無いでしょ? 勿論、攻撃を見極める眼力や、それに合わせた反撃が出来る判断力といった様々な能力も必要になるけど、最初にしなくちゃいけないのは、高音がこういった意識を持つ事だよ。他の部分を鍛えるにしても、貴女の気持ちが伴わなければ十分な効果は望めないからね」


 目指す所は何処なのか、何を目標としているのか。それを明確に理解し、頭の中に思い描けるかどうかで、訓練の効率は大分変わる。特に今回は単純に体に叩き込めば良いという訳ではないので、非常に重要な事である。

 その事を理解しているのだろう。高音は従順に返事をするような事はせず、目蓋を閉じて考え込み始めた。


「…………つまりは貴女のような戦い方を目指せ、という訳ですか?」


 暫くして目蓋を開けた高音の言葉に対し、洸は首肯する。


「着眼点は同じだね。自分の安全を確保しながら、相手が攻撃する瞬間を狙う。まさしく私のやり方だ」

「けど、貴女のやり方ほど優れてはいない」

「私のやり方は資質の問題が大きいし、正道とは言えないよ。それに、最終目標にしろという訳じゃない。貴女自身がこれからの経験の中で色々と考えて、ドンドン創意工夫を重ねていけば良い」


 諭すような声音で、洸が答える。その言葉を聞き、高音は何を感じたのか。彼女は眉根を寄せて押し黙り、再び何事かを考え始めた。

 青色のリボンでツーサイドアップに結ばれた金髪が風に靡き、陽光を反射して煌めく。その事を気にした風も無く、微動だにせず思索を進めている高音の隣では、愛衣が心配そうな表情を浮かべている。瞳を揺らし、小動物のような視線を送ってくる彼女を安心させる為に、洸は優しく微笑み掛ける。それだけでも多少は効果があったのか、愛衣は息を吐き、気持ちを落ち着けたようだった。



「…………色々と、考える必要がありますね。魔法の構成も、幾らか変更した方が良さそうですし」

「それじゃあ?」

「頑張らせて頂きます」

「うん。その意気だ」


 その色とは裏腹に、熱い感情を宿した高音の瞳。彼女と目を合わせながら、洸は嬉しそうに頷いた。








 ◆








 胸の動悸は激しく、頬の紅潮は林檎のよう。思考は熱暴走により停止寸前で、震える心は決壊寸前。神楽坂 明日菜の華奢な心臓は、今日も今日とて平常運転である。頭の中に溜め込んだ言葉の数々が、鼓動に押されて今にも飛び出してしまいそうなほどだ。

 よく磨かれた、艶のある木製テ-ブル。それを挟んで明日菜の対面に腰掛けているのは、楽しげな表情をしたタカミチである。二人の前にはクッキーの盛られたお皿と、湯気の立つティーカップが一つずつ置かれており、辺りには紅茶の香りが漂っている。互いを隔てる白い湯気と、暖色系の照明。それらが自分の状態を誤魔化してくれていると信じながら、明日菜はタカミチとの雑談に耽っていた。


「こうして一緒に出掛けるのも久し振りだね…………って、昔もそんなに無かったっけ」


 苦笑しながらウンウンと頷いて、タカミチはバツが悪そうに頭を掻いた。


「君を預かっていた時は色々と遊びに出掛けたりしたいと思っていたんだけど、いざ何かしようとすると決められなくてね。ハハハ……どうにも僕はこういった所で気が利かないらしい」

「い、いえ。そんな事は……」


 自然と、明日菜は髪を結んでいるリボンへと手を伸ばす。長年愛用してきた、真っ赤なリボン。今では着けていない事の方が違和感を覚えるほど馴染んでいるそれに触れれば、付属の小さなベルが音を鳴らした。例えるなら、恋の音といった所だろうか。


「そのリボン、いつも着けてくれているよね? 気に入ってくれてるみたいで嬉しいよ」


 明日菜の動作に気付いたタカミチが、俄かに目尻を緩ませる。

 リボンは、小さい頃に彼から贈られた物だ。そして、明日菜が彼を好きになる切っ掛けとなった物でもある。当然の如く甘受していた彼の優しさを意識するようになり、その温かさに気付けたのも、このプレゼントがあったからこそだ。もうずっと、胸の奥で燃え続けている『好き』という気持ちを与えてくれたこのリボンは、彼女にとって何よりも大切な宝物だった。


「あ、あの! 待ち合わせの時間って何時なんですか?」


 タカミチがリボンの事を覚えていてくれたのが嬉しくて、けど凄く恥ずかしくて、明日菜は思わず話題を逸らしてしまう。


「え? あぁ……そうだね、あと五分もすれば来るんじゃないかな」


 左手首に填めた腕時計をチラリと見て、タカミチはすぐに答えてくれた。急な話題転換にも嫌な顔一つせずに応じてくれたタカミチに心の中で感謝しつつ、明日菜は今聞いた事について思考を飛ばす。

 あと五分。それだけの時間が経てば、洸がやってくる。二人きりの時間に終りが近付いてきた事が寂しく、また同時に、間近に迫った魔法使い関連の話し合いの事を考えて体に緊張が走る。

 洸の話は、木乃香達から色々と聞いている。優しいとか面倒見が良いとか、悪い評価は聞いた事が無く、実際に正月などで会った時も話と違う部分は無かった。だから、その点では多少安心している。ただ魔法という未だよく理解出来ていないものが絡んでいるからか、明日菜自身が意識しなくても、体の方が勝手に身構えてしまうのだ。


「っと、もう来たみたいだよ」


 どんな話を聞かされるのかと、明日菜が拙い想像を巡らせていたら、タカミチがそんな事を言った。驚いた彼女が慌てて店の入口へと顔を向ければ、そこには丁度扉を潜ったばかりの洸が居た。応対に来た店員と二言三言交わした彼女は、特に誰かを探すような素振りを見せる事無く、真っ直ぐに此方へと向かってくる。


「高畑先生、明日菜ちゃん。こんにちは」


 傍に来た洸が微笑みながら挨拶をして、


「こんにちは、洸君」

「こ、こんにちは」


 二人が同じように返せば、洸は笑顔のまま明日菜の方を向いた。


「明日菜ちゃん。隣、いいかな?」

「あ、はい。どうぞ……」

「ありがとう」


 バッグを抱えた洸が、明日菜の隣に腰掛ける。その何気無い動作が洗練されたように見えるのは、彼女が魔法使いだという認識があるからだろうかと、明日菜は自問する。動作と共に洸の艶やかな黒髪が流れ、心地良い香りが明日菜の鼻腔を擽る。どこか水気を含んだ、甘い匂い。木乃香が使うシャンプーと同じ物だと明日菜が気付くのに、時間は掛からなかった。


「それでは、私の紅茶が運ばれてきたら始めましょうか」


 洸の言葉にタカミチが頷き、明日菜も同意する。

 いよいよだと、明日菜はテーブルの下で汗の滲んだ拳を握り締めた。




 □




「ぱくてぃおー、ですか?」


 その話が出たのは、話し合いが始まってから一時間ほど経った頃の事だった。明日菜の休暇中の予定に関する質問から入り、大まかな訓練の日程決め、魔法や魔力の簡単な説明に続いて出たこの話題は、二人にとってかなり重要なものらしい。二杯目となった紅茶に口をつける明日菜の対面ではタカミチが心配そうな色を顔に滲ませており、隣の洸が纏う雰囲気も若干硬いものに変わっている。


「そう、パクティオー。日本語で言えば契約。今回の場合は、頭に”仮”が付くけどね」

「仮契約……」

「そんなに身構えないで。別に変な事をする訳じゃないから」


 洸が苦笑し、おどけたように両手を上げる。タカミチの方に視線を移せば彼も似たような表情をしており、大丈夫とでも言うかのように頷いてみせてくれた。そんなに変な顔していただろうかと、思わず、明日菜は自分の頬に手を当てる。

 多分、いつも通り。そう思って明日菜が隣へと視線を向ければ、洸が口元に手を当てて可笑しそうにしていた。なんとも恥ずかしく、自然、明日菜の頬が薄っすらと紅潮する。


「それじゃ、緊張も解けたみたいだし説明するね」


 にこやかに話す洸に、赤い顔のまま、明日菜は何も言えずに首肯した。


「簡単に言ってしまえば、明日菜ちゃんに色々な力を与えてくれる魔法かな。たとえば私と契約したなら、明日菜ちゃんはちょっとした手順を踏むだけで体を強化する魔法が使えるようになる。私の魔力を使ってね。あと、契約すれば魔法とかの才能が開花し易くなるとも言われているから、明日菜ちゃんが勉強する上で役に立つはずだよ」

「な、なるほど……」


 明日菜が確認するような視線をタカミチへと向ければ、彼はしっかりと頷きを返してくれる。その様子を眺めていた洸が苦笑し、それに気付いた明日菜は、バツが悪そうに頬を掻いた。

 別に洸を信用していないという訳ではないのだが、やはり魔法という馴染みの無い事柄に関する事なので、ついついタカミチの方へと意識が向いてしまう。その点については洸も仕方が無いと思っているのか、特に何かを言う事も無く、彼女は話を進めた。


「他にも色々あるけど、今は置いておこう。それで、本来は契約した魔法使いを手助けする為にそういった効果があるんだけど、今回は明日菜ちゃんの勉強を補助する為に使おうというわけ。あぁ、契約は解除出来るものだから、あまり難しく考えなくてもいいよ」

「えっと、はい」


 半ば押し切られるような形ではあるが、一応の納得は出来た。取り敢えず勉強が簡単になるといった感じで良いのだろうと、明日菜は解釈した。気になる事があるとすれば、具体的な方法についてだろうか。


「その、仮契約って実際にはどんな事を?」

「明日菜ちゃんは立ってるだけでいいよ。時間は少し掛かるけど、そこは我慢してね」

「は、はい。それくらいなら」

「ホントはすぐに終わらせる方法もあるんだけど、そっちは色々と……ね」


 言って洸はタカミチと顔を見合せて、なんとも言えない様子で苦笑する。その意味が分からず首を傾げる明日菜に対しなんでもないと答えると、洸はそのまま言葉を継いだ。


「契約をするなら準備の関係もあるから…………多分、明後日になるかな。それと、契約相手は私だよ。高畑先生は少し事情があって、この契約には向いてないから」

「そうなんですか?」


 明日菜が視線を向ければ、タカミチは気まずそうにしながら頷いた。


「どうかな? 嫌なら契約は無しで、普通に魔法の勉強という事になるんだけど」


 見詰め合っているだけで吸い込まれそうな、洸の黒い瞳。そこに潜む感情がどんな物なのかは、明日菜には分からない。しかし決して悪い物ではないと、明日菜は感じた。だからか。自然と、彼女は口を動かしていた。


「――――――します。その契約、させてください」


 そう答えると、洸は安心したように胸を撫で下ろすのだった。












 ――――後書き――――――――


 第十二話をお送りしました。お読みくださった方、ありがとうございます。

 今回は春休み編の導入部ですね。明日菜の仮契約についてや、高音達の訓練風景です。訓練の方は色々と省いても良かったのですが、戦闘描写の練習として書いてみました。やはり実際に書いてみると中々上手くいかないものですね。臨場感や疾走感などをもっと上手く表現したいのですが、どうにも力不足を感じます。

 さて、次回は千雨の話です。実は扱いに困っていた彼女なのですが、ようやく方針が決まったので登場して貰います。他のキャラ達もドンドン出してあげたいのですが、物語の進行との兼ね合いもあって中々です。やはりネギまはキャラが多いと実感させられますね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十三話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/04/12 21:41


 長谷川 千雨(はせがわ ちさめ)は、普通の女子中学生だ。十分に整ったと言える面立ちながらも、顔には大きな丸レンズの眼鏡を掛け、腰元まで伸びた長い髪はうなじの辺りで一つに纏めているだけ。鳶色の大きな瞳は斜に構えたように冷めていて、やや赤みの強い桜色の唇は笑う事よりも真一文字に結ばれる事の多い、地味な印象を与えるばかりの容姿。成績は真ん中よりも少し下の方で、授業中に進んで発表する事も無く、運動はハッキリ言って苦手。部活にも委員会にも所属していなくて、喋りが上手い訳でもない、クラス内でも目立たないタイプ。そんな、割合普通の中学生だと、彼女は自分の事を認識している。

 そして、千雨は普通という事を好んでいた。目立って優秀でもなく、目立って劣等でもなく、普通の範囲内に収まる成績。明る過ぎず暗過ぎずの、普通の性格。そういった人間が好きだし、そういった環境が良いと、彼女は常々思っている。

 だから千雨にとって、ここ最近の学校生活はあまり好ましいものではなかった。彼女が所属するのは、麻帆良学園本校女子中等学校の二年A組である。つまり明日菜達のクラスメイトであり、ネギが担任として受け持っている生徒の内の一人でもある。


(っつか、一ヶ月じゃなかったのかよ!)


 年端も行かぬ子供が教師だなんて馬鹿げてる。否、それ自体には一応の納得はした。何処かの推薦を受けたという話だし、八歳で有名大学に入学する天才少年とか、そういった話が現実らしく、小説以上に面白可笑しく膨らんだのだろう。馬鹿デカい麻帆良学園の事だ、特例という便利な言葉が政府のお墨付きで出たのかもしれない。というか、千雨は五分で考える事を放棄した。無駄でしかない。

 そもそも、どうしてネギが教師をやっているかなんて事は、千雨の守備範囲外だ。世の中には色々ある。理解し難い事だって腐るほどあるだろう。だから、ネギの存在に関しては早々に諦めた。そんなものは、無視するに限るのだ。


(なんで来年もアイツが担任なんだよ!)


 だがそれも、一ヶ月という期限を最初に提示されていたからだ。一月待てば子供先生などという非常識な存在は自分の日常から消えるのだと、信じていたからだ。だが、そんな千雨の儚い希望も、一昨日の終了式で見事に打ち砕かれた。来年度からの、ネギの正式採用。それを聞いた時、千雨は胃が音を立てて縮み上がったように思えた。

 せめて始業式の時に通達してくれたなら春休み中は平穏無事に過ごせたのにと、最後の抵抗とばかりに恨まずにはいられない。

 そもそも千雨は、A組のクラスメイト達の事も快くは思っていないのだ。煩い、お調子者、ノー天気。理性よりも感情優先のノリ重視で、お祭り騒ぎが大好きな連中。普段はまだしも、ノリ始めれば一気に調子が振り切れる彼女らに、千雨は付いていけなかった。


(大体アイツら、子供が先生やるってのに気にしないしな)


 苛立たしげに、千雨は自らの額に手を押し当てた。

 昼間だというのにカーテンを閉じられ、明かりも点いていない薄暗い部屋の中。現在は千雨だけが入居している此処は、彼女の私物で満たされている。二つの大きな液晶ディスプレイに、それと繋がった同じ数のタワー型ケース。スキャナやプリンタといった周辺機器も一通り揃えられており、ノートパソコンも個人で所有している。中学生としては、かなり贅沢なパソコン環境だ。


「くそっ」


 ディスプレイから漏れる人工光に照らされた千雨の表情は、不愉快そうに歪められていた。だが、それも僅かな間だけだ。眉間の皺はすぐさま消え去り、頬も緩められる。ディスプレイに並ぶ文字を見ながら、彼女は安堵の息を吐き出した。

 千雨は『ちう』というハンドネームを用いて、ネットアイドルをやっている。今、最も人気のあるネットアイドルである。それだけにファンの数は多く、今もチャットを通して、様々な賛美の言葉が千雨に送られている。

 ニヤリと、千雨が笑う。

 ネットの中には、彼女の城がある。煩わしいクラスメイトも、非常識な子供先生も居なくて、唯々『ちう』に賛同する者達が集う城。時折ゴキブリか何かのようにポッと表れる口汚い批判者も、即座にファンが排除に掛かってくれる。そうでなくても城の主である千雨がその気になれば、容易く発言も存在も排除出来る。

 そう。ネットの世界は、驚くほど千雨に優しい。

 だからか、好奇心から生み出した『ちう』という偶像は、今や日常を侵すほどに千雨の中で大きく膨らんでいた。私的な時間の多くはネット上で各種の知識を蓄える事や、ネットアイドルとしての衣装を作る事に費やされ、遊びに出掛ける事などは殆ど無い。初等部の頃から悪かった周囲との付き合いも、今やほぼ完全に断絶状態と言ってもいい。


「ふんッ」


 それでも構わないと、千雨は思っている。流石にネットでの活動が周囲に知られれば変な目で見られるだろうからそれは避けたいが、生活の主体をネットに移している事に対して後ろめたい気持ちなどは感じていない。千雨は普通が好きだ。自身が普通と見られていれば他人の干渉を抑えられ、普通の人間であれば千雨に対して余計な詮索はしない。

 そう、表の世界で目立つのは色々と煩わしい。だから、ネットの中で活動する。


「――――っと、今日は出掛ける予定だったな」


 行き先は図書館島だ。ネットアイドルとしての衣装を自分の手で作成している千雨は、資料集めとしてよく図書館島を利用している。あの膨大な数の蔵書の中から目的に合った本を探し出すのは、ネットの海で舵を取る事以上に疲れるのだが、腕の良い案内人が居るなら別である。そして今日の千雨は、経験豊富な案内人と約束を取り付けていた。


「流石に待たせる訳にはいかねぇしな」


 チャットをしていたファン達に別れを告げて、千雨はパソコンの電源を切る。時計を見れば、約束の時間までは一時間と少しといった所だった。準備と移動の時間を合わせて考えても、特に慌てる必要は無さそうである。


「とはいえ、余裕がある訳でも無いか」


 ネット以外では目立つ気が無いとはいえ、千雨も思春期の少女だ。周囲にだらしない人間だと思われるのは嫌だった。カーテンを開け室内に自然光を引き入れた千雨は、クッと軽く伸びをした後、出掛ける準備に取り掛かった。












 ――――第十三話――――――――












 図書館島に入ってすぐの位置にある、木製のカウンター。所々に小さな傷が入りながらも、丁寧に扱われてきた事が分かるその席に、洸は一冊の本を広げて腰掛けている。彼女が眺めているのは、麻帆良全土を精微に網羅した地図帳だ。ページの端から指でなぞり、脳裡にその場所の景色を思い浮かべながら、洸は大停電の件について思いを巡らせていた。

 学園創立以前から土地の魔力を利用して強固な防衛体制を築いていた麻帆良だが、学園業務との両立を図ろうと、様々な面で電子化が進められている。その最たる物が、学園結界だろう。麻帆良全土の監視以外にも強力な召喚生物などに対して大きな抑止効果を持つこの結界は、膨大な電力によって維持されているのだ。

 そして『闇の福音』の封印を解くという事は、すなわちこの結界を解除するという事でもある。魔力による結界も存在するので致命的というほどの危機的状況にはならないにしろ、魔法関係者の殆どが動員されかねないほどには不味い。当日の戦闘領域を選定し、上手く邪魔者を遠ざけておく必要がある。


(とはいえ……)


 実際に注意すべきは、闇の福音と電力の関係を知る人物だけだ。実力者揃いの彼らの行動をコチラの思い通りに操るのは、中々に骨が折れるだろう。上手く仕事を分担させ、殆ど干渉させないように抑える必要がある。頭の良い彼らの事だ、無闇矢鱈と騒ぎ立てて混乱を招くような事はしないだろう。闇の福音の行動を制限し、洸がアチラに指示を出す限り、予定外の人物は現れない。

 全員は不可能だが、数名なら当日に仕事を押し付けて麻帆良の外に行かせられる。万難を排す為にも、この方法で限界まで数を削っておくべきだろう。それも、洸やタカミチと親しくしている人間を中心として。


(特に、ガンドルフィーニ先生はどうにかしないとね)


 地図をなぞっていた指を止め、洸は目を細めた。

 近右衛門を除けば初めて洸が師事した人物であり、また彼女は、彼が初めて受け持った魔法生徒だ。付き合いの長さで言えば、かなりの物がある。その為に洸とエヴァンジェリンの仲についてはよく知っており、ある程度の理解も示している。また、九年前の吸血鬼事件以前の洸を詳しく知っている、数少ない人物でもあった。そして、今回の件に対し最も過敏に反応するのは彼だと、洸は考えている。


(いや、いっそコチラ側に引き込むのも…………)


 可能性は、おそらく五分といった所か。規則などには煩い人だが、情に脆く、身内に甘い人でもある。タカミチと近右衛門を除けば、最も説得し易い人物だろう。不安はあるが、話し合いの場を設けるのも一考すべきかもしれない。声を掛け過ぎれば大停電を待たずして計画は破綻するだろうが、一人くらいなら試す価値はある。


「地図帳なんて見て、面白いんですか?」


 掛けられた声に、洸は背後に視線をやる。そこには、洸の肩に手を掛けるような体勢で宙に浮く、さよの姿が見て取れた。そんな彼女の様子に苦笑すると、次いで洸はさりげなく辺りを見回した。

 都合良く、近くには誰も居ない。顔馴染みの司書も、洸に此処を任せて他の仕事をしに行っている。


「まぁ、面白くはないね。仕事関係の事だし」

「そうなんですかー。大変ですね」

「だね。けど、やらなくちゃいけない事だから、文句は言ってられないよ」

「スゴイですねぇ」


 感心した様子で話しながら、さよは洸の背後から身を乗り出すようにして開いているページを注視した。互いの頬が、触れ合いそうな距離。青白いさよの肌はヒヤリと冷たそうだけれど、純朴な気風を感じさせる表情は、確かな温かみを帯びている。

 さよが洸の部屋に住むようになってから、もう二週間が経った。起きた時には、おはようございます。眠る時には、おやすみなさい。何気無い挨拶だが、それが随分と価値有る事なのだと、最近の洸は実感させられていた。魔法関係の事情で小、中、高校時代を女子寮の一人部屋で過ごした洸は、誰かと一緒に住んだ経験というものが乏しいのだ。勿論幼少期は別であるし、寮生時代もエヴァンジェリンや近右衛門の家に泊まる事はあったが、久方振りの同居生活は、洸の心に穏やかな温もりを齎していた。


「あ、このお店は知ってますよ。クラスのみんながよく話してますから。結構近くにあったんですね」

「良いお店だよ。可愛いし、質も良い。ちょっと高いけどね。今度一緒に行ってみる? この位置ならギリギリ大丈夫だと思うし」

「本当ですか!」


 俄かに喜びを示したさよの姿に、洸の胸が暖かくなる。またその一方で、大停電の件に対するやる気が湧き上がる。

 さよの件について、洸はネギに感謝していた。刹那の指導を筆頭に色々と理由があったとはいえ、大学に入ってから二年も引き延ばしてきた決断に踏み切れたのは、彼の課題があったからに他ならない。そういった事も考えると、やはり失敗する訳にはいかないのだ。


「っと、来たみたいだね」

「?」

「待ち合わせ相手」

「あ、そうなんですか。じゃあ、静かにしてますね」

「お願い。後で色々話そうね」


 地図帳を閉じながら司書の位置を探れば、丁度仕事を終えて戻ってきている所だった。これなら、待ち合わせ相手を待たせる事も無いだろう。そう安堵した洸は、図書館島の入口へと顔を向けた。

 時を待たずして、大きな木製の扉が開かれる。そうして外の太陽光と共に、一人の少女が入ってくる。白いブラウスに、紺色の上着。赤い生地のチェックスカートを穿き、黒の靴下を履いた、女子中等部の制服姿の彼女を、洸は笑顔で迎えた。


「こんにちは。久し振りだね」


 返ってきたのは、いつも通りに仏頂面をした表情をした少女の、素っ気無い挨拶だった。




 □




「ホント、ウチのクラスの奴らはノー天気なアホばかりなんですよ」


 背の高い本棚に体を預けながら分厚い本を開いている千雨は、半ば吐き捨てるようにしてそんな事を言った。彼女の正面では高い上背を活かした洸が、本棚から一冊の本を抜き出している所だ。表紙に『東欧服飾大辞典』と大きく印刷された本を千雨に差し出しながら、彼女は仕方無いなとでも言いたげに苦笑を浮かべる。


「麻帆良の気風だからね、楽観的な人が多いのは…………まぁ、千雨のクラスは少し目に余るレベルかもしれないけど」


 目を泳がせながらの、洸の言葉。それを聞いた千雨は、我が意を得たりと言った様子で本棚から体を離す。洸の手から本を受け取り、彼女の顔を見上げた千雨は、微かな喜色を滲ませて口を開いた。


「でしょう? アイツらはいつも考え無しなんですよ。子供の先生を気にしないし、自分らの事だってそうだ。騒がしい馬鹿クラスとか言われてるのにケラケラ笑ってばかりだし、正直、ああいった感性は理解出来ません」

「一応、その中に私の従姉妹も居るんだけど」

「この意見は曲げませんよ」


 口を尖らせて自らの意思を主張する千雨に、洸はクスクスと笑い声を漏らす。それを聞いて、千雨は俄かに頬を染める。ただ、彼女の表情には恥ずかしさと共に、安堵感のようなものが同居していた。

 実際に言葉にしてみればなんとも寂しく感じられるが、千雨には友達が居ない。義務的に会わなければならないクラスメイトや教師を除けば、それこそ目の前に居る洸くらいだろう、継続的な付き合いがある人物というのは。

 近衛 洸。天然の入った木乃香の従姉妹というだけあって、彼女は邪気の無い人懐っこさを持っている。それでいて、千雨の言い分に理解を示してくれる貴重な人物でもある。だからか、この六つ離れた先輩と会う時は、ついつい日頃の不満が漏れてしまう。ネットでは吐き出せず、当然ながらクラスメイトや教師に言えないような事でも、洸が相手だと話せるのだ。


「相変わらず頑固だね、千雨は」

「頭の芯までフヤけた連中に囲まれてますから。これくらいじゃないとやっていけませんよ」


 パラパラと本のページを捲りながら、千雨。


「一度くらい輪の中に入ってみたらどう?」


 新たな本を探しながら、洸。


「イヤですよ。見てるだけでも馬鹿らしいのに」

「そう? 案外楽しいかもしれないよ」


 有り得ない、と千雨は肩を竦めた。

 初等部の頃から麻帆良に住んでいるのだ、此処の気風と相容れない事はよく理解している。もしも仲良く出来るというのなら、日々の生活はもっと楽しいものになっていたはずである。学校に行くのを苦痛に感じる事も、きっと無かっただろう。

 そんな自嘲と共に、千雨は皮肉げな笑みを浮かべた。


「…………千雨がそれで良いなら、煩く言うつもりはないけどね」


 目を細めた洸の、何処か引っ掛かる物言い。その事に千雨は疑問符を浮かべるが、すぐに首を振って気持ちを切り替えた。洸が引くと言っているのだから、わざわざ自分から食らい付く必要は無い。そう思い、千雨は再び開いた本に視線を落とす。

 それから暫し、何気無い雑談を交わしながら、二人は資料探しを続けるのだった。








 ◆








「どうしましょうか」


 見渡す限りに立ち並ぶ、身の丈の倍はありそうな高い本棚の間を歩きながら、夕映は顎に手を当てて呟いた。

 告白されたのだと洸に教えられてから、二週間近く経っている。だがそれだけの時間が経っても、未だその状況に決着はついてない。そして彼女は、現状に対して大きな危機感を抱いている訳でもない。至って普段通りに、日々を過ごしている。

 保留状態に持ち込めたという事から分かってはいたが、やはり告白した人物というのは洸と親しい間柄なのだろうというのが、夕映の出した結論だ。それも、夕映よりも遥かに深い付き合いがある人物だ。でなければ、律儀な洸がこんな状況を許すはずが無い。


「…………」


 眉間に皺を寄せ、夕映は口をヘの字に曲げる。

 羨ましく、妬ましい。言葉を飾らず率直に言えば、それが今の夕映の心情だった。例えば、自分よりも洸と仲が良い事。例えば、洸に告白出来る事。例えば、洸から恋愛対象として見られている事。自分が持っていない物を色々持っている誰かに、夕映は嫉妬していた。

 息を吐き出し、夕映は気持ちを落ち着ける。

 嫉妬する事に意味は無い。今の夕映が頭を悩ませるべきは、どうすれば洸に恋愛対象として見て貰えるかという事だろう。とはいえ、コレに関しては考えた所で答えが出ない問題だ。同性の振り向かせ方など、あらゆる面で経験に乏しい中学生に分かるはずが無い。夕映自身が洸を好きになった要素を考えてみた所で、それを彼女が再現出来る訳も無く、また確実性も欠いている。


(いっそ、私も告白してみるですかね)


 そうすれば、嫌でも夕映を見る目が変わるはずだ。だが同時に、色々と失いかねない案でもある。

 せめて洸に告白した相手がどんな人物なのか分かれば、少しは思考に広がりも出るかもしれない。しかし、肝心の相手が誰なのかを、洸は教えてくれない。夕映が尋ねても、困ったといった様子ではぐらかすばかりだ。流石にしつこく追及していい話題でもない為、結局は見当すらついていないのが現状である。

 肩を落として、夕映は弱々しく首を振る。寮に戻り、帰省の準備でもして気分を変えよう。そう考え、彼女は出口へと足を向けた。


「む?」


 図書館島の玄関口まであと少しという所で、夕映の視界の端を二つの人影が横切った。

 普段なら、まるで気にしなかっただろう。しかしこの時の夕映は、何故かそれが気になったのだ。自然と彼女は駆け足になっており、人影の正体を確かめようと、その背中を追い掛けるのだった。








 ◆








「――――――長谷川さんって、ああいう人だったんですね。ちょっと意外です」


 業者も含め千人単位を導入した年度末の大掃除で、丁寧にワックスが掛けられた長い廊下。殆ど人影の見られないその場所を、さよと洸は進んでいる。行き先は、先程使用許可を貰った会議室の一つ。洸が抱えているのは、一冊の地図帳と二冊の魔導書。魔導書は、其々陰陽術と西洋魔術について広く浅く取り扱っている物だ。その目的は、当然ながら例の計画を煮詰める為である。


「うん。本当はあんな風に威勢が良い子なんだけど、ちょっと人見知りするみたい」


 あれから一時間以上も資料を探して図書館島を巡り歩いた彼女らは、最終的に五冊の本を選び出した。そうして本日の成果に満足した千雨は貸し出し手続きを行うと、満足した様子で洸と別れたのだ。ホンの、数十秒前の事である。


「何時頃からのお友達なんですか? かなり仲が良さそうでしたけど」

「半年くらい前だから、割と最近だよ。これが二年前とか三年前だったりしたら、色々変わってたと思うけどね」


 当時の事を思い出すかのように目を瞑り、洸が答える。


「? 何がですか?」

「ヒミツ。まぁ、中々気難しい子だ――――っと」


 柔らかな笑みを浮かべながら話していた洸が、唐突に足を止めて振り返った。それを見て、さよが首を傾げる。


「どうかしたんですか?」

「あ~、いや。なんでもないよ」


 目を細め、僅かな逡巡を見せた後に、洸は首を振った。そうして、再び会議室へと向けて歩き始める。艶やかな黒髪を揺らし、背筋を真っ直ぐ伸ばして歩く彼女は、隣で宙に浮きながら不思議そうな顔をしているさよを見ながら、柔らかな声音で呟いた。


「気になるけど、詮索屋は嫌われるからね」


 そう言った洸の表情は、まるで妹を見守る姉のような雰囲気を纏っていた。








 ◆








「長谷川さん!」


 その声が千雨の耳を震わせたのは、彼女が図書館島を出て、島と陸とを繋ぐ大きな橋を渡り始めてすぐの事だった。普段の彼女なら、無視したかもしれない。友人と思っている相手が少ない千雨にとって、無遠慮に話し掛けてくる手合いは、大抵が煩わしさを感じさせてくれるからだ。なのに足を止めたのは、珍しく機嫌が良かった事と、聞き覚えがある声の持ち主を彼女が嫌っていなかった為だろう。

 立ち止まった千雨が振り返れば、予想通り、見覚えのある顔。ボリュームのある長い髪を、左右で二つに分けて纏めている独特の髪型をした、馴染みのある女生徒。席替えの無いA組で二年間ずっと隣の席だったクラスメイトが、慌てた様子で駆け寄ってきていた。


「――――何か用か、綾瀬?」


 綾瀬 夕映。おちゃらけた生徒の多いA組の中では珍しい、真面目で大人しいタイプの生徒だ。中等部からの編入組だからか、感性が麻帆良に染まり切っていない事もあり千雨は彼女の事が嫌いではなかったし、それなりに話をする事もある。ただ、こんな所でイキナリ話し掛けられるような間柄ではないのは確かだ。

 一体どうしたのかと、不可解そうに千雨は眉根を寄せた。


「少し聞きたい事があるのですが、いいですか?」


 イヤだ。喉まで出掛かったその言葉を、千雨はどうにか飲み込んでみせる。非常に面倒ではあるが、地味で大人しい女生徒というのが長谷川 千雨だ。最初から突っ撥ねた態度を取るのは、少々可笑しい。

 だから彼女は気だるい気持ちを押し込めながら、夕映に問い返した。


「内容によるけど……」

「その、先程まで先輩と一緒に居ましたよね?」

「先輩? あぁ、近衛先輩か」

「そう! その先輩です!」


 勢い良く、夕映が首肯した。その様子に、思わず千雨は身を引いてしまう。


「そ、それであの人がどうかしたのか?」

「っと、スミマセン。それでですね、先輩とは仲が良いんですか? あ、いえ。一緒に居る所を初めて見たものですから」

「あん?」


 変な事を聞くものだと、千雨は眉間に皺を寄せる。が、すぐに思い直す。洸と夕映は、共に『図書館探検部』という奇妙なサークルに所属していた事を思い出したからだ。サークルの先輩とクラスメイトが仲良さそうにしていたから、気になったのだろう。夕映の様子を説明するには少々足りない気もするが、無用に踏み込むのを恐れた千雨はそう結論付けた。

 一つ、息を吐き。千雨は眉間を揉む。

 知られた所で、別に困るような事ではない。なら、偶にはクラスメイトの話に付き合うのも良いだろう。


「仲が良いってほどじゃない。知り合ってから半年くらいだし、頻繁に会う訳でもないからな。まぁ、良い人だとは思うが」

「そうなんですか――――」


 何故か残念そうに、夕映は肩を落とす。


「では、先輩の交友関係については……」

「それこそ綾瀬の方がよく知ってるんじゃないのか? 私はあの人の知り合いについてはサッパリだからな」


 千雨の言葉を聞き、夕映は気落ちした様子で溜め息をついた。

 訳が分からない。今の質問に、一体どんな意味があったというのか。尋ねようかと思ったが、わざわざ詮索して関わる事も無いだろうと、千雨は考え直した。とにかく、話が終わったのならさっさと切り上げたい。こんな場所で雑談に耽るよりも、部屋で資料と睨めっこしながら新しいコスチュームを考える方が千雨の性に合う。

 だから、次いで口から出た言葉に一番驚いたのは、他ならぬ千雨自身だった。


「――――――なぁ、今度は私の方から訊いても良いか?」

「え? あ、はい」


 夕映の了承を受けた千雨は、気分を落ち着けるように大きく息を吸った。

 洸との会話があったからかもしれない。その後にクラスメイトと会ったからかもしれない。実は千雨自身でも気付かない内に、夕映に対して仲間意識が芽生えていたのかもしれない。明確な理由は分からない。ただ、自然と動く口を、千雨は止められなかった。

 ガシガシと髪を掻き乱して、驚いた様子の夕映の顔を見下ろしながら、頭で考えるよりも早く彼女に問い掛ける。


「入学したばっかの頃とかさ、かなり冷めた目をしてよな? 中学生になって馬鹿みたいに騒ぐ奴らを見ながら、なんだこのアホな連中はって感じの顔して、離れたトコから眺めてたよな? 私も似たようなモンだったし、綾瀬は隣の席だったからよく分かったんだよ」


 まだ中等部に上がったばかりの頃、今みたいにネットの世界にのめり込んでいなかった頃の千雨にとって、夕映の存在は輝いて見えたものだ。それこそ千雨にしては珍しい事に、自分から話し掛けようかと思ったほどである。


「けど、段々変わってきた。宮崎とかはまだわかるが、早乙女とかとも笑って付き合い出してさ、気付けば騒ぎの中の一人として普通に交ざってた――――――あぁ、いや、なんつーかな。責めてるんじゃなくて、よくあんな疲れる奴らとつるめるなっていうか……」


 裏切られた、なんて馬鹿な事は思わなかった。けど、代わりに寂寥感のようなものはあったかもしれない。そんな事を考えて、千雨は自嘲から唇を歪めた。中等部に上がって浮かれていたというのは、自分にも当て嵌まるのかもしれない、と。

 初等部の頃もクラスに馴染めなくて、今のように個人でパソコンを持っていた訳でもなかったから、いつも本を読んで過ごしていた。それを寂しいと明確に感じた事は無かったが、楽しい学校生活ではなかったのも確かだ。だから、もしかしたら、目の前に居る本好きなクラスメイトのような存在に、淡い期待を抱いていたのかもしれない。

 益体も無い思考が、刹那、千雨の脳裡をよぎった。


 ――――――――馬鹿らしい。




 □




 綾瀬 夕映から見た長谷川 千雨という少女は、決してクラスメイトの域を出るものではなかった。席が隣同士だという事や、互いにクラスの賑やかしさから一歩離れた位置に居る事から、A組で最も千雨と親しい人間の一人かもしれないが、決して友達ではないのだ。だから夕映は、千雨については詳しく知らない。表面的な事しか、知ろうとしてこなかった。

 けれど夕映は、今の千雨が抱いている感情がどんなものであるか、朧げに理解出来る気がした。勿論、気の所為かもしれない。妄想の域を出ない、他愛も無い戯言かもしれない。だが理性とは別の何かが、奇妙な確信を夕映に抱かせていた。論理的ではなく、夕映としては好ましくない言い回しだが、それは”直感”とでも言うべきものなのだろう。

 気付けば洸の件を脇に置き、夕映は千雨の話題へと意識を切り替えていた。


「たしかにこの学園に来た頃の私は、貴女の言うように冷めてましたね」


 地元の小学校を卒業してからすぐの事だ、大好きだった祖父が死んでしまったのは。哲学者であり、誰より尊敬していた祖父の死は、夕映の心に暗く重い影を落とした。それこそ、楽しみにしていた麻帆良での新生活になんの期待も見出せなくなるほどに。

 色褪せた世界。何もかもがつまらない、くだらない世界。それが、当時の夕映が感じていた事だった。何も考えていないような表情で馬鹿みたいに明るい人達が酷くアホらしく見えて、自分に掛けられる声が全て煩わしく感じられた時期だ。

 思い返してみれば、子供っぽい感傷でしかなかったのかもしれない。大切な人の死を経験して、それだけで何もかも理解したような気になって、悲劇のヒロインにでもなったかのような気分に浸っていただけかもしれない。


「ウチのクラスにノー天気な人達が多いのは今も否定しませんが、あの頃の私はそれを馬鹿らしいと切り捨てるだけでした」

「いや、それで良いだろ。あんな奴らにわざわざ付き合ってやる必要なんかねーよ」


 緩やかに首を振り、夕映は千雨の言葉を否定する。


「実際に触れ合ってみれば、それほど悪いものでもないです。まぁ、やり過ぎた場合は諌める必要もあるですが」

「しかしなぁ……」

「遠くから眺めているだけではわからない事も多いです。それに、何も同じように騒ぐ必要がある訳ではありません。それこそ、呆れて溜め息をつくだけでも良いんです。大事なのは、みんなと時間を共有する事なのですから」


 大事なのは繋がりだと、そう夕映に教えてくれたのは洸だった。そして、それを実感させてくれたのが、他ならぬのどか達だ。

 かつての夕映は、祖父を通して世界と接する事が多かった。多くの知識を与えてくれたのは祖父で、色々な楽しみを教えてくれたのも祖父で、他にも一杯、祖父から貰った物がある。昔の夕映にとって世界の中心は間違い無く祖父であり、それ故に彼が亡くなった事で、多くの事を見失ってしまった。それまで腕の中に抱えていた沢山の物をどうやって見付けてきたのか、分からなくなったのだ。

 あの頃の夕映は色々と本を読んでいた癖に、肝心な事は何も知らない子供だったのだろう。

 それを変えたのが、友達だ。

 新しく教えられた事もあった。再発見した事もあった。友達という新たな繋がりは、夕映の世界に鮮やかな色彩を齎してくれたのだ。そしてこれは、傍から見ているだけでは決して手に入らないと、同じ空気に触れるからこそ理解出来るのだと、夕映は思っている。


「ですから長谷川さんも、交ざってみたらどうですか?」

「…………無理だろ。私とアイツらじゃ感覚が違い過ぎる」

「試してみないとわかりませんよ。案外、馴染んでしまうものです。私の経験から言わせて貰えば」


 千雨と自分が同じだとは、夕映は思わない。そして実際に、全く違う考えを持って行動しているはずだ。

 それでもこんな言葉が出てくるのは、やはり何処かで、千雨の言葉に共感を覚えているからだろう。確かに、悪いとは言わない。相手をするのは疲れ、間の抜けた言動が目立つ連中である事も否定しない。

 ただ、教室で見る千雨はいつもつまらなそうにしているのだ。

 それなら、駄目元で輪の中に入ってみるのも良いのではないだろうかと、夕映は思うのだ。


「まぁ、イキナリあの中に入るのは躊躇われるかもしれないですね」


 笑顔を浮かべて、夕映は右手を差し出した。


「ですから、まずは私と友達になってみませんか? 私なら、上手く間に立てると思うですよ。クーリングオフだって承ります」


 精一杯明るく言った夕映の言葉に、千雨は驚いたように目を見開いて。


 そして――――――――。












 ――――後書き――――――――


 第十三話をお送りしました。お読みくださった方、ありがとうございます。

 本当は先週更新するつもりだったのですが、気付けば此処まで遅れてしまいました。済みません。スランプという訳ではないのですが今一文章が上手く書けず、お陰で次回の更新も二、三週間後になりそうです。ご了承ください。

 さて今回の話ですが、一応千雨メインです。これを契機に、今後は彼女の出番も少しずつ増えてくるでしょう。多分。立ち位置としては中々貴重な所に居る子なので、その辺りを上手く活かしてあげたいです。夕映の話にも色々絡めたいですしね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十四話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/05/03 21:29


 長く、細く反響する靴音が耳を震わせ、等間隔に設置された燭台が辺りを照らす。ザラつく石壁に手を突きながら、明日菜は地の底へ続いているようにも思える螺旋階段を降りていく。螺旋の内側には腰の高さほどの手摺りが設置されているが、その向こうに見えるのはどれだけの深さがあるのかも分からない暗闇だ。高い所は平気な明日菜だが、流石に少し怖い。

 明日菜の一メートルほど前には、長い黒髪を揺らす洸が居る。迷いの無い足取りで歩く彼女だが、遅れ気味な明日菜に歩調を合わせてくれているようだった。階段を降り始めて五分。ようやくその事に気付いた明日菜は、自分に喝を入れて足を速めた。


「大丈夫?」

「あ、はい。大分慣れてきましたから、平気です」


 頭だけを後ろに向けた洸に対して明日菜が答えると、彼女は頷いてペースを少し上げた。


「本当は魔法で一気に行っても良かったんだけどね。一応、場所と道を覚えておいて貰おうと思って」


 その言葉を聞いて、明日菜は背後を振り返る。石造りの螺旋階段が、先の見えない暗闇に向かって上方へと渦巻いている。終着点は、とある教会の敷地内だ。こんな事でもなければ生涯訪れる機会が無かったであろうその場所に、この隠し通路への入口がある。


「まぁ、見習いが本部に来る用事なんて、年に何度もある訳じゃないんだけどね。だから、今回はちょっと特別かな」


 明日菜が前を向けば、苦笑する洸の横顔が見えた。


「仮契約、でしたよね?」

「そう、仮契約。正式にやる場合は、少し準備が大変なんだ。施術師の問題もあるしね。といっても、あんまり身構えなくても良いよ。ウチでは見習い同士で仮契約させる事も結構あるから…………まぁ、確かに普通は親しい間柄に限るんだけどね」


 何が可笑しいのか、口元に手を当てて、洸が小さく笑い声を上げる。その意味が分からなくて疑問符を浮かべる明日菜に対し、彼女は細めたツリ目に悪戯っぽそうな光を宿すと、軽い調子の声音で言葉を継いだ。


「実は明日菜ちゃんの事が少し嫌いだったんだよね、私」

「そうなんで…………って、えぇッ!?」


 驚きの声を上げる明日菜を見て、洸は益々笑い声を大きくした。


「だって、それまで姉様姉様言ってた木乃香が、貴女と一緒に住み始めた途端に新しい友達が~、とか明日菜が~、とか言うんだもの。流石に嫉妬しちゃうよ。木乃香がコッチに来てから一年経ってない頃だったから、余計にね」

「あ、そういう……」


 刺々しい内容ではなかった洸の話とその声色に、明日菜は脱力したように息を漏らす。それから、彼女は小さく頬を膨らせた。


「もう、ビックリしたじゃないですか」

「ゴメンゴメン。けど、距離を取ってたのは確かだよ」

「あぁ…………そういえば」


 洸と木乃香は仲が良いと、明日菜はよく知っている。しかし、彼女がそう判断している根拠は殆どが伝聞であり、木乃香が洸について話す時の態度であった。実際に二人が会っている場面を、明日菜はあまり見た覚えが無いのである。それほど気にした事は無かったが、言われてみれば、確かに不自然な部分があったかもしれない。


「だから、こうして仮契約する事になって、なんだか不思議な感じがしてさ」

「かもしれませんねー。私も最近は驚きの連続ですけど、今回のは一番かも」


 意外と綺麗な石壁に声を反響させながら、明日菜は可笑しそうに頬を緩めた。

 全ての始まりは、ネギが麻帆良にやってきた事だろう。唐突に現れた小さな担任の先生は、何故か新たな同居人であり、魔法使いでもあったのだ。ネギには本当に驚かされたし、また彼を通して、今まで気付かなかった周りの秘密も知った。今日の事にしてもそう。まだ玄関の敷居を跨いだ程度の事かもしれないが、明日菜は確かに未知の世界への一歩を踏み出したのだ。

 だが、同時に。こうして魔法との関わりを深めると、いつも胸に引っ掛かりを覚えてしまう。


「……あの、ちょっと質問しても良いですか?」

「ん? 何かな?」


 律儀に明日菜の方を振り返りながらも、洸は危なげ無い足取りで階段を下りていく。その黒い瞳を見詰めていた明日菜は、知らず喉を鳴らしていた。彼女自身よく理解出来ていないが、何故だか壁についた手が震えてくる。

 学園長の孫娘であり、魔法関係者でもある洸なら、自らが抱く疑問に答えてくれるかもしれない。そう、思っただけなのに。


「――――――ッ。その……私の両親って、魔法使いだったりするんですか?」


 微かに揺れ動いた、黒の双眸。刹那の内に消え去った動揺が、答えなのだろう。

 安堵なのか、諦観なのか、明日菜の全身の強張りが解け、肩が落とされる。それを見て洸も状況に気付いたようで、彼女は気まずそうに頬を掻いてから、仕方無いといった様子で口を開いた。


「そうだよ。貴女の両親は魔法使いで、今はもう亡くなってる。だから色々と縁故のあった高畑先生が、学園長を頼ってこの麻帆良まで貴女を連れてきた。七年前にね。そこから後の事は知っての通り、魔法については教えないまま育ててきた。記憶を無くしてたしね」


 話している洸が何処か辛そうに見えたのは、明日菜の気のせいだろうか。既に前を向いてしまった彼女の表情を知る事は出来ないが、何故か明日菜の脳裡からはそのイメージが離れなかった。こちらを労わるような、それでいて自虐するような、濡れた瞳のイメージが。

 だからか、明日菜は自然と彼女に話し掛けていた。


「……たしかに私には両親が居ませんし、小さい頃の記憶もありませんけど、だからといって不幸だと思った事は無いですよ。たくさん友達が居ますし、その、高畑先生やおじいちゃんも優しくしてくれましたから」

「あぁ、いや。そういう…………ううん、なんでもない。そうだね、別に気にするような事じゃなかった」


 なんだか釈然としない、洸の態度だった。


「先輩も、御両親が居ないんですよね?」

「そうだよ。まぁ、私も特に気にした事は無いんだけどね。両親の事は」

「そうなんですか?」


 意外な返答だ。木乃香や近右衛門などの例から、洸は家族を大切にする人なのだと、明日菜は思っている。そんな彼女が発した言葉にしては、先の返答は少しばかり軽過ぎる気がしたのだ。


「父親は私が生まれる数ヶ月前に、母親は生まれた数日後に、それぞれ亡くなってるからね。両親の思い出なんて一つも無いし、写真を見せられても、正直ピンとこないしさ。生んでくれた事には感謝してるけど、やっぱり、私にとっては遠い人達かな」


 最後にチラリと明日菜の方を振り向いて、洸は苦笑した。そこに滲むのはおそらく、親に対する申し訳無さと、明日菜に求める同意。つまりは自分と似たような心持ちであるという事なのだろうかと、明日菜は受け取った。


「木乃香達が近くに居ましたしね」

「そーゆー事。まったくもって、酷い娘だけどね」

「まったくもって、ヒドイ娘ですね」


 そう明日菜が返すと、洸が彼女の顔を見返し、そして、互いに苦笑する。仕方無いなと。


「そういえば、御両親のお話って聞きたい?」

「いえ、遠慮しときます。聞いても、反応に困るだけですし」

「それは良かった。実は私が話せる事って、あんまり無くてね」


 まぁ、当然と言えば当然の事だろう。いくら木乃香の親友とはいえ、直接関係の無い自分の過去を詳しく知ろうとする意味など無い。そう考えて、明日菜は恥ずかしそうに黒髪を梳いている洸を見遣る。

 なんだかんだでこの人とは上手くやれそうだと、明日菜はこれからの事を思って笑みを浮かべた。












 ――――第十四話――――――――












「けど、驚いたなぁ。イキナリ誘いに来るんだもん」

「ゴメンゴメン。本当は今夜連絡を入れて明日するつもりだったんだけど、急に予定が空いちゃってね」


 学生寮や学生マンションが乱立する区画からは少し離れた、閑静な住宅街。生徒達の家族を含む、都市部や商店街で働く人達の家々が建ち並ぶその場所を、ネギとタカミチが並んで歩いている。目的はタカミチが言う所の広域指導であり、長期休暇中だからと言って羽目を外した生徒達が馬鹿な事をしていないかどうか、こうして見回っている訳だ。

 本来関係無いネギまで一緒に居るのは、以前から洸に頼まれていた件に他ならない。ネギにもう少し積極的に魔法を使うよう誘導してほしいという、あの一風変わった願いである。


「そういえば、具体的にはどんな事をするの?」


 期待するような視線で見上げてくるネギに、タカミチは苦笑を返す。


「多分、今日はこの辺りを見て回るだけで終わるんじゃないかなぁ。まぁ、ちょっとした注意くらいはするかもしれないけどね。それにネギ君に麻帆良を案内する目的もあるから、むしろそっちがメインかもしれないね」

「そっかぁ。折角タカミチと仕事出来ると思ったんだけどなー」

「ハハハ。ありがとう。けど、こういった仕事は少ない方が良いんだよ。普段の仕事がちゃんと出来てるって事だからね」

「あ、そっか。そうだよね。やっぱり、さっき言ったのはナシで!」


 慌てた様子で、ネギが両手を振る。その様子が微笑ましくて、タカミチは眉尻を下げる。

 こういった姿を見ていると、やはりネギはまだまだ子供なのだと実感させられる。期末試験結果や明日菜から話を聞くに、順調に教師をやっているみたいだけれど、それでも知らない事や気付かない事は沢山ある。その全てに応えられるほど、タカミチはよく出来た大人ではないが、最も身近に居る先輩として出来る限りの手助けはしてあげたい。

 歩きながら、タカミチはグルリと辺りを見回した。

 赤や青、灰色といったように屋根の色が違えば、それを被っている建物の形も種々様々な家々が立ち並んでいる。この中には学園生の実家も混じっているし、まだ幼稚園などに通っているような子供が居る家もある。此処に来るまでにも、そういった人達が家族で並んで歩いている光景を何度か見ている。

 最初にこの地域を選んだのは、それらを見るのが目的だった。父も母もおらず、日本に来てからは祖父や従姉弟とも離れて暮らす事になったネギが、家族というものに対しどれだけ敏感なのかを知りたかったのだ。

 結果は――――――良好と言っていいのかどうか判断に困るが、ネギに可笑しな様子は見られなかった。少しくらいは思う所があるのかもしれないが、おそらく気にしなくても良いレベルだろう。


「あっ! 斎木さんも森本さんも! ちゃんと車が来てないか確認しなさーいッ!!」


 信号が無い横断歩道を自転車で渡る二人の少女に向かって、ネギが両手を振り上げて注意する。彼女らの顔には、タカミチも見覚えがあった。以前はタカミチが英語を教えていたクラスの子で、今はネギが担当しているはずだ。


「すっかり教師姿が板に付いてきたみたいだね。安心したよ」

「そんな事無いよ。まだまだ覚えなくちゃいけない事は沢山あるし、生徒のみんなとは仲良くなれたけど……」

「威厳は無い、か」


 少しだけ神妙な顔をして、ネギは首肯する。その視線の先で、先程の二人が楽しそうに黄色い声を上げて走り去っていく。ネギの声は届いていたようだが、特に気に掛けた様子は無く、返答も悪気の無さそうな明るいものだった。悪い事だとは分かっているけれど、このくらいは気にしなくてもいいだろうという、普通と言えば普通の態度だ。だから、彼女達が特別素行不良という訳ではない。

 もっとも、これで注意したのがタカミチだったなら、二人も少しは態度を改めただろう。そしてそれが分かっているからこそ、ネギも思う所があるのかもしれない。教師としてのネギは、こういった部分では確かに未熟なのだから。


「だからさ」

「うん?」

「僕、頑張るよ。タカミチにも負けないようにね」


 タカミチを見上げて、ネギが純粋な笑顔を浮かべる。

 一瞬の空白の後、タカミチは同じく邪気の無い笑みを返した。


「期待してるよ。大丈夫、君ならきっと上手くやれるさ」

「うん!」


 大きく、力強いネギの声が、雲一つ無い青空の下を駆け抜けていった。








 ◆








 仮契約の儀式は、明日菜が考えていたほど窮屈な物ではなかった。本当にただ立っているだけで良かったし、時間も長くは掛からず、これなら学校でやる終了式などの方が大変かもしれないと思えたほどだ。


(まぁ、なんか妙にむず痒いような感覚はしたけど)


 洸によれば、契約の為に彼女の魔力が流れ込んだ所為らしい。ついでに言うと、今後も魔力供給中は似たような状態になるとか。慣れたら問題は無いらしいが、暫くあの感覚と付き合うのかと思うと、なんとも妙な気分である。不快ではない分、余計に。

 その洸はと言えば、仮契約終了と共に部屋の隅へと移動している。どうやら儀式を執り行ってくれた魔法使いと何か話をしているようで、僅かに話し声が漏れ聞こえてくる。内容は専門用語が多くて理解出来ないが、必要があれば後で洸が教えてくれるだろう。


(にしてもコレは、雰囲気があるのかないのか……)


 明日菜は首を巡らせて、辺りを見渡した。

 ほぼ立方体に近い形をした、打ちっ放しの広い部屋だ。床に大きく魔法陣が描かれている事を除けば、他には特に何も無い、殺風景な場所である。こういった小規模な儀式をする為に用意された部屋であるらしく、行う内容に合わせて色々と内装を変えるから何も置いていないらしい。他にも壁の強度や魔力の流れなどにも気を遣っているという話だが、正直、明日菜にはよく分からない。

 そんな風にボンヤリと視線を彷徨わせていたら、話を終えたらしい洸がコチラに歩いてきていた。


「お話は終わったんですか?」

「うん。ほったらかしにしてゴメンね。仮契約は私も初めてだから、色々と聞いておきたくてさ」

「気にしなくて良いですよ。別に困ったりしてた訳じゃないですし」


 部屋の雰囲気の所為か、不思議と待った気はしなかった。


「ありがと。あと、ハイどうぞ」

「え? あ、はい」


 洸が差し出してきた物を、明日菜は反射的に受け取ってしまう。

 それは一枚のカードだった。縦十センチ、横五センチほどのサイズで、中央には明日菜だとハッキリ分かる絵が大きく描かれている。絵の中の明日菜は背中を見せるようにしながら顔をコチラに向けていて、左手には身の丈を超えるほど大きく、非常に頑丈そうな片刃の剣が握られており、右肩から左脇腹に向けてベルトのような物が掛けられている。左頬には絆創膏、左腕と左腿には包帯だ。なまじ学園の制服を着ているだけに、笑顔を浮かべるその姿には違和感があった。


「あの、コレは……?」


 一体なんなのか。そう洸に尋ねれば、彼女は全く同じカードを取り出した。


「コレは『仮契約カード』と言って、仮契約を交わした証なんだ。ちなみにソッチはコピーで、コッチがオリジナル。特に変わりは無いけどね。色々と機能があるから、その辺は後でちゃんと説明するね」

「…………わかりました」


 応えると洸は一つ頷いてからカードを仕舞い、今度は右手を差し出してきた。一瞬その意味が分からなくて、明日菜は問い掛けるように彼女の顔を見上げてしまう。すると洸は柔らかく笑い、楽しげな声音で答えてくれた。


「握手。これでもう歴としたパートナーになった訳でしょ? だから、よろしくね。明日菜」


 洸の言葉を聞いて、理解して、明日菜は同じく笑みを形作ると、


「はい! よろしくお願いしますね、洸さん」


 洸の手をシッカリと握る。互いの存在を確かめるような、力強い握手だった。




 □




「それじゃ、いくよ」

「はい。お願いします」


 青空の下に広がる草原を、涼やかに駆け抜けた洸の声。彼女の前に立ってそれを聞くのは、両手をダラリと下げて自然体で居る明日菜だ。彼女は緊張した面持ちで睫を震わせながら、仮契約カードを手にする洸を見詰めている。

 魔力供給。それが、これから行われようとしている魔法だ。文字通り、契約主である洸が従者である明日菜へと自らの魔力を供給し、身体強化を施すという魔法である。契約した者同士でしか行えないコレが、明日菜の魔法訓練の第一歩だった。


「”契約執行・300秒間! 洸の従者『神楽坂 明日菜』!!”」


 言い終わると同時に仮契約カードが燐光を発し、洸の体から魔力が抜けていく。ヒャッと明日菜が擽ったそうに声を上げ、身を竦ませた。洸の魔力が、彼女へ供給され始めたのだ。全身を他者の魔力に包まれる感覚に、慣れない身が驚いたのだろう。

 それにしても、と洸は思う。話には聞いていたし、実際に何度か目にしてきたが、この従者契約というのはよく出来ている。この魔力供給一つ取ってみてもそうだ。キーワードを発するだけで仮契約カードが勝手に魔法を構築してくれ、その効果は非常に安定している。これ以外にも主人はカードを通して念話や、従者の召喚が出来るし、従者側ではアーティファクトの召喚が出来る。仮契約の儀式の難度を考えれば、これほど手軽かつ有効に誰かを強化できる魔法は他に無い。


「ひゃ~。やっぱり変な感じ」


 軽く肩を回したりしながら、明日菜が呟いた。


「それに、妙に体が軽い。これが魔法の力ですか?」

「そう、身体強化。今なら岩でも砕けるよ」

「うわっ。マジですか?」

「マジなんだよね、コレが」


 少し困ったように洸が答えれば、明日菜は自らの両手を信じられないといった様子で見詰め始めた。グーパーと、何度か手の平を開閉するが、それでも納得出来ないのか、彼女は首を傾げるばかりだ。次いで明日菜は周囲を見回したが、目に入ったのは辺りに広がる草原と、離れた所にある森の木々だけだろう。

 仕方無い、と。洸は左手を軽く振ってみせる。


「ひゃッ!」


 燐光を伴ってイキナリ眼前に現れた岩に、明日菜が驚きの声を上げる。

 そんな、未だ非常識に慣れない様子の彼女に、洸は微笑ましさを感じた。


「物は試しってね。とりあえず、今の自分の力を確認してみようか」

「え? あっ、はい!」


 高さ八十センチほどの岩を見据え、明日菜が深呼吸する。岩を砕けるという事に半信半疑なのか、その顔には若干の迷いが見えたが、視線で洸が促せば、彼女は一つ頷いてから構えを取った。足を開いて前方に左肩を向け、右腕を引く。素人がイメージする格闘技の構えそのものといった様子で、形だけを真似たソレは重心から何から、まるでなっていない。

 しかし洸は、そんな明日菜に対して素人という事だけではない違和感を覚えた。


(…………高畑先生?)


 数瞬だけ悩んだ後に出た答えだ。明日菜の構えは、何処となくタカミチを彷彿とさせる。彼が最も得意とするソレではないが、確かにタカミチが扱う格闘術の構えを形だけ真似たもののように、洸は感じた。

 そうして洸が考えている間に明日菜は覚悟を決めたのか、深く息を吸い込み、握る拳に力を籠める。

 間は、刹那にも等しい僅かな時間だけ。彼女はすぐさま呼気を吐き、地を踏みしめ、腰の回転を肩へと伝えて腕を振り抜いた。


「ハァッ!」


 洸が驚いたのは予想よりも様になっていた拳打ではなく、見事に砕け散った岩の事でもなく、迷い無く拳を振り下ろした明日菜の気概だった。普通、ゴツゴツとした硬い岩を本気で殴れば、痛いでは済まない。下手をすれば、拳の方が砕かれかねないほどだ。それを経験として知らずとも、容易く想像する事は明日菜にも出来ただろう。そしてそうであれば、普通は殴る動作に恐れが混じるものだ。

 だが、先程の明日菜にはそれが無かった。いっそ爽快と言えるほどに潔く、彼女は腕を振り抜いたのである。


「――――ったぁ~。流石にちょっと…………あ、でもスゴイ。ホントに壊れた」


 赤みを帯びた右手をプラプラと振りながら、明日菜は足元に散らばった破片と半分ほど残った岩の残骸を見て、純粋な驚きを表した。そんな彼女の様子に目を細めた洸は、首を振ってから明日菜へ近付いていく。


「鍛えれば、こんなの子供騙しなんだけどね。まぁ、これで今の力は分かったでしょ? 無闇に人に向けちゃダメだからね」

「は~い。分かりました」


 流石に非現実的過ぎたのか、岩の手応えが無さ過ぎたのか、明日菜は少々誠実さに欠ける返事で応えた。そんな彼女に仕方無いという風に苦笑を浮かべた洸は、その裏でどのように明日菜に魔法使いとしての意識を教育していくかの算段を立てていく。急ぐ必要は無いのだろうが、着実に進めなければならない箇所でもある。でなければ、いざという時に明日菜が困る。


「それじゃ、ちょっと右手出してくれるかな?」

「あ、はい」


 言われるままに右腕を上げる明日菜を可愛らしく感じつつ、洸は差し出された手を両手で優しく包み込んだ。


「エ、エッ!?」

「慌てないの……ほら、これで元通り」


 驚き慌てる明日菜に言い聞かせ、洸はソッと手を離す。その下から現れたのは、赤みの引いた、明日菜の白い右手だ。目を瞠る明日菜は口を開け、そこから言葉にならない声を漏らした。


「わぁ……」

「よかった。”ちゃんと効いた”みたいだね」

「え?」

「治癒魔法。初級だけど、久し振りに使ったからさ」


 笑顔で洸が話すと、明日菜は得心がいったと頷き、確かめるように右手の甲を擦る。それを何度か繰り返した後、彼女はハァと感嘆の息を吐き出した。空と紺のオッドアイに宿るのは、純粋な感動の色だ。


「もう全然痛くない……やっぱり、魔法って凄いんですね」

「人によって出来る事はピンキリだけどね。実力のある人は本当に凄いよ」

「へぇー。そうなんですか」


 相槌を打つ明日菜は、そこでふと何かを思い出したように首を傾げた。


「そういえば魔法使いって不幸な人の為に~、とかネギが言ってましたけど、実際にはどんな感じなんですか?」

「ん? ……あぁ。別にそれは構わないんだけど、一つ一つ話していくとキリが無いから、何かリクエストはある?」

「あ、それじゃあウチの学園とかその辺りの事でお願いします」

「オッケー。麻帆良関係ね」


 即座に答えた明日菜の言葉に、洸はクスリと笑う。

 何処か熱を帯びた明日菜の瞳が、誰を気にしているのか教えてくれたからだ。


「さっき言ったように、私達は『関東魔法協会』という組織としてこの地に本拠を構えてる。で、高畑先生みたいに表向きは教師として働きながらも、その裏では魔法使いの仕事をこなす魔法先生達が居るんだ。彼らの仕事は此処の治安維持とか、基本的に麻帆良の土地で出来る事ばかりだね。教師の仕事は融通を利かせ辛いから。頻繁に外部の仕事を受ける人と言ったら、それこそ高畑先生ぐらいかな」

「それで出張とかが多かったんですか?」

「うん。最近は控えてるみたいだけど、個人として外部からの仕事も引き受けてたからね。かなり忙しい人だったんだよ」


 元々麻帆良の構成員になるつもりがあった訳ではなく、明日菜の件でならざるを得なくなったタカミチには、やはり外での仕事の方が性にあっていたのかもしれない。麻帆良での仕事が多いから魔法先生を選んだと聞いたが、それは明日菜の事があったからだろう。彼女の周囲が安定すると、彼は徐々に外部での仕事を増やしていった。多くの地を渡り歩いた彼だ、色々思う所があるのかもしれない。


「魔法先生以外なら警備員とか多いね。あと、一見普通の会社に思えても、魔法関係の所とかがあるよ。そういったトコの支社が各地で活動する構成員の拠点になったりするしね。この手の人達が麻帆良の外――――――正確には東日本全域で発生した仕事を片付ける為、日夜飛び回ってるわけ。仕事の多くは幽霊や妖怪退治かな。あとは、そういったモノが生まれ難くする為に土地を整えたりね」


 そこまで話して、洸は一旦口を閉じる。明日菜の理解が追い付いていない事に気付いたからだ。眉を顰めた彼女は、唸りながら俯き、考え込むようにコメカミに指を当てた。

 時間にして一分ほどだったろうか。涼やかな春風が吹き抜ける中、魔力供給の制限時間が訪れたのを洸が感じるのと、情報を整理した明日菜が顔を上げるのは、殆ど同時だった。


「えっと、はい。多分大丈夫です」

「ん。それじゃあ続けるけど、他の仕事としては、魔法を悪用する組織への対応とかもあるかな。普通の魔法組織との渉外もね。この手の任務の場合は、通常の役職に関係無く、最も適任と思われる人が選ばれるようになってる。まぁ、分かり易い所だとこんなものかな。他にも魔法生徒の指導とか色々あるけど、この辺は細かくなるから止めとこうか」

「はい。わかりました」


 素直に頷く明日菜に、洸は機嫌良さそうに目を細める。

 思っていたよりも、この状況は楽しいかもしれない。こう、年下の子に何か物を教えるというのは、なんとも言えない充足感があって良いのだ。相手が素直なら尚良し。夕映みたいに熱心なら更に良し。だから洸の本心としてはもう少し話に熱中していたかったのだが、今日の本題はそれではないので諦めるしかない。流石に、此処から先は集中してやって貰う必要があるのだ。


「それじゃ、魔力供給が切れちゃったから掛け直すよ?」

「え? あっ、ホントだ」

「今ので感覚に慣れたから、次は色々とやってくね」

「お願いします」


 明日菜の言葉に応えるように、洸は再びキーワードを唱え始めた。


「契約執行――――――」




 □




 魔法を覚える上で重要なのは、当然の事ながら魔力を感知出来るようになる事だ。魔法を発現する上で、自分達は一体何を用いているのか。そしてソレを、どのように使っているのか。この部分を把握出来ていなければ、魔法の習得というのは、それこそ雲を掴むような思いで覚えなければならない。

 確かに普通であれば、一般人が魔法使いになるというのはそういう事だ。否、魔法使いの子供であっても、最初は似たようなものだ。感覚的に理解し辛い部分を他人の話や知識で補強し、只管に詠唱を繰り返す事で何時か魔法が発現する事を願う。そして偶然の産物にも似た魔法の使用から、今度は魔力を感じ取れるよう努力していく。ある種、馬鹿らしいとしか思えない方法で覚えるのだ。

 そこで洸は今回、魔力供給を利用する事で、まずは明日菜に魔力を感知出来るようになって貰おうと考えた。

 魔力供給を五分間行い、その間ずっと、供給する魔力量に大小の変化を与え続ける。そうする事で、明日菜の魔力を感じる器官を刺激するのだ。また彼女が魔力供給をこそばゆく感じるのは、慣れない他人の魔力に体が驚いているからに他ならず、洸の魔力を受けているという分かり易い指標である。この点を明日菜が理解する事で、より効率良く訓練は進められた。

 そうして訓練開始から、もうすぐ三時間が経とうとしていた。


「…………少し、抑えましたね」


 明日菜の言葉に、洸が笑顔で首肯する。

 本日の成果は上々。まだ明日菜本人の魔力はイマイチだが、洸の魔力であれば、彼女は供給されなくてもある程度は感じ取れるようになっていた。例えば十メートル離れた位置にある壁の向こうに洸が隠れていたとしても、今の明日菜ならその存在に気付けるはずだ。

 始めた頃は殆ど真上にあった太陽は山々に近付き、気温も徐々に下がり始めている。五分休憩を交互に挿んではいたとはいえ、やはり五分間集中し続けるというのは精神的な負担があったのか、明日菜の表情には疲れが見えていた。

 切り上げるべきだろう。そう考え、洸は口を開いた。


「それじゃ、日が暮れない内に帰ろうか。成果は十分出たしね。お疲れ様」

「は~い。お疲れ様でした~」


 途端、明日菜は顔から力を抜いて肩を落とした。やはり、結構な疲れが溜まっていたのだろう。


「明日は『かくれんぼ』をしてみるのも良いかもね。他にも色々体を動かしたりしてさ」


 今日は休憩中の雑談で飽きさせなかったが、明日は運動の方向で集中力を持たせる。魔法の一つでも使えるようになれば、その成果に楽しさを感じたりや興味を惹かれるかもしれないが、目に見える進歩が望めない現状では、あの手この手で頑張らせるしかない。

 こういった事を考えるのは、普通に勉強を見る事以上に大変だ。明日菜が魔法習得に感じる必要性や意欲などを図りかねている事も、その一因だろう。或いは、彼女に対して洸が気負い過ぎている面もあるかもしれない。

 ただ、嫌な気はしなくて、面倒だとも感じていなくて、


「――――ふふっ」

「? どうかしました?」

「いや、なんでも無いよ」


 頑張ってみようかという想いだけが、洸の心に浮かんでいた。








 ◆








 照り付ける陽光を反射する、ライムグリーンの長い髪。同色の、それでいて純真さを感じさせる澄んだ瞳。整った面立ちには普段通り然したる感情が浮かんだ様子は無く、成人男性と比べてもなんら劣る所の無い高い身の丈を持つ彼女は、相変わらずネギに冷涼な印象を抱かせる。真面目で寡黙な人物である彼女――――――絡繰 茶々丸は、春休み中の今も、その姿勢を些かも変えていないようだった。

 否、プライベートな時間での茶々丸は、ある意味ではネギの抱いていた彼女への印象を打ち砕いたのかもしれない。


「あれは…………絡繰さん?」

「ん? あぁ、そうみたいだね」


 それは夕暮れ時が近付き、ネギとタカミチの二人は、そろそろ引き上げようかと話をしていた頃の事だった。特に大きな事件があった訳ではないが、新たな麻帆良の土地を歩けた事や、実家に戻った生徒の姿を見られた事は、ネギにとって十分な価値があったと言える。そうして今日の事を振り返ったりして何気無い雑談を交わしていた時に、ネギが茶々丸を見付けたのだ。

 ネギ達の前方、五十メートルほど離れた位置に、彼女は居た。

 腰の曲がった老女を背負い、歩道橋を渡り始めた茶々丸。階段を上っていく彼女の周りには、幼稚園ぐらいの子供が二人、じゃれつくようにして従っている。キャッキャと楽しそうに笑い声を上げる子供達の様子は、離れていてもよく分かった。

 伝わってくる温かな雰囲気に、ネギは自然と頬を緩めてしまう。


「エライですね、絡繰さん」

「うん。彼女はとても良い子だからね」


 真面目な生徒だとは知っていた。決して成績は良くないが、キチンとノートを取り、注意を逸らす事無く自分の話に耳を傾ける茶々丸の姿を、ネギは好意的な感情と共によく覚えている。けれどもそれは授業の中に限定された茶々丸の一面でしかなく、他にネギが知っている事と言えば、彼女がエヴァンジェリンと仲良しだという事くらいだ。

 そんな訳で、自分が担任を務める生徒の新たな一面を知る事が出来たネギは、やはり今日は有意義だったと、一層笑みを深めていく。そうこうしている内に茶々丸は歩道橋を渡り終えたらしく、彼女の背から老女が降ろされる。丁度ネギ達が歩道橋に辿り着こうかというタイミングだったが、生憎と道路を一つ挟んでいた為、声を掛けようとは思わなかった。


「――――――あっ」


 しかし茶々丸一行の様子を眺めていたネギは、不意に声を漏らす。それは彼女に対して頭を下げ、礼を言う老女を見る茶々丸の表情に気付いたからに他ならない。刹那の内に消え去ったそれは、けれどネギの心に留まり続けた。

 唇の端が、僅かばかりに釣り上がる程度の変化。一見すれば無愛想とも取れる様子だったが、ネギは言い様の無い温かさみたいなものを、茶々丸に対して感じたのだ。それは老女も同じなのか、優しげな視線を茶々丸に送ってから、彼女はゆっくりと立ち去っていった。


「…………」


 衝撃的だったと、確かに、そう言えるかもしれない。今まであまり接点を持たなかった生徒が見せてくれた新たな一面は、ネギの心に波紋を生み出していた。だからか、子供にじゃれつかれながら歩き去っていく茶々丸の姿を、ネギは知らず足を止めて見送っていた。


「ネギ君?」

「あ、いや。なんでも無いよ」


 訝しむタカミチに返事をして、ネギは再び歩き始める。その足取りは普段通りだったが、やはり心の方は浮付いていた。形にならない何か。一滴の絵具を垂らされたような、表現し難いモヤモヤが胸の奥にわだかまっている。ネギ自身よく理解出来ないそれは、どうにも無視出来ないほどに強烈な存在感を放っていた。

 我知らず、下を向き。眉根が寄っていく。隣のタカミチが心配そうにしている事も、今のネギには気付けなかった。

 その時だ。二人の間を、一つの風船が抜けていったのは。風に乗り、陽光を艶やかに照り返す赤い風船。背後から唐突に表れた闖入者を、彼らは自然と目で追ってしまう。だがそれも一瞬の事で、示し合わせたように同じタイミングで、ネギ達は後ろを振り向いた。

 小さな子供が、必死な様子で走っている。今にも涙を目に浮かべそうなその子が二人を、延いては彼らの向こうにある風船を見ている事は明白だ。二人は急いで前方へ視線を戻すが、既に風船は遠く、高い位置へと運ばれていた。


「あぁ……」


 困ったようなタカミチの声が、ネギの耳朶を打つ。背後からは、焦った様子の足元も聞こえてくる。

 それらに突き動かされるようにして、ネギは動いていた。携帯していた銀色の杖を取り出し、ブラウンの瞳で空へと昇っていく風船を見据える。明らかに地上へ戻ってくるつもりの無いそれを見ながら、ネギは小さく唇を動かした。


 ――――――――風よ。


 口の中で消えて行った呟きは、けれど確かに世界に影響を齎した。

 風向きが、変わる。ネギ達に向かい、地面に吹き降ろす風は、そのまま風船を元来た道へと引き返させる。前髪を揺らす、少し強めの向かい風は、急ぎ過ぎない程度に風船を連れてくる。そうして最後に、二人を追い越していった子供が跳ねるようにして風船を掴み取ると、ピタリと風は止んでしまう。自分の役目は、これで終わったとでも言うかのように。


「ネギ君……」


 驚きを交えたタカミチの声で、ネギはハッと我に返る。

 彼自身、意識しない内での魔法の行使だった。やらなければいけないとか、やるべきだとか、そんな事を考える暇も無く、自然と体が突き動かされていた。自分でも、よく理解出来ない。魔法を使うのは、控えなくてはならないのに。

 気まずそうに、ネギは隣のタカミチを見上げた。


「やっぱり、不味かったかな?」


 タカミチは問い掛けに目を見張った後、


「いいや。そんな事は無いよ。気付いた人も居ない。よくやったね、ネギ君」


 笑顔でそう返した。なんら含む所の無い、本当に喜ばしそうな笑顔で。

 と、同時に。二人の横を通って、先程の子供が元来た方へと駆けていく。コチラもまた、嬉しそうに笑っていた。

 それらを見て、感じて。温かさがジンワリと胸の奥から広がる事に、ネギは気付く。そうして彼が浮かべたのもまた、笑顔だった。












 ――――後書き――――――――


 遅れましたが、第十四話です。読んでくださった方、ありがとうございます。

 今回は魔法関係における、明日菜とネギの第一歩といった感じでしょうか。知識だけではなく魔法関係へと足を踏み入れた明日菜に、少しだけ魔法使用の抵抗感が減ったネギ。春休み中に進めておきたい部分だったので、書き終わってホッとしています。明日菜もネギも吸血鬼事件までには幾らか能力アップを図る予定ですが、この辺りは新学期以降かもしれません。まぁ、身体強化程度ですが。

 そういえばカモが居たな、と最近になって気付きました。意外と扱いが難しいキャラなんですよね。本作ではネギの傍に居るとすぐに見付けられるので、そうそう不穏当な事は出来ませんし。特に木乃香はノータッチ。色々な意味で料理されかねないので。まぁ立ち位置は良いキャラですし、上手く役所を与えてあげたい所です。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 閑話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/05/24 21:08


 春の日差しを受けて艶やかに煌めく黒髪は互いに癖の無いストレートで、長さも同じくらい。ただ、髪の整え方だけは異なっており、毛先を綺麗に揃えている木乃香に対し、洸はやや不揃いにしている。顔の造りもそれほど違いは無くて、柔和な曲線を描く頬に、桜色の瑞々しい唇。真っ直ぐ通った鼻筋も、綺麗に締まった小鼻も、そっくりそのままだ。唯一、長い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳だけは互いの個性を主張している。木乃香は温かに丸く垂れ目がちで、洸は涼やかに鋭く吊り眼がちだ。

 よく似た姉妹だと言われるのは日常茶飯事で、仲が良いと評される機会はそれ以上。双方共に自分の知り合いへと互いの事を話すものだから、各々が認知していない部分で名前が広まっていたりする。それが、近衛 木乃香と近衛 洸の二人だった。勿論、木乃香と洸にとってこのような関係への否やは無い。寧ろ大歓迎だ。

 そんな自他共に認めるほど親密な二人だが、この頃は微妙な擦れ違いが多く、纏まった時間を取って会う機会に恵まれていなかった。十八日の木乃香の誕生日にしてもそうだ。折悪く期末試験二日目に当たったという事で、プレゼントの受け渡しと洸が夕食を振る舞っただけで、後は普通の勉強会だった。普段であれば日頃の勉強を理由に誕生日を祝う所だが、今回はネギの件があって諦めたのだ。

 だからこそ今日は明日菜の誘いも断って、木乃香は洸と会う事を優先したのである。


「せやからな、おじいちゃんがウチにお見合いせーへんかって……」

「も~、あの人はまた。大丈夫だよ、木乃香。私がちゃんと言い聞かせておくから」

「わぁっ! ありがとな、姉様!!」


 日々気温が上り坂を進み続ける中でも今日は特に温かく、二人は開放感溢れるテラス席に座っていた。清潔感を湛えた白のテーブルを間に挟んだ彼女らの前には、それぞれ一つずつ、美味しそうなパフェが置かれている。そして、口にしたパフェの甘さをそのまま表情に反映させたかの如く、木乃香達の頬は緩んでいた。特に洸の様子は顕著で、正しく満面の笑みと評しても相違無いだろう。


「全然構わないよ。木乃香の為だもの」


 砂糖菓子のような笑顔を浮かべて、洸は優しく木乃香に語り掛ける。

 木乃香にも、甘やかされている自覚はある。目の前に座っている従姉妹は、彼女が麻帆良に来た当初から、ずっと世話を焼いてくれている。明日菜が転入してきて同じ寮部屋に入るまでの、特別に洸と同居させて貰っていた時期などは、その最たるものだろう。麻帆良の街並みや家事全般、学校の勉強など、様々な事を洸が付きっ切りで教えてくれていた頃だ。

 生憎、明日菜と一緒に住み始めてからは会う機会が減じてしまったが、それでも当時の洸は過保護なほどに木乃香を気に掛けてくれていた。あの頃の洸と同じ中学生になったからこそ気付けた事だが、彼女は部活や友人よりも木乃香の事を優先していたとしか思えない。それくらい、かつての洸は木乃香の傍に居たのだ。


「けど木乃香の好きな人っていうのは、ちょっと興味あるかな。誰か気になる子は居ないの?」

「姉様まで~。女子校やのに、そんな好きな人やなんて……」

「探検部の方とかでも?」


 洸の問い掛けに、木乃香はコクリと頷いた。


「そっか、居ないのかぁ」

「もうっ」


 残念そうに呟く洸に、木乃香はプクリと頬を膨らせて拗ねてみせる。

 別に、そういった事が気にならない訳ではない。好みのタイプを尋ねられれば、こうだとすぐに返す事だって出来る。理想の男の子とデートをしてみたいという願望だって、無いとは言わない。ただ本当に、機会に恵まれていないだけだ。

 授業などでは勿論、占い研究会や図書館探検部などでも男の子を好きになるどころか、碌に話す事さえない。確かに好みに合う異性が目に付く所に居ないという理由もあるのだが、せめてもう少し身近に誰か居れば、幾らか話も変わっただろう。ネギは幼いので除外だ。


「ゴメンゴメン。怒った?」

「そうやないけど…………ウチかて少しは気にしとるんよ、そーゆー話が無いのんは」


 恋に恋する、という表現が適当なのかもしれない。お見合いのように用意されたものではなくて、自分で選んで、育んで、甘く痺れるような愛情を抱きたい。そんな漠然とした『恋の形』に、木乃香は憧れている。だからこそ現状には、少し寂しさを感じていた。


「姉様はどーやったん? ウチぐらいの頃、好きな人おった?」

「居たよ。初恋の相手がね」


 パクリと、美味しそうにスプーンを咥える洸の発言に、木乃香は目を丸くした。


「え? えっ!? ウチそれ初耳!!」

「まぁ、話してないからね」


 涼しい様子の洸に、木乃香は焦れったそうに身を乗り出す。


「どんな人やったん? ウチも知っとる?」

「……なんか、厭に食い付き良いね」

「だって気になるもん!」


 自分から話題を振っておいてなんだが、木乃香はまさかこのような返事が来るとは思っていなかった。確かに洸も既に二十歳を迎えており、恋の一つや二つくらいしていてもなんら可笑しくはないのだが、男っ気がまるで感じられないだけに、自然とそういった可能性を除外していたのだ。些か失礼かもしれないが、木乃香にとっては意外過ぎる事実だった。


「仕方無いなぁ」


 眉尻を下げ、洸が苦笑する。対する木乃香は、瞳を期待に輝かせた。


「じゃあ!」

「はいはい。謹んで話させて貰いますよっと」


 スプーンを置いてテーブルに肘をつき、陶器のように白い指をいっそ艶めかしいほどに絡めて、洸は口元を隠す。けれど、隠し切れていない部分で唇が弧を描いている事を理解出来るし、黒い吊り目には仔猫みたいな光が宿っている。そんな従姉妹の様子に木乃香は若干鼻白んだが、すぐに好奇心の方が打ち勝った。

 一瞬、洸は目を細めて。それから、ゆったりとした口調で話し始めた。












 ――――閑話――――――――












 草花の香りを運ぶ春風が木々を揺らし、擦れ合う緑葉が耳を揺らす。白い雲を疎らに散らした青空の下、柔らかな日差しを受けた森が生命の息吹を感じさせる輝きを放ちながら、静かに息衝いている。瑞々しい緑色が煌めき、周囲を明るく照らす中、虫に食われたようにポッカリと開いた大きな森の広場には、現在、二人の女性が立っていた。

 共に白木拵えの野太刀を手にして向かい合う彼女達は、やや息を乱して頬を紅潮させ、白磁の肌に汗を伝わせている。双方凛々しいと評しても問題無い容貌を持つ二人は、刃物を思わせる切れ長の目に、真剣そのものの鋭い光を宿していた。

 今にも裂けてしまいそうなほど、張り詰めた空気。例え百獣の王であろうと、耐えられず悲鳴を上げそうな雰囲気。

 そんな、この場を支配していた重く冷たい『何か』が、ふと緩む。


「――――――また、上達しましたね。太刀筋の力強さも鋭さも、以前より増しています」


 シャラリと野太刀を鞘に納め、二人の内の片方――――――葛葉 刀子が感嘆した様子で口を開く。眼鏡の奥に隠された瞳は穏やかな色を滲ませ、薄く紅を引かれた唇には微かな笑みが浮かんでいた。


「刀子さんのお陰です。ご教授、ありがとうございました」


 残る一方である刹那もまた、納刀しながら嬉しそうに答える。平均より小柄な体躯を持つ刹那にとっては抜く事すら苦労しかねない、けれど何より頼れる相棒を握る手には、決して運動の所為だけではない熱が籠っていた。


「ただ、少々迷いがあるようにも感じました。何か悩みでも?」

「え?」


 思い掛けない刀子の言葉。一瞬その意味を分かりかね、次いで理解した彼女は、思わず刀子の顔を見詰めてしまう。まるで大きな音に驚かされた仔猫のように、刹那は目を丸くして刀子の様子を窺っていた。


「……やはり、悩んでいる事が?」

「あっ、いや」


 刀子の問い掛けを受けて、刹那は露骨に狼狽えた。慌てて野太刀を持っていない方の手を振り、刀子から視線を逸らす。勿論、逆効果だった。否、案の定とでも言うべきか。刀子は暫く怪しむように目を細めた後に、仕方無いとばかりに嘆息した。

 ピクリと肩を震わせた刹那を無視して、彼女は広場の隅にある一つの木製ベンチへと足を向ける。

 魔法が掛かっているのか、風雨に曝されてもまるで傷んだ様子の無いベンチに腰掛けた刀子は、脇に野太刀を立て掛けてから、刹那の方を見遣った。切れ長の双眸に捉えられた刹那は、意識せず背筋を伸ばす。


「刹那、貴女もコチラに来なさい。私でも話くらいは聞けますから」


 冷静かつ気遣いに満ちた声色で語り掛けてくる刀子に対して、刹那は僅かに逡巡した後、ベンチへ向かって歩き始めた。

 戸惑いはある。確かに刀子は師匠とも呼べる人であり、この二年間は彼女の下で腕を磨いてきた刹那だが、だからといって親しい間柄なのかと問われたら首を傾げざるを得ない。あくまでも刀子は仕事として刹那を指導していただけで、プライベートでの付き合いは全くと言っていいほど無かったからだ。そういった点で近しいのは、やはり魔法関連の仕事で上司となっている洸だろう。


「………………」


 体の奥からジワジワと競り上がってきた熱を努めて無視し、刹那は身を縮こまらせて刀子の隣に腰掛けた。愛刀である『夕凪』からは手を離さない。無意識下で手に力を込めてしまっているというのもあるが、なんだか心細かったのだ。


「……珍しいですね。貴女がこうも素直なのは」


 変わらず心配の色を含んだ刀子の言葉に、そうかもしれないと刹那は思った。

 今までにも、似たような事が無かった訳ではない。剣の腕前に比べて精神面が幼いというのは刹那自身も認めている所であり、実際、麻帆良に来た当初は色々と悩みも多かった。だが、心配してくれる刀子に何事かを相談した記憶は、刹那には無い。刀子に無用な負担を掛けたくないというのも理由の一つだが、それ以上に洸が居たからというのが大きいだろう。

 麻帆良に来た初日から世話を焼いてくれた彼女に刹那は心を許していたし、洸は積極的に相談に乗ろうとしてくれていた。だからこそ刀子を始めとした他の人達に何かを相談する機会は無く、またそもそも、悩む素振りを見せた事も殆ど無かったはずだ。


(うぅ……)


 でも、今回は違う。そもそもの悩みの種が洸なのである。彼女に相談出来る訳が無かった。

 自分は洸に懸想してしまったのかと、そんな疑念が刹那の中で首を擡げてから、早一月。明確な答えが出ないままに洸との任務を数度こなした刹那は、未だ形の定まらない大きな熱を身の内に宿していた。洸と顔を合わせる度にその熱の扱いに困っている刹那としては、刀子の誘いは渡りに船とも言えた。彼女が結婚経験のある女性だという知識を持っていたのも、刹那が誘いを受けた一因だろう。


「あのですね、刀子さん」

「なんですか、刹那?」


 落ち着いた態度で聞いてくれる刀子に、少しだけ刹那は気が楽になった。

 溜まっていた何かと共に、一度、刹那は大きく息を吐き出す。


「人を好きになるというのは、どういう気持ちなのでしょうか?」


 少しだけ、間があった。同時に、ザワリと空気の鳴動も。


「……それは、どういった意味での”好き”なのですか?」

「えっと、”恋慕”でお願いします」


 頬を染め、夕凪を握ったまま両手の指を絡ませ合う刹那に、刀子は暫し、表現し難い視線を送っていた。


「なんとも答え辛い質問ですね。貴女ぐらいの年の子が相手だと、特に」


 戸惑いに満ちた刀子の呟きが意味する所は、刹那には理解出来ない。現在、初恋の第一歩を踏み出すかどうかの境目に居る彼女では、想像する事すら難しい次元の話だろう。

 だからこそ、刹那は静かに待った。思案するように視線を彷徨わせる刀子が、次の言葉を口にするのを。


「…………どうしようもなく熱い何かでしょうか。慕情というのは、他の人達に対して感じる温かな親愛よりも、遥かに熱い感情です」


 目を細めて遠くの空を見詰める刀子の言葉に、刹那は一度、大きく心臓が跳ね上げた。


「理解していても御し難く、日常においては決して無視する事の出来ない存在感を伴って、胸の奥に居座り続けます」


 自然、刹那は右手を左胸へと当てていた。近頃は幼子が癇癪を起こすかの如く唐突に押さえの利かなくなる鼓動は、しかし今は刀子の話に耳を傾けているのか、息を潜めたみたいに大人しくなっている。


「フフッ。どうやら、上手く説明するのは難しいみたいです。漠然としか答えられなくてスミマセンね」

「いえ……」


 困ったといった様子で苦笑する刀子に、刹那は首を振る。参考にならなかった訳ではない。確信を持てた訳ではないが、それでも多少は答えに近付けた気がする。未だ熱は引かず、その予兆も見えはしないが、芯が据わったような安堵感が生まれたように感じられた。

 それに、相談に乗ろうとしてくれただけでも刹那にとってはありがたい事なのだ。大きい声では言えないし、決して言いたくもない事だが、刹那が親しくしている人物というのは、極限られた範囲にしか居ない。そして、そうであるが故に、刹那は人付き合いが苦手だ。相手との距離の測り方が分からなくて、臆病に向こうの出方を窺うか、波風立てぬよう自分から離れる事しか出来ない。

 例外と言えば洸くらいのもので、矢鱈と構ってくる彼女に対しては、刹那も相応に慣れている。時計の針を巻き戻せばもう一人、なんの気兼ねも無く親友と呼べる相手が居たが、それは既に過去の事だ。抱いていた親愛の情には、未だ一点の曇りも無いと断言出来るが、互いの関係については、今の刹那には首を振る事しか出来ない。


「しかしこんな事を聞くなんて、誰か気になる相手でも出来たのですか?」

「あっ、いや! これはですねッ」


 声のトーンを上げ、頬に紅葉を散らした刹那を見て、刀子が笑う。

 ソッと彼女の手が肩に添えられ、刹那は小さく身を竦めた。


「貴女にそういった相手が出来た事、喜ばしく思います」


 肩を握る刀子の手に、少しだけ力が込められる。


「ところで、一つ大切な事を思い出しました。これなら貴女にとっても益になるはずです」


 冷涼な刀子の顔に刻まれた笑みが深まり、柳眉は機嫌良さそうに弧を描く。

 けれど刹那は、そんな刀子に言い知れない迫力を感じていた。


「いいですか、刹那。恋愛において何より肝要なのは”逃がさない”事です」

「に、逃がさない……?」

「えぇ。一度捕まえたら、絶対に逃がしてはいけません。まだ若いと油断していたら命取りです。気付いた時には手遅れです」

「………………」


 花のような笑顔を浮かべ、語り口調に熱が籠り始めた刀子を眺めがら、刹那は精一杯の愛想笑いを浮かべていた。彼女の脳裡に浮かぶのは、忘れていた一つの事実。普段話題に上る事が無いが、非常に重要な意味を持つソレを、刹那は今更ながらに思い出していた。


(そういえば、何年か前に離婚し――――ッ)


 握られた肩がミシリと音を立てたのは、きっと気の所為だろうと、刹那は切に願うのだった。








 ◆








「その人は、私が初めて喧嘩した相手なんだ」


 語り始めとして洸が選んだのは、そんな言葉だった。彼女とエヴァンジェリンの関係の一端を表わしたそれは、上手い具合に木乃香の気を引いたようで、真っ黒な団栗眼がパチクリと可愛らしく瞬いている。


「喧嘩……?」


 意外そうに呟いた木乃香に、洸は首肯を返す。


「そう、喧嘩。お互いに嫌い合ってたし、私はまだまだ子供だったからね」


 初めて会った時の印象は、互いに『最悪』の一言に尽きるだろう。その時のエヴァンジェリンは学園を騒がせていた吸血鬼事件の犯人だったし、洸はそんな彼女を地獄の底に突き落とそうとした人間である。共に正の感情など抱けるはずもなく、近右衛門の取り計らいが無ければ、今以ていがみ合っていた可能性も否めない。

 そして、そうなっていれば此処まで性格が丸くなっていた事も無いだろうという自覚が、洸にはあった。別に昔が尖っていたという訳ではないけれど、あまり愛嬌のある子供ではなかったのは確かだ。


「けど、仲良くなった切っ掛けはソレなんだと思う」

「ソレって……喧嘩?」

「そう。色々ぶつけられる相手だったからさ、嫌いだと思ってたのに、気付いたら信頼関係みたいなのが出来てたんだ」


 当時の洸は周囲の人間に対する興味が薄い子供で、仲の良い友達などは一人も居なかった。そんな中で、負方向とはいえ大いに彼女の関心を惹いたエヴァンジェリンは、間違い無く洸の人生において特別な役割を果たした存在なのである。


「お互いの性格は結構理解してたし、特に何があった訳でもないけど、自分でもよく分からない内に仲良くなってたかな。好きになったのもそんな感じで、一緒に過ごしてたら、何時の間にか恋してた。自覚した時は、流石に驚いたけどね」


 他に対象が居なかったという理由も、確かにあるかもしれない。思春期という多感な時期でありながら目ぼしい異性は近くにおらず、近右衛門を除けば、当時の洸と最も親しい人物はエヴァンジェリンだったのだから。しかし、今では胸の奥深くに馴染み切ってしまっている事を考えると、かつての洸が抱いた感情は、やはり彼女本来のものだったのかもしれない。


「性格は我侭で、自信過剰で、意地っ張り。その癖、ちょっぴり甘えたがりな寂しがり屋。凄く頭が良いけど変な所で間が抜けてるし、割となんでも出来るのに怠け者。大人びた部分がある反面、子供っぽさも残してる。総じて言えば、アンバランスな人って感じかな」


 スプーンでパフェをつつくのを止め、興味深そうに話を聞いている木乃香と目を合わせて、洸は笑った。


「だけど、根っこの部分では芯が通ってるんだ。ブレないし、折れない。そういうトコは、凄くカッコいいと思ってる」


 本当の意味でエヴァンジェリンの芯を揺るがす事が出来た人物は、洸が知る限りでは一人だけだ。

 ナギ=スプリングフィールド。或いは、サウザンドマスター。彼に関する事柄であれば、彼女は自らの矜持すら曲げかねない可能性を孕んでいた。それを理解していたからこそ、かつての洸はエヴァンジェリンを諦めたのである。

 当時の事を思い出し、洸は眩しそうに細めた。忘れられない。忘れられるはずもない。目を瞑れば、あの頃の光景を鮮やかに思い出す事が出来るだろう。だからこそソレを振り払うように、洸は話を次へと進めた。


「見た目は美形かな。髪の色は金で、瞳は青色だね」

「えッ! 外国人なん?」

「そうだよ。確か、生まれはヨーロッパの方だったかな」


 驚きながらも何処か楽しそうな様子の木乃香に、洸は肯定を返す。

 女の子だとは言わない。知り合いだとも教えない。流石にそれは、少し面倒そうだから。


「キャー! やっぱり外国人はカッコえーもんなぁ。ウチも何時かは…………あっ」

「? どうかした?」


 唐突に気の抜けた声を上げた木乃香を見て、洸が首を傾げる。そんな彼女を見詰め、同じようにコテリと頭を傾けた木乃香は愛想笑いを浮かべたかと思うと、躊躇いがちに問い掛けを口にした。


「えっと、その…………姉様は、今でもその人の事が好きなん?」


 ――――――空白は一瞬。洸はすぐに笑顔を作り、自然な態度を装った。


「親友だよ。それがどうかした?」

「あ、ううん。少し気になっただけやから、気にせんといて」

「そう? ならいいけど」


 胸を撫で下ろす木乃香に疑問符を浮かべる裏で、洸も同じように安堵していた。

 ある程度までなら現状を話す事も吝かではないとはいえ、やはりエヴァンジェリンの件は事情が複雑だ。無闇に突っ込まれないなら、それに越した事は無い。特に今日の木乃香は思いの外興味を持ってくれていたようだから、その点では少し心配があったのだ。


「けど、なんや思い当たる人がおらんなぁ。親友さんなんよね?」

「そうだよ。まぁ、もしかしたら見た事が無いか、会ってても覚えてないのかもね。私だって、明日菜とは滅多に会わないしね」

「あ~、たしかにそうなんかも」


 納得したようで、木乃香は残り少なくなったパフェをスプーンで掬い、小さく開けた口へと運んだ。パクリ、と。そんな音が聞こえてきそうな様子で唇を閉じた木乃香が、嬉しそうに頬を緩める。その姿を見て、洸も眉尻を下げた。


「そういえば、明日菜も今日は出掛けてるんだっけ?」

「せや。ネギ君と一緒にいいんちょのお家に行っとるんよ。ウチも誘われたんやけど、今日は姉様と一緒に過ごしたかったから……」

「本当? 嬉しいな、そう言って貰えると」


 洸が明るい声を上げると、木乃香ははにかみ、並びの良い白い歯を覗かせる。だが、その表情もすぐに変わる。何かに気付いたように瞬きを繰り返した木乃香は、笑っている洸の顔をマジマジと見詰めてから、不思議そうに尋ね掛けた。


「はれ? 姉様、さっき『アスナ』って……」

「あぁ。こないだ偶々会う機会があって、その時にね」

「なるほどー」


 うんうんと頷く木乃香は、何処となく喜んでいるように見えた。

 当然と言えば、当然の事なのかもしれない。それとなく明日菜から距離を取っている洸に気付いていた彼女は、この点に関してだけは眉を顰めていたのだから。二人の間を取り持とうとした事も、一度や二度ではない。


「やっぱり、仲良しなんが一番や」

「うん。私もそう思うよ」


 だから洸は今、肩の荷が下りたような安堵感を覚えている。

 元々洸が明日菜と距離を置いていた理由は、以前彼女に語ったように、疎外感から生まれた嫉妬に他ならない。ただ原因は、明日菜に話した内容だけではない。イキナリ木乃香の傍に現れた魔法関係者の情報を、近右衛門が殆ど教えてくれなかった事なども理由である。

 確かに当時の洸は半人前で、だからこそ一応の納得はあった。しかし、未熟だったからこそ生まれてくる感情もまた、存在したのだ。結局はそれが後々まで尾を引いて現在まで至っていた訳だが、流石に色々と気まずかったのである。


「仲良く出来るのが、何より大事ってね」


 空っぽになったパフェグラスにスプーンを落とし、甲高い音を辺りに響かせた洸は、そう言って木乃香に笑い掛けた。








 ◆








 あれから長々と続いた話を終えて刀子と別れた刹那は、一度寮に戻り汗を流した後、都市部へと足を延ばしていた。

 特に明確な目的がある訳ではなく、ただ漠然と街を練り歩きながら、時折思い出したように手近な店を冷やかしていく。普段の刹那であればこんな事はしないというか、そもそも買い物に行く事自体が珍しいのだが、今日は先程の刀子の話があった。

 刀子曰く、相手の気を惹きたいのならば、まずは服装や化粧といったお洒落に気を遣ってみたらどうかという事だった。勿論、自分を可愛く見せる事も理由の一つだが、自分は可愛くなろうと努力しているのだと相手に気付かせる事が大切なのだとか。そうやって女の子の部分を意識させる事で色々と攻め易くなるというのが、彼女の意見だった。


(いや、そもそも洸様の事は…………)


 アプローチを掛ける以前の状況だ。そういった方面の活動に精を出すかどうかすら、今は定かではない。第一、同性である洸に対し、刀子が教えてくれた話がどれだけの意味を持っているのかも分からなかった。

 だから今の刹那の行動は、不思議と言えば不思議なのかもしれない。

 元々嗜好品を買い求める事が殆ど無く、お洒落な服など以ての外といった彼女がその手の店を渡り歩いている事は勿論として、実際に見て回った商品の中で幾つか欲しい物があったのだから、珍しいどころの話ではない。未だに一銭たりとも刹那が消費していないのは、偏にお金を使う事に慣れていないからだった。そうでなければ、今頃は紙袋の一つや二つは提げていた事だろう。


(一体どうしたというんだ、私は)


 自分自身でも気付かぬ内に変化していた気持ちに戸惑いながらも、また新たな服飾店へと、刹那は足を踏み入れる。

 本日最後にしようと思っているこの店は、同時に、今日の本命とも言える場所だった。中高生を対象とし、リーズナブルな価格設定をしている此処は木乃香が頻繁に利用している店であり、また洸に連れられて刹那も幾度か訪れた事のある所だからだ。


「いらっしゃいませ~」


 聞き心地の良い声で出迎えてくれた店員を一瞥した後、刹那は店内を軽く見回した。以前来た時と比べ、多少内装に変更が加えられているように感じたが、特に大きな変化は無いように見える。これなら、わざわざ店員の手を煩わせる必要も無いだろう。

 よし、と一息。意味は無いけれど、知らず気合いを入れてから、刹那は店の奥へと歩いていった。




 □




 数着の服を手に取って試着室へと入った刹那は、現在、姿見と向かい合う形で立っている。頬を薄らと紅潮させ、震えた手で服を体に合わせている彼女は、明らかに緊張している様子だった。無理に作ろうとしている笑顔が、逆に痛々しい。

 仕方が無いと言えば、全く以てその通り。

 今日は珍しく色々な店を渡り歩き、此処と同じような服飾店にも足を伸ばした刹那だが、未だに試着の一つもしていなかった。そも、普段着などは基本的に洸に見繕って貰っている刹那は、自ら服を選ぶような事は殆どしない。いつも洸に先導されてばかりだ。だから、こうして自分から服を手に取り、更には試着するというのは初めてと言ってもいい事態なのである。

 何か特別な事をする訳ではない。誰に見られる訳でもない。

 それでも刹那は、似合わない事をしている自分に違和感を覚え、どうにも落ち着かなかった。


(少し、可愛過ぎるか?)


