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[4586] アナザーエムブレム【FE封印・憑依】
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:42
 エレブ大陸の東側にあるエトルリアと大陸を二分する大国――ベルン王国。

 その中にある、とある大貴族の邸宅で、後継者となる赤子が誕生した。

 永らく子宝に恵まれていなかった一族にとって、その子は希望であった。国王デズモンドも大貴族の血が途絶えずに済んだことを喜んだのか、祝いの品はかつてないほど豪華なもので、大貴族の当主は返礼の品をどう工面するか頭を悩まされたのだそうだ。

 その大貴族の嫡子に、とある大学生が憑依する。

 ドカーンとトラックに轢かれて死亡し、神様だか天使様だかよくわからない存在に蘇えらされ、目が覚めたら別人になっていました、「なんだってぇぇぇぇぇええ!」という経緯を辿ったようだが、説明が面倒なので全部省略する。説明したら中二病乙と言われるに決まっている。わざわざ自分の恥ずかしい思い出を語ろうとする者はいないだろう。

 ともかく、ある日突然、彼は大貴族の嫡子となった。

 その名を、ナーシェンという。

「そもそも、憑依する意味があるのか? 何が起こったのか俺にもよくわからないが、気がついたらナーシェン様になっていた! な、なんだってーーーーっ!?」

 今では……立ち直っていると思う。


    【第1章・第1話】


 小鳥のさえずりで目を覚まし、川に水を汲みに行き、軽く汗が出てくるまで剣を振ってから、朝食を取る。これがカレルの早朝の日課だった。

 気が向けば近所の子どもたちに剣を教え、午後は村の者と一緒に畑を耕す。

 もはや、剣魔と怖れられた姿はそこにはなかった。

 そして、剣聖とうたわれた姿もそこにはなかった。

 だが、それが何だ。見せ掛けの強さなど役には立たない。ここにいるのは剣を極めた者ではなく、強さのために親兄弟を斬ってきた愚か者だ。

 カレルはベルンの辺境に身を沈めながら考える。

 こんな自分が人の役に立てるとは思えない。それでも、真似事ならばできるのではないかと思ったのだ。かつて、この目で見定めてきた者たち……エリウッド、ヘクトル、リンのような生き方が。

 その時。

 大きな音を立てて、木製のドアが蹴破られた。

 何者――ッ! と剣を抜くが、遅い。

 戦いから離れたカレルの身体は鈍り切っており、刺客が行動する方が早かった。

「カレル殿ぉぉぉお!」

 お命頂戴――ではなかった。

 刺客は、出会い頭に土下座をしたのである。

 ジャパニーズ・土下座。エレブ大陸には土下座の文化が広まっていないので、カレルはこの行動にどんな意味があるのかわからなかった。ただ、この行動が途轍もなく無様で、しかも、見ているだけで申し訳なくなってくることだけはわかった。

「ぜひ! ぜひぜひぜひ! 当家にお仕え願いたい!」

「い、いや……それは………」

 カレルに頭を下げたのは、十歳前後の少年だった。豪華そうな衣服を着た、見ただけで貴族とわかる出で立ちである。マントをはためかせ、平民を見下していそうな顔をしているのに、この少年は何だか張り合いのない空気をまとっていた。

 額を床にこすりつけた少年に、カレルはとりあえずこう言った。

「すまない……」

「やっぱ無理かよぉぉーーーー!」

 少年は滝のような涙を流しながら嵐のように去っていった。


     ―――


 ナーシェン、十二歳。

 蝶よ花よと大切に育てられてきたので我が侭に育ち、人を人とは思わない言動が目立つ、そんなクソガキだ。自分のことをクソガキというのはどうだろう、とは思うが、昨日までの行動を思うと、クソガキといわれても仕方がないと思う。

 そんなナーシェンに憑依してしまった大学生は、今日も生き残るため画策している。

 ナーシェンの父は中央の政事で忙しいらしく、半年ほど領地を離れている。そろそろ五十歳になるというのに三竜将の位を欲しがっており、熱心に他の貴族へ根回しをしているようだ。その動きをゼフィールが鬱陶しく思っているだろうことは想像に難くない。

 その間の領内の政治は名目上では嫡子のナーシェンに、その実情は補佐に付けられた老将バルドスに任せられていた。

 バルドスはエトルリアに攻め込まれて領地を失った男爵である。今はナーシェンの父に仕えているが、領地奪還を虎視眈々と窺っている喰えない老人だ。とりあえずは有能なので使ってやっているが、ナーシェンが家督を継いだら適当な領地をやって追い出すつもりだ。

 野心持ちの謀略家はどれだけ有能でも使いたくない。

「税率の引き下げ……ですか?」

「そうだ」

 不思議そうなバルドスの言葉に、ナーシェンは書面を片手で叩きながら返答する。

「ここ数週間、他の領地で略奪が増えている。領内でも山賊が確認されている。今の税率では治安が悪化するだけだ。手遅れな感は否めないが、だからといって、このままの税率で放置しておくのは問題がある」

「ですが、お父上が定められた税率を勝手に引き下げるのは……」

 未だに不服そうな顔をしているバルドスに、ナーシェンは叩き付けるように言う。

「だが、山賊を退治するために出陣すれば、配下に報酬を与えなければならない。それでは多額の税金をむしり取っても意味がないだろう。それとも、バルドスは配下への心配りなど最低限で構わないとでも考えているのか?」

 ぬぅ、と唸り声を上げるバルドスを執務室から追い出し、ナーシェンは溜息を吐いた。

 これはエレブ大陸全般でいえることだが、どの貴族も民からの搾取に頼りすぎている。

 税率が低い都市といえばオスティアぐらいしか浮かんでこないほどだが、そのオスティアの減税も金のかかる軍事力、騎兵を削減しているためにできることだ。

 難攻不落の城塞と練度の高いアーマーナイトの二つが揃っているオスティアならではのやり方だ。

 だが、戦場の主役が飛竜のベルンでは下手に軍事力を削減すれば後々高いツケを払わされることになりかねない。飛竜だけでは都市の占領・防衛はできないのである。

 竜騎士、騎兵、槍兵。

 この三つのバランスがベルンの強力な軍事力なのである。

 ナーシェンは執務室の机に頭を乗せ「むむむ」と呻いた。

 頭を抱えながらも、書類をめくる手は止まらない。

 めくればめくるほど汚職の影がチラつくのがベルン王国のクオリティ。

 エトルリアはもっとひどいのかなー、と思いながらキリキリと痛む腹をおさえていると、執務室のドアが音を立てて開け放たれた。

「カレル殿の居場所がわかりましたー!」

「な、なんだってー!」

 ナーシェンは報告しに来た兵士の胸倉を掴み、危うく絞め殺しそうになった。


    ―――


 小鳥のさえずりで目を覚まし、川に水を汲みに行き、軽く汗が出てくるまで剣を振ってから、朝食を取る。今日もそれは変わらない。続けるからこそ日課になるのだから。

 カレルは昨日の記憶に意図的に蓋をして、朝食の仕度をしていた。

 昨日の少年の意味不明な行動は、カレルの頭を半日も悩ませた。悩ませるだけ悩ませて解答を与えないという結果に、カレルの眼差しを剣魔の頃のものに引き戻して村人を畏怖させたほどだ。カレルは羞恥心のため残りの半日を山の中で剣を振ることで浪費した。

 そして、記憶は永遠に封印される。

 そのはずだった。

 だが、扉は再び開け放たれる。

「カレル殿ぉー!」

「また君か!?」

 らしくもなく激昂するカレルに、少年は再び土下座する。

「今日こそ当家にお仕え頂きたい!」

 反射的に剣を抜きそうになったその時、耳にした言葉に動きを止める。

 要するに、仕官を願っているわけか。カレルがこの村に居を構えた時も、何人か耳ざとい貴族が自分に声をかけにきたものだが、どれも仕えるに値しないものばかりだった。どいつもこいつも私腹を肥やしている貴族ばかりで、中には愛妾の邸宅の警備のためにカレルの剣を求めていた者もいるほどだ。

 だが、たとえ仕える価値のある者――たとえば、エリウッドのような者であっても、カレルが仕官することはなかっただろう。

 この身、この剣には、もうどのような価値もないのだから。

「すまないが、私はもう誰にも仕える気はないんだ」

「そうですか……」

 少年は肩を落とす。

 ようやく諦めたか、とカレルは安堵する。このような子どもが仕官を要請してきたのは始めてだが、在野の士からカレルを見出した眼力や、聡明そうな目を見ればわかる。この少年はカレルが手を貸さずとも、己の責務を全うすることだろう。

「私は、民の生活を守ることこそが貴族の務めと考えています。国は民があってこそのもの。そのためには、民をまず最初に考える必要があります」

「………?」

 突然、訥々と話し始めた少年に、カレルは眉をひそめる。

「だが、この大陸で、民のための政治がどれだけ行われているでしょうか。二つの大国で不正、汚職が横行しているのです。大陸の経済が混乱し、物価が高騰すれば周囲の小国にも問題が波及します。庶民の生活全体が苦しくなり、やがて戦が起こるでしょう」

 戦、という言葉にカレルの身体が反応する。

「小規模な戦はやがて大陸全土を巻き込みます。そうして犠牲になるのは民の生活です」

「……それが、どうかしたのかな?」

「大陸すべてが戦に巻き込まれた時、あなたはその剣で何を成しますか?」

 何をする。そのようなことなど、考えたことがなかった。

 己の剣はただ人を斬るためのものだ。それ以上でも以下でもない。そう考えていた。

「身近な人を守る。それでもいいでしょう。ですが、あなたの剣は収める鞘さえ間違えなければ、もっと大勢の人を救えるはずです。抜き身の剣は人を斬ることしかできない。ならば、鞘に収めればいいではありませんか」

 少年は踵を返す。

「私が言いたいのはそれだけです」

 そうして、少年はカレルの前から去って行った。
 遠くから「畜生! 失敗したー!」という叫び声がしたが、おそらく気のせいだろう。



[4586] 第1章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/22 00:26
 この日もナーシェンは生き残るために画策していた。

「胃がいてぇ……」
 執務室で書類をめくりながら、ナーシェンは溜息をつく。

 昨日、父が首都から戻ってきて、大規模なパーティーを開くと宣言しやがったのである。

 その予算をどこから捻出しているのか、あの親父はわかっているのだろうか。

「どうするよ」

「はてさて、どうしましょうか」

 バルドスと二人で溜息をつきながら、ない知恵しぼって考える。

「宝物庫にある武器でも売り払うか。宝石引っ付いた剣なんて、ぶっちゃけいらないだろ?」

「しかし、それをお父上が知られたらどう思うか」

「首斬りかなー。その時はバルドス、死んでくれよ」

「死んでも御免です。いや、死にませんが」

 バルドスの冷たい眼差しにゾクゾクしながらナーシェンは新しい書面を差し出した。

「何です?」

「騎士隊から装備の申請が出ててさ。この中から鋼の槍を除外して計算し直してくれよ」

 中堅の騎士が愛用する鋼の槍だが、性能は鉄の槍とあまり変わらない。

 一部の騎士たちに我慢して貰って、その分の予算をパーティーに回してみようという考えである。

「鋼の槍ですか。まぁ、妥協案ですかな」

「騎士の連中に借りを作るのは厄介だけどなー」

 肩を落とすナーシェンに「それは私が何とか言い聞かせておきましょう」とバルドスが請け負う。

 ナーシェンが政務に加わってから一ヶ月、バルドスもようやくナーシェンのことを認めてくれたようだ。簿記検定三級の自分がどれだけ役に立っているのか我ながら疑問に思えるのだが。

 そう言えば、憑依してそろそろ一ヶ月になるのか。

 ナーシェンは腹をさすりながら溜息をついた。

 死亡フラグの兆しはまだ見えない。今日も平和だうれしいな、っと。


    【第1章・第2話】


 ベルン国の侯爵家で開かれるパーティーである。招待客はベルンの王族(さすがにゼフィール王は出てこないが)からエトルリアの貴族(表面上は友好関係を築いているので)まで多岐に渡り、この日、邸宅の使用人は大忙しで働いていた。

「はい、申し訳ございません。お召し物の方はすぐに新しい物を用意いたしますので……」

 この日、ナーシェンはなぜか頭を下げていた。

 相手は同じベルン国の貴族、トラヒムである。ナーシェンの父と同格の侯爵家の当主であり、貴族としての位は最高位のものだ。ナーシェンの父とは違って武人としても有能らしく、その肉体は隆々としている。

「たしかロアーツ殿が話があると言っていたな。なるべく急いでくれたまえよ」

「はい、かしこまりました!」

 なぜこうしてナーシェンが頭を下げているのか。

 それは、侍女の一人が粗相をしてトラヒム卿の服を汚してしまったからである。
 ナーシェンはトラヒムを別室に案内しながら、内心で溜息をつく。

 このような時は、貴族としての名目を保つために、ナーシェン自身の手で粗相を起こした侍女を裁かなければならないのだが、使用人ひとりといえど、ナーシェンの家に仕えている大切な家臣である。それを切り捨てるのはナーシェンの信条に反していた。

 使用人を許して貰うために、ナーシェン自身が周囲の貴族に恥を晒し、それで帳消しにする。

 見たところ、それは上手く行ったようだった。トラヒム卿もほどよく自尊心が満たされたのか、それほど怒っている様子はない。心の中で安堵し、ナーシェンは念のため男の使用人にトラヒム卿の着替えを任せると、再度トラヒム卿に謝罪してから部屋を後にした。

「大変ですな」

 振り返ると、そこには老人がひとり。

「何か問題でもありましたか?」

「いや、こうして見ていると風聞とは存外にアテにならぬものだと思いましてな」

 ああ、そういうことか。

 自分が憑依するまでは、ナーシェンは途方もないクソガキだったのだ。その時の噂話を耳にした者なども、招待客には混じっているはずだ。以前のナーシェンを知る者なら、目が飛び出るほど仰天していたかもしれない。

 が、まだナーシェンは十二歳。心情の変化があったとでも言っておけばどうにでもなる。

「男子三日会わざれば活目して見よ、と言いますからな」

 と老人は目を細めてそう言った。

「失礼ですが、あなたの名は?」

「おっと失礼。まだ名乗っておりませんでしたか。私はフェレ候エリウッドの名代として参上しました。マーカスと申します」

「ああ、リキアのお方でしたか」

 ナーシェンの頬を汗が伝う。
 意図しない原作キャラとの遭遇である。しかもこの老人は敵ではないか。

 ナーシェンは死亡フラグを立てる前に、慌ててその場から離れた。

 だが、その時にはもうすべてが終わっていた。

「ほほぅ。あのような若者がベルンにいたとはな。敵に回したくはないものだ……」


    ―――


「本当に申し訳ありませんでした!」

「ああ、いいよいいよ。適当に休憩したら仕事に戻りなさい」

 ナーシェンは頭を下げてくるメイドにぞんざいな返事をすると、招待客の名簿をあらためて見直した。すると原作キャラの名前がちらほらと。

 エトルリアからはリグレ公爵家のパント・ルイーズ夫妻が、リキアからはラウス侯爵家から当主のエリックが、オスティア侯爵家からは名代としてレイガンスがやって来ている。後半の二人は敵キャラじゃねーか、とナーシェンは頭痛のする頭をおさえながら書類を引き出しに戻した。

 自分を呼ぶ声がするのだ。「ナーシェン様、ナーシェン様!」と何度呼ばれたことだろう。そのすべてが厄介事だったのは言うまでもない。

 今度は何だ、と半ばキレながら向かうと、そこには困り顔の衛兵と小さな女の子がひとり。

「何だ、何事だ」

「はぁ……。それが、この娘、迷子のようなんですよ」

 ナーシェンはその娘に視線を落とす。五歳に満たない女の子だった。

 着ている物を見れば、どこぞの貴族が連れてきた子どもだということはわかる。庶民はこんな高そうな服は着ていない。

「じゃ、任せましたよー」

「……っておい! 違うだろ! そこは違うだろ!」

 ナーシェンは去り行く衛兵の背中に罵声を浴びせかけるが、彼は戻って来なかった。

 貴族の嫡子って何なんだよ、と悪態を吐きながら小娘の顔を眺める。

 将来は美人になることは間違いないだろう。だが、今はまだ煩いだけのガキである。

「で、君のご両親はどうしたんだ?」

「ごりょうしん? おとうさまのことー?」

「ああ、そうだ。君の父だ」

「………? わかんない」

 首を傾げられても困る。

 仕方なくナーシェンは少女の手を引いてパーティ会場を歩き回った。

 だが、一周しても見付からない。

 行き違ったのかもしれない。そう思い、もう一周してみようかと思ったが、その時には少女は疲れと親と会えないことが重なってベソをかき始めていた。

 ナーシェンは溜息を吐き、少女の手を引きながら邸宅を出た。

 向かった先は兵舎に併設された馬厩である。

 だが、この馬厩は他国とは異なり、飛竜が繋がれている。

 囲われた平原を調教師に引きつれられた飛竜が歩き回っていた。

「うわぁ」

 少女の目が見る見るうちに輝き始めた。

「飛竜を見るのは初めてか?」

「うん。あんなのお家じゃみたことないよ!」

「そうか。それはよかった」

 ここまで来れば、大体の子どもは同じことを言い出すものだ。ナーシェンは大体予想していた。

「わたしもあれに乗りたい!」

「そう言うと思ったよ……」

 だが、それはできない。

 ナーシェンでさえ、年に数度しか乗せて貰えないらしいのだ。憑依してからは一度も乗っていない。

 まずは馬に乗れるようになってから。すべてはそれからだ。

「君にはまだ早い。もう少し、大きくなったら乗せてあげるから」

 その頃には、ナーシェンも飛竜に乗れるようになっているだろう。その時は、一緒に乗ってやってもいい。少女の子どもらしい無邪気な笑みを見ていると、不思議と心が温かくなって、ナーシェンはそう思えた。

「じゃあ、いつになったら乗せてくれるの?」

「そうだな……」

 どのように答えたものか、ちょっとだけ悩む。

「おや、クラリーネ。こんなところにいたのか」

「あっ、おとうさま!」

 その時、二人の前に現れた銀髪の貴公子を見て、ナーシェンは即答した。

「一人前のレディになったら、かな?」



[4586] 第1章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:43
 エレブ大陸の両大国、ベルン、エトルリアはともに封建制を採用している。
 いや、採用したという表現はどこかおかしいか。自然にそうなったと言うべきなのかもしれない。ともかく、二つの国は封建制を取っているのである。

 多数の領地を持った封建領主――貴族が、より強い力を持った王に臣下の礼を取る。これが封建制である。言わば王とは貴族の代表であり、貴族の領地を勝手に取り上げることは絶対にやってはいけないし、貴族が他国から攻め込まれれば守ってやらなければならない。

 その代わりに貴族は王に忠誠を従わなければならず、領地を保護しなければならない。その他に、王の要請に従って軍役を果たさなければならない。これは双務的性格を持つもので、片方が義務を怠った場合はこの契約は一方的に解消されることもあった。

 貴族は領民から労役、特産物などの物納、貨幣を搾取する権利を持っている。
 徴税権である。
 この徴税は人々の過剰労働を奪い取るだけでなく、生活を維持する分まで搾取してしまうのである。

 何が言いたいのか、と言うとだ。

「山賊団その数約80、各地で略奪を始めています!」

 奪いすぎたら反乱が起こりますよ。
 尻拭いは自分でやりなさいよ、と言うことだ。


    【第1章・第3話】


 パーティーが終わるとベルン首都に舞い戻ってしまった父を憎悪しながら、ナーシェンは兵士の編成のために邸宅を駆け回っていた。

 竜騎士20、騎士20、重騎士30、槍兵80、弓兵20。

 これがナーシェンの持つ全戦力だ。

「フレアーは竜騎士を連れて先行しろ! 本隊が到着するまでは、くれぐれも手は出すなよ」

「かしこまりました」

「スレーターはアーマーナイトとソルジャー二十を引き連れて山賊どもが踏み込んでいない村を守ってくれ。一人たりとも踏み込ませるな」

「ははっ。謹んで拝命致します」

「バルドスは私に従い本隊を指揮して貰う。本隊がこの戦の要だ。よく私を補佐してくれ」

「御意にございます」

 ナーシェンは重臣に命令を終えると、邸宅前に集まっていた兵士たちの前に立ち、臆さず大声を張り上げた。

「全員よく聞け! 我ら精強なるベルン軍人が、たかが山賊どもに遅れを取るか!? この程度の戦で死んでみろ! 私が声を上げて笑ってやる! わかったら槍を振り上げて叫べ! 我こそはベルン最強の兵士であると!」

「オオオォォォォオオオ!!」

「その意気やよし! 全軍、隊列などは気にせず私に続け!」

 ナーシェンは軍馬に飛び乗り、全速力で駆け出した。

 全軍が慌てて後を追う。

 その凛々しい様子に、家臣たちは忠誠の念が増したという。

 その間、ナーシェンはこんなことを考えていた。

 ……今の言葉、ちょっと格好よくね?


    ―――


 ナーシェンの目に炎上する村が映った。

 屈強な男が命乞いしている村人にその手の斧を振り下ろす。肉と骨が砕ける音がナーシェンの耳まで届いていた。女性の悲鳴は……想像するまでもないだろう。ナーシェンは悲鳴のする家屋から目をそらした。

「全軍止まれ!」

 全力でナーシェンを追っていた兵士たちが立ち止まる。

 並走していたバルドスがすぐさま布陣を整える。

「ソルジャー二十人で屋内に潜む山賊をあぶり出す。適任は?」

「イアンという騎士が適任かと」

「任せる」

 ナーシェンはマントを翻し、周囲を見回した。

 空を舞う飛竜を目に止め、大声を上げる。

「フレアー! 敵の様子はどうなっている!?」

「ハッ。すでに敵は我が軍に気付き、村の北部に戦力を集めております。荷馬車を集めているのを見るに、撤退する準備を始めているのでしょう」

「敵わぬと見て退く気か。よし、フレアーはこのまま竜騎士を率いて敵の退路を断ち、本隊とタイミングを合わせて挟撃しろ」

「了解しました!」

 建物から槍で突かれた山賊が飛び出した。すでに絶命している。そのイアンという騎士、中々やりおる、とナーシェンは小さく微笑んだ。

 戦場は狂気。
 誰が言い始めたのかはわからないが、言いえて妙である。

 ナーシェンは軍勢が整うのを待っていた。

「全軍、準備が整いました。いつでも動けます」

「よし! 全軍突撃!」

 ナーシェンを先頭に、二十の騎兵が山賊を蹂躪していく。

 すでに逃げようとしていた山賊たちから戦意は失われていた。瞬く間に討ち取られていく賊を、竜騎士たちが追撃し、戦場はやがて沈黙していく。

 山賊80 対 正規兵120。

 戦にならないのは明白だった。


「……………」

 アーマーナイト軍団率いるスレーターは誰も来ない村で突っ立っていた。

「暇ですなぁ」


 こうしてナーシェンは初陣を飾ったのだが、事後処理に追われる際にバルドスに「まさか、戦場までお出でになるとは思っておりませんでした」と言われ「え? もしかして、戦に出なくてもよかったの?」と唖然としたという。



[4586] 第1章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:44
「あー……金がねえ金がねえ金がねえ」

 先日の山賊退治から二ヶ月。あの戦で兵士たちに報酬を支払ったため、財政が一気に圧迫される羽目になった。減税は上手く行っており、先日の山賊は包囲殲滅しているから、あと半年は山賊が出没することはないだろうが、だから何だという話だ。

 また父がパーティーをするとでも言い出したら、腹を切る覚悟で諌めなければならないだろう。

 それほど、財政が逼迫しているのである。

「やはり、宝物庫の剣を売り払うしか……いや、しかし首斬りは……」

 ブツブツと独り言をしているナーシェンを見て多くの侍女が気味悪がったというが、ひとりの侍女――先日のパーティーで庇い立てられた彼女が周囲の誤解を解こうとして、さらなる誤解を生んでいたりすることに、ナーシェンはまったく気付いていない。

 問題は、領内に主だった特産品が見当たらないということだ。

 武器生産は発達していると言えるが、これはベルン全土で言えることである。ベルンは鉄製の武器から銀製の武器まで、あらゆる武器が手に入る怖ろしい国なのだ。エトルリアが魔法の国なら、ベルンは武器の国といえるのである。

 まあ、それは今はあまり関係ないか。
 とりあえず、どうにかして、領内にある武器を売りさばけばいいのである。

 ナーシェンは目を細めて書類を睨み付ける。この領内の武器の需要は、はっきり言って供給とつり合っていない。職人たちが全力で働けば、多くの在庫が出るはずなのだ。その在庫が出ていないのは、買い手がいないことが丸わかりなため、職人たちがダラダラと仕事をしているからだ。

「街道の整備と関税の撤去が課題となるな……。父上はウンとは言わないだろうが……」

 他の領地、あるいは他の国から商人を呼び込める地盤を作り上げ、余剰生産を売り払う。その地盤さえあれば、領地は勝手に発展するはずなのだ。オスティアの発展理由はそこにあるとナーシェンは考えていた。

 道三や信長の楽市楽座に通じるものがある。

 だが、結果的に税収が増加すると言われても、父の石頭ではまるで理解できないだろう。

「あー、胃が痛むぜ」

 キリキリと痛み出した腹を擦っていると、突然執務室のドアが蹴破られた。

「ナーシェン様ー! 遊びましょうよ!」

「むぐっ――!」

 その声に、ナーシェンの胃袋から熱いものが一気にせり上がって来る。

 勘弁してくれ、と涙ぐむナーシェンの視界に映ったのは、八歳程度の少女だった。ファイアーの魔導書を振り回しながら執務室の机に飛び乗る少女。名前をジェミーという。

「お、おいっ! す、すみませんナーシェン様! 後で言い聞かせておきますから……」

「い、いや、構わないよ、ジード。私もそろそろ休憩しようかと思っていたところだ」

 先物投資のような感覚で金を出してくれそうな商人を頭の中でリストアップしようとしても、一人も名前が出てこないだろう。

 乾いた笑みを洩らす主君に、ジードは心底申し訳なさそうに頭を下げていた。
 そう言えば、この二人がやって来てからもう二ヶ月になるのか。

 ナーシェンはこっそりと当時のことを思い返す。


    【第1章・第4話】


 それは山賊退治の事後処理の最中の出来事だった。

 ナーシェンは例のごとく執務室でバルドスと顔を突き合わせ、金銭面の問題、中央の政治に夢中になっている父への報告、他の諸侯への政治的な配慮、村の復旧に出す人員、戦災孤児化した子どもたちの処遇などを真剣に話し合っていた。

 ナーシェンとバルドス、数名の書記官だけでは捌けないほどの仕事の山に、彼らは眩暈がして気を失うかと思ったと後に証言している。

 そんな中である。

「あのー、ナーシェン様を訪ねてきた方がいるのですが……」

「ああん? こんな忙しい時に誰だよ!?」

 激しく議論が交わされ戦場よりも鬼気迫った迫力のある光景に兵士は息を呑んだ。

「は、はぁ……。その、トラヒム侯爵家の騎士なのだそうで」

「トラヒム侯爵が?」

 ナーシェンは眉をひそめた。今回はただ山賊を追い払っただけである。他の領地でも頻発している出来事だ。わざわざこうして遣いを送ってくる理由がわからない。

「まぁ、とりあえず会ってみるか」

「ナーシェン様、お召し物は……」

「わかっている。先に着替えるよ」

 墨で汚れた服で侯爵家の者を迎え入れられるほどナーシェンは恥知らずではない。

 煌びやかな金の刺繍の入った赤い服の上からマントを羽織り、自室を出ると、控えていた侍女が客を待たせている部屋まで先導する。

「ナーシェン様、トラヒム侯爵家のお方がいらっしゃったそうですが……」

「ああ、そうみたいだな」

 そう言った時、ナーシェンは気付いた。
 先導していた侍女が、先日トラヒムに粗相をした者であることに。

「いや、わざわざ先日の失態を責めにきたわけではないだろう。代わりに差し出した着替えは、あの時トラヒム卿が着ていた物よりも高価なものだったからな。君の心配することにはならないだろう」

「そうですか……」

 侍女がホッと安堵するのをナーシェンは見ていなかった。トラヒム卿へ差し出した着替え一つがあれば二十人の兵士の報酬が払えるのである。無論、騎士ではなく一般兵の報酬であるが。

 そんな二人の様子を物陰から見ていた他の侍女が「身分違いの恋よー」とキャーキャー騒いでいたそうだが、それは二人の与り知らぬことであった。

 それはさておき、

「遅くなって申し訳ありません。私がナーシェンです」

「ほぅ。これはこれは。私はトラヒム侯爵の配下のイゼルドと申します」

 壮年の男――悪く言えばハゲ頭のオッサンだった。が、トラヒム卿と同じく歴戦の戦士といった様子で、その肉体は筋骨隆々の一言で表せる。若い頃はさぞモテたのだろうが、今ではただのオッサンだ。

「で、そのトラヒム侯の騎士が何の御用で?」

「それがですな、我が主君は今回の騒動に心を痛めておりまして、戦災孤児を当家で引き取ろうというのです。この世界はただの子どもが何の後ろ盾もなく生きていくには少々厳しい。心優しき主君はそのことを憐れに思い、こうして私を遣わした次第です」

「ほぅ。これはこれは、わざわざ遠路はるばるご苦労なことです」

 言いながら、ナーシェンは頬を引きつらせた。

 これは言ってしまえば慈善事業の押し付けだ。

 しかも、領内に居住している人々は領主――ナーシェンの父のものである。いくら孤児だからといって、それを自分たちに寄越せとは常識知らずな。他の領主なら渡りに船とばかりに押し付けてきただろうが、自分は違う。

 ナーシェンは膝の上で拳を握り締めた。

「そこまで民のことを思いやっているなら、さっさと減税したらどうです? 孤児を保護する余裕があるなら、まずは自分の民に慈善の手を差し伸べるべきでしょう」

「ぐっ……我が領内では公正な税金がかけられておりますよ。今さら減税などを行えば、ますます民を付け上がらせるだけです」

「公正な税金ですか。話は変わりますが、トラヒム卿は今年度に入って、すでに六回も軍勢を動かしているようですね」

「そ、それが何か!?」

 狼狽するイゼルドの顔を見ていると、なぜだかナーシェンは苛立った。

 ナーシェンは椅子を蹴飛ばしながら立ち上がる。

「生活苦から暴動を起こした民衆を付け上がっていると見るのはあなたの勝手だが、私はそのような輩に大切な民を引き渡すほど愚かではないぞ!」

「なっ、なぁっ!?」

 ナーシェンは怒りで顔を真っ赤に染め上げて息を詰まらせるイゼルドを鼻で笑い、彼の前から颯爽と消え去った。

 去り際に衛兵に命じておくのも忘れない。

「心優しきトラヒム卿がこのような厚顔無恥な輩を遣いに寄越すはずはない。こやつは騙りだ。さっさと屋敷から叩き出せ」

「了解しました」

「ま、まて! 私はトラヒム侯爵家の騎士だぞ!」

 人畜無害なそこらのオッサンの方がまだマシだ、と思いながらナーシェンは溜息をついた。


    ―――


「アウグスタ侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵の回答まで同じだとはな」

「トラヒム卿も節操がないですね」

 ナーシェンが吐き捨てるように言うと、イアンは同調するように笑みを浮かべた。

 まだ二十歳にも満たない騎士であるが、山賊退治の際には見事二十人のソルジャーを指揮し、屋内に隠れていた山賊を殲滅した功績を持つ。槍だけでなく剣の腕もそこそこ立つらしく、最近は外出の際には護衛として随伴させている。

 が、今日はただの外出ではない。

 二人はトラヒム卿の領地へ向かっている馬車に乗っていた。

「それで、トラヒム卿は何をしているんですか?」

「まだ確証はないが、孤児を使ってあくどい商売でもしているのだろうと目星を付けている」

「あくどい商売、ですか?」

「ああ」

 ナーシェンは景色を楽しみながら頷いた。

 そろそろ収穫の時期になる。太陽の光を浴びて黄金色に輝く麦畑は、この世のものとは思えないほど美しかった。

「子どもといっても使い道はあるんだ。貴族が使用人として買い取ることもあれば、売春宿が買いに来ることもある」

「それは、男子でもですか?」

「男でも使い道はあるんだよ。娼館を運営するにも男手は必要だ。それに、衆道もある」

 衆道という言葉に、イアンは「うへぇ」と呻いた。

「西方三島にも販路はある。そこに売り払われた子どもは鉱山で生涯を終えるだろうな」

「なんで……なんでそんなことが許されるんですか?」

 ナーシェンは両目を閉じた。

「誰も許しはしない。ただ、そこに需要があるだけだ」


 やがて、馬車がトラヒム卿の領地に到着する。

 ナーシェンは潜入させていた密偵と合流すると、トラヒム卿の屋敷の隠された入口から内部に忍び込んだ。貴族の邸宅には城塞のようなものもあるが、トラヒム卿の屋敷は簡素なものだった。無論、民衆の住居とは比べるべくもないが。

 さて、鬼が出るか蛇が出るか。

 そう考えながら忍び足で屋敷を歩いていると、真夜中なのに庭先から金属同士がぶつかり合う甲高い音がしていた。

「わかっていたさ……」

「ナーシェン様?」

「わかっていたんだ」

 トラヒム卿が本当に慈善事業のために孤児を引き取ったのではないことは、わかりきっていた。

 それでも、わずかに期待していたのだろう。

 だから、落胆しているのだろう。

「これが、この世界のやり方か」

 ナーシェンは拳を握り締める。

 庭先では、剣を渡された子どもたちが互いに殺し合っていた。



[4586] 第1章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/22 00:31
 早朝は剣を振るのが日課だった。

 だが、この日は違った。

「………………」

 朝日が昇る前から、ずっと頭を下げていたのだろう。いつからそこにいたのか、金髪の少年が地面に這いつくばり、みじめたらしく土下座していた。

「人を、斬りに行きます」

 小声で、されど決意の篭った声でそう言った。

「百人になるか、二百人になるか、それはわかりません」

 額が地面に擦り付けられる。血が滲むほど、擦り付けられる。

「もう、私に仕えろとは言いません。一度でいい」

 少年が顔を上げる。

「一度だけでいいのです! 一度だけ、私に力を貸してくれませんか!?」


    【第1章・第5話】


 雨が降っていた。秋雨に打たれながら、ナーシェンは邸宅の裏口の前で待っていた。邸内からは断続的に悲鳴が響き渡っている。この日、あの人は剣魔に戻った。

 ナーシェンは二十人ほどの決死隊を編成するつもりだったが、カレルはそれも断わった。

 ただ、鉄の剣が十本あればいい。それで、足りなくなることはないだろう。

 あの優しげだった顔を、氷のように変貌させながら、カレルはそう言った。

 やがて、靴音を響かせながら、カレルが戻って来る。

 その気になれば背後から急に現れることだってできるのだろう。あの男はその気になればナーシェンに気付かせず息の根を止めることができるのだ。だが、それが何だ。そもそも、剣とは人を斬るものだ。

 なるほど、そう言うことか。

「あなたは、自分は剣でしかないと考えているのですか」

「当然だろう。この身はただの剣。人を傷つけるだけのものだ」

 カレルは血に塗れた剣を鞘に戻した。

「件の子どもたちは地下牢に閉じ込められているようだ。道中の番兵は私が斬っておいた」

「恩に着ます」

 ナーシェンは邸宅に踏み込んだ。

 瞬間、ぶわっと血の臭いが風に乗って流れてくる。

「自分を卑下するの、やめておいた方がいいですよ。少なくとも、あの村で暮らしていたあなたはただの剣ではなかった。あの時のあなたは、鞘に納められていました」

「………………」

 返事はなかった。

 時々出くわす番兵も、そのすべてを出会い頭にカレルが両断した。

 生き残った屋敷の者たちも、恐怖に身を隠しているのだろう。

「うおおおおおぉぉぉぉぉ!」

 突然、壁が爆砕し、斧を構えた屈強な男が突撃してくる。

 ナーシェンはカレルが身を硬直させたのを見て取った。そして、男の得物を見てすべてを納得した。

 ソードキラー。対剣士用の斧である。

「………………」

 だが、カレルはそれ以上だった。

 空気のように気配を消し、風のように斧を躱すと、赤子の頭を撫でるかのように男の頭を切り落とした。

 サカの者たちは空が父、大地が母と教えられるという。

 己さえも自然の一部とする考え。それがあの剣なのだろう。


    ―――


 ジードはベルンとエトルリアの国境にある寒村で生まれた。特に特産物のない寂れた村だ。父は酒癖が悪く、母はそんな父に暴力を奮われても耐え忍んでいるだけだった。ジードはいつも、あんな家からはさっさとオサラバしてやると考えていた。

 そんな家が、戦争で蹂躪されたのはもう二年も前のことになる。

 あんな家族でも、愛着があったらしい。

 彼らが死んだ時は、それなりに涙を流した。それと同時に、どれだけ今までの自分が恵まれていたのか理解した。日々の食事に困らないいうことが、本当に幸せだったのだと気付かされた。

 たった一人の妹と一緒に、手を取り合って生活していくのは困難を極めた。

 だからだろう。あんな誘いに乗ってしまったのは。

『トラヒム侯爵は善良なお方である。侯爵の下で教育を受けた孤児は騎士として取り立てられている。女でも魔道士として活躍している』

 こんな、うそ臭い噂話でも、頼る物がなくなると、簡単に信じ込んでしまうものである。

 たしかに、日々の食事は出されたし、騎士としての教育を受けることはできた。ただ、毎日、同じ境遇の子どもと殺し合いをしながら戦う術を学ばされるというだけの違いがあったが。

 他の者に知られると都合が悪いため、寝床は地下牢である。

 まるで罪人のような扱い。だが、そのことだけは不満には思わなかった。ジードはここでしか妹と会うことができなかったからである。

「ここか?」

「ああ」

 短いやり取りの後、扉が蹴破られた。

 ジードは咄嗟に妹の身体を抱きかかえる。妹は寝ぼけた顔でジードの顔を見上げ、また眠りに就こうとした。慌ててその頬を叩くが、まったく反応を返してこない。

 日中、魔道士としての知識を叩き込まれているため、妹が睡眠を欲しているのはわかったが、この場合は致命的すぎる。

 ジードには先ほどからの悲鳴が聞こえていた。

 斥候としての役目も求められる竜騎士としての教育を受けてきた賜物である。ジードはわずかな物音であっても聞き逃さない聴力を獲得していた。

「人が生活する環境ではないな。酷いことをする」

「…………ああ」

 一人は金髪の少年だった。ジードとほとんど歳のほどは変わらない。

 もう一人は身も凍り付く殺気を放っている黒髪の男性だった。目を向けられただけで斬られたと錯覚するほどの殺気である。

「合計で二十三人。密偵の報告と数が合わない」

「別の場所にも地下牢があるのだろう」

「面倒なことをする」

「私は他の地下牢を探してくる。貴様はこの場を死守しろ」

「へいへい、っと」

 少年が肩をすくめた瞬間、男の姿が風のように消え失せた。

 瞬間、ジードの身体からドッと汗が噴き出してきた。

 何だ、あの男は。自分が百人いても敵う気がしない。

「お兄様……」

 その時、ジードは妹がいつの間にか目を覚ましていることに気付いた。
 恐怖に歯を鳴らしている妹を、ジードは深く抱きしめる。

 そんな二人の様子を、少年はジッと見つめていた。

「……あの剣魔、助ける側が怖がらせてどうするんだよ」

 そして、深々と溜息をついた。

 あの男を見た後では、この少年でさえ自分たちを助けに来た者だとは思えなかった。


    ―――


 あれから、ナーシェンは三十八人の孤児を引き取ることになった。騎士としての教育を受けていた者はとりあえず従騎士として取り立てておいたが、他の教育を受けていた者たちの処遇はまだ決まっていない。

 カレルは何処へと去って行った。カレルさえいればどんな死亡フラグでも叩き折ってくれるはずなのだが、本当に勿体ないことをした。ナーシェンはまた気が向いたら土下座しに行こうと考えている。

「ナーシェン様。始めますよー?」

 ジェミーの声に、ナーシェンの意識は現実に引き戻される。

「はい、ナーシェン様。カエルの丸焼きですよー」

 あ、なるほど。さっきの回想は現実逃避だったのか。

 ナーシェンはテーブルの上に乗せられた物体を見て納得した。

 八歳児の遊び――それも女子のものとなると『おままごと』が最初に来るのは自然と言える。

 が、本物のカエルの丸焼きがでてくるとはどういうことだ。

「あ、それはですね、ファイアーの魔法でじゅーっと」

「なんて残酷な! 子どもだからか? 善悪の判断がつかないのか!?」

「ナーシェン様、落ち着いて落ち着いて」

「ほら、お兄様の分もありますよ」

「ナーシェン様ぁ! 俺はこれから剣の稽古がありますので!」

「――っておい! ちょっと待てぇい!」

 ナーシェンは逃げ出そうとするジードの襟首を掴み、その口にカエルの丸焼きを押し付けた。号泣するジードの顔がキモかったのか、ジェミーはジードを指さして高笑いしていた。

 結局、ナーシェンも反逆のジードによりカエルの丸焼きを喰わされるわけだが。

「ナーシェン様!」

 見ると、顔を真っ赤にして走ってくる兵士の姿が。

「エリミーヌ教の司祭様が教会の建て直しのために寄付金を募っているそうですー!」

 瞬間、ナーシェンの脳髄が沸騰した。

「あんの生臭坊主ども!」

 ナーシェンは叫ぶ。カエルの骨を兵士に投げ付けながら。


 第1章 完



[4586] 第2章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/04/11 18:12
 クレインはナイフで封筒を開き、手紙を取り出した。

『拝啓、エレブ大陸は雪の降る季節になりましたがエトルリアは暖かいそうですね。羨ましいぞこんちくしょう。ベルンは小便が凍り付くほど寒いです。リキアやサカの寒さは息が白くなる程度だそうですが、イリア地方では冬将軍が到来し、今年も多くの凍死者を出すことでしょう。嘆かわしいことです』

 時節の挨拶に苦笑し、クレインは手紙を読み進める。

『ところで、私は野郎と手紙をやり取りしても楽しくないと思うのですがクレインはどうお思いでしょうか。毎回話題を探すのが面倒なので、部下に代筆させても構いませんか?』

「いやいやいや、友人への手紙を代筆させるなよ」
 思わず独り言が出てしまう。
 あいつらしい、とは思う。これがただの冗談ならまだ愛嬌があるのだが、あの友人なら本当にやりそうで怖ろしい。

「あっ、おにいさま! それ、おてがみ?」

「ああ、そうだよ。ナーシェンからの手紙だ」

「ナーシェンの? わたくしにもみせてー!」

 ごくごく自然な妹の言葉だったが、クレインはそれを聞いて頬を引きつらせた。

 間違った言葉遣いを連発している手紙を妹に見せるのは躊躇われる。

「いいかい、クラリーネ。人様の手紙は勝手に見たら駄目なんだよ?」

「かってじゃないよ。お願いしてるんだよ?」

 ぐっ、と言葉に詰まる。追い詰められたクレインは手紙を鍵のついた引き出しに仕舞おうとした。

 その直前に、続きの文面が視界に入り込む。

『ですが、今回は話題があったのでそれで残りのページを埋めてみようと思います。唐突なのですが、私ことナーシェンはエリミーヌ教会より破門されました』

「……………」

「おにいさまー? おにいさまー!」

 破門。

 妹の声が右耳から左耳へと通り抜けていく。

 エリミーヌ教会が。ナーシェンを。破門した。

「……はぁ!?」

『いやぁ、相変わらずふざけた宗教ですね。いきなり破門といわれても何が何やら。あの教会の司祭どもは頭が沸いているとしか思えないです』

 何が何やらわけがわからないのはこっちの方だ。
 ふざけているのも、頭が沸いているのもお前だろう。

『つきましてはヨーデル様に取り次いで貰えないでしょうか。
                   ベルンで最も美しい男ナーシェンより』


    【第2章・第1話】


 そこは、薄く雪の積もった平原だった。

「ここに、何があるというんですか?」

 イアンは辺りを見回し、拍子抜けといった様子で肩をすくめる。

 が、ナーシェンはそんな配下の態度を毛ほども気にせず、両手を広げて高々と叫んだ。

「わからないのか、この神立地を!? 二十キロ圏内に鉄を有する鉱山があり、付近に川が流れており、かつ地下水にも恵まれ、北部には良材の源になる森林が広がっている。ここに都市を造れば間違いなく発展するのだ!」

「はぁ、そうですか」

 ナーシェンは興奮しながらいかにこの土地が素晴らしいかを説明するのだが、イアンの反応は冷淡なままだった。おかしい。不思議に思ったナーシェンは眉を寄せる。

「ここ、エリミーヌ教会の私有地ですよ」

「………………………」

 荘園制、という仕組みがある。

 貴族や聖職者が土地を所有し、領民に貢納(税)を強いる体勢である。

 さて、エリミーヌ教である。

 この宗教は教会を建てれば、その周囲の土地を自分たちのものだと主張する奇妙な性質を持っている。

 この土地が荘園である。

 無論、エリミーヌ教の連中は教会を建てる際には、ちゃんと領主に許可を貰いに行く。司祭たちも許可が貰えなければ、その土地での布教は諦める(が、エリミーヌ教はエトルリアの政治に深く食い込んでおり、これが原因で政治的に不利になることはままある)。

 当然だが、村の中心に教会の建設許可を出す領主は存在しない。
 教会の周囲には村が出来上がっているが、これは後から移り住んだ者たちの集落なのである。

「え? ちょ、ここ、ただの原っぱだよ?」

「昔は教会が建っていたそうですが、戦争で更地になったそうです。野晒しにされていますが、正式な土地所有権はエリミーヌ教が持っています」

「んな馬鹿な!?」

 眩暈がした。ナーシェンはふらつき、へなへなと地面に座り込む。

「私の都市計画が……。ナーシェン様のナーシェン様によるナーシェン様のための街が……」

 ベルンの雪は、ちょっぴり塩辛かった。


    ―――


「却下、ですな」

 バルドスの第一声が、それだった。

「オスティアに比肩する大都市を造る、という着想自体は悪くない。ならば、別の土地を用いればいいでしょう。わざわざエリミーヌ教会と事を構える必要はありますまい」

「でもなぁ、別の場所となると、発展するまで十年はかかるんだよなー。あの場所ならたった八年でベルンの第二都市まで発展するんだぞ」

「二年しか変わらないではありませんか」

 その二年が問題なんだよ、とナーシェンは心の中で舌打ちする。

 国が富めば兵も強くなる。強力な軍事力にはとにかく金がかかるのである。

 たった二年というが、この二年は大金よりも貴重な時間なのだ。時は金なり、である。ゼフィールが世界征服に乗り出すタイミングがイマイチわからないが、軍備が整わないまま泥沼の戦場に送り出されるのは勘弁である。

 言わば、ナーシェンの都市計画は『生き残るための富国強兵』を目的としているのであった。

 なおも食い下がろうとするナーシェンに、バルドスは無情に言い放つ。

「どうしてもと言うのなら、家督を継いでからにしなされ。今はまだ、この領地はナーシェン様のお父上のもの。あなたは、代理なのです」

「………………」

「ご自重下され。エリミーヌ教と事を構えたとなれば、首都にいるお父上はどうなるとお思いですか。事は国家問題にも成りかねないのです。ゼフィール様は侯爵家の当主といえども場合によっては切り捨てますぞ」

 バルドスはどこまでも正論だった。反論の余地はどこにも見当たらない。

 事実、ナーシェンは先走りすぎていた。

 悔しいが、今のナーシェンは無力だった。

「そうか」

 ナーシェンは目を閉じた。

「ジェミーちゃんファイアー!」
「ぬぅぅぅぅおぉぉぉぉおおお――っ!」

 動機は不純だが、この都市計画は決して独り善がりなものではなかった。自分だけではなく、領民すべてが幸せになれる。そんな街を造りたかった。そんな街を造るつもりだった。

 だが、それもただの善意の押し付けだったのかもしれない。

「すまなかった。言われるまで気付かなかったよ。どうやら、私は――んなぁ!?」

 ――勘違いしていたらしい、と続けるつもりだった。
 目を開いた時、目の前のバルドスが真っ赤に燃え上がっていたのである。

「ふんぬぅぅぅぅぅ―――っ!」

 老将は便所で力んでいる時でも出せない壮絶な唸り声を上げていた。

 ナーシェンは仰天して椅子からずり落ちる。

「な、ななな何事だぁっ!?」

「あ、やっと気付いた」

「じぇ、ジェミー!? お前は何をやってるんだよ!?」

 叱るべきか、それとも爆笑すべきか、よくわからない光景にナーシェンは混乱しながらもジェミーに問い質す。ジェミーは悪びれた様子もなく、燃え盛る老将をサンダーで吹き飛ばしながらこう答えた。

「だってこの人、ナーシェン様をいじめてたじゃない」

「いや、いじめるってね、君……」

 家臣に虐められる主君って何だろう、とナーシェンは思った。
 いや、正しくはバルドスはナーシェンの父親の家臣であって、ナーシェンの直臣ではないのだが。

「まぁ、いいか」

 ナーシェンは嘆息する。
 火達磨になったバルドスを見ていると何もかもが馬鹿らしく思えてきた。

「ふははははっ、あの生臭坊主め。今に見ていろ!」



[4586] 第2章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:55
 バルドス率いるソシアルナイト隊、フレアー率いるドラゴンナイト隊、スレーター率いるアーマーナイト隊。この日、ナーシェンの邸宅に、騎士に叙勲された者と、その騎士に指導を受けている従騎士が集まっていた。

 場所は庭先である。

 そこには、なぜか幾つものテーブルが並べられていた。

 騎士たちは整列し、テーブルの上に飛び乗った主君を仰ぎ見た。

「諸君」

 この少年の声は、なぜだかわからないがよく響くのである。先頭の者から最後尾の者まで、すべての者がその声に耳を傾けた。

「これより私が言うことを三回復唱せよ」

 どのような重要なことを言うつもりなのだろう。騎士たちはゴクリと生唾を飲み込んだ。
 身構える騎士たちに、ナーシェンはこう呼びかける。

「ナーシェン様は美しい」
「「「………………」」」

 無反応。
 ナーシェンは額に青筋を浮かべ、傍らの少女に声をかけた。

「ジェミー」

「はーい」

 その言葉を待っていたのか、少女はファイアーの魔道書を振り回しながらテーブルに飛び乗った。

 瞬間、すべての騎士が身を竦ませる。

「「「ナーシェン様は美しい!」」」

「「「ナーシェン様は美しい!」」」

「「「ナーシェン様は美しい!」」」

 異常な光景だった。だが、それも仕方がないことだ。

 先日のバルドス丸焼き事件はまだ彼らの記憶に新しい。かつては寡兵でエトルリアの軍勢を何度も退けてきたバルドス。その用兵ぶりから『鬼謀の男爵』と恐れられていたが、先日の事件以来、その異名で呼ばれることはめっきり少なくなった。

 今では『火達磨男爵』である。ナーシェンが爆笑しながらそのことを伝えると、当人は相変わらずの冷たい眼差しのまま「左様ですか」と答えたという。が、流石の彼も怒りを隠し切れず、眉間をピクピクと痙攣させていた。

 竜騎士隊に混じってその光景を見ていたジードは、所在なさげに肩を落とした。

「俺の妹って、何なんだろう……」

 八歳の幼女である。


    【第2章・第2話】


 ナーシェンは騎士たちを睥睨してから、こう呟いた。

「アーマーナイト隊の連中が、最もやる気を感じさせなかった」

 残念そうに溜息をこぼし、ナーシェンは背後を振り返る。

 そちらでは侍女たちが整列し、ナーシェンの命令を今か今かと待っていた。

「記念すべき犠牲者第一号はスレーター、君に決めた」

 その声を聞いた侍女のひとりがスレーターの前に進み、ティーカップを差し出した。

 スレーターは不審げに眉をひそめながらカップを受け取る。

 飲めばいいのか? と首を傾げるスレーターに、侍女はにっこりと微笑みながら頷いた。

「ふむ、では失礼して……ぬっ」

 違和感は口にした瞬間に広がった。スレーターの指先から力が抜け、カップが地面に落下する。

 がしゃん、と重たい音がした。

 ナーシェンは地面にぶっ倒れたアーマーナイトを眺め、顎に手を当てた。

「ふむ。まぁ、予想通りといえば予想通りだな」

「麻酔の原料になる薬草から作った茶ですから」

 侍女のひとりが残念そうに呟く。件の侍女である(説明するまでもないだろうが、トラヒム卿の以下略)。

 彼女の村では薬草の調合が盛んなのだそうだ。その代表的な産物が『きずぐすり』である。こちらの世界でも漢方に似た文化が存在しているらしい。

 そんな彼女の知恵を借りて、領内からありとあらゆる植物を集め、とりあえず茶にしてみた。

 ここに集められた騎士および従騎士たちは、その毒見および実験台だった。

「アーマーナイト隊整列。これは美味い茶が見付かるまで続けるからなー」

 瞬間、すべての兵士が回れ右をした。

「ジェミーちゃんサンダー!」

 そして阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれる。

 感電してぶっ倒れた騎士たちの図、復活した兵士たちが順番に侍女たちに毒茶を盛られる図、本気でゴートゥーヘルしかけている騎士が山のように積み重なっている図。

 ジードは涙を浮かべながらこう言った。

「もうやだ……この騎士隊……」


    ―――


 エレブ大陸には茶の文化は広まっていない。食の細った病人が飲む薬湯に中国茶に似たものがあったが、趣向品にはなっていない。

 ナーシェンは前の世界の紅茶のようなものがあれば、必ず流行すると考えた。

 前の世界で千年以上も愛されてきた飲料なのだ。

 ナーシェンは「これが人の業というものか」と中二病っぽい台詞を呟きながら、ようやく見つけ出された茶葉を眺めた。山奥の水の綺麗な場所に生えるススキに似た草である。発酵させても楽しめるという、ぶっちゃけ紅茶と同じ葉っぱだ。

 もう名前も茶にしてしまおう。青いものは緑茶、発酵させれば紅茶。その方がややこしくない。

「君たちの犠牲は忘れない……」

 犠牲になった騎士たちも、燃え滾る憎悪の心を忘れないことだろう。

 それはさておき、ナーシェンはどうやってエレブ大陸全土に茶を広めるか考えることにした。

 まずはやはり、茶葉に等級をつけて差別化を計るべきだろう。

 貴族や神官などの高値で、かつ継続的に購入してくれるであろう優良顧客の茶葉と、庶民が気軽に手を伸ばせる価格帯の茶葉に分ける。こうすることによって、ただの貴族趣味には終わらせず、全体的な利益の底上げを狙う。

 その前提として、大規模な農園を用意する必要がある。

 著作権や特許などの概念が確立していない大陸では、茶産業の独占は難しい。そのため、市場競争に打ち勝つことを考えなければならない。貴族用の商品は品質を、庶民用の商品は低価格を実現させるための最も簡単な方法は、管理された大農園を運営することである。

 こうして得られた利益は都市計画の予算に回される。

 投入できる資金が増えれば、神立地でなくても発展速度を上げることもできるはずだ。

「うん、我ながら完璧な作戦」

 ナーシェンは自画自賛し、金のなる木に見えてきた茶葉に頬ずりした。


    ―――


 エレブ大陸南西のミスル半島。茫洋たる砂漠に覆われており、ほとんど人の住めない大地の深部に、大賢者アトスが造り上げた『理想郷』があった。

 人と竜が共存するナバタの里。

 だが、今となっては竜と呼べる者はたった一人を残すのみである。

 人と竜との決戦で神将器と竜の膨大な力がぶつかり合い、世界を崩壊させるほどの力が秩序を崩壊させ、世界は竜にとって生き難いものになってしまった。竜石がなければ竜の姿を取ることができなくなった。

 秩序の崩壊で戦う力を失った老人は、砂嵐の中を歩いている少女を見つけた。

「また、外を出歩いておったのか?」

「……はい」

 物静かな少女である。

 老人は自分が話しかけなければ、この少女が何も話さないことを知っていた。

「たしか、『闇』だったか?」

「……あ、はい。半年ほど……前から」

「その『闇』はまだ変わっておらんのか?」

「はい……。ずっと暖かい『闇』のまま……。『闇』なのに……暖かい……」

 老人にはよくわからなかったが、この少女は何か特別な力を持っているのだという。

 半年ほど前、彼女は遥か遠くで『闇』が生まれたと呟いた。『闇』とは不吉な、と老人は思ったが、少女はその『闇』について語る時、普段よりも楽しそうにしていた。

 表情も言葉も普段のものと何ら変わりないのだが、老人にはわかった。付き合いだけは無駄に長いのである。

「その『闇』が我らに安息をもたらしてくれればいいのじゃが……」

 老人の脳裏に浮かんだのは、封印された一人の少女だった。



[4586] 第2章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:54
「皆さん、今日もお勤めご苦労様です」

 痩せ細った男だった。眼窩は落ち窪み、頬骨は出っ張っており、おおよそ法衣というものが似合わない男である。そんな男が聖堂の檀上に昇り、集まった者たちに聖書からの引用で生き方を説くのが、この男の仕事だった。

 サウエル司祭。

 男は人々にそう呼ばれている。

「聖女エリミーヌは病気の老人を見てその御心を痛められ、杖を一振りしました。すると、どういうことでしょう。足腰が弱っていて歩くことすらままならなかった老人が、スッと立ち上がったのです。多くの者が彼女の杖を欲しがりました。エリミーヌは悲しそうな顔をしながら『この杖は己自身には使えないのですが構いませんか』と言いました」

 男がライブの杖の由来を語っている時だった。

 聖堂の扉が音を立てて開かれた。

 サウエルの眉がしかめられる。

 遅れて入ってきた村人の女性は、罰の悪そうな顔をしながら椅子に座った。

「アンナ」

「は、はいっ!」

「時間に遅れても神への祈りを忘れなかったことは評価します。ですが、神はあなたの怠惰の心に気付かれたことでしょう。ああ、嘆かわしいことですが、私は今、あなたから神のご加護を感じることができないのです!」

 痩せ細った男に饒舌に語りかけられ、女性はビクリと身をすくませた。

 そして、おずおずとサウエルに質問する。

「し、司祭様。わ、わたしの神のご加護が失われたのですか?」

「残念なことですが……。神は信仰の念を失った者までお救いになられるほど寛容ではありません」

「わ、わたしはどうすれば……?」

 不安そうな顔をする女性に、サウエルはニコリと微笑んだ。

「ここに、一枚の札があります」

 それは、ただの木彫りの板であった。

「私が神に祈りながら彫った物です。この札を持っている間は、あらゆる厄災があなたを避けて通ることでしょう。その間に、時間通り教会に通いなさい。そして、神に祈りなさい。神は必ずや救いを求めているあなたを見つけられることでしょう」

「はい! ありがとうございます!」

 サウエルは女性に札を差し出しながら、こう言った。

「はい、一口三百ゴールドになります」

「……はい?」


    【第2章・第3話】


 密偵の報告に、ナーシェンは形のいい眉に皺を寄せた。

「それは事実か?」

「はい。村人に聞き込みを行いましたが、司祭の口車に乗せられて札を買わされた者は軽く二百人を越えています。ターゲットは庶民から商人まで、節操がないですね」

「そんなになるのか……」

「司祭は総額で十万ゴールド以上の利益を上げているようです」

「………………」

 ナーシェンは呆れ果てた。

 領地にある教会がたった一つということも原因なのだろう。サウエルの教会は、領内の信心深い者が集まる場所になっていた。

 サウエルは聖職者としては凡庸な人物のようだが、詐欺師としては一流のようだ。

 要するに、免罪符である。やり方は中世欧州で流行し、ルターがぶち切れて別宗派をつくる原因になったものと変わらない。何がこの符を買えば神はあなたをお許しになりますよー、だ。サウエルがやっていることは信仰に対する冒涜である。

 たしかルターはカソリック教会から破門されたのだったか。

 ナーシェンは密偵に数枚の金貨を渡してから退室させ、バルドスに目を向けた。

 話を聞いている間、この老将は口ひとつ挟まなかった。

「騙される方も悪いと思いますがね」

「お前ならそう言うだろうと思っていたさ……」

 不器用な男である。

 事が露見したのは、病気の者を抱える家から餓死者が出たからだった。サウエルは薬代を稼ぐために教会に通えなくなった者にまで札を勧めたのである。薬代と免罪符代の二つから追い詰められた一家は満足な食事を採れなくなり、餓死者を出すまでに至った。

 その報告を聞いて最初に不審に思ったのはバルドスである。

 彼はまず備蓄してあった兵糧を解き放ち、村人の飢餓を解消させた。これはナーシェンのものではなく、バルドス自身の資財を投入してのことである。

「ともかく、費用については後でまとめて提出してくれ。村への救済費は当家で負担しよう」

「いえ、ですが……」

「勝手にやったことと言って部下の働きに報いなければ私の名に傷がつくからな」

 信賞必罰は公正に行われなければならない。

 それを聞いて、バルドスは表情を笑みに歪めた。

「不器用ですなぁ」

「お前ほどではないさ」

 二人は苦笑する。主君も主君なら、部下も部下だった。

「しかし、やはり、露見するのが遅れたのは減税の所為か?」

「おそらくはその通りかと」

 ナーシェンの減税政策が上手くいって、それまでその日の食料に困窮していた人々の生活に、若干の余裕が出てきたのである。サウエルの免罪符は、その隙を見事に突いていた。

 絶妙なのは三百ゴールドという価格設定である。お遊びの気分で手を伸ばすには高価すぎるが、それで救いを得られるならまだ良心的かな、と思えるような価格帯。

 ナーシェンは紙にインクにひたしたペンを走らせた。

「各村に早馬……いや、飛竜を飛ばして、これと同じ内容を掲示してくれ」

「はい、わかりま……え? これは……」

「さぁて、今日は忙しくなるぞ! 暇を持て余している騎士は集まれー!」

 執務室を飛び出していく主君の背中に、バルドスは正気かと疑う目を向けた。

「一体あのお方は何をなさるつもりなのだ?」

 それに答える者はどこにもいなかった。


    ―――


 村々へ領主が何かを通知する時は、通常は馬に乗った見習い騎士が派遣される。

 だが、今日は竜騎士が派遣された。

 竜騎士が派遣されるのは、敵軍が攻めてきた時など、急を要する場合だけである。なので、すべての村人が恐怖にすくみ上がり、大急ぎで広場に集まった。中には家財道具をまとめてきた者さえいるほどである。

 大抵の村には広場があり、その隅っこに掲示板が設置されている。

 ジードは大勢の目に見つめられ、緊張しながら村の掲示板にその紙を張り出した。

 その文面を見た村人たちは、一様に眉をひそめた。

『諸君。私はベルンで最も美しい男ナーシェンである。突然だが、私はサカ教に改宗することにした』

 意味がわからない。まったく意味がわからない。

「おい、わざわざ竜騎士まで飛ばしてこれは何だ!?」

「い、いや、俺に聞かれても……」

 村人が締め上げる勢いでジードに掴みかかる。

 その時である。

 総勢二十騎の騎兵が、広間に突撃した。

 敵の軍勢と早合点した村人の間から悲鳴が上がる。

「やあやあやあ! 諸君! 黄色い悲鳴を上げてくれて私は嬉しいぞ!」

 その先頭にいるのは、ジードの主君だった。

 ……何をやっているんだ、あの人は。

 ジードはナーシェンから貰った頭痛薬を口に含んだ。ちなみに、この薬はある侍女が処方したものだそうだ。ナーシェンは頭痛薬と胃薬を常に携帯しているらしい。

 ジードはこの薬を貰う時、主君に「頭が痛いの? ならこれを飲みなよ」と言われ、「あなたが大人しくしてくれれば、俺はこんな薬に頼らなくて済むんですがね」と思わず嫌味を吐いてしまった。普通の領主なら処断されるべき言動だが、最近はどの騎士からも容赦がなくなってきている。

 行動は意味不明なナーシェンだが、意外なことに村人からの風当たりは弱かった。

 まことに納得のいかないことであるが、ナーシェンは為政者としては有能だった。画期的な減税政策は言うまでもないだろう。そして、すべての領主が有している裁判権だが、ナーシェンはそれを濫用することは決してなかった。領民の問題を、公正かつ納得できるやり方で裁いていった手腕は、熟練の能吏に匹敵すると言われたこともあるそうだ。

「善良なる私の民よ! 私は今朝、非常に残念な報告を聞かされた!」

 ナーシェンは声を張り上げる。

「エリミーヌ教のファッ○ン坊主のことである! 私も未だに信じられないのだが、サウエル司祭は邪神を信奉しているロプト教の信者だったのだ! あやつは夜な夜な村を徘徊し、邪神に捧げるための生け贄を探しているのである!」

「いや、ロプト教って何だよ」

 ボソリとこぼしたジードの言葉は、村人の総意だった。

「私はうんざりした。もうエリミーヌもロプトもクソ喰らえ、と思った。そして、ならいっそのこと神なんて信じなければいいんじゃね? ということに思い至ったのだ!」

 馬から降りて両手を広げるナーシェンに、すべての目が注がれる。

 だが、ナーシェンは欠片たりとも動じない。

「サカ地方では空を父、大地を母と考えているそうである。日の光と月の影、そして万物の理、風、雷、炎、氷。この世に生まれた者はいずれかの加護を受けて生まれるのである。これがサカ教である。この宗教の便利なところは、お祈りなどをせずとも心の内で信じればいいというお手軽さ。そして何より、金がかからないというところにある」

 ナーシェンが背後に控えていた騎士たちに目配せする。

 二人の騎士が剣を抜き、低くしゃがみ込んだ。

 分厚い手袋をした二人の騎士が、剣の切っ先を握りこむ。

「私はサカ教に改宗し、エリミーヌ教の神の加護を失った。だが、神の加護がなくとも、空が、大地が、あらゆるものが私を厄災から守ってくれる」

 ナーシェンは呟き、裸足になって刃の上に足を乗せ、両手を広げた。

 固唾を呑んで演説に聞き入っていた村人たちから悲鳴が上がる。ナーシェンは「だから、黄色い悲鳴を上げないでくれたまえ」と苦笑しながら、剣の上に直立した。

「見たまえ! サカ教に改宗すれば、このようなことすらできるようになるのである!」

 ナーシェンはこの後、熱心なエリミーヌ教信者に「君はもうサカの教えを信じ始めているな?」と言い、同じことをやらせてみせた。これを見せられた村人たちは、段々とエリミーヌ教から離れていくことになる。

 包丁を腕に当てて「ほら、切れませんよ?」と言うようなものだったが、すべての村人が騙された。かく言うジードですら「ナーシェン様すげぇ!」と賞賛したという。ぶっちゃけ、前の世界では使い古されて笑いの種にすらならない詐欺の手法なのだが。

 詐欺師としての器は、サウエルよりもナーシェンの方が大きかったらしい。



[4586] 第2章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:45
 早朝。

 元の世界でいう六時頃、竜騎士たちが空を舞い始める。飛竜は繊細な生き物で、馬厩に押し込んでいるとストレスで弱ってしまう。戦闘で酷使しても潰れない飛竜を作るために、運動させておくという意味もある。

 それに付き合わされる竜騎士も気の毒だなー、と思いながら、ナーシェンは領主館の庭を横切った。

 空中の騎士たちから「あ、ナーシェン様だ」「ナーシェン様ー! 今晩お酒でもどうですか?」「もちろんオゴリで」「朝から気が早いな、お前ら……」などという会話が投げられ、ナーシェンの額に青筋が浮かぶ。

「美しいナーシェン様ー、お酒くれー!」
 美しいと言えば何でも許されると思っているのか、貴様らは。

「こいつら、まだ対弓兵訓練が足らなかったようだな」
 竜騎士特有の地獄耳でナーシェンの呟きを聞き取った竜騎士たちが「うげっ」と潰れたカエルのような声を出し、四方に飛び去った。

 エレブ大陸では重要な位置を占める航空戦力である飛竜や天馬であるが、それらは総じて弓矢に弱い。翼を穿たれてしまえば、あとは落下するだけである。しかも、竜騎士や天馬騎士は重たい鎧を着込んでいる。落馬するよりも死ぬ確立は高いのである。

 自然、対弓兵訓練には気合が入るのだが、この訓練が地獄だった。

「ふん、軟弱者めが」

 ナーシェンはしてやったりと笑みを浮かべるが、その瞬間、拳大の塊が高速で迫り来るのを見て表情を変えた。

 飛竜のフンである。

「のわぁぁぁぁぁぁ!」

 クソ塗れになったナーシェンを、フンもしたたるいい男と騎士たちが賞賛し、ナーシェンが対弓兵訓練を言いつけるのは半刻後のことだった。

 それから、朝風呂に入ったナーシェンは衣服を整え、再び庭を横切り、領主館の隣に建てられた大きな木造建造物に入る。外から見れば穀物子のようである。その入口に、百人前後の人々が集まっていた。年齢は十二歳から五十歳まで様々だった。

 時刻は、八時頃である。

「おはよう諸君。今日も寒いが二度寝して遅刻した者はいないか?」
 集まっているのは地元の農民たちだった。

 朝の農作業を終えて、それからやってきたのだろう。土で汚れている者が多い。

「そろそろ皆も一ヶ月、ここで働いていることになる。もう仕事には慣れただろう。だが、詰まらないミスが増えるのはこの時期だ。気をつけてくれ。あと、風邪が流行っているようだが、体調が悪い者は手遅れになる前に言ってくれ」

 むしろ、周りの者にうつす前に休むこと、と伝える。
「では今日も一日頑張ってくれ」

 ナーシェンがそう言うと、彼らは礼をして各々の持ち場に散っていく。

 ここは、いわゆる製紙工場だった。
 製紙工場といっても植物の繊維を剥いだり、それを鍋で煮込んだり、網に広げたりする作業を分業するための建物で、設備費は微々たるものである。だが、集団で分業することで、生産性や品質が大きく向上する。

 この時代、紙は貴重品だった。
 だが、製紙法はすでに編み出されているのである。それでも普及していないのは、現在の国家体制に原因がある。

 前の世界でも多くの権力者が行っていた専売制――紙や塩などを政府が買い上げ、莫大な利潤を上げる方法である。紙はこちらの世界では税(貢納)として紙を徴収しているので、集団分業という概念が生まれておらず、生産性が著しく悪い。

 家庭内製手工業と工場制手工業の差である。

 ナーシェンは製紙こそ国を発展させるものだと考えている。

「封建制の完成は少数のサディストと多数のマゾヒストで構成される……ってシグルイに書かれていたけど、俺はノーマルだからな。ロリコンでもないからな」
 とはナーシェンの言い分である。

 だが、悪政を布けばゼフィールに始末される恐れがあるからというのが本当の理由だった。誰だって死にたくはないものである。


    【第2章・第4話】


 無人の聖堂では、ひとりの男が床に跪いていた。
 両目を閉じ、両手を固く結んで神に祈り続けているその姿は、まさに敬虔なる神の教えの体現者というべきものであった。

「神よ。私はどうすればいいのですか……?」
 答えのない懇願。

 人は道に迷った時、神頼みする。
 それは、サウエルとて同様であった。
「おお、神よ……」
 サウエルの両目から水滴がこぼれる。

 かつては金稼ぎの道具としか考えていなかったエリミーヌ教だが、サウエルは今、心の底から救いを求めていた。

 が、時すでに遅し。

 すでに領内には「サウエル司祭はロプト教の信徒で、夜な夜な生け贄にすべく若い女子を探し回っている」や「サウエル司祭は幼い子どもを邪教の尖兵にすべく拉致している」などといった噂が流れてしまっている。

 謂れのないことであったが、領民の大半はこの根も葉もない噂話を信じてしまっていた。

 無人の聖堂が、彼の行動の答えであった。
「サウエル」
 その時、無心に神に祈り続けるサウエルの背に、しわがれた老人の声がかけられる。

 振り返り、その人物を確認したサウエルの瞳が、希望に輝き始めた。
「オルト司教!」
 金糸が織り込まれた、豪奢な法衣に身を包んだ老人である。老齢でありながら背筋は伸びており、頭髪は雪のように真っ白であったがまだ豊かであった。
「聞いて下さい、オルト様! 偉大なる神の教えを信奉する我らの民が、あの忌々しい侯爵家の小倅の言葉に誑かされてしまいました!」
「聞いている、サウエル。大変だったようだな」
 老人は残念そうに溜息を吐く。

 オルト司教。エリミーヌ教会に属する、五人の司教の内の一人である。
 司教の権力は大貴族に勝るとも劣らないと言われており、事実、司教はベルン・エトルリアの両国に影響力を持っていた。

 子飼の神官、司祭は数知れず、サウエルも司教の派閥に属していた。
「しかし、残念だ。金になりそうな領地だったのに、本当に残念だ」
「オルト様?」
「……サウエル。お前、エトルリアの中央教会に釈明に行ったら、そのまま謹慎していろ」
「オルト様!? 私は……私は……っ!」
 オルトはサウエルから背を向ける。

 新たに現れた鎧を着た兵士(教会の兵士は要人の警護や教会の警備に用いられ、僧兵といわれる)がサウエルに槍を突きつける。オルトはかつての腹心が拘束されるのを冷めた目で眺めた。
「本当に、残念だ。君は金になる部下だったのだがね」

 サウエルから司教に流れ込んだ金の額は、二人しか知らないことだった。


    ―――


 昼間。

 どこぞで陰湿な策謀が練られていても、ナーシェンの日常は変わらない。

 内政の中枢を司るバルドスが、現在、ナーシェンの父親に呼び出されて王都に向かっているため、その分の仕事がナーシェンに圧し掛かっていたりする。
 物凄く忙しい――はずなのだが、ナーシェンはまったりと茶をすすっていた。

「………はぁ……………」
 ナーシェンは書面を眺めながら溜息を吐いた。
 元気がない、と言えるだろう。

 ここ半年、精力的に政治に参加してきたナーシェンは、弱音も泣き言も言わなかった――わけはなく、何か起こる度にひたすら身内に愚痴り、泣き付いていた。だが、人前では決して表情の陰りを見せたことはなかった。

 憑依して半年。
 ナーシェンは確実に精神的に参っていた。

 平和な国、日本のしがない学生だった男である。
 山賊団を殲滅したり、罪人に死刑を言い渡していれば、心が病んでも仕方がないのかもしれない。
 生き残るために必死で、原作の流れなどを意識している暇がない。
 ひたすら我武者羅に現実と立ち向かい、ただひたすら疲れていた。

