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[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 【第三部】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/08/15 00:02


 せせらぎの音をたどってようやく小川を見つけた俺は、わき目もふらずに川辺に駆け寄った。
 手で水をすくう手間を惜しみ、そのまま川面に口をつけて音をたてて水を飲み込んでいく。
 消毒もせずに川の水を飲む危険性は承知していたが、正直、そんなことを気にしている余裕は一ミリたりとも残っていなかった。
 なにせこの小川にたどり着くまで、ずっと鍬(くわ)やら鋤(すき)やらを持った人たちに追い回されており、死ぬほど喉が渇いていたのである。


 ようやく渇きから解放された俺は、川面から口を離して安堵の息を吐いた。ついでにため息も吐いておきたい気分だった。
 両親の墓参りの帰り、気まぐれに春日山城址に足を向けてから今日で三日あまり。巻き込まれた事態の異常性を思えば、ため息の一つや二つ吐きたくなっても仕方ない、と思う。
「まったくなあ……ここはどこ、わたしはだれ、とか本気でいう日が来るとは思わなかった」
 しみじみと呟く。
 幸い、記憶はしっかりと残っていたので、自分が天城颯馬である事実に疑いを抱くことはなかった。
 しかし、俺の記憶が確かならば、俺は春日山城址から一歩も出ていないはずだ。しかるに、気がつけばどことも知れない平地に立っていた。見かける人間の大半はボロ布と見まがう粗末な衣服を着ており、意を決して話しかけてみても、うろんな目で睨まれるばかり。時には先刻のように怪しい奴だと追い回されることもあった。いったい俺が何をした。 あんまりにも腹が立ったので、逃げるついでに軒先に転がっていた野菜をくすねてきたが、これは不当なる暴力に対する正当な抵抗の証である、と声を大にして訴えたい。


 が、その程度の戦果で空腹がまぎれるはずもなく、体力的にも精神的にも疲労はとうにピークに達している。
 やたらとかたい上に苦味が強い野菜を無理やり飲み下した俺は、天を仰いで呟いた。
「しかし、これからどうしたものか」 
 いちいち内心の声を言葉にしてしまうのは、やはり今の状況に不安を感じているからなのだろう。何かしら喋っていないと落ち着かないのだ。
 むろんというべきか、あてなど何もない。が、ここでじっとしていても問題は解決しないということだけはすでに理解できていた。これは夢なんだと現実逃避するには、三日という時間の経過はあまりにもリアルだったから。
 と、その時。


 不意に背後で鈴の音が鳴った。


 俺はバネ仕掛けの人形のような動きで身体を半回転させると、拳を握り締めて身構えた。少しばかり過剰な反応かもしれないが、今日までの経験を鑑みれば、警戒してし過ぎるということはないだろう。
 それに、俺は水を飲んでいる間、無警戒でいたわけではない。川辺には石が敷き詰められており、誰かが近づいてくれば、石を踏む音ですぐにわかったはずなのだ。
 それがなく、いきなり鈴の音が聞こえてきたことに俺は驚いたのである。


 警戒と驚きが混在した視線の先に立っていたのは――白木の杖をついた一人の女の子だった。杖の先に鈴が結び付けられており、これが俺の耳に聞こえた音の源だろう。
 綺麗な少女だった。容姿も、そして身なりも。
 汚れひとつ付いていない白色の着物は、今日までこの地で見かけた人々とは明らかに一線を画している。眼前の少女を見ていると、自然に巫女という言葉が思い浮かんだ。
 年齢は、俺の感覚でいえば高校生には達していない。たぶん中学生くらいではなかろうか。優しげな顔立ちに、腰まで届く黒髪がびっくりするほど良く似合っている。
 瞳の色や声音はわからない。少女はずっと目を閉ざし、口を開くこともなかったからだ。ただ、その顔に浮かんでいたのは安堵の表情だ、と俺には見えた。
 顔ばかりではない。少女は杖を持たない左の手を自身の胸に置いており、その仕草はやはり少女の安堵を示すもののように思われた。


 俺は握り締めた拳の力を緩めたが、完全に警戒を解くこともしなかった。目の前の女の子から害意は感じられなかったが、見覚えのない子であることもまた確か。少女が俺を前にして安堵の表情を浮かべる理由がわからない以上、警戒するに越したことはない。
 というか、そもそも少女はずっと目を閉ざしているのだから、俺が誰だかわかるはずもないのだ。姿を現したときの状況といい、やはり怪しい人物ではあるだろう。


 そんな俺の警戒の眼差しを、視力以外の何かで感じ取ったのかどうか。こちらに歩み寄ろうとしていた少女は動きをとめ、一瞬だけ口を開きかけた。が、すぐに何かに気づいたように口元を手で覆うと、今度ははっきりと困惑とわかる表情を浮かべた。
 しばし何事か考え込んでいた少女は、急に「ひらめいた!」といわんばかりにぎゅっと左拳を握り締めると、そっとその場にしゃがみこみ、持っていた白木の杖を地面に置く。


 杖が地面に置かれた際、先端につけられていた鈴が、ちりんと澄んだ音をたてた。
 杖を置き終えた少女は、ゆっくりと立ち上がると、俺に向けて両の手のひらを開いてみせる。
 それが害意のないことを示す動作であると悟った俺は、戸惑いつつもその推測を声に出してみた。
「ええと……敵意はない、ということかい?」
「――!」
 こくこくこく、と高速で上下に揺れる少女の顔。外見から推して物静かな子だと思い込んでいたが、先ほどからの百面相といい、どうやら思った以上に活動的な子であるらしい。
 あるいは、こうして俺と出会えた事が、少女にとって、はしゃがずにはいられないほど大切なことであったのかもしれない――いや、まあたぶん違うだろうけど。


 少女は杖を拾いなおすと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
 一歩進む都度、杖の先で揺れる鈴が、りん、りんと涼しげな音をたてる。その音が、つい数日前の記憶と結びついたが、この時の俺にその意味を理解することはできなかった。
 俺が理解できたのは、目が見えず、言葉もしゃべれない眼前の少女が、白く細い指をつかって俺のてのひらに書き記したこの子の名前だけ。


 『そうしん』
 それが、これから先、ほんの数日だけ旅の道連れとなった少女の名前であった。 



 聖将記 ~戦極姫~ 【第三部 乱世の閃影】



 和泉国 堺


 襖の外から聞こえてくるチュン、チュンという鳥のさえずりで目が覚める。
 瞼をこすりながら襖を開けると、空はまだ夜の支配下にあった。東の方向に、かすかだが曙光の兆しが見て取れる。
「えらく早起きしてしまったな」
 そう呟いた俺は、肩の凝りをほぐしながら大きく伸びをした。
 昨晩、床に就いたとき、夜はだいぶ更けていた。それを考えると、俺が眠っていたのはせいぜい三、四時間というところだと思うが、寝足りないという感覚はまったくない。


 この充足感が、あの懐かしい夢を見たことでもたらされたものなのだとすれば、あの少女に感謝しなければならないだろう。あれ以来、一度も会うことができていないのだが、あの子、元気にしているだろうか。
 まあ短いとはいえ、共に旅をした仲である。あの子が俺の心配を必要とするようなやわな子でないことは重々承知していた。なにしろ、道中でからまれた荒くれ者たちを杖一本で撃退した子だし。それを見た時は、ほんとに目が見えないのかこの子、と唖然としたものである。


 耳をすませば、大勢の人たちが立ち働く物音が聞こえてくる。早起きしたと思っていたが、この家には俺よりもさらに早起きしている人が結構な数、いるようだった。
「農家の朝は早いというけど、商家の朝も負けず劣らず、ということかね」
 今、俺が厄介になっているのは泉州堺にある、とある商家の屋敷である。大友家の御用商人 仲屋宗悦どのが堺における活動の拠点としている場所だ。
 九国を出て、瀬戸内を通り抜け、畿内へとやってきた俺は、ひとまずこの屋敷に腰を落ち着けた。
 心情からいえば、即刻越後へ向かいたかったのだが、なにしろ畿内の情勢がまったくわからない。無計画に越後へ向かった挙句、三好あたりに怪しまれて捕まったりすれば目もあてられない。
 つけくわえれば、ここまで来る道中も決して安穏としたものではなく、一度しっかりと休息をとる必要があったのである。


 ……いや、まあ意味ありげに云ってはみたものの、別にどっかの大名に襲撃されたとか、そういったことがあったわけではない。毛利軍は妨害するどころか喜び勇んで俺たちを送り出したほどだし、噂に名高い村上水軍に追いかけまわされたりもしなかった。
 ただ単に、俺が慣れない船旅で疲労困憊しただけである。揺れすぎだ、船。
 おかげで同行者のひとりからは、
『なるほど、師兄に勝つには船戦。おぼえておきましょう』
 とか云われる始末である。おぼえてどうする気か問い詰めたかったが、海上の俺にそんな余力が残っているはずもなく、ともすれば喉下にせりあがってくる何かを飲み下すだけで精一杯だった。



 ともあれ、手早く身支度を調えた俺は部屋を出た。
 夜のうちに何か新しい情報が届いている可能性もある、そう考えてのことだったが、あいにく、そこまで物事は都合よく進まなかった。
「申し訳ございません。目新しい情報は何一つ。三条西家に遣わした者も、いまだもどっておりません」
 そういって恐縮したように頭を下げたのは、この店の番頭さんだった。府内にいる主人の代わりに店を切り盛りするこの人物、多種多様の商取引はいうにおよばず、大友家と京都を結ぶ外交面の太いパイプを維持する役割も受け持っているそうで、俗な言い方をすれば「かなりの切れ者」というやつである。
 そんな人物がどうして俺にここまで丁寧に接してくれるのかといえば、俺が大友家の恩人兼賓客という扱いになっているからだった。俺としてはくすぐったい上、微妙に座りが悪いのだが、強いて扱いを改めるよう頼むのも面倒なので――というか、そんなことを気にかけている時間もなかったので、相手の納得がいくようにさせていた。


 で、この番頭さん、今回の政変に際しても抜かりなく情報を収集しており、それによると、現在までのところ畿内で大きな合戦は起きていないらしい。将軍が討たれたことにより、一部の幕臣が三好家に兵を向けようとしたそうだが、もとより武力にまさる三好軍の敵ではなく、この動きは三好軍によって鎮められた。
 結果、京は三好家の統治の下で治安を回復しつつあり、それを見た周辺の国々も軽挙を慎んでいる、というのが現在の状況であるようだった。将軍没後の畿内の混乱に乗じようとする者は少なくないだろうが、思ったよりも三好家の動きが統制がとれているので、ヘタに手を出して手痛い反撃をくらうのを怖れ、様子をうかがっているのだろう。
 もっとも、畿内の情勢は日を追うに従って緊迫の度を高めており、遠からず大きな動きがあるでしょう、と番頭さんはつけくわえた。


 俺としては正直、畿内のことは二の次で、一番の関心事は謙信さまたちの行方にあった。
 当然ながら、その点は真っ先に確認したのだが、あいにく謙信さまたちに関する情報は何もなかった。
 これはまあ、仕方ないといえば仕方ない。将軍討死という一大事にあって、少数で上洛していた上杉家一行の行方に関心を払う者などそうそういるはずもない。少なくとも、今日まで謙信さまたちの身に危難が及んだという情報は伝わっていないとのことなので、今のところはそれで満足しておくしかない。
 今しがた番頭さんが口にしたように、謙信さまたちが京での宿所にしていた三条西家にはすでに人を遣わしている。この使者が帰って来るのを待って、今後の動きを決するべきだろう。



 俺はそう結論づけた、のだが。
「とはいえ、せっかく名高い堺の町にいるのだし、ただぼうっとしているのはもったいないと思うわけだ」
 朝食の後、俺は同行者たちにそう告げた。
 この場にいるのは大谷吉継、丸目長恵、上泉秀綱、そして小野鎮幸の四名である。鎮幸は立花道雪どのが道中の護衛としてつけてくれた人物なのだが、当面の間は堺にとどまり、俺の目的のために尽力してくれるとのこと、実にありがたい。
 そう云って礼を述べたら「共に矢石の雨をくぐりぬけた仲ではないか、水臭いことをもうすな」と返され、背中をばんばんと叩かれた。痛かった。


「堺……ふむ、鉄砲でも買い求めていかれますか? 大友家からの進物を使えば、一丁どころか十丁でも二十丁でも買い込めそうですが」
 そう口にしたのは丸目長恵である。今日は結い上げた髪に花のかんざしを挿しており、外見だけ見れば裕福な商家の娘さん、といった風情だった。
 ちなみに長恵が口にした進物というのは、宗麟さまから俺たちに贈られた財物のことで、冗談ではなく船の積荷はほとんどこれだった。これを元手にすれば、そこそこの規模の商家が建てられる量である。
 俺がそうと知ったのは府内の港を出た後のことで、鎮幸どの曰く「あらかじめ伝えると絶対に突き返されるから」という宗麟さまの指示で、船が港を出るまで口を緘していたそうな。どうも道雪どのあたりから入れ知恵があった気配が濃厚である。


 俺は長恵の推測を、かぶりを振って否定した。
「鉄砲をもって歩けば、どうか怪しんでくれって云ってるようなものだろう。この面子で武器商人というのもおかしな話だしな」
 俺の言葉に、長恵はふむとうなずいた。
「となると、他に師兄の考えそうなことといえば……そうですね、鉄砲鍛冶の人を越後に連れていく、といったあたりでしょうか? 一人の職人は、百の鉄砲に優りましょう」
「おお、当たりだ。正確にいえば、その予約をしておきたい」
 その言葉に反応したのは吉継だった。


「お義父さま。予約、とは?」
 首を傾げる愛娘に、俺は自分の考えを説明する。
「鉄砲鍛冶の技術は堺にとっても大切なもの、頼んだからといって、そう簡単に他国に渡してはくれないだろう。しかも行き先は遠い越後だ、大抵の人は二の足を踏む。くわえて、今の畿内は混乱の真っ只中にある。道中の安全も保障できないこの状況で、俺たちにつきあってくれるどこぞの剣聖みたいな物好きがそうそういるとは思えない」
「それはまあ、確かに」
 深く納得した様子の吉継と、はて、と首をひねる長恵。
 鎮幸は興味深げに耳をそばだて、秀綱どのは姿勢ただしく食後のお茶を味わっていた。


 そんな皆の様子を眺めつつ、俺は言葉を続ける。
「というわけで、俺たちが春日山城にもどり、畿内の情勢がある程度落ち着いてから、越後に鉄砲鍛冶を招く。そのための人選を今のうちに頼んでおけば、後々物事が楽に進むだろうと考えたわけだ。移住する方にしても、準備の時間が多いに越したことはないだろうしな」
 問題は、遠い越後に移住しても良い、という物好きな鍛冶師さんがいるかどうかなのだが、そこらへんは俺たちが額を寄せ合っても解決できることではない。とりあえず、高額の報酬を餌にして――もとい、十分な支度金を条件にして交渉することにしよう。
 幸い、そのための資金は山のようにある。どのみち、船一杯の財貨を越後まで持ち運ぶなんて無理なわけだから、ここで思い切って使ってしまうのも一案であろう。


 と、ここで吉継が控えめに疑問を呈してきた。
「お義父さまの考えは理解しました。しかし、さきほどお義父さまご自身が口になさっていたように、この町にとっても鉄砲鍛冶は貴重な技術です。いくら金子を積んだからといって、簡単に他国へ渡すものでしょうか?」
「そこは、そうせざるを得ないだけの対価を積むことで解決できる」
「金子以外の対価、ですか?」
「そう、たとえばこの本とかな」
 そういって俺が懐から取り出したのは、段蔵が記した鬼将記――ではもちろんない。
 これは大友家が記した鉄砲と火薬の秘伝書である。表紙には『鉄放薬方并調合次第 改訂版』と記されていた。


 南蛮と深い繋がりを持つ大友家が、南蛮から得た知識に加えて、自分たちが工夫、発見した鉄砲技術を記した本。内容は鉄砲生産から鉄砲隊の運用、火薬調合の割合、効率的な硝石生産の方法など多岐に渡っており、その価値は計り知れない。出すところに出せば、それこそ一生豪遊しても使いきれない金品を得られるだろう。
 堺は鉄砲の一大生産地であり、当然、その技術、知識は他に抜きん出ているが、それでもこの本の価値が薄れることはないはずだ。
 つまるところ、俺は技術供与と引き換えに人材獲得を目論んでいたのである。


 むろん、改訂本をそのまま相手に渡したりはしない。一時的に貸すだけである。
 写本をつくろうか、と考えないでもなかったのだが、この本は間違いなく大友家にとって門外不出の品だったはず。いくら頂いた物だからといって、安易に写本をつくるのはためらわれた。
 そんなことを考えながら、俺は言葉を続ける。
「鉄砲に関する技術と人材。この二つはこれからの上杉家にとって大きな力になる。それを持ち帰ることができれば、春日山で怒り狂っているであろう某筆頭家老どのも、感心のあまり怒気を解いてくれるやもしれん」
 力強く拳を握り締め、希望的観測を口にする。
 と、それまで黙っていた秀綱どのが、澄ました顔で口を開いた。


「人の夢、と書いて儚いと読みますね、天城どの」
「……救いはないのでしょうか?」
「それは山城守さまに直接うかがってみてください」
 無情な返答に、がっくりと頭をたれる。
 そんな俺を見て、兼続のことを直接知らない吉継や長恵が不思議そうに目を瞬かせていた。




◆◆




 堺の町に芝辻清右衛門(しばつじ せいえもん)という人物がいる。
 もともと紀伊国根来(ねごろ)の刀鍛冶であったこの人物は、領主である津田算長の命令で南蛮渡来の武器 鉄砲の複製を命じられ、見事それを成し遂げたことで知られている。
 この成功により、根来では鉄砲の量産が可能となり、鉄砲による武装化が急速に推し進められていった。
 この流れは根来と関係の深い雑賀(さいが)にも及び、鉄砲の破壊力を利して敵軍を蹴散らす両軍の武名は瞬く間に畿内を席巻するにいたる。
 精強無比をうたわれる鉄砲集団 根来衆 雑賀衆の誕生である。


 清右衛門は後に住居を堺に移し、堺における鉄砲生産の一翼を担うようになる。
 堺の町衆にとって、鉄砲は商品であり、同時に自衛の武器でもある。清右衛門の移住は歓迎され、町を挙げて様々な便宜がはかられた。
 清右衛門に与えられた広大な鍛冶場もその便宜の一つであり、今日も今日とて鍛冶場からは鉄を叩く甲高い音が響き渡っている。
 空には雲ひとつない晴天が広がり、快い薫風が路地を駆け回る子供たちの頬を優しくくすぐっていく。わが子を見守る母親たちは、聞きなれた鎚の音に耳を傾けながら、最近とみに高まっている物価について、しみじみと不平を言い合うのだった。





 絶好の散歩日和ともいうべき外の光景から一転して、鍛冶場の中は地獄の釜底とはかくあらん、という状況だった。
 立ち上る熱気が室内を満たし、炉から引きつける熱風が鎚を振るう者たちをじりじりとあぶっていく。滝のような汗を流す彼らの周囲では、弟子たちが息を切らせながら駆け回っていた。


 そんな鍛冶場の一画に不思議な人物がいた。
 鎚を振るう姿こそ他の鍛冶師たちと同じだったが、目だって若く、腕も驚くほど細い。丸太のような腕を持つ隣の鍛冶師と比べたら、それこそ大人と子供といっても通用しそうである。
 大半の鍛冶師たちが片肌脱ぎで鎚を振るっているのに対し、この人物はしっかりと作業衣を着込んでいたが、さすがに熱気がきついのか、胸元の合わせ目がわずかに緩くなっている。そして、そこからきつく巻かれたサラシがちらと覗いていた。


 しばし後。
 作業がひと段落したのか、その人物は鎚を置いて大きく息を吐き出した。
 そうしている間にも、額から頬へ、頬から顎へと汗が伝わり、ぽたぽたと床に滴り落ちていく。その汗を拭うべく、脇に置いておいた手ぬぐいへ手を伸ばそうとした瞬間だった。
「お嬢、どうかお使いください! 洗い立てですッ」
「わわッ!?」
 眼前に自分の物ではない手ぬぐいを差し出され、お嬢と呼ばれた人物は驚いて、円らな目をぱちくりとさせる。
 小ぶりな顔立ちにお嬢という呼びかけ、さらにはサラシを巻いても隠しきれていない胸元の膨らみ。それらから明らかなように、この人物、鍛冶場ではめずらしい女性の鍛冶師であった。


 もっとも、少女は鍛冶を生業としているわけではないので、正確にいえば鍛冶師とは言い難いのだが、その腕前は気難しい年配の鍛冶師たちも認めており、こうして鍛冶場の一角に席を与えられている。
 男ばかりのむさくるしい職場に見目麗しい少女がいれば、そこに注目が集まるのは必然といえる。さすがに熟練の鍛冶師たちは少女に気をとられたりしなかったが、若い弟子たちは事あるごとに少女に話しかけようと機を窺っていた。
 たとえば、今のように。



 困惑する少女の前に、さらに別の手拭いが差し出された。
「お嬢、そんな使い古しよりも、ぜひこちらを! 昨日買ったばかりの新品です!」
「そんなどこの誰がつくったかもわからん粗末なものをお嬢に使わせるつもりか。お嬢、これは今日、俺が縫い上げたばかりのもの、ぜひともこれをお使いください! 布も良いものをつかってありますッ」
 三人目が差し出した手ぬぐいを見て、前の二人の顔に驚愕が走った。
「手縫い……だと……!?」
「おのれ、ちょこざいな! ええい、オマエのような奴は鍛冶より裁縫で身を立てるがいい!」
「ふ、どこかから負け犬どもの遠吠えが聞こえてくるわ。さあさあ、負け犬は負け犬らしく、その粗末な代物を懐にしまい、この場から立ち去るがいい!」
「な、なんの、まだお嬢がオマエのものを使うとは決まっていない!」
「そうだ、諦めたらそこで試合終了だと親方も云っていたしな!」
「あな見苦しや。お嬢、こうなったらお嬢の口からこいつらに引導を渡してやってください!」


 当の少女をよそに、何やら勝手にヒートアップしていく三人の弟子たち。少女としてはあははと苦笑いするしかなかったが、このままでは埒があかないと思ったのだろう、小さく、しかしはっきりとした声で三人に告げた。
「あの、自分の物がありますから」
 そういって申し訳なさそうに自分の手ぬぐいを手にとる。
 と、それを見た三人の顔が衝撃で凍りついた。「がーん」という音さえ聞こえてきそうな有様である。
 そのまま身動ぎ一つしなくなってしまった弟子たちを見て、どうしたものかと少女が途方に暮れていると、助けは思わぬところからやってきた。



「――おいこら、バカ弟子ども。秀坊(ひでぼう)を困らせてんじゃねえぞ」
 腹の底にずしりと響くようなその声は、この鍛冶場の主である辻占清右衛門のものであった。
 その声を聞くや、凍り付いていた弟子たちは速やかに再起動を開始する。
「お、親方!? べ、別にお嬢を困らせたりはしてませんですッ」
「そ、そうです。ただ手ぬぐいを渡そうとしただけでして、はい」
「右に同じでありますッ」
 ピンと背筋を伸ばして次々にこたえる弟子たちを見て、清右衛門はふんと鼻で息を吐いた。
「手ぬぐいなんぞ一つありゃ十分だろうが。三つも四つもおしつけりゃあ邪魔になるだけだ。ほれ、わかったらとっとと仕事にもどれ。それと、秀坊よ」
「はい、小父さま。何かご用でしょうか?」
 一瞬、清右衛門の視線が炉の方に向けられる。それで作業に区切りがついていることを確認したのだろう、清右衛門は済まなそうに云った。
「わりぃんだが、ちとわしの部屋まで来てくれんか。おまえさんの意見が聞きたくてな」
「私の意見、ですか?」
 鉄砲鍛冶として知らぬ者とてない清右衛門が、自分のような若輩者に何を聞きたいというのだろう。そう不思議に思ったものの、もちろん否やはない。
「かしこまりました。すぐにうかがいます」
「頼むわ。ああ、それと急ぎってわけじゃねえから、汗を落とした後でかまわねえぞ」
「はい」


 用件を伝え終え、頭をかきながらもどっていく清右衛門。
 その後ろ姿を見て、少女はふとあることを思い出した。
(そういえば、午前中はお客さんが来ていると云っていたっけ)
 その客との間で何事か起きたのだろうか。
 そんなことを考えながら、少女は作業場の後始末に取り掛かった。




◆◆




「小父さま。重秀、参りました」
「おう。入ってくれや」
 清右衛門の声に応じて少女が襖を開けると、部屋の中では清右衛門が難しい顔で腕組みをしていた。
 清右衛門の前には一冊の本が置かれており、どうやらその本が清右衛門の悩みのタネになっているらしい。
 促されるまま、清右衛門の前に座った少女の前に茶と菓子が差し出される。


「ま、とりあえず飲んでくれ。菓子の方は、娘っ子たちの間で近頃話題のやつらしいな。娘がそう云っとったわい」
「絹ちゃんのおすすめですか。では、遠慮なくいただきます」
 しばしの間、部屋の中には茶をすする音と、菓子を食べる音だけが響いた。
 間もなく菓子を食べ終えた少女は、丁寧に「ごちそうさまでした」と頭を下げると、部屋の主に本題に移るよう促した。


「それで小父さま。私の意見を聞きたいとのことでしたが?」
「おう、とりあえずこの本をざっと見てくれんか。わしが何か説明するよりも、その方が秀坊にとってもわかりやすいだろうしな」
「は、はあ、よくわかりませんけど、わかりました。拝見しますね」
 清右衛門の言葉に首をかしげつつ、少女は差し出された本を手に取った。本の表紙には『鉄放薬方并調合次第 改訂版』と記されている。
(鉄砲と火薬に関する技術書、かしら?)
 そんなことを考えながら、少女は内容に目を通していく。


 はじめはパラパラと頁をめくっていた。
 「ざっと見てくれ」とのことだったので、精読する必要はない、と判断してのことである。が、すぐに頁をめくる手の動きは緩慢なものとなっていった。字の表面を撫ぜるだけだった視線も、次第に食い入るようなものに変じていく。
 それは確かに鉄砲に関する技術書だった。が、ただの技術書ではありえなかった。
 記されていたのは鉄砲の作製、それを装備した部隊の運用、火薬の調合、硝石の生産等に関する種々の方法。いずれも精密で具体的、かつ実証的なものであった。
 余人が見ても、この本の価値は半分もわかるまい。だが、鉄砲鍛冶である清右衛門や、鉄砲に関する深い知識を有する少女から見れば、この本が万金にも優る価値を有することは明らかすぎるほど明らかであった。



「口はばったい云い様だがな」
 しばらく後、少女の視線が本から離れるのを待って、清右衛門は口を開いた。
「わしゃ作ることに関しちゃ玄人だ。撃つのも慣れとる。だから、そこに記されとる内容や数字が嘘やでまかせじゃねえのはわかるんだが、部隊として運用するってなるとまるっきり門外漢だからな。そのあたりを雑賀衆の秀坊に確かめてもらいたかったんだ」
 その問いかけに対して、少女は慎重な口調で応じた。
「そう、ですね。私が知っていることもあれば、知らないこともありましたから、絶対にと言い切ることはできません。ですが、この本に書かれていることに偽りはないと思います」


 云い終えた少女の目に鋭い光がよぎった。
「――小父さま、この本をいったいどこで手に入れたのですか? 南蛮における鉄砲隊の運用方法、さらにはそれを日ノ本の兵で実行した際の長所短所まで詳細に記されています。こんなものを書けるのは、よほど南蛮と近しく、しかも相当量の鉄砲を保持している大名くらいのものです」
 心当たりの大名家がないわけではない。しかし、鉄砲隊の運用方法にしても、他の内容にしても、この本に記されている情報は安易に外に漏らして良いものではない。もし同じような内容の本を雑賀衆で記したとすれば、間違いなく門外不出の秘伝書扱いになるだろう。
 清右衛門がこの本をどういう伝手で手に入れたのかはわからないが、どう考えてもまともな経路で流れてきた品ではない。ヘタをすれば、この本を見たがために命を狙われる事態さえありえるのではないか。


 その危惧が、少女の表情を自然と厳しいものにかえていく。
 が、それは次の清右衛門の一言でたちまち霧散した。
「そりゃ手に入れたんでなく借りたもんだ」
「借りた!? こんな貴重な本を、いったいどうやって!?」
 愕然とする少女に、清右衛門はあごヒゲをしごきながら説明する。
「ああっと、どこから話せばいいもんか。まあ簡単に云うとだな、午前中に来た客が置いてったんだよ。面倒な頼みごとをする代価だっつってな。大切な頂き物だから、中身を書き写すのはご遠慮くださいとも云ってたな」


 清右衛門の口から語られていく事情。
 それを聞くにつれ、はじめ呆れ気味だった少女の顔は、徐々に興味深げなものへとかわっていった。
 いずれ自国に鉄砲鍛冶を招きたいので、腕が立ち、かつ遠国に移住することを承知してくれる人物を探しておいてもらいたいという頼みには、さして驚きを感じなかった。清右衛門のもとにその手の依頼が持ち込まれるのは珍しいことではない。実際、清右衛門の弟子の中には請われて他国に移り住んだ者もいるのだ。そのための条件として、高額の報酬を約束する者も少なくない。
 ゆえに、少女が興味を引かれたのはそこではなく。


「――行き先は越後、ということは上杉家ですね」
「ああ、そうだ」
 一つ目は上杉という家名。少女は上杉家と関わりを持ったことはなかったが、京の都から死臭を払った奇特な大名の名前はたびたび耳にしていた。
 そしてもう一つは、この家に訪れたという客人がとった態度であった。


 はじめ、少女はその客の行動に呆れていた。
 その客と清右衛門は初対面であったという。初めて会う相手に対し、同じ大きさの黄金よりもはるかに貴重な書物を貸し与えるというのは、無用心に過ぎるのではないか、と。
 書き写すのは遠慮してほしい、という言葉にも首をかしげざるをえない。自分の目の前で相手に読ませるならいざ知らず、一時とはいえ貸し与えてしまっては、相手がこっそり書き写したとしてもわからないではないか。
 なんというか、えらく間の抜けた人だなあ、というのが正直な感想だった。


 しかし、清右衛門の話を聞くにつれ、その感想は大きく変わっていった。
 客である青年は貴重な書物を差し出すと同時に、多額の金品を置いていったという。それだけ早急に鉄砲鍛冶を必要としている、ということなのだろうが、それでいて現在の畿内の混乱と、それによって鍛冶師が傷つく危険を慮り、すぐにも越後へ連れて行こうとはしていない。鍛冶師を招くのは越後で受け入れ態勢を整え、畿内の情勢が落ち着くのを待ってから、ということだった。これは清右衛門がつけた条件ではなく、向こうから口にしたことであるそうだ。


 大名家から遣わされてくる使者の中には、鍛冶師側の都合など意に介さず、自分たちの都合のみを押し付けてくる者が少なくないが、その点、この客は鍛冶師に対しても敬意を払っていると感じられる。
 そこまで考えて、少女は気づく。
 鍛冶師に対して気を遣える人物が、少女が呆れるような間の抜けた対応をするはずがない。
 となると、客人が貴重な書物を清右衛門に預けた理由はもっと他にある。


 初対面にも関わらず、清右衛門の為人を信頼した。それは確かだろう。
 同時に、相手がその信頼に気づくことも見越しているのかもしれない。
 清右衛門に限った話ではないが、昔気質の人の中には「意気に感じる」人がけっこう多い。相手からの信頼には、等量以上の信頼で応えようとする人たちだ。実際、清右衛門は今回の件、かなり真剣にとりかかろうとしている節が見て取れる。


 ぞんざいにも見える書物の扱いに、そういった智恵がひそんでいたのだとすれば、その客人、なかなかどうして曲者というべきだろう。
 少女はそう思ったが、しかし、嫌な感じは受けなかった。
 策士ではあるだろうが、仕掛けられた策略は頬がほころぶ類のものだ。


(会ってみたいな)
 自然、少女の心にそんな気持ちが芽生えていた。





[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/08/15 23:44

 摂津国 石山御坊


 摂津の国にある石山御坊は二つの顔を持っている。
 一つは浄土真宗本願寺派の教団拠点としての顔。
 もう一つは、日ノ本各地で活動する一向一揆を指揮統率する「本願寺軍」の本拠地としての顔である。
 壮麗にして堅固な構えは寺院という枠を飛び越え、城郭――否、要塞とよぶべき偉容を呈しており、石山御坊を見た者は口を揃えて「摂州第一の名城なり」と感嘆した。


 石山御坊の価値は軍事だけにとどまならない。
 もともと摂津の国は京、堺と接し、山陽、紀州といった諸地方と繋がる交易上の要地であった。この要地に腰を据えている事実が、どれだけの利をもたらすかは説明するまでもないだろう。
 また、淀川は京へ物資を運び込む重要な水路であるが、石山御坊はこの淀川をのぞむ地に建てられているため、都の商業活動にも影響力を行使することができた。瀬戸内をはじめ、主要な国内航路とも深く結びついており、教団の府庫に流れ込んでくる財貨は泉の水のごとく湧き出でて尽きることを知らず、宣教師の中には本国への報告書で「日本の富の半ばは本願寺のもの」と記した者さえいた。
 

 強大な軍事力と潤沢な経済力を併せ持ち、信仰を軸とした宗徒たちの結束の強さは比類ない。
 その力は凡百の大名のおよぶところではなく、畿内を制した三好家さえ、本願寺の力を警戒しつつも融和策を採らざるをえなかった。


 畿内における武家の最大勢力が手出しできない宗教団体、それが本願寺教団なのである。




 今日の本願寺の隆盛は、疑いなく教団発足時から最大のものであった。今や本願寺の影響力は、信仰のみならず、世俗の権力にも及んでいる。
 ただ、本願寺教団がはじめから今のありようを求めていたかと問われれば、答えは否であろう。
 元来、本願寺は仏法(信仰)と王法(世俗)の調和に心を砕いてきた教団であった。宗教である以上、信仰を本義とするのは当然であるが、それは世俗の権力を力ずくで打倒することを意味しない。
 一向宗徒が一国の守護を追放した、かの加賀一向一揆に際しても、時の法王は一揆衆の行動を諌め、武器を捨てるよう働きかけている。一向宗という名称も、教団内部では用いられていなかった。
 つまり、各地の一向一揆の活動は本願寺教団の意図せざるものであったのだ。少なくとも、当初は。


 しかし、法王の制止をうけても各地の宗徒の活動はやまなかった。それどころか、宗徒たちはかえって教団上層部を非難した。
 宗徒たちにしてみれば、教団上層部の態度は自分たちを見捨てるものであり、世俗の権力におもねり、仏法を軽んじるものとしか映らなかったのであろう。
 教団上層部にしても一枚岩であったわけではなく、宗徒の望みにこたえるべきではないかと考える者も、徐々にではあるが増え始めていた。


 その流れを一気に加速させたのが今代の法王である。
 宗教指導者としての才覚と、軍事指揮官としての適正を過不足なく兼備する法王は、本願寺教団および信徒に対する迫害に対して、武器をもって抵抗するのは「やむをえぬ仕儀である」として、子飼いの坊官(本願寺軍における武将級の僧たち)を派遣して各地の一揆衆を統率せしめた。
 それまで足並みの揃っていなかった一向一揆の活動は法王の下で統一され、乖離しつつあった指導者と信徒の関係も修復された。これにより教団内部における法王の権限は飛躍的に強化され、法王は名実ともに教団指導者としての地位を確立したのである。






 石山御坊の最奥、法王の間。
 部屋の主は、着流しに扇子一本という、およそ法王の地位からかけ離れた軽薄な格好で南蛮渡来の椅子に腰掛けていた。
 しかし、そのことで法王の威厳が損なわれることはない。
 涼しげな目元にまっすぐ伸びた鼻梁、白皙の頬に艶やかな唇、すべての部位が望み得る最良の位置に配されている麗顔。ふとした言葉、ふとした仕草の端々に漂う男としての色艶は、軽薄さをたちまち瀟洒へとかえてしまう。部屋の隅に控えている女たちの視線は、酔ったように法王の面上に据えられて動かなかった。


 もっとも、法王自身は自分の容姿にさして関心がないようで、今も自らの手で面倒そうに長い髪を束ねている。その手つきはいかにもぞんざいであったが、そんな動作さえ人目を引きつける華に満ちている。
 魅力という才能は確かに存在するのだ――法王の前で頭を垂れながら、鈴木重意(すずき しげおき)はそんなことを考えていた。



 重意は紀伊の国に住まう雑賀衆の棟梁であり、雑賀孫一(さいが まごいち)の名で呼ばれることもある。これは雑賀衆の棟梁が代々引き継いできた名前なのだが、むしろこちらの方が通りが良いかもしれない。
 事実、法王も重意のことを呼ぶ際、もっぱら孫一と呼びかけた。
「孫一、紀州よりはるばる苦労であったな。急な招きを申し訳なく思う」
 髪を束ね終えた法王が声をかけると、重意は一段と深く頭を下げた。
「もったいなきお言葉。しかし、猊下のためとあらばこの孫一、千里の道も苦とはいたしませぬ。必要とあらば、我と我が雑賀の衆、いつなりと御前に馳せ参じますゆえ、猊下におかれましてはどうか遠慮なしに我らをお使いくださいませ」
 無骨な中年男の精一杯の世辞に、法王は楽しげにくつくつと喉を震わせた。
「常にかわらぬ雑賀の誠心、うれしく思うぞ。頼廉、おぬしもそう思うであろう?」
「御意。頼もしき限り」


 法王の言葉に短く応じたのは下間頼廉(しもつま らいれん)という坊官だった。
 本願寺軍には武略に長けた坊官が少なくないが、衆目の一致するところ、首座に位置するのはこの頼廉である。
 雑賀衆を率いる孫一と並んで「本願寺の左右の大将」と称される頼廉は、女性であることを除いて、当人に関する情報は皆無に等しい。常に顔を白布で覆っており、他者が見ることができるのは切れ長の瞳のみ。
 身体の輪郭から女性であることは明らかであり、当人もことさらその事実を隠そうとはしていないのだが、それ以外の情報については問われても黙して語らなかった。


 下間頼廉と雑賀孫一。
 双璧と呼ぶべき二人の将を招いた法王は、彼らに対して一つの命令を下す。
 その瞬間、両将の瞳に刃のきらめきが躍った。



◆◆



 石山御坊の一室。
 顔見知りの坊官に案内された部屋に腰を下ろした鈴木重兼(すずき しげかね)は、先刻から緊張のあまり身体をカチコチにしている弟に苦笑まじりの声をかけた。
「重朝(しげとも)。はじめて御坊に招かれたのだ、緊張するなとは云わないが、少しくらい肩の力をぬいても良いのではないか?」
「し、しかし、兄さま。ぼくが不心得なまねをして御坊の方々の不興をかってしまえば、それは父さまや兄さまの恥となり、引いては雑賀衆の恥となってしまいますッ」
「案ずるな。遠来の客の些細な失態に眦をつりあげるような御仁は、ここにはいない――とも言い切れないが」
「やはり、一時たりとも気をぬくことはできません!」
 若々しい頬を真っ赤に染めて、鈴木家の末弟重朝は全身に力を込める。雑賀衆に名を連ねてはいるものの、未だ初陣を迎えていないという気負いと焦りが、少年特有の虚栄心と混ざり合い、恥をかくまいとする振る舞いに結びついてしまっているらしい。


 その様を見て、困ったものだと思いつつ、重兼はそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。
 人間、気力には限りがあるものだ。必要以上に気を張った状態はそうそう長く続かない。そう思ったから、あえて気負いを助長するようなことを云って、弟の限界を早めるようにしたのである。



 それからしばし後。
 兄の目論見どおり、早々に気力が限界に達した重朝は、どことなく悄然とした様子で茶をすすっていた。
 それでも、尽きるのが速ければ、回復するのも早いのが若さの特権であるらしい。さほど時間を置くこともなく、重朝はそわそわと落ち着かない様子で部屋の中を見回しながら、兄に話しかけた。
「それにしても、聞きしに優るところですね、この石山御坊は。僧の方々だけでなく、旅人や商人、それに異国の者たちまで、内も外も人で溢れています」
「そうだな。堺は商人の町だが、御坊にはそれに加えて真宗の僧や本願寺に従う武士たちがいる。西国から京へ向かう者、逆に京から西国へ向かう者、あるいは我らが住む紀州に向かう者も、一度はこの地を通らねばならない。たくさんの者たちがたくさんの目的をもって集い、散っていく場所なのだ。およそ人の数だけでいうなら天下一かもしれない」


 兄が口にした単語を聞き、重朝は感に堪えない様子で何度もうなずいた。
「天下一、天下一、ですか。本当にそんな感じに見えます。ぼくたちの妙見山のお城も、大きくて人も多いと思ってましたけど、ここと比べるとまだまだ小さいんだなって思いました」
「まあ、くらべものにならないだろうな。それと重朝、今の言葉、父上が聞けば機嫌を悪くされるだろうから、云ってはダメだぞ」
「あ、そうですね。わかりました。しっかり口に鍵をかけておきます」


 そういって歳の離れた兄と弟は笑いあう。
 すこしの沈黙の後、重朝はぽつりと呟くように云った。
「姉さまもいらっしゃれば、もっと楽しかったんですけどね」
「……そうだな」
 寂しさを隠しきれない様子の弟を見て、重兼は慎重に言葉を選ぶ。
「重秀が父上に派手に逆らって、城を追放されてから、もう半年か。さっさと仲直りしてくれれば良いのだが、二人とも妙なところで頑固だから困りものだ」
「兄さまでも、父さまのお怒りを解くことはかないませんか?」
「折に触れて申し上げてはいるのだが、な」


 兄の返答に重朝は力なくうなだれた。
「いまだによくわかりません。あのお淑やかな姉さまと、優しい父さまが、どうして……いったい二人は何について言い争われたんですか?」
「私はその場にはいなかったが、これからの雑賀衆がとるべき道についてだと聞いている。父上にせよ、重秀にせよ、譲れないものがあり、不幸にもそれがぶつかってしまったのだろう」
 重兼の物言いは、わかるような、わからないような曖昧なもので、年端もいかない重朝を納得させることはできなかった。
 重兼もそれはわかっていた。実のところ、重兼は父と妹が衝突した理由もはっきりと把握している。
 だが、幾つもの理由から、この場で弟に真実を話すことはできなかった。



 というのも、父と妹が意見を対立させた理由の一つが、ここ本願寺との関係についてだったからである。
 今まで同様、これからも本願寺に従って雑賀衆の未来を拓いていくべき、というのが父の考えであり。
 これからは本願寺と一定の距離を保ち、雑賀衆独自の道を模索していくべき、というのが妹の考えであった。
 妹の考えの底には、武闘路線を拡大していく今代の本願寺法王への不信感がある。このままでは雑賀衆は本願寺が起こす戦いによって疲弊していき、ついには弊履のごとく使い捨てられるのではないか、と妹は案じているようだった。


 一方、その法王の有形無形の援助によって雑賀衆を束ねる立場に就いたのが重兼たちの父 重意である。法王なくば、父が孫一の名を継ぐことはできなかったであろう。
 その父にとって、妹の考えは忘恩不義としか思えなかったはずだ。実際、父はそういって妹を厳しく叱りつけたという。
 それに対しての妹の返答が、わが子の追放を父に決意させた。
 妹曰く。
 法王が鈴木家に手を差し伸べたのは、雑賀衆を意のままに操るためである。強者に力を貸したとしても、相手は恩に感じず、意義は薄い。弱者に力を貸してこそ、相手は恩に感じ、末永く本願寺の走狗となる。だからこそ法王は鈴木家に味方したのだ。もし、当時の鈴木家が強者の立場にあれば、法王は鈴木家と敵対する家に力を貸したであろう。助けられた恩は恩として理解しているが、それは鈴木家が本願寺の野望に殉じる理由にはなりえない――



 妹の言葉を思い返し、重兼は重いため息をはいた。
 こんなことを、本願寺の本拠地である石山御坊で口にするわけにはいかない。求めて危難を招き寄せるようなものだ。
 くわえてもう一つ、重兼は弟に真相を話せない理由を抱えていた。
 父が妹を追放した、おそらく本当の理由は重朝にあるのだ、という理由を。




 三人兄弟の父である重意は古い人間だった。
 何が古いかといえば「女は男に従うべし」という考えを持ち続けており、実際にそれを言動で示しているところが、である。
 当然、重意は後継者には男児を据えるつもりだった。ただ長兄の重兼は幼少時から病弱で、そのせいか長じてからも身体が弱かった。日常生活に支障はないが、雑賀衆の棟梁として戦場を駆けるのは難しい。
 二女の重秀は女児ゆえに除外。
 幸い、三男の重朝は健康で、器量も申し分ないと重意の目には映った。事実、その見立てに間違いはなかったのだが、皮肉なことに戦将として重朝よりもはるかに優れた稟質を示した者がいた。
 それが二女の重秀である。


 鉄砲の腕も、部隊を率いる手腕も、戦術の冴えも、重秀はすべてにおいて長じており、淑やかな為人も手伝って将兵の信望は瞬く間に二女に寄せられていった。
 重秀自身に孫一の名を継ぐことへの執着はなく、重秀と重朝の姉弟仲も良好であったから、重朝に後を継がせることに問題はないはずであった。
 が、重意は自身の経験から、後継問題には万全を期したかった。
 すでに才覚を示した重秀をさしおいて重朝を後継者にすれば、家中の混乱を招くのではないか。重朝が初陣を果たした後、重秀に匹敵する才を示すとは、重意にも思えない。
 仮に家中をおさえることができたとしても、他家が容喙してくる怖れもある。雑賀衆の中には、以前に重意と争った土橋家のように鈴木家に敵対的な家もあるのだ。


 とつおいつ考えるに、重秀の存在は鈴木家にとって動乱のタネになりかねない。重意はそう判断せざるをえなかった。
 むろん、この時点で重意は重秀を追放するつもりはなかった。重意が考えたのは、重秀を早めに嫁に出し、家中の人心を重朝の下でまとめあげておく、その程度のことである。
 ただ、重秀が本願寺に対する苛烈な認識を口にした際、即座に追放という手段をとった心底には、早めに後継問題の芽を積んでおくという意図があったことは確かである……



(父上としては、重朝に後継者の席を与えると共に、本願寺への不信を口にした重秀を逃がしてやる、という思惑もあったのだろうが)
 人払いをしていたとしても、一度口を離れた言葉は飛び立って他者の耳に飛び込んでいく。重秀の言葉はいずれ本願寺に伝わってしまうだろう。そうなった際、鈴木家を守り、かつ重秀を危難から遠ざけるためには、重秀を雑賀から追放するしかない。
 そういった理由から、おそらく今後とも重秀の帰参が許されることはないだろう。帰参がかなうとすれば、重朝が孫一の名を継ぎ、名実ともに雑賀衆の棟梁になった後、ということになるだろうか。


 重兼はそんなことを考えながら、どうやって話題をそらせようかと頭をひねっていた。真相を口にすれば、弟は痛めずとも良い胸を痛めてしまう。そのことがわかりきっている以上、重兼に出来ることはこの場の話題を転じることくらいしかなかったのである。




◆◆◆




 和泉国 堺


 その日、芝辻清右衛門の下へ出向いた俺は、用件を終えた後、まっすぐに世話になっている商家に戻ってきた。
 堺見物ができる状況ではなく、また、その気分にもなれなかったからだ。
 吉継らと共に店の中に足を踏み入れた俺を待っていたのは、何やら慌しく走り回る家人の姿であった。見れば番頭さんがせわしなく彼らに指示を出している。


「何かあったのでしょうか?」
 不思議そうな吉継の声に、他の人間はそろって首をかしげた。
 よく見れば、家人たちの動きは慌しくはあっても混乱した様子はない。となると、別に一大事が出来したわけでもないのだろう。何か大口の取引でも舞い込んできたのだろうか。
 と、俺たちの帰りに気づいた番頭さんが急ぎ足で歩み寄ってきた。
 その口から出た言葉に、俺は思わず眉をひそめてしまう。


「私に客、ですか?」
「はい、天城さま――筑前守さまにお会いしたい、と仰っておいでです」
 その言葉で、眉間にきざまれたしわがいっそう深くなる。
 俺がこの商家にいることを知っている者はごくごく限られる。しかも官位まで口にしているところをみるに、その客は正確に俺の素性を把握しているようだ。思い当たる節はまったくなかった。


 正直にいえば、この大変なときにそんな怪しげな客の相手をしたくはなかったが、そこまでこちらの事情を把握している相手とは誰なのか、という点は気にかかる。
 無視できる相手ではなさそうだし、無視していい相手でもないだろう。
 その俺の考えは、はからずも的のど真ん中を射抜くものであったらしい。番頭さんが口にした客の正体は驚くべきものであった。




 部屋に入った俺を前に、その人物は折り目正しく一礼すると、落ち着いた様子で口を開いた。
「お初にお目にかかります、天城筑前守颯馬どの。それがし、安宅摂津守冬康と申します。無事、勅使としての任を果たされたご様子、祝着に存じます」
 安宅冬康、か。三好の一族にして淡路水軍の長である人間が、なんでまたここに。
 この冬康という人物、優しげな眉目をしており、いかにも良家の若君という感じなのだが、名乗りと共にこちらが予期していない情報を詳らかにしてくるあたり、なかなかに食えない御仁でもあるようだ。


 もちろん、そんな内心はおくびにも見せない。
 俺は九国で更なる磨きをかけたポーカーフェイスを駆使し、丁寧に返答した。
「お目にかかれて光栄です、摂津守どの。三好の一族にして安宅家の当主たる摂津守どのが、それがしごときをねぎらうためにわざわざ足を運んでくださるとは想像もしておりませんでした。昨今の畿内は混乱著しく、その騒擾は遠く九国にまで届くほどでしたが、こうして摂津守どののお顔を拝見していると、それも虚報風聞の類であったのか、と安堵する心地です」


 冬康が勅使の件を知っていることについてはさして驚かなかった。
 義輝さまが事実上三好の傀儡であったのは周知の事実。三好家が勅使の目的を掴んでいたとしても不思議ではない。
 九国の情勢についても堺商人から情報は届けられているだろう。問題は俺が帰還したことまで三好に筒抜けになっていることだが、冷静に考えると、毛利の策動を阻むため、勅使が京に戻ることは大々的に喧伝してしまった。
 となると、それが三好の情報網に引っかかってもおかしくはない。というか、まず間違いなく引っかかっただろう。そう考えると、淡路水軍を率いる冬康が、大友家の船を見つけるのはそれほど難しいことではなかったかもしれん。


 しかし、だとしても冬康が単身で俺のもとを訪れる理由がわからない。
 今の近畿の状況は不穏の一語に尽きる。三好家の重臣である冬康は猫の手も借りたいくらいに多忙であるはずだ。
 今の俺の台詞もそれを意識してのものであった。平たくいえば「悠然と構えてみせてるけど、実は忙しいんだろ? 俺も忙しいんだ。さっさと用件をいえ」と伝えたのである。


 その意図はどうやら正確に伝わったようで、冬康は短く苦笑した後、表情を改め、真剣そのものといった面持ちで口を開いた。
「将軍殿下が弑逆された一件についてはすでにご存知でありましょう。我が姉にして主である三好家当主 長慶はこの件の主犯と目されておりますが、さにあらず。このことについて、筑前守どのと話をしたいと望む者が京都におります」
「――その方の名は?」
「我が兄、三好豊前守義賢」






 
 冬康が辞去した後、俺は吉継たちに今しがた冬康と話した内容を伝え、三好家の招きに応じることを告げた。
 たぶん反対されるだろうなあと思っていたのだが、明確に反対を表明する者はひとりもいなかった。もっとも、吉継や長恵の目にははっきりと「さっさと説明!」という言葉が浮かび上がっていたが。


「まず、俺を謀殺する、というのはないだろう。今の三好家に俺にかまっている余裕はないはずだし、仮に俺が目障りだったとしても、わざわざ京まで誘き寄せる必要はない。堺は三好のお膝元、やろうと思えばいつでもやれるはずだ」
「師兄。わたしや姫さま(ひいさま)のことはともかく、お師様(秀綱のこと)が師兄のお傍にいることは三好も掴んでいるはずです。師兄とお師様を確実に引き離すために、ということは考えられませんか?」
 長恵の疑問に、俺は首を左右に振った。
「たぶん、それもない。罠にかけようとしているにしては、動いた人間が大物すぎる。三好の一族は、たぶん今この国で一番忙しい連中だ。そんな連中が動いたってことは、それ相応の理由があるんだろう」


 そうはいってみたものの、その理由とやらは見当がつかない。
 義輝さまを弑したのは長慶の指示ではない、と冬康は云っていたが、それを俺に説明したところで悪評を晴らすことにはつながらない。俺にそんな影響力はないからだ。そんなことは向こうも承知しているだろう。
 となると、向こうが必要としているのは俺個人ではなく、俺の立場なのかもしれない。将軍家の忠臣たる上杉家、その上杉家に連なる俺を説くことで、間接的に謙信さまを説くつもりなのかもしれん。
 正直、これにしたところで、わざわざ安宅冬康が動くようなことではないという気もするのだが、これ以上はいくら考えてもわかるまい。


 虎穴にいらずんば虎児を得ずという。それに、義輝さまがなくなられたとはいえ、勅使として幕府や朝廷に報告する義務がなくなったわけではない。
 また、冬康が最後に口にした台詞も気になっていた。
 去り際、冬康は次のように言い置いていったのだ。
『あなたが求める情報のすべてとはいいません。けれど、その中の幾つかは、兄と話すことで明らかになるでしょう』
 これが謙信さまの行方を示唆するものであることは間違いなかった。これを聞いた時点で、俺の中で「京に行かない」という選択肢は消え去っている。
 奇妙な成り行きではあるが、再び京の地を踏むことになりそうであった。




 ……なお、後から思えば不覚の極みであったのだが。
 この時点で俺の中に、松永久秀という厄介きわまりない人物についての警戒は、きれいさっぱり抜け落ちていた。
 




◆◆





 それからしばし後のこと。


「また俺に客ですか?」
「はい、今度は小奇麗な女性の方ですよ」
「千客万来ですね、お義父さま」
「まったくだな。来る人、来る人、みんな心当たりがないのが困りものだけど」


「芝辻さまの鍛冶場からお越しになったとのことですが、どういたしましょうか」
「ふむ、なんだろう? とりあえず出迎えるか、何かさっきの件で聞きたいことがあるのかもしれない」
「となると、はや目的の人物が見つかったのかもしれませんね、師兄」
「だといいが、さすがに早すぎるだろう。それに、今の段階で手をあげてもらっても、一緒に連れて行くわけにもいかんしな」
「物好きで腕の立つ鍛冶屋さん、という可能性も――」
「それはない、と断言して差し上げよう」
「ふむ、ならば、もしわたしの推測が当たっていた場合、師兄は何でもひとつ云うことを聞くということでよろしいですね?」
「受けてたとう。当然、外れていたら長恵が云うことを聞いてくれるわけだな。なんでも」
「どんとこい、です」



「……お義父さま、何やら嫌な予感がして仕方ないのですけど」
「はっはっは、吉継は心配性だな。世の中、そうそう都合の良いことは起きないものさ」




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/08/21 22:47

 和泉国 堺


「……ふう」
 安宅家当主である安宅冬康は、堺にある自身の邸宅に戻ると、ほっと一息ついた。
 他家の重臣の前で隙を見せるわけにはいかぬと気を張っていた分、無事に任が果たせた安堵感はいつもより強かった。
 ただ、いつまでも自身の感情にひたっているわけにはいかない。今の三好家にそんな余裕はないからだ。
 小姓が用意してくれた茶で口をしめらせながら、冬康は今後のことについて思いをめぐらせた。


「さて、これで事態がどう動くのか。大兄(三好義賢)は、我ら三好が上杉の君臣を保護することで、姉上(三好長慶)に向けられた疑惑の一端なりと晴らすこともできよう、と云っていたけれど」
 正直なところ、冬康はこの点については懐疑的だった。
 冬康は先に上杉軍が上洛してきた際は淡路におり、彼らと顔をあわせることはなかった。そのため、上杉家の君臣について、他者から伝え聞いた以上のことは知らないのだが、それでも今回三好家を襲った事態に彼らが理解を示してくれるとは思えない。


 将軍を討った三人衆はれっきとした三好の一族であり、重臣。その彼らが将軍を手にかけた以上、責任を負うのは当主である長慶以外にありえない。たとえ、件の凶行が長慶の命令によるものではなかったとしても、である。
 まして、長慶は将軍を討った者たちを処断せず、彼らの行動は「三好家を討たんとした将軍の暴走を阻むため」の止むを得ざる仕儀であった、と認めている。そうしなければ家中が今以上の混乱に晒されると判断してのことだったが、これを外から見れば、すべては長慶の指図によるものであったとしか思えないだろう。
 将軍家に忠誠を尽くしてきた上杉家にとって、将軍家を傀儡としてきた(冬康たちからすれば庇護してきた)三好家は敵に等しい。彼らがこちらの言い分に耳を貸すとはとうてい考えられなかった。



 ゆえに、今回の件、正直いって徒労に終わるのではないか、と冬康は思っていた。
 思うだけでなく、実際に義賢に向かって自分の考えを述べもした。
 それに対して義賢は、肉付きの豊かな腹を揺らしながら弟の危惧をあっさりと肯定した。そして、こう続けた。
『うむ、おそらく冬康のいうとおりだろうな。が、それならそれでかまわん。上杉がどう思うかはもちろん重要だが、それ以上に、上杉に手を差し伸べた我らを見て、他の者たちがどう思うかが重要なのだ。そして、何より大事なのは姉上の御心よ。このような騒動で謙信のように名の知られた将が討たれてしまえば、姉上のご尊顔が今以上に曇ってしまう。それを避けるためだけでも、やる価値はあるのさ。それにな、冬康』
 ここで義賢は声を低めた。
『仮に今回の件がなかったとしても、上杉の人間が勅使に任じられ、西国の争乱に関わった裏に何があったのか。これについては確かめておかねばなるまいて』


 その兄の言葉に冬康はうなずいた。うなずかざるを得なかった。
 三好家は将軍家の動向について細大もらさずに把握していた。当然、義輝が上杉の請いに応じて九国に勅使を遣わした件についても察知していた。その勅使に任じられたのが誰であるのかも。
『天城颯馬の名はわしも聞き及んでいる。一介の素浪人から成り上がり、筑前守に任じられ、上杉と武田を結びつけた者。同盟締結後、間もなく姿を消したと聞いたときは、おそらく過ぎた功績が嫉視を招き、殺されたか、他国に逃げたか、そのいずれかと思うておったが、あにはからんや、九国にあって彼の地の戦乱に関わっていたという。当然、上杉家の指示を受けてのことであろうが、その目的が奈辺にあるのか、さっぱりわからん。わからんが、西国からの知らせによれば、彼の地の争乱はおさまりつつあるという。つまり、見事に勅命を成し遂げたわけだ。これはそなたから聞いたことでもあるがな』


 義賢の言葉は毛利家が麾下の水軍衆に伝達した命令――勅使である天城颯馬に手を出すな――を情報源の一つとしており、その情報をはじめに拾ったのは淡路水軍を統括する冬康である。
 九国では同時期に南蛮軍の侵略があったとも伝えられている。どれをとっても無視できることではなく、九国の現状を知る者から詳細を訊きたいという義賢の言葉は、冬康にとっても首肯できるものであった。


『当面の間、わしは京に留まらねばならん。一存は大和で、将軍の妹御にちょっかいを出してくる者どもに睨みをきかせてもらい、姉上は本城で危急に備えていただく。したがって、堺以西のことはそなたに委ねるしかない。ただでさえ忙しくなるそなたに余計な仕事を頼んで悪いのだが、淡路の衆に西から来る船を見張るよう伝えてもらえんか。本来であれば、こちらが黙っていても天城は報告のために京に戻ってくる。しかし、今の情勢ではそのまま畿内を通過して越後へ戻ってしまいかねんからな』


 その兄の言葉に従って、今日、冬康は天城颯馬に会いに行ったのである。
 単身で出向いたのは、不用意に兵を引き連れていくと相手の誤解を招く、と判断したからだった。同時に、それは冬康なりの誠意でもあった。また、天城颯馬という人物を自分の目で見ておきたかった、ということもある。今後、敵となるにせよ、味方となるにせよ、上杉家の重臣の為人を見知っておくことは無駄にならないだろう。


 そんな冬康の内心を知ってか知らずか、天城はさして悩む様子もなく、三好家からの申し出を受け容れた。むろん、これからすぐに発つわけではない。
「準備の時間を考えて、出立は明日の朝。夜闇にまぎれて逃げ出すほど肝の小さな御仁とは思えなかったから、これは良い。問題があるのは、むしろこちらの方か」
 三好家としては、現在のところ、天城に危害を加えるつもりはない。
 だが、天城を京に迎え入れるというのは長慶や義賢たちが決定したことであって、家中の総意を得たわけではない。これを知って心穏やかではいられない者も出てくるだろう。


 具体的にいえば、実際に将軍を殺した三好三人衆のことである。
 彼らは上杉家の人間と義賢、冬康らが密かに会見したと知れば、不満と、そして不安を覚えるかもしれない。三好と上杉が接近した場合、過程はどうあれ、将軍弑逆犯の処罰は避け得ざるところである。長慶は上杉家に接近し、三人衆を切り捨てた上で、将軍弑逆について身の潔白を証明するつもりではないか――三人衆がそんな疑いを抱かない保証はどこにもない。
 となると、三人衆の息のかかった者が天城を襲う、という事態が考えられる。うがった見方をすれば、三好家内部を分裂させるため、三人衆の手の者を装った別の誰かが動く、という可能性もないわけではない。


 冬康は小さくかぶりを振った。
「考えすぎ、かもしれないが。実際、姉上の意思とは関わりなく、殿下は弑されてしまった。同じことが再び起こらないと誰がいえよう」
 そう口にする冬康の脳裏には、義賢と共に京へいるはずの松永久秀の艶麗な容姿が浮かび上がっていた。
 冬康は兄の十河一存ほど久秀を毛嫌いしているわけではない。ただ、鋭すぎる刀が、時に持ち手を傷付けることがあるのは承知していた。


「――ここで兵が天城どのらに乱暴を働くようなことでもあれば、すべては水泡に帰してしまう。やはり、私が直接送り届けるべきだな」
 堺と京ならば、さして時間をかけずに往復できる。何か危急の事態が起きても、すぐに手をうつことができるだろう。
 考えをまとめた冬康は、すぐに側近を呼んで細々とした指示を出していった。
 



◆◆◆




 その女の子は、芝辻清右衛門のところから来た、と口にした。清右衛門から今回の話を聞き、詳しいことを訊きたく思ったのだという。
 番頭さんから客間の一つを借りた俺は、他者を交えず一対一で話をすることにした。
 見たところ、年齢は吉継と同じか、あるいは少しだけ上かもしれない。いずれにせよ若いことは確かで、そんな子が清右衛門が認めるほどの優れた鍛冶師だと知ったとき、最初に俺の脳裏をよぎったのは疑念だった。
 これは俺の勝手な思い込みなのだが、鍛冶師というと清右衛門のように屈強な体格をした、無骨で頑固な人物だ、という先入観があったのだ。目の前の女の子は、そんな俺のイメージの対極に位置していた。
 ――念のためにつけくわえておくが、長恵との賭けに負けるのを怖れて相手にいちゃもんをつけようとしたわけではない。


 ただ、俺は自身の疑念をすぐに振り払った。
 一度会っただけだが、清右衛門が物堅い人物であることはまず間違いない。そんな人物が誰彼かまわず他所からの依頼を吹聴してまわるとは思えない。清右衛門がこの子に依頼の話をしたということは、依頼に応えるだけの腕がある、と判断してのことだろう。
 眼前の子を疑うということは、清右衛門の眼力を信用していないということ。ひいては清右衛門を信頼して依頼をした俺自身の決断を否定することになる。
 そう考えた俺は、素直に相手の云うことを受け容れることにした。


 
「わざわざご足労いただきかたじけない。それがし、上杉家臣 天城颯馬と申します」
 俺は丁寧に一礼した。相手の言葉を信じた上は、それに相応しい態度をとらなければならない。優れた鍛冶の腕を持っていて、遠い越後に来てくれる(かもしれない)相手に礼を尽くすのは当然のことであった。
 相手は姿勢を正した後、こちらも丁寧に頭を下げた。さらさらとした長い黒髪が、身体の動きに従って畳に流れ落ち、はっとするほど白いうなじがあらわになる。
 少女の動きはぎこちなさのない自然なもので、凛とした気品のようなものも感じられた。実は良いとこのお嬢さんだったりするのかもしれない。もっとも、良いとこのお嬢さんが鍛冶師をしているわけもないので、たぶん単純に親御さんに厳しくしつけられたのだろうけど。


「丁寧なご挨拶、痛み入ります。私は鈴……あ」
「……あ?」
 不意に言葉を途切れさせた女の子を見て、俺は首をかしげた。頭を下げた格好なので表情はわからなかったが、なにやら自分の名前を言いよどんでいる様子である。
 それを見て、俺はふむと考え込んだ、
 素直で陰のない子だと思っていたが、いわくつきの人物だったりするのかしら。
 気にならないといえば嘘になるが、ついさっきはじめて会ったばかりの相手に対して、何一つ隠し事をするな、などと要求できるはずもない。
 俺は声に疑念が混ざらないよう注意しながら、その旨を相手に伝えることにした。


「何か事情がおありのようですが、無理にお話し頂かずとも結構ですよ。この場では鈴どのとお呼びすればよろしいか?」
「あ、いえ、気を遣っていただくようなことではないのですが……」
 上体を戻しつつそう云った少女は、ちらと上目遣いで俺を見上げた。困ったような、どこか恥ずかしげな仕草は、なんというか、実に可愛い。それまでピシッとした姿を見せていただけに、余計にそう感じられた。


 内心の迷いをあらわすように、すこしの間、少女の視線はあさっての方向にさまよっていた。が、すぐに覚悟を定めたのだろう、しっかりとこちらの目を見つめながら口を開く。
「――実は私、親から勘当を言い渡された身でして。そんな私が家名を名乗るのは、そちらさまを欺くことになるのでは、と案じた次第です」
「ああ、そういうご事情でしたか。お気になさらずとも結構ですよ」
 思ったよりも重たい話が出てきて正直びっくりしたが、すでに少女を信用すると決めていたこともあって、俺は動揺をおもてに出さずに済んだ。
 それに、順風満帆な生活を送っている人は、遠い越後に移住しても良いとはなかなか考えないだろう。国一つ跨ぐのも大変なこの時代にあって、遠方に移り住むという決断は簡単にくだせるものではない。となれば、あえてその決断を下した人がわけありの身の上であるのは十分に予測できることであった。



 まあ、勘当にいたる事情が人倫に反するような行いにあった場合、謙信さまに推挙することはできなくなるのだが、眼前の子がそれほど悪逆な人物とは思えない。また、そんな人物を清右衛門が推挙してくることもないだろう。
 そう考えて、俺は少女の申告をつとめて軽く流したわけだが、相手はそんな反応が意外であったようで、目をぱちくりとさせていた。
「え、えーと、よろしい、のですか? どうして勘当されたのか、とか絶対に訊かれると思っていたのですが」
「はい。正直なところ、今回、芝辻どのに依頼した件はダメで元々というつもりでした。それがあにはからんや、あなたがこうして興味を持って来てくださった。釣りでたとえるなら、釣り糸を足らしたとたんに大物が浮きを突っついたようなものです。ここで慌てて竿を動かせば逃げられてしまう。事情を聞くにしても、しっかり釣り上げ、まな板の上に乗せてからにするべきでしょう」
 つまり完全に逃げられなくしてから、ということである。


「……あ、あれ? もしかして私、このままだと捌かれてしまいますか?」
 少女は両手で自分の身体を抱きしめると、俺の視線から逃れるように身をよじる。怯えた様子を装っていたが、その口元はかすかにほころんでいた。
「安心してください。捌く際には優しくしてさしあげますので」
「安心できる要素がかけらもない気がするのですが、それは私の気のせいでしょうか?」
「気のせいです。上杉家は皆親切で働きやすく、若者や女性が多く活躍している理想の職場。能力次第で浪人から一軍の将に抜擢される栄誉を手に入れることも不可能ではありません。きたれ若人、おいでませ春日山。上杉家は才気ある若者の訪問を心よりお待ちしております」
「……なんでしょうか。云っていることは素敵なのに、そこはかとなく漂ってくるこの危険な香りは」
 あははー、と乾いた笑いを浮かべながら、少女はそんなことを呟いていた。





「――と、まあ冗談はこのくらいにしておきまして」
 こほん、とせきばらいして、俺は話を本題に戻す。
 相手も心得たようにうなずき、表情を真剣なものに改めた。
 うむ、実にノリの良い子だな。それでいて礼儀作法もしっかりしているから、話していて楽しいわ。
 これは是非とも確保しておきたい人材だ。そんな思いを胸中で育みつつ、俺は改めて相手の名前を訊ねた。
 そして。
  

「鈴木。鈴木重秀と申します」
「そうですか、鈴木、重ひ……で、どの? って、え?」
 思わず、すっとんきょうな声を発してしまう。
 当然のように相手から訝しげな視線を向けられ、俺は慌てて口元をおさえた。聞き間違いということはないと思うが、念のためにもう一度相手の名を確認してみる。


「あの、鈴木、重秀どの、なんですか?」
「は、はい。私は鈴木重秀ですが……あの、なにか?」
「いや、なんか微妙に聞き覚えがあるような……つかぬことをうかがいますが、生国は紀伊だったりします? 具体的には雑賀あたり」
 俺の言葉を聞いた瞬間、重秀は「あっ」という顔をすると、ついっと視線をそらせた。


「あ、あはは、もしかして雑賀衆の鈴木重秀どののことだと思ってますか? あちらの重秀さんは、おっきな鉄兜で顔を覆った大男さんだという話ですよ。私みたいな小娘とは似ても似つかないじゃないですかッ」
「あ、あはは、そうですか。そうですよね。そういうことにしておきましょうッ」
 俺は重秀の態度から真相を察したが、深く詮索するつもりはなかったので、相手の言い分に逆らわないことにした。
 しかし、どうも最後の部分が余計だったらしい。重秀はしばらく眉根を寄せてうなっていたが、やがて諦めた様子ではぅっと可愛いらしい吐息をついた。


「…………今さらごまかしても仕方ないですよね。確かに、私は雑賀の生まれです。それに、雑賀衆を率いて戦に出たこともあります。武功をたてたことも、ないわけではありません」
 そういうと、重秀は不思議そうに俺の顔をのぞきこんできた。
「天城さまは越後の方なのですよね? はるばる東国からお越しになった方が、よく私の名をご存知でしたね。孫一を継いだ父上の名ならともかく、娘の私の名前を知っている人はあまりいないと思います。紀州の外に暮らす方なら尚更に」
 その質問に、今度は俺の方が答えに詰まってしまった。
 今の物言いから察するに、この世界の重秀は、いまだ巷間に喧伝されるほどの武名を勝ち得るには至っていないのだろう。
 しかし、俺はその名を無視することはできなかった。


 およそ戦国時代に興味を持つ人で、鈴木重秀の名前を知らないという人は少数派だろう。精鋭鉄砲集団 雑賀衆を率いて織田信長と激闘を繰り広げたこの人物は、その実、詳しい素性が明らかになっておらず、どこか謎めいた人物として知られていた。
 霧に包まれた素性、新兵器の使い手、覇王を苦しめた傭兵集団の統率者。どれをとっても男心をくすぐらずにはいられない浪漫に満ちている――と思うのは俺だけだろうか。
 まあそれはともかく、そんな人物が目の前にいると思えば、なかなか平静を保てるものではなかった。


 とはいえ、幸か不幸か、この手の驚きを味わうのは今に始まったことではない。
 俺は相手に不審の念をあたえないよう、なるべく自然にそれらしい理由をこしらえることにした。この手の機転だけは上達したと自負している。あんまり自慢にはならないけど。
「こう見えてそれがし、京はもちろん九国まで足を運んだこともありまして、それで色々と情報を耳にする機会が多かったのです」
 内容自体に嘘はない。そのせいか、重秀も特に疑問には思わずに納得してくれたようだった。
 しかし、もう毎度のこととはいえ、鈴木重秀も女の子なのか。なんで堺で鍛冶屋をしているのかは知らないが……


 ――もしかしたらこれ、千載一遇の好機なのではあるまいか?


