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[39805] 【完結】鋼の錬金術師、人造の夢
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/06/08 23:22
鋼の錬金術師のオリ主物SSです。
例によって勝手な独自解釈とか設定があります。
グロテスクな表現や仄めかしがあります。たぶんR-15くらい。
主人公凄く悪い奴です。ひょっとしたらこいつオリ主じゃなくてオリ敵かも知れない。

時期は原作の9、10巻あたりですがどう考えても時期系列に無理があるのでその辺はフィーリングで…。



[39805] 第一話 モロウ博士の日記
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/06/08 22:42
 デイジー、デイジー、答えておくれ。
 気が狂いそうなほど、君が好き。

         ――チャンドラ博士

                
 ■月○日

 戦況は芳しくない。私の所へ送られてくる負傷者は日に日に増えている。
 薬も包帯も当初の予想より消費が激しい。補給はまだか。

 ■月△日
 
 ようやくお偉方も腹が決まったらしい。これより大規模なイシュバール鎮圧作戦が開始されるようだ。既に多くの国家錬金術師たちが、ここ東部に招集されている。
 私の作品も使われるだろう。あれが一人でも多くの兵の命を救う事を願う。

 ○月○日
 
 上層部の戦争狂ぶりには呆れてしまう。まるで盛りのついたイタチだ。とても手が負えない。
 私のキメラの使用は却下された。信じられない。あのキメラを使えばこちらの被害は半分以下で済んだものを。
 兵器としての実験とやらの為に優秀な兵や錬金術師をむざむざ矢面に立たせるなど正気の沙汰ではない。
 お偉方が一体何を考えているのか全く理解できん。もう一度あれを使ってくれるよう、陳情書を書こう。

 ○月△日

 彼女の夢を見た。まだ若い少女の姿で、大きな犬とじゃれながら麦畑を元気に走り回っていた。
 細い手足は日に焼けていて、鈴の音のような笑い声をしていた。汗で濡れた金髪を掻き上げて私へ向かって大きく手を振る。
 そこで目が覚めた。夢の中で私と彼女の距離は十数メートルほどだったが、私には無限にも思える距離だ。だが諦めるつもりはない。

 異動令を受けた。軍の方針に口うるさく言い過ぎた為の左遷かと思ったがどうやら違うようだ。
 何やらきな臭いが命令には従わなければならない。


 ○月×日
 
 第三第五研究所の二束の草鞋というのは忙しいが、それを除けば思ったほど新しい職場は悪くない。
 特に上司のマルコー博士は優秀な上に気のいい人物だ。この両方を併せ持つ人物は珍しい。
 また素材の心配をしなくてもいいというのは気が楽だ。
 そして賢者の石製作。実に興味深い。これが完成すればあらゆる分野において飛躍的な発展が望めるだろう。
 科学の勝利はすぐそこまで来ている。

 ところが近頃そのマルコー博士の顔色が優れない。
 風邪でもひいたのだろうか? はやく元気になって欲しい。


 △月○日

 マルコー博士が失踪した。いくつかの資料も同時に消えている。
 全てはこれからだというのに、残念なことだ。彼が消えた事は大きな損失だ。
 確かに毎日毎日血を見るのは気の滅入る仕事ではあるが、それでも我々はやり遂げなくてはならない。
 彼が戻ってくるように神に祈ろう。


 △月△日

 彼女の夢を見た。今の私より20歳は年上だった。椅子に腰かけ穏やかに読書をしているが、その姿は時に打ちのめされ無残に変わっていた。
 ツヤツヤだった肌には無数の皺が走っている。本のページをめくるその指はひび割れていてまるでトカゲの様だ。
 しかし、その横顔には在りし日の少女の面影があった。
 私の視線に気が付いた彼女はこちらを向いて「何見てるのよ」と言う。
 その瞳には、愛を交し合った不遜で情熱的な乙女が宿っていた。
 年老いてさえ彼女は美しかった。距離はまた少し縮まっていた。
 早く会いたい。


 △月×日

 賢者の石を研究するにつれ、魂、精神、肉体の関係がおぼろげながら見えてきた。同時に人体錬成がなぜ失敗するのかという理由も。
 仮説とも呼べない推測にすぎないが、恐らく生命というものは違った次元から見た時、全く別の姿をしているのだと、私は考え始めている。
 我々の体は、我々が認知できる3次元だけに留まらず、4次元や5次元といった高次元、あるいは2次元といった低次元にも広がっていて
 その認知できる部分を肉体、認知できない部分を魂、そして両者をつなぐ楔を精神と呼んでいるのではないだろうか?

 少なくとも肉体と魂が目に見えない何らかの点で繋がっているということに関してはもはや疑念の余地がない。
 両者を切り離す際に、全ての被験者は激痛を訴えている。神経には傷一つ付けていないのだから、本来なら痛みなど感じるはずないのにだ。
 また何名かの被験者は肉体を切り離された後にも、肉体の存在を感じ取ることができた。これらは異なる次元においてまだ両者が繋がっている証左ではないだろうか?
 私の説が正しいとするなら人体錬成など成功するはずがない。
 2次元の存在が球と円柱を共に円としか認識できないように、我々は人体を認識しきれていないのだから。
 少なくとも現時点では。


 ×月○日

 彼女の夢を見た。立つのさえおぼつかない幼児だ。どかりと地面に座り、積み木を高く積み上げていた。
 次に積む木を選ぶその姿は、これから彼女が持ちうる知性の片鱗を見せている。
 震える手で積み木を握り、今一段と高く積み重ねようとした瞬間、その塔は崩れてしまった。
 彼女は涙を浮かべ、ついには大声で泣いてしまう。
 私は彼女を抱きしめようとした、しかしその前に目が覚めてしまった。
 近づいてはいる。だがまだ届かない。


 ×月△日

 今日、また実験体が逃げた。これで4体目だ。
 人の知能と獣の身体能力を持つと言えば聞こえはいいが、人であった頃の記憶と意識が強すぎる。
 心から軍に忠誠を誓った者でなければ、キメラにした後に使い物にならない。
 もっと人より獣の割合を増やすべきなのだろうが、そうすれば知能の大部分が失われ、獣性のみがいたずらに増えてしまう。それでは意味がない。
 また融合の拒絶反応の多さも気になる。果たしてどうするべきか。
 人でありながら人ではなく、獣でありながら獣ではない存在を産み出す方法とは――?

 逃げ出した彼らのその後は悲劇的だろうが、私にも悲劇は迫っている。一日ごとに「約束の日」とやらは近づいている。私は生贄になる気はない。
 しかし、連中はなぜ逃げるんだ? 我々の事を快楽殺人者だと思っているのか?
 バカバカしい。我々が莫大な費用をかけて作った貴重な成果の結晶を使い潰すはずがない。
 命に関わるような実験は最後の最後の最後、どうしても必要に迫られた時だけ決まっているだろうに。

 いいニュースもある。
 北部と東部から依頼していたサンプルが届いた。北から送られてきたのは白い毛並の猟犬、東から送られてきたのは黒い鬣のあるマスティフだ。
 長旅にもかかわらずどちらも健康そのものでとても元気だ。
 可愛い奴らめ。前者をS-22、後者をS-23と命名する。


 ×月◎日

 閃いた。
 

 ×月×日

 新たな実験は成功のようだ。
 S-22とS-23は生まれ変わった。今の所何の異常もない。
 いや、それどころか完璧だ。
 私の理論の正しさが証明された。


 □月○日

 彼女の夢を見た。その生命の絶頂期の姿。それを見る私は自然と微笑んでいた。彼女は輝いている。まるで女神のようだ。
 腰まである金の髪は後光のように煌めき、青い瞳には野心と歓喜の色を浮かべた私が映っていた。私たちは見つめ合う。それだけで心臓が締め付けられるようだ。
 だが決して触れることはない。そこまではまだ。


 □月△日

 二頭はすくすくと育っている。もう少しすれば言葉も話せるようになるだろう。
 いや、もはや『二頭』というのは適切な表現ではない。これからは『二人』と称するべきだろう。
 そうだ、番号で呼ぶのも止めだ。ちゃんとした名前も付けよう。
 この私が育児とはな。ますます忙しくなりそうだ。


 ■月×日

 間一髪だった。二人がいなければ私も賢者の石の材料にされていただろう。
 落ち着くまでは身を隠すことにする。


 ▼月○日

 彼女の夢を見た。枯れ果てた老婆だ。顔は皺くちゃで、黄金色の髪は色褪せて白く染まっている。少し体を動かすのにも苦痛を感じているようだった。
 だがそれでも、愛しい君よ、君の価値にはいささかの翳りもない。



 男は日記を書く手を休め、ふうと溜息をついた。既に壮年期を過ぎたと見え、髪に白髪の混じり始め、まぶたの皮は老人の様にたるんでいる。
 しかし、体付きの方はしっかりとしたもので、肩幅が広くがっちりとした体は今だ老いを寄せ付けず、またその目も老いにも負けず爛々と輝き、秘めたる野心が尽きていないことを窺わせた。
「さて鬼が出るか蛇が出るか」
「モロウ先生ならきっと大丈夫さ! 絶対成功しますって」
 モロウ先生と呼ばれた男の側には二人の若い男女が控えていた。
 男の方は筋骨隆々とした熊のような大男で、褐色の肌と緋色の目はイシュヴァール民族の流れを汲む事を窺わせた。その動きの一つ一つに見た目に恥じない力強さが見て取れる。
 女の方は鶴髪童顔の乙女で、一際目を引くのは白雪のような長髪だ。モロウのそれとは違う艶のある白髪は、頭の高い位置で一まとめにされ、滝の様に乙女のうなじを流れている。
 モロウは長身だったが、二人はさらに背が高く、三人が並ぶと初老に入りかけたばかりのモロウが、本当の老人の様に見えた。
「だといいがね、アリシア」
 モロウが乙女の方を向いてそう言うと、大男がさらにモロウを励ますように続けた。
「今度の錬成は神様だってケチの付けようがないくらい完璧ですよ!」

 モロウはにこりと笑った。
 例え身内のお世辞でも言われて悪い気はしない。
「ありがとう。エッドール。そうだ、景気付けの前祝いをしよう、今日の晩餐は豪勢に行こうじゃないか」
「本当ですか? 俺は肉がいいな」
「私も。あ、それと赤ワインもね。ステーキ素敵、お楽しみ!」
 モロウの手は再び日記を書く為に動き始めていたが、アリシアの一言のせいで少し文字が躍ってしまった。
 下らなすぎて、思わず顔もほころぶ。
「くくっ、なんだそれは」


 ○月×日

 いよいよ、明日彼女ヲ錬成する。
 それにしても、家族とはいいものだな。



[39805] 第二話 人を造る
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/04/12 18:50
 今度こそ、この手で理性のある生き物を作ってやる。
 十年が何だ。人間ができるには、十万年がかかっておるのだ。

                      ――モロー博士



 部屋の床一面に書き込まれた錬成陣。指輪にはめ込まれた宝石の名は、賢者の石。
 モロウは人体錬成という禁忌に挑戦しようとしていた。
 錬成陣の中心にあるのは、生理食塩水と僅かなタンパク質を入れたシャーレである。
 とても人間の材料には足りない。しかしモロウにはこれで十分だった。

 私の考えが正しければ……生命体とは我々の認識できない他の次元にも広がっているというのなら、人体錬成など成功しない。
 術者が構築物の構造を正しく把握せずして、錬金術は成功しないからだ。
 では方法はないのか?
 人が人を造ることはできないのか?
 そんな事はない。何万年も我々は性交して子を為してきたではないか。
 要はそれを錬金術で行えばいいのだ。生命体の誕生を再現すればいいのだ。
 ……我々はある一点から始まった。
 60兆もの細胞は、元はと言えばただ一つの細胞から始まり、分裂を繰り返して増えていった。ならばもしかしたら、始まりの時点では、魂や精神も他の次元に広がっていないのではないか?

 モロウはゆっくりと両手を錬成陣に置いた。

 而して、人間を造る為に練り上げるべきは、始まりの一点、最初の細胞。
 すなわち受精卵。

 モロウの指の間で賢者の石が輝き、次いで錬成陣が輝き、最後にタンパク質を入れたシャーレが黄金色に輝いた。

 ハッとしてモロウは破滅的な一歩を踏みとどまった。莫大なエネルギーを持つ賢者の石が、彼を守ったのかも知れない。
 気が付くと部屋の光景は一変していた。
 見慣れた研究室は消え、代わりに視界に広がっているのはどこまでも空虚な空間である。
 モローの前方数メートルの所に、神秘主義者たちの間で使われる印が彫り込まれた、巨大な扉が浮かんでいて、その扉の前には『何か』としか言えない物が座り込んでいた。
「失敗か」
 モロウはそう呟いて視線を落とすと、その『何か』はモロウの言葉を否定した。
「そんな事はないよ。お前はここまで来れたんだ。あと一歩で彼女を造り出せる。さぁ来いよ、モロウ。真理を見せてやるぜ」
「ここまで来れただと? 真理を見せるだと?」
 モロウは怒り、声を荒げた。
「私はどこにも行っていない。この現象の事は報告書で知っている……私は今も研究室にいる。そこで幻を見ているだけだ。全ては脳の錯覚にすぎん」
「幻? ではオレは何だ?」
「私の無意識が産んだ偽人格だろうな」
「もしかしたらそうかも知れない。しかし、そうじゃないかも知れない。オレが神だったらどうする? なぁ、試してみないか? ここまで来たら、彼女の造り方を教えよう」
「所詮お前は私の無意識が産んだ存在だ。お前に彼女の造り方など分かるはずがない。このままさらに進んでも、リバウンドによって体を傷つけるだけだ」
「モロウ、お前らしくもない。お前の言ってる事は仮定だ。それを証明する為には実験を行うしかない。ここまで来たようにな。何を怖れている? お前の覚悟はその程度か」
「……」

 実のところモロウは誘惑に屈し、一歩を踏み出しかけていた。彼女が手に入るのならば、どれ程の代償を払っても惜しくはない。
 それを引き留めたのは、冷徹な理性の力だ。

「……黙れ、高利貸しめ。私の知る限り、お前と取引して望みを叶えた者はいない。皆傷ついただけだ。なぜならお前は真理などではなく、無意識が生み出した幻だからだ」
「そいつらはオレを幻だと言ったのか? モロウ、意に沿わないからといって真実から目を背けるなよ。オレは神。真理。一にして全なるもの。彼女の造り方を知っているのはオレだけだ」
 始めは静かに、やがて感情が激流となってモロウの中で暴れ回った。
 目の前にいる存在は、本当に彼女の造り方を知っているかも知れない、という思いと、それでもこの一歩を踏み出す事は無意味だ、という考えがぶつかり合い、怒りとなってモロウの中で渦巻く。
 そうとも、こいつが無意識の産物なら、彼女の造り方など知らん。
 仮に真理だとしても……生命の秘密など絶対に明かさないだろう。なぜなら、真理とはそういう物だからだ。もし叶うなら、私の情熱を嘲り、破滅へと誘うこいつを縊り殺してやりたい。
「なるほど、確かにお前は宇宙の総和、神かも知れん。だがな、真理を教えるだと? 私を舐めるなよ、真理とは神に頭を垂れ、生贄を捧げて下賜されるものではない。
 そんなものが真理であってたまるものか! 真理とは、仮説と実験を繰り返し、自ら組み上げていくものだ!」
「分かっているはずだ。そのやり方では、真理には永久にたどり着けんぞ。彼女は手に入らない」
「然もあろう……然もあろうよ! 人は永久に真理にたどり着けないかも知れん! だが真理に近づく事はできる。人が歩みを止めない限りな!
 いや、例え科学の歩みが止まったとしても、歩もうと足掻く事はできる!
 お前がもし神だとしたら覚えておけ、科学者の端くれなら、卑しくも学徒を名乗る者ならば、皆お前を解剖したがっている事をな!」
「それも無理だ」
「やってみなくちゃ分からん。限界を見極める唯一の方法は、限界までやってみる事だ。我々の営為が、いつかお前にメスを入れる日を楽しみにしているぞ」


 気が付くと、モロウは研究室にいた。
 念の為に顕微鏡でシャーレの中を覗いてみたが、そこに生命の萌芽は見当たらない。
 錬成は失敗だった。リバウンドが起っていないだけ僥倖と思うべきか。
「一体どこがおかしいのだ。何が足りんのだ? それとも余計な部分があるのだろうか? ……生命とは難しい物だ」

 モロウは机に腰を下ろし、大きく溜息を吐いた。突然老け込んだようだような気分だった。
 その様子を、二人の若い男女、アリシアとエッドールがこそこそと窺っていた。
 2mに届く長身の二人がドアを少しだけ開けて、子供の様に中の様子を覗いているのだ。傍から見たら滑稽な光景だったろう。
「どうだったんだ?」
「あの落ち込み様見て分かるでしょ、ダメだったのよ」
「……お前行って先生を励ましてこいよ」
「なんて言ったらいいのさ。とても声なんか掛けられないよ」
「『気分転換に三人で散歩しませんか』って」
「それアンタがしたいだけだけでしょ、 一人で行ってきなさいよ」
「皆で行った方が楽しいだろ」
「どう見たって先生はそんな気分じゃないっての!」
「そんな気分じゃないから気分転換するんだ、バーカ!」
「は? やる気かいデブ」
「おう来いよ、じゃじゃ馬」
 二人は同時に床を叩くように立ち上がった。
 幸いにも床は抜けなかったが、代わりにダンという音は家じゅうに響いた。

