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[38680] 【チラシの裏から】 天下無双(三極姫3 再構成)
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2015/04/22 18:26
知っている人は相当に少ないマイナー作品である、三極姫3 の再構成ものです。
よくこんなマイナー作品でss書く気になったな!って突っ込みは重々承知、
探しても全く見かけないため、自分で頑張って書くことにしました。

主人公の銀河君の友達が死ななかったら?
まだ少年の頃にあの人に会っていたら?

的な内容でぽつぽつ書いております。


基本的に戦記ものではありません。
主人公の銀河(呂布)君が、うおおおおおおって敵と戦うだけの話です。

ちなみに董卓の乱で終わる予定です。
ハーメルン様にも投稿しております。
続きは落ち着いたら書く予定です。




10/09 一章 銀と河   更新
10/10 二章 呂布と張梁 更新
10/11 三章 覇王邂逅  更新
10/14 四章 仁徳の士  更新
10/17 五章 狂える武  更新
10/19 六章 孫呉の王  更新
10/20 七章 呂布と曹操 更新
    その他板へ移動
10/22 八章 天下無双  更新
10/24 九章 魔王董卓  更新



[38680] 一章 銀と河
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/19 13:54
















 この場所は命の価値が無いに等しい地域だった。
 当たり前のように物が盗まれ、暴行が行われ、命が奪われる。
 それこそ力のない者、知恵のない者は、泥水を啜り、塵屑を漁って命を繋ぐ。
 そんな光景が日常で見られる、この世の地獄とも言える、とある街の一画。
 暴力が支配する誰も彼もが腐った瞳をしている住人がうろつく、薄汚れた路地裏の奥まった通路にて、幾つかの人影が見受けられた。
 
 汚れた衣服を身に纏い明らかにまともじゃない風体をした男性が三人。
 彼らだけならばこんな裏路地にいたとしても納得のいく男達ではあるが、彼らに囲まれている相手は少し違った。
 多少の汚れは見られるが、それでも男達よりは余程上等な薄桃色の衣服。長い黒髪に金色の簪がよく映えている。顔立ちも衣服と同じで僅かに薄汚れてはいるが、それでも目を引くきめ細やかな肌。日に焼けたこともないような白い肌が印象的で、周囲の注目を集める―――もっとも見たところ精々が十になったかどうかという年齢の歳の少女、ということを含めて、どう考えてもこんな場所に居るのが不似合いと言えた。

 黒髪の少女は見知らぬ男達に囲まれて、どこか不安そうな表情で周囲を見渡している。
 助けを呼ぶか、逃げ出そうか、どちらの手段を取ろうか迷っているようだが、どちらを選んだとしても邪魔が入ることはないことを三人の無頼は知っていた。
 この貧民街で、他者を気にかける余裕がある者などいやしない。
 自分達が生き抜くだけでも、明日があやふやな境界線をここの者達は毎日彷徨っているのだから。

 それがわかっているのかいないのか。
 それでも意を決して助けを呼ぼうと口を大きく開けた少女が叫ぶよりもはやく、男の一人が彼女の口を塞ぐ。
 くぐもった声しか塞がれた口からは漏れ出てこず、結局はこの路地から外へと届くことは無かった。
 しかし少女は諦めることなく、男の手から逃れようとこの場から逃げ出そうとするが、他の二人の男達によって身体を押さえつけられその場から逃走することを許されない。

 絶望が少女の心を支配する。
 この後の自分の末路がどうなるか、まだ年端もいかない彼女とて薄々理解していた。
 どう考えてもまともな状況にはならないだろう。
 家が没落し、父と母に見捨てられ、迷いに迷った挙句このような場所へ来てしまった己の愚かさを少女は悔いたが、すべては遅すぎた。

 決して泣くまいと自分を律していたが、それでも恐怖と悔しさから目の端から涙が滲む。
 下卑た笑みを浮かべる男達に見下ろされながら、身体を押さえつけられていた少女の身体が持ち上げられようとしたその時―――。

 ぐちゃり。

 まるで柔らかい野菜を潰したかのような、そんな気色の悪い音が路地裏にて木霊する。
 少女の目の前で、男の一人の頭が赤く染まった。
 びちゃっと生暖かい液体が、地面と少女を赤く染め上げ、鼻がツンっと鉄臭い匂いを嗅ぎ取った。

 茫然としていた残された男達二人が慌てて視線を路地裏の入り口の方向へと向けて―――表情を引き攣らせる。
 彼らの視線の先には、一人の少年がいた。男達に比べれば随分とましとはいえ、それでも少女とは比べるまでも無い粗末な衣服。青というよりは、黒に近い色合い。いや、赤黒いといった方が正確なのかもしれない。
 年齢は少女より幾つか上程度だろうか。少なくとも少女から見ても精々が十五もいってないように思われた。
 身長もそこまでではなく、少女を取り押さえている男達よりも頭一つ低い。
 ただし、風に靡くただ伸ばされただけの銀の髪が奇妙なほどに少女の目を引く。顔の造形もよく、優男といっても過言ではないだろう。

 少年と男達。
 戦えばどちらが勝つかは一目瞭然。
 体格のことを考えても、風体のことを考えても。
 少年がまともに喧嘩をするような光景を思い浮かべることは出来なかった。

 だがしかし、男達二人は明らかに脅えている。
 それこそ自分達の半分も生きていない若造如きに、腰が引けていた。
 
「ま、まってくれ。名無し、俺達は―――」
「言い訳はいらん。お前達は運が悪かった。それだけだ」

 必至に口に出した台詞を途中で遮られた男の顔に絶望が混じり、名無しと呼ばれた少年の手が霞む。
 先程と同じ音をたてて、少女を取り押さえていた二人の男の頭が弾ける。
 そしてようやく、少女は気づく。自分に降りかかってきていた液体の正体に。

 生理的嫌悪感を嫌がおうでも沸き立たせる―――血液。
 路地裏に倒れる頭が弾けた三つの死体。
 そして地面を赤く染め上げる血の池と、転がっている三個の拳大の石。
 目の前で起こった惨劇のため、ぼんやりとした意識で眺めていた少女は腰が抜けたように地面に座り込み、再度気づいた。
 恐らくは、少女の目では追えない速度で地面に転がっている石を投げつけ、三人を始末したということに。

 銀髪の少年は、人を殺したと言うのに何の感慨も無いのか蹲っている少女に一瞥を送る。
 その眼光には暖かみというものが一切感じられなかった。
 父とも母とも、今目の前で転がっている男達とも違う―――得体の知れない存在を感じさせる眼差しだ。
 しかし少女は、それに一切怯むことはなかった。恐れることは無かった。
 
 何故か分からない。
 それでも、少女は自分の運命が今ここに、音をたてて切り開かれるのをを確かに感じた。

 そして、そう感じたのも少年にとっても同様であった。
 何故か分からない。
 普段だったならば無視して通ったはずの出来事を目の当たりにして、心よりも身体が先に動いた。
 まるでそれが運命だったかのように―――。




 これは黄巾の乱が起こる十年以上も前のある日の出来事。
 少女の名は【河】。
 少年の名前は【銀】。

 後の世にて、乱世そのものと称されることになる空前絶後の怪物が二人。
 天下無双とも。万夫不当とも。天下絶双とも謳われる、二つの乱世が出会った瞬間だった。







 
 

 
 
 















「すすめぇえええ!! すすめぇえええええええ!!」

 空気を振るわせる大号令のもと、無数の矢が降り注ぐ。
 方々で、まるで獣を思わせる鬨の声があがる。
 地鳴りを起こしながら突き進む大地を埋め尽くす黄色い大海原。
 いや、それは頭に黄色い頭巾を巻いた人々の大軍勢だった。
 彼らの手には剣が握られ、狂気に満ちた眼差しで眼前にそびえ立つ巨大な城を睨みつけている。
 
 中華のあらゆる箇所で巻き起こされた黄巾の乱と呼ばれる大反乱。
 官軍を滅ぼすことに一切の躊躇もない民が、進軍を開始していた。
 その前線。容易く鎮圧できつと踏んでいた官軍の予想を裏切り、彼らは後退を余儀なくされ、信じられないことに篭城という現状に立たされていた。
 黄色い頭巾をかぶった彼らには迷いが無い。
 自分が死ぬことを恐れずに、ただ目の前の相手を殺すことだけを考えている。
 腑抜けた官軍―――借りにも漢という国の正規軍である兵士達をも脅えさせる凄まじさが、黄色の大軍勢からは迸っていた。

 地鳴りを起こしながら黄色の雪崩は城門へと殺到する。
 閉ざされた門扉は、幸いなことに未だ破られる気配を見せてはいない。
 相手が正規軍ではないことで命を拾えたといってもいい。
 黄巾とて、城門を破るための攻城兵器など持ち合わせてはいないのだから。
 だが、それでも安堵できる状況ではない。黄巾の軍はそれこそ自分達の命を捨てて城を落とそうと攻め立ててくる。
 背筋が粟立つような恐怖と焦燥が、城を守る官軍の兵士達を支配してきた。
 幾ら城壁の上から矢を放とうとも、黄色の大軍勢は減る様子を僅かたりとも見せはしない。
 降り注ぐ矢程度では、決死の覚悟を胸に抱いている彼らの気勢を削ぐには至らなかった。

「矢を放て!! 手を休めるな!! ここは絶対に死守せねばならんのだ!!」

 悲鳴とも聞き取れるような雄叫びで、城壁で官軍を鼓舞するのは一人の武将。
 名を朱儁。黄巾の乱を鎮圧するために選ばれた将軍の一人だ。
 武芸に優れ、その腕前は漢軍でも十指に入るとも噂されている人物である。

 そんな彼が顔面を蒼白にさせて、咽を震わせながら声を張り上げているのだ。
 このままでは城は間もなく落ちるだろう。その予感に、頬が引き攣る。
 もしも城を奪われれば大失態もいいところだ。ただでさえ、黄巾軍との戦闘で撤退を強いられ、篭城をせねばならない現状。それに加えて城を落とされでもしたら、言い訳のしようがない。
 いや、このままでは命さえ危うい。仮にも将軍たる己が命を落とすことになるなど、あってはならない事態だ。
 死ぬのは兵士の役目であり、将軍たる自分は本来ならば死から最も遠い場所で戦争をするのだから。

 ギリっと歯が軋む音がする。
 目が眩むような怒り。憎悪。怨恨。
 反乱などを起こし、自分の手を煩わせることはおろか、将軍である朱儁の命までも奪おうとする暴挙。
 腹が煮えくり返る思いを胸に抱き、それでも城だけは死守しようと指揮を取り続ける。

 そんな決死の戦場のすぐ傍にて、一つの別世界があった。
  
「……ちまちま矢を撃つのも面倒だなぁ。そろそろ行っても良いか?」

 矢と絶叫と怒号が飛び交う戦場にて、場違いにもほどがあるのんびりとした声があがる。
 その発言者は、一言で言うならば異様。そして異質。
 上背は兵士のうちの誰よりも高く軽く百八十を超えている。漆黒というに相応しい鎧を身に纏い、無造作に切られた銀の髪が太陽の光を反射してきらりと光っていた。
 ここが戦場だというのに、彼はまるで眼下の敵兵が目に入っていないかのように眠たげな表情を隠そうともしていない。
 彼が放った不謹慎な発言は隣で城壁の上で戦場を見下ろしている己の相棒に問い掛ける程度の声の大きさだったため、必至に矢を撃っているほかの官軍の兵士の耳には届かなかったようだ。
 
 銀髪の青年は手に持っていた弓を適当とも言える所作で弦を引き、矢を放つ。
 空気を裂き、狙い違わず敵兵の眉間に叩き込まれ仰け反って倒れる姿を一瞥。
 そして、欠伸を隠そうともせずに口を大きく開けて、目尻に浮かんだ涙を指で散らす。

「いいや、まだ出るな。今お前がいっても手柄にはなるが、上から睨まれる可能性が高い」
 
 彼が声をかけた相手もまた、戦場にいるとは思えない気楽さで返答する。
 言葉を返したのは、一人の女性だ。ここが戦場でなければ誰もが見惚れるような容姿をしていた。
 青年の黒い鎧姿に倣ってか、同じ色合いの柔らかな服装。鎧一つ着込んでいない、兵士ならば誰もが呆れてしまいそうな軽装だ。風にたなびく黒曜石の如き長い髪。透き通るほどに白い肌。たおやかな腕。服の上からでも分かる流線を描く肉体―――ただし、まるっきり主張しない胸元を見て、美青年なのかと勘違いする人間もいそうだが、それを完全に否定する美しい顔立ち。澄み切った瞳で、黄色い大軍勢を城壁の上から見下ろしている。

 腰近くまで伸びた黒髪が風に揺れ、優雅にはためく。
 血と臓物の匂いが支配する戦場にて、銀髪の青年の鼻に香る花のような甘い香り。
 場違いな奴だと考えながら、弓を引く手を一旦止めると、近くの壁にたてかけておいた自分の得物に手をかける。

 それはあまりにも巨大な何かだった。
 成人男性の身長を容易く超える、超重兵器。三メートル近い柄と、それの穂先もまた異常。
 巨大な槍の穂先と、反り返る三日月状の刃。
 現実には有り得ないと思わせる、見るだけで死を連想させる必殺の武器―――いや、兵器。
 重量だけでも相当あるのは一目見て明らかで、並の人間ならば持ち上げることすら出来ないだろう。
 そんな異質が背後にあることに気付く余裕も無いほどに、今の官軍は目の前の黄巾の軍勢に手一杯であったのだ。

 そんな余裕のない官軍を尻目に、銀髪の青年は肩をすくめる。

「まぁ、お前がそういうならもう少し待つとするか」
「お前が出れば戦況など幾らでもひっくり返すことができるんだ。もう少し辛抱してくれ」

 人が聞けば呆れる台詞を黒髪の女性は苦笑しながら青年へと送る。
 対して青年も、当然とばかりに相棒の言葉を受け入れて、同じ様に苦笑した。

 その時―――。


「その程度か!! 腑抜けた官軍どもが!!」

 空気を振るわせる大音量の雄叫びが上がる。
 びりっと震動した空気が強かに官軍を打ちすえ、彼らの矢を放つ手を止めさせた。
 燃え上がる灼熱の覇気ともいえる気配が黄巾の軍勢から立ち昇り、知らず知らずのうちに城壁の上にいる官軍の兵士を一歩後退させる。
 
