(雪になってきたな)
池波新左衛門は空を見上げた。
今日は朝から寒気が厳しかったが、まさか雪になるとは思わなかったので新左衛門は思わず頬を緩めた。
何が嬉しかったというわけでもない。ただ単に雪という現象が珍しかったからだ。
無論その思いは彼だけのものではなかったようで、同じく道を歩む者たちは、それぞれが意外そうに、もしくは珍しそうに空を見上げて歩みを止めたり、息を洩らしたりしている。
いま彼とすれ違った二人の親子連れ――その幼い男の子も「母さん雪だよ! これが雪なんだよね!!」と黄色い声を上げていた。
その微笑ましい光景を視界の端に収めながら、新左衛門はふたたび歩き始めた。
雪が珍しいのはいいが、少し風が冷たくなってきた。
新左衛門は着物の襟元を狭め、肩をすくめて足を速める。
あと小半時も歩けば目的地には着くが、帰りはおそらく夜になるだろう。
それまでに雪が止んでくれればいいのだが、最悪、吹雪になったりしたら帰路はかなり面倒なものになる。
とはいえ、
(まあ、それはそれでいいか)
とも思うのだ。
吹雪の中を寒さに震えながら歩く――その行為自体に対する好奇心までは抑えられない。
のちのち家族や知人友人たちに対する話のタネにもなるだろう。
そう思えば、この寒さも気にはならなかった。
(ジュピトリアムの雪、か……)
ひとかどの文才があれば、即興で詩の一篇くらいは頭に浮かぶのかもしれないが、あいにく新左衛門に、そんな才能はない。
それが少なからず腹立たしく、そんなとりとめのないことを考えている自分にさえ苦笑が湧いてくる。
冷たい風の中、舞い散るように降り注ぐ銀色の粉――そして、そんな雪に彩られるジュピトリアムの街角は、そんな新左衛門の目にも非常に幻想的な眺めに見えた。
このジュピトリアム市は『共和国』の最北端に位置する街であるとはいえ、『共和国』自体が大陸の南方に存在するため、緯度的にはかなり赤道に近く、したがって気候は一年中温暖で、冬でも気温が氷点下に下がることは珍しい。
雪など数年に一度の椿事と言ってもいいだろう。
北方からの寒波も『共和国』の北の国境線というべきハムラビ山脈に遮られ、気候だけで言えば、おそらく大陸でこの国ほど人の住みよい地はないであろう。
南国で日当たりがいいだけではない。国土の大半を肥沃な平野が占め、需要を上回る量の収穫があるため物価も安く、飢える者が少ない。
そのため、この『共和国』に住む者たちはみな、他国人と比較しても温和で、陽気で、まれな雪に心を弾ませる余裕さえある。
池波新左衛門もそんな一人であった。
「おお、待たせたな池波」
そう言いながら渡辺源太夫が襖を開け、部屋に入ってくる。
「は……いえ」
答えながら新左衛門は座り方を改め、頭を下げようとするが、老人は微笑しながら「そう構えるな、楽にせい」と手で制し、上座に腰を下ろす。
六十過ぎの老人であるとはいえ、その挙動は軽快で、見る者が見ればこの老武士の並々ならぬ武技の所有者である事実が見て取れるだろう。
しかし、それも当然だった。
この老人――渡辺源太夫は、ジュピトリアム市にある剣術道場『練武館』の道場主である。
年齢的には還暦を過ぎていても、その剣の腕はまだまだ健在であり、『共和国』でも五指に入る剣客として高名な人物であった。
が、新左衛門はこの国内屈指の使い手を前にしても緊張などしない。
そもそも渡辺源太夫は、壮年の頃こそ「鬼」と呼ばれたスパルタ指導で有名な男であったが、それでも老齢に差し掛かって以降は性格も丸くなり、よく笑い、気の利いた冗談を言い、格式張ったところを道場の外で見せることはまずないという老人だった。