「だいたいお前が昨日先生に飲ませすぎたから失敗したんだ!」
「違うわよ、アンタが弱すぎるだけで三杯は普通よ、普通! 私達は最後まで楽しく飲んでたわ! それよりも錬成陣書くの手伝う時アンタがどっか書き忘れたんじゃないのかい?」
「人を間抜けみたいに言うな!」
「最初にバカって言ったのはそっちでしょ!」
「何をしているんだ?」
 第三者の声に、二人は彫刻の様に固まり、油が切れた機械のようにぎこちなく首を回して、扉の方を向く。そこにはモロウが腕を組んで立っていた。
「喧嘩は止めなさい」
「す、すみません」
 二人がうな垂れるとモロウは穏やかに言った。
「私の事なら心配はいらない。失敗は成功の母だ、こんな事は何度もあった……そうそうお前たちの時も随分と悩んだんだぞ。だがいつだって最後には上手い方法を……」
 モロウの言葉はそこで途切れた。
 目を大きく見開き、アリシアとエッドールを交互に見つめた。

 彼ら二人は、モロウが作ったキメラの中でも最も完成度の高いキメラである。
 完璧に両種の長所が融合し、人に紛れて暮らす事も、その気になれば獣に紛れて暮らす事も出来る。
 そうとも、あの時は……。

 モロウの頭の中で二つの理論が混じり合い、新たな理論を構築していた。その経験の一方は過去に行ったキメラ製作、そしてもう一方は先ほど失敗した人体錬成である。
 突然押し黙り、ブルブルと小刻みに震えているモロウを見て、アリシアが心配そうに声をかけた。
「先生? どうしたんですか?」
「閃いた」
「えっ?」
「いけるいけるぞ、今度こそ人を造ってやる! 最良の人間を!」



[39805] 第三話 静寂の夜
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/04/30 18:01
 独走は暴走に姿を変え、暴走は夢を捨て
 時を経ず、君は人ならぬ領域を遥かに凌駕し
 神の――否、悪魔の領域まで足を踏み入れる。

              ――ジョン博士

 盗んできました。

              ――斗和子


 きっかり七時に、アリシアは動き出す。
 その日は静かな夜だった。
 人々でごったがえすセントラルシティと言えど、郊外の住宅地は長閑なもの物だ。風が人家の窓を叩く音と、遠くで聞こえる列車の汽笛が、夜空に響く。
 月はまだ大きく欠けていたが、代わりに人家の灯りが道を照らしていてくれた。
 キメラにとっては、十分な灯りだった。

 目的の家まで着くと、アリシアは真っ直ぐ玄関へ向かい、コンコンと軽くドアを叩く。
 アリシアには水の流れる音が聞こえていた。夕飯を終え、洗い物をしているのだろう。
 家の中から「はーい」という声が聞こえ、水の流れる音が止まった。
 トントンと廊下を歩く音。顔を出したのは目尻に笑い皺のある女性だった。
 年齢のせいか、体にはやや脂肪が付き始めている。
「あれ、どなた?」
「夜分遅くにすみません」
 アリシアは申し訳なさそうに顔をしかめて、ぺこりと一礼した。
「アリシアという者です。仕事の事でカースティンさんに取り急ぎ伝えたい話がありまして」
 応対に出た女性は、アリシアを上から下まで眺めてから、溜息とも感嘆ともつかないような息を吐いた。
「はえー、なんだ会社の人かい? 随分きれいな人だからどこのお姫さまかと思ったよ!」
「はい。よくそう言われます」
 アリシアは、ぱっと明るくなって微笑んだ。
「くふっ言うわね。でも私だってあと十年若けりゃ負けなかったのよ」
「ええ。カースティンさんに聞いていますよ。私もまぁまぁだが俺の嫁……失礼、マリアさんの方が綺麗だって」
「……ほんとにそれあいつが言ったの?」
 勿論、とアリシアは頷きながら言った。
「あのバカ……」
 マリアという女性はギュッと目を瞑り額に手を当てた。
 アリシアは少し真面目な顔に戻って、マリアに声を掛けた。
「あの……」
「あっああ。急ぎの話だったね。今呼んで……ああ、いや、散らかってるけど上って上って」 
「すみません、お邪魔します」

 廊下を歩いている間、アリシアは様々な音を聞いていた。二人分の足音、居間で鳴るラジオの音声。
 その側で誰かが欠伸をしていた。少し離れて、かさかさと紙の擦れる音。誰かが新聞を読んでいる。
 問題になりそうなものはない。
 居間のドアを潜る時には、全ての準備が整っていた。

「アンタ、アリシアさんが見えたわよ。仕事の話だって」
「……誰?」
 カースティンが新聞から顔を上げた瞬間、アリシアは電光のように素早く、雲の様に静かに動いた。
 左手でマリアの喉元を掴み、悲鳴を上げさせないように強く締め付けると、そのまま体を持ち上げ、ソファーに座るカースティンへと大股で詰寄る。
 そして、カースティンが立ち上がるよりも早く、右手で頭を掴むとソファーへ押し付ける様に力を込めて、首の骨を折った。
 さらにアリシアはラジオを聞いていた少年が振り向くより早く、父親と同じように頸椎を捻り、息の根を止めた。
 
 全てはあっと言う間の出来事だった。
 マリアは信じられないというような驚愕の表情を浮かべたが、出来た事はそれだけだった。
 もがこうと体を動かした瞬間、喉を締め上げる腕の強さが何倍にも跳ね上がる。
「う、ぐ、うう」
 涙と、声にならない嗚咽がマリアから漏れたが、アリシアは殆どそれを無視して、「静かにしなさい」とだけ穏やかに言った。
 そしてラジオのボリュームを少し下げると、アリシアはマリアの首を掴んだまま死体をどかしてソファーに座り込む。

 事前の調査によれば、この家はほぼ三人家族だ。万事抜かりはない。あと五分もすれば先生とエッドールが来るだろう。
 アリシアは耳を澄ませて、室内で聞こえる様々な音を楽しんでいた。
 マリアの嗚咽、風が窓を叩く音、ラジオの奏でる音楽、遠くでなる汽笛の音、自分の心臓の音、マリアの心臓の高鳴る音。そしてマリアの胎の中でビートを打つ、もう一つの心拍音。

 静かな夜だった。


「これで五件目だぞ。だのに犯人の目ぼしさえ付かんとはどういう事だ?」
「目撃者もいない上に、証拠が少なすぎます。これではとても……」
「言い訳はいい!」
 中年の憲兵は苛立ちからまだ若い部下を激しく叱咤した。
 憲兵たちが苛立つのも無理はなかった。郊外とはいえ、大総統の御膝元で、立て続けに5件の殺人。
 さっさと犯人を挙げなければ、憲兵隊の威信と個人の査定にかかわる問題である。とりわけ後者は重要だ。
 お説教が終わって、憲兵たちが慌ただしく動き始めた矢先、軍服を身に着けた二人組の男女が現場に現れた。
 男の方は、一見若輩に見えたが、肩にかかった階級章は大佐の地位を示していた。彼の名は、“焔の錬金術師”ロイ・マスタング。
 そのやや後ろに控えるのは、大佐の懐刀、リザ・ホークアイ中尉だ。

「ここの担当は君かね?」
 マスタングが中年の憲兵にそう尋ねると、憲兵は不審がったが、相手が焔の大佐という事に気が付くと、すぐに姿勢を但して敬礼をした。
「はっ」
「中央軍のマスタングだ。この件は我々の管轄になった。以後私の所に調査報告書を届ける様に」
「……!」
 憲兵の顔色が変わり、その目に一瞬だけ憎悪の火が点ったが、マスタングは別段動じる事もなく、無視した。
「復誦は?」
「はっ、大佐殿の元へ調査報告書を届けます」
「よろしい。君と憲兵隊はそのまま調査を続けたまえ。但し、何かあったらすぐに私への報告をしろ」
「……はっ」
 中年の憲兵は一礼して逃げるようにその場を十分離れると、同じ制服を着た同僚に、思いっきり当たり散らした。
「クソッあの田舎者どもめ、何様のつもりだ。だいたいなんで大佐が出張る必要がある! 畜生め」

 一方大佐は、部下を伴って淡々と惨劇の起った現場へと足を踏み入れた。
「さて、私は上にも下にも随分嫌われているようだな。上からは持て余した事件を押し付けられ、下からは何で来るんだと言われる始末だ。全く男の嫉妬とは醜いものだ」
「女の嫉妬が美しいとも思えませんが」
「それはそうだが、場合によっては……」
「本題に入ります」
 資料を見ながらリザ中尉がぴしゃりと言った。
「同一犯のものと思われる一連の事件は五件。いずれの場合も夜間の犯行で目撃者はなし。犯人のターゲットとなった家族は全て首の骨を折られて死亡。
 一見無差別殺人の様に見えますが、ターゲットとなった家庭には一つ共通点があります。襲われた五家族には全て妊婦が含まれていました。
 また金品等の強奪の形跡はなく、強盗目的ではないと思われます」
「……探偵は私の本業ではないが、一つ分かったぞ。これは異常者の犯行だな」
「ただの異常者ではないようですね。遺体には争った形跡が殆ど見られません。つまり」
「争う間もなく殺されたと?」
「はい」

 リザが頷くと、マスタングは残された遺体を一つ一つしゃがみ込んで観察した。
 なるほど、確かにもみ合いになったと言うよりは、一瞬で息の根を止められたと考える方が自然である。
「もう一つ。今朝三件目と四件目の被害者の司法解剖の結果が出ました。どれも死因は頸椎の損傷でそれ以外に目立った傷はありませんでしたが、妊婦だけはその……」
 いつも事実を淡々と報告するホークアイ中尉が珍しく言いよどんだ。異常を察してマスタングが振り向く。
「何があった?」
「子宮がグチャグチャになっていたようです……お腹の子も」
「……何故そんな事が今の今まで分からなかったのだ?」
「外傷がなかったので、司法解剖の実施が遅れた、との事です」
「外傷がないだと? それは何かの病気という訳ではないのだな?」
「被害者を担当した産婦人科医の話では、直前まで異常は何も」
 ホークアイ中尉の報告を聞き、マスタングはなぜ上が自分にこの件を任せたのか理解した。
「……内臓をいじったな、狂人め」
 この犯人は異常者で、手練れで、しかも錬金術師だ。
 マスタングは殺された五人目の妊婦、マリアの前にしゃがみ込んで、目を閉じると「かわいそうに」と一言呟いた。
 再び目を開けた時、その瞳からは悲しみが消え、代わりに静かな怒りの炎が灯っていた。

「中尉、市内の病院に手を回して妊婦のリストを作らせろ。それを元にしばらく夜間の警備を強化する。夜警の数を増やして妊婦の周囲を見張れ。これ以上犠牲者を出すな」
「はい。ところで大佐」
「なんだ?」
「今中央にエルリック兄弟が来ています」
「ほう……」
 ホークアイ中尉の言葉に、マスタングは顎に手を当てながら言った。
「今は一人でも人手が欲しい所だ」



[39805] 第四話 嵐の前
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/04/13 13:34
 ええ。しかし、教科書には何が載っていないかご存じですか?
 ロッサム老人は頭がおかしいってことですよ。お嬢様、これは冗談ではありません。
 このことは胸にしまっておいてください。あの年寄りの変人は、本当に人を作ろうと思ったのです。
           
                                     ――ハリィ・ドミン                 

 想像して見たまえ。
 夏の熱風を頬に受け歩く事も出来ず、妻の暖かな手を取る事も出来ない。
 そうとも、だから殺す。

                                      ――Dr.フリーズ




「嫌だ。何でオレが大佐の手伝いなんかしなきゃなんねーんだよ。自分の仕事は自分でやるこったな、給料泥棒」
「ああ、そう言うと思ったよ。だけど今はふざけてる暇はないんだ、鋼の。まぁ聞け」

 マスタングは事件現場の視察を終えると、その足でエルリック兄弟が宿泊しているホテルへと向かった。
 首尾よく兄弟を見つけると、大佐は「やぁ、鋼の」となるべく親しげに声をかけて、珍しく下手に出て仕事を手伝ってくれるように頼んだが、エルリック兄弟の兄
“鋼の錬金術師”エドワード・エルリックはその小柄な体から帰れオーラを発し、話も聞かず部屋のドアを閉じようと、ドアノブに手を掛けた。
 大佐は強引にドアの間に足を入れ、真面目な顔をして話を聞けと言うと、兄よりも分別のある巨大な鎧、アルフォンス・エルリックは短気な兄を嗜めて部屋にマスタングを招き入れる。
 そしてマスタングは一連の事件のあらましを話し始めた。


 始めは大佐の話を聞き流していたエドワードだったが、事件の異常性を知るにつれ、最初の非協力的な態度は完全に消え失せた。
 怒りに身を震わせて、一言呟く。
「ひでぇな。なんて事をしやがる」
「……」
 アルフォンスに至っては途中から完全に押し黙ったままである。
 恐らくエド以上に怒りを覚えているのだろう。
「うむ。本来であれば我々だけで解決するのが筋であり軍の存在意義だろうが、軍属という括りの前に同じ錬金術師として、この犯人のやっている事は捨て置けん。
 錬金術師として、君にも一言声をかけておくべきだと思ってな」
「大佐、珍しく意見が合ったぜ」

『錬金術師よ、大衆の為にあれ』
 綺麗事である。しかし、だからこそ胸に秘める価値ある理念である。
 エドやマスタングはある意味で、この理念を捨てたと言っていい。
 国家錬金術師の資格を取るという事はそういう事だ。だがそれは、服の様に簡単に脱ぎ去った訳ではない。
 現にエドは今も悩み続けている。果たしてこの選択は正しかったのかと、恐ろしいほど不安になる時がある。
 例え軍の狗と言われても、困っている人を簡単に見捨てる程、冷血漢にはなる気はなかった。

 それだけに、エドはこの事件の犯人に対して、深い失望の混じった怒りを抱いた。
 この犯人は明らかに一線を越えている。
 軍の狗どころか、大衆の為にあれ、という理念どころか……それ以前の問題だ。

「こいつは放っておくわけにはいかねえよ」
 エドがそう言うと、アルフォンスが重々しく頷いた。
「僕なら一晩中巡回できるよ。捕まえるまで何日だって徹夜も出来る」
 アルは鎧に魂を繋いだだけの存在である。疲労などない。
 二人の目標は早く元の体に戻る事だが、今この瞬間、アルは呪われた体に感謝していた。誰かの役立つならそれに越したことはない。
「おう、さっさとボコッて突き出してやろうぜ」
「生身なんだから兄さんは寝てないとダメだよ」
「こんな胸糞悪い奴ほっといて俺だけ寝てられるかよ」
「……二人で行動した方がいいだろう。さっきも言ったが、物音一つ立てず一軒皆殺しにするほどの使い手だ。それに……」
「それに?」
「あ、いや何でもない。昼間はちゃんと寝ておけよ、鋼の」
 マスタングは気まずそうな顔をして、二人から顔を背けた。
「何だよ、気になるじゃねーか。」
「いや、その、な」
「煮え切らねえな、はっきり言えよ」
「まだ何かあるんですか?マスタング大佐」
 大佐は、うーむと少し悩んでから言い辛そうに口を開いた。
「……アルフォンス君が一人でうろついてたら犯人に間違えられると思ってな」

 エルリック兄弟が異口同音に叫んだ。
「酷い!」
「ひでえ!」
「まさかそんな人と一緒にされるなんて……」
「謝れ、アルに謝れ!」
「すまん、気を悪くせんでくれ。しかし、相手の正体がまだはっきりと分からん以上しょうがないだろう。だが二人一緒なら大丈夫だ」
「全く失礼な事を……人の弟を不審人物扱いかよ……」
 エドはしばらくブツブツ言っていたが、やがてそれはアルフォンスの言葉に遮られた。
「けど、犯人はなんでこんなに酷い事が出来るんだろう?」

 アルフォンスは、兄よりも落ち着いていて穏やかな性格である。
 その優しさ故に、この犯人の思考は完璧に理解不能だった。
 一体どんな理由があればこの惨劇を引き起こせるのだろうか。
 分からない、分からない、分からない……。

 ほんの少し前、エルリック兄弟は出産に立ち会っていた。
 あの瞬間、新たな生命が産声を上げた瞬間、心が震えた。
 現れたのは、それまで存在していなかった全く新しい、無垢な生命体だ!
 一体どんな奇跡が重なれば、命というものが生みだされるのだろう?
 自然の妙技にただただ感嘆しかできない。

 それを、破壊する……? あの美しいものを……?
 命の価値を分かっていない行為だ。親となる二人の愛と数十年の人生を馬鹿にしている。その二人に連なる何万と言う年月を冒涜している。

「本当に、なんで?」
 アルフォンスの二度目の問いは悲痛な問いかけだった。
 大佐は力なく首を振りながら言う。
「金品が取られていない以上、強盗ではない。恐らく妊娠した女性……いや状況から考えて、妊娠しているという事実に強い恨みを持っている可能性がある」
「オレはそう思わねえな。こいつはただ単にイカれてやがるだけだ。どんな理由があったってやっていい事じゃねえよ」

 絶対に許せねえ、とエドが吐き捨てるように言う。
 だが、口では狂人の仕業だと切って捨てたものの、エドワードの頭の隅ではそれとは違う予想が一瞬だけ浮かんだ。
 忌まわしい考えを振り払うように右腕に力を込めると、ぎしりと機械義肢が軋んだ。



「あれ、先生いいの?」
 アリシアが外出から帰ってくると、リビングで紅茶を啜るモロウが目に入った。
 いいの? というのは『くつろいでる暇あるんですか? 研究室に篭ってなんだか難しい事の勉強をしなくていいの?』と言う意味だ。
 事実モロウはこれまでの四回の時は、失敗する度に研究室に閉じこもって理論の微調整や修正を行っていた。しかし今度は殆ど悩んでる様子もなく寛いでいる。
「大丈夫だよ。理論は既に完成している。前回の失敗は錬成時のケアレスミスにすぎん」
「ケアレスミス?」
「そうだ、体を造り替える際の位置情報が間違っていたのだ。分かりやすく言うと、あの子は逆子の状態だったのさ。不幸にも頭と足を間違えて錬成してしまった」
「なんか先生にしては単純な失敗ですね」
 アリシアはちょっと意外そうに言った。
 彼女のイメージでは先生、すなわちモロウは、徹底した計算の下で錬成を行う熟練の錬金術師である。
 ミスなどとはもっとも縁遠い人間だと思っていた。