「城に篭るばかりで、真っ向から我らと戦おうという意思はないのか!? 縮こまるだけが貴様らの得意とする戦なのか!!」

 兵士達の肺を握りつぶすかのような圧迫感。
 圧倒的な猛者である武将が、危険を顧みずに黄色い軍勢の前に仁王立つ。
 彼の放つ雰囲気が、痛いほどに空気が緊張感を増してゆく。 

「我こそは、大賢良師張角様の弟にして!! 人公将軍―――張梁!!」

 髭を生やした、巨大な槍を携えた大男が、馬に乗りながら軽く得物を振るう。
 物騒な音をたてて、張梁が振るった槍が激しく空気を打ち抜いた。
 それが遠く離れた官軍の兵士達にも感じられたのか、呼吸もまともに出来ないほどに顔を蒼くする。
 戦場を支配する張梁の雄叫びが、黄巾の者達には絶大な信頼を。官軍には戦う意思を挫く畏怖を与えた。  
  
 固まっている官軍の兵士達の中で異質は二人。
 銀髪の青年と黒髪の美女。
 覇気を漲らせる張梁を一目見て、嬉しそうに眼を細める青年。
 手に握っていた超重兵器を握り締めていた手がミシリっと悲鳴をあげていることに、この場にいる者で気づいたのは黒髪の女性だけだった。
 彼女もまた、張梁という大手柄を目の当たりにして目を軽く見開く。
 赤い唇を軽く舌で湿らせ、即座に周囲に目を配らせる。

 幸いにも、誰もが相手の気迫に呑まれており、動きを止めている現状を確認。
 ここからどう動くかを脳内で幾つもの思考を繰り返す。

「どうした!? 官軍ども!! この張梁と戦おうという剛の者はおらぬのか!?」

 さらに大きくなった怒声に、官軍の兵士がヒィっと情けない声をあげて座り込む者も現れる。
 それを見て青年は情けないと思うと同時に、仕方が無いかとも考えていた。

 青年が見る限り、人公将軍を名乗る張梁の腕前は相当なものだ。
 遠目からでも分かる巨体。そして、滲み出る覇気と迫力。
 数十万とも言われる黄巾賊を従える三人の首魁の一人。
 それだけの人命を、想いを、覚悟を背負って戦い続けてきた怪物なのだ、彼は。
 乱によって生み出された人外の怪物と言っても過言ではないだろう。

 そんな化け物相手に、官軍の兵士がどうこうできるわけもない。

 張梁を見ていた青年の目がさらに細まる。
 遠くに見える張梁の肉体を観察。
 今まで彼が戦ってきた中でも十分に上位に入る極上のご馳走だということに確信を得る。

 ミシリミシリっと悲鳴をあげる青年の肉体。
 今にも弾けそうになる彼を止めたのは他ならぬ、相棒。
 黒髪の女性は、青年の肩に手をかけると―――落ち着けっと耳元で囁いた。
 それで多少は昂揚が治まったのか、呼吸を繰り返し荒ぶる心を落ち着かせる。
 
「どうした、官軍!! 貴様らには将としての誇りは無いのか!!」

 戦場の片隅で、溢れ出る異質な二人がいるとは知らずに、さらに吠える張梁。  
 それに恐怖を滲ませるのは官軍の兵士達だ。
 恐怖で震える兵士を見て、将軍である朱儁は臍を噛む思いだった。
 もはや戦争が出来る状態ではない。恐怖で縮こまってしまった兵士達は全く役に立たないだろう。既に士気の低下は、どうしようもないほどまで下げられている。
 
 ここでどうにかして士気をあげるのが将軍たる彼の役目だ。
 だが、真っ向から眼下の張梁とは渡り合いたくないというのが彼の本音であった。
 下手に言い返して一騎打ちをする羽目になれば、間違いなく自分は敗れる。
 腕に覚えはあれど、黄巾の前に立つ張梁という名の化け物と戦って勝てる気は微塵もしない。
 もはや進退極まったという状況の、朱儁だったが―――。

「―――朱儁将軍!!」

 張梁に勝るとも劣らない声量の声があがった。
 ただし、それは張梁のような怒声ではなく、脳髄を蕩かす甘くも危険な美声だ。
 ぞくりっとまるで首筋に刃を突きつけられたかの如き死の予感を朱儁は感じた。

 朱儁も、官軍の兵士も、果てには張梁や黄巾の兵士までもがその声を発した人物へと視線を向けて、そして驚いた。

 戦場に咲く一輪の花。
 この場にいる誰もの視線を掴んではなさい美貌の女性。
 彼女は黒髪を靡かせて、優雅に一礼。

「私は、中牟県の県令を務めております陳宮と申す者でございます。天下十剣と名高き朱儁将軍ならば、あの程度の賊を討つなど容易いことと思います」

 耳に届く色香を伴った声に、呼吸がつまる。
 身体が重くなり、自然と激しくなる呼吸。息が荒くなっていく。

「しかしながら、あの賊が罠を張っていないとも限りません。朱儁将軍は我らが官軍の旗頭。もしも将軍が倒れれば、我が軍は瓦解してしまうのは想像に容易いことです」
「う、うむ。確かに奴らは賊軍。卑怯にも私を罠にかけようとするやもしれん」

 張梁へ対する内心の恐れを隠しながら、出来るだけ尊大に返答をする朱儁に、女性―――陳宮は内心で鼻で笑う。
 俗物が、と。

「わざわざ将軍が出るまでもありません。あの程度の賊など、我が配下の者にお任せをしていただければ!!」

 轟っと、周囲すべての人間を圧倒する気配を滲ませ、陳宮が吠える。
 ただし、その美声には僅かたりとも濁りはなく。
 自然と聞く者を納得させる意思が込められていた。

 そして、そこでようやく朱儁は陳宮が自分に助け舟を出してきていることに気づき、鷹揚に頷く。

「よくぞ申してくれた!! この私とて、賊の言葉に許せぬ気持ちがあるが、漢朝廷より軍の指揮を預かる身!! 迂闊な真似などできようもない!!」

 張梁や陳宮には劣るものの、流石は将軍職に身を置く者。
 戦場に響き渡る声には、力強さがこもっていた。
 到底数瞬前まで、脅えていた男とは思えない変わり身の早さである。

 しかし、朱儁の目は痛いほどに陳宮を睨んでいる。
 助け舟を出してくれたことに感謝はすれど、果たして見るだけでわかる、張梁という名の怪物を打破できる配下がお前にはいるのか、と無言で語りかけてきていた。
 その視線に、陳宮は躊躇いなく頷く。    

 そして口元を歪ませて、振り返り―――。

「―――出番だ、奉先!!」

 これまで以上の声量で、相棒の名を叫ぶ。
 そこには様々な感情が込められていた。

 それは歓喜であった。それは幸福であった。それは恋慕であり、愛情でもあった。
 
 天下よ、知れ。

 我が相棒の名を。
 我が愛しき者の名を。

 四海において名だたる武将を容易く屠る。
 万夫不当。一騎当千。天下無双。
 単騎で戦争の勝敗さえ覆すことが可能な、真なる最強。
 
 その怪物があげる産声を聞け。


 陳宮の視線の先―――この戦場にいるすべての人間の視線を真正面から受け止めた銀髪の青年。
 黒い甲冑に身を包んだ彼は、それだけの視線にさらされながら怯むことはなかった。
 そして手に持っていた超重兵器を、片手で持ち上げる天に向かって一閃。

 それだけの動作で、誰も彼もが茫然と空を見上げる。
 まるでそれが当たり前のことだといわんばかりに、雲が裂けた。
 ぶわっと死の香りが周囲一帯に充満する。
 ここは戦場だ。死の香りなど溢れて当然。だが、そんな戦場でおいてなお、溢れてあまりある絶望的な死の香りだった。
 足が竦み、腰を抜かす兵士までもが現れる。

 それも官軍の兵士のみならず、死を恐れない黄巾の者達でさえ、だ。

 そこにいたのは死を体現した者。絶望を身に纏った者。最強を名乗っても誰一人として異論なき者。

「―――ばか、な!? なん、だ!! なんだ、そやつは!? そ、それに奉先と……奉先といったのか、お主は!?」

 もはや隠そうともしない悲鳴を朱儁があげた。
 目を大きく見開き、新たに現れた怪物を凝視する。
 ガチガチと歯が鳴っていることに気づく余裕すら消え失せていた。

「あ、あれは、あんなデケェ武器を使う人間は、一人しかいねぇ!!」
「あの矛は、方天画戟!! ほ、本物だ!!」
「ほ、本当か!? 本当なのか!? じゃ、じゃあ、あれは、あの男は―――!?」

 仲間である官軍から次々とあがる悲鳴。
 それも当然のことだ。
 何故ならば、今まさに方天画戟と呼ばれる超重兵器を片手で担いで、城壁から眼下を見下ろしている黒色の鎧を纏った男は―――。

「あれなる者が、我が配下!! 朱将軍の命を受け、賊を討つ者でございます!! 生涯不敗!! 絶対無敵!! 天下無双―――呂布!! 字を、奉先!!」
「りょ、りょ、りょ、りょ、呂布ーーーー!?」  
 
 驚きで心臓を止めんばかりの勢いで、尻餅をついた朱儁は、ガクガクと震えながら後退する。
 黄巾の軍勢よりも、視線の先にいるただ一人を恐れているかのような姿を見せながら、誰一人としてそれを笑う者はいない。
 皆が皆、似たような状態だったからだ。
 まるで波紋のように恐怖は広がっていき、銀髪の青年―――呂布を中心に空洞が出来上がっていく。
 そんな恐怖を向けられても、彼は全く気にとめた様子はない。

 この場にいるすべての人間が測りかねていた。
 目の前に現れた呂布奉先という名の、人の姿をしただけの武の結晶のことを。

 そもそも呂布とは伝説だ。
 官軍にも賊軍にも味方せず、ただひたすらに殺戮を続ける最強の武。
 圧倒的であり、絶対的であり、超越的である、完全なる暴力の存在。
 如何なる武将も歯牙にもかけない一騎当千の天災。

 それが現れるところは、善も悪もなく、ただ死が舞い降りる。

 そこまで謳われる暴神の降臨に、安堵よりも恐怖を感じるのはある意味当然のことだった。

 だが、だが、だが、しかし―――。

「こ、これが呂布、奉先!? 確かにこれならば!! この存在ならば!! 伝説に謳われるのも、当然というもの、か!!」

 恐怖を凌駕する、未知の期待が朱儁を激しく襲った。
 わかってしまうのだ。
 目の前の黒い甲冑を纏った人間の姿をしただけの怪物が―――人ではどうしようもない領域に住まう存在ということに、納得してしまう凄味があった。
 桁が違う。格が違う。次元が違う。
 あの張梁でさえも、赤子にしか見えない絶対者。

 震えながら朱儁は、己の勝利に確信を得て、口元を歪にゆがめた。

 誰一人として近づかない。近づけない。
 孤高に生きる、殺戮の王。
 黒い甲冑の戦士―――呂布奉先。
 そこに唯一の例外がいた。
 
 美しき黒衣を纏った麗人。陳宮。
 彼女は躊躇いなく、あらゆる存在を排する気配を発している呂布へと近づいていき、口を耳元へ寄せる。
 そして誰にも聞こえない小さな声で―――。

「―――私達の伝説は、ここから始まる。任せたぞ、銀」
「まぁ、精々派手にやってくるとするさ。期待していていいぜ、河」

 誰にも聞こえない両者の囁きは、愛を語っているようにも見え―――。 









 伝説を騙る二人の道が、幕を開けた。








[38680] 二章 呂布と張梁
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/10 00:33














 官軍と黄巾軍を併せると軽く万を超える人間がいる戦場。
 あちらこちらに死体が転がり、この世の地獄を思わせる世界が広がっている。
 然れど今現在、この場所は中華で最も静かな一画であることは疑いようがなかった。
 何故ならば、これだけの人間が武器を持ちながら、物音一つ。囁き声一つ。発することなく、両の眼でたった一人の人間に目を奪われていたのだから。

 黄色い大海の中心にポツンとそびえ立つ孤立した城。
 その城壁の上に黒い甲冑を纏った銀髪の青年が、片手で方天画戟と呼ばれる超重兵器を軽々と持ちながら欠伸をかみ殺していた。明らかに気の抜けた姿でありながら、誰一人としてそれを咎める者はいない。いるわけもない。

 銀髪の青年。
 その名を呂布奉先。
 善も悪も。漢も異民族も等しく滅ぼす人の姿をしただけの化け物。
 生きながらにして伝説の域に達した存在を前にして、思考を奪われるのも当然の事態と言えた。
 それは黄巾の首魁である張梁とて例外ではなく、呂布が纏っている得体の知れない雰囲気に、ごくりっと溜まっていた唾液を飲み込んだ。それが静寂の中でやけに大きく聞こえた気がした。

 しかし、流石は張梁というべきか。
 この場にいる誰よりも早く自分を取り戻すと、惚けていた己を恥じるように手に持っていた長槍を一閃する。
 迸る彼の戦意が、凍えていたこの場の流れを動かすきっかけとなった。

「―――貴様が、呂布だと!? 官軍は遂にそのような世迷い言を口に出すようになったか!!」

 激しい怒りを込めて張梁が雄叫びをあげる。
 いや、そうでもしなければ城壁の上に見える黒い甲冑をきた怪物に呑まれてしまう。
 そう判断してのことであった。

「信じるも信じないのも、あんたの自由さ。だがな、俺が【呂布奉先】だ」

 張梁の怒声を、ハッと鼻で笑った呂布の肉体がその場から爆ぜるようにはじけ飛んだ。
 今の今まで立っていた城壁の石畳が抉られ、爆散したかと勘違いしそうな勢いで粉塵となって周囲に散らばった。
 巻き起こされた石埃に、迷惑そうに眉をしかめたのは陳宮だけである。
 他の人間は何が起きたのか理解出来ないのか、突如起こった粉塵に目を奪われていた。