 偶々手に取ったシフォンワンピース。グリーンのドット柄という控えめな物を選んでは見たものの、柔らかで女性らしい印象を与えてくれる服というのは、どうにも違和感が拭えない。キメ細やかで滑らかなシフォン生地の手触りや、二段フリルとなっている裾の存在がムズムズして仕様が無い。刹那個人の嗜好としては、もっと地味で簡素な物が良いのだ。

 そんな刹那が、わざわざこの服を選んだ訳は、刀子の入れ知恵があったからだ。とにかくギャップを作るべし、と。身近な相手の気を惹きたいのならば、変化を見せ付けて意識して貰うのが手っ取り早く、中でも服装や髪型の違いが効果的らしい。


(か、髪型……)


 自然、刹那は鏡に映る自分を注視する。相変わらずぎこちない笑みを浮かべている顔は置いておき、問題なのはその上、紛い物の黒色をした髪の毛だ。ワンピースを右腕で抱えると、刹那は左側頭部で髪を縛っている赤い紐へ手を伸ばす。

 スルリと髪紐を解けば、サイドポニーに結われていた髪が重力に従って下へと落ちる。鎖骨まで伸びた右側頭部の一房を除き、綺麗に肩口で切り揃えられた黒髪は癖の無いストレートで、変に絡まる事も無く本来の形に納まった。

 そうしてまた、刹那はワンピースを体に合わせる。

 少しだけ女の子らしくなった気がするのは、髪型が洸や木乃香に近くなったからだろう。洸は些か趣が異なるかもしれないが、木乃香なら、きっとこの服を可愛く着こなせるはずだ。組み合わせの一つも碌に考え付かない自分とはまるで違うのだと、刹那は思った。


(……やはり、他のにすべきだろうか)


 八の字を描く眉と共に、そんな考えが刹那の胸を過ぎる。

 だが同時に、こういった服を着てみたいという思いも、少なからず存在していた。


(…………別に、買う必要がある訳ではないし)


 どうせ試着なのだ。着てみて、悪くなければ店員にでも見て貰う。それくらいなら、問題は無いだろう。

 コクリと、刹那は白い喉を鳴らす。

 一応の決心はついた。未だに緊張は残っているが、ちょっと着替えてみるだけだ、十分イける。自らに言い聞かせるように心中で呟きを繰り返した刹那は、震える手で現在着ている服を脱ごうとして、


「――――ほな、ウチ着替えてみるな」


 すぐ傍で発せられた声によって硬直する。

 布一枚を隔てた向こうから聞こえてきたソレは、確かに刹那にとって日常的に慣れ親しんだものだった。


「期待して待ってるよ。きっと似合ってるからね」


 続く女性の声にも、やはり聞き覚えがある。

 芯の通った、響きの良い声。先のものと共に、聞き間違える訳が無い。


(お嬢様に、洸様……)


 意識せず息を潜め、刹那は身を固くする。今の彼女からは、既に着替える余裕は失われていた。

 シャッとカーテンレールが音を立て、隣の試着室へ誰かが入ったのを知らせてくれる。気配で分かる。先程の会話通り、試着するのは木乃香だ。壁越しでも分かるほどご機嫌な様子の彼女は、早速選んだ服に着替え始めたようだった。

 人より優れた聴覚が衣擦れの音を余さず拾い、刹那をなんとも言えない気分へと落とし込む。一体、自分は何をしているのだろうか。幾ら護衛の任務が休みとはいえ、幾ら偶然居合わせたとはいえ、どうしてこんな覗き紛いの行いをしているのだろうか。そう考えると、意味も無く申し訳無くなってきてしまう。

 そうして刹那が何も出来ずに固まっている間に、木乃香は着替え終えたようだった。再びカーテンが引かれる音が耳を揺らし、次いで木乃香の明るい声が響く。それらに導かれるようにして、刹那の視線は自らが籠る試着室の外へと向けられた。


「どう? 似おてる?」

「可愛くて良い感じだよ。木乃香にピッタリ!」


 楽しそうに話す二人の声は、まるで刹那を誘う誘蛾灯のようにも思えた。今この場所から飛び出したら、彼女らはどういう反応を示すだろうか。刹那は想像しようとして、すぐにその無意味さに気付いた。蛇を前にした蛙の如く、彼女の体は動こうとしないのだから。

 とにかく、二人が立ち去るのを待とう。そう思った刹那は腕に抱えていた服を置き、胸に手を当てて呼吸を整えた。傍では相変わらず洸達の話し声がしていたが、努めて意識から外し、深呼吸を繰り返す。

 そうして暫く経ち、木乃香が二着目に着替えた頃になって、ようやく刹那は落ち着きを取り戻した。最後に大きく息を吐き出し、首を振って気合いを入れた彼女は、試着室の内と外を隔てるカーテンへと顔を向ける。

 すると。


(あっ)


 僅かな隙間が、そこにはあった。偶然の悪戯か、幅一センチにも満たないそれの向こう側には、洸の姿が見て取れる。そよ風のような笑顔。見ているだけで心安らぐような彼女の雰囲気に誘われるように、刹那はカーテンの隙間へと顔を近付けていく。

 徐々に、徐々に。吐息がカーテンを揺らすほどの距離にまで顔を寄せ、


「――――――ッ!?」


 洸の黒い瞳と、目が合った。

 声を出さなかったのは、奇跡に近い。否、声にならなかったのだから、ある意味では必然なのかもしれない。驚愕によって見開かれた刹那の瞳は、確かに洸の視線に捉えられ、縫い付けられたかの如く動かせなくなった。

 黒の吊り目が細められ、形の良い唇が緩やかな弧を描く。気付かれているのは、火を見るよりも明らかだ。


「姉様? どうかしたん?」


 木乃香の言葉に、刹那は心臓を跳ね上げ、


「ううん。なんでもないよ」


 洸の否定で、胸を撫で下ろす。

 そうして一喜一憂しながらも、刹那は決して隙間から顔を離そうとはしなかった。息を殺し、目を凝らす。一挙手一投足を見逃すまいと集中する彼女の視線の先で、洸は至って自然な振る舞いで木乃香が居ると思われる方へと手招きした。


「木乃香、木乃香。ちょっとコッチに来て」

「はーい」


 素直な返事と共に木乃香が視界の端から現れ、彼女に場所を譲るようにして洸が一歩下がる。何が目的なのだろうかと疑念が湧くが、同時に、刹那は意識せず木乃香の服装を確認していた。

 両肩から胸元に掛けて黒いフラワーモチーフをあしらわれた、空色のニットセーター。状態から見るに、おそらくはソレが、木乃香が試着している物なのだろう。シンプルだが、それ故に飾らない愛らしさのようなものがあり、悪くないと思う。


「それでは、お手を拝借しまして」

「?」


 洸が木乃香の手を取り、上へと上げさせる。

 不思議そうに洸を見上げる木乃香に対し、彼女は笑顔を浮かべ、


「はい、ターン」


 一体何をどうしたのか、刹那でさえ呆気に取られるほどの見事な手際で、洸は木乃香をクルリと回転させた。長い黒髪が浮き上がり、木乃香が楽しそうな悲鳴を上げる。勿論、彼女のバランスが崩れるようなミスを、洸が犯す事は無い。

 そうして綺麗に木乃香を一周させた洸は、再び、意味あり気な視線を刹那に送ってきた。

 と、同時。刹那が疑問符を浮かべるほどの間も無く、


『刹那の感想はどうかな? 良いと思う?』

「ッ!?」


 洸の念話が、刹那の脳裡に響く。

 刹那は息を呑み、真意を確かめようと洸を注視する。しかし彼女は既に刹那から視線を外し、木乃香と雑談を始めていた。


『ほら、早く早く。でないと次イっちゃうよ?』


 一瞬だけ視線を交わし、洸はまた木乃香との会話を再開する。此処に到り、刹那はようやく洸の言葉を受け止める事が出来た。

 そうして、彼女は再び木乃香の姿に注目する。先程も感じた通り、しつこくない可愛さがあって、良いデザインの服だと思う。しかし真剣に考えてみると、やはり気になる部分も存在するものだ。


『…………その、お嬢様には、もう少し暖かな色合いの物の方がお似合いでは?』


 念話で率直な感想を洸に伝えれば、彼女は満面の笑みを浮かべて応えてくれたのだった。








 ◆








 日が落ち、月が昇り、天鵞絨(ビロード)の夜空に星屑が散りばめられる。それらと対をなすように明かりを灯し始めた街並みを歩きながら、洸と木乃香は楽しそうに談笑している。その手には買い物袋が提げられており、中には先程買った服が入っていた。

 刹那は居ない。陰に控えているという訳でもない。洸達が店を出ると同時に試着室から抜け出し、服飾店を後にした彼女は、そのまま帰途についている。洸にとってはいつも通りの刹那の行動で、だからこそ疑問は抱かなかったが、そのような状態にスッカリ慣れている自分が、彼女は少しばかり悲しかった。


(まぁ、でも……)


 今日はそれなりに収穫があったのも、また事実である。

 ガサガサと音を立てる買い物袋を見遣り、洸は唇の端を微かに吊り上げた。


「そういえば。姉様、服の趣味変わった?」

「ん? どうして?」

「ん~……言う事や選んだ服が、いつもと少しチゴーたから?」


 自分でもよく分かっていないのか、木乃香はコテリと首を傾げる。その仕草の愛らしさ、そして語る内容の鋭さから、洸は嬉しそうに目を細めた。木乃香の言った事は、間違っていない。確かに先程の服飾店では、洸は刹那の言葉を代弁していたに過ぎないのだ。そしてそれ故に、今の洸は機嫌が良かった。

 最初に口を出してからの刹那は、洸の予想以上に積極的だったと言える。洸が選ぶ服、木乃香が気に入った服、そして刹那自身が見てみたい服。その一つ一つを真剣に吟味し、感想を口にする。会話に関しては念話越しだったとはいえすぐ傍に居た洸は、刹那が熱中し、楽しんでいる事が感じられた。

 その事が、洸は嬉しい。

 ともすれば、刹那を傷付けていたかもしれない。あんな風にしか木乃香と関われないのだと、彼女は自分を責めていたかもしれない。念話で話し掛けた時、洸はそういった不安を抱いていた。否、事実として以前の刹那なら、そのように考えたはずなのだ。

 しかし実際には、刹那は十分に楽しんでくれたみたいだった。そしてそれは、彼女がちゃんと前を向いている事の証に他ならない。


「特に趣味を変えたつもりは無いけど…………偶々そういう日だっただけじゃない?」

「ほーかなー? まぁ、姉様がそう言うなら」

「うんうん。それじゃ、早くお店に行こうか。こないだ見付けたんだけど、中々お洒落なトコなんだ。料理も美味しかったしね」


 三月も終わりに近付き、また今日は気温が高かったとはいえ、日が落ちれば冷えてくる。上着の襟元を寄せながら語った洸の言葉に、木乃香は目を輝かせた。そうして楽しそうに行き先について尋ねてくる木乃香を見て、洸は思う。何時か刹那を加え、三人で並んで歩く時が来たなら、彼女はどんな表情をするのだろうかと。今の洸ではソレを想像する事すら出来ないが、唯一つ言える事があるとすれば、木乃香も刹那も、彼女が見た事も無いような素敵な笑顔を浮かべるだろうという事だけだった。

 見上げた夜空には、今にも隠れてしまいそうな三十日月が、儚さを湛えて浮かんでいる。瞬きの内にでも消えてしまうのではないかと心配になってくるようなソレは、けれど確かな輝きを放っていて、洸はただ綺麗だと心を震わせた。












 ――――後書き――――――――


 以上、閑話でした。お読み下さった方、ありがとうございます。

 今回は京都組のお話でした。修学旅行編になれば嫌でも出番が増える彼女達ですが、それでは流石に遅過ぎるという事で今回みたいな話の運びとなりました。刹那とか、恋愛要員なのに凄く久し振りですしね。いやはや勿体無い。ちなみに明日菜・ネギ側の話については特に書く予定はありません。おおよそ原作通りな、弟君の話なので。

 さて、作中時間では四月に入りますし、春休み編もあと少しです。おそらく、次の話が最後でしょう。書きたい事はまだ残っていますが、あまり長引かせるのもアレなので。何気に期末試験編と同じくらいの長さになっていますしね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十五話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:1a7bbcde
Date: 2009/06/21 21:16


 白く清潔感に溢れた壁紙が眩しい、掃除の行き届いたリビング。邪魔にならず、それでいて必要な物には楽に手が届くよう配置された各種の家具。よく考えられ、よく管理された部屋の内装は、ただそこに居るだけでも心を落ち着けてくれるものだ。床の上には子供向けの絵本が幾つか散らばっているが、それはそれで愛嬌が感じられて良いだろう。

 そんな部屋の中央部。テレビを見る為か、大き目のガラステーブルを三方から囲む形で置かれたソファの内の一つに座る洸は、家主であるガンドルフィーニと正面から向かい合っていた。両者の間に用意されているのは、香り立つ珈琲と種々様々なチョコレートだ。それらに手を付けつつ談笑しつつ、ジックリと時を過ごした二人の間に流れる雰囲気は、実に柔らかなものとなっていた。


「はい。思ったほど時間は取れませんでしたが、高音達が予想以上に頑張ってくれたので、十分な成果は出ています」

「そうか…………ありがとう、君が居てくれて助かったよ」


 安堵した様子で息を吐いたガンドルフィーニが、手元のカップに口をつける。


「私もココに勤め始めて十年だ。技術や知識は磨けたかもしれないが、勘の衰えは否めない。彼女達には十分な才能があるし、どうにも荷が勝っているように感じていたんだよ」

「確かに彼女達――――――特に高音の才能は目を瞠るものがありますね」


 無詠唱で素早く発現し、堅牢かつ精確な常時自動防御を実現する『黒衣の夜想曲』は、未だ高校生である高音が扱う魔法としては破格の性能を誇っている。確かに今はまだ魔法に振り回されているような状態ではあるが、これを完璧に使いこなせるようになれば、彼女は戦闘系魔法使いとして相当な実力者になれる事だろう。

 そして、高音はそれを可能にするだけの才能を秘めていると、洸は感じていた。


「現状では格闘能力の未熟さが問題ですけど、伸び代は十分に感じられます。強くなりますよ、あの子は」

「格闘か……たしかに、あまり力を入れてない部分だ」


 顎に手を当てたガンドルフィーニが、二度三度と頷きを繰り返す。


「ふむ。黒衣の夜想曲があるからと、少し甘く見過ぎていたかな。わかった、今度からはそちらにも気を配ろう」

「お願いします。休み明けまでにはコチラで明確な方針を打ち立てておきますから、近い内に経過報告と併せて提出しますね」

「よろしく頼むよ」


 ガンドルフィーニの言葉に、洸は力強く首肯する。

 高音も愛衣も、現在麻帆良で修業している見習い魔法使いの中では、かなり優秀な部類に入る。確かに洸が相手をすれば軽々と手玉に取れるようなレベルではあるが、それでも魔法生徒の平均から見れば頭一つどころではなく抜きん出ている。性格は共に真面目で、それ故に教師陣の覚えも良い。洸としても、素直な所のある彼女達を気に入っていた。

 そんな個人的な感情に加え、将来性のある魔法使いへの投資という意味合い。そしてガンドルフィーニとの縁故もあり、洸はこの件に対してかなりのやる気を抱いている。勿論、相応の成果を出してみせるという自信もあった。


「頑張ります。それと、高音はあと二年で修業を終える予定ですし、そろそろ麻帆良外での活動も視野に入れたらどうですか?」

「あぁ、丁度私も考えていた所でね、簡単なものから任せてみようと思っている。その時には、君に補佐を頼む事があるかもしれない」

「はい。任せてください」


 ニッコリ笑って返事をした洸に対し、ガンドルフィーニは一つ頷いた後、ふと何かに気付いたように眉根を寄せた。


「? どうかしましたか?」

「いや……今更言う事でもないとは思うんだがね」


 気難しい顔をしたガンドルフィーニは、そう前置きして。


「君の高校生活には、色々と問題があった。くれぐれも、彼女達に変な影響を与えないよう注意してほしい」


 言葉の意図を量りかねて疑問符を浮かべた洸は、しかし一瞬の後には全てを理解し、気まずそうに頬を掻いた。


「アハハ……その節では、色々と心配をお掛けしました」


 曖昧な苦笑いで答える洸を、ガンドルフィーニは咎めるような目付きで睨む。それから逃げるように、洸は視線を逸らした。

 世界でも有数の魔法組織として知られ、また高音達を始めとした見習い魔法使いの修業先としても有名な関東魔法協会だが、実の所、魔法学校としての機能は有していない。麻帆良学園として一般社会と密な関係にあるが故に、見習い未満の魔法使いを集団で所属させる事には色々と問題があるのだ。もっとも、構成員の子供といった身内に対しての指導は十二分に為されている訳だが。

 つまり、幼少時からずっと麻帆良で育ってきた洸は、魔法使いとして十分な教育を受けながらも、魔法学校を卒業している訳ではないのである。勿論、ネギ達のような修業を課せられた事も無い。故に学歴に関して言えば、洸はネギにすら及ばないのが実情だ。

 如何に近右衛門の孫娘という立場があるとはいえ、それでは不味い。麻帆良の関係者ならば洸の実力も性格も疑いはしないだろうが、将来的に彼女が色々とやっていく上で重要になるのは外部の人間の評価だ。組織のトップに立とうというのならば、対外的な交渉能力は欠かせない。だから洸は、正式に協会に所属する前に、個人としてなんらかの成果を上げておくべきだと考えたのだ。

 その結果が、彼女の高校生活である。魔法使いとしての活動に熱を入れ過ぎた為に、三年連続で出席日数ギリギリのサボリ魔と化していたのだ。近右衛門は反対しなかったし、木乃香にバレる事も無かったが、現在対面に座っているガンドルフィーニには、さんざっぱら怒られたものだ。それこそ、耳に出来たタコが潰れてしまいそうなほどの勢いだった。


「……まぁ、大学ではちゃんとしているようだから、特に心配はしていないんだがね」


 目元を緩めるガンドルフィーニを見て、洸は気まずさから目を伏せる。

 彼女がこの家を訪れてから、既に一時間。未だに切り出せないでいる”本題”は、間違い無く彼の不評を買うものだ。


「あの、先生……」

「ん? なんだい?」


 それでも洸は、今更話すのを止めようとは思わなかった。

 黒曜の瞳が正面からガンドルフィーニを捉え、意志の光を宿らせる。


「…………貴方に、相談したい事があります」












 ――――第十五話――――――――












「ふむ。なるほど……」


 感心したような響きを持った、タカミチの呟き。その声に鼓膜を震わされた明日菜は、小さく身を竦ませた。

 今、タカミチの手には一つのハリセンが握られている。ハリセン。そう、ハリセンだ。スチールのような物で出来ていて、長さが百五十センチくらいあって、更には西洋剣を思わせるような柄が付いているとはいえ、それは紛う事無くハリセンだった。

 アーティファクト、というらしい。魔法使いの従者(ミニステル・マギ)に与えられる魔法の道具で、本人に合った物が自動で選ばれるのだと、前に洸が言っていた。契約当初から使う事は出来たらしいが、まずは魔力の扱いを覚えるべきだと、これまで使われなかったカードの機能の一つである。

 それを今日になってイキナリ使おうという事になったのは、人と会う用事で来れなくなった洸に魔力供給を禁じられた明日菜の為に、タカミチが体の動かし方の指導を提案したからだ。洸やタカミチがやるような本格的なものではないとはいえ、もしもアーティファクトが武具の類であれば訓練内容の参考にしたいと、彼は言っていた。

 だからこそ、明日菜はそれなりに期待してアーティファクトの召喚をした訳だが。


(ハリセン……)


 もしかしたらカードに描かれていた大剣が出てくるのではと期待していたのに、結果はコレだ。恥ずかしいを通り越して情けなさすら感じてしまいそうだった。だって、ハリセンだ。強いとか弱いとか、カッコいいとかダサいとか、そんなレベルの問題ではないだろう。しかもタカミチが真面目な表情をして眺めるものだから、明日菜は顔から火を吹いてしまいそうなほど恥ずかしかった。


「うん。よくわかったよ」


 タカミチの声が聞こえ、明日菜はハッとして彼へと視線を向ける。


「特殊効果については今は置いておくとして、やはり剣として扱うのが一番良さそうだね」

「剣、ですか」

「長さは丁度良いし、殺傷力も殆ど無い。少し軽過ぎる気もするけど、練習用には打ってつけだよ」


 つまり実用性は皆無に等しい、と。そんな考えが浮かんだが、タカミチの笑顔を見た明日菜は何も言えなくなってしまった。嬉しそうに細められた目も、弧を描く口元も、明日菜にとっては眩し過ぎる。頬がカッカと熱くなって、まともに顔が見れなくなってしまう。


「それじゃ、今日はそういった所を意識して簡単な体の動かし方を覚えていこうか」

「は、はい!」


 半ば反射的に返した声は、明日菜自身でも理解出来るほど上擦っていた。それなのにタカミチは気にした様子も無くて、そこに見える明日菜への慣れが嬉しいやら恥ずかしいやらで、彼女は頬を染めたまま視線を逸らした。


「僕の専門は格闘だから、今日は本当に触りしかやれないけどね」


 言って、タカミチは片頬を上げて苦笑を作る。


「しかし参ったな。色々教えてあげたかったんだけど、あまり教えられる事が無いみたいだ」

「うっ。すみません、なんか変なの出しちゃって」

「いやいや! 謝るのは僕の方だよ、役に立ててないんだし」

「そんな事は……」


 尻すぼみになって、否定の言葉が溶けていく。不毛だ。どうせ互いの意見も、その結果も分かり切っているのだから、わざわざ言葉にする必要は無い。それよりも今は、このなんとも言えない空気そのものが問題だった。


「そ、それよりも! 早く練習を始めましょうよ!」

「たしかにそうだね。じゃあ、コレは今は必要無いから、もう返していいよ。キーワードは覚えてるかな?」

「はい。大丈夫です」


 明日菜はタカミチの手から、アーティファクトのハリセンを受け取った。

 先程彼が言ったように、見た目ほど重くはない。これならば魔力供給が無くても振り回す事が出来るのではなかろうかと、そう思えるほどには軽かった。剣で言う刀身に当たる、薄鈍色のハリセン部分。陽光を反射して輝くそこには、未だ頬に赤みを残した明日菜の顔が映っている。

 妙に気恥ずかしくなって、明日菜は慌てて呪文を唱えた。


「”去れ(アベアット)!”」


 別に魔力を使うとか意識している訳でもないのに、ただ一言でアーティファクトは光の粒となって消えていく。

 便利なものだ。魔力供給にしてもそうだが、別に明日菜自身が何かした訳でもないのに、魔法を使えるような気すらしてくる。勿論、実際にはそんな事は無い。今の明日菜に出来る事と言えば、アーティファクトの召喚や送還時に生じる魔力を、どうにか感じ取るくらいが精々である。


「よし。それじゃあ始めようか」


 二メートルほど離れた位置で明日菜と正対したタカミチが、襟元を整えながら口を開く。明日菜は頷きで応え、真っ直ぐにタカミチの瞳を見据えた。不思議と緊張は無く、体からは程好く力が抜けている。

 春休みの初めに、唐突に振って湧いた魔法指導の話。半ば勢いに任せて引き受けたそれが、今では明日菜の身に馴染んでいた。抵抗を感じる事も無く、違和感を覚える事も無い。短い期間で、彼女は驚くほど自然に現状へと適応していた。


「はい! よろしくお願いしますッ!!」


 疑問は無く、ただ出所の不確かなやる気だけが、明日菜の裡に渦巻いていた。








 ■








「私は反対だ」


 取り付く島が無いといった調子の声で、ガンドルフィーニが否定の言葉を口にする。鋭く細められた双眸は責めるように洸を見据え、全身からは一々確認するまでも無いほどに怒気が溢れていた。聞く耳持たず、と。そんな形容がピタリと嵌りそうな様子である。


「いいかい? たしかに君と高畑先生、更にはエヴァンジェリンが協力するなら、上手くいく可能性は高いだろう。それに、君が彼女の為に何かしたいという気持ちも、理解出来ない訳じゃない。君達の仲の良さは、私もよく知っているからね」


 でも、とガンドルフィーニは語調を強めて言葉を継ぎ、


「いくらなんでも、賭ける物が多過ぎる。この際だ、魔法関係者に掛かる迷惑には目を瞑ろう。だが君も言うように、ネギ君に関しては別だ。まだ修業を始めて間もないし、コチラ側の仕事は何一つとして任されていない。年齢を考えなくても無理がある」


 言葉を区切って、一度、ガンドルフィーニは大きく息を吐き出した。

 重く、怒気を孕んだ深呼吸の後、彼の視線は自然と洸へと向かう。先程と比べると幾らか理知的な色が増しているようにも思えたが、依然としてその顔には不満が浮かんでおり、洸に対する憤りに満ちていた。


「何より、一歩間違えれば君は将来を棒に振る事になる。これはれっきとした犯罪行為で、組織に対する背反行為だ。学園長が表立って庇う訳にはいかないし、私や高畑先生でも厳しい。いくら君の評価が高いとはいえ、なんらかの罰は必要だろう。その上で周囲の信用も失う事になれば、これまでに築いてきた君の立場は一気に崩れ去る。彼女の傍に居た君なら、よくわかっている事だろう?」


 ガンドルフィーニの問い掛けに、洸は黙って首肯する。


「だから、この件は諦めなさい。いくら分が良いといっても、賭けて良いものと悪いものがある」

「イヤです」


 間髪容れずに返答した洸を見て、やはりといった様子でガンドルフィーニが溜め息をついた。疲れか、呆れか、はたまたその両方か。右手で眉間を揉む彼は、何かを振り払うように頭を振った。


「別に、私の言いたい事が理解出来ない訳じゃないだろう?」

「勿論です。先生の仰りたい事は、よく分かっているつもりです。けど、それでもやめません。彼女は親友ですから」

「私も同じだよ。君の気持ちも理解出来るが、だからといって止めない訳にはいかない。私はエヴァンジェリンの友人ではないが、君の先生ではあるからね」

「……………………」


 言葉を返さず、洸は手元の珈琲に口をつける。

 ヌルくなったとはいえ決して不味い訳ではなかったが、美味しいとも言えず、舌の上に残る苦みに、彼女は知らず眉根を寄せていた。それから少しだけ珈琲に映る自分の顔と睨みあっていた彼女は、何を思ったのか、一気にカップを傾け、その中身を飲み干した。

 音を立てて、ソーサーの上にカップが置かれる。


「それでもやるんです。だから、協力してください」

「ダメだ。認められない」

「協力してください」

「ダメだ」

「きょうりょ――――」

「却下」


 悩む素振りすら見せずに断るガンドルフィーニに焦れた様子で立ち上がると、洸は手の平をテーブルに叩き付けた。


「絶・対・に! 私はやりますからねッ!!」

「ダ・メ・だ!」


 同じく立ち上がったガンドルフィーニが、正面から洸と睨み合う。全身に不機嫌な空気を纏った二人は互いに視線を逸らさないまま、苛立たしそうに歯を剥いている。ギリギリと、二人分の歯軋りの音が、部屋の中に響く。


「我儘を聞くと言ったのは、貴方じゃないですか」

「何時の話だ。君はもう大学生だし、魔法使いとしてなら職にも就いている。分別を持って行動しなさい」

「分別は弁えているつもりですよ。その上で、この件はそこを踏み越えてでも、成功させたいんです」

「……………………」


 心底嫌そうな顔をして、ガンドルフィーニは再び椅子に腰を下ろす。次いで先程の洸のように珈琲を一気に呷った彼は、苦々しそうな表情を全く隠さずに、吐き捨てるように問い掛けを口にした。


「どうしても、諦める気は無いんだね?」

「はい。絶対に諦めません」


 迷いの無い洸の返答を聞いたガンドルフィーニは数度頭を振り、それから溜め息を吐き出した。胸の内に溜まった何もかもを吐き出すような、大きな溜め息だった。テーブルを挟んでいても耳に届いたそれを聞いて、洸は僅かに身構える。黒の瞳には警戒の色が走り、緊張から体が硬くなる。

 そんな彼女を見たガンドルフィーニは疲れた様子で肩を落とし、


「わかった。協力しよう」


 眉間に深い皺を刻んだまま、そう言った。


「………………え?」

「だから、協力すると言ったんだよ」

「いいんですか?」


 洸の問い掛けを受けたガンドルフィーニの顔に浮かんだ感情は、なんとも表現し辛かった。

 怒りか、悲しみか、はたまた別の何かだったのか。唯一確実なのは、決して喜びではないという事だけだ。


「君はやると決めたらやる。絶対にね。どうせやるなら、協力者は一人でも多い方が安全だろう」


 鼻を鳴らして立ち上がったガンドルフィーニは、カップを持って台所の方へ足を向けると、そのまま新たに珈琲を淹れ始めた。一言も話さず、ただ手だけを動かし続けるその背中を眩しそうに見詰めてから、洸は静かに頭を下げる。

 感謝は口にしなかった。そんな事を言えば、間違い無く彼は怒るだろうから。








 ■








「――――――そんな訳で、ナギの活躍によりその女性は救われたのじゃ」


 壁の一面を大きく切り取った窓を通して日が射し込み、春の陽気が部屋の中に満ちる。湯呑みに入った淹れ立ての熱いお茶は白い湯気を立ち上らせ、皿に載った茶請けのドラ焼きからは、ほのかに甘い香りが漂う。遠くからは学園の生徒達の声が届き、ただ椅子に座っているだけでも穏やかな気持ちになれる此処は、女子中等部にある学園長室だ。

 長年愛用してきた執務机ではなく、応接用のソファに腰掛けて白髭を撫で付ける近右衛門の前には、大きなブラウンの瞳をキラキラと輝かせたネギが座っている。持参した菓子にも手をつけず、一心に近右衛門の話に耳を傾けていた彼は、頬を緩ませて満足げに息を吐き出すと、余韻に浸るかのように深くソファに身を沈めた。


「はぁ~。やっぱり父さんはスゴいなぁ」


 恍惚そのものの面持ちで呟いたネギは、危なっかしい手付きで湯呑みを持ち上げ、口へと運ぶ。先程淹れ直した近右衛門と違って随分と冷めてしまっているだろうに、彼は何一つ気にした気にした風も無く、一息に飲み干してしまった。


「うむ。たしかに『千の魔法使い』と呼ばれるに相応しいだけの実力を持った男じゃったな。しかし、ネギ君は知っておるかの?」


 身を乗り出した近右衛門は髭で覆われた口元に手を添え、耳打ちをするかのように声を潜める。


「――――――実はの、アヤツはアレで魔法学校を中退しておるんじゃよ」

「え? …………えぇ!! ホントですかっ!?」

「コレが本当なんじゃ。ナギは勉強が大の苦手でな、たしかに多くの魔法が扱えたんじゃが、その中でちゃんと呪文を覚えておったのは両の指で数えられるくらい。あとは呪文を書いたメモ帳を持ち歩いて、それを見ながら魔法を使っておったんじゃよ」


 目を丸くして話を聞いているネギを見て楽しそうに笑いながら、近右衛門は空になった湯呑みにお茶を注いでいく。


「まぁ、英雄とは言っても完璧ではなかったという事じゃな。私人としては、寧ろだらしなかったと言っていいかもしれん」

「そうなんですか……」

「別に幻滅するような事ではないぞい。気持ちの良い性格をしておったからな。尊敬を集めるような人柄ではなかったが、多くの人から親しまれておったよ。かく言うワシも、ナギの事は気に入っとったしの」

「そ、そうですよね」


 ホッと胸を撫で下ろすネギを見て目を細めた近右衛門は、しかしすぐに眉間に皺を寄せる。極僅かな変化であった上に、豊かな眉毛が邪魔をしてネギは気付けなかったようだが、そこには確かに不快の文字が刻まれていた。


「とはいえ、私人としてはどうしようもない大ポカをやらかしとるがの…………いや、ここで言ってもしょうがない事じゃな」


 近右衛門は首を振り、それからドラ焼きに手を伸ばした。ネギが持ってきたそれは、学園都市内にしか出店していない和菓子専門店の物で、しっとりとした甘さが好みに合う事から、しばしば近右衛門も茶請けとして購入している物だ。

 ネギがその事を知っていたのかどうかは分からない。けれど適当に探しただけでは決して見付からないこの菓子を持ってきた事から、その誠意は十分に察せられる。彼の父親であるナギには、絶対に真似出来ない類の芸当だ。


「あの、学園長」

「ん? どうしたんじゃ?」


 慣れ親しんだドラ焼きの味に頬を緩ませながら近右衛門が応えると、ネギは遠慮がちに口を開いた。


「今度は、普段の父さんがどんな人だったのか教えてくれませんか?」

「ふむ。それは別に構わないんじゃが……」


 言いつつ、近右衛門は改めてネギの姿を観察する。

 尋ね掛けるように上目遣いで彼を見詰める双眸は子供特有の愛らしさを秘め、また理知的な光を宿し、整っていると評される顔の造りにも、同じく子供故の柔らかさが見て取れる。ソファに腰掛ける姿はお手本のように折り目正しく、子供ながらに着込んだスーツは、皺一つ無い完璧な状態だ。

 驚くほど父親に似ており、同時に奇跡的なほど似ていない。それが、ネギ=スプリングフィールドという少年だった。


「くれぐれもナギの真似はせんようにの。人にはそれぞれ向き不向きというものがあるからな」

「え? あ、はい」


 よく分からないといった様子ながらも素直に頷くネギを見て、近右衛門は深く感じ入ったように目蓋を閉じ、


「うむうむ。ネギ君はそのままが一番じゃからな。では、話し始めるとしようかの」


 好々爺然とした態度で語り出すのだった。








 ■








「貴方にわかりますか、高畑先生? 私がどんな気持ちで引き受けたのかを!」


 思いの外大きな声で叫んだガンドルフィーニの言葉は決して広くない居酒屋の店内に響き渡り、居合わせた他の客の注目を集める結果となった。集まる好奇の視線に気付いたタカミチが対面のガンドルフィーニに気付かれないよう頭を下げれば、周りの客達は慣れた様子で気にするなと手を振り返してくる。そんな状況の中でも、ガンドルフィーニは熱心な様子で喋り続けていた。


「あの子は昔からそうなんです。才能も思い切りの良さもあるから、コチラが予想もしないような無茶をする。高校生なのに貴方と同じ仕事を受けると聞いた時など頭を抱えましたよ。九年前に至っては…………学園長共々どれだけ肝を冷やした事か」


 浅黒い肌をハッキリと分かるほどに赤く染め、また一杯、ガンドルフィーニは酒を呷る。次いで空になったコップを叩き付けるようにしてテーブルに置き、深く大きな溜め息を吐き出した。

 対面のタカミチが思わず眉根を寄せるほど酒臭い空気が、辺りに満ちる。

 普段は家庭を優先する為に付き合いが悪い彼がこれほどまでに酔っ払っている姿を、タカミチは初めて見た。このような状態にあって尚、聞かれたら不味い言葉を一つも漏らさないのは流石だが、普段の理知的でお堅いイメージがあるだけに、タカミチとしては唯々驚くばかりである。そしてそれ故に、若干の申し訳無さを覚えてしまう。


「やはり、心配になりますか?」

「当然ですよ! 心配にならない訳が無い!! …………危険なだけじゃなく、やってはいけない事だ。私には止める義務がある」


 前半は熱く、後半は声も肩も落として、ガンドルフィーニが語る。その言葉を、タカミチは黙って受け止めた。

 言うなれば、タカミチにとっての明日菜に近いのかもしれない。そう思えばこそ、彼には何も言えなかった。どんな言葉を掛ければ、気が晴れるというのか。その答えを知っているのならば、タカミチの方が教えてほしいくらいだ。


「けどね、高畑先生。あの子の気持ちもわかるし、手伝ってあげたいとも思うんですよ」


 再びの溜め息と共に、疲れた様子でガンドルフィーニが呟いた。


「昔のあの子はね、今と違って笑わない子だったんですよ。いつも魔法の練習ばかりしていて、学校の外で友達と遊んでいる姿なんて、まるで見た覚えが無いんです。お爺ちゃん子だったのは今と変わりませんけど、本当にただそれだけの気がして、学園長と一緒になって色々と気を揉みましたよ」


 クッと一息にコップの中身を飲み干して、


「やはり子供は一杯遊んで、色んな事に興味を持つべきなんです。断じて、友達と遊ぶ事に首を傾げるようになってはいけない」


 実感のある、重みを持った言葉を、ガンドルフィーニは吐き出した。

 彼の言葉を聞いたタカミチが思い出したのは、やはり明日菜の事だ。彼女と初めて会った時の事や、麻帆良に来て間も無い頃の事が、自然と想起される。当時の明日菜は、先程のガンドルフィーニの話がピタリと当て嵌まるような子供だった。

 同時に、少し意外に思う。それはタカミチの知る洸の姿からは、あまりにも懸け離れたものだ。よく気配りが出来て、非常に面倒見の良い性格をした女性というのが、彼が洸に対して抱いている印象だった。


「だから彼女には感謝しているんですよ。切っ掛けは私達が無理矢理作りましたけど、ちゃんとあの子の友達になってくれましたから。あの子が生来の優しさを十分に育てられたのは、間違い無く彼女のお陰です」


 その言葉には、何一つとして嘘が含まれていないように感じられた。言葉の裏に潜むのは悔しさだけで、確かにガンドルフィーニはエヴァンジェリンに感謝しているのだと、タカミチには信じられる。それほどまでに、真摯な響きをした声だった。


「あの子とは妻と出会う前、娘が出来る前からの付き合いで、今みたいに立派に成長してくれた事は本当に嬉しいんですよ。だから彼女には感謝してて、力になりたいとも思うんですが、ですが…………ッ!」

「まぁまぁ、ガンドルフィーニ先生。少し落ち着いて」


 感情の高ぶりから声を震わせるガンドルフィーニを宥めながら、タカミチもまたコップに口をつける。

 今日はもう、トコトン付き合う腹積もりだ。こんな事を話す機会などそうそう無いのだから、一遍に吐き出してしまうに限る。そんな風に考えながら、タカミチは次の酒をガンドルフィーニに勧めるのだった。








 ■








「なんじゃ、ガンドルフィーニ君も協力してくれるのか」

「そうだけど…………なんだか不機嫌そうなのは気の所為?」

「気の所為だと思うなら、気の所為なのではないかの」


 近右衛門の返答に、洸は呆れから息を吐く。

 彼の話し方も態度も、明らかに機嫌が悪い時のソレだ。


「最初に折れた人が、何を言ってるんだか」


 洸の言葉から逃れるように顔を逸らし、近右衛門は素知らぬ様子で茶を啜る。そんな祖父の姿をジト目で睨みながら、洸は同じように自らの湯呑みを傾けた。そうして熱いお茶で体を温めながら、彼女は少しばかり考えを巡らせる。

 今回の件における最初の協力者にして、おそらくは最も歯痒い思いをしている人物。それが近右衛門だ。立場上、当日は直接参加する事は叶わず、またもしもの時はその手で洸達に罰を与えなくてはならない。組織の長としても、洸の祖父としても止めなくてはならない身でありながら、エヴァンジェリンの友人としても、彼女を親友と呼ぶ孫娘を持つ身としても協力せずにはいられないのだから。

 その所為か、いつもは泰然と構えている近右衛門も、この件については歯切れが悪い。だからといって洸が頼む仕事に支障が出る事は無いが、彼女としては色々と心配になってくるのもまた、確かな事だった。


「今になって中止も何も無いでしょ。相変わらず本国の方は煩いみたいだしね。なら、少しでも前向きに頑張らないと」

「愚痴の一つくらいは言いたくもなるわい。失敗しても、ワシの責任にはならんのじゃからな」

「監督責任とかはあるでしょ?」

「そんなもの屁でも無いわ」


 鼻を鳴らして息巻く近右衛門を見て、洸は困ったように眉尻を下げる。


「けど、お爺様に責任を取らせる訳にはいかないよ。今の麻帆良はお爺様一人で支えている面が大きいから、下手に庇われでもしたら、それこそ色々な人に申し訳が立たなくなるもの」

「それはワシが誰よりも理解しておるよ。だからこそ、ココで愚痴を零すんじゃろうが」


 洸が仕方無いと肩を竦めれば、近右衛門は意味も無く胸を張る。話している内容とは裏腹に、二人の間に流れる空気は実に緩やかで、穏やかなものだった。そんな居心地の良い雰囲気を名残惜しみつつ、洸はお茶を飲み干してソファから立ち上がる。


「なんじゃ、もう帰るのか?」

「うん。今日は先生の事を報告しにきただけだしね」


 既に時刻は午後八時。洸の体は先程から空腹を訴えており、急ぎ家に帰って夕食の用意をする必要があった。以前であれば、このまま近右衛門と夕食を共にする事も多かったのだが、今の洸にはそうもいかない理由がある。


「それに、私の帰りを待ってる子が居るから」


 あまり予定外の行動をする訳にはいかない。

 そんな洸の言葉を受けて、近右衛門は得心がいったと頷いた。


「なら、仕方無いの。しかし……」


 眉に隠れた双眸を細め、近右衛門は扉の前に立つ洸を見詰めると。


「そう思うなら、くれぐれも下手を打たんようにの」


 勿論、と笑顔で返事をした洸は、そのまま軽く手を振って学園長室を出ていった。そうして閉じていく扉の隙間に吸い込まれる黒髪を見送った近右衛門は、やがて完全に扉が閉じたのを確認すると、ソファに深く身を預けて息を吐いた。








 ■








「へぇ~。それじゃあ、色々とお父さんの話を聞けたんだ」

「はい。想像とは少し違いましたけど、やっぱり尊敬出来る人でした」


 明日菜達の部屋にネギが住む事になってから、既に一月半が過ぎた。初めの頃は生活の変化に対して色々と戸惑う事もあった三人も、今ではスッカリその事に慣れ、新しい生活スタイルを構築している。そして、その中で生まれた習慣の一つに夜のティータイムがある。生来のお茶好きという理由に加え、明日菜達と触れ合う機会を少しでも多く持ちたいという気持ちから、ネギが提案したものだ。

 朝と昼は忙しくて時間が作れないとしても、一日の仕事を全て終わらせた後くらいは、三人でお茶を飲みながら落ち着きたい。そんなネギの些細な願いを叶える事は吝かではなく、実際にやってみると思った以上に楽しかった為に、今となっては完全に明日菜達の生活の一部に組み込まれていた。また二人以外にも探検部の三人やあやかといった、ネギと親しい生徒数名が加わる事もある。


「けど、ネギ君も大変やね。お父さんが行方不明やなんて」


 ネギが淹れたダージリンティーを楽しんでいた木乃香が、心配した風に声を上げる。


「そんな事はありませんよ。生きているって信じていますし、周りの人達が色々気に掛けてくれましたから」

「ネカネさん、やったっけ?」

「はい。他にもお爺ちゃんや、学校の先生ですね。あと、幼馴染みのアーニャも。あ、でも! 一番尊敬してるのは父さんですよ!」


 少し慌てた様子で手を振りながら話すをネギを見て木乃香が笑い、明日菜もまた温かな視線を送る。部屋の中には居心地の良い空気が満ち、紅茶の香りが団欒の楽しさを感じさせる。その中で、ふと思い出したように木乃香が口を開いた。


「たしか、人を助ける仕事をしてたんよね?」

「えぇ、その通りです。国連のNGO団体に所属していて、世界中を飛び回っていたそうです」

「凄いんやねぇ」


 途端、ネギは満面の笑みを浮かべて、


「はい! もしかしたら行方不明の原因なのかもしれませんけど、父さんの仕事は立派だと思います!」


 元気一杯に声を上げた。


「ホント、アンタはお父さんが好きねぇ」

「ウチはわかる気がするな~。ウチも姉様の事は尊敬しとるし」

「普通そこは学園長じゃないの?」

「やー、お爺ちゃんはちょっと……」


 明日菜とネギが顔を見合わせ、それから、同時に笑い声を上げる。二人につられて木乃香も笑い出し、そうして部屋の中は暫し三人の笑い声で満たされた。気の置けない者達と交わす、他愛も無い会話の応酬。今となっては居ない方が不自然に感じられるほど明日菜達の日常に溶け込んだネギの姿が、そこにはあった。

 四月五日。土曜日。三日後に新学期の始まりを控えたこの日もまた、ネギは穏やかな時を過ごしていた。












 ――――後書き――――――――


 そんな訳で、第十五話です。お読みくださった方、ありがとうございます。

 今回の更新はいつも以上に遅れてしまい、読者の方々には本当に申し訳無いです。暫くは時間に余裕があるので、気持ちの引き締めも兼ね、次回は二週間後に更新したいと思います。

 それでは今回の話についてですが、春休み編の最後という事もあり、色々と詰め込んだ感じですね。新学期の開始に合わせて色々調整が入ってます。あと、ガンドルフィーニが再登場です。彼の登場自体は予定通りだったのですが、なんだか考えていたものとは違う方向で頑張ってくれました。本作での彼の位置付けは、今後もこのような感じです。多分。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十六話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:0e463a95
Date: 2009/07/05 21:05


「みなさん、始業式お疲れ様でした。春休みは楽しかったですか?」


 麻帆良学園本校女子中等学校三年A組。教室の位置は変えず、教室札だけを入れ替えたそこで、教育実習生の時と同様に担任を務める事となった生徒達の顔を、ネギは端から順に見回していく。元気良く瞳を輝かせている者や疲れた表情で肩を落としている者が居れば、友達と話している者や一人で静かにしている者も居る。十人十色。けれど各々が休み前と変わらない様子で、この教室に揃っていた。

 そう思って笑顔で頷いていたネギは、ふと二週間前には見られなかった光景に気付いた。

 綾瀬 夕映と、長谷川 千雨。席が隣同士でありながら、会話らしい会話をしている所を見た覚えが無かった二人が、今は雑談をしている。喋っているのは主に夕映のようだが、時折千雨の方でも相槌を打ったり、返事をしたりしているようだった。


「………………」


 体の奥から嬉しさが込み上げてきて、ネギは刻んだ笑みを一層深めた。こうした生徒達の変化に気付けると、先生としてちゃんと仕事が出来ているような気がしてくる。幸先の良いスタートだと、ネギは出席簿に丸をつけながら心中で呟いた。


「この後は身体測定なので、保健委員の言う事をよく聞いて行動してくださいね」


 全員の出席を確認し終えたネギが呼び掛ければ、アチコチから元気の良い声が返ってくる。そんな相変わらずな生徒達の態度を喜んだネギは、次いで一人の少女へと視線を向ける。色素の薄い髪を持つ彼女はそれに気付くと、線の細い笑みを浮かべた。


「それでは和泉さん、お願いしますね」

「ええよー、ネギ君。ウチに任せといて」


 和泉 亜子(いずみ あこ)。A組の保健委員を務める彼女は、そう言ってA4サイズのプリントを取り出した。始業式後に各クラスの保健委員に配られた、身体測定の手順を詳しく示したものだ。


「頼りにしてます。器具の運び込みなら僕も手伝いますから、指示してくださいね」

「あはは、ソレええなー。ウチがネギ君を使うんか」


 一学年につき二十四クラスも存在している麻帆良学園では、混雑回避や時間短縮という理由から、各教室に測定器具を運び込んで身体測定をする事になっており、また実際の測定も――――知識のある教員が監督官として就くが――――生徒主体で行われる。


「けど、やっぱ遠慮しとくわ。子供のネギ君にやらせる訳にはいかんもん。ウチのクラスの分は隣の校舎にあるみたいやし、ウチらだけで運ぶわ。せやから、ネギ君は休んどいてえーよ」

「そうですわ、ネギ先生。運動の得意な方達だけでも十分な人数ですし、なにより我がクラスには体力お馬鹿なおサルさんが居ますので心配御無用ですわ。どうぞ、先生はお休みになられてください」


 思わず亜子とあやかの言葉に良い返そうとしたネギは、けれどすぐに口を噤んだ。生徒が自分達でやると言っているのなら、その意思を尊重した方が良いかもしれない。そう考え直し、この場は彼女らの言葉に甘える事に決めた。


「じゃあ――――――」

「ちょっといいんちょ、おサルさんって誰の事よ!」

「あらアスナさん、もしかして鏡をご覧になった事が無い? もしそうなら、私の手鏡を貸してあげますわよ」

「っるさいわね! アンタこそ鏡見なさいっての。子供に見せられない顔してるじゃない!」


 肩を怒らせた明日菜の言葉を聞いたあやかが、ワナワナと唇を震わせた。

 途端に漂い始めた喧噪の予感に、ネギは冷や汗を流す。春休みを挟んだ所為で、完全に油断していた。このクラスは、少しでも手綱を緩めるとすぐに暴走を始めてしまうのだ。普段の授業中であれば教師側でイニシアチブを取れるから問題無いのだが、こういった時間はそれなりに生徒の自由も保証される為、非常に危ないのである。

 春休み前に一月以上掛けて蓄積したそれらのノウハウをウッカリ忘れていたのは、ネギにとって痛恨の極みだった。


「ふ、二人とも落ち着きましょうよ。ほら、この間は凄く仲良くしてたじゃないですか」

『仲良くなんてしてない(ません)!』

「あう……」


 声を揃えてネギを黙らせた明日菜達は、その勢いのまま言い合いを始めてしまった。言っている内容は正しく子供の喧嘩そのもので、傍から見る分には笑いを誘われる光景かもしれないが、当事者であるネギとしては堪ったものではない。

 折角幸先良くスタートを切れたと思ったのに、これでは大失敗も良い所だ。


「あちゃ~。ネギ君どうする? ウチは適当に誘って器具を取りに行こうと思うけど、一緒に来る?」


 二人の争いを横目に話し掛けてきた亜子の言葉を聞いて、ネギは思わず涙ぐみそうになった。教室の後ろへと舞台を移した明日菜達は益々ヒートアップしているようで、完全にネギが抑えられる範囲を超えている。出来るならほとぼりが冷めるまでこの場を離れていたいというのが、偽り無いネギの本音だった。

 だが、その選択肢を選ぶ訳にはいかない。


「いえ、僕は二人を説得していますから、和泉さん達だけで行ってきてください」


 今日からは教育実習生としてではなく、正式な教師としてこの場所に居るのだ。あまり情けない事はしていられない。心の中で自分に発破を掛けて、ネギは気合いを入れる。そんな彼の返答を聞いた亜子は、感心した様子で頷いた。


「ネギ君はエライんやなぁ。それじゃウチは行ってくるけど、頑張ってな」

「はい!」


 争う明日菜達を見て野次を飛ばしている生徒達の方に歩いていく亜子を見送ったネギは、次いで二人の方へと顔を向ける。相変わらず熱く言い合っている彼女達は、やはりネギの手には負えそうになかった。

 しかし、だからといって諦めるつもりは無い。

 一度、大きく深呼吸をして心を落ち着けたネギは、ヤル気の漲った瞳で明日菜達を見据え。


「コラー! いい加減にしないと怒りますよッ!!」


 こうして、ネギの新学期が始まるのだった。












 ――――第十六話――――――――












 身体測定が終わり、残る連絡事項の伝達も消化して放課後を迎えたネギは、春休み明けの再会を喜ぶ生徒達で賑わう廊下を、職員室を目指して歩いていた。その足取りは重く、表情は浮かない。明らかに、新学期初日を大過無く終えたという様子ではなかった。


「はぁ……こんな調子で大丈夫かなぁ」


 逃げた幸せに引っ張られるように、口から溜め息が漏れる。

 あの後、明日菜とあやかの言い合いはちゃんと治める事が出来た。それこそ、拍子抜けしてしまうほど簡単に。まさかネギが思い切り怒鳴るとは思っていなかったのか、彼の怒鳴り声に多くの生徒が目を丸くして驚き、一斉に注目した。それは明日菜達も同様で、気勢を削がれた二人を説得するのは、決して難しい事ではなかった。

 そう、此処までは良かったのだ。問題はその後、騒いでいた二人が大人しくなってからだった。珍しく怒鳴ったネギに興味を刺激されたらしい生徒達が、彼の所へ勢い良く殺到したのだ。お陰で教室の中は一瞬で喧噪を取り戻し、今度はその対応に追われた訳である。


(教師としての威厳が無いのかなぁ…………無いんだろうなぁ)


 怒鳴った事を生徒に面白がられるというのは、教師としてあまりにも情けない。子供な上に新米ともなれば仕方が無い面もあるのかもしれないが、だからといって重要課題の一つという事には変わりなく、またどうしようもなく悔しい事でもあった。


(だけど……)


 ヤル気は十分にある。三学期の期末テストでは望むだけの結果を得られたし、その事にはついては他の先生方にも褒められた。だからこの問題に関しても、頑張ればきっと解決出来るはずだ。そうなのだと、信じられる。

 グッと拳を強く握り、ネギは改めてこれからの教師生活に向けて気合いを入れた。


「あの、ネギ先生。少し良いですか?」


 遠慮がちに声を掛けられたのは、その時だ。

 どこかで聞いた覚えがあるようで、しかし本当は無いような気もする、少女の声。鈴の音そのものといった様子の可憐な響きを持ったそれに反応して振り向くと、そこにはネギの見知った生徒が居た。

 ネギにとっては親しみを覚える膝下まで伸びた金髪に、湖面を思わせる深い色合いをした青の瞳。可愛いというよりも綺麗という表現が似合いそうな面立ちをしている反面、中学三年生としてはあまりにも幼過ぎる体躯。そんな、彼が受け持つ生徒の中でもかなり目立つ部類に入る容姿を持ちながら、それ以外の部分では驚くほど記憶に引っ掛からない少女。


「どうかしましたか、マクダウェルさん?」


 エヴァンジェリン=A=K=マクダウェル。授業以外では一度も話した事の無い彼女が、一体なんの用なのだろうか。そう思ってネギが首を傾げていると、彼女は伏し目がちに周囲を気にしながら、一歩、距離を詰めてきた。


「お話があるのですが、ココではちょっと……」

「え? ……あ、はい! 急ぎの用事はありませんから、大丈夫ですよ」


 応えながら、ネギは浮き立ちそうになる心を必死に奥の方へと押し込んでいく。

 この状況、深く考えなくても何かの相談事だと想像する事は容易い。それも、おそらくは個人的な事だ。エヴァンジェリンは委員会に入っていないし、よもや囲碁部や茶道部の事でネギに話があるとも考え辛い。そう思えばこそ、ネギは嬉しかった。今の状況を考えれば不謹慎なのだろうが、生徒から頼りにされているというのは、ネギにとって非常に喜ばしい事なのだ。


「ありがとうございます。では、私についてきてください」


 そう言って歩き出したエヴァンジェリンはスルリとネギの横を抜けていき、


「――――――――え?」


 擦れ違う瞬間、驚くべき事を口にした。そのあまりの内容にネギは動かそうとした足を止め、遠ざかる少女の背中を凝視する。

 彼の様子に気付いたのか、立ち止まったエヴァンジェリンが振り向き、不思議そうに首を傾げた。一見すれば、何気無い普通の仕草。けれど僅かに吊り上がった口元を見て、ネギは聞き間違いではなかった事を確信した。


「どうかしましたか、ネギ先生?」

「あ……いえ。なんでもありません」


 ネギは首を振り、エヴァンジェリンの方へと歩き出す。

 確かに戸惑いはあった。しかしそれは、彼女の話を聞けばきっと解消される。


 ――――――――私、魔法使いなんです。


 長い金髪を揺らして歩き始めたエヴァンジェリンの背中を、ネギは黙って追い掛けた。








 ◆








 空には雲一つ無く、新年度の始まりを祝うように白く眩い陽光が降り注ぐ中、とあるカフェのテラス席に座る千雨と夕映は、昼食後のデザートを楽しみながらダラダラと雑談に耽っていた。傍にはハルナ達の姿は無く、正真正銘、二人だけの席。ある意味では邪魔者とも言える彼女達が居ないこの場で、千雨は外面を取繕う事無く過ごしていた。


「それで、どうでしたか? 新学期初日の感想は」

「最悪だな。なんだってアイツらはアホな事しかしねぇんだ」


 カフェ独自のデザインが施されたカップに刺さったストローを咥え、千雨はズッとカフェオレを吸い上げる。表情は不機嫌そのものといった様子で、次の瞬間には舌打ちが聞こえてきそうなほど眉間に皺を寄せていた。


「もう中学も三年目なんだから、少しは落ち着けないのかね」

「それがウチのクラスですからね。そうなったら、逆に落ち着かないかもしれませんよ」

「ハッ、たしかにな」


 皮肉げに笑った千雨は、一瞬の後に、そんな自分に気付いて顔を顰めた。


「どうかしましたか?」

「いや、そこで納得する辺り、私も随分と慣らされてる感がな……」


 コメカミに指を当てて溜め息を吐く千雨を見て、夕映が苦笑する。


「私としては、ハルナ達と仲良くして貰いたいと思っているのですが」

「そう思うなら、まずはアッチに努力させたらどうなんだ? 大体、私は別に綾瀬とだって仲が良い訳じゃ――――――」

「えぇ、わかっていますよ。ですから、これから仲良くなりましょう」

「――――――っ」


 笑顔で応えてきた夕映を前にして、千雨はただ口をまごつかせる事しか出来なかった。

 調子が狂う。帰省を終えた夕映が麻帆良に帰ってきてから、今日で三日だ。そう、夕映とのまともな友達付き合いが始まってから既に三日が経った訳なのだが、千雨は未だに夕映との距離を測りかねていた。だから無闇に懐に入れようとはせず、逆に少し突き放すような態度を取っているというのに、彼女はまるで気にした様子が無い。それどころか、こうして無防備な姿を晒す始末である。


「ったく。アンタも十分変わり者だよ」


 負け惜しみ同然の悪態にも夕映は楽しそうな表情を崩す事は無く、千雨は舌打ちと共に顔を逸らした。


「……それで? 今日はこれからどうするんだ?」

「さて、どうしましょうかね?」


 とぼけた様子で首を傾げる夕映に、千雨は脱力して息を吐く。


「おいおい、ソッチから誘ってきたんだろ。なら、アンタが予定を考えとくのが筋じゃないのか?」

「そうですか? こうして一緒にお茶でも飲みながら、ダラダラと予定を考えるのも楽しいじゃないですか」


 小さく両手を上げ、疲れた様子で千雨が首を振る。


「ハイハイわかったよ。降参だ」

「では、千雨さんはどこか行きたい所はありますか?」


 何事も無かったように話を進める夕映に、千雨は加速度的に疲労が溜まっていくような気がした。

 まったくもって、やりにくい。特別ぶっ飛んだ言動をする訳ではない。心底うざったくなるほど無神経な訳でもない。実際に話をしてみれば割と気が合う事は分かるし、コチラに対する気遣いを感じる時もある。そういった所は、友達付き合いをする相手として十分だと思っているし、事実、この三日間で千雨が不満を感じた事は無い。

 ただ、と千雨は心の中で呟いた。


「イキナリ言われても、簡単には思い付かないっての」

「たしかにその通りですね。まぁ時間はありますし、ゆっくり考えましょうか。そうそう、ココの新作パフェの噂は知っていますか? 名前と見た目はキワモノなのに、食べてみたら意外に美味しいという話です。折角ですから、一つ頼んでみませんか?」

「……はぁ。好きにしたら良いんじゃないのか」


 夕映が相手だと、何故か調子が狂う。なんだかんだと流されて、結局は彼女の思い通りになっているような気がする。しかも、それを理解した上で嫌だという気持ちが湧いてこないのだから、千雨としてはかなり不可解だ。もしも他のA組の生徒が相手なら、今頃は何某かの理由をつけて寮に帰っている自信が、彼女にはあった。


「では、頼みましょうか」


 楽しそうにメニューを指でなぞる夕映を、千雨は黙って眺めていた。

 きっと今日は、こんな風に時間が過ぎていくのだろう。こうして夕映と一緒に、大した意味も無くダラダラと過ごすのだろう。なんの疑問を抱く事も無くそう考え、そんな自分を、千雨は自然と受け入れていた。


「ったく、メンドくせぇ」


 ただ不思議と、悪い気はしなかった。








 ◆








「資料集め、ですか?」

「えぇ。是非ともネギ先生に手伝って頂きたくて」


 花も恥じらうほどの綺麗な笑顔を作り、エヴァンジェリンがネギの質問に答える。

 場所は屋外。学園の生徒達が殆ど寄り付く事の無い一角に設置された、古惚けた木製ベンチでの事だ。小さな林を形作るほど多くの木が植えられた一帯には濃密な緑の匂いが漂っており、小鳥の囀りがそこかしこから聞こえてくる。姿も声もそれらに紛れ込ませるようにしながら、二人はヒッソリと話をしていた。


「麻帆良で実際に起こった魔法関連の事件について資料を集めて、レポートに纏めるのが課題なんです。実際には資料の方は集め終えているので、あとは内容を整理して纏めるだけですね。それで、その部分を先生に手伝ってほしいんです」

「なるほど…………けど、いいんですか? 僕が手伝っても」

「はい。担当の魔法先生には許可を頂いていますから、問題ありません」


 即座に返ってきたエヴァンジェリンの言葉を聞き、ネギは顎に手を当ててフムと頷いた。

 悪くない。というか、凄く興味がある。麻帆良に来てから二ヶ月近く経ち、今日からは正式な教師として勤め始めたネギだが、未だに魔法組織としての活動についてはよく分かっておらず、どのような魔法使いが所属しているのかも知らされていなかった。先程エヴァンジェリンが言った魔法先生にしたって、もしもタカミチではないのだとすれば、ネギには誰なのか見当もつかない。

 だから、これは願ってもない申し出だ。他の魔法使いが何をしているのか知る事で、色々と修業の参考に出来るかもしれない。


「……でも、どうして僕に頼もうと思ったんですか?」


 ふと思い立ち、ネギは隣の少女に問い掛ける。

 眼鏡越しにそのブラウンの瞳を向けられた彼女は、やはり宝石のような笑顔を浮かべたまま、嬉しそうに答えた。


「勿論、ネギ先生と仲良くなりたいからです。これまでは魔法使いとして接触しないよう止められていたんですけど、ほら、今日からは正式採用の教師になったでしょう? だから担任と生徒という関係ですし、少しくらいなら良いという事になったんですよ」


 その言葉は一粒の雫となって、ネギの心を打った。

 仲良くなりたい。これほど分かり易く、感銘を受ける理由はそうそう無い。今日あった嫌な事の全てが瞬く間に洗い流され、胸の裡が晴れ渡るような気がして、ネギは背筋を震わせて喜びを噛み締めた。

 教師として、生徒にこのような事を言われて嬉しくないはずが無い。


「僕も、マクダウェルさんと仲良くなりたいとです! 課題ですね? 任せてください!」


 気付けばエヴァンジェリンの小さな手を握り、ネギは鼻息も荒くそう言っていた。


「オ――――あ、あの……ネギ先生?」

「あっ! ス、スミマセン!」


 慌ててエヴァンジェリンの手を離したネギが、跳ねるようにして距離を取る。

 しまった、と思った。いくら興奮していたとはいえ、イキナリ手を握るというのは些か無遠慮だ。エヴァンジェリンとマトモに会話をしたのは今日が初めてだし、もしかしたら彼女の機嫌を損ねてしまったかもしれない。

 そう考えながらエヴァンジェリンの様子を窺い見たネギの目に映ったのは、口元に手を当てて小さく体を震わせる少女の姿だった。


「そんなに慌てなくても、別に気にしてませんから大丈夫ですよ。少し、驚いただけですから」


 ウェーブの掛かった長い金髪を風に遊ばせて、エヴァンジェリンがたおやかに笑う。小柄な体躯でありながらも年長者としての余裕を感じさせるその態度に、ネギはより一層恥ずかしさを覚えて身を縮こまらせた。


「うぅ。スミマセン、気を遣わせてしまって」


 情けなさから、ネギは顔を俯かせる。

 これでは、どちらが先生なのか分かったものではない。自分自身の未熟さは認めているし、だからこそ努力を惜しむつもりは無いが、やはり生徒の前ではシッカリとした先生で居たいのだ。これまでの教師生活を省みると、確かにそうそう上手くいく事ではないのだが、それでも、と思ってしまう。


「顔を上げてください。ほら、私は気にしていないので、先生も気にしないでください」


 膝に乗せられていたネギの手を、エヴァンジェリンが優しく掴む。

 その気遣いに、気遣われる自分に、ネギは胸が詰まり、


「~~~~~~~ッ。僕、頑張りますッ!!」


 辛うじて口から出せたのは、そんな言葉だけだった。








 ◆








 悪くない。ふと頭に浮かんだその言葉に気付き、千雨は筆舌に尽くし難い表情を作った。

 現在、千雨の前には大きな本棚がある。そこには種々様々な色の背表紙が並んでおり、千雨にも見覚えがある物、今日初めて見る物、はたまた作者や編集者のセンスを疑うような物など、多種多様なタイトルが自らの存在を主張していた。その中から興味を引かれる物を適当に物色している彼女の隣では、同じように夕映が本棚を見上げている。

 図書館島、ではない。先程のカフェから歩いて十分ほどの所にある、それなりに大きな本屋だ。服飾店、カラオケ、アミューズメントパークなど、あれから色々と案を出し合った中で夕映が選んだ行き先は、何故かこの店だった。

 他の選択肢と比べたら地味で、イマイチ楽しみ甲斐が無さそうなこの場所に決めた理由は、千雨には分からない。ただ、千雨としても未だ距離を測りかねている夕映が相手なら、賑やかしく盛り上がるような『遊び』より、こうして静かに時間を共有する『付き合い』の方が良かったのは確かだ。


「あ、コレなんてどうですか?」


 少し弾んだ声に載せた、夕映の呼び掛け。それに応える形で右下へ視線を遣った千雨が見たのは、一冊の文庫本の表紙だった。一人の少女が憂いの表情を浮かべて彼方を見詰めているイラストが描かれたその本には、千雨にも覚えがある。今期アニメ化された人気ライトノベルで、ネット上でも話題になっている作品だ。


「ちょっとイイか?」

「えぇ。どうぞ」


 断って、夕映の手から本を受け取る。それから、矯めつ眇めつ評価していく。最近ちょくちょく見掛けるようになった絵に関しては、十分に合格レベル。最初の数ページに目を通してみると文章の方も読み易く、こちらも千雨の基準を問題無く満たしている。


「ライトファンタジーの恋愛物か…………コレ、綾瀬はもう読んだのか?」

「はい。全巻持ってるですよ。オススメです」


 躊躇い無く言い切った所を見ると、余程自信があるのだろうか。なんにせよ『ちう』のファン層にはこの手の話題に食い付てくる者が大勢居るし、千雨自身もこの方面は造詣が深い。だから、いずれは買っていたはずだ。それが今になった所で、なんの問題も無い。

 開いていたページを閉じ、千雨は同シリーズ全巻を本棚から抜き取った。


「ま、そこまで言うなら買ってみるか」


 あくまでそんな事を言いながら、腕に提げたカゴの中に十冊以上の本を入れていく。その様子を見て、夕映が感嘆の声を上げた。


「スゴイですね。そんなに一遍に買えるのですか?」

「ちょっとした稼ぎがあるからな。このぐらいなら問題ねーよ」


 中学生とはいえ、ネットを利用すればお金を稼ぐ方法は色々と存在する。その中でもライトな手段にしか手を出していない千雨だが、ネットアイドルとしての活動を含め上手く軌道に乗った結果、安定した利益を上げていた。

 その稼ぎは基本的に『ちう』の衣装代や機器代に消える訳だが、こうした趣味にも消費される。しかも都合の良い事に、今日は普段より多めに財布の中身を用意している。だから此処で買い物をした後に他の店へ行っても全く問題が無いくらいには、懐に余裕があった。


「へぇ、それはちょっと羨ましいですね」


 言葉通り羨望の眼差しを送ってくる夕映に気付き、千雨は気まずさから顔を逸らした。

 ネット関係の事は、夕映には教えていない。引かれるかもしれないとか馬鹿にされるかもしれないとか、そういった可能性を考えたらどうしても怯えが先立つし、何より、自分と夕映はまだそれほどの関係ではないはずだと、千雨は捉えている。

 ただ、今現在の『長谷川 千雨』を形作る最も大きな要素について黙っているのだと思うと、何故か心苦しかった。


(…………クソッ)


 心中で小さく舌打ちした千雨は、


「ホラよ」


 棚から抜き出した本を、夕映の方に差し出した。

 パチクリと大きな瞳を瞬かせ、夕映がビックリした様子で見上げてくる。


「一冊完結の上に絵が地味だから目立たないが、中身は文句無く面白い。”私の”オススメだ」


 言い終えてから、おそらく五秒弱。今にも頬が赤くなりそうなのを必死で抑えていた千雨の耳を、夕映の嬉しそうな声が揺らした。


「ありがとうございます。是非とも読ませて頂きますね」


 カッと、体中に火が付いたような錯覚を、千雨は覚えるのだった。








 ◆








「コレが私のメールアドレスと電話番号なので、連絡する時はコチラにお願いしますね」

「はい。予定が決まったら連絡しますね。マクダウェルさんの方でも何かあったら、すぐに連絡してください」


 向かい合わせていた互いの携帯電話を離し、ネギとエヴァンジェリンはにこやかに話し合う。

 あれから感情の高ぶったネギをどうにかして落ち着けた後、二人は昼食を取る為に近場のカフェへと移動した。そこで具体的な単語を避けつつ話を煮詰めていった訳だが、その途中で判明した問題が、一つある。今日はネギの都合が悪いという事だ。

 新年度の初日で、また数日後には新入生の入学式が控えているという事もあり、教師陣は何かと忙しいらしい。昼休憩が終わるまでは暇があっても、そこから後は新任のネギであろうと容赦無くこき使われるようで、今日の作業は諦めざるを得なかったのだ。

 ただ、だからといって悠長にしていられないのも事実だった。

 エヴァンジェリンが提示した期日は、丁度一週間後。課題の提出日であるらしい十六日の前日となる、大停電の日だ。それまでにネギは資料に目を通し、彼女と共にレポートに纏めなければならない。その事を考えると、出来るだけ早く予定を立てる必要があった。


「資料は明日、コピーした物を持ってきますね。魔法は掛けておきますけど、くれぐれも他の人には見せないようにしてください」

「はい、勿論です」


 スーツのポケットに携帯電話を仕舞ったネギが、テーブルの端に置いてあった伝票を掴む。それから、はにかむような笑みを浮かべた彼は頬を指で掻きながら、視線をエヴァンジェリンから逸らして口を開いた。


「えっと、こういうのはあまりよくないんですけど、今日は僕が払いますね」

「そ、そんなの悪いですよ! 私の分は私がちゃんと払いますから」


 慌てた様子で立ち上がったエヴァンジェリンを、ネギが右手で制す。


「いいんです。課題の事で誘って貰えたのは嬉しかったですから。それにほら、今日は情けない所ばかりだったので、ちょっとくらいはカッコつけたいなぁ、なんて」

「…………わかりました。そういう事なら、今日は甘えさせて貰います」


 若干の呆れと嬉しさをサファイアの瞳に滲ませて、エヴァンジェリンが苦笑する。その姿にはやはり年上としての風格が見え隠れしていて、ネギは少しだけ恥ずかしくなった。ただ、これ以上何か言うのも格好悪い気がした彼は、そのままエヴァンジェリンを連れ立ってレジへと向かうのだった。


「大丈夫ですよ。先生ならきっと、素敵な男性になれますから」

「うぅ。なんだか自分が情けないです」


 会計を終え、出入り口となるドアを潜ったネギは、青々と晴れ渡る空の下で肩を落とした。

 なんだか今日は、生徒に主導権を握られっ放しだ。幾ら春休み明けとはいえ、これは些か情けない。自分はもう正式に彼女達の担任となったのだから、何時までも甘えていて良いはずが無いのだ。例え子供であろうとも、否、子供だからこそ、自分から甘えては駄目だ。

 そんな風に考えると、暗い気持ちも容易くやる気へと変わっていく。

 俯けていた顔を上げて、ネギは力強く拳を握った。


「今日はダメだったけど、明日からは上手くやってみせます!」

「その意気ですよ、ネギ先生」


 切れ長の瞳を細め、エヴァンジェリンは楽しそうにそんな事を言うのだった。








 ◆








 長谷川 千雨の夜は長い。それは一日の楽しみの大半がそこに集中しているからであるし、また翌日の学校生活に対する期待を抱いていないからでもある。寧ろ疲ればかりを覚える日中で消費するエネルギーを溜める意味合いも含めて、千雨は日毎夜遅くまでパソコンの前に座り、ネットの世界に没入している。

 中でもホームページの運営は、千雨のライフワークと言っても良い。チャットを通して『ちう』ファンと交流するのは楽しいし、他のコンテンツに対する肯定的な反応を見る事も嬉しい。『ちう』を可愛いと言ってくれる事については当然として、それ以外にもニュース系コラムを書いた時に見られるファンの賛同や別視点の意見なども楽しみにしている。

 だからこそ日々新しい衣装を通販で探したり、或いは手ずから縫ってみたり、何か話のネタを探してみたりしている訳である。


「っと、今日は大体こんなもんか」


 部屋の中に響かせていたキーボードの音を止め、千雨は自ら打ち込んだ文章の内容を見分していく。今日の更新記事は、巡回しているニュースサイトで知った経済記事に関して自分なりの見解を述べたものだ。勿論女子中学生である千雨は門外漢以外の何者でもないが、素人は素人なりに色々と調べ、咀嚼した上で考えを纏めるというのが彼女のポリシーだった。

 とりあえず一通り見返してみたが、大きな問題点は見当たらない。感情論が先行している訳ではないし、自分に浸った文章で伝えたい意見が分からなくなっているような事もない。その上で『ちう』の持つ毒も表現出来ているから、十分に基準点を超えている。


「それじゃ、早いトコ更新するか」


 この後チャットに参加するかどうかは別として、あまり更新に時間を取られると他の事をする余裕が無くなってしまう。いくら千雨が夜更かしをする方だとはいえ、美容の事などを考えるとそれなりに規則正しい生活を心掛けなければならない。生憎なんの苦労も無しに美少女で居続けられるほど、千雨は恵まれてはいないのだ。

 そうして今日の予定を考えつつ更新の為にEnterを押そうとした千雨は、


「むっ」


 まさに指先がキーに触れようとしたその瞬間、ピタリと動きを止めた。

 今日の更新は、このコラム一本だけだ。寮に帰ってくるのが遅くなった為、他には何も無い。別に、それで問題は無いはずだ。今までだって同じような事は何度もあったし、それが理由で目立った不満が出た事は無い。

 なのに、何故か納得いかない。

 知らず千雨は眉根を寄せ、睨むようにしてディスプレイを凝視していた。何が可笑しいのか、何処が引っ掛かっているのか。穴が開くほどディスプレイを見詰めて、息が詰まるほど集中する。千雨自身でも意外に思うほど、気付けば真剣になっていた。

 そんな状態が、十分近く続き。


「……………………」


 千雨は黙ってEnterを押下し、記事を送信した。

 次いで彼女は、新しい記事を追加する為の作業に入る。


『今日はリア友と遊びに行ったんだけど――――――――』


 軽快なキータッチの音を部屋に響かせ、千雨は暫し、その作業に没頭した。








 ◆








 神楽坂 明日菜と近衛 木乃香、そしてネギ=スプリングフィールドの三人の中で、最も早く床に就くのは明日菜だ。殆どの曜日に新聞配達のアルバイトをしている彼女は、午後の九時にもならない内から布団に入る事も多い。次に早いのは木乃香で、一日の家事を終え勉強も済ませると就寝準備に入る彼女が夜更かしする事は、それほど多くはない。

 だから殆どの日に一番遅くまで起きているのは、ネギという事になる。明日菜達と雑談して過ごしたり、勉強を見てあげる他にも教師としての仕事がある彼は、早くても木乃香と同じくらいか、少し遅れて布団に入る事が多い。特に今日のように数日後には大きな行事が控えているという場合は、その皺寄せがこういった時間に回される。


「――――よし、これでいいかな」


 新年度の始まりという事もあり色々と頭を悩ませる案件も多かったが、それもコレでお終いだ。灯りの落ちた部屋の中で、自分専用のロフトスペースだけを電気スタンドで照らしながら、ネギは書類を一つ一つ丁寧に整理して鞄に仕舞っていく。そうやって全ての書類を片付けたネギは、次いで机の引き出しから便箋と封筒を取り出した。

 故郷の家族に向けて、手紙を送る為だ。

 数ヶ国語を自動で翻訳してくれる機能を備えているこの魔法の便箋は、他にもビデオレターとしての録画機能が付いている。とはいえソチラは木乃香が居る此処でやる訳にはいかず、明日の朝にでも魔法の練習をしている森の広場で撮影する事になるだろう。

 だから今はそれとは別に、文章としての手紙を書くのだ。


「えっと……」


 右手にペンを持ち、ネギは淡い灯りに照らされた顔を思案の色に染める。

 書く事は一杯あった。春休み中に送った時から、今日、新学期が始まるまでに起きた色々な出来事。以前に教えてはいたものの、本当に今日から正式に教師として雇われ始めた事。そして何よりも、一人の生徒と仲良くなれた事。


「ふふっ」


 ネギは自然と口元を綻ばせ、喜びの感情を示した。

 エヴァンジェリン=A=K=マクダウェル。金髪碧眼に加えて魔法使いでもあるという、ネギにとって非常に親近感を覚え易い一人の少女。今日一番の収穫は、彼女との距離が縮まった事だろう。困った時に相談しなさい。タカミチが一口メモとして出席簿にそんな事を書いていたが、それはこういう意味だったのかと、今更ながらに気付かされた。

 もっとも彼女が何者であれ、ネギにとって生徒と親しくなれた事は幸いだ。


『お姉ちゃん。今日、新しく仲良くなれた生徒の子が居ます。名前は――――――――』


 だから今回の手紙は、そんな書き出しから始まるのだった。












 ――――後書き――――――――


 そんな訳で、第十六話の投稿です。お読み頂いた皆さん、ありがとうございます。

 健全な方と不健全な方。今回の話はそんな感じです。ドチラがドチラなのかは、言わずもがなですね。なんというか、書いていて自分でも凄くムズムズしていました。知らないキャラが一人居る、といった感じで。本当、どうしてこんな事になってしまったのか、未だに疑問を抱かずにはいられませんね。自分で書いておいてなんですけども。

 ちなみに、今回はオリキャラが一度も出ていない初めての話でもあります。これまでは端役であっても、毎回何処かで出ていたんですけどね。この辺り、各キャラと物語の方が少しずつ回り始めたという事かもしれません。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十七話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:0e463a95
Date: 2009/08/02 20:59


「凄いよエヴァ! 見てて気持ち悪くなるくらい完璧だった!!」


 そんな馬鹿な事を洸がのたまった次の瞬間には、エヴァンジェリンは笑顔で拳を振り抜いていた。


「――――――もう。撤回するから、そんなに怒らないでよ」

「…………謝る気があるならさっさと下ろせ、大馬鹿者」


 手首を握られて宙吊りにされた格好のエヴァンジェリンが、不機嫌そのものの声音で吐き捨てる。それを受けた洸が彼女とは対照的な笑顔を浮かべてゆっくりと地面に下ろすと、エヴァンジェリンは眉を逆立てたまま、一歩、後ろに下がった。

 非常に癪に障る話だが、力を封印された状態では洸に勝てない。元々の体格差に加え、絶望的なまでに身体能力に開きがある。勿論、そんな事は一々確認するまでも無く分かり切った事なのだが、やはりこうして現実を突き付けられると腹立たしいものがあった。


「大体、全部お前が指示したんだろうが」


 エヴァンジェリンが拗ねたように口を尖らせて責めれば、


「ま、そうなんだけどね」


 洸はそれがどうしたといった様子で受け流す。


「チッ」


 苛立たしい。そうは思っても上手くやり返す手立てが考え付かず、一度だけ鼻を鳴らしたエヴァンジェリンは、そのまま肩を怒らせて歩き始めた。そうして小さな体を大きく揺らしながら遠ざかっていく彼女の背中を、洸が駆け足気味に追い掛ける。


「ゴメンゴメン。感謝はしてるんだよ? エヴァが上手くやってくれたから、ちょっと安心しちゃってね」


 隣に並び、手を合わせて謝る洸を一瞥したエヴァンジェリンは、またすぐに前方を見据えた。


「何度も言うが、今回限りだ。大体お前の頼みでなければ、絶対にこんな事などするものか」


 自分の為だという事も、その重要性も、エヴァンジェリンは理解している。しかしだからといって納得出来るかと問われれば、答えは否だ。想像するだけでも寒気が走るというのに、それを実際に行動へ移した時の状態は何をかいわんやだ。一言発する度に眩暈を覚え、笑顔を作るだけで頬が引き攣りそうになった。ネギに触れられた時など、そのまま手を握り潰してやろうかと思ったくらいだ。

 サウザンドマスターの息子。好きだった男の息子。彼個人に対しては特に思う所は無いが、やはり心中複雑なものがある。父親と顔が似ている分、余計にだ。普通に付き合うだけならまだしも、あんな媚を売るような真似だけは絶対にしたくなかった。


「………………」


 先程ネギに握られた手を、エヴァンジェリンは黙って見詰めた。表情に、変化は無い。けれど足取りは少しだけ速まり、洸の呼び掛けにも応じなかった。そうして、暫く。緑の眩しい並木道を黙々と進んでいたエヴァンジェリンは、不意に隣を歩く洸へと視線を遣った。


「ん? なに?」

「手を出せ」


 具体的に応える事はせず、エヴァンジェリンはただそれだけを言って、洸の顔を仰ぎ見る。この九年でスッカリ見慣れてしまった彼女の整った顔立ちには微かな疑問が浮かんでいるようではあったが、それでも何も言わず、洸は素直に手を差し出してくる。

 そんな彼女に対して薄く笑みを浮かべたエヴァンジェリンは、目の前の白く綺麗な手を握り。


「エヴァ?」


 ――――――勢い良く、洸を引き寄せた。


「へ?」


 僅かに開いた唇の隙間から漏れ出た、間の抜けた声。それを押し込むようにして、エヴァンジェリンは洸に口付ける。洸の長い黒髪が首筋を撫で、温かな鼻息が頬を擽った。驚きに見開かれた黒瞳は今にもお互いの睫毛が触れ合いそうなほどの距離にあり、そこに拒絶の色が見られないという事実が、エヴァンジェリンの背筋を震わせる。

 いっそ、このまま――――――。

 洸が纏う甘い香りに誘われるようにして不埒な考えが頭を過ぎるが、エヴァンジェリンはすぐにそれを捨て去った。そうして洸が行動を起こす前に自ら体を離し、一歩、距離を取る。対する洸は、未だに呆気に取られたままだ。


「一週間。コレで我慢してやろう」


 真っ赤な舌で、チロリと唇を舐めてみせる。途端、洸の頬が林檎もかくやというほどに赤く染まった。


「あぁ、安心しろ。誰も見ていないぞ」


 エヴァンジェリンが首を巡らせ、辺りを示す。

 真昼の道端ではあるが、元々人通りの少ない道を選んで歩いていた為、周囲に人影は見当たらない。


「そ、そういう問題じゃなくてッ!」

「なんだ、見られたかったのか? 私は構わんぞ?」


 肩を竦めたエヴァンジェリンが口の端を歪めれば、


「あぁ、もう! もうっ!!」


 顔を赤くしたままの洸が焦れったそうに大声を上げる。そこには普段の大人びた雰囲気など微塵も感じられず、まるで癇癪を起こした子供みたいに握った両手を小刻みに震わせていた。

 ゾクゾクする。洸の仕草も、表情も、きっと他の者が知る事は無い。自分だけが知っている。独占している。ただそう思うだけでも、エヴァンジェリンは湧き上がる愉悦を抑えられなかった。

 だから自然と、口を開いていた。


「好きだぞ、洸」

「~~~~~~ッ」


 頬も、耳も、首筋も。茹で上がったタコの如く真っ赤にした洸は唇を震わせ、そのまま何も言わず、逃げるように走り去った。黒髪をなびかせてあっという間に視界の外へと消えていった彼女を見送ると、エヴァンジェリンは肩を竦めて息を吐く。


「やれやれ、逃げられたか」


 ちっとも残念ではなさそうな様子で、エヴァンジェリンはそう言った。

 実際感触は悪くなく、寧ろかなり良い。あと少し、あと一歩。手を伸ばしたら届くのではないかと思えるような距離に、洸を感じた。どうして彼女に振られてしまったのか、それは未だに分からない。だが、決して不可能な望みではないという事だけは分かる。

 ならば、十分だ。


「やはり時間が必要だな…………フフッ、少しはやる気が出てきたか」


 洸の背中が消えていった方向を見詰めて、エヴァンジェリンが不敵に笑った。












 ――――第十七話――――――――












 四月九日。水曜日。新年度二日目の登校日であり、平常授業の開始日でもある今日は、春休み中に帰省していた生徒達を加え、各種の部活動が本格始動する日でもある。勿論それは図書館探検部も例外ではなく、数日前に麻帆良に戻ってきてから、まだ一度もサークルに参加していなかった夕映は、久方振りに図書館島を訪れていた。

 その隣に、洸を連れ立って。


「そこ、危ないよ。足下に気を付けて」

「は、はいです」


 洸の言葉に頷いた夕映は立ち止まって足下を注視し、少ししてから、一歩分だけ左に移動した。それを見た洸が笑顔で頷き、その反応に夕映は胸を撫で下ろす。と、彼女はハァと息を漏らし、僅かに柳眉を寄せて口を開いた。


「うぅ、情けないです。こんな簡単なトラップに気付けなくなっているとは」

「気にしないの。夕映くらいの時期は、みんなそんなものだよ」

「そういうものなのでしょうか……」


 肩を落とした夕映が、後ろを振り返る。本棚の森。或いは山だろうか。上方の暗闇に吸い込まれるほどの高さを誇る本棚が群れを成しているその威容は、図書館島に限って言えばありふれた光景で、けれど夕映にとっては見慣れない景色でもあった。

 図書館島、地下四階。これまで立ち入りを禁止されていたこの場所に、夕映は今日、洸に引率されて訪れていた。


「そういうものだよ。だからこそ、こんな事をする訳だしね」

「むぅ」


 一つ唸り、夕映は洸の言葉を認める。

 洸に注意された回数は、先程で五回目だ。正直、甘く見ていた。四階に下りられると聞いた時は問題無くやれると思っていたが、実際にはコレだ。否、確かに難易度そのものは地下三階と大きく変わってはいないし、罠に関しても目新しい物は見ていない。

 ならば何が問題なのか。それは、夕映自身の勘が鈍っている事だった。

 図書館探検部の主な活動場所となっているのは地下三階より下にある階層であり、また中学生である夕映が活動を許されているのは、地下三階までだ。そうなると、夕映が探検部員として活動する時には、必然的に地下三階を訪れる事になる訳である。事実この二年間はずっとそうだった。

 つまり、慣れ過ぎた訳だ。罠の位置や避け方、解除の仕方など、どれもよく知っている場所だけでずっと活動していた所為で、何時の間にか腕が落ちてしまっていたらしい。


「という訳で、今日からはもう少し気を引き締めましょう。カッコ悪いトコ、新入生には見られたくないでしょ?」

「わかりました。頑張るです」


 ムンと気合いを入れて、夕映はバックパックを背負い直す。

 と、思い出したように彼女は洸を仰ぎ見た。


「そういえば、先輩はどうだったのですか?」

「ん? 私が三年に上がった頃の事?」


 コクリ、と首肯する。


「ん~、そうだね。さっきはあぁ言ったけど、私はそうでもなかった……かな」

「あ、やっぱりですか」

「やっぱり?」

「先輩は、そういうイメージですから。なんでも出来る、凄い人です」


 そしてとても優しくて、格好良い。夕映から見た洸は、何時だってそうだ。一緒に居るだけで安心出来る頼れる存在で、贔屓目抜きに見ても他の先輩達より輝いている人だと思っている。のどかやハルナに聞いても、きっと同じ意見だろう。


「買い被り過ぎ。こう見えて出来ない事も悩みも、一杯あるんだから」

「そうですね、買い被りでしょう。けど、そう思えるくらい先輩は素敵な人ですよ」


 夕映自身でも不思議に感じるほど自然に出たその言葉は、珍しく洸を狼狽えさせたようだった。全ての段にギッシリと本が詰まっている本棚を背にした彼女は、気恥ずかしそうに頬を掻いてソッポを向いている。


「あー、うん。ありがとう。嬉しい。けど、恥ずかしい」


 そう言った洸の表情は普段と比べて妙に幼く見えて、とても可愛らしかった。珍しい。というか、洸が夕映の前でこんな態度を見せるのは、もしかすると初めてかもしれない。何時もの冷涼とした姿からは懸け離れていて、凄く新鮮だった。

 でも、魅力的な所は変わらない。寧ろ見慣れていない分だけ余計に胸がドキドキして、体が熱くなって、今度は夕映の方が顔を背ける番だった。やはり何処まで行っても、綾瀬 夕映は近衛 洸に心奪われているのだ。

 とはいえ、この手の状況にはもう慣れている。体内の熱と共に息を吐き出して鼓動を落ち着け、夕映は洸の方へと視線を向ける。彼女は既に調子を持ち直しているようだったが、少しだけ決まりが悪そうな表情を浮かべていた。


「それじゃ、行こっか」

「そ、そうですね」


 促され、歩き始めた洸の背中に付いていく。そうして一歩を踏み出した時、身に覚えのある音が、夕映の耳を揺さぶった。


 ――――――カチャリ。


 それは罠の発動を知らせる音で、出来るだけ聞きたくはない音で、どうして洸の足下から聞こえてきたのか理解出来ない音だった。








 ◆








 麻帆良学園女子中等部、学園長室。学園各所に存在している学園長室の中でも最も近右衛門が利用する頻度が高いこの部屋には、現在二つの人影が存在している。一人の老人と、一人の少女。近右衛門とエヴァンジェリンだ。シンプルながらも質の良い応接セットを部屋の隅に寄せ、毛足の短い絨毯に直接座っている彼らは、碁盤を挟んだ状態で向かい合っていた。

 鋭く目を細めたエヴァンジェリンが、手元の碁石入れをジャラリと漁る。白魚のような指に黒石を挟み、彼女は盤上へと腕を伸ばす。音を立て、指から離された黒石が盤上に残されると、それを見た近右衛門が小さく唸った。


「流石にやるのう…………ふむ」


 顎鬚を撫で付けながら、近右衛門はもう片方の手で湯呑みを手に取った。


「む? あぁ、茶々丸ちゃんや、お茶を頼めるかの?」


 湯呑みを小さく左右に振った近右衛門がそう口にすると、対面に座るエヴァンジェリンが呆れたように息を吐く。


「茶々丸は部の方に行っていると言っただろうが。それくらい自分でやれ」

「おぉ! そうじゃったそうじゃった。つい、いつもの癖でのう」


 二度三度と頷いた近右衛門が盤上から視線を外し、脇に置かれたお盆の上にある急須を手に取った。コポポポポ。真っ白な湯気を上げながら、透き通った黄緑色の液体が近右衛門の湯呑みに注がれていく。その様子を眺めていたエヴァンジェリンは近右衛門が注ぎ終わると同時に、自らの湯呑みを黙って彼の方に差し出した。


「……なんじゃ?」

「ついでだ。注げ」


 ジト目で何か言いたそうにしている近右衛門を無視して、エヴァンジェリンは手元の茶請けを口に運ぶ。そんな彼女を見て首を振った近右衛門は、そのままエヴァンジェリンの湯呑みにお茶を注ぎ始めた。

 音を立てて流れ落ちていくお茶を眺めながら、近右衛門が思い出したように口を開く。


「そうそう、ネギ君とはどうなんじゃ? 随分と面白い事になっておるようじゃが」


 途端、エヴァンジェリンが苦虫を噛み潰したように眉を顰めた。


「順調さ。さっきも会ってきた所だが、コッチの言う事を何一つ疑っていやしない」

「ほほ、嫌そうじゃな」


 楽しげに笑う近右衛門をエヴァンジェリンが睨むが、彼は気にした風も無く手に持った茶を啜ると、再び盤上の碁石と睨み合いを始めてしまった。舌打ち一つ。茶請けの菓子を咀嚼したエヴァンジェリンは、手に持った黒石を詰まらなそうに弄び出した。

 宵闇の訪れが近付き、徐々に窓の外が朱に染まり始めた学園長室に、暫し沈黙が降りる。カッチコッチと駆けっこしている秒針の足音ばかりが響き渡り、気怠い空気が部屋に満ちる。そんな中で、飄々とした雰囲気で碁盤を矯めつ眇めつ眺めていた近右衛門が、碁石入れに手を伸ばした。骨張った指が艶のある白石を挟み、盤上へと移動させる。


「ま、存分に苦労せい。お前さんにとっては重要な事なんじゃから」


 バチリ。やや強く、叩き付けるように置かれた白石を見て、エヴァンジェリンが片眉を上げた。


「随分と、攻撃的じゃないか」


 間を置かず、エヴァンジェリンが黒石を置く。


「そうかの? しかしまぁ、お前さんはナギの事が好きじゃったと記憶しておるんだがのう」


 また一つ、白石が盤上に増える。

 近右衛門は、ただ一心に盤上だけを見据えていた。


「なんだ? 孫娘についた悪い虫を追い払いたいのか?」

「あの子が決めた事なら、止めようとは思わんよ」

「私が折れれば、なんの問題も無い訳か」

「……………………」


 沈黙。黒石が際どく攻め入っても特に反応せず、近右衛門は静かに湯呑みを口元へと運ぶ。エヴァンジェリンが、苛立たしげに碁盤を指で叩いても無視。大きく舌打ちしても無視。まるでそこに彼女が居ないかのような振る舞いだった。

 だがそれも、次に白石を手にした時に終わりを告げる。碁石と碁盤を打ち合わせるのと同時に、近右衛門は口を開いた。


「…………ワシはのう、エヴァンジェリン。お前さんを怖いとは思わん。疎ましいと感じた事も無い。当然、あの子にしても同じじゃ。しかしの、あの子とお前さんが一緒に居るのは怖い。凄く怖い。今回の件で、本当にそう感じた」

「フンッ。理由は?」


 鋭く尖った顎に手を当てて盤上を見据えながら、エヴァンジェリンが先を促す。


「ナギがおらん今、お前さんの扱いは本当に難しいんじゃよ。なんせ賞金額は歴代二位じゃし、十五年経った今でも、魔法使いの間では恐れられておるしの。お陰でウチの弱点の一つになっとるわい」

「オイ。それを疎ましいとは言わんのか」

「いざとなったら切り捨ててもよかったからの」


 サラリと告げられたその言葉が、エヴァンジェリンの表情を険しくさせる。


「ジジイッ」

「お前さんの事はよき友人だと思っておるが、ワシの立場というのは組織に守られたものなんじゃよ。麻帆良があってこその魔法協会の理事であり、学園長なんじゃ。だからこそ、ワシには組織の為に働く義務がある。ナギとは違うんじゃ。ナギの力は個人のモノであり、あやつを慕って勝手に集まったものでもある。全てはナギあってこそじゃ。だから、我侭を言っても許された」


 最早、エヴァンジェリンは碁盤を見てはいなかった。切れ長の目を一層鋭く細めて近右衛門を睨み付け、深い青を湛えた瞳の奥には、真っ赤な警戒心が見て取れる。胡坐を掻いていた足は片膝を立てられ、体の重心は前に寄せられていた。

 それでも近右衛門は動じた様子に無く、落ち着いた仕草で茶を啜っている。


「…………結局、何が言いたい?」

「今は、ただの釘刺しじゃよ。あの子も分かっておるじゃろうが、もし次があるようならワシは力尽くでも止めねばならん。お前さんの気持ちについてアレコレ煩く言うつもりは無いが、下手な行動は出来んという事を自覚しておくようにの」

「何を言うかと思えば。お前が真面目に頼み込めば、アイツが聞かん訳が無いだろう」


 酷く醒めた表情をしてエヴァンジェリンが言い捨てると、近右衛門は然りと頷いた。


「まぁ、大抵の事はの。とはいえ例外もある」


 そう言って、近右衛門は対面に座る少女を見遣る。

 視線に気付いたエヴァンジェリンは考え込むように口元を押さえ、


「……それが、私だと?」

「うむ。あとは木乃香じゃな」


 肯定を返されたエヴァンジェリンは、なるほどと頷いた。二度三度と首を縦に振って、納得したとばかりに目を瞑る。

 そうして湯呑みを手に取り、ぬるくなり始めたお茶に口をつけようとした彼女は、


「――――――って、ハァッ!?」


 驚愕に目を見開いて大声を上げた。


「お、お、おまえ! 何を言ってるのかわかってるのか!?」

「当然じゃろ」


 平然と返事をしてみせる近右衛門に対してエヴァンジェリンは唇を震わせ、頭を振り、眉を跳ね上げた。


「洸だぞ、洸! 近衛 洸!! あのバカが、どうして私の事なんかでお前の言葉を覆すッ!!」

「お前さんらしくないのう、エヴァンジェリン。もっと自信を持てばよかろうに。あの子の親友じゃろう?」

「それは認める。好かれてるのも認める――――が、どうにも信じられん」


 納得いかなそうに膝を指先で叩きながら、エヴァンジェリンが口元を歪める。その青い双眸は波立つ水面のように揺れており、ただの一時として同じ色を宿す事は無い。今の彼女が浮かべている表情は、まるで迷子のようだった。

 一方で近右衛門は、やはり余裕の態度を崩さない。癖なのか、顎鬚を撫で付ける手をそのままに、彼は眉の奥に隠れた目で対面に座るエヴァンジェリンを穏やかに見詰めていた。そこに存在するのは、揺らぐ事の無い自信だ。


「じゃが、紛れもない真実じゃしのう」

「う、いや、だってなぁ?」


 アッチを見たり、コッチを見たり。サファイアブルーが右往左往。

 あからさまに狼狽えるエヴァンジェリンを眺めつつ空になった湯呑みに茶を注ごうとして、近右衛門は急須が随分と軽くなっている事に気が付いた。息を吐き、急須の中に残っている僅かな茶で湯呑みを少しだけ満たすと、彼はそれを一気に飲み干した。


「今回の件だって似たようなものじゃろうに。とにかく、そういう訳じゃからあまり可笑しな事はせんようにの」

「お、おう……おう?」


 落ち着かない様子で首を傾げるエヴァンジェリンを見て、近右衛門が呆れたように苦笑する。


「ワシからすれば今更なんじゃがのう。まぁ流石に…………いや、なんでもないわい」


 その言葉が届いているのかいないのか。ソワソワと体を揺らすエヴァンジェリンは、既に近右衛門の事など目に入っていないようにも思えた。当然、碁の局面が進められる事も無い。日は落ち掛け、窓から差し込む陽光に全身を赤く染められたエヴァンジェリンは、暫し何も言う事無く時を過ごした。近右衛門も、そんな彼女を見ているだけで口は開かない。

 そうして部屋の中程まで宵闇の影が落ちた頃、エヴァンジェリンは唐突に立ち上がった。


「――――か、帰る! 帰るぞ私は!!」


 暗がりでも分かるほどの、赤い顔。動揺を目一杯に溜め込んだ青の瞳に、明らかに上擦った可愛らしい声。

 常には見られぬその姿に、近右衛門は愉快げに肩を揺らした。


「ほほ、まだ対局中じゃが?」

「構わん!」

「そうかそうか。なら、今日はここまでじゃな」


 話している間にもエヴァンジェリンは出入り口となる扉へと近付いており、その手は既にドアノブを握っている。そうして扉を開けた彼女は、そのまま振り返る事無く、別れの挨拶も言わず、素早く身を潜らせて去っていった。

 音を立てて扉が閉まり、部屋の中には、顔をにやつかせた近右衛門だけが残される。


「しかし、いらん事を言った気がせんでもないのう…………まぁ、ええか。さーて、仕事じゃ仕事」


 絨毯の上に胡坐を掻いたまま碁石を片付ける近右衛門の言葉が、広い部屋の中に響き渡った。








 ◆








「………………ごめん。ホント、ごめん」


 頭の上から聞こえてきたのは、大好きな洸の声だ。通りが良く、耳触りも良いその声には珍しく申し訳無さそうな響きが含まれていたが、生憎と今の夕映には気にしている余裕が無かった。今の彼女は、自分が置かれている状況を整理するだけでも精一杯なのだ。

 肺の中を一杯に満たす、甘く柔らかい女性の香り。ギュッと顔に押し付けられた布越しに伝わる心地良い体温と、豊かな双丘。背中に回された腕は優しく夕映の体を包み込み、それでいてシッカリと固定されていた。


(だ、抱き、抱き締め――――ッ!?)