「私とて神技を持っているわけではないよ。今回は長年の夢が叶うと言う熱気に当てられたらしい。冷静さに欠いたよ」
「ほう、ほう、ほう!」
 アリシアは声を上げた。
「先生にもそう言う所があったんですね」
「私もただの人間にすぎんよ」
 モロウがそう言うとアリシアは面白がってさらに続けた。

「ですよね、ですよね! いっつも難しい顔して机に向かってるから、てっきり本当は機械なのかと。そうでなくても悪魔か何かだって皆言ってたし」
「お前、先生に何てこと言うんだよ……」
 机に座って文字の練習をしていたエッドールが、眉を潜ませて顔を上げた。
「だってそうでしょ。だいたい何が楽しくてそんなに勉強するのって話さ」
 ふんと鼻を鳴らして、エッドールが一言呟く。
「お前には分からねえよ」
 そうするとすぐさま、アリシアも交ぜっ返す。
「は、点数稼ぎが……」

 かちゃん、と紅茶の入ったカップを置いて、モロウは肩を竦めた。
「やめなさい……それにしても、私が本当に人知を超えた悪魔だったらこれほど苦労しないだろうな。私は実に多くの失敗を重ねてきた」
「そ、そうなんですか」
 モロウが思い返すようにそう言うと、二人は驚いて目を見開いた。
 身内びいきを除いたとしても、モロウは優秀な錬金術師である。二人にはこのモロウが自分で言うほどの失敗を重ねたとは思い難かった。
「嘘でしょう、先生。だって先生は何だってすぐに錬成するじゃないですか」
「エッドール、人はな生きている限りは失敗を犯すものだ。大事なのは同じことを繰り返さないようにする事、ミスを修正しようとする心がけだよ。
 私が人より優れているとしたら、それはこの心がけを捨てなかったからだろうね。さて、アリシア、外はどうだった?」

「憲兵が増えてますね、それに兵隊もいる」
「……出来れば延期したい所だな」
 あと少し、もう一歩で彼女に手が届く。しかし危険だ。
 もどかしい葛藤。
 その葛藤を消し去ったのは二つの声だった。
「先生、私は30秒あれば家の中の人間を皆殺しに出来ます。憲兵が居なくなった隙に、ちゃちゃっとやっちゃえば大丈夫ですって」
「何かあっても先生だけは俺が逃がして見せます」
 モロウは顎に手を当てて考えていたが、二人の言葉が決め手となり決意を固めた。
「よし、今夜だ。頼りにしているぞ、お前達」



[39805] 第五話 擬装者
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/04/19 19:07

 人の振りをしたアレは……なんだ?

        
        ――Dr.クエーサー



 上弦の月の下、アリシアは動き出した。
 彼女の役目は引きこみ役である。
 いくらなんでも長身の三人が纏まって動けば目立ちすぎる為、まず彼女が何食わぬ顔で標的となった家に上がり込み、速やかに障害を一掃する。
 首尾よく事が進んだら、モロウとエッドールが上手く隠れながら合流する、というのがいつもの作戦だ。

 片手に花柄のトートバッグを持ち、最近聞いた流行歌のメロディを口ずさみながら、キメラは堂々と通りを歩いていく。
 何度か憲兵の姿が目についたが、彼女はそれくらいで物怖じするような性格ではなかった。
 さっさとお仕事済ませてしまって、お夜食を食べよう。
 そんな事を考えながらブラブラとターゲットとなった家に近づいていく。
 
 アリシアの姿は、人間そのものである。しかし少々人より背の高い彼女は、何かと目立つ存在らしい。
 二人組の憲兵が道を歩くアリシアを呼びとめた。
「そこの君!」
「はい?」
「ちょっといいかい?」
「軟派じゃなければいいですよ……いや、お巡りさん割とかっこいいね。やっぱり軟派でもいいや」
 急に呼び止められても、アリシアは動じなかった。少し屈んで憲兵の顔を見ると、ケラケラと笑い出す。
「ご用件は何ですか?」
「あーいや……」
 その人懐っこそうな笑顔に、アリシアを呼びとめた憲兵は毒気を抜かれてしまった。まだ若い憲兵は少し言い辛そうにして名前と職業を尋ねた。
「ハッ、私はアリシア・モロウであります! こー見えても、この春から錬金術第二研究所で働いております!」
 アリシアはビシっと敬礼の物まねをしながらそう言って、はにかみながら「まーただの事務員ですけどね」と付け加えた。
「住所は?」
「すぐそこのアパートよ。あーえーと越してきたばかりだから番地忘れちゃった。ホラこの辺で一番大きなアパートの302号室」
 後ろに控えていたもう一人の憲兵が目ざとく言う。
「鞄の中身は?」
「別に見てもいいですよ、どうぞご確認を」
 アリシアはあっさり鞄を憲兵に渡した。憲兵が中身を確認すると出てきたのは筆記用具と化粧品、その他雑貨がいくつかだけである。
「協力に感謝する……最近は物騒でね。一応確認しないといけないんだ」といって憲兵は鞄を返した。
「あ、例の殺人事件ですね。でも大丈夫。私、伊達にタッパはないですよ! シュッ、シュッ!」
 アリシアはボクシングのように構えると、宙に向かって二度三度拳を振る。
 さらにアリシアは今度は逆に憲兵たちに絡み始めた。
「ていうか聞いてくださいよ、私小さい頃から親にも友達にもデカいデカいってずっと言われ続けるんですけど、酷くないですか?
 大体言われなくても私が背ェ高い事は私が一番知ってるっちゅう話ですよ。あー、小動物みたいって言われたいわー。
 それに、こう見えて尽くすタイプなんですけど、やっぱり大きいからどうしても……」
 ゴホン、と年上の方の憲兵がわざと大きく咳をして会話を止めた。
「もう行きたまえ。さっきも言ったが最近物騒だ。夜中はあまり出歩かない様に」
「はい、了解であります。お巡りさんも見回りご苦労様であります!」
 アリシアはもう一度敬礼して、何食わぬ顔で憲兵たちをやり過ごした。

 言うまでもなく、アリシアの言っている事は殆どデタラメである。
 彼女の兄弟分であるエッドールがこの場にいたら「よくもまぁ次から次にホラばかりペラペラと……」と呆れて、それが元でまた喧嘩になるだろう。
 しかし、それこそアリシアの天性の才能だった。
 持ち前の大胆さと感性で、彼女はあっさりと人間社会へと溶け込んでいく。その笑顔の裏に隠された真意を見抜ける者は少ない。


 アリシアは通りから小路へ入って目的地を目指した。
 まだ人の姿のあった通りと違い、曲がりくねった小路は人通りも殆どなかった。
 少し立ち止まって憲兵の姿もないことを確認すると、アリシアは少し薄暗い小路の奥へと進んで行く。

 さっき自分を呼び止めたのが、この辺りの担当の憲兵だろう。
 なら、時間は十分あるわね……そう思った矢先、アリシアの鋭敏な嗅覚と聴覚は、前の方から誰かが歩いて来るのを知らせた。
 丁度小路と小路が重なる交差点、そこには一本のガス灯が設置されていて、向こうから来る人間の姿がよく見える。
 向こうからやって来るのは憲兵かと思ったが、そうではなく、大きな鎧を着た人間と、その子供らしい妙な親子連れだった。
 憲兵じゃないならいい。無視だ無視……。

 アリシアは一瞥もせず、二人とすれ違おうとしたが、すれ違った瞬間に、生憎と背後から声を掛けられてしまった。
「おーい、ちょっといいか?」
 そう言ったのは鎧の人ではなく、その連れの子供の方だ。
 アリシアは振り返って、子供に向かい屈みこむと、笑顔を浮かべながら応えた。
「なーに、僕?」
「あーちょっと聞きたい事が……って頭を撫でるな!」
 その子供は憤慨しながらアリシアの手を振り払った。
 クスクスとアリシアは笑いながら、鎧の男に問いかける。
「おやおやおや、照れ屋さんだね。お子さんは何歳ですか?」

「お子さん……」
 鎧の人――アルフォンス・エルリックはあちゃーと顔に手を当てた。
 その子供扱いされたエドワードは初め呆然としていたが、どういう風に思われているか脳が理解すると、顔を真っ赤にして大声を張り上げた。
「誰がお子さんじゃあああああああ! 俺達は兄弟だ、兄弟!」
「えっ? あらら、ごめんね。じゃあ弟さんは何歳?」とアリシアはアルフォンスに向かって言うと、再びそれはエドワードの逆鱗に触れた。
「俺が兄貴だってさっきから言ってるだろうが! いい加減にしろよテメェ! 女だからって俺は容赦しねえぞ!」
 エドワードがギャギャーがなり立てている間、アリシアとアルフォンスは殆ど同じ事を心の中で思っていた。
 一言も言ってないよ、兄さん……。
 そんな事聞いてない。

 エドワードの怒りが小康状態に入ると、 少しうんざりした表情でアリシアが言った。
「はいはい。ごめんよ。それで結局何のご用で? 軟派ならお断りよ」
「鋼の錬金術師エドワード・エルリックだ」
 そう言いながらエドワードが懐から取り出したのは、国家錬金術師の証である大総統府紋章のついた銀時計だ。
 国家資格の持つ錬金術師は少佐位相当の権限を有している。
「職務質問だ。名前は?」
「アリシア・モロウ。花の21歳よ」
「……何の用でここに来た?」
「何の用でって、お家に帰るの。今からね、シャワー浴びて化粧直しして、八時半には彼とディナーの約束があるの。だからちょっと急いでるんだけど」
 さすがのお転婆娘もそろそろ苛立ち、不満そうな顔をしながらそう言った。少し時間を無駄にしすぎている……。半分は自分のせいだが。
 しかしその時、アリシアは二人の錬金術師の雰囲気がらりと変わっている事に気が付いた。

 若くしてその才能を認められたエルリック兄弟は、抜群の記憶力を持つ。
 彼ら二人は大佐から渡された資料、襲撃の予想される妊婦の住む家と、その周辺の詳細な地図を完璧に記憶していた。
「この先にモロウなんて家はねえよ」
「……友達の家に居候させて貰ってるの」
 アリシアはそう言ったが、その言葉はもうエルリック兄弟にとっては何の意味もなかった。
「ディナーは中止だ。付いて来てもらうぜ。間違ってたら後で謝る」
「分かったわよ、もう」
 エドワードが強い口調で言い切ると、アリシアは肩を竦めて両手を挙げた。
 そしてフラフラと考え事をするかのように、さりげなくエルリック兄弟へと近づく。
「やれやれ、彼になんて言って謝ろうか、し、ら」
 その言葉を言い終える直前、電光石火の蹴りがエドワードに襲い掛かった。
 エドワードは咄嗟に機械義肢の右腕でその蹴りを受け止めたが、その衝撃でエドワードの体は軽々と宙を舞った。
 錬金術師が苦悶の表情を浮かべる中、鈍い金属音が小路に響く。
 いかに小柄とはいえ、機械義肢を含め50kgは下らない体を小石の様に蹴り上げる脚力は、明らかに人間の範疇を超えている。
「ビンゴだな」
 着地したエドワードが苦々しげに言うと、アルフォンスは悲しそうに頷いた。
「まさか……そんな……女の人だったなんて」

「まさかって言いたいのはこっちよ……アンタ達、最初から怪しがってたわね? なんで?」
 エドワードは大佐との会話を思い出しながら、答えた。
「……殺人鬼がうろついてる夜に、アルみたいな大男と出会って、眉一つ動かさない女なんていねぇんだよ」そこまで言うと師匠の事を思い出して「滅多にな」と付け加えた。
「なるほど……怯える演技なんてしたことがないから盲点だったよ。次はそれもレパートリーに加える事にしよっと」
「次なんかねえよ」
 ぱんっと、錬金術師達は両の掌を合せ、同時にキメラは地を蹴った。



 騒ぎは火のように素早く広がっていった。
 憲兵と軍の兵士たちが慌ただしく動き始める様子を見て、エッドールが呟く。
「アリシアめ。しくじったな……」
 その隣でモロウは自嘲気味に言う。
「いや、焦った私にも責はあるさ……さて、お転婆娘を迎えに行ってやらんとな。早くせんと包囲されてしまう」
「それは危険です。今の内に中央を離れた方がいい。アリシアもそう思うはず」
「かも知れんが、私にはまだお前達が必要なのだ」
 モロウがそこまで言った時、憲兵のグループが荒々しく声を上げて会話に割り込んできた。
 通りの隅で話し合っている二人を怪しんだらしい。
「お前達、そこで何をしてるっ!」

 瞬時にエッドールは心の中で牙を剥いた。しかし、そっと肩にかけられたモロウの手が、その獣性を抑え込んだ。
 モロウは激しい剣幕の憲兵たちにも動じずに、飄々とした態度を崩さずに言い返す。
「君達こそ、こんな所で油を売っていていいのかね?」
「何だと。貴様、何様の……」
 憲兵の言葉はそこで途切れた。
 不審人物だと思った人間の懐から、大総統府紋章の六芒星が付いた銀時計が出てくるのを見たのである。
 モロウは笑みを浮かべて、銀時計をチャラチャラと揺らした。
「その様子では私が誰か知らんようだな。君達の名誉の為にも、私が誰か問いただすのは止めておこうと思うのだが、どうかね?」
 狼狽した様子で憲兵は声を絞り出した。
「は……はい」
「うむ。君達は誰の命令でここにいる?」
「中央軍のホークアイ中尉です。ここを封鎖しろとの事で……」
「ああ、やはりそうか。実はさっきその命令は変更になって、中尉に伝言を頼まれていたんだ。ここは私が受け持つことになった。君たちは代わりにD地区を見張れとの事だ
 早く行った方がいい。あの中尉は厳しいからな」
「そ、そうでありますか。了解しました、錬金術師殿」

 憲兵たちは、モロウとエッドールに敬礼すると、バタバタと車に乗り込み、その場を去っていく。
 車が見えなくなると、エッドールは呆然としながらモロウに訊ねた。
「その中尉とは知り合いなんですか?」
「いいや、会った事もない」
 そう平然と言い放ち、憲兵たちを煙に巻いたモロウを見てエッドールは感心したように言った。
「凄い……」
「凄いものかね。こんな事は誰だって出来る。お前ももう少し場数を踏めば出来るようになるよ」
「俺には無理です。それにアリシアは俺と同い年でやってのけるのに……」
 自分はできそこないなのだろうかと思い、エッドールはしゅんとしょげた。
「ハハハ、アリシアは女の子だからな。肝に銘じておけ、だから女性は恐ろしいのだ。さて、そんな事を気にしている場合ではないぞ、迎えに行くまでの間に言い訳を考えておけ」
「言い訳? なんのですか?」
「アリシアの性格を考えれば分かるだろう。ああいう子は手助けされるのを嫌う『何で来たんだ! 私一人で何とか出来たのに!』と怒るのは明白だ。
 だから我々は『申し訳ございませんが手を貸させていただきます』と頭を下げねばならんのだよ」
「こっちが助けに行くのにですか!? なんて面倒な……」
「女性というのは、その面倒なのが良いんだ。それにアリシアのようなお転婆こそな、上手くあやせた暁には、あだっぽく化けるものだぞ」
 そうモロウは滔々と揮ったが、エッドールは納得いかないと言う風な表情を隠さなかった。
「やっぱり俺には女の事がよく分かりません。正直、先生がわざわざ女の人を錬成しようとしているのも含めて」
 ポンと肩を叩いてモロウは言う。
「ふふふ、お前にもいつか分かる日が来る」

 二人がそんな事を話しながら歩いていると、やがて道路にたむろしている兵士たちの姿が目に入った。
 モロウは銀時計を取り出しながら、彼らに声を掛ける。
「おーい。ホークアイ中尉から命令変更の御達しだ。ここは我々が受け持つ、君たちはD地区に向かいたまえ」

 鼠取りの袋に小さな穴が開いていく。



[39805] 第六話 もう一人の“アルフォンス”
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/04/29 20:22


 真理に気後れしては何も為せぬわ。
           
        ――コッペリウス



 
 アリシアは勢いよく地面を蹴り、二人の錬金術師に襲い掛かったが、突如出現した石壁がその動きを阻んだ。
 慌てて急ブレーキをかけて、激突こそ免れたものの、僅かの間その動きが止まる。
 その瞬間、石壁の腹に当たる部分から、木の枝のようにもう一枚の石壁が伸びてアリシアの体を打った。
「かはっ」
 短く咳き込み、後ずさるアリシア。その頭上に、間を置かず影が差した。
 石壁の上から飛び降りながら、エドワードが棍を振り下ろしていたのだ。
 なぜだかその動きは、見下されているように感じられて、アリシアの癇に障った。
「舐めるな、チビッ!」
 怒号と共に、アリシアの長い足がほぼ垂直に持ち上がった。
 エドワードは咄嗟に棍を戻して天突く蹴りを受けたが、砲撃のような蹴りはあっさりと棍を砕き、エドワードを叩き落とす。

「ってぇな……」
 しかし、エドワドードは些か無様にゴロゴロと転がりながらも、次の手を打っていた。
 立ち上がるのと同時にエドワードの手には既に二本目の棍が握られている。
「誰が、豆粒ドチビだ、コラァ!」
 振り回される棍。
 その狙いは足元だ。身長差の不利を逆に利用して、両足を掬うように低く低く棍が振るわれる。

