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[41302] とらハ短編SS集
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/06/14 00:04
 初めましてピヨプーと言います。
 いままで細々とSSを書いてきましたが、思うところあってこちらに投稿させていただくことにしました。

 いまどきとらハオンリーおまけに燃えも萌えもありませんが、御用とお急ぎでない方はご覧になっていただけるとありがたいです。



[41302] ほわいだにっと
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/06/14 00:09

「だから、何でこんな事をしたのかって聞いてんだよ」

 さざなみ寮のリビングに真雪の怒号が響き渡った。殺意すら感じられる その鋭い視線の先には、恐怖のあまり動く事もできない那美がいた。
だが、真雪の視線は那美ではなく、その膝の上にいる子狐の姿をした久遠に向けられていた。

「真雪さん、そんなに怒鳴ってもダメですよ」

 真雪の視線をさえぎるように、久遠の前に回りこんだ愛がやんわりとたしなめる。そして、那美の膝の上で力なく横たわり、荒い息をしている久遠の様子を確認していく。
 その動きは普段のおっとりした様子とは違っていた。てきぱきとした動作にはプロとしての風格すら感じられる。

「いつもより体温が高くて、息も荒いですねえ。目も充血してますし、これは間違いなく……」

 ここで言葉を切ると愛は真雪に向き直る。

「お酒の飲みすぎですね」

 そして、微笑みつきでこう告げた。

「だから、それは分かってんだよ」

 真雪は右手に下げた、中身が半分ほどに減った1升瓶を高く掲げた。

「こいつがこれを抱えて飲んでたのはアタシがこの目で見てるんだよ」
「本当なの久遠?」

 那美は自分の膝の上の久遠に問いかける。だが、久遠は目を上げることもせず、ぐったりと横たわったままだった。

「ちょっと、久遠アンタねえ」

 那美が声を荒げるが、別に無視しているわけではなく本当につらそうだった。

「久遠、てめえアタシの酒に手を出してただで済むと思うなよ」

 そのラベルに書かれている「黒龍」は確かに高い酒ではあるが、つい先だって自作の映像化の決まった真雪がケチるほどのものではない。

「久遠、酒と言うのは多量に飲むと命にも関わるんだ。だから、真雪さんだってあんなに怒っているんだ」

 普段、久遠に声をかける時とは違う厳しい声で恭也がたしなめる。その語調の強さに他の者がはっとなる中、真雪だけが憮然とした表情を見せていた。
 それでも久遠は耳をぺたんと伏せたままで、顔を上げることはなかった。

「アタシはそんなことは思ってない」
「そうでしょうか?」
「ふんっ」

 全く信じてない恭也に真雪は鼻を鳴らすだけで相手にしなかった。

「真雪さん、すみません」
「ああっ? 別にお前が謝るとこじゃないだろう」

 いきり立つ真雪に、神妙な表情の薫が頭を下げる。

 普段は全国を駆け回っている薫は、たまたま近くでの仕事が終わったので、1日だけしかいられないが、さざなみ寮に顔を出していた。
 そして、那美から話を聞いた恭也は薫と立ち会うために訪れていた。先ほどまではいい汗を流して、上機嫌だった二人も今はお互いに険しい表情をしていた。

「でも真雪さん」
「でも、じゃねえ。この話はこれで終わりだ」
「はい……」

 見るからにイライラした様子でリビングを見渡した真雪は、関わり合いにならないように大人しくしていたリスティに声をかける。

「おい、ぼうず。久遠の頭の中をちょっと覗いてみろ」
「何言ってるんだい真雪。普段は絶対そんなこと言わないのに」
「真雪さんは心配なんだよ。理由が分からないと久遠が同じことするんじゃないかってね」

 渋るリスティに耕介が笑いかける。ますます不機嫌そうになる真雪にリスティは火を点けてないタバコをくわえながら近づいてきた。

「こういう展開になりそうだったから、黙ってたのになあ」
「ぼやかない、ぼやかない。で、できるの?」

 嘆くリスティをなだめながら耕介は問いかける。だが、リスティは首を横に振った。

「無茶言わないで欲しいな。“酔っ払い”の“狐”の思考なんか読めるわけないだろう」
「ま、それもそうか」

 リスティの言葉にはあっさり納得した真雪だったが、今度は那美に視線をやる。

「那美、何か心当たりはないのか?」
「と、特に心当たりとかは……」

 うろたえている那美を見かねたのか、恭也が助け舟を出した。

「俺たちで少し考えてみませんか?」
「あん?」
「久遠がこんな状態ではどのみち確かめようがないですから」

 真雪は思案げにリビングを見渡した。那美に心当たりがない以上、次に当てになりそうな薫の方を見る。

「ウチも心当たりとかはないです。鹿児島にいた時はそんなことは一度もありませんでした」

 それはそうだ。久遠に飲酒癖があったならとっくに知れ渡っているだろうし、こんな無茶な飲み方はしないだろう。

「真雪さんの健康とかを心配してたんじゃないの?」
「どう言うことだよ」

 気軽に言う耕介を真雪は睨みつける。だが、へらへらと笑いながら耕介は堪えた様子がない。

「だって、真雪さんいつも朝とか辛そうじゃない」
「それで、自分がひっくり返ってたら世話ねえだろうが」
「それもそうですよねえ」

 あっさり撃退された耕介が頭をかいているのを横目に今度はリスティが口を挟む。

「それだったら、おいしそうだったからって言うのは?」
「いくら飲み口がいいって言ってもアタシらの話だ。甘酒が好きな子供があんなに飲めないだろうよ」

 ばっさりと切って捨てた真雪にリスティが眉をひそめる。

「なんだよ真雪、さっきから人の言う事否定してばっかりじゃないか」
「なるほど。俺たちが思いつくようなことは、もう考えているんですね」

感心したような恭也の声に、真雪の口がへの字になる。



 こいつ、ちょっと苦手かも知れない



 真雪はひそかに思ったが、その事は特に触れなかった。

「じゃあ、今日の久遠の様子で何か変わったことはなかったか?」
「私と一緒に朝、神社へ掃除に行ってその後、恭也さんと一緒に来ていたなのはちゃんと遊んだぐらいです」

 考え込む真雪を尻目に久遠の様子を見ていた愛がのんびりと声をあげる。

 「久遠ちゃん、もう大丈夫そうですね」
 
 久遠の様子が大分落ち着いてきたのは、静かになってきた呼吸からも感じられる。

 「なあ、愛は何でだと思うんだ?」
 「そうですねえ」

 愛が首をかしげていると可愛らしい音がした。


クチュン


 その音を耳にしたとき、愛の表情が真剣なものになった、

 「久遠ちゃん?」
 「……くぅん……」

 弱弱しい声にも愛の様子は揺るがなかった。

 「久遠ちゃん、風邪引いてますね」
 
 愛の言葉に慌てて久遠は首を横に振る。だが、獣医さんは容赦がなかった。

 「お酒が残っているとまずいので、酔いが醒めたら念のためお注射しましょう」
「くぅん!」

 うろたえる久遠を眺めていたリスティがぼそりと呟いた。

 「久遠、もしかして注射が嫌だったのかい?」
 「どういうことだよ、ボウズ」

 問いかける真雪に、リスティは軽く肩をすくめた。

 「いや、風邪を引いたら注射をされるから、酒を飲んでごまかしたのかななんてね」
 「おい、本当か?」

 真雪は久遠を問い詰める。だが、久遠は小さく首を振るばかりだった。

 「真雪さん、今日はその辺で。今話しても覚えていませんよ」
 「やかましい。んなこた分かってるんだよ」

 恭也がとりなすが、真雪は取り付く島もない。自分の健康を損なうような行為が許せないらしい。

 「いいか、二度とこんな真似させんじゃねえぞ」
 
 真雪はそう言い捨てると、リビングから出て行こうとする。だが、出口の近くで一度振り返ると那美をにらみつけた。

 「那美、今度修羅場のときにアシスタント1回な」
 「はぅっ」
 「それと青年。久遠をかばったお前も同罪だ。いいな」

 それだけ言うと、悄然とする那美と苦笑する恭也を残し真雪はリビングを出て行った。

 「災難だったね恭也」
 
リスティの言葉にも恭也は苦笑を返すだけだった。








 「高町先輩すいません。うちの久遠のせいで……」

 さざなみ寮から帰ろうとする恭也を門の外まで見送りに来た那美は、ずっと肩を落としたままだった。
 謝る言葉にも力がない。対する恭也は、平然とした様子だった。

 「私がんばってなるべく、高町先輩にご迷惑をかけないようにしますから」
 
 うつむいていた顔を上げ、那美は力強く言う。那美が頑張ったのでは余計に仕事が増えるような気もするが、恭也はそこには触れなかった。



「別に構わないですよ。どうやら主犯はうちの妹のようですから」



「へっ?」

 恭也の言葉に那美は思わず奇妙な声をあげた。

「主犯と言うかこの場合は教唆が正しいかな」
「あの、もしかして美由希さんが……」
「いえ。なのはの方です」

 よどみなく答える恭也に那美は思わず黙り込んでしまった。
「主犯」とか「教唆」と言う単語が美由希に相応しいわけではない。ある意味では最も縁遠い人物でもある。
 だが、それでもこの場面でなのはの名前が挙がる方が那美にとっては意外だった。

「それは、久遠となのはちゃんは仲良くしてますけど」

 那美のもっともな疑問に恭也は薄く微笑む。そして、どこか遠くを見るような瞳で語りだした。

 「なのはが今よりも小さかった頃に、俺や美由希が山篭りや出稽古に行くのを嫌がった事があるんです」
 「はい。でもそれが……」
 
 那美の疑問を恭也は優しく笑って封じ込めた。那美もひとまず疑問は置く事にして、居住まいを正した。

 「思えば生まれる前に父を亡くし、兄である俺がふらふらと出歩く事に随分と寂しい思いをしていたのでしょう」

 恭也の声に微かに苦味が混じる。事情は違えど、幼い頃に寂しい思いをした那美にもその寂しさは少し分かった。

 「どれだけなのはが頼んでも俺は鍛練に行く事を止めませんでした。ただ一つの例外を除いては」
 「なんですか?」
 「病気です。母が商売をしている関係上、なのはが風邪を引いたりしたら看病できるのは俺しかいませんでしたから」

 色々な意味で余裕のなかった頃とはいえ、幼いなのはが病気の時に置いていく事は恭也にもできなかった。まして、美由希も幼く看病などできなかった頃だ。

 「すると、小さいながらもなのはも学習したんですよ」
 
 恭也がはっきりと苦笑を浮かべる。



 「病気になれば俺が出かけないことをね」



 どこか面白そうな恭也の表情を眺めているうちに、那美がゆっくりと事情を理解していった。

 「それって、もしかして」
 「なのはの場合はほとんど仮病でした。頭が痛いとか、腹が痛いとか。病院に連れて行くとなんでもないので、すぐに通用しなくなりましたけどね」
 「じゃあ、久遠はなのはちゃんからその事を聞いて、真似したんですね」
 
 本当なら久遠も酒など飲まなくてもよかったのかも知れない。ただ、さざなみ寮には動物の病の専門家がいた。そのために酒を飲まなければいけなかったのだろう。
 そこまで理解した那美が改めて首を傾げる。

 「でも、久遠はなんだってそんなことを?」
 「帰って欲しくなかったんですよ。薫さんに」
 「あっ?」

 鹿児島の実家にいた頃、久遠を一番可愛がっていたのは薫だった。その薫が顔を見せに来た時は久遠も随分と喜んでいた。

 「だから、こんなことしたんだ……」
 「そうです。それに薫さんが謝っていたのもその事に気づいていたからでしょう」
 「えっ、薫ちゃんが?」

 きょとんとする那美に恭也は軽くうなずいた。自分の周りで起こっていることなのに全く気が回らなかった那美は、小さく唇を噛んだ。

 「それに真雪さんも気づいているはずですよ」
 「真雪さんまで……」
 「ええ。だからアシスタント1回なんです」

 落ち込む那美に微笑みかけながら、恭也は言葉を続ける。

 「那美さん、落ち込んでいる場合じゃありませんよ」
 「そ、そうですね」
 「大変なのはむしろこれからですから」

 首を傾げる那美に、恭也は同情の視線を送る。だが、意味の分からない那美は首を傾げるばかりだった。

 「子供の悪戯なんてどんどんエスカレートしていくものです」
 「え、ええっ!」

 これから先に起こる出来事を想像して、那美が悲鳴を上げた。どう考えても、久遠が何かしでかしたら、自分につけが回ってくるに違いない。
 お世辞にも鋭いとはいえない那美にもそれはたやすく想像がついた。
 
 「今考えてもしょうがない事です。後で、久遠はキッチリとしかっておいてください」
 「はい、そうします」
 「俺も家に帰ったらなのはをしかっておきます」

 何となく暗い調子で返事をする那美を元気付けるように恭也は声をかける。

 「そんな顔をしないでください。俺で手伝える事なら何でもしますから」
 「は、はい」

 恭也の言葉に那美はたやすく機嫌を直した。



 これはこれで高町先輩との距離を縮めるチャンスかも



 那美の思惑がうまくいくかどうかは誰も知らない。ただ、これからも那美が久遠に振り回されることだけは間違いがなかった。





タイトルの由来はミステリー用語の Why done it からになります。どうして犯行に至ったか? って意味ですかね。
那美はこんな感じの日常で笑っていて欲しいヒロインです。



[41302] 耳に残るは君の歌声
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/06/19 22:33

 どこかの国では王子の誕生日に高名な歌手を招くのに、10億円以上を払ったりしたことがあったらしい。

 それを思えば日本の普通の家のリビングで、『世紀の歌姫』ティオレ・クリステラの歌声を独占している果報者はいくらぐらい払えばいいのだろう?

 だが、値段もつけられないような贅沢を甘受している青年は、その境遇からすればつつましいと言うよりは、冒涜的なまでにわずかな笑みを浮かべているだけだった。

 それでもティオレの胸中はとても暖かいもので満たされていた。

 普段はどこか張り詰めた様子を漂わせている彼が、今は完全にリラックスした様子で目を細めて自分の歌を聞いている。

 自分の娘を始めとした彼に思いを寄せる女性達に少々悪いとは思う。

それでも唇が笑みの形を作るのを止められない。

 もちろん歌う事に支障はない程度だが、ティオレは朗らかに笑みを浮かべながら1曲を歌いきった。

「どうだった恭也?」
「とてもよかったです」

 小さく拍手をしながら恭也は短く答える。

 恭也が楽しんでいた事は良く分かる。でも、もう少し何かを言って欲しくてティオレは言葉を続ける。

「それじゃ次は何がいい?」
「え、いや。もう十分です」

 慌てたように恭也は言う。本当に1曲でいいと思っていたのだろう。だが、自分に向けられた気遣わしげな視線に少し気分がいらついてしまう。



 こんなにも楽しい気分なのだ。いつまでだって歌い続けられる。



 生真面目なのは恭也の美徳ではあるが、それも行き過ぎると単なる野暮になる。

 それをたしなめる意味で、ちょっと彼のトラウマをいじってみる事にする。

「そういえば、随分前のことだけど今日とは反対に、恭也が私に歌を歌ってくれた事があったわね」
「ええ……」

 苦虫を噛み潰したような恭也の表情を楽しみながら、ティオレは恭也のたどたどしい歌声を思い出していた。





 大分前の話になるが、何回目だか(詳しい回数は乙女の秘密)のティオレのバースデイパーティーに士郎に連れられ恭也が突然現れたときがあった。
 
 何で連れてこられたのか良く分かっていなかった恭也は、手ぶらで来た事をひどく恐縮していた。

 だが、フィアッセはとても喜んでいたし、ティオレにとっても何の打算もなく、純粋に祝ってくれる客はありがたいものだった。

 自分で選んで進んだ道とはいえ、虚栄に満ちた世界は時に精神を大きく疲労させる。

 そんな時に覚えたての英語でたどたどしく、それでいながら精一杯の気持ちを込めて祝いの言葉を述べる少年の姿はとても眩しく映った。

 だが、そんな息子の姿をニヤニヤと眺めていた士郎がからかうように声をかける。

「おい恭也。いくら急だったとは言え、手ぶらでやってきた上に言葉だけってのはどうだよ」
「いいのよ士郎。私はあなた達が来てくれただけで十分だから」

 目に見えて落ち込んだ恭也を励ますようにティオレは慌てて言う。いつの間にか恭也の隣に立っていたフィアッセも頬を膨らませて士郎を睨む。

「と、父さんだって手ぶらじゃないか」
「いや、俺ならもう渡したぞ」
「な、いつの間に」

 絶句する恭也だったが、プレゼントの話は本当だった。どこで手に入れたのやら、少し古めのデザインだったが、かなりセンスのいいネックレスを会場に入る前に手渡されていた。

 恭也の必死の視線から思わず目をそらしてしまった。さらに落ち込んだ恭也をとても楽しそうに眺めながら士郎は告げる。

「よし、じゃあ恭也。何か芸をしろ」
「む、無理だ。できるわけがない」

 珍しく慌てている恭也の姿に心を痛めながら、年相応の子供らしさを見れたことが少し嬉しかった。



 もしかして、この姿を見るために仕込んだの?



 ティオレの脳裏に嫌な想像がよぎる。それを士郎に問いただそうと口を開く前にフィアッセが口を開いた。

「それじゃ私と一緒に歌おう」

 いいことを思いついた、といわんばかりに満面の笑みを浮かべながらフィアッセは恭也の腕を取る。

 確かにパーティーの出し物の一つに、フィアッセを始めとしたソングスクールの子供たちの歌は含まれていた。

 だが、目立つ事を好まない恭也にそれはつらいだろう。

 恭也の渋る様子にフィアッセの表情が悲しげに曇る。

「恭也、嫌なの?……」
「い、嫌というかなんと言うか」

 悲しげなフィアッセの様子にティオレは助け舟を出す事にした。

「ねえ恭也、私も聞いてみたいんだけどダメ?」

 心の中で詫びながら告げるティオレに止めを刺され、恭也はフィアッセに引きずられ別室へと連れて行かれた。

 短い時間でも練習をすると、張り切っている娘の姿を見ながら士郎に問いかける。

「随分と手の込んだことをして息子を困らせるのね」
「あいつは少し振り回してやるぐらいでちょうどいいんだよ」

 ワインを行儀悪く、でもとてもうまそうに流し込みながら士郎は答える。

 それが本心かどうかはよく分からない。

「そうね」

 でも、面白くなりそうだったので、ティオレもそれ以上追求はしなかった。

 そうこうしているうちに、満面の笑みのフィアッセに率いられたソングスクールの子供たちと、ガチガチに緊張した恭也が現れた。

 そしてフィアッセの合図で一斉に歌い始めた。もちろん技術的には拙いもので、恭也にいたっては音程がどうとか言う以前に歌詞ですらところどころ間違えている。

 それでも、ティオレの心は暖かなもので満たされていた。必死に歌い続ける恭也を見ながらティオレは小声で士郎に礼を言う。

「士郎、今日はありがとう」
「ん、何のことだ?俺は馬鹿息子を困らせてやろうとしただけさ」

 士郎らしい物言いに、ティオレは微笑を浮かべた。





「あの頃はあんなに可愛かったのに、今じゃこんなに生意気になって」
「勘弁してください」

 心底疲れたように言う恭也に、ティオレは溜飲を下げる。

「それじゃ今日は私の気がすむまで付き合ってね」
「分かりました……」

 ティオレは満面の笑みを浮かべながら歌い始めた。

 先ほどまでの様子が嘘のように恭也は軽く目を閉じ聞き入っている。

 その姿を眺めながらティオレは余命短い自身の人生に思いをはせる。

 ずっと、そうなればいいとは思っていたが、恭也が自分の事を母と呼んでくれる日は来ないかもしれない。

 それでも、ティオレにとって恭也はわが子にも等しかった。

 耳に残るはあの日の恭也の歌声。

 たどたどしくも思いを伝えるあの姿。

 それを胸に歌い続ける。

 お互いに笑みを浮かべながら、二人だけのコンサートはいつまでも続いていった。




 タイトルは映画から借りましたが見ていないので中身はよくわかりません。ただ、こういう話ではないことは確かです。

 時系列的にはりりちゃ箱の辺りになります。この後ティオレさんがどのくらい生きたのかは分かりませんが、できるだけ長生きをしてほしかったですね。




[41302] 握りしめた掌
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/06/26 22:17

 いつだって力を信じてきた。それも、権力とかではなく単純な腕力

 とりわけ彼にとっての力の象徴とでも言うべきは拳だった。

 今までの短い半生で道をふさぐものはことごとくその拳でなぎ払ってきた。

 始まりは小学校に入学した時。

 5つも年上のえらぶった奴を拳で血まみれにしてやった。

 中学の時に因縁をつけてきた男も、高校の時に彼の女に手を出した奴もことごとく叩き潰してやった。



 だが、本当のところは彼が拳を振るうたびに、いつだって状況は悪くなっていた。



 小学校の時に血まみれにした上級生。ありがちな話だがその親は地元の有力者で、彼の親は高額な治療費を請求され出世の芽もなくなった。

 中学の時に拳を振るった相手は数少ない友人で、その姿に振るえあがった同級生は口も利かなくなった。もちろん、友人とはそれっきりだった。

 高校の時に彼の女にちょっかいを出した男は、もともと彼女と付き合っていた彼氏だった。

 そこにちょっかいをかけてきたのは彼の方で、もちろん彼女とは何も起きなかったのだが、彼の中では自分が振ったことになっていた。

 そうした負の螺旋の果て、ついには警察に追われる身となってしまった。

 きっかけは些細な口論だったが、彼は職場の上司に拳を振るってしまった。大したケガでもなかったのだが、口の中を切ったらしく派手に血が流れていた。

 それに興奮した同僚が呼んだ警官に怒鳴りつけられ、思わずまた拳を振るってしまった。

 怒りと苛立ちのままもう一度拳を振るおうとした時、警官の手が腰の拳銃に伸びたのを見て、慌てて背を向けて逃げ出した。

 さすがにあれは無理だ。

 当てもなく走りながら胸の中で呟いた。




 
 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 闇雲に逃げながら、たどり着いたビルとビルの隙間。

 すえた臭いのする場所にしゃがみこみながら男は考える。



 こうなったら山篭りでもするかな、館長みたいに。



 彼が世界でただ一人尊敬する人のことを思い浮かべる。

 巻島十蔵、明心館空手の館長。

 粗暴な態度に手を焼いた高校のときの担任に連れられ、館長と会った日の衝撃を彼は今も鮮明に覚えている。



 なんてでかい拳なんだろう。



 強い、弱いを云々する前にその拳を見ただけで、しびれていた。

 俺もこういう拳が欲しい。

 そう思ってからは道場に通いつめた。
 
 館長が無闇に拳を振るうなといっていたから、あまり使わないようにした。

 実際、それでしばらくはうまくいっていた。だが、結局は拳を振るい、警察に追われている。



 何がいけなかったんだろう?



 彼は初めて自分の半生を思い返した。



 まあいいや。俺はこれからもこの拳で人生を切り開くぜ。



 だが、思いを馳せたのも一瞬の事。すぐにいつもと同じように拳を握り締めた。

 その時、彼の隠れている場所の近くで足音がした。
 
 見つかったと思った彼はすぐにその場所を飛び出し走り出した。

 しかし、すぐにその逃走はさえぎられる事になる。

「館長……」

 彼の行く手には巻島十蔵が険しい顔で立ちはだかっていた。

 彼は、火に怯える獣のように身を翻すと館長に背を向けて走り出す。

 まるで巌のような気配。あの人を突破して先に進めるなど思えもしなかった。

 だが、彼の行く手にはまたしても一人の男が立ちはだかっていた。

 全身黒ずくめのその男は、館長とはまた異質な気配を身にまとっていた。

 館長を風にも大波にも揺るがぬ巌だとするならば、それは鋼の気配だった。

 彼らに比べていかにも頼りない己の拳。

 だが、自分の武器はこれしかない。絶望的な気分を抱きながら黒ずくめに向って拳を振り上げる。

「よせっ!」

 館長の鋭い声が聞こえてくるが、もう止まれない。彼は力一杯拳を振りぬいた。

 だが、いつものような手ごたえはなく、奇妙な脱力感を覚え足を止める。

 体を入れ替えるようにすれ違った男の手元辺りから小さな金属音がした。

 何をするでもなく呆然と前を見ている男の視界を、とても見慣れたものが掠めていった。

 くるくると回りながら、細い糸のようなものを引きながら回る、それを見るととても不吉な思いがこみ上げてくる。
 
 それでも目を離す事はできず、ただぼんやりと見ているだけだった。すると糸だと思っていたものが小さな球のようになり弾けていく。

 鼻につく錆のような臭い。



 血だ。



 そう思ったときに飛んでいるものの正体に気がついた。



 俺の拳。



 それは手首と肘の中間辺りで断ち切られた彼の腕だった。

 そう認識した時、痛みより、悲しみより、大きな喪失感に襲われ彼はたまらずへたり込んだ。

 何をするでもなく、ただ呆然と座りこむ彼にやっと追いついた館長は、傍らにたたずむ黒ずくめに怒鳴る。

「何で切りやがった!」
「それよりも、早く手当てをした方がいいですよ。付くように切りましたが、処置は速いほうがいい」
「ちきしょう」

 落ち着き払った声に一言毒づくと、館長は男を背負うと落ちた腕を拾い上げ、走り出した。

「か、館長。お、おれ」
「うるせえっ、黙ってろ」

 館長の声に怒気がこもっているのを感じ、彼は胸の奥から何かがこみ上げてくるのを感じていた。



 まだ、俺に怒ってくれる人がいる。



 そう思ったらふいに涙がこみ上げて止まらなくなった。

 彼は病院に着くまでの間、ずっと子供のように涙を流し続けていた。
 








 数日後。

 いつものように、大声を上げながら奇襲を仕掛けてきた晶を投げ飛ばした恭也は、いまだ堅く握り締められたままの晶の拳を見つめていた。

 思い出すのは数日前に彼が腕を切り飛ばした男。

 宙を舞いながらも、握り締められたままだった悲しい拳。

 だが、彼をどうこうするのは自分の役目ではない。巻島館長がついているのだから大丈夫だろう。

 腕に関しても海鳴にはなぜか腕のいい医者が多いので、そちらも心配していなかった。

 自分には心配などする資格はない。

 とっさに彼の妄執の源があの拳だと思ったとは言え、あれはやりすぎだったと今では思う。

 だが、いま恭也が気にかけなければいけないのは、まだへたり込んだままの妹分のほうだ。

 なぜか朱に染まった頬をした妹分に声をかける。

「晶」
 
 声をかけられた晶の方は平静とは程遠い状態だった。

 何しろ思い人が自分の手を取ってじっとしているのだ。考え事をしているようだが、もう少しこの至福の時を満喫したくて動きを止めていた。

 少し離れて場所にいるレンから殺意交じりの視線が飛んでくるが、そんなものは気にもならなかった。



 フフン負け犬め。
 


 だが、伊達に恭也を師と呼んではいない。

 彼の声音に何を感じ取ったのか居住まいを正した。高町家の人間は皆同じぐらいに恭也の気持ちを察する事ができたりはする。

 だが、いま向き合っているのは晶だけだった。

「あ、あの師匠」

 正座して恭也の話を聞く態度の晶は、恭也が未だに自分の手を握ったままなのを見て困惑した声をあげる。

 恭也は拳だこが盛り上がっている晶の拳に指を這わせながら恭也は告げる。

「晶、お前の拳がこんなにも堅くなってしまったことについては、自分で選んだ道だ。俺には何も言えない」

 そして、晶以上に無骨な指で、精一杯優しく未だに握られたままの晶の拳を開いた。

「でもな、握ったままの拳では何もつかむ事はできない。たまにはその手を開いてみろ」

 優しげな声と、その行為に晶は話の中身など全く耳に入ってこなかった。

 いつの間にか帰って来た美由希やフィアッセもも加わった殺意交じりの視線もいっそ心地いい。

「そうしないと好きになった男の手も握れないだろう?」
「あ、あう、あう……」

 ついに限界を超えてしまった晶は意味不明な言葉を漏らす。

 その様子に恭也は思わずため息をつく。

 何を考えているのか分からないが、自分の言った事が全然伝わっていない事だけは分かる。

 まあいい。一度で伝えきれるはずもない。

 万が一にも晶が道を踏み外しそうになったら自分が何とかすれば言いだけの話だ。

 それに、

「で、今日はもう終わりか?」
「い、いえ。まだやれます」
「ならば、座り込んでいる場合ではないな」

 からかうように言う恭也の瞳を真っ直ぐに見返しながら晶は元気よく立ち上がる。

「ハイ」

 その姿に恭也は思わず目を細める。きっと自分の思いなど杞憂なのだろう。

 高町家に響き渡るその声を心地よく感じながら、恭也は身構えた。

 晶が握った拳の中に、きっと何かが握り締められていることを信じながら。







 今回の分までの3本はいまは亡くなってしまったとらハSNSのコミュニティなどに投稿したものになります。
 とらハSNSは惜しくも閉鎖してしまったのでSSもそのままにしておこうかと思ったのですが、せっかくなので人目にさらしてみました。

 次以降のものはとらハSNSの後継とらいあんぐるハートSNSなどで書いたものになります。

 微妙に手を入れながらになるので来週の投稿になると思いますが、引き続きおつきあいをいただければと思います。




[41302] 落葉
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/07/03 23:30

「秋の日のヴィオロンの……」

 縁側に腰掛けてこちらの様子を眺めていた美由希の口からそんな言葉がこぼれた。特に意識して出たものではなかったようだが、その内容より物憂げな表情が気になり恭也は縁側へと近づいて行った。

 なかなかにロマンチストなところのある妹の事なので、詩の一節がこぼれるようなこともあるかもしれない。ただ、どことなく物憂げな表情が気にかかっていた。

 恭也自身は最近では心身ともに充実しているおかげか、今日もなかなか有意義な鍛錬ができた。
 見上げれば秋晴れの空は一点の曇りもなくどこまでも広がっている。最近手をかけられなかった盆栽を前に、飽きずに眺めたと思えば余人にはわからぬレベルで鋏を入れ、また眺める。
 そうやって一通り手を入れ満足し、凝り固まった背筋を伸ばしたところで美由希のつぶやきが聞こえてきたのだった。



 最初に思ったのは色々と感じ方というのはあるものだな。



 そんなある意味平凡なものだった。
 暑くもなく寒くもなく、時折吹き抜ける風は日差しの下の作業で若干熱を帯びた肌の上を心地よく滑っていく。1年のうちでもそうはない気持ちのいい天気だと思う。

 自身の周りを取り巻く状況も春先には色々と問題が集中したが、今はだいぶ落ち着いている。
 特に皆伝を渡したことによって恭也にも美由希自身にも大きな一区切りになったはずだ。

 もしかしたら、そのことが原因かもしれない。
 燃え尽き症候群とまではいかないが、少し目標のようなものを見失っているのだろうか? そんなことを考えながら美由希へと近づいていく。

「どうした、まるで文学少女みたいだぞ」
「自分では充分文学少女のつもりなんだけどね」

 恭也の軽口に答えても美由希からアンニュイな雰囲気は消えない。戸惑いながらも恭也は言葉を続ける。

「さっきのは詩か? 教科書で見かけた気がするが」
「まあ、普通はそんな感じだよね。元はフランスのヴェルレーヌって人の詩だけど恭ちゃんが知ってるのはそれを訳した詩の方だね」
「ほう、意外と複雑なんだな。名前はあるのか?」
「そりゃあるよ。訳された方の詩は『落葉』っていうの」

 季節は秋へと移ろってきてはいるが、さすがに落葉の時期はまだ早い。だが、どこか遠くを見るような美由希の表情からはほんの少し先の季節が見えているのかもしれない。

「恭ちゃんあの詩の続きを知ってる?」
「俺が知るわけがないだろう」

 無駄に自信ありげに答える恭也に微笑みかけながら美由希は少しだけかしこまった口調で言葉を紡ぐ。


秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。


「ねえ、恭ちゃん。ずっとずっと先になって私もこんな風に思う日が来るのかな」
「お前は俺をなんだと思っている。俺だってまだ20歳にもなっていない若輩者だ。そんなことがわかるはずもない」
「そうだよねえ……」
「ただ、一つだけ言えることはある」

 いまだに沈んだ様子の美由希の頭に手を乗せ、なのはにするよりも少しだけ乱暴に頭をなでる。

「わっぷ、何するの恭ちゃん」
「先を思って足を止めることも、後ろを振り返って過ぎたことを思い悩むことも同じぐらい意味はない」
「それはそうだけど……」
「俺たちにできることは今を精一杯生きることだけだ。先のことなどその時になって考えればいい」

 そう言いながら美由希の目を覗き込む。美由希の瞳の奥は不安げに揺らめいていた。

「なんでそんなことを考えた?」
「この間香港のかあさんのところに行ったでしょ」
「ああ、あれからお前の動きが見違えるようによくなっていたな」
「へへへっ、やっぱりそう思う?」

 あまり弟子を褒めない恭也の言葉に美由希がうれしそうに微笑む。そうしていると先ほどまでの様子も、凄腕の剣士の面影もなく年相応の少女に見える。
 だが、その表情はすぐに物憂げなものへと変わる。

「私はいいんだ。今は色々と充実してるし、これから先の目標だってあるしね」
「そうか、それはいいことだな」
「でも、かあさんはずっと自分を責めてる……」
「美沙斗さんか……」
「かあさんに色々と教わるのは楽しいよ。でも、全部終わったらどこかにいなくなっちゃうんじゃないか。そんなことを思うんだ」

 恭也は美由希の母である美沙斗を思い出す。戦いに臨めば鬼神のごとき気迫を見せるが、それ以外の時は確かに物憂げというよりも儚げな気配をまとわせている。
 愛する人や家族を失い、ただ一人残った娘を置き去りにし復讐に生きた半生を思えば致し方ないことかもしれない。



 だが、気に入らない。



 父は復讐に走らなかった。
 それは、自分や美由希がいたことが大きいだろう。そうだとしても美沙斗がそんな風に感じたとしたらそれは父の生き方に対しての冒涜だ。
 そして御神美沙斗の人生をないがしろにするものだ。

「だったら、美沙斗さんに心残りたくさん作ってやろう」
「心残り?」
「そうだ、お前に御神の技を教えること以外の事をうんざりするほど味あわせてやろう」
「恭ちゃんが悪い顔をしてるよ……」

 楽しいことを知ってもらうだけじゃない。人とかかわることは面倒くさく時につらい。それでも、しがらみなんて全てを捨てられるものでもない。

「何を他人事みたいな顔をしている。お前にも色々と動いてもらうぞ」
「えっ、恭ちゃんなにを考えてるの?」
「大したことは考えてない。美沙斗さんに自分がどれだけ思われているのかを教えてやるだけだ」
「それって……」
「まずはかあさんに相談だな」

 恭也の見たところ美沙斗は同年代の女性とほとんど交流がない。桃子は同姓として母として美沙斗に対して大いに刺激になるはずだ。

「後はなのはに晶やレン。フィアッセにも連絡をしなければな」
「なんか、どんどん大ごとになっていくよ」

 そして、さんざんと迷惑をかけ逆に迷惑もかけてもらおう。

「忍や那美さんにも協力をしてもらおう」
「あ、あの恭ちゃん……」

 不敵に笑う自分の姿を見て美由希が引いているのも気づかず恭也は考えをめぐらす。

 秋晴れの日、いつになく上機嫌だった自分に妙なもめ事を持ち込んだつけは必ず払ってもらう。
 戦えば必ず勝つのが御神の剣士だ。相手が同じ御神の剣士だとしてもそれは変わらない。

 だが、これから先の戦いに思いを巡らす前に解決しなければいけないことがある。

「その前に少し体を動かそう」
「恭ちゃん?」
「お前がそんな顔をしていてどうする。そんなことでは美沙斗さんをどうにかすることはできないぞ」

 まずは、まだまだ手のかかる弟子をどうにかすることだ。
 ただ、本当は美由希の心配は杞憂なのだと思う。なぜなら、自分が美由希の成長を喜ばしく思うように、美沙斗だって喜びを感じているはずだから。

「今度、会った時にがっかりされないように、しっかり鍛錬しなければな」
「うん……、そうだね」

 過ぎた日々を取り戻すことはできない。

 だから、未熟だろうと今やれることをやるだけだ。

 そう決意し恭也は美由希とともに道場へと向かった。





 このSSは堕ちた天使の集う場所の掲示板にも投稿されています。
 それと、文中の詩は青空文庫から引用しました。上田敏訳の海潮音山のあなたも好きですが、今回はこちらを使いました。

 美由希はヒロインの中でも個人的には書きやすい方になります。まあ、書き手が書きやすいことと面白いことはイコールにはなりませんが、これからも書いていければと思います。



[41302] 忍者少女のステップバイステップ1 (連作短編 とらハ1・2・3ごちゃまぜ)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/07/11 00:38
 昼間でもあまり人の来ない海鳴神社の境内。月明かりだけが照らす場所で御剣いづみは一人の男と相対していた。
 
 緊張のあまりいつもより早くなっている呼吸を意識しながら、相手の些細な動作も見逃さないように注意を払っていた。
 だが、気を抜いた覚えは無いのに、あっさり間合いに入られ刃を振るわれた。確かにその踏み込みは早いが、反応できないほどではない。ただ、行動に移る際の予備動作が極端に少ないため動きの先読みができない。

 一瞬の判断の遅れ。だが、その遅れは暴風を思わせる勢いで叩きつけられる刃の前には致命的だった。受け止めるには態勢が整わない。力は相手の方が上なので中途半端に刃を止めればそのまま両断されかねない。迫りくる死の危険からから逃れるべく、可能な限りの速さで後ろに飛びのく。

 そのままではすぐに追撃が飛んでくるので、手にしていた苦無を相手の顔面に向けて放った。手首のスナップのみで投げられた苦無にたいした威力は無いが、場所が顔だけに当たればただではすまない。
 よけるなり受けるなりする間に刹那の時間が稼げる。そう思っていたのだが、甘い予想はすぐに代償を要求してきた。

 自分が放った苦無は放ったときを超える速さで自分に向けて返ってきた。
 相手が手にした刃で苦無を打ち返したのだが、落とすのならともかく、自分に向かって正確に打ち返すなど技量の差だけではありえないことだった。



 読まれている。



 そう考えたのは回避のための行動を移してからのことだった。無意識のうちに苦無を避けるために背筋を後ろにそらせる。このままでは倒れる、その限界点で手を突き、そのまま1回転した。相手が進んできていたら当たるような軌道に足を繰り出したが、けん制にもならないだろう。
 予想通りに空を切った足をできるだけ早く引き戻しながら、地に着いた手を後ろに回し腰の後ろに差した手裏剣を引き抜いた。

 円架と名づけたその手裏剣は普段なら力強い相棒だったが、再び迫りくる白刃を受け止めるには心もとないものに思える。
 相手の刀も定寸よりも短い小太刀と呼ばれる刀だが、円架よりは大分長く、扱う相手の技量も自分より上だった。

 それでも、その小太刀を黙って受けるわけにはいかない。自分の頚動脈に向かって刃は真っ直ぐ伸びてくる。これを受け損ねればその瞬間に絶命しかねない。

 全く感情をうかがわせない相手の瞳を見据えながら必死に円架を白刃と自分の間に割り込ませる。立ち上がる暇はなかったので膝立ちのままだったが、それでも受けが間に合っただけでもましだろう。
 ただ受け止めては力負けしてしまうため、体の外側へはじくように受け流す。だが、勢いのついた攻撃に押されさらに態勢を崩してしまう。

 このままではジリ貧になる。それは分かっていたが打つ手も無く、それでも必死に立ち上がり相手の攻撃を3回までは受け流した。
 相変わらず鋭く重い攻撃だがしだいにそのリズムに慣れてきていた。そして、しだいに高まる集中力は相手の息遣いすら感じ取れるほどになってきた。
 


 いまだ。



 電光のように走る思考のままに円架を走らせる。下段から切り上げられる刃をさらに下から被せるように切り払う。それだけで決まるわけではないが、初めて攻勢に出られる。
 その一瞬、意識は刃だけに向けられていた。

 だから気づけない。

「はっ」

 ためていた息を吐き出した踏み込もうとしたその瞬間、いづみの首筋に刃が押し当てられていた。相手の持つもう一つの刃。それの存在は知っていたのに意識から押し出されていた。
 自分の意識や視界をすり抜けるように現れた刃。それをなす技を対した男はこう呼んでいた。



 御神流・貫



 その技にはめられるのは何度目のことだろう。沈み込む気持ちもあるが、それ以上に浮き立つものもある。追いかける背中があるというのは、それだけでありがたいものだとも思った。
 首筋から離された刃を目にし、いつの間にか止めていた息を大きく吐き出す。鍛錬ではあるし、相手の技量も分かってはいるがやはりいい気はしない。
 
「大分動きはよくなってきたが、肝心なところで逃げるくせは相変わらずだな御剣」
「そんなことを言われても体に染み付いているんだよ」
「それを何とかしたい、そう言っていたはずだが?」
「分かってるよ、高町」

 ふてくされたようにいづみは小さく呟く。そして、かすかに苦笑いを浮かべている同級生、高町恭也を軽く睨みつけた。だが、恭也は真っ直ぐにこちらを見つめてくる。首筋に押し当てられた小太刀はいつの間にか納められていたが、ついさっき刃を押し当てられた感覚が蘇りそうになる。

「忍者というのが戦う人間でないことは俺にも分かる。だが、お前は俺に戦い方を教えて欲しいと言った。それならば、忠告は素直に聞いたほうがいい」
「すまない……」

 もっともな指摘にいづみは頭を下げる。そして、そもそも恭也と鍛錬をすることになったいきさつを思い出していた。

 とある事件に巻き込まれたいづみは幼き頃よりの夢であり、近い将来の希望でもある忍者としてやっていく自身を失いかけていた。
 事件そのものはとりあえず収まったが、自分がしてきた訓練が足りなかったのではないか? そういう思いがぬぐえなかった。

 もともと忍者というのは戦う訓練も受けるが、それが主たる任務ではない。諜報それも非合法に近い形で情報を収集することが大きな部分を占める。情報の収集・かく乱が本業で戦うことはある意味最後の手段だ。
 だから、強いだけでは忍者の仕事はこなせない。だが、いざという時に必要な力を持たなければ意味がない。だから、いづみは強さにもこだわりたかった。戦いを自分の任務と切り離した事とはどうしても考えられなかった。

 なるべく早急に自分を鍛えなおしたい。それも、できれば近接戦闘の技量を高めたい。
 そう考えたいづみだったが問題は相手だった。普段相手をしてもらっている千堂瞳は実力的には問題はないが、護身道の使い手だけに必殺の気迫が欠けていた。

 そこで白羽の矢を立てたのが高町恭也だった。
 恭也のことは普段の立ち居振る舞いからかなりの使い手なのではないかと感じていた。そして、いづみが巻き込まれた事件でその実力を知ることになった。
 だから恭也とより実戦に近い形での鍛錬を望んだのだが、実力の差を思い知らされる日々だった。
 
「恭ちゃん、その辺にしておいた方が……」
「いや、いいんだ。私が間違っていた」

 恭也の妹にして弟子の美由希がおずおずと声をかけてきたのに、きっぱりと首を振った。
 もともと二人で行っていた鍛錬に無理やり割り込んできたのは自分だった。本来ならこの時間は彼女の成長のために使われる時間だったはずなのに、自分を気にかけてくれている。
 剣の腕前は年に見合わず高いようだが、性根の優しい子のようだ。そんな子の前でこれ以上、恥を晒すわけにはいかなかった。

「どうする、もう少しやるか?」
「いや、今日はこれぐらいにしておく。バイトもあるし美由希ちゃんがじれてるみたいだからな」
「そうか、人の戦いを横から見るのもまたとない鍛錬になるんだが、お前がそういうのなら仕方が無い」

 恭也の言動はそっけないが、彼が美由希の成長にどれだけ気を使っているのかは普段の言動から察することができた。だから、今の言葉もかなりの部分が本音なのだろう。

 恭也の使う貫という技は受けているだけではその使い方が非常に分かりにくい。自ら意識して対する相手の意識の空白を作り出す。それを、自分で扱うというのは大変難易度の高い行為だ。だからこそ自分が鍛錬に参加することを許してくれたのだろう。

 離れたところから見れば恭也がどんな動きをしているのかがよく分かる。そういう意味では自分はいい練習相手だろう。なにせよく技がきまる
もちろんそのことに文句をつける気はない。自分の無様な戦い方が美由希の参考になるのなら結果的に恭也への恩を返すことになるだろう。そんなことを考えていると、恭也が視線を鋭くする。

「一度、言っておこうと思ったんだがな御剣」
「な、なにかな」

 いつもは人と距離を置いているような恭也が鋭い語調で問いかける。それはまるで切り込むような勢いで我知らずいづみの足は半歩引いていた。
だが、続けてかけられた言葉は彼女が思っていたものとは全く違っていた。

「お前は弱くない」
「そ、そんなことは……」
「いまの時点のお前が最高と言うわけではないが、それでも卑下するほど弱くはない」
「そんなはずはない。私が強かったらあの時だって――」
「お前が弱いのは心の方だ」
「なっ」

 かつての不甲斐なさを思い出し声が上ずるいづみの言葉をさえぎり、恭也が一言で切って捨てた。すぐには言葉の意味を悟れなかったが、自分の事を馬鹿にされたことだけは分かった。
 だから、反論しようと恭也を睨みつけると、そこには侮りを一切見せることなく真摯にこちらを見つめる瞳があった。

「自分を信じろ。積み上げてきた時間とお前の出会った人からもらったものを信じろ」
「高町……」
「たとえ負けて死ぬことがあっても、最後まで自分を疑うな。お前は強い」

 なんで、こんな事を自信に満ちて言えるのだろう。一緒に戦ったことは一度。鍛錬をしたのも数えるほど。それなのに、自分の何が分かる。
 そうは思っても、その言葉は嬉しかった。沸騰しそうな頭と激しく鼓動を打つ心臓、そればかりがやけに意識される。でも、知られるのは悔しくて思わず下を向いた。

 それでも、すぐに顔を上げるとできるだけ平静を装う。

「ありがとう。でも、やっぱりまだまだだと思うから、もう少し混ぜてもらってもいいか?」
「ああ、こちらこそ頼む。俺の方も参考になることが多い」
「あんまり、おだてるな。とにかく今日はもう帰るよ」

 そして、どこか拗ねたような表情の美由希に軽く頭をさげながら帰り支度を始める。
 そうは言っても荷物は持ってきていないため、先ほど投げた苦無を拾い上げ、乱れた衣服を整えれば終わりだった。

「それじゃ、また明日」
「ああ、明日学校で」

 なるべく軽く聞こえるように言いながら、背を向けたまま軽く手を振った。そして、海鳴神社の長い石段を降りる。二人の視界から消えてからも充分に距離を取った後、感情の赴くままに走り出した。
 




「ねえ、恭ちゃん御剣さんこれからバイトに行くの?」
「ああ、夜のバイトは時給が高いそうだからな」
「大変じゃないかな……」

 美由希の言葉に恭也は深くうなずく。実際、学校の授業に各種バイト、自身で行う鍛錬に加え自分たちとの鍛錬。大変には違いないがいづみは日々を楽しそうに送っている。それは、とてもうらやましく感じた。

「それに、最近は余計な仕事も増やしてしまったようだしな」
「どういうこと?」
「こうして俺たちの鍛錬に参加した翌日は御剣が弁当を作ってきてくれている」
「…………ふ~ん」
「お礼代わりだそうだが、あいつの懐具合もあるから余計な気は使わなくていいと言っているのだが妙に譲らなくてな。……どうした?」
「別に、何もないよ」

 なんでもないはずはない物言いだが、首を傾げるも心当たりのない恭也は軽く首を振った。
 今は鍛錬の時間で限られた時間は有効に使わなければならない。特に今日はいづみとの立会いで時間を食っている。
 そのとき、恭也の脳裏に天啓が走った。

「もしかしてお前も御剣の弁当が食べたかったのか? それなら俺から頼んでみるが」
「違うよ。っていうか御剣さんに今のこと言ったらダメだからね」

 やはり、意味のよく分からない妹の言葉に恭也の困惑はさらに深まる。だが、その疑問は頭の隅に追いやり、小太刀を抜く。その姿を見て美由希も慌てて自分の小太刀を抜いた。

「わざわざお前に見えるように貫を使って見せたんだ、意味は分かるな」
「はい、師範代」

 緩んだ雰囲気を一気に振り払った弟子に向かい恭也は間合いを詰める。
 後は無心に剣をあわせるだけで、この話題が蒸し返されることはなかった。

 だが、恭也の身辺が騒がしくなるのはそう遠い話ではなかった。




 
 1・2・3の時間軸がいっしょくたになっているSSが好きでした。何人かそういうSSを書いている方はいたのですが、最近見かけなくなったので自分で書いてみました。
 そして、書いてみて分かったのは思っていたよりも大変だという事でした。

 いちおう、設定的には時間軸的にはとらハ1の後辺りですが、1の個別エンドは全部は終わっていない、そんな感じを想定しています。でもまあ、そんなきっちりと決めてはいないので、急に変わるかもしれません。

 とりあえず決まっているのはこれは続き物で次はリスティの番ぐらいです。どこまでいけるかわかりませんが、なるべく続けていきたいと思います。



[41302] すれ違いのボーイミーツガール(連作短編 とらハ1・2・3ごちゃまぜ)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/07/17 22:09

 気配を消す。

 そんな言葉がある。フィクションでは見かける言葉だが実際のところそんなことができる人間を今まで見たことがない。

 自分がいま暮らしているさざなみ寮には武道の達人が二人いるが彼女らもそんなことはできない。二人が使うのは剣術でそういうことはしないのかもしれない。
 でも、彼女らができもしないことならそんな技術はないのだろう。そう思う程度にはリスティ・シンクレア・クロフォードは先輩寮生のことを信じていた。

 だから、自分のすぐ近くに誰かがいることに気づいたときは本当に驚いていた。かつて受けた訓練のおかげでかろうじて声を挙げることは免れたが、内心の動揺はいまだに立て直せていない。

 深く息を吸い込み酸素を大きく取り込み心を落ち着かせる。そして先ほどまで行っていたサーチ訓練の要領で自分の感覚を広げる。
 自分、いや自分たちHGS患者の持つ超能力、それも感覚的なものを他者に説明することは大変難しい。

 それは目の見えない人間に色の何たるかを説明するようなもので、言語でどうこうできるものでもないのだろう。だが、彼女の超感覚にささくれのような違和感を持ったのは確かだった。

 念のため、すぐに視線はそちらに向けず緩やかにそしてなるべく何気ない風を装いながら視界の端に映るように体の向きを変える。
 いまいる場所はさざなみ寮から少し離れた森の中。自分の病気に関して知らない寮生は誰もいないが、訓練をしている姿を見られたい訳でもないので距離は充分に取っていた。

 だからこんな場所に人が偶然現れるわけはない。そう思ったリスティを責めることは誰もできないだろう。

 慎重に相手の場所を探ったリスティは太目の木の影に一人の男の姿を見ることができた。上から下まで暗めな服装でまとめたその男は、思っていたよりもずいぶん若い感じに見えた。
 せいぜい自分と2~3歳ぐらいしか違わないように見える。だが、相手は自分に気づかれることなくここまで近づける技量の持ち主なのだ。普通の人間のはずはない。

 リスティは細心の注意を払いながら意識を相手に集中する。相手が自分に害意を持っているかだけでも探らなくてはいけない。いまの自分には大事に思う人達がいるのだから。

 幸いにもリアーフィンは展開済みなので労せずして探れるだろう。。
 だが、相手の心に接触したリスティはすぐに自分の過ちに気づく。彼の心はとても穏やかなもので、自分に対しての敵意など微塵も感じられなかった。

……HGSか……

 彼の意識にそんな言葉が浮かぶ。自分のリアーフィンを見たのなら分かっても不思議ではない。だが、言葉はともかく実際の患者、それも能力を使っているところなどなかなか見られるものではない。

……フィアッセと同じか……

 どうやら知り合いに患者がいるらしい。それも聞き覚えのある名前だ。面識があると言う訳ではないが、フィアッセ・クリステラは自分と同じ病院に通っているはずだった。
 さして数の多くないHGS患者、それも年齢の近い同性のうわさはいやでも入ってくる。

……羽の形は違うんだな……

 流れてくる取り止めのない思考。そこにはHGS患者を見かけた人間がよく持つような嘲りや同情はない。あるのはそこはかとない親しみとこんな病気が存在することへの憤り。
 彼とフィアッセの間の関係が偲ばれるような暖かな感情だった。こんな人間の思考を黙って読むことへの罪悪感がこみ上げリスティは能力の行使を止めようとした。
 そこへ流れ込む意識の奔流。



 鮮烈なイメージはある意味馴染み深いもの。



 木漏れ日の中に佇む銀髪の少女。



 すっと伸ばした背中には非現実的な光を放つ3対の羽。



 彼の意識に映る自分の姿。



 気恥ずかしいどころの話ではないが、それでも流れ込む意識は止まらない。


……綺麗だ……


 そんな心を感じた瞬間リスティは意識の接続を断った。そして、自分でも思っても見なかった行動に出た。
 テレポートを使ってできるだけ遠くへ飛んだのだ。つまりは

……逃げた?……

 あきれた様子のない心の声が余計に痛かった。





 リスティの様子がおかしいことに最初に気づいたのは愛だった。
 間違いで心を覗いてしまった男から逃げ出してしまったリスティは、さざなみ寮に逃げ帰り自室に篭ろうとした。
 だが、ちょうどリビングにいた年長組につかまってしまった。そして、これからお茶を淹れるからと座らされ、愛に視線を合わされる。

「リスティ何かあったの?」
「うん……」

 つい先日の騒動で天涯孤独となったリスティをさざなみ寮に引き取り、自分の養女になって欲しいと言ってきたのは伊達ではない。何を語ったわけでもないのに自分の様子がおかしいことに気がつく。

 そのことは正直に言えば嬉しいが、だからと言って気楽に話せるものでもない。
 言いよどむリスティだが、彼女の様子がおかしいことに気づいていた者は他にもいた。

「ああ、そういえばなんか沈んだ感じだったね」
「なに溜め込んでるのか知らないが、ととっと話してみな」

 次々に声をかけてくる耕介と真雪にリスティは心の中でため息をつく。この人たちは自分と違う超能力を持っているのだろうか?
 無論、そんなことはない。ただ、注意深く人を観ているだけだ。

「ええ、そうなん?」

 小首を傾げながら問いかけるゆうひ。だが、彼女が鈍いわけではない。ゆうひだって人の気持ちも普通に感じ取ることができる。むしろ、どちらかといえば人の気持ちを上手に察することができる方だと思う。

 明るい雰囲気が好きな彼女だが、自分だけ浮かれて馬鹿騒ぎをするタイプではない。いつだって人を楽しませようとする。それは相手の気持ちが分かっていないとできないことのはずだ。

 どちらかといえば他の3人がおかしいだけだ。さざなみ寮の人間以外にもこんなに鋭いのかはわからないが、少なくともリスティが隠し事をすることはこれからもできないだろう。

「いや、何でも……」
「そんな訳ないだろ」

 ごまかそうとするリスティを真雪が一言で切って捨てる。その視線は鋭くはないが嘘を許さない強さを持っていた。

「リスティ、言えないことなら無理には聞かないけど下手にごまかさない方がいいよ」

 耕介が場を和ませるようにおどけて言う。人を安心させるようないつもの笑顔を浮かべた耕介は「真雪さんは過保護だからね」と余計なことを言ったせいで、真雪から拳が飛んでいた。

 ごまかすのは無理にしても、言いたくないのならこれ以上聞いてはこないだろう。この人たちはその辺の線引きはしっかりしている。
 ただ、昼間に思考を読んでしまった男に関しては自分でも決めかねていたところもある。役に立つかは疑問も残るが他人の意見を参考にするのも悪くない。
 そんなことを思ってしまった。

「実は……」

 30分以上の時間をかけ根掘り葉掘り聞かれたリスティは結局ほとんどの事をしゃべらされてしまった。いや、言わなかったことは一つだけあった。


……きれいだ……


 別に隠すようなことではないがなんとなく口に出したくなかった。
 いままで自分に向けられたことのない賛辞を思い出し、少し頬が緩む。

「おっ、どうしたんリスティ?」
「大方、昼間の男のことでも思い出してたんだろう」

 真雪の言葉に耕介がため息をつきながら芝居がかった調子で天を仰ぐ。

「ああぁ、リスティから男の子の話を聞くのも初めてなのに、いきなりコイバナとは」
「そうか、それじゃボウズの様子がおかしくてもしょうがないな」
「違う。大体顔だってよく見えなかったんだ」

 たやすく怒りのボルテージを上げながらリスティは昼間の男の容姿を思い出そうとする。だが、肝心の顔は木の陰に隠れていたためよく見えなかった。多分、その辺も計算した位置に立っていたのだろう。

「しかし、何もんなんだろうなその男。訓練中のボウズに近づくなんて普通の奴にはできないだろ」
「真雪さんでも無理なの?」
「無理だね。気が緩んでるときならともかく、気を張ってるときに気づかれずに近づくなんてまねはできないな」
「じゃあ、すごい人なんですね」

 胸の前で手を打ち合わせた愛に苦笑しながらリスティは再度男の様子を思い出す。さざなみ寮の近くの林なのでそれほど木が多いわけでもないが、自分の近くに来るまで葉の一枚にも触れない、そんあことはあるはずもない。
 地面には枯葉や小枝も落ちていたはずだが特に不審な音はしなかった。同じHGSかとも思ったが、思考を読み取った限りではそんな感じはしなかった。

「フィアッセさんゆう人に聞けばええんちゃう?」
「う~ん……」

 ゆうひの言葉ももっともだがあまりその手は使いたくなかった。同じHGS患者だけに不用意に思考を読み取ったなどと言うことを知ったら気を悪くするだろう。
 
 「顔も名前も分からないんじゃ探しようがないな」
 「多分、もう一度会えば分かると思う」
 「じゃあ、探してみる?」
 
 耕介は気楽に言うが海鳴もしくはその近くに住む自分と同い年ぐらいの男性、そんなプロフィールだけを頼りに人探しをする気にはなれない。
 それに、自分の事をきれいだと思ったのならばあちらから探しに来てくれるかも知れない。

 少しロマンチックな自分の思いつきに喜ぶリスティは、どうやって目的の男を捜すのかを検討している保護者たちを眺めていた。

 リスティの生い立ちは複雑だ。

 いままでの彼女の人生で同年代の男性と話したことはほとんどない。だから、肝心なことに気づかない。
 


 彼はきれいだと思っただけだ。



 だが、その意味に気づくのにはリスティは経験が足りていなかった。



[41302] かのひとは美わしくゆく
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/07/24 22:46

朝目が覚めると、自分は有名になっていた。
そう言ったのはイギリスの詩人バイロンだったと記憶している。
ジャンルは全く違うとはいえ創作畑の端くれにいる身としては、うらやましく思わなくもない。

ただ、ここ数日は少しだけバイロンの気分がわかるような気がした。もっとも彼は自作の詩集が売れたことによって有名になったのだが、自分は状況が違っていた。

「真雪ちゃん、テレビ見たよ」
「それはどうも」
「やっぱり美人テレビ映りがいいねえ」
「は、ははは……」

気晴らしに出てきた駅前でも顔見知りに声をかけられる。
我知らずため息をついた真雪は足早に立ち去ろうとした。



誰も知らない人がいるところに行きたい。



そんな風にも思ったがよく見たら財布を持っていなかった。バスに乗るまではICカードで済んだので財布を忘れていることに気付かなかった。
しょうがないのでここは知り合いにたかることにしよう。

そんなことを決意して歩き出す。
今は酒を飲む気分じゃないので商店街の方へと向かった。
しかし、その足取りはいつもより重いものだった。



仁村真雪が憂鬱な気分を味会うことになったそもそものきっかけは、ライバルにして腐れ縁の天城和歌子からの電話だった。

「ねえ、あんた来月の3日暇? 暇よね。ちょっと時間明けてくれない」
「暇じゃない。今忙しくなった」
「それじゃ、15時に私の仕事場に来て」
「お前なあ大概にしろよ」

腐れ縁の仲とは言えいつにも増して遠慮のない物言いに軽く真雪が切れかかる。

「ああ、悪いわね。私も少し余裕がないのよ。何の因果かテレビに出ることになっちゃったのよ」
「それがあたしに何の関係がある?」
「ただ、テレビに出て話すだけならいいけど、対談してくれって言われちゃって」
「だから……」
「相手を気になる業界人にしてくれって言われたときにあんたしか思いつかなかったのよ。不本意にもね」

そう言われてつい返事をしてしまったのがいけなかった。実際天城和歌子に対して人格はともかく漫画に関しては認めていた。
そんな相手から珍しく本音っぽく誘われたせいでつい受けてしまった。そして、あれよあれよという間に自分の姿をテレビで見るという苦行を味わうことになった。

耕介たちはしきりにリビングで一緒に見ることを誘ったが断固拒否し自室で見た。だが、浮かんできた感想は一つだけだった。



誰だこれ?



さすがは夜の11時に放送とは言え東京のキー局の番組だけあって専属のメイクが帯同していた、おかげで鏡の中の自分は普段とはずいぶんとかけ離れた感じに仕上がっていると思っていた。

だが、甘かった。

画面を通してみる自分はもはや別人の域だった。

自分には女らしさが欠けている。そんな自覚はあった。とは言え魅力がないなんて事も思ってはなかった。

でも、画面の向こうで天城と話している自分は見たことの無いような表情で、これを見た視聴者はずいぶんと誤解をしてしまうのではないか。
そんな危惧を抱いた。

そして、次の日から友人・知人から電話やメールでテレビを見たという連絡がひっきりなしに入ってきた。
いい加減嫌気がさしてきたうえにそのたびにニヤニヤと笑う耕介に切れてしまい、とりあえずさざなみ寮を飛び出してしまった。

パスケースは持っていたが、財布も携帯なしではろくに暇もつぶせない。とは言えまだ帰りたくはない。

 とは言えそんなに心当たりは多くない。数少ない候補の中で、比較的被害の少なそうな翠屋に向かうことにした。
 どこか自分にも通ずるものを感じる店長はともかく、息子の青年は夜遅くに鍛錬をしていると聞いたことがある。だったらあの忌々しい番組を見ていない可能性は高いだろう。
 人目に触れるような仕事を受けたのは自分だが、こうも続くとさすがにうっとうしい。

「ちっ、意外と混んでる……」

 ランチタイムも終わるような時間なのに翠屋の店内はそれなりに混み合っていた。改めて考えてみれば今日は日曜日だった。平日は見かけない家族づれも多く、一瞬違う店にしようかとも思う。
 だが、一足早く店員が近寄ってきた。
 店長の高町桃子の息子恭也だった。

 日曜日のせいかかっちりとした翠屋唯一の男性用の制服に身を包んだ恭也は非の打ちどころのないウェイター姿だった。

「いらっしゃいませ真雪さん」
「あ、ああ。席は空いてるか?」
「お一人ですか」
「そうだ。たばこも吸いたいんだが」
「そうですか、ではこちらに」

 そういって恭也が案内したのは奥まったところにある席だった。観葉植物で仕切られたそこは、4人掛けのテーブルが二つあったが真雪以外の客はいなかった。

「こちらですと外が見えないのでなるべく窓側のテーブルからお通しするようにしています」

 ぐるっと見渡すようにしている真雪に恭也が声を駆ける。さすがは客商売などと感心してしまう。

「窓際に移られますか?」
「いやいい。それとランチセットはまだ出せるか?」
「ええ、大丈夫です。今日はAランチが生姜焼きでBランチはナポリタンになります」
「じゃあ、Bランチ。ドリンクはアイスコーヒー。あ、あと今日は財布を忘れたのでつけておいてくれ」
「かしこまりました」

 苦笑交じりで恭也が一礼する。
 そして、すっと灰皿を差し出した。流れるような動作に思わず感心させられる。

「ここは、喫煙席って訳か?」
「そんな厳密に区分しているわけじゃないですけど、色々とうるさいですからね」

 恭也が立ち去ると真雪は早速煙草に火をつけた。
 
 財布を忘れてもこれは忘れない自分に苦笑いを浮かべながら、紫煙を深く吸い込む。ニコチンが全身に染みわたるような感覚を味わいながら、ゆっくりと吐き出す。

 ここ、数日の中でやっと訪れた安らぎの時間に心から安堵しながら、ゆっくりと煙草をくゆらせ続けた。

 やがて、1本目を吸い終わったころに再び恭也が現れた。

「Bランチのナポリタンになります。タバスコとチーズはいりますか?」
「ああ、そこに置いておいてくれ」

 凄腕の剣士のくせにウェイター姿がやけに板についている恭也がちょっとおかしい。
 本人はまじめに仕事に取り組んでいるのだろうが、剣をふるっている姿を見たこともあるのでギャップが激しい。

 だが、本人はそんなことも気に留めず、すぐに身をひるがえした。観葉植物の隙間から店内の様子をうかがうと、なかなかに混雑しているらしい。それだったらこちらにも客を通せばいいのにと思うが、外はなかなかいい天気なので窓際の席を優先しているのだろう。

 のんびりとどこか懐かしい感じのするナポリタンを食べ終わったころに恭也から声をかけられる。

「ドリンクをお持ちしましょうか」
「ああ、頼む」

 こちらだけに気を配っているわけでもないだろうに、タイミングは絶妙だった。

 その流れを変えてみたくてちょっとした質問をしてみる。

「なあ、あたしこの間テレビに出たんだよ」

 今までの態度から恭也は例の番組を見ていないと踏んでの言葉だった。
でも、言った自分でも意外な言葉だった。人から聞かれればうっとうしいと思っても、聞かれないのはさびしいのだろうか?
 自問自答する真雪に恭也の答えが返ってくる。

「ええ、知っています。俺も見させてもらいました」
「な、お前その時間は鍛錬とかじゃないのかよ」
「ええ、ちょうどその時間は外にいましたが、昨日那美さんからDVDをもらったので」
「……っ」

 恭也の言葉に思わず絶句した。そして、那美に見舞うお仕置きをリストアップし始める。

「那美さんを責めないでください。中身は知らないで俺にくれたみたいですから」
「じゃあ、首謀者は誰だよ」
「耕介さんです」

あっさりと恭也はばらした。那美と耕介を天秤にかけたという訳ではなく、大したことではないと思っているのだろう。

「でも、那美さんにはいらぬ誤解をされたかもしれません。俺にDVDを渡す時になんか顔が赤くなっていた気がします」

 そんなどうでもいいことを言ってきた。

「じゃあ、なんで……」

 私に何にも聞かないんだ?

 自意識過剰っぽくて口には出せなかった言葉。さすがにそれは飲み込んだが恭也は言わんとするところを悟ったようだ。

「目立つことが好きじゃない気持ちは何となくわかりますので」
「そうかい。それで感想はどうだった?」

 毒を食らわば何とやら。そんな気持ちで恭也に問いかける。恭也は少しだけ考えるように視線を宙にさまよわせる。

「そうですね。実に意外なものが見れました。正直に言ってきれいだったと思います」

 こいつは少し違うかと思ったけど、やっぱり同じか。若干の失望とともに真雪は声をかけようとする。



 あれは本当の私じゃない。



 だが、恭也はその様子に気づかずに話し続ける。

「うちの母も時折あんな感じの表情をしますが、自分の仕事に真摯に向き合う姿はやはりいいですね」

 うん? こいつは何を言っている?

「お前どこを見てそんなことを言ってんだ?」
「真雪さんが原稿に向かって何かを描いていたところです。横顔でしたがとともきれいだったと思います」

 やばい、やばい。真雪の脳裏に無意味に言葉だけが流れていく。



 あれは、まったく飾りのない素の自分だ。



 さっきと正反対の事を思う。
 正直、そんなカットがあったことなど覚えてもいなかった。ただ、締め切り間際の仕事場にカメラが乱入していくらか回していったことは覚えている。
 あそこも使われてたのか。

「そ、そうか。それはよかった」

 うろたえているあまり自分が何を言っているのかもわからない。ただ、自分がこんな目に合っているのが誰のせいかはよくわかっていた。
 この上は奴にも相応の報いは与えなくてはいけない。

「それで、青年。私と一緒に出ていた性悪女がいただろ」
「天城さんの事ですか?」
「そう、あいつだ。あいつのベストショットはなんだった?」

 ここにいない天城に向かって心の中でつぶやく。



 お前も恥ずかしさに身もだえするがいい。



「ネームと言いましたか、ストーリーを考えているときの表情ですね」

 自分の方は覚えていなかったが、こちらは覚えていた。
 生みの苦しみという奴で、全身全霊を振り絞りながらもっともっと面白いものができるはず。そんなことだけを考え眉間に深い縦ジワを刻んでいた姿だったはずだ。

あれがいいのか。というかあれでいいのか。

「お前も大概変な奴だな」
「そうですか? 自分ではわからないですね」

 まあいい。今度こいつを天城の前に引き摺っていって、今の私と同じ目に合わせてやる。真雪はひそかに決意する。
 いつの日か、ちょっと好みの青年に褒められて赤面する売れっ子漫画家がいたりするのだが、それは別の話だ。

「まあいいや、とりあえずアイスコーヒーくれ」
「かしこまりました」

 やがて運ばれてきたアイスコーヒーを飲みながら真雪は一人考える。

 ちょっとナーバスになりすぎていたかな?