 親に勘当されたということは、雑賀衆から追放されたということだろう。すなわち今の重秀は浪人状態。ここで上杉家に引き込むことができれば、その恩恵は計り知れない。ついでに、推挙した俺の功績も計り知れない。
 さすがに今回の旅路に同道してもらうのは無理だろうが、俺たちが迎えの使者を出すまで他の大名家に仕えずにいる、という約束を取り付けておくことはできるかもしれん。こうして足を運んできた以上、向こうもその気がないわけではないだろうし。


 となると、事の成否は俺の話の持って行き方次第、ということになる。
 俄然、俺はやる気になった。が、重秀にへいこら頭を下げて頼み込むつもりはなかった。平身低頭したところで心を動かす人物とは思えないし、美辞麗句を重ねても同様だろう。
 そんなわけで、俺がとったのはごく普通の正攻法だった。俺たちをとりまく状況を相手に伝え、その上でこちらの招請があるまで、できればこの地に留まって欲しいと頼んだのだ。
 表面的に見れば、清右衛門に伝えた内容をもう一度繰り返しただけ、ということになるかもしれない。
 だが、一つだけ違うところがある。
 清右衛門と話したとき、俺の言葉は顔を知らないどこかの誰かを望む言葉だった。今は眼前の少女を望む言葉である。それが違いであった。




 黙って俺の言葉を聞き終えた重秀は、こちらの申し出を吟味するように静かに目を閉じて黙考した。
 ただ、意外なことに、重秀が再び口を開くまでさほど長い時間はかからなかった。
 ほどなくして閉ざしていた目をあけた重秀は、思いもよらないことを口にする。
「これは提案なのですが、天城さま」
「はい」
「今ここで、私を雇っていただくわけには参りませんか?」
「……はい?」


 予期せぬ提案に俺は目を白黒させた。
 重秀の口から「雇ってほしい」という言葉が出たのは喜ぶべきことだが、今ここで、というのはどういうことか。
 現時点において、越後に鉄砲鍛冶を招くというのは俺の独断であり、謙信さまの許可を得た行動ではない。この場で上杉家に召し抱えると約束するわけにはいかないのだ。そのことはきちんと話したはずなのだが。


 そんな俺の戸惑いを察したのか、重秀は小さくかぶりを振った後、神妙な表情で話を続けた。
「雇ってほしいと申し上げたのは、上杉家に、ではなく、天城さまに、です。今のお話を聞けば、これから先の旅路はずいぶんと危険なものであるご様子。私の腕が役立つときも来ると思うのです」
「……ふむ。つまり護衛の兵として雇わないか、ということですか」
「はい。口はばったい申しようですが、雑賀衆の中でも早込め、早撃ちで私に優る者はおりませんでした。天城さまを落胆させることはない、と自負しております」
 気負いなく言いきる重秀の顔に虚勢の陰はなく、かといって自身を誇る色も見て取れない。事実を事実として口にしている、という感じだった。




 俺は考え込んだ。
 確かにこれから先の道中は様々な危険が予測される。鉄砲が役立つ場面も出てくるだろうし、重秀の挙措を見たかぎり、鉄砲以外の腕も十分に備えているように思われる。彼女の為人を知る意味でも、一緒に行動するという選択肢は十分に「アリ」だった。
 しかし、である。
 雑賀衆は傭われ兵として戦うこともあるとのことなので、そこで育った重秀が自分を売り込んできたことはおかしなことではないのかもしれない。が、だからといって危険とわかりきった道中に金目当てで同行する、というのは不自然に思える。
 仮に重秀がお金に困っているのだとしても、俺はすでに支度金として清右衛門に相応の大金をあずけてある。重秀がこちらの申し出に応じてくれれば、わざわざ危険な目に遭わずとも支度金を手に入れることができるのだ。


 そういった疑問をただすべきか否か。
 迷っていると、重秀が心得たように答えを口にした。
「ええと、ですね。実は今回のことを耳にするより先に、住まいを他所に移すことは決めていたんです。ここ和泉は紀伊の隣国、追放した者が目と鼻の先にいることを、父は快く思わないでしょうから。あまり長居していると、芝辻の小父さまにも迷惑をかけてしまいますし」
 重秀が小声でつけくわえたところによると、若い女性である重秀が鍛冶場で働くことで、弟子たちの集中がそがれる、と渋い顔をしている鍛冶師もいるらしい。そのことも堺を離れようと決めた理由の一つであったそうな。


「小父さまの手伝いをして、路銀を貯めることもできました。ただ、これといって行くあてもなくて、どうしたものかと悩んでいたところ、小父さまから今回の話をうかがったんです」
「なるほど、渡りに船だったわけですか」
 俺が得心してうなずくと、重秀は正しくそのとおりと言いたげに深くうなずいた。
「はい、おっしゃるとおりです。あ、雇ってほしいと申し上げましたが、報酬は無事越後についてからでかまいません。私に雇うだけの価値があるか否か、道中、天城さまご自身の目でお確かめください。もしも、用いるに足らず、と思われたのでしたら、いつなりと仰ってください。すぐに立ち去りますから」
 もちろん、その場合は報酬はいらない、と重秀は云う。



 ……うむ、なんというか、一から十までこちらにとって都合の良い申し出だな。もちろん、自分の力量に自信があってこその物言いなのだろうが、俺が悪人だった場合、利用するだけ利用してポイ捨てする、ということも出来てしまう条件だ。
 大丈夫かな、この子。なんか将来的に悪い男に騙されてしまいそうな予感がひしひしとするんだが――と、そこまで考えて、俺は内心で「いやいや」とかぶりを振った。
 世間知らずのお姫様ならいざ知らず、親から追放されても鍛冶の腕でたくましく生活している少女が、そんな甘いだけの性格であるはずがない。まして戦場に出た経験もあるというのだから尚更だ。


(これはひょっとして、試されているのかな?)
 ふと、そんな気がした。
 重秀が口にしたのは、明らかにこちらにとって都合が良い条件ばかりだった。俺がその条件をどのように扱うかを見て、こちらの器量のほどを見極めようとしているのかもしれない。
 等量以上の信頼を返してくる相手ならそれでよし。そうでないなら、俺や俺の主君に身を託する価値なしとして見限るつもりか。


 冷静に考えてみると、俺も清右衛門に対して似たような行動をとっている。秘蔵の本を託したりとか、見る者が見れば相手を試しているようにしか見えなかっただろう。
 俺としては、あれは清右衛門が信頼できる人物だと判断してのことで、相手を試す意図はなかったのだが――あれ、そう考えると、重秀も別に俺を試すつもりはないのかな?



 そう思って改めて見てみれば、こっそりとこちらをうかがう重秀の顔に、俺の返答に対する期待と不安はうかがえたが、それ以外の意図は感じられない。やはり俺の考えすぎか。
 ここで俺は改めて相手の申し出を検討した。
(受けるべきか、受けざるべきか)
 内心でそんな言葉を呟いてはみたものの、答えはとうに決まっていた。こちらが望んだ以上のことを、相手側から申し出てくれたのだ。ここで拒絶はありえない。
 それに、だ。
 俺が堺に到着するのがもう少し遅ければ。あるいは、重秀が堺を出るのがもう少し早ければ。
 俺と重秀は互いに馳せ違って顔を見ることさえかなわなかっただろう。いずれどこかの戦場で敵として相対していたかもしれない。そんな相手と縁を結ぶ機会に恵まれたのだ。ここで逡巡することを慎重とはいわない、それは優柔不断というべきだろう。



 俺は重秀の申し出に対して諾を伝えるべく口を開く。
 その答えが越後までの帰路に、そして、それから先の道程に対しても、大きな、とても大きな影響を与えることになるだろう、と確信に近い予測を育みながら。
 



◆◆◆




 山城国 京


 松永久秀は自身の屋敷の一室で、配下の報告書に目を通していた。
 京の街並みに隣接した屋敷では、塀の外から鑿(のみ)や鎚の音がひっきりなしに飛び込んでくる。先に将軍義輝が討死した争乱の際、焼失してしまった街並みの復興が大急ぎで進められているのである。
 本来であれば、真っ先に修復されるべきは将軍の住居である二条御所なのだが、こちらは乱でほぼ完全に燃え尽きてしまっており、これを建て直すとなると、必要となる時間も資材も人手も桁外れに大きくなってしまう。
 当の将軍が亡くなり、後を継ぐ者もいまだ決定しておらず、おまけにいつ他国の侵入を受けるかわからない状況にあって、主なき施設の復旧を急ぐべきと主張する者は三好家の中にはひとりもいなかった。



「――冬康さまみずから、ね。義賢さまのお指図とは思えないから、冬康さまご自身の判断なのでしょうけれど」
 遠く九国より戻ってきた勅使を護送する兵士たち。それを指揮するのが安宅冬康だと知った久秀はくすりと微笑む。楽しげに、と表現するには鋭すぎる笑い方だった
「諸国の大名が事あれかしと爪牙を砥いでいるこの時期、一時とはいえ堺を空けてしまっていいのかしら。冬康さまのことだから、勅使の一行に不測の事態が起きることを心配なさったのでしょうけど、事が起こるのは何も勅使の近くに限った話ではないというのに」


 そう云うと、久秀は手に持っていた報告書を懐にしまいこんだ。
 と思う間もなく、すでに次の報告書を開いている。
 今度の報せは近江との国境からもたらされたものだった。より正確にいえば、近江国境に布陣している三好三人衆の動向について記されたものであった。
 彼らが国境に出陣したのはつい先日のこと。これは事変後、南近江を領有する六角家の兵が京をうかがう姿勢を示したためであるが、その実、今回の動乱の引き金となった三人衆を京へ置いたままでは、都の政情がいつまで経っても落ち着かないという判断もあった。
 また、彼らが都にいると、将軍襲撃の真相を探る義賢の邪魔になる怖れもある。そういった理由で三人衆は国境に配されたのだが、三人衆の側も自分たちが都を追い出されたことを察していた。


 当主の許可を得ずに将軍を討ち取った彼らは、自分たちが三好家から切り捨てられるのではないか、という疑いを抱いており、国境の陣で何やら不穏な動きをしている気配があるのだ。六角家との間に使者の往来も確認されていた。
 六角家は、過去、都の支配権や将軍の処遇をめぐって幾度も三好家と対立してきた大名家である。一方で共通の敵を討つために手を結んだこともあり、両家の繋がりは浅いようで深い。
 三人衆が主家に謀反すれば、六角家がその後ろ盾になる、という可能性は十分に考えられた。


 とはいえ、仮にその構図が実現したとしても、三人衆の先行きは暗い。彼らは三好家内部で一定の勢力を持っているが、それは当主の長慶や、義賢、一存、冬康といった三好一族を上回るものではない。三人衆が叛旗を翻しても、家中の大半は彼らではなく長慶に従うだろう。
 万一、六角家の援助によって長慶を打倒できたとしても、今度は六角家が三人衆の敵にまわる。六角家が三人衆に肩入れする理由はなく、もし肩入れしたとしたら、その目的は三人衆を利用した三好勢力の一掃しかあるまい。三人衆をあおって長慶らを討ち、返す刀で三人衆の首を斬る。これだけで三好の権勢はそっくりそのまま六角家のものになる。彼らがそうしない理由を、久秀は見出すことができなかった。


 その程度のことは三人衆とてわかっているだろう、と久秀は思う。
 しかし、だからといって、このまま無策でじっとしていては長慶らに排除されるのを待つばかりになってしまう。
 右にもいけず、左にもいけず、ただじっとしていることもままならない。今の三人衆の状況は久秀にある物語を想起させた。


「背中の薪に火がついて七転八倒、まるでどこかのおとぎ話ね。もっとも、兎に火をつけられたあちらと違って、三人衆の場合は自分たち自身の火遊びの結果なのだもの、誰を恨みようもないわね」
 それは久秀の偽りない本心であった。同時に、その無様な踊りっぷりを漫然と見ているだけでは芸がない、とも思っていた。
 それに、あまり派手に転げまわられると、こちらまで火に巻かれてしまう恐れがある。そうなれば相手に向けた嘲笑は、そっくりそのまま久秀に返って来てしまう。それはさすがに間抜けがすぎるというものだった。


 いらぬ火傷を負わないためにも、そろそろ手をうっておくべきだろう。そのための手駒は、冬康と共に間もなく京へやってくる。


 そこまで考えた久秀の口から、知らず小さな笑いがこぼれおちていた。
 先ほどのそれと違い、今度の笑いに刃の気配はない。
 ――あるのは、もっと深い何かだった。


「『今、東国にいるようでは、もう間に合わぬ』……ふふ、見事に間に合っちゃったわね、覚慶さま? どうやったのかは知らないし、どうなっていくのかもわからないけれど、思っていたよりもずっと楽しいことになるのだけは確かみたい。顔を見たら、礼のひとつも云わなければいけないかしら」


 ね、颯馬。
 久秀が呟いた名前は、久秀以外の誰の耳にも届かず、ゆっくりと宙に溶けていった。





[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/08/25 23:54

「――ふむ、おおよその話は承知した」
 九国からここまで、直属の兵を引き連れて俺たちを護衛してくれた小野鎮幸に京へ出向く経緯を説明する。
 俺の話を聞き終えた鎮幸は腕を組んで考え込んだ。
「これより先、三好の兵が京までついてくるとなると、これ以上大友の者が筑前どのらと同道するのは避けた方がよかろうな。ここまでならば護衛で済むが、これ以上となると、筑前どのと大友家の間に格別な親しみがある、と勘ぐられるかもしれぬ。したが、三好の話は本当に信用できるのかの?」


 鎮幸の疑問に、俺は迷うことなくうなずいた。
「当主の弟が直々に出てきたところから察するに、今回の招請にこちらを害する意図はない、と考えて良いかと思います。まあ、安宅どのが口にしたこと以外に何か秘めた目論見があるのは間違いないでしょうけどね」
「それがわかっていて、あえて相手の招きに応じるか。今に始まったことではないが、筑前どのはこの手のことになると途端に大胆になるな。そういう御仁であればこそ周りに人が集まるのであろうが、集まるのが決まって妙齢のおなごばかりとなると、気疲れも多かろうて」
 がはは、と豪快に笑う鎮幸。重秀が同行することになった件を茶化しているのは明らかであり、俺は反論もできずに茶を飲んでごまかすしかなかった。


 笑いをおさめた鎮幸はごほんと咳払いし、表情を真剣なものに改める。
「さて、筑前どのの艶福家ぶりはさておくとして」
「いや、その言葉の選択は明らかに間違ってます」
「そうか? わしにはそう間違っているとも思えんが、ま、それはともかく、わしらは今少し堺に留まり、畿内の情報を集めることにする。筑前どのが宗麟さまからいただいたものは、この店に預けるという形で良いのだな?」
「はい。あれだけの量の品、持ち運ぶには重すぎますから。投資という形で預けておきますよ。この先、物入りになった時に返してもらうことにします」
 宗麟さまからいただいた金品は清右衛門らに渡した分をのぞいてもかなりの額にのぼる。人数分の馬を用意し、道中の諸経費(宿泊費、食費、関所での賄賂、その他もろもろ)を差し引いてもなお余る。これを越後まで持っていくとなると、馬車の一つ二つ用立てなければならず、危急の際に重荷になってしまうだろう。


 いざとなればうち捨てれば良いわけだが、せっかくの贈り物を物取りやら山賊やらに奪われるのは業腹なので、世話になったこの店にあずけて活用してもらうことにしたわけだ。返してもらうのがいつになるかはわからないし、投資となると大損する可能性もあるわけだが、まあそうなったらそうなったでかまわない。少なくとも賊に奪われるよりはマシである。
 それを聞いた鎮幸は大きくうなずいた。
「ならば、荷は仲屋に運び込んでおくことにしよう。それとな、今も申したように、わしらは今しばらく堺に留まる。京で、あるいは道中で変事が出来した際、わしらの力が必要であればすぐに駆けつけるゆえ、遠慮せずに使者を寄越してくれよ。数が必要とあらばここで兵を募ってゆくでな」
「そんなことをしたら、三好家に目の仇にされてしまいますよ?」
「なに、筑前どのの窮地を救うためとあらば、宗麟さまも道雪さまもその程度のことは問題とされまいて。むしろ、逆の行動をとった時こそ我が身が危うくなるわ」
「――お心遣い、ありがたく」


 俺が神妙に頭を垂れると、鎮幸は「気にするな」というようにばんばんと肩を叩いてきた。
「何事もなければそれで良いのだ。達者でな、筑前どの。ここで別れれば、日ノ本の西と東、気軽に行き来することもできぬで、今生の別れとなるやもしれぬが、なんとはなしにそうはならん気がしておる。また共に戦場に立てる日を楽しみにしておるぞ」
「鎮幸どのもお達者で。ただ、上杉家のそれがしと、大友家の鎮幸どのが同じ戦場に立つとなると、日ノ本に大きな異変が起きた時くらいでしょうから、共に戦場に立つ日は来ない方が良い気がします」
「ふむ、それもそうか。では、再び会える日を楽しみにしておる、ということにしておこう。また敵城潜入などもしてみたいのだがな」
 もう一度豪快な笑いを響かせた鎮幸は、そういって俺たちの旅路の無事を願ってくれた。



◆◆



 鎮幸の願いが天に届いたのか、京への道中で血なまぐさい変事は起こらなかった。
 天気も基本的に良好であり、周囲を三好の兵に囲まれているような状況でなければ、もう少し都への旅路を楽しむことができただろうと思う。
 途中、一度だけ夕立に見舞われたが、河川が氾濫するような激しいものではなく、あらかじめ吉継から注意を受けていたこともあって、衣服を濡らさずに済んだことをつけくわえておこう。
 ちなみに、この吉継の特技に重秀は感心しきりであった。


「鉄砲に雨は天敵ですから。天候ひとつで戦況ががらりと変わってしまうことはままあります。私も何度か危ない目に遭いました」
 照れたように失敗談を話した重秀は、表情を改めて吉継に問いを向けた。
「不躾な質問かもしれませんが、何か秘訣のようなものはあるのですか?」
「秘訣、ですか。そう呼ぶべきかはわかりませんが、石宗さま(吉継の師であった角隈石宗)は『目を凝らし、耳を澄ませよ』と仰っていました。風や空がかわるとき、徴候は必ず現れるもの。それを素早く的確に読み取ることが肝要なのだ、と」


 重秀はそれを聞いてふむと考え込む。
「術の類で未来を視るわけではない、ということですか」
「はい。徴候に気づかなければ、あるいは読みあやまれば、天候の変化を知ることはかないません。そこには当然、見る者の知識や経験も関わってきます。たとえば私は雪に慣れていませんので、雪が降る気配を素早く感じ取ることはできないでしょう」
 穏やかに言葉を紡いでいく吉継は、その特徴的な外見を隠すために白い頭巾をかぶっている。
 この頭巾、九国にいた時のそれと違って、顔中を覆い隠すものではなく、フードのような形をしていた。正面から向き合えば、紅い双眸や銀色の髪をはっきりと見て取ることができる。
 当然、重秀は吉継の容貌が他者と異なることに気がついていたが、初対面時からこちら、まったく意に介していなかった。強いて気にしないようにしているわけではなく、本気で気にしていないらしい。
 その証拠というべきか、重秀は一行の中で一番年齢が近い吉継によく話しかけ、吉継の方も重秀の為人に好感を覚えた様子で、短い道中ではあるものの、二人の間に親しみがかよっている様子がよくわかる。


 考えてみると、これまで吉継の周囲に近しい年頃の子はいなかった。
 強いていえば道雪どのの養子である誾が近いといえば近かったが、誾は男児であったし、立場が立場なので気軽に話せる間柄にはなりえなかった。
 その意味で重秀の同行は、俺や吉継にとって予期せぬ幸運であったかもしれない。周囲にひねた大人ばかりがいるのは、吉継の成長環境に良いとは言いがたいし。


 ああ、そういえば吉継が俺をお義父さまと呼んだとき、重秀がえらく驚いていたな。
 後で聞いたところ、「おとうさま」という呼びかけを聞いた重秀は、俺が吉継の実の父親であると勘違いしたらしく、俺の推定年齢が十以上低かったと慌てて脳内で訂正作業を行ったそうな。
 自分(重秀)と吉継はほぼ同じ年齢=自分の父親と俺の年齢もだいたい同じ、と。


 つまり、俺は一瞬で三十路を越え、ヘタすると四十路ではないか、と判断されてしまったことになる。
 それ自体は、まあ勘違いの延長といえなくもないので別にいいのだが、ショックなのは重秀が俺を見て「よくよく見れば……」と納得してしまったことである。
 俺ってそんなに老けて見えるのか、と地味にへこんだ。十代女子には二十歳以上はみんなおじさんに見えるというあれか。長恵にはけらけらと笑われるし。ちくせう。


「それだけ貫禄が出てきた、ということでしょう」
 とフォローしてくれたのは秀綱である。その心遣いはありがたかったが、秀綱の口元が微妙に緩んでいた気がするのは、俺のひがみ根性がなせる業であったのや否や。
 もちろん重秀には俺の実年齢も含め、吉継との関係は説明した。といっても細かい事情までは説明しなかったし、重秀の方も聞いてはこなかった。複雑な事情があることを察してくれたのだろう。
 気遣いが出来て、胆力もあって、ちょっとだけうっかり屋。俺の中で鈴木重秀のイメージはそういう風にかたまりつつあり、その重秀と吉継が仲良くなっていくことに、安堵に似たものを感じてもいたのである。




 そんなこんなで道中は平穏に進んだのだが、残念なことに――あるいは予想どおりというべきか、京に入った途端、平穏は俺たちの前から駆け足で逃げ去ってしまった。
 兵火自体はとうにおさまっているとはいえ、京の街並みには乱の爪痕がまだ色濃く残っている。街中の気配も不穏で、見かける人間の大半が三好家の兵とおぼしき者たちばかりであった。
 俺たちに向けて、街路の陰や、戸を閉ざした家々の窓から怯えた視線が向けられているのがわかる。京の町人の目には、冬康率いる部隊は新たな兵乱をもたらすものとして映っているのかもしれない。


 そういった視線をくぐりぬけるようにして俺たちが案内されたのは、京における三好家の拠点となっている屋敷だった。
 一言で屋敷といっても敷地は広大で、おそらく中にいる兵士は百や二百ではないだろう。門構えは見るからに頑丈そうであり、周囲には深い堀がめぐらされている。くわえて、四方の塀際に築かれた櫓の上では、兵たちが厳しい顔つきでたえず周囲を警戒していた。防備の堅さはそのあたりの砦をはるかに上回るといってよいだろう。


 冬康は先触れの使者を出していたらしく、たどりついた俺たちを迎える将兵の態度は丁重であったが、中には訝しげな眼差しを向けてくる者もおり、どうやら何者がやってくるのかを周知徹底しているわけではないらしかった。
 義賢や冬康といった三好一族が上杉家の重臣を招いたと知られれば、三好家内部に不穏な空気が流れる恐れがある。そのあたりを慮ったのだろうが、してみると今回の件、俺が考えていたよりもはるかに家中を動揺させているのかもしれない。


 つつがなく中へと招き入れられた俺たちは、当座のこととして客間の一つに案内された。
 どうやら三好義賢は宮中に出向いているようで、戻ってくるまで旅塵を落とし、ゆっくりしていてほしい、というのが冬康の言葉だった。
 その言葉どおり、三好家に仕える侍女や小姓がぴたりとくっついてあれやこれやと世話を焼いてくれたが、たぶんこれは勝手な行動をしないように、という言外の意思表示でもあるのだろう。


 室内に腰をおろした俺は、あえて楽観的に口を開いた。
「ま、刀剣突きつけられて、余計なことをするなと云われるより遥かにマシだな」
「それはそのとおりですが、屋敷の警戒の厳重さを見るに、いつそのような状況に置かれても不思議はないように思えます」
 吉継の懸念は他の同行者たちも等しく感じていたものらしく、無言のうなずきが返ってくる。
 たしかに町中の雰囲気は不穏そのものだったし、三好家の将兵も殺気立っているようだった。冬康じきじきの案内があったから何の問題もなく京に入れたものの、そうでなければ関所や見回りの兵士に咎められていたかもしれない。
 天下の将軍が配下の兵に殺されて、まださして時が経っていないことを考えれば、むしろよくこの程度の混乱でおさまっていると考えるべきなのかもしれないが、さて。



 俺は腕を組んで考えに沈んだ。
 これからどうするべきかはすでに道中で考えてある。京についたら謙信さまたちが宿泊していたという三条西家を訪れようと思っていたのだ。堺で出してもらった使いの人は、入れ違いになってしまったのか、ついにここまで会えずじまいだった。
 しかし、この感じでは三好家から外出許可は出ないだろう。
 むろん、三好家に行動を掣肘される筋合いなどないので、強引に出て行くこともできないことではないが、それをやってしまうと三好家との仲が険悪化してしまう。結果、今後の京や畿内での行動が著しく制限されることになるだろう。今の段階でこちらから喧嘩を売るのは悪手であった。


 ただ、吉継のいうとおり、こちらから売りつけずとも状況の変化にともなって向こうが牙をむいてくる可能性は十分にある。冬康の言葉が事実であれば、三好家内部でも反目や対立があるようだし、用心を欠かすことはできないだろう。
 そうやって考えを推し進めていくと、最終的に出てくる答えは、用心しつつもじっとしているしかない、というものになる。少なくとも義賢なり冬康なりの口から謙信さまの行方を聞きだすまではそうするのが最善だろう。




 とりあえずそのように結論づけたものの、俺の中には自分が出した答えに対するかすかな焦り、ないしは不満があり、この不純物は俺の内心をちくちくと針で突ついてきた。
 相手は謙信さまの情報を切り札として、こちらの行動を掣肘しようとしている。その思惑にまんまと乗せられていることがわかっていながら、乗せられるしかない今の状況がどうにももどかしい。
(主導権は握るものであって、握られるものじゃないな)
 表向きは平静を装いつつ、内心でため息を吐いた。
 三好家に所在を掴まれた上、相手がこちらを警戒しているとわかったからには、こうするのが一番手っ取り早いと考えたから京まで来た。ヘタに逃げれば三好軍に狩りだされる怖れがあったし、鎮幸らにも迷惑をかけたであろうから、この考えが間違っていたとは思わない。が、こうして相手の懐に飛び込んでみると一抹の不安を禁じえなかった。将軍に刃を向けるような相手に、常識的な対応を期待してもよかったのだろうか、と。


「師兄」
 不意に長恵に呼びかけられ、俺は我に返った。結果として、暗い方向に傾きつつあった思考から解放される。
「どうした、長恵?」
「いえ、なにやら師兄の目もとに暗い陰が見えた気がしましたので。何か気鬱になることでもあったのかな、と」
「む、いや、別に気鬱になっているわけじゃないが」
 自分で決めたことである以上、ついてきてくれた人たちの前で不安な表情を見せるわけにはいかない。俺はつとめて何気なく応じた。
 ……いや、まあこうして問いかけられている時点で見抜かれているのは明らかなんだけど。


「ふむ」
 長恵は少しの間、探るような視線を向けてきたが、はじめからそれほど気にしてはいなかったようで、すぐに問いをおさめた。いささか物騒な言葉を添えて、ではあったが。
「それならばよろしいのですが、念のために申し上げておきます。この程度の守り、私とお師様ならば斬り破ることは易きこと。ご承知おきくださいね」
「ぬ? いや、待て待て、別に荒事に持ち込むつもりはないぞ」
「そういう手段もある、ということです。姫さまと鈴嬢(重秀のこと)もいらっしゃること、慎重に事にあたるのは当然ですが、それを気にするあまり自縄自縛に陥っては意味がないと思うのです」
「むぐ」
 一言もなく黙るしかなかった。


 まさか長恵に諭される日が来ようとは。いやまあ、内容はといえば「いざとなれば力ずくでもおっけーです」というものなので、諭すというのはちょっと違うかもしれないが、それでも俺の中の迷いを見抜いた上での献言であるのは間違いない。
 素直に感謝した。
「気をつけよう。それと、ありがとうな」
「なんの。師兄には是非とも無事に越後に帰りつき、私の願いをかなえてもらわねばなりません。そのためにこの長恵、全身全霊をもって師兄を支える所存です」
 キリッとした表情で力強く言い切る長恵。
 ちなみにこれが鍛冶師のことで俺との賭けに勝った件だというのは云うまでもないだろう。
 むろん約束を反故にするつもりはなかったが、ここまで気合を入れられると、どんなお願いが待っているのか戦々恐々としてしまう。ある意味、三好家の動向よりもこっちの方が気がかりなくらいだった。まあ半分くらいは冗談だが。


「…………いったい何を願うつもりなんだ?」
「それは秘密です」
 これもこのところ定型化しつつあるやり取りだった。
 周囲から苦笑まじりの視線を向けられ、俺が場をごまかそうと咳払いした直後。



 不意に、屋敷がざわめいた。

 
 
 それまでも十分に物々しい雰囲気であったが、その質がかわったとでも云おうか。家人が慌しく走り回る音や、忙しげな呼びかけの声がそこかしこから響いてくる。
 秀綱と長恵、それに吉継と重秀もすばやく刀を手元に引き寄せた。前の二人にいたっては、今この場に狼藉者が侵入してきたら、抜く手も見せずに斬って捨てそうな迫力がある。
 他方、俺は落ち着きを取り戻していた。
 何事もない時には先を危ぶみ、事が起きるや平静を取り戻すというのも妙な話だが、実際そうなのだから仕方ない。
 一応、理由もある。三好家が俺たちに刃を向けるつもりなら、わざわざこんな風に騒ぎ出すはずがない。おそらくは三好家にとっても予期せぬ事態が生じたのだろう。


 刀を鞘から抜き放つ音や、甲冑のこすれあう音などは聞こえてこない。戦支度の気配がないことから察するに、誰かがこの屋敷に攻めてきたというわけではなさそうだ。差し迫った危険はない。
 ただ、それにしてはずいぶんと聞こえてくる声が慌しいのが気になった。どことなく切羽詰っている様子すらうかがえる。
 となると、どこかの大名が国境を侵したか、あるいは謀反でも起きたのか。いずれにせよ火急の事態が起きたのは間違いなさそうであった。



「お義父さま、どうなさいますか?」
「とりあえず大人しくしていよう。そのうち誰かが何か云ってくるだろう。念のため荷物はすぐに持ち出せるようにしておいてくれ」
 俺の返答に吉継と重秀が同時にうなずいた。
 ちなみに重秀はやたらと頑丈そうな木箱を背負って持ち運んでおり、中には幾つかの工具と共に分解状態の鉄砲が入れられている。銃身に鈴木家の家紋である『三つ足烏』と愛山護法の文字が記されたそれは、重秀自身がつくりあげた逸品であるそうだ――いや、重秀が自分で「逸品です」と胸を張ったわけではないのだが、あの鈴木重秀が手ずから製作して大事にしているのだから逸品でないはずはない、と思う次第である。


 他にも火薬やら何やらが詰まった胴乱(ポーチみたいなもの)など、かなりの数の荷物を持っている重秀だが、別段、顔色ひとつかえずにそれらを持ち運んでいるあたり、見かけによらず結構な力持ちでもあった。
 ただ、さすがにその状態では自由自在に刀を振るうというわけにはいかない。従って、秀綱にはいざという時は重秀を守ってくれと伝えてあった。護衛で雇った相手を護衛するとか、たぶん本人に聞かれると「子供扱いされた」と気分を損ねてしまうと思うので、あくまで内密に、である。




「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
 何気なく呟いたその言葉。さして深い考えもなく、この状況にはぴったりだと思ったので口走っただけだったのだが、返って来た反応は素早かった。
「――残念。そのどちらでもないわよ」
 その人物はいつの間にか襖のすぐ外まで来ていた。
 失礼するわ、との声に応じて作法どおりに開かれる襖。開かれた襖の向こうにのぞいた艶やかな黒髪と鮮麗な美貌を見て、俺の口からこぼれでたのは感嘆――ではなく、心の底から辟易したうめき声であった。


「……げ」
「あら、久方ぶりに顔をあわせたというのに、はじめの一言がそれなの? 越後の軍師さまはずいぶんと礼儀知らずになられたようね。久秀、がっかりだわ」
 口ではそう云いながらも、たいして気を悪くした様子はない。
 動作の端々に気品を滲ませながら、松永久秀はしずかに部屋の中へと入ってきた。
 




◆◆





「本願寺が!?」
 本願寺軍が淡路島を急襲した。
 そのことを久秀から聞いた俺は、思わず声を高めてしまった。
 対する久秀の顔に動揺の色はない。もちろん、このことをあらかじめ知っていた久秀が、今聞いたばかりの俺よりも落ち着いているのは当然の話なのだが、それにしても少し平静すぎる気がした。


「そ、いま屋敷が騒がしいのはそのせいよ。石山の兵はもとより紀州の傭兵も動かしたみたいだから、兵の総数が一万を下回ることはないでしょうね」
「……大軍による奇襲、ですか。戦況としてはかなりまずいと思うのですけど」
「まずいわね。冬康さまが淡路にいらっしゃればともかく、今いるのは留守居の将だけだもの。紀州の傭兵を動かしたってことは、たぶん熊野の水軍にも声をかけているでしょうし、そうなると海の上での優位も失われる。これをまずいと云わずして、何をまずいというのかしらというくらいの戦況ね」
「にしては、えらく落ち着いてますね、久秀どの?」
「ここで久秀が慌てたところで、あちらの戦況が良くなるわけでもないでしょ?」
「まあ、そらそうですが」


 再会の挨拶もそこそこに始まった俺たちの会話に、周囲から怪訝そうな、あるいは戸惑ったような視線が幾つも向けられてくる。
 俺たちの中で久秀の顔を見知っているのは秀綱のみであり、その秀綱にしたところで久秀と膝をつきあわせて話をしたことがあるわけではない。まして噂や風聞でしか松永久秀のことを知らない吉継たちが、眼前の少女と噂の謀将との落差に戸惑うのは当然といえば当然のことであった。
 いや、もしかしたらそれ以前に、三好家の重臣である久秀と俺がえらく親しげなことに困惑しているだけかもしれんけど。
 そうだとしたら訂正したい。切実に訂正したい。傍目から見れば親しげに見えるかもしれないが、その実情は言葉という刃による苛烈な斬りあいの真っ只中なのだ、と。



「まあ、これは今の颯馬には関わりのないことだし、謙信たちの行方に比べたらさして興味があることでもないでしょ?」
 その言葉を聞き、自分の表情がかわったことを不覚だとは思わなかった。
「――ご存知なのですか」
「知っているから来たのよ。本来ならもう少しもったいぶってあげるところだけど、私と颯馬の仲だもの、それはなしにしてあげるわ」
「……ありがたき幸せ、というべきですかね」
「むしろ大喜びしなさいな。で、結論からいうけど、今、謙信たちは近江にいるわ。南近江の六角家。越後の一行は今、彼の地の当主である六角義治の下にいる。もっとはっきりいえば幽閉されているの」


 ぎり、と奥歯が鳴った。
「六角家が、何故?」
 もちろん六角家の名前は知っていた。しかし、当主の顔も性格も知らない俺には、あの家が謙信さまたちを幽閉している理由がわからない。少なくとも、先の上洛で六角家と上杉家が敵対したという事実はないはずだった。
 それに六角家は義輝さまに近しい勢力だったと記憶している。将軍家の処遇や畿内の支配権をめぐり、三好家と対立を繰り返してきた歴史もあったはず。当然、兵を交えたことも一度や二度ではないだろう。京から逃れてきた謙信さまを匿うのであればともかく、幽閉する理由がない。
 久秀が云っていることが事実であれば、だが。


 そんな俺の疑念に気づいているであろうに、久秀の語調はかわらない。
「一言でいえば、唆されたのよ。管領職を餌にして、ね。うちの事情は冬康さまから聞いたかしら?」
「おおよそのところは」
 俺が低声で応じると、久秀はくすりと微笑んだ。
「なら、わかるでしょう? 亡き公方さまの忠臣であった謙信を、ここで是が非でも討ち果たしておきたい者は誰か。たとえ口約束であれ、管領職を餌に持ち出せる権勢の持ち主は誰か。六角家と誼を結ぶことで、揺らぎつつある立場を強くしておきたい者は誰か。そして、この三つを兼ね備えた者は――ね、颯馬。誰だと思う?」
「……三好三人衆」
「正解」
 腰に差していた扇を取り出した久秀は、それをそっと口元にあてた。自然、その動作を目で追ってしまった俺の視界に、紅をさした唇が鮮やかに映し出される。濡れたように光る唇からは目に見えんばかりの色気が漂っていたが、あいにく、それは俺の心に何の影響も及ぼさなかった。


 俺は久秀の挙げた条件をもう一度考えた。
 三好家の内部事情がどうあれ、実際に義輝さまを手にかけた三人衆を謙信さまが許すことはありえない。つまり、謙信さまが生きているかぎり、三人衆は報復の危険に晒されることになる。三人衆が謙信さまの排除を目論むのは容易に推測できた。


 六角家が三好家の事情を把握しているかは定かではないが、三人衆が三好家の中枢に座しているのは隠れもない事実である。その三人衆から管領職を餌に共闘を持ちかけられた場合、六角家はどう反応するのか。
 冷静に考えれば、事情を知っていようがいまいが、将軍弑逆を実行した家に協力するなど百害あって一利なしというものである。だが、当主が目先のものしか目にはいらない浅薄な人物であれば。あるいは、それらを承知した上でなお三好家と手を結ぶ利益があると判断したのだとすれば――軍勢を持たない謙信さまを捕らえることは、さして難しいことではないかもしれない。


 京から出された三人衆が、家中における立場の危うさを自覚していたのは想像に難くない。とすれば、挽回の手を考えないはずがない。従容として処罰をうけいれるような連中であれば、そもそも義輝さまを討ったりはしないだろう。
 当主との仲が悪化した場合、他家と誼を通じるのは常套手段である。まして、その行動が将来の大敵をのぞくことに繋がるのだとすれば、ためらう理由の方がない。


 久秀が口にしたことは十分に起こりえることであった。
 しかし、問題は久秀がそれを知るにいたった経緯である。久秀ほどの智者だ、各地に情報網を張り巡らせているのは確かだろうが、それにしても詳しすぎる。
 ここまで明確に三人衆や六角家の動きを掴んでいるのなら、さっさと三人衆を排除して後の憂いを断っておくこともできたはずだ。少なくとも、俺ならそうする。
 あるいは史実的に考えて、三人衆の動きを利して三好家を分断させるつもりであったのか?
 それもないことではないと思うが、だとすれば、ここでこうして俺に情報を与える理由がわからない。久秀にしてみれば、謙信さまが討たれたところで何の痛痒も感じないだろう。まさか言葉どおり、俺との仲に免じて秘中の秘を明かしたわけでもあるまい。


 考え込む俺を見つめる久秀の顔は、なんというか実に楽しげであった。女の子の笑顔を面憎いと思ったのはいつ以来だろう。
 そんな内心を読み取ったのか、ついに久秀は堪えかねたように笑みをこぼした。
「ふふ、久秀がどうやってこのことを知ったのかって思ってる? いくら久秀でも千里眼は持ち合わせていないわ。義賢さまの命令で三人衆の動きには目を配っていたけれど、六角家の内情までは掴んでいなかった。まして京を出た謙信の動きなんて久秀にわかるはずもない。なのにどうして知っているのか? その答えはね、別の人から教えてもらったのよ」
「別の人……それはどなたですか?」
 久秀さえ掴んでいなかった情報をいち早く掴んでいた人物。
 その人物の名を問うた俺の顔を、久秀はじっと見つめた。
 そして、不意にぐいっと身を乗り出して顔を近づけてくると、俺の耳もとに唇を寄せ、囁くように呟いた。  



「その方の名前は一乗院覚慶さま。公方さまの妹君 足利義秋さま、と云った方がわかりやすいかしら?」
 



[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/03 21:36

 大和国 興福寺


 いわゆる南都北嶺とは、寺社勢力の雄である奈良興福寺(南都)と比叡山延暦寺(北嶺)の二つを指す言葉である。
 これら寺社勢力は僧兵という独自の武力を有し、幾年にも渡って幕府の支配すら退ける権勢を有していた。事実、室町幕府は興福寺が支配する大和国に守護職を置いていない。
 その興福寺において、覚慶――足利義秋が与えられている役割は一乗院の門主というものであった。


 一乗院とは興福寺に置かれた院(寺院本体とは異なる寺社内組織)のひとつであり、代々の門主は皇族、貴族がつとめている。くわえていうと、一乗院の門主は興福寺別当(寺務を統括する長)を兼ねるのが常であった。
 つまるところ、覚慶は興福寺においてそれなり以上の地位を有しており、その立場と自身の才覚をいかして寺社内の実権をほぼ完全に掌握するにいたっていた。


 むろん、はっきりとおもてに出るような権勢ではない。興福寺内においても、覚慶の地位は血統によって与えられたものだと考える者がほとんどであり、覚慶の才覚を知る者はごく一部の者のみに限られている。
 そして、覚慶にとってはそれだけで十分であった。
 なんとなれば、彼らすべてが、興福寺がくだす決定に関与できる高僧たちだからである。
 その高僧たちですら、覚慶の才覚を知ってはいても、彼女が胸奥に宿した闇の深さを知らぬ。
 ゆえに、興福寺の内において己を妨げる者は存在しない――覚慶はそう考えていた。
 その認識が油断を招いた、というわけでもないのだろうが……




 その日、陽が落ちた後、寺務を終えて部屋に戻った覚慶は襖をあけた。すでに部屋の中に明かりがともっていたのは、覚慶が戻ってくる時間にあわせて小坊主が火をつけておいたためである。
 いつものこととて、覚慶は特に気にすることもなく部屋に一歩足を踏み入れ――不意に、間近に他者の気配を感じてハッと目を見開いた。


 月のない夜を思わせる色合いの双眸が室内を一薙ぎする。 
 部屋の中を照らす燭台の小さな明かり。その明かりがとどかない隅に、黒々とした人影がわだかまっていた。
 覚慶の手が懐中の小刀に伸びなかったのは、室内でひざまずくその人影から害意を感じなかったからである。
 しかし、こうして目にする寸前まで自身に気配を感じさせなかった相手に対し、友好的に接するほど覚慶は和やかな性格をしていなかった。



「何者かえ?」
 低く、それでいて鋭く尖った詰問の声。声に形を与えたならば、この場には妖刀のごとき刃が具現したであろう。
 対して、戻ってきた返答は柔らかかった。まるで、突きつけられた刃を包みこむ鞘のように。



「越後守護 上杉謙信と申します。前触れなき推参、非礼の極みなれども、時が時ゆえなにとぞご容赦たまわりたく」
 相手の名乗りを聞いた覚慶の眉がわずかにあがった。
 無言で室内に入った覚慶は襖を閉じ、暗闇をすかしみるように目を細める。
「……たしかに、その顔には見覚えがある。一別以来であるな、上杉の方。以前に逢うた時には、長尾……そう、長尾景虎と名乗っておったか?」
「御意にございます」
 深々と頭を垂れる謙信。
 その謙信に向けて覚慶は淡々と言葉を続けた。熱のない、かといって冷めているわけでもない、不思議な口調で。


「門番や僧兵どもが居眠りをしておったわけでもあるまいに、ようもこの院までたどり着くことができたものよ。そちの顔に覚えがなくば、越後守護の名乗りなど盗人の騙りであると判断しておったところじゃ」
 そう云った覚慶は、それが冗談であると示すように喉を震わせ、かすかに哂う。
 しかし、その表情はすぐに改められ、刺すような視線が謙信の後頭部に向けられた。
「さて……一国の守護ともあろう者が、単身で一乗院門主の部屋に忍び込むにいたった、その用向きを訊かせてくりゃれ?」


 すでに将軍討死の報は畿内の隅々にまで届いている時期である。
 むろん覚慶も謙信も承知していた。その上で謙信が単身であらわれた理由を問いかける覚慶の態度は、為人において、また君臣の親疎において、姉である義輝との差異を謙信に感じ取らせるには十分であった。
「御身のご無事を確かめに参りました」
 それでも謙信の返答にためらいはない。
 もとより手放しで歓迎されると思っていたわけではなかった。
 次期将軍候補の最右翼。おそらく、今の覚慶のもとには、畿内はもとより全国各地の諸勢力から様々な接触の手が伸びているはずだ。覚慶を利用しようとたくらむ者、あるいは排除しようと目論む者が山をなして群がり寄ってくる状況で、ただひとり、自分だけが無条件で信頼されると期待するほど謙信はうぬぼれてはいない。



 そんな謙信の内心を知ってか知らずか、覚慶の声が皮肉の色を帯びる。
「このとおり五体満足じゃ。で、それを知ったら、次はどうする?」
「御意に従う所存です。ただ、願わくば殿下を弑し奉った者どもの手が及ばぬ地に、難を避けていただきたく存じます」
「逃げよ、と申すか。幕府の支配すら寄せ付けぬ興福寺の威はそちも知っておろう。三好の奴輩はそちよりもなお知っておる。げんに彼奴らはこの寺を囲みはしても、弓矢を向けることはない。この身は安きの中におる。それでもそちは、この身に凶逆の刃が届くと思うのかえ?」
 この問いに対して、謙信が返答に要した時間はごくわずかだった。かすかな震えを帯びた声が室内に響く。
「相手は征夷大将軍を手にかけた者たちなれば、いかなる凶逆もなすでありましょう」



◆◆



 謙信が二条御所襲撃の報を耳にしたのは、越後へ戻る帰路のことであった。
 上泉秀綱を九国へ送り出した後、なおしばらく謙信と政景は京にとどまった。当初、謙信は秀綱を送り出した後、間を置かずに越後へ戻る予定だったのだが、出立支度を終えた越後の一行に思わぬ幸運が舞い込んだのである。
 義輝や三条西家の計らいにより、主上への拝謁がかなう運びとなったのだ。これにより、謙信たちの帰国はさらにずれこみ、結果、二条御所が襲撃された際、謙信たちはまだ北陸路にさえたどり着くことができていなかった。


 将軍討死の一報を聞いた謙信はすぐさま京にとってかえす。
 戦の第一報が誤報であることはめずらしいことではない。御所が落とされたのが事実だとしても、義輝は逃げ延びている可能性もある。そういった可能性に一縷の望みをかけてのことであったが、京周辺の警戒は厳重であり、謙信率いる数十の手勢では突破しようもなかった。


 それでも、義輝の健在が確認できれば乾坤一擲の賭けに出ることもできただろう。
 謙信は今回の上洛に同行させていた軒猿の長や、その麾下の手練を京に送り込んで義輝生存の徴候を探らせたが、物慣れた忍たちでも謙信が望むものを見つけることはできなかった。
 彼らが掴むことができたのは、三好軍の一部が越後の一行に討手を差し向けたという事実のみであった。


 かくなる上は、急ぎ越後に戻って三好家追討の兵を挙げるべし。
 そう主張したのは長尾政景であり、他の者たちも政景の主張に同意した。実際、敵地に孤立した形の主従にとって、それがとりえる最善の手段であっただろう。
 しかし、謙信はかぶりを振ってその意見を却下した。
 義輝に心底からの忠誠を捧げていた謙信にとって、三好家は不倶戴天の敵となった。その彼らに対する復讐心で我を忘れたわけでは、もちろんない。
 三好が将軍を討った目的は幕政の掌握以外にありえない。思うように操れない義輝を退け、誰か別の人物――三好家にとって都合の良い人物を将軍の座に据えるつもりだろう。あるいは、足利幕府自体に見切りをつけ、三好家を中心とする別の政治組織を構築するつもりか。


 そのいずれにせよ、これから先、将軍家の血を引く者は三好家に狙われる。おそらくは傀儡として、悪くすれば邪魔者として。
 ことに危険なのが義輝の妹である覚慶である。そう考えた謙信は道を南にとり、大和へ向かうと告げた。覚慶の無事を確かめ、かなうならば越後に避難してもらうために、であった。




 この謙信の決断に対し、政景は必ずしも全面的な賛成を示したわけではなかったが、仕方ないといいたげに軽く肩をすくめて主君の決断を諒とした。謙信の懸念は理解できるし、反対したところで聞く耳もつまい、と判断したのである。
 むろん謙信とて危険は承知していたので、いざという時に備え、政景はそのまま越後に帰らせようとしたのだが、政景はこれを言下に拒絶した。
『この状況であんたを置いて先に帰ってみなさい。兼続が鬼になるわよ』
 とは、この時の政景の弁である。


 軽口の裏に秘められた、自身への気遣いに気づかない謙信ではない。
 謙信は形式上は部下である政景に深く頭を下げたが、政景は面倒そうにひらひらと手を振って相手の謝意をしりぞけた。
 ただ、ここで大和に向かうにしても、春日山に情勢を伝えておくことは必要である。また、今回の上洛目的には青苧の利権をめぐる京商人との渉外活動も含まれており、そのため御用商人である蔵田五郎左衛門のように戦闘には向かない同行者もいる。
 謙信は彼らを越後へ帰すことを決した。彼らに護衛を割けば、その分、謙信を守る兵の数は減ってしまうが、これから先の敵地での密行を考えれば、むしろ兵数が少ない方が敵の目をあざむけるだろう。
 さらに謙信は軒猿の一人を直江兼続の下へ走らせた。一足先に畿内の情勢と自分たちの動向を伝え、兵備を整えておいてもらうためである。


 ……諸々の手配を終えた政景は小さく嘆息した。
『結局、兼続を怒らせることにはかわりないわね』
『兼続ならば、怒りはしても理解してくれましょう』
 そんな会話をかわした後、越後の守護と守護代は動き出す。
 もともと果断速攻の用兵を旨とする越後勢、ひとたび方針を決すれば、その後の行動は迅速であった。
 謙信と政景の周囲をかためる兵は、両手の指でかぞえることのできる人数しかいなかったが、いずれも選びぬかれた精鋭たちである。これに軒猿の働きが加われば、その行動を捕捉するのは容易なことではない。
 かつての上洛で畿内の地理を把握していたことも役に立った。
 三好軍にしても、まさか越後の一行が京にとってかえしてきた挙句、道半ばで大和に向かうとは予測しておらず、討手は謙信の行方を完全に見失ってしまうのである。




 謙信にとって、大和の国は天城颯馬と共に高野山に赴く際に通った地であった。
 さすがに松永久秀の手形を持っていた道中とは勝手が違ったが、それでもかつての経験は大和国内における越後勢の行動をおおいに助けてくれた。
 謙信の先導の下、一行はさしたる危険に遭うこともなく興福寺へとたどり着く。
 そこで謙信たちが目のしたのは、興福寺の壮麗な寺院ではなく、その寺院を取り囲むように布陣する大勢の軍兵の姿であった。



 この時、興福寺を取り囲んでいたのは猛将 十河一存率いる三好軍である。
 三好家随一の剛武を誇る一存は、興福寺に対するいかなる働きかけも許さぬ、とばかりに寺を取り囲む形で兵を展開させていた。
 この軍兵に加え、興福寺は僧兵という固有の武力を備えている。三好軍と興福寺僧兵、この両者を同時に相手取って覚慶のもとに向かうのは一筋縄ではいかないだろう。そのことは誰の目にも明らかであった。まして覚慶を興福寺から連れ出し、畿内を抜ける挙にいたっては、はっきり不可能と断じることができる。


 しかしこの時、事態は越後勢にとってより簡単であった。 
 三好軍は形としては興福寺を守っているように見えたが、実際は覚慶の身柄をめぐって興福寺側と激しく角突き合わせており、三好兵と僧兵の間でも諍いが多発していたのだ。三好兵の意識は、ともすれば包囲の外よりも内に向けられている、という状態であった。
 となれば、両者の間隙を突く手段などいくらでも存在する。
 政景の陽動によって三好軍の包囲をかいくぐった謙信は、軒猿の手引きをうけ、こうして覚慶の部屋までたどり着いたのである。



◆◆



 ――しばし、沈黙の淵に佇んでいた覚慶は、ふっと唇を綻ばせた。
「ずいぶんと苦労をかけたようじゃの。姉君を案じ、わらわを案じ……頼みもせぬのに、とは意地の悪い言い様であるかえ?」
 その言葉に、謙信ははっきりとかぶりを振った。
「御意を確かめることなく、自らの判断で動いたはこの謙信でございます。我が行いが御身にとって無用のことであったならば、伏して詫びるほかございません」
「ふふ……なんら実権を持たぬ、姉君の影法師に過ぎぬわらわのため、身命を賭して働いてくれた。それを無用なぞと誰に云えようか。ようやってくれたの、上杉の。そちの忠誠――いや、義侠であるか、嬉しく思うぞ」
「もったいなきお言葉でございます」


 謙信の額が畳に接する寸前まで下げられる。
 覚慶はさらに言葉を重ねた。
「じゃがの、この身を寺より連れ出す必要はない。わらわは戦場を駆けるそちとは違う。多少の剣の技を修めていようとも、この身は非力。数多の討手に追われながら、山野に紛れて越後を目指すなど到底かなわぬ業よ」
「それがし、我が身にかえても御身を守り抜く所存でございます。なにとぞ信頼をたまわりたく」
「そちが信ずるに足る武将であることは承知しておる。あの姉君が全幅の信頼を置いた者じゃもの。じゃがな、上杉の。そちが真に守るべきは、わらわの身ではなく、姉君の志であろう?」
「それは――」
 何かを口にしかけた謙信を遮るように、覚慶は更なる言葉をおしかぶせた。


「わらわを盛りたてて幕府を再興し、もって姉君の想いに報いる。そちが願っているであろうことはわかる。が、それを為すためには、何よりもそちが無事でなくてはならぬのじゃ。この戦国の世、誰もが己が野心に焦がされて生きておる。そちのように心底から将軍に忠誠を捧げ、滅私の働きを為す者が他にいるとは思われぬ。この身と引き換えにそちが果てたなら、わらわのごときは群狼に群がり寄られ、肉を食われ、骨をしゃぶられ、ついには野にうち捨てられる末路を辿ること、目に見えておるわえ」
 それでは意味がない、と覚慶は云う。
「ゆえに、今は去るがよい。三好がわらわをどう扱うつもりかはわからぬが、今すぐ命を奪うつもりはあるまい。そのつもりなら、鬼十河はとうに寺に火をかけているに相違ないからの。であれば、残るは傀儡か、幽閉か。いずれにせよ、姉君が味わった苦痛と無念に比すれば堪えるのは易きこと。その程度で弱音を吐いては、雲上の姉君に情けない妹だと叱られてしまおう」



 風が強くなってきたのだろう、襖の外から境内の枝葉がざわめく音が響いてきた。
 空を見上げれば、足の速い雲が月をかすめるように幾つも通り過ぎていく様を目にすることができたであろう。
 覚慶はぽつりと呟いた。
「今宵は荒れそうじゃの。上杉の、これも計算の内かえ?」
「御意。月の隠れた夜、風と雨が兵たちの目をくらませましょう。もはや越後までとは申しませぬ。ですが、御身を包囲の外、三好家の手の届かぬところへお連れすることはかなうと存じますが」
 謙信の最期の確認に対し、覚慶は迷う様子もなくかぶりを振った。
「よい。わらわはここで将軍家に生まれついた者の責務を果たす。そちは急ぎ領国へ戻り、やがて来る時に備えるが良い。この身がどのように処されるにせよ、此度のそちの芳志を忘れることはせぬ。また、これより先、そちの意がこの身にあることを疑いもせぬ。これが今、わらわがそちにあずけることのできる精一杯の信頼じゃ」


 それはおそらく、謙信にとってこの場で望みえる最大限の言葉であった。
 そうと悟った謙信は、何度目のことか、深々と頭を垂れる。
 ――が、この時、謙信は内心にかすかな違和感を抱えていた。
 望みえる最大の信頼を得られたはずなのに、いつか二条御所で義輝と語り合った時のように心浮き立つものがない。
 覚慶の言葉には光も熱もなく、謙信の心を打つ正直(せいちょく)に欠けていた。また、彼女の声音は何故か謙信の心に波紋を投げかけてくるのだ。そのことが謙信の心に一抹の不安を残し、それが違和感を生じさせていた。


 しかし、謙信は内心にわだかまるそれらの思いを押し隠し、ついにおもてに出すことはなかった。
 覚慶は義輝ではない。ゆえに受ける印象が義輝と異なるのは当然のこと。同じ将軍家の血筋であるからといって、勝手にこちらの理想を押し付けた挙句、理想と違うからと不満をあらわす者が、どうして忠実な臣下たりえようか。
 義輝の死に対する動揺が自分の心を乱しているのだろう、と謙信は結論づけた。それに覚慶とて姉の死に衝撃を受けていないはずがない。前触れなく現れた闖入者に対し、姉を失ったばかりの痛みを押し隠して対話するとき、声音に冷えが出たとて何の不思議があるだろう。


「数ならぬ身に過ぎたお言葉でございます。この謙信、時至らば必ずや精兵をひっさげて御前に馳せ参じまする」
「うむ、頼りにしておるぞ、上杉の」
 こくり、と満足げにうなずく覚慶。
 と、ここで覚慶は不意に何かに心づいたように謙信に問いを向けた。
「上杉の。そち、帰国の道筋は定めておるのかえ? おそらく江北(北近江)から越前にかけては三好の手の者に塞がれていよう」
「いえ、未だ。近江路が通れぬようであれば、伊賀を越え、伊勢より船で三河なり遠江なりに出ようかと思案しておりました」
「伊賀越え、か。それはまた、求めて苦難の道を行くものよ。じゃが、伊賀さえ越えれば、あとは船旅。三河、遠江はいずれもそちの盟邦ゆえ、信濃を通ってつつがなく越後へ帰ることができる、というわけかえ」
「ご推察のとおりにございます」


 謙信の答えを聞いた覚慶は何事か考え込む様子を見せたが、やがて手近に置いてあった鈴を手に取り、それを二度、三度と高く鳴らした。
 間を置かず、この部屋へ近づいてくる人の気配を謙信は感じ取った。廊下を進んでいるというのに、足音ひとつ立てていない。この手の気配の主に関して、謙信はひとつ心当たりがあった。忍である。




 ほどなくして、何者かが襖の外で声を発した。
「……お呼びでございますか、覚慶さま」
「惟政(これまさ)、入ってきやれ」
「は、はい。では失礼しま――って、何者ッ!?」
 覚慶の声に応じて襖を開けた人物――外見上は髪をそりおとした坊主姿であったが、声からして少女だろう――は、室内に覚慶以外の人間がいることに気づき、驚愕の声をあげた。
 その驚愕は瞬く間に警戒へ、そして警戒から敵意へと変じていく。少女の手が腰の脇差に伸びた。
 それをとめたのは覚慶の一言である。


「控えよ。姉君が頼りになさっていた越後公ぞ」
 その言葉は、まるで魔法のように少女の動きを凍りつかせた。
「は、え、越後公と仰いますと、あの、上杉さま……? え、でもどうして上杉さまが覚慶さまのお部屋にいらっしゃるのです? け、警戒していたはずなのに」
 立て続けに並べられた真実に目を丸くする少女に対し、謙信は会釈をした。
「越後守護 上杉謙信だ。見知り置いてくれ」
「は、はい、あの、あたし、ではない、それがしは和田惟政と申します! 存ぜぬとは申せ、無礼の段、平にお許しくださいッ」
「私が無断で侵入した曲者であるのは事実。そなたが私を咎めだてするのは当然のことだ」


 謙信は惟政が向けた敵意をまったく気にしなかったが、惟政の方はそういうわけにはいかないようだった。動揺が拭いきれないのが見て取れる。
 よくよく見れば、惟政の頬はひどく扱けており、双眸にも生気が乏しい。まさか今しがたの一幕でこうなったわけではないだろう。この少女は謙信と顔をあわせる以前より、ひどく憔悴していたに違いない。


 どうしてこの少女を今この場に呼んだのか。
 謙信は問う眼差しを覚慶に向けた。
 心得た覚慶は、惟政を控えさせたまま、彼女を呼んだ理由を説明した。
「惟政は江南(南近江)は甲賀の産でな。江南はもちろん、隣国の伊賀の地理にも通じておる。惟政をそちの帰国の役に立ててほしいのじゃ」
 それを聞いて驚いたのは、謙信よりもむしろ惟政の方であった。
 何事か口にしようとした惟政に対し、覚慶は半ば命じるように云った。
「惟政。越後公は亡き姉君の股肱、おそらくこの日ノ本で唯一、姉君の志を継ぐことのできる人物じゃ。姉君より叩き込まれた武と、細川姉妹より授かった智を駆使し、越後公を無事に領国へお帰しもうしあげよ。そのために力を尽くせるのは、今この寺の中でひとり、そなただけなのじゃ」





 頬を紅潮させた惟政が、旅支度をととのえるために急ぎ足で部屋を去ってからしばし。
 覚慶は物問いたげな謙信に向けて口を開いた。
「あの者、姉君の近習のひとりでな。先の乱にてただひとり御所を落ち延び、わらわの下へ逃れてきたのよ。以来、髪をそり落とし、わらわを陰から守ってくれておる。この身を守ることが、亡き主君と朋輩に報いることができる唯一の道である、と申してな」
 その志はありがたく、貴いものだ、と覚慶は云う。
 しかし、先の乱でひとり生き延びてしまったことを悔やんでいる惟政は、乱以後、ほとんど食事も喉を通らぬ有様であった。このままでは覚慶を守るどころか、惟政の方が倒れてしまう。
 そう考えた覚慶は幾度も惟政を休ませようとしたそうだが……


「惟政は大人しげに見えて、案外と強情でな。この一点に関しては、わらわの云うことなぞ聞く耳もたぬ」
 おそらく惟政は、主君を失った悲哀や、ひとり生き残ってしまった悔恨を、覚慶のために懸命に働くことでかろうじて耐えている状態なのだろう。無理やり静養させたりすれば、今よりも状態が悪化しかねない。それこそ、そのまま衰弱死しかねないほどに。


 それを聞いた謙信は覚慶の意図を悟ったように思えた。
「それで、越後へ、ということですか」
「うむ。先にも申したが、そちは姉君の股肱。そちを守ることは、すなわち姉君の志を守ることでもある。此度の乱に巻き込まれたそちを無事に越後へ帰す。その行いに一臂の力を尽くせたとき、はじめて惟政は許されよう。他の誰でもない、惟政自身が御所から逃げ出した自分を許すことができるのじゃ」


 むろん、それだけで惟政を苛む悔恨の念が綺麗さっぱり消えうせるわけではないだろう。
 それでも、このまま自分のもとに留まり、いつ終わるとも知れぬ三好の圧迫に心身をすりへらすよりはよほど良い、と覚慶は云った。
 謙信と同道し、越後への帰国という明確な目的を果たすことの方が、惟政に良い影響を与えるだろう、とも。


「そちも気づいたであろうが、惟政は忍の業を修めておる。体力衰えたりとは申せ、そちの足を引っ張ることはよもあるまい。そちの諒承を得ずに事を決してしまったが、許してくりゃれ」
「許すなどと。今の状況では地理に通じた者は請うても得られぬところ。御身の指図に感謝こそすれ、異存などございません」
 謙信は心からそう返答した。


 ただ、ひとつ不安があるとすれば惟政の体力である。覚慶の言葉を疑うわけではないが、今の惟政に伊賀越えを為すだけの体力が残っているとは考えにくかった。
 おそらく、惟政に訊ねれば大丈夫だというだろう。謙信が命じれば、どんな難路でも迷うことなく付き従ってくれるに違いない。
 しかし、万一惟政が途上で力尽きてしまっては覚慶の意にそわぬことになる。謙信としても惟政のような忠義に篤い人物を失う危険をおかしたくはない。亡き義輝も悲しもう。
 かといって、惟政の体調を気遣って事を決すれば、惟政は自分が迷惑をかけたと思い込むはずだ。そのことがますます惟政を追い詰める結果になるのは目に見えていた。


 やはり、ここは伊賀越えという選択肢そのものを捨てるべきだろう、と謙信は決断する。
 幸い、謙信が伊賀越えの話を口にしたとき、惟政はこの場にいなかった。はじめから近江路を抜けるつもりであったといえば、惟政は何の疑いもなく信じるに違いない。むしろ、そのためにこそ江南生まれの自分が選ばれたのだ、と張り切るかもしれぬ。
 心を読む術でもないかぎり、謙信が惟政の体調を気遣って伊賀越えをとりやめた、などとわかるはずもないのだから……




◆◆




 しばしの時が過ぎ去った。


 すでに室内に謙信の姿はなく、惟政の姿も寺の中から消えている。
 風は先刻よりも強くなっており、カタカタと揺れる襖の音が覚慶の耳朶を不快に揺すぶった。
 だが、覚慶の意識にその音は届いていない。正確にいえば、その音よりもはるかに不快な出来事に意識の大部分を占有されており、他のことを気にしている余裕がなかったのだ。


 覚慶はぽつりと、囁くようにつぶやいた。
「越後の聖将、か。まこと、お日様のような人物であったの。姉君が頼みにしておった理由がようわかる」
 覚慶の視線が先刻まで謙信が座していた空間に向けられる。
 暗がりに身を潜めながら鮮やかな存在感をかもし出していた容色と、その容色さえ霞むほどに真っ直ぐな為人。
 不快になる要素はどこにもない。にも関わらず、その姿を思い浮かべる都度、覚慶は言い知れぬ嫌悪感に全身をわしづかみにされるのを感じていた。
 なぜなのか、その答えをすでに覚慶は自覚している。


 率直にいって、覚慶は度肝を抜かれていたのである。
 まさか謙信が単身で興福寺にやってくるなど想像すらしていなかったから。


 その事実がむしょうに腹立たしい。
 胸中を吹き荒れる苛立ちをしずめるために要した時間は決して短くなかった。
 そのことを相手に悟られたとは思わぬが、違和感の一つや二つは抱かせたかもしれぬ。覚慶にとってはかえすがえすも腹立たしい出来事であった。


「忌々しや、上杉め。先の九国のことといい、まさかわらわのことに気づいておるのかえ?」
 疑念を声に出した覚慶は、しかし、すぐに自身で否定した。
 謙信が覚慶の策動のすべてを承知しているのであれば、とるべき行動はもっと他にあったはず。
 ゆえに、上杉家は覚慶の真意に気づいていない。
 このことに疑いはなかったが、それをおいても近年の上杉家の行動は覚慶にとって目に余った。


 以前より、覚慶は謀略の一環として越後上杉家の排除を目論んでいた。ただし、それを他に優先させるつもりはなかった。そこまで上杉家を特別視してはいなかったのだ。くわえて相手が相手ゆえ、過ぎた策動は姉に気づかれる恐れもあった。
 しかし、その認識は改めるべきかもしれぬ。それも早急に。
 先の九国争乱でうまれた思案は、今回の謙信の行動で確信へと変じた。
 御所を源とした争乱の中、どこかの誰かに討たせよう、などという生温いものでは到底足りない。姉亡き今、その動向に注意を払う手間もない。
 まだ一乗院覚慶が――足利義秋が起つには時期尚早ゆえ、自身で手を下すことはできないが、竜の手足を縛る術などいくらでもある。
 たとえば、傷心の癒えぬ少女のように。



 覚慶は静かに哂う。
 謙信の前では決して見せなかった、ほのぐらい微笑であった。
「久秀の云うがごとく、南蛮の兵を追い返した者がそちの麾下なのだとすれば、この程度の意趣返しは可愛いものであろう、上杉の。なにしろあの一事は、手に届くはずだったわらわの願いをずいぶんと遠ざけてしまったからの――誰ぞある!」
 覚慶の呼びかけに応じて近くにいた小坊主が駆けつけてきた。
「何事ですか、覚慶さま」
「急ぎ藤長と義政、尚誠をこれへ。ただちに使いに発ってもらわねばならぬ」
「は、かしこまりました」
 覚慶が口にしたのは、覚慶子飼いの家臣たちである。
 覚慶は彼らを三つの場所に走らせるつもりだった。


 ひとりは近江との国境付近に布陣している三好三人衆のもとへ。
 ひとりは六角家の本城 観音寺城にいる六角義治のもとへ。
 そして、ひとりは稲葉山城――先ごろ岐阜城と改名した城塞で京を睨む織田信長のもとへ。



 いつの間にか降り出していた雨は、瞬く間に雨脚を強め、境内で雨粒の跳ねる音がうるさいくらいに響いてくる。とこか遠くで轟く音は、山鳴りか、遠雷か。
 口角を吊り上げた覚慶は、愉しげに、歌うようにひとりごちた。
「ふふ、踊れ、踊れ、我が手の上で。きやれ、きやれ、濃尾のうつけ。上杉の、この狂乱の嵐を抜け、ついに越後へたどり着くことができるかの? もしそれを為しえたのなら、認めてやろうぞ、そなたのことを。呼んでやろうぞ、そなたの名を。この日ノ本に光はいらぬ。落とす日輪の数がもう一つ増えるのも、わらわにとっては一興よ」

 



[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/06 22:10

 南近江 観音寺城


「その方ら、上杉の幽閉を解けと申すのか?」
 観音寺城の一画におかれた弓道場、そこで日課の稽古をおこなっていた六角義治は、傍らでひざまずく二人の重臣に冷めた声をかけた。
 ふたりの重臣の名は後藤賢豊(ごとう かたとよ)と進藤賢盛(しんどう かたもり)という。
 いずれも智勇兼備の人物で、政治、軍事、外交といったあらゆる分野で功績を積み上げ、陰に日向に六角家を支えてきた。『六角の両藤』を知らない者は南近江に存在せぬ。まさしく柱石と呼ぶべき宿老たちであった。


 そのふたりが硬い表情であらわれ、つい先ごろ甲賀の地で捕らえた越後の主従を解放せよと訴えている。
 義治は唇を曲げて云った。
「早朝からの登城、何か変事でも出来したかと思えば、そのようなことであったか」
「――失礼ながら、若。そのような、の一言で済ませてよい問題ではございませぬ」
 謹厳な表情で、謹厳な声を紡ぐ賢豊。
 隣の賢盛も、ヒゲ面を困惑に染めながら僚将に同意した。
「後藤どのの申すとおり。庇護を求めてきた相手に一度は諾を与えておきながら、身柄をおさえた後に態度を翻すなど信義にもとること甚だしゅうござる。顔をつぶされた和田家も若の所業を恨みに思いましょう」


「さすがは我が六角の重鎮よ。耳が早い」
 二人の諫言に対し、義治は薄笑いで応じる。
 義治は二人から視線を外し、中断していた稽古に戻る。
 矢を番え、弦を引き、これを射る。一連の動作は流れるように鮮やかで、こと弓術に関するかぎり、賢豊も賢盛も義治に教えられることは何もない。
 六角家は先代当主義賢、その嫡男である現当主義治のいずれも、家臣 吉田重政(日置吉田流弓術の継承者)から弓を習っており、その腕前は並外れたものであった。


 たゆまぬ鍛錬の成果でもあるのだろう、片肌脱ぎの格好で弓を射る義治の身体は均整がとれており、遠くの的を見据える眼差しは猛禽のそれにも似た猛々しさがある。その美々しい姿は、六角家の家臣たちに新たな英主の登場を予感させるに十分なものであった。
 むろん、まだ義治が年若な当主であることも事実。諸事に性急であったり、不備が散見されるのはいたし方ないことであろう。そのあたりを補佐するのが老臣の仕事である、と賢豊たちは心得ていたし、実際、今日まで彼らなりに誠実に若年の主君を補佐してきたのである。
 ――ただ、義治はそういった家臣たちの容喙を好まなかった。



「六角の当主は私だ。私のやることに、いちいちそなたらの許可を得る必要はあるまい?」
 皮肉げなその一言が両藤に対する義治の感情を物語っている。
 賢豊と賢盛は、ひざまずいた格好でちらと目線を交し合った。賢豊が口を開く。
「確かに若は六角の当主にございます。その下知に従うのが我らの務め。ただ願わくば、若の存念をお聞かせいただきたい。六角と上杉の間にはいかなる遺恨もなし。むしろ将軍家に忠なる上杉は、義輝公をお助けしてきた我らと志を同じくする者ではありますまいか。上杉もそう考えればこそ、京より逃れきて我らに助けを求めたと思われます。窮鳥、懐に入りてこれを殺さぬは人の情、武士の仁。今、あえてこれを討つことにいかなる意義がありましょうや」


 賢豊の質問――というより詰問に義治は吐き捨てるように応じた。
「上杉が我らの同志? 賢豊、その方、まだ五十路に達しておらぬはずだが、はや呆けたか。越後などという辺土の守護職、しかも当主の景虎はつい昨日までその上杉の家老ずれに過ぎなかった奴輩だぞ。それがどうして近江源氏の嫡流たる我が六角の同志たりえるのか。血筋、家柄、そして将軍家に対する諸事の貢献。どれをとっても我が家は上杉よりもはるかに優る。くらべものにならぬといってもよい。しかるに、あの公方めは我が家を無視し、上杉ごときを次の管領に擬しおったッ」
 憎々しげな声音には上杉家に対する蔑視と、その上杉家を重んじてきた義輝に向けた軽侮が含まれている。その言葉を聞いた誰もが感じ取れるほど濃厚な感情であった。


 義治の誹謗はなおも続いた。
「そもそも三好によって都から逐われた公方が御所に戻れたのは我らの勲ではないか。我らが江南をしっかと支配し、後ろから公方を支えたればこそ、公方は将軍として都に居続けることができたのだ。それらの功を一顧だにせず、一度や二度上洛したというだけで上杉を登用しようとした公方は、見よ、御所を攻められ無様に果てた」
 あまりといえばあまりの言葉に、賢盛がたまらず口をはさんだ。
「若! お言葉が過ぎまするぞッ!」
 ヒゲを震わせた強い叱責に対し、義治は冷笑で応じた。言葉を改めることなく、さらに先を続ける。
「哀れとは思う。が、助けられなんだと悔やむ気持ちはない。国境に兵を配したのは都の混乱が江南に及ぶのを防ぐためであって、恩知らずの仇を討つためではないのだ。功臣に報いず、賎臣を重用した愚かな将軍が、愚かな最期を遂げた。先の乱はただそれだけのこと。我が家の真価を知るのは味方した将軍より、むしろ敵にまわした三好の方であったよ」


 それを聞いた瞬間、賢豊の目に鋭い光がはしった。
「……若。ただいまのお言葉、どのような意味で仰ったのか?」
「そのままの意味だ。つい先日のこと、三好家から私のもとに使者が来てな。これまでのことは互いにすべて水に流し、今後はともに日ノ本のために力をあわせようではないかと申してまいった。応じてくれたのならば、新たな将軍の下、この身を管領に任ずるという確約と共にな。そのための条件として提示されたのが上杉の身柄だ」
「まさか……受諾なさったのか? 三好家は将軍殿下を弑し奉った大逆の家ですぞ。その三好と組めば、将軍殺しの悪名は六角家にまでふりかかりまする」
 賢豊の言葉に、賢盛もそのとおりだとばかりに力強くうなずいた。
「それよりも、ここは将軍家の仇を討つと称して立ち上がるべきでござろう。三好の内部も相当に混乱しておる様子。将軍の仇を討つという大義の下、敵の混乱をつけば御家の大勝利は間違いなしでござる。三好めを都から逐った後、しかるべき人物を新将軍として擁立して畿内を制する。これがかなえば、六角家の名は将軍家の二なき藩屏として、全国津々浦々にまで轟きわたるでござろう」