 アリシアは後ろへ下がって避けようとしたが、一瞬前までは無かった壁がその動きを阻んだ。
 ドン、と背中が壁にぶつかった瞬間、アリシアは驚きに目を見開く。
「ナイス、アル!」
 そう言いながら、エドワードは女の脇腹めがけて棍を振るった。
 だが今度はエドワードとアルフォンスが驚く番だった。
 長身に見合わない驚くべき身軽さで、アリシアは跳躍した。不安な体勢、加速ゼロの状態から月面宙返りである。
 軽やかな跳躍は難なく石壁を飛び越して、エドワードの一撃は空を切った。
 そしてその動きに、いつか感じた事のある感覚を覚えた。
 壁を乗り越えられたのは、これが二度目だ。

「ふー、ちょっと甘く見てたわ」
 仕切り直しとばかりにアリシアは一旦距離を置いた。
 錬金術と体術の組み合わせ、そして兄弟の息の合ったコンビネーション。良く工夫されている。
 だがそれでも、アリシアは負ける気がしなかった。
 自分は狼を狩る為の猟犬だ。人間などに追いつけるはずがない。

「ただ、戦い方がお上品すぎるね」
「なんだと、この野郎」
 エルリック兄弟はほぼ同時に地面に手を置き、アリシアの足元からいくつもの石柱を出現させた。
 逆再生した滝のように、猛烈な速度で石柱は伸びていく。
 しかし、アリシアはそれらをあっさりと躱した。
 先ほどまでのように慌ただしい避け方ではない。慌てることなく必要最小限の動きで避けていた。

 最初からこうすればよかったわ。と、アリシアは思った。
 錬成は3ステップ。変えたい物に触れて、錬成反応が起きて、それから変化が起きる。
 よーく見れば何も焦る事はない。
 そう、彼女は攻撃を見てから動く事にしたのだ。
 人間を超えた反応速度にものを言わせた、恐るべき回避術だった。
 アリシアは乱撃を縫うようにゆっくりと歩く。
 錬金術の構築物がその行く手を阻もうと迫ったが、いずれも触れる事なく、その試みは失敗した。

 アリシアが石柱の嵐をひらりひらりと躱した時、攻めているはずのエルリック兄弟が反対に気圧されだしていく。
 そして二人は見た。ニヤリとアリシアが笑みを浮かべた時、その唇が耳元まで裂けるのを。
「急に当たらなく……!」
「クソ、行くぞアル!」
 錬金術での牽制は効果なしと見て、エルリック兄弟が飛び出す。
 弟のアルフォンスは上段の突き。兄のエドワードは足元に潜り込むように下段のローキック。
 同時に放たれた二段攻撃だったが、これすらもアリシアは見切っていた。
 跳ねる事で下段の蹴りを避けつつ、そのまま伸びきったアルフォンスの腕に体を絡み付かせ、一瞬にして腕拉ぎ十字固めの態勢に移行する。
 倒れ込んだ瞬間、躊躇なくアリシアは力を込め、アルフォンスの左腕をへし折った。
 ……はずだった。

 ガコンと何かが外れる音がした。それは骨が折れる音ではなく、アルフォンスの腕がもげる音だった。
 アリシアは、自ら引っこ抜いたアルフォンスの腕を呆然と見つめた。
 中身がない! どうしよう!

 予想外の展開にフリーズしたアリシアの隙を逃さず、エドワードは行動を起こしていた。
 パンと手を合わせる乾いた音がした次の瞬間、地面から出現した無数の手が、一瞬にしてアリシアを完全に取り押えていた。


「ふーようやく捕まえたぜ」
 エドワードはアルフォンスの腕を直してやると、しげしげと殺人の容疑者を見た。
「お前は何者だ? ただの人間じゃねえだろ」
「……」
 普段の陽気さはどこへ行ったのか。アリシアはツンとそっぽを向いてその言葉を無視した。
 エドワードは不機嫌そうに舌を打つ。
「だんまりか。しょうがねえ続きは留置場で……」
 その時、アリシアは何かに気が付いたようにピクンと顔を上げた。
 そして小さな声で呟く。
「あ……バカ」
「何だとコラ」
 耳ざとくそれを聞きつけたエドワードは、ズイと顔を近づけて凄んだが、アリシアは呆れたように首を振った。
「お前に言ったんじゃない」

 エドワードとアルフォンスが何か思うよりも早く、空から降ってきた何かが、アリシアの縛めが破壊した。
 石の砕ける破裂音と砂礫が舞う中、新たに二人の男がそこにいた。拘束を解かれたアリシアはピョンとその二人の傍に寄り添って、エルリック兄弟を小馬鹿にしたようにひらひらと手を振る。
 そして手を振りながらも、もう一方では助っ人に悪態をつく事も忘れない。
「何で来たのよバカ。先生連れてとっと逃げなさいよ。私一人で何とか出来たっての」

 乱入者の一人――エッドールは顔を引きつらせながら、何とか声を絞り出した。
「……お前だけに苦労させるのは申し訳ないと思ったから」
「急に何言ってんのよ、気持ち悪いわね」
「まず『ありがとう』だろうが! 雌犬!」
 モロウの忠告を聞いて、道中考えていた言葉をあっさりと切り捨てられた、エッドールは思った。
 やっぱり女はよく分からん。と言うかこいつブン殴りたい。

 三人の中で一番背の低い男――と言ってもエドワードにとっては見上げるような大男――は手を挙げて背後で起きそうだった喧嘩を制止すると、感心したように、ほうと息を吐いた。
「これは、これは。鋼の錬金術師エドワード・エルリック君ではないか。大物に捕まったな」
 エッドールがモロウの背後で囁く。
「知り合いですか?」
「いや。しかし彼は最年少の国家錬金術師として有名だよ。それに個人的にも弟君のお蔭で、よく覚えているとも」
 エドワードが吐き捨てるように言う。
「何だ、手前等は?」
「お初にお目にかかる。私の名はアルフォンス・モロウ。“連理の錬金術師”だ。この二人はアリシアとエッドール。我々は生命の秘密を解き明かすべく、日夜研究をしている」
「生命……生体錬成? あんな事をしたのは貴方?」
 男の口から、残虐な研究の香りを感じたエルリック性のアルフォンスが恐る恐る尋ねた。
 重ねてエドワードも言う。
「普通の生体錬成じゃねえな。その女は、何だ? ただの人間じゃない」
「良い線だ」
「似たような奴らを知ってる。そいつも俺達の作った壁を軽々と乗り越えていきやがった……キメラか?」
「おお、そこまで見抜いたか。天才と言われるだけの事はある。いかにも、この二人は私が作ったキメラだ」
「……容疑に一つ追加だ。人間のキメラを作ったなんて知れたらただじゃ済まねえぜ」
「はっ。この二人を作ったのは軍の命令だよ。お咎めはなしさ」
「先生、先生!」
 錬金術師たちの会話に、陽気さを取り戻したアリシアが強引に割り込んだ。
 無礼という概念がないのか、堂々とアルフォンスを指差して言う。
「あいつの弟、空っぽですよ! 空っぽ! 第五研究所の奴らと同じ!」
「ほう……加えて人間のキメラを知っているという事は、ひょっとして君は私の後釜なのかね? 鋼の錬金術師?」
「何の話だ?」
「君もこれを作っていたのではないのか?」
 そう言ってモロウが手の甲を見せると、モロウの指に付けられた指輪の中で、紅い宝石が輝いていた。
 その妖しい輝きにエドワードとアルフォンスは息を飲む。
「賢者の石! そんな、第五研究所の研究者は全員……」
「ああ、私も間一髪だったよ、弟君……同じ名の君には親近感を覚えるね」
「……てめえとアルを一緒にするな。こちとらそんなモンに手ェ出してねえよ」
「だが生体錬成には興味がある、だろう? でなければ弟君がそんな体になるはずがない。どうかな、私と一緒に来ないかね? 共に生体錬成を……いや」
 モロウは、彼なりに若き天才に敬意を表して、包み隠さすこう喋った。
「人を造ってみないか?」
 エドワードはモロウの質問には答えず、俯きながら質問を返した。
「……5件21人。生まれていない子も合せて26人死んでる。お前がやったのか、モロウ?」
「左様」
「よし、今から3人ともぶっ飛ばして突き出してやる。覚悟しやがれ」
 フーと息を吐き、エドワードは上着を脱いだ。
 生々しい傷跡がついた体が露わになり、ガス灯の灯りで右腕の機械義肢が鈍く光る。
 エドワードは怒っていた。そしてそれ以上に、普段温厚なアルフォンスが怒っていた。
「兄さん、今日は止めないよ」


「先生……」
「お前たちは弟君と遊んでいなさい。私はエドワード君に話がある」
「はい」
 モロウに命じられるがまま、二人のキメラはアルフォンスに目標を定めた。
 円を描くようにアルフォンスの周囲をジリジリと周り、出方を窺う。
 アリシアはウズウズとした調子で、いつでも飛び掛かれるという風に何度もステップを踏んでいた。
 その動きにアルフォンスが気を取られた瞬間、巨漢の一撃が鎧に炸裂した。
 アリシアが追い立て、エッドールが狩る。
 統制されたようなその動きに、普段の仲の悪さなど微塵も感じさせない。
「うわっ」
 エッドールの拳は、鎧のアルフォンスを跳ね上げる様に吹き飛ばし、密集するアパートメントの壁に勢いよく叩きつけたが、何事もなくアルフォンスは立ち上がった。
 胸の装甲が少し凹んだだけでダメージを負っている様子もない。
「思いっきり殴ったのにすんなり立ち上がるとは。こっちが凹むぞ」
「打撃じゃなくて逆技でいきましょう」

「……何でこんな事をするの?」
 再び立ち上がったアルフォンスは、この事件を知った時から抱いていた疑問を吐露した。
「お姉さんたちをキメラにしたのもあいつなんだろ? そっちのお兄さんはイシュバールの人だ。それなのに、まだあいつの言う事聞いて酷い事をするの?
 ねえ、何でだよ! 勝手に体を変えられて悔しくないの!? 元の体に戻りたいって思わないの!? こんな事はもう止めてよ!」
 あわよくば戦わずに矛を収めたい……などという考えはアルフォンスにはない。
 彼の口から出たのは全くの良心から出た言葉である。人間でない苦しみを彼は知っている。それ故に彼の言葉は人々に通じる。それは偽りも裏表もない声だからだ。
 しかし、この時ばかりはアルフォンスの言葉は嘲笑を買っただけだった。
「ははは、元の体に戻るだってさ」
「ああ、酷い話だな」
「私達に裸で這いつくばってろって事ね」
「一つ言っておくぞ、アルフォンス・エルリック。俺はイシュバール人じゃない」
「っていうか人間じゃないわ。先生が居なかったら私達は何の疑問も持たず道端でおしっこしていたでしょうね」
「……どういう事?」
 様子がおかしい。
 何も感じないはずのアルフォンスの背筋にぞっとした感覚が走る。モロウの忌わしい研究の一端が明かされようとしていた。
「先生は俺達に智慧をくれた。その恩の為なら何だってする」
「嘘だ……例えキメラでも、あなた達は人間だ……」
 アリシアは本物の人間のようにケラケラと笑った。
「いや、そう言う意味じゃないの。ふふふ、私がキメラになった日の事はよく覚えているわ。混ぜ物として使われる子と一緒に寝転んで……ぱっ!ってね。これくらいの子よ」
 そう言ってアリシアは何かを抱えているかのように手を広げた。
 その見えない何かは、小ぶりのスイカほどの大きさである。
「……!」
 アルフォンスは、もう一人のアルフォンスがキメラから人間の意識と記憶を消す為にとった方法に辿り着いた。
 人間の意識が邪魔になるのなら、そもそも、最初から人間としての意識がなければいい。
 人に獣の能力を与えるのではなく、獣に人の智恵を与えればいい。
「そんな……なんて事を」

 この二人は動物と、新生児のキメラだ。



[39805] 第七話 ワイルドカード
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/05/03 23:56


 いつの日か、いつの日か、世界の全てに一人残らず配給するのだ。
 奇跡のような科学を、科学のような奇跡を。

                       ――“博士(ドク)”



「納得のいく説明して頂きたい。なぜ私のキメラはダメなのです?」
 6年前、東方司令部。モロウは殲滅戦へと向かう軍の上層部へ噛みついていた。
 当時の高官は、机に肘を乗せ手を組んで答える
「危険だからだ」
「危険? 優秀な錬金術師を戦場へ送る方がよほど危なっかしいでしょうに」
「……モロウ君、君のキメラはコントロールできないだろう」
「いいえ、完璧に制御できます」
「万が一という事がある。あれが我々の手に噛みついたらどうする?」
「噛みつきません。十分な注意さえあれば」
「既に決まった事だよ。君が何を言っても決定は覆らない」
「私の発明が、死ぬはずの人間を何人救うか考えたのですか!」
 モロウが怒気を込めて言うと、高官は肩を竦めた。
「あれが多くの可能性を秘めた代物である事は認めているとも。国家資格を取ってみる気はないかね? 君なら資格は十分だ。研究費も今と比べ物にならんぞ」
「……その件は考えておきます。しかし」
「分かった、分かった。次の会議で私の方からもう一度検討してみるよう伝えておくとも。もう行きたまえ。君には患者が待っているだろう」
「……失礼します」
 高官が腕を振って出て行くように促すと、モロウは肩を怒らせながら退出していった。
 パタンと扉が閉じられると、その高官は机の上にある電話を取り、さらに上へと連絡を取る。
「……私だ。閣下に取り次いでくれ。面白い男を見つけた、と」

 このやりとりの二週間後、アルフォンス・モロウは連理の二つ名を賜り、さらに軍の暗黒面と関わっていく事になる。



「いい話だと思うのだがね。君のように優秀な子が協力してくれれば、我々は生命の秘奥を解き明かす事が出来るかもしれないのだぞ」
「黙りやがれ」
 人間兵器と呼ばれる国家錬金術師同士の戦いは、激しい錬金術の応酬となった。
 エドワードの手が石畳に触れると、無数の石柱が嵐のようにモロウに襲い掛かる。モロウはその石渦を賢者の石の魔力の用いて、次々と無力化していった。
「お前と組んだって、またアレに馬鹿にされてどこかを持ってかれるのがオチだ」
「君もあの現象に、何か特別な意味があると思っているのかね? バカバカしい。あの現象はリバウンドの過負荷によって脳が一時的に生み出す幻覚にすぎん」
 エドワードの攻撃を捌き切ったモロウは攻撃へと転じた。
 鏡写しのように今度は石の錐がエドワードに迫る。
「あの現象には強烈な全能感や、世界との一体感を味わうらしいな。だがそれは、古のシャーマンが荒行や薬物で得ていた物と同じ、偽りの悟りだ。私を失望させてくれるなよ、鋼の錬金術師!」
「勝手に期待して、勝手に失望してんじゃねえ!」
 エドワードはモロウの攻撃を持ち前の身軽さで避けると、足元から一際大きな石柱を出現させた。それはさながら破城鎚のように真っ直ぐにモロウへと向かって行く。
「本当に自分勝手な野郎だな! 関係ない人まで何人も何人も殺しやがって! 手前のした事に何の意味があるってんだ!」
「私は人を造ってみたい、ただそれだけだ」
 モロウは壁を作って、エドワードの破城鎚を防ごうとしたが、最初に作った壁はあっさり破られた。
「女性だけが子を産めるというのは不公平というものだろう?そろそろ男も権利を主張してもいい頃あいだ。
 ただ、一から生命を作ることはまだ難しい……。しかし、賢者の石さえあれば、できかけたものを改良する事はできる。つまり胎児を……」
「それ以上言うな、バカヤロウ!」
 二枚目の壁はそれよりは少し持ったが、やはり破られた。
 モロウは急いで三枚目の壁を構築していく。
「エドワード君、落ち着いて私の技術の先にある世界を想像したまえ。誰しもが皆、愛する人を自らの手で造り、その腕に抱ける世界!」
「そうやって生み出されたのが、まともな人間だと思うか!」
「時代が変われば人の定義も変わる。やがて錬金術によって調整されていない子を産むことは、殺人と同じ意味を持つようになるだろう。生まれて来る子は皆、真の意味で望まれた子供になる!」
「何で生んでるのに殺した事になるんだよ! 全く逆じゃねえか!」
 モロウの作った三枚目の壁も、やがてエドワードに破られた。
 老科学者は咄嗟に両腕を突き出し、破城鎚を受け止めた。
 互いに押しやろうと反発する錬成反応が渦巻き、逃げ場のないエネルギーは破城鎚の中でどんどん蓄積されていく。

 鋼と連理。両者は叫びあいながら、力を振り絞った。
 暗い信念と沸騰するような怒りのぶつかり合い。
 勝ったのは、鋼の錬金術師だった。
「手前ェが殺した子供は、何もしなくたって望まれた子だったろうが!」
 巨大な石柱は、膨大な力の押し合いに耐えきれず、粉砕された。その破片が雨となってモロウに降り注ぎ視界を封じた。

 石があっても力比べでは敵わん、か。
 大質量の錬成は不得手な分野とはいえ、大した子供……。
 モロウの思考は、粉塵を切り開いて飛び出してきたエドワードに遮られた。
 鋼の錬金術師は素早くモロウの懐に飛び込むと、体重を乗せた肘鉄を腹へめり込ませる。
「ぐっ」
 呻きを漏らしつつ、モロウは痛みに身をかがめたが、次の一撃に比べたら可愛いものだった。
「オオオオッ!」
 身を引いたモロウの顎へ、雄叫びを上げながらエドワードの右腕が唸る。
 文字通りの鉄拳は下顎を砕いた。

 いかん。再生を……。
 石の力を用いてモロウは自身の体の再生を図ったが、これも悪手であった。既にエドワードが間合いに入っている状況で、守勢に回るべきではなかった。
 顎が治りきる前に、機械義肢の左足による蹴りが、足を砕く。次いで、脇腹、鳩尾……。鋼の猛攻は止まらない。