 溜息がひとつ。
 ナーシェンは書類に目を向ける。だが、中身が頭に入ってこない。

 ふたつ目の溜息。
 今の生活に欠けているものがある。それはもう、ナーシェンは理解していた。

 ――米、醤油、味噌。

「麦を炊いてみたけど何かが違うんだよなぁ……」
 ひとまず米である。大豆は後回しだ。

 ナーシェンは思い返す。茶葉を探す時に、領内に自生している植物を調査しているが、米のような植物は見付かっていない。
 小麦はあるのに、米がないとはどんなだよ。
 これがファンタジー補正なのか。

「ま、ともかく、溜息を吐いていても米は見付からないか」
 不毛な考えを打ち切り、書面に目を戻す。

 そこには製紙工場の収益が書かれていた。
 二枚目の書類には、そこから捻出した費用で製糸工場を建築する計画についての報告が記されている。
 三枚目に茶の農園、四枚目に街道の整備計画についてが記載されていた。

 一枚目が最優先、四枚目が後回しにするものである。
 だが、同時に遂行していかないと間に合わないだろう。時間は有限である。ナーシェンは書類を脇に抱えながら立ち上がった。

 瞬間、視界がぐにゃりと歪み、膝から力が抜け落ちる。

「う……こ、これは……」
 ナーシェンはふらりと壁によりかかり、そのまま床にずり落ちた。

 そして、耳鳴りと同時に視界が暗転する。
 貧血の症状だな、とナーシェンは冷静に自己分析していた。あと数秒で気絶するだろう、と確信できた。これは、本格的にやばそうだ。

 憑依して半年。
 一日も休まずに働き続け、気が付けば十三歳の誕生日を過ぎていた。

 つまるところ、過労であった。


    ―――


 ナーシェンが倒れてから半日後、エリミーヌ教会から使者がやって来て、次のような文書を叩き付けるように置いていった。
 その内容を要約すると――、

・サカ教に関するすべての発言を撤回すること。
・サカ教の存在を否定し、領民に触れ回ること。
・エリミーヌ教会に多大な迷惑をかけたことを自覚し、五万ゴールドの賠償金を支払うこと。
・以上のことが七日以内に実行されなかった時、エリミーヌ教会はナーシェンを破門する。

 ということである。
 ナーシェンはこの後、熱っぽい身体に鞭打ってエトルリアの知り合いに手紙を送った。手紙をしたためている最中は意識が朦朧としていた為、ナーシェンは手紙を出したことすら忘れてしまっていた。



[4586] 第2章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:51
 ベルン北部はイリア地方に近いことからわかるように、穀物の生産に向いていない土地である。

 冬になれば大雪が降り注ぎ、年によっては夏場に冷たい風が吹きつける。

 収穫高が少なく、かつ二毛作もできない。

 だから、ベルン北部はあまり発展していなかった。

 そのため人口が少なく、近隣の領主も地図上の土地の広さに相応する軍事力を持っていない。広大な領地を持っている侯爵が、わずか百ばかりの兵士しか擁していないということも、ままあることだった。

「静かなところですね……」

 街道を行く馬車に揺られていた初老の男が、ボソリと呟いた。

 エリミーヌ教の司祭の法衣を着た、六十歳前後の老人である。柔和な目をした、人当たりのよさそうな顔をしていて、司祭というある種の権力者というより、孫の面倒をみているご隠居といわれた方が不思議と納得できた。

 エリミーヌ教の司祭、ヨーデルである。

(兵隊の居ない街ですか……)

 それが、果たしていいことなのか、ヨーデルは両目を閉じて考える。

 兵士がいなければ民が圧迫感を感じることはないだろう。兵がいなければ戦は起こらない。

 なら、それで良いのか――といわれると、ヨーデルは素直に頷けない。

 兵がいなければ賊が増える。

 余所では治安を維持するだけで手一杯の領主もいるほどだ。

(そう考えると……)

 この領地では良心的な政治が布かれているのだろう。人々の顔に生活の苦しさは浮かんでいない。

 しかも、各村の入口には帯剣した青年が見張りをしており、村に入る者をチェックしている。

 武器を持てるほど人々の生活に余裕があるのである。

 民衆が賊と化すのを恐れて自警団の編成を許可していない領主もいるというのに、ここの領主は随分と寛容なようだ。

 この土地を治めているのは現当主の息子、ナーシェンである。

「ただのうつけ者ではないようですね……」

 大陸中の情報が集まるエトルリアでは、とんでもない噂が流れてきている。

 曰く、ナーシェンは剣を弾き返す鋼鉄の皮膚を持っている。

 曰く、ナーシェンは麻痺毒のお茶というブレスを吐き出す。

 曰く、ナーシェンがひと睨みすればどんな幼女でも篭絡されてしまう。

 そんな眉唾物の噂話から、信憑性のありそうな噂話まで、様々な話題がエトルリアの首都に供給されている。

 歴史を紐解いてみればわかるのだが、エリミーヌ教会から破門された者は少数だけだが存在している。

 大抵は『教会の身内の不正を裁くための処置=破門』となっている。

 破門されたのは主に街娘を強姦した神官や、光魔法で罪のない人々を傷つけた司祭である。

 当然、民から金銭をむしり取るのも、破門の対象になる。

 だが、破門状は教会の部外者であるナーシェンに叩き付けられた。

 ――普通ではない。

 そう思わせる何かを、ヨーデルは感じていた。


    【第2章・第5話】


 ベルン王国の首都。

 王宮の周囲に建てられた貴族たちの邸宅の前を、黒毛の馬が通り抜ける。

 馬上の男は通行人を蹴飛ばさないようにゆっくりと市街地を抜けると、王都の入口を守る番所の兵をどかして、一気にスピードを上げて駆け出した。

 馬上の男は、バルドスであった。

 老齢に入っているのに、まったく衰えを感じさせない手綱さばきは流石と言えるだろう。

 この姿を他の貴族が見たら、仮にも男爵の爵位を持つ者が、共の者も付けずに外出するのは如何なものかと思われるかもしれない。

 いくら急いでいるからといって、これはない――とバルドスは苦笑した。

 ナーシェンが領内の村々に平民が着る服で出かけていくのを見ていて、その手の感覚が鈍くなっているようだった。

「そういえば……」

 後学のために王都へ連れて行け、と護衛の従者としてナーシェンに押し付けられたイアンが屋敷に取り残されていることを今さらながらに思い出し、バルドスは額に汗を浮かべた。

 だが、別にどうでもいいか、と思えた。

 バルドスはそのことを意識の外に追いやり、これからのことを考える。

 事態は、置き去りにされたイアンよりも酷いことになっていた。

 ナーシェンの父の屋敷に強盗が入ったのである。

 使用人十数人が大怪我を負い、何人かが死んでいる。

 ナーシェンの父も剣を抜いて応戦しようとしたそうだが、扱い慣れない剣を振り下ろそうとして転び、そこを刺客に斬りつけられたそうだ。

 転んだ最中に斬られたためか、傷は即死に至るものではなかったが、意識はまだ戻っていない。

 医者は今すぐ息が止まっても不思議ではない、と苦々しく語っていた。王家に召抱えられている御殿医の診断だ。

 おそらく、あの方はもう長くない。

「……となると、次代を担われるのは」

 まず間違いなく、次の当主はナーシェンになるだろう。

 そのことについて、バルドスに異存はない。

 現当主が仕えるに値しないものだったので、バルドスはナーシェンに期待していた。だが、幼少期のあの少年には何度も失望させられ、そしてバルドスにエトルリアへの寝返りを考えさせたものだ。

 だが、最近のナーシェンは鬼気迫るものがある。

 半年前のナーシェンは鼻持ちならない性格で、使用人のほぼすべてから煙たがられていたのだが、本人はまったくそのことに気付かず、尊大な態度で平民を見下していたものだ。

 それが今では、屋敷であの少年を見かけると、使用人たちが軽口を叩き、酒の席に誘うほどである。

「あの方なら、いい為政者になられるだろう」

 器量は十分。人望もある。

 なら、何も問題ないではないか。

 普通ならそう思う。だが、時期が悪かった。

 ベルン北部を領有している貴族は、ナーシェンの父の派閥か、トラヒム侯爵の派閥に集まっている。

 ナーシェンの父は無能者だが、あれで権力だけは馬鹿にできないものがある。そのため、周囲の領主たちが頭を下げざるを得ないのである。

 トラヒム卿は広大な領地を有し、戦場の猛者としても名高く人望があった。政治家としての能力は話にならないと聞いているが、カリスマ性があり人が集まってくる。

 この二つの閥は静かに対立している。

 これが、ベルン北部の二大侯爵と言われる所以である。

 ナーシェンの父が死ねば、トラヒム卿に付く領主も出てくるだろう。ナーシェンは十三歳になったばかり。派閥をまとめられないと思った貴族がナーシェンを見限ることも有り得る。

 まさか、このタイミングでナーシェンの父が死にかけるとは思わず、ナーシェンは他の貴族との付き合いは最低限のものしかしていない。バルドスも、今は色んなことをやらせて力を付けさせるのが先決と判断していた。

 それが、ここにきて裏目に出てしまった。

「くッ――もっと急げッ!」

 バルドスは馬に鞭を打った。

 エリミーヌ教からの破門。

 そして、現当主の危篤。

 現状はおおよそ考えるものの中で、最悪といえた。


    ―――


 ファンタジー世界に憑依して過労死。

「笑えん。……どう考えても笑い話にならないな」

 ナーシェンはベッドの上でひとりごちる。

 手元には教会から叩き付けられた書類と、密偵が調べてきたオルト司教とやらの資料。いい加減に休んで下さいと涙声でいさめてくる使用人たちに内緒で、服の下に隠してきたものだ。

 エトルリアの王都の防衛を任され、リキアの連中に逆襲されて死亡するよりも、過労で死にそうな気がする。

 多分、労災は下りない。

 あ、今度から過労で死んだ家臣の家族にも、戦死した者と同じぐらいの手当を支給することにしよう。遺族年金というやつである。

 などと、頭の中でさらに仕事を増やしながら、ナーシェンは書類に目を通す。

 だが――。

「まぁ、そのオルト司教とやらもサウエルと同じ穴のムジナ。大した人物ではなさそうだな」

 実際にサカ教という馬鹿げた宗教に改宗した者などひとりもいないのに、何をトチ狂ったのか、破門なんて言っちゃって――とナーシェンは内心でせせら笑う。

 領民の大半がサカ教に改宗してもいいかな、と思ってきた頃に、詐欺の種を明かしたため、領民が呆れ果てて宗教から離れていったためだ。

「私の詐欺も、教会の奇跡の魔法も、大して変わらんさ」と笑うナーシェンに、領民も怒る気にはなれず苦笑するだけだった。

「失礼しまーす」

 現状を見ずに賠償金五万ゴールドを要求するとは片腹痛い。

 必ずや痛い目に遭わせてやるわ、ふはははは――。

「――って、ナーシェン様!? 何やってるんですかー!?」

「ぶっ――!」

 いつの間に部屋に入ってきたのか、ジェミーが魔道書をナーシェンの頭に振り下ろした。

「寝てないと駄目ってお医者さんが言ってたじゃないですか!」

「いや、その……、ジェミー? もしかして、怒ってる?」

「当たり前です!」

 ジェミーは即答する。

「ナーシェン様は私とお兄様の命の恩人なんです。そして、ナーシェン様はこんな私たちを引き取り、食事も、寝床も、生活に困らないだけの給金も支給してくれています。私たちの命はナーシェン様に拾われたんです。ナーシェン様のためなら、私は命を捨てれるんです!」

「………………」

 八歳……いや、九歳児の言葉じゃないぞ、とナーシェンは苦々しさに顔を歪める。

 擬態、か。

 彼女は膨大な量の魔道書を丸暗記するほどの天才らしい。見かけによらず、この小娘は然るべき術者に師事すれば、エトルリアの魔道将軍に比肩するほどまで伸びるかもしれないと言われている。

 自分の身を守るための擬態。無知で、無力な子どもを装っていたわけだ。

「………………」

 だからと言って、ナーシェンはジェミーを責めるつもりはない。

 死神のような剣客を引き連れて自分を拉致した輩を信用しろと言う方が無理だろう。

「……すまん」

 そんな彼女に、信用して貰った。

 擬態を止めたということは、つまりそういうことだと思っていい。

「わかってくれたらいいんです。次は黒焦げにしますよ」

「わか――あっ、それは燃やさないでー!」

 ナーシェンの手元の書類にジェミーの指先が触れ、一気に燃え上がる。

 枕で書類を叩いて火を消そうと躍起になっているナーシェンに、こいつ全然理解してねー、とジェミーは呆れた目を向けた。



[4586] 第2章第6話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:52
「ふっふっふー」

 ナーシェンの口元から不気味な声が漏れる。

 従者の騎士たちが顔を見合わせ、無言で離れていくことを気に留めず、ナーシェンは草原の中心にポツンと建っている建物を見上げた。

 切り出した石造りの建物で、入口の脇にはパラソルが広げられている。その下にはテーブルと椅子が設置されていた。

 一階と二階の間に大きな看板があり、そこには『喫茶ナーシェン』と書かれている。

「ついに私も一国一城の主か……」

 感慨深そうに呟くナーシェンだが、一国一城の主は今さらである。

 ともあれ、喫茶店である。

 ナーシェンは商売品のお茶を広めたかったのだが、そのためにはまず商品について知って貰う必要があると考えた。そのための最も効率のいい方法がこれである。

 お茶を菓子と一緒に販売する。店先に席を作ったオープンカフェで、通行人たちも注視する。後はいい商品を用意しておけば、自然と客数は増えるはず。

 我ながら浅知恵な感は拭えなかったが、これで収入が増えるはずだ。

 ナーシェンの領内だけでなく、ベルンやエトルリアの首都、オスティア、ブルガルなどの大都市に二号店、三号店が建設中である。

 ナーシェンはうっとりと笑みを浮かべながら、店の中に入る。

 向かって右側の壁に絵画が飾られており、シックな木製の家具が落ち着いた雰囲気をかもし出していた。

 その絵画にはナーシェンの肖像が描かれていた。

『ベルン一美しい男、ナーシェン様の愛好品! ナーシェンティー 25G』

 と書かれている。

 絵画というよりも、ポスターである。

 ちなみに、この二号店に入ったクレインが茶を噴き出すことになるのは、ナーシェンの知る由ではなかった。

 ちなみに、ナーシェンのポスターの隣には、

『火達磨男爵も一押し! バルドスティー 20G』が。

 さらに隣には『舌に衝撃 麻痺茶 18G』

 というポスターが貼られている。

「うん。POP広告は基本だよな」

 あとはこの縮小を各村の掲示板に張り出すだけだ。

 ナーシェンはふむふむと頷きながら店内を歩き回る。

 これで、ようやく街道が整備できそうだ。交易でさらに増収が図れることだろう。

「ナーシェン様ー! た、大変ですぞ!」

「おー、バルドス。何時戻って来たんだ? ――って顔近っ! ついでに臭っ!」

 長旅から帰ってきて直行してきたらしい。

 旅の汗と垢に塗れたバルドスは物凄く臭かった。

 あっち行けとばかりに手を振るナーシェンに構わず、バルドスはまくし立てる。

「お父上が危篤にございます!」

「……はぇ?」


    【第2章・第6話】


 無言であった。

 部屋にはナーシェン。そしてバルドスがいる。だが、二人とも、一言も声を発しない。

 外には雨が。雷鳴が時折部屋を照らし、蝋台の火がゆらゆらと揺れる。

「………あのぅ。カザン伯爵がお見えになっているんですけど」

 やがて、年配の侍女が部屋に顔を出す。部屋の異様な空気に戸惑い気味である。

 ナーシェンは溜息を吐いた。

「客室に通しておけ」

「あ、はい」

 バルドスが下がっていいぞ、と適当に手を振って部屋から追い出した。

 ナーシェンは両腕を組み、両目を閉じて、執務室の椅子に腰を下ろしている。

 やがて、ナーシェンは静かに口を開いた。

「バルドス」

「はっ」

「この一件、お前はどう見る?」

「恐れながら、私の口からでは……」

「言えない、か」

 ナーシェンは口元を歪めた。

 父親の死期が迫っている。その原因は、強盗が押し入ったということらしい。だが、たかが強盗が仮にも侯爵家の邸宅に侵入できるものだろうか。そして、強盗なら宝物庫に入ればいいだけだ。

 わざわざナーシェンの父を斬っていく必要はあるまい。

「暗殺だろう?」

 バルドスは答えない。

 誰が何にために。それはわからない。

「私の父を殺して得をするのはトラヒム侯爵。大穴でゼフィール様……」

「ナーシェン様! お戯れが過ぎますぞっ!」

 珍しく顔色を変えて声を張り上げる老将に、ナーシェンは不敵な笑みを見せる。

 普段の、おどけている時には見せないゾクリとする笑みだった。

「戯言だ。許せ」

 ナーシェンは肩をすくめる。

 そして、トラヒム派の連中を思い浮かべた。

 トラヒム派の重鎮は三人。いずれも侯爵級の者たちである。

 すでに、念の為に密偵を送り込み、調査を命じている。

 その報告によると――。


 ムーア侯爵。通称、色ボケジジイ。
 領内の村娘が成人すると、必ず伽を命じるほどの好色家である。なので娘想いな親はさっさと領内から脱げ出すそうだ。逆に、侯爵様に気に入られたら生活が安泰だということで、自分から娘を送り込む親もいるという。

 政治のすべてを家臣を任せ切っているため、心ある家臣は真面目に励むが、悪い家臣なら資金をプールする。そのため、侯爵が有能かどうかはハッキリと断言できない。

 最大動員兵力は100。兵士の練度はそこそこ。


 フリッツ侯爵。通称、トラヒム侯爵の米搗きバッタ。
 政治の方針もトラヒム伯爵にこうしろと言われればすぐさま方針転換してしまうという。その際に家臣が反対することもあるが、トラヒム侯爵が怖ろしいので強引に押し切ってしまう。人望はあまりない。

 最大動員兵力は150。


 グレン侯爵。通称、奸臣。
 主君を暗殺したと影で囁かれているが、真偽は定かではない。

 調査の結果、意外なことに民政家ということが判明する。家臣からも慕われているらしい。トラヒム侯爵に従っているのは領土が隣接しているためだからか。

 最大動員兵力は100。
 無理な徴兵をしていない証拠であるが、領内に山賊が出没すると、トラヒム侯爵に救援を求めるという。毎回トラヒム侯爵に報酬をせびられ、財政は火の車らしい。


 そして、トラヒム侯爵の最大動員兵力が350。

 ベルン北部全体の最大動員兵力がおよそ1200といわれている。
 ムーア、フリッツ、グレン、そしてトラヒム侯爵の兵力を合わせると700になる。

 ナーシェンの最大動員兵力は200。

「戦をするとなると、厳しいな」

「そうですな。周囲の貴族すべてを味方につけても400にも満たないでしょう」

 ナーシェンは勝てない戦はしないタイプだ。負けるとわかっているなら素直に土下座する。

 勝てるか負けるかわからない博打。そういうのが、ナーシェンの最も嫌うものである。

「しかし、アウグスタ侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵は召集に応じてくれた。これなら、まだ戦いようがある」

「戦争になると決まった訳ではありませんが……」

 だが、そう言うバルドスも自分の発言を信じている気配はない。

 やはり、戦になるだろう。

 ともかく、アウグスタ侯爵たちと会い、これからの方針を決めなければならない。

 ナーシェンは立ち上がろうとして――、

「あ、あの……ヨーデル司祭がお見えになっているのですが……」

 椅子からずっこけた。

 司祭、空気読め。


    ―――


「おお、これは美味ですな」

 ヨーデル司祭は出された紅茶を物珍しげに眺めた後、ほくほく顔で飲み始めた。

 ナーシェンはイライラ、イライラと、膝をしきりに揺すっている。司祭はそんなナーシェンを微笑ましげに眺めた後、懐から書状を取り出した。

「これはクレイン殿からです。随分と心配なされていましたぞ、あの御仁は」

「男に心配されても嬉しくないです。ましてやあれは美形。モテる男の余裕というものでしょう」

 ヨーデルは苦笑した。

 で、本題は何です?

 と単刀直入に切り出すナーシェンに、さらに苦笑する。

 落ち着きなさい、若いの。とでも言いたげである。

 ナーシェンはさっさと話せ、と叫びたい気持ちだった。こっちは切羽詰っているのだ。

 茶をしばきたいだけならバルドスを置いていく。老人同士、さぞ盛り上ることだろう。

「いえ、今回の破門の件ですがね、本国でも戸惑いの声が大きいのですよ。こちらに赴任していたサウエル司祭に蟄居が命じられ、そしてナーシェン殿が破門された。私も不審に思い、調べてみましたが、サカ教という異教が広まっている様子もなく、何が起こっているのかよくわからないのですよ」

 結局は好奇心かよ。

 ナーシェンの貧乏揺すりが酷くなる。

「サウエル司祭は神の教えを利用して領民から金をむしり取っていました。私はただ、彼の司祭を領内から追い払いたかっただけです。そのために、下策を弄したことは否定しません」

「ほほぅ……それが事実なら見過ごせませんな」

 ヨーデルの瞳が怪しく光る。

「ああ、ところで……」

「何ですか?」

「ナーシェン殿には、許婚などはおりませんでしたな?」

 急に話が変わり、ナーシェンは怪訝に眉をひそめた。

「まぁ、そうですね」

「ほぅ、それはそれは……」

「言い寄る者もいないでもありませんが、私も多忙でして、今はまだ考えておりません」

「ふむふむ」

 さりげなく忙しいことをほのめかすが、老人はそのことに気付かず、さらには意味深に頷いていたりする。

 このジジイうぜぇ……、とナーシェンが思っていると、ふとヨーデルが考えが思いついたとばかりに手を打った。

「ならばリグレ公爵家の娘を嫁に迎えられてはどうですかな? パント殿とナーシェン殿はお互いエトルリア、ベルンの名家。これは良縁かと思われるのですが」

「なっ、なぁ!? なんですとー!?」

 椅子からずり落ちるのは、本日二度目である。



[4586] 第2章第7話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:57
 外は豪雨。

 ヨーデルを追い出す訳にもいかず、宿泊して貰うことにして、ひとまずナーシェンは待っていて貰ったアウグスタ侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵と会うことにした。

「では、トラヒム侯爵が関与しているかはわからないと?」

「その通りです。この件については、これ以上は語らない方がよろしいかと」

「……かもしれんな」

 アウグスタ侯爵が表情を曇らせながら言った。

 ゼフィールが父を暗殺しようとしたというのは、まったくの冗談ではないのである。

 ゼフィールは即位以後、ひたすら軍拡に走っているが、そのことを不安に思い、反対している声がある。

 傍目から見れば戦争する気満々なのである。

 ナーシェンの父は軍拡に反対していた訳ではないが、トラヒム卿が軍国主義に万歳していたトラヒム卿にベルン北部の主導権を握らせれば、大きな力を持った味方の出来上がり――と言うわけである。

「となると、戦争状態になっても、国王が止めない可能性もありますね」

「まず、止めないだろうな」

 ベルアー伯爵はまだ二十代後半だが、眼鏡の奥の目には理知的な光が宿っていた。

 答えるアウグスタ侯爵は六十代。親子ほどの年の差である。

 アウグスタ侯爵がどうかな、とナーシェンに目を向ける。

 ナーシェンとの年の差は祖父と孫ほどである。

「確実に、戦は起こるでしょう。トラヒム卿は動員兵力で劣る我々を、軽く踏み潰せると考えているはずです」

「舐められたものですな」

 ククッ、と笑うのはカザン伯爵だった。

 壮年の男性である。

 彼が味方についてくれたのはナーシェンにとって幸運だった。

 カザン伯爵は大勝利はしないが大敗北もしたことがない。

 戦争をしても目立った武功を収めないため、周囲からは凡将と思われているらしいが、ナーシェンは名将だと思っている。

 敵軍を全滅することのできるが、逆に全滅させられるかもしれない武将は信頼できないものである。

「しかし、少しばかりトラヒム卿に流れた者がいますね」

「どうせ流れを読めない馬鹿どもだ。戦場にいても役には立たんだろう」

 トラヒム卿に流れた者たちを入れて、奴らの動員兵力は700。

 こちら側が400。倍ほどの開きがある。

 国力の差ではない。トラヒム卿が無理な徴兵を続けている結果だろう。

「ともかく、今回は我らに逆心がないことを理解して頂ければ幸いだ。我々はお父上が亡き後も、ナーシェン殿の旗に集まるので、まぁ心配はするな。若者の面倒は、年寄りが見るものだからな」

「恩に着ます」

 祖父ほどの歳の離れた老人が太鼓判を打ってくれる。

 ナーシェンはホッとした。とりあえず、四面楚歌という様相は免れそうだ。

「では、こちらから人質を差し出さないといけませんね」

「おお、そういえば!」

 アウグスタがベルアーの言葉に大きく頷いた。

 なぜか、嫌な予感がしてならない。

 ナーシェンは背中が濡れているのを感じた。

「では、うちの孫娘を貰ってくれんか?」

「私にも娘が一人おります。どうです?」

「ほぅ。では、こちらからも一人、娘を差し出しましょうか」

「いや、ちょ、おま……」

ナーシェンが椅子からずり落ちるのは三度目である。

 たしかに、こちらの世界では一夫多妻が認められているが、ナーシェンはまだ十三歳だ。

 こいつらもヨーデルも何を考えているのだ。気が狂っているとしか思えん。


    【第2章・第7話】


 ガタン、とジョッキが机に叩き付けられる。

「しかし、何なんだ……。一体私が何をしたって言うんだよ……」

「うおぉー、いい飲みっぷりですね」

 竜騎士のひとりが感心したように言う。

 ナーシェンは「うるさいやい」と声を震わせて呟き、机に突っ伏した。

 ナーシェン十三歳、自棄酒である。加減を間違えると急性アルコール中毒で倒れるのだが、こちらの世界ではお酒は法律で規制されていないし、新米騎士も普通に飲まされる。

 新米騎士たちの洗礼、歓迎会の翌日、ベッドから三日も抜け出せなかった者もいるらしい。

 確実に急性アルコール中毒であるが、ナーシェンは「手加減してやってね」と言うことしかできなかった。

 ちなみに、アウグスタ侯爵たちは別室でバルドスと、ヨーデルも追加してしんみりとお酒を楽しんでいるらしい。最初はナーシェンも向こうで飲まされていたのだが、三人の娘の押し売りに辟易して、こっそりと抜け出して来たのである。

「しかし、何で私なんかに大切な娘を嫁がせようとするんだろうなぁ?」

 人質……というのは理解できるが、ナーシェンは人質を差し出されなければ彼らを信用できないほど狭量ではない。自ら要求するなんてもっての他だ。

 と言うか、人質なんて面倒臭いもの、押し付けないで欲しい。

「アウグスタ侯爵は孫娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていると聞いたことがありますけどね」

「うぇ、あの『鉄壁将軍』が? 似合わなねー」

「ちなみに、七歳になったばかりですよ」

「リグレ公爵の娘さんは今年で五歳だとか」

「ベルアー伯爵のお嬢さん十一歳ですけど」

「むむぅ。ギリギリだよなぁ」

 周囲の騎士たちが盛り上るのを尻目に、ナーシェンは胃薬をお酒に突っ込んだ。

 薬草をすり潰しただけのものなので、そもそも効果があるのかよくわからないのものである。だが、偽薬効果というものがある。適当な飲み方をしても、ちょっとは効くだろう。

「ん、どうしたんだ?」

 ナーシェンはギョッとした。周囲の騎士たちがジッとナーシェンを見つめているのである。

「い、いやぁー、なんでもないで――」

「ナーシェン様って幼女に大人気ですよね」

 新米騎士が口をすべらせる。

 瞬間、空気が凍りついた。

「あっ、こら!」

 慌てて先輩騎士が新米騎士を叱るが、すでに遅い。

「いいんだ……。いいんだよ、別に……。私もね、そうだと思ってたんだよ……」

 ナーシェンが完全に机に突っ伏せる。

 よよよ、と泣き始める主君に、騎士たちは顔を見合わせた。

「お前慰めろよー」「やだよー」的な空気が辺りに広がる。


    ―――


 そんなナーシェンの姿を、物陰からひとりの少女が見つめていた。

「お兄様……」

 ジェミーである。

 彼女は酒を一気飲みしてぶっ倒れ、騎士たちに介抱されているナーシェンから視線を外さない。

「ナーシェン様、誰かと結婚しちゃうのかなぁ……?」

「ジェミー、お前……」

 ジードはそんな妹の健気な言葉に胸を打たれる。

 まさか……いや、ありえない……などという衝撃に胸を打たれたのである。

「いや、お前、八歳だぞ? いや、九歳になったばかりか。だからと言って……」

「ジェミーちゃんサンダー」

「ぶふぇっ!」

 トカンと吹き飛ばされた兄の方を振り向かず、ジェミーはそっと溜息を吐く。

「……いや、ナーシェン様はもう十三歳じゃないか。普通なら、どこかの貴族と縁談を結んでいるはずだぜ? あの人がその手の話を避けてたから、許婚が居ないだけで、本来なら」

「ジェミーちゃんファイアー」

「ぶふぉっ! いや、だからさ……ナーシェン様はやめとこうぜ。もっといい人が……」

「お兄様」

 ジェミーがつまらないものでも見るかのような目をする。

 ジードに人差し指を向け、小脇に抱えていた魔道書を広げる。

「そ、それは、お前にはまだ扱えないはずのエルファイアーの魔道書!」

「それ以上、その汚らしい口を開くと、わかってるわよね?」

「しょ、正直スマンかった……。今では反省している」

「ジェミーちゃんエルファイアー」

「いやだ! まだ死にたくない! た、たすけ……うぎゃぁ!」

 ジェミーの辞書に容赦という単語は刻まれていなかった。

 小火騒ぎが起こったり、業火達磨のジードという二つ名が生まれることになるのはオマケである。



[4586] 第2章第8話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 08:58
 近隣の村を、小さな馬がゆるりと進んでいる。

 背には身体が引き締まった騎士と、十代前半の少年が乗っていた。

「うげぇ……気持ち悪い……」

「自業自得です。まったく、加減を弁えないからこうなるのです」

 その冷たく突き放される言葉は、二日酔いでダウナーになっているナーシェンにとって、キルソードの必殺攻撃よりも鋭くナーシェンの心に突き刺さった。

「あ、うぇ……馬、ゆらさな……」

 今にも吐きそうなナーシェンの様子を見て、イアンは馬を止める。

「……ちょっと、休憩しますか」

 イアンは溜息を吐いて、ナーシェンを馬から引き摺り下ろした。

 木陰でくたばっているナーシェンの手には、紙の束が握られている。簡単な領内の地図である。

「しかし、これだけの距離すべてに道を敷くんですか?」

「い、いや……全部……じゃ…なぃ…けど」

 イアンはこれまでかなりの距離を馬で進んでいる。どれだけの費用がかかるか、イアンには見当も付かなかいのだろう。

 ナーシェンは騎士程度の俸給では想像もできんだろうな、と苦笑する。

 苦笑した瞬間に頭痛が走り、ナーシェンは奇妙な呻き声を上げた。

「と、ともかく……だ。父上が、亡くなれ……ば……宝物庫が……自由にでき……うぇ……」

「ナーシェン様、誰が聞いているかわかりませんから、迂闊にそのようなことを口走らないで下さい」

 二日酔いのために思考が回らなくなっている。

 ぐだぐだである。

「白い宝玉が、十個ばかり、ある、からな……」

 ナーシェンは呻いた。

 もういいです、とイアンが止める。

 今日か明日にも父の訃報が届きかねない状況だが、ナーシェンの父はまだ生きている。なのに、すでにナーシェンは父親を死んでいるようなものとして扱っていた。

 今回は街道の整備計画である。

 宝物庫の白い宝珠を売りさばけば、十万ゴールドほどになる。その資金で、領内のインフラを一気に改善しようという話である。

 ナーシェンの父が生きている間にそれをやってしまえば、普通なら斬首では済まないだろう。ナーシェンは唯一の後継者のため、命だけは助かるだろうが、それからは政治の世界から遠ざけられるはずである。

 だから、今のところは計画だけで、実際に工事に着手していない。

 死ねばすぐに工事を始める。そういう手はずになっている。

「私は酷い男だ。……そう思わないか?」

「ええ、そうですね」

「……ちょっとは否定せんかい」

 事実ですから、と淡々と呟く家臣が猛烈にムカついたナーシェンであった。


    【第2章・第8話】


 ベルアー伯爵は小さく息を吐き出した。

 十三歳の若造には思えない男だった。昨年のパーティーで突然の減税政策の理由が知りたくて問い詰めたことがあったが、あの時はまだナーシェンの器量はわからなかった。というよりも、断定するのを避けたというべきか。

「うちの娘を嫁がせても惜しくはない男だったな」

 ナーシェンが頑なに固辞して、最終的には逃げ出してしまったが、ベルアーは他人の目がなければ追いかけていただろう。

 人質としてではなく、お互いの家のためになるいい縁談のように思えたのだが、惜しいことをしたものだ。

 それにしても……。

「ベルン北部同盟か」

 酒席でナーシェンが話を逸らすために話してきたのだが、それを聞いてベルアーはナーシェン側について正解だったと確信した。

 この人なら、トラヒムごとき三下に後れを取ることはないだろう。

 まだ構想を練っているところらしいが、ベルン北部同盟とは、加入した領地すべてに街道を整備し、山賊が出ればお互いの利害なく協力して撃退し、さらに関所を完全に撤廃する――という計画らしい。

 商人の往来を活性化させ、お互いの領地を発展させるのが初期段階。

 最終的にはリキア同盟に匹敵する結束力を持たせたい、とナーシェンは酒をすすりながら語っていた。

 これが上手くいけば、不毛の大地だったベルン北部が生まれ変わる。

 これまで動員兵力の少なさに肩身の狭い思いをしてきたが、商業の一大地域として発展すれば保有できる軍事力も増え、他の地域に劣らない軍隊を整えられる。

 この計画は、必ず成功させなければなるまい。

「そのためには、あの方を勝たせてやらなければな」

 ベルアー伯爵は眼鏡の奥の瞳を細め、小さな笑みを浮かべた。


    ―――


 丸一日かけて領内を半周してきたナーシェンは、屋敷に戻るとベッドに直行した。

 流石にすべて周り切ることはできなかったが、地図にはあらかた目ぼしい場所はチェックしてある。明日で領地の検分は終わるはずだ。

「じゃ、明日もまた頼む」

 馬に揺られていたためか、まだ酔いが抜け切っていないが、言葉遣いはマシになってきた。

 まだ頭がガンガンするが、頭痛薬は勿体ないので飲まないでおく。薬も貴重品なのである。

「まぁ、明日で終わるなら構いませんが……」

「何を言ってるんだ? 明後日はベルアー伯爵の領地、来週はカザン伯爵の領地だぞ?」

「は?」

 その後、ナーシェンは「ふざけんなよこのやろー」とイアンに蹴飛ばされた。どうやら侍女のひとりと恋仲になっているらしい。

 ふん、仲間騎士からのやっかみで村八文にされたらいいんだ、とナーシェンは思ったが、別にイアンでなければならない理由はないので別の者に頼むことにした。

「しかし……死ぬ……マジで死ぬ……」

 ベッドで産婦のようにフッフッフーと息をしていると、部屋の扉をノックされる。

「あのぅー、カレルって人が訪ねてきてるんですけど……」

「……………………え?」


 屋敷の玄関で待たされていた剣豪は、罰の悪そうな顔をしていた。

 彼の背後には、三十人ほどの子どもが居心地悪そうに肩身を寄せ合っている。

「で、これ何?」

 酔いもあってか不機嫌そうに尋ねるナーシェンに、カレルがだらだらと汗を流しながら答えた。

「いや、その……」

 何でも、カレルはあれから定期的にトラヒム卿や他の貴族の屋敷に忍び込み、虐げられている子どもたちを拉致……もとい救出してきたそうだ。わざわざご苦労なことである。

 義賊かお前は、とナーシェンは突っ込んだ。

 それで、何人も子どもの面倒を見なければならなくなったのだが、あまりにも人数が増えすぎて生活が立ち行かなくなったそうな。

 馬鹿かアンタは、とナーシェンは突っ込んだ。

「で、私に何をしろと?」

「大変言い辛いんだけど、引き取って貰えないかと思ってね」

「思ってね、じゃねえよ。自分の行動の責任ぐらい自分で取れ」

 冷たく言い放すナーシェンに、カレルが悲しそうな目を向ける。

 君なら何とかしてくれると思っていた、というような目である。

 が、ナーシェンは騙されない。こいつは戦場では死神もかくやというような目をするのだ。

 運次第ではあるが、神将器エッケザックスを持ったゼフィールですら瞬殺してしまう鬼人である。特効薬とデュランダルを持たせればではラスボスすら単騎で撃破できるはず。

 ナーシェンはくるりと背を向ける。

「あ……」

「働かぬ者喰うべからず。剣術指南役として、うちの騎士たちに稽古をつけてやれ」

「そ、それは……」

「子どもを食わせるだけの給料は出す」

 その言葉に、カレルの瞳がパッと輝いた。

「すまない、ありがとう」

「礼はいら……ん……うぇ……」

 胃の内容物を吐瀉するナーシェンに、カレルの瞳が一気に濁った。



[4586] 第2章第9話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/22 00:17
 グレン侯爵は憂鬱だった。
 ベルンの北部を収める有力貴族が、先週命を落としたのである。

 葬儀の斎場。静まり返った屋敷のホールでは、各国の有力者が五十人ほど集まっていた。

 ムーア侯爵がフヒヒと笑う。

「これでベルン北部の実権は我々のものですな」

 五十歳になっても精力衰えぬ好色家が嫌らしく笑う光景は、あまり見栄えのするものではなかった。トラヒム侯爵も直視に堪えなかったのか、あからさまに表情を歪め、ムーア侯爵から視線を離したが、ムーアは気にした様子はない。

「あとは十三歳の小倅がひとり。他にも『鬼謀の男爵』と名高いバルドス殿がおられますが、トラヒム卿の武名には及びますまい。彼奴の領土は労せずとも切り取れるかと」

「たしかバルドス殿はナーシェン殿に嫌われていたはず。調略すれば落とせるかと」

 米搗きバッタ、フリッツ侯爵も気取ったように言い放つ。
 それを、トラヒム侯爵は無言で――されど表情は機嫌よく聞いていた。

 ――情報が古い。

 グレンは苦々しく顔を歪めた。気ままに振舞うナーシェンに説教を垂れるバルドスは、たしかに邪険にされていたことがある。

 が、それは二年前までのことだ。去年から今日まで、祖父と孫ほどの歳の差のある主従は阿吽の呼吸で政治を行ってきた。調略なんぞ仕掛けたら、逆手に取られるだけだ。

 だが、そのことを伝えてもトラヒム侯爵は聞き入れようとしないだろう。

 あれは、自分にとって都合のいいことしか信じようとしないタイプだ。耳障りなことを言う者は倦厭されるだけである。

(……失敗したな)

 今となってはトラヒム侯爵の船は泥で作られているようにしか思えなかった。

 ナーシェンの器量はわからないが、アウグスタ侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵という顔ぶれを見れば、どちらに分があるかは考えずともわかる。ムーアやフリッツとは役者が違う。『鉄壁将軍』アウグスタが相手なら、倍の兵力を持っていても安心できない。

 グレンが頭を抱えたちょうどその時、ホールにひとりの少年が現れた。

「遅れてすいません。私は破門されている身なので、葬儀場には入れないのですが、司祭を呼んでとりあえずは葬儀の形にしております。順番にお名前をお呼びしますので、呼ばれた方から入場して下さい」

 その言葉に、数人の聡い者たちが顔を見合わせた。

 破門されていても葬儀の形を整えることのできる政治力。司祭と渡りをつけることのできる交渉能力や豊富な人脈。さらに、これだけの人数を前にしても物怖じしない物言い。

 あれで十三歳。
 グレンは直感した。舐めてかかったら、返り討ちにされるだろう。


    【第2章・第9話】


 なんかエリウッドとかヘクトル、ゼフィールやマードックまで混じっているんですが、私はどうしたらいいのでしょうか。これは下手をすると死亡フラグが乱立してしまう。ナーシェンはビクビクしながらこっそりと引き下がった。

 あとは喪主代理のバルドス、君に頼む。ナーシェンは父の死に心を痛め、人と会う気分ではない――という設定になっている。物は言い様である。

 ナーシェンはチェスボードをしばらく眺め、やがてビショップを動かした。
「父上が死んだ。トラヒム卿は今頃、すべてのお膳立ては整った、とでも考えているかもな」
「ナーシェン様とトラヒム卿、どっちが有利なんですか?」

 ジェミーがさりげなくポーンを動かす。
「さて、単純に考えるならトラヒム卿になるが……」
 ナーシェンが次の駒を動かした瞬間、ジェミーが「チェック」と呟いてキングの近くにナイトを動かした。

 だらだらと汗を流しながらキングを逃がす。
 連続「チェック」。
 やがて「チェックメイト」。

「あ、勝っちゃいました」
「……よかったな」
「これ、ナーシェン様が考案なさったゲームなのに、ナーシェン様が勝っているところを見たことがないんですよね」
「ヘボくて悪かったな」
 ナーシェンはやさぐれる。

 貴族……というか騎士の遊びといえばチェスだろうと思い、お抱えの職人に作らせてみたのである。今ではナーシェンの配下の騎士もどっぷりハマっていたりする。娯楽の少ないこの世界、あっと言う間に流行してしまった。

 エレブ大陸にはトランプもウノないのである。
 商品化すれば金になるか、と考えながら、ナーシェンは駒を片付ける。

 余談だが、エトルリアから流れてきた山賊に、技術者や芸術家だった者が何人か混じっている。彼らは権力者に気に入られなければ生活が立ち行かないのである。ナーシェンはそんな者たちを積極的に登用した。喫茶店のPOP広告も彼らの存在あってこそのものである。

「まぁ、このゲームからわかるように、すべての駒を倒す必要はないんだ。キングを刺止める、これが勝利条件だからな。敵が兵力を分断しなければならない状況を作り、そこに本隊をぶつけてトラヒム卿の首をあげれば、あとはどうにでもなる」
 まあ、別働隊は捨て駒になるだろうけどな――とナーシェンは気だるそうに呟いた。

 倍以上の兵力を相手にしても手玉に取れるアウグスタ侯爵がいるので、その点は心配いらない。
 あとは……そうだな……。

「これは、現代戦の鉄則みたいなものなんだけどな」
「………?」
「戦争ってのは、絶対に勝てるとわかるまで火蓋を切ったら駄目なんだ。泥沼化して国力がどんどん低下するのは最悪。占領された方がマシってこともある」

 ようやく勝てたけど金も人材も底を付いているなんて状況は話にならない。
 ナーシェンの理想は短期決戦である。一夜で終わった関ヶ原の戦いが最善。何年もだらだらと続いた応仁の乱は論外である。

「ところで、こんな話、私にしてもよかったんですか?」
「え? ああ、うん、まあ……」
 ナーシェンは罰が悪そうに言葉を濁す。

「あまり言いふらさないでくれよ。バルドスに怒られるから」
「ふふっ。さて、どうしましょうか」
 ちょ、おま……。
 ナーシェンは絶対言いふらすなよ、と強く言いつけるが、ジェミーはのらりくらりとかわして、嬉しそうに笑いながら部屋を出て行った。
 九歳の幼女に手玉に取られているナーシェン。情けなさすぎる。


    ―――


 ところ変わって練兵場。
「誠死ねッ!」
 騎士たちは敵兵に見立てた藁人形に槍を突き刺した。
 物凄い気迫である。天然理心流には気組みとかいう、気合で相手を萎縮させ、動けなくする奥義があったらしいが、この騎士たちの気合にもそれに通じるものがあった。

 葬儀の日でも、喪に伏せずに訓練に勤しむ。
 彼らも、戦争が起こることを薄々感じ取っているのである。

「誠死ねッ!」
 この訓練は、深夜、練兵場に忍び込んだナーシェンが、ストレス解消のためにこっそりと行っていたものなのだが、それを見た騎士たちが効果的な訓練法と勘違いしてしまい、広まってしまったものである。
 なんだか、勇気が湧いてくる気がする訓練である。

 ちなみに、活版印刷の実験のためにナーシェンが『学校日和』という物語を書き上げていたりする。まだ数冊しか出来上がっていないが、騎士たちが回し読みして誠への憎悪を募らせる結果に至った。

 他にも『恋ノ空』という書物もあるが、そちらはまだ二冊しか完成していない。
 活版印刷も、ページ数が多くなると、一冊を作るのにも長い時間がかかるのである。

「誠死ね!」
「ほら、ジードもやれよ!」
「いや、その、マジですか……?」

 先輩騎士たちから槍を渡されたジードは、槍と藁人形を交互に眺めた。
(ええい、ままよ!)
 槍を大きく振りかぶって藁人形に振り下ろす。

「誠、死ねぇ――!」
 やけくそである。

「こ、これは何なんだ?」
 そんな様子を眺めていたリグレ公爵、パントは冷や汗を流しながら、近くにいた騎士に問いかけた。
 騎士はパントの衣服を見て、葬儀に呼ばれた上級貴族だと判断すると、一冊の書物を差し出した。
「これ、よろしければどうぞ」

 こうして、エトルリアにも『誠式訓練法』が伝わった。
 後日、クレインは練兵場で「誠死ね!」と叫んでいる兵士を見ていたたまれない気持ちになったという。



[4586] 第2章第10話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/19 02:32
 引切り無しに行き来する人足たちを、ナーシェンは馬上から見下ろしていた。起伏のある地面を慣らし、石や草を除去し、道の脇に形の整った小石を並べる。最後に水をかけて、大きな水溜りができていないか確認すると、次の場所に向かう。

 流石にすべてを石畳にするのは手間がかかりすぎるので、ここら辺はナーシェンの独断と偏見によって行われている。幅が広くて道だとわかればそれでいいのである。

「しかし、道路建設まで待ってくれるとはな」
「私も、すぐに攻めてくると思っていましたが……」
 ナーシェンの背後、別の馬に乗っているフレアーが同意する。

 街道の整備は、交易を発展させるためだけのものではない。武田信玄が建造したとされる『棒道』や上杉謙信、織田信長の道路整備は有名であるが、それは彼らが戦略レベルの機動力が勝利の第一条件だと確信していたからだ。

 道路とは、いわゆる戦略兵器である。

 トラヒム卿は、どうやらその程度のことすら理解していないらしい。

「ふんっ。文系学生を舐めるなよ」
「…………?」
 ナーシェンは馬をひるがえす。

 この工事はナーシェンの領地からアウグスタ侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵や、他のナーシェン派の下級貴族の領地まで、かなりの規模で行われている。ナーシェンは国庫から五万ゴールド、宝物庫から十万ゴールドを捻出しており、さらに他の貴族の分の十万ゴールドを合わせると、総額二十五万ゴールドを費やした大工事になる。

 が、投資分の金額はすぐに戻って来ることだろう。

 すでに工事のことを聞きつけた者たちが職を探して領内に流れ込んできている。今のナーシェンの領地には、仕事はいくらでもあるのである。製紙工場、製糸工場、茶の農園、活版印刷場など、ナーシェンは様々な施策を推し進めているが、いずれも人員不足で50%も稼動していない。

「しかし、これほどの光景を見ておりますと、ナーシェン様の仰っていることも、あながち実現不可能なものではなさそうに思えてきます」

「何のことだ?」

「最初は誰もが内心では、こんな辺鄙な場所に大都市なんて出来るわけがないと馬鹿にしておりました。交通の要所でもなく、特産物があるわけでもなく、ただただ不毛な大地が広がっているだけでした」

「フレアー、それは違う。交通の要所でないなら、自分の力で要所にすればいいのだ。特産物がないなら、新たに特産物を作ればいい」

 今回のナーシェンは、無駄に格好よかった。

「ところで、特産物とは何ですか?」
「う、えっと……紙と糸とお茶?」

「それと、『学校日和』と『恋ノ空』、チェスやトランプですね」
「………………」

 ナーシェンは口篭った。

 他にもナーシェン自身が書き上げた官能小説と、絵師に書かせた艶本も追加だけどな――と内心で考えていたりする。

 ここに現代人がいたら、こう突っ込んでいただろう。

 お前、エロ文化のパトロンにでもなるつもりか、と。


    【第2章・第10話】


 工事現場から何時もの執務室に戻って来たナーシェンを出迎えたのは数人の書記官だった。相変わらず、仕事に忙殺されそうになっている。

 ごめんな、内政ができるのが君たちしかいないんだよ。

 ナーシェンは謝罪しながら、書類の束を押し付ける。

 書記官たちは額に青筋を浮かべ「誠死ね」「誠死ね」と口々にわめきながら仕事に取り掛かった。

 今はとにかく人材が不足していた。書記官たちに見込みがありそうな騎士たちに政治手法を仕込むように頼んでいるが、経験が物を言う政治の世界で活躍するには、まだまだ時間がかかりそうだった。

 それまでに過労死しないでくれよー、と他人行儀なことを考えながら、ナーシェンは椅子に腰を下ろす。馬に乗っていたためか、腰がビキビキと痛んだ。すっかり身体がなまっている。執務室に篭りすぎたか。

 また暇ができたらカレルに剣の手ほどきをして貰おう。

「ナーシェン様、ただ今戻りましたぞ」
「おお、バルドス。ご苦労だったな。で、首尾はどうだ?」

 バルドスはナーシェンから水差しを受け取りながら答える。

「薬箱の設置は問題なく完了しました」
「薬の転売は重罪だということは念を押しているよな?」

「勿論です。村人たちが薬の使用を躊躇われるほど厳重に注意しておきました」
「いや、それじゃ駄目だろ……」

 ナーシェンは呆れ果てた。

 それはともかく、薬箱の設置はナーシェンの新たな施策である。

 百年前の日本、明治三十五年頃の平均寿命が大体四十四歳。西洋医学が流入してある程度の医療技術を持っていた当時でも、バタバタと人が死んでいるのである。

 このことを知った時、ナーシェンは人間五十年ってレベルじゃねーぞ、と現代に生まれたことを心底感謝したものだった。

 で、この世界の寿命はどんなものかなー、と思い立ち、調べさせてみたところ、やはりと言うべきか平均寿命は三十五歳。成人するまでに命を落とすケースが多いので、一概には言えないが、大体四十歳までに死ぬ者が多いと言うことになる。

 ナーシェンは寿命の問題は割り切るしかないだろうと諦めるしかなかったが、福祉については改善する余地があると判断した。

 どの村々で言えることだが、病気をしても薬を買う余裕がないのは問題だろう。他にも、風邪をひいたら五キロ離れた村に薬を買いに行かなければならない――という状況も有り得るのである。

 そのため、ナーシェンは各家庭に薬箱を設置することにした。薬箱制度とは定期的に巡回する役人が薬箱の中を確認して、減っている薬の金額を請求するというシステムである。

 さらに、これには薬代の七割を政府――ナーシェンが負担するという新制度を導入している。

 そのため、薬を転売して利を上げようとする者に厳罰を下すということを、あらかじめ念を押しておかなければならなかった。

「ところで、これは薬箱を設置していた時に、主に女性から出ているものなのですが……」

「うん、どうした?」

「うちの男どもが『誠死ね!』と五月蝿いので何とかしてくれと苦情が出ています」

「………………」

 どこまで広がっているのだろう。

 夜な夜な練兵場に忍び込んでいたことがいけなかったのか。そうは言うが、あのストレス解消の遊びは激務に追われるナーシェンにとって、心の洗濯とも言うべきものだったのだ。

 まぁ、人の噂も七十五日。そのうち飽きることだろう。

「それと……」
 バルドスは憎たらしいほど冷静な表情をしていた。

「男どもにエッチなものを見せないでくれ、だそうです。子どもが色気づいて手が付けられないとか」

「涼しそうな顔をしてそのようなことを言える君を尊敬するよ、バルドス」

 翌日、この話がジェミーに漏れて消し炭にされそうになるナーシェンであるが、この時はまだ反省の色は見られなかった。


    ―――


 ナーシェンの父の死から二ヵ月後――。

 トラヒム卿の領内にある砦に、およそ700人の軍勢が集結した。
 密偵から報告を受けたナーシェンはすぐさま各諸侯に伝令を飛ばし、軍勢を集結させる。

 ナーシェンは喫茶店の真横に本陣を築き、茶をしばきながら諸侯の到着を待った。

 700対400。

 分の悪い勝負なのに、ナーシェンは悠然と構えており、集まった諸侯たちを安心させた。

「各々ご安心めされよ。我に秘策あり」

 ナーシェンは両目を閉じる。

「我あればこそ毘沙門も用いらるべけれ。我なくば毘沙門もありはせじ。我毘沙門を百度拝せば、毘沙門も我を五十度か、三十度拝せらるべし。我をば毘沙門と思いて、我前にて神文させよ」

「敵が、我が領内に進軍しています!」
 真っ赤な鎧を着た伝令が悲鳴を上げても、ナーシェンはまったく動揺しなかった。

「我は毘沙門天の化身である。矢玉は向こうから避けていく、恐れることはない」

 この戦のために用意された旗指物には毘沙門天の『毘』の字が躍る。

 もちろん、読める者はひとりだけである。



[4586] 第2章第11話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/22 00:18
「ようやく始まったようだな」
 グラスでぶどう酒を傾けながら、ゼフィールは詰まらなさそうに呟いた。

 ベルンの王宮。ゼフィールの寝室である。

 傍には、忠臣マードックが控えていた。ベルン三竜将の筆頭であり、戦場では解き放たれた猪のように暴れまわるこの男は、普段はほとんど口を開かない寡黙な男だった。特にゼフィールの御前になると、寡黙っぷりはさらに磨きがかって、まるで彫像のようになってしまう。

「マードック。お前は、勝利するのはどちらだと思う?」

「……僭越ながら私見を述べさせて貰えることを許されるのなら、私はナーシェンが勝つのではと考えております」

「何故だ?」

「すでに小僧が行ってきた数々の政策についてはお聞き及びでしょう。あの小僧が、二ヶ月の準備期間をただ無為に過ごしてきたわけではないことは明白」

 ゼフィールは頷く。

 おそらくだが、ナーシェンは負けたときのことも考えている。たしか、あの小僧はエトルリアのリグレ公爵と昵懇の間柄だったはず。亡命先として渡りをつけていると見て間違いあるまい。

 あれほどの人材だ。魔道の狂人パントでも、その有用さは理解しているだろう。

「わしとしては、どちらが勝っても構わないのだがな」
「………………………」

 今回、ナーシェンの父を暗殺したのはゼフィールである。

 ナーシェンの父が倒れれば、戦が起こるのは目に見えていた。この戦でトラヒム卿が勝利すれば、ゼフィールは大きな力を持った味方を作ることができる。ナーシェン他、アウグスタ卿などの領地は、王族領に組み込まれることになるだろう。

 だが、ゼフィールとしてはナーシェンが勝利しても問題ないのである。

 内戦を黙認してやった、という事実が残るのである。普通なら改易されてもおかしくない。
 加えてトラヒム卿の領地を半分ほど加増してやれば、ほどほどに恩義を感じて少なくとも軍拡については反対することはなくなるだろう。

 どちらが勝っても味方ができる。

 ゼフィールは退屈そうに「高見の見物とでもいくか」と呟いた。
 マードックは無言である。


    【第2章・第11話】


 派遣した斥候はこう言った。ナーシェンは喫茶店の真横に陣場を築いているらしい。トラヒムはそこから二キロ離れた川辺に布陣している時に、その報を受けた。

「戦をする気がないのかもしれんな、あの薄汚い商人は」

 トラヒムは貴族とは戦場で槍を奮うことが本懐だと考えている。小銭を勘定して領民の人気稼ぎをしているナーシェンは、トラヒムにとって商人と同じかそれ以下にしか思えなかった。

 商人ごときに遅れを取るわけはない。
 トラヒムは自尊心を満たしつつ、馬上から周囲を見渡した。

「まだ布陣は終わらんのか?」
「あと一刻はかかるかと思われますが」

 米搗きバッタ、フリッツ侯爵が額の汗を拭いながら答えた。トラヒムはフリッツにもっと急がせろと命じると、懐から干し肉を取り出し口に含む。

 トラヒムは、戦の直前の空気が好きだった。

 幼い頃より父に引き連れられ、山賊相手に戦ってきたことが思い出される。この頃に、トラヒムは戦争の味を覚えた。

 イギリスのエドワード黒太子が百年戦争で切り取ったフランスの領地を経営していた時、増税しようとして周囲に反対されたのだが、「いいや、俺は好きな時に出陣するんだぜ。そのためには金が必要なのさ。財政が圧迫されてる? しったこっちゃねーよ」と言ったそうだ。

 これが、いわゆる戦争馬鹿である。

 トラヒムも戦争馬鹿であった。

「……おっと、忘れていた」

 トラヒムは馬をくるりと反転させる。そこには、戦場の空気に途惑っている法衣を着た男がいた。

「お疲れでしたらお休みになってはいかがですか?」

「そうですな。まだまだ若い者には負けんと思っていましたが、歳は取りたくないものですな。疲れがすぐに身体に溜まる。想像以上に骨が折れました」

 辟易とした顔をしている聖職者に、トラヒムは嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
 これで、司教らしい。エリミーヌ教会も終わっているな、とトラヒムは内心で吐き捨てる。

 だが、この戦争の最大の功労者は、今のところはこの老人なのである。

 トラヒムは出兵まで二ヶ月の時間を要したが、それは軍資金が調達できなかったためだ。すでに山賊を討伐するために出兵を繰り返していたトラヒムの領地には、今さら外征に出れるほどの余裕はなくなっている。増税すれば領内で一揆が発生し、また出兵しなければならない。軍資金が溜まらず、トラヒムは発狂しそうになっていた。

 そこで「ナーシェンの小僧を殺してくれるなら、いくらでも援助しますぞ」と金を出してきた聖職者がいた。それがオルト司教である。

 トラヒムの持つ兵士350のすべてに銀製の武器が渡っている。
 いかにオルト司教がナーシェンを目障りに思っていたのか、その装備を見ればよくわかる。

 ともかく、これだけの装備があれば野戦ではまず負けることはないだろう。
 トラヒムは満足げに頷いた。


    ―――


「ふむふむ。これは眼福だな」

 アウグスタ侯爵は本陣から離れた森林の中に二百の兵を伏せていた。

 自ら伏兵を指揮し森の中で兵士たちと寝食をともにしている。

 兵士たちと同じ食料を採り、同じ寝床を使う。このことも、アウグスタが声望を得ている要因のひとつである。

 アウグスタは視野が広く、大軍をまるでひとつの生き物のように動かせる。防御の薄い場所をすぐさま見て取り、そこに兵士を投入する技術に長けている。いわゆる防御の天才なのだが、防御では目立った武功を上げれず評価され難い。

 今でこそアウグスタは『鉄壁将軍』と謳われているが、若い頃のアウグスタに名声はなく、行動で兵士の心を掴まなければならなかった。その時に指揮官だけ特別扱いでは兵士たちは納得しないだろうと思いつき、実行したのが始まりだった。

「……侯爵。何をなさっているのですかな?」

 カザン伯爵がアウグスタに話しかける。
 アウグスタは声の方を振り返ると、巌のような顔を恥ずかしそうに崩した。

「いやぁ、ナーシェン殿が『よろしければどうぞ』と言って渡してきたものでな。これが、意外とよくできている。この老木、年甲斐もなくはしゃいでしまったわい」

 と言ってカザンに見せたのは、ナーシェンが著した官能小説『学校日和(R18)』や『戦国槍男』、絵師が仕上げた艶本である。

 ナーシェンは援軍にかけつけた侯爵たちに大量の書物を進呈している。

 すでに兵士たちの手に渡っており「誠死ね!」や「そうか、あの旗は謙信ちゃんのものだったのか」などの声があがっている。

 カザンはそれを見てニヤリと笑う。

「ナーシェン殿は見かけによらず色を好むようですな」

「英雄色を好む、だな。私もこの歳になって思い知らされたよ。男とはこうありたいものだ」

 アウグスタは書物を握り締め、両目を閉じる。自分も幼かった頃は、屋敷の女湯に忍び込んで侍女たちに袋叩きにされたものだ。あれから四十年が経ち、アウグスタはすっかり助平心を失ってしまっていた。

 この書物が、悪ガキだった頃の心を思いださせてくれた。

「領地に帰ったら、女湯で汗を流すことにしよう」

「私は、ホコリを被っている女物の下着を洗濯することにします」

 二人して地味に死亡フラグを立てている時、伝令の兵士が彼らの前に走りこむ。

「狼煙が上がりました!」

「おや、もう動き出したのか。敵さんもせっかちなことだ。がっつく男は嫌われるのにな」

「では、ナーシェン殿の作戦通りに動きますか」

 アウグスタは頷く。

「そうだな。ナーシェン殿が死ねば、続編の『真夏日和』が読めなくなる」




[4586] 第2章第12話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/19 03:21
「殺せ! あの小僧の首を上げた者は金貨五十枚を取らせるぞ!」

 トラヒムの叫び声を聞いた兵士たちの士気は――あんまり上がっていなかった。悪政を布いてきたトラヒムに心の底から忠誠を誓っている者は、ここにはひとりたりとも存在していない。

 それでも、彼らは銀製の武器を手に突撃する。

 そして、本陣強襲。

 雄叫びが上がり、やがて静まっていく。

「………………なんだ?」

 敵兵の影がひとつもいない。辺りにあるのは藁人形だけである。

「―――ッ! 謀られたか!?」

 トラヒムはすぐさま馬首を翻す。

 瞬間、燃え盛る矢が藁人形に突き刺さった。喫茶店の屋根の上に弓兵が伏せていたのだ。

 あらかじめ油を染みこませていたのか、藁人形は派手に燃え上がる。

「くっ――グレン! 裏切ったか!?」

 トラヒムは偵察をグレン侯爵に任せていた。

 たしか、奴は自分から「偵察は私にお任せ下さい」と言っていた。

 そうか、そう言うことか。

 たしかにトラヒムの言葉は正鵠を得ていた。
 ただ、この時に言うべき言葉ではなかった。

「グレン侯爵が裏切った!」「まさか!?」「あのグレン侯爵が?」といった言葉が戦場を走り抜ける。
 動揺は燃え上がる戦場との相乗効果であっと言う間に伝わった。

 瞬間、無数の馬蹄の音が戦場を蹂躪する。

 トラヒムは全速力で突進する百騎ほどの軍勢を見た。

「ふははははっ、愚かなり! 猪武者に後れを取るこのアウグスタではないわ!」

「おのれ、死に底ないのクソジジイめが! 下策に頼るとは武人の心を忘れたか!」

「笑わせる! その下策にかかっておるのはどこの誰だ!」

 トラヒムはすぐさまアーマーナイト部隊を最前線に展開しようとする。だが、命令に従う兵士はどこにもいなかった。と言うより、全軍が混乱状態に陥っていて、応戦できる部隊がどこにもいなかったのである。

「くそっ! 何をしている! 迎え撃つのだ!」

 その声は届かない。

 アウグスタ侯爵の軍勢は600(グレン侯爵、撤退により)の敵兵に突撃し――突破。

 トラヒム側の軍勢は多数の死者が出たが、アウグスタ側は数名の怪我人を出しただけだった。


    【第2章・第12話】


 グレン侯爵は燃え上がる本陣を見つめていた。

 燃えているのは、ナーシェンの本陣ではない。トラヒム側の陣も、炎上していた。

「これでよかったのですかな?」

 ナーシェン側の名凡将カザン伯爵が問いかける。

 トラヒムがナーシェン軍の本陣に突撃すると、グレンは山中に伏せさせていた者に狼煙を上げさせる。すると、カザン伯爵の軍勢が手薄になったトラヒムの陣を逆襲し、持参した兵糧を焼き払う。

 カザン伯爵の軍勢はおよそ百人。

 そこに、グレンの軍勢およそ百人が加わる。

 トラヒム側の本陣を守るのは二十人ほどの守兵である。

「さて、そろそろ頃合ですかな」

 カザン伯爵が楽しそうに呟く。

 これほど思い通りに事が運ぶのも珍しいことだろう。これを、十三歳の少年が手の平の上に描いたのである。
 グレンは肝を冷やした。そして、さっさと船を乗り換えてよかったと安堵する。

 しかし、これからのことを思うとグレンは憂鬱になった。

 元々、グレンは侯爵家に使える重臣だったのである。だが、主君が度重なる増税を行い、領内が荒れていくのを見かね、とうとう主君を暗殺してしまったのである。

 そして、その主君には子どもがいなかった。

 家臣からの声もあり、ゼフィールはグレンを侯爵に昇進させたのである。そこには、不毛な大地であるベルン北部を王族領にしても面倒なだけだという考えがあったのだが、ともあれグレンは自らの意図に反して侯爵という位を手に入れてしまったのである。

 そして、周囲の貴族はそのような輩と付き合えるかと、軽蔑の目を向けていた。グレンの領地は飛竜の産地で、多くの貴族が飛竜を買い付けに来ていたのだが、グレンが侯爵になると顧客がめっきりと減ったほどである。

「これからナーシェン殿の屋敷に篭城することになっておりますのでな。向こうには酒があるそうですぞ」
「酒ですか。それはいい」

 普通は、戦闘中は酒を飲ませないものだが、今回はトラヒムが軍勢を立て直すまでに二、三日の時間がかかる。負傷兵を治療したり、燃えた本陣を立て直す必要があるのだ。

 部下を酒で労える。そのことで、多少はグレンの顔色がよくなった。
 そんなグレンを、カザンはジッと眺めていた。

「悩み事ですかな?」
「ええ、まぁ」

 奸臣と囁かれている自分が、これまで他の貴族と上手く付き合えなかったのに、そこに裏切り者という汚名を上乗せされてしまう。

「一度裏切った者は二度裏切ると言われるような世の中ですからな。心配なされるのはよくわかります。ですが、ナーシェン殿は殺人を犯した山賊を登用するほど破天荒なお方ですぞ」

「――まさか、そのようなことが!」

「『お前の人生すべてを使って償え』でしたか。このカザン、不覚にも痺れ申した」

 ですから心配する必要はないでしょう、とカザンは小さく微笑みながら言う。

「さて、時間が経てば敵の本隊が戻って来る。我らも撤退しますか」

「――はい!」


    ―――


 無事に戻って来た二百の軍勢と、新たに加わった百の軍勢を見て、カレルはホッと安堵した。

 戦場では殺人鬼になる彼だが、剣聖状態の時は人死には嫌いなのである。

 ちなみに、カレルは屋敷で非戦闘員を守るよう命じられている。ナーシェンは最終的には篭城戦になることを見越し、いざと言う時のためにカレルを置いておいたのである。

「皆もご苦労だったね」

 カレルは子どもたちに話しかける。

 子どもたちは「マジ疲れたぜー」と溜息を吐いている。彼らはここ数週間、大量の『誠君人形』の製作を命じられていたのだ。ぶっちゃけただの案山子なのだが、ナーシェンも騎士たちも『これは誠君人形だ』と頑として譲らなかった。

「そう言えば、あの人形は何のために作られたのかな?」

 練兵場で『誠式訓練法』を実戦するには数が多すぎるし、商品化するほど大した品でもない。繰り返すが、ただの案山子なのである。

 と、ちょうどそこに酒ビンを手にした兵士が通りかかる。
 カレルは案山子――もとい、『誠君人形』がどうなったのか尋ねた。

「あ、それ、全部燃えましたよ」
「………………………」

 ここ数週間の成果が灰になっていた。

「みんな『誠死ねー』って言いながら火矢を射掛けてましたからね。自分も矢を放つ時、テンション上がりまくりでしたよー、あはは…………ヒッ!」

「む……い、いや、なんでもないよ」

 カレルはなぜか恐怖している兵士に微笑みかけた。

 今度、ナーシェンに稽古をつけてやらないといけないようだと思いながら、カレルは剣を研ぎ始めた。



[4586] 第2章第13話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 09:00
 アウグスタ、カザン、グレンはすぐさま軍を引くと、ナーシェンの屋敷に篭城する。兵糧は事前に溜め込んでいるので万全。屋敷の中には井戸があり、半年は持ち堪えられる構えになっている。

 トラヒムは屋敷を取り囲み、攻めあぐねていた。

 ナーシェンの屋敷は簡単だが実践的な改造が施されており、門には土塁が築かれていた。その向こうには矢倉が組まれ、弓兵が配置されている。屋敷の屋根には二器のシューターが設置されていた。飛竜が近付けば、たちまち迎撃されることだろう。

 守るのは防衛戦の天才アウグスタ。

 そこに名凡将カザンが補佐に付く。

「………くっ。屋敷の中の井戸に毒を放り込めば終わるのだがな」

 トラヒムは歯軋りする。

 すでに何人か潜入させているのだが、ひとりも戻って来ていない。すべて殺されたと考えるべきだろう。

 そうこうしている内に、一週間が経過する。

 最初の訃報は、トラヒムでさえ頭痛を堪え切れなかったほどのものだった。

 ムーア侯爵が勝手に陣を抜け出し、村に女を漁りに行って、何者かに斬殺されたという報が入ってきたのである。自業自得にもほどがある。

 そして、その時に二つ目の訃報が入ってきた。

 周辺の村から人が消え去っているのである。トラヒムに知る由はなかったが、彼らは整備された街道を通って、さっさとアウグスタ侯爵の領地に避難している。これでは兵士たちに褒美に女を抱かせることもできない。

 さらに、本陣を強襲された時に兵糧が燃やされたため、兵士たちの食事の量が日に日に減少の一途を辿っている。兵士たちの不満はどんどん膨れ上がる。

 そして、三つ目の訃報が入ってきた。

「な、なん、だ……と…? それは、本当なのか……?」

「信じられないですが、事実のようです。通りで敵の抵抗が弱いと思いました」

 トラヒムは目の前が真暗になるような思いがした。

 ナーシェン軍、トラヒム領を制圧。

 騎士たちの家族を人質に取る。

「すでに少なからず脱走兵が出ております。昨晩でおよそ200の兵士が本陣から消えていますね」

「それのどこが少なからずだ!」

 トラヒムは配下の騎士を殴り飛ばした。

 騎士は頬の血を拭い、トラヒムに反抗的な目を向ける。

 悪政を布いてきたトラヒムは、すでに家臣からの人望を失っている。

「い、いや、しかし……まだ戦いようがある。まだ我が軍の兵士は400。なんだ、敵と同数ではないか!」

「……ムーア侯爵の兵士も脱走しています」

 これで、アウグスタ側が500、トラヒム側が300。ここに、情勢は完全に逆転した。

 残るはフリッツ侯爵の150とトラヒムの150。

 しかし、恐怖心からトラヒムに従っているフリッツが、果たして最後まで自分に付き従ってくれるものだろうか。

「脱走軍が背後に出現! 指揮官はバルドス男爵!」

「……トラヒム様。私たちの負けです。ここは撤退しましょう」

 ……何処に?

 すでに領地はナーシェンに取られている。

 今さら何処に逃げると言うのだ?

