学校教育には定期的に行われる催し事がある。新歓祭、体育祭、文化祭、小さなものをいれるとするならば、少し前に行われたマラソン大会も歴とした学校行事の一つにあたるだろう。しかし、よく考えてみれば神山高校には社会科見学という一見遠足と何が違うのかが分からない、教育上必要であるとされている行事がない。少なくとも俺が在籍しているこの一年と数ヶ月の間に、厄介事が絡んでくる校内行事は多々あったものの、遠くに足を運び他人と共同作業をする様な行事は行われていないはずだ。高等学校ならば普通なのだろうか。他の高校の事情を知りたいものだ。まぁ共同作業といっても、俺の主義からすれば自ら率先して手を貸す真似はしないだろう。
雨の滴る窓際、読書をするには丁度いい。雨音は集中力を高めるというが、全くそのとおりだと思う。聴覚に刺激がある分、些細な人為的物音に対する反応が僅かに鈍る。屋内で本を読む分には良いが、外に出れば無駄に体を冷やしてしまいかねない。濡れた体を拭くのも億劫だし、雨の日は最小限のエネルギー消費で過ごしたいものだ。
「やぁ、ホータロー」
こんな昼間から俺に話しかける奴なんて、姿を確認せずとも分かる。旧友であり同じ古典部に所属する福部里志だ。いつもと変わらず、にやけ顔で話しかけてきた。そんなに普段から笑っていて、果たして口角は疲れないのだろうかこいつは。
「やぁ」
「...素っ気ないな奉太郎。取り込み中だったかい?」
「いや、別に」
読んでいた本にしおりを挟み、里志へ眼をやる。前の席で座っていた里志は、には、手に何かパンフレットの様な物を握っていた。
「何か用か?」
「いや、別に」
別にと言う割には、何か言いたげな様子じゃないか。それに、
「何も無いというのなら、その手に持っているものはなんだ」
「なんだ気がついていたのか。流石はホータロー」
わざとらしい言動はいつものことだ。たとえ俺以外の生徒でも、里志の手に持たれた何かには気がつくだろうに。
「実はこれ、一般の生徒にはまだ公開されていないものなんだけどね」
「いつからお前は一般生徒じゃなくなったんだか。自分が学校の裏を握る人物の一人と勘違いしているんじゃないのか」
「まぁ、そう言うなって。それよりさ、これ見てくれよ」
古典部兼総務委員の里志が、手に持っていた緑色のそれを俺の方へ差し出してきた。手にとってみて分かったことだが、慣れない厚さの紙が数頁あった。表紙には何も書かれていない。まさかここへ『本日の宿題』と礼儀正しく書かれるとは思えないが。
「これは?」
「それは裏面さ。表へ向けてごらんよ」
よく見るとホッチキス止めは、不覚にも右側に施されていた。言われるがままに、その紙束をひっくり返してみる。そこにはこの紙束達の名前が記載されていた。
2001年度 社会科見学
音楽鑑賞会
日時:6月13日(火)
会場:市民会館第一ホール
音楽鑑賞会?