 ……早い。再生が間に合わん。
 終わりだ。変態野郎。
 モロウが敗北を予感し、エドワードが勝利を確信した瞬間、アルフォンスが叫んだ。
「兄さん危ない!」
 間一髪その声に気付いて、エドワードは背後から襲い掛かっていたキメラの一撃を、転がりながら躱す事ができた。
 二人のキメラはモロウの両脇に控えながら、最上の憎しみを込めてエドワードを睨みつける。「ウウウ……」とその口から洩れる唸り声は人間のそれではなかった。
「クソ、あと少しだったのに」
「いや、僕たちの勝ちだよ」
 アルフォンスは兄が悔しそうに言った言葉を否定する。
 怒りで赤熱した鋼となったエドワードは、周囲の事など頭から吹っ飛んでいたが、出来た弟はしっかりと把握していた。

 包囲完了。
 いくつもの銃口がモロウとキメラに向けられていた。
 そしてその中から、ロイ・マスタング大佐と、ホークアイ中尉も姿を見せる。
 進み出た焔の錬金術師は、些か慇懃にエルリック兄弟を労うと、自信に裏打ちされた笑みを浮かべながら、三人の容疑者に宣告した。
「よくやってくれたな。流石エルリック兄弟と言っておこう。さて、抵抗するならこの場で射殺する。だが大人しくするなら君達に正当な裁きを受ける権利をやろう」
「ふふふ、マスタング大佐か。久しぶりだな」
 ガス灯に寄り掛かりながら、辛うじて立っている男を見て、マスタングの微笑は凍りついた。
「……アルフォンス・モロウ?」
「幽霊でも見たような顔だな。私がここに居るのは意外かね?」
「いや、合点がいった。お前ならどんな事だってやりかねん」
「同じ国家錬金術師のよしみだ。どうか見逃してくれ、焔」
「馬鹿を言うな。是が非でも逃がさん」
 モロウは観念したように首を振った。そしてわざとらしく溜め息を吐く。
「大佐、私をあまり追い詰めないでくれ。こちらも手段を選べなくなる。そんなのは嫌だろう?」
「貴様、まだあんなものを……」
「どうかな、フフ」
 モロウがその存在を仄めかした切り札に、マスタングは戦慄した。
 マスタングはイシュバール殲滅戦で名を挙げた英雄である。また戦後は情勢不安定な東部でテロリスト達と何度も矛を交えている。
 脅迫、恨み言、呪いの言葉など耳にタコができるだけ聞いてきた。その度に彼は「では、やってみたまえ」と言って、それらを叩き潰してきた男である。
 その彼が、モロウの言葉には恐怖を覚えた。

「……あれは使わせん。お前はこの場で捕える」
 マスタングが動揺していた隙に、モロウは寄り掛かっていたガス灯に手を伸ばしていた。
「できるかね? ふふ、賢者の石。実に便利な代物だ。焔の錬金術師でなくとも……こんな真似ができる」
「何っ?」
 刹那、ガス灯が破裂し、小路に目映ゆいばかりの閃光が走った。
 モロウは石の魔力を使ってガス火の燃素を増幅して解放したのである。
 純粋な炎の原素は、荒れ狂う光の洪水となって、包囲していた兵の目を潰した。同時に、二人のキメラは主を背負って疾駆する。
 人間離れした脚力を持つ二人は、闇夜に紛れて、あっという間にその場から消え去った。
「絶対に逃がすな!」
「追え、追え!」
「射殺しても構わん!」

「走って逃げただと? そんな事で十重二重の包囲から逃げられると思ったか、モロウ」
「……あの二人はキメラです」
 怒号が飛び交う中、マスタングの独り言にアルフォンスが悲しそうな声で答えた。
「人間よりずっと速く走れます、急がないと」
「む、そうか……」
 その時、硝煙の匂いに気が付いて、マスタングは隣の中尉に訊ねた。
「当てたか?」
「はい。しかし半矢です」
「十分だ、追うぞ中尉……」
 大佐と中尉が車に乗り込む為に踵を返すと、その後ろをエドワードとアルフォンスが慌てて追いかけた。
「おい大佐、置いていくなよ!」
「そんなに乗れな……えーい、分かった乗れ、鋼の」
 マスタングは言い合っている時間も惜しいと即断し、元から乗っていた運転手を中尉と交代させ、自身は助手席に乗り込んで、エルリック兄弟を後部座席へと押し込んだ。

「A地区の方に向かっているようだな」
 マスタングが確認するように言うと、ホークアイ中尉は運転しながらスラスラと答えた。
「そちらにはブラボーとチャーリー班を伏せています」
「よし!」
 マスタングは車両に備え付けてある車載無線機を取り、即座に彼らに連絡を取った。
「ブラボー班、応答せよ」
 僅かなノイズの後にブラボー班の通信手が答える。
「こちらブラボー」
「私だ、容疑者は三名。包囲を抜けて大通りをそちら側に向かっている。我々が到着するまで時間を稼げ、チャーリー班と共にA地区のメインストリートで釘付けにしろ」
「はっ?」
 無線機の向こう側から、間の抜けた返事が返ってきた。
 どうも中央の兵は東部の兵に比べて緊張感が足りない。長き安寧の証左だが、今の状況では腹立たしい限りだ。
 苛立たしげに大佐が檄を飛ばす。
「復誦はどうした!」
「はっ……チャーリー班と共にA地区で足止めします。あの……しかし大佐」
「なんだ?」
「我々がいるのはD地区です」
「なぜだ!」
 思わずマスタングは怒鳴っていた。
「勝手に持ち場を離れたのか! 軍法会議ものだぞ!」
 大佐の吼える様な怒声に、通信手は怯えた調子で答えた。
「い、いえ、ホークアイ中尉から命令変更を受けまして……A地区の通りは国家錬金術師殿が受け持つと……」
「……!」
 マスタングは通信機を外し、隣にいるホークアイに問いかけた。
「中尉、配置換えの命令を出したのか?」
「まさか」とホークアイは首を振った。
 次いで後ろのエドワードに問う。
「鋼の、この場は俺達に任せろなんて誰かに言ったか?」
「俺たちゃ自由行動って話だったろ。んなこと言うかよ」
「……やられた」
 包囲を破られていた事を察したマスタングは、頭に手を当てて小さな声で呟いた。
 ブラボーとチャーリーは命令があるまでその場で待機、と言って無線を終えると、マスタングは体中を圧迫されるような不気味な感覚と戦っていた。
 その原因は、吐き気を催すような圧倒的な悔恨である。

 何という大失態だ。
 一度手中に収めかけておきながら、モロウを見失ってしまうなど。
 あの男が当局の敵に回り、この国の中枢のど真ん中をうろついているというこの状況は悪夢でしかない。
 こうなってしまった以上は、無理に追う事は危険だ。一旦出直して装備を整えねば、皆殺しにされる恐れがある。
 それとも市民の避難が先か?
 いや、それはパニックになる。なるべく情報は伏せた方がいい。それに首都の膨大な人口をどこにどうやって逃がすと言うのだ。

「大佐? 大丈夫ですか」
「あ、ああ」
 急に青白くなったマスタングを見かねて、運転しながらホークアイが声をかけた。
 焔の錬金術師が脂汗を流すほど緊張しているなど滅多にない異常事態だ。
「奴らを見失った……追うのは中止だ。一旦撤収する」
「ハァ!?」
 大声でエドワードは疑問を呈した。
「何でだよ大佐? 今、追わねえでいつ追うんだ!」
「ダメだ。これ以上奴を刺激するな」
「らしくねえな、大佐! あんな奴にビビッてるのかよ!?」
 エドワードのその発言は半ばマスタングに発破をかけるための挑発だったが、マスタングは「ああ、そうだ」と即答した。
 マスタングの白旗を上げる様な言葉に、ホークアイとアルフォンスはぎょっとして大佐の方を向いた。実に大佐らしくない言葉だった。
「ああ、そうかよ。見損なったぜ大佐。じゃあ俺とアルだけで勝手に追う。降ろしてくれ」
「それもダメだ、鋼の。今行ったら殺される」
「はっ、アホ抜かせ。さっき俺はあいつをボコボコにしてるんだぜ」
「モロウにじゃない。モロウのキメラに、だ」
「厄介ではあるけどよ、あの二人だってどうにもならねえって程じゃねえよ」
「……あの二人に、じゃない」
 まるでマスタングの恐怖が感染したかのように、車内の空気が変わった。
 エドワードが普段よりも一段低い声で問いかけた。
「まだ、他にキメラがいるのか?」
「ああ」
 恐る恐るアルフォンスが訊ねる。
「……もしかして、それも人を使ったキメラですか?」
「違う」
 大佐の言葉にエルリック兄弟は僅かにほっと安堵した。
 もっとも、次の瞬間にはそんな気持ちは吹っ飛んでいたが。
「じゃあ何のキメラだよ?」
 小さな声で大佐は答えた。
「炭疽菌とペスト菌のキメラだ。感染力が強すぎて、兵器としてすら失格という代物だ」
 苦虫を噛み締めたような顔で大佐は続けた。
「防疫装備がいる、本部に戻らなければならん」


 影に紛れて疾走している途中で、エッドールはぬるりと背中から滴る血に気が付いた。
「先生、どこか怪我を?」
「左肩を撃たれたようだ。マスタングめ、いい部下を持っている」
 アリシアも心配そうに顔を寄せた。
「治せます?」
「逃げる時の錬成で賢者の石が限界を迎えてしまった。一旦止まって処置する必要がある。なるべく急いでくれ、あそこへ」

 両陣営とも、追いつめられていた。



[39805] 第八話 霊長への挑戦者
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/06/08 22:52
 これは狂気の沙汰ではない。まことの事だ。奇跡かも知れん。
 生そのものが奇跡であるようにな。

                      ――ナテール


 数か月ぶりに訪れたその場所は、立ち去った時のまま放置されていた。
 モロウは痛みに耐えながら椅子に腰を下ろすと、エッドールの手を借りて上着を脱いで、鏡越しに肩の傷を確認する。
 アリシアは何枚ものタオルが血で染まったのを見てハラハラと掌を合せていたが、当の本人であるモロウはそこまで焦っていなかった。
 幸い弾は抜けているようだ。
 少しばかり腕に障害は残る可能性があるが、これくらいでは人は死なん。
「アリシア」
「はいっ」
 妙に緊張した調子で、女のキメラは答えた。
「そこの奥の棚に消毒薬とガーゼがあるから取ってくれないか? 右側に包帯もあるはずだからそれも頼む」

 傷を洗い、消毒し、なんとか錬金術で傷を塞いで、モロウは腕が動くのを確認する。
「大丈夫ですか?」
「激しく動くと破れるだろうが、無茶しなければそのうち治る……いい教訓になった」
 急がば回れ、ができなかった。無理に焦った挙句、賢者の石を失い、手傷を負い、自分はこうして追いつめられている。
 あと少し。彼女までの距離は後たった一歩だというのに、その一歩を踏み出そうとして転んでしまった。
 何と無様なのだ。我慢も出来ない子供か、私は。

「今回はあまりにも性急すぎた。エルリック兄弟に加えてマスタング大佐まで出てくるとは」
「あんな奴ら私が本気出せば楽勝だし!」
 モロウが大丈夫そうなそぶりを見せると、アリシアも勢いづいてふんと鼻を鳴らした。
 自分はアルフォンス・モロウに作られたのだ。国家錬金術師にだって負けない、とアリシアは信じて疑わない。

「勿論分かっているとも。しかし中央にはこれ以上留まれん。場所を移そう。賢者の石も新たに作らねばならん」
「任せて下さい」
 エッドールが言いながら頷く。そしてその瞬間、キメラは遠くで気配を感じたような気がした。
「アリシア」
 視線だけ送って、自分よりも感覚の鋭い兄弟分に確認を取ると、アリシアは不機嫌そうに舌打ちした。
「ちっ。何か来てる。数はそんな多くないかな、多分4、5人ってところ」
 エッドールが肩を回して言う。
「片づけてきます」
「待てアリシア、お前も行け」
「私も? 先生一人じゃ危ないじゃん」
「戦力を分散するのはよくない。どの道、お前たちがいなければ私は動けんし、それだったら二人で行ってきなさい。気を付けてな」
 モロウ二人の身を案じてそう言ったが、そんな心配をよそエッドールは笑った。
「上手く行けば、ここで賢者の石が手に入りますね」
 自分はアルフォンス・モロウに作られたのだ。誰が相手だろうと物の数ではない、とエッドールは信じて疑わない。


 エドは殆ど激高して叫んだ。
「病原菌のキメラだと? そんなものがあるのかッ!?」
「ああ、さっき言った通り、兵器としてはモノにならなかったがな。相手があの男である以上、もはやただの殺人事件では済まない。部下は一旦撤収させて、対モロウの捜索部隊を再編する」
 大佐が無線機で部下と交信している間、エドワードに母との最後の日々の記憶が浮かび上がっていた。
 病で日々弱っていく母。
 その言葉に咳が混じり、呼吸にぜいぜいという音が混じり、起きているよりも横になっている時間が増え、やつれた体でそれでも兄弟の身を案じ、死んだ母。
 流行り病だった。
 病を治そうとする人間はいても、反対に病を作り出す男がいるなんて、エドワードは想像もした事がなかった。
 何を思ってそれを作ったのか想像もできなかった……だけども。

 アルフォンスもまた、先ほど戦った男女の事を考えていた。
「もう人間じゃない」ではなく「最初から人間じゃない」
 アルフォンスの空想の中で、実験室に運ばれていく赤子の姿が鮮明に浮かび上がった。
 そこで生まれ変わったキメラは知性を得たかもしれない。
 あの二人はその事に感謝し、モロウを慕っているようだった。彼らからすればモロウは創造主にも等しいのかも知れない。
 生命の秘密を解き明かす。人を造ると、さも崇高な事のようにあいつは言った。
 ……けど、これは殺人だ!

 兄弟は同じ結論に達した。
 奴は悪だ。
 一刻の猶予もない。今すぐ捕まえなければ、間違いなく殺しは続く。

「止めなきゃ」
 アルフォンスが呟いた。
「あいつは何度でも同じことをする。これ以上犠牲者が増える前に止めないとダメだ」
「ああ、一から対策を練り直す、君たちも……」
 無線を終えた大佐が言いかけた時、エドワードがその言葉を止めた。
「……待った。撤収する前に寄りたい場所がある。もしかしたら、そこにモロウがいるかも知れねえ……」
「心当たりがあるのか?」
「心当たりっていうほどでもねえけどさ、多分第5研究所。間違いなくモロウはあそこに関わってたし、いくらなんでも細菌のキメラを普段から持ち歩いてるかは疑問だろ? どこかに封印されてる可能性の方が高い。
 もちろんモロウしか知らないどこかの可能性もあるけどよ、何か手がかりがあるかも」
「兄さん、あそこはとっくに崩壊してるよ」
「見た目、はな」
「あ」
 その一言でアルフォンスもピンと思い至った。
 第5研究所は目に見えてる部分だけじゃない。十中八九、公には存在しない秘密の区画が存在する。
「地下室! そうだ、あそこに隠れてしまえば、一般兵には絶対見つからない。それにホムンクルス達も切り捨てた場所だ……」
「……一旦身を潜めるには好都合という訳か。しかし上層部も秘密にしたい場所ならば、兵を動かすのも止められるかも知れんな」
 マスタングはしばし考え込んだ。
 今、上層部を刺激しすぎるのは得策ではない。突入には中央の兵は使えんだろう。
 秘密を守れる部下――ハボック達にこっそり防疫装備を準備させて……。

 短気なエドワードは、何やら考え込んでるマスタングの姿が、どうしても我慢ならないと感じ始めていた。
 そしてそのまま、その考えを口に出して叫んだ。
「大佐、悩む事なんてねえだろ! 速攻、速攻だよ! 今はこっちが押してるだろうが! 相手に立ち上がる時間をやるな!」
「しかし、今のままでは準備不足だ。ガスマスクくらいは……」
「だーかーら、相手は俺達よりもっと準備不足なんだよ! どんな武器持ってようが使われる前にボコればいいって事だろうが! 兵は拙速を貴ぶって言ってたのは大佐じゃねえか!」
「それはそうだが……」
 数瞬悩んだ末、マスタングは決断した。
 無線でハボック少尉を呼び出し、何とか必要な品物を調達して急いで第5研究所に来い、と。
 そして無線を切るとドライバーのホークアイ中尉に向かってこう指示を出す。
「急いで第5研究所跡へ向かえ。ハボック達は後から来る予定だ。できるならそれまでに片づける」
 
 
 4人が崩壊した第5研究所に向かうと、立ち入り禁止の看板とロープが張られているだけで簡単に近づく事が出来た。
 どこか入れる場所はないか? と三人が周囲探ろうとした時エドワードがまた騒ぎ出す。
「まどろっこしい! こうすればいいんだよ!」
 その言葉と共にエドワードが地面に手を置くと、バチバチと錬成反応光が輝き、次の瞬間には、梯子の付いたマンホールほどの大きさの穴が出現していた。
「さあ行くぞ!」とエドワードは真っ先に梯子を下りていく。
 その後ろに続く大佐は、時間が惜しいのであえて言い出しはしなかったが、もしここにモロウが居たら我々の事がバレたな、と思った。
 続いておりて行くホークアイ中尉は、気付かれたわねと思っていた。
 できるならこっそり入りたかったと、殿のアルフォンスは思った。