 トラヒムは剣を抜いた。

「ふっ。この私が商人風情に敗れ去るとはな」

 トラヒムの銀の剣の切っ先が、いつの間にかそこにいた幽鬼のような剣士に向けられる。

「……剣魔カレル。まさか、貴様があの小僧に従っていたとは」

 トラヒムも、カレルの噂を聞きつけて登用しようとしたことがある。

 最後に伝説とも言われる剣士と戦わせてくれるとは、あの小僧、粋なことをしてくれるじゃないか。


    【第2章・第13話】


「いや、しかし何とか間に合ったな」

 ナーシェンは汗を拭いながら溜息を吐く。ナーシェンの領地は整備されていたので、行軍は楽だった。改札機をICカードで通り抜けるほど楽だった。だが、トラヒムの領地はしんどかった。切符を買うどころではなかった。

 馬が潰れそうになる度に行軍を止め、迫り来る死亡フラグに恐々としながら馬と兵士の疲労が取れるのを待ち、疲労が取れると再び行軍する。その繰り返しである。

 何度胃薬の世話になったことか。

 ナーシェンはトラヒムの屋敷で大量の文書を作成していた。

 戦争よりも大変なのが戦後処理。

 勝った側は積極的に敵に調略をかけて揺さぶり、付き合いのある貴族、商人、教会に書状を出さなければならない。普通は敗北した敵も様々なプロパガンダを行うものだから、戦闘の終了は宣伝活動の開始でもある。

 今回はトラヒムがすでに亡くなっており、宣伝活動で後れを取ることはないので、ナーシェンはこの手の雑務を配下に押し付けた。行政官を育てるいい機会である……とは建前で、実際は自分がサボりたかっただけなのだが。

「しかし、敵側が銀製の武器持ちとはな。会戦に持ち込まないでよかった」

 ナーシェンは机の上にぐでんと倒れる。

 オルト司教がトラヒムを大々的に支援することは、完全にナーシェンの想定に入っていなかった。仮にも司教まで上り詰めた者である。まさか、そこまで情勢が見えていないとは完全に予想外である。

 今回のことで教会はオルト司教を降格処分することを考えているらしい。

 降格とはまだまだ甘いなー、と思わないでもないが、どうせオルト司教が保身のために賄賂を送りまくったのだろう。エリミーヌ教会のパトロンは汚職万歳エトルリアだ。大勢の政治家が守ってくれるはずだ。

 ついでに、フリッツ侯爵はエトルリアの宰相ロアーツのもとに亡命してしまった。十人ほどの手勢を連れて、いつの間にか本陣を抜け出していたという。そう言えば、ロアーツは何かとベルンの貴族と接触しているが、あれはお互いの亡命先の約束でもしているのかもしれない。

「いや、まさかここまで上手くいくとは思っておりませんでした」

「いやぁ、ただの偶然ですよ」

 ベルアーのしきりに関心した声に、ナーシェンはひたすら恐縮した。

 が、内心でこう思う。偶然で勝てれば世話はない。

 ナーシェンは中入りをせずに、400の兵でトラヒムの軍勢を霍乱してもそこそこ戦えると考えていた。アウグスタ侯爵、カザン伯爵の200の軍勢であれだけ戦えたのである。

 だが、ナーシェンは勝てるという確信が欲しかった。

 前にも言ったが、“かもしれない”では駄目なのだ。

「戦後処理が終わったら、ぜひ私の領地へ遊びに来て頂きたい」

「ええ、そりゃ構いませんが……」

 ナーシェンは突然の申し出に首を傾げる。

 ベルアーはその返事に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「約束ですよ。娘ともども、首を長くして待っております」

「……………え?」

「いやぁ、式が楽しみですなぁ。娘は器量がよく、妻に似て美しく育ちました。お会いになられればきっと気に入られることでしょう。まだ十一歳ですが、お互い歳も近く、かえって気も会うはずです」

 ナーシェンは必死の思いでベルアーのもとから逃げ出した。

 つくづく甲斐性のない男である。


    ―――


 二日後、王宮から使者が訪れ、トラヒム派の領土割譲を言い渡す。

 ナーシェンは儀礼的に一度は固辞したが、二度目で了承し、トラヒム卿の領地半分を新たに領地に編入した。アウグスタ侯爵はムーア領を、ベルアー伯爵、カザン伯爵はフリッツ領を半分ずつ領有することになった。

 トラヒム卿の領地、残り半分はグレン侯爵(何度も固辞したが押し付けた)やナーシェン派についた貴族に与えた。こうして、ベルン北部は完全にナーシェン派によって平定されることになる。

 一ヵ月後、ナーシェンはベルン北部同盟の発足を宣言する。

 すでに政治的な根回しは済んでおり、さらにゼフィールが同盟を認めたことにより、ベルン内部での反発の声はほとんどなかった。

 同時期、エリミーヌ教会のナーシェンへの破門が撤回される。

 こうして北国の獅子ナーシェンが頭角を現すことになった。

 時代の移り変わりを意識せずにはいられない動乱であった。


 第2章 完





[4586] 第3章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/22 00:05
「私は強い……私は賢い……私は美しい……私は正しい……。誰よりも……誰よりもだっ!」

 ナーシェンは叫ぶ。占領したエトルリアの首都アクレイアの防衛を任され、実質は捨て駒にされているというのに、三竜将に返り咲くためにリキア同盟軍と対峙する。

 スレーターはアラフェン砦の防備に就いている間に、リキア同盟軍の奇襲を受けて死亡。

 フレアーはミスル半島西岸で殿に残り、リキア同盟軍を相手に奮戦するが、あえなく討ち取られた。

 バルドスは、とうの昔にエトルリアに寝返っている。

「ナーシェン! ようやく追い詰めたぞ!」

 フェレ侯爵嫡子ロイ。

 レイピアの切っ先が、ナーシェンの心臓を狙っていた。

「おのれ……おのれ……!きさまらごときにっ! きさまらごときにぃっ!」

 そして、ナーシェンは命を落と――、


 ナーシェンは布団を蹴り上げる。

「はぁ……はぁ………なんて夢だ……」

 クソッ、と罵りながら枕を殴り付ける。

「ナーシェン様? どうかなさいま――?」

 例の侍女が見たのは、汗だくになり、目を血走らせている主君の姿だった。

 すぐさま侍女は屋敷の庭に走り、沈静効果のある薬草を調合した。


    【第3章・第1話】


 飛行系ユニット……つまり、ドラゴンナイトやペガサスナイトは、弓矢やエイルカリバーの魔法で攻撃されると、通常の三倍のダメージを受ける。

 だが、あるアイテムを所有していれば、その悪夢のような攻撃から逃れることができる。

『デルフィの守り』。

 原作でナーシェンが所持している、飛行系ユニットへの特効を無効にするアイテムである。

 多くのプレイヤーが盗賊に盗ませているアレである。

「………ない。ない、ない。どこにもない」

 ナーシェンは唖然と呟いた。

 屋敷の宝物庫。金目の物はあらかた運び出されて、ほとんど空になっている倉庫である。

「まさか、デルフィの守りもルーンソードもないとは……」

 遠距離攻撃可能、さらに攻撃した相手の体力を吸収する魔剣ルーンソードも、敵キャラとして出現するナーシェンの装備である。なのに、その武器もナーシェンの屋敷の宝物庫に保管されていなかった。

 と言うことは、あのアイテムはナーシェンが最初から持っていたものではなかったと言うことか。

「なんだ、大貴族と言っても大したものじゃないんだな、クククッ。って、笑ってる場合か!」

 あのアイテムがあれば生存率が大幅に上がる。

 ひとりノリツッコミでもやりたくなると言うものである。

 ナーシェンは溜息を吐いた。

 騎士たちが命令に従い、倉庫にある金目の物を運び出していく。価値の上がる見込みのない固定資産なんて持っていても仕方がないと言うことで、ナーシェンは宝物の大半を金に換えている。その金が内政に当てられるのは説明するまでもないだろう。

「うわー、ナーシェン様ー!? この絵画、裸の女性が描かれてるっすよー!?」「馬鹿野郎、それは裸婦画だ。芸術なのだ」「でも、萌えがないですね」「俺も、お抱え絵師の萌え絵の方が好きですよ」「すっげえ! これ、剣に見せかけて、実は性具なんだぜ!」「戦場に持っていけよ。敵兵が逃げ出すぜ」「掘らないでくれ! って叫びながらですよね、わかります」「と言うか、貴族って変態ばっかだよなー」

「………………」

 騎士たちの猥談に、ナーシェンの額にビキビキと血管が浮き上がる。

「じゃ、ナーシェン様も?」「常識的に考えて、あれは変態だろ」「変態でFA」

「……お前たち、黙って仕事できないのか?」

 その地の底から響いてきたような声に、騎士たちがビクリと振り返る。

 ちょうど、その時だった。

「ナーシェン様ー! なんか、変なものを見つけたんですけど!」

 ジェミーの声である。

 声は倉庫の奥の方からしていた。ナーシェンは騎士たちと顔を見合わせ、溜息を吐きながら首肯した。目線だけでお説教は後回しにするということを双方合意したのである。いかに、こんな光景が日常でありきたりになっているのかよくわかる事例であった。

 ともかく、ナーシェンたちは倉庫の奥に足を向ける。

「もう、遅いですよ」

「や、すまん」

 両手を腰に当てて待っていたジェミーに、ナーシェンは片手を上げる。

 ジェミーは傍らの木箱から紙片を取り出し、ナーシェンに差し出した。

「魔道書か?」

「みたいですね。でも、欠損しているページが多くて、実際には使えませんけど」

「中身は?」

「エイルカリバーだと思うんですけど、一部の記述がまったく別のものになっているので、ハッキリと断定はできません。エイルカリバーに似た風系統の魔法なんて聞いたことがなくて……」

 ナーシェンは「むむぅ」と唸る。

 もしかして、と思う。これは前作『烈火の剣』に出てきた、神将器フォルブレイズに匹敵する威力を持つギガスカリバーなのではないか。

「こうしてナーシェンたちは断片を探しに旅に出た……って、数年前に流行ったアニメかよ」

「とりあえず、これは私が預かっておいていいですか? 色々と参考になるので」

「ん、まぁ構わんが」

 シミや虫食いもあり、とても読めたものではないと思うのだが、そんなものでも役に立つらしい。

 ナーシェンは魔道書をジェミーに押し付けると、ついでに木箱の中を一瞥した。

「………これは?」

「ああ、これは……。私にも読めない字で書かれている、よくわからない本なんですよ」

 魔道書のように見える、黒い表紙の本だった。ナーシェンはペラペラとページをめくる。

「もしかして、闇の魔道書じゃないだろうな? えろいむえっさいむ・えろいむえっさいむ……む、違うか。なら……ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅぐあ・ふぉまるはうと・んがあ・ぐあ・なふるたぐん・いあ・くとぅぐあ……これも駄目か……いあ・いあ・はすたー……あぶだ・けだぶら……やっぱハズレか」

「ナーシェン様? 何やってるんですか?」

「あ、いや、何時ものことだから気にしないでくれ」

 そう言うと、ジェミーはホッとした顔をしてこう言った。

「なんだ、何時もの奇行ですか」

「奇行なら安心ですねー」
「俺も、一瞬焦りましたよ」

 胡乱げな顔をしていた騎士たちも、同じくホッと安堵している。

 何だろう、このムカつく反応は。

「もしかしたら、古代魔法かもしれないなと思っただけだ。はぁ……これでミィルでも――」

 発動してくれれば、もう戦場で槍を持たなくてもいいのかなーって思ったんだけど。
 そう続けるつもりだった。

「うげっ、ぎゃああああああああああ!」
「ひぃええええええええええええええ!」

 ナーシェンとジェミーは顔を見合わせ、手元の書物を見下ろした。

「えっと……ミィル?」

「ぐげええええええぇぇえぇえ!」
「だ、だずげでえぇぇええぇで!」

 ナーシェンの足元で影が蠢いて、騎士たちに襲い掛かっている。

「………………………」
「……ナーシェン様。これって」

「魔法、だよな……?」

 ナーシェンは地面に膝を突いた。

「原作の流れは、どうなってるんだ?」


    ―――


 ナーシェンの屋敷の隅の方に、カレルの住居が建てられている。

 ついでに建てられた剣術道場と渡り廊下で繋がっており、カレルは早朝、剣術道場に足を運び、身体を動かすことにしている。その内に、稽古をつけてやっている騎士たちや子どもたちが姿を現し、それぞれ好きなように剣を振る。

「そう言えば、最近はナーシェンの顔を見ないが、どうしているのかな?」

「何だかんだ言って、あの人はベルン北部同盟の盟主ですからね。多忙なんじゃないですか?」

 ナーシェンに稽古をつけてやろうと思っていたのだが、それなら仕方ないかとカレルは諦める。

 ついでに、日ごろの恨みが晴らせて一石二鳥なのだが……。

「あ、そうだ。カレル師範。今日こそ秘剣『オトリヨセ』を見せて貰いますからね!」

「………………」

 カレルは黙り込んだ。子どもたちだけでなく騎士たちまで目をキラキラと輝かせている。

 ナーシェンが建てた剣術道場の門前には『ヒッテンミツルギスタイル』と書かれた看板が立てかけれられている。

 その上で、看板について尋ねにきた騎士たちに、

「ああ、ヒッテンミツルギスタイルか。あれは『支店を板に吊るしてギリギリ太るカレーセット、アッー!』と叫びながら敵に斬りかかり、身体の色んな箇所を突き刺す技を持つ、とにかく凄い剣術のことだ。他にも『フル○ン、サーセン、凄まじい、エロシーン、お取り寄せ』という恐怖の連続技を持つ」

 と適当なことをうそぶいたらしい。

 カレルは剣の鍔を押し上げ、周りの者たちに笑顔を見せた。

「本当に、見たいのかな?」

 その後のことは説明するまでもないだろう。

 翌日から気絶した騎士たちが「ヒッテンミツルギスタイル、恐るべし」と噂するようになった。

 カレルは持ち前の被害妄想でそれらすべてをナーシェンの策謀にしてしまった。



[4586] 第3章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/27 01:12
「うわっ、このっ、暴れるな!」
 青空の下、ひとりの少年の悲鳴が虚しく響いた。

 飛竜の雄叫びは鼓膜を引き裂かんばかりのものであり、飛竜の機嫌が悪いのは明らかであった。

「あー、ちくしょう。お前らも笑ってないで何とかしろ!」

 ナーシェンは暴れる飛竜に振り回され、それを爆笑している騎士たちに叫ぶ。普段からナーシェンの奇行に振り回されてきた騎士たちは、ここぞとばかりにナーシェンを指差して嘲笑っていたりする。騎士道はどこにいった。

 やがてナーシェンは飛竜から振り落とされた。
 尻餅をつきながら、ナーシェンは飛竜を見上げる。

 飛竜の目が、こちらを嘲笑っているような気がした。

「……ふ、ふんっ! 別に飛竜に乗りたいだなんて考えてないんだからな!」

 ナーシェンは捨て台詞を残して、屋敷に逃げ帰った。

 執務室に逃げ込むと、机の上に積み上げられた書類が目に入る。

「ぐすっ……いいんだもん……。私は机仕事が似合う男になるんだもん……」

 しかし、何故だろう。

 ナーシェンはここ数日、飛竜に乗る試みを続けてきた。だが、ほとんどの飛竜がナーシェンを背に乗せたがらなかった。

 本来、ナーシェンは飛竜に乗れたらしい。ひとり飛ぶことは許されず、歩き回るだけだったが、それでも飛竜から振り下ろされるようなことはなかった。

「あれか? 憑依したからか?」

 ナーシェンは顎に手を当てる。
 竜騎士でないナーシェンなんてナーシェンではない。そう思う。

 これでは三竜将になれないではないか。

「………………あれ? えっと……いや、別に三竜将になる必要はないのか」

 ナーシェンはポンと手を打った。三竜将になれば国王直属の近衛騎士団3000人を操る武将の頂点になれるのである。すべての武人の憧れの的といってもいい。

 だが、3000人を三つに分ければ1000人。

 三竜将になっても、動員できる兵力は1000人。しかも、この力には大きな義務が伴う。1000人でリキアを落として来いと言われても、常識的に考えて無理がある。

 ナーシェンの都市計画は十年で領地の動員兵力を1000以上にできると見積もっている。わざわざ三竜将になる必要はないのである。
 と言うか、ナーシェンにとって三竜将就任は死亡フラグなので、絶対に避けなければならない。

 まぁ、飛竜に乗れないなら乗れないで、それでいい。
 ナーシェン机の引き出しを開けた。

「古代の魔法。……闇魔法か」


    【第3章・第2話】


「……はぁ」
 整備された街道を馬車が進む。

 ベルン北部同盟が発足し、ベルン北部の街道はあらかた整備された。ナーシェンの宝物庫を空っぽにする勢いで道路が敷設されたのである。このため、商人の行き来が活発になり、ベルン北部は空前絶後の急成長を始めている。

 トラヒムとの一戦の際、ナーシェンが本陣を構えた喫茶店の周囲は、すでに都市化が始まっている。
 本陣を残しておき、自由に利用して構わないと言っておいたため、他国から流れてきた者たちがあっと言う間に村を作り上げ、それが街に発展しかけているのである。

 馬車はオスティアに向かっている。

 留守中の政務はバルドスに任せてきた。ついでにジェミーに政務を教えてやってくれと頼んでいる。
 ジェミーは頭が切れるから、すぐにバルドスのやり方を自分のものにしてしまうだろう。

 その点は心配していない。

「………………オスティア、か」

 前作の主人公のひとり、ヘクトルの領地である。
 原作で、ナーシェンはヘクトルを殺している。

「会えない、な。うん、顔合わせは無理だ」

 情が移れば、いざと言う時に戦えなくなる。
 三竜将にならない時点で、原作通りに物語が進むとは思えないのだが、万が一ということもある。

 溜息しか出てこなかった。


    ―――


 ナーシェンが出した宿題に、ジェミーは頭を抱えた。

「なにか理解できない点でもありましたかな?」
「いえ、そっちじゃなくて……」

 そう言うと、バルドスは「ああ」と頷く。何も説明していないのに、ジェミーが何について悩んでいるのか見抜いてしまう。この人は、本当は油断ならない人物なのではないかと時折ジェミーは考えることがある。
 彼女は大人の悪意に敏感だ。

「……どうしましたかな?」
「あ、いえ……」

 うわの空になっているジェミーを見かね、バルドスは溜息を吐いた。

「今日はここまでにしておきましょう。ジェミー様は、お先にナーシェン様からの課題をお片づけになられて下さい」

 ジェミーのことを様付けで呼ぶバルドスに、ジェミーは表情を歪めるしかなかった。最初、やめてくれと訴えた時、バルドスはそ知らぬ顔をして「将来ナーシェン様の奥方になられるかもしれないので、今のうちに恨みを買いたくないので」とすげなく訴えを切り捨ててしまった。

 傍から見れば、ジェミーがナーシェンに好意を抱いているのは丸わかりなのだそうだ。
 相手は侯爵。それに比べて、自分はただの平民。身分違いにもほどがある。

 だから、ジェミーは自分の気持ちを隠してきたつもりだった。
 たかが九歳。その内、自分の気持ちも変わっていくだろう、と冷めた気分で考えていた。

 なのに、バルドスは「将来奥方になられるかも」と言う。
 期待して、いいのだろうか?

 高望みでは、ないだろうか?

「では、失礼します」

 バルドスは書類を抱えて執務室を後にする。
 ジェミーは我に返った。

「はぁ、たった二日なのに……」

 執務室の主は不在だった。
 ナーシェンがオスティアに旅立って、まだ二日である。


    ―――


 ナーシェンがジェミーに出した宿題とは『学問所』の建設である。

 学問所……つまり、教育機関である。ナーシェンは領内に、最低でも初等教育を行える環境を整えたかった。ナーシェンは「難しいだろうが、数年後には領民の生活に余裕が出てきて、教育を義務にできれば最善だけどな」と話していた。
 とりあえずのところは、裕福民の子弟が通う学校にすると言うことらしい。

 そして、今回のナーシェンのオスティア遠征の目的のひとつに、オスティアの知識階級のスカウトがある。ナーシェンの領内には、もう学のある者は残っていないのだ。
 ……と言うと語弊がある。ナーシェンは文字が読める者などを下級役人に取り立てているのである。

「ナーシェン様が留守の間に、最低でも建物の建築計画は済ませておかないと……」

 ジェミーは領内の地図をめくる。
 建設予定地はすでにナーシェンが確保している。喫茶店の真向かいである。ナーシェンはここは領主館と学問所を建設するので勝手に家を建てないように、と村人たちに述べている。

 ついでに予算も確保してくれている。

 つまり、ジェミーは建材――できれば石材と、設計図を引ける大工、あとは大量の労働力を用意すればいいのである。
 なんだ、簡単だ……とは思えなかった。

 教室数は最低で二十個、教員室、実験室などを含めると部屋数は四十個にも及ぶ、三階建ての大規模建造物である。ジェミーはナーシェンの屋敷を建てた人物などを資料から探してみたが、いずれも故人である。

「どうしよう……」

 ジェミーは頭を抱えた。ナーシェンの頭痛薬を愛用している気持ちがわかる気がする。
 九歳の少女に政務を任せるナーシェン、すでに末期である。


    ―――


 カレルは剣を振る。血が飛び散り、廊下を汚した。
 侍女が悲鳴を上げているが、カレルは構わず死体の持ち物を探る。

 気配を消して歩いているので気になって声をかけてみたところ、いきなり斬り付けられたのである。

「盗賊か、それとも密偵か」

 毒塗りのナイフや盗賊がよく使うカギなどが見付かり、カレルは首を捻った。

 おそらくだが、彼は盗賊ではない。すでに領内には、先代が溜め込んできた宝物を、ナーシェンが売り払い、その金で領内が開発されているという噂が流れている。それに、実際には直接ぶつかったわけではないが、戦争に勝利したばかりの家に侵入するほど、盗賊は肝が座っていない。

 なら、密偵か。

 カレルは剣を鞘に仕舞う。

「何事ですかな?」
「侵入者のようです。行き成り斬り付けて来たので、咄嗟に斬り返してしまいました」

 バルドスはカレルの返答に苦い顔をした。生かしておいて欲しかったとでも考えているのだろう。拷問にかけられなかっただけ、彼はまだ幸せだったかもしれない――と思いながら、カレルは死体を見下ろした。

「おお、抜刀斎は人を斬る時には凍りのような目をするって聞いていたんだが、本当みたいだな」
「人斬り抜刀斎、恐るべし」

「私見ですが、おそらく彼は密偵でしょう」
 カレルは野次馬化している騎士たちを剣魔の目付きで追い払う。

「そうですか。しかし、どの国の密偵でしょうな。こんな深いところまで忍び込んでくるなんて」

 カレルが偶然遭遇していなければ、この密偵はあっさり情報を持って帰っていただろう。
 あっさり斬ってしまったが、この密偵はかなりの実力を持っていた。今までも何度か忍び込んでいたのかもしれない。



[4586] 第3章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/27 01:12

 ナーシェンは相手の瞳を覗き込んだ。今も「うーん」と唸り、悩んでいる振りをしているが、心の中ではあとどれだけ値段を安くできるのか考えているのだろう。

「いや、うちも厳しくてねぇ。鉄の剣が420ゴールドでしか売れねえぇんだ。400ゴールドじゃうちの儲けは味噌っかすさ。不景気って奴なんだよ」

「はぁ……、そうですか。それで……?」

「だから、せめてさぁ、もうちっと安くならんかねぇ?」

 顔にシワのある年季の入ったオヤジが泣き落としで攻めてくる。

 ……なるほど、そう来るか。

 ナーシェンはニコリと笑った。

「はははっ、そうですか。だから武器が売れなかったんですね。オスティアが不景気だということを教えてくれて、ありがとうございます。いやぁ、やっぱり商売については商売人に尋ねるのが一番いいんだな」

 と言いながら、机の上に広げた武器のサンプルを片付け始めるナーシェンに、オヤジは目を丸くした。

「ちょ、ちょっと待ちな! まだ買わねぇとは言ってねぇぞ!」

「いや、ここで売れないなら別の店に行くまでですから。何もこの国で売る必要もありませんからね」

「そ、そんな薄情なことを仰らないで下さいよぉ……」

 ナーシェンは立ち止まり、目録を広げた。

 鉄の剣、平均小売価格460ゴールド、最低卸売価格400ゴールド、最大80本納品可能。

 以下、鋼の剣、鉄の槍、鋼の槍、鉄の斧、鋼の斧、鉄の弓、鋼の弓……とリストが続いていく。

「では、お買い上げ頂けるんですね?」

 オヤジは泣く泣く頷いた。


    【第3章・第3話】


「しかし、予想以上に売れましたね」

「まぁ、ベルンの武器は売り手市場だからな」

 ナーシェンは驚いているイアンに苦笑する。

 ベルンに住んでいると意識しないことだが、他国製品の武器は品質がベルンのものに追いついていないのである。製鉄技術でベルンが抜きん出ていると見るべきか、魔法大国エトルリアの影響でそこまで高品質な武器が求められていないと見るべきか、ナーシェンは考え込んだ。

 まず、リキア地方は、この辺りは中途半端な立地だが、有事の際にはベルンとエトルリアの緩衝地帯として機能する。ベルンに攻め込まれればエトルリアが助けてくれる、エトルリアに攻め込まれればベルンが助けてくれる――と言う、いわばパワーバランスを維持するために生かされている地方なのである。

 各諸侯は他国から攻め込まれれば一丸となって敵を迎え撃つという強固な同盟――リキア同盟も、実際は大したことはなかった。最終的には他国の介入があると期待しているわけだ。通りで、武器も魔法も発達しないわけである。

 エトルリアは魔法主義が蔓延っているので論外。

 サカは狩猟民族が遊牧生活を送っているので、個人レベルの弓術は達人クラスだが、国家間の争いに目を向けられるほどの統率者が存在していない。外征に出る必要がないので、これまた武器の製造技術が発達する必要性がない。

 イリア地方は気候でいえば寒帯であり、穀物の生産力が最悪なため、傭兵稼業で生計を立てている地方である。そもそも国力が武器を製造できるものではなく、ほぼすべてをベルンからの輸入に頼っている。位置的にベルンの近くにあるのも理由のひとつだろう。

「武器産業はベルンが独占しているんだよ。ベルンがエトルリアより国土が狭く、エトルリアの西方三島のような植民地を有していないのに、エトルリアと対等に渡り合える国力を持っているのも、これが理由だ」

「うわぁー、ベルンすげー」

「お前、何もわかってないだろ?」

 ベルンが凄いのではなく、他国の現状が論外なのだ。

 と、イアンが足を止めて考え込む。

「でも、ナーシェン様。ナーシェン様はこの前『独占状態というのはあまりよろしくない。産業とは競争状態にあることで伸びていくのである。独占状態では武器の品質が向上しない』って言ってましたよね」

 ナーシェンは笑みを浮かべた。騎士たちにも、段々と政治・経済的な話がわかってくるようになってきた者がいる。イアンもそのひとりである。

「まぁ、他国では独占状態だが、ベルン国内では激しく競争しているだろ」

「あっ、だから武器の仕入れ値が安かったんですね」

 今回、ナーシェンは、

 ベルン国内(製造)→ナーシェン(卸売)→オスティアの商人(小売)

 という形で取引をしている。

「安い卸値、高い小売値。利鞘を取る私たちはボロ儲け。理解できたか?」

 イアンは頷いた。


    ―――


 ナーシェンが領地を離れて一週間が経った。もうナーシェンもオスティアに到着し、動き出している頃だろうか。ジェミーは資料を捲りながら、そんなことを考えていた。

 窓の外では兄がフレアーに槍の稽古を付けられている。そろそろ飛竜で飛ぶ許可が下りるらしい。

 あの兄が竜騎士になる。ジェミーは親指の爪を噛んだ。あの兄に先を越されているような気がして面白くない。自分の方がナーシェンの役に立っていると証明してやりたかった。

「その為には、まずこれを片づけないと……」

 学校建設。そろそろ計画を立て始めないと、ナーシェンが戻って来るまでに間に合わなくなる。

 建設計画だけでいい――とのことだったが、それすらまだ見通しが立っていない。

 石材の出る山は領内に存在しているが、今から発掘のための設備を用意していては間に合わないので、カザン侯爵の領地から輸入することになっている。

 労働力は、叙勲されていない兵士と、工場で働いている男手を使用。あとは、近隣の村落から何人か出して貰えば十分だろう。

 問題は、設計図を引ける大工。いわゆる技術者である。

 ナーシェンも頭を悩ませている人材不足。
 建築家の資料を漁っているのだが、一向に収穫がない。

「はぁ、どうしよう……」

 さっさとバルドスに相談するべきなのだが、ジェミーはあの人が苦手だ。政治にたずさわる者がそんなことを言っている場合ではないのはわかっているが、苦手なものは苦手なのだ。

 ジェミーは溜息を吐いて机に突っ伏す。

 瞬間、紙束が崩れて机の下に広がった。

「あ、やばっ――!」

 慌てて手を伸ばすが、もう遅い。
 床に散乱した紙を見て、ジェミーは泣きたくなってくる。

「……………あれ?」

 そんな紙束の中に、ジェミーは小奇麗な封筒を見つけた。

 拾い上げて裏を見てみると、『ジェミーへ』と走り書きがなされている。

「ナーシェン様?」

 それはまさしく、ナーシェンの字によるものだった。


    ―――


 男は難攻不落の要塞、オスティア城の玉座で足を組んでいた。

 異様な巨体である。ベルン三竜将のマードックと、そう変わらないのではないかと思われた。

「ブレッドが死んだって?」

 男の名はヘクトル。

 先代オスティア侯ウーゼルの弟であり、当代のオスティア侯である。

「遺体は山中に埋められてました」
「……なるほど」

 ヘクトルは舌を打つ。ブレッドの野郎、ヘマをしやがって。

 あれほど深入りはするなと言っておいたのに、功に焦ったか。

「ブレッドには病気の妹がいたようです。それも、奴を急がせた原因じゃないですかね?」

「……そうか」

 アストールの言葉に、ヘクトルは両目を閉じて頷いた。

 だが、おそらくブレッドは慢心したのではないか。ナーシェンの屋敷で恐れるべきはカレルただひとりである。だが、カレルはほとんど屋敷に出入りしていない。つまり、執務室に入るのも、そこから書類を持ち出すのも自由なのである。

 何度か侵入を繰り返す内に、油断してしまったのだろう。

 カレルの恐ろしさは、実際にあの目を見るまではわからない。どれだけ危険だと言って聞かせたところで、果たして伝わっているのか怪しいものだ。

「ところで、ブレッドの後任はどうなさるので?」

「ああ、そのこともあったな。だが、ブレッドほどの腕を持つ者は、我がオスティア家にもそうはおらんぞ。何ならアストール、お前、行ってみるか?」

「冗談じゃありませんや。俺ごとき、問答無用で剣魔に斬捨てられますって」

 ぶるっと身を震わせるアストールに、ヘクトルは苦い顔をした。

 密偵たちも命令されたならナーシェンの屋敷に潜入するだろうが、カレルに発見される度に一名の欠員が生まれてしまう。密偵を育成するにも金はかかるし、何より人の命に代わりはないのである。カレルが考えなしにバッサバッサと斬ってくれるお陰で、ヘクトルは頭が痛かった。

 なら諜報をやめろよ、というツッコミはオスティアでは通じない。

 と、アストールが思い出したように口を開く。

「ところで、ちょうど今、ナーシェン侯がオスティアに潜り込んでいるんですが……」

「本人が?」

 それは無用心すぎるのではないか。ヘクトルはにわかには信じられない。

 普通なら、ヘクトルにアポイントメントを取っておくものである。この日に訪問するという意図を伝えておかなければ、後ろ暗い工作をしていると思われても仕方がない。

「……アストール」

「へい」

「お前、ナーシェン殿を見極めて来い」

 ヘクトルは王者の貫禄をかもし出す。

「小僧がオスティアに仇名す者なら、心の臓を抉ってこい。俺が許す」



[4586] 第3章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/27 00:19
 必要ないかもしれないけど、途方に暮れていたらマズイので念のため書き置きを残しておいたんだが……いや、こう言うのって何か恥ずかしいな。

 バルドスに伝言頼んどけばよかった。

 ともかくだ。ジェミーは、図面を引ける建築家が見付からなくて困惑しているかもしれない。

 そう言う時は発想の転換だ。建築と築城って、似てるような気がしないか?

 先のトラヒムとの戦いで本陣敷設を手伝ってくれたアウグスタ侯爵の息子さん。彼は私の知る限り、最高の築城の名手だよ。困ったら彼に相談するのもひとつの手じゃないかな。

 最後に……私はジェミーなら大丈夫だと思ってこの仕事を任せたんだ。

 だけど、ジェミーには迷惑だったかもしれない。残念だけど、その時は私を燃やしてくれて構わないから。もう二度とこのような仕事は任せない。でも、バルドスはあと十年も生きられない。私には、同年代の、胸のうちをすべて打ち明けられる腹心が必要なんだ。

 ……駄目、かな? うん、駄目……だよね。ゴメン、このことは忘れてくれ。この手紙も、さっさと燃やしてくれるとありがたい。

 できれば見付からなければいいのになぁ。


    ―――


「見つけちゃいましたよ……」

 ジェミーはその手紙を胸に抱いた。
 すると、不思議なことに、心が温かくなった気がした。

「腹心、ですか……」

 本当に、救いようのないほどの朴念仁なんだから。

 おそらく、この手紙もジェミーが見つけられなかったら、さっさと処分されていただろう。

 自分の本音を滅多にもらさないあの人のことだ。

「絶対に、燃やしませんから」

 この日から、薄っぺらい封筒とその中の便箋が、ジェミーの宝物になった。


    【第3章・第4話】


「よく来てくれた、エリウッド!」
「ヘクトル、久しぶりだな!」

 オスティア城の庭先で、フェレ侯とオスティア候が再会した。

 二人はお互い年を取ったな、と笑いあう。
 その笑みには少年のような輝きがあった。

 積もる話は山ほどあった。
 夜まで語り合っても、終わらないだろう。

 黒い牙との暗闘、ネルガルとの死闘、火竜との決戦――。
 そして、アトスの永眠。

 十年前にエレブ大陸を巻き込んで行われた密かな動乱。

 二人はそこから生還してから、ひたすら領地経営に勤しみ、ゆっくりと語り合う時間すら取れなかったのである。

「ん? 向こうにいるのはお前の息子か?」

 ヘクトルの目が、ふと自分たちの様子を大人しく見守っている少年に向けられる。

「ずっと会わせたかったんだが、機会に恵まれずにいたんだ」

「ほぅ。お前の息子か。若い頃のお前と瓜二つだな」

「よく言われるよ。ほら、ロイ。こっちにおいで!」

 エリウッドが息子ロイを呼び寄せる。

 ヘクトルは唸った。本当に、若い頃のエリウッドにそっくりである。

「お呼びですか、父上」

「ああ。オスティア侯にご挨拶しなさい」

「は、はい!」

 エリウッドに促されると、ロイはビクリと震えて表情に緊張を滲ませたものの、流石は侯爵嫡子というべきか、礼儀正しく名乗りを上げた。

「はじめまして、ヘクトルさま。ロイともうします」

「ロイか! よろしくな!」

 ヘクトルは人好きのする笑みを浮かべると、背後に控えていた侍女を目線で促した。

「よし、こちらも娘を紹介しておこう。リリーナ!」

「あ、あのぅ……」

「ん、どうした?」

 怪訝に眉を寄せて尋ねると、侍女はおずおずと話し出した。

「姫様は、ちょっと、城下に出かけているようで……」

「………………」

 気さくに街に出て行き、貴族っぽさを感じさせない娘は民衆に慕われている。

 が、このタイミングでこれはない。ヘクトルは空を仰いだ。

 ここに、運命の悪戯が発生した。


    ―――


 ヘクトルにナーシェンの人となりを見極めて来いと言われたアストールは、色々な準備を終えると行動に移り始めた。オスティア城下は彼の庭のようなものである。密偵の筆頭であるアストールは水を得た魚のように動き回った。

 ナーシェンが死ねば、遺体は娼館の裏に打ち捨てられることになっている。

 同時に、ナーシェンは娼館で揉め事を起こし、乱闘の末に娼婦に刺し殺されたという噂が流れる手はずになっている。情報操作はオスティアの十八番である。ゼフィールも武人にあるまじきナーシェンの行為に、強い抗議には出られなくなるだろう。

 そもそも、お忍びでオスティアに来ること事態間違っているのである。

 問題が起こった時、オスティアが責任を取る必要はどこにもない。

「まぁ、殺すのは最終手段だがな……」

 アストールは物陰から様子を見守る。

「おい、クソババア! テメエの所為で俺様の服が台無しだ!」

「どう責任取ってくれるんだよ!」

 魚屋の店先で、荒れくれ者たちが老婆につっかかっている。

 作戦その壱。

 魚を購入した老婆が荒れくれ者にぶつかって、袋の中の魚をぶちまけてしまい、荒れくれ者の服が魚臭くなってしまった――というシナリオである。

 アストール、いささか古風な芝居が好きな男であった。

「む、魚か。流石はオスティア。港が近いだけあって、魚介類が流通しているのか」

 騎士と談笑していたナーシェンが、その光景に足を止める。

 ……どうだ!?
 これで老婆に見向きもしない腐った性根をしていたら、心臓を貰い受けるぞっ!

 物陰からのアストールの視線が鋭さを増す。

 その時であった。アストール、今世紀最大の誤算が発生したのは。

「やめなさい! おばあさんは悪くないわ!」

「ひ、姫ぇっ!?」

 アストールの声が裏返った。

 視線の先には、青い髪をたなびかせた主君の愛娘の姿が。

 リリーナ、五歳である。

 護衛の従者はどうした!?
 いや、あの大人しそうに見えてお転婆な姫さんのことだ。
 どこかで撒いたのだろう。

 荒れくれ者たちも顔を見合わせた。この者たち、オスティア家の兵士なのである。

 彼らはどうしますかと言わんばかりの視線を物陰のアストールに向けてくる。

(や、やめろ! 気付かれるだろうが!)

 アストールは手を振り、両手でバツ印を作り、最後には手を合わせて懇願した。必死である。

 そんなハンドサインを理解できなかった荒れくれ者たちは、どんな勘違いをしたのかアストールのサインを誤解して、とりあえず作戦を続行することにした。

「なんだぁ? 嬢ちゃん、俺たちに喧嘩売っているのかよ?」

「はっはっは、こりゃいい! よかったな、婆さん! もしかしたら助かるかもしれねぇぜ!」

「この嬢ちゃんが代わりに殴られることになるけどな!」

 そんなことをしたら兵士たちの首が飛ぶ。その死と一歩手前な状態が、兵士たちに迫真の演技をさせていた。

 これで何もしなければ斬るぞ――とアストールがナーシェンを見つめていると、彼はフッと笑い、男たちの足元に金貨を投げ捨てた。

「その汚れたズボン、私が買い取ってやる。ほら、さっさと脱がないか。何なら私の家来が脱がしてやるぞ。ほら、イアン」

「了解でありまーす!」

 ナーシェンは配下の騎士を目線で促した。騎士は嬉々として男たちの下着を脱がしにかかる。抵抗しようとした者を鞘に包まれた剣で殴りつけ、問答無用で脱がしていくのである。そして、ナーシェンがペンを抜いて男たちの尻に卑猥な単語を書き付けていく。

 野次馬たちが笑い転げた。

 いつ殴られるかと目蓋をぎゅっと食い縛っていたリリーナは、きょとんとしている。

「大丈夫か?」

「あ、えっと……はい……」

 作戦その弐。

「乱闘騒ぎを起こしている馬鹿どもはどこだー!?」

「あ……」

 忘れていた。アストールは頭を抱える。

 新たにやってきたのは衛兵三人である。

 作戦その弐は、無事に騒ぎを収めたところで、衛兵がやってきて老婆を騒ぎの原因として連行しようとする――というシナリオである。アストールの芝居の手の込みようは尋常ではなかった。

 衛兵は老婆の手を取ると、下卑た笑みを浮かべた。

「お前だなぁ? 街中で問題を起こした者は三日間の禁固刑だぁ! さあ、取調べが待っているぞぉ!」

「ちょっと待って! そのお婆さんは悪くないの!」

「あぁん? なら誰が悪いっ――いぃえっ!?」

 リリーナの顔を見た衛兵が素っ頓狂な声を上げた。

 アストール、再びハンドサイン。そして誤解。作戦続行。

「なら誰が悪いってんだよ。もしや、嬢ちゃんが?」

「おい、イアン」

「あいあいさー」

 ナーシェンの配下の騎士が衛兵を殴り付ける。
 その間に、ナーシェンはリリーナの手をつかんで野次馬の壁を潜り抜けると走り出した。配下の騎士はナーシェンの方を振り返り、衛兵に前後を挟まれたと悟ると、脇にある路地に逃げ込んだ。

「……ヘクトル様、すいませんです」

 アストールはナーシェンたちを追いかける。

 報告を聞いたヘクトルは、ナーシェンのものではなく、アストールの心の臓を要求するかもしれなかった。



[4586] 第3章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/27 00:54
「はっはっふー……はっはっふー……」
 リリーナは自分の手を引いて走っている少年を見上げた。先ほどの言動や、部下を引き連れていることから、少年が良家の士族だということはわかった。三枚目っぽさが先行していて、あまり意識しないが、一応、美少年である。

「待て! そこの金髪!」

「待てと言われて立ち止まる馬鹿がいるかよ、ハゲ!」

「おのれぇぇぇぇえええ! 貴様、覚悟しておけよ!」

 追っ手の衛兵は最近頭髪が薄くなってきていることに日々恐怖していた。何時ハゲと呼ばれるかわからない。なので、頭髪を寝かせてバーコードにしていた。それが、少年を追いかけるために全力疾走し、落ち武者のように乱れていた。兜は髪が薄くなるかもしれないのでしていない。

 リリーナは衛兵の形相が怖ろしくて顔を背ける。

「むっ」

「きゃあ!」

 と、少年が急に方向転換した。別の衛兵が前方に回り込んだのである。

 さあ、もう袋のネズミだぞと言いたげな彼らに、少年は涼しげな嘲笑を送ると、急な方向転換に体勢を崩していたリリーナを抱いて酒場に飛び込んだ。

「あっ――」

 お姫様抱っこ。
 父以外に、リリーナにそのようなことをした者はいない。

 衛兵たちが酒場に踏み込む。

 その時には、少年は酒場に隠された地下通路に侵入していた。


    【第3章・第5話】


「あー、バテた……。運動不足も甚だしいな」

 ナーシェンは少女を床に降ろすと、ソファに倒れ込んだ。

 ここ、オスティアでは、一般には知られていないが、結構な数の地下通路が引かれている。それなりに余裕のある商人たちが有事の際に家財道具を隠したり、持ち出したりするためのものである。オスティアの上級役人たちはこのことを知っているだろうが、ナーシェンたちを追跡していたのは衛兵のような下級役人だった。

「あの……」
「ああ、そうか」

 ナーシェンは上体を起こした。
 少女が、心細そうに胸に手を当てて、おずおずとナーシェンを見つめている。

「ここはリーヴン家の別荘だ。万が一にも下っ端の役人たちが踏み込める場所じゃないから、とりあえずは安心してくれ。ほとぼりが冷めるまで三日ほどかかるだろうが、まぁ、それは自業自得ってことで」

 リーヴンはオスティアの豪商で、ナーシェンの来訪をどこから嗅ぎ付けたのか、いきなり数冊の書物を手に現れ、写本を頼みたいと言い出した。ナーシェンが金になると見ると即行動するほどの、行動派の人物である。

 ナーシェンが『学校日和』などの数冊の書物を友好の証にプレゼントしようとすると、リーヴンは手を横に振って「すでに持っているので」と言い、さらに「偉大なる文豪ナーシェン様直筆のサインを」と頭を下げてきて、ナーシェンをギョッとさせたりしたのは余談である。サイン入り『学校日和』を手に入れて歓喜したリーヴンはオスティアの秘密を洗いざらいナーシェンに話してしまった。と言うより、向こうが勝手に話してきたのだが。

「あの……あなたのお名前は?」

「あ、忘れてたな」

 少女の言葉に、ナーシェンは照れ笑いを浮かべると、ソファから立ち上がり、部屋に用意されていたティーセットを広げ始めた。

「私の名はナーシェンだ。これでもベルンのしがない貴族なのだがね、オスティア訪問はお忍びなので、あまり吹聴しないでくれよ」

「ナーシェン。あの、北国の獅子……」

 絶句している様子の少女に、ナーシェンは紅茶を勧める。

「ん? 紅茶を飲むのは初めてか?」

 平民にはまだ敷居が高いのかなー、とナーシェンが考えていた時だった。

「わたしはリリーナ。オスティア侯爵家の娘よ」

「………………………」

 ナーシェンはカップをテーブルに戻し、両目を擦った。言われてみれば、面影が……ある、のか?

 原作をプレイした時の記憶が薄れていて、子どもの頃の顔なんてわかるかよ! と逆ギレしそうになるナーシェンだったが、彼は覚えている。

 速さ、幸運、移動をドーピング、エイルカリバー×3、フォルブレイズ、特効薬持ちリリーナが竜殿を単騎駆けしたところを。移動20のリリーナ、今では反省している……。

(じゃなくて、こいつはロイの恋人だろうが! いや、待てよ?)

「あなたは何時も自分でお茶を淹れているの?」

「時間があれば、な。忙しい時は部下にやらせているが」

「そう。あまり貴族らしくないのね」

「よく言われる」

「あっ、ごめんなさい。あなたのことを貶しているわけじゃないんだけど……」

「いや、別に気にしてるわけじゃないが……」

 ナーシェンの腐った脳味噌が回転する。ここでリリーナに点数稼ぎしておけば、もし後に大変なことになっても、リリーナがナーシェンの助命を嘆願してくれるのではないだろうか。

 と言うより、ここで嫌われたら「お父様を殺したナーシェン、死になさい」→エイルカリバーになる。「お父様を殺したのも、きっと事情があったのよ」と言わせるためにはどうすればいいのか。

 ナーシェンの灰色の脳細胞が結論を弾き出した。


    ―――


 北国の獅子ナーシェン。
 侯爵なのに、すでに公爵を越えた領地、兵力、経済力を持つベルンの怪物。

 リリーナは純粋に驚いていた。

 荒れくれ者たちの尻に落書きしたり、ソファでへばったり、自分の手で紅茶を淹れたりと、その行動や言動はまったく貴族らしくなかった。なのに、高価な衣服は着慣れた感があり、どこかチグハグな印象を見る者に与えている。

「君は、現在のこの世界のことをどう思っている」

 そのナーシェンが口を開いた。

「大国では不正・汚職が横行し、商人はそんな貴族にくっ付いてこぼれた利権に群がっている。割を食わされているのは平民ばかりだ。知っているか? オスティアの周辺の村にも、その日の食べ物に困っている者がいるんだ」

「………オスティアにも?」

「光があれば影がある。まぁ、影はあまり目立たないがな」

 リリーナは両手を胸に当てた。リリーナは発展した都市がオスティアのすべてだと思っていた。その周りの村も、他国より発展していると勝手に考えていた。

「責めているわけじゃないから泣きそうな顔をするな」

「……あっ」

 ナーシェンが手の平をリリーナの頭に置いた。

 リリーナはナーシェンの顔を見上げる。意思の強そうな瞳が鋭く光っていた。

「わ、わたしは……助けたい。この大陸に住む人たちの生活を。不当に苦しめられている貧しい人たちを」

「よくできました」

 ナーシェンは屈みこんで、リリーナの手の甲にキスをした。
 騎士が主君に忠誠を誓う時の儀式。

「私が、君の想いを支えよう。リリーナの騎士として、ね」

 冗談めかして笑うナーシェンを見て、リリーナは頬が熱くなるのを感じた。


    ―――


 ナーシェンは「エトルリアに負けても殺さないでくれ。私は有能な内政官だから所領や爵位は没収してもいいけど、失職後はオスティア家に仕えさせて」と言っていたのだが、正しく伝わったと考えているのは本人だけだった。

 死亡フラグは叩き折れ、別なフラグが根を張ったりしていると――。

「見つけたぞ、ナーシェン!」

 アストールが窓を破って華麗に登場した。

 グルリと回転しながら、シュタッと効果音を立てて着地するアストール、何がしたい。

「リリーナぁぁあ! 今助けに行くからなぁぁあぁあ!」

 一方、衛兵から報告を受けたヘクトルはヴォルフバイルを背負って城から飛び出そうとして、エリウッドとオズインに羽交い絞めにされていたりする。



[4586] 第3章第6話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 09:00
「そこに置いている石材は邪魔になるぞ! 運搬係、何をやっている!」

 アウグスタ侯爵嫡子アルフレッド子爵の声が轟いた。

 ジェミーは引切り無しに届く報告に混乱するしかなかったが、アルフレッドの脳裏には現在の作業の進行状況が図面に描かれているらしい。築城の名手というナーシェンの見立ては間違いではなかったと言うことか。

「ジェミー殿、職員室の間取りはこのようなものになりますが、よろしいですか?」

「あ、はい。その広さで十分だと思いますけど、他の部屋が狭くならないですか?」

「予備のスペースを使うので問題ありません。ナーシェン殿が建設予定地を広めに設定しておいてくれたお陰ですね。まぁ、今回は期限を気にしなくてもいいので、割と楽ですよ」

 これで余裕を持たせているのか。ジェミーは絶句する。

 たしかに、数時間で野戦陣地を用意しなければならない状況よりは心理的な余裕もあるだろうが。

「それに、我が領地から工兵隊を二十人ほど持ってきているので」

「優秀な家臣をお持ちなのですね。主君が見れば『私も工兵が欲しい』と言い出すでしょうけど」

 後方支援部隊に力を入れているアルフレッドは、ナーシェンと考え方が似ているのだろう。

 だが、政務について語り合っていたかと思えば、何時の間にか娘の自慢話になっていたり、アウグスタとアルフレッドの二人で娘の押し売りを始めたりして、流石のナーシェンも裸足で逃げ出すしかなかったと言う。

「ところでジェミー殿。うちの息子の嫁に……いえ、何でもありません」

 ジェミーが懐から取り出しかけた魔道書に、アルフレッドは笑みを凍らせて引き下がった。


    【第3章・第6話】


「ふははははっ、ようやく見つけたぞ!」

 と叫ぶ男は、あまりカッコよくなかった。

 新たに登場した男は、ガラス片が額に突き刺さり、ぴゅーぴゅーと血を噴き出していた。

 ナーシェンは怯えているリリーナを庇いながら、男を睨み付けた。

「貴様、何者だ?」

「オスティア家の者だ。リリーナ様を迎えに来た」

「私がそれを信じるとでも?」

 ナーシェンはリリーナを誘拐しに来たと言われても疑問に思わなかっただろう。
 それほど、目の前の男は胡散臭かった。

「あ、アストール!?」

 と、背後でリリーナの叫び声が。

 アストール……アストール……ああ、あいつか。
 原作の十年前なのに、もうオスティア家にいるのか。あの盗賊は。

 イグレーヌと支援会話させた時には、思わずドラゴンナイトの集団に単騎突入させてしまったあの男か。

「あの、砂漠で女をやり逃げした奴か」

「何でそこまで知っ――ふっ、何のことだかさっぱりわからんな!」

「最低だな、お前」

 後ろでリリーナが首を捻っているが、箱入りで育てられた五歳の少女には、やると言われても何のことだかわかるわけがないだろう。

 アストールが剣を抜いた。

「リリーナ様を誘拐した罪、万死に値すると思え」

「待って、アストール! ナーシェンは私を誘拐したわけじゃないの!」

「いいえ、リリーナ様。ナーシェンはリリーナ様を誘拐したんです。そして、娼館の裏に打ち捨てられるのです。じゃないとヘクトル様に殺されるんでね、ゲヘヘッ」

「……アストール」

 主君の娘から可哀想な物を見るような目で見られても、アストールは動じない。
 ナーシェンも覚悟を決めた。音を立てて剣を抜く。

 細身の剣。

 ナーシェンはカレルに言われたことを思い出した。

『正直、君に才能があるとは言えない。晩年までひたすら剣を振っていれば、あるいは……。だけど、君にそのようなことをしている時間はないだろう。だから、敵と遭遇すれば迷わず突け。敵の剣はよく見て躱せ。私はそのための技だけを叩き込む』

 とにかく突く。ガトチュ戦法である。

 一方、アストールの剣は反りの入ったシャムシールのような形をした剣だった。
 おそらく、キルソード。斬られれば、まず致命傷になる。

「行くぞ」

 アストールの声が不気味に響く。

 瞬間、彼の姿が虚空へと消え去った。

 ――上か!

 ナーシェンは細身の剣を弓のように引き絞った。

 このままでは、相打ちになる。二人とも心中する気はないので、攻撃の勢いが失速した。

 リリーナを庇いながら場所を変え――ナーシェンは気付く。

 アストールがリリーナに危害を加える理由はない。別にナーシェンが庇う必要はない、と思うのだが、リリーナはナーシェンにしがみ付いている。

「き、貴様って奴はあぁぁぁぁあああ!」

「うぉっ! 危ねぇ! 死ぬ! マジで死ぬ!」

「うるさい、死ね! 死ね!」

 アストールがナバタ砂漠での黒歴史を知っている人物など生かしてはおけないとばかりに剣を振るうが、ナーシェンはギャグ補正と言うべき凄まじい回避率で剣筋を見切っていく。

 だが、十三歳の体格で振るう剣には限界があり、アストールの素早い剣技に段々と押され始めた。

「ふっはっはー、これで終わりだ!」

「――っ、闇よ!」

 その剣先がナーシェンの胸に届く直前、ナーシェンは叫んだ。

 アストールが影に吹き飛ばされ、壁に縫い付けられる。

「ふぅ、手札を一枚切らされるとはな」

「ナーシェン様、やはりここでしたか」

「おお、イアン。遅かったな」

 ナーシェンは壁際で怯えていたリリーナの頭を撫でると「お別れだ」と呟いた。


    ―――


「結局、知識人のスカウトはできませんでしたね」
「まあな。でも、武器の販路を作れたのだから、目的の半分は達成できたと見るべきだ」

 オスティアには別の者を向かわせればいい。それに、知識人はエトルリアにもいるだろう。

 ナーシェンは馬車に揺られながら、溜息を吐いた。アストールのような、一流の使い手との戦いは、この世界に来てから初めてのことだった。カレルと何度か手合わせしていなければ、まず初撃で心臓を貫かれて死んでいただろう。

 ナーシェンは今回のことはアストールの暴走と見ていた。オスティア家が自分の存在を危惧しているなんて、想像もしていない。

 そして、後日ヘクトルがナーシェンのことを罵った時、娘リリーナの機嫌が悪くなったり、密かにナーシェンと文通していたりするのを知ったヘクトルの脳の血管が切れそうになっているなんてことは、ナーシェンの知る由ではなかった。

 ともあれ、オスティア家とナーシェンの間に生じた亀裂が修復するまでには、およそ十年の歳月がかかることになる。

「あっ、そうだ。アラフェン砦の近くに孤児院はないか?」

「調べないことにはわかりませんけど、どうするつもりですか?」

「援助金として2000ゴールドを送っておこうかと思ってね」

「……どう言うことで……いえ、やっぱやめときます」

 主君の行動は何時も意味不明なので、イアンは特に口を挟まなかった。

 ニノとジャファルについては、ナーシェンも探しているのだが一行に進展はない。ニノとジャファルの後日談で、黒い牙の残党に狙われて、結局は散り散りになってしまったとあった。子どもたち(おそらくルゥとレイ)は黒い牙に追われたままでは守れないと思い、孤児院に預けられたのだろう。

 原作でニノのファンになったナーシェンとしては、彼女を助けてあげたいという思いはあるのだが。


    ―――


「ジェミーちゃんファイアー」

「ぬわーーーーーーーー!」

 領地に帰還したナーシェンが学舎建築を計画するのみならず、完成させてしまっているのを見て、ナーシェンは思わずジェミーに抱きついてしまったのだが「まだ建てなくてもよかったんだけどな。知識人のスカウトはまだ終わってないし」の余計な一言がジェミーの脳の血管をプッツンさせてしまった。

 さらに後日、ナーシェンに届いた手紙を整理している最中、リリーナという者からの手紙を見つけ、ジェミーは無言で魔道書を手にナーシェンの執務室に突撃したと言う。

 火達磨バルドス、業火達磨ジード、消し炭ナーシェン。

 ある者はナーシェンは火計の天才だと勘違いしたそうな。


 第3章 完




[4586] 第4章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/30 01:08
 人竜戦役――。

 エレブ大陸で千年前に起きた人類と竜族との戦争のことである。最初は竜族の圧倒的な戦闘能力に人類は圧倒されたが、竜族は個体数が少なく、それに勝る人類が戦線を押し返す。竜族は数的不利を補うために生体兵器『戦闘竜』と、それを生み出す魔竜を造り出した。

 戦闘竜はほとんど感情を持たない、敵意に反応して反撃するもので、純粋な竜よりも戦闘能力は低かった。だが、その戦闘竜の投入によって戦線は再び膠着状態に陥った。

 そこで人類は決戦兵器『神将器』を『八神将』に託し、魔竜の篭る竜殿を襲撃。そこで神将器と竜族の膨大な魔力が干渉し、暴走。終末の冬が始まった。

 竜族の魔力の暴走によって引き起こされた天変地異は、エレブ大陸の「秩序」を崩壊させ、自然環境が激変した。夏に雪が降り、昼が夜になったという。竜族、人類ともに深刻な被害を出したと伝えられている。

「秩序」の崩壊は特に竜族に大きな影響を与えた。彼らは新たな「秩序」のもとでは竜としての姿を保つことが出来なくなり、「マムクート」と呼ばれる人型に姿を変え、僅かな力を「竜石」に残すのみとなった。「マムクート」は「竜石」を用いれば一時的に竜と化し真の力を発揮できるが、通常時は人にも劣る力しか持たない。

 こうして人竜戦役は人類の勝利に終わった。


    【第4章・第1話】


 壮麗な様式美を讃えたベルン宮殿では、今日、二つの式典が行われていた。

「諸君、静粛に。国王が御成りになる」

 宰相バレンタインの張りのある声が響き、集まっていた諸侯たちが左右に一列に並ぶ。だが、ナーシェンはその列に加わらず、玉座の正面に跪いた。

 ナーシェン、十七歳。

 オスティア訪問より、三年の歳月を経ている。

 ゼフィールが階段の上にある玉座に腰掛け、その隣に王妹のギネヴィアが控えている。

 マードックは階段の下で、居並ぶ諸侯たちを静かな目線で威圧している。

 年に一度の大評定である。

「コンドラ侯爵ナーシェン」

「ハッ」

「貴様は今日よりブラミモンド公爵ナーシェンとなる。以後も、余に忠誠を尽くせ」

「光栄にございます。忠誠におきましては、是非もなく」

 ナーシェンは頭を下げると、諸侯たちの列に戻る。国王の小姓が「こちらです」と場所を示していた。

 昨年までは、大公と公爵たちの後ろがナーシェンの位置だったのだが、今年から公爵たちの中になっている。ベルン西部の巨人、ファルス公爵が「出世ですな」と笑いかけてくれて、ナーシェンの心は大分落ち着いた。

 ブラミモンド。

 言うまでもなく、八神将のひとり、謎多き者ブラミモンドのことである。

 ベルンには元々ブラミモンドという爵位が存在していたのだが、英雄の子孫であるためか傲慢に振る舞い、当時の国王の不興を買って改易されている。調べたところ、ナーシェンはそのブラミモンド家の血を引いていた。

 今回の出世については、公爵級の力を持っているのに何時までも侯爵では諸侯に示しが付かないだろうと言うことで、ゼフィールも重い腰を上げるしかなかったらしい。公爵に昇進したと言っても、新たな領地を与える必要はないので、ゼフィールも「まぁいいか」という気分でナーシェンを昇格させたのだろう。

 これでナーシェンはブラミモンド公爵ナーシェンになる。

 闇魔法の英雄ブラミモンドの名を継ぐことになったのだが、ナーシェンも「どうでもいい」と考えていた。ゼフィールもナーシェンも名より実を取る男なのである。こんなところで似ていたりするのだが、二人ともお互いのことを似たもの同士とは意識していない。

 宰相バレンタインが諸侯たちに今年度の方針を伝えていくのを聞きながら、ナーシェンは今年は荒れそうだと思っていた。

 トラヒム卿の乱から数年間はベルン北部同盟の盟約で山賊退治に出陣したことはあったが、ほとんど平和と言ってもよく、内政方面に専念できた。

 だが……。

「では、これより三竜将就任の儀式を行います。ブルーニャ殿、御前へ」

「はい」

 若い女性が、諸侯の列の中ほどから、スッと立ち上がって国王の前に進み出た。

 紫色の髪をなびかせている。その美しさに、諸侯たちから感嘆の声が漏れた。

 ベルン東部の子爵家の令嬢、ベルン近衛騎士団所属ブルーニャ。

 彼女はマードックの推薦を受け、父親の政治的な根回しもあり、この度、三竜将に就任することになった。

 彼女は十七歳。最年少の将軍就任に、諸侯たちから「若すぎるのでは?」と危惧の声が上がったが、それをゼフィールに具申する者はいなかった。

「エトルリアでも、最年少の三軍将が就任したそうですね」

「らしいですな。十七歳、それも女性の魔道軍将だとか」

 ファルス公爵も感じているのだろう。

 これは、エトルリアとベルンの見栄の張り合いだということに。

 エトルリアの魔道軍将セシリアも、ベルンの三竜将ブルーニャも、どちらも実力に不足はない。

 それでも、十七歳というのは異例だ。

 おそらく、今年中にベルンとエトルリアの戦が起こる。

 小競り合いで終わるか、決戦で終わるかはわからない。

「予行演習」

「……でしょうな」

 周囲の者がいるため、あまり大きな声で言えなかったが、ナーシェンの言いたいことはファルスに伝わったらしい。

 ゼフィールの軍拡も、ここに至ってようやくひと段落着きかけている。これ以上の徴兵は国力が落ちると言うところまできているのである。

 原作でゼフィールが世界征服に出ているが、いきなりそのような行動に出るほどゼフィールは馬鹿ではないだろうとナーシェンは考えていた。となると、原作前に予行演習のようなものを行っているべきである。

 侵攻計画を作成し、軍事力にそれを実行する能力があるのか、見極めなければならない。

 原作まで、残り七年。

 すでにカウントダウンは始まっていた。



[4586] 第4章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/30 01:10
 ベルンの三竜将就任は年に一度の大評定のついでに行われたらしいが、エトルリアの魔道軍将就任の際には大規模な式典が行われた。こう言うところに質実剛健なベルンと、見栄っ張りなエトルリアの性格がよく現れている。

 セシリアは呆れながらも、エトルリアの一員なので従うしかなかった。

 オスティアの駐在武官だったセシリアが、突如呼び出されたかと思うと、空位だった魔道軍将に任じられ、しばらくは目がさえて眠れない夜を送っていたが、連日の式典には辟易とさせられていた。最近はよく眠れている。貴族の眠たくなるお話のお陰で。

「……あ」

「おやおや」

 人知れず出てきた欠伸に、セシリアは慌てて両手で口を押えた。

 その様子を王宮付きの魔道指南役、エルクに見られ、セシリアは赤面する。

「どうやら疲れているようだね。そんなに皆の話は退屈だったかな?」

「いえ、退屈というわけではないのですが、どの方も同じような話ばかりで、少しばかり眠たくなってしまいました」

「それを退屈というのだよ」

「あっ、そうでしたね」

 セシリアは慌てて周囲を見回すが、周りの貴族や各国からの招待客はそれぞれ他の話に気を取られていて自分の声は届いていないようだった。

 よかった、と彼女は安堵する。

 セシリアの魔道軍将就任祝いなのに、当事者が苦痛に感じていることを周りに洩らしてしまうのは礼儀を失っていた。

「だが、まあ、それも仕方のないことなのだろうね」

「どういうことですか?」

 エルクは周囲を見回し、小さく呟いた。

「この中の何人が君の魔道軍将就任を喜んでいると思う?」

「それは……」

 セシリアは答えに悩む。

 国内の貴族は自分の縁者を魔道軍将に押したいというのが心情だろう。

 招待された他国の貴族は論外だ。敵になり得る者に好意を抱けるわけがない。

「だから、師匠は魔道軍将の就任を拒んでいたのですか?」

「そうだね」

 エルクは気恥ずかしそうに笑みを浮かべる。

「僕の妻は改易された貴族の娘でね。僕も師匠の後押しを受けて爵位を賜うことができたけど、その政治的地盤は極めて弱い。わずかな失態で魔道軍将の肩書きと爵位さえも失ってしまう恐れがあったんだ」

 セシリアは思い出す。

 この師匠が他の誰にも負けないぐらいの愛妻家であったことを。

「だが、君が無事に魔道将軍に就任してくれた。これで、晴れて僕は自由の身というわけだ」

「もう、私にすべて押し付けたつもりでいるんですね! 酷いです」

「あはは、それはすまなかったね」

 もう最後になるのかもしれない師弟のやり取りに周りの者が微笑ましげに目を細めていた。

 そんな中、一人の青年が進み出る。

「お初にお目にかかる。ベルン国、ブラミモンド公爵ナーシェンだ」

「は、はぁ。先日魔道軍将に就任致しました、セシリアと申します」

 すでに貴族たちの挨拶は終わっている。
 他国からの挨拶は一まとめにされていたので、彼は遅れてきたと言うことだろうか。

 どうして今頃挨拶に来るのかと、セシリアは不思議に思って首をかしげていた。

 そんなセシリアに、ナーシェンと名乗った青年は優雅に微笑んだ。

「失礼。先ほどオスティア候に掴まってね。危うく斬り殺されそうなところを、君のところへ逃げさせて貰ったところだ。流石のヘクトル殿も、今回の主役に恥をかかせるわけにはいかないらしいね」

 見たところ、青年の年齢は十七歳前後である。
 自分と同年代ということか。

 その時、セシリアはようやくナーシェンという名前を思い出した。家督を継いでから瞬く間に領内を発展させた若者がいる、と。

 ナーシェンは警戒するセシリアを歯牙にもかけず、悠々と周囲を見回した。

「ふむ、どうやら私は歓迎されていないようだ。汚職役人を叩き切ったことが災いしたのかな?」

「――っ、それは」

「亡命先の繋ぎ役にならない私に用はないということらしい。間違っているかな、セシリア殿?」

「………………」

「まあいい。話は変わるが、悲しいことに我が国でも山賊稼業が流行っているようでね。放置していても害悪にしかならないので捕まえるのだが、彼らの半分はこう言うのだよ。『エトルリアから逃げてきた』とね」

 硬直するセシリアに、ナーシェンは続ける。

「言っておこう。私はこの国が嫌いだ」

 セシリアは押し黙った。

「将軍になるのなら、この国の不正を正してくれたまえ。では、私は失礼するよ。このまま貴女と話していると、ダグラス殿にくびり殺されそうなのでね」

 クツクツと笑いながら踵を返すナーシェンの背中を、セシリアは目が離せなかった。

 ダグラスは、その青年を射殺しかねないほど睨み付けていた。

「あの人、ダグラス将軍に何を言ったんですか?」

「それが……将軍の前で『この国の腐臭は酷い。これでは王子が生き難かろう』と」

 なるほど。それでは冷静沈着なダグラスも怒り出すはずだ。

 ナーシェンはその後、リグレ公爵家のクレインと親しげに挨拶を交わしていた。


    【第4章・第2話】


「おいっ、見世物じゃねーっていってるだろうが! 離れろこのガキッ!」

 馬厩に戻ると、ジードが群衆に囲まれていた。子どもたちは飛竜を見物しに来たようだ。貴族の子弟ばかりなので、無駄にプライドばかりが高く、ジードも殴ったりできないらしい。

 面白い光景だったので離れた場所で見物することにした。

 護衛の騎士は飛竜で上空から敵が襲撃しないように監視している竜騎士が二名。
 あとは、馬上の騎士が五名である。

「ナーシェン!」

 子どもたちに囲まれて幸せそうなジードを見守っていると、ふと、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 ナーシェンを呼び捨てにする者はあまりいない。

 振り返ると、美しく成長した少女がそこにいた。

「クラリーネか。久しぶりだな。また美しくなったようだ」

 ナーシェンの言葉に、クラリーネはポッと頬を染める。

 このやり取りは貴族の子女が集う時の決まり文句なので、決してナーシェンが天然ジゴロというわけではない。

 むしろ、この程度のことで動揺するクラリーネがおかしいのだ。

「お久しぶりですわね。また背が伸びたんではなくて?」

「かもしれない。だが、私も十七になる。もう成長も終わっただろう」

「もう、その程度で満足してしまうんですの? まだお兄様には届いておりませんわよ?」

「別にクレインと勝負しているわけではないが、そうだな、同じ男として追い抜いてみたいとは思う」

 すでにクレインはリグレ公爵家の政治を任されており、中々の手腕を発揮しているという。

 その手並みを伝え聞き、ナーシェンは何度か参考にさせてもらったことがあった。しかも、悔しいことに男としての魅力さえクレインに負けている。

「背丈はともかく、クレインの甘いマスクは思わず落書きしたくなってくるほどだがな」

「……男の嫉妬は醜いですわよ」

 そうは言うが、一応は兄の容姿が褒められていると思ったのか、クラリーネは怒らなかった。

「さて、そろそろジードが失神しかねないのでな。お暇させて貰うよ」

「もう行ってしまわれますの?」

「次に会えるのは何時になるかわからないが、楽しみにしているよ」

「わたくしもですわ」

 馬のところに向かうナーシェンの背中に、クラリーネが声をかける。

「まだ飛竜には乗せてくれませんの?」

「君は魅力的だが、一人前のレディになるにはもう少しかかりそうだ」

「……次に会った時、一人前のレディになったと言わせてみせますわ」

 楽しみにしている、とナーシェンは口の中で転がし、馬の背に飛び乗った。

 ……言えない。まだ飛竜に乗れないなんて言えない。

 ナーシェンは冷や汗をダラダラと流しながら、颯爽と馬で駆け抜けた。

 翌日、身体を冷やして風邪を引き、領地に戻るのが遅れたナーシェンであった。



[4586] 第4章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/30 01:28
 ナーシェンの領地は、今、空前絶後の大発展を遂げていた――という描写は前にも使ったような気がする。その発展は今現在も続いている。「なんということでしょう」というナレーションが入りそうな変貌っぷりに、行商人たちが「毎年この街を見るのが楽しみなんですよ」と思っていたり、出稼ぎに出て行った若者が「出稼ぎに行く意味ねーじゃん」と肩を落としていた。大都市には人が沢山住んでいて、その人の数だけドラマがあるのである。

 そんな都市の名前をナーシェサンドリア。

 地中海の花嫁アレキサンドリアは、たしか征服王イスカンダルが付けた名前だっただろ。というナーシェンのうろ覚えの知識から、ナーシェンも自分の作った都市だからという理由でそんな名前にしてみたらしい。

 そのままナーシェンという都市名にするのも芸がないのでナーシェサンドリアにした。

 ネーミングセンスの欠片もない男である。

 その都市の中央に、領主館と学問所がある。

 領主館というが、もうこれは城である。アルフレッド子爵が建てた城は威厳に溢れ、隣にある喫茶ナーシェン一号店がみじめに見えるほどであった。

 その城の城門から伸びる大通りに、学問所が建てられている。

 今年度から十歳以上、十五歳以下の平民200人(ただし、長男または長女のみ)への初等教育が行われることが決定していた。三年の就学後、学問所を卒業する時には『初等教員資格』が与えられ、ベルン北部同盟の各地において学校を営む権利が認められる。

「エトルリアの動向が怪しい、か」

 ナーシェンは城の執務室で、資料を捲りながら首を捻った。

 ジェミーは壁にかけられているエレブ大陸の地図を示しながら答える。

「ずっと前からのことですけど、エトルリアは対外政策で下手ばかり打ってきたじゃないですか」

「まぁ、あの国は領地発展以外、戦略展開のしようがないからな。金集めに執心している諸侯の戦意は薄く、とても外征に出れる状態ではない。モルドレッド王も頭を悩ませていることだろう」

「それが、最近は数年前にベルンのものだと落ち着いたはずの鉱山の採掘権を主張したり、軍拡についてどう釈明する気かと説明を求めてきたり、まるでこちらを挑発しているみたいなんですよね」

 ジェミーが納得できないといった様子で首を傾げた。

「パーシバル将軍、セシリア将軍を得て調子に乗っていると言うことか?」

「かもしれません。でも、ひとりの将軍にできることも限られています」

「……敵はエトルリアだけと言うことではないのかもしれないな」

 ナーシェンは表情を曇らせた。王子ミルディンを失った国王が意気消沈するのは原作の一年前である。今のところ、モルドレッド王は実に優秀な国王であった。

「草原の部族サカがエトルリアの要請に応えるとは思えん。リキアとイリアが怪しいか?」

「早急に調べさせておきます」

「いや、やめておこう。内偵はベルン西部の貴族に絞っておけ」

 この際、リキアとイリアの連中は、敵に回っても構わない。それよりも、ベルン西部の貴族の裏切りの方が怖ろしい。関ヶ原で、どれだけの武将が西軍を裏切っているのか。万全の布陣で迎え撃った西軍が敗れた理由も、味方の裏切りである。


    【第4章・第3話】


「せいやぁ!」

 アレンの豪快な槍捌きを、ランスが細身の槍で冷静に受け流している。

 石突で吹き飛ばされたアレンに、ランスが槍の穂先を突きつけた。

 ロイは二人の家臣たちが鎬を削っている様子を眺めながら、書物を広げていた。昔は屋外で本を読んでいると誰かに咎められたものだが、最近では本が安く手に入ることもあり、わざわざ注意する者はいなくなった。

 さて、その手にある書物、著者はもちろんナーシェンである。

 時々アレンなどが十八禁版を勧めてくるが、ランスやセシリアがロイの手に渡るまでにすべて処分することに成功している。ランスは『戦国槍男』を紙吹雪になるまで引き裂き、焚き火にしていた。その後、アレンはセシリアに「エッチなのはいけないと思います!」と怒られていた。ロイも叱られた。ロイは悪くないのに。

 今、ロイが読んでいるのは『ファミリー・プラン(全年齢版)』であった。前作の『運命/夜(全年齢版)』の後書きに『最近は政務が忙しく、執筆の時間が取れない』と書かれていてロイを残念がらせたが、半年で次回作を送り出すあたり、ロイはナーシェンのことを尊敬している。

 十八禁作品については、コメントを差し控えさせておく。

 このような名作を書ける人が、どうしてあのようにエロに走るのか、ロイにはさっぱり理解できない。女性の場合はどう思うのかなとリリーナに尋ねてみたところ、リリーナも顔を赤く染めて「まあ、あの人だから……」と言っていた。その後セシリアに殺されかけた。

「ロイ様、そろそろ勉学の時間になります」

 と、後ろで弓の手入れをしていたウォルトが声をかけてくる。

 現在、ロイたちの教育係を勤めていたセシリアは本国に呼び出されて不在であるが、だからと言って勉学をサボっていい理由にはならない。オスティア家お抱えのシスターのセーラが、ロイの教育係に任命されていた。

「セーラさんか。あの人、軍略については何も教えてくれないからなぁ。エトルリアの文化ばかりじゃないか」

「まぁ、何時か役に立つこともありますって」

「それより、剣の訓練の方がいいなぁ」

 ウォルトは苦笑する。ウォルトは、ロイと同年代の、心の内まで語り合える乳母兄弟である。

「身体は剣でできている、ってね」

「痺れますね」

 ロイ、八歳。

 フェレの竜ことロイがその名を轟かせるまでには、まだ七年の歳月が必要であった。


    ―――


 同時刻、エトルリアの東部。

 エトルリアの東部とベルン西部は大陸中央に位置し、土の肥えた肥沃な大地を有している。そのため、過去幾度となく戦乱に見舞われてきた。ベルンとエトルリアとの戦も、大抵はこの地の小さな貴族の小競り合いから始まっている。

「準備が整えば、本国の騎士団500が国境に展開する用意があります。それを追って、各諸侯の兵を含めた本隊の2000が速やかに編成され、子爵の領地まで向かう手はずになるでしょうな」

「……それで、我が領地は取り戻せるのですかな?」

「ベルンの奴らも、たかが子爵家の所領のために全面戦争を起こす勇気はありますまい」

 エトルリアの宰相ロアーツは薄っすらと笑みを浮かべた。

 その対面に座っているのは、ベルンの元子爵ブレン卿である。

 ブレンは不正を問われてゼフィールに追放された馬鹿貴族だった。不正をするならバレないようにやれ、というのがエトルリアの考え方だ。ロアーツはブレンがどれほど戦場で働けるとしても、ブレンのことを無能と断じるだろう。

 屋敷を訪問して来た時には辟易とさせられたが、このタイミングで来てくれるとは、ロアーツは天が自分を味方してくれているのではと舞い上がったものだ。ロアーツはすぐさま国王に報告し、出兵の許可を取り付けてきた。

 最近エトルリアの内部では不満が溜まってきている。度重なる貴族の不正で国力が消耗しており、税金の徴収が滞っているのである。自業自得も良いところだったが、そのため戦争を起こして他国の領地や宝物を奪いたいと考えている貴族どもがモルドレッドの頭を悩ませていた。