 そしてこの瞬間、呂布が取った行動を即座に理解できたのは、やはり長年連れ添ってきた陳宮ただ一人。  

 あろうことか呂布は―――城壁の上から飛び降りたのだ。

 当然、城壁とは城を守るために建てられるものであり、人が飛び降りて無事で済む程度の高さの筈がない。
 誰もが、地面に叩きつけられて赤い花が咲くと予想したそれを裏切り、十メートル以上もの高さから一つの黒い弾丸となって飛翔した彼は、呆然としている黄巾の者達の中へと着地する。

 ぐちゃりっと生理的嫌悪感を呼び起こす気色の悪い音が、再び訪れた静寂を打ち破った。
 唖然とする黄巾軍のみならず官軍も同様で、呂布は降り立った地面で平然と立ち尽くしている。
 仮にも敵である数千を超える黄巾に囲まれていながら、彼の余裕の態度が崩れることはなかった。黄巾の兵士達程度では、到底呂布に脅威として認められてすらいない。いや、敵とさえ認めていないのかも知れない。
 よく見てみれば、そんな呂布の足元にはピクピクと痙攣する黄巾の兵士が二人ほどいるのだが、誰一人としてそれを非難し、糾弾する者は現れなかった。
 目の前に降り立った黒い怪物の注意を僅かたりとも引きたくないと、人間としての本能が激しく忠告を繰り返していたからだ。

 立っているだけで人を呑み、場を支配する呂布奉先は、激しく睨み付けてくる張梁を一瞥すると、そちらへ足を向ける。
 当然、二人の間には数えるのが馬鹿らしくなるほどの黄巾の兵士がいるのだが、彼らは呂布が近づくにつれ、怯えたように離れていく。
 呂布が一歩踏み出せば、黄巾の兵士も一歩退く。
 それはまさに神話に語られる十戒の如き光景であり、城壁の上から成り行きを眺めている官軍の兵士達は、それを馬鹿にすることはできなかった。
 仮に逆の立場であったならば、間違いなく自分たちも同じ行動を取っていたことは想像に容易かったからだ。 
 
 黄色の大海をゆっくりとした歩みで切り開いていく、たった一つの漆黒。

 やがて二人の距離は徐々に近づいていき、互いの顔を細かく観察できる間合いまで詰めるに至った。
 二人を分け隔てるものはなにもない。黄巾の兵士達は、守るべき対象である張梁の前に立ちふさがることもなく―――いや、立ちふさがることができないといった方が正しいか。
 呂布の放つ無言の威圧感が、彼らをその場に縛りとどめているのだから。
 
「道化、者がっ!! お前が、呂布のはずがない!! 偽りの名を語り、戦を愚弄するか!! 小僧!!」
「先程も言ったが、あんたが信じずとも俺が呂布なのは事実さ。それに別に戦を愚弄するつもりなんざない。俺が愚弄するまでもなく、くだらねぇことだろ? 戦なんてもんはな。そうは思わないか、髭のおっさん」
「―――我らが戦いを下らぬと申すか!!」

 呂布の台詞に、血走った目で長槍を振るう。
 浮き出た血管がビクンっと震えて、巨体を誇る超梁が歯を剥き出しにして唾を飛ばす勢いで吠える。
 遠く離れていた城壁の上の官軍達は、超梁の怒声に身体を竦ませた。
 彼の怒りを真正面から受けた当の本人である呂布は、相変わらずの様子で蒼天を見上げ、ため息をつく。

「ああ、下らんさ。戦をする奴なんざ、皆まともじゃないね」

 俺も含めて―――そう、小さく呟いた呂布が皮肉そうに口角を吊り上げる。
 そんな敵の姿を多少意外に感じたのか、血走った目の張梁が僅かに戸惑う。

「―――なぁ、あんた。もう少し違う方法はなかったのか?」
「っ!?」

 蒼天を見上げていた呂布が視線を張梁へと戻した瞬間、優しげに語りかけてきた。
 周りの者達は、一体何のことを言っているのかわからなかったようだが、一人だけ張梁が大きく目を見開いて身体を一瞬とはいえ振るわせたことに気づいたものはいなかった。
 
「数えるのが億劫なくらいの人を斬り、勝ち続けてきた俺だからこそわかることもある。あんたは、自分に負けちまったんだ。安易な道を選んで突き進んでしまった。あんたはこんなくだらない戦いに命を捧げるべきではなかったな」
「―――だまれっ!!」

 淡々と語る呂布の発言を止めようと、張梁が雄叫び染みた声をあげる。
 びりびりと空気が震動し、荒波となって波紋状に広がっていくのがはっきりとわかった。
 これまで以上の憤怒を発し、黄巾を率いる最強の将たる彼は、手に持っていた長槍の穂先を呂布へと向けてぴたりと止める。

「お前に!! お前如き若造に何がわかる!! 我らがどれほどの葛藤と苦しみを味わってきたか!! 中華の民がどれだけの―――」
「―――ああ、もういいさ。自分に負けたあんたの言葉じゃ、俺の心には届かんよ」

 血を吐くような張梁の咆哮を至極あっさりと中断させると―――。

「自分の望んで求めた天を忘れたあんたは、ここで俺が斬ったほうが幸せさ」
「―――抜かせ、小僧!! お前のような若造が!! 我らの夢を語るな!!」

 呂布は静かに語る。
 張梁が吼える。
   
 この戦場においてただ二人だけ戦意を発する怪物同士が遂に決闘を開始した。
 馬に乗っている張梁。対しては地上に自分の足で立つ呂布。
 普通ならば、歩兵では騎兵に勝つことは出来ない。圧倒的な差がそこには生まれるからだ。
 それを計算に入れた張梁は、馬の腹を蹴りつけ戦場を駆ける。
 血の匂いが混じった風を後方へと置き去りにして、幾度も戦場で勝利をもぎ取ってきた黄巾の首魁。人公将軍張梁は、己を信じてついてきている数十万の民の想いを背負い、人外の怪物と化す。
 人の限界ともいえる速度。人の限界ともいえる膂力。それらを完全に使いこなし、黄巾を背負った怪物が呂布へと迫った。

「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 その瞬間、官軍の兵士達は確かに見た。
 張梁の背後に蠢く―――数十万の兵士達を。
 それは幻だ。張梁の気迫が見せた幻視にすぎない。
 だが、それでも彼の発する覇気は、遠く離れた官軍の兵士達をも脅えさせるには十分に足りえる凄まじいものであった。

 だが―――。

「―――こりゃ、すげぇ。たいしたもんだ。だが、たかが数十万程度の想いで、俺を超えられるとは安くみられたものだ」

 はっと小さく息を吐き出し、方天画戟を蒼天に掲げる。
 その行動だけで、天は呂布を恐れたように雲が散っていく。

 やるきのなかった呂布の表情が一変。
 ギラリっと視線が鋭くなり、口元が一文字に結ばれる。
 爆発的に膨れ上がる気配。圧倒的という言葉すら生温い、見ている者の臓腑全てを抉られるような感覚がすべての人間を満たす。畏怖も絶望も、何も無い。あるのは単純なまでの絶対的な捕食者へ対する―――恐怖のみ。
 
 天下無双の称号に偽りはなく。
 一騎当千の称号に偽りはなく。
 
 確かにここにいる黒い甲冑の青年は、四海全てに名を轟かせる伝説の武人。

 呂布奉先だということを、この場にいる全ての人間に本能が理解をさせていた。

 
 そして―――。



「……ばか、な」

 茫然とした呟きがあがる。
 交錯した呂布と張梁。馬上から長槍を突き出したはずの張梁の肉体がぐらりと揺れる。
 血煙があがり、彼の持っていた長槍が半分に叩ききられて地面に転がっていく。
 
 無論それだけではなく、張梁自身の巨躯も―――右肩から左脇腹にかけて一刀のもとにて切り裂かれて、左右に上半身と下半身別々にずりおちていった。
 しかも、彼が乗っていた馬さえも、真っ二つに両断されて、血の海に沈んでいる。
 
 誰も彼もが目を疑った。
 張梁が馬を走らせ槍で突きを放ったところまでは目にしていたが、それから先が確認できなかった。
 無造作ともいえるほどの動きで、呂布がその横を歩いて通った。
 それが今の瞬間に起こった出来事なのだが―――呂布が方天画戟を振るった姿を捉えたものはいない。
 
 つまりは、誰の目にもとまらぬほどの速度で攻撃を放った。
 方天画戟という名の超重兵器でありながら、人間の動体視力の限界を容易く超越した斬撃を見舞っただけだ。
 それが一体どれほど人間離れしたことなのか。
 馬ごと人を両断するなど、しかも誰の目にも映らない早業で。
 
 確かに張梁は多くの人間の想いを背負って戦ってきた。
 人の限界ぎりぎりの力を引き出し、乱世が生み出した怪物となった黄巾最強の将だったかもしれない。

 しかし、今この場にいる黒い怪物は、人の限界を容易く超える。
 乱世が生み出した怪物ではなく。

 彼こそが、乱世そのものだった。
 天は慄き、風は恐れ、大地が悲鳴をあげる。
 

 戦いが終わってなお、迸っているのは黒い重圧。
 張梁だけでなく、このまま黄巾はおろか、官軍までもを焼き尽くしかねない恐怖を漂わせている。
 自分達の将を討たれたというのに、黄巾の兵士達は茫然と佇んだままだ。
 それほどまでに、呂布奉先という怪物に心を喰われてしまったのだから。

 戦場を包む静寂。
 そして、次に我を取り戻した人物は―――朱儁その人である。

「―――全軍!! 突撃ぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいい!!」

 喉が張り裂けんばかりに、朱儁は吼えた。
 今このときこそ勝敗を分ける一瞬。そう判断しての咆哮だった。
 官軍達はハっと気を取り戻すと、もはや陣形なども考えることもなく武器だけを握り締めて城門を開くと外へと飛び出していく。
 指揮官を討たれ、さらには呂布奉先という怪物を目の当たりにした黄巾の兵士達は当然総崩れとなる。
 戦う意思など微塵も無い。それぞれが必至になって逃げ惑う。

 もしも、ただ張梁が討たれただけならば、彼らとて命を捨てて官軍と戦っただろう。
 だが、眼前にて佇む一匹の黒き獣。漆黒の乱世。天下無双を前にすれば、そのような意思など容易く折れる。
 怒号と悲鳴が混じった戦場で、呂布は自分の役目は終わったと理解したのか、官軍達とは逆走する形で城へと足を向けた。
 
 我関せずといった彼の姿を目の端に捉えながらも、官軍は誰も声をかけることは無い。
 単純に恐ろしい。味方でありながら、呂布という名の存在はあまりにも恐ろしすぎた。
 彼に関わるくらいならば、命の危険があるとはいえど、黄巾との戦いに加わったほうが遥かにマシだ。

 ひしひしと伝わってくる味方からの恐怖を気にも留めず、呂布は方天画戟を担いで城門のところまで戻ると、そこには一人だけ彼を迎える者がいた。

 黒髪の美女。
 呂布奉先の十年以上の付き合いのある相方。
 彼に恐れを抱かないただ一人の人間―――陳宮。

「なかなか見事な戦いだったぞ」
「あんなもんでよかったのか?」  
「ああ、十分だ。呂布の名に違わない、官軍達には呂布の名は間違いなく刻まれた。いや、黄巾にもか」

 気安く手をあげて呂布を迎えた陳宮は、くくっと笑みを漏らしながら黄巾を掃討している官軍の後姿を眺めている。
 それに倣って、呂布もまた陳宮の視線を追うように、遠方で行われる殺戮劇をただ黙って見つめた。
 絶叫が絶え間なくあがり、風に乗って血臭が運ばれる。ここが戦場なのだと嫌がおうでも理解してしまう惨状。   

「―――はてさて。後どれくらいで俺達の目的を達成させることができるかねぇ」
「さぁな。長い道のりになるとだけしか私にも判らない。それに私がどう言おうが……お前は諦めるつもりはないのだろう?」
「……当たり前だ。あの時の誓いは、絶対に忘れん。忘れてたまるものか」

 もしもこの場に陳宮以外の人間がいたら驚いたに違いない。
 呂布の吐き出す言葉には熱い感情が込められていたのだ。まるでマグマのようにどろどろとして、触れたものを焼き焦がす。そんな灼熱が今の彼からは感じられた。
 陳宮は、感情を露にした呂布を愛おしそうに、慈しむような優しい眼差しで見つめたまま、小さく頷く。

「呂布奉先の名前を歴史に刻む。私とお前の二人で、だ。悪名であれ勇名であれ―――何百年先にもその名が轟くように」

 静かに語る陳宮に、呂布は己の中の熱を逃がすように深く息を吐き出した。
 そして、無言で頷いて彼女への返答とする。

 戦いが続く遠方から視線を上空へと向けなおす。
 天はどこまでも高く、どこまでも遠い。
 蒼く澄み渡る空へ向かって右手を掲げ、手を開き―――握り締める。
 
「―――刻んで見せるさ。呂布奉先の名前をな」

 蒼天を掴み取ろうとする呂布へと、陳宮は自然に歩み寄る。
 そして彼の傍らで静かに空を見上げた。その姿はまるで比翼の鳥。
 決して離れることはない。言葉にはせずとも、彼女は己の態度で確かに語っているようにも見えた。

 
  


  
 
  
 
  












[38680] 三章 覇王邂逅
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/11 02:44



















 一つの戦争は終わった。
 今回の討伐を指揮する三将軍のうちの一人朱儁率いる官軍と黄巾を従える三兄弟のうちの一人張梁率いる黄巾軍。
 結果だけを見れば官軍の大勝利である。
 
 大勝利とは言っても、官軍とはいえ被害がなかったというわけではない。
 多くの死者や負傷者がでたが、そのほぼ全てが戦の前半に行われた野戦の時の被害だ。
 呂布が張梁を一撃で屠り、その後の追討となる戦いでは手強かった黄巾軍がまるで稲穂を刈るかのごとき手軽さで、官軍は勝利をつかむことが出来た。
 
 それに気を良くしたのは朱儁将軍である。
 此度の未曾有ともいえる大反乱。それを鎮圧するために選ばれた三人の将軍。
 その末席に座する朱儁だが、ここまでの大勝利を得ることが出来たのはまさに僥倖。
 