 4人が梯子を降りてみると、そこはどうやら通路であるらしかった。
 そして驚くべきことにその通路の一方の端には明かりが見えていた。
 電源がまだ生きている、という事実にいやがおうにも4人の緊張は高まる。4人は慎重にその明かりへと近づいていった。
 辿り着いたのは直径10mほどの円形の部屋だった。そこでエドワードはある事実に気が付く。
「ここは……」
 似ている。
 崩壊した場所にあった、賢者の石の製作現場に。
 ここでは何をやっていたのだろうか、この部屋でも賢者の石を作っていたのだろうか……。
 そのように考えた事が、エドワードの心に空白を作った。
 異変にいち早く気が付いたホークアイ中尉が、咄嗟に発砲した事で他の3名も自分達が待ち伏せを受けていた事に気が付いた。
 中尉の銃身を切り詰めたウィンチェスター小銃が火を噴くと、一瞬遅れて闘犬のキメラ、エッドールが天井からぶらりと降りてくる。
「惜しいな」
 エッドールのそう言うと同時に、再び中尉のライフルが鉛玉を吐き出す。エッドールはジグザグに飛び跳ねながら、辛うじて銃弾を回避していた。
「走って! 行きなさい!」
 中尉は鋭くそう叫んだ。
 こいつがいるという事は、確実にモロウはここに居る。ならば今すべきことは、この場からモロウを逃さない事。一刻も早く捕える事。
 頭を押さえればそれでこちらの勝ちだ。一々全員でキメラの相手をする必要はない。
 その意図を読み取ったのか、エルリック兄弟は全速力でさらに奥へと疾駆した。それを援護するように、バンバンと銃声が響き渡る。


 エルリック兄弟の姿が見えなくなると、守勢であったエッドールが突如として笑い出した。
「ハハハハ! 四対二なら勝ち目のあったものを、こちらの思惑通り分散してくれてありがとうよ。二対一づつなら確実に我々が勝つ」
「二対一なら勝つ?」
 大佐が首を傾げた。
「すぐに我々は貴様を倒して鋼の後を追うつもりだが? 浅知恵はどっちだ? 焔の錬金術師を甘く見すぎだ、愚か者め」
「……傲慢!」
 エッドールはマスタングの瞳を真っ直ぐ見据え、吼えた。
「火神(プロメテウス)から知を学んだのが、自分達だけだと思うなよ、人間!」
 エッドールの体に変化が起こった。
 巨躯はさらに膨れ上がり、服が破れたかと思うと、皮膚は黒い獣毛で覆われ、特に首筋にはたてがみが生え、鼻は突出し、頬大きく裂け、異常に発達した犬歯がそこからチラチラと覗いていた。
 キメラの変態が終わる前に、ホークアイ中尉はいささかも躊躇わず、発砲した。
 弾丸は寸分も狂いもなく、エッドールの心臓があるべき位置へと着弾する。
 鈍器で殴られたかのように、エッドールが一歩後ずさり、その場所からは確かに血が噴き出した。
 だが、それは薄皮一枚破ったにすぎなかった。剛毛と、強靱な皮膚、そして分厚く発達した筋肉は、高速で螺旋を描く44口径の弾丸を防ぎきったのだ。
「弾が小さすぎるな」
「……では灼いてやろう」
 パチンとマスタングの指がこすれ合うと、小さな火花が弾けた。
 見た目にはいかにも無害で、可愛らしいとさえ思えるその火花は、その実恐るべき破壊力を秘めた業火の一端である。
 チリチリと滑るように火花は走って行き、エッドールの眼前でマスタングの炎はその真の姿を見せた。
 エッドールは身を伏せながら、殆ど避難するように後退していく。
 ドンッとエッドールは突然、前頭部を殴り付けられた。謎の打撃の正体は、ホークアイ中尉のライフルである。
 屈辱を与えた相手に、本能的に飛び掛かりたい衝動を抑え、エッドールは大きく横に跳躍した。
 間一髪だった。一瞬前まで自分がいた場所が炎に飲み込まれるのを見たのだ。
 飛び道具、そして炎。
 人間を他の獣と隔絶した生き物へと押し上げた二つの武器。この二つを操ることが出来た為に、人間は自らを『知恵あるヒト』と号したのだ。
 
 だが、勝てる。
 獣が畏怖しつづけてきた二つの武器を前にしても、エッドールは自分の勝利を確信していた。
 自分は学んだ。火を知っている。銃を知っている。ならばどうしてただの人間如きに敗れようか。自分を生み出したのは、真に知恵ある者アルフォンス・モロウなのだ。
 その事は、エッドールにとって誇りだった。


 先へ行ったエルリック兄弟もまた、今一人のキメラによってその行く手を阻まれていた。
「ああもう! 左足も機械だったの!? 面倒くさいわね……」
 確実に蹴り折ったと思った一撃が今一つに終わり、アリシアは地団駄を踏んだ。
 その姿もエッドールと同じく、直立した犬の姿である。しかし、ふわりとした白い体毛とほっそりとした体躯は、無骨なエッドールと違いどこか気品を感じさせた。
「テメエさっきの奴……か?」
 声と仕草からエドワードは、目の前の敵が先ほど交戦した相手だと看過した。
 エドワードの額に、焦りと不安から大粒の汗が浮かぶ。アルフォンスが人間であれば同じように汗を流していたであろう。
 獣の姿と化したアリシア。こいつは人の姿であった頃の比ではなくヤバい。
 鋼の錬金術師の脳裏に、先ほどの光景が浮かんだ。
 錬金術を使おうと、手を結ぼうとした瞬間、手を合わせるより早く、攻撃を受けたのだ。
 速い、などと言う言葉では済まない。
 キメラだから、という理由だけでは説明が付かない程の神速だった。
 そしてどこか奇妙だった。こちらが動こうとした瞬間、逆に攻撃を受けているのである。

 エドワードが固まってしまった時、アルフォンスは勇気を奮い起こしてアリシアに向かって行った。
 初弾は下段の蹴り。しかしこれはフェイントである。本命は蹴りが避けられたり受け止められた際に間髪を入れず襲う、錬金術の石壁だ。
 ローキックを放ちつつ、アルフォンスが手を合せようとした刹那。
 アリシアの獣じみた手が、アルフォンスの手首を掴んでいた。鎧の戦士は戦慄する間もなく、腕を捻られ地面に叩きつけられる。
「アル!」
 エドワードが弟を助けようと身を乗り出した瞬間、眼の前の僅か一寸ほど前を超速の回し蹴りが翳めて飛んだ。
 チッとアリシアは舌を打つ。エドワードの動きが遅すぎて当たらなかったのだ。
「うう、お、おおおおおおおっ!」
 鎧が跳ね起きて、叫びを上げると、がむしゃらにアリシアへ向かって突撃した。
 カウンターなり何なりと攻撃を受けるのは全て覚悟の上。
 この相手は自分達より数段上のスピードの持ち主だ。
 まず組んで動きを止めないと勝負にならない。そしてそれは、痛覚もなく相手を抑え込める体格を持つ自分の役目だ!
 そう覚悟したアルフォンスの決死の体当たりだった。

 しかし、アリシアはそんなアルフォンスを嘲笑うかのように、闘牛士のようにさっと身を翻してアルフォンスと交差すると、五歩六歩と距離を取ってから振り返った。
 そして「ハァ」と大きく息を吐くと、白い吐息がその口から漏れ出す。そればかりでなく、アリシアの全身から湯気がふつふつと湧き上がっていた。
「本気で走るとやっぱり楽しいわ」
 アリシアは微笑んだが、エルリック兄弟はその光景に禍々しいものを感じて、息を呑んだ。
 この相手はこの世の物ではない。そう思わせるに足る姿だった。

 獣となったアリシアの速度は、ある閾値を越え、回避のみならず攻撃にも十全にそのスピードを用いる事を可能にしていた。
 それにより、アリシアは武の熟練者だけが達する境地に足を踏み入れる。
 兵法書に曰く。
 敵何事にても思う兆しを敵のせぬ内に見知りて、敵の打つといふ“う”の字の頭を押さへ、懸るといふ“か”の字をの頭を押さへ
(敵の考える動きの兆しを敵が動く前に知り、敵の打つという時その“う”を押さえ、懸る時“か”の字を押さえ)

 跳ぶといふ“と”の字の頭を押さへ、斬るというふ“き”の字の頭を押さへること。
(跳ぶと言う時“と”の字を押さえ、斬ると言う時、“き”の字をまず押さえてしまう)

 我が心いかにも強くして、敵を尽く拉ぐ心にて底まで強き心に勝つ。
(自らの心を強く持ち、敵を底の底まで挫き尽くす心で勝つ)

 敵の際へと寄るとはや揉み立つる先。我が方より懸る先、懸の先といふ也。
(敵の側へ寄るや否や激しく攻め立てる先、自ら敵に懸る先、すなわち懸の先)

 この懸の先こそ、大総統キング・ブラッドレイの剣の骨子となる術理である。
 アメストリス最強の剣豪が、弛まぬ戦闘訓練と、対手の僅かな機微も逃さぬ最強の眼を用いて到達した領域へ、若き獣は、持って生まれたな圧倒的な身体能力と
モロウの与えた知……相手の心の内を読んで嘘を付いたり拗ねたりしてみせる心、すなわち『女の勘』をそれぞれ代用する事で辿り着いていた。


 エドワードとアルフォンスはまるで蛇に睨まれた蛙であった。
 互いの距離は5、6メートル。しかし、こっちから動いたらやられると、何となく本能的に察知していたのだ。
「……来ないならこっちから行くよォ!」
 アリシアが地を蹴ると、立ち上る湯気が幽霊のように揺らめいた。



[39805] 第九話 家族
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/06/08 23:07
 僕には親も兄弟もないんだ。
 ナダレはひとりぽっちの弟みたいなもんだよ。
 この弟に物が言えたら、人間ぐらいの知能があったら……。

                   ――大江戸 ダイゴ


 第一歩は大地を蹴り、第二歩は壁を蹴り、第三歩は天井を蹴ってアリシアは稲妻のように跳び蹴りを放った。
 金属が拉げる嫌な音が響くと同時に、蹴りの圧力に圧倒されアルフォンスが片膝を付く。
「この……」
 懸の先。
 エドワードが動こうと体重を移動させた刹那、アリシアの足払いがエドワードの軸足を刈り取っていた。
 咄嗟の事に受け身を取る暇もなく、エドワードは地面を抱き、「ぐっ」という短な呻きを漏らす。
 その直後に、アリシアは背後であるはずのないアルフォンスの息遣いを感じた。
 足払いの勢いを殺さず、むしろ回転を加速させてアリシアは真後ろに回し蹴りを放つ。
 蹴りが当たる直前に見えたアルフォンスの姿は、頭の中で思い描いていたアルフォンスの姿とピタリと符合していた。
 カウンターの形でヒットした回し蹴りは、アルフォンスの肩を大きく変形させ、さらにアルフォンスの巨体を勢いよく壁に叩きつけた。
 ズンっという衝撃が走り、地上では研究所の残骸がガラガラと崩れる。

 アルフォンスの不意打ちは、成功しなかった代わりにエドワードに一瞬の間を作った。
 その一瞬を利用し、エドワードは槍を錬成。体勢を整えると同時に、アリシアの脛に向かって一閃した。
 猟犬のキメラは難なく飛び跳ねて回避……その瞬間エドワードは槍を持ち直すと全神経を集中させて、アリシアの動きを追った。
 狙うのはキメラが落下を始めた時である。空中では方向転換はできない。
 はっという気合の掛け声と共に、エドワードは突きを繰り出した。
 当たった!
 エドワードはそう確信したが、槍を持つ手に手応えは伝わってこなかった。必中の槍が貫いたのはアリシアの体から発散される湯気にすぎなかったのだ。
 鋼の錬金術師は驚愕し目を見開いた。

 アリシアは天井に手を付き、天井を押す事で、エドワードの予想よりも遥かに速いスピードに加速していたのだ。
 続く数瞬の間エドワードは技量の限りを尽くして、幾度となく突きを放ったが、そのどれもがアリシアの影を縫うのがやっとであった。
 ただでさえ捉え難いというのに、アリシアは広いとは言えない通路の中を、側面天地の区別なく縦横無尽に駆け回る。
 攻め手のエドワードがその動きに翻弄され始めた時、両者の攻守は入れ替わった。
 壁から天へと駆け上がり、鉈を振り下ろすような踵落としがエドワードの鼻先を掠めたかと思うと、次の瞬間にはアリシアは壁から壁へと跳び移り、背後から襲い掛かる。
 槍を盾にすることで、何とかその一撃は防いだが、代わりに石槍はあっさりと砕かれた。さらに息つく間もなくアリシアは攻撃の手を緩めない。
 キメラの長い腕から繰り出される三発の拳を辛うじて受け流した刹那、エドワードは血が凍るような感覚を味わった。
 極限まで集中したエドワードの意識は、迫りくる四撃目の拳と確かに捉えていたが、体の反応が間に合わない。
 鋼の腕が鉛のように感じられた。
 死ぬ。

 ゴン、という鉄球をブチ当てたかのような音がして、アリシアの拳はコンクリートの壁を貫いた。
 エドワードの頭から横に20㎝も逸れた空振りだった。
「……ちっ」
 アリシアは舌打ちすると一旦距離を取って、体から立ち上る湯気を払うようにブンブンと頭を振る。
「……あーあ、的が小さいから外れちゃったわ」
 軽くおどけて見せて、アリシアはそう言った。
 普段であれば、小さいと言う言葉に反応してエドワードは激怒したであろう。
 しかし、恐怖によって芯の底まで冷えたエドワードの心は、むしろ奇妙なほどクールになっていた。

 あの瞬間は相手にとって絶好の機会だった。
 間違いなく自分は死んでいたはずだ。
 なぜ、それをこいつは外した?
 怒る代わりにエドワードは逆に問いかけた。
「本当か?」
「……」
 アリシアは何かを言おうと口を開いたが、口から白い吐息が漏れただけで、結局返答に窮して口ごもった。
 その反応にエドワードは勝機が見えた気がした。
「もしかしてよ……お前、もう限界か?」
「馬鹿にしないで。私は猟犬よ。体力だってあんた達とは比べ物に……」
「問題は体力だなんて言ってねえよ。お前が限界なのは……体の冷却機能」

 異常なほどアリシアの体から立ち上る湯気からの推察だった。
 そしてエドワードの推察は当たっていた。
 キメラとなったアリシアは、衰えるどころか元の自分を超える能力を得たが、自然の摂理を超えた身体能力には代償があった。
 キメラの強靱な体は体力的にも、心機能的にも、筋力的にも身長2m体重100㎏の体を全力で何十分と動かす事が可能である。
 しかし、その全力全身駆動を連続して行った場合、新たに得た発汗機能も虚しく、アリシアの体温は容易く42度のデッドラインを超える。その体温の上昇に脳細胞が耐えられないのだ。
 これこそアリシアの抱える弱みであり、わざわざ二手に分かれて高熱を発するマスタングとの戦いを避けた理由でもあった。

 図星を突かれたアリシアは両手を仰いで、開き直った。
「……だから私に勝てるとでも? こっちは熱くならない様に軽く流して走ってもいいんだよバーカ」
「バカはテメェだ!」
 エドワードが叫んだ瞬間、アリシアの背後でアルフォンスが動いた。
 頭がのぼせれば、勘働きも鈍る。アリシアは完全に不意を突かれた。
 予想外の事態にアリシアの立ち上がりが遅れる、反応が遅れる。錬成を許す。
「エルリック兄弟が手ェ抜いて勝てる相手かよ!」
 前後から迫る二人の猛攻の前に、本当の意味でアリシアは後手に回った。



 エッドールと二人の軍人は一進一退の攻防を繰り返していた。
 間合いを詰めたいエッドール、なるべく接近を許さず離れて仕留めたいマスタングとホークアイの戦いは、さながら白熱したチェスのよう。
 ホークアイのライフルが爆ぜる。
 だがそれは牽制である。
 銃で仕留められない以上、あくまで本命はマスタングの焔だ。それを十分に理解していたホークアイは援護に徹していた。
 仕留める事は不可能でも、ライフル弾の打撃に似た衝撃はエッドールの足を止めさせるには十分である。
 動きを止めるか、或いはマスタングの狙う方向に誘導する為、銃弾が吐きだされる。
 そして次の瞬間、爆炎が咆哮した。

 二人の攻撃を避け続けながら、エッドールは唸った。その体には既に何発かの銃創と痛ましい火傷が刻まれている。
 奴らの手は長い。例えるなら幾重にも兵を敷いた堅牢な城塞だ。これを崩すのは容易ではない。
 ほんの一瞬の間繰り返される心理戦。誘導、フェイント、タイミングを早め、もしくは遅らせ、こちらを惑わす攻撃を必死になってエッドールは凌ぎ続ける。

 そして、その間にエッドールは少しづつ少しづつ、焔の錬金術と銃、そしてそれを操る二人の人間を学んでいた。
 夥しい偽装に隠された、クセと思考、二人の操る術の特性の欠片を拾い集める作業は何よりも困難と忍耐を要求した。
 しかし研ぎ澄まされたエッドールの集中力は、決して弛むことなくか細い勝利への道を模索し続けていた。

 遅々とした歩みだが、一手ごとにエッドールは確実に最適解へと近づき始めていた。最小の動きで攻撃を避けることが出来れば、その分前へと進める。
 そして間合いに入ってしまえば、その時こそエッドールの勝利である。

 チリチリと自分の肉が焦げる匂いを嗅ぎながら、エッドールはある事実に気が付いた。
 飛来する弾丸も、マスタングの焔もある意味では同じ物。
 一旦放たれた弾丸の軌道はもはや変わらない。
 マスタングの焔はそれよりは幾らか柔軟だが……もしやこの焔、爆発を早める事は容易でも、一旦放った着火の種火をUターンさせて引き戻すのは非常に困難なのではないか?
 詰まる所、どちらも引き金を引く瞬間さえ見逃さなければ、あとはタイミングの勝負。
 着火から爆発までのタイムラグ、銃弾が放たれてから次弾を撃つまでのタイムラグ。それこそ自分の勝機である。
 そして均衡が崩れる瞬間は必ずある。
 エッドールは息を潜めてその瞬間を待っていた。