 誰が、なんて考えるまでも無い。勿論、落ち着いていられる道理だって無い。既に頭は沸騰寸前で、胸はすぐにでも張り裂けそうで、それなのに体だけは石みたいに硬直していた。

 もう、何がなんだか分からない。堪らなく幸運だ。年に何度も無い僥倖だ。けれど色々限界だ。何を考えれば良いのか分からなくて、何をすれば良いのか分からなくて、寧ろこのまま何もしたくなくて、夕映の頭はグチャグチャだった。フワフワだった。


「あっ」


 だけどやっぱり、幸せなんて続くものではない。

 洸の温もりがスッと離れ、二人の間に割り込むように吹き込んできた風が、冷たく肌を撫でていく。


「大丈夫? 足を捻ったりしてない?」


 肩を掴んだ洸が、心配そうに覗き込んでくる。普段なら嬉しいこの状況も、直前までと比べると、やはりどこか物足りない。

 だからか、夕映は自分でも意外なほど冷静に対応出来た。


「あ、はい。特に問題は無いかと」

「そう。よかった」


 胸を撫で下ろした洸が、小さく笑みを漏らす。それから彼女は夕映の後ろを見て、気まずそうに眉尻を下げた。


「やっちゃったねぇ」

「……です、ね」


 弘法にも筆の誤り、とでも言うべきか。洸の視線を追った夕映の目に映ったのは、二人を捕まえようと頭上から降ってきたと思われる捕獲用の網だった。そして、洸が作動させた罠の正体でもある。落下防止ネットに紛れて仕掛けられているコレは探検部仕様の特別製であり、多大な労力と十分な時間と引き換えに、確実な脱出を約束してくれている物でもある。

 まるで夜闇に潜む蜘蛛の巣のように網が広がっているその光景を見ても、夕映は未だに洸が罠に掛かったのだとは信じられなかった。しかし、隣で報告用のメモ帳を取り出している洸の存在を考えれば、コレを現実だと認めない訳にもいかないだろう。


「報告しないとだけど……これは、部長あたりに笑われるかな」


 取り出したメモ帳にペンを走らせながら、洸が息を吐く。


「多分、私が入部してから初めてですよね?」

「そうだね。素で引っ掛かったのなんて、何年振りだろ」


 洸は苦笑して、要件を書き終えたらしいメモ帳を仕舞う。

 やはり彼女なりにショックを受けているのか、その姿はどこか元気が無かった。


「何かあったんですか? お疲れだとか?」

「あ~、うん」


 気まずそうに頬を掻いた洸は、暫し視線を巡らせ、


「昨日は少し、寝付きが悪かったかな。普段は徹夜でもどうって事ないんだけど…………ちょっと考え事をしてたから、その所為かも」


 どこか躊躇いがちに、そんな事を言った。

 考え事。洸のそれがなんなのかと思いを巡らせた夕映が最初に行き当たったのは、例の告白の件だ。何処かの誰か。洸と親しい男性。洸と、恋仲になれるかもしれない人物。その誰かの事で洸が悩んでいるのかもしれないと想像するだけで、夕映は心中穏やかではいられなくなってしまう。胸の奥で、嫌な情念が渦を巻くのだ。

 だからそんな自分を振り払いたくて、夕映は早く話を進めようと口を開いた。


「先輩ッ。今日はもう、これ以上進むのはやめておきましょう」

「…………そうだね。夕映に怪我させる訳にもいかないし」


 洸の顔に不甲斐無さそうな表情が浮かぶが、すぐにそれは引っ込められて、普段通りの落ち着いた雰囲気へと変わる。

 らしくないなと、夕映は思った。こんな風に誤魔化す洸なんて、初めてだ。彼女はいつも真っ直ぐに感情を向けてきてくれるし、例え誤魔化している所があるとしても、それを夕映に気付かせる事は無いだろう。近衛 洸というのは、そんな人だ。

 今日の洸は可笑しい。本当に、心からそう思う。


「それじゃ、引き返そうか」

「――――――待ってください!」


 踵を返した洸の手を、夕映は自分でも気付かぬ内に握っていた。


「夕映?」

「あ、いえ。そのですね…………そ、そう! 戻る前に休んでいきましょう。ほら、帰り道にもトラップはあるですし」

「流石にそこは大丈夫だと思うけど――――」


 手を握られたままの洸が苦笑し、


「――――お言葉に甘えて、ちょっと休憩していこうかな。だからほら、そんな顔しないの」

「え?」

「なんでもないよ。さっ、早く行こう」


 そう言って夕映の手を引いて歩き出した洸の顔には、いつもと変わらない、優しい笑みが浮かんでいた。




 □




『――――――で、この時間になってもまだ帰れない、と』


 耳に当てた無線越しに聞こえてくるハルナの声は随分と楽しそうで、お調子者な親友が醸し出す雰囲気に、夕映は思わずしかめっ面を作った。お陰で返事をする声は些か険しいものとなり、その内容も同じくだ。


「何か言いたい事でもあるですか、ハルナ?」

『べっつにー。けどまぁ、夕映にとっては嬉しい状況なんじゃないかな~、とか思ったり思わなかったり』

「不謹慎です」


 本棚に背を預けた夕映が、小さく鼻を鳴らす。その頭上には薄ボンヤリとした灯りを放つ照明が設置されており、辛うじて足下が確認出来る程度には明るさが保たれていた。現在、夕映の視界に映る範囲には、誰も居ない。或いは薄暗闇の向こう側には誰かが潜んでいるのではないかと思わせるような雰囲気はあったが、そんな事は有り得ないと、夕映は経験的に知っていた。

 時刻は午後六時半。いつもならとっくの昔に地上まで戻っていて、のどか達と一緒に寮へと続く並木道を歩いているような時間帯だ。たとえそうでなくとも、中学生の部員には強制退去の指令が出されるような時間だった。

 だが今日の夕映は、未だに図書館島に留まっている。それも地上階ではなく、洸に連れられて訪れた地下四階に、だ。


『そりゃ、あの完全無欠な先輩がお疲れなんて驚きだけどさ、なんだかんだで夕映も楽しんじゃってんじゃないの~?』

「……どういう事ですか」

『ね・が・お。ちゃっかり堪能してるんでしょ、このムッツリめ!』

「ッ。ハ、ハル――――ッ」


 思わず大声を出しそうになった口を、夕映は慌てて塞いだ。同時に息を止めて、背後にある本棚の向こうをチラリと覗き見る。そこには、洸が居る。しかもただ居るだけではなく、休憩所の机に上半身を預けた彼女は、気持ち良さそうに寝ているのだ。

 自らの腕を枕にし、常には見られぬ幼げな雰囲気を醸し出している彼女を確認して、夕映はホッと胸を撫で下ろした。どうやら、起こしてしまった訳ではないらしい。その事で安堵した夕映は、次いで声を潜めてハルナを攻めた。


「イキナリ、何をアホみたいな事を口走っているですか」

『ほほう。それじゃあ夕映は見なかったと? まったく興味も無かったって?』

「うっ」


 見た。バッチリ見ていた。ハルナから連絡が来るまで、時が経つのも忘れて洸の寝顔を眺めていたほどだ。


『ほらね?』

「で、ですが心配なのは本当ですし、その、あまりですね……」

『わかってるって! 部長にはちゃんと説明しとくから、安心して先輩とイチャイチャしておいで』

「で、ですから――――」


 反論する前に通信が切られ、夕映はやり場の無くなった言葉を喉につかえさせたまま微妙な表情を作った。最早ノイズだけしか返してこなくなった無線機を半眼で見詰めた後、彼女は大きく息を吐く。


「もうっ」


 ハルナは勝手だ。一人で盛り上がって、騒ぎ立てて、そのまま収拾もつけずに放置する。あんな風に言われて、一体どう反応すればいいというのだろうか。これから洸の所まで戻って、どんな対応をしろというのだろうか。

 困ってしまう。凄く、凄く困ってしまう。

 初めて見た洸の寝顔は、とても可愛かった。普段の凛とした雰囲気は影を潜め、その整った面立ちにはあどけなさすら感じたほどだ。キュートな魅力というか、新鮮味に溢れた洸の姿に、夕映は改めて惚れ直させられた。そこに来て、ハルナの言葉だ。意識するなという方が無理に近い。これではもう、洸の顔を直視する事は無理そうだ。


「うぅ……」


 いっそ起こしてしまいたい。風邪でも引いたら大変だし、やはりちゃんとした場所で休んだ方が良いだろう。

 確かに、そう思うのに。本当に、心配しているのに。勿体無いと思ってしまう部分もまた、夕映の胸の裡にはあった。


「はぁ」


 溜め息をつき、夕映は静かに無線機を仕舞う。それから足音を立てないように気をつけながら、彼女はゆっくりと洸が眠る休憩所まで近付いていった。幸か不幸か、洸に起きる気配は無い。普段の敏感さから考えると、まるで嘘みたいな光景だ。けれどもこれは現実で、かつて無いほどに無防備な姿を晒した洸が、確かに此処に居る。

 ソッと椅子を引いて、夕映は洸の向かいの席に座った。やはり洸は眠ったままで、小さな寝息を立てている。


「…………」


 水が流れ落ちる音くらいしか聞こえてこないこの場所では、寝息ですらよく響く。だから当然、夕映の耳は洸の寝息を拾ってしまう。洸から視線を逸らして何か別の事を考えようとしても、まるで絡みついた蜘蛛の糸みたいに夕映の脳裡に響いてくる。

 スゥスゥと、スルスルと。他の事が考えられなくなるくらい、夕映の心に沁み渡る。そうしてつい洸の寝顔を覗き見てしまえば、もう駄目だった。やっぱり彼女は可愛くて、魅力的で、こんなの、心奪われない方が可笑しい。


「先輩」

「んぅ」


 小声で呟くと、洸が僅かに身動ぎした。ただ動いたのはそれっきりで、またすぐに寝息が聞こえ始める。その姿を見て笑みを浮かべると共に、夕映の心に一つの考えが生まれた。否、正しくは願望と呼ぶべきだろうか。初めはちょっとした思い付きでしかなかったそれはすぐに大きくなっていき、やがては抗えない誘惑となって、夕映の心に居座ってしまう。

 それは他の人からすれば、なんて事の無い願いかもしれない。けれど夕映にとっては凄く勇気が要る事で、こんな機会でもなければ、決して実行に移す事は出来ないものだった。


「ホ、ほ―――ッ」


 そう、洸を下の名前で呼ぶなんて、こんな時でもなければ絶対に出来る訳が無い。


「――――――ほの、か……さん」


 今にも消え入りそうなほど小さな声で、夕映はなんとか呟く事が出来た。多分、目の前の洸にすら届かないようなか細い声だ。けど、それでも夕映の中には言い様の無い充足感が満ちて、幸せを感じられた。


「ほのかさん」


 もう一度、今度は先程よりもハッキリと呼んでみる。

 ジワリと胸の奥が暖かくなって、夕映は目元を綻ばせた。


「ほの――――」

「? ゆえ?」

「ッ!?」


 そうして三度目を口にしようとした時、薄らと目蓋を開いた洸と目が合った。驚きで心臓が跳ね上がり、出掛けた言葉が喉に詰まる。瞠目する夕映が何も言えないでいる間に体を起こした洸は、ゆっくりと辺りを見回した後、不可解そうに眉根を寄せた。


「寝て、た? ねぇ、夕映。ココに居るのは私達だけかな?」

「ひゃ、ひゃい! 私と先輩だけでしゅ!」

「…………だから、か」


 思わず噛んでしまった夕映だが、洸は気にした様子も無く、顎に手を当てて何事かを考えている。バレてはいないのだろうか。激しい拍子を刻む心臓を押さえながら心配していると、再び洸の視線が夕映を捉え、彼女はビクリと体を震わせた。


「待たせちゃってゴメンね。今は何時かな?」

「あ、はい。えっと……七時前ですね」


 密かに安堵しながら、夕映は時計を見て答えた。

 六時五十七分。春先とはいえ、外はもう闇に包まれている頃だろう。


「………………え?」


 この時洸が浮かべた表情は、ある意味では今日一番のものだったかもしれない。








 ◆








 絡繰 茶々丸の夜は長い。というよりも、彼女は眠らない。ガイノイドである彼女には人間的な意味での睡眠は必要無く、また万が一の事態に備えて各種センサーを休止させる訳にもいかず、最低限度の機能だけを待機状態に移す事が茶々丸の安息だった。或いはそれを行う事も無く、洸から与えられた絵本を読み耽って過ごす夜もある。

 この日の茶々丸も、一冊の絵本を膝上に広げて、朝が来るのを待っていた。

 最初に気付いたのは、小さな唸り声だ。ログハウスの二階から聞こえてくる声は明らかに茶々丸の主人のそれであり、従者である彼女の気を引くには十分過ぎるものだった。しかし何かあったのかと尋ねてみても、返ってくるのはなんでもないの一点張りで、あまつさえ二階に上がる事を禁じられてしまう始末だ。

 それでも初めは納得した。全てのセンサーをフル稼働しても不審な存在は感じられなかったし、基本的に茶々丸は主人の命令には服従するように作られている。何か事情があるのだろうと、彼女は静かに読書を再開した。

 しかしその後も唸り声がやむ事は無く、更にはバタバタと布団を叩くような音まで混じり始めてしまう。

 主人は何をしているのだろうか。絵本を読み進める間も、疑問が消える事は無い。自然と一日の行動を振り返る事となり、そこで彼女は、主人に異変があったとすれば放課後に別れた後だという結論を導き出した。ネギと会っている時に何かあったのか、はたまた学園長との間に何かあったのか。茶々丸の手元にある情報だけでも、様々な可能性が考えられる。

 時刻はもうすぐ午前二時。このままでは明日に障ると思った茶々丸は、洸の助言も踏まえて席を立った。


「――――――マスター。何やら非常に楽しげですが、お邪魔でしたでしょうか?」

「ちゃ、茶々丸……」


 黒い毛色をした犬のぬいぐるみを抱き締めて、布団の上を転げ回るエヴァンジェリン。二階に上がった茶々丸が最初に目にしたのは、そんな光景だった。そして今、月明かりを吸い込んで輝く金髪を振り乱した主人は、驚きに目を見開いている。全身を硬直させ、未だに状況を理解出来ていない様子の彼女は、たっぷり三分間は経ってからぎこちなく動き始めた。

 寝間着の乱れを整え、一度だけ髪に手櫛を通し、ベッドの脇に腰掛ける。それから彼女は、真面目ぶった表情を作って口を開いた。


「さて、何か用か? 茶々丸」

「……………………あまり夜更かしされると、明日の授業に障ります」

「別にサボればいいだろう、授業なんて」

「来週の火曜日まではマスターをサボらせないよう、洸さんから言いつかっていますので」


 変化は劇的だった。途端に首筋まで赤くしたエヴァンジェリンは何度も口を開け閉めし、不審なほど視線を彷徨わせている。


「そ、そうか。わかった。寝る」

「なんなら絵本をお読みしましょうか? 私ではご不満なら、洸さんの音声も録音してありますが」

「いら…………イヤイヤ、いらんいらん! 子供じゃないんだ、必要無い。とにかく私はもう寝るから、下がっていいぞ」

「わかりました。それではお休みなさいませ、マスター」


 頭を下げ、それから茶々丸は極力足音を立てないよう注意しながらその場を辞した。背後からは早々に布団を被るような音が聞こえ、けれどまたすぐに唸り声のようなものが家の中に響き始める。どうやら、そう簡単にはいかないらしい。

 しかし茶々丸は、もう気にしなかった。他に言うべき言葉は見付からなかったし、エヴァンジェリンの命令でもある。それに何より、二階へ上がった時に見た主人の様子が、メモリに焼き付いて離れないのだ。

 アレは、なんと表現すれば良いのだろうか。あの時に浮かべていた表情には、どんな言葉が当て嵌まるのだろうか。感情の機微に疎い茶々丸にとって、それはあまりにも難解な問題だった。普段なら、きっと答えが出ないまま朝を迎えてしまう事になるはずだ。

 だけど今は、今回だけは、不思議と理解出来る気がした。


(そう、アレは――――)


 あの姿には、『幸せ』という言葉がよく似合う。

 そんな風に、茶々丸は思うのだ。












 ――――後書き――――――――


 第十七話です。読んでくださった方、ありがとうございます。

 とにかく難産でした。お陰でまた更新が遅れてしまいましたし。ただ、書きたかった事はおおよそ書けたと思います。

 この話ではオリキャラ周りの土台固めや今後への足掛かりなどが主ですね。夕映なんかはまだスタート前の準備運動の段階にも等しいので、もっと頑張ってほしい所です。エヴァンジェリンの方は頑張られると困ったりもするんですけどね。

 今回は説明的な意味合いが大きかったので、次回は状況を転がしていきたいと思います。出来ればあと二、三話で大停電の夜まで進めたいですしね。その後も色々と書きたい話が待っていますし、頑張りたい所です。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十八話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:0e463a95
Date: 2009/08/23 21:11


 オコジョの一人旅。そんな言葉を聞いた時、人々は一体どんな想像を膨らませるだろうか。例えば可愛らしいタッチで描かれた絵本のお話みたいに、ほのぼのとして心温まる世界を思い浮かべるかもしれない。例えばテレビで放送されるドキュメンタリーのように、辛く厳しい弱肉強食の世界を連想するかもしれない。

 十人十色で種々様々。数え切れないほどの物語が、そこには存在する事だろう。予想もつかない展開だって、その中にはあるはずだ。或いはもしかすると、この数日間に彼が辿ってきた道程ですら、思い浮かべる者が居るかもしれないのだから。

 彼の名前はアルベール=カモミール。先日、長らく過ごしてきたウェールズを旅立ち、日本の地へとやってきたオコジョ妖精だ。

 その旅の道中は、やはり過酷なものだったと言えよう。どれほど世の中が便利になって、世界が狭くなったと言われたところで、それらの恩恵に与れない者はごまんと居る。オコジョともなれば論外かつ欄外だ。飛行機、電車、バス。人目を盗み、機械の監視から逃れ、時には無垢な動物のフリをして続けてきた旅は、数日といえども彼を疲弊させた。特に最後の行程が徒歩だった事もあり、一年を通して染まる事の無い真っ白な毛並みには、些か汚れが目立ってきていた。

 だが、それももう終わりだ。

 今、アルベールの眼下には旅の目的地の雄大な景色が広がっている。辺りには、嗅いでいるだけでも心身が安らいでくる草木の香りが満ち、広大な湖からは水気を含んだ空気が運ばれてくる。そんな、むせ返るほどに自然の息吹が感じられ、妖精でありオコジョでもある彼にとっては酷く心地良いこの空間は、それでもなお人の気配に支配されていた。

 麻帆良。極東最大の魔法組織として名高い学園都市が、目の前に待ち受けている。


「流石に見事だねぇ。開放的な割にはガードが固いし、噂は伊達じゃないってか」


 せめて電車が使えれば楽だったのに。やけに勘の鋭い車掌の事を思い出して心中で愚痴りながらも、アルベールは一気に山を駆け下り始めた。草を踏み締め、土を蹴り、グングン街との距離を縮めていく。

 一度内部に入ってしまえば、あとはコチラのものだ。魔法使いに一般人、そして彼らのペットや野生動物など、色々な存在が生活している空間の中にひ弱な妖精が一匹混ざったところで、そうそう気付かれる事は無いだろう。その間に目的を達成してしまえば、勝ったも同然だ。恐れるものは何も無くなる。


「へへっ」


 もうすぐやってくる輝かしい未来を思い浮かべて、アルベールは頬を緩めた。

 この数日間で溜め込んだ疲労もなんのその。力強い駆け足で草木の間を縫うように進んでいき、とうとう、下り坂の終わりが見えた。遮る物無く日射しを浴び、夕陽の朱に輝くその場所は、まるで彼の行く末を暗示しているかのようだった。

 最後に一歩、目一杯に力を込めての大跳躍。そうして無事に山を抜けたアルベールは、


「――――待った。ココは私有地。つまりウチの縄張り。挨拶ぐらいはしていってくれても、いいんじゃないかな?」


 次の瞬間には誰かの手に捕われていた。












 ――――第十八話――――――――












「――――――つまり君は、大恩あるネギ君の修業を手伝いに来たと?」

「そういう訳でさ、綺麗な姉さん」


 やたらと俗物的な愛想笑いを浮かべて、オコジョ妖精が然りと頷く。それを受け、洸は考え込むように口元に手を当てた。

 二人が居るのは、麻帆良を囲む山々から少しだけ内側に入った所にある、大きな森の中だ。緑の葉を豊かに茂らせた木を背にして立つ洸と、その視線の先で石に腰掛けているアルベール。重く言えば尋問中。軽く言ってしまえば、質問会の真っ最中だ。洸の手によりここまで連れてこられたアルベールは、先っぽだけ黒い毛並みをした尻尾を振りながら、景気良く口を回していた。


「なんで、よければネギの兄貴のトコまで連れていっちゃもらえませんかね? 一目見れば兄貴も俺っちだと気付くはずでさ」

「ふむ……なるほどね」


 小さく呟き、洸はおもむろに携帯電話を取り出した。そのまま音を立てて開き、幾つかのボタンを押した後に左耳へと当てる。素早く行われた一連の動作を、アルベールは固唾を呑んで見守っていた。

 二度か、三度か。僅かに漏れ聞こえてきたコール音は、さほど間を置かずに鳴りやんだ。


「あ、ネギ君?」


 瞬時に瞳を輝かせたアルベールは、


「ゴメンね、ちょっと戻れそうにないんだ。まだ続けてもいいけど、日が落ちたら明日菜と一緒に寮まで帰るように――――――あぁ、うん。心配無いよ。迷子が居ただけだから。それじゃ、また今度ね」


 続く話の内容に首を傾げた。

 小動物特有のクリッとした目を一層丸くして、アルベールが洸に問い掛ける。


「あの、姉さん?」

「すぐに会わせてあげたいのは山々なんだけど、流石にそう簡単にはいかなくてね」


 また別の誰かに電話を掛けながら、洸は片手を上げて謝意を示す。それに対してアルベールが何か反応を返す間も無く、次の通話相手が電話口に出たようだった。途端、彼女の表情が真面目なものへと変わる。


「お仕事中に失礼します、学園長。申し訳ないのですが、急ぎ身元の照会を頼みたい者が居まして――――――いえ、魔法使いではなくオコジョ妖精です。名前はアルベール=カモミール。本人はネギ=スプリングフィールド教諭の友人と名乗っています。その為、他の者に頼む訳にもいかず――――――はい。その通りです」


 畏まった口調で洸が話す相手の立場と、その会話の内容に耳を傾けていたアルベールが、ヒクリと尻尾を揺らす。石の上に座ったままの彼は話が進む度に両の耳を小刻みに動かし、ぎこちなく頬を歪める。そんな彼の様子を視界の端に捉えている洸は、しかし何事も無いかのような振る舞いで会話を続行した。

 そうして数分ほど時間が過ぎ、全ての要件を語り終えた洸が通話を切る。携帯電話を折り畳み、ポケットに仕舞った彼女は、見る者の心が安らぐような柔らかな微笑みを浮かべて、アルベールに話し掛けた。


「待たせたね。それじゃ、学園長が調べてる間に簡単な検査を済ませようか。偽装魔法とかを、ちょっとだけね。それが終わったら体を洗おっか。あっ、あと痛いかもしれないけど採血もね。血液検査の方に回すから」

「ね、姉さん……?」

「大丈夫。出来るだけ疲れないように配慮するし、寝床も用意する。ちゃんとネギ君にも会えるよ。それとも、他に何か?」

「あ、いや。なんでもねぇっス。姉さんの仰せのままに」


 尻尾を丸め、頭を下げるアルベールを見て、洸がヨシと頷く。それから彼女は、落ち着きの無いオコジョ妖精を優しく抱き上げると、空気に溶け込むようにしてその場から消えてしまった。

 あとには微かな燐光と、夕焼け色に染まった草木が残され、彼らのさざめきだけが空気を震わせていた。








 ◆








 走る。馳せる。駆ける。腕を振り乱し、汗を振り飛ばし、息を切らせながらネギが疾走する。足下の草花を掻き分け、時には踏み倒しつつ、前へ前へと進んでいく。そうして一息の間に幾つもの木々の合間を潜り抜け、風そのものといった勢いで森の奥へと踏み込む彼の後ろには、まるで影のように付いて離れぬ者が居た。

 明日菜だ。ツインテールをなびかせ、微かに額に汗した彼女は、ネギに比べて幾分余裕のある表情で森の中を駆け抜けている。力強く足を振り上げ、抉るように土を跳ね上げて前方のネギを追い掛ける姿は、さながらジャッカルか何かのようにも見えた。


「ホラホラ、もっと速く走らないと掴まえちゃうわよ!」

「そんな、も……ムリですって!」


 楽しげに話す明日菜とは裏腹に必死な表情をしたネギが、声を絞り出すようにして叫び返す。

 立ちはだかる岩を蹴って大きく前方に跳躍し、子供一人分の幅しかない木々の隙間を通り抜け、殆ど直角に近い方向転換を行っても、明日菜はネギの後ろにピタリと付いてくる。地力も経験値も、まるで違う。ただ走っているだけだというのに、そこにはハッキリとした実力差が浮き彫りになっていた。

 明日菜は驚くほど精確に一定の速度を保ち、それ故にネギの速さが如実に両者の距離へと反映されてしまう。少しでも気を抜けば背後の気配が迫ってきて、それから逃げようと力を振り絞れば、また離れていく。それを何度と無く繰り返して今までやってきたネギだが、流石に限界が近付いてきていた。

 どれだけ足に力を込め、気合いを入れても、明日菜との距離が開かない。寧ろ徐々にとはいえ縮まるばかりで、一際多くの汗がネギの体から噴き出していた。このままでは、彼女に掴まるのは時間の問題だ。


(でも……でも――――ッ)


 最早、ネギは限界だった。心身共に疲労が溜まり、明日菜との距離が縮まったと感じる度に、見えない重りが体へと圧し掛かってくるように思える。これでは駄目だと分かっているのに、抗うだけの気力は、既にネギには残されていなかった。

 とうとう二人の距離が一メートルを切り、明日菜が手を伸ばせば届きそうな位置を、ネギは走る事になる。

 終わった。そう思ってネギが覚悟を決めた、その瞬間。


「あっ」


 どこか間抜けな明日菜の声が響き、直後にネギは、背中に物凄い衝撃を受けたのだった。




 □




「あははははは…………ゴメン」

「……いえ、お気になさらず」


 思い切り気を遣った感じが伝わってくるネギの声に頬をひくつかせた明日菜は、慌てて倒れていた体を起き上がらせ、立ち上がった。口の中に入っていた草を吐き出し、ザラつく土も唾と共に吐き捨てる。それから直前まで自分が倒れていた場所に視線を遣ると、そこには明日菜以上に草と土に塗れたネギが倒れていた。

 汗だくの顔に疲れを滲ませ、仰向けに体を投げ出している彼に、明日菜が手を差し出す。


「ほら、このままじゃ風邪ひくわよ。戻りましょ」

「ありがとうございます」


 伸ばされたネギの小さな手を握り、立ち上がらせる。それから運動着に付いた草を軽く払ってやると、明日菜は彼を先導する形で歩き始めた。随分と奥の方まで来ていたが、開始地点には目印がある。それが発する魔力を探すくらいは、彼女も出来るようになっていた。

 殆ど日が落ち、夜闇にも等しいほど暗い森の中を、二人は迷いの無い足取りで進んでいく。


「けど、最後は突然どうしたんですか?」

「あぁ……アレね」


 見上げてくるネギの視線から逃げるように、明日菜が顔を逸らす。


「時間切れよ、時間切れ」

「時間切れ、ですか?」

「そ、時間切れ」


 契約執行による身体能力強化には、制限時間という縛りが付き纏う。特に仮契約状態では長時間の執行は不可能であるらしく、今回は一度につき十五分という制約を洸から言い付かっていた。そしてその十五分が経過したのが、まさに先程の瞬間だった訳だ。

 唐突に力が失われ、バランスを崩し、石に蹴躓いて、慣性のままにネギの背中へ突っ込んだというのが真相である。


「だからまぁ、さっきのはアンタの勝ちよ。最後まで逃げ切ったわけだしね」

「ホントですか!」


 途端に表情を明るくするネギを見て明日菜が苦笑し、次いでそんな彼女に気付いた子供先生が、恥ずかしそうに頬を染める。


「うっ、あ、いや……そう! アスナさんも凄かったですよね! 僕も運動は自信あったのに、全然でしたし」

「ま、春休み中は高畑先生や先輩と同じような事をずっとやってたからね。スッカリ慣れちゃってるのよ」


 歩きながらクイと伸びをして、明日菜が得意気な顔を作る。


「最近は調子が良いっていうのもあるんだけどねー。色々教わるようになってから、なんか妙に体のキレがいいのよ。力が漲るって感じじゃなくて…………そう、動きが馴染む感じ。教えられた事がそのまま出来る気がするのよ。流石にそんな上手くはいかないけどさ」


 その所為か、近頃は新聞配達が随分と楽にこなせるようになってきている。別に今までが辛かった訳ではないが、より早く、疲れずに仕事を終えられるのは良い事だ。お陰で朝の時間にも余裕が出来た。


「へぇ~。凄いじゃないですか」


 素直に称賛を口にするネギに向けて、明日菜がニカリと笑う。


「ありがとっ。高畑先生も見込みがあるって言ってくれてるのよね。けど、アンタも凄いんじゃない? ほら、なんだっけ。今日やったヤツ。あの魔法だって初めて使ったんでしょ?」

「あぁ、”戦いの歌(カントゥス ベラークス)”ですね。でも、僕のはまだまだ不完全ですし」

「なに言ってんのよ。先輩もよく出来てるって褒めてたじゃない」


 戦いの歌。簡単に説明するなら、術者自身に施す身体能力強化魔法だ。契約執行により明日菜が洸から受けている魔力供給を、自分に対して行う訳である。魔法学校のカリキュラムからは外れるが、基本的な魔法の一つなのだと洸は言っていた。それだけに決して難易度は高くないものらしいが、ネギほどに短時間で形に出来る者は稀だと褒められたのも確かだ。

 明日菜は立ち止まり、ネギの顔を指差した。その表情は、少しだけ怒っているようにも見える。


「大体アンタは謙遜し過ぎ! 子供なんだから、少しくらい調子に乗ったところで誰も怒らないわよ」

「うっ。でも、僕は先生ですから……」

「それでもよ」


 ネギの鼻先に指を突き付けたまま断言した明日菜は、直後に眉尻を下げて苦笑する。


「ま、そこがアンタの良いトコかもしれないけどね」


 言って、止まっていた足を九十度回転させた明日菜は、再び開始地点を目指して歩き出した。

 どこか遠くの方からは梟の鳴き声が響き始め、反対に他の動物達は息を潜めたのか、殆ど気配が感じられなくなっている。まるで影絵のような木々は遠近感が希薄で、八方から聞こえる葉擦れは方向感覚を狂わせる。そんな風に夜の森は寂しく、不気味な雰囲気が漂っている。最初の頃は明日菜も、色々と怖がったりしていたものだ。と言ってもそれは、ホンの二週間ほど前の事なのだが。

 一度目か、二度目か、はたまた三度目だったか。気付いた時には、平気で歩けるようになっていた。明日菜自身でも意外なほど慣れるのが早く、今ではそこらに動物が隠れていやしないかと探す余裕があるほどだ。


「そうそう。最近ちょくちょくマクダウェルさんと会ってるみたいだけど、仲良かったっけ?」


 ふと思い出し、明日菜は隣のネギに問い掛けた。新学期の開始から、今日で四日目だ。その間特に大きな問題があった訳ではないが、以前とは少しだけ違う風景が見られるようになった。それが、とあるクラスメイトとネギの会話だ。見掛けた回数は片手でも数えられるくらいで、その時間も短かったが、やけに気を許した感じのネギの態度が気になっていた。主に、のどかの関係で。


「あぁ、マクダウェルさんは魔法使いなんですよ。僕と同じ見習いの」

「へ? そうなんだ」

「僕も最近知ったんですけどね。それで、今は彼女の課題を少し手伝っているんですよ」

「へぇ~。なるほどね」


 二年間一緒の教室で過ごしてきたが、まるで気付かなかった。とはいえタカミチの事も分かっていなかったのだから、そんなものなのだろう。特にエヴァンジェリンは非社交的な人物で、謎の多いクラスメイトでもあるから余計にだ。


「それなら問題無いか……」

「何がですか?」

「なんでも無いわよ」


 無邪気に尋ねてくるネギに、すげなく返す。

 夕映達には適当に説明すれば良いだろう。春休み中に会えなかった分を取り返そうと張り切っているのどかには悪いが、流石にコレを正直に説明する訳にはいかない。その判断を下せる権利は、今の明日菜には無いのだから。

 目を細め、瞑り、それから頭を振って、明日菜は張りのある声を上げた。


「ホラ、もう出口よ! スッカリ暗くなってるじゃない!! このかが待ってるし、急いで帰りましょ!」


 返事は聞かず、明日菜は脱兎の如く森の外へ向かって駆け出した。後ろの方でネギが驚きの声を上げているが、お構い無し。契約執行で身体能力を上げてまでの全力疾走だ。ネギもまた同じ選択をしたのか、明日菜は魔法の発動を背中で感じ取った。そうして森を抜け、月明かりに照らされた暗緑色の原っぱを、二人は子供みたいに駆けていくのだった。








 ◆








 関東魔法協会の本拠地である麻帆良には、都市の各所に魔法使いが管理する施設が存在している。裏では魔法関係で色々と風変わりな面を持つそれらも、表向きは印刷会社や本屋、喫茶店といった形で日常の中に溶け込んでいる。今回洸が利用したのもそういった施設の一つで、何処にでもあるようなオフィスとして駅前に存在していた。

 広さにして十畳ほどの、小会議室。小さめのテーブルと大きめのラウンドテーブルが一つずつ置かれ、計十二の椅子が用意されたその部屋を、洸は借りる事に成功していた。各種の検査を終え、アルベールを洗い終える頃にはスッカリ日が落ちてしまっていたが、折良く近右衛門から調査報告を受け取った洸は、食事もそこそこに此処で話し合いを始めたのだった。

 もっともその内容は、当初の予定とは少々異なっていた訳だが。


「女性下着、合わせて二千枚を窃盗……ね」


 椅子に座った洸が、小さく呟く。その声は感情を無くしたように平坦で、報告書を握る手は細かく震えていた。彼女の視線の先、机の上に用意された座布団に陣取ったアルベールは、ぎこちない笑みを浮かべて愛想を振り撒いている。洗ったばかりの白い毛並みは何故かくすんで見えて、つぶらな瞳には焦りが滲んでいるように思えた。

 明らかに挙動不審なアルベールを半眼でねめつけ、洸が嘆息する。それから、実に気だるそうに話し始めた。


「ネギ君の友人という確認は取れたけど…………ねぇ、オコジョ君」


 ビクリと、アルベールが大きく体を跳ね上げる。


「ウチは真っ当な組織で、犯罪者を見付けたら捕まえなきゃいけないんだよ?」

「わ、わかってまさぁ! だから俺っちも…………コッソリ兄貴を訪ねようと思ってたわけで」

「それで? ネギ君に使い魔として雇ってもらおうとでも?」


 冷たく言い放つ洸に、アルベールは身を竦ませる。次いで恐る恐るといった様子で彼女を見上げ、恐々と口を開いた。


「まぁ……そういう事になるっスね」

「見習いとはいえ、ネギ君は真っ当な魔法使いだしね。その使い魔ともなれば、オコジョ協会も手を出しかねる、か。被害者は一般人の女性ばかりみたいだし、わざわざ事を荒立てようとはしないだろうね」

「や、コスい考えだって自覚はあるんスよ?」


 窺うように両手を合わせるアルベールを見下ろし、洸は頭が痛そうにコメカミを押さえた。ゆっくり息を吐き、長い睫毛を震わせる。そうした一つ一つの動作に過敏に反応するオコジョ妖精に向ける彼女の視線は、やはり冷たい。元々が吊り眼である彼女が目付きを鋭くすると、それはもう、まさしく刃物みたいな切れ味が感じられて怖かった。

 文字通り身を切られる思いなのか、震える口をどうにかして動かそうとするアルベールの機先を、


 ――――――ッ!


「ヒッ」


 報告書を机に叩き付けて、洸が制す。首を絞められたようにアルベールが押し黙り、小さな体を尚一層縮こまらせる。明らかに恐れを滲ませて仰ぎ見てくるオコジョを睨み付け、洸は一つ一つの言葉を噛んで含めるように、ゆっくりとした口調で話し始めた。


「私だって、融通がきかない訳じゃない。ネギ君のためにも、見て見ぬフリをするのは、吝かではないよ」

「ホ、ホントっスか!」

「た・だ・し」


 途端に瞳を輝かせるアルベールに指を突き付け、洸が牽制する。ピシッと背筋を伸ばし、真面目ぶった表情をして、それでも隠し切れない期待の色を顔に浮かべるアルベール。そんな彼に対し、洸は努めて抑揚を抑えた声で語り掛けた。


「絶対に下着泥棒はしないように」

「胆に銘じておきます!」

「ウチの女生徒に不埒な真似はしないね?」

「勿論でさぁ!」

「私の計画を手伝ってくれる?」

「へぇ! いくらでも! …………あれ?」


 疑問符を浮かべるアルベールに対して満足そうに頷き、洸は深く椅子に腰掛ける。それから先程の報告書へと手を伸ばし、机の上から摘み上げると、アルベールの目の前に差し出した。プラプラと左右に振って注目させ、一度だけ指で弾いた後、彼女はまるでシールでも剥がすかのようにして、それを”二枚”に分離させた。

 報告書の下から出てきた紙には、明らかに日本語とは異なった言語が満遍無く書き込まれている。その事に気付いたアルベールは目を丸くし、次いで顔の造形が変わるような勢いで頬をヒクつかせた。


「少し悪い話をしようか、オコジョ君」


 二枚の紙を胸元に抱き寄せた洸が、不敵な笑みを浮かべて宣言した。








 ◆








 新学期が始まってからのここ数日、ネギは明日菜と木乃香が寝静まった後に、エヴァンジェリンから受け取った例の資料を纏める事を日課としていた。過去に麻帆良で起こった事件の数々を集めたという資料には、ネギにとっては宝の地図にも思えるほど興味深い情報が所狭しと載っており、ただ読んでいるだけでも楽しくて仕方が無いのだ。

 また、エヴァンジェリンが纏めたレポートも面白い。ネギとは違う視点、考え方から事件について触れ、他の事例との類似性や、その改善案などを順序立てて綺麗に説明している彼女の文章には、素直に感心させられる。明後日の日曜にはエヴァンジェリンの家で互いの成果と意見を交換する予定だが、今からその時が楽しみだった。


「そのためにも……」


 エヴァンジェリンに見せても恥ずかしくない物を書かなければならない。気合いを入れ直して、ネギは手元の資料と向き合った。

 明日菜と木乃香の寝息に交じり、紙の擦れる音が部屋の中に響く。日付が変わり、寮そのものが寝静まるかのように各部屋から明かりが消え始める時間に、ネギは黙々とペンを走らせていく。一枚目を仕上げ、紅茶を飲み。二枚目を仕上げ、目を擦り。そうやって今日のノルマと定めていた所まで終わらせ、明日に備えて眠ろうかと、ネギはクッと伸びをする。


「こんな遅くまでご苦労っスね、兄貴」

「ッ!?」


 イキナリ隣から聞こえてきた声に、ネギはギョッとした。慌てて辺りを見回しても人影は見付からず、普段通りの部屋の内装しか目に入らない。一体どうした事かと不気味に思い始めた頃、再びネギの耳を謎の声が打った。


「兄貴、兄貴。コッチです。下です」


 やはりすぐ近くから響いてきた声が言うままに視線を落とすと、ネギの視界に見覚えのある姿が現れる。胴長短足。スラリとしたシルエットと丸い耳を持つ、雪のように真っ白な友達。オコジョ妖精のアルベール=カモミールが、畳まれた布団の前に立っていた。


「カモ君? どうしてココに?」

「お久し振りです。修業を始めたっていうんで、手伝いに来ましたぜ。本当なら昼の内に会いたかったんスけど、ちょいと事情があって遅れましてね。悪いたぁ思いましたが、忍び込ませてもらったっスよ」

「それは構わないけど、僕の修業の手伝いに?」


 軽やかに床の上からジャンプし、アルベールはネギの布団に飛び乗った。そうして互いの視点が、同じくらいの高さになる。


「その通りでさ。まだパートナーは見付けてないんでしょう? なら俺っちを使い魔にしてみませんか? 荒事にゃあ向いてませんが、日常の相棒としちゃ最適ですぜ。なんせオコジョ妖精は人の抱く好意がわかる。円滑な人間関係の手助けは勿論、兄貴のパートナー探しだって、俺っちに任せてもらえればちょちょいのちょいっスよ」


 短く愛嬌のある腕を広げ、軽快に口を動かす懐かしい友人の姿を見て、ネギはクスリと笑った。最後に会った時から、まるで変わっていない。明るく、楽しく、そして今はちょっぴり郷愁の念を思い起こさせる、良い友達だ。


「うん。カモ君が良いなら、是非お願いするね」

「流石は兄貴! 話がわかる――――っと、今は深夜でしたね」


 小さな指を器用に鳴らしたアルベールが、慌てて自らの口を押さえるジェスチャーをする。その仕草がまたどこかコミカルで、ネギは浮かべた笑みを深めた。相変わらずな友人の様子は、本当に安心させられる。

 次にアルベールはおっかなびっくりといった感じで布団の上から身を乗り出し、ロフトの下を覗き込んだ。二段ベッドの下段を見て、上段を見て、再び下段に視線を向けた彼は、そのままの姿勢で口を開いた。


「ところで兄貴、あの下で寝てる人がこのかの姉さんですかい? ココの長の孫娘っていう」

「そうだけど…………どうかしたの?」


 なんとなく警戒しているようにも見えるアルベールの態度に、ネギが首を傾げる。


「Let sleeping dogs lie. この国風に言やぁ、触らぬ神に崇りなしってトコですか。ま、俺っちにも色々あるんスよ」

「……ふぅん。そうなんだ」


 アルベールの言いたい事はイマイチよく分からなかったが、偶に理解出来ない言動をするのもこの友人だと、ネギは勝手に納得した。その視線の先ではマジマジと木乃香の寝顔を観察していたアルベールが、何か納得したように頷いている。

 一通り眺め終えて満足したのか、アルベールは再びネギの方へと顔を向けた。


「ま、いいでしょう。それで、どうします? 俺っちを使い魔にしてくれるってぇなら、ちょいとばかし話し合う必要がありますけど、やっぱり明日がいいっスか? 今日はもう遅いですしね」

「う~ん……そうだね。カモ君には悪いけど、僕もう眠くって」


 クァと欠伸を一つして、うっすらと涙を浮かべたネギが、眠たそうに目を擦る。気付けば、草木も眠る丑三つ時だ。魔法学校時代から夜更かしに慣れているとはいえ、子供の身には些か辛かった。


「気にしなくていいっスよ。押し掛けたのは俺っちの方ですから」

「ありがとう、カモ君」


 各種の書類を仕舞い、ティーセットを片付け、布団を敷く。

 そうして後はスタンドの明かりを消せば眠れるという体勢のネギに対して、アルベールが小声で話し掛けた。


「兄貴。色々大変たぁ思いますが、頑張ってください」


 その声は何時に無く気遣いに満ちているようで気になったが、生憎、彼は見える位置に居なかった。

 アルベールの手により明かりが消され、闇の帳が部屋に落ちる。途端に眠気が強くなり、ネギの思考が鈍くなった。水底へ沈んでいくかのようにゆっくりと意識が薄れ、心地良い気だるさが彼の体を包み込む。


「……うん。僕、頑張るよ」


 最後にそれだけ言って、ネギは闇の中へと意識を沈めていった。








 ◆








 読書に音楽、映画鑑賞。洸と同居するようになってからのさよは、これらを趣味として日々の退屈を紛らわせてきた。勿論、自分ではお金を使えないどころか持ってすらいない彼女の趣味であるから、本やCDは全て洸の所有物だ。逆に言えば、洸が持っていたからこそこれらの娯楽で暇を潰してきた訳でもある。

 だから、と言うほどでもないけれど。四月に入ってネギの授業観察の給料兼お小遣いを貰ったさよは、そのお金で以前から気になっていたキャンドルを購入する事にしたのだ。

 キャンドル。つまりはロウソク。そう言ってしまえば味気無く感じられるが、直接目にしてみると、やはり趣深いものがある。様々な形や模様を持ったカラフルなキャンドルが暗闇の中で火を灯す様は、ただ眺めているだけでも心が落ち着き、また楽しく感じられる。

 そんな訳でここ数日のさよは、残りの数を計算しながら、小さな火を揺らめかせるキャンドルを夜の友として過ごしてきたのである。それは洸が訪れた今夜も例外ではなく、提灯の形を模したキャンドルを明かりとして、さよは同居人を出迎えていた。


「――――あの~、さっきから何してるんですか?」


 キャンドルの暖かな光に照らされた部屋の中で、さよは洸に話し掛ける。学校でのネギの話を聞きに来たはずの彼女は、先程から少々奇妙な行動を取っていた。両の手の平を左右の頬に当てて、ウニウニ、ムニムニ、何度も何度もマッサージ。そんな姿でも意外と可愛く思えるのは、美人の役得というものだろうか。


「ん……慣れない顔の使い方したら、ちょっとね」


 今度は軽く頬を摘んで、引っ張ってみたり放してみたり。そこにもやっぱり、愛嬌がある。

 キャンドルのほのかな明かりに照らし出された友人のそんな姿を見て、さよはクスリと笑った。


「あ、ヒドイ」

「だって、なんだかおかしくて」


 口元に手を当てたさよが、宙に浮いた体を小さく揺らす。


「もう。なにも笑わなくてもいいじゃない」

「すみません。けど、そんなにお仕事大変なんですか?」

「大変と言えば大変だけど、今日のはちょっと特別かな。いつもはそんなでもないよ」


 最後に軽く指先で揉んだ後、洸は頬から手を離す。それから軽く姿勢を正した彼女は、改めてさよと向き合った。テーブルの向こうに座る洸はニッコリと普段通りの微笑を浮かべて、澄んだ声音で話し始める。


「私の仕事については、また今度。今はネギ君の仕事振りが聞きたいな」

「あ、はい。任せてください」


 三年生に上がってから、今日で四日が経つ。それは同時に、ネギが正式な教師になってからの時間でもある。指導教員であるしずなが居なくなっても上手くやれているのか、ケアが必要そうな点はあるのか、今日の洸はそういった事を聞きに来ていた。

 人差し指を下唇に当てて、さよはここ数日の学校生活を振り返る。英語の授業があった回数は三回。HRは毎日行われ、初日の始業式では壇上で就任の挨拶もしていたはずだ。


「えっと、基本的には問題無いと思います。もうスッカリ以前の調子を取り戻したみたいですし、毎日楽しそうに授業をされてますよ。あ、あと最近はマクダウェルさんとちょっと仲が良いみたいです。何度か二人だけで話してるところを見ましたから」

「なるほどなるほど。クラスの子達の評判はどう?」

「悪くないと思います。みなさん、相変わらず好意的ですから。ただ、やっぱり接し方が先生と生徒といった感じとは違いますね」


 仲の良い先生に対するそれに近いが、やはり子供を相手にしているという感覚が抜けていないように思える。勿論これは仕方の無い事だし、以前にも同じような感想を言った覚えがある。だからさよ自身は特に問題視はしていないのだが、洸は気になるのか、この辺りの事はいつも詳しく聞きたがるのだ。

 今もまた気になっているようで、彼女は難しい顔をして揺らめくキャンドルの火を見詰めていた。


「そんなに気になりますか?」

「ん~、そこが一番の違いだからね。ウチの学園は人材豊富だし、他の部分に関しては色々と流用出来る知識があるけど、流石に子供の先生っていうのは初めての試みだもの。その部分での変化について集めておきたい情報はいくらでもあるよ…………大変だけどね」


 コテリとテーブルに頭を預け、洸は息を吐き出した。

 傍にあるキャンドルを指先で突つき、彼女は僅かに頬を緩める。


「こういうのもいいね。なんだか落ち着く」

「あ、気に入ってくれました? いいですよね、静かに楽しめて」

「うん。香りも良いしね」


 気持ち良さそうに目を細めた洸が、小さく欠伸をしてみせる。

 そんな、今にも寝てしまいそうなほど力の抜けた友人に対し、さよは心配そうに話し掛けた。


「やっぱり、お疲れですか?」

「…………かもしれない。あの日だけだと思ってたけど、疲れが溜まってるのかな」


 なんて話している間にも、欠伸がまた一つ。


「お休みは取れないんですか?」


 言いつつ、さよは部屋の隅にある棚へと視線を遣った。

 殆どの段は洸から貰ったぬいぐるみや小物で埋め尽くされているが、一段だけ、DVDのケースが収められている。これもまた洸から借りた物なのだが、その中でも、彼女と一緒に観ようと思っている物だった。一人だと怖いホラーや、一緒に映画館で観た話の一つ前の作品などが収められているが、中身がなんであろうと、観る事が無ければただのオブジェに過ぎない。


「……最近は帰りも遅いですし、偶には家でゆっくりしたらどうですか?」


 再び、さよは洸へと視線を移す。


「うーん。たしかに、最近は一日家で休んだ事は無かったかも」

「でしょう? だから映画でも観て、ゆっくりしましょうよ」

「…………そうだね。あと一週間もすれば今やってる事も落ち着いてくるだろうから、そしたらのんびりしようかな」

「ホントですか!」


 思わず上げた大声に驚いた洸が目を見開き、そんな彼女に気付いたさよは恥ずかしさから身を縮めた。後に続く言葉が出せず、口元をまごつかせる。そうやってさよが視線を彷徨わせていると、洸が薄く笑みを浮かべた。


「うん、ホント。約束する」


 部屋の中に、再びさよの歓声が木霊した。












 ――――後書き――――――――


 第十八話です。お読みくださった方、ありがとうございます。

 そんな訳でカモ登場です。そして登場と同時に捕獲。下手に行動させると面倒な事になるので、結局はこういう形になりました。まぁ今はこんな扱いですが、いずれ活躍する時も来るでしょう。多分。

 あとネギ達の方もチョコチョコと。コチラは割と順調ですね。本当はもう少しテンポアップして進めていきたいのですが、そうなると上手く纏められず、自分の未熟さを実感させられます。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第十九話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:0e463a95
Date: 2009/09/20 20:58


 良い天気だね、と洸が言った。

 良過ぎる、とエヴァンジェリンはぼやいた。

 太陽が白い輝きを放ち、天気予報を見るまでも無く快晴と分かる、気持ちの良い青空。森に住む動物達は活気付き、木々も元気一杯に花粉を飛ばしている。吸血鬼であり、花粉症を患ってもいるエヴァンジェリンにとっては、悪夢のような組み合わせだった。更に今日はネギが訪ねてくる日でもあり、彼女の機嫌は朝から底辺を這いつくばったままだ。

 今、エヴァンジェリンはソファに転がり、眠たそうな目で洸から渡された資料を捲っている。午後からやってくるネギとの話に必要な予備知識を蓄える為で、その周りでは彼女にやる気を出させようと、洸が忙しなく動き回っていた。紅茶を淹れ、クッキーを皿に盛り、茶々丸と分担して家事を片付ける。出来るだけ音を立てないよう気を付けながら、彼女はログハウスの中を駆けていく。

 そんな中、ふと、エヴァンジェリンが口を開いた。


「――――ん。まだ鼻がムズムズするな。洸?」

「はいはい。ホント、我侭さんなんだから」


 人形を抱えて移動させていた洸が、顔も向けずに指を鳴らす。するとエヴァンジェリンは満足そうに頷き、再び資料に視線を移した。

 とはいえ既に内容は把握しているので、今やっている事は確認作業に過ぎない。洸との付き合いから十分に意味を理解出来ているし、切り出さなければいけない話題も完璧に覚えている。問題があるとすれば、長時間に渡って猫を被る必要がある事くらいだろう。


「………………」


 テーブルの上に、資料を放り出す。そして寝転がったまま手に取ったクッキーを口元まで運び、唇に挟んで二つに割る。途端に広がる甘い香りを楽しみながらゆっくり咀嚼したエヴァンジェリンは、次いで気だるそうな表情をして呟いた。


「憂鬱だな」

「うわっ。まだ不満なの? 今度はマッサージでもしようか?」


 呆れた様子で話す洸の方を見て、それから目を瞑って、最後にエヴァンジェリンは、そっぽを向くようにクッションに顔を埋めた。


「……それは別にいい」

「そう? ならいいけど」


 言って、洸は部屋の模様替えを続行する。どうやらネギを出迎える準備らしく、エヴァンジェリンが起きた時に比べたら、部屋の中は随分と簡素な風景になっていた。いつも飾っている人形コレクションの多くは消え去り、テーブルはワンサイズ大きな物に。また家具の配置も変えられ、見えない部分には幾つも魔法陣が書き加えられている。


「ちゃんと消せよ、ソレ」


 クッションからチラリと顔を上げたエヴァンジェリンが、ぼやくように言った。


「明後日の準備だから、その後にね」

「ならいい」


 次にエヴァンジェリンは、壁掛け時計へと目を向けた。

 午前十一時。あと三時間で、ネギがやってくる。その事を考えた彼女は、眉を顰めて溜め息をついた。まったくもって憂鬱な事だと。


「また、ぼーや相手に優等生ごっこか」

「それがエヴァの役目だからね」

「…………悪の魔法使いなんだがな」

「善良な先生を騙してるんだから、十分それっぽいでしょ。あ、茶々丸ー。コレは地下に運んでおいて」


 作業を進めながらどうでもよさそうに応える洸の態度に口を尖らせたエヴァンジェリンは、枕代わりのクッションを抱き締め、不貞腐れた様子で体を丸めた。そうしてそのまま、苛立ち混じりの声で愚痴を零す。


「このままでは牙が溶けそうだな」

「……なんか、いつにも増して甘えただね」


 洸が足を止める気配を、エヴァンジェリンは背中で感じた。


「何かあった?」


 近付いてくる足音と共に発せられた、洸の問い掛け。心配、というよりも単純に疑問の色合いが濃いそれには応えず、エヴァンジェリンはソファの背もたれに額をくっつける。その姿は、正しく見た目相応な子供のようだ。


「具合でも悪い? どうしても駄目なら、今日だけは代わるよ? まだ時間はあるから、幻術の準備も出来るし」


 すぐ傍で洸の足音が止み、次いでソファが沈み込む。ふくらはぎに暖かな何かが当たり、それが洸なのだと、エヴァンジェリンはすぐに気が付いた――――――と、同時に、洸はゆっくりと彼女の頭を撫で始めた。滑らかな髪を一本々々梳くように、赤子と接するように丁寧に、そして泣きたくなるほど優しく、洸の指が触れてくる。


「私は子供じゃない」

「知ってる。でも、子供なのも知ってる」


 幼子をあやすように、洸が柔らかな声音で語り掛けてくる。それがくすぐったくて、エヴァンジェリンは思わず身をよじった。

 不思議と苛立ちは無い。胸に満ちているのは悔しいほどの安堵感ばかりで、これでは確かに子供みたいだと彼女は思った。かといって反抗心が湧く訳でもなく、本当に牙が抜け落ちてしまっているのかもしれない。

 なんて、馬鹿らしくない馬鹿な事を考えて、エヴァンジェリンは寝返りを打った。そうして彼女の青い瞳と、洸の黒い瞳が交差する。


「なぁ、私の事は好きか?」


 洸は一瞬だけ目を丸くして、それからすぐ、雲一つ無い青空のような笑顔を浮かべた。


「好きだよ。一番の親友だからね」

「……イヤな奴だな、ホント」


 気だるげに顔を手で覆い、その隙間から碧眼を覗かせたエヴァンジェリンが、拗ねたように呟く。対する洸は困ったように苦笑して、何も言わずにすくと立ち上がった。同時に黒髪が舞い上がり、エヴァンジェリンの視界から彼女の表情を隠してしまう。


「さてと。少し遅いみたいだし、茶々丸の手伝いに行ってこようかな」

「あ、おい」


 手を伸ばしても、それで止められるはずもない。背を向けたまま洸が遠ざかり、そのまま彼女は、地下への階段を下りていった。呼び止める事も出来ずに見送る形になったエヴァンジェリンは、不貞腐れた表情をして天井を仰いだ。


「…………嘘はついてないだろうな、じじい」


 鼻を鳴らしたエヴァンジェリンの呟きが、誰も居ない部屋の中に溶けていった。












 ――――第十九話――――――――












 良い天気だ。木漏れ日が射し込む森の小道を歩きながら、ネギは晴れやかな表情をしてそう思った。軽やかな足取りで砂利を鳴らし、鼻歌を木々に聞かせ、胸を大きく弾ませる。そうして鞄を肩に掛け、地図を手にした彼が、森の中を進んでいく。

 今日のお供はアルベールで、最近新たに使い魔として雇う事になった彼は、ここが自分の定位置だと言わんばかりの態度でネギの肩に乗っている。卸したての筆みたいに先っぽだけ黒く染まった雪色の尻尾を垂らしたアルベールは、小さな丸耳をヒクヒクと動かしながら辺りを見回しており、その姿は見た目相応な小動物のようにも、不相応な知恵者のようにも感じられた。


「しかしまぁ、中学生にしちゃ風変わりなトコに住んでるんスね、そのエヴァンジェリンって奴は」


 アルベールがそんな事を口にしたのは、数度目の分かれ道を前にしたネギが、手に持った地図を大きく広げていた時の事だ。真っ直ぐ進むか、左に行って小川沿いに歩くか。指でなぞって道を確認しているネギの左肩で、彼は窺うような表情を浮かべていた。


「ん? あぁ、保護者の人が持ってたログハウスを借りてるんだって。魔法関係で夜に出掛ける時とかに便利だって言ってたよ」

「……夜に、ねぇ」


 胡乱気な表情をしたアルベールの髭を風が揺らし、木々のさざめきがその呟きを掻き消す。隣のネギは彼の声に気付いた様子も無く、地図から顔を上げると左の道を指差して、にこやかに口を開いた。


「コッチみたいだね。もうすぐだよ、カモ君」

「それじゃ、さっさと行きましょうか。ぼちぼち時間も迫ってますし」

「うん。遅れたら悪いもんね」


 手に持った地図を畳んだネギが、小川沿いに続く道へと足を踏み出した。

 目的地はすぐそこだ。あと少しで、エヴァンジェリンの家に辿り着ける。その事を意識した彼は、自然と表情を緩めるのだった。




 □




 途中、川に架けられた小さな橋を渡り、そこから更に森の奥へと足を進めていった二人は、ほどなくして一軒のログハウスを見付ける事となった。全体としてはL字型に近い構造をしたそれは、丸太組みによる二階建てとなっており、傍には木組みの物置小屋と、小さな井戸が設置されている。森の中で木々に囲まれ、ちんまりと可愛らしく建っているその家を前にして、ネギとアルベールは足を止めた。


「桜ヶ丘4丁目29……うん、ココで合ってるみたいだね」


 これまた洒落た感じの木製ポストに視線を遣り、ネギは一つ頷いてみせる。それからポストの横を通り過ぎ、小さな木の階段を上って玄関前まで辿り着いた彼は、扉の横に備え付けられたベルの紐を引いた。

 カラン、コロン。

 軽やかな金属音が、辺りに響き渡る。


「こんちにはー。ネギですけどー」


 扉越しに呼び掛けると、間を置かずして誰かの足音が聞こえてきた。そうしてパタパタとスリッパで床を叩きながら近付いてくる気配を待っている間に、ネギは自分の格好を一つずつ確認していく。

 デフォルメされた羽が一つだけプリントされた黒いシャツをインナーに着て、その上から青色の半袖パーカーを羽織り、ボトムスには紺のカーゴパンツを穿いている。肩には使い魔のアルベールが居て、背には大きな杖――――――父の、サウザンドマスターの杖だ。

 ファッションには疎いネギだが、それでも笑われる事は無いだろうと一人で納得しながら、肩に掛けた鞄の位置を直す。と、同時に、目の前の扉が音を立てて開けられた。慌ててネギは姿勢を正し、挨拶をしようと相手の顔を見上げ、


「こ、こんにち……は?」


 思わず首を傾げてしまった。


「いらっしゃいませ、ネギ先生。お待ちしておりました」

「絡繰、さん?」


 ライムグリーンの髪が特徴的な生徒が、何故かそこに居た。黒のワンピースに白いフリル付きエプロンを合わせた、メイドを思わせるエプロンドレスに身を包んだ彼女が、普段通りの感情の起伏に乏しい表情を浮かべて立っている。


「なんでしょうか?」

「え、あ、いや。どうしてココに? マクダウェルさんの家ですよね?」


 カチューシャを着けた茶々丸の頭が、コテリと傾けられた。それに伴って長い髪が揺れ、ガラス玉のような瞳がネギを見据える。その視線に晒されて何を言えばいいのか分からなくなったネギが押し黙り、二人の間に、暫し沈黙が降りた。

 この奇妙な静寂を先に打ち破ったのは、茶々丸の方だ。得心がいったとばかりに一つ頷いた彼女は、次いで丁寧に腰を折って、ネギに対して頭を下げると、朗々とした口調で話し始めた。


「申し遅れました。エヴァンジェリン=アタナシア=キティ=マクダウェルの『魔法使いの従者(ミニステル・マギ)』を務めている、絡繰 茶々丸です。日頃は主共々、先生にはお世話になっております」


 清流の如く淀み無く告げられた茶々丸の挨拶は、最後にもう一度頭を下げる事で終えられた。

 ネギが驚きの声を上げたのは、それからすぐ後の事だ。




 □




「そういえば、ネギ先生にはまだ話していませんでしたね――――――どうぞ、くつろいでください」


 黒を基調としたフリルワンピースを着込んだエヴァンジェリンが、頬に苦笑を刻む。ネギ達に席を勧めた彼女は、自らもまたソファに腰掛け、体から力を抜いた。その後ろでは台所に入っていった茶々丸が何か準備をしているようで、互いを隔てる窓ガラス越しに彼女を見上げて、エヴァンジェリンは口を開いた。


「絡繰 茶々丸。私の自慢の従者です」

「そうだったんですか。なら、彼女も魔法使いなんですか?」


 首を振って否定したエヴァンジェリンは、次いで誇らしげな表情でネギの方へと視線を向ける。


「茶々丸は人形なんです」

「に、人形ですか?」


 エヴァンジェリンの返答は、迷いの無い首肯だった。


「正確にはガイノイド、というらしいです。動力部以外は知り合いの手によるものですから、私も詳しい事は分からないんですけどね。まぁ機械仕掛けとはいえ人形には変わりないですから、私にとってはそれで十分です」


 高く掲げた右手の指先を、エヴァンジェリンがクイと動かす。どうしたのかとネギが首を傾げたら、次の瞬間には一体の人形が視界に飛び込んできた。その大きさは三十センチ程度で、形はウサギを模しているように見える。長い耳を揺らしながら宙を移動してきたソレはテーブルの上でピタリと止まると、そのままゆっくりと降り立った。


「魔法……ですか?」

「いえ、人形遣いとしてのスキルです」


 更にエヴァンジェリンが指を曲げると、テーブルクロスを舞台にターンしたウサギが、ネギに向かってペコリとお辞儀した。腕を胸に当て、燕尾服を着込んだその姿は、さながら小さな紳士といった所だろうか。


「ほら、糸が見えませんか?」


 問い掛けに、ネギはただ黙って頷く事しか出来なかった。彼の視線の先では今もウサギが動き続けており、新たに飛んできたハットとステッキを身に着けた人形は、まるで生きているかのような自然な動作でそれらを操っている。


「この通り、私は人形遣いなんです。だから茶々丸との相性は良いんですよ」

「……はぁ~。凄いんですね」


 感嘆の息と共に呟いたネギを見て、エヴァンジェリンは微笑んだ。それから彼女は手首を返して人形を元の場所に戻すと、左後ろへと顔を向けた。丁度、お盆を持った茶々丸が台所を出てきた所だ。

 従者の姿を確認して一つ頷き、エヴァンジェリンは再びネギの方へと視線を戻した。


「お茶の用意も出来たようですし、そろそろ今日の本題に入りましょうか」


 ソファに体を預け、茶々丸の給仕を受けながら話すエヴァンジェリンは、まるで本物のお嬢様のようだとネギは思った。








 ◆








 うなじで切り揃えられたライムグリーンの髪に、同じ色の大きな瞳。頭は肩幅と同じくらい大きくて、手足は小枝のように細い。体長数十センチほどのその人形はどこかアンバランスで、しかしそれ故に愛くるしさがあった。もっともそれは、彼女が発する不穏な気配に気付かなければ、という条件付きだが。

 人形の名前はチャチャゼロ。エヴァンジェリンの手によって魂を吹き込まれた、彼女の従者だ。エヴァンジェリンの最古の仲間であり戦友でもある彼女は、自らの主人と気の置けない関係を築いているのだが、その所為か乱雑に扱われる事も少なくない。例えば今みたいに一月ほど地下室に置き去りにされるような事も、最近ではままあったりするから困りものだ。


「デ? 今日ハナンノ用デ来タンダ?」

「というか、最近見てないと思ったらこんなトコに居たんだね」


 地下室に安置された大量の人形の中から、文字通りチャチャゼロを発掘した洸の言葉に、彼女はウンザリした表情で嘆息した。


「オイオイ。地下室ニ置イテッタノハ御主人ダガ、此処ニ片付ケタノハオ前ダロウガ」

「あれ? そうだっけ?」


 チャチャゼロを抱えたまま、洸が目を丸くする。

 まるで覚えが無かった。彼女の認識からすればチャチャゼロと最後に会ったのは二月の頭で、その時は確かリビングに置かれた人形の中に居たはずだ。いつも通りエヴァンジェリンの魔力不足で動いてはいなかったが、相変わらず口が悪かったと記憶している。


「……マァ、アノ時ハ今ニモ死ニソウナ顔シテタカラナ。コッチノ話モ聞キヤガラナカッタシ」

「死にそうなって、中々な言い草だね。何時の事?」

「御主人ニ放リ込マレタ次ノ日ダナ。多分、二月ダッタト思ウゼ」


 胸元から聞こえてくるチャチャゼロの声に耳を貸しながら、洸は当時の記憶を掘り起こしていく。

 とはいえ、深く考える必要は無かった。二月にマクダウェル家を訪れた回数は二回だ。初めの一回は前述したとおりで、チャチャゼロとは普通に会っている。そうなれば必然的に残る二回目にも会っている訳で、その時の事を思い出せばいい。

 つまり、エヴァンジェリンとの約束で訪れた”あの日”だ。


「あ~、うん。たしかに見た気がしなくもない……かな? ゴメンね、チャチャゼロ」


 地下室の奥部屋へと続く扉を開け、近くの台にチャチャゼロを乗せる。それから洸は、部屋の中を一通り見回した。

 床には描き掛けの魔法陣があり、壁際にはその続きを描く為の各種道具が取り揃えてある。元々部屋にあった物は邪魔にならないよう脇に退けられ、洸の構想を形にするのに十分な作業スペースが確保されている。


「お詫びという訳じゃないけど、明後日の夜は少しだけ動けるようになるよ」

「ホウ。誰カ殺ッチマッテモイーノカ?」

「その前に私が貴女をバラすけど、試すだけならご自由に」


 チョークを手にしてしゃがみ込んだ洸が返事をすれば、その背後でチャチャゼロが楽しそうに笑い声を上げた。


「ケケケ。オ前ノソーイウトコ、嫌イジャナイゼ。戦イ方ハ気ニ食ワネーガナ」

「私もそう思う。サウザンドマスターみたいな魔法使いには、正直憧れる」


 滑るように洸の手が動き、その軌跡が白い魔法陣を次々と描いていく。図形を描き、文字を描き、それらを合わせた陣を描く。淀みの無い動作で行われる彼女の作業を、チャチャゼロは興味深そうに眺めていた。


「技術ナラ、オ前ノ方ガ上ダト思ウゼ」

「あぁ、たしかにね。あんな滅茶苦茶な術式は勘弁したいかな。エヴァの呪いを調べた時は眩暈がしたよ」


 一つの魔法陣が形を成し、洸が立ち上がる。次に彼女は、道具の中から緑の小袋を一つ掴み取った。


「けど……それでも呪いの効果に破綻は見られないし、驚くほど安定してもいる。間違い無く彼は天才だ」

「マァナ。長ク一緒ニ居タ訳ジャネェガ、強イノダケハ確カダゼ。ソッチ方面ナラ魔法ノ腕モ良イシナ」

「だろうね。誰に聞いてもそう言うよ」


 大戦の英雄。世界を救った偉大な魔法使い。魔法界においてナギの評価は非常に高く、洸もまたその点に関して異論は無い。勿論彼を快く思わない者も多いが、だからといってその功績が覆されるはずもない。彼の成した事は紛れも無く偉業であり、一魔法使いとしては尊敬にも憧憬にも値するというのが、洸の認識だ。


「ソウイヤ、オ前ハ会ッタ事ガ無インダッタカ」

「エヴァが封印された時には、もう麻帆良に居たけどね。お爺様が会わせないようにしたみたい」


 今から十五年前の事で、洸が近右衛門に引き取られてから、一年が経ったかどうかという頃だ。

 当時はただ大切な客人が来ているという事しか教えて貰えず、結局は一度も顔を合わせない内に、ナギは麻帆良を去っていった。幼い洸は、その事で随分とヤキモキしたものだ。挨拶くらいはちゃんと出来るのに、と。


「ホウ、ナンデダ?」

「さぁね。心配だったんじゃない? ほら、彼って女性にモテるらしいし」

「ナルホド。違イネェ」


 ケケケと笑う声が部屋に響き、洸もまた頬を緩ませる。


「よし、と。まずは第一段階終了かな」


 頷き立ち上がった洸の足下には白線で描かれた魔法陣があり、それを縁取るようにして、緑色の粉が撒かれている。


「第一段階カ。随分ト周到ダナ。ソンナニ難シイノカ?」

「呪いの解析用だからそれなりに高度だけど、今やってるのは主に後始末の準備だね。作戦開始は明後日の午後八時丁度。解析には特に時間を掛けるつもりは無いけど、遅くとも翌朝には捜査の手が入ると思うからさっさと証拠隠滅しないとね」


 手にしている小袋を作業台の上に戻し、洸は軽く伸びをした。キャスター付きの作業台には、先程の物とは別に青と赤の小袋があり、また五本の試験官と黒白二色のチョークのような物が用意されている。まだまだ、魔法陣の完成には時間が掛かる。

 作業を続けようと、新たに透明な液体が入れられた試験管を摘まみ上げた洸は、そこでピタリと動きを止めた。


「…………知ラナイ気配ダナ」

「ご心配無く。私のお客さんだよ」


 小さく呟いたチャチャゼロに対してそう教えると、洸は部屋の出入り口へと顔を向けた。その視線の先には、恐る恐るといった足取りで部屋の中に入ってくる影がある。先日新たに知り合った、白く小さなお友達。アルベール=カモミールだ。








 ◆








 提出前に意見を交換して、最終調整をしたい。この事を初めに持ち掛けたのは、ネギの方からだった。自分の先輩である魔法使い達がどのように活躍しているのか、或いはどういった人々を助けてきたのか。資料越しとはいえ、これらの事を詳しく知る機会を得たネギの心には、小さくも確かな熱が宿っていた。

 茶々丸の人助けを目撃した時にも感じたソレは、おそらく憧れという言葉が相応しい。教師としてではなく、魔法使いとして抱くその感情は、近頃のネギにとっては珍しい類のものだった。

 知りたい。理解したい。そして、近付きたい。そんな想いから、ネギは今日の約束を持ち掛けたのだ。今、こうしてエヴァンジェリンが書き上げたレポートを見るだけでもよく分かる。観点が違うのだ、見習いの彼女と、見習いの中でもヒヨッコの自分とでは。


「…………色々と資料を見ていて思ったんですけど、皆さん中々大胆に魔法を使うんですね」

「あぁ、そこに気付かれましたか――――――ん、レポートの方でも幾らか言及されてるみたいですね」


 パラパラと紙束を捲っていた手を止めたエヴァンジェリンが、興味深そうに目を細める。対面では同じようにしてエヴァンジェリンのレポートを眺めていたネギが顔を上げ、窺うような視線を彼女に向けた。


「魔法学校で教えられた事と違う。そう感じましたか?」


 躊躇うように小さく、けれど確かに、ネギが首肯する。それを見て、エヴァンジェリンは一層笑みを深めた。


「まさしくその通りです。魔法学校で教える事は間違いではないのですが、正確ではありません」


 紙束をテーブルの上に置き、重ねた手を腿に乗せる。それからエヴァンジェリンは意味あり気に口端を吊り上げ、心の底まで見透かすように、青い瞳でネギを射抜いた。知らず、ネギは拳を握り締める。彼女の雰囲気が、そうさせていた。


「魔法使いとは、得てして魔法を使いたがるものです。子供も大人も、必要な時もそうでない時も。それは魔法を自身の力と捉えているからこそ起こる必然ですが、だからといって軽々しく使っていいものでもない。何故なら――――――」

「――――――魔法を一般人に知られる訳にはいかないから、ですよね?」


 満足そうに、エヴァンジェリンは頷いた。


「では、どうして一般人に知られてはいけないのでしょうか?」

「魔法という未知の、それも発達した文化が流入する事で、社会を混乱させない為です」

「正解です。でも、だからこそ時に魔法を行使する理由にもなります」

「え?」


 疑問符を浮かべるネギに対してすぐには答えず、エヴァンジェリンはティーカップを手に取って一拍置いた。

 未だ湯気を立ち昇らせる紅茶に口をつけて、ハァと小さく息を吐く。それからゆっくりと、ワザとではないかと思えるほどゆっくりとティーカップを戻した彼女は、落ち着いた口調で話し始めた。


「つまり問題の本質は、一般社会が混乱するか否かにある訳です。そして多くの人には、それを成す事は出来ません」

「…………だから、多少知られたとしても問題ではないと?」

「皆無、とは言えませんけどね。けれど、気にし過ぎて動けないよりはマシです」


 難しい顔をして黙ったネギを見て、エヴァンジェリンは肩を竦めた。対面に座る担任の姿を眺めながら再びティーカップを手に取り、中身を飲み干し、傍に控えた茶々丸へと目線を送る。賢い従者が、手早く、静かに紅茶をカップに注いでいく。

 そうして暇を潰してもまだ口を開こうとしないネギに焦れたのか、会話を再開させたのはエヴァンジェリンの方からだった。


「まぁ魔法学校の教え方は、コレを理解した上での事ですけどね」


 エヴァンジェリンの言葉に惹かれて、ネギの意識が彼女の方へと向けられる。


「それって……」

「見習い魔法使いは、魔法を使いたがり過ぎる。変に勘違いして、ルールを軽んじられても困りますしね。だから学校では厳しく教えておいて、修業先では少しずつ力の抜き方を覚えさせる訳です」


 ――――――けれど。


 そのエヴァンジェリンの声は、響き渡るというよりも、沁み渡るという表現が似合う気がした。胸の奥底まで静かに入り込んできて、あっという間に広がっていくような、耳を傾けずにはいられないような、本物の魔女の声だ。


「先生は逆ですね。魔法使いなのに、魔法を使わなさ過ぎる」

「あ、いや……」


 出掛けた言葉は、切れ長の瞳によって遮られた。

 対面から向けられるエヴァンジェリンの眼差しが、金縛りのようにネギの動きを制限する。


「怖いんですか? 失敗するのが」


 ネギは、答えない。答えられない。そうかもしれないと、彼自身が思ってしまったから。

 あの時のどかを助けた事を、ネギは今でも後悔していない。たとえ誰かに問い詰められたとしても、逆に胸を張って誇るだろう。だが明日菜の件は違う。彼女に魔法の存在を教えてしまった事は、痛恨のミスとしか言いようが無い。

 近右衛門が見逃してくれたのは、先程エヴァンジェリンに教えられた理由があったからかもしれない。また事実として、現状は色々と上手く回っている。けれどネギがあのような行動を取ってしまったという事は、誤魔化しようのない事実だ。

 守るべき秘密を、その場の雰囲気に圧されて喋ったのだ。それもエヴァンジェリンが言ったような事を深く考えた訳でもなく、勢いに乗せられた結果として、やってはならない事をやってしまった。これは魔法使い以前に人として、大きな失敗だったと思っている。

 だから、怖い。自分が怖い。つまりはそういう事だ。

 そんなネギの心を見透かすように、エヴァンジェリンの目が細められる。


「たしかに、魔法を使わなければ誰にも知られる事は無いでしょう。しかし同時に、魔法を使わないのなら魔法使いである意味も無い」

「で、ですがマクダウェルさん。僕はまだ魔法使いとしても教師としても未熟で、そこまで気を配る余裕は持てないんです」


 分かっていると、エヴァンジェリンが鷹揚に頷いてみせる。その口元は柔らかな弧を描き、目には温かな光を宿していた。


「今のネギ先生では、上手くいかない部分も多いでしょう。でも、考える事なら出来るはずです」

「考える、ですか?」

「はい。日々を過ごす中で、自らの魔法を活かせる機会があるのかどうかを考えるんです。別にちょっとした事でも良いんです。資料にあったような”事件”と呼べるほどの事ではなく、それこそ、子供の風船を取ってあげるくらいでも」

「え? どうしてそれを……」


 高畑先生に聞きました、と笑顔でエヴァンジェリンは答えた。


「小さな事でも、何か手助け出来るかどうかを考える。もし出来るのなら、魔法を使っても大丈夫かどうかを悩んでみる。そうして頭の片隅にでも魔法の事を置いておくだけで、随分と世界の見え方が変わってくるはずです。実際に試してみる気になれたなら、もっと良いですね。ちょっとしたお手伝い程度なら失敗しても誤魔化し易いですし、試す機会も多いでしょう」


 丁寧に、一つ一つの言葉を噛み締めるように語り掛けてくるエヴァンジェリンの話は、すぐにネギの心の中に沁み込んでいく。


「誰だって、出来る事には限りがあります。修業を始められたばかりなら尚更でしょう。でも限界があるからといって最初から諦めるのではなく、その限りある中でどこまで出来るのかを模索すべきです。今の自分なら何が出来るのかを考える。考え続ける。そうやって、少しずつ成長していく。教師としてならまだしも、魔法使いとしてのネギ先生は、それが出来ていないのではありませんか?」


 柔らかな声音で行われたその問い掛けに、ネギは返事をしなかった。

 エヴァンジェリンの言葉が間違っていない事は分かる。分かるからこそ、悩んでしまう。出来るかどうかと問うならば、今この瞬間もまたその通りだ。肯定するとして、彼女の話をどこまで理解し切れたのだろうか。どれだけ真摯に受け止められたのだろうか。このままただ話を進めるだけでは、凄く彼女に対して失礼で、勿体無いような気がしたのだ。

 そうして黙り込んでしまったネギを見ても、エヴァンジェリンは優しい笑みを浮かべている。


「じっくり悩んでください。考える事こそが重要なのですから。っと、すみません。少し席を外しますね」


 ソッと席を立ったエヴァンジェリンは、一度だけ茶々丸に目配せすると、そのまま地下へと続く階段を下りていった。そうして後にはネギと茶々丸が残され、辺りは静寂に包まれる。真剣な表情で考え事をするネギの脇で、茶々丸は黙って紅茶を淹れ直していた。








 ◆








「――――――という訳で、自分の役割は理解出来たかな?」

「あー、はい。バッチリです。大丈夫です。完璧です」


 まるで金属棒でも埋め込んだみたいに尻尾を真っ直ぐ伸ばしたアルベールを見て、洸は満足そうに頷いた。たったそれだけの事でも、小さなオコジョ妖精は体を緊張させ、表情をぎこちなくさせる。対して洸の方は気にした風も無く、寧ろ当然といった態度でアルベールの視線を受け止めている。

 そんな彼女をなんとも言えない顔をして見上げたアルベールは、次いで今しがた完成したばかりの魔法陣を見遣り、それからまた洸に目線を向けた。彼が口を開いたのは、その後の事だ。


「上手くいくっスよね? 姉さん」

「その為にも、君にはシッカリ手伝ってほしい」


 胸元に手を当て、洸はスッと目蓋を下ろした。


「前にも言ったように、私としては出来るだけネギ君を傷付けたくないんだ。その理由も教えたよね?」

「そうっスね。一応、納得はしてますよ。けど…………やっぱノリ気にはなれないんスよねぇ」


 ヘタリ、とアルベールの尻尾が垂れ下がる。それを見て洸の眉尻も困ったように下げられたが、こちらはすぐに元に戻った。そのままアルベールに背を向けて作業台へと手を伸ばし、使い終わった道具を片付けながら、洸は話を続けていく。


「契約の期限は一週間。その期限を過ぎるまでは、どう足掻いても私の妨害は出来ない。唯一可能性がある選択肢としては、私の計画に手を貸さない事だけ。けど知っての通り、私の目的は被害を軽微にする事だ。そしてそれは、君の協力があった方が容易い」


 つらつらと喋っていた洸が、作業の手を止める。同時に、室内の空気が少し冷えたように感じられた。

 彼女の長い黒髪を黙って見詰めていたアルベールは知らず体を硬直させ、小さな丸耳をピンと立てて彼女の話に集中している。そんな彼の視線の先で、洸が髪を翻して振り向いた。


「もしも”お友達の事を想う”なら、選択肢は一つだけでしょう?」


 淡い桜色の唇が、妖しい声音を紡ぎ出す。それを聞いたアルベールは、まるで雪女にでも撫ぜられたかのように背筋を震わせた。


「お行き。御主人様が待ってるよ」


 洸が言った途端、アルベールは弾かれたように駆け出した。あっという間に部屋から出ていき、安置された人形の中に白い影が消えていく。その後ろ姿を静かに見送った洸は、少ししてから疲れた表情で息を吐き出した。


「中々サマニナッテタジャネェカ。雰囲気ダケナラ結構ナモンダ」


 今まで黙っていたチャチャゼロが、愉しそうに洸に話し掛けてきた。

 カタカタと口を動かして笑う彼女を見て、洸は落ち込んだ様子で肩を落とす。


「言わないで。割と気にしてるんだか――――ら?」


 首を傾げた洸は、疑問符を浮かべた状態で隣室へと顔を向けた。碌に体を動かせないチャチャゼロも、僅かに頭を動かしている。


「ネズミ取リデモ仕掛ケテタノカ?」

「いや、そういうのは無いはず。寧ろ幽霊でも見た感じじゃなかった?」


 隣の部屋から聞こえてきたのは、アルベールの悲鳴だった。大きさはそれほどでもなかったものの随分と驚いた感じの声色をしていた為、洸達としては不思議でならない。ただ危険な気配は感じていないので、洸の態度は余裕そのものだ。チャチャゼロに至っては、寧ろアルベールが酷い目に遭っている事を望んでいる節すらあった。


「というかこの気配は……」

「御主人ダナ」


 そういえば上でそんな事を言っていた、と洸は盗み見ていた情報を掘り起こす。

 一体何があったのだろうかと考えている内にもエヴァンジェリンの気配は近付いてきて、隣室の闇の奥にうっすらと彼女の影が浮かび上がる。そのまま徐々に輪郭がハッキリとしてきて、最終的には白い肌も金髪も全て、洸達の前に曝け出された。


「……あ~、うん。ゴメン。なんというか、ゴメン」


 部屋に入ってくる親友を見た洸の、最初の言葉だ。


「……代われ」


 部屋に入ってきて親友を睨んだエヴァンジェリンの、最初の言葉だ。


「了解。理由は聞かないよ」


 両手を上げて苦笑する洸の視線の先で、エヴァンジェリンはウンザリした表情で小さな曲げ木椅子に腰掛けた。フランス人形のような可愛らしい面立ちを青褪めさせ、右手で額を覆った彼女は見るからに限界だった。


「ココまで自分を怖いと思ったのは、初めてかもしれん」

「かなりそれっぽい雰囲気出してたからね。話の進め方とかも良かったし」


 不機嫌そうに鼻を鳴らしたエヴァンジェリンは、洸が描いた魔法陣を見て口を開いた。


「上手くいくんだろうな?」

「その為の準備だよ。全力は尽くしてる」


 作業台に備え付けられた引き出しから洸が取り出したのは、瓶詰めの丸薬だった。

 二つのガラス瓶に別けて詰められた白と緑の丸薬をそれぞれ一つずつ摘まみ上げた洸は、指先で弾くようにして口の中に放り込むと、暫く舌の上で転がしてから、コクリと喉を鳴らして飲み込んだ。

 途端、洸の全身が陽炎のようにぼやけたかと思うと、次の瞬間には全く別の人物がその場に立っていた。

 すなわち、エヴァンジェリン=A=K=マクダウェルだ。小学生並みの小柄な体躯に、ウェーブの入った長い金髪。切れ長の青い瞳が鎮座する顔は精巧な人形みたいで、微かに歪められた唇は皮肉げな雰囲気を漂わせている。


「どう? 変な所は無い?」


 発せられる声もまた、エヴァンジェリンそのものだ。


「口調だな。それ以外は問題無い」


 椅子に座った方のエヴァンジェリンの言葉を受け、今しがた現れた方の彼女、つまり洸は得意気な笑みを浮かべた。次いでダボダボになった服の袖から紅葉のような可愛らしい手をちょっとだけ出すと、彼女は素早く指を鳴らした。

 今度の変化は、服装の方だ。先程まで洸が着ていた物から、エヴァンジェリンの物へと変わっている。


「それじゃ、行ってきます」

「あぁ、頼む。何かやっておく事はあるか?」


 部屋の出入り口で立ち止まった洸は、暫し思案するように視線を巡らせた後、緩やかに首を振った。


「無いよ。魔法陣の準備は終わってるし、お爺様もこれ以上は人員を動かせないだろうしね。あと残っている事と言えば――――――」


 切れ長の瞳を細め、洸は薄く笑みを浮かべる。その表情は、まさしくエヴァンジェリンそのものだ。


「邪魔者の”近衛 洸”を消す事くらいだよ」


 それだけ言うと、洸は金髪を翻して部屋から出ていった。

 足音と共に闇の中へと姿を消し、去っていった親友を見送ったエヴァンジェリンは、暫し自らの従者と顔を見合わせるのだった。












 ――――後書き――――――――


 第十九話でした。読んでくださった方、ありがとうございます。

 今回はせっせと下準備といった感じでしょうか。作中時間では二日後に迫った大停電。物語としてもそろそろ本番に突入です。初めは茶々丸とオリキャラのエピソードを何処かに挿もうと考えていたのに、気付けばそんな隙間は無くなっていましたね。まぁ学園祭編までには彼女の話もあるでしょう。割と重要な立ち位置の子ですし。

 そしてチャチャゼロの登場。実は最初の閑話の時に登場させる予定があったのですが、話の流れを考えて消えてしまった子です。彼女は書いていて中々楽しいのですが、台詞を片仮名にするのが面倒なんですよね。お陰で結構な誤字がありました。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:0e463a95
Date: 2009/10/11 21:08


 イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド。いわゆる英国を構成するこれら四ヶ国の内のイングランドに存在し、かつ英国の首都を担っている大都市、ロンドン。欧州全体においても有数の歴史を持ち、それに見合った歴史的建造物が数多く残されたこの都市は、緑豊かな地であるのと同時に、国際金融都市としての顔も持ち合わせている。

 そんな輝かしい繁栄を誇るロンドンの目抜き通りとなるのが、中心部を南北約二キロに亘って走るリージェント通りである。弧を描く美しい曲線を特徴とするこの大通りには様々なブランドの店舗・施設が軒を連ねており、ロンドン有数のショッピング・ストリートとして世界的に有名な場所となっている。

 この華々しい大通りから少しだけ横道に逸れ、とある裏通りに入った所に、近頃話題になっている占い師が居た。話題、とは言ってもまだまだ一部で語られる程度だが、その占い師を知っている者達の間ではかなりの評判だ。

 どこか炎を思わせる赤みを帯びた茶髪に、聡明さと快活さを宿した瞳。小さな口元には勝気さを漂わせ、少女的というよりも子供的と評した方が似合う柔らかな面立ちをした彼女は、十を数えたばかりの可愛らしい女の子だった。

 そう、噂の占い師は子供なのだ。

 名前はアンナ=ユーリエウナ=ココロウァ。愛称はアーニャ。魔女みたいに真っ黒なローブを愛用しながらも、人懐っこく礼儀正しい性格から近隣の人々に可愛がられている彼女は、幼くとも確かな腕を持った占い師だ。

 実際物珍しさから立ち寄った客の中には、その的中率から二度三度と足を運ぶ者も少なくない。お陰でこの地に来てから半年も経っていないアーニャだが、既に結構な数の固定客を獲得する事に成功していた。

 そうして彼女は今日もまたリージェント通り裏で水晶を用意し、愛嬌のある笑顔を振り撒いてお客を待っている。近所にあるパン屋のおばさんとお喋りするのはいつもの事で、暇な時にコッソリ”技術”を磨くのもいつも通り。それでも基本的には真面目に仕事をして、やってくるお客さんの相手をするのもまた、普段と変わらないアーニャの日常だ。

 もしも普段と違う事があったとするならば、それは昼前にやって来た一人のお客の存在だろう。


「こんにちは、可愛い占い師さん。占って貰っても大丈夫かな?」

「はい! まかせてくださ――――」


 そのお客は、東洋人の女性だった。別に、それ自体は珍しい事ではない。このロンドンに住んでいれば、洋の東西に関わらず異国人を目にする事など日常茶飯事だ。実際、アーニャが占った人の中にも結構な数の東洋人が居た。

 この女性が特別だったのは、アーニャがこれまでに見てきた東洋人の中でも、飛び切りの美人だった事だろう。

 鴉の濡れ羽色をした長い髪。やや吊りがちで、けれど温かさを感じる瞳。スッと通った鼻筋も、薄く紅が引かれた唇も、ビックリするくらいに整っていて、少しの間、アーニャは惚けてしまったのだ。


「ん? どうかしたの?」


 その容姿に違わず、女性は声も綺麗だった。よく見ればスタイルも良くて、身長も不格好にならない程度に高い。スーツの着こなしも完璧だ。ちょっぴり背伸びをしたいお年頃のアーニャにとっては、なんとも羨ましい限りだった。

 例えば。本当に例えばの話なのだが、幼馴染みの少年もこういった女性に憧れるのだろうか。日本で教師をしている、あの少年も。


「あ、いえ! えっと、それでは名前を教えてもらえますか? その方が上手く占えるので」

「もちろん。姓は近衛で、名は洸。こっち風に言うなら、ホノカ=コノエだね」


 優しい表情をした女性は本当に魅力的で、何時かは自分もこうなりたいと、アーニャは深く思うのだった。












 ――――第二十話――――――――












 洸がその場所に着いたのは、天頂を過ぎた太陽が山の裾野へと近付き、そろそろ日が陰り始めるだろうかという頃だった。深緑の衣を纏った山々に囲まれ、緩やかな丘陵に構えた小さな町。麓には大きな湖を臨み、辺り一帯には爽やかな風が吹いている。耳を撫でるのは小鳥の囀りで、目を楽しませるのは景色の全て。実にのどかで、緩やかな時の流れる土地だった。

 ウェールズの片田舎にヒッソリと存在しているこの町は、ホンの数か月前までネギが住んでいた所だ。彼は此処で育ち、此処で遊び、此処で学んできたのだと聞いている。また彼が卒業したメルディアナ魔法学校もこの地にあり、周りの建物に比べて一回り以上も大きいその学び舎は、遠くからでもすぐに見付ける事が出来た。

 そうした一つ一つの光景を目に焼き付けながら、洸はなだらかな傾斜を降っていく。柔らかな土を踏み締めて歩く彼女の表情は何時に無く穏やかで、何処と無く寂しげでもあった。

 程無くして町へと辿り着いた彼女を出迎えたのは、一人の老人だった。腰元まで伸ばされた白髪に、鳩尾まで届きそうな白髭。浅黒い肌は精悍な風貌と合わさって力強さを生み、優しげな目元は刻んできた年月の深さを表わしている。その正体はメルディアナ魔法学校の学校長であり、またネギの祖父でもあり、更には洸が会いにきた人物でもある。

 彼の姿を見た洸は、苦笑を浮かべて話し掛けた。


「まさか私の出迎えに、御自分で足を運ばれるとは思いませんでしたよ」

「気分転換も兼ねておるよ。籠ってばかりでは逆に疲れるからな」


 笑顔で握手を交わした二人は、そのまま並んで歩き出した。両者の間に流れる空気は随分と穏やかなもので、特に緊張している様子も無い。見る者によっては、仲の良い孫と祖父が一緒に散歩しているように感じるかもしれない。

 そうして西洋らしさを色濃く残した町並みを、のんびりした足取りで進んでいく。会話は無い。別にどちらかが意図した訳ではなく、ただなんとなく、話す気になれなかったのだ。しかしだからといって気まずくなる事も無く、寧ろ二人は、その空気を楽しんでいるようですらあった。

 周囲の音ばかりが飛び交う、温かな静けさ。それを先に破ったのは、洸の方だ。


「――――――ここに来る前に、アーニャちゃんに会ってきました」

「ほう。して、感想は?」

「礼儀正しい良い子ですね。明るくて、元気で、一緒に居るだけでも楽しくなってくる子でした。私が麻帆良から来たと教えたら驚いていましたけど、お話ついでに昼食に誘ってくれましたしね」


 洸はそこで、何かを思い出したようにクスリと笑った。


「あと、ネギ君の事が凄く気になるみたいですね。多分、彼が彼女を気に掛けているよりも、ずっと」

「うむうむ。あの子もそういう年頃になったか」


 眉尻を下げ、微笑ましそうに頷く校長の隣で、洸もまた頬を緩める。それから彼女は、嬉しそうに辺りを見回した。


「この場所も良いですよね。穏やかな風が流れていて、住んでいる人達の温かさを感じます」


 町の規模に比例してか、辺りの人通りは随分と少ない。けれど寂しい印象は受けなくて、寧ろ落ち着いた雰囲気の漂う優しい場所だと感じられた。たまに擦れ違う人々は柔らかな挨拶を投げ掛けてくれて、洸が丁寧に返せば、気持ちの良い笑顔を浮かべてくれる。賑やかしさのある麻帆良とは、また別の親しみ易さがある所だった。


「――――――ここが、ネギ君の故郷なんですね」


 年代と共に培ったのであろう、趣のある建物群。それらを眺めていた洸が、目を細めて感慨深そうに呟いた。


「うむ。まぁ、アヤツが住んでおったのは六年ほどじゃがの」

「十分な時間でしょう。私が”彼女”と出会ったのも、麻帆良に住み始めてからそれくらい経った頃でした」


 目を閉じ、懐かしむように話すその声には、同時に切なそうな響きも含まれている。ただ、次いで目蓋の下から現れた瞳には、一筋の冷たい光が射しているように感じられた。洸にしては珍しい、どこか怖さを孕んだものだ。


「この度はありがとうございました。御助力いただける事も、町への立ち入りを許可してくださった事も、本当に感謝しています」


 校長は、何も言葉を返さなかった。黙ったまま洸に視線を遣り、彼女もまた、それを静かに受け止めている。


「ここに来たのは初めてですが、来れて良かったと思います。彼がどれだけ愛されているのか、その一端とはいえ感じられましたから」

「それは何よりじゃな。とはいえ、これからが本番じゃぞ」


 そう言って、校長は前方へと顔を向ける。その先にあるのは、幾つかの大きな建物だ。校舎であったり、講堂であったり、或いは塔であったりするそれらは、つまりメルディアナ魔法学校に他ならない。

 夕暮れ時が近付き、徐々にその色合いを変え始めた校舎を前にして、二人は自然と立ち止まった。


「メルディアナ魔法学校……」


 白い壁が眩しい反面、そこに刻まれた汚れや傷が、歩んできた歴史を物語っている。魔法の加護があろうと決して止める事の出来ない時の流れを感じさせるその光景は、同時に人の温もりというものを宿しているようにも見えた。

 そうして初めて目にする学び舎の姿を洸が観察していると、入口と思われる場所から一つの人影が現れた。長い金髪を振り乱し、青い瞳に不安の色を滲ませたその女性は、慌てた様子で二人の方へと駆け寄ってきている。黒を基調とし、清楚な印象を受ける修道女めいた服を着込んだ彼女の顔に、洸は見覚えがある気がした。

 校長とは違い、直接的な対面は無いはずだ。ならば写真かとも思ったが、そちらも思い当たる節が無い。ではどこで見たのだろうかと洸が考えている内にも女性は近付いてきて、ハッキリとその面立ちが確認出来る距離になった時、一人の友人が脳裡を過ぎった。