 各地で鎮圧に動いている官軍は、相手の異常さに苦戦の報告が相次いでいる。
 どこもかしこも撤退や、助けを求める要請を送ってくるばかり。
 これほどの手柄をたてたのは、恐らく黄巾の反乱が起きてから朱儁が初めての将軍と言っても過言ではない。

 しかも黄巾賊最強の将である、人公将軍張梁の首もついているのだ。 
 この戦いが終わった後のことを考えると朱儁は笑いが止められそうになかった。

 内心で喜びを隠せない朱儁だったが、外面は至極冷静に見える状態で陣幕の中である人物の到着を待っているところだ。
 彼の傍には幾人かの武将が控えている。
 皆が皆、それなりの名家の出の官僚であり、いくら朱儁がこの軍の長とはいえ彼らを無視することはできないほどの政治的な力を持っている者達ばかり。
 普段はふんぞり返り、自分より立場の低い者達を見下している彼らが、どこか借りてきた猫のように縮こまり大人しくしている姿を見るとおもわず失笑してしまいそうになる。

 だが、無理もないと朱儁は気を引き締めた。
 これからこの陣幕に訪れる人物のことを考えれば、朱儁とて今にも逃げ出したいと思わずにはいられないのだから。
 しかし、まさか一軍の将たる彼がそのようなことをするわけにもいかない。

「しゅ、朱儁将軍!! お、お連れ致しました!!」

 可哀相なほどに脅えて、震えている報告が陣幕の外からかけられる。
 いよいよか、と気がつかないうちに緊張で乾ききった唇を舌で舐めて濡らした朱儁は、誰にも気が疲れないように両の手のひらをを強く握り締めた。

 そして、それから一拍を置いて、二人の人間が陣幕の内部へと訪れた。

 朱儁の目の前にて平伏をする黒髪の美女。
 話を信じるならば名を陳宮。やや吊り上った目元が勝気な印象を与えてくるが、それでも本能的にあらゆる人間の視線を集める美女だ。黒一色でお洒落も何も考えていない服装だが、逆にそれが彼女の美しさを際立たせている。纏う雰囲気はまるで氷。恐ろしいほどに冷たく、声をかけることすら憚られる。
 宮中にて数多くの美女を見てきた朱儁だが、目の前の陳宮の容姿はその中でも群を抜いていた。傾国の美女と称してもおかしくはないほどに。己が権力を行使してでも、戦争が終わった後に自分の手元へ置いておきたいと思わせるほどに心が惹かれた。だが、そんな真似をできるはずもなく。勇気も無い。相手は仮にも伝説の武人を従えている者。わざわざ虎の尾を踏むような危険を冒すべきではない。
 
 
 そして陳宮のやや斜め後ろに、伝説はいる。  
 彼女が氷ならば、彼は炎。如何なる者も、物も灰燼となるまで焼き尽くす。
 外見だけではただの優男にしか見えないが、それが異なっていることにこの陣幕にいる人間皆が知っている。
 いや、例え先程の張梁との一騎打ちを見ていなかったとしても、理解できるだろう。
 眠たげにしている銀髪の武将。だが、彼を中心として渦巻いているのは―――あらゆる存在の心を圧し折る圧倒的なまでの強者の気配。飢えた人食い虎の檻に閉じ込められたとしても、ここまでの恐怖は感じまい。
 まさしくここに座する呂布奉先は、乱世というものを人の形にまで凝縮した存在そのものだ。
 
 平伏する陳宮とは異なり、呂布奉先は軽く拳礼をするだけにとどまった。
 一介の兵士に過ぎない呂布の行動はあまりにも無礼。普通の兵士だったならば間違いなく厳罰に処せられたはず。されどそれを無礼とは問えない。存在としての格が違う彼に対してそんな発言をすることができるのはこれ以上ないほどの愚か者だけだ。

「―――先刻は、真に失礼致しました。出過ぎた我が差配を深くお詫びすると同時に、将軍の寛大なる御処置に感謝いたします」

 深々と平伏している陳宮の言葉に、朱儁は鷹揚に頷く。
 内心の恐れを表情に微塵も感じさせない官軍の将軍だったが、陳宮からしてみれば彼の内心など手に取るようにわかってしまう。
 表情は澄ましているが、手の震えまでは隠しきれていない。
 もっともこの陣幕の中で震えていない者など、呂布と陳宮の二人しかいないのだが。

「顔をあげよ、陳宮殿。貴殿達の働き実に見事であった」
「……勿体無きお言葉。差し出がましい行為だとは思いましたが、それをお許しいただいたうえにお褒めのお言葉を頂けたこと、恐悦至極に存じます」
「貴殿の進言がなければ、あやつの挑発に我は乗ってしまったかもしれぬ。我は将。兵を率いることこそが本分よ」
「私も同感だと思っております」
「うむ。貴殿達はあの黄巾賊どもに、官軍の武威を示してくれた。しかも、張梁の首をあげる……実に見事」

 極上の美女である陳宮の台詞に気を良くしたのか、朱儁は流れるように言葉を続ける。
 

「流石は伝説の武人を従える者よ。この乱を平定したあかつきには、貴殿らに十分な恩賞が与えられるように私からも口添えをしておこう」
「有り難き幸せ。朱儁将軍の懐の深さ。この陳宮言葉もありません」

 己の気前のよさ。さらには陳宮の痺れるような甘い言葉に、ある種の陶酔感を全身に浴びていた朱儁は上機嫌で、呂布と陳宮の二人に退出を促した。
 陳宮は宮廷の人間も驚くほどに優雅に礼をして、呂布は欠伸をしながら、陣幕をでる。

 外に出た二人に降り注ぐ赤い光。
 眼を細めて空を見上げれば、地平線の彼方に太陽が沈みつつある光景が瞳に映った。
 視界全ての景色を赤く染め上げる夕陽を暫く無言で眺めていた二人だったが、どれくらいそうしていただろうか。気がついたときには太陽は沈み、あたりは薄暗い時間帯となっていた。
 
 数多くの陣幕が張られ、その近くでは此度の戦を生き抜いた兵士達が焚き木を囲んでいる。
 たわいもない世間話であったり、今回の戦の手柄であったり、これから先の黄巾との戦いのことであったり。
 そんな兵士達を見守るようにパチパチと火花が散り、暗い世界を灯す。

 そういった兵士達を一瞥すると、二人は肩を並べて背を向けて歩き出す。
 幾つもの建物を越え、階段を昇り、やがて二人が辿り着いたのは昼間眼下を見下ろしていた城壁の上であった。
 その場所に陳宮は腰を下ろし、呂布もまた彼女の隣に座りこむ。
 城壁の内部では兵士達の声が聞こえてくる。戦場を生き抜くことができた安堵のこもった笑い声だ。


「しかし、呂布の名前というのはたいしたものだな。まさかここまで脅えられるとは思ってもいなかったぞ」

 昼間とは異なり、薄暗い闇に覆われた遠方の彼方へと視線を送りながら呂布は若干呆れを滲ませて呟いた。
 隣の相棒の呟きに、陳宮は苦笑を隠せなかったようで、ははっと微かに笑みを漏らす。

「全くだ。多少の効果はあると思っていたが……官軍や黄巾の連中のお前を見る目を見たか? まるで伝説の怪物をみるかのようだった」
「天をも穿つ、四海において比類なき飛将軍。人中の呂布。あいつが為した偉業を少しでも噂に聞いていれば、あの反応は当然かもしれんがねぇ」

 曰く。攻め入ってきた烏桓の軍勢を一騎で壊滅させた。
 曰く。南方よりやってきた巨獣を操る軍勢を一騎で虐殺した。
 曰く。西方の羌族の数多の部族を一騎で血の海に沈めた。
 曰く。古来より幾度となく悩まされていた匈奴の侵入を一騎で防ぎきった。

 到底信じられないような眉唾な話ばかりが伝説として語られている。
 それが故に、呂布という存在は生きる伝説として中華の民に知られているのだ。
 ある者は、それを人の噂が生み出した幻想と鼻で笑い。
 ある者は、伝説に尾ひれがついた話だと馬鹿にする。

 少なくとも、この場にいる官軍の人間達も昨日まではあくまでも伝説としか認識していなかった。
 その伝説の存在が今まさにこの地に現れ、その伝説に負けない働きをして見せた。
 例え味方であっても、頼もしいと感じるよりも恐怖を感じるほうが余程大きかったとしても無理はない話である。

「……私が聞いても呆れるような噂だが。恐ろしいことに、それが全て事実だということか。普通は噂とはメダカが鯨になるものだが、噂の方が可愛いものなのは逆に面白いかもしれないな」
「それは俺も思ったぜ。全く……今思えば呂布ってのは恐ろしい怪物だな」

 まるで他人事のように、陳宮と同様に苦笑を浮かべる呂布奉先。
 呂布が呂布を語る。もしこの場に陳宮以外の人間がいたならば、そんな違和感を覚えたであろう二人の会話。
 しかし陳宮は、苦笑している呂布を呆れが混じった瞳で貫き、深いため息をついた。

「……お前が言うか、それを? 呂布の伝説は、呂布奉先だけにあらず。お前が呂布の伝説の一部を打ち立てたことを忘れていないか、銀?」
「そうだったか?」
「そうだった。この前匈奴と戦ったのを忘れたわけじゃないだろう?」
「果てさて。最近物忘れが激しくてな」

 肩をすくめる呂布奉先。本当に覚えていないのか。それとも覚えていてとぼけているのか。
 どちらか見分けがつかない表情で、自分のぺースを崩さない呂布に、やれやれっと首をふった陳宮だったが別に本気で怒っている訳でもない。
 この程度のことは何時ものことであり、ただの日常会話なのである。 
  
 そんな呂布を見ながら、陳宮は今日も一日が無事に終わったことに気づかれないように心中で胸を撫で下ろす。
 撫で下ろすほどの胸もない―――というのは多少可哀相だが、彼女の呂布を見る目は常に温かで慈しみに溢れている。
 十年以上も前に命を助けられてから、陳宮は片時と離れずに呂布とともにいた。彼女にとって呂布とは兄であり、父であり、師であり、この世界全ての人間を天秤にかけてもなお重い価値の男である。
 
 彼の絶大な力を誰よりも知ってはいるが、戦場においては何が起きるかわからない。
 栄枯盛衰。如何なる強者も、何時かは死が訪れる。そう、彼女が知る最強の武人でさえもを命を落とすことになったのだから。
 だからこそ、陳宮は呂布が戦場に行くたびに、胸が張り裂けんばかりの不安と戦っているのだ。
 
「まぁ、ぼちぼちとやっていこうぜ。無理に焦ることは無いさ、河」

 悪戯小僧のように笑顔を見せる目の前の青年。
 その笑顔に陳宮―――呂布に河と呼ばれた彼女の胸が高鳴る。
 全身が沸騰したかのように熱く。体温が上昇した。頬が赤く染まり、反射的に俯いてしまった。
 
 一騎当千。天下無双。人中の呂布。最強の武。暴神。
 数多の字で呼ばれる―――名も無き青年。河によって銀と名付けられ、今は呂布と名乗る銀髪の青年は相方の様子に気づかず、彼方を見つめる。
 そんな彼の横顔をちらりと盗み見た陳宮は、今日の一日を感謝して、この幸福の時間を過ごすのであった。













 ▼
















 

 
 

 黄巾三将軍のうちの一人。
 張梁が敗北したことは瞬く間に中華全土に伝わった。
 反乱を起こしてからは常に全戦全勝。一度たりとも退く事はなかった張梁の戦死は、官軍と黄巾にとてつもない衝撃をもたらした。
 勿論両軍にとってはその衝撃が百八十度異なる意味合いを持っていたのだが。
 そして、張梁を討った者の名前も相俟って、その衝撃の話に拍車をかけたともいえた。
 
 反乱を鎮圧するために選び抜かれた三人の将軍。
 その筆頭ともいえる人物が、ここ豫州にいた。
 
 皇甫嵩義真。
 名家の生まれでありながら、ありがちな驕りはなく。文武両道に優れ、才ある者を正等に評価する。
 まだ年若いながらも、多くの兵士や民に慕われる漢朝に残された数少ない武人。
 
 そんな皇甫嵩が、自分の陣幕に訪れた朱儁を前にして笑顔を浮かべた。
 
「報告は届いています。見事な働きだったようですね、朱儁将軍」

 皇甫嵩と朱儁は拳礼をかわすと、その場に腰を下ろす。
 
「漢朝に仕える将として、当然のことをしたまで」

 どこか余裕を滲ませて朱儁は皇甫嵩にそう告げた。
 張梁を打ち破った情報が皇甫嵩に流れているのと同様に、朱儁にも皇甫嵩側の情報も流れてきている。
 死を恐れない黄巾の軍勢を前にして、勝利を掴む事が出来ていない、と。もっとも、大敗もしておらず現在は戦線が拮抗状態になっているといってもいい状況である。

 それも無理は無い。
 朱儁も兵士を束ねる将軍。だからこそわかったことがある。
 平和に慣れきった官軍の兵士達は、正直な話ろくに役に立たないと言うことだ。
 多少の訓練を積んではいるため、本来ならば農民が多い黄巾の連中如きに遅れを取るはずも無い。
 だが、相手は死を恐れない。殺すことを躊躇わない。死を超越した相手なのだ。
 そんな亡者の群れを前にして実戦経験の乏しい官軍ではまともに戦うことすら出来ないのも当然。
 

 朱儁とて、もしも呂布奉先という名の怪物がいなければ今この場にいなかったかもしれないのだ。
 それを考えれば、よくぞ黄巾の大軍勢をこの地で止めることができているものだと逆に感心してしまったほどだ。
 その心中を口に出すほど朱儁も人が良いわけではない。
 わざわざ政敵である皇甫嵩の株をあげることもないのだから。

「朱儁将軍。貴殿が来てくれて助かりました。これで戦局にも活路を見出せるかもしれません」
「何をおっしゃる。皇甫嵩殿が、そのような弱気でどうされますか」

 確かに朱儁の言うとおり、将軍としては弱気な発言だった。
 まるで負け戦を行うかのような言葉に、朱儁が眉を顰めるのも当然のことといえるだろう。
 自分の発言に、多少慌てて―――失礼っと軽く頭をさげる。
 相当に疲労がたまっているのか、今にも倒れそうな印象をその場にいる者たちは受けた。
 