 そしてついに、エッドールが待ち望んだ瞬間がやって来た。
 ウィンチェスターライフルが火を噴いた、次の瞬間、マスタングは右、左、右と続けざまに三発の種火を放つ。
 その後ろで、ホークアイ中尉がライフルを放り捨てて、腰のホルスターに手を伸ばす。弾切れだ。
 この瞬間こそ、俺の勝機。エッドールは怯まず前に向かって走った。
 爆発のタイミングをずらしつつ放たれた、大小の火球がその眼前に立ち塞がる。
 最初の火球は地を這うように身を伏せて避けた。熱とは押しなべて上に向かう。下方こそ安全圏。
 次の火球は身を横にずらして躱した。右腕に刺すような痛みが走るが、構うものか、全てが終われば先生が治してくれる。
 最後の火球は避けなかった。
 エッドールは灼熱の焔が爆発するよりも早く駆け抜けて、ついに間合いへと入ったのだ。エッドールの背後で第三の焔が炸裂した瞬間、弧を描いて豪腕が振るわれた。
 城壁は崩れ落ち、ナイトはキングへと迫る。

「おっおおお!」
 マスタングは咄嗟に攻撃を防ごうと腕を上げて胴を守ったが、エッドールの拳は、そのガードの上からマスタングの左腕を小枝のようにへし折り、さらに内臓を守る肋骨にさえひび割れが走った。
「がっ、うう……」
 マスタングは吹き飛ばされるように倒れた。痛みの信号が肩から指先までを支配し、左腕は完全に麻痺。
 倒れ込みながらも右の指を弾いて火花を散らそうとした瞬間、無慈悲にもエッドールはマスタングの右手を踏みつけた。
 ぐちゃりという。骨の砕ける音が響く。

 これで焔は封じた。王手だ、そして……。
 ドン、ドンと拳銃の弾がエッドールの頭を揺さぶる。痛い。痛い。だが。
「豆鉄砲だな」
 エッドールは、震えを押し殺して銃口を向けるホークアイの顔を見ながら言った。
 拳銃の弾では到底俺を殺せない。
 王手詰み。勝った。

 エッドールは勝利を確信した。
 まさにその瞬間、闘犬のキメラの体は焔に包まれた。
「がああああああっ!」
 エッドールは炎から逃れようと、火達磨になりながら闇雲にのたうち叫んだ。
 バカな。どこから火を出した。
 混乱の中で、ドンっと腹に弾が着弾する。
 クソ、ウザった……。
 エッドールの思考はそこで途切れた。
 二発目の火柱が立ち、再び体が焼かれたのだ。
「あ、あ、ああああああっ」
 何だ、何が起きている?
 あの男の両手は潰した。引き金の火花もなしにどうやって……。
 引き金?
 引き金!
 あ、あの女かああああああっ!

 エッドールがからくりに気が付いた時にはもう勝負はついていた。
 エッドールは死力を尽くして立ち上がると、ホークアイがいると思われる――既に両目は潰れていた――方向に向かってがむしゃらに突撃した。
 ホークアイ中尉はエッドールの眉間に向かって拳銃の引き金を引く。
 弾丸が吐きだされた瞬間、銃口から弾と共に顔を覗かせた銃火に、空気中から集められた塵が引火し、小さな火花は塵の導火線を辿って目標の位置にたどり着くと、エッドールの体を三度、そして完全に焼き払った。
 
 マスタングは錬成だけを行い、引き金を引く役割をホークアイに委ねていたのだ。
 キメラの敗因は銃を無害なものだと軽視した事と、極限の状況における咄嗟の判断力、くぐった修羅場の数の差だろう。

「くそ、なんて奴だ……」
 ホークアイに肩を借りながら立ち上がったマスタングは、焼死体を見下ろしてそう言った。
 死線を踏み越え自分に手傷を負わせただけに留まらず、完全に息の根を止めるまでに焔を三発。モロウの奴め、とんだ化け物を作ったものだ。
 勝利を拾ったものの、肝が冷える戦いだった。
「大丈夫ですか?」
 耳元でホークアイが囁く。
 その言葉には答えず、マスタングはただこう言った。
「急ぐぞ、鋼のが心配だ。いっつ……」

 アルフォンスに投げ飛ばされたアリシアは空中でくるりと身を捩り、足から着地すると、即座に反撃に転じた。
 だが、その瞬間エドワードの足刀が翻る。鉄脚の一撃はアリシアの脇腹にめり込み、動きの止まった瞬間、これまた機械義肢の正拳突きがアリシアの腹部と突き刺さる。
 エルリック兄弟の連攻は、アリシアに休む暇を与えない。
「……っ」
 アリシアは歯を食いしばって、心を集中させた。痛みはともかく、血が沸騰して倒れ込んでしまいそうだった。
 朦朧とし始めた意識の中で、アリシアはエルリック兄弟の心の内を計る。
 次はどう来る?
 エドワードが、間合いを詰める。アリシアはその動きをあえて見逃した。
 チビは囮。本命は弟の錬金術だ!
 アリシアの勘はまだまだ冴えていた。アルフォンスが手を結ぼうと動き始める数瞬前に攻撃の起点を潰すべくアリシアは動き出す。
 壁を蹴って跳び蹴りをするべく、アリシアが攻撃の第一歩を踏みしめた瞬間、視界がぐらりと歪み、アルフォンスの姿は四人に分裂した。
「ぐう……」
 壁を蹴る代わりに、アリシアはヨタヨタと壁に寄り添って倒れ込む。もはや攻撃には移れなかった。

 ヤバい。頭がグルグル回る。
 ……だけど、まだ手はある。こいつらが教えてくれた手が。

「……やめて」
 か細い声でアリシアは言った。
 獣じみた姿は徐々に人間のそれに戻り、獣毛は抜けて白い肌が露出していく。
 完全に人間の姿に戻った訳ではなく、人間と獣の要素をごちゃ混ぜにしたかのように幾分かは獣の要素も残っていた。頬は裂け、指先は人間より犬のそれに近い。
 まるで獣を溶かして無理やり人間の型にしたような、見る者を不安にさせる姿だった。恐らく合成に失敗したキメラというのは、このような姿だろう。
 獣の姿でいる時は気にならなかったが、アリシアは裸であった。胸元と股を手で隠し、大きな身を縮みこませて、アリシアはもう一度言う。
「お願い、助けて」
 ビクビクと身を震わせて、目からは大粒の涙を流し、アリシアは訴えた。
「こんな姿でも私は人間よ。お願い、助けて。もうあそこには戻りたくない……助けて、エドワード」
 あそこというのがどこかは分からなかったが、涙を浮かべるキメラの姿にエドワードとアルフォンスの闘志はみるみる萎えていった。
 エルリック兄弟はこの相手は先ほどまで自分達を殺そうとしていた相手というのは承知している。この命乞いが演技の可能性も重々承知している。
 しかしそれでも、アリシアの訴えは二人の良心を締め付けた。文字通り丸腰で震える女性に手を上げる事などできない。
 何よりも今のアリシアの姿に、エルリック兄弟はかつて出会ったニーナという少女の面影を見た。そう、彼女も人と犬のキメラだった。
 二人の心の中で、哀れな少女の声がリフレインして響く。
 えど、わーど、えどわード、エドワード……お、にい、ちゃ、ん。
「助けて、エドワード・エルリック……」

「どうするよ……?」
 エドワードはアリシアの方を向いたまま、弟に訊ねた。
「……僕達はモロウを止めに来たんだろ、兄さん」
 言外に、戦意がない者とこれ以上戦う必要はない、とアルフォンス。
 その言葉を聞いて、アリシアは胸元を隠していた方の手をそろそろと伸ばした。その手はぶるぶると震えている。
 アルフォンスはその震える手に応えて、そっと手を差し伸べた。
 ゆっくりと、だが確かに両者の手は結ばれ、堅く握り合わされる。

 その時、胸の内でアリシアは舌を出して笑っていた。
 そうしてくれると思っていたわ!
 握った手を勢いよく引っ張ってアルフォンスの態勢を崩すと、反動を利用して、エドワードの方へ飛び掛かる。
 死ね!
 と、エドワードに向かって腕を振り下ろそうとした時、空中でアリシアの態勢が乱れた。また眩暈か? 違う。
 まず痛みが走り、一拍子遅れてドンという銃声が響く。
 ホークアイ中尉が銃を構える横で、マスタング大佐がエルリック兄弟を叱咤した。
「油断するな、鋼の!」

 ホークアイとマスタングの姿を見たアリシアは一種の錯乱状態にあった。
 奇襲を邪魔された事よりも、現れるはずのない二人が現れた事に脳の理解が追い付かない。

 こいつらがここに来るはずがない。
 だって、ここに来るのはアイツのはずだから。

 呆然と二人を見つめ、言葉を絞り出した。
「……エッドールは、どうした?」
 その言葉に応えようとマスタングが口を開く前に、獣毛と肉の焼ける匂いが熱風に乗ってアリシアの鼻孔に運ばれた。
 ツンと鼻についたその匂いで、アリシアはやっとの事で状況を飲み込んだ。
「おおおおおおおおおおおおッ! お前えええっ、お前えええええええっ! よくも、よくも、あああああああああああああああっ!」

 アリシアは我を忘れて絶叫した。
 その叫びは途中からは言葉ではなく、血に飢えた獣の咆哮だった。
 悲痛な雄叫びを上げながらアリシアは再び獣の姿に戻っていく。それでも先ほどまだ二足歩行の半獣であったが、今や理性も感情も消し飛んで、そこに現れたのは一匹の巨大な猟犬であった。
 四ツ足をついて涎を滴らせながら、獣は身を引き裂く悲しみに耐えきれず、腹の奥の奥から吼え続けた。


 その場から遠く離れたモロウの部屋まで、その咆哮は届いた。
「……アリシア」
 モロウは呟いて目を伏せる。
 彼女がこうも取り乱す事態はただ一つしかない……家族が死んだのだ。



[39805] 最終話 願わくば連理の枝となり……
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/06/08 23:19
 俺は死ぬ。
 今この身を苛む苦悩を二度と味わう事なく
 満たされず、かといって消す事もかなわぬ感情の餌食になることもなくなるのだ。

                                 ――怪物


 急にしおらしくなったと思ったらこれかよ……!
 ……とにかく大人しくさせるしかない。
 予備のライフル弾を持って来るべきだったわ。
 また私が標的か……。
 
 アリシアの変異に動揺しつつも四人は素早く行動を起こした
 兄弟は両の手を合せ、ホークアイは拳銃の引き金に力を込める。マスタングは辛うじて動く左手を弾こうと指を擦り合わせる。
 だがアリシアの動きは人間の反射速度を完全に超えていた。
 手が合わされるよりも早く、引き金が引かれるのよりも早く、発火布が火花を起すよりも早く、白獣は一瞬にして間合いを詰める。
 彼女にとって四人は凍った彫像も同然であり、そのうち三人はガラクタ同然だった。何の価値も意味もない。
 だが一人だけは別だ。

 ロイ・マスタング。絶対に許さない。

 極限まで圧縮された時間の中で、アリシアは大口を開ける。
 その瞬間、炎が爆ぜた。
 出会い頭にホークアイがアリシアを撃った際に仕掛けておいたマスタングの保険である。
 隠れるように滞空していた火花は、アリシアを意識の外から殴りつけたものの、剥き出しになった動物的本能はこれをほぼ回避した。
 だが、確かに焔自体は躱したものの、次いで襲い来る爆音を避ける事は不可能であった。
 音の衝撃がアリシアの鼓膜と三半規管を揺らし、その体が大きく崩れる。

 ロイ・マスタング……ロイ・マスタング。
 エッドールを返せ!

 倒れたかに思えたアリシアは、その場で踏みとどまると、再び顎を開いてマスタングへと飛び掛かった。
 そのアリシアの特攻を止めたのは鋼の腕である。
 いつの間にか二人の間に潜り込んでいたエドワードは、噛みつきの寸前に義手をアシリアの大口に差し出して、矢じりのような牙を防いでいた。
「もう……」
 止めないか?
 エドワードはそう口にしようとしたが、代わりに口から出たのは悲鳴に似た叫び……いや余りの苦痛に声にすらならない叫びであった。
「いっ~~あ、っか……!」
 例えるならそれは、血管に煮えた油を流し込まれるような耐え難い苦痛である
 義手から発せられる純粋な痛みの信号は、アリシアの心の痛みが伝染したかのようだった。
 痛みの余り振り払う事は勿論、なんで機械義肢から痛みが? と問いかける事さえできない。
 鋼の錬金術師に出来るのはただ痛みに体を捩る事だけだった。

 エドワードにとっては永劫にも思える時間――実際は3秒ほど――が経つとアリシアは頭を振って、エドワードを棒切れのように投げ飛ばした。
 投げ飛ばされたエドワードはアルフォンスに受け止められたが、まだ痛みのショックが抜けきらず、次の瞬間起った出来事をただ眺めるしかできなかった。

 まず業火が現出し、火のカーテンがエドワードの視界を覆う。次いでカーテンの向こうで獣の咆哮。そして銃声。
 何発の鉛玉が発射されたかは分からない。とても沢山の銃声がした。
 やがて炎が晴れると、マスタングとホークアイの足元に巨大な獣の死骸が横たわっていた。

 エドワードはなぜか猛烈に悔しくなった。
 頭では分かっているが、そんな簡単に割り切れる物ではない。
 演技だったとはいえ、一度は助けようとした相手が、目の前でこうも無残に殺された事に腹が立ったのだ。
 ギュッと歯を食いしばると、エドワードはマスタングに挑むような視線を向ける。
「……大佐、ここまでやる必要があったのか?」
「自分の腕をよく見ろ、鋼」
「あ?」
 訳も分からずエドワードは機械義肢を見ると、鋼の腕に歯形が刻まれていた。
 傷の深さは1センチもある……あの痛みの正体が分かった。
 牙の一部が義手の装甲を貫通し、電気信号を伝える人工神経に触れていたのだろう。
 だがそもそも幾ら獣の咬筋力とは言え、カルシウムの牙が鍛鉄を貫くなど本来ありえない事である。
 しかしアリシアの執念は、そのありえない事をしたのだ。

「言葉で止められると思っているのか?」
「……」
 エドワードは不機嫌そうに顔をしかめた。分かっている。分かっているのだ。ただ納得はできないのだ。
 もしも、アリシアが裏切らなかったら……。

「時間がない。行くぞ、後はモロウを止めるだけだ」
 そう言ってマスタングとホークアイは焼死体を一瞥もせず歩みだした。
 淡々と歩を進めるその背中を見て、エドワードとアルフォンスは見知った二人の軍人が、全く別の誰かのように思えた。


 さらに奥へと通路を進んで行くと、四人は扉を見つけた。
 無言で目配せし、怪我をしていないホークアイとアルフォンスが呼吸を合わせる。
 アルフォンスが勢いよく扉を蹴飛ばすと、銃を構えたホークアイが素早く中へと滑り込んだ。
 そしてすぐにホークアイは拳銃の照準の向こう側に、アルフォンス・モロウの姿を認める。
 モロウの研究室は真ん中の辺りでガラスに仕切られていて、彼はそのガラスの向こう側で使い込まれた研究デスクに向かい、椅子に腰かけていた。
「両手を上げて後ろを向きなさい」
 ホークアイは鋭くそう言ったが、一抹の不安を覚えた。もしやこれは防弾ガラスだろうか。

 そしてモロウもホークアイの言葉を無視した。
「まさかとは思ったが、あの二人が敗れたというのか……なんて事をしてくれた」
「なんて事をしてくれただと!?」
 いつの間にか部屋に入り込んでいたエドワードは、ツカツカとガラスの仕切に向かい、吼える様に言った。
「全部お前が原因だろうが! テメーの勝手な行動のせいでどれだけ被害が出たと思ってる!」
「私は私に必要な事をしたまでだ」
「何だとこの野郎!」
 あくまで当然という顔のモロウに対して、エドワードは今にも飛び掛かりそうになっていた。
 ガラスを破ろうと、エドワードはパンと手を結ぶ。
「おっと、止めておきなさい。アレが何だかわかるか?」

 モロウは椅子に座ったまま、部屋の隅に置かれていた金属製の容器を指差した。
 その物体は細長い球体で、大きさはバスケットボール四つ分ほど。そして中央には大きな穴が開いていた。
 エドワードの手が止まると、モロウが満足そうに言う。
「S-04、私の作った細菌兵器だ。ガラスのこちら側は既に汚染されている。破らない方が身の為だぞ。空気感染し、潜伏期間は3日から5日。ワクチンなしの場合生き残るのは27人に1人……
 これがどういう意味か分かるかね? S-04は人間ではなくコミュニティを破壊するのだ。指導者層から下層民まで分け隔てなくこの割合で死ねば、その地域の社会はもはや機能せん。
 そして人間は社会性の動物だ。僅かに残った者達も社会基盤がなければ遠からず死に絶える」

「脅しているつもりか」
 マスタングが言った。
「もうすぐ私の部下がガスマスクと防護服を持ってくる。細菌など役に立たんぞ。抵抗は無駄だ」
「そんな事だろうと思った。もはや抵抗はせんよ。ただ……ただ……あの二人を失い、長年の努力も水泡に帰した……心を整える時間が欲しかったのだ」
 モロウは溜息を吐き、エドワードとアルフォンスを見た。
「その体は人の錬成をやったな。君達は誰を造ろうとした?」
 囁くような声でアルフォンスが答える。
「……母さんです」
「その母親をオレ達は殺したんだ。錬成した母さんは目茶苦茶になってて……挙句この様だ」
「きっとさぞかし美人だったろうな。禁忌を犯させるほどに」
「……この世で一番だ」
 エドワードがそう断言するとモロウが乾いた笑いを上げた。
「ハハハ、そうか。実は私もだ。この世で一番綺麗な人を造ろうとした……君たちはまだ幸運だよ、最愛の人に触れた事があるのだから。
 だが、私は……彼女に触れた事すらない。いやそれどころか私が造ろうとしている人は、この世に生まれ落ちた事もない。だが確かに存在する。存在するのだ! 私の中に!
 彼女を現出させられるのなら、私は何だってする……]