 いちいちおんなじようなことを聞かれるのにうんざりしていたことは間違いない。

 でも、あんまりイラつくようなことじゃないよな。

 あそこに出てきたのは確かにいつもの自分じゃない。でも、全部が偽物でもない。そう思えば気が楽になった。

「ありがとうございました」
「ツケは明日持ってくるよ」
「別に急ぎませんので、いつでも構いません」

 そういいながら頭を下げる恭也に軽く手を振り歩き出す。

 背筋を伸ばしまっすぐ前を向いて歩きだす。その横顔は確かに恭也の言うように美しかった。




 

 有名詩人シリーズという訳ではないのですが、今回のタイトルは冒頭に名前の出たイギリスの詩人バイロンの詩からとりました。と言っても今回は引用はなしです。あんまりやるようなことでもないですしね。
 
 今回メインを張った真雪さんですがなかなかにヒロイン力の高い人なのですが、バイプレイヤーとしての使い勝手が良すぎてあまりヒロインのSSを見かけません。
 でも、書いてみたらだいぶ書きやすかったですね。次はもうちょっと長い話を書いてみたいです。



[41302] 辻拳(前篇)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/07/31 23:17

「ふーっ」

 相川真一郎は額から流れ出る汗を胴衣の袖で乱暴に拭った。次から次へと汗は流れ落ちるが、とりあえず目に入る事だけは防ぐ事ができる。

「ほれっ、相川」
「ありがとうございます」

 通常の練習が終わった後、1時間近くも自分の練習にに付き合ってくれた師範がタオルを放ってくれる。それを首に引っ掛け改めて顔の汗を拭った。

「しかし、お前も練習熱心だね。今時、居残りで練習したい奴なんて少ないぞ」
「ブランクがありますからね。人より多く練習しないと」
「俺としては、自分の練習にもなるから構わないけどよ」

 40をいくらか過ぎた師範は厳つい顔に子供じみた笑みを浮かべる。
 同じように笑顔を返しながら、今も家で待っている妻の事を思い出す。まったく似たところがないのに、妻の事を思い出すのはそれだけ師範に心を許しているからかも知れない。
 そんな事をつい先日結婚した真一郎は思っていた。
 相手は高校の頃からずっと思い続けてきた女性で、卒業してから10年近くも経っているし、一度は諦めようとさえ思っていた。
 それが、多くの人を巻き込む騒動の果てに、ともに歩むことができるようになった。
 だが、その際のごたごたで自分の無力さを痛感した真一郎は仕事場に近い明心館の道場へと通いなおす事にした。
 いまさら、空手を習い直したって、そう思う気もあったがそれで何もしないのでは今までと変わりはしない。だから、まずは動いてみることにした。
 おかげで身体的にはかなり辛いし妻にも文句は言われるが、充実した毎日だった。
 この師範も気のいい人で、なまりきった自分に嫌な顔一つ見せずに付き合ってくれていた。

「おお、そうだ。お前に客が来てるぞ」
「客……ここにですか?」
「ああ、残念なことに男だがな」

 ニヤニヤと笑う師範に苦笑を浮かべる。こんな事を言っているが、実は女性の弟子とは緊張してうまくしゃべれないシャイな部分があるのを真一郎は良く知っていた。

「中に入れと言ったんだが、変なところで遠慮する奴でな。外で待っているから早く行ってやるといい」
「分かりました」

 真一郎は手早く着替えると普段は一緒にしている道場の後片付けを師範に任せ外へ飛び出した。
 日はとっくに暮れているが駅にも近いので辺りにはちらほらと歩いている人の姿がある。だが、それらしき人物は見当たらず、慌てて首をめぐらす。すると、背後から落ち着いた感じの声がかけられた。

「相川さん」

 少し離れた街灯の下、全体的に暗めの服装でまとめた青年が一人立っていた。伸びた背筋が折り目のよさを感じさせる青年は、鋭い印象の顔立ちに穏やかな笑みを浮かべ歩み寄ってきた。

「高町君……」
「すいません、突然押しかけて。奥さんにお尋ねしたらこちらだと聞いたので」
「それは構わないけど、どうしたんだい?」
「ここではなんなので、歩きながら話しませんか」

 青年――高町恭也は駅とは反対側を示しながら促す。
 真一郎にとって恭也は複雑な感情を思い起こさせる人間だった。別に嫌っているという意味ではない。真一郎が結婚を決める時には世話になったし、その後も何かと交流はある。
 それでも、どこか気後れのようなものは感じていた。みっともないところを見られたからかも知れない。
 だが、自分の内面を分析するのは止め真一郎は首をかしげながらもその後に続いた。
 すぐにでも話し始めるのかと思えば、恭也は黙って歩き続けた。その先には大きめの公園がある。
 昼間は近所の会社に勤める人が過ごす憩いの場に、休みの日には子供たちが遊ぶ、この辺では有名な公園だった。

「それで、高町君。わざわざ会いに来てくれたのはどんな理由?」

 辺りから人影が少なくなった頃を見計らい真一郎は声をかける。恭也の様子を見る限りでは特に物騒な用ではなさそうだが、唐突な話なので少し不審なものを感じていた。

「そうですね……。不安にさせるような真似をしてすいません」
「それはいいけど、あまり俺で役に立てるようなことはないと思うけど」
「そんなことはないと思います。あなたを知る誰に聞いても同じ答えが返ってきますよ」

 自嘲気味に笑う真一郎を恭也がたしなめる。その真剣な様子に真一郎は思わず声を詰まらせる。



 こう言うところが苦手なんだ。



 内面の思いが顔に出たのか、恭也は表情を緩めると小さく首を振った。

「すいません変な事を言って。実は少しお話を伺いたかっただけです」
「……なに?」

 自分に聞きに来る事など、まったく心当たりのない真一郎は不審そうな様子を隠さずに問い返す。自分を卑下する気はないが、あまり接点のない恭也がわざわざ訪ねてくるほど情報通でもないと思う。

「相川さんは辻拳の噂を聞いていますか?」

 その言葉に意表を突かれた真一郎は思わず黙り込んだ。
 それは、最近この辺りでよく聞く名前だった。
 この先にある公園や駅をはさんで反対側の飲み屋街の近くなどで、人が襲われる事件が頻繁に起こっていた。
 犯人はいつも一人で、必ず素手で相手を殴り倒していた。さすがに複数の人間を相手にすることはなかったが、襲った相手は必ず病院に送り込まれているらしい。
 また、狙われる相手には共通点があり、女性や子供それに老人は一人もいない。それに、男でもひ弱そうなタイプは一人もいなく、被害者は誰もが屈強そうな男だった。
 江戸時代に横行したという辻斬りからとったのか、いつの間にか辻拳と呼ばれるようになっていた。
 相手の多くはやくざや不良のような連中で、面子からか警察沙汰にはなっていない。それでも徐々に噂は広まっているところだった。

「とりあえず、噂ぐらいなら聞いてるけど」

 なにせ、通っているのは明心館の道場だけに血の気の多い人間の比率が高い。おかげで知りたくなくても自然に聞こえてくる。
 それに、師範のところには警察の人間が話を聞きに来たらしい。だが、恭也の目的も分からないうちから気軽に話すわけにはいかなかった。

「そうですか……、一応聞いておきたいんですが犯人に心当たりはないですよね」
「ああ。もしかして、探偵の真似事とかしてるのかい?」
「そんなところです。あまり向いているとも思えないですが、義理のある相手からの頼みなので」

 苦笑する恭也を睨みつけるようにしながら様子をうかがう。だが、恭也のポーカーフェイスは内面を悟らせなかった。

「それが俺に聞きたいこと?」
「そうですね。犯人は強い相手を狙っているそうなので、明心館で練習をしている相川さんなら何かご存知じゃないかと思いまして」

 恭也の答えに真一郎は少し苦い顔をして考え込む。無責任な噂ならいくつも聞いてはいるが、その情報の真偽は一切分からない。
 自分の思考に沈む真一郎は一瞬その音に気づくのが遅れた。
 気がつけばいつの間にか公園の方に向って恭也が走り出していた。真一郎も慌ててその後に続く。
 その向う先には誰かかが言い争うような声がしていた。

「待ってくれ」

 真一郎の声も聞こえないように恭也は走る速さをさらに上げる。真一郎も最近はトレーニングを欠かしていないのだが、全く付いていけない。

 これが、現役との差か。

 真一郎が軽く落ち込みながらも必死に食らい付いていると、手入れの行き届いた芝生の上に、倒れている人影が見えた。
 そして、その傍にもう一人の人影。
 走ってくる恭也の姿を見たのか、立っている方の影は背を向けて全力で走り出した。

「ううっ……」

 恭也も後を追おうとしたが倒れた男の方から聞こえた声に一瞬足が止まる。そこに追いついた真一郎がその手をしっかりと捕まえる。

「待てよ、一体何が起こっているんだ」

 真一郎の声も聞こえないようすで恭也は走り去る人影に声をかける。

「晶っ」

 ちょうど差し掛かった街頭の下。青い髪をショートカットにした少年のような影は、小さく頭を下げると再び全速力で走り出した。
 恭也はその影を追おうとして真一郎の腕を振りほどこうとする。

「こいつを放っていく気かよ」

 だが、その言葉に動きを止め、恭也は重苦しいため息をついた。こわばっていた体から力が抜けたのを感じて真一郎は手を離す。

「できれば、あなたに任せたかったんですが」
「それでも良かったんだけど、もう少し詳しい話を聞かせてくれよ」

 険しい顔で自分を睨む真一郎に苦笑しながら、恭也は倒れている男の様子を見るためにかがみこんだ。



 恭也と真一郎は公園に倒れていた男が意識を取り戻したあと、彼を病院に連れて行った。
 骨折などはなく、打ち身がほとんどだったが両太ももの内出血の跡がひどく、自力では歩けないほどだった。
 だが、病院まで連れて行くと恭也はすぐに出て行ってしまった。慌てて真一郎は後を追うが険しい顔をした恭也は何も語らず、駅前へと歩いていた。
 その間に真一郎は自宅へ帰りが遅くなるとの連絡を入れていた。聞きたいことはいくつもあった。それにも、本当はこのまま帰るべきだと思う。
 だが、それができないのが真一郎の性分だった。

「なあ、今日の俺って君のせいで晩飯食いそびれそうなんだ。そこによってかないか?」

 近くのファミレスの看板を指差す真一郎の姿に、恭也は渋い顔をしながらも小さくうなずいた。

 真一郎がハンバーグステーキセットを平らげる間、恭也はポットで運ばれてきた紅茶をゆっくりと飲んでいた。
 微妙に渋い顔をしているが、ファミレスにあまり多くを期待するものではない。まして、恭也のように変に舌が肥えているならなおさらだ。

「おまたせ」
「いえ、構いません」

 食後のコーヒーをすすりながら真一郎が声をかける。食事の間、先程の事についてはお互いに触れなかった。

「で、さっきのことについて聞いてもいいかな」
「あなたには関係ないと言っても聞いてはくれないんでしょうね」
「もちろん」

 にんまりと笑う真一郎の姿に恭也は小さくため息をつく。その様子をどこか楽しそうに眺めながら、真一郎は先をうながす。

「それで、辻拳の犯人ってさっきの子なの?」
「いえ違います」
「何で分かるんだい?」
「仕方がありません。俺の知っている事を話します」

 そう言うとすっかり冷めてしまった紅茶で口を湿した。そして、一瞬目をつぶり何かを決意した恭也は、今までとは違う強さを宿した瞳で真一郎を見つめる。

「これから話すことは他言無用でお願いします」
「ああ、分かったよ」

 真一郎の様子を見て、恭也も深くうなずいた。そして、両隣の席に誰もいないのは分かっているのに、今までより声を潜め犯人の名を告げる。

「辻拳の名は長澤さんと言います」
「じゃあ、なんでさっきは俺に犯人の心当たりとか聞いたんだよ」

 声を荒げる真一郎にあちこちから視線がつきささる。だが、そんな様子を気にも止めず、真一郎は掴みかかりそうな勢いでテーブルの上に身を乗り出す。

「彼女をかばっている可能性もあったので」
「かまをかけたのか?」
「そうなりますね」

 あくまで冷静な恭也の様子に、再び頭に血が上りそうになるが、しぶしぶ真一郎は腰を下した。

「で、その長澤さんをなんで俺がかばうと思ったの?」
「彼女は明心館のトーナメントで優勝した人ですから」
「うちの流派の人だから、道場ごとにでかくまってるって思ってたのか?」
「一部の人が手を貸している可能性はあると思っていました」
「……まあいいや。それで、長澤さんは何であんな事をしてるんだ?」
「あまり、愉快な話ではないですが……」

 そう言うと恭也は静かに語りだした。

 それは、一月ほど前のことだった。
 長澤と後輩の女性が本部道場の近くを二人で歩いている時のことだった。
 一緒に歩いていた後輩のに一人の男が執拗に迫ったらしい。最初は普通に注意をしていただけだったが、結局は殴りあいになってしまった。
 長澤は明心館の女子の部を制したこともある実力者で、後輩も黒帯。普通なら乱暴者を懲らしめておしまいといったところだ。
 ところが、

「彼女は負けました」
「え、だって女子の部とは言え明心館のチャンピオンだろその子」
「そうです。でも“ケンカ”に負けました」

 冷厳と言い放つ恭也。
 だが、負けただけで終わるはずはなかった。長澤が負けそうになり、慌てて後輩が人を呼びにいくわずかの間、時間にして30分もかからなかった。その短い間に彼女はレイプされた。

「殴られた顔面は血だらけで、衣服は破れてかろうじて体にまとわり付いているような状態。そして、もっとひどかったのは……」
「もういいよ」

 苦虫を噛み潰したような表情で真一郎は話をさえぎった。確かに聞いて楽しい話でもないし、これ以上聞く必要もなかった。

「それで、なんで彼女が辻拳だって分かるんだ?」
「門下性の一人が襲うところを目撃しています」
「理由はなんだろう?」
「入院していた病院を出た後、長澤さんの足取りはつかめていません。ですが、推測を言うのなら自分をレイプした男に復讐するためだと思います」
「男全体に八つ当たり?」
「ケンカで負けたので、ケンカの強い人間と戦って経験を積んでいるのではないかと言うのが、館長たちの推測です」
「巻島館長が……」

 巻島も門下生達に長澤の行方を当たってもらってはいたが、事件の発端が口にしづらい状況なので、あまり大事にはできなかった。
 起こしているのが明白な暴行事件なので警察にも相談しづらい。そこで、話が来たのが恭也だった。

「あのバカを止めてやってくれ」

 そう言って頭を下げた巻島の姿が恭也の脳裏には今も焼きついている。あれほど彼の姿が小さく見えたことはなかった。

「それで、さっきの子はどう絡んでくるんだ?」
「彼女の名前は城島晶と言います」
「女の子?」
「ええ、そうです」

 思わず漏れた真一郎の言葉に恭也は苦笑する。だが、何事もなかったように話をつづける。

「どこで長澤さんの話を聞いたのか知りませんが、彼女を止めるつもりのようですね。2・3日前から様子がおかしかったのですが……」
「晶ちゃんと君はどんな関係なんだい?」
「……そうですね、晶は昔からの知り合いで、妹のような存在です」
「それと、晶ちゃんと長澤さんの関係はどうなってるんだ」
「晶は長澤さんが優勝した大会で、準決勝で負けています。だから、今の状態が許せないのかも知れないですね」

 晶の話題になると穏やかな表情になる恭也に真一郎は微笑みかけた。そして、一転して真剣な表情で見つめる。

「絶対彼女達を止めよう」
「そうですね」

 相変わらす恭也の表情は渋いままだった。それでも、彼が知る真一郎なら、放っておいても一人で動く事は間違いない。
 それを思えば、協力してくれるほうがまだましだろう。
 恭也のわずかな表情の変化から内心を読み取ったのか、真一郎は笑みを深くする。
 そして、二人は明日の再会を約束して別れることにした。



 翌日、恭也は再び真一郎の元を訪ねた。
 今日は真一郎の練習がないので、職場近くの喫茶店で待ち合わせをする事にしていた。昨日の今日でもあるので、まさかとは思うがまずは公園へと向かう事にした。

「それで、晶ちゃんには会えた」
「さすがにあいつも分かっていますね。逃げ回られました」
「それでいいのか?」
「無理やり捕まえるわけにもいけません。それに、あいつの事はあまり心配しなくても大丈夫です」

 まだ時間が早いせいか会社帰りのサラリーマンぐらいしか見かけない公園を恭也と真一郎は並んで歩きながら話していた。
 一回りしたところで恭也は前から歩いてくる集団を見かけ足を止めた。

「どうしたんだい?」
「あの真ん中の男ですが、最初の被害者の兄です」
「なんで、そんなこと知ってるんだよ」
「事件については一通り調べてあります」
「誰が、向いてないんだか……」

 真一郎はぼやきながらやってくる集団の中心にいる男を見る。
 まだ、真冬とはいえないものの大分肌寒い季節だというのに、盛り上がった筋肉を誇示するようにタンクトップだけしか着ていない。
 歩いてくるのはタンクトップの男を入れて5人。どうやらその男がグループの中心らしく、周りの人間が彼におもねる様な口調で話しかける。

「それで、辻拳を見かけたらどうするつもりなんだ?」
「もちろん、ボコってやるよ。なにせ、人様に迷惑をかけてる奴だぜ、人を殴って褒められるめったにない機会だからな」
「そりゃあいいや。あんたならどんな相手だって負けないだろうしな」
「当たり前だ。こそこそと人を襲うような奴に負けるわけねえだろ」

 普通の男性の足よりも太い上腕を見せ付けるようにしながら、男は野太い声で答える。
 もう、捕まえた後のことを考えているのか、下卑た表情を浮かべる男達とすれ違いながら、真一郎は相手を観察していた。
 男達の動きはばらばらで連携が取れそうには見えない。中心にいる男もただの力自慢で、何かの武術をやっているようには見えなかった。

「あいつらなら大丈夫そうだな」
「長澤さんが負けたのは、ああいうタイプですよ」

 どことなく楽観的な真一郎に恭也が異を唱える。恭也の緊張した様子からは、気を引き締めるための言葉とは思えなかった。

「そんなに、強いのか?」
「道場で当たれば長澤さんや相川さんの敵じゃありません。でも、ケンカだと強いですよ」

 真一郎は不服そうな様子だが、恭也の言葉は間違ってはいない。単純な腕力と言うのはどんな時でも確実に相手にダメージを与える事ができる。
 それに対し技術と言うのはちょっとした状況の変化で封じられてしまう事が良くある。
 骨が太く筋肉の量が多いということはそれだけで受けるダメージを軽減させてもくれる。
 そして、周りの取巻きたちもケンカとなれば手を出すことは躊躇しないだろう。たとえ、訓練された人間のようにうまく連携できなくても、数の多さはそれだけで脅威になる。

「ふ~ん、まあいいや。それにしてもどうする? 結構いろんな奴が絡んできているみたいだけど」
「ああいう奴らを排除するのは俺の役目です」

 まるで、感情の入らない恭也の言葉に真一郎の背が思わず震える。だが、恭也はそんな様子など目に入らないように周囲に注意を払っていた。
 だが、少し経ったところでポツリと呟いた。

「問題は長澤さんのほうです……」

 真一郎にはその呟きに答える言葉はなかった。



 30分ほど歩き、公園を離れ駅の方へと向っていた。
 やがて、前方で怒号のような声が上がっているのが聞こえてきた。

「行こう高町君」
「待ってください。俺に考えがあります」
「なんだよ、逃げられたらどうするんだ」
「いえ、ここではまずい。俺が追い込みますから相川さんはさっきの公園で待っていてください」

 真一郎は恭也の瞳を正面から覗き込む。そこに何を見たのか、一つうなずくと真一郎は騒ぎとは逆の方へと走り出した。
 恭也は薄く微笑むと、しだいに近づいてくる騒がしい声の方へと駆けていった。






 このSSは元々は慣太郎さんの同人誌に寄贈したものになります。何年も前の事ですし、埋もれさすのももったいないので投稿してみました。

 時間軸的に言うと某所に投稿させていただいたものの続きになります。なので、真一郎の奥さんはあの人ですね。
 まあ、その辺は単なるお遊びということで、気にせず読んでいただければと思います。



[41302] 辻拳(後編)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/08/07 22:02
 
 公園へとたどりついた真一郎は乱れた息を整えるために、膝に手を付き地面を見つめていた。
 やっと息が元通りになったところで、顔を上げると目の前を走り去ろうとする人影を見かけた。

「待って、晶ちゃん」
「えっ」

 考えるよりも先に真一郎は言葉を発していた。
 下は動きやすそうなホットパンツ。上に飾り気のないパーカーを着た影はその言葉に動きを止める。

「誰ですか?」
「高町君の知り合いだよ」

 真一郎は人懐っこい笑みを浮かべて晶の緊張を解こうとする。
 警戒心をあらわにした晶だったが、恭也の名前を出されてことで興味を引かれたのか、立ち去る様子はなかった。

「もしかして、長澤さんを追ってるの?」
「どうしてそれを……」
「高町君から聞いたんだよ」
「師匠からですか?」
「師匠って高町君のことそう呼んでるんだ」
「はい」

 戸惑ったような真一郎に晶は大きくうなずく。恭也への真っ直ぐな信頼を感じ、真一郎は眩しそうに晶を見つめた。
 だが、遠くの方から聞こえる怒号に、晶の表情はすぐに曇る。

「お、俺行かなきゃ」
「大丈夫だよ。長澤さんは必ずここに来る」
「そんなことどうして分かるんですか」
「高町君がそう言ったたからだよ」

 不安そうな晶を励ますように笑いかけながら、真一郎はすぐに自分の心配が杞憂だったと悟る。恭也がそう言ったというだけで、浮ついていた晶に落ち着きが戻ったのが手に取るように分かった。

「君も長澤さんを追ってるの?」
「はい……」
「つかまえてどうする気なの?」
「分かりません。でも、今のあの人がしていることは間違ってることだから……」

 普段の晶を知らない真一郎でも、今の様子がかなり落ち込んでいることが分かる。
 かける言葉を探せない真一郎が、それでも重い口を開こうとした時、公園の入り口から走ってくる人影が見えた。

「相川さん」

 恭也の鋭い呼びかけに答え、真一郎は勢いよく飛び出した。だが、それよりも早くその横を駆け抜ける人影があった。

「城島さん……」

 それなりの距離を走ってきたためか、荒く乱れる呼吸のままで、恭也に追われていた影がつぶやいた。
 晶はその人影の前に立ちはだかり、大きく腕を広げて行く手をさえぎっていた。
 足を止めた影は、晶よりも頭一つ高かったがよく似たような服装をしていた。違うところは晶のホットパンツの変わりにスウェットになっているぐらいだった。
 ショートにした髪といい、細身で俊敏そうな体つきもよく似ている。

「長澤さん、なんでこんなことをしてるんですか」

 長澤はまったく化粧っけのないが顔を蒼白にし晶を睨みつける。ただ、その姿からは迫力よりも、余裕のなさが見える。



 まるで泣き出しそうな子供だ。



 そんな、真一郎の思いなど気づかずに長澤は晶だけを見つめていた。

「あなたには関係ないことよ」
「そんなことないです。俺は、あなたのことを……」
「やめて」

 短い叫びに込められた嫌悪の情に思わず晶の言葉が止まる。それでも、広げた両手はそのままで、長澤の前に立ちはだかっていた。
 その様子を歪んだ表情で睨みつけながら、長澤が吐き捨てる。

「3人がかりで私をなぶるつもり」

 口調は激しく、憎しみをたたえた瞳は晶を見据えている。だが、その膝が微かに震えていることに真一郎は気づいた。
 彼女の中から未だに暴力への恐怖が消えていないと察し、制止しようとするよりも早く、恭也が声をかける。

「今のあなたを止めるのに3人もいりませんよ」
「じゃあ、相手はあなたなのね……」
「いいえ」

 恭也は小さく首を横に振った。そして、先ほどから態勢を崩していない晶に視線をやる。

「晶」
「は、はい師匠」
「お前が長澤さんを止めるんだ」
「え、俺がですか?」

 自分と長澤の間で視線をさまよわせる晶に、恭也は力づけるように微笑みかける。その一瞬、長澤が羨望めいた表情を浮かべた。
 それに気づく事ができたのは真一郎だけだったが、何も言わないでいた。

「この子が私に勝てると思ってるの?」
「ええ、問題ありません」
「へ、へえ。随分自信たっぷりね。大会じゃ一度も私に勝った事がないのに」
「そうですね。でも、今のあなたに晶が負けるわけがない」

 淡々と、しかし揺ぎ無い確信をこめて恭也は断言する。すると、落ち着きなく揺れ動いていた晶の瞳が定まり、長澤の視線をまっすぐに受け止める。
 その様子に真一郎は恭也が師匠と呼ばれている理由が分かるような気がした。

「後悔しても知らないわよ」
「晶、自分で長澤さんを止めたいんだろう」
「は、はいっ」
「なら、思いっきりぶつかれ。細かいことは考えなくていい」
「分かりました」

 悲鳴のような長澤の声に取り合わず、恭也は晶だけを見つめる。そして、晶もしっかりとそれに答え長澤へと近づいた。

「俺、詳しいことはよく分かりません。でも、館長が教えてくれた空手はそんなことに使うもんじゃないはずです」
「勝手な事ばかり……」
「だから、俺が止めます」

 言いたい事を言うと二人は拳を掲げて向き合った。
 晶は逸る気持ちそのままにやや前傾した姿勢。長澤は様子を見るつもりなのか重心を心持ち後ろ足に乗せている。

「ふっ」

 鋭い呼気と共に晶が踏み込む。ガードが固められた顔面ではなく、やや空いた中段に拳を突きこんだ。
 長澤は晶の踏み込みの速さに惑わされる事なく、斜め後ろに1歩下がりながら下段へと足を飛ばす。
 肉を打つ湿った音が、静まり返った公園に響いた。
 一瞬の攻防は晶の拳はわずかに届かず、長澤の蹴りは的確にダメージを与えている。

「なあ、大丈夫なのか?」

 恭也の傍にやってきた真一郎が不安そうに問いかける。今の攻防だけ見ても、長澤の技量の高さはよく分かる。
 自分は極力ダメージを負わず、相手に着実にダメージを積み上げていくスタイルは晶と噛み合わせが悪い。

「大丈夫ですよ」
「でもなあ、晶ちゃんの攻撃当たってないぞ」
「そうですね。それに長澤さんはレガースを着けているので蹴り足にもダメージがないですね」

 恭也は今の一瞬で、当たった時の音や、ゆったりとしたスウェットの裾の動きから、長澤が脛に防具を仕込んでいることを読み取っていた
 それでも、出足の鈍っていく晶の姿を見ながら、恭也に焦りは感じられない。
 むしろ、真一郎の方が不安を隠せない様子で見つめていた。

「いいかげんにしなさい」
「まだです。こんなもんで俺は止まりません」

 苛立ちも露に吐き捨てる長澤を、晶はいまだに輝きを失わない瞳で睨みつける。
 そして、この短時間で真っ赤になった左の太ももを思い切り叩き、少しでも感覚を取り戻そうとする。

「止めさせなさい」
 
 晶に言っても聞かないと見たのか、長澤は恭也の方に向って叫ぶ。だが、恭也は取り合わず晶に声をかける。

「晶、自分の足で帰ろうなんて思うな。後のことは俺が面倒を見る。だから、思いを残すな」
「分かりました」

 恭也の言葉にしっかりとうなずき晶は再び前に出る。その動きに先程までの鋭さはない。
 だが、しだいに晶の拳が長澤の体に届きだす。
 この一瞬で急激に動きがよくなるはずもない。明らかに長澤は晶に気圧されていた。
 
「晶ちゃんには荷が重いんじゃないのか?」
「そうかも知れません。でも、後ろ向きな相手には晶の拳は何より突き刺さります」
「それで、彼女が壊れでもしたらどうするんだよ」
「ここに俺がいるのにそんなことはさせませんよ」

 二人の戦いから目をそらさず、恭也は断言する。真一郎は納得してはいなかったが、不測の事態が起こったときに止められるのは恭也だけでもあるので、とりあえずは見守る事にした。
 長澤の攻めは未だに止まらず、しだいに足だけではなく胴や頭にも蹴り足は伸びていた。
 下段の蹴りで動きを止め、中段でスタミナを奪い、最後には上段の蹴りでしとめる。トーナメントではこのコンビネーションの前に晶はしとめられた。
 だが、他の人間と戦った後、恭也に追い回された長澤にも余力はない。

「シッ」

 長澤は勝負を決めるつもりで渾身の力を込めた回し蹴りを、ガードの下がった晶の側頭部に向けて放った。
 晶はかろうじて蹴り足と頭の間に腕を割り込ませた。そして、蹴りを受け止めたのとは逆の手で長澤のみぞおちを突く。

「くっ」

 寸前で腹筋を引き締めた長澤に大したダメージはない。だが、疲労から足がもつれ晶に捕まりかろうじて倒れるのを防ぐ。
 願ってもいないチャンスだが、晶にも追い討ちをする体力は残されていない。

「いいかげんしつこいわね」
「今のあなたに負けるわけにはいかないんです」
「彼がそう言ったから」
「違います。俺が負けたらあなたが正しいことになるから……」
「そんなわけないわ……」

 整わない息でやっとの事で言葉を交わす。それは、お互いが言葉では止まらない事を再確認する儀式だった。
 そして、多分最後になるはずの攻撃に向けて乱れた息を整えようとする。
 時間にすれば10秒ほど、だがお互いにとっては遥かな長さに感じられる時を経て、先に動いたのは長澤だった。
 掴んでいた晶の肩を渾身の力で突き放す。そして、その頭部に向ってもう一度回し蹴りを放とうとする。
 だが、突き飛ばされた晶はそれに抗い、今の持てる力の全てを使い前に踏み出した。



 吼破・改



 巻島十蔵が晶に教えた、踏み込みの全てを威力に変える技。だが、その速さは普段のものには程遠い。
 それでも、蹴りのモーションの途中で技を受けた長澤にはこらえる事はできなかった。
 
「かはっ」

 たまらず仰向けに倒れた長澤はそのままの姿勢で空を仰ぐ。
 その瞳からこらえきれず涙が一滴零れ落ちた。
 拳を突き出したままの姿勢で固まったままの晶は、それを見る余裕もなかった。
 立っている者と倒れている者。
 勝敗は明らかなのに、負ったダメージは立っている方が遥かに大きい。

「晶、よく頑張った」
「師匠、ほんとにこれでよかったんでしょうか……」
「さあな、でも彼女には立ちどまって考える時間が必要だった。それは、俺や館長では与えられなかった」
「でも……」

 声も上げずただ静かに涙を流している長澤の姿を見て晶は視線を地に落とす。
 恭也はその頭に手を置き優しく撫でる。

「後は長澤さんが考える事だ。大丈夫お前の思いは届いている」

 うつむく晶に恭也が声をかけたところで、公園の入り口の方から騒がしい声が聞こえてきた。

「おい、本当にこっちに来たんだろうな」
「間違いないですよ」

 先程出会った男達が辺りを見渡しながらやってくる。恭也は鋭い視線を投げかけるとそちらに向って歩き出した。

「お、いるじゃねえか」
「でも、もうやられてるみたいだぜ」
「なんだ、そっちのお楽しみはなしかよ」

 欲望をむき出しにした男達の会話に長澤の体が小刻みに震える。それを見た真一郎が飛び出す。

「お前ら、何をする気だ」
「何ってなあ」

 へらへらと笑う男達に向って真一郎が向っていこうとするのを恭也が肩を掴んで止める。

「彼女があなた達に何か被害を与えたというのなら、後日必ず謝罪に向わせます。だから、ここは引いてもらえませんか?」
「そうやって、逃げる気なんだろうがそうはいかねえんだよ」

 取巻きの男が息巻くが恭也は中心にいるタンクトップのの男だけを見据えていた。だが、男は嘲るように笑いながら恭也を見下ろすように威圧する。

「俺の弟のことなんてどうでもいいんだよ」
「そうですか、だったら彼女に何の用があるんですか?」
「男が女に用があるって言ったら一つだろう」

 そう言うと長澤の方に近づこうとする。だが、その前に恭也が回りこんだ。
 男はうるさそうに手で払おうとするが恭也は難なくかわし、がら空きの顔面の前で指を開いた右手を翻した。
 五指を鞭のようにしならせ、狙い違わず男の両目を叩く。突っ込んだわけではないので失明の危険はないが、一時的に両目の視力が失われた。
だが、恭也の動きはまだ止まらない。
 男がダメージを負った目をかばったためがら空きの頭部を、両手で包み込むように平手で叩く。
 こめかみや顎ではなく耳へ。鼓膜を割るほどではなく、それでも一時的に聴力を失う程度には強く、絶妙な力加減で男の感覚をもう一つ奪った。
 何が起こったのか分からず、次々と剥奪される感覚に恐怖を覚える間もなく男は棒立ちになる。
 すかさず恭也は男の懐に潜り込み、太い腕を抱え込む。そして、一瞬の内に自分の腰に載せると投げ飛ばした。
 その際に角度を調節して深刻なダメージが残らないように調節する。それでも、地面に叩きつけられた衝撃で男の肺から息が全て吐き出される。
 
「げふっ」

 そのまま流れるような動作で男の首に恭也の腕が巻きついた。
 普通の状態ならその太い首を絞めるのにはかなり苦労するはずだった。だが、立て続けに攻撃され次々と感覚を奪われた男は一種のパニック状態になっていた。その上体では抵抗する術などあるはずがなかった。

 恭也は気道ではなく頚動脈を締めた。気道を力任せに締めれば苦痛とともに後遺症が残る事もある。
 だが、頚動脈をうまく締め脳に回る血流を絞れば、気道を締めるよりも早く意識を奪う事ができる。
 やがて、男はわずかな抵抗を示す事もできず意識を失った。

「まだ続けるか」

 白目をむいた男を地に転がし、恭也は残った男達に声をかける。
 その前には真一郎が立ちはだかり男達をけん制していた。だが、まるでそんな必要もないような様子で男達は呆然とした表情をしていた。
 自分たちが信頼を寄せていた男が瞬く間に無力化されたことが信じられないのかもしれない。
 足元に転がった男には骨折や打撲どころか些細な擦り傷すらない。だが、白目を向きだらしなく舌をたらしている姿はこう呼ぶのに相応しかった。



 死に体。



 その姿に男達は明らかに腰が引けていた。それを見て取った恭也は静かな足取りで近づいていく。そして、小さな声で二言三言ささやくと、男達の顔色が変わった。

「あ、あの俺たち」
「できれば、彼を連れて行って欲しいのだが」
「はい」

 そして、両側から肩を支えると担ぎ上げ連れて行った。その姿を見ながら真一郎は重くため息をついた。

「俺、何の役にも立ってないね」
「そんなことはありません。相川さんがいなかったら奴らに邪魔されていました」
「そうだといいけどね……」

 そうつぶやきながらも真一郎は恭也の言葉を微塵も信じていなかった。恭也はけがをさせないために絞め技を選択しただけで、あそこまで持っていていければどうにでも料理は可能なはずだった。
 恭也も警戒していたはずのケンカ慣れした男を何もさせずに無力化した技術に真一郎は戦慄を覚えていた。
 それでも、真一郎は恭也と肩を並べて、未だに仰向けのまま寝転がっている長澤の傍に歩み寄る。
 そして、かがみこんだ恭也の後姿を見つめる。

「長澤さん、一度家に帰ってください。ご家族も館長もあなたの事を心配しています」
「どうして、放っておいてくれないの……」
「みんなあなたの事が心配なんです」
「じゃあなぜ、あの時助けてくれなかったの」

 空ろな瞳で見つめる長澤を恭也はしっかりと見返す。全ての感情を失ったような瞳の奥で微かに揺らめく光を捕まえようと恭也は言葉を紡ぐ。

「起こったことは変えられません。誰もあの時のあなたを助けられない。でも、今のあなたに手を貸すことは出来るんです」

 恭也だけでなく晶や真一郎も見守る中、長澤は体を起こした。そして、目元を乱暴に拭う。

「私に手を貸すのなら、強くしてよ。あいつにも誰にも負けないように」
「それは俺の仕事じゃないです」
「私の空手は通用しなかったのよ」

 長澤の悲痛な叫びに晶と真一郎は悲しげに目を伏せる、だが、恭也だけは苦笑しながらため息をつく。

「あなたの空手が通用しなかったわけじゃないでしょう」
「違うわ。私は何もできなかった」
「あなたは何もできなかったんじゃない。何もしなかったんだ」

 そう言うと恭也は優しげに微笑んだ。そして、長沢の手を取り立ち上がらせる。長澤はその手を握り返すと抵抗せずに立ち上がった。

「あなたのような空手家が素人相手に習い覚えた技を使うわけにはいかないでしょう?」
「そんなこと……」
「あなたは自分で自分の技を封じたから負けたんです。俺のような邪道の技ではなく、あなたは自分の技を磨くべきです」
「城島さんのように?」
「そうですね。でも、俺が昔見たあなたは晶に劣るところなど何もありませんでした」

 長澤は恭也の手を握り締めながら額に当てる。その姿は祈りにも似て、声をかける事をはばかられた。
 それでも晶は痛みを訴える体を無視して、長澤に呼びかける。

「長澤さん、俺あなたの苦しみとか分かってないと思います。でも、八つ当たりで他の人を殴ったりしちゃいけないと思います」
「城島さん……、さっきも言ったけどあなたに言われなくても分かっていた」
「だったら、何であんなことしたんです」
「あいつに負けた自分が許せなかったの。だから、間違っていると分かっていても強くなりたかったの」

 先程までと違い淡々と長澤は語る。表情は手に隠れたままで見えないが、背中は微かに震えていた。
 
「あなたは強くなれます。でも、まずはきちんと罪を償ってください」
「そうね……これから警察に行くわ」
「そうですか、それがいいかもしれませんね。でも、帰ってきたら館長のところに顔を出してください。寂しがっていましたから」

 長澤は恭也の手を離すと真っ赤な目のままで、笑顔を見せた。それは、どう見ても無理のある作り笑いだったが、誰もそれを口には出せなかった。
 そして、長澤は後ろに下がると頭を下げた。

「色々とありがとう。ここからは一人で行くから」
「俺が付いていこうか?」

 真一郎の言葉に長澤は首を横に振った。そして、精一杯胸を張り一人で歩いていく。その後ろ姿に晶は頭を下げて見送った。
 恭也は晶の前に回るといきなり背を向けた。そして、戸惑う晶をあっという間に背負ってしまった。

「わ、師匠止めて下さい」
「今のお前が自分の足で歩いて帰れるわけがないだろう」
「でも、恥ずかしいです」
「落ちるから暴れるんじゃない」

 恭也は晶の抗議を無視して背負い続ける。普段ならともかく今の疲れた状態では抵抗もできず、やがて大人しくなった。

「それでは、帰りましょうか相川さん」
「本当に俺って何にもしてないね」
「さっきも言いましたが、そんなことはありません。見守ってくれる人がいるのは心強いものです」
「その言葉はそっくり返すよ」

 彼は気づいていないようだが、晶の折れない心を支えているのは間違いなく恭也だった。



 自分が信じている人が、自分を信じてくれる。



 それがどれだけ力をくれるのかを真一郎はよく知っていた。それなのにそんなことに気づきもしない恭也の無頓着さが妙におかしかった。
 苦笑いする真一郎と晶を背負った恭也は横に並び駅へと歩き出した。





 もう時間も遅くなってきたので、近くを歩く人の姿は見かけられない。
 そんな中真一郎は気になっていた事を恭也に問う。

「そう言えばさっきあいつらに何を言ってたんだい?」
「ちょっと話をしただけですよ」
「だから、何の話だよ」
「長澤さんを襲った男の事ですが、実は事情聴取の最中にけがをして今は病院にいます」
「それって……」
「どうやら転んだらしいですね。ただ、よほどひどい転び方をしたらしくて、脛の骨は砕け、スチール製の机も二つに裂けていたそうです」
「は、ははは……」

 真一郎の乾いた笑いが当たりに空しく響く。その脳裏に巻島十蔵が狭い聴取室の中で暴れまわる姿が浮かんでくる。
 犯人に対して同情する気はない。ないのだが、それでもちょっとだけかわいそうな気もしてきた。

「それにしても起きないね」

 いつの間にか安らかな寝息を立てている晶を、呆れたような表情で見つめながら真一郎が呟く。もちろん本気ではないのだが、あまりに安心しきった晶の様子に苦笑いが浮かぶ。

「今日は良く頑張りましたから。そっとしておきましょう」
「今思えば君さあ、晶ちゃんに長澤さんを止めさせる気だったんだろう?」
「晶が長澤さんを追っている事に気づいた時から考えてはいました」
「自分じゃ説得できないと思ってたのかい?」
「止める事はできたと思います。でもそれだけでいいのかと思っていました」

 恭也は自嘲気味に笑いながら答える。
 男の暴力に破れ今まで積み上げてきた自信や、人としての尊厳さえ失いかけた女性に、男である自分に何ができるのか。恭也の自問はある意味正しい。

「男の君に彼女の心は救えないと思ってた?」
「……そうですね」
「そんなことはないよ。彼女だって分かってくれたと思う」

 それでも、自分の事を思ってくれる気持ちは必ず伝わるはずだ。今まではそのことに気づく心の余裕がなかっただけだ。
 だが、真一郎はそれ以上触れず、別のことを問いかける。

「晶ちゃんにとって格上の相手なのに、なんで君はあんなに落ち着いていたんだ?」
「今の気持ちが引けている長澤さんは晶みたいな突進するタイプとは相性が悪いですから」
「それだけかよ」
「それに、優しい子ですから。長澤さんを思う気持ちは必ず届くと思っていました」

 穏やかな表情で晶について語る恭也に真一郎は苦笑する。



 親バカならぬ師匠バカかな。



 真一郎は恭也に背負われたままの晶に眼をやる。
 全身を襲う痛みはまだ去っていないはずなのに、恭也の背で幸せそうな顔で寝息を立てていた。
 その姿が何となく羨ましくて、少し余計な事を聞いてみる。
 
「それにしても高町君、随分と長澤さんのこと気にしてたね」
「そうですか?」
「館長に頼まれたってだけじゃないんじゃないか?」
「そうですね、彼女には罪を償ってまた大会に出て欲しいですから」

 ニヤニヤしながら問いかける真一郎に恭也は真顔で答える。これには聞いた真一郎の方が驚いてしまった。まさか、そんな答えが返ってくるとは思っていなかった。

「さっきの姿を日のあたる場所でもう一度見てみたいですからね」

 だから、恭也がこう答えたときに安心してしまった。

 ああ、やっぱりこういう奴なんだ。

 真一郎が納得していると恭也は一瞬足を止めると、慎重な手つきで晶を背負いなおした。
 背に晶の重さとぬくもりを感じる。それが、かけがえのないものに感じられ思わず支える手に力がこもった。

「うんっ」

 痛かったのか、声を漏らす晶を恭也は気遣わしげに見る。だが、その表情は穏やかなままだった。



 いつまで、こんな表情を見せてくれるだろう。



 そんな事を思い恭也は軽く首を振る。
 いつかは晶も自分の足で旅立って行くだろう。そして、その日はそんなに遠くない。
 だから、かけがえのない今このひと時を大事にしよう。そんな事を恭也が考えていると、不意に声がかけられる。

「そんな、心配しなくていいと思うよ」
「……そうですか?」

 変に鋭くて、妙なところが鈍い男に真一郎は苦笑を漏らす。それでも、自分が世話を焼く必要もないだろう。
 お互いのぬくもりを感じて、心安らいでいる姿を見れば誰もがそう思うはずだ。

「さあ、帰ろうぜ。晶ちゃんを休ませないといけないだろう?」
「ええ。それに相川さんの奥さんも首を長くして待っていますからね」

 自分の言葉に苦笑いしながら、二人は歩き出した。

 待っている人の所へ帰るために。






 確か発売前の人気投票では晶の順位は最下位だったと思います。SSの数も少なく不遇な感じのヒロインですが、私は好きなんですよね。
 やさぐれていた過去もそこから立ち直ってまっすぐ進む姿も他のヒロインにはない魅力だと思います。

 それをうまく描写できたかと言えば疑問ですが、もう1回ぐらいは晶メインで書いてみたいです。



[41302] Eye of The Tiger  とらハ×SOUL CATCHECR(S) (1)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/08/14 22:57

 名苑学園高等学校吹奏楽部に所属するサックス奏者、刻坂響がその男に初めて会ったのは伊調剛建が主宰したスプリングコンサートが終わってから10日ほど経った日の事だった。

 場所は名苑高等学校の正門の前。

 時間は夕方。日は落ちきり、世界が赤から濃紺を経て暗闇に閉ざされるほんのひと時。

 古人はこんな一瞬を逢魔が時と読んでいた。

「忙しそうなところすまない。君はこの学校の生徒でいいか」

 いつのまにか近寄っていた男に声をかけられた。
 気を抜いていたわけではない。

 むしろ人を探していたためいつもよりも周りには気を配っていた。
 それなのに彼が声をかけてくるまで全くその存在に気付かなかった。

 そのことに恐れをなしたのか、それともこれから続く会話についてらしくもなく勘が働いたのか。その時の刻坂には分からなかった。だが、内なる不安からつい声が上ずる。

「そ、そうですが。どちら様ですか」
「驚かしてすまない。人を探しに来たんだがもう学生もほとんどいなくて困っていた」

 男が一歩前に進むとちょうど点灯したばかりの街灯が照らし、はっきりと姿が見えるようになった。落ち着いた声音からかなり年上だと感じていたが、よく見れば自分とあまり変わらない年に見える。
 整った顔立ちと伸びた背筋のせいか妙に威圧感があった。

 感情を読み取れない瞳に昔どこかで見た写真を思い出す。

 あれは一体なんだっただろうか……。

 取り留めもない思いを断ち切るように声がかけられる。

「君も急いでいるようだから手短に要件をすませたい。髪の毛がちょうど真ん中から色も髪質も違っている少年に心当たりはないか?」
「えっ……」
「君と同じような制服を着ているのでこの学校の生徒だと思う。直接知らなくても知ってそうな人を教えてもらえるだけでもいい」

 青年は真摯な声で告げた。彼の側にも理由があるのかもしれない、そんな思いを感じさせる。
 だが、響には彼の事情を慮ることなどできなかった。それは、今告げられた特徴がまさに響の探し求める人の物だったからだ。

「神峰を知っているんですか。どこで会ったんですか」

 響の友人で指揮者志望の神峰翔太は3日前の練習の後から連絡が取れなくなっていた。部内のごたごたが一通り片付き吹奏楽コンクールに向けて一丸となろうとしているとき。
 その中心人物で部内の人間に最も心を砕き、一丸となることを最も望んていた神峰が練習に顔を出さない。

 彼をよく知る人間はそのことを不審に思い、連絡を取ろうとした。だが顧問の谺夕子を通じて家族にも連絡を取ったが、家にも帰っていなかった。

 やっとつかんだ神峰の手がかりを前に響の声は悲鳴のような切実さを帯びて響き渡る。その声を聴き周りから人が駆け寄ってくる。
 同じ吹奏楽部の仲間が今日もあちこち探しまわっていて、ちょうどこの時間に一度集合する予定だった。

 中でもひときわ早く駆け寄ってきた、長い髪を両サイドでくくった少女が青年を指さしながら声を上げる。

「あんた刻坂君に何をしてるの。変なことをしたら絶対許さないから」
「歌林先輩……」
「刻坂君、大丈夫? 私が来たからには指一本触れさせないから」
「オイこら。うちの部員に何をしてくれてんだ」
「なにか御用なら俺が代わりに聞きます」

 次々に響の周りに吹奏楽部の部員が集まってくる。同じサックス奏者でパートリーダーの歌林優奈、バンダナを頭に巻いた目つきの悪い少年は打楽器のパートリーダー打樋透、長身で落ち着いた雰囲気なのが部長の奏馬俊平。
 責任感からか奏馬が響をかばうように前に出る。だが、目の前の青年はその様子を気にも留めずに響だけをまっすぐに見つめる。

 改めて青年を見返すとその眼差しはこちらの心の奥すら見通すように鋭い。だが、その印象からすれば柔らかく落ち着いた声で問いかける。

「その神峰君の写真を持っていないか?」
「あります。ちょっと待ってください」

 響は慌てて携帯を取りだし、たどたどしい手つきで操作をする。そして、花見の時にとった画像を青年に突き出した。スマートフォンの小さな画面の中の神峰はとても楽しそうに笑っている。
 あれからひと月も経っていない。それが響には信じられない気分だった。

「こいつです。これが神峰です」

 青年はその画像をしばし見つめると軽くうなずいた。そして、全ての虚飾を許さないような透徹とした瞳で響を見つめる。
 一瞬、気押される響だったが全身全霊をかけてその圧力に耐える。

「君はこの神峰君とどういう関係だ?」
「同じ部活の仲間で友達です」

 力強く言い切った。こればかりはいつ誰に問いかけられたって迷う事すらない。刻坂響にとって神峰翔太は唯一無二の友達だった。

 その思いを感じ取ったのか青年の顔に薄い笑みが浮く。それは思いのほか優しげな表情だった。拍子抜けした響に青年は続けて問いかける。

「彼は割と面倒な状況にいる。できればご家族に連絡を取りたい。担任か部活とかの顧問の人に会わせてもらえないか」
「神峰はどこにいるんですか? 無事なんですか?」

 響の問いかけに青年は一瞬迷うそぶりを見せた。ちらっと周りに走った視線に奏馬が怒ったように声をかける。

「俺たちには言えないようなことですか」
「てめえ、神峰に何かあったら許さねえぞ」

 早合点をした打樋が胸倉に伸ばした手を直前で握りとめ、青年は苦笑する。その手の力強さに打樋は戦慄する。満身の力を込めても小揺るぎすらしない。



 何もんだこいつ。



 今更ながらにそんなことを思う全員に青年は声を投げかける。

「本当は部外者にこんなことを漏らすのはだいぶまずい。ただ、君のさっきの言葉を信じることにする」
「えっ……」
「友達なんだろ?」
「はい」

 青年は軽く眉根をよせた。その一瞬にどんな葛藤があったのかは分からない。だが、口にした言葉は相変わらず落ち着いた響きだった。

「彼はいま入院している」
「入院ですか? なんで……」
「病院に運び込まれたのは3日前でそれから一度も目を覚ましていない」
「どうして、神峰がそんなことに」
「神峰君は事故とかに合ったのですが?」
「事故というよりは事件というべきだな」

 叫ぶ響に代わって奏馬が問いかけるが青年の返答に絶句する。3日前まで自分たちはコンクールに向かって毎日練習に明け暮れていたはずだ。
 それなのに、なぜ神峰がそんなものに巻き込まれている?

「なんでてめえがそんなことを知ってんだ。もしかして警察か?」
「警察は身元不明の人間ぐらいでは動かない。事情を知っているのは彼を拾い上げたのが俺だからだ」
「えっ」

 思わぬ青年の言葉に一瞬言葉につまる。
 ただ、目の前の青年はどう見ても只者には見えない。彼ならばその程度の事はできるような気もする。
それに、そこは大事なことじゃない。

「事件ってなんですか?神峰は大丈夫なんですか?」
「詳しい事情は話せないが、彼の身の安全は保障する」
「そ、そうだ。どこの病院ですか。会いにいかなきゃ」

 慌てる響をいつの間にか打樋を開放していた青年は押しとどめる。必死の響だがこの青年には何となく逆らえないものを感じていた。

「落ち着け。病院は海鳴中央病院になるが、いまから向かっても着くころには面会時間は終わってしまう。明日、改めて向かった方がいい」
「でも、僕は……」
「それに、普通に行っても面会はできない」
「それじゃどうすればいいんですか」
「俺が話を通しておく。受付に着いたらフィリス矢沢先生を呼び出すといい」
「フィリス矢沢先生ですね。わかりました」
「それと、君の名前を教えてくれ。向こうに伝えて置く」
「刻坂響です」
「刻坂君か俺の名は高町恭也。フィリス先生にうまく会えなくても俺の名前を出せば話は聞いてもらえるはずだ」
「病院の関係者なんですか?」

 青年、高町恭也は軽く首を横に振る。彼の表情は先ほどからほとんど変わらないが、どこか苦いものが混じっているように見えた。

「俺は別に関係者でもなんでもない。ただの厄介な患者だ」

 不思議そうな顔の響に取り合わず。恭也は軽く手を振った。どうやらこれでこの話は終わりという事らしい。

「それよりも顧問の先生を紹介してくれないか?」
「わかりました。ここで待っていてください。谺先生を読んできます」
「それじゃ、俺は他の奴らに伝えてくる」

 いぶかしむ響の代わりに奏馬が校舎に向かって走り出した。それにつられて走り出そうとする打樋を恭也が引き止める。

「待ってくれ。あまり大勢の人間に知らせないでほしい」
「なんでだよ。みんなあいつの事を心配してんだよ」
「無事なことは確かだ。ただ、あまり大ごとにはしたくない。全員に知らせるのは2・3日待ってほしい」
「ちっ」

 恭也の言葉に舌打ちする打樋だったが事情も知らずに騒ぎ立てするのも確かにまずいだろう。そう思い足を止めた。

 響はそんな周りの様子を気にも留めずに、自分の思いにふけっていた。



神峰お前はどうしてしまったんだ。



その思いに答えられるものはここにはいなかった。






 という訳で唐突にとらハとジャンプからジャンプNEXTそしてジャンプ+へと移籍しまくっている流浪のマンガSOUL CATCHECR(S)とのクロスSSです。
 前からとらハとSOUL CATCHECR(S)をからめたら面白そうだと思ってはいたのですが、クロスどころかSOUL CATCHECR(S)のSSですらあまり見かけないのでこれはもう自分で書くしかないかなと。

 元々はこのSSを書こうと思ったのがこちらに投稿するきっかけでした。その割には長くかかったのですが、割と難産でした(苦笑
 でも、最後まで書き上げるまでだといつになるか分からないのでプロローグを投稿します。後は最後まで書き上げるだけですね。



[41302] Eye of The Tiger  とらハ×SOUL CATCHECR(S) (2)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/08/21 23:11

 高町恭也がその場に行き会ったのは本当にただの偶然だった。
 前日の鍛錬で美由希が足を痛めたため大事を取って病院に行かせていた。
 ぽっかりと時間が空いたので翠屋の手伝いに入ろうとすれば、今日に限って十分に人手は足りていた。

 おかげで暇を持て余した恭也は普段は行かないところに行ってみようとしてみた。一応、鍛錬に使えそうな場所を探すという名目で街中を少し離れた海沿いの林の中を歩く。
 
 普通の人間ならいかに暇でも原生林とまでいかなくてもろくにけもの道すらない林の中を歩こうとは思わないだろう。
 ただ、恭也はよくも悪くも普通ではなかった。

 さすがに散歩とまではいかなくてもちょっとしたトレッキングくらいの感覚で林の中を進んでいた。
 歩くだけでもなかなかに負荷がかかるがこういう鍛錬もありだな。そんなことを考えながら歩いていた時に場違いな音が聞こえてきた。



キン



 それは小さく普通なら聞き逃してしまいそうなぐらいの音だった。距離もそれなりに離れているようだ。だが、恭也がその音を聞き逃すことなどありえなかった。
 それは彼の知る限り刃と刃が打ち合う時の音に酷似していたからだ。

 一瞬で弛緩していた精神が戦闘時の物へと切り替わる。そして、音のした方へ足を向ける。
 足元も定かでない林の中をなるべく音をたてないように注意を払いながら、それでも普通の人が小走りで走るよりも早く疾走する。

 気は焦るが不用意に飛び出すわけにもいかないので、耳に神経を集中する。激しく地面を踏みしめる音や小さな罵り声などが聞こえてくる。どうやら複数の人間が争っているらしい。
 
 慎重に近づきながら現在の装備を点検する。小刀が2本、投針は10本、鋼糸の4番が2本。複数の人間を相手にするにはいささか心もとない。気休めに過ぎないだろうが走りながら手頃の大きさの石を2個拾い上げた。

 最初に音を聞きつけてから時間にして1分も経っていないが、徐々に音は小さくなっていく。どんな結果かはさておき決着は近いらしい。

 少し進んだところで林が途切れていた。境目に立つ細い木を陰にするように足を止め様子をうかがう。かすかに波の音が聞こえてきた。自分の位置関係を確認すると街中からベイサイドホテルに向かう途中の海岸線のようだ。

 恭也の視線の先には3人の男が立っていた。二人は背を向け一人はこちらを向いている。

 ちょっとした尾根のような地形らしく、3人の立っている向こう側の様子は見えない。ひとまず先の事は置いておき、目の前にいる人間を観察することにする。

 すると、背を向けている二人の男の手にとても見過ごせないものが握られていることに気付いた。



拳銃だと?



 概ねは平和な日本ではほとんど見かけないものだ。だが、それなりに荒事の経験のある恭也にとってなじみはあったので、見間違えることはない。

 拳銃を目にした瞬間に恭也は彼らの制圧を決めた。二人は敵で確定として、もう一人の様子を探ると、視線はこちらを向いているが彼の目にはなにも写っていないようだった。多少距離があることを置いても、様子がおかしい。それを確かめる間もなく、彼は背中を向けている男に押され恭也の視界から消えた。

 どうやら先は崖のようになっているらしい。やがてかなり大きな水音がした。

 恭也はその水音が聞こえるよりも早く行動を起こしていた。
 音もなく林を抜けだし、先ほど拾っておいた石をこちらに背を向けている男たちに向けて放り、静かに歩み寄る。

 石の狙いは頭部。当たり所が悪ければ死もあり得るが、銃を持っている相手に対して容赦をする気はなかった。
 速さと角度を調節してちょうど同じタイミングで当たるように投げられた石は狙いたがわず、とはいかず奥の男は命中しそうだが手前の男にはかすめるようなコースだった。

 叔母の美沙斗を介した香港警防隊との訓練を通して暗器の扱いは上達していたが、こういうイレギュラーな行動は十全とはいかなかった。だが、今は反省する時ではない。

 石が二人の頭に当たる直前に恭也は投針を取り出した。



ごっ。



 石が直撃した男から鈍い音がする。当たらなかった男も自分のすぐそばを通り抜けた何かの男に動きを止めた。

「ぎっ」

 二人の男が事態を認識する前にそれぞれの腕に投針が突き刺さっていた。先ほどよりも距離が近いことと、修練の度合いが違うため今度は狙ったところに当てていた。二人の男の二の腕に投針が刺さったためたまらず拳銃は手から零れ落ちていた。

 荒事の最中なので気を抜いていたわけではないだろうが、立て続けに行われる攻撃に明らかに意識がついていけていない。男達のそんな状態に同情するわけもなく全力で間合いを詰める。

 石の直撃を受けた後ろの男はひとまず後回しにして手前の男に向けて左の掌打を放つ。殺してしまっていいのなら小刀を使うが事情も分からないのにそれはためらわれた。

 顎を狙い脳震盪を狙ったが格闘技の経験でもあるのか手前の男の首は太く、一撃では意識を刈り取れなかった。元より御神流は速さと手数で戦う流派だ。一撃でダメなら二撃三撃、考えるよりも先に次の攻撃は走っている。

 右の掌はこめかみに、反しの左で下から顎を打ち抜いた時点で男は膝から崩れ落ちた。それを横目に見ながらふらつく奥にいた男のみぞおちに全力でつま先を叩き込む。

 大きめの石を頭部に受けて意識も朦朧としていた男はよけることもできずもろに受けた。みぞおちに衝撃を受けても意識が無くなりはしない。だが呼吸ができなくなるので体は動きを止めてしまう。

 もう満足に動けないだろうが、とどめに顎を肘で打ち抜き意識を断った。

 そして、鋼糸で両者の手足を縛る。

 そこまでやって辺りを見渡し改めて状況を確認する。

 戦っている最中にもそれは視界に入ってはいた。多対一の戦いを前提とする御神流において戦場の把握は必須だ。

 だから、それは最初から目に入っていた。もう終わっているから戦っている最中は意識の外に押し出していただけだった。

 自分の足元と少し離れた場所を見ながらしばし考える。そして携帯を取り出して最近なじみになった人物へと電話をかける。

「Hi 恭也。君の方から電話をくれるなんて珍しいね。なんかあったの
かい?」
「ええ、結構面倒な状況です。本来ならすぐにでも警察と救急に連絡をしなければいけないのですが、色々とややこしい事情がありそうなのでリスティさんに先に電話しました」
「どういう事だい」

 リスティ槙原の肩書は警察の民間協力者と聞いている。普通の職員や嘱託ではないだろうが、今までの言動を見る限りかなりの影響力があるのではないか。
 そう考えていた。

 恭也の意味ありげな言葉にリスティは気軽な感じの口調から一気に真剣味の増した声になる。普段はふざけた言動が多いが、こういった部分は信頼をしていた。だから恭也も端的に状況を話す。

「ベイサイドホテルの近くの雑木林で人が争っている音が聞こえたので、現場に向かいました」
「それで、何があった」
「武装した二人の男がいたので制圧しました。いま、拘束してあります。どうやらこいつらは見張りのようでその先に4人の男の死体が転がっています」

 言いながら視線を現場の方に向ける。少し先の開けた場所に一人の男がうずくまっている。ここからでは様子は細かくは見えないが、背中の方が血でぐっしょりと濡れている。

 また、少し離れたところに3人の男が点在していた。首や心臓の辺りを切り裂かれている様子が見て取れる。ちぎれとんだ草や荒れた地面からも激しい戦闘があったことがうかがわれる。

 風向きが変わったせいか濃密な血の匂いがこちらに流れてくる。

「どういった事情で殺し合いが行われたのかは分かりませんが、俺が制圧した連中が一人の少年を海に突き落としています。俺はそれを助けに行きます。細かい場所はこの携帯を“サーチ”してください」
「ちょっと恭也何を……」
「本当に申し訳ありません。でも、時間がないので」

 それだけ言うと羽織っていた上着を脱ぎその上に携帯を置き、少年が落とされた崖に近寄り下を覗き込む。

「さすがに飛び降りるのは無謀か」

 高さは5mほどなので飛び降りること自体はたやすいが、下の状況がどうなっているかわからないので伝い降りることにする。

 気づけば少年の姿は沖の方に流されかかっている。

 急ぎ足場を確認しルートを頭の中で描く。下に向かって下りる前に自分が取り押さえた男たちに視線を向ける。

 恭也にとって戦いは目的ではない。誰かを守るため、そのために力を欲していても、戦いそのものを楽しむような気持ちは薄い。

 だから、結果にも不必要な装飾を必要としない。ほぼ最速で無力化した男たちはある意味理想的な結果だったはずだ。

 それでも、散らばる死体と崖下に落ちた少年の事を思うと胸中に暗いものが満ちる。おかげで、ほんの一瞬あまり合理的でない思考が脳裏をよぎった。



もう少し痛めつけておけばよかったか?



 だが、ためらいは一瞬の事ですぐに恭也は崖をつたい降りた。まずは少年を助け出すことが先決だろう。

 だが、この件がこれで終わりだとは恭也にはどうしても思えなかった。





 あれからすぐにリスティは現場に到着した。
 かなり凄惨な現場の様子に眉をひそめたものの、対応はすぐに行われ、30分もかからずに現場は騒然としていた。恭也も事情の説明や崖下に落ちた少年に付き添い病院に行ったりしたので帰宅は夜中になった。

 翌朝、鍛錬は休みにしたがいつも通りの時間に起きだし玄関に新聞を取りに向かう。事件の中心にいたとはいえ知らないことも多い。そんなに数は多くないが、新聞記者らしき顔も見かけたので何か知らないことも載っているかもしれない。

 そんなことを考えながらリビングのソファに座り新聞を開こうとする。

「お兄ちゃん……」
「おはようなのは……どうした?」

 朝が弱い妹が珍しく起きてきていると思えばどうも様子がおかしい。泣きはらしたような眼は赤く、少し腫れぼったく見える。
 おまけにとたとたと駆けてきたかと思えば抱きついてきた。

「どうしたなのは」

 恭也が呼びかけるが頭を押し付けたまま首を横に振る。
 その頭を優しく撫でながら、どうしたものかと視線を巡らせる。その先に同じように起きてきた母の姿を見かける。

「かあさんもか……。昨日何かあったのか」
「恭也、商店街のインド料理屋さん知ってる?」

 なのはよりもやつれの目立つ母が問いかけてくる。桃子の言葉になのはも顔をあげ恭也を見つめてくる。

「ああ、知っている。何度か食べたことがある」
「あそこね、ご主人と奥さんが二人でやってる店なの。娘さんが一人いてね、今年から幼稚園に通ってたのよ」

 桃子の言葉に恭也の脳裏に昨日の光景が蘇る。あの、真ん中で倒れていたのは……

「それが、昨日奥さんと娘さんが誰かに殺されたのよ」

 桃子の言葉になのはがびくっと体を震わせる。
 恭也はなのはの頭をぽんぽんと軽く叩いた。なのはは少しだけ安心したように再び恭也に頭を押し付けた。

「そうか……。知り合いなのか」
「お母さんの方は商店街の方でね。顔見知りぐらいだったけど、娘さん、リアちゃんっていうんだけど、お迎えのバスを待つところが一緒だからなのはとは仲が良かったのよ……」
「リアちゃん死んじゃったの……」

 いつのまにか泣き出していたなのはを少し強く抱きしめる。小刻みに震えるなのはの様子に恭也は知らず歯を食いしばっていた。
 昨日、早く帰っていたから何ができたという訳ではないが、家族が悲しんでいるのに何も知らなかったというのは許しがたい。

「それで、あんたの方は昨日何があったの?」
「ちょっと待ってくれ。確認したいことがある」

 そう言いながら手に持ったままの新聞を広げる。一面のトップには桃子が語っていた親子殺害の記事。
 その横に同じ海鳴市内で起きた恭也が遭遇した事件。
 特別治安が悪いわけでもない町で起きた二つの事件に関連性がないわけがない。

 恭也は携帯を取りだしリスティに電話をかける。

「おはようございますリスティさん。朝早くからすいません。一つ確認したいことがあるんですがいいですか」
「ああ、構わないよ。どうせ寝てないしね」
「それは、お疲れ様です。それで、昨日の犠牲者ですが一人心当たりがあります」
「そうか、君も気づいたんだね。まあ、ずいぶんな騒ぎになってるしね」

 けだるげな様子でリスティが答える。どうやら、だいぶ堪えているらしい。

「そう、あそこで死んでたうちの一人はカレー屋の主人だよ」
「なんでそんなことに……」
「その辺の事も話し合いたいから、昼ごろに一度会えないかな」
「わかりました、どこに行けばいいですか」
「翠屋に行くからお昼を食べながら話そう」
「わかりました。お待ちしています」

 それだけ話すと恭也は電話を切ろうとした。
 だが、リスティがそれを止める。

「それと、君なら心配ないと思うけど念のなめ一つだけ忠告がある」
「なんでしょう?」
「カレー屋の母娘を殺した奴はいまだに逃亡中なんだ」








 とりあえず書き溜めてあるのはここまでです。
 プロット自体は組み立てているので後は書くだけなのですが、なかなか難産気味です。とりあえずがんばるだけですね。
 ただ、次は別の話になると思います。多分、動かざる心と言う話になると思うのですが、週末の進み具合次第ですね。



[41302] 動かざる心
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/08/28 23:07

 さっきから自分の呼吸する音がやけに耳につく。
 顔どころか頭全体をすっぽりと覆う面を被っているとはいえ、昨日今日始めた事ではない。この程度の事で乱れるほどやわな鍛え方をしているつもりはなかった。
 確かに今立っている場所はとても暑い。
 外は真夏の日差しが地面を焼き、館内の空調もそれを下げきるまでは至らない。

 そして、俺はいつになく緊張している。
 
 普段なら平常心とまではいかなくても、もう少しましな心で望んでいるはずだった。
 だが、狭いわけではない館内にいる大勢の人。その視線が俺を平常ではいられなくしている。

 今向かい合う俺たち以外、声をあげる者は誰もいない。
 カチカチとぶつかり合う竹刀の音、お互いの荒れた息遣いだけが今聞こえる数少ない音だ。
 ここにいる全員が俺たち二人を見つめている。そして、その一挙手一投足に目を凝らしている。

 もとよりここにいる事は俺が望んだことのはずだった。
部員達の期待を背負っている。応援してくれている彼らの気持ちにも報いたい。
 それに、去年ベスト16に終わったことは自分の未熟のせいだとしても、悔しくないわけがない。
 そして、数多の強豪を退けここにいる対戦者。
 彼も優勝を目指してここまで勝ち抜いてきた強者だ。相手にとって不足なしどころの話ではない。

 それなのに、俺の心はやけにざわめき一向に落ち着きを見せない。逸る心とそれについていけない体。
 それだけだったらむしろ話は簡単だった。
 
 だが、俺自身がそうでないことを誰よりも良く分かっていた。

 この会場のどこかにいるはずの親友に心の中で問いかける。

 こんなときはどうしたらいいと思う?

 もちろん答える声などなかった。






 それは、インターハイの開会式の2日前のことだった。
 剣道部の練習が終わった後、無理を言って高町に稽古をつけてもらいに道場に押しかけたときのことだ。
 俺はかねてより疑問に思っていたことを高町に聞いてみることにした。

「少し聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「別に構わないが、なんだ」

 高町との厳しい稽古の後、さんざんに打ち据えられ投げ飛ばされた俺は息も絶え絶えだった。
 対する高町は、余裕の表情で俺を見つめていた。
 自分の練習量が少ないとは思わないが、この差を見せ付けられると我が身の甘さを痛感する。

「あまりあせるな。俺の膝の事は知っているだろう」
「ああ……」
「ずいぶん高くついたぞ、若気の至りという奴は」

 俺の焦りが表情に出たのか釘を刺される。
 こいつの膝が壊れた事情は概略だけ教えてもらっていた。簡単に言えば鍛練しすぎということだが、それだけではないらしい。

 もちろん、その辺の突っ込んだところは知らない。だが、今に限って言えば前半の鍛練しすぎということだけで十分だった。
 スポーツ選手にとってケガは付き物だ。名前を武術に変えても、危険度が増す以外の状況はあまり変わらないだろう。
 まして、高町は指導者もなく独学で鍛えてきたらしい。それを思えば膝の怪我ぐらいですんでいることの方がおかしいぐらいだ。
 それでも、高町の実力は俺の手が届かない高さにある。

「どうした」

 短い言葉ながらそこからは本当に俺のことを案じている事が伝わる。
 この男が取り乱した事をほとんど見た事がない。俺よりは1つ年上とはいえ1年後の俺が高町のような落ち着きを手に入れられる気は全くしない。
 もしも、高町が数日後には試合を控えていても、こんなにも心が乱れることなどないだろう。

「赤星、本当にどうしたんだ?」
「すまない、なんでもないんだ。ちょっと考え事をしていた」

 俺の気のない返事に高町の眉根が少し寄る。もともと表情の乏しい男だが、それでも慣れくると色々と分かる事もある。
 これはちょっと怒っているな。
 それも、自分がないがしろにされた事ではなく、俺の事を案じてだ。

「そもそも、試合前の大事な時に何でこんな事をした?」
「こんな事じゃないと思うけど」

 そう答えながらも俺は高町の指摘の正しさに内心苦笑する。
 試合が近いから練習時間を軽くすると部員に告げておきながら、自分自身は体を苛める。
 おまけに試合が近いと言うのに、負けるイメージを脳に焼き付けるのはメンタル的にも良くない。本番の試合とはルールが違うといっても、気休めにもならない。
 それでも、俺には知りたい事があった。

「なあ、不動心って言葉あるだろ」
「あるな。で、それがどうした?」
「いや、俺の知り合いで一番知ってそうなのがお前だったんだ」

 高町の表情が珍しくはっきりとゆがむ。分不相応だとでも言いたいのだろう。だが、俺にとってはそれこそまさかだった。
 俺が今まで出会ってきた人たちの仲で、不動心という言葉に最も近いのが高町だと思う。
 俺が今学んでいる草間一刀流の師範ですら高町に及ばないのではと思っている。

「そんな事を知ってどうする?」
「俺にとっては切実な問題なんだよ」

 こうしている今も、胸の奥で消えないしこりのような不安。
 誰しもが感じる事だと頭では分かっている。だが、心はそれを認められない。

 俺が手に入れなければいけないものはなんだろう?

 どんな事態にも揺るがぬ心。それに必要なものは何だ?

 鉄のような自制心か?

 水のごとく澄んだ心境か?