「……無理もない、か」

 朱儁の背後。
 陣幕の入り口付近に腰を下ろしていた呂布は知らず知らずのうちに呟いていた。
 
 漢朝に皇甫嵩義真あり。
 そう謳われるほどなのだからどれほどの人物なのだろうか、と期待をしていたが実際に会ってみて珍しく呂布が驚かされた。

 歳若いとは聞いていたが、呂布の想像を遥かに超えていたのだ。
 見かけは精々が十七か、八。少なくとも二十を越えているということはないと踏む。
 金に近い栗色の長い髪。翡翠に輝く瞳に、珠のようなつやのある肌。後数年もすれば、誰もが見惚れる美女になるのは想像に難くない。呂布とは異なる純白の鎧を身に纏った小柄な少女。

 それが官軍総大将。皇甫嵩義真という人物だった。

 彼女の纏った雰囲気。気配。身のこなし。隙の無さ。
 それら全てが常人を遥かに超えていることを、呂布はあっさりと看破した。
 外見だけでは侮られるかもしれないが、確かに彼の前にいるのは噂に名高き聖将。
 その実力に偽りは無かった。

 優れた兵士がいれば彼女がここまで苦戦することはなかっただろう。
 瞬く間に反乱を鎮圧し、己に与えられた任務を全うすることができたはずだ。
 しかし、それが為せないほどに、官軍の兵士はろくな働きをすることができていないということだ。
 それでも相当な疲労を感じていながらも、力強く瞳は輝いている。
 そして、その瞳と呂布の瞳が交錯した。

 バチリっと火花が散ったと錯覚するほどに激しく。
 そこで初めて皇甫嵩のくりくりとした大きな目がさらに見開かれた。

「―――貴方が呂布殿、ですか?」
「ああ。呂布奉先。以後お見知りおきを」

 呂布にしては非常に珍しく、軽く頭を下げた。
 とても総大将を前にしての言葉遣いとは思えないが、皇甫嵩はそれを咎めようという気にはならなかった。
 そしてそれは、彼女の部下もまた同様である。彼女の傍に侍っていた武将達は、呂布が周囲に発している威圧にも似た気配に息を呑む。
 例えこの場の全員で斬りかかったとしても、傷一つつけることはできないだろう。そんな予感をひしひしと感じていた。 

 皇甫嵩は己が自然と緊張していることに暫しの間気づくことが出来なかった。
 向かい合うだけでここまで精神力を磨耗するなど、とんと経験したことがない。
 まだまだ若いとはいえ、数多の戦場を駆け抜け。宮廷内の謀略をも経験し、それなりに自分に自信を持っていた彼女でさえも、このような規格外の存在を見たことが無かった。
 
 例えるならば人の形をした乱世。

 なるほど、と皇甫嵩は内心で一人頷く。
 
 実は彼女は呂布の存在を信じてはいなかったのだ。
 黄巾最強の張梁を打ち破った者。その名を呂布奉先。
 それを聞いた時、ある程度の実力を持ったものが呂布の名を騙ったのだと予想をしていた。
 
 しかし、実際に目の前にしてようやくわかった。

 この青年こそが、呂布奉先なのだと。

 皇甫嵩とて、彼の全てを理解出来たわけではない。
 例え彼が呂布の名を騙る偽者であったとしても。それを騙ることを許されるほどの人外の域に達した怪物。
 少なくとも彼女が知る限り、誰よりも強い。しかも圧倒的に。歯牙にもかけないほどに。
 それを素直に認めてしまった。

「―――呂布殿。貴方の力添え、期待しています。漢のために、天下無双の力をお貸しください」

 あろうことか、皇甫嵩はそう言って頭を下げた。
 仮にも総大将たる彼女が、幾ら伝説の武人とはいえ一介の兵士である呂布に頭をさげるなど考えられることではない。
 それに慌てたのが周囲の人間達だ。ぽかんっと口を大きく開けて何が起こったのか理解できていないようだった。
 数秒もそんな時間が流れただろうか。この場で次に反応をしたのは呂布その人である。

「……御意」

 拳礼をして、再度頭を下げる呂布。
 平伏をしている陳宮と視線があったが、彼女はどこか面白そうにしていながら―――どこか不満そうにもしていたことに呂布は気づく。
 しかしながら、まさかこの場で話し出す訳にもいかず、後で話をするかと考えたその時。

 パカパカっと馬が駆ける音を、優れた聴覚を誇る呂布がいち早く気づく。
 その音に不可思議に眉を顰めた呂布が陣幕の入り口から外に出る。手には自分の得物である方天画戟を忘れずに握っていた。
 そんな呂布の様子を訝しく見ていた陣幕の者達だったが、次に気づいたのは陳宮だった。
 どこか緊張した様子で呂布の下へとやってくる。

「……何かが、くる?」
「ああ。いまいち、わからん。得体の知れない、何かが一人いる」
「……」

 呂布をして、得体の知れないと言わしめる相手に、さしものの陳宮も背筋を粟立たせる。
 十年以上も一緒にいるが、彼がそこまでの評価をくだした相手は、彼女とて一人しか知らない。

 馬蹄の音が立て続けに聞こえ、数体の馬が砂埃をあげながら疾走してくる。
 僅か数体ながら、それだけで一軍に匹敵しかねない圧力を発している光景に、呂布が嬉しそうに眼を細めた。
 砂塵を巻き上げ、遂に騎馬が皇甫嵩の陣幕の前まで辿り着く。

 そして―――その騎馬から一人の少女が鞍から地面に降り立った。
 重力を感じさせないほどに優雅に、華麗に、美しく。
 
 呂布と同じ太陽の光で照り輝く銀の髪。
 腰近くまで伸ばしていながら完全に手入れをされ、反射的に触りたくなるほどの美髪。
 燃えるような赤い瞳。血のように。宝石のように。人の心を魅了する輝きを放つ眼。
 細い眉。すっきりと鼻筋が通っており、唇は瑞々しい果実のように水分を含んでいた。
 僅かたりとも染みもない。あまりにも美しい白い肌。日焼けをしたことなでないような、そんな白磁を連想させる色だ。
 神々しいともいえる衣服をはためかせ、赤い外套が風に揺れる。
 小柄な体躯といえど、何故かそれが奇妙なほどにこの人物と調和していた。

 呂布の傍には常に陳宮がいたために、彼の審美眼は相当に厳しい。
 そんな呂布でさえ、一瞬とはいえこの少女には目を奪われた。
 
 まさしくこの世のものとは思えない美貌。誰もが見惚れ、それと同時に恐れる容貌といっても良い。傾国の美女というには、彼女が纏っている空気があまりにも外れすぎている。

 戦気や覇気などは戦場で感じることは数あれど、呂布にとってもこの類の気配を纏う人間に初めて会った。
 言うなれば神気。選ばれた者のみが纏うことが出来る超越者の気配だ。

 ぞくりっと呂布と陳宮の身体を撫でる少女の気配。

 武人としても相当な腕前なのは一目見て明らか。 
 それでも純粋な武人としての腕前ならば、呂布は一合のもとに目の前の少女を切り伏せる自信があった。
 そして、それは紛れもない事実だろう。
 呂布奉先は天下無双。四海において、彼に勝る武は存在しない。

 しかし、目の前の美しき銀の獣は―――。

「―――はっ。中華は、広いな」

 口角を吊り上げて呂布は獰猛な笑みを浮かべた。
 
 少女は人にして人にあらざるもの。
 生まれながらにして、人の上に立つことを定められたもの。
 即ち、天が王と認めた者に他ならなかった。

 
 銀の少女は呂布に気づいた瞬間、足を止める。
 すましていた表情が、驚愕に変わったことに若干の満足を覚える呂布。
 それでも、流石は王の風格を漂わせるだけはあり、驚愕の感情を即座に消し去ると、逆にどこか嬉しそうな笑みを浮かべてパチリっと呂布に目配せを送った。
 そんな意外な所作に、呂布は興味を惹かれる。彼の人を圧する気配をここまでの近距離でうけてなお、平然としている少女に興味を抱くなというほうが無理な話だろう。
 
 その時、少女の後ろ姿を見送った呂布の左の爪先に鈍い痛みがはしる。
 何事かと思えば、どこか不機嫌そうに陳宮が彼の足を踏んでいたのだ。
 口を尖らせて、頬を膨らませる姿は、美人と言うよりは可愛らしいというほうがしっくりとくる。

 不満一杯の様子の陳宮に苦笑すると、ポンっと肩を叩く。
 不機嫌さを隠そうともしない陳宮だったが、それで若干の機嫌をなおす。
 手軽な奴だと考えていた呂布は、少女が消えていった皇甫嵩の陣幕の中へと再度入室すると―――中では先程の少女が、皇甫嵩に対して平伏している場面だった。

 これほど平伏が似合わない人物を初めて見たと呂布が二人を眺めていると、銀の少女が立ち上がり背後に向き直る。
 パシンっと激しい音をたてて拳礼をすると、傍目には朱儁に対しておこなっているようだが、その実視線だけは呂布を絡めとるように向けてきている。口元に浮かべている笑みは、あらゆる異性同性問わず心を奪われそうになるほどの魅力を発していた。
 

 そして―――。






「手前は姓を曹。名を操。字を孟徳と申します。以後お見知りおきを」






 乱世の覇王―――曹操孟徳。
 天下無双―――呂布奉先。





 ここに邂逅す。








  
 







 







[38680] 四章 仁徳の士
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/14 00:51












 銀の少女が曹操と名乗りをあげた瞬間、物理的な圧力さえも秘めた突風がその場を激しく吹きつけた。
 まるで呂布に自分の存在を見せ付け、曹操孟徳という人物の印象を植え付けようとしているかのようだ。
 
 彼女はまさに王だった。
 その場に静かに、だが苛烈に佇む二十にも満たない小娘が、確かに覇王としての風格を漂わせ、周囲の人間に息を呑ませる光景は圧巻ともいえる。

 朱儁は、反射的に跪き平伏しそうになった己に愕然とする。
 慌てて平静を保っているように見せかけるために、咳払いを一つ。口をきつく結んだ。
 それでも心中は嵐が吹き荒れ、目の前に現れた理解し難い少女の姿を敵を見るかのように睨みつける。
 これまで多くの人間を見てきたが、その場に佇むだけで平伏しそうになるほどの雰囲気を纏っている人物を彼とて知らない。
 呂布奉先とはまた異なる、異質。異端。正反対の絶対者。

 誰もが似たような衝撃を受けいるなかで、陳宮は曹操孟徳という人物の情報を脳内から探し当てる。
 その名前は別段有名という訳でもない。独自の情報網を持つ陳宮だからこそ、聞き覚えがある程度の名前だ。
 宦官の養子であり、それなりの名家。父は既に亡く、その遺産を上手く利用しそこそこの地位についている。あくまでそれだけの情報。腐りきった漢朝では、珍しく実直な役人であるとも聞いていたが―――。

 ―――有り得ない、だろう。なんなのだ、この小娘。

 ごくりっと息を呑むのは陳宮だ。
 情報はあくまでも言葉や文字だけでしか伝えられない。
 そのため、実際に会ってみるとそれを覆す人物も数多い。
 良いにしろ、悪いにしろ、今まで幾度となく人物の評価を修正してきた経験がある。

 だが、それでも―――。

「……読み、きれんぞ。銀……何なんだ、こいつは」
「さぁ? なかなか面白そうな奴ではあるな」

 珠のような汗を額から流しつつ震える声で呟いた陳宮とは正反対に、呂布はまるで玩具を与えられた子供のように嬉しさを隠しきれずに口元を歪めている。
 素っ気ない口調とは裏腹に方天画戟を持っていない左手の指が激しく動き、ごきごきと物騒な音をたてた。
 今にも曹操孟徳に飛び掛りそうなほどに―――いや、違う。正確に言えば曹操を試すかの如き挑発。そうはっきりとわかる荒ぶる気配を撒き散らす。

 それに気がついたのか、曹操は驚いたように目を軽く見開き、微笑を浮かべた。
 天下無双の全てを圧する気配を目の当たりにしてなお、彼女は呂布と同じく、子供が玩具を与えられて喜ぶ姿を見せている。まさしく二人の雰囲気と空気は、一触即発でありながらどこか似通っていた。姿形も発する雰囲気も異なるが、何故か似た者同士と思わせる何かがある。

 曹操の名乗りで麻痺していた皆が、曹操の神気と呂布の覇気ともいえる気あたりに自然とその場から一歩後退する。
 乱世の覇王と乱世そのもの。二つの異端はどれくらい見詰め合っていただろうか。
 数秒。或いは十数秒。もしくは数分も経っていたかもしれない。

 そんなある種の暴風地帯となっていたこの場所で、小柄な曹操よりもさらに小さい体躯の少女が駆け寄ってきて皇甫嵩に向かって平伏した。
 まるで場の空気を読まない少女の行動に、曹操と呂布はまるで毒気を抜かれたのか、互いに同時に苦笑する。
 危うい気配を霧散させると、曹操は呂布に背を向けた。
 
「皇甫嵩殿と朱儁殿の前で失礼致しました。これは我が妹、曹仁にございます。此度の戦にて、何かしらの学ぶべきものがあると思いまして連れて参りました」
「曹仁と申します!! 微力ながら、漢のために全力を尽くしたいと思います!!」

 聞いている者の耳が痛くなるほどの声で、名前を名乗った曹仁だったが―――彼女の視線は皇甫嵩ではなく、呂布の方へとちらちらと向けられていることに気づく。
 呂布と視線が合うと慌てたように逸らし、それでもまた視線を向けてくる。
  
 その視線に、若干居心地が悪くなる呂布。
 脅えられ、恐れられることには慣れているが、曹仁と名乗った少女の視線にはそういった感情は全く込められていない。
 どちらかというと正の感情。まるで憧れや尊敬といった、そんな想いが秘められているのだ。
 そのような視線にさらされた事は一度としてなく、呂布としてもどんな反応をすればいいのか非常に悩むことになった。