 ベルンとちょっと戦って、身の程を知ればいいのだ。

 モルドレッドはそう考えていた。全面戦争になるとは考えていない。

 だが、ロアーツは別の考えを抱いていた。

 ロアーツの所領はエトルリアの東部にある。今回の戦争で、あわよくば自分の所領を増やそうという魂胆だった。

「ブレン殿、ご心配致しますな。貴方にはエトルリアが付いております」
「おお! それはありがたい!」

 満面の笑顔を浮かべるブレンに、ロアーツはにんまりと笑う。

 誰が貴様に領地など与えるものか。戦争で勝利しても、適当な罪を捏造して処分してやるとも。



[4586] 第4章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/11/30 01:37
 ゆるやかに曲がった刀身、湖面のような輝きを放つ刃、握り易いように帯状にした布を巻いた柄。
 倭刀に近い形状をした鋼製の剣である。

 ナーシェンはキルソードを軽く振った。風が斬れて、ヒュッと音がする。

「良い出来だ」

「そう言って貰えると、私たち鍛冶師も冥利に尽きますがね。もっとも、これほどの物を打てるようになるまで、最低でも十年は修行を積まなければなりませんので」

「加えて、一年に十本ほどしか打てないのだろう? 需要過多になっているわけだ」

「はい。鋼製なのに銀製の物と相場が変わらないのも、それが理由です」

 ここはナーシェンの領地でも有数の鍛冶師の工房で、そこかしこに失敗作の刀剣が転がっていた。

 このキルソードも、昨日打ったばかりの新品である。剣を打っている最中――つまり昨日も、ナーシェンは鍛冶の仕事を見物させて貰っていた。もちろん、ただ見物しただけでは鍛冶のやり方を理解できるわけではない。わかったことと言えば、鋼の剣は熱した鉄を叩いて固め、冷やして終わりという製法なのだが、キルソードは冷やした鋼を再び熱し、何度も叩くというものだということだ。職人の技と手間がかかっているというわけである。

 鋼鉄とは鉄に炭素が混ざった、頑丈な合金である。

「弟子の数は?」

「五人になります。それでも、私ひとりで面倒を見るのは大変でして、これで限界なんですがね」

「他の鍛冶師よりは多いな」

「弟子には鍛冶の下準備や手伝い、片付けなどが任せられるのですが、売り物になる物を仕上げられないので、いまいち金になりません。他の職人はそれほど人数を育てる気にはなりませんでしょう」

 ナーシェンが気にしているものの一つに、様々な産業の後継者の育成がある。中世でまだまだ武器の需要のある状態では、後継者難になるとは思えないが、念のため視察しておく必要があると思えたのだ。その中で発見された問題に『弟子は金にならない』がある。

 工房の手伝いなども、弟子ではなく使用人に任せた方が経済的な場合もあり、多くの若手の鍛冶師志望者が苦労している現状があった。

 鍛冶師の使用人の使用を禁止し、弟子の育成を推奨するためにはどうするべきか。

 やはり、補助金を出すべきだろうか。ナーシェンは「ううむ」と唸る。

 弟子ひとりにつき三千ゴールドの補助金を出せば、ナーシェンの領地の場合では、十万ゴールド以上の出費になるだろう。まだまだ無理そうだ、と表情を苦々しげに歪め、ナーシェンは鍛冶師のオヤジに問いかけた。

「話は変わるが、この工房で『倭刀』は打てないか?」

「倭刀と言えば、東方から流れてきた反り強い剣のことですか? あれは、現物を見ないとわかりませんが、鋼だけでは打てないと思うんですよねぇ。うちで扱うにしても、かなりの試行錯誤が必要になると思いますよ」

「だろうな。カザン伯爵が一本持っているらしいので話を聞かせて貰ったのだが、あれは鋼鉄と軟鉄が混ざってるようだ。製法はキルソードと似ているかもしれないと言っていたが……」

「そもそも、キルソードは倭刀を製造しようとして失敗したものですからね。模倣品というわけです」

 なるほど、とナーシェンは頷いた。

 倭刀の製造。実現すればナーシェンの領地にはガッポリとお金が入ってくるだろうが、まだまだ難しいようだ。


    【第4章・第4話】


 屋敷……と言うより城の広間で、ナーシェンは不気味に笑いながら、カップの中で揺れる「お吸い物」に口を付けた。カツオ出汁で野菜を茹でて塩を放り込んだだけの単純なものである。

 通称、男の料理。なのに、美味い。

「ふっふっふー、諸君。ついに完成したぞ!」

 配下の騎士たちが「うおおおぉぉぉ!」と叫んだ。大鍋の回りに群がり、侍女たちが大忙しで騎士たちにお吸い物を配っているのを、ナーシェンは満足気に眺めていた。

「お吸い物ですか。それのために、あんなに手間をかけていらしたんですか?」

「いやいや、カツオ節は万能調味料だぞ。なんとか酸っていう成分が入っていて、使い方次第では料理が凄く旨くなる。まぁ、男の私はカツオ節を作るまでしかできないのだがね。料理は侍女の仕事だから」

「旨くなる、ですか?」

「まぁ、百聞は一見……一食にしかず。どうだ?」

 ナーシェンが差し出したカップに、ジェミーはためらいがちに手を伸ばした。この人、絶対にわかってないだろうなー、と思いながらジェミーはカップに口を付ける。どこに口をつけたのかは、彼女の名誉の為に内緒である。

「美味しい……。こんなの、王宮の料理人にも作れないんじゃないですか?」

「ただの男の料理だよ」

 ナーシェンは苦笑する。

 事は十日ほど前まで遡る。

 ナーシェンはまったりと内政できるのが幸せなんだよー、と腹心たちにだらしない笑みを向けると、配下の騎士を引き連れてルンルン気分で港町へ駆けていった。エトルリアの動向がきな臭くなってきているのに、暢気なものである。

 ちなみに、港町はナーシェンの領地には存在しない。ベルアー伯爵、カザン伯爵やその他の子爵家、男爵家が何れも小規模な港町を有している。大陸の外と貿易できるほどの船がないので、あまり発展する余地がないのだ。

 ナーシェンは港でマグロ系の魚を買い占めると、宿屋の厨房を借りてその場で三枚に解体して、すべて釜に入れて火を通してしまった。その日は「ああ、刺身で食べたかった」という騎士たちと、ついでに買っておいたタコを肴に酒を酌み交わし、翌日、熱の通したマグロ系の魚と一緒に領地に帰還した。

「で、これで何をするんですか?」

 また無駄な買い物を、とジト目を向けてくるジェミーを宥めつつ、ナーシェンは茹でたカツオを燻製にするために煉瓦を積んで作った台にカツオを吊るしてゆっくり燻した。ナーシェンは公爵で、その気になれば王様気分で贅沢することも十分可能だったが、その生活はほとんど庶民レベルと変わらなかった。褒めて褒めてー、と叫びたいぐらいである。

 その日はそれで終わった。

 まったり内政万歳である……と言うより、政務はジェミーに任せ切りである。その間、ナーシェンはずっと執務室で小説を書いていた。「全国のファンが私を待っているのだ!」と叫ぶナーシェンに、ジェミーは無言でファイアーを打ち込んだ。

 それからマグロ系の燻製は、カチカチになるまで水分が抜けるまで燻製や日干しを繰り返され――。

 そして、現在に至る。

「ところでナーシェン様。ナーシェン様でないと処理できない政務が山ほど溜まっているんですけど」

「あ、午後は印刷機の開発に――」

 ジェミーは懐からエルファイアーの魔道書を取り出した。

 ナーシェンはその後、配下の騎士たちにリザイアをかけて復活。政務に忙殺されることになる。


    ―――


 その日の政務が終わり、ジェミーが新たに取り寄せた魔道書を紐解くために早々に宿舎に戻ると、入れ替わりにバルドスが入室した。腹心とは言えジェミーに聞かせられない話がある時、ナーシェンは夕方にバルドスを呼ぶ。ジェミーも薄っすらと内容を察しているのか、質問してくることはなかった。

「アウグスタ侯爵がついにご隠居なさったか……」

「あの方ももう六十になられます。いい加減にアルフレッド殿に爵位を譲らないと、先に息子が亡くなるかもしれませんからな」

「侯爵になれずに死ぬのは流石に可哀想だな。つまりは、息子に夢を見させるためというわけか?」

 ナーシェンが自分でも信じていないような顔をしてバルドスに尋ねる。
 最近は病気がちになっているバルドスは、首を横に振った。

「アウグスタ殿も最近はご病気らしく、床に入っている時間が長くなっているとのこと。今回のことは、やはりご高齢が原因かと」

「だろうな」

 ナーシェンは頷いた。書類を整理してバルドスに手渡してから、自分で紅茶を淹れる。

 バルドスは何気なくその書類に目を落とし、目を見開いた。
 長年の忠勤ご苦労、暇を与える――その書類にはそう記されていた。しかも、隠居するにあたってナーシェサンドリアの郊外に屋敷を与えるとも。

「何か……何か私に落ち度があったとでも?」

「いや、それはない。今まで本当にお前にばかり世話をかけた。もう、いいんじゃないかと思ってな」

「私はまだ働けます」

「だが、もう身体が言うことを聞かなくなっているだろう? お前にはたしか妻子はいなかったな。エトルリアの兵士に殺されたと聞いている。男爵の爵位は当家が回収するか、国王に返上することになるだろう。それは許してくれ」

「ここで私を解き放ちますか。エトルリアに寝返るかもしれませんぞ」

 バルドスは両目を光らせた。目の前の青年を威圧的に睨み付ける。

 だが、青年は「なら、勝手にすればいい」と素っ気なく答えた。

 成長したものだ。バルドスは心の中からそう思う。すでにベルンで名を上げており、さらに老齢であるバルドスはエトルリアに流れても、決して重用されないということを理解しているのだ。

 バルドスの価値は、情報によるものだけである。ほどほどにベルンの内情を吐かされた後は、どこかに打ち捨てられるだけだろう。バルドスに領地を与える貴族は、エトルリアには存在しない。エトルリアにバルドスの居場所はなかった。

 そのことを一瞬で理解して、ナーシェンはそう答えたのだ。

「五年の間だったな。手を取り合い領地を発展させることができたのは、バルドス、お前の存在があったからだ。私ひとりでは何もできなかっただろう。よく、幼少の馬鹿だった頃の私を見捨てないでいてくれた。すまないな」

「勿体ないお言葉です」

 バルドスの目頭に涙が浮かぶ。

「私は最初、お前のことを誤解していたのだぞ? エトルリアに領地を奪われ、ベルンがそれを取り返し、お前の領地は有耶無耶にされてしまった。お前はその領地を取り返すために私を利用しているのだと思っていた。私のベルン北部同盟の盟主という権限があれば、適当な領地を用立てて貰えることだってできただろう。なのに、お前は何も言わず、ただ私に仕え続けた」

 ナーシェンは老将の手を取り、やわらかく微笑んだ。その目にも涙があった。

「感謝する」

「誠に、勿体ないお言葉ですな。ははっ………」

 それは、初めて見せたバルドスの笑顔だった。

 泣き笑いであった。




[4586] 第4章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 09:01
 前略、ベルン北部の冬は厳しいとお聞きしましたが、お身体は大丈夫でしょうか。

 公爵への昇進、おめでとうございます。これで、オスティア家はブラミモンド家より格下となりました。もっとも、リキア地方の爵位は主君に与えられたものではなく、ほとんど自称しているようなものなのですが。

 これから外でお会いしたら、ナーシェン様って呼ばないといけないのかしら?
 ナーシェンなら嫌がりそうね。その光景が目に浮かぶわ。

 以前の手紙で形式ばった書き方はやめてくれと言っていたから、堅苦しいのはここまでにしておきます。

 最近はナーシェンの領内の施策を聞いて、感心させられるばかりです。エトルリアの新魔道軍将就任の式典にお父様も招待されているの。この手紙が届いた頃には、すでに顔を合わせているかもしれないわね。

 ナーシェンの話をするとお父様は何故か不機嫌になるの。練兵場でナーシェンの悪口を叫びながら斧を振っているのよ。もう歳なのに、呆れるほど元気で。でも、この前、これは内緒だけど腰を痛めていたから、やっぱり歳なのかもしれないわね。

 あ、言ってなかったかもしれないけど、今度魔道軍将に就任なさるセシリアさんは私たちの教育係だったの。これまではオスティアの駐在武官だったんだけど、凄い出世よね。これからも私たちの指導を続けてくれるのか、まだわからないけど、私はあの人の教えを忘れない。

 ナーシェンとの約束を守るために必要なことを沢山教えてくれたから……。

    時節柄、お身体を大切に。
                                 リリーナより。


    【第4章・第5話】


 ナーシェンに届いた手紙を整理している時のことだった。
 開封された手紙を保存するか、それとも処分するか――その手の仕事はジェミーに任せられている。絶対に必要と判断したものは、ナーシェンが自分の机に仕舞っているので、今までこのような手紙を見つけたことはなかったが――。

 始めにナーシェンを焼いたのが失敗だったか。それ以来、ナーシェンはリリーナからの手紙をジェミーの手に渡らないようにしていたのだろう。

 しかし、今までこのようなやり取りをしていたのか。

 ジェミーは文面に目を落とし、両手をわなわなと震えさせた。魔道書に伸びる手を押し止めようと我慢する。

 落ち着け、私。ここでナーシェン様を焼いてどうなる。嫌われるだけでしょうが。

 などと健気なことを考えるのだが、文面から溢れるラブ臭は如何ともし難く、普段は封印しているエイルカリバーの魔道書が納められている引き出しに手が伸びそうになる。あれは駄目だ。ナーシェンが細切れになる。

「大体、どうしてオスティアの公女がナーシェン様に……!」

 ナーシェンとリリーナが出合ったのは、リリーナがまだ五歳だった頃である。そして、リリーナはまだ八歳。いや、そろそろ九歳か。だが、どちらにせよ恋などという概念を理解しているとは思えない。

 なのに何故だろう。この許婚にあてたような内容は。いや、親同士が決めた許婚なら、健気さをアピールするか同情を引くための、どこか作り物っぽさが漂っているはずだ。しかし、これは作り物っぽさなど存在せず、ただただ甘酸っぱさに満ち溢れている。

「………………………」

 ナーシェンはどのような返事をしたためているのだろうか。

 この手紙がこちらに紛れ込んでいたのは、政務に忙殺されて疲れていたためだろう。
 だが、こちらにある――と言うことは、返事を書いたはずである。

 ナーシェンは現在、疲労から眠りこけている。

 ジェミーは執務室に忍び込んだ。


    ―――


 寒い、寒すぎる! なので死ね! クレインの美形! ろくでなし!
 貴様は小便が凍り付く光景を見たことがあるか。ないなら今すぐイリア地方に行って凍死しろ。


    (中略)


 ……全面的な孤児の保護は、今のところまだ難しい。基礎教育の予算で手一杯だ。紙、糸、茶、書物などの交易でかなりの金が入ってきているが、今は都市開発でどんどん金が消えて行くからな。新たな産業を興すのにも、金が必要になってくる。

 やはり、孤児院に金を送るのが限界かもしれないな。

 それでも、十年以内には政府直属の孤児院を作りたい。初等教育のようなものとは違う、見返りを求めない機関にしたい。すべて、私の偽善的な願望だがな。

 最後に、寒いがお身体にお気をつけてなどは言わん。
 クラリーネにはお身体に気を付けてと伝えておいてくれ。

             ベルンの美形闇魔法使いナーシェンより。


    ―――


 間違った……。
 しかし何て手紙を書いているのだろう、あの人は。

 ジェミーはクレインへの手紙の二通の内の一通を代筆させられている。この文章に似せた手紙を書くのがどれだけ大変か、ナーシェンは理解しているのだろうか。

 ……いや、今はそんなことは関係ない。

 ジェミーは別の手紙を手に取った。
 今度こそリリーナへの手紙だ。


    ―――


 クレインに寒いから死んでくれと言う手紙を送ってしまったぜー、なナーシェンです。

 唐突ですが、カツオ節(魚の干物)を作ってしまいました。硬いです。めっちゃ硬いです。リリーナに見せたら「凄いわ、ナーシェン。こんなに硬い……」と言ってくれるのかな。そう思うと興奮して眠れません。

 こんなことはリリーナにしか言えないのですが、最近はクレインの手紙の半分を部下に代筆させています。なのにあいつは気付いていません。凄く笑えます。でも、リリーナへの手紙だけは私が書いています。返事を書くためにリリーナの手紙を見せたら、何故か部下に燃やされるんです。

 冗談はともかく、魔道軍将就任式典では例のごとくヘクトル殿に殺されそうになりました。周りの者がいなければ、その豪腕で撲殺されていたことでしょう。相変わらず激しいスキンシップがお好きなお方です。本当に冗談じゃねえ。


 最後に。

 あの時の約束、私も忘れたことはない。でも、私ひとりにできることなんて限られている。五年で、ベルン北部はかなり良くなった。だが、それだけだ。ベルンの西部、東部、南部、そして中央。公爵になっても、そこには手を伸ばせない。他国については語るまでもない。

 それでも、私は諦めない。だから、君もくじけないでくれ。
 前にも言ったが、手に負えないことがあれば私が支える。我ながら臭い台詞だがな。

    君の方こそ自愛してくれ。流行り病などにやられたら許さんからな。
                                ブラミモンド公爵ナーシェンより。


    ―――


 始めの方の文章は、すごく頭が悪そうだ。しかも下ネタ入りだ。おっさんか、あの人は。

 だが、最後の方。おそらく、本人は何も考えずただ思い付いたことを書いているのだろうが、これでは惚れるなと言うほうが無理だ。惚れる。こんな手紙が送られてきたら、ジェミーならまず間違いなくころりといく。

「くっ、あの唐変木……!」

 ジェミーは返事の手紙を燃やそうとして……力なくその手を下ろした。

「何やってるんだろ、私……」

「ばばんばばんばんばん、あぁ、いい風呂だったー!」

「―――!」

 慌てて机の影に隠れるジェミー。
 え、あれ、あの人、疲労で爆睡していたはずじゃ……。

 執務室の扉が開かれる。

「………………」

 瞬間、ナーシェンの瞳が細められる。キリリとした眼差し。ジェミーが好きな顔だ。
 でも、何故そんな表情をする必要があるのだろう。あの顔は、謀略や合戦の時でも滅多に出てこない、ナーシェンの本当の顔なのに。

 ジェミーは混乱する。その時、ナーシェンの口が開かれた。

「またオスティア候からの刺客か。ふっ、諦めの悪いことだ。殺さずに逃がしてやったのに調子付いたか。覚悟しろ、今度は生かして帰さんからな」

 布の擦れる音。ナーシェンが懐から闇の魔道書を取り出した音だ。

(……まずい。どうしよう、どうしよう!)

 だらだらと汗が流れる。完全に誤解されている。
 ジェミーはそっと魔道書を取り出した。混乱していたがために、身体に染み付いた行動を取ってしまったのである。

「え、あれ? 私、何やって……?」

「そこか!」

「はっ! ジェミーちゃんサンダー!」

 闇魔法ミィル。その攻撃は影。地面を這う。
 理魔法サンダー。その攻撃は雷。大気を奔る。

 どちらが速いのか、考えるまでもなかった。




[4586] 第4章第6話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/03/01 16:18
 エトルリアの王都アクレイアでは、各地から諸侯が集結していた。

 クレインは父の代わりに300の兵士を率いて参陣している。出陣前に父パントから、この戦が終われば正式に公爵家の爵位を引き継ぐと伝えられていた。すでに王家にもこのことは伝わっており、クレインに将軍位が与えられている。

 エトルリアの軍事システムは三軍将をトップ、その下に将軍が従っているというものになっている。将軍は各諸侯をまとめて指揮する権限を持っていた。このシステムのお陰で大規模な軍勢を速やかに編成することが可能で、さらに指揮権がどこにあるのか混乱するケースが減るということで、エトルリアの軍事システムはベルンのそれより進歩していると言えた。

「クレイン殿は第三陣の副将になります。至らぬところも多かろうと思いますが、どうか私の補佐をよろしく頼みます。えっと、暗い顔をして……何かあったの?」

「い、いえ……! そ、そのようなことなど……」

 クレインはセシリアに瞳を覗き込まれ、慌てて両手を振る。

 美形ではあるがクレインは同年代の美女と話す機会があまりなかったので、言葉にできない気恥ずかしさを感じていた。

「ちょっと、恥ずかしいことなのですが、出陣前に妹と喧嘩をしてしまいまして……」

「まぁ」

 両手を口に当てて驚いているセシリアに、クレインはとぼとぼと話す。

 そう、あれは屋敷で輜重兵に運ばせる物資を点検していた時のことだった。

「お兄様! ベルンに侵攻すると聞きましたけど、それは本当ですの!?」

 クラリーネに詰め寄られ、クレインは返答に窮した。

 妹は戦争そのものを忌避しているわけではない。

 クレインの身を案じている、それもあるだろう。

「お兄様はナーシェンと矛を交えるつもりですの!?」

 そう、ナーシェンだ。クレインは頭が痛くなった。

「戦場では、個人の友情なんて紙屑のようなものだよ。私もナーシェンも国に忠誠を誓っている者。何時かはこうなると、お互いに覚悟していたはずだ。……戦場で出会えば、私はナーシェンを討たなければならない」

「―――っ! お兄様の馬鹿! 大嫌い!」

 大嫌い。大嫌い。大嫌い。

 クレインの脳内で妹の声が響いていた。

 その後、クレインは瞳を灰色に濁らせたまま出兵の準備を続けた。

 以上である。

 セシリアは気の毒そうにクレインの話を聞いていた。戦争前に身内の愚痴を聞かされる方が気の毒なものだが、彼女は母親のルイーズを思わせるほど優しかった。同い年の女性に母性を感じるのもどうかと思うのだが、クレインはころりと参ってしまいそうな自分を意識した。

 セシリアが邪心のない優しげな笑みを浮かべる。

「では、必ず生きて帰らないといけないわね」

「ええ、そうですね」

 セシリアの近衛騎士団500とクレインの300。その他、諸侯の軍勢が200。
 合わせて1000。それが第三陣の編成である。

 第一陣は宰相ロアーツ公爵とアルカルド侯爵率いる1500。
 第二陣は大軍将ダグラス率いる1000。

 パーシバル将軍率いる先遣隊の500がすでにベルン西部に進軍している。

 合計4000の軍勢がベルンに出撃した。


    【第4章・第6話】


 ブレン卿の要請により重い腰を上げたエトルリアの精鋭、国王直属の騎士500が騎士軍将パーシバルに率いられ、驚くべきことにリキア地方を素通りしてベルン西部を強襲した。

 普通ならサカ地方の国境のあいまいな場所を進軍経路にするものである。過去の歴史でも、このサカ・リキア回廊が用いられてきたものだ。あまりサカ深部に侵入すると、サカの各部族の連合軍から敵意ありと見なされ補給網をズタズタにされるので、サカの浅いところからベルン西部、または北部に進軍するものだと、ナーシェンや各諸侯たちは考えていた。

 エトルリア軍500は奇襲によりブレン卿の領地を強奪。そこで進軍をやめて周囲の貴族たちを調略し始めている。すでに寝返った諸侯も数多く、ファルス公爵が粘っているが、戦線は押され続けているという現状であった。

 ナーシェンはベルン東部の港から輸入した魚介類を干物に加工するために試行錯誤している最中にその報を受け、思わず伝令の兵士に魚の目玉を投げ付けてしまった。「うわっ、グロッ!」と叫ぶ伝令に目もくれず、ナーシェンは執務室に走ると、すぐさま出兵の準備を始める。

「流石は騎士軍将パーシバルと言ったところですね。神速の行軍には恐れ入ります」

 アウグスタが隠居したため、侯爵を継いだアルフレッドが軍勢を率いてかけつけていた。
 グレン侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵などが集結し、すでに軍勢は1000に膨らんでいる。

「しかし、状況はこちらの不利か。ベルン西部を切り取られたままでは和議もできんからな」

 集まった各諸侯の軍勢を、ナーシェサンドリアの兵舎で整えながら、ナーシェンはぼやく。

 この状況で講和すれば、エトルリアの国王はベルン西部の土地の一部を要求してくるだろう。ベルンは喉元にナイフを突きつけられた状況になるわけだ。こうなることがわかりきっているので、どうにかしてベルン西部を取り戻さなければならない。

 リキアの連中は、今のところは静観している様子だった。領地を通過するエトルリア軍に兵糧を渡している諸侯もいたが、少なくともオスティア候はそこまで軽率ではなかった。

 ナーシェンは国王からの命令に従い、ベルン北部同盟の諸侯をまとめた1000の兵士を率いて(300を領内の防備に置いておく)ベルン西部に出撃する。

 一方、本国ではマードック将軍を主将、マードック配下の武将ゲイルを副将にした1500の軍勢が編成された。

 東部と南部の軍勢1000もすでにベルン王宮に到着している。

 さらに、状況次第ではゼフィール自身が2500の兵(マードック・ゲイルの1500と東部・南部の1000を合わせた軍勢の指揮権を奪って)を采配する可能性もあった。

 マードックとゲイルの1500。
 東部、南部の1000。
 西部のファルス公爵の500。
 北部のナーシェン公爵の1000。

 合わせて4000の軍勢がベルン西部に集結する。

 モルドレッド王の目論見は外され、決戦の気配が漂って来ていた。


    ―――


 ナーシェンは1000の軍勢を揃えて、ベルン西部に進軍したが、その途中で行軍をやめて陣を張った。国王から「さっさと戦闘しろ」と矢のような催促が来ているが、ナーシェンはカツオ節を齧りながら、時を待っていた。

 今回の戦は「働きたくないでござる(意訳)」と叫んでいるカレルも参加させるつもりでいる。

 さらに、カレルが手塩にかけて育ててきた剣士隊50人が軍勢に加わっている。
 全員キルソード装備である。財力に言わせて編成した悪夢のような軍勢だ。

「トリスティア侯爵が寝返ったようですね。このままではファルス公爵が孤軍と化してしまいますが」

「あとで詫びを入れる。それより……」

「オスティアの兵糧買占めは終わっております。物価が高騰して、オスティア経済は大混乱に陥っていますけどね」

「で、あるか」

 報告をまとめるジェミーにナーシェンはにんまりと笑みを浮かべる。

 我、勝てり――そのような声が漏れてきそうな表情だった。

 これで、リキア領内を通過する後続隊の進軍速度が鈍るだろう。

「トリスティア侯爵が守るハイルダン砦には、すでに大量の矢文を投げ入れています」

「で、あるか」

 トリスティア侯爵が守っているハイルダン砦は、ベルン西部の中央にある要地であった。この地を持っている限り、ベルン西部は落ちないという砦だ(今は奪い取られているわけだが)。

 そのため、難攻不落とは言い難いがそれなりの要害で、過去の歴史で、名将が守れば八倍の兵力に囲まれても落ちなかったことがある。小田原城とまでは言わないが、稲葉山城と言うほどには落ちない城なのである。

「では、トリスティア侯爵の砦を抜くぞ。パーシバル将軍が援軍に駆けつけるまでにな」

 トリスティア侯爵家にはレイダンとグレイドという二人の剛勇の騎士が居たが、ナーシェンはこの二人に向けて、それぞれ別の矢文を大量に射ち込んでいた。

『レイダン殿の武勇はこのナーシェンも聞き及んでいる。前からトリスティア侯には勿体ないと思っていた。私が砦を攻めた時に、内応してくれまいか。男爵の爵位を用意しているので一考されたし』

『グレイド殿の武名はこのマードックも前々から気にはなっていた。この程度の戦で死なせるには惜しい武人だ。ついては私が砦を攻めた時、城門の扉を開けておいてはくれまいか。すでにゼフィール様から男爵の位をやっても惜しくはないと許しを得ている』

 巧妙な内応策である。

 この矢文により、二人の名将の結束に亀裂が生じた。お互いが裏切り者ではないかと疑心暗鬼になり、さらに自らも寝返りを考え始めたのである。そんな二人を見た兵士たちは、この戦に勝ち目はないのではないかと弱気になり、士気は下がり続けた。

 トリスティア侯爵が名将なら、何らかの有効的な対策を講じただろう。だが、侯爵の対策はその場しのぎにもならなかった。

 砦は戦わずして落ちた状態になった。

 ナーシェンが砦に到着した頃には、すでにトリスティア侯爵は自害しており、砦の内部でレイダンとグレイドが戦闘行為を行っていた。ナーシェンはすぐさま砦を攻め、レイダンとグレイドの首を上げると、砦を空にしたまま後退した。

 援軍に駆けつけたパーシバルは警戒して、中々砦を攻めようとしなかった。

 パーシバルは「待て、これはナーシェンの罠だ」と部下に漏らしている。

 しかし、この砦は無策で放置されていた。

 空城計である。



[4586] 第4章第7話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/01 21:29

 騎士軍将パーシバルは、遠方にそびえるハイルダン砦を見上げていた。高台に築かれた山岳要塞である。篭られたら取り戻せない堅城なので、まさか奪われることはないだろうとパーシバルは安心していた。

 それが、防衛に就いていたトリスティア侯爵はあっさり自害し、名将たちが同士討ちを始める始末。

 パーシバルは部下たちを集めて、評定を行っていた。

「あの砦が落ちれば、我々は背後を気にしなければならず、進軍することができなくなりますね。さらに、押され続けていたファルス公爵が体勢を整えて反撃に出てくるでしょう」

「それはわかっている。だが、何故だ……!」

 その砦が、今はひとりの守兵も置かれず、無人で放置されていた。

 ――つまり、私に砦を取れと言うわけか。

「……なるほどな。我々の編成は機動力を重視した騎兵に偏っている」

「攻城戦になれば、騎兵の攻撃力、機動力が死にますからね。敵将ナーシェンは野戦では被害甚大と見て、あの砦に我らを誘っていると言うわけですか」

「加えて、あの砦が見た目どおりに機能する証拠もない。城門が破壊されていたり、隠れた抜け道が用意されている場合もある。これはナーシェンの罠だ」

「では、どうなさるので?」

「奴の策には乗らん。我々は今まで通りファルス公爵を攻めるぞ」

 パーシバルは馬蹄を翻した。配下の騎士たちも納得し、すぐさま軍勢を方向転換させる。

 ハイルダン砦は後から到着する本隊に任せればいい。パーシバルたちは機動力を生かして、敵軍を霍乱するのが役目なのだ。

 パーシバルは考える。今までの大規模な合戦ではベルン北部は500の兵力しか用意できなかったものだが、現在ナーシェンが統率している兵力は1000に達している。

 これが噂に聞く北国の獅子か――とパーシバルは感心した。

 敵として、これほど心が躍る相手は他にいない。


    【第4章・第7話】


 ファルス公爵は困惑していた。

「よし、全員配置に付いたかー!」

 と言って叫ぶのはベルン北部の公爵ナーシェンである。昨日までハイルダン砦を攻めていたはずなのに、800の手勢を引き連れて援軍にやってきたナーシェンに、ファルスは両目を丸くして唖然としたものだ。

 ハイルダン砦はベルアー伯爵と200の兵士で守っているらしい。パーシバルは絶対に砦を取らずに撤退する――とナーシェンは語っていた。トリスティア侯爵が落ちた今、エトルリアは本隊の到着まで作戦を展開できないと言うことらしい。

「あ、あのぅ……。パーシバル将軍がハイルダン砦からこちらに向かってきているのですけど……」

「ん、そうか? だが、神速の行軍ができるパーシバルといえど到着まで三日はかかるだろう」

 ナーシェンは暢気に笑うと、馬に跨った。
 背中のマントには大きく「1」という数字が描かれている。

「一番、放生月毛。ブラミモンド家がナーシェンの愛馬です。二番、松風。乗り手はブラミモンド家の騎士イアン。三番、帝釈栗毛。アルフレッド侯爵の愛馬。四番、三国黒。カザン伯爵の……………」

 集まった群衆にジェミーが手元の資料を読み上げる。騎士たちが「主君の馬が最も強そうだ」などと自慢し合っている。中には掴み合いの喧嘩をする者もいたが、それを咎めようとする者はいない。

 ナーシェン曰く「これは祭りですよ」と言うことだ。

「ブラミモンド家の名において、この勝負……負けられない……! いくぞ、放生月毛!」

 とナーシェンが呟く。

「ふっ、我が愛馬、黒雲はベルン一の名馬です」

 とグレン侯爵が。

「何れもベルン北部の名馬。久しぶりに血が踊りますな」

 とカザン伯爵。

「帝釈栗毛ですか。ナーシェン殿にこのような名を頂き、我が愛馬も喜んでいることでしょうな。では、この名に劣らぬ活躍を見せなければなりませんか」

 とアルフレッド侯爵が。

 あの人たちは何をやっているんだ――とファルスは死んだ魚のような目をする。

「ジェミー、スタートの合図を」

「はーい。いきますよー」

 ジェミーが面倒臭そうに旗を振り上げ、勢いよく振り下ろした。
 同時に、名門貴族たちが馬を飛ばす。アルフレッド侯爵の工兵隊が用意したコースを各馬が疾走する。

「うおぉぉぉー! ナーシェン様、いっけぇぇ――!」「アルフレッド様、お父上に劣らぬ凛々しいお姿を……」「グレン侯爵、意外と速い! あの人は謀将じゃなかったのか――っ!」「カザン伯爵は堅実だな。馬の体力を温存している……」

「速い、速い、帝釈栗毛! それを追う放生月毛! 内か外か! 放生月毛来た、放生月毛来た、おーっと、ここで松風、怒涛の追い上げ! 勝負はまだわからない!」

 実況の騎士が声を張り上げる。その騎士の背中にジェミーが魔道書を押し付けているように見えるのは、ファルスの目の錯覚だろうか。

 ……本当に、あの人たちは何をやっているのだろう。

「松風! 華麗に抜き去る! 放生月毛、まさかの三着!」

 これはファルス公爵は知らないことだったが、実況の騎士は名をジードと言った。


    ―――


 ファルス公爵の困惑を余所に、ナーシェンは諸侯を集めて競馬に興じていた。

 これは寄せ集めの諸侯の心をひとつにまとめるための施策とも言える。仕える者が違えば、自分の主君を贔屓しなければならない。集団の心はバラバラのままである。個人の力量が重視される、規模の小さい戦ならまだそれでも構わない。だが、千人規模の戦で、末端の意思統一ができていないと言うのは問題だ。

 というのは建前で、実際はナーシェンはただ遊びたかっただけなのだが……。

「やはりパーシバル将軍はハイルダン砦から撤退しましたね」

 ナーシェンは陣場の宿営地で机の上に蝋燭を立てて、周囲の地形図を睨み付けていた。

 対面のジェミーが居心地悪そうにしていることにナーシェンは気付いていない。真夜中に主君の寝床に呼ばれ、身を捨てる覚悟でやって来たジェミーに、ナーシェンは今後の作戦展開について語り出したのである。本当に、救いようのない朴念仁である。

「ま、あの将軍なら砦を取るような愚策は行わないと思っていたがな。だが、流石の騎士軍将殿も、空っぽの砦という誘惑には迷わざるを得なかったらしい」

 守兵を200でも置いておけば、パーシバルはさっさと諦めてファルス公爵を攻めていただろう。

 それが、損害ゼロで堅城を取れるとなると、どんな名将でも心が揺らぐものである。パーシバルは己の気付かない間に貴重な時間を浪費してしまったと言うわけだ。

 パーシバルが迷っている間に、ナーシェンはベルアー伯爵に200の兵士を任せ、自分はさっさとファルス公爵の援軍に向かってしまった。ベルアーにはパーシバルの撤退に合わせてハイルダン砦に入城するように、あらかじめ指示を出していた。

「しかし、騎兵中心の編成ですか。野戦では敵なしですね」

「……アウグスタ殿が防衛戦の天才だったなら、パーシバルは機動戦の天才だな」

 だが、それで臆していたら話にならない。野戦が無理なら、野戦に持ち込まなければいいのだ。幸い、敵将パーシバルはこちらを強引に野戦に引きこむほどの策を弄する能力はない。奴は知将ではなく武将なのである。

「さて、そろそろ騎士将軍殿にはご退場願おうか」

 そう言って微笑む十七歳の青年に、ジェミーはゾクゾクっと、全身に痺れが走った。これが謀略や戦争でも滅多に見せないナーシェンの素顔だ。ジェミーはこの顔が堪らなく好きだった。


 ………
 放生月毛:上杉謙信の愛馬。川中島で武田信玄に斬りかかった時に乗っていた。
 松風:言わずと知れた前田慶次の愛馬。
 帝釈栗毛:加藤清正の愛馬。帝釈天から名づけられた。
 三国黒:本多忠勝の愛馬。関ヶ原にて落命。
 黒雲:武田信玄の愛馬。気性が荒く、他の誰も乗れなかったらしい。
 ………



[4586] 第4章第8話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/09/08 21:22
 エトルリア軍の本隊は兵糧の補充に手間取っており、未だオスティア近郊で右往左往していた。

 諸侯から兵糧を買い付けるにしても、リキアの諸侯はベルンに睨まれたくないので、間に商人を介して言い逃れができるようにしなければならない。そのため、兵糧の値段がつり上がり、金を求めて遠征に出た貴族たちからは早くも厭戦気分が漂っている。

「オスティアの商人たちから兵糧を買い占めるとは、完全にはめられたわね」

 セシリアは親指の爪を噛んだ。急いで本国からの補給ルートを用意しているのだが、どうしてもエトルリアやリキアの悪政を敷いている諸侯の領地を通過するため、山賊から略奪に遭う恐れもあった。

 本来なら持参した兵糧とオスティア→ベルン西部の補給ルートで三ヶ月は戦えるはずだったのだ。

 だが、この状態でベルンに入ったら一ヶ月も戦えなくなる。本国からの補給が追いつくまで、最低でも一週間はかかるだろう。それまでにパーシバル将軍が耐えられるとは思えない。ベルンの本隊がそろそろ動き出すのだ。

 思い悩むセシリアに、貴族のひとりがこう言った。

「リキア地方の諸侯と戦をするわけではないから略奪もできませんからな」

「クレイン将軍。この人をつまみ出して」

 いいんですか? と目をやるクレインにセシリアは頷いた。クレインは溜息を吐いて、わめいている貴族に当身を入れると衛兵に預ける。

「ところでクレイン将軍。あなた、敵将ナーシェンとは顔見知りだったわね」

「ええ、まぁ……」

 周囲の貴族から視線が集まり、クレインは居心地の悪い思いをしたが、友人だと言わないあたりにセシリアの気遣いを感じた。

 そもそも、あの友人は出会いからしておかしかった。

 顔合わせは、侯爵家で開かれたパーティの会場である。

 ナーシェンは多忙で、クレインは話しかけるタイミングが掴めなかった。しかし、父から挨拶しておけと言われている。父は「彼は変わっている。変人と言ってもいい」と言っていた。クレインは父の方こそ変人なのでは、と思うのだが、あの魔道と妻のこと意外はほとんど興味を示さない父が他人のことを評価するのは珍しい。

 クレインは決心し、ホールで給仕たちを統率している少年に声をかけた。

「ああ? 何だよ、こんな忙しい時に……って、美形!?」

 面倒臭そうに振り返り、いきなり騒ぎ出した少年に、クレインは面食らった。

「うわ、まぶしっ! 近寄るな、この美形! 妬ましいんだよ!」

 無茶苦茶である。

 ちなみに、この後クレインはナーシェンに騎士の誓い(お互いの手の平を切りつけて、互いの傷口を合わせる儀式)を提案したのだが、ナーシェンは「そんな痛そうなことやってられるか」と断わってしまった。

 二度目の時。

 ナーシェンがベルン北部を平定し、内政に力を入れている時。エトルリアに交易品の販路を作ろうと試行錯誤していたナーシェンは、リグレ侯爵の力を借りるのが一番楽だと判断した。アポイントも取らず、いきなり出現したナーシェンに、クレインとクラリーネは口をあんぐりと開けて固まってしまったものだ。

「今日はパント殿に話が……おお、クレインか。久しぶりだな、美形。ところでパント殿は? え、魔道書漁りに外出? なんだよー、じゃ待たせて貰うぜー」

 相変わらずの傍若無人さに呆れ果てていると、不意にナーシェンはマトモな目をしてこう言った。

「あのな、お前、武官はやめとけ」

 と言い出した。クレインはエトルリアの軍人を目指している。そのための教育も受けている。いきなり何てことを言い出すんだ、と激昂するクレインに、ナーシェンは悲しそうな目をした。

「まっ、そこまで言うなら止めないけどな。でも、戦場で出合ったら容赦はできないからな。死んだ方がマシだって目に遭わせることになるかもしれないけど、その時は寛容な心で許してくれよ。戦場のならいだから」

 そして現在。

「あいつは……普段はただの馬鹿にしか見えません。道化を演じているのかもしれませんし、本当にただの馬鹿なのかもしれませんが、ともかく、あいつは時折、私たちが想像もしないことをやってのけます。普段は馬鹿なのですが」

「そう。普段は馬鹿なのね」

 感心するところはそこではないと思う。

 クレインは溜息を吐いた。

「私見ですが、あいつは自分が必ず勝てるという体勢を整えるためには手段を選ばないと思います。言い換えれば、必ず勝てる体勢を整えるまでは仕掛けて来ないと言うことになりますが、裏の裏をかくのも得意なので油断はできません」

 あと、これは皆の前では言えなかったのだが、ナーシェンは自分のことを『知将』だと思っている節がある。だが、エレブ大陸の共通見解は『ナーシェン=謀将』である。戦場で華々しく采配を握る知将ではなく、暗闇の中で敵を陥れてほくそ笑んでいる謀将。どちらの方がマイナスイメージが強いのか、答える必要はないだろう。


    【第4章・第8話】


 ナーシェンは大陸中の貴族たちからオーベンシュタインのごとく畏怖されているとも気付いていなかった。ナーシェンの周りの者たちも、謀将どころか知将とすら思っていない。ナーシェン様は美しい、と部下に言わせて悦に浸っている馬鹿である。道化と言うのが正解だろう――と真実を言い当てていたが、敵対する貴族は絶妙なる勘違いでナーシェンを恐れている。

 ナーシェンは軍勢を揃えながら、前方を見据えた。一両日中にパーシバル将軍が到着する。ナーシェンの兵力800とファルス公爵の500で押し潰してしまおうと言う作戦だ。

 ナーシェンは万全の陣形を見て、ニヤリとほくそ笑んだ。

「たまには正々堂々とぶつかるのも有りだよな」

 ジェミーは何を言っているんだこの人は――とジトーっとした目を向けてくる。

「パーシバル将軍の兵士は連日の戦闘、休む間のない行軍で疲れ切っていますよ。さらに、兵糧の補給も心細くなっているはずです。そこを万全の陣形で迎え撃つのに、なにが正々堂々ですか」

「い、いや……でも、私はまだ正規兵を相手取った普通の戦をしたことがないんだから……」

「だから策を弄する、ですか」

 ジェミーはすでに敵兵がナーシェンのことを謀将と恐れていることを知っている。

 これでまたその異名に箔が付くのだろうなー、と思って呆れるばかりである。

 と、上空から竜騎士が高々と叫んだ。

「パーシバル将軍の軍勢およそ500。距離2000。我が軍の正面に出現!」

 ナーシェンの顔に狡猾な笑みが浮かんだ。

「さて、お手並み拝見といこうか」


    ―――


 パーシバルを迎え撃つナーシェン。その陣形は魚鱗の陣であった。

 魚鱗の陣や鋒矢の陣など、日本の歴史を紐解くとこのような「八陣」が見付かるだろう。これら陣形は中国式軍制と共に律令時代に日本にやって来たと言われている。しかし、大陸とは地形も異なり、恒常的な集団訓練を行わない戦国期の軍隊が、こうした整然とした陣形を作ることは不可能だった――という説がある。

 ヨーロッパでは(古代ギリシア、ローマはともかく)近代的な常備軍が創設されて、初めて陣形が形勢できるようになった。そうした面で見れば、「八陣」は机上の空論か、軍記物の形容詞にすぎなかったと言われる。

「其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如し、動くこと雷霆(らいてい)の如し」

 だが、ナーシェンはこの陣形術を否定しているわけではない。三方ヶ原で武田信玄が魚鱗の陣を敷いて徳川家康を迎え撃ったと言うエピソードにはロマンがある。その上で、ナーシェンはこの「八陣」とは別の陣形を組み上げた。

「全軍突撃!」

 以前に使っていた『毘』とは異なり、『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』の『風林火山』の旗指物である。

 ナーシェンが采配を振り下ろした。

 兵士たちが雄叫びを上げながら突撃を開始する。パーシバル軍の兵士は極限の疲労に達しており、とてもナーシェンを迎え撃てる状態ではなかった。

 そして、ナーシェンの兵士800がすでに援軍に駆けつけているという誤算。ファルス公爵の500だけなら、まだ何とかなったはずだ。だが、1300の軍勢に襲い掛かられては、流石の騎士軍将もお手上げだった。

「――くっ、相手の方が一枚上手だったか。覚えておくぞ、ナーシェン。貴様の名はこの胸に刻み込んだ! 次に見える時は覚悟しろ!」

 パーシバルは撤退を決め、本隊と合流することにした。だが、それまでに何人の兵士が生き残れるか。戦いで最も損害を出すのは撤退時である。



[4586] 第4章第9話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 09:04
 パーシバル軍の騎兵は迅速に撤退しており、取り残されたのはアーマーナイト他、ソルジャーやアーチャー、戦士や傭兵などの歩兵戦力である。それらの兵士は殿軍として追撃するナーシェンに立ち向かった。意気地のない者は我先に逃げようとしたが、そのような者を斬る者もいた。数人の騎士が督戦隊のような役目を買って出たのである。

「前回、オスティアの兵糧を買い占めたり、競馬で遊んだり、色々なことをやりつつ、恐怖の騎馬部隊を従えたパーシバルを必勝の構えで打ち破ったナーシェン様! 強靭、無敵、最強! もうナーシェン様最強でいいじゃね的な展開! しかし、いよいよエトルリア本隊が接近しつつあった!」

 敵の指揮官らしき人物が意味不明なことを口走っているが、エトルリアの兵士たちは気にしている余裕はなかった。エトルリア軍は恐怖していた。殿軍の目の前に追撃部隊が迫っており、すでに味方の兵士が容赦のない敗残兵狩りにさらされている。

「くそっ、あれは何なんだ!」

「こ、こっちに来るなぁぁぁあ!」

 逃げ惑う兵士たちを、着物に似たサカ地方の衣服を着た青年剣士が追跡する。いずれも若々しく、中には子どものような年齢の者すら混じっていた。だが、その戦闘能力は熟練の騎士をはるかに上回っている。

 彼らは独特の奇声を上げながらエトルリアの敗残兵に飛びかかる。

「ヒッテンミツルギスタイル!」

「オトリヨセェェェェー!」

「ガトチュセッケンスタイル!」

 首を斬り飛ばされ、あるいは全身を刃で貫かれる兵士たち。味方の無残な死を見た兵士たちから、さらに戦意が失われる。それでも、剣士たちは攻撃を止めなかった。

「おーい! 身なりのいい騎士は殺すなよー! 捕虜交換に使うからな!」

「敵将! 討ち取ったりぃぃぃ――!」

「……ってこらぁぁぁ! イアン! 言われた傍から騎士を殺すなぁぁぁ!」


    【第4章・第9話】


「死にます! マジで死にます!」

 エトルリア軍の中に、ひとりの聖職者が混じっていた。

 女性に好かれそうな面構えをした美青年だが、どこか胡散臭い雰囲気を持つ青年である。エリミーヌ教会のヨーデルのもとで修行している、齢十六になるサウルであった。

 エリミーヌ教会秘伝の回復の杖が仕える聖職者は、軍事的にも貴重な人材であった。エトルリアが戦争をする度に、教会から何人か派遣されることになっている。もちろん、その度に教会に裏金が流れ込むわけだが。

 それに対抗するためにベルンにも教会があるのだが、エトルリアの規模には及ばない。まぁ、それは余談である。

 この戦争は普段運動をすることのないサウルにとっては凄まじい難行だった。乗馬の訓練も受けていない聖職者である。女性騎士に「貴女は荒廃した戦場に咲いた一輪の花のようです」と口説いて馬の後ろに乗せて貰い事なきを得たが、翌日には尻に激痛が走り涙することになった。

 そんな状態である。

 戦場で騎士に「おい、そこの神官! ライブの杖を頼む!」と声をかけられて、耐久マラソンのごとく走り回らされていると、気がつけば味方が敗北していた。何を言っているのかよくわからないが、サウル自身よくわかっていない。

「フル○ン、サーセン!」

 さらに、意味のわからない奇声を上げる剣士が味方に飛びかかっている。

「もはやこれまで……」と潔く散るサウルではなかった。「あと五十人女を抱くまで私は死ねないのです!」と叫びながらサウルは逃げる。全力で逃げる。

「我こそはブラミモンド家の騎士イアン! そこもとは名のある騎士と見た!」

「クッ……私はファウエル子爵が次男ブレッドだ」

 見た目こそ地味だが、長い歴史を積み重ねたためか貫禄の滲み出る鎧を着たエトルリアの騎士が、騎乗した騎士に名乗りを上げているが、そんなことはサウルには関係ない。

「誰か! 誰か助けて下さい!」

「ほぅ、ブレッド殿か。貴殿の武名は我が主君のもとまで届いている。ここで死ぬには惜しい御仁だ。我が主君に仕えてみないか?」

「ぬかせ! 私はエトルリア王国に尽くす身! エトルリアのために死ぬと決めている!」

「ならば、無理矢理にでも主君のもとへ引っ張っていくまで」

 騎乗の騎士が剣を抜く。二人の騎士が激突した。

 サウルは情けない悲鳴を上げながら逃げ続ける。もう、どの方向に逃げているのか、自分でもよくわからなくなっていた。棒のようになった足を振り続け、首を取りにきた兵士に土下座したり(その兵士はサウルの有り様に失望したのか、やれやれと首を振って何処へと消えて行った)、味方の女性騎士に助けてと抱きついて「邪魔だ」と叩き落されたりしながら――。

「ナーシェン殿。敵の神官が本陣に突撃してきますぞ」

 気付けば高価そうな鎧を着た騎士たちに囲まれていた。

「はぇ?」

「ふむ、見事なものだ。これまでと見て死に花を咲かせようというわけか」

「では、私が」

 ひとりの男が腰の剣を抜いてサウルに歩み寄る。

 サウルは喉を引きつらせた。

「い、いやだ! 死にたくない! 後生ですからお助け下さい!」

「………最後に恥をさらすとは無様な。ならば、貴様はなぜ我が軍を掻い潜ってここまで来たのだ?」

「い、いや、気付いたらここにいたんですよ! 本当ですって!」

 おっさんは舌打ちするとサウルの後ろ髪を引っ張った。「いたた!」と悲鳴を上げるサウルに、おっさんは「ええい! 最後ぐらい潔くせんか!」と怒鳴りつける。そんなことを言われても死にたくないのだ。

 その時だった。

 悲鳴を上げるサウルの懐からポロリと書物が転がり落ちたのである。

『ファミリー・プラン(R18)』であった。辺りにどうしようもない沈黙が広がる。

「ベルアー殿。すまないが、彼を解き放ってくれないか。私のファンは減らしたくないのでね」

「……だそうだ。ナーシェン様に感謝しろ」

 こうして、サウルは命からがらエトルリア本隊と合流した。

 このエピソードはナーシェンが勇気ある神官を助命した美談として伝えられることになった。「エトルリアの数少ない心ある神官を殺しては、エトルリアの民が苦しむからな」と言ったそうだ。もちろん嘘だが、エトルリアの民衆はナーシェンの寛容な心に感動することになったそうだ。



[4586] 第4章第10話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 09:06
 会戦で勝利を収めたナーシェン軍は、すぐさまハイルダン砦に引き返した。

「で、本隊の陣容は?」

「誰が貴様などに答えるか!」

 すでに亡きトリスティア侯爵の貴族趣味で、砦の中には玉座が置かれている。ナーシェンはそれに腰を下ろし、捕えられた騎士たちが尋問される様を観察していた。

「セシリア将軍が率いる魔道部隊はどのような魔道書を扱っている?」

「………知るか」

 ナーシェンは溜息を吐いた。それを合図に、尋問していた兵士が騎士の鎧を脱がせ始める。

「うわっ! やめろこら!」

「素直に吐かない貴様が悪いんだからな。もう私は知らん」

 兵士が先端の刃を取り外した槍を向ける。丸裸にされた騎士は嫌な予感に身体を震わせた。

「アッ―――!」

 ハイルダン砦に嫌な悲鳴が響き渡った。

 ナーシェンは捕虜のリストをめくりながら、ぶるっと身震いする。こちら側に寝返っている騎士も多いので彼らを尋問しても聞き出せることは少ないのだが、兵士たちに捕虜の取り扱いについて学んで貰うことに意味があった。が、尋問マニュアルを悪ふざけで作ったことに早くも後悔し始めているナーシェンであった。


    【第4章・第10話】


 オスティア侯ヘクトルは近習の兵士に、出立の準備が整ったと伝令に走らせた。

 旅支度を整えた騎士たちが城内の玉座前に集結している。彼ら五十人は、これから主君を護衛してアラフェン砦へ向かうことになっていた。

 すでにヘクトルにも届いているのだが、エトルリアから何度も援軍を要請されているのである。すでに書状はリキアの各諸侯に行き渡っていることは間違いない。ここでリキア同盟の盟主として各諸侯の意思を確認、および統一しておくことが必要になってきたのである。

「くっ、あの金髪の小僧めが……!」

 ナーシェンが行った兵糧買占めは、あらかじめナーシェンと繋がりのある商人(密偵の報告により知っていた)が行っていた。ナーシェンの兵糧購入は、実際に穀物の値段が上がり始めるところまでである。それからのオスティア経済の崩壊は、主にオスティア在住の商人たちによるものであった。

 実際に穀物の値段が上がり始め、理に聡い商人たちはまだまだ値が吊り上がると予想し、どんどん穀物を買い取っていった。穀物の値段が上がると、その他の食料の値段も上がっていく。それを予想した別の商人が長持ちする食料(生鮮食品は備蓄できないため)を買い集めた。諸所の物価が高騰し始めたのである。

 オスティアは大都市故に、最も顕著に被害を受けていたわけだ。

 ヘクトルは肩を怒らせる。それもこれも、あのナーシェンの所為だ。リリーナもどうしてあのような輩と手紙のやり取りをしているのだろう。ナーシェンは陰謀でトラヒム侯爵の挙兵を誘い、策謀で諸侯を抱き込み、調略までしており、さらに兵糧を焼き払い相手を苦しめるという、とても騎士とは思えない戦い方をしている。トラヒムを討ち取り、フリッツ侯爵をエトルリアに追い出した陰謀家ではないか。

(ふむ……これはナーシェンを討ち取るいい機会かもしれんな……)

 ヘクトルは怒りに猛った思考で考える。

 現在、先遣隊が敗北したとはいえエトルリアの本隊は健在。リキア同盟の総兵力2000で襲いかかれば、さすがのベルンも白旗を上げるのではないか。

 何もゼフィールを討ち取るつもりはない。ヘクトルはエトルリアの天下を認めるつもりはなかった。ベルンからは賠償金を、エトルリアからは報奨金をせしめるのだ。それで、オスティア経済の混乱を収めようという魂胆である。

 せめてナーシェンだけでも討ち取っておかなければ、後年、大変なことになるのではないだろうか。

 ヘクトルはそう考えていた。

 ナーシェンは大陸の『危険人物』なのだ。

「………ふむ。オズイン」

「何か?」

 ヘクトルはオズインの耳に囁きかける。「お前は残って出兵の準備をしておけ」と。

 エリウッドは反対するだろう。だが、すでにエトルリア軍に兵糧をプレゼントしている軽率な者たちがいる。主にラウスとかラウスとかラウスとか……。

 ヘクトルはエリックの馬鹿もたまには役に立つものだ、と考えながら微笑んだ。

「お父様!」

 廊下の向こうから愛娘が走ってくるのが見えた。

 愛らしいその姿にヘクトルの顔がだらしなく歪む。

「おや、どうしたリリーナ。女の子が身嗜みを考えずに走ってはいかんぞ」

「それはごめんなさい……。でも、エトルリアから援軍要請が来ていると聞いて……」

「………そうか」

 ヘクトルの顔から笑みが消えた。

 その表情を見て何かを悟ったのか、リリーナの顔がサッと青ざめる。

「お父様、まさか……」

「子どもが国のことに口を出すでない」

 静かな声だった。怒鳴りつけたらリリーナが脅えて、嫌われるのではないか――という気持ちもあったが……と言うか、それがすべてであったが、とりあえず王者の威厳をかもし出す声だった。

「ナーシェンと戦をするの? 嫌よ。私、お父様とナーシェンが争うところを見たくないわ」

「あの小僧は殺さなければならんのだ。知っているか? あの小僧はエトルリアで最後まで勇敢に戦った誇りある騎士たちを拷問にかけて、それを笑いながら見ていたらしい。むごたらしいことをする男だ」

「違う! それはエトルリアからの使者が言っていただけでしょう! ナーシェンがそんなことをするはずはないわ!」

「それが事実だとしても、あの男は必ずやオスティアに危機をもたらす」

「オスティアに危機をもたらそうとしているのはお父様の方でしょう!?」

 やけに食い下がる。ヘクトルは愛娘を見下ろした。

 リリーナは目尻に涙を溜めて、必死にヘクトルの挙兵を止めようとしていた。

(少し、甘やかしすぎたか……)

 口中に苦々しいものが満ちていく。ヘクトルは先立った妻の分まで、この娘に愛情を注いできた。目の中に入れても痛くないほど可愛がってきた。そのため、分別を超えた意見を言っても怒られないと増長したのかもしれない。

「リリーナ……」

 その低い声にリリーナが震える。

 瞬間だった。広間に番兵が走り込む。

「ヘクトル様! オスティア近郊の村々で暴動が起こっております!」

「……………何だと?」

 ヘクトルは鬼のような顔に番兵が恐れおののく。

 その脇を風のように通り抜けたアストールが、そっとヘクトルの足元に屈みこんだ。

「裏でナーシェンが煽動した模様です。流石ですな」

「何が流石ですな、だ。馬鹿者が」

 アストールが殴り飛ばされる。

 つまり、ナーシェンが凄いわけであって、決してナーシェンの裏工作を見抜けなかった自分たちの落ち度ではないと言っているわけだ。ナーシェンが居なければこのような扱いは受けていなかっただろうに……とアストールは血の滲む口元を拭いながら毒づいた。


    ―――


 同時刻。

 クレインはオスティア周辺の暴動を見て、このまま滞在を続ければリキア地方の民衆の怒りの矛先が向けられることを悟ると、セシリアに選択肢は進むか退くかしか残されていないことを伝えた。

「まさか、パーシバルが敗れるなんて」

「パーシバル将軍は本隊の到着を前提に活動していました。それを思うと、ナーシェンのオスティアの兵糧買占めは巧妙でしたね」

 しかも、パーシバルが敗北した翌日に、オスティアの商人たちがどこから取り出したのか、まるで魔法のように兵糧を売り始めたのである。

 エトルリアは高値でそれを買い取るしかなかった。どの道、今からベルンに踏み込んでも、その頃にはベルン本隊が到着している。奇襲の優位性は崩れ去っていた。

 クレインはエトルリア本国に送られた捕虜の値段リストを流し読んだ。

 侯爵家の当主や嫡男などに高値が付けられている。ここで捕虜を買い戻さなければ、モルドレッド王は諸侯の庇護者としての立場を失うのである。法外な金額であっても買い戻さなければならない。それができないなら、別の戦いでベルンの諸侯を捕虜にして、それを代用に捕虜を交換しなければならない。

 モルドレッド王の頭にはさぞ血が上っていることだろう。

 ひとつの勝利か、決定的な敗北をするまでは、モルドレッド王は退くに退けないのである。

「この戦は負けです。しかし、このままではパーシバル将軍に敗戦の責任が押し付けられてしまいます。モルドレッド王にその気がなくても、ロアーツ殿がそうせざるを得ないようにしてしまうでしょう」

「もともとロアーツ殿が始めた戦だから、ロアーツ殿は責任追及の矛先を逸らそうと必死になっているでしょうね。能力のある者が思う存分働けない。これがエトルリアの現状だから」

 クレインはナーシェンが嫌味を吐くのもよくわかる気がした。

 セシリアが馬の手綱を捌く。

 もてなしの用意が出来ていると、しきりに宴に誘ってきたラウス侯爵をやり過ごし、エトルリア本隊はベルンの国境間際に迫っていた。

「ここからは敵の領地。そして、謀将ナーシェンの領域です」

「ええ、気を引き締めていかないと。パーシバルのためにも、この戦、負けられなくなったわね」

 二人は意思を通じ合わせた。が、どの道パーシバルに責任を押し付けられても、セシリアやクレインだけでなくダグラスも命を賭す覚悟でパーシバルを庇うだろうから、パーシバルが解任されることはない。実際に解任されたらナーシェンは小躍りしていただろう。



[4586] 第4章第11話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/17 09:07
 ハイルダン砦の周囲を、50騎の飛竜がローテーションを組んで巡回していた。

 ジードは大空から大地を見下ろし、敵軍、あるいは味方の影を探し回っているところである。これは哨戒任務であり、エトルリア軍に雇われたイリアの天馬騎士が偵察に飛んで来ることもあり、中々油断できない任務だった。

「……む。あれは」

 ジードは地上に黒々とした集団を見つけた。ベルン王国軍の旗をかざした精兵たちである。

 その集団の上空を、およそ300騎の飛竜が舞っていた。ゲイルが率いているベルン王国近衛騎士団竜騎士隊であった。

「お味方到着!」

 ジードは叫びながら飛竜プリンタルトを旋回させる。プリンタルトは身体が大きく、ジード以外に乗りこなせない暴れ馬ならぬ暴れ竜だ。先の会戦でも敵軍の背後を強襲し、騎兵20騎を蹴散らしている。

 名将が操る名馬が有名になるように、名飛竜の名も大陸に広がっていく。竜騎士ジードと名飛竜プリンタルトの名前は売り出したところだが、すでにちょっとした注目を浴びていた。名飛竜プリンタルトの名が世に広まるのも時間の問題だろう。

 ちなみに、このネーミング、言わないでもわかるだろうがナーシェンによるものであった。自分が飛竜に乗れないためか、腹いせにとんでもない名前を与えてしまったのである。

「行くぞ、モンブラン!」「ザッハトルテ、高度を下げろ!」「パンナコッタ、突撃だ!」「頑張れ、シューアイス!」と叫ぶ竜騎士たちにナーシェンの顔面の筋肉が大変なことになったりしたが、自業自得としか言いようがなかった。


    【第4章・第11話】


 そんなこんなで本隊が到着する。

 ジェミーは大声を上げて砦に戻って来る兄を見て、思わず溜息を吐いた。ナーシェンと砦内に集まっていた諸侯たちが、彼女にゆっくりと頷いてみせる。「さあ、行ってこい」というような表情だ。無性にイラッとするのだが、今のジェミーは彼らに逆らえない。

 砦の正面の門に向かうジェミーに、こっそりと後を追うナーシェンや腹心たち、竜騎士S、アルフレッド侯爵を筆頭とする諸侯たち。異様な光景に合戦の準備に勤しんでいた兵士たちがビビッていた。

「お帰りなさい、お兄様」

「おお、ジェミー。わざわざ出迎えてくれたのか!」

 ジードは嬉しそうな顔をするが、職務を思い出して周囲を見回した。妹の出迎えは有り難いが、このような報告はまずジードの上司のフレアーに届けられる。いくらジェミーがナーシェンの腹心とはいえ、形式を無視して報告を伝えてしまうとフレアーの顔を潰してしまう。

 だが、そのフレアーがどこにもいない。当然である。フレアーはナーシェンの背後に隠れているのだから。

「お兄様、やっと帰ってきてくれたんですね。女を待たせるなんて、お兄様は罪なお人です……」

「……………は?」

 ジードは自分の耳が遠くなったのかと、両手で耳をほじくっている。ジェミーは何度もエルファイアーの魔法でジードを消し炭にしてやりたくなったが、まだ台本が残っていた。

 そう、あれは二時間前に遡る。本隊を待っている間、暇を持て余したナーシェンやその他の諸侯たちが王様ゲームを始めたのである。五本のクジを引いて王様と奴隷を決め、王様が奴隷に恐怖の罰ゲームを命じるという最悪な遊びだ。

 今回は大人数が参加できるようにナーシェンルールが採用され、三回ハズレを引かなければ離脱できるというルールになっている。離脱した者の代わりに別の者が入るようになっているため、すでに大半の騎士が巻き込まれていた。ナーシェンは五十回も居座り続け、しかも二回に一度はアタリを引くという、まるで詐欺のような強運を見せ付けていた。

 実際にはクジの棒切れの小さな傷を覚えているナーシェンのイカサマゲームなのだが。

 そして、ジェミーにハズレが回ってきて、ニッコリと笑みを浮かべるナーシェンに台本を押し付けられたわけである。

「お兄様、ジェミーはお兄様をお慕いしています……」

「そ、そんな……俺たち、兄妹だぞ……?」

「お兄様! 私たち、実は血が繋がっていないという設定があったんです!」

「な、なにぃぃぃぃ―――! なら、あんなことや、こんなことをやっても構わないのか!?」

 唐突な告白に、ジードが血相を変えて妹に詰め寄った。

 隠れて見物していたナーシェンたちが「あちゃ~」と頭を抱える。どう考えてもアウトだろ、あれは。

 ジードが文字通り灰にされる。

「ゴホン。……よろしいか?」

 先行してきたベルンの武将ゲイルが気まずそうに咳払いした。


    ―――


「決戦予定地はハイルダン砦の西北にある平原がよろしいかと思われます。左右には渓谷があり、回りこまれる心配がありません。迎え撃つ形になります」

 ナーシェンが地図に指を下ろす。諸将の目がそこに吸い寄せられた。

 ゲイル将軍が「なるほど」と頷く。

「敵が崩れたのを見てから攻勢に出るわけですか……と近所の子どもが言っていました」

 だが、マードック将軍がそれに否定的な顔をする。

「兵数はほぼ同じ。ならば、敵の弱い場所を積極的に攻撃するべきだと思うのだが」

「流石はマードック将軍。しかし、敵もロアーツ隊の脆弱さには気付いておりましょう。私ならばロアーツ隊の背後にパーシバル将軍を置き、ロアーツ隊が崩れたと見るや、すかさず穴を埋められるようにしておきます。ダグラス殿なら、その程度のことはやっているかと」

「確かに一理ある」

「序戦は防衛に徹した方がよさそうですね……と近所の子どもが言っていました」

 ゲイルの発言はスルーされた。

「すでにできる限りの調略は行っていますが、こちらに寝返るような強欲貴族は見返りを要求してくるので、戦後扱いに困ることになるでしょう。空手形を発行するということもできますが、何度も使える手ではありません」

「トリスティア侯爵を駆逐する時にも使っていますからね……と近所の子どもが言っていました」

 マードックがゲイルを睨み付けた。ゲイルはバンダナを汗でびっしょりと濡らしながら答える。

「い、いえ……近所の子どもが言っていたわけではないのです! ……と近所の子どもが言っていました」

「貴様、私を馬鹿にしているのか?」

「滅相もない! ……と近所の子どもが言っていました」

「ゲイル……」

 マードックの目が怒りを通り越して可哀想なものを見るものになっている。

 何だか大変なことになっているが、その間ナーシェンは腹を抱えて机をバンバン叩いていた。ひどい軍議である。それもこれも、ゲイルが王様ゲームに巻き込まれて、「今日一日、語尾に『と近所の子どもが言っていました』を付けろ」というク○ナドの便座カバー的な罰ゲームを押し付けられた所為なのだが、ナーシェンは知らん顔をしていた。

 謀将ナーシェン恐るべし。ゲイルはこの言葉を胸に刻むことになる。

 そんなこんなで作戦が決定し、エトルリア本隊が国境を越えて侵攻してきた。




[4586] 第4章第12話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/14 21:23
 エトルリア軍が接近すると、ベルン軍は速やかに布陣を整えた。ほぼ同数、4000の兵力のぶつかり合いであり、会戦予定地はそれなりに広めに取られている。ベルン軍は先手なので小高い丘に布陣してエトルリア軍を迎え撃つ体勢を取った。

 侵略すること火の如し――! と叫びながら『懸れ龍』の旗を翻して突撃する騎兵軍団。騎兵を指揮しているのは前線指揮官が板に付いてきたイアンである。事前にナーシェンからこう叫びながら突撃しろと指示されていた。主君の行動はいつも意味不明なので、イアンは特に疑問を挟むことなく実行している。

「やっぱり国軍の騎兵は精強だなー。と言うか、具足の色が赤で統一されてるじゃないか。武田の騎馬隊かよ。マジパネェ」

 後方で先陣の騎兵の戦いぶりを観察していたナーシェンが感心したように呟く。ベルン国軍の騎兵は赤備えであった。具足や旗指物の色を赤色で統一しているのである。この時代の塗料は赤い鉱石(ナーシェンは名前を覚えていない)をすり潰して塗りつけたものだった。ちなみに、その鉱石は高級品である。

 ベルン近衛騎士団マジ半端ねぇ。

 エトルリアの騎兵が鎧袖一触とばかりに蹴散らされていく。ダグラス将軍がアーマーナイト隊を前面に展開してからは、戦線は再び落ち着いたが、ベルン騎兵の働きは異常だった。これもゼフィールの軍拡の影響だろう。大陸最強を自認しているのは伊達ではない。

「エトルリアの戦略目標はベルン西部の制圧だったはずだが……」

「敵は補給に難があり、持久戦を仕掛けられると敗北は必至ですから。短期決戦以外に選択肢はないんじゃないですか?」

「だからあれだけ必死になっているのか?」

 ジェミーは首を捻る。

 たしかにエトルリアの補給には難があったが、一日二日で決戦を仕掛けるほど切羽詰っているわけではない。

 ナーシェンは敵軍を眺め見た。ダグラスの第二陣、セシリア・クレインの第三陣は巧みに連携してベルン軍を跳ね返している。ベルン近衛騎士団の騎兵を指揮しているのはレイスという戦上手だったが、老練なダグラス将軍は粘り強く踏み止まっている。

 セシリアの魔道軍団の砲撃が地味に効いてきており、徐々に騎兵の勢いが衰えてきていた。

 クレインは練度の高い弓兵を所有しており、ダグラスのアーマーナイト隊が簡易的な防衛陣地に、クレインのアーチャー隊が要塞守兵に、セシリアの魔道士隊が砲撃部隊になっている。絶妙な連携具合である。

「やれるやれる! 絶対やれる!」「もっと熱くなれよぉぉぉ!」と突撃した兵士が「あはぁぁん!」と悲鳴を上げながら後退し、部隊長が「もっと堂々としろよ!」「諦めるなよぉ! どうしてそこでやめるんだ!」と叫んでいるが、どうにもならないものはどうにもならない。

「お米食べてぇ……いや、そんなことを言ってる場合じゃねえっつーの」

 ナーシェンは首を横に振る。敵軍を見ていて気付いたことがあった。

「ロアーツ、アルカルド隊が孤立していますね」

「まるで攻撃してくれと言わんばかりの状況だな」

 第二陣と第三陣の連携は見事だが、もっとも兵力の多い第一陣は諸侯の連合軍でありまとまりに欠けていた。ゲイルの竜騎士突撃だけで戦意を失っている。

「罠でしょうか?」

 ジェミーは危惧するが、それはないだろう。ナーシェンは断定した。

「なるほど。そう言うことか」

 つまり、敵さんはマトモに戦うつもりはないのだ。ためしにロアーツ隊を崩せばわかるだろう。おそらく、ロアーツが崩れればパーシバルが救援に入るだろう。そして、全軍が撤退を始めるはずだ。大軍を擁するロアーツが失態を犯し、寡兵のパーシバルがそれを救うという筋書きである。

「三軍将といっても綺麗事だけではやっていけんわけだ」

「では、ロアーツ隊を攻めますか?」

 主君の智謀に乙女の顔をしているジェミーであったが、ナーシェンは戦局しか見ていない。

「いや、それではエトルリアの足を引っ張ってくれる諸侯が壊滅してしまう。長期的に見ればベルンの不利益になるからな。万が一にでもロアーツが解任されて優秀な奴が宰相についたら、エトルリアは手に負えなくなる」

 ナーシェンは伝令用の飛竜騎士を呼び寄せた。

「このまま防戦に徹して、エトルリア軍をなぶり殺しにする」

 マードック将軍も騎兵の損失に力攻めは下策と悟っており、ナーシェンの策に異論はなかった。


    【第4章・第12話】


 エトルリア軍の本陣ではセシリア、クレイン、ダグラスの三人で臨時の軍議が行われていた。ロアーツとアルカルドは最初から除け者である。再三の援護要請が来ていたが、ダグラスは自分のことで手一杯なため、そちらはそちらで何とかして欲しいと冷たい返事をしていた。

「攻めてこなくなりましたね。どうしたのでしょうか?」

 ベルンの騎兵やナーシェンが寝返らせたエトルリアの騎士たちの活躍で、序戦は危うくなるところだったが、戦局が落ち着くと次第にエトルリアが押し始めていた。ナーシェンが引き抜いた騎士は能力があるために周囲の者に妬まれて出世できなかった者が多い。悔しいが、兵士の強さは敵側の方が強かった。

 セシリアは思い悩む。敵がロアーツ隊を崩してくれれば敗北の言い訳が立ち、無益の戦を続ける必要はなくなるのだが、その敵が陣に引っ込んでしまっていた。

 もとより、セシリアたちに侵略の意図はない。身内びいきになるが、いくら三将軍が優秀とはいえ、ベルン西部を切り取るには最低でも敵の五倍の兵力が必要になると考えていた。今回の戦も兵力が多いだけのただの小競り合いである。

「ナーシェンは、私たちを大敗させるつもりでいるのかもしれませんね……」

 ふと、ボソリとクレインが呟いた。ダグラスがどう言うことかと眉を寄せる。ナーシェンに嫌味を吐かれて以来、この老将のナーシェン嫌いは有名になっていたが、私情で敵の能力を見誤るような人物ではなかった。

「今回の出兵の戦略目標はベルン西部の制圧ですが、本来ならそれが達成できないとわかった時点で撤退しておくべきでした。今となっては撤退の時期がよくわからなくなっており、ナーシェンに持久戦に持ち込まれれば、私たちに勝ち目はありません」

「時期を誤ると、敵軍が迂回してきて背後を突いてくるかも……」

「そうですね。ナーシェンならやりそうです」

 だが、このままではパーシバルに武功を立たせてやれなくなる。わずか500でベルン西部を荒らしまわったのは十分な功績だが、200の兵を失って潰走した失点は大きい。ダグラスとしても、この就任し立ての息子のような年齢の後輩に手柄をやりたいという思いがあった。

 何もしない。それだけなのに、これほど自分たちを苦しめる策になるとは……。

 これがわずか十三歳でベルン北部を統一した北国の獅子ナーシェンか。セシリアは爪を噛みたくなったが、諸将の手前それもできなかった。


    ―――


 両軍は日が暮れるまで睨み合い、やがてかがり火がたかれ始めた。兵士たちがローテーションを組んで休息を取っていく。数名の暗殺部隊が送り込まれ、ナーシェンの宿所を襲撃したが、そのすべてが側回りの剣士隊に始末された。

 尋問したところ、暗殺部隊は膠着状態に焦れたロアーツが送り込んだらしい。

 ナーシェンはこの話を聞いてほくそ笑んだ。敵軍に、そして味方にもナーシェンが死んだことを流布し、フレアーに采配を渡して撤退を始めたのである。ロアーツ隊は好機とばかりにナーシェン隊を追撃する。ダグラスが諌めるが聞きはしない。

 そして、夢中でナーシェン隊を追いかけていたロアーツ隊は、気付けばナーシェン隊、マードック隊に挟み込まれていた。そこでようやく罠だと気付いたのである。味方が危機に陥っているのはロアーツの責任だったが、ダグラスはこれを見捨てるわけにはいかない。これを見捨てれば、三軍将全員が解任され、ロアーツ派の者たちで固められてしまうだろう。

 かくして防衛から攻勢に討って出たエトルリア軍だったが、ナーシェンはロアーツ隊を攻めるのをやめて、前線のマードック隊と合流する。ロアーツは迫り来る死の気配に小便を洩らしており、戦場から逃走してしまった。

「オール・ハイル・ブラミモンド!」「誠死ね!」「オトリヨセー!」「熱くなれよ!」「侵略すること――」「プリンタルト、突撃するぞ!」と叫ぶ軍勢にエトルリア軍は蹂躪され、戦線は崩壊した。

 ナーシェンは諸侯軍を無視し、近衛軍を潰したかったのである。わざわざエトルリアの毒素を抜いてやるわけにはいかなかったし、大勝しておかなければ原作が始まるまでにもう一度侵攻してくるかもしれないと考えたのだ。

 武田信玄は勝ちすぎるのはよくないと言っていたらしいが、そんなことを気にするナーシェンではなかった。




[4586] 第4章第13話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/08 04:46
 足並みを崩されて攻勢に出たところで、行き成り戦えるようになるわけではない。防衛戦を続けてきた兵士たちは、敵が尻尾を巻いて逃げて行ったのを見ており、このまま守っていれば勝てると思い始めていた。エトルリアの兵士は死ぬ覚悟ができていなかった。

 クレインやセシリアはまだ若く、その手の心理がよくわかっていなかった。

「ロアーツ隊、離脱して行きます!」

「……馬鹿な!」

 敵側の方が士気が高く、セシリア・クレイン隊とダグラス隊を合わせた兵数ではとても戦いきれない。烏合の衆とはいえ、ロアーツ隊が抜けた穴は大きかった。

 クレインは頭を抱えた。

「ロアーツ殿が反転してマードック隊に攻撃を仕掛けていれば挟撃が成っていたというのに……。いや、逃げた味方のことを考えても意味はない。無謀な突撃を行い全軍を危険にさらしたロアーツ殿の失態は明らか。ロアーツ殿も、この上は言い逃れはできないだろう」

「クレイン将軍! ナーシェン隊がロアーツ隊の追撃を諦め、マードック隊と合流しています!」

「なんだと?」

 ゾクリ――と寒気がした。

 クレインから向かって左側にマードックが率いる王国軍、中央にベルン東部・南部の連合部隊とファルス隊、右側にナーシェンが指揮するベルン北部同盟軍が広がっている。

 鶴翼の陣。

 ナーシェンが意図して組んだ陣ではなく、また、この世界では知られた戦法でもないが、敵軍を包囲殲滅することに長けた陣形であることは、聡明なクレインが少し考えれば理解できた。

 クレインは配下の騎士に弓隊の指揮を任せると、セシリアの魔道部隊まで馬を飛ばした。

 撤退だ、撤退。今すぐにでも撤退しなければ全軍が壊滅する!