「……明日菜?」


 女性は、仮初めの従者とよく似ていた。纏っている雰囲気は異なるし、見間違えるというほどではないが、それでも面影を感じるくらいには、二人の顔立ちは似通っている。そして、洸はそんな人物に心当たりがあった。


「彼女がネカネさんですか? ネギ君の従姉弟という」

「うむ。とりあえず、心構えをしておいた方がいいぞ」

「? それは、どういう――――」

「あ、貴女がホノカさんですか?」


 洸が言い終わる前に、傍に来たネカネが口を開いていた。

 走ってきた為か彼女は微かに息を乱しており、また汗も滲ませてはいたが、それ以上に全身から発せられる焦りの雰囲気が気になってしまう。母性の感じられる優しい面立ちも今は不安で塗り潰されていて、見ている側が心配になってくるような状態だった。


「えぇ、そうですけど……」


 戸惑いがちに洸が答えた瞬間、ネカネは彼女の手を勢いよく掴んだ。その反応に、洸は思わず目を丸くする。


「先日ネギから手紙が届いたんですけど、エヴァンジェリンさんという方と仲良くなったと書いてあって、それでほら、その名前はあの『闇の福音』と同じですよね? 最初は同姓同名なだけかとも思ったのですが、容姿はソックリみたいですし、麻帆良に封印されているとも聞きますし、私、段々不安になってきて…………それで、それで……!」


 洸の手を握り、懇願するように見上げてくるネカネの表情はあまりにも必死で、手の平からは、彼女の想いを代弁するかのように熱が伝わってきている。でも、それなのに彼女の顔は青褪めており、声も微かに震えていた。

 一方の洸が浮かべる表情は困惑で、急な展開に対する戸惑いを隠せていない。ネカネの話は聞いていたし、その内容も一応は把握したが、どうやって対応するかまでは頭が回っていなかった。唯一確信が持てる事と言えば、目を逸らしてはならないという事くらいだ。


「貴女は麻帆良の事情に詳しいと聞きました! ネギの監督官だとも! 本当の所はどうなんですかッ!!」

「あ、あの、事情はわかりましたから少し落ち着いてください」


 ネカネはハッと目を見開き、それから慌てて洸の手を放した。


「す、すみません! 私ったら挨拶もせず……」


 申し訳無さそうな表情をして一歩下がり、ネカネは自らの胸元に手を当てる。


「その、はじめまして。ネギ=スプリングフィールドの従姉弟の、ネカネ=スプリングフィールドです」

「えぇ、はじめまして。御存知かとは思いますが、近衛 洸です」


 互いに挨拶をし終えた二人は、少しだけ安心したように表情を柔らかくする。けどすぐにまたネカネは眉根を寄せて、揺れる瞳で洸に問い掛けるのだった。今にも口を開いて先の話を再開しそうな彼女を見て、洸も心の準備をする。

 そうして小さく喉を鳴らしたネカネが声を出そうとした瞬間、


「さて挨拶も済んだ事じゃし、そろそろ中に入ろうかの」


 絶妙なタイミングで校長が機先を制した。

 機を逸したネカネは、なんとも言えない視線を校長へと向ける。


「校長……」

「気持ちはわかるが、彼女も旅の疲れがある。仕事もやらねばならんしの。時間はあるんじゃ、そう焦らんでもよかろう」

「あっ」


 バツが悪そうに、ネカネが目を伏せる。そのまま押し黙ってしまった彼女は、暫くした後に深呼吸をしてから口を開いた。


「すみません。どうにも混乱しているみたいで」

「いえ、気にしないでください。大切な家族の事なのですから、当然ですよ」


 笑顔で洸が話し掛ければ、ネカネの方も幾らか落ち着いたようだった。

 もう一度小さく息を吐いた彼女は、それから洸を見詰めて柔らかく微笑んだ。


「歓迎の証として、腕によりをかけて食事を用意しますから、お仕事頑張ってくださいね」

「えぇ、楽しみにしておきます」


 最後に握手を交わして、二人は初めての邂逅を終えるのだった。




 □




「じゃあ、本当にネギは大丈夫なんですか?」

「はい。彼女の力は封印されていますし、現状怪しい素振りも見せていません。勿論、もしもの時は即座に動く準備もしてあります」


 安心させるように洸が笑ってみせれば、ネカネは全身の緊張を解き、座っている椅子に体を預けた。

 招かれた夕食を終え、今、洸はネカネ達と食後のティータイムを楽しんでいる。お供は少しの甘いお菓子と、良い香りの紅茶だ。共にネカネの手によって用意された物で、家庭で出される物としてはかなり質が良かった。特にネギのお気に入りというミルクティーが美味しく、甘党の洸としても満足の出来となっている。

 話しているのは主に洸とネカネの二人で、今の所の話題は、麻帆良でのネギの事だ。次々と不安を口にするネカネと、その一つ一つに答える洸。そしてそんな二人を見守りながら、のんびりと紅茶を楽しむ校長。温かみのある木製テーブルを囲んだ彼女らは、話の内容は穏やかならずとも、緩やかな一時を過ごしている。


「よかった。『闇の福音』と言えば伝説の吸血鬼ですし、彼女は”あの人”に封印されましたから……」


 ネカネは胸を撫で下ろすと、ずっと置いたままだったティーカップに初めて口をつけた。


「大丈夫ですよ――――――絶対に」


 ネカネの青い瞳を真正面から見据えて、洸が力強く言い切る。するとネカネはちょっとだけ驚いたように目を見張った後、すぐに笑顔で頷きを返してきた。同じく首肯で応じた洸は、そっと自らの胸に手を当てた。

 まるで小動物みたいに激しく刻まれる鼓動が、手の平を強く叩いてくる。

 情けないものだと、洸は密かに自嘲する。彼女はそれを誤魔化すようにカップを口元へと運び、そのままミルクティーを流し込んだ。美味しいはずなのに、美味しくない。ただそれでも、心を落ち着けるのには効果があったようだ。

 一息ついた洸は、幾分柔らかくなった表情で新たな話題を口にした。


「ところで、コチラでのネギ君はどんな子だったんですか?」

「ふむ……」

「そうですねぇ」


 顔を見合わせた対面の二人は、暫し目線で言葉を交わし合った後、まず初めにネカネの方が口を開いた。


「勉強熱心な子でしたよ。もしかすると、遊んでいる時間よりも本と向き合っていた時間の方が多かったかもしませんね」

「じゃな。禁呪書庫に忍び込んだ事もあったし、独学で攻撃魔法も覚えておったようじゃしの」


 話しているネカネと校長の表情は、なんとも形容し難いものがあった。決して喜ばしい訳ではなく、だからといって嫌とも言えない。洸が受けた印象は、そんな感じだった。

 昔の近右衛門やガンドルフィーニも、似たような表情をしていた覚えがある。クラスの誰よりも早く下校してガンドルフィーニの所に通った、小学生時代。家でも外でも魔法の事ばかりを考えていた洸に、彼らも随分とヤキモキしていたのだろう。

 今なら理解出来るその感情も、当時の洸にとっては煩わしいものでしかなかった。ネギの場合はそこまで極端ではなかっただろうが、やはり一般的な子供とは少々異なる考えを持っていたのだろうと思う。


「心配でしたか?」


 問い掛けると、ネカネは躊躇いながらも小さく頷いた。


「そう……ですね。あの子なりに一生懸命やっていたと思いますし、決してつまらなそうではなかったんですけど、やっぱり他の事にも目を向けてほしいかな、と。昔のヤンチャさも、何時の間にか鳴りを潜めていましたから」

「ヤンチャ、だったんですか?」


 洸としては、些か想像し辛い。

 確かに洸が知るネギは元気な少年だが、別にヤンチャという訳ではない。寧ろ年に似合わぬほど落ち着いた所があり、また礼儀正しくもある良い子だと思っている。だからネカネの言った事は、すぐには受け入れられなかった。


「えぇ。いつも悪戯ばかりして、村の人達を困らせていましたよ」


 困ったように苦笑するネカネは、同時に悲しそうな色を瞳に宿らせていた。その事には洸も気付いていたが、敢えて触れようとまでは思わない。理由には心当たりがあったし、それは彼女がどうこう出来るような問題では無いからだ。


「彼が成長しただけ、というのは?」

「かもしれません。でも、コチラに住み始めたのが境なので、どうしても気になって」

「……なるほど」


 さもありなん。そうであるならば、洸としては何も言えない。

 何故ならネカネが言う村は、ネギがこの町以前に住んでいた場所は、既に滅んでしまっているのだから。




 □




「――――――あれでネカネも、当時は随分と大変だったんじゃよ」


 微かな明かりに照らされた螺旋階段に、しわがれた老人の声が反響する。場所柄の所為か、話の内容の所為か、洸にはそこに悲しみが満ちているように感じられた。芯の通った、力強いはずの声が、何故か今は心細く聞こえてしまう。


「救助隊が村に辿り着いた時、あの子はネギ以上に憔悴しておった。生き延びれたのは二人だけ。一緒に居たネギは幼く、あの子は石にされた足が折れて歩く事もままならん状態じゃった」


 話し続ける校長の後を追って、洸は石造りの階段を下りていく。

 辺りの壁を構築する煉瓦は長い年月を経て罅割れ煤け、地下へと続く階段は闇に呑まれているようにも見えた。空気はやや肌寒くて、話し声と足音以外には何一つ聞こえてこない。静かで、落ち着いていて、けれど寂しい場所だと洸は思った。


「あの三日間、ネカネが何を思い、何を感じたのかはわからん。ただ、幼いネギを抱きかかえたあの子の姿は…………」


 宙に浮かんだ魔法の光が微かに揺らぎ、それきり、校長は何も言わなくなった。洸も、特に話し掛けるような事はしなかった。

 一歩、また一歩と階段を下りていく足音だけが、辺りに響き渡る。黙って前を行く校長の表情を窺う事は、洸には出来ない。ただ彼の背中から伝わってくる雰囲気を感じるだけでも、彼女は胸が締め付けられるような思いだった。

 わざと悟らせているのだろうという事は、分かっている。彼がその気になれば、洸のような若輩者に心の裡を気取られる事など、まず無いはずだ。そしてそれが洸の要望に応えた結果だという事もまた、彼女には理解出来た。


「――――着いたぞ。ココが『安置室』じゃ」


 鉄製の大きな扉を前にして、校長が立ち止まる。振り返った彼の表情は固く、その瞳は静かに語り掛けてきていた。大丈夫か、と。

 洸は黙って頷き、視線で先を促した。別に、臆するような事ではないのだから。


「では、入ろうかの」


 重苦しい音を立てて、徐々に鉄の扉が開かれていく。そうして出来た隙間から、宙に浮かんだ魔法の光が入り込み、やがて完全に開き切る頃には、部屋の中全体が明るく照らし出されていた。

 扉を開き終えた校長はその場から動こうとはせず、ただ視線のみで洸に入室を勧めている。彼女がそれに気付いていたのかどうかは、よく分からない。何故なら一歩を踏み出した時、洸の思考は眼前の光景に囚われていたのだから。

 広い、本当に広い室内を埋め尽くさんばかりの、石像の山。それもただの石像ではなく、全てが魔法使いの姿をした石像だ。ローブを身に纏い、杖を手にした人々の像が、老若男女を問わずに所狭しと並べられている。そこに刻まれた表情とは苦悶であり、必死であり、また決死でもあった。誰一人として穏やかな様子ではなく、見ているだけで背筋が冷えるような、そんな石像ばかりだ。

 仕方無い、と洸は思う。此処にある石像は皆、呪いによって石にされた”人間”ばかりなのだから。


「――――――アソコに見えるのが、ネギの伯父じゃ」


 部屋に入って数歩の位置で立ち止まっていた洸は、隣から聞こえてきた声にギョッとした。

 見ればそこには校長が立っており、彼は部屋の一角を指差している。それを視線で追っていくと、すぐに一人の男性に行き当たった。優しそうな風貌をした、中年の男性だ。


「アチラが向かいの小母さんで、コチラは隣の小父さん」


 洸の視線が向いたのを確認すると、校長は別の石像を指差した。


「あの女性は、アーニャの母親じゃな」


 アーニャもまた、村の生き残りだ。メルディアナの学生寮に居た彼女は、運良く事件を免れる事が出来たと聞いている。


「そしてあの人が――――」


 校長の指先が部屋の中央へと向けられ、洸の視線もそちらに移される。


「ネカネと共にネギを庇って石にされた、スタンさんじゃ」


 ローブを羽織り、トンガリ帽子を被り、そして口元にはパイプを咥えた、一人の老人だった。豊かに蓄えた髭も鋭い眼差しも、今では石と成り果ててしまったその人物は、何故か他の石像に比べて、異彩を放っているように感じられた。

 違う、と洸は心中で否定する。スタンの石像が特別な訳ではなく、洸の方が、彼を怖がっているだけに過ぎないのだ、と。そう自分に言い聞かせながらも、彼女は知らず知らずの内に拳を握りしめていた。手の平に滲んだ汗が、やけにベタついている。


「ネギ君を庇って……ですか」

「うむ。そう聞いておる」


 スタンの前に立った洸は、黙って彼の石像と向き合った。語るべき言葉は持たない。この場で彼女に出来る事と言えば、ネギを守ったこの老人の姿を、しかとその目に焼き付ける事くらいだろう。

 そうして、暫し。辺りを静寂が支配する。


「――――――本当に、ありがとうございます。私みたいな余所者を、このような場所に立ち入らせていただいて」


 不意に、洸が口を開いた。その視線は相変わらずスタンに向けられていたが、声に籠められた感情には何一つ偽りは無い。

 唯々、深い感謝を。今の洸に出来る事と言えば、それだけだ。


「日本に戻ったら、コノエモンにも礼を言うといい。アヤツは相変わらず口が上手い」


 その言葉に、洸は深く頷いた。

 今回、大停電を直前に控えて訪英した理由は二つある。

 まず一つは、日本に居る訳にはいかなかったという事。なんとも可笑しな話ではあるのだが、これから起こそうとしている事件には、近衛 洸が関わる訳にはいかないのだ。

 広範囲・高精度の探索能力を持ち、転移魔法による機動力を誇り、舞台は慣れ親しんだ麻帆良の土地だ。しかも相手は性格を熟知したエヴァンジェリンとなれば、一時間と掛けずに事件を解決する自信がある。と言うよりも、そうでなければ可笑しい。当然の事ながら、そのような行動を取れば予定に大幅な狂いが出るし、かといって普段と違う行動をし続けても怪しまれる。

 だから、麻帆良から離れる必要があったのだ。それも転移魔法を使おうと容易には帰れないような、遥か遠い所にまで離れる必要が。

 もう一つの理由は、ネギの事を知る為だ。彼の幼馴染み、従姉弟、祖父といった親しい人物の意見を聞く事で彼に対する理解を深め、またその上で覚悟を決めておきたかったという訳である。勿論、複雑な過去を持つネギの事だ、なんらかの禁忌があるようならそちらについても知っておきたいという思惑もあった。実際、計画に変更があったのは確かだ。

 ただこれらの理由があったとはいえ、メルディアナ魔法学校長が素直に了承してくれるとは思っていなかった。ネカネの反応を見れば分かるように、一般的な魔法使いが持つ『闇の福音』の印象は”最悪”の一言に尽きる。加えてネギは彼女の仇敵の息子だ、多少言葉で説明した所で、心配が抜け切るはずも無いと思っていた。

 それなのに実際は、洸が予定していた落とし所よりも遥かに色好い返事が貰えているのだから、この話を纏めてくれた近右衛門にも、また受け入れてくれた校長にも、感謝の念を禁じえない。


「…………ただ自分から甘えたとはいえ、流石に堪えるものがありますね」

「ならば、将来その分だけ働いてみせなさい。それが若者の義務じゃ。さしあたっては明日、最低限の結果は出してもらおうかの」


 少しだけ冗談めかした言葉は、間違い無く校長の本心だろう。

 だから振り向き、彼と目を合わせた洸は、答えを一つしか持ち合わせていなかった。


「えぇ、勿論です」


 偽りの無い、彼女の本心しか。








 ◆








 年に二回の、大停電の日。学園都市全体のメンテナンスが行われるという今日は、午後八時から十二時までの四時間、麻帆良中が闇に包まれる。エレベーターにテレビ、果ては部屋の明かりすら点かなくなるこの時間に備えて、この日は購買部が停電用グッズのセールを行っている。今もロウソクや懐中電灯を買い求める生徒達が群がっている所で、購買部はかなりの賑わいを見せていた。

 そうした人だかりを遠目に眺めながら、エヴァンジェリンはベンチに座って一息ついている。従者の茶々丸は、現在ロウソクを買おうと人波に揉まれている所だ。女子中学生としてはかなり高い身長と特徴的な髪の色から、彼女の居場所はすぐに分かる。お人好しな性格が災いしているのか、買い終わるまでにはもう少し時間が掛かりそうだった。

 くぁと欠伸をして、エヴァンジェリンは眠たそうに目を擦る。今日の天気もまた、忌々しいほどの快晴だ。

 とはいえ、今の彼女はそれほど不機嫌な訳ではない。天気が良いという事は、夜になれば月がよく見えるという事でもある。つまり、”復活の日”にはなんともおあつらえ向きな空模様という訳だ。惜しむらくは満月ではない事だが、そこまで望むのは贅沢が過ぎる。


(そういえば、アイツは間に合うんだろうな)


 計画の発案者であるエヴァンジェリンの親友は、今は麻帆良に居ない。昨日の朝に英国へと旅立った彼女は、今日の午後六時までには帰ってくると言っていた。それも転移魔法陣を用いて直接跳んでくるという、非常識極まりない方法で。


(……まぁ、心配するだけ無駄か)


 どうせ、這ってでも間に合わせる。心配が要るとしたら、今度はどんな命令を言い渡されるのか、という点だろう。既に細かな所まで指示されているとはいえ、この件で扱う問題は随分とデリケートだ。洸の判断を仰がなければならない場面も少なからず出るだろうし、その為の道具も彼女から渡されている。

 エヴァンジェリンは自らの耳に手を遣り、そこに着けているイヤリングの存在を確かめた。黒薔薇の細工が施されたコレは、魔法使い対策として洸が用意した物だ。なんでも受信専用の通信装置が仕込まれているらしく、停電中はコレを通して指示を出すと言っていた。独自の暗号化処理を用いる事で、念話よりも防諜面で優れているとかなんとか。


(しかし、使われる『人形遣い』というのも滑稽だな)


 クッと皮肉げに唇を吊り上げたエヴァンジェリンは、そのまま雲一つ無い青空を仰いだ。

 嫌な気がしない辺り、かなり末期的だと思う。少なくとも、昔の自分が見たら殺したくなるのは間違い無い。なんとも愉快な事だ、と目を細めたエヴァンジェリンは、そこでふと、自分の方に近付いてくる気配に気が付いた。何事かとそちらに視線を向ければ、見知った人物が歩いてきているのが目に入る。

 珍しい、とエヴァンジェリンが心中で独りごつ。

 浅黒い肌を持ち、やや神経質そうに見える顔立ちをした魔法先生。四角いフレームの眼鏡を掛けた彼とは、九年来の付き合いになる。と言っても友人と呼べるほど親しい訳ではなく、あくまで知り合いレベルとして、他の有象無象の魔法使いと比べたら仲が良く、出会う頻度も多いという程度に過ぎない。


「隣、失礼するよ」


 すぐ傍までやって来たガンドルフィーニが、断りを入れてからベンチに腰掛ける。彼の表情は些か固く、なんの話でやってきたのか、エヴァンジェリンには容易に想像がついた。


「……今夜だ」


 やはりと言うべきか、呟いたガンドルフィーニの声には緊張が感じられた。


「そうだな。手伝ってくれるようでなによりだよ。相変わらず、アイツには甘いらしいな」

「初めて受け持った生徒だ、思い入れがあるのは否定しない」


 エヴァンジェリンが肩を竦める。どうやら今のガンドルフィーニには、それほど精神的な余裕がある訳ではないらしい。普段の彼ならもう少し愉快な反応を見せてくれるのだが、なんとも詰まらない返答だった。


「まぁそれでも、お前が手を貸すとは思わなかったがな」


 どちら、などと問うまでも無く、ガンドルフィーニは洸を止める側の人間だ。

 そもそも彼は、近右衛門やタカミチが洸を過大評価しがちなのに対して、彼女の実力を過小評価する傾向にある。今回のような無茶な話を聞いたら、それこそ夜も眠れなくなるほど心配になってしまうタイプだろう。だから、絶対に反対すると思っていた。


「ふん。私だってそこらの犯罪者の為だっ――――――いや、なんでもない」


 首を振り、息を吐いたガンドルフィーニが、疲れた様子でベンチにもたれ掛かる。そのまま虚空をボンヤリと見詰め始めた彼は、暫く沈黙に身を委ねた後、草臥れた口調で話し始めた。


「とにかく、君には慎重に行動してほしい」

「わかってるさ、それくらい」


 軽い調子でエヴァンジェリンが返すと、ガンドルフィーニは不満そうに眉を潜めた。


「今日だけの事じゃない。君は、普段からもっと気を付けて行動すべきだ」


 その言葉に、今度はエヴァンジェリンの方が眉間に皺を寄せる。まるで子供に言い聞かせるようで、気に入らない話し方だった。


「別に問題になるような事はしてないだろうが。今日のと、あの時のヤツを除けば」

「結果的に問題が無かった、というだけだ。別に気を遣っていた訳ではないだろう?」


 言葉にはせず、エヴァンジェリンは肩を竦める事で応えた。


「今回の件で、これまで以上に君への風当たりが強くなるかもしれない。まぁそんなものは君にとって大した事ではないだろうし、何か行動に移すような者も居ないだろうが、少なからず不満が生まれるのは確実だろう。そしてその解消は、彼女や学園長の仕事になる」

「……かも、しれんな」


 九年前の事件が、まさしくそうだったのだろう。サウザンドマスターが死んだという噂が広まっていた所為か、事を穏便に運ぶのにはかなり苦労したと聞いている。実際、謹慎中は治癒術師の一人すら派遣されなかった。お陰で監視役である洸の下手糞な治癒魔法に頼る羽目になり、傷の治りが大分遅れたのを覚えている。


「別に優等生になれとは言わない。ただこの事を心に留めて、下手な事はしないよう気を付けてほしい」

「わかったよ。覚えておく。で、用件はそれだけか?」


 それだけではない、とエヴァンジェリンは半ば確信を持って視線で問い掛けた。

 確かに意味のある話だったとは思うが、このタイミングで話すほど価値があったとは考えられない。なんせ計画の実行直前だ。場合によっては変に勘繰る者も出てくるかもしれないのだから、此処で会うべきではなかったはずだ。


「まぁ、その……なんだ」


 何故だか言葉を詰まらせたガンドルフィーニが、気まずそうに視線を彷徨わせる。

 歯切れの悪いその態度に、エヴァンジェリンは不可解だと首を傾げた。


「誰かに迷惑を掛けるような行為は、慎んでほしい」

「ソレはもう聞いたぞ」


 馬鹿かコイツ、とエヴァンジェリンが冷めた目で見ると、ガンドルフィーニは居心地悪げに咳払いをする。それから居住まいを正し、何度か窺うようにエヴァンジェリンの顔を見た彼だが、中々話そうとはしない。顔を上げては下げ、口を開いては閉じるの繰り返しだ。

 別に急ぎの用がある訳でもないが、流石にそんな事が続けばエヴァンジェリンとしても焦れてくる。そうしていい加減にしろと彼女が怒鳴ろうとしたその瞬間に、ガンドルフィーニが覚悟を決めた表情で口を開いた。


「君が……君が誰かを不幸にしないのなら、その間は味方で居ようと思う」


 言葉と同時にガンドルフィーニは立ち上がり、そのまま背を向けて去っていった。彼の歩みは少しだけ速く、エヴァンジェリンが何か声を掛ける前に人混みの向こうへと消えてしまう。意外そうな表情でそれを見送ったエヴァンジェリンは、何も言わずに空を仰いだ。

 雲は一つも見付からない。相変わらず、憎らしいほどの快晴だった。


「……雨は、降りそうにないな」


 エヴァンジェリンが呟くのと同時に、また別の人物が彼女に近付いてきた。従者の茶々丸である。左手には買い物袋を、右手には鞄を提げた彼女は無表情ながらも足を速め、少し急いだ様子で歩いてきている。


「茶々丸か。買い物は終わったのか?」

「はい。お待たせしました」


 左手に持った袋の存在を示しながら、茶々丸が肯定する。それから彼女は、先程ガンドルフィーニが去った方へと顔を向けた。


「ガンドルフィーニ先生と話されていたようですが、何か問題でも?」

「気にするな」


 答えてから、エヴァンジェリンは何かを考えるように目を閉じ、そしてすぐに開けた。


「……茶々丸」

「なんでしょう?」


 エヴァンジェリンは微かに口元を歪め、


「アイツの連絡先を調べておけ」


 それだけ言うと、ベンチから立ち上がって歩き始めた。その後を、茶々丸が黙ってついていく。彼女達の行き先は自宅であり、丁度、ガンドルフィーニとは反対方向に向かう形となる。その頭上では徐々に空が赤らみ始め、夜の訪れを予感させていた。

 大停電まで、あと数時間。全てが決まるのは、それからだ。








 ◆








 静かな夜だと、明日菜は思った。時刻は午後七時過ぎ。あと少しで大停電が始まり、そうなれば生徒の外出は禁止となるのだが、現在寮の部屋にはネギも木乃香も居なかった。ネギはエヴァンジェリンに、木乃香は近右衛門に、それぞれ夕食の招待を受けており、今夜はそのまま外泊する予定だと聞いている。

 だから、部屋の中には明日菜一人だけだ。のんびりとした木乃香の声も、ハキハキとしたネギの声も、今日は聞こえてこない。近頃の習慣で淹れた紅茶も、話し相手が居ないと味気無くて、なんだか寂しく感じてしまう。


「ま、最近は割と賑やかだったしね」


 温かなカップを持った明日菜が、クッションに腰を下ろして一息つく。それから首を巡らせた彼女は、ロフトの方を見て苦笑した。

 ネギが来てから、この部屋を訪れる人が多くなった。夕映にのどか、ハルナといった図書館組を筆頭に、ネギを気に入っているあやかやまき絵、話題集めに余念の無い和美などもちょくちょく遊びに来ている。木乃香と二人だけで暮らしていた頃に比べたら、随分と賑やかしい生活になったものだ。

 別にそれが嫌だとは思わないが、時折、以前を懐かしむ気持ちが湧いてくる。麻帆良に来てから七年も続けてきた暮らしだ、そうそうすぐには切り替えられない。


「けど、アイツが居なくなったら居なくなったで……」


 やはり今みたいに、寂しさを覚えるのだろう。それくらい、ネギは明日菜の日常に馴染んでいる。

 クスクスと可笑しそうに笑い、湯気を立ち昇らせる紅茶に口をつける。それから明日菜は、満足そうに息を吐き出した。

 なんだかとても、良い気分だった。


「――――ん?」


 ふと、明日菜は視界に違和感を覚える。

 なんだろうとそちらに顔を向けた彼女は、ベッドの下に何かを見付けた。収納ケースと床の間からはみ出ているそれには、明日菜も見覚えがある。青と赤の帯で縁取られた封筒で、ネギが故郷と手紙の遣り取りをする時に使っているエアメールだ。


「なんでこんな所に……」


 ネギの書き掛けだとしても、故郷からの手紙だとしても、大事に仕舞われているはずだ。なんせ魔法の手紙には自動翻訳機能がついている上に、立体映像の再生が出来るのだ。もしも誰かに拾われて中身を見られたら、場合によっては大問題になりかねない。

 不注意が過ぎると、カップを置いた明日菜は封筒へと手を伸ばした。


「あれ、封が開いてる」


 拾い上げた封筒は、既に誰かの手で開けられていた。という事はネギ宛てだと思うのだが、そうなると益々可笑しい。あのネギが、家族からの手紙をこんな適当に扱うとは考えられない。

 とにかく差出し人を確認しようと、明日菜は封筒を裏返し、


「やっぱり、ネカネさんからじゃ――――――っと」


 拍子に零れ出た手紙を、危うい所でキャッチする。

 やれやれと一息ついた明日菜は、そこで床に写真が落ちている事に気が付いた。どうやらコチラも、封筒の中身だったらしい。


「あ、今回は写真付きなんだ」


 誰かの顔写真であるらしいソレを手に取った明日菜は、そこに映った人物を見て目を丸くした。


「…………マクダウェルさん?」


 冷めた様子の青い瞳に、不敵に歪められた桜色の唇。そして煌めく金髪を持ったその少女は、クラスメイトにそっくりだ。

 なんでだろう、と不思議に思った明日菜が首を傾げた、その瞬間。


「きゃっ」


 唐突に部屋の明かりが落ちた。気付かなかったが、大停電の始まりらしい。

 急な変化に目が追い付かなくて、それこそ一寸先すら碌に見えないような状況だ。


「あちゃー。懐中電灯どこだったかな」


 これでは何も出来ないし、朝の早い明日菜は、元々停電を楽しむつもりは無い。

 とにかく手紙を仕舞って、各種の点検を済ませたら寝よう。そう思ってテーブルの上に手紙を置き、明日菜は立ち上がった。それから家具の配置を思い浮かべると、慎重な様子で壁に手をついて歩き始める。


『――――こんにちは、ネギ』

「ッ!?」


 背後から聞こえてきた声に、明日菜は心臓が飛び出そうなくらい驚いた。目を見開き、慌てて振り返った彼女が目にしたのは、先程の手紙から現れた一人の女性の姿だ。十数センチという大きさで、半透明の体から燐光を放つ彼女は、手紙に記録された映像である。

 その事に気付いて、明日菜はホッと胸を撫で下ろした。どうやら、手紙を置いた拍子に再生ボタンに触れてしまったらしい。


『元気にやってる? こっちは相変わらずよ』


 こちらの様子を気にせず、記録された通りに話し続ける女性は、ネギの従姉弟であるネカネだ。明日菜も何度か手紙を通して見た事があり、優しい雰囲気を纏った人で、ネギの事を色々と気に掛けてくれる良いお姉さんだと認識している。


『それでね…………その、言い難いんだけど……』


 また何か心配事があるのかと苦笑した明日菜は、けれどすぐ違和感に気が付いた。

 常ならば穏やかな湖面のごとく落ち着いている瞳には不安の波紋が広がっており、胸元で合わせられた両手は、痛々しいほどにキツく握り締められている。見るからに何かあるといったその様子に、明日菜は知らず眉根を寄せていた。

 何かが可笑しい。そうは思っても答えが分かるはずもなく、明日菜は焦れったそうに髪を掻き乱した。


『……よく聞いてね、ネギ』


 その間にも再生は進み、ネカネは意を決したような表情を浮かべた。

 彼女の声に釣られて明日菜が顔を上げると、同時にネカネが口を開き、




 ――――――――そして。












 ――――後書き――――――――


 第二十話を投稿しました。お読みくださった方、ありがとうございます。

 いよいよ大停電の始まりですが、その前に少しだけイギリス編です。あまり出番の無い彼女達ですが、今回は中々良い立ち位置に居たので登場して貰いました。麻帆良の人間では代用出来ない役割もありますしね。

 さて、次回は吸血鬼編の本番です。今回は直接出番が無かったネギもメインとして頑張ってくれるでしょう。彼を上手く描き切れるかどうかが吸血鬼編の胆だと思っているので、割と緊張してます。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十一話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:0e463a95
Date: 2009/11/08 21:38


 雑草の生い茂る道無き道。木々の立ち並ぶ夜の森。その中を、闇を裂く勢いでネギが駆けていく。草花を散らし足音を鳴らし、がなり立てる枝葉から逃げるように、零れ落ちる月明かりを拾い集めるように、一心不乱に前へと進む。

 呼気の間隔は短い。振り回す手足は乱れに乱れている。だがそれでも、かつてないほどの速さでネギは走る。

 空には月が昇っていた。満月には少しだけ足りない、けれど綺麗な丸い月だ。雲一つ無い夜空に浮かぶソレは、何処からでも見える。此処からでも見える。ネギが顔を上げれば、きっとすぐそこに鎮座している事だろう。

 当然だ。当然の事だ。なのに、今のネギにはソレが怖い。まるで見張られているようで背筋が冷える。


「ヤバイぜ兄貴! ドンドン街から離れてるッ!!」


 アルベールが叫ぶ。肩に乗った彼の声からは、罅割れたガラスのような緊張が感じられた。


「わかってる! わかってるけどッ」


 通り過ぎた木から、抉れるような鈍い音が聞こえた。次いで右前方、真正面と間断無く同音が響く。即座に左へ切り返し、揺らぎそうになる体を無理矢理立て直して再び前へ。その折、冷たい何かがネギの顔に当たった。

 氷だ。一瞬視界に映った木には大きな氷柱が刺さっており、直径数十センチはあろう幹が串刺し状態だった。その破片が飛び散ったのだろうと容易に想像出来たが、別に驚くような事ではない。

 先程から何度となく見てきた光景だ。繰り返し、繰り返し、繰り返し。


 ――――――誘導されている。


 理解していても、どうしようもない事だってある。頭が回らない。手立てが思い付かない。出来るのは、闇雲に足を動かす事だけだ。


「ヒィッ」


 耳元で氷柱が空を裂き、直後にアルベールが悲鳴を上げる。紙一重だったのか、指一本分の距離はあったのか。それを確認している暇は無いが、ネギの右頬は痛いほどに冷えている。とにかく、今のは危険だった。


「――――ッ」


 尻尾を丸めたアルベールを掴んだネギは、そのまま彼を胸元に抱きかかえた。姿勢が崩れ、思わず倒れそうになったのを、寸での所で堪えてみせる。強化された足が土を抉り、音を立ててそれを舞い上げる。

 氷柱は、飛んでこなかった。


「あ、兄貴! これじゃ兄貴が危ねぇよ!!」

「大丈夫!」


 走る速度は落ちたが、その程度で変化があるのなら、この逃走劇はとっくの昔に終わっている。

 まだだ。まだ、追っ手に捕まえる気は無いはずだ。そう心の中で呟いて、ネギは己を奮い立たせようとした。何時かは状況が変わる。どうにかなる。そう考えないと、頭がどうにかなりそうだった。


「……クッ」


 纏わりつく嫌な考えを振り払おうと、ネギはキツく前方を睨む。

 森の闇は徐々に濃くなり、静寂も次第に重くなってきていた。一歩進む毎に、異界へと踏み込んでいるような気にさせられる。でも、それがなんだと自分に言い聞かせる。足に力を込めて、精一杯の気力を振り絞る。


(お姉ちゃん……ッ)


 握り締めた杖。絶対に放してはならない杖。ネカネから貰ったソレは細く短く、愛用の杖と比べたら些か心許無い。せめて空を飛べるならと思わずにはいられないが、今のネギにはこの杖に頼るしかないのだ。父の杖は、手元に無いのだから。

 木々の間を抜ける。森の奥へと分け入る。風景の認識すら覚束無いような速度で走り、それでも更に速くと足を振り上げる。

 大丈夫。行ける。心の中で繰り返し呟くのは、そんな子供騙しみたいな言葉で。けれど、そう思わなければやっていられないくらい、今のネギは切羽詰まっていた。或いは、限界だった。


「――――――あっ」


 漏れ出たのは力無い声。見えたのは黒い地面。ドン、と鈍い音が頭に響いた。

 足がもつれたのか、はたまた何かに蹴躓いたのか。それすらも分からぬまま、ネギは地面に倒れ込んでいた。その事実に彼が気付いたのは、冷たい土の感触と共にジンとした痛みが頬に広がってからの事だ。

 目の前では荒い呼気に雑草が揺られ、胸元では抱きかかえたアルベールが何かを言っている。辛うじて横倒れと言える形となっているお陰か、小さな使い魔を潰すような事は無かったらしい。

 そこまで考えてから、ネギはようやく、起き上がらなければならない事に思い至った。


「う、くっ……」


 片手をついて、ネギは上半身を持ち上げる。

 頭が上手く回らない。酸素を求め、休息を欲し、靄が掛かったように意識が判然としない。多分、痛い。きっと、怖い。ジクジクと、ジワジワと根を広げるそれらの感覚に衝き動かされて、ネギは緩慢な動作で立ち上がった。

 やるべき事は分かっている。とにかく逃げろ、だ。なのに、まるで電池が切れたみたいに気力が湧いてこない。痛くて嫌になった訳ではない。怖くて足が竦んだ訳でもない。ただ疑問符ばかりが心を掻き乱して、ネギの思考を奪っていく。


「あ、兄貴ッ」


 アルベールの声に反応して顔を上げたネギは、


「――――――諦めたのか?」


 そこに、一人の少女の姿を見た。

 月光を浴びて煌めく金髪。夜闇の中で輝く双瞳。その恩恵を一身に受けるかのように月を背にした彼女は、宙に浮かんだまま、冷たい表情でネギを見下ろしている。そこには、何一つとして温かな感情は存在していなかった。

 風が吹く。草木を揺らす。少女の存在に慄くかのように、森の空気がざわめきだす。そしてその中にあってなお微動だにせず、まるでこの場の支配者とでもいった風情で、少女は纏ったマントをはためかせている。


「…………どうして」


 葉擦れに掻き消されそうなほど微かな、本当に微かな、ネギの呟き。そんな声しか、絞り出す事が出来なかった。


「どうしてなんですか、マクダウェルさん」


 何故。その言葉ばかりが頭の中を巡って、けれど碌に考える事すら出来なくて、どんどん、どんどん、心に疑問符が降り積もる。胸が一杯になるほどの”どうして”が重なり、泣きたくなるほどに問い掛けが増えても、まるで答えが分からない。

 一歩の歩み寄りすら許さない。そんな雰囲気を纏った少女は、変わらぬ無表情でネギを見下ろしていた。












 ――――第二十一話――――――――












 散歩に行こう。そんな事をエヴァンジェリンが口にしたのは、大停電が始まってから一時間ほど経った頃だろうか。茶々丸の手作りだという豪勢な夕食を終え、紅茶を飲みながら他愛も無い雑談に興じていた時の事だ。

 学園都市からあらゆる光が消えるこの日は、夜空の星々が随分と綺麗に見えるらしい。特に森の中にある広場から見上げる夜空が絶景で、辺りの木々に切り取られたその光景は、あたかも一枚の風景画のようなのだとか。

 そう楽しげに語るエヴァンジェリンの顔を見れば、ネギとしては断れるはずも無かった。二つ返事で了承し、そして今、彼らは目的の場所へとやってきている。それほど広くはない、けれど二人で月見をするには十分なスペースのある空き地だった。


「うわぁ。本当に綺麗ですね」


 仰ぎ見た星々の輝きは、故郷で目にしたものと比べても何一つ劣らない美しさを持っている。群青のカンバスに散りばめられた無数の白い宝石は、夜の静寂と相俟って、えも言われぬ魅力を醸し出しているように感じられた。

 世界が、澄み渡る。地上に立つネギから天上に浮かぶ星々まで、スッと何かが通り抜けるような、そんな感覚を覚えた。右肩に乗ったアルベールも何か感じるものがあるのか、長い尻尾をユラユラと揺らしている。


「――――――光は、光を霞ませる。普段は気付けない輝きも、暗闇の中でなら、こうして見付ける事が出来る」


 隣のエヴァンジェリンが、不意にそんな事を呟く。その声に誘われたネギが左を見遣れば、切れ長の瞳を細めたエヴァンジェリンが、物憂げに夜空を見上げていた。静寂の中、癖のある金髪を風に遊ばせながら、彼女は一身に月光を浴びている。

 冷たい色を帯びたその表情は初めて見るもので、けれど背筋が震えるほど美しく感じられて、ネギは思わず言葉を失った。


「人生もそう。安穏とした日々ばかりでは、その価値を忘れてしまう」


 一歩、エヴァンジェリンが前へ出る。更に二歩、三歩と、夜風を連れ立って彼女が進む。その後ろ姿を、ネギは黙って見送った。同じくらいの身長の彼女が、何故か今は大きく、遠く見える。声を掛けても届きそうにない、そんな隔たりを感じてしまう。

 そうして広場の反対側まで歩いたエヴァンジェリンは、クルリと体を反転させて、ネギと正面から向き合った。


「失ってから気付く、大切さ。けど、それほど悲しい事も無い」


 互いの距離は、十メートルにも満たない。だからエヴァンジェリンの顔を判別する事は決して難しくはなく、彼女の白い美貌に浮かぶ表情も、ネギにはよく見える。やはりこれまでに覚えの無い、無に近い、怖さすら感じる表情だった。


「マ、マクダウェルさん?」

「忘れてはいけませんよ、ネギ先生。何気無い毎日にも価値はあり――――――」


 まるでネギの声など聞こえていないかのように、それでいてネギの顔をしかと見据えて、エヴァンジェリンが語る。

 風が吹く。空気が冷える。足下の雑草はそよぎ、周りの木々はざわめく。言い知れない何かが這い寄るような感覚に、ネギは知らず体を震わせていた。同時に、嫌な汗が全身から滲み出る。

 可笑しい。胸の奥から、そんな言葉が湧いてくる。その通りだ。今の状況は、何かが変だ。けど、それを何処に向ければ良いのだろうか。エヴァンジェリンに問い掛ければ、答えは返ってくるのだろうか。

 分からない。ネギには何も分からない。ただ脈拍ばかりが先を急いで、ネギを追い立てるように胸を打っている。同調するように身を震わせるアルベールの存在も、その焦りを助長している。


「――――――何時だって、不幸は唐突にやってくる」

「あ、兄貴!」

「うわッ!?」


 布をはたくような音が幾重にも重なって、唐突にネギの耳を揺さぶった。右から左から。前から後ろから。四方八方から聞こえてくるその音に、ネギは慌てて辺りを見回した。

 目に入ったのは、小さな黒い影。手の平大と思われるソレが、勢いよく宙を飛んでエヴァンジェリンへと向かっている。否、正確には群がっていると表現した方が良いかもしれない。無数の影が彼女の体を覆い、まるで何か別の生き物のようになっている。


「心配しなくていい。ただのコウモリだからな」


 そう言ってエヴァンジェリンが左腕を上げると、まるで布のように影が舞い上がった。いや、事実として布なのだ。コウモリだと説明されたはずのソレは、何時の間にか彼女を包む漆黒のマントへと変化していた。

 魔法。その単語がネギの脳裡を掠めたが、どうにも違和感が拭えない。けれど何が変なのかは分からなくて、だからエヴァンジェリンに問う事も躊躇われて、結局、可笑しいという言葉だけが胸の奥へと沈んでいった。


「少し、昔話をしようか――――――」


 そうしてネギの思考を置き去りにしたまま、エヴァンジェリンの声が辺りに響き渡った。




 □




「――――――どうして? 言っただろう、お前の血が必要なんだと」


 青白い月光を浴びるエヴァンジェリンの姿はあまりにも儚くて、もしかすると今見えている彼女は幻なんじゃないかと、そんな気すらしてくる。しかし彼女が発する息苦しいほどの存在感が、この光景が紛れもない真実なのだと、嫌というほど教えてくれている。

 冷たい夜風が頬を撫で、ネギの顔から熱を奪う。だがそれでも、流れる汗が止まる事は無い。寧ろその量は刻一刻と増していくばかりで、気付けば頭から水を被ったみたいに、前髪が額に張り付いていた。


「サウザンドマスターの呪いを解く為に、近しい血縁者の生き血が欲しいんだ」


 煌めく金髪をなびかせて、エヴァンジェリンはゆっくりと地面に降り立つ。トン、と彼女のつま先が立てた小さな音が、何故か綺麗に聞き取れる。爛々と輝く彼女の双瞳は異様な雰囲気を漂わせていて、ネギは呆けたように目が離せなくなった。

 考えなくても分かる。この場の支配者は、目の前に居る少女なのだ。


「まぁその量を考えれば、お前の”命”が欲しい、と言い換えた方が正確かもしれんな」


 エヴァンジェリンが、目蓋を閉じる。たったそれだけの事でも、降り掛かる重圧が軽くなった気がした。そうしてネギは、思い出したように呼吸を早める。浅い呼吸を何度も繰り返し、必死に酸素を取り込んでいく。

 唇の隙間から白い呼気が漏れ、そしてすぐさま夜風に掻き消される。顎を伝う汗が、雫となって落ちていく。

 徐々に思考がクリアになり、それに伴って少し視界が開けたように感じた。やけに大きく見えたエヴァンジェリンの姿が元に戻って、ようやくネギにも、人心地をつく余裕が出来る。相変わらず肩で息をしているような状態だが、それでも口を動かす気にはなれた。

 緊張でヒリつく喉を震わせて、ネギは勇気と共に声を振り絞る。


「ダ、ダメですよ。そんなの、ダメです」

「ふむ。どうして、と聞いておこうか」


 不愉快そうな様子は無く、つまらなそうな表情でもなく、楽しそうにもしていない。エヴァンジェリンは、無感情な声で淡々と話す。


「どうしてって…………だって、誰かの命を奪うのはいけませんよ」

「甘いな、ネギ先生。たしかに人を殺すというのは色々面倒だが、時にはそれが正しい選択となる事もある。お前の父親も、十五年前に私を殺しておけば、こうして息子を危険に曝す事も無かっただろうに」


 氷のように冷たい眼差しでネギを見詰めながら、エヴァンジェリンはソッと自らの右耳に触れる。今日、初めて着けている所を見た、黒薔薇のイヤリング。大事そうにソレを一撫でした彼女は、次いで鋭く目を細めた。


「私とて、別に楽しいわけじゃないさ。この件で曲げた矜持もある」

「その矜持ってぇのは、女子供を殺さないってヤツかい?」

「え? カモく――――」


 何かを知っている口振りで話に割り込んできた使い魔に問い掛けようと、ネギが胸元に視線を落とした瞬間、抱きかかえたアルベールが黒い物体を放り投げた。驚いたネギがその正体を確認する前に、アルベールの舌打ちが辺りに響く。


「……まぁ、そんな所だ。ホラ、返すぞ」


 エヴァンジェリンの声に釣られてネギが顔を上げると、その時には既に、黒い影が目前にまで迫っていた。

 思わず息を飲み、体を硬直させる。避けられない、とネギが目を瞑ろうとした瞬間、今度は白い影が視界を横切った。鈍い音が響き、黒い物体が弾かれる。一瞬の思考の空白を越え、慌ててソレが飛んでいった方を見たネギは、草の間で跳ねる何かを見付けた。氷漬けにされた、黒い筒。ネギの持つ知識ではそうとしか表現出来ない物が、二度三度と地面の上を跳ねながら転がっている。


「流石に二度目は喰らわんさ」


 掲げていた右腕を下ろして、エヴァンジェリンが口を開く。その言葉を聞いて、ネギは黒い筒の正体に思い至った。おそらくは閃光弾の類であり、最初に逃げる時にアルベールが使用した物だ。そして先程の白い影は、アルベールの尻尾だろう。


「あ、ありがとう。カモ君」

「いいって事よ。けどヤベェぜ、流石にネタ切れだ」


 歯を剥き出しにし、警戒心を露わにしたアルベールが憎々しげに吐き捨てる。確かにそうだ、とネギも心中で同意する。このままでは遠からずエヴァンジェリンの手に捕らえられてしまう。いや、その未来は既に目前まで迫っていると言っていい。

 杖を握り締め、ネギはゴクリと喉を鳴らした。

 自らを真祖の吸血鬼だと告げた彼女の言葉を、ネギは疑っていない。小さな唇から覗いた、鋭い牙。氷のように冷たい気配。圧力すら伴った禍々しい魔力。そして何より、彼女と過ごしたこの一週間の経験が、エヴァンジェリンは嘘をついていないと教えてくれていた。


「いい加減、覚悟は決めたか? 此処まで来れば助けは望めん。遊びは終わりにして、そろそろ解呪を始めたいんだが?」

「――――――ッ」


 どうして。出掛けたその言葉を、ネギはすぐに飲みこんだ。これでは聞き分けのない子供と何も変わらない。決して現状に納得出来た訳ではないが、今は少しでも冷静になり、なんらかの打開策を講じるべきだ。

 説得は、もう考えない。きっと仕方無い事なのだ、これは。エヴァンジェリンの言う通りであるならば、確かに彼女には理由がある。そして明確な理由があるのなら、真祖の吸血鬼は迷わないだろう。

 そうだ。魔に属する者に、容赦なんて望めない。一度敵対したのなら、あとはドチラかが倒れるまで戦うしかないのだ。そんな事は、”あの時”から分かっていたはずではないか。そう。六年前の、あの夜から。


「………………」


 自然と、ネギの表情が強張っていく。


「ほう。たしかに、覚悟を決めたようだな」


 片眉を上げ、エヴァンジェリンが感心したように口にする。それに対して返事はせず、ネギは視線に力を込めて、杖を彼女に向けた。一方のエヴァンジェリンも、何も持っていない手をネギへと向け――――――かと思うと、次の瞬間には一本の杖を握っていた。


「……僕の杖」

「同時に、サウザンドマスターの杖でもあるな」


 ログハウスに置いてきたはずのソレを、吸血鬼は我が物顔で振り翳す。

 ネギにとっては、何よりも大切な杖を。誰よりも尊敬する人から貰った杖を。


「――――――ラス・テル・マ・スキル・マギステル」


 始動キー。魔力通路の扉を開く、自分専用の言霊。後に続くのは、当然ながら呪文の詠唱だ。


「光の精霊97柱!!」


 何度となく反復した詠唱を、自然と口がなぞっていく。

 先程までの緊張が、まるで嘘のようだった。術式の展開も、魔力の集中も、嘗て無いほどの滑らかさで行えている。これならいける。自然と湧いてくる自信を視線に籠めて、ネギは正面のエヴァンジェリンを睨み付けた。


「集い来たりて」


 彼我の距離は、約七メートル。外す距離でもなければ、避けられる距離でもない。

 そう判断し、魔力の渦巻く右腕をエヴァンジェリンへと向けたネギは、


「敵を射――――ッ!?」


 目にした光景に、そのあまりの予想外さに、思わず息を呑んだ。








 ◆








 全てが順調だった。誰もが、洸の予想通りに動いていた。

 時刻は、そろそろ午後の十時を回ろうかという頃だ。空に浮かぶ月も大分高くなり、明かりの消えた麻帆良の街並みでは多くの人々が忙しなく動いていた。洸もまたその内の一人であり、ネギとエヴァンジェリンが居なくなったログハウスで、彼女は自らが用意した物の痕跡を消そうと、茶々丸と共に後片付けに勤しんでいる。

 呪いの解析に関しては順調に進み、大停電開始から一時間足らずで終了した。といっても現状では、術式の図面ともいえない、落書きみたいな何かを丸写ししたに過ぎず、詳細な分析については日を改め、近右衛門と協力して時間を掛けて行う事になるだろう。

 だから今は、この夜を無事に乗り越える事に全力を傾ければ良い。


「茶々丸。予備システム復旧の可能性は?」

「本来の電力供給が回復するまでは不可能かと」

「ならばよし」


 洸は満足そうに頷き、部屋の中を見回した。一見すればネギとエヴァンジェリンが会食していた時と何一つ変わっていないが、彼女が事前に用意していた魔法陣などは全て撤去されている。これで、後々学園側に調査されたとしても怪しまれる事は無い。

 どうにか間に合った、と洸は胸を撫で下ろす。


 ――――――ッ!!


 と、同時。勢いよく玄関の扉が開かれる。ドアベルの音がログハウスに響き渡り、それに気付いた茶々丸が身構えた。警戒した様子で洸の前に立った茶々丸は、そのまま彼女を庇うようにしながら後退していく。

 まだ、来訪者の姿は見えない。開け放たれた扉が風に吹かれて揺れるばかりで、誰かが入ってくる気配は無かった。カラカラと、掠れた音をベルが立てる。冷たい空気が肌を撫ぜる。自然と緊張が、高まっていく。

 そうして暫し時が経ち、茶々丸が慎重に一歩を踏み出した、その瞬間。


「ッ!?」


 一つの影が、玄関から侵入してきた。

 即座に茶々丸が反応し、相手と洸の直線状に割って入る。攻撃はしない。構えを取って、彼女は侵入者の出方を窺った。それは相手も同じのようで、冷たく光る銃口を茶々丸へと向け、部屋の入口で静かに立っている。


「…………ガンドルフィーニ先生」


 手には拳銃を握り、眼鏡の奥で鋭く目を細めた、知り合いの魔法先生。その姿を見て、茶々丸は戸惑うように身動ぎした。


「僕も居るんだけどね」


 何故か横合いから聞こえてきた声に、茶々丸はゆっくりとそちらに顔を向ける。

 今度現れたのは、普段通りのスーツを着込んだタカミチだ。二階から侵入したのか、彼は苦笑を浮かべながら階段を下りてきている。気安い態度でありながらもその立ち振る舞いに隙は無く、明らかに戦闘態勢である事が見て取れた。

 茶々丸の体が緊張で硬くなるのが、背後の洸にも分かる。緑の髪が不安げに揺れ、それでも二人と対する為に、彼女は再び立ち位置を変える。同時に、初めて洸が動いた。周囲の緊張など気付いてもいないといった風情で、彼女は茶々丸の横をスルリと抜けていく。


「あっ」


 驚いた茶々丸が反射的に腕を伸ばし、その手を握って、洸は子供を引率するように歩き続ける。彼女に連れられる形となった茶々丸は戸惑いながらも、しっかりとその後ろについていく。そしてタカミチは苦笑し、ガンドルフィーニは硬い表情のまま銃を下ろす。

 洸は一言も喋らないまま、ガンドルフィーニの隣を抜ける。一瞬だけ互いの視線が交差し、それきり、双方何も見なかったかのように擦れ違った。洸はログハウスの外へ、ガンドルフィーニは部屋の中へ、それぞれ黙って進んでいく。そうして冷たい夜風の吹き込む玄関を通り、洸と茶々丸は月の浮かぶ夜空の下に姿を見せた。

 それでもまだ、洸は口を開かない。茶々丸の手を引いて歩く彼女は、静かに進む先を見据えている。


「あの、洸さ――――」


 唇にソッと指を当て、洸は喋ろうとした茶々丸を黙らせる。すると茶々丸は困ったように口元をまごつかせ、そんな彼女に対し、洸は愛おしそうに目を細めた。可愛いものだと、素直にそう思う。


「お話は、もう少し離れたらね」


 まだまだ、ログハウスから近過ぎる。念には念を、と洸は心中で呟いた。

 再び静かになった茶々丸を引き連れて歩き始めた洸は、森の奥へと向かいながら右耳に指で触れる。黒薔薇を模したイヤリング。洸がエヴァンジェリンに渡したのと同様の物が、そこには着けられている。この計画の為に、知り合いに頼んで作って貰った物だ。

 ただそこから聞こえてくるのは、エヴァンジェリンの声ではなかった。


『――――高畑です』


 先程別れたタカミチの声が、イヤリングから聞こえてくる。彼の持つ無線機から送られてきているものだ。


『やはり『闇の福音』の家でした。例の魔力はココを発信源としていたようです。ただ家の中には誰もおらず、既にもぬけの殻となっていました。これからガンドルフィーニ先生と詳しく調べてみますが、あまり成果は期待できそうにありませんね』


 話す内容は、洸に向けられたものではない。監視システムの責任者であり、今夜の警備体制における指揮権を持った明石教授だ。このやり取りがあったからこそ、洸はあの場を辞したのである。アソコでやるべき事を終えた以上、学園側に気取られる危険を背負ってまで留まる理由は無かったという訳だ。


『そうですか…………わかりました。コチラはようやく全魔法生徒の帰宅が終了した所です。最後の班を引率していた魔法先生も配置に戻ったので、これから本格的な警戒態勢に移ります。二人までなら応援を送れそうですが――――――』


 明石教授の話に耳を傾けながら、洸は現在時刻を確認した。十時七分。明石教授が魔法生徒の帰宅を指示してから、既に九十分近くも経過している。これは未熟な魔法生徒の引率に加え、警備に穴を開けないよう班毎に順番に帰した為だろう。

 そう、洸の予定通りに。


『最悪の場合を考えると、殆どの魔法先生には荷が重いかと』

『えぇ。ですから葛葉先生と神多羅木先生に頼もうと思っているのですが、彼らだと到着に二十分ほど掛かりそうで…………』

『それでもお二人に頼むべきでしょう。今は悩んでいられるような状況ではありませんしね』

『…………そうですね。急ぎ連絡を入れます』


 明石教授の言葉を聞いて、洸は安堵から頬を緩めた。

 これで、大停電開始から二時間半を浪費させた事になる。既に折り返しは過ぎたのだ。残りの一時間半も上手く立ち回って電力の復旧を待つか、或いはネギとエヴァンジェリンの間でなんらかの決着をつけさせるか。この件の着地点は、そのどちらかになるだろう。


『合流地点はどうしましょう?』

『いや、今は一刻を争う状況です。別行動でより広範囲を調べた方がいいでしょう』

『なるほど、わかりました。では捜索範囲は…………そのログハウスから”東側”を頼みます』


 知らず、洸の口元が緩やかな弧を描く。

 明石教授は優秀な人物だ。手元の情報を最大限に利用して状況を把握し、非常時においても素早く判断を下す事が出来る。人当たりの良い性格は厳格な階級統制の存在しない関東魔法協会で指揮権を預かるのに向き、相手に要点を理解させられる話術も持っている。

 だがそれ故に、洸にとっては言動の読み易い相手でもある。論理的な思考回路はソレが辿る過程を筋道立てて予想出来る事を、聡明な頭脳は最終的に到る結論が限定出来る事を、妥当性があれば他人の意見でもすぐさま取り入れる柔軟さは、話の方向性を操作し易い事を意味しているのだから。

 ガンドルフィーニが、不審な魔力を感知したと報告した時も。

 闇の福音の自宅周辺が、その発信源と予想された時も。

 偶々タカミチが、その近くに配備されていた時も。


『わかりました。私達は”東側”ですね?』

『えぇ。葛葉先生達の位置を考えると、西側を頼んだ方が早そうなので』


 そして今も、明石教授は洸の想定通りに判断を下してくれている。

 最後に二言三言交わして通信が途切れたイヤリングから意識を外し、洸は自らが進む先を見据えた。ログハウスを出て東へ進んだこの先には、エヴァンジェリンとネギが居る。と言っても二人は移動中であり、その速度を考えれば、洸達との距離は刻一刻と離れていっていると言っても問題無いだろう。

 だからといって、急ぐ必要は無い。二人の状況についても予定から大きく外れた所は無く、まさしく予定調和という言葉が相応しい。


「ねぇ、茶々丸?」


 不意に洸が、声を上げた。ログハウスからは、十分に離れたという判断からだ。


「なんでしょう?」

「二十七時間前にウェールズ――――――メルディアナで出されたエアメールが、五時間前に麻帆良に届く可能性は?」


 問い掛けの形を取ってはいるが、これは確認のようなものだ。洸の中では既に出ている答えを、より詳細な情報を持っている茶々丸に尋ねる事で、確認する作業に過ぎない。


「ほぼ皆無かと。少なくとも通常の手段ではありえません」

「そう。ありがとう」


 やはり、と洸は心中でひとりごちる。

 普通に考えれば有り得ない。だからこそ洸もそうだと思い、ネカネが出した手紙については捨て置いた。どうせ間に合わないだろうと結論付けて、殆ど注意を払わなかったのだ。そしてその対応が、予想外の事態を招いている。


(何故あの手紙が?)


 昨日の訪英の成果として、洸は一つの事を決めていた。神楽坂 明日菜を、今回の計画に巻き込まないという事だ。当初はネギの制御に有効な存在だと考えていた彼女に、幾つかの見逃せない不安事項があると感じた為だった。

 なのに、現実はどうだ。彼女はネカネの手紙により『闇の福音』の存在を知り、あまつさえその確認の為に近くまでやってきている。更に問題なのは、明日菜が森に入るまで、この事態に洸が気付けなかった事だ。明日菜の存在が完全に頭から抜けていた。巻き込まないと決めた以上、こちらからのアプローチが無ければ問題無いと決めつけていた訳だ。


(配達を知り合いに頼んだ線は無い。消印の存在から、手渡しとは考え辛い)


 そもそも日本を訪れるネカネの知人と言えば、それこそ洸くらいのものだろう。

 では、どうやって一日と掛けずに英国からのエアメールが届くというのか。そんな事は下手な魔法を使った所で不可能だ、とそこまで考えた洸は、ハタと気付いた。それを可能にする手段を、自分はよく知っているではないかと。


「…………転移魔法、か」


 頻繁に利用される訳ではないが、麻帆良とメルディアナの間には転移魔法による『空輸』のラインが繋がっている。今回洸が用意した非公式なものではなく、ちゃんと公式に認められたものだ。生物の移動が出来ない代わりに大量の物資を運ぶ事が出来るのだから、手紙の一つくらい訳も無いだろう。

 とはいえ、普段ならこんな私用で使われる事は無いような代物なのだが。なんせ相手の敷地に直接物質を出現させるのだ、悪用された場合の事も想定して、利用にはそれなりに面倒な手続きが必要となっている。


「それだけ必死だった、という事かな」


 なんにせよ、これは洸の怠慢だ。もっと真剣に考えていれば、未然に防げた事態だった。

 だが、今は後悔している暇は無い。転移魔法で送られたというのなら、これ以上想定外の因子が入り込む事も無いだろう。アルベールが機転を働かせたのか、ネギには知られなかったのも大きい。明日菜への対応さえ間違えなければ、きっと上手くいくはずだ。

 ならばどうすればいいのか、それが問題となる。すなわち明日菜をネギと引き合わせるか、そうしないかだ。

 障害となるのは、明日菜自身の制御し辛さである。洸が直接会って止める訳にはいかないし、この辺りの基地局は停電用バッテリーを空にしてあるので携帯電話も繋がらない。今は魔力を餌にしてある程度の誘導は出来ているものの、これも何時まで続くか分からない。

 妥当な方策としては自然を装ってタカミチ達と遭遇させる事だが、これにも少々の躊躇いがあった。明日菜が捜査への同行を願い出た場合は勿論、彼女を寮へ帰すにしても一時的にタカミチかガンドルフィーニが抜ける事になり、そうなると刀子達との合流を指示される恐れも出てくる。また不測の事態において近頃のタカミチと明日菜を出会わせる事にも、洸は些かの不安を感じていた。

 さてどうするべきかと顎先に手を当てた洸が、次の瞬間、驚いたようにハッと目を見開く。小刻みに黒い瞳を揺らし、唇を開いたまま黙っていた彼女は、暫くして目蓋を下ろすと、疲れたように息を吐き出した。


「どうして、ソレに気付けるんだろうね」


 刀子達との遭遇を危惧して、少し近くに来させ過ぎたのかもしれない。或いは明日菜の能力を甘く見過ぎていたのかもしれない。ただハッキリと分かっている事実は、明日菜がエヴァンジェリンの存在に気付いたという事だ。


「どうかされましたか?」

「いや、新しく考える事が出来ただけだよ」


 苦笑で問い掛けを流した洸は、そこで何かを考え込むように茶々丸を見詰めた。


「もしかすると、茶々丸の出番もあるかもね」

「そうなのですか?」


 首を傾げる茶々丸に笑い掛け、次いで洸は森の奥へと視線を移す。黒い葉を繁らせた木々が立ち並び、次第に闇へと呑み込まれていく夜の森。本来見通せないはずのその先に、彼女は他人には知る事の出来ない光景を見出していた。

 そしてそれを確認した上で、洸は風に掻き消されそうな、本当に小さな呟きを漏らす。


「…………髪を下ろすと、本当によく似てる」


 全ては順調だった。そう、誰もが予想通りに動いて”いた”のだ。








 ◆








 どうしてこんなにも必死なのか、真剣になっているのか。そう問い掛けられても、明日菜はきっと答えられない。ネカネからの手紙を見たから、確かにそうだ。ネギがエヴァンジェリンの家に行っていて心配だった、それもあるだろう。しかしこれほどまでに焦る必要があるのかというと、明日菜はそうは思わない。

 ネカネの持っていた情報は十五年以上前のものであり、またエヴァンジェリンは既に封印されているという。それにこの一週間は割と頻繁に二人は会っていたが、何か可笑しな事があったとは聞いていない。二年間、問題無くクラスメイトをしてきたという事実もある。

 ならば何故、こうして森の中を駆けずり回っているのだろうか。髪を括る手間すら惜しみ、こんな所まで走ってきているのだろうか。その事には明日菜自身も疑問を感じていたが、同時に彼女は、奇妙な確信も抱いていた。

 エヴァンジェリンは、確かに『闇の福音』なのだろう。

 間違い無い、と心の何処かで囁く声が聞こえた気がした。そう、エヴァンジェリンのような少女が伝説の賞金首なのだと、そんな話をずっと昔に誰かから聞いたような、不思議な感覚があるのだ。

 その事を思うと、何故か胸がざわめく。ネギが傷付けられるんじゃないかと、あの同居人に何かあるんじゃないかと、不安になる。


 ――――――身近な人が危ない目に遭うのは、絶対に嫌だ。


 衝動にも似た何かが明日菜の体を動かし、速く速くと急き立てる。寮からずっと走り続けた所為で随分と息が荒くなっているが、それでも休もうという気は湧いてこない。寧ろもっと急げと、自らを叱咤したくなるくらいだ。

 思うように動いてくれない体が、明日菜はもどかしかった。近頃はかなり馴染んできた洸の魔力供給が、今は無い。彼女が英国という遠い地に居る所為か、契約カードはウンともスンとも言ってくれなかった。唯一可能なのは、あのハリセンモドキを召喚する事だけだ。

 だから今の明日菜は、自分の魔力を使う事しか出来ない。最近は少しずつ扱えるようになってきたとはいえ、魔力供給どころかネギの身体強化とすら比べ物にならない、僅かな水増し程度しか効果の無い未熟な手段だ。

 元々の身体能力があっても、流石に厳しいものがある。


「ハッ、ハッ――ハッ――――ッ」


 それでも、あと少しだ。あとちょっとで、ネギの所に辿り着ける。先程から感じている禍々しい魔力がエヴァンジェリンのものだと、明日菜はなんの根拠が無くとも確信していた。そう信じて、森の中を駆け抜けていた。

 少しずつ、少しずつ明日菜は”加速”していく。雑草を蹴り散らし、縫うように木々の合間を走り抜け、闇の奥へと飛び込んでいく。魔力の感じからすれば、もうすぐそこだ。それこそ薄皮一枚剥いだ向こうに居るような感覚を、明日菜は覚えていた。


「アデ、アット」


 苦しいほど短い感覚で繰り返す呼気の合間に、明日菜はその一言を呟いた。刹那、彼女の手の中にアーティファクトが召喚され、その冷たい感触が手の平に返ってくる。ギュッと柄を握り、明日菜は強い意志の宿った瞳を前方へと向ける。

 同時に、木々が織り成す幕の奥に二つの人影を見付けた。間違い無く、ネギとエヴァンジェリンの二人だ。互いに杖を持って向き合う彼らの間には不穏な空気が流れており、奥に立ってコチラを向いているネギの表情は何時に無く剣呑としている。


「ッ!!」


 二人の存在を認識した瞬間、明日菜は強く地面を蹴り出した。

 それは既に疾走というよりも、滑空と表現した方が正しいのかもしれない。明日菜の一歩は彼女自身でも信じられないほどの跳躍力を生み、一気に二人との距離を縮めてくれた。次の二歩目では更に半分へと縮め、三歩目ではもう、明日菜はエヴァンジェリンのすぐ傍にまで辿り着いていた。

 明日菜の着地に数瞬遅れ、彼女に追い縋るように風が吹く。明日菜の頬を撫で、エヴァンジェリンの髪を巻き上げる。そして一瞬の後に風が止み、再び重力に従った金髪の向こうに少女の横顔を見た明日菜は、我知らず眉を跳ね上げた。


「こん――――」


 アーティファクトを、『ハマノツルギ』を振りかぶる。今の精神状態でも力み過ぎだと自覚出来るほど、明日菜は腕へと力を込める。タカミチの教えは意識に無く、考えられたのは、ただ全力で腕を振り下ろす事だけだ。

 精一杯の掛け声と共に、


「――――のぉ!」


 明日菜は両の腕を振り切った。

 一瞬、まるで水の膜を破ったような抵抗が明日菜の手に返る。だがそんなものは、そよ風ほどにも意味は無い。些かの減衰も見せずに綺麗な弧を描いた一閃は、鮮やかな音を立ててエヴァンジェリンの後頭部に直撃した。

 手応え、あり。大きな杖を掲げて、悠然と佇んでいたエヴァンジェリンの体は僅かに傾ぎ、その横顔には驚きの感情が浮かんでいる。それだけでも明日菜の胸はすき、心に余裕が出来た。これで少しは大丈夫だろうかと、安堵感が広がっていく。

 その考えが間違っていたと思い知らされたのは、直後の事だ。


「ガッ!?」


 刹那の内に脳天まで駆け抜けた衝撃に、明日菜は危うく意識を飛ばし掛けた。痛みは無く、或いは認識する暇無く、視界に映る少女の姿が遠ざかる。下へ、下へ、エヴァンジェリンが離れていく。それが本当は自分の方が浮き上がっているのだと明日菜が気付いたのは、緩慢な動作で吸血鬼が彼女を見上げ、重力に縛られた体が地面へと落ち始めた時の事だ。

 エヴァンジェリンと、視線が合う。サファイアの如き怜悧な瞳には、ルビーと見紛うばかりの苛立ちが満ちていた。

 だが”そんな事”よりも、今の明日菜には気に掛かる事が存在している。一瞬だけ視界の端に引っ掛かった、同居人の姿。少し離れた位置に立っている彼の様子に、明日菜は何故か心をざわめかせた。

 違和感、とでも言うのだろうか。緊張しているのは分かる。泥だらけの服を見れば、大変だったのも分かる。けれどそうではなくて、もっと根本的な部分で普段のネギとは異なるような、気味の悪い感覚だ。

 放物線を描いて落ちていく最中、必死に顔を動かしてネギの姿を確認すれば、その顔に浮かぶのは困惑だった。

 けどそれは、明日菜と目が合った瞬間に”恐怖”へと塗り替えられ、


「アァアァァッ!!」


 同時に明日菜の視界は、真っ白に染め上げられた。












 ――――後書き――――――――


 二十一話の投稿です。お読みくださった方、ありがとうございます。

 予定調和ばかりでは文字通りお話にならない、という訳で今回の話はこんな感じです。作者視点だと冷めた見方になり易いので、この手の展開を書く時はよく悩まされます。少しでも緊張感が出せていれば良いのですが、どうだったでしょうか。

 大停電の事件そのものは次回で終わらせる予定です。ネギサイド、オリキャラサイド、それぞれ面倒な事になっているものの、上手く読者の皆さんが納得出来る話し運びが出来るよう頑張りたい所ですね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十二話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2009/12/05 21:04


 酷い有り様だった。辺り一帯の雑草は殆どが根元近くまで消し飛ばされ、長い時間を掛けて成長してきた木々も、両の指では数えきれないほど薙ぎ倒されている。また剥き出しになった黒い土の上には、粉々になった何かが散らばっていた。元は木の枝か、或いは草の葉だったのだろうと推測出来るが、今となっては見る影も無い。

 まるで爆弾でも炸裂させたみたいだと、洸は他人事のように考えた。

 綺麗な円を描いて倒れている木々の惨状は、明らかに一点から放射状に強い力が発生した事を示している。円の内側に向いている方の表皮は傷付き穿たれ、枝に至っては一本残らず折り千切られている事もまた、元凶となった力の恐ろしさを物語っていると言っていい。

 そしてその中央、爆心地とでも呼ぶべき場所に、一つの影があった。

 エヴァンジェリン=A=K=マクダウェル。或いは、闇の福音。処女雪の如く澄んだ白き美貌を持ち、夜闇を溶かし込んだかのような黒衣に身を包んだ少女だ。しかし普段なら繊細なガラス細工を思わせ、触れ難い印象を抱かせる彼女の風貌は、この場では見るも無残な姿に成り果てていた。

 白無垢の柔肌は山野を一昼夜駆けずり回ったかの如く土で汚れ、露出した部分には多くの擦り傷が見て取れる。常であれば綺麗に整えられた金髪も散々に乱された上で粉塵を被され、服に至っては、どこの乞食の物かと見紛うほどに破れ、擦り切れ、汚れきっていた。

 何より目に付くのは、仰向けに地に倒れた彼女が、まるで罪人の如く拘束されている事だろう。両の手首に、両の足首に、そして首に黒い環状の物体を取り付けられたエヴァンジェリンは、それによって地面へと縫い付けられていた。

 例えるなら、魔女狩りに遭った魔女のように。


「制御しきれなかったとはいえ、流石の魔力量だったね」


 そんなエヴァンジェリンの姿が目に入っているのかいないのか、中心地へと向かう洸の足取りは随分のんびりとしたものだった。一歩進む度に足下から粉塵を巻き上げ、その足跡をクッキリと地面に刻みながら、彼女はエヴァンジェリンに近付いていく。


「唱えていたのが『魔法の射手』で助かったよ。器が小さいから、破裂するのもすぐだった」


 魔法の射手。魔法学校で唯一教えられる攻撃魔法であり、おそらくはネギが最も使い慣れている魔法の一つだろう。それ故にあの場で使おうとしたのだと思われるが、その事が今回はプラスに働いた。勿論、洸にとってのプラスである。

 あの時、明日菜がエヴァンジェリンに殴られた時、ネギは魔法の準備を殆ど終えていた。形を整え、魔力を注ぎ、残るのは射出だけと言ってもいい状態だったはずで、そこに来ての、あの出来事だった。

 魔力の暴走だと、洸は捉えている。半ば錯乱に近い精神状態が引き起こした、ある種の限界突破。未熟故に普段は扱えていない膨大な潜在魔力が漏れ出し、発動途中の魔法へと流れ込み、最後には形を歪めて発現したのだろうと。

 その結果どうなったのかは、見ての通りである。


「火属性じゃないのもよかった。まぁ破壊属性がある光を選んだあたり、やる気は十分だったみたいだけど」


 エヴァンジェリンのすぐ傍にまで来た洸は、そこで立ち止まる。彼女は足下に倒れた親友を見下ろし、吸血鬼もまた、洸を見上げた。黒い瞳は青い瞳を、青い瞳は黒い瞳を映し、互いに視線を交わらせる。表情は、どちらも無に等しかった。


「…………外せ。別に暴れはせん」


 静かに呟いたエヴァンジェリンの声が、鈴の音のように凛と響く。それを聞いた洸は目を瞑り、そしてすぐに開けた。

 同時にエヴァンジェリンを拘束していた物体が消失し、彼女の体が自由になる。そのまま傷だらけの体を起こし、気だるそうな動作で立ち上がった彼女は、一度だけ、自らの長い金髪を払い上げた。付着していた粉塵が派手に舞い上がり、乱れていた髪型は、それだけで普段通りの整然としたものへと戻る。

 それからエヴァンジェリンは隣に立つ洸を仰ぎ見て、鋭く睨み付けた。


「で? あの女はなんだ?」


 一瞬、洸は目を細め、次いで間を置かずに口を開いた。


「明日菜の事? 何か気になる事でも? 予定外の乱入については――――――」

「はぐらかすな」


 話を遮られた洸は、初めからそうなる事が分かっていたかのようにピタリと喋るのをやめる。


「私の障壁を容易く破った事は…………まぁ、百歩譲って許容しよう。握っていたアーティファクトの事もあるしな」


 だが、とエヴァンジェリンは語調を強くする。


「どうして”無傷”なんだ?」


 雑草が消し飛んで剥き出しになった足下の地面を、エヴァンジェリンが靴底で撫ぜる。右へ左へ足を動かし、荒れた土を均していく。その度にザラリと音が鳴り、原形を留めていない何かの粉が舞う。中心地である為か、周囲に比べて一段と被害が酷いようだった。


「神楽坂 明日菜と私の距離は、一メートルと開いていなかった。まず間違い無く、ぼーやの魔法は直撃したはずだ。あの素人具合なら大怪我で済めば幸運だろう。だが実際はどうだ? 無傷どころか走って逃げていったぞ」


 眉間に皺を寄せたエヴァンジェリンが、ガッと爪先で地面を抉る。更に同じ事を繰り返し、彼女は無造作に土を飛ばしていく。不機嫌なのだと、一々尋ねるまでもなく理解出来る光景だった。

 あまりにも隠す気の感じられないその主張に、洸は困ったという顔をして頭に手を当てる。


「えっと……エヴァ? 傷は痛む?」

「あぁ、どこかの誰かが治すなと言った所為でな。特に後頭部が痛い。倒れた時にぶつけたからかな?」


 皮肉げに口端を吊り上げるエヴァンジェリンに対して、洸は眉尻を下げて首を振った。直後に彼女は表情を真剣なものへと変え、隣の親友と正面から相対する。そうすればエヴァンジェリンの方も態度を改め、真面目な顔をして洸を見詰め返した。

 そうして刹那、両者の間に静寂が訪れる。互いに何も言わず、視線も体も動かさず、ただ、相手の目を見続ける。その膠着状態を先に破ったのは洸の方で、一度だけ瞬きをした彼女は、次の瞬間には自然な動作で頭を下げていた。


「ごめん。つまらないミスで迷惑掛けた」


 言って顔を上げ、洸は鋭い視線でエヴァンジェリンを貫いた。


「あと、明日菜は木乃香の親友で、私の従者だよ。それ以上でもなければ、それ以下でもない」


 迷いの無い口調、揺るぎの無い瞳。見詰められたエヴァンジェリンは、怯んだように身をよじった。表情はなんとも言えないものへと変わり、口元は決まりが悪そうにまごついている。そうして暫し口を噤んだ彼女は、やがて自らの髪を乱雑に掻き乱すと、疲れた様子で息を吐き出した。


「また面倒事か。わかった、流してやる」


 ついと視線を逸らし、エヴァンジェリンは頬を掻く。


「……それと、私も悪かった。熱くなって要らん手間を増やした」


 不器用な友人の謝罪に対して洸は頷き、柔らかく微笑んだ。

 それから彼女は右腕を掲げて傍の茂みへと向け、直後、ガサリと音を立てて何かが飛び出してきた。影を引き、瞬く間に洸の手の中に収まったソレは、ネギが大切にしている魔法の杖だ。それもネカネから貰った物ではなく、父親から貰った方の杖である。


「明日菜を殴った事への追及は後でするとして」

「おい、コラ」


 親友の抗議はまるっきり無視して、洸は握った杖を差し出した。


「今はやるべき事をやろうか。精一杯頑張りましたじゃ、済ませれないもの」


 半眼で洸を睨みながら、エヴァンジェリンは奪うような手付きで杖を受け取った。


「当然だ。やり始めたなら、やり切るさ」


 乱れた服装をおざなりに正し、吹き飛んだマントを再構成し、もう一度髪を整え直す。そうして身嗜みを終えたエヴァンジェリンは、隣の洸を鷹揚に見上げた。対する洸は表情を硬くして、口元を引き締める。


「状況は制御下を離れてる。完全な想定外ではないけど、少し追い詰め過ぎた」

「ふん。それで、上手くいく見込みは?」

「…………わからない」


 顰めた眉を隠そうともしない洸は、


「彼の強さ次第だよ。思い詰められたら、失敗する」


 苦々しそうに、それでいて噛み締めるように、そう吐き出すのだった。












 ――――第二十二話――――――――












 やけに静かな夜だった。木々の枝は揺れ、確かに葉擦れを生んでいる。繁茂した草はそよぎ、確かにざわめきを発している。森の音が消えた訳ではなく、間違い無くそこには多くの生命が息衝いていた。だがどうした事か、獣達の躍動が感じられない。夜更けとはいえ、普段であれば何某かの存在感を発している彼らが、今は身を縮めて息を潜めている。


 ――――――――まるで、何かに怯えているかのように。


 森に入って十分余り、その事実に確信を抱いた刀子は眉根を寄せる。変わらず辺りを探りながら目を細めた彼女は、そのまま並走する神多羅木(かたらぎ)へと視線を向けた。サングラスの奥で鋭く瞳を光らせた彼は、綺麗に髭が整えられた顔を、僅かに傾ける。同じく頷き返して、刀子は前方に広がる暗闇を見据えた。


「何か異常があった事は間違い無いでしょう。ただ動物が逃げていない点を踏まえれば、この辺りとは考え辛いですね」

「原因は、ガンドルフィーニ先生が感じたという魔力か」

「おそらく。ですが、あまり当てには出来ません」

「あぁ。陽動や撹乱の可能性が高い」


 多少の残り香はあれど、現状そのような魔力は感じられない。数分前に送られてきた、タカミチ達の報告でも同様だ。つまり、目標は自らの気配を隠蔽する術を持っていると考えられるのだが、何故か今は、その存在を学園側に知られている訳である。明らかに怪しく、こうして刀子達が動いている事もまた、相手の思惑だろうかと疑わずにはいられない。

 だが、一体どのような目論見があるというのか。わざわざ学園側に存在が露見するような真似をして、何か得られるものがあるというのだろうか。こちらに対するなんらかの働き掛けだとは思うのだが、それがなんなのか、刀子には判断がつかなかった。


「…………流石は『闇の福音』といったところでしょうか」

「かもしれんな。しかし、その予想は正しいのか?」


 あの真祖が復活したというのは。そう言った神多羅木の表情には、若干の険しさが含まれていた。

 当然だと、刀子は思う。本来なら絶対に有り得てはならない事態であり、場合によっては関東魔法協会全体の進退にまで影響を及ぼしかねない大問題だ。そうならない為に普段から注意を払ってきたはずで、刀子としても出来れば信じたくなかった。しかし彼女の手元に集められた情報は、そんな希望的観測に縋る事すら許してはくれない。


「まず、間違い無いでしょう。学園長がこのかお嬢様から聞いた話によれば、現在ネギ先生は彼女の家に招かれているはずです。しかし実際には誰もおらず、二人は依然として行方不明。また本人はおろか従者である絡繰 茶々丸にも連絡がつかず、更には予備システムが落とされるという、外部の犯行とは考えにくい事態も起こっています」


 ガンドルフィーニが感じた魔力の発生地点を含め、あらゆる情報が、エヴァンジェリンが犯人である事を示唆している。いっそ疑ってほしいと言わんばかりのラインナップだ。いや、もしかするとそれこそが相手の狙いなのかもしれない。

 入り組んだ木々の間を抜けながらも隣の神多羅木と一定の距離を保っていた刀子は、そこに思い至り僅かに足並みを乱した。


「どうかしたのか?」

「……いえ。或いは何者かが彼女に疑いの目を向けさせようとしているのかとも思ったのですが、少々考え辛い意見ですね」

「いくらなんでも都合が良過ぎるな。意識的にこの状況を作れる第三者は居ないだろう」

「えぇ、まったくです。馬鹿な事を言ってスミマセンでした」


 どうしてそんな事を考えてしまったのか、刀子自身も疑問だった。可能性の一つとしては頭の片隅にでも置いておくべき事だろうが、現状では妄想にも等しい意見に思考を割いている暇は無い。

 エヴァンジェリンが犯人なのだとすれば、その狙いは彼女に掛けられた呪いの解呪に他ならないはずだ。

 登校地獄。対象をなんらかの教育機関に所属させ、その立場に則した行動を強制させるという表面的には可愛らしい呪いだが、実態は中々にえげつないものがある。日々のスケジュールが学校に左右される事は勿論、その周辺地域から離れられなくなる効果もあるのだ。更にこれとは別途で魔力の封印も行う事により、行動の管理や逃亡の阻止を実現している訳である。

 元がただの生徒であれば比較的負担は軽かっただろうが、エヴァンジェリンは世界を渡り歩いてきた不死の吸血鬼だ。多大なストレスを感じていたであろう事は想像に難くない。まず間違い無く、彼女は解呪の為にネギを狙うはずだ。

 そして呪いが解ければ、最早エヴァンジェリンを止める事は出来ない。だが逆に考えれば、解呪される前なら勝機はある訳だ。呪いが解けていないのなら、電力の復活と共に魔力が再封印される。つまり、時間さえ稼げば勝てる事になる。

 だからこそ今は、一刻も早く二人を見付けなければならない。そう結論付けた刀子は、同時に隣から向けられる視線に気付いた。


「どうかしましたか、神多羅木先生?」

「あぁ、いや」


 神多羅木はサングラスの奥で目を泳がせ、歯切れ悪く声を漏らしてから話し始めた。


「…………葛葉は、西の出身だったと思ってな」

「そうですが、それが何か?」

「まぁ、なんだ。有名ではないが『闇の福音』は”彼女”の友人だろう?」


 ピクリと、刀子の眉が微かに動く。


「彼女も今は東の人間だが、元々は西の『近衛』だ。それに、アチラはコチラより遥かに血筋を重んじるからな」

「――――――洸お嬢様のご友人だから、私が手心を加えるとでも?」


 眼鏡の奥で視線をキツくし、刀子は横を走る神多羅木を睨む。


「ただの確認だ。何かあるなら、戦闘に入る前に意思を固めておいた方が良いだろう」

「ご心配には感謝します。ですが、私なら大丈夫です。先程の言葉を気にされたのでしたら、アレは単に焦りから出たものでしょう」

「ん、そうか」


 語調を強くして言い返すと、神多羅木はそれきり何も言ってこなくなった。そして刀子も、それ以上は喋らなかった。

 これでいい、と刀子は心中で漏らす。そもそも要らぬ心配なのだ。刀子が西から東に移ったのは何年も前であるし、洸が麻帆良に来たのは更に昔の事になる。互いに西の話をした事すらなく、また洸が京都に居た当時、刀子は彼女に会える立場ではなかった。顔を見たのもただ一度きりで、その日、洸は近右衛門に引き取られている。

 以降十年以上もの間、刀子の知る洸は、その時のものだけだった。


「………………」


 腰に佩いた刀を握る手に、刀子は我知らず力を込める。

 その――――――瞬間。

 月光を反射する金属の刃を、彼女は視界に捉えた。


「クッ!?」


 制動と同時に後方へと跳びすさった刀子の眼前を、鈍い輝きが通り過ぎる。刹那の判断で行った回避行動も、僅かな前髪の犠牲だけは避けようが無かったようだった。切られた前髪がハラリと舞い、風に流されていくそれらの向こうで、一体の人形が妖しく笑う。


(闇の福音……っ)


 アンバランスに大きい頭。一メートルにすら満たない体躯。小枝のように細い右腕には、身の丈に倍するほどの大剣が握られていた。夜闇の中で爛々と光る瞳に喜悦を躍らせたその人形は、間違い無く闇の福音の従者だ。


「キャハッ」


 振り切った右腕の遠心力をそのままに、人形は左腕をしならせる。左手には、右とは対称的な小型のナイフが収まっていた。そのまま腕を振り切った所で、絶対に刀子には届かない。その事実を、彼女は反射とすら呼べそうな早さで判断していた。

 そして判断したからこそ、刀子は前へと踏み込んだ。


「ホラ――――ヨ!」


 投擲。伸びきった左腕から、小さなナイフが解き放たれる。あまりに速く、あまりに鋭い。空を裂き、弾丸の如く迫る凶刃は、瞬きの内に刀子の額を貫くだろう。避けろと言うには、苛酷が過ぎる。

 だがそれは、攻撃を予測していなかった場合の話だ。

 投擲の直前には身をよじり始めた彼女は、ナイフと交差する瞬間には、紙一重の距離で横へとずれていた。数本の髪を犠牲に、刀子は自らの命を繋いだ。そして凶弾を躱した彼女の眼前には、無防備に半身を晒す人形だけが残される。

 まさしく好機。軸とする右脚で地を抉り、佩いた刀に『気』を流し、最小に留めた捻転から神速の一太刀を斬り放つ。間合いギリギリから放たれた一閃は正しく最速であり、今の相手では回避不能の必殺剣だ。

 白刃の描く弧が人形の胴へ伸びていき、その華奢な体を二つに断とうと閃いた。


「ッ!!」


 切り裂いた感触ではない。打ち合ったものでもない。何かを弾いたような軽い手応えが、刀子の手に返る。

 見れば相手の人形は吹き飛ばされたように刀子から離れていき、そのままクルリと宙返りして体勢を整えると、何事も無かったという態度で刀子と相対した。コウモリの羽をデフォルメしたような翼を羽ばたかせて空中に浮かぶ彼女の左手には、右手の物と同様の大剣が握られている。何時の間にか出現していたソレで斬撃を防ぎ、その勢いを利用して距離を取ったのだろう。


(アーティファクトの類でしょうか……)


 なんであれ、警戒するに越した事は無い。刀の柄に左手を添え、刀子は構えを取る。


「大丈夫ですか、神多羅木せん――――ッ!?」


 一先ず生まれた余裕から隣へと視線を向けた刀子は、直後に驚愕で目を見開いた。神多羅木が居ない。黒スーツを纏った同僚は、姿が見えないどころか気配すら感じられなくなっていた。先程まで居たはずの場所には、代わりに人形の持つ大剣が刺さっている。


「ケケケ。オッサンノ方ハイイ年シテ迷子カヨ。情ケネェナ」

「…………抜け抜けと」


 間違い無く、相手が何かしたのだ。しかしそれがなんなのか、今の時点では判断がつかない。可能なら辺りを入念に調べたい所だが、相手はそんな暇を与えてはくれないだろう。さりとて原因を知らなくては迂闊な行動が出来ず、戦闘に支障をきたす恐れがある。

 ジレンマだった。罠への注意と、相手への警戒。どちらも怠りたくないが、そうせずにはいられない。また、神多羅木がどうなったのかも気に掛かる。まさか死にはしていないだろうが、罠の種類によってはかなり不味い状況が予想される。


「ンナ心配スルナヨ。タダノ迷子ダッテノ。今頃ハ同ジトコヲグルグル回ッテンジャネーカ?」


 刀子の心中を見透かしたかのように、人形が喋る。


「探シニ行クカ? 入口ハ”アチラ”ダゼ」


 人形が無造作に左腕を振り、握っていた大剣を投擲する。刀子から見て右方向に飛んでいくソレは、神多羅木が居たはずの場所を通り過ぎ、その直後、なんの予兆も音も無く、まるで透明な壁に吸い込まれるかのように消えていった。

 おそらく空間干渉型の結界だ。それも侵入を拒むものではなく、脱出を阻む類のものだろう。入口にしても人形が示した辺りだけではなく、その近辺に巨大な壁として待ち構えている事が予想出来た。円形か方形か、或いはもっと他の形状かもしれないが、此処は結界の外周ギリギリの位置になるはずだ。

 誘導された、とは考え辛い。いや、本来であればそのつもりだったのかもしれないが、そうする前に刀子達が自らこの地域に足を踏み入れたのだろう。そして自分の意思で来たからこそ、罠への警戒が疎かになっていた。

 ついていない、と愚痴。何をしている、と叱咤。そうやって心を落ち着け、刀子は気を引き締める。


「どういうつもりですか?」

「深イ意味ハネーヨ。オ前マデ中ニ突ッ込ンダラ、コッチノ仕事ガ終ワッチマウダロ?」


 何処からか取り出した小型ナイフを空いた左手に握り、人形は構えを取った。

 左腕は前に突き出すように。そして右の大剣は、肩に担ぐように。


「久々ニ暴レラレルンダ、暫ク付キ合ッテクレヨ」

「………………」


 全ては信じない。こんな事を言いながら別の罠を用意しているのかもしれないし、もしかすると二人とも結界内部に入られては不味い理由があるのかもしれない。可能性は幾らでも存在し、だからこそ思い込みで選択肢を狭める事は愚行に近い。

 だが、それでも刀子は周辺への警戒度を下げ、代わりに目前の人形へと向けた。言うなれば勘のようなものだ。明確な根拠に基づいた行動ではなく、長年の戦闘経験から、体が自然に選んでいた。


「ハッ。イイ面構エジャネーカ。ビビッテ引キ籠モリヤシナイカト心配シタゼ」

「ご心配無く。貴女ごときの相手は、私だけでも十分過ぎるほどでしょう」


 寧ろ、と言葉を区切った刀子は視線を鋭くし、


「この手で貴女を斬り捨てる為にも、こちらの方が好都合です」


 攻撃的と感じられるほど口端を吊り上げる。


「ケケケ。熱イナ、オイ。葛葉 刀子ハ冷静沈着ダト、”アイツ”カラ聞イテタンダガナ」


 愉快そうに人形が話す内容に、刀子は不愉快そうに眉を跳ね上げる。

 しかし口を開く事はせず、黙って目を瞑った彼女は――――――――開眼と同時に駆け出した。








 ◆








 ゆらり、ゆらり。ふわり、ふわり。浮かんで、沈んで、また浮かぶ。波間にたゆたう船のように、風に遊ばれる羽のように、闇の中を意識が漂う。眠っているのだと、なんとはなしに気が付いた。ただ、起きようという気持ちは湧いてこない。まだまだ寝ていたい。この心地良い空間に身を委ねていたい。そんな怠惰な欲望が、ネギの思考を蝕む。

 体が重く、何より、気分が重い。嫌だ、と心の中で何かが叫んでいた。起きたくない、と駄々をこねるように感情が暴れていた。その理由は分からなかったが、特に逆らうつもりはない。まどろみに身を任せて休もうと、ネギは考える事を放棄した。


 なのに、


『――――っ!』



 誰かが呼ぶ声が聞こえた気がして、


『――――――ギッ!!』


 ネギの意識は急速に引き上げられていく。水底から水面へと浮かび上がるように、覚醒が近付いてくる。

 その間にも声は響き、何処か必死な様子でネギに呼び掛けてくる。聞き覚えはあって、けれど誰なのか判別は出来ない。起きたくないという願望はあったけれど、それ以上に、この声に応えなければという衝動の方が強かった。どうして、と疑問を抱くよりも先に覚醒の水面が目前まで近付いていて、ネギの思考もそちらに引っ張られる。


「ネギッ!!」


 頭の芯まで響いたその言葉と共に、ネギの意識は覚醒した。

 重い目蓋をゆっくりと持ち上げ、暗い視界に徐々に光を取り込んでいく。そうして霧が晴れるように明瞭とし始めた世界の中心には、一人の女性の顔が存在していた。未だボンヤリとした輪郭しか判別出来ない彼女は、どこか懐かしい感じのする、傍に居るだけでもホッとするような雰囲気を纏っているように感じられる。

 やがて二つの瞳が焦点を結び、女性の面立ちをハッキリと認識出来るようになると、ネギは自然と声を上げていた。


「…………おねえ、ちゃん?」


 言った直後に、ネギは自らの間違いに気付いた。女性の正体は、髪を解いた明日菜だ。この数ヶ月間で随分と仲良くなった同居人が、心配そうな表情で覗き込んできている。ネギの呟きは聞こえなかったのか、目が合った彼女は、唯々顔中に安堵の色を広げていた。


「もう、この馬鹿! なに自分の魔法で気絶してんのよ!!」


 泣き笑いのような表情で、明日菜が怒鳴る。胸が詰まるほどの心配が滲んだ、優しい顔だった。

 けれど今のネギには、そんな彼女の様子に心を温めている暇は無い。

 明日菜が口にした言葉だけでも、ネギは大まかに現状を把握出来ていた。いや、正確には思い出したと言った方が良いかもしれない。ただ肝心の部分についてはかなり朧気で、曖昧な記憶しか残っていない。

 魔法の射手を発射する直前に、いきなり明日菜が現れた事は覚えている。明日菜が手に持った何かでエヴァンジェリンを叩いた事も、逆にエヴァンジェリンに殴られた事も覚えているのだが、その後はよく分からなかった。明日菜の言ではネギ自身が魔法を使い、しかも自爆したようなのだが、なんとなくのイメージしか記憶に無いのだ。

 漠然とした、それでいて決して忘れ得ない恐怖。その感情だけが、ネギの心に巣食っていた。


「………………」

「ネギ? どうかした?」


 微かに身を震わせたネギを見て、明日菜が心配そうに声を掛ける。


「いえ、なんでもありません。それより、マクダウェルさんは?」

「え? あぁ、それなら――――」

「あんまモタモタしてるとヤバイっスけど、多少は余裕があると思いますよ」


 明日菜の肩からヒョコリと顔を出したアルベールが、安心させるようにそう言った。


「兄貴の魔法でぶっ倒れてる内に逃げてきましたからね。真祖だからすぐ復活するでしょうけど、今んトコ気配は感じないっスね」


 そうなのか、とネギは強張った全身から力を抜いた。胸の奥がチクリと痛んだ気がしたが、気の所為だろうとネギは流す。


「って、アスナさんやカモ君は大丈夫だったの?」


 どんな魔法を使ったのかはよく覚えていないが、自分だけではなくエヴァンジェリンにも効果があったというのなら、近くに居たはずの二人に被害が及んでいても可笑しくない。パッと見では平気そうだが、もしかして何処かに怪我をしているのだろうか。


「私は平気よ。なんか知らないけど無傷だったし」

「俺っちも大丈夫っスよ。運良く兄貴の”影”に居ましたからね」

「そうなの?」


 二人から返ってきたのは、迷いの無い首肯だ。それなら良いか、とネギは取り敢えず納得した。なんとなく腑に落ちない気もするが、今はそんな事で悩んでいる暇は無い。二人が大丈夫なのだから、一先ずはそれでいい。

 安堵から息を吐き、次いでネギは体を起こした。節々が痛むが、無視出来ないほどではない。少し驚いた様子の明日菜の顔が近付き、通り過ぎ、そうして完全に上体を起こしたネギは、そこでふと首を傾げた。何か可笑しくなかっただろうかと。

 地面に座ったままネギが振り向くと、すぐそこに明日菜の顔があった。そして心配そうな表情を浮かべた彼女から目線を下に移すと、明日菜が正座している事が分かる。丁度ネギが頭を置いていた辺りに、彼女は座っていた。


「あれ? コレって……」

「姐さんの膝枕ですよ。いやぁ、兄貴も隅に置けないっスねぇ」

「こぉら。なに馬鹿なコト言ってんのよ」


 肩に乗ったアルベールの頭を軽くはたき、明日菜は呆れたように息を吐く。


「えっと、その…………ありがとうございます」

「別に気にしなくていいわよ。私もちょっと休めたしね」

「まぁ元々は姐さんの休憩が目的でしたからね」

「あ、コラ!」


 アルベールの言葉に、ネギは大きな瞳を瞬いた。驚いて明日菜の方を見たら、彼女は居心地悪そうに顔を背けてしまう。けれど、その横顔だけでも十分だった。ちゃんと観察すれば分かる。普段から元気を売りにしている彼女の表情には、明確な疲れが浮かんでいる。


「アスナさん……」

「いいから早く逃げるわよ。詳しい状況はカモから聞いたけど、かなりヤバイみたいじゃない。ほら、アンタの杖。本当はおっきいのも持ってくるつもりだったんだけど、探してる暇が無くてさ」


 ネカネからの贈り物である銀の杖をネギが受け取ると、明日菜はさっさと立ち上がった。

 その姿をすぐ傍で眺めながら、ネギはふと思う。お姉ちゃんみたいだ、と。元より明日菜とネカネは似ているし、ネギ自身も以前から繰り返し感じていた事ではあるが、今回のソレはまた別だ。性格が違うし、物腰からしてネカネとはまるで異なるのだが、今の明日菜はもっと根本的な部分で彼女と似通っているように思えた。

 凄く頼りになって、隣に居てくれると安心出来て、なのにちょっぴり不安を覚えるような、そんな感じだ。


「…………そうですね」


 杖を握り締めて立ち上がったネギは、


「アスナさんとカモ君は、一刻も早く逃げてください」


 真剣な表情をしてハッキリと言い切った。


「――――え?」

「兄貴?」


 時が凍ったかのように、明日菜とアルベールが固まる。何を言っているんだといった風に、否、もしかすると何を言っているのか理解出来ていないのかもしれない。唖然とした表情でネギを注視する二人は、呆けたように口を開けていた。

 だが、ネギはそんな彼女達に構わない。淡々と、自らの話を続けていく。


「ただ闇雲に逃げ回ったところで、いずれはマクダウェルさんに見付かります。けれど現在地が分からない以上、そうやって逃げるしかないというのも事実です。せめて街に近ければよかったんですけど、その可能性は低いでしょうからね」


 明日菜を見て、アルベールを見て、再び明日菜を見る。真っ直ぐな視線で、ネギは二人を射抜く。


「だから、ここからは別行動で行きましょう。相手の狙いは僕だけです。僕が存在を示せば二人は安全で――――ッ!?」


 胸倉を掴んだ明日菜にグイと引き寄せられて、ネギは話の途中で言葉を区切らされた。


「それ以上言ったら、ぶん殴ってでも連れてくから」


 目の前に、息が掛かるような距離に、明日菜の顔があった。多分、怒っているのだと思う。普通に考えたら、それ以外は有り得ない。けど間近に存在する彼女の顔には、そんな言葉だけでは表現しきれない何かがあって、ネギは思うように喋れなくなった。


「え、あ……で、でも」

「いいからッ!!」


 怒声、というよりも悲鳴に近かったかもしれない。

 今の明日菜は何時に無く真剣で、何時に無く必死で、


「いいから…………一緒に逃げるわよ」


 何時に無く、泣きそうな表情をしていた。

 見ているだけでも息が詰まりそうで、胸倉を掴む手が震えているのは怒りの所為なのか違うのか、今のネギには判断がつかない。ただ重苦しいほどに心配されている事だけは感じられて、それだけでも胸が苦しくなってくる。


「…………アスナさん」


 ネギが小さく声を漏らすと、明日菜はハッとした様子で目を見開いた。


「わっ! ご、ごめん!! なんかカッとなっちゃってさ」


 慌てて手を離し、明日菜はネギを解放する。その顔には先程までの悲壮感は無く、いつも通りの明るさが宿っていた。

 両手を合わせて謝ってくる彼女の様子に、ネギはホッと胸を撫で下ろす。


「とにかく! 馬鹿なコト言ってないで、さっさと移動しましょ」


 身を翻して歩き出した明日菜の背中を眺めながら、ネギは杖をキツく握り締めた。

 明日菜は、優しい人だ。元気一杯で、面倒見が良く、ちょっと大雑把で粗野な所はあるけれど謝る事を知っていて、日本という異国の地で暮らす事になったネギにとっては『もう一人のお姉ちゃん』と言えるくらい世話になった相手だ。しかも魔法使いの事情にも理解を示してくれ、それもあって色々と頼りにしてきた、いや、ネギは今も頼りにしている。そう、思っている。

 でも、だからこそ、とネギは強く念じた。


「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」


 他の誰にも聞こえないよう、ネギは口の中で始動キーを呟く。


「大気よ水よ、白霧となれ」


 持ち上げた杖の先を、明日菜の背に向ける。


「この者に、一時の安息を」


 ――――――眠りの霧。


 最後に魔法名を唱えると同時に何処からか霧が現れ、明日菜の全身を包み込む。

 今ここにヒーローが現れて、この状況から助けてくれるとは思えない。たとえ”事実として”そんな体験をした事があっても、今また都合良くやってきてくれると夢想出来るほど、ネギは子供ではなかった。

 だが、道を切り開くのはヒーローだけではない。時には誰かの犠牲が光明を生む事もある。少なくともネギがこうして生きていられるのは、とある人の犠牲があったからだ。その人が居なければ、どんな英雄でもネギを助ける事は出来なかった。

 だから、こうする。明日菜が離れてくれないのならば、ネギの方から離れれば良い。眠りの霧は対象を強制的に眠らせる魔法であり、魔法の心得が殆ど無い明日菜であれば、瞬く間に意識を手放すだろう。あとは気を失った彼女をアルベールに任せ、ネギ自身は此処から立ち去れば良い――――――――はずだった。


「…………ネギ?」


 霧の向こうから聞こえてきた声に、ネギは身を震わせる。同時に、そんな訳が無い、と驚き目を見開いた。

 だが、しかし。確かに、間違い無く。


「アンタ、今、ナニしようとした?」


 問い掛けてきたのは、明日菜の声だった。低く、低く、感情も抑揚も取り去ったような声がネギの耳を揺らして、直後、霧が晴れると同時に明日菜がその姿を現す。そして彼女の顔を見て、ネギは考えるまでも無く悟った。

 怒っている。今度こそ絶対に、確実に、明日菜は怒っている。急角度を成した眉が、真っ赤な怒りを秘めた瞳が、ネギを委縮させる。喉が上手く動かせない。体が言う事を聞いてくれない。痺れたように、ネギは何も出来なくなっていた。

 一歩、一歩、明日菜が近付いてくる。何か言わなければいけない。そう思うのに、口を開けない。ゆっくりと距離を縮めてくる彼女を前にして、ネギは石像の如く固まっていた。

 そうして手を伸ばせば届くような距離にまで明日菜がやってきて、


 ――――――ッ。


 ガサリと揺れた茂みの音に反応し、二人は弾かれたようにそちらへと顔を向けた。

 音の発信源はすぐ近くで、彼らからは十メートルと離れていない位置だ。そしてその場所には、一人の人物が立っている。


 『闇の福音』の従者――――――――絡繰 茶々丸が、そこに居た。












 ――――後書き――――――――


 第二十二話の投稿です。お読みくださり、ありがとうございます。

 本当はこの話で大停電は終わらせるつもりだったのですが、予想以上に長くなってしまったので分割しました。よって今回は二話同時更新となります。第二十三話と合わせてお楽しみください。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十三話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2009/12/05 21:05


 最初に動いたのは明日菜だった。ネギが口を開くよりも早く、茶々丸が何かを言うよりも早く、明日菜は駆け出していた。その手にはアーティファクトである『ハマノツルギ』を握り、双瞳にはガイノイドの少女を捉えている。姿勢は低く、土は抉り、雑草は蹴散らす。一直線に茶々丸へと向かっていく明日菜は、目を瞠るほどに鋭く速い走りを見せている。

 唖然としたネギが彼女の行動に気付いた時には、明日菜は既に茶々丸のすぐ傍まで辿り着いていた。腕を大きく振りかぶった彼女は、そのまま勢い良く横薙ぎに振り払う。狙う先は、茶々丸の頭部を真正面からだ。


「くっ!」


 明日菜の攻撃が空を切る。茶々丸の後ろにあった木を打ち、乾いた音が辺りに響く。

 僅か一歩。それだけの動きで攻撃を回避した茶々丸は、しかし反撃はしてこなかった。普段通りの無表情で、彼女は両腕を振り切った明日菜を眺めている。そうしてガラス玉の如く無機質な瞳で明日菜を捉えたまま、移動により浮き上がった髪が元に戻る頃に、茶々丸は落ち着いた様子で口を開いた。


「神楽坂さ――――」


 言い終わるよりも早く、明日菜の第二撃が茶々丸を襲う。素早く腕を切り返した彼女は、ハマノツルギを茶々丸の胴へと叩き込んだ。


 ――――ッ!