 剣禅一如の言葉の如く悟りに近いものなのか?

 本を読み、考えても答えは出なかった。だから、体を苛めてみたが結局は分からなかった。
 高町は黙って俺の様子を眺めていたが、呆れたようにため息を一つついた。

「そんな事を本気で思っているとはな」
「な、別にいいだろう」
「確かに。だが、もしあったとしても、俺が語れるようなものでもないだろう」

 高町の言葉に俺はうなずいた。
 結局は形のないものだし、言葉で語れるようなものでもないのだろう。それに、高町もそんな境地にたどり着いていないと言う事に少々安堵もしていた。

「ただ、一つだけ言えることがある」
「えっ? 」
「どんなことにも動じない冷静な心、そんなものは不動心とは言えない」
「どういう意味だ?」
「違うか、もしそれを不動心と言うのだとしても、そんなものを目指すべきじゃない……」





「一本」

 浮ついていた俺の心は急速に現実に戻される。
 いまいち集中しきれていなかったせいか、相手の多彩な技に翻弄されてしまい小手を決められてしまった。
 痺れの一つも残らない腕に違和感を覚えながら蹲踞の姿勢を取る。

「赤星先輩ここからですよ」
「まだまだ、集中して」

 部員たちの悲鳴のような声が聞こえる。
 それを遠くに聞きながら立ち上がる。竹刀をいつものように中段に構えながらなおも心のざわめきは止まらない。

「始め」

 その声を合図に先ほどきれいに一本を取られた小手をフェイントにして面へと相手の竹刀が伸びてくる。
 それを何とかかわしながら考えているのはどうでもいいこと。



軽いな。



 これでは人は切れない。
 真剣はおろか木刀でもこんな動きをすれば手首を痛める。これは竹刀でしかできない動きだ。

 そんなことを考える。

 別に人を切りたいという訳ではない。それでも俺が修めているのが武道だというのなら、竹刀でしかできない技を習い覚えることに意味があるのだろうか。

 そんなことを考えているせいで一本目と似たような展開で段々と追い詰められていく。

 負けてしまうのか。

 そんなことが頭をよぎる。その瞬間に相手の選手と目があった。
 真剣に、なりふり構わず、勝利だけを追い求める意志が込められた強い瞳。

 それを見たときに、強い思いが込み上げてきた。

 負けたくないな。

 こんなにも真剣に俺に向き合ってくれる相手に対し俺はさっきまで何を考えていた?

 考えながらも試合は続く。
 体当たりのようにぶつかってきた相手と鍔競り合いのような格好になる。それを押し返したときに向こうの選手を場外に押し出してしまった。
審判に促され中央に戻る。もう一度同じことをするとその時点で相手に一本が入ってしまう。
 再び蹲踞の態勢を取りながら、高町との会話をおもいだした。






「どんな苦境にも、いついかなる時にも心が動かない。それはでは死人だ。人はそんなものを目指すべきじゃない」
「そんなことは……」
「心の底から湧きあがる強烈な思いは、誰にも動かすことはできない。それこそが本当の不動心だとおもう」
「お前もそういう事を思ったことがあるのか?」
「……ある。子細は話せないがある人と立ち会った時にな」
「俺にもあるのかそんなものが……」
「激しい怒りや深い悲しみ、そういう激情こそが不動心の本質だと思う。だから、不動明王は憤怒の形相を浮かべているんだろう」





 立ち上がるまでの寸毫、自分の心を再度探る。俺は一体どうしたいのか。
 今度はあまり悩まずに答えが出た。



 勝ちたい。



 負けたくないではない。俺は勝ちたいのだ。ここまで勝ち上がり先ほどまで俺の理想とは違うが、それでも深い鍛錬の成果を感じさせてくれた相手に。
 そして、親友だと思っているあいつに。

 だが、まずはいま目の前にいる相手に真摯に向かい合うことから始めよう。

 立ち上がり向き合いお互いに動き出す寸前に俺は竹刀を上段に掲げた。

 館内から低くどよめくような声が聞こえる。

 受けに回っても負け、反則や遅延に該当するような行為を取られても負け。
 この瞬間の俺は崖っぷちに立った挑戦者だ。ならば、攻めるしかない。



 先ほどまではすまなかった。



 言葉には出さずに対戦者に心の中で詫びる。

 そして、今からの俺を見てくれ。

 そんな思いを込め上段から全力で打ち込んだ。






「それでは赤星先輩の全国制覇を祝って、かんぱ~い」

 確か3回目の掛け声が翠屋の店内に響き渡る。

 俺は結局あの後二本立て続けにとって優勝した。インターハイの会場は海鳴から離れていたので戻ってきた日はそのまま家に帰ったが、翌日翠屋で祝勝会を開いてもらうことになった。
 剣道部の連中が音頭を取ってくれたのだが、店長の桃子さんがずいぶんと張り切ってくれテーブルには所狭しと料理が並んでいた。

 どう考えても俺たちが払う代金では足りないはずだ。

「いいのよ、そんなことは気にしなくて」

 桃子さんはそう笑うだけで、頑として追加のお金は受け取ろうとしない。
 あまり、押し問答するのも失礼なのでありがたくいただくことにした。かなり多めな量だと思ったがさすがは体育会系の連中だけあってどんどん消えていく。

「はい、から揚げ追加です」
「ありがとう晶。悪いねこんなことまでしてもらって」
「いいって、せっかくの勇兄のお祝いなんだから」

 別に翠屋の従業員という訳でもないのに晶はさっきから細々と動いてくれている。それどころか、まるで自分の事のように喜んでくれている。

「そうですよ、このおサルはこんなことでしか役に立たないんですから、使ってあげればいいんです」
「なんだとこのカメ」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」

 同じように追加の料理を持ってきたレンちゃんの言葉に晶が憤る。この二人が喧嘩するほど仲がいい、そんな関係なのは知っている。
 でも、今日は俺の祝勝会だしかなりの人数がいるのでいつもの調子でやり合ったりすると、ちょっと危ない。

「飲み物ここに置きますね」
「美由希ちゃんもありがとう」

 高町の妹にしてただ一人の弟子である美由希ちゃんがペットボトルをテーブルに置きながら声をかけてくる。
 普段俺と立ち会う時はジャージ姿が多いのだが今日は涼しげなワンピース姿だった。こうして見ると凄腕の剣士にはとても見えない。

「勇吾さん本当におめでとうございます」
「美由希ちゃんやあいつのおかげだよ」
「そんなことないと思いますけど、もしそうならうれしいですね」
「本当に世話になっているよ」

 俺の言葉に嘘などひとかけらもない。高町に会ってなかったら今の俺はいないだろう。

「恭ちゃんも珍しく嬉しそうだったし」
「そうか……」

 正直その言葉は今日かけてもらった言葉の中で一番うれしかった。俺のしてきたことは間違ってなかった。そんな風に思えた。

「相変わらずあなたたちは仲がいいわね」
「そうかな、普通だろう?」
「美由希ちゃんじゃなくて高町君の方よ」

 女子剣道部の部長の藤代さんが苦笑交じりに話しかけてくる。彼女も優勝は逃したが準々決勝まで進んでいる実力者だ。

「正直、あなたたちの関係がよくわからないわね」
「親友だよ」

 たまに聞かれるたびに同じように答えているが、藤代さんはいつも不満そうだ。あいつはいい奴だけど誤解されやすいからな。

「勇兄も割とあれだよね」
「まあ、そうだよねえ」
「その辺も含めて親友ってことやないんですか?」

 晶たちの失礼な言葉が聞こえてくるが、いくらなんでも高町よりは鈍くないのではないか?

「そういえば高町はどこに行ったんだ?」
「さあ、かあさんなら知ってると思いますけど」
「そうか、ちょっと見に行ってくる」

 そういいながら立ち上がり厨房へと向かう。どうやらデザートを出す準備をしている桃子さんに話しかける。

「桃子さん今日はありがとうございます。こんなに豪勢にしてもらって」
「さっきも言ったけど、本当に気にしないで。うちの息子は友達が少ないからね、せっかくの縁は大事にしないと」

 そういいながら器用にウインクしてくる。小学生の子供がいるとは思えないかわいらしさにいつもながら驚かされる。

「本当にありがとうございます。それで、高町はどうしました?」
「あの子は店の裏に行って片付け物をしてるわよ。そんなのは後でいいって言ったんだけどね。変に頑固なところがあるから」

 そういって苦笑する姿はやっぱり高町や美由希ちゃんのお母さんだった。
 桃子さんに断って厨房を通り抜け裏口から外へ出る。そこには言われたとおりに高町がいて重そうなケースを積み替えているところだった。

「主役がこんなところに来ていいのか?」
「こんなところにいるお前に言われる筋合いはないよ」

 俺が声をかけるより先に高町が口を開いた。さすがに手を止め、若干苦笑交じりに非難してくる。だが、俺は高町を働かせてふんぞり返っているような気分じゃなかった。

 少し考えながら壁に背を預け、空を仰いだ。建物に挟まれた狭い路地、薄曇りの夜空には星も見えない。

「決勝の試合の時、お前と話したことを思い出したよ」
「不動心ってやつか」
「そうだ。色々考えたけど結局俺があの時考えたのは一つだけだった」
「なんだ?」
「勝ちたかった。それだけだった」
「そうか……それでいいんじゃないか」

 高町は俺の隣に立ち同じように空を見上げた。顔を合わせるのは照れ臭いのでそのままの姿勢で言葉を続ける。

「お前のおかげだ。改めて礼を言わせてくれ」
「俺は何もしていない。お前が積み上げてきたものがあっての結果だ」
「まあ、そう言うと思ってたよ。でも、ありがとう」

 高町は黙って肩をすくめた。そのポーズが妙に様になっているのが腹立たしい。

「しかし、インターハイ王者か。なかなか立派な肩書だな」
「皮肉はよせよ。お前だって望めば手が届くぞ」
「買い被りはよしてくれ。それに、ああいう場所は俺には似合わないさ」

 高町の言葉は多分本音だろう。自己評価が低いのは昔からだし、こいつが望むべき場所があそこではないのは知っている。
 でも、俺は少し腹が立っていた。

「お前はそれでいいとしても、下手したらお前を慕う子たちも続いてしまうかも知れないじゃないか」
「そんなことにはならないさ」

 からめ手で話を持って行っても高町に動揺は見られない。少し憧れていたところもある、こいつの冷静さが今は腹立たしい。
 何とか一矢を報いたいと頭を働かせていると、高町が人差し指を口に持って行った。どうやら静かにしろという事らしい。

 そして、ゆるく拳を握るとドアへと突き出した。

「ふぎゃっ」

 さして早くもないその拳にどんな威力が込められていたのかは知らないが、ドアの向こう側から悲鳴が聞こえた。
 パタパタと遠ざかる足音が聞こえたがどうやら複数の人間がいたらしい。

「美由希に晶、レンだけかと思ったら藤代さんまでか」
「そんなにいたのか?」
「ああ、心配性なことだ」

 俺には感じ取ることもできなかったが、誰かがいるどころか人数や人物までわかるというのはどういう技能なのだろう?
 高町に聞いても教えてはくれないのだろうが、ドア越しに打撃を通す技といいこいつの引き出しはそこが知れない
 高町はドアを開けると、俺を手招きする。

「そろそろ戻ろう。放っておくと次々やってくる」
「ああ、そうだな」

 まだ言い足りない気はするが、一応主賓だしあまり席を外すのもまずいだろう。俺も続こうとすると、こちらに顔を向けないままで高町が口を開いた。珍しいことにどこか歯切れの悪い口調だった。

「俺の事はさておき、あいつらの事はもう少し考えてみる。そのために必要なら……。いや、なんでもない」
「そうか、変なことを言って悪かったな」

 高町が日の光の当たる場所が似合わないなんてことは思わないが、こいつの望みは分かっているつもりだし、止めるつもりもなかった。

 ただ、さっき俺に声をかけてきた美由希ちゃんたちが高町の後を続いてしまうのなら、それは本当にいいことだろうか?
 そんなことを思ってしまった。もちろん、それを決めるのは俺じゃない。
 分かっていても口を出してしまったのは浮かれていたせいだろうか。

「あまり、遅くなって藤代さんに怒られるのも面倒だしな」
「なんでそこで、藤代さんが出てくるんだよ」
「さあな?」

 すっかりいつもの調子に戻った高町に続き後ろ手にドアを閉める。

 結局、不動の心なんてものは分からなかった。

 それでも、得たものはあった。

 俺は俺にしかなれなくて、少し強くなれたような気がしても結局はあまり変わっていない。そのことが分かった。

 それに、俺から見ればはるか高みにいるように見える高町もやっぱり色々なことに悩むただの人だった。

 ならば、今までと同じやり方で進んでいくしかないだろう。もし、また悩むことがあってもそれもまた得難い経験なのだろう。
 今はそう思える。

 そんな先の事を考えるよりも、まずは、ささやかながら得たものを噛みしめるために歩き出した。





 このSSは1度トライアングルハートSNSに投稿したものですが、手違いで消してしまったものです。一度書いたものだから書くのは楽かと思っていたのですが、思いのほか大変でした。
 記憶を頼りに書き直したのですが話の流れは一緒でも色々と違っているんですよね。できれば比べて読んでみたかったのですが、そこは致し方ないですね。

 今回メインを張っているのは恭也の親友赤星勇吾ですが、こういう感じの男同士の話も好きなんですよね。できたらまた別の形で取り組んでみたいです。



[41302] 風芽丘剣風帳(連作短編 とらハ1・2・3ごちゃまぜ)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/10/24 01:39

バシン

 凛とした空気が漂う空間を裂くように鋭い音が走る。それは神咲薫にとっては馴染み深い音だった。
 人が垣根のように周りを囲む空間の中央を興味深げに見つめる。そこには二人の男が向かい合っていた。

「しっ」

 背丈も横幅もある男が短い呼吸とともに竹刀を繰り出す。恵まれた体格と鍛え上げた筋肉のおかげですさまじい速さだったが、相手もそれを難なく受け止めた。
 
「凄いですね、あの二人」
「そうじゃね。うちらではあれは無理だ」

 声をかけてきた女子剣道部の後輩藤代に苦笑いを返す。技を磨き経験を積もうとも体格だけはカバーできない。あの振りの速度もそれを受け止めることも自分たちにはできない。
 だが、剣というのはそれだけではないはずだ。そう思い眼前の試合に意識を集中しようとした。



 今日は練習試合のため、電車で1時間ほどある高校へ剣道部全員でやってきていた。ただ、相手は男子校のため薫たちは試合がなく応援に専念していた。
 風芽丘は伝統的に剣道が強いが、県下で最大のライバルと目されているのが今日来ている高校だった。

 そのため両校の気合の入り方は半端なものではなく、むき出しでぶつけられる敵意は対抗戦というよりけんかに近いものだった。

「でも、赤星君はすごいなあ。相手の人って全国大会に出場した人ですよね」
「ああ、それに向こうの主将じゃ」

 全国級の選手と渡り合う後輩に少しばかりの嫉妬を覚える。
 もともと中学時代から剣道をしていた赤星雄吾は1年の時点から期待のホープだった。そして、2年の5月だというのに今では中心選手へと成長していた。
 180cmを越える恵まれた体格と剣道に対する姿勢は彼の実力を1年の間で確実に伸ばした。まだ、荒削りだがスケールの大きな剣道は、将来性を充分に感じさせるものだった。

 だが、薫の目からは少し気になる点もあった。

 赤星はクセ技に対する対応が妙にうまいのだ。自身の剣道はその性格を現すように実直で、小手先の技など使わない。試合自体もいたってクリーンだ。
 それなのに、相手が反則まがいの技を仕掛けてきても落ち着き払って対応している。それは別に悪いものではないが、どういう経験を積んできたのかは気になるところだった。

「おらぁ」

 相手の選手が乱暴な声を上げる。正式な試合だったら減点の対象になりかねないが、今日は単なる練習試合な上に、お互いにエキサイトしているためかそのまま流されてしまう。

 そして、竹刀を上げることすらせず、力任せに突進してくる。もはや、これではけんかに過ぎない。だが、赤星の鍛え上げた脚力はそれすら受け止めた。

 つばぜり合いになったところで赤星が身を引きながら竹刀を小手に落とす。だが、相手もそれを読んでいたのか無理に受けようとせず手を引き上げる、そのまま面を打とうとするが赤星はそれもきっちり受け止めた。
 お互いにそれ以上打ち込もうとせず、仕切りなおすように若干間合いを広げた。

「はぁ」

 息を止めていまの攻防を見ていた藤代がため息のように大きく息を吐き出した。
 自分の事のように集中してみている後輩をほほえましく眺める。確か赤星と藤代は中学時代からの知り合いだったはずだ。本人に詳しく聞くほどではないが、普段から気になっていることを聞いてみることにした。

「藤代は赤星君とは親しいんじゃったか?」
「し、親しいってほどじゃ……」

 薫の問いに藤代はやや赤面するが、薫はその様子に気づかず質問を続ける。

「彼は学校以外でもどっかの道場に通ってるんか?」
「あ、はい。確か草間一刀流を習っているはずです」

 どこか面白くなさそうな表情で、それでも律儀に.藤代は返事を返す。
 草間一刀流は現代剣道に通じるものもあるが、古流の剣術だ。剣術とは言ってしまえば殺人術の集大成、そんな技を修めていれば少しぐらい荒っぽいことをやられても対応できるのだろう。
 そう納得しようとしたところに藤代が言葉を続ける。

「そういえば、赤星君は秘密の練習相手がいるんですよ」
「秘密の練習相手?」
「そうなんです、何度聞いても教えてくれないんですよ」
「草間一刀流の人じゃないんか?」
「違うみたいです」

 口を尖らせる藤代をよそに薫は首を傾げる。全国級の剣道選手の練習相手ができる人間がこの近くにいただろうか? さざなみ寮に一人いるがあの人がそんなことをするわけはない。

 薫の困惑をよそに試合は進む。

 今日は相手の気合がずいぶんと違う。相手の選手は3年生で今年引退する。だが、彼の後輩たちはこれから先何度も赤星と対戦しなければいけない。このまま赤星が実力をつければ全国への道は遠ざかってしまうだろう。
 だからだろうか、少しでも痛めつけよう、そんな意図が今日の試合に見え隠れしていた。

 そして、先ほどと同じようにつばぜり合いに持ち込もうと突進をかける。それはもはや相撲のぶちかましのような体格任せの技だった。
 だが、それは陽動だった。勢いのついた突進を受け止めようとすれば、足をしっかり踏ん張らないといけない。それが相手の待っていた瞬間だった。

 赤星の手前に踏み出している脚を相手の選手は上から踏みつけるように蹴りつけた。
 周りの人間に気づかれないようにモーションは小さいため、足が折れるところまではいかないだろう。
 だが、面のせいで狭い視界では気づくことも難しく、最悪の場合は膝や足首に深刻なダメージが残ることもある。
 それは赤星の将来のことなど全く考えていない、相手を壊す技だった。

「あっ」

 薫はその意図に気づいたが今の場所からではどうすることもできない。できたのは小さく声を上げることだけだった。

だが、視線の先では自分の想像とは違うことが起こっていた。
 先ほどまで正面から受け止めていた赤星が相手を柔らかく受け止めると、左へと流したのだ。そんな、動きもできるのかと感心した薫だったが、赤星が狙われていたはずの足をきれいに引いたのを見て目を瞠る。

 それは相手の意図が分かっていないとできないはずの動きだった。

 完璧に意表を突かれた相手に態勢を立て直す間も与えず、赤星の竹刀が面を捉えた。

「一本」

 すかさずあがった主審の声に風芽丘の応援席で歓声が挙がる。薫も周りの高揚に気分を引きずられながら、頭の隅で別なことを考えていた。



 なんで、今のをよけられる?



 考えても答えは出ないが、つい先ほど藤代と交わした会話にヒントはあった。赤星の秘密の練習相手、その彼か彼女か分からない相手のおかげで対処ができたのではないか?
 そう考えながら薫は別のことを思った。あんな反則まがいの行為にすら対応できるほど練習をしているというのなら、その相手というのはずいぶんと性格が悪いのではないだろうか。

 顔も名前も知らないが、薫はその相手に興味を覚えていた。





 試合が終わり、帰りの電車の中で薫はうまく赤星を捕まえることができた。
 小声で話せば周りの剣道部員にも聞こえないように、車両の端に立ち藤代にガードをしてもらう。

「疲れているところ悪いね」
「別にかまいませんが、神咲先輩が俺に声をかけてくるなんて珍しいですね」

 一応断りを入れる薫に、赤星は屈託なく笑いかけてきた。つい、先ほどまで殺伐とした試合をしていたというのに、このさわやかさはどうだろう。

 どちらかと言えば固いというか、切り替えが苦手な薫としては感心すらしてしまう。だが、それは今日の本題ではない。

「それにしてもさっきの試合は見事だったね。特に最後の動きはよかったと思う」
「それにしても、あんな動きどこで練習したの? うちの人たちはどちらかといえば、ああいうの苦手だし」

 藤代の言葉に赤星は苦笑する。相手の事はどうしても隠さなければいけないという訳ではない。だが、何となく話したくなかった。
 
「まあ、足癖の悪い知り合いがいるんだよ」
「また、それなの」



 だからはぐらかした。



「内緒にするようなことなんか?」
「そういう訳でもないんですが、本人があまりいい顔をしないんですよ」
「そうか、ちょっと会ってみたかったな」
「神咲先輩、なんで会いたいんですか」

 赤星は真剣な表情で薫を見つめる。最初はごまかそうかとも思ったのだが、その目に気押されたように本音を吐き出した。

「勝ちたい人がいるからかな」

 自分と同じ寮に住む一度も勝ったことの無い剣士。剣だけでなく色々なことに真剣に取り組んでいるようには見えず、飄々と生きているくせに自分より高みにいる女性。
 彼女が真摯に打ち込んでいるのは多分マンガを書くことだけだろう。



 あの人に勝ちたい。


 
 いや、違うだろう。本当はもっと単純なことのはずだ。

「うちももっと強くなりたいんよ……」

 よくある練習試合の帰り道。相手は顔見知りとは言えそんなに深く付き合いがあるわけではない後輩。
 
 それなのに、いやそれだからこそか。

 薫の口から隠しきれない本心が漏れた。





 前回の投稿からずいぶんと間が空いてしまいました。
 書き溜めていたストックが尽きたことと急に仕事が忙しくなったせいですが、何とか続けてやっていきたいと思います。





[41302] Eye of The Tiger  とらハ×SOUL CATCHECR(S) (3)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/11/08 16:14
高町恭也が訪れた次の日。谺夕子は音楽準備室に吹奏楽部のパートリーダーを集めていた。
恭也からはあまり広めるなと言われていたが、パートリーダーたちはそれぞれに神峰とかかわりが深いために誰を優先すると決められなかったせいだ。

半年ほど前に神峰が入部を認めてもらうために訪れたのが音楽準備室だった。そこに、集められたパートリーダーたちの顔ぶれは変わらない。


ただ、その中に神峰翔太だけはいなかった。

「みんなに集まってもらったのは他でもない。神峰の事よ」
「見つかったんですか」

必死の形相でクラリネットのパートリーダー邑楽恵が食いつく。ウェーブのかかったロングヘアを後ろでまとめている、華やかな容姿の少女だが充血した眼では魅力も半減してしまう。
だが、それも仕方ないだろう。ここに集まったパートリーダーだけではなく部員のほぼ全員が神峰の事を心配していたのだ。
特に邑楽は校内・外問わず知る限りの人間に声をかけ神峰の行方を捜していたのだ。やっとつかんだ消息にすがりつくような思いだった。
沈んでいた他の部員も立ち上がり、夕子に詰め寄ろうとする。それを手で制し話を続ける。

「見つかったというか、見つけた人が知らせに来てくれたのよ」
「見つけた人?」
「神峰は入院してるの」
「入院って怪我でもしたのか? それにしたって連絡ぐらいあるはずだが……」

父親が大病院の院長をしているトランペットのパートリーダー音羽悟偉が独り言のようにつぶやく。音羽の隣に座っている小柄で中性的な少年が小刻みに震えながら言葉を絞り出す。

「も、もしかして大怪我とかしてるの?」
「そ、そんなことない、よ。多分」

バスクラリネットのパートリーダーの御器谷忍の言葉に、フルートのパートリーダー吹越花澄がか細い言葉で反論する。普段は笑顔を絶やさぬ少女だが、今はその様子もなく沈んでいた。

「怪我は特にないみたい。でも、意識を取り戻していないので身元の確認とかが遅れたみたいね」
「そんなのおかしいじゃない。警察は何をやってるのよ」

 ユーフォニウムのパートリーダー星合美子が憤った感情そのものに吐き捨てる。短い髪形と整った容姿から厳しめの印象を与える少女だが、その表情からは焦燥が見て取れる。
その隣で眼鏡をかけた気弱そうな少女がコクコクとうなずいている。

「警察の人や救急の人がもっとちゃんとしてくれていたら……」
ホルンのパートリーダー管崎舞は双子の兄が事故で大けがをしたせいもあって穏やかではいられないようだった。

 どう見ても事件性は高いのだが名前も分からない少年の身元を探すことは簡単なことではない。まして、小さな地方都市としては異例な大事件が起こったばかりなのでそちらに割ける人員はほとんどいなかった。

「みんな少し落ち着け。とにかく神峰は見つかったんだ、考えるべきはこれからの事だろう」
「そうだな、無事だったならそれでいいだろう」

チューバのパートリーダー川和壬獅郎がおちついた声音でたしなめる。その言葉にトロンボーンのパートリーダー金井淵涼が同意する。何気ない様子で話してはいるが、金井淵も表情が緩んでいた。
管崎舞の双子の兄は星合、川和、そして金井淵の共通の友人だった。そして、その原因が金井淵だったため長らく彼らの間には感情のしこりが残っていた。
それを払い前に進めるように尽力してくれたのが神峰だった。無事を喜ぶ気持ちはひときわ強かった。

「それで、今日の練習は中止っすか?」

長髪を後ろでくくったコントラバスのパートリーダー弦野政彦が夕子に問いかける。そこに、神峰を心配する気配は薄い。彼にとっては無事が分かった以上やるべきことは決まっているからだろう。

「私は病院に顔を出してくるからあなた達は自主練習ね。面会できたらそのことは明日報告するわ」
「待ってください、僕も行きます」

夕子の言葉に刻坂が悲鳴のような声を上げる。彼にとっては神峰が目を覚ましていない状況で練習などできるはずもなかった。

「ダメよ。そんなに心配するようなこともないのかも知れないけど、神峰が入院しているのは海鳴中央病院なのよ」
「設備の整った大きな病院だな。高名な先生も何人かはいるし治療する環境としては問題ないな」
「そうね、病院としては問題はないわ」

音羽の言葉に夕子もうなずく。ただ、かぶりを振りながら「でもね」と続ける。

「あなた達だってニュースぐらい見るでしょ。海鳴で何が起きたのかは知らないとは言わせないわ」
「それは……」

確かに海鳴で稀にみるような大事件が起こったのは間違いない。そして、まだ犯人の一人が逃亡しているとも聞いている。

「それでも、神峰はそこにいるんですよ」

だが、あきらめていいはずはなかった。刻坂は精一杯の気持ちを込め夕子に視線を合わせる。少しの間睨み合っていた二人だったが、先に折れたのは夕子の方だった。

「まあいいわ。ここでダメ出しして勝手に行かれるよりはましね」
「ありがとうございます」

刻坂が立ち上がり深々と礼をする。その様子に苦笑いを浮かべながら夕子は他の部員を見渡した。

「それで、あんた達も行くの? 言っとくけど全員は無理よ」

夕子の言葉に部員たちはそれぞれ顔を見合わせた。確かに全員連れだって行けるはずもない。だが、気にならないはずもなかった。

「俺は行くぜ、神峰が寝てるなら俺がたたき起こしてやる」
「こんなことを俺抜きで進められると思うなよ」
「分かったわ。すぐに出るから用意をして」

打樋と音羽がそれぞれに声を上げる。夕子にとってその二人が同行を申し出るのは予想通りだったのか軽くうなずき準備室を出ようとした。

「待ってください。私も行きます」
「ちょっとメグ聞いてたの? 危ないところかもしれないんだよ」

 夕子を引き留めるように邑楽が声を上げる。その邑楽をたしなめるように今まで口を挟まなかったオーボエのパートリーダー木戸雅が声をかける。
 木戸はコンサートマスターを務める少女で客観的な視点から物事を眺めることができる少女だったが、親友の無謀な行動にいつもの冷静さが失われていた。

「でも、行かなきゃ」
「神峰は事件に巻き込まれた可能性もあるのよ。それでも行くつもりなの?」

 夕子の問いかけに邑楽は深くうなずいた。軽くため息をつくと夕子は手を振った。

「分かったわ。でも、これで終わりよ。私と一緒に行くのは刻坂・音羽・打樋・邑楽の4人まで。いいわね」

 部員たちはそれぞれ思うところもあったが、一応全員うなずいた。その様子を見て夕子は苦笑を浮かべる。

「先生? どうかしましたか」
「大したことじゃないわよ奏馬。あの男の言ったことが当たっていたから」
「ああ、昨日の彼ですか。何か言っていたんですか?」
「誰か連れて行くつもりなら、フィリス矢沢先生に必ず連絡を入れろって言ってたのよ」

 部長の奏馬と夕子の会話に首をかしげるものが多かった。その意見を代表するように音羽が口を開く。

「誰の事を話している?」
「昨日神峰の事を知らせに来てくれた人の事だと思います」
「ほう、何者だその男」

 音羽に聞かれた刻坂は答えようとして高町恭也について知っていることがほとんどないことに気付いた。

「名前が高町恭也って言う以外の事は殆ど知りません」
「ああ、あいつそんな名前だったな。見た感じは普通なのになんか妙な雰囲気のある奴だった」

 打樋の言葉に響もうなずいた。
 特に暴力的なこともせず、声を荒げることもしなかった。言動だけを振り返れば特におかしなことは一つもない。
 
「なんか只者じゃない、そんな感じの人でした」

 そんな感想が零れ落ちた。

「まあ、彼の事はひとまず置くとして、出るならすぐに行くわよ。ここからだと結構かかるからね」
「そうですね、3時間ぐらいですかね?」
「それに、楽器も持っていくんだったらちゃんと用意しなさい」
「はいっ」

 夕子の苦笑交じりの言葉に響は勢いよく返事をした。

 待っていろよ神峰。お前がなんで寝ているかは知らないけど僕がたたき起こしてやる。

 そんなことを考えていた。




 今回はほぼ説明会ですね。
 なかなかに話が進まないですが、次の話では少しは動いていくはずです。
 書くべきラストは決まっているのにそこにたどり着かないことにもどかしさも感じますが、1歩ずつ進めていきたいと思います。



[41302] すれ違いのボーイミーツガール 2(連作短編 とらハ1・2・3ごちゃまぜ)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2015/12/29 01:35
 仁村知佳が高校に入学して初めての日曜日。色々と細々としたものを買いに駅前のデパートまで出かけた。
 目当ての物を手に入れた帰り道。普段はバスを使って帰るのだが、暖かな日差しに誘われたためさざなみ寮までの道のりを歩いて帰ることにした。
 浮ついた気分につられてか調子がよく途中までは足取りが軽かった。

 それが悪かったのか日が陰りだしたころ目に見えて足取りが重くなった。それでも、タクシーを呼ぶほどでもないので休憩をはさみながら足を進めた。

「うまくいかないなあ……」

 口から洩れる言葉は15歳の少女のから出るにしてはずいぶんと重たいものが含まれていた。

 仁村知佳と言う少女はなかなかに複雑な生い立ちをしている。
 見た目は小柄な体躯に愛らしい顔をした普通の女子高生にしか見えない。
 だが、生まれついた時から遺伝性の難病を患い、それがもとで実家では冷遇されついには追い出されるような形で家を出てしまった。
 その間にも彼女が患った変異性遺伝子障害はその身を蝕み大量の投薬なしでは日常生活を送ることもままならない。



 それでも、悪いことばかりではなかった。



 そんな風に知佳は思っていた。

 家を出たおかげでさざなみ寮にたどりつき心の底から安らげる場所を手に入れた。おまけに、ずっと欲しかったけどあきらめていたお兄ちゃんとも巡り会えた。
 病気のせいで手に入れてしまった人ならぬ力のせいで知りたくもないことも色々と知ったが、新しい友達とも出会えた。

 だから、その日に起こったことにもきっと意味はあるはず。振り返ってみたときにはそんなことも思えた。ただ、その時はそんなことを思う暇すらなく無我夢中だった。



 休み休み歩きながら通りかかった、住宅街を流れる川と言うよりは溝と言う方が近いような細く汚い川。その中ほどに小さな箱がぽつんと浮かんでいた。
 どこからか流れてきたのか、それとも最初からそこに置かれていたのかは定かではない。普通なら気にも留めないような光景だった。

 何の気なしに上から覗き込み箱の中が見えたときにはすぐに行動に移っていた。


 姉から人前では使うことを固く禁じられている力を使い幅の狭い川へと降りる。水量は少なく知佳のくるぶしが埋まる程度。

 だが、汚い箱の中で震えている小さな命にとっては極めて危険な場所だった。

 超常の力を使う時に現れるリアーフィンはいつの間にか姿を消し、急に体に重さがのしかかる。それでもかまわず箱へと近寄る。
 先ほどもちらっと見えたのだが、箱の中には薄汚れた茶色い猫が丸まっていた。
 
 恐る恐る手ですくい上げると小さな声で「ニィー」とだけ泣き、逃げる様子さえみせない。

 掌に収まってしまいそうな猫。

 目は明いているので一度は人の手によって世話をされたのだろう。

 だが、箱に入れられ捨てられた。

「大丈夫、私が助けてあげるから」

 そう子猫に告げると再び禁忌の力を使うために精神を集中する。やがて知佳の背に浮かび上がる半透明な羽。その非現実的な光景こそが彼女が病に侵されている証。

 それでも、その力があるからいま一つの命を助けることができる。

 自分の体を持ち上げるために力を使おうとしたときに、不意に視界が揺れた。

「まずいかな……」

 先ほどからの疲れのせいか急にめまいが襲ってきた。このままでは自分の体を持ち上げることはできそうにない。

 傾く視界。

 せめてもの抵抗に子猫の箱を持ち上げようとする。それも虚しく倒れそうになる途中で誰かに抱きとめられた。

「ずいぶんと無茶をするな……」

 どこか苦いものを含んだ声を聴きながら意識を手放した。

 ただ、襲ってくるはずの冷たさを感じないことを不思議に感じていた。







 目覚めはあまりいいものではなかった。

 力を使った時の反動と言うよりは普通に体調が悪いせいだろう。

 だんだんと目が覚めてくるにつれて周りの状況が頭に入ってくる。

「ここどこ?」
「ようやく目が覚めた」
「お兄ちゃん?」

 いまだうまく頭のまわらない知佳に声がかけられる。声の主の事はよく知っている。知佳と姉の真雪が暮らしているさざなみ寮の管理人槙原耕介の声だ。
 分からないのはどうしてここにいるのかだった。

「もしかして病院……」
「そうだよ。やっと気が付いた?」
「お兄ちゃんが助けてくれたの?」
「ああ、やっぱりそんな状態だったんだ。こりゃ真雪さん荒れるな」

 いつも行く診察室とは違うが、ここはどうやら海鳴中央病院らしい。どうやら空いている個室に入れてくれたらしく、病室には自分と耕介のほかには誰もいなかった。

「目が覚めたら呼んでくれって看護師さんに言われてるんだ」

 そういうと耕介は枕元のナースコールに手を伸ばした。知佳はそれを手で制すると耕介に問いかける。

「お兄ちゃんが助けてくれたんじゃなかったら、誰が病院に連れてきてくれたの?」
「それは俺も知りたい。でも、名乗りもしないで行ってしまったらしくてどこの誰かは分からない」
「そうなんだ……」
「で、なんでこんなことになったのか教えてくれるか?」
「うん、分かった」

 そういうと知佳は朝からの行動を耕介に説明していた。それなりの時間はかかったが耕介は黙って聞いていた。

 やがて、自分が倒れたところまで話し終えると知佳は首をかしげた。

「顔は見えなかったんだけど、声は聴いたと思う」
「どんな感じだったか覚えてるか?」
「聞き覚えはない声だけど、若い男の人だったと思う。多分……」

 顔も見ていないし、声も一言聞いただけ。かすかに覚えているのは耕介の物にも似た力強い腕の感触だけだった。

 よく考えてみれば意識を失ってしまった自分の体はひどく重いはずだ。その知佳を持ち上げて病院に連れてくるのだから当然力は強いはずだ。

「もしかして背中に負ぶってきたりしたのかな?」
「いや、タクシーで連れてきたらしい」
「なんでそんなことまで知ってるのお兄ちゃん?」

 知佳の問いかけに耕介は渋い顔をする。あまり見かけない耕介の表情に知佳は小首をかしげた。

「いや、どうしてもお礼を言いたかったからであちこち聞いたんだよ。でも、誰も教えてくれないんだよね」
「そうなんだ……」
「矢沢先生は知っているらしいんだけど教えてくれないし……」
「もしかして悪い人とか?」

 あまりピンとは来ないが、悪事を起こして逃げているような人間なら目立つことは避けるかもしれない。だが、知佳の疑問を耕介が否定する。

「俺も似たようなことを考えて矢沢先生に聞いたんだよ。そうしたらそれだけはあり得ないって強く否定されたよ」
「そうなんだ……」
「でも、HGSの事を知っていることは間違いない」
「どうして、そんなこと分かるの?」
「普通なら川の真ん中で女の子が急に倒れたらまずは救急車を呼ぶと思うんだ。それなのに、真っ先に海鳴中央病院のHGSを担当している矢沢先生のところに直接連れてきている」
「そういえば、そうだね。でも、ここの病院で男の患者は見たことがないと思うけど」

 そうは言っても医者や看護師ならいざ知らず、数が少ないとは言ってもHGS患者の情報などはさして持っていない。

「あら、仁村さん目を覚まされたんですね」

 二人して首をひねっていると、声を聴いたのか若い看護師がドアを開けて声をかけてきた。

「槙原さん、うれしかったのは分かりますが目を覚ましたら教えて欲しいとお伝えしたじゃないですか」
「あ、すいません」

 軽くにらんでくる看護師に耕介は慌てて頭を下げる。状態によっては検査の必要も考えられたのであまり軽く流していいことでもなかった。
 そう思い言葉を続けようとする耕介に看護師は一転して笑いかけた。

「でも、それだけ元気そうなら大丈夫ですね。でも、念のため矢沢先生をお呼びしますので、ちょっと待っていてくださいね」
「はい、分かりました」

 自分のせいで耕介が怒られてこともあって、知佳は素直に返事をした。そのまま立ち去ろうとした看護師が、不意に足を止める。

「そういえば、あなたが助けた子猫だけど」
「えっ、何でそのことを知ってるんですか?」
「1階の売店に預かってもらっているそうよ。猫用のミルクを元気に飲んでるみたい」
「それってもしかして私を助けてくれた人がやってくれたんですか?」
「そうみたい。まあ、私もよく知らないんだけどね」

 微笑みながらそういうと看護師は立ち去ってしまった。
 残された二人は何となく顔を見合わせて苦笑した。

「いったいどんな奴なんだろうな?」
「多分、悪い人じゃないと思うよ」
「それはそうだろうけど……」
「ねえ、お兄ちゃんあの猫うちで引き取ってもいいかな?」
「また、国守山猫軍団に新たなメンバーが加わるんだな。いいと思うよ」

 自分の見通しが甘かったせいでまた色々な人に迷惑をかけてしまった。それでも悪いことばかりではなかった。
 そんなことを知佳は思っていた。




 前回からだいぶ間が空いてしまいましたが何とか年内に投稿ができました。今回はごちゃまぜの知佳との話ですが、今日はセリフ一つの出番しかありませんでした。
 まあ、普段は出ずっぱりですからこんな話もたまにはいいかなと思います。



[41302] 守るべき背中
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/01/01 00:31
 星明りすら見えない夜の森を疾走していた。
 だが、それももう限界だ。ペース配分を考えれば2時間以上の疾走も可能だが追われている身ではそれもままならない。
 前方に見えるやや大きめな木に背を預け乱れた呼吸を整える。
 鼓動の音が聞こえそうなくらい脈打つ心臓を無視するように平静を取り繕う。

 じくじくと痛みを訴える膝からの信号をポーカーフェイスで封じ込めかすかな光も差さない闇を見据えた。
 気を抜いていれば聞き取れないほどちいさな移動音が俺の眼前3mほど手前で止まった。だが、姿は見えない。敵は急に立ち止まった俺の様子を冷静に確認している。
 おごりもなく確かに感じているはずの高ぶりも表に出さず獣は静かに牙を研ぐ。

 両の手に牙を備えた世界で最も危険な獣“人間”は緩やかに前進を始めた。俺の状態の分析は終わったらしい。
 ならばこちらも覚悟を決めないといけない。どのみちこの膝では長時間の移動は出来ない。

 音もなく視界に入ってきた影は二つ。黒ずくめの格好をした影は闇夜に溶け輪郭も定かには見えない。

 まあそれはこちらも似たようなこと。

 どちらが有利ともいえない。
 動かない俺の姿を見てあきらめたととったのか二つの影は両の手に持った牙を攻撃の形へと構えた。



 刺突



 鏡に映したようにとった二人の構えは明確に攻撃方法を示している。だが、それが分かったとてどうしようもない。俺としては二人分の攻撃をかわし反撃する以外に選択がない。状況が限られた分こちらが不利になっただけだ。

 2対1とは言え本当に二人の人間が一緒に攻撃を出来るわけではない。特にこの二人は技術的な錬度に差があるためコンビネーションが微妙に悪い。
 今まではその辺を突いてうまくしのいできたのだが、最後のこの時になって二人の呼吸はぴったりとあっている。

 俺は来るべき一瞬に備え集中力を極限まで高めることにした。
 こちらから攻勢に出るわけには行かない。今、そんな事をすれば一人に切りかかっているうちにもう一人に簡単に切って捨てられる。



 だが、この状況は俺が望んだことだ。



 対する二人は気づいていないかも知れないがこの場で迎え撃つことは俺が勝利することが出来る数少ないチャンスだった。
 後ろからの攻撃は警戒しなくてもよく、起伏のある地形はこちらに攻撃するルートを限定してくれる。

 まして刺突ならなおさらコースは限定される。俺の脳裏には二人の描く攻撃の軌跡が鮮明に描かれていた。

 空間把握能力。

 もともと俺の視野は常人より少し広い。そして、3次元的に空間を把握する能力はもともとあった素質を長年磨いてきたため今相対している二人よりも優れているだろう。

 俺はその能力を最大限に活かし勝機を掴まねばならない。
 その思惑を知ってかしらずか二つの影の構えは揺らがない。静かに緊張だけが高まっていく。

 俺は両手を体の前で交差させた。その手には俺の牙、2本の小太刀が握られている。刃は水平に寝かされ後ろに突き出されていた。

 奇妙な構えにほんの一瞬躊躇う様子を見せるが、どのみち結果は変わらない。向こうは必殺の意気込みで構えを取っている。引くことなどありえない。後はいつ仕掛けてくるかだけだ。

 俺は静かにその時を待った。


 星明りすら見えない夜の森を疾走していた。

 私と相棒は一人の男を追っていた。いや、その言い方は正確ではない。正しくは狩り立てている。
 両の手に鋼の牙を持つ私たちは文字通り獲物に襲い掛かる獣のように奴を追っていた。その牙に狙われて逃れられるものが世界に何人いるだろう。
 その気になれば完全武装の兵士といえども気づかれることなく葬ることが出来るのだ。

 私たちと同格の腕を持つものが二人いたとしてもこちらのコンビネーションの前にはなすすべもなく散るはずだ。
 だが信じがたいことに奴は30分以上にわたって私達の追撃をかわしている。

 いや、あまつさえ隙あらばこちらに反撃さえ加えてくる始末だ。スピードでは勝るはずの私たちより自在に森の中を動き回り、死角から飛び道具を放つ。

 突然跳ね上がる木の枝、不用意に踏み出した足を捉える下草。多少は慣れているはずの私ですら舌を巻くトラップの数々。
 そういった搦め手が不得手な相棒はかなり神経をすり減らしている。

 いつの間にか姿を消している奴を捕らえるために私は神経を研ぎ澄まし気配を探る。実際こういった暗闇で姿を見失うことは良くあることだ。

 肝心なのは見失った時にうろたえないこと。どうせ気配を隠したまま攻撃などできはしない。

 私はこの機会に相棒をチラッと見やる。

 心配するなという風に首を振る様子にかすかに安堵を覚え、奴が消えた方に視線を向ける。
 するとそれだけで私の意を察してそちらへと疾走を始めた。私たちの意志の疎通は完璧に近いといえる。

 だが、しゃくに触ることに奴は私たちの間にある小さな齟齬を丁寧についてきた。別人である以上行動を決定する時にほんの少しばらつきが出ることは避けようがない。
 そこをついてある時は飛び道具、あるときはその手に持つ刃で攻撃を加えてきた。

 正直、もう少し楽に奴を狩ることができるものだと思っていた。だが、この狩りの時間にも終わりが来たようだ。

 太い木を背に奴が立ち止まっていた。一人で私たちから逃げ回っていたのだ、奴とて心身ともに磨り減っているだろうに外から見る限りでは全くそんな素振りは見えなかった。

 今まで散々苦しめられた罠の可能性を考慮し慎重に歩を進める。
 注意深く辺りを観察し相棒に視線を送る。私たちは奴を挟むような位置に立つと鏡に映したように同じ構えを取った。



 刺突



 必殺の気迫を刃に乗せ静かに集中を高めていく。

 奴の事だこの期に及んでも何かを企んでいるのだろう。だが、知ったことではない罠があったところで踏み潰して通るまでだ。
 覚悟を決めたのか奴は両の手に小太刀を持ち一歩踏み出す。
 決着の予感に私の背筋が震える。しかし、奴の構えを見て一瞬気がそれる。

 小太刀を持ちながら自分を抱きしめるような構え。飛び立つ寸前の鳥に似たその構えは私の知らないものだ。
 私は改めて気を引き締めることにした。

 私たちが獣であるのなら奴は“狩人”なのだ。牙を突き立てるその時まで安心できることは出来ない。




 俺の構えに相手が心を乱したのはほんの一瞬のことだった。もとより多くは期待をしていない。
 それよりも向こうが一瞬といえども停滞したのならこちらから状況を動かさなくてはいけない。
 同等かそれ以上の実力の持ち主を前にして待ちで勝てるはずなどない。俺は構えを崩さずに一歩踏み込んだ。

 そして極限まで高められた集中力が意識を加速する。その瞬間にかすかに聞こえていた音が消える。その代わり周囲の全ての動きがスローモーションのように捉えられる。

 だが、意表をつかれた様子もなく相対する二人は爆発的な勢いで突進してきた。

 実際のところ多少は意表をついたのだろう。極限の反射神経でそれをほとんど感じさせないだけだ。

 それはこの二人が俺と同じ領域に達していることを示している。

 その証拠にスローモーションの世界で2本の刃は俺の背筋を凍らせる勢いで迫ってくる。
 しかしこの突進は俺にとって望むところだった。いつ飛んでくるか分からないにらみ合いを続けるよりはタイミングを計算できる方が遥かに好ましい。

 左の技量の上の方が下段。右のやや劣る方が中段。それぞれ狙いすまし突っ込んでくるが左の方の踏み込みがやや甘くなった。

 たたらを踏むほどではないが微妙に高さが上に修正されている。

 その足元には俺が最初の一歩を踏み出した時にこっそりと蹴りだした小石が転がっていた。そのまま踏み出せば足の一つもとられただろうが、それは高望みというものだ。

 より勢いをつけて深く踏み込まねばいけない下段の突きを中段へと軌道変更させただけで大成功といってもいい。
 方向も、タイミングも、高ささえも俺の狙い通りのところに来ているのならやるべきことは一つだけだ。

 後は俺の体が計算どおりに動けばいいだけのこと。

 俺はさらに集中を深めた。漆黒の闇の中それでも全てを捉え続けてきた俺の目から光が失われていく。ただ目にするのは2本の刃のみ。

 この世界の中でも速さを失わない刃に感心すら覚えながら俺は自分の小太刀を静かに滑り出させた。
 大事なことは速さよりも力加減。強く弾くでもなくしっかりと受け止めるでもなく柔らかく、でも確かに“受け流す”。弾いても止めても攻撃は次々と派生していく。

 どうすればそれを防げるのか俺の考えが正しいのかどうか証明される瞬間が来た。

 慎重にタイミングを測った結果俺の小太刀はほぼ同時に2本の刃とかみ合った。勢いを殺さず、だが俺の体に当たらないように軌道をそらす。
 体ごと突進してきた二人は俺の捌きのせいで勢いを殺すことが出来ずより深く踏み込んでしまった。そこには俺によって誘導された相棒が待っている。

 さすがに直前で踏みとどまり激突は避けたが、バランスを崩してしまうことは避けられなかった。他の誰でも突くことは出来ないだろう一瞬の隙。だが、この隙を作り出すために全てをくみ上げた俺にとって十分すぎるほどの時間だった。

 刃を弾くために広げた両手を再び閉じる。鳥の羽ばたきにも似た優雅な軌道を描きながら2本の小太刀はそれぞれの首筋へと吸い込まれていった。

刹那とも永劫とも取れる時間が過ぎ去った後、俺は静かに言葉をつむいだ。

「これでお前は死んだ」

 自分の敗北が信じられないのか呆然とした表情で俺の妹にしてただ一人の弟子がこちらを見つめていた。

「いい加減にあっちの世界から帰って来い馬鹿弟子が」

 そうののしりながらもとっくに納刀をすませ空いている手で拳骨を落とした。

「痛い。ひどいよ恭ちゃん妹虐待だよ」
 
 涙目になりながら俺を見上げる美由希の姿に俺は深くため息をついた。こちらも納刀をすませ、もはや息も整っている美沙斗さんに視線をやると困ったような顔で笑っていた。

 かつての面影の薄れた穏やかな表情に安堵しながら俺は馬鹿弟子に説教を始めた。





「勝ったと思っただろう」

 恭也が美由希に説教を始めていた。鉄は熱いうちに打てというが熱心なことだ。私は少し離れた場所で二人の様子を見ていた。
 美由希の師は恭也だ。母親であることを止めるのはよしたが、美由希をここまで鍛え上げたのは恭也なのだから私は黙って見守ることにした。

「確かにお前と美沙斗さん、二人掛りの射抜きを返せる人間はほとんどいない」

 私は先ほどの攻防を思い出す。実際私だって勝ったと思っていた。美由希を攻めるのは酷だというものだ。

 でも、これが実戦なら私たちは死んでいた。それは間違いのない事実だ。

「だが、俺でも返せたんだ同じことができる人間は広い世界には何人もいるはずだ。止めを刺す瞬間まで気を抜くな」

 恭也は淡々と言っているが実際のところ今日訓練はこの一言を言うためだけにあったと言ってもいい。

 香港から私を呼び寄せ美由希にとって必勝の態勢を作りそれを覆す。口で言うのは簡単だがそれがどんなに困難なことかを知っている私はただ苦笑を漏らす。

 よく美由希はなのはちゃんと自分に対する態度が違うといって嘆くが私に言わせればとんでもない話だ。

 今日の恭也のやってのけたことは過保護以外の何者でもない。

 最後の最後まで油断をするな。その一言を骨身にしみさせるために自分の身すら危険にさらす。並大抵の覚悟ではない。
 大体こういうことは実戦で学び取るもので鍛練でどうこうするものではない。でも恭也にはそれが出来なかった。

 実戦でそれを学び取る前に最初の一回で死んでしまったら?

 そう考えると自分の手で教えなくては気がすまなかったのだろう。

「そんなの無理だよ。大体かーさんだって返されてるじゃない」

 美由希が涙目のまま反論する。美由希のこういうところを見ると非常にほっとする。剣腕はあがっても普通の女の子の部分がちゃんと残っている。それだけを見ても恭也と桃子さんそして兄さんに大事に育てられてきたことが分かる。

「まったくお前という奴は・・・・・・。美沙斗さんはちゃんと気づいていたぞ。気づいていて俺の思惑に乗ってくれただけだ」
「うそっ。本当かーさん?」

 美由希が私を振返り尋ねる。驚いてはいるが恭也のいうこと自体は疑っていないようだ。

 恭也がこちらに視線を向けるが私は軽く肩をすくめやり過ごす。実際のところ私だってこんなに鮮やかに返されるとは思っていなかった。
 何かを企んでいるとは思っていたが、その正体まで分かっていたわけではない。ただ、恭也が私を呼んだ意図については察しがついていたのであえて乗ってみたまでだ。

 正直なところを言えば少し、いやかなり私は悔しかったのだろう。だからこんな恭也の言葉にいつも以上にカチンときてしまった。

「いいか、こんな壊れかけの膝をした俺ごときの剣士にいいようにあしらわれてどうする。世界にはもっと上がいる。今の実力で満足するな」

なんだ?

恭也は何を言っている?

俺ごとき?

 ずいぶんと香港警防隊を見くびってくれるじゃないか。いや、御神流をか。いずれにせよ“俺ごとき”などと言う人間にあしらえるような私ではない。

「だから、もっと精進しろ。お前なら必ず俺を越えられる」

 この一言を言うための前振りだとしても今の言葉は許せなかった。

 私の甥は、美由希となのはちゃんの自慢の兄であり、桃子さんやフィアッセさん、晶ちゃんにレンちゃんも頼りにしている高町家の大黒柱でもある。
 そして、復讐に捕らわれて闇の中に沈んでいた私を救い上げてくれた恩人でもあり、志半ばで散った兄の全てを受け継ぐただ一人の男だ。
 その上、自分の為に使う時間を投げ打ち美由希を育ててくれた師でもある。 

 その恭也を侮辱するような言葉はたとえ本人が言ったとしても到底許せるものではなかった。

 だが、自分に対する評価が妙に低い恭也にしかりつけたところで逆効果だろう。私は急いで考えを纏め上げた。今日ばかりは恭也のやり方を真似させてもらお う。

 つまり鉄は熱いうちに打てというわけだ。





 なぜか妙に不機嫌な表情で下から見上げる弟子の手を取り多少強引に立たせる。こんなところでクールダウンもせずにうずくまっていては鍛練の意味がない。
 実戦ならいざ知らず激しい運動をした後はその疲れを効率よく取ることが何より重要だ。疲れたからといってうずくまっていては筋肉に乳酸がたまる一方だ。

 だが、美由希は一応立ったものの暗い表情でうつむいたままだった。

 どこか痛めでもしたのかと思い近づこうとしたところで思いつめたような顔で美由希がポツリとつぶやいた。

「恭ちゃんは『ごとき』じゃないよ」
「なに?」
「恭ちゃんは昔からとても強くて、私の前を歩いていて、ずっとずっと頑張ってきて、今だって私じゃ真似の出来ないようなことを見せてくれて……。だから『ごとき』なんていっちゃダメだよ」

俺は思わず言葉に詰まった。何を馬鹿なことをと笑い飛ばすことは簡単だったが、それを許さないものが今の美由希からは感じられた。

「そうだね。そんなことを言ったら兄さんだって悲しむよ」

美由希に対して返答する前に黙って見ていた美沙斗さんから声がかかった。
口調は優しげだったが俺はそれに返す言葉がなかった。

ずっと追いかけてきた背中がまた遠のいたような気がした。近づいたと思ったら遠ざかる。いつになったら父さんのようになれるのだろう。

自分のふがいなさに歯噛みしそうになる俺に美沙斗さんはさらに追い討ちをかけてきた。

「何せ恭也は兄さんの自慢の息子だからね」

そこで美沙斗さんは昔のように優しげな笑みをうかべると俺の目を正面から見据えた。

「恭也、君はあの時兄さんや私たちが思い描いた姿よりもずっと立派に育っている。だから、そんなことを言ってはダメだよ」





珍しく呆然としている恭也に微笑みかけながら私は言葉を続ける。ああ、私は上手に笑えているだろうか。

「恭也、兄さんの口癖を知っているかい」
「いえ。くだらない事はよく言っていましたが特に口癖というほどのことは」

『いいか今はこいつは不破士郎の息子と呼ばれてるけどな、すぐに俺のほうが不破恭也の親父と呼ばれるようになる』

いまいち自信なさげに答える恭也に私は本家に帰ってくるたびに兄さんが言っていた言葉を教える。

酔ったときによく言っていたが、素面の時だって繰り返していた。一臣なんかは気が早いと笑っていたが、いい加減なあの人にしては珍しくこの事に関しては譲らなかった。

兄さんが幼い恭也に何を見出していたのかはもう分からない。

でも、今恭也は兄さんが夢見たとおりか、それ以上に成長している。

だから、変に自分のことを卑下しないで欲しい。本来ならこの役目は母親である桃子さんがやるべきなのだろう。だが、剣に関しては頑固なところのある恭也に何かを伝えるのならそれは私にしか出来ないことだ。
心の中で桃子さんに詫びながら私は言葉を続ける。

「今の恭也を見れば兄さんは得意げに笑って『だから言っただろう』って私たちにさんざん自慢をしたはずさ。君のいないところでね」

信じられないと言った顔で黙り込む恭也に「ゆっくりと考えるといい」と告げ私は美由希を促し歩き始めた。

恭也の姿が見えなくなり山中から普通の道に出る間際までずっと黙り込んでいた美由希がポツリとつぶやく。

「私は別に恭ちゃんを越えられなくたっていいんだ」
「そうかい」
「恭ちゃんはいつだって皆を護ろうとして無茶ばかりするから、その恭ちゃんの力になりたいだけなんだよ」

 こんなんじゃダメかな。そういってうつむく美由希の頭をよく恭也がやるように

 ちょっと乱暴になでた。

「恭也が子供の頃に兄さんに誰よりも強くなれって言われたことがあるんだ。その時恭也がこんなことを言ってたんだ」
「なんて言ってたの?」
『俺は一番でなくていい。父さんや皆を守れればそれだけでいい。だから一番は父さんがなりなよって』

 よく似ているだろう。そう言って私は笑った。さすが兄妹というべきか同じようなことを考えるものだ。

「そんな事を言っていてもあれだけ強くなれるんだから別にダメじゃないよ」

 ことさら明るく告げる私の言葉にも美由希はうつむいたままだった。

「恭也が皆を守るなら、その背中を美由希が守ればいい。それなら大丈夫だろう」
「……。そうだね」
「口で言うほど簡単なことじゃないよ。恭也について行くのが大変なのは今日で骨身にしみただろう」

 少し水を差すような言い方をしたが、先ほどまでとは別人のような強いまなざしで美由希は首を横に振った。

「大丈夫、やれるよ。それはきっと私にしか出来ないことだから」

 そう力強く言い切った美由希を私はほんの少しだけまぶしそうに見つめる。美由希のこの強さは今の私が失ってしまったものだ。
だが、私には私にしか教えられないものがある。それをゆっくりと教えていくことにしよう。

 大事な娘が私のように道を間違わぬように。

 そして恭也が叶えられなかった望みを美由希が叶えられるように。





 静かに遠ざかる美由希と美沙斗さんの後姿を見るとはなしに見ながら俺は今言われたことを思い返していた。

 美沙斗さんがこんなことで嘘をつくような人だとは思ってはいない。だが、今の俺の姿を見て父さんが自慢できるとはとても思えなかった。

 父さんを失った悲しみに振り回され、がむしゃらに体を鍛え、挙句の果てに膝を壊した
 そのことで家族に心配をかけ、それでも強くなることをあきらめず鍛練を続けた。

 母さんなど特に気が気ではなかったと思う。

 そうまでして手に入れた強さだというのに振り仰げば目指す頂の高さに絶望すら感じる。
 自分なりに全力を持って美由希を鍛えてはいるがそれだっていつでも迷いの中にある。

 今日の鍛練にしてもせっかく芽生えた美由希の自信を根こそぎ奪うことになるのではないか?帰り際の様子がおかしかったのでそういう危惧も覚える。

 それでも。

 それでも、今言われたことは嬉しかった。

 もしかしたら美沙斗さんは俺をからかっているだけなのかもしれない。今までの習い性で自分の気持ちに蓋をするような思いも湧いてくる。
 だというのに、いつも目標にしていた父さんの背中。俺が守るはずだった背中がほんの少しだけ近くなったような気がした。

 今日も届かない。

 明日も届かない。

 だが、この道を歩んで行けば父さんに近づけるような気がする。そう感じることが出来た。

 気がつけば10分以上も考え事をしていた。汗をかいた体に夜気がまとわりつく。

 美由希のクールダウンの心配をしていながら自分が体を冷やして風邪でも引いては話にならない。

 俺もゆっくりと歩き出した。最短距離で近くの道路まで出てもいいがそれだと先に行った二人と鉢合わせする可能性がある。それは少々気恥ずかしいので俺は少し遠回りをして八束神社の境内のほうに回った。

 長い石段を下りる手前、雲の切れ間から柔らかい光で照らしてくれている三日月を見上げる。

 手を伸ばせば掴めそうでそれでも決して届かない。

 その姿を父さんになぞらえたこともある月の光を浴びながら俺は一歩一歩石段を下りる。
 
 結局、俺は父さんの背中に追いつくことは出来ないかもしれない。もうその背中を守ることが適わないように。

 だが、俺は俺のやり方でこれからも歩んでいく。開き直りでも諦めでもなくそれこそがきっと父さんが本当に望んだことだろうから。
 まずは今日の鍛錬の続きをしよう。様子のおかしかった美由希から話を聞き、気がついたことを教えていこう。

 俺の顔には自然と笑みが浮かんでいた。やるべきことはたくさんある。

 明日からの日々に思いをはせながら俺は家路を急いだ。



なくしたものは数知れないが守りたいものは今ここにある。



「見ていてくれ。今度こそは間違ったりしない」

 誰にも聞こえないようにひっそりとつぶやくと、微かに笑みを浮かべた。
 いつか長い旅路の果てに胸を張って会えるように。今出来ることを精一杯やろう



その思いは確かに重なっていた。







 堕ち天の閉鎖に伴い新年1発目に私が最初に書いたSSを投稿させていただきました。
 このSSはなかなかに思い入れがあるのですが、思い返してみるとやりたかったことが色々と詰まっています。そのうちの一つの『視点の変更』はその後も色々と試しています。
 堕ち天に投稿させていただいたトリコロールや未掲載のカレイドスコープ辺りに結実しています。

 その辺が話として面白くなっているかどうかは別として、また取り組んでみたいですね。




[41302] ホタル
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/01/08 23:32

 それは、翆屋にいる桃子以外の高町家の面々が勢ぞろいしていた、夕食時のことだった。
 テレビのニュースで、ホタルが飛び交う映像が流れていた。それも、自然の渓流ではなく都心のホテルでホタルを養殖していると紹介されていた。

「へぇー、ホタルなんか養殖できるんだな」
「ほんまやな、ああいうのは自然のもんだけだと思とった」

 珍しく晶とレンの意見がそろう。
 海鳴はそれなりに自然が豊かな土地ではあるが、さすがにホタルは見れなかった。

「きれいだね。いっぺん見てみたいなあ」
「そうだねえ、飛んでるとこ見たいなあ……」

 箸を止めて、じっと画面を見つめる美由希になのはが相槌をうつ。

「おにーちゃんは見たことある」
「あ、ああ。随分と昔にな」

 どこが違うのかは分からないが、兄の反応がいつもと違っていた。言葉にできるほど明確ではないが、それでもなのはには違和感が感じられた。そのことに多少戸惑いながら言葉を続ける。

「きれいだった?」
「ああ」
「ねえ、おにーちゃんどこで見たの?」
「山の中だ」

 元々恭也の口数は多くないが、それにしても様子のおかしい返答に美由希たちも戸惑いの表情を浮かべる。
 だが、なのははいいことを思いついたとばかりに満面の笑みを浮かべ恭也を見つめた。



 見てみたい。



 口ほどにものを言う視線で恭也を見ながらなのはは返事を待つ。
 すると恭也にしては、珍しく誰にでも分かるほど表情から一つの感情が読み取れた。



 憂い。



 思わず黙り込んでしまったなのはの様子に気づき、すぐに拭い去られてしまったが、見間違うはずはなかった。

「今度の土日にでも行ってみるか?」

 だから、恭也がこう言ったときにはむしろ困惑してしまった。

「いいの?」
「ああ、見てみたかったんだろう」
「あ、あの恭ちゃん」
「お前たちも行くか?」

 困惑気味に声をかける美由希に首を傾げながら、晶やレンにも視線をやった。

「ウチはちょっと用事があって」
「俺も館長のところに顔を出すように言われているんです……」
「そうか残念だな。かあさんは店があるだろうし……」

 恭也は少しだけ考えると、美由希となのはに笑いかける。

「なら、たまには3人で出かけるか?」

 先ほどまでの様子が嘘のように、積極的に誘いかける。その様子に戸惑う妹達を見渡しながら、恭也は穏やかな表情を見せていた。

「どうした嫌なら別に構わないが」
「そ、そんなことないよ。行きたい」
「それなら構わないが……」
「そ、それでおにいちゃん、どこかいい場所知ってるの?」
「ああ、心当たりがある。少し遠いが、たくさん飛んでいるぞ」

 あからさまに話をごまかすなのはに恭也は気づく様子がなかった。

「遠いってどこら辺ですか?」
「静岡だ。少し奥まったところだが、それだけにあまり人の手が入っていないはずだ」

 必死のなのはに助け舟を出そうと晶が話題をつなぐ。そうしながら隣のレンを見えないように肘でつついた。

「どうやってそこまで行くんですか?」
「電車で行くつもりだ。駅からは少し距離があるが近くまでバスも通っているしな」

 今こうして受け答えをしている様子はいつもと変わらない。それだけに先ほど見せた一瞬の変化が余計に際立つ。

 だが、誰もそれを言葉にできなかった。





 それから数日が何事もなく過ぎて、恭也、美由希、なのはの3人は予定通りにホタルを見に行く事になった。
 その頃にはなのはもあの日一瞬感じた違和感の事も忘れ、物心ついてからは初めてになる兄妹での旅行を楽しみにしていた。

「おかーさんも一緒に行ければよかったのにね」
「もう、この子は何回同じ事を言うのよ」

 土曜日の朝、出発前の玄関先に見送りに出た桃子は、昨日の晩から同じ事を繰り返すなのはの額を軽く小突いた。

「私のことはいいから楽しんできなさい」
「うん!」
「あんたと美由希がいるんだから危ない事もないしね」
「師匠と美由希ちゃんがいて危ないことになるってあんまり想像できないなあ」
「せやな、天災とかそんなんしか思い浮かばん」

 恭也は真顔で言葉を交わす二人に苦笑しながら、少し大きめのつばの付いた帽子をかぶったなのはの頭に手を載せる。

「ただホタルを見に行くだけで危ない事なんかないぞ。なのはもいるしな」
「ええっ、なのはならダメで私ならいいの?」
「ああ」

 普通なら冷たく聞こえる言葉だが、言われた美由希は笑みを浮かべ心なしか背筋も伸びていた。
 その様子をどこか羨ましそうに眺めていたなのはだったが、頭に置かれたままの恭也の手を自分の両手で抱え込んだ。

「早く行こう」
「あまり慌てると転ぶぞ」

 恭也はそう嗜めながらも、自分の手を取って引っぱて行くなのはに抵抗を見せず大人しく歩き出した。

「それじゃ行ってくる」
「行ってきます」

 満面の笑みと無表情。対照的な二人がそれぞれ挨拶を残すのを見ながら、桃子は美由希の肩を軽く叩く。

「ほら、美由希も急がないと置いていかれるわよ」
「そうだね、それじゃ行ってきます」

 小走りで走り出す美由希の後ろ姿を見ながら桃子はほんの少し目を細める。暮らし向きの事もあるが、自分は店にかまけてばかりだったと言うのに、あの子達はあんなにも仲良く真っ直ぐ育ってくれている。

「桃子ちゃんどうしたん?」
「師匠たちがどうかしたんですか」

 問いかける二人に首を振り、桃子は大きく腕を回した。

「さあ、今日も頑張ろう」

 日々大きくなる子供たちに負けないように、桃子は自分に気合を入れるために声をあげた。





「ふーっ、やっと着いたねえ」

 JRの駅から1時間ほどバスに揺られ、やっとたどり着いたバス停で、美由希は背伸びをしながらしみじみと呟いた。

 早朝に出発したと言うのにもう日は中天を回っていた。高い空に薄くかかった雲がこれから盛りを迎える日差しを遮っていた。

「まだだ。ここから少し歩くが大丈夫かなのは?」
「大丈夫だよ。ぜんぜん平気」

 朝からずっと電車とバスに揺られていた割にはなのははあまり疲れた様子はなかった。それよりも、大好きな兄と姉と一緒にいられる喜びのほうが大きいらしい。

「恭ちゃん、またなのはばっかり」
「あの程度で疲れたというなら、今後は持久力をつけるためのトレーニングを増やさなくてはいけないな」

 口を尖らす美由希に恭也は少しだけ唇を吊り上げる。自分にとって良くない兆しを感じた美由希は慌ててなのはの手を取り歩きだす。
 その背中を少しだけにらみつけた恭也は、やがて肩をすくめると歩きだした。

 恭也が今日の宿泊場所に選んだキャンプ場は、夏休み前と言うことであまり人はいなかった。
 キャンピングカーも乗り入れられる場所ではあるが、今回は1台も見えない。適当な場所を選び、美由希にテントを張るように言うと恭也は他のテントへと挨拶に出向いていった。
 こういうことを疎かにすると後々が面倒だと言ってはいたが、その辺のそつの無さが美由希には羨ましい。
 やがて、恭也が戻ってくる頃には、太陽が山の向こうへと落ちようとしていた。
 山間では陽が落ちるのは早い。平地のように茜色に空が染まる事はあまりなく、急速に暗くなってしまう。
 その落差になのはが目を丸くしながら辺りを見渡す。

「なのは、どっか行っちゃダメだよ」
「う、うん」

 さすがに美由希は慣れたもので、特に感慨もなくテントを張っていく。美由希に注意されたなのはは、言われたとおり手際よく作業をこなす美由希を眺めていた。
 慣れていないと一人でテントを張ることは難しい。だが、美由希の動きに迷いは無かった。
 普段はどじだったり、料理が苦手だったりしても、こういったことはきちんとこなせるところは凄い。なにも手伝う事の無いなのはは、邪魔にならない位置で、そんなことをぼんやりと考ていた。

「こんなところで何をしているんだ」
「わぁっ」

 いつの間にか戻ってきていた恭也に声をかけられ、なのはがみょうな声をあげる。その頭を軽く撫でると、恭也は美由希の手伝いに向った。

「なのは、食事の用意をしておいてくれ」
「うんっ」

 手持ち無沙汰ななのはに恭也は声をかける。元気よく返事をしながら、なのはは大き目のリュックの中から飯盒を取り出した。
 晶やレンは弁当を用意すると言っていたのだが、飯盒のご飯を食べてみたいと言うのはなのはの希望だった。
 おかずは時間の関係で持ち込む事になったが、十分アウトドア気分は味わえるはずだった。

「今から用意すれば、食べ終わる頃にはちょうどいい時間になるはずだ」

 恭也の言葉に嬉しそうにうなずきながら、なのははかまどを組むために石を集めだした。
 そう言ったことは事前に恭也がレクチャーしているため、その手際には迷いがない。
 その様子に目を細める恭也に、テントを組み立てるために膝を着いていた美由希は思わずため息をつく。

「同じ妹なのに随分と扱いに差があるよ……」
「何が言いたい?」

 諦めたように首を振る美由希に恭也は鼻を鳴らす。その様子にむっとした表情をするするが、恭也はとりあわなかった。

「普段からやっている事を当たり前のようにやっただけで褒めて欲しいのか」
「そうじゃなくて……」
「いいから、水を汲んで来い。俺は火をおこしておく」

 言いよどむ美由希の手を取り起こすと、恭也は穏やかに微笑む。
 呆けたような表情の妹に恭也は眉をひそめる。

「どうした、美由希」
「……恭ちゃんが変になった……」
「随分と失礼な事を言うな、お前は」

 一転して苦い表情になる恭也を見て、美由希が露骨にほっとする。その無防備な額にかなりの力を込めたデコピンを入れる。

「イタっ」

 小さく悲鳴を浮かべながらもどこか嬉しそうな美由希は、そのまま背を向けると水を汲みに走り出した。
 不可解な言動に首を傾げる恭也は、先程から動きを止めて自分の背中をなのはが見つめている事に気づいていなかった。

経験豊富な二人のおかげで滞りなく食事は終わった。ひと段落着いたところで、ティーバッグの紅茶をみんなで飲む。
 しだいに暑くなってきているとは言え夏と言うにはまだ早いため、日が落ちると肌寒さを感じる。
 冷えた体を紅茶で暖めたところで恭也が声をかける。

「それじゃ、そろそろ行くか?」
「そうだね」
「うん」

 立ち上がる二人にうなずくと、恭也は先頭に立って歩き出した。その向う先はほとんど獣道にしか見えないが、恭也は迷いなく進んでいく。
美由希となのはは顔を見合わせると、手を繋ぎ恭也の後を付いていった。

 なのはの足で15分ほど歩いたころ、ちょうど視界をさえぎるような場所にあった木の間を抜けると、そこにはぽっかりと開けた場所になっていた。
 丈の低い草だけが茂る、扇型をした広場のように開けている。そのちょうど真ん中辺りを小さな川が流れていた。
 周りには大きな木はなく、目を上に上げれば薄曇の空は星星を覆い隠している。
 なのはが手に提げた懐中電灯の頼りない明かりの向こう、幾百ものホタルたちが群れ飛んでいた。

 青白く明滅する光が縦横に舞う。

 その姿は、なのはや美由希にとっても心奪われる光景ではあった。
 だが、恭也はそれ以上にどこか亡羊とした表情でその淡い光を追いかけていた。

「なのは、ちょっといいか?」

 一応、断りを入れるとなのはの小さな体を抱え上げ肩車をした。なのはは何の文句も言わずに大人しくされるがままになっていた。
 ただ、一度だけ兄の節くれだった指を握り締めた。



 私はここにいるよ。



 なのははありったけの思いと力を込めて小さな手で兄の指を握り締めた。だがその力は悲しいほどささやかで、節くれだった恭也の指に何の痛痒も与える事はできなかった。
 それを離れた場所から見ている美由希は、いま目にしている光景を少し切ないもののように感じていた。ただ、それを自分の羨望のせいだと思い、口には出せなかった。

 1時間ほどホタルを見ている間、なのはは一言も言葉を発しなかった。
 恭也と美由希もそれに関しては何も言わず、3人は黙ってそれぞれの思いにふけっていた。

「そろそろ、戻ろう」

 恭也の言葉になのはは頭の上でうなずいた。
見えてはいないのにそれを悟った恭也は、なのはを自分の背中に回した。

「行くぞ、美由希」
「あ、うん」

 どこか呆けていたような表情の美由希の頭を優しく撫でる。
そのまま、振り向きもせず歩き出す兄の背中を黙って見つめる。恭也が視界から消えたところで、撫でられた頭をそっと両手で押さえる。

 笑みを浮かべたその顔にほんの少しの憂いが紛れ込んでいた。
 それでも、美由希は軽く頭を振ると二人を追って走り出した。





 テントに戻るとすぐに恭也は水を汲みに行くといい出て行ってしまった。
 ずっと黙り込んでいたなのはは、寝袋の用意をしている美由希の様子をじっと見詰めていたが、不意にポツリと呟いた。

「おにーちゃんどこに行ったの?」
「どこって、水を汲みに行ったんじゃないの」
「本当に?」

 疑わしげななのはの言葉に美由希は苦笑する。さして遠くにあるわけでもない水場に30分以上も経つのに戻ってこないのだから、なのはでなくてもおかしいと思うだろう。

「私にも分からないよ」
「そうなんだ……」

 そこで、会話が途切れる。何を思っているのか、なのはは拗ねたように口を尖らせている。そんな珍しい妹の姿に美由希は困ったように笑っていた。

「ねえ、おねーちゃん……おにーちゃんにとって私って何なのかな……」
「……それはわたしに聞いちゃダメだよ。帰ってきたらちゃんと恭ちゃんに聞いてみなよ」
「おねーちゃんはどう思っているの?」
「どうって、妹だよ。大事なね」

 未だに不服そうななのはに美由希は笑いかける。そして、恭也がよくやるように頭に手を置いた。

「とても大事な世界に一人だけの妹だよ。それじゃダメなのかな?」

 黙って頭を撫でられながらなのはは首を横に振る。そこに笑みはなくても、表情からは大分硬さは取れてきている。

「ん、恭ちゃんが帰ってきたよ」

 なのはの耳では全く聞き取れないが、美由希には分かるらしい。あるいは音ではなく、気配と言うものかも知れない。
 いずれにせよその言葉に間違いはなく、すぐに恭也がテントへと入ってきた。

「もう用意は終わっているようだな」
「うん、大丈夫」

 美由希の返事に一つうなずくと恭也は腰を下ろした。どこか、機嫌の良さそうでうっすらと微笑を浮かべている。
 そんな、恭也の様子を窺いながら、なのははおずおずと声をかける。

「……あの、おにーちゃん」
「ああ、ちょっと待ってくれ。こいつを放してしまうから」

 そう言いながら、恭也は閉じていた右手を開いた。
 その手の中から淡い光が零れ、ゆっくりと浮かび上がった。

「……ホタル?」
「ああ、風に流されたようなので連れてきた。明日の朝にでも戻してやろうと思ってな」

 ホタルの羽は長い距離を飛ぶには適していない。今日は風はそれほど強くはないが、急に強い風でも吹いたのか遠くのほうまで流されたらしい。

「で、どうしたなのは?」
「……おにーちゃんにとって私ってなに?」

 先程、美由希が聞かれたのと同じ質問をされる。笑みを見せようとした恭也はなのはの真剣な様子に表情を引き締める。

 唐突な質問のため、なのはの真意は分からない。

 それでも、恭也がこう言う時に対応をを間違える事はほとんどない。
 それは、いつだって突きつけられる質問と真剣に向き合ってきたからだろう。
 今もまた、なのはからの唐突な問いに向き合う恭也の脳裏に、かつて見た光景が甦った。







「とうさん、どこまで行く気だ」
「もう少しだ。文句言わずに黙ってついて来い」

 不破士郎は後ろから声をかける息子に、振り向きもせず答えた。

「また、金を使い果たして野宿なのか?」

 年齢一ケタ台とは思えぬ冷めた声で、息子である恭也が突っ込む。
 いつもなら、ここで言い合いの一つも起こるのだが、士郎は舌打ち一つで済ませ先を急いだ。
 普段とは違う父の姿に不審げな様子を見せながらも、恭也は黙って後に続く。

 そこは道などない森の中。

 日はとっくに暮れ、新月の今夜は足元どころか、常人なら目の前で手を振られても分からないかも知れない。
 そんな暗闇の中を、士郎はおろか恭也も危なげない足取りで進む。
 恭也の年齢からすればかなり驚異的なことだが、常日頃から息子を引きずりまわしている士郎は特に何も言わなかった。
 どちらかと言えば口数の多い士郎が黙り込むと、森の中には沈黙が満ちる。
 近くに動物の気配は感じられない。たまたま今日は晴れてはいるが、梅雨が明けるまではまだまだ日にちがあるためか、虫の鳴き声も聞こえてこない。

 聞こえてくるのは、湿った土を踏みしめる音とかすかなせせらぎだけだった。
 どうやら水辺を目指しているらしい士郎の様子に恭也は首をかしげた。
 野外生活において水の確保はかなり重要なポイントとなる。
 さすがにそこまで困った事態に陥った事はないが、水の有無が最後に生死を分けることもある。

 ただ、寝起きする場所としては、水辺と言うのは適していない。
 じめじめした場所で寝起きしては健康を害する事もある。それだけでなく、水辺とは雨が降ればそこに水が集まってくると言う証でもある。
 ちょっとした雨でも水浸しになると言うのはよくある話だ。



 それを知らないとうさんでもあるまいに、なぜ?