 膝を進めた賢盛は熱い声で進言したが、その熱は若き当主の心を溶かすにはいたらなかった。義治は冷めた声で告げる。
「かつて我が父はそなたらの進言に従い、三好と戦って公方をたてた。逆臣に都を逐われた公方を匿い、彼奴らと刃を交えてついには都を取り戻したのだ。で、その結果、どうなった? 打ち勝ったはずの三好家は強大になる一方であり、助けたはずの公方は恩を忘れて賎臣に媚びる有様。実利を得られず、名誉もなく。近年では浅井の小せがれにさえ敗れる始末ではないか。野良田(のらだ)の戦いにはそなたも出ていたはずだな、賢盛? 浅井に勝てぬ程度の兵術で、よくも三好に勝つなどといえるものだ」


 揶揄するようにいわれ、賢盛はぐっと唇を引き結ぶ。 
 義治が口にした野良田の戦いとは、北近江の浅井長政と六角家との間に起きた合戦である。
 戦いが起きた理由はいくつもあるが、要するに六角家の弱体化を見抜いた浅井家が、北近江の支配権を確固たるものにすべく兵を発したのであり、六角家は当時、まだ当主であった義賢みずからが出陣した。この時、義賢に付き従った将の中には、義治がいったように進藤賢盛の名もあった。
 この戦いにおける六角家の作戦は、進藤賢盛と日野城主の蒲生賢秀の両名が主導したものであり、結果はいうまでもなく六角家の敗北であった。



「戦乱の世を卓抜と生き抜いてきたそなたたち宿老の知恵、軽んじるつもりはない。だが、そなたたちの知恵に限界があることは、この一事を見ただけでも明らかなのだ。これより先の六角家は若き知恵、若き力によって進んでいくべきである――そのようにお考えになったからこそ、父上は若輩の私に家督をお譲りになった。ゆえに、私は私がよしと考えた道を、ためらいなく進むであろう」
 迷いのない口調で断言した後、義治はひざまずく賢豊の顔をじっとみつめた。
「賢豊よ、これが私の存念だ。こうして知るにいたったからには、我が下知に従ってくれるのであろうな? それこそ臣たる者の道である、とそなたは先ほど、そなた自身の口で申したのだから」
 賢豊は主君の眼差しを真っ向から受け止めると、真摯な声で応じた。
「は、確かに申し上げました。したが、若。いま少し拙者の話をお聞きいただきたい」
「それがしからもお願いもうしあげる。先の戦での不手際、弁明のしようもございませぬ。若がご不信を抱かれるのも当然でありましょうが、此度の件をしくじれば、先の戦とはくらべものにならぬ不利益が――」


 賢盛も勢い込んで口を動かす。
 しかし、義治はどちらの話も最期まで聞こうとはしなかった。
 先を続けようとする二人に対し、苛立たしげに手を振って憤然と告げる。
「もうよい」
「若、どうか――」
「もうよいと云った!」
 義治は怒りに震える声で重臣ふたりを叱咤する。もはや隠そうとする素振りさせ見せず、義治は両藤を憎々しげに睨みすえた。


「当主の下知に従うのが我らの務め? ふん、おためごかしを。賢豊、それに賢盛もだ。そなたらはな、はじめから私の下知に従うつもりなぞないのだ。そなたらは、ただ当主の下知を、おのれらの都合の良いものに変えることだけを望んでいる。後藤家にとって都合の良いもの、進藤家にとって都合の良いものにな。そうして自分たちの家を肥え太らせ、家人どもに恩を売り、やがては六角家を乗っ取るつもりであろう? 京極を追い落とした浅井のように」
 義治の言葉は明らかに越えてはならない一線を越えていた。
 物に動じない賢豊の表情が強張り、賢盛の顔が紅潮する。
「若! それは……それはあまりといえばあまりなお言葉ですぞ!」
 憤然とした家臣の激語に対し、義治はより強烈な怒声で応じた。
「そう、それよ! その呼び方こそ、そなたらが私を軽んじている何よりの証! いつまで経っても、若、若、若! この身は六角の当主であるぞ! 殿と呼ばぬかッ!!」


 叫ぶと同時に、義治は構えていた弓矢を、的ではなく二人の家臣へと向けた。
 凝然と座り込む両藤に対し、義治は奇妙に平静な声で告げる。
「者ども、出会え」
 その声に応じて、弓道場の入り口から十名近い家臣たちが駆け寄ってくる。いずれも義治の側近であり、後藤家、進藤家の者はいない。
 二人は一報を聞いた段階で急いで登城してきたため、もとより連れて来た家臣はすくない。その家臣たちも、義治の指図でこの場からは遠ざけられていた。


 後藤賢豊と進藤賢盛の名と顔を知らない者は六角家中に存在しない。隠れもない六角家の重臣ふたりが、主君から弓矢を向けられている。その驚愕すべき光景に、だが、駆けつけた家臣たちは誰ひとりとして驚きを示さなかった。
 その平静が、無言が、幾たびも戦場を駆け抜けた宿将たちの背に悪寒をはしらせる。
 ――いや、悪寒、などという不確かなものではない。少なくとも賢豊の方は、この段階で義治の意図を察していた。


 かつては自らの手で襁褓(むつき)をかえたこともある若者に、賢豊は静かに言葉を向ける。
「若……義治さま。これが、あなたさまのやり方でございますか」
「そうだ、これが私のやり方だ。自らの家を太らせることのみを考え、主家に仇なす不忠の臣は、ことごとくこれをうち滅ぼす」
「そのように荒々しき手つきで政事(まつりごと)を行えば、その反動はいずれ必ず御身に返ってきましょうに」
「だからといって手をこまねいていては、どの道、滅亡を待つのみだ」
 そういった義治は、賢豊の顔を見てほんのかすかに憐憫の表情を浮かべた。


 短いためらいの後、義治の口から押し殺した声がこぼれでる。
「賢豊……後藤家は、そなたの存在は、今の六角家には大きすぎる。そなたが家中にあるかぎり、誰も彼もが私ではなくそなたを見る。仮にそなたが隠居したとしてもかわらぬであろう。私が名実ともに六角を背負って立つためには、そなたを除く以外に手がないのだ」
 それを聞いた賢豊は、束の間、天を仰いだ。義治の挙が昨日今日考えたものでないことを理解したのだ。
 現在、六角家の有力者の大半は三好軍に備えて国境に配されている。同時に、危急の際に備えて両藤は観音寺城に詰めているように、という命令を義治はくだしていた。今にして思えば、この配置も計画的なものだったのだろう。
 義治は京の変事を奇貨として重臣たちの粛清に乗り出したのだ。


 賢豊は若き当主の決断に未来の破滅を予感したが、もはや義治の意思を覆すことができないのは火を見るより明らかであった。目を閉ざし、口を一文字に引き結んだ賢豊は、それから後、ついに一言も発することはなかった。
 他方、おさまりがつかないのは賢盛である。
 朋輩と当主の会話で事の次第を悟ったのか、その声は怒りに震えていた。
「若! ここで我らを斬れば、若が家中を統べることは未来永劫かないませぬぞ!」
「それはそなたらを生かしておいたところでかわらぬ。今現在、そうであるように、な」
「……まさか、此度のこと、承禎さま(六角義賢)もご承知のことか」
「然り。もっとも、父上は私がお前たちの命を奪うとまでは思っておらぬ。精々が無礼を咎めて蟄居させ、家督を息子どもに譲らせる――その程度に考えておられるのだろうな」
 義治もその手は考えないでもなかった。だが、そうしたところで、どうせ有象無象の家臣どもが寄り集まって両藤を復権させるに決まっている。以後は今以上に窮屈な政道が待っているだけだろう。


 六角家が戦国大名として自立するためには、これまでのように国内豪族の旗頭という立場ではいけない、と義治は考えていた。他の雄敵と渡り合うため、家中にゆるぎない主権をうちたてておかねば、この先の勢力争いで生き抜くことはできない。
 時間さえあれば、時をかけて有力者たちの勢力をそぎ落としていくこともできる。単純に彼らが死ぬのを待っても良い。義治は彼らより二十以上も若く、当然、彼らは義治よりも二十年以上早く死ぬ。そこから家中の実権を握っていけば血を流す必要もないだろう。
 だが、しかし。
 北近江では浅井家が守護である京極家を追い落とした。
 隣国美濃では油売りから立身した斎藤道三が、これも守護である土岐氏を追い落とし、その道三も尾張斯波家の家老であった織田家によって先ごろ滅ぼされている。同じことが江南の地で起きぬと誰にいえようか。
 そこにきて、二条御所の乱である。
 もはや時代の趨勢は疑いなく乱世に向かって突き進んでいる。
 悠長に構えていられる時間は過ぎ去った。義治が粛清を決断した所以である。








 事が終わった後、義治は側近たちに厳然と命じた。
「手はずどおり、後藤、進藤、両家の屋敷に兵をいれよ。余の者は知らず、息子どもは断じて逃がすな!」
「はッ!」
 数名の家臣が足早に立ち去っていく。それを見送る時間も惜しみ、義治は矢継ぎ早に指示をくだしていった。
「各地の城主に使いを走らせよ。後藤賢豊、進藤賢盛。両名、当主たるこの義治に対して看過しがたき無礼の段、これあり。義治、家法に従ってこれを斬り、もって秩序を遵守せり、とな。とくに蒲生、三雲の両家には私がしたためた書状を必ず届けよ」
 その二家は義治が頼みとする家である。もっとも、今回の件を事前に話せば必ず反対されたであろうから、計画を打ち明けているわけではない。特に蒲生の当主は後藤賢豊と縁が深いため動向には注意を要するが、実直な為人から推しておそらく義治の命令に叛くことはないだろう。
 それに、叛いたら叛いたで計画を前倒しすれば良いだけのことである。多少、無理をすることになるが、義治には成算があった。


「主だった家臣の大半は国境に差し向けている。三好軍と対峙している奴らは身動きがとれぬ。ゆえに刃向かう者がいるとは思われないが、くれぐれも警戒は怠るな」
「はは!」
 命令に応じて側近たちが慌しく動きまわる中、ひとりが義治に問いかけた。
「殿、上杉の処遇はどうなさいますか?」
「上杉?」
 問われた義治は、一瞬、眉根を寄せた。正直なところ、その名は意識の外にあった。
 義治にとって越後の主従は賢盛たちを誘き寄せる餌であった。名高き上杉家の一行を捕らえたときけば、必ず両藤は義治の真意をただすためにやってくるだろう。謙信たちが江南にやってきたことは、有力者粛清の機をうかがっていた義治にとって願ってもない切っ掛けとなったのである。



 そうして事に及んだ義治にとって、すでに謙信たちの役割はほぼ終わっていた。
 賢豊に語った上杉家への軽侮は嘘ではなかったが、肝心の将軍がすでに亡い以上、あとに残るのは管領と銘打たれた空手形のみと思えば憐れみさえおぼえる。どこかに適当に閉じ込めておき、折を見て三好家に引き渡せば良い。その程度に考えていた。
 しかし。


「上杉の当主は姉や一族の長者を退けて越後を統べるにいたった者。従容として殿に進退をあずける潔さは持ち合わせていないと思われます」
「ふむ」
「くわえて、三好の思惑も気にかかりまする」
 義治としては、両藤を除いた混乱を収めるまでは三好家と事を構えたくない。管領職も得られるとなれば、なおさら上杉の引渡しを拒む理由はなかった。
 しかし、引き渡された三好家が、この事実をどう利用するかは気をつけねばならない、と側近は懸念をもらす。


 おそらくではあるが、三好家――もっといえば三好三人衆は、義治を将軍弑逆の共犯者として引きずり込む魂胆があるのではないか。
 義輝の忠臣であった上杉一行を六角家が捕らえた。この事実を利用して、世間に六角の関与を疑わせるのは難しいことではない。それが成功すれば、もはや三人衆と六角家は一蓮托生となり、義治としては自家を守るために今後とも三人衆に協力せざるをえなくなる。孤立を深めつつある三人衆にとっては願ってもないことだ。
 最悪の場合、向こうはすべての責任を六角家になすりつけてくるかもしれない。


 むろん、こちらはそれを否定することができる。しかし、将軍の忠臣を捕らえたという事実が喧伝されればどうなるか。
 将軍弑逆に関わってはいない。けれども、将軍の忠臣は弑逆者に引き渡した。
 この義治の行動は、世間の者の目にはいかにも胡乱に映ってしまうことだろう。




 この側近の意見は、義治にも首肯することができた。
「なるほどな……」
 粛清に関して悪名をかぶるのは覚悟している。しかし、自分で企んだわけでもない将軍弑逆の片棒を担がされるのはごめんであった。ましてすべての責任をおしつけられるかもしれぬとあらば、再考の余地はある。
「――いっそ、斬ってからどこぞに埋めるか。あとくされのないように」
 義治の目に危険な光がよぎる。
 ひとたび約を違えて捕らえた以上、上杉側の義治に対する心象は最悪であろう。ここで解き放っても害こそあれ益はない。これから家中の統制に専念したい義治としては、面倒ごとの種は早めに処理しておきたいところだった。


「それがよろしいかと存じます。故意に情報を流した両藤をのぞけば、上杉主従を幽閉したことを知る者はごくわずか。向後、彼奴らの行方については知らぬ存ぜぬで押し通すことができるでしょう」
「よし、三雲城の成持(しげもち 三雲城城主 三雲成持)に伝えよ。それと、まさか邪魔されることはあるまいが、すべてはひそやかに、かつ迅速にとりおこなうよう命じておけ」
「御意」
 側近はうやうやしく頭を垂れる。


 これよりしばらく後、観音寺城から南に向かって早馬が放たれた。



◆◆



 南近江 日野城


 六角家中において、主家を支える藩屏と目されていた後藤賢豊と進藤賢盛の両名が、当主 義治の手で無礼討ちに遭った。
 その知らせは江南の地を疾風となって駆け巡った。
 わけても観音寺城の南の守りである日野の地にはもっとも早く知らせが届けられていた。日野城をおさめる蒲生賢秀(がもう かたひで)が、いわゆる六家老と呼ばれる大身の重臣であることが理由であったが、もうひとつ、賢秀の奥方が後藤賢豊の妹だったからでもある。
 賢秀は主君によって義理の兄を討たれたのだ。


 日野城奥座敷では、当主の賢秀と、賢秀の父である蒲生定秀(さだひで)が眉間に深いしわを刻んで善後策を講じていた。
 定秀は六角家の先々代当主 定頼、先代当主 義賢と二代にわたって六角家に仕え、重臣中の重臣として家中で重きをなしていた。現在では家督を息子に譲って楽隠居の身であるが、蒲生家中はもとより六角家中においてもその影響力はまだまだ大きい。
 それでなくても、今回の一件は六角、蒲生の両家にとって御家の一大事となりかねぬ。というより、すでになっている。隠居の身だからとて傍観しているわけにはいかなかったのである。


「――では、まことに若殿は賢豊と賢盛を手討ちにしたのだな? 間違いないのか」
「はい」
 いまだに信じられぬ、といいたげな定秀に対して、賢秀はうなだれるように首を縦に振った。
「仔細を伝えてきた殿の書状は直筆、また観音寺に走らせた使いの者も先刻戻ってまいりました。謀反人として晒されていた首級は、間違いなく義兄と進藤どののものであったそうです」
「……なんという」
 父と子は互いに目を見交わし、そこに自分と同じものを見出して暗然となった。
 義治は無礼討ちと主張しているが、蒲生という名家をみずからの手で差配してきた二人にとって、主君の内心はあまりにも明白であった。


「父上、これはどうあってもこのままで収まる事態ではございません」
「当然じゃ。若殿は御家を支える双璧を、みずからの手で叩き割ったのだぞ。賢豊も賢盛も良き臣下であると同時に人望厚き当主でもあった。慕う者、頼りにする者は無数といってよい。これより家中を襲う騒擾は、疑いなく御家を揺るがすものになるじゃろう」
 父の言葉に賢秀は力なくうなずいた。
 兄の死を知った賢秀の妻は床に伏しており、事態を知った家臣たちの動揺をおさえるのも簡単ではない。後藤家の縁戚であり、進藤家とも深いつながりを持つ賢秀のもとには、すでに両家からの使者もやってきていた。
 内に外に積み重なった難問の山は、働き盛りの賢秀を憔悴させるに十分なものであった。


 さらに別の問題もある。
「今のところ、殿はこれ以上粛清を続けるご様子はありません。しかし――」
「うむ……この先どうなるかはわからぬな。蒲生家もまた江南の雄。両藤を目障りと思うた若殿が、蒲生のみを見逃す理由はない。いや、自身の手で書状を送ってきたくらいなのだ、おそらく若殿は蒲生家、というよりおぬしのことは信頼していよう、賢秀。だが、それがいつまで続くかは誰にもわからん。それに、仮に若殿がそなたへの信を見せ続けたとしても、それはそれで問題じゃ。蒲生家が若殿をそそのかして事におよんだのだ、などと言い立てる輩があらわれるかもしれんからの。わしにせよ、そなたにせよ、味方は多いが、敵も多いでな」
 戦国の世で大家を維持しようとすれば、望むと望まざるとに関わらず決断を下さねばならない時は多い。結果、他者の恨みを買うこともまた。


 盲目的に主君に従うことはできぬ。反六角家、反義治の旗手になることもできぬ。かといって両者に近い蒲生家が中立を保つことはほぼ不可能。
 どれだけ考えても八方ふさがり、そのくせ対応を誤れば蒲生家が滅びることだけは間違いないときている。
 定秀と賢秀は深刻な顔で眉間をもみほぐす。先刻からずきずきと響く頭の痛みは、どれだけ時間が経っても一向におさまらず、それどころか強く、激しくなりつつあった。




 と、その時だった。
 とたとた、という軽い足音と共に、室内に澄んだ声音が飛び込んできた。
「とと様、じじ様!」
 跳ねるような足取りで現れたのは、今年十歳になったばかりの賢秀の娘 鶴姫である。
 にこやかにほほえむ孫の顔を見たとたん、それまで暗い面持ちで思案にふけっていた定秀の渋面が、瞬く間に好々爺のそれに変じた。
「おお、鶴ではないか! こちらにまいれ」
「はい!」
 固く凝った部屋の空気を蹴飛ばすように軽快に祖父に駆け寄った鶴姫は、そのまま祖父の胸に飛び込んでいく。
 老いてなお頑強な身体でがっしりとその身体を受け止めた定秀は、孫の頭をなでながら大きな声で笑った。
「ふはは、鶴は今日も元気じゃのう」
「はい、鶴は元気です、じじ様!」


 目の前で繰り広げられる父と娘の交歓を、賢秀は苦笑まじりに眺めていた。定秀が子煩悩ならぬ孫煩悩であるのは今にはじまった話ではない。定秀は鶴姫の器量を常々ほめたたえており、孫の将来が楽しみだといった類の言葉を日に三度は口にする。
 鶴姫の器量に期待しているのは定秀ばかりではなかった。亡くなった後藤賢豊なども「蒲生の鶴どのは鳳の雛よ」と方々で称賛してまわっており、姪に会うたびに目を細め、猫かわいがりしていたものだった。


 娘の将来に期待するという点で賢秀は祖父たちに劣らない。ただ周囲の大人が甘やかしてばかりでは、まだ小さな跡取りの心に驕りを芽生えさせてしまうかもしれぬ、と危惧していた。
 ゆえに賢秀自身はなるべく娘に対して厳しく接するように心がけている。鶴姫はそんな父親に反発を示すことなく、そのいうことを良く聞き、決して家臣たちに傲慢に振舞うことはせず、身分の低い者たちにもわけへだてなく声をかけた。そんな素直でよくできた娘から「とと様、とと様」と慕われているのだ。賢秀の「厳しさ」も推して知るべし、ではあった。


 しばし後、定秀から離れた娘に賢秀が問いを向ける。
「鶴、そなた、かか様のもとにいたのではなかったか?」
「はい、かか様のお部屋でお話の相手をつとめておりました。さきほどかか様がお眠りになられたので、お邪魔にならないようにこちらへ参った次第です」
 ちょこんと姿勢ただしく座った鶴姫が、父の問いにはきはきと答える。
 賢秀は思わず緩みそうになる頬をなんとかおさえながら、やや厳しい声を出した。
「そうか。だが、今、父はじじ様と大事な話をしておる。そなたはさがっていよ。こんぺいとうといったか、そなたの好きな南蛮菓子をもって後で部屋に参ろうほどにな」
 その言葉を聞いた鶴姫は一瞬目を輝かせたが、すぐにそんな自分を恥じるようにぐっと唇を引き結ぶと、真剣な表情で口を開いた。


「とと様」
「む、どうした?」
「後藤のおじ様のこと、鶴も耳にいたしました。口はばったい申しようではありますが、今は御家の一大事、ではないでしょうか。鶴は蒲生家の跡取りとして、わずかなりと、とと様とじじ様のお力になりたく存じます」
 思わぬ娘からの申し出に賢秀は目を丸くする。
 一瞬、戯言を口にするな、と叱りつけるべきかと考えた。が、鶴姫は真剣そのものといった様子で父親の顔を見つめている。少なくとも増長や戯れで口にした言葉ではないようだ。


 これが単純な政務の話であれば、賢秀は特に迷うこともなくうなずいたであろう。
 だが、今回の一件は鶴姫にとって主君が実の叔父を斬り捨てたというものだ。十歳の娘にとって、いかにも酷である。
 娘の心を傷つけないよう、賢秀はなるべく穏やかな口調で再度部屋に戻るようにと云おうとしたが、ここで定秀が孫に賛同した。
「よいではないか、賢秀」
「父上? しかし……」
 定秀は目を細めながら鶴姫を見やる。
「蒲生の跡取りが、御家の一大事に自分も役に立ちたいと望む。何もおかしなことではない。わしとそなたが渋面をつきあわせても良き思案は浮かばなんだ。であれば、若き鳳の考えを聞くのもまた一案よ」


 何も鶴姫の考えを蒲生家の決定とするわけではない、と定秀は云う。
 おそらく定秀は強張った思考を解きほぐす切っ掛けを欲しているのだろう。そう思い至った賢秀は、仕方ないと肩をすくめつつ、鶴姫にこの場に残るよう言い渡す。
 それを聞いた鶴姫は目を輝かせて礼を云った。
「ありがとうございます、とと様! じじ様!」
「その代わり、この場にいるかぎりそなたを子供扱いはせぬぞ。蒲生の跡取りとして、一個の武士として己の考えを練り、しっかりと口にせよ。浅き思慮で発した弱き言葉は、誰の耳にも届きはせぬ」
「はい、心得ました!」



 かくて再開された祖父、父、娘の話し合いは定秀と賢秀の状況整理からはじまった。これは鶴姫に事態の詳細を伝えることにもなる。
 鶴姫は伯父である賢豊はもちろん、進藤賢盛とも面識がある。当然、当主の義治にも。どの人も、程度の差はあれ、鶴姫に優しく接してくれた。戦に出た知人が戻らなかった経験はあっても、知人が知人を手にかけるという経験ははじめてのこと。鶴姫は膝の上で震える拳をぎゅっと握り締め、その衝撃に耐えている様子だった。
 だが、話が終わる頃には手の震えもおさまったようで、その顔にはきわめて真剣な表情が浮かんでいた。


 定秀は孫に向かって静かに問いかけた。
「鶴よ、そなたであればこの状況、どう動く?」
「鶴なら……」
 鶴姫はそこで言葉を切った。祖父と父が様子をうかがう中、言葉を続けようとはしない。
 当然といえば当然の反応だった。わずか十歳の少女にすぐさま打開の案が思いうかぶはずもない。少々せかしすぎたかと考えた定秀が口を開こうとした、その寸前だった。


「鶴なら、今この時を転機とみなします」


 定秀が賢秀を、賢秀が定秀を、それぞれうかがった。
 二人は視線の先に自分と同じ戸惑いを見出し、相手が自分と同じ心持ちであることを知る。
 二人は「殿さまを諌める」ないし「両藤をなだめる」といった具体的な対策が出るかもしれぬ、とは考えていた。
 だが、今回の件を転機とみなす、とはどういうことか。苦し紛れに吐き出した妄言とは思えないのだが……


 賢秀がやんわりと問いかける。
「鶴。転機、とは何を指して申しておる?」
「蒲生の御家が、新たな道に踏み出す時。そういう意味で申し上げました」
 返って来た答えはいささかのためらいも揺らぎもないものだった。
 明哲な思慮の下に発された、明晰な言語。
 思わず孫の、娘の顔を見直した定秀と賢秀を前に、鶴姫はゆっくりと自分の考えをつまびらかにしていった……

 



◆◆





「うゆー、疲れたよぉ……」
 部屋に戻ってくるや、そういってだらしなく倒れこんだ鶴姫を見て、傍仕えの三雲賢春は思わず眉根を寄せてしまった。
 しかし、すぐにその顔は気遣わしげなものになる。
 普段であれば、だらしがないですよ、と注意の一つもするところなのだが、今の鶴姫が文字通りの意味で疲れ果てていることを賢春はよく承知していた。
 鶴姫の頭の下に柔らかい布枕をあてがうと、そっと問いかける。


「父君とご隠居さまはなんと仰せでした?」
「じじ様はなんか大笑いしてたよ。とと様には、猫をかぶっておったなって小突かれた……うう、別に猫をかぶってたわけじゃないのに」
 横になったまま、すねたように膝を抱える鶴姫を見て、賢春はくすりと笑った。
「ええ、そうですね。姫さまはただ、もう少しの間、とと様とじじ様に甘えていたかっただけですもの。猫をかぶっていたわけではございません」
「その言い方だと、なんかすっごい子供みたいだよ、わたし」
「世間一般では、元服も髪結いもしていない甘えん坊の童を、子供、というのですよ」


 それを聞いた鶴姫は唇をとがらせた。
「佐助だってついこの前までわたしと一緒だったくせに。自分は一足先に成人して、賢春なんて名前をもらったからって、大人ぶっちゃって」
「大人ぶっているのではなく、大人になったのです。そこが姫さまとの違いですね」
 澄まして云う賢春を見て、鶴姫はぶすっとむくれる。
 とはいえ、賢春は鶴姫より五歳以上は年上であり(正確に何歳上なのかは鶴姫もよく知らない)、本来ならとうに成人していてもおかしくないのである。
 そうならなかったのは、賢春の父であり、三雲家の先代当主であった賢持の戦死に端を発する三雲家の内紛のせいであった。


 ――賢春にとって忌まわしい出来事を、あえてここで口にする理由はない。
 鶴姫は表情をあらため、囁くような声で傍仕えの女忍びに問いかけた。
「何か新しい動きはあった?」
「おおきな変化は特に。気になるのは、六角の殿が捕らえた上杉どのの処遇をお変えになったことです」
「解き放つ気になったのなら嬉しいんだけど……そうじゃないよね、きっと」
「はい。手の者の知らせでは、上杉どのを幽閉した寺の警備がきわめて厳重になった、と。どうやら密かに討つおつもりのようですね」


 それを聞いた鶴姫は、がばっと勢いよく身を起こした。あまりに勢いがつきすぎて、あやうく賢春のあごを突き上げるところだった。もちろん賢春は余裕をもって身を避けたが。
「ああ、もう! ほんっと、観音寺の殿様はこらえ性がないんだから! いくら紐が絡まって困ったからって、なんでもかんでも斬って捨てれば良いってものじゃないでしょ!」
 両手をあげてそう叫んだ後、鶴姫は力なくうなだれた。
「目の前の難問に腰を据えてとりかかる根気がないからこそ、殿様は後藤のおじ様や進藤様を手にかけられた。わかってはいるんだけど……」
「云わずにおれないお気持ちはよくわかります」
「……ありがと。でも、いつまでも愚痴を吐いてはいられないよね。このままじゃ、江南は内乱で乱れに乱れた挙句、四方の勢力に攻め込まれてむちゃくちゃになっちゃう。打てる手はぜんぶ打っておかないと」



 そのための許可はすでに父親からもらっている。
 鶴姫の大きな目に眩めくような智略の光が躍った。
「蒲生の御家は秀郷卿以来の江南の名家。理を知り、義を知り、情を知る、江南鎮撫の要なり。六角なくとも蒲生があれば、江南乱れることはなし――この言葉を名実共に備えたものにするために、わたしたちは行動する。謙信公は助ける。両藤の名跡も断たせはしない」
 いわゆる六家老と呼ばれる六角家の重臣たち。後藤、進藤、平井、目加田、三雲、そして蒲生。
 義治はそのうちの二家、後藤家と進藤家を取り潰そうとしている。さらに平井と目加田の両家を国境に張り付け、三好軍と対峙させて身動きが取れないようにした。
 一方で、蒲生と三雲の両家にはいかなる画策もしていない。おそらく、義治はこのニ家は自分に従うと判断したのだろう。蒲生賢秀、三雲成持、いずれも穏健派であり、義治にも忠実であった。


 見方をかえれば、義治はこのニ家に叛かれるときわめて困難な立場に立たされるということである。六角家のみの力で六家老を制することができるのなら、義治ははじめから六家老すべてを葬るべく策動したであろうから。
 ゆえに、蒲生家が強要すれば、両藤の跡取りたちに名跡を継がせることは可能であろう。むろん、そんな手段にでれば義治が心穏やかでいられるはずもなく、蒲生家と六角家の間に大きく深い溝が刻まれる。
 だが、それで良い。
 鶴姫が父と祖父の前で口にした転機とは、すなわち蒲生家が六角家の下から離れる時を意味していた。


「どの道、後藤のおじ様を斬ってしまった時点で六角家は長くない。瀬田の西から、琵琶湖の北から、稲葉の山の頂きから。江南めがけて押し寄せる敵勢に、君臣の心そろわぬ六角軍が勝利を得られる道理がない。わたしたちはきっと負ける。けれど、江南を劫略させたりなんて決してしない。治めることは許しても、奪うことは許さない。その覚悟と意志を突きつけて、わたしはあなたたちの足を縫いとめる」
 幼い瞳に苛烈な炎を燃やし、蒲生鶴は公然と宣言する。
 今はこの地にいない、けれどやがてやってくる、彼方の侵略者たちに向けて。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/11 20:07

 山城国 伏見の陣


「では、友通(ともみち 岩成友通)、そなたはこのまま六角軍を突き崩すべきというのか?」
「はい、日向守さま(三好長逸の官職)」
 六角軍の侵入に備えるため、伏見に本陣を置いた三好軍。
 その本陣の最奥、総指揮官である三好長逸(みよし ながやす)の陣幕では、今、長逸の他、岩成友通と三好政康のいわゆる三好三人衆が集い、今後の対策を協議していた。


 この場で唯一の女性である岩成友通は、額にかかる黒髪をわずらわしげに払いのけ、長逸を説き伏せるべくさらに言葉を重ねる。
 三人衆という呼び名こそあるものの、伏見に布陣した三好軍三千の指揮官は長逸である。友通の判断で動かせる兵力は、自家の手勢を含めて精々四百といったところ。
 今という時が今後の三好家、さらに自分たち三人衆の浮沈の境目だと認識している友通は、是が非でも長逸を口説き落とさねばならなかった。


「報告によれば、六角の陣中にただならぬ動揺が見えるとのこと。おそらく彼らの後方で看過できぬ異変が起きたと思われます」
「看過できぬ異変」
 長逸は白眉を寄せて考え込んだ。
「具体的に何が起きたかはまだわからぬのか?」
「は。細作は放っておりますが、未だ正確なところはつかめておりません。ですが、敵軍に退き色が見えているのは、私がこの目で確かめてまいりました。六角軍を叩く、またとない好機であると考えます」
 友通の主張を聞き、長逸は目を閉ざして黙考する。


 長逸は三好一族の重鎮として、長らく主君 長慶を支えてきた歴戦の武将である。畿内各地を転戦して奮迅の働きを為す一方で、外交や内政でも大きな功績をあげている。
 長年にわたって三好家の勢力拡大に力を尽くしてきた長逸に対する長慶の信頼は厚く、長逸は一族中の最長老として遇されてきた。
 もっとも、最長老といっても長逸は五十路をわずかに越えた程度。髪も眉もヒゲも見事に白く染まっているが、まだ老け込むような年齢ではなく、長逸自身にも隠居の意思はなかった。


 二条御所襲撃以後、自分たちと三好宗家の間に隙が生じていることは長逸も重々承知している。
 考え込む長逸を見て、友通はもどかしげに決断をうながした。
「日向守さま!」
「はやるな、友通。六角義治どのはこちらからの申し出に諾を伝えてきたのだろう? むろん、あちらなりの思惑あってのことだろうが、こちらから一方的に攻めかかれば全てが水泡に帰す。好んで選択肢を減らす必要はあるまい」
「悠長に構えている時間が我らにあるとお思いですか!?」
 友通は気色ばんで長逸に詰め寄った。


 と、ここでそれまで黙っていた三人目の人物が口を開く。
「おお、怖い、怖い。そうも猛々しく吠え立てては可愛い顔が台無しだぞ、友通」
「下野どの(下野守 三好政康の官職)は黙っていていただきたい!」
 友通がキッと睨みすえると、三好政康は大げさに身をすくめてみせた。


 三人衆の役割を端的に記すなら、将が長逸、智が友通、そして武が政康である。
 刀剣をこよなく愛する政康は名刀の収集家として知られており、同時にその扱いにも習熟していた。
 多くの戦場で愛刀に血を吸わせ、その武勲をもって三人衆の一角に名を連ねる政康の武勇。
 同じ三人衆である友通は、政康の力量を幾度も目の当たりにしており、その武勇のほどは十分に認めている――が、それと政康個人の為人を認めることは別の話であった。


 三好家の一族である長逸や政康と異なり、友通は一介の浪人から成り上がった。
 長慶に仕えて文武に功績を重ね、ついには三人衆のひとりにまで上り詰めた友通は、その過程において「女」を武器にしたことは一度もなく、またそのことを誇りともしてきた。
 似た境遇である松永久秀に対し、友通が反感を禁じえない理由はそのあたりにもあったりするのだが、それはさておき、そうした物堅い性格の友通にとって、何かといえば「可愛い」だの「綺麗」だのといった言葉を向けてくる政康の軽薄な言動は、苛立ちこそすれ親愛を覚えるものではありえなかった。
 まして暇さえあれば刀剣の手入れをし、気味の悪い笑みをもらしているような人物にどうして心を許すことができるのか。


 ただ政康はそういった友通の反応を楽しんでいる節もあり、具体的な行動に出ようとしたことは今まで一度もない。
 政康がからかい、友通が怒り、長逸がなだめる、というのは三人衆の軍議において毎回のように発生する一幕であり、この時も同様であった。
「政康、控えよ」
「承知です、伯父御(おじご)」
 長逸の言葉に政康が恐縮の態で頭をかいた。この二人、正確には伯父甥の間柄ではなく、もうすこし複雑な関係なのだが、政康は面倒だからと色々すっとばして長逸を伯父御と呼び、長逸の方もその呼び方を受け容れていた。




「友通、続けよ」
 促された友通は、政康に強烈な一瞥を叩きつけてから、あらためて口を開いた。
「長慶さまや義賢さまが我らを京から出したことに厄介払いの意図があったことは明白です。本願寺軍が淡路に動いたことで、今の三好軍はただでさえ余裕がなく、このまま滞陣を続けても援軍が来ることはないでしょう。そして、その事実は遠からず六角軍に掴まれます。その時、六角義治がどう動くかは火を見るより明らかではありますまいか」
 おそらく、それこそが長慶たちの狙いであろう、と友通は推測している。そのことを思い、もう何度目のことか、友通の胸奥に鈍い痛みが走った。


 実のところ、友通は将軍暗殺に関しては長慶の理解が得られるものと考えていた。
 むろん、三人衆の行動をおおやけに賞賛することはないだろう。しかし、今の三好家にとって足利義輝の存在は百害あって一利もない。そのことは先の武田、上杉軍の上洛や、その上杉への管領待遇の授与等、これまでの義輝の策動を見れば誰の目にも明らかである。
 ゆえに義輝を排除することは三好家にとって必要不可欠な行動であるはずだった。今回の一件、友通にしてみれば主家のためにすすんで泥をかぶったようなものなのである。


 最悪の場合、友通はすべての罪を背負って腹を切ることさえ考えていた。
 ただ、仮に切腹が命じられるとしても、その前に長慶から何か一言があるだろう、と期待していた。友通は長慶の傍仕えから立身した身であり、主君の性格は理解している。少なくとも友通は理解しているつもりだった。
 長慶さまならば自分の真意を理解してくださるだろう。自分を死なせるにしても、その前に手向けの一言を下さるだろうし、死後も一族が立ち行くようはからってくれるに違いない、と。




 だが、そういったものは何一つなく、三人衆は三好義賢から冷然と国境への出陣を命じられ、半ば追い立てられるように都から追い出された。
 六角軍はおよそ七千。その大軍を前に三人衆に与えられた兵力はわずか三千、しかもろくな後詰もない。そのことを知った友通ははじめ唖然とし、次に憤然とし、最後に疑念を覚えた。
 長慶や義賢が友通の真意を理解してくれなかったのは、彼らの近くに友通の行動を歪んで伝えた者がいたからではないか。
 友通の脳裏に真っ先に浮かんだのは、意味ありげに微笑む松永久秀の顔である。実際、久秀は御所の乱の後、義賢ら一族と共に長慶の諮問に応じ、義賢に続いて入京もしている。
 確証はない。だが状況証拠としては十分であった。


 前述したように、友通は久秀同様に無名の身から成り上がった人間である。
 後ろ盾となる実家の存在がない友通にとって、信頼と権限を与えて自分を引き立ててくれた長慶は今なお尊敬と忠誠の対象であり、三好家のために尽力する決意にかわりはない。
 だが、久秀は違う。
 同じように三好家に引き立てられた身であっても、久秀の内心に主家への忠誠などあるものか。このままでは友通も長逸も政康も死に、三人衆を失った三好家は大きく力を損なってしまう。
 久秀にとっては三好家をのっとる絶好の機会が到来することになる。そうなれば長慶の身も無事では済まないだろう。



 そうはさせぬ、と友通は決意していた。
 今は一時的に長慶の意に背くことになっても生き延びなければならない。生き延びて時節を待ち、いずれ長慶の誤解を解いた上で松永久秀を三好家から放逐するのだ。
 単純に生き延びるだけなら、今すぐ陣を捨てていずこかへ逃亡すれば良いのだが、それでは反攻に転じる力も失ってしまう。
 そこで友通が目をつけたのが江南の地であった。
 江南の土地は肥えており、都に近い琵琶湖の水運を握ることの意義ははかりしれない。京に近いことから、朝廷を利用して名分を手に入れることもできるだろう。また、南部に広がる険峻な甲賀の山並みは、軍事的に見てもきわめて有用であった。


 かつて六角家にくみし、時の足利将軍がみずから率いた大軍を撃退してのけた剛強の民こそ甲賀の民。
 甲賀地方の諸家は独立性が強く、支配するにはいささか難儀をする相手だが、だからこそ味方につけることができれば頼もしい。
 彼らの力をもってすれば久秀を放逐することもたやすい――とは云わないまでも、十分に可能である。それが友通の結論であった。




「今しがた申し上げましたように、六角家の内部で何が起きたのかは掴めておりません。ですが、推測できることはあります」
「その推測とは?」
「義治が当主としての実権を握るため、重臣の排除に踏み切ったと思われるのです」
 六角義治に管領職をちらつかせ、味方に引き込もうと画策したのは友通である。
 義治を唆すことはさして難しいことではなかった。父親から家督を譲られて間もない若き当主が、家中ではばをきかせる先代からの重臣に対して思うことなど一つしかない。
 管領職は義治の父 義賢はもちろん、祖父の定頼さえ就くことのできなかった尊貴の地位。その管領に任じられれば家臣たちが義治を見る目も一変する上、口うるさい重臣たちを黙らせることもかなうだろう――そんな友通の言辞に、案の定、義治は乗ってきた。


 ただこの時、友通はあることが気になった。
 相手の返答があまりに早かったのである。三好家と六角家はこれまで幾度も矛を交えてきた間柄であり、先ごろ三好家が将軍弑逆を実行に移したのは周知の事実である。いかに管領職をちらつかせたとはいえ、義治が宿敵ともいえる三好家と手を組む決意をするまで相応の時間がかかるだろう、と友通は読んでいた。
 それが実際には、渡りに船とばかりに速やかに応じてきた。その態度は、友通が唆す以前から何事か企んでいた者のそれである。


 友通は考え、そして結論を出した。
 おそらく義治はこちらの申し出以前から重臣たちの排除を目論んでいたのだろう。相手がそういう人物であれば、今後こちらの望むとおりに踊ってくれるとは限らない。三人衆が三好家内部で孤立している確証を掴めば、あっさりと掌を翻し、三人の首を討って長慶ないし久秀に差し出すかもしれぬ。
 であれば。
 ここで一気に六角家を押しつぶし、江南を三好の版図に加えてしまえばよい。
 義治が重臣たちの貶降をはじめれば六角家が混乱するのは必至である。豪族たちの中には三人衆に従う者も出てくるだろう。
 結果として三人衆は六角義治を謀ることになるが、今は手段を選んでいる時間がなかった。あの久秀が邪魔者を国境に追いやって、それでよしとするはずがない。必ずや次の手をうってくるに違いなく、それまでに今の状況を打破しておかねばならないのである。



 友通は自らの考えをよどみなく述べ立てていく。
 長逸は、そして政康もこの時ばかりは真剣な表情で考えに沈んだ。
 やがて長逸が右手で顎をさすりながら口を開く。
「友通の言、一理あるとは思う。どのみち、ここで滞陣を続ける意義は薄い。兵たちも不安を感じ始めているしな。だが、義治どのが重臣の排除に動いたという確証がない今、うかつに動くことはできぬ。もしこれが敵の罠であった場合、我らは倍近い数の敵軍に突撃することになるからだ」
「それはそれで面白そうではありますがね」
 長逸の言葉を聞いた政康は、薄笑いを浮かべて腰の刀の柄頭を優しく撫でた。
 見るからに威を感じさせるその刀の銘は三日月宗近。
 天下五剣の一にして、足利義輝のお気に入りであった名刀である。義輝を討った後、政康は御所の財宝には見向きもせずに名刀、宝剣の類をかきあつめ、己の収集物に加えていた。
 中でも三日月宗近をもっとも気に入った政康は、こうして常に腰に差して歩いているのである。


 ふふ、とも、ひひ、とも聞き取れる政康の薄笑いを耳にして、友通の顔が厭わしげにしかめられた。
 しかし、今は政康の相手をしている暇はない。友通は彼の言葉は聞かなかったことにして長逸に進言した。
「では、六角の陣中に噂を流しましょう。三好軍は間もなく京へ退く、と。実際に陣払いもいたします。六角の動揺が偽りであれば、彼奴らはえたりとばかりに追撃してまいりましょう。しかし、彼奴らの混乱が本物であれば、こちらの退却を奇貨として兵を退くに相違ありません。そこを追撃すれば勝利は疑いありませぬ」
 眼前に広げられた地図の上、瀬田と記された地点を友通は指差した。
「そうして一息に瀬田の唐橋を奪ってしまえば、向後、六角軍が山城に侵攻する経路の一つを塞ぐことができます。三好家にとってはめでたき仕儀と申せましょう」


 逆に、久秀やその手勢が三人衆の後背をつこうとしても、侵攻路を一箇所に限定することができる利点が生じる。橋上の戦いであれば多少の兵力差は気にせずにすむので、これを退けることは難しくないだろう。
「長慶さまも義賢さまも、私たちに兵を動かすなとはお命じになっておりません。六角領に踏み入ることは、主家の意に逆らうことにはならぬと心得ます」
「なるほど。瀬田を奪うことは三好家のためでもあり、また我らの身を守ることにもつながるというわけか。その先、さらに江南に踏み入るか否かを決めるのは、六角家の動静を見極めてからでも遅くはない」
「は、そのとおりです」
 友通が長逸に頭を下げる。


 と、政康が揶揄するように口を挟んできた。
「で、お前のことだ、友通。どうせもう手は打っているんだろう? さきほど自分の目で六角軍の様子を確かめてきたと云っていたし、その時にでも、な」
「……否定はしない。下野どのは動くことに反対か? このまま留まっていては、最悪の場合、我らは主家に兵を向けられることになるが」
「俺は伯父御に従うが、俺個人としてはお前に反対するつもりはないな。ただそれは主家に兵を向けられたくないからではない。なにしろ、俺は長慶さまにふた親を殺された身だ。長慶さまに兵を向けられたとしても、ああ、またか、てなものよ。この宗近に昨日までの味方の血を吸わせるも一興だ」


 友通の眉が急角度につりあがった。
「聞き捨てならないな。私は長慶さまに刃向かうつもりはないし、長慶さまに刃向かう者に容赦するつもりもないぞ」
「落ち着けって。別に長慶さまに逆らうつもりはない。子供だった俺を救っていただいただけでなく、三好一族として手厚く遇していただいた恩は忘れられないさ。ま、長慶さまが兵を向けてきた場合、おとなしく討たれて差し上げるほどしおらしく振舞うつもりもないが、それはその時のこと。今はただ、伯父御の指揮とお前の策に従って、六角兵を切りまくってやるだけだ」
「……相変わらず、下野どのは何を考えているかよくわからない」
「はっは、この俺に面と向かってそう云うのはお前くらいのもんだ。それも実に嫌そうな顔でな。いや、愉快愉快」
 なにやら楽しげに笑い始めた政康を見て、友通は話にならんと会話を切り上げた。
 そして、再度、決断を促すために長逸を見る。
 長逸はなおもしばらく考えていたが、どのみち、このまま六角軍とにらみ合っているわけにはいかない。誘いの手をかけてみるのも一案であろう、と友通の策を承認したのである。




 ――かくて、六角、三好両軍の間で起こった戦いは、後に「瀬田川の合戦」あるいは「唐橋夜戦」と称される。
 この一連の戦いは『合戦』と銘打たれてはいたものの、実質的には観音寺騒動(義治が両藤を討った事件)で動揺する六角軍を、三好三人衆が一方的に叩きのめすものとなった。
 三好軍 岩成友通の計略にはまった六角軍は、三好軍の撤退を幸いとして退却を決断したものの、その軍列が瀬田川へ差し掛かるころ、急追してきた敵軍に後背から痛撃を喰らう。
 時刻は夜半。予期せぬ奇襲を受けた七千の六角軍は、襲撃した側の三人衆が驚くほどにあっけなく解体された。もとより主君の凶行で士気が尽きかけていた六角軍には、反撃する力も意思も持ちようがなかったのである。
 彼らに出来たのは散り散りになって戦場を落ち延び、せめて命だけでもまっとうすること、ただそれだけであった。


 この快勝に三好軍はおおいにわきたった。六角軍ほどではなかったにせよ、士気という点では三好軍も決して良い状態とはいえなかったのだ。それが、わずか三千の兵で七千の六角軍を大破するというたぐいまれな大勝利を得たのである。武士はもちろん、雑兵ひとりひとりにいたるまでが勝利を喜び、おおいに士気を高めた。
 この勢いを三人衆は無駄にしなかった。
 瀬田の唐橋を渡るや勝勢に乗って六角軍 山岡景隆のたてこもる瀬田城を攻囲、これを数日で陥落させる。


 この時点で三好軍には観音寺騒動の詳細が伝わっていた。
 岩成友通は江南の騒擾に乗じてさらなる侵攻を進言し、長逸の同意を得る。友通の作戦指揮のもと、三好政康は麾下の手勢を率いて北東へ進軍、近江 青地城を急襲する。
 青地城は江南の要地に位置し、北上すれば永原城、長光寺城に至り、その先に六角家の本拠地たる観音寺城がある。また、東を見れば水口城、三雲城に通じており、西から甲賀に兵をいれるのに適した地勢であった。
 城周辺は江南でも肥沃な地として知られており、地理的に東海道と東山道が接する重要な土地でもある。
 つまるところ、青地城は江南を制するためにはどうしても落としておきたい城なのである。


 青地城を守る武将の名は青地茂綱(あおち しげつな)。
 六角家中において猛将との呼び声高く、一方で内政にも堅実な手腕を有し、今日まで大過なく青地城を守ってきた。
 この茂綱、もともとは他家の人間であった。子に恵まれなかった先代当主が、茂綱の資質を見込んで是非にと頼み込み、養子にもらいうけたのである。
 茂綱の以前の姓を蒲生という。
 蒲生家先代当主 定秀の息子であり、現当主である賢秀の弟。蒲生家の鶴姫にとっては、まさに実の叔父にあたる人物であった。




◆◆◆



 南近江 日野城


「はや青地まで迫りおるか、三好めが!」
 青地城からの急使によって三好軍の怒涛の侵攻を知った定秀は、苦々しげに言い捨てた。
 その声音には不甲斐ない自軍への失望も含まれている。自軍の半分以下の敵勢に痛破された挙句、江南の奥深くまで敵に踏み込まれた。それだけでも憤懣やるかたないというのに、その相手がよりによって三好軍である。六角家に従って幾度も三好軍と刃を交えてきた定秀にとって面白かろうはずがなかった。


 定秀と向き合って座っている賢秀も、内心は父と似たようなものである。しかし、今は三好家への嫌悪をあらわすより先に実行しなければならないことがあった。
「父上、今は取り急ぎ茂綱――青地どののもとに援軍を遣わさなくては。義兄と進藤どのを討って間もないところに此度の敗戦です、観音寺城はおそらく上を下への大騒ぎでしょう。とうてい援軍を遣わす余裕はありますまい」
「むろんだ。茂綱もそれを予測したからこそ、こうして我らに使者を差し向けたのであろう。したが、今から百や二百の手勢を送ったところで焼け石に水。青地城を救うためには相応の数の兵を差し向けねばならん」
 定秀は眉間に深いしわを刻んだ。


 現在の江南の情勢で、後藤家と縁戚である蒲生家が大々的に兵を募った場合、どのような誤解をうけるかは火を見るより明らかである。ゆえに義治に事の次第を報告し、募兵と援軍派遣の許可を得ておく必要があった。
 だが、今すぐ急使を出したとしても、義治がただちに許可を出すとは考えにくい。状況が状況なだけに、義治は蒲生家に兵を動かす許しを与えることをためらうだろう。
 即日の許可を得られたとしても、今の三好軍の勢いを考えれば、青地城を救えるかは五分と五分。まして義治が逡巡してしまえば勝算はかぎりなく低くなる。


 定秀にせよ、賢秀にせよ、身内可愛さだけで援軍を急いでいるわけではなかった。青地城の軍事的、経済的な価値を思えば、あの城を三好軍に奪われることの不利益は言をまたない。ヘタをすると、一気に観音寺城まで敵に押し込まれるかもしれぬ。
 常であればともかく、今の六角家では反撃もままならない。くわえて、敵は三好家だけではない。江北の浅井家がいつなんどき動くか分からないのだ。この戦況で北から浅井軍に攻め込まれれば、もはや勝ち目はないに等しかった。



「とと様、じじ様」
 この時、鶴姫が口を開いた。
 渋面で考え込む父と祖父に落ち着いた声で呼びかけると、鶴姫は眼前の難問を解く案を口にする。
「鶴が観音寺のお殿さまを説きまする」
 その案に賢秀の眉がはねあがった。先日の一件以来、賢秀は尋常ならざる娘の才を認めており、だからこそ、こうして当たり前のように鶴姫に席を与えている。
 しかし、何から何まで娘を一人前扱いするつもりはなかった。賢秀の顔を見れば「今の観音寺城に幼い娘を遣わすなんてとんでもない」とでかでかと明記されていた。


「鶴、そなたの才は私もじじ様も認めるところだ。だが、そなたがまだ十の童であることも事実。他者がそなたの言葉を聞いても、子供がさかしらにさえずっているとしか思わぬであろう。まして今の殿は不機嫌きわまる心持ちであられよう。そこに蒲生家が童を使者として遣わしてみよ。侮られた、とお考えになるは必定。それは誰にとっても良い結果をもたらさぬ」
 その賢秀の言葉に対し、鶴姫はきっぱりと首を横に振った。
「大丈夫です、とと様。お殿さまは私を怒ったりいたしません。それどころか、きっと喜んで迎えてくれます。だって、蒲生家が期待の嫡子を人質に差し出して、自分に――お殿さまに従うって宣言してくれるのですから」


「……むむ」
「……ほう、なるほど」
 賢秀が眉をひそめ、定秀が納得したように大きくうなずいた。
「鶴はまだ十。童であるのは間違いない。だが、童であるからこそ、若殿はそこに別の意味を見出すか。嫡子を人質にあずけた蒲生家が裏切るとは若殿も思うまい。兵を動かす許可もいただけよう」
「はい、じじ様。それに鶴が観音寺に入れば、こたびの騒動で混乱する国人たちを驚かせることもできます。あの蒲生家が人質を差し出したのか、と。これはお殿さまにとって幾重にも利用できることだと思います」


 鶴姫は、なおも迷っている様子の賢秀にさらに云った。
「とと様、今は御家存亡の時。鶴も一臂の力を尽くしたく思います。鶴だけでは兵を募るのも難儀しますし、兵の先頭に立って青地の叔父さまを助けることもかないません。このお城に残っても、何の役にも立てないです。でも、観音寺城にいけば、鶴も御家の役に立つことができるのです。適材適所は当主の基本と教えてくださったのはとと様ですよね?」
「む、それはそのとおりだが……」
 娘におされっぱなしの賢秀は、なんと答えたものかと口を濁す。


 ここで鶴姫が眉を曇らせた。
「お身体の具合が良くないかか様に、これ以上のご心労を重ねてしまうのは申し訳なく思うのですけど……」
「それよな。そなたの近くに賢春がいてくれれば、まだ私もかか様も安心できるのだが。賢春が三雲に向かったのがつい先日。さすがにまだ戻ってはおらぬだろう?」
「はい。たぶんまだしばらくは戻れないと思います」
「あちらもあちらで放っておけることではないからな。賢春にとっては生まれ育った地だ、うまくやってくれるだろうが、さすがに今日明日ですべて片付けるというわけにはいくまい」
 そう云うと、賢秀は観念したように小さく息を吐いた。
 今この時も青地城は陥落の危機に瀕している。いつまでも逡巡しているわけにはいかないのだ。


 賢秀は定秀をかえりみた。
「父上、よろしいですか?」
「蒲生の当主はそなただ。そなたが決したことに反対するつもりはない。鶴を観音寺に遣わすとして、兵を募るのはそなたがやればよかろう」
「は。兵を整えましたら青地城に向かいますゆえ、父上には城の留守居をお願いしたく――」
 その言葉は定秀の豪快な笑い声によってかきけされた。
「はっは、何を云うか、賢秀。幼い孫が一命を賭して御家のために働かんとしているのに、わしがのんべんだらりと城に残っていていいはずがあろうか? 否、断じて否! わしはこれよりただちに戦支度をし、今、動けるだけの兵を引き連れてすぐに茂綱のもとへ向かうぞッ!」
「は!?」
 賢秀が驚愕のあまり、ぽかんと口を開けば。
「え、え? じじ様、それは無茶ですッ」
 祖父の予期せぬ決意に、鶴姫も慌てて口をはさんできた。


 しかし、可愛い孫の言葉も、この時ばかりは定秀の意思を覆すにはいたらない。
「成算あってのことよ、二人とも心配いたすな」
「父上、それは無理と申すもの! さきほど、百や二百の手勢を送っても焼け石に水と仰ったのは父上でありましょうに!」
「それは後詰がなければの話よ。そなたという援軍が後に続くこと、わしが先駆けとなって茂綱に伝えれば、苦戦にあえぐ青地の兵も奮い立とうぞ」
「じじ様、それはそのとおりと心得ますが、何もじじ様が先駆けをつとめる必要はないではありませんか。家臣の中からしかるべき者を選べば良いと思います!」
「鶴よ、それではじじの出番がなくなってしまう。往古、漢の馬援将軍は齢六十にして甲冑をまとい、叛乱軍を討ったという。わしはまだ六十になっておらぬ。つまり、何の問題もないということよ。此度の戦で、蒲生定秀、未だ衰えずということを江南全土に知らしめてくれよう!!」


 がははと高笑いする定秀を見て、賢秀と鶴姫はそっと目線を交わし、それぞれの顔に諦念を見出してがっくりとうなだれた。
 普段は隠居の身であることをわきまえ、諸事に自重している定秀であったが、どうやら孫娘の才気と覚悟に触発されてしまったらしい。老将の気炎は容易に鎮まりそうにない。
 今回の一件、鶴姫にとって誤算はいくつも存在したが、これもまた誤算に加えなければならない出来事であったかもしれない。




 そして。
 鶴姫は知る由もなかったが、同じころ、姫の腹心である賢春もまた想定外の事態に直面し、困惑を隠せずにいた。
 もう少し正確に云えば――困惑を隠せずにいたところに予期せぬ襲撃を受け、命の危険に晒されていた。
 



◆◆◆




 南近江 三雲城外


 三雲成持の本拠地である三雲城は、険しい地勢の上に築かれた典型的な山城である。
 多くの山城がそうであるように、三雲城は攻めるに難く守るに易い城であり、兵を向けるのはもちろん間諜や細作の類が近づくのも容易ではない。
 三雲城で生まれ育った賢春は当然のようにそのことを承知していた。もし成持が越後の一行を城内に幽閉していたならば、これを救い出すことは困難を極めただろう。


 一方で、賢春は別のことも知っていた。
 何を知っていたかといえば、現在の当主である三雲成持の細心さである。
 謙信ほど勇猛をうたわれる武将を城内に入れれば、どんな反撃を受けるかわかったものではない。そんな危険をあの叔父が甘受するとは思えなかった。
 おそらく幽閉場所は城外にある。そう考えた賢春は、鶴姫から上杉主従の居場所を掴むよう命じられた際、配下に幾つかの地名を告げ、その周囲を重点的に捜索するように指示した。いずれも城から離れ、かつ人がよりつかない地域であった。


 ほどなくして、野洲川上流の廃寺に不審な将兵の姿を確認した、との報告が届けられる。状況から判断して、そこが幽閉場所であることはほぼ間違いなかった。
「叔父上は相変わらずのようです」
 賢春の言葉には、かつて追放同然に城を逐われたことへの恨みはほとんど含まれていない。
 叔父に城を逐われたからこそ忍びの師と出会うことができた。そして、忍びの技があるからこそ、こうして鶴姫の役に立つことができる。そう思えば、叔父に感謝してもいいくらい……
「いえ、やっぱり感謝までは無理ですね」
 聖人ならざる身、まったく恨みがないわけではないのである。



 日野城を出た賢春はそんなことを考えながら件の廃寺へと急いだ。上杉主従を助けるのは鶴姫の基本方針であり、賢春は見張りを任せた配下に対し、三雲家の兵が動いたならばこれを食い止めるように、と指示を出している。
 しかし、賢春配下の忍びの数は決して多くない。今の賢春は鶴姫の傍仕えであり、これと見込んだ者たちを鶴姫に推挙して、彼らを鍛えて鶴姫直属の諜報網を築き上げてきた。自然、その規模は鶴姫の懐でまかなえる範囲に限定されてしまうのである。
 もっとも、賢春自身も当主の賢秀から蒲生姓を授けられ、鶴姫の腹心として厚く遇されている身である。したがって、正確には鶴姫と賢春の懐でまかなえる範囲、というべきかもしれない。
 いずれにせよ、鶴姫直属の諜報部隊は数も質も賢春が満足するには程遠く、賢春抜きで三雲家の行動を阻むのは難しいだろう。賢春としては、成持ないし義治が決断する前に目的地に駆けつけておきたかった。




「…………と、思っていたのですが」
 実際に駆けつけてみて、賢春はめずらしく困惑を隠せずにいた。
 木々に隠れて様子をうかがう賢春の視線の先、そこでは報告にあった目的の寺が綺麗さっぱり燃え落ちていたのである。
 焼け跡の周囲では三雲家の兵とおぼしき者たちが忙しげに立ち働いている。時折、怒声らしきものが響いてくるあたり、殺気立っていると云いかえてもよい。


 賢春の到着前に何かが起きたのは確かである。
 賢春にとって最悪なのは、はや三雲家の兵が動き、上杉家の一行が処断されてしまったという結末だった。
 しかし、それにしては兵たちの様子がおかしい。死傷者が多く、生き残っている者も苛立ちをあらわにしており、目的を果たした軍にはとうてい見えない。それらのことから、おそらく最悪の事態にはいたっていない、と賢春は判断した。
 というより、まさかこれは――


「逆に三雲家の側が包囲を斬り破られたのかもしれませんね」
 賢春は視界に映る光景からそんな推測を導いた。
 配下の忍びがいればもっと詳しい情報を得ることができる。そう考えた賢春は符丁に定めていた鳥の鳴き声を発しようとする。彼らが近くにいれば、すぐにこの場に駆けつけてくれるだろう。
 そうして賢春が息を吸い込み、吐き出そうとした、その直前。



「もし、そこの方」
 害意などかけらも感じさせない朗らかな声をかけられ、賢春は目を瞠る。
 つとめて何気ない風を装って振り返ると、少し離れた場所に、腰に刀を差したひとりの女性が立っていた。見事な黒髪を結い上げたその女性は、にこやかに微笑みながら賢春の方を見つめている。
「少々お訊ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
 女性はそう云うと、ゆっくりと賢春に向かって歩み寄ってきた。一歩一歩、地面を踏みしめるようなしっかりとした足の運び。足音をひそめる意図など微塵もないその歩き方は、忍びや細作のものではありえない。


 同時にタダ者でもありえなかった。
 女性はたしかに足音をひそめようとはしていない。にも関わらず足音がほとんどしないのは、それだけ足運びに無駄がないからだろう。ある程度離れていたとはいえ、自分がこの相手の気配に気づかなかった理由を賢春は悟ったように思った。
 まるで山に慣れた猟師のように、まったく体勢を崩すことなく近づいてくる女性を見て、賢春の胸奥で警戒心の水位が急激にあがっていく。
 賢春は以前、山中で野生の熊と対峙したことがある。状況はだいぶ違うが、今感じている圧迫感は、どこかあの時の熊に似ていた。




 ――抜く手も見せずに閃いた相手の一刀。
 まだ間合いに入っていなかったはずのその一閃を避けることができたのは、ひとえに日頃の修練の賜物であった。
 賢春に攻撃を避けられた女性は、予想どおりといいたげにくすりと微笑む。
「今の一刀を避ける。やはりタダ者ではありませんでしたね」
 あなたに云われたくない。賢春はそう思ったが、口にはしなかった。
 今、目の当たりにした斬撃の冴え。猿(ましら)の如しとうたわれた師から「猿飛」の名を受け継いだ賢春をもってしても、容易に避けられぬと思い知らされた。


 どうしてこれほどの剣客がこんな辺鄙な山の中をうろついているのか。
 そんな賢春の疑問を読み取ったわけでもないだろうが、女性はあいかわらず朗らかな声で云った。
「江南守護 六角家中の方と見受けました。この地で何が起きているかを知りたく思いますので、ぜひとも同道してくださいな」
「……人に物を訊ねるに、刃をもって斬りかかる。そのような相手に、誰が従うというのです」
「保護を求めた相手に対し、約を違えて虜囚とし、有無をいわさず斬り捨てんとする。そんな主君を愚とするならば、それを諌めぬ家臣は卑。性根の貧しい主従にはいかにも似合いの対応だと自負しています」


 云い終えた瞬間、相手の笑みの質が変化した。これまでとて決して友好を示すものではなかったが、今はそこに確かな威が感じられる。
「せっかく見つけた手づるです。精々役に立ってもらいます」
 言葉と共に剣気が研ぎ澄まされていく。女性がその気になったことを悟った賢春であったが、反対に賢春の胸中にはわずかなためらいが生まれていた。
 今しがたの台詞が気になったのだ。


「もしかして、上杉家中の方ですか?」
「いかにも――といえば少々気が早いですが。しかし、ここでその言葉が出るということは、やはりそういうことですよね」
 確認の言葉は相手に最後の確信を与えてしまったらしい。
 八相に似た独特の構えをとった相手が短く名乗った。


「丸目長恵、参る」


 次の瞬間、鈍色に輝く刀身が賢春の眼前に迫っていた。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/16 22:28

 昼夜兼行した三雲賢春が、上杉主従が幽閉されていた廃寺までたどり着いたのは夜が明けて間もない頃であった。
 早朝の澄んだ空気の中、朝日に照らされて青々と映える山並みは、人界の騒擾など知らぬといいたげな森厳さに満ちている。聞こえてくるのは野鳥の声と、朝風にそよぐ草木の音。時折、落ち葉が小さな音をたてるのは小動物がその上を駆け抜けたせいだろう。
 穏やかな光景だった。
 何の目的もない旅路であれば、賢春は気楽な散策を楽しんだかもしれない。蒲生家に降りかかる危難を思い、気の休まる暇のなかった賢春にとって、山林の爽やかな空気は一服の清涼剤となりえたから。
 むろん、実際には鶴姫から託された任務の途中であるため、のんびり散策している時間はない。人の形をした猛威に晒されている今は、なおのことそうであった。




 木々の狭間から降り注ぐ陽光が、迫り来る刀身に反射して賢春の視界を眩く染める。
 すでに小刀を抜き放っていた賢春はこれを受け流そうと動きかけたが、寸前、うなじのあたりに灼かれるような熱を感じ、ほとんど反射的にその場から飛びすさった。
 直後、眼前を通り過ぎた袈裟懸けの斬撃を目の当たりにして、賢春は自分が髪の毛一筋もないわずかな差で死の顎を逃れたことを悟る。先の一刀など比較にもならぬ、速く、鋭い剛撃。うかつに刃をあわせていれば、砕かれるか、弾かれるか、いずれにせよ一刀の下に斬り落とされていたに違いない。
 目の前にいる女性――丸目長恵と名乗った人物の、おそらくは本気の一太刀であった。


 会心の一刀をかわされた長恵であったが、そのまま体勢を崩すような無様を晒すことはない。それどころか、その剣先は魔法のように翻り、再度賢春に向けて襲いかかってきた。
 逆袈裟の返し刃を、賢春は今度も避ける。
 並の相手なら小刀ひとつでいかようにもいなせる自信がある賢春だが、この相手にその戦い方は通じないだろう。
 彼我の力量の差をさしているのではない。「いなす」などという中途半端な対応をとれば、相手の気迫に遅れをとってしまう、という意味である。
 戦うにせよ、退くにせよ、それこそ全身全霊を傾ける覚悟で行わねば、この相手とまともにやりあうことはできない。それが賢春の判断だった。


 先の言動から察するに、おそらく長恵は上杉家の家臣か、それに近しい者だろう。少なくとも三雲成持や六角義治の息がかかった者ではない。
 賢春の側には相手と話し合う余地が残っている。しかし、相手にその気がないことは今の攻撃で十二分に理解させられた。話を聞かせろという物言いであったが、どうみても本気で斬りにきている。
 人を斬りたいがために目的を忘れる人物なのか。
 それとも、本気でかからねば賢春を取り押さえることはできないと判断してのことなのか。
 賢春にも忍びとしての矜持がある。先の短いやりとりで自分の実力を見透かされたとは思いたくないのだが……



 そうしている間にも、三度、斬撃が賢春を襲う。
 今度はかわしきれなかった。相手の剣先に捉えられた髪が一房、宙を舞う。山裾を吹き降ろす朝風が己の髪を微塵に散らした瞬間、賢春の意識がすっと冷えた。
 ――変化といえば、ただそれだけ。外面は一瞬前の賢春と何一つかわらない。
 それでも長恵が何かを感じ取るには十分であったらしい。
 前に、前にと出ていた長恵の足がぴたりと止まり、反対に賢春の足がはじめて前に出る。


 賢春が握っている小刀は長恵の刀と比べて刀身が短く、そのぶん切れ味も劣る。この小刀で相手の死命を制しようとするならば、長恵よりも深く踏み込み、長恵よりも鋭く刀を振り抜かなければならない。
 狭い室内の戦いでもないかぎり賢春の不利は明白であった。そして、ここは山の中。木立を利して立ち回ることは可能だが、そのためには一度相手と距離を置かねばならない。長恵の踏み込みの速さ、鋭さはさきほど目の当たりにしたばかり。安易に後退すれば、その瞬間、ばっさりと斬り落とされることは明白であった。
 ゆえに、賢春は前に出た。
 流れるような連撃の狭間、長恵の呼気が途切れるその瞬間をねらって。


 力強い踏み込みの音はしなかった。その必要もなく、賢春の細い身体は長恵の懐深くにはいりこんでいる。
 唸りをあげて刃が振るわれたわけではなかった。その必要もなく、賢春の小刀は長恵の喉を切り裂くことができる。
 長恵の斬撃が烈風ならば、賢春のそれは微風に等しく、その攻撃に特徴があるとすれば、そらおそろしいまでに正確であったこと。あまりに正確すぎて、長恵はぱっくりと喉を切り裂かれた数瞬後の自分の姿を幻視した。


 刀を戻している時間はない、そう判断した長恵は先刻の賢春と同じように後方へ飛びすさる。が、一度接近した有利を簡単に手放すほど賢春も甘くなかった。というより、ここで再び距離を置かれては元の木阿弥である。長恵ほどの手練相手に距離を詰められる機会はそうそう来ない。冷徹な斬撃を繰り出しながら、賢春も必死であったのだ。
 後から思えば、相手の後退にあわせて自分も退いて距離をとり、木立に隠れて仕切りなおすという手段もあった。いちど身を隠した後、相手にこちらの事情を説明することもできただろう。
 しかし、この時の賢春は忍びとして眼前の脅威の排除を最優先に考えていた。そうしなければ、たちまち相手に斬り倒されてしまう。そのことが嫌というほど理解できていたからである。



 朝靄けぶる山中に、刀身と刀身がぶつかりあう鈍い金属音が木霊する。
 するすると、蛇のように喉もとに迫る刃を長恵が弾き返した音だ。しかし、無理な体勢で繰り出した刃は賢春の攻勢を止めるには至らず、短い刀身が再び長恵を襲う。
 激しさなどない、いっそ穏やかと表現したくなるような柔の斬撃。しかし、その一つ一つは確実に長恵の急所を狙っており、長恵は攻めよりも守りに注力することを余儀なくされる。
 相手の攻撃の合間に反撃を繰り出してはいるものの、距離を狭められた今、長い刀はかえって威力を発揮できない。しばしの間、あたりには剣戟の音と二人の短い呼気、そして先ほどよりも激しさを増した足捌きの音だけが響いていた。




 根くらべの様相を呈しはじめたかに思われるせめぎ合い、はじめに焦れたのは長恵の方であった。
 斬れども斬れども一向に当たらず、払えども払えども戯れるようにまとわりついてくる相手の戦い方は、長恵を心底うんざりさせていたのだ。
 まるで霞(かすみ)を相手にしているようで、これほどなよなよとした(と長恵は感じた)攻撃ははじめてだが、この手の戦い方をする相手には覚えがある。
「これだから忍びは好きになれません!」
 相手の攻撃がかつてないほど間近に迫る。長恵はほんのわずかに首を傾け、相手に空を斬らせた。刀身と皮膚の間には薄紙一枚も入らなかっただろう、それほど危険な見切りであった。
 長恵の右の前髪が一房、ばっさりと切り落とされる。委細かまわず長恵は一喝と共に反撃を繰り出した。得意の袈裟斬りではなく、上半身をひねるようにして右から左へ振るった、横一文字のなぎ払い。
 決着を狙ったというより、まとわりつく相手を引き剥がすための一刀であった。


 この長恵の狙いは功を奏する。
 よけきれないと判断した賢春はやむなく後方へ下がり、両者は再び距離を置いて向かい合った。
 無言で対峙する二人。遠くから聞こえてくる野鳥の声を間奏として、両者は再度の激突に備えて得物を構える。
 先に動こうとしたのは長恵であった。距離を置けば、有利になるのは長い得物を持つ方である。それでなくとも忍び相手に時間と余裕を与えれば何をしてくるかわかったものではない。
 一方、賢春は賢春で長恵に対して似たようなことを感じており、相手に主導権を与えてはならじと、こちらも前に進み出る。




 そうして、二人がそれぞれに押し出ようとした、その時だった。
「双方、そこまで」
 低く静かな声音が二人の動きを縫いとめる。声の主は二人が対峙しているすぐ近く、木立の合間から姿を見せた。
 長恵と同様、刀を腰に差したその女性は、腰まで届く長い黒髪の持ち主だった。激しい動きをした際、髪が乱れるのを嫌ってか、髪の先端を白絹で簡単に束ねている。
 その姿を見た長恵の顔に「あら」という表情が浮かびあがった。
 対する賢春は表情こそ動かさなかったものの、内心では驚きを隠せずにいた。先に長恵の気配に気づかなかった時、二人の間にはそれなりに距離が開いていた。しかし、この相手は長恵の時よりもずっと近い場所にあらわれた。
 一足一刀の間合いとまではいかないが、長恵の初撃を鑑みれば、相手にとってそれに近い距離だろうと推測できる。


 その推測は戦慄を伴って賢春の胸に響いた。
 長恵との戦闘に意識を傾けていたのは確かだが、武器を持った相手にこれほど近づかれるとは不覚以外の何物でもない。
 しかも、長恵の表情を見るかぎり、どうやら向こうの新手であるらしい。長恵一人の相手さえ難儀している状況で、長恵と同じか、それ以上の力量の持ち主を相手にするのは、いかに賢春でも不可能であった。
 自分に出来ることと出来ないことを徹底的に峻別することは、忍びにとって最低限の心得である。
 ここは逃げる以外にない、と賢春は即断した。


 が、新たにあらわれた女性は、ここでも賢春の機先を制した。
「逃げようとすれば斬ります」
 気負いのない言葉は、それを可能とする確かな実力に裏打ちされたものだった。相手の視線、構えから否応なしにそのことを悟らされた賢春は、一瞬の半分にも満たない葛藤の末、小刀の構えを解く。
 諦めたわけではない。向こうの目的が賢春の命にあるのなら、有無を云わせず斬りかかって来るだけで良い。そうしないということは、話を訊きたいという意思のあらわれだろう。それは賢春にとっても望むところであった。