 また失敗。打撃が十分な威力を得る前に、ハマノツルギは音を立てて弾かれた。同時に響く舌打ちは、明日菜のものだ。視線を鋭く、動きも鋭く。普段の彼女とは一線を画す刺々しい雰囲気を纏って、明日菜は即座に体勢を立て直す。

 弾かれたハマノツルギを上段に構え、


「…………素人とは思えませんね」


 なんの迷いも無く袈裟掛けに振り下ろす。しかし畳み掛けるように繰り出したその攻撃も、茶々丸はサイドステップで軽々と躱した。これもまた大仰な動作はせず、付かず離れず、明日菜からは一定の距離を保っている。小さな、けれど大きな一歩がそこにある。傍から眺めているだけのネギにも、両者の間に存在する明確な力量差が見て取れた。

 茶々丸はそのまま明日菜へと腕を伸ばし、


「ただ――――――達人には程遠い」

「え?」


 一体何をしたのか、ネギには理解出来なかった。気付いた時には明日菜の全身がクルリと回転して宙に浮いており、そこに到るまでの過程がまるで分からない。腕が動いた。足が動いた。今の茶々丸の体勢から、かろうじてそれらを推測出来るくらいだ。

 明日菜もまた現状に理解が追い付いていないようで、呆けたように口を開いた彼女は、そのまま音を立てて地面に倒れた。


「兄貴ッ!!」


 明日菜が倒れたのと同時に、アルベールの叫びが響き渡る。彼の声に衝き動かされ、今まで呆然と立ち竦んでいたネギは杖を構えた。


「ラス・テル・マ・スキル・マギステル!」


 始動キーが、反射的に口を衝く。傍観している場合ではないと、ようやくネギの思考が状況に追い付いた。一方で茶々丸の方でも彼の詠唱に気付いたのか、体を反転して一気に距離を詰めてくる。姿勢を低くして駆けてくるその様は、さながら砲弾か何かのようだ。


「光の精霊11柱!!」


 全力には程遠いが、十分な威力を出せるだけの精霊を掻き集める。そして威力を削る代わりに、少しだけ詠唱完了が早くなる。


「集い」


 だが、それでも、茶々丸の接近の方が早い。その事実を悟っても、ネギは呪文を唱えるのをやめなかった。此処でやめた所でなんにもならない。だから少しでも早く、一瞬でも早く詠唱を終わらせる。必死に口を動かして、短い呪文の先を急ぐ。


「来たりて」


 残る呪文はあと僅か。しかし茶々丸は、既に目の前に居る。間に合わない事は誰の目にも明らかだ。ネギ自身、ここまでくると諦めの方が強かった。それでも詠唱を続け、魔力を集め、術式を構築する。


 ――――――そして。


『あっ』


 二つの声が、綺麗に重なった。ネギと茶々丸、ではない。ネギと明日菜の声だ。

 唐突に制動を掛け、そのまま真横へと跳躍した茶々丸の後ろから、これもまた唐突に明日菜が現れた。彼女はその手にハマノツルギを構えており、一方のネギは魔法の準備がもうすぐ完了する所だ。

 不味い、と思ったのはどちらが先だったのだろうか。突然の出来事に対処出来ず、二人は全身を硬直させた。

 そして彼らの間には黒い筒が存在していて、


「ッ!?」


 直後、閃光と轟音が辺りを支配した。












 ――――第二十三話――――――――












 視覚が可笑しい。聴覚が可笑しい。そんな気付けて当たり前とも思える事を察するだけでも、ネギは数秒の時間を要した。視界は白くぼやけて見えて、まるで霧の中を彷徨っているようで。耳が拾う音は何も無くて、まるで海の底に沈んでいるようで。自分が何処で何をしているのかも覚束無くなりそうな、不気味な感覚だった。

 一歩を踏み出すだけでも躊躇いがある。足下から崩れ落ちてしまいそうな不安がある。徐々に元に戻り始めているから、暫くこのままでいようか。ついそんな誘惑に負けそうになるくらい、今のネギは参っていた。

 ただ、そうも言っていられない。少しだけ開けた視界に茶々丸の姿を見付けた瞬間、ネギは反射的に歩き出していた。


「……っ」


 最初の一歩で躓き、ネギは思わず声を漏らす。しかし自らの唇から零れたその音でさえ、今の彼では上手く聞き取れなかった。白霧に覆われた視界がグルリと流れ、なんの対処も出来ないまま、地面が近付いてくる。

 駄目だ、とネギは両目を瞑り、


「――――すか?――――――せい」


 同時に軽い衝撃が走る。別に地面に倒れた訳ではなく、誰かに受け止められたのだ。その誰かの正体を、ネギは微かに聞こえた声から看破した。そして看破したからこそ、ドッと汗を吹き出して全身を硬直させた。

 茶々丸だ。体を支えてくれているのは、ガイノイドの少女に他ならない。

 どうすればいい。何をすればいい。鈍かった思考が急激に回り出し、現状に対する解決策を模索する。闇雲に暴れても無駄だと、先程の明日菜との攻防から分かる。だから密かに魔法を唱えようとしたネギは、そこで杖を落とした事に気付いて歯噛みした。


「落ち着いてください。危害を加えるつもりはありません」


 茶々丸の声を、今度は綺麗に聞き取れた。その内容も正確に理解出来た。


(何をっ)


 だからこそネギはカッとなって、茶々丸を睨み付けようと動き出す。

 身をよじり、一体なんのつもりだと怒鳴ろうとして、


「……あっ」


 真正面から茶々丸の顔を見たネギは、それだけで何も言えなくなった。

 茶々丸の表情は普段通りだ。いつもと変わらない無表情で、いつもと同じで奥底に優しさを秘めている。街の人達から頼りにされて、子供達に人気がある、ネギにとってはある種の憧れを抱いている少女の顔だった。

 だが、彼女はエヴァンジェリンの従者だ。そう自分に言い聞かせようとしたネギは、同時に一つの事実を思い出していた。

 タカミチが言うには、茶々丸が街の人達に対して親切を働いているのはずっと前からの事らしい。つまり、ネギを騙す為に一週間だけ演技をしていたエヴァンジェリンとは異なり、茶々丸の優しさは彼女本来の性格なのではないだろうか。


(でも、そんな……)


 否定をしようとして、茶々丸に笑い掛ける子供の顔が浮かんで、結局ネギは、黙って目を伏せた。


「ネギ先生が置かれている状況は理解しています。その原因の一端を私が担っている事も否定しません」


 その茶々丸の言葉には反発を抱いたが、それ以上に、彼女に『先生』と呼ばれる事で冷や水を浴びせられたような感覚を覚えた。もう彼女に対して、怒りを感じる事は出来ない。そんな自分に気付いて、ネギは全身から力を抜いた。

 何をすれば良いのか、何を考えれば良いのか、よく分からない。色々あり過ぎて、色々感じ過ぎて、ネギの頭の中はゴチャゴチャだ。悩んでも答えは出ず、彼は救いを求めるかのように茶々丸を見上げた。


「えっ」


 驚きから、自然とネギは声を漏らす。仰ぎ見た茶々丸の背後には、明日菜が居た。ハマノツルギを構え、瞳に怒りを宿した明日菜が。

 これなら茶々丸を倒せる。ふと首をもたげたのは、そんな考えだった。先程までの明日菜の動きを鑑みれば決して非現実的な願望ではなく、寧ろ現実味を帯びた話のように思える。真祖の吸血鬼とは違い、茶々丸の耐久力には限りがあるのだから。

 そう、決して馬鹿げた妄想ではないのだ。


「待ってください!! アスナさん!」


 だからこそネギは、叫ぶように明日菜を制止するのだった。

 途端に彼女の動きが止まり、色合いの異なる二つの瞳がネギを捉える。対するネギは、茶々丸の腕の中から真っ直ぐに明日菜を見詰め返すと、そのまま噛んで含めるようにゆっくりと話し掛け始めた。


「絡繰さんは、大丈夫です。だから、もう、争うのはやめてください」


 ネギの言葉がどこまで届いたのか、それは誰にも分からない。今日の明日菜はいつもより冷静さを欠いていて、どこか可笑しな部分があったから、もしかすると半分も届いていなかったかもしれない。

 ただ、それでも、確かに効果はあった。明日菜の瞳に潜んでいた静かな激情は消え去り、振り上げていた腕からは力が抜けていく。


「え、あ……うん」


 幾分か気の抜けた様子で呟いた明日菜は、そのまま完全に腕を下ろすと、恐る恐るといった様子で茶々丸と正面から向き合った。まだ戸惑いはあるようだったが、それでも彼女から争う意思は感じられない。まるで借りてきた猫のように大人しくなっていた。


「えっと、その、ごめんなさい。いきなり殴り掛かって」

「いえ。あの場の判断としては妥当なものでした。ですから、どうかお気になさらず」


 特に気分を害した風もなく、至って冷静に返事をした茶々丸は、次いでネギを支え、自力で立つように誘導した。それを受けて現状を思い出したネギが慌てて茶々丸から離れると、今度は別の手が彼の体を確保する。

 明日菜だ。強引にネギを引き寄せた彼女は、そのまま自らの腕の中に彼を収めてしまった。ネギの胸元で両手を組み合わせ、ガッチリと固定するようにして、明日菜は彼を抱き締めている。絶対に離さない、とでも言うかのように。


「ア、アスナさん?」

「っと、ごめん。なんかつい」


 おかしいな、と首を傾げながら、明日菜は組んだ腕を解いてネギを解放した。

 ようやく完全に自由の身となったネギはホッと安堵の息を吐き、次いで茶々丸と正対する。その顔に怯えの色は見られず、寧ろ僅かな安堵すら滲ませている。数度、深呼吸をしてから背筋を正したネギは、少々ぎこちない笑みを見せて茶々丸に話し掛けた。


「少し、お話しましょう」

「……はい」


 小さく、けれど確かに首肯した茶々丸を見て、ネギは勇気を振り絞るように拳を握り締めた。




 □




 茶々丸との話し合いは、ネギが疑問を投げ掛ける事から始まった。

 すなわち、どうしてネギ達に対して危害を加えようとしないのか、という事だ。

 茶々丸はエヴァンジェリンの従者なのだから、彼らを捕まえようとするくらいの事はあって然るべきだというのに、彼女は今も不穏な動きを見せる事は無く、落ち着いた様子でネギ達と言葉を交わしている。幾ら温和な茶々丸であっても、これは可笑しい。故になんらかの理由があるのだろうと考えたネギは、素直にその事を尋ね掛けた訳である。


「命令だから、ですか?」

「はい。元々お二人との遭遇が偶然によるものですから。私の任務は、神楽坂さんのような第三者の介入を阻む事なので」

「ッ!?」


 茶々丸の言葉を聞いたネギ達は、思わず身構える。ネギは杖をかざし、その肩ではアルベールが威嚇するように尻尾を立て、明日菜はハマノツルギを構えて一歩前に出た。しかしそんな彼らに頓着せず、茶々丸は素知らぬ様子で言葉を継いだ。


「もっとも、神楽坂さんに関しては手出し無用と通達されているのですが」


 途端に、拍子抜けといった感じでネギ達の体から力が抜ける。


「へ? なんで?」

「自分の手で殴ってやりたい、だそうです。あぁ、安心してください。それ以上の危害を加えるつもりは無いそうですから」


 調子を変える事無く話す茶々丸の言葉を聞いて、明日菜が唸る。自らの顎に手を当てた彼女は、あからさまにしかめっ面を浮かべた。


「もう思いっ切り殴ったじゃない……」


 明日菜の呟きに苦笑しつつも、ネギは密かに安堵する。これで、彼女の命を心配する必要が無くなった。確かに口約束レベルの保証に過ぎないが、自らの従者に嘘を教えるとは考え辛く、また茶々丸が迷い無く断言している以上、エヴァンジェリンの人間性はこの言葉を信用してもいいようなものなのだろう。希望的観測かもしれないが、ネギはそう判断した。

 と、ここでネギは思い出したように茶々丸に問い掛ける。


「えっと、それなら僕はどうなんですか? 普通に考えたら捕まえなくちゃいけないと思うんですけど」

「ネギ先生も同じくです。先程も言ったように、私の任務は第三者の介入に対する警戒なので、当事者であるネギ先生には手出し無用と命令されています。自分の手でネギ先生を苛めて、十五年分のストレスを晴らしたいとの事です」

「な、なによソレ! 性格悪いなんてもんじゃないわよ」


 憤って叫ぶ明日菜に、ネギも内心で同意する。まるで狩りを楽しむかのように追われていた時から感じていたが、エヴァンジェリンにとってこの状況は、ある種の遊びに過ぎないのかもしれない。初めから勝ちが決まっていて、自分に危害が及ぶ事が無いと確信しているからこそ、彼女は無駄とも思える行動を取っていたのだろうか。


「………………」


 天空の月を仰ぎ、ネギは息を吐いた。

 あの月から逃れる事が出来ないように、自分はエヴァンジェリンの手の中で踊るしかないのかもしれない。そう考えると、つい体から力が抜けてしまった。一応とはいえ明日菜の安全が保障された事も、その一因だろう。

 倒れた時の事が、思い出される。ほんの少し前の事だが、もう随分と時間が経っているように感じられた。あの時もそうだ。痛くて、辛くて、けどそれ以上に裏切られた苦しさがあって、何もかもを投げ出したい気持ちに駆られた。月を背にしたエヴァンジェリンを見た時は、一瞬とはいえ諦めかけたほどだ。


「……ん?」


 ふと、何かが引っ掛かる。何かが可笑しい、とネギは眉根を寄せた。


「どうかしたんスか?」

「いや、ちょっとね」


 アルベールの問い掛けに対し、ネギは言葉を濁す。というよりも、なんと答えたらいいのか分からなかった。胸の裡に生まれた疑問は靄の中にあるかのように漠然としていて、とてもではないが言葉に表せない。

 雲を掴むような話ではないはずだ。エヴァンジェリンの行動に関するものだとは理解している。しかし、その正体がまるで掴めない。どうしたものか、と肩に乗るアルベールと視線を合わせたネギは、そこでふと脳裡によぎる事があった。


「そういえばさ、カモ君」

「なんでしょう」

「さっきマクダウェルさんに女子供がどうとかって言ってたけど、アレは?」

「あ~、その事っスか」


 視線を泳がせ、暫し考え込むように頬を掻いた後、アルベールは躊躇いがちに口を開いた。


「俺っちの知る限りじゃ、『闇の福音』が女子供を殺したって記録は無いんですよ。賞金額の割に妙な奴だってんで、よく覚えてます。まぁ活動が全て記録されている訳じゃありませんけど、あの感じなら本当なんでしょう。鬼の目にも涙って感じっスかね」

「そう、なんだ…………ありがとう」


 礼を言いつつも、ネギの思考は既に自らの疑問と向き合っていた。

 女子供は殺さない。その点については、単純に嬉しく思う。こんな事になったとはいえ、エヴァンジェリンが残虐非道なだけではないという事実は、幾分かネギの心を楽にしてくれた。

 ただこの場において最も重要なのは、そこではない。カチリと何かが噛み合った感覚と共に、ネギは言い様の無い確信を抱いていた。同時に、焦りから朧気になっていた今夜の記憶が鮮やかに蘇り、またエヴァンジェリンと過ごしたこの一週間の出来事が、走馬灯の如く思い出されていく。それはまるで、新しい世界が開けたかのような感覚だった。

 一つ一つ、パズルのピースを嵌めていくかのように情報が繋がっていく。それが一体どんな絵を描くのか今のネギには予想も出来ない事だが、不思議と悪い予感はしなかった。いや、それどころか明るい未来が待っているようにすら感じられた。

 だから、だろうか。


「……うん。マクダウェルさんに会いに行こう」


 気付けばネギは、自然とその言葉を口にしていた。

 自分でも、興奮しているのがよく分かる。周囲の唖然とした雰囲気には気付いたが、そんなものではまるで沈静出来ないほどの熱が、ネギの心には渦巻いている。最早彼自身ですら、生まれてくる衝動を止められそうに無かった。


「あ、兄貴? マジッスか?」

「僕は本気だよ、カモ君」


 迷い無く、淀み無く、ネギは言い切った。


「ですからアスナさんは―――――」

「一緒に行くわよ」


 当然のように答えた明日菜に、ネギは僅かに怯む。

 そんな彼の頭に手を置き、彼女はニッと唇を歪めて笑ってみせる。


「大丈夫なんでしょ? そんな顔してるわよ。馬鹿みたいに、自分を信じてるヤツの顔」


 楽しそうに、本当に不思議なくらい楽しそうに、明日菜が喋る。その言葉の意味が全て分かった訳ではないけれど、彼女が伝えようとした事は、ちゃんと理解出来る。心に直接、響いてくる。

 故にネギは瞳を輝かせ、力強く頷いた。


「はい! まかせてくださいっ!!」


 心配なんて要らないと、応えてみせた。








 ◆








 まるで森そのものが喪に服しているかのような沈んだ静寂が、エヴァンジェリンの耳を責め立てる。サクリ、サクリ。歩を進める毎に踏み締められた木の葉達が悲鳴を上げ、しかしそれ以外では、何者も声を上げない。一番の賑やかしであるはずの夜風ですら、気付けばその姿を闇の奥へ隠していた。

 我が物顔で闊歩する吸血鬼を恐れているのか、はたまた、これから起こるであろう何かに期待して息を潜めているのか。

 そんな事を考えて、エヴァンジェリンは自らの想像力に苦笑した。案外彼女自身にも、これから先の事を楽しみにしている所があるのかもしれない。自らの耳に軽く触れて薄く笑みながら、彼女は思いを馳せるように目蓋を閉じる。

 黒薔薇のイヤリング。現在着けているそれには、既に通信能力は無い。最早今夜中に会う事は無いだろうと、調べられたら不味い物は回収されていた。だから今のエヴァンジェリンには、洸の意思を正確に知る事は出来ない。

 大まかな方針を知ってはいるが、ここから先、最後の意思決定はエヴァンジェリンに任されている。また彼女の判断如何によっては、方針を無視した行動を取っても良いと、洸は言っていた。いや寧ろ、彼女はそうなる事を望んでいた節すらある。

 すなわち洸の手によって作られた『闇の福音』ではなく、エヴァンジェリン本来の意思の発露を。


「まったく、何を考えているんだろうな」


 やや浮かれた調子で呟き、エヴァンジェリンは足を止める。そうして彼女は青い瞳を細めて、前方を睨み付けた。


「隠れる必要は無い。あまりに無意味だ」


 鋭利な声が、瞬く間に響き渡る。エヴァンジェリンが見据えた先には、一見すればなんの変哲も無い夜の森が広がっていた。しかし、彼女の双瞳には確かに何かが映っている。乱立する木々の中に、それらとは異なる存在を捉えている。

 二の句は告げない。ただ静かに、威圧するように、エヴァンジェリンは佇立する。

 それから幾許と経たず、満ちた静寂を乱す者が現れた。木の陰から姿を見せたネギを認めて、エヴァンジェリンは微かに眉を動かす。そして一緒に出てきた明日菜を見るに至り、彼女は小さく息を漏らした。


「まさか神楽坂 明日菜が一緒だとはな」


 予想外だ、とエヴァンジェリンが肩を竦める。しかしそんな彼女の反応には構わず、ネギは意を決した表情で口を開いた。


「マクダウェルさん。貴女とお話に来ました」

「…………命乞いのか?」


 訝しげなエヴァンジェリンの問い掛けを、ネギはハッキリと首を振って否定する。


「話し合いは対等な立場で行うものだと、僕は思っています」

「ハッ。笑えん冗談だな。それでは私とお前が対等だと聞こえるぞ」

「そう言ったつもりです」


 迷い無く言い切ったネギに、エヴァンジェリンは視線を鋭くして黙り込む。

 不可解なほど、今の彼には自信が満ちている。確かに、何かあるとは思っていた。エヴァンジェリンが握っている杖は彼の物であり、それ故にネギがその気になれば、彼女の位置を特定出来るはずだ。実際、何度か杖を呼び戻そうとする反応があった。

 だというのにネギはその情報を逃走に利用せず、こうして待ち伏せの為に使っている。なんの考えも無いのなら、ただの馬鹿だ。


「先程、絡繰さんに会いました」

「そうか。で? お菓子でも貰えたのか?」

「…………絡繰さんから聞いていないんですか?」


 茶化しには反応せず、ネギは疑問を投げ返してきた。その事に若干のつまらなさを感じつつも、エヴァンジェリンは素直に答える。


「あぁ。茶々丸達には報告しなくていいと言っているからな」

「遊ぶ為に、ですか?」


 真剣な表情で見詰めてくるネギに対し、あくまでも本気ではないといった様子で、エヴァンジェリンは肩を竦める。

 皮肉げに口端を吊り上げた彼女は、


「そうだ。なんせ十五年振りに戻ってきた力だからな、すぐに終わらせたら詰まらな――――――」

「嘘ですよね、ソレ。少なくとも、貴女の本心じゃない」


 当然のようにネギが口にした言葉で表情を凍らせた。




 □




 今日、初めてエヴァンジェリンの顔を見たかもしれない。そう思うほどに今のエヴァンジェリンは、彼女本来の感情を表に出しているように感じられた。目を見開いた彼女には、先程までの作り物めいた冷たさは見付からない。間違い無く素の表情だ。

 だがそれも、すぐに余裕のある片笑みに取って代わられる。マントの合わせをキュッと握り、首元を整えて一拍置いた彼女は、ネギの目を真正面から見返した上で小馬鹿にしたような口調で話し始めた。


「子供ながらに賢しい奴だと思っていたんだが、まさかそんな戯言に生徒を付き合わせるとはな。ここまで馬鹿だったとは予想外だよ」

「アンタ――――ッ」


 前へ出掛けた明日菜を、腕を差し出したネギが制す。事前の約束通り、それだけで彼女は止まってくれた。

 このくらいの事は予想済みだ。初めからエヴァンジェリンが肯定してくれるなどとは、微塵も考えていない。交渉か、或いは説得か。どちらにせよネギが思い描いている通りなら、ここから先が正念場だ。

 喉を鳴らし、拳を握り、ネギは覚悟を決めた。


「僕を追い詰めた時、貴女は言いました。”別に楽しいわけじゃない”って、たしかに言いました」


 微かな揺らぎ。エヴァンジェリンに走った刹那の緊張を、ネギは見逃さない。


「それに一度も楽しそうな顔をしてませんでしたよ。笑っても斜に構えたものばかりで、取り繕ったようなものばかりで、とても遊んでいる人の表情には思えませんでした。むしろつまらなそうだったと言い換えても、なんら差し支えはないくらいです」

「…………何が言いたい?」


 表情を硬くしたエヴァンジェリンの問い掛けには、まだ答えない。


「どうして、その傷を治さないんですか? 真祖の吸血鬼なら簡単でしょう?」


 この場所でエヴァンジェリンを見た時から気になっていた。顔に、腕に、足。彼女の露出している肌には、見ている方が顔を顰めたくなるほど大量の擦り傷が刻まれている。本人は平然としているが、傷付けた側のネギが目を逸らしたくなるような惨状だ。

 遊び感覚であるのなら、こんな事をする必要は無い。わざわざ痛みを残しておく理由があるとは、考え辛い。


「まるで、僕に負い目を感じているみたいですよ」

「ある意味では…………いや、なんでもない。ガキの自惚れに付き合う必要も無いしな」


 目を細めたエヴァンジェリンが、そう言って首を振る。その真意は測れなかったが、若干、硬さが取れたように感じた。


「たしかに、僕の希望が多分に含まれています。けど、不自然な事には変わりありません」

「だからと言って、私がお前を狙わん理由にはならんぞ。のこのこ出てきたのは、馬鹿としか言えんな」

「えぇ、僕の血を狙っているのは本当でしょう。アスナさんが居なければ、僕はあの場所で死んでいたと思います」

「ネ、ネギ……?」


 心配そうな声を上げる明日菜に、ネギは問題無いと目線で返す。


「マクダウェルさん。今、何時かわかりますか?」

「いきなりなんだ?」


 エヴァンジェリンの疑問には答えず、ネギはおもむろに懐中時計を取り出した。使い慣れたソレの蓋を手早く開けた彼は、カチコチと時を刻む時計の針を確認すると、再びエヴァンジェリンと視線を交わらせる。


「十一時三十六分です。電力の復旧まで、あと三十分もありません」


 それはつまり、エヴァンジェリンに掛けられた封印が間も無く復活するという事でもある。少なくとも彼女自身による説明では、そうなっている。きっと、嘘ではない。でなければ警備が強化される日に動こうとはしないだろう。


「どうして焦らないんですか? 流石に余裕ぶっていられる時間じゃありませんよ」


 エヴァンジェリンは答えない。難しい顔をして、威嚇するようにネギを睨んでいる。


「チグハグです。たしかに僕を狙っているのに、同時に見逃そうとしているようにも思える。今日の貴女は、やっている事も言っている事も、まるでバラバラです。一貫性が感じられません」

「何が言いたい?」


 再び、同じ問い掛け。

 ネギは、今度は無視する事無く返答した。


「わかりません」

「……は?」


 迷い無く言い切ったネギに、エヴァンジェリンが目を丸くする。小さく開いた唇もそのままに、彼女は訳が分からないといった様子で黙り込んでしまった。そんなどこか可愛らしい反応を見せたエヴァンジェリンに、ネギは苦笑する。


「貴女が何を考えているのか、僕にはわかりません。或いはこの不可解さこそが、今の貴女の心を映しているのかもしれませんね」


 エヴァンジェリンの考えを明確に推察出来るほどの情報は、ネギの手元には無い。だからここから先は、全てがネギ次第だ。

 胸元に手を当てれば、何時にも増して鼓動が速いのが分かる。ジワジワと全身から汗が滲んでいくのが分かる。その全てを押し隠し、エヴァンジェリンに不安を気取られぬよう、ネギは精一杯の虚勢を張る。


「けど、僕の命を奪う事に迷いがあるの確かです。だから、こんな事はもうやめちゃいましょう」


 笑って、笑って、笑って。必死に自分に言い聞かせて、少しでも信じられる己を、ネギは作り上げる。


「阿呆か貴様は。そんな子供の我侭で、私が止められるとでも思ったのか? 前に言っただろう。世の中には往々にして、不利益に目を瞑ってでも利益を取らねばならない事がある。私にとっては、今がそうだ」

「ほら、やっぱり殺したくないんじゃないですか」


 嬉しそうにネギが返せば、エヴァンジェリンは不愉快そうに押し黙る。


「呪いを解きたいなら、いつか僕がやります。僕は『サウザンドマスター』の息子ですから」


 優しく、柔らかく、ネギが語り掛ける。少しでも信じて貰えるように、目一杯の微笑みを浮かべてみせる。


「今日の事なら、僕が庇ってみせます。僕はあなたの先生ですから」

「…………それで、私が止まるとでも思っているのか?」


 尋ね掛けてきたエヴァンジェリンの声からは、幾らか険が取れているように思えた。

 だからネギは、胸を張る。


「僕は、あなたの先生です」


 自信を持って、宣誓するように、自らの想いを相手に伝える。


「だから、最初の一回だけは無条件に信じさせてください。そして――――明日からは色んな事を話して、知り合って、理解し合って、次の時には胸を張って大丈夫ですと言えるようにさせてください」


 今度の笑顔は、多分、本心からのものだった。ネギは自然と、エヴァンジェリンに笑い掛ける事が出来た。

 エヴァンジェリンはどうだろうか。呆れているようにも見える。疲れているようにも見える。若干肩を落とした彼女の表情はなんとも表現し難く、唯一ネギが読み取れたのは、一切の冷たさが取り払われている事だけだった。


「馬鹿の息子も、所詮は馬鹿か」


 呟き、エヴァンジェリンは無造作に腕を振る。直後に飛んできた影に対し、ネギは反射的に腕を出した。乾いた音と共に、ネギの手に飛んできた物体が収まる。その正体を確認すれば、すぐにネギの杖だと分かった。

 途端に表情を綻ばせたネギが喜びの声を上げようとしたら、遮るようにエヴァンジェリンが口を開いた。


「十五年前、私はお前の父に敗れた。だがそれは、間抜けにも奴の罠に掛かったからだ。純粋な戦闘の結果ではない」


 大仰に両手を広げたエヴァンジェリンが、不敵に笑う。


「一騎打ちといこうじゃないか。小細工無しの純粋な力比べだ」


 飛び上がり、宙を滑るようにしてエヴァンジェリンが距離を取る。


「魔法のレベルは合わせてやる。お前が撃てる最強の魔法を唱えてみせろ」


 エヴァンジェリンの両手に白い冷気が宿り、彼女は挑発するようにそれらをかざした。ここに至って、ネギはようやく彼女の言いたい事を理解する。故に自らも父の杖をかざし、彼は上空のエヴァンジェリンに対して問い掛けた。


「僕が勝ったら、諦めてくれますか?」

「あぁ。お前が勝ったらな」


 ニヤリと唇を歪め、エヴァンジェリンが言い切る。その言葉を聞いて、ネギは力強く頷いた。


「そういう訳です。アスナさんとカモ君は離れていてください」


 話し掛けながらも、ネギはエヴァンジェリンから視線を逸らさない。


「あ、兄貴……」

「でも、それじゃあっ」


 首を振って、ネギは答えた。既に、決心はついている。

 二人は暫くその場を離れなかったが、やがて諦めたのか、ゆっくりと遠ざかり始めた。そうして二人との距離が十分に離れた事を確認したネギは、杖を握る手に力を込めていく。右手を前にして、腰の高さに杖を構える。


「――――――いきます」


 不敵な笑みが、返される。これまで見てきた中で一番楽しそうで、強い意志が表れた表情だった。だからこそネギは、同じように笑い返す。胸の奥底から湧き出す喜びをそのまま自信に変えて、エヴァンジェリンに対抗する。

 初めて彼女と真っ直ぐ向き合えた気がして、純粋に嬉しい気持ちがあった。そして同時に、負けたくないと思った。エヴァンジェリンもきっと、同じ事を考えているのだろう。余裕の表情を浮かべながらも、彼女の瞳には微塵の油断も存在していなかった。

 呼吸を整え、魔力の流れを整える。そうしてネギは、目に強い意志を込める。

 何よりも、気持ちで負けてしまわないように。


「ラス・テル・マ・スキル・マギステル!」

「――――――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!」


 ネギが始動キーを口にすれば、即座にエヴァンジェリンが追い縋る。


「来れ雷精、風の精!!」

「――――来れ氷精、闇の精!!」


 宣言通りの、同種の魔法。その反応速度に、ネギは思わず舌を巻く。


「雷を纏いて、吹きすさべ南洋の嵐」

「――闇を従え、吹雪け常夜の氷雪」


 詠唱速度が違う。エヴァンジェリンの方が僅かに速く、このままいけば、発動の瞬間は見事に重なるだろう。その事を悟ったネギは、決して負けまいと尚一層の力を籠めて杖を握り、上空のエヴァンジェリンを睨み付ける。相手も、同時にネギを見返した。

 お互い、魔法の準備は万端だ。残る魔法名を唱えれば、共に魔法を発動出来る。それが分かっていながら、二人は何故か一拍置いた。刹那の静寂が辺りに訪れ、その中で、彼らは視線を交わし合う。折れない意思が、絡み合う。


 けれど言葉を交わす事は無く、


「雷の暴風!」

「闇の吹雪!」


 勝負の瞬間が――――――訪れる。








 ◆








 振り下ろした刀が銀の軌跡を描き、振り上げた大剣が影を引いて立ち向かう。直後に金属が打ち合い、鋭い音が響き渡った。そうして何度目になるかも分からない鍔迫り合いが始まり、刀子は刀越しに相手を睨め付ける。一方で相手の人形も彼女を見上げ、その顔に喜悦の色を滲ませた。この戦闘中だけでも幾度となく見た表情だが、やはり不快感は拭えない。

 舌打ち一つ、このまま押し切ろうと刀子は腕に力を籠めた。体重を乗せて、上から押し込むように徐々に相手へと刀を近付けていく。そうしてジリジリと迫る白刃を前にしても、人形は余裕の態度を崩さなかった。

 構わない、と刀子は気力を漲らせる。自らの身が危険に曝されても愉快そうに笑う相手だというのは、この戦闘で理解している。変に警戒するだけ無駄だと、強く刀の柄を握り締め――――――――直後、刀子は大きく後方に飛びすさった。

 投擲されたナイフが刀子の眼前を通り過ぎ、月を射落とすような勢いで飛んでいく。


(危なかった……)


 無茶をするものだと、呆れすら籠めて刀子は人形を睨む。

 今の反撃、投擲の為に左手を大剣から離していた。そうなれば必然的に右手だけで刀子と競り合う事になり、一歩間違えればお互いにかなりの痛手を負っていた事だろう。決して悪い判断ではないが、面倒な相手だと彼女は気を引き締め直す。

 戦闘開始から、既に一時間以上が経っている。ここまで時間を稼がれては、実質相手の勝利に近い。しかしだからと言って、このまま諦める訳にもいかなかった。少しでも早く決着をつけ、捜索を再開しなければならない。


「む。葛葉の方も梃子摺っていたのか」


 いきなり聞こえてきた男の声に、刀子は俄かに体を緊張させた。敵の増援かと神経を張り詰めさせる。だがそれも一瞬の事で、すぐに声の主に思い至った彼女は、人形から視線を外さないまま現れた人物に話し掛けた。


「手間取ったようですね、神多羅木先生」

「すまない。随分と手が込んでてな」


 刀子の隣に並び、神多羅木もまた戦闘体勢に入る。一見すれば自然体で立っているだけだが、彼の実力をよく知る刀子にすれば、随分頼もしいものだった。その事に安堵感を覚えながらもどこか納得のいっていない自分に気付いて、刀子はつい苦笑する。


「まぁ、私も貴方の事は言えませんが」


 出来るなら、神多羅木が出てくる前に自分の手で決着をつけたかった。そんな想いが、胸の奥に燻っている。だが何よりも優先すべきは、現状の打破に他ならない。刀を正眼に構え、刀子は自らの惰弱さを叱咤する。


「二人揃ッテ気力ハ十分ダナ。イイ面シテルゼ」


 肩に大剣を担いだ人形が、ライムグリーンの瞳で二人を睨め付けた。

 暗闇の中で爛々と輝くその瞳には確かに獰猛な鋭さが潜んでおり、見られているだけでも体が緊張していく。弓の弦を引き絞るように辺りの空気が張り詰め、刀子達も来たるべき瞬間に備えて息を潜めた。

 風がそよぎ、木々がざわめく。天空の月は雲に覆われ、森の中は尚暗い闇に包まれた。


「マァ――――」


 人形は気持ち悪いほどに歪めた笑いを作り、


「手遅レカモシレネェケドナ」


 不吉な事を口にした。








 ◆








 痛い。初めにネギが考えられた事は、それだけだ。顔が痛くて、腕が痛くて、足が痛くて、体が痛くて。こんな思いをした事は一度も無いというくらい痛みが脳を苛み、他の事は何も考えられなかった。しかし全身を襲うその感覚も、時間の経過と共に少しずつ収まりを見せ始める。慣れたのか、或いは麻痺したのか。その判別すらつかないネギだったが、一先ず息を吐いて上空を仰いだ。

 穏やかな夜空が、今は随分と遠く、羨ましく思える。同時にネギは、自分が倒れている事に気が付いた。


(そっか…………僕、負けたんだ)


 大見得を切っておきながら、なんとも情けないものだ。そう自嘲してみるが、不思議と悔しさは湧いてこない。

 首を回して周囲を確認すると、ネギの近くには草の一本すら生えていない事が分かった。代わりにキラキラとした氷の粒が散らばっており、霜が降りたようになっている。エヴァンジェリンの魔法によるものだと、すぐに理解出来た。抗魔力を持つネギとは違い、魔法が直撃したのだろう。それを思えばこの痛みも可愛いものなのかもしれないと、ネギはボンヤリと考えた。


(まぁ、殺す訳にはいかないもんね)


 なんせ向こうはネギの生き血が欲しいのだから、殺してしまっては本末転倒だ。もしかすると上手く加減したのかもしれないと考え、すぐにネギはそれを否定する。互いにそこまでの余裕は無かったし、エヴァンジェリンはそんな事をしないだろうという確信があった。だからこの状況は、純粋に彼自身が耐えた結果なのだろう。そう考えると、ネギは少しだけ誇らしい気持ちになれた。

 そこでふと、ネギは疑問を抱く。エヴァンジェリンはどうしたのだろうか、と。

 勝負については、間違い無く彼女の勝利だ。確かに接戦ではあったが、最後にはネギが競り負けた。迫り来る魔法の恐怖はハッキリと覚えているし、事実、こうしてネギは倒れている。だから勝者であるエヴァンジェリンからなんらかのアクションがあるはずなのだが、何故か彼女の気配は離れた位置にあった。

 痛む体をどうにか動かし、ネギは上半身を起き上がらせる。


「えっ?」


 思わず出たのは、驚きの声だった。

 背中が見える。明るく長い茶髪を真っ直ぐに下ろした、女性の背中だ。一瞬、その姿が従姉弟のネカネとダブって見え、しかしすぐに明日菜なのだとネギは気付く。また両手を広げた彼女の向こうには、腕を組んだエヴァンジェリンの姿があった。


「どうやらぼーやが起きたみたいだぞ、神楽坂 明日菜」


 エヴァンジェリンが話し掛けても、明日菜は微動だにしない。振り返ろうとする素振りすら見せずに、エヴァンジェリンと真正面から対峙している彼女は、まるで子供を守る母鹿のようだった。いや、事実としてそうなのだろう。勝負前の取り決め通りであれば、ネギは殺される事になる。別に命を差し出すとまでは言っていないが、抵抗する力が残っていない以上、結局はそうなる。

 その事を理解したネギは、悲鳴を上げる体に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。


「…………アスナさん」


 ふらつく足に活を入れ、明日菜の背中に向けて、ネギは歩き出す。まだ、思考がハッキリとしない。急に立ち上がった事もあってか、視界が揺れているように感じられた。はたまたそれは、足下が定まっていないからだろうか。そんな益体もない事を考えながらも、彼は明日菜が居る場所へと向かう。たとえ亀のような歩みでも、一歩ずつ、着実に進んでいく。

 やがて明日菜の隣まで辿り着いたネギは、倒れこむようにして彼女の肩に手を掛けた。


「ネ、ネギ?」

「兄貴、大丈夫っスか?」

「……大丈夫」


 明日菜と、彼女の肩に乗ったアルベールが、心配そうに声を掛けてくる。それに対する返事は最小限に留め、ネギはまず息を整える。そうして明日菜の体を支えにし、俯いたまま肩で息をしていたネギは、やがて顔を上げてエヴァンジェリンと正対した。

 今のエヴァンジェリンは、獲物を甚振る猫みたいな表情を浮かべている。ネギが見慣れた楚々とした雰囲気ではなかったが、今の方が彼女らしいと思い、そんな事を考える自分に彼は呆れた。


「温室育ちの割には、意外と根性があるじゃないか。慣れない痛みは辛かろう」


 ニヤリ、と。そんな擬音が似合いそうな笑みを、エヴァンジェリンが作る。

 だが彼女の態度には構わず、ネギは精一杯の力を籠めて声を上げた。


「アスナさんには、手を出さないでください」

「ん? それなら構わんぞ。もう一発くらい殴っておきたかったが、ぼーやの頑張りに免じて見逃そう」


 軽い返事だった。けれどエヴァンジェリンの顔を見れば、偽りではないと信じられる。

 胸を撫で下ろしたネギは、次いで瞳に決意の色を浮かべた。一度だけ深呼吸をして、彼は力強く相手に話し掛ける。


「僕の負けです、マクダウェルさん」


 意外そうに目を見開いたエヴァンジェリンは、けれどすぐに元の笑みを形作った。


「あぁ、その通りだ。逃げてみるか? 構わんぞ、お前が負けた時の罰は決めていないからな」


 明日菜の肩に預けた手から、彼女の緊張が伝わってくる。ピリピリと肌を刺すような警戒が感じられ、エヴァンジェリンに向けて鋭い視線を向ける彼女は、明らかにネギを守ろうとしていた。一方のエヴァンジェリンは、組んでいた腕を解いて対峙する。

 しかしネギは二人の放つ気配など知らぬとばかりに、緩やかに首を振った。


「いいえ、逃げません」


 明日菜とアルベールが、ギョッとしてネギの方に顔を向ける。しかしネギは、そんな二人に構わない。真っ直ぐにエヴァンジェリンを見詰め、勝者である彼女の反応を窺っている。


「……ほう。随分と思い切ったな」

「貴女が勝ったのに、何も無いのはフェアじゃありません」


 エヴァンジェリンは呆れたように肩を竦め、息を吐いた。


「律儀なのか頑固なのか、よくわからんな」


 そう言ってエヴァンジェリンが、一歩を踏み出す。それに応じて自らも前に出ようとした明日菜を、ネギは制した。


「ネギッ!?」

「兄貴! そんな良い子になる必要はねぇって!!」

「…………ごめん」


 意地かもしれない。格好付けかもしれない。そう非難されれば、ネギには否定出来ない。けれどネギは、どうしても逃げたくなかったのだ。わざわざ使用する魔法を合わせてまで勝負をしてくれたエヴァンジェリンに対し、そんな選択肢は選べなかった。

 そうこうしている内に、歩いてきたエヴァンジェリンがネギの前で立ち止まる。彼女は海のように青い瞳に冷たい光を浮かべ、視線でネギを射抜いた。先程までとは一転したその様子に、ネギは知らず身を竦ませてしまう。


「覚悟はあるのか?」


 問い掛けに対し、ネギは黙って頷いた。口を開けば、何を言ってしまうか分からなかったから。

 暫し、静寂が場を支配する。エヴァンジェリンは何も話さずにネギを見詰め続け、そんな彼女の雰囲気に呑まれたのか、アルベールも明日菜も口を挟まそうとはしなかった。刺すような視線がネギを苛み、それでも彼は気丈に振る舞おうと、口を固く結んだ。


「そうか、わかった」


 気が済んだのか、瞑目したエヴァンジェリンが呟いた。

 いよいよか、とネギは表情を硬くし、


「それじゃ私の罪が軽くなるよう、精々頑張ってくれ」


 次いで聞こえてきたエヴァンジェリンの言葉に、ポカンと口を開けた。

 そんなネギを見て、彼女はチェシャ猫のように口元を歪める。


「少し前に電力が復旧したようでな、今の私は魔力を封印された状態なのさ」

「え? えっ!?」

「満月が近いから解呪も不可能ではないんだが…………供給が切れて茶々丸達が敗れたからな、じきに私も捕まるだろう」


 クツクツと笑いながら、まるで他人事のようにエヴァンジェリンが語る。

 初めは急過ぎて理解出来なかったその内容を咀嚼していくにつれて、ネギは顔を青くして慌て始めた。


「で、でも! そんなのッ!!」

「納得出来ないか? だがな、この傷を見てみろ」


 自らが纏う漆黒のマントを広げ、エヴァンジェリンがその身を晒す。そうして現れたのは、傷だらけの白い肌だ。予想通りではあったが、マントに隠れていた部分にもかなりの傷があり、また服もボロボロだった。


「油断していたとはいえ、たしかにお前がつけたものだ。今回は痛み分けといこうじゃないか」

「それは、けど……でも…………っ」


 ネギは何度も首を振り、否定の言葉を口にしようとして、けれど何を言えばいいのか分からなかった。

 混乱している。何が起こっているのか、何をすればいいのか、まるで整理出来ていない。なのに当事者であるエヴァンジェリンは落ち着いていて、その事が余計にネギの混乱に拍車を掛けていた。

 そうやって無為に焦るばかりのネギに対し、エヴァンジェリンは大仰な動作で溜め息をついてみせる。


「やれやれ、このままでは私が処刑される日も近いかな」

「そんな事は絶対にさせませんッ!!」


 反射的に叫んでいたネギは、直後にハッと我に返り瞠目した。


「だったらウダウダ悩むな。どうしても嫌だというなら、いつか私の呪いが解けた時に再戦してやる」


 勿論、なんらかの景品は用意して貰うが。最後にそう付け足して、エヴァンジェリンは尊大な態度で胸を張った。

 目を瞠り、目を伏せ、目を瞑る。暫し黙考していたネギは、やがて深く頷いた後にゆっくりと目蓋を上げた。その大きな瞳には、もう戸惑いの色は存在していない。芯の通った強い光を放ち、迷い無くエヴァンジェリンを見詰めている。


「えぇ、必ず――――」


 エヴァンジェリンの返事は、とても偉そうで、どこか優しい笑顔だった。












 ――――後書き――――――――


 第二十三話の投稿です。お読みくださり、ありがとうございます。

 今回で大停電は終了となります。そして結末はこんな感じに。ネギ側とエヴァンジェリン側とでバランスを取った感じですね。流石に圧倒的どころではない戦力差なので、メインは話し合いになりました。少しでもネギ側が魅力的に見えるよう、滑稽に見えないよう気を付けてみたのですが、どうだったでしょうか。

 次回は吸血鬼編の締めですね。大停電中は影が薄かったオリキャラパートとなります。これが終われば修学旅行編が待っていますが、その前に少し別の話が入る予定です。以前から書こうと考えていた話なので、頑張りたい所です。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十四話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/01/17 21:27


 頬に走る衝撃で視界が揺れ、同時に乾いた音が鼓膜を揺らす。直後に広がった熱と痛みを認識し、洸は頬を張られたのだと気付いた。どうして、とは思わない。目に涙を浮かべて顔を真っ赤にしたネカネを見れば、理由なんて考えるまでもなかった。洸にとっては完全に予想通りの展開で、こうなる事を覚悟してこの場に望んだ訳だが、動揺していないと言えば嘘になる。

 目の前で怒っている友人に、どんな言葉を掛ければいいのだろうか。彼女が大切にしている従姉弟を利用した癖に、掛ける言葉なんてあるのだろうか。混乱した頭を巡るのはそんな事ばかりで、想像以上に参っているのだと洸は自覚した。

 とにかく、何か話さなくてはいけない。その考えに衝き動かされて口を開こうとした洸だったが、ネカネの表情を直視した彼女は何も言えなくなってしまった。言える訳がないと、思ってしまった。

 眦をキツく吊り上げ、噛んだ唇を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をしてネカネが立っている。何度も口を開こうとして、けれどその度に言葉を飲み込むように俯く彼女は、怒っているはずなのに、とても悲しそうに見えた。

 気まずい沈黙が、二人の間に降りる。互いに何も言えず、けれど目は逸らさず、唯々愚直に向き合い続ける。そうして生まれた針の筵のような空気をどうにかしようと、洸はグルグルと思索を巡らせる。

 考えて、考えて、考え続けて、それでも答えは出てくれなくて、結局、先に動いたのはネカネの方だった。

 強く、血が滲みそうになるほど強く拳を握った彼女は、最後に洸を一睨みすると何も言わずにその身を翻した。長い金髪をなびかせ、石造りの床で靴音を鳴らしながら、ネカネは足早に部屋の出口へと歩いていく。その背中に向けて腕を伸ばしかけた洸は、けれどすぐに下ろして顔を俯かせた。掛けるべき言葉は、まだ見付からない。

 ネカネが扉を開き、音を立てて閉めた後でも、洸は地面に縫い付けられたかのように動く事が出来なかった。ただ張られた頬の痛みと熱ばかりが彼女を苛み、その心をジクジクと責め立てている。


「――――ふむ。あれほど怒りを露にしたネカネは初めてじゃの」


 黙って事の推移を見守っていたメルディアナ魔法学校長が、立ち竦む洸に話し掛けた。どこか他人事のような達観した口調ながらも、彼の声には洸を心配する色が含まれている。

 故に彼女は、精一杯の強がりで平常心を装った。無意味だと分かっていても、強がらずにはいられなかった。


「それだけ、ネギ君が大切なのでしょう。もしも木乃香に同じ事をされたら、私なら彼女以上に怒りますよ」


 だから、心構えはしていた。ネカネに全てを話すと決心した時から、あらゆる罵倒を浴びせられる覚悟を決めていた。だというのに、蓋を開けてみればこの様だ。これでは情けないにも程がある、と洸は自嘲する。


「…………優しい人ですね。私なんかより、ずっと」


 言いたい事があっただろう。ぶつけたい言葉もあっただろう。胸の奥から溢れ出す激情は、あまりに抑え難かったはずだ。

 なのにネカネは何も言わなくて、まるで洸を気遣ったみたいに言葉を押し込んで、たった一度の張り手だけで済ませてしまった。でもだからこそ、その一度だけで洸の覚悟は吹き飛ばされたのだ。切な過ぎるその表情に、心を締め上げられて。


「やはり、話さぬ方がよかったのではないかの」


 校長が言ったのは、もう何度目になるかも分からない、とうに結論の出た話だった。大勢に影響を与える位置におらず、計画において必要な人物という訳でもない、言ってみれば蚊帳の外に立つネカネに事情を話す意味は、確かに無かっただろう。寧ろこのような事態を引き起こした点を考えれば、マイナスだったと言えるかもしれない。


「いえ、これでいいんです」


 それでも洸は、後悔はしていなかった。確かにショックは受けているが、これもまた当然の事だと受け止めている。

 ネカネがネギに向ける愛情は、洸が木乃香へと向けるソレに似ている。可愛くて、大切で、出来るのならずっと腕の中で守っていたいけれど、そういう訳にもいかなくて。だからこそちょっとでも危ない事があれば、物凄く心配になってしまうのだ。そんな彼女に対して深い共感を覚えるし、友人で居たいとも思っている。

 故に洸は、彼女に事情を話したのだ。これからも同じように付き合っていくのなら、ネギの事は避けて通れないと理解していたから。もっとも現状に対する解決策は、まるで思い付かない訳だが。


「ふぅ……あ、すみません。すぐに片付けますね」


 溜め息をついた洸は、そこで足元の魔法陣に気付いた。麻帆良学園とのラインを繋いだ転移魔法陣で、早急に消す必要があるものだ。ネカネへの説明を急いだ所為でスッカリ忘れていたが、これを残したままでは校長に迷惑を掛けてしまう。


「いや、それはワシがしておこう」

「え、でも……」

「だいぶ疲れておるじゃろ? しっかり休んで、それからあの子と話し合いなさい」


 全てを見透かしたような気遣いの目で見られれば、洸としては反論出来るはずもない。もごもごと口をまごつかせた彼女は、そのまま申し訳なさそうに顔を俯かせた。それから、少しだけ沈黙が続く。


「えっと、それではお言葉に甘えさせていただきますね」


 渋々、といった様子で顔を上げた洸が口にする。それに対して校長は何も言わず、ただ鷹揚な頷きだけを返してきた。

 なんだか、気恥ずかしい。悪戯を見付かった子供のような思いに駆られた洸は、そのまま足早に部屋から立ち去るのだった。












 ――――第二十四話――――――――












「…………どうすれば、いいんだろう」


 なだらかな丘陵に腰を下ろし、赤らみ始めた空を眺めながら、ボンヤリと洸が呟く。

 休めとは言われたものの、宿の部屋に篭もる気にはなれなかった。だからこうして湖を臨む丘で思索に耽っている訳だが、よい解決策というのは中々浮かんでこないものだ。空を流れる雲のように考えを巡らせていた洸は、何時しか思考の迷宮に迷い込んでいた。

 どうすれば、ネカネと仲直り出来るのだろうか。幾度となく繰り返した自問は、やはり答えを出す事無く胸の奥へと沈んでいく。

 弱気に謝ればいいのか、強気に我を通せばいいのか、粛々と時の経過を待てばいいのか、まるで分からない。何をすればどんな反応が返ってくるのか予想もつかなくて、洸の心は完全に萎縮してしまっている。

 嫌われたくない。怒られたくない。通常多くの人がそう考えているように、いや、もしかするとそれより遥かに強く、洸もまた自らに敵意を向けられたくないと思っている。せめて事前に覚悟していた通りなら頑張れたのに。せめて好意を持つ相手でなければ平気だったのに。どちらでもない現実を前にして、洸は進むべき道を見失っていた。

 彼女自身、ここまで喧嘩下手だとは思ってもみなかった。八方美人と評されてもなんら否定出来ないような人間関係こそが、その原因だろう。思えばエヴァンジェリン以外の友人とはマトモに喧嘩をした事などなくて、経験から答えを探れそうにはなかった。暗中模索。当たって砕けるつもりで、ネカネと向き合うしかないのかもしれない。

 沈みゆく夕陽を映した湖を見詰め、洸は深々と溜め息を吐き出した。


「情けない……」


 万感の思いを込めて、洸が呟く。直後に彼女は、小さく欠伸を噛み殺した。

 込み上げてくる眠気が、かなり強くなっている。幾分重く感じる体の事もあり、洸は疲れが溜まっているのだと判断した。大停電以前から兆候はあったが、前日の訪英や転移魔法を用いての世界半周、加えて数時間に渡り広範囲を監視したりと、この二日はかなり過密なスケジュールだったと言える。そこに来てネカネの問題に頭を悩ませる必要が出たのだから、洸の疲労はピークに近付いていた。

 これが戦闘中などの神経を張り詰めさせる場面であれば持ち堪える事も出来たのだが、今の彼女は友人関係に悩む一般人に過ぎない。襲い来る睡魔に抗うには、あまりにも無防備な状態だった。

 まだ考えなくてはと思いつつも徐々に目蓋が重くなっていき、やがて彼女の意識は、深い闇へと沈んでいった。




 □




 温かな、柔らかな、まるで揺り籠の中に居るような深い微睡みが、洸の意識を包み込む。ここ暫く感じる事の無かった確かな安息は、怠惰な欲望を心に呼び込み、流砂めいた誘惑と共に彼女を闇に縛り付けている。

 ずっと安まらなかった。寝ても覚めても、遊んでいても仕事をしていても、常に気掛かりがあった。大停電が近付くにつれ、まだ何か出来るんじゃないか、まだ何か見落としがあるんじゃないかと、胸中に蔓延る不安が大きくなっていった。そして、これらは今でも解消された訳ではない。寧ろネカネの件が増えたりと、更に重く洸にのし掛かってきている。

 でもだからこそ、体の疲れと一緒になって洸を闇の底へと引き摺り込んでいき、まるで電池が切れた玩具みたいに、彼女は休む事しか出来なくなっていた。強制された、けれどあらゆる束縛から解き放たれた安息がそこにある。

 そんな彼女が目を覚ます切っ掛けとなったのは、すぐ傍に感じた誰かの存在だった。近付いてくる気配ではなく、気付けば近くに居た気配。それはつまり、洸が相手の接近を察知し損ねたという事だ。

 考えられる理由は幾つかある。第一に洸が疲れていた事。次に敵意を感じなかった事。最後に、洸が気を許した人物だった事だ。

 未だ目を瞑り、浅い微睡みに身を任せながらも、洸は相手の正体に気付いていた。故に近付く覚醒を前にして、彼女は選択に迫られている事も理解していた。残り幾許も無い猶予の中で、雲を掴むように靄の掛かった思考を巡らせる。答えを求めて、闇雲に歩き回る。

 それでも結局は、何も掴めない。何も分からないまま、起きなくてはいけない。頭の中は真っ白で、真っ暗だった。


「――――ごめんなさい」


 だからこそ目覚めた洸が口にした言葉は、偽りの無い、彼女の本心から生まれたものだったのかもしれない。

 目蓋を開けると、今にも泣いてしまいそうな、湿っぽい暗さを湛えた夜空が広がっていた。散りばめられた星々はまるで涙のようで、見ているだけでも胸が締め付けられそうだ。そして紺色のキャンバスを背負ったネカネの表情は、今の洸には直視するのが辛かった。

 月光を吸い込んだ金髪を垂らして、ネカネは洸の顔を覗き込んできている。澄んだ瞳に様々な色を入り乱れさせた彼女の感情を的確に表す言葉は見付からなかったが、なんだか苦しそうだという事は洸にも理解出来る。そして、その原因が自分だという事も分かっているからこそ、洸は胸が圧し潰されそうだった。


「怒ろうと思って、ここまで来たんです」


 絞り出すようにネカネが呟く。その声は震えていて、幾つも重ねた感情をギュッと押し込めたような響きを持っていて、洸はなんだか切なくなってしまった。申し訳なさが心を覆って、何も言えなくなってしまった。


「けど貴女は眠っていて、寒そうで、心配になって」


 洸の体にはローブが掛けられており、頭はネカネの太腿に乗せられている。

 一見すれば、不可解な事だ。ネカネは洸に対して、怒りを抱いているはずなのだから。けれどネカネの顔を見れば、すぐに理解出来る事だ。怒っているようで、悲しんでいるようで、泣きそうで。沢山の感情が入り交じったネカネの表情は実に難解だったが、その根源が深い優しさである事を、今の洸は自然と見抜いていた。


「貴女が起きたらどうしようって、ずっと悩んでいたんです。たくさん不安があって、いっそ謝ろうかと思ったりもして」


 ネカネの声が、重くなる。まるで雨が降る直前の曇り空みたいに、湿った色を含みだす。


「でも、やっぱりここは怒ろうと思って……なのに…………っ」


 くしゃりと顔を歪めたネカネは、目に一杯の涙を溜め込んでいた。


「謝らないでくださいっ。貴女がそんなのじゃ――――――私、怒れないじゃないですかぁ」


 落ちてきた涙が、洸の頬を打つ。一滴、二滴と小雨のように始まったそれはすぐに豪雨へと変わり、洸の顔はあっという間に水浸しになってしまう。冷たくて温かい涙が洸の頬を伝い、まるで彼女まで泣いているかのようだった。

 辛い。ネカネに泣かれるのは、本当に辛い。怒られる事より、どんな罵声を浴びせられる事より、彼女の涙の方が心を苛む。胸を引き裂かれるような痛みを感じて、でもそれを彼女に感付かれる訳にもいかなくて、洸はしゃくり上げるネカネをボンヤリと見詰める事しか出来なかった。透明な涙よりずっと澄んだ青い瞳から、目を逸らさないようにするだけで精一杯だった。

 そうして、時が過ぎる。何も言葉を交わさないまま、責め苦のように、時間だけが過ぎていく。




 □




 ネカネが泣き止んだのは暫く後の事で、気まずい沈黙に晒されながら洸が体を起こしたのは、それからだった。その頃には泣き腫らす彼女の事をどうこう言えないくらい洸の顔もびしょ濡れになっていて、頬に落ちた涙を拭った彼女は、黙ってネカネの隣に座り込んだ。掛けられていたローブの扱いには少し悩んだが、結局、魔法で暖を取ればいいと結論付けた。

 そうして高く昇った月の下で、二人は湖面に映る月を眺めながら時を過ごす。言葉は何も交わさない。相手の様子を窺っているのか、はたまた自分自身と向き合っているのか、両者は目を合わせようともせずに沈黙を貫いている。風も冷気も届かないその場所で、魔法の所為だけではなく、本当に世界から切り離されてしまったみたいに、静寂を共にする。

 ただそれも、長くは続かなかった。

 視線を湖へと向けたまま、洸の顔を見ないまま、誰に向けたのかも分からないようなか細い声で、ネカネが呟く。


「大切な…………人なんですか?」


 誰が、とは言わない。けれど洸は、それが誰を指した言葉なのか理解していた。流石に質問の意図までは見抜けなかったが、それでも精一杯正直に答えようと思い、だからこそ彼女は、その形の良い唇で皮肉げな笑みを作る。


「会わなければよかったと、たまに思います」


 隣から伝わってくる驚きの気配を、洸はあえて無視した。


「世界で一番大切な人が、三人居るんです。一番なのに、三人」


 天上の月と、地上の月。空に浮かぶソレと、湖に浮かぶソレ。本物と偽物を、どちらに目を向けるでもなく、洸は茫洋と眺め続ける。その漆黒の瞳が何を捉えているのかは、もしかすると本人ですら理解していないのかもしれない。


「その内の二人は、明るい場所に居ます。けど残りの一人だけは、暗い場所に居るんです」


 膝を抱えた手をギュッと握り、洸は顔を俯かせる。


「二人の事を考えるなら、一人は見捨てた方がよくて。一人の為を想うなら、二人は諦めた方がよくて。どっちつかずな私は、どちらも選べなくて。結局、中途半端な事しか出来なくなるんです」


 もっと幼ければ、盲目的になれたかもしれない。もっと大人になれれば、割り切れるようになるかもしれない。けれど今の洸はどちらでもなくて、双方にとっての最善を尽くそうとして足掻いてばかりだ。無理だと分かっていても、それしか選べなかった。

 ジワリと視界が滲む。空の月まで、その姿を歪ませる。痛みを覚えるほど手に力を込めて、洸は話を続けた。


「エヴァは嫌いです。大っ嫌いです。偉そうだし、我侭だし、自分の立場を分かってないし………………好きだとか、言ってくるし」


 九年前に初めての友達が出来てから、洸はそれまで以上に色んな事を勉強した。あまり目を向けていなかった歴史の事も、関係無いと思っていた宗教の事も、まだ早いと言われた魔法界の事も、沢山学ぼうとした。でもそうやって新しく何かを知る度に、まるで蟻地獄に吸い込まれるような絶望感を覚えて、力の無さを思い知らされたのだ。

 エヴァンジェリンの呪いを解きたかった。ただその為には解呪の技術以外にも必要なものが色々あって、条件を全て満たす事は、洸が使えるあらゆるツテを利用しても不可能だと理解している。故に現実的な手段としては、勝手に解呪をしてその事実を隠蔽し続けるか、或いは逃亡するかという選択肢になるのだが、どちらを選んでも麻帆良に、ひいては近右衛門に多大な迷惑を掛ける事になる。

 だから、困る。好きだと言われたら、洸は凄く困ってしまう。

 好きだなんて言えない。言える訳がない。言ってしまえば、何をしてしまうか分からない。


「……本当に、大切なんですね」


 呟いたネカネの声は不思議と温かで、洸は素直に頷いていた。


「だから、嫌いです。一生付き合う面倒事を持ってきたから、嫌いです」


 拗ねたように洸が返すと、直後に隣から笑い声が聞こえてきた。驚いた彼女がそちらに顔を向けると、口元に手を当てたネカネの姿が目に入る。くすくす、くすくすと、彼女は真っ赤な目を細めて楽しそうに笑っていた。

 暫し呆然と固まっていた洸は、やがて仕方無いといった風に表情を崩す。

 笑われているのに、不思議と悪い気はしなかった。寧ろ胸のつかえがおりたような感じがして、幾分気持ちが楽になっている自分に、洸は気付く。考えてみれば、これらの思いを誰かに打ち明けた事は無かった。というか、そうそう話せるようなものではない。今だっていつもの精神状態なら話す事は無かったはずで、洸自身、ちょっと意外に感じている。

 とはいえ、後悔はしていない。ネカネの様子を見ていれば、これでよかったのだろうと信じられる。ただこの状況では洸の方が宥められたみたいで、役割が逆なのではなかろうかと彼女は少し落ち込んだ。

 抱えた膝に顎先を押し付けて、洸はヒッソリと溜め息を吐く。


「それじゃあ――――――」


 一通り笑って気が済んだのか、ネカネが不意に話し掛けてくる。その声に引かれて洸が顔を向けると、彼女は優しい微笑みを浮かべていた。目も頬も真っ赤で、涙の後もクッキリと残っていたが、洸は純粋に綺麗だと思った。


「今度は、私の話を聞いてください」


 柔らかな声が、胸の奥へと沁み込んでいく。

 自然と洸は笑顔になり、ネカネへの返事を口にしていた。


「えぇ、もちろん」


 それからは、色んな事を話し合った。ネギの事を、木乃香の事を。メルディアナの事も、麻帆良の事も。そして他にも、本当に沢山の事を語り合って、部屋に戻る事すら忘れて教え合って、空が白んで朝日が昇るまで、二人の話し声がやむ事はなかった。

 そうして洸がメルディアナを去る直前、彼女達は一つの約束を結んだ。絶対に破ってはならない、仲直りの約束を。








 ◆








「あら、奇遇ですね」

「こんにちは、刀子先生」

「えぇ。こんにちは、洸さん」


 英国から日本に戻ってきた日の、太陽が眩しい昼下がり。日の当たる場所から逃れるような形で地下深くに存在する関東魔法協会本部を訪れていた洸は、曲がり角から現れた知り合いに対して挨拶し、直後に心配そうな表情で首を傾げた。

 葛葉 刀子。洸とはそれなりに親しい間柄の魔法先生だ。彼女は一見すればいつもと変わらない様子だったが、よく見ると些か顔色が優れていないようだった。普段と比べるとスーツの着こなしも甘く、声にも張りが無いように感じられる。

 疲れているのだと、洸はすぐに理解した。同時に、その理由も。


「お疲れみたいですけど…………例の件ですか?」

「ん? あぁ、もう聞いたのですか」


 刀子の言葉を、洸は頷いて肯定する。

 例の件。すなわち、大停電の件だ。つい先程麻帆良まで帰ってきた洸は、まず最初にその情報を仕入れていた。元々すぐに知らされる立場だったという事もあるが、下手に口を滑らせた時の予防措置でもある。何より洸としては、最終的にどのような決定が下されたのか非常に気になっていた。どれだけ考えを巡らせた所で、やはり結果を聞くまでは安心出来ないのだ。


「私は実際に戦闘を行いましたからね。神多羅木先生共々、ずっと拘束されっぱなしですよ」


 深々と溜め息を吐き出した刀子を見て、洸はなんとも言えない苦笑いを浮かべると同時に得心した。

 刀子が向かう先、つまり洸が歩いてきた方角には、休憩室が設置されている。地下にある魔法使いの怪しげな施設とはいえ、その手の設備には抜かりが無いのが麻帆良だ。暫し出来た時間を、存分に疲労回復に当てようというのだろう。


「まぁ高畑先生達も同様ですし、何よりネギ先生が頑張っていますからね。あまり愚痴は言えませんよ」


 疲れの中にも確かな力強さを潜ませて、刀子が苦笑する。それから彼女は、まじまじと洸の顔を見詰めた。切れ長の目がレンズ越しに洸を捉え、戸惑う彼女を映し出す。そこには、紛れも無く真剣な光が宿っていた。


「あ、あの……?」

「貴女は、彼女の処罰は軽い方がいいと思いますか?」


 問い掛けられたその内容に、一瞬、洸は身構えかけた。しかしすぐに取り直し、普段通りの、事件とは無関係の近衛 洸を心掛ける。口にするのは彼女の素直な気持ちで、同時に優等生の答えも用意する。そんな事を、洸は自分に言い聞かせる。

 そうして多くの心配と少しの躊躇いを顔に浮かべ、洸は答えを口にした。


「それは…………そうですけど。ただ、流石に今回の事は――――――」

「いえ、それだけ聞ければ十分です」


 話を途中で遮られた洸は、どこか釈然としない様子で口を噤む。一方で刀子は真剣な表情のまま一つ頷き、次いで思い出したといった風に口を開いた。疲れの所為なのか、今の彼女は、普段と比べて落ち着きが足りないように感じられる。


「ところで、洸さんはこれからドチラへ?」

「えっと、エヴァとの面会許可を貰いに行こうかと」


 洸は、これもまた素直に答える。刀子の真意は分からなかったが、彼女にならこの手の話をしても大丈夫だという判断からだった。


「……なるほど。それなら大丈夫でしょう。問題無く許可が下りると思いますよ」


 案の定、刀子は特に驚く事も無く納得したようだ。顎先に手を添えた彼女は、暫し考え込むように視線を泳がせた後、柔らかな笑みを浮かべて話し掛けてきた。その声にも、特に揺らぎは感じられない。

 相変わらず頼れる人だと、洸は安堵する。同時に彼女は、浮かんだ疑問を口にした。


「そうなんですか? 割と駄目元のつもりだったんですが」

「えぇ、おそらく。というより、もしかして詳しい状況についてはまだ?」


 黙って、洸は首肯する。彼女が手に入れた情報は事件の概要だけで、詳細についてはこれから調べるつもりだったのだ。


「そうですか。では暫く時間もありますし、私が説明しましょうか?」

「いいんですか?」


 真っ黒な瞳を瞬かせ、洸が問い掛ける。その顔には、意外の二文字が刻まれていた。

 なんせ刀子は疲れているのだ。一人でゆっくり休んだ方がいいだろうし、そんな彼女の時間を奪うのは気が引ける。

 しかし事件の中心人物から話を聞けるという魅力を否定出来ないのも、また事実だ。主犯とはいえ、表向きの立場で言えば洸は部外者であり、同時に犯人の友人でもある。エヴァンジェリンの処遇について参考意見を求められる事はあっても、会議に参加させられる事は無いだろう。故に現状を正確に把握する為には、刀子のような知り合いから直接聞くしかない。


「もちろんです」


 キッパリと言い切った刀子に、洸はまたパチクリ。同時に、心の天秤が傾いた。

 申し訳なさそうな表情をしながらも、隠しきれない期待を滲ませて、洸は小さく頭を下げる。


「それじゃあ、お願いします」

「はい。お願いされました」


 そう言って歩き出した刀子を追って、洸は来た道を引き返す。

 親友の所に行けるのは何時になるだろうかと、彼女はふと、そんな事を考えた。








 ◆








 石の扉。今、洸の前にはそう表現するしかないものが聳えている。いや、より正確には石の壁と言った方がいいかもしれない。確かに扉としての機能を持ったソレは、しかし何処にも取っ手がついていなかった。簡素な模様を描く浅い溝があるだけで、知らない者は誰もこれが扉だとは思わないだろう。周囲の壁との間に溝があるとはいえ、どうやって開けるのか想像も出来ないのだから。

 以前に明日菜との仮契約をした地下階層から更に下へと向かい、地の底に辿り着くのではないかと思うほど深い所にまで潜れば、この場所までやってこれる。関東魔法協会本部の最深部とも言える所で、特別な施設が幾つも存在している場所だ。

 たとえば洸の前にある扉の向こうには、一つの部屋がある。ただの部屋ではない。魔法が使えなくなる部屋だ。この階層にだけ幾つか用意されている特殊な施設で、凶悪犯の尋問や拘束に使用される事もあり、現在はエヴァンジェリンが此処に閉じ込められている。

 そんな石の扉の前に立った洸は、腕を上げて二度、軽いノックをした。そしてすぐに、彼女は苦笑する。分厚い石の扉にノックをした所で、中には響かないだろうと。案外、緊張しているのかもしれない。

 一先ず仕切り直した洸は扉に手を当て、直後、音を立てて石の壁は上昇し始めた。そうして床との隙間を徐々に広げていき、そのまま自らの目線の高さまで扉が上がるのを待ってから、洸は中へと足を踏み入れる。

 部屋の内装は、随分と簡素だった。無機質、と言ってもいいかもしれない。目に付いた家具はスチール製のテーブルとベッドだけで、あとはトイレとバスルームに通じる扉しか見付からなかった。十畳はあろうかという広い部屋なのに、本当に何も無くて、その質素さがまた、石壁の持つ圧迫感を強めている。唯一の救いは、部屋の中には監視カメラが仕掛けられていない事だろうか。


「こんにちは。調子はどう?」


 一通り部屋の様子を見回した洸は、奥の右隅にあるスチールベッドに寝転び、分厚いハードカバーを開いたエヴァンジェリンへと話し掛ける。彼女は一瞬だけ洸に視線を向けると、すぐに読書を再開した。そしてついでとばかりに、一言だけ口にする。


「暇だ」


 洸は溜め息をつき、入ってきた扉を閉めるとエヴァンジェリンの方に歩み寄った。そのままベッドに腰掛けた彼女は、寝転んだままの親友から強引に本を奪い取る。急に目の前から本が消えたエヴァンジェリンは、驚きで目を丸くしていた。


「だったら、雑談に付き合ってくれてもいいよね」


 わざとらしく微笑んだ洸の顔を見たエヴァンジェリンは、明後日の方に視線を向けて何事かを考えた後、面倒臭そうに体を起こした。そうして洸と並んでベッドに腰掛け、可愛らしく欠伸をした彼女は、涙を浮かべた目を擦りながら口を開いた。


「結局、アレでよかったのか? その様子なら上手くいってるみたいだが」

「問題無いよ。私としてはベストに近かったし」


 軽い調子で洸が答えると、エヴァンジェリンはなんとも言えない表情を作った。

 おそらく、最後の事を気にしているのだろう。確かに予定外の一騎打ちも、その結果としてネギに怪我を負わせた事も、元々の方針を考えれば見逃せるものではない。ネギの扱いは最も慎重に行うよう、洸は気を配ってきたのだから。

 ただあの場に限って言えば、なんの問題も無い。そう判断したからこそ自由にやらせたし、あんな風にエヴァンジェリン自身の意思で好きにやってもらった方が、今後の益になると考えたのだ。


「ネギ君がエヴァと会おうとした時点で、成功は確信してたよ。だからこそエヴァには好きにしてほしかった。これから仲良くする相手なんだから、やっぱりエヴァ自身の言葉で話し合わないとね」

「あん? もしかして予定通りだったのか?」


 少しだけ怒った表情のエヴァンジェリンに対し、洸は苦笑で返す。


「別にあんな展開は考えてなかったよ。まぁ、ネギ君には味方してもらうつもりだったけどね」


 手にしたハードカバーを置いて、洸は背中からベッドに倒れ込んだ。柔らかな布団が、その体を受け止める。エヴァンジェリンが非難するように冷めた目を向けてきたが、そんな事は気にしない。天井の明かりをボンヤリと眺めながら、洸はホゥと息を吐き出した。


「分かってると思うけど、ネギ君が色々言ってたヤツはわざと用意したものだよ。私の意図とは違う解釈もあったし、アレだけでもないけどね。たとえば傷を治さなかったのは、彼に負い目を感じさせるためだったしさ」


 ツリがちな目を眩しそうに細めて、洸は言葉を継ぐ。


「傷だらけの体を見せれば、女の子を傷付けたって罪悪感を覚える。そういう子だよ、ネギ君は」


 逆にすぐ傷を治してしまえば、真祖としての印象を強め、恐怖感を煽りかねない。だからこその指示だった。また他にも色々な指示を与えていたが、基本的にはどれもネギが指摘したような所に行き着く。つまりは、エヴァンジェリンの迷いである。


「楽観的過ぎだろう、それは」


 呆れたように喋るエヴァンジェリンを見て、洸は肩を竦める。


「停電中ならね。だけどコッチには高畑先生が居た。彼はネギ君の友人で、多くの魔法先生から信頼される人物でもある。事件後に二人きりでネギ君と話したいと言えば、ほぼ確実に受け入れられるよ。あとはジックリゆっくり、ネギ君を”慰め”ればいい」


 全ては、その為だった。あらゆる場所に種を蒔き、それを一つでも多くネギに覚えさせる。たとえ彼がそれらを気にせずとも、会話の中で自然と思い出させる事は難しくない。あとはエヴァンジェリンの友人でもあるタカミチが先導して、ネギ自身の願望と合わせ、彼にとって都合の良い『闇の福音』像を構築し直していく。

 精神的に追い詰められている時なら、確かに厳しい。だが危険から離れ、ネギの安全を確保した上でなら、彼の性格と相俟って容易い事でもある。彼自身の傷が浅ければ尚更で、その為に加減をするよう細かく指示を送っていた。


「だから大停電が始まって、学園側の動きを抑えた時点で九割方成功したはずだった」


 寝転んだ洸の顔を、エヴァンジェリンが上から覗き込む。


「神楽坂 明日菜か?」

「…………あの子だけは、正直怖かった」


 洸は、自らの目を手で覆う。


「色々理由はあるけど、明日菜を傷付けたらネギ君が大きなショックを受ける恐れがあった。というか、実際に受けたしね。そうなればネギ君がどんな反応を示すか分からなかったし、明日菜と一緒に居れば、更に深刻な精神状態になるかもしれなかった」


 実際には杞憂に近かった、というよりも明日菜が過激な状態になった所為で、逆にネギの方はそれなりに抑えられたという事だろう。ある意味では不安を残す結果だったが、今回の件に限って言えば僥倖だ。ネギが明日菜達と別れて行動すると決心した時などは、かなり肝を冷やしたものだ。そんな決死の覚悟を、洸は求めていた訳ではないのだから。


「完全に嫌われたら説得出来る自信は無かったし、もしもエヴァに対して否定的な態度だったら、まず確実に…………」


 右手の人差し指を立て、洸は自らの首をなぞった。


「そこまでか?」

「彼が許せば大丈夫。許さなければさようなら。そんな感じだよ」


 ネギは今回の件で最も直接的な被害者であり、また呪いを掛けたサウザンドマスターの息子でもある。そんな彼が許さないと言えば、最早エヴァンジェリンを庇おうとする者は居なくなるだろう。以前から多くの魔法先生が不信感を持っている事もあり、あっという間に大勢が決まるはずだ。そしてそうなれば、近右衛門ですら止められはしない。

 だが逆に言えば、ネギさえ味方に付ければどうとでもなるのだ。一番の被害者であるネギが熱心に『闇の福音』の減刑を主張すれば、積極的に反対する者は出ないだろう。あとはタカミチ達にフォローさせ、徐々に流れを変えていけばいい。予備システムの事はあるが、ネギを除けば大きな被害が出ていない以上、最終的には洸が望む結果に落ち着くはずだ。


「だから本当は、彼にも手伝ってほしかったんだけどね」

「誘えばよかったんじゃないか? ぼーやなら喜んで協力するだろ」


 緩やかに首を振って、洸は問い掛けを否定する。


「無理だよ。ありえないからね」


 疑問符を浮かべるエヴァンジェリンの顔を、洸は見上げる。その表情は、諦めの色で染められていた。


「ネギ君が『闇の福音』を庇うなんて、普通は誰も信じないよ。だから、絶対に調べられる」


 トントンと、洸は自分の側頭部を指で叩く。それを見て、エヴァンジェリンは得心がいった様子で頷いた。


「なるほど。記憶か」

「そういうこと。脅されたんじゃないか、記憶を弄られたんじゃないか、魔法で操られたんじゃないかって、入念に調べられるよ。彼の場合は、エヴァと同じ方法では誤魔化せないしね」


 学園最高の魔法使いである近右衛門と、その孫娘の洸による精神防護魔法。並の魔法使いどころか専門家であろうと破るのに苦労するソレを、エヴァンジェリンには掛けてあった。だから解除に四苦八苦する専門の魔法使いに代わって近右衛門が調査し、その報告内容をでっち上げるという流れを、些か不自然ながらも作る事が出来た訳だ。

 しかし最強の吸血鬼とされる『闇の福音』ならギリギリ通用するこの方法も、ネギでやるには不自然過ぎる。だから、ネギには話せなかった。話したら絶対にバレると確信していたから、こんな面倒な方法を選んだのだ。また個人的な理由を言えば、わざわざ彼にリスクを負わせたくなかったという事もある。

 ベッドに上半身を預けている洸は、その状態のまま小さく欠伸を噛み殺した。


「ん。だから……予定外の事はあったけど、結果的には上手くいったから満足だよ。ネギ君には感謝してる」


 涙を滲ませた黒い瞳で、洸はエヴァンジェリンの顔を見遣る。


「彼は気に入った? 仲良くしてくれたら嬉しいな」

「まぁ…………見込みはある方だな。面倒だが、少しくらいならぼーやに付き合ってやるさ」

「それはよかった」


 洸が微笑むと、エヴァンジェリンはやや難しい表情を浮かべて頭に手を置いた。それから彼女は、何かを思い出したように目を瞬かせてから、興味深そうに洸の顔を注視する。なんだろう、と洸が首を傾げると、彼女はそのまま口を開いた。


「お前はどうなんだ?」

「彼みたいな子は大好きです」


 間髪入れずに答えてから、洸は苦笑した。不満そうな様子のエヴァンジェリンに気付いたからだ。嫉妬、ではなく。エヴァンジェリンが望んだ類の回答をしなかった為だろう。それをあえて無視してもよかったが、洸は仕方無いと肩を竦めた。


「正直、羨ましいよ。魔法の才能もそうだし、何より、あそこでエヴァを信じられるとは思ってなかった」


 別にそこまでは期待していなかった。不信感が残っていてもよかった。最後の一線を超え、マイナス方向に気持ちが振り切れなければよくて、洸はその為に色々と気を配ってきたというのに、ネギはアッサリとあんな決断を下してしまったのだ。

 だから、羨ましい。決して満点ではないし、賢い選択とも言えなかったが、あの状況であそこまで真っ直ぐな思いを抱けるというのは羨望に値する。自分なら絶対に疑念を抱くと理解しているからこそ、洸は眩しく感じていた。


「ねえ……サウザンドマスターも、あんな感じ?」

「ふん。通じるものはあるが、アイツとは違う。あんなヤツ、似る必要も無いしな」


 吐き捨てるように答えたエヴァンジェリンの瞳は、少しだけ寂しそうな光を宿していた。視線を壁に向けた彼女が何を見ているのかは分からなかったし、どんな思いでいるのかは想像に任せるしかないが、なんとなく、洸はエヴァンジェリンから目を逸らす。


「そっか……」


 呟き、洸は天井の明かりを見上げた。当然のように眩しくて、その眩しさが、目に沁みる。

 そうして洸がボンヤリと意識を彷徨わせ、ベッドに預けた体から力を抜いていると、唐突に彼女の右手が握られた。握ってきた相手はエヴァンジェリンで、驚いて目を丸くした洸の頭上には、自然と疑問符が浮かび上がる。


「えっと、なに?」


 問い掛けられたエヴァンジェリンの唇が、ゆっくりと笑みを形作る。彼女にしては珍しい、純粋で、柔らかな微笑だった。


「ただの確認だよ。私の居場所のな」


 ギュッと、握った手に力が込められる。柔らかな手の平からは熱が伝わり、その熱は、そのまま洸の全身へと伝わった。明確に言葉にされなくても、理解出来る事はある。青い瞳に見詰められた洸は、エヴァンジェリンからプイと顔を背けた。


「……そっか」


 洸が発した声はあまりに小さく、呟いた彼女の頬は、リンゴみたいに赤く染まっていた。












 ――――後書き――――――――


 第二十四話の投稿です。お読みくださり、ありがとうございます。

 調子良く書けたので、かなり久し振りに一週間での更新です。とはいえ、流石に今回の更新が今年最後になると思いますが。

 さて、今回はオリキャラサイドの話ですね。前半はネギ達に事情を話せない代わりに、少しネカネに頑張って貰いました。ウェールズ来訪の一番の理由ですね、このイベントは。後半は大停電中は出せなかったオリキャラの思惑について簡単に解説しています。ある程度説明を省いて書いているのですが、上手く伝わっていれば幸いです。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 外伝一之一
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/01/17 21:31


 幼い頃、いや、そんな言葉では決して言い表せないほど遥か昔、少女は幸せだった。戦争が身近に存在する厳しい時代ではあったが、領主のお城に預けられ、お姫様として暮らしていた彼女にとっては遠い世界の出来事で、その事を危機と感じていた覚えはない。周りの者達は彼女に優しく、世界が彼女に優しく、そんな時間がずっと続くと思っていた。

 転機が訪れたのは、少女が十歳の誕生日を迎えた時の事だ。何があったのか、彼女自身も正確には理解していない。ただ気付いた時には吸血鬼にされていて、その憎しみから犯人を殺した事だけは鮮明に覚えている。酔いそうなほど強烈な血の匂いも、真っ赤に染まった両の手も、少女は一度として忘れた事は無い。

 それから後は、ずっと逃げてばかりの日々だ。周りの者達は彼女に厳しく、世界は彼女に厳しかった。まさしく転落だ。吸血鬼として追われる事も確かに辛かったが、世間知らずのお姫様にとっては、ただ生きていくだけでも地獄のようだった。自らの命を狙う者達から身を隠す一方で、食べ物が手に入らずに飢えていく惨めさ。最初の頃、少女は本当に死ぬような思いばかりしていた。

 けれど少しずつ力をつけ、知恵をつけていくにつれて命を脅かされる事は無くなっていき、代わりに、数々の悪評が少女を苛むようになる。闇の福音。不死の魔法使い。人形使い。この他にも、数多の呼び名が付けられた。気付けば命を奪う相手は、吸血鬼を狙う者から少女個人を狙う者へと変わっていて、彼女の傍から逃げていく者もまた同じくだ。

 名が売れて良かったのは、諦めの境地から少女を避けるのに専念する勢力が増えたこと。逆に悪かったのは、涙を浮かべて、心底から少女に恐怖して、それでも決死の覚悟で挑んでくる者が増えたこと。少女は真祖の吸血鬼で、最強の魔法使いだ。出来れば戦いたくないというのは、相手もコチラも変わらない。ただ向こうには、それでも戦わなければならない理由も、戦いを強制される理由もあっただけだ。そしてそんな手合いの命を奪う事が、少女には何より辛かった。

 だからやっぱり、強くなっても逃げ続ける日々だ。時には正体を隠して人里に紛れる事も、時には正体を知ってなお受け入れてくれる者と出会えた事もあったが、いずれは去っていく事に変わりは無かった。決して幸せな結末は待っていないと、理解していたから。

 そうして時が過ぎ、孤独を癒せぬまま時代を経ていった少女は、やがて一人の魔法使いに出会った。

 ナギ=スプリングフィールド。サウザンドマスターと呼ばれるその男に、少女は恋をした。無神経な所はあったが、同時に周囲の者の心を明るく照らす、太陽のような性格をした男だ。少女に対しても何一つ物怖じしない態度が好ましくて、憎らしいくらいの能天気さは一緒に居ると楽しくて、彼の仲間と共に、心地良い時間を彼女に与えてくれた。

 そして何より、ナギは強い。力も、心も、少女が見た事無いほど強かった。だから彼女は思ったのだ。彼となら、一緒に生きていけるのではないだろうかと。今まで好いた誰よりも強い彼なら、少女と共に生きても、傷付く事は無いのかもしれないと。

 きっとそれが、彼に執着した一番の理由だった。まるで飢え渇いて砂漠を彷徨う中で、瑞々しい果実を目の前に落とされたかのような誘惑が少女を縛り付け、だからこそ彼の死は、彼女にかつて無いほどの衝撃を齎したのだ。












 ――――外伝一之一――――――――












「…………馬鹿者め」


 掠れた呟きと共に、エヴァンジェリンは目を覚ました。視界に映ったのは木製の天井で、それが見慣れたログハウスの物であると認識すると同時に、どうしてボヤけて見えるのだろうかと疑問が浮かぶ。ただそれも僅かな時間の事であり、彼女はすぐに原因に気付いた。なんて事はない、彼女が涙を流していたからだ。

 これもナギの所為だと、胸に走る痛みを無視して、エヴァンジェリンがボヤく。

 嫌な夢を見た。まるで走馬灯のように、思い出を踏み締めていく夢だ。悲しみから始まり悲しみで終わるそれは、幸せはあっても救いは無い、実に陰鬱な気持ちにさせてくれる悪夢だった。

 とはいえ、何時までも落ち込んではいられない。起き上がろうと体に力を込めたエヴァンジェリンは、


「――ッ!?」


 突然襲ってきた激痛で声を失った。手足が動かない。熱された針を無数に突き刺されたような痛みが走り、指の一本すら動かせない。気を抜いていた所への不意打ちが、なんの心構えもしていなかったエヴァンジェリンを苦しめる。

 脂汗を滲ませ、一体なんなんだと舌打ちする。

 そもそもどうして自分のベッドに寝ていたのか。ここに到り、エヴァンジェリンはようやくその事に疑念を抱いた。普通に考えれば何も可笑しい事ではないが、言い様の無い違和感を覚え、彼女は思索を巡らせる。昨夜は何をしていたのか。眠ったのは何時だったのか。自らの記憶を探ろうと、エヴァンジェリンは意識を集中させていく。

 だからだろうか。近付いてくる気配に、彼女が気付けなかったのは。


「あぁ、ようやく起きましたか」


 いきなり投げ掛けられた言葉に、エヴァンジェリンは全身を緊張させた。聞こえてきたのは、少女の声だ。あどけなさを残し、それでいて冷たく凛とした響きを持った、大人びた少女の声だった。

 聞き覚えは無い。いや、あった。耳を揺らしたその声に共鳴するように、エヴァンジェリンの記憶が掘り起こされる。昨夜は何をしていたのか。その時に何があったのか。彼女は鮮明に思い出していく。

 だから急いで体を起こそうとして、またすぐに痛みで固まった。胴ではなく手足。そこが痛みの発信源だ。


「無理はしないでください。頭と胴は無事ですが、あとは酷い状態ですから」


 痛みに身を震わせるエヴァンジェリンの下に、足音が近付いてくる。同時に発せられた言葉は、その内容とは裏腹に、まるで気遣いが感じられない声色をしていた。義務感しか存在しないようなその声は、聞いているだけでも胸糞が悪くなりそうだ。


「おはようございます。二日ほど寝ていた訳ですが、気分はどうでしょうか?」

「近衛……洸ッ」


 ベッド脇で立ち止まり、覗き込んできた少女を、エヴァンジェリンは睨み付ける。

 艶のある黒髪、ツリがちな目、形の良い唇。柔らかな輪郭を持ちながらも怜悧な雰囲気を纏った、十歳前後の少女。名前は近衛 洸。初めて会ったのはエヴァンジェリンが眠る――――――――気を失う直前で、その時に彼女に怪我を負わせた張本人だ。


「そんな犬を前にした猫みたいな顔をしなくても大丈夫ですよ。危害を加えるつもりはありませんから」

「貴様…………いや、待て。二日だと?」

「そうですよ。今は貴女を捕まえた夜の翌朝の、そのまた翌朝です。まぁ、もうすぐお昼なんですけどね」


 洸の言葉を受け、エヴァンジェリンが目を見開く。まさか、そこまで時間が経っているとは思わなかった。彼女の認識では洸と戦ったのは昨夜の事で、今はその翌朝だと勘違いしていたのだ。

 そうしてエヴァンジェリンが固まっている間に、洸がゆっくりと手を伸ばしてきた。


「ちょっと失礼しますよ」

「あっ、おい!」


 エヴァンジェリンの警戒を無視して、洸が布団を捲くる。冬場の冷気が舞い込むかと思ったが、部屋の中には十分に暖房が行き渡っていたようだ。温かな空気が、エヴァンジェリンの体を優しく包み込んでくれる。

 同時に彼女は、自らが薄い病衣を着せられている事に気付いた。前開き、紐止めとなっている半袖のワンピースタイプで、淡い水色のソレは、明らかに新品といった様子で清潔感に溢れている。そして袖から出た両腕には、白い包帯が綺麗に巻き付けられていた。


「思ったより汗を掻いていますね。室温は維持して、もう少し布団を薄くしましょうか」


 勝手に呟いて勝手に納得している洸に、エヴァンジェリンは苛立ちを募らせる。

 訳が分からなかった。どうしてこんな状況になっているのか、理解出来なかった。近頃のエヴァンジェリンは、学園側には内緒にして吸血活動を行っていたのだ。命までは奪わないとはいえ、麻帆良学園の生徒を何人も襲い、何時しか吸血鬼の噂が流れるほどに犠牲者を出してきた。そしてそんな吸血鬼を退治する為に、あの夜の洸はやってきたはずなのだ。

 なのに、どんな理由があって、これほど安穏とした空気に包まれているというのか。傷が治っていないとはいえ、治療自体は行われているようだし、体が拘束されている訳でもない。しかも現在居るのは学園の施設ではなく、自宅のログハウスだ。


「おい、どういう事だ」

「何がですか? 物を尋ねる時はハッキリ言ってください」


 取り出したメモにペンを走らせながら、呆れたように洸が喋る。その態度に青筋を立てるも、エヴァンジェリンは努めて冷静を装って対応した。今はガキに付き合って時間を無駄にしている場合ではない。


「どうして私はココに居るんだ、と聞いている。吸血鬼事件の犯人として捕まったんなら、それなりの対応というものがあるだろう」


 洸は眉間に皺を寄せて目を瞑り、ペンで何度かコメカミを叩いた後、これ見よがしに溜め息をついた。


「学園長の御意思です。最終的な処遇は決まっていませんが、そう酷いものにはならないでしょう。あえて罰とするなら、魔法の治療が受けられない事でしょうかね。最低限の事は専門の方がやってくれましたが、それ以上となると方々から不満が出ますので。もちろん、一般の病院に入院という事もありません。そんな所に貴女を置いておく訳にはいきませんから」

「じじいか…………まぁいい。それで、お前がココに居る理由はなんだ?」

「貴女の監視役兼世話役ですよ。コチラは勝手な真似をした私への罰ですので、どうかお気になさらず」


 メモを仕舞い、洸はかしこまった表情でエヴァンジェリンを見下ろした。子供の顔だ。柔らかさを残した、幼い面立ちだ。だが同時に感じるのは、その冷たさ。情の欠片も感じられない、可愛げの無い黒い瞳がエヴァンジェリンの顔を映している。


「改めまして、学園長の孫娘の近衛 洸です。これから暫く一緒に暮らす事になりましたので、よろしくお願いします」


 そう言った洸の声は、ちっともよろしくする気が無いような平坦なもので、二人の共同生活は、そんな素っ気無い挨拶から始まった。




 □




「…………で? これはなんだ?」


 エヴァンジェリンの声には、明らか過ぎるほどの苛立ちが込められていた。半眼で睨むその表情にはハッキリと不快の文字が書かれ、また滲み出す怒気は視覚化出来そうなくらいなのだが、肝心の話し相手である洸はまるで気にした様子が無い。いつも通りの平常運転といった態度で澄ました顔で居る彼女は、やっぱり平坦な声で答えてみせた。


「お粥ですよ。二日間なにも食べていなかったんですから、胃に優しい物じゃないと」

「んなモン見ればわかるわ! この状況はナンなんだと聞いてるんだ!!」


 声を張り上げたエヴァンジェリンの口元には、湯気を立てるレンゲがある。そこには美味しそうな匂いを漂わせるお粥が乗っていて、またその取っ手は洸が握っていた。どこからどう見ても、洸がエヴァンジェリンに食べさせようとしている体勢だ。

 二日ぶりに目を覚ましたエヴァンジェリンに対して洸が最初に提案したのは、昼食を取る事だった。栄養補給の点滴ばかりでスッカリ空っぽになった胃を満たすため、何か食べるべきだという意見だ。もちろんエヴァンジェリンとしても文句は無かったのだが、その結果が今のコレである。素直に口を開くには、流石に抵抗があった。