 この年でそんなことまで気が回る恭也は、当人にとっては大真面目なだけに、端から見れば哀れを催すか、士郎に対して怒りがわくだろう。

 実際、事の発端もそう言うことだった。
 物心ついた時から鍛練漬けの日々。そして、外に連れ出したかと思えば結局は時代錯誤な武者修行のような毎日。
 不破の家も普通とは言えないが、あまりの事に士郎の母である美影から恭也を遊びに連れて行け、と厳命が下っていた。
 そうは言っても、士郎は子供が喜ぶ場所など知らない。
 後年の恭也は色々と誤解しているようだが、士郎はどちらかと言えば欠点の多い人間だった。それを補って余るほどの長所が目立たせていないだけだ。

 その中でも、家庭的なことに関しては壊滅的だった。
 それは、士郎が心身ともに強靭な上に悪運まで強かったため、自分ひとりだけならなんとでもできてしまう事が大きな原因だった。
 そして、彼の息子だけあって恭也もそれに付いていけてしまった。
 だから、改めて恭也を遊びに連れて行けと言われて士郎は大いに悩んだ。

 これでも人の親ではあるし、恭也にだって人並みの愛情は持っている。
 少年らしからぬ言動の多い恭也に、全く危惧がなかったわけではない。だからと言ってどこに連れて行けばいいのか。
 迷いに迷った士郎は、結局自分が幼い日に見つけた取って置きの場所に連れて行くことにした。

 本当は遊園地とかにでも連れて行けばいいのかもしれない。
 だが、そんなところに連れて行っても恭也は喜ばないかもしれない。いい訳だと分かっていながら、士郎は自分にそう言い聞かせた。

「とうさん、本当に……」
「着いたぞ」

 痺れを切らした恭也がもう一度問いかけようとしたとき、そっけなく士郎が答える。

「ここ?」
「ああそうだ。もう少し先に進んでみろ」

 どことなく、機嫌が悪そうな士郎の声に首をかしげながら恭也は歩を進めた。
 それが照れ隠しなのだと気づくほど恭也は気が回らなかった。
 そして、小さな川の手前で足を止めた。
 空はきれいに晴れ渡り、頭上には満天の星が瞬いている。
 だが、恭也の視線は上に向わず、彼にしては珍しくあちこちをさまよっていた。

「……ホタル……」

 流れの周りには無数の小さな光が飛び交っていた。
 小さく、儚い光の乱舞を恭也は呆けたように眺めていた。

 今の恭也よりもう少し年齢が上の時に、士郎は家族ともめて家を飛び出したことがあった。
 荷物も当てもなく山中を彷徨うといった暴挙の果て、たどり着いたこの場所で今と同じような光景を見た。

 熱のない光が乱舞する光景は幽玄のものとさえ思えた。

 結局、アホみたいにホタルを眺めていた士郎はゆだっていた頭が冷めたため家に帰った。ところが、いなくなっていた事にさえ気づかれなかった。
 あの日のことを思い出し、いまさらながらに腹を立てていた士郎はいつになくはしゃいだ恭也の声に現実に引き戻された。

「とうさん、すごいよ。ホタルがこんなに!」

 いつもと違い年相応の子供らしい笑顔を見せながら恭也が振返った。
 その笑顔に士郎の胸が微かにうずく。



 こんな風に笑えるのか



 壊れ物でも触るかのように、そっとホタルに手を伸ばしている恭也の姿はその辺にいる子供と変わらないように見えた。
 宙へと逃れるホタルを追い、手を伸ばした恭也の視線の先には満天の星が瞬いていた。
 言葉もなく恭也は柔らかな光を黙って眺めていた。
 やがて、随分と時間が経った頃、恭也がポツリと呟いた。

「父さん……」
「なんだ」
「いつか、あそこに手は届くかな……」

 遥か彼方に輝く星を眺めながら寂しそうに呟くその姿は、ちょっと前までのはしゃぎ方からは想像もできなかった。
 大々的に門弟を取るわけではない御神流には、恭也と同年代で腕を競い合う相手はいない。
 そのため、どうしても大人が打ち合う相手になる。だが、大人といってもただの年経た人間ではない。
 不破の歴史を持って不世出と呼ばれる士郎。若輩ながら士郎に比肩し、いずれは越えていくであろう静馬。
 そして、美影を始めとした彼らを育てた達人たち。
 その姿を目の当たりにすれば、我が身の未熟を感じない人間などいないだろう。

 ましてや幼い恭也にとって士郎たちとの差はそれこそ、手を伸ばしても届かないほど遠くに見えるのだろう。
 だが、御神の剣は恭也が思うように天の高みへと上るようなものではない。

 むしろ地を這うようなものだ。

 剣だけではなく体術や闇器まで使い、不意打ちや嵌め手を使っても勝利だけを追い求める。その先にはきっと光などない。
 よくて望まずに暗闇を進む人のため、足元に転がる石をどかすぐらいが精一杯。
 それでもいい。そう思って剣を振り続ける士郎にとって、今はまだ地に縛り付けられているとしても、自ら光を放つ恭也の姿はとても眩しく見えた。
 それが、他の人間には見えなくても、昼間になれば掻き消えてしまうような微かな光だとしてもだ。

「恭也、これから先どこに進んでいいのか迷っている奴がいたら、お前が道を照らしてやれ」

 だから、こんな事を言ってしまった。今の恭也には分からないだろう。
 だが、いつかそんな日はきっと来る。士郎には不思議にそんな確信があった。
 その時、御神の剣が、自分との鍛練の日々が恭也の力になって欲しい。
 そう思いながら恭也に習って空を見上げる。手が届きそうなくらいに近く見える星を親子そろって眺めていると恭也が視線をこちらに向けた。
 剣に関すること以外でこんな真面目に話をしたことがなかったせいか、恭也の視線が照れくさく、わきの下に手を突っ込み無理やり持ち上げた。

「な、何をするんだ」
「いいからじっとしてろ。暴れると落ちるぞ」

 そう言うと無理やり恭也を肩車をする。
 物心ついた頃からそんなことをされた覚えのない恭也は肩の上でひどく暴れたが、さすがに力で士郎に適うわけもなくしだいにおとなしくなっていった。

「どうだ恭也。さっきよりも手が届きそうな気がするだろう」
「とうさん……」

 そうやって、天と地に満ちる柔らかな光の中で、不器用な親子はいつまでもたたずんでいた。







 思えば今日は途中からなのはの様子はどこかが変だった。
 それが、何のためなのかは分からない。ならば、やれることは自分の思いを告げるだけだ。

「俺にとってなのはは妹だが、それではいけないのか」

 なのはは黙って首を振る。恭也はその様子を見つめながら、少し考え込む。
 なのはにはきっと何かの思うところがあるに違いない。
 それよりも、どちらかと言えば自分でも自分の考えが分からないのかも知れない。なのはの幼い言語感覚ではうまく言葉にできないのか、それとも言いたくないのか。

 しかし、今は考える時ではない。

「……そうだな、俺にとってなのははこのホタルみたいなものだな」

 意外な答えにきょとんとするなのはに笑いかけると、恭也は天を仰ぐ。その先に見えない星を探すような亡羊とした眼差しに、なのはの表情に不安の影がさす。

「俺が子供の頃のことだ。あの星のように遠くかけ離れたものに憧れた事がある。そして、身の程も知らずに手を伸ばし危うく全てを失くしそうになった」
「恭ちゃん……」

 恭也は淡々と語るが、ある程度事情を知っている美由希の方は平静ではいられない。だが、湿った声を出す美由希を手で制す。なのははその様子を息を詰めながら見つめていた。

「上だけを見ながら手を伸ばし、足元を省みず無様に転ぶ。愚かな俺はそうなってみてやっと気づいた事がある」

 そこで言葉を区切ると恭也はホタルに手を伸ばした。そっと、その掌に収めると優しい瞳で眺める。

「俺の手にはもっと前からちゃんと大事な物が握られていたんだ」
「それが、なのはなの?」

 ホタルを握る手とは反対の手でなのはの手を取る。軽く、だがしっかりと力を込めなのはと視線を合わせる。揺れるその瞳をしっかりと見据えながら力強くうなずく。

「なのはだけじゃない。美由希やかあさん、晶やレン、フィアッセ達もそうだし、最近知り合った人たちも含めて俺と心を繋いでくれた全ての人が俺にとってかけがえのないものなんだ」
「おにーちゃん……
「か細く、握り締めたら壊れてしまいそうなほどに脆く、星よりも儚い光。それでも、こうやって掴む事ができる」

 恭也は再び手を開きホタルを放した。そして、呆けたように恭也の言葉を聞いていた美由希の手も取る。
 されるがままに手を取られた美由希はおずおずと窺うように恭也に尋ねる。

「恭ちゃんは、もう星を掴もうとは思わないの?」
「どうかな、ないとは言えないが……いまならただ手を伸ばすような事はしないだろうな」

 恭也はそっと手を離すと、二人の頭を撫でた。少し乱暴に、髪をかき回すように。いつもと同じように。

「さあ、もう寝ろ。明日は早いぞ」
「うん」
「分かった」

 元気よく返事する妹たちに笑みを返すと恭也は自ら寝袋へと入る。なのはを真ん中にして兄弟3人で川の字に並ぶ。
 そこで動きを止めると、ポツリと呟く。

「……美由希、上だけを見て歩く事はもうしない」
「恭ちゃん……」
「それでも、歩く事を止めしない。ずっとな」
「うん!」

 嬉しそうに笑う美由希を優しげな視線を注ぐ。そして、じっと自分を見つめるなのはにも柔らかく微笑みかける。

「お前を置いてどこにも行きはしないから、安心しろ」
「え、えへへ……」

 妹達の様子に照れたのか、恭也はランタンの明かりを落とした。
 暗くなる前に笑みを交わした美由希となのははそのまま目を閉じる。

「お休み、おにーちゃん、おねーちゃん」
「お休み」
「ああ、お休み」

楽しげに声を掛け合う姉妹は眠りに付くまでみな同じような笑みを浮かべていた。




 
 早朝、近くに水辺があるせいで色濃い朝もやが辺りを包む中、俺となのはは連れ立って歩いていた。
 昨夜連れてきたホタルを住んでいたところに返すためだ。ホタルは俺の服にくっつけていた。
 夜行性のホタルはいまは大人しいものだった。
 そして、俺の左手はしっかりとなのはが握っている。
 普段起きる時間よりも大分早いと言うのに、しっかりと目を覚ましているなのはは、俺の手を振り回すように大きく振っている。
 そこには、昨日までの屈託は感じられない。
 
「どうしたのおにーちゃん?」
「いやなんでもない。ただな……」
「ただ?」
「お前が思いのほかワガママだと言う事が分かっただけだ」
「にゃ、そ、そんなことはないですよ」
 
 慌てるなのはに俺は苦笑いをこぼす。
 とうさんとの思い出の残る場所に来た事で、俺は柄にもなく感傷的な気分に浸っていた。

 だが、未来に生きる小さな妹はそれを許してはくれなかった。

 涙こそ流さなかったが、怒り、悲しみ、俺を引き戻そうとした。
 仕様のない奴だ。そうは思うが、なのはの気持ちも分からなくもない。それでも、俺は自身の追憶にもう少しだけ付き合ってもらうつもりだった。
 
「なのは、帰る前に少しよって行きたいところがあるんだ」
「え、どこ?」
「俺たちが生まれ育った場所だ」
 
 ここから少し離れた場所に、もう建物はないが御神と不破の家があった場所がある。
 さすがにいないとは思ったが、昨日の内に監視の類がいないことは確認してある。
 今さらそこに行ったからといって何があるわけでもない。それでも、俺はなのはにそこを見て欲しかった。
 
「いいか?」
「う、うん。でもいいの?」
 
 俺はできるだけ力強くうなずくとなのはの手を引き歩く早さを上げる。
 満面の笑みを浮かべながら、歩く早さを上げるなのはをもう一度しっかりと目に収める。
 そこには墓も無く、残っているのは土台になっていた石ぐらいだ。
 それでも、俺はなのはと美由希を連れて行きたかった。

 俺の手で掴む事のできる、かけがえの無い宝物。

 それを見てもらいたかった。
 
 自分の住んでいたところが近づいてきたことが分かるのか、ホタルが俺の服から離れた。
 変なところに行くのなら捕まえようと思ったが、昨夜の沢の方に向ったので手は伸ばさないでおく。
 
「おにーちゃん、いいの?」
「ああ、いいんだ」
 
 なのはの問いに俺は笑って答える。そして、もときた道へと振り返った。
 歩き続けたその先に何があるのかはよく分からない。それでも、今繋いだこの手の暖かさを忘れずにいようと思う。
 それだけで、いつかのような過ちを起こすことは無いだろう。
 
「さあ、行こうか」
「うん」
 
 この先、なのはも躓くことがあるだろう。兄としてはそれは心配だが、一度も転んだ事の無い人間などいるわけはない。
 結局のところ、俺にできる事は信じることだけだ。願わくば今日の思い出が立ち上がるための力になって欲しい。
 
「おにーちゃん、どうしたの考え込んで?」
「いや、俺もお前に劣らずワガママだと言うことに気づいただけだ」
「だから、なのははワガママなんて言ってないです」
 
 可愛く頬を膨らませるなのはの頭を少し乱暴にかき混ぜた。
 いつかはこの手は離さないといけない。それでも、今だけは手を繋ぎ前へと歩き出そう。
 
 いつか望んでいる明日にたどり着くために。
 




 前回に引き続き再掲のSSになります。
 これを一番最初に投稿したのはいまは亡きとらハSS投稿掲示板で、その後堕ち天に再投稿して今回で三度目の正直になります。
 色々と試行錯誤しているせいか今まで書いたものの中で最も手直しした回数が多くなっていますね。

 そのおかげで割と思い入れの強い1編でもあります。




[41302] きっと誰かが見ていてくれる-野々村小鳥のお仕事の事情
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/01/24 23:18
 例えばいつもの帰り道。

 鼻歌でも歌いながらのんびりと歩いている時に、突然見知らぬ人間に襲い掛かられたとしよう。
 その瞬間に普通の人間は何も考える事はできない。
 ただ、衝撃を感じるだけで、うずくまれでもすればいい方だ。襲い掛かる理不尽をやり過ごす事しかできない。

 その上、財布から金でも抜取られでもしたとしたら、殴られたところはズキズキと痛み、治療に使うべき金も無くなっている。
 警察には何度も事情を聞かれ、忘れてしまいたい屈辱をよみがえらされる。

 そうした経験をした後にもう一度鼻歌を歌いながらのんびりと帰ることができるだろうか?
 その場所を通るたびに痛みは甦り、二度と心安らぐ思いで同じ道を通ることはできないだろう。



 大げさな言い方をすれば理不尽に暴力を振るわれた人間は、昨日と同じ明日が来ることを信じられなくなる。



 暴力の度合い、振るわれた人間の心の強さ。そう言ったものに左右されはするがだからといってなくなるものでもない。

 そして、そう言った行為は直接的な暴力だけではない。レイプ、痴漢、セクハラ。
 人によって捉え方はそれぞれだが、本人とってはいずれも大問題だ。心の傷など他人に見えるものではない。

 今日もまた一人、そうした悲しみを抱えたまま一人家路につく小さな影があった。





「あんまり気にしちゃだめよ」



 無理だよ。



「だいたいあんな程度で大げさなのよ」



 あんなに嫌だったのになんでそんなことを言うの。



「けっ、誰にも相手にされないみたいだから俺がかまってやったのに、馬鹿じゃねえ」



 別にあなたなんかにかまって欲しくない。
 それに嫌な思いをしたのは私なのに、なんで傷ついたような顔をしているの?


 
 取り留めのない思考に捕らわれて影は歩みを止めてしまった。

「真くん、唯子・・・・・・」

 ため息ともにこぼれた言葉は誰にも聞かれること無く消えていった。
 野々村小鳥はそんな自分の様子に気づき、小さく首を振ると前を向いて歩き出した。
 その足取りはお世辞にも元気がいいとはいえなかったが・・・・・・。





 ことの起こりは2週間ほど前にさかのぼる。

 小鳥の職場で忘年会が開かれた。あまり酒には強くない小鳥はできたら参加したくなかった。
 だが、「部内の親睦を図るため全員参加」とのお題目で強制的に出席させられることになった。

 もともと人見知りの激しいタイプではあるが、今の職場ではそれなりに折り合いをつけてやってきたつもりだった。

 ただ、その日はいつもと少し違っていた。
 最近の業績がよかったせいなのか、いつもよりみんなのピッチが早かった。

 だんだんと大きくなる声。ときおり混じる奇声。
 何か言えば笑いが起こり、怒声のような大きさでくだらない事を言い合う。

 そんな躁状態の雰囲気になじめなかった小鳥は、早々に切り替えたウーロン茶を飲みながら、早く終わることを願っていた。
 だが、宴はいまや絶好調で、終わる気配を見せなかった。まだ、この時間が続くことを思い小鳥は思わずため息をついた。

「お~い、野々村君。何をため息なんかついてるんだね? だめだよ、もっと盛り上がらないと」

 ヤニ臭い息を吐きながら部長が顔を近づけてくる。無闇に声の大きいこの部長が小鳥は苦手だった。

「は、はい」
「いいかね、そんなことでは社会人は勤まらんよ。大体君は・・・・・・」
「部長、そんなことよりグラスが空いてますよ」

 そう言いながら小鳥と部長の間に一人の若手社員が割り込んでくる。その手には如才なくビール瓶が握られ、すかさず部長のグラスに中身を注いでいた。

 本人は助けているつもりなのだろうが、なれなれしく小鳥の肩に置いた手が台無しにしていた。
 微かに震える小鳥の体を見て目を丸くした彼はちょとおどけたように言う。

「なんだ野々村さん震えているじゃない。寒いのならボクが暖めてあげるよ」

 そう言うと彼は小鳥の体を包み込むように抱きしめた。

 本人としては軽い冗談だったのかもしれない。
 もしかしたら気があったのかもしれない。
 だが、それは誰にとっても予想外の結果を導き出した。

「ひやあっ」

 小さな、それでも心底の恐怖がこもった声ともに小鳥が飛び上がったのだ。
 さいわいな事にさして力を込めていたわけではないので双方に怪我は無かったが,先ほどまであれほど騒がしかった店内が静まり返っていた。

「あ、あれ、どうしたの。軽い冗談じゃない。そんなに嫌がられると俺も傷ついちゃうなあ・・・・・・」

 冗談めかした口調だが、泳いだ目と震える手が如実に内心をあらわしている。
 だが、誰も口を挟むものも無く彼の声は尻すぼみに消えていった。

 結局、その後は忘年会を続ける空気でもなくなり、早々にお開きになった。
 結果的に小鳥の希望は適った。だが彼女にとっても不本意な成り行きだった。





 それから2週間たったが、小鳥の周りは微妙な緊張感に包まれていた。
どことなく腫れ物に触るような感じなのだ。ちょっとした事で大騒ぎするのではないか?
 そんな空気が漂っていた。

 その上、ここ2,3日は彼女のいないところで陰口が叩かれるようになってきた。

「もてない女の自意識過剰」
「ちょっと作りすぎじゃないあれ」
「あれだよあいつきっとレズなんだぜ。だから男に触られたくないんだよ」

 時に小鳥に聞こえるように悪意ある声が会社の中で囁かれるようになった。
 そして今日の帰り際に例の社員が他の若手と話しているのを聞いてしまったのだ。

「けっ、誰にも相手にされないみたいだから俺がかまってやったのに、馬鹿じゃねえ」

 なぜ、自分がそんな事を言われなければならないのか?
 逃げるように立ち去る小鳥の脳裏にはそんな疑問が渦巻いて消えなかった。





 その後は仕事もろくに手につかず、おかげで普段よりも大分遅い時間に会社を出る羽目になった。

 遅い時間の駅前は妙に寂しげで、今の気分とあいまって小鳥の気持ちをさらに暗くする。
 それから家へと足を向けたのだが、そのまま帰りたくなくていつもとは違う道を歩く事にしてみた。

 とぼとぼと歩きながら小鳥はコートのポケットから携帯を取り出した。

「真くん、唯子・・・・・・」

 ディスプレイを眺めながら、二人の親友の名前をつぶやく。だが、結局もう一度ポケットに押し込んだ。

 二人に電話をすればどちらもきっと喜んでくれるだろう。そして、今の自分の声から何が起こったのかを心配してしまう。
 それが小鳥には心苦しかった。二人はとても大事な友人で、だからこそ縋りたくなくて、それで薄情だと怒られるとしても今の自分を知られたくなかった。

 自分の道をきちんと歩んでいる友人にみっともないところは見せたくない。
 それは小鳥の最低限のプライドだった。自分の弱さを理解はしていても、譲れない最後の一線だった。

「もっと強くならなきゃ・・・・・・」

 つぶやく言葉はその内容とは裏腹にひどく弱弱しかった。




 考え事をしながら歩いているうちにいつの間にか臨海公園にたどり着いていた。
 家のある方とはずいぶん離れているが、ここまで来たのならついでに海を見ていこう、そう思い公園に足を踏み入れようとした。

「あまり奥に行くのは止めた方がいいですよ」
「ひっ」

 闇の中から突然かけられた声に小鳥は思わず全身をすくませた。
 そして恐る恐る声のした方に顔を向けた。

「驚かせてしまって申し訳ありません」

 そういって頭を下げる黒ずくめの男を見て小鳥はますます体をこわばらせる。



 男の人・・・・・・。



 彼がどういう人で、どんな目的で声をかけてきたのかは分からない。
 だが、相手が男であるというだけで小鳥には恐怖の対象だった。

 この間の他人からみれば些細な経験が、小鳥にはぬぐいがたい男性に対する恐怖と不信感を植え付けていた。

 ましてこの闇の中、街灯が作る頼りない光の下には小鳥と男しかいない。
 自分が陥ったシチュエーションに気づき小鳥は愕然とした。



 怖い



「 、 、 」

 何か言おうと口をパクパクとさせるが言葉が出てこない。
 小鳥は自分の弱さが恨めしかった。

 それでも、未だ姿も判然としない影から目をそらさなかった。いや、そらせなかった。
 すると、この上もなく丁寧に彼は頭を下げた。その板についたしぐさに小鳥はますます混乱する。

 礼はわきまえてはいるが場はわきまえていない。

「重ねて申し訳ありません。こんな暗がりで俺のような奴に声をかけられて、さぞ驚かれた事でしょう」

 彼は顔をあげ小鳥を正面から見つめる。
 その瞳に宿ったどこまでも真摯な光に、小鳥はやっと落ち着きを取り戻した。



 私のこと心配してくれてるんだ。



 やはり緊張はほぐれないが、それでも相手の事を見る余裕ができた。
 上から下まで全身黒尽くめな姿はやはり怪しい。

 ただ、おびえる小鳥を気遣わしげに見る表情はどこまでも生真面目だった。
 そして小鳥はいまさらながらに彼の容姿を確認し、別の意味で動揺してしまう。
 女性的な雰囲気が濃かった真一郎とは違い、彼の容姿は男性的で、鋭い印象を与える。

 例えて言うなら日本刀。それも鞘に納まった刀を思わせる落ち着いた雰囲気。
 だが、その容貌は驚くほど整っていた。

 一瞬思考の停止した小鳥を見て彼はほんの少し眉をひそめる。
 そして秀麗な顔にぎこちない笑みをうかべて話し続ける。

「ですが、ここから先に行かれるのは止めた方がいいです」

 その笑みを見て小鳥は誰かに似ているなと思った。さして考える事もなく答えは出た。
 自分に似ているのだ。
 会社にいるときの笑いたくないのに笑っている自分の顔に。



 無理をさせているのかな?



 そう思ったらつい頭を下げていた。

「ごめんなさい」
「なんで、あなたが頭を下げるんですか」
「な、なんでもないです・・・・・・」

 思わず苦笑した彼は、それでも先ほどよりは自然な表情をしていた。

「それで私に何か用ですが?」

 語尾はまだ震えているが、小鳥は自分から話しかけることができた。
 彼はほんの少しだけ苦笑を深くする。

「俺の用件はもうお伝えしましたよ。野々村小鳥さん」
「な、なんで、私の名前を・・・・・・」

 彼の言葉に再び恐慌状態に陥りそうになる小鳥。

 もしかしてストーカーとかなのかな。

 とても女の子にもてそうなのに、何で私なんかを?

 小鳥の思考が妙な方向に行きそうになる前に黒ずくめが再び話しかける。

「何でといわれましても、常連の方の名前を覚えておくのは客商売の基本だと思うのですが」
「客商売?」
「はい。見覚えが無いかも知れませんが、翠屋の店長の息子で高町恭也といいます」

 そういって頭を下げるしぐさには確かに見覚えがあった。
 だが、小鳥が通いつめていたのは学生時代の事だ。もし、その時名前を知ったとしても今まで覚えているものだろうか。

「あなたと相川真一郎さん、それと鷹城先生はよく目立っていましたから」
「鷹城先生?」
「はい。うちの妹分の担任の先生です」

 思いがけず聞いた名前に思わず小鳥の顔がほころぶ。
 確かにあの二人はよく目立つ。彼がそのせいで自分のことを覚えていても不思議ではないだろう。


 
 でも、ちょっと残念かな。



「なかでも、あなたが一番印象に残っています」
「嘘っ」

 小鳥は悲鳴のような声をあげる。

 私がそんな風に誰かの印象に残る事なんてない。

 この人はなんでこんな嘘をつくの。

 私はそんなに軽く見えるの?

 ちょっと優しい言葉をかければすぐになびいてしまうような、物欲しげな女に見えるの?

 男の人なんて皆同じだ。

 忘年会の時に抱きしめられた恐怖と屈辱が甦り、目じりの端に涙が浮かんでくるのを感じた。

 泣きたくない。

 でも、・・・・・・。

「俺が知る限りでは、あなたほど熱心にうちのシュークリームを食べていた方はいません」
「えっ」



 シュークリーム?



 小鳥の脳裏に懐かしい思い出が甦る。
 翠屋のシュークリームの味にほれ込み、真一郎たちと食べ続けた日々。

 私はあの味を・・・・・・。

「どうです、再現できるようになりましたか?」

 ああそうだ。どうして忘れていたんだろう。

 思いもよらぬ恭也の言葉に小鳥が泣き笑いのような表情で固まる。そんな小鳥の様子を恭也は優しげに見つめる。

「母も楽しみにしていました。いつか味見をさせてもらえないか、などと言ってました」
「店長さんがそんな事を・・・・・・」
「もっとも、まだまだ負けないとも言ってましたが。だから、また食べに来てください。あれでも日々精進しているので」

 そう語りかけられ、小鳥の中でずっと押しとどめられた何かが切れる。
 あの日からこらえ続けてきた涙が次々とあふれてきた。

「ど、どうされたんですか」

 相変わらず表情は乏しいが、確かに慌てている恭也を見て悪いなとは思うが涙は止まらなかった。





 無言でぽろぽろと涙を流す小鳥を恭也は入り口に一番近いベンチへと連れて行った。
 それでも泣き止まない小鳥を見て少し考えると「ちょっと待っていてください」そう告げてどこかへ姿を消した。

 いればいたで恐怖を感じていたのに、いなくなると急に寂しくなり小鳥は辺りを見渡した。
 見れば公園のちょうど反対側のところに騒々しい集団が陣取っていた。
そういえば最近、深夜になると暴走族が出没すると聞いた覚えがあった。

「大丈夫ですよ。距離もありますし静かにしていれば気づかれません」

 いつの間にか戻って来ていた恭也が声をかける。小鳥は思わず身をすくめた。
 そのようすに気づかぬ振りをして、恭也は自販機で買ってきた紅茶の缶を小鳥に差し出した。

「驚かせてしまったお詫びです」
「あ、え、ありがとう」

 いまいち頭のうまく回らない小鳥は思わず受け取ってしまった。そして、別段疑問も感じず口をつけた。



 意外と美味しい。
 


 小鳥は普段あまりこういったものは飲まないが、思いのほか美味しく感じた。半分ぐらいは冷えた体を温めてくれたおかげではあるが。
 そこで、ふと気づくと思わず立ち上がった。

「そうだ、お金払うよ」
「お静かに。奴らに気づかれますよ」
「う、うん」

 恭也になだめられ小鳥はしぶしぶベンチに腰を下ろす。

「まあ、気づかれたとしてもなんとでも対処はできますが」
「高町君は強いんだね・・・・・・」

 武装しているわけではないが10数人はいる凶暴そうな男達を見て、こともなげに言ってのける恭也。小鳥はその強さがうらやましかった。
 恭也はそんな小鳥の様子をひどく真剣な様子で眺めていた。

「強くなければだめですか?」

 そして、そう聞いてきた。
 心底不思議そうな恭也の様子に小鳥は腹を立てていた。

 この人に私の気持ちは分からない・・・・・・。

 そう思ったはずなのに気がつけばぽつぽつと自分の気持ちを語りだしていた。

 自分がセクハラにあったこと。

 それなのに会社で変な噂が立っていること。

 そしてどちらにもきちんとした対応ができなかった事。

 時に引っかかりながら、小鳥は自分の思いを語った。
 自分が強ければ、どの場面でも困る事などなかった。小鳥はそうつぶやくと両手で持った缶をじっと眺めていた。

 たまに相槌を打つぐらいで黙って聞いていた恭也は、しばらく考え込んでいたが短く、しかしはっきりとした口調で小鳥に問いかける。

「俺は誰もが強くなくてもいいと思います」

 自分の思いが通じていないことに呆然とする小鳥に恭也は寂しげに笑いかける。その表情にこめられた何かは激昂しかけていた小鳥を落ち着けるのに充分だった。

「確かに俺はあなたより強い。これは仮定の話ではなく厳然とした事実です」

 小鳥は黙ってうなずく。
 高町恭也と野々村小鳥の強さを比べるなど仮定としても意味がない。同じ条件で戦えば100回が1000回でも恭也が勝つだろう。

「でも、それは歪な事です。戦うための力を得るために日々鍛えている俺たちはそれ以外に解決の方法を知らない」

 意味を図りかねた小鳥が小首をかしげる。恭也はそのしぐさを気に留めず話し続ける。

「例えば自分の進むべき道に敵がいたとしましょう」
「うん」
「目的地にたどり着くことから言えば、必ずしも敵を倒す必要はないんです」

 そう、別に戦って敵を倒す必要などない。迂回路を探してもいい。交渉で避けてもいい。金を握らせるのもありだろう。

「でも、そういう時に戦って打倒すると言う選択肢が真っ先に出るのが俺たちなんです」

 だってその為に鍛えているのだから。

「だから歪なんです。人が猿から分かれて生きてきた証“知恵”を戦うためにしか使わないんですから」
「知恵・・・・・・」
「そうです。どんな獣より弱い人間が生き抜くための力。本当に必要な力です」

 小鳥は恭也の言葉を聞いて考え込む。
 恭也の言っている事はただの気休めに過ぎないような気もする。だが、恭也の真摯な態度を見ると、そういって切って捨てるのは躊躇われた。

「私はどうしたらいいと思う」
「ずるい言い方ですが、それは野々村さんがご自分で考えるべきです。あなたにはあなたのやり方があるはずですから」
「そんなもの私にあるのかな・・・・・・」
「ええ必ず」

 断言する恭也の表情をそっとうかがう。そこには嘘をついているような気配は微塵もない。

「私にもよく分からないけど、探してみるね。自分らしいやり方を」

 しばらく考えた後、小鳥はそういって笑いかけた。
 全てが吹っ切れたわけではない。だが、通りすがりに会った自分のために真剣に考えてくれた恭也の気持ちを無にしたくなかった。

「ええ、それがいいと思います」

 そういって今度は寂しげな様子を見せずに恭也が笑う。
 それを見て小鳥は少し嬉しくなった。自分の言葉が恭也を笑顔にしたのならそれは誇ってもいいような気がした。

「それではもう遅いですし帰りませんか?」
「うん。そうだね」

 明日も仕事なのだ。あまり遅くなるのもまずいだろう。

「それでは近くまでお送りします」
「えっ、悪いよそんな」
「こんな時間に女性を一人で帰すわけにはいきません」

 恭也の勢いに負け、結局二人で夜道を歩き出す。
 お互い口下手なため、歩いている間は特に会話もなかった。
 でも、小鳥には楽しい時間だった、

 家の前まで送ってもらうのは色々とためらわれるので、一つ手前の角で小鳥は足を止める。

「もう、この辺で大丈夫だよ。私の家すぐそこだから」

 小鳥の言葉にしばし考え込んでいた恭也だが「そうですか」と一言だけ返す。
そして、一礼して踵を返す。

 その姿があまりにもあっさりして見えたので小鳥は思わず声をかけてしまった。

「あの、高町君」
「なんですか」
「あ、えと、えと・・・・・・」

 恭也は律義に振返ったが、何も考えずに声をかけた小鳥は言葉に詰まってしまった。
 本当はお礼を言いたかった。だが、気恥ずかしくて素直に言えず、見当はずれな事を聞いてしまう。

「高町君はこれからも強さを求めるの?」

 小鳥にとっては対して意味のある質問ではなかった。
 だが、恭也は今日見た中で最も真剣な表情でうなずいた

「それが俺の選んだやり方です」

 そう言うと今度こそ小鳥に背を向け歩き出した。

 小鳥はその後姿を見送りながら恭也に言われた事を考える。
 自分らしいやり方なんてわからない。というより考えた事もなかった。
 でも、自分には頼りになる友達がいる。

「真くん、唯子」

 ほんの数時間前に同じ事をつぶやいた時とは違う弾むような口調。

 二人に相談してみよう。

 そして彼のことも話そう。

 そうだ、久しぶりに三人で翠屋に行ってみよう。そしてあのシュークリームを食べて、お話しよう。

 いつの間にか小鳥は笑みをうかべていた。そして、浮き立った気持ちのまま玄関を開ける。

 きっと明日は楽しい事が待っている。いや、自分の手で楽しくするんだ。小鳥はそう思っていた。
 そして,これはその為の最初の一歩。

「あのね、真くん・・・・・・」

 その日、小鳥の部屋からは楽しげな声が遅くまで聞こえていた。






 このSSは第1作目を書いた後思いのほか感想を多くいただいた喜びのままに書き上げた2作目のSSになります。
 これを書く前に二つ決めていたことがありました。

 恭也ととらハ1ヒロインとの交流を書くこと。
 独立した形ではなく連作短編にすること。

 創元推理文庫とかに良くある個々の話は独立しているのにシリーズを通してみると仕掛けがある。そんな話を書こうと思ったのですが、手に余るので早々にあきらめました。

 その代り一つのテーマに沿ってそれぞれの話を組み立てよう。それが今回のタイトルにある「きっと誰かが見ていてくれる」です。
 最初に発表した時はテーマは隠していて一連の話が書きあがった時点で公表させていただきました。

 いまさら隠してもしょうがないので今回は最初からタイトルにしました。

 残りの話も順次投稿していくので完結までお付き合いいただければと思います。





[41302] きっと誰かが見ていてくれる-御剣いづみは眠れない
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/01/31 23:32
 どんなに好きで選んだ仕事でも、全ての瞬間が楽しいわけではない。

 むしろ地味で単調な営みの中に、ほんのひと時高揚する瞬間が訪れる。
 その一瞬のために残りの時間を費やしていると言っても過言ではない。

 麻薬のように訪れる至福のときを追い求める、そんな日々を送ればもはや抜け出す事はできない。

 だから、逆説的にこんな時間が来ることはこの道を選ぶ前からとっくに予想はついていた。



 でも、と御剣いづみは思う。



 さすがに今回の状況には嫌気を感じる。幼少の頃から蔡雅御忍流の修行を積み、これでも国家資格を持つ忍者なのだ。もうちょっとましにはならないものか?そう考えてしまう。

 彼女の選んだ仕事は世間的に見れば裏方に属する。

 その字面からは、派手なと言うよりは一種ファンタジックな印象を受けるかもしれない。

 だが、実際のところ彼女達にとって最高の栄誉は、その活動を知られないところにある。

 例えば情報を盗む時には、盗んだと言う事実そのものが露見しない事。やむなく人を殺める時もできれば病死や事故死といった感じが望ましい。

 自らのなした事に栄誉はなく、ただひたすら結果のみを追い求める。忍ぶ者という名は伊達ではない。

 だから、ある意味徒労など慣れっこのはずだった。だが、その彼女をもってしても現状には少々耐え難いものがあった。なので、ため息の一つも漏らしたところでしょうがないだろう。





「ふーっ・・・・・・」
「どうしました、御剣さん」

 切れ長の瞳をややうつむき加減に下げながら、御剣いづみは深くため息をついた。

 少し生真面目そうな相棒は、どこか申し訳なさをにじませながら聞いてくる。

 いづみは黙殺しようかと一瞬考えたが、自身の退屈もあってか、つい言葉を返してしまった。

「いや、何で私がこの辺の族や不良の動向に詳しくならなければいけないのかと思ってね」
「す、すいません」
「君が謝る事じゃない。でも、ヘルタースケルターのヘッドのリョウヤが駅前のファミレスのリサちゃんに惚れてるなんて事は知りたくはなかった」

 いづみはテーブルの上に無造作に置かれている集音マイクを指で指す。

「こいつだってそんな音を拾うために借りてきたわけじゃないんだろ」

 ますます恐縮する相棒に苦笑しながらもいづみは周りを見渡す。

「この部屋を借りるのだって結構するんじゃないのか?」
「捜査協力費と言う名目でいくらかは出しているはずです」

 相棒の言葉にいづみはもう一度ため息をついた。

 今、彼女達がいるのは臨海公園を臨むマンションの1室で、ここ数日は二人で夜をともにしていた。

 ただ、艶っぽい空気は全くなく、やってる事はと言えば交代で窓から外を眺めるだけ。

 分かりやすく言えば張り込みと言う奴だ。

 始まりはささいなことだった。
 情報の出所は定かではないが、臨海公園を舞台に大掛かりな麻薬の取引が行われていると言う、非常に眉唾物のたれこみがあったのだ。

 普段なら捨て置かれるところを、赴任したばかりの県警本部長が耳にしてしまい事が大きくなってしまった。

 こんな見通しのいいところでそんな取引はしない、と言う古参捜査員のまっとうな意見は、固定観念に縛られるなと逆に叱り飛ばされ。

 捜査員を割けないと泣き言を言えば、何とかすると安請け合いされる。

 結局何日か張り込みをするということで落ち着いた。

 その人手不足を解消するために、県警本部長の先輩の知り合いとか言う微妙な伝手を使って呼び出されたのがいづみだった。



 よく分からないままに県警本部に赴いたいづみは事情を説明されるうちに怒るよりもあきれ返ってしまった。

 現場の一線で動いている人間の意見を無視し、思いつきだけで行われる事がうまくいくことなど殆どない。
 短いが、人よりは濃い人生を送っているいづみはその事を経験から知っていた。

 やけに力の入った本部長の後ろで困ったような同情するような視線を送る刑事もひどく癇に障ったが、これも仕事と割り切ることにはした。

 そして、張り込みを始めては見たのだが、眼にするものはこの辺にたむろする不良か酔っ払いばかり。

 たまに毛色が違うのが混ざると思えば、この寒さをものともしないつわもののカップルぐらい。

 入ってくる情報は近隣の不良の動向。これはこれで少年課では役に立ちそうだが、今回の事には関係ない。他には酔っ払いがこぼす会社へのグチ、カップルの睦言。

 世の汚い部分を見るのは忍者と言う仕事の性とはいえ、これはあんまりだろう。



 これではただの覗きじゃないか。



 彼女を苛むのは、後ろめたさではなく、虚しさ。くだらなさと言ってもいいかもしれない。これなら、殺し合いでもしてる方がましだ。
 だいぶ余裕をなくしてしまった心持ちで、投げやりな事を考えてしまう。

 その上一緒に組んでいる男は、今年から刑事課に配属になった新人で、明らかに今度の仕事に納得していなかった。

 そのせいか妙にいづみに気を使ってくるので、かえって気疲れしてしまう。

 正直なところを言えば、いづみだってこんな事はしたくない。だが、それでもプロ意識を総動員して押さえ込んでいるのだから余計な事は言ってほしくなかった。



 今日だけでも何度目かの気まずい沈黙が訪れてから数秒。急にいづみが立ち上がった。

「ちょっとコンビニに行って来る。何か欲しいものはあるかい?」
「え、ああそれじゃコーヒーをお願いします」
「また、コーヒーか。ちょっと、飲みすぎじゃないか」

 珍しく軽口を叩くといづみはコートをはおり部屋を出て行った。


 外の厳しい寒さは少々煮つまり気味だったいづみの頭を適度に冷やしてくれた。
 さすがにこの張り込みに成算がなさそうな事は、言い出した本部長だって気づいているだろう。後はこちらがきっかけを与えてやればいい。

 それは本部長が直々に呼び出した外部スタッフである自分がやるのが一番丸く収まるだろう。





 気分転換も兼ねているので、少し遠いところにあるコンビニまで歩く道すがら、いづみは報告書の草案をまとめていた。

 忍者の仕事が報告書なんか残したらいけないのではないか、とも思うが。この種の書類は思っていたよりも出す事が多かった。

 いづみは必要上そう言った書類を作るスキルを手に入れつつはあったが、あまり得意でもなかった。

 だから彼女にしては周囲に対しての注意が散漫になっていた。

「嘘っ」

 遠くから少し悲鳴のような声が聞こえてきた時、いつものカップルのじゃれあいだと思っていた。

 だが、ほんの一瞬で思考が切り替わる。



 どこかで聞いた声。



 そう認識した瞬間、そちらに向って走り出した。
 微塵の足音もたてず、暗闇に溶ける姿は注視している者がいてもそれとは気づけないような巧妙さだった。

 最高に近い技術の隠行をつかいながら、声のほうに近づいたいづみはそこに懐かしい友人の姿を見た。



 小鳥。



 口に出さずにそう呟く。

 今の自分の境遇を別に不幸とは思わないが、いづみにとって最も輝いていた時。その時によく一緒にいた友人だった。

 良くも悪くも個性の強い友人達の中にいながら、その優しさは埋没せずにいづみの心の中に残っている。

 その小鳥が見知らぬ男と公園のベンチに座っていた。



 泣いている。



 思わず事情を確認もせずに相手の男に対して殺意が湧き上がる。

 だが、理性を総動員して二人の様子を見てみれば、別れ話がもつれたようにも見えず、少し首を傾げてしまった。




 どうしていいか分からずに複雑な気持ちを抱えながらいづみは黙って見続けた。

 すると、静かに涙をこぼし続ける小鳥を置いて男の方が立ち去ってしまった。

 本当は声をかけに行きたかったが、なにかまずい物を見てしまったような気がして、足を踏み出しにくかった。

 なまじ、見事に隠れているせいで向こうにも気取られていない。それに、もう少し様子を見ておきたい気もあった。

 大事な友人を泣かすような男が、どんな行動に出るかしれたものではない。

 これも小鳥のためと思い聞き耳を立てようとしたが、ほんの少しだけ考えて止める事にした。

 小鳥が何に悩んでいるのかは知らない。でも、こんな形で友人の心に土足で踏み込むような事はしたくなかった。

 そうこうしている内に二人は何となく笑いあい、立ち上がった。



 帰るのか。



 拍子抜けした思いで立ち去る後ろ姿を見た。でも、もう少し後をつけてみる事にする。

 本当に趣味が悪い。そうじぶんでも自覚しながら。





 そうして、尾行を続けるうちにいづみの中で男に対しての警戒ランクが1段上がる。

 彼の足運びは明らかにある種の武道をやっている人間のものだった。

 だが、何かの悪意があって接しているのか、単に武道をやっている人間と小鳥が付き合っているのか見極めはできなかった。

 二人の後を追いながら、いづみの心に取り留めのない思いがわきあがる。


 何かを悩んでいる風な小鳥の姿。

 相川真一郎以外の男と歩いている小鳥の姿。

 風高時代によく見た気弱で、でも暖かな小鳥の微笑み。


 昔、よく遊んでいた頃は小鳥と真一郎は付き合っているものだと思っていた。

 大勢の魅力的な女性に囲まれながら、真一郎の思いは一人の女性に一途に向っているようにいづみには感じられていた。

 それは単なる勘だが、少なからず彼のことを思っていたいづみにとってはほぼ間違いないことに思われた。心の中で真一郎様、と呼んでみたりしたことは誰にも言えない秘密だった。

 でも、小鳥は別の男と夜の道を歩いている。

 別れてしまったのか、それとも最初から小鳥ではなかったのか、それはいづみには分からない。
 心当たりがあるような気もするが、思い出せなかった。





 そうこうしている内に小鳥の家のすぐ近くまで来ていた。

 いづみの警戒をよそに二人は淡々と分かれようとしていたが、立ち去ろうとする男に小鳥が声をかける。

「あの高町君」

 男の名前を刻み込む。時間があったら調べてみよう。いづみはそう心に決める。

「高町君はこれからも強さを求めるの」
「それが俺の選んだやり方です」

 少し硬さの残る声が初めて耳に届く。その声はどこまでも生真面目でいづみの危惧を少しだけ和らげた。

 内容は物騒だが、その真摯な姿には好感がもてた。

 彼なら小鳥を傷つけるために近づいたりはしないだろう。それなら後は二人の問題だ。

 そう思いいくらか穏やかな気持ちになった。

 そして、立ち去る高町の姿を見送ると小鳥はどこか弾むような足取りで家へと入っていった。

 自分の警戒振りが馬鹿馬鹿しくなり、いづみは静かに首をふった。

 そして、高町がいづみの方へと向って歩いてくる。

 どうせ気づく事などないだろうが、いづみはさらに自分の気配を透明な物へと意識する。



 自分が夜に溶けたように感じる、いづみの好きな瞬間だった。



 よどみない足取りで歩いていた高町がふと足を止める。それは偶然だろうがいづみがよく使う苦無の間合いの半歩手前だった。

 隠行中なので思考は最小限だったが、それでもいぶかしげに思う。
 何せここには足を止めてみるようなものは何もない。

 暗がりに身を潜めるいづみ以外は。

「野々村さんのお知り合いの方ですか」

 いづみは思わず上げそうになった悲鳴をかみ殺した。

 ありえない。そう心の中で叫ぶ自分を無理やりねじ伏せる。
 ありえない事が起こるのがこの世界だ。

 それでも懐にしまいこんだ苦無を取り出すことはかろうじて押しとどめた。

 目の前の高町からは微かな殺気も感じられなかったから。

 無論、殺意など感じさせずに人を殺せる人間はいるし、この男がそうでない保証は無い。

 だから、油断はせずに静かに問いかける。

「なぜ、私が小鳥の知り合いだと?」

 姿はまだ見せない。高町は気にも留めずに正確にいづみの方を見ながら答えを返す。

「野々村さんが泣かれた時に微かに殺気を感じました」

 沈黙を続けるいづみにかまわず高町は話し続ける。

「それに先ほどから見守るように後をつけていたようなので」

 そう言うといづみの言葉を待つ。仕方なくいづみは身を隠していた暗がりから姿を現した。

 初めて目にしたいづみの姿を前に、高町はほんの少しだけ驚きの表情を見せた。その様子にいづみは少し溜飲を下げた。

 いづみにもプロとしての誇りがある。侮られたままなのは性に合わない。

「私が彼女の関係者だとしたらどうする」

 鋭いまなざしで高町を威圧しながらいづみは逆に問いかける。このとき初めて高町を正視したいづみは警戒のランクをさらに上げた。

 いづみの鋭い視線をしっかりと正面から受け止めながら、それでもなお小揺るぎもしない落ち着きぶり。

 肩幅に開かれた両足はわずかにたわめられ、どんな状況にも対応できるだろう。自然体に見えるその立ち姿には微塵のすきもない。

 正直姿を見せたのは失敗だったかとも思うがそんな様子は表に出さない。

「どうなんだい」

 逆に圧力をかける。だが、高町は気にした様子もなく淡々と言葉を返す。

「いえ別に。ただ、俺とあの人は今日が初対面のようなものです」
「それで」
「ええ、ですから俺と野々村さんの間を誤解されるといけないと思いまして」

 高町が何を言いたいのか分からず、いづみは無言で先を促す。

「仔細は話せませんが、野々村さんが泣いていた事情と俺は関係ありません」
「だから、何が言いたい」
「俺との野村さんが付き合っているなどと思われたらあの人も迷惑でしょう?」

 高町の言葉にいづみはしばし絶句する。
 これはお人よしと言ってもいいのだろうか?

 そんなことを言うために暗がりで自分の後をつける怪しげな人物に声をかける。そんな選択肢はいづみのの中には存在していなかった。

「わざわざそれを言うために……」
「ええ」

 ようやく絞り出した言葉に短く返答する高町。いづみはその全身を上から下まで改めて観察する。

 先ほどまでは小鳥を害する存在かどうか?と言う観点で見ていたので、気づかなかったがよく見れば非常に整った顔立ちをしていた。

 それに全身が黒尽くめなのはいただけないが、背も高く腰が非常に高い位置にある。

 どことなく自分の兄に似た鋭く、それでいて底の方に優しさを滲ませた瞳。

 人を見た目だけで判断したりはしないが、それでも思わず率直な感想がもれる。

「確かに君は相当もてそうだな」
「まさか、俺のような者を好きになってくれる人はいませんよ」

 いづみは再び絶句する。どう見ても嘘をついているようには見えない。だが、あまりにも自己評価が低すぎるのではないだろうか。

 黙り込んだいづみの様子をどう捉えたのかは分からないが高町は軽く頭を下げると立ち去ろうとする素振りを見せる。

「待て」
「なんでしょう?」

 思わず行かせそうになるところを慌てて呼び止める。結局、この男のことが何も分かっていない。



 これで帰して何が忍者だ。



「君の名前を教えてもらえないか」

 名前を知れば、格段に調べやすくなる。高町だけでも十分だがフルネームを知っておいて損はない。

「高町恭也です」

 その名を頭に叩き込む。高町の表情がほんの少し険しくなる。あまり内心を表に出すタイプには見えないが、今はこちらも集中しているためにそれに気づけた。

「そんな顔をしないでくれ、聞きたい事は後一つだけさ」
「なんでしょう」
「君の使う武術の名前さ。まさか、ずぶの素人なんて言わないでくれよ」

 いづみの言葉が終わった瞬間に世界から音が失われた。

 目の前にいる美形だが生真面目で自分を少し勘違いしている青年はいなくなった。そして代わりにそこに立っていたのは人の形をした別の何かだった。

 先ほどと変わらない姿勢。殺意すら変わらず漏れていないのにいづみは死を覚悟した。



 まずい。



 とてつもなく遅きに失しているが、いづみの勘が最大限の勢いで警鐘を鳴らす。

 この先を聞いてはいけない。そう感じていながら何をする事もできず高町の言葉を呆然として聞く。

「永全不動八門一派 御神真刀流 小太刀二刀術。それが俺の流派の名前です」
「御神……」
「もう、その名を名乗るものはほとんどいませんが」

 自嘲気味に言う高町に何も言葉を返せない。と言うより先ほどから思考が止まっている。

 最強を謳われたその流派の名前と、その噂を体現する青年はそれほどの衝撃をいづみに与えていた。

「できればあなたの流派も教えてもらえませんか。どこか似た感じがするので」
「わ、私は蔡雅御剣流」
「蔡雅御剣流というと忍術ですね。なるほど、だからあれほどの隠行を」

 軽くうなづくと高町は滑るような足取りでいづみから距離をとる。先ほどまで見ていたものより数段見事な足捌きは自分よりも上に見えた。

 だが、その行動がの意味が分からない。

 いづみがそれを問いただそうとした時、失われた音が戻ってきた。

 そして眼前の青年からいづみを戦慄させた何かは拭い去られていた。

「それでは失礼します。これでも一応学生なので。これ以上は明日の授業に差し支えます」

 いづみが普段の高町恭也を知っていれば苦笑しただろうが、もちろん分かるわけはない。

「いいのかい私を見逃して」
「ええ」

 高町はそう言って軽く微笑む。この場にそぐわないその笑みに何故かいらついたいづみは挑発的な言葉を投げかける。

「私が知った情報で君や周りの人間に危険が及ぶかも知れないぞ」
「構いません」
「ずいぶん甘いんだな」

 思わず嘲るような口調になる。そう、彼は腕は立つのかもしれないが何も分かっていない。

 自らの一族を爆弾で皆殺しにされていると言うのになぜ情報の重要さがわからないのだろう。

「仕方ありませんそれが俺たちなので」
「そんなことを言っているから御神は滅んだんだ」

 いづみの口調はますます厳しいものなる。

 御神流が爆弾テロで断絶した事情はいづみもよく知っていた。
 だが、高町はひるむ様子もなく微笑を浮かべたままでいづみを見つめる。

「違いますよ。御神流ではなく俺と、もう死にましたが俺の父だけです。こんな馬鹿なことを言うのは」

 自分のことを馬鹿と言いながら高町は胸を張り宣言する。

「俺達は守りたいものだけを守り、切りたいものしか切りません」

 いづみは倣岸ともいえるその宣言を聞き今度こそ5秒ほど絶句する。

「君は……」
「馬鹿は承知の上です。それでも守って見せます」

 それは確かに愚かな宣言だった。だが、いづみからは失われた大事なものがそこにあった。
 それでもいづみは首を横に振る。決意だけでは話にならない。

「君は何も分かっていない。守るというのはそんなに簡単なものじゃない」

 いづみが吐き捨てるように言っても高町の笑みは消えなかった。

 さらに言葉を続けるようとするいづみを高町は手を挙げて止める。

「それでも、泣いている友人を見過ごせず、その人を泣かせたかも知れない胡散くさい男に本気で忠告してくれる」

 そこで、高町は言葉を切り、今までで一番真剣な表情でいづみを見つめる。

 いづみの鼓動が高鳴る。今は任務中で、相手の正体も分からない。でも、彼のような男に真剣に見つめられて何とも思わないほど女を捨ててはいなかった。

 そんないづみの様子には全く気づかず高町は言う。

「そんな人を傷つけるようでは、いつか守るべきものを見失ってしまいます」

 そう言うと、とても優しい瞳でいづみを見つめた。それは、いづみを見ていながら、別な物を見ている瞳だった。

「俺はそれを大事な人たちに教わりました。だから、これでいいんです」

 いづみは微笑みながら、そう言い切る青年を前に今度こそ何も言えなくなった。

 きっと彼は全てのリスクを承知の上で、それでも困難な道を歩む事を選択したのだろう。それならば、自分が言えることはもうない。

「そうか、分かったよ」

 今知った事を漏らすとも漏らさないとも彼には伝えない。誰に言う気もないが、ちょっとした意趣返しのつもりだった。

 それでも高町は軽く顎を引いただけで受け入れた。
 本当に適わないな。素直にそう思った。





 家へ帰るという高町と、何となく並んで歩く。

 目の前に見える深夜だと言うのに明るいコンビニの前でいづみは足を止めた。

「それじゃ私はここで。土産を買っていかないといけないのでね」
「そうですか。それでは俺も失礼します」

 立ち去る高町の背にいづみは、先ほどの小鳥と同じように声をかける。

「もう一つだけ聞いてもいいかな」
 
 軽くうなづく高町に、今日初めて笑みを見せながらいづみは尋ねる。

「御神流の使い手から見て、私の隠行はどうだった?結構、驚いていたように見えたけど」

 高町の息が一瞬止まる。今までにない反応にかえっていづみの方が驚いてしまう。

 そして、無表情ながらも微かに顔を赤らめた高町はこんなことを言った。

「確かに見事な隠行だったと思います。でもあれはそういうことではないんです」

 今まで、よどみなく答えてきた彼が、妙に歯切れが悪いのでいづみは少し優越感を感じていた。



 可愛いところもあるじゃないか。



 そう思うとちょっと許せるような気がしてきた。

 だが、今日の高町恭也は全ていづみの予想の上をいっていた。

「暗闇の中からあなたのような美人が出てくれば誰だって動揺すると思います」
 
 それだけ言うと高町は足早に立ち去った。

 もしかしたら照れているのかも知れない。

 夜でよかった。いづみは痛切にそう思った。

 赤く染まっているであろう頬を思い浮かべながら。




「早かったですね。もっとゆっくりしていても良かったんですよ」

 たかがコンビニに行くにしては、おかしな程の時間が経ってから戻ってきたいづみに相棒が声をかける。

「そう言う訳にもいかないよ。悪かったね、長いこと外してしまって」

 コンビニの袋から取り出したコーヒーを放りながらいづみは答える。そして、相棒と交代して外を観察しだした。

 そのいづみの姿を不思議そうに眺めながら相棒が問いかける。

「何だか機嫌がよさそうですね。何かあったんですか?」
「いや、大したことじゃないさ」

 気のない風を装っているが、明らかに上機嫌ないづみの姿はますます彼を困惑させた。

「ただね」
「はい」
「私もまだまだだって痛感しただけさ」

 言葉の内容とは裏腹にいづみは笑みを浮かべる。


 そう、まだまだだ。色々とね。


「今日は私が朝まで見張っているから、君は休んでいていいよ」
「いや、それは悪いですよ」
「いいんだ。そろそろこの辺で見切りをつけなきゃいけないからね」
「それって」

 相棒の疑問を笑顔で封じ込める。


 それに今夜は眠れそうにないしね。


 心の中でそっとつぶやく。

 とりあえず、次の任務が決まる前に高町恭也に手合わせを申し込みに行こう。
 そして、大人をからかうとどういう事になるのか教えてやらねばいけない。


 それから小鳥に会いに行こう。


 何があったか話してくれるかは分からないが、普通に話をするだけでも心が軽くなるだろう。

 知らず昂ぶる心が何のせいかは今は定かではないが、いづみは久しぶりに明日を楽しみにする心を思い出していた。







 このSSを書く前に連作短編にすることを決めていました。その時に前の話の最後と次の話の冒頭を連動させよう。そんなことを思っていました。
 このSSまではよかったのですが、次の話を書くときに制限が厳しいと感じたのでやめてしまいました。それが功を奏したかどうかはわかりませんが、色々と考えながら書いていたんだなあなどと思い出してしまいました。




[41302] きっと誰かが見ていてくれる-千堂瞳はご機嫌ななめ
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/02/08 01:03
 その日、千堂瞳は朝から機嫌が悪かった。

 メイクをすれば口紅がはみ出して2度も塗りなおした。

 いつもは一度で決まる、髪型もなんだかしっくりこなかった。

 沈んだ気持ちを切り替えるために新しくおろしたパンプスが足に合わず、靴擦れを起こしそうだった。

 思えば久しぶりに海鳴に来ることになった、用件そのものがあまり気の進まない物なのも大きな要因だ。

 でも、一番の原因は歩みを進めるたびに不平を訴えるこの……。

 そんな最低の気分の時に会ったのだから、彼の第一印象は最悪だった。

 なにせ出会い頭にこんな事を言ってきたりするのだから。


「差し出がましいとは思いますが、自分の体をもっと労わってあげるべきでは」










 事の起こりは1週間ほど前にさかのぼる。

 世話になった先輩からのたっての頼みで小さな大会に出る事になった。全国区どころか秒殺の女王の異名までとった瞳と互角に戦えるような相手はいないため、1試合だけの出場だった。

 将来有望と言われていた対戦相手の選手は、それでも現時点では瞳に及ぶべくもなかった。

 ただ、一流の選手が往々にそうであるように、彼女は非常に闘争心が強かった。護身道の選手としては疑問の残る態度だが、闘争心の強さは上達への意欲につながる事が多い。

 だから、今は多少のことに目をつぶって、その辺は今後指導していくつもりなのだろう。

 問題はその闘争心を読み違えた瞳がうまく捌ききれなかった事にある。

 無論、試合の結果としては勝利した。だが、ちょっとした油断から足首を捻挫してしまった。

 もちろんただの捻挫で将来に禍根を残すようなものではなく、全治までは2週間と軽いものだった。

 だが、その間は大事をとって練習を禁じられてしまった。

 瞳としてはすぐにでも練習をしたかった。あの時ケガをしてしまった自分の未熟をすぐにでも直したかった。

 だが、全くの善意から瞳の身を案じる言葉を振り切ってまで練習をする事はできなかった。

 そうして瞳にとっては無為な時間を過ごしているときに懐かしい友人から電話がかかってきた。





「お久しぶりです瞳さん。御剣いづみです」

 高校時代の1年後輩で、瞳に幾度も勝負を挑んできた変わり者だ。勝負の時は真剣にやったが、それ以外ではいい友人だった。最近は仕事が忙しいらしく声を聞くのも久しぶりだった。

「ええ、久しぶり。相変わらず元気そうね。声の調子で分かるわ」

 充実している事をうかがわせるハリのある声。自分と比べてもしょうがないのは分かってはいるが気持ちは沈んでいく。

「そうですか、自分では分からないんですけどね」

 そう言いながらもどこか楽しそうにいづみは告げた。その様子を少し訝しく感じながら瞳は問いかける。

「ところで今日はどうしたの?」

 いづみは用もなく電話をしてくるタイプではない。だから何かもめ事でもあるのかと思っていた。

「実は今、海鳴に来ています」

 仕事がらみなんですけどね。そう言ういづみに瞳は複雑な思いを抱く。

 瞳にとって海鳴は特別な場所だった。

 高校時代を過ごした場所。

 そして初恋の人に再会し、また新たな出会いをした地。

 自分の弱さのせいで、その思いを成就させる事が適わなかった場所。

 あれ以来男性と付き合うことは愚か、好きになった人さえいなかった。

「そう、仕事は順調なのね」

 とってつけたような自分の言葉がむなしい。だが、いづみはそんな瞳の様子に気づかずに言葉を続ける。

「いえ、仕事の方はもう終わりました。あまり順調ではありませんでしたけど」

 苦笑しながらいづみは言う。

「でも、来てよかったです。一人面白い奴に会えました」

 楽しそうないづみの声。

 これで相手が女性だと思うほど瞳も鈍くはない。

 自分の時間はあの日から止まってしまったのに、いづみは新しい出会いをしている。ますます沈み込みそうになる瞳の思考に一瞬ブレーキがかかる。



 あの日?