 エドワードら四人にとってモロウは殺人鬼である。
 しかし、自らの心情を吐露したその姿は、どこか滑稽で、哀れだった。この男は存在もしない女の妄想に取りつかれている。
 その哀れみの視線に気が付いたのだろう。
 モロウは椅子から立ち上がり、こう言った。
「その顔は信じていないな。よろしい、彼女を見せてやろう。彼女を一目見れば、私の言っていることが分かるはずだ」
 手慣れた調子でモロウは床に錬成陣を描いていく。
「私には才能がない。君達兄弟のように錬成陣もなしに錬成する事も、大佐のよう焔を出すような事も無理だ。だが一つだけ取り柄がある。誰にも負けない取り柄がね」
 描き終わった陣の上にモロウが手を触れると、錬成光と共に陣の中心から円柱が飛び出した。
 石を削り出す作業を早送りしているかのように、その円柱から物凄い速さで無駄な部分が削ぎ落とされていく。
 下部は徐々に足の形となり、腕が現れ、その先には指が。顔にはツンと高い鼻に、くっきりした唇。猫を思わせる目。
 やがて完全にそれは人の形となり、美しい女性の彫刻となった。
 しかしモロウの錬成は「美しい彫刻」に留まらなかった。

「……マジかよ」
「……そんな、まさか」
 ほぼ同時に、エドワードとアルフォンスが異変に気が付いた。
 これだけの速度で錬成を行いながら錬成痕――錬成物に僅かに残る痕跡がまるでない。
 そしてさらにさらに錬成は続く。
 その彫刻はゆったりとしたドレスを着ていてふわりとした質感とその下にあるはずの、尻とくびれと胸を見事に再現していた。
 指先には、爪、掌のあらゆる皺、そしてやがて指紋が現れた。
 唇は艶やかに磨かれ、まつ毛、眉毛といったものは勿論、その長髪の一本一本が独立して刻まれていた。

 細菌同士の合成すら可能にする、超精密錬成。
 モロウが生涯をかけて磨き続けた魔技であり、一度の錬成量ではエドワードやアルフォンスに遥かに劣るモロウが、国家資格に値すると認められた技能だった。

 パチりパチりと錬成光が閃くと、錬金術は専門外であるホークアイすら息をのんだ。
 彫刻の女性が、光が眩しいとでも言うかのように、瞬きをしたのだ。
 それだけではない、次の瞬間には彫刻の両腕が動いた。
『彼女』はドレスの裾をつまみ上げて四人に向かってぺこりとお辞儀をした。裾が持ち上がると、その下には当然のように二本の艶めかしい足が覗く。
 再び錬成光が閃く。
 タンタンと『彼女』は小刻みにステップを踏んだ。そして『彼女』ドレスを翻してくるり一回転すると、もう一度さらに激しく早くステップを踏み続ける。
 腰をうねらせ、腕を振って、『彼女』は踊っているのだ。まるで生きているかのように。

 連続して錬成を行なうことにより、彫刻を粘土のように動かす。
 理屈は分かる、と思いながらエドワードは自問した。
 もっと粗くでいいのなら自分にもできる。だがこれができるだろうか?
『彼女』が身を翻す度、空気に煽られるようにふわりとフリルの付いたドレスが浮き、形が少し崩れる度に、新たな皺が生まれる。だが無論ドレスも石である。全てモロウが動かしているのだ。
 エドワードは踊る『彼女』の奥で錬成を続けるモロウに目をやった。血走った眼の鬼気迫る表情が錬成光に照らされて、エドワードに悪寒が走った。
 アルフォンスもまた見た。
『彼女』の首筋や手の甲には時折血管が浮かび、腕や足を動かす度、その石の皮膚の下で筋肉が動くのを。
 そして額に汗が浮かび、さりげなくそれを払う姿を。振りまかれた汗は、モロウの側と四人の側を区切るガラスに当たって、カチンと音を立てた。
 この彫刻には内臓や骨格があり、それぞれが独立して動いているんじゃないかと、アルフォンスは訝しんだ。
『彼女』がさっとターンして頭を振った時、髪がぱっと翻り、さらさらと流れるのを見て、さしものマスタングも舌を巻いた。
 よく見ると、ドレスの意匠が変わっている。新たなドレスの胸もとには大きな花が咲いていた。
 逆ターン、再びドレスが元に戻り、花が消える。
 さらにターン。胸元に花。だがその花は散っていて、花びらが右の肩の辺りまで舞っていた。
 逆ターン。花びらが消える。
 ターン。花びらはさらに進み『彼女』は右の掌に花びらを握った。
 逆ターン。『彼女』の手に握られていたのは両刃の剣だ。『彼女』は剣をくるくると回して、邪気を払うように二度三度と剣を振ってから、いつの間にか現れていた鞘にその剣を収める。

『彼女』の舞が終わるとモロウは深く深く、息を吐いた。
「どうだ、諸君。彼女は綺麗だろう? この世の何にも増して」
「……」
 四人の返答は沈黙であった。
 だがその表情から、疑念が消え、驚愕が浮かんでいる事がモロウを満足させた。
 目は口ほどに物を言う。在り来りの賛辞などよりも、無言の畏敬の方が『彼女』には相応しい。

 モロウはニッと笑うとポンともう一度地面に手を置いた。その動きはあまりにもさりげなく自然であったので、マスタングとホークアイさえ反応出来なかった。
 錬成光が弾けると同時に『彼女』の石剣が閃いた。
 仕切のガラスにベッタリと鮮血が飛び散る。
『彼女』の居合斬りはモロウの首を刎ねた。


 初めて彼女に出会ったのはいつだろう?
 残念ながら覚えていない。
 遠い昔、覚えている最初の記憶は、『彼女』と遊んだ事だ。その時既に『彼女』は私の中にいた。
 以来、『彼女』は私の人生の隅に姿を見せるようになった。微睡みの中に、視界の端に。
 雑踏に紛れて『彼女』は私の名を呼び、本を読んでいる時、姿を見せる事なく私の肩を叩いた事もあった。
 ある日自室に入った途端、『彼女』の匂いを感じた事もある。一瞬でその香りは消えたが。
『彼女』は常に私の側にいた。
 だが決して触れる事はできない。

 気が付くと、モロウは野原の上に立っていた。
 誰かの気配を感じて振り返ると、そこに『彼女』がいた。

『彼女』の足元には白と黒、二匹の犬がいる。二匹ともとても大きな犬だが、私に吼える様子はない。
 私の『彼女』の距離はほんの数歩だ。その間に障害となる物は何もない。私は『彼女』が消えてしまわない様に、そっと歩み始めた。『彼女』は消えなかった。
 彼女がほほ笑む。
 私は手を伸ばす。

 その手は、伸ばしきる前に止まった。
 私をここまで歩ませた力。私が『彼女』と同じくらい信じている力。『彼女』に辿り着く為に磨いた力が、『彼女』に触れる前に私の腕を止めた。
「嘘だ」
 冷徹な理性が言った。
「私は第五研究所の地下で死にかけている。そして死の間際に、自分に都合のいい夢を見ているだけだ。これは全部幻だ! 私は『彼女』を造る事が出来なかった……だがそれでも夢などいらん!
 私が欲しいものは本物の『彼女』だけだ……」
 そう言うと、『彼女』は消えた。二匹の犬も野原も消えて、ただ闇があった。
 モロウがゆっくりと目を開くと、闇は消え、血の滴る剣を持った『彼女』の像があった。
 一部の隙もない、見事な『彼女』の現身である。
 だがそれでも……ただの石くれだ……。

 再びモロウの意識は闇に消え、二度と戻る事はなかった。



「なんだかなぁ」
 数日後、エドワードは晴れない気持ちで宿泊しているホテルのベッドに寝そべっていた。
 あの後ハボック少尉たちが防護服を持って現れ、モロウとキメラ二体の遺体の回収に成功。
 場所が場所だけに、大っぴらに報道はされなかったが、事件は無事解決という運びになった。
 しかしエドワードは胸に引っかかる物を感じていた。
 犯行を行なっていた三名は全員死亡。
 時間が経ち冷静になってくると、もっと上手くやれたのではないか? という思いが脳裏によぎる。
 特に、あの二人のキメラはモロウに従っていただけだ。
 もしかしたらあいつらも被害者だったのかも……あの時本当にアリシアが手を伸ばしたら助けられたのではないか……?
「なぁアル」
「何、兄さん?」
「錬金術って何なんだろうな」
「……難しい事を聞くね」
「錬金術師よ、大衆の為にあれ。だけど人を傷つけてばっかりだ。人体実験に病原菌の錬成、俺達だって人体錬成でこのザマ……」
「……」

 重い空気が流れた、その時、コンコンと誰かがドアを叩いた。
「開いてるぜ」
 エドワードがそう言うとドアが開いて、二人のよく知った人間が顔を出した。
「む、元気がないな、鋼の。私など骨折しているのにバリバリ働いているのだぞ」
「なんだ大佐か……」
「何だとはなんだ。せっかく今回の件の報酬にお土産を持ってきてやったのに」
「いらねえよ。今、そういう気分じゃねえんだ」
「いや、無理にでも受け取ってもらう」
 どんと大佐は土産と称した荷物をテーブルの上に置いた。アルフォンスが興味深そうに覗き込む。
「なんです、この本?」
「昨日、アルフォンス・モロウの隠れ処が見つかった。そこにあった奴の研究ノートだ。暗号化はされてないからすぐに読めるぞ」
「あ?」
 エドワードがむくりと上体を起こす。
「いらねーよ、そんなもん」
「本当かね? これには君たちの求める答えのヒントが隠されているかも知れないぞ。なんといっても奴は生体錬成のエキスパートだ」
「いらねーってんだよ。気分が悪くなる。持って帰れ」
「……鋼の」
 マスタングは言い聞かせるように話し始めた。
「イシュヴァール戦で奴は細菌兵器を作った。これを使う事は誰もが反対だったが、これを研究することに関しては賛成の方が多かった。私も含めてな。なぜだと思う?」
「……軍人だからか?」
「違う。我々は錬金術師であるからだ。いいか、鋼の。この世の全ての理論は最初から自然に存在している。科学とはそれを見つけ出す事だ。そこに正邪はない」
「バカな研究をする理由になってねえ」
「つまりだ、我々の戦う相手の中にアルフォンス・モロウが現れないという保証はないのだ。二人目のモロウが細菌兵器を使ったらどうする?
 『その存在は知っていたが、危険だから見なかった振りをした。だから対応策も知らない』などと言うつもりか? 我々にそんな事は許されない
 モロウは恐ろしい兵器を作ったが、同時にその治療薬も開発していた。鋼の、君が本気で元の体に戻りたいと願うなら、悪夢から目を背けるな」
「……俺は」
「ショウ・タッカーの事件の時、君は言ったな、『たった一人の女の子さえ助けられない』と。だが、その方法がどこかにあるのかも知れんのだぞ。
 鋼の、悪夢と相対をしたのなら目を逸らすんじゃない。それを観察して解を見つけ出せ。そしてモロウは間違いなく、その答えに最も近付いた一人だ」
「だけど、奴は人殺しだ」
「君は違うだろ」
「……大佐は、錬金術ってなんだと思う?」
「最初に言っただろう。学問だ。そしてそれ自体に正邪はない。それを分けるのは、使う人間なのだ。
 君達が元の体に戻れる日が来るのなら……君達はその答えを独占する気か? 違うだろう? 次は同じ事に苦しむ者を助けてやるはずだ。
 私がここにこのノートを持ってきたのは、それがショウ・タッカーの娘を助ける事に繋がると思ったからだ。それとも……私の見込み違いか? 鋼の錬金術師?」
「分かったよ」
 しぶしぶ、と言った調子でエドワードはそのノートを受け取った。
 そして小さな声で、本当にか細い蚊の泣き声のような声で、「ありがとよ」と付け加えた。
「……ま、君が志半ばで倒れたとしても、君の研究は私の出世の為に使わせてもらう予定だからな、だから安心していいぞ」
「あ? 残念だったな、俺の天才的暗号は大佐なんかに解けねえから」

 その後しばらく二人でギャーギャー言い合った後、大佐は仕事がまだ残ってると言い、部屋を後にした。
「待てよ」と言って、エドワードはマスタングを引き留めた。
 何だかんだいって、この大佐はタフだ。自分達には錬金術は使う人間次第と割り切る事はまだ難しい。
 
「……大佐は強いな」
「強くなければ焔など使えんよ」
 パタンと扉が閉じられると、エドワードとアルフォンスはモロウのノートを読み始めた。

 了



[39805] 後書き
Name: ミナミ ミツル◆418431ff ID:ebbdb2fa
Date: 2014/06/09 00:45

 終わった……終わりました。
 当初、多分全5話くらいやろ?と思って書き初め、GWまでには終わるやろ?と思って書き進め、もう6月だよ!
 反省は多々ありますがやりたかったことはひとまずやりきったので個人的には満足しています。
 かなり原作を引っ掻き回してるので言いたい事も一杯あるだろうけど、ここまで読んでくれた皆ありがとう。
 感想は全部読んでます。
 いつもなら全レスするんだけど、レス返ししたら満足してエタる可能性があったのと、今回結構シリアス風だからいらん事
(例 一度でいいから「ウワッハハ! 馬鹿めが、まんまとかかりおったな!」って言う女の子を書きたかったぜえ!
   エッドールがちょっとモロウの言う事分からないって言ってるじゃん? アレは水面下でボインか尻かで争ってるんだと思う。
  『彼女』が踊ってる時モロウの位置からは『彼女』パンツ見えてるから目が血走ってたんじゃねえかな。錬成中はしゃがんでるし。
   原作読み返してて、大佐と中尉の性格的に事実上は交際しているが、正式には付き合ってないと見た。つまり俺にもワンチャンある。
   別にホモじゃないけど常時ふんどし一丁のCV.釘宮さんのローティーンショタってエロすぎるよ……少年誌の一線超えてるだろ……。)
 言って作品の雰囲気を壊したくなかったから今回は見送りました。アホだからシリアスばっかりやってると、ボケたくなるんです……。
 だけどレンズマンやらモロー博士やら女の勘やら、自分でも突っ込んで欲しかった所突っ込んでくれて本当ありがとうね。

 なお皆気付いていると思いますが、各話の頭に引用した言葉は人造生命体や人工知能の作成、肉体の改良や改造といった分野に関わった人の言葉です。
 人を造る際は参考にされたし。(兵器系のマッドサイエンティストはまた今度な!)

 ではまた機会があったらどこかで会いましょう!



 オマケ ステマタイム

 アルフォンス・モロウ
 元々医者としての腕が評価されていた軍医。錬金術師としてはこれと言って目立たない存在だったが、イシュヴァール内乱の際善意で提出したキメラが切欠で国家資格を得る。
 その後は軍の暗部と深い関わりを持ち、そこで賢者の石と出会い、弱点であった大量錬成を実質的に克服。
 この次点で才能は完全に開花し次々とキメラを作る裏で、ずっと思っていた己の野望に向けて動き出す……みたいな。
 
 モデルは「モロー博士の島」のモロー博士。
 モロー博士は動物を改造して人間を作る事を至上の命題とし、無人島でひたすら非人道的な実験を繰り返していた凄い人で
 典型的なマッドサイエンティストでありながら、妙な研究をしている事を除けば紳士的で、とても魅力溢れる人物です。
 また身長は6フィート(約182㎝)を優に超えるらしいのでかなり大柄。釣られてモロウも長身に…。さらに釣られてキメラ2人もノッポに…。

 「モロー博士の島」は100年くらい前に書かれた本ですが、時代柄必然的に出てきてしまういくつかの些細な理論の誤りを除けば、びっくりするくらい先進的な内容で
、特にモロー博士の言葉は現代でも通用する科学の一面を捉えています。ウェルズさん、あなたが神か……。

 モロー博士はアメコミ「リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン」でアルフォンスという名前と合成生物の研究者という設定が加えられました。
 また実在の画家ギュスターブ・モローさんと親戚関係にあり、モロー博士のキメラを見てギュスターブは絵画「キメイラ」を描いたという実にありそうな設定も追加。
 っていうか全体的にLEGのクロスオーバー設定凄いよ……。ムーアさん、あなたが神か……。
 LEGのモロー博士はチョイ役ですが、ここでも大活躍をして読者を驚かせてくれます。

 という訳で人造の夢はハガレンの二次であると同時に「モロー博士の島」の三次創作でもあります。

 
 アリシアとエッドール
 モロウに作られたキメラ。小火器を物ともしない強靱な体と並外れた身体能力を持つビックリキメラ。
 多分強いには強いけど流石にバレずに赤ちゃんなんてそうそう用意できねーよと軍からも突っ込まれながら作られた。片方がイシュバール人っていう事は、そういう事なんでしょうね。

 名前の由来はSF小説「レンズマン」に出てくる善悪の二大種族アリシア人とエッドール人。
 元々人造の夢はモロウ博士と錬成された彼女のイチャラブSSだったんだ……。そしてアリシアがその彼女だったんだ……。
 あんまりすぎる内容だったのでもう少しハガレンっぽく手直しして、アリシア一人じゃ戦いが厳しいので相方を造ろう、アリシアの相棒だから名前はエッドール一択だなという事で決定。
 だからアリシアの方が出番多い……。
 やってる事はともかく言動が子供っぽくて書いてる内に愛着がわいてきたコンビ。やられる時は結構辛かった……。


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