「だって、その腕では自分で食べる事は出来ないでしょう? あぁ、それとも食事の前にお祈りが必要でしたか?」

「誰が祈るか。だから私が言いたいのは――――――」

「意地を張って、無意味に看護を断る方がカッコ悪いですよ」


 エヴァンジェリンの言葉を遮った洸が、彼女の心境を見透かしたかのように言い切った。

 絶対に、性格が悪い。目の前の少女に対してそんな確信を抱いたエヴァンジェリンの口元に、白いレンゲが更に近付けられる。食欲をそそる匂いに刺激されて、エヴァンジェリンの胃が収縮する。点滴では満たされないモノを求め、今にも鳴き出しそうだ。

 少しだけ、悩む。誘惑に負けて食べてしまうのか、それとも頑なに拒み続けるのか。考えて、考えて、結局彼女は、腹を鳴らして恥の上塗りをするならばと、躊躇いがちに口を開いた。

 すぐに、けれど丁寧にレンゲが口内へと運ばれる。


「…………美味い」


 軽く噛んでから飲み込んだエヴァンジェリンは、自然とその言葉を零していた。

 腹が減っていたという事もあるが、確かに美味い。潰される事無く、ふっくらと柔らかく煮られた米粒は触感がよく、染み込んだ昆布出汁はあっさりとした風味で食べやすかった。微かに感じた酸味は梅肉だろうか。土鍋の方を見れば、梅肉の他にも鮭や野沢菜などが、ささやかな彩りを添えている。あくまでも米を主体としたその構成は、いかにも病人向けといった感じだ。

 ただ本当に美味しいとは思うのだが、それを口にしたのは失敗だった。だって、悔しい。これでは洸に負けたみたいで、凄く悔しい。洸だって、きっと得意そうな表情を浮かべているに決まっている。エヴァンジェリンは、そう思っていた。


「そうですか。それはよかった」


 だからこそエヴァンジェリンは、なんの含みも無く喜ぶ洸を見て何も言えなくなった。彼女の目に映った洸は、初めて見るような子供らしい笑みを浮かべていて、その純粋な表情はあまりに予想外で、エヴァンジェリンは驚いたように視線を逸らす。


「――――っ」


 イヤなガキだと思った。本当にイヤなガキだと、彼女は自分に言い聞かせた。








 ◆








 近衛 洸との共同生活が始まってから一週間が過ぎ、エヴァンジェリンは徐々に環境の変化に慣れ始めていた。

 たとえば朝は洸に起こされて顔を洗われる事から始まり、その次は包帯の巻き替えと共に体を拭かれて病衣を着替えさせられ、更には朝食を洸の手により食べさせられる事になっている。エヴァンジェリンのプライドを散々に傷付けてくれるこういった習慣も、顔色一つ変えずに行う洸の影響か、今では仕方無いと割り切っている。

 もっともトイレに関しては意地を通したし、本すら禄に読めない現状には飽き飽きしていた。だから今日もまた退屈に蝕まれた彼女の心は、それを少しでも紛らわせようと、忙しなく動き回る洸に話し掛けるのだ。


「なぁ、お前は私が嫌いじゃないのか?」


 埃を舞い上げないように気を付けてモップ掛けをする洸を見て、エヴァンジェリンはふとそんな事を口にする。

 少しだけ、疑問に感じていた。洸はエヴァンジェリンを捕まえた魔法使いで、彼女の手足を穴だらけにした張本人だ。確かに必ず殺すという雰囲気ではなかったが、死んでも構わないくらいの事は思っていたはずで、事実として危うい状態だったと聞いている。

 ただこの一週間を共に過ごした洸は、不思議とエヴァンジェリンに対して優しかった。

 別に矢鱈と笑顔を見せてくれる訳ではないし、感情の籠った気遣いの言葉を掛けてくれた訳でもないのだけれど、世話をする洸は常に丁寧で誠実な仕事をしているし、エヴァンジェリンの我侭もなんだかんだで聞いてくれる。決して好かれているとは思わないが、無闇に嫌われているとも思えなかった。


「嫌いですよ。貴女のお陰でどれだけ麻帆良の人達が迷惑したと思ってるんですか」


 だから真顔でそう返された時、エヴァンジェリンは一瞬だけ言葉を失った。


「…………その割には、真面目に仕事をするんだな」


 掃除の手を止めて振り返った洸が、出来の悪い生徒に言い聞かせる教師のような目で見下ろしてくる。


「貴女を嫌うのは私の意思で、世話をするのはお爺様の意思です。どちらを優先すべきかなんて、今更お教えするまでもないでしょう」

「あぁ……なるほどな」


 阿呆らしいと脱力すると共に、エヴァンジェリンはこれ以上無いというほど納得した。

 考えてみれば、わざわざ悩むまでも無い事だ。まだ一週間程度の付き合いしかないとはいえ、一緒に暮らしていれば色々と相手の事が分かってくるものだ。たとえば洸が甘党だという事や、家事をする時には長い黒髪をうなじの辺りで一つに纏めている事などがそうで、中でも初日から確信を抱けたのは、彼女が非常に祖父の近右衛門を敬愛している事だった。二言目には学園長が、三言目にはお爺様がと繋げる洸に、当初はエヴァンジェリンも驚き呆れたものだ。


「貴女の方こそ、少し大人し過ぎませんか?」


 一人で得心していたエヴァンジェリンは、唐突に問い返された所為で目を丸くした。


「あの夜の貴女は、もっと必死でしたよ」


 窺うような視線が、エヴァンジェリンに向けられる。疑念、というよりも戸惑いの色が、洸の瞳には見て取れた。

 言葉の意味は、イマイチよく分からない。ただエヴァンジェリンは、それとない居心地の悪さを感じていた。


「それは…………身の危険が迫っていたんだ、必死にもなるだろう」


 間違っているだろうという漠然とした確信を抱きながらも、エヴァンジェリンはそう返す事しか出来なかった。案の定と言うべきか、洸はなんとも言えない微妙な表情を浮かべて眉根を寄せている。


「いえ、そうではなくですね。こう、なんというか…………」


 言い淀んだ洸は、そのまま顔を俯かせて首を振った。


「やっぱり、なんでもありません。どうでもいい事ですしね」


 それきり黙り込み、洸は何事も無かったかのように掃除を再開した。

 勝手な奴だ。身勝手にそんな事を考えて、エヴァンジェリンは拗ねたように洸から視線を背けた。そうして寝転んだ状態で天井を仰ぎ見て、彼女は思考を巡らせる。どこか座りの悪い胸の裡を鎮めるように、心の底に潜っていく。

 大人し過ぎると洸は言ったが、確かにそうなのかもしれない。文句はある。不満もある。しかしなんだかんだと言いつつも現状を受け入れているのは事実で、また傷が癒えても何かをしようという気持ちも湧いてこない。

 学園生を襲っていた時は、こうじゃなかった。もっと熱い何かが体の奥に渦巻いていて、洸に追い詰められた時だって、意識を無くす直前まで抵抗する気力は萎えていなかったはずだ。だというのに、この体たらくはなんだというのだろうか。

 いや、そもそもの問題は逆だ。第一に、どんな理由で生徒達を襲っていたのかが思い出せなかった。


「――――――どうして、あんな事をしたんだろうな」


 エヴァンジェリン自身ですら言った後から気付くほど自然に、そんな事を口にしていた。


「おや。見た目は子供でも所詮は歳ですか? この上ボケられては、流石の私でも辛いモノがあるのですが」

「喧嘩を売ってるのか? クソガキめ」


 首を動かして洸の居る方を睨み付ければ、彼女は立ち止まって冷めた視線を向けてきた。それから呆れた風に溜め息を吐くと、何一つ喋らないまま掃除を再開してしまう。結んで尻尾になった黒髪を揺らしながら、洸は黙々とモップを掛けていく。

 お話にならないとでも言いたげなその態度に、エヴァンジェリンは柳眉を震わせた。


「ええい。言いたい事があるならハッキリ言えッ」


 苛立ち紛れに身を捩ったエヴァンジェリンは、その拍子に腕を動かした所為で痛みに打ち据えられた。目に涙を浮かべて、それ以上は何も言えずにいる彼女に対し、やはりと言うか、洸は憐れみにも似た視線を向ける。そうして彼女は、何度目かになる溜め息をついた。


「全部で十六人。内、大学生が二人。高校生が三人。中学生が十人。小学生が一人。それが、貴女が襲った人達です」


 淡々とした声で、洸が語る。その表情は相変わらず冷涼としていたが、だからと言って無感情とも思えなかった。


「貴女の趣味かもしれませんが、全員が女性です。たしかに症状は貧血程度でしたが、殆どの人は発見されたのが翌朝でした。そちらが原因で体調を崩した方も多く、また周囲で騒ぎになったケースも少なくありません。一連の事件で、本人が気味悪がっている場合もね」


 洸はモップ掛けの手を休める事無く、同時に、口を動かす事もやめない。


「貴女がやったのはそういう事です。別に謝れとも悔いろとも言いませんが、目的も無くやっていたというのなら軽蔑します」

「……元々、嫌いなんだろ?」

「嫌う事と軽蔑する事は別ですよ」


 キュッと音を立てて、モップを掛け終えた洸が立ち止まる。振り返ってエヴァンジェリンの方を見た彼女の顔からは、やはり苛立ちの類は感じられない。本当に何も無かったかのように、普段通りの様子だった。


「それでは掃除が終わりましたので、私はこれにて失礼します。何か御用があれば、いつも通りコチラにどうぞ」


 洸の言葉と同時に、彼女の足元から一つの影が現れる。目が黒く、口が黒く、全身が黒いソレは、比喩でもなんでもなく、文字通りの影だった。子犬の姿を形作ったソレは洸が生み出した影の使い魔であり、エヴァンジェリンの監視役でもある。

 使い魔は部屋の隅までトコトコと歩いていくと、そのまま床に体を伏せてベッドの方へと顔を向けた。この一週間ですっかり馴染んだいつもの定位置だ。特に自意識がある訳ではないらしいが、エヴァンジェリンとしては居心地が悪い事この上無かった。

 そうして彼女がげんなりした表情を浮かべていると、それを尻目に、洸が階段を降りていく。

 随分とアッサリしたものだ。階下に消えていく洸を見送ったエヴァンジェリンは、そんな事を考えた。もう少しグチグチと説教染みた話が続くのかと思っていたのだが、拍子抜けするほど何も無い。

 案外どうでもいい話だったのか、或いはエヴァンジェリン個人が洸にとってはどうでもいいのか。


「……よくわからんヤツだ」


 この数年間で見慣れ、この一週間で見飽きた天井を見上げて、エヴァンジェリンが呟く。

 なんだか、イライラする。胸がムカムカして面白くない。何故か湧いてくるそういった感情を纏めて奥の方に押し込んで、彼女は目を閉じた。眠ればいい。面倒だから、眠って、忘れて、何も考えなければいい。

 そうして彼女の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。





 □




 寝過ぎた。夜中になってもまるで閉じる気配の無い目蓋を恨めしく思いながら、エヴァンジェリンはそんな後悔を抱く。昼の不貞寝が祟ったのか、どれほど寝ようと思っても眠気がやってこない。寧ろ眠ろうとすればするほど、頭が冴えてくる。

 いつもであればとっくに寝静まっているこの時間、昼間は家事の音で紛れる静寂が、痛いほどに耳をつく。自らの呼吸音すら煩わしく感じられるその中で、何をするでもなく、エヴァンジェリンは天井を見詰めていた。

 月明かりによって青白く染め上げられた室内は、なんとも言えない侘しさを醸し出している。森の中にあるこのログハウスは、辺りに他の家も無く、エヴァンジェリンはまるで世界に自分だけが取り残されたような錯覚に襲われた。そんな訳がないと理解はしていても、勝手に胸が締め付けられて、苦しくなってくる。

 馬鹿みたいだと自嘲し、直後に彼女は、色々と弱っている事を自覚した。


(…………いかんな)


 心が参っている。夜は吸血鬼の領域だというのに、これではただの少女みたいだ。

 何が駄目かといえば、そんな自分に憤り感じていない事が駄目だった。驚くほど無気力で、自分に対して無関心だ。闇の福音としてはあるまじき状態だというのに、それが分かっていてなおエヴァンジェリンの心は奮えない。どうしてだと自問しても答えは見付からず、ひたすらに無意味な思考が空回りを続けて、時間だけが過ぎていく。

 カッチ。コッチ。カッチ。時計の針が時の経過を口ずさみ、


「どうかしたんですか? 夜更かしは体に毒ですよ」

「私は吸血鬼だぞ。むしろ薬になる」


 静寂を破る洸の問い掛けに、エヴァンジェリンは間髪入れず返答する。

 予感はあった。洸が話し掛けてくるだろうという、漠然とした予感が。それなのに自分から声を掛けなかったのは意地で、待ち望んでいたかのようにすぐ返事をした理由は、きっと言葉にしにくい何かだ。

 エヴァンジェリンが首を曲げると、二階の一角を切り取る形で設置されている茶室から洸が出てくるのが見えた。濃紺の寝間着に身を包んだ彼女は、特に眠たそうな様子も見せず、普段通りの表情で佇んでいる。


「割と嘘ですよね、ソレ」

「かもな。寝ている方が傷の治りは良いだろう」


 呆れたように、洸は自らの髪を梳く。艶やかな黒髪が月光を反射し、その煌めきを妖しく揺らしながら、彼女が歩み寄ってくる。


「傷が痛みましたか? それなら薬を用意しますが」

「いらん。むしろ調子は良い方だ」


 そうですか、とどうでもよさそうに応えた洸は、ベッドの近くまで来ると無造作に椅子へと腰を下ろした。

 彼女が腰掛けた椅子は、元からベッドの傍に置かれていた訳ではなく、魔法によって影から作られた急造の物だ。魔法の練習として、洸はちょくちょくこういった事をする。その一つ一つは見習い魔法使いらしく大した魔法ではないのだが、同時に制御する数や、術式の精微さにはエヴァンジェリンも一目置いていた。

 息をするように魔法を使う。それが、エヴァンジェリンが洸に対して抱いた感想だった。


「なら子守唄でも歌いましょうか? 貴女が起きていると私も寝れないので」


 警戒しているのだろう、とエヴァンジェリンは思った。この一週間の記憶を掘り起こしてみたが、洸が眠っている所を見た事は無い。敵意や悪意を抱かれている様子は無いが、同時に油断も隙も無いという訳だ。


「遠慮する。それより、少し話に付き合え」

「いいですよ。偶には夜更かしも悪くありませんしね」


 洸は椅子の背もたれに体を預け、話を聞く体勢に入った。だが、洸に隙は無い。何時でもエヴァンジェリンを取り押さえられるという心積もりが、見た目にはリラックスした態度の裏に見て取れた。まったくもって、子供らしくない少女だ。

 だからだろうか。エヴァンジェリンは、少しだけ彼女の事を知りたくなった。共に暮らし始めてから七日が経つが、思えば彼女個人の事については殆ど聞いていない。何時まで続く関係かは分からないが、多少の知識は仕入れておいても良いだろう。


「…………お前は優秀だな、近衛 洸」

「そうですね。天才だ、とよく言われます」


 なんの臆面も無く言い切った少女は、きっと良い面の皮をしているのだろう。


「まったく、流石はじじいの孫娘といった所か。しかし学校はいいのか? 一度も行っていないようだが」

「構いません。魔法の勉強を重視してはいますが、一般教養も高校卒業レベルには達していますから」


 一般人からすればとんでもないその申告を、エヴァンジェリンは特に感慨も無く受け入れた。魔法学校の卒業生は大学生から大学卒業レベルの知識を持つと聞いている。洸の年齢を考えれば、少し優秀といった程度に収まる範囲だろう。


「だが友人は居るだろう? 寂しくないのか?」

「一人も居ませんから、別に」


 エヴァンジェリンの目が、驚きで丸くなる。

 意外、と言うしかない。確かにエヴァンジェリンに対しては愛想が良くない洸だが、彼女が真祖の吸血鬼という事を鑑みれば、むしろ破格の対応だと思っている。そんな少女が友達の一人も居ないというのは、俄には信じ難い事だ。これまでの対応を見る限りでは話下手という訳でもないようであるし、どうにも納得出来なかった。

 そんなエヴァンジェリンの心情に気付いたのか、洸が表情を硬くして嘆息する。


「ご心配無く。単に私が必要としていないだけですから」

「……ほう。しかし、じじいは心配するんじゃないか?」


 洸の顔が歪む。そこに浮かぶのは、祖父に対する申し訳なさだろう。


「それは…………そうですが。心にも無い友達付き合いでは、逆に心配されますから」


 再び意外な返答だった。逆らったと言うほどではないが、エヴァンジェリンが覚えている限りでは、初めて近右衛門の意思に沿わない回答をした事になる。しかも洸自身がその事を認めているのだから、余計に違和感は増すばかりだ。

 不可解そうに眉を潜めたエヴァンジェリンから、洸が目を逸らす。その反応が、彼女の好奇心を刺激した。


「友人を作る努力くらいはしてもいいんじゃないか? 私の世話をするよりは遥かに楽だろう」

「イヤですよっ」


 強い語調で反論した洸は、次いでしまったという風に歯噛みした。その様子に、エヴァンジェリンは面白そうに目を細める。ニヤリと口元を歪める彼女に対し、洸はココに来てから初めて浮かべるような苦い表情を見せた。


「なるほど。そう来るか」

「友達を持つ事に異議はありません。ただ、今はその気になれないだけです」


 拗ねたように口を尖らせて、洸が吐き捨てる。その姿は本当に子供のようで、年齢相応に不貞腐れているようで、エヴァンジェリンは可笑しくなった。この少女もこんな顔をするのかと、喉の奥から笑い声が漏れる。

 そんなエヴァンジェリンの態度が気に障ったのか、口元を固く結んだ洸はスッと表情を消した。


「すみませんが、この話はこれまでという事で」

「逃げるか。女が廃るぞ」


 くつりと笑ったエヴァンジェリンに取り合わず、洸は黙って立ち上がる。それに伴って舞い上がった黒髪は、彼女の心境を映したかのように落ち着き無く揺らめいていた。事実、常ならば微動だにしない重心が、今は若干ブレている。


「えぇ。原因は私の未熟に、不徳にありますからね。自省はしますが、他人につつかれて喜ぶような性癖はしていませんよ」


 およそ子供らしくない事を言って、洸は機嫌を損ねた子供のように茶室へと戻っていく。

 余裕の無さが滲み出たその背中を見送りながら、エヴァンジェリンは頬を緩ませる。


「私が寝るまで、お前も眠らないんじゃなかったのか?」


 からかいの言葉を向ければ、洸は障子に掛けた手をピタリと止める。そのまま悩むように動きを見せなかった彼女は、暫くすると自分の中で決着がついたのか、荒い手付きで障子を開けた。


「起きてます。見張ってます。ちょっと、一人になりたいだけです」


 茶室に入った洸が、振り向かないまま、後ろ手に障子を閉める。普段なら絶対にしないその行動に、エヴァンジェリンが目を細める。

 動揺しているのは分かる。丸分かりだ。しかし、何に対してだろうか。近右衛門の意思に添えない事を気にしているのか、はたまた、『友達』に対して思う所があるのか。結局、手に入った情報は殆ど無くて、興味を惹かれた話題も核心には触れていない。眠気にしてもまだまだ訪れる気配は無いし、割と散々な成果だった。

 けど、十分だ。十分、暇は潰せそうだった。

 暇だから。そう。暇だから、この件で思索に耽ろう。イマイチ愛想が悪く、面白みに欠ける同居人の、少しだけ興味深い部分。それを探ってみるのも悪くなさそうだ。そんな事を考えながら、エヴァンジェリンは静かに目蓋を閉じた。












 ――――後書き――――――――


 外伝一之一を投稿しました。お読み下さり、ありがとうございます。

 この話はオリキャラとエヴァンジェリンの過去編という事になります。色々と書きたいエピソードはあるものの、今回は三話ぐらいで短めに纏められたら、と考えています。アレもコレもと付け足していたら、際限が無くなってしまいそうなので。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 外伝一之二
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/05/02 19:32


「どうぞ、学園長。お口に合うといいのですが」


 気持ち悪い。初めにエヴァンジェリンが思い浮かべたのは、そんな身も蓋も無い感想だった。

 近衛 洸が笑顔だ。声が明るい。仕草の一つ一つに優しさが滲み出ている。愛くるしい容姿の少女がすれば文句が出るはずもないそれらの事柄も、普段の洸を知るエヴァンジェリンからすれば不気味な事この上無い。ゾワゾワと背筋を這い上る寒気を感じながら、彼女はこの非常事態の原因となった人物へと胡乱気な視線を向けた。

 皺くちゃの顔に、口元が見えなくなるほど髭を蓄えた一人の翁。洸の祖父である近右衛門が、ベッド脇の椅子に座っている。


「アレはなんだ?」


 来客用に用意されたテーブルに緑茶を置き、鼻歌でも聞こえてきそうなほど上機嫌に去っていく洸を眺めながら、エヴァンジェリンが尋ねる。ここ暫くは笑顔の一つも見せなかった彼女だが、今日はまた一段と表情を顰めていた。


「ワシの可愛い孫じゃな。お主も知っておろう?」

「あんな気味が悪いのは知らん」


 近右衛門がやって来る。その事を洸から聞かされたのは、昨晩の事だ。同居生活も十日を過ぎ、徐々に常態化し始めた新生活の中で、珍しく興奮した様子の洸の顔が記憶に残っている。彼女が近右衛門を慕っている事はよく理解していたつもりだったが、豹変とも言えるほどの態度の違いには、流石のエヴァンジェリンも驚きを隠せなかった。


「人見知りの激しい子じゃからな。本当は優しい良い子なんじゃがの」

「……お前、わかってて言ってるだろ」


 呆れた様子で、エヴァンジェリンが嘆息する。


「友達が居ないらしいぞ、お前の孫娘は」


 そう言ってエヴァンジェリンは、チラリと階段の方へ目を遣った。洸が戻ってくる気配は無い。当然だ。二人きりで話したいと望んだ近右衛門の意思を、彼女は絶対に無視出来ない。それが、エヴァンジェリンの知っている近衛 洸だ。

 だから今は、洸に聞かれる事無く話が出来る。


「らしいの。イジメなどではないようじゃが」

「あぁ、その線もあったのか」


 強い少女というイメージがあったから、そういった可能性は考えていなかった。ただ、言われてみればその素養もあるように思えて、なんだか不思議な気分になってくる。クラスメイトから無視され、疎外される洸の姿が、容易く脳裏に浮かぶ。

 自分は彼女に対して、一体どんな印象を抱いているのだろうか。そんな事を考えて、エヴァンジェリンは自嘲するように苦笑した。


「なんじゃ、思ったより元気そうじゃの」

「あん?」


 思わず変な声を上げてしまったエヴァンジェリンに対し、近右衛門は愉快そうに笑ってみせる。


「今回の件、麻帆良の学園長としては怒っておるが、お主の友人としては心配しとったんじゃぞ」

「はっ。私は『闇の福音』だぞ。何を心配する必要がある」

「体の方は散々みたいじゃがのう」


 近右衛門の言葉に、エヴァンジェリンは眉間に皺を寄せた。彼女の四肢には、真新しい包帯が丁寧に巻かれている。撃ち込まれた弾丸に仕込みがあったのか、傷の治りは遅々として進んでいなかった。

 まったくもって忌々しいと、エヴァンジェリンが舌を打つ。


「ナギの事もあるしの。知っておるんじゃろ?」

「――――ッ」


 今度は、エヴァンジェリンから表情が消える。何か大切なモノをゴッソリと削ぎ落したかのように、そこには色が感じられなかった。近右衛門は、何も続きを話さない。湯気を立てる湯飲みに口付けながら、ジッとエヴァンジェリンを観察している。

 そのまま静寂が訪れ、湯飲みの中がスッカリ空になってしまう頃になってから、ようやくエヴァンジェリンが口を開いた。


「アイツは、易々とヤラれるような奴じゃない」

「まぁ、そうじゃの」

「だが生きているのなら、あんな”馬鹿げた噂”は、とうの昔に吹き飛ばしているはずだ」


 近右衛門は、沈黙だけを返してきた。そこに含まれている意味は、間違い無く肯定だろう。


「だからアイツは、ナギは、本当に死んだのかもしれない」


 淡々とした声だった。事前に用意された原稿を読み上げるロボットか何かみたいに、エヴァンジェリンの声は冷たかった。


「だから私は――――――」


 ――――――心細いのかもしれない。


 会えなくても、離れていても、迎えに来てくれなくても、確かにナギを信じていた。その強さと輝きを知っていたから、きっとまた何処かで馬鹿をやっていて、その内、思い出したようにフラリとやって来るのだと考えていた。

 なのに、消えてしまったから。彼との絆とも呼ぶべき信頼が、崩れてしまったから、今のエヴァンジェリンは寂しいのかもしれない。何も持たなかった頃とは違い、ナギから与えられた温もりがあったから、喪った事に耐えらなかった。まるで夜道に一人で放り出された子供のように、何をすればいいのか分からなくなったのだ。

 あぁ、とエヴァンジェリンは息を吐く。

 今回の件の理由を挙げるとすれば、ソレなのだろう。進むべき道を見失ったから、唐突に訪れた理不尽に対し、同じく理不尽な怒りを覚えたのかもしれない。それこそ癇癪を起こした子供のように、手近な何かにその激情をぶつけたのだ。


「あの子は、よくやっておるか?」

「…………一人よりは二人。つまりは、そういう事かもな」


 言葉を放ってから、エヴァンジェリンは憎々しげに口元を歪めた。


「今の話は忘れろ。気の迷いだ」


 弱っているのは確かで、人恋しいのも間違いではない。だから、こんな言葉がポロリと零れる。近衛 洸に、興味を惹かれる。

 まだ痛む腕に、それでも力を込めて、エヴァンジェリンはシーツを握る。情けなくて、悔しくて、でもそれを近右衛門に悟られるのが嫌で、意地を張って仏頂面を作る。そんな彼女を、近右衛門は静かな視線で見詰めていた。


「まぁ、小煩い連中がまだ残っておるからの。暫く休んでおれ」


 近右衛門の優しい声音が、エヴァンジェリンの神経を逆撫でる。侮るなと、怒鳴り散らしたくなる。それを行動に移さなかったのは、子供みたいでみっともないという、子供っぽいプライドが理由だった。

 だからそれら全てを誤魔化すように、彼女は別の話題を探す。


「……近衛 洸の事だが」


 思わずエヴァンジェリンの口を衝いたのは、幼い同居人の事だった。

 それだけあの少女の事が、気になっているのだろうか。そうかもしれない。今は、誰かに傍に居てほしい。母を求める子供のように、人の温もりを求めている。だから、偶々その対象が洸へと向いた可能性を、エヴァンジェリンは否定出来なかった。


「ふぅむ。あの子の事か」


 だから――――――何気無い問い掛けに対する返答を、思い掛けず真剣な表情で待ってしまったのかもしれない。












 ――――外伝一之二――――――――












 二人きりの同居生活が始まってから、既に三週間が過ぎたらしい。その事を洸から教えられたエヴァンジェリンは、まだそれだけしか経っていないのかと意外に感じたものだ。相も変わらず屈辱的な、洸に食べさせて貰っている夕食の席での事である。

 近頃の洸は少しばかり上機嫌で、僅かばかり饒舌だった。先の話も、何気無い雑談の中で出てきたものである。原因は明白だ。先日の近右衛門の訪問以来、彼への定時連絡の際に雑談を交える事を許されたからだろう。それまでは罰という事もあり、事務的な会話以外は禁じられていたらしい。

 今もまた洸は、受話器を片手に笑顔を浮かべているはずだ。階下から、楽しげな声が響いてくる。普段は一切聞く事の出来無い、洸の声。決してエヴァンジェリンには掛けられないソレは、聞いているだけでも苛立ちを覚えるものだった。

 震える足に力を込めて立ち上がりながら、エヴァンジェリンは顰めっ面を作る。

 最近は洸の手によるものではあるが、魔法による治療も進められている。治癒魔法は慣れていないらしく、流石の洸もそちらの腕前はイマイチだが、それでも気合いを入れれば歩ける程度にはなった。ただ、腕の治療はまだ行われていない。どうやらエヴァンジェリンに攻撃手段を与えたくないらしく、コチラは後回しにされているのだ。


「――――ッ」


 痛みを堪え、階下の様子が見える位置まで、エヴァンジェリンは移動する。フラリ、フラリ。メトロノームのように全身を揺らして、彼女は歩く。そうしてロフトの端まで辿り着き、手摺りに体を預けた彼女は、やっとの事で安堵の息を吐き出した。

 次いで疲れの滲む双眼を、一階で電話中の洸へと向ける。


「相変わらず、か」


 楽しそうな様子の洸を見て、エヴァンジェリンが鋭く目を細める。

 近衛 洸には、両親が居ないらしい。十年前の大戦の中で父親は戦死し、生来病弱だった母親は、心労と出産の負担が重なり、彼女を産んだ数日後に亡くなったのだと聞かされた。だから麻帆良に来るまでの彼女は、随分と寂しい生活を送っていたのだと。

 唯一叔母だけは傍に居て、確かに彼女を愛していたようだが、力が足りなかったと近右衛門は言っていた。

 洸が生まれた当時、彼女の生家が長を任されている関西呪術協会は、大いに荒れていた。大戦の影響で反西洋魔術の風潮を強めていた呪術協会の中で、長である彼女の叔母は、親西洋魔術の派閥を形成していたのだ。一つ間違えれば組織が割れかねないその状況で、洸の叔母は舵取りに追われていたと聞く。

 洸に構っている暇は無く、また彼女の警護に割く人員も居なかった。その為に幼い少女は、屋敷の一角に隔離されていたらしい。父を西洋魔術師に殺された彼女は、血筋の事もあり、反西洋魔術派にとっては格好の御輿に見えたそうだ。


(守る為とはいえ…………)


 一部の世話役を除いて人と触れ合わなかった洸は、孤独な幼少期を過ごしたのだろう。実際、聡明な今とは違い、言葉を覚えるのにはかなりの時間を要したらしい。つまりは、それだけ誰かの声を聞く機会が少なかったという事だ。

 明るい声を上げる洸を眺めながら、エヴァンジェリンは不機嫌そうに口元を結ぶ。


(だから、ジジイに懐いた)


 自分を引き取り、愛情を注いでくれた近右衛門の姿は、洸の目にはどのように映ったのだろうか。きっとエヴァンジェリンにとってのナギ=スプリングフィールドに近いのではないかと、彼女は想像している。

 ずっと求めていたものを、誰よりも強烈に与えてくれた存在。だからこそその相手は、誰よりも特別になる。


(――――チッ)


 未だに談笑を止める気配が無い洸から顔を背け、エヴァンジェリンはフラフラとベッドに歩いていく。

 洸とエヴァンジェリンの仲は、決して良い訳ではない。同居生活を始めた頃から、特に大きく変わった部分は無い。相変わらず丁寧な世話をする洸は、相変わらずエヴァンジェリンが嫌いらしく、相変わらずそれを表に出さなかった。

 だからエヴァンジェリンは、洸の事が嫌いではない。その点だけは、以前と変わっていた。

 弱っているから、嫌な言葉は聞きたくない。弱っているから、独りで居るよりも、誰かと一緒に居る方が良い。そんな心の隙間に入り込むように、洸の存在は、エヴァンジェリンの中に根付いていた。

 ベッドの傍まで来たエヴァンジェリンは、倒れ込むようにして布団に体を投げ出し、疲れた顔で息を吐く。


「遠くの身内より、近くの他人――――――か」


 小さく呟きを漏らし、エヴァンジェリンはゆっくりと目を閉じた。








 ◆








 気付けば同居生活も一月を過ぎ、家の中に洸が居る事に違和感を抱かなくなっていた。洸が作る料理の味にも慣れ、綺麗に掃除された部屋を当然のものとして受け入れるようにもなっている。楽しく笑い合う事は無く、かと言って下手に傷付け合う事も無い。そんなある意味ではぬるま湯のような時間が、特に問題事もなく、日々緩やかに過ぎていく。

 変わった事と言えばエヴァンジェリンの傷の具合くらいのもので、ようやく一人で食事が出来る程度には回復してきた。それでも完治には程遠く、なまじ行動の選択肢が増えただけに、ちょっとした事でストレスを溜めていく毎日だ。

 そんなある日、エヴァンジェリンは食事の席で一つの疑問を投げ掛けた。


「で? 一月が経った訳だが、お前はまだ学校に行かなくて大丈夫なのか?」


 未だに調子が戻らず、震える指で箸を持つエヴァンジェリンの言葉だ。対面の席に座る洸は、綺麗な箸使いでニシンの塩焼きをほぐしながら、実にどうでもよさそうな表情で応えた。


「そういえば、昨日が始業式でしたね」

「ん? ……あぁ、そういえば春休みだったか」


 呟いて、エヴァンジェリンもまた塩焼きを摘む。こちらは既に、全ての身をほぐし済みだ。小骨の一つすら残っていない。もっとも、実際にこれを行ったのはエヴァンジェリンではなく、箸を上手く使えない彼女の為に、洸が代わりにやった訳だが。


「えぇ。ですから実際に休んだのは二週間ほどですね。まだ大丈夫でしょう」

「そうか。まぁ学校なんぞ行っても、ツマらんだけだしな」


 友達は居ない。勉強の必要も無い。そんな状態では、学校に価値を見出す事は出来ないだろう。それは、実際に似たような環境に居るエヴァンジェリンの、飾り気の無い素直な感想だった。きっと洸も同じなのだと、そう思ったのだ。


「――――別に」

「ん?」

「ツマらなく、なんかは……」


 目を伏せ、若干言い辛そうな洸を見て、エヴァンジェリンは訝しむ。

 予想外の返答だった、という事は確かだ。だがそれ以上に、洸の態度が気になった。寂しそうだとか、悲しそうだとか、そんな感情を表に出している訳ではない。ただなんというべきか、普段の彼女とは違うのだ。

 そんな彼女の様子には、エヴァンジェリンも覚えがあった。


「なんだ。気になる事でもあるのか?」


 問い掛けには応えず、洸は黙ってご飯を口に運んだ。その反応がまた彼女らしくなくて、エヴァンジェリンはスッと目を細めた。


「友達も居ないのに?」

「まぁ……居ませんけど」


 決して目線を合わせずに話す洸の姿は、見た目相応に子供っぽく感じられた。

 やはり、とエヴァンジェリンが心中で呟く。学校の事、というよりも友人の事だろう。その手の話題に関して、洸は些か敏感だ。何を思っているのかは知らないが、中々に屈折したものを抱えていそうなのは確かだった。

 寂しがり屋。そんな言葉が、エヴァンジェリンの脳裏を過ぎる。間違いではないはずだ。近右衛門から聞いた話の内容や、彼に対する洸の態度を考えれば、確かにそういった面も存在している。

 だが同時に、疑問もある。その考えでいくのならば、洸に友人が居ないというのは可笑しな話だ。寧ろ一人でも多くの友達を作ろうとしていても、決して変わった事ではないだろう。しかし、現実は違う。


「――――ごちそうさまでした」

「ん? あぁ……」


 エヴァンジェリンが考え事をしている間に、洸は食事を終えていたらしい。見ればスッカリ空になったお椀を前にして、彼女は両手を合わせていた。エヴァンジェリンが手元を確認すると、まだ三分の一はおかずが残っている。


「では、私は暫く出掛けてきますので、食べ終わったら食器を水に浸けておいてください。それくらいは出来ますよね?」

「……そうか。まぁ、大丈夫だ」


 言うが早いか、洸は立ち上がって玄関の方に歩き出した。気付けば彼女の分の食器は消えており、その代わりとでも言うかのように、部屋の隅には黒い犬が鎮座している。

 いつもの事ではある。夕食後の数時間は、洸が魔法の練習をする時間だ。常日頃から魔法の練習と称しては、細かな所でその行使をしている彼女だが、本格的な訓練をするのはこの時だけだった。それ故に洸は、この時間を大事にしている。


「とはいえ……」


 今日の洸の態度はまるで逃げるようだったと、エヴァンジェリンは思う。普段の彼女であれば、エヴァンジェリンが食事を終えるまで待っているはずだし、もう少し丁寧に出掛ける事を告げてくる。

 やはり、何かある。その事には既に確信を抱いているエヴァンジェリンだが、イマイチ核心は掴めない。

 暫し視線を彷徨わせ、エヴァンジェリンは思索に耽った。だが、彼女はすぐに首を振る。


「まぁ、いい。ごちそうさま」


 両手を合わせて食材――――――と、料理を作ってくれた人間に感謝を示し、エヴァンジェリンも食事を終える。それから空になった食器を重ねようとした彼女は、その途中で動きを止めた。包帯を巻いた両腕が、視界に入ったからだ。まだまだ完治とは言えない。この包帯を解けば、醜い傷が顔を出す。自力で食事をするようになったのは、エヴァンジェリンの意地という面も強かった。

 ただ傷の事に関しては、エヴァンジェリンはもうほとんど気にしていない。洸の助けがあれば、遠からず治ると分かっているからだ。仕事に対する彼女の姿勢は、非常に真摯だ。手を抜く事は無く、向上心も忘れない。故に洸のそういった面に対し、エヴァンジェリンはある種の信頼感を抱いていた。


「さて、アイツが帰ってくるまでどうするかな」


 一つずつ行っていた食器運びを終え、エヴァンジェリンは部屋の中を見回した。やたらとぬいぐるみの多い内装に紛れるようにして、黒い犬が床に伏せている。その姿を一瞥してから、彼女はソファへと歩いていった。

 洸が読んでいたのか、ソファに置かれていた一冊の文庫本を、エヴァンジェリンが手に取る。

 軽く流し読みしてみた感じでは、中学生の男女を主軸に置いた恋愛小説のようだった。似合わない、と思うと同時に、ひょっとすると洸の憧れがあるのかもしれない、と考えたりもする。なんにせよ、暇潰しには悪くない。そう思い、改めてソファに深く腰掛けたエヴァンジェリンだったが、そこで新たに別の物に目を留めた。


「コレは……」


 初等部の生徒手帳。ぬいぐるみの影に落ちていたソレは、間違い無く洸の物だろう。コレが単なる生徒手帳なら、エヴァンジェリンは気にしない。しかし彼女は知っている。洸が時折、真剣な表情でコレを開いている事を。

 胸の奥で、好奇心が疼く。先程まで抱いていた洸への興味が、全て生徒手帳へと向かっていた。

 チラリ、と部屋隅の黒犬へ目線を向ける。この一月の経験から、エヴァンジェリンはかの使い魔の探知性能をおおよそ把握していた。大丈夫、バレない。そう判断した彼女は、ぬいぐるみを遮蔽物として、ソッと生徒手帳を開く。


「――――っ」


 僅かに目を見開いたのは、意外さからだった。

 生徒手帳には、わざわざサイズを合わせたと思しき写真が挿まれていた。写っているのは、二人の女の子だ。癖の無い黒髪を肩口まで伸ばした少女と、同じく黒髪を側頭部で一つに纏めた少女である。どちらもまだ、小学校にも上がっていないような年齢だろう。


(近衛 洸…………いや、違うな)


 少女の内の一人、髪を縛っていない方の子供は、洸によく似ていた。彼女の昔の写真だと言われたら、素直に信じてしまいそうなほどである。いや、普通は誰もがそう思うはずだ。

 しかしエヴァンジェリンは違った。写真越しにも感じる雰囲気の違いか、目の輝きか、それとも別の何かなのか。理由はなんにせよ、彼女は写真の少女と洸が別人である事を、半ば確信を持って理解していた。

 写真の表面を、エヴァンジェリンが優しく撫ぜる。

 楽しそうだと思った。顔一杯に喜びを表している着物の少女と、恥ずかしそうに頬を染めながら、それでも嬉しさを隠せていない髪を縛った少女。ありきたりで、最大公約数的な、あまりにも普通過ぎる幸せの形だった。

 しかし普通だからこそ、羨んでしまう。特別ではないからこそ、その普通が与えられなかった事が、心に響く。


「アイツも、こんな気持ちだったのかもな」


 口の端を皮肉げに歪めて、エヴァンジェリンが呟く。

 近衛 木乃香。洸の従姉妹に当たる少女の存在を、エヴァンジェリンは思い出していた。何時だったか、近右衛門から二人目の孫娘が産まれたのだと聞いた覚えがある。父親がナギの仲間であり、エヴァンジェリンの友人でもあったから、中々に印象に残っている。

 木乃香の両親は健在のはずだ。そして写真を見る限りでは、仲の良い友達が居る。

 洸が何を思ってこの写真を見ていたのか、エヴァンジェリンとしては大いに興味を惹かれた。彼女が決して口にしない、本当の気持ちとでも言うべきものが、そこには隠されているように感じられたからだ。


(踏み込むのは、また今度だな)


 今は取っ掛かりが出来ただけでも十分だ。そう結論付けたエヴァンジェリンは、静かに生徒手帳を閉じた。バレないように生徒手帳の位置を調整し、彼女は何食わぬ顔で先程の恋愛小説を開く。

 洸が帰ってくるまで、あと数時間はある。まだまだ、夜は長かった。








 ◆








 洸の様子が可笑しい。それもなんとなく、という程度ではなく、あからさま過ぎるほどあからさまに、だ。

 掃除で埃を残す。洗濯物の畳み方が甘い。料理の味付けも濃かったり薄かったりだ。一体どこの姑なのかというくらい細かな判定基準かもしれないが、普段の洸なら当然のようにこなしている事である。

 更に奇妙なのは、自分のミスに気付く度に洸の顔色が悪くなっていく事だ。常の彼女であれば、次は上手くやってみせる、と発奮するはずなのに。まるで何かに追い詰められているかのように、今日の洸には余裕が感じられなかった。

 何があったのだろうか。少なくとも昨夜はこうではなかったし、今朝、エヴァンジェリンが起きた時には既にこうなっていた。つまり彼女が眠ってから朝を迎えるまでの間に何かあったのだ。


「――――ふぅ」


 食後の紅茶を楽しんでいたエヴァンジェリンは、息をついて台所の方へと目を向けた。そうすれば、黙々と食器を洗う洸の背中が確認出来る。成長期前の小さな背中には、どんよりとした雲を背負っているように思えた。時折、溜め息もついているようだ。

 よく見ると洸はずっと同じ皿を洗っているらしく、何をやっているんだとエヴァンジェリンは嘆息する。


「おい」

「……なんでしょう?」


 今の洸は、声にも覇気が無い。聞いている方が参ってしまいそうだ。


「もう随分と遅いが、魔法の練習はいいのか?」


 今日は料理の支度を始めるのが遅く、また手際も少し悪かった。更には長々と皿洗いを続けていた為、いつもと比べてかなり時間差がある。この調子では、洸が帰ってくるのは真夜中になってしまうだろう。

 そういった事を危惧して声を掛けたエヴァンジェリンだったが、直後の洸が見せた反応には眉根を寄せた。


「ッ!?」


 ビクリ、と洸が体を震わせる。まるでお化け屋敷で幽霊に怯える子供のような姿だった。次いで慌てて振り返った彼女は、焦りも露に口を開いた。本当に、今日の洸は何もかもが可笑し過ぎる。


「い、行きますよ! もちろん!!」


 ガチャガチャと食器を鳴らし、洸は急いで洗い物を終えていく。

 洸が何を考えているのか、エヴァンジェリンにはよく分からない。ただ近右衛門が関係しているのだろうという事だけは、容易く想像出来た。というか、それ以外には考えにくい。エヴァンジェリンもその程度は、洸の事を理解していた。


「――――では、暫く出掛けてきます」


 あっという間に全ての食器を洗い終えた洸が、濡れた手をタオルで拭きながら告げる。その気になれば、彼女の仕事は早いのだ。

 特別な準備をする事も無く、いつも通りエプロンを外しただけで玄関へと向かっていた洸は、そういえば、と足を止めて振り返った。澄んだ黒の瞳に捉えられたエヴァンジェリンは、一体なんだろうかと首を傾げる。


「貴女の傷も治りましたから、私の役目はもうすぐ終わるみたいです。学校もありますからね」

「……え?」


 割と重要な事を、心底どうでもよさそうに告げた洸は、驚くエヴァンジェリンに頓着する事無く、壁に掛けていたコートを手に取って玄関から出て行った。その後ろ姿を見送ったエヴァンジェリンは、暫し呆然とした後、疲れたようにソファに身を預けた。


「別に、いいけどな」


 天井を見上げたエヴァンジェリンが、感情の篭らない声を上げる。次いでコテンと首を傾けた彼女は、そのまま焦点を合わせる事無く部屋の中を見回した。何かを考えていた訳ではない。ただ自然と、そうしていたのだ。

 先程まで洸が立っていた台所が、目に入る。この一月半の間、エヴァンジェリンが立ち入る事の無かった場所だ。料理を作る必要など無かったし、何か欲しければ、すぐに洸が用意してくれた。人形以外に頼み事をする感覚は、嫌いじゃなかった。

 視線を巡らせると、今度は綺麗に並べられたぬいぐるみに気付く。元々それなりに片付けてはいたはずだが、洸には我慢ならなかったらしく、初めの頃に二人で話し合いながら配置を決めた。なんだかんだで自分の意見を尊重してくれる洸は、嫌いじゃなかった。

 テーブルの上には、紅茶とマドレーヌがある。有名なお店で買ってきたり、自分で手作りしたりして、洸はいつもオヤツやデザートを用意していた。一度として同じ物を出さない几帳面さも、甘い物好きという子供っぽさも、嫌いじゃなかった。

 他にも色々、覚えている事はある。なんせ一月半だ。共に暮らし始めて、それだけの時間が経った。日々の習慣だとか、ちょっとした好き嫌いだとか、気付いた事は沢山ある。思い出として残っている事も、両手に余るほどだ。

 そのどれもが、嫌いじゃなくて。幾つも幾つも、嫌いじゃないが重なって。だからきっとエヴァンジェリンは、洸の事が好きだった。


「……ダメだな。これは、ダメだ」


 少し前まで、エヴァンジェリンは一人暮らしだった。それでも彼女は平気だった。

 大丈夫じゃなくなったのは、ナギが死んだと聞いたからだ。もう約束が守られる事は無いと、理解したからだ。

 待っていたのに。迎えに来てくれるその日を楽しみにして、人の世の中で、自分の正体を知る連中に囲まれながらも、約束だけを頼みにして待っていたのに。その約束が、絆が、アッサリと消えてしまった。

 これでは本当に一人ぼっちだと、エヴァンジェリンは思うのだ。力を封じられて、居る意味の無い場所に縛られて、これは一体なんの冗談なのだろうかと、心が軋みを上げるのだ。

 だから彼女は願うのだ。誰か一人くらい、傍に居ても良いんじゃないかと。


 誰か、一人くらい――――――――。




 □




 急変を告げる鐘が鳴ったのは、夜も深まり始めた、午後十時の事だった。近頃では徐々に姿を消し始めた黒電話が、けたたましい音を立てて、読書中のエヴァンジェリンにその存在を知らせたのだ。

 初めに訝しみ、次いで面倒臭そうに立ち上がった彼女が受話器を取った瞬間、その向こうからは待っていたとばかりに近右衛門の声が聞こえてきた。普段通りの飄々とした調子に思えて、些か余裕が欠けた彼の様子に、エヴァンジェリンはすぐに気が付いた。

 何かがあった。その事を察したエヴァンジェリンが瞬時に洸と結び付けてしまったのは、自身の現状から推察した論理的思考なのか、はたまた感情に起因するものなのかは、彼女本人にも分からない。ただ気付いた時には、その事を問い掛けていたのだ。

 エヴァンジェリンの疑問に対する近右衛門の返答は、確かな肯定だった。ただその内容に関しては、彼女の予想を外れていた。


『洸を迎えに行ってほしい』


 近右衛門の要件は、それだけだった。そして、意味が分からなかった。

 確かに洸はまだ帰ってきていない。しかし連絡を取りたいのなら使い魔を通せば良いし、近右衛門が呼んでいると言えば、彼女は転移魔法を使って即座に帰宅するだろう。だから、そんな事を頼む意味が分からない。

 そう考えたエヴァンジェリンが部屋隅へと視線を向けると、そこには何も居なかった。いつもなら当然のように床の上に陣取っている黒犬の姿が、影も形も無かったのである。ザワリ、と胸の奥が騒いだ。


 ――――――――緊急事態。いや、それにしては近右衛門が落ち着き過ぎている。


 事情は後で話すから、今は素直に頼みを聞いてほしい。さして焦った様子も無く告げる近右衛門に、エヴァンジェリンは強く出る事が出来なかった。彼女自身、早く洸の様子を確かめたいという気持ちがあった為だ。

 近右衛門から洸の訓練場所を聞き、外出の許可を出す事を伝えられたエヴァンジェリンは、すぐさまログハウスを出ていった。

 そうして現在、エヴァンジェリンは森の中を走っている。四月も半ばを過ぎたとはいえ、夜になれば肌寒い日もある。上着も取らずに出てきた彼女は小刻みに体を震わせながら、それでも速度を緩める事無く進んでいた。

 もどかしかった。今はただの少女に過ぎないこの身が、速く走れない事が、あまりにももどかしかった。

 侵入者が現れた訳ではないらしい。命の危険がある訳でもないらしい。しかしだからといって、心配しない理由にはならない。

 音を立てて落ち葉を踏み締め、ざわめく木々を掻き分けて、エヴァンジェリンは教えられた場所を目指して走り続ける。手足の調子は問題無い。これも洸のお陰かと思い、彼女はそんな自分に苦笑する。傷を作ったのも、洸だというのに。

 やがてエヴァンジェリンは、とある丘に辿り着いた。特に目立った特徴は無く、月明かりを浴びて輝く草が一面に生えているだけの、なんの変哲も無い原っぱだ。魔法の練習でも、子供の遊び場でも、或いはピクニックでも、なんにでも使えそうな場所だった。

 乱れた息を整え、首を巡らせて洸の姿を探したエヴァンジェリンは、


「――――ッ!?」


 次の瞬間には全速力で走り出していた。

 少女が倒れている。月光を反射して煌く草原の中で、一滴だけ垂らされた墨汁みたいに、暗いシミを作っている。長い黒髪を草の上に投げ出し、黒衣を纏ったその身を地面に横たえた彼女は、間違い無くエヴァンジェリンの同居人だ。

 倒れている洸に駆け寄りながら、エヴァンジェリンは周囲の状況を確認する。何者かの気配は無く、一部の地面は乱れているものの、それだけだ。近右衛門が言ったように、戦闘があった訳ではないのだろう。

 では、此処で何があったのか。その事に疑問を抱きつつも、エヴァンジェリンは洸を抱き上げた。


「おい! 返事をしろッ!!」


 呼び掛けへの返事は無い。洸は目を閉じたまま、僅かに身動ぎするだけだ。月明かりでもハッキリと分かるほどに頬は赤く、額に手を当てれば、驚くほど熱を持っている事が分かる。舌打ち一つ。エヴァンジェリンはこの場での介抱を諦めた。

 一瞬だけ近右衛門に連絡する事を考え、即座に却下する。今宵が満月なら念話を届かせる事も出来ただろうが、生憎と二日ほど早い。それにこの状態の洸を、寒空の下に放置する訳にはいかない。

 であれば、する事は一つだ。自力で洸を運ぶ。エヴァンジェリンは、その選択肢を選んだ。


「くそっ。貸し一つだぞ」


 幸いな事にこの場所は、ログハウスからほど近い位置にある。満月まで三日を切っている今夜であれば、決して無茶な距離ではない。

 治ったばかりの両腕で洸の体を持ち上げ、エヴァンジェリンは彼女を背負う。意識が無い所為か、鍛えている所為か、洸は予想よりも重かった。だがそれでも、十分に許容範囲内ではある。


「ええい、この糞餓鬼め」


 舌を打つ。悪態をつく。歯を食い縛って、エヴァンジェリンが立ち上がる。背中越しに感じる体温が熱くて、背中に掛かる体重が重くて、なんて面倒なんだと彼女は思った。なんでこんな事をしなくちゃならないんだと、彼女は洸を罵った。

 それでも、エヴァンジェリンは止めない。止めるつもりもない。

 生命を背負う感覚は、やっぱり、嫌いじゃなかった。












 ――――後書き――――――――


 外伝一之二を投稿しました。お読み下さり、ありがとうございます。

 長らく更新を滞せてしまい、大変申し訳ありませんでした。リアルの方が何かと忙しく、中々執筆のモチベーションが上がらなかった事が原因です。新年度に入り生活も安定してきたので、これからは少なくとも月に一度か二度は更新出来ると思います。

 それではお話についてですが、今回はオリキャラについて触れつつ、エヴァンジェリンの心情を掘り下げてみました。この手の展開を書くのは好きなのですが、描写する情報の取捨選択にはいつも苦心させられます。次回で過去編は一先ず終了となりますので、伝えたい事を上手く描き切れるよう頑張りたい所です。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 外伝一之三
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/06/06 18:51


「あの子はな、才能が無いんじゃよ」


 説明を求めたエヴァンジェリンに対し、近右衛門が最初に告げた言葉だ。これを聞いた時、エヴァンジェリンは呆れよりも先に怒りを覚えた。一体何を馬鹿な事を言っているんだと。そんな訳があるか、と。

 プライドが高く、他人に対して厳しい評価を下すエヴァンジェリンの目から見ても、洸は紛う事無き天才だ。

 普段の会話からも感じられる確かな知性に、日々の生活から察せられる器用さ。何より初めて会った夜のえげつないやり口と、それを実現する魔法の才能は決して否定する事の出来ないものだ。洸の歳であれほど転移魔法を操るなど、凡人でなくとも不可能だろう。

 その事を誰よりも深く理解しているはずの近右衛門が、どうしてそんな事を言うのか。


「まぁ、天才なのは間違い無いがの」


 エヴァンジェリンの疑問に気付いたのか、茶を啜りながら近右衛門が呟いた。

 では、何が言いたいのだ。苛立ちを視線に込めて、エヴァンジェリンが問い掛ける。


「たしかに洸は賢い。魔力量は膨大で、魔法を操る才もある。将来美人になる事も確実じゃろう」


 好々爺然とした口調で、近右衛門が語る。慈しみに満ち、愛しみに満ち、眉毛に隠れた目が優しさに溢れている事が容易く想像出来る声だった。それ故にエヴァンジェリンとしては、微かな苛立ちを覚えてしまう。ある種の嫉妬に、近いのかもしれない。

 自然と目付きがキツくなるエヴァンジェリンを気にした風も無く、近右衛門は穏やかな口調で続けた。


「ただ、一つだけ」


 言葉を区切り、近右衛門は湯飲みに口を付けた。

 思わずエヴァンジェリンも、喉を鳴らす。


「あの子には、魔力を放出する才能が無かった。身の内に秘めた魔力量とは裏腹に、魔力の通り道が異様に細いんじゃ」


 エヴァンジェリンの瞳孔がキュッと狭まり、小さな桜色の唇が、知らず知らずの内に開かれる。


「……それは、上位魔法が撃てないレベルか?」

「いいや、中位でも厳しいものがある」

「将来性は?」

「年単位で頑張っておるが、成長した様子は無いの」


 額に手を当て、頭を振り、暫し考え込んだエヴァンジェリンは、やがて疲れたように息を吐いた。ソファの背凭れに体を預け、彼女は階上へと顔を向ける。二階にある茶室には、連れ帰った洸を寝かせている。治療は要らないと言われたが、その根拠が理解出来た。


「無茶な魔力行使が原因か……」

「うむ。まさしく」


 魔力を持った人間を水の入ったタンクとするならば、魔力の行使とは、そのタンクに備え付けられた蛇口を捻る事に他ならない。少し捻れば少量の水が、大きく捻れば大量の水が出るが、結局の所その量は蛇口のサイズに左右される。通常、この蛇口のサイズはタンクの大きさに比例するのだが、洸の場合はそうではなかった。

 宝の持ち腐れとしか言えないほど、タンクに比べて蛇口が小さいのだ。

 コンプレックス、なのだろう。正真正銘の天才である洸が持つ、唯一とも言っていい欠陥だ。なまじ魔力が多いだけに、悔しい思いをしてきたのかもしれない。そういった感情が今回の結果に繋がったのだと、エヴァンジェリンにも想像出来る。


「だが、直接の原因はなんだ? アイツの事だ、危険性は重々承知しているだろう」


 自らの限界を超える魔力を放出する事で、蛇口のサイズを無理やり拡張する。碌な効果が見込めない上に、危険性ばかりが高い馬鹿な方法だ。自身の肉体を内側からヤスリで削る行為に等しく、良くても今の洸のようになり、悪ければ蛇口が破裂して取り返しの付かない事態になってしまう可能性がある。

 普通の魔法使いであればそこまでの無茶は出来ないのだが、幸か不幸か、洸は放出量に比べて魔力量が異様に多い。やろうと思えば、容易く魔力を暴走させる事が出来るだろう。その身と引き換えに、という枕詞が付く事になる訳だが。

 しかし洸は聡明だ。近右衛門を心配させない為にも、そんな無茶はしないはずなのである。


「たしかにの。こんな事は数年振りじゃ」

「なら、どうしてだ。今日のアイツは朝から様子が可笑しかったぞ」


 エヴァンジェリンの疑問に対し、近右衛門は初めて渋面を作った。眉根を寄せ、言い辛そうに口元をまごつかせる。それでも黙り込むつもりは無いのか、緑茶で喉を湿らせた彼はゆっくりと、だが確実に話し始めた。


「以前から話し合っておった事が、とうとう本決まりしたんじゃよ」

「ふんっ。そいつは一体なんなんだ?」


 問えば、近右衛門は遠くを見詰めてしまった。

 此処には居ない誰かを探すように窓の外を向いて、そのままポツリと、声を漏らす。


「…………もう一人の孫娘がな、ウチの初等部に通う事が決まったんじゃ」


 僅かに苦しそうな顔して、近右衛門は、ただそれだけを告げてみせた。












 ――――外伝一之三――――――――












 紅葉を散らした赤い頬。間隔が短く荒い呼気。微かに上下する布団の下で、洸は未だに眠り続けている。その隣で畳に座し、時折額の濡れタオルを変えてやりながら、エヴァンジェリンは彼女を看病していた。といっても、特別な事は何も無い。今の洸に有効な治療など無く、ただ熱を冷ましてあげつつ、彼女が目を覚ますのを待つだけだ。

 洸の呼吸音が耳を打ち、代わり映えの無い彼女の寝顔を観察するだけの時間が過ぎていく。

 不思議と嫌な気分ではなかった。そもそも誰かの看病をした経験など、エヴァンジェリンの長い人生の中でどれだけあっただろうか。ひょっとすると、一度として無かったかもしれない。他人の為に自分の手を煩わせるなど面倒なだけだと思っていたが、実際に体験してみると、意外にも穏やかな時間が続いて驚いた。

 こういうのも悪くない。エヴァンジェリンが素直にそう感じられたのは、近頃の彼女が平穏を求めていたからか、或いは病床の洸なら去っていく事が無いと分かっているからか。どちらにせよ今のエヴァンジェリンには、洸が起きるのを静かに待つ以外に選択肢は無い。

 エヴァンジェリンが窓の外に目を向ければ、昇っていた月が徐々に降り始めていた。既に日付けも変わり、この調子では寝るのは何時になるだろうかと考えて、吸血鬼が何を心配しているんだと馬鹿らしくなる。

 クツリ。狭い茶室に、笑い声が響く。

 と、同時に。


「――――んぅ」


 眠っていた洸の目蓋が、微かに震えた。

 途端、エヴァンジェリンの体が硬直する。目が、耳が、肌が、洸の様子に注目する。目は震える睫毛に吸い込まれ、耳は小さな呼気を掬い上げ、肌は気配の変化を感じ取る。知らず息を止めて、エヴァンジェリンは覚醒する洸を観察していた。

 やがて緩やかに目蓋が持ち上げられ、洸の黒い瞳が露になる。初めは意識の感じられない様子でボンヤリと、次に現状を把握するようにキョロキョロと視線を彷徨わせた洸は、傍に居るエヴァンジェリンに目を留めると、顔に驚きを浮かべて固まってしまった。


「え? あ……あれ?」


 意味を成さない言葉を零し、洸は混乱した様子でエヴァンジェリンを凝視する。目を見開いた洸は年齢以上に幼く感じられて、初めて見る彼女の姿に、エヴァンジェリンの口元には自然と笑みが刻まれる。その事に気付いた洸は、憮然とした表情を作った。

 どこか不満そうな顔をして額の濡れタオルを取り、体を起こそうとした洸は、その途中で不自然に動きを止める。


「クッ……そういえば、そうでしたね」


 体が痛むのか、険しい表情で洸が呟く。

 次いで硬直していた上半身をゆっくりと起き上がらせ、彼女はエヴァンジェリンと相対した。


「貴女が看ていてくれたんですか…………ありがとうございます」


 礼を口にしながらも、洸の視線は落ち着き無く辺りを探っている。まるで親犬を探す子犬みたいに、切なげに瞳が揺れていた。彼女が何を思っているのか、エヴァンジェリンには手に取るように理解出来る。こうなる事を、彼女は望んでいたのだから。


「ジジイなら居ないぞ。アイツも忙しいからな、少し前に帰ったよ」


 より正確に言うならば、エヴァンジェリンが帰らせたのだ。洸の心を、独占させない為に。

 必死に平静を取り繕おうとして、それでも隠し切れない寂しさを滲ませる洸を見て、エヴァンジェリンは心中でほくそ笑む。


「安心しろ。ちゃんとお前の事を心配していたぞ。ほら、コレでも飲んで落ち着いたらどうだ」


 用意していた水差しの中身をコップに注ぎ、エヴァンジェリンは洸へと差し出した。自分でもどうかと思うくらいの気の遣いようで、エヴァンジェリンを知る者であれば気味悪がること請け合いだ。

 洸もまた猜疑心に満ちた目と共に突っ撥ねるかと思われたが、意外な事に、彼女の反応はそうではなかった。


「あ……えっと、その…………」


 初めに驚きを浮かべ、次に戸惑いで顔色を染めた洸は、最後に躊躇いがちな様子で手を伸ばしてきた。警戒心の強い子猫が、それでも好奇心を抑えられないといった風体で、洸の指先が恐る恐るコップに触れる。

 瞬間、熱の引かない真っ赤な頬が、僅かに緩んだ気がした。


「ありがとう、ございます」


 普段の機敏な動作とは裏腹に、体を労るようにゆったりとした動きで、洸はコップに口付ける。コクリ、コクリ。本当に美味しそうに喉を鳴らして、彼女はあっという間にコップの中身を空にしてしまった。

 吐息を漏らし、洸が薄く笑みを浮かべる。それを見たエヴァンジェリンは、満足したように頷いた。


「ジジイからの伝言だ。体調が良くなるまでは、ウチで療養するのがお前の仕事らしいぞ。精々三日ぐらいだろうがな」


 洸の見せた反応は、なんとも言えないものだった。

 泣いているように思える。安堵したようにも感じられた。或いはもしかすると、放心していたのかもしれない。

 心配したのだろうか、遠ざけられたのではないかと。嬉しかったのだろうか、心配して貰えたと。それとも、どう受け取ればいいのか分からなかったのか。洸の心中を正確に推し量る事は出来ないが、無防備に自分を晒す彼女の姿は、エヴァンジェリンにとって愛すべきものだった。


「そう……ですか。わかりました」


 目を伏せ、洸は小さく返事を零す。


「コッチの怪我は治ったからな、三日くらいなら世話してやるさ」


 エヴァンジェリンにしては気味が悪いほどの優しい言葉にも、洸は黙って頷くだけだった。

 それきり、狭い茶室を沈黙が支配する。彼女らは互いに何を言うでもなく、何をするでもなく、唯々静かな時間が過ぎていく。霧雨の中に居るような時間だった。音が吸い込まれているみたいに奇妙な静寂があり、同時に、当然の如く湿り気を帯びた空気がある。

 エヴァンジェリンは、洸に聞きたい事があった。どうしてこんな事をしたのか、その傷口を抉り、彼女の心を露にしたいという願望があった。そうする事で、少しでも洸に近付きたかったのだ。


「……もう深夜だ。今はゆっくり休むといい」


 けれど、出来ない。怖くて、出来ない。触れてしまえば、洸が逃げていくように思えて、エヴァンジェリンは踏み込めなかった。

 だから誤魔化すように洸を寝かしつけて、また彼女も、そんなエヴァンジェリンに素直に従った。らしくない、と互いに感じていたのかもしれない。しかし二人ともその事は口にせず、何事も無かったかのように場を流す。

 再び横になった洸が目を閉じ、寝息を立て始めたのを確認して、エヴァンジェリンは茶室を後にした。

 夜が耽る。何かが変わった夜が、それでも穏やかに耽ていく。








 ◆








 久方振りに自ら作った手料理は、思った以上によく出来たかもしれない。食卓に並んだ朝食を前にしたエヴァンジェリンは、そんな事を考えて満足そうに頷いた。サラダにオムレツ、トーストという簡単なメニューだが、それだけに満点をあげてもいい出来だ。

 最後にホットミルクで満たされたカップを置くと、エヴァンジェリンは後ろを振り返って不敵な笑みを浮かべた。


「おはよう。この程度なら食べられるだろう?」


 エヴァンジェリンの視線の先には、口を半開きにして固まっている洸が居た。階段の途中で不自然に立ち止まっている彼女は、挨拶を返す事も忘れて、テーブルに用意された朝食を凝視している。

 その様子は実に微笑ましいものだったが、これでは食事が冷めてしまうと、エヴァンジェリンはもう一度洸に話し掛けた。


「返事はどうした? 挨拶は人間関係の基本だぞ」

「え、あ……おはようございます」


 未だに状況を飲み込めていない様子で、それでも習慣からか、洸が挨拶を口にする。そんなどこか愛らしさを感じさせる彼女に対し、エヴァンジェリンは席を勧めた。促されるままに着席する洸の対面に、エプロンを外したエヴァンジェリンも座る。

 そこでようやく、洸の瞳に理性の光が宿った。パチクリと一度だけ瞬きした彼女は、恐る恐るといった様子で口を開く。


「あの、これはエヴァンジェリンさんが?」

「まぁな。世話ぐらいはしてやると言っただろう?」


 エヴァンジェリンの返答を聞いた洸は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 遠慮、しているのだろう。賢い癖に変な所で子供っぽい洸は、時折酷く純粋な反応を示すのだ。今回の事だって、エヴァンジェリンが吸血鬼だとかそういった事を抜きにして、単純に朝食の件だけを考えているに違いない。

 洸は馬鹿だと、エヴァンジェリンは思う。そんな一面を見せるから、自分に目を付けられるのだと。無垢な乙女など吸血鬼にとっては恰好の獲物に過ぎないというのに、洸はあまりに無防備過ぎる。


「……ありがとうございます」


 ほら、とエヴァンジェリンは胸の奥で呟きを漏らす。

 少しくらい疑う素振りを見せたらいいのに。近衛 洸は、『闇の福音』を嫌っているはずなのだから。そんな風に洸を心配する裏で、エヴァンジェリンは現在の彼女の心境を推察していた。

 今朝の洸は、かつて無いほどに素直だ。昨夜の出来事があったからか、はたまた世話を焼かれる事に弱いのか、その原因はどこにあるのだろうかと、エヴァンジェリンは気になった。

 踏み込むべきか、踏み込まざるべきか。その二択を考えたエヴァンジェリンは、すぐさま結論を出した。昨夜は踏み入る事を躊躇した部分も、今の洸を見ていると大丈夫な気がしてきたのだ。


「体の方はどうだ? まだ熱はあるみたいだが」

「そうですね。慣れているので気持ちとしては楽ですけど、やはり体の方は三日ほど掛かると思います」


 赤い頬の洸は、やはり緩慢な動作でトーストにジャムを塗りながらそう答えた。昨夜の事を思い出したのか、その表情は苦い。同時に彼女は、窺うような視線をエヴァンジェリンに向けてきた。


「貴女は、私の事について何か……?」

「ジジイからおおよそな。自分の才能は不満か?」


 トーストを齧りながらエヴァンジェリンが返せば、洸は眉間に皺を寄せた。分かり易い彼女の反応に、エヴァンジェリンは苦笑する。


「贅沢だな。お前ほどの才人はそう居ないぞ」


 洸を煽るような言葉を、エヴァンジェリンは故意に口にする。

 案の定と言うべきか、吊りがちな目を一層キツくした洸は、俄に声を硬くした。


「だからこそ、です。誰もが私を凄いと言います。天才だと評価してくれます」


 しかし、と洸が目を伏せる。小刻みに睫毛を震わせ、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。


「私は貴女に届かない。お爺様にも追い付けない。あまりにも半端な天才です」


 弱音とも取れる洸の発言を、エヴァンジェリンは否定しなかった。

 高位の魔法使いの戦闘において、まず第一に要求されるのは攻撃力だ。確かに魔法の使えない一般人レベルの話であれば、たとえ達人であろうとナイフ一本で命を奪える可能性は十分にある。だが魔法使いは違う。高位の者になれば、戦車に撃たれてもピンピンしているような猛者が出てくるのである。

 どれだけ技術があろうと、攻撃が通らなければ意味は無い。だからこそ相応の火力を求められるのだが、近右衛門に聞いた限りでは、洸がそのレベルに達する事は無い。天才であるはずの洸の前に、『凡人と天才の壁』が立ちはだかる訳だ。


「研究者、諜報員…………お前の才能を活かせる場は幾らでもあるが、ソレが望む道とは限らない、か」


 テーブルの上に置かれた洸の小さな手が、ギュッと握り締められる。黒い瞳がエヴァンジェリンを捉え、宿った光が微かに揺らいだ。愛らしい唇が開かれようとして、またすぐに閉じられる。言い出したいが、言い出せない。口にしたいが、口に出来ない。そんな葛藤が透けて見える彼女は、暫し悩んだ後に、黙って立ち上がった。

 上気した頬を僅かに歪め、頭が痛そうに眉間に皺を寄せた洸が、座ったままのエヴァンジェリンを見下ろして声を絞り出す。


「……ごちそうさまでした」


 まだ、ご飯が残っている。そう言ってやろうかと思ったが、エヴァンジェリンはすぐに口を噤んだ。今は茶化すような時ではない。背中を向けて去っていく洸を見送りながら、彼女はホットミルクに口を付けた。


「逃げられた、か」


 ポツリと漏らしたエヴァンジェリンの口元は、楽しそうに歪んでいた。

 隙だらけで、迂闊で、普段なら絶対に隠そうとする姿を見せる洸。しかしそれは、本当に気の緩みによるものだろうか。あの近衛 洸が、本当に油断だけでここまで心を曝け出すだろうか。

 違う、とエヴァンジェリンは思った。それだけではないと、頭の何処かで理解していた。だからまずは、それを確信へと変えよう。

 最後の一欠片となったトーストを口へと放り込み、エヴァンジェリンは静かに立ち上がった。




 □




 茶室との間仕切りになっている障子を開くと、爽やかな畳の香りがエヴァンジェリンの鼻腔を擽った。そこに混じる、ほのかに甘い匂い。それが誰のものかなど、今更考えるまでもない。彼女が視線を巡らせると、目的の人物はすぐに見付かった。

 畳の上に敷かれた布団に、洸がしがみつくようにして横たわっている。長い黒髪を散乱させ、枕に顔をうずめた彼女の姿は、丸っ切り子供みたいだ。静かで落ち着いているはずの茶室の空気が、そこだけは墨でも塗りたくったかのように陰鬱だった。

 一瞬だけ獲物を見定めるように目を細めたエヴァンジェリンが、ゆっくりと茶室の中に踏み入っていく。洸の反応は無い。他人の気配には気付いているだろうに、彼女は頑なに顔を上げようとはしなかった。

 洸の枕元まで近寄ったエヴァンジェリンが、片膝を立てて座り込む。


「なぁ、近衛 洸。お前はジジイが好きか?」


 手の中で黒髪を弄びながら、エヴァンジェリンが話し掛ける。

 すると洸の体がモゾモゾと動き、枕と顔の隙間から、黒い瞳がチラリと覗く。


「少し、違います。お爺様”だけ”が好きなんです」

「嘘つきだな、お前は」


 薄く笑みを浮かべたエヴァンジェリンが、当然のように言い切った。洸の反論は無い。彼女は黙ったまま、枕元のエヴァンジェリンをジッと見詰めている。そこに批難の色は無く、物を知らぬ子供のような興味だけが色濃く輝いていた。

 何を考えているのだろう。何を感じているのだろう。洸の心を覗いてみたい欲求に駆られたエヴァンジェリンだが、彼女はその全てを飲み込み、あくまで平静を装って言葉を継いだ。


「大切な相手は、一人だけ居ればいい。たしかにそういう奴は居る」


 落ち着いた口調。優しげな声音。常とは違うエヴァンジェリンの言葉を、洸は息を潜めて聞いている。


「だが、お前は違うだろう? 私にはむしろ、そうした誰かを求めているように思えるぞ」

「あり得ません」


 間髪入れずに否定する洸に対し、エヴァンジェリンは可笑しそうに喉を鳴らす。

 あり得ない。それこそ、あり得ない。どこか必死さを感じさせる洸を見ていると、そう感じずにはいられない。前々から、そういった節はあったのだ。クラスメイトの件などはその最たるものであるし、何より、そもそもの始まりからして変だと言える。


「そうか。ところで、一つ訊きたい事があるんだが」


 訝しみながらも声には出さず、洸は目線だけで続きを促した。


「何時だったか、生徒達を襲った理由を訊いてきただろう?」

「えぇ、そんな事もありましたね」

「逆に問うが、どうして私を捕まえたんだ? ジジイからは止められていたはずだぞ」


 刹那、洸の目が鋭く細められる。それから考え込むように視線を彷徨わせた彼女は、やや躊躇いがちに口を開いた。


「お爺様の為に、決まってるじゃないですか。ココは麻帆良学園で、つまり学園長であるお爺様の膝元です。そこを盛大に荒らされて、黙ってなんていられますか。貴女は元指名手配犯で、ただ居るだけでもお荷物ですしね」

「たしかに、それ”も”あるだろうな」


 事実として、近右衛門の為というのは大きな理由だろう。だが、それだけではないはずだ。それだけなら、洸は動かない。近右衛門の命令があるからこそ、彼の為だけに洸が動く事は無いと、エヴァンジェリンはこれまでの経験から理解していた。

 何かある。最低でもあと一つ、別の要因があったはずなのだ。それが一体なんなのか、既に想像はついている。いや、正確には願望と言ったほうが良いのかもしれない。こうであって欲しいという願望が、知らず知らずの内に思考に表れた可能性は否定出来ない。

 だが、それでも。エヴァンジェリンには確信があった。同類の勘とでも言うべきものが、間違い無いと、胸の奥で囁いているのだ。


「小林 真由美(こばやし まゆみ)」


 告げた名に、洸は片眉を跳ね上げる。


「私が襲った生徒の中で、唯一の小学生であり――――――」


 エヴァンジェリンの澄み渡った青い瞳が、全てを見透かすように、洸を射竦める。

 布団に隠れた洸の体が、微かに震えた気がした。


「お前のクラスメイトでもある」


 事件後、初めて近右衛門が訪ねてきた時に、被害者に関する情報は一通り聞かされていた。その時は興味が無いからと聞き流していたのだが、かろうじて頭の隅に残っていたらしい。或いはそれだけ洸の事を気にしていたという証左かもしれないが、今は関係無い。

 今のエヴァンジェリンにとって重要なのは、自身の内面ではなく、目の前で必死に外面を取り繕おうとしている少女の気持ちだ。


「…………話した事なんて、殆どありませんよ」

「出席番号は一つ違い。それに、随分と人懐っこい性格だと聞いているぞ。私が獲物に選んだのは、活きの良い奴が多かったしな」


 確かに、洸からは関わろうとはしなかったかもしれない。しかし相手の方も同様だとは、エヴァンジェリンには到底思えなかった。此処は麻帆良学園だ。仲間意識が強く、お祭り好きな連中の集まりだ。絶対に向こうからのアプローチはあったはずだし、その全てを冷たくあしらうような真似は、洸の性格では不可能だろう。

 その点については自覚があるのか、洸は口をへの字に曲げて、再び顔を伏せてしまった。


「別に…………別に……」


 拗ねた子供そのままのような格好で、洸がくぐもった声を漏らす。その呟きはまったく意味を成してはいなかったが、寧ろそれが常の彼女とは掛け離れていて、エヴァンジェリンは愛らしさを感じていた。

 普段は澄ましている少女が見せる弱さというのは、正直、ゾクゾクするものがある。

 何よりコレは、洸なりのシグナルではないだろうか。単なる油断ではなく、気の緩みでもなく、自分を見てほしいという、寂しがりな子供が発信する救難信号の一種だと、エヴァンジェリンは予想していた。

 でなければ洸は、ここまで話に付き合ってはくれない。弱っている時だからこそ、本当に話したくない事は全力で隠そうとするのが、近衛 洸という少女だ。逆に言えば、聞いてほしいという気持ちがどこかにあるからこそ、話に乗ってくれている訳である。


「友達は要らないと、そう思うか?」


 エヴァンジェリンの問いに、応えは無かった。洸は枕に顔を押し付けたまま、雷雨が過ぎ去るのを待つ幼子のようにジッとしている。

 静寂が満ちた室内で、二人分の息遣いだけが耳を震わせる。エヴァンジェリンは動かなかった。我慢比べとでもいった様子で、彼女は俯せの洸を見詰めている。息を潜め、立てた片膝に顎を乗せ、青い瞳を微動だにせず、エヴァンジェリンは洸の反応を待っている。

 射し込む日差しが強くなり、森の生き物達が本格的に活動を始める頃になっても、二人は頑なに動こうとはしなかった。

 しかしその空気も、永遠には続かない。何か切っ掛けがあった訳ではなく、ふとしたその瞬間に、息をするように自然な動作で、洸が顔を上げた。不安気に揺れる黒耀の瞳をエヴァンジェリンに向け、彼女は弱々しい声で話し始めた。


「憶えてないんです」

「……何をだ?」

「昔の事を。私が、京都に居た頃の事を」


 うん、とエヴァンジェリンは首を捻った。

 それは、少々可笑しい気がする。洸が近右衛門に引き取られたのは、四歳の頃だったと聞いている。言葉はそれなりに話せたと近右衛門が言っていたし、物心は十分についていたはずだ。流石に忘れている事はあるだろうが、そんな次元の話ではない事くらい、洸の様子を見ていれば理解出来る。

 そんなエヴァンジェリンの考えを知ってか知らずか、洸は小さく苦笑した。


「お爺様の腕の中――――――それが、最初の記憶なんです。ギュッて抱き締められて、温かくて、凄く安心したのを憶えてます」


 その時の事を思い出しているのか、洸の赤い頬が、柔らかな笑みを形作る。


「京都に居た頃だって、同じような事はあったはずです。叔母様は大切にしてくれたって、何度も聞かされました。けど、違うんです。きっと、そうじゃないんです。愛されてたかどうかじゃなくて、私が本当に安心出来た場所が、お爺様の所だったんだと思います」


 不穏な情勢。外界から隔離された世界。幼子の敏感さが、そうした環境の可笑しさを感じ取っていたのだろうか。そして気付いていたからこそ、心を十分に開いていなかったのだと、洸は言いたいのかもしれない。


「だから私の居場所は、ココだけなんです。お爺様の膝元だけが、私の望む世界なんです」


 自らの言葉を噛み締めるように、洸は目を閉じた。その意識はきっと、近右衛門にだけ向いている。話を聞いているエヴァンジェリンの事なんて、忘れてしまっているに違いない。

 それが、分かるから。気付いて、しまえるから。エヴァンジェリンは悔しさで顔を歪めた。


「一から十まで、余す所無く捧げて。私の全てを賭けて、頑張りました。理想の孫娘で居たくて。文句の一つすらつけさせたくなくて。沢山努力して、十全の研鑽を重ねて、それだけやっても――――――――この程度なんです」


 寝返りを打った洸が、陰鬱な空気で天井を見上げた。右手で額を覆い、彼女は眩しそうに目を細める。


「全力でやっても、欠陥品止まり。じゃあ、全力じゃなくなったら? ホンの僅かでも、別の事に力を割いたら?」


 泣き出しそうな声だと、エヴァンジェリンは思った。目一杯に水を蓄えて、今にも降り出しそうな雨雲みたいな、重苦しい湿っぽさを纏った声だと、思わずにはいられなかった。それくらい、今の洸は酷い顔をしている。


「友達なんて要らない。欲しくない。私はお爺様の為に頑張って、その為だけに、最善を尽くすんです」


 一欠片の取りこぼしすら無い十全の努力をして、それでも満足出来る結果が得られないから、手を抜く事が怖い。他の事に、僅かでも興味を奪われる事が恐ろしい。つまりはそういう事だと、エヴァンジェリンは理解した。

 ただ、それでもやはり、何かが可笑しい。腑に落ちない。


「気にせずとも、ジジイは傍に置いてくれるだろ」


 そう、気にする事なんて無い。洸が何を心配しているのか分からない。

 麻帆良に居たいのならば、居ればいい。近右衛門は、決して孫娘の願いを拒むような事はしないだろう。


「分かってます。お爺様の事は、信じてます」


 ――――――けど、一点の曇りも無く幸せな私なんて、信じられません。


 室内を照らす日差しに手を翳し、洸が儚く微笑んだ。その姿は光を厭っているようにも、届かぬ太陽に縋ろうとしているようにも見えて、エヴァンジェリンは知らず自身の姿を幻視した。

 矛盾。洸の心情を表すなら、その言葉こそが相応しい。信じられる近右衛門と、信じられない洸自身。決して論理的な思考ではなく、聞く者によっては一笑に付すであろうそれも、彼女にとっては間違い無く恐怖の対象なのだ。

 両親が居ない事が、原因かもしれない。幼少期の環境も、理由かもしれない。魔法の才能が、決定的だったのかもしれない。まるで、ボタンを掛け違えたかのような人生だ。一見すればなんの問題も無いのに、気付いてみると、何かが致命的に間違っている。

 だから洸は、怖がるのだろう。自分はどこかで躓くのではないかと、恐れているのだろう。


「…………子供なんだな、お前は」


 穏やかな声音で、エヴァンジェリンが告げる。

 子供だ。近衛 洸は、紛れも無く子供だ。居もしないお化けに怯える子供だ。居場所を奪われる事を恐れる子供だ。

 近衛 木乃香。一年後にやってくるという洸の従姉妹には、魔法の才能があるらしい。洸よりも魔力量が多く、彼女のような欠陥も無いと聞いている。まだ魔法については教えていないようだが、それでも洸にとっては、自分の身を脅かす相手に思えたのだろう。


「子供なんです。何一つ自分で掴めてない、子供なんです」


 だから自分の全てを賭けて、一番欲しいものを手に入れようとする。それが、洸の生き方なのだろう。

 けど、それだけでもない。それだけなら、洸はエヴァンジェリンを捕まえない。彼女は子供なのだ。我慢は知っていても、諦めは知らない子供なのだ。人との繋がりを求める想いは、胸の奥で燻っているに違いない。


(ジジイの為だけに、か)


 近右衛門の為でもあるからこそ、洸は行動したのだろうか。お爺様の得になると自分を騙し、クラスメイトの事を想って、あの夜はやってきたのだろうか。捨てきれない願望が、彼女を衝き動かしたのだろうか。

 そうだったら良いな、とエヴァンジェリンは思った。そんな弱さがあれば良いな、と彼女は願った。


「近衛 洸」


 両の膝を畳につき、身を乗り出すようにして、エヴァンジェリンは洸の顔を覗き込む。青と黒。二つの瞳が交差した。互いに明確な感情は浮かんでおらず、ただ静謐さだけを湛えた瞳で、相手を見詰めている。

 コクリと、エヴァンジェリンが喉を鳴らす。緊張だ。柄にも無く、彼女は緊張していた。


「友達が欲しいと、そう思わないか?」


 訝しむ洸より先に、エヴァンジェリンは言葉を重ねる。


「私は思う。なんの利害も無く語り合える相手が欲しいと、願ってる」


 洸の右手を、エヴァンジェリンが握る。抵抗は無い。目を丸くしている洸は、ただされるがままに手を差し出していた。温かい手だ。小さくて、子供そのものといった感じの手で、どうしようもなく手に入れたくなってしまう。


「お前と、友達になりたいんだ」

「どう…………して……?」

「私にとって、ココは冷たい場所だ。ドイツもコイツも余所余所しい。唯一ジジイだけは違うが、アイツには立場も仕事もある。だから寂しい。だから悲しい。だから――――――誰かに傍に居てほしい」


 らしくない、という自覚はある。こんな弱音を他人に聞かせるなんて、普段なら絶対にしない。

 弱い心が、漏れている。傷ついて、罅割れた心の隙間から、弱い部分が零れている。だが、それでもいい。今は、今だけは、それでも構わない。自分のプライドには目を瞑るし、我慢する。だから、どうか癒してほしいと、エヴァンジェリンは願うのだ。


「貴女が嫌いだと、言ったはずです」

「だが、無理だとは思わなかっただろう?」


 洸の視線が逸らされる。小刻みに揺れる黒い瞳は、何よりも雄弁に答えを物語っていた。

 エヴァンジェリンの口角が、クイと持ち上がる。どこか嗜虐的で、また喜びを隠し切れていない笑みだった。


「それが答えだ。私はお前となら、良い友人になれると思っている」

「私は、友達なんて…………」


 あくまでも目を合わせず、悪足掻きとでもいった様子で洸が呟く。

 握っている手に力を込めて、エヴァンジェリンは、洸の意識を自身へと向けさせた。


「なら、私の為に努力しろ。魔法も勉強も、ジジイの為だけではなく、私の為にも磨いてみせろ」

「何を……言ってるんですか?」

「私は吸血鬼で、指名手配犯だ。人の世においては、絶対に安全な場所などありはしない。麻帆良に居られるのだって、ジジイが色々と手を回しているからだろう。だから、お前が強くなれ。ジジイと同じように、私を守れるくらい、強くなれ」


 洸が息を飲む。黒い瞳が収縮する。思わずエヴァンジェリンに向けた顔は、驚きに満ちていた。


「ジジイの為と、私の為と、合わせて十全だ。そうすれば、何も変わらない」


 無茶苦茶な理屈だった。破茶滅茶な意見だった。年端もいかない子供しか騙せそうにないくらいの暴論だった。

 だが、それでいい。だからこそ、これでいい。此処に居るのは、人との繋がりに飢えた子供だ。たとえどれだけ否定しようとも、隠し切れない望みが浮き出ている。エヴァンジェリンの言葉に心が動かされている事は、誰の目にも明らかだった。

 近右衛門が一番だと、安心出来る居場所だと、洸は言った。確かにそれは、真実なのだろう。しかしそれだけでは満足出来ていない事も、エヴァンジェリンは見抜いていた。だって洸はこんなにも、求められる事を求めているじゃないかと。


「あ………う……」


 言葉にならない声が、洸の唇から漏れる。忙しなく瞳が動かされ、握られていない方の手は、当て所もなく彷徨っていた。

 結局、洸も寂しいのだ。いくら優しい祖父が居ようとも、それだけで満たされるほど、彼女の心は無欲ではなかったのだろう。だからこそこうしてエヴァンジェリンの言葉に心乱され、迷いが生じている。


「頼む。一人は――――――嫌なんだ」


 エヴァンジェリン自身、気付かぬ内に声を出していた。祈るようにして洸の手を握り締め、なんの打算も計算も無く、本音を漏らしていたのである。それを自覚した彼女は慌てて顔を上げ、その瞬間、驚きで動きを止めた。

 洸の右手を握っている、エヴァンジェリンの両手。そこにもう一つ、小さな手が重ねられたのだ。


「えっと、その……アレです。まずはお友達から始めましょう?」


 熱で赤い頬を更に真っ赤にした洸が、たどたどしく言葉を紡ぐ。その目は決してエヴァンジェリンから逸らされず、照れた様子ではにかむ姿からは、かつて無いほどの不器用さが感じられた。そしてそんな洸を、エヴァンジェリンは呆然と見詰めている。

 一分経ち、二分経ち、それでも反応の無いエヴァンジェリンを前にして、洸は困ったように視線を彷徨わせ始めた。順調に温められた頬は熟し切ったリンゴのようで、普段の澄ました態度が嘘みたいな有様だ。

 そうして落ち着きを無くした洸を見るに至って、エヴァンジェリンはようやく笑みを浮かべた。


「存外不器用だな、お前は」

「だって……」

「まぁ――――」


 恥ずかしそうに目を伏せる洸に向けて、エヴァンジェリンが微笑する。

 もう何年も浮かべた事の無いような、屈託の無い笑顔だった。


「――――よろしく頼む」

「……はい」


 洸もまた、子供そのものといった純粋な笑顔で応えてみせた。

 それが、始まり。二人が本当の意味で一歩を踏み出した、その瞬間。どこか歪な友情は、そうであるからこそ断ち難い。決して抜ける事の無い楔となった願いが、その根底には渦巻いている。彼女達を強固に結び付けたソレは、あまりにも単純な願望だった。




 ”貴女の心に――――――――居場所をください”












 ――――後書き――――――――


 という訳で、外伝一之三でした。読者の皆様、いつもありがとうございます。

 今回で過去編は一旦終了です。二人が友達になるまでの話でしたが、ある意味、これほど不純な友情も無いかもしれませんね。良くも悪くも空気みたいなものといった感じでしょうか。生きていく上で必要だけれど、富士山のものだとか、尾瀬のものだとか、そういった部分には頓着しない、みたいな。有り体に言ってしまえば、誰でも良いという事ですね。だから本当の意味で特別だったのは、これから先の、友人として過ごした時間という事でしょう。

 さて、次回は現在へと戻り、修学旅行関係の話となります。久し振りにのんびりとした話を書きたい所ですね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十五話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/06/06 18:56


 麻帆良学園中等部の修学旅行は、毎年四月の下旬に催される。行き先には京都やハワイなど複数の候補があり、その中から、各クラス毎に希望の場所を選出するという形式だ。これは生徒の自主性と、多過ぎる生徒数を考慮しての事である。

 ネギが担任を受け持つ三年A組では、定番中の定番とも言える京都を修学旅行先に選んでいた。学年全体で見るとあまり人気の無い行き先だが、担任のネギが外国人という事もあり、ほぼ満場一致で可決されたと言っていい。

 そうして着々と修学旅行の準備が進められ、翌週に迫った一大行事への期待で浮き立つ生徒達とは裏腹に、ネギの気分は雨空のように陰鬱だった。授業にも身が入らず、誰かと話していても、つい上の空になってしまう。心配された回数だって、既に二桁に及んでいる。

 理由は明白だった。教室の中に、エヴァンジェリンと茶々丸が居ない。それだけだ。それだけだが、大切な事だ。

 大停電の日から、今日で三日が経つ。事情聴取による拘束も解かれ、会議の場に呼ばれる事も無くなったが、エヴァンジェリンの方は未だに囚われの身であるらしい。遥か地下にある部屋で、完全に魔法を封じられた状態で閉じ込められていると聞く。

 そう悪い事にはならないだろうと、近右衛門は言っていた。ネギが必死に言い募った事もあるし、記憶を調べた結果、エヴァンジェリンも決して救いが無い訳ではないから大丈夫、との事だ。そしてそれは、確かに嘘ではないだろう。

 でもやっぱり、ネギとしては心配なのだ。エヴァンジェリンは彼の生徒であり、友人であり、よき魔法の先達でもあるのだから。拭い切れない無力感が心を苛み、ネギから普段の快活さを奪っていた。

 そんな時だ。近右衛門からの呼び出しがあったのは。


「――――――――関西呪術協会、ですか」


 思わずネギが漏らした声は、随分と間の抜けたものだった。その表情からは緊張が消えており、まさしく拍子抜けといった様子だ。

 エヴァンジェリンの件で進展があったのかと期待していたというのに、近右衛門が口にしたのは、まったく別の事だった。関西呪術協会。陰陽師と呼ばれる日本の魔法使いによって運営され、古くからこの国で活動してきたというその組織の本拠地が、京都にあるらしい。


「うむ。昔からある組織でな、後からやって来たウチとは仲が悪いんじゃよ」

「…………もしかして、修学旅行の件ですか?」


 関西呪術協会の本拠地は京都にあり、そこはネギのクラスの修学旅行先でもある。組織間の仲が悪いというのなら、魔法使いであるネギが京都に行っては、何か不味い事があるのかもしれない。

 そんなネギの予想は、首肯する近右衛門によって裏付けられた。


「まさしく。修学旅行には魔法先生を同行させん、というのが通例じゃ」

「それじゃあ……」

「――――――が、今年は少々事情が違う」


 やや気落ちした様子のネギの言葉を、近右衛門が遮る。


「ワシも向こうの長も、仲良くしたいという思いはあるんじゃよ。それで前々から話を進めておってな、今回の修学旅行を機に、正式に融和路線へ移行しようという事で同意したんじゃ」


 明るい口調で語る近右衛門だが、その内容は極めて重大だ。思わず驚きで目を見開き、ネギは硬直してしまう。そんな彼を見て若干目元を緩ませながらも、近右衛門は何も問題は無いといった様子で話を続けた。


「そこで今回の呼び出しとなる。融和の第一歩として親書を送る事になったんじゃが、その為の『特使』を君に任せたい」

「僕が、特使を?」


 事態が飲み込めずに首を傾げるネギに、近右衛門は安心させるように笑い掛ける。


「なぁに、心配する事は無い。修学旅行中に、生徒達の自由行動の日があるじゃろ? その時に手紙を届けてくれるだけで良いんじゃ。先方からも、一人までなら、と魔法先生の京都入りを許可して貰っておるしの」


 軽い調子で言い切る近右衛門とは裏腹に、ネギの脳裏では様々な思いが錯綜していた。

 京都。親書。特使。あまりにも唐突な展開に、正直、思考が追い付かない。だがそれでも、事の大切さは理解出来る。そんな事を見習いの自分に任せても大丈夫なのか。ちゃんと責任を果たす事が出来るのか。思わず浮かんだ不安を、ネギはすぐには拭えなかった。


「本当に…………僕に出来るのでしょうか?」

「ふむ?」


 訝しげな声を上げ、近右衛門は長い顎髭を撫ぜる。彼の様子に気付かず、ネギは言葉を続けた。


「だって僕は、見習いです。まだまだ未熟な魔法使いなのに、こんな仕事を任せてもらうなんて――――――」


 不安で、心配で、自信が湧いてこない。エヴァンジェリンの件が、ネギの心に重く圧し掛かっていた。アチラの問題すら解決出来ていないというのに、一体何が出来るというのだろうか。そんな弱気が、胸の奥から語り掛けてくるのだ。

 先の事件において、ネギは身の程を思い知らされていた。被害者の立場であり、事件の中心に居たというのに、碌な口出しも出来ないまま話し合いの外に置かれてしまっている。所詮は見習い。意見を言う事は許されても、結論を出す場への参加は許されない。

 たとえ英雄の息子だろうと、魔法学校主席卒業者だろうと、所詮はその程度なのだ。


「たしかに、ネギ先生では荷が重い部分もあるじゃろう。長が協力的とはいえ、妨害される可能性もゼロではない」

「なら――――」

「じゃが、この役目は君にして貰いたい」


 力強く言い切った近右衛門に、ネギは訝しげな視線を向けた。


「関西呪術協会の長の名は、近衛 詠春(えいしゅん)という。彼は木乃香の父親であり、ナギの仲間でもある」

「父さんのッ!?」


 いきなり知らされた情報の内容に、思わず声を張り上げるネギ。そんな彼とは対照的に、近右衛門は鷹揚に頷いてみせた。


「うむ。かの『紅き翼(アラルブラ)』の一員でな、友人の息子である君に会いたいと言っておるんじゃ」


 コクリと、ネギは喉を鳴らした。

 紅き翼。ネギの父、ナギ=スプリングフィールドがリーダーを務めていたパーティであり、かつて魔法世界で起きた大戦を終結へと導いた英雄達の集まりでもある。今でも世界中の魔法使いから多大な尊敬を集めている彼らは、ネギにとっても憧れの対象だ。


「それに京都行きは、生徒達がネギ先生の事を考えて選んだんじゃろ? 君が参加しない訳にもいくまい」

「あっ。それは……」


 言い淀み、ネギは目を伏せる。

 この任務を受けなれければ、京都に行く事は出来ない。そうなれば、折角の生徒達の厚意を無駄にしてしまう。行き先を変えれば、一緒に修学旅行に行く事も可能だろうが、話し合いの時の生徒達を思い出すと、その選択も躊躇われる。

 何より、ネギ自身が持つ京都に行きたいという気持ちは、決して否定出来ないものだった。

 生徒達にとっては、一生物の思い出になるかもしれないような一大イベントだ。教師としては絶対に参加したい所だし、彼個人としても、こうした学校行事には興味を惹かれるものがあった。また父の友人と、しかも昔の仲間と会えるという話には、抗い難い魅力がある。

 京都に行きたい。その気持ちが、ネギの中で膨らんでいく。


「…………生徒のみなさんは、巻き込まれませんよね?」


 それでもやはり、拭い切れない恐れが、少年の心には根付いていた。


「一般人には手を出さないというのは、コチラもアチラも同じじゃ。そうそう心配するような事態にはならんよ」

「少しは、可能性があるんですね?」


 不安そうに問い返したネギに対し、近右衛門は当然の如く首肯で返す。


「出来る限り不安要素を減らしてきたつもりじゃが、この世に絶対は無い。責任ある立場に居る者は、常にその事を気に留める必要がある。だから、そうじゃの。どうしても心配だというのなら、他の者に代わって貰おう。十分な自信を培うには、君はまだ若いからの」


 柔らかな声音で告げた近右衛門の言葉に、ネギは情けなさから拳を握った。

 大丈夫だと、自分ならやれると、胸を張って応えたい。一人前になる為に麻帆良学園へ来たのに、こんな風に尻込みしていたのでは意味が無い。機会が与えられたというのなら、積極的に挑戦していくべきだ。

 そも近右衛門が言うのだから、実際、可能な限りの危険は排除されているのだろう。お膳立てはされていて、十分な理由もある。行かない道理など無いはずなのに、それでもネギは躊躇いを捨てられなかった。

 もしも失敗してしまったら。上手くいかなかったら。水底から浮かび上がる泡のように、弱気な考えが表に出てくる。


「……少し、考えさせてください」


 結局、ネギが口に出せたのはそれだけだった。












 ――――第二十五話――――――――












「あんなコト言ってもさ、結局は行かせるつもりでしょ?」


 広い学園長室に、澄んだ女性の声が響き渡る。執務机に腰掛ける近右衛門は特に驚いた様子も無く、声の聞こえてきた方へと顔を向けた。すると、二階へ繋がる階段から降りてくる洸の姿が目に入る。黒のチュニックにデニムパンツを合わせた彼女は、その私服姿が示す通りに、随分とくだけた身のこなしでソファに腰を下ろした。

 黒い革張りのソファが沈み込み、ギュッと小さく音を立てる。高い天井を見上げて、洸は呟くように声を漏らした。


「アッチとコッチで、とっくの昔に決めた事じゃない」


 洸が呆れたように嘆息すると同時に、応接テーブルの上にティーカップが現れた。透き通った紅茶で満たされたソレの出現と共に、学園長の執務机にも緑茶の入った湯飲みが置かれる。何かの見間違いかと思うような、瞬きの内に行われた早業だった。

 奇跡と言うには些か安っぽいこの御業を誰がやったのかなど、今更考えるまでもない。近右衛門もまた、呆れから息を吐く。


「相変わらず、ありがたみの薄い高等魔法じゃのう」

「癖みたいなものだからね。鈍ってたら目も当てられないし」


 素知らぬ様子でカップに口付け、洸は片笑みを浮かべた。それから彼女は、咎めるように近右衛門を睨め付ける。


「そんな事より、今はネギ君の話だよ。エヴァの事を教えてあげればよかったのに」

「なに、まだ時間はあるからの。悩んでおるなら、しっかりと考え抜いてほしいんじゃよ」


 若い内から楽はいかんと笑ってみせて、近右衛門は湯飲みを傾けた。ズズと音を立てて、彼は美味しそうに緑茶を啜る。そんな祖父の姿を見て、洸は複雑そうに眉根を寄せた。誤魔化すように、彼女は紅茶を飲む。