 何のことだろう。

 どこかもやのかかったような頭で思い出すのは、よく晴れた昼下がり。皆と一緒に笑いあった思い出。

 あれは一体……。

「それでですね、瞳さんも会ってみませんか?」
「えっ」

 唐突に言われたその言葉に、先ほどまでの疑問は頭から吹き飛んでしまった。



 そして、渋る瞳をいづみは執拗に説得し、とりあえずその男、高町恭也と会う約束をさせることに成功した。

 最終的に瞳が了承したのは、とても強い武術家であるということよりも、いづみがそれほどまでに自分と会わせたがる。その事が不思議なせいだった。



 そんなに新しい彼氏を自慢したいのかしら。



 そんな風にも思った。





 そして、約束の当日いづみから再び電話がかかってきた。なんでも急に仕事が入ったため、二人だけで会ってくれとの事だった。

 もともとあまり気が進まなかった瞳はそれを理由にキャンセルをしようとした。だが、いづみはそんな気持ちを見透かしていたようだ。

「瞳さんこの間の試合見ましたよ」
「いつの試合……」
「瞳さんがケガをした時の試合です」

 あんな試合を知り合いに、しかも高校時代に幾度も勝負をした相手に見られた。瞳の頬が恥ずかしさのあまり赤く染まる。

「ぜひ、高町君と会ってみてください。必ず瞳さんのためになります」
「でも私、その人の顔なんて知らないわよ」
「すぐに分かりますよ。全身黒ずくめの美形を探せばいいんです」
「美形って真一郎みたいな?」

 その名前を出すのは少しだけ勇気が必要だった。

 最初は弟のように、すぐに一人の男性として好きになった二人目の人。

 そしていつの間にか疎遠になっていた大事な友人。

 こんな時でも何事もないように取り繕える自分に少し嫌気がさす。

「全然違います。もっと鋭い感じです」
「そう……」

 屈託のないいづみの言葉に押されるように、結局は了承してしまった。

 それにいづみがここまで言う人間に興味もあった。自分のためになると言う部分は全く信じてはいなかったが。





 そして、瞳は待ち合わせ場所の海鳴駅前のロータリーへと急いでいた。

 久しぶりなせいで電車の時間を読み違え、待ち合わせの時間に遅れそうだった。だからできるだけ早足で進む。

 気づけば今日は日曜日。駅は結構な賑わいを見せていた。

 人を縫うようにホームを通り、改札を抜ける。

 そして、いづみの適当な説明をたよりに目当ての人物を探す。

 ざっと見渡したところそれらしい人物はいない。慌てた自分が馬鹿らしくなり、ますます苛立ちが募った。

 その苛立ちを隠そうとせずに大股で歩を進める。右の足首から踏みおろすたびに疼痛が伝わってくるがあえて無視する。

 これも未熟な自分に対する罰だとそう思えていた。





 そして、力強くだがどこか優雅な動きで歩を進める。瞳のような美女が颯爽と歩く様子は、すれ違う人々の目を引いた。

 だが、瞳はそれを気にも留めずに辺りを見回す。だが、いづみの言うような男はどこにも見当たらなかった。

 場所を少し変えてみようと1歩を踏み出した時、音もなく、気配も感じさせず一人の男が瞳の前に立ちふさがった。

 人を探しているのだから、それなりに周囲の様子には気を配っていたと言うのに、その男はまるで手品のように瞳の眼前に現れていた。

 別に敵意を現しているわけでもないのに、瞳の体は勝手に臨戦態勢をとる。それほどその男の登場は驚異的だった。

「驚かすつもりはなかったのですが、申し訳ありません」

 そういうと男は頭を下げた。だが、朝からのごたごたを引きずっていた瞳の気は収まらず文句を言おうと口を開きかける。

 しかし、頭を上げた男に正面から見つめられ、口に出すはずの言葉を飲み込んでしまった。

 いづみの言っていた特徴がそっくり当てはまるその男は、瞳の奥に悲しさと、ほんの少しの怒りをたたえてこう告げた。

「差し出がましいとは思いますが、自分の体をもっと労わってあげるべきでは」
「何を言ってるの」
「見れば足を痛めているようなので失礼だとは思いますがつい」

 端から見て瞳が足を痛めていることに気づく事ができるのはごくわずかだろう。

「どうして分かったの」

 男はわずかに表情をしかめ答えを模索するような様子を見せる。

「少し、……そう、武術をかじっています。そのせいですね」

 少し?そんなはずはないだろう。瞳の挙措のわずかな乱れから、足を痛めていることに気づくのだ。かなりの眼力がなくてはできないだろう。

 それに、先ほど気配も感じさせず現れた手並み。どれをとっても、かじった程度の人間のわけはない。

「で、その武術をかじったあなたは私に何のようなの」
「用と言うか、もっとご自愛して欲しかっただけです。小さなケガでも悪化すれば、取り返しがつかなくなることだってあります」

 男の言葉に瞳は一瞬頭が真っ白になるほどの怒りを覚えた。こんな見ず知らずの男に、いいように言われるのは我慢がならなかった。

 そして、その感情のおもむくままに叫ぶような声をあげる。

「あなたに何が分かるの」

 相手が初対面だという事も、ここが駅前だという事も忘れ瞳は思わず声を張り上げる。

「なにも」
「だったら、偉そうに言わないでくれる。」

 一度外れてしまったたがは、自分の意思をも無視してどんどんと加速していく。
 だが、男は気にした様子もなかった。

「確かにあなたの事は何も知りません。でも別のことならよく知っています」
「何を知ってるって言うの?」

 あくまでけんか腰の瞳に対して男は淡々と告げる。



「自分の愚行の果てに、未来が絶たれる空しさと絶望を」



 静かに言う男の表情は能面のように作り物めいて、それでもにじみ出る悲しみが瞳の怒りに冷水を浴びせた。

「俺はよく知っています」

 黙り込んでしまった瞳に、もう一度男は頭を下げる。

「順番が逆になってしまいましたが、千堂瞳さんですか?」
「え、はい……」
「御剣いづみさんからお話が行っていると思いますが、高町恭也と言います」

 丁寧に話しかける恭也には先ほど感じられた悲しみは拭い去られていた。

 だが、その手馴れたような感じが瞳を不安にさせた。

「御剣さんから頼まれた事とは少し違ってしまいますが、俺の話を聞いてもらえますか?」
「……分かったわ」

 不愉快さが消えはしなかったが、少しだけ付き合ってみることにした。

 どうにもつかみ所のないこの男にちょっとだけ興味も湧いてきた事だし。何かに言い訳するように瞳は心の中でつぶやく。

「それでは場所を移しましょう。変に目立ってしまったみたいですし」

 恭也の言葉に周りを見渡す。道行く人の何人かが瞳と目が合い慌ててそらす。改めて今のシチュエーションを振返ると、痴話げんか以外の何物にも見えない事に気づいた。

 こちらですと言って歩き出した恭也に続き歩き出す。少しだけ上気した頬を自覚しながら、それでも努めて不機嫌な表情を作る。

「すみません。俺のせいで不愉快な思いをさせてしまって」
「別にあなたのせいばかりではないわよ」
「しかし、千堂さんのような方とあんなところで言い合いなどしていれば、注目を集めて当然です。軽率でした」

 何となく毒気を抜かれた感じで、先を行く青年を改めて眺める。怜悧な容貌に生真面目な表情。本気で言っているのは分かるが、どうも自覚が足りていないようだ。



 耕ちゃんや真一郎の同類って訳ね。



 心の中でひそかに呟く。

 恭也の後について行く歩調は先ほどよりはほんの少しだけ穏やかになっていた。





 恭也が連れて行ったのは、瞳もよく行ったことのある臨海公園だった。奥まったところにある、他からは少しだけ距離のあるベンチに、お互いにできるだけ離れて座る

 くっつかれるのはもちろん嫌なのだが、離れられるのもなんか嫌だ。

 そんな微妙な乙女心にはまったく気づかない男は礼儀正しく告げる。

「こんなところまで来てもらってすみません」
「別にかまわないわ」

 大人の女の余裕を漂わせたい瞳は鷹揚に答える。さすがに駅前でのような騒ぎは起こしたくなかった。そんな瞳の気持ちを知ってか知らずか、恭也は黙ってうなずいた。

 愛を語るような甘い雰囲気は微塵も感じられないが、だからと言って恭也が何を言いたいのか想像もつかない。

「実は少し見ていただきたいものがあります」
「見ていただきたいもの?」
「ええ、あまり人目につくところでは見せにくいものなので」

 そういうと恭也はゆったりしたズボンの裾を、まくりだす。

「なっ!」

 思わず声をあげ、ここから逃げ出そうと中腰になった瞳の目にそれは飛び込んできた。

 恭也の足には大小さまざまな傷があった。武術家だとは聞いていたがその傷の数は瞳の想像を超えていた。

 そして、一際大きな傷を見つけた・

「あなたのその膝……」
「ええ。これが俺の愚行の果てに与えられた罰の形です」

 膝の横にある傷痕はかなり大きな部分が変色している。それはかつて肉が大きくえぐれたことを示していた。

 突然見せられたショッキングな光景に瞳はただ言葉をなくし黙り込む。その様子を気に留めず、恭也は淡々と話し続ける。

「医者からはまともな歩行もできないそう言われました」



 この人は何を言っているの?



 瞳の頭の中で疑問が渦巻く。だが、それを整理する時間を恭也は与えなかった。

「色々な人との出会いと、単に若かった事が幸いしたのでしょう。今では普通に過ごす分には問題ありません」

 そして恭也はその若さには似つかわしくない、ひどく苦々しげな笑みを浮かべる。

「でも、俺は自分の理想を極める事ができなくなりました」
「どうして……」
「ケガの理由ですか?くだらない事です」

 はき捨てるように言う恭也に瞳の体は、知らず震える。

「俺の師でもあった父がある日死にました」

 何でこの人はこんな事を私に言うのだろう。今日初めて会っただけの自分に。

「幼かった俺は、結局のところその悲しみに耐えられなかったんです。だから逃げるように鍛練をした」

 見ず知らずの他人にそんなことを言う人間ではないはずだ。先ほどからの折り目正しい態度を見てもそれは分かる。

 そんな彼が何故?

「無茶の上に無茶を重ね、倒れてもまた立ち上がり、鍛練を続ける。家族にも心配をかけた挙句の果てに軋みが出たのがたまたま膝だった」

 一瞬、作り話なのかと言う考えも頭をよぎる。だが、ケガの痕はどうみても本物だし、昔を語るその様子も芝居には見えない。

「天罰覿面とでも言うんでしょうか、無茶をしたつけがキッチリと回ってきた。それだけの事です」

 寂しげにそう言う恭也に瞳は今さらながらに怒りがこみ上げてくる。

 こんな様子で語る以上、膝の怪我は彼の中でもまだ完全に整理がついている話でもないのだろう。

 自分に彼の心の傷に触れていい資格などない。それは瞳が一番よく分かっている。あんな小さな躓きで、浅ましくも罰などと考えてしまうような自分などに。

「なぜ、私に見せたの」

 瞳は内心を伺わせない静かな声で問う。恭也はほんの少しだけ考え込むとこう答えた。

「先ほど見たあなたの歩き方がとてもきれいだったので」

 きれいと言う単語に思わず反応しそうになる。もちろんきれいが歩き方の事だとは分かっているのだが。

「俺のようになっては嫌だなと」
「嫌?」
「ええ。結局のところ単なる自己満足です」

 そんなことはないはずだ。彼が味わった絶望を瞳は知らない。

 でも、想像する事ぐらいはできる。

「そう。あなたがそう言うのならそうなんでしょう」

 しかし、瞳はため息をつきながら答えた。このまま問い詰めても彼は本心を口にすまい。瞳に対する気遣いなのだろうが、使いどころを間違えている気がする。

 だが、もう少し彼のことを知ってみたかったので必死で話題を探す。

 男性に自分から話しかけようとするなど久しぶりの事だと気づかぬままに。

「何の流派か知らないけど、あなたはもう練習をしていないの?」

 その割にはいい動きだった気がする。

 瞳の問いに恭也は不思議そうな顔をする。短い間しか接していないが、初めて彼の本当の表情に触れた気がした。

「いいえ。止めてなどいません」
「でもさっき極められなくなったって言ってたでしょう?」
「はい。でもそれは俺の理想が“極められなくなった”だけで、強くなる事を諦めた訳じゃありません」

 そう言うと恭也は立ち上がり空に向けて足を振り上げる。とてもきれいな回し蹴りの軌道を描いた右足はとてもあんなケガをした人の動きとは思えなかった。

「壊れかけのポンコツですが俺の膝はまだ動きます」

 そう言うと恭也は苦笑でない笑みをうかべた。

「それに膝が動かなくなっても別に戦えなくなるわけじゃありません。そうなったら別の方法を考えるだけです」

 負け惜しみでも強がりでもなく、恭也は宣言する。その様子を眩しげに見つめながら瞳は考える。

 あれほどのケガからあそこまで動けるようになるにはどれくらいの努力が必要なのだろう。

 それに比べなんと自分の恵まれている事か。

 沈み込む瞳の様子に気づかず恭也は話し続ける。

「それに俺の、いや、父さんの剣は妹が継いでくれます。今は未熟ですが、すぐに俺など越えて行きます」

 そう告げる恭也に先ほどまでの憂愁の気配はない。その言葉に込められた思いがどれほどのものなのか瞳は知らない。

 でも、嬉しそうに妹の事を話す恭也を見ているうちに瞳は自然と笑みを浮かべていた。

「大事なのね妹さんが」

 瞳の優しげな声に恭也は首を振る。照れ隠しなのだろうが、あんな様子を見せては誰だってだますことはできないだろう。

 だが、瞳はあえて追求せずに別のことを聞いた。

「ねえ、御剣さんから何を言われていたの?」

 いづみはとにかく会えば分かるの1点張りだったので、瞳も聞いていなかった。

「実は千堂さんと立ち会うように言われていました」

 困ったように言う恭也に、瞳は少し同情する。

「御剣さんにも困ったものね。彼氏の自慢をしたい気持ちは分からなくもないけれど、やりすぎだわ」
「ち、違います。俺と御剣さんはそう言う関係ではありません」

 なにやら慌てている恭也に瞳は首を傾げる。

「だったら、どう言った関係なの?」
「この間知り合ったばかりで、何度か立ち会った程度です」

 嘘をついている様子はないが、どうにもいきさつが分からない。

「その程度の関係なのに、何だかめんどくさそうな頼みを引き受けたものね」
「そうかも知れません」

 言いながらも全く後悔している様子のない恭也を軽く睨む。

 そ知らぬふりで瞳の視線を受け流す恭也をしばし眺めた後、瞳は初めて恭也のことを真正面から見つめた。

 そして少し驚いた様子の恭也に向って勢いよく頭を下げる。

「私からもお願いします。一度立ち会ってもらえない?」

 彼の強さに興味が湧いてきた瞳はそう頼んでみた。

 いや、興味というよりはあれほどのケガをしてもまだ強くなることを諦めない、その心の強さを知りたかった。

 それにはやはり実際に戦ってみるのが一番だろう。幸いいづみからもそう頼まれていたそうだし。

 そういえば、いづみはなぜ自分と恭也を戦わせたがったのだろう?今さらながらに疑問が浮かんできた。

 だが、それは後回しでもいいだろう。立ち会えないことには話しにならないのだから。

「それは別にかまいませんが……」

 恭也は気遣わしげな様子で瞳の足首を見る。だが、瞳は笑みをうかべながら首を振る。

「もちろん今日じゃないわ。1週間、いいえ2週間後もう一度会ってくれない?それまでに必ず治しておくから」

 そう言うと恭也の表情をうかがう。気難しげな様子で恭也は考え込んでいたが、しばしの間を置いてうなずいた。

「ありがとう。それじゃ、勝手な事ばかり言って悪いけど今日はもう帰ります」

 治療もしなきゃいけないし、そう告げる瞳を始めて会った時とは違う優しげな表情で恭也は見つめる。

 その姿に彼が本当に自分の事を心配し、怒っていたことを思い知る。

「それじゃ、2週間後、今日と同じ場所と時間でいい?」
「ええ、かまいません」

 うなずく恭也にできるだけ不敵に見えるように笑いかける。

「覚悟しておいて」
「はい。楽しみにしています」

 だが、余裕で流されてしまった。








 そして約束の2週間後。

 瞳は高町家の道場で荒い息をしながら、寝転がって天井を眺めていた。

 なんで天井のあんな位置に傷があるんだろう?

 そんなことをとりとめもなく考えながら必死で息を整える。

「今日はこのぐらいにしておきましょう」

 こちらはあっという間に普通の呼吸に戻った恭也が瞳に告げる。自分はこんなにも疲れているというのにこの余裕。瞳は思わず唇を噛んだ。

 実際、勢い込んで乗り込んできたものの立ち会った結果も散々だった。小太刀の二刀流と教えてもらったのだが、護身道のルールでやりあう事になった。

 なめられている。そう思ったが、自分の実力を見せればすぐにでも考えを改めると思っていた。



 甘かった。



 力で劣るとは思っていたが、速さでも技の精度でも及ばなかった。結局、1本も取れないままこうして無様に横たわっている。

 まともに顔を上げられずに横を向くと、三つ編みの少女と目が合う。恭也の妹にして弟子だという少女は少し同情したような視線を向けてきた。

 彼女にしても身に覚えがあるのだろう。

 美由希と名乗ったその少女と奇妙な連帯感を感じているうちに恭也が口を開く。

「すみません。少しやりすぎたようです」
「そうだよ恭ちゃん。いくらなんでもこれはやりすぎ……」

 何かを言いかける弟子を視線で射抜き恭也は言葉を続ける。

「でも、実際のところ俺と千堂さんの実力はそんなに開いてはいません。せいぜいが半歩といったところです」



 ああ、この人には私たちの気持ちはきっと分からない。
 


 同じ思いを感じたことのあるはずの美由希を見ると深くうなずいていた。

 例えば100メートルの選手はその半歩を詰めるためにどれぐらいの努力を重ねるのだろう?

 それでも、何万キロ走ろうが、ドーピングをしようが越えられない人間には10秒をきる事もできない。何人の人間がその半歩の差を埋められず嘆いた事か。

 がむしゃらに走り続けて、知らぬ間にその壁を越えてしまった彼には、きっと私たちの気持ちは分からない。



 彼が言う半歩の距離がどれだけ遠く見えるのか。



「それなのにこんなに一方的になるのはどちらかと言えばメンタルな部分が問題だと思います」

 彼の言おうとしている事は分かる。



 倦んでいた。



 秒殺の女王などと祭り上げられてみても、結局のところそれはライバルも乗り越える壁もないということ。

 鷹城唯子は確かに強敵だったが、性格的に甘いところのある彼女は真の意味で強敵足り得なかった。他の相手もそうだった。

 だから自分自身のあり方が分からなくなってしまった。

 何のために練習し、何のために強くなるのか分からなくなってしまった。

「御剣さんは俺に千堂さんと立ち会ってくれと頼む時にこういいました」

『思い切りやってくれ。それだけで瞳さんには分かる』

 そうか、いづみにも分かっていたのか。自分がどんな状態にあるのか。彼女らしくもない強引さも自分のためを思ってのことなのだろう。

 そして、そんな聞くいわれなど一切ない頼みを引き受けた彼にも分かったのだろう。だから、頼みどおり思い切りやった。

 前に進むこともできず、さりとて止める踏ん切りもつかない中途半端な自分を戒めるために。

 瞳は自分の情けなさに涙がこみ上げてきそうになった。

「本当はここまでやって良かったのか俺にも分かりません」

 恭也の声に苦悩の響きが混じる。瞳は少し申し訳ない気がしてしまった。全く関係のない自分のためにこんな思いを味あわせてしまった事に。

「でも」

 一転して力強い声。瞳の鼓動が激しくなる。

「それが必要だと俺も思いました」

 迷っている様子ながら、それでも力強く恭也は断言した。

 なぜ、彼はここまで自分にしてくれるのだろう。ここまでしてもらえるような事を自分は何一つしていない。

 いづみとの縁も浅いものだと言う。

 彼にしてもらった事を返すすべなど何もない。せめて、女としての自分を必要としているのなら分からなくもない。

 だが、激しい運動の後、胴着の裾も乱れた、見ようにとってはかなり悩ましい姿。そんな様子を見ても恭也の表情に浮かぶのは自分を心配している様子だけ。

 それなりに自信はあったのだが、こちらの方面でも自信をなくしてしまいそうだった。

 だが、あくまでもマイペースに恭也は続ける。

「千堂さんがこれからどうされるのか。それはご自身で決める事です」

 もう、競技者としては目標などないに等しい。連覇記録を伸ばしたところでそれがなんになるのだろう。

「でも、もし続けていくつもりがあるのなら……」

 強くなってなんになる?

 護身道で生活ができるわけでもない。日常の場面で身に着けた強さを生かすことなどそうそうない。

 それでも。



「あなたはきっと俺を越えてどこまでも行く事ができるはずです」



 彼がそう言うのならもう少し続けてみてもいいかな。そう思えた。





 正直なところ、高町恭也を越える事などできないと思う。彼は自己評価が低すぎる。

 再び美由希を見ると苦笑いをしながらこちらを見ていた。

「あなたも苦労するわね」
「いえ、もう慣れました」

 首を傾げる恭也を置き去りに、女二人で連帯を強める。

 ともあれ、ぐったりと重たい体を気合で持ち上げ恭也に向き直った。

「今日は本当にありがとう。とてもいい勉強になりました」

 そういって頭を下げた。

「これからどうするかは、もう少し考えてみます」

 憑き物が落ちたような晴れやかな顔で瞳は告げる。恭也は軽くうなずいただけだったが、瞳は満足だった。

「答えが出たら、また会ってもらえるかしら?」
「ええ、喜んで」

 取って置きの笑顔とともに告げる瞳に恭也は短く返答する。

「また……、無自覚に……朴念仁……」

 美由希の呟く声が聞こえるが、聞かなかったことにしてスルーする。

「私、これでも結構負けず嫌いなの」
「そうですか」
「だから、しつこいわよ」
「それは、楽しみです。ですが、今度は美由希ともやってみてくれませんか?」

 他流との経験をつませたいんです。そう言う恭也に背を向け。瞳は美由希と向き直った。

「負けないわよ。あなたには」
「望むところです。私だって簡単には譲れません」

 ばちばちと火花が飛び散る姿を気にも留めずに恭也は満足げに微笑んでいた。

 きっと自分の弟子が闘志を燃やしている様子が心強いのだろう。

 何となく気がそがれて肩をすくめる。

 そして一つ思い出した。

 おせっかいな後輩のことを。

 彼女にも思い知らせてやらなければいけない。自分の強さと言うものを。

 いづみもきっと強くなっているだろう。

 だが、それがなんだと言うのだ?

 なにしろ自分の強さを彼が保証してくれたのだ、それを嘘にするわけにはいかない。

「千堂さんどこか痛むところでもありますか?」

 妙な表情をしていたのか、恭也が声をかけてくる。

 瞳は眉間にしわを寄せたままで首を振った。

「いえ、ちょっと機嫌が悪いだけよ」

 そして明るい口調でもう一度繰り返した。

「そう機嫌が悪いの」

 別になんていうことはない。ただ、それだけの事。









 この話を書いたあたりから一連の話の終わりを考えていました。なので、情報を小出しにしようとしたのですがやってみるととても難しかったですね。
 ミステリー作家の人が伏線とかを張っているのを見るといつも感心してしまいます。



[41302] きっと誰かが見ていてくれる-菟弓華の寂しい嘘
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/02/14 19:07
 彼からの言葉はとても嬉しかった。

 物心ついた頃からずっと、後ろ暗い道を歩んできた。

 だから人並みの幸せなど望んだことはなかった。

 本当のところは“人並みの幸せ”と言うのがうまく思い描けなかった。

 それはきれいに飾り立てられたショーケースの向こう側のようなもので、自分の手に入るものだと考えた事がなかった。

 だから余計に嬉しかった。

「俺と一緒に暮らそう」

 彼らしい飾り気のない言葉。

 その言葉を聞いた時、嘘偽りもなく喜びの涙を流していた。



 だと言うのに、何故私の背中は喜び以外の感情で震えているのだろう?










 正月に海鳴で懐かしい人たちと再会した後、弓華は再び機上の人となっていた。
隣には行きと同じように美沙斗が座っていた。

「弓華何かあったのかい?」

 飛行機に乗ってから、正確にはその前に空港から様子のおかしかった弓華を訝りながら美沙斗は問いかける。

「何でもありません……」

 どう見たってなんでもないようには見えなかったが、こうなると弓華は結構頑固だ。美沙斗はいったん引き下がる事にした。

「分かった」

 そう言うと美沙斗は淡く微笑んだ。にぎやかな高町家の面々のおかげで柔らかい表情も徐々に作れるようになってきた。

 桃子に言わせるとまだまだだそうだが、美由希はそれでも嬉しそうだった。

 そんな美沙斗の様子に構わず、弓華は固い口調で問いかけた。

「美沙斗さんはあの“御神”の人なんですよね?」
「そうだよ。君も空港で友達に言っていただろう」

 美沙斗の返答に弓華は黙ってうなずいた。何かを言いたそうな空気は伝わってきたが、結局美沙斗は何も言わなかった。

 その辺の距離のとり方が弓華は好きだった。

 例えそれが商業柄身についた処世術の一環だとしても。

 妙な方向に行きそうになる思考を軽く首を振り軌道修正する

 思うのは御神美沙斗の事。

 弓華がかつて属していた組織“龍”にとって御神流の名はとても複雑な意味を持つ。



 一つはかつてないほどの成功を収めた爆弾テロの獲物として。



 もともと爆弾を使った暗殺はその殺傷力から考えると大変に難しい部類に属する。

 一口に爆弾と言うが、どこの国でも爆発物は持ち歩くだけでも非常に困難を伴う。まして当時の日本は世界でも有数の治安の良い国だった。

 それに、そもそも爆発物の取り扱いそのものが難しい。敵を吹き飛ばすはずのそれで自分が吹き飛ぶなどと言う笑い話は珍しくもない。

 そして、その設置場所や爆発させるタイミングも非常にデリケートだ。一つの障害物があるだけで目標が達成できなくなる。

 それら全ての困難を乗り越え御神と言う厄介な一族の大半を殺してのけたのだ。暗殺と言う観点からすれば龍の歴史上でもまれに見る成功だったと言ってもいい。



 だが、討ち漏らした数少ない生き残りの手によって巨大犯罪組織龍は徐々に追い詰められてきている。



 最初はその生き残りの剣士、御神美沙斗すらも手駒として操っていた。だが、ティオレ・クリステラの暗殺に美沙斗を派遣した時から全てが狂い始めた。

 情報戦の観点からすれば素人同然の美沙斗だったが、剣士としては紛れもなく超一流。その美沙斗が仕事にしくじり、あまつさえ彼女を操っていたのが龍だと知られる失態まで演じてしまった。

 そして御神美沙斗は龍の仇敵である香港警防隊へと所属し表から龍を追いつめている。



 御神美沙斗。



 もう一度その名を口に出さず呟いてみる。自分の悩みについて答えをもらうのにこれほどふさわしい相手もいないだろう。

「一つ聞きたいことがあります」
「なんだい」
「ここではちょっと……」

 自分で問いかけておきながら弓華は口をつぐんだ。だが、第三者が大勢いる飛行機の中で話すような事ではなかった。

「分かった」

 短く答える美沙斗にも弓華の緊張が写ったのか、硬い表情で答えた。

 それっきり香港まで互いに口を開く事もなかった。







「その質問に答える資格が私にはない」

 香港に戻った翌日。出勤してきた弓華は最初に美沙斗の部屋を訪れ、単刀直入に質問をぶつけてきた。

 弓華のぶしつけな訪問に気を悪くする様子もなく、だが冷淡に美沙斗は答えた。

「そ、そんな……」
「気を悪くしないでくれ。でも本当の事さ」

 明らかに落胆した様子の弓華に美沙斗は苦笑する。普段は明るく振舞っているようだが、根は生真面目で苦労性なのだろう。

 彼女の悩みに答えてあげたいとは思う。だが、やはり自分にはそんな資格はないと思う。

 最愛の人をなくした悲しみに耐えられず、同じくらい愛しかった娘に背を向け、復讐に狂った自分に何が言えるだろう。

「御神が滅んで一番苦労したのは私じゃないからね」

 その言葉に弓華は首を傾げる。詳しくは知らないが、漏れ聞いただけでも美沙斗の人生が苦難の連続だった事は分かる。

 その彼女よりつらい人生など弓華には想像もつかなかった。

「もう一度海鳴に行く事があったら、私の甥に会うといい」
「甥?」
「ああ。彼ならあなたの悩みに答えをくれると思うよ」

 海鳴?

 色々あったとはいえ基本的には平和なあの街で、御神美沙斗以上に過酷な人生を送る人間など想像もつかなかった。

 だが、これ以上美沙斗に食い下がっても進展はないだろう。弓華は唇を噛みうつむく。

 そして、一言も発せずに頭だけ下げて美沙斗の執務室を出て行った。

「ずいぶんと思いつめてるな」

 美沙斗はポツリと呟いた。

「恭也も大変だ」

 自分で苦労を背負わせておいて、あんまりな言い方だが美沙斗の唇には淡い笑みが浮かんでいた。

 彼に任せておけば大丈夫。

 根拠はないが美沙斗は確信していた。







 弓華としてはすぐにでも海鳴に取って返したかったが、基本的に休みらしい休みなど取れない警防隊ではそんな訳にはいかなかった。

 結局、弓華が再び海鳴へ向ったのは3ヵ月後の事だった。

 事前に美沙斗に話を通してもらっていた弓華は、空港についてすぐに教わった番号を押す。携帯を持つ手はほんの少しだけ震えていた。

「はい、高町です」

 数回のコールの後、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。この家には男性は一人しかいないと聞いている。ならば彼が目的の人物なのだろう。

「あ、私は兎弓華といいます。高町恭也さんですか?」
「ええ、そうです」

 言葉少なく答える様子に好感を覚える。どこか、彼に似ている気がするからだろうか。

「美沙斗から話は聞いていますか」
「はい。ただ、あまり詳しくは聞いていません。電話でできるような話じゃないということでしたので」
「それで、早速で悪いんですけど今日会えませんか?」

 電話の向こうで苦笑する気配を感じる。確かに相手の都合を考えない性急な話だと自分でも思う。

 でも、もう待てない。このまま中途半端なのは耐えられない。

「俺の方はかまいませんが、弓華さんは今どこにいるんですか?」
「今は空港から電話しています」

 再び苦笑の気配。だが、彼はその事に何も触れなかった。

「それでは3時に海鳴駅でいいですか?」
「時間は3時でいいですけど、場所は臨海公園にしてもらえますか」

 恭也は了承するとムダ口の一つも叩かずに電話を切った。ますます似ている、そう思いながら駅へと急ぐ。

 プロたるもの時間通りに約束の場所に着くなどという愚を冒すわけには行かない。

 定刻よりも早く着き下調べの一つもしなくては警防隊の一員としての資格などない。彼女の用件からすれば関係ない行動だが、それはそれだ。

 最後のその時まで自分は自分でなければいけない。

 そう言い聞かせると、はやる心のままに歩く速さをあげた。







 そして弓華は約束の1時間前に海鳴デパートの屋上に来ていた。ここからなら臨海公園が一望に見渡せる。

 ここから大まかに観察した後で下に行くつもりだった。伏兵などいるわけもないが、これも習性というものだ。

 イベントなども行われる屋上は意外に広く、下を眺めるにはフェンスの近くまで寄らなければいけない。

 そちらに向って歩き出した弓華は先客がいることに気づいた。

 上から下まで黒ずくめのその男は、何をするでもなく下を眺めていた。

 急に立ち止まるのも不自然だと思い弓華がフェンスに近づこうとすると、その男は急にこちらに振返った。

 どこか落ち着いた気配から考えていたよりも、ずっと若いその男は弓華を正面から見据えた。

「お互い考える事は同じようですね」
「えっ」
「兎弓華さんですよね?高町恭也です」

 どこか呆然とした様子に恭也は苦笑交じりに確認してくる。

「あ、はい。初めまして」
「初めましてではないですよ。正月に一度お会いしました」

 そういえば、いづみたちと一緒に正月に会っていた気がする。それにしても彼が自分と同じように行動しているとは思わなかった。

 御神流への認識を改める必要がありそうだ。ただの強い剣術家だと思っていたが、どうやら後ろ暗い方にも知識はあるらしい。

 裏の社会で伝説になるのは伊達ではないと言う事だろう。

 意表をつかれて緩んだ神経をもう一度研ぎ澄ます。そして、眼前の男を改めて観察する。

 隙のない身ごなし、整った顔立ち、そして鋭い眼差し。ますます彼に似ている。

 だが、恭也を見たときに弓華はもう一人の男を思い出した。



 真一郎。



 どこも似ているところがないのにその名が頭に浮かんだ。

「どうかしましたか?」
「い、いえ。なんでもないです」

 黙り込んだ弓華に恭也が声をかける。弓華は慌てて辺りを見渡すが近場にはベンチの一つもない。

 予定とはずいぶんと違ってしまったが、このまま話すしかないだろう。そう覚悟を決めた。

 弓華は恭也の隣に並んで安全ネット越しに眼下の光景を眺める。

 楽しげにデパートから出てくる恋人達。

 公園で走り回る子供達。

 大きな犬に引きずられるようになりながら、それでも楽しそうに散歩をする老人。

 どれも幸せそうな光景で、でもやはりショーウインドウの商品のように弓華には実感が感じられなかった。

 真一郎や小鳥達といた時にはあれほどたやすく溶け込めたというのに。

 少しの間を置いて弓華はポツリと呟いた。

「恭也さんは御神の人なんですよね」
「はい」

 ためらいも見せずに恭也は答える。そしてまた黙り込んだ弓華を促すでもなく待ち続ける。

「龍が憎いですか?」
「えっ」
「あなた達の家族を奪った龍が憎いですか?」

 物分りの悪い生徒を諭す教師のように弓華は繰り返した。

 恭也から戸惑ったような気配が伝わってくる。彼に知られないように弓華は心の中で嘆息する。



 美沙斗あなたの見立て違いです。



 だが、ここまできた以上途中で止めるわけにはいかない。お互いにとって不本意な成り行きとはいえ付き合ってもらうことにしよう。

「私が龍の構成員だったと言ったらどうします」

 ようやく恭也の顔から表情が消える。それなりに訓練はしているようだがまだまだ甘い。

 最初からその表情ができていなくてどうする?

 やはり彼には自分達が住んでいるような世界は似合わない。街のちょっと強い人。その程度がお似合いだろう。

 下の平和な光景を見ながら弓華は思う。この街に住む人にそんな後ろ暗い世界を歩む人はふさわしくない。

「どういうことですか」

 先ほどまでとは違うこわばった声。彼に重荷を背負わせるのは本意ではない。だが、自分にとってもこれはけじめなのだ。



「それどころか御神への爆弾テロに実行犯の一人として加わっていたとしたらあなたはどう思います?」



 弓華の問いに恭也は黙り込んだままだった。

 もちろん弓華は御神の件には関わっていない。まだ若すぎたし爆弾は今に至っても専門外だ。

 だが、そんなことは彼には分かりはしない。精一杯悩んで自分を糾弾して欲しかった。

 美沙斗に突き放された以上彼こそがその役にふさわしいそう思えた。

「不愉快ですね」

 感情を抑えた声で恭也が言う。その言葉になるべく小憎らしく見えるように首を傾げる。

 そのことで彼が感情を激発させてしまう可能性も考えたが、自制心の強そうなタイプに見えるのでもう少し挑発をしてみようと思っていた。

 だが、次に発した言葉で自分がどれだけ高町恭也という人物を見くびっていたかを思い知らされた。



「あなたが何に悩んでいるのか知りませんが、それから逃げる口実にされるのは大変不愉快です」



 見透かされた。



 その思いすらずいぶんと後になって湧いた思いだった。

 恭也が言葉を発した瞬間は心臓すら止まっていたかも知れない。それほど彼の言葉は驚異的だった。

「どうして?」

 そうだ、美沙斗が何か言っていたに違いない。

「美沙斗に聞いたんですか?」
「美沙斗さんは何も言ってませんよ。あなたの話を聞いて欲しい。それしか言いませんでした」
「じゃあ、なぜ?」

 うまく考えがまとまらない弓華は疑問をそのまま口にする。

「一番の決め手は時期ですね。あなたの話は唐突過ぎた」

 答えを期待しないままに口にした弓華の疑問に恭也は律儀に答える。

「美沙斗さんを御神の剣士と知りながら、同じ警防隊の一員として戦ってきたのにいきなりこんな話がでるなんておかしいでしょう?」

 それはそうだ。無理があるのは承知していた。でも、押し切れると思っていた。

 それほど彼にとって龍というのは憎い相手だと思っていた。

 それともそれは自分の勘違いだったのだろうか。美沙斗は龍の行ったテロがもう風化している事を教えたかったのだろうか……。

「それに、ここから下を眺めているあなたは何だか寂しそうでした」

 どこか言いにくそうに言う恭也を弓華はぼんやりと見つめる。

「涙を流していないのに、泣いているように見えたんです」

 今さらながらに弓華は思い知る。彼を見てなぜ真一郎を思い出したのかを。

 真一郎もこうやって自分が思いもよらない言葉を言ってくれたものだ。

 そして自分がどれだけ上の立場から恭也のことを見ていたかを思い知った。

 人を殺す。

 物を壊す。

 そんなことしか知らない自分は、一歩そこから引き出されると子供と同じなんだ。

 それなのに恭也を見下し、侮った。どちらが未熟なのだろうか。

 そう考えると、無性に悲しかった。

「ごめんなさい」
「いえ、かまいません」

 恭也の声はほとんど揺らいでいない。彼にとっては声を荒げるような事ではないのだろう。

「ですが、理由ぐらいは教えてもらえるんでしょう?」
「……分かりました」

 もう、十分なほど打ちのめされた弓華にとっては酷な言葉だったが、恭也のことを思えば仕方がない。

 弓華は恭也から視線を切り、遠くに見える海を見ながら話し出した。

 ただ、その亡羊とした瞳は何も見ていないようにも見えた。






 海鳴に帰ってきた弓華は短い休暇のうち数日を恋人である火影と過ごしていた。彼とても暇な人間ではないが、せっかくの弓華の休みだからという事でかなり無理をしたらしい。

「これから一月はまともに休めないな」

 そう言いながらも楽しそうに笑っていた。

 事情は弓華もそう変わりなかったが、やはり楽しかった。

 隣に彼がいればそれでいい。そう思えていた。



 そして香港に戻る日。空港まで見送りに来た火影は搭乗手続きに向おうとする弓華の腕を掴み引きとめた。

 そして弓華の瞳を正面から見据えた。

「俺と一緒に暮らそう」

 そしてそう言ってくれたのだ。



 嬉しかった。



 涙が出るほど嬉しかったが、それとともに途方もなく恐かった。

 弓華は自分がしてきた事を良く知っている。

 龍の構成員としてその手を血に染め、龍を抜けたその後も結局はやってる事は同じだった。

 そんな自分が火影と暮らして人並みの幸せなど手に入れていいはずがない。

 そんなものは遠くから眺めていれば十分なのだ。自分の真っ赤に染まった手はきっと不幸を運ぶ。

 でも、浅ましい自分はすぐに断る事もできず、逃げるように火影の前から去ってしまった。

 断らなければいけない。でも、自分ではその踏ん切りがつかない。

 だから、自分の罪を誰かに指摘してもらおう。そう思った。

 そうして自分の罪深さをもう一度思い知れば、浅ましい幻想に浸ることはないだろう。

 その為に美沙斗にも恭也についたのと同じ嘘をついた。だが、美沙斗にはかわされ、最後の望みをかけて縋りついた恭也には最も知られたくないところまで見透かされてしまった。







 弓華はポツリポツリと時に黙り込んだりしながら、恭也へと自分の行動の理由を説明して行った。

 かなり時間はかかったが恭也は辛抱強く弓華の告白を聞いていた。

 真剣な表情で聞いている恭也には悪いと思ったが、もう弓華の熱は冷めていた。

 諦めてしまったといってもいい。

 火影の思いに背を向け、暗闇の中に戻る踏ん切りをつけたい。そう思っていたのだが、結局は中途半端なまま。

 それも自分にはふさわしい。自嘲気味にそう考える。

 だが、この時点でもまだ弓華は恭也を見くびっていた。

「弓華さん。なんであなたが悩むか分かりますか?」
「そ、それは私が浅ましいから……」

 弓華の答えを聞き恭也は微笑んだ。飛行機の中で見た美沙斗が浮かべていたのとよく似た笑みは、弓華の言い訳を優しく封じ込めた。

「あなたは火影さんのプロポーズを受けるつもりなんです」
「な、そんなはずありません!」

 そう、そんなはずはない。それだけは間違いなく言えるはずだ。そう思いながらも、弓華の瞳は迷いを示すように揺れた。

「あなたの悩みですが普通はこう言います」
「なんて言うんですか」

 挑むように声を荒げる弓華に恭也は静かに語りかける。



「マリッジブルー」



 弓華は再び絶句してしまった。自分の思いを、苦悩を、そんな俗っぽい単語に貶めるこの男に殺意さえ覚えた。

「結婚も決まってないのに気の早いこと……」
「違う!」

 弓華の叫び声が誰もいない屋上に響き渡る。

 全く慌てたそぶりの無い恭也にいらだったように弓華は言葉を投げかける。

「私の思いをそんな風に言わないで」

 恭也は痛ましげな表情で弓華を見つめていた。だが、弓華の次の言葉でその様子が一変した。

「私は普通の人たちとは違うから……」
「弓華さん!」

 際限なく続きそうだった弓華の言葉を鋭い声でさえぎると、恭也は少し怒ったような口調で話しかけた。

「何かを捨てて、新しい世界に踏み出す事はいつだって恐いものです。その悩みは誰だって変わりありません」

 恭也はそう言うと弓華の瞳をじっと見つめる。

「人を殺した事があるから自分の悩みは深いのだと思っているのならそれは違う」

 その語調の強さにひるむ弓華にかまわず恭也は続ける。

「心の痛みと言うのは、その人だけのものです。誰かと比べるなんてそもそも間違っている」

 恭也の言葉が弓華の胸に突き刺さる。

 自分がつらい道を歩んできたから、他人よりも優越感を感じるなんて馬鹿げたことだ。

 普通に生きてきた友達にそう教えてもらったというのに。

「だから、あなたの悩みは誰かと比べても偉くないし、ましてや卑下するような事でもない」

 そんなことは分かっている。いや分かってしまった。

 結局のところ自分は火影の思いに答える事が怖かったのだ。

 踏み出してしまう事はできず、だからと言って引き返す事はできず。自分が龍の一員だったのをいいことに、他人に決めてもらおうとした。

 そう、断るのなら自分で言わなければいけない。

 こんな汚れた自分に人並みの暮らしを望む資格などないのだから。

 これから火影のところに行って話をする前にもう一度きちんと謝っておこう。自分のした事が許されるものではないとは分かっているが、せめて言葉にしよう。

 そう思い息を吸い込んだ瞬間に恭也が深くため息をついた。

 一瞬、タイミングを外された弓華に恭也は苦笑混じりに言う。

「何だかずいぶんと悪人になった気分ですが、もう少しだけいいですか?」

 恭也が何を言いたいのか分からない弓華はぼんやりとした表情で彼を見つめた。

 今さら何を言うのだろう?

 自分の罪深さなど……。



「なぜ、結婚してはいけないんです?」



 恭也の言葉に再び弓華は絶句した。

 彼は何を言っているのだろう?思考の停止した弓華はただ黙って次の言葉を待った。

「信じられないという顔ですね」

 恭也は苦笑しながら言う。ただ、そこに意外の響きは無かった。

「俺にその資格があるのか分かりませんが、俺が保証します」
「あなたに保証されたって……」
「なら、なぜ俺を、いや“御神”を贖罪の相手に選んだんです?」

 黙り込んだ弓華に恭也は強い口調で問いかける。

「あなたの罪の形、そのもっとも分かりやすい例が俺達だったのでしょう?」

 弓華は黙ってうなずく。そして、今日また一つ重ねた罪に思いをはせる。

 何も関係のない恭也に、自分はなんと言う役目を背負わせようとしていたのだろう。

「その、あなたが選んだ過去の罪の象徴の俺が許します。それではダメですか」

 恭也の言葉に弓華は寂しげな笑みを浮かべた。

「そんな奇麗事を言われても」
「そう、奇麗事です」

 どこか遠くを見ながら恭也は答える。

 彼が見ているものはもう失われてしまった、大切な何かなのだろう。

「幼き日の俺にとって御神の人たちは、大切な家族であり、憧れでした」

 弓華は黙ってうなずくと先を促した。彼が何を言おうとしているのかはよく分からない。

 でも、その思いは受け止めなければいけない。

「あの人たちや、同じように爆弾テロで死んだ父さんが自分を殺した人間に泣き言をいうような人だとは思いたくないんです」

 そして弓華を真っ直ぐと見つめる。その姿にあの日の火影が重なる。そして恭也は力強い口調で告げた。



「だから、俺の信じる奇麗事のためにあなたは幸せになってください」



 不器用に微笑みながらこちらを見つめる恭也弓華は何もいえなかった。

 ずいぶんと間の抜けた顔をしているだろうとは思うが、何も考えられない。

 そのまま少し時間が流れたが、不意に恭也は表情を引き締めて口を開く。

「人を守る事は難しいですよ。そして人を育てる事はもっと難しい」

 弓華の揺れ惑う心を射抜くような鋭いまなざしで恭也は正面から真っ直ぐ見つめる。

「本当は人を殺すのなんて簡単なんです。それを皆見てみない振りをしているだけです」
「そ、それは……」
「でも、誰もが当たり前にやっているように見えて、人を育てると言う事は本当に大変です」

 弓華は恭也の視線に耐え切れずそっと目を伏せた。

 美沙斗の言う事がようやく分かりかけてきた。彼は誰かを育てた事があるのだろう。

 そして、きっと多くの人を守ってきたのだ。

 その安全を。その心を。

 だからこんな風に真っ直ぐ人を見る事ができる。

 下を見続ける視界がしだいに滲んでくる。

 やがて耐え切れずに雫が一つ、二つ地面へとこぼれていくのを見ながら考える。最後に泣いたのはいつの事だろう。

 そう、ぼんやりと思った。

「でも、あなたならそれができると俺は信じます」

 弓華は電撃に撃たれたように体を震わせた後、憑かれたように首を振った。

「無理です。私にはそんなことできない」

 それだけ言うと、ついに立っていられずにしゃがみこんでしまった。

「あなたの力は確かに多くの人を傷つけ、時には死なせてきたのかも知れません」

 恭也の言葉が肺腑をえぐる。取り返しが付かないと知ってはいても涙は止まらなかった。

「でも、それだけじゃなかったはずですよ」



『私の目の前では誰も死なせたりしない』

脳裏に甦る誰かの声。確かに聞き覚えがあるはずなのに思い出すことができない。

『……そのためのチカラで、そのためのジブンだって』

この声は誰の声だろう。懐かしい思いと決意がかすかに甦る。



「今のあなたは誰かを守っているじゃないですか」
「違います……」

 ただ、他に居場所が無かっただけだ。龍から逃れるには彼らも手を出せないところにいなければならなかった。

 ただ、それだけだった。

 力なく首を振る弓華に苦笑しながら恭也は続ける。

「あなたに自覚は無くても、その力は見た事もないどこかの誰かを必ず守っています」
「……私はそんなこと考えた事はありませんでした」

 自分に誰かを助けられるなんて思ったことは無かった。できる事と言えば毒蛇や百足を殺して回る事だと思っていた。

 それこそが自分らしい。そう考えていた。

「どこかの誰かを守っていた力を、大事な人たちを守るために使ってみてはどうですか?」
「……そんなこと私にできると思いますか」
「さあ、分かりません」

 恭也の言葉にうつむいていた顔を上げて睨みつける。

 優しい表情で弓華を見つめていた恭也は、弓華に近づきながら手を差し伸べた。

「大事なのはできるかできないかではなく、あなたがどうしたいかだと思いますよ」

 わずかに躊躇いながら、そのゴツゴツとした掌を睨みつけていたが、結局はその手をとり立ち上がった。

 そして、つないだ手を外す。名残惜しい気もするが、この手が握るべき相手は恭也ではない。

「あなたの言ったこと考えてみます」

 弓華はほんの少しだけ迷いの晴れた表情で恭也に告げる。だが、恭也は軽く首を振った。

「それよりも火影さんと話をした方がいいですよ。プロポーズをした後、話もしていないなら随分と気をもんでいるはずです」

 弓華の顔が見る見る青ざめる。そうだ、火影にしたところで軽い気持ちで言ったわけではないはずだ。

 それなのに、あれ以来全然連絡を取っていない。自分の事に気をとられ相手の事を考えていなかった。

「あ、あの私」
「俺はこれで失礼します。後はお二人で話し合ってください」

 そういって立ち去ろうとする恭也を引き止めようと手を伸ばす。

 そのタイミングが分かっていたように急に振返った恭也は、悪戯っぽい微笑を浮かべてこう告げた。

「お二人の結婚式をやる時は教えてください」
「なっ、何を言っているんですか」

 一瞬、意表をつかれた隙に再び恭也は背を向けて歩き出した。

 もう一度、制止の声をあげようとする弓華の耳に、呟くような声がかすかに聞こえてきた。

「今度は必ず守ってみせる」

 あまりにも真摯なまるで誓いのような言葉に弓華はかける言葉を見失い、結局黙って行かせてしまった。

 だが、仕方が無い。自分にはこれからもっと大事な用が待っている。

 彼にお礼を言うのは、火影と二人ですることにしよう。



 どんな結論がでようとも、それは二人で出した答えなのだから。



 二人の未来なら、二人で話し合って決めよう。そんな当たり前の結論にたどり着くのに、随分と回り道をしてしまった。

 弓華は軽く首を振るとその思いを振り払った。せっかく恭也が迷いを晴らしてくれたのだ、話をするのは今しかない。

 そして弓華は携帯を取り出して真剣な顔で見つめた。まるで、そこにこれからかける相手がいるかのように。

 大きく息を吸い込むと一つ一つ丁寧にボタンを押す。

 思いをそんな些細な行動にも込められるように。

 いつもは気にした事もないのに、コール音がやけに耳障りだ。

 一つ、二つと数えながらその時を静かに待ちながら考える。

 火影が出たらなんと言おう。

 答えは決まっていない。でも、彼の声を聞いたならその瞬間に決まる気がする。

 その心の思うままに、彼に告げよう自分の気持ちを。

 いつしか弓華は笑みを浮かべていた。



 その笑みは彼女が憧れ、眺めているだけだった、幸せそうな人々が浮かべているものとそっくりだった。









 普段の私は話を組み立てた後にタイトルをつけるのですが、この話は珍しくタイトルを先に決めてから書きました。そのせいかタイトルの内容に一直線ですね。
 弓華と恭也は相性はいいと思いますが、今回の話では火影がいる以上恋愛面では恭也の出番はなしになりました。

 まあ、誰もかれもに惚れられるというのもあれですしね。



[41302] きっと誰かが見ていてくれる-相川真一郎の事情
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/02/20 01:50

 俺はゆっくりと自分の体を確かめるようにストレッチを始めた。

「真くん、本当にやるの……」

 小鳥の心配そうな声。

「やるよ」

 その声に含まれる優しさを断ち切るようにそっけなく答える。

「真一郎やめよ、ね。今なら間に合うよ」

 今となっては懐かしくも思える唯子の甘えるような声。だけど、俺はそれにも首を横に振る。

「あのね真一郎、あなたのやろうとしてることって、かなり無謀な事よ」

 瞳ちゃんの諭すような声。どこか懇願するような響きに気づかなかった振りをして、俺は立ち上がった。

「そうだぞ相川。恥をさらすようで嫌だけど、私も瞳さんも彼に勝った事がない」

 御剣の言葉にさすがに俺の動きも一瞬止まった。だけど、何事もなかったような素振りで、シャドーボクシングを始める。

「どうして先輩がこんなことをしようと思ったのかは分かりません。でも、止められないんですか」

 さくらの悲しげな声。いつもは優しげな表情のさくらの顔に浮かぶのは困惑と悲しみ。

 それがさくらだけでない事には気づいている。でも、俺には止める気など全然なかった。

「真一郎……」

 つい先日幸せそうな笑みを浮かべていた弓華の呟きにも答えず、俺は仮想的に向って突きと蹴りを繰り出す。

「真一郎さん、彼と何かあったんですか?」

 この邸の主である忍ちゃん。きっと彼女が一番戸惑っているだろう。

 今、ここにいる女性はみんな魅力的な人ばかりだ。

 だと言うのに弓華以外は恋人がいるなんて話は聞いたことがなかった。

 それは、単なる自惚れだけでなく俺にも原因があるはずだった。

 高校生の頃、俺は程度の差はあれ皆に好意を持っていたし、皆もある程度の好意は持ってくれていたはずだ。

 普通に行けば、その時は小さかった忍ちゃんや相手のいた弓華以外の誰かを選び、付き合うことになっただろう。



 でも、俺にはそれができなかった。



 誰も選ばず、それなのに距離を置くこともせず、中途半端な形のまま、今まで過ごしてきた。

 だから、本当はこんな事に意味なんて一切ない。それどころか世界中の誰よりも俺にはこんな事をする資格がない。



 そう、これは単なるわがまま。



 俺が未練がましく引きずっている気持ちに踏ん切りをつけるための儀式。

 それに無理やり他人を付き合わせる。

 事が終わったらみんなにこっぴどくしかられるだろう。

 決着がどう着くかは分からないが、相手の奴にも終わってから改めて殴られてもいい。

 それでも俺は止める気はなかった。













 高町恭也



 その男の名前を最初に聞いたのは多分さくらからだった。

「忍に友達ができたんです」

 姪の忍ちゃんのことを話す時。さくらはいつだって優しい表情をする。

 叔母と姪というよりは仲の良い姉妹のような二人はいつだってお互いを大事に思っている。

 だからこの時もさくらは自分の事のように嬉しそうな顔をしていた。

 さくらの一族の複雑な事情を知る身としては余計に嬉しい。

「へ~良かったじゃないか」

 俺もこの時は素直に喜んでいた。初めて会った時の寂しげな様子は大分薄らいではいたけど、まだどこか陰があるような気がしていたから。
 それが、優しい笑みを浮かべている。そのことは喜ばしいことだと間違いなく感じていた。

「ええ、本当に良かった」

 幸せそうなさくらが眩しくて、俺は口を開く。

「で、どんな子なの」
「高町恭也君って言うんです」

 友達とか言うからてっきり女の子だと思っていた俺は、さくらの返事に意表を付かれて黙り込んだ。

「少し無愛想な感じはするんですけど、とても優しいし頼りになるんですよ」

 俺はさくらが話す内容よりも、少し赤らんだその表情の方に気を取られていた。

 だけど、その時の俺は胸に残る苦いものに気づかない振りをしていた。





 次に高町恭也の話をしたのは唯子だった。

「唯子が担任ねえ。随分と思い切ったことをする学校だな」

 俺のからかうような声をものともせず唯子は大きくうなずく。

「そうだよねえ。でも、色々と事情はあるのかも知れないけど、私は全力で頑張るよ」

 最初に教師になると聞いた時には大丈夫か、と心配したけどこの分ならそれは杞憂だったみたいだ。

 それから俺は延々と唯子の受け持ちクラスの子達の話を聞かされた。

 美人で優しく熱意もある。おまけに年も近い唯子先生は生徒達から好意的に受け止められているようだった。

 深刻な悩みを打ち明けてくる生徒はまだいないようだけれど、それも時間の問題だろう。



 いつだって唯子の真っ直ぐな気持ちは壁を乗り越えてきたのだから。



 少し先を行かれてしまった幼馴染を羨ましいような気持ちで眺めていると唯子が顔の前で手を打ち合わせた。

 時折出る幼い仕草に思わず安堵してしまうのは我ながら浅ましい話だとは思う。

「そういえばもう一人面白い子がいるんだ」
「どんな風に?」

 俺の気持ちを知ってか知らずか、唯子は屈託なく話し続ける。俺が合いの手を入れると身を乗り出してきて唯子は力説する。

「あのね、レンちゃんっていう子なんだけど、高等部にいる男の子のことを『お師匠』って呼んでるんだよ」
「そりゃまた……」

 古風と言うか、なんと言うか。お師匠とか呼ばれてる奴もじじむさい奴なんだろうけど確かに変わった子だ。

「でも、確かに高町君は落ち着いてる感じだし似合うんだよね」



 誰だって?



 どこかで聞いた名前に戸惑う俺をよそに唯子は話し続ける。

「あ、でも見た目はオジサンとかそんな感じじゃなくて、むしろカッコイイ感じで……」

 いつの間にか生徒の話から高町の話に移った唯子を見ながら俺ははっきりと不快な気分を自覚しだしていた。







 そしてつい最近になって立て続けにその名前を聞く事になった。小鳥、御剣、瞳ちゃん。

 冷静に考えれば、それぞれそんなに大したことはしていないような気もする。でも、俺にとってこの人たちに関することは冷静に考えられるような事じゃない。

 この高町と言う男は何者なんだろう?