 そんな賢春の挙動を見た長恵は、こちらはまだ警戒を残しつつも、かすかに肩の力を抜いて息を吐く。そして、少しばかり不服げに口を開いた。
「お師様、美味しいところだけを持っていくのはいただけません」
「たやすい相手ではないことは、あなたの方が良くわかっているでしょう、長恵。血気に逸る今のあなたでは返り討ちにあっても不思議ではない。見物しているわけにはいかなかったのです」
 思いのほか厳しい語調で返され、長恵は虚をつかれた様子で口を噤んだ。
「……血気に逸っていた、でしょうか? そんなつもりはなかったのですが」
「筑前どのに重任を託され、勇んで来てみれば目的の方は行方知れず。このままでは何の顔(かんばせ)あって筑前どののもとへ帰れようか――そう考えているのではありませんか」
「むぐ……」



 何やら言葉を交し合う二人の様子を、賢春は興味深げに観察する。
 今の短い会話で分かることなどたかが知れているが、この状況ではわずかでもいいので情報が欲しい。
 新たに現れた女性と長恵が師弟の関係にあること。
 長恵が好戦的に見えた理由のひとつは、主命を果たせない焦りにあったらしいこと。
 その主命はおそらく上杉家主従の解放であること。
 長恵にその命令を下したのが「筑前どの」と呼ばれる人物であること。
 そういったことを賢春は脳裏に刻んでいく。
 上杉謙信、丸目長恵、筑前どの、そしておそらくは長恵以上の腕前を持つ、剣聖級の女性剣士。
 鍵となる言葉を連ねていった賢春は、奇妙にひっかかるものを覚えた。


 江南の地で生まれ育った賢春であるが、鶴姫の腹心として諸国の動静には常に気を配っている。
 当然、上杉謙信の名は知っていた。丸目長恵という名も、あらためて記憶をさぐってみれば思い至るのはそう難しいことではない。
 もし、今しがた刃を交えた人物が本当にあの丸目長恵であるなら、その師にあたる人物も賢春は知っている。
 であれば、筑前どのというのは――


 賢春の思考を中断させたのは、件の女性の名乗りであった。
「遅ればせながら。私は越後上杉家家臣 上泉秀綱といいます。我が主君と朋輩が六角家の虜囚となりしことを聞きつけ、この地に馳せつけた次第。不躾で申し訳ないが、あなたの知る限りのことを話していただきたい」
 そういって賢春の目をじっと見つめる秀綱に、賢春を威迫する意図は感じられない。それでも賢春は、相手の眼差しを真っ向から受け止めるために全身の力を振り絞らなければならなかった。
 長恵を諌めた秀綱が、その実、長恵と同じ程度に焦慮をおぼえていることを賢春は悟る。


 焦りは隙になる。それはどんな剣術の達人であれ変わらない。
 付け入るべきだ、という考えは当然のように思い浮かんだ。話をするにしても、主導権を相手に握られている状態と、そうでない状態ではその後の両者の関係に少なからぬ影響を及ぼす。
 鶴姫が上杉主従を助けるのは蒲生家を江南の雄たらしめるためであって、上杉家に臣従したいわけではない。賢春が不覚を晒せば、上杉主従は蒲生家を低く見るようになるかもしれない。蒲生家が上杉家の頤使に甘んじるつもりだ、などと勘違いされるわけにはいかないのである。


 そう思う一方で、賢春の中には異なる考えも存在した。ここで自分が相手の隙に乗じるようなまねをすれば、それはそれで両家の関係に禍根を残すことになるかもしれない、と。
 侮らず、侮られず、というのは存外難しい。
 そんなことを頭の隅で考えつつ、賢春はゆっくりと口を開いた。




◆◆◆




 南近江 観音寺城


 六角家の先代当主 義賢は、嫡子の義治に家督を譲った際、剃髪して承禎と号した。
 承禎は三好家との争いでは政戦両面にわたって押され気味であったが、都を追放された足利義輝の帰京を成功させるなど功績も多い。弓馬の達人でもあり、それぞれに一流を継ぎ、あるいは興すほどの技量を有していた。
 浅井家との間で起きた野良田の戦いで敗れた後、衰えつつある家運の挽回を義治に託して身を退いたが、楽隠居を決め込めるほど江南の情勢は穏やかではなく、特に義治が重臣である後藤賢豊、進藤賢盛の両者を討ってからというもの、承禎の眉間に刻まれた深いしわが消えることはなかった。


「三好が瀬田の橋を渡ったか。厄介なことになったのう、義治」
 禿頭の赤ら顔を渋面で歪めた承禎が重い声を発した。その視線は向かい合う息子の目をしっかと見据えている。
「どうするつもりだ、これから?」
 応じる義治の顔には奇妙な落ち着きがあった。
「確かに理想的な展開とは申せませぬ。したが父上、こたびの瀬田の敗戦、それほど気にかける必要はありますまい」


 承禎は眉をひそめた。
「どういうことか。七千の軍が、わずか三千の敵に打ち破られた。瀬田城も落とされ、敵はなおも領内深く攻め入ろうとしておる。これに手立てなしでは済まされぬぞ」
「瀬田で敗れた兵の大半は両藤のともがら。表では六角家に忠義を誓っていても、裏にまわれば自家の利益しか考えない者どもです。彼奴らが幾百、幾千討たれようと、我が家にとっては痛くもかゆくもございません」
 その言葉を聞き、承禎は深いため息を吐いた。
「国人衆が自家の利益を第一とするのは当然のこと。それをわきまえた上で利を、あるいは理を示して彼らを巧みに使いこなす。それこそ当主の役割ではないのか」
「父上、率直に申し上げますが、お古い。そのように生温い手法で、生き馬の目を抜く乱世にどうして家を保てましょうや。隣国の京極、土岐の末路を想起してくださいますよう」


 江北の京極家、美濃の土岐家、いずれも下層から隆起した勢力に取って代わられた家である。
 彼らの轍を踏まないためにも、有力な国人衆は早めに潰しておかねばならない。自らの手で――時には敵の手を使ってでも。
 その義治の考えに理がないわけではない、と承禎は思う。承禎とて意にそわない国人衆を取り潰した経験はあるのだ。ゆえに息子の考えを全否定するつもりはないが、それをふまえても義治の手法は性急にすぎる。
 承禎としては危惧を口に出さざるをえなかった。


「自らに従う家のみを残し、他を切り捨てるか。したが、切り捨てられた者たちは地に溶けて消えるわけではないぞ。彼らは主家に切り捨てられたとわかれば、三好なり浅井なりについて反攻してくるであろう。求めて敵をつくることの愚かさ、理解できぬそなたではあるまいが」
「だからといって、いつまでも家臣どもの機嫌をとっていては、どのみち六角家は行き詰まります」
 そこまでいって義治は立ち上がった。このまま父と言葉を交わしていても堂々巡りになるだけで、なんら建設的な答えは出てこない。そう判断したのである。


「待て、義治。まだ話は終わっておらん」
「父上、すでに賽は投げられたのです。繰り言を重ねても時は戻りますまい。それに――」
「それに、なんじゃ?」
「このような時だからこそ、敵味方の区別がつきやすくもあるのです。先日、日野の蒲生が嫡子を人質に寄越して参りました。それを聞きつけて、三雲と山中も人質を差し出してきたのです。その他にも同様の動きを見せている者は少なくありません。それがしは彼らを束ね、新しい、強い六角家をつくりあげましょうぞ。どうか安堵なさって、それがしの進む様をご覧くださいますよう」
 そう云うと、義治は父の返答を待たずに一礼して踵を返す、
 承禎は口を開きかけたが、何を云うべきかがわからず、結局、無言で息子の背を見送るしかなかった。






 自室へ戻る途中、義治は小声で呟く。
「――いちいち父上をなだめるのは手間だが、私が父上を無視して事を進めていると思われるのも厄介だからな。誰ぞ父上によからぬ言を吐く者が出てくる恐れもある。面倒でも続けていくしかないだろう」
 そういって自分を納得させる義治の顔には、わずかながら「貴重な時間を浪費した」という焦りが見てとれた。
 現在の義治は、承禎と相対していた時に装っていたほど余裕に満ちているわけではない。
 計算外の最たるものは三好家の侵攻であった。


 三好家からの共闘の申し出に応じたとはいえ、義治はこの相手と永遠の友誼を望んでいたわけではない。すでに義治自身が向こうの出した条件を無視し、上杉主従を密かに討つべく動いているのだから、早晩、関係が破綻することは目に見えていた。
 手切れは避けられぬし、避けようとも思わない。義治は六角家にとって都合が良い機を見計らって三好家と断交しようと考えていたのである。
 逆にいえば、家中がある程度の落ち着きを取り戻すまでは三好家との繋がりを保ちたい、と考えていたことになる。
 まさか共闘を申し出てきた相手がここまで素早く手のひらを返すとは、さすがに義治も予測できなかった。


 共闘の申し出はこちらを油断させる策略であったのか。
 あるいは、義治の側に共闘するつもりなどないことを見抜かれ、方針を転換させたのかもしれない。
 いずれにせよ義治がこけにされたことは疑いなく、はらわたが煮えくり返る思いであった。
 承禎に言明したように、瀬田に布陣していた軍勢は義治にとって失って惜しいものではなかったが、敗戦の影響は無視できるものではない。六角軍が半数の敵に破られた事実は瞬く間に広がるであろうし、それを聞いた者たちは大きく心を揺らすだろう。本来であれば義治に従っていた者でさえ敵方にはしってしまうかもしれない。はじめから義治に敵意を抱いている者であればなおのこと、六角義治怖れるに足らずとの印象を深め、より活発に動き出すに違いなかった。



 この流れをせき止める最良の策は、義治が侵攻してきた三好軍を打ち破ることであろう。瀬田城を落とした三好軍が青地城に向かったという報告はすでに届いている。
 そうしてやろうか、と義治の若い血が騒いだことは事実である。今の段階で観音寺城を空ければ、本拠地を敵に渡すことになりかねないが、たとえそうなったとしても義治には報復の手だてが残っている。
 南に逃れ、甲賀の山川に隠れ潜んで反攻の機をうかがうのだ。これは窮地にたった六角家の当主にとって切り札ともいえる策であった。


 しかし、義治はすぐにこの考えを振り払う。何も初手から切り札覚悟で出陣する必要はない。
 それに甲賀の諸勢力は必ずしも一心同体というわけではない。三雲家や山中家、望月家のように義治に近しい家がある一方で、疎遠な家も当然ある。先に約定を反故にした和田家などは敵意さえ抱いているだろう。
 いざとなれば父を担いでなだめれば済む話だが、それは本当に最後の手段である。今は彼らに頼ることなく事態を切り抜ける道を模索するべきだった。




 そうやって義治が事態の対応に腐心していたとき、あらわれたのが蒲生家の鶴姫である。
 この蒲生家の対応は義治を喜ばせた。
 蒲生賢秀の妻は観音寺騒動において命を失った後藤賢豊の妹である。その蒲生賢秀が十になったばかりのわが子を義治に差し出した事実は、復仇にわきたつ後藤家の家臣たちに冷水を浴びせるだろう。
 さらに、様子見をしている他家の当主たちにも少なからぬ影響を及ぼすはずだ。もちろん、義治にとって望ましい方向に、である。


 当然、賢秀はそれらを承知した上で嫡子を差し出してきたのだろう。その証拠に鶴姫は幾つかの要望を携えていた。
 上機嫌の義治は鶴姫を丁重に扱うよう家臣たちに命じ、蒲生家が申し出てきた案件の多くに諾を与えた。ただひとつ、「混乱をこれ以上長引かせないために両藤の名跡が立ち行くようとりはからっていただきたい」という願いには即答を与えなかったが、義治の許可が出る前に兵を出した蒲生定秀の行いに目を瞑る程度は何でもないことであった。




「――殿」
「どうした?」
 側近に声をかけられ、義治は我に返った。
 気がつけば、すでに自分の部屋の前にいた。側近は義治が承禎のもとから戻るのを待っていたらしい。
「蒲生家の鶴姫より、願いの儀があるとのことで……」
「ああ、青地城への援兵の件か。健気なことだな」
 さして深い意味もなく――ということはつまり、言葉どおりの意味で義治はそう云った。
 敵の猛攻に晒されているのは実の叔父。その叔父を救うべく、祖父がわずかな手勢を率いて向かったとなれば、鶴姫もじっとしてはいられまい。観音寺城に来てからというもの、訴えは毎日のように為されていた。


「すでに周辺の諸城には青地救援を命じる使者を出したと云ったのだがな。まだ納得できない様子か?」
 実のところ、これは偽りである。対三好戦における義治の戦略は、敵軍を領内深く引きこんで消耗を強い、観音寺近くの野戦で一気にしとめるというもの。道々の城砦は敵の兵力をすり減らす捨て駒としてみている。青地城のみを例外にする気はなかった。


 そんな義治の戦略を読んだわけでもないだろうが、鶴姫は援兵派遣を願ってやまないのである。
 義治の問いに、側近がやや困惑した顔でうなずいた。
「は。願わくば殿じきじきのご出陣を、と涙ながらに訴えておられます」
「蒲生の鶴といえば、賢豊などは鳳の雛と絶賛していたが、やはりまだまだ童よな。今、私が観音寺を離れるわけにはいかないことなど察しようもないか」
 しかたないことだがな、と義治は肩をすくめた。
 その声に苛立ちはなく、むしろ、わずかながら申し訳なさのようなものが感じられ、側近は驚いたように目を瞠る。
 観音寺騒動以降、とみに攻撃的な言動が目立つ義治であったが、さすがに十歳児に対して苛立ちをぶつけるほど思慮を失ってはいない。蒲生家に救われた、という思いもあるのだろうが、鶴姫に対する義治の態度は優しく穏やかなものであった。




 一方、側近の方は今回の蒲生家の動きに引っかかるものを覚えていた。
「……しかし、殿。蒲生家の思惑が少々気にかかります」
「蒲生の思惑?」
「はい」
 怪訝そうに眉根を寄せた義治に対し、側近は声をひそめて先を続けた。
「蒲生賢秀どのは殿に人質を差し出す一方、両藤を存続させるためのとりなしも行っております。これはこたびの一件がどのように転がろうと、結果として蒲生家の発言力が高まるように、との思慮にもとづいた行動でございましょう。三好の侵攻に際しても、殿の許しを得るより先に兵を動かしております。これから先、蒲生家はまことに殿のお指図に従う気があるのでしょうか? 賢秀どのは賢豊の義理の弟、あるいはこたびの混乱を奇貨として両藤にとってかわる心算があるのではないか、と案じられてなりません」
「ふむ」
 義治はかすかに目を細めて側近を見やり、しかる後に考え込む。


 側近の言葉は確たる証拠があっての疑念ではない。そういう考え方もある、という程度のもので、義治にとっては新鮮味の感じられない提言であった。
 ただその言葉を聞いている最中、義治の脳裏をよぎったのは先ほど承禎が口にした言葉である。
『国人衆が自家の利益を第一とするのは当然のこと』
 確かに、義理の兄を殺されたにしては蒲生賢秀の反応は従順すぎる。賢秀の実直な為人は義治も知っており、だからこそ当面の間は与力にしようと考えていたのだが、賢秀とて乱世に一家をあずかる当主である。甘いだけの人物であるはずがない。


 その点、義治が勝とうと、両藤を筆頭とした反義治派が勝とうと、蒲生家が立ち行くように行動しているのではないか、という側近の推測は的を射ているかもしれない。
 だが、それはそれでかまわない、と義治は思う。要は自分が勝てば良い。そうすれば蒲生家は今後とも義治に従うのだから。
 問題なのは、賢秀がそれ以上のものを望んでいた場合である。賢秀が悪心を持っていれば、義治が勝利した途端に蒲生家が牙を剥く、という展開も考えられる。側近の懸念にはこれも含まれているのだろう。



 義治はかぶりを振って側近の懸念を退けた。
「案ずる必要はない」
「しかし――!」
「賢秀が私を上回る権勢を望んでいるなら、兵の消耗を極力おさえようとするはずだ。となれば、青地城の救援も理由をつけてとりやめるだろう。その時は、蒲生の当主が野心のために父と弟を見捨てたと喧伝してやれば良い」
「賢秀どのが城に入ればいかがなさいます?」
「さすれば三好三人衆と派手にかみあい、兵力を大きく損ずるのは必至。事が終わった後、蒲生家を排除するのが楽になるというものだ。いずれに転がっても私の損にはならない」
 蒲生賢秀に悪心があろうがなかろうが、どの道、蒲生家ほどの大家を放ってはおけない。
 いずれ排除する家であり、そのための手だても考えてある。ゆえに、その動向に過度に怯える必要はない。それが義治の考えであった。


「おお、そこまでお考えでしたか。申し訳ございません。愚にもつかぬ懸念でお耳汚しをいたしました」
 側近が感服したように頭を垂れる。
 鷹揚にうなずきながら、義治は側近に釘をさした。
「蒲生への懸念は腹におさめておけよ。いずれ除くべき家ではあるが、それは後日のこと。今は手駒として利用すべきなのだ」
「かしこまりました」




 かしずく部下を見やりながら、義治は小声で呟く。
「……賢秀が娘ともども蒲生家を差し出してくるようなら、また話はかわってくるのだがな」
 今回、鶴姫を観音寺城に差し向けたことにその含みがあるのだとすれば、蒲生家を相応に遇してやってもかまわない。義治はそうも考えていた。
 義治の理想は六角家による領民、領土の直接統治。言葉をかえれば、国人衆を介することのない支配体制の確立である。
 とはいえ、義治ひとりで広大な領地すべてを支配することはかなわないので、手足となる家臣はどうしても必要になる。蒲生家がその手足となることを受け容れるなら、あえて蒲生家を排除する必要はなくなるわけだ。


 なんなら鶴姫を閨房に迎え入れても良い。
 義治は鶴姫と対面した時のことを思い出す。今は無理でも、あと二、三年もすれば子供を生めるようになるだろう。見目かたちも申し分なく、幼いながら礼儀もわきまえていた。
 あるいは、この件を打診すれば蒲生家の本心を確かめることができるかもしれぬ――


 あらぬ方向にそれかけた義治の思考を戻したのは、部下の怪訝そうな声だった。
「殿、何か仰せになりましたか?」
「いや、なんでもない――む?」
 こちらに近づいてくる慌しい足音に気づき、義治の顔に警戒がよぎる。城内の警備は厳重にしてあるが、すべての刺客を防げるわけではない。特に今の義治は、常に暗殺を警戒せねばならない立場であった。


 幸いというべきか、廊下の角から姿を見せたのは曲者ではなく義治の側近であった。
 蒲生家への懸念をもらしたのは望月吉棟(もちづき よしむね)、いま姿を見せた者は山中長俊(やまなか ながとし)という。いずれも甲賀の名門の出で、義治の信頼が厚い。吉棟は主に相談役として、長俊は右筆として、義治に侍ることが多かった。
 息せき切ってあらわれた長俊が、声に緊張を込めて報告した。
「殿、青地城より急使です! 三好政康率いる敵軍およそ二千、城攻めを開始したとのこと! なお後詰として岩成友通、これもおよそ二千を率いて城への距離を詰めつつあるとのことです」
 予想されていた報告である。しかし瀬田城を落として数日しか経っていない。三好軍の進撃は電光石火と評しうる早さであった。


 義治の口から苦い賛辞がこぼれおちる。
「さすが、というべきか。敵勢はあわせて四千。瀬田を渡る以前、三好は三千ほどだったはずだが……新たに兵を募ったにしても多い。城を空にして出てきたのか?」
 独り言じみた主君の呟きに、長俊は律儀に反応した。
「おそれながら、この状況で三好軍が後背を空にするとは考えにくうございます。唐橋夜戦の後、三人衆のもとへ走った裏切り者もおりますし、都から援兵が参ったやもしれません。少なくとも五百か千ほどは瀬田城に詰めておりましょう」
 長俊の推測を聞いた吉棟が厳しい表情で口を開いた。
「殿、青地城の茂綱どの直属の兵は五百あまり。蒲生定秀どのが間に合ったか否かはわかりませぬが、仮に間に合ったとしても精々六、七百。これでは城を奪われるのは時間の問題かと」
「わかっている。賢秀の部隊が間に合えば城内の兵と挟撃できるが、政康めは援軍が来る前に城を落とすつもりであろう。厳しいな」
 短期間で瀬田城を落とした敵軍の手並みを思えば、青地城が敵の攻勢に耐えられると判断する理由は薄い。


 青地城は失陥するだろう、そう考える義治の表情に狼狽はない。青地城が落ちるのは想定の内にある。
 問題なのは城の陥落よりも、打ち続く敗戦が味方の士気をそいでしまうことであった。
 敵兵をすりつぶすための城砦が敵軍に降ってしまっては元も子もない。観音寺城へ至る道筋にある永原城、長光寺城といった各城の将兵の気を引き締めておかねばなるまい。
(そのためにも、茂綱には粉骨砕身の戦いぶりを期待したいところだな)
 できるだけ多くの敵兵を殺すために。できるだけ多くの時を稼ぐために。
 そんなことを考えながら、六角義治は二人の側近を引き連れて軍議の間へ向かった。




◆◆




「……うう、思ってたよりずいぶん早い。じじ様と青地のおじ様、大丈夫かなあ」
 観音寺城の一室。
 三好軍の動きを知った蒲生鶴は心配そうに呟いた。戦地にある人たちのことを思って柳眉を曇らせる。
 名目上は人質扱いである鶴姫であったが、実際には城内で賓客同然の厚遇を受けている。さすがに自由な行動は許されていないが、鶴姫が望めば大抵のことはかなえられた。
 明るく人懐っこい鶴姫は侍女たちにも好かれており、彼女らはこの幼い姫に不自由を感じさせないよう諸事に気を配ってくれている。それは主君である義治の命令に従ってのことであったが、見る者が見れば、侍女たちの表情の内に命令に拠らない真摯さがあることを見抜いたであろう。


 侍女たちは鶴姫が青地城救援を願っていることを知っている。
 義治や側近たちに援軍を頼み込む姿を何度も目撃しているからだ。まだ幼い少女が、一族を助けるために懸命になっている姿を見れば、誰しも同情を抱かずにはいられない。
 侍女の中には六角家の有力な武将の娘や孫もおり、また城中で噂話を拾うこともある。大小さまざまな情報を集めていけば、すくなくとも観音寺城の六角軍に動く気配がないことを察することはできた。
 むろん、そんなことを面と向かって鶴姫に伝える者はいない。だが、侍女の口が重ければ重いで、その硬質な雰囲気の原因が奈辺になるのか、と考えることで状況を推測することができる。何より、鶴姫にじぃっと見つめられて「本当のことを教えてください」と頼まれれば、大抵の者が迷いながらも口を開いた。



 三好軍の襲来を知った鶴姫は、顔色こそ変えなかったものの不安を覚えずにはいられなかった。
 何かと悪評の多い三好三人衆であるが、三好家が畿内を制する過程において多くの武功をあげた事実に偽りはない。
 その三人衆を相手にした篭城戦である。いかに智勇胆略を備えた鶴姫であっても泰然と構えてはいられない。
 義治たちに青地城への援軍を願い出ていたのは、周囲の同情や共感を誘う演技ではなかった。その成分が皆無であったとはいわないが、真剣に考えた末の本気の行動だったのである。




 幼い鶴姫にとって、最大の弱点は戦を知らぬこと。
 もちろん兵法書の類は暗謡できるほどに目を通している。父や賢春を相手に戦を模した遊戯盤で勝利したこともある。今後、蒲生家がとるべき道を考えたとき、軍略は欠かせぬ要因であったから、それに関する知識も蓄えていた。
 だが、人間と人間が命をかけて殺しあう戦場に足を運んだことがない鶴姫には、本当の意味での『戦』がわからない。今日まで蓄えてきた知識はすべて机上のものか、そうでなければ他者から聞きかじった伝聞に過ぎない。そんな自分が、実際に殺し合いの場に臨む人たちにさかしらに意見を述べていいはずがない――鶴姫はそう考えており、実際、蒲生家の今後の方針に関しては様々に発言したものの、実戦における作戦指揮については父や祖父にすべて任せていた。二人の采配を信じることしか自分にはできない、と鶴姫はわきまえていたのである。


「はやくわたしも元服したいな……」
 いま口にしても詮無いことだとわかっていたが、云わずにいられなかった。
 一度や二度、戦場に行ったからとて、ただちに一人前になれるわけではない。自分の指揮が父たちに優るとうぬぼれているわけでもない。
 それでも、それでも鶴姫は早く元服したかった。そうすれば、蒲生家の嫡子として堂々と戦場に出ることができる。城の奥深くで大勢の家臣に守られながら、ただ戦場に赴いた人たちを心配するのは辛すぎる。
 特に今回のように不利な戦であれば、なおのことそうであった。



 鶴姫は現在の戦況を何度も分析した。
 観音寺の城兵が動く気配はない。
 義治は周辺の国人衆に救援を命じたと云っていたが、観音寺の兵を動かさないということは、おそらく三好軍を領内に引きずり込み、消耗を強いてから決戦を挑むつもりなのだろう。
 であれば、青地城は敵の戦力を消耗させる駒として扱われるに違いない。


 もしこの戦いで定秀や茂綱を失えば、江南はもちろん蒲生家そのものも大きく混乱する。さらに賢秀まで討たれることがあれば、それこそ滅亡の危機に瀕することになりかねない。蒲生家を江南の中心に据えるどころの話ではなかった。
 鶴姫は頭を抱えたい衝動にかられた。
「大言を吐いたつもりはなかったんだけど……ああん、もう! 三好軍が動くのも、お味方が負けるのも早すぎるよ! もうちょっと余裕があると思ってたのにッ」
 室外の侍女に気づかれないよう、声を低めて怒声をあげる、という器用なまねをする鶴姫。
 三好軍が瀬田を狙って動くことは予測していたが、こうもあっさりと突破してくるとは思っていなかった。
 自分が考えていた以上に観音寺騒動は将兵の士気を損ねていたのだろう。そう考えた鶴姫は、やはり今の自分ではどうしても軍事に支障をきたす、と苦く認識した。
 賢春は三雲城に派遣しているから頼れないし、それに彼女は陰働きにこそ長じていたが、武将として戦いに長けているわけではない。こと作戦指揮に関しては大きな力になりえないだろう。
 賢春と同じくらい信頼できて、かつ自分の不備をおぎなってくれるような人物はいないものか。


 ふと、そんなことを考えた鶴姫は、すぐに顔をうつむかせた。
「……いないよね、そんな人」
 賢春と同じくらい信頼できる、というだけで条件としては十分に厳しい。これにくわえて戦場の経験に長け、将兵の機微に通じ、机上の知識でも自分に優る人となると、どこをどう探せば出会えるのか。
 なにより、自分のように十になるやならずの小娘の言葉を真剣に聞いて、命令に従ってくれる人でなければならない――ここまでくると、もう雲を掴む方がよっぽど簡単に思えてくる。


 鶴姫は自分の頬に手をやり、むにっと強くつまんで気合を入れた。
 今はどこにいるかもわからない『誰か』を夢想するよりも、この城で自分にできることを精一杯やるべき時。そして、戦場で戦っている家族の無事を祈る時であった。
 頬をつまんでいた手を胸の前で組みなおした鶴姫は、囁くように祈りを紡ぐ。
「とと様、じじ様、おじ様。どうかご無事でいてください。秀郷卿、御身の子孫に武運を授けたまわんことを……」
 遠い戦場にいる大事な人たちの無事を祈って、鶴姫は静かに、真摯に、祈り続けた。
 身動ぎ一つせずに、ずっと、ずっと。



 ……ちりん、と。
 どこか遠くで鈴が鳴った気がした。
 




◆◆





 同時刻


 青地城の南方に位置する鶏冠山の麓。
 先夜から降り続く雨のせいで、木々も、動物たちも鳴りを潜めている山中を、無言で進み続ける一団の姿があった。
 全身を濡れ鼠にした彼らは、疲労のためだろう、全員がうつむきがちになっている。
 その中のひとり、先頭近くを歩いていた天城颯馬はふと顔をあげた。
 何か――否、『誰か』の声が聞こえた気がしたのだ。
 だが、周囲にいる者たちが口を開いた様子はなく、雲雨で灰色に染まった山の景色にも変化はない。


 気のせいか。
 そう判断した天城はさして気に留める様子もなく再び歩き出す。
 向かう方角は北。
 目的地はもうすぐそこであった。
  



[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/19 20:57

 南近江 草津


 東海道と東山道の分岐点であり、琵琶湖の水運とも密接な繋がりを持つ宿場町、草津。
 多くの人が行き交うこの地には、必然的に多くの物も集まってくる。人と物が集まれば、そこに利が生じるのは自明の理であろう。
 宿場町として、また水陸二つの交易の要として、長い繁栄の歴史を築きあげてきた草津の町に俺がやってきた理由は、むろんのこと、謙信さまたちをお救いするためである。
 本来であれば、謙信さまたちが幽閉されている三雲の地に直行するところなのだが、今の俺には迂路をとらなければならない理由があった。


 松永久秀が一乗院覚慶から伝え聞いたという謙信さまの行方。
 その詳細を伝えることと引き換えに久秀が出してきた条件は、三好三人衆の排除というものであった。
 今の三好家にとって三人衆の存在は邪魔にしかなりえない。しかし、だからといって三好軍がおおやけに彼らを討とうとすれば、事態は間違いなく内紛に発展する。
 ただでさえ四隣に敵を抱えている三好家である。つい先ごろ、本願寺軍が淡路を急襲したという事実にくわえ、名高い三人衆が叛いたと知れ渡れば、求めて諸国の侵入を招くようなものであろう。


 ゆえに、三人衆の排除のために三好家の将兵を動かすことはできない。むろん久秀の手勢も。
 三人衆の勢力はあくまでも外部勢力の手によって潰えなければならないのである。三人衆を一時に失えば、それはそれで諸国の野心家を刺激するであろうが、このまま三人衆を放置しておくよりはマシであろう――それが三好宗家の考えである、らしい。
 らしいというのは、その考えを口にしたのが久秀だけだからである。俺は結局、三好長慶にも三好義賢にも会うことができなかった。
『こんな謀議に宗家の人間が言質をあたえるわけないでしょう?』
 とは微笑まじりの久秀の言葉である。



 率直にいって胡散くさい。思わず鼻をふさぎたくなるくらい、いやらしい策謀の匂いがぷんぷんしている。
 久秀は三人衆の排除は三好家のためであり、三好宗家も黙認しているという口調であったが、長慶らが黙認しているという保証はどこにもない。久秀が三人衆を邪魔に思って排除を画策しているだけではないか、という疑念は消えなかった。
 また三好、松永の兵を動かせないということは、要するに俺が自分で戦力を整えて事にあたらねばならないということである。三好家ないし久秀にしてみれば成功すれば儲けもの、失敗しても何かを失うわけではない。損をするのは俺ばかり、という構図であった。


 それらを承知した上で、なお俺は久秀の提案を受け容れた。久秀が口にしたのは謙信さまたちが六角家に幽閉されたという情報だけであり、これだけでは居場所を突き止めようがない。まずは相手から出された提案を容れて、謙信さまの行方を確認した上で対処を考えるしかなかったのである。
 結果、明らかになった幽閉場所は三雲城外の廃寺。
 即座に駆けつけて謙信さまたちを救い出し、しかる後に三人衆を討ち果たす。真っ先に考え付いたこの案は、口に出すより先に久秀に却下された。


 理由は単純である。
 三人衆の兵力は三千弱。三好家の手勢を使わずにこれを討つとなれば、もっとも手っ取り早いのは彼らと対峙している六角軍を利用することだ。
 六角家は三人衆からの申し出に応じて謙信さまたちを捕らえた、いわば三人衆の盟友であるが、この両者が無二の信頼で結びついている可能性はきわめて低い。中途半端な盟約ならば付け入る隙はいくらでもあるだろう。


 他方、三雲で謙信さまたちを救いだすということは、力ずくで六角兵を斬り破るということであるから、はっきりと六角家と敵対することになる。三雲で騒ぎを起こした後、三人衆と対峙する六角軍に接触することが危険であるのは言をまたない。ヘタをすると、上杉という共通の敵を前にした両者が、より結束を強めてしまうかもしれない。
 まあ俺としては謙信さまたちをお助けできれば、ここで三人衆を討ちもらしても問題はないのだが、久秀がそんな冴えない結末を許すはずもなく、俺に一つの条件を突きつけてきた。


 謙信さまを救うために行動するのはかまわない。同時に、三人衆を討つこと――六角家を利用する行動をおろそかにすることは許さない。
 要するに、二手に分かれて行動しろ、ということであった。


 謙信さまたちを助ける救出隊。三人衆を討ちはたす討伐隊。
 二手に分かれることを前提とすると、救出隊には謙信さまたちが顔を知っている者がいることが望ましい。長恵や吉継が「助けにきました」といっても、謙信さまたちはすぐに信じることができないだろうからだ。
 となると、該当するのは俺か秀綱であるが、それぞれの任に対する適正というものも考慮する必要がある。


 救出隊に必要なのは敵地を行く隠密能力と包囲を斬り破る武力。
 討伐隊に必要なのは六角家に取り入る弁舌と、彼らを使嗾して三人衆を討ちとる謀画の才。


 ……どれだけ頭をひねろうと、俺に適しているのが討伐隊の方である事実は揺らがなかった。
 短からざる葛藤の末、俺は秀綱と長恵の二人に謙信さまの救出を託し、自らの任を三人衆の討伐に据える。
 思いっきり久秀に利用された形であり、もしこれで相手が俺にとって何の恨みもない人物であったなら、たとえ謙信さまたちをお救いするためとはいえ、心に忸怩たる思いを抱かずにはいられなかっただろう。


 しかし、幸か不幸か、三人衆は俺にとっても討ち果たすべき相手であった。連中は謙信さまたちを危険視し、六角家と協力して排除しようと目論んでいるのだから、これを討つのにためらう必要は微塵もない。結果として義輝さまの仇を討てるのだから尚更だ。
 ここで三人衆と六角家を共食いさせておけば、それだけ越後への帰路が安全になるという利点もある。なにより、聞くだけ聞いて久秀の意にそむく行動をとれば、この謀将が敵にまわる。そんな事態はなんとしても避けなければならなかった。いずれ敵対する時が来るとしても、それは今ではないはずだから。




 かくて、俺たちは久秀に見送られて京を出た。
 行き先に草津を選んだのは久秀から一通の書状を渡されたからである。
 久秀曰く、びっくりするくらいの守銭奴、が草津にいるらしい。
 兵を募るにせよ、情報を集めるにせよ、あるいは賄賂を用いて六角の家臣に取り入るにせよ、金銭は欠かせないものとなる。その金銭を得るために、件の守銭奴をがんばって口説き落とせ、ということのようだった。


 久秀が本気で俺に三人衆を討たせたいなら、兵を出すことができずとも金銭を出すことはできるだろう。それをせず、助力を紹介状一通にとどめるというのはどういうことか。
 久秀の真意をつかめないことに一抹の不安を覚えつつ、俺は草津を目指した。
 俺の両隣を固めてくれているのは吉継と重秀の二人である。平時であれば陸路を使うのが常道なのだが(個人的に水路は極力避けたい)、いま瀬田や伏見のあたりは三好、六角両軍が布陣している。見目よい女の子ふたりをつれて軍隊の近くを通るとか、考えるだけで頭が痛くなるので、一度道を北東にとって大津へ向かい、船で琵琶湖へ出ることにする。


 琵琶湖には堅田衆と呼ばれる海賊(湖賊)集団がいる。賊といっても略奪をこととする暴徒ではなく、琵琶湖の水運をとりしきって税をとりたてる水上勢力のことで、定められた通行料を払えばそうそう危険なことにはならない。
 旅費に関しては九国でもらった分がまだ十分に残っているので、俺たちはそれを用いて無事に草津へと到着した。


 ここで俺たちは噂の守銭奴 岡定俊(おか さだとし)と出会うことになる。



◆◆



 岡定俊、通称は左内(さない)。
 大小の商機に溢れた草津の町で、おそらくは十指に入るであろうお金持ちである。
 こう聞けば大抵の人は大きな邸宅を構えた大商人を連想すると思うが、左内に関してこの予測は当てはまらなかった。暮らしている家は決して小さくはなかったが、家人も含めて二十人も入れば手狭になってしまう程度の広さしかない。精々が「ちょっと裕福な町商人」というところだろう。
 まあそれ以前に、左内本人は自分を商人ではなく武士と見なしているのだが。


 当人いわく、若狭の国で父の後を継ぎ、一城の主となったものの、あまりに諸事に吝い(しわい ケチ)ので家臣たちに城を追い出されてしまったのだという。
 嘘なら嘘でホラが過ぎるし、本当なら本当で呆れるしかない話である。
 その後、左内は各地を渡り歩いた末に草津にたどりつき、ここで利殖の道に勤しんだそうだ。自分を武士とみなしているのではなかったのか、という俺のツッコミに対し、返って来た答えは「身共(みども)の道楽じゃ」というもの。
 物を売買する商いにくわえ、金を必要とする人に利子をつけて貸し付ける、いわゆる金貸しで財を成し、岡佐内の名は草津の内外で広く知られるようになっていく。
 俺たちがやってきたのは、左内が草津に居を構えてから数年が経過した頃であった。




 

 左内に呼び出された俺は、客間からたいして離れていない位置にある家主の部屋の前までやってくると、中で待っているであろう人物に呼びかけた。
「左内、用があると聞いてきたんだが」
 今の俺はすぐに返せるあてのない借金を申し込みに来ているのであり、つけくわえると草津での宿は左内の家である。左内に対しては二重にも三重にも礼儀を尽くさなければならない立場なのだが、呼びかけの口調はいたって砕けたものであった。
 言い訳すると、はじめはきちんと礼儀正しく話していたのだ。しかし、左内の方から「堅苦しいのは好かぬ」としかめっ面で云われてしまったので、相手の意向に沿うことにした次第である。
 ……決して、左内と話すうちに丁寧な口調を用いることに疲れてしまったわけではない。


「来たか。はよう入れ、颯馬。吉報ぞ」
 返って来たのは、華やかさの中に確かな落ち着きを宿した、耳に心地よい女性の声だった。耳をくすぐるこの声を聞いただけで、たいていの男どもは声の主が美人だと確信するだろう。そう、俺のように。
 事実、左内は玉のような肌を持つ美人なのだが、この時の俺に浮ついた気持ちはまったくない。むしろ、心の大半を占めるのは警戒と用心であった。
「その前にひとつ確認したいんだが」
「ん?」
「なにやらしゃらしゃらという音が中から聞こえてくるぞ。また銭の床で寝そべってるのか?」


 左内には妙な趣味があり、集めた銭を床に敷き詰めては、磨いたり、数えたり、はては寝転がったりして楽しむのだ。最初にその現場を見たときには、開いた口が塞がらなかったものである。
 だがまあ、自分で集めた金をどう扱うかは当人の自由である。床に敷き詰めようが、派手に散財しようが、金蔵に積み上げようが、他人が口を挟むことではない。
 だから俺としても左内の趣味に口出しするつもりはないのだが――


「別にかまわぬではないか。銭は天下のまわりもの。銅臭を嫌う者たちとて、銭なくば今日を生きることもままならぬ。そう毛嫌いすることもあるまい?」
「銭を毛嫌いしているわけではないし、お前の言葉に反論するつもりもまったくないんだが、それでもこの襖は開けたくない」
「はて、面妖な。東国にその名を轟かせた天城筑前が、いったい何をそのように怖れるのか?」
「銭の上で裸になってる変態を、だよ! いいかげん裸の時に人を呼ぶのはやめやがれ!」
 客人としての礼儀とか、金を借りにきている立場だとか、そういったものを雲の果てまで放り投げ、俺は大声で左内を怒鳴りつけていた。






 で、しばし後。
 なんとか佐内に服を着せた俺は、ついでに部屋もかえさせて左内の話を聞くことにした。銭が敷き詰められた室内で落ち着いて話をするのは難しいのだ。
「まったく、颯馬はいちいちうるさいの。別に見ても損をするわけでもなかろうに。むしろ殿御にとっては眼福であろ?」
 部屋をうつり、きちんと服を着た左内と向かい合う。ハレンチな言動とは裏腹に、そういって悪戯っぽく微笑む姿はいかにも楽しげで、媚を売るような卑しさや淫らな雰囲気はまったくない。年頃の初心な少年をからかうお姉さん、という感じである。
 実際、左内の目には俺はそういう風に映っているのかもしれん。実年齢はほとんど同じか、俺より少し下くらいのはずなのだが。


「眼福は眼福だが、後が怖い。吉継や重秀からしらっとした目で見られるのはもうご免だ」
 左内の屋敷に来て、はじめて部屋に招じ入れられたときのことを思い出す。父としての尊厳とか、雇い主としての威厳とか、そういったものが砂の城のように崩れていくのだ。あんな経験は一度で十分である。
「ふふ、鬼謀の策士も娘たちの前では形無しよな」
 そう云うと、佐内は額にかかっていた前髪をうるさげに横に払った。
 左内の髪は青みを帯びて緩やかに波打っており、その髪を彩るために鼈甲のかんざしを挿している。姿勢正しく、着付けも短時間で行ったとは思えないほどしっかりしていて、こうして改めて見てみると、整った顔立ちからは気品のようなものが感じられた。かつて一城の主だったという話もあながちデタラメではないのかもしれない、そんな気にさせられる。



 これでけったいな趣味さえなければ高貴なお姫様で通るのだが、と俺は内心で嘆息する。
 しかしまあ、繰り返すが、俺は左内の趣味に文句を云える立場ではない。だが、せめて人を呼び出した時くらいはきちんと服を着ていてくれ、と願うのは非礼ではないと思う次第である。
 もう何度目かわからない俺の頼みに、家主は鈴を転がすような声で応じた。
「うん、善処しよう」
 素直にうなずき、くすくすと微笑む左内。改める気なんぞないことは火を見るより明らかで、俺は今度こそため息を吐いてしまった。


「利兵衛くんがな」
「ん? 利兵衛がどうかしたか?」
「俺のところに来るたびに顔を真っ赤にしてるんだ。あの子、そのうちぶっ倒れるぞ」
「ふふ、利兵衛は算盤は巧みだが、算盤以外のことには疎い。おなごの肌を見て倒れるようなら、それはそれで良いことじゃろ」
 利兵衛というのは左内の下で働いている使用人の男の子である。年齢はまだ十を幾つも出ていないだろう。目もとの涼やかな、いかにも才気煥発といった感じの子であった。
 左内が口にしたように算盤が巧みで、諸事に気が利き、人当たりも良い。実に将来が楽しみな子なのだが、何故だか吉継や重秀には近寄ろうとしない。もっと正確にいうと、同じ使用人やなじみのある町人でも、相手が女性であると明らかに動きがかたくなる。


 ちらと訊いてみたところ、別に女嫌いというわけではないらしい。ただ、異性が苦手であるのは確かなようで、その原因は何かと利兵衛をからかう主人にあるのではないか、と俺は邪推していた。
 まあ利兵衛くんにとって佐内は恩人であるらしく(家族の借金をまるまる肩代わりしてくれたそうな)感謝も尊敬もしているとのことだから、妙な心配をする必要はないだろうけれど。




「ま、それはさておきじゃ。先にも云うたが吉報ぞ、颯馬」
「む、そうだった。謹んで拝聴しよう」
 俺が居住まいを正すのを待って、左内は吉報の内容を告げた。
「三好と六角が瀬田の橋でやりおうたそうな」
 それは確かに吉報であった。むしろ、俺にとって都合が良すぎて、思わず情報の真偽を疑ってしまいそうになる。
 そんな俺の複雑な内心を知ってか知らずか、左内はなおも続けた。
「六角は大敗。三好はこれを追撃して唐橋を渡り、勢田城を囲んだという。瀬田の山岡どのはなかなかの武将じゃが、大勝で勢いに乗る三好を防ぐのは難しかろう。もって数日。あるいはもう落ちている頃やもしれん」
 そこまで云うと、左内はにやりと笑った。
「そなたが策を弄するまでもなかったな」


「確かに、その点では助かったが……」
 左内の情報を吟味しつつ、俺は考え込む。
 俺の基本方針は三人衆と六角家をかみ合わせ、両家の力を削いだ上で、最終的に三人衆を討ち取ることである。手を組んでいた両者が勝手に反目した挙句、派手にぶつかってくれたのは僥倖というしかない。
 しかし、あまりに一方的な勝利は望ましくないのだ。ここで三人衆が勢いに乗って江南を征服するようなことがあれば、彼らを討つのはきわめて困難になる上、謙信さまたちの身に更なる危難が及ぶ。
 六角家の手から逃れたと思ったら、今度は三好家に捕まってしまった、などということになったら洒落にもならない。



 ゆえに、理想は両者が泥沼の消耗戦に陥ること。上杉家一行の行方など構っていられない、という状態になった上で三人衆を討ち取ることができれば云うことはない。
 むろん、理想はあくまで理想、そうそう都合よく事は運ばない。現実を理想に近づけるためには、人間の知恵と努力が不可欠である。
「三好軍が勢いに乗っているなら、その勢いをそぐことで六角軍に恩を売ることもできるか。六角軍が優勢であるよりは、かえってやりやすいかもしれないな」
「簡単に云うの」
「これから先、悩む場面はいくらでも出てくるからな。今から眉間にしわを寄せていても仕方ない。幸い、資金に関しては奇特な協力者のおかげで心配する必要がなくなったし」
「ん、越後の重臣を自称する徒手空拳の浪人者に惜しげもなく資金を提供するとは、実に寛大な御仁じゃの。大切にせねば罰があたろう」
「……感謝はしてるんだ。本気で。しかし、あの松永久秀が苦笑するほどの守銭奴が、見も知らぬ浪人に惜しげもなく資金を提供してくれるとは予想外にもほどがあってな。相手の本心がいまいちわからない」


 わりと本気の言葉であった。
 といっても、別に裏切りを心配しているわけではない。
 久秀からの書状があったとはいえ、さして迷う風もなく協力を肯ってくれた左内の対応が不思議だったのである。左内は久秀の配下であるわけではなく、俺たちに協力する義務などないのだ。
 俺の疑問を聞いた左内がくすりと微笑んだ。
「ふふ、銭を集めるのも、銭の上で寝そべるのも道楽のようなもの。他者の目にどのように映ろうと、この身は武士。命を懸けるに足る戦場(いくさば)は、銭であがなうことはできぬでな。それを持ち込んでくれた者に便宜をはかるのは当然のことであろ。それに――」
「それに?」
「世の中には一目ぼれというものがあるじゃろ?」
「いってろ」
 いつものようにはぐらかしてきた左内を見て、俺は小さく肩をすくめた。




◆◆




 しばし後、左内は供を連れずに草津の町中を歩いていた。
「さて、戦況が大きく動いた今、身共もいつまでも銭と戯れているわけにはいくまいて」
 そういって左内が向かった先は、町外れにある練兵場である。
 人と物が集まれば利が生じる。これを自明とするならば、利を求めて賊が発生するのは必然といえる。
 草津の町は六角家の支配をうけているが、その統治は間接的なもので、実際に権力を握っているのは有力な町人、商人たちである。彼らは自分たちの利権を守るためにそれぞれ私兵を抱えており、これは左内も同様であった。


 もっとも、その数は三十人程度に過ぎず、荷駄を守るためならともかく、三好、六角の戦に割って入るとなると心細いことおびただしい。浪人や力自慢をかき集めれば、あと五十人ほど数を増やすこともできるが、それでもやはり戦に影響をあたえられるような数ではない。
 他の有力者に助力を頼む、という手段もないことはないが、多くの人間に声をかければ、それだけ多くの人間に佐内たちの動きを知られることになる。それは好ましくなかった。
 というのも、草津の中には六角家の支配を快く思っていない者や、支配者の交代を機に零落の身から脱しようと考える者が少なくないからだ。そういった者たちが佐内たちの行動に気づけば、三好の陣地に駆け込んで三人衆に取り入る手だてとするかもしれない。


 そういった理由から、集められる兵の数には限度がある。
 多勢を集められないのであれば、今いる兵で何とかするしかない。そして、少数の兵は精鋭でなければ意味がなかった。
 当然ながら一日二日の訓練で精鋭部隊がつくれるわけもなく――
「そこで出てくるのが鉄砲、ということになるわけじゃな」
 海の外より鉄砲が渡来してからすでに幾年も過ぎている。草津の町にも鉄砲は入ってきており、左内も十丁ほど所有していた。
 この十丁に、新たに購入した十丁を加えた二十丁の鉄砲、これを左内は己の私兵にもたせて連日の訓練を行っていた。
 ただ撃つだけでは芸がない。いま佐内の兵が四苦八苦しているのは、鉄砲の早込め、早撃ちの練習である。



「おお、様子はどうじゃ」
 耳をつんざく轟音が響く練兵場は、立派な建物や設備が置かれているわけではなく、荒くれ者たちが大騒ぎしても町人の迷惑にならないよう開けた土地を開放しているだけの場所であった。
 だだっ広いだけがとりえの練兵場には、以前はなかった小山が幾つも見て取れる。そこらの土を積み上げてつくった小山の前には、敵兵に見立てたカカシが突き立てられており、兵たちはそのカカシめがけて何度も何度も鉄砲を撃ち放っていた。まるでそのカカシが親の仇であるかのような形相で。
 少しでも気を緩めれば鬼教官の猛特訓が待っている。気を抜いている暇なぞまったくない。自然、顔つきも険しくなろうというものであった。



「あ、左内さん」
 左内の姿に気づいた鬼教官――鈴木重秀がぺこりと頭を下げる。その動きにあわせ、ほつれた黒髪が重秀の左頬に張り付いた。
 その顔が常よりも凛々しく見えるのは、額にしっかりと結ばれた黒地の額当てのためか。重秀は早朝からこちら、火薬の熱と硝煙の臭いが立ち込める場所で激しい指導を繰り返しているため、おそらくはもう衣服の下まで汗まみれになっていることだろう。
 もっとも、当人はまったく気にする様子を見せておらず(慣れているのだろう)左内に向けられた言葉は常とかわらない平静なものであった。


 左内から進展を問われた重秀は、おとがいに手をあてて進捗状況を口にした。
「完璧に、とはもちろんいきませんが、実戦で慌てることのない錬度までは持っていけると思います。これだけ弾や火薬があれば、いくらでも試し撃ちができますからね」
 そういった重秀は、ここで申し訳なさそうに佐内の顔をうかがった。
「使いたいだけ使っていいと云われたのでそうしているんですが、大丈夫なのでしょうか? 弾にせよ火薬にせよ、決して安いものではありません」
「かまわんよ。蔵に貯めこんでいたのは使うべきときに使うためじゃからの。まあ、試し撃ちに使いすぎて、いざ敵と戦うときに弾がない、などというのは勘弁願いたいが」


 冗談まじりの左内の言葉に、重秀は心得ているというように生真面目にうなずいた。
「あ、それはもちろんちゃんと考えてます。手先の器用な人たちには早合(はやごう)づくりにまわってもらっていますので」
 早合とは、あらかじめ鉛弾や火薬などを詰めこんだ弾薬包のことで、雑賀衆はこれを用いて鉄砲の発射間隔を短縮させている。重秀は兵を訓練するかたわら、それを大量につくらせているのである。幸い、早合作成に必要な物はほとんどそろっていたし、足りなかったものも左内の手配ですぐに手に入れることができた。


 左内は満足げにうなずくと、先ほど天城に伝えた情報を重秀にも伝えた。
「ならば問題なし。先ほどそなたの雇い主にも申したが、三好と六角がぶつかりおった。我らが動くのはもう間もなくじゃろう」
「承知しました。そろそろ訓練の仕上げに入りましょう。その後で私も出陣の準備を整えておきます」
 重秀は表情を引き締めてうなずく。その後ろでは、会話の断片を聞き取った兵のひとりがいまにも倒れそうな顔でうめき声をあげていた。それに気づいた重秀は、脳裏の訓練表に新たな一項を書き加える。


 と、目の前の左内がなにやら不思議そうな顔で自分を見ていることに気づき、重秀は首をかしげた。
「あの、左内さん。私の顔に何かついてますか?」
「いやなに、たいしたことではないのだが。そなた、戦場に出る気まんまんのようじゃと思ってな」
「へ? それはもちろん出るつもりですけど?」
 左内の問いかけの意味がわからない重秀は目を瞬かせる。 


 そんな重秀を見て、左内は短く苦笑した。
「そなたの雇い主は、そなたを連れて行きたくはないようだったがな。ここで死んでは、貴重な鍛冶師を主君に推挙することができなくなろう」
「その主君が危険な目に遭っているのですから、私も頑張らなくては。それに、いまの私は鍛冶師より先に護衛です。ここで引っ込んでいるわけには参りません」
 さらっと言い切る重秀を見て、左内は目に興味の色をちらつかせる。
「ふむ、なるほど。聞けばそなた、颯馬たちと行動を共にするようになって一月と経っていないという話だが、何故にそこまで尽くすのだ?」
「何故、ですか? えーと、なんといったらいいのでしょう」


 問われて考え込む重秀。理由がわからないというわけではなく、自分の中にある感情をどう表現したら良いかわからない、という風であった。
「むむ……そうですね。ここしばらく、内でも外でも何かと鬱屈することが続いていまして。そんな時、天城さまからのお誘いがありました。それを聞いて、まわりの環境をかえるには良い機会だと思ったことが一つ。それともう一つ、天城さまと初めてお会いした時に感じたことがあるのです」
「ほう、それは?」
「この人についていけば、鬱屈とは無縁の人生を送れるのではないかな、と」
 その重秀の言葉を聞いて、左内は納得したような、それでいて残念なような、複雑な表情を浮かべた。 


「なんじゃ。色めいた話ではないのか」
 重秀は目を丸くし、困ったように微笑んだ。
「あはは、残念ながら。出会ったばかりの殿方に恋心を覚えるほど惚れっぽくはないつもりです。話していて楽しい方だとは思っていますけど」
 そう云った重秀は、ここで問われる側から問う側へ立場を入れ替えた。
「左内さんこそどうして天城さまに協力を? 私が一月経っていないというなら、左内さんは十日も経っていませんよね。それに私の場合、自分ひとりの進退だけで済みますが、左内さんは家も財産も家人の方々もいらっしゃいます。軽々に厄介事に関わってはいけないと思うのですけど」


 重秀の問いを受け、左内はさして迷う様子もなく口を開く。
「このまま傍観しておれば、遠からず三人衆の兵が草津にはいってきおる。弾正(久秀)の書によれば、三人衆は三好家中で孤立しつつあるというし、軍資金は喉から手が出るほどに欲しいであろ。それこそ何をおいても、な。となれば、足利将軍を討ち取った彼奴らが草津で何をするかは容易に推測できるというもの。身共と颯馬の利害は一致しておるわけじゃ」
「天城さまは必ずしも六角家の味方というわけではありませんが、その点はどうお考えなのですか? この地で商いをしていれば、望むと望まざるとに関わらず、六角家と関わりを持つことは避けられないはずです」
「たしかにの。だが、大名というのは大抵が高い税をふんだくることしか頭にないでな、六角も例外ではない。余人は知らず、身共が彼の家に義理立てする理由はないよ。ま、積極的に滅ぼそうとするほど恨んでいるわけでもないがね」


 それに、と左内はつけくわえた。
「青地の城主どのとはそれなりに付き合いがあっての。配下にならぬかと誘われたこともある。その危難を見過ごすのは少々気が咎める――と、まあ、このあたりはすべて後付の理由なのじゃが」
「え?」
 真剣に聞き入っていた重秀の口から間の抜けた声がこぼれおちる。
 その顔を見てころころと笑った佐内は、自身が協力を決断した瞬間を思い出しながら言葉を続けた。


「本当はの、初めて会うた時に決めていたのよ」
「初めて、というと、あの時のことですよね……?」
 自分が目にした光景を思い浮かべ、重秀はかすかに頬を赤らめた。改めて思い出すまでもない。なにしろ、案内されて襖を開けたら、銭の上で裸の美女が寝そべっていたのだから。たぶん一生忘れられない光景になった。


「ん、そうじゃ。あの時、颯馬のやつ、じっと身共を見つめておったじゃろ? 気づいた吉継に頬をつねられておったが」
「あ、あはは。そうでしたね」
「そなたも道端の馬のフンでも見るような目で、颯馬を睨んでおったかな?」
「そ、そこまでひどい態度はとっていなかったと思いますけど!?」
 慌てて抗弁する重秀を見て、左内はチェシャ猫のような顔をした。
「今さらではあるが、颯馬の弁護をしておこう。あの時、颯馬はなにも身共の胸やら腰やらを見て鼻の下を伸ばしておったわけではないぞ。あれは見定めておったのよ」
「見定める?」
 怪訝そうな声に、左内はうなずきで応じた。
「そう、見定めておった。目の前にいる女は、己の目的に資する人間であるや否や、と」



 久秀の書状を持ってきた人間を裸身で出迎えたのは、左内なりに相手の器をはかるための手段であった。
 その左内の目論見を、おそらくは一瞬で見抜いた天城は、色欲とは異なる眼差しで左内を凝視していた。
 床の銭にも、眼前の女体にも関心を払わず、ただ相手の器量だけを量ろうとするその視線に左内は感じ入った。同時に、かつて感じたことのない興奮を覚えた。この相手ならば、金だとか女であるとか、そういった余計な面に惑わされることなく、ただ武士としての岡佐内を見てくれるかもしれぬ、と。





「ま、身共の考えすぎかもしれんがの」
 あっさりと前言を翻した佐内に、重秀はあやうくズッコケそうになった。
「そ、そうなんですか? 後で天城さまに謝らなければと思ってたところなんですけど」
「身共の身体を見たことを眼福と申しておったし、まったく興味がないわけでもなかろ。反応が利兵衛とさして変わらぬあたり、少々年齢にそぐわぬ気もするが、衆道にうつつをぬかすよりは良いのではないか?」
「あの、訊ねられてもお答えしようがないというか、話があらぬ方向へ逸れている気がします」
 指摘され、左内はぽんと手をうった。
「おお、そうじゃな。別に颯馬の性癖を探る話ではなかったわ」
「はい。一切合財、まったく関係ありません」 


 呆れたようにかぶりを振る重秀に対し、左内は言葉を捜すようにふっと空を見上げた。
「というて、もうだいたいのことは話してしまったしの。ああ、己の素性を隠すことなく口にしたのも良い印象を受けたな。費やした銭についても回収の目処はたてておるし、強いて弾正の紹介をはねつける理由もなかった。そういった諸々を重ねていけば、逆に協力しない理由がなかった、とも云えるかもしれぬ」
「そうでしたか。ところで、銭の回収というのは?」
「律儀な颯馬のこと、苦労の最中に受けた恩は忘れまいし、謙信公もまた世に聞こえた正直者。二人が越後へ戻らば、投じた銭は五倍にも十倍にもなって返ってこようぞ」
「事が成らなかった時には、銭ばかりか命まで失ってしまうことになります」
「ふふ、なかなか押してくるの、雑賀の姫。ま、よい。この場合、事ならなかったというのは身共が武運つたなく死んだ時か、颯馬が策を誤った時か。そのいずれかということになろうが――」


 左内は空に向けていた視線を重秀に戻し、にやりと口角をつりあげた。
「身共が死んだならば、それは戦機を見誤ったということ。颯馬がしくじったならば、それは身共が賭けるべき者を見誤ったということじゃ。言葉をかえれば、利殖の道に携わる者として投機を見誤ったということになる。いずれにせよ、岡佐内は機を見る程度のこともできぬ人間であった。だからこそ、事が成らなかったのじゃ。そのような者が長らえたところで何になる? 惜しむ必要もなければ、悔やむ必要もない。大の字になって往生し、せめて野の獣どもの腹を満たせることを喜ぼうぞ」


 構えることも、言いよどむこともなく云い切る左内の顔を、重秀はじっと見つめる。
 常々とらえどころがないと感じていた左内の為人。
 その一端を、このとき重秀は確かに掴んだ気がした。




◆◆





「次の狙いは青地城か」
 町中の話題が合戦一色に染まるまで、かかった時間はごくわずかだった。
 もともと草津は旅人や商人といった噂の運び手には事欠かない上、瀬田の戦いで敗れた兵たちが三々五々、草津に流れ着くようになったからである。
 彼らの口によって噂は事実に変じ、たちまち町は騒然とした空気に包まれていく。そんな中、俺たちは世話になっている左内の屋敷で今後の作戦を検討していた。


 左内が地図を広げ、青地城を指差した。
「青地城の主は青地茂綱どの。兵は精々五百といったところかの。対して三好軍は先陣が三好政康の二千。その後ろに岩成友通の、これも二千。三好長逸の所在は判然とせぬが、この配置から考えるに、まず間違いなく瀬田城の守りであろうな。真っ向からやりあえば六角軍に勝ち目はない。茂綱どのは篭城を選ぶじゃろ」
「ここで野戦を挑むような武将なら無視するしかないから、それはありがたいな。六角軍に援軍は?」
「ない。近辺の城主はいずれも自分の城を守ることに手一杯のようじゃ。観音寺の義治どのが動いたという報も届いておらぬ。ま、あちらはあちらでそれどころではないのであろうな」
「観音寺騒動、か」


 左内の言葉を聞いた俺は腕を組んで考え込んだ。
 六角義治が断行した重臣排除の話は左内経由で耳にした。おそらく、タイミング的には俺たちが京を離れた前後に起きた出来事だろう。
 三人衆が突如として六角家に攻め入った理由は、おそらくこれにある。六角家の大騒動を察知し、今こそ好機であると見なした三人衆は、自分たちが申し出た共闘を足蹴にして進撃したのだろう。
 ならば、彼らの作戦は一気呵成の江南制覇、それ以外にありえない。六角家に立ち直る猶予を与えないためにも、背後の久秀に策動の余地を残さないためにも、速攻こそ三人衆がとりえる唯一の選択であろう。


 ほぼ全軍を青地城に叩きつけようとしている三好軍の配置も、俺の推測を肯定するものであった。
 援軍のない青地城は、このままでは為す術もなく陥落する。三人衆の思惑どおりに。
 青地城の将兵にとっては絶体絶命の窮地だろう。
 しかし、申し訳ないが、俺にとっては願ってもない戦況であった。
「急いでいる時に横からちょっかいを出されることほど鬱陶しいものはないからな。くわえて、窮地を救われたなら、六角家もこちらの云うことに耳を傾けざるをえなくなる」
「他者の窮地は己の好機である、か。策士とは怖いものじゃ」
「利殖の道も似たようなものじゃないのか? まあそれはともかく、正面から挑んで勝てる数じゃない。よって、基本は後方の撹乱になる。精々小癪に動き回って三人衆の邪魔をしてやろう」


 そうしている間に城内と連絡をとって協力関係を確立させる。城の内外で呼応して、はじめて勝ちの目が出てくるわけだ。
 とはいえ、相手は四千近い人数である。わずか数十の手勢では撹乱といっても限度がある。向こうは三人衆の手勢に降兵をくわえた雑多な編成だが、こちらもこちらで左内の私兵と昨日今日雇い入れたばかりの浪人たちが主力である。ヘタをしたら戦いの最中に寝返りかねない。
 ……それはそれで一つの策として使えるわけだが、まあそれはもう少し後の話である。



「まずは搦め手で敵の兵を減らす。三人衆は軍資金確保のため、琵琶湖沿岸の流通を一手に仕切ろうとしているぞ、と草津の有力者にご注進申し上げよう。あながちデタラメってわけでもないから、それなりの信憑性はあるだろう。しかる後、堅田衆にもこの旨を伝える」
「本命はそちらか、颯馬?」
「ああ。堅田衆にしても、三人衆が水運で幅を利かせるようになるのは望ましくない。噂ひとつでいきなり敵対したりはしないだろうが、軽い威嚇くらいはするんじゃないかな。俺たちの縄張りに手を出すな、という感じで」
 三好軍の内訳を見る限り、瀬田の守りはおそらく最小限に留めている。もし久秀あたりに背後を突かれてしまえば苦戦は免れない。おそらく、いざとなれば瀬田橋を落として守勢に徹するつもりなのだろうが――



 ここで、それまで黙って地図を見つめていた吉継が口を開いた。
「水の上を行き来する海賊が相手では、橋を落としたところで足止めにはなりません。となれば、ある程度の兵力を戻して守りを固める必要がありますね」
「そのとおり。何なら三人衆に、堅田衆が怪しい動きをしてますよ、と伝えるのも手だな。情報の正誤を怪しまれたとしても、まるきり無視するわけにはいかないだろう」
 それを聞いた吉継の目に危惧が浮かぶ。
「お義父さま。松永どのの話を聞くかぎり、三人衆はまがりなりにも畿内を制してきた実力者なのでしょう? その彼らが堅田衆に何の手だても講じていないとは思えません」
 三人衆は彼らの利権を安堵して味方につけ、背後を固めた上で出陣したのではないか、と吉継は云う。 
 その言葉には一理も二理もあった。近江に馴染みのない俺が考え付く程度のことを、三人衆が思い至らないはずはない。


 しかし、こと今回に限っては吉継の危惧は杞憂であろう、と俺は判断した。
 その理由を口にする。
「三人衆が今回のことをすべて最初から企んでいた、というなら根回しの一つ二つ、必ずしていただろうけどな。連中は御所襲撃の後、都を出されて近江との国境に布陣した。対峙している六角家を唆して謙信さまを捕らえさせたと思ったら、観音寺騒動直後に近江に侵入し、その六角家の城を落として江南に欲を見せている。その時その時で最善の手を打とうとしているのは感じられるが、一貫性がまったくない」
 端的にいえば場当たり的行動というやつだ。
 おそらく二条御所襲撃以降の展開は三人衆にとっても誤算の連続だったのではないか。その三人衆があらかじめ琵琶湖南岸の勢力に渡りをつけていた、とは考えにくい。
 使者を出していたとしても、それは唐橋夜戦以後のこと。その程度の短い期間で、複雑な利権が絡み合う話し合いを完遂させるのは、ほぼ不可能であろう。


 俺はそう云った後、次のようにつけくわえた。
「もっとも、岩成友通あたりはかなりの切れ者のようだし、もしかしたら堅田衆を説き伏せているかもしれない。俺では思いつかない手づるがあるかもしれないしな。もしそうだとしたら、こちらは相手の奸智を罵って、野戦に活路を見出すしかない。青地城を見捨てるのも一つの手段だな」
 当たり前の話だが、三好軍は攻めれば攻めるほど、勝てば勝つほど領土を増やすことになる。結果、守るべきものは増えていき、将兵を分散させざるを得なくなる。三人衆が固まって行動することも難しくなっていくだろう。
 そうなってから、三人衆をひとりひとり片付けていく、という選択肢もあるのだ。


 吉継はそっとため息を吐いた。
「……どう考えても奸智を罵られるのはこちらだと思いますが、それはさておき、お義父さまの考えは理解しました。堅田衆を唆すのはあくまで数ある策のひとつであり、その成功は欠くべからざることではない、ということですね」
「そういうことだな」
 俺はうなずいた。何故だか呆れられた気がしたが、今の話で俺が呆れられる要素はないはずなので、きっと気のせいだろう。


 俺は熱心に地図を眺める吉継の横顔をそっと見やった。
 近江は吉継にとって生まれ故郷になる。あまり良い記憶がないであろう故郷に帰ってきた吉継のことを少しだけ心配していたのだが、どうやらこちらも杞憂であったらしい。重秀と何やら語り合っている吉継の顔に暗い影はなく、間近に迫った戦にしっかりと備えている様子がうかがえた。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/23 20:30

 南近江 青地城


 青地城は小高い丘の上に建てられた平山城である。
 平地に築かれる平城よりは防衛に適しているが、山中に築かれる山城ほどの堅牢さは期待できない。
 ゆえに、城主の青地茂綱は城の周囲に分厚い土塁を築き、あるいは深い堀を穿って敵襲への備えを怠らなかった。
 三好三人衆の一、三好政康の猛攻に晒された青地城が早期の陥落を免れた理由の一つに、茂綱が丹念に築き上げてきた防備が挙げられる。


 しかしながら、六角軍は余裕をもって敵勢を迎撃できたわけではなかった。
 主将である政康みずからが陣頭に立った三好軍の攻勢は苛烈をきわめ、あわやという場面はいくらも存在したのである。
 それこそ両手の指を使っても数え切れないほどに。
 



「敵軍およそ三百、またしても西の塁に取り付きました! このままでは西の守りが破られるのも時間の問題です!」
「ご報告! 敵将 三好政康、再び南門への攻撃を開始いたしました! 鉄砲隊を押し立てて激しく攻撃をくわえております! 南門の田島備前どのより、このままでは支えかねるゆえ至急援兵を、とのことッ」
 前線から入れかわり立ちかわり報告が届けられる。そのすべてが敵軍の激しい攻勢を告げるものであった。


 この悲鳴にも似た報告に対し、城主の青地茂綱は冷静に、そして的確に対応していく。
「西の塁の援護に、とりいそぎ五十、差し向けよ。指揮は直元、そなたに任せる」
「は、ただちに向かいまする!」
 茂綱が居並ぶ武将のひとりに命じると、心得た武将が足早に去っていく。
 間をおかず、茂綱は次の指示を下した。
「備前に伝えよ。あと一刻、否、半刻でよい、もちこたえよ」
 茂綱は窓からのぞく暗灰色の空を見据える。重く垂れ込めた雲は雨の気配を濃厚に宿しており、遠からず雨粒が落ちてくる、と茂綱は睨んでいた。
 雨さえ降れば鉄砲隊は簡単には運用できなくなる。門を攻め立てる敵の勢いも減じていくだろう。


 伝令を南門に向かわせた茂綱は、続いて東側の攻防に意識を向けた。
 今までのところ三好軍の主攻は西と南であり、東、そして北の方面は部隊こそ配置されているが、数は少なく攻勢も激しいものではない。
 しかし、だからといって油断はできなかった。三好政康は攻撃一辺倒の武将といわれているが、政康の背後には智略に長けた岩成友通がいる。三好軍は主攻を南、西に据えていると見せかけて、一転、北、東方面から急襲を仕掛けてくるかもしれない。城兵の数には限りがあるため、敵が急激に攻め手をかえてきた場合、対応できずに一挙に突破されてしまう恐れがあった。


「東門の父上――いや、蒲生家のご隠居から、何か云ってきておらぬか?」
「先刻の敵襲撃退の報が最後です」
 そうか、と茂綱はうなずいた。
「ならばよし。引き続き厳重な警戒をお願いして――いや、ご隠居ほどの歴戦の武将に対して、これはいわずもがなであるかな?」
 わずかにおどけてみせる茂綱を見て、束の間、本丸に詰めていた家臣たちの顔に笑みが浮かぶ。
 家臣のひとりがからかうように云った。
「さようですな。むしろ殿の方が、もっとしっかり指揮せんかい、と尻を叩かれるやもしれません」
「ご隠居ならやりかねぬ。この年で童のごとく尻を叩かれる羽目になるやもしれんとは。三好なぞよりご隠居の方がよほど恐ろしいわい」
 嘆ずるような茂綱の言葉に、たまらず家臣たちの口から笑声がこぼれおちた。


 当然ながら、青地家の家臣たちは茂綱が定秀の息子であることを知っている。
 茂綱が定秀のことをご隠居と呼ぶのは、自分はもう青地家の人間である、という覚悟のあらわれであったが、たとえ茂綱が定秀のことを父と呼ぼうとも、反感を覚える人間はこの場にはいなかったであろう。
 茂綱は青地家中の人心を掌握していた。


 と、その時だった。
 青地家の君臣が発した笑声に呼応するように、北の方角で激しい喊声が轟いた。たちまち茂綱らの顔から笑みが拭われ、鋭い緊張がとってかわる。少しの間を置いて、血相をかえた家臣が軍議の間に駆け込んできた。 
「も、申し上げます! 北方に新たに敵勢を確認いたしました。騎馬を中心にして、数はおよそ五百!」
「……ここで北か。三好め、大回りで兵を裏手にまわしたな」
 茂綱は小さく舌打ちすると、すぐに指示を出した。
「北門の将兵に伝えよ。野戦ならば知らず、城攻めにおいて騎兵は役に立たぬ。慌てることなく迎え撃て」


 手薄な北で騒ぎを起こして城内を混乱させ、あわよくば城兵を北に集めさせようという魂胆であろう。茂綱は三好軍の動きをそう見てとった。
 ようするに騎兵の機動力を活かした示威兼陽動であるが、そうと口にすれば将兵の心に油断が生じるかもしれない。先ほど思案したように、示威と見せかけてこちらが主攻である可能性もあるのだ。
 ゆえに茂綱は余計な推測は口にせず、ただ落ち着いて迎え撃て、とだけ命じた。その命令に応じて、これまでにもまして軍議の間が慌しく動き出す。
 青地城をめぐる攻防はまだ始まったばかりであった。




◆◆




 馬上、南門攻めの指揮を執る三好政康の周囲には城門、櫓からの攻撃が集中していた。
 だが、雨のような矢石に晒されながら、政康は臆する風もなく馬を進め、兵たちを前へ前へと駆り立てていく。
 警戒する素振りなどつゆ見せぬ。敵の攻撃が我が身を傷つけることはないと確信しているかのような振る舞いは、味方から見れば頼もしく、敵から見れば面憎いことこの上なかった。


「射よ、射よ!」
「大将首ぞ、討ち取って手柄にするのだッ!!」
 城門から怒声と共に矢が降り注ぎ、散発的な銃声が湧き起こる。
 口角をつりあげた政康が名刀 三日月宗近を一閃させると、両断された矢が数本、地面に落ちた。
 唸りをあげて耳元を通過していく銃弾に眉ひとつ動かさず、城門の兵の様子をうかがっていた政康が、不意に唇を歪めた。いかにも愉しげに。


「ふん、慌しくはあっても、乱れた様子はなし。この分では騎馬を北に回した効果も期待できないな。瀬田の山岡といい、六角はなかなかに良き将を抱えている」
 先ごろ陥落させた瀬田城の敵将を思い起こしながら、政康はあっさり作戦の失敗を認めた。
 そして、まあいい、と呟いて思考を切り替える。
 別に負け惜しみを云ったわけではない。このまま東西南北、四方を囲んで攻め続ければ、遠からず城中の兵は力尽きる。それがわかっていれば、一つ一つの作戦行動の成否に一喜一憂する必要はないのだ。
 つけくわえれば、現在、城を攻めている兵の大半は先の戦いで降伏した兵か、そうでなければ新たに三人衆のもとに馳せ参じた者たちである。強引な力攻めをして彼らの被害が増えたところで政康は何の痛痒も感じない。