「セシリア将軍!」

 ダグラス将軍のアーマーナイト軍団は敵兵の果敢な突撃を受けて身動きが取れなくなっている。撤退といわれても、どうにもならない状態だった。この上は、そのダグラス隊を捨て置き、他の味方を逃がさなければならない。


    【第4章・第13話】


 ナーシェンは敵勢の動きを見て「ふぅん」と感心したような声を上げた。

「中々やるじゃないか。今のセシリアの将器では、この指示は出せんだろう。とすると、ダグラス殿が自ら志願したのか、あるいは………」

 クレインの洟垂れが指図したのか。

「フレアーに『貴様はゲイル殿の指揮に入れ』と指示を送っておけ。証拠に私の剣を持っていくように。それと、ゲイル殿には『貴殿には撤退する部隊を追撃して頂きたい』とも伝えておいてくれ」

 ナーシェンは腰から剣を引っこ抜いて、伝令の竜騎士に投げ渡すと、戦場に取り残されて踏ん張っているダグラス隊を見た。味方に捨てられて死を悟ったのか、敵のアーマーナイト隊が死兵と化して猛烈な抵抗を繰り広げている。

「カレル!」

 ナーシェンは馬上から周囲を見回しながら叫んだ。

「剣士隊にランスバスターとアーマーキラーを持たせてアーマーナイト隊を崩してこい!」

 その叫びを聞いた剣聖は欠伸混じりに呟いた。

「働いたら負けのような気がするんだけどね」

 カレルは「人殺しは、悲しすぎる……」とか気取った台詞を吐きながら、宿舎で食っちゃ寝しているだけだった。いい加減に働かないと、発酵させた乳製品の実験台にしてやる、とナーシェンが考えていると、のっそりと剣士隊が動き出す。

「くそっ、逃げやがった。あのニート侍」

 ナーシェンはカレルを虐める口実を失って、ちょっぴり残念だった。この二人、虐めたり、仕返ししたり、仕返しされたり、さらに仕返ししたりと、よくわからない主従関係を構築していた。

 それはともかく、剣士隊の突撃でアーマーナイト隊に穴が開き、そこにイアンの騎兵隊が突撃。傷口を押し広げる。そこにベルアー伯爵が歩兵を押し込み、ダグラス隊が半分に分断されてしまう。半数の兵にダグラスの指示が届かなくなり、それら兵士は瞬く間に討ち取られていった。

 1000の兵士を4000でいたぶるのだから、こうなるのは必然といえるのだが。

 セシリア、クレイン隊には追撃部隊の竜騎士を率いたゲイルが大損害を与えるだろう。魔道士、弓兵は立ち止まらなければ攻撃できない。関ケ原の島津の撤退のようなことをされると、流石のゲイルも追い続けるのは無理になるだろうが、あの甘ちゃんたちが味方に何度も死んでくれと言えるとも思えない。

「ま、今回はこの辺が潮時かな」

 ナーシェンは今回の戦で諸将に知将っぷりを見せ付けたことにより、ある程度の自己顕示欲を満足させた。ナーシェンの智略は大陸一。すげえ、超カッコいい――とばかりに諸将から尊敬されることだろう。


    ―――


 そんなナーシェンの思惑とは裏腹に、諸将はナーシェンの智謀に恐れおののいていた。

 クレインは親友の冷徹とも言える采配ぶりに鳥肌を立てており、もう二度と戦いたくないと思っていた。

 セシリアは予想できないナーシェンの策略に怒りメーターが振り切れており、ナーシェンの名前を聞くだけで頭に血が上りそうになっていた。

 パーシバルはナーシェンを油断のできない好敵手と見ていた。

 ダグラスはエトルリアを滅ぼす者が現れるなら、ナーシェンのような者だろうと考えた。

 マードックは今回の戦いがナーシェンの手の平の上で繰り広げられていたことを悟ると、ナーシェンへの警戒を改めた。

 ゲイルは王様ゲームを吹っかけられないようにナーシェンを避けていた。


    ―――

 そして戦が終わり――。

 エトルリア側から和議の使者が送られて来たのが、エトルリア軍の敗走から二ヶ月後であった。小額の賠償金の約束と、今回の戦を画策した諸侯(スケープゴート)の首が送られてきたが、ゼフィールは威圧的に賠償金の増額を吹っかけ、それができないならベルンはいつでもエトルリアに侵攻する用意があると言い渡した。

 そんなこんなで交渉が難航し、和議が成ったのは戦争から半年後であった。

「はははっ、ええ、そうですね。エトルリアで最も怖ろしい将ですか? それは決まってますよ。もちろんロアーツ殿です。あの時、撤退したロアーツ殿を追撃していたら、我が軍は全滅しておりました。ロアーツ殿には必勝の策があったんですよ」

 ナーシェンはわざとらしく身震いしてみせる。

 エトルリアの王都アクレイア。その王宮で捕虜引渡の使者として赴いたナーシェンは、持て成しの宴で、ある貴族から尋ねられてこう答えた。

 その答えに諸侯たちは首を傾げる。ロアーツは敗戦の責任者の筆頭に挙げられ、宰相の職を解かれて謹慎中であり、今も言い逃れを続けているが、苦しい身の上なのは誰もが知っている。

 そのロアーツを、ナーシェンが恐れていると?

「ロアーツ殿がリキアを経由した奇襲攻撃を画策したのでしょう? あれは見事でした。このナーシェン、まさに目の覚めるような思いでした。それに、ロアーツ殿が率いている諸侯は何れも歴戦の将兵。私たちはロアーツ隊と戦えば負けるとわかり、弱い箇所――エトルリア王国軍を叩くことにしたのです」

「まさか、そのようなことが……」

「ロアーツ殿も哀れなものです」

「と言うと?」

「戦争をやりたがっていたモルドレッド王と三軍将に振り回されて、戦をする気のない諸侯を説得し、ようやく戦場に到着したかと思えば敵にも味方にも相手にされず、形勢不利と見るや味方の損害を抑えるために撤退したというのに、エトルリアはその忠臣に敗戦責任を押し付けようとしているからですよ」

 諸侯たちはナーシェンの言葉に引きこまれるようなものを感じた。

「それに、一兵も失わずに撤退したというのに、尻尾を巻いて逃げ出したと、その功績まで捻じ曲げられているのですから」

 エトルリアの貴族たちは、言われてみれば確かにそうだな、と思い始めた。

 こうしてロアーツは悲劇の英雄という、誤った人物像が作り上げられていく。

 諸侯や民衆たちの間から、モルドレッド王の専横に対して批難の声が上がり始め、やがてロアーツは宰相に返り咲いた。アルカルドもその功績を讃えられ、西方三島の総督という重職が与えられる。

 さて、本題の捕虜交換であるが、ナーシェンはこの捕虜の値段にちょっとした手を加えている。

 エトルリアの足を引っ張るだけの貴族に「強敵だったため、できればエトルリアに返還したくない」と高値を付け、今回の合戦で寝返らせることができなかった強敵には「この者は槍を交えることなく一目散に逃げようとした雑魚であるため、捕虜としての価値もない」と安値を付けた。

 役に立たない貴族に「二十人の兵士を屠った」とか「一騎打ちに勝った」などという嘘の功績を引っ付けたために、戻って来た彼らは近衛騎士団でも大きな顔をすることになる。本人たちは嘘だとわかっているのだが、自分の功績を嘘だと言うような者はいなかった。

 また、安値を付けられた能力のある者はいわれのない敵前逃亡の汚名を着せられ、活躍の場を与えられることはなくなった。輜重部隊の護衛などの後方支援に使われるだけで、槍働きの機会を失ったのである。

 反吐が出るほどの汚い策である――の感想はモルドレッド王のものである。

 ちなみに、捕虜を買い取るにあたって現金で支払えないというエトルリアが価値のある宝物を差し出すことになったので、その目録を作成するために、わざわざナーシェンがエトルリアに赴いたのであった。

 こうして、今回の戦は幕を下ろす。



 しかし、完全に幕を下ろしたわけではなかった。

 エトルリア軍の進軍を見逃したリキア諸侯に、これから数年はベルン王国が強気の外交政策を取ることは間違いなかった。オスティアを含む各諸侯がベルンに贈り物を送ったが、そのようなものでゼフィールの機嫌がよくなるわけはなく――。


 事態は“オスティア公女の嫁入り”に発展することになる。


 第4章 完




[4586] 第5章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/08 04:46

 前回の合戦でナーシェンにいいようにやられたエトルリアだったが、モルドレッドは敗戦の責任を幾つかの諸侯に押し付けて処断してしまい、責任の所在をうやむやにしてしまった。さらに、貴族の領地を王族領に組み込み、賠償金をそこから捻出するという強引なやり方で対処する。

 そのようなやり方では、王族領に組み込まれた領地の統治能力が落ちて、あまりいいことはないのだが、モルドレッドにはこれしか手段が残されていなかった。それを冷徹に行ってしまうモルドレッド王が凄い。流石は大国の元首であった。

 一方のベルンだが、前回の戦争でエトルリアを直接的に支援したリキアの諸侯に、ゼフィールは何の手も下さなかった。リキアの諸侯の大多数が強い者になびくだけの弱小貴族と化しており、ベルンが大軍を引き連れてリキアに侵攻すれば、一瞬で寝返るということをゼフィールは知っていたのである。

 ただし、エトルリアの進軍を見過ごしたということで、その責任はリキア全体に被せられることになった。オスティアを締め上げるためのゼフィールの策略であった。

 さて、捕虜引渡の使者を勤め上げたナーシェンはベルンに帰還する。

 二週間ほど領地を空けていたのだが、季節の変わり目だったらしく、ベルン北部は夏季に入っていた。ちなみに、ナーシェンは十八歳になっている。ジェミーが十四歳。ロイ、リリーナが九歳になったわけだ。

 原作まで、残り六年。

 段々と胃薬の量が増えてきているナーシェンは、今日も死亡フラグを叩き折るために頑張っている――と言いながら、今日もエロゲを小説化していたりする。


    【第5章・第1話】


 ――ブラミモンド公爵、北国の獅子ナーシェン。

 他国では悪辣極まりない謀略家として恐れられているが、ベルン国内では王国の危機を救った英雄として祭り上げられている謀将である。

 近頃、ベルンの宮廷ではこのナーシェンの扱い方について、激論が繰り広げられていた。

 議論の内容は『ナーシェンの婚姻』についてである。

「ブラミモンド公爵にギネヴィア様が嫁がれればベルン王国は安泰かと」

「そうだな。これは良縁であると思われるが?」

 ベルン南部のグレゴリ侯爵が、豊富な口髭をもごもごさせて、ベルン王国の宰相バレンタインに語るのだが、周囲の者は首を横に振った。グレゴリに賛同を示したのは西部のファルス公爵ぐらいである。

 年に一度の大評定が終わり、恒例の宴も終わった後であった。

 彼らは気になるナーシェンの行く先を話し合うために集まった有力な諸侯である。

「何か問題でも?」

「確かに、よき縁談かと思われる。だが、ゼフィール様が承知せんよ」

 ファルス公爵が質すと、バレンタインは搾り出すようにこう言った。

「ナーシェン殿にギネヴィア様を与えれば、ブラミモンド家は王国の一門に連なり、ナーシェン殿はベルンに忠義を尽くすだろう。地理的にエトルリアへの国防の盾になってくれるのは間違いあるまい。だがな、ギネヴィア様が嫁げば、世間はゼフィール様がナーシェン殿に人質を差し出したと見るだろう。王国の権威に傷が付くのだ」

「……それほどまでに、ナーシェン殿の名声が高まっているのですか」

「そうだ。それに、ナーシェン殿にギネヴィア様を与えたら、ベルンにもうひとつの王朝ができかねん。ナーシェン殿にその気がないのはわかっているが、それができる能力があるというのが問題だ」

 バレンタインはやれやれと首を振った。グレゴリとファルスは納得したように頷いた。


    ―――


 大評定の後、ナーシェンは王都に留め置かれた。仕方がないのでナーシェンの父が使っていた屋敷に滞在することになったのだが、ナーシェンの父や使用人が斬られた場所で寝泊りするのは気味が悪い。それはナーシェンとジェミーの共通の感想であった。

 権謀術数溢れる王宮の近くである――と言うことだけで、ナーシェンの気は休まらない。ナーシェンはそのようなことをジェミーに語り出した。

「急に暗殺部隊が送り込まれるかもしれないからなぁ」

 ナーシェンは風呂上がりに牛乳を飲みながら、急遽運び込んだベッドに腰を下ろす。家財道具を売り飛ばしたため、ほとんど空っぽの殺風景な屋敷であり、声が微妙に響いていた。

「でも、何故ナーシェン様が留め置かれたのでしょうか?」

 ジェミーも湯浴みの後であった。十四歳になって、その身体つきは大人のものに変わり始め、男を狂わせるような色気が出ているのに、ナーシェンは顔色ひとつ動かさない。

 いや、よく見ればナーシェンが意図的に目を逸らしていることに気付けただろう。だが、ジェミーは変に無表情なナーシェンに、やっぱり自分のことなんて眼中にないのかと落胆した。

「大評定の後、エトルリア戦の論功行賞が行われただろ。私への褒章はエトルリアの宝物『ひかりの剣』『スレンドスピア』『ノスフェラートの魔道書』『サンダーストームの魔道書』で購われているが、換金しても1万ゴールドに満たない物でしかない」

「ファルス公爵は後継者が戦死したベルン西部の貴族の領地を報酬に与えられていますからね。ナーシェン様への報酬が少ない気がするんですけど……」

 ナーシェンがその程度のことで不満に思うわけはないだろうが、何かありそうだった。

 ぐだぐだと国政についてのナーシェンの愚痴を聞いていると、王宮から使者がやってきて今すぐ参内するようにと命じてきたので、ジェミーはすぐさまナーシェンの準備を手伝った。

 こうして出立したナーシェンがあんな話を持ち帰ってくるとは、この時のジェミーはまったく予想していなかった。


    ―――


「貴様、ギネヴィアが欲しいか?」

「………あ、えっと」

 どう答えろと! ――とナーシェンは内心で叫んだ。

 要らない、と答えたらゼフィールは「我が妹を要らないと言うのか!」と怒り出すかもしれない。

 欲しい、と答えたら本当にギネヴィアが嫁いでくるかもしれなかった。

 貴族というものは、結婚も義務である。その程度のことはナーシェンも承知している。

 ナーシェンは政略結婚という単語に、現代人にありがちな嫌悪感を感じることはなかった。かつての世界の自由恋愛などは、所詮はこの三、四十年の間に定着した新しい概念である。

 婚姻とは政治の延長であり、家と家同士の結び付きを強めるためのものだ。そこから得られる利権は見逃せない。

 だから、ギネヴィアとの婚姻を喜べと?

(いや、それはちょっと私には重たすぎるっす……)

 ゼフィールの妹という時点でアウトだ。この王様を義兄上と呼べというのか。

 世界を滅ぼしたがっているキチ○イと縁戚を結ぶなんて嫌すぎる。

 痛み出した胃袋を押えるナーシェンに、ゼフィールが段上で詰まらなさそうに呟いた。

「……命拾いしたな」

 それはまさか、ここでギネヴィアを欲しがっていたら何らかの罪(たとえば謀叛とか)を被せられて処刑されていたというわけだろうか。いや、ナーシェンはゼフィールの部下としてまだまだ有用だからそれはないだろう。

 とは思うのだが、ゼフィールなら本当に実行してしまいそうで怖ろしい。

 ガクガクブルブル震えていると、ゼフィールが玉座から立ち上がった。

「アポカリプスかオスティア公女。貴様に片方をくれてやろう」

「………まことに御座いますか?」

「嘘は言わぬ」

「ならば、オスティア公女を」

 即答だった。

 それほどリリーナを欲している……というわけではない。すべては冷静な計算による受け答えである。

 建国以来、ずっと封印されてきたベルンの国宝である魔道書を、たかが小競り合いの功績で諸侯に授けるなど有り得ない。つまり、アポカリプスはエサだ。ナーシェンが闇魔法が使えるという話はゼフィールの耳にも届いているだろう。

 神将器の威力は大軍に匹敵する。たとえるなら仮想戦記の流れをぶち壊してしまう原爆である。

 そんなものを欲しがる者を、ゼフィールが生かしておくわけがない。

「よかろう。しばらくは使ってやる」

 騙し騙され――ナーシェンとゼフィールの主従関係であった。



[4586] 第5章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2008/12/18 20:27

 ヘクトルは両拳を肘掛に叩き付けた。

「どう言うことだ!」

「言葉通りです。リリーナ姫を差し出されよ」

 ベルン西部の巨人ファルス公爵が平然とのたまう。この男、合戦より外交の方が得意であり、ゼフィールがよく使者に使っていた。ヘクトルとも面識があり、仲良く酒を飲み交わしたこともある。だが、交渉ではそのようなことは関係ない。

「このようなことがあってたまるか! エトルリアが侵攻してきた時、オスティアは何もしていないのだぞ!」

「何もしていない。そう、何もしていないのです」

 ファルスはそれがいけないと説明する。

「諸侯がエトルリア軍に兵糧を提供しても見て見ぬ振りですか。リキアの盟主なら、それらの軽挙を咎めなければならないでしょうに。盟主の椅子に座り続けるなら、せめてその責任を全うするべきでしょう」

 エトルリアの敗北から半年。今回の事態に至るまで、それだけの時間があったはずだ。何時までも日和見しているからこのようなことになる――とファルスは呆れたように言う。

 さっさと先の戦で援軍要請に応える用意をした諸侯を叩き潰してベルンに土下座しておけば、このような事にはならなかったはずである。贓物という消極的な和平策しか取らないから、このようなことになる。

「なぜわしが軽挙妄動に出た諸侯どもの尻拭いをせねばならん」

 これが、リキアの害悪だとファルスは思った。リキアは諸侯の共同体なのだが、それぞれの諸侯は自分のことしか考えていない。

 リキアの盟主は、他国では国家元首と同格の扱いを受けているし、オスティア候はそれを享受してきた。なのに、国家元首としての責任を問われたら、そのような義務はないと答える。そのような都合のいい話が何時までも許されるわけがない。

「だが、だからと言ってリリーナを差し出せというのはあんまりではないか……」

「お気の毒としか言いようがありませんが、嫌なら盟主の座から降りられればいいでしょう」

「オスティア家はどうなる……?」

「新たに子どもを作るか、養子を入れればいいでしょう」

 ヘクトルの目から涙が、両拳から血が零れた。


    【第5章・第2話】


 ナーシェンは午前中は官営工場を見て回ったり、練兵場や学問所に顔を出したり、街に遊びに行ったりして時間を潰す。朝は結構暇なので、ナーシェンは好きなことをしている。

 午後からは文官が作成した報告書に目を通す。夕方までに各方面への指示を文書にまとめて、翌日の朝までに届くように早馬を飛ばした頃には夜になっている。とはいえ、昼からの政務はどうしてもという用事があればジェミーに任せることができた。

 飯食って風呂入ると、そこからはナーシェンの自由時間になる。

 これが、最近のナーシェンの基本的なスケジュールである。

「ちーちちっち、おっぱ~い!」「ぼいんぼい~ん!」「ぼいんぼい~ん!」

 この日の夜中、自由時間――ナーシェンは配下の竜騎士Sを連れて、ナーシェサンドリアに繰り出した。夜になっても道の左右にかがり火がたかれている街。俗に言う色町である。

「もげ! もげ! もげ!」「ちちをもげ~!」「「もげ!」」

 配下の騎士たちとお下劣な歌を口ずさみながら、ナーシェンたちはある妓楼の前で立ち止まった。

「諸君、私たちは今までどれだけこの時を待っていたのか……。この時だけのために生きてきたといっても過言ではない。我が人生の大計は今日成就するのである」

 ナーシェンの言葉に、騎士たちはそれぞれの思いを語り出した。それは人生の苦難であり、世の中への怒りであり、漢としての有り方であった。皆で声を揃えて「ナーシェサンドリアよ、私たちは帰ってきた!」と叫ぶ。

「ついに、我が街にも娼館ができたのだー!」

 ナーシェンにとっては今更だったが(と言うのも、建設許可を出したのはナーシェンだ)、配下の騎士たちの中には初耳の者もいたらしく、彼らは狂喜して服を脱ぎ出した。先走りすぎだ。

「全軍突撃ー! よし、私も行くぞ――! ………………ぷぎゃ」

 ここが戦場だったら剣を抜いて、突撃の合図のように振り下ろしていただろう。

 そんなナーシェンの叫びに従い竜騎士Sが娼館に突撃する。

 突撃……する?

 竜騎士たちは恐るおそる背後を振り返った。そこには丸コゲになったナーシェンの姿が。

 そう言えば、ジェミーが新しい魔道書を手に入れたと言っていたような気がする。彼らは「ジェミーちゃんサンダーストーム」と聞いたような気がした。空耳だが。

 翌朝「ピンポイントで雷どっかーん、どんなトリックぅ?」と詰め寄るナーシェンに、ジェミーは「嫌な予感がしたんですよ」というわけのわからない返事をしたそうだ。

 ちなみに、娼館の建設にあたって、ナーシェンは江戸時代、幕府が大火事を切欠にすべての娼館を吉原に封じ込めたという話を思い出して、その話にあやかって建設場所を指定した。また、勝手に別の場所で運営していた出会い茶屋(この表現もおかしい。現代風に言うとブルセラショップ?)を禁止し、指定した営業場所に移動させたそうだ。

 縄張りを始めると、大量の風俗業経営者が流れ込んできて、でっかい遊里ができてしまった。

 ナーシェサンドリアの商圏はごっついのだ。


    ―――


 黒コゲになって担ぎ込まれたナーシェンに、ジェミーは溜息を吐いた。ピクピクと痙攣している馬鹿をベッドまで運ぶ。オスティアの公女が嫁いでくるというのに、どうしてこのような阿呆なことをするのか。

 小一時間ほど問い質したかったが、そのナーシェンは気を失っている。

 多分、何も……考えていないのだろう。普段はこの人、馬鹿だから。

「ホントに、馬鹿なんですから」

 ナーシェンの寝顔は穏やかであった。

 ジェミーはナーシェンの口元に顔を寄せる。

「んっ」

「……………ん。って、ちょちょちょ、ちょいまてぇぇぇい!」

 ナーシェンは飛び上がって、壁際まで後ずさった。押し退けられたジェミーは自分の行動が信じられないといった様子で、自分の口元に手を当てている。

「え、あれ? ナーシェン様?」

「き、きしゃまは何てことをしてくれーるのですか! こう言うことは好き合っている者がやることであって、うほほっ、最高だったじゃないか……じゃなくて、えっと、……マジですか?」

「……ホントに、鈍感なんですから」

 ジェミーは溜息を吐いた。

「あのさ……」

 ナーシェンは立ち上がる。どこか虚ろな目をしながら、明後日の方向を眺めてこう言った。

「私は現実から逃げる。あらゆる現実から逃げるよ」

 そう言って、ナーシェンは額を壁に叩き付け、白目を剥いてぶっ倒れる。

 この程度の行動は予想済みだったジェミーは、すぐさまナーシェンの服を脱がすと、自分の服も脱ぎ捨ててベッドに入った。ジェミーの服から五冊の魔道書がゴロゴロと転がり出たのが絵的にシュールである。


    ―――


 数刻後、目覚めたナーシェンは隣にジェミーが寝ているのを見て「何だかなぁ」と呟いた。

 ジェミーのさり気ない好意に、ナーシェンは気付いていた。決して鈍感というわけではないのだ。ただ、どう答えていいのかわからなかった。ここまで露骨に好意を示されたのは、ナーシェンの人生では初めてである。

 ナーシェンとジェミーは全裸だったが、やることをやった記憶はない。

「………この物語の登場人物は十八歳以上です、ってか」

 まぁ、この世界の女性は十五歳になれば嫁に行く。十四歳のジェミーとやることをやってしまっても、何の問題もない。それに、普通の貴族は使用人に手を付けている。ナーシェンのやることを咎める者はいないだろう。

 でも、それではナーシェンの筋が通らないのだ。

「私はナーシェンなんだけどなぁ」

 こんなことが許されるのだろうか。ひとつ間違えば死ぬ運命にあるのだが。

 ナーシェンはジェミーの髪を撫でた。ジェミーはくすぐったそうに身をよじる。



 翌朝、ナーシェンは家臣を集めてリリーナの輿入れの二ヶ月後にジェミーを側に入れることを宣言する。突然そのようなことを聞かされたジェミーは、ナーシェンに「おい、私では不満か」と言われ、涙を浮かべながらナーシェンに抱き付いた。

 その後、衆目を気にせずに唇を押し付けた。



[4586] 第5章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/14 16:23
 リリーナの輿入れに、こんなエピソードが残されている。

 ヘクトルはリリーナの輿入れの前日に、懐剣を渡して「いざという時は、これでナーシェンを刺せ」と言ったそうだ。九歳児に渡すものではないし、嫁入り道具としてもあんまりだったが、それだけヘクトルがナーシェンを憎悪していたのだろう。

 だが、リリーナは平然と「この刃は、お父様を刺す刃になるかもしれません」と答えたそうだ。九歳児の答えではないし、父親への言葉としてもあんまりだったが、それだけナーシェンを憎む父親が煩わしかったのだろう。

 他にも、悲壮な顔をして「金髪の儒子め、姫さまに無礼を働いたらくびり殺してやる!」と豪語する者に、リリーナは「ブラミモンド公爵夫人の前で、そのようなことを言ってもいいの?」と叱り付けたそうだ。とても九歳の少女とは思えない迫力だったという。

 そんなこんなで、輿入れの馬車がぞろぞろと進んでいる。荷物だけでも、二十荷になった。護衛の従者は200人に昇る。そのすべてが正規兵であることは説明するまでもないだろう。

 お転婆な姫さまは道中、滅多に見られない外の光景に目を輝かせていた。

 途中で荷駄を狙った山賊たちが徒党を組んで襲い掛かってきたが、訓練した兵士に敵うものではなかった。そして、やはりというべきか、捕えられて首切りを待つ賊たちを見て、リリーナが周りの兵士に「解放しなさい」と命令するのである。

 感激した賊たちは「一生忠誠を誓いますぜ、姫さま!」と、輿入れの行列に加わった。


    【第5章・第3話】


 ナーシェサンドリアの街中を、金髪の青年が散策していた。庶民の着るような古着姿で、木の鞘に収められたボロい剣を佩いていた。傭兵のような格好といえるのだが、そこまで腕っ節が強そうには思えない。旅人が妥当であろう。

 そんな装いの青年が、肉屋の前で立ち止まる。

 生きた豚が「ブヒィ」と鳴いている。青年は豚の頭に手を置いた。

「あっ、お客さん。商品に触らないでくださいよー」

「よし、お前はこれからブー太郎と名乗れ」

「は?」

 青年は懐から筆を取り出すと、豚の額に『ブー太郎』と落書きした。その後に、『命名、ナーシェン』と追記しておく。そこでようやく青年の正体に気付いた店主が肝を冷やした。

「な、な、な……」

「じゃ、元気でなー」

 ナーシェンはブー太郎に手を振ると、肩で風を切って他の店を冷やかしに行く。

「おい、店主。これはいい豚だな。ここと……この辺りを切ってくれよ」

「あっ、は、はい。かしこまりました。20ゴールドです」

 書店に突撃して在庫状況を尋ねていたナーシェンは、恐るおそる振り返る。

 鉈が、振り下ろされていた。

「ぶ、ブー太郎ぉぉぉぉぉぉ!」

 ナーシェンが悲鳴を上げる。道行く人たちが何事かと振り返り、叫んでいる青年がナーシェンだと気付いた者は含み笑いをこぼしながら通りすぎていく。

 そんなナーシェンの様子を、ゲイルが何とも言えない顔をしながら見守っていた。ゼフィールからの祝儀を預かってきたのだが、挨拶もそこそこにナーシェンに「昼飯まだか? よし、じゃあどっか食いに行こうぜ!」と引っ張られてきたのだった。

 道中、寄り道ばかりしているナーシェンに最初こそ微笑ましく見守っていたのだが、あまりの道化っぷりに「これがエトルリア軍を粉砕した謀将の姿なのか?」と首をひねっている。

「ま、待たせたな……ゲイル殿。よし、じゃあ飯にしよう」

 ブー太郎と別れの挨拶を交わしたナーシェンが、ゲイルの肩に手を回し、路地の裏に入っていった。

 後日、肉屋があった場所に『ブー太郎』という料理屋ができていたのは余談である。店の前には額に『ブー太郎』と書かれたブタの頭部の剥製が掛けられており、入店する者の食欲を煽った……とは思えない。豚の悲鳴が聞こえるばかりである。

 そして、ナーシェンとゲイルは路地裏の奇妙な店に入店する。

「「「お帰りなさいませ、ご主人様!」」」

「………えっと、な、ナーシェン殿。これは……」

「おう、ただいまー」

 メイド喫茶。

 喫茶店の営業に行き詰ったナーシェンの、起死回生の一手である。

 と言っても、喫茶店の売り上げが落ちたわけではない。新たな顧客の開拓のために、サービスを売る店を新たに立ち上げたのであった。

 ナーシェンは思考停止しているゲイルに悪戯っぽく笑いかけると、入口に並んでいるメイド服を着た女性にこう言い放った。

「こいつは妹コースで頼む」

「かしこまりました。お兄ちゃん、席に案内するね?」

「な、ナーシェン殿ぉぉぉぉ――!?」

 メイドさんに引きずられていくゲイルに、ナーシェンはさわやかに手を振った。

 ちなみに、ナーシェンは無難に伯爵コースで楽しんだ。

 ゲイルは、謀将ナーシェン恐るべしと肝に銘じることになる。

    ―――


「と言うわけで、そろそろ輿入れの行列が到着するわけだが、お兄ちゃんはどうするんだ?」

「私は祝宴までは別室で待たせて頂こうかと……って、誰がお兄ちゃんだ!?」

 ゲイルは肩を怒らせながら去って行った。最近いい感じになってきている女竜騎士のミレディが見れば、きっと幻滅していたことだろう。あるいは、お兄ちゃんと呼んで積極的にアタックをかけていくかもしれなかったが。

 ナーシェンは領主館のロビーで待っていた。

 家臣たちが左右にずらっと並んでいる。フレアーは相変わらずの厳格そうな顔。ジードは眠たそうに欠伸している。イアンは恋人らしき侍女と駄弁っていた。竜騎士Sは『リア充氏ね!』と書かれた旗を振り回している。

 そんな彼らに、エトルリアから呼ばれたヨーデル司祭が、微笑ましそうに見守っていた。

「ナーシェン様。行列がナーシェサンドリアの表門に到着したそうです」

 ことさら表情を消したジェミーが、低い声でナーシェンに囁いた。

 思わずフレアーは居住まいを正した。ジードは直立し、イアンは侍女の背後に隠れようとする。そして、竜騎士Sたちが振り回していた旗が炎上し始めた。スレーターは空気と同化した。

 ナーシェンの背筋にだらりと汗が流れる。

「そ、そうか……。そろそろだな……」

 ごくりと生唾を飲み込むナーシェンの背中に、ジェミーがそっと抱きついた。背中に押し当てられたのは、きっとファイアーの魔道書だ。そうだ、そうに違いない。

「信じてますから」

 ボソリと、そう呟いてジェミーが離れる。

「い、いや、その、ジェミーさん?」

「オスティア公女ご到着!」

 弁解する暇も与えられない。ナーシェンは首をぶんぶんと振ると、正面玄関の前に乗り付けられた馬車に目を向けた。

 現れたのはヴェールで顔を隠している、ドレスを着た少女だった。

「ナーシェン! 久しぶりね!」

「うおっ! り、リリーナ……」

 とてとてと走り寄り、正面からがばりとナーシェンに抱きついた少女に、ジェミーの周囲が物理的に燃え上がる。「し、信じてますから……」とグスリと泣き出すジェミーを慰めようとして近付いた兄は、その場で丸焼きになった。



[4586] 第5章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/08 09:57
 輿入れの儀式は厳かな雰囲気で進行し、ヨーデル司祭が神のもとに二人を祝福すると、ナーシェンとリリーナは接吻させられた。

 身長的にナーシェンがリリーナを抱き上げて、誓いのキスをするわけだ。

 嬉しくないと言えば嘘になるが、九歳児とそういうことをするのは倫理的に抵抗があった。もちろん、リリーナはつるつるでぺったんなのでナーシェンが欲情するようなことはない。

「恥ずかしいぞ。ちょー恥ずかしい。まさか、衆目でキスさせられるとはな……」

「冠婚葬祭のどちらもエリミーヌ教の権威が及んでいるので、こればかりは仕方ありますまい。婚姻において式を行わないのは、独自の文化を持つサカ地方ぐらいでしょう」

 ナーシェンが色々な意味で肩を落としていると、アルフレッド卿がなみなみと葡萄酒を注いだカップを両手にやって来る。この時代では陶器製や硝子製の食器はあまり使われていない。大抵の食器は金属でできている。

 カップをぶつけると、ガコンと音がするわけだ。

「ところで、リリーナ姫はどうなされているのでしょうか?」

「ああ、ドレスが着慣れないらしくてな。着替えてくるってさ」

 堅苦しい場ならともかく、この場は北部同盟派の諸侯たちが好き勝手に騒ぐための場になりつつある。先ほどはカザン伯爵、グレン侯爵にからまれて酒瓶を口に突っ込まれているゲイルを見かけたほどだ。

 ファルス公爵などの宴のノリについていけない諸侯は祝儀に訪れていた王国宰相のバレンタインの周囲に集まっていた。反対に、グレゴリ侯爵などのノリのいい諸侯は一気飲みなどで場を盛り上げるのに一役買っていたりする。

「しかし、天真爛漫な姫君ですね。ベルンが武力を背景に強奪したようなものなのですが、あのような笑顔を浮かべられるとは……」

「あれが、民から慕われていたリリーナ姫の気性なのだろうな」

 だが、それだけでは国は治められない。リリーナがオスティア太守になれたのは、大戦争に幕を下ろした立役者のひとりだったからだ。それがなければ、女性だという理由でリキアの諸侯たちから侮られ、リキア同盟が崩壊していただろう。

 ベルンがリキアの内乱に介入して、リキア地方を切り取るという手もあるが、内乱が発生すると決まっているわけではなく、確実性が足りないため次点の策になる。ナーシェンとリリーナの子どもをオスティア家に入れて、緩やかに吸収した方が確実性があった。

「ヘクトルが養子を入れれば……ふむ、その何処の馬の骨ともしれぬガキは、リリーナと比べられることになっただろうな。忠誠心の高い騎士たちが反感を抱く。配下の心を掌握できていない国など、赤子の手をひねるに等しい。つまりこれは、三十年計画のオスティア攻略になるのか。ゼフィール様はどうお考えだろうか」

 いや、世界征服を企んでいるゼフィールは、そのようなことは念頭に置いていないだろう。

 火竜に国をプレゼントするとして……具体的には、ひとつの王朝で大陸を統一、その後、皇帝の権力を竜族に譲渡するということになるのだろうか。

「竜の貴族化、人の家畜化――そうなるのか?」

 ナーシェンは考え込む。

 そんなナーシェンを、周囲の諸侯たちは「やれやれ、仕方がないな」とばかりに生暖かな目で見守っていた。


    【第5章・第4話】


 侍女に手伝われて着替えを済ませたリリーナは、ようやく身軽になったためか軽い足取りで屋敷の廊下に飛び出した。侍女の案内がなくとも、聡明なリリーナはすでに城の見取り図のようなものを頭の中に描いていた。

「ふぅん。城下はオスティアに勝るとも劣らないものだったけど、城はオスティアのものより小さいのね。いかにもナーシェンらしい城だわ」

 ナーシェサンドリア城は、オスティア城のように、幾万の敵軍を押し返すような防衛力こそ持っていないので、内部の構造は比較的簡単だった。リリーナが生まれ育ったオスティア城は、慣れた者でさえ迷子になることもあり、政庁としてはあまり好ましいものではない。

 文官が遭難すれば政務が滞るからだ。

 要塞としての城と、政庁としての城を両立させるのは難しい。

 その理想的な城を作るとすると、天文学的な金銭が必要になってくるだろう。それに、そのような城は諸侯のひとりであるナーシェンが持つべきではない。周囲の諸侯、あるいは国王ゼフィールに警戒されるだけだからだ。

「あら、リリーナ様ではありませんか」

 通路の向こう側からやって来た少女のことを、リリーナは覚えていた。ナーシェンとの対面時に、涙目でありながらこちらを睨み付けていた少女だ。周りの祝福ムードの中で、珍しく敵意のようなものを見せていたので、鮮明に記憶に残っている。

「たしか、筆頭書記官のジェミーさんでしたね」

「はい、リリーナ様。それとも、奥方様と呼んだ方がよろしいでしょうか?」

「どうぞお好きなように。これから仲良くしましょうね、ジェミーさん」

「ええ、よろしくね」

 表向き、友好的な挨拶を済ませた二人の内心は、黒々としたもので渦巻いていた。

 リリーナを探していた侍女が二人を見付け、思わず回れ右をしてしまったほどである。

 ジェミーはニッコリと、曇りのない――作り笑顔を浮かべた。

「ところで、この城の居心地は如何でしょうか。いえ、伺うまでもなかったですね。ひとりも味方がいないのですから、不安なのは当然のことでしょう。ナーシェン様の“温情”で不自由のないよう気を配っていますけど、至らぬ点があれば言って下さいね」

 対するリリーナも、笑みを作る。

「それはわざわざご丁寧にありがとう。でも、みんな親切だから、全然不自由していないわよ。むしろ、こっちの方が居心地がいいくらい。それに、もし酷い仕打ちを受けても、私にはナーシェンの“愛情”があるから心配いらないわ」

「……………左様でございますか」

「ええ、左様よ」

 竜虎相討つの構図で乾いた笑い声を発する二人。異様な緊張感を漂わせながら、二人は宴の間――城のホールへ向かっていた。通りすがる使用人たちが失神、失禁する中、とりとめのない世間話という名の嫌味の押収を繰り返す。

 そして、ナーシェンのところに到着したところでアイコンタクトで休戦協定。現金なものというか、何気に意思疎通しているところが凄いものである。

「今回の婚儀、大変めでたいものですね。ところで、後妻を入れるつもりはないのでしょうか」

 杯をちびちびと飲んでいるナーシェンに、ベルアー伯爵がしきりに話しかけている。

「私の娘は美人ですよー。と言うか、ここ数年は『お前は将来ナーシェン殿に嫁がせるからな』と言って育ててきましたから、娘は他の男に見向きしなくなってしまいまして」

「それは貴方の教育方針に問題があるだろう」

 ナーシェンは呆れてはいたが不快ではないらしく、その苦笑は何かを面白がるようなものだった。

 リリーナはジェミーの方に向いた。目が合った。

「まぁ、ベルアー殿の気持ちもわからんでもないがな。卿の子どもは女性ばかりで、後継者となる男児がいない。となると、婿を取るか、娘を嫁がせた家から子を貰うしかないわけだ」

「たしかにそれもありますが、それ以上に私はナーシェン殿を買っているのです。ただの種馬に目に入れても痛くない娘をやるつもりはないのですよ」

「ふぅ。ベルアー殿もアルフレッド殿も、ずっとこの調子だ」

 ナーシェンは疲れたように溜息を吐く。この調子では、何人妻を娶れば良いのだろうか――と考えているのだろう、とリリーナは思った。

「この前のことだがな、カザン伯爵の領地の調査に赴いた時『熱い風呂を用意している』と格別の歓待を受けたんだ。で、風呂に入ったんだが、そこにカザン殿の娘さんが居てな。必死に逃げたよ。まったく、親子揃って何考えてるんだか……」

 ビキリ、と空気が凍った。

「寡黙なカザン殿らしいやり方ですな。参考にさせて貰いましょう」

「勘弁してくれ……」

 ベルアーが愉快そうに笑っている。

 リリーナとジェミーは目配せした。ファイアーの魔道書を取り出して背後からこっそりと歩み寄る。

「おっ、リリーナとジェミーじゃないか。どうした、もう仲良くなったのか?」

「ええ、仲良くなりましたよ。仲良くせざるを得なかったんですよ。ある一点において、ね」

「少しお話しましょうか」

「………………お二人さん。その手にある魔道書はナンデスカ?」

 二人の笑顔に不気味なものを感じたのか、ナーシェンとベルアーは背中をじっとりとした汗で濡らした。



[4586] 第5章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/18 00:05
 夢を見ていた。中二病全開の、オツムの悪い夢だ。

「敵の軍勢が突撃して来ます!」

「よし、馬防柵で十分に引きつけろ!」

 ナーシェンの叫び声に、兵士たちは冷静に命令に従い、柵の前で細長いものを構える。

「……射撃準備、1、2、3……今だ、撃てぇぇぇ――!」

 合図と同時に轟音が鳴り響き、飛来する銃弾に、次々と敵騎兵が倒されていく。

 火薬および火縄銃の開発。早合と呼ばれる銃弾と火薬を一体化させたものの開発。三段射撃などの射撃術の開発。また、馬防柵や有刺鉄線を用いた野戦陣地の開発。兵士たちには片栗粉Xを携帯させるなど、不満を解消させるための施策を行っており、指揮はみなぎっている。

 敵は銃弾に穿たれ、地に倒れる。やけにすっきりとした――むしろ、どこか悟ったような顔をした兵士たちは、戦場の虚しさ、生きる虚しさを己に問いかけながら、鉄砲を構える。異様に冷静な目をした兵士たちの射撃は正確だった。

「ふははははっ! ファンタジー世界に銃器を持ち込めば最強だな! ふはははは――!」

 戦場に、ナーシェンの歓喜が響き渡った。

「……………………という夢を見ました、ナーシェンです」

 火薬の作り方なんてわからないさ。だって、文系学生なんだもん。


    【第5章・第5話】


 目を覚ましたナーシェンが見たのは知らない天井ではなかった。しかし、同じベッドでリリーナが添い寝していたりする。このような状況、前にもあったような気がするんだけどなー、とナーシェンは額の汗を拭う。

「あ、そっか」

 そして、初めてリリーナの魔法を喰らったことを思い出した。

 この年で洒落にならない威力だった。魔道軍将セシリアが自分以上の才能があると太鼓判を押しただけはある。この調子で、ブラミモンド家の者たちを火葬して実戦経験を積めば、大陸一の魔道士になるだろう。冗談抜きで。

「ナーシェン、目を覚ましたのね?」

「ああ。リリーナは起きていたんだな」

「ナーシェンの寝顔を見てたから。カッコいいナーシェンも好きだけど、可愛いナーシェンも好きよ」

「恥ずかしいからやーめーれー」

 相手がたとえ九歳児でも、ナーシェンはこの手の台詞に弱いのだ。基本的に、褒められると逃げるタイプである。ついでに、他人からの好意――特に、無条件の信頼というものを信じていない。偽悪者でもある。

 ナーシェンが顔を真っ赤にしていると、リリーナはクスクスと笑う。

「ところで、これって初夜というものなのよ」

「ああ、そう言えばそうか……………って、ええ!?」

「どうする、ナーシェン? 貴方が求めるなら、私のことを好きにしてもいいわ。お婆から閨の作法は教わっているの」

「私に『槍男』の柴田勝家になれと言うのか!?」

 ナーシェンは絶句する。と言うか、やっぱりお姫さまってその手の教育を受けているんだな、と妙なところで感心した。

 ナーシェンも使用人のお婆さんからやり方を説明されたことがある。が、エロ大国出身のナーシェンにとっては釈迦に念仏といえたが。

「いやいや、九歳の娘にそのようなことを求めるほど、私は腐ってはいないから」

「でも、それだと……」

「心配するな。三行半を突きつけてオスティアに送り返すようなことはしない。元々、子を作るための結婚じゃないからな。成り行きでこんなことになったけど、リリーナは私が守ってやるぞ」

「守る、なの……?」

 リリーナは目尻に涙を浮かべた。不満そうな顔だ。そこまでして、抱いて貰いたいのだろうか。

 主人からの寵愛を得られなかった妻は悲惨な扱いを受けることになるが、リリーナはそのようなことを心配しているわけではないだろう。

 ナーシェンの心が他の誰かに取られないか、心配しているわけだ。

 身体で主人の心を繋ぎ止める。そのように考えているのかもしれない。

(いや、だから無理だって。九歳だぞ、九歳。ロリじゃなくてペドの領域だぞ)

 ナーシェンはノーマルなのだ。たとえ家臣たちの間で、幼女をモチーフにした艶本が出回っていても、そんなことは関係ない。ロリコン・オブ・ブラミモンド……そんな英雄の名を汚す称号を付けられたら、ゼフィール王に改易されるだろう。マジな話。

 ナーシェンがリリーナを宥めようと彼女の頭に手を置くと、リリーナは真剣な顔をする。

「なら、愛していると言って」

「………………え? えっと、いや、その、な? ……うぅ、愛してるよ、リリーナ」

「もう一度」

「………あの、リリーナさん?」

 恥ずかしがって、ボソッと呟くナーシェンに、リリーナは不満そうに頬を膨らませる。それから、躊躇いがちに求められた言葉を囁くと、リリーナは涙目になる。本心から言っているのではなく、同情で言われていると思っているらしい。

「愛してる」

「もう一度」

「愛してるよ」

「もっと!」

「愛してるぞ、リリーナ。胸が張り裂けそうなほど、愛している!」

「もう一声!」

「世界で一番君を愛している! もう、君なしでは生きていけない!」

「まだまだ!」

 誰か……助けて………。


    ―――


 リリーナの輿入れがそこそこ平和に終わった後、予想通りというべきか、オスティア家から無理難題が押し付けられた。リリーナの生活が不便だろうということで、彼女の護衛として騎士二十人を送り込もうとしたのである。

 それが正規の騎士で、ブラミモンド家にある程度の忠誠を誓ってくれるなら断わる理由はないのだが、どうせその騎士たちは工作員で固められているに決まっている。内部工作するので受け入れて下さいということだろう。わざわざ獅子身中の虫を飼うほどナーシェンは愚かではないのだが、そこのところをヘクトルはどう思っているのだろう。

「はぁ。あちらさんも謀略が苦手なら、さっさと方針転換すればいいのに……」

 諜報技術があまりにも優れているために、君主が謀略という畑に手を伸ばしてしまうのだろう。

 たしかに先代のオスティア候ウーゼルは政略や謀略に長けていた。リキア同盟の盟主として絶大な支持を受け、戦争以外の手段で他国からリキアを守ってきた手腕はかなりのものである。だが、戦が得意のヘクトルがその方針を受け継ぐのは……。

「ハッキリ言って、馬鹿ですね。ただの戦争馬鹿ならよかったのですが、兄を目標にした所為で、本来の能力が発揮できていないのでしょう」

 ジェミーが書類をまとめながら、ナーシェンの内心を察してそう答える。

「まぁ、そうだろうな。普通はなりふり構わずの軍備拡張だろうってのに」

 だから数年後にはベルンに踏み潰されるのだ。ま、そっちの方が楽なのだが。

 謀略家に謀略を仕掛けるなど、ヘクトル殿は正気とは思えんことをしてくれるな。

 ナーシェンは昨晩のこっ恥ずかしい出来事を意識の隅に追いやり、謀将らしく不敵な笑みを浮かべる。家臣たちが腫れ物を触るような対応をしてくるが気にしない。気にしたら死ぬ。主に精神的な理由で。

 ジェミーは無言で書類仕事を手伝っていた。理由は知りたくない。

 腹いせに書類に印鑑を豪快に叩き付けていると、執務室にリリーナがやってくる。

「ごきげんよう、ジェミーさん。お仕事ご苦労様」

「失礼ですが仕事中ですので、話しかけないでくれません?」

「あら、そう。じゃ、ナーシェン。街を見て回りたいんだけどご一緒してくれない?」

 ジェミーの筆がボキリと音を立てて二つになった。

「ナーシェン様も仕事中です。奥方様なら主人の仕事の妨害をしてはならないことぐらい、理解していらっしゃるのではありませんか?」

「私、あなたには話しかけてないの。それに、ナーシェンの家臣なら、主人と奥方の団欒の場を乱すのはあまり好ましくないわね」

 二人の視線が衝突し、ビリビリと電撃が走っている。

 ナーシェンはこっそり執務室から逃げ出そうとして、二人に見付かった。

「いや、その、な。二人とも、私の妻になるんだから仲良くしてくれないか?」

「……………まさか、ジェミーさん。あなたは……」

「ふっ、お考えの通りですよ」

 やけに勝ち誇った笑みを浮かべ、事情を説明するジェミーに、ナーシェンは「あ、死んだ」と思った。

「くっ、この女狐! どうやってナーシェンを誑かしたの!?」

「誑かしたなんて、言いがかりを付けないでくれます!? 私とナーシェン様は愛し合っているんですから!」

「わ、私はナーシェンに五百回も愛してるって言って貰ったわ!」

「ああ、そうですか。口では何とでも言えますからね。ナーシェン様は優しいですから、健気な九歳の貴女を“同情”してくれたんですよ」

「あのぉ。仲良く、仲良く、ね?」

 とにかく二人を宥めようとするナーシェンだったが、その行為は焼け石に水どころか、火に油を注ぐものであり……。

「ナーシェンは黙ってて」

「ナーシェン様は黙ってて下さい」

「……さーせん」

 ナーシェンは涙を流しながら背を向けた。間に合わないとわかっていても、身体が動いてしまうのだ。うん、後でリザイアの魔道書でイアン辺りからHPを吸い取っておこう。

「ジェミーちゃんエルファイアー!」

「リリーナちゃんエルファイアー!」

 と言うか、痴情のもつれで死にそうになる憑依主人公って珍しいんじゃないかな。

 薄れ行く意識の中、そんなことを考えたナーシェンであった。

 ちなみに、この騒動で執務室は全焼。数日分の政務が滞り、ナーシェンは一週間徹夜する羽目になった。さらに、ナーシェンが執筆中であった『異・恋姫†無双~ドキッ、女だらけの戦国時代~(R18)』が失われることになった。苦労して書き上げた女性版織田信長が灰になったのである。

 そんなこんなで色々あったが、リリーナ輿入れは無事に終わった。

 後世にもその名を残しているブラミモンド家の賢妻リリーナ。ナーシェンの覇道を支え続けた少女が、歴史に名乗りを上げた瞬間だった。


 第5章 完





[4586] 第6章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/09/08 21:20

 ナーシェンは作成した年表に目を通していた。

 現在の暦は995年。残された年月はあと五年。それまでに、選択しなければならない。

 ――ベルンか、世界か。

「ナーシェン様?」

 ジェミーがベッドから身を起こす。蝋燭で照らされた青年の横顔は苦悩に満ちていた。

「……幸せだ。今、私は幸せだ。だが」

 それも、あと五年で終わる。

「大丈夫ですよ」

「………そうか」

「ええ、大丈夫です」

 背中に触れる双丘、そして心臓の鼓動。ナーシェンが守るべきものだった。

 そしてジェミーの微笑み。それが、ナーシェンの心を守っていた。


「大丈夫ですよ。だって、ナーシェンさまですから!」


    ―――


エレブ新暦 時系列表

 970年 コンウォル侯爵家、取り潰される

 976年 ナーシェン誕生

 980年 烈火の剣 八神将アトス逝去

 985年 ロイ、リリーナ誕生
      同年、ベルン王国にてゼフィールが即位する

 988年 ナーシェン(十二歳)、財政改革を始める ――【第1章】

 989年 ナーシェン(十三歳)、家督相続、トラヒム派失脚、ベルン北部同盟発足 ――【第2章】

 993年 ナーシェン(十七歳)、ブラミモンド家の名籍を継ぐ
       同年、エトルリア王国宰相ロアーツの主導でベルン王国が侵略される ――【第4章】

 994年 オスティア公女リリーナ、ブラミモンド家に嫁ぐ、ジェミーが側室に入る ――【第5章】



 999年 エトルリア王国ミルディン王子、落馬事故で急逝






    ―――1000年 エレブ動乱―――





    【第6章・第1話】


 ナーシェサンドリア~オスティア経路の街道に巨漢の山賊が出没している……という住民からの苦情が出ており、ナーシェンはその調査を剣術指南役のカレルに命じた。と言うより、カレルが自ら志願してきたのだった。

 ニート侍がめずらしい、といぶかしむナーシェンだったが、カレルの思惑はすぐにわかった。要するに、公務と称した休暇を欲しがっているのだ。屋敷で剣術を教えるのも億劫なのかと呆れるしかなかった。

 剣聖カレル。傍目から見ればカレルは物欲少なく、また色に耽ることもなく、ただひたすら剣の道を追求する清廉潔白な人物である。子どもたちが独り立ちした今、多額の給金は溜まっていくばかりとのこと。

 カレルだけに枯れる、と。本人の前でそう言ったナーシェンの首の皮三寸のところを風が通り過ぎた。これを見た者は久しぶりに思い出すことになる。抜刀斎おそるべし。

「しかし、まさかこんなところで君に会うことになるとはね」

 街道を徒歩で行きながら、カレルは溜息をこぼした。

 相手はその溜息の意味に気付かぬまま、豪快に笑い出す。

「ガハハッ、たしかになぁ。わしも、まさかあのカレル殿がこのような場所にいるとは思ってもみなかったぞ。しかし、息災のようで何より。ほぅれ、娘もこのように大きくなっておる」

「わわっ! ち、父上! 何をするのです!」

 背中をドンと押し出された十歳ほどの小娘が、体勢を崩してカレルの前に飛び出す。立ち振る舞いには隙がなかったが(カレルにとっては隙だらけであった)、義弟・筋肉ダルマの馬鹿力に、ちょっぴり涙を浮かべている。

 しかし、なるほど――。

 見れば見るほど、妹に似ている。

「そう言えば、直接まみえるのは初めてだったかな。私はカレル。君の母の兄だった男だ」

 兄“だった”という部分に影があったが、鈍感男と天然娘が気付くわけがない。

 姪の少女は剣聖カレルの名に両目をキラキラと輝かせた。

「お初にお目にかかります。武人バアトルと剣姫カアラの娘、フィルと申します。よろしければ、この後、剣の手ほどきをお願いしてもよろしいでしょうか?」

「……そうだね、また今度」

「では、今晩にでも」

「いや、ちょっと急すぎないかな?」

「では、明日の晩に」

「………ああ、そうだね」

 似ている。その真っ直ぐさは、妹を思い出させる。そして頭が痛くなるのだが、妹の天然というか、空気を読まないところも受け継いでしまったらしい。

 カレルの主君曰く、カレルの妹は素直クール。会ったこともないのによくわかる――と、カレルは背筋の寒い思いをしたが、諜報網の拡大に力を入れているナーシェンにできないことではないと、無理矢理おのれを納得させたことがある。

「ところで、君たちは相変わらず武者修行の旅をしているのかな?」

「ああ、娘とともに強者を探して諸国を回っておるところでな。エトルリアはチンケな悪党ばかりだったが、尚武の国ベルンでは少なくとも退屈はせんよ」

「たしかに、退屈はしませんが。父上の無鉄砲さに何度死ぬような目にあったことか……」

 フィルは肩を落とす。年齢に似合わない哀愁が漂っていた。

 和気藹々とした旅路の途中。カレルが巨漢の山賊について心当たりはないかと尋ねると、バアトルは「わしのことかもしれんな」と冗談では済まないことを言い出した。

「――ってカレル殿ぉ!? な、何故に腰のものに手をかけておられるので!?」

「………………」

 カレルは動揺するバアトルを視線で咎め、指を唇に置いた。喋るな、ということである。

 フィルが頷いて、音を立てずに腰のものを抜刀する。

 カレルの視線は街道沿いの田園、その傍に設置された納屋に向けられていた。微かに血の臭いが漂っている。フィルは小声で「叔父上?」と尋ねた。

 カレルは気配を殺して納屋に踏み込んだ。

「………君は」

 僅かに眉を動かす。満身創痍の女性が、納屋に積まれた麦藁に寄りかかっていた。



[4586] 第6章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/28 20:49
 ナーシェサンドリアでは、ひっ捕らえられた罪人は番所の地下牢に放り込まれ、尋問などの取り調べを受けることになる。それと並行して被害者および目撃者からの事情聴取、現場の調査が行われ、それから領主ナーシェンの所に突き出されることになる。

 このような調査は手間がかかり、ナーシェンの持っている衛兵だけでは数が足りないので、ナーシェンは商人から有志で金を出させて、街の治安維持部隊を組織した。自警団に毛が生えたようなものだが、これは警察組織である。

「で、次は?」

「豪商ラッセルの娘を拉致し、身代金を強請った不届き者です。娘を拉致する際に使用人二人を殺害。娘はこいつに強姦され、心身ともに大きな傷を負っています。元々こいつはラッセルのところで奉公していた丁稚なんですが、ちょっとしたヘマをして暇を出され、それを恨んでの犯行のようですね」

「酌量の余地なし。百叩きの刑、拷問刑、一等犯罪者の焼き鏝を押して領外追放」

 ナーシェンは肘掛に手を付いて、淡々と言い放った。引き出された罪人が絶望に身を震わせる。

「おっ、お許しを! これじゃ死んでしまう!」

「なに、運が良ければ生き残るさ。お前は痩せてるから無理かもしれないけど」

 領主裁判は二週間に一度の頻度で開かれている。民衆からの直訴などの民事裁判を手っ取り早く裁いていくと、犯罪者に罰を与える刑事裁判がやって来る。裁判制度が確立していないこの世界では、弁護人は不在である。

 ちなみに百叩きの刑とは鉄の棒で背中を百回打たれる刑。きちんと歯を食い縛れば、生き残る者は生き残る。なので傭兵や騎士上がりの罪人には二百回を言い渡すこともある。

「んで、次は?」

「領内東部、ユーラ村で八歳の少女を強姦した者です。その……している最中に、村人に発見され、自警団にひっ捕らえられました。この男は村では人格者として尊敬されている鍛冶師で、愛妻家としても有名です。もっとも、もうその村で仕事はできないでしょうが」

「処刑……と言いたいところだが、拷問刑。あと、三等犯罪者の焼き鏝を押しておけ」

「かしこまりました」

 拷問刑とは……敵兵を拷問することに生き甲斐を見出してしまった兵士が、魔槍ゲイボルグ(木の棒)で罪人のケツをいたぶる刑である。ナーシェンは女性を強姦した者すべてに、この刑を課すことにしている。犯される思いを味わってみやがれ、ということだ。

 そして、領外追放とは、もう二度と領内に入ってくるなという刑である。両手の甲と肩あたりに、犯罪者としての証明書――『焼き鏝』を押されることになる。これを破って領内に戻ってきたら、今度こそ処刑されることになる。

 ナーシェンは溜息を吐いた。

「で、次は?」

「傭兵仲間と分け前をもめ合い、ついに仲間を殺してしまった者です。殺してしまう気はなかったそうです。被疑者は犯行前に酒を飲んでおり、正気を失っていたと考えられます」

「二百叩き、二等犯罪者の焼き鏝、領外追放」

「御意。ほら、さっさと刑台に乗れ!」

 刑罰は、すべてナーシェンの主観によって施行される。人を裁くという重みに、当初は押し潰されそうになったほどだ。部下にすべて丸投げする領主もいるようだが、ナーシェンはこの仕事を他人に押し付ける気にはなれなかった。

 裁判は、まだ終わりそうにない。


    【第6章・第2話】


 フィルが納屋に入ると、カレルが怪我をした女性の手当をしていた。緑色の髪を肩先あたりまで伸ばした女性である。……巨乳だった。

「父上、この方は?」

「昔の知り合いだ。フィル、彼女はカレル殿に任せよう。周囲の警戒を怠らんようにな。彼女に手傷を負わせた者が、どこぞに隠れているかもしれん」

「はい」

 バアトルはすでに弓の弦を張っていた。背負った矢筒から矢を取ると、それを口に咥えて片手で斧を握る。鋼の斧を片手で振り回せる者は、大陸を探しても数人も見付からないだろう。フィルの父親は脳足りんの筋肉馬鹿だが、腕っ節だけは一流だった。

 そして、そんな父親と武者修行の旅をしているフィルも、並の腕ではない。

「来るぞ」

 だが、フィルは敵の気配に気付けなかった。

 カレルが声をかける、その瞬間。

「―――!」

 納屋の壁を破って侵入してきた刺客が、フィルに斬りかかる。集団の中から弱い者を選んで襲いかかる。定石である。

 バアトルは斧で刺客の剣を受け止めると、斧から手を離した。咥えた矢を弓に番えると、刺客の腹に鏃を向ける。ドカン、と音がして刺客が壁を突き破って外に飛ばされた。

 バアトルはその刺客から目を離すと、腰から手斧を抜きながら背後に振り返り、おもむろに放り投げる。手斧の刃が二人目の刺客の額にめり込んだ。

「フィル、お前にはこやつらの相手はまだ早いのかもしれんなぁ」

 フィルは悔しさに唇を噛んだ。

 しかし事実だ。これほどのアサシン、今まで見たことがない。

「そうだな。ここは私が押えよう。君たちはこの女性を連れて、ここの領主館を頼ってくれ」

「ひとりで平気か……と、余計なお世話だったか。フィル、行くぞ」

 バアトルが女性を背負う。

 フィルは一度も剣を振ることなく、その場を後にした。


    ―――


 バアトルは逃げ込んだ村で馬を調達した。軍事用に訓練を受けていない駄馬だ。領主館までの距離はそう大したものではないが、それでも途中で潰れないか心配になるほど痩せ細った馬である。……徒歩よりはマシか。

 自分たちの足では、領主館に到達するまでに刺客たちに追いつかれる。それだけは確かだ。

「また後で会おうぞ、フィル!」

「……はぁ。父上こそ、ご武運を」

 フィルは父親が背負っているものを見て溜息を吐いた。

 ――藁人形である。女性の着ていた服を被せた藁人形だった。

 こんなもので騙される刺客なんて、刺客失格だと思う(刺客なので失格。つまらない洒落だ)。だからと言って、これと決めたら猪突猛進する父に何を言っても無駄だということは、その娘のフィルが一番理解していた。

 フィルは馬にまたがり、女性を背に寄りかからせると、おのれの身体に縄をまわして彼女を縛り付けた。12歳の少女、フィルの体格では女性を背負えないのだ。これでは剣を振り回せないので、刺客がバアトルの策にかからなければ女性を見捨てることになるのだが……。

「ブラミモンド領の領主、信用できるのだろうか……」

 フィルは首を捻りながら馬を走らせる。

 ――さて、アサシンたちは騙されてくれるのか。

「騙されてくれないだろうな……」

 ……結果を言うと、知能の低い数体だけ騙された。が、追手はカレルからバアトルに標的を変える程度の知能のあるモルフである。

 半分以上がフィルに向かったが、バアトルは気配のしないモルフに気付かず、すべての刺客を退治したと思ってしまった。

 そんなことは関係なく、モルフはフィルたちに襲いかかった。



[4586] 第6章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/17 23:21
 カレルは刃毀れした剣を鞘に収めた。周囲には二十人分の死体が転がっている。

 いや、これは“死体”と言えるのだろうか。

 エーギルという生命エネルギーを原料に作られた、金の瞳を持つ人形。

「……モルフか」

 命令に従うだけの存在。カレルはボロボロと崩れ去り、砂になったモルフから目を背ける。

「ただの黒い牙の残党というだけではなさそうだ」

 カレルが斬ったのは、バアトルを追いかけるだけの知能を持たないレベルの低いモルフである。知能のあるモルフたちは、カレルに敵わないと見ると気配を消して逃げていった。人形なだけあって気配を殺すのが上手い。剣聖カレルといえども追跡するのは困難だった。

 まぁ、バアトルたちのところに向かったのはわかりきっていたが。


    【第6章・第3話】


 ジードが飛竜プリンタルトの面倒を見ていた時だった。

「あっ、ブラッドさん。他の人が見てますから……」

「いいじゃないか。いくらでも見せ付けてやれば」

 豪槍のブラッド――。

 ナーシェンがエトルリアから寝返らせた騎士である。剣の腕は凡庸だが、槍の技量は並々ならぬものがあり、イアンと五十合も斬り結んだほどである。イアンが彼に勝てたのはひとえに武器の質の差といえた。

 あれでイアンは烈風という二つ名を持っている、ブラミモンド家では最強のソシアルナイトなのである。そんなイアンと互角に斬り結んだブラッドは、二番目に優秀なソシアルナイトといえた。

「ふふっ、恥ずかしがるなよ。身体は正直だぜ」

「あぁっ、ブラッドさん!」

 竜騎士たちは黙って逃げ出した。

 言葉だけ聞けば、嫉妬に狂いそうなものである。竜騎士たちにとって、女性と仲良くしているような輩は怨敵として誅されるべき存在なのだ。特に、最近女二人をはべらせてだらしない顔をしている主君は絶対悪なのである。

 そんな竜騎士たちが逃げ出すほどの光景。

「可愛いやつめ。ほら、こっちに来い。もっと可愛がってやる」

 ブラッドは“男の”騎士の肩を抱いて、馬厩の裏に引っ張り込んだ。

「―――ッ!」

 全身に鳥肌が立った。物陰から聞こえる男のすすり泣きのような甘い悲鳴に、竜騎士たちは揃って顔を背けている。

「聞こえない……聞こえない………」

「俺は何も見なかった。そう、何も見なかったんだ……」

「シューパフェ、俺の友達はお前だけだよ……」

 彼らは普段より熱心に訓練に打ち込んだ。ぶっちゃけ逃避だった。

 そして数刻後。

 飛行訓練と称して領内の空に逃げ出した騎士たちの瞳が彼女たちを捉えた。

「幼女と巨乳だ!」

 偵察などを任務とする竜騎士は、無駄に目がよかった。


    ―――


 飛竜とは、個人の“武”を越えた“戦術兵器”である。

 急降下による加速と、飛竜の質量を目標に叩き付ける攻撃は、城壁さえぶち壊してしまう。

 質量とは圧倒的な武器である。たとえば、中世から近代までの騎兵の主力武器ランス。この槍の重さは3~5kg。人と馬の体重500kgにランスの重量を上乗せした突撃である。これは鉄の鎧など、まるで意味を為さない攻撃だったのだ。

 飛竜の体重は1トンを越える。そこに上空40メートルからの加速が乗る。

 フィルたちに襲い掛かっていた刺客は肉塊と化した。

 竜騎士の育成は、通常の騎士の十人分の金がかかっていると聞いたことがある。飛竜の価値は名馬二十頭の価値があると聞いたことがある。そして、飛竜の食料で、どれだけの民が飢えを凌げるのか。

 ドラゴンナイトは、それだけの金をつぎ込んでも惜しくない価値があるのだ。

「女の敵すなわち人類の敵、覚悟しろ!」

「……って、幼女じゃねーじゃん。少女じゃん。でも可愛いから許す!」

「殲滅! 殲滅! おっぱい! おっぱい!」

「くっ、なんてけしからん乳だ! 戦いに集中できん!」

 ドラゴンナイト軍団は急降下と同時に槍で刺客を薙ぎ払い、討ち洩らした敵を手槍で止めを刺していく。フィルはその圧力に震えればいいのか、それとも彼らの言葉に呆れればいいのかよくわからなくなった。

「……彼らの言葉は聞き逃してくれないか」

 そして、あらかたの敵が殲滅されると、ひとりのキザっぽい顔に疲れをにじませた青年竜騎士がフィルに声をかけた。青年の後ろから「あっ、抜け駆けしやがって!」とか「くそっ、顔なのか! やっぱり顔なのか!」と怨嗟の声がしていた。

「あなたは?」

「俺はブラミモンド家の竜騎士ジードだ」

 それが、妹に振り回されてきた青年と、父に振り回されてきた少女の出会いだった。



[4586] 第6章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/17 23:18
 顔の右半分をターバンで覆った不気味な男。災いを招く男、ネルガル。

 数百年前に大賢者アトスと共に理想郷を発見し、竜の知識から『エーギル』という生命エネルギーを操る術を得ると、再三のアトスの忠告を無視してエーギルの研究に没頭する。最終的にアトスと神竜によって瀕死の重傷を負わされ、理想郷を去った。

 そんな男が彼女を殺さなかったのは、ただの気紛れだった。

『ソーニャ、この娘、魔道の素質があるようだ。育ててみろ』

 ネルガルは孤児の少女を拾い、ソーニャに押し付けたのである。

 その後、少女はネルガルの部下ソーニャの連れ子として黒い牙に入った。

 義賊集団、黒い牙。そこで少女は白狼ロイド・リーダス、狂犬ライナス・リーダス兄弟、首領ブレンダンの側近ヤン、疾風ラガルトたちと親交を結ぶ。

 だが、黒い牙は少女の母親が首領ブレンダンの妻となった頃から殺戮集団に変貌。

 ネルガルの野望の駒と化し、大半の構成員が命を落とした。

 少女を可愛がったリーダス兄弟も――。

『泣くな、ニノ。おまえは前を向いて生きろ。俺を倒して、前に進むんだ』

 ロイドは死した弟ライナスの仇を討つためエリウッドたちと対峙する。しかし、ロイドの顔は復讐に凝り固まったものではなかった。かつてのように、優しく微笑んでいた。泣きじゃくる少女に言葉をかけて、この世を去った。

 そして、ネルガルの野望が露に消え、膨大な屍を築き上げた事件の幕が下りると、少女は自分を殺せなかった暗殺者と旅に出る。だが、黒い牙の残党には賞金がかけられた。彼女たちには常に追手が付きまとった。


    【第6章・第4話】


 ……気に入らないな。

 ナーシェンはベッドで寝息を立てているニノを見て、疲れた溜息を吐き出した。

 烈火時代の主人公たちのやり方が、どうも肌に馴染まないのである。

 ――頑張ってベルンを倒してくれ、息子よ。私は病気だから無理っす。というエリウッド。十五歳の息子にすべてを任せて引きこもり。多分、ロイが負けたら『息子が勝手にベルンに刃向かったんですよ』と言って家を残す腹なのだろう。

 ――お爺様が死んじゃった。屋敷の居心地は悪いし、草原に帰ろっと。というリン。残される民のことなんて、どうでもいいんですね、わかります。って、貴族なら最低限の責務ぐらい全うしやがれと。

 ――兄上の志を継いで頑張るぜー、お、キアラン領に領主がいないじゃん、吸収だぜ。というヘクトル。友人なら故郷に戻ろうとするリンを引きとめろと言うに。こんなことをやって、リキアの諸侯がどう思うのかわかっているのだろうか。不安に思うだろうが。

 そして、エリウッドやヘクトルの権力なら、ニノとジャファルぐらい保護できただろうに。

「まぁ、今はそんなことは関係ないか」

 山賊退治に向かったカレルがバアトルとフィルに出合ったことも驚きだったが、それより先にジードが女性を連れて戻って来たことが一番の驚きだった。

 ナーシェンはすぐに近くの教会に竜騎士を飛ばして、神官を拉致させた。ライブの杖は屋敷に常備しているが、それを使うことのできる者がいないのだ。神官は最初は不機嫌だったが、金貨の袋を渡されると、顔をほくほくさせて杖を振っていた。ナーシェンは呆れ果てた。神様とやらは神の信者ではなく金の亡者に救いの力を貸してやるらしい。

 しかし、モルフだと……?