 みんなの話を聞いても全然姿が浮かんでこない。単に女に優しいだけのナンパ野郎にしか聞こえない気もするが、それだけでもない気もする。

 どうやら強いらしいが、それだけなら御剣とかはともかく小鳥が打ち解けたりするはずはない。





 そして、一昨日の事だ弓華が学生時代から付き合いのあった御剣の兄貴と結婚すると報告に来た。

 俺などにはうかがい知れない境遇にいた弓華。

 彼女を闇の中からを掬い上げ、陽のあたる方へと導いてくれた御剣の兄貴。

 この二人の仲を俺達はみんな応援していた。

 ただ、お互い優しくそして不器用なところのあるこの二人は、変に遠慮して周りをやきもきさせていた。

 その弓華の背中を押したのもまた高町らしい。



 それを知った時に俺の胸のむかつきは限界を超えてしまった。



「なあ、さくら頼みがあるんだけどいいかな」
「なんでしょう?」
「大したことじゃないんだけど、この間話してた高町って奴に会ってみたいんだけど」

 唐突な俺の頼みごとにさくらは少し考え込んでいたけど、結局は引き受けてくれた。

「それで、できたら少し広いところで会いたいんだ。いい場所知らないかな?」
「それなら忍の家がいいと思います。高町君も何度か遊びに来てくれているみたいですから」

 何か言いたそうな様子だったけど、さくらは何も聞かずに段取りを組んでくれた。





 そして俺は前もって約束していた時間に忍ちゃんの家へと出かけていった。ちょっと訳ありで高町には30分遅く来るように頼んであった。

 だから忍ちゃんの家には、忍ちゃんとメイドのノエルさん。それにさくらしかいないはずだった。

 ところが俺がお邪魔した時には、他にも懐かしい顔が勢ぞろいしていた。

 小鳥、唯子、瞳ちゃん、御剣、それにまだ日本に残っていた弓華。

「遅いよ~真一郎」

 唯子の能天気な声に緩みそうになる表情を引き締める。今日の目的を考えればこんなところで和んでいる場合じゃない。

「真くんどうしたの。何か怖い顔」

 小鳥の声に答えず、俺はさくらに向き直る。

「どうしてみんながいるんだ」
「せっかく、先輩がいらっしゃるなら弓華さんの結婚祝いも兼ねてみんなで会おうと思ったんです」

 少しの間お互いの思惑を探ろうと、俺とさくらの視線が交錯する。

「私たちがいたら都合が悪いのか」

 御剣が怒ったように言う。

「何か変に殺気だっているわね。本当にどうしたの?」

 心配そうな声を出す瞳ちゃんに黙って首を振る。今は長々と人と話していたい気分じゃない。

「忍ちゃんちょっと良いかな」
「あ、はい」

 再会の挨拶もなしに俺はいきなり本題に入る。本当はここで話すのは得策じゃない。

 俺が用件を伝えたらきっとみんなは止めようとする。でも、この人たちをうまく出し抜くなんてできそうにない。

 だから、俺は正直に今日の目的を告げる。

「高町君が来たら庭をちょっと貸してくれないかな」
「良いですけど、どうしてですか」

 忍ちゃんの表情が不安そうに曇る。この子にこんな顔をさせるのは本当に心苦しい。でも、俺はできるだけそっけなく続けた。

「ちょっと、彼と立ち合わせてもらいたいんだ」

 小さく息を呑む忍ちゃんの横でさくらが大きくため息をついていた。まるでこうなる事は分かっていたという風に。

「先輩本気ですか?」
「ああ、本気だ」
「忍は先輩と会えるのを楽しみにしていました」

 それなのに何故? 口に出さないその問いは当然だろう。だけど、それには俺の独善だと言う以外の答えの持ち合わせがない。

 だから俺は黙り込む。

「野々村先輩達に来てもらってよかった」

 ポツリと呟くさくらから目をそらす。

「真くんどうして……」

 悲しげな小鳥の声。小鳥にも分かるんだろう。俺が遊びや好奇心で彼と立ち会うとか言っているわけじゃないことが。

「真一郎、何を考えているの」
「相川、お前……」

 はっきりと怒った声の瞳ちゃん、あきれたように首を振る御剣。俺はその二人をはっきりと意思を込めて見据える。

「すまない。でも決めたんだ」
「謝る相手が違うよ、真一郎」

 俺の身勝手な言葉は唯子にあっさりと切って捨てられた。だが、確かにそれもそうだ。

「忍ちゃん本当にご免。さくらも色々とだんどってもらっておいて悪いけど……」
「高町君と何かあったんですか」
「いや」

 目の端に涙を浮かべている忍ちゃんに頭を下げる。

 それでも、俺には引き下がるつもりはなかった。






 それからも色々と何か言ってくるみんなを適当にあしらい俺はアップを続ける。そのためにわざわざ高町が来る時間を遅らせたんだし。

 瞳ちゃんや御剣よりも強いと言う事は、当然俺よりも強いだろう。

 だから普通に考えれば俺は自分から喧嘩を吹っかけて負けるヘタレ野郎への道を一直線だ。

 でも、どれだけ強くても同じ人間同士なら付け込む隙は必ずある。

 その事を普通よりもちょっと波乱に満ちた学生生活を送った俺は知っている。

 実力差を埋める数少ない方法の一つは奇襲だけど今回の目的からするとそれは選べない。

 俺はただ高町を殴り倒したいわけじゃないんだから。

 もう一つの方法は相手の慢心を利用する事。

 かなり強い奴らしいから、俺のような外見の奴が相手なら逆にどこかにおごりが生じるはずだ。そこを突く。

 そして、最後の手段。

 手段と言うよりは闘う以前の問題。



 覚悟。



 俺は冗談抜きで命の一つぐらいかけてもいいくらいの気持ちでここに望んでいる。

 それは生半可な気持ちや実力で乗り越える事などできはしない。

 高町には悪いが、今日は勝手に俺が彼の器を量らせてもらう。

 俺の大事な人たちに近づく奴がどんな男なのか。俺はどうしてもそれを見てみたかった。

 ちょっとだけ真雪さんの真似をしてみたかった、と言うのもあるけど。





 俺の覚悟が伝わったのかみんなが話しかけてこなくなった。

 そして、張り詰めた空気が今にも限界に達しそうになった時、嫌になるぐらいに冷静なノエルさんの声が聞こえた。

「恭也様がいらっしゃいました」






 ノエルさんに連れられ庭に姿を現した男を俺は観察する。

 背は俺よりも10センチ以上高い。細身の体だがひ弱な印象は一切なく、むしろ秘められた力強さを感じる。

 手足も長く、均整の取れた体つきはモデルになっても通用するだろう。

 俺とのリーチの差は拳二つ分ではききそうもない。

 だんだん嫌な感じが膨らんできたが、気合でねじ伏せる。戦う前から飲まれていては話にならない。

 パッと見はどこにでもいそうな感じで強さを感じられない。とても御剣や瞳ちゃんをあしらえるような奴には見えない。

 いわゆる達人と言う奴なのだろうか?。

 鋭い目が印象的な顔立ちはとても整っていて、むしろ優男の部類に入りそうだ。もう少し愛想のいい表情をしていたら随分感じが変わるだろう。

 間抜けな思考に蓋をして俺は軽く首を振る。別に顔を見に来たわけじゃない。

 緊迫した空気に不審げな表情を浮かべている高町を正面から見据える。

 軽く驚いた感じだけど、奴はしっかりと正面から俺の視線を受け止めた。



 やるじゃないか。



 賞賛の声は表に出さない。代わりに別のことを言った。

「初めまして。高町恭也君でいいよな」
「ええ、そうですがあなたは」
「俺は相川真一郎」

 そこで言葉を切ると自分でも似合わないだろうなと思うが、なるべく不敵な笑みをうかべる。

 これが高町ならハリウッドは無理でも今すぐ邦画なら悪役が務まるぐらい凄みが出るんだろうに。

 今日は妙に考えが横にそれる。

 もしかしてやりたくないのか俺? でも、ここまで来たら後戻りはきかない。

「悪いけど俺と立ち会ってくれないか?」

 ほんの少しだけ驚いた表情を作ったが、高町は直ぐに平常心を取り戻す。可愛くない奴だな。

 余計にやる気が増してきた。

「いつですか?」
「今、ここで」

 高町の質問に即答する。すると驚いた事に奴は軽く首を引いてうなずいた。

 自分で言っておいてなんだけど、普通はもっとためらうもんじゃないだろうか。

「分かりました」

 高町が声を発すると、周りから悲鳴ともため息とも着かない声が上がる。その悲哀と非難の視線をはじき返し高町は俺を見据え続ける。

 だけど、今日この時ばかりは気合負けするわけにはいかない。俺は意図してせせら笑うような表情を作り高町の様子をうかがう。

 怒らせるのは平常心を失わせる最も初歩の手段だ。だけど、高町はその手には乗らずに口を開く。

「訳をうかがってもいいですか?」
「訳ねえ……」

 今度ははっきりと嘲笑の形を作り俺は宣言する。

「俺の大事な人たちに近づく野郎が気になったからだよ。あいつらと付き合う気なら俺に勝ってからにするんだな」

「真くん!何を言ってるの」

 小鳥の悲鳴のような声が響く。他のみんなも口々に何かを言おうとするが、それよりも早く高町が答える。

「そんなつもりはないですが、確かに俺のような男が大事な友人に近づけば不安になるのは分かります」

 一瞬前まで緊迫していた空気が一気に緩む。何言ってんだこいつ? もしかして変な奴なのか。

 どこか呆然とした表情のさくらが忍ちゃんに目をやると、彼女は軽く肩をすくめて首を振っていた。

「こういう人なのよ。高町君は」

 あきれたような、でも少し自慢げな声。この子は本当に高町の事が好きなんだな。微笑ましい気持ちが湧いてくる。

「…鈍感……」
「……朴念仁…」

 瞳ちゃんや御剣の声も聞こえてくる辺りこいつのこういうところは有名らしい。

「でも、他に方法はないんですか?」
「ない」

 俺の即答に高町はまたしても軽くうなずく。

 高町がその気になったのを感じ俺は両拳を顔の前に持っていく。左の拳を右よりも前に置くその形は攻撃にも防御にも適した形だ。

 心持ち開いた拳の間から高町を睨みつけながら俺は名乗りを上げる。

「明心館空手、相川真一郎行くぜ」

 そして一歩踏み込もうとした時、高町から何かが吹き付けてきた。

「永全不動八門一派 御神真刀流 小太刀二刀術、師範代高町恭也。推して参る」

 そう名乗ると両手をだらりと下げながら静かに歩み寄ってくる。その姿に俺は本能的に恐怖を感じる。

「やめろ高町」

 御剣の叫びを気にも留めずに高町は歩みを止めない。慌てて駆け寄ろうとする御剣と懐に手を入れた弓華をノエルさんが止めていた。

 ノエルさんに随分信頼されてるんだな。少しだけ羨ましくなる。

 だけど周りに気を取られている場合じゃない。高町から目をそらせば一瞬で終わる。俺の本能はそう告げている。

 小太刀二刀と言う割には無手だが、奴から感じる気配。

 これは“殺意”いや“殺気”か。どちらにせよ大差はないが、生涯何度も感じるようなもんじゃない。

 かつての弓華以上の強さで氷村遊以上の洗練具合。今まで感じた中でこれに匹敵するのはは巻島館長ぐらいだ。

 つまりは怪物と言う事だ。

 だけど……。

「はあぁっ」

 相手が何もんだろうとそんなことは関係がない。

 降りかかる死の恐怖を払うように前へ出る。

 元の場所から3歩進んだところで、嫌な感じが急激に強くなった。剣術を使うそうだから、ここからが彼の間合いとかそんなものなのだろう。

 もとより明心館空手にそんなものは関係ない。お互いの拳が届く距離でど付き合うのがフルコンタクト空手だ。

 駆け引きもなく俺は真っ直ぐに高町へと向う。そのスピードは自分で言うのもなんだが、かなり速い。

 明心館の軽量級でも1,2を争う速さのはずだ。でも、軽量級の選手が階級の違う選手と戦う時に絶対的に必要なものは速さではない。

 どれだけ速い拳だろうと効かなければ意味がない。だから必要とされるのは“力”になる。

 骨格や体重で劣る軽量級の俺は技の切れには自信があるが、力不足に悩んでいた。

 それを「肉を食え、力をつけろ」とあっさり言ってのけたのが巻島館長だった。そして筋肉トレーニングの重要さを強調された。

 そして、同時についた力を最大限に生かせるようにと教えてもらった技の出番はもう少し先になりそうだ。

 まずは右の拳を高町に突き出す。

 明心館に入ってきた門下生の誰もが最初に習う技。

 中段への正拳突き。

 今まで一番繰り出してきた最も自信のある攻撃。高町のみぞおちのやや下に決まったその突きにはかなりの手ごたえが有った。

 だから、俺は確信を持ってもう1歩踏み出した。

 悪いな。後で好きなだけ殴らせてやるから、今は眠ってくれ。

 少しの失望とともに俺は零距離から次の技へと入ろうとする。



 吼破・改



 巻島館長が編み出した、必殺とも言える技だ。零距離から爆発的に踏み込み、その力を全て拳に込める。

 だが、技のモーションに入る寸前に物凄い悪寒が全身を駆け巡った。

 まずい。

 本能のおもむくままに真後ろへと跳ぶ。するとたった今まで俺の顔があった位置を凄まじい勢いで高町の膝が駆け抜けていった。

 あのままアホみたいに前に出ていたら俺の顔面はスイカ割りのスイカのように無残に砕けていただろう。

 その光景に戦慄する暇もなく俺は顔面を守ろうと両腕を引き上げる。

 必死の思いで後ろに逃げたのはいいが、この位置はかなり失敗だ。

 普通、後ろに逃げる時は真っ直ぐに逃げずに、左右どちらでもいいので斜めに逃げなければいけない。

 そうでないと必死に稼いだ距離が前に踏み出すだけで詰められてしまう。

 俺の意識が攻撃から防御へと切り替わろうとするその一瞬に高町は雷速の勢いで突っ込んできた。



 速い。



 俺もそれなりに速いけどこいつのはものが違う。

 そして、先ほどまで脇に垂らされていた両手が疾風の早さで俺のガードを弾き飛ばした。

 無手ではあったがその動きは確かに剣の軌道だった。

 俺は無防備になった顔面に来る次の攻撃を警戒し顎を引こうとする。

 顎を肩につけていれば最悪でも脳震盪は免れる。痛みは我慢できるが脳を揺らされては立つことはできない。

 両手を使っての攻撃の後だ。手を引き戻しても、足が来ても間に合うだろう。

 そんな俺の甘い考えをあざ笑うように奴の両手が魔法のように翻り俺の顎を左右から2度揺らした。



 小太刀二刀御神流 奥義の陸 薙旋


 その技の名前を知ったのは後になってからの事だった。

 この時の俺は何が起こったか分からず、ただ崩れ落ちる事しかできなかった。





 パタパタと軽い足音が近づいてくる。

 手足を動かすどころか、体の自由は全く利かない。でも意識はかろうじてあった。

「真くん、真くん」

 小鳥の涙混じりも声が聞こえてくる。

 ご免な泣かせて。そう思うだけで言葉は口から出て行かない。

「野々村さん、頭を揺らしてはダメ」

 瞳ちゃんの慌てた声。

 落ち着いているように見えて、結構あれな人だからな。そんな人を心配させたくせに、そう思う。

「高町、やりすぎだ」

 御剣の押し殺した声も聞こえる。

 そいつを責めるのは筋違いだぞ、御剣。これぐらいしないと俺は止まれなかった。

「ひどいよ高町君」

 唯子の声もいつもとの明るさが感じられない。

 違うんだ唯子。ひどいのは俺なんだ。

「先輩、大丈夫ですか」

 さくらが俺を気遣い声をかける。

 やっぱりこの子は優しい。それなのに俺は心配をかけてばかりだ。

「真一郎、何でですか……」

 弓華の呟きに俺は答えてやれない。

 暗闇の世界から抜け出し、幸せになろうとする弓華のこれからを汚すようなまねしてしまった。

「高町君、どうして……」

 忍ちゃんの悲しそうな声。

 思えば彼女に一番ひどい事をした。詫びてもすむ事じゃないけど……。

「どうしてとは?」
「なんでここまでしたの!」

 一人だけ冷静な高町の声。それに腹を立てたのか、瞳ちゃんが絶叫する。

「ここまでと言いますが、俺からすればむしろこの程度です。骨の何本かは折らないといけないかと思っていました」
「なんだと」

 御剣の押し殺した声。止めろ御剣。そいつは……。

「何の理由か分かりませんが、命がけで向ってくる人間を止める方法などそんなにありません」

 高町の言葉にみんなの視線が俺に集まる。だけど、俺はそれに答えられない。



 ちくしょう。かっこ悪いな。



「命がけって」
「本当に命を失っていいとまで、思っていたかは分かりません。でも、それぐらいの気迫を感じました」

 そう、この男は、驕らず、昂ぶらず、侮らず。俺の思いを正面から受け止め、それをはじき返した。

 こればかりは素振りや道場で試合をしたところで身につくものではない。

 彼はきっと初めてじゃない。

 命がけで何かをしようとする人の前に立ちはだかる事が。

 だから、俺の理不尽な要求にもたじろがず。小鳥達の非難にも揺るがない。

 俺と立ち会うと決めた時にその全てを引き受ける覚悟ができていたから。



 何が器を試すだよ。俺は胸の中で呟く。



「ねえ、高町君なんで相川さんと戦ったの」

 忍ちゃんの静かな声。少しの間黙っていた高町の返事には今日始めて言葉に感情がこもっていた。

「俺の良く知っている人に似ていたからかな……」

 それが誰なのか、結局は告げなかった。その代わりに、質問を返してきた。

「皆さんに一つだけ聞きたいことがあるのですが」
「なにかな」

 小鳥のそっけない声。でも、高町はそれを気にも留めずに言葉を続ける。

 嫌われて当然。か、こいつも損な生き方してるな。

 俺がそんなのんきな事を考えていられてのはそこまでだった。



「相川さんが、こんな風に余裕をなくしてしまったのはいつからですが」



 心臓が痛くなるほどの沈黙が降りてきた。

 こいつは何を言っている。

 いや、何を知っている。

 俺は動かない手足に必死に力を込めようとする。

「な、何を言ってるのかな高町君は……」

 唯子の声が悲しいほどに動揺している。多分、他のみんなも同じような感じなんだろう。

「ここにいる方たちは、俺ごときが言うのもおかしいですが、皆さん魅力的な人たちだと思います」

 淡々と高町が告げる。内容はあれだがこの口調では誤解のしようもないだろう。

「そんな皆さんが、今でもこれほど慕っている人が軽はずみにこんな事をするはずがない」
「そんなことは……」
「本当にそう思っているんですか」

 弱々しく反論するさくらに高町は直ぐに切り返す。口調はそっけないが全く信じていない事は明らかだ。

 このやり取りで少し分かった事がある。みんな俺がどこか変わったと思っている、ということだ。

 まあ、それも当然か。俺はそれほど器用な方じゃない。

 だんだんと痺れの取れてきた手足を自覚しながら俺はこれからどうしようかと思いをめぐらす。

「はっきりとは覚えてないけど7年か8年ぐらい前だと思うよ」

 唯子が口調の割には確信ありげに話す。

 ああ、そうだよ唯子。よく覚えているな。

「それに、5月だと思う」

 続けて小鳥が話す。

 みんなは覚えてないはずなのに。そんなにも俺は分かりやすかっただろうか。

「そうだな、そのぐらいの頃から相川はゴールデンウィークに誘っても出てこなくなった」

 何かを懐かしむような御剣の声。

 そうだよ、俺はあの日からずっと待ち続けている。

「それを知ってどうするんですか」

 弓華の冷たい声。

 やっと開けてきた視界に、俺を守るように立つ御剣と弓華が見えてきた。

 そばには小鳥と唯子の気配がする。さくらや瞳ちゃんも近くにいるみたいだ。

 つまり、高町はこの人たちをまとめて向こうに回しているわけだ。それだけでもとんでもない胆力だと思う。

「きっと俺にはどうにもできません」
「あなたと言う人は……」

 高町の答えを聞き、弓華の声に殺気が混じる。それを平然と無視しながら高町は言葉を続ける。

「ただ、俺はそれを知らなければいけない。そう思っただけです」

 ようやく焦点の合ってきた俺の瞳を高町は正面から捉えてきた。

「それが、俺がここに呼ばれた理由です。違いますか相川さん」





 そんなわけあるか。



 お前は俺を買いかぶりすぎている。

 確かにそれだけじゃないけど、結局は嫌なだけだったんだ

「違わない……」

 でも、もつれる舌で俺はそう答える。

「日を改めた方がいいですか?」
「いや、いい。今日の方が都合がいい」

 たどたどしいながらも俺の舌は何とか動く。

「しかし……」
「いいんだ、こうなったらみんなにも聞いて貰ったほうがいい」

 そして、俺は体を起こした。さすがに立ち上がることはできなかったので、足を伸ばした状態で座り込んだ。

 そして、その格好で少し空を見上げてみた。

 どれだけ見てもあの日のように雪が落ちて来そうにはなかった。



 少しの間物思いにふけると今日一番迷惑をかけたはずの相手に頭を下げた。

「迷惑をかけたね。すまない」
「いえ、それよりも顎は大丈夫ですか。砕かない程度には手加減をしましたが」



 手加減、ね。



 俺は必死だったのに彼にはそれほど余裕があった。敵わないわけだ。

 分かっていた事ではあったがやっぱりちょっとむっと来る。まあいい、そこは流す事にしよう。何度やっても勝てる気はしないし。

「ああ、大丈夫。しばらくは硬いものは食べられそうにないけどね」

 苦笑する俺をみんなが睨みつける。それを気づかぬ振りをして俺は言葉を続ける。

「少し話を聞いてもらえるかな」
「ええ、構いません」

 相変わらず淡々と返してくる高町に苦笑しながら俺は思い出話を始めた。



 5月に降った雪の事を。



 そして俺が愛した人のことを。



 俺が話し終えてもしばらくの間誰も口を開かなかった。

 でも。いや、やはりと言うべきか。高町が最初に口を開いた。

「それで、相川さんはどうされるつもりなんですか」

 やっぱりそれを聞くよなあ。その事にはできれば触れて欲しくはなかったんだけど、しょうがない。

「雪さんに会いに行こうと思う」
「会えるんですか?」
「それは……」

 俺は、一瞬言いよどんだ。しかし、こいつ聞きにくいことを聞いてくる奴だな。

「会えたとしてどうする気ですか。もしかして取り返すつもりですか」

 そして変に鋭い。

「先輩、無理です」

 さくらが悲鳴を上げる。俺の話を聞いたみんなは雪さんとざからの事を思い出し始めていた。

 それはつまりあの時の絶望的な戦いを思い出すと言う事。

 正直、俺一人でどうにかなるなんて思っていない。

 でも、



「もう、限界なんだ」



 そう、もう限界だ。

 雪さんに会えないことも。

 彼女の事を少しずつ忘れていく日々も。

 何もかもなかったことにして、みんなの優しさに縋ってしまいそうになる事も。

 いつか雪さんが帰ってきた時に笑顔で迎えるため、胸を張って生きようと決めたのに。



 みんなは痛ましげな表情をしたり、目を背けたりしている。

 ただ一人を除いては。

「まさかとは思いますが、後のことは俺に託すとか言うんじゃないでしょうね」

 みんなのことを俺が守ってきたなんていうつもりはない。でも、俺が頼りにしてきた程度には頼られていたと思う。

「あ、ああ」
「お断りします」

 うろたえる俺に高町は無情に宣告する。別に四六時中張り付いて守って欲しい、なんて訳じゃない。

 何かあった時に、ほんの少しでいい、みんなの話を聞いてくれたら。そう思っただけだった。

 誰に頼まれたわけでもなく、下心があるわけでもないのに、彼はそうやってくれていた。だから、ほんの少し期待してみた。

 でも、やっぱり身勝手な話だったみたいだ。

 周りを見ると、高町に拒絶された小鳥達がうつむいていた。さっきの戦いの時には腹を立てていたようだけど、それとこれとは話は別らしい。

「高町君、そんな言い方しなくても」

 忍ちゃんの声にも彼は首を横に振る。

「俺ごときに、いや、他の誰にもあなたの代わりは務まりません」
「えっ」

 呆然とする俺に高町は言葉を続ける。

「ちょっと違いますね。誰も他の人の替わりになんてなれません」
「それは……」

 何も言えなくなった俺に高町は初めて表情を崩した。



 それは不器用ながらも温かみのある笑顔だった。



「どうせ会いに行くならこれから一緒に行ってみませんか?」


 
 そして、その笑顔のままそう言ってのけた。











 本来ならこのSSは次の話と合わせて1本の話になるはずでした。ただ
、ここまでで結構長くなってしまったので区切りをつけることにしました。そのため次の話はこの後すぐからのスタートになります。

 真一郎の相手が雪になるのはいずみの話のころには決めていました。ただ、決めていたのはそれだけで話の着地点がこういった形になることは想定していませんでした。
 割と先の事を決めないと書けないたちなので自分にしては珍しい感じでした。



[41302] きっと誰かが見ていてくれる-いまひとたびの名残の雪
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/02/27 01:38

 春に降る雪を名残の雪という。

 かつて、冬でも温かい海鳴にも一度だけその名残の雪が降ったことがある。

 一夜のうちに淡くはかなく消えた、その雪のことを覚えている者は、ただ一人を除いてはいない。

 手を伸ばせば消えてしまうような、微かな思い出だけを頼りに、彼は再びあの日見た光景を追い求める。

 その果てに何が待つのかを知らぬままに。

 それでも、望みもせず、あがきもせずに何一つ手に入れることはかなわないと知っているから。












 月村邸で真一郎と戦った後、恭也は今回の発端とも言えるざからの様子を見に行こうと提案した。

 恭也は真一郎と二人で行くつもりで話しをしていたのだが、その場にいた全員がついていく事を強行に主張した。

 恭也はともかく、微妙に負い目を感じていた真一郎はそれを拒みきれず、結局全員で月村家所有のワンボックスカーで移動することになった。

 運転手は当然ノエル。助手席には女性と密着するわけにはいかない、と言うことで恭也が座ることになった。

 普通ならかなり余裕のある車内だが、総勢で10人ともなると、後部座席のほうはかなり窮屈な感じになっていた。

「高町君はいいよね。随分と余裕があって」

 忍は助手席に収まっている恭也にむかってからかうように言う。

 先ほどの戦いの余韻か、微妙に気まずい雰囲気に包まれている車内をどうにかしたいためか、不自然なぐらい明るい口調だった。

 大体、生の感情をぶつけ合ったりすると、親しい者同士でもかなり気まずくなる。

 まして、恭也とはそれほど親しくないものも多い。

 どうやって話せばいいのか、そして何を話せばいいのか。そう言ったことも分からず口をつぐんでいる者がほとんどだった。

 そんな空気に捕らわれていない男は、忍の言葉にわずかに眉をひそめながら答える。

「確かに俺が助手席に座っているのは申し訳ないと思う。だが、相川さんならいざ知らず、俺がそちらに座るわけにはいかないだろう」

 ある程度予想のつく答えだったので、忍のため息は小さなものですんだ。

「それよりもさ、さっきはどうして小太刀を使わなかったの? 持ってたのに」

 車外からは見えない位置に置かれている小太刀を指しながら忍は尋ねる。

 もともと月村邸に呼ばれたときによくするように、ノエルと立ち会うつもりだった恭也は、小太刀を持参していた。

 だが、先ほどは背負いに差した小太刀は使わずに、最後まで素手で押し通していた。

「もしかして手加減とか?」

 真一郎の様子を気にしながら、それでもきちんと聞いてきた。これも忍なりの気遣いだった。

 気にはなっていても誰も聞けないでいることを、尋ねてくる。彼女にとっては恭也も、真一郎たちも大事な人たちなので誤解などはあって欲しくなかった。

「今日は真剣しか持ってこなかったからな。なにか間違いがあってもまずい」
「え、だって高町君なら峰打ちとかできるでしょ?」
「できない事はないが、あれはあれで難しい技法なのでな、返し損ねたら大怪我ではすまない」

 恭也の言葉に小鳥が小さく身震いする。どうやらその光景を想像してしまったらしい。

「でも、上様は抜いた後、見せ付けるようにひっくり返していたよ?」

 時代劇でみた事をそのまま聞いてくる忍に恭也は苦笑を漏らす。

「何で見たか知らんが、峰打ちというのは普通に刀を持って、当たる瞬間に刃を返して打つんだ」

 実際のところ峰打ちというのは相当高度な技術を要する。まして、片手で小太刀を操る恭也にとっては、より難易度が高くなる。

「だから、先ほどの相川さんのように踏み込みの早い相手には、返すのが間に合わないこともある」

 恭也の技量を持ってすれば、事故の起こる可能性はほとんどないだろう。それでも、真一郎の気迫は恭也に万が一の事態を想定させるほどのものだった。

「素手なら平気だったってこと?」
「平気なわけじゃない。可能性の問題だ」

 もちろん素手でも事故は起こりうる。それでも動脈のあるところなら、皮膚の下3cmも潜り込んでしまえば生死が決してしまう刃よりはましだろう。

「やっぱり手抜きだったって事じゃない」

 黙っていられなくなったのか瞳が口を挟んでくる。先ほどの勢いのまま、怒ったように言う瞳に恭也は真摯に答える。

「別に俺にも余裕が有った訳ではありません。事実、あまり表には出さない奥義まで使う羽目になりました」
「奥義?」
「薙旋といいます。俺が自在に操れる唯一の御神流の奥義です」

 どこか苦い口調で答える恭也に瞳は黙り込む。

 恭也が奥義まで使ったのは、求めている結果が真一郎よりも高かったからだ。

 ただ、相手を打倒すればよかった真一郎と違い、なるべく真一郎にダメージを負わせず、それでいて確実に無力化する。

 そういった難問を為すために、最も信頼のおける技である薙旋を使用した。

 そんな事情が分からなくても、複雑な捻転運動を駆使した、4連撃の軌道を思い出し、瞳の背筋に冷たいものが走る。

 自分では引き出すことのできなかった恭也の実力。その底がどれくらいなのか想像もできなかった。

「それにしても御神の名を出したのは行きすぎじゃないのか?」

 今度はいづみが問いかけてきた。

「そうですね。ただ、相川さんの覚悟に対するのに、俺には他に何もなかったので」

 恭也の言葉に忍が小さく拳を握り締める。きっと彼女が思っているような理由で言っている事ではない。それでも、胸に残ったしこりは消えることはなかった。

 再び沈黙が降りた車内にノエルの声が響く。

「皆様、目的地が近づいてきました」

 その言葉を終えると同時に車外に湖が見えてくる。前に来た時はあれほど苦労したと言うのに、今は車であっさりと到達。

 その落差に前回湖まで来た者は、思わずため息を漏らした。





 穏やかな春の日。

 微風に小さく波打つ湖面は、柔らかに日差しを跳ね返し、輝いていた。

 湖面を渡る風から、日に日に色濃くなる若葉の放つ匂いを感じ取る事ができた。

 何の変哲もない風景に多少意表をつかれながら、恭也は真一郎に問いかける。

「この底に“ざから”と言うのは封じ込められているんですか?」
「ああ、そのはず」
「それで、当てはあるんですか」

 恭也のもっともな質問に真一郎は黙り込む。

「……まさか何も考えていないとか?」

 唯子の冗談めかした質問に、真一郎はそっぽを向く。

「冗談だよね?」
「しょうがないだろう、急に来るなんて思ってなかったんだから」

 逆切れ気味に叫ぶ真一郎に苦笑しながら、さくらはいづみや弓華と顔を見合わせる。

 霊剣使いの二人も、HGSのリスティもいない状況でなし崩し的に、あの時の戦いを繰り返すのは正直分が悪い。

「とりあえず社に行ってみますか?」

 誰からも意見が上がらないので、さくらが提案する。

 かつて、薫と共に異変を調べに行ったときにはご神体が失われていたが、今日のこの感じなら何もないだろう。

 さくらとしても、真一郎と雪を再び会わせてあげたい気持ちはもちろんある。

 ただ、雪女である雪と、人間の真一郎。この二人の関係やざからの事を思えば気軽に賛成できるものでもない。

 むしろ、どうにもできない。そう真一郎が悟ってくれる事を願っていた。

 だが、さくらはチラッと視線を走らせる。


 彼の存在がイレギュラーなのよね。


 何かを忍と話している恭也を視界の隅に収めながら、妙に心がざわつくのを覚えた。

 それが期待なのか、不安なのかまでは分からなかったが。





 湖を回り込むと程なくして小さな社にたどり着いた。

 別に取り立てて神秘的な感じがするわけでもなく、大げさなつくりもしていない社を前にして、真一郎は考え込んでいた。

「ねえ、さくら。これ壊したりしたらダメかな」
「ダメです。何が起こるかわかりません。最悪、ざからが暴れでもしたら封印するまでどれだけの被害が出るか分かりません」
「そうだよなあ……」

 別に本気で口にしたわけでもないが、さくらの冷たい口調に真一郎は少し落ち込む。

「ふふっ」
「なんだよ、小鳥。笑うことないだろ」
「ごめんね。でも、こんな真くん久しぶりだから……」

 昔、一緒に遊んでいた頃は、真一郎はいつでもみんなの中心にいた。そして、よくトラブルを起こしていた。

 だが、他の人間のトラブルにはいつだって真っ先に首を突っ込み、何とかしようとするのも彼だった。

 それが、いつの間にか少し距離をとるようになり、1歩引いたようなところから物事を見ていることが多くなった。

 それは、普通ならば成長と言ってもいいのかも知れないが、どこか寂しい思いをしていたのも事実だった。

 だから、小鳥はもう一度、真一郎に笑いかけた。真一郎はすねたような、照れたような顔で小鳥の頭を乱暴に撫で回した。

「あんまり変なこと言うなよ」
「うん。ごめんね」

 それでも嬉しそうな小鳥を軽く睨みながら、真一郎はみんなを見渡した。

「それじゃ戻ろうか。ここにいてもあまり意味はないみたいだし」

 そう言うと皆を促して歩き出す。確かに、何の変化も見られないここにいても意味はないだろう。

「相川、まさか後から一人でこっそりと来るつもりじゃないだろうな」

 いづみが釘を刺す。だが、真一郎は苦笑しながら首を横に振る。

「さすがに俺も一人でどうにかなるなんて思ってないよ」
「怪しいですね」
「そんなこと言うなよな」

 弓華の容赦ない突っ込みに、真一郎は思わずぼやいた。

 そして、和やかな雰囲気のまま湖の方へと移動する。

 そして湖面に近づいたときに異変は突然起こった。





「かはっ」
 
 真一郎の口から我知らず声が漏れる。

 穏やかだったはずの湖に得体の知れない気配が唐突に立ち込めていた。

 その気配を感じたものは、皆等しく動きを止めていた。

 絶対に立ち向かう事が適わない、そう言う存在に向き合ったときは誰でも恐怖に捕らわれる。

 そこに“在る”ものは間違いなく恐怖をつかさどる存在だった。

 その場の全員が恐慌に飲み込まれ、なすすべもなく立ち尽くしていた。

 だが、凍りついたように動かない全身を意識しながら、それでも真一郎の血は滾っていた。

 今まで諦めていた年月からすれば、身を縛る恐怖など何ほどのものもない。

 高ぶる闘争心は恐怖に打ち勝つ数少ない方法だ。

 だから、真一郎は全ての思いを込め叫び、前へと踏み出した。



「ざから」



 その背を眺めながら恭也はポツリと呟いた。

「相川さんは、勇敢な方ですね」

 そう言う彼もいつの間にか足を踏み出し、真一郎の背を護るような位置へと動いている。

 真一郎が勇敢な男だと言う事は、ここにいる誰もが知っている。

 殺し屋だった弓華に立ちはだかった真一郎。

 夜の一族の氷村遊に立ち向かった真一郎。

 かつての勇姿を思い、彼を知る女性は皆胸を熱くする。



 あれが、私たちが好きになった人。



 誇らしげに胸の中で呟きながら、さくらは首を傾げる。

 真一郎が勇気のある男なのは良く知っている。だが、これは真一郎にとって一世一代と言ってもいい場面だ。

 彼とてもいつだってこんな風に振舞えるわけもない。

 ならば、ほとんど行きずりに等しい関わりしかない恭也は、どうして己の恐怖を振り払う事ができるのだろう……。



 だが、そんなさくらの考えは真一郎の絶叫によってさえぎられた。



「雪さんを返してくれ」



 雪は別に真一郎のものではない。

 ましてや雪がざからと共にあるのは自ら望んだことだ。

 それはただのエゴイズム。

 子供がダダをこねるような身勝手な叫び。

 それでも、その必死な思いは見るものの心を動かす。



 これほど強く、思われることができたらどれほど幸せな事なのだろう。



 思わず皆がそう思ってしまった。

 だから、次の一瞬に行動が遅れてしまった。

 ただ一人を除いては。



 地面を割り触手のように真一郎に向って伸びる無数の根。

 かつて見た時よりも圧倒的に数が少ない。

 それは、うまく力を発揮できないせいなのか、単に本気でないのか、判別はできない。

 ただ、一心不乱に湖を睨みつけているせいで、無防備になっている真一郎は回避のための行動すら取れない。

「あっ」

 誰かが漏らしたようなため息のような声。

 ほんの数瞬後に、現実になるだろう光景を思い描き、それでも防ぐためには決定的に時間が足りなかった。

 目を閉じる事すらできない刹那の間。

 だが、真一郎へと伸びた根は唯一つとして彼へは届かなかった。

 黒い閃光が翻り、根をことごとく宙へと舞わせたためだ。



 小太刀二刀御神流 虎乱



 神速状態から放たれたそれは、誰の目にも留まることなく結果だけを示した。

「見えなかった……」

 呆然と呟くさくら。夜の一族の驚異的な動体視力を持ってしてもその太刀筋を見切ることはできなかった。

「これが高町君の本当の実力」

 悔しげに、でも、少しうれしそうにつぶやく瞳に向って、力強い宣言が聞こえてくる。



「誰かを護って戦うとき、御神の剣士は誰にも負けない」



 恭也の信念を語りながら忍は誇らしげに胸を張る。

「忍それは……」
「高町君がね、いつもそう言ってるの。誰かを護る時、自分の剣は本当の全力で戦えるって」
 
 だが、忍を護るように付き従っているノエルの手首からそれに異を唱える音が鳴る。

 手首にブレードを装着したノエルは恭也へと向って歩き出した。

 そして、その瞳を真紅に染めた忍も後に続く。

「忍、あなた何をするつもりなの」
「悔しいからね、護られるだけの人になんてなってあげない」

 少し悪戯っぽい感じで、しかし、その瞳に宿る決意はどこまでも揺ぎ無かった。

 いまだ恐怖に縛られ身を動かす事もできないさくらは忍の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 でも、さくらだけでなく、戦う力をほとんど持ちあわせていない小鳥ですら思う。

 自分はここに何をしに来たのだろうか、と。

 恭也がその背に真一郎や自分たちを護り、その彼の力になりたいと忍たちが歩き出したと言うのに。

 それでも、逃げ出そうとは微塵も思わなかった。何もできなくても、ここで起こることを見逃してはいけない。

 どこかでそんな風に感じていた。
 




“……その太刀筋は……”

 どこか感心したような声が直接脳裏に響いてくる。

 圧倒的なまでの存在感を感じさせながら、その声からはかつて暴れまわったという粗暴さが欠片も感じられなかった。

 だが、そんなことは気にも止めず、真一郎は性急に問いかける。

「お前がざからか」 

“……確かに我はかつてそう呼ばれていた……”

「なら話は早い。雪さんを返してくれ」

“……お前のものでもあるまいに……”

 再度絶叫する真一郎に向って、あきれたような響きが混じる声が投げかけられる。だが、真一郎は耳を貸さない。

「そんなことはどうでもいいんだよ」

 その叫びに呼応するように、ふたたび不穏な気配が立ち込める。

 真一郎を護るために恭也は足音一つ立てずに移動した。

 その横には両腕にブレードをつけたノエルが並ぶ。

 忍は真一郎たちを全員視界に収められるように、少し下がった位置につけていた。

 恭也はそちらに視線をちらりとやると、かすかに微笑む。

「月村、それにノエルもあまり無理はするなよ」
「それはこっちのセリフだよ。ね、ノエル」
「はい」

 短く答えるノエルと、一歩も引かないと言う風に睨みつける忍に、恭也は軽くうなずいた。

「そうか。じゃあ後ろは頼む」

 そう言うと恭也はざからからの攻撃をさえぎるように真一郎の前に立つ。

 短い言葉に忍の顔が輝き、ノエルも表情はあまり変わらなかったが、力強くうなずいた。

 恭也の両手に握られた小太刀はだらりと下げられている。

 だが、それは気を抜いているためではなく、どんな事態にも対応できるように、不要な力を入れていないだけだ。

 その後ろ姿を、忍はほんの少し不安をにじませた瞳で見つめていた。

 すると、どこか面白そうな響きを含んだ声が、恭也にむかって放たれる。

“……お前は何者だ……”

「何者とはどういうことだ」

“……数多の人間を見てきたがお前のように剣を振るうものを見たことがない……”

「そうか? 俺程度の人間は結構いると思うが」

 恭也はある意味異常な自分の環境を無視して、首を傾げる。

 その、どこかちぐはぐなやり取りにいらだつ真一郎は、割り込むように問いかけた。

「雪さんはどうしている? お前が出てきているって事はもしかして」

“……眠っている……”

「じゃあ、何でお前が出てこれる?」

“……我も眠っている。言ってみればこれは夢のようなものだ……”

「夢だと……」

 どこか呆然と呟く真一郎に呆れたようなざからの声が聞こえる。

“……お前は問うてばかりだな……”

「俺からも聞きたいことがあるんだがいいか?」

 恭也の言葉に一瞬、沈黙が落ちる。

“……なんだ……”

 だが、結局ざからは不思議そうに答えた。

「その前に、お前の呼び名は“ざから”でいいのか」

“……我を呼ぶときに人はそう呼んでいた……”

「そうか。では、ざからお前の事情は相川さんから大体聞いた。かつてお前が骸さんと交わした約束をいまだ守るために眠りについている。そう言うことでいいんだな」

“……そうだ、我を必要としたのも、はあの男だけだったからな……”

 恭也はざからの言葉に首をかしげながらさらに問いかける。。

「必要と言うのはどういうことだ」

“……骸は長き生の中で、我の力、いや我を欲した、ただ一人の者だ……”

「そうか、それまでは誰もお前と向き合うことすらできなかったのか?」

“……人と言うのは脆いものだ……”

 どこか悲しげにいうざからに、恭也は不思議そうに問いかける。



「それは構わないんだがな、お前と向き合える存在が必要だったなら何故待っているんだ?」



“……どういう意味だ……”

「いや、世界は多分お前が思っているよりも広い。探せば一人や二人はいるんじゃないか」

“……笑止な。そんなものがいるものか……”

「まあ、そこは俺には分からないところかも知れない。霊力とかには疎いしな」

 恭也が苦笑する。よく見ればその手は小さく震え、全身には不必要なこわばりが見られる。

 彼とても緊張していないわけではない。それなのに穏やかに話しかける様子はとても奇妙なものに思えた。
 
 その上、恭也は極めて自然な動作で両手に下げていた小太刀を納刀していた。それがあまりにさりげなかったためか、ざからはかまわず話し続けた。

“……あるいは雪が身ごもった子がそれかとも思ったのだが……”

「待てよ、どういうことだよ」

“……なんだ知らんのか。雪は身ごもっているぞ……”

 その言葉に真一郎の体が小刻みに震える。あまりの憤激に握り締められた拳から、一滴の血が垂れた。

 それすらも気にせずに真一郎は誰にともなく問いかける。

「なんだよそれ、聞いてないよ。どういうことだよ」
「真くん、落ち着いて……」
「なんで、そんなこと。俺なんにも知らなくて……」
「真一郎、待って」

 だんだんと大きくなっていく声に危惧を覚えた幼馴染二人が止めようとするが真一郎はその言葉に耳を貸す余裕がなかった。

「雪さん、聞こえてるか。なんで、そんなことも言わずに行っちゃうんだよ。答えてくれ」

 真一郎の悲痛な問いかけが湖に響き渡る。

 だが、それに答えるものは誰もいなかった。

 雪がなぜ子供のことについて言わなったのか?

 理由はいくらでも想像できる。それでも、その子は自分の子でもあるのだ、何故教えてくれなかったのか。

 考えても仕方のない思いに捕らわれ、ついに真一郎はその場に膝を付いてしまった。

 その様子を痛ましげに眺めながら、それでも恭也は落ち着いた声で問いかける。

「お前は真一郎さんと雪さんの子供がお前と向き合ってくれると思っているのか?」

“……そうであればいいと思っている……”

 ざからの言葉に恭也は大きくため息をついた。そして小さく首を横に振ると無情な一言を告げた。



「無理だ」



 真一郎がはじかれたように顔を上げる。他の者も恭也を注視しているが、何も言えずにいた。

 先ほどとは違う、触れれば弾けてしまいそうな緊張感に満ちた、沈黙が支配していた。それを打ち破ったのは意外にもざからだった。

“……なぜだ?……”

 恭也は不機嫌そうな様子を隠そうともせずに、ぶっきらぼうに告げる。

「ざから、お前も雪さんも人のこと、特に赤ん坊のことが何も分かっていない」

“……どういう意味だ……”

「相川さんと雪さんの子供だとしたら、人としての特質も受け継ぐんじゃないのか?」

“……その可能性はある……”

 今日始めて怒りの感情を滲ませながらそれでも淡々と恭也は言う。

「お前が思うよりも遥かに人の赤ん坊は弱い。お前がため息をすれば風邪を引き、クシャミでもすれば死んでしまうほどに」

“……そうなのか……”

「ああ、そうなんだ」

 再び静まり返った湖面に恭也のため息がこぼれる。

「お前は力を抑えられないのか? それと、人型になれたりはしないのか」

“……何故だ?……”

「いや、俺の知っている妖が結構器用に人型になるんで聞いてみただけだ。できないのなら……」

“……力の方はともかく、人型の方はできぬ事もない……”

 その言葉を聞き、恭也が思案げな表情で動きを止める。

「それがどうかしたの高町君?」
「ああ、いや素人の思い付きだ。あまり気にしないでくれ」

“……言ってみろ……”

 忍の問いかけに恭也にしては歯切れの悪い答えを返す。だが、何を感じ取ったのかそれに対してざからが先を促す。



「お前が人の姿を取れて、赤ん坊に対して影響を与えないほどに力を抑えられるなら、それはお前が人と和していけるという何よりの証になるんじゃないか?」



 恭也の言葉の意味が浸透するまでしばしの間があった。

 最初にその意味に気づいたのはさくらだった。

「高町君……それって」
「ええ。ざからが人と和して生きていけるのなら、それを閉じ込めるために雪さんが一緒に眠りにつかなくてもいいんじゃないでしょうか?」

 穏やかな恭也の声にさくらは絶句する。確かにそうできれば良いに決まっている。だが、それを行うための道のりを思っただけでもめまいがしそうになる。

“……お前は何を言っている……”

「順番が逆なんだ、ざから。お前と向き合う相手が欲しければ、お前も相手に合わせる努力が必要だ」

 幼子を諭すような恭也の声。
 
 理屈はどうとでもつけられる。

 妖だから、人だから。

 力が違いすぎる。

 性質が違う。

 存在の根底からして違う。

 それでも、それは単なる言い訳に過ぎない。

 他ならぬざから自身が、他者と触れ合う事を望んでいると言うのに、そのための努力を一方だけに強いるなどおかしな話だ。

「そんなことも分からなかった昔のお前ならともかく、今なら分かるはずだ」

 自分が怖いように相手だって怖い。自分が相手のことを分からないように、相手だって自分の事は分からない。

 そんな簡単な事すら分からず、ざからは暴れまわった。

 骸が立ちふさがったことで、自分が欲しているものがなんなのかは気づく事ができた。



 誰かに必要として欲しかった。



 ただ、骸のほかにざからとコンタクトを取れたものがいないため、他のやり方を知ることができなかった。

「向き合うとか、必要だとかそんなことはその後のことだ。それに」

 いったん言葉を切り、恭也は湖面を、そしてその向こうにいるはずのざからを射抜くように見つめる。



「お前に届く者がいないのなら、育てればいいんじゃないか?」



 静まり返った湖に恭也の声だけが響き渡る。

 この場にいる誰の胸の中にも、恭也の言葉を否定するような気持ちが湧き上がる。

 それでも、それを口に出す事はできなかった。

「今ここには、かつての骸さんよりも非力なのに、臆することなく立ち向かえる相川さんがいる」

 恭也はそこで言葉を切ると薄く微笑みながら、この場の全員を見渡す。

「それに、ここにいる人たちはお前を恐れながらも、逃げることなくお前と向き合っている」

 激情にかられるわけでもなく、闇雲に戦いを仕掛けるわけでもない。

「お前と向き合ってくれる人ならこんなにいるじゃないか。後は力だけだと言うのなら、自分の手で育ててみればいいんじゃないのか?」

 ただ、穏やかに話し掛ける。

 その姿を見ながら真一郎は物思いに沈む。



 戦うでもなく、お互いの意思をぶつけあうのでもなく、普通に話す。



 いま、この場で恭也がしていることこそ、ざからが望み、骸が後世に託したことなのではないのか?

「なあ、ざから。高町君が言ってることは、本当に無理なのか?」

 ざからの気配を感じてから始めて、穏やかな声で真一郎は問いかける。

 一度は地にひざを付いた足は再びしっかりとその体を支え、下を向いていた瞳はいつの間にか力強く前を見据えていた。

“……力の抑え方などわれは知らぬ……”

「知らないってことはできるかも知れないんだろう?」

 真一郎の力強い言葉にざからは沈黙する。

「先輩無茶です。そんなことできるわけありません。それに、ざからのような大妖がよみがえったりしたら退魔師たちだって黙っているわけありません」

 悲鳴のようなさくらの声。

「神咲さんたちのところなら、話の持っていきようによっては協力してくれるかもしれません」

 だが、恭也の声がそれを打ち消す。

「神咲にどんなコネがあるのかは知らないけど、そんな甘い相手じゃないのよ」
「少し工作が必要になりますが、俺の叔母やさくらさん、それに御剣さんや弓華さんたちの力も借りれば、交渉の場に引きずり出すくらいは、可能なはずです」

 色々な意味を含んだ恭也の言葉にさくらは沈黙する。自分や警防隊の影響力を考えれば、いくら神咲といえど話も聞かないと言うわけにはゆくまい。

 だが、敵になりうるのは神咲だけではない。

 ざからほどの魔物が甦ったとなれば、世界中に喧嘩を売るようなものだ。

 それなのにさくらの最愛の姪は能天気に恭也に笑いかける。

「私も忘れないでよね」
「いいのか?」
「もちろん。真一郎さんと雪さんの未来のためだもの、私が何にもしないわけないでしょ。ね、さくら」

 忍の問いかけにさくらは深くため息をついた。

 口調は軽くても、その目はあくまでも真剣だった。これでは引くように言っても難しいだろう。

 名前の出たいづみたちも一様に渋い顔をしている。

 だが、それよりも暗い顔をしているのは、なんのバックボーンを持たない小鳥たちだった。

「ねえ小鳥、私たちあんまり役に立てそうもないね」
「そうだね……」
「ちょと、スケールが大きすぎるわね」

 うつむく小鳥たちを不思議そうに眺めながら真一郎は問いかける。

「なに暗い顔してるんだよ?」
「だって、私たち何の力にもなれないから……」
「何言ってんだよ、とっても大事なことがあるじゃないか」

 明るい真一郎の声とは対象的に沈み込む面々を前に、真一郎は力強く断言する。

「できたら、雪さんとざからの友達になってくれ」



 友達。



 その言葉の残酷さを十分知りながら、あえて気づかない振りをして、真一郎は期待に満ちた表情で“友人”たちを見つめる。



「ははっ」

 われ知らずこぼれた乾いた声に、涙を浮かべそうになった小鳥は、心配そうな様子でこちらを見つめる恭也に気づいた。



 私には私のやり方がある



 あの時恭也に言われた言葉を思い出し、小鳥は穏やかに微笑んだ。

「私にもなれるかな、友達」
「なれるに決まってるだろう」

 真一郎の言葉に、目じりに微かに光るものをにじませながら、小鳥は深くうなずいた。



 その、小鳥の姿を見ながら唯子も、自分が決断しなければいけないことを悟った。



 もう、真一郎から卒業しなきゃね。



 そう、胸のうちでつぶやくと唯子は勢いよく手をあげた。

「私もいるよ」
「ああ、頼むよ」



 必死に空元気を振り絞る唯子にいづみは苦笑する。
 本当は泣きたいぐらい寂しいくせに。でも、唯子がふっきると言うなら自分もあきらめなければ、と思う。でもきっと悪いことだけじゃない。



 あそこに一人こんな自分をきれいだと言ってくれた人がいる。



 ならば、これからもっといい人にだって出会えるかも知れない。

「相川、私はのけ者か?」
「馬鹿言うなよ、頼りにしてるって」



 軽口をたたきあう真一郎といづみを見ながら、瞳は胸の中でため息をつく。



 結局、お姉ちゃんのままで終わっちゃったわね。



 昔のことを振り返ってもしょうがない。先のことを考えることができなくなっていた自分に、未来を示してくれた人がいる。ならば、ここは最後まで自分らしく格好をつけてみよう。

「あなたの奥さんになる人なら、私にとっても妹になるわよね」
「もちろんだよ、お姉ちゃん」



 次々に真一郎に話し掛ける瞳たちを見ながらさくらは、大きな寂しさと、ほんの少しの安堵を感じていた。



 あの時踏み出せなかった私じゃだめよね。



 夜の一族であることを言い訳に、最後の一線を踏み超えられなかった自分。それは雪とても変わりはしないが、真一郎は軽々とその葛藤を飛び越えた。それをうらやましいとは思うが、今はもう仕様のないことだ。

「先輩、魔物については私が一番詳しいですよ」
「頼りにしてるよさくら」



 次々に真一郎に声をかける友人たちを見ながら、弓華は目を細める。彼女らの決意がいつの日か幸せへ続く事を願いながら、胸の中でつぶやく。



 私は少しだけ先を行きましたけど、必ず付いてきてくださいね。



 かつて、自分を助けてくれた大事な人たちの未来を思いながら、もう一人の友人へと近づいていく。

「私の方が少し先輩になりますね」
「そうだね、いろいろと教えてくれ」



 次々に真一郎と交わされる言葉を黙って聞きながら恭也は穏やかなまなざしで湖面を眺めていた。

「ざから」

“……なんだ……”

「お前が望みさえすれば、俺を含め、ここにいる人たちは必ず手を貸してくれる」

“……    ……”

「お前さえその気なら、手をさしのべてくれる人はきっと増える」

 恭也は水面の上を渡る風を感じ、気持ちよさそうに目を細める。その身を恐怖が蝕もうとも、そんなことは関係ないとでも言うように。

“……だからなんだ……”

「もちろん敵も増えるにちがいないが……」

 恭也は一旦言葉を切るとまるでざからが目の前にいるように微笑みかけた。

「それでも、前に踏み出してみないか?」

 その言葉を聞くとざからは黙りこんだ。かなり長い時間があったが、誰も言葉を発せずに待ち続けた。

“……一つだけ条件がある……”

「なんだ?」

“……我の頭部には骸がさした剣がある。我と戦うのならこれを使いこなせなければならぬ……”

ざからはそこでいったん言葉を切った。そして、ほんの少しだけ面白そうにこう告げた。

“……我がこれと見込んだものを育てるときがきたら、お前が剣の使い方を教えろ……”

「なっ」

“……それが我の条件だ……”

 絶句する恭也の様子に満足したのか、ざからは再び黙りこんだ

「しかし、俺の剣は……」
「御神流でなくてもいいんじゃない?」

 思い悩む恭也に瞳が微笑みかける。その言葉にいづみも大きくうなずく。

「そうだな御神流でなくても剣術の基礎ぐらいは教えられるだろう?」
「レンちゃんたちはよくて、他の人はだめなの?」

 いづみを後押しする唯子の言葉に恭也が眉をひそめる。

「俺はあいつらに何も教えられてはいませんよ」
「そんなことを言ったらあの子たちや美由希ちゃんが悲しむよ」

 悲しげな忍の言葉に恭也は小さく首を振る。

 そのかたくなな様子に忍がもう一度口を開こうとする前に、じっと恭也を見つめていた真一郎が語りかける。

「俺の子供がざからの期待に答えられるかどうかはわからない。でも、もし、その時がきたら、俺は君に教えてもらいたい」

 真っ直ぐに自分を見つめる視線から恭也は逃れるように湖面を眺める。

「しかし、俺の剣は人に誇れるようなものじゃないんです」
「そうかな? 俺は君と会えたことも、君に負けたことも誇りに思うよ」

 真一郎の言葉に恭也は呆れたように小さく首を振った。

 そして、そのまましばらく考え込んでいたが、重たい口を開きぽつぽつと語りだした。

「いつでもいいんですが……」
「ああ」
「自分が進むべき道は、必ず自分で選ばせてください」
「ああ、約束する。期待はするけど強制はしない」

 真一郎が断言すると、恭也はようやくうなずいた。

 その姿を見て満足げに笑うと真一郎は再び湖面に向き直った。



「雪さん。姿を見せてくれ。話がしたいんだ」



 先ほどまでとは違い力強い声で湖底に眠る雪に呼び掛ける。

「俺は今までずっと考えていたんだ。雪さんが選んだ方法が一番いい方法なのかって」

 声を張り上げているわけでもないのに、その声は湖底に眠る雪まで届くはずだ。誰もがそう思った。

「でも、もう考えるのはやめるよ。俺は自分が一番いいって思う方法を選ぶ。やっぱり、雪さんもざからもこんなところで眠りにつくなんて間違っている」

 そして、真一郎は大きく両手を振り上げた。まるで、その場に雪がいて抱きとめるかのように。



「だから行こう雪さん、俺と、みんなともっといい方法を探そう」



 静まり返った湖面の上にいつの間にかあの日と寸分変わらぬ姿をした雪が波紋の一つも立てずにたたずんでいた。

 うつむいたままで、湖面を眺めるその姿からは、一切感情が読み取れない。

「どうして……」
「雪さん……」
「どうしてこんな事をするんですか」

 うつむいたままで、それでも全身から漂う張り詰めた空気は尋常のものとは思われなかった。

「それは俺が雪さんに会いたかったから」

 申し訳なさそうに、それでもきっぱりと真一郎は告げる。

 その言葉を聞くと雪ははじかれたように顔を上げた。そして涙で濡れた瞳で真一郎を睨みつける。

「真一郎さんは分かっていない。昔、ざからが暴れた時にどれだけの人が亡くなったと思っているんですか」
「それは……」

 雪の涙ながらの糾弾に真一郎は思わず黙り込む。その姿に昂ぶったのか、今度は恭也のほうをにらみつけた。

「あなたもあまり無責任な事は言わないで下さい。もし、何かあったら責任を取れるんですか?」

 必死に叫ぶ雪の視線を恭也はしっかりと受け止めた。だが、

「取れないでしょうね」

 気負った様子もなく、そう答えた。その返答に雪だけでなく、他の者まで呆然と恭也を見つめる。

「そうならないように、最善を尽くすだけです」
「口で言うだけなら誰にでもできます」

 呆れたように言う雪を鋭い視線で射抜きながら恭也は断言する。

「させませんよ」
「だから……」
「俺の全てをかけてでも止めて見せます」

 300年近くもざからを封じてきた雪が、恭也の気迫に押され一瞬、黙り込んだ。

「俺もいるのを忘れないでくれよな。元々は俺と雪さんの問題なんだから」

 恭也の肩に手を置きながら真一郎は雪に笑いかける。

「危険な事はもちろん分かっているよ。だから、雪さんも力を貸してくれ」

 そう言うと真一郎は雪を正面から見つめた。雪もその視線を受け止めると険しい表情で睨み返した。

 それは、視線を通して会話をしているようにも見えた。





 まだ、見つめ合っている雪と真一郎から恭也は少し距離を置いた。

 その背中に向けていつの間にか近づいていた忍が声をかける。

「ねえ、高町君。怖くないの?」
「怖いに決まってるだろう」

 苦笑しながら答える恭也に忍は口を尖らせる。

「じゃあ、なんで逃げ出さないの?高町君には関係ないことじゃない」
「ここで逃げ出したら日ごろ、弟子に偉そうに言ってる手前、カッコがつかないからな」

 はぐらかすように言う恭也を責めるように、忍は短く叫ぶ。


「うそっ」


 泣き出しそうな忍の表情に、仕方なさそうに恭也はため息をつく。

「相川さんと雪さんが結ばれることができれば、その姿に希望を持つことができる人がいるんじゃないかと思ってな」

 そっぽを向きながら答える恭也に泣き笑いのような表情の忍は、胸の中でため息をつく。



 あなたが私を選んでくれるのなら、希望はそれだけで訪れるのに。



「どうした?」
「なんでもないよ」

 恭也の疑問に首を振ってはぐらかすと忍は逆に不思議そうに問いかける。

「ねえ、なんでざからと戦わなかったの?」
「なぜ、戦わないといけない?」

 忍の質問に恭也は質問で返した。だが、うまく飲み込めていない様子なのでさらに言葉を重ねる。

「敵意を示さない、言葉の通じる存在に剣を向ける必要などないだろう?」
「でも、ざからは危険だって……」
「それはあまり関係ないな。俺と会ってからはまだ何もしていない」

 なんでもないことのように答える恭也に呆れたように、忍はため息をついた。

「怖くても?」
「ああ。ただの見栄だけどな」

 そう嘯く恭也を不思議そうに眺めながら、ノエルは主に問いかけた。

「忍お嬢さま、今の場合に使う言葉は“見栄”でよろしいのですか」
「高町君がそう言うんだから、そうなんじゃないの」

 そんな言葉を交わしながら、二人とも違う事を思っていた。



 誇り。



 ただ、恭也がその言葉を口にしない以上、それを言う事はできなかった。

 恭也が己の剣に誇りをもてなくても、それでも大事にしている思いがあるなら、それを汚すような事は口にしたくなかった。





 真一郎と雪は未だににらみ合っていた。

 お互いのことを思っているのは確かなのに、二人の思いはうまく重ならない。それは重ねてきた年月の違いなのかも知れない。

 だが、そんな様子を黙って見ていられない者もいた。

「いいかげんにしてくれない。私たちから真一郎を奪ったくせに何をためらうの?」

 じれたような瞳の声。それにかぶせるようにいづみもきつい声で続く。

「あんたは湖の底に引きこもっていれば満足かもしれないだろうけど、残されたほうの身にもなって欲しいね」

 二人の言葉が頑なだった雪にひびを入れる。

「そうだよね。おまけに子供まで独り占めするなんて」
「真くん、知らなかったんだよね」
「それは……」

 唯子と小鳥の言葉に雪の瞳が泳ぐ。

「私としては、あなた達はこのまま湖の底で眠りにつくべきだと思います」
「だったら、あなたからも説得してください」
「無理ですね。この人たちは諦めが悪いですから」

 悪戯っぽく笑うさくらに雪は絶句する。思わぬ攻撃に雪の視線が落ち着きなくさまよう。

 その様子を苦笑しながら見ていた弓華は雪へと話しかける。

「ちょっと前に、私もある人に言われた事ですけど、あなたは怖いだけなんですよ」
「そんなの決まっています。ざからはそう言う存在なんです」
「違いますよ。あなたは踏み出す事が怖いんです」

 呆然とする雪を誰もが注視していた。誰一人味方のいない中、まだ雪が口を開こうとした時、ざからが声をかけた。

“……お前は本当にそれでいいのか……”

「あなたまで何を言っているの」

“……我とともに湖底で眠るのは本当にお前の本意なのか……”

 穏やかなざからの声に雪は嗚咽を漏らす。

「そんなこと、決まってるじゃない……」

 ぽろぽろと大粒の涙を拭うことなく流しながら、雪はうつむいた。湖に小さな波紋が次々と広がっていく。

「信じられませんか?」
「何をですか」
「ざからをです」

 恭也の声に雪はのろのろと顔を上げる。

「今までずっとざからと過ごしてきたんでしょう。その日々を信じてみませんか?」

 呆然とした表情の雪に真一郎はかつての少年の日のように笑いかける。

「行こう雪さん」
「でも……」

 ためらいがちに呟く雪に真一郎は手を差し伸べる。
 
 すると、雪の背を押すように次々と言葉が投げかけられる。



「真くんの喜ぶお料理教えてあげます。だから、一緒に行こう、ね」

 小鳥も涙を流しながら、必死に笑いかける。

「私も真一郎と雪さんの赤ちゃん見たいな。きっと可愛いんだろうなあ」

 唯子の声にも涙が混じる。

「まずは、赤ちゃんより先にウエディングドレスよね」

 いつの間にか張りが戻っている瞳の声。

「大丈夫だって、意外に頼りになるんだよ私たちは」

 雪を安心させるように、笑顔でいづみは呼びかける。

「後は、あなたしだいです。少なくとも私たちは最善を尽くします」

 少し硬い、でも、優しげなさくらの声。

「私たちも協力します。だからみんなで頑張りましょう」

 おどけたような弓華の声。



 その身を縛る恐怖は未だに消えない。それでも、もっと大事なことがあるのなら、震えてなどいられない。



 ここで、何も言えなかったら、きっと後悔する。



 その思いだけが、震える体を支えていた。



「雪さん」

 言葉と共に差し出された手を雪はじっと眺めていた。だが、かなり長い時間が経ってから、恐る恐る自分の手を伸ばしだした。

 そして、真一郎の手をとるために足を踏み出した。



 その手は細かく振るえ、



 視線は定まらず、



 踏み出される足は、あまりにもささやかな距離しか進んでいない。



 それでも、その一足は、きっと










 相川雪への第一歩








 今更ながらですがこのSSはファンディスクラブラブおもちゃ箱中の「五月の雪」をプレイしていないと全く意味が分からないです(苦笑
 今となってはプレイをするのは難しいでしょうが、かなり好きな話だったのでがっちりと中身をからめてしまいました。

 そして、このSSの最初のタイトルは「相川雪への第一歩」でした。別にタイトルから内容が知れても困りはしないですが、途中で思い直して今のタイトルにしました。
 真一郎と雪はお互いが寄り添うために一歩を踏み出しましたが、他のヒロイン達も記憶を失ってしまったために宙に浮いてしまった恋心に踏ん切りをつけ一歩踏み出すことになりました。

 そう言ったことをうまくかけたかは分かりませんが恭也ととらハ1ヒロインとの出会いはここでいったん区切りになります。
 エピローグにあたるもう一作できっと誰かが見ていてくれるは終わりですのでもう少しお付き合いをいただければと思います。



[41302] きっと誰かが見ていてくれる-春原七瀬はここにいる
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/03/05 01:44
 桜の時期はいつしか過ぎ去り、季節はいつの間にか初夏へと移っていた。

 湖面を吹き抜ける風はいまだ涼しいままだったが、照り返す日差しの強さはやがて来る季節を連想させる力強いものだった。

 私は風に踊る髪を右手で押さえながら、眩しさに目を細めた。

 かつてここで起こった事件が嘘のように、湖面は静まり返っている。その事を誇らしげに思うとともに、過ぎ去った時間の長さを思い起こす。

 あれからどれぐらいの時間が流れたのだろう?

 今の私には正確な時間を数え上げる事は少し難しい。

 でも、あの日氷のように湖の底で固まっていた悲しみの塊が、淡雪のように消えていることは感じる事ができる。

 私はその場に立ち会うことはできなかった。それでも、あの子たちを悲しみから解き放ったのは私の大事な友人達に違いない。

 その事だけは間違いない。



 やったね、真一郎。



 今ここにはいない大好きだった人に心の中で告げる。

 みんなの記憶から雪のことが消えたとき、私という存在が曖昧だったせいか、なぜか私は雪のことを覚えていた。

 それでも、その事を真一郎に告げることはできなかった。それを言うと真一郎が必死でこらえている事を汚してしまうような気がしたから。

 自分でもよく思うけど、私は多分馬鹿なのだろう。ライバルが一人消え、弱った真一郎の心に付け込むことができる。

 そんなチャンスをみすみす見逃すなんて。そうは思うけど、時間を巻き戻すことができても私は同じことをするだろう。



 何度でも。



 私は、その事を悔いはしないが、やっぱりちょっとぐらいはもったいないと思う。

 でも、真一郎が元気を取り戻してくれる事の方が嬉しい。

 私と一緒にいても、悔しいけど真一郎は一番幸せになってはくれない。だったら、きっとこれでよかった。

 9割の負け惜しみと1割の誇りで私は胸を張った。

 そして、これが最後ともう一度湖面に目をやる。

 そこにはあの日には感じられなかった温かみが感じられた。

 掲げた左手で、刺すように鋭い日差しをさえぎりながら、にじんだ目元をごまかすように目を細めた。

「お~い、お姫様。もう気は済んだ」
「うん、ママ」

 後ろからかけられた声に私は元気よく返事をした。

 私はかつて風ケ丘学園の旧校舎についていた幽霊だった。

 だけど、今の私の身長は1メートルを超えず、体重は秘密だけど男の人なら片手で持ち上げられるぐらい。

 顔立ちも、生前そして幽霊だった時の面影は見る影もない。

 でも、それはしょうがないだろう。



 私はまだ3歳なのだから。



 それに、将来性に関してはママを見る限りでは問題がなさそうだった。

「それじゃ帰るよ」
「はーい」

 もう一度返事をすると、丸くぷくぷくした手を戻しながらママに向き直った。

 そこにはスリムのジーンズと飾り気のないブラウスに身を包んだ女性が、前に幼児用の座席を取り付けた自転車の横に立っていた。

 私のママはひいき目を除いてもとても美人だ。今この姿を写真に写したら、そのまま雑誌に載ってもおかしくないぐらいだ。

 雑誌ならヴォーグとかバンサンカン。載るのは読者のコーナーとかではなく、グラビアの方だ。

 ただ、自転車は車に変えるぐらいのことは、しないといけないかもしれない。それでも、素材に関しては文句をつけようがない。

 私はそんな自慢のママの方に向って短い手足を動かして駆け出した。そして、転がるようにママの太ももに抱きつき、そのまま頭を押し付ける。

「どうしたの、今日は甘えんぼね」
「なんでもないよ」

 ママの顔を見ずに私はぐりぐりとした。くすぐったそうに身をよじるママの動きを感じるのが面白い。

 頭の中で考えている事は昔のままで、それでいて口から出る言葉は年相応のもの。

 でも、私はその事に矛盾を感じていない。どちらも自然に行えている。ただ、それがいつまでも続くとは限らない。

 いつかはこう考えている私というものは存在しなくなるのかもしれない。でも、それについて恐れは感じない。なるようにしかならないと言うより、どうあっても私は私。





 それに、今この瞬間確かに、春原七瀬はここにいる。





 なすすべもなく雪を見送った日を境に、私の力は弱まっていった。

 私という存在が消えてしまうその日まで、真一郎たちとともにいたい。そう思っていたけれど、その事をつらく感じてしまったせいだろう。

 このまま消えてしまったらきっとみんなを悲しませる。

 そう感じた私は、さくらや薫に頼んで成仏させてもらう事にした。

 反対する人もいたけれど、それが本来は正しい事なのだと言って押し通した。
 


 そして、大きく暖かい光の中へと還っていった。



 本来なら私の物語はそこで終わるはずだった。

 だけど、ある日唐突にその光の中からはじき出された。

 暗闇の中に放り出され、洗濯機に放り込まれたシャツのように訳もわからないまま翻弄される。

 そして、ようやく開けることができた目が、白い壁を捉えていることに気づいた。

 必死に冷静さを保ち、周囲を観察するうちに私を恐る恐る覗き込む視線に気づいた。

 どうやら、ガラスでつくられた箱の中にいるらしい。そう気づいた。

 ここにいたってようやく自分が置かれた状況がつかめてきた。



 生まれ変わり。



 可能性としてはありうる。そう言われてはいたけれど、そんな可能性はまったく信じていなかった。

 どこかしらけたような、現実感に乏しい気持ちでガラス箱の外の観察を始める。

 私を閉じ込めるガラス箱。今ならそれが保育器だと分かるが、その時はそんなに冷静にはなれなかった。

 そして、わたしのいる部屋のすぐ隣に、ガラスで隔てられた別の部屋があることに気づいた。

 そこには私を眺める人が二人いた。

 一人は服装から看護婦だとすぐに分かった。

 そしてもう一人、飾り気のまったくない服を着た人がいた。どうやらその女性が、私を産んだ人らしい。

 相当な重労働らしい出産を終えたばかりでやつれてはいたけど、とてもきれいな人だった。

 頭もよさそうで、できる女と言う雰囲気を発散していた。けれど、今はその顔には薄気味悪いものを見たような、疲労だけではない影が張り付いていた。



 この人も可愛そうに。


 
 私のせいでもないのに申し訳ない気持ちが湧いてくる。善良そうな感じの人なのできっと、子供が生まれてくる事を楽しみにしていたのだろう。

 それなのにわが子は生まれたばかりで周囲を観察している。

 彼女の気持ちを思うと胸が痛む。でも、私にはどうして上げることもできなかった。

 その時、遠くの方からばたばたと言う足音が聞こえてきた。

 その足音は一直線にこちらに近づいてきて、そのままの勢いでガラス越しの部屋へ入り、私を生んだ人の横に並んだ。

「お疲れさま。立ち会えなくて悪かったね。体は大丈夫?」
「病院内では静かにしてください」
「す、すいません。それで、その子が僕の子ですか?」

 入ってきたのは私を生んだ人と同じくらいの年の男の人だった。

 彼の言葉を信じるなら、この人が彼女の夫なのだろう。

 でも、どこか釣り合いが取れていない気がした。

 人はよさそうだけど、鋭い感じの彼女に比べてどこか抜けているような感じがした。

「あなた……」
「どうしたの?」

 深刻な様子の妻と看護婦に気づき彼はちょっとうろたえる。

 そして、二人の視線が保育器に入った私に向けられているのを見て、ますます首を傾げる。

「この子がどうかしたの? 可愛い子じゃない。目元なんか君にそっくりで……」
「そうじゃなくて、その子泣かないのよ。それに、こっちをじっと見てるの」
「そうか、それは心配だね。でも、別に問題なさそうだけど」

 本当に何を言っているのか分からないらしい。

 鋭くなさそうだとは思ったけど、これほどとは思わなかった。

 私が異常だなんて一目見ても分かりそうなものだ。

「おかしいとは思わないんですか。こんな目をした赤ん坊を見て」

 あまりの鈍さに腹を立てたのか、看護婦が随分と失礼な事を言う。

 どこか醒めたような様子の私の視線と、喜びに満ちた彼の視線がこの時初めて交錯した。

 そして、この人はとても嬉しそうに微笑んだ。

「何だそんなことか。僕はまた健康に問題とかあるのかと思ったよ」
「そんなことより……」
「確かに頭の良さそうな子だよね。僕は君ほどできがよくないからよかった」

 彼は、大切な壊れ物を触るように、恐る恐る手を伸ばす。それは保育器とその向こう側にあるガラスに隔てられ届きはしなかった

 でも、その無駄な行為は意外なことにあまり嫌ではなかった。

「僕に勉強とか教えるのは無理かなあと思ってたんだ」
「何を言ってるの?」
「この子がこんな目で、どんな気持ちで世界を見ているのか僕には分からない」

 そう言いながらガラスに自分の手のひらを押し付ける。少しでも私に近づけるように。

 その様子があまりに必死なので、思わず届きもしないのに自分の手を出しそうになった。でも、その手はあまりにも小さく、指一つだって満足に握る事はできない。

 それに、今気づいたのだが、私の手のひらは今の全身全霊の力で握り締められていた。

 まるで、私の不安に満ちた心そのままに堅く握られた小さな手。

 その様子を見てこの人はますます優しそうな瞳で私を見る。

「でもね、他に何もなくても僕には一つだけ教えられることがあるんだ」

 私を生んだ人が無言で先を促す。

 いつの間にか先ほどまでの動揺から立ち直り始めている。

 やっぱり強い人なんだなあと思うけど、私は彼の言葉の続きが気になった。

 今の私に何を教えられることがあるのだろう?冷めた様子で見返す私にこの人は真顔でこんな事を言った。

「僕がどれだけこの子を愛しているのかって事をだよ」

 もとより話すことなどできはしないが、相当呆然としていた私に向ってこの人はもう一度笑いかける。

 笑うと目じりにできるしわが印象的だった。

「いいじゃないか。こんなに小さい時からこんなに頭が良いんだ。きっと将来はとっても大物になるよ」
「それはそうかも知れないけど、私不安なのよ」
「大丈夫だよ。どんなに頭が良くたって、人を想う優しい心を持っていればね」

 そう言うと今度は奥さんのほうに向き直った。不安に揺れる瞳を正面から覗き込み、変わらぬ笑顔を見せる彼。

 しだいに私を生んだ人からこわばりのような物が取れていくのが分かる。

 きっとこんな事は何度もあったのだろう。このどこか不釣合いな二人が一緒になった理由がわかるような気がした。

「それは、僕たちなら教えられる事なんだよ」
「そう……、そうね」

 そう言うと私を生んだ人はとてもきれいに微笑んだ。顔立ちは旦那さんには全然似ていないけど、それでも、どこか似たところのある笑顔だった。
 
「ああ、そうだ」
「どうしたの変な声を出して」
「肝心なことを言い忘れていたんだ」

 先ほどまでとは違う柔らかな声を背に、彼は私に向き直った。

「生まれてきてくれてありがとう」

 今まで聞いたことがないような優しい声。前の父親も私が生まれた時にはこんな風に声をかけてくれたのだろうか?

「そうね、私からもありがとう。あなたに会えてよかった」

 不安が完全に消えた訳ではないだろう。それでもこう言ってくれる優しさと強さ。

 これが母親なんだろうか。かつて、子をなす事ができなかった私にはうかがい知ることができなかった。

 やがて、二人の言葉の意味がだんだんと理解できてくる。そうしているといつの間にか、その姿がしだいに滲んできた。

 気づくと私は大きな声で泣き出していた。

 この瞬間に、私はこの世界に2度目に生まれる事になった。

 そして、見ず知らずの男女は私のパパとママになった。

 あれから3年の月日が流れ、私も幼稚園へと通いだした頃、妙に町が騒がしくなった。

 私が住んでいるのは生まれ変わる前と同じ海鳴市。パパの給料だと少しだけ高望みした、とママが言っていた3LDKのマンション。

 でも、ママは働かずに私とずっと一緒にいてくれている。私がもう少し大きくなったらパートに出るかもしれないけど、今のところは働く気はないようだった。

 その小さな私たちの城のベランダから外を見ていたとき、あの湖の方で何かの力のようなものがはじけたのを感じた。

 そして、街中に退魔師らしき人や、夜の一族と思われる人があふれるようになった。

 とても気にはなったが、今の私はただの幼稚園児。気持ちがあってもどうしようもなかった。

 そのうちに、いつの間にか街からは喧騒が消え、物騒な人たちは姿を消していた。

 不吉な感じはしなかったが、どうしても胸騒ぎを止めることができなかった。

 そして、湖を見に行く事を決意した。

 私の足では何時間かかるか分からない。だけど、私の決意は固かった。

 そのために前日からしっかりと準備をしておくことにする。お気に入りのポシェットに今日のおやつから1袋取っておいたポッキーをいれる。大好きなイチゴ味があれば湖までも歩いていけるだろう。

 もちろん、淑女のたしなみとしてハンカチとちり紙も忘れない。本当はリップの一つでも入れておきたいのだけれど、ママには10年早いと言われているので泣く泣く諦めた。
 
 それと、もしもの時のためにお年玉からなけなしの千円札も入れた。まだお財布を持っていないので、ポシェットの底に目に付かないようにしまう。

 それを枕元に置き、私はいつもよりも早く寝ることにした。明日はいつもよりも遠くに出かけるのだ、それぐらいの準備はしないといけない。

 そして、翌朝。朝食を食べ終えた私は、張り切って玄関のドアを開けようとした。

「ちょっと、どこに行くの?」
「こうえーん」

 ママから声がかけられる。私はあまり不審に思われない程度に元気な声で返事をする。

 パパは土曜日だと言うのにお仕事。急な納期変更で、よくある事だとママは笑っていたが少し寂しそうだった。

 もちろん私も寂しい。

 こんな美女二人を寂しがらせるパパには、明日埋め合わせをしてもらおうと堅く決意をする。

 そして、とりあえずは公園へと向った。もしかしたらママが見張っているかもしれないから。

 マンションの敷地の中に小さな公園がある。

 あまり一人で出歩く事は許してはもらえなかったが、そこに行くときはうるさいことを言われなかった。

 いったん公園には着いたが、そこで上を見上げた。ママはよくベランダから公園を覗いていた。そう言う時はいつだって幸せそうに微笑んでいた。その笑顔を曇らせたくなかった。

 でも、今日のところはいないみたい。

 私は計画の成功を確信し、出口へと向った。

 だけど、道路まであと少しと言うところで、見慣れた自転車が私の前で止まった。

「で、本当はどこに行くつもりなの?」

 ママが悪戯っぽい表情でこちらを眺めていた。

 私はちょっぴりすねて唇を尖らす。完璧な計画だったはずなのにどこで分かったのだろう。

 さすがは私のママだ。

「パパからもあなたの様子を見ていてくれって言われてるしね」

 ……さすがは私の両親だ。

 負けを認めるのは悔しいけど、振り切ってなど行けるわけもない。
 
 私は小さな声で呟いた。

「みずうみ」
「湖ってあの山の上にある奴?」

 こくんとうなずく私にママは呆れた顔を見せる。

「あんなところまで歩いていったらどれぐらいかかると思ってるの?」

 時間がかかるのは分かってる。それでもこれは私がやらなくてはいけないことだった。

 それをどう説明したものか悩んでいるとママはスタンドを立て私のほうへ近づいてきた。

 そして、しゃがみこんでわたしに目線を合わせると優しく微笑む。

「言いたくない事なら別に聞かないわ」
「ママ……」
「でも、歩いていくのは無理よ。乗りなさい。連れて行ってあげるから」

 そう言うとママは私を持ち上げ、私の指定席へと乗せた。

 ちょっと恥ずかしかったけど、特に抵抗はしなかった。

 自分でも歩いていくのは無理かなと思っていたのもあるし、ほんの少し涙ぐんでいるのを見られたくなかったからだ。

 ママがパパに無理を言って買ってもらった電動アシスト自転車は、私を乗せても快調に坂道を登っていった。

 そして、特に苦労することなく湖へとたどり着いた。私が歩いてきていたら、この10倍の時間をかけても着かなかっただろう。

 改めてママに感謝して湖へと近づいていった。

 ママは少しはなれたところに自転車を止めて、黙って見守ってくれていた。

「それで、気は済んだの」
「うん」

 まだ、ママの足にしがみつきながら私は答えた。もうちょっとだけ顔を見られたくない。

「さて、時間もちょうどいいし、お昼を食べて帰ろうか?」
「でぱーと?」
「そうだね、ちょっと贅沢しようか? パパには内緒よ」

 二人して共犯者の笑みを交わす。ちょっと、即物的だけど子供はお腹がすくんだからしょうがないと思う。

「うん、ないしょだね」
「そうよ。でも悪いから今日はパパの好きなハンバーグを作りましょう」
「パパよろこぶね」

 パパはママの作ったハンバーグが特に好きだ。食べている時は本当に子供のように嬉しそうな顔で食べる。

 そして、最近ハンバーグを作る時はタネをこねるところだけ私も手伝っている。今日はママと二人でパパをよろこばせてあげよう。

 そして、ママと二人来た道を自転車でゆっくりと下っていく。

 日差しを浴びてほてった顔をなでる風を気持ちよく感じながら、私は真一郎と雪のことを考えていた。

 特に争ったような様子もなかったし、テレビでもご近所の噂でも大きな事件は起きていないようだった。

 退魔師たちも大挙してやって来てはいたが、何をするでもなく去っていったのだろうか?

 それはなかなか信じがたいけど、きっとうまく落ち着いたのだろう。



 あの日と同じ5月の湖面。



 それなのに、全く印象の違う穏やかな姿を眺めていた私はそんなことを思っていた。

 二人の間を隔てる問題が片付いたとして、真一郎と雪はこれからどうするのだろう?