 暫し経ってその視線に慣れた呂布は、改めて曹仁なる人物を観察する。
 曹操の妹だけあって、顔の作りは良く似ていた。特に目元は瓜二つと言っても良い。
 髪は薄緑。まるで春の訪れを告げる木々の色彩のようであった。長い髪は、左右で纏めてあり、赤い髪留めで結んでいる。 
 彼女の背には、驚くべき長さの剣が鞘に納められていた。呂布の方天画戟には比べるまでもないが、それでも普通の兵士達では到底扱うことができないほどの長剣。それが小柄な曹仁の体躯と合わさり、どこか異彩を放っている。

 年齢はこの場にいる人間で最も若く、これほどの少女が戦場に出てくるのはどうかと思わせるほどだ。
 事実、多くの者がそう考えているだろうが、呂布はそれらの意見とは異なる。
 
 強いか弱いか。
 戦場で生死を分かつのはそれだけだ。
 どれだけ年齢を重ねていても、弱ければ無意味。

 それを考えれば、曹仁という少女の腕前は異常。
 この場にいる官軍の中で、呂布や曹操を除けば彼女に勝てる人間は皇甫嵩くらいだろう。
 天下十剣の一員として数えられている朱儁でも、曹仁には遠く及ばない。
 年齢のことを考慮すれば、凄まじいまでの実力とも言える。
 陳宮でさえも、恐らくは互角に戦えるかどうか怪しいほどだ。

 漢の治世において未曾有の大反乱。その乱が、逆に多くの才ある者達を誘い、集わせる。
 皇甫嵩はそのことを頼もしく思うと同時に、言いようのない悪寒を感じるのであった。

「とにもかくにも、張宝には苦戦を強いられていましたが……朱儁将軍のご助力もあれば、彼の砦も落とすことは可能な筈です」
「……そうですな。では、そのための策をまとめようか。陳宮、曹操。後ほど改めて呼ぶまで下がっておれ」

 二人は頭を下げると、陣幕から退出する。
 陳宮は呂布を。曹操は曹仁を連れて外に出ると、両者は互いに正反対の方角へと足を向けた。
 その際に、一瞥もくれることなく去っていく呂布と曹操に、陳宮と曹仁は違和感を持ったのは当然のことだ。
 あれだけ激しく両者は意識しあっていたにも関わらず、何故このような態度を取っているのだろうか。
 呂布と十分な距離を取り、彼の背中が豆粒のように小さくなったのを確認すると、曹仁は我慢できなかったのか視線を彼方へと向けて遂に口を開こうとして―――それよりも早く曹操が微笑んだ。

「どうしたのだ、曹仁。お前は随分と呂布を気にかけているようだが」
「だ、だって……孟姉!! 呂布だよ!? 伝説の武人、呂布奉先だよ!! あの伝説が、目の前にいたんだよ!?」
「ああ。何かと思えばそのようなことか、曹仁」

 喜びとも驚きともとれる表情のまま騒ぎ立てる曹仁に対して、ふわりっと優しい笑みをそのままに、曹操もまた彼方へと消えていった呂布の背中に視線を送る。
 あまりにも何時も通りすぎる姉の姿に、逆にきょとんっとした表情で見上げる曹仁の頭を軽く撫で上げた。 

「伝説の武人、呂布。到底信じられぬ数多の武を示した英雄にして怪物。一騎当千を文字通り体現した四海において、最強を冠する天下無双の豪傑、か」
「うん!! その呂布が!! 天下無双がいるんだよ!!」

 激しく興奮している曹仁だったが、そこでようやく気づくことがあった。
 何時も通りと思っていたはずの曹操の表情が僅かに赤みを帯び、とてつもなく何かに対して興を抱いているということに。
 その対象は、【呂布奉先】という伝説の武人にではなく―――黒い甲冑をまとった銀髪の青年へ対してなのだが、それに曹仁が気づくことは無かった。
 
「伝説は伝説。私とてそう思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。呂布奉先―――いや、彼の御仁は確かに伝説に語られるに値する武人だな」
「う、ん? 彼の者? 呂布奉先のことじゃないの?」

 姉の物言いに、不思議そうに眉を顰める曹仁の問い掛けには答えず―――。

「ふふふ。そうだな、曹仁。先ほどまで我らの前にいた呂布殿のことだぞ?」 
「う、うん。でも、なんだか想像していたのとは少し違ったかな」

 煙に巻こうとするような曹操に、首を捻る曹仁。
 しかし、特に追求するということもなく。彼女は、先ほどまで穴が開くほどに凝視していた天下無双の姿を思い浮かべながら―――自分が抱いた素直な印象を口に出した。

 あらゆる武人の頂点に立つ、天をも穿つ万夫不当。
 彼の伝説を聞いていた曹仁は、山のような巨躯を誇る大男。
 凶悪な貌をした武人を想像していたのだが、実際に会ってみればそんなイメージとは正反対と言っても良い。
 
 曹操と同じなめらかな銀髪に、傷一つない顔。
 まるで文官のようにも見える、優男。
 街を歩いていれば、そこらの街娘ならば軽くひっかけることができそうな容姿だ。

「確かにそうだな。私の想像とも違っていたが……曹仁の好みそうな顔立ちのようにも感じたが」
「べ、別に男は顔じゃないし!! 強くないと駄目だもん!!」
「その点も充分だとは私的には思うが……。お前達はどう思う?」

 顔を赤く染めて強く言い返す曹仁に優しい眼差しを送りつつ、目の前に立つ人影に語りかけた。
 そこには二人の男と一人の女性が佇んでいる。
 
 一人目はまだ三十には届かない程度の男性だった。
 この場にいる者達の中では飛び抜けて背は高く、服の上からでもわかるほどに筋肉が力強く主張している。
 紺色の分厚い鎧を着込み、黒い外套を上から羽織っていた。
 特に手入れをしていない髪が短く刈り込まれているが、この男性にはそれが酷く似合っている。その眼差しは鋭く、きつい。並の者ならば、彼の眼光だけで腰を抜かしてしまうだろう。
 
 二人目は、この場にいる者の中でもっとも年上の男だった。
 四十を越えた当たりの年齢だろうか。呂布や曹操と同じく銀髪だが、若干白に近いかもしれない。同色の髭が風に微かに揺れている。
 鎧を着込んでいる様子はなく、黒い服装に金色の刺繍。見るだけで高級な布を使っているのがわかった。
 武人というには軽装だが、彼の眼光は鷹のように鋭く、曹仁はこの男性の鋭い視線に多少苦手意識を感じている。

 三人目は、曹操より僅かに年上の女性。
 それでも精々二十をようやく越えたあたりだろう。
 身長や体格自体も、曹操より一回り大きい程度。つまりは普通の女性並と表現しても構わない。
 長い黒髪に、鋭い眼差し。それは、大型の肉食獣を連想させる。
 感情を見せない表情は、氷点下を思わせるほどに冷たい。容姿が整っているだけに、余計に彼女の氷の表情が目立っている。
 赤と黒が入り交じった鎧を着込み、腰には長剣が差されていた。

「……呂布奉先はあくまで伝説だ。恐らくはその名を騙っているだけに過ぎない」

 短髪の男性が見かけ同様どっしりとした低音の声でそう答えた。
 その返答を聞いた曹操は、ある程度予想していたのか笑いながら頷く。

「かもしれないな。では、彼自身を見てどう判断する? 私はそれが聞きたいんだ、惇」

 曹操の質問に、不機嫌そうに黙り込んだ惇と呼ばれた男性―――夏侯惇元譲だったが、暫くたってから仕方なしという様子で腕を組む。

「……怪物、か。正直なところを言うと、先ほど見たときは目を疑った」
「ほぅ。惇がそこまで評価するとは珍しいな。ところで一つ聞きたいが、お前だったら勝てるか? あの呂布奉先に」
「……孟徳。お前が戦えというのならば、戦おう」

 勝てるかどうかという質問に答えずに、夏侯惇はぶすっとした表情のまま返答する。
 勝てないと言わない夏侯惇に対して、可愛いやつだと思いながら曹操は残りの二人に視線を送った。

「お前はどう思う、司馬懿?」 

 面白そうな表情を隠さずに、猛禽の目をした年配の男―――司馬懿仲達に曹操は語りかけた。
 司馬懿は、ふむっと考え込むが、それも一瞬。

「さて。私としましても、評価は夏侯惇殿と同様。呂布なるものの真偽は不明ですが、底知れぬ力量の武人ということは認めねばならないでしょう」
「お前も随分と高評価を与えるのだな、司馬懿」
「多少なりとも武を学んだ身なればこそ。彼の者の異常性は肌で感じます。私がこれまで見てきた中でも随一の強さを誇る武人かと」
 
 あっさりとこの場にいる誰よりも強いという事を認めた司馬懿を、きつい目で夏侯惇が睨み付ける。
 痛いほどに視線が突き刺さるのに気付いていながら、肝心の司馬懿は一切気に留めることはない。
 夏侯惇ほどの武人の圧力を浴びながらも、普段通りの姿を崩さない司馬懿に、末恐ろしいものを感じる曹仁だった。 
 数多の猛者を配下に持つ曹操孟徳の、最強の将。それが夏侯惇だ。並外れた腕前の曹仁とて、数合も剣を打ちあわすことができないほどの強者。その彼が放つ重圧は、蚊帳の外である曹仁でさえも息苦しい。
 そこまでのものだというのに、武将というよりは軍師に近い司馬懿がここまで完璧に受け流す姿はどこか気味の悪い光景にも見えた。 

「怒るな怒るな、惇。お前の気持ちもわかるが、アレと武を競うこと事態が間違いだ。アレは人にして人にあらず。乱世が人の形を取った姿といっても言い過ぎではあるまい」
「……怒ってなどいない」

 曹操の悪意の欠片もない、無邪気な台詞に逆に毒気を抜かれた夏侯惇は、肩から力を抜くと深いため息をついた。
 それを確認したわけではないが、曹操はちらりっと黒髪の女性を一瞥してから司馬懿へ対してからかうかのような色を乗せた視線を向ける。

「と、なれば。お前の自慢の片腕である鄧艾でさえも太刀打ちできないということになるが?」
「無論。如何に鄧艾といえど、あの呂布奉先と一対一では歯が立たないのは明白でしょう」

 己の横にいる腹心たる黒髪の武人―――鄧艾に全く気を使うことなくはっきりと述べる司馬懿。
 武人として屈辱的なことを言われたというのに、当の本人である鄧艾の氷の表情は微塵も変化することはなかった。
 そこには悔しさも怒りも何もない。淡々と主たる司馬懿の言葉を受け入れる人形の如き武人としてこの場に静かに佇んでいる。

「ほぅ……。ならば聞こう、司馬懿よ。お前ならば、あの呂布奉先をどうやって相手取る?」
「そうですな。あの怪物を打ち倒すには軍はいりません」
「―――続けてみよ」

 躊躇いなく曹操の質問に答える司馬懿。
 一騎当千を誇る天下無双を倒すために軍が必要ないと言い切った司馬懿に対して、夏侯惇が訝しげな視線を向けた。

「あの呂布奉先なるものの前では雑兵など塵の役にも立ちますまい。蹴散らされ、脅え、逃亡するのが関の山。ならばこそ、少数精鋭で戦いを挑む。それが最善の手かと。例えば、ここにおわす夏侯惇殿と曹仁殿。斥候に出ている曹洪殿、それに鄧艾。他に夏侯淵殿が同時にかかれば如何な者といえど勝ち目はありますまい」
「ふふ。確かにお前の言うとおり、勝機は生まれるかもしれんな」

 曹操が擁する最強の武将の名前をつらつらとあげていく司馬懿に、口角を緩ませ、深い笑みを向けて頷く。
 そのどこか冷たい笑みに背筋を粟立たせる司馬懿だったが、数秒もたつと興味をなくしたのか、曹操は彼に背を向ける。
 彼女が振り向いた先は、呂布が姿を消した方角。

 ―――その程度で、なんとかなる相手ではないだろうな。呂布奉先……いや、名も知らぬ君よ。貴殿は確かに天下無双の称号に不足はない。

 今は姿を見えぬ相手。呂布の姿を思い出すと、曹操の全身に電流が走ったかのようにびりびりとした衝撃を感じた。
 この世に生を受けてから初めてとも言える、異端との遭遇。
 己のように王としての器ではなく―――彼一人で完成された武の結晶。その姿は曹操をして、心を躍らせるには十分に足るもの。全身にたった鳥肌が、未だおさまらない。
 小刻みに震える身体は恐怖ではなく、表現できない喜び。
 乱世を治める器たる覇王。曹操孟徳の器にも納まらない天下無双の存在に、対極に位置する者が故に、彼女はどうしようもないほどに心が惹かれていた。
















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 呂布と陳宮は与えられた陣幕にて、皇甫嵩と朱儁の作戦会議が終わるまでの時間を待機しているところだった。
 すぐにでも会議は終わり、再び呼ばれるだろうと二人は予想していたがその期待は裏切られ、既に数刻の時間がながれていた。
 勿論予想外だったからといって、特に不機嫌になるでもなく二人は静かに陣幕で時を過ごす。

 しかし、完全な武人―――しかも一介の兵士である呂布とは異なり、陳宮はそうではない。
 武将として一級品の実力を持ってはいるが、彼女の本文はどちらかというと文官だ。
 こなすべき仕事。こなさなければならない仕事というものは幾らでもあるのだから、寝転がっている呂布とは異なり、陳宮は目の前に山のように積まれた竹簡に目を通していく。
 その中でも、真っ先にやらなければいけないことを、竹簡に書き留める。
 それは、陳宮が飼っている者達へ、曹操孟徳のどんな些細な情報でもいいから調べるように、と書かれていた。

 数分にも満たない対峙であったが、それだけでもあの銀髪の魔人の異常性は理解出来る。
 これまで相対してきた者達のなかでも桁も格も違う怪物だ。自分たちの目的の障害となる可能性は高くないとはいえ、万が一のことを考えれば曹操の情報を集めておいて損はないだろう。  
 曹操と敵対した時のことを想像して、頭が痛くなってくる陳宮だったが、その時になって漸く皇甫嵩の配下の者が二人を呼びにやって来た。