「たしかに、そうかもしれないけど……」

「心配なら相談に乗ってあげなさい。お前が言うように、ネギ君の派遣は決定事項じゃからの」


 そう、既に決まっている事だ。近右衛門は親書を送り、その為の特使として、ネギを派遣する。これを提案してきたのは、関西呪術協会の方からだった。と言っても、実際に要求してきたのは長ではなく、和平反対派の有力者達だ。和平実現への流れを止められないと判断した彼らが、賛成する代わりに色々と注文を付けてきたのである。

 理由は嫌がらせに近い。英雄の息子であり、将来を嘱望される魔法使いでもあるネギを、半ば敵地とも言える京都に一人だけで送り出せるのかという挑発だ。この場合ネギが見習いだというのは、アチラにとっては寧ろプラスになる。それはつまり、何かがあった時に、身を守る術に欠けるという事だからだ。先程も言ったように、完全に不安要素を排除出来た訳ではないのだから。

 そうやって麻帆良側にプレッシャーを掛け、今回の話の延期――――――――あわよくば破談を狙っている訳である。

 もはや親書とは名ばかりの交渉手段だが、近右衛門としても断る訳にはいかなかった。元々魔法協会側から持ち掛けた話だという事情や、西の長である詠春が経験不足の為、彼が隙を見せない内に話を纏めたいという思惑があるのだ。


「まぁ、そうだね。必要無いとは思うけど、ちょっと話してみるよ」

「ところで…………本当に京都に行くんじゃな?」


 近右衛門の問い掛けに、洸が黙って首肯する。その瞳には、刃物のように鋭い光が宿っていた。


「そうか。お前が決めたのなら、ワシは反対せんよ」


 洸を麻帆良に引き取ってから、もうすぐ十七年が経とうとしている。その間、彼女が京都を訪れた事は無い。木乃香のように里帰りをした事も無ければ、仕事で近くに行った事すら無い。麻帆良の一員を自認するが故に、洸は頑なに西との関わりを持とうとはしなかった。今では木乃香と違って、気軽に里帰りも出来ないような立場である。

 そんな洸が、ウェールズから帰ってくるなり京都に行くと言い出したのだ。理由がなんであれ、近右衛門としては喜ばしい事だった。


「約束したからね。ちゃんと守らなくちゃ」


 苦笑して、洸は自らの頬を摩った。細い指が、何かを思い出すように白い頤を滑る。


「…………大丈夫。上手くやるよ」


 目を瞑り、噛み締めるように洸が喋る。実に簡素な内容だったが、その端々から固い決意が感じられる声だった。

 近右衛門は、深くは問わない。ただ頑張れと、彼はその言葉だけを、孫娘に送った。








 ◆








 赤い夕陽が、山の稜線に近付いていく。部活に精を出す生徒達の声が響き渡る傍らで、用事の無い生徒達が下校する。多くの生徒が校舎を去り、後には閑散とした空間だけが残される。そんな放課後独特の、賑やかしさと寂しさが入り交じった空気を肌で感じながら、ネギは一人でベンチに座っていた。明日菜も木乃香も、傍には居ない。今頃はそれぞれの部活動を頑張っている所だろう。

 広い校庭で元気一杯に体を動かしている生徒達をボンヤリと眺めたまま、ネギは溜め息をついた。

 考えるのは、先程近右衛門から持ち掛けられた話だ。東と西。仲の悪い二つの組織が、共に歩み寄る為の橋渡しを頼まれた。事の重大さは理解しているし、どんな理由であれ、名誉な役目を任されたとは思う。

 だが、自信が無い。一週間前まではあった溢れるほどのヤル気が、冷水を掛けられたかのように萎んでいた。


「……子供だなぁ」


 暗くなり始めた空を見上げて、ネギがポツリと漏らす。

 色々とやってきたつもりだった。相応の成果も出せたと思っていた。だがその程度で起こる変化など、所詮は微々たるものだ。結局ネギは子供で、未熟で、見習いでしかない。彼よりも上の立場にある人間は幾らでも居て、自分の意思よりもそうした人達の命令を優先しなければならない事もある。その最たる例が、エヴァンジェリンの件だった。

 魔法学校在学中よりも、確かに成長しているはずだ。だが同時に、あの頃には無かった不自由さがある。その事を意識してしまったから、ネギはなんだか、自分がチッポケな存在に思えてならなかった。

 自分がやらなくても、他の、もっと実力のある人がやればいいのではないかと、そんな事を考えてしまう。それはきっと冷静な判断というよりも、拗ねた子供の我が侭に近い。その自覚はあっても、ネギは後ろ向きな思考を止められなかった。


「どうせ僕なんて、か」


 思わず浮かんだ言葉を、そのまま口にする。それからネギは、肩を落として息を吐いた。


「そんな顔してると、ドンドン幸せが逃げちゃうよ」

「えっ」


 いきなり掛けられた声に、ネギは驚いて顔を上げる。するとそこには、私服姿の洸が居た。夕陽を浴び、毛先を朱に染めた黒髪を靡かせた彼女は、ニッコリと微笑んでネギの隣に腰掛けた。あまりに自然なその態度に、ネギは反応が遅れてしまう。


「何か悩み事かな? 私でよければ相談に乗るけど」

「あ、いや。その……」


 洸の声は柔らかで、胸の奥にまでスッと沁み込んでくる。相談出来るのなら、してみたい。だけど、本当にしても良いのだろうか。彼女に話しても、問題は無いのだろうか。そんな事を、ネギはつい考えてしまう。

 ネギの悩みの中核には、エヴァンジェリンの事がある。彼女は、多くの魔法使いに忌み嫌われている『闇の福音』だ。もしかすると、洸もまたエヴァンジェリンに対してよくない感情を抱いているかもしれない。もしそうならば、話すべきではないだろう。

 そんなネギの考えを見透かしたのか、洸は困ったように苦笑した。


「まぁ、大体予想は出来るよ。エヴァの事でしょ?」

「エヴァ……?」

「エヴァンジェリン=A=K=マクダウェル。君の生徒で、私のお友達」


 ナルホドと頷きかけて、次の瞬間、ネギは勢い良く洸の方に振り向いた。


「と、友達ッ!?」

「そう、友達。もう九年以上の付き合いになるよ」


 ネギから視線を外し、洸は校庭の生徒達へと顔を向ける。長い睫毛に縁取られた目を細めて、彼女は昔を懐かしむように口元を綻ばせた。きっと、彼女が言っている事は嘘ではない。洸の表情を見たネギは、自然とそう信じられた。

 膝に乗せた拳を握り、ネギは視線を落とす。

 話しても、いいかもしれない。話して、みたい。話して、しまおう。胸の奥に渦巻く不安が衝動になり、ネギの気持ちが大きく揺れ動く。暫し地面と見つめ合っていた彼は、やがて緩慢な動作で一つ頷くと、絞り出すように話し始めた。


「実は――――――」




 □




「――――――つまり、エヴァの件が思い通りの結果にならなかったから気に入らない、と?」


 ざっくばらん。洸が出した結論を聞いたネギは、あまりに率直過ぎるその言い方に、恥ずかしそうに身を縮めた。否定はしない。結局の所ネギが感じている不安は、そこに帰結するのだから。

 自分なら出来ると、ネギはどこかで考えていた。きっと最後は上手くいく、望み通りの結果が得られると、信じていた。それだけの努力をしてきたと思っているし、事実、これまではなんとかなっていたからだ。

 しかし、今回は違う。エヴァンジェリンとは上手くいったと思っていたのに、竜巻にでも襲われたかのようにその結果を吹き飛ばされた。そうする事が出来て、そうする事が許されて、そうする事が正しい人達が居た。

 だからなんだか、疲れてしまったのだ。心が疲れてしまって、勇気が湧いてこないのだ。


「まぁ、そういった気持ちはわかるけどね」


 優しい声音の、温かな言葉に、ネギは思わず顔を上げた。


「どうしてって思うよね。精一杯頑張ったのに、どうして思った通りにならないのって」

「……はい」


 ネギの頭に思い浮かぶのは、エヴァンジェリンの件を話し合った会議の場だ。どれだけ必死に彼女の善性を訴えても、誰もが目を逸らし、言葉を濁した。学園長は中立を貫き、タカミチですら曖昧な返事をして、ただ一人、葛葉先生だけがネギの味方だったあの場は、今でも苦い思い出として残っている。

 自分は間違っていないはずなのに、本当は自分の方が間違っているんじゃないかと、そんな気にさせられた。


「今までの努力はなんだったんだろう。こんなに簡単に踏み躙られるなら、頑張る事に意味なんてあるのかな?」


 独り言のように続けられた洸の言葉は、まさしくネギの心情そのもので、だからこそ耳を傾けずにはいられなかった。


「弱気で、情けなくて、カッコ悪い考えだけどさ。そんな弱さに、つい流されたくなるよね」


 ネギが頷き、同意を示す。そうなのだ。分かっていても、心のシミがジワジワ広がってきて、情けなくてもいいやと不貞腐れたくなる。


「けど、まぁ、わざわざ悩むまでもない事なんだよね。気付いてみればさ」


 明るい声で言い切った洸に釣られて、ネギは隣の彼女を見上げる。そこには、大らかな空のような笑顔で校庭を見詰める洸の顔があった。刹那、ネギの脳裏にネカネの存在が過ぎる。彼女も確か、同じ表情をしていた気がする。


「それは、どういう……?」

「上手くいかないのは嫌だし、出来ればあってほしくない事だけど、それってどうしてかな? 失敗する事そのものが駄目だっていう気持ちは確かだけど、それが一番じゃないよね? 誰かの為に行動して、その誰かが傷つくのがイヤだから、精一杯頑張ったんだよね?」


 問い掛けるような洸の言葉は、けれど確信と共に放たれている。だからネギは、素直に頷く事しか出来なかった。

 確かにそうなのだ。エヴァンジェリンの為に頑張って、だけどそれが報われなくて、このままでは彼女が傷ついてしまうかもしれないと、怖くなった。もしかしてまた同じ思いをするんじゃないかと、近右衛門の依頼に躊躇した。

 自分だけが背負うものではないと分かったから、つい後ろを振り返ってしまうようになったのだ。


「私もそうだった。だからその事を思い出したら、もう迷わなかった」


 言葉通り、一本芯の通った声で迷い無く断言した洸に、ネギは縋るような視線を送った。

 どうして。目に、顔に、雰囲気にその意志を乗せて、言葉無くネギが問い掛ける。


「何もせずにはいられなかったんだ。失敗するのは怖いけど、それで迷惑を掛けたくなんて、絶対にないけれど。だからといって立ち止まっていられるほど、軽い人達じゃなかった。辛くても前に進んで、挫けそうでも立ち上がって、大切な人の為に全力を尽くしたい。私の根っこにあるのはそういう気持ちで、それに気付いたら、あとはもう努力するだけだった」

「何もせずには、いられない…………」

「そう。きっとネギ君も同じようなタイプだと思うよ」


 全てを見透かすように、洸が目を細める。彼女の黒瞳に見据えられたネギは、我知らず体を震わせた。心の底まで覗かれているような気がして、少し怖い。だが同時に、言い様の無い安心感を覚えてもいた。

 多分これは、共感だ。彼女の言葉を理解し、同意している部分があるから、こんな気持ちになるのだろう。未だに明確な形を持たない何かでしかないけれど、ネギの心には、確かに答えのようなものがあった。


「それを実感する為にも、もう少しエヴァ以外の生徒に目を向けましょう。木乃香も明日菜も、かなり心配してたよ」


 ウェールズに居た頃にネカネがしていたように、洸がネギの頭をクシャリと撫でる。


「それじゃ、私はもう行くよ。今言ったコト、忘れないようにね」


 最後にそれだけ言って、洸は立ち上がる。長い髪を翻してネギに背を向けた彼女は、そのまま、なんの躊躇いも無く歩き去ってしまった。自分の役目はこれで終わったのだと、その後ろ姿が語っている。

 暫し何も出来なかったネギは、けれどスッカリ暗くなった空に気付き慌てて立ち上がった。杖を背負い、ベンチ脇に置いていた鞄を持つ。このままでは夕食に遅れてしまう。急いで寮に帰らなければ。

 洸が言っていた事は、未だに纏め切れていない。それでも先程までとは何かが違うと、ネギは心のどこかで感じていた。駆け出す彼の胸の奥には、温かな感情の萌芽が、確かに存在しているのだから。








 ◆








「遅いっ!!」


 玄関を開けたネギを最初に出迎えたのは、眉間に渓谷の如き皺を寄せた明日菜の怒声だった。短い廊下の真ん中で、両腕を組んで仁王立ちした彼女は、彼の姿を確認するなり眉を跳ね上げて、大きく声を張り上げたのだ。

 空気を震わせるほどのソレに反射的に身が竦み、足を止めたネギは、窺うように明日菜を見上げた。彼女の瞳には覚えのある苛立ちの色が見え隠れしていて、機嫌が悪い事だけは明白だ。


「す、すみません……」


 謝罪の言葉を口にしながらも、ネギの頭上には疑問符が浮かんでいた。

 確かに今日の帰宅は遅く、夕食の時間にも少し遅れている。そういった時は事前に連絡をするように言われているし、今回はそれを怠ったのも間違い無い。けれど、明日菜がここまで怒る理由にはならないはずだ。以前にも同じ事があったのだが、その時は少し機嫌を損ねただけだった。今みたいにヘソを曲げているのは、何かしら他の原因があった事が予想出来る。


「まぁまぁ、アスナ。そない怒らんと、はよご飯にしよ」


 訳が分からなくて困惑していたネギに助け船を出したのは、リビングから出てきた木乃香だった。近くまで駆け寄ってきた彼女は、ネギから優しく鞄を取り上げると、そのまま彼の手を引いて奥へと招く。


「ほら、早くせな冷めてまうえ」

「もぉ~。このかは甘いんだから」


 導かれるままに歩くネギの後ろで、明日菜が不満そうに呟く。しかしそれ以上は何も言わず、大人しくネギ達の後に付いてきた。そうしてリビングに繋がるドアを潜ったネギの鼻を、美味しそうな匂いが擽る。釣られて食卓に視線を移した彼は、そこでアレっと首を傾げた。


「今日って何かありましたっけ?」


 用意されていた夕食は、いつもと比べて随分と豪勢なものだった。しかも和食が得意な木乃香にしては珍しく、洋食ばかりが並んでいる。幾らなんでも、気が乗ったというだけでここまでの事はしないだろう。

 何か理由があるはずだ。そう思って尋ねたのだが、何故か木乃香は微笑を浮かべるだけで、答えを返してはくれなかった。


「アンタ、何か悩んでたでしょ」


 戸惑いを隠せないでいるネギの背後から、投げ遣りな明日菜の声が降ってくる。驚いてネギが振り返ると、そこには面倒そうに肩を竦める明日菜が居た。彼女は僅かに色合いの異なる瞳でネギを見下ろすと、呆れたような表情で口を開いた。


「このかってば、かなり心配してたのよ。アンタはダンマリだし、しつこく訊けるような雰囲気でもなかったからね」

「せやからコレは、相談に乗る代わり。美味しいモン食べたら、少しは気が楽になるやろ?」


 お日様みたいな笑顔で話す木乃香の言葉を聞いたネギは、目を見開いて食卓に顔を向けた。


「じゃあ、僕の為に……?」

「そーゆーコト。買い出しに付き合わされて、私まで部活休んじゃったんだから」


 疲れた風に息を吐く明日菜を見て、ネギは申し訳なさから眉尻を下げる。


「あ、その……」

「ほら、冷めない内に食べるわよ」


 明日菜の声に遮られ、ネギは謝罪の言葉を噛み殺す。帰ってきた時の事といい、随分と明日菜の機嫌を損ねているのかもしれない。そんな不安が頭をもたげて、ネギはつい、肩を落としてしまう。


「気にせんでえーよ。今はあんな風にしとるけど、アスナもすっごい心配してたんやから」

「えっ?」


 耳元で囁かれた声に振り向けば、木乃香が唇に指を当ててウインクしていた。思わずネギは、目を瞬いてしまう。

 数瞬、二人は見詰め合い、次いで聞こえてきた明日菜の声に揃って首を動かした。


「何してんのよー? ホントに冷めちゃうじゃない」


 見れば明日菜はいつもの定位置に座っており、二人が来るのを待っている状態だった。

 楽しそうに口元を緩め、木乃香はネギに話し掛ける。


「ほな行こっか。料理は熱い内が一番や」

「……はい。ありがとうございます」


 なんだか胸が一杯で、ネギが口に出来たのはそれだけだったけれど、優しく微笑む木乃香には、十分以上に伝えられたように思えた。




 □




「美味しい? ネギ君」

「えぇ。特にこのカウルは故郷の物にそっくりで、凄く美味しいですよ」

「ならよかったわぁ。ネギ君の話を参考にしたんやけど、初めて作るモンやから少し心配だったんよ」


 夕食の時間は、和やかに進んでいった。用意された料理はどれも美味で、食べているだけでも唇が綻んできそうな物ばかりだ。更にこれが自分の為に作られた物だと思うと、ネギは感動だけでお腹が膨れてしまいそうだった。

 自然と笑顔が零れ、明日菜を交えた話も弾む。ここ数日の憂鬱さを忘れてしまいそうなほどの団欒で、木乃香の狙い通り、ネギの気持ちは随分と晴れやかになっていた。お陰で口の滑りもかなり良くなっている。

 だからその言葉を聞いた時、ネギは特に考える事も無く返事をしていた。


「そうそう。来週は修学旅行やけど準備は出来とる? なんや要るモンがあるなら、一緒に買いに行かへん?」

「あ、実はまだなんです。僕こういうの初めてで、手伝っていただけるなら助かります」


 フライドポテトを口に含み、噛み締める。ポテトの香りがフワリと広がり、その中で塩味がアクセントを効かせている。ジックリ味わって咀嚼し、次の料理へと手を伸ばそうとしたネギは、その途中でピタリと動きを止めた。

 今、自分は何を言ったのだろうか。修学旅行に行くと、そんな主旨の事を口にしなかっただろうか。

 思いがけず漏らしてしまった言葉の内容に、彼は愕然とせずにはいられなかった。


「ネギ君どしたん? 美味しゅうなかった?」

「い、いえ…………京都ってどんな所なのかと思いまして」


 愛想笑いを浮かべる裏で、ネギは手の平にジットリと汗を掻いていた。

 決して間違った返答ではない。この場を円滑に進める為には、寧ろ理想的な言葉だったように思える。しかしネギの心には、言い様の無い苦味が広がっていた。なんとも後味が悪く、気を抜けばソレが表情に出てしまいそうだ。

 学園長の話を聞いた時から、悩んでいたはずだった。特使になるか、ならないか。京都に行くか、行かないか。その事をずっと考えていたというのに、どうしてこんなに軽々しく話してしまったのだろう。自分にとってこの問題は、そこまで軽いものだったのだろうか。

 そんなはずはない。そうだったら、あれほど迷ったりはしなかった。

 でも、なら、今の自分はなんなのだろうか。


「このかの実家があるトコよね。オススメのお店とかある?」

「う~ん。アッチに帰っても、あんまり出掛けへんからなぁ…………」


 二人の会話が、ネギの耳を素通りしていく。なんとも言えない座りの悪さがあった。自分の気持ちがよく分からなくて、だけどもう答えは分かっている気もして、正直、グチャグチャだ。


「ネギ君は何処か行きたいトコある?」

「え? あっ……僕はみなさんが楽しんでくれたら、それで十分ですか――――――ら?」


 再び、口が自然と動く。だがそれと同時に、胸にストンと落ちるものを、ネギは感じていた。

 テーブルの上を見回せば、そこには豪勢な料理が並んでいる。全て、彼の為に用意された物だ。その事実は涙が出そうなくらい嬉しいものだし、こうした思い遣りのある彼女達が楽しんでくれるのなら、それがネギの喜びでもある。

 修学旅行の件もそうだ。行き先が京都になったのは、クラスの皆が、外国人であるネギの事を考えた結果に他ならない。だからこそネギも良い思い出にする為に、全力を尽くすべきである。本来の彼であれば、そう考えるはずだ。

 エヴァンジェリンの件がある。近右衛門の話もある。確かにそれらの所為で、自信を喪失していた。


(でも、僕は……)


 麻帆良学園の先生で、明日菜達の担任だ。自信が無いからといって、折角の楽しいイベントに水を差していいものだろうか。そんなはずがない、とネギは自答する。何よりもネギ自身が耐えられる訳がないと、ようやく気付かされた。

 何もせずにはいられない。洸はそう言っていたが、なるほど、確かにその通りだ。幾ら失敗する事が怖いとは言っても、ネギにとっては、何もしないでいる方がずっと怖い。エヴァンジェリンの事がショックで、少しそれを忘れていただけだ。


「ちょっと、どうしたのよ? いきなりニヤついたりなんかして」

「いえ。本当に、楽しみだなぁ……と」


 訝しむ明日菜の視線も気にならない。驚くほど心の中が凪いでいて、先程まで感じていた不安が綺麗サッパリ消えていた。

 改めて口にしたカウルは本当に美味しくて、これから頑張ろうと、ネギはそう思わずにはいられなかった。








 ◆








 明日菜達が生活している女子寮では、各部屋に設置されているシャワールーム以外にも、所属クラス単位で入浴時間を割り当てられている大浴場が用意されている。普段、殆どの生徒が利用しているのは大浴場の方だが、流石に男であるネギは違う。明日菜達に連れられて何度か大浴場に入った事はあるが、いつもはシャワールームだけで済ませている。

 今日もそうだ。明日菜達が入浴の為に部屋を出た後、ネギはすぐさまシャワールームに足を運び、一日の汚れを流していた。サッと入り、サッと出る。それが、風呂嫌いなネギの入浴だ。お陰で彼はいつも、明日菜達が帰ってくるまで結構な時間を一人で過ごしている。

 そうして今日も部屋に一人だけ残されたネギは、ソファに体を預けながら思索に耽っていた。考えるのは、エヴァンジェリンの事についてだ。修学旅行への参加は決めた。ならば残る心配事項は、未だ厳しい状況にある彼女の事を置いて他に無い。

 修学旅行までは、まだ少し時間がある。だからその間にもう一度、学園長の所に訴えに行くべきかもしれない。


「――――――兄貴、兄貴!」


 呼ばれた声に思考を中断し、ネギはそちらへと視線を向ける。するとそこには、ネギを見上げるカモミールの顔があった。


「どうしたの、カモ君? というか今日は何処に?」

「へへっ。落ち込んでる兄貴の為に、ちょいと情報を探りに行ってたんスよ」


 得意げに鼻先を擦るカモミールの言葉に、ネギは不思議そうに首を傾げる。するとカモミールは、小さな体を目一杯に反らして、エッヘンとでも言わんばかりの態度で話し始めた。


「エヴァンジェリンっスよ、エヴァンジェリン! アイツの処遇が決まったんですよ」

「――――え?」


 初め、ネギは何を言われたのか分からなかった。力無い声を漏らし、呆然とカモミールを見詰めてしまう。けれどそれは僅かな間の事で、瞳に理解の色を広げていった彼は、遂には弾かれたようにカモミールへと手を伸ばした。


「本当なのカモ君ッ!?」

「兄貴……く、苦しいっス」

「あっ。ゴ、ゴメン!」


 ネギが力を緩めると、握り締めていたカモミールが床に着地する。軽く咳き込んだカモミールは、息を整え終えると、再び口を開いた。


「魔法先生達の話を盗み聞きしたんですけど、そうヒドい事にはならないみたいっスよ。謹慎後は封印と監視の強化だけで、これまで通りの生活に戻れるって言ってましたから。良かったっスね、兄貴――――――兄貴?」


 呼び掛けに、ネギは応えない。否、応えられなかった。カモミールの話が、理解出来なかった訳ではない。寧ろ理解したからこそ、ネギは反応出来なかったのだ。戸惑いと、喜びと、安堵が一遍に彼を襲って、すぐには考えが纏められなかったのである。


「――――よかったぁ」


 かろうじてソレだけを、ネギは口にした。思わず力が抜け、ソファに預けていた体がズルリと傾いだ彼は、天井を見上げて息を吐く。そのまま安堵感に浸るようにジッとしていたネギは、やがて体勢を変えぬままポツリと呟いた。


「アリガトね、カモ君」

「いやいや気にしないでくださいよ! 俺っちが好きでやった事ですから!!」


 大きく両手を振って恐縮した後、カモミールはやや気まずそうに俯いた。


「その……停電の件では、俺っちも色々と思うトコロがあったんで」

「? カモ君はよくやってくれたよ?」

「あぁ、いやっ。その、とにかく! ジッとしていられなかったんですよ。落ち込んでる兄貴を見たら、何かしたいと思って…………」

「――――ッ」


 勢い良く頭を跳ね上げ、ネギはカモミールを凝視した。あまりに唐突過ぎる彼の態度にカモミールは首を傾げ、それを見たネギは、ハッと冷静さを取り戻す。軽く首を振り、彼は可笑しそうに苦笑した。

 カモミールが言った事は、今日一日ネギが悩んで出した答えに他ならない。誰かを慕う気持ち。誰かの為に行動したいという衝動。ネギが明日菜達に対して抱くモノと同様の感情を、カモミールもまたネギに対して抱いている。

 自分が悩んでいた事をカモミールがアッサリと実行に移していた事が可笑しくて、こんなにも慕ってくれている友人が居る事が嬉しくて、ネギはもう笑うしかないと思った。


「兄貴?」

「ん。なんだか、幸せだなぁと思って」


 訝しそうにしているカモミールを抱き上げたネギは、万感の想いを込めてそう応えた。












 ――――後書き――――――――


 第二十五話でした。読者の皆様、いつもありがとうございます。

 今回はネギが特使の役目を引き受けるまでの話ですね。原作ではサラッと流された部分ではありますが、本作では色々と無視し難い要素があったのでピックアップしてみました。基本的に本作のネギは物事を重く受け止めがちですね。

 さて、次回は千雨メインの閑話を予定しています。修学旅行も近いので、彼女にはもう少し素直になってほしい所ですね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 閑話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/07/04 21:18


 四月二十日。日曜日。広い空は晴れ渡り、春らしい穏やかな風が吹くこの日、長谷川 千雨は学園外部の街に出ていた。HPの事もあり、話題探しや新衣装の生地集めなどで出掛ける事も多い彼女だが、今日は些か普段とは異なる点がある。隣に同行者が居る事だ。近頃よく一緒に行動するようになった綾瀬 夕映が、今日もまた千雨の横で小さな体を揺らしていた。

 今回の遠出の目的は、神楽坂 明日菜の誕生日プレゼントの購入らしい。らしいというのは、これは千雨の用事ではなく、夕映の買い物に彼女が付き合わされているからだ。


「ったく。なんで私まで付き合わなきゃいけないんだか」


 煩わしいほどに多い人込みを眺めながら、千雨は面倒臭そうに愚痴を零す。

 神楽坂 明日菜。初等部の頃に海外から転校してきた少女で、それから七年間、千雨とはずっと同じクラスだ。しかしだからといって、二人は親しい間柄という訳ではない。むしろ千雨としては、あやか相手に度々喧嘩を起こしてきた彼女は苦手な部類に入る。

 だから明日菜の誕生日プレゼントを選ぶという今回の目的に、千雨はなんら魅力を感じられなかった。


「けど、なんだかんだ言って一緒に来てくれましたよね」


 邪気の無い笑顔で夕映が応えて、それを聞いた千雨はついと目を逸らす。

 確かに、不満を言いながらも結局は買い物に付き合っている。面倒だとは思ったが、それでも夕映との外出を優先した結果だ。気付けば、随分と友達らしい関係になってきたものだと思う。こうして一緒に居る事にも、違和感を覚えなくなってきていた。


「それに修学旅行では同じ班なのですから、少しくらい仲良くなっておいた方が良いじゃないですか」

「…………そうなんだよなぁ」


 なんとも言えない表情で、千雨は額に手を当てた。

 修学旅行中は、五人または六人のグループに分かれての班行動を義務付けられており、千雨は夕映や明日菜の居る五班に編入されている。他には木乃香を含めた図書館探検部の三人が居て、修学旅行中の五日間、千雨は彼女達と共に行動する事になっているのだ。

 それなりにマトモな面子ではあるものの、朝から晩まで一緒だという事を考えると今から憂鬱になりそうだった。


「折角のイベントです。楽しんだ者勝ちだと思いますよ」

「楽しめそうにないから困ってるんだよ」


 こうして夕映と話をする事には抵抗が無くなってきたが、他のクラスメイトとは未だに碌な交流が無い。というより、するつもりが無い。押しに弱い千雨が、あれほどアクの強い連中に囲まれればどうなるかなど、火を見るより明らかだ。

 そういった千雨の考えを知っている癖に、夕映はあっけらかんとした声を返してきた。


「そんな事はないと、私は考えていますけどね」

「ありえねぇ」


 夕映の言葉を、千雨は即座に切って捨てる。


「コッチは初等部の頃からココに居るんだ。今更どうにもならないさ」


 少しだけ歩みを速めて、千雨は肩を竦める。大きな丸メガネの向こうでは、吊りがちな瞳が細められていた。

 そう、今更だ。クラスメイトと相容れない事くらい、もう何年も前から分かっている。ちょっとした事で騒ぎ出すのが嫌で、悩みなんて無いといった風情の脳天気さが苛立たしくて、無闇矢鱈と慣れ慣れしいのが鬱陶しかった。昔から調子が合わなくて、置いてけぼりを食らうばかりで、千雨の学校生活と言えばそんな思い出ばかりだ。


「…………なんだよ?」


 物言いたげな目で見上げてくる夕映に、千雨は我慢出来ずに問い掛けた。


「私は千雨さんを友達だと思っていますが、そこの所はどうでしょう?」

「まぁ…………間違ってはないんじゃないか」


 顔を反らして千雨が応えると、夕映は嬉しそうに目を細めた。


「なら大丈夫ですよ。何か切っ掛けがあれば、きっと仲良くなれますから」

「だといいけどな」


 千雨は否定しなかった。意味が無いと思ったし、笑顔の夕映を見ていると、なんとなくそれが、本当の事のように感じられたからだ。


「とにかく今日は、私の買い物に付き合ってもらいますよ。ほら、まずはアソコです!」

「あ、コラ! 引っ張るな!!」


 自らの手を握って駆け出した夕映に、千雨は思わず呼び掛ける。けれど夕映は気にせず突き進んで、なんとも小憎らしい対応だ。ただ、不思議と苛立ちは覚えなくて、そんな自分に、千雨は純粋に驚いた。

 一瞬だけ、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。しかしすぐに気を取り直した千雨は、夕映に合わせて駆け足を始めた。

 ズレたメガネを慌てて直す千雨の唇は、ホンの少しだけ、笑みにも似た形を作っていた。












 ――――閑話――――――――












 プレゼント選びというのは、中々に大変なものだ。中学生が用意出来る予算には限りがあるし、その中で相手が喜んでくれる物、ありきたりではない物を見繕おうとしたら、そうそう良い選択肢は思い付かない。だから事前に買う物を決めていなかった夕映のプレゼント選びは、当然のように難航した。勿論、それに付き合わされる千雨も楽ではない。


「どうでしょう? 以前から興味があった所なのですが」

「……まぁ、趣味はよさそうだな」


 最初に訪れたのは、和風のアンティークショップだった。洋風の店が立ち並ぶ中で異彩を放ちながらも、落ち着いた趣の所為か、不思議と違和感は無い。東南アジアを始めとして外国の品物が色々と売られていたが、そちらも雰囲気を崩さない物だけが上手く集められていた。

 確かにココで探せば、良い物が見つかるかもしれない。そう思った千雨は、値札を見て固まる夕映に気付いて、静かに肩を竦めた。


「次はコチラで、一応、今日の本命です」

「イイんじゃないか。ソレっぽくて」


 二店目は裏通りにあるこぢんまりとしたお店で、プレゼント専門店という、そのものずばりな所だった。こちらも見た目は悪くない。特に派手な装飾は無く、シンプルな文字で書かれた看板だけが掲げられている。ガラス張りの壁や明るい証明など、涼やかな印象だ。

ガラス越しに店内を見てみれば、様々な小物が整然と並べられていた。先程の店とは違い、商品は洋風の物が多そうだ。値段も手頃な物が多く、流石に本命と言うだけはある。しかし気に入った物が無かったのか、随分と悩んでから、夕映は店を後にした。


「えっと、三つ目はココです」

「無難だな。とはいえ、分相応って感じか」


 雑貨屋。家具に服、その他なんでもござれのお店が三軒目だった。前の二つに比べて規模が大きく、品揃えだけならピカイチだ。プレゼント選びの場所としては、かなり無難な所だろう。それだけに、ある種の保険と言えるかもしれない。

 下から順にフロアを巡り、矯めつ眇めつ品定め。一つ一つコーナーを回りながら、夕映はプレゼントを探していく。


「――――で? 何か良いのは見付かったか?」


 喫茶店のテラス席でカップを傾けながら、千雨は夕映に話し掛ける。紅茶を口にする彼女の瞳には、呆れの色が多分に含まれていた。

 三つの店を梯子して、結局、夕映は何も買わなかった。悩みに悩んだ挙句、どれか一つに絞る事が出来なかった訳だ。とはいえ、このまま麻帆良に帰る訳にはいかない。なんせ明日菜の誕生日は明日で、今を逃せばプレゼントを買う機会が無くなってしまうのだから。

 朝から始まり、今は既に三時近い。休憩を兼ね、ここらでプレゼントについてキッチリ話し合おうという訳だ。


「うぅ。まさかここまで悩むとは思いませんでした」

「つまり、無いのか」


 一切の遠慮を捨てた千雨の言葉に、夕映はグッタリと項垂れた。


「いや、その……幾つか興味を惹かれた物はあったんですよ?」

「つっても、イマイチ神楽坂には合わない物ばっかりだったろ」


 ダイヤ型のペーパーウェイトや花柄の紙製ボックス、楽器をモチーフにした金属の栞など、千雨も意見を求められた物は色々とある。ただ夕映が選んだプレゼントは小洒落た物が多く、どうにも明日菜との相性が悪そうだった。あげれば喜ばれるだろうし、ちゃんと使ってくれるだろうが、気付けば机の片隅で埃を被っていそうな気がしなくもない。そんな印象だ。


「私らはまだ中学生なんだし、あんま洒落た物にせず、素直に普段から使う物にすれば良いんじゃないか? 綾瀬は少し張り切りすぎなんだよ。いっそ食いモンでも良いしな」

「…………たしかに、そうかもしれませんね」


 なんだかよく分からない濃緑のジュースを飲みながら、夕映が応える。その表情からは、僅かな焦りが見て取れた。だから、という訳ではないけれど、千雨は気持ち姿勢を正して口を開く。


「取り敢えず基本に立ち返るぞ。神楽坂が欲しい物や興味が物を考えてみろ」

「欲しい物、ですか」

「あぁ。何か趣味とかないのか?」


 ふむと小さく頷き、夕映は腕を組んだ。そのまま俯いて考え込み始めた彼女は、暫くすると何か思い当たったのか、顔を上げて千雨と目を合わせた。彼女の瞳に浮かぶのは、僅かな躊躇いだろうか。その正確な意味は分からなかったけれど、確かに夕映には迷いがあって、けれど確かに、彼女は話し始めた。


「その……趣味はわかりませんが、好きな人は居ます。ですから、着飾る物なら良いと思うです」

「ふぅん。なんか意外だが、中学生だしな。ならその辺を意識し…………て……」


 言い掛けて、千雨は思い至った事実に固まってしまう。ぎこちない動きで夕映を見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。間違いない。自分の想像が当たっている事を確信した千雨は、思わず天を仰いだ。


「もしかして、高畑先生の事か?」

「……ハイです」

「…………憧れとか、そういうのだよな?」


 絞り出すような千雨の問い掛けを、夕映は肯定しなかった。盛大な溜め息を、千雨が吐き出す。

 明日菜に好きな人が居る。それは別に構わない。思春期真っ盛りなのだし、恋愛なんて自由にしてくれればいい。だが、幾らなんでも相手が不味い。タカミチ=T=高畑。千雨達の元担任で、現役の教師だ。好意を持つくらいなら良いが、本気になるのはヤバい。


「いやいや、流石にそれはダメだろ。教師と生徒だぞ」

「やっぱり、ダメだと思いますか?」

「当然だ。そりゃ好きになるのは勝手だがな、マジになって変な気でも起こしてみろ。誰にとっても碌な結果にならねぇよ。もしも神楽坂に本気な部分があるんなら、スッパリ諦めさせてやれ。それが友達ってもんだ」


 軽く手を振り、キッパリと言い切った千雨に対し、夕映は悲しそうに眦を下げた。肩を落とし、見るからに気落ちした彼女の姿は胸に来るものがあったが、千雨としても前言を撤回する気は無い。

 明日菜がタカミチに好意を寄せている事は、3Aでは広く知られている事実だ。しかしそれは、思春期特有の麻疹とでも言うべき年上への強烈な憧れによるものだというのが、クラスでの共通認識だった。だからこそ冗談にも出来たのに、夕映の様子を見る限りでは違うらしい。

 ならば、適当な所でやんわりと止めてやるのが友情というものだろう。


「それでも、私は応援したいです」


 テーブルに乗せた手をキュッと握り、夕映は対面の千雨を見上げる。やや濡れた瞳からは強い感情が感じられ、固く結ばれた口元からは、曲げようの無い意志が読み取れた。だがそれも、千雨の気持ちを動かすには至らない。


「やめとけやめとけ。恋愛は普通が一番だろ。ただでさえ面倒なものを、それ以上ややこしくしてどうするんだよ」

「でも――――でもッ。そんなに簡単に諦められるなら………………恋なんて言えません」

「そういう考えは嫌いじゃないけどな、現実には合わねぇよ」

「ですが、だって…………そんなの、出来ないです」


 更に言葉を重ねようとした千雨は、違和感に気付いて口を噤んだ。

 明日菜の話をしていたはずだ。少なくとも千雨はそのつもりだったし、初めはそういう風に進んでいた。だけど、なんだろう。今の会話はどこか、夕映自身の話をしているようにも思えた。

 そんな訳が無い。咄嗟に浮かんだ否定の言葉に、千雨は同意する事が出来なかった。思わぬ所で生まれた疑問。普段なら面倒だと無視するそれを千雨が口にしたのは、なんて事は無い、彼女にとって夕映の存在が大きくなっていたからに他ならない。


「なぁ、綾瀬。お前にも、好きな相手って居るのか?」


 変化は劇的だった。途端に頬を真っ赤に染めた夕映は、息を呑んで背を反らし、大きく目を見開いた。わざわざ確認するまでもなく、今の問い掛けが正解だったという事が分かる。

 自然とつきそうになる溜め息を、千雨はどうにか堪えた。


「普通の相手だよな?」


 夕映は答えない。顔を俯かせ、何度か話したそうに口をまごつかせたけれど、彼女の唇からは結局、なんの音も出てこなかった。

 地雷を踏んだ。様々な意味でそう感じた千雨は、一瞬、本気で夕映との付き合いを考え直そうかと思った。ただ次の瞬間にはそんな考えも消え失せて、このまま話を続けるべきか否かへと主題が移る。それはつまり、夕映との関係を続けたいという願望に違いなかった。

 額に手を当てて、千雨が唸る。

 最近、自分がよく分からない。以前はこうじゃなかった。付き合いを持つなら常識人が良くて、考えの合わない相手とは出来るだけ一緒に居たくはなかった。だが、今はどうだろう。夕映が常識人ではないとは言わないが、これほど親近感を覚える相手ではなかったはずだ。

 表現し難いわだかまりが、千雨の心に溜まっていた。まるで自分の芯がブレているようで、なんとも座りが悪い。

 だから彼女が選んだ選択は、決して良いものではなかったのだろう。


「……ハァ。神楽坂のプレゼントなら、化粧品なんかイイんじゃないか。どうせ化粧なんてしてないだろ」

「え?」


 困惑した様子の夕映に対し、千雨は軽く両手を上げる。


「降参だ。もう何も言わねぇよ」


 その言葉の真意は、きっと千雨自身も分かっていない。

 ただこれ以上悩む気になれなくて、考えるのが怖くて、気付けば逃げるように口にしていた。


「あ、ありがとうございます!」


 ただ喜びを露わにする夕映を見ていたら、これでもいいかと、そんな風に千雨は思えるのだ。








 ◆








 日没が近くなり、濃い影を落とし始めた街の中を、夕映と千雨は歩いている。辺りを行き交う人の流れはまだまだ健在だが、それに逆らうような形で、二人は駅へと向かっていた。歩調を合わせ、肩を並べて歩くその光景は、仲の良い友達そのものだ。唯一可笑しな点があるとすれば、それは楽しそうにしている夕映とは反対に、千雨が気難しそうな表情で眉根を寄せている事だろうか。


「今日は助かりました。私もこういう事には疎いので」


 プレゼントの入った鞄を一撫でして、夕映が嬉しそうに口元を綻ばせる。

 最終的に夕映がプレゼントに選んだのは、口紅とリップグロス、リップペンシルの三つだった。要は唇を綺麗に見せる為のアイテムである。ただ安めの物にしたとはいえ、中学生にとっては結構な出費だ。それでも妥協せずに買った夕映の友情は、中々のものだろう。しかし今の千雨にとって重要なのは、化粧の仕方を明日菜に教えるという頼みを、ついつい承諾してしまった事だった。

 痛恨のミスだ。プレゼント代わりにと頼まれた事を、その場の流れで引き受けてしまった。最初は別に構わないと思っていたのに、時間が経つにつれ、長時間、明日菜の相手をする事に不安を覚えてきている。


「なぁ、やっぱり神楽坂に化粧教えなくてもいいか?」

「ダメです」


 即座に笑顔で断られた。なんの容赦も無い夕映の対応に、千雨は頬をヒクつかせる。


「折角の機会ですから、そのまま仲良くなってくれると嬉しいです」

「勝手なコト言うなっての。コッチは考えただけでも憂鬱になりそうなんだよ」


 ガシガシと髪を掻き乱して、千雨がボヤく。

 明日菜が嫌いだから、ではない。単に、慣れない相手と長く接する事が苦手なだけだ。


「ほら。修学旅行では一緒の班なんですから、何か話題があった方が良いじゃないですか」


 まるで悪びれた様子も無く言い切る夕映に、思わず千雨は押し黙った。

 夕映の言にも、一理ある。四泊五日の修学旅行中、ずっと夕映とだけ話している訳にもいかない。それを考えれば、確かになんらかの話題を用意していた方が良い。その理屈は分かるし、ある程度は賛同も出来る。

 でも、だけど。アレが、コレで。自分自身でも上手く言えないモヤモヤが、千雨の胸に渦巻いていた。なんとなく、嫌なのだ。


「むぅ。ダメですか?」

「……別に、ダメじゃねぇよ」


 残念そうに俯く夕映を見た千雨は、ついそんな事を口にしてしまう。途端、夕映は安堵したように息を吐き、それを確認して、千雨も肩の力を抜く。直後に彼女は、諦めにも似た溜め息をついた。

 夕映を相手にすると、不思議といつも押し切られる。らしくないと思うのに、まるで当然のようにそうなってしまう。それは単に相性が悪いといった話ではなくて、もっと別の何かがあるように思えてならなかった。

 どうしてだろうと千雨が首を傾げた、その瞬間。


「あれ、ゆえ吉じゃん。奇遇だねぇ」


 いきなり後ろから声を掛けられた。

 千雨達が振り返ると、そこにはハルナとのどかの二人が立っていた。彼女達もまた買い物に来ていたのか、のどかの手には、綺麗な紙袋が大事そうに握られている。

 唐突に表れた彼女らを千雨が呆然と見詰めていると、おっかなびっくりといった様子で、のどかが話し掛けてきた。


「こ、こんにちはー」

「……こんにちは」


 たったそれだけの言葉を交わして、千雨とのどかは黙り込んだ。互いに社交的な方ではない為、何を話せば良いのか分からなかったのだ。隣では夕映とハルナが仲良く話しているだけに、かなり気まずい。暫くジッと見詰め合った彼女らは、それぞれ自分の連れの方へと一歩だけ近寄った後、場を濁すように苦笑いを浮かべた。

 どうしようもない。何か切っ掛けでもあれば話も出来ただろうが、初めに躓いてしまえば、この二人では挽回が難しかった。結果として、聞こえてくる夕映達の話し声に隠れるような形で、二人は何も出来ずに佇んでいる。


「そっちもプレゼント買いに来たんでしょ? 良いヤツ見付かった?」

「はい。千雨さんのお蔭です」

「おぉ! そいつは楽しみだねっ!!」


 明るくハキハキとしたハルナの声が、辺りのざわめきに負けぬ勢いで響き渡る。それが少し恥ずかしくて、千雨は思わずそっぽを向いた。すると今度は思い出したように、ハルナが千雨の方に顔を向ける。


「そうそう! 修学旅行ではよろしくね、長谷川さん」

「あ、あぁ。よろしく……」


 戸惑いがちな、千雨の返答。それにも関わらず、ハルナは元気よく話を続けた。


「いやー、夕映と仲良くやってるみたいで安心したよ。今から火曜日が楽しみだね。あっ、修学旅行と言えば好きな人の話とかだけどさ、長谷川さんはそこんトコどう? ウチは夕映とのどかが大変なんだよね~。その辺、夜は寝かさないつもりでって――――――イタタタッ」

「ハルナ。千雨さんが困ってるです」


 ギュッとハルナの耳を引っ張り、夕映が呆れた様子で言い聞かせる。


「え~。少しくらいイイじゃん」

「ダメです。ハルナが本気で喋りだすと、慣れてない人は大抵置いてけぼりになるんですから」


 溜め息を吐いた夕映が、千雨の方に振り向いた。それから、仕方ないといった表情で頬を緩める。


「こんなおバカですけど、修学旅行ではお願いしますね」

「いや、まぁ構わんが…………慣れてるし」


 ペースが合わないというのなら、初等部の頃からそうだ。当時は夕映もハルナも居なかったが、周りの調子良さは変わらずだった。むしろ幼い分だけ、今よりも騒がしかったかもしれない。そんな学校生活を過ごしてきただけに、振り回される事には慣れっこだ。

 だから、今更気にするまでもない。馬が合わないのだと、とっくの昔に諦めているのだから。

 そういうつもりで答えて、ちゃんと伝わっただろうに、何故か夕映は申し訳なさそうに眉尻を下げている。その事が少しだけ、千雨の気に障った。何が悪いという訳ではないが、なんとなく気に入らない。そうした千雨の変化に気付いたのか、夕映は困惑した様子で首を傾げた。


「あの、どうかしましたか?」

「なんでもねぇよ」


 キツい口調で出た、突き放すような千雨の言葉。反射的に出たソレは、しかしすぐに翻された。目を丸くしている夕映に気付いたからだ。


「あ、いや。そうじゃなくてだな」


 二度三度と体の前で手を振り、慌てて千雨が言い繕う。ただ、その続きは出てこなかった。

 上手く言葉に出来ない。他のクラスメイトを相手にする時とはまた別の理由で、口が回らない。だけど、その原因すら分からない。それがイライラして、自分自身にムカついて、千雨は更に喉を詰まらせてしまう。

 奇妙な沈黙が、辺りに流れる。千雨も、夕映も、残りの二人も、何一つ話す切っ掛けを掴めない。賑やかな雑踏の中で、そこだけポッカリと穴が空いたような静寂だった。

 ただそれも、唐突に鳴り始めたハルナの携帯電話によって終わりを告げる。


「っと、ゴメーン! 私の携帯だわ」


 わざとらしさすら感じる態度で謝り、ハルナが鞄から携帯電話を取り出した。


「えーと、なになに…………」


 暫く携帯電話を操作していたハルナは、何を思ったのか、いきなり手を挙げて声を張り上げた。


「ハイ、ちゅうもーく! 今このかから連絡があったんだけど、これからカラオケでアスナの誕生日を祝うんだってさ」

「む? それは明日の予定では?」

「詳しい事はわかんないけど、なんかこのか達とアスナが出くわしちゃったみたい。それで誕生日プレゼントの件もバレたから、このまま勢いで祝っちゃおうって感じかな? まっ、一日くらい誤差の範囲っしょ」

「ふむ、なるほど」


 カラカラと笑うハルナと、そんな彼女に同意する夕映。のどかもまた、そんな二人を見てコクコクと頷いている。

 ただ一人、千雨だけがこの状況に取り残されていた。

 話の流れが理解出来ない訳ではない。これからどうなるのかも分かる。けれど普段から一人で行動する事の多い千雨には、一体どうやってこの輪に加わればいいのか、皆目検討もつかなかった。

 いや、そもそも正しい選択とはなんなのだろうか。元々千雨と明日菜の付き合いなど無いに等しく、今日の事だって夕映の付き添いに過ぎない。そんな彼女が明日菜の誕生日を祝う集まりに参加するのは、あまりにも場違いな気がした。

 そう、そうだ。その通りだ。三人が盛り上がり過ぎない内に断りを入れて、さっさと寮に帰ってしまおう。考えてみると、それが最も正しい選択のように、千雨には思えた。

 千雨は小さく息を呑み、移動手段について話し始めた三人を睨む。


「おいっ。そういう事なら、私は先に帰らせてもらうぞ」

「えぇっ!? 長谷川さんも一緒に行こうよ!」

「その、何かご用事があるとか?」


 案の定返ってきたハルナの不満と、少しだけ意外なのどかの問い掛け。唯一夕映だけが、黙って千雨の顔を眺めている。何も言わない癖に一際強い視線を送ってくる友人をあえて無視して、千雨はなんでもないといった風に口を開いた。


「私と神楽坂じゃ、殆ど関わりが無いからな。参加するのも変だろ」

「いやいやそんな事ないって。クラスメイトってだけでも全然オッケー! それにプレゼント選んでくれたんでしょ? 修学旅行の事もあるしさ、アスナも絶対に歓迎してくれるよ」


 そうかもしれない。ハルナの言う事は、真実かもしれない。だがそれでも、千雨は参加する気になれなかった。

 初めはハルナで、次にのどか、そして最後に夕映を見る。そうして千雨が感じたのは、強い疎外感だった。手を差し伸べられているのは分かるし、その為に門戸を開いてくれているのも理解している。でも、違うのだ。そうじゃないと、千雨は思った。

 結局は三対一だ。彼女ら三人の生み出す雰囲気があって、それは千雨の持っているものとは違う。既に完成されたその中に入っていった所で、無様に壊してしまうだけだ。お互いにとって、きっと良い結果にはならない。


「そう言ってくれるのはありがたいが、元々買い物だけのつもりだったんだ。予定もそういう風に組んでる」


 夕映は友達で、彼女となら上手くやれる。だけど今の夕映は、千雨と二人で居る時の彼女ではない。図書館組と呼ばれる時の彼女だ。


「ま、そういう訳だ。悪いが私は、ここで失礼させてもらう」


 だから、これで正解だ。これ以上の選択なんて無いと、千雨は信じていた。




 □




(…………何やってんだろうな)


 空いていた駅のベンチに腰掛け、ボンヤリと辺りを眺めながら、千雨は小さく溜め息を吐いた。ざわめきが支配し、各々自分の予定に従って電車を待っている駅のホームで、まるで一人だけ別の世界に迷い込んでしまったかのような孤独感が千雨を苛む。

 予定なんて無かった。このまま寮に帰った所で、一人でご飯を食べて、HPの更新をするだけだろう。それはいつもの事だし、決して悪いとは思わないが、これからカラオケに行って騒ぐという夕映達の事を考えると、なんとも言えない気分にさせられる。

 間違った選択ではないはずだ。あのまま素直に参加したとしても、絶対に後悔する事になったと、今でも信じている。ただそれでも、自分を責める自分が心の中に居る事を、千雨は否定出来なかった。


(後悔する理由なんて、一つも無いのにな)


 まるで自分に言い聞かせるように、千雨が胸中で呟いた。なんにせよ、既に後の祭りだ。ホームに到着した電車を見て、千雨はそう思った。これに乗れば、今日の出来事は終わりを告げる。寮に帰り、一晩経って月曜の朝を迎えれば、またいつも通りの学校生活が始まる。

 諦めにも似た笑みを浮かべて、千雨は緩慢な動作で立ち上がった。


「――――え?」


 自然と声が漏れていた。呆然と口を開き、彫像のように静止したまま、千雨は”彼女”を凝視する。

 夕映が居た。息を切らし、肩を上下させた彼女が、ホームの出入り口に立っている。まだ千雨の存在には気付いていないようだが、キョロキョロと周囲を見回す姿は、明らかに”誰か”を探しているようだった。

 どうして。初めに浮かんだのはその疑問。だがそれに対する結論を出すよりも先に、千雨の体は動いていた。まるで逃げるように、夕映の居る場所とは反対方向に駆けていく。理由は千雨にも分からない。ただ夕映に会いたくないと、その気持ちだけが彼女を衝き動かしていた。


「ッ――――ハァ、ハァ」


 階段の陰に体を滑り込ませた所で、千雨はようやく足を止めた。移動した距離は僅かなはずなのに、随分と息が乱れている。ドラムみたいに煩く跳ねる左胸を押さえて、彼女は一息ついた。

 徐々に鼓動が鎮まり、それと共に、思考も冷静さを取り戻す。


「私を追ってきた? なんで? どうして? ワケわかんねぇ」


 階段の陰から顔だけ覗かせて、千雨が悪態をつく。

 本当に理解出来ない。さっさとカラオケに行けばいいのだ。コチラは用事があると言ったのだから、わざわざ気に掛ける必要など微塵も無い。絶対、確実に、夕映の行動は無意味と無駄の塊だ。


「ッ!?」


 イキナリ震え出した鞄に、千雨はビクリと肩を跳ね上げた。鞄の中では携帯電話が振動しており、手に取って開いてみると、画面には夕映の名前が表示されていた。夕映の方に視線を移せば、確かに電話を掛けているのが分かる。

 電話に出るべきか、否か。少しだけ悩んだ後、千雨は静かに通話ボタンを押した。


「……もしもし」

『あっ。千雨さんですか?』

「そうだよ。どうしたんだ、綾瀬?」


 震えるかと思った声は、意外にも平常だった。その事に安堵した千雨は、壁に背を預けて息を吐く。


『その、もう電車には乗ってしまいましたか?』

「え……いや、それは…………」

『――――まだなんですね?』


 やや強い語調で確認するように尋ねられて、千雨はグッと言葉を詰まらせる。簡単に予想出来た質問なのに、そこまで頭が回らなかった。そうこうしている内に夕映が歩き出し、千雨の姿を探し始めた。偶然だろうが、確実に千雨の方へと近付いてきている。


「だったらなんだよ? 関係無いだろ」


 意識せず、突き放すような言葉が出る。そんな自分の余裕の無さに気付いていたが、千雨にはどうしようもなかった。


『関係ありです。私も駅に居ますから』

「意味わかんねぇ。カラオケに行くんだろ?」

『千雨さんが行くのなら。行かないなら、プレゼントは明日渡します』


 夕映の視界に入らないように、千雨は覗かせていた顔を引っ込める。それから彼女は、階段を中心にして夕映とは反対側に回り込んだ。これでもう、簡単に見付かる事は無い。注意深く夕映の背中を目で追いながら、千雨は電話に集中した。


「私の事を気にしてんのか? なら余計なお世話だ。言っただろ、元々そういうつもりだったんだよ」

『嘘ですね。少なくとも、納得してるようには見えませんでした』

「………………」

『アタリ、ですよね?』


 偶に、千雨は思うのだ。もしかすると夕映は、人の心が読めるのではなかろうかと。勿論そんな事はありえないし、千雨らしくない考え方ではあるのだが、ついそんな馬鹿げた事を思い浮かべるくらい、夕映の言葉は的確だった。

 携帯電話を握る手に自然と力を込めて、千雨は鋭く目を細める。


「何がアタリだよ。アイツらと関わらない方が清々するし、私にとっては、コレこそが正解だ」

『騒がしいのは苦手だから、ですか?』

「そうだ。ウチのクラスの奴らは、無駄に煩いんだよ」


 これまでにも何度か繰り返した話題を、また重ねる。ただ、いつもならココで終わるはずなのに、何故か今日は続きがあった。


『別にそれは否定しませんし、教室での千雨さんを見ていれば、どれだけウンザリしているのかもわかります』


 でも、と夕映の言葉が耳を揺らす。それは不思議と強い響きを持っていて、千雨は夕映を見張るのも忘れて、その声に聞き入った。多分、どこかで理解していたからだ。近頃の可笑しな言動の原因が、何にあるのかを。

 周りのざわめきが消えるはずもないのに、何故か千雨は、世界に一人だけ取り残されたような錯覚を感じた。


『同時に千雨さんは、そんな賑やかさに羨望を覚えているようにも見えるんです』


 ありえない。そう反論したいのに、千雨の喉は、凍り付いたかの如く動かなかった。


『あえて言うなら、寂しさ。私が貴女を見ていて感じたのはソレです』

「……んだよ、ソレ。バカじゃねぇの」


 違うと答えたかった。そんな訳がないと言いたかった。だけど今の千雨には、コレが精一杯だ。


『バカじゃないです。斜に構えていますけど、千雨さんは――――』


 発車する電車の音に邪魔されたからか、最後の言葉は聞こえなかった。それと共に、辺りのざわめきが復活する。千雨は大きく息を吐き、ようやく働き始めた頭に手を置いた。掻き消された言葉は分からなかったが、大体の予想はつく。寂しがり屋だとか、きっとそんな所だ。

 本当に夕映は、可笑しな事を言う。しかし何故か千雨は、否定する事が出来なかった。

 初等部に入学したばかりの頃を、千雨は思い出す。それなりに友達を作ろうという想いはあったけれど、実際にはまったく別の現実が彼女を待っていた。授業中も話してばかりで、すぐに大騒ぎを始めるクラスメイト達。あまりに非常識だと、いつも千雨はイラついていた。


(――――ん?)


 何かが引っ掛かる。一体なんだろうと千雨が思索を巡らせると、すぐに原因は分かった。同時に千雨は、自嘲の笑みを形作る。

 非常識は嫌だ。普通な奴が良い。これまでにも繰り返し夕映に零し、常日頃から千雨が考えている事だ。でも、最初はそうじゃなかった。一番初めに彼女が不満を覚えたのは、そこではない。

 初等部に入った頃から、千雨は学校が好きではなかった。ただそれは、周りが非常識だったからではない。単に友達と呼べるような相手が居なかったからだ。グイグイ前へ出ていくクラスメイトに比べ、一歩引いた位置を好むのが千雨だ。どうしても合わない部分があり、自然と千雨は孤立していった。確かに差し伸べられる手は沢山あったけれど、それすら掴もうとしなかったのが当時の彼女だ。

 だから、そう。順序が逆なのだ。非常識だから、普通じゃないから嫌いだった訳じゃない。一人で居る現状が嫌で、だけど自分が悪いとは思いたくなくて、なら他人に原因があるのだと考えた。そうして探した理由が、クラスメイトの普通じゃない所だった訳だ。


(アホだな……)


 心中で独りごちて、千雨は天井を仰ぎ見る。寂しがり屋。それは確かに、彼女の真実の一面だ。

 今になって振り返ってみると、本当に子供だった。周囲が悪くないとは言わないし、非常識な所がある事は否定しないが、それでも当時の千雨は幼い考えをしていた。そして根っこの部分が変わっていない現在の彼女もまた、未だに子供なのかもしれない。

 これではクラスメイトの事をとやかく言えないと苦笑し、千雨は緩やかに首を振った。


「――――やっと、見付けました」


 正面から声を掛けられて、千雨が視線を下ろす。するとそこには、携帯電話を手にした夕映が立っていた。そう言えば何時の間にか彼女の声が聞こえなくなっていたと、今頃になって千雨は気付く。

 突然の事に対応出来ず、黙ったまま棒立ちしている千雨に対し、夕映はスッと右手を差し出した。


「このまま帰りますか? それとも、他のみんなと合流しますか? 千雨さんがお好きな方を選んでください」


 夕映の小さな右手を、目を丸くして見詰めていた千雨は、やがて全身の力を抜いて息を吐いた。

 結局、千雨が望んでいたのはコレなのだ。普通だとか、常識人だとかいうのは二の次三の次で、一番大切なのは、傍に居てくれる事だ。強引に手を引いていくのではなく、かといって後ろで立ち止まっているのでもなく。速過ぎず、遅れ過ぎずのペースを保ち、隣を歩いてくれる友人。そんな誰かを、彼女は求めていた。

 カラオケに参加しなかったのは、怖かったから。昔みたいになるんじゃないかと、どこかで恐れていた。だけど、もう大丈夫だ。これなら輪の中に入っていけるし、そのまま上手くいく事を、チョッピリ、本当にチョットだけ、千雨は願っているのかもしれない。


「わかった。降参だ。まったく、お前には脱帽だよ」


 本当にもう、そんな言葉しか出てこないと笑って、千雨は優しく夕映の手を取った。












 ――――後書き――――――――


 閑話を投稿しました。いつも読んでくださっている皆様、ありがとうございます。

 今回は千雨の話ですね。そして夕映の話でもあります。色々と悩んだのですが、本作の千雨は大体こんな感じです。原作でも二次創作でも矢鱈とカッコいい描写の多い彼女ですが、偶にはこんなのもいいかな、と。

 さて、次回からはいよいよ京都入りです。今回の話でも少し書いていますが、班編成は若干原作と異なります。千雨が明日菜達の班に入るので、それを考慮しての事です。具体的には刹那が別の班に移動したりですね。定員オーバーなので。他にも色々と変更点はあります。ようやくまともな敵キャラが出てきますし、書きたい事も多いので、頑張りたい所ですね。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十六話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:473bd8d4
Date: 2010/08/01 19:55


「はぁ~。いつもの落ち着いた雰囲気の洸さんも素敵ですけど、こういうのも似合ってますね。なんだか、別人みたいです」


 どこか浮ついた感じのするさよの声が、早朝の冷たい空気で満たされたリビングに響き渡る。胸元で合わせた両手を楽しげに揺らす彼女の表情は、プレゼントを前にした子供のように輝いていた。足の代わりに存在している幽霊の尾っぽも、見るからにご機嫌だ。

 そんな同居人の反応に、洸はしょうがないなと苦笑した。艶のあるぽってりとした唇が形を変え、ウェーブの入った茶髪が微かに揺れる。グラデーションの掛かったアイシャドウで垂れ目がちに見える鳶色の瞳を細め、彼女は口元に手をやった。その白魚の如き指の先では、長い爪がキラリと光を反射して、激しい自己主張を繰り返している。


「そう見えるように、頑張ってメイクしたからね」


 メイク。つまりは化粧だ。それにより今朝の洸は、普段とはまるで違う、別人のような空気を醸し出していた。いつもの彼女を秋空の月と表するならば、さながら南海の太陽だ。落ち着いた大人っぽさとは真逆の、活力に溢れた若さが強調されている。

 勿論、ただお洒落がしたくなったという理由でこんな格好をしている訳ではない。これは一種の変装なのだ。

 密書を運ぶ特使の任を受けたネギを補佐する為に京都行きを決めた洸だが、流石に正面から堂々と入っていく訳にはいかない。そこで洸が考えた対策の一つが、この化粧によるイメージチェンジだった。

 確かにより本格的な、魔法による変装術や特殊メイクといったものも存在する。しかしそれらは高度な変装であると同時に、意図的に顔を隠している事の証明にもなってしまう。もしも相手に見破れる者が一人でも居た場合、その時点で変装が裏目になる恐れがあった。

 だからこそ、単なるメイクの範囲に留める。幸い関西呪術協会には、幼少期を除いて洸と直接顔を合わせた人間が殆ど居ない。よく知った仲でも思わず間違えてしまいそうな今の彼女であれば、十分に通用する見込みはあった。


「なんていうか、こう、キラキラしてます」

「ありがと。褒め言葉として受け取っておくよ」


 ウインク一つ。常と比べれば随分と軽い印象を受ける動作で、洸はテーブルの上の鞄を手に取った。流れるような、とはとても言えない、乱雑な身のこなしだ。そんな所からも、普段の彼女との違いが見て取れる。白いレースワンピースの上に黒のレザージャケットを羽織った洸は、最後にフレームが太めのメガネを掛けてから、玄関へと移動した。その後ろに、さよがふよふよと付いていく。


「それじゃ、もう行くよ。何度も言うけど持ってくのはいつもと別のケータイだから、向こうに居る間は連絡取れないからね。何かあったら学園長かエヴァに相談するコト。二人には話を通してあるし、ちゃんとさよが見えるはずだから」

「はい、わかりました! お仕事頑張ってくださいね」


 青白い顔色とは裏腹に元気一杯な声で見送ってくれるさよに、洸はヒラヒラと手を振って返す。それから彼女は、ドアの取っ手を握った。徐々に開く玄関扉の隙間から、陽光が射し込んでくる。早朝の冷気を伴ったそれらは眩しいほどに強烈で、完全に開いたドアの向こうでは、顔を出したばかりの朝日が雲一つ無い青空を背負っていた。

 絶好の修学旅行日和だ。その事を確認した洸は、心底から嬉しそうな微笑みを浮かべるのだった。












 ――――第二十六話――――――――












 修学旅行。全員とは言わないまでも、大抵の中学生にとっては心躍る単語ではないだろうか。気心の知れたクラスメイトと、朝から晩まで一緒に居られ、面倒な授業だって存在しない。昼は初めて訪れる土地に目を輝かせ、夜は宿泊先で遅くまで友達と騒ぎ尽くす。変わり映えの無い日常と比べ、それらは非常に魅力的なスパイスだ。

 その証とでも言うべきか、集合場所である大宮駅に集まった生徒達は随分と浮かれていた。大きな荷物を携え、友達とワイワイ話しながら集合時間が来るのを待っている彼女達は、一様に目を輝かせている。話す声も普段とは違うように聞こえ、表情の明るさは歴然だ。

 ただ、必ずしも楽しそうにしている生徒ばかりではない。桜咲 刹那もその一人だ。集団からやや離れた位置に立つ彼女は、特に浮かれた様子も無く、静かな色を湛えた瞳で一点を見詰めていた。

 刹那の視線の先に居るのは、少し前に到着したばかりの木乃香だ。彼女は木乃香の護衛であり、特に理由が無い限りは常にその安全を配慮する立場にある。事実、木乃香が寮の部屋を出た時点から、刹那は彼女を見守っていた。

 もっとも二人は、今日になってから一度も言葉を交わしていない。それどころか木乃香は、刹那の存在にすら気付いていなかったはずだ。いつも通りと言えば、いつも通り。だから気にする事など何も無いというのに、どうしてか刹那は、胸の奥にわだかまりを感じていた。

 きっと、修学旅行の所為だ。修学旅行で京都になんて行くから、余計な事まで考えてしまうのだ。


(このちゃん…………)


 もう何年も口にしていない呼び名を、刹那は心の中で呟いた。直後に彼女は、何かを振り払うように頭を振る。それから地面を睨んでいた刹那は、暫く経った後にゆっくりと顔を上げた。すると木乃香は移動した後だったようで、彼女と話していたネギの姿しか見付けられない。辺りを探ると、木乃香の居場所はすぐに分かった。どうやら同じ班の明日菜達と話をしているらしい。それを確認してから、刹那は何食わぬ顔でネギの方へと歩み寄っていった。


「すみません、ネギ先生」

「はい。なんでしょうか、桜咲さん?」


 刹那が声を掛けると、ネギは即座に振り向いた。彼の任務内容は刹那も聞き及んでいるが、表情に暗い部分は見られない。これなら大丈夫だろうかと、そんな感想を抱きながら、刹那は自らの用件を口にした。


「私は六班の班長なのですが、相坂さん、絡繰さん、マクダウェルさんの三名が欠席するという連絡を受けました。ですから六班は、私とザジさんの二人だけです。どうすればいいんでしょうか?」

「あ、そうだったんですか。だったら、どこか他の班に入れてもらうしかないですね。アスナさん達の五班は既に六人なのでそれ以外の所になりますけど、誰か一緒になりたい人は居ますか?」


 刹那は一瞬だけ安堵して、直後にそんな自分を恥じた。

 明日菜の班には入れない。それはつまり、木乃香とは別の班になるという事を意味する。諸事情から木乃香と面と向かう勇気の無い刹那にとっては良い事だが、木乃香の護衛としては決して喜ばしくない事だ。

 未熟。その言葉が、刹那の脳裏に過ぎる。

 とはいえ、今は悩んでいる時ではない。他の班に入れて貰うというのなら、早く決めた方が良いだろう。幸いな事に、刹那自身に関しては既に目星をつけていた。もしもの時に、刹那の行動を邪魔しない人物。その事を考慮すると、選択肢は非常に限られるのだ。


「私は二班に入れて貰うつもりです」


 二班の班長を務めるのは、武道家である古菲だ。彼女は裏の人間ではないが、そういった存在に対する理解は持っている。他にも裏の人間である楓に、魔法使いの事を知っている超 鈴音(ちゃお りんしぇん)。他人の事情に余計な首を突っ込むような事はしない葉加瀬 聡美(はかせ さとみ)や四葉 五月(よつば さつき)など、刹那にとっては非常に都合の良いクラスメイトが集まっている班だ。


「ザジさんには私の方から伝えておきます」

「わかりました。それじゃ、決まったら教えてくださいね」


 最後に一礼して、刹那はその場を辞した。ネギに言ったように、編入先として希望する班をザジに聞かなければならない。そう考えて彼女の姿を探し始めた刹那は、すぐにその動きを止める事になった。

 木乃香と、目があったのだ。真っ黒などんぐり眼が、刹那を見詰めている。木乃香の表情は嬉しそうで、同時にどこか、怯えを含んでいるようにも思える。その原因が誰にあるのかを理解しているからこそ、刹那は咄嗟の対応に失敗した。


「おはよう、せっちゃん」


 親しげに、それでいて一歩引いた感じで、木乃香が話し掛けてくる。普段ならここで逃げるように立ち去るのに、何故か今日の刹那は素直に返事を口にしていた。多分、きっと、修学旅行の所為だろう。


「お、おはようございます」

「あっ――――うん、うん!」


 途端に表情を綻ばせる木乃香に、刹那は胸が締め付けられた。

 単に、挨拶を返しただけだ。なのにこれほど喜ばれるというのは、つまりそれだけ、今までの行動に問題があったという事だ。


「修学旅行、楽しみやね。向こうには休みの度に帰っとるけど、修学旅行はみんながおるもんな。それに…………せっちゃんも一緒やし」


 はにかみながら話す木乃香は本当に嬉しそうで、刹那は自分が、どうしようもなく卑小な存在に思えてならなかった。だって彼女は、この笑顔に応えられない。木乃香が望んでいる通りに、友達みたいな遣り取りをするだなんて、今の彼女には出来ないのだ。


「あの、お嬢様」

「ややわ、せっちゃん。そない他人行儀な呼び方やなくて、昔みたいに――――」

「すみませんが、私はザジさんに伝える事があるので、今は話をしている暇がありません」


 一瞬だけ表情を硬くして、それでも笑顔で話を続ける木乃香の言葉を、刹那はあえて遮った。


「え? あ、そか。せやったら…………しゃあないね」

「それではお嬢様、失礼させていただきます」


 最後に一礼した刹那は、碌に木乃香の顔を見る事も無くその場を立ち去った。振り返る事は無いし、修学旅行中に話をする事も、おそらくもう無いだろう。別に好きでこんな態度を取っている訳ではないが、これが刹那の限界なのだ。

 騒がしい駅の構内を歩きながら、刹那はザジの姿を探す。目立つ容姿だからすぐに見付けられるだろうと思っていたそれは、しかし横から掛けられた声によって遮られた。


「相変わらず、冷たい態度でこざるなぁ」

「……楓か」


 足を止めた刹那が右手に顔を向けると、そこにはクラスメイトの長瀬 楓が居た。柱に背中を預けた彼女は、腕を組んで刹那を見下ろしている。真意の読み辛い糸目が、刹那の鋭い視線と交じり合う。


「何か、言いたい事でもあるのか?」

「いやいや。拙者達の班に入ると聞いたので、挨拶に来ただけでござるよ」


 まるでやましい事など無いといった風情で言い切る楓に、刹那は溜め息をついた。まぁ、嘘を言うほどの事ではないはずだ。わざわざ盗み聞きする意味も無いだろうから、偶々耳に入ったのかもしれない。

 楓は忍者であり、刹那の護衛任務についても幾らか知っている人物だ。また、交友関係が非常に狭い刹那にとって、数少ない友人と呼べる存在でもある。だから急な班変更になった刹那を心配した、という部分もあるのだろう。


「しかし刹那も成長したでござるな」

「それは嫌味か?」 

「以前の刹那なら、言葉も交わさずに逃げたでござろう?」


 楓の言い分に、刹那はグッと言葉を詰まらせる。まったく言い返せない。確かにこれまでの刹那は、木乃香に対して常にそういった態度を貫いてきた。それが先程のように、短くとも話を出来たというのは、楓の言うように成長なのかもしれない。

 そうして刹那が黙っていると、楓は意地の悪い笑みを浮かべた。


「これも洸殿のお蔭でござるかな」


 瞬間、刹那は肩を跳ね上げた。


「な、なんでお前が洸様の事を知ってるんだ!?」

「いや~、先月の期末試験でお世話になったんでござるよ。その時に、刹那の話を少しばかり」

「…………何を話したんだ?」


 知らず、刹那は声を潜めていた。可笑しな話はされなかっただろうが、自分が話題の中心に居たと思うと、どうしても気になってしまう。特に洸が何を言っていたのかというのは、刹那としては絶対に聞き逃せない部分だ。

 そんな刹那の気迫が伝わったのか、楓は仕方ないとばかりに苦笑した。


「クラスでの様子を、軽く話しただけでござるよ。他には魔法使いの事や、刹那の仕事について教えてもらったくらいでござるなぁ。拙者も裏に属する身ゆえ、ある程度の知識は持っておくべき、との事でござった」


 楓の言葉に、おそらく嘘は無い。しかしだからこそ刹那は、なんとも言えない気分になった。

 変な話はしていない。でも、良い話もしていない。あえて言うなら、普通の話。意気込んでしまっていただけに、刹那としては拍子抜けといった感じだ。思わず肩から力が抜けて、刹那は息を吐き出した。そんな彼女を見て、楓が楽しげに声を漏らす。


「ふふ。刹那の上司と言うだけあって、中々の御仁であったな」

「当然だ」


 即座に返した刹那に、楓は驚いたように糸目を開く。だがすぐに納得したといった風に頷くと、彼女は穏やかな声音で問い掛けてきた。


「ただの上司、という訳ではなさそうでござるな。どういう相手なのか、拙者が聞いても?」


 相変わらず柱に寄り掛かったままの楓を一瞬だけ見上げ、それから刹那は、遠くの方に視線を向けた。

 自分にとって、洸はどういう存在なのか。その問いに答える事は吝かではない。だが、どう答えれば正しいのだろうか。上司、というのは当然だ。尊敬する人、というのも当て嵌まる。好きな相手――――――これも、まぁ、否定は出来ない。

 しかし刹那が口にしたのは、それらのどれとも違う言葉だった。


「姉のような人。あるいは――――――母のような人」


 意識した訳ではない。ただ自然と、刹那はそう答えていた。








 ◆








 まず大宮駅を午前九時五十分に出発する新幹線に乗り、約二十五分掛けて東京駅に到着。そこで乗り換えを行った後、麻帆良学園御一行は新幹線に身を委ね、京都駅まで二時間半の休みを得る事になる。計三時間に及ぶ、新幹線による移動。それが修学旅行の始まりだった。


「……ふぅ」


 僅か十分という慌ただしい乗り換えを終えて、刹那は新幹線のシートに体を預けた。と言ってもそこは、本来の自分の席ではない。班変更に伴い、ネギが席順の調整を行ったのだ。そのため隣に座る人物も変わっており、元々はザジと一緒になるはずだった旅路は、気付けば超 鈴音との行程になっていた。

 刹那が左を見ると、そこには何食わぬ顔で鈴音が座っている。名前が示す通り中国からの留学生らしい彼女は、髪型もそれっぽいお団子頭だった。容姿については、十分に可愛いと言える部類だろう。少なくとも、見ていて不快になる事は無い。

 一見すれば、特に害の無さそうな女の子だ。彼女を見て警戒心を覚える者など、普通は居ないだろう。しかし刹那は違った。彼女は鋭い吊り目を更にキツくして、油断の無い視線を鈴音に向けている。


「フム。何か御用カナ、刹那サン?」

「そういえば、ゆっくり話した事は無かったと思ってな」


 邪気の無い笑みを浮かべる鈴音に、刹那は冷たい声で答える。和やかな雰囲気の周囲と比べると、ここだけ別世界のようだった。


「たしかにネ。洸サンとはよく会うのダガ」

「お前は、色々と問題があるからな」


 天才。超 鈴音を表すなら、その言葉が最も相応しいだろう。一年生の頃から常に学年トップの成績を維持してきたというだけではなく、大学部の研究にも多大な貢献をしていると聞く。もっとも、それだけなら問題と言うほどではない。彼女が厄介なのは、一体どういう過程を踏んだのかは定かではないが、自力で魔法使いの存在を解き明かした事だ。

 しかも学園側の警告を無視して、個人で魔法に関する研究を進めているらしい。何を隠そう、絡繰 茶々丸の製作者は彼女なのだ。


「酷い言い種じゃないカ。洸サンとは仲良くやっているんだがネ」


 いかにも何か企んでいますといった風情でニヤリと頬を歪めた鈴音に、刹那は鼻を鳴らして応えた。

 確かに洸は、鈴音に対して寛容だ。麻帆良に様々な恩恵を齎したとして評価もしているし、個人的な頼みをする事もあると聞く。その事は知っているし、否定しようとも思わないが、だからといって警戒を緩める理由にはならない。洸にしたって、何か思う所はあるはずだ。


「フフフ。刹那サンは正直者ネ。あの人なら、もっと上手く隠すヨ」

「――くっ」


 どうにも苦手な手合いだと、刹那は歯噛みした。同時に愛刀の入った鞘袋を強く握り、彼女は気を入れ直す。

 刹那は剣士であり、その主な任務は木乃香の護衛だ。頼るべきは己の腕であり、口先だけの遣り取りなどしない。そんな彼女からすると、鈴音のような賢しい人物は、非常に相性が悪く感じられた。


「マァ、修学旅行中はよろしく頼むネ。なに、もし単独行動する事になっても心配は要らないヨ。私が口裏を合わせよう」

「…………何を考えている?」


 刹那の仕事は木乃香の護衛であり、離れざるを得ない状況がある修学旅行は不安の種だ。編入先の班を二班にしたのも、そういった部分で楓などに協力を得られないかと期待しての事だった。だからこそ鈴音の申し出は、嬉しい誤算と言える。

 しかし刹那は、素直にありがたいとは喜べなかった。鈴音が浮かべる含み笑いが、どうしても怪しく見えるのだ。


「貴女と仲良くしたいだけヨ。洸サンには、色々とお世話になっているしネ」

「ふんっ。白々しい奴だ――――――が、感謝はしておく」


 最後に一度だけ鈴音を睨め付けて、刹那は窓の外へと視線を向けた。鈴音もまた、何も言わずにシートに身を沈める。二人の間に漂っていた空気も一気に霧散し、まるで何事も無かったかのように振る舞っている。

 直後、ガラガラとカートを引いた女性が通路を通り過ぎていった。


「えー、お弁当。お弁当はいかがでしょうかー?」


 車内販売員の声が辺りに響き、そして徐々に遠ざかっていく。やがて隣の車両に移ったのか、女性の声が聞こえなくなると、それまで静かにしていた鈴音が、おもむろに刹那へと話し掛けてきた。


「何やら面白い事になってきたみたいダガ、刹那サンはどうするのカナ?」

「お嬢様に手が及ばぬ限り、私には関係の無い事だ」


 あまりに意味深な、鈴音の言葉。その意味を正確に理解していながら、刹那は冷たく断言した。すると鈴音は、驚いたように目を見開く。彼女が見せた珍しい反応に、刹那は少しだけ溜飲が下がった気がした。だがすぐに彼女は、不謹慎だと自身を戒める。

 これから先、些か面倒な事態になるだろう。そしてそれは、ネギにとっても関東魔法協会にとっても、決して喜ばしくない状況のはずだ。しかし刹那は、そうなっても手を出さないし、出せない。この点に関してだけは、洸から強く言い含められていた。


(私は――――『西の人間』だからな)


 鞘袋をキツく握り締めた刹那は、心の中でそう念じながら、遠くに座る木乃香を見詰めていた。




 □




 桜咲 刹那の立場は複雑だ。刹那の任務は近衛 木乃香の護衛であり、その為だけに麻帆良学園にやって来たという経歴を持つ彼女だが、だからと言って単純に関東魔法協会の構成員となる訳ではない。

 そもそも問題なのが、木乃香の護衛とは一体何を指すのか、という事だ。彼女に降り掛かる全ての危害を跳ね除けるというのは勿論だが、ではどのような相手を想定しているのかというと、そこは見る者によって変わってくる。

 たとえば東の人間であれば簡単だ。学園長の孫という立場も考慮して、外部からの侵入者を警戒していると考えればそれで済む。では西の人間の場合はどうだろう。関東魔法協会を毛嫌いしている者の多い彼らから見れば、その本拠地に住んでいる長の娘というのは、どのように映るのだろうか。答えは想像に難くない。

 つまり刹那は、学園長の孫娘を外敵から守る東の人間であると同時に、『不埒な東の魔法使い』から長の娘を守る西の人間でもある訳だ。そして対外的には西の人間であると主張する事によって、今回の修学旅行のように、呪術協会の土地にも簡単に踏み入る事が出来るのだ。


(反面、戦力としては数え辛い)


 腿の上に広げたファッション雑誌を眺めながら、洸は心の中で呟いた。

 今回の修学旅行に同行している魔法関係者というのは、意外と多い。といっても西との約束がある為、一般生徒に被害が及んだ場合にしか動けない上に、その時は和平への道が遠のいてしまう。だからこそ、呪術協会に許可されている人員だけで目的を達したい所だ。

 親書を運ぶ特使として選ばれたネギと、彼の”従者”として伝えてある明日菜。理想を言えば、この二人だけでやり遂げて欲しい。一応は刹那も含まれるのだが、先の理由から、木乃香に害が及ばない限りは動けないのだ。

 パラパラとページを捲りつつ、どうやって先方を欺き抜こうかと、洸は思考を巡らせる。


「――――ん?」


 不意に、洸は通路の方へと顔を向けた。ドタドタと騒がしい足音が耳を打ち、誰かが近付いてくるのが分かる。直後、小さな黒い影が洸の視界を横切り、続いてその後を小柄な人影が追い掛けていく。突然の事態に目を丸くし、ヒョコリと通路に顔を出してから、彼女は首を傾げながら読書を再開した。まるで自分は、まったくの無関係だとでも言うかのように。

 過ぎ去ったのは、大事な親書を銜えたツバメと、それを追うネギだった。どちらも事前に察知していたが、今の洸はあくまでも一般人だ。下手な動きを見せて感付かれる訳にもいかず、親書が盗まれようと傍観するしかない。

 焦れったい。そう思わずにはいられない洸だったが、頭の冷静な部分では、ネギだけで十分に対処出来るレベルだと判断していた。事実、三十秒ほどで引き返してきた彼の手には、シッカリと親書が握られていた。

 だから、この問題はもういい。注意すべきは、この事態を引き起こした犯人だ。


(天ヶ崎 千草、か…………)


 車内販売員として紛れ込んでいた相手の顔は、洸も確認している。またその名前も、彼女は知っていた。経歴も、同じく。

 予想外に面倒な事態になったと、洸は溜め息をつきたい気分だった。天ヶ崎 千草(あまがさき ちぐさ)。とある事情から彼女について調べていた洸だが、まさかこういった行動に出てくるとは思っていなかった。西の長だって、想定していなかったに違い。

 けど、きっと、これは必然なのだ。犯人の素性を知っていたのは、決して偶然なんかじゃないと、洸はそう感じずにはいられなかった。








 ◆








 清水寺。日本人ならば知らぬ者は居ないのではないかと思われるほど有名な寺院であり、京都有数の観光地であるこの場所が、修学旅行の最初の目的地だった。『清水の舞台から飛び降りる』の言葉でよく知られ、国宝にも指定されている清水の舞台や、三筋の流れでそれぞれ別の願い事が叶うと言われる音羽の滝、恋占いの石がある地主神社など、非常に見所の多い場所だ。

 吹き抜ける春風が心地良く、見渡す限りの絶景に圧倒されそうな清水の舞台に立ち、ネギは大きく深呼吸した。


「素敵な所だなぁ」


 少々硬くなっていた表情を凝り解し、ネギは楽しそうに京の街を一望する。

 新幹線ではカエルが大量発生するというハプニングがあり、その騒ぎに乗じて親書を奪われてしまった。どうにか取り返す事は出来たが、洸から身体強化魔法を教わっていなければ、かなり危なかっただろう。その為ここまで警戒していたのだが、流石に疲れを感じ始めていた。緊張感を持続させるには、ネギはまだまだ経験不足なのだ。

 だからこの辺りで、軽く休みを入れるべきだろう。特使としての使命感はあるが、誤魔化し切れない気疲れの妥協点として、ネギはそんな風に決めていた。新幹線の件を鑑みるに、それほど手荒な真似に出そうにないというのも、その考えに拍車を掛けている。

 温かな日射しを浴びて、ネギがクッと背を反らせると、肩に乗ったカモミールも同じように行動する。


「この清水寺が最初に建てられたのは今から千以上も前の事で、以来、焼失を繰り返しながら幾度も再建し、今日では世界遺産に登録されるほどの貴重な文化財になっています。特に私達が立っている清水の舞台は、我が国の国宝にも指定されているです。また、思い切って物事を決断する事を『清水の舞台から飛び降りるつもりで』と言いますが、江戸時代には実際に234件もの飛び降りが記録されています」


 突然聞こえてきた声にネギ達が振り向くと、そこには夕映にのどか、千雨の三名が立っていた。ペコリと頭を下げた三人は、ネギの傍まで来て、舞台の手摺りに寄り掛かった。ネギの近くからのどか、夕映、千雨の順に並んだ彼女らは、それぞれ何がしかの飲み物を持っている。

 手にした紙パックジュースをチュウと鳴らして飲んでから、夕映は再び喋り始めた。


「清水寺の見所と言えば、やはり本堂であるこの舞台です。しかしココ以外にも、アチラに見える音羽の滝や、縁結びの神様を祀っていると言われる地主神社など、見るべき場所は沢山あります。ですからネギ先生も、一息ついたら色々巡ってみてください」


 眼下に見えるそれらの建物を、夕映が順に左手で指し示す。普段の授業とは違い、その表情は少し浮かれているように思えた。


「ありがとうございます。もしかして、こういうのに詳しかったりするんですか?」

「はい。普通の人よりは知識が豊富な自信があるですよ」

「夕映は神社仏閣仏像マニアですからー」


 補足するようにのどかが話し、その隣では千雨が肩を竦めている。

 と、ここでネギは不思議そうに首を傾げた。辺りの観光客を見回し、それから、もう一度夕映達を見る。


「他の皆さんはどうしたんですか? 近くには居ないみたいですけど」

「みんなもう別の場所に行ってるですよ。あぁ、ほら。アソコにアスナさん達が居ますね」


 伸ばした左手で夕映が示したのは、先程の話に出てきた音羽の滝だった。見ればそこには、明日菜を始めとして木乃香にハルナ、あやかといったA組の生徒が集まっている。他の観光客に交じって列を成している彼女達の目的は、どうやら『音羽の滝』の水を飲む事らしい。先頭から順に柄杓を手に取り、三つある滝の内、どれか一つから水を汲んでいる。

 初めは何をしているのか分からなかったネギだが、すぐに該当する知識に思い至った。


「そういえば、あの水を飲んだら願いが叶うんでしたっけ」

「えぇ、その通りです。ココからだと、左から健康・学業・縁結びの御利益があると言われています。もちろん三つとも、などというズルをしたら全て帳消しになるそうですが。また御利益の内訳についても諸説あって、真ん中が縁結びと言われたり、そもそも恋愛関係の御利益は観光客向けのサービスであるという話があったり、些か曖昧だったりします。もっとも御利益は本当らしいので、信心深く、どれか一筋から一口だけ飲むというのを私はオススメするです」


 ネギの呟きを、その何倍もの言葉で夕映が補足する。あまりにイキイキとした様子で語る彼女に、ネギだけでなく、のどかや千雨も苦笑を禁じ得なかった。そうした周りの雰囲気に気付いたのか、夕映は薄く頬を染め、コホンと咳払いする。


「まぁ、とにかく。修学旅行生にとっては、非常に魅力的なスポットの一つです」

「みたいですね。夕映さん達はどうなんですか? ココに居ますけど、あぁいったものには興味が無いとか?」


 修学旅行の班行動について言及するまでもなく、夕映達は普段から明日菜らと一緒に行動している。それがこうして別グループに分かれているという事は、なんらかの意見の食い違いがあったのかもしれない。

 そう考えたネギの疑問に答えたのは、自信無さげに目を伏せたのどかだった。


「いえー。皆さんと一緒だと騒がしくなってしまうのでー、のんびり回る為に別行動なんです」


 たどたどしく話すのどかの後ろで、夕映と千雨が視線を交わす。その表情は対照的で、楽しそうにしている夕映に対し、千雨は少々気難しそうな感じで眉根を寄せている。そんな二人を見て、ネギはピンと来た。

 ネギが知る限りでは、千雨は騒がしいのを好まない性質の生徒だ。


「なるほど、そうだったんですか。たしかに皆さん元気一杯ですもんね。まぁ楽しく過ごせているのなら、先生としては十分です」


 ここでネギは、千雨の方へと顔を向けた。


「長谷川さんはどうですか? 修学旅行は楽しいですか?」

「…………取り敢えず、悪くはないんじゃないですか」


 ネギの真っ直ぐな視線から逃げるように目を逸らした千雨だが、今度は夕映と見詰め合う事になって動きを止めた。ニッコリと嬉しそうに笑う夕映を見て、千雨は何かを誤魔化すように頭を掻く。またそんな二人から一歩離れた位置で、のどかは微笑ましげに口元を緩めている。それらの遣り取りだけでも、ネギにとっては十分だ。

 仲の良さそうな彼女達に満足してネギが頷いていると、千雨が不機嫌そうに睨み付けてきた。


「そういうネギ先生こそどうなんですか。私から見ても、随分とお疲れのようでしたけど」

「えっ。そ、そんな風に見えましたか?」


 かろうじて愛想笑いを浮かべて答えたネギだが、見れば千雨だけでなく、夕映やのどかまで首肯していた。

 気付いていなかったが、どうやらハッキリと顔に出ていたらしい。今更後悔しても後の祭りだが、それでもネギは、しまったと思わずにはいられなかった。折角の修学旅行なのに、生徒達の気持ちに水を差すような真似はしたくない。幾ら親書が大事とはいえ、修学旅行を楽しむ事を忘れては、この任務を受けた甲斐が無いというものだ。


「えぇ。あの委員長が誘うのを遠慮するくらいには。もっとも今は、大分マシになっていますけど」


 肩を竦めた千雨が、のどかに対してクイと顎で指し示す。するとのどかは、慌てた様子で両手を前へ伸ばしてきた。その手に握られているのは、封の開いていないペットボトルだ。見るからに冷たそうなソレを、彼女はネギの方に差し出している。


「あ、あのっ。コレ――――ネギ先生の為に買ってきたんです!」


 ギュッと目を瞑り、リンゴみたいな顔になったのどか。その変化に僅かな驚きを見せたネギだが、控えめな彼女らしいと納得すると、嬉々として目の前のペットボトルを受け取った。ヒヤリと冷たい感触が、ネギの手の平を刺激する。


「ありがとうございます。初めての大仕事で、ちょっと緊張し過ぎたみたいです」

「ネギ先生は、教師になってまだ数ヶ月ですからね。仕方ないと思います」


 手にした紙パックをヘコませた夕映が、当然の事だと同意を示す。次いでのどかと顔を見合わせた彼女は、コクリと一つ、頷き合った。


「あのー。それでですね、ネギ先生。もしよろしければ――――――わ、私達と一緒に回りませんかー?」


 勿論、体調が良ければですけど。恥ずかしそうに俯いたのどかは、その言葉を最後に黙り込んだ。長い前髪で目元が隠れ、碌に表情が確認出来ないのどかだが、真っ赤な頬だけはその存在を主張している。

 ネギはそんな彼女に戸惑いを覚えたが、すぐに持ち直すと、喜びを隠し切れないといった風情で頬を緩めた。


「いいですよ。というか、僕の方からお願いしたいくらいです。それじゃあ最初はどこから――――――?」


 何時の間にか夕映と千雨の二人が、手摺りから乗り出すような形で下の方を凝視していた。危ないと注意しようとして、その前にネギは、彼女達が見ているモノに気付く。音羽の滝だ。何度か話題に出たソレを、二人は驚きの表情で見詰めている。

 一体なんなのかと滝の方に視線を移したネギは、思わず目を瞠った。音羽の滝に集まっている生徒達の様子が、明らかに可笑しい。多くの生徒が頬を赤らめ、中には倒れている者も居る。何かがあった事は明白だった。


「ネギ先生ッ!?」


 知らず走り出していた事にネギが気付いたのは、のどかの声を背に受けた後だった。








 ◆








 清水寺で起こった騒ぎは、結局、有耶無耶のままに収束した。

 あれから急いで音羽の滝に駆け付けたネギが事情を聞いたところ、どうやら滝の水を飲んだ所為で可笑しくなったらしい。そこでネギが調べてみると、なんと滝にお酒が混ぜられていたのだ。ただ使われていた酒樽は認識阻害の魔法によって偽装されており、犯人の目星はすぐについた。とはいえ騒ぎが広がる前に酔った生徒を回収する必要があったので、犯人捜しをしている暇は無かったのだが。

 他の先生方に適当な言い訳をして彼女らをバスに運び終えた頃には出発の時間が迫っていて、ネギは漠然とした不安を抱えたまま清水寺を後にするしかなかった。また途中で明日菜から話を聞いたところ、地主神社には落とし穴が仕掛けられていたらしい。

 おそらくは和平反対派の妨害であり、新幹線で親書を盗もうとした相手か、その仲間による犯行だろう。それ自体は容易に予測出来るし、想定の範囲内でもあるのだが、ネギとしては腑に落ちない点もあった。

 敵方の思惑だ。

 初めの一回は分かる。牽制の意味合いも込めてネギの出方を窺ったのだろう。確かに親書を奪われたが、それが向こうの狙いではなかったはずだ。あの時は焦ったネギが親書を取り出したからこそ奪われたのであり、もう少し落ち着いていればそんな事にはならなかった。だから相手の目的は、ネギの対応を見る事だったと考えられる。

 だが、清水寺の件はよく分からない。もしも親書を奪いに来たのだとしたら、些か方法が迂遠過ぎる。親書の色や形、隠し場所なども既に判明しているのだし、もっと直接的な手段に出ても良かったはずだ。少なくとも、あんな挑発にしかならない事をする必要は無い。


(いや。もしかしてソレが狙いなのかな?)