 戸籍とかの細かいことは分からないけど、一緒には暮らすだろう。

 そうなると問題なのは子供だけど、人間と雪女の間に子供は作れるのだろうか。

 だけど、さくら達夜の一族も始まりは妖しとの混血だったそうだから問題ないと思っている。

 霊感とかそんなものではない。むしろそうであって欲しいという願望に近い。

 でも、真一郎は一人じゃない。だから、大丈夫。

 それなので、私は無駄なことを考えるのをやめ、いつか出会うはずの子に思いをはせることにした。

 どんな子だろう?

 男の子かな?

 女の子かな?

 どっちにしても可愛い子に違いない。いつか会いに行くことにしよう。本当に生まれてくるかも分からない。どこに住んでいるかも分からない。



 でも、きっと会える。



 その日を夢みて、私はまだこの世にいないはずの子に心の中で話しかける。

 あなたは多分、祝福だけされて生まれてはこない。

 それでも、忘れないで。

 あなたは一人じゃない。

 あなたを待っている人がいる。

 もちろん私だって待っている。

 もしかしたら、いつの日かあなたは一人で悲しみに耐えなきゃいけないかもしれない。

 でも、怖がることは何もない。

 きっと、誰かが見ていてくれる。

 あなたは一人じゃない。

 だから、私のように恐れずに生まれてきて。

 そして、いつか一緒に遊ぼう。

 自転車は大きくカーブを回り見晴らしのいいところに出た。上ってきた時は分からなかったけど、ここからだと海鳴の街が良く見える。

 とても楽しくなってきた私は、鼻歌を歌いだした。

 日曜日の朝からやっている女の子が主役のアニメの主題歌。愛と友情を歌った少しだけ恥ずかしい歌を歌いながら坂道を下る。

「あなた、歌下手ねえ」

 呆れたようにママが言う。多少は自覚のあった私は少し傷ついた。

 こうまで自信満々なんだから、私の音痴はきっとパパからの遺伝なのだろう。恨めしい気持ちを感じていると私の歌にママがかぶせてきた。



 ごめんなさいパパ。言いがかりでした。



 調子はずれな歌を二人で歌いながら、わたし達は坂道を下っていく。

 その先には海鳴の街。

 あれが、わたし達が暮らす街。

 そして、まだ見ぬあなたが生まれてくる街。

 その子に聞こえるように、私の大事な人全てに届くように私は歌う。



 今、生きていることを喜び、明日を心待ちにする。



 幽霊だった時には持てなかった思いを込めながら私は歌い続ける。

 途中、見覚えのある寮の横を通り過ぎた。

 外で掃除していた、やけにエプロンが似合う大男がびっくりした顔をしていたり、それに気づいたママが赤面していたりしたけど、そんなことは関係ない。

 そして、私を乗せた自転車はパパを待つ私たちの家へ、そしてまだ見ぬ明日へと走っていった。







 これで、きっと誰かが見ていてくれるはひとまずの区切りになります。
 この話では生まれ変わった七瀬は誰とも絡みませんが、遠くから見守っていてくれている。ある意味タイトルを象徴するよう感じですね。

 話の位置づけ的にはエピローグと言うことで、本編とは感じを変え全編七瀬のモノローグにしました。書いてる時には中々に難物でしたが終わってみればそれなりに満足しています。




[41302] 綺堂さくらの割とありふれた一日
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/03/12 23:08

 休日の海鳴駅前。

 空は青く晴れ渡り、初夏の少し強い日差しが惜しみなく降り注いでいる。

 道行く人々が思い思いの方向に歩いていく中、背の高い時計の下には辺りを気にする人々が所在無げに立っていた。

 そわそわと周りを見渡す人。携帯をいじっている人。早くも何人か揃っているグループは声高に遅れている誰かについて大きな声で語っている。

 そんな、人たちから少し距離をとるような位置、でも同じように手持ち無沙汰な様子で綺堂さくらは佇んでいた。
 明らかに人を待っている様子なので、声をかけてくる者はいないがかなり多くの人間が通りすがりにさくらに目を留めていった。
 
 「ふぅ」

 待ち合わせの時間より30分も早く来ていたので、文句をつけてもしょうがない。
 そんなことは分かってはいる。それでも、思いは口から零れる。

 「まだかしら……」

 待ち合わせの時間までは後12分ある。相手は時間には正確な方なので、まだ来ないだろう。

 それでも、つい辺りを見渡してしまった。

 その時、少し腹に響くような大型のバイク特有のエンジン音がこちらに向ってくるのが聞こえてきた。

 夜の一族にして人狼とのハーフのさくらは、人よりも鋭敏な感覚を持っている。だから、バイクの出す音や排気ガスがあまり好きにはなれなかった。

 ここは、ロータリーになっていて一般車も入ってくるところなので、咎めだてはできない。それでも、眉をひそめるのは止められなかった。

 少し冷静になるために、バイクから視線をそらし自分の全身をチェックする。今日は相手のたっての希望と言う事もあり、ボトムスは普段は着ないパンツにしてきた。

 ボトムスだけ買うわけにもいかないので、結局は上下を揃え、それに合わせて胸元にも何か、などと考えていたらかなりの出費になってしまった。

 きっと、相手はそんな細かい事には気づきはしない。

 それでも、できるだけよく思って欲しい。そんな事を考え、朝から数えれば何度目か分からないチェックを始める。
 
「さくらさん」

 だから、声をかけられるまで彼が近づいてくることに気がつかなかった。

「恭也君……」

 人ごみの中で、くるくると回るように自分の姿を確認していたさくらはとっさの事に、思わず固まってしまう。

 自分の顔が赤くなっている事を自覚しながら、少しでも取り繕うと声をあげようとする。
 だが、いつものようなどこか取り澄ました表情ではなく満面とまでは行かなくても、はっきりと楽しそうに微笑んでいる恭也を見ると肩から力が抜けてしまう。
 


 楽しみなのは別に私だけじゃなかったってことね。



 そう思えば何となく許せる気がする。もっとも、何に怒っていたのかもよく分かってはいないのだけど。

「お待たせしたみたいですね」
「いいの、私が勝手に先に来ただけだから」

 機嫌の良さそうな恭也につられ、微笑みを返しながらさくらは彼が手に提げているものに目を留める。

「恭也君それは……」
「ヘルメットです。つい、先日納車になったのでせっかくだからあれで出かけようと思いまして」

 そう言った恭也が示した先には先程のバイクが停められていた。



 だから、パンツがいいって言ったのね。



 そこには納得がいった。だが、正直に言えばあまりいい気分ではない。

「お嫌ですか?」
「そう言うわけではないけど……」
 
 だからと言って良い訳でもない。だが、結局のところ自分が恭也の頼みを断りきれる事などないことはよく分かっていた。

「せっかくのデートですし、最初にさくらさんに乗って欲しかったのですが」

 こんな事を言われなくても、自分がこの年下の恋人お願いを断れた事など一度もないのだから。







 きっかけは当然のごとく忍を介してだった。
 夜の一族の宿命とは言え、恋人どころか友人の一人も作らなかった忍が紹介したい人がいる、と言った時にはひどく驚いた。

 まして、それが男性だとは思いもよらなかった。

 初対面の印象はあまりよくなかった。

 同年代の少年に比べれば落ち着いた感じは好感が持てたが、夜の一族を取巻く状況を受け入れられるようには見えなかった。

 そんな人間はめったにいるものではない。

 それが、誰と比べてのことなのか自分でも分かってはいた。それでも、正しい判断をしていると思っていた。いや、思い込もうとしていた。

 だが、その相手である高町恭也は夜の一族である忍や自分を受け入れ、自動人形であるノエルとも当たり前のように接していた。

 その上、忍を取巻く不穏な状況やノエルの妹ともいえるイレインとの因縁さえも、その両手に下げた小太刀で切り裂いてしまった。

 屋敷は炎に包まれてしまったが、恭也は忍もノエルも守りきった。

 あわてて飛んできたさくらが目にしたものは、紅蓮の炎に飲まれる屋敷。そして、その前に力尽きたように座り込む忍とノエルだった。同じように座り込み右膝をさすっている恭也に気づいたのはしばらくたってからの事だった。

 虚脱したような表情の忍を抱え起こし、恭也に礼を言おうと振り向いた。今思えば、そのときが決定的な転機だったのだと思う。



 彼は、涙を流しながら、薄くそれでも確かに笑っていた。



 その時の表情をさくらは一生忘れないだろう。そして、彼が小さく呟いた言葉も今でも耳に残っている。

「父さん、俺にも守れたよ……」

 自分の拳を見つめながら、ここにはいない父へと語りかける言葉を聞くべきではなかったのかも知れない。

 それでも、さくらは恭也の一番弱い部分を見てしまった。

 強いだけでは、優しいだけでは惹かれなかった。

 さくらが見た恭也は強さと優しさ、そして脆さが同居していた。

 気づけばいつでも目で追うようになっていた。

 それを、危なっかしい弟を見守るような気持ちだという言い訳は自分さえも長く騙す事はできなかった。
 まして、さくらと恭也、この二人を誰よりも大事に思っている忍に隠しとおす事はできなかった。
 


「ねえ、さくら。高町君のこと好きでしょ?」

 再建なった忍の家に呼ばれたさくらは、こう切り出された。口調は軽い感じではあったが、その瞳はどこまでも真剣でさくらの動きを縛った。

「そんな事ある訳ないわ」

 さくらはこう答えることができた自分を褒めてあげたい気分だった。それでも、忍には全く通用しなかった。

「嘘ばっかり。だったら何でそんなに辛そうなの?
「辛くなんかないわよ」

 とぼけるさくらを見つめる忍の瞳から涙が零れる。端正な顔はくしゃくしゃに歪み見る影もない。

「もうそんな嘘つかないで。私、さくらと高町君の辛そうなところを見るのいやだよ……」
「……高町君も?」

 最愛の姪の辛そうな様子より、その言葉に反応してしまう。そのことが何よりも自分の気持ちを表している。そう感じられてしまった。
 
「私と話している時、高町君は時々寂しそうな、何かに耐えるみたいなそんな顔をするの……」
「だからって私のこととは限らないでしょう」
「分かるよ……。大事な人のことだから……」

 必死に言葉を絞り出す、忍の姿が滲んで見える。目じりから零れる涙を感じながら忍の頭をかき抱く。

「ごめん、ごめんね……」
「謝らないで、お願いだから」
 
 忍の涙で胸元が滲んでいく、その感触が何よりも心を傷つける。それでも、恭也への思いは消えなかった。
 その罪深さに更に涙を流しながら、その日は子供の頃によくしたように二人で並んで眠った。

 その後、さくらは恭也に思いを告げ、二人は晴れて付き合うことになった。その道のりも決して平坦ではなかったが、いまはこうして二人で出かけることができる。それだけで十分だった。

「さくらさん、あまりしがみつかないで下さい」

 ささやかな幸せをかみ締めるさくらに、無粋な声がかけられる。顔も見えない、運転するのに気が散ってはいけないからとあまり会話もできない。

 だから、少しでも恭也を近くに感じていたかった。

 それなのに、ちっとも分かってくれない。それが不満で腕に少し力を込める。
すると、恭也の体に緊張が走るのが分かった。

 もちろん、怖いわけではない。恭也の背中に押し付けられる二つのふくらみ。それを感じてムダに力が入っているのが、さくらには手に取るように分かる。

 思いを通わせ、幾度となく体を重ねたというのに、未だにこんな反応を返してくる。
 それが少し寂しくて、でも恭也らしいそんな風にも感じてしまう。

「普通はもっとしがみついて欲しいって言うんじゃないの?」
「あ、あまり力を込められると運転に支障が出ます」
「ひどい……、もう私の体に飽きたの?」

 動揺のあまりハンドル操作を誤る、と言うことはなかった。少しだけそれを期待していたさくらは拍子抜けしていた。それを口実にもう一度しがみつこうと思っていたのに。

「さくらさんに飽きるなんて事は、絶対にありません」

 そんなことまで言われてしまうと、もうどうしようもない。大人しく締め付けるぐらいに込めていた力を緩める。その代わりに赤くなった顔を恭也の背中に押し付けた。

 厚い革ジャンを通して、ほのかに恭也の匂いが感じられる。この時ばかりは自分の嗅覚のよさに感謝する。

 そして、顔を横に向けると安らいだ表情で、恭也の背中に耳を押し当てた。

 大排気量のバイクのエンジン音。

 その轟音にかき消されそうな小さな鼓動。そのリズムに身をゆだねさくらはかるく目を閉じる。

 いつもより早いリズムを刻む鼓動をもっと感じるために。





 行き先はもとより聞いていなかった。

 恭也と一緒ならどこでもいいと思ってもいたし、どこに連れて行ってくれるのか興味もあった。
 二人を乗せたバイクは海鳴を北に抜けて国道沿いを2時間ほど走っていた。
 吹き抜ける風にしだいに潮の香りが感じられる頃、恭也が声をかける。

「ここから少し揺れますので気をつけてください」

 了解の意味を込めてしっかりとしがみつく。今度は恭也も何も言わなかった。そして、国道を右にそれ、小さな間道へと入っていった。

 こんなところに何があるのだろう?

 そう思いはするが、特に何もいわなかった。どうせすぐ分かる事だし。
 
「さくらさん着きました」

 どう見ても普通の雑木林の1角にバイクを止め恭也は声をかける。
 不審そうなさくらを気にも留めずに、恭也はその手を取ると迷いなく歩き出した。

「ちょっと、どこに行くの?」
「こっちです、どうしてもさくらさんに一緒に見て欲しくて」

 ろくな説明もせずに恭也は進んでいく。どちらかと言えば晩生な恭也にしては珍しい積極性は歓迎だが、らしくないところが少し不安な気もする。

 遠目には奥行きがあるように見えたが、すぐに雑木林は途切れていた。

 抜け出た先は切り立った崖になっていて、海面はかなり下のほうに見えている。
 
「はあぁ……」

 初夏の日差しを照り返しきらきらと光る水面を眺め、さくらはため息のような声を漏らす。その一角だけぽっかりと木々が途切れ、海にせり出すような格好になっている。

 対岸は遠く見渡せず、左右は木が覆い隠し、辺りには人の気配は全くない。

 目の前の海が二人だけの貸し切りと言った気分が味わえた。

「ねえ、恭也君どうして私をここに連れてきたの」

 それでも聞いておきたかった。いつもと違う恭也の態度が胸の奥をうずかせるから。

「座りませんか」
「そうね」

 どこか寂しそうに笑いながら言う恭也の隣に腰を下ろす。今の恭也の顔を見たくなくて、視線は海へと向けられる。

 それでも、離れるのは寂しくて恭也の肩に頭をもたれさせた。

 こんなに近くにいるのに、なぜこんなにも分かり合えないのだろう。

 そんな事を思いながら。

「すいません、こんな何もないところで」
「別にいいわ、ちょっと興味もあったから」

 こんな会話がしたかったわけじゃない。それでも、恭也の内面に踏み込むのが怖くて、ただ言葉を連ねる。
 
「それなら、失望したでしょう?」
「そんなことはないけど、意外だったわ」
「そうですか、それなら良かった」

 恭也の言葉にいつもの力強さがない。もしかして、とさくらの脳裏に嫌な想像が走る。
 今は薄れたとは言え、さくらには忍から恭也を奪ったという罪悪感が心の底にこびりついている。

 忍の家の庭で楽しそうに話す二人の姿は、微笑ましい思いと同時に、不安も呼び起こす。

 幾度も打ち消しながら不吉な思いが消せない。もし、それが現実になってしまったら、自分はどうすればいいだろう。

「さくらさんをここに連れてきたのには訳があるんです」
「何かしら?」

 極力、普通に答えたつもりだったがその語尾は微かに震えていた。そのことに気づかず恭也は話し続ける。

「ここを見つけたのは、鍛練に適した場所を探している時でした」

 恭也が妹に自分の剣術を教えている事は知っていた。ちょっと、過剰なぐらいに彼女のために時間を割き、鍛練を繰り返している事は数少ない不満の一つだった。

「早朝にこの辺を前のバイクで走っていたら、起伏のありそうな地形を見つけてちょっと降りてみたんです。それで、この辺りを歩き回っていると、急にここだけ開けているのに気づきました」

 無表情にそれでもどこか楽しげに、この辺りを歩き回っている恭也の姿が想像でき、思わず笑みがこぼれる。

「ちょうど、朝日が差し込んできて俺は阿呆のように立ち尽くしていました」

 それは、少し想像できない。彼はいつでも気を張っていて、自分の前でも無防備な姿は見せてはくれない。

「そうやって、眺めている時に気づいた事があるんです」
「なにかしら?」

 いつになく、頼りなげな声。恭也にそんな声を出して欲しくない。それだけを思い問いかける。
 それは、自分で思っている以上に優しい響きだった。

「寂しいな、と」

 意外な言葉にさくらの思考が一瞬固まる。

 恭也の口からこういった弱音を聞いた覚えはかつてなかった。彼の複雑な生い立ちは断片的には聞いた事がある。

 弱さを目にしたことがあるのはあの日見た光景が最初で最後だった。それでも、その辺は自分の中で昇華しているものだと思っていた。

「何が寂しいの?」

 自分がどれだけ力になれるのかは分からない。でも、このまま聞かずにいることだけはできなかった。

 そして、随分と時間が経ってから恭也はポツリと呟いた。

「隣にあなたがいないこと」
「えっ、」
「それが寂しかったんです」

 恭也の言葉にさくらは自分の顔が火照っていくことが分かった。何を言われたのか、まだ理解もできていないのに言葉だけが滑り落ちていく。

「私がいなかったから?」
「そうです。自分としても珍しい事だとは思いますが、心打つ景色を一人で眺める事が、とても寂しい事だと感じていました」

 そう口に出した自分を恥じるように恭也は目を伏せた。少しだけ赤くなっている気もするが、そこまで気は回らなかった。

「俺は弱くなりました」

 小さな恭也の声にさくらは首を振る。そして、地を掴むような形のまま、いつの間にか力の入っている恭也の甲に自分の手を重ねる。
 

 
 それは決して弱さではない。
 

 
 そう口にすることは簡単だった。でも、きっと言葉では届かない。慰めても、詰っても彼の心の奥底には届かない。



 この胸からあふれる思いが、掌から伝わってくれればいいのに。



 それは単なる願望ではあるが、込められた思いだけは誰に恥じる事も無いものだった。



 しばらく、二人で黙って海を眺めていた。

 海からの風は少し張り出した地形がさえぎり、柔らかな日差しに包まれているとやがて眠気が忍び寄ってきた。

 昨日は遅くまで準備に時間をとられていたので、寝る時間がかなり遅くなっていた。
 その上、ベットに入ってもなかなか寝付けなかった。

 それだけ楽しみにしていたのだが、思い描いていたのとは随分様子が変わっていた。

 それでも、あまり不満は無かった。今日一日で少しだけ恭也の心に触れた気がする。

 さくらとしては恭也とは甘いだけの関係で終わるつもりは無かった。できれば共に苦楽を分かち合いたい。

 だからこそ、こんな風に思いを打ち明けてくれる事は嬉しい。

 でも、全く力になれていない。先程から繋がれたままの手に少しだけ力を込める。

 すると、そこに恭也のもう一つの手が重ねられた。

 離そうとするのかと思えば重ねたままで動こうとしない。疑問に思って顔を上げるとすぐそばに恭也の顔があった。

 何かを問いかける前に恭也の唇が自分のそれに重ねられる。

 恭也がどんな意図でキスをしてきたのかは分からない。それでも、さくらは自分の思いを伝えようと積極的に答えた。
 
 

 形にならない言葉の代わりに思いが唇から零れていけばいい。



 そんな事を思っていた。

 やがて、恭也は身を離してさくらを正面から見つめる。少し放心していたさくらは、陶然としながら精悍な恭也の顔立ちを眺めていた。

「弱いのはいけないことなの?」
「ずっと、そう思っていました」

 夢見心地のままさくらは問いかけた。深く考えてのことではない。ただ、心に浮かんだ疑問をそのまま口に出していた。
 恭也の言葉は期待通りのものではなかった。だが、まだ終わりではなかった。

「でも、最近は弱くてもいいと思えるようになってきました」
「どうして?」
「無理に一人で気を張って強くなろうとしなくても、大丈夫だからです」

 首を傾げるさくらに恭也が微笑みかける。優しげな表情だが、目には強い意志の光が宿っている。
 
 「あなたがいれば、誰よりも強くなれる」
 「もう、寂しくない?」
 「はい」
 
 良かった。そう思いながら恭也の胸に顔をうずめる。

 先程よりもはっきりと恭也の匂いを感じる。

 別に恭也は強くなくてもいいと思っている。それでも、彼が強さを求めるのなら話は簡単だった。

 自分と一緒にいれば強くなれるというのなら、ずっと傍にいればいいだけの事だ。

 それは、さくらの望みでもある。

 恭也の背中に手を回し、しっかりとしがみつく。バイクのときとは違い、今度は恭也も抱きしめ返してくれた。

 それだけで心が通じた気がする自分は単純なんだろう。そう思ったが、すぐにそんな事を考えることはやめてしまった。

 今は、そんなことよりも大事な事があるのだから。
 




 しばらく、そうしていると恭也の腹が大きな音を立てた。

「ふふっ、お腹が空いたの?」
「すみません……」

 気がつけば日は真上に差し掛かっていた。いつの間にか随分と時間がたっていたらしい。

「それじゃ、どこかに食事に行きましょう」
「それなら近くにいい店があるんです。さくらさんにも気に入ってもらえると思います」

 少し力の入った恭也の言葉。海が近いのでシーフードレストランでもあるのかも知れない。
 地元の人しか知らない美味しい定食屋かも知れない。
 どんな店だって、恭也と行けるならそれでいい。そんなことは、きっと分かってくれない。
 でも、そんなことはどうでもいいことだった。
 
「そう、楽しみね」
「期待していてください」

 自信ありげに微笑む恭也に笑みを返し、今度は自分から彼の手をとる。


 願わくばいつまでもこうやって手を繋いでいきたい。そんな願いをこめて。








 このSSときっと誰かが見ていてくれるは直接的につながりはありません。でも、タイトルが似ているのは珍しいことにリクエストを受けて書いたからです。
 最初に載せていただいた時には“きっと誰かが見ていてくれる”と言うテーマは伏せていました。ただ、最後まで書いた後で読んでいただいた方にテーマ当てのクイズをしました。
 そこで当たられた方に希望のカップリングをリクエストしていただきSSを書きますとか言ったら、ありがたいことに二人の方に見事当てていただきました。

 せっかくなので恋人同士の話にしようと思ったらずいぶんと苦戦したことを覚えています。楽しかったのですがもうやらないと思います。



[41302] 夢よりも儚く
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/04/04 01:18

 かくして舞台の幕は上がりぬ。

 それは一幕一場の即興劇。

 演ずるは3人。観客は一人。

 題目は悲劇か喜劇か?

 演目を決めるのは役者しだい。

 私は桟敷でそれを観ているだけ・

 あの時の私はそんな事を思っていた。

 特に根拠も無く。







 桜の木の下には屍体が埋まっている。

 先日遊びに来た美由希ちゃんがそんな事を言っていた。梶井基次郎と言う人の書いた詩の一節らしい。
 確かに狂おしいまでに咲き誇る桜の木を見ていると少し怖く感じる時がある。それでも私の大好きな伯母と同じ名前の花に、そんな不吉な影をまとわせるのはいい気分ではなかった。

 ぼんやりとそんな事を考えながら歩いていると、いつの間にか隣を歩いていた高町君より前に出ていることに気づいた。

「どうしたの高町君?」

 いつも張り詰めた感じのする彼が、どこかぼんやりとしている。
 でも、それも無理もないのかもしれない。短い桜並木とはいえ花びらが舞う姿は幻想的で人の心を騒がせる。

「いや、桜の木の下に屍体が埋まっているというだろう」
「梶井基次郎だね」

 高町君の口からさっきまで私が考えていたことが出てきたので、思わず答えてしまった。なんか不吉、なんて思っていたと言うのに現金な話だ。でも、ずるはいけない気がしたのですぐに付け加える。

「実は、美由希ちゃんに聞いたの」
「そうか」

 できるだけ可愛らしく笑いながらちらりと舌を出す。少しでも私を意識して欲しい。そんな私の思いも気づかずに彼は意外そうな顔で首を傾げている。

「そんな顔されると傷つくなあ。私だってそんな気分になることぐらいあるのに」

 ちょっと膨れて高町君をにらみつけると、楽しげな声が後ろからかけられる。

「赤星君、私たちってどう見ても邪魔者だよね」
「はは、そうかもな」

 振り返ると、私たちのすぐ後ろを歩いていた赤星君と藤代さんが顔を見合わせながら楽しそうに笑っていた。

 翠屋に向うおうとしていた私と高町君は、珍しく二人で歩いている赤星君たちを見かけて声をかけた。つい、この間卒業式を終えたばかりとはいえ、学校を離れたところで友達に会うと懐かしさを感じてしまう。
 大学でも剣道部に入る二人は先輩に呼ばれてこれから大学に行くらしい。大変そうだと思う反面、少し羨ましくも感じる。
 そして、何となく別れにくく連れ立って歩いて、小さな桜並木へ足を踏み入れていた。

 私は桜の花びらが散るのを見るといつも雪を思い出す。ひらひらと舞い落ちる動きが似ているからだけど、この冷たくない雪の下を歩くと心が騒ぐ。それが何故なのか自分でも分からないけれど、ぼんやりとさくらを眺めていた。すると、高町君が足を止めたのに気づいた。今日の彼はいつも以上に口数が少ない。

「なんか、今日はいつも以上に静かだね」
「そんなことはないと思うが」

 高町君のポーカーフェイスは筋金入りだけど、私もそれに騙されないぐらいの付き合いはしてきたつもりだ。

「で、何を考えてたの?」
「特に大した事は考えてはいない。ただ……」
「ただ、なに?」

 言いよどむ高町君が珍しく、つい追い詰めるような言い方をしてしまった。

「この桜の下に何かが埋まっているのなら、屍体なんてものじゃないといいな、と」

 何となくイメージと違う事を言っているような気がする。それとも、本当は私が思っているよりもロマンチストなのだろうか。

 私は高町君の事情を事細かに知っているわけではない。でも、人よりも苦しみの多い人生を歩んできたと思う。

 それなのに、こんな事を言えるのはきっと彼の周りの人が支えてあげたからだと思う。一人で強く生きる事はできても、瑞々しさを失わずにいることは難しい。

 未だにその背を追いかけているお父さんだけでなく、桃子さんや美由希ちゃん。今は遠く離れた場所で優しい歌を歌っているフィアッセさん。それに、今みたいな桜の木の下で彼の心を救った那美。

 私の知らないところで、高町君と縁を結び支えてきた人たち。

 それを羨ましいと思うのは、ただの我がままなんだと思う。でも、そのことに寂しさを感じる事は止められなかった。

「なにがいいと思う」

 すると、どこか思いつめたような硬い表情で赤星君が高町君に声をかけていた。意表を突かれたようだったけど、真剣な表情で考え込む高町君の表情を見ていると寂しさが膨らんでいく。

「私は思い出かな……」

 だから、こんな事を口に出してしまった。戸惑うみんなの様子を見ても一度開いた私の口は止められなかった。

「そうすれば、ここに桜がある限り覚えてもらえるからね」

 夜の一族の私と高町君たちは生きている時間が違う。そして、いずれはみんなと離れ離れになってしまう。それは、高町君にも誰にも防ぐ事はできない。そのことが悔しくて余計なことまで言ってしまった。

「きっと、時間が私だけを置き去りにしてしまうから」







 寂しげな月村さんの様子に引きずられ私も思わずうつむいてしまう。

 でも、心の中では別の事を考えていた。

 沈み込む月村さんはとても儚げで、だからこそとてもきれいに見えた。

 私はとてもああいう風にはなれない。

 誰にも気づかれないようにそっと唇を噛んだ。


 





 桜の木の下には屍体が埋まっている。とは誰が言い出したのだろう。

 蕾がほころんでから花びらが全て落ちるまでおよそ2週間。その短い間に1年分の全てのエネルギーを爆発させるような、狂おしいまでの咲き方。それを見ていると、あながちそれも嘘ではないような気がしてくる。

 それでも、多くの人々が思いを馳せたこの木の下には別の物が埋まって欲しい。そんな事を考えるのは、柄にもなく感傷的になっているせいだろうか。

「どうしたの高町君?」

 自分でも気づかないうちに小さくなった歩幅のせいか、横を並んでいたはずの月村が斜め前から覗き込むようにして声をかけてくる。

 その、真っ直ぐな視線から逃れるように視線を上にやる。すると、次から次へと舞い落ちる花びらが視界を埋め尽くした。

「いや、桜の木の下に屍体が埋まっているというだろう」
「梶井基次郎だね」

 意外にも月村が答えを返してくる。その思いが表情に出たのか月村は小さく舌を出しながら照れたように笑う。

「実は、美由希ちゃんに聞いたの」
「そうか」

 確かに美由希なら、そんな作家の本を読んでいても不思議ではない。むしろ、美由希が言っていた事を月村が覚えていた事の方に驚いた。

「そんな顔されると傷つくなあ。私だってそんな気分になることぐらいあるのに」

 軽く頬を膨らませながら冗談っぽく言う月村。そのころころと変わる表情に我知らず見とれていると、後ろからどことなくからかうような声がかけられた。

「赤星君、私たちってどう見ても邪魔者だよね」
「はは、そうかもな」

 少し離れたところから、からかうような言葉をかけながら楽しげに笑いあう二人。赤星と藤代さんを軽く睨む。

 そして、もう一度自分達が歩いてきた道を見渡す。ここ数日の暖かな気温のためか、桜の木からはそよ風が吹くだけでも花びらが舞い散っている。その幻想的な景色の中にたたずみながらほんの少しだけ物思いにふける。

 母さんに呼ばれ翠屋に顔を出す途中の俺と月村は偶然にも二人で歩いている赤星と藤代さんと出会った。

 大学でも剣道を続ける赤星たちは春休みだと言うのに先輩に呼ばれているらしい。さすがは全国制覇をすると期待が違う。全くの他人事なので気楽にそんな事を思った。

 二人と顔をあわせるのは先日行われた、卒業式以来なので近況を交換しながらゆっくりと歩いてきた。だが、短い桜並木はもうすぐ途切れてしまう。

 その気になればいつだって会える。それでも、今この場で別れることが、名残惜しかったので俺は足を止めた。
 俺が動かないために、月村たちも足を止めてそれぞれに桜を眺めている。

「なんか、今日はいつも以上に静かだね」
「そんなことはないと思うが」

特に理由はないが、言われてみればその通りな気もする。それでも、素直に認めなくなかった。だから、表情だけはいつもと変わらずにとぼけてみせる。

「で、何を考えてたの?」

 だが、月村はごまかせなかった。冗談めかした口調の割にはその瞳には真剣な物が宿っている。

「特に大した事は考えてはいない。ただ……」
「ただ、なに?」

 言いよどむ俺を月村が追い詰める。俺は仕方なしにため息をつきながらぼそぼそと答える。

「この桜の下に何かが埋まっているのなら、屍体なんてものじゃないといいな、と」

 あまりに感傷的な言葉に呆れられるかと思っていたら、月村だけでなく赤星までこちらを見つめている。

「なにがいいと思う」

 そして、こんな事を聞いてきた。意外な成り行きに少しの間考えてみたが結局答えは見つからない。もとより、大して深く考えてはいなかったせいだが。

「私は思い出かな……」

 思いのほか沈んだ月村の声が沈黙を連れてくる。どうも、調子が狂っていたのは俺だけではなかったらしい。

 赤星もいつもの快活な調子は影を潜め、藤代さんも少し節目がちになっている。

「そうすれば、ここに桜がある限り覚えてもらえるからね」

 楽しくもないのに無理やり作られた笑みは、出会ったときの頑なな様子を思い出させる。その寂しげな姿に、俺の中で少しだけくすぶるものがある。

「きっと、時間が私だけを置き去りにしてしまうから」

 そして、こんな事を言う。

 この場にいる人間では、俺にしか通じないその言葉。赤星や藤代さんには通じないどころか、知られる事もはばかられる筈だ。それなのに、月村は言わずにはいられなかった。

 月村の心をなにがそんなにかき乱しているのか、それは俺には分からない。

 それでも、俺は声をかけなければいけない。

「確かに、ここの桜が俺達の事を覚えてくれたらいいな。そうすれば、離れ離れになっても問題ないな」
「年を取ったら、変わっちゃうかもしれないしね」

 月村の沈んだ心は、藤代さんにまで移ったのかそんな事を言い出す。そのくせ、誰も肝心な事は言わない。



友情・絆・縁。



 言葉は違えども目には見えなくても感じるもの。まるで、口に出したら壊れてしまうとばかりに誰もそれに触れない。
 それでも、距離や時間が今感じているこの気持ちを変えてしまうことを恐れている事だけは間違いなかった。

「大丈夫だ」

 根拠もなく胸の奥から零れるように言葉を口に出す。だが、不思議と口にした瞬間から確信に替わった。
 だから、縋るようにこちらを見つめる月村を正面から見つめ返す事ができた。

「なにが、大丈夫なの」
「たとえ、夢よりも儚く大事に思うものが消えてしまうのだとしても……」








 あまり、口数は多くないのにこの人は時々こういうことを言う。

 照れくさくは無いのだろうか?

 顔色がほんのちょっと朱に染まっているところを見ると何も感じていない訳でもないみたい。

 それなら、恥ずかしさよりも彼女に声をかけることが大事だということだろうか?

 そんな風に思われていることがとても羨ましかった。







「赤星君、私たちってどう見ても邪魔者だよね」
「はは、そうかもな」

 悪戯っぽく笑いながら問いかけてくる、藤代さんに相槌を打つ。
実際のところ月村さんはともかく、高町はそんなことは考えてもいないだろう。

 そう、分かっているからそんなに睨むな。

 そんな、俺の心の声は聞こえた風はなかったが、月村さんが話しかけてくれたおかげでうまく注意がそれる。

「なんか、今日はいつも以上に静かだね」
「そんなことはないと思うが」
「で、何を考えてたの?」

 なぜか歯切れの悪い高町に月村さんが食いつく。親しくなったのは去年の春からだというのに、ずいぶんと気のあった感じに見える。

 今ではそんなところはあまり見えないが、以前の月村さんはもっと硬質なイメージがあった。だけど、高町と言葉を交わすようになったあたりからしだいに感じが変わったような気がする。

「特に大した事は考えてはいない。ただ……」
「ただ、なに?」

 それでも、今のような小首を傾げた仕草や、冷たい感じを受けかねない整った容貌に浮かぶ穏やかな微笑は、高町に向ってしか見せていない気がする。

「この桜の下に何かが埋まっているのなら、屍体なんてものじゃないといいな、と」

 さすがにこの答えには意表を突かれた。硬いだけの男ではない事は知っていたがこういう一面もあったのか。

 それなりに長い付き合いだと言うのに、高町の事をまだ知らない部分は多いようだ。そのことが悔しかったのか、零れた言葉は思っているよりもずっと乾いた響きだった。

「なにがいいと思う」

 そう、俺は知りたかった。どれだけ親しくしていたとしても知らない事などいくらでもあるはずだ。それでも、今こんなに気になると言うのは何故だろう?

「私は思い出かな……」

 俺が考え込んでいる間に月村さんがポツリと呟いた。道に迷った子供のように心細げな様子に、高町も真剣な表情で様子をうかがう。

「そうすれば、ここに桜がある限り覚えてもらえるからね」

 月村さんは顔だけは笑みの形を作っていた。だけど、今の彼女を見て笑っていると思う奴はほとんどいないだろう。

「きっと、時間が私だけを置き去りにしてしまうから」

 少し間をあけて、月村さんは俺には意味の分からない事を言う。だけど、高町の張り詰めたような様子から二人にとっては大事な事なのだと分かる。

 だけど、それを問いただす気にはなれない。話していいことならば教えてくれるだろうし、そうでないことなら高町は絶対にしゃべらない。

「確かに、ここの桜が俺達の事を覚えてくれたらいいな。そうすれば、離れ離れになっても問題ないな」

 だから、別の事を口に出す。それでも、話をそらしたつもりは無い。これは俺の本心だった。

 同じ教室で机を並べ共に学んだり、並んで歩きながらつまらない事を話す。当たり前にできていた事ができなくなってみて、初めてその大事さに気づいた。

「年を取ったら、変わっちゃうかもしれないしね」

 今まで黙っていた藤代さんまでもそんな事を言う。いつもの快活な様子は影を潜め、うつむき気味の視線は何も捕らえていない。

 そんなことは無い。そう言うこともできるが、変わらないものなんてきっと何も無い。ただの気休めを口にはできなかった。

「大丈夫だ」

 俺が何も言えずにいるのに、高町は力強く断言した。少し怒ったようなその視線は真っ直ぐに月村さんを射抜いている。

「なにが、大丈夫なの」

 はじかれたように顔を上げる月村さんの瞳は高町だけを写している。

 確かに邪魔だったかな。そんな事を思い苦笑いを浮かべながら藤代さんのほうを見ると、彼女もちょうど俺の方を見たところだった。そんなはずは無いのに思いが通じたような気がしてしまう。

「たとえ、夢よりも儚く大事に思うものが消えてしまうのだとしても……」
「……しても?」
「大丈夫だよ」
「消えちゃうんでしょ、何で大丈夫なの?」

 少しあっけに取られたような月村さんに代わり藤代さんが怒ったような声で問いただす。それでも、高町に動じた様子は見られない。

「消えてはいけないのか?」
「だって……」

 首を傾げる高町に藤代さんは言いよどむ。こいつには俺たちの気持ちは分からないのだろうか?
 この際、俺などどうでもいいが、それでは月村さんがあまりに報われない。
 さすがに黙っていられずに俺が口を開く前に高町は力強く告げる。

「もし、消えてしまうのだとしても確かに今ここにある」

 いつの間にか浮かべていた柔らかな微笑み。こいつにもこんな表情ができるんだ、と俺が驚いている間に高町はそっと付け加える。

「それに失くしてしまったとしてももう一度掴むこともできる」

 高町は今ここにある、そう言った。あいつが感じている物が俺や月村さんと同じものかどうかは分からない。

 だけど、思いが通じたような気がしたことも確かだった。

「ここになにがあるって言うの。そんなものただの錯覚かも知れないじゃない」

 まだ、納得がいっていないような藤代さんが高町に問いかける。いつもの快活な様子は影を潜め、かなり切羽詰ったように見える。

 そのことに俺は自分でも思っている以上に動揺してしまう。

 だから、らしくもない事を口走ってしまった。

「幻なんかじゃない。俺たちは確かにつながっている」







 赤星君の言葉が嬉しくなかったわけじゃない。

 でも、心の奥まで届いた訳でもなかった。

 目の前にいる3人と私。

 同じ場所にいるのにそこには大きな隔たりがあるように感じていた。

 それは、私が作り出しているものだと思う。

 だからと言ってどうにかできるものでもない。

 ままならない心を抱え私はたたずんでいた。






「幻なんかじゃない。俺たちは確かにつながっている」

 赤星の言葉に藤代は泣き笑いのような表情を浮かべる。

「そんなの……」

 それだけをやっと口にして黙り込む様子に他の人間も口をつぐむ。
ただ、穏やかな風が桜を揺らす微かな音だけが聞こえる。

 最初に口を開いたのは忍だった。

「信じられない?」

 穏やかに微笑みなが声をかける。藤代が小さく首を振るのは、信じられないのか、問いかけの意味が分からないのか、分からぬままに忍は言葉を続ける。

「実は私もそうなの」

 変わらぬ笑みを浮かべながら忍は続ける。

 あっけに取られたような表情のまま藤代は必死に言葉を探す。だが、それよりも忍の方が早かった。

「でも、信じたいと思うんだ。それが、大事な人の言葉なら、特にね」

 藤代が、嬉しそうな忍から目をそらすとそこには自分を真っ直ぐに見つめる赤星がいた。
 その強い視線から逃げようとする前に赤星が口を開く。

「目に見えないものは信じられないかな」

 彼女の悩みへの答えにはならない。それでも、その言葉は藤代を縛った。
 問題は思いが見えないことではない。

「それとも、俺が、いや俺たちが信じられないかな?」
「違うよ!」

 悲しげな赤星に藤代は短く叫ぶ。
 
 問題は通じていると、そう感じている思いがすれ違っているかもしれない。そこにある。

「藤代さん」

 恭也の声に藤代はのろのろとそちらを向く。恭也は自分に注意が向いた事を確認すると、目の前を舞い落ちる花びらを一枚そっとつまんだ。

 速さではなく絶妙なタイミングで、不規則に落ちる花びらをつかむ。その妙技に目を見張ったのは、赤星だけだった。

「これがなんだか分かるかな」
「花びら……」

 なにを問われているのか分からないが、それでも律儀に藤代は答える。
恭也は優しげにその様子を見ながら、ゆっくりと言葉をつなげる。

「空から舞い落ちる物が何なのか、見ただけでは本当は分からない」

 木漏れ日に目を細めながら、恭也は空を仰ぎ見る。つられた藤代も上を見るが、木々をすかして、何の変哲も無い空が見えるだけだった

「その手につかまなければ、触れれば消える雪なのか、崩れてしまう灰なのか。それとも花びらなのか、本当は分からない」

 そう言うと、そっと指を離し花びらを風に舞わせる。

 それを目で追う藤代に恭也は問いかける。

「だから、君も手を伸ばしてみないか?」

 自分の言葉の意味を藤代が理解しているのかどうか、ほんの少し確かめる。やがて、小さくうなずくと恭也は踵を返して、歩き出した。

「お、おい高町」
「あまり油も売っていられないのでな、先に行くぞ」

 慌てて声をかけてくる赤星に軽く手を振りながら恭也は答える。

 その様子に忍も慌てて駆け出した。

「待ってよ、高町君。一緒に行こうよ」

 長い髪を躍らせながら近寄る忍に恭也は笑いかける。そして、並んで歩きだした。

 その後姿を赤星と藤代はただ黙って見送っていた。







 私とこの人たちは違う。

 ずっと前からそう思っていた。

 でも、そんなことは無かった。

 みんな一緒。同じように悩んでいる。

 今日、一幕の即興劇を通して私はその事を知った。

 今回の演目は喜劇?

 それとも悲劇?

 それは分からないけれど、ひとつだけ知った事がある。

 演じたのは私たち4人。

 そして、観客も私たち。

 誰でも主役、そして脇役。そこに境なんて無い。

 だから、私は手を伸ばす。

 彼が告げたように自分の思いが幻かどうか確かめるために。








「待ってよ、高町君。一緒に行こうよ」

 一人で歩き出した俺に月村が走りよって来る。

 さくらが舞う中艶やかな髪を躍らせる月村に、正直見とれそうになる。

 だが、かなりの意志力を振り絞りほんの少しだけ目をそらした。

 俺の視線の先には赤星と藤代さんが並んで立っている。

 赤星はこちらを軽く睨んでいるが、藤代さんは俺の様子など気にも留めていなかった。

 おずおずと、その手を赤星に向って伸ばす藤代さんに、心の中で心の中でエールをおくる。

「なんだか楽しそうだね」
「ああ、そうだな」

 月村に笑顔で答えながら、俺たちは翠屋への短い道のりを並んで歩き出した。










 今の季節にふさわしいSSを上げることができましたが、全くの偶然です。以前に書いたものを手直ししたものですが、仕事が忙しかったせいでえらく時間がかかってしまいました。

 4月になれば少しは楽になるはずなので色々と手を付けいるものを消化していきたいです。



[41302] カレイドスコープ 1
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/04/25 01:20

9月26日(金) 16:15



赤星勇吾

 金曜日の6時間目の授業も終わり同じ姿勢を保っていたせいでこわばった筋肉をほぐすように軽く背を伸ばした。

 高校生も3年目の秋にもなれば授業を受ける態度にも当然差は出てくる。大学を受験しようと思えば授業などまともに聞いてはいられないし、進路が決まっていれば気の抜けた態度になってもおかしくはない。

 それでも、俺のすぐ前に座る授業が終わってもまだ起きる様子のない男や、同じ様に眠りについているその隣の女性などは珍しい部類に入るだろう。

「高町、月村さんもいいかげんに起きろ」
「む、もう終わっていたのか」
「おはよう赤星君」

 緊迫感のない友人達にため息をつく。ここまで、きっぱりと授業を聞く気がないというのはやはり問題なのではないだろうか?

「あのなあ、お前ら……」

 俺が少し真面目に話そうとしたところで勢いよく教室の前のドアが開いた。



藤代久美

 ちょっと乱暴にドアが開いた時、私はぼんやりと窓の方を見ていた。
 視線の先には赤星君たちが話しているのが見える。
 私の席は一番廊下側なので何を話しているのかは聞こえない。でも、赤星君の渋い顔から何を言いたいのかは見当が付く。あの二人は気持ち良さそうに寝てたもんね。

 混ざりに行こうかな。そう思って席を立とうとしたところに先生が入ってきたので出鼻をくじかれてしまった。
 心の中で舌打ちをしている私の様子に気づくはずもなく、勢いよく入ってきた担任の松永先生が大きな声をあげる。

「おおい、みんな席に付け。ちょっと早いけどホームルームを始めるぞ」

 この先生はいつでも大きな声で口調も乱暴な感じで話す。部活で男の人の大声なんて聞きなれている私は平気だけど、クラスの女子には苦手な子もいるらしい。
 良くも悪くも生徒の気持ちなんて汲み取らない先生は全員が席に着くのを待たずに話し始める。

「11月の2日から文化祭あるのは知っているな。今日はその出し物を決めたいと思う」

 これだって今さらな話だったりする。他のクラスではとっくに出し物を決めている所だってある。きっと、学年主任の先生とかに言われたんだろうと思うと、思わずため息が出そうになる。



月村忍

 すっかり帰る気でいたところに担任が長引きそうな事を言い出したので、私はちょっと腹を立てていた。
 昨日いいところで中断したRPGの続きも気になるからできれば来週にでもして欲しい。そんな私の声が聞こえるわけはないので話を続けてしまう。

「悪いが締め切りが近いんでなできれば今日決めたい。と、言うわけで委員長前に出てきてくれ」

 軽い口調で言うと松永先生は窓際においてあるパイプいすに腰掛けてしまった。
 正確な年は知らないけれど、40手前ぐらいな割に動作は若々しい。だからと言って好感度が上がるわけでもないけれど。

「じゃ、あとは任せた」

 それに、こうやって丸投げにしてしまうのは無責任と言うものではないだろうか?



赤星勇吾

 渋々といった感じを全身で表しながら、男女二人のクラス委員が前に出て行った。急な話だとはだとは思うが、今日決めなきゃいけないというのは本当の事だろう。
 風芽丘学園の文化祭は毎年文化の日の11月の第一週の土日の2日間に渡って開催される。そうなると授業や部活などにも時間を取られるので、あまり日数は残っていない。
 俺の方は部活の剣道部はインターハイが終わったので、基本的には引退と言うか、毎日でなくてもいいことになっている。
 だから、できるだけの協力しようとは思う。

「そう言うことなんで、今度の文化祭で何をやりたいのか希望のある人は手を挙げてから発言してください」

 だからと言って今できることなんて、手を挙げるぐらいしかないんだがな。



藤代久美

 クラス委員の子が呼びかけてもあまり手は上がらない。やる気は感じられないけど、こんなものかなとは思う。唐突だったしね。
 それでも、幾つかあがったのは喫茶店、お化け屋敷、海鳴の歴史をまとめて展示、と言った代わり映えのしないものばかり。

 むしろ、やる気がないと言ったほうが正しいのかな。

「それでは、この中から決めたいと思います」

 これ以上待っても出て来そうにないので、そろそろ決をとるらしい。なかなか賢明な判断だと思う。

 さて、私は何を選ぼうかな?

 これといってやりたいものがある訳じゃないので困ってしまう。つい、窓際の方をチラッと眺めると赤星君が難しい顔をしている。

「クスっ」

 私は小さく笑うと前を向いた。あまりやる気の無かったのだけれど、ちょっとだけ頑張ってみてもいい気がしていた。



月村忍

 委員の人たちの声に合わせてみんなが手を挙げていく。高町君のほうをチラッと見ると展示のところで手を挙げていた。そんなので楽しいのかな?

「それでは、喫茶店がいいと思う人は?」

 私はここで手を挙げた。他のものがあまり楽しくなさそうって言う事もあるけれど、高町君と知り合ったおかげで翠屋さんによく行くようになったことも、選んだ理由だった。
 決して端から見るほど楽な仕事ではないと思うけど、やりがいがありそうにも見えるから。

 赤星君もここで手を挙げていた。私と同じ気持ちなのかな?

 その高町君は渋い顔をしているのが少しおかしい。
 高町君と一緒にウェイトレスをやっている美由希ちゃんやフィアッセさん達が羨ましいって思ったことも理由の一つ。本人には教えてあげないけどね。



赤星勇吾

「それでは、うちのクラスの出し物は喫茶店と言うことに決まりました」

 クラス委員が宣言する。そこで、松永先生の方に振り向いて問いかけた。

「他に何か決めることはありますか?」
「後は、参加名を決めといてくれ。細かい事は来週もう一度話し合うから考えておいてくれ」

 参加名とか言われてもよく分からないが、店名みたいなことだろうか?
喫茶店といえば高町の家が翠屋なのは割と知られている事だが、それを使うのをあいつは嫌がるだろうな。

「翠屋2号店でいいんじゃねえ?」

 軽い感じで一人の男子が手を挙げながら言う。誰かは言うだろうとは思ったがいきなりか。それとなく高町の方を見ると、案の定苦虫を噛み潰したような表情をしていた。


藤代久美

「で、どうかな高町君」
「できれば勘弁してもらいたい」
「何でだよ、宣伝とかになるじゃんか」

 さっき、翠屋2号店と言った男子が不満そうに言うけれど、高町君は黙って首を振るだけだった。
 私としては気にするようなことじゃないと思うけど、そう言うこだわりは嫌いじゃない。でも、きっと分かってはもらえないんだろうなと思う。
こっそりと周りを見渡すと、高町君に非難の視線を向ける人がちらほらといた。

 それでも、高町君は超然とした姿勢を崩さずに前を向いていた。
 話せば色々と面白い人なんだけど、こういう態度だと誤解を受けやすいと思う。


月村忍

「じゃ、名前は葵屋でいいですか?」

 投げやりなクラス委員の言葉に、まばらな賛成の声が上がる。高町君が翠屋の名前を使うことを認めなかったので、クラスの雰囲気はあまりよくない。
 それでも、私は彼が自分の家の仕事を大事に思っていることを少しは分かっているので、責める気はしない。
 むしろ、翠屋にこだわる人たちの無神経さの方が気に障った。

「ああっと、高町君。一応、分からない事とかあったら聞いてもいいかな?」
「俺に分かる事なんてそんなにはないが、できるだけ協力はしよう」

 相変わらず機嫌はよくなさそうだけど、高町君はそういってくれた。私としては随分な譲歩だと思うけれど、その辺はみんなには伝わらないと思う。

「それじゃ、今日のところはここまで。残ったところは来週だ」

 いつの間にか前に出ていた先生がそんな風に言った。今までほったらかしだったくせに、そうは思うけどいいかげん帰りたかったから何も言わないでいた。






10月3日(金) 16:14


赤星勇吾

 先週と同じように松永先生はいつもよりも早くやってきた。

「それじゃ、この間の続きを始めるぞ」

 席についてなかった連中を座らせると先生は声をあげる。その手には薄い冊子のようなものを持っている。

「どんなコンセプトだとか、メニューなんかを決めなきゃいけないんだが、俺から一つ提案がある」

 なんだかもったいぶった言い方をして教室を見渡した。子供っぽい態度だが、どうやら自信はあるらしい。
 そして、手に持った薄い冊子を前に突き出してこちらに向ける。

「実はな俺の知り合いに菓子を扱った問屋に勤めている奴がいるんだ。そこで、このカタログに書いてあるケーキなんかを2割引で仕入れられることになった」

 ニヤニヤ笑いながら言う松永先生にクラス中から賞賛の声がかけられる中、俺は斜め前の高町の様子が気になっていた。
 ただ一人ニコリともしないあいつは何かを小さく呟いていた。
 だが、俺の耳には何も聞こえてはこなかった。



月村忍

「 」

 高町君が何かを呟いているのが聞こえてきた。でも、その内容までは聞き取れない。
 表情は能面のようで、まったく感情が表に出ていない。でも、こういう時の高町君は色々と考えていることが多い。私は何となく不吉なものを感じて様子を窺う。
 そのはずなのに、いつの間にか真っ直ぐに前を見据える横顔にちょっと見とれてしまう。
 
 「どうした?」

 感覚の鋭い高町君がそのことに気づかないはずもなく、私は慌てて首を振った。

 「な、なんでもないよ」
 「おかしな奴だな」

 苦笑いする高町君から、慌てて目をそらし教壇の方に向き直る。周りの人は気にも留めていないようだけど、私はうつむいてしまう。
 結局、高町君が何を気にしているのか聞けずじまいだった。



藤代久美

 松永先生がカタログを高々とかざす姿を見て、私は小さくため息をつく。もう、いい年だというのに子供っぽい仕草だと思う。
 でも、提案の中身はまともな事を言っているのが意外だった。私のクラスは去年も喫茶店をやったので、仕入れに関しては多少知っているけど、基本的には学校から業者を指定していたはずだ。

 ただ、知り合いなんかの伝手があれば、そちらを使っても構わないと聞いた覚えがある。
 もちろん学校側の許可は必要だけど先生の方から提案しているのだからその辺は大丈夫なんだろう。

 もともと、予算は限られている。原価を安く上げられるなら断る理由はないと思う。クラスのみんなも大体賛成のようで、松永先生は機嫌が良さそうだった。
 この人が調子に乗ることだけが、ほんの少しだけ気がかりだった・

 「それじゃ、続いて喫茶店のテーマを決めるぞ」

 ほら、早速調子に乗ってる。先週はクラス委員を前に立てたのに、今日は自分で仕切りだした。
 だからと言って止められるわけでもない。私はもう一度ため息をついた。
 





10月4日(土) 23:47


高町美由希

「恭ちゃんどうかしたの?」

 いつもの深夜の鍛練の最中、どことなく精彩を欠いているような気がしたので、私は恭ちゃんに声をかけた。
 鎌のように細い月だけが照らす薄暗い森の中、私は何一つ見逃さないように目を凝らす。
 
 「別にどうもしていないが?」

 いつもの仏頂面で恭ちゃんが答える。確かに、動きにも受け答えもいつもと変わらないような気がする。でも、何か違う。
 他の人には分からなくても、刀を手に携え向かい合った私には分かる。

「ちょっと、不機嫌な感じがする」

 最近は鍛練で無茶もしていないし、私が心配をかけるようなことはしていないはず。だったら、心当たりの候補はあまり多くない。

「文化祭の事?」
「なんでもないと言っている」

 今度こそ不機嫌そうな顔になった恭ちゃんを真っ直ぐ見つめる。すると、とても珍しい事に恭ちゃんが目をそらした。

「恭ちゃん?」
「妙な声をだすな。ちょっと、考え事をしていただけだ」

 本当にそれだけなのか、少し気にはかかる。でも、これ以上聞いても答えてくれないと思う。それに、本当に必要な事ならきっと教えてくれるはず。
 だから、私は小太刀を握りなおした。今はそのための時間のはずだから。
 





10月15日(水) 16:32

 藤代久美

 放課後、半月後に迫った文化祭の準備を一切進めていなかった私たちは、さすがに焦りを感じて必要なものを揃えるために動き出す事になった。

 メニューを選ぶ時にはあんなに積極的だったのに、松永先生は他の事にはほとんど口を出さなかった。
 本当に気分屋な人だと思うけど、そんなことは分かっている事なので気にしてはいられない。

 結局、私たちのクラスの出し物は「純喫茶 葵屋」と言うことで決定していた。
 かなり、いやとても時代錯誤なネーミングセンスだと思うけど、一部の男子がゴリ押しして決めてしまった。

 いまどき純喫茶ってネーミングはないだろうとか、そもそも不純な喫茶ってなんだ、なんて疑問は全部スルーして、勝手に提出された申請書類はしっかりと受理されてしまった。
 名前のセンスはともかく、喫茶店をやることは間違いないので店に出すもの以外のものも用意しないといけない。

 そこで、せっかくメニューは安く上げられそうなので、本格的にユニフォームをそろえることに決まっていた。

「藤代さん、そろそろ行こう?」
「あ、うん。今行く」

 今日は私と他に3人の娘で駅前まで買出しに行く事になっていた。予算には限りがあるので、全員分は揃えられないけれど、表に出る人の分ぐらいはきちんとしておきたい。

 今までの文化祭では剣道部の練習なんかもあったので、あまり参加できなかったので、今年はできるだけ手伝ってみたい。
 クラスのみんなで一緒に何かをやるなんてこれが最後かも知れないし。

 そう、思いながら私はなるべく視線を走らせた。



赤星勇吾

 クラスの女子と話をしている藤代さんの方をそっと盗み見る。一瞬、視線が絡んだような気がして慌てて目をそらした。

「赤星、どうした?」
「いや、なんでもない」

 声をかけてきた同じ買出し班のクラスメイトに軽く首を振る。これじゃ、危ない奴だ。そう、思いながら目の前の話に集中する。

「で、買いに行くのは釘だけでよかったんだっけ?」
「いやポスター用の画用紙と絵の具かポスターカラーもいるはずだ」
「そうか、そろそろ行くか」

 そう言いながら腰掛けていた机から立ち上がる。正直なところ、買出しなどといっても連れ立って行くほど色々と買うわけではない。
 文化祭までまだ日にちはあるので、その辺はのんびりしたものだった。

「赤星君たちも買出し?」
「ああ、そうだけど。藤代さんたちは衣装を見に行くんだったか」
「そうだよ。可愛いのを選んでくるから期待しててね」

 近くに寄ってきた藤代さんが上機嫌で話しかけてくる。俺もそれに笑い返しながら、ちらっと窓際の方に視線をやる。
 そこには、自分の鞄に荷物を詰めている高町がいた。
 こういった行事にはあまり積極的に参加しない男だが、今回もそのつもりなのだろうか。

 そのことが妙に気にかかった。



10/18(金) 24:15



高町桃子

 夜、眠りに付く前のひと時。

 私は必ず鏡に向かう事にしている。何も特別なことをしている訳ではなく、ただ髪をゆっくりとブラッシングする。
 それでも、その短い時間は高町家のお母さんでもなく、翠屋の店長でもなく、ただの高町桃子に戻れる貴重なひと時だった。

 お母さんであることも店長である事も、私が望んだことだし不満があるわけではない。でも、それだけでは満たされない部分があるのも確かだった。

 そして、今日も私は鏡に向う。

 髪を傷めないようにゆっくりと、でもきちんと梳る。そうやっている時間にはあまり考え事はしない。
 時折、士郎さんの事を考える事もあるけれど、今日は恭也の事を考えていた。

「ふふっ」

 仏頂面で頼みごとをしてきた昼間の恭也を思い出し自然に笑みがこぼれる。あの子は昔から人に頼る事を知らないから、たまに頼みごとをする時はとても不自然になってしまう。

 そんな、恭也が私を頼ってきてくれてことが素直に嬉しい。

 あの子はきっと士郎さんと同じような道を歩くのだろう。そのことは、恭也の夢だし、そのためにずっと努力をしてきたことも知っている。
 それでも、あまりに早く進む道を決めすぎているように感じていた。このまま、恭也が望むように剣を取って生きていくのだとしても、色々な事を経験する事は必ずためになる。

 だから、私で力になれるのならできるだけのことはしてあげたい。

 それに、あの仏頂面がまた見られるのは、ちょっとだけ楽しみだし。







 前回の物に続いて視点を切り替える話ですが、切り替えが細かすぎですね。これを書いたころはこの手の事に凝っていたのですが、やっぱり見づらい気がします。
 まあ、反省の意味も込めて書いた当時のままで最後まで行こうと思います。

 それと、藤代さんの名前は勝手に決めてしまいました。確か公式に下の名前は決まっていなかったはずなので。異論はあるかと思いますがこれもこのままでいきます。



[41302] カレイドスコープ2
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/05/01 01:47

10/22(水) 16:48


赤星勇吾

 シュッ、シュッと言う小気味のいい音を立てながら高町の握る鋸は硬い角材に切れ込みを入れていく。
 俺がやるとギコギコと音をたてながら右に左にふらつくのだが、高町が切った跡は定規でも当てたように真っ直ぐだ。
 角材がふらつかないように両手でしっかりと固定しながら高町に声をかける。

「日曜大工もこなすのか?」
「御神の剣士としてこれぐらいは嗜みのうちだ」
「言ってろよ」
「昔から棚を作ったりするのは俺の仕事だからな」

 高町はそう言ったのと同じタイミングで角材を切り終える。切れ端を俺の手に残し、長い方の切り口を眺めていた。俺なんかからすれば職人技かと思うほどの出来栄えだが、本人には不満があるらしい。
 それでも、一つうなずくと先に切り終えた角材の横に並べた。

 誰の発案かは覚えてはいないが、教室の中に東屋を作ろうというのは無理があると思う。
 結局柱と簡単な屋根を付けただけのもどきで妥協することになったが、それでも結構な大物を作る羽目になった。

 しょうがないので、渋る高町を引きずり込み力仕事を買って出た。作業量を最初に聞いたときは絶対に間に合わないと思っていたが、思いのほか高町がこの手のことが得意だったのが幸いした。おかげで、何とか当日までに完成させられそうな目処は立った。
 俺は中腰のままでいたせいで凝り固まった背筋を思い切り伸ばした。
 その視線の先には月村さんたちが何かを広げながら楽しそうに話していた。



月村忍

 私は通学用の鞄とは別に持ってきた大き目の紙袋から一つの服を取りだし、クラスメイトに広げて見せた。

「ねえ、見て。この間話してた服を作ってみたの」
「すっごい、自分で作ったの?」
「うちにそう言うのが得意な人がいるから……」

 私がもごもごと言っている間にここ1週間ほどの努力の成果はみんなの間を行ったり来たりしていた。

 この間、藤代さんたちがユニフォームを見に行ったのだけど、思いのほか値段が高く全員分を揃えるのが難しそうだった。だから、できるだけ自分たちで作ろうという話になっていた。
 純喫茶と言うのがどんな服を着るのか分からないけど、ウェイトレスっぽいということでシンプルな紺のワンピースで揃える事にした。

 もちろん、私は服なんて縫ったことはないけれど、ノエルならお手の物だった。もっとも教わっただけで手伝ってはもらっていない。
 これは自分の手で作りたかった。そんな私のこだわりのせいで完成まで時間がかかってしまった。それでも、例えノエルにだって手伝ってもらうのはなにか違うと思っていた。

「凄いね月村さん。まるで、売り物みたいだよ」
「あはは、ありがとう。でも、言いすぎだよ」
「そんなことないよ」

 見覚えのある男子が声をかけてきたので、苦笑いをしながら返事をする。確か、サッカー部の矢島君。
 褒めてくれるのは嬉しいけど、とても売り物なんかと比べられるようなできな訳がない。いたたまれなくなった私は教室の中に視線を走らせた。
 すると、切り終わった角材を並べている高町君の姿が目に入った。

「ねえ、高町君も見て。私が作ったんだよ」

 そう声をかけると高町君は近寄ってきて私の力作を手に取った。そして、あちこち触って念入りに確かめる。

「随分とがたついてるな」
「な、お前なに言ってんだよ」

 あんまりな感想に私が何かを言う前に矢島君が声を荒げる。周りの女の子達も冷たい視線を高町君に注いでいる。でも、高町君は取り合わないで優しげな瞳で私を見つめる。

「頑張ったんだな」
「うん」

 短い言葉に込められた高町君の気持ちが嬉しくて、私はここのところ満足に眠れていない疲れも、何度となく指に刺した針の痛みも溶けてなくなるような気がしていた。
 ノエルが手伝ったのならもっとキレイにできている。それを、わざわざ確かめてこんな事を言うのは私が作った事に気づいてくれたから。



 うん、私がんばったよ。



 言葉には出さずに私はうなずいた。高町君は私のそんな様子を見て淡く微笑んだ。
 美由希ちゃんやなのはちゃんを褒める時によく浮かべるような、柔らかな笑みが眩しくてうつむいてしまった。多分、顔も赤くなってるだろう。
 そして、高町君が返してくれた服をしっかりと抱きしめる。いつの間にか私は自分の顔がほころんでいるのを感じていた。



赤星勇吾

月村さんの嬉しそうに微笑む姿があまりに眩しくてほんの少し見とれてしまった。きっと、ここが教室で周りに人が大勢いるなんてまったく頭から抜け落ちているに違いない。
 その姿は微笑ましいのだが、俺には悔しさを滲ませながらその様子を見ている矢島の姿が気になった。

 もともと、月村さんはきれいだったが最近、いや高町と知り合った頃からよく笑うようになった。そのせいかクラスの連中からも月村さんがいいという話をよく聞く。
 矢島もその一人なんだろう。気持ちは分からなくもない。それでも、俺は心の中で呟いた。



 月村さんがそんな風に笑うのは高町の前だけだ。



 だが、矢島にそう言うことはできなかった。





10月24日(金) 17:25

城島晶

 今日の夕飯は俺の当番だったので、スーパーの袋を両手に提げて高町家へと帰ってきた。両手がふさがっているので苦労しながらドアを開ける。そんな横着しなくても、袋を下ろせばいいんだけど、ついこうやってしまう。

 師匠や桃子さんに見つかるとたしなめられるけど、今日は誰にも会わなかった。それでも、鍵が開いている以上誰かはいるんだろう。

「ただいま」

 俺は後ろ手で戸を閉めながら、できるだけ元気よく言った。ここのうちは結構大きいので、そうしないと奥にいる人に聞こえない時があるから。
 ただ、師匠はこっそりと足音を忍ばせたって気づいているみたいなので例外。このまま修行を続けていくと美由希ちゃんもあんな風に鋭くなるんだろうか?

 普段の様子を見ているとそんな姿は想像できない。でも、剣を握った美由希ちゃんは凛々しく見えるので、あっちの顔ならそんなこともあるかも知れない。
 最初に台所に向かい、冷蔵庫に食材をしまいこむ。すぐ料理にはかかるけど、今日使わないものも多く入っているし、先に洗濯物を見てこようと思ったから。

 あらかた冷蔵庫に放り込むと、物干しの様子を見に縁側へと向う。この間家の中は物音一つしない。誰か帰って来ているのは間違いないんだから、いるのは師匠か美由希ちゃんだろう。あの人たちはパッと見の印象どおりに一人の時は物静かな感じだ。

 縁側に向うと師匠が座っていた。くつろいでいる時間のはずなのに真っ直ぐに伸びた背筋が師匠らしい。
 声をかけようとしたところで、師匠の背中越しに最近よく見かける奴を見かけた。

「くぅ~ん」
「そんな目で見られても困る」
「くぅ~~ん」

 きつねの奴が庭にちょこんと座り、つぶらな瞳で師匠をじっと見つめていた。甘えるように鳴いているが、師匠は困惑気味に返事をしている。言葉は通じているのか?

「本当だ。なにも持ってはいない」
「くぅん!」
「信じてはもらえないのか」
「くぅ~ん……」

 師匠の言葉に狐は耳をぺったりとつけながら伏せてしまった。どうも言葉が通じているみたいだ。

「師匠、なにをやっているんですか?」
「なにと言うか久遠が俺に菓子をねだっていたんだ」
「分かるんですかこいつの言葉?」
「何となくな」

 さすがに、俺が後ろに立っていたのには気づいていたらしく、師匠は苦笑いをしながら答える。
 狐の奴はその間も伏せたままだ。

「おい、きつね。あんまり師匠を困らせるなよ」

 そう声をかけたけど、きつねはこちらをチラッと見ただけでへたったままだった。何か言おうとしたところで師匠が俺の頭に手を載せた。

「いいんだ晶」
「でも……」
「それより、少し出かけてくるから留守番を頼む。それと、洗濯物は取り込んである」
「あ、はい。分かりました」

 師匠は淡く微笑むと久遠を抱き上げ玄関へと向って行く。俺はその背中に慌てて声をかけた。

「師匠、どこに行くんですか」
「このままでは久遠も納得しないだろうからな、大福でも買ってくる」
「くぅん!」
「ついでに八束神社によって、那美さんの所に送ってこようと思う」
「分かりました」

 現金なきつねが師匠に体を擦り付けているのを見ながら、俺は師匠が撫でてくれた頭に手を置いた。
 あの人にとって俺はまだ子供なのかな、そう思うけどあんまり悪い気はしなかった。

 しかし、しょせん動物といってしまえばそれまでだけど、きつねはあんな風にワガママ言う奴じゃなかったはずだ。それなのに、なんであんなに師匠にねだっていたんだろう?




10月24日(月) 18:05


神咲那美

 私はいったんさざなみ寮に帰った後、バイトのために八束神社に来ていた。この時期はあんまり参拝する人の数は多くないけれど、もう落ち葉が舞っているのできちんと掃き清めなきゃいけないから。
 初詣の時のように人出で賑わうのが嫌いなわけではないけれど、静かな感じのほうが落ち着く気がする。
 誰も来ない境内で鼻歌を歌いながら、それでも丁寧に掃いていると急に声をかけられた。

「お疲れ様です」
「ひ、ひゃい」
「くぅ~ん」

 急に声をかけられて妙な声を出してしまった。それを、咎めるように可愛らしい声が上がる。
 振り返ると苦笑いしている高町先輩と、その腕に抱かれている久遠の姿が目に入る。

 ううぅ、またみっともないところを高町先輩に見られた。おまけに久遠は先輩の腕の中で気持ちよさそうに目を閉じているし……。
 思わず恨めしそうな視線で久遠を見てしまう。でも、冷たい事に久遠はそっぽを向いている。
 そんな薄情者に文句を言おうとしたところで、高町先輩が声をかけてきた。

「驚かせてしまったようで申し訳ありません」
「い、いえ私の方こそ騒いじゃって……」
「お詫びといってはなんですが、ご一緒にどうですか?」

 先輩は右手に下げた包みを少し持ち上げる。首を傾げる私に柔らかく微笑みかけながら、拝殿の方へと目をやる。

「少しぐらい休んでもばちはあたりませんよ。それに、俺も手伝いますから」
「でも……」
「それとも、大福はお嫌いですか?」
「分かりました。それじゃ、ちょっと待っていて下さい。お茶を入れてきますから」

 私は渋々といった感じで社務所の方へと向った。でも、内心ではスキップしそうなぐらいにうきうきしていた。

「なみ、うれしそう」
「そうか、ご迷惑なのかと思っていたが良かった」
「なみ大福すき」



 違うわよ!