 ――もっといえば。
 本来、政康は本陣で彼らを指揮していれば良かった。後方の岩成友通からもそのように念を押されている。友通は別段、政康の身を案じたわけではなく、江南征服の緒戦で三人衆のひとりが欠ければ士気に響く、と案じただけであったが、それはともかく、政康は友通の言があったにも関わらず、こうして前線に身を晒し続けていた。
 その理由は何かといえば、単に政康自身が戦いたかったからに他ならぬ。
 友通が聞けば眉を吊り上げたであろう。しかし、実のところ、この政康の行動は青地攻めの三好軍におおいに益していた。もし政康が本陣に腰を据え、新参者や降兵たちだけを死地に投じていれば、彼らは反感を禁じえなかったに違いない。
 しかし、実際には政康はためらうことなく相手の攻撃の矢面に立ち続け、命を懸けて青地城を攻め立てている。それを目の当たりにした兵たちは感奮興起し、次々と敵城の厚い防備にとりついていった。



 結果として、この日、三好軍は城を落とせずに一旦兵を退くことになる。
 降り出した雨に衣服と防具を濡らし、濡れ鼠となって陣営に戻った三好軍。しかし、陣幕に戻った彼らの顔に惰気や厭戦の気配が漂うことはなく、それどころか、明日こそ城を落としてやろうという決意と戦意に満ち溢れていた。
 そこかしこで今日の戦での己の武勇を誇る声があがり、また、そんな彼らをはやし立てる声も起きて、陰鬱な夜雨などものかは、野太い笑声が陣幕の内外を賑やかに彩っている。



 三好政康の戦好きが起こした意図せぬ高揚。
 三好政康をして三人衆の一角に押し上げた力の源泉。
 それは本来雑多であるはずの将兵に確かな連帯感を与え、攻城軍はただ一戦にして猛将と精兵の集団へ変貌しようとしていた。



 青地城に立てこもる将兵にとってはなんとも厄介な敵の出現である。城兵は遠くから届く敵陣の騒ぎを聞いて暗い顔を見合わせた。
 青地茂綱、蒲生定秀ら諸将の顔も険しい。
 定秀の入城により蒲生家の更なる援軍の到着は周知されており、これは城兵の戦意を保つ一助となっている。しかし、即座に戦える蒲生兵は余さず定秀が連れてきており、日野城の賢秀が次の援軍を編成し終えるまでにはまだまだ時間がかかる。
 賢秀が来着するまで敵の攻撃を耐えしのげば味方の勝利である――茂綱たちはそういって兵を鼓舞しているのだが、では実際に賢秀が来れば勝てるのかと問われれば返答に窮した。


 三好政康率いる兵は二千弱。賢秀が兵をかき集めれば、これに等しい数をそろえることは十分に可能であるが、それはあくまで数の上でのこと。錬度や武装において、畿内を制した三好軍には及ぶべくもない。おまけに、三好軍には後詰が控えているが、蒲生軍にそれはないのである。
 敵の戦意の高さを思えば、賢秀が到着したところで兵を退くことはないだろう。苦戦は免れぬ、と茂綱たちは密かに腹を据えていた。




 かくて夜は更けていく。
 両軍の将兵は明日の戦に備え、雨滴の音を慰みとして眠りに落ちた。運悪く歩哨の役目を負うことになった兵士は、不安と緊張に晒されながら、雨の向こうからいつ敵があらわれるかと目をこらす。
 三好軍は敵城を睨み。
 六角軍は敵陣を見据え。
 雨滴の弾ける音は周囲の音を遮った。


 ゆえに彼らは気づかなかった。
 戦場の外から、ひそやかに両軍を見つめる一団の存在に。




◆◆



  
 明けて翌日。
 自軍の誰よりも早く目を覚ました三好政康は、兵が用意していた(いつものことなので夜番の兵が準備していた)湯漬けを盛大にかっ食らうと、ひらりと愛馬にまたがった。
 そして兵が揃うのも待たずに城攻めを開始する。
 周囲はまだ夜のように暗い。厚い雲が上空を覆っているためでもあるが、それ以前に、まだ朝日が東の空に顔を出すか出さないかという時刻なのである。


 三好兵も驚いたが、もっと驚いたのは城内の六角兵であった。
 まだ夜といってもいい時間に、突如として敵陣から喊声が湧き起こり、敵将みずからが先頭に立って突っ込んできたのだ。
 夜襲を警戒していた部隊も、もう大丈夫だろう、と心の甲冑を脱いでいた時間帯であった。味方である三好兵の大半が気づいていなかったのだから、当然のこと、敵陣の動きから襲撃を察することもできない。
 敵味方、双方の意表をついた政康の朝駆けにより、この日の攻防は幕を開けたのである。




「夜討ち朝駆けは武士のならいであるか。己の半分も生きておらぬ小僧っこに先手を打たれるとは、少々戦から離れすぎたやもしれん」
 敵襲の報を受けた定秀は自戒の言葉を口にしつつ兜をかぶる。
 甲冑を着たまま眠っていたため、兜をかぶり、槍をとれば戦う準備は完了する。昨日、東側を守っていた定秀の部隊は比較的被害が少なかったため、茂綱と相談の上で昨夜のうちに南門への配置換えを終えていた。
 南門は初日の攻防で最も激戦となった部署であり、それは今後もかわらないだろう。この配置換えは定秀が(しつこく)願い出て、茂綱が(しぶしぶ)受け容れた結果である。
 望んで激戦の場に身を置いたのだ。定秀としてはここで醜態を晒すわけにはいかなかった。


 老身とは思えない軽快さで城門脇の櫓にのぼった定秀は、周囲の兵士に大音声で命じた。
「敵将ばかりに気をとられるな! 大将首ではなく、必中をこそ心がけるのだ! 鉄砲隊は敵を十分にひきつけてから撃ち放て。弓兵も同様じゃぞ!」
 先夜から降り続く雨幕をおしのけるような定秀の大声に、周囲の蒲生兵から力強い返答がなされる。
 定秀は配下の反応に満足したが、その顔には依然、厳しい表情がはりついたままであった。


 早くから鉄砲の有用性に着目し、城下の刀鍛冶を鉄砲鍛冶にかえるなど鉄砲の研究と保有に力を尽くしてきた定秀は鉄砲の弱点を知悉していた。
 屋根に守られれば雨を避けることはできる。屋根がなくとも、火口を覆う「雨覆い」などを用いれば雨中で鉄砲を撃つことは可能であった。
 しかし、直接の雨滴は避けられても、湿った空気が火薬をしけらせてしまうのはいかんともしがたい。たとえ城中からの射撃であったとしても、天候によって不発率は格段にはねあがってしまうのだ。
 敵の鉄砲の脅威が減るのは確かだが、こちらからの射撃も確実性に欠けるものとなってしまう。定秀にとって昨日から降り続く雨は痛し痒しであった。



 ただ、その事実を踏まえても守城における鉄砲の威力は抜群であり、三好軍の攻勢は降り注ぐ鉛弾によって幾度もせき止められた。
 昨日に比べ、鉄砲の数が明らかに増していることに気づいた政康の視線が、城壁上の一点に吸い寄せられる。
 夜のような暗がりの中、櫓の篝火にぼんやりと照らされた軍旗には、向かい合った二羽の鶴が描かれていた。青地家の家紋は『隅立て四つ目結』である。『対い鶴(むかいづる)』ではない。
 これを家紋とする家といえば――


 政康は得心したようにうなずいた。
「なるほど、そういえば青地の当主は蒲生の縁者だったな」
 蒲生家の兵が参戦したとすれば、城中の兵は事前の予測より多いことになる。無理押しをすれば手痛い反撃を食らうことになるかもしれない。
「重臣を粛清したばかりの義治に大軍を編成する余裕はない。他の国人衆も現状では容易に兵を動かせぬ――それが友通の見立てであったが、外れたな。しかし、昨日の手ごたえからして、千や二千の援軍が入っていたとは思えない。精々二、三百というところだろう。その程度ならばこのまま力攻めで押しつぶせる」
 そう判断した政康は、城への圧力をさらに強めていった。
 一方で、蒲生家の更なる援軍の存在を慮り、東への警戒を指示したのは政康が単なる猪武者ではないことの証左になるであろう。城の東側に展開していた三好軍は、政康の指示を受けて東方に物見を放ち、敵の増援に備えた。




 青地城を囲む鉄環は確実に狭まりつつあり、城内の将兵をじわじわと絞めつけていく。
 前線に踏みとどまる政康の指揮ぶりに意気あがる三好軍は、度重なる敵の反撃にも怖じることなく攻撃を続け、その猛攻を前に城兵は一人、また一人と倒れていった。
 攻める三好軍はそれ以上の数が倒れていたが、攻勢は一向に緩む気配がなく、時を経るに従って茂綱や定秀の顔にも焦慮の色がちらつきはじめる。
 このままいけば多くの敵兵を討ち取ることができるが、代償として城内の味方が磨り潰されてしまう。五百の味方で千の敵を討ち取ることができれば大戦果であるが、結果として城を失ってしまえば、どのような奮戦も空しいだけだ。


 むろん、無意味ではない。この後に続く六角軍にとって、千の敵兵がのぞかれることは大きな意味があるだろう。当主の義治などはむしろその戦いを茂綱らに期待しているに違いない。
 だが――


「わしらにはわしらで、守るべきものがあるからのう」
「そのとおりです。主君から捨て駒たるを望まれようと、それに甘んじる義務などござるまい」
 昼過ぎ。
 早朝から攻めに攻め続けた三好軍が一時的に兵を退いた。おそらく死傷者の収容と部隊の再編成のためだろう。
 その合間をぬうように本丸に戻った定秀は、今日は西の塁で激闘を繰り広げていた茂綱と顔をあわせ、短く言葉を交した。
 六角家を裏切るつもりはないが、酷薄な軍略の駒として我が身と臣下、一族を犠牲に捧げるつもりはさらにない。精々予測を上回る戦果を見せつけて、観音寺の者たちが慌てて腰をあげざるをえないようにしてやろう。
 父子は疲労の滲む顔に不敵な笑みを浮かべて笑いあった。



 三好軍が再び攻め寄せてくるまで、かかった時間は四半刻に満たなかった。三好軍にしても疲労や損害は無視できない域に達しているはずだが、ここで時間をかけて城兵に立ち直る時間を与えるよりは、強引にでも攻め続けて一気に勝敗を決する方を選んだのだろう。三好政康の戦法ははじめから一貫している。
 政康に率いられた三好軍は旺盛な戦意をもって青地城へと攻めかかり、彼らの注意はことごとく前方に向けられた。



 ――三好軍の陣中に異変が起きたのはこの時である。



◆◆




「も、申し上げます! 本陣が敵の一団の襲撃を受けましたッ!」
 先陣で指揮をとる政康がその報告を聞いたのは、再度の城攻めをはじめて間もなくのことであった。
 政康は目をいからせて報告をした兵に問いただす。
「なんだと? 敵、とは六角軍かッ!?」
「そ、それが……」
 兵士は一瞬言いよどんだが、すぐに振り絞るように声を押し出した。
「襲撃してきた者どもは旗指物の類を持っておらず、武装もバラバラで、いずこの兵とも見当がつきませぬ! 数は五十あまりです!」


 それを聞いた政康の眉間に深いしわが刻まれた。
 総大将である政康がたえず前線に出ているため、精兵の多くは前線に出向いている。本陣にいるのは、政康が長逸から預かった直属の兵だけで、彼らをのぞけば他は大半が負傷した兵ばかりであった。
 長逸直属の兵たちは、まさか背後から攻められるとは予想だにしていなかったのだろう、突如あらわれた敵兵に驚き、慌て、突き崩されてしまったという。
 もっとも、攻め手の数が数であり、相手も戦果に固執することなく素早く退いたため、被害はさほどでもないとのことだった――人的被害に限っては、であるが。


 政康は鋭く舌打ちした。
 視線が後方の本陣に向けられる。雨の中のこととて注意しなければ気づかないほどであるが、たしかに黒煙が立ち上っていた。
「兵糧を焼かれたか?」
「は、はい、申し訳ございません! し、しかし幸い、すでに火は消し止めております。損害はわずかであり――!」
 慌てて言い募ろうとする兵士に、政康は短く訊ねた。
「弾薬は?」
「……ッ」
 兵士が言葉を詰まらせる。が、隠しだてはならぬと判断したのだろう、力ない声で答えた。
「火は消し止めました。しかし、陣幕が焼かれたことで、大半の火薬が雨に晒されてしまい……」
「使い物にならぬ、か」
 再度、政康は舌打ちする。



 報告に来た兵は恐縮し、雨と血でぬかるんだ地面に這いつくばった。
 奇襲で被った損害は致命的なものではないが、それが免罪符にならないことは明白である。特に、ひとたび水に濡れた火薬は、乾かせばまた使えるというものではない。いかに不意をつかれたとはいえ、また本陣の兵そのものも多くなかったとはいえ、それでも寄せ手の倍以上の兵が本陣を守っていたのだ。
 たかだか五十程度の兵にその守りを破られては釈明の余地がない。最悪、この場で政康に斬り捨てられるかもしれなかった。長逸直属の兵とはいえ、無能な味方に容赦する政康でないことは、三好家のすべての将兵が承知している。


 報告に来た兵はそのように考えて恐懼していたのだが、政康の意識はすでに兵から離れていた。
「旗指物はなく、武装も統一されていないとなれば、正体は物資欲しさの野武士というのが相場だが、それにしては動きが大胆だ。襲撃に成功しておきながら物資を焼くというのは解せんし、それ以前にこの雨で火を放って何をするつもりだったのか」
 雨が降り続ける中、火を放ったところで物資を焼き払うことは難しい。そんな理屈は子供でもわかることだ。それをあえてしたのは、相手がその程度のことも考え付かない粗野な盗人であったからか。
 しかし、考えなしの野盗にしては、本陣襲撃の間合いが的確すぎる。三好軍の注意が城に集中し、さらに城攻めが始まって容易に退却できない頃合を見計らって突入してきた。偶然にしてはできすぎている。


(……偶然ではないとしたら)
 政康は考える。
 この巧妙な襲撃が物資を目的としたものでないのなら、考えられるのは少しでも三好軍に打撃を与えることだろう。
 現在の三好軍は補給路が確立できておらず、わずかな損失も後々大きく響いてくる恐れがある。敵がそのことを理解した上で、少数の兵で可能なかぎり打撃を与えようと考えたのであれば、敵の動きに矛盾はなくなる。


 となると、やはり相手は六角兵か。
 しかし、六角家が三好家の内情――三人衆が家中で孤立しつつあることを察知し、補給の不備につけこもうとしたのなら、襲撃の兵数はもっと多くなりそうなものだ。
 政康はひれ伏したままの兵に視線を戻すと、低声で確認をとった。
「敵のその後の動きは? まさか確認していないということはないだろうな?」
「は、はい! 敵は南の方角へ逃げ散っており、おそらく鶏冠山に逃げ込むつもりかと思われます」
「よし、ただちに追撃せよ。それと、誰でも良いから後詰の友通の陣にはしって状況を伝えるのだ。一刻も早い来援を請え」


 この敵に後方をかき回されると厄介なことになる。かといって、ここで城攻めの手を緩めれば城内の兵が息を吹き返してしまうだろう。
 であれば、友通の兵を使って後ろの敵を叩き潰してしまえばよい。それが政康の考えであった。
 結果として己の失態を僚将に償わせることになり、友通に対して面目が立たない格好になるが、政康にその手の見栄やこだわりはない。ようは、最終的に政康が所属している側が勝てば良いのだ。自分の手で多数の敵を斬り殺した上での勝利であればさらに良い。


「いうまでもないが、最善は友通の手を借りずに我らだけで敵を始末することだ。己の失態は己の武勲で償え。他の兵どもにもそう伝えよ。この追撃で何の成果も出せなければ、叔父御の兵とはいえ覚悟しておくことだ」
「は、ははッ!」


 こけつまろびつ駆け去ってゆく兵士の後ろ姿を見やりながら、政康は冷静に思案していた。
 本陣襲撃の手際から見るに、おそらく鶏冠山の方もなんらかの策が施してあるだろう。追撃の兵がそれを打ち破ればよし、相手の策にかかったとしても、それで向こうの手の内を暴くことができる。その上で友通の兵を使って相手の思惑を押しつぶしてしまえば事は済む、と。



 かくて後方の厄介事に一応の指図をした三好政康は再び城攻めに注力する。
 ほぼ同じ時刻、岩成友通は瀬田城からの急報を受けて進軍をとめていたのだが、神ならぬ身には知る由もないことであった。

 


◆◆



 南近江 鶏冠山


「あま――ではない、北さまに吉継どの、ご無事でなによりですッ」
「御主人、ご無事でよろしゅうございました!」
 三好軍の追撃を逃れて鶏冠山に逃げ込んだ俺と左内を出迎えたのは、微妙に慌てた様子の重秀と、ほとんど半泣きになっている長束利兵衛であった。
 ちなみに重秀が口にした北というのは、いま俺が名乗っている偽名である。おおっぴらに天城颯馬を名乗っていると、いつ誰が俺の正体に気がつくか知れたものではない、ということで「北図書助相馬(きた ずしょのすけ そうま)」を名乗ることにしたのだ。


 俺が上杉家を離れてだいぶ経つので、正直なところ無用な心配だとも思うのだが、俺の名前が色々と妙な筋で知られているのは九国でも体験したことである。六角家の人間に上杉の縁者と悟られれば面倒なことになりかねない。念には念を、であった。
 偽名なら九国で使っていた雲居筑前でも良かったのだが、話を聞いた左内が「北国から来た客人(まれびと)よ、北で良かろ。あとは箔をつけるために、そうだな、図書助とでも名乗っておけばよい。ああ、それと『そうま』はそのままにしておくように。いまさら呼び名をかえるのは面倒じゃからの」等々、ほぼすべて決めてしまったのである。


 その左内は俺の隣でが呆れたように利兵衛の額を突っついていた。
「まったく。だからそなたは来る必要はないと云うたであろうに」
「ご、御主人が戦に出るというのに、ぼくが屋敷でじっとしているなんて、できませにゅ……ッ!」
 派手に台詞を噛んだ利兵衛に、左内はけらけらと笑いながら云った。
「心根は立派であるが、ろくに歯の根もあわぬでは格好がつかぬぞ。おのこであれば、そこは歯を食いしばって毅然としておれ」
「ひゃ、ひゃい!」


 痛そうに口元をおさえながら涙目でうなずく利兵衛。うむ、戦の恐怖に震えている本人には申し訳ないが、なんだかとても和やかな光景である。
 そんな風にほっこりしていると、重秀が心配そうに話しかけてきた。
「あの北さま、吉継どのもお怪我はありませんか? 傷薬は用意してありますが」
「ああ、大丈夫大丈夫。本陣といっても、ほとんどが負傷した兵だったしな。俺も吉継も怪我ひとつない」
 俺がそう云うと、吉継がため息まじりに補足した。
「それは確かですが、私が見ただけでも三度ばかり槍で突かれそうになっていました。手傷を負わなかったのは幸運のなせる業です」
「そこは敵の攻撃を華麗に捌いた俺の成長を誉めるところだろう」


 胸を張り、肩をそびやかして云ってみる。
 冗談まじりの言葉であったが、反応はじとっとした冷たい眼差しだった。微妙に吉継の眉毛があがって見えるのは、本気で心配しているのに茶化された、と思ったためか。
 俺は慌てて咳払いして表情を取り繕った。
 繰り返すが、本気で云ったわけではない。しかし、越後や九国で経験した数々の大戦に比べれば、敵の不意をついて少数の本陣に切り込むなど容易い部類に入るのも事実である。まして、今回の目的は敵の撃退ではなく、適当に暴れまわって火をつけるだけなのだから尚更だ。


 俺たちの襲撃で敵にどれだけの被害を与えられたかは正直わからない。うまいこと兵糧、弾薬を台無しにできれば云うことはないが、仮に消し止められていたとしても構わなかった。この作戦の肝は三好政康に対して「背後で小賢しく動き回る敵がいるぞ」と伝えることにある。
 その意味でも俺たちは無理することなく退くことができ、その余裕が俺の軽口に繋がったのである。


 しかし、吉継が口にしたように危険がなかったわけではない。重秀と一緒に残るように、という言葉を固辞して襲撃に加わった吉継の目に、俺の言動が軽薄に映ったとしても無理はなかった。
 場がなんとも居心地の悪い沈黙に包まれていく。冷や汗をかく俺を救ってくれたのは重秀の一言であった。
「むう、残念です。お連れいただければ、私もお役に立ちましたのに」
 言葉どおり、いかにも残念そうにかぶりを振っての台詞であったが、もしかしたら助け舟を出してくれたのかもしれない。その証拠に重秀の視線がちらちらと俺に向けられている。
 心得た俺はつとめて何気なく応じた。
「な、なに、この戦いはここからが本番だからな。主役はもったいぶって出てくるものさ」
 とっさにひねりだした言葉であったが、内容に嘘はない。
 三好軍が逃げる俺たちに追撃をかけたのは確認している。敵は間もなくやってくるだろう。その時こそ重秀に実力を発揮してもらわねばならないのだ。


「準備はできてるか?」
「お任せください。あの子たちも万全です」
 自信を込めていう重秀の背後には、利兵衛とさして年のかわらない子供たちが数人、いかにも不安げに佇んでいる。彼らも利兵衛と同じく岡家の使用人であり、進んで戦いに参加した身なのだが、主のため、というだけで恐怖を振り払えるものではない。不安を隠せないのは仕方のないことだろう。
 むしろ、先夜からの雨中の強行軍を、彼らが脱落者なしでついてこられたことに驚嘆すべきかもしれない。なんだかんだ云いつつも、左内は家人たちに慕われているようで、重秀があえて万全と口にしたのは、そういった彼らの芯の強さを鑑みてのことかもしれなかった。



 むろんというべきか、彼らも利兵衛も直接の戦闘には加わらない。彼らが武器をとるとすれば、それは三好軍が俺の策をことごとく看破して肉薄してきた時だけだろう。
 では、この子たちが何の役にも立たないのかといえば、そんなことはない。俺も左内も、役に立たない人間を心意気だけで戦場に連れてくるほど酔狂ではないし、そんな余裕もない。これから先の彼らは、ある意味で俺よりもずっと重要な役割を担うことになる。




 その時、不意に木立が激しく揺れ動き、ずぶぬれの兵士が駆け込んできた。
 左内が雇った私兵のひとりで、彼は三好軍とおぼしき集団の接近を告げる。それを聞いた俺は、髪を伝って落ちてくる額の雨滴を拭いながら云った。
「さて、嫌がらせ第二幕の始まりだ」
「……せめてもう少し言葉を選んでください、直截すぎます」
 嘆息しつつも律儀に言葉を返してきた吉継は、気を取り直すように軽く頬を叩き、腰の刀を抜き放った。俺と左内、私兵たちも同様に刀を抜き、あるいは槍の鞘を払う。
 騒然たる殺気が立ち込める空間の只中で、利兵衛たち少年組は不安そうに目を見交わしていた。





◆◆





 この時、鶏冠山に攻め寄せた三好兵の指揮を執っていた武将の名を若槻光保という。
 光保は三好長逸の配下であり、今回の青地攻めでは長逸からの援軍という形で政康の軍に加わっていた。
 政康が彼に本陣の守備を任せたのは、叔父の配下に無用の損害を与えないように、という配慮のためであったが、結果としてその配慮は裏目に出た。
 どこの誰とも知れぬ雑兵に本営をかき回された挙句、貴重な物資を少なからず失ってしまったとあっては、長逸にも政康にもあわせる顔がない。光保としては、せめて敵兵を残らず討ち取って、わずかなりと汚名をすすぎたいところであった。


 一度は不覚をとったとはいえ、相手はしょせん小銭欲しさの野武士、山賊の類に違いなし。そう考えて鶏冠山に踏み込んだ光保を待っていたのは、山腹から落とされる木石の罠であった。
 木や石の大きさはさほどでもなかったが、ただでさえ身動きのとりにくい山中である。おまけに昨日から降り続く雨が山の斜面をぬかるみで覆っており、これに鎧兜の重量が加わって、斜面を登るのは容易ではない。そこを狙って丸木やら岩やらを投げ落とされれば、これを避けるのは困難をきわめた。


「おのれ、小癪なマネを!」
 光保の口から怒号がほとばしる。木石が降って来たあたりめがけて山麓から矢を打ち込んでみたものの手ごたえはなく、それどころかお返しとばかりに十本近い矢がばらばらと降り注いでくる。
 これはたいした弓勢ではなく、山腹の敵兵が正規の武士ではないという光保の推測を裏付けるものであったが、そんな相手を攻めあぐねていると思えば苛立ちは募るばかりである。
 別の方向から兵を回すことを考えないわけではなかったが、光保の麾下に江南の地理に通じた兵はおらず、この考えは断念せざるをえなかった。無理に兵を割き、見通しの利かない山中で迷いでもしたら笑い話にもならない。


 ここはひた押しに押しまくるべきであろう。敵が野武士や野盗の類であれば、こちらの気概を見せ付けることで降伏を促すことができるかもしれない。むろん、降伏したところで許すつもりなどかけらもなかったが。
「よし、木板を掲げて敵の矢をふせぎつつ攻め上るのだ! そこらの木の皮を剥いでもよい。所詮は野武士、山賊の類、投げ落とす木も石もたいして蓄えているわけではあるまい。時が経つほどに我らは有利になっていくのだ!」


 光保の正しさを証明するように、徐々に山腹から降り注ぐ木石の数が減ってきた。弓矢にいたっては先刻からまったく降って来ない。斜面の登りにくさは相変わらずであったが、妨害がなくなればそれだけ登る速度もあがる道理である。
 三好兵は少しずつ、しかし着実に敵との距離を詰めていった。すでに両者は互いの声がとどくほどに接近しており、光保の視界には粗末な木板で囲まれた陣地らしきものが映し出されている。木板の表面には、さきほど光保たちが射放った矢が何本も突き立っていた。


 捉えた。
 光保の顔に会心の笑みが浮かんだ、まさにその瞬間だった。


 先頭近くにいた兵のひとりが、不可視の棒で突き飛ばされたかのように、前触れなく後方に弾き飛ばされる。
 ほぼ同時に耳をつんざく轟音が響き渡り、三好兵の耳朶と、周囲の木立を激しく揺らした。
 何事が起きたのか、光保はすぐに察した。三好兵にとっては聞きなれた感すらある音であったから。
 それでも光保が咄嗟に反応できなかったのは、その轟音が、この時、この場で聞くはずのないものだったからである。


「鉄砲だと!? 山賊ごときがッ!?」
 驚愕の声は続く第二射によってかき消された。またひとり、兵士が眉間を撃ちぬかれて斜面に崩れ落ちていく。
 先の本陣襲撃で敵は鉄砲を用いていなかった。それは間違いないと断言できる。ここに来て切り札を出してきた、ということか。
 しかし――
「バカな。これだけ激しく雨が降る中で、どうして鉄砲が使える!?」
 敵の陣には雨滴を遮る屋根はない。精々が木立の下で雨粒を避ける程度だろう。そんな状況でどうして鉄砲が使えるのか。
 驚愕と疑念のないまざった声は、またしても敵の銃声によってかき消された。
 先頭集団で三度おなじ光景が繰り返される。兵たちの間に動揺のもやが立ち上るのを察した光保は、ほとんど反射的に兵を静めるべく声を張り上げた。


「うろたえるな! 敵はすぐそこぞ、次の射が来る前に駆けのぼり、射手を片付けてしまえば――」


 轟く第四射。


 続く第五射。


 止まらぬ第六射。


 とどめの第七射。


 連続する銃声は終わりのない旋律を奏で、放たれる不可視の雷霆は次々に三好兵を撃ち倒していく。
 もはや光保は声も出ず、呆然と眼前の光景を見つめることしか出来ない。
 しかも、悪夢はまだ終わっていなかった。ようやく途切れたと思われた銃声は、ほんの少しの間を置いて、再び三好軍の耳朶を打ち据えはじめる。



 三好兵の中にはなおも勇敢に攻め上ろうとする者たちもいた。
 あるいは破れかぶれになっただけかもしれないが、それでも彼らは呆然として鉛の雷火に撃たれることをよしとせず、恐れを振り払って敵に肉薄しようとしたのである。
 その勇気は報われなかった。いや、あるいは報われたというべきかもしれない。鉄砲の射手は、決死の形相で攻め上ってくる彼らを、無抵抗の的ではなく、一個の兵士と見定めて火蓋を切ったのだから。


 しかし、そのいずれであれ、命を落とす結果にかわりはない。
 目の前で次々と撃ち殺されていく配下を前にして、指揮官である光保はかつて経験したことのない恐れに心の臓をわしづかみされていた。
「……な、なんだ? なんなのだ、これはッ!?」
 光保だけではない。いまだ命のある三好兵もまた、これまで味わったことのない恐怖と悪寒に捉われていた。



 雨の中で鉄砲が撃てるのは、早合を油紙で包んで雨滴から守り、あるいは火口に雨覆いを設ける等、雨避けの工夫を凝らした結果である。
 一発必中の理由は彼我の距離と射手の腕。
 連射の理由は射手ひとりに助手七人という変則編成による。射撃をする者と、弾込め、清掃、雨払いをする助手を分業させた、雑賀衆で烏渡しと呼ばれる射撃術。
 二十の鉄砲を一人と七人でまわしていれば、中の四丁五丁がしけっていようと射撃の間隔はかわらぬ道理である。



 巫術、妖術ではありえない。一つ一つにタネも仕掛けもある迎撃に、理解およばず恐怖したのは無知か油断か慢心か。それとも相手の奸智のゆえか。
 もし問われれば、彼らは迷うことなく答えただろう。
 だがしかし、このとき寄せ手の前に示されたのは、問いかけではなくとどめの征矢。
 矢の突き立った木板の列が内側から蹴り飛ばされて、あらわれたのは槍先そろえた鋒矢の陣。
 先頭に立った若者が手に持つ刀を振り上げる。
 押し出せとの号令が鶏冠山に響き渡った。
 



[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/09/28 17:53

 三好長逸が守る瀬田城から急使が到着した。


 青地城へ向かう進軍の途次、その報告を受けた岩成友通は嫌な予感を覚えた。いや、予感、などという不確かなものではない。現状、三人衆のもとに吉報が届けられる要素は皆無に等しく、長逸が急使を派遣する事態が起きたとすれば、それは間違いなく凶報であろう、と考えたのである。
 そして、その考えは的中した。
 長逸からの書状を一読した友通は、思わず持っていた書状を握りつぶしそうになってしまう。幸い、咄嗟に自制して事なきをえたが、急降下した機嫌にあわせて目がつり上がるのはおさえきれなかった。


 なまじ端整な顔立ちをしているだけに、目を怒らせた友通には他を寄せ付けない迫力がある。配下の者たちや瀬田城からの急使は、面上に不機嫌をみなぎらせる友通を見て、怯えたように深々と頭を垂れた。
 友通はそんな周囲の雰囲気を敏感に感じ取り、慌てて表情を緩める。もともとつり目がちの友通は、すこし表情に険を宿しただけでやたらと不機嫌に見られてしまう。軽薄な男どもを寄せ付けない、という意味では重宝する容姿であるが、無用に配下を威圧するのは望まない友通であった。



 ただ、そんな友通がどれだけ注意しても、今回の長逸からの報告を読めば表情を動かさずにはいられない。それほどに悪い報せだったのである。
「……堅田の海賊どもが動いたか」
 いったん配下を下がらせた友通は、舌打ちをこらえつつ書状を読み返した。
 そこには、瀬田川に堅田衆が姿を見せた、という情報が克明に記されていた。堅田衆は瀬田川に船を浮かべ、ときおり瀬田の長橋に火矢で攻撃を加えているらしい。
 攻撃は激しいものではなく、上陸して城に攻め寄せる気配はないというが、こうして兵を派遣してきた以上、堅田衆の側も明確な目的をもっての行動のはずだ。遠からず本腰を入れて攻めてくるに違いない。


 現在、瀬田城の守りは長逸直属の四百だけである。堅田衆の方はといえば、書状に記されている船の数から推して、少なく見積もっても城兵の倍、ヘタをすると三倍近いかもしれない。
 瀬田城は先ごろ陥落したばかりで修築もほとんど進んでいない。堅田衆が本格的に攻めてきた場合、長逸の兵だけで守りきることは難しく、友通の部隊を戻す必要が生じる。それは青地城攻めの後詰がいなくなることと同義であった。



 友通は苦い口調で呟く。
「下野どのなら後詰などいらぬと云うだろうが……」
 三好下野守政康の武勇は三好家中でも群を抜いている。それこそ相手が鬼十河でもないかぎり、おさおさひけをとることはないであろう。
 だが、城攻めは一武将の武勇だけで為せるものではない。とくに今回の戦は敵地に踏み込んでのもの、いつ何が起こるとも知れず、後詰の有無が勝敗を分けることは十分に考えられた。


 仮に瀬田城を守れたとしても、青地城を落とせなければ友通の戦略は行き詰まってしまう。逆に、青地城を落とし、代わりに瀬田城を失っても同様だ。
 本来ならば、この状況になる前に何らかの手を打っておくべきであった。
 実をいえば、友通は堅田衆に使者を出していたのである。だが、使者が瀬田城を出る前から、おそらくこの使いは失敗するだろうとも予測していた。
 本願寺と深いつながりを持つ堅田衆が、三好家の使者に色よい返事をかえすわけはない、と。





 かつて本願寺と延暦寺が争った時代があった。
 この争いに敗れ、延暦寺の僧兵に拠点を焼き払われた時の本願寺法王が再起をはかった地こそ堅田の町である。法王は堅田を拠点として近江から北、北陸一帯に教えを広め、一時は『仏敵』とされた状況から挽回を成し遂げている。
 以来、堅田の町には『堅田門徒』と呼ばれる本願寺派の勢力ができあがった。その影響力は強く、必然的に本願寺の意向は堅田海賊にも及ぶ。
 友通の推測の根拠はここにあった。本願寺軍が淡路に攻め込み、公然と三好家に敵対した今、堅田衆が三好軍にくみする可能性はまずない。友通ら三人衆が三好宗家と袂を分かつことを言明し、本願寺にくみすることを誓えば結果はかわってくるかもしれないが、むろんのこと、友通にそのつもりはなかった。





 結果、やはりというべきか、友通が出した使者は不首尾で帰還する。
 友通としてはこの時点で腹を据えるしかなかった。
 使いに出た者の報告では堅田の町に戦備の気配はなかったという。であれば、堅田衆がちょっかいを出してくる前に一挙に趨勢を決してしまいたい。青地城を攻め取れば草津に兵を入れることができる。そうすれば草津の対岸に位置する堅田も簡単には動けなくなるだろう――そう考えたからこその青地攻めであったわけだが。


「堅田衆が動くのが早すぎる。取るものも取りあえず慌てて出てきたか、それともこちらの使者を欺いて戦備を秘めていたのか? そうだとすると、連中、よほど以前から周到に準備を整えていたことになるが……」
 友通は眉根を寄せて考え込んだ。
 三人衆の瀬田進出はあらかじめ計画していたものではなかった。これを予測して事に備えるのは人の身に可能な業ではない。
 考えられるとすれば、淡路攻略を目論んでいた本願寺軍が、三好軍の後背をかきまわすべく以前から指示を出していた、というあたりだろう。
 明確に瀬田城攻略を目的としていたわけではなく、何が起きても良いように軍備だけは整えさせておいた――これならば堅田衆が今回の戦に機敏に反応できた理由が説明できる。


 ただ、この考えが当たっていたとしても、こちらがもっとも対応に窮する時期に兵を出してきたあたり、ただの偶然とは考えにくい。何者か、軍略に通じた者の教唆があったのかもしれない。
「たとえばお前のだ、弾正」
 そう云った友通の声は、あたかも氷刃のように冷たく、鋭い。
 この友通の推測は半ばあたり、半ば外れていたが、いずれにせよこの場では確認しようのないことであった。
 波立つ感情を静めるため、友通は大きく深呼吸する。


「……さて、どうするか。弾正が関与しているとすれば、海賊ども以外にも何か出てくるかもしれない。それでなくても日向守さまを見捨てるわけにはいかないし、ここはやはり退かざるを得ないか。下野どのが首尾よく青地を奪ってくれれば良いが――」
 そこまで考え、ふと友通はあることに思い至った。
「いや、まて。何も全軍で戻る必要はないな」
 長逸の兵四百も計算に入れれば、堅田衆を防ぐためには千人いれば十分だろう。友通が率いる兵は二千。一千を堅田に戻し、残りの一千はこのまま後詰として青地城に向かわせるというのも一つの選択肢であった。


 古来、二兎を追う者は一兎をも得ずというし、敵地での兵力分散が危険であるのは言をまたない。
 友通もそのことは承知していたが、この戦況ではあえて危険を冒す価値があると踏んだ。そもそも前提として、瀬田城は守らなければならないし、青地城は落とさなければならないのだから、ここで危険を理由に片方を諦めても手詰まりになるだけだ、という理由もある。
 意を決した友通は兵を二手に分ける準備にとりかかる。
 政康からの援護要請が来たのはその最中のこと。友通は眉根を寄せたが、一千もあれば後方で蠢動する小部隊を潰すには十分すぎると判断し、計画に変更はくわえなかった。
 友通自身は瀬田城の救援にあたり、青地城の後詰には腹心の番頭義元をあてる。青地攻めはこれでよしと判断した友通は、より現実的な脅威である堅田衆の対処に考えを移した。



◆◆◆



 南近江 鶏冠山


「百の次は千か。後詰をまるまるこっちに差し向けてくるとは、雑なのか周到なのか」
 三好軍の動きを知った俺は、山腹の陣で頭をかきながら今後の作戦を練っていた。
 先の部隊を退けてから、ほとんど間を置くことなくあらわれた三好軍の数は一千。百に満たない手勢では、まともにぶつかれば一瞬で粉微塵にされてしまうだろう。山陣にたてこもったとしても同じこと、数に任せて包囲されてしまえば打つ手がない。
 先の重秀の連射戦術は相手が小勢であったからこそ威力を発揮したのであり、相手が十倍以上の兵力となれば数の力で押しつぶされるのは目に見えていた。
 この戦況で採れる策は一つだけであろう。プランB、もしくは最後の手段といいかえてもいい。それは何かといえば――


「すたこら逃げよう」
「ま、それしかなかろ」
 俺の意見に左内があっさりとうなずいた。吉継、重秀の顔にも驚きの色はない。どうやら皆が予想済みであったようだ。
 左内が感心したように口を開いた。
「いみじくも相馬が云うたとおりじゃな。千もの援軍を無雑作にたたきつけてくる用兵は雑、されど此方にこれ以上の撹乱を許さぬ圧倒的戦力をぶつけてくるは周到。目的はあくまで城を落とすことであるとわきまえ、それをゆるがせにせぬあたり、三好政康は良き武将である」


 左内の言葉に、俺はまったくだとうなずくしかなかった。
「もう少しこちらに注意を割いてくれるかと思ったんだが、甘かった」
 この政康の作戦は、自分の手勢だけで城を落とせる、という自信のあらわれでもあるのだろう。
 二千のはずの三好軍の後詰が一千になり、その一千がまるまるこちらに向かってきた。ある意味、敵の兵力を分散させるという俺の策はこれ以上ないくらいに奏功しているわけだが、青地城が落ちてしまえばその成功も空しいというものである。


「ま、三好政康の戦い方がわかった分、意味がないわけじゃないけどな」
「聞いている分にはただの負け惜しみじゃの」
「ええい、だまらっしゃい」
 茶々をいれてくる左内にひと睨みをくれてから、俺は地図に視線を移した。
 逃げる、といったところで、山中に幾つも陣を築いているわけではない。白状すれば、ここ以外に拠点などありはしない。なので、ここでいう「逃げる」とは戦術的撤退などという代物ではなく、文字通りの意味で敵から逃げるだけだった。


 計算違いといえば計算違いだが、今の俺には屈辱も敗北感もない。
 もともと、是が非でも青地城を救わねばならぬ、と決意して出てきたわけではないのだ。
 俺の狙いはあくまで三好三人衆の首級であり、そのために六角軍を利用しようとしているだけ。謙信さまを虜囚の身とした六角家の城が一つ二つ落ちたところで、それがどうしたというのか。



 ――そんな俺の冷めた考えに異を唱えたのは、それまで黙っていた吉継だった。



「などと云っておきながら、敵に譲るつもりは微塵も持ち合わせていないのでしょう?」
「さて、なんのことやらわかりかねるが」
 とぼけた俺の返答に、吉継は静かな声で応じた。
「六角家のために戦う理由がないのと同じように、ご主君を狙う三好家から逃げる理由もない、ということです。先日捕らえた若槻とやらいう敵将、しばらく前から姿が見えません」
 吉継が云うと、隣の重秀もいかにも不思議そうに小首をかしげて見せた。
「あら、それはとても不思議なことですね、吉継どの。そういえば、兵の中にも二人ほど姿が見えなくなった者がおります」
「……気のせいではないかな?」
「いえいえ。これでも一軍の将として戦場に出ていた身です。共に戦う兵たちの顔と名前を覚えるくらい造作もないこと。とくに、急ぎで雇った素性の定かならぬ兵であればなおのこと、注意しておく必要がありますから」
 そう云うと重秀は、あらそういえば、とぱちんと手を叩いた。
「その二人が姿を見せなくなったのは、虜囚の将の見張り番を命じられた夜からです。私と吉継どのが敵の増援の報せを聞いたのは、ちょうどその頃でしたね」
「と、重秀どのも仰っていますが、まだとぼけるおつもりですか?」



 二人の少女の連携攻撃に内心でひるむ俺。わき腹をちょいちょいと突っついてきた左内が、いかにもわざとらしいひそひそ声で云った。
「相馬、相馬。もう全部ばれているようじゃぞ?」
「いや待て左内。すべては鶏冠山に住む天狗の仕業という可能性がまだ残っているはず――」
「 お 義 父 さ ま 」
「はいごめんなさい実はまったく諦めていませんというかやる気まんまんですでも次の策はかなり博打になるので二人には利兵衛くんたちをつれてしばらく身を隠していてもらおうとおもいちょっと小細工をした次第で御座候ふ」







 しばし後。
「――つまり、敵を山中に引きずり込んで、その中に紛れるのが目的ですか」
 吉継の言葉に俺は力なくうなずいた。なぜに元気がないかは察してください。
「ああ、うむ、そういうことだ……」
 鶏冠山からさらに南東に進んだ先にある竜王山。ここに、いざという時のために陣地を築いてある――という情報を、いまごろ三好軍は掴んでいることだろう。
 三好軍が後背の危険を完全に排除しようとするのなら、彼らは山中に踏み込んで来ざるをえない。一千もの軍勢が深い山の中に入ってくるのだ、その中に同じ三好軍の格好をした兵が十や二十まぎれこんだとしても見分けるのは難しいだろう。


 三好軍にまぎれこんで敵将を討つ、あるいは敵の物資を焼き払えれば云うことはない。
 しかし、何事もそうそう上手くいくものではない。もし敵にその隙がなければどうするか。
 その時はこっそり紛れ込んだ時と同様、こっそり逃げてしまおう。敵を山中に引きずりこんだ時点で、援兵の足止めという目的は達成されている。
 くわえて、三好軍は敵(俺たち)の姿を確認できずに戸惑うだろう。逃げたか、あるいは別の場所に潜んでいるのか、と。そうなれば今後とも連中は後背に意識を向けざるをえず、作戦行動にも支障が出てくる。仮に青地城が落ちたとしても、この危険はいつまでも三好軍にまとわりつくのである。
 この策で肝要なのは、云うまでもなく三好兵になりすますことであり、吉継や重秀のような少女がいては怪しまれてしまう可能性が大であった。利兵衛くんたちのような子供がいれば尚更である。本音をいえば女性である左内も外したかったのだが、これは言下に拒絶された。まあ予想どおりではあった。



 一通りの事情を聞き終えた重秀が口を尖らせる。
「はかりごとは密なるをもってよしとする。そのことは承知していますけど……」
 どうしてはじめから事を分けて説明してくれなかったのか、と言外に非難され、俺は弱りきった。
「そうしようかと思ったんだが……」
「『だが』、なんですか?」
 追求は止まらない。なにげに容赦のない重秀であった。
  

「あらかじめ告げても私たちが、いえ、私が素直に納得するはずもなし。説き伏せるための時間もなく、また、どこで誰に聞かれるかもわからない。であれば、最後まで隠し通すにしかず――そんなところですか」
「お、おお、まさにそのとおり」
 俺の内心を一言一句あまさずに説明してくれたのは吉継である。
 その顔には若干の疲労が見え隠れしていたが、俺を非難する意思は見て取れない。意外に思ったことが顔に出てしまったのか、吉継は俺を見て小さく肩をすくめた。


「作戦の上で必要なことなのであれば、理解も納得もできます。お義父さまは私を何だと思っているのですか」
「おお! そうか。そうだな。いや、これは俺の不明だった」
「わかっていただけて幸いです。しかしながら、こたび親離れのできない駄々っ子のように扱われたことは終生忘れられないかもしれません。困ったことです」
「をを」
 やっぱり吉継も重秀に負けず劣らず不満に思っているらしい。まずい、これは戦が終わったら早急にフォローをしなくては。団子食べ放題とかどうだろう。駄目か。
 今回の策をあらかじめ承知していたのは左内だけなのだが、それをいってもあまり効果はあるまい。俺はかなり真剣になって少女たちのご機嫌とりの方法を模索しはじめた。





◆◆





「まったくもう。私をつれていけない理由なら髪の色ひとつで十分でしょうに」
 吉継は呆れたように呟く。
 鶏冠山を下りて北東へ。二人の少女に七人の子供たちという奇妙な一行は野洲川を目指していた。鈴鹿山脈を源として琵琶湖に注ぐこの川の渡しの一つが合流地点である。場所は利兵衛が知っているとのことで、なんでも左内の使いとして幾度か滞在した経験があるらしい。
 平時であれば人目を引いたに違いない吉継たちであるが、幸か不幸か、今は「西の戦火から逃れてきた」という申し分ない名目が存在する。山中で戦っていたために衣服もかなり薄汚れてきており、このことも吉継たちの言動を証拠付ける一因になるであろう。


 合流地点に向かう途次、吉継の脳裏を占めたのは、当然というべきか、山に残った義父たちのことであった。
 といっても、別段、戦から外されたことに怒ったり、不満を抱いているわけではない。今しがた口にしたように、特徴のある容姿を持つ吉継にとって、敵中に紛れ込む作戦は致命的に向いていない。くわえて、京を発ってからというもの――もっと正確にいえば、主君が虜囚の身になっていると知ってからというもの、義父が自分の前で努めて平静を装っていることに吉継はそれとなく気づいていた。


 吉継としては、妙な気を遣ってくれずとも駄々をこねたりはしないのに、と思うのである。先に三好軍に襲撃をかけた際は義父の意向にそむく形で同行したわけだが、あれはあれ、これはこれだった。
 まあ最近の義父は、吉継の容姿が他と異なるということを本気で忘れている節があるため、そういう意味で気を遣ったわけではないのかもしれないが、それはそれでどんなものか、とも思ってしまう。



 あれやこれやと考え込む吉継の耳に、隣から心配そうな声がすべりこんできた。
「吉継どの?」
 振り向くと、そこには気遣わしげにこちらを見る重秀の姿があった。
 今の重秀は顔をわざと泥で汚し、髪は結い上げて頭部を布で覆い、胸にもサラシを巻いているため、一見しただけでは男の子のように見える。
 重秀がこんな格好をしているのは、むろん道中の危険を慮ってのことであった。今の吉継たちに奪うような荷がないのは明らかだが、一緒にいるのが女子供ばかりとあっては邪念をわかす者が出ないとも限らない。そう判断してのことである。


 吉継を見やる重秀は、心配ですか、とは訊ねなかった。大丈夫ですよ、とも口にしなかった。
 その心遣いが吉継にはありがたい。重秀に向けて、小さく、けれどしっかりうなずくと、吉継は視線を前方に据えて歩き出した。今の吉継は守ってもらう立場ではなく、守る側の人間である。一時とはいえ戦場に身を置いた利兵衛たちは、泣いたり騒いだりすることはなかったが、それでも疲労と不安は隠しようもない。彼らに対して不甲斐ない様を見せるわけにはいかなかった。


「九国では立花さまに従って山中を駆けたものですが……自分が責任をもって、となると勝手が違うものですね」
 重秀はいわずもがな、吉継にしても見かけよりは体力があるが、子供たちを守りながらの道程は常とは違う緊張と疲労を強いてくる。義父の下で兵を率いていたのともまた違う。自分が判断を誤れば子供たちにも累が及ぶと思えば、何事にも慎重にならざるをえなかった。
 降り続く雨は吉継たちから着実に体温を奪いさり、本人は否定しているが利兵衛は明らかに体調が良くないように見える。吉継は子供たちの体力を考慮してしばしば休息をとったが、そうすれば必然的に距離が稼げなくなる。
 唯一、幸いといえるのは山賊の類に出くわさなかったことだろう。ようやく野洲川に通じる平地に降り立ったとき、吉継は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになってしまった。







 吉継たちがその一行に出会ったのは、間もなく野洲川が見えてくるだろうという頃のことだった。
 すでに義父とわかれてから幾日も経過している。空は相変わらずの曇天であったが、降り続いていた雨はつい先ほど、ようやく止んだ。
 そのことに重秀と安堵の視線を交わしていた吉継は、ふと遠くから響いてくる賑やかな音の連なりに気がついた。
「漂泊の民、でしょうか」
「そのようですね」
 同じくその音に気づいた重秀の言葉に吉継はうなずいた。


 漂泊の民とは技芸をもって諸国を渡り歩く人々の総称である。
 白拍子や猿楽師などもこれにあたり、彼らは奇術や曲芸に軽妙な歌舞、音楽をまじえて人々の耳目を楽しませる。
 社会的身分は低いものとされているが、娯楽に乏しい時代にあって彼ら遊芸者の存在は貴重であり、吉継たちも彼らの技芸を楽しんだことは幾度もあった。
 反面、一箇所に留まらずに諸国を往来する性質上、山伏や歩き巫女のように諜報活動に従事していると考える者もおり、その存在は様々な意味で注視される。


「打算的なことをいえば、彼らに注目が集まる分、私たちはさほど目立たずに済みます」
「あはは、私も同じことを考えてました」
 漂泊の民が立ち寄る場所であればそれなりの住人が暮らしているはず、金さえ出せば一夜の宿を求めることもできるだろう。
 もっとも、戦火から逃れてきたという設定の吉継たちが金銭をちらつかせれば、それはそれで要らぬ注目を集めてしまうので難しいところではあるのだが、目的地が見えてきた以上はここで無理をする必要もない。
 吉継たちは音曲に導かれるように進んでいった。




◆◆




 催しは村の入り口近くで行われていた。どうやら人づてに話が広がっているらしく、かなりの賑わいとなっている。集まっているのは大半が粗末な服を着た農民や職人、あるいは子供を抱えた母親などで、彼らは次々に披露される曲芸に見入り、演奏に聞きほれ、演者たちにやんやの喝采を浴びせている
 当初、吉継は舞台を見物するつもりはなく、利兵衛らを休ませるためにもすぐに宿を探そうと考えていたのだが、あまりの混雑で村に入ることもままならなかった。つけくわえれば、人込みをかきわけて村に入ったところで、中には人っ子ひとりいないような気もする。それくらいの人出だったのである。


 吉継がどうしたものかと重秀と顔を見合わせたとき、不意にあたりの歓声がやんだ。しんと静まり返る周囲の人々。どうやらちょうど新しい演目が始まるところに来合わせたらしい。
 土でも盛ってつくったのか、一目で急造とわかる薄汚れた舞台の上に一人の舞い手があらわれる。
 白い直垂に立烏帽子、白塗り鞘を腰に差した、いかにも白拍子といった格好の女性であった。吉継たちの場所からでは顔立ちは判然としないが、見物客から驚愕とも嘆声ともつかないどよめきが起きたところを見るに相当の美貌なのだろう。
 曇り空の下、淡く赤みを帯びた長い髪が風にひるがえる。もし、この場に吉継の義父がいれば「紅茶色」と形容したに違いない。
 



 遊芸者の中には教養を備え、貴族の館に出入りする者もいれば、各地を流浪し、土地の人間に色を売ることで生活を成り立たせている者もいる。
 前者は往々にして貴族のお抱えとなっているため、大きな城も町もないこのあたりにやってくることはまずない。となると、この舞い手が後者である可能性が出てくる。今しがた湧き起こったどよめきの中には好色を滲ませた声もあったかもしれない。
 ――もっとも、その手の邪念はすぐに消し飛ぶことになった。



 舞い手の後ろに控えた黒髪の女性が、持っていた笛を静かに唇にあてた。と、涼やかに澄んだ音色が舞台を中心として広がり始める。
 吉継は丸目長恵から笛の手ほどきを受けたことがある。九国の動乱の最中のことで、ここしばらくはまったくの手付かずであるが、それでもまったく心得がないわけではない。この妙なる調べを紡ぐ者は間違いなく名手と呼ばれる人物だ、と吉継は直感した。
 そして、笛の音にあわせるように舞い始めた舞い手の動き。
 伸びやかに全身を律動させながら、時に鋭く、時に緩やかに舞うその姿は、芸術的な観点から見ればもしかしたら落第なのかもしれない。
 しかし、そこには見ている者たちを問答無用で引き込む勢いがあった。華がある、といいかえても良い。
 途中から小鼓も加わった演舞は、時間にすれば精々数分といったところだったが、その場にいた者たちの目は例外なく舞台の上に注がれていた。吉継も、重秀も、そして利兵衛たちも、いつの間にか完全に舞台に見入ってしまっており、終わった瞬間には周囲の人たちと一緒に大きな拍手を送っていた。束の間ではあるが、彼らは今の自分たちが置かれた状況を忘れてしまったのである。



 それがよくなかったのかもしれない。
 それまでは意識して耐えていた心身の疲労が、気を抜いた途端に一気に襲ってきたのだろう、不意に利兵衛の身体が崩れ落ちた。糸の切れた人形のように、ぐにゃりと。
「――ッ!」
「あぶないッ」
 咄嗟に手を伸ばした吉継と重秀は、かろうじて利兵衛の身体を支えることに成功する。
 だが、手にのしかかる身体の重さから推して、利兵衛の意識が失われたままであることは明らかであった。


「……不覚です。ここまでの無理をさせていたとは」
 吉継は唇を噛んだが、悔いてもはじまらない。このままじっとしているわけにはいかない、と吉継はそっと周囲の様子をうかがった。
 異変に気づいたのか、周囲の注目が吉継たちに向けられつつある。中には心配そうに声をかけてくれる人もいたが、より以上に多いのは怪訝そうな、あるいは胡乱そうな視線であった。誰ひとりとして見覚えのない吉継たちの正体を怪しんでいるのだろう。


 吉継はそっと視線を地面に落とし、他者と目を合わせないように注意する。ここで吉継の瞳の色に気づかれると、色々な意味で厄介なことになってしまう。
「……重秀どの、利兵衛は私が背負いますので」
「承知です、ひとまずこの場を離れましょう」
 そう云うと、少年に扮した重秀はいかにも手馴れた様子で周囲に声をかけた。すみません、弟が気分を悪くしたようで、などとあけっぴろげに云いながら巧みに人を避けていく。
 その背に声をかけようとした者もいないわけではなかったが、ほどなくして舞台の続きが始まると、たちまち人々の興味は舞台上に移っていった。




 利兵衛の体調は心配だが、ひとまず厄介事は避けられたようだ。
 そう考えた吉継はほっと胸をなでおろし、利兵衛を背負ったまま何気なく舞台を振り返った。
 ――すると。


「……え?」
 舞台上にいた笛の奏手と目が合った。


 吉継と奏手の間には、互いの目鼻立ちも確認できないほどの距離があいている。おそらく、向こうは吉継の瞳が紅いことにさえ気づけていないだろう。であるならば、目が合うという表現はふさわしくないのだが……



 と、その時だった。
 吉継の思考を遮るように視界が眩く染め上げられる。空を見上げれば、何日ぶりのことか、陽光が分厚い雲を割って地上に降り注いでいた。
「……ッ」
 思わず陽光を直視してしまった吉継は、視界を射られて慌てて顔を伏せた。
 集まっていた人々の口からは次々に驚きと喜びの声がわきあがっている。彼らも長く降り続く雨にうんざりしていたのだろう。暴れ川で知られる野洲川の氾濫を気にかけていた者もいたであろうが、いずれにせよ、久しぶりの陽光は人々の心に明るいものをもたらしていた。


 ふと心づいた吉継は再び舞台を見やる。
 先の奏手は、なおも吉継たちの方を見つめているように思われた。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/04 22:49

 少し時をさかのぼる。


 一乗院覚慶との邂逅を終えた上杉謙信は、和田惟政の案内で南近江に入った。
 和田家はいわゆる甲賀五十三家――かつて六角家を助けて足利将軍を退けた甲賀の豪族たち――の一角であり、惟政の父である宗立は甲賀南部に所領を有している。
 惟政はまず父のもとに赴き、しかる後、六角家に対して上杉主従の保護を願い出るつもりであった。
 六角家は長年にわたって義輝を支えてきた家であり、三好家は宿敵といってよい。上杉家をないがしろにすることはよもあるまい、と考えたのである。


 だが、事態は惟政の予測を一顧だにしない早さと荒々しさで突き進んでいった。
 観音寺城への案内をつとめるはずの六角兵は惟政たちを三雲の廃寺へと押し込め、六角義治はもちろんのこと、領主である三雲成持さえ姿を見せない。これが警護のための行動だと思うほど惟政もおめでたくはなかった。
 理由は定かではないが、六角家は上杉主従を幽閉したのだ。そのことに思い至った惟政ははじめに憤然とし、次に蒼白になった。
 主君である義輝を守ることができず、傷心に沈んでいた惟政に対し、覚慶が与えてくれた贖罪の機会。それさえ失敗してしまったら、いったいどんな顔をして興福寺に戻ればいいのだろうか。腹を切ったところで義輝や細川姉妹に合わせる顔などありはしない。
 もっといえば、上杉主従から見れば、惟政は六角家の意を受けて彼らを罠にはめたようにしか見えないのではないか。そういった諸々に想到した惟政の顔は、もはや死人のそれに等しかった。




 そんな惟政の両の頬をむにゅっと掴んだ人物がいる。
「たく、なんて顔をしてるのよ、あんたは」
「ふあ!?」
 餅でもつまむように惟政の頬を左右に引っ張ったのは越後守護代 長尾政景であった。
 意気消沈していたとはいえ、仮にも忍びとして将軍に仕えていた惟政の不意をついた政景は、ずずいっと惟政の目をのぞきこんだ。
「ふ、ふほふぁいふぁふぁ(しゅ、守護代さま)?」
「地獄の亡者もかくやって顔よ。勝手に考え込んで、勝手に堕ちていくのはやめなさい」
 云い終えた政景は惟政の頬から手をはなす。惟政は反射的に両頬をおさえながら、かすれた声で云った。
「し、しかし、それがしのせいで、皆様が……」
「六角家に頼るという案を出したのはあんた。その案を容れたのはあたしたち。勝手にあたしたちの責任まで背負い込んで死にそうな顔してるんじゃないわよ」


 そう云うと、政景は人差し指で惟政の額をつんと突っついた。
 ぶっきらぼうな物言いではあったが、惟政を見る政景の目は優しげで、何故だか惟政は今は亡き主君を思い出した。顔立ちといい、雰囲気といい、決して似ているわけではなかったのだが。


 自然、惟政は頭を垂れていた。
「……申し訳、ございません」
 その言葉に込められた意味に気づいたのか、気づいていないのか、政景はやれやれといいたげに肩をすくめた。
「うん、許す。だから、謝るのはこれで最後にしときなさい」
 悔いて、泣いて、謝って。義輝はそんな生き方をさせるために惟政を逃がしたわけではないだろう。政景はそう思ったが、これは口にしなかった。惟政がそれをわかった上で、それでも悔やまざるをえないのだ、ということもわかっていたからである。
 そんな惟政を責めて、その小さな背にこれ以上の重荷を乗せるなどできるはずもなかった。






「政景どの」
 部屋に戻った政景を、神妙な顔をした謙信が出迎える。謙信の向かいにどっかと腰を下ろした政景は、頬をかきながら口を開いた。
「たぶん、もう大丈夫だと思うわ。正直、あんまり自信はないけど」
「政景どのが大丈夫だと思われたなら大丈夫でしょう。お手数をかけました」
 ぺこりと頭を下げる謙信。それに対し、政景はひらひらと手を振って応じた。
「別に手数ってほどのことはしてないわ。あたしもあの子のことは気になってたしね」


 惟政の尋常ならざる様子に気がついていたのは政景だけではない。むしろ気づいたのは謙信の方が先であったろう。しかし、惟政は謙信と言葉を交わすとき、常以上に気を張ってしまって繊細な話題には触れづらかった。くわえて、戦のことならいざ知らず、目下の者との対話となると謙信は自分に自信が持てない。ヘタをすると余計に惟政を追い詰めることになりかねぬ。
 そう危惧した謙信は、自分より諸事に通じている政景に相談したのである。




「さて、惟政の方はひとまずこれで良いとして」
 それまでの優しげな雰囲気から一転、口元に好戦的な笑みを浮かべた政景はざっと周囲を見渡した。
「いいかげん、このお粗末きわまりない宿での逗留にも飽きてきたわ。そろそろ斬り破ってもいい頃合じゃないかしら?」
 上田長尾家の跡継ぎとして生まれた身ながら、基本的にどこでも寝られる政景は、廃寺での幽閉生活もそれなりに楽しんでいた。幽閉など滅多に経験できるものではなく、そう考えれば有意義ですらある、と(皮肉まじりに)思っていたわけだが、周囲を取り囲む六角兵の害意が日に日に強まっている以上、いつまでも泰然としてはいられない。


 特にここのところ、敵兵の動きが目に見えて不穏の気を増している、と政景は感じていた。
 そのことは謙信も気づいており、政景の言葉にうなずいた。
「軒猿によれば、先ごろ三雲城より包囲の兵たちに急使が来た由。おそらく、我らを討つ決意を固めたのでしょう」
 それを聞いた政景は大きくため息を吐いた。
「結局そうなるか。数が数、場所も場所、できれば六角家と事を構えたくはなかったけど、向こうがその気なら仕方ないわね。たく、義治とかいう当主、面倒なことを考えてくれるものだわ」
「先代の承禎どのは殿下の忠実な臣であったはずですが、代がわりして方針をかえた、ということなのでしょう。あるいは、我らを討たざるを得ぬなにがしかの理由があるのかもしれませんが、事ここにいたれば是非もなし、斬り破るしかありますまい」
 謙信と政景が刀の柄頭を握り、うなずきあう。もともと、いつ事が生じても不覚をとらないように準備はしてある。包囲の兵たちは、こちらが動くとすれば夜であろうと考えているようだが、謙信にしても政景にしても敵の不意をつくことの意味を良く知っていた。奇襲とは何も闇夜でなければ出来ないものではないのだ。



 ところが。
 二人が立ち上がろうとした、その寸前。今にも崩れ落ちそうな天井の隅から低い声が降り落ちて、二人の動きを縫いとめた。
「……その儀、しばしお待ちいただきたい」
 それは今回の上洛に同行している軒猿の長の声だった。長をはじめとした軒猿たちは、近江に入国するにあたって不測の事態に備えて別行動をとっている。謙信らが今日まで六角家の云うことに従っていたのは、出来れば六角家と事を構えたくないという思惑があったからだが、同時に、いざとなればいつでも幽閉の身から脱することができる、と考えていたからでもある。


 軒猿の長は加藤段蔵の祖父であり、今回の上洛でも陰で尽力してくれている。当然、謙信も政景も長のことはよく知っていた。
 謙信が囁くように問いを向ける。
「長、何かあったのか?」
「しかり。先ごろより付近の山中に怪しげな影が見え隠れしております。忍びと思われまするが、六角家の者とはおもえぬ節があり、正体を確かめるべく手の者を差し向けたところ。動くのは暫時お待ちいただきたい」


「六角ではない忍び、ねえ」
 政景の声はやや不満そうだった。別に長に意趣があるわけではなく、いざゆかん、という気組みをくじかれたためである。
「そう判断した理由は?」
 政景の問いに、長は言葉すくなに応じた。
「彼の者どもが六角兵を見張っていたゆえに」
「なるほど、そりゃ六角の忍びじゃないわ。まあ場所が場所だから忍びの里も一つや二つじゃないんでしょうけど」
 政景が妙な納得の仕方をする。忍びといえば伊賀、甲賀――などといえば軒猿の者たちが気を悪くするだろうが、忍びの中に伊賀者、甲賀者が多いのは事実である。優れた使い手を輩出する里が複数あれば、その中に六角家に属さない勢力が存在したとしても不思議ではない、と政景は考えた。


 そんな政景の横で、謙信は長に釘を刺す。
「長、六角の意に従わぬ者たちならば、我らにとっては味方となる者かもしれぬ。できうるかぎり手荒なまねはいたすな」
「諾」
 短い返答が届くや否や、ふっと天井の気配が消えた。
 政景は肩をすくめる。
「ひ孫ほしさに段蔵をせっついてた老人とは思えないわね。いや、怖い怖い」
「む、そうなのですか? 初耳ですが」
「いつだったか、段蔵が憂鬱そうにため息ついてたわよ」
「ふむ……段蔵が苦労しているようなら、私がしかるべき家柄の者との仲を取り持ってもいいのですが――」
 守護や守護代ともなれば、家と家との仲を取り持つのも仕事のひとつである。謙信は純然たる親切心で口にしたのだが、それを聞いた政景の返答は素早かった。


「やめときなさい。それは色々な意味でまずいから」
「?」
 不思議そうに首をかしげる謙信。
 そんな謙信を見て、政景はこれみよがしに深いため息を吐いた。




◆◆




 しばし後。
 正体不明の忍びたちの主について報告を受けた政景は、腕組みしながら呟いた。
「蒲生家の鶴姫、ね」
 軒猿が捕らえた者の話では、上杉主従の幽閉を知った鶴姫が独自に動いて謙信たちを救い出そうとしていたのだという。
「えらくあっさり捕まって、えらくあっさり白状したものね?」
 その政景の疑問に長は淡々と応じた。
 なんでも、今回の件はかなりの部分が鶴姫の独断であり、動かせる手勢にはかぎりがあった、ということらしい。そのためか、大半の忍びは未熟の一語で片付けられる程度であり、今回の上洛に備えて精鋭をえりすぐってきた軒猿にしてみれば、相手にとって不足あり、というところであったそうな。


 ともあれ、この蒲生家の動きは上杉家にとって予期せぬ幸運のように思われた。和田惟政などはそう考えて愁眉を開いていたのだが、実際のところ、それほど単純な話ではなかった。
 政景は云う。
「鶴って子の才気については正直半信半疑だけど、ま、神童って言葉もあるし、時にはそういう子が出てくることもあるかもしれないわね。とはいえ、じゃあ蒲生家を頼りましょうってわけにはいかないわ」
「ど、どうしてでしょうか?」
 惟政が驚いて聞き返す。


 蒲生家の助力を知った時、惟政の脳裏には近江を抜けるための案が閃いていた。
 江南の名家である蒲生家が味方につけば、この地における危険はぐっと薄まる。その上で惟政は、まず上杉主従を今一度和田家に連れて行くつもりだった。甲賀の南部に位置する和田家の領土は伊勢との国境に近く、これを越えれば伊勢亀山城の関盛信のもとに行くことができる。
 和田家はことさら関盛信と懇意にしているわけではないのだが、盛信の妻は蒲生定秀の娘であり、蒲生家の口ぞえがあれば問題なく伊勢を通過できるだろう。伊勢さえ抜けてしまえば、船で三河なり遠江なりを目指せばよい。松平家も武田家も上杉の盟友であるから、越後はもうすぐそこ――と、惟政はそう考えたのだが、政景も、そして謙信の表情も明るいものではなかった。


 謙信がその理由を口にする。
「先に和田家を頼ったときとは違う。いまや我らを敵とする六角家の意志は明らかであり、私たちが両家の門を叩けば、彼らは否応なしに主家と対立することになる。近江の国を混乱させる火種になるのは本意ではないのだ」
 六角義治の為人を聞くかぎり、上杉主従に領内を通過させただけでも、それを粛清の理由にしかねない危うさが感じられる。いまだ接触のない蒲生家はともかく、和田家は今の時点でもかなり警戒されていることだろう。この上、惟政や惟政の父の宗立がはっきりと上杉家に助力しようものなら、義治は間違いなく謀反と判断して和田領に兵を差し向けるはずだ。
 そうなれば多くの民が戦火に晒されることになる。これは蒲生家を頼った場合も同様であろう。たとえ蒲生家や和田家の当主が、すべて覚悟の上で手を差し伸べてくれたのだとしても、その手にすがることは謙信にはできないことであった。


 それを聞いた政景がうんうんと頷き、さらに続ける。
「あたしらを六角家に対抗するための手札にされても困るしね。和田家や蒲生家にその気がなかったとしても、結果としてそうなってしまうことは十分考えられるのよ」
 謙信にしても政景にしても、将軍を弑した三好家や、その三好家にくみして約定を違えた六角家に容赦するつもりはない。いずれ必ず、との決意は揺らがないが、そのために他家の領地、領民を戦火の淵に叩き込むつもりは毛頭なかった。
 他家の思惑に絡め取られるのもごめんこうむる。
 彼らを討つならば自分たちの手で。それが出来ないのであれば、一刻も早く越後へ戻るべきであった。




 それを聞いた惟政は暗然とする。結局、自分では何の役にも立てないのか、と悄然とうつむきかけた惟政の耳に、政景のあっけらかんとした言葉が飛び込んできた。
「というわけで惟政、あんたにはたっぷりと働いてもらうわよ」
「……は、はい?」
 目をぱちくりとさせる惟政。
 対して政景は、どこか生き生きとした様子で言葉を紡いでいった。
「本来なら和田家のあんたはここで袂を分かった方が良いんだけど、どうせ承知しないでしょうからね。なら目一杯使い倒さないと。とりあえず人質役になってもらいましょうか。ここを斬り破るとき、あんたの命がおしければ道を開けろーって騒ぎ立てれば、あたしたちが六角家と和田家を同じに見ていることは伝わるでしょ。で、包囲を抜けたらあんたを解放するから、あんたはその足で六角の当主のところにいって、そうね、あたしたちが伊賀にでも逃げ込んだってことにしなさい。その間にあたしらは連中の喉笛を食い破れる場所に潜んでおく。ふふん、奴らの慌てふためく顔が目に浮かぶわ」


 惟政がぽかんとしている間にも政景の話は続いていく。
 ハッと我にかえった惟政は非礼をかえりみず、慌てて政景を止めた。
「ちょ、ちょっとお待ちください!?」
「ん? どしたの?」
「い、いえ、その、何を仰っているのかが今ひとつ判然とせず……一刻も早く越後へ戻るべき、というお話ですよね……?」
 それにしてはえらく物騒な単語が混じっていたような気がする惟政である。
 政景は人差し指を立てると、ちっちっと左右に振った。
「違うわよ。ちゃんと云ったでしょうが。『連中を自分たちの手で討てないのなら』一刻も早く越後へ戻るべきだって」
「??」
「つまり、連中を自分たちの手で討つなら何の問題もないということよ」



 いやその結論はおかしい。
 惟政は呆然としながらも、内心でそんなツッコミをいれていた。



 一方の政景は自分の言動に疑問を抱えていないようで、真面目な顔で続けた。
「そもそもよ。どうやって逃げるかばかりを考えるのは不健全だわ。というか、あたしの性に合わない」
「い、いえ、あの……」
 この状況で性に合う合わないはそれほど重要なことではない、と惟政は思った。やはり口には出せなかったが。
 そんな惟政を尻目に政景は滔々と語り続ける。
「その無備を攻め、その不意に出ずってのは孫子だったかしらね。ここを斬り破れば、六角やら三雲やらはあたしたちが逃げ出したと思って狩り立てに来るでしょう。まさか、それが連中をおびき出す誘いの一手だとは気づかずに、ね」
 野の獣だとて追い詰められれば死を覚悟して抗うもの。ましてこちらは越後武士。何が悲しゅうて、いつまでも六角ずれの好きにさせておかねばならないのか、と政景は気炎を吐いた。



 話についていけず、困じ果てた惟政は助けを求めるように謙信の方を見つめた、のだが。
 その視線の先で、謙信はうんうんとうなずいていた。
「そうですね、それがよろしいでしょう」
「ええええ!?」


 驚き慌てる惟政を見て、謙信が真面目な顔で説明した。
「近江の国人衆に頼ることはできぬ。かといって、野に伏し、山に寝て近江を抜けることは難しかろう」
 こちらには惟政がいるので道に迷う恐れはない。しかし、上杉一行に惟政がいることは六角家も把握しており、惟政の動きを予測して待ち伏せを仕掛けていることが考えられる。特に和田領へ通じる道はほぼ確実に塞がれているだろう、と謙信は考えていた。
「政景どのの言葉ではないが、狩りの獲物のように追い立てられ、追い詰められるのが関の山だ。であれば、うって出ることで活路を見出すのも一つの手だと思う」
「そうそう。さっきも云ったけど、まさかこの状況であたしたちが立ち向かってくるなんて夢にも思ってないでしょうからね。傍目には無謀に見えても、相手の意表をつくことができれば奇襲の効果としては十分よ」
 実は今日までの諸々でけっこうな鬱憤をためていたらしい政景は、そう云って愉しげに口元を歪める。
 あたかも獲物を前にした肉食獣のごとき政景の表情を見て、惟政はぞくりと背を震わせた。