 挑発して警戒させる事で、ネギの疲労を誘う。或いはネギ本人ではなく、他の魔法関係者を狙ったのかもしれない。誰かは分からないが、魔法先生が何人か修学旅行に参加している事は聞いている。彼らの炙り出しが目的だという可能性も、あながち否定出来ない。


「……まぁ、あまり考えてもしょうがないか」


 経験不足。何が正しいのか判断出来ない以上、あれこれ考えても深みに嵌るだけだ。だから、考え事はここまで。あとは打てる対策を全て打って休みを取ろうと、ネギは手に持った数枚の札を確認して頷いた。

 結界符、という物らしい。ある決まった配置で壁や床に張り付ければ、その領域内には関係者以外は立ち入れなくなる魔法具だ。この札と設置場所を記した宿泊先の見取り図のセットを、ネギは学園長に渡されていた。指定された位置に札を張るだけと使い方は簡単だが、効果は折り紙付きだ。たとえ一流の術者であろうと破られる事は無いと、近右衛門は言っていた。


「それに、もし破られたとしても、この見取り図が敵の侵入を教えてくれる」


 手にした見取り図に指を這わせながら、ネギが呟く。

 学園長から渡されたこの見取り図もまた、魔法の品だ。結界符を張り終えた場所には小さな光点が灯っており、また建物の周りには、薄く光の円が浮かび上がっている。これは結界の現状を視覚化した物で、結界内で何か異変があった場合もこちらに表示されるらしい。


「えっと、ココで最後かな」


 廊下の壁にペタリと札を張り付けて、ネギは再び見取り図に目線を落とした。そこには新しく灯った光点と、先程とは違うクッキリとした光の円が記されている。これで結界は完成したはずだと、ネギは満足そうに頷いた。


「うん。バッチリっスね。張り忘れも無いし、ちゃんと全部発動してるみたいですし」


 ネギの肩から入念に見取り図を確認していたカモミールが賛同の声を上げ、安心したように息を吐き出した。


「これでゆっくり出来ますね」

「そうだね。ご飯の時間に間に合ってよかったよ」


 食後には教員の入浴時間があり、温泉に入れるという事でネギは楽しみにしていた。結界が完成したという安堵感もあり、ネギの頬が自然と緩む。彼の肩に乗ったカモミールも、力を抜いて笑みを浮かべていた。

 俄かに軽くなった足取りで、ネギは廊下を歩いていく。そうして何度目かの曲がり角を曲がろうとした所で、


「うわっ!?」

「ん?」


 ネギは奥から来た誰かにぶつかった。反動で尻餅をついたネギは、そのままぶつかった相手を仰ぎ見る。彼の前に立っていたのは、竹刀袋を肩から提げた刹那だった。困ったように眉を八の字にした彼女は、心配そうな表情でネギに手を差し伸べてきた。


「大丈夫ですか?」

「あ、はい。ありがとうございます」


 刹那の白い手を握り、ネギが立ち上がる。その際、持っていた見取り図を隠すのも忘れない。


「すみません、少し考え事をしていたので」

「いえ、僕の方こそ不注意でした」


 お互いに頭を下げ、謝り合う。そこで刹那は、何かに気付いたように腰を屈めた。何があるのだろうかと枯茶色の絨毯に視線を移したネギは、思わず目を見開いてしまう。慌ててスーツの上から胸元に手を当て、ネギは顔を青くした。

 親書だ。新幹線で奪われてからは常に注意していたというのに、こんな事で落としてしまうなんて不注意が過ぎる。


「落としましたよ、ネギ先生」

「あ、ありがとうございます…………」


 刹那から親書を受け取りながら、ネギは深く自省した。これからは魔法を使ってでも肌身離さず持ち歩こうと、密かに誓う。そうしてネギが懐に親書を仕舞っている間に、刹那は用が終わったとばかりに歩き始めた。


「では、私はこれで失礼します」

「はい。また夕食の時に――――――っと、桜咲さん!」


 離れていく刹那の背中に、ネギは大きな声で呼び掛ける。途端、刹那はビクリと肩を震わせた。些か大袈裟な彼女の反応に首を傾げながらも、ネギは振り返ろうとする刹那へと近付いていく。一つ、聞き忘れた事があったのだ。


「な、なんでしょうか?」

「あの、二班の皆さんとは仲良く出来ていますか? 急な班変更でしたから、上手くやれているか心配で…………」


 キョトンと、刹那が目を丸くする。コイツは何を言っているんだ、といった感じだろうか。

 確かに彼女からすれば、些末な質問かもしれない。傍から見て気まずそうな雰囲気では無かったし、一々尋ねる事ではないかもしれない。だが、ネギにとっては重要な事なのだ。親書の件で今一気分が乗り切らない自身の分まで、生徒達には楽しんでほしい。それが、偽りの無いネギの本心だった。生徒達の嬉しそうな姿を見られれば、それだけでも京都に来た甲斐がある。そんな風に思えるのだ。


「大丈夫ですよ、ネギ先生。楓も、超さん達も、良いクラスメイトですから」


 答えた刹那の表情は、初めて見る柔らかなものだった。だからそこに嘘は無いと信じられて、自然とネギも、口元が緩む。


「そうですか。なら、安心ですね」

「ええ。それでは、今度こそ失礼します」

「はい。わざわざ呼び止めてすみませんでした」


 今度こそ刹那と別れて、ネギは自室へと向かった。通り過ぎる部屋からは生徒達の声が漏れ聞こえ、その浮かれた調子に、ネギは嬉しそうに笑みを作る。ただ中には静かな部屋もあって、大抵の場合それは、音羽の滝でお酒を口にした生徒達が居る所だった。つまり、酔い潰れているのだ。その事に気付く度、ネギは申し訳なさそうに肩を落とす。と、同時に、拳を固く握り締める。


「にしてもあの刹那って女、かなり鍛えてますね。兄貴とぶつかった時も、平気な顔して立ってましたし」


 ネギの気を紛らわせるように、カモミールが不意に声を漏らす。


「あぁ、桜咲さんは剣道部だからね。それで鍛えてるんだよ」


 最近はネギも鍛えているが、まだまだ貧弱な子供の体に過ぎない。やっぱり普段から鍛えている人は違うなぁ、とネギとしては感心しきりだ。今回のような事もあるし、麻帆良に帰ったら本格的に戦闘技術を教えて貰った方が良いかもしれない。そう考えたネギの脳裏に、ふと、かつて見た父の姿が過ぎる。

 六年前、住んでいた村が悪魔の大群に襲われた。その時に助けてくれたのが父で、当時の事は今でも鮮明に覚えている。中でも印象的なのが、悪魔の群れを一撃で吹き飛ばした魔法で、英雄と呼ぶに相応しいその雄姿に憧れた――――――と、思っていた。


(でも、もしかしたら違うのかな)


 本当に憧れたのは、心の底から焦がれたのは、英雄的な強さではなく、その背中だったのかもしれない。自分を守ってくれる、父の背中。ネギが惹かれたのは、そんな父の姿だったのかもしれないと、最近になって思うようになった。悪魔を蹴散らす父は想像通りに格好良かったけれど、自分と姉を守ってくれたという事実の方が、その何倍も嬉しかったのだと、今なら理解出来るのだ。


「どうかしたんスか?」


 突然立ち止まったからか、カモミールが不思議そうに尋ねてくる。なんでもないと首を振って、ネギは再び歩き出した。

 強くなろう。せめて生徒達の楽しい時間を守れるくらいにはなろうと、ネギは思わずにはいられなかった。












 ――――後書き――――――――


 第二十六話を投稿しました。お読みくださり、ありがとうございます。

 そんな訳で修学旅行突入です。木乃香、刹那、オリキャラと京都所縁のキャラが多いので、何を書くべきか悩まされますね。修学旅行中に書きたい話が色々とあるので、上手く纏めたい所です。あと千草も色々と弄っているので、書くのが楽しみだったりします。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十七話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:eec9bff5
Date: 2010/09/18 21:36


 夕食が終わり、入浴も終えて、教師陣の話し合いも終わった。残るネギの仕事は簡単な見回りくらいのもので、あとは自由時間と言ってもいい。だからと言って、いや、寧ろだからこそネギは、気を抜く事無く宿の見取り図を眺めていた。

 今の所は異常無し。見取り図に反応は無く、実際にネギが巡回した時にも怪しい部分は見られなかった。しかし油断は出来ない。これから生徒達の消灯時間を迎えると、必然的に人の目は少なくなる。侵入があるとすれば、その後だろう。

 ロビーの休憩所で長椅子に腰掛けたネギは、買ったばかりの缶コーヒーに口をつけた。好きな味ではないが、気付けには丁度良い。


「ふぅ。もうすぐ消灯だし、気を付けないとね」

「そっスね。けどよかったんですかい、姐さんに協力してもらわなくて」


 ネギの肩に乗ったカモミールが、声を潜めて伺ってくる。チラリと周りの人影を確認してから、ネギは答えた。


「いいの。折角の修学旅行なんだから、楽しんでもらわないとね」


 便宜上ネギの従者として京都入りしている為、明日菜もある程度の事情は知っており、先程も協力したいと申し出てきた。確かに明日菜が手を貸してくれれば助かるし、警戒する目は多い方が良い。ただ、それでもネギにとって重要なのは、彼女がこの行事を楽しむ事なのだ。

 だから明日菜の申し出を断った。当然のように納得されなかったが、生徒の立場で警戒する事を頼めば、一応は満足したらしい。勿論方便であり、観光地を巡っていればソチラに集中してくれるだろうと考えての事だ。


「とにかく、今は目の前の事に集中しなきゃ」

「まぁ、兄貴がソレで満足なら構いませんけどね」


 小さく息を吐き出したカモミールは、直後にその体を硬直させた。尻尾は鉄芯でも込めたかのようにピンと伸び、視線はネギの持つ見取り図に釘付け。何か異常事態があった事は瞭然で、慌ててネギも見取り図を確認する。

 果たしてそこには、赤いバツ印がクッキリと浮かび上がっていた。場所は正面玄関。つまり、ネギの居るロビーからすぐそこだ。

 自然と吸い寄せられたネギの視線の先に、確かにソイツは居た。夜闇に溶け込む黒い布切れをローブのように身に纏い、フードの下からは男性のものらしき顎が覗いている。歳は十台半ばから二十代前半と思われ、身長は高め。ガラス扉の向こうで、パントマイムの如く透明な壁に手を当てているように見えるソイツは、明らか過ぎるほどの不審者だった。

 突然の事態に、ネギは呆然と不審者を見詰める事しか出来ない。何故か宿の従業員は気付いた様子も無く、ロビーには暫し静寂が満ちる。そうしてネギが座ったまま固まっていると、向こうもコチラの存在に気付いたようだ。

 顔をネギの方に向けた男は、驚いたように口を開けた。そして直後に、踵を返して走り出す。


「――――ッ!」


 音を鳴らして立ち上がり、ネギは正面玄関へと駆け出した。それに気付いた従業員が驚きに目を瞠ったが、今は気にしている余裕は無い。宿の見取り図を浴衣の懐に仕舞い、同時に親書の存在も確認する。乾いた紙の感触が、確かに指先を刺激した。


「きゃっ!?」

「スイマセン! 今ちょっと急いでるんで!!」


 扉を潜った所で外に居た従業員とぶつかったが、ネギはおざなりに謝罪を済ませると、またすぐに走り始めた。そうして夜闇の奥に不審者の背中を認めたネギは、走りながら杖を取り出した。ネカネから貰った、指揮棒みたいな銀色の杖だ。

 身体強化魔法を唱え、ネギは一気に加速する。一歩の距離を倍に、一歩の時間を半分に、そして速度は四倍に。前方を走る男との距離を、ネギは瞬く間に縮めていく。

 だがそれも、最初の数秒だけだった。彼我の差が十メートルを切った辺りで、今度は相手が加速する。人間離れした速度で走るネギが、化け物染みた速さに引き離されていく。そうしてある程度の距離が開いた所で、男は歩調を緩めた。まるで、ネギに合わせるかのように。


「兄貴、罠だ!! 誘われてる!」

「わかってる! けど――ッ」


 止まらないし、止められない。

 ネギは怒っていた。修学旅行が始まって、実際に生徒達の楽しそうな姿を見て、それに水を差す妨害者が許せなかった。だからすぐにでも捕まえてやりたいと思っているし、一発ぐらいは殴ってやりたいとすら考えている。

 親書は手元にある。たとえ今、宿へ侵入されたとしても、大きな問題は無いはずだ。しかしその反面で、ネギ自身は非常に危ない。もしも罠に掛けられたら、或いは複数で襲われたら、ネギの実力では対抗出来ない。そしてきっと、親書を奪われるだろう。

 その可能性に思い至っていながら、ネギは引き返さなかった。明らかな判断ミスを、肯定してしまう。有り体に言ってしまえば、頭に血が上っているのだ。もしもココで終わらせる事が出来ればと、都合の良い想像に流されていた。

 景気良くアスファルトを踏み鳴らし、浴衣の裾をたなびかせ、ネギは必死に駆けていく。

 気付けば周囲に建物は無く、山中を通る道路を走っていた。辺りを行き交う車は無く、人影と言えばネギと不審者の二つだけ。夜の冷たい空気に、只々彼らの足音が木霊する。いよいよもって怪しくなってきた雲行きを前にして、ようやくネギの思考も冷えてきた。

 やはり引き返すべきだろうか。そんな弱気が首を擡げて、しかしネギが迷ったその暫時が、全てを決めた。


「――――――ッ」


 道路脇に広がる空き地に飛び込んだ男は、そこでようやく動きを止めた。足元から砂煙を上げて立ち止まり、男は悠々とネギを振り返る。それと同時に空き地へと駆け込んだネギだが、足を止める気配は無い。寧ろ一層の力を込めて地面を蹴り上げ、彼は更に加速した。

 拳の握り方は、知っている。敵の殴り方も、教わっていた。

 彼我の距離は、僅かに三歩。そうしてまず一歩、ネギは不審者との距離を詰めた。男に焦った様子は無く、腕組みをして待ち構えている。次いで二歩目。拳を握り締めて、ネギは体に捻りを加えた。フードに隠れた男の顔を、彼は鋭く睨み付ける。そして最後の一歩で、ネギは大きく跳躍した。地面から離れた小さな体躯が、勢いよく相手に迫る。

 狙うはただ一点、相手の顔だけだ。速さを力に、重さを力に変えて、ネギは全力で拳を振り抜いた。


「なっ!?」


 外した、いや、外れたと言うべきだろうか。当たったと思った瞬間に男の輪郭が歪み、結果、ネギの拳が捉えたのは相手が纏っていた闇色の布切れだけだった。靴裏で砂を巻き上げ、音を鳴らして着地したネギは、腕に布切れを纏わりつかせたまま慌てて背後を振り返る。


「お~、コワッ。優等生面しとる癖に、随分と思い切っとるなぁ」


 不審者は、先程と変わらぬ場所に立っている。しかし一瞬前までの青年の姿はそこに無く、代わりにあったのは、ネギと同年代と思われる少年の姿だった。黒い学ランを身に纏い、真っ直ぐに腕を突き出した男の子が、不敵な笑みを浮かべて佇んでいる。


「ネギ=スプリングフィールドやな? 俺は犬上 小太郎(いぬがみ こたろう)や。この喧嘩、買わせてもらうで」


 挑発するように指で誘う少年は、鋭い犬歯を剥き出しにして、心底楽しそうにネギへと告げた。












 ――――第二十七話――――――――












 言葉を交わす暇は無かった。何故ならネギが声を発しようとしたその時には、彼の眼前まで小さな拳が迫っていたのだから。


「ッ!?」


 反射的に背を反らしたネギの頬を、拳圧で生じた風が撫でる。自然と夜空を見上げる形になったネギの視界を、白い拳が横切った。

 何をされたのか。攻撃だ。何をしたのか。回避だ。しかしそれらの事実を理解出来るほど、ネギの思考は回っていない。事態の急変に頭が追い付かず、体の方も勝手に動いただけである。見開かれた彼の瞳は、未だに現実を認識していなかった。

 だが白く塗り潰された思考にも、刹那の後には黒点が生まれた。ザッ、と。短く砂の擦れる音。ネギの背後、すぐ傍から聞こえたそれは、ただ一つの事実を教えてくれる。すなわち、敵はネギの後ろに居るという事を。


「くっ!」


 反らしていた背筋を、今度は逆へ。無茶な動作に悲鳴を上げる肉体を無視して、ネギは前方へ飛び込んだ。チリリと後ろ髪を何かが掠め、ネギは胆を冷やす。無様に地面に転がる。浴衣に砂をまぶす。同時に顔が擦れたが、彼には気にしている暇など無かった。

 急いで立ち上がり、ネギは再び、小太郎と相対する。

 三メートル、それがネギと小太郎を隔てる距離だ。気休めにもならないとネギは思った。この程度なら小太郎は一息で詰めてくるだろう。現に小太郎が浮かべている表情からは、明らかに緊張感というものが欠けていた。


「なんや。ひょろいモヤシやと思うとったけど、意外とやるやないか」


 余裕の表れか、小太郎は腰に手を当てたままネギを観察している。その顔には挑戦的な笑みが刻まれ、二つの瞳は爛々と輝いていた。

 舐められている、或いはそこまで行かずとも、格下に見られている事が分かる。悔しいが、それは純然たる事実だとネギも認識していた。単純な身体能力だけに焦点を当てれば、魔法を使っているネギも負けてはいない。けれど格闘技術など碌に鍛えた事の無いネギでは、格闘戦で競り負ける事は確実だ。先程のような攻撃を繰り返されれば、数度で追い付けなくなる事は目に見えていた。

 左手に持った杖を、ネギはギュッと握り締める。そうして彼は、小太郎を睨み付けた。


「…………小太郎君だっけ? 随分と余裕みたいだけど、そんなのじゃあ、僕に負けるよ」


 ネギの発言に目を丸くする小太郎。けれどそれは一瞬の事で、彼はすぐさま嬉しげな笑みを浮かべた。


「ハッ。ええで、ネギ=スプリングフィールド」


 野生の獣が威嚇するかの如く歯を剥き出した小太郎は、


「度胸は認めたる!」


 直後にネギの方へと駆け出した。

 冗談みたいな速さ。動体視力を強化してなお、コマ落ちに見える動作。避ける事は叶わず、反撃するなど夢のまた夢。その事実を瞬時に認めたネギは、しかし慌てず騒がず、淀み無い動きで腕を交差させた。即ち、防御である。


 ッッ!!


 響いた打撃音は二つ。ネギを貫いた衝撃は、さながら車に跳ね飛ばされたよう。それでも今の状態なら耐える事は出来たが、ネギはあえて自ら地を蹴った。顔を守る腕が軋むのを感じながら、ネギは確かに小太郎のうめき声を耳で拾う。

 故に、笑む。あまりの衝撃に宙を浮き、高速で吹き飛ばされている状態でなお、ネギは笑みを浮かべていた。


「――――――ラス・テル・マ・スキル・マギステル」


 攻撃のタイミングは読んでいた。顔を狙われるという事も、ネギは予測していた。

 だから落ち着いていられる。
 だから防御に成功している。
 だから反撃すら加えている。

 魔法の射手、光の一矢。ネギが使える唯一の無詠唱魔法だ。ネギは小太郎に向けてソレを放っていた。未だに威力は不完全で、精々相手を怯ませる程度だろう。だが今はそれだけで十分だ。僅かであれ詠唱の時間を稼げるのだから。


「光の精霊11柱。集い来たりて敵を射て」


 魔法使いの詠唱は速い。常人に倍する速度で言の葉を紡ぐ彼らは、ホンの僅かな時間で魔法を完成させられる。ネギも同じ。小太郎の拳撃により宙を舞わされた彼は、再び地に足を着けるまでの間に呪文を唱え終えていた。


「敵は正面ッ!! 距離八メートル! チャンスだ、まだ動いてねぇ!」


 着地で体勢を崩すネギの耳にカモミールの言葉が響く。顔を上げるよりも先に、ネギはそれに従って狙いを付けた。あとは魔法の名前を告げるだけで発動する。問題無い。イケる。心中で自らを励ましながらネギは口を開いた。


「魔法の射――――」

「ホンマ、油断ならんやっちゃな」


 ――――――え?


 呟く声は、真横から。上げた視界には、誰も居なく。ゾッと、ネギの背筋が悪寒に震える。

 音は聞こえなかった。否、上手く認識出来なかった。頭を襲った衝撃も、ブレる視界の意味も、ネギは丸っきり理解していない。冷たい地面に身を滑らせ、ヤスリに掛けたように浴衣をボロボロにするまで、彼は現状に気付かなかった。

 ネギの思考が現状に追い付いたのは、吹き飛ばされた体が完全に停止し、擦れた頬に熱を感じ始めた頃だ。


(殴られた……)


 でも、どうやって。ネギには疑問に対する解が見出せない。カモミールが告げた位置に小太郎が居たのならば、確実に間に合うタイミングだった。これまでの小太郎の動きから考えて、絶対に先手を取れる状況だったのだ。

 半秒にも満たないゼロコンマの世界。その間に小太郎は、ネギの隣までやってきた。それは最早、瞬間移動とでも言うべき領域だ。


「今のは少し驚いたで。符術……いや、詠唱の省略か? 西洋魔術はよう知らんけど、俺の攻撃に合わせた事は褒めたるわ」


 力無く立ち上がるネギを、小太郎は腕を組んで眺めている。動く気配は無い。仁王立ちしている彼は、わざわざ焦る必要などまったく無いとでも言いたげな態度を貫いている。そんな敵の様子を見ても、ネギは反感を覚えなかった。今の彼には余裕が無いのだ。

 両者の距離は十メートルあまり。先程の事を考慮すると、小太郎なら一秒と掛けずに走破出来る距離だ。技術の差、経験の差などという言葉だけでは到底埋まり得ない格差を、ネギは感じていた。


「…………さっきの動きは?」

「それなりに腕がある奴なら、誰でも知っとる技や。ま、尻尾巻いて向こうに逃げ帰った時にでも調べてみい」


 ニッと笑う小太郎は、けれど親しみの色などまるで無く、ただ只管に暴力的な自信が顔を覗かせている。喉を鳴らして、ネギは体を強張らせた。痛いほど意識を小太郎に集中させ、瞬き一つすら見逃さないつもりで観察する。今度は、敵を見失わないように。

 だがそんなものは無駄だった。


「ッ!?」


 構えた消えた現れた。それこそ刹那としか言えないような時間で、小太郎はネギの眼前まで迫っていた。

 衝撃がネギの頭を突き抜ける。避ける隙も、それを考える暇すらもネギには与えらなかった。彼には慣れない痛みを甘受するしか選択肢は無く、また反撃は追撃で邪魔される。右頬に熱を与えた二撃目が、容易くネギの思考を吹き飛ばす。

 そこから先は、あまりにも一方的な展開だった。

 ネギは防御出来ない。攻撃が速過ぎるからだ。ネギは反撃出来ない。殴られ慣れていないからだ。だからそれは、既に戦闘とは呼べない。攻撃する側も、される側も決まっていた。それは一度として覆される事無く、ネギだけが傷付き、顔の腫れを増していく。殴打の音が延々と響き、悲鳴にも似たカモミールの声が時折混じる。マトモな感性を持つ人間なら、目を逸らさずにはいられないような光景だ。

 時間にして五分。ネギが魔法障壁も身体強化も維持出来なくなるまで、その状況は続けられた。


「――――ッ、ハァ……見上げた根性や。ここまでよう耐えた」


 少しだけ息を乱した小太郎が、服の袖で顎を拭う。仰向けで地面に倒れたネギは、滲む視界の端にその姿を捉えた。言葉は無い。殴られ続けたネギの口内はズタズタで、まるで血の海にでも溺れたみたいに鉄の匂いが溢れていた。


「コイツも、度胸は評価しとくわ」


 小太郎は傍に転がっていたカモミールを拾い、そのままネギの腹に放り投げた。衝撃。眉根を寄せたネギとは違い、カモミールの方は目を開ける気配は無い。ぐったりと横たわる彼の体は、僅かに呼吸の動きが見られるだけだった。

 カモミールは、そこまで酷い事をされた訳ではない。煩いからと、一度だけ小太郎に小突かれた程度だ。しかし非力な小動物である彼は、その程度でも大きなダメージを受ける。オコジョ妖精というのは、決して戦闘には向かないのだ。

 情けない、とは思わない。むしろ戦う力が無いのに頑張ってくれた使い魔に対し、ネギは胸が詰まる思いだった。


「う―――ぁ――」

「やめとき。碌に食い縛れてなかったやろ」


 口を開こうとしたネギを制止した小太郎は、乱雑な動作でしゃがみ込んだ。それから彼は、おもむろにネギの胸元へと手を伸ばす。親書を奪われるのだとすぐに気付いたネギだが、その体は鉛にでもなったかのように動かない。微かな身動ぎだけが、最後の抵抗だった。


「思うたより手間取ったけど、まぁ丁度良い時間になったやろ」


 スッと上げられた小太郎の手には、紛う事無く親書の白い封が握られていた。


「ほな、一応コレは貰ってくで」


 ダメだ。そう言おうとしたネギは、結局何も出来なかった。腕はピクリとすら動かず、僅かに目が上下しただけ。ネギの胸は今にも張り裂けそうなのに、現実はあまりにも無情だった。既に痛みすら麻痺し始めた頭で、彼は静かに、敗北という事実を受け入れる。

 ただせめてもの足掻きとばかりに、ネギは小太郎を睨み付けた。


 ――――――瞬間。


「痛ッ!?」


 突然の出来事だった。小太郎が持っていた親書がイキナリ燃えたのだ。紅蓮の炎は瞬く間に小太郎の手を包み込み、慌てた彼は、追い立てられるように親書を手放した。同時に飛びすさり、小太郎は険しい表情で親書を睨め付ける。


「チィッ! ニセモンかっ!?」


 初めて聞く苛立った小太郎の声。しかしその内容は、ネギにはよく理解出来なかった。だって小太郎が持っていたのは、間違い無くネギが預かった親書のはずだ。あんな仕掛けがあるなどとは聞いていなかったし、新幹線で奪われたとはいえ、摩り替えられたとは考え辛い。

 正直、ネギには訳が分からなかった。


「ん? ソレは――――」


 炎が消えると、そこには既に親書の封は存在しなかった。代わりにあったのは、一枚のお札。ゆっくりとネギの胸元へと降りてくるそれには、五芒星と様々な文字が書き込まれている。なんらかの術が込められているのだろうと、ネギはボンヤリとした頭で予想した。

 そして呪符の表面を目にした瞬間、小太郎の顔に焦りが生まれる。


「転移魔法符ッ!?」


 叫ぶ小太郎。呼応するかのように光り始める呪符。あまりの急変に、ネギの思考は置いてけぼりだ。ただ時間が止まってくれるような事はあるはずもなく、また限界の近かったネギの意識は、一際強く呪符が発光すると共に――――――――暗転。




 □




 声が、聞こえる。厳しい声が、優しい声が。強い声が弱い声が、彼の声が彼女の声が。幾度と無く、ネギの意識を揺さぶる。暗闇の中で、何処とも知れない場所から響いてくる声に、ネギは耳を傾ける。言葉の内容は分からないし、誰が話しているのかすら覚束ないが、不思議とネギは、朧気でモヤみたいなそれらの輪郭を理解していた。

 多分、”みんな”だ。ずっと見守ってくれていた従姉弟に、いつも隣に居た幼馴染み。偉大な魔法使いとして尊敬している祖父に、様々な知識を教えてくれた魔法学校の先生。それら魔法使いとしてのネギを形作ってきた、多くの人達だ。

 時には怒られ、時には褒められたみんなの言葉が飛び交っているのだろうと、ネギは漠然と理解した。きっと立派な魔法使いになれると、そう言ってネギを送り出してくれた彼ら。厳しくもあったが、確かにネギの持つ才能を認めてくれたみんなの存在は、現在の彼を語る上では欠かせない人達だった。

 ここでネギは、ようやくコレが夢だと気付く。だって彼らは今、ネギの傍には居ない。遠い故郷で、ネギを信じて待っているのだから。

 そして夢だと自覚すると同時に、海底から浮かび上がる泡のように意識が浮上する。一寸先すら見えなかった暗闇に一筋の光が射し込み、それが覚醒の呼び水となった。急速に覚醒の気配が近付き、それに伴って光が強くなる。そうして徐々に白く染まり始めた世界の中で、全てが白光に包まれようとしたその瞬間、ネギはポツリと呟きを漏らした。


 ――――――――ゴメンナサイ。


 目を覚ましたネギが最初に見たのは、ベージュ色の天井だった。パチクリと、ネギが瞬く。

 まず初めに浮かんだ疑問は、此処は何処なのかという事。次に考えた事は、どうして寝ていたのかという事。意外なほど意識が明瞭としていたネギは、見覚えの無い天井を眺めながらその事を考えて、数秒後に勢い良く体を起こした。

 純白のシーツを跳ね除け、ネギは慌てて首を巡らせる。深紅の絨毯にもう一つのベッド、二人掛けのソファと視線を移していったネギは、最後にすぐ傍で椅子に腰掛けている女性と目が合って動きを止めた。


「…………洸さん?」


 ウェーブの入った、明るい茶髪。そこだけは普段の彼女と違っていたが、切れ長の瞳も柔らかな面立ちも、確かに近衛 洸のものだった。洸はネギと視線を交わすと、口元を綻ばせて息を漏らした。


「そうだよネギ君。どこか痛い所はある?」

「――――ッ」


 すぐに答えられるはずのその問いに、しかしネギは声を詰まらせる。口にする言葉が、見付からなかった訳ではない。思わず膨れ上がった感情が胸につかえて、何も言えなくなるほど苦しくなったのだ。

 痛みは無い。微塵も無い。けれど確かにネギは、顔を腫らしていたはずだ。文字通りボコボコにされて、口の端から血を滲ませて、痛みに悶えていたというのに、今はその残滓すら感じられない。治療されたのだと分かるし、それを恨んでいる訳でもないが、ネギは無力感を覚えずにはいられなかった。

 全力で立ち向かったのに、アッサリと返り討ちにされた。自分では立ち上がれなくなるほどのダメージは、簡単に癒された。あぁ、自分はなんて弱くて未熟な魔法使いなんだろうと、ネギは痛感してしまう。

 気持ちの昂りに伴って視界が滲み、世界が歪む。ネギの前に居るのは洸で、おそらくは彼女が助けてくれたのだと予想出来た。なのに彼の脳裏に過ぎるのは小太郎の事ばかりで、あの自信に満ちた笑みばかりが浮かんで、止め処無く悔しさが湧き上がってくる。

 負けた。負けた。負けた。劣っていて、届かなくて、敵わなかった。どうしようもない感情が、ネギの中で渦巻いていく。


「――――っ……ひっく……っく…………」


 ポロポロと涙を零すネギ。握り締められたその拳は、染みの出来たシーツに皺を作っていた。

 洸が居る理由や親書の行方、この場所の事など、尋ねるべき質問は幾らでもあるのに、まるで言葉が出てこない。代わりに漏れるのは嗚咽ばかりで、これでは駄目だと思っても、ネギは衝動を抑えられなかった。次から次へと涙が溢れてくる。

 ネギは泣いた。泣き続けた。枯れるほどに大粒の涙を流して、大きな瞳を泣き腫らした。

 洸は、何も言わない。何もしない。慰めも叱咤も口にせず、撫でる事も抱き締める事もせずに、ただずっと、ネギの様子を見守っている。彼女は黙って傍に居るだけで、何一つネギを甘やかすような事はしなかった。


 だから――――――――だからネギは、最後の意地だけは守る事が出来たのだ。








 ◆








 修学旅行の夜にしては、少しばかり静か過ぎるかもしれない。消灯時間が近付き、人影の少なくなった廊下を歩きながら、刹那はそんな事を不意に考えた。辺りに生徒の姿は無く、また話し声も聞こえない。もしかすると見回りの先生が通り過ぎるのを、息を潜めて待っているのだろうか。なんて、益体も無い想像を走らせながら、刹那は廊下を進んでいく。

 もうすぐ消灯時間になる。そうなれば刹那は自分の宿泊室に戻らなければならず、必然、木乃香とは離れる事になってしまう。勿論人目を忍んで護衛をするつもりではあるが、流石に修学旅行中ずっと寝ないでいる訳にもいかない。だからこそもしもの時に備えて、陰陽術による準備が必要になってくる。今の刹那は、その全てをようやく終えた所だった。

 毛足の短い絨毯を踏み締め、柔らかな足音を立てながら、刹那は黙々と部屋への道筋を辿る。その視線は鋭く前方を見据えたままで、肩に担がれた竹刀袋は、威嚇するかのようにゆらゆらと揺れていた。

 不意に、刹那の切れ長の瞳が細められる。彼女が進む先、T字路になっている曲がり角を、一人の女性が通り過ぎた。長い黒髪を持った、二十台と思われる大人の女性だ。服装からホテルの従業員だと分かる。

 刹那がT字路を左に曲がると、女性の背中が目前にあった。互いの距離は一メートルほどしか開いておらず、一歩でそれを縮めた刹那は、自然な動作で浴衣の胸元へと手を伸ばす。直後に彼女が取り出したのは、鍔の無い短刀だった。匕首。白木造りの鞘に納められたままのソレを、刹那は女性の背中に突き付ける。


「止まれ、呪符使い。貴様の所属と、ココに来た目的を教えてもらおう」


 押し付けた匕首で、刹那はゴリと背中を抉る。


「……っ。お、お客様? なんの遊びかは存じませんが、仕事中ですのでお止めください」

「とぼけるな。この宿の従業員については事前に全て調べてある。貴様はただの部外者だ。従業員に扮したのが裏目に出たな」


 女は喋らない。体を硬直させたまま、静かに立ち竦んでいる。


「第一、会うのはこれで二度目だろう? 朝は新幹線の売り子、夜はホテルの従業員とは、随分と笑わせてくれる」


 馬鹿にしたように刹那が鼻を鳴らせば、女はようやく観念したのか、鬱陶しそうに嘆息した。おどおどしていた双瞳には冷たい光が宿り、口元には皮肉げな笑みが浮かぶ。そして女は、緩やかな動作で両手を上げる。

 瞬間、抜き放たれた匕首が閃いた。


「くだらん小細工だ」


 刹那の投擲。カッと音を立て、匕首が呪符を床に縫い付ける。

 上ではなく下。腕の動きで注意を引き、足元で符術を発動する。子供騙しのような手だが、緊張状態にあるこのような時こそ、逆に有効な手立てとなる場合もある。少なくとも二年前の刹那であれば、これで出し抜かれていたはずだ。

 今度こそ観念したように、女はゆるゆると首を振った。


「ふぅ。思うたよりやりますなぁ。流石はお嬢様の護衛や」

「世辞は不要だ。さっさと質問に答えろ」

「天ヶ崎 千草。関西呪術協会の呪符使いや。目的はわかるやろ? 西と東を繋ごうとしとる親書や」


 肩を竦めた千草に対し、刹那は不愉快そうに眉を跳ねた。


「ならば今すぐ出ていけ。ネギ=スプリングフィールドなら入れ違いで出て行ったぞ。貴様の求める物はココには無い」


 刹那が冷たく言い放っても、千草に動じた様子は無い。寧ろ余裕のある片笑みを刻んで、彼女は刹那を振り返った。


「ほな、その懐にあるモンはなんなのか聞いても?」

「洸様が長に宛てた個人的な手紙だ。東に移られたとはいえ、あの方も『近衛』だからな」


 嘘だった。刹那は現在、確かに親書を所持している。先程ネギとぶつかった時に摩り替えた物であり、代わりに彼は洸の手紙を持っているはずだ。あの時に刹那が間違えて拾ってしまった、という”設定”だった。


「…………さよですか。なら、たしかにウチがおる理由はありまへんな」

「理解したなら早く失せろ。要らぬ疑いを掛けられたくないのならな」


 冷淡な声で刹那が告げ、千草はとぼけた表情で応える。

 白々しい、と考えたのはどちらだろうか。そもそも千草は、侵入する為にネギを外に誘き出したと刹那は考えている。あの時点では刹那が親書を所持している事を知り得たとは思えず、つまりこの呪符使いは、初めから親書以外の目的があって此処に来たのだと予想出来る。

 それも、表向きは西の人間である刹那にすら言えない類の目的が。

 しかし刹那は動けない。千草が明確な行動に移していないからだ。和平の邪魔という事で切り捨てたい所ではあるが、関西呪術協会はこの件に関して非常に消極的だった。というよりも、西はネギに協力しない、東はさせないという条件があるからこそ、反対派も納得したのだ。考え無しに刹那が手を出せば、和平が先延ばしになってしまう恐れがあった。


「そないピリピリせんでも、ちゃんと大人しくしますよって」

「ならさっさと歩け。見送ってやる」


 靴裏で縫い付けた呪符を破り、つま先で匕首を蹴り上げる。そうして回収した匕首を鞘に納めた刹那は、それを握ったまま、浴衣の袖で手元を隠した。視線を千草から逸らす事無く、刹那はクイと顎で移動を促す。

 溜め息と共に、千草が歩き出す。同時に彼女は両手を下ろしたが、今度は刹那は動かなかった。


「にしてもあんさんお堅いなぁ。もう少し気楽にやってもええやろうに」

「常に就いている護衛は私だけだ。そうそう気を抜けるはずもないだろう」


 千草が前、刹那が後ろを歩きながら、二人はロビーを目指す。両者の間に親しみは無く、ただ機械的な遣り取りが繰り返される。

 既に消灯時間を過ぎていたが、幸いにも教師と出くわす事は無かった。そのまま特に何事も無く、当たり障りの無い会話をしながら目的のロビーにまで辿り着く。チラホラと従業員の視線を受けつつ扉を潜り、二人はホテルの外に出た。


「結局、貴様は何がしたかったんだ」

「いやー、ツイてなかっただけやないですか。まさか入れ違いになるとは思いまへんでしたわ」


 ニコニコと笑う千草に見せ付けるように、刹那は舌打ちしてみせる。

 千草の言動は、まったくもって信用出来ない。彼女はあまりにもアッサリし過ぎだ。ただ言葉通りとは到底思えないが、かといって何かをした訳でもなかった。別働隊の可能性も考えたが、未だに刹那が仕掛けた網に掛かった気配も無く、本当に彼女と会って話しただけなのだ。

 不気味だった。目的が不透明過ぎて、気味が悪かった。


「心配あらへんよ。お嬢様の不利益になるような事はしまへんから」


 黙り込んだ刹那の耳を、千草の声が揺さぶった。優しい声だ。姉が妹に掛けるような、包み込むような声音だ。先程までとは一変して親愛の情が籠っており、それ故に刹那は、言い知れない悪寒に襲われた。

 千草が微笑んでいる。柔らかで、温かみに満ちた表情だった。そこに敵意は無く、街角などで偶々知り合っただけの相手であれば、刹那も情を寄せていたかもしれない。それほどまでに、完璧な笑顔だった。

 だが現実は違う。これまでの状況を考えれば、不審の種にしかならない笑顔だ。

 だからこそ刹那は、弧を描いていた唇が形を変え、千草が言葉を発しようとしたその時、知らず息を呑んでいた。


「ウチは――――――あの子の『友達』やからな」

「…………え?」


 意味が分からなかった。訳が分からなかった。理解が追い付かず、刹那は世界に置いていかれた。


「ほなな、『親友』ちゃん」


 手を振って千草が歩き去っても、刹那は呆然と立ち尽くしたままだった。












 ――――後書き――――――――


 第二十七話を投稿しました。読者の皆様、いつもありがとうございます。

 修学旅行一日目の夜でした。一応のメインはネギ対小太郎の一戦でしょうか。内容は実に一方的でしたが。以前から書きたかったイベントなので、割と満足しています。しかし戦闘描写は難しい。疾走感のある文章って苦手です。

 次回は二日目の朝から。徐々に雲行きも怪しくなってきたという事で、読者の興味を惹ける展開を書けるよう頑張りたい所です。

 それでは、今回はこれにて失礼させて頂きます。



[5281] 第二十八話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:eec9bff5
Date: 2010/10/23 21:09
 朝の気怠さというのは、埼玉でも京都でも変わらない。俄かに温まり始めた室温で自然と起きた明日菜は、寝惚けた頭で、ふとそんな事を考えた。数年振りに畳の上で寝た明日菜だったが、寝起きの気分は悪くない。大きな欠伸を一つ。目尻に涙を浮かべた彼女は、昨晩泊まった部屋の様子を見回した。どうやら、特に変わった事は無いらしい。

 明日菜と同じ班の少女達は、未だに夢の中だ。規則的に並べられた布団の中からは、五つの寝息が聞こえてくる。この数ヶ月で随分と深い仲になった図書館探検部の四人と、最近友達になったばかりの千雨。幸いにも清水寺の飲酒騒ぎには巻き込まれなかったので、昨夜はかなり遅くまで騒いでいた。普段は早くに寝る明日菜も、修学旅行なら話は別だ。新聞配達が無い事もあり、偶の夜更かしを楽しんでいた。

 時計を見れば、起床には少し早い。起こすのも悪いかと思い、明日菜は静かに引き戸を開いて広縁へと移動する。二つある椅子の片方に腰掛け、明日菜は窓の外へと視線を向けた。山裾から顔を覗かせた朝陽が、彼女の全身を明るく照らす。クッと細胞が覚醒するような感覚が、明日菜の体中を駆け巡る。一日が始まるのだと、明日菜は実感した。


「今日は奈良だっけ。大仏とか見に行くのよねー」


 修学旅行二日目の予定は、奈良での班別自由行動だ。夕映が中心となって作成した五班の行動計画表では、東大寺を中心に近場の有名所を回る予定になっている。歴史的建造物にはさして興味の無い明日菜だが、色々な場所を友達と練り歩くのは楽しみだった。


「…………何も無いとイイけどねぇ」


 手摺りの上に頬杖をつき、明日菜が呟く。その双瞳は、実に気怠げに細められている。

 昨日は大変だったのだ。新幹線の中では突然カエルが大量発生したし、地主神社では落とし穴に嵌められている。更に音羽の滝にはお酒が混ぜられ、かなりの大騒ぎに発展し掛けた。幸運にもネギ以外の先生には見られなかったが、そんなものは結果論に過ぎない。

 関西呪術協会による妨害。事前に洸から聞かされていたその懸念は、修学旅行初日から現実のものとなった。鬱陶しい事この上無い。可能なら今すぐにでも排除したい所だ。けれど未だに素人同然の明日菜では、事が起こってから対処するだけで精一杯である。


「ま、なんとかなるでしょ」


 あっけらかんと、明日菜は楽観的にそう考える。

 確かに面倒な相手ではあるが、明日菜にはそこまで危険な相手だとは思えなかった。多少の怪我や騒ぎはあるかもしれないが、大怪我になるような事は無いだろう。これまでの出来事を振り返ってみたからこそ、明日菜の危機感は薄れていた。決して危険性は高くないだろうと、洸が繰り返し言っていた事も一役買っている。

 生徒として、ネギが見ていない部分に注意すればいい。昨晩ネギと話し合った通りに、明日菜はそう決心する。


「うん、楽しみになってきた!」


 まるで今日の天気のように晴れやかな笑顔を浮かべて、明日菜は修学旅行の予定に想いを馳せた。












 ――――第二十八話――――――――












 本日は晴天なり。仰ぎ見る天には雲一つ無く、空色のカンバスに描かれるのは、白く輝く太陽だけ。陽に照らされた空気は温かで、けれど吹く風は涼やかで、実に過ごし易い気候だった。絶好の観光日和と言えば、まさしくその通り。奈良公園で鹿と戯れる麻帆良学園の生徒達は明るい声を上げてはしゃぎ合い、今まさに青春を謳歌している。

 しかし楽しい事ばかりが青春ではない。勉強に、恋に、友情。思い悩む事もまた青春だ。今の刹那もそう。木陰に隠れ、鹿せんべい片手に明日菜と談笑している木乃香を眺めながら、彼女は陰鬱な表情で物思いに耽っていた。

 刹那の脳裏に浮かぶのは、昨夜の千草との邂逅。ついぞ真意を見せる事が無かったあの女は、最後の最後で刹那に強烈な置き土産を残していった。気にしなければいいと分かっているのに、どうしても意識が向いてしまうのは、それがあまりにも刹那の核心に迫っていたからだ。
 友達だと千草は言った。自分は木乃香の友達なのだと、彼女は言ったのだ。本当かどうかは分からない。けれどもしその話が真実だったとすれば、木乃香には”刹那以外にも”京都での友達が居た事になる。そんな存在は、刹那は知らない。知りたくもない。

 刹那と木乃香は友達で、一番の親友だった。今はもう胸を張ってそうだとは言い切れない関係だけれど、かつては間違い無くそうだったのだ。誰よりも気を許せる相手で、何よりも大切にしたい存在で、あの頃の刹那にとって木乃香は、まさしく太陽だった。そして木乃香も同じような気持ちを抱いていたのだと、刹那は思っていた。

 だが、もしも千草の話が真実だったとしたら。万が一の可能性でしかないけれど、本当に本当だったのなら。もしかすると木乃香にとって刹那の存在とは、それほど重要ではなかったのかもしれない。そんな馬鹿な事を、刹那は考えてしまう。


「……くそっ」


 相手の思惑通りだという事は、刹那も理解している。だが回り出した思考は止まらない。さながら螺旋回廊を滑り落ちるかのように、刹那の意識は闇へと飲まれていく。自然と後ろ向きに考えてしまうのは、刹那も自覚している悪い癖だった。

 木乃香から視線を外し、刹那は背中を木に預ける。愛刀の入った竹刀袋を握り、彼女は強く歯を噛み締めた。

 結局、千草は何がしたかったというのか。こうして刹那の心を乱して、一体何を狙っているというのか。霧中に隠れた真意が読み切れず、刹那は焦れに焦れる。焦点の定まらない警戒心ばかりが募り、彼女から冷静さを奪っていた。


「ふむ。随分と余裕が無いようでござるが、何か問題でも?」

「ッ!?」


 刹那が振り返る。自然と刀に手を掛けようとした彼女は、目の前の相手を見て動きを止めた。楓だ。制服を来た彼女が腕を組んで佇んでいる。息を吐き、刹那は緊張していた体から力を抜いた。そんな彼女を見て、楓が苦笑する。


「別に気配を消していた訳ではないのでござるが」

「……スマンな。少し気が立っていた」

「そうでござったか。しかし折角の修学旅行、楽しまねば損でござるよ?」


 楓の言葉に、刹那が眉根を寄せる。自然と険が混じる刹那の視線。それを受けても、楓は飄々とした態度を崩さなかった。


「今のままでは仕事に身が入らぬでござろう?」

「うっ。それは……そうだが」


 刹那も分かってはいるのだ。自分の状態が、決してよくない事は。だが、駄目だ。現状では千草の存在が不穏過ぎるし、そもそも木乃香の護衛を疎かにして遊び惚けるなど、刹那に出来るはずがない。

 きっと刹那は、この後も日が暮れるまで悩み続けるだろう。そして碌に仕事に身が入らなかった事を嘆くのだ。そんな自分の未来が容易に想像出来るし、解決法も思い付かない。しかしそれでも、刹那は木乃香の護衛を離れられない。他の事など考えられないのだ。


「やれやれ、しょうがないでござるな」


 肩を竦めて楓が呟いた。思わず、刹那の瞳に影が走る。友の心遣いを無碍にするというのは、やはり心が痛む。だがそれでも刹那は、楓の誘いに応じる訳にはいかないのだ。だから彼女は、只々素直に謝罪する。


「……すまない」

「気にしなくていいでござるよ。あと、拙者達の予定も五班と似たようなものでござるから、そちらも心配無用。それと――――」

「わかっている。もう大丈夫だ」


 頷き、刹那は握った刀を揺らす。それを見た楓もまた、頷き返す。


「で、ござるか。ならば拙者はもう行こう。ただの中学生に過ぎない拙者は、修学旅行を楽しんでくるでござるよ」

「あぁ、また後でな」


 去っていく楓の背中を見送り、刹那は静かに目を瞑る。僅かな間。後、彼女はゆっくりと瞼を上げた。そして楓が歩いていったのとは反対方向へと顔を向ける。同時に二つの黒瞳が、刃物のように鋭く光った。

 刹那が身を隠している小さな林。その奥から、一つの影が歩いてくる。胸元と肩を露出し、振袖が完全に独立した造りになっている特殊なデザインの着物を着込んだ、二十代後半と思われる女性。長い黒髪をうなじの辺りで結んだ彼女の名は、天ヶ崎 千草と言う。


「親友ちゃんやないですか。こないな所で会うなんて奇遇ですなぁ」


 わざとらしい笑みを顔に貼り付けて、千草がにこやかに刹那へと話し掛けた。

 あまりに見え透いたその態度に、刹那は苛立ちを募らせる。


「一体なんの用だ。今更観光などという身分でもないだろう」

「つれまへんな。お嬢様を慕う者同士、仲良うしても罰は当たりまへんえ」

「黙れ。誰が貴様などとッ」

「あらあら。ウチ、おかしなコト言うたやろか」


 袖口で口元を覆い、千草がコロコロと笑う。真実、面白そうに。心底、馬鹿にしたように。

 イライラする。心がさざめく。頭の芯に熱が灯り、刹那は剣呑な視線を千草に向けた。向けずには、いられなかった。刹那自身では上手く処理出来ないほどの激情が、胸の裡に生まれようとしている。憤怒の炎が燃え上がり、彼女の理性を溶かそうとする。


「まぁ、気難しい年頃やからね」


 聞き分けの悪い子供を見るように、上から物を見るように、千草が呟く。それが余計に刹那を煽る。しかし急直下で機嫌が悪くなる刹那を気にした風も無く、千草は平然とした様子で言葉を続けた。手の平をポンと合わせ、さも素晴らしい事を思い付いたとでも言いたげに。


「そや。折角近くにおるんやし、お嬢様に挨拶してきましょうか」

「なっ!? ま、待て!」


 背中を向けて歩き出そうとする千草に、慌てて刹那が追い縋る。それを予想していたかのように、千草はピタリと立ち止まった。気持ちの悪い笑みを貼り付けて、彼女は待ってましたとばかりに口を開く。


「どうかしましたか? 関西呪術協会の一員としては、お嬢様に失礼を働く訳にはいかへんのやけど」

「…………私はお前を知らない。だから、お嬢様に近付ける訳にはいかない」


 苦し紛れの言葉だったが、刹那の言い分は正しい。結局は千草の自己申告ばかりで、彼女の身分にはなんの保証も無かった。護衛として、刹那は不審な人物を木乃香に近付ける訳にはいかないのだ。

 その程度の事情は千草も十分に理解しているはずで、案の定、彼女は物分かりのよさそうな表情で頷いた。


「あぁ、なるほど。それならしょうがありまへんな。残念やけど、今日は諦めましょか」


 なんの未練も無さそうに言い切って、千草は再び足を踏み出した。木乃香が居る場所とは、まったくの反対方向に。去っていく背をキツく睨み付けながら、刹那は黙ったまま刀の柄に手を掛ける。抜くつもりは無いが、威嚇する為だ。

 刹那自身ですら不思議なほどの、強烈な警戒心。その感情が、千草から目を離す事を許さなかった。


「ほな、ウチはお暇させてもらいますわ」


 まるで人の良いお姉さんのようににこやかな表情でそう告げて、千草が去っていく。だが少し歩いた所で、彼女はふと思い出したといった様子で立ち止まり、後ろの刹那を振り返る。そしてクッと、口の端を意地悪そうに吊り上げた。


「そうそう仕事熱心なんは構いまへんけど――――――――ウチばかり見ててもええんかな?」

「なに……?」


 同時に刹那の背後、木乃香が居る方向から叫び声が響く。明日菜の声だ。木乃香の悲鳴は確認出来なかったが、その事が逆に刹那の不安を増していた。嫌な汗が頬を伝い、刹那のおとがいから、一つの雫がポツリと落ちる。

 硬直は一瞬。即座に体を反転させた刹那は地面を抉るようにして踏み込み、


「ッ!?」


 直後、後頭部に重い衝撃が走った。

 体が傾ぐ。地面が近付く。対処の遅れは致命的で、それでも気力を振り絞って堪え切る。大地を揺らす勢いで足を叩き付け、刹那は急ぎ姿勢を持ち直す。振り返った瞬間には刀を抜き放ち、刹那は憤怒の形相で千草を睨んだ。


「貴様――ッ!!」


 返事は火球。拳大のソレを刹那が切り捨てると、ようやく千草が声を上げた。


「あらら。思うたより丈夫な子やなぁ。中身は繊細やのに」

「答えろ! なんのつもりだッ!!」


 刹那の詰問も柳に風。人を食った笑みを浮かべて、千草は胸元から扇を取り出した。流れるような動作で桜が描かれた扇を開いた彼女は、それで口元を覆ってから話し始めた。黒い瞳に嘲りを宿し、声には、目一杯の優越感を乗せて。


「なんのつもりって、そら――――――お嬢様の誘拐ですとも」


 当然のように必然のように、千草は刹那へと言い放つ。半ば予想通りとも言えるその内容は、紛れも無く刹那への挑戦状だった。








 ◆








「あぁ、もう! 一体なんなのよ!!」


 鹿の群れを避けて進みながら、明日菜が苛立ちを籠めた声を上げる。気に入らないという意思を瞳に宿し、彼女はキツく前方を睨んで人込みを駆け抜ける。視線の先には観光客の山しかないが、それでも確かに、明日菜は何かを見据えていた。

 魔力で強化した脚力で走る明日菜。常人を遥かに超える速度を出している彼女の顔には、焦りの色が滲んでいる。荒い息を吐き出し、全力で手足を振り乱す姿は、もっと速くと自分に鞭を打っているかのようだった。


「なんで。なんで! なんで――ッ!!」


 楽しい修学旅行だった。その、はずだった。仲の良い友達と一緒に、鹿と戯れながら談笑していたのだ。今日の予定について話したり、大仏の歴史を夕映から聞いたりしながら、明日菜達は順調に修学旅行を満喫していたはずである。朝から仕事で出掛けているというネギを誘えなかったのは残念だったが、それでも皆で修学旅行を楽しんでいた。

 異変が起こったのは、明日菜と木乃香の二人きりになった時だ。飲み物を買ってくると夕映達が離れた瞬間に、ソレはやってきた。

 嵐のよう、いや、夕立のような相手だった。唐突に現れ、唐突に消えたソイツは、明日菜の見ている前で木乃香を攫っていったのである。あっという間の出来事だったとしか言えない。完全に油断していた明日菜では到底反応出来なかった。文字通り影しか見えず、木乃香の姿が消えても、明日菜はすぐには状況を把握出来なかったほどだ。

 否。今に至ってもなお、明日菜は現状を理解しきれていない。どうして木乃香が攫われたのか分からず、敵の正体すら掴めていなかった。ただそれらしい影を追い掛けて闇雲に走る事しか、今の明日菜には許されないのだ。


「あっ!?」


 木乃香を連れ去った影が、建物を跳び越えて隣の通りに逃げた。慌てて明日菜も横道に入るが、あまりに遅過ぎる。彼女が隣の通りに辿り着いた時には、文字通り影も形も残っていなかった。もはや追跡は不可能なのだと、悟らずにはいられない。


「ホント、なんなのよぅ」


 明日菜が膝をつく。糸の切れた操り人形みたいに、全身から力が抜けていた。彼女の目には涙が浮かび、口元は情けなく歪む。

 意味が分からなかった。何故、木乃香なのだろうか。関西呪術協会の妨害があるかもしれないと、明日菜は確かに聞いていた。しかし彼女の記憶が正しければ、木乃香は関西呪術協会の長の娘である。故に関西呪術協会が犯人という可能性は低いはずだ。でもそれ以外に思い当たる節が無いのも確かで、明日菜の混乱は深まるばかりだった。

 ネギが居れば。洸が居れば。或いは、タカミチが居れば。そう望まずにはいられない。所詮は運動神経しか取り柄のない自分では無理なのだと、明日菜は思った。何をすればいいのかすら分からず、彼女は途方に暮れてしまう。

 それでも、何もしなかった時間は僅かだ。涙を拭い、明日菜が立ち上がる。


「……やってやるわよ」


 やるべき事など、明日菜に分かるはずもない。だが、それならなんでもやってみるだけだと、彼女は思い直した。気合いを入れ、再び前を見据えた瞳に宿るのは、強烈な意志の力だ。不退転を決めて、明日菜は足を踏み出した。


「――――――なんとも頼もしい事でござるな。しかしここは拙者に任せてほしいのでござるよ」


 すぐ傍から声が聞こえてきたのは、その時だ。




 □




 人込みの隙間を影が縫う。鹿の群れを影が飛び越す。その速さから誰の目にも留まり、しかし認識する前に風となり消えてゆく影がある。その正体は一人の少女だった。長い髪をたなびかせ、腰には長短二本の刀を佩いた彼女。時には建物の屋根すら足場にして移動する身のこなしは、明らかに常軌を逸していた。

 そして少女の腕には、また一人の少女。木乃香だ。横抱きに抱えられている彼女は、目を閉じたまま力無く腕を垂らしている。事実を確認出来るのは抱えている少女だけであろうが、おそらくは気絶しているのだと予想出来た。


「思うたより楽な仕事でしたね~。護衛の人と仕合えんかったのは残念やけど」


 身のこなしとは裏腹にのんびりとした口調で喋りながら、少女は強く地面を蹴った。嘘みたいな高さの跳躍。漫画か何かのようなそれで、少女は軽々と三階建ての屋根に上ってみせた。通行人がざわめくが、彼女に気にした様子は見られない。そのままキョロキョロと辺りを見回していた少女は、ある一点に目を留めた。彼女の視線の先には、新緑を芽吹かせた山がある。


「え~と、あっちの山でしたっけ」


 呟き、跳躍。ポーン、と。少女が別の屋根へと跳び移る。そして、更にもう一度。木乃香を抱えていながらも、その足取りには微塵の乱れすら見られなかった。まるで天狗か何かのようだと、彼女を見た人は思ったかもしれない。

 そこからまた屋根を蹴った少女は、羽みたいにフワリと地面に着地する。


「ほなお嬢様、行きますえ」


 未だ気を失ったままの木乃香に笑い掛け、少女は一気に駆け出した。自身の影さえも置き去りにしそうな速度で進む彼女は、程無くして山の麓まで辿り着く。乱立する木々の中に躊躇無く飛び込み、そのまま速度を落とす事無く登り始めた。

 風を切り地を抉り、道無き道を少女が駆ける。無人の野を行くが如く疾走する彼女は、瞬く間に山の奥へと分け入っていく。その歩みが、唐突に変わる。足元の落ち葉を散らした急制動。木乃香を抱いたまま少女が停止する。


「んー。邪魔な関係者はもうおらんって聞いてたんですけどねー」


 声を聞くだけなら、暢気な少女。しかしその双瞳は、油断無く木々の一つを見詰めている。まるで、そこに誰かが居るかのように。けれどいらえは無く、少女の声は空しく虚空に消えていった。それでも彼女は、目を逸らそうとはしない。

 冷たい風が吹く。草を揺らし、葉を鳴らし、落ち葉を舞い上げる。そして気付いた時には、一つの影が現れていた。首筋で一つに結ばれた褐色の髪に、表情を読ませない糸目。女性とは思えない長身に木乃香と同じ制服を纏った姿は、間違い無く長瀬 楓のものだ。


「言葉の意味はよくわからぬが、拙者はこのか殿の学友でござるよ。困っている時に助けるのは、友の務めでござろう?」


 にんにん、と楓が薄く笑う。気付けば右手には十字型の巨大手裏剣。人間ほどの大きさもあるソレを、彼女は威圧するように掲げていた。鈍く光を反射する手裏剣の刃が、少女へと向けられる。しかし幼さすら感じさせる少女の顔には、微塵の動揺も浮かんでいない。


「そうですかー。まぁ細かい事はウチには関係ありまへんし」

「納得してもらえたようで重畳。納得ついでにこのか殿を置いていってくれたら、更に嬉しいのでござるよ」

「すみませんが、ウチも仕事ですからー」

「で、ござるか。ならば実力行使といくでござるよ」


 グッと腰を落とし、楓が構えを取る。僅かに開かれた糸目が、鋭く少女を睨み付けた。


「あんまり手荒な真似はせんようにお願いしますね。このかお嬢様が危ないですからー」

「むっ。それを言われると……」

「あら~?」


 あっさり腕を下ろした楓を見て、少女が拍子抜けしたように呟く。彼女はつまらなそうに肩を落とし――――――――直後その体が真横に吹き飛んだ。響いた衝撃音。重力を無視した軌道。いっそダンプに撥ねられるよりも激しく少女は身を投げた。

 暫しの滑空。後、靴裏で地面を擦り土煙を上げながら少女が減速する。やがて膝をつくような態勢で停止した少女の両手には、それぞれ一本の刀が握られていた。その腕に抱かれていたはずの木乃香の姿は、既に傍には無い。

 鬱蒼と茂る木々に囲まれた空間に、刹那の静寂が訪れた。ゆったりとした動作で立ち上がりながら、少女が目を細める。その視線の先、直前まで彼女が立っていた場所には、代わりに木乃香を抱えた楓が佇んでいた。


「……ふむ。まさか防がれるとは思わなかったでござるよ」

「影分身ですかー。この密度は凄いと思いますよー」


 立ち上がる少女の呟きに応えるように、楓の隣に楓が並ぶ。まるで鏡に映したかの如く瓜二つな彼女達は、木乃香を抱いているか否かでしか判別のしようが無いほどだ。まさしく分身。超常の現象だというのに、楓は当然といった態度で応じている。

 二人居る内の片方、木乃香を抱えていない楓が前に出る。同時に、もう一人がその場から消えた。木乃香と共に。煙のように。


「うーん、速過ぎて追えそうにないですねぇ」

「その割には困っているように見えぬが?」

「強いお人は好きですからー。女性やと、特に」


 少女が笑う。三日月のように唇を歪め、満面の笑みを浮かべる。心底から楽しそうで、微塵の悔しさすら感じられない、怖いくらい純粋な笑顔だった。その表情のまま、少女は構える。両手に握られた刀が、獣の牙みたいに怪しく光った。


「ウチ、月詠(つくよみ)言います。どうぞよろしゅう」

「…………長瀬 楓。参る」


 楓の表情が、僅かに硬くなる。対峙は一瞬。風が吹いたと思った時には、二人は黒い影となっていた。




 □




 甲高い金属音。それが戦闘開始の合図だった。楓の手にはクナイ。月詠の手には二刀。互いの得物を打ち合い切り結ぶ。さながら竜巻だ。楓が腕を振る。月詠が応じる。一合。二合。三合。回数を増す毎に速度も増していく。

 地上から樹上へ。枝から枝へ。そして時には空中へ。絶え間無く移動しながら鬩ぎ合う。

 喉を突こうとクナイが光る。腕を落とそうと刀が閃く。捉えたのは硬い感触。クナイは刀に、刀はクナイに阻まれ鳴り散らす。息が掛かるほどの距離。両者が視線を交わし、刹那の後に距離を取る。


「きゃー」


 明るい声。ふざけた声。楽しそうに笑う月詠が滑走する。

 右は横薙ぎ。左は斬り上げ。這い寄る蛇の如く刀を振るい、いなされる。月詠の笑みは絶えない。流された腕を引き戻す。土を蹴って楓を追う。再び両者が接近し、月詠の瞳が怪しく輝く。腕が掲げられる。そして刀が振るわれた。


「ざーんがーんけーん」


 掛け声に反した重低音。枝を断ち木の葉を断ち土を断ち、浅くない傷跡が山に残る。

 しかし楓は無傷だ。黒い尾を引きクナイが飛ぶ。月詠目掛けて風を裂く。だがこれもまた刀に弾かれ地に落ちる。


「二刀の神鳴流とは珍しい」

「普通は化け物相手用の野太刀ですからねー」


 点から点への移動。十メートルをゼロにする速度で楓が駆ける。しかし月詠が追い縋る。付かず離れず打ち合い続ける。


「ならば二刀は人間相手、という事でござるかな?」


 邪気の無い笑顔。月詠の口端が吊り上がる。

 刀の刃が鈍く光った。細い腕が振りかぶられた。


「ざんくうせーん」


 横薙ぎ。やはり楓は回避した。けれど背後の木々が纏めて二つに断ち切られる。見えない刃がそこにはあった。

 一転して楓の反撃。漆黒の手裏剣が降り注ぐ。数は二十。全てが意思を持ったかのように月詠を狙う。


「とぉー」


 金属音。一つの例外も無く手裏剣が弾かれる。重力に引かれ地面に落ち、手裏剣は屑鉄へと成り果てた。

 ここでようやく、二人の距離が開く。互いに得物を構えたまま、彼女達は静かに向き合った。息の乱れは見られない。どちらも余裕がありそうで、月詠に至っては未だに笑みを浮かべている。ただそれでも、両者に油断は無い。

 暫しの睨み合いの後、窺うように楓が口を開く。


「…………どうしてこのか殿を狙う?」

「さぁ? ウチは依頼された仕事をこなすだけですからー」

「ただの雇われ者、という事でござるか」

「そういう事ですえ。せやからホンマは、千草はんの目的なんてどうでもええんです」


 無垢な子供のように柔らかな微笑を、月詠は浮かべている。他意も無ければ悪意も無く、ただ一つの意思に染められたそれは、酷く歪んだものだった。クナイを握る楓の手に、俄かに力が籠められる。


「美味しそうなヒトがおったら、思わずそっちに飛び付くかもしれへんわぁ」


 楓が腰を落とす。月詠が笑みを深める。沈黙が訪れ、思い出したように風が吹いた。


「――――なんてゆうても、クライアントの意思は尊重するんですけどね」

「むっ?」


 月詠が腕を下ろす。訝しむ楓に構わず、彼女は残念そうに言葉を継いだ。


「撤収みたいですー。中々楽しめましたけど、今度は本気でやり合える事を祈ってます~」


 では、と月詠が一礼。直後に跳躍し、彼女は瞬く間に姿を消した。さながら白昼夢。なんの未練も見せず、なんの痕跡も残さず、先程までの様子が嘘のように月詠は去っていった。


「……ふむ。まるで狐狸の類に化かされたようでござるな」


 どこか納得のいかなそうな楓の呟きが、木々のざわめきに溶けていった。








 ◆








 鋭い風切り音。弧を描く銀閃。刹那が抜いた刀は何一つ捉えずに振り切られた。切れ長の瞳が、斬撃を回避した千草を睨み付ける。そこにあるのは苛立ち。怒り。そして憎しみだ。白木の柄を握る刹那の手は、細かく震えていた。

 イライラする。ムカムカする。膨れ上がった激情が炎となり、内側から刹那を焼き尽くそうとする。目の前の女を切り捨てたいと、どうしようもない衝動が湧き上がる。歯を剥き出しにした刹那は、腹の底から声を出した。


「貴様は、貴様は何を言っているッ!」


 千草の全てが気に入らなかった。木乃香の友達だと嘯く事も、その口で平然と彼女を誘拐すると言ってのける事も、刹那にとっては許せるものではなかった。木乃香を蔑ろにされたみたいで、自分の感じている友情を馬鹿にされたみたいで、我慢なんて出来るはずがなかった。

 だというのに千草は平然とした態度を崩す事無く、変わらず人を食った笑みを浮かべている。


「せやからお嬢様の誘拐やってゆうてるやないですか。その歳でもう耳が悪うなっとるん?」

「だから! どうしてそんな話になるッ!! 貴様は西の人間だろう!」


 あらん限りの声を振り絞り、刹那が叫ぶ。

 千草の意図が分からなかった。木乃香の誘拐。なるほど、彼女は西の長の娘で、東の長の孫娘で、更には強大な魔力の持ち主だ。攫う理由には事欠かないだろう。だが同時に木乃香は、攫わない理由にも満ちているはずだ。木乃香の誘拐は東西両組織に喧嘩を売る事に他ならず、たとえ一時は上手くいこうと、最終的には失敗するだろう。

 何より千草は西の人間だ。長の娘を誘拐すれば周囲からの反発は必至であり、身の破滅は確実。それこそバックに別の組織がついているというのでもなければ、先の見えていない馬鹿でしかない。そして刹那には、千草が無能だとは思えなかった。


「せやね。ウチは西のモンや。お嬢様を誘拐したら居場所は無くなるやろうし、近衛の家に対する畏敬の念は残っとる」

「だったら、だったらなんでッ!!」

「理由? それはホラ、あんさんやったらわかるやろ?」

「何を――ッ」


 ギリリと歯を噛み締め、刹那が一層キツく千草を睨む。ふざけるな、と無言の主張がそこにはあった。

 だが、やはり千草は意に介さない。軽く肩を竦めて、彼女は子供に言い聞かせるように話し始めた。


「大事な大事なお嬢様。大切な大切な親友ちゃん。あの子の為やったら、西も東も関係無いんとちゃいますか?」

「う、ぐっ。それは……」

「ウチも同じ。譲れんモンの為やったら、ウチはなんでもする」


 胸元に手を当て、宣誓するように千草が告げる。一転して漂う真摯な雰囲気に、刹那は思わず気勢を削がれた。伏せられた瞳にはまったく嘘が感じられず、静かな口調には本気の色が籠められている。

 理解出来るかと言われれば、確かに刹那には理解出来る。組織よりも木乃香。自分よりも木乃香。それが刹那の生き方だ。だから彼女は、一瞬とはいえ戸惑った。僅かなりとも千草に共感してしまったが故の――――――油断。


「ガッ!?」


 直上からの打撃。地に叩き伏せられた刹那は、更に背中から押さえ付けられる。可能な限り手足を動かすが、まるで抜け出せそうにない。完全に動きを制され、剣士である刹那には厳しい状況だった。

 せめてもの抵抗とばかりに首を巡らせ、刹那は背に乗る襲撃者の姿を見る。

 攻撃の直前まで、刹那は気配を感じなかった。それはつまり、相手が余程の手練であったか、攻撃の瞬間まで存在していなかったかという事だ。可能性が高いのは式神。呪符の状態から召喚したのではないかというのが、刹那の予想である。


「……は?」


 はたしてそこには、巨大な着ぐるみが居た。デフォルメされた二頭身のサルをそのまま巨大化したような何かが、刹那の上に乗っている。あまりに予想外なその光景に、刹那は思わず固まってしまう。

 同時に、優越感に満ちた声が降ってくる。確認するまでもなく、刹那は千草だと理解した。


「アカン、アカンなぁ。大義名分はあったんやから、まずはウチを捕まえればよかったんや。それを悠長に話なんかしとるから、こうやって芋虫みたいに這いつくばる事になる。頭の方はお粗末なんやし、ご自慢の腕っぷしに頼るのが正解ですえ」

「クッ、こんなふざけた式神にやられるとはな」

「ウチの猿鬼を舐めん方がいいですえ。実力は確かやし、こんなナリやから一般人にも騒がれにくい。間抜けな姿にも、ちゃんとした理由はある、ゆう事や。何事も”見掛けで判断する”のはよくないんと違うかな、親友ちゃん?」

「~~~~ッ」


 刹那の頭に血が昇る。反射的に動いた体が式神を押し返す。声にならない声を上げ、刹那は頬を真っ赤に染めた。

 だが、結局は何も変わらない。僅かに浮いた体は再び地に伏せ、刹那の顔は土にまみれる。それでも怒りは収まらず、むしろより一層燃え上がった彼女は、土を吐き出して千草を睨み付けた。黒い瞳は、もはや憎しみ一色に染まっている。


「貴様、どうしてソレを……」

「ん? ソレ? はて。何をゆーとるんやろね、この子は」


 鼻で笑って空惚ける千草。ギリギリと歯を食い縛り、刹那は怒りを露わにした。


「怖い顔せーへんの。別嬪さんが台無しや」


 厭らしく口元を歪めながら、千草がしゃがむ。間近で刹那の顔を覗き込み、彼女は邪気の無い笑みを浮かべた。


「一体誰の所為だと思っているッ」

「誰の所為やろね? まぁこのままやと煩そうやから、暫く黙ってもらいますえ」


 これだけ見れば無害そうで、ここだけ切り取れば善良そうに見える笑顔で、千草が手をかざす。その指には一枚の呪符が挟まれ、怪しげな輝きを放っている。明らかに不穏な気配を感じ取り、刹那は目を見開いた。


「なにを――――」

「ほなな、『化け物』ちゃん」


 気味が悪いほど穏やかな千草の声と共に、刹那の意識は闇に飲まれていった。



[5281] 第二十九話
Name: 青花◆0a2cf225 ID:fd2374fb
Date: 2010/12/03 21:13
 白い飛沫が宙を舞う。絶えぬ轟音が空気を叩く。遥か高所から落ちてくる水流が、勢いよく川に降り注ぐ。稀に見る大瀑布。袂には岩場が突き出し、辺りには木々が生い茂る。深い森の奥に隠されたこの場所は、まさしく秘境と呼ぶに相応しい。

 只人なら近付く事さえ躊躇う大滝。そこに子供の泣き声が響いていた。今にも滝の生み出す轟音に掻き消されそうなそれは、聞く者に儚い印象を抱かせる。しかしどれだけ経とうと、すすり泣きが途絶える事は無い。誰にも届かぬまま、延々と続いている。

 泣いているのは少女だった。まだ五つも数えていないような幼子が、両目を覆って泣いている。その髪は白く、肌も白く、背中には純白の羽が二つ生えていた。上から下まで、全てが白に染められた少女。愛らしい面立ちながらも、その姿は確かに異形である。

 名を桜咲 刹那。烏族と呼ばれる妖怪と、人間の間に生まれたハーフだった。

 泣き声はやまない。その白過ぎる身を水飛沫の中に隠すようにして、掠れた声を滝の音で紛らすようにして、刹那は泣き続ける。真っ赤な目から零れる涙を拭う者はおらず、ただ孤独感だけが彼女を包んでいた。

 白は禁忌の色である。そう伝えられる烏族において、刹那の翼は忌むべきものだった。故に彼女の居場所は、そこには無い。冷たい視線に疎む言葉、愛の無い環境は容赦無く刹那の心を苛んだ。いつも独りで、助けを求める相手も居なくて、こうして水飛沫に身を晒しながら泣く事だけが、彼女に許された唯一の自己表現だった。

 昨日も今日も、そして明日も刹那は涙を流すだろう。悲しい事があって泣くだろう。辛い事があって泣くだろう。それでも差し伸べられる手は無くて、彼女は更に頬を濡らすのだ。これまでがそうであったように、これからもそうであるように、彼女は泣き続けるのだ。

 だがやまない雨は無いように、苦しいばかりだった刹那の人生にも一筋の光明が射し込む時が来た。

 近衛 詠春との出会いである。ある日今の生活に耐えられなくなった刹那は集落を飛び出し、偶々近くに来ていた詠春と山中で遭遇した。刹那の境遇を憐れんだ彼は烏族から彼女を引き取り、自らと縁の深い神鳴流に預けたのだ。そうして刹那は関西呪術協会の一員として、神鳴流を修める事となる。それは彼女にとって、初めて他人から何かを与えられた瞬間だった。

 その後の刹那は、少なくとも不幸ではなかっただろう。確かに神鳴流の修業は厳しいものではあったが理不尽ではなく、また彼女の成果は正当に評価されていた。そこには刹那の居場所があり、役割がある。小さな手には、同じく小さな竹刀しか握っていなかったが、子供なりの誇りというものが生まれ始めていた。

 同年代の子供と比べたら、随分と味気無い日々だったかもしれない。来る日も来る日も竹刀を振り、心構えを説かれ、神鳴流の剣士として自分を磨く。子供にしては随分と真面目過ぎる生き方だったが、充実した日々だった。

 そうして新たな生活を続ける中で、刹那は再び大事な出会いを果たす。近衛 木乃香との初邂逅だ。近衛家の護衛には代々神鳴流の人間が雇われている。護衛する者と、される者。いつかそんな関係になるかもしれないと、刹那は木乃香に紹介された。

 互いに遠慮がちな出会いだった。言葉も無く、共に頭を下げるだけの始まり。おっかなびっくり、二人は相手の顔を窺った。先に動いたのは木乃香の方だ。紅葉のような手をそっと差し出して、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。


「ウチ、このえ このか。よろしゅうな」

「……う、うん」


 握り返した手の温もりを、刹那は一生忘れないだろう。












 ――――第二十九話――――――――












「そうして二人は友達になり、ずっと仲良く過ごしました。めでたしめでたし――――――――とは、いかないんだろう?」


 皮肉げな声が、青空の下を駆け抜ける。発言したエヴァンジェリンは草むらに寝転び、気怠そうな目で空を見上げていた。彼女の隣には、日傘を掲げた洸が座っている。エヴァンジェリンを見詰める彼女の唇には、なんとも言えない苦笑が刻まれていた。


「入学から二ヶ月。あの二人が仲良く話している所なんて、一度も見てないぞ」

「……そうなんだけど、ね」


 立てた両膝に顎先を埋め、洸が呟く。漆黒の瞳を憂いで染め、彼女はそっと息を吐き出した。

 新緑が初夏の風に揺られる原っぱに、湿っぽい沈黙が訪れる。だがそんな空気など関係無いとばかりに寝返りを打ち、エヴァンジェリンが鼻を鳴らす。まるで早く話せとでも言うかのように、彼女は顎をしゃくった。

 洸が困ったように眉尻を下げる。しょうがないといった様子で首を振ると、彼女はゆっくりと口を開いた。


「二人は仲良しの親友になって、楽しく過ごした――――それは本当。ただある日、木乃香が川で溺れそうになったんだ。それを助けようとした刹那も一緒に溺れて、結局二人を助けたのは大人だった。それからの刹那は一層剣の修業に励むようになって、木乃香とは疎遠になったんだ。そのまま木乃香は麻帆良に来たから、今年の四月まで二人が会う事は無かった、というわけ」


 物思いに耽るかのように、目蓋を閉じる洸。そこに宿るのは哀愁だ。言葉に表さずとも、確かに彼女は悲しんでいた。そんな洸を見上げるエヴァンジェリンは、どこか冷めた表情を浮かべている。何かを見透かすように目を細め、彼女はポツリと言葉を零す。

 小さな声で、ささやかな声で、けれど胸の奥にまで染み渡る声だった。


「どうして桜咲 刹那は、近衛 木乃香から離れたんだろうな」


 青い瞳が、意味ありげに洸へと向けられる。それを真っ直ぐに見詰め返し、次いで洸は青空を仰いだ。瑞々しい唇から吐息が漏れ、彼女は眩しそうに手をかざす。それは同時に、そこにある何かから目を逸らすようでもあった。


「――――代価を払えなかったから、かな」


 一瞬だけ、洸の口元が歪む。眉根を寄せて頭を振り、彼女は言葉を継いだ。


「あの子は異端な自分を悪い存在だと思ってる。烏族の中では、白を持って生まれたから異端。人間の中では、妖怪とのハーフだから異端。異端だから悪くて、誰かと居る為には代価が必要だって考えてる」

「その代価が、アイツの剣か?」

「……そうだよ。立派な剣士になる事が、木乃香を守る事が、あの子の払える唯一の代価。後ろ向きなあの子の誇り。だから『桜咲』で居る為に、木乃香の友達で居る為に、刹那は必死に剣を振るうんだ。ホントはそんなの関係無いのにね。家族も友達も、対等なんだから」


 立ち上がった洸が、丘の麓を見下ろした。眼下には麻帆良の街並みが広がっている。行き交う人は数多く、漂う雰囲気は明るい。同僚に、学友に、上司や先輩。笑顔に溢れた彼らの様子を見て、洸も同じように笑みを浮かべた。だがそれも、すぐに悲しみに取って代わられる。

 吹き抜ける風が黒髪をたなびかせ、黒い日傘を揺らした。涼やかで爽やかな光景。だというのに、湿っぽい洸の表情が大きく印象を変えている。寝転んだままのエヴァンジェリンに視線を向け、彼女は諦観の滲んだ声音で問い掛けた。


「エヴァにはわかる? 刹那の気持ち」

「……さぁな。自分を下に置く奴の気持ちなんて、私にはわからんさ」

「そっか。私は少しわかるよ」


 目を閉じ、目を開き、空を仰ぐ洸。日傘の下から覗く彼女の顔には憂色が浮かんでいた。


「結局、自分が信じられないんだよね。自信が無いからちょっとした失敗でも怖くなる。悪い方に考えちゃう。今でも木乃香と距離を取っているのは、そういう事。少しでも意識しちゃったら、一歩を踏み出す勇気が無くなるんだ」

「昔のお前みたいに?」

「昔の私みたいに」


 ただ、苦笑。瑞々しい唇で弧を描き、洸はエヴァンジェリンに背を向けた。そこに拒絶の意思は無い。無防備過ぎるほどに無防備で、寧ろエヴァンジェリンの言葉を待っているようにも見えた。そしてそれが分からないほど、二人の仲は浅くない。

 ゆっくりと立ち上がったエヴァンジェリンが、洸の横に並ぶ。そのまま洸から日傘を受け取った彼女は、隣に立つ親友を仰ぎ見る。するとそこには、微かに不安を滲ませた洸の顔があった。この頃ではエヴァンジェリンですら見る事の少なくなった顔色だ。

 フッと、エヴァンジェリンの口元が緩む。


「情が移ったか?」

「……うん。多分そうだと思う」


 肩を竦めるエヴァンジェリン。その瞳には呆れにも似た色が宿っていた。しかし表情は柔らかく、彼女らしからぬと言えるほど、優しげな雰囲気を纏っている。例えるなら、そう、妹を見守る姉のようだと言えるのかもしれない。


「そういう所は脇が甘いな。昔とは大違いだ」

「大人になったんだよ。色々見えるようになって、余裕が出来た」


 エヴァのお蔭だ、と洸の呟き。どこかくすぐったそうに苦笑して、エヴァンジェリンが体を揺らす。そのまま洸から自分の姿を隠すように日傘を掲げ、彼女は黒布の下へと逃げ込んだ。丸みを帯びたその頬には、僅かに朱が差している。


「しかし、私に話してもよかったのか?」

「あんまりよくないけど、エヴァには聞いて欲しかったから」


 洸が両腕を広げる。同時に風が吹き抜け、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。


「エヴァに話したら、上手くいく気がしたんだ」

「……何が?」

「刹那とのこれから」


 腰を曲げ、洸が正面からエヴァンジェリンの顔を覗き込む。そこに先程までの不安は無く、木漏れ日のような穏やかさがあった。黒と青の目を合わせ、二人は正面から向き合う。柔らかな笑みを浮かべる洸と、照れたように目を逸らすエヴァンジェリン。一瞬だけ開いた間は、次の言葉を確認し合う為だったのかもしれない。


「あの子に必要なのは愛情だよ。無条件の、無償の愛。傍から見ればじれったい生き方かもしれない。手を伸ばせば届く幸せが見えるのかもしれない。けどそれを実感するには、あの子は愛される事を知らなさ過ぎる」


 互いの顔を離し、洸は街へと視線を移す。そこに何かを見ているのか、はたまた何も見ていないのか、それはエヴァンジェリンにも分からない。ただ洸の黒い瞳からは、確かな決意が見て取れた。

 ギュッと、エヴァンジェリンは日傘を握る手に力を籠める。


「だから私は、刹那にそういうものを教えたい。愛されてるんだって、自信を持ってほしい。そうすればあの子は今よりずっと素敵になる。木乃香と一緒に笑い合える。そんな幸せの詰まった光景を、私は見たいんだ」


 そう言った洸の表情は、まさに幸せそのものといった笑顔だ。眩し過ぎるほどに輝いて見える彼女から、エヴァンジェリンはついと視線を逸らす。頬を膨らした彼女は暫く押し黙った後に目を瞑り、そして息を吐き出した。


「好きにしろ。まぁ、なんだ…………お前は成長したよ。私が保証してやる」


 一瞬の瞠目。直後に洸は、心底から嬉しそうに頷いた。


「うんっ。頑張るよ!」


 朗らかな声が、青空の下を駆けていった。




 □




「――――かさん。洸さん」


 戸惑いがちな問い掛けが耳を打ち、洸はゆっくりと目を開く。辺りを確認すれば、ネギが不安そうに彼女を見上げている事が分かった。

 思考に沈み過ぎたらしい、と洸は気付く。並列思考を得手とする彼女にしては、らしくない失敗だった。だからこそ驚きもあるが、同時に仕方ないと洸は納得する。彼女が思い出していた記憶は、それほどまでに大事なものだった。


「どうかしたんですか? ボンヤリしてましたけど」

「……ううん、なんでもないよ」


 首を振り、洸はネギに笑い掛ける。大丈夫だと目で語る。するとネギは気圧されたように目を揺らし、おずおずと頷いた。それを見た洸は胸を撫で下ろして息を吐き、次いで周囲を見回した。

 人影のまばらな駅のホーム。これからネギを見送る事になるその場所は、穏やかな静寂に満ちている。洸達の置かれている状況と比べればあまりにも平凡なそれは、だからこそ胸を締め付けるものがあった。

 鳶色の目を細め、洸は笑い合う親子から視線を逸らす。


「あの、洸さん。本当に桜咲さんはコチラ側の――――?」


 不意に、ネギの問い掛け。洸を見詰める彼の瞳には、微かな戸惑いが見て取れた。


「その通り。京都神鳴流。昔から存在する、気を利用した裏の剣術の使い手だよ。頼りになる子だから、親書を返して貰うついでに相談してみるのもいいかもね。まぁ今回手紙を間違えたみたいに、少し抜けた所もあるんだけどね」


 くすくすと笑う洸。心底愛おしそうに、彼女は話す。しかしそんな洸とは対照的に、ネギの顔色は暗かった。


「……そうですか」


 それきり、ネギは黙り込む。メガネの奥の目を地面に向け、思い詰めた様子で拳を握る少年の姿。胸に募るもののあるそれを見ても、洸は何も言わなかった。ただネギの傍に立ち、彼女は何かを待つようにネギを見詰めている。

 やがて、電車の到着時刻が近付いた頃。ネギは俯いたままポツリと零した。


「まだまだ何も知らないんですね。皆さんのコト」


 未熟だから、とネギの呟き。僅かに沈んだその声を、洸は目を閉じたまま聞いていた。


「――――それでも。それでも君は、自分が何も知らないという事を知っている。それは知らないという事を知らない人よりも、ずっと凄い事だ。本当に強くなれるのは、そういう人だよ」


 優しくネギの手を握り、洸はギュッと力を籠める。見上げてくるネギの瞳を正面から見返した彼女は、安心させるように微笑んだ。暫しの沈黙があり、言葉にならない会話があり、そしてネギはゆっくりと頷いた。

 そして、電車の到着時刻が来る。ホームに滑り込んできた電車が徐々に減速し、やがて完全に停止した。直後、空気の抜ける音と共に扉が開く。車両の中に人影は少なく、静かな空気が流れている。その中にネギは、何も言わずに入っていった。


「――洸さん」


 電車に乗った所で立ち止まったネギが振り返る。大きな瞳に宿るのは、強い意志と少しの迷い。洸を見詰める彼の視線には、明確な期待が見て取れる。何かを求めるその表情には、洸にも覚えがあった。


「僕は、強くなれますか?」


 洸が瞠目したのは一瞬だ。即座に笑顔を作った彼女は柔らかな、それでいて芯の通った声で語り掛けた。


「なれるよ。私は――――なれた」

「……はい!」


 洸がこの日初めて見た、曇り無いネギの笑顔だった。

 扉が閉まり、ゆっくりと電車が走り出す。やがて速度が乗り、完全に視界から消えるまで、洸は電車を見送っていた。そうしてネギの居なくなった駅のホームで、洸は空を仰ぐ。先程まで浮かべていた微笑は、既に彼女の顔から消えている。


「強く……なれたよね?」


 弱々しい声。誰に聞かれる事も無く、洸の呟きは空に溶けた。








 ◆








 意識が浮上する。小刻みに揺れる瞼が、ゆっくりと持ち上げられる。そうして刹那は、暗闇の中で目覚めた。目の前には黒。闇そのものの黒。何も映さない自らの視界に気付いた時、刹那は俄かに取り乱した。立ち上がろうとして腕の不自由に気付き、体をよじる事で刀の不在に気付き、そして上手く気が練れない事にも気付く。そこまで理解した刹那は、ようやく意識を失う前の事を思い出す。

 桜咲 刹那は、天ヶ崎 千草に負けたのだ。胸の痛みを伴うその事実を、刹那は認めずにはいられなかった。そして自らの現状を鑑みれば、敵に囚われてしまったのだと否応でも分かる。


「くそっ」


 情けなさと申し訳なさと、その他諸々の感情が入り混じった呟き。体を床に横たえたまま、刹那はその身を震わせた。ギュッと目を瞑り、歯を食い縛り、彼女は暫し自責の念に身を委ねる。そして次に目を開いた時には、彼女の中から動揺は去っていた。

 息を吐き、辺りを見回す刹那。落ち着いて見てみれば、微かに零れる光の筋が幾つかある。外の景色が分かるほどの隙間は無いが、目が闇に慣れてくると内装が浮かび上がってきた。

 壁も天井も古びた木製で、床は剥き出しの地面。広さは無く、三畳が精々といった程度だろう。物置、というのが刹那が抱いた感想だ。それも上等な物ではなく、昔ながらの民家にあるような物に見える。

 ただ一見すれば穴だらけに思えるこの場所も、魔術的に見れば厳重な警備が敷かれていた。内から外への移動を禁止する結界に転移魔法の妨害、念話の妨害など、あらゆる脱出の手段が封じられている。それらの細工は、刹那の手首を縛る縄にまで及んでいた。


「何か手は……」


 辺りを探っても目ぼしい物は見付からない。本来あるべき物すら取り去られたようなこの場所には、何一つ脱出の手立てが存在しなかった。もどかしさから悪態をつこうと、それで何が変わる訳でもない。体を地面に横たえたまま、刹那は眉間に深い皺を刻んだ。

 考える。自分に出来る事を、刹那はただ考える。ここから逃げなければならない。一刻も早く。自分一人の力で。それは冷静な判断というよりも、ある種の強迫観念に近いのかもしれない。

 桜咲 刹那にとって、幸福とは与えられるものではない。そこにあるものでもない。しがみ付くものだ。生まれてきてはならなかった彼女は、その手で幸せを繋ぎ留める必要がある。少なくとも刹那自身はそう考えていた。

 木乃香の傍に居られるのは、洸が傍に居てくれるのは、護衛の任に就いているからだ。だからこそ、無様を晒してばかりではいられない。木乃香を守れず、更には相手に負けて囚われるなどあってはならない失態だ。

 この状況を自力で脱し、もしも木乃香が囚われているなら助け出す。そうでなければ、桜咲 刹那に価値など無いのだから。


「だから……だから…………」


 言葉にならない呟きが漏れる。刹那の唇は小刻みに揺れ、微かに青褪めていた。

 無償の愛がある事を、刹那は確かに信じている。だがそれを自分に向けられる事を、彼女は今でも信じられない。それは弱さであり未熟さであり、トラウマでもある。刹那から見た彼女自身は、どうしようもなく愚かだ。

 血が滲むほどに唇を噛む。その痛みで、刹那は自らを奮い立たせた。やってみせる。頑張るしかない。胸中で何度となく繰り返す言葉が、虚飾の鎧として刹那の心を守る。


「…………会いたいな」


 漏れ出た弱さは、見ない振り。刹那はギュッと、拳を握り締めた。




 □




 屋根は茅葺、壁は土。ガラス戸の代わりに障子があり、庭には小さな古井戸一つ。深緑の芽吹く山の中。碌に舗装されていない山道の先にあるその家は、昔ながらの日本家屋そのものといった様相だった。まるで群れから逸れた子羊のように、寂しく佇む一軒家。人里から離れたこの家の縁側に、一人の女性が座っていた。

 天ヶ崎 千草である。特徴的な着物に身を包んだ彼女は、メガネ越しにぼんやりと青空を見詰めていた。そこに刹那と対峙していた女性の姿は無い。俗世を離れた仙女のように、あるいは物を知らぬ童女のように、濁り無い表情がある。

 時が止まったのかと錯覚しそうな光景。静かで穏やかなその場の空気を、一人の少年が切り裂いた。


「どっかのバァさんみたいな顔しとるで、姉ちゃん」

「……失礼なガキやな。ウチはまだ二十代や」


 ゆっくりと、千草が少年の方に顔を向ける。ツンツン跳ねた黒髪に、ピョコンと飛び出た犬の耳。生意気そうな目で千草を見下ろす彼は、昨夜ネギを打ち負かした小太郎だ。黒い学ランを来た彼は、千草の隣に腰掛けた。

 二人の間に緊張は無い。まるで家族のような気安さが漂う中で、小太郎は落ち着き無く辺りを見回した。


「おっ、これ食いモンか?」

「ちゃう。あんま触らんようにな」


 千草の傍に置かれた黒塗りの箱。その蓋を、小太郎が無造作に開く。中に入っていたのは幾つもの手紙だ。折り重なった白い封を見た彼は、途端に興味を無くしてしまう。詰まらなそうに目を眇め、小太郎は手紙の一つを手に取った。


「……なんや、お偉いさんからの手紙か」


 適当に手紙を流し読んだ小太郎は、すぐにそれを箱の中へと戻した。物問いたげな視線が、隣の千草へと向けられる。


「最近の姉ちゃんは、ようわからんわ。こんな危ない事にまで手ぇ出すし」

「アンタは付き合わんでもええよ。組織の事なんて興味無いやろ? 今の内に手を引いとき」


 ガシガシと頭を掻く小太郎に、千草が困ったような声音で言い聞かせる。口元には苦笑が浮かび、瞳には優しい色が宿っていた。その姿は刹那と対峙していた時とは別人で、しかしこれこそが彼女本来の在り方だと感じさせる表情だ。

 小太郎の顔が露骨に歪む。不機嫌そうに口元を結んだ彼は、やはり苛立ちの滲んだ声で応えた。


「いやや。俺は姉ちゃんに感謝しとる。仕事くれたし、飯の世話にもなった。せやからココで逃げるんは、俺のプライドが許さん」

「……さよか。なら、ウチはもう何も言わんわ」


 目を伏せ、息を吐く千草。着物の袂に手を入れた彼女は、そこから取り出した物を小太郎に渡す。白の無地に一つだけ梵字が刻まれたヘアバンド。一見すればなんの変哲も無いソレを、小太郎は不思議そうに眺めた。


「護符入りや。それなら戦闘中でも取れんやろ」

「ん? 護符ならもう持っとるで?」

「頭を守るモンは多い方がええやろ。いいから着けとき。万一の時には、アンタを守ってくれるはずや」

「……まぁ、貰えるモンは貰っとくけど」


 呟きながら、小太郎は貰ったヘアバンドを頭に着ける。黒い髪に無地の白。無難な色の組み合わせは、それなりに似合っていると言えるだろう。満足そうに頷く千草の様子に、彼は気恥ずかしそうに頬を掻いた。所在無さげに目を彷徨わせ、小太郎が言葉を探す。空を見て、山を見て、隣の千草は見ずに下を見て、そこで彼はアッと声を漏らした。


「そうや思い出した。なんや新入りの奴が出てったで。おもろいモンを見付けたとか言って」

「ふむ……ま、新入りなら下手な事はせんやろ」


 顎に手を当て暫時の思索。後、千草は気にした風も無く答えを出した。それを聞いた小太郎は不満顔だ。頬を膨らせ口を尖らし、小太郎がジト目で千草を睨め付ける。気に食わない、とそこには書いてあった。


「随分アイツのコト評価しとるやん。イキナリ来たのに仲間にするし。西洋魔術師やで?」

「実力は確かや。何か企んどるのはわかるけど、だからこそ今はまだコッチの邪魔はせんやろ。多分”例の時”まではな」


 ヘアバンドを着けた小太郎の頭を、千草が優しく撫でる。最後にポンと軽く叩いて千草が手を離すと、小太郎は何とも言えない顔で自分の頭を押さえた。隣の千草を見上げたまま、彼は幾分威勢の衰えた声を出す。


「ホンマにやるんやな? エラい大事になるで」

「だからこそ、や。アンタは興味無いやろうけど、『近衛』の家はホンマに凄いんよ。ずっと昔からウチらの長やっとるし、陰陽師としての実力も一流揃い。何代も重ねる内に不動になった地位は、崩そうとすら思えんくらいになった」


 つまりこの空と一緒や、と千草が言う。見上げればいつもそこにあって、その事に誰も疑問を抱かないのだと。

 小太郎が天を仰ぐ。そこには清々しいまでの青色と、まばらな千切れ雲が見て取れた。芸術や風情といったものを解さない彼にとっては、特になんという事の無い光景だ。でも見上げた先にこの空が無いというのは、やはり何かが違うのだろうと彼は思った。


「その『近衛』が最近は揺らいどる。近衛 近右衛門は東の長やし、残った娘はどっちも不出来や。一人は病弱で碌に陰陽術が使えんかった上に、娘を産んですぐに死にはった。もう一人は東との融和を掲げた癖に纏めきれんかった。次の世代も似たようなモンや。洸お嬢様は東の人間やし、このかお嬢様は裏の事情を教えて貰っとらん。今でこそ近衛 詠春が長として上手く纏めとるけど、不満や不安を感じとるモンは多い。その詠春にしたって、元は西洋魔術師のお供やしな」


 千草の声は暗さを秘め、同時に熱が籠っていた。小太郎は口を開かない。いや、開けないと言った方が正しいだろうか。千草の雰囲気に気圧されたかのように喉を鳴らし、無意識の内に拳を握る。ピンと張った犬耳は、動く事無く千草の方に向いていた。


「もしも『近衛』を崩すなら、今が絶好の機会っちゅう訳や。ジジイ共がヌルい条件で和平を受け入れたんも、その為の火種を引き込むんが目的や。ま、アイツらが長に押され始めとるゆーんも、間違いではないんやけどな」

「……けど姉ちゃん、前にそのこのかっちゅうお嬢様と友達やって、ゆうてたやん」


 僅かな驚きを顔に出し、次いで千草は唇を歪めた。口端を吊り上げたそれは、嘲りと呼べるものだろう。


「せやね。だからこそウチは、今回の件で好きに動けた。元々負い目がやったんやろうな。ウチの両親は、大戦で西洋魔術師に殺されたからなぁ――――――どっかのお嬢さんの父親みたいに。せやからこのかお嬢様と一緒におっても、注意し辛かったんやろね」


 馬鹿みたいや、と千草の呟き。それを聞いた小太郎は、微かに体を震わせた。目元を隠すようにヘアバンドをずり下ろし、俯き気味に顎を引く。若干の沈黙を挿んだ後、小太郎は小さな声を漏らした。


「……やっぱ、最近の姉ちゃんはようわからんわ」


 千草の答えは無い。困ったように眉根を寄せた彼女は、何も言わずに目を閉じた。それからすぐに、彼女は着物の袂に手を入れる。今度は手鏡だ。手の平サイズのそれを、千草が取り出した。


「あぁ、そうや。新入りが出掛けたんやったな。ちょいと覗いてみよか」


 あからさまな話題逸らし。一際強く拳を握り、小太郎は顔を上げた。暗さも何も無いその表情には、空元気という言葉がよく似合う。


「へぇー。そんなん出来るんか?」

「状況確認用に印を渡しとるからな。そいつを持っとれば大丈夫や」


 白々しい空気。ヌルい雰囲気。それを理解していながら、二人とも触れようとはしなかった。一見仲良さそうに肩を寄せて、二人は千草の持つ手鏡を覗き込む。ただの鏡に見えるそれに、千草が右手を翳す。

 溢れる光。白く染まる鏡面。そして、一つの光景が映し出された。








 ◆








「麻帆良の人間だと思ったんだけど、覚えの無い顔だ」


 唐突に響いた言葉が、山中を歩く洸の足を止めた。その足元に道は無い。降り積もった枯れ葉が斑模様の絨毯を敷き、彼女のガムシューを受け止めている。新緑を芽吹かせた木々に囲まれた山奥で、洸は一人で立ち尽くす。

 そう、一人だ。洸の近くに人影は無い。動物の気配すら感じられず、木々のさざめきすら存在しない。だが、彼女に気にした様子は無い。ゆっくりと右腕を上げた洸の手には、漆黒の拳銃が握られている。洸は無表情だ。そのまま何も語らず、彼女は躊躇無く引き金を引いた。

 銃声は無い。しかし銃口から放たれた弾丸は、確かに一本の大木を穿った。冷たい静寂、冷たい視線。弾痕の残る大木を、洸が無言で睨み付ける。すると大木の後ろから、一人の少年が現れた。


「随分な挨拶だね」


 白。それが少年を表す言葉だった。髪も肌も人間味の薄い白色で、何よりも感情を感じさせない瞳が、純白の印象を強めている。見た目はネギと同じくらいの子供だが、どこか異質な少年だった。

 少年の姿を確認しても、洸は動じない。鋭い視線と銃口を少年に向け、彼女は冷たく言い放つ。


「それは失礼。ヌル過ぎたかな?」

「…………大和撫子というのは、もう絶滅したんだろうね」

「少なくともこんな女に使う言葉じゃないさ」


 鼻を鳴らす洸の姿は、相変わらず変装したものだ。カラーコンタクトは外されているがアイメイクはそのままで、メガネもちゃんと掛けている。ウェーブの入った茶髪も健在で、その姿は大和撫子のイメージとは程遠い。また、だからこそ握られた拳銃と羽織った墨色のコートが不自然でもあった。


「なるほど。貴女の従姉妹になら使えるのかもしれないね」


 洸は、何も反応しなかった。視線も、指先も、息遣いすらも乱していない。そんな彼女の姿を、少年が静かに見詰めている。


「近衛 洸さんだね? その影で編んだコートに握った拳銃、性別や年齢も考えれば貴女しか居ない。注意して見れば顔も同じだ」

「よく勉強してるみたいだね、フェイト・アーウェルンクス君?」


 少年の目が眇められる。泰然と佇む小さな体に、微かな緊張が走った。


「イスタンブールの魔法協会から研修で来日という話のはずだけど、ここに居る理由は?」

「…………資料通りの勤勉家だ。自己紹介の手間が省けたよ」


 暗に肯定する少年に、洸が目を細める。フェイトと呼ばれた彼は、あくまで余裕を崩さない。子供らしからぬ貫禄と、底知れない存在感がそこにはあった。一言で表すなら不気味であり、ただの魔法使いではない事は瞭然だ。

 しかし洸に動揺は無く、変わらず怜悧な視線で、拳銃の狙いを定めている。情けも無ければ容赦も見えないその姿は、普段の彼女を知る者からすれば、異常以外の何物でもないだろう。


「わからないな。天ヶ崎 千草の意図も、君の存在も、本当に不可解だ」

「貴女が知るべき事ではないよ。関わる必要も無い」


 洸の瞳に険が籠る。白い眉間に皺が寄る。柳眉を吊り上げ、彼女は吐き捨てるように言葉を投げた。


「君らは木乃香に手を出した。刹那だって傷付けた。私が黙って見逃す理由なんてね、生憎この世界には無いんだよ」

「美しい愛情だね。けど、その判断は誤りだとしか言えないな」


 呆れたとでも言いたげに、フェイトが肩を竦めた。相変わらずの無表情で、相変わらずの余裕で、だからこそ本心から口にしている事が分かる言葉だ。悪意の欠片すら見て取れない彼の態度は、ある種のおぞましさを持っている。

 人間味の感じられない瞳が、洸を正面から捉える。冷酷ではなく無関心。まるで路傍の石を眺めるかのような視線だ。


「桜咲 刹那を助けるには僕を退ける必要がある。そして悲しい事に貴女は――――」

「――――君より弱い。泣きたくなるほどに」


 フェイトが、僅かに目を見開く。その様子を落ち着いて見据えながら、洸が言葉を投げ捨てる。


「資料の情報か私を見ての判断かは知らないけど、まぁ事実だろうね。同意するよ」


 拳銃を構える洸の右腕が、ゆっくりと下ろされる。そして彼女は、そのままコートの内側に銃を仕舞った。首を傾げるフェイト。不可解な洸の行動に戸惑っているようだ。それはフェイトが初めて見せる、人間らしい姿だったかもしれない。

 洸が笑う。苦笑にも、嘲笑にも、自嘲にも見える笑みだった。


「でも、それだけだ。たった、それだけの事でしかない」


 着地音は背後から。白の少年が振り返ると、そこには二頭の黒狼が居た。彼の腰元くらいの体躯に黒いボロ布を纏ったソレらは、置き物の如く生気が感じられない。だが剥き出しになった墨色の犬歯は子供を喰い殺すには十分だ。

 二つの口が、開けられて。鋭い牙が、フェイトに迫る。


「――――それで? 貴女は結局、何が言いたいのかな?」


 ただ一振り。横に薙いだフェイトの腕が、軽々と黒狼を引き裂いた。

 ボロ布をはためかせて千切れ飛ぶ狼の体。影で編まれた体が、飛沫のようにほつれていく。桜吹雪にも似た黒い礫が宙を舞い、じゃれつくみたいにフェイトの傍を過ぎていく。空に溶けていくその中に――――――赤い何かが微かに混じる。


「これは……」


 呟き、フェイトが自らの脇腹を見る。彼の着る青い服には、その部分だけ赤い染みが出来ていた。初めはコイン一枚くらいの大きさだったそれも、時間の経過と共に少しずつ広がっていく。ジワジワと、赤が青を侵食する。

 変わらぬ無表情で、フェイトが右手で染みを覆う。すると徐々に拡大していた染みがピタリと止まった。無感動な目でそれを確認した彼は、次いで洸へと視線を向ける。影編みのコートを纏った女性は、仁王の如く佇んでいた。


「つまり君は負けるという事さ、アーウェルンクス」


 冷たい声が、真昼の森に木霊した。


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