「こんなもの去年は無かったじゃないか! そう思っただろ?」
そんな大声を出さなくてもいい。ましてお前の声はよく響くというのに。
「あぁ。去年は社会科見学なんて無かったはずだ」
「そう、去年は確かに無かったんだ。でも、僕達が入学する前にあたる一昨年は行われているんだよ」
「一昨年?」
そういえば去年、古典部文集『氷菓』に纏わる謎を紐解く際に、神山高校の歴史なる図書で社会科見学会なる記述を見た気がする。
「そう一昨年。この神山高校では、二年に一度のペースで社会科見学が行われているんだ。僕たちは一年目に社会科見学が無かったから、卒業までに一回しかない計算になるね」
「二年に一度のペースか。それは知らなかったが、保護者から文句が出そうなシステムだな」
「大丈夫さ。費用は全部学校持ちだから、保護者からのクレームも無いみたいだよ。ちなみに二年前は芸術観賞会と称して、近くで行われている能を見にったらしい」
能とはまた現代とかけ離れた文化を見に行くものだな。決して能を馬鹿にするわけじゃ無いが、今の学生が能を見て何を学んで帰ってくるというのか。大半は肩肘ついて眠りこけっていたに違いない。
「能と言うと、隣町の文化会館か」
「うん。全校生徒で行ったらしいけど、ホータローなら評判は言わなくても分かるよね」
「まぁ...な」
能を見ながら長時間に渡る睡魔との戦いに勝てる自信は無い。それならばまだ、ここに書いてある音楽鑑賞の方が幾分マシだ。
ただ音楽鑑賞会となると場所が問題なのだ。
「市民会館か。かなり距離があるんじゃないのか?」
「そうだね。電車で三駅くらいはあるかな」
駅までですら歩いてそこそこあるというのに、そこから電車に乗って三駅となると……
「遠い。それならまだ、学校で授業を受けている方が楽だな」
俺の言葉を聞き、意外そうな顔をする里志。
「あれ? ホータローは外に出るのが嫌なのかい? 僕は学業の手を止めて、学校の外へ出られるのは嬉しい限りなんだけどさ」
確かに平日を学校外で過ごす機会は滅多に無い。しかしそれよりも俺は
「できるならば座っていたい」
わざわざクラスの皆で学校外へ出向くのは、省エネ主義の俺にとっては違うと思う。昨春から里志と同じく古典部所属、千反田える嬢に捻じ曲げられてはいるものの、この主義はなるだけ曲げたくはない。
「やっぱりホータローはホータローだね。五月病が流行る時期だけど、いつも長期療養中のホータローには全く心配いらないや」
「別に何に対してもやる気が無い訳じゃない。いつも言っているが……」
「分かってるよ。やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に。だろ?」
その通り。俺にとって音楽鑑賞会は、別にやらなくてもいいことだ。ただ学校行事となると、そうはいかないのだろうな。
里志から渡されたパンフレットを開く。中にはまだ何も書かれていなかった。
「それで、何でまたこれを俺のところに?」
「別に。ただ知らせてやろうと思っただけさ」
そんな安易にこの手の情報を漏らしてもいいのか? いや、何か意味があるに決まっているが、里志が言わないというのなら俺から無理に引っ張り出す必要はない。
「そうか。ありがとな里志」
閉じていた本を手に取り、しおりを探して先程閉じた頁を開く。
「そう拗ねるなってホータロー」
「別に拗ねてなんかない。用がないんなら、また放課後な」
「ごめんごめん。ちゃんと要件を伝えるよ」
いちいち回りくどいのが里志だ。初めから要件を言えば良いものを。数行しか進まなかった頁を再び閉じる。
「それで?」
「実は今、しおりのサブタイトルを考えていてね」
「サブタイトル? そんなもの必要なのか?」
机の上に置かれたままのパンフレットへ再び眼を向ける。確かに音楽鑑賞会と書かれている行と場所が記されている行の間に空白があった。
「個人的には必要ないと思うんだけど、田名辺先輩が古典部なら何か赴きのある良い題名を考えられるんじゃないかって言い出してさ」
田名辺先輩というと、いつかの連続窃盗事件で暗躍していた総務委員長か。あの人もまた余計な事を言い出したものだ。
「だからホータローに何か良い題名を考えておいてもらおうと思ってね。答えは今じゃなくていいよ。今日の放課後、地学準備室で聞くから考えておいて」
「強引だな。俺はまだ考えるとは言ってない」
「またまた、そう言いながらいつも考えてくれるじゃないか。期待してるよ、ホータロー。そのパンフレットは渡しておくけど、あまり人には見せないでね。一応、委員外秘のものだから」
俺の言葉を無視し、半ば強制的に依頼を投げかけ去っていく里志。今から千反田ともう一人の古典部部員であり里志の恋人、伊原 摩耶花の元へ同じ話を持ちかけるのだろう。そして二人は俺とは違い快く頼みを聞きいれ、放課後に備えるはず。そうなれば俺だけサブタイトルを考えていない方が、面倒なことになりかねない。仕方ない。皆が納得するかは別として、何か有り触れたものでもいいからサブタイトルを考えておこう。
そう心配することはない、千反田あたりが素晴らしい題名を考えてくれるだろうさ。