さらに道場でも古株の門弟である新左衛門にとって源太夫は、幼少の頃から二十年来の剣の師匠であり、加えてさらに言えば、現在の彼の職場であるジュピトリアム市庁での、直属の上司でもあった。
それほどの縁で結ばれている間柄なれば、突然の呼び出しであろうとも緊張などするはずもない。
「この寒空に突然呼び出して済まなんだな」
「いえ、そのおかげで、拙者も珍しの雪にいきあうこともできましたし」
軽口混じりにそう答えながら、しかし新左衛門は気になっていたことを尋ねる。
「しかし先生、なぜ今夜に限って道場ではなく、屋敷に来いとおっしゃられたのですか?」
「なんじゃ、屋敷でわしの話し相手をするよりも、道場で稽古をした方が嬉しいと申すのか?」
「その言いようは質問に質問を返すな、という先生の常日頃のお言葉に反しませんか」
「はて、わしがいつそんなこと言ったかのう。記憶にないんじゃがな」
「またそうようなことを……」
苦笑しながらも、新左衛門もこのたわいもない会話を楽しんでいたのは事実だった。
「それに、単なる話相手が欲しいだけならば、せめて酒の一本でも付けて頂ければ、さらに先生のご意向に添えるかと」
「師匠を相手に酒を催促か。あの可愛らしかった小僧が図々しくなったもんだのう」
「そう言われても反省など致しませぬぞ。弟子の教育は師匠の責任でありますからな」
「わかったわかった、仕方のないやつじゃな」
そう笑いながら源太夫はポンポンと手を叩き、人を呼ぶ。
それを見ながら新左衛門も頬を緩ませる。
市庁の上級職であるのみならず、市内でも大手の道場経営者だけあって渡辺家の経済状況は裕福だ。毎年正月の稽古始めで門下生たちに振舞われる酒も、新左衛門には滅多に飲めないような高級酒である。ならば今宵出されるはずの酒にも、かなり期待していいだろう。
新左衛門はそれほど大酒飲みではないが、酒そのものは決して嫌いではない。
が、開いた襖の向こうにいた人物を見た瞬間、新左衛門の表情は凍りついた。
そこにいたのは尖った耳に褐色の肌、紫色の髪に赤い瞳の女。
渡辺道場『練武館』筆頭剣士たるダークエルフ。
池波新左衛門が、この道場内で最もそりが合わず、そして唯一歯が立たない相手。
名をクシャトリス・バーザムズール。
エルフ独特の凝った刺繍を縫い上げた外套を着込んだ彼女は――しかしその視線は、新左衛門と目が会った瞬間、やはり彼と同じく動揺の色を見せる。
何故こいつがここにいる――ルビーのような赤い瞳は、そう訴えていた。
が、この席の仕掛け人たる上座の老人は、そんな彼女の自己主張など気にもしていない。
「とりあえず酒を飲ませてやるのは、おぬしをこの屋敷に呼んだ本題を済ませてからじゃ。酔ってしまっては出来ん話じゃからなこれは」
そう言った渡辺源太夫の表情には、先程まで自分たち二人の間にあった弛緩した気配は、すでに微塵もなかった。
「とりあえず座れバーザムズール。練武館序列一位のそなたと、序列二位の池波新左衛門。そなたら二人に、この渡辺源太夫から話がある」
とりあえず新左衛門は、その師匠の言葉に対して、猛烈に嫌な予感を覚えていた……。
」」」」」」」」」」」」
この大陸には『魔界』が存在する。
人ならぬ『魔族』に支配された地。
人類の文明――国家――軍事力の及ばぬ地。
地図上で言うと、大陸南方のハムラビ山脈を北の国境線とし、東のザクレロア川と西のグラブロア川を東西の国境線とする地域――アーガマニア半島と呼ばれる地域のことだ。
大陸南方から海に突き出す地形ゆえ「半島」と呼称するとはいえ、その総面積は広大で、インド亜大陸と呼ばれるデカン半島を想像して頂ければ分かりやすいだろう。
北を山脈、東西を大河に遮られ、南の国境線とも言うべきその長大な海岸線も急峻なリアス式海岸の断崖が続き、四方を天然の城壁と堀に守られたその地は、大陸の人類にとって一種の真空地帯として扱われ、その歴史にほとんど干渉する事無く存在していた。