 随分と作戦をきめるために揉めたのだろう。
 恐らくは皇甫嵩と朱儁。総大将である皇甫嵩ではあったが、現在のところ最大の功労者である朱儁を無下に扱うことも出来ない、といったところかと、陳宮はここまで遅くなった理由に予測を立てた。
 
 外に出れば、陣幕の中に入って休憩を取る前は痛いくらいに陽光を降り注いできていた太陽も、夕陽となる時間帯になっている。
 二人は並んで、皇甫嵩の陣幕の方角へと歩き出そうとしたが、陳宮が何かを思いだしたかのように足を止めた。
 
「どうした、河?」
「いや、なに。予想以上に呂布の名前も売れたしな。そろそろ後のことも考えて顔は隠しておいたほうがいいかもしれない」
「確かにそうだなぁ。それに顔が見えないほうが、呂布の噂を広がりやすそうだ」
「ああ。兜は近いうちに作らせるとして、今からはこれで顔を隠しておけ」

 陳宮はしゅるりっと胸元を飾り付けていた大き目の布を解くと、呂布に手渡す。
 それを受け取った彼は、鼻から顔の下半分を覆い隠して後頭部できつく結ぶ。
 見えるのは眠たげな様子の目くらいになった呂布をまじまじと見ていた陳宮は、ある程度彼の顔を隠すことができたことに安堵するも、すぐに兜を手配しなければと考え直した。

 最低限とはいえ顔を隠した呂布だったが、既にこの陣地にいる官軍の殆どが呂布の姿を見ているため、幾ら顔を隠そうと兵士のほぼ全てが距離を取っている。
 ここまで脅えられれば逆に清清しいと苦笑した呂布は、止めていた歩みを再開させた。


「いや、だからよぉ。そこをなんとか頼むよ、兄ちゃん!!」

 
 そして、再び足を止めることになる。

 呂布と陳宮の耳に入ってきたのはなんということもない、渋みが感じられる男の声だった。
 見れば、呂布達から少し離れた場所で官軍の兵士二人が、中年の男に言い寄られている。
 
 ところどころ薄汚れた鎧。その上から深い緑の外套を羽織り、腰には外見からは及びもつかない豪勢な装飾がされた鞘に納められた剣が一振り。
 男にしては長い髪を後ろでまとめあげ、顎からはえた髭がやけに印象的だった。
 そして、柔和な表情。いや、男臭くありながら、人を自然とひきつける柔らかな顔立ちとでもいえばいいのか。
 さらに特筆すべきは、彼の耳。ぶらぶらと揺れるほどに耳たぶが大きく広い。福耳と表現するに相応しいものである。

 そんな男性が、笑いながら官軍の兵士に話しかけているところだ。
 力量的には、はっきりいってたいしたことがない。呂布の目から見れば一目でわかる。呂布は当然として、曹操や陳宮はおろか、そこらにいる官軍の兵士より若干腕が立つというくらいだろう。
 呂布の興味を引くような相手ではないのは確かだ。陳宮は即座にそう判断したが、何故か己の相方はこの場から動こうとせずに、必至になって兵士達に話しかける男性に視線を送り続ける。

 曹操のような覇者としての雰囲気も、気配も感じられない。
 それなのにどうしたのか、僅かに眉を顰めるも、呂布はまるで先程曹操と会った時のように口角を興味深そうに吊り上げ始めた。

「おれ達は本当に役にたつって。なんといっても、この劉備玄徳率いる義勇軍なんだぜ!!」 

 劉備玄徳。
 そう自信満々に名乗った男だったが、対する官軍の兵士の対応は実に冷ややかであった。

 お前知っているか、という視線で隣の兵士に問いかけるもあっさりと首を横に振る。
 あいにくと二人の兵士はその名前に全くといって良いほど聞き覚えはなかった。
 名前を知られていないことに多少のショックを受けた―――かと思えば、特に気にした素振りを見せずに兵士達に抱きつきながら食い下がる。

 見れば劉備の後方には多くの人影が見受けられた。
 多くの、といってもその数は精々二百。
 しかも、皆が粗末な武器と防具しか持ってはいない。錆び付いた剣に、鎧。
 官軍のものと比較するまでもなく、果たして人を斬れる代物かどうか怪しいものである。
 それに加え、どう見ても兵士として教育を受けたとは思えない者達ばかりだ。ごろつきと表現しても異論はでないだろう。
 
 兵士としてはどうやら追い返したいと考えている思考が透けて見えた。
 だからこそ、劉備もあそこまで必至になって食い下がっているのだ。

 実際に官軍は猫の手も借りたいというほどに戦力的に不安である、というわけでもない。
 朱儁が来る前ならば、彼らも容易く受け入れられたかもしれない。しかし、呂布のおかげで僅かな被害しか被っていない朱儁の軍が皇甫嵩軍に合流したおかげで戦力は随分と充実している。
 しかも、南からは三将軍最後の一人である蘆植も向かってきているし、さらには江南から孫堅なる武将が、兵を率いて各地の黄巾賊を討ちながら北上してきていた。後数日もすれば合流できるだろうという見立てである。

 そんな現状の最中、わざわざ戦力になるかどうかもわからない連中を受け入れるかどうか。
 兵糧とて無限ではなく、兵士が増えれば増えるほど減りも早くなる。役に立たない兵士を受け入れ、官軍のプラスになるかどうか。官軍の兵士二人の対応も無理なかろうことだ。


「……そ、そこをなんとか!! 皇甫嵩殿に話を通してもらえれば、おれ達は必ず役に立つと証明出来る!!」
「ええい、煩い!! 皇甫嵩将軍は現在軍議中である!! お前のような下賤な者の話など聞く時間もない!!」

 遂に我慢できなくなったのか、兵士も口調が荒々しくなっていく。
 それでも笑顔を絶やさない劉備の背後で―――兵士達の肝を潰すような絶大な気配が迸った。

 彼の後ろに居たのは一人の女性と一人の少女。
 
 女性は一言で言うならば磨きこまれた刀剣の如き美しさ。
 長身である劉備よりは頭一つ低いものの、女性では十分な身長。
 長い黒髪が、風に靡き揺れている。深く澄んだ瞳に、ほんの一欠けらの剣呑さを滲ませていた。
 彼女の手には矛にも似た巨大な武器。呂布が持つ方天画戟にも匹敵する超重兵器を軽々と片手で持っていることに官軍の兵士達は気づいていなかった。

 少女は、女性と少々受ける雰囲気が違う。
 研ぎ澄まされた武の結晶である女性とは正反対で、少女はどちらかというと獣を連想させる。
 猫科の獣を思わせる少女だが、彼女の本質は猫などという可愛いものではない。
 大型の獣。それこそ虎の目の前にいると錯覚するほどに恐ろしい。
 一般の兵士にとってならば単純な恐怖という点では、こちらの少女の方が恐らくは上回るだろう。
 女性と同じ黒髪を後ろで軽く縛っている。年齢ということもあるのだろう。曹仁とほぼ同年齢。その点を考慮にいれれば、少女の肉体的な起伏の無さも納得がいく。
 そんな少女が手には矛を持ち、睨みつけるように官軍の兵士二人を射殺さんばかりに見ていた。


 女性と少女。
 その姿を認めた陳宮は、それは深いため息をつく。
 今日一日だけで、一体どれほどの化け物と出会えばいいのだろう、と。
 女性も少女も、義勇軍などというレベルを遥かに超えている。
 それこそ、漢朝にもここまでの武将はいないだろう。皇甫嵩でさえも、この二人に及ぶかどうか。
 そこまでの実力の武将が、ほいほいとこんな場所に現れたことに言いようのない悪寒を陳宮を襲った。

 胃を痛くしている陳宮とは裏腹に、呂布は未だ言い争いをしている彼らの方へと向かっていく。
 それは、陳宮が止めるのを忘れるほどに、自然な行動だった。

「なぁ、あんたら。この義勇軍については、皇甫嵩殿の耳に入れたほうがいいぜ」
「ん? なんだ、おま……え!?」

 兵士の一人が突然声をかけてきた呂布に対して胡散臭そうな口調だったが、顔の半分を隠しているとはいえ、即座に彼の姿に気づく。
 パクパクと地上にいる魚のように口を開け閉めしていたが、やがてヒィっと悲鳴をあげて腰を抜かす。
 
 突如として現れた呂布に、目を丸くするのは劉備玄徳とその背後にいた二人だ。


「彼ら―――というか、この二人か。下手をしたら俺にも匹敵するだけの武人だぜ? なかなかに面白いやつらだ。他は知らんが、戦力的には一騎当千が二人増えたと思えば良い買い物だと思うがねぇ」

 視線で劉備の背後の女性と少女に目配せをする呂布の言葉は、実は殆ど兵士二人には聞こえていなかったのだが、そのうちの一人が地面を這うようにして何度も頷きながら皇甫嵩の陣幕がある方角へと向かっていった。

 残された一人は、呂布から逃れるように何故か劉備の背中に隠れて、ガタガタと震えている。 

 あまりといえばあまりの光景に、茫然としていた劉備だったが―――ようやく目の前の出来事を飲み込めたのか、満面の笑顔で呂布へと近づき両手を握る。

「おお、あんたのおかげで本当に助かったよ。これで俺たちも漢王朝のために、戦える!! お前達もお礼を言うのを忘れるなよ、関羽!! 張飛!!」

 嬉しさのあまり力一杯手を握り、あろうことか呂布を抱きしめてくる劉備に、本気で迷惑そうにしながらも、相手に悪意があるわけでもなし。仕方なくされるがままになっていた呂布を離すと、己の背後に控えていた女性と少女に呼びかける。

「私は関羽雲長。貴殿のおかげで大変助かりました。深くお礼を申し上げます」
「……感謝する」

 拳礼をして、深々と呂布に頭を下げる関羽と名乗った女性とは異なり、張飛と呼ばれた少女は警戒心を剥き出しに、呂布に対して厳しい目を向けていた。それでも辛うじて感謝の言葉を述べるのだが、あまりといえばあまりの対応に眉を顰めたのは関羽だ。

「こら、翼徳。我らのために骨を折ってくれたお方に、そのような態度を取るんじゃない」
「……う、わかった」

 関羽のたしなめるような言葉に、張飛は明らかに嫌々ではあるが、ほんの少しだけ頭を下げる。
    
「張飛翼徳。助かった。礼を言う」

 意地を張っているのか、それだけを口に出すと先ほどと同じく親の仇を見る目で呂布を睨み付ける。
 怯えられるのは慣れているが、ここまできつい視線を向けられたことに多少驚く。
 昼間は曹仁から憧れの目で見られ、今夜もまた張飛からはこのような目で見られる。今日は一体どんな厄日なのだろうかと考えながら、頭をかきながら劉備達に背を向けた。
 
 皇甫崇から軍議に呼ばれていたことを思い出したからだ。
 随分と遅くなってしまったが、面白い人間を見付けたのだから上手いこと誤魔化すことが出来るだろう。

 そんな考えを脳内で張り巡らせながら、何か言いたげな様子の陳宮を伴って、劉備達の前から姿を消していった。その途中名乗るのを忘れたことに気付いたが、今更戻るのも格好がつかないと思い足を止めることはなかった。
 
 呂布と陳宮の後ろ姿を見送った三人だったが、劉備は突如あっと声を上げる。

「あー、しまった。あいつの名前聞くのを忘れてたぜ。しまったな……」
 
 心底残念そうに顔を顰めた劉備だったが、それに関羽は軽く頷きながら―――。

「確かにそうですが。どうせ同じ官軍の中にいるのです。すぐに顔合わせをすることができるでしょう」
「それもそうか。いやー、最初はどうなるかと思ったが、やっぱり日頃の行いのおかげかどうにかなったな」

 かかかっと楽し気に笑った劉備を呆れて肩を落とす関羽。
 相変わらず過ぎる主の姿に言葉もない。
 だが、どんな無茶なことでも本当になんとかなってしまうのが、劉備の恐ろしいところだ。

「……」

 しかし、劉備と関羽とは異なり、張飛だけはもはや見えなくなった呂布へと顔を向けたままである。
 まるで視線を話した瞬間、命を落とすのではないかというほどの真剣な様子に、劉備が不思議そうな表情で首を捻った。

「あの兄ちゃんがどうかしたか?」
「……初めて、見た。私と姉上の二人でも勝てるかどうかわからない化け物に」

 腹の底から絞り出す様子の張飛の言葉に、驚いたのは劉備である。
 血を分けてないとはいえ、誓いを交わした義兄妹。その妹二人の実力は誰よりも劉備が知っている。
 彼女たちに並ぶ武人を、劉備は知らない。圧倒的な力量差で、ここまでの道のりを踏破してきたのだ。
 どれだけの物量差があろうとも、関羽と張飛の二人が先頭にたてば、それだけで戦争の勝敗を覆すことが出来た。
 特に末の妹である張飛は、姉である関羽第一主義といってもいい。
 その張飛が、関羽でも勝てないと遠回しにしろ言ってしまうなど想像したこともなかった。
 唖然とする劉備に対して、関羽の反応は正反対である。
 武人としては弱気な発言をした張飛をたしなめることもなく、自分の妹の頭を柔らかに撫で上げた。

「そうだな、翼徳。天下はとてつもなく広いということを再認識することができた。あの御仁―――到底我らでは及ばぬ」

 自分の力量に自信を持っている関羽だが、かといって他人の力を認めないというような女性ではない。
 どこか尊敬が混じった視線を、張飛と同じ方角に向けて優しげに笑みを浮かべた。
 不思議と悔しさも怖れも、何もない。あそこまでの武人を見れたことが、単純に嬉しい。
 
 そんな二人に倣って劉備もまた、呂布が消えていった彼方へと視線を送るのだった。 
 
  












[38680] 五章 狂える武
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/19 13:54









 黄巾賊を率いる三兄弟。
 その次男である地公将軍張宝。彼が率いる軍勢は官軍が予想していたよりも遥かに手強かった。
 ただの農民の群れではなく、幾つもの戦で勝ち続けてきた結果、彼らは既に兵と評価しても過言ではない存在へと昇華されていたのだ。
 少なくともぬるま湯に浸かりきった官軍の大多数の兵士よりは余程役に立つ現状である。
 それに加えて黄巾の中でも随一の兵法家でもある張宝は、実に上手く官軍で渡り合ってきていた。