 たしか、ニノとジャファルは黒い牙の残党にかけられた賞金を狙う、いわゆる賞金稼ぎに追われていたはずだ。ニノとジャファルの支援をAにしていなければ、エンディングの後日談でニノが『エリウッドの“好意”で領内の村に住ませて貰った』と表示されるのだが。

「カレルが嘘を言っているとは思えん。……きな臭いな」

 ナーシェンが顎に手を置いて思案していると、屋敷の庭から雷光のような大声が轟いた。

「秘剣オトリヨセー! アーッ!」

「何なんですか、その出鱈目な剣術は!」

 ナーシェンは溜息を吐いた。

「何をやってるんだ、あの馬鹿共は……」

 その馬鹿の筆頭が言うべき言葉ではないのだが。


    ―――


 屋敷に到着したフィルは、まずカレルの住居に向かった。使用人たちから道順を聞きながら屋敷を目指すと、そこに道場があった。中から気合の入った声が聞こえてくる。それは気声というよりも奇声。そんな感じの声だった。

「ヒッテンミツルギスタイル! コガラシー!」「ゆうべのロース、売れんかいな!」「ノーパンスタイリスト、ファーッ!」「ガトチュ・エロスタイル!」「強○パウダー!」「あと二歩でセッ○ス!」「オニワバンシキコダチー! 回転剣舞、ろっくっれ~ん!」

 そこは、異界だった。

「何なんですか、その出鱈目な剣術は!」

 咄嗟にそう叫んでしまったとしても、フィルに非はないだろう。

 キワミの剣士たちが少女に振り向いた。その目が獲物を見つけた猟犬のようにギラリと輝いた。

「ちょっと待て!」「彼女は俺たちが先に目を付けていたんだぜ!」
「横取りなんて卑怯な真似、やらねえよな?」
「さあ、フィル殿。こんな変態どもの巣窟からは離れるに限ります」

 フィルの背後をストーカーのように尾行していた竜騎士たちが、女性を守る騎士道精神から……もとい光源氏よろしく煩悩まみれの思惑を持って立ちはだかったのである。

 ちなみに、竜騎士には出会いがない。大抵の騎士は政略結婚で結ばれるのだが、そのお膳立ては親がやってくれるのである。騎士の家同士の婚姻である。

 だが、ブラミモンド家の竜騎士の若者は孤児上がりの者が多かった。

 そして、騎士の親は、庶民上がりの者に娘をやりたくないと考える。

 要領のいい者は貴族の娘を口説き落としたり、さっさと庶民の娘と結婚したりするのだが、飛竜の世話のために毎朝早くに起きて、訓練の疲れで日が暮れるとベッドにダイブする生活を送っている竜騎士に女を口説く余裕はない。一般の騎士たちが夜の街に遊びに行くのを、臍を噛んで見守るしかないのである。

 そんな竜騎士たちの目は、思いっきり血走っていた。

「あ、いや……その……すいません!」

 フィルはくるりと反転して、竜騎士たちから逃げ出した。

「あっ、どこに行くんだ!」
「はははっ、逃げられてやんの」

「おのれ、貴様らの所為だぞ!」
「知るかよ、貴様らは飛竜と○ァックしていればいいんだ」

「くっ、しかし貴様らの言葉に付き合っている暇はない。追うぞ!」
「待て! 見たところ彼女は剣士のようだ」

「あの少女は俺たちと剣の“修行”をするために此処にやってきたのだ!」
「そんな妄言、聞く耳は持たん!」

 獲物が逃げ出したことを覚えている者は、この中にはいない。


    ―――


 ジードは槍を構えた。仲間の竜騎士が投げた手槍を、刺客のひとりは回避して、そのまま斬りかかった。横合いからジードが槍を払って、腰からナーシェンから授かった『光の剣』を抜いて手傷を負わせ、集団で囲んでようやく仕留められたのである。

 ……強かった。

 しかし、上空からの奇襲で潰れた刺客に、もっと強い者がいたかもしれない。もしかしたら、自分たちが全滅していた恐れもある。

 アサシンとはそのようなものだ。油断していると、一撃で死ぬ。

 ジードは愚直に槍を突き出し、振り下ろし、払う。全身に汗がにじむ。息が上がり始める。それでも、ひたすら同じ動作を繰り返す。身体に染み付いても、その動作をさらに磨き上げる。

「はぁ、はぁ……怖ろしい目にあった……」

「おや、君は……?」

 そんなジードの集中を乱すかのように、視界に乱入したのは、先刻この屋敷に連れてきた少女だった。

 サカの民らしいが、サカ地方の衣服(ナーシェンに言わせると、着物とチャイナドレスを混ぜたよくわからない服)を着ていない。それでも、顔付きでサカの民だとわかる。

「ジード殿ですか。先ほどは助かりました」

「何のことだ?」

「ああ、これではわかりませんね。追手を倒してくれて感謝します、ということです」

 ジードは「ああ……」と納得した。ジードにとっては自分のできる範囲、かつ手の届く範囲だったから手助けしただけなので、感謝される言われはない――というつもりだった。

「騎士とは主君に尽くすものだ」

「……………?」

 唐突に話を振られたフィルは若干の戸惑いに首を傾げている。

「そして、騎士とは民に尽くすものだ」

「……それは」

 ほとんどの者が理解していない騎士のあり方だった。

「俺たちは民の労働を搾り取っている。言い換えるなら、命を搾り取っていると言えるだろうな。だから、俺たちは民に尽くすんだ。せめて、搾り取った分は返せるように。もっとも、これは我が主君の受け売りだがな」

 要するに、気恥ずかしかったのである。

 ジードは面と向かって感謝されたことがなかったため、ぶっきら棒に「礼はいらん」と言っているのだった。

「領内の民の生活を脅かす輩は、俺たちブラミモンドの騎士たちが退治する。君たちを追っていた物騒な輩を退治するのも、俺たちの仕事だ。だから、気にするな」

 竜騎士の明るいノリに付いて行けず、斜に構えて皮肉な笑みを浮かべているようなひねくれ者。それが竜騎士ジードだった。

 そんなひねくれ者に、フィルは花のような笑みを向けた。

「それは、すばらしい考えですね!」

「ああ、いや……」

 素直に感動している少女に、ジードは赤面するしかなかった。



[4586] 第6章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/17 23:23
 十数年前のこと。

 魔の島のとある遺跡の入口で野兎が駆けていた。遊びまわっている子兎を探しているところで、その兎が野生の勘で危機を感じたのは、とある遺跡の前にたどり着いた時のこと。

 慌てて身を翻した瞬間、その兎は水分を奪われたかのように干からびてしまう。それは急速に老いたための死であった。

 子兎の死骸が、転がっていた。

 それだけではない。

 鳥や犬、猛獣の類まで、人以外の野生動物の死体が転がり、白骨化していた。

「足りない……」

 「 」は野生の動物から奪ったエーギルで、十数年の歳月をかけて生き返った。意思を持たない生き物から得られるエーギルは、人間から得られるものの百分の一に満たない。気の長くなるような時間。しかし、「 」は諦めなかった。諦めるということを知らなかった。

 それは、人形なのだから。

「ネルガル様……」

 さらに二年後、「 」は十分に活動するためのエーギルを手に入れ、主君のために動き出すことになる。


    【第6章・第5話】


 クラリーネは食卓に付くと、ナイフとフォークを手に取った。彼女は貴族として当然の礼儀作法を叩き込まれている。対面のクレインも同様である。

 ナーシェンなどは「サンドイッチ伯爵に栄光あれ!」と執務室でハムと野菜を挟んだパンを齧っているそうだが、クレインはその話を聞いて顔をしかめていた。クラリーネはその話を伝え聞いてクスリと微笑んでしまったものだが、クレインから見ればそのような食事は野蛮なものにしか思えないらしい。

 かつてパントに気に入られてリグレ家に迎えられていたデュークという剣闘士上がりが、クレインを場末の酒場のようなかび臭いところに連れまわしていたので、クレインはそれほど食事に頓着していないはずだ。

 ずばり、その料理がナーシェンの作った物だから、下劣なものに見えるのだろう。

「クラリーネ、お前、どこぞに嫁に行くつもりはないか?」

 突然、兄がそんなことを言い出して、クラリーネは溜息を吐くことになる。

 よくあることだった。

「はぁ。お兄様、今度はどこの貴族です?」

「カント侯爵がお前を見初めたらしくてな」

 クラリーネはまだ十一歳の少女だったが、容姿は非凡なるもので、幾人もの貴族が彼女を嫁にと願い出ていた。貴族社会はロリコンだらけなのである。と言うより、全体的に変態が多いだけで、ロリコンはその一部なだけなのだが。

「カント卿ですか。あの人は家臣の娘を何人も泣かせているそうですわよ」

「……初耳だ」

「女性の情報力を舐めないで欲しいですわ。それに、私はお兄様がしかるべき女性を迎えるまでは、家を出て行くつもりはありません」

 クレインがまだ嫁を迎え入れるつもりがないことを見越しての発言だった。

 クレインが嫁を入れるのを邪魔しているのは、クレイン自身の潔癖さであった。無駄に高性能な頭脳を持っているため、大抵の貴族の女性を見ると玉の輿を狙っている思惑が透けて見えてしまうのである。クレインがある程度は割り切らなければ、リグレ家に嫁を迎え入れることは叶わないだろう。

「ところでお兄様、本日のご予定は?」

 クラリーネは縁談から話を逸らすため、違う話題を振ることにした。

「早朝は練兵場に顔を出す。昼からはイリア地方の傭兵を引き抜くために出向くつもりだ。専属契約という体裁を取らせて貰うが、実質はリグレ家の兵士として迎え入れることになる」

 パンを千切っていたクラリーネの動きが止まる。

「どう言うことですの? この家に、そのような余裕はないはずです」

「無駄飯食らいになっている老騎士たちに暇を出した。なに、息子が大きくなれば取り立ててやると誓約書を渡している。問題はないな」

「大有りですわ!」

 クラリーネはテーブルに両手を叩き付けた。クレインは煩わしそうに手を振る。

「わかっている。追い出された老臣や、その息子、周囲の同僚たちまでリグレ家から心が離れていくのは理解している。だが……」

 最近のエトルリア宰相ロアーツの増長っぷりは、目に余るものがあった。三軍将が窓際に追い詰められ、ダグラスはミルディンの養育係から外されそうになり、パーシバルは将軍位を剥奪されそうになったほどだ。ダグラスとパーシバルが無事なのは、モルドレッドが庇っているからだった。

 だが、そのモルドレッドでもセシリアまでは庇い切れなかった。現在セシリアはオスティアの駐在武官に飛ばされている。リキア諸侯の子弟たちがセシリアの教えを乞うているため、それに答えたと言うことになっているが、要は体のいい厄介払いだった。

 無駄な出兵を行って民を疲弊させた。モルドレッドは民衆からそう思われている。将軍になったばかりで実績の少ないセシリアまでは庇えなかったのである。

「戦が行われる……。民衆からは雑税が徴収される……。そのすべてが国王の責任だ……! 国王が戦を行わなければ……。ロアーツの奴らは巧みに大衆の意見を操っている……。腐敗した政治……。破滅への秒読み……! エトルリアは亡国の階段に片足をかけている……! 退路なんか、もうないんだっ……!」

 クレインの言葉に、給仕たちが「ざわ……ざわ……」と騒ぎ出した。

 と言うか、その鬱陶しい喋り方はどうにかならないだろか。

 クラリーネは頭を抱えた。

「増員人数は?」

「倍プッシュだ――じゃなくて、およそ300人」

「はぁ、もういいですわ」

 クレインが何を考えているのか大体わかった。

 ナーシェンに対抗しているのである。ブラミモンド家の現在の兵力は800。だが、国力から計算すれば1000人持っていてもまだ余裕があるそうだ。リグレ家の兵力は500。どこからどう見てもナーシェンを意識しているとしか思えない。

 最近の兄はずっとこんな調子だった。親友に大敗して以来、誠式訓練が『ナーシェン死ね!』に取って代わったり、大勢の配下の騎士を引き連れて喫茶ナーシェンに乗り込み、コーヒー一杯で半日も居座ったり(もちろん出入り禁止を喰らうことになった)、一度は手紙に剃刀の刃を仕込んだこともある(配達を頼まれた商人が怪我をしたため発覚した)。

 クレインの頭は、どうにもナーシェンが絡まるとへっぽこになるらしい。

「ところで、このスープは上手いな。このコクは何なんだ?」

「最近ナーシェサンドリアで流通しているバターというものを使ったスープらしいですわ。ルブラン卿の奥方が絶賛していたから、どんなものかと思ってナーシェンに尋ねてみましたの。そしたら、ナーシェンの領地で作っているものらしくて、大量に送ってくれたのですわ」

「……………いや、違った。不味い、不味いぞこのスープは」

「棒読みですわよ、お兄様」

「ええいっ、こなくそっ! かくなる上は、ブラミモンド産よりも品質のいいバターを作ってナーシェンを困らせてやる!」

「……………はぁ」

 クラリーネが頭痛のする頭に手を置いた時、使用人がそっと手紙を差し出した。「ブラミモンド公爵からです」と一声かけられる。クラリーネは「ありがとう」と、頬を緩ませながら手紙を受け取った。

 当然自分の分もあるだろうと憮然としていたクレインは、使用人が去っていくのを見て唖然とする。

「え、これだけ? 私のは?」

「い、いえ……他にはご隠居夫妻のものや御用商人のものだけですが……」

「お兄様、最近ナーシェンから手紙が来ても返事を書いてなかったでしょう」

「くっ……いらない……別にナーシェンからの手紙なんて……いらないっ!」

 結局クレインはスープを三回おかわりした。


    ―――


 数刻後、リグレ家の領内で干からびた死体が発見された。捜査隊を編成して幾つかの村から不審者の目撃情報を得ている途中、クレインを仰天させる報告が入って来た。

 ひとつの村が、魔界と化していたのである。大量の屍がうち捨てられ、死肉をついばむカラスすら枯れ果てているという、この世の地獄としか思えない風景であった。

 調べてみると、周辺の諸侯の領地でも同じような事件が起きていることがわかった。

 クレインは隠居していたパントに相談することにした。人を干からびさせる魔法があるのか、元魔道軍将の父なら知っているかもしれないと思ったのである。

 パントは何も言わなかった。

 翌朝、隠居していたパントが書き置きを残して屋敷を抜け出している。パントの妻ルイーズはただ苦笑するだけだった。



[4586] 第6章第6話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 14:58
 最初は、多少は剣術の心得がある小娘。

 そんな印象は、木刀を構えて対峙した瞬間に消え失せた。

「ガトチュ・セッケンスタイル!」とふざけていた剣士は、剣を静かに斜に置き、湖面のような落ち着いた顔をする。それまでのお遊びのような雰囲気は一変していた。

 彼はカレルの弟子の中でも五指に入っており、自らの実力に奢ることなく剣の腕を磨き続けていた。三年前にナーシェンから剣術修行の許可を貰うと、オスティアの闘技場で二十人斬りを果たしている。その場でエトルリア貴族に仕官を要請されたが、彼はそれを蹴ってカレルのところに戻って来ていた。

「ふっ、流石は師範の姪御。血は争えぬと言うことか」

「……先ほどの剣はお遊びだったというのですか」

「奇剣に剣理は付いて来ない。あれが俺の実力と思われては困る」

 木刀が振り下ろされる。

 フィルは身体を右に逸らすと、相手の首元に剣を忍び込ませた。なのに、カンと甲高い木を叩いた音がして木刀が吹き飛ばされ、気付けば己の喉元に木刀が突きつけられていた。

「そこまで。フィル、君の剣は正直すぎる。虚を覚えることだ」

 フィルはカレルの言葉にうな垂れる。

 彼は余力を保ったまま剣を振り下ろし、フィルの攻撃を誘ってから剣を振り上げ、相手の隙を作ったのだった。これまで山賊などしか相手にしていなかったフィルにとって、騙し合いの剣術とは知識にないものだった。


    【第6章・第6話】


 ニノが屋敷に担ぎ込まれてから三日後、ライブの杖のためか、侍女の介護のためか、薬のためか、とにもかくにもニノが意識を取り戻した。ナーシェンは初対面の自分が向かっては向こうも心細かろうということでカレルを向かわせたのだが――。

「ひぃぇっ!」

 思いっきり怖がられてしまったらしい。剣魔時代のカレルを知る者なら当然の反応なのだが、と言うか、あんたの旦那さんも同じ穴のムジナじゃねえかと問い詰めたくなる。

 ナーシェンは練兵所で兵士たちを虐めていたバアトルを引っ張って、ニノの客間に向かった。

 客間の扉に張り付いて部屋の中の様子を窺っていた竜騎士どもに闇魔法を食らわせ、ゴミのように蹴飛ばしながら部屋に入ると、ガクガクブルブルと震えている巨乳若妻の姿が。

「な、なんなの! こんなところに閉じ込めて、あたしをどうするつもり!」

「なぁ、バアトル殿。何でこんなに脅えてるんだ?」

「そうだな。あれはたしか十四年前のことだったか。カレル殿がその娘の傍にいたジャファル殿に、出会い頭に『抜け。さもなくば、この娘を斬る』と声をかけたのだ。そして、二人は殺し合いを始めたのだが、それを止めたのはたしかリン殿だったか。以後もカレル殿とジャファル殿が争う度にそこの娘が泣いておったな」

「………おっけー、把握した」

 頭が割れそうだった。

 ナーシェンはコホンと咳払いすると、意を決して声をかけた。

「あー、私はブラミモンド公爵ナーシェンだ。貴殿はわが領内の街道で行き倒れていたところを、このおっさん……ゴホン、バアトル殿が助けたということになる。カレルは俺の手下だが、もう人斬り稼業は辞めているらしいから安心してくれ。と言っても心は休まらんか」

「あなたが……ナーシェ……えっと、ナーシェン様なの?」

 慌てて「様」付けしたのがおかしくて、ナーシェンは苦笑した。ナーシェンは自分の呼び方などに興味はないので、正直なところどうでもよかったのだが、家臣たちの前で親しげに名を呼んでしまうと手打ちにされる恐れもあるので何も言わなかった。

「ナーシェンさんって……あ、ごめんなさい。ナーシェン様って、ルゥとレイのいる孤児院に援助してくれているんだよね?」

「はぁ。たしかに当家はルセア殿の孤児院を援助している。他にも、大陸の十二の孤児院に食料を送っているがな。それと、今は無理して敬称を付けなくても構わない。無論、人前では我慢して貰うことになるが」

「あ、ごめんなさい。気をつけるから……」

「………はぁ」

 ナーシェンは驚いた。『烈火の剣』は十四年ほど前になる。ニノが当時十歳前後とすると、もう二十代半ばになるはずだ。だが、彼女の性格は当時のものと何ら変わりはない。

「卑屈になるな。今まで君にこう言った者は?」

 ニノは戸惑いながら首を横に振った。

 それはつまり、恵まれた境遇がほとんどなかったということだ。

 ナーシェンは販路拡大時代(五年前)に各国の商会に掛け合って、ニノとジャファルの手配書を取り消して貰っている。それでも、黒い牙に恨みを持つ者は多く、裏の世界では未だに賞金がかけられていた。

 ナーシェンは裏側の世界まで影響力を持っていない。

 そんな己への怒りがあった。

「後ろを見るな、過去を見るな、前を見ろ、未来を見ろ。そして、進め」

「………え?」

「いや、何でもない」

 ナーシェンは首を横に振った。自分ごときの言葉で、彼女の性格が矯正されるなら、とっくの昔にどうにかなっている。リーダス兄弟ならともかく、自分の言葉は“軽い”。ま、その辺りのことは旦那さんに任せることにしよう。

 と言うわけで、さっさと出てきやがれジャファルの野郎。

「ナーシェン様、ご報告に参りました! ――あ、お邪魔でしたね。失礼しまーす!」

「……っておい、何で逃げるんだよ!」

「はははっ、そんなこと、俺の口からではとても言えませんよ。しかしナーシェン様の守備範囲の広さには驚かされますよ。幼女から人妻まで、もう何でもありですね♪」

 ナーシェンは舌打ちした。そのようなことを、屋敷の中で大声で触れ回られたら、ジェミーやリリーナたちにどのような目で見られるのか。ぶるりと身を震わせると、ナーシェンは逃げた兵士を追い駆け始めた。


    ―――


「はぁ……」

 フィルは屋敷の庭で溜息を吐いた。

 あれから何人かと手合わせしたのだが、いずれもまったく歯が立たなかった。ここは魔人の巣窟かと叫びたくなったほどだ。これでもフィルは山賊十人に囲まれて、切り抜けたことがある。だが、カレル道場ではそのような自負など、過信にしかならない。フィルの心は、いとも容易く折られてしまった。

 カレルは高レベルの剣を見せて、フィルの慢心を崩すつもりだったのだろう。

 フィルも、それはわかっていたため泣き言はこぼさない。

「おや、フィル殿は残られるのか?」

 現れたジードは、まるでこれから戦にでも行くというような格好をしていた。全身を守る鎧、竜騎士用の長大な鋼の槍、背中に鉄の大剣を背負い、腰には光の剣を帯びている。出合った時より物々しい姿である。

「どうなさったのです、ジード殿」

「リキアとの国境際に山賊団が追いやられているらしくてな。領内の村を荒らされては堪らんので、国境を越えたところで殲滅することにしたようだ。俺は偵察から戻って来たばかりだが、また出陣ということになる」

「はぁ、大変ですね」

 ジードは「それほどでもない」と笑みを浮かべたが、そのどこか引きつった笑みに共感を覚えてしまうのはどういうことだろう。フィルは「はは…」と乾いた笑みしか出てこなかった。

「先ほどから、何か思い悩んでいるようだな」

「ええ。私は子どもの頃から剣に触れてきました。それで多少は剣について理解したつもりになっていたのですが、どうやら私は大海を知らない蛙だったみたいです。彼らの剣理は私の理解の及ばないところにありました」

 何時の間にか、言葉が出ていた。

「……俺は剣についてはわからないが」

 ジードは突然話を振られて、目を丸くしていたが、やがてその目に理解の色が広がっていった。

「俺が始めて飛竜に乗ったのは十五の頃だった。それまでは剣や槍、あとは苦手だったが学問もやったな。十五になって、ようやく自分の飛竜を与えられた。感激したよ。ようやく竜騎士として訓練を積んでいた自分の努力が実るんだ。ようやく俺を養ってくれた人に、借りを返せるんだ。充実感で一杯になった」

 ジードは屋敷の中から聞こえてくる声を気にしながら話していた。時間が押しているのだろう。フィルはそれを申し訳なく思ったが、ジードの話に引きこまれているおのれを自覚していた。

「それでな、与えられた飛竜のところに向かったんだ。ところがだ……」

「………?」

「飛竜に睨まれてな、怖ろしくて動けなくなったんだよ。背中に乗ろうとすると暴れてな。飛竜は気高い生き物だ。調教されて、誰でも背中に乗せる飛竜は大人しくて戦場では役に立たないからな。ま、俺に与えられた飛竜の気性も荒々しかったというわけだ」

 飛竜が空を待っていた。ジードが手を振って「おお、迎えに来てくれたのか!」と叫んでいる。

「今ではこうしていっぱしの竜騎士をやってるが、昔はそんなもんだ。飛竜に踏み潰されそうになって、蹴飛ばされて、噛み付かれそうになって、諦めそうになって。でもな、普段は馬鹿ばかりやってる先輩が励ましに来てくれるんだよなぁ」

「……ジード殿」

「さて、そろそろ俺は行くぜ」

 飛竜が庭に舞い降りる。ジードは一息で飛竜の背に跨った。飛竜が満足そうに目を細めている。フィルは竜騎士と飛竜の信頼関係が見えたような気がした。

「ジード殿!」

「おう!」

「気落ちしていた私を励ましてくれて、感謝します!」

 フィルはこれから壁にぶつかっても、越えていけるだろう。そう思った。



[4586] 第6章第7話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/17 23:58
 理解できなかった。意味不明にもほどがある。ジェミーはそう思った。

「だから、魔法を使う時は周囲の精霊に声をかけるんだよ。おねがいしまーす、って」

「あ、それはわかる。そうよ、精霊は友達なのよ。最近はそれをわかっていない人が多いのよね」

 ニノはブラミモンド家に留まるにあたって、リリーナとジェミーに魔法を教えることになっていた。本心では自分の手でジャファルを見つけ出したいのだろうが、自分の手にあまることは理解しているのか、今のところ屋敷を出て行く素振りは見られない。

 ジェミーはナーシェンがニノを口説いていないかと不安になったが、最初の対面以来、二人が顔を合わせることもなかったので、とりあえず安心している。それでも、かつて竜騎士たちと『女を口説く時の障害は、大きければ大きいほど燃えるんだよなー』と酒の席で語っていたのを覚えているジェミーは、それでも不安になるのだが。

「たとえばサンダーの魔法。これは周囲の雷の精霊さんに頼んで、集まって貰って……」

「ふむふむ……」

 違う。精霊とは屈服させるものだ。魔法とは強引に集めて、構成式に叩き込んで引き起こされるものなのである。少なくともジェミーにとっての魔法はそのようなものであった。

「緑の草原、色とりどりの花、晴れ渡る空、雲。どこにでも、精霊は宿っているんだ。あたしたち魔道士が精神力を養うのは、そこから精霊たちの声を聞くために必要だからなんだよ」

「えっと、ニノさん。貴女、どうやって魔法を学んで来たんですか?」

「え? お母さん……えっと、育ててくれた方のお母さんが、沢山の魔法を知っていて、あたしの横で魔法を見せてくれたんだ。で、母さんはそれを真似してみろって言うから……」

 ……そんなことだろうと思った。

 先天的に類まれなる才能を持っているジェミーでも、精霊の声なんてまったく聞こえない。エトルリアの元魔道軍将パントは精霊と語り合っていたということで、今でも宮廷などで話題にされているが、パントは歴代魔道軍将最強と呼ばれるほどの魔道の使い手である。

 つまり、ニノにはそれだけの才能があるというわけだ。

 それは異端だ。

「え、それっておかしいの? たしかに、セシリアさんの魔法を見よう見真似でやってみたら、すごく驚かれたけど……」

 首を傾げているリリーナも異端だ。

「リリーナちゃん才能あるよー、凄いねー」

「ありがとうございます!」

 ジェミーはどっと肩に疲れが乗ってきたような気がした。

 ナーシェンの教育案のひとつに、魔道学校なるものがある。初等教育を終えた者から、才能のある者に魔道士としての教育を施し、魔道部隊を編成しようという案だった。

 魔道士の部隊は“国”しか持っていない。貴族が在野から魔道士を登用することもあるが、その人数は数人である。魔道部隊は剣士隊の比にならない、財力と軍事力の象徴になるはずだった。

 ナーシェンがニノは魔法の教育者になる人材だと語っていたので、ジェミーはちょっぴり期待していたのだ。だが、ニノやリリーナの言葉は、ジェミーには異国のものにしか聞こえないようなものだった。泣きたくなるのを理解してくれる者はここにはいない。

「はぁ、ナーシェン様……」

 ジェミーは夫を敬愛……と言うより崇拝している。その夫が山賊討伐のために留守にしているので、ジェミーはテンションが低かった。

 そんな中――。

「ジェミー様! サカ地方から騎馬部隊およそ100騎が国境を突破! アルフレッド侯爵の領地を通過して、ナーシェサンドリアに直進しています!」

「―――は? ………何ですって!?」

 肝に、冷たいものが滑り落ちた。


    【第6章・第7話】


 ナーシェンはリキア地方の国境間際に二百人規模の山賊団が出没していると聞き、自ら250の軍勢を率いて出陣している。途中でベルアー伯爵の150、グレン侯爵の200と合流して、山賊がベルンに入ると同時に攻撃を仕掛ける予定になっていた。

 また、この戦闘はベルアー伯爵の長男、アレクセイの初陣になっている。

 そのため、ナーシェンが戦前に挨拶にやって来たアレクセイに名剣一振り(銀の剣)を与えており、何故かアレクセイに「どうか義兄上と呼ばせて下さい」と懐かれてしまっていた。

「おう、いいぞいいぞ!」と気をよくしたナーシェンだったが、それがベルアー伯爵の十七歳になる娘マリナが弟に吹き込んだ策であることには気付いていない。ナーシェンの頭脳は女がからんだ途端ヘッポコになるようだった。

「ブラッド、イアンはそれぞれ50を率いて先行するベルアー殿の補佐を。竜騎士の指揮は……ディートハルトに任せる」

 ディートハルトはジードの先輩騎士で、馬鹿どもの筆頭だったりするので、ナーシェンは指揮を任せるのが不安で堪らなかった。それでも、真面目になったディートハルトは戦術指揮に秀でた指揮官だと信じている。……信じておく。

 ナーシェンは150の軍勢を率いて、グレン侯爵の200と後詰めとして控えている。

 これは部下に功名を与えるいい機会である。

「ナーシェン殿、敵はまだかな。もう待てないぞ」

「うっせ、バトルジャンキー」

 カレルの剣士隊(今回は20人)に混じっていたはずのバアトルがこっちにやって来ていたのだが、それが鬱陶しくて堪らなかった。剣士隊では浮いていたため、居辛くなったのだろう。

 バアトルは単なる斧使いというだけではなく弓の名手として貴重な人材なのだが、正式にブラミモンド家に仕えているわけではないので、あまり重用したくないというのが本音だった。

 娘フィルは叔父のところに身を寄せそうという話を聞いているが、バアトルはいずれ武者修行の旅に出て行くだろう。ナーシェサンドリアは闘技場がないため(と言うか、闘技場は剣闘士という奴隷を使うため、奴隷商人たちが奴隷排斥の筆頭であるナーシェンのお膝元にやってこない)、武芸者が集まってこない。それに、ナーシェンの手下は主君の手前、気楽に勝負に応じることもできないのである。バアトルにとって、かなりストレスの溜まる環境といえる。

「お、始まったな。バアトル殿、貴殿は当家に仕えているわけでもない。故にこの戦場では好き勝手に動いても構わないぞ」

「おおっ、そうか! 流石はナーシェン殿、話がわかるな!」

 喜んで走り出すバアトルだったが、それまで山賊が生き残るかどうか。

 ナーシェンはベルアー伯爵が飛ばした伝令の報告を聞いて苦笑した。

「先遣隊、山賊団と遭遇。イアン殿とブラッド殿がそれぞれ左右に回りこんで挟撃をかけています。ディートハルト殿率いる竜騎士隊が正面から突撃、敵集団を突破して背後に回りこみ、正面はベルアー隊が支えております」

 ナーシェンがバアトル乙と笑っていると、空から竜騎士が舞い降りた。その瞬間、ナーシェンの表情が引きつった。たしか、ナーシェサンドリアで留守番していた者だったはずだ。

「報告します! サカ地方から騎馬軍団80騎が国境を突破、ナーシェサンドリアに直進しています!」

「………………は?」


    ―――


 サカ地方――。

 サカはモンゴル地方っぽい風土であるとは言え、匈奴のように度々ベルンに侵攻して来るわけではない。サカは国家というものが存在せず、部族ごとの自治が成り立っているのである。攻め込めば各部族が団結してゲリラ活動を仕掛けてくる、支配し難い土地なのだった。

 気候はステップに近く、土地は雨が降らず乾燥している。サカの部族は申し訳なさそうに生えている草を食わせるために、家畜ともに移動している。冬の寒さはベルン北部以上になるため、ゲルという家屋は移動し易く、また暖かさを意識した設計になっていた。

「略奪もしていない!? 何が目的なのよ!?」

 ジェミーは混乱していた。ナーシェンが伝令を絞め落とそうとしている時があるが、その気持ちがよくわかる。無茶苦茶な報告というものは、耳を塞いででも聞きたくないものだ。心臓に悪すぎる。

 ベルン北部から侵入してきたサカの連中は、どうやらクシャナ族というらしい。人数は約100人。アルフレッド侯爵が集めた軍勢で20人討ち取って80まで減らしているが、敵はそれに見向きもせずにナーシェサンドリアに直進しているという。あまりに突然の出来事のため、アルフレッド侯爵は50の兵士しか用意できなかったらしい。それだけでよくやったと褒めてやりたい。

「アルフレッド侯爵からの報告ですが、敵の死者の幾つかが砂のように散って行ったそうです。どうなっているのでしょう?」

「そんなの、私にわかるわけがないわよ」

 土で作った人形を自陣に置いて、本隊で敵背後を奇襲したという指揮官は歴史に残っているが、砂で兵士を作って襲い掛かってくる指揮官なんて記憶にはない。というか、そこまで行けば魔法を越えている。

「ともかく、すぐさま各門を閉鎖して下さい。敵が途中で小休止しても、おそらく半日後にはナーシェサンドリアに到着するでしょう。ナーシェン様が戻って来るまで、最低でも三日はかかります。こちらには部隊指揮できる指揮官がいませんから」

 ナーシェンが全力で戻ってくれば、二日程度で戻ってこれるだろうが、領内に侵入してくる山賊を放置するわけにもいかないだろう。

 リキア側のベルアー伯爵、グレン侯爵の領地で山賊が暴れまわると、ベルン北部同盟の意義を失った侯爵たちが離反するおそれもある(そんなことで離反する彼らではないが、周囲から北部同盟の結束のほころびと見られるのが問題だ)。

 それに、兵士たちにも休息が必要だ。サカの騎馬民族は精強と聞く。数倍で押し包んでも、兵士が疲れていては大きな被害が出るおそれがあった。

 すみやかに頭の中で結論を出したジェミーは、篭城戦を選択した。



[4586] 第6章第8話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/18 00:07
 ナバタの里は地下水源の真上に作られているため、人が暮らせるようになっている。いわゆる砂漠のオアシスなのである。その地下神殿には水が満たされ、浮き沈みする通路という罠が仕掛けられていた。

 まだ青年と呼べるであろう若々しい男が、ずぶ濡れになりながら通路を進む。

 その背中に老人がしがみ付いていた。

「やめなされ! パント殿!」

「ええい、離されよ! 長老!」

 元魔道軍将パント。彼はアトスのただひとりの弟子である。

 老人を突き飛ばし、パントが再び進み出そうとしたところで、前方の床が水に沈んだ。

「待たれよ、パント殿。アトス様の弟子といえども、この先にある物に手を出してはいかん!」

「長老、止めてくれるな。今、大陸は再びモルフという化物どもが跋扈しつつある。これはアトス様の過ち、ネルガルの爪痕なのだ。師がやり残したこと、最初にして最後の弟子であるこの私が尻拭いせずに何をしろと言うのだ」

 パントはそのためには師匠の魔道書、神将器フォルブレイズが必要だと考えていた。

 あらゆるものを焼き尽くす魔法『業火の理』。

「………パント殿。もしや、フォルブレイズを研究したいだけではないでしょうな?」

「……そんなー、まさかー。あとす様の一番弟子がふぉるぶれいずを研究するなんてー」

「………パント殿ぉ!?」

 長老が目を血走らせる。瞬間、パントの目の前の床が浮き上がった。パントは反転すると、全速力で浮き沈みする床を越えていく。長老が追おうとして一歩進むと、床が再び沈み込んだ。ざぶん。長老はずぶ濡れになり、身動きが取れなくなる。

「大丈夫ですか、長老」

 そこに、褐色の肌の美女が出現する。彼女はたわわな胸を揺らしながら族長まで走り寄った。

「おお、イグレーヌ! 助けてくれい!」

「大賢者様の秘法を持ち出そうとするなど、たとえパント様といえども許されることではありません。覚悟して下さい!」

 イグレーヌは弓に矢を番えると、長老の頭を踏んで床を飛び越えた。

「ふぉ! た、たすけ……ぶくぶく……」

 力を失った竜である長老が溺れているその向こうで「鏃が付いてるぅ!? こ、殺す気か君は! ひぃぇっ!」という悲鳴が響き渡っていたが、水中にいる長老には聞こえていなかった。


    【第6章・第8話】


 ナーシェサンドリアの城壁の上から、ジェミーは城下を見下ろしていた。各城門の守備隊長から配置完了という伝令を受け取り、その配置が正しく行われているのか、自らの目でたしかめているところである。

「モルフ、ですか……」

「ネルガルという男が作った、人ならざる者。黒い髪と金色の瞳を持つ、人形だよ」

「それが、敵に混じっていると?」

 ニノは遠くを眺め、悲しそうに呟いた。

「モルフはね、作る時にかける手間暇によって出来が違うんだ。雑に作られたモルフは感情を持っていないけど、手間をかけて作られたモルフは感情を持っている。死んだ人に似せたモルフを作ることもできるから……」

「なるほど、サカの部族長に似せた意思を持つモルフが居るというわけですか」

 ジェミーは舌を打つ。

 サカのひとつの部族が持つ戦闘用の人員は百人前後だが、それを支える非戦闘員は二百人ほどいる。非戦闘員をサカに放置しての外征というわけだ。守ってくれる者を持たない女子どもがどのような目に遭っているのか。あまり考えたくなかった。

「私を育ててくれた母さんも、モルフだったんだ……って、ジェミーちゃん、どうして睨むの!?」

「……睨んでません。でも、それ、ナーシェン様の前では言わないで下さい。あの人なら同情しちゃいますから」

 イラっとした。モルフの有り方に。それと、悲しそうにしているニノにも。

「今のナーシェン様に、人様の重荷を背負っている余裕はないんですよ。重荷を代わりに背負ってやれるような人でないと、ナーシェンの傍にいる資格はないんです。だから、ナーシェン様の優しさに付け込むような言葉は辞めて下さい」

「あ……うん……」

 ニノはジェミーの発言に唖然として……小さく笑った。

「何だかいいな、そんな関係。すっごい絆だと思う」

「……と、ととと、当然です! 何を今さら!」

 焦っているジェミーを微笑ましく眺めながら、ニノはあの言葉を思い出した。

「『後ろを見るな、過去を見るな、前を見ろ、未来を見ろ。そして、進め』か。強引だけど、いい言葉だね。ロイド兄ちゃの遺言みたい」

 その言葉が誰のものなのか、ジェミーは何となく理解した。

「報告します! クシャナ族の軍勢はナーシェサンドリアより五キロのところで迂回、リキア国境側に方向転換しました!」

「――ッ、敵の目標は!?」

「おそらくは―――――ナーシェン様かと」


    ―――


 ニノは失念していた。心身ともに鍛えられた、英雄と呼ばれる者から得られるエーギルが、常人の数百倍になるということを。

「族長! 目標がナーシェサンドリアではないとは、どういうことですか!?」

 最初の目標がアルフレッド侯爵、次の目標がナーシェサンドリア。三番目の目標がブラミモンド公爵ナーシェンだった。

 族長の娘がアルフレッド侯爵に見初められ、拉致されたということを聞いた一族は、ベルン憎しで固まっていた。その娘がナーシェサンドリアに貢物として贈られたと聞いた時は、疑問に思いつつも、まだ納得できた。これがサカ一族を侮るなという、ただの示威行為であったなら、どれだけよかっただろう。

「ナーシェンがサラ様を連れて山賊退治に出陣した? 到底信じられません!」

 部族の若者は族長に詰め寄った。すでに一族の者が何人も討ち取られている。ナーシェサンドリアを横切った時に、機転を利かせて門から飛び出した敵兵に、さらに20人の味方が殺されていた。

 敵の追撃を振り切って、天幕を張って休憩しているところであったが、すでに皆が皆、疲れ切っていた。これからナーシェンの本隊と戦うと言われても、素直に頷けるわけがない。

 族長の娘はたしかに重要だが、クシャナ族が滅びかねない今となっては、そこまでして救出しなければならないのかと疑問に思えてくる。

 族長は虚ろな双眸を若者に向けた。

「族長……?」

「………ナーシェン。目標は……ナーシェン……」

「――ッ、お前は誰だ! 族長ではないな!?」

 若者が族長に詰め寄る。その手が腰の剣にかかっていた。

「エーギルを回収する前に殺されては堪らない」

 その声と同時。小振りな剣が若者の首を刎ねた。

 ずるり、と若者が崩れ落ちる。

「……部隊すべてを、モルフに作り変えるか」

 黒衣を羽織った中性的な容姿のモルフ、リムステラは若者をモルフとして作り直した。若者の魂の輝きは意外に大きく、常人の八人分のエーギルを回収できた。そして、リムステラは要領を得ない言葉しか話さなくなった族長に右手を向ける。

「……所詮は出来損ないか。この身と同じ」

 エーギルを回収されて、砂になった族長を見つめ、よくわからない胸のもやもやを感じたが、リムステラはそれが悲しみなのか、別の感情なのか、よくわからなかった。

 ただ、彼ないし彼女は、亡きあるじのためにエーギルを集め続ける。


    ―――


 リムステラ。

 ネルガルに最高傑作と言わしめたモルフであり、感情を有さないためどんな残虐な命令にも忠実に従うモルフ。ネルガルに寿命を削る代わりに、強大な力を得るという古代魔法を使用され、エリウッドたちに立ち向かうが敗北した。

 古代魔法の影響か、感情のようなものを有していたおそれがあるが、真偽は定かではない。リムステラはネルガルの忠実なしもべであり、ネルガルの最も意に沿った行動を取るモルフである。たとえ主人が死んでいても、ネルガルのために行動し続ける。

 ネルガルの命令――主君のためにエーギルを回収する。



[4586] 第6章第9話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/29 01:16
 パントは箱の前で溜息を吐いた。

 結局のところ、業火の理フォルブレイズを収めた箱は、開かなかった。封印に関わっているパントは、当然ながら開け方を知っている。里の者たちにも、口伝で開け方が伝わっている。

「ふむ、やはり時期が来るまで開かないようになっているのかもしれんの」

「神将器とは使い手――かつての八神将の意思が宿っているとのことですからね。人海戦術で強引に、力任せに抉じ開けることは無理ではないでしょうが……」

「そこまでしなければ開かないということは、大賢者様の意思に逆ろうておるということじゃろう」

 濡れ鼠になったパントと長老は顔を見合わせた。

「ともかく、このまま神聖な神殿に居座る道理もありません。そろそろ戻りませんか?」

 と、ただひとり濡れていないイグレーヌが提案するが、二人はじとーっとした目を向けてくるだけだった。

「と言うか、君、わしの頭を踏んだじゃろう?」

「美女というものは水が滴るものではないかな?」

「それはいい男の間違いでは……いえ、何でもありません……」

 パントの発言は若干方向性が異なっていたが、二人がイグレーヌを攻めているのは明らかだった。

 結局、三人ともずぶ濡れになって地上に戻ると、地下神殿の入口でソフィーヤが待っていた。

「……あ」

「む、彼女は……」

 パントは記憶を探るが、思い出せなかった。族長が横から説明する。

「竜の血を引いた娘、ソフィーヤじゃ。多少、未来を読み通す力があるらしくてな。ほれ、ソフィーヤ。どうかしたのか?」

「……大陸の……遥か東で、闇の灯火が消えそうになっています」

「……東?」

 族長がまた呆れたような顔をしているが、パントは目を細めて真面目に思案した。大陸東部……ベルンの地では、村ひとつが消えるようなことはまだ起こっていない。唯一、ブラミモンド家が支配している土地でモルフが出現しているだけだ。

「その東にある闇とは、どれだけのエーギルを持っているのかな?」

「……竜に匹敵するほどの、生命の輝きだと……思います」

「ナーシェン殿か」

 パントは得心した。ベルンでそれだけのエーギルを持っている者というと、ゼフィールかナーシェンのどちらになる。パントはエーギルを操る術を持っていないので、他人からどれだけのエーギルが得られるのか理解できるわけではない。それでも、あの二人は異質だ。だから、パントはすぐにナーシェンのことだろうと確信した。

 ところで、あの金髪の若者は疫病神にでも取り付かれているのだろうか。

「あの……お願いが……あります……」

「……何かな?」

「『冥府の闇』の封印を解いてくれませんか?」

 パントは両目を見開いて驚愕した。


    【第5章・第9話】


 遊牧騎兵とは戦い難い相手だ――。それも予想以上に。

 ナーシェンはナーシェサンドリアへの帰還中に、敵遊牧民族と遭遇して、慌てて采配を握ったのだった。その敵は愚直に突撃するだけの、部隊指揮のクソもない連中だったが、個人の武力が高く、何故か戦端を開いていない内から死兵と化していた。

「ベルアー隊、突破されました!」

「そうか。ベルアー殿には体勢を整えてから、敵の背後を突いてくれと言っておいてくれ」

 そして、イアンとブラッドを本陣に戻るように伝令を飛ばしておく。

 敵は遊牧民と遊牧騎兵、ソシアルナイトの混成部隊。

 遊牧民は馬上で弓を扱えるクラス、遊牧騎兵は遊牧民の上位クラスで弓と剣を扱える。ソシアルナイトは馬上で剣と槍を使う、通常の騎兵だ。

 ソシアルナイト、遊牧民、遊牧騎兵で、それぞれ3:6:1の比率になっている。10人にひとりが遊牧騎兵といえばわかりやすいだろう。

 それにしても、敵は損害など関係なく突撃して来ている。こちらの小手先の戦術など用を為さないというような状況だ。それに、怖ろしくタフである。流石に首を飛ばせば死ぬが、腕を落とされたぐらいでは動きを止めないのである。

 そして、遊牧民の弓の存在が厄介だった。主力の飛竜が足止めされているのである。

「剣士隊で確固撃破が上策か。クソッ、こんなことなら50人全部持ってくるんだった……!」

 まさか、このような戦になるとは思っていなかったため、剣士隊の半分以上が留守番になっている。

 戦はたちまち450 対 60が入り混じる異様な乱戦になった。奇襲を受けたベルアー隊が体勢を立て直すため立ち止まっているとはいえ、七倍以上の兵力を持つこちらを相手に奮戦している光景は異常ともいえた。

 やがて、敵の一部がナーシェンに肉薄する。遊牧騎兵がナーシェンに弓を向けた。

「――っ、ナーシェン様!」

 わが身を盾にしようと数人が躍り出るが、ナーシェンがそれを制した。

「灰は灰に、塵は塵に……と言えば、まるで葬式のようだな。どちらにせよ、この世の理を捻じ曲げた者どもは、早々にあるべき姿に戻るべきだろう」

 ナーシェンの開いたリザイアの魔道書が明滅し、この世の終わりにしか思えない闇が三人の敵騎兵を飲み込んだ。そこには何も残らない。

 初めて見る闇魔法の威力に息を呑んでいた者たちは、しかし数秒後に我に返った。返らざるを得なかった。

「ナーシェン様! 後ろです!」

「………お前は」

「………我が主のために。貴様のエーギルを貰い受ける」

 黒い髪に金の瞳。モルフだった。

 片手には緑色の表紙の魔道書が握られている。風の魔道書エイルカリバーだった。

「カレルは何をやってるんだか……」

 主が危険なのだから戻って来やがれと、ナーシェンは溜息を吐きながら魔道書を広げた。


    ―――


 敵の遊牧騎兵はカレルと同じ地方出身の者たちばかりだった。同族ではないが、やり切れない思いを抱いてしまう。背負った人斬りの罪は、何時までも軽くならなかった。本当に平和のために剣を降っているのか、時々疑問に思うことがある。

 辺境で隠棲していたら、このような思いは抱かなかっただろう。

 だが、今のカレルは、世捨人としての生活が贖罪になるとは思えなかった。

「カレル殿! この敵、強いですなぁ!」

 嬉しそうに戦っている義弟に、カレルは苦笑してしまう。バアトルはおのれの力を実感できる戦いというものが好きなのだ。人を斬って、さらなる高みを目指してきた自分とは違う。それもまた、強さの有り方だろう。カレルはそう思う。

 カレルは遊牧民の馬をすれ違う瞬間に両断しながら、弟のところに歩いて行った。

「何人?」

「五人。そっちは?」

「十二人」

「おや、負けたか。まだ精進が足らんな」

 バアトルが頭を掻いた瞬間――。

「後ろだ!」

 カレルはバアトルの叫び声より前に、剣を背に向けていた。金属が擦れ合う音が戦場に響き渡る。

「君は……」

 背後から奇襲をかけた相手を見て、カレルは眉をひそめた。

 バアトルが弓を向ける。

「どうしてそこにいる! ジャファル!」

 暗殺者が、カレルたちに剣を向けていた。



[4586] 第6章第10話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/29 01:00
 竜騎士たちが尻込みする中、一騎の竜騎士が敵遊牧騎兵に突撃をかましていた。

「強靭! 無敵! 最強!」

 ジードは雄叫びを上げながら鋼の槍を振り上げている。その実力は全国大会で優勝を争うほどであった。

「粉砕! 玉砕! 大喝采!」

「阿呆! 乱戦の中に突っ込む馬鹿がいるか!」

 空の上では、竜騎士団の指揮を任されているディートハルトが、ディートハルト異常なテンションのジードを怒鳴りつけている光景が見られた。

 ちなみにこのディートハルト、次男だったが父祖の代からナーシェンの家に仕えてきた騎士の生まれである。そして、金髪に蒼い瞳の美形さんである。そのため、ブラミモンド家の嫉妬団に村八文にされることもあった。

 とはいえ、フレアーが後継者にと見込むほどの逸材であり、基本的には頼れる兄貴であった。

「ジード、戻れ!」

「貴様らなどに俺の栄光のロードの邪魔はさせん! 遊牧民族、玉砕!」

「ああ、くそっ。聞こえていないようだな!」

 ディートハルトは舌打ちすると、単騎突撃しているジードの援護に回った。


    ―――


 一方、地上では――。

「イアン殿! そちらの損害は?」

「五人殺られた。あのサカの連中、射撃の腕は洒落にならんぞ」

 突破されたベルアー隊も、少なからぬ損害を出している。それを考えると、イアン、ブラッドの騎兵隊の損害は少ないぐらいだろう。特に遊牧騎兵という指揮官クラスの敵は、短弓に同時に三本の矢を番えて、一度に三人を射殺してしまうほどの達人である。

「もっとも、所詮は百にも満たぬ小勢。ベルアー様と俺たちで、すでに半分は討ち取っている。じきに殲滅されるだろう。ともかく、本隊と合流するぞ」

 イアンはできるだけブラッドの方を見ずに、そう言った。何が面白いのか、ブラッドはにやにやと嫌らしい笑みを浮かべているのである。背筋がゾクゾクする。頼むから近寄らないでくれと叫びたくなった。

「承知した。しかし、捕虜が取れんとは面白みのない戦だな。皆の者、そうは思わんか?」

「確かに。戦の後のお楽しみが無いですからね。やる気が失せますよ」

「あぁ、あの死体、砂になっちゃったなぁ。折角の美形が勿体ない」

 豪槍のブラッドは周囲の兵士(エトルリアからの寝返り組)と意味深な笑みを交わすと、槍を振りかざして本隊救援に向かった。

「……あれが当代第一の槍の使い手か」

 イアンは背筋をぶるりと振るわせた。


    ―――


 サカ騎兵は、剣士隊の活躍で着実に減らされていた。突撃時には60だったが、ベルアー隊、ブラミモンド騎兵におよそ20を討ち取られ、残る数は40ほどに減少している。

 剣士隊その数15は、キルソードで一人ひとり、敵兵の首を刈り取っていった。

 だが、敵も精兵である。遊牧騎兵のひとりが、同時に二本の矢を剣士隊に放つ。そのひとつが、ひとりの剣士の首を打ち抜いた。彼は短い悲鳴を上げて地面に転がり、ビクビクと痙攣した後、動かなくなった。

 そして、もう一本の矢が、別の剣士に迫っていた。

 だが、その矢は命中する直前に、割り込んだ何者かによって弾かれてしまう。

「うおおおおぉぉぉぉぉ―――!」

 重装歩兵、スレーターであった。

 分厚い鎧を着込み、片手には身体の半分を覆うタワーシールドを構え、五本の手槍を背負っている。もう地味とは言わせない。そう言わんばかりの勢いで放り投げた手槍が、遊牧騎兵に命中した。

 奇跡であった。本人も、まさか命中するとは思わなかったというような顔をしている。

「す、スレーターさん……」

「若いの、血気に逸る年頃なのはわかるが、武功を重ねる機会はこれからもあるだろう。戦場では、おのれの分をわきまえるのが肝心だぞ。私のようにな、ははは……」


    【第6章・第10話】


 本隊の中央は、一触即発の空気に包まれており、下っ端の兵士たちは「息もするのも苦しいっす。帰っていいっすか?」と言い出しそうな雰囲気になりつつある。

 闇魔道士ナーシェンと賢者リムステラが対峙しているのである。

 リムステラの冷たい視線と、背筋が凍りそうな凄絶な魔力に、ナーシェンは思わず「生まれてきてごめんなさい」と土下座したくなった。今の自分では、傷ひとつ付けることができないだろう。理魔法に有利な闇魔法でも、どうしようもない。

 それでも、ナーシェンは余裕を崩さなかった。

 ここでナーシェンがうろたえれば、その動揺が全軍に広まってしまう。

「ふふん、“こんなこともあろうかと”聖水を用意してきているのだ!」

 一度は言ってみたかった台詞である。

 ちなみに、これはジェミーやリリーナが暴走した時のために用意していたのだが、まるで最初からこうなることを予測していたかのように見栄を張るナーシェンであった。

「ふっふっふー、これで貴様の攻撃は私には通らんぞ」

「………………」

 リムステラは、無言で魔法を放った。

 鋭利な真空の刃が弧を描きながら襲いかかる。

 風の刃がナーシェンの身体を袈裟懸けに裂き、大量の血液が噴出する。

「痛い、痛い、痛い……!」

 ドバドバと溢れ出る血に、意識が飛びそうになる。だが、ナーシェンは焦らない。歯を食い縛りながら、周囲の“他の”モルフに向かって、リザイアの魔法を使用した。

 遊牧民の周囲に幾つもの黒い炎が出現、渦を巻く暗闇が収束し、敵対する者から生命力を略奪する。

「グゥレイトォ!」

 そして、ナーシェンの傷は完全に修復した。

 闇魔法リザイア。対象からHPを強奪する魔法。その反則じみた性能のために、販売価格が3200ゴールドまで吊り上がっており、購入する際にジェミーと言い争ったのは懐かしい。ちなみに、ファイアーの魔道書が560ゴールドである。

「闇魔法、か」

「そう、中二病患者も真っ青の威力、闇魔法だ! これでも貴様が私を殺せるつもりでいるなら天晴れだな!」

「なるほど。私の攻撃で受けたダメージを、モルフから奪った生命力で補っているのか。だが、次はどのモルフで体力を回復するつもりだ?」

「そんなの、他のモルフから……」

 リムステラの冷静すぎる指摘で、ナーシェンは我に返った。

 ナーシェンの周囲のモルフは、とっくの昔に全滅しているのである。たしかに「殺しちゃ駄目よん☆」という指示を出しているわけではない。兵士たちはリムステラという怪物を相手にするより、他の組しやすいモルフを狙うに決まっている。

「………………あのさ、見逃してくれない?」

「私の狙いは貴様だ。そのエーギル、ネルガル様のために頂戴する」

 リムステラはエイルカリバーの魔道書を投げ捨てた。新たに取り出された魔道書にナーシェンは両目を見開く。水色の表紙。三竜将ブルーニャも愛用している、凍て付く魔法。


 ――白き吹雪、フィンブル。



    ―――


 二回、剣を合わせた。そして、カレルは悟る。

「あの頃よりも腕を上げたようだね、ジャファル」

 腕に残った痺れのような負荷に、カレルは戦場には場違いな、穏やかな微笑を見せた。そして、背後で弓を構えているバアトルに声をかける。

「バアトル殿、ここは私に任せて欲しい」

「………義兄の頼みであっても、それは承服しかねる」

「そこを曲げて、お願いしたい」

「………………好きになされよ」

 バアトルは一矢、ジャファルに放つと、くるりと背を向けて別の敵を探しに行った。ジャファルは当然のように、短剣で矢の軌道を逸らしてしまう。カレルは目を細めて、その剣筋を眺めていた。……あの頃と、何も変わっていない。

「理由を尋ねてもいいかな?」

「………………」

 ジャファルが無言で飛びかかる。暗殺者の太刀筋。カレルの見慣れたものだ。最近は使うことがなくなったが、自分もその手の剣は体得している。故に、奇襲、奇策の類は己には通用しない。

 ジャファルもそれは理解しているのか、真っ向からカレルに向かって行った。

「剣筋や剣圧、体さばき、足運び、そのどれもが過去のものと変わらない。いや、微妙により高度に洗練されているが、そのルーツは当時のものと何ら変わりはない」

 当時のカレルは呆れたものだった。黒い牙最強の暗殺者と剣を交えてみれば、その剣は死神の剣ではなく、大切な者を守るための剣に変わっていたのである。ただ腕が腐っていくだけの愚かな剣。カレルはそう考え、死神の剣を引き出すために何度もジャファルに剣を向けた。だが、最後までその剣は守るための剣だった。

「当時の私は君の傍にいる少女、彼女を殺せば死神が蘇えるのだと思っていた」

「………………」

 リムステラがジャファルのモルフを作るなら、当時の黒い牙時代のジャファルをモデルにしているだろう。

 カレルは微笑を浮かべる。当時の自分は気付けなかったが、ジャファルの剣は尊いものだと今では理解できている。剣聖にとっては、この死合すら、心地よいものであった。

「今、私の主君のもとに、緑色の髪の女性魔道士が身を寄せている」

「………………」

 わずかに、剣筋が鈍る。カレルは手を休めずに攻撃を加えていく。

 ジャファルは数瞬の攻防の後、凌ぎきれなくなって数歩後退する。

 カレルは、そんなジャファルに言葉をかけた。

「何なら、今から屋敷に戻ってその女性を殺してみせようか」

「………!」

 明らかに動揺していた。心を持たないはずの暗殺者、そのただひとつの弱点。

「もう一度尋ねよう。なぜ、モルフに加担している?」

 ジャファルはモルフではない。

 モルフは、こんなに“活きた剣”を振るわない。

「………剣魔」

「何かな?」

「ニノは今……幸せか……?」

 命をかけてニノを守る。それが、ジャファルの誓いだった。



[4586] 第6章第11話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 16:28
 パントは渋面を浮かべ、鎖に絡まれた魔道書に手をかけた。

 冥府の闇エレシュキガル。

 ネルガル専用の魔道書であり、古代魔法の真髄が叩き込まれた書であるが、並の者なら手にした瞬間に発狂してしまうであろう危険な書物だった。破棄できれば最良だったが、無限の使用回数のためか、燃えない、水に溶けない、破れないという末恐ろしい特性を持っている。そのため、封印する以外の方法がなかったのである。

 パントは困窮して、長老に助けを求めるが、長老はそ知らぬ顔をしている。イグレーヌもわざとらしく口笛を吹きながら弓の手入れを始めてしまった。

 ソフィーヤの電波……もとい、世迷いごとには関わり合いになりたくないといった態度だ。

「……これを、どうするつもりなのかな。流石のナーシェン殿でも、これは手に余るだろう。下手をすると、ナーシェン殿がネルガルのように力にとり付かれる」

「でも……これが……必要になります……」

「それも予知したのかな?」

「いえ」

 ソフィーヤは小さく首を横に振った。パントはやり難さを感じながら、鎖に置いた手に魔力を集める。すると、パキンと音がして、鎖が緩んだ。パントはそれを指で持ち上げて、ソフィーヤに手渡した。

「使用する時以外は鎖を外さないように。直接持つと、精神が壊れる。君もその例外ではない」

 ソフィーヤはパントに頭を下げると、エレシュキガルを受け取った。そして、要望が叶えられたというのに、ニコリとも笑わない。もう少し可愛げがあればいいのにと、パントは嘆息する。

 人前で何度も溜息を吐くというパントの失礼な態度も、どうでもいいのだろうか。ソフィーヤは無言で魔道書を長いローブの下に仕舞いこむと、パントに頭を下げた。

「では……お願いできますか?」

「………?」

 何を、と首を傾げるパントである。

「……ナーシェンと言う人のところに……私を送ってくれませんか……?」

「…………ああ、なるほど。転移の魔法で送ればいいのか。…………え、私が?」

 パントの額から汗が垂れる。

 たしかに、アトスやネルガルはびゅんびゅんとワープの魔法でエレブ大陸を縦横無尽に飛び回っていたが、いくらパントがアトスの弟子とはいえ、千年以上も生きた怪物爺さんたちと一緒にされるのは困る。

「……できないんですか?」

 長老とイグレーヌが同調して、ここぞとばかりにパントを攻め立てる。

「あれだけアトス様の弟子と言い張っておったのにのぅ」

「まぁまぁ、長老。仕方がないですよ。エトルリアの貴族は口だけの軟弱者ですから」

 パントは「ほんにのぅ」としみじみと頷いている長老を魔法で焼き払いたくなったが、それをすれば転移の魔法が使えないということを自ら証明してしまうことになる。

 別に、できないわけではないのである。パントならリグレ領からエトルリア王都アクレイアまでの距離ぐらいなら転移できる。ワープの杖という補助を借りた状態なら、という制約があるが、それでも当代の魔道士では類を見ない長距離転移である。

「……で、ででで、できるに決まっている! 私はアトス様のただひとりの弟子だぞ!」

「では、お願いします」

 ペコリと頭を下げるソフィーヤの向こうで、長老たちがハイタッチしていた。

「くそっ、どうなっても知らんからな!」

 パントは虎の子のワープの杖を振り上げた。


    【第6章・第11話】


 ジャファルとニノの旅は、平穏とは言い難いものだったが、二人はそれでも何とかやっていけるだけの実力を持っていた。もとより賞金稼ぎどもに遅れを取る二人ではない。寝込みを襲われても、ジャファルなら撃退できる。

 しかし、ここ数ヶ月で、その旅が危険極まりないものに変貌してしまった。

 エトルリアのある村で滞在していた時のこと。夜中、不穏な気配を感じて目を覚ますと、村人すべてがモルフと化していたのである。二人は死にもの狂いで村を脱出したが、およそ二百人の追手に狙われることになった。

 ジャファルの手には負えなくなるのも時間の問題だった。

『あの小娘を狙うのを止めろと? だが、あの娘は並の者の五百人分のエーギルを持っている。貴様のエーギルも、二百人分には達しそうだな。私が言うことを聞く理由はない。……剣を抜くか。だが、貴様では私に敵わないが』

 事実だった。ジャファルの剣の腕は一流だったが、得物が錆びた鈍刀ではどうにもならない。二人の生活は困窮を極めており、武器を買う余裕などどこにもない。生まれた子どもすら、育てる金がなく、仕方なく孤児院に預けることしかできなかったのである。

 ジャファルの得物は山賊や賞金稼ぎから奪ったものであった。

 リムステラはネルガルの最高傑作。肌に鉄でも仕込んでいるのではないかと疑うほど、防御力が高い。錆びた剣ではどうにもならなかった。

『提案がある』

 戦う決心の付かないジャファルに、リムステラが無感動に言い放つ。

『どうしても見逃して欲しいなら、自分たちの代わりになるものを差し出せ』

 どういうことだ、と尋ね返す。

『東、ベルンの地に、竜に匹敵するエーギルを持つ者が存在する』

 それは、ブラミモンド公爵ナーシェンを生け捕りにせよと言うことであった。


   【第6章・第11話】


「ジャファル、君は幸せとは何だと思う?」

「……………わからない」

「ならば、覚えておくといい。今の質問はとても愚かしいものだ」

 二人の間に、殺気はなかった。すでにモルフの大半が駆逐され、戦場は沈黙に包まれている。

 カレルは小さな溜息を吐いた。

「彼女が命を落とせば、君は生きる意味を見失うほど嘆き悲しむはずだ。今も、彼女に危機が迫っていないか不安で仕方がないだろう。君と同じように、彼女も君のことを心配しているんだ、ジャファル。衣、食、住、すべてが満たされていても、愛する者が傍にいないというのは、不幸だ」

「………そうか」

「そうだ」

 二人は示し合わせもせず、剣を鞘に収めた。

 ジャファルが踵を返す。

「剣魔、お前、変わったな」

「よく言われるよ」

 カレルは苦笑すると、腰の得物を抜いて、鞘ごとジャファルに投げ付けた。

「……なんだ」

「銀の剣だ。その錆びた剣ではどうにもならんだろう。使うといい」

「……すまない」


    ―――


 フィンブルの魔道書が光り輝き、周囲の気温が下がり始める。周囲の兵士たちが身を盾にしてナーシェンを守ろうとするが、そのような肉の壁など、この魔法の前では何の役にも立たないだろう。誇張が入っているのは否めないが、それでも神将器に匹敵すると言われている魔道書なのである。

「ナーシェン様! ど、どうかお逃げ下さい!」

「もう間に合わん! お前たちは下がれ。私の魔法防御なら、一撃だけならどうにか凌げるだろう。その間に逃げろ!」

「主君を見捨てて逃げろと申されるのですか! お断りします!」

 なおも意地を張る兵士たちに、ナーシェンは苦笑して「この馬鹿どもめ」と呟いた。兵士たちは「主君が主君ですから」と憎まれ口を叩く。

 その時だった。

「そこまでだ!」

 大空から飛来した槍がリムステラの腕に直撃する。フィンブルの魔道書が、リムステラの手を離れて地に転がった。皆の視線が空に向けられる。

「ナーシェン様、ご無事ですか!」

 ナーシェンの窮地を救ったのは、三人の竜騎士だった。何時も、一緒に馬鹿をやってきた連中だ。

「………来るな」

 リムステラは、竜騎士たちを一瞥すると、エイルカリバーの魔道書を取り出した。

「………こっちに来るな」

 風の魔法は飛竜の翼を切り裂いて、竜騎士たちを大地に叩き伏せるだろう。その致死率は落馬の比にはならない。

 エイルカリバーの魔道書が光を放つ。

「やめろおおおおおぉぉぉぉ!」

 ――風の刃が、無情にも飛竜を両断した。

 顔見知りの、竜騎士たちが大地に叩き付けられる。周囲に赤いものが飛び散った。


    ―――



 黒髪、金の瞳の男とも女ともつかぬ容姿をした者が、地面の血溜まりを無表情に一瞥すると、そっと右手を翳した。「五十人分、いいエーギルが得られた」と言っている。ナーシェンは身体を震わせた。怒りや悲しみ、己にもどちらなのかよくわからない感情が胸にストンと落下したような心地だった。

 悲しみはある。怒りもある。しかし、それは表面的な空虚なものだった。心の奥底から、仲間の死を悲しんでいるわけではない。仲間を殺した奴に復讐の念を抱いているわけでもない。ナーシェンは人の死に触れ過ぎていた。

「……お前たち、よくやった。お前たちこそブラミモンド家の騎士。最後まで私のためにその命を捧げてくれたことを、このブラミモンドの後継者、ナーシェンは、命尽きる時まで忘れない。……くそっ、馬鹿者どもめ。先に逝きやがって」

 最後のモルフ、リムステラは無言でフィンブルの魔道書を拾い上げる。

「準備はできたか。覚悟はできたか。ネルガルの妄執、忘れ去られた遺物、リムステラ。物語の脇役にすらなれぬ、存在すら許されざる人形。糸を繰る者がいなくなった操り人形は、無様に朽ち果てるのがお似合いだ」

「………………風よ」

「闇よ!」

 向かい来る風に、力任せにリザイアを叩き付ける。

 二つの魔法が衝突――相殺される。荒れ狂う魔力の衝撃の並が、固唾を呑んで見守っていた兵士たちを吹き飛ばす。踏み止まった者は、ナーシェンが烈火のような形相を浮かべていることに気付いた。普段の昼行灯のようなうだつの上がらない人物とは思えない形相。鬼気が立ち上っていた。

 表情が語っていた。

 ――私の民、私の兵、私そのもの。貴様はすべてを脅かした。

「搾取せよ、略奪せよ、強奪せよ! リザイア!」

「……風刀乱舞、エイルカリバー」

 しかし、どれだけ力をつぎ込んでも、リザイアの魔法ではリムステラにダメージが通らない。一太刀、二太刀、風の刃がナーシェンを切り刻んでいく。

 雄叫びが上がる。対するリムステラはまったく表情を動かさず、淡々と魔法を唱え続ける。

 やがて、ナーシェンが膝を付いた。

「くそっ、血が足りん……」

 毒づいて、ナーシェンは魔道書を放り捨てた。魔道士にとって、魔道書とは演算補助装置で、使用するごとに劣化していくものだった。規定されていた使用回数を越えると、威力が百分の一まで低下するのである。

 予備のミィルの魔道書を取り出すために、懐に手を入れた瞬間、目の前に現れた風の刃が、ナーシェンの右腕を筋繊維に沿ってバッサリ切り裂いた。腕から力が抜ける。新たな風がナーシェンの肩先から袈裟がけに切り裂き、その身体を吹き飛ばす。

「……ここまでか」

 ブラッドとイアンが何かを叫びながら乱入しているが、ナーシェンは気が遠くなって何を言っているのかよくわからなかった。お前たちの敵う相手ではないと言ってやりたかったが、上手く声が出せない。

 ナーシェンは口元を歪める。物語に存在してはいけないのは自分の方だというのに、よくもああ啖呵を切れたものだ。本来なら、イアンやブラッドにはどのような未来があったのだろう。ナーシェンは地面に大の字になって横たわりながら、皮肉な笑い声を上げた。

 ふと、地面に転がっているリザイアの魔道書が目に入った。

 最初のページの空白部分に、あとから書き加えられたメッセージがある。

『誕生日おめでとうございます、ナーシェン様。今年で18歳ですね。折角なので、以前から欲しがっていた魔道書をプレゼントすることにします。ナーシェン様って物欲が少ないので、どんなものを選べばいいのかわかりませんでしたよ。あと、自分の誕生日ぐらいは覚えておきましょうね』

 気付けば、立ち上がっていた。

「なんだ、まだ戦えるじゃないか」

 クッ、と愉悦に喉を鳴らす。ミィルの魔道書を持ち上げる。その手に、細い指がからめられた。朦朧とした意識で振り返る。髪の長い少女が、後ろからナーシェンを抱きしめて、その身体を支えていた。そして、ナーシェンの手に己の手を重ねていた。

「立てますか?」

 ナーシェンは頷いた。

「これを……使って下さい……」

 魔道書が差し出される。ナーシェンに返事をする余裕はなかった。

 ほとんど気力だけで立っているような状態で、鎖で雁字搦めに固められた魔道書を受け取った。じゃらりと音を立てて鎖が地に落ちる。瞬間、脳の血管が破裂しきれんばかりの情報の奔流がナーシェンに襲いかかった。

「ぐっ、がっ……くそっ、俺の中から出て行け! って、リアル中二病かよ!」

 ナーシェンは傷口に親指を突っ込んだ。激痛に意識が一瞬、真っ白に染まる。

「とにかくテメエら! そこから離れろ!」


    ―――


 それは暴虐の闇だった。リザイアとは比べ物にならない巨大な闇の塊であった。遠くで様子を窺っていた者にすら破滅の足音を感じさせた、災厄の塊であった。背筋が凍るような、無茶苦茶な威力の魔法であった。

 これが、対人魔法ではなく、対軍魔法であった。

「………! ネルガル様!?」

 リムステラはその魔法を見て、初めて動揺を顔に浮かべた。

 直後、リムステラの姿が消えた。

 荒れ狂う暴風、大地は鳴動し、大気が闇色に染まる。

 兵士たちはその元凶たる主君に畏怖の視線を送った。だが、その背中に美少女が抱き付いており、しかも密着していたので、畏怖の視線はすぐに立ち消えることになった。




[4586] 第6章第12話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 16:30
 ベルン北部、サカ国境付近の森林に、魔方陣が浮かび上がる。黒髪に金の瞳のモルフが、転移の魔法でそこに現れた。直後、どさりと身体が崩れ落ちる。

 リムステラは半身を闇に喰われたものの、咄嗟に転移の魔法を使ったため、消滅を免れたのだった。

「ネルガル……様………」

 今回の動きで採集できたエーギルは、とうてい計画を実行するに足らない量であったが、直撃ではないとはいえエレシュキガルを受けた身体は、すでに崩壊し始めている。

 リムステラにはやることがあった。

「ネルガル様……」

 採集したエーギルで、主を復活させるのである。ネルガルのため。その命令が帰結するところであった。

 かくしてリムステラはネルガルの“モルフ”を創造する。身体が完全に崩壊する前に、己を構成していたエーギルすらつぎ込んでいた。半分になった身体の断面が、砂に変わっていく。それでも、リムステラはその行為をやめることはない。

「ああ、ネルガル様! ご命令を!」

 やがて、完成したモルフにリムステラは跪いた。

「………………………」

「ご命令を、ネルガル様!」

 ネルガルのモルフは何も言わない。

 リムステラは「ご命令を、ご命令を」と繰り返し、やがて事切れた。

「………ネルガル、か」

 ジャファルは育ての親の姿をしたモルフに、銀の剣を振り下ろした。


    【第6章・第12話】


 サカ騎兵の素通りを見ていたジェミーは、敵は百にも満たない小勢、ナーシェンの軍勢が蹴散らしてくれるだろうと考えた。そして、フレアーにナーシェサンドリアに待機していた竜騎士10を率いさせて、アルフレッド侯爵のもとに派遣する。