 後ろの方で聞こえる声に心の中で突っ込みを入れながら。私は急ぎ足で社務所へと飛び込んだ。

 高町先輩が持ってきてくれたのが大福だと分かったので、熱めのお茶を入れて戻った。そして、久遠を真ん中に入れて3人で並んで座る。

「久遠、あんた勝手にその姿になっちゃダメでしょ」
「なみときょうやしかいなかった」
「そんなの分からないでしょう」
「大丈夫ですよ。ここには俺達以外誰もいません」

 高町先輩の言葉に久遠がうなずく。確かに、私よりも二人の方が感覚は鋭いんだけどそう言うことじゃない。でも、久遠のうれしそうな姿やそれを優しく見つめる高町先輩を見ているとどうでもいい事のような気がしてきた。
 
「せっかくだから召し上がってください」
「あ、はい」

 そう促され、とっくにかぶりついている久遠と並んで豆大福をいつもよりも大きく口に入れた。もぐもぐと口を動かしていると、高町先輩がじっとこちらを見ていることに気づいた。

 どうしたんだろう?

 もしかして、口の端にあんこでもついてるのかな……

「お忙しいところに急に押しかけてすいません」
「そんなことはないです。それよりも久遠がご迷惑をかけたんじゃないですか?」

 黙って首を振った高町先輩はおいしそうにお茶を飲んだ。いつもは鋭い感じがする先輩が、くつろいでいる感じがしたので私の顔も自然にほころんでいた。
 私のどじや久遠のワガママでこんな表情を作ってもらえるのなら、それはきっといいことなんじゃないかと思う。

 穏やかな時間が流れる中、私はちょっとだけ久遠に感謝していた。高町先輩とは学年が違うから学校でもなかなか会えないし、先輩達の鍛練は早朝と深夜だからそこでも会うことができないから。
 そういえば、今度の文化祭で先輩達のクラスは喫茶店をやると美由希さんから聞いていた。

「今度の文化祭で高町先輩のクラスは喫茶店をやるんですよね?」
「ええ、そうです。美由希からですか」
「はい、美由希さん嬉しそうに話してました。私も必ず行きます」
「そうですか、期待に添えるといいのですが」
「でも、大変ですよね松永先生のクラスだと」

 私の言葉に高町先輩は首を傾げる。その様子にまた変な事を言ったのかもと思うけど、やめるわけにもいかないので話を続ける。

「詳しくは知らないんですけど、薫ちゃんが以前に何か言っていたんですよ」
「どういう話ですか?」
「文化祭で松永先生のクラスが大変だったって」
 
 高町先輩は少しだけ考え込んでいたけど、すぐに普段どおりの感じに戻ってしまう。それが、少し残念だったけど、もう一つ気になっていたことを聞く。

「久遠、あんたどうして高町先輩と一緒だったの?」
「なのはのところにあそびにいったら、なのはいなかった」
「ふ~ん、それでどうして高町先輩と一緒だったの?」
「きょうや、おいしそうなにおいがした」
「……おいしそうな匂い?」

 私が首をかしげていると、高町先輩が少し慌てたように立ち上がった。

「それでは、掃除を終わらせてしまいましょう」
「くおんもいく~」

 いつの間にかみんな大福を食べ終わり、お茶も空になっていた。箒を取りにいく高町先輩の後を久遠が小走りに付いていく。
 その後ろ姿を見ながら、さっきちょっとだけ見せた高町先輩の様子が妙に気にかかっていた。





10月28日(火) 16:26


藤代久美

 文化祭まで1週間を切ると、校内もそれなりに騒がしくなってくる。教室の隅に置かれていた、ただの材料も日に日に形になってきていた。
 他の作業も徐々に進んできている。昨日は裏方の方に回る女子を中心にメニューを決めていた。松永先生からカタログを借りてみんなで大騒ぎをしているのは、ちょっと楽しそうだった。

 メニューについて意見を求められていた高町君は「結局、スタンダードなものがよく出る」なんて身も蓋もない事をいっていたけど、どうもその辺に落ち着くみたい。

 接客組の私や月村さんはお揃いのユニフォームに身を包み挨拶の練習をさせられていた。本当にそんなことが必要なのか首を傾げるところもあるけれど、ファミレスでバイト経験がある子が強行に主張してみんなで整列して頭を下げ声も揃える。

「いらっしゃいませ」

 これが、ファミレス的に合格なのかは知らないけれど、元気だけはなかなかいいんじゃないかと思う。
 下げた頭を戻しながら、隣に立つ月村さんの様子をそれとなく窺う。実は結構なお嬢様らしい月村さんは、嫌がっていたりするのかなと思っていたけれど、そんな素振りもなく楽しそうにしている。
 私は少し気が楽になり、練習に身を入れることにした。でもクラスメイトの視線がちょっと恥ずかしい。
 


 月村忍

 今までアルバイトとかした事はなかったので、挨拶に練習がいるなんて全然知らなかった。
 それに、こんな風にみんなでおんなじことをするのもなんだか新鮮な感じがしていい。

 こっちは、それなりに盛り上がっているけれど、ちょっと温度差のあるグループもいる。当日は裏方に回って紅茶やコーヒーを入れる係の人たちだ。
 今日は高町君もそこに入っていて、紅茶の入れ方を教えているみたいだけど、どうも熱意が感じられない。

 それは、聞こえてくる会話からも何となく感じられる。

「紅茶の入れ方に難しいことはあまりない。基本的には手順を忠実に守ればそれなりに美味しくできる」
「ふ~ん、そうなんだ」

 明らかに聞く気のない女子にも高町君は真剣な表情でうなずく。そんな顔したって聞いてないんだから、意味ないと思うけどなあ。

「なんだよ、プロとか言っても大したことねえな」
「コツがないわけでもないが、それよりもいつでも同じように入れられることの方が大事だ」

 悪意のある男子生徒にも丁寧に答えている。私から見れば随分と大人な対応に見えるけど、言われた方はそんな風に感じないみたい。
 そういえば、高町君に絡んでいるのは矢島君って言ったかな?

 この間、私の裁縫を褒めてくれた時とは違って嫌な感じだった。それとも、こっちが地なのかな。私の視線に気づいた矢島君は気まずそうに目をそらした。
 私は少しだけその様子を見ていたけれど、すぐに練習に集中する事にした。
視界の端で高町君が苦笑しているのが見えて、ちょっと安心してしまった。


赤星勇吾


「いらっしゃいませ」

 俺が教室に入ると、教壇のところに並んだ女子が頭を下げながら一斉に挨拶をしてきた。不意打ちだったせいか結構驚いたが、息の合い方はなかなかだと思う。

 特に元気のよさはいいと思う。俺は中でも大きな声をあげていた藤代さんに声をかけた。

「練習してるのかい?」
「そうよ、なかなかさまになってるでしょ」

 藤代さんは楽しそうに笑っていた。一緒に並んでいる人たちからも楽しげな雰囲気は伝わってくる。でも、藤代さんの隣に立っている月村さんだけは、ちょっと沈んだ表情をしていた。

 その事を聞こうかどうか悩んでいると、いつの間にか近づいていた高町が声をかけてきた。

「どうした買出しは終わったのか?」
「大体のところはな。それより、あっちの方はいいのか?」

 俺はさっきまで高町が紅茶の入れ方を指導していた連中の方に視線をやった。正直、教え甲斐のない連中だとは思うが時間のほうもあまりない。
 だが、高町は軽く首を振った。こいつがそう言うのなら大丈夫なのだろう。それでも、しこりのように俺の心から不安が消えることはなかった。





10月30日(木) 17:15



鳳 蓮飛

 学校から帰るとかばんを置いてすぐに家を出る。
 別に昨日の食事当番だったおさるがお師匠にほめられたから張り切っているわけやない。いつものスーパーより駅前に近いところで、夕方から卵のタイムセールをやっているからだ。

 鍛錬とかで普通の家よりもたんぱく質を多く必要とする高町家の事情を置いても、卵は和・洋・中どの料理にもよく使うので冷蔵庫から切らしたくない。だから、スーパーのチラシでもチェックは欠かさない。

 桃子ちゃんはお金にはわりと鷹揚な人だけど、うちとしてはその辺にはこだわりたい。将来自分で家計を切り盛りするためにも、今から気を配って遅いことはないはずや。
 最近、手に入れたばかりのエコバッグを手にうちは目当てのスーパーへと足を踏み入れた。



 待ってろや卵!



 そう意気込んで向かった先にうちは意外な人影を見かけ首をかしげた。

「お師匠?」
「あ、ああレンか」

 お師匠の長めの前髪を透かして注がれる鋭い視線は、卵の値段に真っ直ぐ注がれている。まさか、そこにまだ見ぬ敵の姿を見ているわけでもないだろうから、ただ値段を見ているのだろう。でも、卵の売り場の前に佇むブレザー姿の学生と言うのは違和感のある光景だった。

「どないしたんです? こんなところで」
「買出しに来たんだが、ちょっと興味を惹かれてな」
「なんや変わったものでもありました?」
「いや、スーパーというのはみんな安い値段なのかと思っていたが、意外と値段にばらつきがあるんだな」

 お師匠も基本的にお金に頓着しない人だと思っていたので、ちょっと意外な気がした。無駄遣いもしない人やけど、倹約とかも興味はないのかと思っていた。

 でも、これはうれしい誤算だった。

「そうなんですよ! ここのスーパーは卵とか肉とかに強いんですけど、野菜は近所の方が安いし、魚は商店街の魚屋さんのほうが安いんです」
「そ、そうか」

 思わず拳を握って力説するうちにお師匠は若干引き気味になる。それでも、うちの勢いは止まらずに言葉を続けようとするとお師匠がちょっとあわて気味に声をかけてきた。

「そうやって、レンが気を使ってくれているおかげでうちの家計は助かっているんだな」
「そ、そんなことありません」
「いや、ありがとうなレン」

 微笑むお師匠にうちの胸に熱いものがこみ上げてくる。

 ほめられたいと思って安い店を探しているわけではない。ただ、自分の好きなようにやっていること。それでも、その先に誰かの姿を思い描いていないわけじゃなかった。
 その人にうちの努力を認めてもらった、これは少しぐらい浮かれてもしょうがないんと違うやろうか。

「そや、せっかくなんで他にも安いところをお教えします」
「ああ、頼む」
「任せてください」

 胸をたたくうちを優しげに見つめるお師匠の視線はまだ妹を見つめるような感じだと思う。


 でも、近いうちに必ずもっと熱っぽい視線に変えてみせる。


 うちは固い決意を表に出さず、話を続ける。

「それでですね、牛乳はここよりも駅の向こう側のスーパーの方が……」

 お師匠がどこまで分かってくれたのか分からないけれど、うちにはとても楽しいひと時だった。
 帰ったら絶対におさるに自慢したろう、そう決意しながらいつもよりゆっくりとスーパーを回ることにした。






 この辺りから視点を切り替えるのに慣れてきたような気がします。それでも、ちょっと細かく変えすぎなのでもう少しうまくやりたいところです。 
 ただ、この話は次で終わりなので生かすとしたら別の物になってはしまうんですけどね。




[41302] カレイドスコープ3
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2016/05/07 00:14

11月1日 (金) 15:35


藤代久美

 今日の最後の授業を受け持った英語の先生が、身の入っていない生徒たちに苦笑しながら帰っていった。いつもよりもざわめく教室の雰囲気に浸りながら私は頬杖をつきながら物思いにふけっていた。
 考えるのはいよいよ明日に迫った文化祭のこと。これからの時間が明日の成否を決めてしまう。全体的な進行に余裕はあったはずだけど、だんだんとやりたいことも増えてきたので、忙しくなりそうな気がしていた。

 クラスの雰囲気もだいぶ浮ついてきている。なんだかんだ言ってもお祭りだし、直前になればみんなその気になっちゃうのかな。はしゃぎすぎて、なんか事故でも起きなきゃいいんだけど、そんな心配もしてしまう。

 でも、このクラスには赤星君がいるからそんなに心配しなくていいかな。剣道部でもそうだったけど、締めるときにはきちんと締めてくれるはずだ。
 チラッと彼のほうに視線を向けると、月村さんと高町君と3人で話しているのが目に入った。

 高町君に話しかける月村さんの笑顔がとてもまぶしい。はじめは美人だけどとっつきにくい人だと思ったけど、ああしている分にはとてもそんな風には思えない。

 何を話しているのかな?

 気にはなるけど私は硬い表情の高町君のほうが気になった。クラスの浮ついた雰囲気も高町君にだけは届かないみたい。文化祭自体には乗り気に見えたんだけどなあ。



月村忍

「う~ん」

 一日の授業が終わった開放感を感じながら私は軽く背伸びをした。
 でも、今日は開放感だけじゃなかった。むしろ、本番はこれからだ。衣装は間に合ったけど、その分クラスの内装には手が回っていない。
 一応、分担は決めてあったけど割り当ての人たちだけでは終わりそうにない。でも、こんな風にみんなで作業をするというのは割りと楽しかった。今度のことで初めて話した人とかもたくさんいるし、大勢で一つのことに取り組むのは経験してみると意外と楽しい。

 高町君と知り合う前は自分がこんな行事に参加するなんて想像したこともなかった。実際、1・2年のときは文化祭の当日は学校にすら来なかった。
 それを思えばずいぶんな変化だと思う。
 でも、隣に座る私を変えた元凶は浮かない顔で前を向いていた。

「どうしたの高町君?」
「どうもしていないが」
「うそばっかり。なんか考え事してるでしょ」

 むっつりとした顔を崩さない高町君に笑いかける。あまり表情の変わらない人だけど、最近なんとなくどんなことを思っているのかぐらいは分かるようになってきた。
 美由希ちゃん達家族の人に比べればまだまだだけど、それでも一緒に過ごした時間の表れみたいで嬉しい。
 眉間にしわを刻む高町君の様子に自分の考えが当たっていたことが分かる。ますます嬉しくなって、満面の笑みを浮かべた。



 ああ、私浮かれている。



 そう思っても気持ちに歯止めをかける気にはぜんぜんなれなかった。



赤星勇吾

 にこにことした月村さんが話しかけても高町の返答には愛想がない。それでも、月村さんの楽しそうな様子は変わらなかった。
 もう少し楽しそうにしてやればいいのに。他人事ながらそんなことを思ってしまう。月村さんが気にした様子はないので、大きなお世話なんだけどな。

 そんなことを考えているうちにいつもどおりに大きな音を立ててドアが開いた。松永先生が大またに歩きながら黒板の前でこちらに向き直った。

「ほら、席に着け」

 いつもより硬い声に違和感を受ける。表情も沈みがちなように見えるが、それを判別できるほど俺はこの人のことに詳しいわけじゃなかった。

「明日からの文化祭に関して一つ大事な報告がある」

 真剣な表情で俺たち一人一人と目を合わせるように教室中を見渡す。先生が来てからもざわついていた教室もようやく静かになる。それを見計らったところで、先生は教卓に頭を打ち付けるような勢いで頭を下げた。

 俺たちがあっけにとられていると先生は硬い表情のまま言葉を続けた。

「俺が請け負ってたケーキだが都合がつかなくなった」



藤代久美

 最初は何を言っていたのかよく分からなかった。そんな風に感じたのは私だけではなかったのだろう。先生はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「もう一度言うぞ。ケーキの都合がつかなくなった」
「どうして!」

 悲鳴のような声を上げたのは私たちに挨拶の仕方を教えてくれた子だった。接客のグループの中心だっただけに、当然だと思う。

「なに考えてんだよ」
「どうにかならないんですか」
「うそでしょ」

 彼女の叫びを皮切りにクラス中から次々と声が上がる。それでも、先生は何も言わなかった。
 そして、また頭を下げる。

「すまん」
「理由を言ってください」
「実はこのカタログの問屋潰れていたみたいなんだ。だが、俺の知り合いは恥ずかしかったのか言い出せなかったそうだ。それで、昨日最後の確認をしようとしたら、実はとか言い出したんだ」
「そんな……」

 クラス委員の問いに答えにもならないことを言い出す。そんなこともっと前に確認しないでどうするのよ。
 たまらず、私も声を上げようと息を大きく吸い込む。

「先生、一つ確認したいことがあるんですが」

 吸い込んだ息を吐き出そうとする直前、憎らしいほどに落ち着いた様子で高町君が声をかける。その声は特別大きいわけじゃないのに私の動きを止めた。

「な、なんだ」
「問屋が潰れたのは了解しましたが、先生は俺たちから手付け金を預かっていましたよね。それも預けたままですか?」
「そんなわけないだろう。ここにちゃんと有る」

 そうだ、先週になって急にそんなことを言い出し一人頭1,000円ずつ集めていた。そんな大事なことも忘れていた自分にも腹は立つけれど、聞かれるまで言わなかったこの人にも余計に腹が立つ。

 お金が入っているらしい胸元を手で押さえている先生をにらみつける。どうしてやろう、そう思いながらだんだんと体から力が抜けてくる。
 別にこれで文化祭が全部だめになったわけじゃない。でも、やるせない気分が胸の奥から湧き出してくるのを止めることはできなかった。



赤星勇吾

 いつもどおりの高町の声に高ぶった心が若干落ち着きを取り戻す。ここで、先生を責めても事態は解決しない。だったら、できるだけ建設的な話をするべきだろう。

 俺が気持ちを切り替えようとしたところで、先生は懐から一枚の封筒を取り出した。

「これが、お前たちから集めた金だ。確かに返したぞ」

 そう言うと教卓を離れて廊下の方に歩き出そうとする。さすがに見過ごせず声をかけた。

「どこに行くんですか、先生」
「俺はこれから、職員室で打ち合わせがあるんだよ」
「そんな、私たちはどうすればいいんですか」
「それは、お前たちで決めてくれ。そうだ、その金でスーパーとかでお菓子でも買えばいいんじゃないか?」

 藤代さんの問いかけに、まるで気の入っていない様子で答えると松永先生はさっさと出て行ってしまった。
 そのあまりの軽さに俺は止めることもできず呆然とその後姿を見送ってしまった。


月村忍

 あまりに適当な先生の言動に私を初めクラス中が言葉を失っていた。さっきまで感じていた高揚感が一気に失われ、体から力が抜けていく。
 せっかくみんなでがんばってきたのに、その全てを汚されたような気がして知らぬ間に唇をかみ締めていた。
 下を向くのが悔しかったので、つい横を向くと高町君と目が合った。

「大丈夫か?」
「うん」

 この人は普段は鈍いくせにこんな時にはいつも気づいてしまう。それは嬉しいんだけど、悔しくはないのだろうか。
 その心が見えないものかとこちらを見つめる高町君に視線を合わせる。
高町君はそんな私に優しく微笑むと席から立ち上がった。そして、私の頭をなだめるように軽くたたくと教室の前へと歩いていった。




11月1日 18:00



 日が落ちた後の学校というのは昼間が何かと騒がしいせいか、余計に静けさを感じてしまう。ただ、今日は校舎を離れてもまだ喧騒が聞こえてきていた。今もまだ大勢校舎の残っている生徒たちが明日からの文化祭の準備をしているのだろう。



 随分と浮かれているじゃないか。



 唇を笑みの形に吊り上げながら、松永はそんなことを考えていた。
 沈んでいるだろう彼のクラスのことなど気にも留めず、校舎の裏側に停めてある自分の車に向かう。

 学校側から正式に指定されている駐車場は別のところにあるのだが、職員室から近いため車で通う人間はほとんどここに停めている。学校側も別に事故の危険性があるわけでもないので黙認をしていた。
 校舎の影で日当たりもよくなく、あるものといえば教師の車しかないこの場所にはほとんど生徒は近寄らない。

 校舎からサンダルのまま車に向かう松永は、学生時代によく聞いた歌を口ずさみながら歩いていた。ちょうど、今ぐらいの時間が歌詞に出ていたな。そんなことを考えながら、キーを取り出そうとポケットに手を突っ込む。その動きが背後からの声で止められた。
 
「ずいぶんと機嫌がいいようですね」

 松永はなるべく慌てたそぶりを気取られないように振り返った。

「そんなはずないだろ」
「そうですか?」
「ああそうだ」

 先ほどまでは誰もいなかったはずなのに、そこには高町恭也が立っていた。足音も立てずに現れた事も去ることながら、恭也が自分を見つめる瞳も松永は気に入らなかった。

 そこには敬意どころか好意の欠片すら見られない。それどころか、敵意や隔意すらも感じられない。ガラス玉のように無機質に松永を観察していた。

 学校という空間では教師は基本的には強者に属する。彼らは教えるものであり、選別するものだ。それにおもねる者や反発するものはいても、今まで生徒からこんな風に見られたことはなかった。

 だから、威嚇するように語調を強める。

「お前はこんなところで何をしている」
「先生こそ何をしているんですか?」
「帰るんだよ。何でいちいちお前に説明しなきゃならん」

 敵意を隠そうともしない松永を恭也はじっと見つめる。その瞳にはいまだにどんな感情も浮かばない。

「うちのクラスはあなたのせいで大騒ぎなのに帰るんですか」
「俺がいたって何にもできん。それに、今回のことは俺も被害者だ」
「被害者ですか……知っていながら潰れた問屋のカタログを紹介しておきながらよく言いますね」
「何だと」
「そんなに動揺すると隠し事をしていることがばれますよ」

 言葉こそまだ丁寧だが、静かな口調で告げる恭也に松永は引きつったような笑みを見せる。

「それに、先生こういうことをするのは初めてではないでしょう?」
「な、何を言ってるんだ」
「OBの幾人かに確認を取りました。3年前の文化祭でも同様のことをしているそうですね」
「お前……」
「大ごとにならないような小さないやがらせ。でも、浮かれている生徒に確実に水を差すずいぶんといやらしいやり方ですね」

 確信の込められた力強い声。どうやら調べたというのは本当の事らしい。だが、しょせん大したことはしていない。どうとでも言いくるめられる。

「金が絡むとどうしても上に話が行くので、そこには手を付けず自分も被害者と言う位置づけで追及を免れる。手慣れたものです」

 小揺るぎもせず自分を見つめる恭也の視線に気おされたように視線を下にそらす。そして、そのままの姿勢でじっとしていたが、やがて肩が小刻みに震えだした。

「くっ」

 歯の間から小さく息を漏らす。そして、体を折り曲げた。

「はっ、はははははっ」

 堪えきれないといった風情で笑い続ける松永は、目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら、いまだに自分を見つめる恭也を見返す。

「な、何を真剣な顔して言って、んだよ、お前は……」

 切れ切れに言葉を吐き出しながら、松永はゆっくりと上体を起こす。

「それが、どうしたんだ?」

 普段の快活な様子とは違い、表情を一切消しその瞳に底知れない暗さを湛え恭也を見据える。

 その暗い瞳は一体どれだけの物を心の内に溜め込んでいるのか、そんなことを想像させるのに十分だった。

 それでも恭也は虚ろな瞳を正面から受け止める。

 かつて彼の父はありとあらゆる敵意を跳ね返し、殺意の前にもその身を晒し、全てを守りきった。



 今もまだ遠くにしか見えない背中。



 その背を追うと決めた日からこの程度のことで揺らぐ心は持ち合わせてはいない。

 特に力むでもなく、自分を睨みつける松永の様子を油断なく探る。今まで見てきた身のこなしからは武術の心得どころか、運動すら碌にしていないと思える。
 それでも、窮鼠猫を噛むとのたとえもある。恭也はどう動いても対処できるようにわずかに膝をたわめた。

「隠すつもりはないんですか?」
「ん~何をだ?」
「あなたが、クラスの文化祭の邪魔をしたことをです」
「くっ」

 恭也の言葉の何が面白かったのか、再び笑い出す松永。だが、恭也のリアクションがないのが不満なのか、すぐに笑いやんだ。

「まあ、あれだ社会勉強ってやつだ」
「社会勉強ですか……」
「そうだ。お前らがこれから社会に出ると色々と理不尽な目にあう。学校を卒業して急にそんな目に会うとショックも大きいだろう?」

 おどけた口調だが、その表情は真剣だった。小刻みに震える腕、充血した目、小さく乱れた呼吸。そして、段々と声量が上がっていく。精神疾患すら思わせる危険な兆候に見えた。

「だから、俺が代わりに教えてやったんだよ!」

 声を張り上げる松永を見ながら恭也は静かに深くため息をついた。自分を必死に危険な人間だとアピールしようとする松永の姿に憐憫に似た感情がわきあがってくる。
 だが、それを表に出さず会話を続ける。

「随分な暴論ですね。その理屈だと人はいずれ誰でも死ぬから今殺しても一緒だと言うようなものですよ」
「それがどうした……」
「それに、確かに世の中には理不尽が満ちています。だからと言ってあなたがそれをしていい理由はありません」

 自分の想定とは違いまったく慌てるところのない恭也に松永は戸惑ったように動きを止める。それでも、それは一瞬のことですぐにふてぶてしい笑みをみせる。

「それで、お前はどうしたいんだ?」
「差しあたっては明日からの文化祭には来ないでください。これ以上邪魔をされても困りますから」
「嫌だといったら?」

 恭也は答えずに懐から銀色の小さな箱のような物を取り出した。形状としては携帯電話によく似ていた。それを、小さく振りながら松永に見せる。

「何だそれは?」
「ICレコーダーです。今までの話は録音させてもらいました」
「それを、どうするつもりだ……」
「先生が考えを改めないのなら録音した音声をしかるべきところに送りつけることになります」
「お前のようなガキが送ったものが相手にされる訳はないだろう」

 引きつった顔で言う松永に恭也は小さく頭を振る。

「相手にされないのなら、されるまで送りつけるまです」
「どこに送る気だ、校長か?」
「影響力のあるところならどこにでも送りますよ。校長・理事長・PTA会長・教育委員会やテレビ局・新聞社・出版社などもありますね。それに俺は詳しくはないですがインターネットなどにも置けるそうですね」
「お前……」

 ここにいたってやっと松永は悟った。目の前にいる男は自分の将来を脅かす意志と手段を持っている敵なのだと。
 それならば、やることは一つだ。あのICレコーダーさえなければ単なる高校生と教師の言葉ならこちらの方が信用度は高いに違いない。あれを奪えば俺の勝ちだ。

 そう思った松永は、彼にとって最大限の速さで踏み込んだ。最近は一切運動などしていないが、1mほどの距離を飛び恭也の腕に飛びつこうとした。

 だが、恭也はその直前に軽くたわめた膝を使い後ろへと飛んでいた。惚れ惚れするような美しい姿勢よりも、自分の3倍を越えるほどのその距離にあっけにとられ松永は取り返すことをあきらめた。
 身体能力に差がありすぎる。このまま追いかけっこをしても捕まえられる気はまったくしなかった。

「俺をどうするつもりだ……」
「先の事は正直考えていませんでしたが、一つ言えることは同じようなことをすればこれを使うことを躊躇はしません」
「もうするか、こんなこと」

 松永にとっては楽しげに振舞う生徒たちが鼻についただけのちょっとした嫌がらせだった。自分の生活と天秤にかけるようなことではない。

 自分を危ない人間に見せるはったりも通用しなかった。ガキだと侮っていた男が自分の上を行っていることにいまさらながらに気づいていた。

 だからと言ってそれを認めることもできない。屈辱に唇を噛みながら松永は何も言うこともできずに立ち尽くしていた。
 恭也はその様子を少し眺めていたが、やがて黙って踵を返した。

「俺が邪魔をするとか言ってたが、そんな必要もないだろうよ」

 内容は立派に捨て台詞だが、まったく力のこもっていない声では負け惜しみにすらならない。
 それでも恭也は足を止めた。そして振り返りもせずに答える。

「それはあなたが知らなくていいことです」

 それだけ言うと恭也は今度こそ立ち去っていった。

 その背中を睨みつける気力すらなく松永は呆然と立ち尽くしていた。それでも、のろのろと自分の車のほうに向かって歩き出した。





11月1日 15:52



赤星勇吾

 気落ちしているクラスメイトを尻目に、落ち着いているように見える高町が前に向かって歩いていく。カバンは持っていないので帰るわけではないだろうが、何がしたいのかは分からなかった。

 高町は黒板を背にして立つと俺たちを見渡した。まだ、誰一人帰っていなかったクラスの連中も俺と同じようにあっけにとられたように高町を見返す。
 そこにははっきりとした意志を見せる高町がいた。俺や月村さんは別として、高町のこんな顔を見たことのないクラスの連中からは余計に困惑している空気が伝わってくる。

 だが、高町はそれに取り合わず一人一人と視線を合わせるように、首をめぐらす。それは、さっきの松永先生とよく似た姿だったが、あいつの何かを決意した表情は俺の胸に期待をもたらすのに充分だった。
 俺はその中に微かな不純物を感じた。それが何かはよく分からないが、そんなことは些細なことだ。



月村忍

「一つ提案があるんだが聞いてもらえないだろうか?」

 教室に残った全員に対して高町君が問いかけた。強い意志を湛えた黒い瞳が真っ直ぐに私たちを見据える。私の好きな高町君の表情だったけど、ほんの少し照れている感じが面白い。

 あまり目立つことは嫌いな人なのにこんな風にみんなの前に立って、何かを提案しようとしている。私は先ほどまでの落ち込んだ気分を忘れ、高町君の言葉の続きを待った。

「このまま、あの人の言葉どおりに有り合せの物を並べてそれで満足か?」
「そんな訳ないでしょう」

 藤代さんが叫ぶように答える。高町君はその声の大きさに驚く様子も見せずに、藤代さんにうなずきかける。

「だったら、自分たちで作らないか?」
「何を?」
「ケーキだ。幸いここに材料費が有る。後は人手を確保すれば明日までには間に合うだろう」

 高町君の意外な提案にあっけにとられて思考が一瞬停止する。いや、提案自体はそんなに意外でもないけど、あの高町君が言い出すのには違和感があった。

「どうやって作るんだよ?」

 矢島君の小ばかにしたような声。この人は最後までこんな態度なのかな。そう思うと少し悲しい。

「自分のうちで作ってくるって事?」
「そんなの作り方とかわからないわよ」

 口々に言うクラスメイトたちに高町君は苦笑いを浮かべる。良くも悪くも沈んでいたクラスに活気が戻ってきた。これなら大丈夫かな、そう思ったとき高町君はさらに意外なことを言った。
 
「家で各自が作ってくるというのでは効率が悪いだろうから、翠屋のオーブンを使ってはどうだろう」
「……それは、ありがたいけど」
「それと、レシピに関しては俺が知る限りのことなら教えてもいい」

 これが、店名に翠屋を使うことを嫌がっていた人の言うことだろうか。そう思ったのは私だけじゃなかったはずだ。



藤代久美

 いつにない積極性を見せる高町君にちょっと呆然としていた。高町君はこう言うこととは縁遠い人だと思っていた。
 だからだろうか、口から出た言葉は少し皮肉っぽかった気がする。
 
「随分と積極的ね」
「そうかな」
「ええ、正直言って意外だわ。何か企んでるんじゃないかって疑いたくなるぐらいにね」

 随分とひどいことを言っているという自覚はあった。そんな事を言う原因はさっきの先生に有るのも分かっている。それでも、口から出た言葉は取り消しできない。

「企んでいるというのはひどくないか」

 私のとげとげしい言葉にも関わらず高町君は穏やかな表情を見せている。そして、視線を少し上に向け何か考えるような表情をした。
 それから、ちょっとふてぶてしそうに笑った。

「このまま、あの人の願ったとおりになるのは悔しいからな」

 願った? 少し気になる言葉があった気がするけど、いつもと違う高町君の様子に気を取られて聞き流してしまった。



 こんな顔もできるんだ。



 そんなことに気をとられていたので気づかなかったけど、高町君はこの時から松永先生のことを先生と呼ばなくなった。
 そんなことに気づいたのは随分とたってからのことだったけど。



月村忍

 わざわざ聞かれるまでもなく悔しいに決まっていた。私としては最初で最後にみんなと一緒に何かをするチャンスだった。それをだめにされて腹を立てないほど人間はできていない。

 それでも、高町君が無理をしているようなら話は別だ。

「ねえ、桃子さんの了解はとったの?」
「正式に了承を得てはいないが、軽く話は通している。お祭り好きな人だから問題はないだろう。ただ、さすがに営業時間中は貸してくれないだろうから、始める時間は遅くなってはしまうがな」

 話しながら注意深く高町君の様子を伺う。嫌々やっている気配は感じない。でも、もう一つ気になっていることを聞いてみる。高町君が忘れていることはないと思うけど、聞かなくていい訳もないから。

「でもいいのレシピなんて教えて。翠屋のなんでしょ?」
「俺が教えたもので再現できるほど安っぽい味じゃないさ」

 私の危惧を高町君は笑い飛ばす。そこに桃子さんとの信頼を感じて私の胸は少しうずく。

「それで、俺たちは何をすればいい?」
「さすがに全員で入れるほどうちの店は大きくはないので、できればここを仕上げる組と分けて欲しい」
「分かった。それじゃ飾りつけする連中ははこっちな。さっさと仕上げようぜ」

 赤星君はうなずくと、勢いよく立ち上がった。それを横目に見ながら私もこれからどうしようか考えていた。
 まずはノエルに電話かな。浮き立つ気持ちを抑えながら鞄から携帯を取り出した。
 


赤星勇吾

 一通りの打ち合わせを終え、高町が席に戻ってきた。これから、ケーキを作る班はいったん家に帰った後で翠屋に集合するらしい。
 大変だとは思うが人が抜けるこっちだってあまり楽とはいえない。残された時間はあまりないが俺は気になっていたことを聞いてみることにした。

「なあ高町、一ついいか?」
「ああ、何だ」
「お前もしかしてあのカタログのこと知ってたんじゃないのか?」

 どうも今回のことは手際がよすぎるような気がする。高町が悪意を持って黙っていたとは思わないが、知っていたのなら前もって手も打てたんじゃないだろうか。
 高町は俺の問いに小さくうなずいた。

「裏は取ったのは後になってからだが、最初から疑っていた。うちの店では使っていなかったが、母さんから聞いた覚えがあった」
「だったら、何で最初から言わないんだよ」

 思わず責めるような口調になった俺の言葉に高町は視線をそらす。こんな形でクラスの人気を取りたがるやつじゃない。そこには理由があると確信はしていても、確かめておきたかった。

 高町は考えるそぶりを見せていたが、俺にあきらめる気がないことを悟ったのかしぶしぶ口を開く。

「はっきりとした理由があった訳じゃないんだが、あえて言うなら怖かったのかもな……」
「怖いってどういうことだ?」

 俺の疑問に高町は自嘲めいた笑みを浮かべる。その様子がひどく投げやりに見え俺は続ける言葉を失った。

「……赤星。万華鏡って見たことがあるか?」
「それぐらいはあるが……」
「俺が子供のころの話だ。実家で初めて万華鏡を見た時あまりにきれいだったので、馬鹿のようにずっと眺めていた」
「あ、ああ」
「そのうち、とても綺麗な模様ができたんだ。だから、誰かに見せようと思って琴絵さんという人に見せに行ったんだ」

 追憶に浸る高町の視線はこちらを向いていながら、俺のことを捕らえていない。その様子に危ういものを感じたが、俺は黙って続きを待った。

「琴絵さんの部屋に行き、万華鏡を見てもらったんだがその時見えたのは俺が見せたかった物とぜんぜん違っていた」
「それがどうしたんだ?」
「それはそうだよな。万華鏡が見せる模様はちょっと傾けるだけですぐに形を変えてしまう……」

 高町はここで言葉を切り教室を見渡した。その顔にかいま見えるのは羨望だろうか?
 なんとなく気に食わない気持ちが湧き上がってきたが、それを押さえ込む。

「文化祭に向けてみんなが色々と頑張っているのを見ると、たとえ良かれと思っていたとしても俺なんかが手を出していいものか、そう考えてしまった」
「……お前、そんなこと考えていたのか」
「俺が手を出せばあの日の万華鏡のように、形を変えてしまうのではそれが不安だった……」

 この馬鹿野郎が。思わず出掛かった言葉を無理やり飲み込む。こいつが子供のころに見た万華鏡がどれだけ綺麗だか知らないが、こんなことを言わせていいはずがない。



 何様のつもりだ、そんな風にも思う。



 それに何より高町だって文化祭の成功を願っているはずだった。それなのにこんな事を言ってしまうというのは、どうしても許すわけには行かなかった。
 俺が必死に怒りを抑え、口を開こうとしたところに笑いを含んだ声がかけられた。



月村忍

 なんだか高町君と赤星君がまじめな顔をして話し合っているから、近づいてみれば変な雲行きになっていた。
 こんなところでケンカにでもなったらまた教室の空気がおかしくなってしまう。そう思った私は高町君の肩にぶら下がるように飛びつく。

「ねえ、高町君一つ聞いてもいい?」

 そしてさっきの高町君の真似をして問いかけた。少しあわてた様子で二人が私のほうを向く。赤星君はともかく高町君がここまで近づいたことに気づかなかったのは珍しい。

 それほど話に夢中だったのかも知れないけど、それはそんなに悩むような話だろうか?
 だから、疑問に思ったことをそのまま聞いてみた。

「変わってしまった模様はそんなに変だったの?」
「え……」
「だから、高町君が綺麗な模様を見たのは分かったけど、変わった模様は綺麗じゃなかった?」

 何を言われたのかよく分かっていない高町君に向かって大きく両手を広げる。私が見つめるその先にはクラスのみんなが思い思いの様子で話し合っている。

 何を作ろうか話し合っている子。

 飾り付けの段取りを大きな声で怒鳴りあってるグループ。

 あの矢島君だってぶつぶつといいながらポットを取り出して練習をしようとしている。

 みんな生き生きとした表情で、自分がやるべきことをしようとしている。

「高町君がどんな風な姿を想像していたのか分からないけど、今だって充分楽しそうでしょ。それじゃだめ?」

 私の言葉に高町君はゆっくりと教室を見渡した。そして、私の方を向いて笑いかけた。

 それはいつものように大人びた笑みでもなく、さっきまでの自分を嘲るような笑いでもなかった。まるで、思い出の中で琴絵さんという人に万華鏡を見せに行った、少年のころのように屈託のない微笑だった。

「……だめじゃないな」
「そうだよね。だから、もう変なこと言っちゃだめだよ」
「ああ、分かった」

 そう言った時にはいつもの高町君に戻っていた。でも、私の脳裏にはさっきの微笑が焼きついている。それは、何よりも大事なものに思えた。



藤代久美

 赤星君たちが万華鏡の話をしているのが聞こえてきた。本題は万華鏡のことじゃないのかも知れないけど、どっちでもいい話だと思う。
 当人たちはまじめな話をしているつもりなのかも知れないけれど、端から見る限りではそんな風には思えない。

 その証拠に、さっきまで張り詰めていた赤星君も、月村さんの楽しそうな様子に毒気を抜かれたのか苦笑いをしている。

 高町君の目には私たちが万華鏡に映るように綺麗に写るのだろうか?

 もし高町君がそう思っているとしても、私たちがそんな風にキラキラなんてしているはずはない。ただ、あの人は自分のことを低く見積もる癖がある気がする。
 自分のことではなかなか怒らない赤星君が、何かに耐えるみたいに拳を握っていたのはそのことに腹を立てていたんだろう。

 でも、そんなことは心配しなくても大丈夫なんじゃないかな。高町君は頑固そうな人だけど、他人の話をきちんと聞くことができるみたいだから。それができれば変な風に道を誤ることはない。

 それよりも、今日は高町君の意外な一面を見せてもらった気がする。
 万華鏡を覗いたとき、鏡に映った模様は筒を回すことでその姿を変えていく。



 でも、形を変えるのは万華鏡だけじゃない。



 角度を変えれば同じものでも違った形に見えるように、一人の人をどう捉えるかはきっと見る人によって違う。
 それだけじゃなく、見る人の気持ちや心のありようが変われば、同じしぐさ一つとっても違う風に写るはず。

 それは、きっと悪いことじゃない。変わることを嘆くよりも、変わることを楽しめばいいのだと思う。多分、そんなに難しいことじゃないはずだから。

 だから、これからがもっと楽しくなるように動こうと思う。

「ねえ、高町君。何か用意するものとかある?」
「とりあえず、エプロンぐらいは自前で用意して欲しい」
「それだけでいいの?」
「材料は買出しに行く連中に任せればいいし、それ以外の物は店のものを使わせてもらうことで話はつける」

 よどみなく答える高町君に改めて感心する。授業はまじめに聞いていなし、成績も決していい訳ではないから、きちんと段取りをしているのが意外に感じる。
 でも、考えてみれば高町君の妹さんは、高町君が剣術を教えているそうだから、あまり不思議じゃないのかもしれない。

 人に物を教えるのは本当に難しい。剣道部の部長を1年間やっていたけど、つくづくそう感じていた。
 よく考えてみれば、今日は私たちが高町君に教わるわけだから、その辺をじっくり見ることができることになる。せっかくなので、今後のためにも参考にさせてもらおう。
 
「それじゃ、今日はよろしくね」
「ああ、こちらこそ」



 視界の端で月村さんが面白くなさそうな表情をしている。大丈夫よすぐに返してあげるから。


 つい、さっきとは打って変わった気分で月村さんに笑いかけた。





11月1日 19:48


高町恭也

 夜間の練習を中止にすることを美由希に伝えた後、俺は道場で一人正座をしていた。

 目の前には長年の相棒の八景。だが、その相棒を前にして思うのは剣のことではなく、これから立ち向かう難敵のことだった。

 まさか、自分がケーキを作ることになるなどと想像もしたこともなかった。翠屋を継ぐことを考えたことはあるが、その時も自分が厨房に入るつもりなどなかった。
 そうは言っても、自分の決断に不満があるわけではない。最善とは言えないだろうが、俺の能力やクラスの状況を考えればそんなに悪くはないのではないか、そう思える。

 かあさんにケーキ作りを習いたいと告げたときは随分と驚かれたものだった。そして、その後の浮かれぶりもあまり思い出したくない記憶だ。
 それでも、たかが1月では付け焼刃に過ぎない。前々から手伝ってはいたが、大事な作業をしたことはない。正直なところを言えば、これからの作業には不安が先にたつ。

 だが、仮初とはいえ今から俺は人に物を教える身だ。師たるものが不安がっていては、教わる側にもそれは伝わってしまう。迷いはここに置いていかなければいけない。

「ふっ」

 気合を入れる意味も込めて、一度だけ八景を抜刀する。

 身に染み付いた動作は俺の思いとは裏腹に遅滞なく動く。これほどとは言わないが、ケーキ作りももう少し習熟しておくべきだった。そんな未練を刀とともに納める。
 どうにも、未練がましいが今日は随分と恥ずかしいことも言ってしまったので、いまさら恥を上塗りしたところで大して変わらない。

 思えば、今回の件に関しては最初から自分の不甲斐なさで事を大きくしてしまった。
 楽しそうに騒ぐクラスメイト達を、手の届かない物の様に見てしまったのは、思い上がりなのだろうか。それとも、僻んでいたのだろうか。

 それでも、もう過ぎたことだ。赤星には怒られ月村には諭される。恥ずかしいとは思うが、むしろ俺のことを親身に思ってくれることを喜ぶべきだろう。

 そろそろ約束の時間が近いので八景を下げて道場から出た。自室に戻り用意を済ませ玄関に向かうと、待ち構えていたように声がかけられた。

「お兄ちゃん……」
「どうした、なのは?」
「ケーキ焼くの?」
「ああ、俺だけじゃなくクラスのみんなも一緒だがな」
「お兄ちゃんだけずるい……」

 すねたようななのはの顔。

 随分と珍しいものを見たような気がする。もっと小さなときからあまり我がままを言わない子だったので、新鮮な感じだった。
 それだけなのはにとってケーキというより翠屋に対しての思いが大きいのだろう。
 ここで、優しい言葉をかけるのは簡単だが、それよりも少しだけその思いを後押ししてみようと思う。

「なのははまだ小さいからな。刃物や火の扱いは少し早い」
「む~そんなことないのに」
「まあいい、俺が翠屋の跡を継げるかどうかお前の舌で確かめてみればいい」
「えっ?」
「明日の文化祭に来てケーキを食べて俺の腕を判断してくれ」

 なのはは戸惑ったような表情をしていたが、一転して笑顔になった。

「いいの?」
「あ、ああ。みんなで遊びに来るといい」
「うん。必ずいく」
「そうか、待っているぞ。それでは、俺はもう出るから」
「行ってらっしゃい」

 満面の笑みのなのはに若干困惑する。
 本来であればここはなのはにとって高い壁になって、やる気に火をつけるつもりだった。

 だが、喜んでいるのに水を差すこともあるまい。そう思い流すことにした。

言葉を返す代わりに頭をなでると俺は家を出た。また一つ失敗できない理由が増えた。



 だが、それは重荷にはならない。俺の背中を押してくれる力だ。



 いつの間にか浮かんでいた笑みを少しだけくすぐったく感じながら、翠屋へと向かう。その足取りはいつもより軽い気がしていた。










 今回のテーマの一つは裏街道に片足突っ込んでいる恭也のクラスメイトに対しての羨望なのですが、事件が小さすぎて葛藤が足りていない気がします。
 もうちょっと苦悩させるべきだったとは思います。

 とはいえ蔵出しのSSはこれで打ち止めですので、後は新しく書いていかなければいけません。諸々の反省が今後に生かせるかどうかは自分次第なんですよね。



[41302] 風芽丘剣風帳2(連作短編 とらハ1・2・3ごちゃまぜ)
Name: ピヨプー◆0e481aec ID:a0d6b530
Date: 2017/09/18 23:02
 薫が気にしていた赤星の練習相手はそれほど間を置かずに知ることができた。
 だが、その出会いは満足感など何一つもたらさず、さらなる無力感を与えることを知る由もなかった。



 風芽丘高校剣道部は例年夏休みに入ってすぐに合宿を行う。
 8月の頭に行われるインターハイ全国大会に出場できた場合は最後の仕上げとして、残念ながら出場できなかった年には雪辱を誓うと共に予選での問題点などを洗い出していた。

 練習場所は古くから付き合いのある長野県の剣術道場を練習に使わせてもらい、宿は近くにある県営の施設を使っていた。徹底的に安上がりにしている代わりに期間はおよそ2週間と長く、この期間に心身を鍛えあげることにしていた。

 今年の全国大会には団体は男女ともに勝ち上がり、個人戦では女子は薫が男子では2年生ながら赤星が出場することになっていた。

 それだけでも気合が入るというのに今年は例年にはないサプライズもあった。

「本当にありがとうね薫。顧問の先生に聞いたんだけど色々と動いてくれたんだって?」
「大したことはしてないんよ。それにうちらだって千堂たちの動きは参考にさせてもらっている」

 宿を出て練習場に向かう道すがら薫は護身道部部長の千堂瞳と言葉を交わしていた。

 もともと学園では同じ道場を使い何かと交流のあった剣道部と護身道部だったが合宿は別々に行っていた。ただ、今年はお互いの部長である薫と瞳の提案で合同での合宿を行うことになった。

 細かい技術や練習方法、競技への取り組みなどに似て非なることは多かったが、得るものは多い。薫はそう感じていた。

 瞳と連れ立って歩くうちに後ろから大股で迫る足音が聞こえてきた。いわゆる達人には程遠い薫ではあったが、地面を踏みしめる音やリズムから男子剣道部の誰かであろうことは見当がついた。

 だからこそ疑念が沸き上がる。ただの音からこれ以上の情報をくみ上げる人間というのは一体どういう修練を積むものなのだろうか。

「また難しい顔をしてるわね」
「そんなことは……」
「あるわよ。人と話しているときにそんな顔してると誤解されるわよ」
「そんなつもりはなかったんじゃが、すまない」

 どんな技術にせよ一朝一夕で身につくはずもない。そう分かってはいても焦れる気持ちは抑えきれず表情に出てしまっていた。

 そんな薫に後ろから屈託のない声がかけられる。

「おはようございます先輩方」
「おはよう赤星君」
「おはよう」

 薫より頭一つ高いところにある顔に爽やかな笑みを浮かべ赤星が近づいてきた。もともと彼は練習には熱心で率先して動いていたが、今日はいつにもまして気合が入っているように見えた。

「随分と早いのね、練習が始まるまで1時間以上はあるわよ」
「それを言うなら先輩たちだって早いじゃないですか」
「うちらは鍵を開けたり雑用があるからね」
「そうですか、よければ手伝いますよ」
「対してやることがあるわけじゃないから気にせんでいいよ」
「そうですか、それでは先に行って少し走りこんできます」

 そういうと赤星は足早に立ち去ろうとする。いつになく急いた様子に薫は戸惑い声をかけた。

「今日はえらく張り切っとるね」
「友人が練習の様子を見に来るんですよ。あまり恥ずかしいところは見せたくないですからね」

 練習の見学や陣中見舞いというのはそれなりにあったので咎めだてするようなことではない。
 ただ、交友関係は広そうだが赤星の友人が来たことはなかったので、なんとなく問いかける。

「赤星がそんなことを言うなんて珍しいね。どんな人が来るんじゃ?」
「親友です」
「へえ、なんかいいね」

 恥ずかしげもなく言い切る赤星に瞳が感嘆の声をあげる。薫も内心で感心していた。こんな風に口に出せるまっすぐさを少しうらやましく感じる。

「それじゃ、俺は先に行っています」
「ああ、大丈夫だとは思うけど、後の練習に差し支えんようにな」

 薫の言葉に軽く頭を下げると赤星は走り去った。もちろん全力ではないがジョギングというには早いペースだった。

「本当に張り切ってるのね」
「もう10日目で結構疲れも溜まっているはずなのに大したもんじゃ」
「練習見せてもらったけど真面目にやってるしあの体格だもんね。今度のインターハイは結構いいところまでいくんじゃない?」

 体力のある方ではない薫からすればあのタフネスさはうらやましいものだった。瞳の言うように恵まれた素質に加え剣道に対する真摯な態度は今後の成長を大いに期待させた。

「あれでちっとも慢心しないのは育ちがいいんじゃろうか」
「う~ん、そういう感じでもないと思うのよね。実際普段は本当に普通な感じだし」

 そんなことを話し合っているうちに剣道場についた二人はてきぱきと準備を始める。
 標高が高いところにある分海鳴よりは涼しいが、それでも日中には30度を超える。お互いに責任者としてやらねばならないことはいくらでもあった。

 そしてほどなくいつも通りに練習は始まった。昨日と変わらぬ充実した時間が破られたのは、午後の練習が一息つき休憩に入ろうとしたところだった。





「いや~みんな青春をしているねえ」

 そんなことを言いながら3人の男が突然道場に入ってきた。
 彼らは神棚のある側にある通常の入り口ではなく、夏場は開け放しにしている下手にある扉から入ってきた。
 外に面しているこちら側は通常では入りに使う場所ではない。
 ただ、あまりに堂々と入ってきたため誰にも止められずに道場の真ん中あたりまで進むと、言葉を発した男はあたりを見渡した。

 薫も最初はOBでも来たのかと思っていたのだが、明らかに感じが違っていた。

 真ん中にいる最初に言葉を発した男は、白いスーツに胸元が大きく開いた黒いシャツを着ているのにジャケットのボタンだけきっちりと留めている。その割にサイズが若干大きく見えちぐはぐな印象を与える。

 短く刈り込んだ頭に鋭い眼光。どう見ても剣道部の夏合宿に現れる風体ではない。

 付き従う2人の男たちは似たような妙に柄の多いジャージのようなものを着ていた。片方の男が竹刀袋に似た細長いものを持っていたので最初はOBかと勘違いをしていたが、こんな格好をした剣道部員などいるはずもない。

 おまけに3人とも靴を脱がずに道場に上がり込んでいた。

「君たちはだれだ」
「あ~、あんた責任者の人かい?」
「風芽丘高校剣道部顧問の大柴だ」

 語気荒く2名いる顧問のうち若い方の先生が、言葉を発している男に詰め寄ろうとする。だが、手ぶらの方の男が間に入って止めていた。

「そうかい、おじさんちょっとお願いがあって来たんだけど聞いてもらえるかな」
「何が目的か知らないが聞けるわけがないだろう。いいから出ていけ」

 飄々とした白スーツの男の態度に顧問が切れたように大声を上げる。通常なら彼もこんな風に声を荒げるタイプではない。
 だが、何が目的かわからない男たちに不吉なものを感じたのだろう。

「そんな意地悪言わないでもいいじゃない。君ら棒振りがうまいんだろう」
「棒振りじゃない剣道だ」
「そう、その剣道をさうちの若い衆に教えてほしいんだよ」

 そういうと顧問の返事を待たずに、左に立っている袋を下げている男に手を振る。

「先生がお怒りだからお前からも頼め。ちゃんと熱意を見せるんだぞ」
「うっす。よろしくお願いします」

 それだけ言うと手に持っていた袋の口を縛っていた紐をほどいた。やはり竹刀袋だったらしく中から木刀が一本出てきた。

「道場破り?」
「多分違うと思う。うちの道場にもたまに来たけど全然感じが違う」

 道場の壁際で休んでいた薫に近くにいた瞳が声をかけてきた。こんな柄の悪い道場破りなどいるわけがない。薫のうちで嫌な予感が膨らむ。

 木刀を持った男は竹刀袋を乱暴に投げ去ると木刀を両手でつかむ。そして、何をするのかと思うよりも早く両手を大きく開いた。
右手は柄頭をそのまま持ち、開いていった左手にはそのまま木刀の切っ先が握られていたままだった。
 右手の近くから木刀は二つに割れ銀色に鈍く光る鉄の刃が現れる。
 それは薫にとってはなじみ深い刀を、木刀の形に隠していた仕込み刀だった。

 刃渡りは仕込みにしたせいか定寸よりも短めでおよそ2尺ぐらいだろうか。きちんと研ぎまでされているのかは分からないが、人を傷つけるものとしては十分すぎるほど危険なものだった。

「本身じゃと……」
「仕込み刀?」

 何が起こっているのか理解が追い付かない。剣道部の合宿でこんなことが起こるなど想定もしていなかった。部員の誰もが行動に移すこともできず動きを止めていた。

「何をしている。やめないか」

 だが、さすがに教師が止めに入ろうとした。しかし、手ぶらの男が立ちはだかり近づけさせない。その動きを見て、我に返った他の者も立ち上がろうとした。その様子を見た白スーツの男が手をスーツの内側に滑らせると何かを取り出す。
 彼はまるで名刺を取り出すサラリーマンのような自然な動きで黒い塊を取り出した。
 その様子に言いようのない悪寒を感じた薫が飛び出そうとした瞬間に、白スーツの男が手に持ったものを上に向けた。



パン



 音自体は軽く甲高い音だが腹に響く感じがする。

 その音が何を意味するのか頭で理解する前に誰もが動きを止めていた。

 男は手に持った“拳銃”を薫達女子生徒が固まっている方に向けた。

 コルトガバメントM1911 通称ガバメント。もとは米軍が正式採用していた拳銃だがとっくに代変わりしている骨董品に近くなりつつあるものだった。ただ、レプリカや横流しが相当数出回っていた。

 そんな種類など見分けのつくものなど剣道部の部員にはいないが、これが危険なものであることは誰もが分かった。

「なんか物騒なことを考えているみたいだけど、あまり変なことはしない方がいいよ」
「なんで拳銃なんか……」
「おじさん運動不足だからね。君らみたいな乱暴そうな人に囲まれたらすぐにぼこぼこにされちゃうからね。護身用だよ護身用」

 そして、お世辞にもいいとは言えない面相に下卑た笑みを浮かべる。

「先生みたいな人にかかったら俺なんかすぐに叩きのめされちゃうんだろうけど、その間にこいつから弾を一発吐き出すぐらいはできるんだよ」
「何を……」
「いいからそこから下がりなよ。さもないと緊張のあまり手に力が入っちゃうよ」

 そう言いながら女子生徒の方に視線を向ける。

「ひっ」

 たまたま目があった生徒が小さく悲鳴を上げる。薫はその子の前に回り込み男からかばおうとする。

 にたりと笑みを深めた男が薫に視線を止める。だが、軽く身じろぎした薫から視線を切り道場の中を見渡す。

 そのすきに手ぶらの男が顧問を突き飛ばす。

「兄貴がああいってるんだ、とっとと下がってろよ」
「いや~みんな強そうだね。おじさんさっきも言ったようにうちの若い衆と遊んでほしいだけなんだよね」

 口調は軽いがねばりつくような視線からは意図は読めないながらも、確実に悪意を感じる。

 道場の中をふらふらとさまよっていた男の視線はやがて1点で止まった。その視線の先には男子剣道部のエース赤星がいた。
 彼は悪意に満ちた視線を小動もせず受け止める。

「おいよせ。相手なら俺がする。だから生徒に手を出すな」

 顧問の悲鳴のような声が上がったその一瞬。

 誰もが彼に注意を向けた。



 だから、気づかない。



 白スーツの男が何かを言おうとしたのか一歩踏み出そうとした瞬間に背後から声がかけられた。

「誰も相手がするものがいないなら俺が相手をしよう」

 それは、場違いなくらいに落ち着いた声だった。







 銃声が鳴った時には3人の男が入ってきた入り口にたどり着いていた。子細はわからないがどうせろくなことではない。できるだけ情報を手に入れようとそのまま道場の様子をうかがった。

 ほんの短い時間しか観察できなかったが、見た限りでは白スーツの男からは態度と裏腹にあまり隙は見いだせなかった。
 場数を踏んでいるのか、グアムなどにある射撃練習場ではなく本格的な戦闘法を本職にレクチャーされているのかまではわからない。

 だが、武装的にも立場的にもこの男を最優先で無力化しなければいけない。

 そう思い気配を殺し男の背後に立つため動き出す。

 足音は極力殺し、近寄る速度もあえて抑える。まれに空気の揺れを感じて気付くものもいるためだ。相手がそれほどの手練れには見えないが、持っている凶器を警戒し念には念を入れる。

 3メートルほどの距離を詰める間には誰かには気づかれるだろうが、この男に気付かれなければ問題はない。
 そう思いながら近寄ったところで顧問の先生が声を上げた。道場中の視線がそちらに集まる。

 思ってもいない好機が来た。これを逃す手はない。



「誰も相手がするものがいないなら俺が相手をしよう」



 だから、そう声をかけた。

 そして白スーツの男の動き、その後の行動を探るべく全神経を集中させる。



 この男にただ1発の銃弾も打たせてはいけない。



 すると男は先ほどまでのふざけた言動が嘘のような機敏さで、こちらに銃口を向けるべく振り返った。

 頭で考えたわけではなく完全に反射での行動だろう。かなりの速さだが、こうなることはかなりの確率で予測ができていた。うまく当たってくれたことに安堵し、間合いを詰める。

 体を反時計回りに回転させながら両手でグリップを保持した銃をこちらに向けようとしてくる。

 その体が回転しきる前に銃身をつかもうと右手を伸ばす。当初の予定ではそのまま上から押さえつけながら投げ飛ばすつもりだった。

 だが、身長は俺より10センチ近く高く、体重に至っては30kgぐらい重そうだ。そんな男を相手に1発も打たせずに銃をもぎ取ることは難しそうなため、方針を変更する。

 銃身を抑えに行った右手でオートマチック拳銃のスライドを上から握り、後ろにずらす。速さと正確な動作が必要なそれをうまく成功させることができた。

 力いっぱい後ろにずらされたスライドは確かな抵抗を手の中に残した、思惑通りに本体から弾き飛ばされた。弾丸というものは撃針が底を打つことで初めて爆発する。
 リボルバー拳銃とオートマチック拳銃では仕組みが違うが、引き金を引くと撃針が弾丸を叩く仕組みは同じだ。そして、オートマチック拳銃の撃針は可動式のスライドに内蔵されている。

 つまりここを壊してしまえばこの場にいる誰もがこの拳銃を使うことはできない。タフそうな3人を相手にして拳銃の取り合いなどしていては、不慮の事故が起きる可能性を捨てきれない。

 初手は思惑通りに行ったが、一息つく間などなく体は次々と動く。

 拳銃を壊した右手はその勢いのままに目の前の男に叩き込む。骨太そうな男がそれしきのことで倒れるわけなどないが、目的は動きを止めることだった。

 勢い任せだったため正確な動きはできなかったが、こめかみのあたりに右手が当たった。白スーツの男はぐらつくこともなかったが一瞬だけ動きが止まった。

 その瞬間に開いた左手を男ののどに突き入れた。

 全力を込めた場合は一撃で殺しかねない危険な技だが、銃だの日本刀だのを持ち出す輩に容赦する気はなかった。

 拳や手刀では気道を潰しかねないのでさすがに掌にした。ただ、これだけで確実に無力化したとは言い切れない。だから右足を男の股間に滑り込ませる。

 思い切り跳ね上げた右の足刀から何かを潰した感触が伝わってくる。それにさしたる感慨もわかないまま苦痛のあまり気絶した白スーツの男を、日本刀を下げている男に向けて転がす。

 日本刀を持った男がどれぐらい喧嘩慣れしているかは知らないが、物理的に人一人を超えてくるのには時間がかかる。その程度の時間が稼げれば十分だった。

 ただ、そうすると必然的にもう一人の男の間には何も障害がなくなるが、視界が開けた瞬間に若干意表を突かれた。

 派手なジャージらしきものを着た若い男は、ポケットに入れていたらしいバタフライナイフを取り出してこちらに向かおうとしていた。

 俺が声をかけてから10秒もかかっていない。何が起きているかなど理解もできていないはずだ。それなのにこの反応。驚愕というよりは関心をしてしまう。

 やくざや不良の類にはまれに見られるが、暴力を起こすまでの過程が短い人間がいる。街中で肩がぶつかっただけで瞬間的にどなったり暴力をふるえるのは、別に常在戦場よろしくいつでも構えているわけでもない。

 何かが起こってそれに対して反応を返す際のプロセスが人より少ないのだろう。それが結果的に行動の速さにつながる。

 そして、ナイフを取り出した男は何の躊躇もなく右手に握った凶器を前に突き出し体ごとぶつかる勢いで飛び込んできた。

 覚悟を決める間もなく、勢いだけで人を殺しかねない攻撃をしてくる。ためらいがないにもほどがある。

 思い切りのいい攻撃だとは思うが意表を突かれたのはほんの一瞬で、男が飛び込む前にこちらの態勢は整っている。まっすぐぶつかってくる相手に対し左足を前に出しながら半身になる。

 そして、踏み出した左足で相手の右ひざを正面から踏みつぶした。



ゴキリ



 かなりの確率で後遺症が残る危険な技だが、手加減の必要など感じなかった。

 湿ったような音が聞こえたが男の手にはまだナイフが握られている。痛みが襲ってくるにはまだ間があるが、踏み込む足を潰された今どんな動きもできない。

 理解が追い付き騒ぎ出す前に、ナイフを握った手首をとらえ引き込むようにして腰に相手を乗せる。柔道でいう袖釣り込み腰に近い形で男の体を跳ね上げた。

 力任せに投げたのできちんとした技にはなっていない。おかげで握った手から嫌な手ごたえが伝わってくる。
 だが、かまわず道場の床にたたきつけた。その瞬間に限界を超えた右肩の関節が外れたらしく、その手から力なくナイフが零れ落ちる。

 この男はまだ意識を保っているが右手と右足を潰されている時点で実質的に身動きが取れない。

 だから握っていた手を放し、ナイフを拾い上げ最後に残った仕込み刀を手にした男に向き直った。

 仕込み刀を持った男は中段に構えこちらの様子をうかがっていた。せっかく数で上回っているのに、様子を見たりしているあたり実は荒事に慣れていないのかもしれない。

 だが、相手の状況などどうでもいいことだ。

 中段に構えた切っ先を細かく上下させる相手に歩み寄る。

 その動きから北辰一刀流の鶺鴒の動き方と思ったがどうも動きが硬い。これはむしろ剣道の動きだろう。竹刀を上下させてリズムをとる動きが体に染みついているのかもしれない。

 見たところ真剣を使った戦いには慣れていないのだろう。荒事に向かう覚悟は決まっているのかもしれないが、緊張は隠しきれていない。

 そうはいっても刀は刀。危険なことには違いない。距離を慎重に測りながら、だが一定の速度で近づく。

 そして、相手の間合いのやや手前で手にしたナイフを体の中心に向かって投げた。もとよりこんな小さな刃で仕込みとはいえ本身を受け止められるわけもない。

 ならば、牽制に使うぐらいがちょうどいい。

 胸の辺りに向けて投げたナイフを刀で打ち払らわれる。危なげない動きだったが目の前から刃がそれた瞬間に合わせて思い切り踏み込む。

 体ごとぶつかるような勢いで肘をみぞおちに向け突き出す。

 相手も払った刃を返してきたが、一瞬早く俺の肘が体に突き刺さった。お互いに近づきすぎたため刃が当たっても切れるような位置ではない。それでも当たらないことに越したことはない。

 深く突き入れた肘に確かな感触を感じた。肋骨折るまではいかないが確実にダメージは入れている。

「げふっ」

 声というよりも肺から息を漏らし相手の動きが止まる。

 そして、相手が手に持ったままの刀を巻き込むように肘を決めそのまま投げた。



御神流 萌木割り



 刃のついた武器を持って投げるときは本来ならその腕を落とす。だが、さすがに剣道部の合宿を行う道場で流血沙汰は避けたかった。なので腕を折るだけにとどめた。

 まだ、右ひじが折れただけの男の上に乗り、その鼻面に掌底を入れる。鼻骨の砕けた手ごたえが伝わってきた。

 立て続けに起こっている事態についていかないのか呆然とした表情に苦痛と脅えが浮かぶ。よく見れば意外と若い感じがする。多分二十歳を少し超えたぐらいではないだろうか。

 かつてはいま壁際にいる赤星たちと同じように汗を流していたのかもしれない。だが、そんな感傷に浸る気もない。

 苦痛と鼻をふさがれたことにより、息を大きく吸うため口が開いたところを横から顎を打ち抜く。脳を揺さぶられた男は白目をむき意識を失った。

 俺は男の手を離れた仕込み刀を手に取り落ちていた鞘にしまった。



カチン



 小さな音が1分にも満たない短い闘争の終わりを告げた。







 何が起こったのか誰もが理解できていなかったが、恭也が刀を収めた音を合図にやっと動き出すものが現れた。


「高町」

 赤星が切羽詰まったような声を上げ恭也に走り寄った。つかみかかるような勢いだったがその顔に浮かんでいるのは焦燥だった。

「けがはないか?」

 その言葉に意表を突かれたのか道場に入ってきた時から能面のごとく動かなかった恭也の表情が動く。
 そして、苦いものを多く含んではいるが笑みを浮かべる。

「最初に出てくる言葉がそれか。敵わないな」
「いいから、大丈夫なのか」
「ああ、問題ない。けがをしているのは連中だけだ」

 言いながら転がっている男たちの方に視線を向ける。骨を折られたり睾丸を潰された男たちがうめき声をあげている。

「君は何者だ」
「風芽丘高校2年の高町恭也です」

 ようやく立ち直った顧問が恭也に声をかける。興奮した様子の顧問に対し恭也は落ち着いて返事を返す。ほんの少し前まで命の危険すらあるやり取りをしていたのにそんな様子は全く感じられなかった。

「へっ、これ……でお前らも……終わりだな。これで、インター……ハイにも……」
「戯言の続きは警察で話せ」
「お前……も終わりだ。かなら……ず、落とし前……をとらせる」
「そうか、それは手間が省けていいな」

 ただ一人意識を保っているバタフライナイフを持っていた男が、苦痛をこらえながら途切れ途切れに言葉を発する。恭也は苦しそうな様子を気にかけることなく冷淡に答える。

「ああっ」
「お前ごときを探し回る手間がなく、向かって来てくるなら楽でいい」

 殺意どころか怒りすらにじませてはいなかったが、その言葉に何を感じたのかバタフライナイフを持っていた男の顔色が痛みとは別の理由で白くなっていく。

 だが、その言葉に顧問が反応する。

「警察を呼んだのか」
「ええ、ここに入る前に通報しています。そもそも警察が間に合えばこんなことはするつもりもありませんでした」
「しかし、大会前に警察沙汰はまずい」
「そうは言いますが相手があんな物を持ち出している時点で警察の介入は避けられませんよ」
「ダメか……」
「ダメです」

 頭を抱える顧問にバタフライナイフを持っていた男が下卑た笑いを浮かべる。

 その二人を見ながら恭也は言葉を続ける。

「あの男の言葉は聞かなくてもいいですよ。先ほどの銃声は他の家にも聞こえているのでどのみち騒ぎは避けられません」
「しかし、大会間際の大事な時期にこんな騒ぎに巻き込まれたとなると色々問題が……」
「そうであってもやましいことが無い以上堂々と聴取を受けてください。もめ事を恐れる気持ちがああいう輩に付け込まれるもとです」

 警察沙汰や裁判などに縁のない人間にとってそれらは煩わしく、時によっては避けるべきものだろう。だが、やくざからすれば思うつぼだ。彼らにとって警察と揉めることも裁判を起こすことも日常茶飯事だ。

 どこまでいけば罪になるのかそういったことを熟知している。そのため騒ぎを大きくしたくない人間の心理に付け込み脅してくるのだ。

「そもそも、剣道部員でもない俺が銃まで持ち出したやくざ者を叩きのめしたところで、何の不祥事でもありません。堂々と聴取を受けてください」

 恭也の言葉に顧問は考え込んでしまう。ただ、遠くから聞こえてくるパトカーのサイレンが決断を先延ばしにする余裕をくれなかった。

「すまん高町。俺は何もできなかった」

 そんな顧問をよそに、思いつめたような表情で赤星が頭を下げた。それはある意味道場にいる剣道部員と護身道部員の大多数に共通する思いだった。
 自分たちを狙ったと思われる暴力に対して何もできなかった。心構えができていなかったとはいえ口惜しいことには違いない。

 だが、恭也は心底不思議そうな様子で首をかしげる。

「お前はあんなことをするためにこんな暑い中、毎日切磋琢磨していたのか」

 そう言うと、ひとまとめに転がされうめき声をあげることしかできない男たちを指す。自業自得とはいえ彼らを襲った暴力の凄まじさの一端を感じ取れる。

「違う。俺たちの剣道はそんなためにやっているわけじゃない」
「だったら、あんなことができない事など悔やむな。お前が磨いてきた剣はあんな連中を相手にするためのものじゃないだろう」
「だったら、お前はどうなんだ……」
「俺のことはどうでもいい。だが、お前は、お前たちは自分のしてきたことを恥じるようなことだけはするなよ」

 赤星の声に答えると恭也は道場の外をうかがう。どうやらパトカーが近づいてきたらしい。

 パトカーを出迎えるために恭也が道場の出口へと向かおうとする。その背に赤星が声をかける。

「高町、俺たちはどうしたらいい?」
「俺が決めることでもないが、あんな連中を使ってまでお前たちがインターハイに出るのが嫌だったらしい。だったら普通に出場して勝ち進めばいい」
「それでいいのか……」
「それが、あいつらや後ろにいる連中にとって一番の嫌がらせだろうさ」

 そう言うと恭也は歩き出した。その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、背を向けていたため誰もそれを見ることはできなかった。

「俺たちは勝つよ。だからお前もインターハイを見に来てくれ」

 恭也は笑みを深めたが、振り向かずに歩み去った。









 えらく間が開いてしまいましたが以前に書いたものの続きになります。
 今回は厨二病患者が一度は妄想する学園にテロリストが的な話を臆面もなく書いてみました。
 うまくいったかどうかは別としてとりあえずは満足しました。

 次はバトルのないほのぼの話が書きたいです。まったくめどは立ってないですけどね。


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