 
 六角軍の包囲を斬り破ることはさして難しくなかった。惟政を人質にとった上で、越後の守護と守護代が真昼間に真正面から切り込んだのである。寺に派手に火をつけたりもしたが、これはしてもしなくても結果はかわらなかったであろう。
 その後、上杉家の主従が漂泊の民に扮したのは軒猿の長の手配りによる。
 理由は幾つもあった。忍びが諜報活動において漂泊の民を装うのは常套手段であり、準備や扮装に慣れていたこと。二十人近い人数が集まっていても不自然ではないこと。逃げ隠れしているはずの者たちが、鳴り物をならして人目を集めるとは誰も考えないであろうこと等々である。


 本来、謙信や政景のような身分の者が「七道の者」に身をやつすなどありえないことで、もし春日山城の直江兼続がこのことを知れば素で悶絶したかもしれない。あるいは怒髪天をついて雷を落とすか、いずれにせよ平静ではいられなかったことだろう。
 そのくらい常識はずれの行動なのだが、当の本人たちはけっこう乗り気であった。
 政景などは進んで舞い手役を引き受けて『京での修行の成果、今こそ見せてやるわ』と鼻息を荒くしたほどである。永禄の静御前(源義経の愛妾 白拍子)とはあたしのことよ――とはさすがに云わなかったが、偽名に「静」を選んだあたり、意識はしていたのかもしれない。
 謙信は謙信で、以前に虚無僧に扮して武田家に赴いたことを思い出して懐かしそうに目を細めており、もし惟政がその場にいれば、この人たちはもしかして目的を忘れていないだろうか、と不安に思ったことだろう。



 その惟政はすでに観音寺城へと向かっている。これは政景が口にしたように、惟政や和田家が上杉主従と袂を分かったことを義治に印象づけるためである。同時に、上杉一行が伊賀に向かったという偽情報を流して謙信たちの行方をくらませるためでもあった。
 その後、惟政は観音寺城にあって義治や六角軍主力の動きを監視する、というのが政景の目論みである。惟政が義治に怪しまれる可能性もあったが、その時は惟政がつちかってきた忍びの技が役に立つだろう。
 惟政とわかれた上杉一行が野洲川をくだって琵琶湖を目指したのは、そちらの方がより六角家の動向を把握しやすいという判断であった。忍びが多い甲賀に長く留まると、それだけ正体が露見しやすくなる、という危惧もある。


 上杉謙信が奇妙な一行を見つけたのは、その最中のことであった。
 
 


 
◆◆◆





 南近江 野洲川近辺


「そこの娘」
 大谷吉継に向かってその声がかけられたのは、遊芸者たちの演目でにぎわう人込みから離れて一息ついた時であった。
 鈴木重秀の先導で村から少し離れた位置にある木立にやってきた吉継は、そこに布を敷いて意識のない長束利兵衛の身体を横たえた。
 そうして、さてこれからどうするべきかと重秀と相談しようとした矢先、いつの間に近づいていたのか、黒髪の女性が声をかけてきたのである。


 とっさに身構えかけた吉継が、ふと何かに気づいたように目を見開く。
「あなたは、さきほどの……」
 舞台の上で笛を奏していた女性だった。女性はこくりとうなずくと、吉継の目をじっと見つめる。
 自身の目の色を怪しまれているのか、と吉継は警戒したが、女性はその点には特に触れず、すぐに横たわる利兵衛に視線を移した。
 心配そうに眉を曇らせている女性から悪意は感じられなかったが、この女性は確かに先ほど舞台の上に立っていたはずだ。演目が終わった後、すぐに吉継たちを追ったのだとすればこの場にいることは不可能ではないが、縁もゆかりもない相手に対してそこまでする理由は何なのかと思案すれば、どうしても警戒を解くことはできない。


 そんな疑念を吉継の眼差しから感じ取ったのか、女性は吉継たちの不安を除くように口元に笑みを浮かべると、穏やかな声音で云った。
「私はあの一座で虎と呼ばれている。そなたたち、何かわけあっての道中のようだが、今日の宿のあてはあるのか? ないようならば、我らのところへ参らぬかと誘いにきたのだ」
 それはいささかならず唐突で、同時に怪しげな誘いであっただろう。うまい話に裏があるのは世の常であり、吉継はそのことをよくわきまえていた。
 わきまえていた、はずだったのだが。


 不思議なことに、このとき相手の笑みを見た吉継は、眼前の人物に抱いていた警戒心が陽だまりに置いた氷のように解けていくのを感じていた。
 強いて理由をあげれば、相手の立ち居振る舞いに邪念が感じられなかったためであろう。凛然とした言動は、悪人という言葉の対極に位置しているように映る。
 そして、実はこれがもっとも大きな理由だったのだが、吉継は虎と名乗った女性の面立ちに、自身が良く知る誰かの面影を見た気がしたのである。




 とはいえ、当然のように戸惑いは存在する。
 吉継たちの逡巡をどう受け取ったのか、虎は静かに続けた。
「他意はない。舞台の上から、そこな童が倒れるのが見えてな。そなたたちの様子を見れば、このあたりの者とも思えなかった。そこで、差し出がましいとは思ったが、こうして後を追ってきた次第だ。もしそなたらにあてがあるなら強いてとは云わぬが、いずれにせよ、その童は早めに医の心得がある者に見せたが良いと思うぞ。心気の衰えが甚だしい。よほどに無理を重ねていたのだろう」
「……それは」
 吉継と重秀は顔を見合わせる。
 虎の云うことはもっともで、その申し出もありがたいものだった。たしかに利兵衛は早めに医者に見せるべきであるし、少なくとも落ち着ける場所でゆっくり休ませるべきであった。このような野ざらしの場ではなく。


 吉継としては、一時のこととはいえ、海千山千の漂泊民と行動を共にすることに不安はあった。自分ひとりのことならどうとでもなるが、利兵衛たちの安全を考えると、危ない橋は極力渡りたくない。
 しかし、ここで相手の提案をはねつけた結果、利兵衛の具合が悪化したりしたら目もあてられない。利兵衛以外の子供たちも無理をしていることにかわりはなく、いつ体調を崩すかわからない、という懸念もあった。


 吉継が重秀の顔をうかがうと、重秀は小さくうなずきを返してきた。
 重秀にしても吉継と似た懸念を持っている。同時に、この虎という女性がもし悪心を持って自分たちに近づいてきたのだとしたら、ここで断ったところで逃げようがない、とも感じていた。
 相手の姿勢、眼差し、足運び。いずれを見てもタダ者ではない。なんで漂泊の民にこんな傑人がいるのか、と目を疑いたくなるほどである。
 もっとも、重秀はそれを理由に「何をしても無駄だ」と諦めたわけではない。相手の態度に嘘がない、と信じたからこそ吉継にうなずいてみせたのだが。








 虎に案内されるまま、吉継たちは漂泊の民が宿としている民家に向かう。
 そこで吉継たちを出迎えたのは、見るからに怒ってますといった様子の白拍子の姿であった。すでに自身の演目を終えて家に戻っていたらしい。
「とぉぉぉらぁぁぁ!! 勝手にひとりで出歩くなって何度云えばわかるのよ、行くならあたしも連れてけ――って、なんであんた子供を背負ってんの? それに後ろの子たちはなによ??」
 牙でも生えてるんじゃないかと思うほど大口をあけていた白拍子が、虎の背で苦しげに息を吐き出している利兵衛に気づいて目を瞬かせる。


 次いで、視線を向けられた吉継は思わず息をのんだ。先刻の活き活きとした舞いから想像はしていたものの、間近で見る白拍子の瞳は驚くほど力感に満ちており、挙措には清爽の気が漂っている。この白拍子が、実は名のある武将、もしくは大名だと云われても、吉継はまったく不思議に思わなかっただろう。
 白拍子の疑問を受けた虎は、お叱りは後で、と云って利兵衛を背負いなおすと、吉継たちを促して家の中へと入っていった。この時点で吉継は半ば予測していたが、そこにはいかにも非凡な風貌の男たちが忙しげに動き回っており、彼らは一様に虎と白拍子に敬意を、吉継たちには不審の目を向けてきた。中でも一座の長とおぼしき老人の眼光は、吉継の背を冷や汗で濡らしたほどである。
 虎はそういった者たちをなだめ、利兵衛と子供たちを一室で休ませると、医術の心得があるという長に後を託し、吉継と重秀をうながして別室に移った。
 そこで白拍子に対し、かくかくしかじかと事情を説明したのである。




 事情を聞き終えた白拍子――静と名乗った――は乱暴に頭をかきながら、きこえよがしに嘆息した。
「いや、まあね。あんたに見てみぬふりができるとは思わないし、しろと云うつもりもないけども。よくまあこんな、いかにもわけありの子たちを見つけられたもんだわ。あっちで寝てる子たちはともかく、この二人はどう見たって普通の村娘じゃないでしょ」
 まがりなりにも扮装している重秀をあっさり女の子だと看破した静は、警戒する吉継たちに軽く手を振って見せた。
「ああ、別にあんたたちの素性を探るつもりはないから安心なさい。怪しさでいったらこっちも相当なもんでしょうし。あたしはただ、事あるごとにふらふら出歩くこいつに嫌味を云ってるだけなのよ」


 そう云って静はあごで虎を指し示す。いかにも伝法な振る舞いであったが、静がやると不思議に粗野とは感じられない。
 一方、指し示された虎はすすいっと自然に視線をそらし、吉継たちに向き直った。
「静どの。その件についてはまた後刻。今はこの者たちと話をしなければ」
「ふん。ま、客人を待たせて言い争いってのもひどい話だわね。わかったわ。そのかわり、あとできっちり話をつけるわよ」
 虎に対して太く丈夫な釘を打ち込んでから、静も吉継たちに向き直る。


 そうして、改めてこの二人と対峙した吉継と重秀は、期せずして同じことを考えていた。吉継にとっては先刻うけた感覚を繰り返し感じたことにもなる。
 この人たちは似ている。顔かたちではなく、もっと別の何かが、吉継たちの良く知る人物を想起させた。





◆◆◆




 
 南近江 青地城


 大谷吉継らが漂泊の民と邂逅する数日前。
 三好政康による苛烈な攻撃に晒される青地城において、城主である青地茂綱のもとに一枚の紙片が届けられていた。
 すでに茂綱の目にも防戦の限界があらわになってきている。これからの行動について考えていた茂綱は、配下の兵から渡された「それ」を一瞥して眉間に深いしわを刻んだ。
 何事か思案した末、茂綱は南門で防戦の指揮を執る蒲生定秀のもとに使いを出す。しばし後、老いた相貌に疲労と、疲労を上回る戦意を湛えて姿を見せた定秀は、茂綱の用向きを聞いて太い眉をはねあげた。


「矢文、じゃと?」
「はい。先ほど兵のひとりが持ってまいりました」
 そう云って茂綱が差し出した紙片を見た定秀は、ひげをしごきながら呟いた。
「『敵増援近し 勝ちを望むなら出撃せよ 今宵、子の刻(深夜0時頃)に動きあり 左内』……ふむ、末尾は矢文の主の名か。茂綱、心当たりは?」
「ございます」
 茂綱はここで岡左内定俊の名を定秀に伝えた。



 ――左内の為人を聞いた定秀は不審そうに眉をひそめる。
「草津の者、のう。商いに携わる者は利に聡い。今の我らに助力しようとするとは思われぬぞ。話を聞くかぎり、その左内とやら、そなたと格別に懇意であったわけでもないのだろう?」
「は、確かにそうなのですが。以前に我が家に誘った際も謝絶されましたし」
「強いて考えれば、ここでそなたが討たれれば、そなたに貸し付けた金子が無駄になる。それを惜しんだとも思えるが、だからというて一介の商人が三好の大軍に挑むはずもあるまいて」
 むしろ、その左内とやらは三好と手を組み、城内の兵を外に引きずり出す策の一端を担っているのではないか。定秀には、そちらの方が可能性が高いように思われた。


 ここで茂綱が死ねば貸し付けた金は戻ってこないが、茂綱との繋がりを利用して三人衆の好意を得ることができれば、多少なりとも投資を活かしたことになる。
 定秀は商人を嫌っているわけではなく、むしろ転んでもタダでは起きない彼らの生き方を好んでいるが、彼らとの間に友誼や親愛を期待するつもりはなかった。武士と商人の間に「利」以外の繋がりを求めれば双方に危難が降りかかる。これは定秀の人生訓の一つである。



 茂綱は反駁しなかった。
 左内は普通の商人というわけではないのだが、それはここで云っても仕方ない。というか、左内の独特の為人を言葉であらわす術を茂綱は持っていなかった。無理にそれをすれば、ますます定秀の誤解が加速するような気もする。
 ゆえに茂綱は、別の見方でこの矢文を捉えることにした。


「しかし――これを捨て置いたとしても挽回が成るわけではござらんでしょう」
「む……それは確かにのう」
「遠からず、城の守りは破られます。観音寺の殿はもちろん、兄上(蒲生賢秀)の増援も間に合わぬ様子。この戦況を覆すためには、いずれどこかで賭けに出る必要があろうと存ずる」
 連日の政康の猛攻により、城の防備も将兵も限界が近い。もってあと二日、というのが茂綱の見立てであり、それは同時に定秀の見立てでもあった。


 ただ定秀としては、真偽の定かならぬ矢文に一城の命運を託すよりは、限界まで粘りぬいて日野からの増援を待つべきだと思えるのである。
 実のところ、茂綱にしても内心は定秀とさほど変わらないのだが、落城を間近に控えた茂綱の心には別の思案が宿りつつあった。
 もはや青地城の陥落も、青地家の衰運も避け難い。であれば、これに蒲生家を巻き込んでしまうことは避けなければならない。それが茂綱の頼みに応じ、無理を押して援軍に来てくれた父と、今も必死にこちらに向かっているであろう兄に対するせめてもの返礼であろう。
 兄の援軍がどこまで来ているのかはわからないが、落城が早まれば、その分、蒲生軍と三好軍は距離を置くことになり、賢秀は危険なく日野城に退くことができる。子の刻に茂綱みずから南門から出撃し、その間に東門から定秀を逃がすことができれば云うことはない。
 もちろん左内からの報せが本物であれば、それはそれで願ってもないことなわけだ。



 とはいえ、すべてを正直に云えば、幼い日のように定秀に拳骨をもらうのがオチであろう。わしの半分も生きておらぬ小僧っこが生意気なことを申すな、と。
 悪くすると「ならばわしが南門から出撃しよう。おぬしは東門から逃げよ」とか云い出しかねない。むしろこちらの方が可能性としては高いかもしれぬ。
 ゆえに茂綱は、父に内心を悟られないよう注意しながら、あくまでも勝利を得るための方策として矢文の案に乗ってみせねばならなかった。


 考えをまとめた茂綱は、父を説き伏せるべくゆっくりと口を開く。
 すでに日は落ちている。子の刻まであまり時間は残っていなかった。





 同日 子の刻


 青地城を包囲する三好軍の一角で不穏な動きをする兵たちがいた。
 降り続く雨に全身を濡らした彼らは、青地城を取り囲む三好軍のうち、比較的最近になって政康の麾下に加わった兵たちの背後へと移動していた。
 最近になって加わった兵というのは、先の瀬田川の戦いで敗れて降伏した六角兵や、敗戦後に三好家に恭順を誓った近隣の国人衆などを指す。彼らの多くは城攻めの最前線に配置されていた。


 新参者が危険な最前線に投入されるのはめずらしいことではない。今回の合戦にかぎっていえば、政康が陣頭指揮をとることで新参者たちの士気も保たれていたが、彼らが危険な最前線に投入されている事実にかわりはなく、強い抵抗を示す城兵によって激しい消耗を強いられていた。
 その彼らの陣に、夜半、喚き声が響き渡る。


「三好政康さまの命令である! 降伏した六角兵および近江に領地を有する者どもは、ことごとくこれを斬り捨てよ!」


 その集団は口々にそう叫びたてながら、その場にいた三好兵を手当たり次第に斬り倒していった。
 青地城の上空を覆う雨雲からは今なお大粒の雨滴が滝のように降り注いでおり、叫喚も絶鳴も水の幕に遮られて遠くまで伝わることはなかったが、それでも同じ陣にいる将兵がこの血泥の騒ぎに気づかないはずがない。陣営はたちまち騒乱の淵に叩き込まれた。


「何事だ? いったい何が起きている!?」
「謀反か、敵襲かッ!? ええい、誰でもよい、はよう確かめてこぬか!!」
 青地城からの夜襲については想定もし、対処もしていた三好軍だったが、まさか味方が布陣している後方から襲撃を受けるとは予想だにしていなかった。
 想定外の事態に直面した将は驚き慌て、狼狽はたちまち配下の兵に伝播していく。夜襲だ、いや謀反だ、と根拠のない憶測が混乱に拍車をかけ、部隊は驚くほどの早さで統率を失っていった。


 混乱したのは旧六角兵ばかりではない。彼らの後方に布陣していた三人衆直属の将兵も困惑を禁じえなかった。
 そんな彼らの耳に煽り立てるような大声が飛び込んでくる。
「繰り返す! 城中の兵と通じた裏切り者どもを掃討せよ! 旧主に尻尾を振った畜生ども、情けも容赦も不要なり! 連中が近江に持つ土地、財貨、これらすべてを討ち取った者に与えると下野守さまは仰せであるッ!」
 その声を聞いた将兵は顔を見合わせた。あまりにも急なことで、咄嗟にどう判断して良いかわからない。
 誰とも知らない者の叫びに即応して味方に襲い掛かるほど三好兵は愚かではなかったが、ただの流言だと切り捨てることもできない。雨に遮られてろくに状況が掴めないとはいえ、城外で戦闘が行われていることは確かなのである。
 もし裏切りが事実であれば、すぐにも敵兵が襲い掛かってくるかもしれぬ。状況が落ち着くのを漫然と待っているわけにはいかなかった。


「すぐに政康さまへ伝令を出せ! 事の次第を報告し、真偽を確かめるのだ! それと、念のために敵兵への備えも怠るな。武器を持って陣に分け入ろうとする者は誰であれ取り押さえよ。手に余れば殺してもかまわん!」
 ひたすら陣地を固め、情報をかき集める。それは混乱を乗り切るために有効な手であっただろう。
 が、見方をかえれば、混乱する前線を見捨てて自陣の安全を優先した、ともとれる。少なくとも、前線の混乱を静めることに何一つ寄与しない決断であったことだけは間違いなかった。





「ふん、動かないか」
 三好軍の武具を身につけた北相馬は、眼前の兵の首筋を断ち切って地面に這わせた後、後方を見やって酷薄な笑みを浮かべた。
「案外、冷静だな。ま、動かなければ動かないで、こちらは邪魔されずに済むわけだが」
「動けば動いたで利用しつくす気なのじゃろ? こわやこわや」
 こちらも眼前の敵兵を斬り倒した岡左内が、戦闘の高揚で口角をつりあげながら不敵に言い放つ。


 先に鹵獲した三好軍の兵装をまとった左内たちは、本来であれば、鶏冠山、竜王山に攻め寄せる三好軍の後詰部隊に紛れ込むはずだった。
 それがどうして青地城を囲む兵の中に入り込み、派手に敵兵と斬りあうような事態になっているのかといえば――
「増援になど見向きもせず、狙いは三好政康ただひとり。欺かれたことを娘御が知ったら、激昂するか、消沈するか。いずれにせよ、良い気分はせぬであろうな」
「欺いたとは人聞きの悪い。きちんと云っておいただろう」


『俺の狙いはあくまで三好三人衆の首級であり、そのために六角軍を利用しようとしているだけ』
『もし敵(後詰部隊)にその隙がなければどうするか。その時はこっそり紛れ込んだ時と同様、こっそり逃げてしまおう』


 後詰部隊から逃げた後、何をするかには言及していない。ゆえに、こうして青地城にやってきて策動したとしても、誰かを欺いたことにはなるまい。
 それを聞いた左内は、呆れたようにほぅっと息を吐いた。
「そも後詰にまぎれこむ素振りさえなかったように思うがの。あっさり身共の同行を許したのも矢文のためか。くわえて茂綱どのの為人さえ策の内とはまったく、虎の尾は踏むべからず、竜の逆鱗には触れるべからずじゃな」
「苦情があるなら後ほど承ろう」
「殊勝なこと。娘御も、あとできちんとねぎろうておけよ」
「云われるまでもない」
「ん、ならば良い――」


 云いざま、左内は横合いから斬りかかってきた兵の一刀を綺麗に受け流し、体勢が崩れた相手の首筋に致命的な斬撃を叩き込んだ。
 飛び散った敵兵の血が左内の防具を赤く濡らし、その返り血はたちまち雨で洗い流されていく。
 左内は額にかかった前髪を払うと、城壁を振り仰いだ。
「そろそろ城内も異変に気づいた頃じゃろう。退き時であるな」
 これ以上この場に留まっていれば、出撃してきた城兵とぶつかりあうことになりかねない。ここで城内の兵に斬り殺されたりしたら「策士、策におぼれる」どころの話ではなかった。


 この左内の言葉を契機として、二人は混戦の場から離脱する。別の場所で暴れていた左内の私兵たちも同様に。夜の闇と降り続く雨が彼らの退却を援護した。
 今日まで頑強に閉ざされてきた青地城の城門が開かれたのは、そのすぐ後のことである。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/12 02:27
 草津の士 岡左内の参戦は、青地城をめぐる攻防に大きな一石を投じることになった。
 ――後の蒲生家の記録にはそのように記されている。


 左内の策により乱れたった三好軍は、突出してきた城兵の勢いを支えかね、一時的に包囲を解いて後退する。
 むろん、この後退はあくまで部隊を再編成するためのものであり、城攻めを諦めて退却したわけではない。ただ、連日、三好政康の猛攻を耐えしのいできた城内の将兵にとっては貴重きわまりない休息を得られたことになる。彼らはまさしく生き返った心地であっただろう。
 わずか数十の手勢のみを率いた左内の入城は、将と兵とを問わずに歓迎され、攻防戦は次の段階に移行することになる。


 左内の策によって青地奪取の機を逸したかに見えた三好政康であるが、手元にはまだ城兵に倍する兵力を抱えており、これに後詰の軍を加えれば、総数は城攻め開始の時点を上回る。物資に関しては若干の不安があるものの、青地城の防備が一日二日で元通りになるはずもなく、仕切り直しをするには十分な条件がそろっていたといえる。
 これらの条件を鑑みて、政康は兵の再編を終え次第、すぐにも城攻めを再開しようとした。時を置かずに攻め立てることで一気に決着をつけようと考えたのである。
 しかしながら、政康は最終的にこの考えを断念せざるをえなかった。配下の兵の疲労が無視できず、また、旧六角兵の動揺を静めきらないうちに出撃すれば、再び同じ手にしてやられる恐れがあったためである。



 政康はじっくり腰をすえて問題の解決に取り組むこととしたわけだが、これに予想以上に手間取ってしまう。
 先夜の流言に関しては敵の策略であると宣言したものの、政康の苛烈な攻勢で大きな被害を出したのは敵も味方も同様であり、中でも最も被害が大きかったのは先陣に配された旧六角兵であった。
 目前にあったはずの戦勝が掻き消え、高揚が冷めた旧六角兵は、あらためて周囲を見回して不安と不審を禁じえなかった。みずから陣頭に立つ政康が、旧六角兵のみを死地に投じたわけではないのは確かである。だが、それは政康が彼ら降兵を慮ったわけではなく、旧六角兵だろうが直属の三好兵だろうが、等しく兵の死など気にかけていない、というだけのことではないのか。結局のところ、自分たちは政康の武勲のために使い捨てられてしまうのではないか――そんな疑念が兵たちの胸にたゆたっていた。


 左内の流言は、それまで政康の猛勇によって覆い隠されていた「混成軍」の弱点を的確についており、三好軍はこれを取り静めるために少なからぬ労力を費やさねばならなかった。
 おまけに、番頭義元(岩成友通の腹心)が指揮する後詰部隊は、左内が流した偽情報に惑わされて山中に分け入っており、こちらも合流までに無駄な時日を要してしまう。
 左内の策はこの戦況において黄金よりも貴重な『時』を稼いだのである。




 その効果はほどなくあらわれた。
 蒲生家中において剛の者として知られる結解(けっけ)十郎兵衛と種村伝左衛門の援軍が日野城から到着したのだ。
 この援軍は蒲生賢秀がかき集めた軍勢の第一陣であり、本隊の到着が間に合わぬと考えた賢秀が、取り急ぎ遣わしてきた部隊であった。
 騎馬十、足軽二百あまりの小勢であったが、大半の将兵が負傷していた青地城にとっては、まさしく地獄に仏というところであったろう。彼らは左内たちのそれに数倍する大歓声によって城内に迎え入れられる。
 また、この時の援軍の中には、後に蒲生家きっての驍将として名を知られることになる横山喜内の姿もあった。


 かくて、共に新たな戦力を加えた三好、六角両軍は、数日の時をおいて再び激突を繰り返す。
 攻める三好軍、守る六角軍という構図はそれまでと変わらなかったが、新たな援軍を得た上にさらなる増援が近づいていると判明した城兵の士気は高く、しばしば攻撃側を圧倒した。
 また、岡左内の献策によって、攻め手の三好軍に対しては連日のように声による攻撃が仕掛けられた。


 曰く、三好三人衆は主家から疎んじられており、実は窮地にいる。
 曰く、瀬田城は堅田衆の攻撃を受けており、いつ陥落してもおかしくない。
 曰く、三人衆にとって近江は捲土重来の地、富も土地もすべてを我が物にするつもりである。ゆえに近江兵がどれだけの手柄をたてようと報われることは決してない。


 曰く、曰く、曰く。
 度重なる攻声は、実際のところ、ほとんどが事実にもとづくものであり、だからこそ笑い飛ばせぬ重みと迫力に満ちていた。
 とはいえ、合戦の場で敵の嘲弄をいちいち真に受ける者がいるはずもなく、城兵の罵声が目に見えるだけの効果を生んだかといえば、決してそんなことはなかった。が、それでも、わずかな疑念、かすかな躊躇、ほのかな不安を植えつけることができれば、それはいざという時に大きく役に立つ。
 なにより敵の窮地を吹聴すれば、それは自然と味方の耳にも入る。三好軍の内情など知る由もなかった城兵にしてみれば、実は追い詰められているのは自分たちではなく敵なのだとわかったことは、激しい攻防の中にもゆとりを生じさせた。


 今や勝敗の天秤は一方のみを指し示すものではなくなりつつある。
 そして、揺れ動く天秤の動きを決定づけるものが戦場の外縁部に現れたのは、三好軍が攻撃を再開してから数日経ってからのことであった。
 蒲生賢秀率いる蒲生軍本隊が到着したのである。 
 


◆◆



 青地城に拠って戦う青地、蒲生両家の奮戦は観音寺城の情勢にも少なからぬ影響を与えていた。
 当初、六角義治が青地城に期待したのは、三好軍を足止めする駒となってくれることであった。青地城の陥落が遅ければ遅いほど、その他の城は防備を固めることができるし、六角軍本隊の出陣準備を整えることもできる。両藤が除かれ、動揺する家臣たちを落ち着かせる意味でも、義治にとって時間は貴重なものであった。


 その意味では青地城は十分に義治の期待に応えたといえる。むしろ期待に応えすぎた、というべきかもしれない。多くの者たちの予想を越えた青地城の奮戦は、観音寺城内における救援派遣の声の高まりを誘発したのである。
 三好軍を領内に引きずり込み、消耗を強いた上で野戦で一気に決着をつけるつもりであった義治は、はじめ、この声に対して無視を決め込んでいた。しかし、青地城からの詳報が伝わるにつれ、やがてそうも云っていられなくなってくる。
 このまま義治が戦況を注視しているだけでは、たとえそれが戦略的判断にもとづくものであろうとも他者はそう見ない。義治が戦いを厭い、三好家を怖れて青地城を見捨てたのだと囁きあうに違いない。


 また、鶴姫の言動によって蒲生家の援軍が青地城に向かっていることは城内で周知の事実となっており、これ以上の静観は「両藤に続いて蒲生家まで敵の手を借りて粛清するつもりなのか」という疑いを芽生えさせてしまう恐れがあった。
 さらに義治が憂慮している事態はもう一つある。それは、このまま青地、蒲生の兵のみで三好家を撃退してしまうかもしれない、というものである。
 この頃になると、義治のもとにも三好家内部における確執や、三人衆の窮状について情報が入り始めてきている。もし今、三好宗家が三人衆の追討に立ち上がれば、三人衆は近江から手を退かざるをえず、青地城を守り抜いた両家の名声は轟き渡り、反対に何一つ為す術のなかった六角家の――義治の名は地に落ちる。
 そうなれば、もはや六角家の権威など笑い話のタネにしかならない。江南の主権は他家の手に――おそらく三好軍を退けた両家、なかんずく蒲生家の手に渡ってしまうだろう。


 なによりもその恐れが義治の出陣を促した。
 観音寺城の留守は父の六角承禎に委ね、義治は三千の兵を率いて城を出る。当主みずからの出陣にしては兵数が少ないのは、両藤の家臣たちの叛乱に備えて城に直属の兵の過半を残したためである。それでも征路の途中で山中家、望月家などの援軍を加えて五千にまでふくれあがった六角軍は、一路、青地城を目指した。
 なお、蒲生家の鶴姫は義治の決定を喜び、援軍に同道することを強く望んだが、結局容れられることなく観音寺城に残っている。



 こうして、青地城をめぐる攻防はまた一つ段階を進めた。
 三好軍は、ただでさえ城を攻めあぐねていたところを蒲生賢秀に側面にまわられ、容易に身動きがとれない状況に陥っていた。そこに新たな、強力な五千の援軍の到着である。これで決着がついた、と考えたのは六角家ばかりではない。事実、義治の到着によって形勢は決し、三好政康は瀬田城の方角に兵を退く。
 追撃戦はあらゆる戦の中でもっとも勝ちを得やすい戦いである。あとは凋落の兵を討ち取って失地を回復するだけと判断した義治は、青地城に少数の兵を残して城から打って出た。
 この義治の判断は戦理に即したもので、反対を唱える者は誰もおらず、勇武を誇る三好政康、さらには三好三人衆の命運もついにここで潰えるか、と思われた。


 しかし――





◆◆◆





 北近江 小谷城


「時は来た。六角家との宿怨を晴らし、浅井の家名を高めるは今この時をおいて他にない」
 江北随一の要害として知られる小谷城、その軍議の間で浅井長政が静かに声を発するや、居並ぶ家臣たちの口から吼えるような歓声が発された。
 浅井家と六角家の争闘の歴史は長く、先代 久政の時代には従属を強いられたという苦い記憶がある。野良田の戦いで六角軍を打ち破り、実質的に独立を果たしたとはいえ、それ以後も度々六角家と干戈を交えてきた浅井家としては、六角家を討つ好機を前にして動かないという選択肢はありえない。
 観音寺騒動をはじめとした隣国の混乱を見て、浅井家はついに兵を発しようとしていたのである。


 もっとも、当主の長政は多くの家臣たちのように六角家憎しの感情で染まっているわけではなかった。
 長政は最初の妻を六角家の六家老の一、平井家から貰い受けており、短くはあったが仲むつまじい夫婦生活を送っている。六角家との敵対を決めた際、妻とは離縁して実家に送り届けており、今はどうしているか知る由もなかったが、それでもかつての妻や妻の一族のもとへ攻め込むとなれば心が軋む。浅井家を属国扱いする六角家の態度に怒りを覚えたことは一度や二度ではないが、その六角家から得た恩恵も一つや二つではないのである。
 ゆえに長政は、六角家を攻めるにしても武士たるの礼節をもってする、と心に決めている。敵国の混乱に乗じて領土、領民を荒らしまわる野盗のごとき戦いは長政の望むところではなく、家臣たちの過度の興奮をなだめておく必要があった。



 長政の視線が重臣たちに向けられる。
 浅井家には海北綱親、赤尾清綱、雨森清貞という重臣がおり、浅井三将ないし海赤雨三将と呼ばれ、浅井軍の中核を成している。
 長政はその三人に笑貌を向けた。
「綱親には是非とも我らの敵を屠ってもらわねばなるまいな」
 それを聞いた瞬間、智勇兼備をうたわれる宿将の強面がびしりとひびわれた気がしたのは、たぶん気のせいではない。
 主君の意を悟ったのか、家老のひとりであり、長政の信頼厚い遠藤直経が声に笑いを含んで続けた。
「たしかに殿のおっしゃるとおり。綱親は敵を、そして雨森どのには当家を包む闇を祓ってもらわずばなりますまい」
「ぐぬぬ……」
 からかわれ、拳を震わせる雨森清貞。
 それを見た長政が、最後とばかりにこうつけくわえる。
「そして清綱に我らの明日を築いてもらえば当家は安泰、皆も心安らかに日々を過ごすことができるというものだ」



 長政の笑い声はたちまち家臣たちに伝播していき、軍議の間は時ならぬ笑声に包まれる。
 そんな中、僚将たち同様、わなわなと肩を震わせていた赤尾清綱が大声でわめきたてた。
「ええい、しつっこいですぞ、殿! 一時の気の迷いをいつまでもねちねちと口になさるのは、主君としていかがなものでしょうかなぁ!?」
 浅井家の重臣筆頭の顔は怒りと羞恥でちょうど二等分されていた。
 清綱をはじめとした三人は以前にいろいろと困ったことをしていた時期があり、その発作(?)が落ち着いた今なお、ときおり罪のない笑いのタネにされることがある。
 むろん、この三人をからかうことが許されるのは、当主の長政か、あるいは三人と同格にある遠藤直経くらいなのだが。


 長政が笑って手を振った。
「はは、すまぬ。許せ、清綱」
「許せと仰るのなら許しますが、笑いながらでは説得力がございませぬ!」
「すまんすまん。そなたらの仮面姿を思い出すと、なかなかに笑いの気が消えてくれぬのだ」
「ぬぐうッ!」
 憤懣やるかたなし、と云わんばかりに顔を真っ赤にする清綱に、直経が澄ました顔でとどめをさした。
「自業自得よ。わしも殿も、そなたらのせいで幾度恥をかいたか知れぬのだぞ。所かまわずけったいなことを触れ回りおって。この程度のことは笑って流すがよい」
「ええい、云われんでも申し訳ないとは思うておるわい!」



 そんな重臣たちのやり取りを他の家臣は笑いをこらえて眺めている。
 先ほどまでの憎しみまじりの興奮がすでに祓われていることを察した長政は、ここで話を先に進めた。
「先に申したとおり、この戦いは我ら浅井にとって宿怨を晴らす好機である。そして、同時に家名を高める好機でもある」
 家臣たちは顔から笑みを拭い、表情を真剣なものへと改める。
 長政の声は静かであった。あたかも家臣たちにこの戦いの意義を染み込ませようとしているかのように。


「興福寺の一乗院覚慶さまから使者が訪れたこと、すでに皆も承知していよう。御使者によれば、六角義治どのは覚慶さまの腹心 和田惟政どのを幽閉したとのことだ。現在、六角軍と三好軍は江南で激しく争っているが、この一事を見るかぎり、六角家が衷心から足利家の御為に戦っているわけでないことは明白である。六角家は六角家の利益のために兵を起こしたに過ぎない。ゆえに、これを討っても不義と謗られることはない」
 長政の言葉を聞いた家臣のほとんどがうなずいた。
「残念なことに、盟友たる朝倉家は越前、加賀における一向衆との戦いが激しく、此度の逆賊討伐には加われない。しかし、我らは孤立無援ではない。美濃の織田どのが覚慶さまの請いに応じ、我らと行動を共にすることになっている。我が軍の力をもってすれば六角家に勝ち得ることはすでに野良田で証明された。この上、織田家の助力があれば万に一つの敗北もありえぬだろう。六角を破り、三好を討って、公方さまの無念を晴らす。そして都に正当なる将軍の後継者をお迎えするのだ」


 おお、という声なき声が軍議の間に響き渡る。
 家臣たちの気の高まりに応じるように、長政の声が一際高くなった。
「そうだ、我ら浅井家が新たな征夷大将軍を推戴するのだ! この義挙をもって浅井の武威と高義を天下万民に知らしめる! 皆の奮励、力戦を期待するッ!!」
「ははッ!!」


 浅井家の家臣は一斉に頭を垂れ、若き当主に対して来る戦いでの奮戦を約束する。
 彼らの中には今回の出陣に関して――もっと正確に云えば織田家の参戦に関して、不服を抱いている者もいたのだが、三好、六角の徒を討ち滅ぼすことに反対を唱える者は誰もいない。
 かくして、浅井軍は江南の戦局に関わるべく動き始める。


 そして、これに先立ち、近江の隣国 美濃でも同様の動きが起きていた。


  

◆◆◆





 美濃 岐阜城


 先年まで稲葉山城と呼ばれ、美濃斎藤家の居城として知られていた山城は、新しい支配者によって新しい名を付けられていた。
 岐阜城。
 それが、桶狭間の戦いで今川家を打ち破って以後、日の出の勢いで勢力を広げている尾張織田家の居城の名である。
 今、その岐阜城には、当主である信長の命令により、織田家の主だった武将たちが集められていた。



 織田家の武将でまず第一に名前が挙げられる者といえば、衆目の一致するところ、柴田権六郎勝家であろう。
 先代 信秀の頃より織田家に仕えてきた来歴の持ち主であり、勇猛なること無比とうたわれる剛武の将である。かつて信長の弟である信行に仕え、その謀反に加担したこともあるが、一度許されてからは忠実に信長のために働いてきた。
 年齢は三十の半ば。こわいヒゲで顔の下半分を覆った、見るからに猛将然とした面構えの持ち主であり、勝家が場に座ると周囲の家臣たちはその威を怖れて一様に口を噤む。もっとも、勝家本人はそれほど狷介な為人ではなく、無闇に他者を怒鳴りつけたりはしない。部下と酒の飲み比べをすることもあれば、大声で冗談も口にする。ついでに、可愛い子供を見て相好を崩す一面も持っていたりする。


 その勝家は、先刻からやたらとヒゲをしごきながら、家臣団の末席あたりにチラチラと視線を注いでいた。その顔は笑っているような、それでいて困惑を隠せぬような奇妙なもので、周囲からは時折怪訝そうな視線が向けられている。
 勝家の近くに座していた丹羽長秀が不思議そうな顔で勝家に問いかける。
「どうされました、柴田どの。そのようにそわそわなさって?」


 外見は勝家と同年代、しかして実年齢は十以上も下であるという老け顔の長秀は、勝家と同じく信長が信頼する家臣のひとりである。
 信長の直臣としての期間が長く、主君からの信頼という点では勝家や、尾張の林秀貞ら譜代の重臣たちをしのいでいるといってもよい。
 軍事のみならず民政や城普請にも通じ、後詰や輸送任務、治安の維持といった、武勲とは縁遠い役割も堅実にこなしてのける長秀は、織田家中では明智光秀と並ぶ人格者でもあった。
 織田家の家臣には新参者や尖った性格の者が多く(一番尖っているのは主君である信長なのだが)何かと角突き合わせることが多い。長秀は温和な為人を見込まれ、彼らの調整役となることがしばしばあった。
 さらには包丁をとらせれば信長も唸るほどの美食を用意する料理の達人であり、まさしく万能という言葉の生きた見本であるといえる。


 信長からは米のようになくてはならぬ者という意味で「米五郎」と呼ばれており、勝家も長秀には一目も二目も置いている。
 その長秀から問いを向けられた勝家は、ふむむと唸って何と答えたものか考えあぐねている様子だった。
 万事に直截な勝家としてはめずらしい反応で、長秀ははてと首をかしげる。
 と、そんな二人に向かって陽気な声をかけてくる者がいた。
「おお、これはこれは、柴田さまに丹羽さま。お久しゅうございまする!」


 その声に覚えがあるのは勝家も長秀も同じであったが、反応は見事なまでに二つに分かれた。
 にこりと笑って振り向いたのが長秀で、渋面になってそっぽを向いたのが勝家である。
「おお、藤吉――ではない、秀吉ではないか。久しいの。そなたが墨俣の城主に任じられて以来か」
「そうなりまするな。ところで丹羽さま、それがしのことは、どうかこれまでどおり遠慮なく藤吉とお呼びくだされ。いやさ、はじめてお会いした時のように猿でも一向にかまいませぬ! 丹羽さまに改まって秀吉などと呼ばれると、なにやらこう寂しさがわきあがってまいりまして」


 そう口にする人物――木下藤吉郎秀吉の顔は、なるほど、猿を思わせる造作をしていた。
 その顔には陽気さと愛嬌と、さらには才気がたっぷりと詰めこまれている。信長の草履取りから成り上がり、桶狭間の合戦で諸人が瞠目する大手柄をあげ、美濃攻めにおいても難所であった墨俣の地を奪い取るなど数々の武勲をあげて、いまや織田家家臣団の中核にまで上り詰めてきた秀吉に対し、長秀はからからと笑ってかぶりを振った。


「仮にも一城の主となった者に対して猿などとは呼べぬよ。半兵衛どのも久しぶりじゃな」
 秀吉の後ろに控えていた女性が、長秀と勝家に対して無言で会釈をする。
 竹中半兵衛重治。かつて美濃の斎藤家に仕え、わずか十数人の手勢で一城を落として今孔明と謳われた若き英才である。
 その後、理由は定かではないが、半兵衛は斎藤家を辞して野に伏し、山中の一画に庵を結んで隠棲生活に入った。織田軍が美濃に侵攻した際は斎藤家、織田家のどちらにもつかず、美濃を掌握した信長が招聘した時も応じる気配を見せなかった。


 その半兵衛が秀吉の招きに応じたと知ったとき、長秀は驚きを禁じえなかった。
 半兵衛は楚々とした風情の麗人であり、主である秀吉とは対照的に物静かな性格をしている。常に人の裏をかく軍師、策士とは思えない穏やかな為人をしており、無駄口を叩かず、酒も飲まず、暇があればいつまでも兵法書を読んでいるような人物だ。それでいて、他者を寄せ付けない狷介さは少しも感じさせない。
 どうしてこのような人物が諸事に騒がしい秀吉の招きに応じたのか、と長秀は首をひねったものである。
 つけくわえれば、自他ともに女好きと認める秀吉が、不埒なまねをして半兵衛に愛想を尽かされるのではないか、といらぬ心配もしたりした。
 この手の心配をするのは長秀に限った話ではなく、秀吉の知己である前田利家などは、秀吉が半兵衛を招いたと知って我が事のように喜ぶと同時に、面と向かって手を出さないようにと注意したほどである。




「ところで、お二人は何を話しておいでだったので?」
 再会の挨拶が一段落した後、秀吉はそう訊ねてみた。目の前の勝家の様子には気がついているが、勝家が成り上がりの秀吉を厭うのはいつものことなので、気にしても仕方ないとわきまえている。
 それに勝家は秀吉のいない場所で誹謗を口にすることはなく、面と向かって「わしはお前が気に入らぬ」と云ってくるような人柄なので、秀吉としても勝家は嫌いではないのである。正直、からかうと面白いとさえ思っていた。実際に口にすれば勝家自慢の大斧で脳天から両断されかねないので、絶対に口には出さないが。


「いや、柴田どのがなにやら気にかけているようなので――」
「五郎左、余計なことを云わずともよい! それと猿、ここは重臣の席じゃ。墨俣ごとき吹けば飛ぶような砦の主は、さっさと末席に――む」
 鉛を飲み込んだような顔で黙りこむ勝家を見て、長秀と秀吉は思わず顔を見合わせる。
 勝家が衆人の面前でこのような表情をすることは滅多にない。軽くひと当たりして様子を見るだけのつもりだった秀吉も、本気で勝家の調子を心配してしまったくらいめずらしいことであった。


「柴田さま、もしや御身体の具合がよろしくないので?」
「ええい、やめぬか、猿! おぬしに案じられるほどやわな身体はしておらぬわい。そうではなくてだな、おぬしが末席に移ると……」
「それがしが末席に移ると?」
 思わず、という感じで勝家の視線を追った秀吉と長秀は、ふとそちらの方向に見慣れない武将を見出した。


 それは見るからに小柄な人物で、ともすれば童ではないかとさえ思われた。
 艶やかな黒髪を頭の後ろで束ねているのだが、その髪の長さから見て女武将であろう。織田家は当主の信長からして女性であり、明智光秀や林秀貞をはじめとして重臣の中にも女武将は存在する。だからこの場に女性がいたとしても何ら異とするに足らないのだが、この場に居並ぶ者たちは織田家の中でもそれなりに名前が知られた者たちであり、長秀にしても秀吉にしても諸将の顔と名前はおおよそ一致する。
 しかるに、この小兵の将は顔も名前もわからない。
 これほど若く、しかも可憐な容姿を持つ女性に見覚えがないとは奇妙なこと、と長秀らは首をひねった。


 ――いや、見覚えがない、というのは間違っているかもしれない。
 名前に心当たりがないのは確かだが、小さく整った顔の造作は記憶の内にあった。今でも十分可愛いが、あと二、三年も経てばそれこそ国色天香と称えられるであろう容色は、どこか別の場所で、違う姿で、何度も何度も見かけたことがあったような……



『あ』
 期せずして長秀と秀吉の声が重なる。
「皆、揃っているようだな」
 信長が明智光秀を供として姿を見せたのは、それとほぼ同時であった。



◆◆



 美濃を制した織田信長の次の目的は上洛である。
 そのための準備は美濃制圧直後からはじめられており、義輝討死の報が届けられてからはさらに公然と軍備を整えてきた。
 よって、大和の興福寺から使者が到着した時点で織田軍団は出陣可能な状態にある。岐阜城に参集した織田軍の総兵力は一万二千に達していた。
 美濃と尾張の二カ国を制した今の信長は、望めば三万を越える兵を集めることもできる。それを考えれば一万二千という数は全力出撃には程遠く、この場に集った諸将の数も決して多くはない。
 何故そうなったのかといえば、濃尾の周囲では武田、朝倉、本願寺、松平といった国々が虎視眈々と織田家の隙をうかがっており、彼らに対する備えを怠るわけにはいかなかったからである。外征に使える将兵の数にはどうしても限りがあった。


 上洛戦で手間取れば周辺国は得たりとばかりに織田領に侵攻してくるだろう。
 ゆえに素早く攻め、素早く取るのが信長の基本戦略であり、そのためにも敵は可能なかぎり一つに絞るべきであった。
 何よりも先に確保しなければならない土地は、岐阜と京を結ぶ南近江である。そのためには北近江の浅井家と関係を構築する必要があった。
 信長はかねてから浅井家と結ぶべく働きかけているのだが、朝倉家と繋がりの深い浅井家は容易に首を縦に振らない。当主の長政は考慮する向きを示しているが、家臣の中に織田家と結ぶことに強く反対する者たちがいるのである。


 信長としては、長政が家中を説き伏せることができるだけの「何か」を与える必要があった。織田家が決して浅井家を裏切らないと証明するものを。
 古来より、険悪な二家を結ぶ妙なる一手とくれば婚姻と相場は決まっている。幸い、浅井長政は男性であり、信長は美姫と名高い妹を持っている。
 ――興福寺からの使者がやってきたのは、信長が秘蔵っ子である妹の市姫を用いるのもやむなしか、と考えていた矢先であった。
 一乗院覚慶の要請により織田家は上洛の名分を得ると同時に、興福寺の仲立ちで浅井家と結ぶことができた。これにより、信長は妹を浅井家に差し出すという案を懐にしまうことができたのである。




 集めた家臣たちを前に上洛の手配りを説明し終えた信長は、対浅井の外交戦略の変更をあわせて告げ、人の悪い笑みを勝家に向けた。
「もっとも、だからといってほいほいと家臣にくれてやるつもりもないがな。残念だったのう、権六?」
 信長がにやにやと笑いながら水を向けると、勝家はげふんごふんと咳払いしながらも、当然だとばかりに強くうなずいた。
「ざ、残念という言葉の意味はわかりかねまするが、妹君が当家に留まることに関しては、拙者、諸手をあげて賛同いたしまする。姫さまは当家にとって大切な御方、浅井の小せがれにくれてやる必要は微塵もござるまい。殿がご自分の手で愛育されるにしかず、と心得まする」
「手柄を重ねていけばいつかは、との夢も果てずに済むものなあ。こっそり胸をなでおろしたのは勝家に限った話ではあるまい」
 くつくつと笑う信長から勝家他数人の家臣が目をそらした。
 その中には木下秀吉も含まれており、傍らの半兵衛が呆れたようにそっと目を伏せる。



 ここで信長は語調を改めると、居並ぶ家臣たちの一角に鋭い視線を向けた。
「ところで、当人がどう考えているのかも聞いてみたいところであるな。どうだ、お市?」
 その言葉に驚いた者もいれば、驚かなかった者もいるが、どちらであれ家臣たちの視線は同じところに集まった。むろんというべきか、先刻、勝家らが気にかけていた件の女武将のところに、である。


 重く力感のこもった信長の声に応じたのは、銀の鈴を振るような清らかな声であった
「市はもうすこし姉様(あねさま)と共にいたく思っておりますので、嫁がずに済んだことは嬉しくおもっております」
 ケロリとした顔で答えた後、市姫はようやく自身の存在が明らかになっていることに気づいたのか、慌ててきょろきょろと周囲を見回した。
「あ、あれ……? ひょっとして気づかれてしまいましたか?」
「遅いわ、ばかもの。とうに気づいておったというか、むしろ、どうして気づかれずに済むと考えたのかを説明してほしいところだ」
「お、おかしいな。完璧な変装だと思ったのですけど」
 両の手をあげ、しげしげと自分の格好を確かめる市姫の可愛らしい姿に、周囲からは微笑ましげな視線が注がれる。勝家などは相好を崩していたが、信長にひとにらみされ、慌てて表情を引き締めた。



「でも、姉様。気づいていらっしゃったなら、どうしてすぐに追い出さなかったのですか?」
「軍議の席とそなたの前と、二度同じことを説明するのは面倒だと思ったまで。わかったらはよう出てゆけ。云うまでもないが、そなたはお冬と共に岐阜で留守居であるぞ」
「そこをなんとか――」
「ならぬわ、たわけ」
 取り付く島もない姉の返答をうけ、市姫はしゅんとした様子で立ち去っていく。


 勝家や秀吉らはその背を気の毒そうに見送った。市姫が上洛に同道したいと強く望んでいることを二人は知っていたのだ。
 とはいえ、さすがに市姫の願いに口ぞえしようとは思わない。むしろ、信長が妹の願いに折れるようなことがあれば断固として反対を唱えただろう。
 今回の上洛が激戦になること、一歩間違えれば織田家凋落の切っ掛けにすらなりえる危険な賭けであることを家臣たちは承知していた。そんな戦に珠のごとき姫君を連れていけるわけがない。
 市姫もまたそのことを知るからこそ、幼い身でも何かの役に立てるはずだと同道を志願したと悟ってはいても、その願いにうなずいてあげるわけにはいかなかったのである。





 市姫が下がった後、信長はあらためて諸将を見渡すと、覇気に満ちた声で云った。
「出陣の時日は先に伝えたとおり。近江との国境で浅井の軍と合流し、一気に六角を押しつぶす。しかる後、三好を打ち払って都を清め、義輝公の仇を討って興福寺から新たな将軍を迎え入れるのだ。満天下に織田の驍名を知らしめるにこれ以上の好機なし! 此度の戦、終わらせるまで三月を越えることはない。各自、その旨をしかと心に刻んで諸事に努めいッ!」
 六角家を蹴散らし、三好家を討って新たな将軍をたて、その後を確かめて岐阜に戻るまで三ヶ月をかけるつもりはない、と信長は明言した。


 本来であれば半年、一年をかけても成るか成らぬかわからない難問に対して、わずか三月。それは周囲に強敵を抱える織田家の事情が導いた期限であるが、仮に織田家が外憂を抱えていなかったとしても、信長が口にする期間はたいしてかわらなかったであろう。
 信長は待つべき時に待つことができる武将であるが、根本的には巧遅よりも拙速を尊ぶ気質である。そして、ひとたび動けば疾風迅雷、あらゆる艱難辛苦を蹴飛ばして。己が道を突き進む覇王が顕現する。
 織田家の家督継承、今川家との戦い、美濃の制圧、いずれにおいても信長は己の道を違えることなく目的に向かって突き進んできたのであり、そのことを家臣たちは承知している。
 ゆえに、信長が提示した三月という言葉を無理だと考える者はいなかった。
 彼らははかったように一斉に頭を垂れ、力強い声で主君の命令に応じた。


 そんな君臣の気迫に呼応したのか、稲葉山の頂きを発した強風が、木々を激しくゆらしながら麓まで駆け下りていく。
 風は家屋を揺らし、田畑を駆け、まっすぐに西方へと吹き抜けていった。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(五) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/12 02:23

 南近江 観音寺城


 夜半、それまですぅすぅと健やかな寝息をたてていた鶴姫は、不意にぱちりと目を開けた。
 その口から囁き声が発される。
「……佐助?」
「はい、姫さま」
 枕元にわだかまる暗闇から聞きなれた声が返ってくる。
 名目はどうあれ、実質的に蒲生家からの人質である鶴姫の部屋には常に見張りの目が光っているのだが、そのことをまったく気にかけていない穏やかな声音であった。


 鶴姫は夜着をただしながら身を起こす。
 再び発された声には、すでに一片の眠気も宿っていなかった。
「あんまり良い報せではないみたいだね?」
「残念ながら。お伝えしなければならないことは二つございます。まず、上杉家は蒲生家の助力を拒みました。自力で三雲家の囲みを破り、いずこかへ離脱したようで、その後の行方は判明しておりません」
 佐助――三雲佐助賢春は、自身の配下が上杉の忍びに一網打尽にされた顛末を語り、不首尾を恥じるように頭を下げた。


「申し訳ございません、姫さま」
「ん、こればっかりは仕方ないよ。佐助には十分な時間も資金も人手もあげられなかったからね。それより、みんなは? 無事だったの?」
「はい。幸いに、とは申し上げたくありませんが、実力に開きがあったことが、かえってよかったようで」
「ああ、手加減されちゃったんだ。それはちょっと、うん、複雑だね……」
 配下が討たれずに済んだのはよかったが、それはつまり「討つまでもない」と相手に判断されたことを意味する。
 賢春にとっては手塩にかけて育ててきた者たちであり、鶴姫にとっては大切な直属の部下である。その彼らが他家の忍びに子供扱いされたとわかれば、胸中がざわついてしまうのは仕方ないことであろう。


 しかし、今はそこに拘泥している場合ではない。
 鶴姫は気持ちを切り替えるように軽く頬を叩いた。
「それで、捕まった人たちから、こちらの意図が向こうに伝わったってこと?」
「はい。どうやらあちらも、私たちが六角家の意向とは異なる動きをしていることはわかっていたらしく、所属と目的を問われたそうです」
 常であれば口にするはずもないが、相手が上杉の忍びとわかれば、あえて口を噤む必要もない。
 こうして上杉家は蒲生家の意図を知るにいたり、その上で蒲生家の忍びを追い放ち、彼ら自身の手で幽閉の身から脱してのけた。上杉家が蒲生家の助力を拒んだ、と賢春が判断した理由はここにあり、これは鶴姫も同感であった。


 鶴姫は難しい顔で考え込む。
「こちらに野心ありって見られちゃったのかな。それとも、私たちを主家と対立させまいとした? 江南に戦火を広げないために――うん、伝え聞く謙信公の為人なら、もしかして」
 推測はできるものの答えは確かめようがない。上杉家一行の真意がどこにあるにせよ、彼女らが虜囚の身から脱することができたのは事実である。
 今はそれで十分、と鶴姫は割り切ることにした。



「それで佐助、もう一つは?」
 はじめに賢春は伝えねばならないことが二つあると云った。一つは上杉家の顛末として、もう一つは何なのか。
 問われた賢春の声が、はじめてかすかな緊張を宿す。
「先に江北、美濃に潜入させていた配下より、彼の地に動きありとの報せが参りました。間もなく国境に織田と浅井の兵が姿を見せるものと思われます」
「……やっぱり来るよねぇ。この好機を見逃すわけないもん」
 鶴姫は力なくうなだれた。
 日野城にいた頃から、鶴姫は遠からず三好、浅井、織田の三家が動くことを予測していた。当然、それぞれの領内に配下を送り込んでいる。彼らの急報が日野城にもたらされ、それを三雲の地から戻った賢春が聞き、賢春によって今鶴姫に伝えられた。それぞれに要した時間を考えると、すでに国境に敵の先手が姿を見せていたとしても不思議ではない。


 鶴姫が決断に要した時間は、砂時計の砂粒が二、三落ちる程度であった。
「逃げよっか」
「はい」
 当主の義治が三好討伐に向かった今、観音寺城に出戦するだけの余力はない。織田、浅井の両軍を前にして、各地の支城が援軍なしでどれだけ保てるかと考えれば心もとないかぎりである。
 観音寺城が敵軍に囲まれてからでは逃げることもままならない。逃げるのならば、敵がまだ姿を見せていない今しかない。


 鶴姫がこの段階で脱出を決心した理由はもう一つある。
 このまま戦況が進めば、六角軍は三好軍と対峙した状況で、背後に織田、浅井の軍勢を迎えることになる。
 この時、義治はどのように動くのか。おそらく観音寺城に戻ろうとする――これは間違いないのだが、問題は相対している三好軍にどのように対処するのか、である。
 まさか全軍がそろって馬首を転じるはずもなく、誰かをしんがりに残すだろう。そのしんがりが蒲生軍になる可能性があるのだ。それもかなり高い確率で。


 彼我の戦力を鑑みれば、これは決して不当な人選とはいえないのだが、ただでさえ青地城の攻防で消耗している蒲生軍が、ここで更なる打撃をうけてしまえば、蒲生家は累卵の危うきに立たされる。鶴姫の望みも水泡に帰すことになる。
 すでにこの戦の『先』を見据えている蒲生一族には、ここで六角義治に殉じる意志はないが、鶴姫が観音寺城にある以上、祖父も父も義治の命令にうなずかざるをえない。父たちの枷になるのを避けるためにも、鶴姫は今のうちに城から脱出しなければならないのである。




 ただ、一度は観音寺城に身をあずけた鶴姫が、その観音寺城から抜け出すということは、蒲生家がこれ以上六角家に従う意思がないことを公然と表明するに等しく、脱出が早すぎても父たちに迷惑をかけてしまうことになる。いや、迷惑で済めば良い方で、最悪、陣中で首を斬られる恐れすらあった。
 早すぎてはならず、遅すぎてもならず。最善の機は、義治が三好軍の前から退却して観音寺城に帰り着くまでの間、ということになろうが、正確にその機をはかることの難しさは言をまたない。
 主の表情に憂いの陰を見て取った賢春は優しい声で告げた。
「父君とご隠居さまには配下を遣わしました。お二方ならば、多少のずれが起きようと柔軟に対処してくださるでしょう」
「ん、そうだね。むしろ、とと様たちの方がやきもきしてるかもね。私がちゃんと逃げ出せるのかって」
 くすりと賢春は微笑んだ。
「そうかもしれません。では、お二方の心痛の源を取り除くためにも、姫さまにはきちんと脱出していただかねばなりませんね」



 国境からの報せが来れば、観音寺城は大きな騒ぎに包まれるだろう。承禎は義治のもとへ急使を差し向けるはずだ。
 そして、報せを受け取った義治はすぐにも兵を返す。
 となれば――


 これから起こるであろう状況を推測した鶴姫は、自分の考えを口にした。
「抜け出すのは殿様への使者が出たすぐ後、かな。問題は、その時に私が佐助についていけるかだね」
 賢春の技量には絶対の信頼をおいている鶴姫であったが、自分自身に関しては甚だこころもとない。
 一方、賢春は静かな自信をもって断言した。
「お任せください。混乱に紛れることに関して忍びの右に出る者はおりません。必ずや姫さまを城の外にお連れいたしましょう」
 と、ここで賢春は悪戯っぽく微笑んだ。
「それに、ですね。云いそびれておりましたが、奇妙な助っ人も連れてきておりますので、万一見つかったとしても心配はいらないと心得ます。どうかお心安く」


 思わぬ賢春の言葉に鶴姫は目を瞬かせた。
「助っ人? 今の私たちに……あ、佐助の知り合い?」
「いえ、知っていたのは名前だけで、三雲の地で出会うまで言葉を交わしたことはおろか、顔を見たこともありませんでした。姫さまもご存知の方だと思います」
「三雲ではじめて会って、私も名前を知ってて、今の私たちを手助けしてくれる人? そ、それは確かに奇妙としか云いようがないと思うけど、誰?」
「では正解への手がかりをひとつ――私、三雲で危うく死にかけました」


 思わず大声を出しかけた鶴姫は、慌てて両手で口許をおさえた。
 そして、できるかぎり小さな声で賢春に云う。
「さらりと怖いこと云わないでよ!? ますますわかんなくなった! いや、すっごく強い人なんだろうなっていうのはわかったけど!」
「では、答えは無事に城を抜け出した時の楽しみとしておきましょう。どうかご準備を怠りなく。国境からの報せが来るのは、それほど先のことではありません」
「う、うん、準備はしておくけど、佐助、絶対にもったいぶって楽しんでるよね?」
「あら、なんのことでしょう?」
 おとがいに手をあて、おっとり微笑む賢春を見て、鶴姫はぶすっと膨れてみせた。
 もちろん、これが賢春なりにこちらの心を解きほぐそうとする心遣いだとわかった上での反応であった。





 同時刻


 観音寺の城下町の一画では、丸目長恵と上泉秀綱の二人が、巡視の六角兵に見咎められないように注意しつつ、月明かりに浮かびあがる山頂の城郭を眺めていた。
 六角家は先々代 定頼の時代から家臣団に城割(家臣を居城に集めるために城を破却する政策)を命じるなどして観音寺城に軍事力を集中させてきた。また、いわゆる楽市令を出して商人を招く等、商業を盛んにする政策も併せて行われており、観音寺の城下町は六角家の権勢の源泉となっているといっても過言ではない。


 あいにくと昨今の混乱で繁栄には翳りが見えているが、秀綱の目から見ると春日山城で行われている政策と似通っている部分が随所に見られ、なかなかに興味深いものがある。
 むろん、六角家の方が数十年も前から着手しているのだから、彼らが上杉を真似たことはありえない。真似たのだとすれば、それは上杉の側である。
 こんな時でなければ仔細に見学していきたいものだ、と秀綱は考えていた。



 一方の長恵は、秀綱と違って春日山城を見たことがないため、二つの城の共通性は感じ取れない。
 城下町の様子には珍しげな視線を向けていたが、それもわずかな間のことで、今の長恵の注意はもっぱら城の方角に注がれていた。三雲賢春の侵入が察知されれば必ず動きが出る。その意味で今なお城の様子が静かなのは良いことなのだが、ここは長恵たちにとって敵地も同様であり、いつ何が起こるかわかったものではない。
 夜の帳に包まれた山城を見やりながら、長恵はこれからのことについて思案をめぐらせた。
「賢春がいまさら裏切るとは思えません。あれだけの腕の持ち主なのですから、放っておいても上手くやってのけるでしょう。問題はこの後、どうやって師兄たちと合流するかですね」


 天城颯馬から主君 謙信の救出を任された長恵たちは、本来であれば三雲の地から何処かへ去った謙信たちを追いかけるべきであった。
 しかし、東西南北、いずれへ向かったのかも定かではない者たちの行方を追うのは困難を極める。長恵はもちろん、秀綱にしても甲賀の地に土地勘はなく、その二人があてどもなくさまよったところで、目指す人たちを偶然探し当てられるとは思えない。


 くわえて、謙信たちが包囲を斬り破った状況を聞くかぎり、謙信と政景、それに軒猿その他の配下が行動を共にしていることはまず間違いないと思われた。
 松永久秀は謙信が幽閉されているとは云ったが、どのような状況で幽閉されているかについては言及しなかった。天城は――そして秀綱もだが、謙信らが別々の場所に幽閉されている、あるいはすでに襲撃を受けて大半の手勢が討ち取られている、という状況をもっとも憂慮していたのだが、その可能性は今回の件でほぼ消失したといえる。
 となれば、謙信たちが虜囚の身から脱した――何よりも重要なその一事を携えて天城たちと合流するべきであった、のだが。



 長恵は思案顔で首をひねる。
「六角家につく師兄と、六角家に敵対する私たちが連絡を取り合うわけにもいきませんでしたからね」
 長恵たちは定時、緊急時、いずれの連絡手段も用意していなかった。こうなってみると、少なくとも緊急時に連絡をとる手段は考えておくべきだったとも思えるが、まあ今さら云っても詮無いこと、と長恵は割り切った。あの時はすぐにも動かねばならず、入念な準備をしている時間などまったくなかったのである。


 ともあれ、ここは考えを切り替えるべきだ、と長恵は判断した。上杉一行が自力で自由を得た上は、自分たちがあえて六角家に敵対する必要はない。
 そういったことを考慮した末、長恵は三雲賢春と同道することにした。
 謙信が蒲生家との関わりを避けたことを考えれば最善の一手とは云いがたいが、三好三人衆を討つべく動いている天城たちのことを思うと、ここで出来た蒲生家との手づるを断ち切るのはもったいない。
 上杉一行を救うこと、三好家を討つこと、この二点に関して天城たちと蒲生家の利害は一致している。また、おそらくは天城が何らかの形で関与しているであろう青地城攻防戦に、六角家にくみする形で加わる機会を得ることもできる。
 賢春にしても名高き剣聖の助力を得られることは願ってもないことであり、さらに手づるという意味では、蒲生家にとっては長恵らも上杉家への手づるとなりえる。
 こうして両者は一時的な共闘関係を結ぶにいたったのである。




 ――ふと視線を感じた長恵が目をあげると、秀綱がなにやらしげしげとこちらを見つめている。
 長恵は不思議に思って首をかしげた。
「あの、お師様。なにか?」
「いえ。特に何かあったわけではないのですが……いえ、やはりあったのでしょうか」
「むむ? 謎かけですか?」
 わけがわからないと云いたげに目を瞬かせる弟子を見て、師は微笑ましそうに口許を綻ばせた。
「はじめて会った時、我にかなう者やあらんと押し通ってきた娘が、ずいぶんと思慮深くなったもの、とそう思ったのです。これも筑前どのの薫陶の賜物ですか」


 くすくすと微笑む秀綱を見て、長恵は驚いたように目を見張った。まったく思いがけない指摘で、思わず腕を組んで考え込んでしまう。
「む、云われてみれば、たしかに……ふうむ、師兄と長らく行動を共にしていた影響がこんなところにも。びっくりです」
 なにやら感慨深げにうなずく長恵。それを見て再び口を開きかけた秀綱は、ふと口を噤んで耳を澄ませた。


 彼方から轟く馬蹄の音が、夜のしじまを裂いて秀綱たちの耳朶を揺らす。
 市井の民が夜間に馬を走らせるはずもない。間違いなく急報を携えた早馬であると思われた。




◆◆◆




 南近江 瀬田城城外 六角軍本陣


 六角義治率いる五千の援軍の到着。それは青地城をめぐる三好、六角両軍の戦いを決定付けるに十分すぎる要素となった。
 六角軍は退却にかかる三好軍を追撃し、これに大きな打撃を与えることに成功する。三好軍を率いる三好政康は奮戦するも、数と勢いにまさる六角軍をおしとどめることはかなわず、六角軍は数日を経ずして瀬田城を望む地まで進出するにいたる。
 ここにおいて三好三人衆の命運はついに尽きたかと思われた。


 しかし、ここで三人衆のひとりである岩成友通が六角軍の攻撃に待ったをかける。


 三好政康が敗残兵を率いて瀬田城に帰還した後、城に攻めかかろうとした六角軍の後背を脅かしたのが友通率いる一千の三好軍であった。




 どうしてこのタイミングで友通が姿を見せたのか。
 三好政康が兵を退く以前、堅田衆の襲来を知った友通は二千の軍を二つに分け、一千を青地城を攻める三好政康のもとに向かわせた。
 その後、残りの手勢を率いて瀬田城に入ると思われた友通は、急遽進路を変更して草津へ急行。軍事力をもって町を制圧すると、港に並ぶ船を接収して堅田衆の本拠地である堅田の町を狙う動きを見せる。
 本拠地の危機を知らされた堅田海賊は慌てて瀬田城への攻撃をとりやめ、船団を戻して急ぎ堅田の町へと帰還する。これによって琵琶湖側からの危険を排除した友通は、瀬田城には戻らず、かといって青地城へ赴くこともせず、そのまま草津に留まって情勢をうかがっていたのである。



 友通の手勢はおよそ一千。六角軍にしてみれば自軍の六分の一にも満たない小勢であり、正面から戦えば苦も無く蹴散らすことができる。
 しかし、草津を拠点とする岩成勢を討とうとすれば、どうしたところで町にも被害が出てしまう。草津は六角家にとって重要な収入源であり、これを焼き払うようなまねは断じて避けなければならなかった。
 もちろん、岩成勢を放っておくこともできない。岩成勢を自由にさせれば、今後も後背を脅かされ続けることになるからだ。


 そこで六角義治は草津の手前に蒲生勢を配して岩成勢を牽制することにした。
 蒲生賢秀率いる主力部隊が到着した今の蒲生軍は総数およそ千五百あまり。数の上では十分に岩成勢と渡り合える。
 一方、蒲生勢が抜けても義治の本隊は五千を越えているため、城に立てこもった三好長逸、三好政康らの手勢一千を相手にしてもひけをとることはまずないだろう。義治の計算はしごく妥当なものであった。


 もともと瀬田城には長逸の四百が残っていただけなので、政康に付き従って城に戻った将兵の数は六百弱という計算になる。
 当初、政康が率いていた兵はおよそ二千。これにくわえて友通が後詰として遣わした一千を足した三千が青地攻めの全兵力であった。それがいまや六百まで討ち減らされている。
 むろん、城に戻らなかった兵士すべてが戦死したわけではなく、逃亡した者、降伏した者も多いが、それでも三好政康の部隊が壊滅した事実は動かない。
 当然、逃げ帰った将兵の士気が高かろうはずはなく、さらなる裏切り、降伏も期待できる。義治をはじめとした六角軍の諸将は自分たちの勝利を確信していた。


 ――織田、浅井両軍の侵攻の報が届けられる、その時までは。




◆◆




 瀬田城を望む六角軍の本陣で、六角義治は握り締めた拳をわなわなと震わせながら、眼前で平伏する三人の後頭部を睨みつけていた。
 ひとりは側近である望月吉棟。
 ひとりは戦地には似つかわしくない巫女装束をまとった女性。吉棟と同じ望月の一族で、名を千代女(ちよめ)という。
 最後のひとり、藍染めの着物をまとった少女は、今回の出征に際して滝川家から送られてきた援軍を率いる武将であった。名を滝川一益(たきがわ かずます)。滝川家は甲賀五十三家のひとつである大原家の流れを汲む家柄であるが、勢力としてはごく小さく、率いる兵は百に満たない。
 義治から見れば家臣である大原氏の家臣、つまり陪臣に過ぎず、一益の顔にも名前にも興味を示さなかった。



 義治は平伏する吉棟に問いを向ける。震える声音は、義治が内心で押し殺している怒りの深さを物語っていた。
「いま申したこと、まことなのか、吉棟」
「は! こちらに控えております千代女と一益の働きにより、蒲生の忍びを捕らえて判明したことにございます。織田、浅井の両軍が間もなく江南に侵入してくる由。これにあわせ、観音寺城の鶴姫も城外に脱する心算であるとのことでございます」
「御家危うしと見るや、私に何のうかがいもたてず、すぐさま嫡子を逃がす算段かッ」
「殿、やはり蒲生家は二心を……」
「わかっている! 所詮、賢秀も面従腹背の狗であったということだなッ」


 そう吐き捨てた後、義治はガッと地面を蹴りつけた。それですべての怒りが発散できたわけではないだろうが、それでも心を落ち着ける一助にはなったらしい。義治は深く息を吐いた。
「……まあよい。狗は狗らしく始末してやるとしよう」
 次に口を開いたのは望月千代女である。恐縮する吉棟とは対照的に、巫女姿の千代女はさして畏まる風もなく、どこかおっとりとした声で告げた。
「すでに蒲生の忍びは始末しておりますれば、この報せが賢秀どのの陣に伝わることはございません」
「当然の措置だな」
 義治はそう云い捨てると、冷然と吉棟たちを見下ろした。
「吉棟、千代女もだ。我がもとに諸国の情報をもたらすのは、五十三家の筆頭たるそなたら望月家の役割であろう。そのための資金も十分に与えているはずだ。しかるに、浅井と織田の侵攻を掴むのが蒲生より遅いとはどういうことか!?」


 刃物のように鋭く尖った義治の詰問に対し、千代女は緊張を感じさせない態度で応じた。
「そのことに関してはまことに申し訳なく思っております。しかし、殿。以前にも申し上げましたが、わたくしども『歩き巫女』は定まった社に所属せずに国々を渡り歩く者。その性質上、一箇所に長く留まるには向きませぬ」
「だから急場には対応できぬと申すか。必要な時に必要な情報を得られぬ忍びに何の価値がある? 御家の危機に働けぬ者が、どの面さげて我が禄を貪っているのだ!?」
「まことに汗顔のいたり、返す言葉もございません」


 そう云って千代女もまた深々と頭を垂れた。
 いかにも恐れ入ったという仕草なのだが、それでも心から恐縮しているように見えないのは、つかみどころのない柔らかな声音のせいであろうか。
 義治としては正面から放った突きをふわりといなされたようなもので、気組みを外された感がある。
 舌打ちした義治は再び怒声を放とうと口を開きかけたが、すぐに思い直して千代女から視線をそらした。


 今は配下の失態を責めたてている場合ではない。このままでは瀬田城を落としても、代わりに観音寺城を失うことになりかねない。だからといって、ここで安易に退却に移れば三好軍に異常を悟られ、追撃を受けてしまうだろう。
 義治は考えに沈んだが、幸いなことに打つ手はすぐに見つかった。
 口許に薄く笑みを浮かべたまま、次々に指示を出していく。
「……賢秀に使者を出せ。殿軍は蒲生軍だ。娘がいまだ観音寺城にいると思っている以上、承知せざるをえまい。あわせて、草津と瀬田に忍びを放て。織田と浅井の侵攻を三好に教えてやるのだ」