 アルフレッド侯爵は国境線に物見を立てて二回目のサカ部族の侵入を警戒していた。手勢300を集めて、その内100を国境防備に付けている。

 フレアーはアルフレッド侯爵が勝手にサカ部族に報復行為に出ないように、監視のために送り込まれていた。アルフレッドは若手だが、父アウグスタの堅実性を受け継いでいる。短慮に走るとは思えないが、念には念を入れてのことだった。

「アルフレッド様! 敵影を発見しました!」

「よもや、さらなる襲撃ではないだろうな。サカの民とはそこまで愚かであったか」

 アルフレッドはやれやれと溜息を吐いて、配下の騎士たちと顔を見合わせた。

 直後、別の伝令がアルフレッドの前に跪く。

「ご報告します!」

「話せ」

「あの集団は、サカを追われた流民です」

「……自ら攻め込んでおきながら、敵である我らを頼るか」


    ―――


「急いで! ベルンはもうすぐよ!」

 クシャナ族の族長の娘サラは声を張り上げた。まだ13歳になったばかりのサラにとって、200人の非戦闘員を守り抜くのは酷なことだった。それでも、サラは一族の数を減らすことなく、他部族の略奪から逃れてきていた。

 たとえ13歳でも、サラが『草原の狐』と恐れられた族長の血を引いていることは歴然としていた。

 サカ部族にはそれぞれの縄張りのようなものがある。栄養価のある草が生えている土地を持てるのは、強い部族の特権だった。

 そして、情報とはどれだけ秘匿しようとしても漏れ出すものだ。

 クシャナ族から戦える者がいなくなったという噂は、瞬く間に別の部族に伝わってしまった。周辺部族たちは顔色を変えてクシャナ族の女性や家畜を手に入れるために牙を剥いた。中にはこれまで友好的な関係を築いてきた部族すら襲い掛かってきているのだから呆れるばかりだ。

 クシャナ族の戦闘員は族長の娘サラをアルフレッドが拉致したため、それを取り戻すために出撃したらしい。実際のところは、乱心した父にゲルに閉じ込められていただけだった。サラが侵攻する名目にされたことは明白であった。

「サラ様。本当にベルンの連中は私たちを助けてくれるんですか?」

「当然でしょ。ベルン北部の騎士はジェントルな方ばかりなんだから」

 サラは恋する乙女の顔をして、納得できない顔をしている部族員に言い聞かせる。部族員はどうしてサラがそこまでベルン北部の者たちを信用できるのか理解できない様子であった。

 そう、あれは五年前。

 サラがブルガルに遊学している時のことであった。

『やめて! 誰か助けて!』

『へへっ。こりゃあ上玉だぜ。高く売れそうだ』『その前に、俺たちで楽しまないか?』『マジか? まだ十歳にもならんガキだぞ』『処女の方が高く売れる。それはやめとこうや』『ちぇ。こんな小さいガキを犯る機会、滅多にないってのに』

 露店の並ぶ市を回っていたサラは、気がつけば人気のない通りに入ってしまっていた。すぐさま踵を返そうとしたサラであったが、影から様子を見ていたならず者たちが襲い掛かり、あっと言う間に組み伏せられてしまったのである。

 サカは部族自治という性質上、領地ごとの通行の制限がない。ブルガルはサカ最大の商業都市だったが、それ故、犯罪者が誘蛾灯のように吸い寄せられて来るのである。商業都市という表の顔を捨てれば、犯罪都市というもうひとつの顔が露になるのである。

『やだぁ! お父さん! お母さん!』

『るせえな! 黙らせろ』

 下卑た面をした男が、襤褸切れをサラの口に押し込もうとする。

 その時だった。

『いたいけな娘に何をしようとしている。女は愛でるもの。暴力を奮う相手ではない』

 渋い男性の声がした。

 直後、サラの傍にいた男が、鞘に入った剣で肩をしたたかに打たれて、泡を吹いて気絶した。そこからは一方的だった。男たちが口を開く前に、流れるような剣が男たちの意識を刈り取っていく。反撃を許さない、見事な一撃だった。

『もう大丈夫だ』

 すべてが終わった後、男は泣きじゃくるサラを抱きしめると、その頭をゆっくりと撫でた。

 その後、恩を返すために夕食に招待しようとするサラであったが、男はやんわりと断わると、サラを下宿先の宿の前まで送ってから去ろうとした。せめて名前だけでもとすがり付くサラに、男は「ベルン北部のしがない騎士、フレアーだ」と名乗ってから去って行った。

「はぁ。つまり、一目惚れだったんですね」

「そ、そそそ、そんなわけないでしょ! わたしなんかがあの人に言い寄っても、迷惑がられるだけよ! こっちはサカの民。向こうはベルンの騎士なんだから」

「そう言うことにしておき……サラ様!」

「きゃ! な、なに!?」

 部族の若者は微笑ましげに苦笑して――サラに飛び掛った。その肩に矢が突き刺さっているのを見て、サラは状況を理解する。

「敵襲ーっ!」

「全員、騎乗! 少しでも戦える者は弓を取りなさい!」

 サラは自分は置いていけと言い張る部族の若者を馬に乗せると、その横腹を殴り付けた。それを見届ける前に、自らも弓を取って隊列の後方まで全力で駆ける。

 精強な騎馬部隊が、後方に迫っていた。クシャナ族の方は、引退した老人や、年端も行かない子ども、非力な女性までもが弓を構えている。

 最初の襲撃を脱したのは、咄嗟に家畜を解き放ったからだ。二度目の襲撃では、金品や家財道具を放置した。だが、三度目はもう囮になる物はどこにもない。

「フレアー様……もう一度、お会いしたかったです……」

 サラは覚悟を決める。

 そして、大空から舞い降りた飛竜の軍団が、敵騎馬部隊を鎧袖一触に蹴散らした。

「え……? フレアー様?」

 その戦いぶりは、あの時のように『もう大丈夫だ』と語っているようであった。

 これが、13歳のサラと32歳になるフレアーの二度目の邂逅であった。


    ―――


「えっと……ナーシェン様。その方はどちら様でしょうか……あ、ソフィーヤさんと言うんですか。あはは、よろしくお願いしますね。あはは、あははっ……」

「また新しい女を連れてくるなんて! 私じゃ満足できないって言うの!?」

 半死半生のナーシェンは帰還した途端、妻たちに締め上げられて意識を昇天させた。


    ―――


「ジード殿。ご無事で何よりです」

「フィル殿か。君はあの戦いに出ておかなくて、正解だったかもしれん。あの戦闘で、ナーシェン様が死にそうになった。大切な者が傷付いて、己だけが無傷ということが、最も辛いことなのかもしれんな」

「ジード殿……」

 屋敷の中庭では、悩める男と、かける言葉の見付からない少女が見られた。


    ―――


「リーザ。ああ、会いたかった!」

「い、イアン様! み、みんなの前で抱きつかないで……あっ、そこは駄目……まだお昼ですよ……」

「いつものようにイアンと呼んでおくれ。俺の愛しいリーザ」

 ノーマルであることに喜びを覚えるイアンであった。決して鬼畜ではない。純愛である。


    ―――


「ああ、ブラッドさん! ブラッドさぁーん!」

「愛い奴め。そうか、戦場での昂ぶりがまだ収まらんか。ならば、俺がすべて受け止めてやる」

「ブラッドさん! 僕も……僕も……!」

 エトルリア組の宿舎は爛れていた。


    ―――


「……フレアー様。お久しぶりです」

「君は……そうか、あの時の」

「……どうか、サラとお呼び下さい」

 あるところでは、ブラミモンドの柴田勝家が産声を上げようとしていた。


    ―――


 そして、再会があった。

「ニノ……すまなかった」

「……ジャファル」

 ニノの目尻に涙が浮かぶ。

「ごめん。一発だけ殴らせて」

 パチン、と乾いた音がした。それから、ニノは「うわあぁぁん」と泣きながらジャファルに抱きついた。



[4586] 第6章第13話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 14:52
 ナーシェンは包帯にぐるぐる巻きにされて、寝室に押し込まれていた。聖職者の杖も振って貰っているが、快癒にはほど遠い状態であったため、少なくとも二週間はベッドから起き上がってはいけないという悲劇に見舞われていた。

 ジェミーは執務に忙殺されており、リリーナは他の貴族の子弟や、初等教育を優秀な成績で納めた者たちと一緒に、ニノの魔法実践の講義を受けていた。

 エトルリアで食い詰めていた魔道士をスカウトして、並行して魔法理論の講義を開いているので、授業はそれなりの形になっているらしい。まだ生徒数は二十人にも満たないため、学問所の教室をひとつ開放して、そこで講義を行っていた。

 バアトルはやはりと言うべきか、屋敷を去っていった。根無し草の風来坊が性に合うらしい。

 しかしフィルがブラミモンド家に残り、いずれ仕官するつもりであるという旨をナーシェンはジェミ―から聞かされている。

 サラたちクシャナ族には、ブラミモンド家の畜産・酪農関係に手を貸して貰っている。遊牧で培ってきたノウハウが生かされていた。また、二年後には、数は50にも満たないが、騎馬弓兵になれる若者が成人するので、ナーシェンの部隊で面倒を見て欲しいと打診されている。

 その後、フレアーがナーシェンのベッドの側で土下座して「サラ殿との結婚をお認め頂きたい」と言われて、ナーシェンは胃袋が裏返るほど絶叫した。再会から一週間のスピード結婚である。そして、32歳と13歳の年の差夫婦の誕生であった。

 フレアーの妻は流行病で命を落としていたため、特に問題なく婚儀の話は進んだ。

 そして――。


    【第6章・第13話】


「…………で、君は何なんだ?」

「あ、ソフィーヤと申します……」

 ソフィーヤはペコリと頭を下げた。三十分ほど前に、ナーシェンの寝室にやって来て、ベッドの脇の椅子に腰を下ろして、微動だにせずにナーシェンの顔を見つめていたのである。その間、二人の間で交わされた言葉はなかった。

 空気がやたらと重苦しい。

 こんな三枚目の顔のどこが面白いのだろうか。そんなに笑える顔だとは思えないのだが……いや、ここ数年鏡なんて見ていないから、途方もない不細工になっているのかもしれない。ナーシェンが真剣に悩んでいると、ソフィーヤはローブの中に手を突っ込んで、そんなものがどこに隠れていたのか、分厚い魔道書を取り出した。

「あの……もしよかったら……一緒に読みませんか……?」

「それ『新訳・闇魔法概論』だろ? もう読んだよ」

「……そうで…すか」

 ソフィーヤは悲しそうに目を伏せる。罪悪感で死にたくなった。

「いや、昔のことだから中身は覚えてないんだ。うん、読もう読もう」

「はい……」

 ナーシェンが「こっちにおいで」とソフィーヤをベッドに手招きする。

「あ……あの……ちか…い…です」

 ナーシェンは彼女の肩を寄せて、お互いの息が届くような距離で、魔道書を読み始めた。これを意識してやっているなら、ナーシェンは生粋の女垂らしであるが、本人は魔道書の内容に夢中になっていて、周囲の音がまったく聞こえていない様子である。

「ん、何?」

「いえ、何でも……」

「そっか」

 二人が情を交わすことになるには、まだ暫くの時が必要であった。

「君は、これからどうするつもりなんだ?」

「ご迷惑でなければ……見届けさせて下さい……」

「私を?」

「はい……。救世の闇、八神将ブラミモンドの再来、ナーシェン様……」

 ナーシェンはそんな大層なものではないよ、という言葉を口の中で転がした。


    ―――


「僕は、ここに残ります」

 オスティア郊外の寒村に寄り添うように建てられている孤児院で、五、六歳の少年が高い声で言い張った。緑色の髪をした、まだ可愛らしい顔をした子どもである。少年は院長に寄りそって、離れようとしなかった。

「いいのかね? ベルンには君を生んだご両親がおられる。故あって今まで面倒を見ることができなかったが、ブラミモンド家に仕官が叶い、生活が立ち行くようになったんだ。ここよりも、裕福な生活ができることは間違いない。私が保証しよう」

 ブラミモンド家の初老の騎士の言葉に、しかし少年は首を横に振った。

「たしかに両親との生活に焦がれる気持ちはあります。でも、僕にとっては顔も名前も覚えていない両親よりも、院長先生との生活の方が何よりも得難いものなのです」

「ルゥ……貴方という人は……」

 涙目になったルセアがルゥを抱き締めた。

「院長先生、僕はご恩を返すまでは、ここにいるつもりです。まだまだご迷惑をかけるでしょうが、よろしくお願いします」

 感動のシーンである。

 こっそりと様子を見ていた孤児たちまでもらい泣きしているような場面であった。

「なぁ、ナーシェンってやつは闇魔法に通じているという話を聞いた。本当なのか?」

 だが、それに水を差すように、ルゥとよく似た見目形をした少年が皮肉に口元を歪めて、ブラミモンド家の騎士に問いかけた。ルゥとルセアが目を丸くする。

「おいっ、てめ、院長先生を見捨てるって言うのかよ!」

 陰から見守っていた孤児のひとり、チャドが怒りに身を任せて少年に飛びかかった。

「暴虐の闇よ、我が意に従い、彼の者をねじ伏せろ」

 闇魔法がチャドを壁に叩き付ける。

「ぐっ……くそっ、レイ! 何をする!」

 少年――レイは嫌みったらしく持って回った言い方をする。

「見捨てるとは心外だな、チャド。俺が出て行った方が、院長先生の負担が減ると思ったまでだ。それに、両親との再会を望む子どもを非難するのは、人として間違っているんじゃないか?」

「だが、ルゥは残ると言った! お前は兄弟を見捨てるというのか!?」

「ルゥは己の意志で残ると言っている。俺はその意志を尊重しているだけだぜ。強引に押し切って連れて行こうとしない思いやりを評価して欲しいのだがな」

「誰がそのような戯れ言を信じるか! この嘘つきめ!」

「………………おい、そこの騎士。俺をナーシェンのところに連れて行け」

 レイは額に青筋を浮かべるが、まともに取り合わずに、チャドから視線を離して、ブラミモンド家の騎士を見上げて高飛車に言い放った。


    ―――


 こうして後に歴史に大きな謎を残すことになる、クシャナ族のベルン北部侵攻は幕を下ろす。

 表向きには得られる物がほとんどなかった戦いであったが、この戦でブラミモンド家の人材層がほぼ倍増していることに、他国の貴族が気付くことはなかった。他国の貴族たちはナーシェンが苦戦している様を見て満足しているだけであったので、無理もないことであった。

 天才魔道士ニノ、死神ジャファル、ナバタの巫女ソフィーヤ、剣聖の後継者フィル、将来の『草原の女狐』サラがブラミモンド家に取り込まれることになった。三年後、エレブ大陸を縦横無尽に駆け巡る最強の家臣団の礎が築かれた瞬間であった。


 第6章 完



[4586] 登場人物リスト(暫定)
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/01/28 20:59
設定および年齢は6章終了時点のものです。
あまりの多さに吹いた。これも作者の筆力不足です。しかし目が回りそうだw



☆ナーシェン派(北部同盟)


 ナーシェン:我らが主人公。ブラミモンド公爵家の当主。18歳。シャーマン。

 ジェミー:我らがヒロイン。ナーシェンの側入りを果たすが、これまで同様ナーシェンの秘書として活躍する。15歳の理論派魔道士。

 リリーナ:ヒロインその弐。リキア同盟盟主オスティア侯爵の公女であったが、ヘクトルの失策のツケでブラミモンド家に嫁に行く。魔法の天才。10歳

 ソフィーヤ:ヒロインその参。竜の血を半分引いているため、成長するのが遅い。外見は十六歳前後の少女だが、実年齢はおばさんかもしれない。ナバタ砂漠に引きこもっていたところ、ベルン東部に力の波動を感じて、思わず飛び出して来てしまう。ナーシェンに魔道書エレキシュガルを託す。



 ジード:憐れなお兄様。18歳。ドラゴンナイト。

 バルドス:ナーシェンの腹心。老人。男爵。引退している。多分パラディン。

 フレアー:地味だけど腹心。ヒゲ。ドラゴンナイト隊の隊長。

 ディートハルト:竜騎士。美形。ブラミモンド譜代の臣。頼れる兄貴。

 イアン:烈風イアン。若者。ソシアルナイト。

 ブラッド:豪槍のブラッド。両刀使い。恋人(男)多数。おっさん。

 スレーター:何故か救われない人。おっさん。アーマーナイト。



 カレル:ヒッテンミツルギスタイルの開祖。かつては剣魔と恐れられたが、今では剣聖と尊敬されているかもしれない。もう40になるというのに、20代に間違われるほどの若々しさが売りである。

 フィル:カレルの姪。

 ニノ:現在は『魔法少女、育てます』をモットーに頑張っている巨乳ロリ若妻。

 ジャファル:死神と恐れられたほどの暗殺者。今では二児の父親。

 サラ:フレアーと結婚してしまった13歳の少女。クシャナ族の首領。




 アウグスタ:鉄壁将軍。引退している。

 アルフレッド:アウグスタの息子。侯爵。築城の名手。

 ベルアー:伯爵。眼鏡の似合うナイスガイ。

 マリナ:ベルアーの長女。将来はナーシェンと結ばれるものと夢見ている。

 アレクセイ:ベルアーの長男。

 カザン:伯爵。優れた凡将。

 グレン:トラヒムから寝返った侯爵。




◆ベルン王国

 ゼフィール:ベルンの王様。近い未来、世界征服に乗り出す。クラスは国王。

 ギネヴィア:ゼフィールの妹。



 マードック:三竜将のひとり。ゼフィールの腹心。クラスはジェネラル。

 ブルーニャ:三竜将のひとり。子爵家の令嬢。ゼフィールに恋焦がれてる。クラスは賢者。

 ゲイル:マードックの家臣。ドラゴンマスター。



 イドゥン:魔竜。封印されていたがゼフィールが発見。世界征服の道具にする。

 ヤアン:火竜。ゼフィールは彼に世界をプレゼントする予定。ラスボス前の噛ませ犬。



 ファルス:ベルン西部の実力者。公爵。

 グレゴリ:ベルン南部の侯爵。豪快な性格。

 バレンタイン:ベルン王国宰相。出自はベルン東部の小貴族。

 トラヒム:侯爵。ナーシェンとベルン北部の覇権を賭けて争うが敗北。



○エトルリア王国

 モルドレッド:王様。そこそこ有能。

 ミルディン:王子。封印の一年前に暗殺されそうになり、西方三島に逃がされる。



 パント:リグレ公爵ご隠居。八神将アトスの弟子。クラスは賢者。

 ルイーズ:パントの妻。登場時からパントと支援A。クラスはスナイパー。

 クレイン:パントの息子。美形。エトルリアの将軍。ナーシェンの友人。クラスはスナイパー。

 クラリーネ:クレインの妹。クラスはトルバドール。ヒロイン?


 エルク:パントの弟子。王宮付きの魔道指南役。この作品ではプリシラの夫。クラスは賢者。


 セシリア:魔道軍将。エルクの弟子。ろけっとおっぱい。クラスはヴァルキュリア。

 ダグラス:大軍将。ヒゲ爺さん。クラスはジェネラル。

 パーシバル:騎士軍将。イケメン。



 ロアーツ:エトルリアの宰相。ジェネラル。汚職万歳。

 アルカルド:侯爵。パラディン。ロアーツの米搗きバッタ。




*エリミーヌ教会

 ヨーデル:司祭。司教並みの権威を持っている。

 サウル:僧侶。ヨーデルの弟子。女垂らし。




 オルト:司教だったが、トラヒムに援助したのがバレて司祭に降格された。

 サウエル:司祭。任地で金を集めていたため、ナーシェンの策略に陥れられる。





♯リキア地方

 ヘクトル:オスティア侯爵。筋肉ヒゲ。烈火の主人公のひとり。



 オズイン:ヘクトルの腹心。武官だったが、引退してからは文官としてオスティアを支えている。

 アストール:クラスは盗賊。オスティアの諜報を担う。

 セーラ:オスティア家のシスター。孤児院出身。



 レイガンス:オスティア家の武将。ジェネラル。封印では謀叛を起こす。

 デビアス:レイガンスの部下。小物っぽいが、そこそこ有能。



 エリウッド:フェレ家当主。烈火の主人公だが、封印では病弱なオッサン。

 ロイ:封印の主人公。フェレ公子。クラスはロード。

 マーカス:フェレ家に仕える騎士。パラディン。じいさん。引退を考え中。

 ランス:鬼畜王ではないと思う。フェレの騎士。ソシアルナイト。

 アレン:イノセンスを持っているアレンではない。フェレの騎士。ソシアルナイト。

 ウォルト:ロイとは乳母兄弟。クラスはアーチャー。




◎ナバタ砂漠

 長老:グラフィックは村の老人と変わらないが、おそらく特別な人なのだろう。

 イグレーヌ:烈火の剣に登場したホークアイの娘。過去にアストールにやり逃げされたらしい。クラスはスナイパー。



△その他

 バアトル:フィルの父。クラスはウォーリア。



[4586] 第7章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 15:54
 エレブ歴997年――。

 竜騎士ゲイル、三竜将に就任。

 当初は他国の人間ということであまり歓迎されなかったが、他になり手がいなかったことと、ゲイルの優れた能力に余計な口を挟む者はなかった。

 と言うよりも、ゼフィールが強引に推し進めた。国家の中央集権化を目指すゼフィールに、諸侯をその座に就けるという選択肢はなかった。その点ゲイルはマードックに気に入られてはいるが、後ろ盾のようなものを持たないために都合がよかったのである。

「いやぁ、めでたい。本当に目出度いことですなぁ、ゲイル殿。いや、これからはゲイル将軍と呼ばなければなりませんか」

 ゲイルの背中をグレゴリ侯爵が叩きまくっている。すでに出来上がっていた。

 ナーシェンは壁の花と化しながら、ちびちびと酒を飲んでいた。

 この男がはっちゃけないのは珍しい。周りの者が不気味なものを見るように様子を窺ってくるのが鬱陶しく思うナーシェンである。

「あのお兄ちゃんがなぁ……」

 ナーシェサンドリアの喫茶店に入り浸っているゲイルである。真顔で従業員を身請けしたいと相談してきた時は、思わず格式などを度外視してぶん殴ってしまったが、そのゲイルがついに将軍になるわけだ。感慨深いものがある。

 死亡フラグそのいち――回避。

 感慨深げに憑依以来のイベントを振り返っていると、貴族の中に紛れ込んだ諜報員が、こっそりとナーシェンに耳打ちした。

「ジュテ族によりルル族が攻め込まれております」

「……ふぅん。ようやく動き出したか、エトルリアの愚物どもが」

「どうしますか?」

「泳がせておけ。ジュテ族ごとき、何時でも潰せる。それよりも優先することがあるだろう。今から『灰色の狼』とのパイプを作っておく。ジェミーにはそう言っておけ」

 ジャファルの教育を受けた諜報員が、影に紛れて祝宴の会場から抜け出していく。

 ナーシェンの脳裏には、サカ攻略の展開が図面に浮かんでいた。常に謀略について頭を巡らせておかなければ落ち着かない。これは病気と言えるかもしれない。

 苦笑しながらゲイルを見やると、ナーシェンは酒瓶を片手に歩み寄った。


    【第7章・第1話】


「レイ君、朝だよ。起きて」

 甘ったるいシロップをふんだんにぶっかけたような声だった。酒を飲んでいたわけでもなく、また風邪でもないのに、頭がズキズキと痛み出した。これが、俺の母親か――とレイは頭痛のする頭を振りかぶりながら身体を起こす。

 寝ぼけ眼を擦りながら周囲を見回すと、とろけるような笑みを浮かべた母親の姿が。

「レイ君、おはよぉ」

「ああ、おはよ」

 同年代の友人――魔法学校の同級生や見習いの従騎士たちが羨ましげな顔をするが、レイにはまったく理解できない。美人の母親にやっかみを覚えるのはわかる。だが、レイには「これがなぁ?」という気分にしかならない。

『そうかそうか。どうせなら幼馴染に起こして欲しいよなぁ、少年。で、朝立ちしているのを見られて『いやっ! レイ君の変態!』って叩かれたいんだろ』

『るせえよ、変態貴族』

 師匠との会話を思い出して、レイはげんなりする。

 父親は暗殺者。母親は天然若妻(巨乳)。複雑な家庭環境に溜息も吐きたくなる。

 ちなみにこの母親、魔法学校の教師だったりする。教室が騒がしくなると「静かに! お願いだから静かにしてぇ!」と半泣きになる。その度に校舎裏でレイの拳が炸裂したりする。マザコンか、俺は。べ、別に母さんのためにやったんじゃねぇよ! ――とは本人の弁解。

「どうしたの、レイ君。溜息なんか吐いたりして?」

「着替えるんだよ」

「そうなの?」

 そうなの、じゃねぇよ。ニコニコしながら息子の着替えを眺めるんじゃねぇ。

 そんなこんなでレイは母親を部屋から追い出し、ローブを羽織って魔道書を小脇に抱えた。

 師匠は朝早くから客を出迎えるための準備に追われているはずだ。多忙な師匠を見る度に、内心で「ざまあみろ」と思うのだが、その所為でレイの修行の時間が減るのは問題だ。

(また、何か手伝わされるんだろうな……)

 弟子に政務を押しつける師匠。死ねばいいのに。


    ――――


 騎士の新規登用、増員数は200。

 ジェミーは頭の中で予算表を広げて、訓練にかかる費用や装備などを算出していた。文官が走り回り、「おい、鉄の槍の相場は!?」「知るか! 自分で探せ!」「リストならここにあるぞ。エトルリアのだけど」「意味ねぇよ!」などと言葉が交わされ、文字通り書簡が空を飛んでいる。

 まさしく、修羅場だった。

 ちなみに、ナーシェンはサカ地方の政略に追われてこの案件に関わっている暇はなかったりする。

「ジェミー様! 面接官のイアン様が逃亡しました!」

「はぁ? まだ50人目じゃない。400人は頑張って貰わないと!」

「そ、それが、『永遠はあるよ、ここにあるよ』と言って蒸発したそうです」

「仕方ないわね。じゃ、ディートハルトを引っ張ってきなさい」

「イエス、マム!」

 おたおたと走り去る兵士の背中を見送らず、ジェミーは机の上にどんどんと増えていく書類を手に取って、さっと視線を走らせる。筆で修正を入れると担当の文官に投げつけた。

「ジェミー様! ブラッド様が面接場に乗り込んで暴れ回っています!」

「はぁ? 採用が決定するまでは、“あれ”は兵舎に閉じ込めておけって言っておいたでしょう」

「そ、それが、『気に入ったよ君の身体……そしてジュニアもな……』とノリノリで面接しているようで」

「隔離しなさい。むしろ抹殺しなさい。で、ディートハルトはまだなの?」

 面接場の光景を思い浮かべてしまったジェミーは、顔をしかめながら兵士に問いかける。

 その途中で執務室に入ってきた少年は、カレルの剣速よりも速く回れ右した。

 レイであった。

 が、それよりも速くジェミーの右手が少年の肩を押さえつけた。ドラゴン○ールの瞬間移動を超越した速度である。今ならジャファルにも勝てるような気がする。

「ちょうどよかったわ。手伝いなさい」

「な、何で俺が。俺は師匠を捜していただけだ」

「大丈夫よ。この机の書類を処理したら、居場所を教えてあげるから」

「ぐっ。ひ、卑怯だぞ!」

「聞こえなぁーい! ジェミーちゃんは何も聞こえなぁーい!」

「くっ、いい歳して『ちゃん付け』かよ」

「……………………さっさと働けよ。バラすぞ、クソガキ」

「……………………」

 空気が凍り付いていた。慌ただしく動き回っていた文官や、給仕の侍女たちまで、一様にこちらを振り向き、光のごとき早さで目を逸らしている。

「あ、あはは……みんな、どうしたのかな?」

「「「………………」」」

「ジェミーさん、お呼びで……どうかしましたか?」

 ディートハルトが黙りこくる一同を見て、怪訝そうに首を傾げていた。



[4586] 第7章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/03/01 20:18
 物心付いた頃から父親から、それこそ蛇蝎のごとく忌み嫌われていた。同じ城にいても顔を合わせるのは月に一度もなく、妹と話していると頬を殴られる。

 そんな幼年時代を送ってきた青年――名をゼフィールといった。

 父は息子の才能を疎み、勉学や武芸などで並々ならぬ結果を残しても、それを未熟だと罵った。稀代の賢者さえ褒め称えたゼフィールの才能は、デズモンドにとって妬ましいものでしかなかったのである。

 成人するまで純真さを失わなかったのは、奇跡ともいえよう。

 しかし、この頃には青年の心はすでに壊れそうになっていた。

 ある日のこと――。

「父上、思えば私は父上との会食は初めてでございます」

 若き日のゼフィールは、二人きりで食卓を囲んでいた。

 本来なら長大なテーブルを跨いで向かい合うところだったが、デズモンドのはからいによりゼフィールは父の側に寄ることを許されていた。

 最初こそゼフィールは瞳に喜色を満たしていたが、やがてその瞳はどんよりと光を失っていった。

「……はよう食え」

 食卓に並べられた山海の珍味。ゼフィールは震える手でそれに触れた。

 ゼフィールは指輪をしている。銀製であった。それが、変色していた。

 怒りと悲しみ、悔しさにゼフィールは涙する。

「父上。……これが父親が息子に食わせる最初の料理ですか!」

「貴様、わしがわざわざ用意してやったものを、食えんと申すのか?」

「いいでしょう! ならば、食らってみせましょう!」

 ゼフィールは堰を切ったかのように胸の中のものを吐き出した。

「これが父親の所業なら、息子である私はすべて受け止めてみせましょう! ですが、お覚悟めされよ!」

「覚悟とは何ぞ?」

「貴方の背を見て育った私が、生き延びれば何をするのか。それを覚悟せよと申しているのです」

「………………」

 手に握りしめたものを口に放り込む。遠のく意識の中、ゼフィールが見たのはデズモンドの笑顔だった。皮肉にも毒を食らったがために、ようやく父親の笑顔を見ることができたのである。


    【第7章・第2話】


 草原。ひとえにそう呼ばれるサカの大地だが、潤沢な草葉が生えている土地はそれほど多くなく、実際は砂漠と変わらない不毛の大地が広がるばかりであった。各部族の抗争で幾多の血が流されてきたのも、そのためである。

 ここにクシャナ族が抜けた穴を埋め合わせするように、テリトリーを広げた部族がいた。

 ルル族。

 元々それほど好戦的ではなく、和を重んじる部族であった。クシャナ族の非戦闘員追撃を唯一止めようとした部族でもあった。そのためサカ最大の部族、クトラ族からの信用を受けて、クシャナ族の領地を任されることになったという理由があった。

 その部族が今、火にさらされていた。

「おのれ、ジュテ族め――!」

 突然の奇襲だった。火矢がゲルに突き刺さり、多くの非戦闘員が焼け出された。迎撃の準備が整った時には、敵の騎兵が集落に入り込んでおり、すでにまともな戦闘にはならなかった。

 ルル族の族長は悔しさに歯を噛み締め、流された血の量に涙する。

 ジュテ族の騎兵が、ルル部族の女性の髪を引きずっているのが見えた。だが、壊滅状態のルル族には、それを止める術はない。

「何故だ! 何故、このようなことを!?」

「ほう、まだ逃げ遅れた者がいたか。……おや、貴様はルル族の長ではないか」

 奇遇ですなぁ、と笑っているのは、ジュテ族の族長モンケだった。

 モンケは友人と談笑するような調子で、ルル族の長に話しかける。

「貴様は昔から要領が悪かったからなぁ」

「………………何故だ?」

「何故と問うか。今更だがな、それもわからんのか」

 モンケは笑う。それは、狂信者の笑みだった。

「サカは、新たな統治者を必要としているのだよ。それも、他国と渡り合えるほどの頑強な政体を持つ統治者だ。これは、サカ統一戦争の序幕だ」

「……貴様、英雄になったつもりか!?」

 モンケは答えず、弓を引いた。

 野蛮な部族統治。他国からは侮られ、攻め込まれれば滅びを待つしかない国。いや、これを国と言えるだろうか。「侵略する者には団結して戦う」という部族の掟だけでは、戦乱を生き抜くことはできない。

「英雄願望もあるだろう。だが……」

 モンケはサカを統一する必要があると考えた。他ならぬ、自分の手によって。


    ――


 ナーシェンに立ち向かった宿敵は星の数ほど存在しているが、その中でも英雄と呼ばれる者――例えば『フェレの竜公子』ロイ、『亡国の貴公子』クレイン、『王国の盾』ダグラスを筆頭とするエトルリア三軍将などが上げられるが、ちょっと歴史に詳しい者なら、まずこの者を上げるだろう。

 ――ベルトラン兄弟。

 ベルトラン子爵、兄のゲクランと弟のエマヌエル。

 元は男爵家という下級貴族の出身でありながらロアーツに重用され、主にサカ地方への計略を担当した謀将である。



[4586] 第7章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 16:01
 ゲクランは歴史が好きだった。領地に訪れる吟遊詩人が語る、英雄たちの叙事詩が特に好きだった。武略や知略、それに憧れた。自分もいずれは歴史の表舞台に上がり、将来は英雄と呼ばれたい。そう思うようになった。

 しかし、ゲクランは三男だった。側室の子である。

 どんなに頑張っても、将来は兄の家臣。しかも、ゲクランは刀槍はあまり得意ではない。知略には自身があったが、若輩者ではいくら献策しても受け入れてくれない。それどころか、父からは「私に意見するのか」と殴られ、兄たちからは嘲笑を浴びせられた。

 このままでは英雄たちの表舞台には昇れない。焦燥感がゲクランの胸を焼いた。

 最近ではベルン王国のナーシェンがトラヒムを撃退し、一躍大陸に勇名を轟かせていると言うのに、自分はまだこんなところで燻っている。それが許せなかった。

 そして――。

 父は山賊退治の時に流れ矢を受けて死亡。母はそれを悲しんで、毒をあおって自殺。長兄は落馬の傷が原因で死亡。次兄は街を歩いている時に通り魔に惨殺されている。

 不審すぎるため送り込まれた王国側の査察団は、ロアーツに取り入ることで抑えつけた。

 ゲクランはまさしく、謀略の天才だった。

 これを見た弟のエマヌエルは、兄に恐怖して臣従を誓った。刃向かう気力は残っていなかった。


    【第7章・第3話】


 ゲクランは焼け焦げた死体を見つめ、陶酔したような眼をそれに向けた。自分の策略が戦場を左右する。そう、これだ。これが自分の求めていたものなのだ。

「兄上。残敵の掃討が終わったようです」

「そうか。では、モンケ殿のところに向かうとしよう」

 弟のエマヌエルの報告を聞いて、ゲクランは表情を引き締める。

 二十代前半の若者だった。栗色の長髪を背中の中ほどまで伸ばしているが、それが嫌味になっていない。側室の母の美貌をそのまま受け継いだかのような貴公子だ。

 本営にたどり着くと、集められた捕虜の女性たちが、潤んだ瞳をゲクランに向けている。仲間を失った悲しみか、これからのことを思って涙しているのか、それともゲクランの美貌に魅せられているのか。

「兄上は相変わらず女性に人気なようで」

 エマヌエルが茶化してくる。悪い気はしないが、ゲクランは申し訳なくなった。

 弟のエマヌエルは、凡庸な顔つきだった。凡愚とうたわれた父や、政略結婚だった母は、容姿に優れていなかった。両親の容姿をそのまま受け継いだ青年だった。だが、ゲクランに欠けている武勇を補ってくれる武将だった。

「モンケ殿。此度の勝利、おめでとうございます」

「おお、ゲクラン殿か。待っておったぞ!」

 親しげに笑うモンケに、ゲクランはなごやかに笑い返しながらも警戒心を緩めなかった。

 父と同じ臭いがする。謀略に生きるゲクランは、直感的にモンケの本質を見抜いていたのである。形勢が悪化すれば、こちらも巻き込んで犬死にするような手合いだ。

「貴公らの武器防具のお陰で、我らの損害はひとつもない。エトルリアには感謝してもしきれぬ」

「どういたしまして、と答えておきましょうか」

 ロアーツの指示によって行っていたジュテ族の取り込み。そして、ジュテ族を使って邪魔な部族の排除。謀略を得意とするゲクランにとっては、歯ごたえのない仕事だった。簡単すぎた。

(何をしている……? ナーシェン、このままでは俺がサカを切り取るぞ?)

 唯一危惧しているのは、サカの南に鎮座しているブラミモンド公爵のみである。

 それが、静観している。『灰色の狼』ダヤンが動き出すよりも、こちらの方がよほど不気味だった。

「しかし、よろしいのか。エトルリアの方も、先の戦の傷が癒えておらぬと聞いておる。我らを支援する余裕があるとは思えないのだが」

「我らエトルリアも不安定な政治体型を持つサカに不安を抱いておりました。ジュテ族によるサカの統治は望むところでございます。それに、エトルリアは大国。一度の敗戦で負った傷ごとき、たちまちに癒えてしまいます」

「それは頼もしいな」

 モンケの嬉しそうな物言いに、ゲクランは内心で「俗物め!」と罵っていたが、表面上は始終おだやかに対応した。

 やがて、下がろうとするベルトラン兄弟に、モンケは捕虜の女性たちを指さして言った。

「お好きな者を連れて行かれよ。今回の勝利も、貴公らのお陰だからな」

「よろしいのですか!?」

 嬉しそうな叫びを上げるエマヌエルに、ゲクランは苦笑した。


    ――――


 ナーシェンは各地に放った諜報員たちからの報告を順番に聞いていた。諸侯の動向、軍事力、王宮の政治、ありとあらゆる情報がナーシェンのところに集まっている。

「……ふむ。サカの内乱については、エトルリア、ベルン両国ともに静観か」

 報告を終えた諜報員たちが消え去り、幾分静かになった執務室でナーシェンは地図を広げた。

 ジュテ族の支配領域に印を入れながら、これからの戦略を考える。両大国は不干渉を取っているが、水面下では様々な工作が行われているのだろう。ジュテ族の勢力拡大にエトルリアの援助が存在することは、まず間違いない。

「おい、誰かあるか」

「はい。何でしょうか」

「サラを呼べ」

 執務室の入り口を固めていた兵士を呼びつけると、すぐさま命令を下した。

 ゲイルが三軍将に就任したということは、ベルンもそろそろ大遠征を視野に入れ始めたということである。手始めにサカを支配下に置いて、続いてイリア地方を制圧。リキアを切り取ってから、エトルリアに侵攻する。この辺りはナーシェンの介入はあれど、原作と変わらないだろう。

 しかし、サカへの支配力は、現時点ではエトルリアにアドバンテージがある。ベルンは出遅れていると言えるだろう。ロアーツの戦略眼が優秀なのではなく、ベルトラン子爵の鬼謀が冴え渡っていると言うべきか。

 しかし、すでに罠は仕掛けられている。

「定石では、暴力というものは先に手を出した方が負けなのだがね」

 ナーシェンはほくそ笑む。それはまさしく、謀将としての暗い笑みだった。

「ナーシェン様、失礼します」

 部屋に入ってきたサラを見て、ナーシェンは思考を止める。

「『灰色の狼』ダヤンと連絡を取りたいのだが」



[4586] 第7章第4話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/02/28 16:09
「あー……諸君らは今まで平民だったが、とりあえずは従騎士として登用させて貰う。一代限りで世襲は許されないが貴族だからな。ブラミモンド家の家臣として恥ずべき行動は慎むように」

「ナーシェン様。新兵の教育は是非ともこの私に……」

「貴様は消えろ、ブラッド。後日何人か灰汁の強いはねっかえりを見繕ってやるから」

 新規に200人も登用すると、何人かは反抗的な者が出てくるものである。普通は海兵隊っぽく「いいか、今日から貴様はウジ虫だ。喜べ、サル以下だ」と教育して、反骨精神を叩き折るのだが、ブラッドに任せれば従順になるだろう。人身御供でもある。

 ナーシェンはゴホンと咳払いしてから、緊張を表情に滲ませている者たちを見回した。

「騎士に求められるのは武略だけではないからな。礼儀作法や芸術にも通じておかなければならない。教養のない騎士など、当家には必要ない。そんな奴ら、山賊と変わらないからな。それを心得て精進を忘れるな。わかったか」

「「「はい!」」」

「いい返事だ。さて、堅苦しい話はここまでにしよう。明日からは厳しい訓練が待っているが、今日はそれは忘れて楽しめ。大いに飲め。諸君らが当家に忠誠を誓うなら、私は君たちに様々な形で報いよう。乾杯!」

「「「乾杯!」」」


    【第7章・第4話】


 イアンが使用人たちに混じって城の掃除をさせられたり、羽目を外しすぎたブラッドが地下牢に放り込まれたりして新兵増強はつつがなく終了した。彼らの憎悪は新妻との新婚生活のために休暇を取っていたフレアーに向けられたり、空気と同化して上手いこと仕事から逃げ出したスレーターに向けられていたが、それはまた別の話。

 翌朝、ナーシェンは例のごとくロイに殺されてから目を覚ました。

 三竜将はゲイルに譲ったのに、何だかんだ言ってこうしてロイに殺されるのである。「おのれナーシェン!」は聞き飽きた。どうしてエレブ大陸の巨悪にされるのだろう。ナーシェンは不思議で仕方がなかった。

 この悪夢もさんざん見てきたため、もう慣れてしまっている。とは言え、滝のような汗が流れるのは何時ものことだった。最初は妻たちに何かの病気かと心配されていたが、今では心得たもので、何も言わずに布で汗を拭ってくる。

「ナーシェン様、お身体にお触りはありませんか?」

「……いや、問題ない」

 ナーシェンが身体を起こすと、ジェミ-は器用に身体にシーツを巻き付け、ナーシェンの衣服を棚から取り出した。両腕を広げると、バサッとローブがかけられる。

 朝風呂に向かう。

 ナーシェンは風呂好きだった。日本人としての血が、そうさせるのだろう。

 ……いや、血は流れていないか。

「ふぅ……」

 底に鉄を貼り付けた風呂桶を何時でも盾にできるように側に置いてから、ナーシェンは湯船に沈み込んだ。水面に移る顔が、ゆらゆらと揺れている。西洋人じみた顔。それが、ふとした拍子に日本人のものに変貌することがある。

 ナーシェンは水面を手でなぎ払った。だが、そこに移っているのはかつての顔だ。

「忌々しい。他ならない、私自身が」

 舌を打つ。まだ執着しているとでもいうのだろうか。

「ナーシェン、背中を流しにきたわよ」

「ぶっ!」

 恥じらいながら風呂場に入ってきた正妻の姿に、ナーシェンはむせた。咳き込んだ。

 ゲホゲホと咳き込むナーシェンに、リリーナが不安げな顔をして、慌てて駆け寄ってくる。

「だ、大丈夫? もしかして、迷惑だった?」

「いや、そんなことはない。お前は私の妻だろ。遠慮はいらないさ」

「そ、そうよね。ごめんね、ナーシェン」

 抱きついてくるリリーナを受け止める。ナーシェンは暴走しそうになる理性を抑えつけるのに苦労した。それも、リリーナのあどけない顔を見ているとすぐになりを潜めたが。

「えへへ。あったかいね」

「ああ、そうなんだけど。何だかなぁ……」

 湯船に移っている顔は、何時の間にか、金髪の青年に戻っていた。


    ――――



『灰色の狼』ダヤン。サカの出身として、一度は会っておきたかった。

 なるほど。確かに、用意された椅子に座しもせず、鋭い猛禽のような目で主君を睨み付ける様は、一部族の長に留まらないものがあった。神騎兵ハノンの再来とうたわれるのも頷ける。

 目の前の男が、サカ草原の神殿(と言っても風化しており、遺跡と言っても差し支えはない)に奉納されている『疾風の弓』ミュルグレに触れることができる、唯一の人物らしい。しかし、この男は「分不相応な欲は持つものではない」と、ミュルグレに触れたことはないと言う。稀代の英雄、人格も申し分なく、サカの民の尊敬を一手に引き受けている人物だった。

 ナーシェンの護衛に就いていたフィルは、英雄の貫禄に気圧されていた。

 だが、ナーシェンは警戒心を剥きだしにして座りもしないダヤンを一瞥すると、勝手に椅子に腰掛けて足を組んだ。乱暴な振る舞いだが、この青年がすると気品が損なわれないのが不思議だ。

 ナーシェンは喉を塗らすためか、紅茶を一口すすると、おもむろに口を開いた。

「武器防具、食料ほか物資の提供」

 ダヤンは眉を寄せた。

「………………何故だ?」

「有り体に言えば、サカに統一王朝でも作られると、こちらが困るからですよ」

「心配は無用。モンケにそれほどの器はない」

「モンケにはなくとも、エトルリアの力を背景にすればそれが可能になるのです」

「貴様はサカをどうするつもりだ?」

 フィルは戸惑った。飛び飛びの会話に理解が追いつかない。同席していたサラも首を傾げていた。

 しかし、この二人には意志が通じているらしい。ナーシェンに敵意が向けられるのも、ダヤンがナーシェンの思惑を見抜いているからだろう。

「率直に言わせて貰う。貴様にとって、サカの内輪揉めなぞ興味もなかろう。エトルリアがサカを属国にすれば、批難を表明してからサカを蹂躙すればいいだけのはず」

「わかっているのに惚けるつもりですか? モンケがエトルリアの支援を受けた時点で、サカの命運は決定付けられているのですよ。それが理解できない貴方ではないはず」

 そう、それは――。

「ベルンの支配下に入るか、エトルリアの支配下に入るか」

「………………下げたくない頭を下げることになるとはな」

 そして、ダヤンはようやく席に着いた。不機嫌そうな態度を崩さないまま。

 最後までフィルたちには理解できない会談だった。

「私たちはよき友人になれそうだ。貴方の英断は、後世に称えられることになるでしょう」

 ナーシェンは薄っすらとした笑みを浮かべた。


    ――――


 その時、ナーシェンは表面上は余裕を保っていたが、内心では冷や汗をだらだらと流していた。老齢に差し掛かっているのに、そこらのオッサンよりも若々しい。カレルもそうだが、サカの民というのは若作りなのだろうか。

 そして、この威圧感。

 ゼフィール王には及ばないが、この老人にも間違いなく王としての貫禄が備わっている。

 しかし、交渉が上手く運んでよかった。

 このままではジュテ族がサカを治めるのは時間の問題だろう。だが、エトルリアの後ろ盾を得ている時点でベルンの侵略の口実になる。

 支援を受けるか受けないか、二者択一のように見えるが、ダヤンには選択肢はひとつしかない。

『ベルンの支配下に入るか、エトルリアの支配下に入るか』

 サラの持つ人脈で接触することはできたが、平時ならナーシェンとの会談に応じることはなかっただろう。ナーシェン側に引き込めたのも、エトルリアの圧政よりはベルンの統治の方がマシだと考えたからだ。ベルンがサカに暴政を敷いたら、この男はオセロをひっくり返すかのようにエトルリアに寝返るか、ゲリラ化するだろう。今後の戦略展開の頭の痛い問題だ。

 さて、あとはベルトラン兄弟だが……。

(あれは戦術家としては優秀そうだが、戦略家としては二流のようだな)

 もっとも、大陸の地図を広げて戦略を展開できる者など、両手の指で数えられるほどだが。下手をすれば、片手で足りてしまうだろう。二流でも、十分に評価に値する。

 彼らの不幸は、ナーシェンを敵に回してしまったことだった。



[4586] 第7章第5話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/03/01 20:26
 後世に書かれた物語――騎士軍将パーシバルを主人公にした『騎士道』という小説では、ナーシェンは陰湿な独裁者のように描かれている。ナーシェンは家中で絶大な権力を振っており、家臣たちは主君の顔色をビクビクと窺っていた――というような書き方である。

 ナーシェン悪人説を唱える者たちは、ナーシェンが「ブラミモンド家の持っていた爵位を家臣に与えなかった」ことを自説に上げている。これは事実であった。ブラミモンド家が保持している爵位は子爵が一つ、男爵が二つである。子爵を子息に与えるつもりだったとしても、これだけの爵位を余らせておいたのは、ナーシェンが権力を己以外の手に預けるつもりがなかったからだ――ということらしい。

 ナーシェンが何を考えていたのか、後世の歴史家は大いに悩まされることになる。

 エトルリアの貴族を寝返らせるために、爵位を余らせておいたという説もあれば、バルドスが偉大すぎたため家臣は遠慮して爵位を欲しがらなかったという説もある。何れにしろ、真相はわからない。ナーシェンが生涯で書き上げた書物は二百冊を超えるが、その中には自伝や回顧録のようなものが皆無だったからである。

『花の刑事』や『ソードマスター商売』、『バーニング孕ませ転校生』、『この青空にプロミスを―ご利用は計画的に』に目を通しても、ナーシェンの思想はまったく見えてこない。『車輪の国、向日葵の幼女』に少しだけ出てくる哲人思想であるが、これもナーシェンの思想を体現しているとは思えない。ジェミー夫人の残した日記に、「民主主義は最悪の政体だ。もっとも、これまでの政体よりはマシだがね。とチャーチルっぽく言ってみる」と書かれているからである。

 それはともかく、ナーシェンが善人であれ悪人であれ、彼が独裁的であったのは間違いないだろう。好意的に見れば、それは時代が彼をそうさせたのだと言える。ブラミモンド家の栄光は、彼なくして為し得なかったのである。

 ブラミモンド公爵1000 アルフレッド侯爵500
 グレン400侯爵 ベルアー300伯爵 カザン伯爵300

 総数2500。以上がベルン北部同盟の兵力である。本気でベルン王国に反旗を翻せる勢力だった。

 ナーシェンの著書『異・恋姫†夢想ドキッ、乙女だらけの戦国時代(R18)』のヒロイン、織田信長は、元々は尾張の守護代だったが、巨大な財力で主家の斯波氏を上回ったという背景を持つキャラクターである。主人公のカズトが「そ、そうか。センゴク外伝桶狭間戦記にもそう書いてあったぞ!」と口走っているが、そんな感じである。


    【第7章・第5話】


 ペガサスナイトの少女――ティトは胡乱げな目をその青年に向けた。

 女性騎士らしく髪は肩の辺りで切りそろえているが、その美貌はまったく損なわれることなく他者を魅了している。美人で評判のペガサス三姉妹の次女である。それも若くして傭兵団の隊長。若干キツイ目をした彼女は、男たちに怖がられているのだ。

 美人すぎたり完璧すぎたりすると、男というものは劣等感に苛まれて尻込みするものである。

 しかし、目の前の青年は怯んだ様子はなかった。

「私たちが何とかしなければ、確実にエトルリアは崩壊するのです。んっふ、困ったものです」

 エトルリアの名門、リグレ家の当主クレインは、何が面白いのか軽薄な笑みを浮かべている。

 笑顔で感情を隠しているのだろう。腐敗した貴族とは別物として考えた方がいい。

 ティトは警戒心を緩めず、とりあえず話を進めることにした。

「それで、私たちと傭兵契約を結びたいとのことですが……」

「今回の雇用は、天馬騎士40人を予定している」

 クレインは微笑みながら指を立てた。

「年間15万ゴールド。食事や住居、武器などの諸経費はこちらが負担する。ただし、契約期間は最低でも十年。違えれば違約金を取らせて貰う」

「………………」

 ティトは即答しかねた。

 この契約期間がくせ者だった。傭兵とは雇い主や国に忠誠を誓っているわけではない。大事なのは傭兵としての信用だけだが、それも命より重たいものではない。なので、雇い主が落ち目になると、さっさと見限ってしまえるのである。

 契約期間とは裏切りを封殺するための手段であった。

 ただ、イリアの傭兵が得た報酬は、その大半が故郷の家族に送られる。それでも極寒のイリアでは口に糊をするような生活しかできないのである。15万ゴールドの契約金は喉から手が出るほど欲しいものだった。

「ペガサスナイトの空からの情報は、もはや必須とも言えるだろう。だが……」

 ティトはクレインの目を見つめる。

 何時の間にか、真剣な顔をしていたクレインは、静かにティトを見返した。

「ティトだったね?」

「は……はい……」

 ティトの胸がどくんと高鳴った。

 考えても見て欲しい。エトルリア随一の美男子にまじまじと見られているのである。

「ティト。私には貴女が必要なんだ」

 人は必要とされている時に喜びを感じる。幼い頃から上に立つ者としての指導を受けてきたクレインの哲学が言わしめた台詞だったが、ティトにはただの口説き文句にしか聞こえなかった。


 クレインの軍制改革は、当人の思惑を外れて大きな成果を上げることになる。

 騎兵を用いず、サカ地方の長弓を参考にして作ったロングボウ部隊と重騎士による戦闘法。そこに、遊兵としてペガサスナイトが加わることになる。

 ロングボウ部隊はすべて平民で構成されていた。騎士ほど金がかからないため、兵力の増強も容易であった。

 奇しくもそれは、百年戦争でイングランドを幾度も勝利に導いた『モード・アングレ』の再現だった。


    ――――


 ナーシェサンドリアの表通りは、時間に関係なく賑わいを見せている。朝市の混雑具合などは競りなどの修羅場に慣れた商人たちですら圧倒されるほどだ。そして、その商品もエレブ大陸中から集められている。

 朝の小休止とも言える時間帯。

 ひとりの少女が、手提げ鞄を腕にかけて、市場をうろついていた。

「おっ、ソフィーヤちゃんじゃねえか! 今日も美人だねぇ!」

「あ……いえ……」

 頭にハチマキを巻いた魚屋のオヤジに声をかけられ、ソフィーヤは困ったような顔をした。と言っても、表面上は無表情のままだったが、ナバタの長老曰く、長年付き合ってきた者ならこの表情の変化がわかるようになるらしい。

「アンタ! 他人の妻に色目使ってるんじゃないわよ!」

「イテェ! おかあちゃん、グーはやめてお願いだから!」

 騒がしい魚屋夫婦を横目に、ソフィーヤは店先を眺めた。

 ナーシェサンドリアは内陸にあるのに鮮魚が並んでいる。

 ベルンは山岳国家でもある。険しい山の連なる北部は、この山のお陰で、冬になると大雪に見舞われるほどだ。その奥部では氷作りを仕事としている者たちがいる。この氷を使って、ベルンの東海岸で取れた魚の鮮度を落とさず市場に並べるのである。

「で、ソフィーヤちゃん。今日は何にするんだい?」

「あ……これを三匹……」

 そう言って彼女が指さしたのは、氷を入れた箱に詰められたイカだった。

「そういや、アンタの旦那さんはこれの塩辛が好物なんだってねぇ」

 反射的にソフィーヤは頷いてしまうが、これが好物なのは別に彼女の夫ではない。なのだが、何時の間にかナーシェサンドリアの商人たちからは、ソフィーヤは貴族様の若妻ということにされていたのである。

 ソフィーヤは植物の大きな葉と氷で包まれた袋を受け取ると、ペコリと頭を下げて次の目的地に向かった。

「次は酒屋かねぇ。いいねぇ、若いって」

「旦那さんが羨ましい……って、おかあちゃんも十分に美人だぞ! それは俺が保証する!」

「お前さん……。どっか頭をぶつけたのかい?」

「せっかく褒めてやったのにこれだよ!」

 ちなみにこの夫婦、ナーシェンが悪ガキだった頃からこの街で商売していたため、金髪の儒子とは知り合いだったりする。世間とは意外に狭いものである。


    ――――


 ナーシェンは月を見ながら杯を煽った。

「大体これで、役者は出揃ったか」

 打てるだけの手も打っている。エレブ歴1000年になるまでに、サカ地方とイリア地方を平定することになるのだから、軍拡も推し進めた。とは言え、この軍拡はゼフィール王からの命令があった。ブラミモンド家だけではなく、他の諸侯たちも兵力増強を計っている。

 ゼフィール王と三竜将の直属の兵力が5000。これはナーシェンの予想を大きく上回っていた。農民を大量に徴兵したらしい。人数を増やすのはいいが、その装備や糧食を賄う力はナーシェンにはない。これが国主の底力である。

 危機感を覚えたエトルリアやリキア地方も兵力の増強に勤しんでおり、今や大陸は戦争景気に沸いていた。貴族の持つ大量の財が民に放出されているわけである。この手の経済は反動が恐ろしいんだよな、と思ったナーシェンは今から食料庫への備蓄を増やしているが、経済学はトーシロも同然なので、ぶっちゃけどの程度役に立つものかわからなかった。

「これじゃ、頭が何時かパンクするな……」

 ははは、と乾いた笑いを漏らす。ワーカーホリックのようなものである。

 たまに家のことや世界のことなど、すべてを忘れて逃亡したいと思うことがある。

「戯れ言だけどな」

 杯を一気のみする。脇に侍っていたソフィーヤが、酒瓶を傾けて酒を杯に注いだ。

「おう、すまんな」

「いえ……」

 ジェミーやリリーナと夜を明かすことが多いナーシェンだったが、たまにソフィーヤを呼んで酒の相手をさせたりしている。家臣たちは彼女のことを愛人だと思っているようだが、ナーシェンはまだ彼女を抱いたわけではない。

 会話はほとんどない。それが、無性に心地よかった。

 何時か、自分は彼女を抱くのだろう。そういう確信はあった。

「ナーシェン様。あの……」

「何だ?」

「明日は……その……出歩かない方が……」

「危険でも予知したのか?」

「はい」

「そうか」

 ソフィーヤの心細そうな目を見つめた。

「じゃ、外出することにしよう」

「……っ!」

 ナーシェンは意地悪に笑ってみせる。

「二人で一緒にな。ジェミーたちにも内緒だ」

「……それは」

「危険がわかるなら、二人で立ち向かえばいい」

 危険を不幸と捕えることに誤りがあるのだ。窮地にこそ活路ありと言う。ナーシェンに襲いかかった暗殺者が、裏切ってナーシェンに登用されれば、それは幸運と言えるだろう。その暗殺者が持っていた情報が貴重なものだったらなおさらだ。

 ま、誰にも気付かれないようにジャファルでも護衛に付けとけば問題ないだろう。

「私には守るべきものが沢山ある。守りきれるまで、死ねんよ、私は」

「ナーシェン様……」

「もちろん、お前も大切なもののひとつだぞ」

 ソフィーヤを抱き寄せる。彼女は「あっ…」と驚いたが、すぐに両目を閉じてナーシェンにしなだれかかった。

 この温もりは、誰にも渡さない。

「月が綺麗だな」

「……はい」

 ソフィーヤは目を閉じたまま、頷いた。


あとがき
修正中にワイヤレス通信が切断。エラーが発生。電子レンジでジャガイモをふかしていたからだろうか。
せっかく書いたあとがきが吹っ飛んだorz
Q&Aの回答も吹っ飛んだ。なので必要そうなものだけ書き直しておく。ごめん。

Q.覇者はどれぐらい出すんの?
A.蛇足程度にしようかな、と。アルに「息子よ!」と叫ぶナーシェンも見たいが…。

Q.覇者ではエトルリアの人口が100万人(ry
A.忘れて……お願いだから忘れて……。作者の最大の失敗に人口の問題がありまして、書き始めた時にファイアーエムブレムっぽさを出すなら万単位の兵力は必要ないだろうということで、こんな感じになってしまったという事情があります。それが諸悪の根源。今更どうにもならないのでこの設定で突き進みます。

Q.昔のあとがきが消えてるぅ~?
A.あとがきは黒歴史です。



[4586] 第8章第1話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/03/01 16:27

 息の詰まるような緊張感。静寂に支配された戦場で、ベルトラン兄弟は息を呑んでいた。

 整然と構える敵陣は、見ているだけでこちらの士気が萎えてくるほどである。黒備えで統一された軍勢は、一縷の隙もなく統率されていた。兵士たちは身じろぎひとつすることなく、動いているのは風に揺らされている軍旗だけである。

「八陣の法」

 ボソリと、バルドスが呟いた。

 ゲクランが振り返る。何だそれはと怒鳴りつけたい衝動に駆られていたが、それを何とか押さえて声を出す。

「ブラミモンド公爵が考案された陣形の法でございます。大将を中心に八つの部隊が取り巻く陣形で、前衛の右から地陣右角、鳥陣先鋒、左角風陣。大将の右を虎陣右爪、左を竜陣左爪。後方の右から天陣右牙、蛇陣後陣、雲陣左牙となっております」

「何だそれは」

「各部隊を八つに分けて名付けておりますが、陣形にも八つの型があります。あれは方円座備の陣と申します」

「……それで、どういうことなのだ?」

「方円座備は防御の構え。これより攻撃の構えに移るのでしょう。魚鱗の陣、鶴翼の陣、長蛇の陣、鋒矢の陣、方向の陣、衡軛の陣、雁行の陣、そして――偃月の陣」

 バルドスが説明を終えると同時、敵陣がゆっくりと移動をはじめた。

 四角い陣形だった部隊が、細長い陣形を作ったのである。

 先鋒 イアン ブラッド
 次鋒 カレル
 ベルアー
 アレクセイ
 カザン
 ラグネル
 アルフレッド
 フェルディナント
 グレン
 ルーカス
 総大将ナーシェン
 殿軍 スレーター
 遊軍 フレアー

 それが縦に、弓なりになって陣形を形作っていた。見たこともない戦法。すべての兵士たちが居竦んで、尻込みしているのを、エマヌエルですら叱責することができなかった。

「偃月の陣は車懸りの戦法。それを用いるための陣形でございます」

 すでにバルドスの言葉は、ゲクランの耳には届いていなかった。


    【第8章・第1話】


 エレブ歴998年――。

 サカ内戦はクトラ族とジュテ族の二極化が進み、戦線は膠着状態に陥っていた。商業都市ブルガルを手中に収めているジュテ族の方が有利かと思いきや、『灰色の狼』ダヤンのゲリラ戦法を用いた後方攪乱により、ジュテ族は徐々に手足をもがれ、身動きが取れなくなってきている。

 しかし、大兵力がブルガルに篭ってしまうと、流石のダヤンと言えども容易には落とすこと叶わず、双方睨み合いの日々が続いている。

 そんな中、ブラミモンド公爵ことナーシェンは、ベルンの王宮に召還されていた。

「ブラミモンド公爵ナーシェンよ。貴様を正式にサカ攻略の総司令官に任ずる」

 国王ゼフィールの命令を受け、ナーシェンは跪いたまま頭を下げた。珍しいことにゼフィール自身が宝剣を取ると、身を乗り出してナーシェンのもとへ歩み寄り、ぐいっと差し出した。

「与力としてブルーニャと500の兵士を預けておく。半年以内にサカを落とせ」

「御意にございます」

 うやうやしく宝剣を受け取ると、ナーシェンは居並ぶ諸侯の列に戻った。

 作戦としては、こういうものである。サカ東岸――ダヤンが確保している地域へと軍勢を進め、補給路を確保した後に、ナーシェンが指揮する隊はサカ攻略にあたる。マードック将軍率いるイリア攻略部隊はサカ東岸を経由してイリア東部のエデッサを落としてから、イリア全域の攻略を開始する。ゲイルはリキア、エトルリアの動向を警戒して本国で待機――と言うことになっている。

 マードックの部隊にはファルス公爵、グレゴリ侯爵などの諸侯軍が加わっている。新参者のブルーニャ将軍やゲイル将軍では、海千山千の諸侯から侮られて、完璧に統率するのは難しいと見られているのだろう。

 何れにせよ、これが始まりであった。

 ベルンの歴史、その最大の悪名となり得るエレブ戦役の幕が上がろうとしていた。


    ――――


 商業都市ブルガル。部族間の争いを持ち込まずを暗黙の了解として、サカの商圏を一手に担うほどの発展を遂げてきた都市だったが、ジュテ族のモンケが太守として君臨してからは、自由都市としての歴史に別れを告げていた。

 ゲクランは石造りの屋敷の前で馬から下りると、守衛に馬を預けて薄手の鎧を脱ぎながら屋敷に入った。ベルトラン兄弟にあてがわれた屋敷であった。ここ二ヶ月ほどはモンケの軍師として戦線に張り付いていたため、ずっと留守にしていた家だったが、ゲクランは帰る場所があるのは悪くないものだと思った。

 兜を外すと長い髪がバサッと垂れて、すれ違う侍女たちが顔を染めている。

 ゲクランは鎧兜は重たいため、あまり好きではなかった。ダヤンによる奇襲が何時あるかわからなかったため、エマヌエルに窘められて装着しているが、全身の疲労は如何ともし難い。睡魔に吸い寄せられそうになるが、まだ眠るわけにはいかなかった。

「ナーシェンめ、中々にやりおる」

 独り言を呟きながら、椅子に腰掛ける。

 ブルガルの税制、物資の輸出入、番所と警備兵の配置など、モンケは商業都市を治める知識をまったくと言っていいほど持っておらず、その手の雑務はすべてゲクランに任せられていた。モンケは戦場で弓を引くことしか能のない猪武者だった。予想はしていたので衝撃は少なかったが、ゲクランのモンケへの侮蔑の念が増したのは確かである。

(まぁいい。あれは、戦場ではそこそこ働ける奴だからな)

 モンケが戦場にいる間に、ブルガルをエトルリアの支配下に置くことができたのである。現在はブルガルでエトルリア本国から秘密裏に召還した文官が、水面下で実権をかすめ取っている最中である。味方が無能なら、その無能すら利用させて貰う。それがゲクランの思惑だった。

「あ、あの。ゲクラン様……」

「……ああ、お前か。入ってもいいぞ」

「あ、はい。失礼します」

 ゲクランの私室の扉がゆっくりと開き、瞳に悲哀を讃えた女性が姿を現した。

 ルル族を滅ぼした時に貰い受けた、白い法衣を身にまとったシスターである。名前をクラリスといった。菫青石の瞳が心細そうにゲクランに向けられている。

 触れれば手折れてしまいそうな切花のような女性だった。その儚さがゲクランの内側に秘められた暴力と庇護欲の両方を刺激していた。

 巡礼の途中でルル族から宿を借りたのが、クラリスの不幸の始まりだった。

(まさか、私のような奴に見初められるとはな)

 クラリスは没落したエトルリア貴族の娘である。口減らしのために修道院に入れられ、将来は両親が貴族として返り咲くために政略結婚に使われるはずだった。それが、教会の上層部の方針で、彼女の修道院にエリミーヌ教の教えを受け入れないサカ地方の調査を命じられ、そこにクラリスが組み込まれることになったのである。

 ジュテ族の襲撃に遭い、仲間の神官は殺され、友人のシスターはサカ部族の慰み者になり、クラリス自身もゲクランの所有物になってしまったということだった。彼女の悲しみは推し量ることはできまい。当事者のゲクランが言えた義理ではないが。

 ゲクランの私室を訪れたクラリスは、口を開こうとして、それを閉ざしてしまう。

 言っていいものか、迷っているのだろうと見当を付けたゲクランは、手に持っていた書類を床に投げ捨てると、クラリスの肩を押さえつけてベッドに押し倒した。

「きゃ……あ、あの……ゲクラン様……?」

「どうした? 用があるのだろう?」

「あ、あの……また、民に雑税が課せられるとお聞きしたのですが……」

「ふん、そのことか」

 ゲクランは彼女の法衣を片手で引き裂いた。クラリスは顔を背けて、されるがままにされている。

 抵抗したのは最初だけだった。ゲクランは己の中に獣を飼っている。両親や兄たち、ゲクランの家督相続に反抗的だった重臣など、邪魔者を殺してきたのも彼の中の獣だ。ゲクランはクラリスにだけは、己の獣を隠さなかった。クラリスは処女だった。それでも乱暴に抱いた。

「仕方ないだろう。本国の援助が減少し続けているのだ。向こうの言い分は兵力増強のためにこちらに回す余裕がないと言うことらしいがな。対するブラミモンド卿は底が見えぬほどの支援をクトラ族に送っている。ならば、サカの民に割を食って貰うしかないだろう」

「ですが、度重なる増税は……!」

「神の意志に反しているとでも言うつもりか?」

「………………」

「貴族は神権を委託されただけの、ただの代行者にすぎないと言っている坊主がいたな。ヨーデルと言ったか。もっとも、貴族受けが悪くて司教になれぬようだが、その教えがお前の心のより所というわけか?」

 返答はすすり泣きだった。

 この日もゲクランは彼女を乱暴に抱いた。



[4586] 第8章第2話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/03/01 16:33
 ナーシェサンドリアの郊外に建てられた小さな屋敷に『先生』と呼ばれる人物が居を構えている。

 初等教育を受ける前の子どもたちに無償で学問を教えたり、剣や槍の手ほどきをしている老人である。近所の人々からは貴族のご隠居だと思われているが、まさしくその通りであった。

「……どう言うことだ?」

 よくできた人物として絶賛されている老人は、子どもたちには見せないであろう鋭い目を、来客にぶつけていた。

 金属の鎧を着込んだ騎士然とした男である。老人は薄手の衣服を羽織っているだけだった。傍目には騎士が老人を脅しているように見える。

「ブラミモンド卿の元配下バルドス殿。貴殿の知謀が欲しいと言っている」

 その騎士はエマヌエルと名乗っていた。

 特に珍しい名前ではない。だが、バルドスの意識に上ったのはベルトラン子爵の弟の名だった。

「私に主家を裏切れとでも?」

「“元”主家であろう。今はもうブラミモンド家の禄を食んでいるわけではあるまい」

「断る。私の主君はただひとり。帰られよ」

 エマヌエルは溜息を吐いた。やれやれと言う溜息ではない。これからのことが心から楽しみで仕方がないと言った様子だった。

 老人の目が細められる。

 そんなバルドスに、エマヌエルは屋敷の外に目を向けた。エマヌエルの配下が入ってくる。

 無理矢理連れて行くつもりか。バルドスは壁にかけてある剣を手に取って鞘を払った。

 が、その手下に引きずられてきた者を見て、バルドスは目を見開いた。

「ハンス!? 生きていたのか!?」

「ち、父上……。申し訳ございませぬ……」

 縄で縛られている人物は、奴隷のようなボロ切れを着せられ、そこかしこに殴られたような痕があった。

 バルドスには二人の息子がいた。ひとりはエトルリアの敵兵に殺され、もうひとりは行方不明になっていたが、おそらく戦死したのだろうと思われていた。

 ハンスはバルドスの家を守るためなら主君をも裏切るようなやり方を嫌っていた。家を守るためにエトルリア、ベルンを巧みに泳いできたバルドスのやり方は、若かりし頃のハンスには汚いものにしか見えなかったのだ。

 そのため、バルドスがナーシェンの父に寝返った時に、ハンスは命令を無視してエトルリア側に付き、父親が指揮する軍勢に包囲殲滅されてしまった。ハンスの首は見つからなかったが、敵勢を包囲したバルドスは、逃げ道はなかったと確信していた。

「貴様ら、私の息子に何をした……!?」

「おや、バルドス殿はお怒りのようだ。感謝はされるものと思っていたのだが、批難されることになるとはな。エトルリアの寒村で帰農していたところを、われらが“保護”してやったのだぞ?」

「どの口が言う!」

「ふんっ。まあいい。こいつは返してやる」

 エマヌエルはハンスを蹴り飛ばした。

「だが、こいつの妻と息子はわれらのところで“保護”しているのを忘れないようにな。女性と幼子では、長旅は辛かろうと兄上が気遣ってくれたのだ。ほれ、感謝せぬか」

「父上、申し訳ございませぬ! 私が愚かでした! ですから、私のことなど放っておいてくれて構いませぬ!」

 ハンスは泣いていた。

「………………」

 バルドスは剣を取り落とした。


    【第8章・第2話】


 ナーシェンは城に帰還すると、すぐさま出兵の準備に取りかかった。諸侯たちにも号令を出し、ナーシェサンドリアに集うよう指示しておく。

 同時期、エトルリアのロアーツ派が援軍を派遣しようとしている動きがあると密偵から報告が上がってきたが、予想の範囲内だったため計画に修正の手を加える必要はなかった。

 北部同盟軍の各所候たちの軍旗や旗印は、ナーシェンが暇潰しに作って、飽きたため下賜されたものである。旗指物は『一に三つ星』のグレン侯爵や、『島津十文字』のアルフレッド侯爵、『永楽通宝』のベルアー伯爵、『五色段だら』のカザン伯爵などである。イアンは『六文銭』、ブラッドは『地黄八幡』である。

 しかし、ナーシェンは『毘の一文字』や『かかれ龍』だけは決して譲ろうとはしなかった。

 “義の将”上杉謙信。彼は私欲による出兵は行わなかったという。

 そんな綺麗事を信じているわけではないが、“義”をかかげて民からの信望を集めた手腕は見習いたいものだとナーシェンは考えていた。

「……ははっ、場違いな旗だな」

 旗を見つめ、ナーシェンは呟いた。

「だが、私の方がもっと場違いだ」

 エレブ大陸の異端児、ナーシェンは寂しそうに独白した。その直後、家臣たちが大慌てでナーシェンのところに駆け付けてきた。準備に勤しんでいた兵士たちが、何事かと振り返る。

「ジェミー様が、お倒れになりました!」

「な、なんだとっ!?」

 感傷に浸っている場合ではなくなってしまった。ナーシェンは準備もそっちのけで城に走った。


    ――――


 結局のところ、命の心配はないということだった。

「おめでたですな」

「……は?」

 家臣たち一同、そろって硬直する。ナーシェンは聞き間違いかと身を乗り出した。未だ信じられないといった様子である。

 老医者はそんな者たちを睥睨すると、呆れた様子でもう一度告げた。

「だから、腹の中に子どもがおると言っておるのです。しばらくは安静に。絶対に動かさないように。政務で疲労が溜まっておるようですからな。あとは、滋養の付くものを沢山食べさせることでしょうな」

「……ジェミーに……子どもが……?」

 唖然と、ナーシェンは呟いた。

 考えてみれば、最初にジェミーを抱いたのは彼女が15の頃である。もう17になるジェミーに、子どもができないわけがない。むしろ遅いぐらいであった。

 だが、自分が父親になるという現実が、すぐに理解できなかった。

 ナーシェンは22歳。憑依直前の、大学生時代と同じ頃だ。精神年齢はとっくに四十路を越えているとはいえ、心はずっと子どものままだった。無論、することをしているので、子どもができることは覚悟していた。現実の前には、そのようなものは紙のようなものだったが。