この『魔界』に住む者たちは、決して自分たちから人類に干渉しようとはしなかったからだ。
結論から言えば、人間以上の知力・魔力・生命力を持つ生命体は、世界中に存在している。
人類以上の高度な文明・技術を持つエルフやドワーフのような種族もいる。
いや、その生命力や戦闘力を視野に入れれば、しょせん人類など、この星の食物連鎖の中でも低位置にある種族だと言わざるを得ない。
しかし、それでも世界における「万物の霊長」の地位に人類が居座り続けていられるのは、ひとえにその繁殖力と好戦性のおかげであろう。
少なくとも種族単位の人口を比較すれば、この大陸で圧倒的な最大勢力を誇る知性体こそが人類であり、かれら人外種族が歴然たるマイノリティである事実は変わらないのだ。
たとえて言えば『王国』『帝国』『首長国』などといった、大陸に存在する人類文明圏に生活する一般人にとっては、人外種族など一生で数度も遭遇する機会があるかどうかという程度に縁遠い存在だと言える。
また、そういう現実がなければ、とてもではないが「人類至尊」などというスローガンを元に国家を運営していくことなど、人間たちには不可能であったろう。人外種族と人間の間には、体力・知能・魔力・生命力において、それほどまでに歴然たる「格差」が存在するのだから。
しかし、その常識はこの『魔界』では通用しない。
人類文明圏では、知性をもつ人外種族を総称して『魔族』と呼ぶが、その地は、その『魔族』が、マジョリティとして生活する地域なのだ。
無論その『魔界』を生活圏としている人間も存在している。
しかし、あくまで最大多数の勢力を誇る種族としてではなく、あくまでエルフ種などと同じ知的生物の一種としてだ。人口の構成比率的にも『魔界』では、人間はあくまで国内人口の四割程度を占める種族に過ぎない。
その『魔界』では、それら人間を含む雑多な――ワーウルフやリザードマンなどの獣人種やドラゴンやグリフォンら幻獣種など――すべての知的生物が市民権を保証され、種族間の垣根を越えた一種の議会制民主主義を構築し、社会を運営している。
また、牛馬や羊といった通常の四足獣に加えて、知性を有さない大型爬虫類や大型肉食獣などの家畜化にも成功しており、それら『魔族』や『魔獣』を組織的に編成した彼らの軍事力は大陸でもまさに比類なき強さを誇り、川越し山越しに国境を接する『王国』や『帝国』などの軍が、何度彼らに蹴散らされてきたかわからない。
さらに、大型獣類の家畜化により大規模農業を可能とした『魔界』の経済力は、いまだ人力中心の人類文明圏の比ではなく、いまや産業構造的にも、この大陸で『魔界』の存在を抜きにしては語れないほどの影響力を誇っている。
だが、それほどまでの国力をもつ『魔界』でありながら、前述のとおり、彼らは表の人類史に決して自分たちから干渉しようとはしなかった。
彼ら『魔族』は恐れていたのだ。
同族同士であくまで戦い続ける、人類の飽くなき好戦性を。
「発情期」という限定的な繁殖期間に縛られず、疫病や飢饉で万人規模の屍を積み上げてもなお、百年程度の歳月で人口を元の数字に戻してしまう人類の繁殖力を。
なればこそ――農産物の一部を輸出に回しているとはいえ――彼らは人類文明圏からはあくまで『鎖国』という孤立・不干渉の立場を維持し、その「真空地帯」で国家を標榜し、独自の文明を発達させるという選択肢を採った。
その国号は『共和国』。
限定任期で就任する大統領と呼ばれる王が統治する、独自の体制を持つ国家である。
しかし人類文明圏の各国は、いまなお、『魔界』『魔族』という蔑称を日常用語として使い続け、そしてこの国の元首を『魔王』と呼んだ――。