 義治の意図を察した吉棟がすばやくうなずいた。
「御意。三好の手を借りて蒲生を葬るのですな」
「うむ。今の三好勢はあわせて二千程度だが、孤立した蒲生を潰す程度のことはできるだろう。くわえて、蒲生を潰せば三好の側も少なからず兵を損ずるはず。向後、三好を気にかける必要はなくなろう」
「早急に手配いたしまする!」
「急げ。云うまでもないが、観音寺の父上にも急使を出して事の次第をお伝えせよ。賢秀の娘がまだ城内にいるようならば、牢に放り込んで――」
 そこまで口にしかけた義治は、ここで小さくかぶりを振った。
「いや、城内の一室に閉じ込めておくよう命じるのだ。死なれても厄介ゆえな。わかったか?」
「はは!」
「千代女。そなたは配下をつかって織田と浅井の動向を一刻も早く明らかにせよ」
「早速、そのように。ところで殿、蒲生の姫君が城を抜け出していれば、向かう先は日野城か一族のところであると心得ます。適当な地に網を張ってこれを捕らえようと思うのですが、お許しをいただけましょうか?」
「云うにや及ぶ。そちらもすぐにとりかかれ」
「かしこまりました。こちらに控える滝川一益は、此度、巧妙に伏していた蒲生の忍びを見出した功労者です。この一益に指揮を執らせましょう」
「好きにいたせ」


 そう答えた義治は、ここではじめて一益に声をかけた。
「一益とやら、よく蒲生の手の者を捕らえた。これは褒美だ」
 平伏する一益の頭のすぐ脇に何かが落ちる音がした。義治が懐に入れていた銀判を投げて寄越したのである。
「蒲生の娘を捕らえることができれば、これに十倍する銀をくれてやろう。励めよ」
「お任せくださいませ」
 その一益の言葉が終わらないうちに、すでに義治は踵を返している。
 遠ざかる足音でそのことを察した一益は、おもむろに顔をあげると、転がっていた銀判を手に取って大切そうに懐にしまいこんだ。


 嬉しげに微笑んだ一益の視界に陣幕を出る義治の後ろ姿が映しだされる。寸前までのそれとは質の違う笑みを浮かべた一益は、傍らの千代女に気づかれないよう内心でひとりごちた。
(情報の価値と褒美がつりあっていないんだけど、ま、いいか。どーせ六角家は長くない。主家への義理は果たしたし、足りない分はこちらで勝手に頂戴するといたしましょう)
 父の急死により、望まずして滝川家の当主となった博打好きの少女は、両の眼に不逞の光を浮かべながら、間もなく来るであろう嵐の到来に心を浮き立たせていた。





◆◆◆





 南近江 草津郊外 蒲生軍本陣


「申し上げます! 草津にこもりし岩成勢に出戦の気配あり! 間もなくこちらに向けて押し出してくるものと思われますッ!」
「ご報告! ご報告! 瀬田城より突出した三好政康の軍勢、およそ一千が青地城に続く街道を塞ぎつつあり! このままでは退路を断たれるのも時間の問題ですッ!!」
「申し上げます、敵の先手とおぼしき兵が降伏を呼びかけております! 兵の中に動揺が……!」
 入れかわり立ちかわりもたらさる報告、そのすべては蒲生勢が窮地に立たされていることを告げるものであった。
 先日まで確かに保持していたはずの優勢は塵のごとく吹き飛んで、今やどこにも見当たらない。
 青地城にて一度は覆った戦の形勢が、再び覆されようとしていた。




「くそ、大殿はぼくたちに死ねと仰せになるかッ!」
 陣幕に響き渡った若々しい怒号の主は横山喜内という。
 近江日野村出身の若武者で、年齢は十五になったばかりという若輩だが、その武勇は結解十郎兵衛や種村伝左衛門といった歴戦の勇士たちにも一目置かれるほどのものである。
 今回の戦でも望んで先陣に身を置き、結解らと共に青地城へと馳せつけており、喜内がまとう紅威(べにおどし)の甲冑は、喜内の武勇と気性を愛した賢秀が先年に贈ったものであった。欣喜雀躍してこれを拝領した喜内は、いまだ折に触れてこのことを自慢している。


 喜内から見れば、今回の義治の指図は蒲生家を捨石としたようにしか見えない。だからこそ憤懣の叫びを発したわけだが、常であればそんな喜内をたしなめる結解や種村といった先達も、眉間に深いしわを刻んだまま口を引き結んで動かない。喜内だけではなく、戦慣れした彼らから見ても、六角家の意図は他に考えようがなかったのであろう。
 当然のように蒲生定秀、賢秀の親子もそのことに思い至っている。そして、二人はその原因についても心当たりがないわけではなかった。


「父上、これは……」
「ふむ、どこかからもれ聞こえたかのう? したが、来援なさった若殿に、我らを目の仇になさっている様子はうかがえなかった。我らが草津に向かってから何かあったと見るべきか。こうなると鶴のことも気がかりであるが……今はまず眼前の危地をしのぐことに注力するべきであろう」
 蒲生家の心底が明らかになったのだとすれば、観音寺城に出向いた鶴姫の身も危ぶまれる。しかし、戦場からでは手のほどこしようがない。この場にいる将兵に対する責任を果たすためにも、今は鶴姫のことを放念するしかなかった。


「は、かしこまりました。それでは――」
 賢秀が口を開きかけたとき、陣幕の外から兵の声が聞こえてきた。
 草津の町を偵察に出ていた岡左内が帰還したという報せであり、それを聞いた賢秀はそのまま左内を陣幕の中に招き入れる。
 左内は蒲生家に仕えているわけではなかったが、この場にいる者たちは青地城の攻防で左内の武勇と智略を目の当たりにしている。賢秀が、いわば客将として左内を遇していることに関して反対を唱える者は誰もいなかった。


 外の騒ぎでおおよそのことをすでに察していたのだろう、供をひとり連れて陣幕に入ってきた左内は前置きもなく口を開いた。
「何やら尋常ならざることが起きたようじゃの、各々方。察するに浅井か織田あたりに後背をつかれましたかの?」
「まさしくそのとおり、と云いたいところであるが、さらに悪い。いずれか一つではなく、両家が同時に押し出してきたということだ」
 それを聞いた左内は、納得したと云いたげに二、三度うなずいた。
「ふむ、なるほど。それで草津にいすわる者どもがああも沸き立っておったのか。ちと伝わるのが早すぎる気もするが……それはともかく賢秀どの。陣内の将兵の焦りを見るに、それだけとも思えませぬが?」
「それもまたしかり。瀬田を攻めていた殿よりの命令で我らがしんがりを務めることとあいなった。それは良いのだが、どうやら殿は陣を引き払った後で我らに使者を差し向けたらしくてな。はや瀬田城の三好政康めに後背を塞がれつつあるのだ」


 賢秀は特に隠し立てをせずに状況を説明した。
 それを聞いた左内は呆れたようにかぶりを振ると、賢秀に意味ありげな視線を送る。
「義治公は、蒲生家に対してなにやら思うところがおありのようじゃの?」
「そのようだ。そなたにしてみれば巻き込まれたようなものであろう。陣を離れるというなら止めはせぬ」
 逃げても良い、といわれた左内はわざとらしく腕を組んで考え込んだ。
「ふむ……青地の城でも申し上げたが、こなたの狙いは三人衆の首級での。あれらが江南にいると身どもの財が食い荒らされる。案の定、友通めは草津に兵をいれおった。もし蒲生軍がまだ彼奴らと戦う気概を持っているのであれば、力になる方法がないわけでもないのじゃが」


 その言葉を聞いて、賢秀のみならず、蒲生軍のすべての武将が身を乗り出した。
 この戦況を覆す策がある、と左内は云ったのである。
「その方法とは?」
「それを云う前にもう一つ確かめさせてもらいたい。賢秀どの、貴殿、主命に殉じるおつもりかや? もし貴殿がこの地でしんがりをつとめ、主家のために果てる覚悟なのであれば、身どもの策は無用のものと成り果てる。なにせこの策は、まずこの陣を引き払うことから始めねばならぬゆえ」
「……臣下として、主家の命には従わねばならぬだろう。したが、一家の当主として、理のない命令に盲従し、配下を無駄死にさせるつもりは毛頭ない。左内どのの策に協力し、三人衆を討つことがかなえば、それは結果として『三人衆をふせげ』という殿の命令を果たしたことになるであろう」
 最悪の場合、主命を放棄したとして、観音寺城の鶴姫が義治の命令で斬られてしまうことも考えられた。だが、娘大事の一念で将兵を死地に追いやるわけにはいかない。先に定秀と短い会話で確認しあったとおり、今の時点で賢秀は娘のことを放念していた。



 その賢秀の顔をじっと見つめた左内は、やがて満足したようにうなずくと、では、と云って胸中の策を披露する。
「といっても、別段、難しいことをするわけではないのだがの。賢秀どの、それに蒲生のお歴々。貴殿らは今すぐ陣を引き払い、三人衆らが包囲を完成させるその前に、全軍をもって後背を固める三好政康の陣を貫くがよい。完成しておらぬ包囲陣など兵力を無駄に散らばらせておるだけじゃ。兵力にまさる蒲生軍であれば、駆け抜けるのはたやすかろう」
 賢秀が怪訝そうな顔をする。
「我が軍が陣を引き払えば、草津の岩成勢がすぐにも出てこよう。結局のところ、我らは背後をつかれることになるが?」
「そこで次じゃ。これも別に難しいことではない。ご隠居どのでもよいのだが……うん、やはり当主である賢秀どのの方がよろしかろう。賢秀どのに頼みがある」
「頼みとは、金なり兵なりを貸してほしいということか?」
 左内の云わんとすることが読み取れない賢秀は首をかしげて訊ねる。
 その賢秀に対し、左内はにやりと笑って云った。


「身どもの手にかかって死んでくれい」





[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/17 02:32
 南近江 草津


 数刻前まで天頂にかかっていた日は西に大きくかたむいており、草津の町は茜色の空に覆われつつある。あと一刻もすれば、この空も夜の闇に呑み込まれていくだろう。
「その闇にまぎれて退くつもりか、蒲生賢秀」
 草津の南に陣をしいた三好軍、その陣中にあって、敵陣から立ち上る炊煙を見据えていた岩成友通は呟くように云った。
 炊煙自体はめずらしいものでも何でもない。現に三好軍の陣中からも立ち上っているが、その数が昨日までと比べ、目に見えて増えているのであれば、敵軍がなにがしかの軍事行動をとろうとしている、と考えるべきであろう。


 そして、眼前の蒲生勢がとりえる行動は退却以外にありえない。そのことを岩成友通はよく知っていた。
「日向守さま(三好長逸)からの報せによれば、織田と浅井が国境を侵したという。まことであれば六角軍は退かざるをえまい。そして、六角義治は有利な戦況を手放してまで兵を返した。情報の正誤を確認する必要はなかろう」
 六角軍が三好軍を拠点から引きずり出すために策を講じた、という可能性もないではないが、ほぼ勝ちが確定していた戦線を乱してまで小細工を弄するとは考えにくい。やはり織田軍らの参戦は事実と見るべきであった。



 速やかな江南征服を目論んでいた友通にしてみれば、この両家の参戦は痛し痒しの出来事である。危地を脱したのは事実だが、これから先、弱体化した六角軍よりもはるかに手強い二家を相手にしなければならない。本来であれば、彼らが野心を逞しくする前に決着をつけたかったのだが、もはやそんなことは云っていられなかった。
 当初の目論見は成らなかった。この後は、六角家に加え、あらたに参戦したニ家を相手とした血みどろの死戦を幾度も繰り返さなければなるまい。背後の松永久秀や、これまで沈黙をたもっていた三好長慶らがどう動くか――


「――いや、今はそんなことを考えている場合ではない、か」
 友通は先走る自分を制し、まずは眼前の蒲生勢を片付けるべく頭を働かせた。すべては蒲生勢を打ち破ってからのことだ、と思い定める。
 友通の手勢だけでは蒲生勢に届かないが、夜陰に乗じて退く敵を討つだけなら、兵力の多寡はさほど問題ではない。問題があるとすれば、蒲生勢を挟んだ向かい側に布陣しているはずの政康が、敵の動きに気がついているかどうかであるが――
「今から使者を出したところで間に合うまい。まあ、こと戦に関するかぎり下野どのは信用できる。問題ないだろう」
 別段、先の青地攻めの失態を皮肉ったわけではない、これは友通の本心だった。だからこそ、先の青地攻めの失敗は友通にとっても驚きであったわけだが、勝敗は兵家の常、一度の敗北は一度の勝利でつぐなえば良い。




 と、不意に何かの気配を感じた友通は周囲を見渡した。
 すると、いつの間に飛来していたのか、友通から少し離れたところに一羽の鳥が佇んでいた。忙しげに立ち働く兵士たちに気がついていないはずはないだろうに、奇妙な落ち着きを保って友通の方を見つめている。
 白い羽毛に長い脚、長い首、そして鋭いクチバシ。
 それは白鷺(しらさぎ)であった。
 そうと知った友通の顔に、めずらしくやわらかい表情が浮かぶ。


 友通は格別に鳥を好いたり、可愛がったりしているわけではないのだが、一番好きな鳥を挙げよと云われれば白鷺の名前を出す。
 これもさして深い理由があるわけではない。幼少のおり、父から教えられた「白鷺がつがいとして選ぶのは、生涯で一羽だけだ」という言葉が心に残っているためである。
 それが本当のことであるかは知らないし、あえて知ろうとも思わないが、以来、友通はなんとはなしに白鷺に親近感を抱いていた。



 不意に友通は短く苦笑する。
 同族同士で殺しあう人間に、それも今まさに「どうやって敵を討とうか」と考えている自分に親近感を持たれたところで、白鷺にとっては迷惑なだけだろう。そんな風に思ったのだ。
 その友通の様子を、白鷺はなおも無心に眺めていたが、やがておもむろに鋭いクチバシを開くと、一声鳴いて茜色の空に向かって飛び立っていった。
  

 友通の傍らに控えていた小姓のひとりが、おずおずと口を開く。
「吉兆、でありましょうか?」
「我らが勝てば吉兆となり、敗れれば凶兆となる。結局は我ら次第なのだから、鳥獣の動きに一喜一憂することはない」
 武家ともなれば諸事に縁起を担ぐもので、西国の毛利元就などは勝ち虫といわれるトンボ一匹で全軍を鼓舞したとも伝えられている。
 が、友通はそういったことに意を用いない。成り上がりの身であることも関わっていたかもしれないが、要は結果を出せば良い、というのが友通の考えであった。


 慌ててかしこまる小姓を尻目に、友通は踵を返して自分の陣幕に向かう。
 炊煙の件を諸将に伝え、夜襲の準備をさせるためであった。




◆◆




 夜半、密やかに陣を出た岩成勢は、夜の闇に乗じて蒲生勢に忍び寄ると、頃合を見計らって喊声とともに突撃した。
 蒲生勢の陣地には常にもまして多くの篝火が焚かれている。厳重に夜襲を警戒している、そう見せかけて退却を容易にするための策であろうと思われた。
 事実、襲来した岩成勢を迎え撃ったのは、準備万端ととのえた敵兵の姿ではなく、今まさに逃げ出そうとしていた者たちの驚き慌てた姿である。三好軍の喊声に応じてあがったときの声には、戦意ではなく狼狽が込められていた。


 奇襲の成功を確信した友通は、そのまま次々と手勢を投入して敵陣を切り裂いていく。これに対して蒲生勢は反撃らしい反撃もできず、ただずるずると引き下がるばかり。四半刻にわたる攻撃により、岩成勢は先刻までの敵陣をほぼ完全に占領するにいたった。
 その頃には、すでに蒲生勢は抗戦を諦め、おそらくは当初の計画どおり青地城の方角へ退きつつあった。当然、友通はその後を追ってとどめを刺そうと試みたのだが、さすがに本隊とおぼしき部隊は堅く、数度にわたる攻撃はことごとく弾き返されてしまう。
 それでも友通は追撃の手を緩めなかった。勝敗の帰結はすでに明らかだが、この戦の先を考えるならば、六角家の戦力はここで可能なかぎり削ぎ落としておくべきである。
 もう間もなく蒲生勢の前に三好政康の手勢が立ちはだかるだろう。足を止めた敵勢を前後から挟撃し、一息に屠りさる。それが友通の目論見であった。



 と、友通の耳になにやら驚き騒ぐ兵たちの声が飛び込んできた。
 何事か、と眉をひそめた友通のもとに一人の兵士が駆け込んでくる。その兵士は敵将 蒲生賢秀討死の報を携えていた。






 これ以上ない吉報を耳にした友通は、しかし、表情に「喜」も「驚」も浮かべることはなかった。その表情に浮かんだのは「疑」である。
 戦の趨勢は明らかに三好軍に傾いていた。間もなく敵将を討ち取ることができるだろう、と友通が考えていたのは事実である。しかし、いまだ敵の本隊を捕捉できていなかったこの段階で、どうして敵の大将を討ち取ることができたのか。


 詳細を聞いた友通の眉がつりあがった。
「裏切り、だと?」
「は、はい! こたびの戦で蒲生に雇われた兵の一部が、寝返って敵将を襲ったとのことでございますッ」
 友通ははっきりと苛立ちを込めて舌打ちする。
 吉報を耳にして沸き立っていた将兵は、見るからに不機嫌そうな主将の姿を目の当たりにして、たちまち静まり返った。


「さすがは昨日と今日で敵味方をとりかえることに慣れた雇われ兵、機を見るに敏である――そう云いたいところだが」
 この戦況で寝返ったところでどれだけの功になると思っているのやら、と友通は吐き捨てた。
 友通にしてみれば、遅かれ早かれ蒲生賢秀の首級をとることはできた、と思っている。織田や浅井があらわれる以前であればまだしも、今このときに裏切りを働いた者たちを賞する気にはなれない。むろん、感謝などする必要もない。



 やがて運ばれてきた首級は、髪こそ撫でつけられていたものの、ひどい有様だった。おそらく手柄をもとめた兵たちが寄ってたかって斬りつけたのだろう、頬は裂かれ、目は潰され、左右の耳は切り落とされている。
 これではこの首級が本当に蒲生賢秀のものであるのか確かめようがないが、首級と共に運ばれてきた特徴のある兜が、持ち主の地位を無言のうちに証明した。
「黒漆塗りの燕尾形兜(えんびなりかぶと)か」
 蒲生家当主に代々伝えられているという兜は確かに本物であった。
 そのことを確かめた友通は、何事か思案した後、賢秀を討ち取った兵たちを連れてくるように命じる。



 やがて三好兵に囲まれるようにしてあらわれた者たちは七人。当然、武器はすべてとりあげられている。
 彼らは周囲を囲む将兵の威に一瞬怯む様子を見せたが、賞されることは間違いないという確信に促されるように、期待をこめて友通の前にひざまずいた。
 そんな彼らに友通は冷淡な言葉を浴びせかける。
「嬉しそうだな。雇い主を裏切り、先刻までの味方に斬りつけたことがそれほど楽しかったのか?」


 よくやったと称賛されるに違いないと思い込んでいた雇われ兵は、友通の冷えた言葉に思わず顔を見合わせる。おそるおそる顔をあげてみれば、視界に映るのは明らかな嫌悪を宿してこなたを見下ろす友通の顔であった。
「貴様ら、褒美が欲しいか?」
 改めて問われた兵たちは再び顔を見合わせる。
 友通は彼らが結論を出すのを待っていなかった。もとより、裏切り者の意見など聞く気はない。
「では、くれてやろう。貴様らへの褒美は黄泉路を往く旧主の案内役だ。名誉ある役割だぞ、しっかと務めるがよい」
 その言葉に一拍遅れて、ひざまずく兵たちがざわめいた。かまわず友通は先を続ける。
「賢秀どのもはじめての道のりで苦労しておられようからな。およばずながらこの友通、貴様らと賢秀どのが出会えるよう手助けしてしんぜる」



 もはや誰の目にも友通の意思は明らかであった。悲鳴をあげて逃げようとする兵たちの背に向かい、友通は断固として命じた。
「斬れッ!」
 反応は素早かった。
 雇われ兵たちを連れて来た三好兵は、その命令がくだされるのを待っていたかのように、素早く彼らを斬り伏せていく。
 七人すべてが倒れ伏すまで、かかった時間はごくわずかであった。


「首をとりましょうか?」
 うめき声をあげる兵士の傍らに立った三好兵が友通に問いかける。
 友通は短くかぶりを振った。
「無用だ。とどめを刺した後、他の屍と共に埋めておけ」
「御意。早速そのように」
 配下がうなずくのを見た友通は、これで事は済んだと判断し、これから先のことについて考える。


 賢秀の死は蒲生勢へのとどめとなる。まずは政康と共にこれを蹴散らし、それから青地城に攻めかかろう。今ならば青地城を落とすのは容易いはずだ。城を落とした後、六角義治率いる本隊を追い、彼らが観音寺城に帰り着くまでに、これを捕捉、撃滅する。しかる後、織田軍、浅井軍との戦いを……




「殿ッ!!」



 突如あがった悲鳴じみた叫びは、先に白鷺を吉兆と見たがった小姓のものであったろうか。
 その声は思案にひたっていた友通の意識を一瞬で現実へと引きずりあげた。
 咄嗟にその場から飛び退ろうとしたのは、危険に対応する武将の本能であったのだろう。
 だが――


 凶刃はもはや避けようがないほどに友通に迫っていた。
 三好兵の甲冑を着た兵士が身体ごとぶつかってきた、その瞬間、腹部に何か冷たいものがめりこんでくる感触があった。
 悪寒が友通の意識をわし掴みにする。
 一瞬の空白。
 悪寒は焼け付くような激痛に形をかえた。喉の奥から熱く苦い何かがせりあがってくるのを感じた友通は、反射的にそれを飲み下そうとする。
 しかし、果たせなかった。


「ぐ……が、はッ!?」
 友通の口から血が吐き出され、襲撃者の黒髪が暗赤色に染めかえられていく。
 それまで凍りついたように動かなかった周囲の兵士が、ここでようやく事態を察して怒号を発した。 
「おのれ、殿に何をするかァッ!」
 振り下ろされた刃は、数え上げれば十を越えていたであろう。しかし、そのいずれも襲撃者に届かなかった。三好兵と同じ甲冑をまとった兵士たちがそれを阻んだからである。
 冷静に事態を観察している者がいたならば、友通に鎧通しを突き立てた者も含めて、彼らが件の雇われ兵たちを連れて来た兵であると気づいたかもしれない。




「貴様ら、いったい何を……!?」
「気でも違ったか!!」
「ばかもの、そんなことを云っている場合か! はよう殿をお助けせねばッ!」
「医者を、医者を呼べ! 呼ばぬか!」
 怒号と悲鳴、疑念と驚愕が交錯する中、いまだ意識を保っていた友通は、おさまらぬ吐血の苦しみにあえぎながらも、左手で襲撃者の身体を抱え込んだ。
 傍から見れば、そして血の色さえなかったならば、恋人同士の逢瀬に見えたかもしれないが、むろん、そんな甘さは薬にしたくともありはしない。


「……ちィ!?」
 予期せぬ友通の動きに戸惑ったように動きをとめた襲撃者は、すぐに相手の意図を察したらしく、友通を突き飛ばして距離を置こうとする。
 しかし、友通の細い左腕が、そんな襲撃者の動きを許さなかった。組み打ちや襲撃に備えて右の腰に差しておく短刀、いわゆる馬手差しを抜いた友通は、お返しとばかりに襲撃者の身体に刃を突きたてようとする。


 友通と襲撃者の間に差があったとすれば、体重をこめて刃を突き刺した襲撃者と異なり、密着状態の友通は力ずくで相手の防具を貫くことができなかった点であろう。相手の左腋を狙った友通の一撃は、咄嗟に腋をかばった襲撃者の左肘に突き刺さり、動きを止められてしまった。
 ただでさえ深傷を負っていた友通が、身体を絡めた状態ですばやく次撃を繰り出せるはずもなく、まして別の相手によって横合いから繰り出された一刀を避けることは不可能であった。


 襲撃者が再び友通の身体を突き飛ばす。首筋を深く切り裂かれた友通は、今度は耐えることができず、そのままどぅと仰向けになって地面に倒れこんだ。
「…………あ」
 揺れて、かすれる視界の中、友通はようやく自分を襲った相手の顔を視界にいれることができた。
 といっても、薄れゆく意識の中でわかったのは、相手の黒い髪と、おそらくは男性であろうということくらい。今の友通に自分を討った相手が誰であるかを知る術はなく、また知りたいとも思わなかった。



「ちょう……け……さ、ま……もう、し……わけ…………」
 かは、と。
 最後に心に浮かんだ人物に向け、深く詫びた友通の口から、ひときわ多量の血が吐き出される。
 それが岩成友通の最期であった。
 ややもすれば、あっけないとさえ思われる死に様であったが、事切れた友通はもうぴくりとも動かない。
 この友通に死によって、世に三好三人衆と謳われた勢力はその一角を永遠に失うこととなった。のみならず、江南をめぐる戦いにおいて三好軍の戦絵図を描いていた友通の死は、三人衆の勢力の急速な減退を招くことになるのである。  
  




◆◆





「ほれ、相馬! 何をぼうっとしておるかッ」
 叱咤にも似た左内の一言で、俺はハッと我に返った。一瞬だが、自失していたらしい。
 我に返ると同時に、今しがた討ち取った相手に抉られた左肘が激痛を訴えてきたが、こちらは命を奪ったのだから(とどめは左内の一刀だが)恨みごとなど云えようはずもない。
 俺は腹の底から搾り出した声を、天にも届けとばかりに解き放った。


「三好三人衆の一角、岩成友通討ち取ったり!! 合図だ、火矢を放って賢秀さまにお伝えせよ! 策は成った! これより我ら蒲生勢、全軍を挙げて三好軍を討ち滅ぼすッ!!」
 三好軍に扮して本陣に紛れ込んでいた左内の手勢が、心得たように大声で唱和した。
 眼前で主を討たれた兵の中には、怒号をあげて斬りかかってくる者もいたのだが――


「のけ、雑兵ッ!!」
 太刀を小枝のごとく振り回して敵兵を退けたのは横山喜内である。
 喜内は先の軍議で左内が策を披露したとき、みずから参加を願い出てこの場にいる。いわく、蒲生家の窮地を救うための策に、蒲生の兵が一人も加わらないでは自分を送り出してくれた父母に顔向けできない、ということであった。
 それは嘘ではないだろうが、たぶん俺たちを怪しむ気持ちもいくらかは持っていたのだろう。左内が蒲生賢秀に対し、身どもの手にかかって云々と口にした際には、噛み付きそうな顔で左内を睨んでいたし。



 それでも、ここまで事態が進んだ以上、俺たちへの疑いは完全に晴れたに違いない。
 喜内の剛勇に助けられながら、俺たちは悲鳴と叫喚に満ちた陣幕の外へ走り出た。当然、その最中にも、岩成友通討ち取ったり、と何度も叫んでいる。
 本陣から走り出てきた俺たちを遮ろうとする兵がいないわけではなかったが、そのほとんどは喜内の太刀と、左内の刀で退けられる。大半の三好兵はわけもわからず、俺たちの前に道を開けた。
 それも仕方ないといえば仕方ないことだった。三好兵の格好をした――つまりは味方のはずの俺たちが、主を討ち取ったとわめきながら斬りかかってくるのだから。寸前まで敵将を討ち取ったと沸き立っていた三好兵にしてみれば、こんなわけのわからないことで死んでだまるか、という心地であったろう。



 そういった三好兵の多くも、やがて否応なしに現実を認識しなければならなくなる。
 先に俺が叫んだ蒲生全軍で云々というのは大部分が嘘だが、一から十まですべてが偽りというわけではない。合図の火矢を見た蒲生勢の一部、結解十郎兵衛が率いる部隊が三好軍に襲い掛かったのである。
 わずか百名たらずの部隊であり、主目的は俺たち、もっといえば喜内の迎えであったが、それでも主を失った岩成勢にとって、この一撃はことのほか大きく響いた。常であればすぐさま届くはずの友通の命令が一向に届かず、本陣に差し向けた使者もなしのつぶてとくれば、流言と思われていた友通討死の報せも信憑性を帯びてくる。
 間もなく俺たちは援軍と合流して岩成勢から離れたが、追撃してくる兵はただの一人もいなかった。







 その後、俺たちは本隊の後を追って三好政康が展開していた包囲陣に踏み入ったのだが、幸いにも敵の主力部隊とぶつかることはなかった。
 二、三度、三好の小部隊と刃を交えたが、いずれも小競り合いのみで突破に成功している。どうやら政康は蒲生勢の本隊を追っているようで、俺たちはその間隙を縫う形で包囲を抜け、政康と鉢合わせしないように大きく回りこんで青地城へ再入城した。


 すでに岩成友通を討ち取った報せは青地城に届いている。そのため、城内は戦勝に沸きかえって――いるわけではなかった。
 織田、浅井両軍の侵攻はすでに兵たちの間でも広まっている。この凶報の前では、三人衆のひとりを討ち取った功績も小さなものにしかなりえない。
 しかも、いまだ三人衆の攻勢がやまぬとあっては、なおさら勝利を喜んでいる暇があるはずもない。


 そう。混乱する岩成勢をまとめ終えた三好政康が、残兵を率いて青地城に進軍してきたのである。





 ここ数日でようやく見られるようになった青空の下、今にも城に攻めかからんとしている三好勢を見据えていた俺に、横合いから声がかけられた。涼やかでありながら、どこか飄々とした独特の声音は、もちろん岡左内のものである。
 その左内は呆れたように眼下の三好軍を見て云った。
「いや、しつっこいの。いまさらこの城を落としたところで、挽回の目などないことはわかっておろうに」
「だからといって、僚将を討たれたまま、おめおめと引き下がるわけにはいかない、というところなんだろう。正直、ここまで素早く兵を纏めるとは思っていなかった」
「執念のなせる業であろうか。数は、ふむ、一千に届かぬかな。これだけ見れば先の戦よりもマシになっているはずじゃが、何故であろうか、先の戦より面倒なことになる気がしておる」
「同感だ。ヘタすると初撃で叩き潰されるぞ」


 俺が顔をしかめたのは肘の痛みのせいばかりではなかった。
 左内が口にした執念という言葉は剴切だろう。まさしく三好政康は、僚将の仇を討つという執念で兵を纏め上げたに違いない。
 俺と左内の視界には、陣頭に立つ三好政康の姿が映っている。さすがに距離が開いているので、どんな表情を浮かべているかまではわからないが、それでも伝わってくるものはある。


 左内が歎ずるように云った。
「虎の尾を踏んだのは、なにもあちらばかりではなかったようじゃ」
「ここまで来て政康に従っている以上、敵兵も覚悟を決めているだろう。もう扇動も撹乱もきかない。打って出るか、立てこもるか、いずれにしても正面から潰しあうことになる」
 数だけ見れば蒲生勢は政康の部隊を上回るが、これとて二倍、三倍の開きがあるわけではない。
 おそらくは死兵となって突っ込んでくる敵兵を野戦で迎え撃つのは下策。かといって、先の戦いで防備を剥ぎ落とされた青地城に立てこもったところで、どこまで耐えしのげるか。
 しかも、今回は耐えたところで援軍が来るわけでもないのである。




 考え込む俺の傍らで、左内が思い出したように口を開いた。
「そういえばの」
「ん?」
「賢秀どのからの言伝じゃ。次の軍議には相馬も出てほしいとのことであるが、どうする?」
 唐突な要請をうけ、俺は訝しげに左内を見た。
「ずいぶんいきなりだな?」
「喜内の坊やから岩成友通を討ち取った相馬の働きを聞いたのであろ。これまでの策が身どもではなく、相馬から出たことまでは気づいておらぬだろうが……いや、しかし茂綱どのは身どものことをそれなりに知っておるし、疑ってはいるかもしれぬなあ」
 俺はかぶりを振って応じた。
「面倒な。これまでどおり、左内に窮地を救われて恩返しに励んでいる浪人甲ということにしておいてくれ。別に嘘ではないしな」
「その作り話のおかげで、身どもは蒲生のお歴々から何やら端倪すべからざる策士であると思われてしまっているのだがの」
「それだって別に嘘ではないだろう」


 策士かどうかは知らないが、端倪すべからざる人物であるのは間違いない。
 話は終わりだと伝えるため、俺はふたたび三好軍に視線を転じた。
 賢秀が俺を呼び出した意図がどこにあるにせよ、軍議の主題は現在の戦況をどのように覆すか、という点に据えられるだろう。
 それにこたえる術がない俺が軍議に出たところで何の意味もない。いや、正直にいえば、一つだけ胸中で温めている策があることはある。しかし、これを実行するだけの条件がまだととのっていないのだ。もっと云えば、その条件がととのう可能性はほぼ皆無である。


 なにしろ、今の俺には策を成就するために必要な相手と連絡をとる術がない。
 今このとき、たまさか彼女たちが青地城にやってくる、ということでもないかぎり、俺の策は実現しようのないものであった。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/17 02:31

「――そうして師が近くの小島に舟を寄せると、相手の剣士は勇んで島に降り立ちました。それを見た師は、頃はよし、とばかりにそのまま舟を操ってその島から離れてしまったのです。相手の剣士はおおいに怒りましたが、師は『戦わずして勝つことこそ武の真髄。これぞ無手勝流よ』と高笑いして、そのまま旅をお続けになったのだとか」
 上泉秀綱の話を聞きおえた鶴姫は、ぎゅっと拳を握り締めると、興奮を隠せない様子で何度もうなずいた。
「戦わずして勝つ。孫子の兵法に通じるものがありますね! さすがは齢七十にして未だ不敗を誇る不世出の剣帝 塚原卜伝(つかはら ぼくでん)さまです!」


 目をきらきらと輝かせながら、憧れの剣豪の話に聞き入る鶴姫。
 秀綱はそんな鶴姫を眩しげに見やった。
「鶴どのは我が師のことを本当に尊敬なさっているのですね」
「はい! じじ様がまだ当主であられた頃、少しの間ですが教えを受けたことがあったそうで、じじ様は『あのおりに授かった教えは、我が血肉となって今のわしを支えてくれておる』と大変感謝なさっていました。鶴も、いつか教えを請いたいと願っているのですッ」


 それを聞いた秀綱はこっそり呟いた。
「……なるほど。衣食の世話をしてくれる相手には猫をかぶ――こほん、礼儀正しく振舞うのは、その頃からかわっていないのですね」
「え?」
「いえ、こちらのことです。そうですね、師は今も全国を行脚しているはずですから、そのうちひょっこり蒲生家に顔を出すこともあるかもしれません」
「楽しみです!」


 卜伝の強さに憧れてやまない鶴姫は、その弟子であり当今の剣聖と名高い秀綱に対しても敬意と憧憬を隠さない。これは長恵に対しても同様で、鶴姫が二人に指南を願い出ないのは、今はそんなことをしている場合ではない、とわきまえているからだろう。
 それでも普段の挙措から何かを学ぼうとは思っているようで、秀綱の歩き方を真似てみたり、長恵の素振りをじーっと観察したりと、色々工夫している様子だった。
 観音寺城をひそかに抜け出した一行は、追っ手に備えながら南に向かっている最中である。本来であれば不安と緊張に苛まれてしかるべき逃避行は、意気軒昂な鶴姫によって活気と微笑みの絶えない道中となってしまっていた。




 鶴姫が場を離れた隙を見計らい、丸目長恵がこそっと秀綱に問いかける。
「お師様。私がうかがっていたお話とずいぶん違うのですけど。たしかお師様のお師様は、旅好き、酒好き、女好きの三拍子が揃った御方ではなかったでしたっけ?」
「派手好き、賭け好き、戦好き、を忘れていますよ、長恵」
 付け足した秀綱の顔にはめずらしく諦念が浮かんでいる。そこはかとなく疲れた様子を見せながら秀綱は続けた。
「幼子の夢をこの場で砕くのは無体というもの。それに、師は子供好きでもありますからね。仮に鶴どのと出会うことがあったとしても、相手を失望させるような振る舞いはつつしむはずです」
「お師様。私見ですが、あのお姫さまは近い将来とっても美人になると思うのです」
 美しく育った鶴姫の前に現れた塚原卜伝が女好きを発揮してしまったらどうするのか、と問いかける長恵。
 返って来た答えは、これまためずらしくなげやりだった。
「そうならないことを願うのみです」




 南近江 布施山城外


 観音寺城の南方に位置する布施山城、この城の主の名を布施公雄(ふせ きみお)という。
 布施家は布施山城の他に大森城も領有しており、六家老には及ばずとも十分に大身と称しえる家柄であった。
 その当主である公雄と三雲賢春の間には一つの因縁がある。かつて布施家が六角家に叛旗を翻した折、討伐軍を率いたのが今は亡き賢春の父 三雲賢持であったのだ。
 公雄にとって、賢春はかつての敵手の娘、ということになる。


「もっとも、私は公雄どのとお会いしたことはありませんし、そもそも私が生きて姫さまにお仕えしていることをご存知ではないのですから、以前の因縁が交渉ごとの妨げになることはありませんでしょう」
「んー、そうなんだけどね」
 布施山城に向かう途次、鶴姫は腕を組んで考え込んでいた。
 布施家の蜂起は失敗に終わり、首謀者であった布施本家の当主 三河守は降伏、後に観音寺城で六角義賢によって切腹を命じられている。この際、分家の当主である公雄も処断されるところであったのだが、三雲賢持、後藤賢豊、そして蒲生定秀らのとりなしによって命を救われ、三河守亡き後の布施山城を任されることになった。


 そのあたりを考慮すれば、鶴姫が布施山城に助勢を請うても無下にされることはないだろう。一度叛旗を翻した布施家は、以後、六角家から冷遇されており、義治の代になってからはほとんど無視同然の扱いを受けているので尚更である。
 しかし、鶴姫は布施山城を訪ねるという選択肢を捨てた。その理由を鶴姫は次のように説明した。
「わたしが追っ手なら真っ先に布施山城への道を塞ぐもの」
「早馬を使えば先行することは簡単ですね」
「うん。それに、ここで布施家を訪ねちゃうと、正面きって六角家と敵対することになっちゃうだろうしね」
 おそらく、六角家の下から脱するという意味では公雄と鶴姫の意志は共通している。しかし、鶴姫は六角家に叛旗を翻して主家を追い落とすつもりはない。それでは主家の混乱と弱体に乗じた、ただの下克上であり、仮にうまく事を運べたとしても、遠からず織田なり浅井なりの別勢力に呑み込まれてしまうだろう。


 鶴姫の対六角戦略は、主家の無道を正すことを主眼とする。そうあってこそ蒲生家の信義が際立ち、江南の人心を束ねる核となりえるのである。
 そう口にした後、鶴姫は長い髪の毛をいじりながら、困ったように笑った。
「勝手に城を抜け出ちゃったわたしが云っても、あんまり説得力はないんだけどね」
「それは仕方のないことかと。あのまま城に残っていても何も出来ませんでしたでしょう。そうかといって、日野に戻りたいと訴えても義治どのや承禎どのが頷いてくれるはずもなかったですし。ところで姫さま」
「ん、なに?」
「布施山城への道を避けるのであれば、西まわりと東まわり、どちらかを選ぶことになりますが、どうなさいます?」
「西には亡くなった後藤のおじ様の館があるから、警戒は厳重だと思うんだよね。だから東から――ん?」


 突然、鶴姫が訝しげな表情を浮かべて足を止めた。何かを確かめるように、かすかに目を細めている。
 不思議に思った賢春が主の視線を追うと、どうやら鶴姫は街道脇に流れている小川の方を見ているらしいとわかった。
 小川といったが、その川の水流は激しく、水量も多かった。おそらく普段は村の子供たちが安全に遊べる程度の水流であり、水量なのだろうが、先ごろから降り続いた雨の影響で、現在はかなり水嵩が増しており、流れもはやく、濁った水で底が確認できない危険な状態となっている。
 くわえて、上流でがけ崩れでもあったのか、川の中ほどには人の手では運べそうもない巨岩が、濁流に押されながら今もゆるゆると動いている。川岸近くには根があらわになった杉の流木も転がっていた。上流から流され、偶然にここの岸に流れ着いたのだろう。


 鶴姫が見ていたのはその杉の木であった。
 賢春が問いかける。
「姫さま、どうなさいました?」
「……ねえ、佐助。あれは――」
 そう云って鶴姫が指差したのは、濁流に晒され、枝葉で覆われて影になっている部分であった。そこに何かが見えた気がしたのだ。
 いや、何か、などという不確かなものではない。
 鶴姫の目に映ったそれは、流木にひっかかっている人間の姿にしか見えなかった。








 鶴姫が目にとめた影はまさしく人間だった。
 引き上げられたのは、おそらく尼僧と思われる剃髪した女性であった。さすがに鶴姫ほどではなかったが、年齢はかなり若い。
 およそ生気というものが感じられないくらい衰弱しており、他者の気配を察することに長けた忍びや剣豪でも、この尼僧の気配に気づくことは難しかったに違いない。もし鶴姫が気づかなければ、一行はそのままこの場を通り過ぎていただろう。


 尼僧は医術の心得のない鶴姫が見ても、明らかに危険な状態に陥っていた。それも、ただ足を踏み外して濁流にのみこまれたから、というわけではなさそうだ。何故なら、尼僧の身体には幾つもの傷跡が生々しく残っているからである。特に右のふくらはぎを撃ち抜いた弾痕は、それを見た鶴姫が思わず目をそむけてしまうほどの深傷だった。
 手当てこそきちんとされていたようだが、この傷ではろくに立ち上がることもできなかっただろう。そんな少女がどうして川に流されるような目に遭ったのか。その答えは、尼僧の首にはめられた鉄の枷にあるものと思われた。



「捕らわれの身だった、のかな?」
 鶴姫の声には、すでに先刻までの弾むような響きはどこにもなかった。死んだようにぐったりとしながら、ときおり痛みにあえぐ尼僧の顔を痛ましそうに見つめている。
 賢春が小さくうなずいた。
「おそらくはそうでしょう。身体の傷も、斬り合いによるものとは思えぬ節がございます。何らかの理由で捕らわれた末、責めを受けていたのではないでしょうか。そして、隙を見て逃げ出し、濁流に身を投げた」


 それまで尼僧の手当てをしていた秀綱が静かに続けた。
「賢春どのの云うとおりであれば、この者にも追っ手がかかっている恐れがあります。できるだけ早くこの場から離れるべきでしょう。とはいえ――」
 秀綱は気遣わしげに尼僧の顔を確かめた。川原に横たえられた尼僧の顔色は、蒼白を通り越して土気色に変じており、すでに冥府に片足を踏み入れているとしか思えない。ここから動かすのは非常に危険であった。まして、この先の道中に連れて行くことなぞできるはずがない。


 近くに住んでいる農民に幾ばくかの金子を渡して治療を頼む、という手もあるが、もし尼僧に追っ手がかかっていた場合、頼んだ相手にも危難が及んでしまう可能性がある。それに、よくよく考えてみれば、この尼僧が善人であるという保証はないのだ。目を覚ますや、周囲に危害をくわえることも考えられた。
 尼僧が目を覚ますまで待って事情を問いただすのが最善であろうが、この様子では、たとえ命の危険を脱しても、いつ目覚めるか見当もつかない。鶴姫たちにしたところで追われる身であることに変わりはなく、他者の事情に首を突っ込んでいる時間はないのである。


 そうなると、選べる手段は限られてくる。
 それを口にしたのは長恵だった。
「お姫さまと賢春には先行してもらい、私とお師様がこの子に付き添うのが第一の案ですね。もしくは私ひとりでもかまいません。まだ六角家の追っ手は私とお師様のことは察知していないはずです。観音寺からの追っ手が来てもごまかすことはできるでしょう」
 それを聞いて、鶴姫は小首をかしげた。
「丸目さま、今のが第一の案なら、第二の案はどのようなものなのでしょうか?」
 問われた長恵は、後方の木立を指差しながら答えた。
「第二の案は、あちらでこそこそしている誰かさんをひっ捕まえて、事の次第を白状させる、というものです」
「――え?」
 鶴姫はびっくりしながらも、長恵の動きにつられるようにそちらを見た。
 すると。




「くここ! なんじゃ、ばれておったのか。これでも気配は断ったつもりなのじゃが、なかなかに鋭い奴輩(やつばら)よ」
 大鐘のごとき野太い声が、濁流の音を割って鶴姫たちの耳に飛び込んでくる。
 そうして姿を見せたのは、齢六十を越えているとおぼしき僧形の老人であった。


 老人は、そりおとした頭髪の代わりというわけでもあるまいが、腹までとどく長いひげをたくわえていた。黒々としたひげは奇妙なほど艶を放っており、窪んだ両眼の奥には脂ぎった黄色い光がちらついている。
 薄物をまとっただけで半ばむきだしになっている上半身は、壮年のそれに劣らぬほど筋骨たくましく、上背も長恵や秀綱と比べて頭一つ以上高い。背筋もまっすぐに伸びており、顔にも声にも精気が滾っている印象である。
 鍛え上げた壮年の男性を、首から上だけ老人のものにすげかえたような、そんな不均衡さを感じさせる人物であった。


「さて、いささか唐突ではあるが用件を申そう。そこに転がっておる女性(にょしょう)を引き渡してもらいたい。それは拙僧の玩物でな、先夜に逃げ出しおったのを今まで捜していたのじゃよ。おっと、理由やら素性やらは訊かんでもらいたい。それを訊かれれば、拙僧もそなたらの素性を詮索せぬではいられなくなるからのう」
「もってまわった云い方ですが、ようは見逃して欲しければ黙って立ち去れ、ということですか」
 身も蓋もない長恵の翻訳に、老人は思わずという感じで目を丸くする。次の瞬間、その口から堪えかねたような笑声が溢れ出た。
「くこここ! おお、まさしくそのとおりじゃ。なんじゃ、えらく話の通じる御仁よな。なにやら尋常ならざる剣気を放っておるが……」


 云うや、老人は表情を一変させ、ぎょろっとした眼で長恵、秀綱、賢春、そして鶴姫と順番にねめつけた。
 老人の視線をまともに浴びた鶴姫は、理由のないおぞましさで身体が震えるのを自覚する。
 いや、理由がないわけではない。瀕死の状態にある尼僧のことを、事もなげに玩物と云い捨てるような輩が、まともな僧侶、まともな人間であるはずがないのだから。



 そんな鶴姫の内心に気づくはずもなく、老人はなおも言葉を続ける。その内容は鶴姫たちが予想だにしないものであった。
「ふむ。このような辺地には似つかわしくない者どもであることよ。いずれも人品卑しからぬ。特にそこの童は、なにやら伝え聞いた人相とことごとく一致しておるのう。もしやとは思うが、江南の鳳 蒲生鶴とはうぬのことであるか?」
「――ッ」
 そ知らぬ顔で受け流すには、鶴姫はいささか人生経験が足らなかった。これが別の相手であれば、あるいは何とか表情を繕うことができたかもしれないが、この老人は声といい表情といい、またその言動といい、奇妙に鶴姫の不安感を刺激してくるのである。



 相手の反応を見て、自分が図星をさしたことを確信したのだろう、老人は三度哄笑した。
「くここここ! なんとなんと、玩物を捜しておったら、思いもかけずに目当ての宝珠を見つけることができたわい! うぬら、すまぬが今しがたの言葉は取り消させてもらうぞ。前々から目をつけておった蒲生の姫、我が物とする好機を逃すわけにはいかんからのう!」
「ひッ!?」
 面上に情欲を漲らせ、自分を凝視する老人を前にして、鶴姫の口から押し殺した悲鳴がもれた。恐怖ではなく、醜悪さに対する生理的な嫌悪感が、鶴姫の自制の殻を突き破ったのだ。



 しかし、次の瞬間、鶴姫を怯えさせた老人の姿は、鶴姫の視界から消えうせた。
 賢春が二人の間に割り込んだのである。のみならず、抜く手も見せずに放った二本の懐剣が、すでに老人の眼前にまで迫っていた。
 眉間と喉を狙って投じられた懐剣は恐ろしいほどに正確であったが、しかし、老人の身体を捉える寸前、甲高い音をたてて地面に叩き落とされてしまう。
 それを為したのは凶刃を向けられた当人であった。老人の手には、いつの間に抜き放ったのか、一本の太刀が握られていた。



「数珠丸恒次(じゅずまる つねつぐ)。かの日蓮が振るっていたとされる聖刀よ。真贋は拙僧の知るところではないが、この刀の鋭き切れ味は受けあおう」
 そう云った老人は、どこか愉快そうに付け足した。
「とはいえ、うぬら全員を相手にするのは、いかな拙僧とて手にあまる。いやさ、一対一でも厳しいか。したが、拙僧の武器は太刀のみにあらず。どれほど巧みに刀剣を扱う者でも、鉄砲弾からは逃れられまいて」
 その言葉を合図として、老人の背後から麾下の兵とおぼしき者たちが姿を見せた。
 男女あわせて五人。いずれも若い。というより幼い。彼らはいずれも装填を終えた火縄銃を抱えていた。



 それが、射撃をする者と弾込めをする者を分業させた、烏渡しと呼ばれる射撃術であることを長恵は知っている。
「烏渡し。ふむ、御坊は紀州の産でしたか」
 老人は驚いたように目を瞠った。
「ほう、よう知っておるな?」
「先ごろ出来た知人から聞きまして。ところで御坊、いいかげん名乗りくらいあげてくれませんか。どうやら周囲にも御坊の手下は潜んでいる様子。ただの好色でいけ好かない狒々爺(ひひじじい)というわけではないのでしょう?」
「くこ、くこここ! なんとなんと。密かに配した我が手下三十名の存在に、はや気づいておったのか。いや、蒲生の家臣にこれほどの使い手がいるとは思っておらなんだ。あと十も若ければ、主と共に可愛がってやったものを」
「ふむ。好色でいけ好かない上に変態な狒々爺でしたか」
「くここ、教養が足りぬな、娘。わざわざ付け足さずとも、狒々爺の一語ですべて足りるのだぞ?」
「いつぞや師兄からいただいた教えにこういうものがあります。『大事なことは二度繰り返せ』」
「ようわからぬ教えだのう。役に立つとも思えんが」
「正直なところ私も同感なのですが、師兄のことです、きっと何か深遠な意味が込められているのでしょう。実際、今も時間を稼ぐ役には立ってくれていますし」


 
 その言葉を負け惜しみと受け取った老人は笑い飛ばそうとした。が、いつの間にかもう一人の剣士が自分との距離を詰めていることに気づき、かすかに眉をしかめる。
 その剣士の名はもちろん知る由もない。が、尋常ならざる使い手であることは一目で知れた。濁流の音に紛れて――いや、かりに川の音がなかったとしても、川原にしきつめられた小石は擦過音ひとつたてなかっただろう。そんな滑らかな足運びができる者が、無名で埋もれているはずがない。おそらく、かなり名の通った剣士である、と老人は見て取った。
 稼がれた時間も詰められた距離もわずかなものだが、今日まで培ってきた老人の経験が、この間合いは危ない、とさかんに警鐘を鳴らしている。



 老人は念のために剣士から距離を置くと、太刀を鞘に戻して部下から鉄砲を受け取った。
 その口から、もう何度目のことか、笑い声が発される。ただ、先ほどまでのそれと違い、今度の笑声は多分に意識して放ったものであった。
「くここ、わざわざ警告してくれるとは親切なことじゃ。礼がわりに教えてしんぜよう。拙僧の名は杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)と申す。紀州根来の傭兵隊を束ねておる頭のひとり。見知りおいてくれい」
 善住坊と名乗った怪僧の言葉に、長恵はこくりとうなずいてみせる。
「承知しました。そんな名前の狒々爺を成敗いたしました、と師兄に報告するといたしましょう」
「できればよいがな。我ら根来衆の鉄砲の腕、知らぬわけではあるまい。皆、そこらの大名どもの兵よりはるかに腕の立つ者どもであるぞ。当たらぬとたかをくくっておると痛い目に遭う」


 云うや、善住坊は黄ばんだ歯をあらわにして、鶴姫に笑いかけた。
「どうじゃ、蒲生の姫。配下を助けたくば、おとなしゅう拙僧に従わぬか? うぬが素直に拙僧に従うのなら、そこに転がっておる者も助けてやろうほどに」
 この提案に返答したのは、問われた鶴姫ではなく従者の賢春であった。常は鷹揚な賢春の声音は針のごとく尖り、視線は冬の近江富士(三上山)から吹き降ろす山風のように冷たく厳しい。
「戯言を申すな、下郎」
「戯言とは心外な。せめて心安く拙僧に身を委ねられるように、と姫の心を気遣っておるというに」
「――」


 もはや口をきく価値もない、と判断した賢春はそれ以上言葉を紡ごうとしなかった。
 その賢春の耳に、低くおさえた長恵の声がすべりこんでくる。
「あの狒々爺はお師様が。私は右の道を切り開きますので、賢春はお姫さまを連れて続いてください。囲みを抜けた後は、私たちにかまわないこと。いいですね?」
 敵の首魁に挑む秀綱はいわずもがな、逃走路を切り開く長恵に向けても伏兵による銃撃が浴びせられるだろう。それを承知しているはずなのに、長恵の声には寸毫の乱れもない。
「……わかりました」
 賢春はそう答えるしかなかった。
 どうして根来の傭兵が鶴姫を狙っているのかはわからないが、間違いなく云えるのは、この戦い、長恵たちにとっては何の関係もないものである、ということだった。野武士、盗賊程度ならいざ知らず、鉄砲持ちの相手から鶴姫を守らなければならない義務も義理も二人は持っていない。
 にも関わらず、二人はなんらの躊躇もなく鶴姫の脱出に協力してくれようとしている。それも最も危険な箇所を自分たちに割り当てて。
 感謝してその言葉に従う以外に、賢春が出来ることは何もなかったのである。



 鶴姫もまた何も云わなかった。云えなかった、という方が正確かもしれない。今このとき、自分が何を口にしても邪魔にしかならないことを、十歳の姫はよくわきまえていた。
 鶴姫の視線が横たわる尼僧に向けられる。善住坊と名乗った男から玩物と呼ばれていた少女がどんな扱いを受けていたか、鶴姫には知る術がない。しかし、それがひどいものであったことくらいは想像できる。
 見捨てたくはなかった。
 だが、助ける術がなかった。
 もし、鶴姫が自分で自分を守れるだけの力量を持っていれば、救う手立てはあったかもしれないが、鶴姫が足手まといになっている今の状況では、いかに賢春、長恵、秀綱という使い手たちといえど、尼僧を見捨てる以外の選択肢が持てないのである。


 鶴姫は血がにじむほど唇をかみ締める。
 それに気がついたのか、それとも偶然であったのか。このとき、鶴姫は長恵のとぼけたような声を聞いた。
「お姫さまと賢春が無事に逃げるのを見届けてから、私は引き返してこの子を担いで逃げ出します。できればお師様は、それまでに狒々爺どもを一掃しておいてくださいな」
「……え?」
 ぽかんとする鶴姫。
 その耳が、今度は秀綱の呆れたような声を捉えた。
「師匠づかいの荒い弟子ですね。確言はできかねますが、期待にそえるよう努めることは約束します」
「さすがお師様です。というわけで、お姫さま」
「は、はい!?」
「あなたさまは余計なことを考えず、ちゃんと賢春についていってください。あ、私たちの心配は無用ですよ。なんといっても、お師様には敵の鉄砲をものともせぬ究極奥義があるのです」
「……きゅ、きゅうきょくおうぎ?」
「はい。その名を『一之太刀』。お姫さまもご存知の塚原卜伝さまからお師様が授かった刀剣術の極みにして頂き。相手が剣でも槍でも鉄砲でも、物ともせずに斬り伏せることができるという、文字通り最強の一太刀です」


 もはや嘆声をもらすこともならず、鶴姫はぽかんと口をあけたまま聞き入るしかなかった。
 これはおそらく自分を安心させるための言葉だろう、とは分かっているが、話す人は剣聖、使い手も剣聖、授けたのも剣聖とくれば、もしかしてと思ってしまう。



 あわせれば十を越える鉄砲の音が川原に響き渡ったのは、その時だった。




◆◆





 その鉄砲を放ったのは善住坊でもなければ、根来衆でもなかった。
 確かに彼らはいつでも鉄砲を放てるように準備はしていたが、善住坊ははじめから鉄砲を用いるつもりはなかったのだ。むろん、部下の流れ弾が鶴姫にあたるのを怖れてのことである。
 鉄砲を用いるにしても、それは護衛の者たちを鶴姫から引き離した後のこと。そう思い定めていた善住坊にとって、この場での銃撃は予期せぬものであった。まして、その銃撃がことごとく隠れ潜んでいた僧兵を撃ちぬくものであり、瞬きの間に手勢を半減させられるなど予期できるはずもなかった。



「ふん、紀州に戻れば代わりなぞいくらでもおるとはいえ」
 持っていた鉄砲で敵兵の一人を撃ち殺した善住坊は、傍らの部下――稚児に次の鉄砲を要求しながらひとりごちた。
 稚児たちを除けば、善住坊が紀州から連れて来た僧兵の数は三十名ほど。数こそ少ないが、全員が精兵といえる者たちである。しかし、彼らは今、背後からの奇襲を受けて次々と地面に倒れ伏していた。
 現れた敵の数は優に根来衆の倍に達するだろう。鉄砲もかなりの数を所持しているようだ。いかに鶴姫に目がくらんでいたとはいえ、これほどの敵の接近に気づかぬとは不覚以外の何物でもない。
 おそらくは隠密を事とする部隊なのだろうが、いったい誰の手勢か。


 と、いきなり善住坊に鉄砲を渡そうとしていた稚児の身体が傾いた。
 見れば、その首には深々と刃が埋めこまれている。
 年若い稚児をためらいなく葬り去ったのは、藍染めの着物を着た少女であった。先刻まで善住坊らが潜んでいた木立に隠れて接近してきたのだろう。
「どうもこんにちは。あなたが根来の善住坊どのですね?」
 血に染まった刃を引き抜きながら気軽に訊ねてくる少女に対し、善住坊は底冷えのする声で応じた。
「いかにも拙僧は善住坊である。で、拙僧の邪魔をするうぬは何者じゃ?」
「よかった、人違いじゃなかったね。ま、千代女の云った人相どおりだったから心配はしてなかったんだけど」


 相手が口にした名前を聞き、善住坊の太い眉が毛虫のようにうごめいた。
「千代女じゃと? ではまさか、うぬが滝川一益か?」
「大当たりー、です。賞品は出ませんけどね」
 相手の戯言に付き合うつもりはなかった。善住坊の口が裂けるほどに開かれ、鼓膜を突き破るような大喝が発される。
「このたわけ者がッ!! 拙僧はうぬに協力してくれと千代女に頼まれておったのだぞ。まさか、間違えました、などとぬかすつもりはあるまいなッ!?」
「ええ、もちろん。だって間違えてなんていませんもの」


 そう云った途端、それまで何も持っていなかったはずの一益の左手は短筒をしっかと握り締めていた。
 右手に刀、左手に短筒を握った一益に対し、善住坊の手にあるのは撃ち終えたばかりの鉄砲のみ。代わりの鉄砲を用意している他の稚児も、一益を怖れて動けない。
 奇術のような鮮やかさであったが、善住坊が気にしたのは至近から自分を狙う短筒ではなく、落ち着きはらって微笑んでいる一益の思惑であった。
「……ふむ、裏切りか?」
「さてさて、裏切りとは面妖な。私に与えられた命令は蒲生の姫を捕らえよというものです。どこぞの狒々の嬲り者にされるのを黙ってみてろ、なんて命じられた覚えはありません。それと、気になることがもう一つ」
 それまではどこか軽さを感じさせた一益の口調が、ここでわずかに重みを加えた。


「私の所領は和田家のそれに近いのです。あそこで死にそうになっているのって、和田惟政どのじゃないですか?」
「――ふふ、さてのう。拙僧はこなたを探る怪しい忍びを射落として、素性を吐かせるべく責め立てただけじゃでな。どこの誰かはよう知らぬわ」
 とぼける善住坊に対し、一益は肩をすくめた。すでにその口調はいつものものに戻っている。
「では、そういうことにしておきましょう。どーせ捕らえたところで素直に目論みを吐くつもりは――」



 言葉の途中、一益はまったく前置きなく短筒の引き金を引いていた。
 意表をつくつもりだったのだろう。実際、動けたのは善住坊ただひとりであった。その善住坊は一益の動きを予測していたらしく、一益が引き金を引いたときには、すでに近くにいた稚児を自身の盾にし終えていた。


「があッ!?」
 短筒の弾に胸を射抜かれた稚児の口から血が溢れ出る。善住坊はその稚児を無雑作に一益の方に蹴り飛ばした。
 一益の身体が体重を感じさせない軽さで後方に跳び、自身の意思によらずして血を吐いて突っ込んだ稚児はそのまま地面に倒れ伏す。
 その瞬間、倒れた稚児の背を踏み抜くようにして善住坊が一益に迫った。その手にはすでに数珠丸恒次が握られている。


「殺ッ(シャア)!」
 踏み込みは老人のものとはとうてい思えぬほどに早く鋭い。振るわれた刀は完全に一益の身体を捉えていた。
 対する一益は、その一閃を避けようとはしなかった。振るわれた恒次の刃に重ねるように、自身の刀を短く振るう。体勢が整いきれていない一益では、善住坊の剣勢に耐え切れない。ヘタに受け止めれば刀を弾かれるだけだと判断した一益は、受け止めるのではなく、受け流すことを選択したのである。
 むろん、それとて尋常ならざる力量を要する業であったが、一益は涼しい顔でやってのけた。




 火花を散らして二人の刀が激突し、善住坊の剣戟がわずかに軌道をそらされる。
 虚空を両断する斬撃。その隙に一益はさらに二歩、三歩と後退する。
 それに対し、善住坊は追撃を仕掛けなかった。周囲で繰り広げられている互いの配下の戦いは、間もなく決着がつくだろう。このまま一益に拘泥していては、善住坊の方が袋のネズミとなってしまう。そのことを理解していた善住坊は、おどろくほどの早さで駆け出していた。脱兎のように、という表現そのままの逃走で、当然のように配下の者たちは置き去りである。
 それを見た一益は腰に手をあててため息を吐いた。


「追っ手をかけたら、一人も帰ってこなさそうですね。ま、いーでしょう。蒲生家と和田家に恩を売り、なんでか知りませんが蒲生に力を貸している左内さんに恩を返せる。成果としては十分すぎます」






◆◆◆






 南近江 青地城


 青地城の軍議の席。その末席に座った俺は、軍議が始まるまで左内と小声でやりとりしていたのだが、その際、思わぬ名前を聞いて声を高めてしまった。
「なに!? 左内って滝川一益とも面識があったのか!?」
「うむ。というても、あれがまだ滝川家を継ぐ以前の話じゃが。賭博場で素寒貧になっておったところを家に招いて、飯を食わせてやったのよ。一宿一飯の恩義というやつじゃな」
 そう云うと、左内は不思議そうに訊ねてきた。
「相馬の方こそ、よう一益の名を知っておったな。滝川家は甲賀諸侯の中でも格別高名な家というわけではない上、一益自身も父の後を継いでまだ一年ほど。これといった手柄もたてておらぬはずだが」
「あ、ああ、以前なにかの折にちらっと名前を聞いたんだが、それはさておき、博打好きはともかく素寒貧になってたのか?」
「うむ。あれはなんというか、妙に勝負弱いやつでの。たいていの勝負には勝つくせに、ここぞという勝負では派手に負けるのよ」
「……この城にいなくて残念なような、ほっとしたような、複雑な気分だ」
「ふふ。ま、いればいたで必ず役に立ったと思うぞ」


 左内はここで、ぐぐっと俺の顔を覗き込んできた。
「で、相馬よ、つい昨日まで軍議に出るつもりはないとごねておったのに、どういう風の吹き回しじゃ?」
「このままじゃ埒があかないと思ってな」
 俺がそう思うに至ったのは、昨日の三好政康の攻勢を目の当たりにしたからである。
 激烈な攻撃を仕掛けてくるだろう、とは予想していた。していたのだが、三好軍の勢いはそんな俺の予想をはるかに越える凄まじさだったのだ。
 背水の陣と呼ぶことさえはばかられる。犠牲などまったく気にかけていないあの戦いぶりを見れば、政康がはじめから『次』を考慮していないことは明瞭だった。


 あの調子では三好政康はどれだけ自軍が不利に陥ろうと退却せず、ついには自軍と同数以上の六角兵を道連れにして、部隊が磨り潰されるまで暴れ続けるだろう。
 正直にいえば、三好軍と六角軍にどれだけの犠牲が出ようと俺の知ったことではない。政康が力尽きるまで暴れるつもりなら、そのとおりにさせてやればいい。そうすれば、労せずして三人衆の一角を葬ることができる――と、そんな風に考えもしたのだが。


「したのだが――考えをかえたのか?」
 問うてくる左内に、俺は軽く肩をすくめてみせた。
「将来はともかく、現時点で何の代価も払えない俺の頼みをきいてくれた奇特な誰かさんが云ってただろう。青地の城主どのの危難を見過ごすのは気が咎めるって」
「なるほど、ここで傍観しておると身どもが不満を覚える、と思ったわけか」
「まあ、そんなところ――」
「義治公はともかく、青地、蒲生の勢とは共に死戦を潜り抜けた仲。先に友通を討ち取った戦で、蒲生家が六角家に唯々諾々と従っているわけではないことも確認できた。どうやら彼らは他の六角家臣とは毛色が違うらしいと認めつつ、これまで散々六角家などどうでもいいと嘯いてきた手前、今になって彼らを案じているとは言いがたい。そこで身どもを理由にしてみた、と。つまりはそういうことじゃの? そもそも今の六角家はもはや三人衆など相手にしてはいられぬという状況にある。本当に三人衆の首級だけが目的ならば、この城に留まって戦う意義は薄いといわざるをえぬしのう」 
「………………をを、どうやらお歴々がいらっしゃったようだゾ?」
「まことじゃの。では、無駄話はこのくらいにしておこうか」
 にやにやと笑う佐内の額に、むしょうにデコピンを浴びせたくなったのは、俺の心が狭いせいなのだろうか?