「ナーシェン様……ここに、ナーシェン様の子どもがいるんですね……?」

 布団の上で、ジェミーが腹をさすっている。ナーシェンは震える手でそこに触れた。

「ああ……そうだ。そうみたいだ……」

 涙がこぼれた。

「ここに、私の子どもがいるんだな……?」

「はい……。ナーシェン様のお子が……ここに……」

「そうか……。そうか……!」

 ナーシェンとジェミーは抱き合い、人目を憚らず泣き合った。



[4586] 第8章第3話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:8aa25c5b
Date: 2009/04/11 17:42
「阿呆ですかっ!? 馬鹿なんですかっ!?」

 家臣たちは顔を見合わせた。床に正座させられた金髪の青年を、ベッドから身体を起こした女性が怒鳴りつけている。言わずと知れた彼らの主君ナーシェンと、その側室のジェミーであった。

「いや、でも……」

「“でも”じゃありません! 何なんですか! これは!」

 そう言ってジェミーが指さした先にあったのは、うずたかく積み上げられたオシメやら赤子の衣服やら玩具であった。

 それだけではない。

 粉ミルクを開発するために20万ゴールドの予算をつぎ込もうとしたり、200人以上の屋敷の侍女を集めて離乳食について会議を開いたりしていたのである。

 ナーシェンの行動はまさしく親バカと呼ばれるものであった。

「で、でも……私はこれからサカに遠征に行かなければならないんだ。出産に立ち会えるように、さっさとサカを平定して戻ってくるつもりだ。だが、もしかしたら間に合わないかもしれない。そんな時に、赤子に不自由させたくないんだよ」

 切実に訴えてくるナーシェンに、ジェミは「うっ」と声を詰まらせた。

「あ、あのですねぇ……」

 そこまで赤ん坊のことを思ってくれるのはたしかに嬉しい。

 しかし、ジェミーの脳裏には嫌な未来が映っていた。

「そうやって甘やかされて育った子どもが、どうなると思いますか?」

「……………………」

「側室とはいえ大貴族の子どもです。わがままに育った貴族が、どれほどの害悪になるか、ナーシェン様ならよくご存じのはずです」

「…………そう……だな」

 ナーシェンは肩を落とした。ここまで言われて理解できないナーシェンではない。民からの搾取で生活が成り立っていることに気付かず、与えられた権利を己の力で得たものと勘違いして、あらゆる人々を不幸にしていく存在。これから生まれてくる子どもを、そのような存在にするわけにはいかなかった。

「そう、だな。ちょっと調子に乗ってたよ。悪かった」

「わかってくれたらいいんです。私の方こそ、キツいことを言って申し訳ありませんでした」

「いや、いいんだ。ジェミーが私を思って諫言してくれたのはわかっている」

「ナーシェン様……」

「ジェミー」

 独自の空間を作り出し始めた夫婦に、家臣たちは心底呆れて溜息を吐いていた。


    【第8章・第3話】


 粉ミルクの開発が母乳の飲めない赤子の命を救ってきたということに、子どもを持つ立場になってからやっと気付いたナーシェンは、酪農業に従事しているサカからの移民に粉ミルクの開発を命じている。

 現状ではろ過、脱脂、加熱殺菌までで、成分調整などは無理だろう。それに、自ら開発に携わっているような余裕もなかった。

「行ってくる」

「はい。どうかご無事で」

 ナーシェンはジェミーと一時の別れを告げると、彼女の寝室から退室した。

 紺色の地に金糸が織り込まれたオスティア製のマントを羽織り、ベルン竜騎士用の黒塗五枚胴具足を着込んだナーシェンの男ぶりに、家臣たちはナーシェンの本気を悟った。

(さっさとサカを平定して、戻って来なければならんからな)

 その内心はプライベートなことで満たされていたのだが。

 こんなことで本気になられたサカの民こそ哀れだった。

「おい、俺も連れて行けよ!」

「駄目。ジャファルさんとニノさんにまだ早いって言われたんでしょう」

 通り過ぎようとした部屋から、言い争うような声が聞こえてナーシェンは立ち止まった。

 言い争っているのは、本来ならジェミーが指揮するはずだった魔道部隊を預けられることになったリリーナと、最近になってナーシェンに弟子入りした少年だった。

「おっ、師匠じゃないか! ちょうどよかった。師匠も言ってくれよ!」

「……戦場に行きたいのか?」

「当たり前だ! 俺の力がどんなものか試すんだよ! 俺はそのために闇魔法を勉強したんだ!」

 ナーシェンは両目を閉じた。最初の対面の時も思ったことだが、この少年は酷く危うい。

『アンタがナーシェンか。闇魔法、俺に教えてくれよ。損はさせないからさ。何ならお前に仕えてやってもいい』

『それだけの力を得て、なおも力を欲するのか。お前は何がしたい?』

『まだわからないけど、これだけの力があるんだ。埋もれさせるのは勿体ないだろう。俺も埋もれるつもりはない。これが大きな力と言うなら、それだけ大きなことを為せるってことじゃないかと思ってね』

『……中二病か』

 ナーシェンも闇の魔道書を手にした時に、同じ衝動に駆られたことがある。特別な力を手に入れたのだと錯覚してしまったものだ。そして、その力を試したくて騎士たちをぶっ飛ばしたこともある。ジェミーも子どもの頃は、そんな感じだった。

 それだけ魔法とは、魅力的なものだった。

「両親の心配を無碍にするつもりか?」

「行き過ぎた心配ってのは、余計なお世話って言うんだぜ」

 父と母の心遣いを、そう言うのか。ナーシェンは笑った。

 それが軽蔑の笑みだと気付いたのは、妻のリリーナだけであった。

「……わかった。私の側に控えているなら、同行を許そう」

「な、ナーシェン!?」

 レイはナーシェンの声の不機嫌そうなニュアンスに気付かず、瞳を喜色に輝かせた。

「レイは魔力はともかく、精神はあまりにも未熟なのよ。危険だわ」

「井戸の中に閉じ込められたままでは、大海の大きさを知ることもない」

 鼻っ面を叩き折るには、ちょうどいい機会だろう。

「……痛い目にあっても知らないわよ」

「ふん、いらぬ気遣いありがとうよ」

 子どもらしく喧嘩している二人に、ナーシェンはクツクツと喉を鳴らして笑った。


    ――――


 ナーシェサンドリアの城から、十数人の馬上の騎士たちが出て来ると、民衆は身を乗り出して歓声を上げた。

 先頭は烈風イアンと豪壮のブラッドを筆頭とするブラミモンド家の重臣たちであった。

 少々脚色されてはいるが吟遊詩人たちが武勇伝を作るほどの騎士である。民衆からの人気も篤い。

「キャーイアン様ー! 抱いてー!」

 と叫んでいるのは酒屋のオッサンであった。イアンはゲッソリとした溜息を吐いて、出てきたばかりの背後を振り返る。侍女として働いているリーザが苦笑を浮かべていた。交際期間は長かったが、ようやく結ばれることになった妻である。

「ブラッド様ー! うおー! ブラッド様ー!」「ガビーン!だんぜん俺好みのいい男!」

 こいつは……もう説明するまでもないだろう。せめて目の届かないところでやって欲しい。

 城から出てくるブラミモンド家臣の行列に、それぞれの個性的な声援があった。やっぱりスルーされたスレーターがもうやけくそとばかりに胸を張っていたり、女性から黄色い声援を浴びせられたディートハルトが竜騎士たちにふるぼっこにされている。

 ちなみに、竜騎士たちは歩行である。

 やがて、金髪の儒子が出て来ると、民衆は静まりかえった。

 放生月毛という、第四次川中島の合戦で上杉謙信が武田信玄に斬りかかった時に乗っていたと言われる馬の名を与えられた軍馬であった。

 二人乗り用の鞍の前に金髪の青年が座り、その後ろに青い髪の少女が横乗りしており、金髪の青年の背中に頭を寄せている。

 年の差はともかく、仲むつまじい夫婦の姿に、民衆たちは見惚れていた。

 青年は右手を挙げて、サッと横に振った。

「諸君、私はこれより悪を為す」

 それだけだった。民衆はゴクリと唾を飲み込んだ。

 直後、街中に歓声が響き渡った。

「悪が何だい! アタシらはお前さんを信じてこの街に住んでいるんだ! たとえお前さんがエレブ大陸の大悪党と呼ばれても、アタシらは付いていくよ!」

「おう、そうだそうだ! お前さんが何度うちの魚を盗んだことか! 悪ガキなのは昔から知ってるさ! だがな、俺の店の魚を食って育った悪ガキが、外道に育つわけがないだろ!」

 魚屋夫婦だった。ナーシェンは苦笑する。

「たまには『ブー太郎』に顔を出せよー! お前さんのお陰でうちの店は大繁盛してるんだぞ!」

「アンタの次回作を待ってるんだからなー! 絶対に死ぬなよー!」

「俺は妹喫茶の常連だぁぁぁ――!」

 何だか妙なテンションの者もいる。

 リリーナがナーシェンの背中、心臓の裏側に手を触れた。

「いい人たちね。とても、素敵な街……」

「ああ、そうだな。」

「これが、ナーシェンの街なのね」

「……ああ。…………ああ!」

 思いを馳せる。すべてが手探りで始まった大都市造り。そこに集まる人々。そこにある笑顔を守るため、奔走してきた日々。ジェミーと首を捻って、無い知恵搾って実行してきた施策。商人たちと顔を付き合わせて時には激論を交わしたりもしてきた。

 わずか10年のこと。すべてが得難いもののように思えた。

 ナーシェンは手を上げた。

「行ってくる!」

 大歓声が、それに答えた。



[4586] 第8章第4話
Name: 海猫◆2aa27027 ID:b53b5944
Date: 2009/10/04 20:37

    【第8章・第4話】


 ジュテ族を核とするサカ兵およそ800。敵兵2000人を前にしても動じない精兵である。夜襲、奇襲によって補給路を攻撃されているのに、危機感を覚えないほどの逞しさは、心臓に毛が生えているのか、ただ鈍いだけなのか。

 なに、古今より少数で大軍を打ち破った例などいくらでもある。鼻息荒く敵陣を見据えるモンケであった。

 末端の兵士たちはベルン諸侯の首にかけられた報奨金に目が眩み、戦友を出し抜くために目を光らせている。「俺、この戦が終わったら女の奴隷を買うんだ」と戦友に笑いかけるサカの剣士。ナチュラルな笑顔でとんでもないことを口走る連中だった。これがサカの実情である。みんな死ねばいいのに。

 さて、寡兵をもって籠城策など取るつもりもないモンケは、野戦で雌雄を決する覚悟で打って出た。

「敵は梟雄ナーシェン。だが、我らの敵ではない。全軍、かかれぃ!」

 そしてサカ軍が突撃を開始する。功に目がくらんだ兵士たちは士気こそ高かったが隊列を気にせず、また満足に腹が膨れているわけでもないので動きに精細を欠いていた。

 ベルン兵は複数人で一人を迎え撃つ待ちの体勢。焦らずじりじりと前進する。

 練度の差はすぐに露呈した。サカの精兵(笑)である。

「くっ、こんなはずはない! 誰かおらんのか!」

 苛立ちに矢を膝で叩き折ろうとしたモンケに、涼しげな声がかけられる。

「父上、私が」

「おお、カブル。お前が行ってくれるのか!」

 モンケの長男だった。彼は配下の手から弓を奪うや、矢を番えながら敵中に侵入する。馬体を両股で挟み込んで巧みにベルン兵士をすりぬけていくカブルに、敵軍の一角が崩れそうになった。流石は我が息子よ、とモンケも鼻が高――。

「ふんもっふ!」

「ぐぬっ、き、貴様……! ふぎゃ!」

「いい漢……もとい、敵将、この豪槍のブラッドが討ち取ったりぃぃ――!」

「カブルぅぅぅぅぅぅ――!」

 ぐさり、とぶっとい槍がモンケの息子を貫いていた。ぐったりと事切れている息子の姿に、モンケは我を忘れて絶叫する。

 悲しみに茫然自失していたモンケに、涼しげな声がかけられる。

「父上、兄上の仇は私が取ります!」

「おお、クドカ。お前が行ってくれるのか!」

 モンケの次男だった。彼は配下から剣を奪うや、雄叫びを上げながら敵軍深くに切り込んだ。あまりにも見事ですばやい手綱裁きに、味方から歓声が上がる。流石は我が息子よ、とモンケも――。

「………………」

 キルソードのクリティカルヒット。

「ぐふっ、くっ、卑怯者めが……」

 クドカの背中に短剣が突き刺さっていた。不気味な黒衣の男がモンケの息子から離れると、どさりとクドカが落馬する。すでに事切れていた。アサシンにやられたのだ。モンケは我を忘れて絶叫する。

「クぅドカァァァァァァ――!」

「父上! 兄上の無念、私に晴らさせて下さい!」

「トリオルか! いや、しかし……」

 流石に三度目となると逡巡し始めるモンケだったが、彼の三男は返答を待たずに配下から剣を奪った。長男カブルを討ち取った騎士の姿はもう見えない。ならば――とトリオルは先ほどのアサシンに向かって行った。

「む。中々見事な若武者ですね。相手にとって不足はありません」

「どけい、小娘!」

「私を小娘呼ばわりとは、どうやら貴方は礼儀を知らないようだ。いいでしょう。こちらに見向きもしないなら馬上から引きずり下ろすまでです」

「むむむ……小癪な……」

 三男、苦戦。馬上だと言うのに十代半ばの少女に剣技で押されている。しかし、少女が女であったことが災いした。戦場で長らく女を断っていた兵士たちは、数里先の少女スメルを嗅ぎ分けると言う(誇張有り)。「その女はおらの物だぁ!」と雄叫びを上げながら襲い掛かる精強なサカ兵(笑)だった。

「くっ、尋常の勝負に水を差すとは、武人の風上にも置けぬ者どもですね!」

「何を言うか。先に武人の矜持を傷付けたのは貴様らの方ではないか!」

 そのアサシンは、とっくにどこかに消えている。仇を取れなかった無念を剣に込めるトリオル。周囲の兵士も三男の動きに合わせて槍を突き出し、弓を放った。ようやく胸を撫で下ろしたモンケ。流石は我が――。

「おいおい、ここだけ随分と賑やかだな。暴虐の闇よ、我が意に従い、彼の者をねじ伏せろ――ミィル」

 突如、地面から飛び出した黒い塊がトリオルに覆い被さった。

「あれは、闇魔法か! くそっ、トリオル! トリオルぅぅぅぅ!」

「うっ……父上……」

 身動きが取れなくなったところを斬り捨てられるトリオル。モンケは我を忘れて絶叫する。

「ふんっ。粋がっていた割には、随分と呆気ないものじゃないか」

 せせら笑うのは、今度は十歳以下の少年だった。こんな子どもに精強なサカ軍(笑)の誇りを傷付けられたと言うのか。モンケは歯ぎしりした。そして、新たな涼しげな声が。

「父上、闇魔法など種がわかっていれば敵ではありません。あのような子どもに兄上が負けたとあっては、ジュテ族の名に傷が付きます。汚名を晴らすよう、どうか私にお命じ下さい」

「チャンか。いや、しかし……」

「私に何かあれば、妻と息子を頼みます」

「おっ、おい! 待てっ、行くな!」

 四男チャン、父の制止に聞く耳を持たず、配下から弓を奪って前進する。そして矢で先ほどの少年に狙いを付けた。

 それに気付いた少女が目を見開き、慌てて少年に声をかけようとするが、遅い。モンケは流石はわが――。

「ああもうっ! 世話が焼けるんだから! 煉獄の炎、エルファイアー!」

 爆発。弓を番えた四男チャンは、目も眩むほどの巨大な炎に包まれ、肉片一つ残さず蒸発した。

「もう、勝手に部隊を抜け出さないでよね! ナーシェンに言いつけるわよ」

 真っ赤な魔道書を脇に抱え、ちっちゃい胸を張る少女に、少年が狼狽していたりするのだが、そんなハートフル舞台裏などモンケの知る由ではない。わずか数分の間に長男から四男までが討ち死にしたのである。サカ軍は最初の勢いはしぼんでいき、いよいよ悲壮な空気に包まれていた。

「チャぁぁぁぁあンっ!」

 我を忘れて絶叫するモンケ。そんなモンケに涼しげな声がかけられた。

「理魔道士ですな。ですが、ご心配には及びません。私の闇魔法は理魔法に勝るものでございますれば」

「いや、そろそろ撤退を……」

「ふむ、父上は弱気になっているようだ。しかし、私の活躍を見ればすぐに何時もの父上に戻られることでしょう」

 六男マラル。六兄弟で唯一の闇魔道士である。

 闇魔法ノスフェラートの魔道書を掲げ、詠唱を始めるマラル。末子でありながら、もっとも頭のデキがよかった息子である。限られた者にしか扱えない闇魔法まで会得した、兄弟の中でもどこか毛色の違う息子だった。その毅然とした姿に、弱気になっていたモンケも立ち直り、さすg――。

「………………」

 ぶすり、と額に矢が突き刺さった。

「戦場での余所見は命取りになるぞ。それと、魔道士はあまり突出するな。お前たちに何かあれば、ナーシェン殿はどう思うのだろうな」

 弓を放ったのは、戦場の中で説教を始める男。老人とは説教が趣味のようなものだが、これはひどい。

 ハートフル舞台裏では少女と少年がしゅんとしているのだが、そんなことはモンケの知ったこっちゃない。

「……あれは、ダヤン。灰色の狼ダヤンか!?」

 どこかから兵士の悲鳴が上がる。

 サカの英雄、神騎兵ハノンの再来。その名声は戦場に現われただけで、味方の戦意がごっそりと抜け落ちるほどであった。

「撤退するぞ……」

 心労で今にもぶっ倒れそうな顔をしながら、モンケはやっとそれを下知した。

「父上、それでは我らの矜持はどうなるのですか! 我らの地サカはどうなるのですか! 卑怯者のベルン兵が国土を蹂躙すると思うと、今にもはらわたが煮えくりかえりそうになります!」

「あっ、おい! ブラクル! ええい! あやつは放っておけ!」

 勝手に敵軍に突っ込む五男に、モンケはもう何も言う気も起こらなかった。

 モンケは後日、ブラクルが剣聖カレルに斬られたと人伝に聞くことになる。




[4586] 第8章第5話
Name: 海猫◆2aa27027 ID:b53b5944
Date: 2009/09/08 21:17


 オスティア、フェレ、ラウス。リキア地方で大きい力を持っている諸侯をあげれば、この三つになるだろう。オスティアは経済力とすぐれた重装歩兵を持ち、ラウスは良馬の産地であり、優れた騎兵を持っている。

 では、フェレは?

 領地、産業、人口、どれを取っても『そこそこ』としか答えられない。兵士が鬼のように強いとか、そんな事実はどこにもない。ならば、何故フェレがオスティアやラウスと並びたり得るのか。

 それは、トップが有能すぎるからである。

 政治、軍略、商才。あらゆる才能に恵まれている超人。それが、フェレ侯爵である。

 しかし、フェレ侯は運に見放されている一族であった。


    【第8章・第5話】


 フェレ侯爵、公子ロイが領地に帰参することが許されたのは、交渉開始から半年後のことだった。ゼフィール王のサカ地方への宣戦布告よりも前から、ロイはオスティアを脱出しようとしていたのである。

「不幸中の幸いだったな。父上が病気で倒れられてからも、粘り続けていた甲斐があった。ゼフィール王の宣戦布告から交渉を開始していたら、フェレが制圧されてから、ようやく帰参が許されていたかもしれない」

 馬上で呟くロイ。その傍で、ウォルトは首を縦に振っていた。意味はわからないが、とりあえず頷いておいたというような態度である。

 ウォルトは、ロイの乳母兄弟である。だが、それだけだ。母から弓の手ほどきを受けているが、君主の教育を受けたわけでもなく、政治的な話をされても理解できるわけがない。

「ベルンがサカとイリアを平定して、それで終わればいい。だが、間違いなくその次はリキアだ。病床の父上では、この流れに抗しきることはできないだろう。さて、どうしたものか」

 ベルンが攻めてくる。それを聞いて、ウォルトは小便を漏しそうになった。ガクブル震えていると、ロイが「武者震いか」とほざき出して、さらに泣きそうになる。

「やめましょうよ。装備の質も、断然こちらが劣ってますし、今のままでは勝てません」

「たしかに、こればかりはどうにもならないな。エトルリアかオスティアから、どうにかして資金を供出させるか。貸与という題目で出させればいい。あとで白紙にすればいいだけの話だ」

 ロイは勝手に頷き、やたらと眩しい目差しをウォルトに注ぐ。

「よく言ってくれた、ウォルト。君の助言がなければ、僕がこのことに戦争が始まるまで気付けなかっただろう」

「い、いえ、そう言うわけではなくってですね、ベルンには勝てませんって言いたいわけで。ほら、補給だって今のままでは続きませんよ。戦時になれば、増税しないと賄えませんよ?」

「そうだな。フェレは税の徴収が緩やかだ。今の内から備蓄するか、買い集めておかなければならないな。流石はウォルト。僕が忘れていたことを、次々と指摘してくれる」

「あ、あの……」

「それにしても、僕はいい家臣に恵まれているよ。老練なマーカス、猛将アレン、知勇兼備のランス、そして僕の右腕たるウォルト。これなら、ベルンと戦い抜けそうな気がする」

「…………」

 ウォルトは滝のような汗を流し、首を横に振った。だから、ベルンには勝てませんて。さっさと降伏しましょうよ。半泣きでそう言うと、ロイは「ウォルトは諸侯に裏切りが出ると言うのか! いや、まさか……」と考え出す。

「……うぅ、もうそれでいいっす」

 ウォルトはロイの右斜め後方でうな垂れた。


    ――――


 弓の腕は、色眼鏡を付けて見ても平凡。そこらの狩人を捕まえた方が、戦力になるだろう。それでもなお、ロイはウォルトを評価していた。弓使いだからなのか、視野の広さはロイなどでは到底及ばないほどである。

 そのウォルトが、後ろに下がった。ロイは背後を振り返る。

「――――ッ!」

 弓矢が、ロイを狙っていた。その射線上に、ウォルトは立っていた。悲壮感に満ちた表情をしている。身を挺してロイを守ろうとしているのだ。

 幸い、矢は命中しなかった。ランスが投じた手槍で、弓手は貫かれて絶命した。

「ロイ様! ご無事で!」

「大事ない。しかし、これは」

「山賊です。我らを商隊と勘違いして、襲い掛かってきたのでしょう」

 ロイは周囲を見回した。オスティアからの帰郷のため、護衛の二十騎が今の全兵力である。ヘクトルから護衛にボールスという男を付けられそうになったが、それはウォルトからの進言を入れて断っていた。

 重装歩兵を引き連れれば、それだけ帰参が遅れることになる。しかし、それよりもボールスに与えられた役目を考えれば、受け入れることはできなかった。護衛は建前で、真実は監視なのだ。

「て、ててて、敵の数は!?」

「少なく見積もっても、五十だな」

「そんなの、勝てっこないです!」

 悲鳴を上げるウォルトに、アレンが不敵な笑みを見せた。ロイも、小さく笑みを浮かべる。

「たしかに、勝てっこないな。ロイ様、先鋒はぜひとも私めにお任せを」

「山賊がたかが五十。僕たちの敵ではない。アレン、大将首を持ち帰れ」

 アレンを先頭に騎馬が突撃する。ウォルトがやけくそ気味に矢を放った。

 その矢が、騎乗していた敵のひとりに命中する。その懐から、赤い表紙の本が転がった。

「魔道士か! でかしたぞ、ウォルト!」

「い、いや……どう言うことですか?」

「食い詰めて山賊になる魔道士もいると聞いたことがあるが、まさか真実だったとはな。しかし、それを一目で見抜いて射貫いてしまうとは、流石はウォルトだ」

「そんな! 偶然ですよ!」

 もし、魔道士の存在に気付けなければ、大きな被害が出ていただろう。

 ロイは謙遜するウォルトを見て、誇らしい気持ちになった。


    ――――


 エリウッドは、病床に横たわりながら、マーカスの報告を聞いていた。

「サカは、落ちるか」

「最低でも二月ほどで陥落するでしょう。戦後処理が一息付くまでおよそ半年にございます」

「速いな」

 小さく呟き、エリウッドは目蓋を閉じた。胸が苦しかった。身体は病魔に冒されている。戦場に立つことは、もうできない。デュランダルを片手で握っていた腕は痩せ細っている。だが、まだ頭は動いていた。剣を握ることだけが戦いではないのだ。

「兵力、装備、補給、すべてが足らん。だが、私は戦おうと思う」

「私を含め、家臣たちは、どんなご命令であろうとも従う所存でございます」

 表情を変えずに言うマーカスに、エリウッドは何の反応も返さなかった。

 ただ、小声で、こう言った。

「手始めに、ラウスを潰すか」

 マーカスは、何の反応も返さない。

 使用人が扉を叩くまで、沈黙が五分ほど続いた。マーカスが取り次ぎ、束になった書状を受け取ってエリウッドの傍まで戻る。国内だけでなく、他国の諸侯からもフェレの対応を窺う内容が多かった。フェレ侯爵の動きが、他方から注目されている証拠だった。

「ブラミモンド夫人からのお手紙ですな」

「ほぅ、リリーナからか」

「ロイ様宛ての物もございますが」

「燃やしておけ」

 マーカスは無表情のまま頷き、書状を懐に収めた。後で焼いたことにするのだろう。おそらく、書状はロイの手に渡る。だが、エリウッドは何も言わなかった。

 ロイの前で見せる、温厚な父親の顔はどこにもない。

 そこにあるのは、無数の豪族から領土を守り続けた、表裏比興の者の顔だった。




[4586] 第8章第6話
Name: 海猫◆2aa27027 ID:b53b5944
Date: 2009/09/08 21:55
 エトルリアの王都、アクレイア。盛んに人々が行き来し、行商が客寄せの声を張り上げる中を、クレインとケインは高貴オーラを振りまきながら歩いていた。あからさまな貴族の坊ちゃんオーラに、人々は「こっち来んな」というような顔をして離れていく。

 ゼフィール王は重臣五十人を斬首して、その首を鑑賞しながら人肉料理に舌鼓を打ったり、金箔を塗った敵将の髑髏を盃にして酒を飲んだり、「お味方の戦勝、目出度い限りですな」と言った宰相バレンタインを足蹴りにして「貴様は何もしていないだろうが」と罵ったり、国中の女をかき集めて作った後宮をさらに拡張したり、ついでに妹を食った――という噂が流れ始めていた。

「おい、最後のちょっと待て」

 クレインは思わず突っ込んだ。噂話に尾ひれが付くのはよくあることだが、最後のは酷すぎる。

 情報源のブゥドル伯は、不思議そうな顔をしていた。そう言えば、こいつは実際に妹を食っちまった変態だった。貴族社会において近親婚は珍しくはないが、実妹を食う奴は流石にやり過ぎだろう。だが、ブゥドル伯は軽蔑の視線を、むしろ快感とばかりに受け止めていた。

 ブゥドル伯、ケイン。十八歳の金髪、平凡な顔をした男であった。

 伯爵家嫡男の双子の弟として生まれ、本来なら忌み子として生まれてすぐに殺されるところだったが、あまりに不憫なため隠し子として生きていたところ、父と兄が流行り病で死んだため本家に呼び戻されたのである。そこで出会った妹。家族として見ることができなくて……という展開であった。それなんてえろげ。

「しかし、ブラミモンド公がサカを攻略するか」

「サカの騎兵は精強。ベルンがこれを取り込めば……」

「ナーシェン軍団がさらに強化されるわけか。厄介極まりない」

 ベルンが強くなると言うよりも、ナーシェンが強くなることを嫌がっているクレインである。ナーシェンのことになると視界が狭くなるクレインだった。

 歩いている内に、アクレイアの王宮に到着する。

 クレインは尻が痛くなるのが嫌だったため馬車を用いなかった。だが、格式というものは、やはり大事なのだ。

「リグレ公爵家当主クレインだ。陛下の思し召しにより参内仕った」

「どこぞの商人の倅が、我らを謀っているわけではないだろうな」

 疑いの視線は正当なものであった。家紋が付いた馬車で王宮に乗り付ければ、このようなことにはならないはずなのだ。見るとケインが呆れ顔を浮かべている。心外だった。クレインのガラスのハートがブロークンである。

「なんだ、その目は」

「クレイン様って、どこか抜けてますよね」

「変態よりはマシだ」

「ははっ、そうは言いながらも、実はクラリーネ様に懸想していたりとか……」

 結局王宮に通されるまで、さらに三十分が費やされることになった。


    【第8章・第6話】


 大広間は、早々たる顔ぶれで埋まっていた。国王モルドレッド、右方に王子ミルディン、少し下がって宰相ロアーツ、大軍将ダグラス、騎士軍将パーシバル、魔道軍将セシリア。そこから諸侯たちが序列に従って続いていく。

 クレインは、セシリアの向かい側であった。ニコリと微笑んで手を振ってくるセシリアに、クレインの顔面が放熱版と化す。穴があったら入りたい状態のクレインに、三軍将派の諸侯たちは生暖かく見守っていた。

 ゴホン、と咳払いするロアーツ。宰相派の諸侯たちがクレイン、セシリアをチラ見しながらわざわざ聞こえるように陰口を叩く。「仲がよろしくて結構ですな」などという皮肉なので、咎められはしなかったが、あからさまに空気が悪くなった。それを止める者はこの中にはいない。

「各々、静粛にせよ。御前である」

 一言、ロアーツが呟くと、すべての音が消え失せる。

 衣擦れの音ひとつしない静寂の中、モルドレッド王が肘掛けに置いていた腕を、胸の前で組んだ。

「諸君。まずは大儀である。再昨、サカ地方に赴いていた大使ベルトラン子爵より報告が入った。ロアーツ、皆に説明せよ」

「では僭越ながら……ベルン方の主将はブラミモンド公。副将を三竜将ブルーニャとし、神速の勢いで攻め入ったとのこと。すでに前線を突破し、ブルガルの手前まで寄せたそうだ。モンケの息子六人が討ち死に、ジュテ族は瓦解寸前。ブルガルの城壁を頼りに籠城しておるが、さて後何日持つものか」

「質問がひとつあります。発言を許されたい」

「許可しよう」

「ブルガルの戦は、力攻めでしょうか。それとも火攻め、あるいは……」

 ロアーツ派の諸侯が伺いを立てる。言い終えるまでに、ダグラスが割り込んだ。

「十中八九、内部崩壊だろう。いかにもブラミモンド公らしいやり方ではないか」

「左様。ブルガルは多民族都市。内通者を出すのは容易である。だが、ダグラス殿。私は貴殿の発言を許可した覚えはない。軍人上がりが出過ぎるでないぞ」

「よい。そのように締め付けては軍議にならんだろう」

 ダグラスの発言を封じようとするロアーツを、モルドレッドが止めた。

「余は諸君らの忌憚なき意見を求む。此度は発言に許可はなく、序列もないと心得よ」

「しかし、それでは」

「くどい。形式通りにやれば、何時までも終わらぬ」

 小さな一喝だった。

 発言を許可されたのに、気まずい雰囲気になり、余計に発言し難くなった。

 そんな中、口を開いたのは焦点の合わない目で窓の外を眺めていた貴公子であった。

「五日ですか。では、援軍は間に合いませんね」

 ミルディン王子。俊英とたたえられ、時代の国王としての期待を一身に浴びせられている青年。音楽詩歌にうつつを抜かしている暗愚という悪評もあるが、本人を見れば、その評判がどれだけ的を射ていないかよくわかる。

「援軍派兵の検討ではないとするなら、そろそろ父上が我らを招集した目的をお聞きしなければなりません」

「うむ、そろそろ話さなければならないな」

 モルドレッドが重苦しく頷く。その表情は変わっていなかったが、息子の成長に喜んでいるようだった。

 場が、少しだけ和やかになり――。

「イリア地方への派兵を検討して貰いたい」

 再び凍り付いた。


    ――――


 近衛部隊の隊舎で、イリア方面部隊に抜擢された魔道軍将が、クレインの両手を取って屈託のない笑顔を見せていた。

「また一緒ね。前回は散々だったけど、今回は頼りにしているから」

「え、はぁ、そうですね」

 防御が薄いんじゃないかと突っ込みを入れたくなる態度に、クレインは戸惑うことしかできなかった。

 横で見ていたケインが含み笑いをこぼし「なんだ、クレイン様もちゃんとお相手がいるんじゃないですか。これですか、これ」と小指を立てて「ご安心下さい、ちゃんとクラリーネ様にもチクっておきますから」と洒落にならないことをほざき出した。

「いや、ちょ、おま」

「貴方は、たしかブゥドル伯爵だったかしら」

「ケインであります。若輩者ですので、お引き回しのほどよろしくお願いします」

 ケインは跪いてセシリアの手の甲に接吻をすると「では、私は領内に戻って長弓兵の編成にかかります」とクレインに伝えて去っていった。

「……調子のいい奴め」

 セシリアは「面白い人ね」と含み笑いを漏らしていたが、すぐに真顔になって「まさか、このようなことになるとは」と憂いを帯びた顔をする。元々、才能はあっても戦場には似つかわしくない女性だった。戦火にさらされる民草のことを考えると、胸が詰まる思いになるのだろう。

「しかし、モルドレッド王も大胆なことをなさる。いや、悪くはないのですが」

 イリア地方への派兵など、想像すらしなかった。援軍などという生やさしいものではない。

 ベルンがサカを取るなら、こっちはイリアを取る。そう言っているようなものだった。

「しかし、これは……」

 敵がベルンだけなら、これほど効果的なものはない。だが――。

「援軍のすべてが三軍将派で固められているのが問題ですね。大将はミルディン王子、副将がセシリア殿、寄騎に私を含む諸侯ですから。ダグラス殿を王宮に置くという譲歩は引き出せましたが、パーシバル将軍はサカとの国境に配置されている。これでは、宰相派に国を乗っ取られてしまいます」

「もう、半分以上乗っ取られているけれど」

「それは事実ですが……」

「何事も悪く考えがちになるの、クレインの悪い癖よ」

 クレインはハッとして、セシリアの方を振り返った。

 クラっとした。この男殺しめ。天然か。天然なのか!

 ……多分、ロケットおっぱいは何も考えていない。



[4586] 第8章第7話
Name: 海猫◆2aa27027 ID:b53b5944
Date: 2009/09/08 22:04
 およそ2000の軍勢がブルガルの手前まで寄せていた。

 塩漬けにして保存していたモンケの子息五人の首をブルガルの門前に並べ、夜間も楽器を打ち鳴らして城内の睡眠を妨害している。敵方の士気はどん底まで下がっていた。

 しかし、諸侯たちがそろそろ内通者が出始める頃だろうかと推測し、城攻めの支度を調えている中、ひとりナーシェンは本営で不気味な沈黙を守っていた。解せない。あまりにも事が上手く運びすぎている。そう、モンケは明らかに捨て駒にされていた。

 おそらくは時間稼ぎ。ならば策があるのだ。

 心当たりはあった。ナーシェンが攻め落としてきた都市の多くで、物資不足が起こっていたのである。敵軍に攻められる直前に強制徴収したと聞いている。陥落するとわかり切っている都市から物資を引き上げるのは、そう珍しいことではないが手際がよすぎる。

「……アルフレッド侯。現在の兵糧でブルガルの民を養うことは可能か?」

「数日で尽きるでしょう。持参した兵糧では、流石にブルガルほどの大都市を賄うのは不可能かと。領内からの輸送である程度は食いつなげるでしょうが、敵が兵站攻撃を目論んでいるやもしれず、得策とは言い難いですね」

「なるほど、卿は察しているわけだ」

 ナーシェンは面に憂鬱を含ませ、やれやれといった様子で天井を見上げた。蝋燭の火がちりちりと揺れている。誰だ敵方に入れ知恵したのは。ゲクランではこのような思い切った戦略図は描けまい。モンケに至っては論外だ。

 ナーシェンは数秒、両目を閉じた。……舅殿を頼ることになるが致し方ないか。

 ならば――こうするか。

「ブルーニャ殿の王国軍およびダヤン殿のサカ軍を除いた我々はこれより撤退作業を始める。各々、異論はないか」

「はぇ? ど、どう言うことですか!?」

 この面子の中ではもっとも年少のアレクセイが口を挟む。

 こんなに順調に侵攻作戦が進行しているというのに、どうしてここで戦場を放棄しなければならないのか。若者の顔にもありありと不満が浮かぶのを見てから、ナーシェンはおもむろに口を開いた。

「共倒れも辞さない覚悟の敵を、わざわざ真っ向から受け止めてやる必要はあるまい」

「やはり、サカを取れば餓えますか」

 ここでそれまで押し黙っていたグレン候が小声で呟いた。他の将軍たちも自軍の兵糧の残量に、おおよその現状を理解しているようだ。兵糧は不足しているわけでもなく、むしろ充足している。しかしそれは、自分たちの軍勢を食わせるだけの量でしかない。

 餓えきった民衆を養うとなると、自軍まで消耗してしまう。

「焦土作戦か。まったく、ゲクランも思い切ったことをしてくれる」

「しかしそれでは、サカの民からの求心力が……いや、ゲクラン殿はエトルリア人。事ここに至っては、私たちの妨害こそが肝要と言うことですか」

 攻めれば攻めるほど味方が餓えていく。やがて飢餓で士気が落ちきったところを攻められれば、たとえ敵が寡兵であっても大敗を喫することになるだろう。そのような図絵が脳裏に浮かんだのか、諸侯たちの顔が苦々しく歪んだ。策の内容がわかっていても、どうにもならない策である。

 だが、期限は半年。じっくりと腰を据えて領内からの兵站を整えてから城攻めに取りかかりたいところだったが、時間がそれを許してくれない。戦略的大勝を得ることができなければ、ナーシェンは爵位を下げられ、領地も大幅に召し上げられ、北部同盟が瓦解することになる。

 押し黙った軍議の席で、ぽつりとカザン伯爵が発言する。

「さて、どうする。いっそブルガルの民を見捨てると言うのもあるが」

「いや、それでは後の支配構造に歪みが生じることになる。敵の手に見せかけて民衆を虐殺するならまだわかるが」

「はははっ、ベルアー殿もえげつないことを仰いますなぁ」

「カザン殿が心にもないことを仰せられるから、私も乗っただけですよ。冗談に決まっています」

 はっはっは、と笑い合う二人の伯爵。目が笑っていなかった。

 ベルアーの息子アレクセイが父親たちの笑い声に絶句している。

「まぁ、それでも構わないのだがな。いささか芸がない」

「それで撤退ですか。偽装退却ですかな?」

「それで釣られてくれるならまだ楽なのだが、焦土作戦を仕掛けてくる以上、功に焦って出てくることはないだろう。密偵からの報告では、猪武者のモンケ殿と言えどもご子息の首を並べられて消沈しているという。三人を討ち取ったところまでは怒り狂って攻め掛かってきたものだが、四人目、五人目になると、どんどん及び腰になっていたからな」

「復讐心よりも恐怖心が先立ったわけですか。小人の末路としてはよくあることですが哀れなものですな」

 再び軍議に満ちる暗い微笑み。アレクセイが半泣きになった。

 ナーシェンはこれ以上、この若者を虐めるのも悪いかと思い、軍議をまとめにかかる。

「私たちはベルン本国に撤退後、すみやかに補給を済ませて軍勢を再編、リキア東部を横切ってサカ西部から攻め掛かる」

 何気なく呟いたその発言に、諸侯たちの顔が強張った。

「――っ! はっ、承知しました!」

 地図上でサカ地方の東西から攻めかかる、壮大な規模の挟撃。

 左右から攻めれば物資を持ち逃げする場所すら見当たらなくなるという構想だった。


    【第8章・第7話】


 サカ侵攻作戦から二ヶ月後、突如ナーシェン軍が撤退行動を開始する。この予想外の行動に、大陸中の人々は度肝を抜かれることになった。見識者たちはただ逃げ帰っただけと言ったり、これも深謀遠慮の所以と評したりしていたが、国王ゼフィールは「余はブラミモンド公に采を預けたのだ」と呟き、すべての諫言を退ける。モンケの子息の首を鑑賞しながら美酒を傾ける王に、側近たちは何も言えなかった。

 ナーシェサンドリアに期間後、すみやかに軍勢の再編を済ませたナーシェンは、すぐに軍勢を西に向けた。なお、この再編および補給作業においてアルフレッド侯爵が部下に小言をこぼしている。作業に四日を要したのはナーシェンがジェミー夫人にべったり張り付いていたためであり、本来なら二日で終わっていたのだとか。

 そして……。

 オスティア城において、ヘクトルは一枚の書面に目を落とし、顔全体を真っ赤に染めていた。

「ヘクトル様、どうかお気をお鎮め下さいますよう。お身体にも触ります」とオズインがたしなめ、ようやくヘクトルは我に返り、居心地悪そうに咳払いする。

「うむ。少し取り乱した。忘れろ」

「それで、ブラミモンド公からの手簡には何が書かれていたのですか」

「あの儒子、軍勢1500がリキア領を通過するのを見過ごせとほざいておるわ。表向きは舅への挨拶となっているが、それにしては物々しすぎる軍勢だな。しかも、数日前までサカの戦場にいた精鋭部隊。黙して通せばオスティアの沽券に関わってくるが」

「……では、阻止なさるのですか」

「馬鹿を言え。向こうにオスティアへの侵攻目的はないはずだ。蛇のいる藪を突くような真似はできん」

 今のところベルン側はサカ、イリアへの遠征で、リキアに向ける余力を残していない。だからこそ、今の内にベルンを叩くのが最善の策なのだが、果たして対ベルン戦で封建領主が参陣するだろうか。頼るべきエトルリアも、とりあえずイリア地方に増援を送ることにしたようだが、その数はわずか1000。これで、オスティアがエトルリアに迎合するという案も潰えた。

 ……と言うか、どうしてイリアへの援軍派兵なんだ。決断するタイミングが悪すぎるぞエトルリア。

 ナーシェンがサカから兵力を引き上げた今となっては、イリア地方よりもサカ地方の方が与しやすい。だが、今から目標を変えると下部の兵士たちがイリア攻め中、やっぱりサカを攻めていればと後悔するだろうし、サカ攻め中、やっぱりイリアを攻めていれば――と、戦意が崩れてしまう。兵士たちにそれと悟られないように、最初の目標通りイリアを攻めるしかないのだ。これもナーシェンの奸計なのかこの野郎。

「くそっ、ナーシェンめっ。ナーシェンの儒子めっ。おのれ、ナーシェンめっ」

「そう言えば、姫様も一度お顔をお見せになるとか」

「……………………そっ、そうだな」

 ヘクトルの目が泳いだ。

 リリーナが嫁いでから四年。辛酸を嘗めさせられ、臥薪嘗胆、血の涙を流し堪え忍んできた歳月。ヘクトルは書面の下の方の臭いを嗅いでみる。愛娘が追記した部分。インクの臭いがした。ヘクトル、鼻息が荒くなる。

「ようやくだ。大きくなったんだろうなぁ。楽しみだなぁ、リリーナ」

 主君の奇行に、オズインは見なかったことにしようと顔を背けた。

 そうしてふと目に入るのが物陰に控えていた密偵アストール。

 オズインは腹を抱えて床を転げ回っている密偵を蹴飛ばした。



[4586] 第8章第8話
Name: 海猫◆2aa27027 ID:b53b5944
Date: 2009/10/04 20:38

「なぜだ!? なぜ必勝の策をこうも容易くひっくり返す!?」

 ブルガルの政庁、ヒステリックな男の悲鳴が屋敷の空気を切り裂いた。高価な壺が割れる音に、かけつけた侍女が見たのは、ギラついた目をしたベルトラン子爵ゲクランだった。凛々しい美丈夫の姿はもうそこには残っていない。バルドスはいよいよ馬脚を現したかと、深々と嘆息した。

(その策、焦土作戦すら私に頼っていたと言うのだから笑わせる。他人の策を必勝の策だと?)

 バルドスは侍女に手振りで下がるように指示する。恐怖に立ちすくんでいた侍女は、救いの手を差し伸べられたかのような顔をして走り去った。その侍女がバルドスを見る目には心酔のようなものが含まれていたが、とっくの昔に枯れ果てている老人は彼女の思慕に気付いても、何の感慨も浮かばなかった。

「サカから抑えの兵を残して撤退。……となると、奴はブルガル以外の都市を落としにかかるはずだ。私たちに背後を見せながら、他都市を攻めるのは危険すぎる。と言うことは、迂回して西部を叩くと言うことだ」

 バルドスは感心した。この程度の男でも、これぐらいは頭が回るようだ。

「バルドス!」

「はい」

「ブルガルの残存兵力で、抑えの兵を破ることは可能か!?」

「無謀ですな。ブラミモンド公はブルーニャ将軍とダヤン殿を残しておられます。兵力800も、敗戦を重ねた我らを上回っておりますし、モンケ殿はご子息を失われて意気消沈しております。エトルリアからの援軍を待つしかないでしょうな」

「……来んよ。エトルリアは、私たちを見捨てた」

「ならば籠城し続けますか。なに、民衆を虐殺すれば三年は堪えられますとも」

 ゲクランは黙り込んだ。それを実行すれば、ゲクランは歴史に悪名を残すだろう。しかし、あえてそれを実行できる者もいる。そう言う者が、逸物と呼ばれるのである。と言っても、そのような非道を顔色変えずに実行できるのは、大陸中を探してもただひとり、ゼフィール王だけである。

「もうよい、貴様のしかめ面も見飽きた。下がれ」

 バルドスは無言で踵を返した。

 籠城は続く。商人から物資の徴集。次は民衆への強奪。そうして雑巾を絞りきって何も出なくなった時、馬を喰らう。これで半年は持つだろう。離反者が出なければ……だが。

 飢餓に耐えかねて離反する者が多数現われる。それで、ゲクランは終わりだ。西部から挟撃されているので、エトルリア本国に逃げ帰ることもできない。

「元々勝てる戦でもなし、そろそろ潮時か……。相手が悪すぎましたな、ゲクラン殿」


    【第8章・第8話】


 領地に帰還してから数日、ナーシェンはジェミー夫人とさんざんいちゃついてから出発。そしてついに、文豪ナーシェン、正式にオスティアに入る。

 ナーシェンの著書を愛読している知識人、資産家たちが歓迎の意を示し、城下町正門で待ち構えていた。市民たちも何か面白いことがあるのかと集まり出し、露店まで正門付近に集中、ナーシェンらがオスティアに入れなくなるというパニックが発生していたりする。

 またもや秘密の地下道を使用しオスティアに侵入、そして太守ヘクトルとの対面となった。

「うぉぉぉぉぉぉぉ! リリーナぁぁぁ! リリーナぁぁぁ!」

「リリーナ様万歳! リリーナ様万歳!」

 オスティア太守ヘクトル、重臣たちの熱烈な歓迎に、ナーシェンとリリーナ、揃ってドン引きである。「あれ? オスティアの家臣ってこんなのだったっけ?」と首を傾げているリリーナ。ナーシェンは何時ヴォルフバイルで斬り付けられるかとビビッていた。

「リリーナぁぁ、おお、かわいそうに。慣れぬ他国での生活、さぞ辛かったことだろう」

 気持ちはわかるが、ナーシェンの前で言うことではない。

 ヘクトルは両手を広げて今にもリリーナに飛びかかりそうだったが、その寸前、ナーシェンの背後に控えているある人物に気付いて表情を凍り付かせた。

 剣魔カレル。

「げぇっ、カレル!?」

 そう、あれは、遠い記憶のこと。

『君はいずれ、世に聞こえた将になる。こんな所で、その力、潰えるには惜しい。もっと、強くなってもらわねばな。私はその時を、楽しみに待とう』

 いよいよ斬りに来たのか――!?

 戦慄するヘクトル。しかしカレルは、ヘクトルのことなど毛ほども気にしていない様子である。それどころか「やぁ、十年ぶりかな?」とゆるーい挨拶をする始末。数年前からカレルがブラミモンド家に身を寄せていたのは知っていたが、まさかこれほど腐抜けた顔をしていたとは、オスティア家の密偵をバッサバッサと斬ってきた男とは思えなかった。

「こほんっ、えー、オスティア侯爵家当主ヘクトル殿、此度、わが軍の通行を許可して頂き、まことにかたじけなく存じます。このナーシェン、感謝の念に堪えませぬ。また、ヘクトル殿は私の義父にあたるお方。今までこのような場を設けなかったことも、まことに申し訳なく思います」

「い、いや、私もこの機会が両家の良縁になればいいと思っておる」

 相手を動揺させて有利な条件を引き出させる交渉術……なわけはない。トチ狂った相手が暗殺を目論んでいないとも限らないため、腕の立つ者を引っ張ってきただけだった。もしジャファルがここにいれば、ヘクトルの心臓が停止していただろう。……そのジャファルも物陰で気配を消してナーシェンを護衛しているのだが。

 それから三日後、ナーシェンはオスティアを去った。滞在中、ひっきりなしに著名人が現われてはナーシェンとの面会を望み、雑談だけではなく政治の裏話、交易路の確保など、有意義な会談を設けることができた。オスティア家との曖昧な同盟関係であることを再確認できたのは、ひとつの収穫だろう。

 それから数日後、ナーシェンとの会談を終えて胸を撫で下ろしていたヘクトルを、心臓発作で殺したいのかと疑いたくなる報告が入ってくる。

 発端はフェレ家であった。

『ラウス家は十五年前に引き起こした動乱についての謝罪および賠償金を支払うべし』

 フェレ家当主エリウッドは、まるでラウス家を挑発しているようにしか思えない要求を突き付けたのである。

「血迷ったかエリウッド!?」

 握り拳を玉座に叩き付けたヘクトルの元に、新たな報告が入った。

 ラウス候エリック、フェレを攻める。


    ――――


 前々から準備していたとしか思えない状況だった。

 フェレ公子ロイは、遠方のラウス騎馬軍団を眺め、深々と息を吐き出した。初陣である。

「総大将はエリック、直々の出陣です。兵数は400、半数が騎兵」

「こちらは300か。数では劣るが」

 だからこそ、エリウッドはエリックを挑発して向こうから攻め込ませたのだろう。地の利があれば、多少の数の差はカバーできる。外交とはこう言うことを言うのかと、ロイは口中ににじむ苦々しいものを飲み下した。

「父上は何を考えているのだろうな」

「……ロイ様、戦場では迷いは禁物ですぞ」

「わかっている。ただの愚痴だ」

 こちらは主将をロイ、補佐にマーカスが付いている。エリウッドは病身のため、屋敷で療養しながら策謀を巡らせていた。明るい顔をした、領民に慕われている父。それが父のすべてだと思っていたロイには、今回のことは衝撃が大きすぎた。

「前列のアーマーナイト隊。敵の突撃を受け止めた後、弓兵で狙撃、その後に騎馬を投入。臨機応変に行くぞ」

 命令を下知した後、数刻後、睨み合いに焦れたラウス候が動き出した。リキアでは珍しい騎馬を主体とした軍編成のラウスは、単純な突撃力だけならリキア最強と言われている。サカの剣士も何人か飼っており、侮れない存在だ。だが、主君があれではどうにもならない。

 ――エリウッドは、前々から、準備していたようなのだ。

 突撃したラウス騎兵、その半数が爆散する。地面に仕掛けられた罠、フレイボム。オスティアから発覚しないように少しずつ仕入れてきたそれは、おそらく数年かけて蓄えられた物。本来なら対ベルン用に使うべき代物。それが、ここで用いられていた。

「ベルンの目がサカ、イリアに向いている今しかないのはわかっている。だが、これは……」

 リキア同盟の信義は、どこに行ったのだ。

 他国から攻め込まれれば、一丸となって団結する、そんな同盟だったのではないか。

「いや、違うな」

 フェレの騎兵が反撃を開始する。

「最初に同盟を裏切ったのは、オスティアか。父上がリキア同盟の価値に疑念を抱いたのも無理はない」

「ロイ様! 今この時だけは……!」

「ああ、わかっている! くそっ、ラウス候もこうも易々と釣られるからだ!」

 レイピアを抜いた。

 ウォルトが射た矢がエリックに命中し「流石ウォルト!」と味方の士気が上がっていた。




[4586] 第8章第9話 ― ここから
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:b53b5944
Date: 2009/10/04 20:38

 サカ後方から進軍していたブラミモンド軍は、ブルガルの手前、2000人規模の村近くに駐屯していた。ブルガルの近くのため比較的発展しているが、狩猟民族の村なので小規模なのは変わらない。街並みを見れば少しは賑わっているように見えるだろうが、それもブルガルから脱走してきた民衆がいればこそである。

 ナーシェンは小高い丘に立ち、ブルガルから立ち上る炊き出しの煙を見ていた。

「出陣は明日だそうだ。あの煙は、冥土への旅路に備えて腹を膨らませておくためのものだった……」

「実際に確認したんだな?」

「ああ……ジュテ族の連中は悲壮な顔をして飯をかき込んでいた。通夜のようだった」

「ふむ、正信さんはこちらが命ずるまでもなく連中の家族を掌握しているみたいだな」

 周りには、ナーシェン以外の姿はない。実際は剣士隊の兵が護衛しているのだが、その姿を見つけるのは素人には不可能だった。

 そして、ナーシェンの会話相手は熟練の剣士たちですら見付けられないほどの完璧な隠形を行っていた。傍目にはナーシェンは幽霊と会話しているように見えるはずである。一般人に見られたら、また新たな悪名が付け加えられるだろう、この日のナーシェンであった。ブラミモンド・オブ・メルヘン・ナーシェン。

 あまりに格好いい異名に泣きそうになる。

「では、後は正信さんを逃がすだけだな。うっかり巻き込んで殺してしまうと色々とまずい。まぁ、あれは殺しても死なない男だが」

 ちなみに、正信さんとは内通者のコードネームである。別名、サドの神。

 何せ、打ち合わせもせずに勝手に焦土作戦を実行するような男だ。ナーシェンが阿吽の呼吸でその意図を読み取り、敵の背中を叩いたからよかったものの、並の将なら考えなしに突っ込んで大火傷しているところだろう。切れすぎる刃物は、敵だけでなく時には味方にすら向かってくるから恐ろしい。

 ナーシェンが思考に沈み込んでいると、くいくい、と袖が引っ張られた。

 五歳前後、幼女。サカ人特有の黒髪である。瞳の青は、エトルリアかイリアの血が混じっているからだろうか。

「なーさま、ちょこれーと、ください」

「ああ、少し待ってろ。えっと、1/80ナーシェンさまチョコレート飴だ」

 腰に括り付けた布袋を取り外し、そのまま幼女に押しつける。中にはデフォルメされた六個のフィギュア……もとい、ナーシェンを模ったチョコレートもどきが入っていた。溶かした砂糖に黒っぽい粉を突っ込み、職人の手によって作られた鋳型で固めた飴である。

 気障っぽく髪をかき上げている金ワカメに、大人たちには大不評だったが、子どもたちは何をトチ狂ったのか“かわかっこいい”と言って口に放り込んでいる。

 占領地で子どもたちに大人気! を実現するために、サカ侵攻後に開発された新商品だった。大量の砂糖を消費するため大赤字だったが、その程度ではブラミモンドの経済基盤は揺るがない。先行投資のようなものだと割り切り、ベルンの兵士が占領地で必要以上に怯えられないために、そこら中で子どもたちにばらまいていた。……だが、モデルをナーシェンにしたのが不味かったのか、人気が出すぎて直接ナーシェンのところにやってくる子どもが増えているのが現状である。

「わーい! なーさま、ありがとう!」

「あまり食い過ぎるなよ、ピザになるから」

「ぴざって?」

「お嫁の貰い手がいなくなるってことさ」

「やだ! ぴざいやー!」

 舌っ足らずな言葉で泣きながらナーシェンに抱きつく幼女。見守っていた剣士たちは微笑ましさに顔を見合わせる。

 そんな占領地のハートフルなワンシーンの中、鼻歌を口ずさんだ青髪の少女がやってくる。

「あ」

 泣いている幼女に抱きつかれているナーシェン。婚約者に見つかった。


    【第8章・第9話】


 焦土作戦、瓦解する。

 策が破れたという事実をようやく受け入れたゲクランは、もはや小手先の策謀ではどうにもならないと悟っていた。手を引くべき時期を逸したということにも遅まきながら気付いていた。ここにきて焦土作戦も裏目に出始め、物資を強制徴収した各村で暴動が起こり始めており、サカの地でジュテ族の支配体制を構築するのは不可能になっている。

 ブラミモンド軍は後方の拠点を次々と落とし、明日にもブルガルに迫る勢いだった。規律を遵守し、占領地で略奪を行わないベルン軍に、他国の支配に怯えていたサカの民は、むしろこれまでの支配体制にはない好意を持っている。民には飴を舐めさせて骨抜きにし、それから溢れ出た分だけ搾り取れというナーシェン統治学の本領であった。

 名付けて『ぎぶみーちょこれーと作戦』。

 くれぐれも・れいぷはするな・うちくびだ。ナーシェン川柳。理解できる者はエレブにはいない。

「ふ、はは……見事だ、ナーシェン」

 ブルガルの政庁、ゲクランは深く椅子にもたれかかり、天井を見上げて息を吐いた。弟エマヌエルが奔走して、成人していない若者や引退した老人などを強制徴用し、どうにか500の兵を集めていたが、迫り来る敵軍は、抑えの兵と併せて2000の正規兵。どう足掻いても、押し流されるのが関の山だろう。

(ブルガルから落ち延び、エトルリアに逃げ帰るか。いや、抜け目のないブラミモンド公のことだ。私が脱出しようとすれば、調略されていた部下が完全に私を見限り、私の首代を手土産に寝返ろうとするか。となると、エマヌエルすら信用できんな。だが、誰の助けもなくエトルリアに帰国できるとは思えない)

 となると。

「バルドスとモンケに兵を率いさせ、ブラミモンド公にぶつけるか。隙が出来れば、抜け出すことも……」

 ゲクランは脳裏にその光景を描いてみた。不可能ではないはずだ。困難なのはわかりきっているが、自分ほどの能力があれば監視の目をかいくぐってエトルリアに戻り、今度はエトルリアの大軍を指揮してサカを取り戻すことも出来るはずだ。そう、古来より英雄とは絶望的な状況から勝利を勝ち取ってきたのだから。英雄の素質があるゲクランに、それができないわけはない。

「ふっ、ははっ、そうだ。私は強い。私は賢い。私は正しい。誰よりも、誰よりもだ」

 呟いて、部屋を出た。

 途中、少年とも青年とも呼べる年齢の剣士とすれ違う。まだ顔に幼さが残っているか。わずかに血の臭いがしたが、現在のブルガルではそう珍しいことではない。サカ兵の現在の仕事が、暴徒の鎮圧だからだ。暴発した民衆は、見せしめにするためにすべて斬っている。

 ゲクランは赤いサカの服を着た剣士を見送ると、モンケの寝室に向かった。

「む……」

 そして、立ち止まる。

 侍女が床に座り込んでいるのである。へたり込んでいると言うべきか。そして、失禁している。両手で口元を覆いながら、蒼白な顔をモンケの寝室に向けていた。何か恐ろしいものでもあるのかとモンケの寝室をのぞき込み、ゲクランは絶句した。始めは何時の間に深紅の絨毯に新調したのかと錯覚したほどだ。

 床一面にぶちまけられた血。

 見張りの兵士はご丁寧に皮一枚を残して首を落とされ、もう一人の兵士は逃げようとしたのか背後から斬られている。

 砂城の王は、こぼれ落ちた臓腑をかき集めようとしている体勢で事切れていた。

「……ふむ、自害したわけではなさそうですな」

 ジュテ族の栄華を夢見て、統一王朝を作ろうとしていた王。操り人形にされていることにも気付けず、エトルリアに踊らされてきた男。

 愚物で、取るに足らない能力しか持っていない男だった。

「下手人はジュテ族とは考えにくい。まぁ、ゼロではありませんが。となると、従属していた他部族が怪しいですな」

「……おまえは」

「少なくともこの事実は秘すべきでしょう。ジュテ族の長が暗殺されたと聞かされれば、ただでさえ戦意の低い末端の兵士がことごとく寝返るのは目に見えております。しかし、困りましたな。おそらく決戦では総大将になるはずだったモンケ殿が志半ばで倒れ、ご子息すべてが討ち死にした今となっては、兵を率いる者がおりませぬ」

 ここは、ゲクラン殿とエマヌエル殿に尽力して頂かなければ。

 そう呟くバルドスの、氷のような無機的な目を見て、ゲクランの背筋に震えが走った。

(まさか……)

「まさか、ベルン人の私に兵を率いよと命じられることはないでしょう。ゲクラン殿?」

 まさか……。まさか……!?

「貴様、寝返ったか!? 何時からだ?」

「おや、やっと気付きましたか」

 老人、バルドスは異なことを聞くものだと柔らかく微笑んだ。悪魔の嘲笑。そのように見えてゲクランは愕然とする。

「貴様は、息子の命がどうなってもいいのか」

 よく考えてみれば、こちらの情報が敵側に伝わりすぎていたように思える。味方の兵も脱走しすぎだ。いくら形勢が不利とはいえ、まったく文化の異なる他国の軍にあっさりと寝返るにしては動きが速すぎた。手引きした者がいるはずだった。

 まさか、最初から寝返っていたとでも言うのか。

 戦慄するゲクランの問いに、バルドスは淡々と答える。

「愚問ですな」

「……貴様がそこまで冷徹だったとは、甘い認識だったか。いや、それでなくては鬼謀と恐れられはせんか」

「甘いのは認識ではなく監視ですな。あなたがやったことは謀略家を気取って部屋に籠もって戦略を練るだけで、部下の掌握など実務方面を怠り、地下牢のことも部下の報告だけで自らの目で確かめなかった。事実、あなたには謀才はあった。こと謀殺においてはエトルリア随一と言ってもいい。ですが、才に溺れましたな。得意な分野だけでは戦争はできませぬ」

 目眩がした。

「では、貴様の息子はすでに……」

「ナーシェサンドリアで療養中ですな。夫婦共々、穏やかに過ごしておりますぞ」

「クッ、結局すべて貴様らの手の平の上で踊らされていただけか」

 ゲクランは歯がみする。

 では、焦土作戦を提案したのも、サカの民心をジュテ族から引き離すためだったのか。ベルンの支配をやりやすくするための策謀だったのか。

「……で、貴様は私に何をさせるつもりだ」

 モンケを始末したのだ。となれば、ゲクランを殺せない理由はない。バルドスはゲクランを生かしていた。まだ使い道があるからだ。

 英雄、か。ゲクランは鼻で笑った。せめてもの抵抗に自害してやろうかと考えている自分が、果たして英雄と言えるのだろうか。

 バルドスも、鼻で笑った。小さく「邪魔なのですよ」とせせら笑う。

「ジュテ族の兵士が邪魔なゆえ。貴殿を殺して無血開城させることも無理ではないが、ジュテ人を降兵として受け入れるには、彼らは略奪の甘さを覚えすぎている。かと言って解き放てば賊徒と化して後の支配に差し障る。根切りにすればサカの支配が恐怖によるものになってしまう。彼らは戦場でことごとく殲滅されるべきということですな。ゲクラン殿にはその兵を率いて貰います」

 あまりにも……あまりにも……冷徹な言葉に、ゲクランは打ちひしがれる。

「そ、それなら……わ、私である意味はない。モンケでいいのではないか」

「モンケ殿は女子供の命を安堵して貰うために自害。自らの首を差し出して降伏しようとする。しかし、貴殿はそれに異を唱え、事実を秘してジュテ族を率いて出陣。そして討ち死にする」

「あ、兄上!」

 四肢を縛られたエマヌエルが床に転がされた。引き連れていたのはゲクランの元部下である。

 そう言えば、バルドスと最初に出会った時は、今とは逆の立場だった。

 人とは恐怖ではなく利で釣るのだ。恐怖だけでは支配できぬ。恐怖政治でも、利があれば人は従ってくる。

(ああ、そう言うことか。もっとも、これも気付くのが遅すぎたわけだが)

「なに、300のジュテ族残党があるのです。貴殿が真の英雄なら、生き残ることも不可能ではありますまい」

 強烈な皮肉に、兄弟二人は絶望に顔を見合わせた。





[4586] 第8章第10話
Name: 海猫◆7a85c8bf ID:b53b5944
Date: 2009/10/04 20:48


 進退窮まったジュテ軍がブルガルを脱し、窮鼠猫を噛む覚悟で布陣している。ゲクランとエマヌエルは、すでに正信さんの傀儡だという。唯一の希望、ブラミモンド軍さえ突破できればエトルリアに帰国できるという餌に釣られたエトルリアの謀略家。生き残って家族と再会するために最後の抵抗に挑む兵士。そして、その図絵を描いた青年は、馬上で不敵な笑みを浮かべていた。

「人の心はある程度までは“利”で操れるのだよ、ベルトラン子爵。謀略で食っていくなら、まずそのことを心得ておくべきだったな」

 呟いて、ナーシェンは片手で玩んでいた細剣で手の平を叩いた。『ほそみの剣』。理不尽なことに、その剣を持つナーシェンには気品やら風格やらが漂っていた。何のことはなく、それ以上の重さの剣を持てないだけなのだが、その威圧感は大軍を率いることによって成長したということなのだろうか。

「さて、国盗りの最終段階だ。くれぐれもダヤンに功を取られるな。サカは、サカ人によって救われるのではない。我々ベルン人によって解放されるのだからな」

 諸将たちの武者震いを見詰め、ナーシェンは細剣を振り上げた。

 死に物狂いで突撃する敵兵。最前に置いたブルーニャとダヤンが衝突を始める。だが、まだナーシェンは動かない。微動だにしない。

 ブルーニャ、ダヤン、二将にとって功は喉から手が出るほど欲しいはずだ。望んで先鋒に就いていたのだが、敵は死兵である。功は大事だが、兵を減らすわけにはいかない。ほどほどに粘ってから体勢を立て直すために一度下がった両軍を見据え、ナーシェンは剣を振り下ろした。それまで微動だにしなかったブラミモンド軍が神速の突進を開始する。

 車懸り。付け焼き刃だったが、見たこともない戦法に、サカ軍は混乱。さらに、敵の戦法が下がって活路が見え始めていたところに、新手が襲いかかったのである。あっと言う間に崩れていくジュテ族の軍団。逃げようとすれば、下がっていたダヤン、ブルーニャ軍が襲いかかる。そのタイミングで、背後のブルガルの門が開く。溢れ出した暴徒が、これまでの圧政の鬱憤を晴らすかのようにジュテ族をのみ込んだ。命乞いすら許されない地獄が出現する。おそらくは、正信さんの仕事。やり過ぎだよ正信さん状態だったが、それすらナーシェンの謀略のように思えてダヤンとブルーニャは戦慄していた。


    【第8章・第10話】


 ブルガルの民たちは入城するブラミモンド軍を歓迎していた。あまりにもジュテ族の統治がアレだったため、ベルンが攻め込んでいなければブルガルの経済機能が麻痺していなかったという事実すら、民たちには見えなくなっているようだった。モンケがアレでも、交易路さえ繋がっていれば民は食っていけるのだ。

 さらされているモンケ、ベルトラン兄弟に石を投げつける民衆を見て、少年は石を拾い上げた。軽く力を込めて投げつける。

「終わった、か」

 少年はため息を吐いた。少年は顔立ちがベルン人に似ていると言うだけで、ジュテ族の兵士たちから不当な暴力を被っていたのである。それを庇おうとした両親が斬り殺され、少年は復讐を誓った。そして無鉄砲にも政庁に忍び込み、あえなく捕縛されたのだった。

 地下牢に繋がれて処刑を待つ身の自分に、あの老人は剣を渡した。不思議なことに少年が脱獄した時、地下牢はおろか廊下にさえ見張りがおらず、こちらが拍子抜けするほどあっさりとすべてが終わっていた。自分は復讐を果たしたのである。それは喜ばしいことのはずだった。しかし、どう言うことか、心の中身には何も残っていなかった。

 石が、ゲクランの首にぶつけられた。

「……そうですね。ようやく、終わったのですね」

 一目で、高貴な身分の者だとわかった。所々痛んでいるが、流麗な黄金色の髪はまだ芯まで輝きを失ってはいない。生まれついての美貌が、見る者の目を引きつけ、男どもの下衆な欲望を集めていた。裸足である。娼婦か、奴隷か。少年は声を失った。彼女もまたジュテ族によってすべてを奪われ、己の尊厳をことごとく踏みつぶされてきたのだろう。

 滅ぼされた部族の娘だろうかと思ったが、明らかにサカ人とは異なる容姿に、少年は確信を持てないでいた。

 だから、すべての疑問を差し置いて、空っぽの心に任せて言葉を紡いだ。

「結局……俺たちは、ただ不幸だっただけか」

「それもまた真理なのでしょう。世はおしなべて不条理に出来ているようです」

「それすらも、今となってはどうでもいいか。……お前は、明日の飯はどうするんだ?」

「ああ、そう言えば、困りましたね」

 わかるようで、わからない女だ。少年は空を見上げた。

 ああ、どうして、自分はこんなことを考えているのか。まったくわけがわからない。それでも、少年の口は空虚に任せて勝手に動く。

「俺のところに来るか?」

「はい?」

「剣の師匠のところに間借りしていてな、この顔だから匿われていたようなものだが。……この戦の所為で、ただでさえ少なかった門下生がことごとく死んだから、部屋は余っている。給仕ぐらいは……できるのか?」

 最後に、疑問になってしまった締まらない提案に、女は小さく吹き出した。

 憮然とした顔をする少年に、女は涙目で「ごめんなさい」と謝る。

「……あなたは、いい人ですね」

「誤解だな。所詮は人殺し、いい人も悪い人もない」

「それでも、です。私はクラリス。しばらくの間、お世話になります」

 丁寧な所作に、気品のある振る舞い。それなりの教育を受けた者だけに許される洗練された動作に、ルトガーは目眩を押し殺す。

「あなたのお名前は?」

「……ルトガーだ」

 やはり元貴族かと、少年は場違いな気分になって嘆息した。


    ――――


『久方ぶりの活躍の機会に、少々心が高ぶりました。反省はしておりますが、後悔はありませぬ。なに、結果よければすべてよし。息子夫婦も無事でサカの実質的な支配権も勝ち取り、万事丸く収まったではないですか』

 そう笑っていた老人、正信さんことバルドスに、ナーシェンは引きつった笑みを返すことしかできなかった。他の領主にすら秘匿された内通者は、姿を見られないように霧のように消えていった。ナーシェンの補佐役だった時には隠されていた、恐ろしいほどの謀才である。敵でなくてよかったと、ナーシェンは心底安堵していた。

「五ヶ月でサカ全土を掌握か。期限ギリギリだったな」

 これがイリア攻略だったら、こうもアッサリと決着が付いていなかった。マードック将軍は現在も冬将軍の真っ直中を突き進んでいるのである。禁じ手の敵地での略奪すら行っていると言うのだから、その過酷さはサカの比ではない。ベルン感覚では『北国の獅子』ナーシェンも、さすがにイリアには行きたくなかった。

 エトルリアの親友ことクレインと、ロケットおっぱい魔道軍将ことセシリアが、極寒の地に救援に向かっている光景を想像して合掌するナーシェン。

 彼らはナーシェンがサカから軍を動かして退路を断てば、飢えて死ぬ運命にあった。あまりに哀れで泣けてくる。

 まぁ、エトルリアにはできるだけ時間を稼いで貰いたいので、王命が下るまではやらないが。それではブラミモンド家の存続が危ういので、せめてエトルリアとの国境付近に要塞を築くことに決め、築城の名手アルフレッドを派遣していた。現時点では縄張りだけだが、サカが復興すれば資材を送ることになっている。

 ナーシェンはブルガルの政庁に入っていた。ゲクランと同じ物を使うのは嫌だったので、内装はすべて取り替えている。木製の安っぽい椅子に腰掛け、頻繁にやってくる北部同盟派の文官に指示を与えながら、ブツブツと独語していた。ナーシェンはいずれ引き上げなければならないのはわかり切っていたため、それまでに文吏を北部同盟派で固めて影の支配者になるつもりだった。

 おそらく、サカの支配はブルーニャが請け負うはず。しかし、その部下はすべてナーシェンの息がかかっている。……と言うような状況にするつもりである。将軍になって日が浅く、派閥争いに無縁だったブルーニャの弱点をここぞとばかりに突きまくるナーシェン。その嫌らしさを、本人はまったく自覚していなかった。むしろ生き生きとしているナーシェンは、これが天職だったのだろう。

 さて、あとは……。

「サカにあるのは……ミュルグレか。弓使いは……サラには荷が重すぎる。となると、ダヤンへの餌にするか」

 絶大な威力を誇る武器、神将器である。竜に三倍ダメージの効果は見逃せない。いずれ必要になるとナーシェンは考えていた。

 こっちでは歴史が歪みすぎていてロイが確保してくれるかわからないし、そもそもあの問題を人任せにするのは恐ろしすぎる。

 ナーシェンは、今の生活が気に入っているのだ。北部同盟の諸侯と馬鹿をやって、クレインを弄くり、リリーナと純愛する。そして、前の世界にはなかった大切な存在も、手からこぼすわけにはいかないのだ。こちらでは、生きているという実感があった。時折、前の世界の方がおぞましく、向こうがゲームの世界だったと思えるほどである。

 大貴族の当主という勝手な言い分もあるが、こちらの世界は居心地がいいのだ。

『しばらくは、使ってやる』

(しばらくはいいように使われてやるよ。だが……)

「なななナーシェン様! 1/80ナーシェンさまチョコレート飴の生産が追いつきません! 注文が殺到しています!」

「……ブルガルにも工房を置くか」







あとがき
そろそろ8章も締めになります。今回も謀略を目立たせすぎてアレだった。次回への反省点と言うことで。あと2~3話でイリア方面とリキア方面を描ききれるか、次章に持ち越しになるのか。

そろそろナーシェンの方針を明らかにしておかないと、こいつは何がやりたいんだ、になってしまいそうなので書いてみた。

あと、PCを新調した時にテキストデータがミスで吹っ飛んだ。ボツネタが消えたのが痛い。自分、教習所の車で塀に突っ込んでタイヤをパンクさせるほど鈍くさいので。プライベートなことを書いてごめん。


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