 そうして始まった軍議は、しかし、はじめから嵐の気配を宿していた。
 口火を切ったのは俺である。
 発言を求められた俺は、今日まで胸中で温めていた案を披露したのだが、それを聞いた瞬間、軍議の間がはっきりとざわついた。それも、あまりよくない方向のざわつき方である。
 蒲生定秀は呆れ顔を隠さず、その息子の賢秀や青地茂綱が思案する様子を見せているのは、俺というよりも左内に対する心遣いであろう。


 しばし後、賢秀がおもむろに口を開いた。
「一騎打ちを挑む、か。たしかに、早期に決着をつけるために大将首を狙うのは常道である。したが、今は源平の世ではない。こちらが誇りをもって名乗りをあげたところで、敵が応じねばどうにもならぬのではないか」
「しかり。まともな武将ならば、一騎打ちの申し出など歯牙にもかけぬ。今の世に何を云っているのかと笑いものになるだけじゃろうて」
 これは定秀の言葉である。
 この場に集まった蒲生、青地両家の諸将も、定秀の言葉に同意するようにうなずいていた。
 彼らは先の戦で岩成友通を討ち取った俺(策自体は左内のものとなっている)の功績を認めてくれており、左内の言葉(『身どもが知るかぎりにおいて、松永弾正に並ぶ智恵の持ち主』というトンデモ推薦)もあって、一兵士に過ぎない俺の話を、一応は聞く姿勢を見せてくれていたのだが、どうやら俺の進言はそういった信頼や心遣いを一撃で粉砕してしまったようだった。



 そのことに気がついた俺は、一礼して部屋から退出するために立ち上がった。
「愚言を呈してしまったようで、申し訳ございませんでした。それがしはこれにて失礼させていただきます」
 そんな俺を止めたのはこの城の城主である青地茂綱である。
「いや、それには及ばぬ。左内どのの言葉もあることゆえ、他にもなんぞ意見があれば聞かせてもらいたい」
 茂綱の言葉は英語にすると「one more chance」というところだろう。一城の主が一兵士に向ける気遣いとしては、おそらく最大級のものである。
 が、俺にとってはいらぬ気遣いであった。


「青地さま、それは互いにとって無用のことと心得ます。愚者は成事にくらく、智者は未萌に見る。今、目の前の敵すら見えていない方々に、いったい何を説けと仰るのか。無益なことはせぬにかぎります」


 ――唖然呆然、しかるのち激怒。
 俺の言葉に対する反応はこんな感じだった。




 すっくと立ち上がったのは蒲生家の種村伝左衛門である。
「雇われ兵ごときが何をぬかすか、無礼者が!!」
 続いて立ち上がったのは、これも蒲生家の結解十郎兵衛。こちらは伝左衛門ほど怒りをあらわにしていなかったが、その視線の鋭さは鋭利な刃物を突きつけられるに等しい威圧感をともなっていた。
「我らを愚者と呼び、みずからを智者と称す。なれば智者どの、うかがおう。『目の前の敵すら見えていない』とはどのような意味であるのか。智者どのの目には、三好政康以外の敵将が映っているのであろうか?」
「ふん、そのような者がおるはずなかろう。みずからの策を一蹴された、腹立ち紛れの雑言に決まっておるわい。したが、もし本当に違うものが見えているならば聞いてみたいものだ。まさか瀬田城の三好長逸に気をつけろ、などとは云わぬであろうしな」
 十郎兵衛の問いに、伝左衛門が皮肉もあらわに追従する。伝左衛門にいたっては予想した答えを先に封じようとしているあたり、よほど俺の態度が腹に据えかねたのであろう。



 むろんというべきか、彼ら以外の諸将からの視線も厳しいの一語に尽きた。
 若干一名、面白がっている奴もいるが。そいつとは別に、よく見ると横山喜内もハラハラした様子で周囲を見回しており、どうやら俺のことを気遣ってくれているようだった。口を開かないのは、若輩の身をはばかってのことであろう。
 ありがたいといえばありがたいが、だからといってこちらが態度を軟化させる必要はない。
 念のために云っておくと、これ、何かの考えがあって相手を挑発しているわけではない。共に戦ったことで青地、蒲生の二家に対して芽生えたかすかな好意。その好意にもとづく発言を一蹴されたので、それに相応しい態度をかえしているだけである。いかに六角家とは毛色が違うとはいえ、彼らが六角家の家臣である事実になんらかわりはないのだ。


 俺は肩をすくめて云った。
「どうやらお歴々はみな耳が悪いようですね。それがしはすでに答えを申し上げた。それがわからぬ方に何を云っても無駄だ、とも申し上げた。その上でなお、それがしに同じ問いを向けることの意味、試みに考えてみられるがよろしかろう」
「ぬ?」
 訝しげな伝左衛門に向かって、俺は口角をつりあげた。
 もしかしたら謙信さまたちを討っているかもしれない六角家に協力している、という状態は、俺が思っていた以上に神経をささくれ立たせていたらしい。せめてもの好意を一蹴されたことも手伝い、自分でも意外なほど感情のコントロールがきかない。
「何度も同じことを訊くなと云っているのだ、うっとうしい。そもそも俺が貴様らに――」


「相馬」


 皮肉から激語に転じた、その瞬間。
 左内がいたしかたないと云いたげに俺の名前を呼んだ。
 穏やかな声音は不思議と強い調子で俺の耳朶を打ち、俺はおそまきながら平静を取り戻す。
 とはいえ、思いっきり「うっとうしい」とか「貴様ら」とか口走ってしまった事実は消しようがない。平静を取り戻したとはいえ、六角家の家臣に頭を下げる気にはなれない。これはもう、追放なり投獄なりを覚悟しなければならなそうだった。


 ところが、である。
 密かに諦念に捕らわれた俺の耳に、世はすべてこともなし、とでも言いたげな左内の声が響いた。
「すまぬな、各々方。その者、以前に少々六角家と揉め事を起こしておって、此度の戦も身どもの請いに応じてしぶしぶ腰をあげてくれたのじゃ。色々と鬱憤がたまっておったのだろう。無礼の段、身どもからもお詫びする」
 そう云った左内は、他者に口を挟むことを許さない絶妙の呼吸で話題を引き戻した。
「それで先に相馬が云うた言葉の意味じゃがの。ご隠居どのはこう申された。『まともな武将ならば、一騎打ちの申し出など歯牙にもかけぬ』と」
「ふむ、確かに申したな」
 気難しい顔でひげを弄りながら定秀がうなずいた。
 それを確認した左内はさらに続ける。
「各々方、よくよく思い起こされよ。確かにまともな武将ならば一騎打ちを申し出たところで一蹴されて仕舞いじゃろう。したが、先にこの城に攻め寄せた三好政康めは、はたして『まとも』であったろうか?」



「――む」
 定秀がひげを弄る手をとめ。
「――ふむ」
 賢秀が何かに気づいたようにうなずき。
「――そういうことか」
 茂綱が得心したように手をうった。
 


「岩成友通を討たれ、三人衆は策を練る頭を失ったも同然じゃ。今になっても都から援兵が出ぬところを見れば、三人衆と宗家との間に隙が生じたことも疑いない。兵も離散に離散を重ね、今や瀬田のそれをあわせても総勢は千に届くまい。そんな状態で、自軍の倍近い兵がたてこもるこの青地城を落とすことに何の意味があるのだろうの? 城攻めを強行すれば、ただでさえ少ない兵がさらに少のうなる。たとえ首尾よく城を落としたところで増援はどこからも来ぬ。糧食を得るあてもなければ、先々を考える脳もない。挽回の目はどこにもないのじゃ」
 左内は云う。
 政康が勝利を目指して賭けに出るのなら、この城を無視してひたすら義治の軍においすがるべきだった。これが成れば、あるいは戦況が覆ることもあるかもしれない、と。


「その程度のことは政康めもわかっておったろう。にも関わらず、あれはこの城に攻め寄せた。一か八かの賭けに出て勝利を求めたわけではない、ということじゃ。では、財貨なり糧食なりを求めたのであろうか? 否、それならば、この城ではなく草津の町に攻め寄せたであろう。つまり、政康めが求めるのは勝利にあらず、財貨にあらず、糧食にあらず。では、彼奴めは何を求めてこの城にやってきた? 答えは一つしかない、と身どもは見る。すなわち、僚将 岩成友通を討ち取りし者を、みずからの手で八つ裂きにすることじゃ」
 左内の言葉は理路整然としており、説得力にみちていた。少なくとも、三好政康の不自然な動きに対する一つの解答には成りえていた。


 怒気に顔を歪めていた者たちも、いつしか左内の言葉に聞き入っている。
 左内はそんな諸将を見渡して、自らの言葉を締めくくった。
「政康めの目的が復讐であれば、こちらからの条件次第で一騎打ちに応じる目も出てこよう。そこまでいかずとも、あれを兵から引き離し、誘き出すことは十分に可能である。逆に応じなければ、彼奴には復讐以外の目的があるという判断もできるであろ。いずれにせよ、仕掛けてみて損はない、と思う次第じゃ。そして、政康めを釣る餌が何になるかじゃが――もう身どもが口にするまでもあるまいの」


 悪戯っぽく俺を見て笑う左内。
 その左内に促されるように、室内の諸将の視線が再び俺に集まってきた。
「……岩成友通を討った者。それが、三好政康を誘き出す餌になるということか」
 うめくような伝左衛門の言葉に、十郎兵衛が右手で口許を覆いながらうなずいた。
「……しかり。荒唐無稽と思うたが、一騎打ち、か。目はある。確かにある」
 先ほどの怒気が一掃されたわけではない。むしろ、拭いきれていない者が大半であろう。だが、それを上回る何かが、この場に集った諸将の表情を覆っていた。




 沈黙の帳を破ったのは蒲生定秀である。
 定秀はみずからの席から立ち上がると、じっと俺の顔を見据えた。
「なるほど。三好政康を我が目で見ておきながら、一騎打ちが意味するものを解しえなかった。たしかにわしは愚者であったようだ。おぬし、北……北相馬ともうしたか?」
「は」
「相馬よ。我が不明をここに詫びる。このとおりじゃ」
 そういって、定秀は頭を垂れた。顔をわずかに傾けた、というものではない。はっきりと、深々と頭を下げたのである。諸将の口から悲鳴にも似た声があがったが、定秀は一向に気にかける素振りを見せず、なおも俺に云った。


「そなたの策を無下に退け、しかも左内の言葉を聞けば、そなたは我らに意趣ありと聞く。その上で頼むのは厚顔な振る舞いであると謗られようが、曲げて頼む。今一度、そなたの策をきかせてはくれぬか。此度の戦はどうしても負けられぬ。たとえ勝っても犠牲が多ければ、どのみち蒲生も青地も衰亡せざるをえなくなろう。犠牲少なくして勝つ方法を、我らに指南してほしいのじゃ」




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/20 22:30

 南近江 青地城外 三好軍本陣


「申し上げます! 瀬田城の日向守さま(三好長逸)より御使者が――」
「どうせまた『戻って来い』という催促だろう。伯父御も諦めが悪い」
 床几に座した政康が淡々と応じる。
 困惑を隠せない様子の兵に対して、政康は言葉を付け足した。
「使者には、心配せずともすぐに兵を返すと伝えよ。青地を落とし、蒲生を討ち果たした、その後でな」
「……は、かしこまりましたッ!」


 どのような言葉を付け加えようとも、政康が実質的な上位者である長逸の命令を無視した事実は動かない。
 本陣に詰めている諸将はそのことを承知していたが、あえてここで反対を唱える者はいなかった。
 現在、政康が率いている将兵の数は一千弱。政康の手勢に加え、瀬田城を守っていた長逸直属の部隊、さらに先に敗れた岩成勢の敗兵も加わっている。事実上、三好三人衆(もうこの呼称は正しくないが)が保持しえる最大の戦力が政康の下に集結していることになる。


 この中で、もともと政康に従っていた武将は主の気性を飲み込んでおり、反対を唱えることが無駄であることを承知していた。旧岩成勢の武将は、政康同様、復仇に燃えているため、そもそも反対するつもりがない。
 唯一、長逸麾下の武将たちは、現在の瀬田城がほぼ空城と化していることを知っているため、青地城にこだわる政康に批判的な態度をとっていたのだが、政康はつい先日、そういった武将のひとりを捕らえ、配下の兵と引き離した上で瀬田城に送り返していた。
 己の指揮に従わない者はこうなる、という見せしめである。


 以降、少なくとも表面上は政康の指揮に異を唱える者はいなくなった。
 政康としては心置きなく城攻めができる態勢が整ったことになる。長逸麾下の武将を粗略に扱ったことは、後に必ず重大な問題を引き起こすことになるだろうが、今の政康は城攻めにのみ注力しており、その後のことはまったく考慮していなかった。
 腰に差した名刀 三日月宗近を抜き放った政康は、鋭利な輝きを放つ刀身をじっと見つめる。そして、感嘆したように呟いた。
「昨日だけで少なくとも十は敵を斬って捨てたのだがな。歪みも曇りもない。まこと、利剣、宝刀と呼ぶに相応しい切れ味だ。ま、あの公方の百人斬りに耐えた刀なんだ。十や二十の人間を斬っただけで用を為さなくなるはずもないが」


 云った途端、政康はぞくりと背を震わせた。
 二条御所で目の当たりにした足利義輝の阿修羅のごとき戦いぶりが思い出されたのだ。
 あの夜の戦いを思い浮かべるだけで、政康の手には汗がにじみ出てくる。むろん、実際に義輝ひとりで百人の兵を斬り捨てたわけではないのだが、もし友通が鉄砲を持ち出さず、あくまで兵数に頼って事を為していたのなら、それだけの被害が出ていても不思議はなかった。それほどあの日の義輝は圧倒的だったのである。


 その義輝が握っていた刀が今は自分の手に握られている。そして、あの日の義輝のように、今日は政康がこの刀で敵兵を冥府に送り込むことになるだろう。
「死出の道連れには不足しないぞ、友通。もっとも、あまりぞろぞろと道連れを送りこんでは、静穏を好むお前にぶつくさ文句を云われかねないのだがな」
 宗近の刃面に映し出された己の顔が、唇を曲げるようにして笑っている。確かに自分の顔であるはずなのに、何故だか政康にはそれが他人の顔に見えていた。
 と、いつの間にか物思いにふけっていた自分に気づき、政康は苦笑する。我が事ながら埒もないことを、とおかしくなったのだ。
 そうして、ここにはいない誰かに向けて、政康は小さく囁きかけた。
「もし文句があるなら俺の枕元に立ってみせろ。情の強いお前であれば、さして難しいことではあるまいよ」







「ご報告いたします! 青地城より遣わされた使者が、三好軍の大将にお目にかかりたいと申しておりますが、いかがいたしましょうか!?」
「殺して送り返せ」
「……は。しかし……」
 どれほど険悪な間柄であっても、軍使に手を出さないのは戦陣のならいである。
 しかし、政康は一向に気にかけなかった。
「この期に及んで和議も降伏もありはしない。勝った方が負けた方を殺しつくす、それ以外の決着はないのだ。使者の首を見れば、城内の連中は否応なしにそのことを悟るだろうよ」
 むしろ、今にいたってもなお交渉の余地が残っていると考えている敵の暢気さが政康には可笑しい。ここはひとつ、現実の厳しさを思い知らせてやるべきだろう。


 そんなことを考えている政康の前で、報告してきた兵はなおも何かをためらうようにチラチラと政康の顔をうかがっている。政康を諌めようとしているわけではないようだが、かといって素直に命令を実行する様子もない。
 はきつかない態度を見て、政康の顔に険があらわになる。それに気づいたのだろう、兵士は慌てたように平伏し、懐から布に包まれた「何か」を取り出し、地面に置いた。
「なんだ、それは?」
 訝しげに眉をひそめる政康に対し、兵士は思い切ったように告げた。
「城内からの使者が持参したものです。その者が申すに、おそらく今もっとも政康さまが欲しておられるものを自分は持ってきた、これはその証である、と」


 当然、兵士はすでに中身をあらためている。布を取り払った後、地面に残っていたのは一本の小刀――血がこびりついた鎧通しであった。
「……岩成友通さまを討ち取った得物である、とのことです」
 がたり、と大きな物音がしたのは、政康が立ち上がった拍子に倒れた床几の音である。
 政康は兵士のもとに歩み寄ると、地面に置かれ小刀を掴み取った。刃も柄も赤黒く染まった一本の鎧通しを、政康はしばらくの間、じっと見つめていた。睨みつけていた、と云った方がいいかもしれない。
 政康の口から低い笑声がこぼれおちる。ふふ、とも、ひひ、ともつかないその声は、岩成友通がことのほか嫌っていた笑声であった。




「偽りであれ、真であれ、ここで――俺の前で友通の名を持ち出すとはな。よほど命がいらぬと見える」
 云うや、政康は持っていた小刀を放り投げると、底冷えのする声で命じた。
「その使者とやら、今すぐここに連れてこい。わざわざ友通を殺したと告げてくる輩だ、用件は和議でも降伏でもあるまい。おそらく狙いは俺の命だろう。武器の類は残らずとりあげておけ」
「か、かしこまりました。ただ、差し出してきた小刀をのぞけば、使者は武器を持っておりません。大小を差さぬ白装束姿でございます」
 それを訊いて、政康は顔をしかめた。
「斬られる覚悟はできている、ということか。あるいはそれをよそおって何か騒ぎでも起こす気か。兵どもに城内の動きに注意するよう伝えておけ。こちらの注意を使者に集めておいてから、一気に決戦を挑んでくる策かもしれん」
「は、かしこまりました!」




◆◆




 姿を見せた青地城からの使者は、なるほど、報告のとおりの姿であった。
 着ているのは生地に厚みのない白装束。甲冑をまとわず、この装束を着てきた理由は、懐中に凶器を隠し持っていないことを示すためか。腰にはなぜか二本の扇を差している。
 殺気だった将兵に囲まれているというのに、眉ひとつ動かさない豪胆さは、かりにこれが虚勢であったとしても見事なもので、常の政康であれば名前くらいは確認しただろう。
 しかし、今の政康にそのようなゆとりはない。
 政康の対応は冷厳を極めており、はじめに使者に向けたのは言葉ですらなかった。


 地べたに座らされた使者の前に歩み寄った政康は、警告もなしに三日月宗近を一閃させる。
 ななめに振り下ろされた斬撃は、使者の右肩から左胸にかけて白装束を切り裂いた。否、着ている物だけでなく、刃先は使者の身体をも捉えていた。
 致命傷には遠いが、皮一枚を切り裂くような妙技でもない。切り裂かれた部位からにじみ出た血が、白装束をゆっくりと緋色に染めかえていく。
 傲然とその様を見下ろしながら、ようやく政康は口を開いた。
「ほう、着込みの一つも用意していると思ったが、本当に無防備のまま敵陣を訪れたか。いいだろう、何をさえずる気か知らぬが、話くらいは聞いてやる。ただしその前に『今もっとも俺が欲しているもの』とやらを出してみせよ。拒否すれば斬る。話をそらそうとしても斬る。この言葉が偽りと思うならば、諾以外の答えを返してみせろ。この三日月宗近の錆びにしてやる」


 かりそめにも使者を名乗った者に対する振る舞いではない。政康のそれは暴虐との謗りをうけても仕方のないものであったが、そんな政康を前にしても使者はなお平静を保っていた。おもむろに左の袖をまくりあげると『何者か』によって抉られた傷跡をあらわにする。
「持参したのは岩成友通を討ち取った者の身柄。すなわち、それがしのことです」
 傷を見た政康は、かすかに目を細めた。政康は岩成勢の生き残りから先夜の襲撃の全貌をすでに聞きだしており、その傷が意味するところを即座に看取した。


「ふん、やはりな。友通を討った者を差し出すゆえ兵を返せ。察するにそれが用向きか。俺がそのような申し出を受けると本気で思っているのだとすれば、おめでたいにもほどがある」
 苛立たしげに土を蹴った政康は、使者の眼前に血で濡れた刃先を突きつけた。
「直接に友通を手にかけた貴様はむろん許さぬ。だが、たまさか手柄をたてた雑兵ひとりを八つ裂きにしたところで俺の腹の虫はおさまらないのだ。友通を討った蒲生の軍兵はことごとく斬り捨てる。当主も、隠居も、将も、兵も、そのすべてをことごとく殺めてやろう。ことに、先の夜襲を企て、友通を嵌めた奴は念入りに切り刻んでやる」



 結果だけを見れば、友通は蒲生軍に良いようにしてやられた感がある。蒲生軍を率いるのは当主の賢秀であるが、賢秀が衆に優れた戦いをしたということはついぞ聞いたことがない。むしろ、浅井家との間で起きた野良田の戦いで不覚をとったように、賢秀の作戦指揮は凡庸の域を出ない。そんな人間が友通を策に落とせるはずがなく、誰ぞ賢秀に入れ知恵をした者がいるに違いない、と政康は睨んでいた。


 使者は落ち着き払った様子で口を開いた。
「嵌めたとは、わざと多めに兵糧を炊いて夜襲を誘ったことでしょうか?」
「なに?」
「それとも、賢秀さまを討ち取ったと称して本陣に入り込んだことでしょうか? あの時に用いた三好軍の鎧兜は、以前に鶏冠山で頂戴しておいたものです。先に貴殿の陣で流言をまく際にも利用させていただいた」
 その言葉は奇妙に政康の記憶を刺激した。まだ友通が討たれる以前のこと、あわせれば三千近い兵力で青地城を攻めたてていた政康は、あと一歩というところまで敵を追い詰めながら、相次ぐ撹乱と混乱によって態勢の立て直しを余儀なくされた。結局、その騒擾をしずめるために費やした時間が仇となって、敵増援の到着を許し、政康は退却せざるをえなくなってしまったのである。


「……貴様」
「青地城に捕らわれていた死刑囚を説き、賢秀さまを討ち取った裏切り者に仕立て上げたことも含まれましょうか? あれは何度も同じ策を用いては怪しまれると考え、古の越の宰相から智恵を拝借したのです。おかげで、友通どのをはじめとした諸将の注意は囚人にのみ向けられ、彼らを斬ったそれがしが友通どのに襲い掛かったとき、とめることが出来た者はただの一人もおりませんでした」
 誇るでもなく、嘲るでもなく、あくまで淡々と言葉を紡いでいく使者。
 その静かな迫力に感応したように、政康の顔から次第に怒気が拭い去られていった。



 刀を突きつけられ、周囲すべてこれ敵兵という状況で、こうまで平静を保つことのできる肝の太さは一朝一夕で養えるものではない。机上の学問で学べるものでもない。
 戦陣の経験が必要だった。それも勝ち馬に乗るような易い戦いではなく、生死の境を駆け抜ける死戦の経験が。
 たまさか手柄をたてた雑兵? この相手が?
 ばかな。こいつは断じてそんな可愛らしいタマではない。



「――何者だ、貴様」
 問うと同時に柄を握る手に力を込める。答えればよし、答えなければ斬り捨てるまで。
 いや、たとえ答えたとしても、この使者はここで斬るべきだ。
 怒気ゆえではなく、復仇の念ゆえでもなく、ただ戦将としての直感に従って政康は決断する。
 決断から行動へ。政康が動こうとするその直前、使者は静かに云った。まるで政康の殺意に楔を打ち込むかのように。


 
「越後上杉家家臣 天城筑前守颯馬」
「――――なに?」
 それはこの戦いで聞くはずのない名前であり、聞くはずのない家名。意表をつかれた政康の動きがわずかに鈍る。
 その隙を、使者は――天城颯馬は見逃さなかった。



 腰に差した鉄扇を引き抜いた天城が、下から上へ、みずからに突きつけられた刀を強く跳ね上げる。
 奇妙に澄んだ音をたてて、三日月宗近が高々と宙を舞った。
「ちッ!?」
 政康が激しく舌打ちした。
 常であれば、たとえ不意をうたれたところで刀を手放すような無様をさらす政康ではないのだが、この時はなぜか宗近の柄が手につかなかった。あたかも刀の側が政康に握られることを拒んだかのように、宗近は政康の手を離れてしまう。


 これも常であれば、政康はすぐに腰の脇差を抜いて天城を斬りふせにかかっただろう。ここで宗近に拘れば、今しも踏み込んでこようとしている天城に隙を見せてしまうことになるからだ。
 それでも、この時の政康の右手は、腰の脇差ではなく、宙の宗近に向かって伸ばされていた。ようやく手に入れた天下無二の宝刀、それに対する執着が咄嗟の行動に結びついてしまった格好だった。
 天城の側にその隙を見逃す理由などありはしない。政康とは対照的に、一片の躊躇もなく繰り出された鉄扇の第二撃は、未練げに宙を探る政康の右手の甲をしたたかに打ちすえていた。


 強い衝撃、鈍い音、直後に伝わってきた激しい痛み。たまらず政康の口からうめき声がもれる。
 さらに攻撃は続く。
 第二撃と同時に立ち上がった天城は、右手をおさえて後方へ下がろうとした政康の足を力任せに踏みつけ、相手の動きを封じこめた。そして、たまらず態勢を崩した政康の側頭部に三度、鉄扇を叩き付ける。


「がァァァッ!?」
 右手を打たれた痛みなど比較にもならぬ。頭蓋を揺さぶる強烈な一撃を受け、政康はもんどりうって地面に倒れこんだ。
 それを見た政康の部下たちが遅ればせながら動きはじめる。
 さすがに鉄扇だけでしのげる数ではない。政康を人質にとるにしても、鉄扇を突きつけるだけでは相手を怯ませることはできないだろう。三好兵もそれを計算にいれていたに違いないのだが。


 ちらと傍らを見やった天城は、右手に握っていた鉄扇を左手に持ちかえると、空いた右手で地面に突き刺さっていた刀の柄を握り締めた。むろん、それは政康の手から離れた三日月宗近である。
 まるではかったように、宗近は天城が手を伸ばせば届く距離で地面に突き刺さっていたのだ。


 優美な反りを持つ宝刀を手にした天城は、感嘆したように呟いた。
「天下五剣の一 三日月宗近、か」
 云うや、なぎ払うように宗近を真横に振るう。右腕に伝わるズシリとした重みが、これ以上ないほどの頼もしさをうむ。
 それを見た三好兵が、思わず、という感じで後ずさった。それは、今日まで政康が振るってきた宗近の切れ味を知っているからこその反応であったが、まるで宗近の刃そのものに威が込められているかのような、そんな光景にも見えた。


 敵の反応を見た天城はあらためて宗近を見やると小さく苦笑する。
 明らかに持ち主の腕と刀の質がつりあっていない上、左腕を怪我している今の天城は、この名刀を右手一本で扱わねばならない。扱いに難儀するのは火を見るより明らかであったが、天城はさして気にしなかった。
 別段、これからこの宗近で敵陣を切り裂いていくつもりはない。倒れこんだ敵将の首を切り裂ける程度の切れ味があれば十分なのである。



「動くな」
 倒れこんだ政康の首筋に宗近を突きつけた天城は、鋭い視線で周囲の三好兵を睨みつけた。
 主客は転倒し、今や命の危機に晒されているのは政康の方となっている。
 とはいえ、ここで政康が討たれれば、怒り狂った配下はすぐにも天城を八つ裂きにしてしまうだろう。必ずしも天城が危機を切り抜けたわけではなく、そのことを知る三好兵は口々に云い立てた。
「無駄なあがきはやめろ。おとなしく殿を放すがいい!」
「慮外者めが! 命が惜しくないのか!?」
 騒ぎ立てる彼らに対し、天城はいちいち言葉で応じようとはしなかった。


 政康の首に突きつけた刃先をすっと動かす。ぱくり、と開かれた傷から少なくない量の血があふれ出した。
 それを見て憤激の表情を浮かべる者たちに向け、天城は冷然と言い放つ。
「貴様らが無駄口をたたくたびに、主は冥府に近づくと知れ」
 陣幕の中がしんと静まり返った。
 天城が本気であるということは、単身、ここに訪れた事実が証明している。三好軍にしてみれば、ここで天城を討ち取ったとしても、かわりに政康を討たれてしまえば何の意味もないのだ。



 政康がうめくように云った。
「ぐ……きさ、ま。この場を……切り抜けられると、思っている、のか?」
 先ほどの殴打がきいているのか、政康の声も視線もふらついたままである。
 そんな政康に対し、ただひとりの味方も存在しない敵陣の只中で、いっそ堂々と天城は断言した。
「当たり前だ。切り抜けられない理由がない」


 ここで、はじめて天城の顔にはっきりわかるほどの憎悪があらわれた。
 より一層、政康の首に宗近の刃を押し付けながら、天城は嘲弄を込めて敵将に問いかける。
「逆に問おうか、三好政康。敵地へ単身乗り込んできた使者を多勢で囲み、あげく無様に得物を奪われ、捕らわれた愚将どの。貴様が将軍殿下を弑逆したは奸悪ゆえ、三好宗家に見放されたは不徳ゆえ、僚将を守れなかったは無能ゆえ。奸悪、不徳、無能とそろった貴様ごときが――」
 わずかに首を傾けて政康を見据える天城の両眼に、正視しがたい光が迸る。
 三日月形の笑みを浮かべた天城は傲然と言い放った。


「俺に勝てると思っているのか?」

 

◆◆
  


 同時刻


 岡左内と横山喜内の二人は、すでに先夜のうちに少数の兵を率いて青地城を抜け出していた。
 三好軍は先の城攻めに比して兵力が半分以下に減じており、城を完全に包囲することができずにいる。夜に紛れて城外へ抜け出すことは難しいことではなかった。
 いったん城を離れた二人は、そのまま兵を引き連れて三好軍の側面に回りこんで伏兵となった。間もなく出撃するはずの蒲生、青地両軍の攻勢にあわせ、側面から三好軍の腸を食い破るのが、この部隊に課せられた役割である。



「左内どの」
「む、なんじゃ、喜内坊」
「坊はやめてください。あの、一つお訊ねしたいことがあるんですが」
 そう云うと、喜内はややためらった末、以前に書物で読んだことのある言葉を口にした。
「相馬どのの策は、孫子でいうところの死間というものなのですか?」
「ほう、まだ若いというに、よくそんな言葉を存じておるな」
 左内が感心したように云うと、喜内はすこし得意気にうなずいた。
「殿がよく仰るのです。ただ槍働きにすぐれているだけではまことの武将とは云えない、と。それで、暇をみつけては兵書をひもといております」


 そこまで云った喜内は、急にはずかしそうに頬をかいた。
「まあ、何度読んでもよくわからないというのが正直なところなんですけど」
「それでも立派なものよ。蒲生家には尚武向学の気風が育まれておるのだな。喜内坊のような若者までが兵書に親しんでおるとなれば、蒲生はこれから巨大になっていくのかもしれぬ」
 そう云った後、左内は問われた事柄に返答した。
「孫子によれば死間は誑事(きょうじ)を為す者であるという。誑事とはすなわち、欺き惑わすこと。敵を欺くために味方を惑わし、敵陣に赴いた相馬は、ふむ、なるほど死間であると云えなくもないの」
 もっとも、そもそも北相馬は間者ではないので、実情を知る左内にとっては見当違いな表現であるのだが――


(いや、上杉家の間者と云えないこともないのかの?)
 思わぬ難問にぶつかったように、左内はむむむと考え込む。
 一方の喜内は真剣な表情で敵陣をうかがいながら、どこか不安そうな素振りを見せていた。
「何故、相馬どのはあそこまでするんです? みずからを餌として一騎打ちを申し込むだけでも無茶だというのに、四半刻も経たないうちに総攻めを行え、などと。あれでは悪くすれば――いえ、まず間違いなく三好軍に殺されてしまいます」
 喜内にしてみれば、敵将が一騎打ちを了承する可能性は皆無としか思えない。つまり、喜内の目には、北相馬の策は我が身を囮とした強襲策であるとしか映らなかった。


 北相馬が軍議で述べたのは一騎打ちのくだりだけであり、強襲策は軍議の後で限られた武将にだけ告げられた。三好家の密偵が城内に入り込んでいた場合に備えての措置であるとのことだったが、ここから判断するかぎり、北相馬もまた一騎打ちが受け容れられないことを予期しているとしか思えない。そのことが喜内の不安をあおるのである。
 喜内が抱える危惧は左内のそれとほぼ重なっている。
 しかし、左内は喜内のように不安を覚えたりはしなかった。喜内の半分も心配していない気楽な調子で、ゆっくりとかぶりを振った。


「案ずるなとは云わぬが、案ずるだけ損だ、とは云っておこうかの。軍議でわかったと思うが、相馬は六角、蒲生、青地、いずれの家のためにも死ぬつもりはない。それはもう一片もない。ゆえに、どれだけ無茶に見えたとしても、それは成算あっての行動なのじゃよ」
 むろん、成算とは戦場から必ず生還できる奇跡の方策ではない。どんな戦であれ、死の危険は常につきまとう。
 しかし。
「すでに戦場に出ている喜内坊には云うまでもないことであろうが、戦場では命を惜しむことがかえって危地を招くものじゃ。反対に、死ぬ覚悟で事に臨んで、かえって生を拾うこともままあることよ」
 喜内は素直にうなずいた。それは喜内自身も胸に刻んでいる戦場の心得であったから。


 左内はさらに続ける。
「若しとはいえ相馬は百戦練磨の武士(もののふ)。しかも、本人いわく、やたらと危ない戦にばかり関わってきたそうな。死生の狭間を見切る呼吸は、身どもや喜内坊の及ぶところではあるまいて」
「……信じているんですね、相馬どののことを」
 喜内の言葉に、左内は思わずという感じで目を瞠る。次の瞬間、その顔に浮かんだのは照れたような微笑――ではなく、いかにも胡乱そうな思案顔であった。
「うーむ、良く云えばそうなるかの?」
「良く云えば、とは?」
「歯に衣着せず申せば、殺しても死なないやつ、というのが相馬に対する身どもの評価でな。どうせ今頃は『貴様らごときが俺に勝てると思っているのか?』などと云うて敵将を挑発しておるに違いないわ。それも、こっそり手に汗をにぎりながらの。鉄の刃ならば知らず、舌の刃による一騎打ちで相馬にかなう者はそうそうおらぬ。この目で見られないのがまことに残念じゃ」
 そう云ってころころと笑う左内。
 一方の喜内はといえば、あまりといえばあまりの評価にひきつった笑みを浮かべるしかなかった。照れ隠しなどではなく、心底そう思っているのがわかってしまうだけに、他に反応のしようがなかったのである。



 青地城の城門が音をたてて開かれたのは、それからしばし後のことであった。
 どうやら三好軍はこの動きをある程度予測していたようで、すぐさま迎撃の態勢を整えていく。が、その動きは鈍く、ことに本隊と思われる集団はまったくといっていいほど動いていなかった。
 今日まで先頭に立って戦っていた三好政康の戦いぶりからは考えられないことである。おそらく、政康はなんらかの理由で動きがとれない状況に置かれているのだろう。
 それを確認した左内たちは身を潜めていた木立を抜けると、喊声をあげて三好軍の側背に姿をさらした。今まさに蒲生、青地の主力部隊と刃を交えようとしていた三好軍は、伏兵の存在に気がついて動きを乱す。
 敵陣に立ち上った動揺のもやを見逃さず、左内たちは間髪いれずに敵軍の柔らかい側面に喰らいついていく。


 青地城をめぐる最後の攻防は、こうして幕を開けた。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/10/23 23:40

 南近江 瀬田城


 三好政康の陣から馳せ戻った兵士を下がらせた三好長逸は、白く染まったひげをしごきながら何やら考えにふけっていた。
 往時は大勢の将兵が出入りしていたであろう広々とした軍議の間には、城主の席に座った長逸以外、誰の姿も見えない。
 長逸の傍らには長大な刀が置かれている。政康が持つ三日月宗近と同じく二条御所で得た戦利品の一つ、童子切安綱(どうじぎり やすつな)である。
 かつて酒呑童子の首をはねたとされる天下の名刀であり、数ある刀剣の中でも一、二を争うといわれるほど優れた業物であった。


 その安綱を手にとった長逸は無言で刀を抜き放った。あらわになった刀身が、城内に差し込んでくる陽光を反射して眩く煌く。その煌きをじっと見つめる長逸に横合いから声がかけられる。
「聞き分けのない甥御どのに苦労されておられるようですな、日向守どの」
「政康は我が甥というわけではないが、しかしまあ、おおむねそのとおりだ、義政どの」
 低く落ち着いた声の持ち主は初老の男性であった。名を仁木義政(にっき よしまさ)という。
 興福寺の一乗院覚慶から遣わされてきた使者であり、乱のはじめから今日まで長逸の傍に留まり続けている。
 年の頃は長逸とほぼ同じだが、長きに渡って戦陣を駆けてきた長逸とは異なり、体躯に逞しさはない。手も足も細く、長く、物静かな雰囲気とあわさってどこか鶴を思わせる。


 義政は覚慶の使者として幾度も長逸と顔をあわせたことがある。互いに囲碁好きであることも手伝って、時折碁盤を挟んで向き合う仲でもあった。
 義政はかぶりを振りながら云う。
「この城もずいぶん寂しゅうなってしまいましたな」
 これはまったくの事実で、三好政康が根こそぎ兵士を連れて行ってしまったこともあり、現在、瀬田城内の兵は小者を含めても五十に満たない。事実上の空城である。


 むろん、外から悟られないよう、城壁上には多数の軍旗をたてかけ、狭間(さま)には鉄砲を据え付けて、いかにも警戒が厳重であるように見せかけている。
 しかし、戦慣れした武将であれば城内に兵が少ないことは容易く看取できるであろう。
 幸いと云うべきか、今のところ敵軍は姿を見せていない。しかし、岩成友通が討たれた今、この幸運が長く続かないことは誰の目にも明らかである。一刻も早く瀬田城の守りをかため、かつ今後の方針を定めなければならない。そのため、長逸は政康に対して至急瀬田城に戻るように、と繰り返し急使を派遣しているのだが、返答は決まっていつも同じであった。


「すべては友通の仇を討ってから、か。まったく、そこまで惚れておったのなら、とっとと押し倒しておけばよかったものを」
「これは日向守どのとも思えぬお言葉」
 目を瞠る義政に、長逸は右の眉をあげてうっすらと笑った。
「なに、これでも若い時分は暴れまわっておったのだよ。義政どのとて若い頃は野心を滾らせておったろう? いや、今もなお、であろうか」
「さて、なんのことやら」
 水をむけられた義政はとぼけるように肩をすくめた。




 仁木義政は複雑な経歴の持ち主である。
 仁木家は足利一門に連なる名門だが、義政はこの仁木家の出ではない。実父は六角氏綱。六角家の先々代当主 定頼の兄にあたる人物である。
 氏綱は父親から嫡子に定められていたが、若くして病死したため、家督は次男の定頼が継ぐことになった。以後、六角家は定頼、義賢、義治と代を重ねてきたのだが、世が世であれば、義政こそが嫡流として六角家を継いでいた可能性もあったのである。


 むろん、それはあくまで「もしも」の話であり、現実の義政は政略によって伊賀仁木家を継いだものの、有力豪族が割拠する伊賀の統治は困難を極め、最終的には彼らによって追放されるという憂き目に遭う。この時、六角家から援軍が送られてくることはなかった。
 涼しい表情の裏側で濃い怨毒をたくわえる。義政はそういう一面を持っている。
 その後、六角家に戻ることもならず、各地を転々とした末に興福寺に身を寄せた義政は、自分に味方した伊賀衆と連絡をとりあいながら、ひそかに捲土重来を期し、同時に、窮地に陥った自分を見捨てた六角家に対する報復を誓っていた。
 


 義政はとぼけたが、長逸ならずとも、伊賀への復権、六角家当主への返り咲きを目論む義政の内心を見抜くことは難しくなかっただろう。なにしろ、今回の江南騒動において、義政は六角家の内情をこと細かに長逸に伝えてきたからである。観音寺騒動の詳細も、織田、浅井連合の侵攻も、長逸は義政から伝えられた。
 長逸は口許にうっすらと笑みを浮かべた。
「貴重な情報を伝えてくれた義政どのには感謝してもし足りぬ。もっとも、見方をかえれば、我ら三人衆は義政どのの復讐に利用されたと云えなくもないのだが」
 それを聞いた義政はぴしゃりと額を叩いた。
「これは手厳しい。そのような考えは微塵もござらんが、しかし、もし私がそのような狼心を抱く者であれば、今の状況には失望を禁じえなかったことでござろうな」
 そう云って、義政は人気のない軍議の間を見回した。


 足軽、小姓の姿さえ見えない城内。
 あれだけの情報を渡してやったというのに、この体たらくとは。
 そんな内心が透けて見える――いや、意図して見せ付けている態度であった。



 当然、そのことに気づいたはずの長逸は、しかし、顔色ひとつかえずに続きを促した。
「失望したならば、次は何をするのかな? そういえば、何用あってここへ来たのかをまだ訊いておらなんだが」
「これはしたり、うっかりしておりました。さきほど我が手の者が戻ってまいりまして、青地城の戦況を伝えに参ったのでござる。残念ながら、甥御どのは六角軍に敗れた由」


 その言葉を合図としたように、長逸の視界で陽が翳った。
 差し込んでいた陽光は失せ、黒雲は瀬田城の上空に居座る気配を見せている。寒々とした空気が広間を覆いつつあるのは、雨が降りだす前兆であろうか。
 義政はゆっくりと続けた。
「甥御どのは蒲生家の岡左内とやらいう者に討たれたとか。先の岩成どのといい、三好家に祟りますな、この者は。ともあれ、主将を失って乱れたった三好軍は、六角軍の追撃をうけて四散したらしゅうござる。遠からず敗兵が戻って来ましょうが、さて、まだ長逸どのに従おうという兵がどの程度いるものか。すでに城内の兵の大半は逃げ支度をはじめておるようですぞ」
「いたし方ない。この体たらくでは是非に及ばずだ」
 静かに呟いた長逸の顔は不思議なほどに穏やかだった。義政の目には、死を覚悟した者の表情と映った。


 相手の内心を探るように目を細めた義政だったが、まだ伝えるべきことが残っている。
 意図的に声を低くした義政は、つとめて平静を装いながら云った。
「それともう一つ、興福寺の御方より言伝を賜っております」
「ふむ、聞こうか」
「『これまでの働きに感謝する』と」


 義政がそう云った途端、物陰から複数の人影が姿を見せた。いずれも義政の部下であり、すでに刀を抜いている。甲冑を着込んだ彼らの数は五人。
 長逸の口許に苦い笑みが浮かんだ。
「……これまでの働きには感謝する。したが、これから先は不要である。そういうことか」
「ご明察。岩成どのと甥御どのが除かれた上は、三好三人衆の名乗りも虚しいというもの。日向守どの、ここが年貢のおさめ時でありましょう」




 引導を渡すように、義政が大きな憐憫と小さな優越を込めて言い放つ。
 長逸からの答えはなく、かわりに持っていた童子切を力なく床に置いた。それが諦観によるものと判断した義政は周囲を囲む配下にうなずいてみせる。
 主の意を悟った部下のうち、二人が進み出て長逸の背後にまわった。
「日向守さま、介錯つかまつる」
 覚慶や義政の蠢動を知る長逸を生かしてはおけない。
 だが、除くにしても、三好家の重臣として名を知られた三好長逸の最期が「何者かによって背後から斬り殺された」ではあまりというもの。事ならずと判断した長逸は武士らしく割腹して相果てた――そう思われるように葬ることが、義政のせめてもの情けであり敬意であった。



 しかし、結論からいえば、これは宋襄の仁であった。
 次の瞬間、今しがた手放したばかりの童子切を手に取った長逸は、振り向きざま刀を横薙ぎに振るう。
 ただ一振り。それだけで背後にまわった二人は声もなくその場に崩れ落ちた。甲冑などものかは、二人の腹部は無残に切り裂かれており、ほとんど両断されている。凄まじいまでの童子切の切れ味であった。


 切り裂かれた部位から大量の血液と臓物があふれ出し、びしゃりと音をたてて床に散乱する。直後、鼻をつまみたくなる悪臭があたり一帯に広がった。
 戦場に出た経験がある者にとっては嗅ぎなれた臭いである。慣れることは難しくても、耐えることくらいは出来るだろう。しかし、長く戦場から離れていた義政にはとうてい耐えられるものではなかった。


「ひぐィッ!?」
 痛みすらともなう激臭をまともに吸い込み、義政は悲鳴をあげて手で鼻を覆った。その目は張り裂けんばかりに見開かれ、長逸に向けられている。
 義政には長逸が諦めたという予断があった。抗ったとしても、簡単に屈服させられるという誤断があった。
 三人衆で注意すべきは智の岩成友通、武の三好政康の二人のみ。長逸は若い二人が担いだ御輿のようなものだと思い込んでいた。政治、外交には長じていても、荒事には向かない武将。それが義政の知る三好長逸だったのである。
 事実、今回の騒乱でも長逸は常に後方にあって戦場に出ていない。その長逸が瞬く間に甲兵二人を屠り去るなど、どうすれば予測できるというのか。



 義政は悲鳴をあげて後ずさろうとしたが、長逸にそれを見逃す理由はない。素早く振るわれた童子切は正確に義政の右足を捉えていた。
 膝から下を斬りおとされた義政は、もはや声もでず、ひきつったような絶叫をあげることしかできない。
「ひ……は! ふ、ひふ……がッ!!」
「政康が何故にわしを伯父御と慕うか、少しは考えてみるべきであったな。あれに武芸を仕込んだのはこのわしよ」
 長逸が刀を一振りすると、刃についた血が音をたてて床にはねた。
 それを見た残りの部下たちが、遅まきながら長逸に襲い掛かったが、童子切をもった長逸の剣勢は義政の配下が太刀打ちできるものではなく、たちまちのうちに一人が手首を切り落とされ、一人が頸部を切り裂かれた。
「ぬるいな」
 年齢にそぐわない長逸の剣の冴えを見て、残ったひとりは勝ち目なしと判断したのだろう、あえぐ義政に見向きもせずにこの場から逃げ出そうとする。しかし、長逸は刺客の遁走を許さなかった。鋭く伸びた童子切の切っ先が、背後から刺客の胸を刺し貫く。
 それでおしまいであった。



 激痛のためか、恐怖のためか、義政の両眼からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。斬られた右足からは今なお大量の血が溢れ出て、床を赤黒く染めていた。
 至急手当てをしなければ命に関わるだろう。むろん、殺されかけた長逸には、それをしてやる義務もなければ意思もない。
 長逸はすでに『この後』のことを考え終えていた。


 壁際に立てられていた燭台を一つ、また一つと倒していく。ともされていた火が、ゆっくりと舐めるように床や壁に燃え広がっていった。
 それを確認した長逸は、倒れている義政に歩み寄る。
「城に火を放っても、屍がなければ逃走を疑われるだろう。義政どのにはこの身の代わりとなってもらおうか」
「ひ……ぐ……ッ!?」
 必死に後ずさろうとする義政だが、右足を失った身で逃げられるはずがない。たちまち追いつかれ、部屋の中央に引き戻された。
 童子切を鞘におさめた長逸は、左手で義政の口を塞ぐと、義政の脇差を引き抜いた。そして、それを腹に突き立てるべく振りかぶろうとした、まさにその瞬間だった。



 燃え広がる炎の波をかきわけるようにして、何者かの気配が長逸に向けて殺到してきた。よほどの使い手であるのか、長逸が気配に気づいて振り返ったとき、影は長逸を間合いに捉えている。
 迫る来るのは虚空を貫くような槍の尖先。
 咄嗟に持っていた脇差で穂先を払おうとした長逸であったが、この槍は穂の両横に鎌のように上向きに曲がった刃がついていた。穂を払った途端、長逸はこの鎌刃に右手を深々と抉られてしまう。


 たまらず義政から離れ、槍の間合いの外へ逃れようとする長逸。
 相手は追撃をしかけてこなかった。闖入者は倒れている義政にまだ息があることを確認すると、手にもった十文字槍を肩に乗せて安堵したように呟いた。
「間に合った、か」
 低く通りの良い声を耳にした長逸は、はじめ、その人物が若い男性だと思った。
 しかし、すぐにそうでないことに気づく。
 麻の法衣に袈裟をかけ、頭に黒の頭巾(ときん)を乗せている姿は山伏のようであったが、法衣の胸元をもりあげる膨らみは明らかに女性のそれである。並の男性よりも頭ひとつ高い背丈。かろうじて肩に届く長さの髪は青みを帯びた黒色をしており、このようなとき、このような場所でなければ、短くしているのは惜しいものだと長逸は感じたに違いない。



 何者かと問いかけようとした長逸は、この場にあらわれたのが法衣の女性一人だけではないことに気づく。
 女性の傍らにもうひとり、長大な刀を背負った少女が佇んでいた。
「あはははは! 胤栄(いんえい)の槍をかわすなんて、おじさんやるね。覚慶があたしたちを差し向けたのも納得かな」
 そう云って少女は背中の刀をすらりと抜いた。
 ともすれば、握っている少女の背丈よりも大きいのではないかと思われる大太刀である。おそらく背中の鞘は、この太刀をすぐ引き抜けるように細工が施してあるのだろう。


 刀の長大さは重量に比例する。
 並みの筋力では、この大太刀を持つことはできても振るうことは難しい。まして意のままに操るとなれば、どれだけの膂力と熟練を必要とすることか。
 少女は決して大柄な体躯の持ち主ではない。むしろ同年代の少女たちと比べても小柄な部類に入るだろう、その程度の体格である。
 にも関わらず、太刀を握った少女は準備運動でもするかのように、二本の細腕で軽々と大太刀を振り回しまがら、いかにも楽しげに言い放った。
「おじさん、はやく腰の刀ぬいてよー。覚慶から聞いたんだけど、それってあの童子切安綱なんでしょ? この永則と打ち合わせてみたかったんだ」



 少女はここで少し残念そうな表情を閃かせた。
「本当ならおじさんが万全の状態で斬り合いたかったんだけどなー」
「……恨みがましい目で見るな、石舟斎(せきしゅうさい)。だから雑兵など相手にするなと云ったんだ」
「むー。挑まれて背を向けるわけにはいかないでしょ」
 石舟斎と呼ばれた少女はぶすっとふくれる。先に胤栄と呼ばれた女性は、軽く肩をすくめた。
「それで肝心要の目的が果たせなくなっていれば世話はない」
「えーい、うるさいうるさい! とりあえず、このおじさんの相手はあたしがするから、胤栄は手出し無用!」
「それはかまわないが、勢いあまって仁木様まで切り捨てるなよ。私たちはその方をお助けするためにやってきたのだから」
「そんなこと云われないでもわかってますぅ!」
 べーと胤栄に舌を出してから、石舟斎はあらためて長逸に向かい合った。



 長逸が眼前の二人の会話に口を挟まなかったのは、呆気にとられていたからでもなければ、腕の傷が思ったより深かったからでもない。単純に付け込む隙がなかったのである。
 石舟斎の言葉を聞くかぎり、おそらく一乗院覚慶から差し向けられた刺客なのだろう。義政では長逸を制することができないと判断し、これほどの使い手を二人も送り込んできたのだとすれば、覚慶は三好長逸という人間をかなり高く評価していたと思われる。
 そんなことを考えながら、長逸は石舟斎の求めどおり鞘に収めた童子切を抜き放った。背を向けたところで逃げ切れる相手ではない。活路を切り開くためには、正面からこの二人を退けなければならない。


 長逸の眼差しからその決心を悟ったのだろう、石舟斎はくすりと微笑むと、表情を切り替えた。少女の顔から剣士の顔へと。
「柳生石舟斎宗厳(やぎゅう せきしゅうさい むねよし)、参る」
 云うや、石舟斎は床面を蹴って前に出る。両の眼を戦いへの恍惚で満たした少女は、獲物を狙う肉食獣の動きで長逸に躍りかかっていった。






◆◆






 しばらく後。
 石舟斎と胤栄の二人の姿は城外にあった。今しも燃え落ちようとしている瀬田城の本丸を遠目に見やりながら、二人はこの後のことについて言葉を交わす。
「仁木様の手当てと護送はあちらの配下に任せるとして、私たちは善住坊に助力せよ、とのことだ。あの御坊、何やらしくじったらしい」
「えええ、めんどくさい! というか、なんで十六の女の子をつかまえてババア呼ばわりする狒々爺を助けてやんなきゃいけないのよ」
 それを聞いた胤栄は法衣の袖をつまみ、自分の身体を見下ろした。
「石舟斎がババアなら、私はとうに墓に入っている扱いなのか? まあ、善住坊の趣味はさておき、これは一乗院からの正式な要請ゆえ、宝蔵院(興福寺子院)の院主として私は従わざるをえない。石舟斎が来ないというなら、ここで別れよう」
「うん。なら、ばいばーい!」


 わざとらしく、にこやかに手を振った石舟斎は、すぐにがくりと肩を落とした。
「……というわけにはいかないのよね、こっちも色々あるからさー」
「そうぼやくな。善住坊が覚慶さまに助力を願ったのは、あの御坊が手に負えない使い手がいたからだそうだ。それも一人ではなく二人」
 強敵との戦いを願ってやまない石舟斎にとって、意味のない戦いにはならないだろう、と胤栄は云う。


 石舟斎は不思議そうに首をかしげた。
「ほへ? あいつ、剣もけっこう使えたでしょ。おまけに数珠丸も持っていて負けたの? そもそもあいつの任務って、京から逃げてきた和田なんとかの始末でしょ。まさか根来僧兵三十人も連れてって、女忍者ひとりに勝てなかった?」
 だとしたら大笑いなんだけど、と石舟斎は云う。
 これに対して胤栄はかぶりを振った。
「いや、惟政どのの始末は成功した、と善住坊は寺に使いを寄越している。ただ、殺せという命令は実行していなかったようだ。蒲生家の姫君を捕らえる際にも、味方であるはずの滝川家に邪魔されたというし、どうも御坊の悪い面が事態を引っ掻き回しているように思えてならない」
「うわ、なんかますます行きたくなくなった。しかも蒲生ってあの性悪女の管轄だし……ああ、でも善住坊が手におえなかった相手っていうのは気になるなあ!」
 どれだけ気に食わない相手であろうとも、杉谷善住坊が凄腕であることは石舟斎も認めている。その善住坊が単身ではかなわないと判断した相手だ、興味を覚えないはずがない。



 しばし考えた末、石舟斎は己の内に巣食うためらいを断ち切るように、力強くうなずいた。
「うん! とりあえず行ってみよっか。気に食わなかったら善住坊を叩き斬って抜ければいいことだしね」
「叩き斬るな。御坊は根来衆の重鎮。つけくわえれば、甲賀五十三家の一 杉谷家の出でもある」
「家柄と人格と能力はそれぞれ無関係ってことの生きた見本だねー」
「鬼と怖れられる柳生の姫がそれを云うのか、石舟斎」
 呆れた様子の胤栄に向けて、石舟斎は両手を頭の後ろにやって、けらけらと笑った。


「姫って云ったって、とうに勘当された身だしねー。おまけに家からたたき出されたとき、父親から『お前のごとき戦狂いは、どれだけ強かろうと世に盛名を馳せることは決してない。石を抱いた舟のごとく沈むだけよ!』とか罵られちゃったし」
「……そこから『石舟斎』という名乗りを思いつくのは、たしかに姫君らしからぬか」
「そゆこと。ま、今は覚慶の言葉に従って善住坊と合流しましょ。その使い手さんたちの話、しっかり聞き出さないとね」
 そう云うと、石舟斎は弾むような足取りで先に立って歩き出した。
 その後を胤栄がやれやれといいたげにかぶりを振りながら続く。


 そんな二人の頭上から、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めていた。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:87fdac96
Date: 2018/06/22 18:29
聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(一)


 南近江 青地城


 瀬田城炎上。三人衆の長 三好長逸切腹。
 青地城に届けられたその報せは驚きをもって、そしてある種の納得をもって人々に迎えられた。
 岩成友通と三好政康が討ち取られ、兵は四散し、将軍襲撃の醜名が消えぬゆえに宗家との関係修復も望めない。
 三好三人衆の挽回がほぼ不可能であることは誰の目にも明らかであり、瀬田城に残った三好長逸が「もはやこれまで」と判断したとしても何の不思議もなかったからである。


 ただ、かりそめにも三好家の長老として畿内一円を斬り従え、足利将軍を除くという果断を為した武将にしてはずいぶんあっさり諦めたものだ、という疑念を抱く者はいた。


 しかし、織田と浅井の侵攻を受けている状況では詳しい調査をしている人手も時間もない。仮に長逸が逃げ延びていたとしても、拠点となる城や兵なしでは何もできまいという予測が、わずかに残る懸念を打ち消した。
 かくて、青地城内は戦勝の喜びと興奮に包まれる。
 明日からは別の脅威に対処しなければならないが、だからといって今日の戦勝を否定する必要はないだろう。
 城主である青地茂綱、そして援軍の将である蒲生定秀、賢秀らは奮闘した将兵に酒食を振る舞い、ぐずつく天候とは対照的に城内は明るく賑やかにさざめいていた。



 もっとも、すべての人間が宴に参加できたわけではない。
 一連の戦いで負傷し、城の一室でうんうん唸っている者もいた――ええ、俺のことですよこんちくしょう。
 傷口に巻いた布を取り替える都度、脳天を突き刺すような激痛が全身を貫く。血のせいで布が傷に張り付いてめっちゃ痛いのである。
 そんな俺を見ながら、左内は感心したようにいった。


「左肘の刺し傷、肩から胸にかけての刀傷、他にも腹やら足やら首やら、負傷した箇所をあわせれば楽に十を越えるの。ひどい有様と言いたいところじゃが、着込みもなしに敵の本陣に乗り込んだことを考えれば、よくこの程度で済んだと称えるべきか」


 その左内とは対照的に、つい先刻、青地城に到着したばかりの丸目長恵は何やら渋い顔をしている。
 先ほどから布の取替えを手伝ってくれているのだが、その作業が嫌だというわけではないはずだ。なにしろ、それをやりたいと望んだのは長恵本人だからして。
 では、何で長恵が渋面をしているかというと。


「私が離れている間にそんな面白そ――もとい危険なことが起きていようとは。あと数日早く着いていれば私も楽しめ――もとい、師兄ひとりを危険な目に遭わせずに済んだものをッ」


 本心だだ漏れだった。
 それでも心配してくれているのは確かなようで、その目は気遣わしげに俺の首筋に向けられている。
 そこには三好軍との乱戦の最中、誰ともつかない相手から受けた刀傷がはっきりと残っていた。もう少し深ければ致命傷になっていたかもしれず、気づいたときは思わず背筋が寒くなったもんである。
 最後に、その首筋の傷に軟膏を塗り終えた長恵は、軽く手を打ち合わせて治療の終了を告げた。


「はい、これでおしまいです。なにやら姫さまの役目をとってしまった気もしますが、まだ到着していらっしゃらないのだから仕方ありません。どうせこれからも似たようなことは起こるでしょうし、その時は姫さまにお任せするとしましょう」
「いやいや、いくら俺でもこんな無茶はそうそうしないぞ」


 何やら不吉なことを口走る長恵に対し、俺は真顔でかぶりを振った。
 そもそも今回のことだって止むをえざる仕儀だったのである。
 なにもはじめから三好政康を人質に取る気だったのではない。本陣の張り詰めた雰囲気、こちらを見る政康の厭悪の眼差し。
 やらなければやられる。そう考えたゆえの行動だった。いわゆる不可抗力というやつである。


「そのわりには急襲の手だてまで言い残しておったではないか?」
 左内のつっこみに俺はしれっと返答した。
「備えあれば憂いなしとは、けだし名言である」


 ――いやまあ、こちらもはじめから「岩成友通を討ち取ったのは我なり」と宣言していたわけで、ああいう反応をされる可能性に気づいていなかったかといえば、決してそんなことはないのだけれど。
 むしろ友好的に迎えられていたら、かえって戸惑っただろう。
 二の矢は長恵から放たれた。


「不可抗力といった舌の根も乾かないうちに、すべては予測していたとうそぶくその姿。これは姫さまの眉が急角度でつりあがりそうです」
「……以後、何事にも慎重になって事にのぞむ所存でござる。それはさておき」


 俺が視線を宙にさまよわせて話題をかえようとすると、眼前の二人はひそひそと内緒話をしはじめた。


「露骨に話をそらしにきたの」
「また無茶をして、と姫さまに怒られるのが怖いのでしょう」
「すでに利兵衛たちには使者を出しておるし、数日を経ずして城までやって来よう。目をそらしたところで災いが避けられるわけではないのじゃが」
「それでも目の前にある平穏にすがりついてしまうのが、人の弱さであり、愚かさなのでしょう、たぶん」
「ふむう、身どもの目には実にしとやかな娘御に映ったのだが、吉継は怒るとそれほど様変わりするのか?」
「理由あってのことですから、怒髪天をつく、とはならないでしょうが、数日は口調に冷えが混ざると思われます」
「別にたいしたことではあるまいと言いたいところじゃが……颯馬にとってはきついのであろうの」
「師兄にとっては万難を排しても避けたい事態です」
「敵陣へ乗り込むよりも娘御に冷たくされる方が恐ろしいわけか。いやはや、討たれた者たちが泉下で嘆きそうな事実であるな」


「ええい、聞こえよがしにひそひそ話をするんじゃない!」


 俺が声を荒げると、二人はあらかじめ打ち合わせでもしてあったかのように澄ました顔で口を噤んだ。なんで会って間もないのにそんな息があってるんだ、お前らは。
 ちなみに長恵が左内に対して丁寧な口をきいているのは、俺へのほぼ無償の協力に対する感謝と敬意ゆえ、ということである。




 さて、長恵たちのひそひそ話は遠くに蹴っ飛ばしておくとして、これから先のことを考えておかねばならない。
 本当なら秀綱を待ちたいところなのだが、その秀綱はここにはいない。
 蒲生一族が総出で歓迎しているのである。


 先刻、ちらと聞いたところでは、蒲生定秀などはあの上泉秀綱の到来に年甲斐もなく大はしゃぎしていたそうな。
 なんでも定秀は以前、秀綱の師である塚原卜伝に稽古をつけてもらったことがあるとかで、直弟子の秀綱の到来が嬉しくてたまらないようである。


 まあ、おおよその情報交換はすでに済ませてあるので大丈夫だろう。
 三雲の地で起きたこと、蒲生家との接触、観音寺城から蒲生の姫を脱出させたこと、その後の道中での襲撃などなど、秀綱&長恵経由でもたらされた情報はやたらと量が多く、しかも内容が濃密だった。


 なにせ俺が会ったことのない人物の名前だけでも三雲賢春(たぶん猿飛佐助)、蒲生鶴(たぶん蒲生氏郷)、杉谷善住坊、滝川一益、望月千代女、和田惟政と重要人物が目白押しである。ちょっと別行動をしていた間にどんだけ大冒険を繰り広げたんだという話である。
 お前が言うな、と返されそうだが。


 ともあれ、長恵たちのもたらした情報は俺にとって重要きわまりないものばかりだった。
 中でも三雲での出来事を知ることができたのは大きい。
 俺は大きな安堵を込めて息を吐いた。


「何よりの朗報は謙信さまたちが無事だということだな。久秀の無茶振りは終わらせたし、あとは謙信さまと合流して越後へ帰るだけだ」


 そう。俺たちがこれ以上江南での戦いに深入りする必要はなくなったのだ。
 いや、謙信さまが蒲生家の助力を拒んだことを聞いた今となっては「深入りする必要はない」ではなく「深入りしてはいけない」と言うべきだろう。


 であれば、これ以上余計な厄介事に巻き込まれる前にとっとと城から退散すべきである。
 その意味では吉継たちを城に招くより、俺たちの方から合流場所に向かう方がよかったのだが……なにせ俺がこのざまだ。
 歩けないほどの怪我ではないが、軽視できる傷でもない。傷口が膿んだりすれば完治まで長引いてしまう怖れもある。


 ひとまず城で傷の手当をしながら吉継たちを待ち、吉継たちと合流できたら謙信さまたちの行方をさがす、というのが当面の予定であった。
 その案を出してくれた左内が、首をひねりながら言った。


「問題は上杉家のお歴々がいずこへ向かったか、だの」
「ああ、それなら大体見当はつく」


 俺が云うと、左内と長恵が興味深そうに俺の顔を見た。
「ほう? 自信ありげじゃな」
「やはりヘタに捜しまわらず、師兄との合流を目指したのは正解でした」
「まあほんとに大体だけどな。たぶん、観音寺城の方向だろう」


 長恵がおとがいに手をあてて云った。
「追われる身であえて敵の本拠に近づきますか。背を向けて逃げれば狩られるのを待つばかり。ならば正面きって近づいた方が勝ちの目を見出せる、と?」
「まさしくしかり、だ」


 これが地理に通じた場所であれば、また話は違ってくる。逃げられるときに逃げるのは恥でもなんでもない。
 しかし、ここは敵地のど真ん中。逃げ回ったところで、かえって追い詰められるだけだろう。それならいっそ、と考えるのが謙信様や政景様である。
 まさか六角義治も一度は逃げた謙信さまが本城に向かってくるとは思っていないだろうし、観音寺城を北に抜けてしまえば、かえって道中は安全になる。六角家が捜索の手を伸ばすとしても、それは観音寺以南に限られてくるからだ。


 あくまで推測である。
 地元の案内人を雇って別方向に逃げた可能性もある。むしろ、俺としてはそちらの方が望ましい。
 というのも。


「戦況が戦況だからな。観音寺城に近づくってことは、織田と浅井の軍に近づくってことだ」
「意表をつくつもりが、かえって虎口に飛び込むことになりかねぬ、か」


 左内の言うとおりだった。
 ただ、軒猿が従っている以上、謙信さまが何も気づかずに戦場に飛び込むことはないだろうから、それほど心配はしていない。
 問題は状況に気づいた謙信さまがどこへ向かうか、である。


 今の六角家は上杉一行にかまっている余裕がない――三雲を脱出したあたりでその情報を得ていれば、観音寺には近づかず、伊賀、甲賀を通って伊勢に抜けるルートを選ぶだろう。
 このルートの場合、今から俺たちが追いつくのは至難の業であるから、こちらはこちらで近江を抜ける算段を立てる必要がある。


 問題は謙信様たちが観音寺城に近づいた後で情報を得た場合だ。
 観音寺を北に抜ければ、織田、浅井、六角の戦闘に巻き込まれる。南に戻れば元の木阿弥。東に向かえば織田領である美濃、西に向かえば琵琶湖である。
 一番可能性が高いのは舟で琵琶湖を抜けるルートであろうか。
 琵琶湖から北近江にわたり、そこから越前に入ればいちおうの安全は確保できる。なにより、このルートはかつて上洛の際に通ったことがあるので、地の利と人脈があるのが大きい。
 俺たちもこちらのルートを主眼にいれるべきだろう。


 一応の指針を定めた俺は、次の問題に取り掛かる。
 何のことかと言えば――


「……まさか蒲生家が謙信さまたちを助けようとしてくれてたとは」


 俺はこめかみを揉みほぐしながら呟く。ある意味、長恵たちから聞いた情報の中で一番たまげたのはこれだった。
 知る由などなかったとはいえ、俺は謙信さまを助けようとしてくれていた人たち相手にうっとうしいだの何だのと暴言を吐いていたわけで、軍議のときの自分の態度を思い起こすと顔から火が出る思いである。


「ここは殿下の宝刀を抜くか」


 ちなみに誤字ではない。
 三日月宗近。先の戦いで得た、かつて義輝さまの愛刀だった品。
 俺はこの宗近を蒲生家に献上することにした。


「これは弑逆の大罪人を討ち取ったなによりの証にある。鶴ってお姫さまの狙いが蒲生家の威信を高めることにあるのなら、願ってもない贈り物になるはずだ」
「宗近を持つ者は将軍殿下の仇を討った者、すなわち天下の大忠臣である! ということですね」


 いささか芝居がかった調子で長恵が云う。
 それに対してうなずいた後、俺は頬をぽりぽりとかいた。


「そのとおり。まあ、もともと三好勢を討った主力は蒲生と青地の兵だからして、別に宗近がなくても蒲生家の功績は消えないんだが、他に詫びの品になる物もないしな」


 蒲生家から新しい将軍に献上すれば、蒲生の名は高まり、将軍の覚えもよくなるだろう。
 少なくとも、ないよりはあった方が良い品なのは間違いない。
 これをもって謝罪とさせていただこう。


 その後、さらに幾つかのことを話し合った末、俺は早々に横になった。
 傷を早く治すためにもあまり無理はできない。噂の鶴姫さまとも話をしてみたかったのだが、もう日が落ちてだいぶ経ったことだし、今から幼い姫君と会うのは難しいだろう。
 蒲生賢秀の娘で鶴という名前、さらに年に見合わぬ才覚。まず間違いなく蒲生氏郷だと思われる姫と話をするのは明日以降になりそうだ。
 そんなことを考えなら、俺はしずかに目を閉じた。




[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:87fdac96
Date: 2018/07/04 18:40

 夜半、ふと目が覚めた。


 その夜は久しぶりにぐっすりと眠ることができるはずだった。
 久秀の話を聞いて以来――もっといえば、九国で義輝さま討死の報を聞いてからずっと胸にかかっていたモヤがやっと晴れてくれたからだ。
 謙信さまが無事である。それがはっきりしただけで見える景色がたいぶ違う。
 もちろん、まだ完全に無事だと決まったわけではないが、政景さまや段蔵の祖父君が一緒にいるのであれば、そうそう危地には陥るまい。


 あの茶器娘(久秀)が出した条件である三好三人衆の排除も果たしたから、そちらから文句を言われる恐れもない。
 人質扱いであった鶴姫が勝手に観音寺城を抜け出したことで、蒲生家と六角家の間はきな臭いことになっているようだが、織田浅井の連合軍を迎え撃っている六角義治が、いきなり青地城や日野城に攻めてくるとは考えにくい。
 あとは別行動をとっている吉継、重秀らと合流してから謙信様を探し出すだけ。


 何も問題はない、と自分に言い聞かせる。
 だが、どうしてか気が高ぶる。
 目をつむっても眠気が訪れない。羊を数えれば数えるほど、かえって目が冴えてしまう。


 こんな空気には覚えがあった。敵軍が近づいている時だ。
 今夜、この城を襲う勢力は存在しないはずだが――いや、待て。そういえば長恵たちが遭遇した杉谷善住坊(ぜんじゅぼう)が妙なことを言ってたらしいな。蒲生の姫が狙いとか何とか。
 その善住坊が戦勝の宴にまぎれてこっそり城内に入り込んだ、なんてことはありえるだろうか。


 長恵が知っていることだ。当然、蒲生家にも善住坊の件は伝わっているはずだし、警戒もしているはず。鶴姫には猿飛佐助あらため三雲賢春もついていると聞くし、三好政康との戦いで傷だらけになった俺が余計な心配をする必要はないはずである。
 そのはずなのだが。


「だああ、くそ!」


 黎明にはまだ遠い、草木も眠る丑三つ時。
 俺は鉄扇のみを腰に差して部屋を出た。


◆◆


「……おや、師兄。厠(かわや)ですか?」


 部屋を出た瞬間、いきなり声をかけられてびっくりした。
 というか、驚きのあまり叫びそうになった。
 見れば柱に背を預けた格好で丸目長恵が廊下に座っている。何してんだ、こんなところで。


「言うにやおよぶ。師兄の部屋の番をしていたのです」
「そこまでする必要はないんだが。いちおうは味方の城だぞ」
「昨日の敵は今日の友というではないですか。ならば、昨日の友が今日の敵になったところで何の不思議があるでしょう」


 深いんだか浅いんだかよくわからない哲理を述べる長恵。
 たしかに蒲生家はいちがいに味方とも言えない家であるから、警戒するに越したことはないかもしれない。そもそも俺自身、蒲生のお歴々を愚者呼ばわりしちゃったからなあ……
 それに長恵は口にしなかったが、俺の容態が急変することを心配してくれたのだと思う。戦の傷から感染症にかかるなんて珍しくもないことだから。


「そうか。ありがとう、助かる」
「どういたしまして。ところで、傷の具合はいかがで? お望みとあらば厠で下の世話もいたしますが」
「丁重にお断りする。というか、そもそも厠じゃない。なんか妙に目が冴えてな。城の様子が気になったんだ」
「……ほう? 曲者が城中に入り込んでいる、と?」
「もしくは敵軍が近づいているか……気のせいというオチもなきにしもあらずだが」


 むしろ、そちらの方が可能性が高いが、取り越し苦労なら取り越し苦労でかまわない。
 とにかく今は、胸にわだかまる得体の知れない不安を消しておきたい。


「そういうことなら余計にお供いたしましょう。師兄が妙なことを言い出すときは、だいたい妙なことが起こるものです」
「微妙な信用をありがとう。まあ、あまりうろちょろして青地や蒲生の兵に怪しまれても面倒だ。それこそ厠に行くふりをして軽く様子を見てまわろう」
「承知いたしました――ふむ、夜の逢瀬と考えれば乙なものですね。姫(ひい)さまには怒られてしまいそうですけど」
「わけわからんこと言ってないで、ほら行くぞ」


 長恵を促して歩き出す。
 当然といえば当然だが、俺たち以外に廊下を歩く人の姿はない。通り過ぎる部屋の中から高いびきが響き、中には押し殺した喘ぎ声が聞こえてくる部屋も。
 さらに進むと、なにやらとっくりを抱えるようにして廊下に倒れている男性を見つける。その口は幸せそうにほころび、むにゃむにゃと寝言を呟いている。良い夢を見ているようだ。


 いかにも宴の後といった風情である。
 まさか城門の方もこの有様ではあるまいな、と遠目から様子をうかがってみたが、かがり火の明かりに照らし出された兵士たちは、皆ぴんと背筋を張って任務に従事しているようだった。
 このあたり、勝った後とはいえぬかりはなさそうである。


 そりゃそうか。城主の青地茂綱にしても、援軍の蒲生賢秀、定秀にしても百戦錬磨の戦国武将。戦勝の宴で眠りこけるはずもない。俺が気付く程度の穴はとうに塞いであるに違いない。
 となると、俺の嫌な予感は――


「やっぱり気のせいだったか。無駄足を踏ませて申し訳ない」


 そう言って詫びると、長恵は驚いたように目を瞠った。


「いえいえ、無駄足だなんてとんでもない。さきほども申し上げたように、逢瀬だと考えれば乙なものですし、それに――」
「それに?」
「しっかり曲者の侵入を見抜いているじゃないですか。さすがの慧眼というべきです」
「…………へ?」


 俺が間抜けな声をもらすのと、長恵が刀を抜くのは同時だった。
 直後、甲高い金属音が鳴り響き、俺のすぐ目の前で火花が散る。
 何者かが庭の暗がりから投じた撃剣(投げナイフ)を長恵が叩き落したのだと悟るまで、少しだけ時間が必要だった。


「あは、気配は絶ったつもりだったんだけどなあ。よく気付いたね、お姉さん!」
「あれだけはっきりと剣気を向けられたら嫌でも気付きます。本当に気配を絶ったつもりだったのなら、修行不足と言わざるをえませんよ?」
「あちゃあ、やっぱり漏れちゃってたか。なんとか直前で押しとどめたつもりだったんだけど。でもまあ、結果としてお姉さんとやりあえるから、それでよし!」


 そう言って夜のしじまを破って現れたのは、長大な剣を携えた一人の少女だった。
 曲者、暗殺者にしては妙に明るく、服装もこざっぱりしている。
 声を低めようという努力も見られない。
 なによりこの少女はあっさりと自分の素性をばらしてきた。


「柳生石舟斎宗厳、推参つかまつった。お姉さんのお名前は?」
「丸目蔵人佐長恵」


 長恵の名を聞いた瞬間、やたらと聞き覚えのある名前の少女は目を輝かせた。


「天下の重宝! うわあ、すごいすごい、こんなところで会えるとは思わなかった! こればっかりはあの狒々爺に感謝しないといけないかな。あ、狒々爺っていうのは善住坊ってやつのことで……えっと、もう知ってるよね?」
「ああ、好色でいけすかない上に変態な狒々爺のことですね。知ってますよ。あなた方は同じ一党でしたか。ということは、同じ主を戴いていると考えても?」
「うーん、さすがにそっちはほいほいと喋れないかなあ」


 少女――柳生宗厳はぽりぽりと頬をかく。
 長恵は追及しなかった。


「そうですか。それでは言伝だけ頼みます。仮にも日蓮御坊がふるっていた刀を、あの狒々爺に使わせるのはいかがなものか、と」
「あ、それはすっごい同感! あいつに使わせるくらいなら、物置で埃をかぶせておく方がよっぽど有意義だよね!」


 そう言った後、宗厳はこてりと首を傾けた。


「でもいいの? あたしがか……じゃないや、ええと、主に言伝を伝えるってことは、ここでお姉さんが負けるってことなんだけど?」
「そうとも限りません。堂々と名乗る性根に免じて、こちらが勝っても命だけは助けてあげるつもりですからね。心置きなく尻尾をまいて逃げ帰り、主に言伝を伝えてくださいな」
「あははははは! お姉さん面白い! 善住坊のことといい、なんか気が合うね!」


 満面の笑みを浮かべながら、宗厳は背中の大太刀を抜き放つ。
 少女の身長よりも大きいのではないかと思われる長大な太刀。おそらく鞘に何らかの仕掛けが施してあるのだろう。
 明らかに少女の身体とつりあっていないが、あれを振り回せるのだろうか?


 ……振り回せるんだろうなあ、柳生石舟斎だし。
 ただ、振り回せるとしても、城内に引き込んでしまえば取り回しに苦慮するのは間違いあるまい。いかに長大な業物でも柱や壁をずんばらりんとはいかないだろうし。


 俺が気付くくらいだ。長恵も当然気付いているであろうが、その長恵はためらう様子も見せずに自ら庭先におりていく。
 今や宗厳が浮かべる笑みは恍惚の域に達していた。
 

「さすがだねえ! あ、でも別に城の中に引き込んでも大丈夫だったんだよ? 永則の突きは南蛮胴だって貫くからね!」
「動かぬ胴具足なら子供とて貫けますよ。あ、師兄は蒲生の姫さまのところへ向かってください。お師様がいる上は滅多なことにはならないと思いますが、あの狒々爺は何をしてくるかわかりません。毒に人質、闇討ちに鉄砲にと何でもござれな奴です」
「あ、それは同感……ん? お師様? 丸目長恵の師っていえば上泉秀綱!? うそ、当代の剣聖までいるの、この城!? なに、ここは極楽か何か!?」


 ブレない宗厳が感激のあまり目をハートマークにしている。
 大丈夫か、この娘? 長恵と戦う前に興奮でぶっ倒れるんじゃないか?
 そんなあらぬ心配をする俺に対し、柳生宗厳がいきなり声をかけてきた。


「そこのお兄さん!」
「うえ!? な、何だ?」 
「善住坊の目的は蒲生の鶴姫! まず城に火を放って、その混乱をついてかどわかすつもりだよ! 城に侵入しているのは根来の僧兵十人と善住坊。鉄砲は五丁。あいつのことだから他にも何か汚いこと考えている可能性も大! あと、善住坊の近くには胤栄(いんえい)っていうのっぽの槍使いがいるから、そいつには要注意ね!」
「お、お、おう?」
「くれぐれも――いい? くれぐれも剣聖に怪我なんてさせちゃ駄目だからね!? わかった!? わかったら、ほらいったいった! もう時間ないよ!」


 なんで俺は敵に丁寧に計画を説明された挙句、早く知らせにいけと急かされているのだろうか?
 わけが分からなかったが、冗談を言っている様子はないし、俺がこの場にいても長恵の邪魔になるばかり。
 それにどのみち柳生宗厳という侵入者の情報を知らせる必要はあるのだ。
 首を傾げつつ長恵を見た俺は、その長恵がこくりとうなずくのを確認してから急ぎ足でその場を後にした。



◆◆



「よかったのですか、あのようなことを話してしまって?」
「いいよいいよ。ここに来たのは善住坊が敵わなかったって二人に興味があったからで、十歳の女の子をどうこうしようなんて企み、端からどうでもいいもん」


 だからこそ、宗厳は城内に入るやさっさと善住坊と別行動をとったのである。
 むしろ、善住坊の目論見が成功していたら、宗厳自身があの腐れ坊主を斬っていたかもしれない。
 その場合、一乗院覚慶から善住坊の護衛を命令されている胤栄と殺し合いになるだろうが、それはそれで宗厳としては望むところである。


 その胤栄とて善住坊の趣味には辟易としており、今回の襲撃にも一乗院との兼ね合いで渋々同行しているだけなので、たとえ宗厳が善住坊を斬っても殺し合いになるかは微妙なところであったが。


「ともあれ、死合おうか、お姉さんあらため丸目長恵! あなたを倒して、次は剣聖上泉! 柳生石舟斎の名を高めるに今宵以上の好機なし! いざいざ尋常に、勝負勝負ゥ!!」


 大太刀をぶんぶんと振り回しながら楽しげに笑う宗厳をみて、長恵はかすかに眉をひそめた。
 宗厳の言動を見ていると、ついついかつての己を思い出してしまうのだ。
 剣聖に挑むために秀綱のもとに押しかけた己、天を目指すと公言して雲居筑前の陣に押し通った己を。


「……ふむ。もしやこのいわく言いがたい感情が、師兄いうところの『くろれきし』というやつでしょうか? いえ、天を目指すという意味では今も昔も変わってなどいないのですが」


 言いつつ、長恵は八相に似た構えをとる。
 最も戦い慣れた姿勢をとった長恵に対し、宗厳は脇構えで応じた。


 右足を半歩引き、体を敵に対して右斜めになるよう構え、刀を右腰に寄せる。
 この状態で剣先を身体の後ろに倒すと、敵から刀身の長さが視認できないようになるのだ。
 愛刀永則の長大さを最大限に生かし得る、宗厳必勝必殺の構えである。


 先刻までの親しげな素振りは影を潜め、剣士の闘気が宗厳の面貌を覆う。
 長恵も同様だ。
 つかの間の静寂。


 次の瞬間、丸目長恵と柳生宗厳は同時に中庭の土を蹴りつけた。 




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