 先日から睨みあっている皇甫嵩は、兵の質でも士気でも劣る軍でよくぞ戦線を維持できたものだ、と陳宮は感心するばかりである。
 朱儁のように名ばかりの将軍と侮っていたが、すぐにその評価を取り下げ、今では皇甫嵩もまた警戒すべき人間の一人に格上げされていた。
 もっとも、もしもこの軍に曹操孟徳がいなければ、戦線は崩壊していたかもしれないと考えてもいたのだが。歴史にもしもはないので、それは幾ら考えても詮無きこと。

 呂布達が皇甫嵩の軍に合流してから早三日の時が流れていた。
 戦というものは、真正面からの全軍による大激突―――ということは滅多にない。
 しかも、僅か数日で決着がついた戦などということはそれこそ数えることができるほどだ。
 慎重派であり、策士でもある張宝ということもあり、この三日間は特に大きな両軍によるぶつかり合いもなかった。
 精々が小競り合いが少々、幾度かに渡って行われただけ。  
 
 そんな小競り合いでも異彩を放つ者たちはやはりいる。
 特筆すべきは劉備玄徳率いる義勇軍。配置された場所が、運が良いのか悪いのか、黄巾軍と激突した前線に彼らは身を置いていた。官軍よりは、使い捨てできる義勇軍を配置したのは皇甫嵩が悪いわけではない。どのような将とて、彼女と同じ選択を取っただろう。
 違う所を強いてあげるならば、命を落とすことになる義勇軍の兵士達のことを思って心を痛めたことくらいだ。
 
 だが、官軍に在籍するほぼ全ての人間の思惑を裏切り、劉備玄徳率いる義勇軍は黄巾軍を蹴散らし、張宝の配下でもある敵将うちの一人の首級をあげるという大手柄をあげてみせた。
 彼らの戦いぶりを見ていた官軍は、関羽雲長と張飛翼徳の二人の戦いを見て、目を疑ったという。
 たった二人の女性が、死をも恐れない黄巾賊の大軍を押し留め、切り裂き、貫いていった。常人では到底理解できない武人の力を目の当たりにして愕然としたのも無理なかろう話だ。

 もう一つが曹操孟徳率いる私軍。
 官軍ではなく、彼女が自分で率いてきた軍団。
 少数とはいえ圧倒的な突撃力と機動力を誇る騎馬軍団で、黄巾賊を薙ぎ払っていく。
 呂布達が来る前にも戦っていたためか、赤く染め上げている鎧を纏った騎馬軍団を見た黄巾賊は、どこか脅えを滲ませるほどだという。

 現在のところ、この二人が率いる軍が手柄をあげている。
 一方の呂布奉先はというと―――。



 結論からいうと特に働いていなかった。
 配置された場所は官軍の陣地の奥。総大将である皇甫嵩が陣を引いている場所の近くだ。
 全軍が突撃するか、ここまで敵軍に攻め込まれでもしない限り―――ここまで攻め込まれたら負け戦決定なのだが―――戦う機会などありはしない。

 睨み合いを続けている官軍と黄巾の軍勢を視界に入れながら、馬に乗った呂布は隠すことも無くあくびを一つ。
 
 不謹慎だと怒鳴られることもなく、漆黒の鎧と、新しく届いた兜を着こなし、地面に突き刺してある奉先画戟の柄を軽く握り締め、感触を確かめる。
 兜といっても顔すべてが隠れる形ではなく、口元は露出しているのであくびをしたのも丸わかりということだ。 

 呂布として、実は今の現状に特に不満はなかった。
 戦闘狂と見られがちな彼ではあるが、別に重度のそれとは異なる。むしろ、彼の本性は楽して毎日をどうやって生き抜くか、を主観にしているといってもいい。といっても、人を斬ることに躊躇いも無ければ理由も求めない異常者であることに変わりはないのだが。
 現在は故あって、どうしても呂布奉先の名前を売らなければならないため、戦争に身を投じているだけだ。
 
 ただ、曹操孟徳といった規格外の怪物に会った時などは、ついつい相手の底を知りたくて好戦的になってしまうが、そこまでの相手はそうそういない。

 だからこそ、今の戦線が拮抗している状況を見ても、特に思うところは無い。
 あくびのひとつも出ても仕方ないというものである。

 そして、ここまで呂布が気を抜いている理由はもう一つあった。
 それは、自分の出番がないことが薄々わかっていたからだ。
 彼が今いる場所もそうだが、呂布自身の本能。即ち戦争を嗅ぎ分ける独特の嗅覚が全く反応しない。つまりは自分が方天画戟を振るう機会はまだやってこないという直感を信じているということだ。
 
 その横にいる陳宮もまた、そんな呂布の姿を咎めることはない。
 長い付き合いの彼女にとっては、幾ら言っても呂布が態度を改めることが無いのは百も承知。
 それに伝説の武人としては、それくらいの態度を取って貰っていたほうが、らしく見えるということもある。

 そういったこともあり、二人は陣の奥深くで遥か前方に広がる小競り合いを眺めていたが―――大局が動くことなくこの日も日が暮れることになった。

 

 黄巾も官軍も兵を一旦退き、それぞれが野営の準備をしている最中。
 兵士達はそれぞれが今日一日を生き延びることが出来た喜びに浸っている。
 そんな騒がしさとは対極となる場所があった。即ち、皇甫嵩の陣幕である。

 その内部には多くの武将が腰を下ろしていた。
 皇甫嵩を初め、同じ将軍の朱儁。その他にも彼らの配下として軍を預かる者達。
 末席には陳宮と呂布もいた。朱儁の口添えにより、彼らもこの場にいることを許されていた。
 曹操孟徳と、彼女の横には夏侯惇も控えている。その雄雄しき気配が周囲の人間達を圧殺せんばかりに発せられているが―――肝心の対象となっている呂布は暖簾に腕押しの状態で腕組みをして静かに座っているだけだ。それを面白そうに見ている曹操だったが、周囲の人間は気が気ではない。

「情報によれば、やつらは撤退を開始しているという!! ならばこそ!! この機会を逃すわけにはいかない!!」

 激情家である朱儁が、吠えるように早口にまくし立てる。
 朱儁が言うように、先程確認された情報だが、張宝率いる軍が夜の闇に紛れて撤退を開始しているという。
 確かな情報に、小躍りをしそうになったのは朱儁である。敵軍を背後から奇襲できれば、壊滅的な被害を与えることができるのは想像に難くない。
 すぐにでも追撃を仕掛けるべきだと朱儁が皇甫嵩に詰め寄っている。

「……しかしですね、相手は噂に名高き地公将軍張宝です。何かしらの罠という可能性もあります」

 交戦を求める朱儁に比べて、皇甫嵩は消極的である。
 確かにいきなり撤退を開始するというのはあまりにもおかしい。そして、不自然だ。
 何かしらの罠という可能性が高いと踏むのが当然である。しかも、皇甫嵩が口に出したとおり、相手は張宝。今まで幾度も煮え湯を飲まされた相手なのだから、慎重になるというのは当たり前の話だ。

「確かに罠という可能性も捨てきれないが、相手が背を向けているというのは紛れもない事実!! 張宝の虚像に恐れてこの機を逃せば、勝利を掴むことなどできるはずもない!!」
「しかし……兵は、これまで長らく続いた戦いの緊張状態で疲労が隠し切れません。ましてや、今から出れば夜の行軍。この周辺の地理に慣れた黄巾に軍配があがります」
「疲労しているのは貴殿の兵士達だけではなかろうか!? 我が軍はそのようなことはありませんぞ!!」

 兵士が聞いたら辟易としそうな朱儁の発言だったが、それは全てが間違っているとは言えない。
 朱儁が合流する以前から、皇甫嵩の軍は黄巾賊と対峙していたのだ。夜もろくに寝れない緊張感によって目に見えて疲労しているのは仕方の無いことだった。

 言い争っている二人……とはいっても、皇甫嵩は何とかして朱儁を宥めようとしているのだろうが、手柄に目が眩んだ彼を落ち着かせることは実際になかなか難しい。
 追撃するにせよ、待機するにせよ、いい加減どちらかに決めてほしいと心底考えながら、ぼーと二人を眺めている呂布だったが、ふと視線を感じてそちらへと顔を向ける。

 視線の犯人はやはりというべきか、曹操孟徳その人である。
 底意地の悪い笑みを口元にたたえ、静かな、だが有無を言わせない美声を発した。

「呂布殿。天下無双たる貴殿の意見を聞きたい」

 皇甫嵩と朱儁の口がピタリっと閉ざされる。
 そして、二人の将軍の視線は末席にいた呂布へと送られてきた。
 それ以外にも、陣幕にいる全ての武将の瞳が呂布を貫いているが、やはりというべきか天下無双の態度に揺らぎは無い。

「あー、そうだな。追撃するのならば十中八九何かしらの罠を仕掛けられてるだろうが、あるならそれを食い破れば良い。どうせたいした罠じゃなさそうだしな。しないのならば、さっさと陣幕に帰って寝させてもらうぜ」
「……たいした罠ではないというのは、どういうことだ? 呂布よ」
「俺は今、曹操ちゃんと話しをしてるんだぜ、朱儁将軍? 横槍は勘弁してくれないか」
「―――っ」

 無礼な、と口に出そうとして朱儁は寸前で言いとどまった。
 先日からかぶっている黒い兜。口元と目元が微かにしか見えないそれに覆われているが、それがより一層呂布の恐ろしさを増長させている印象を受ける。さらには、先程までは夏侯惇の気配に満ち溢れていた陣幕だったが、今ではそれを圧倒し、喰らい尽くさんばかりに膨れ上がった呂布の気配が陣幕を支配していた。
 強制的に咽を掴まれ言葉を発することも出来ない気当たり。呼吸さえもままならなく、陣幕の内部の温度が急激にあがった錯覚さえ感じてしまっている。
 
 そんな気配が充満している中、夏侯惇は、曹操ちゃんという呼び方に眉尻をあげて口元をひくつかせた。
 あまりにも無礼な物言いに瞬時に腰の剣を抜こうとしたが、それを視線だけで呂布はとめる。
 もしも抜くならば容赦はしない―――そんな無言の忠告に、額から汗が一筋流れ落ちた。ぎりぎりっと圧迫してくる天下無双の気配に歯を食い縛る武人。

 それとは対照的なのが曹操だった。
 最初、自分がちゃんづけで呼ばれたことに理解できなかったのか、きょとんっとした表情で茫然とする。
 数秒もたつと意味を理解できたのか、唇を振るわせる。怒りではなく―――単純に笑うのを我慢しているという様子だ。
 
「くくくっ……いや、失礼。そ、それで貴殿の言葉の意味をわかりやすく教えてもらえないか?」

 夏侯惇とは別の意味で、笑いを堪えようと必至になっている曹操の言葉が震えているのは仕方の無いことだろう。

「あんたなら分かってると思うがねぇ。まぁ、簡単に言ってしまえば今回の黄巾の撤退はあいつらの予想外のことなんだろうさ。多分だが、病気になっているという張角の具合でも悪化したってところか。じゃなければ、こんな夜中に突然軍を退くなんてことは考え難い。となれと、自然と仕掛けることができる罠も限られてくるしな」

 すらすらと語る呂布に、全員が目を丸くする。
 武一辺倒だと思われていた彼が、それなりの意見を述べてきたのだから。

「まぁ、あくまで俺の予想だが。もしかしたら単純に俺たちを引っ掛ける罠という可能性も否定できない。その場合は虎の巣に飛び込んでいくようなものだな」

 俺ならそのまま虎を捻り殺すが―――と考えている呂布に対して陣幕は無言となる。
 曹操は満足そうに頷いて、視線を呂布から皇甫嵩達へと向けなおした。
 呂布が説明しなくても、これくらいはわかっていただろうに、曹操の思惑をいまいち掴めず首を捻る呂布だったが、結局はそれらしい理由に思い至らずこのことに関して思考を停止させる。 
  
「黄巾の首魁!! 張角が重度の病気を患っていることは世に知られておる!! それを考えれば呂布の意見も頷けるというもの!! やはり今こそが絶好の機会ではないか!!」
「……確かにそれは聞き及んでいます。ですが、呂布殿の言われたことはあくまで予測に過ぎません。下手に深追いすれば我が軍はとて無事ではすまない可能性も……」
「―――ならば!! 我が軍だけで奴らを追撃しましょう!! 皇甫嵩殿はこちらで蘆植殿と合流してから参られれば良かろう!!」

 消極的な皇甫嵩に対して遂に朱儁が我慢できなくなったのか、軍を二つに分けるという発言を口に出した。
 それに慌てたのが皇甫嵩だ。戦力を二つにわけるなど、愚策に過ぎない。もしもこれが罠でなければまだいい。しかし、罠にかかり朱儁の軍を失ってしまえばかなり厳しくなる。
  
「ま、待ってくださ―――」
「賊軍を討つことこそ我らが使命!! それをみすみす逃すなど、私は認めるわけにはいかない!!」

 格好良いことを言っているが、結局は目先の功に目が眩んでいるだけである。
 このまま敵軍を追い、張宝を討つことができれば、朱儁の名は天下に轟く。さらには、一体どれだけの褒章が与えられるか。地位も名誉も望むがままなのは間違いが無いだろう。
 いくら名門中の名門だからといって、一回りも年齢が下の皇甫嵩と同格の地位に甘んじている朱儁だが、この戦が終われば目にものを言わすことができるだけの昇格を望める筈だ。
 そのためにはこのまま敵の撤退を指をくわえて黙って無過ごす手は無い。

「それじゃあ、俺も朱儁将軍とご一緒させてもらうとするかね」

 静かな呂布の発言に、陣幕の中にいる人間が震えた。
 あの伝説が朱儁とともに行く。それは恐ろしいと同時に、とてつもなく頼もしい。
 呂布の参加を聞いた朱儁の反応は素早かった。これならば如何なる罠があったとしても打ち破ることは可能だという確信を得た彼は、即座に行動を開始する。
 
 自分の配下の者達を呼び出し、兵を動かす。
 出来るだけ早く、黄巾賊に追いつくために。それこそ相手に伏兵を仕掛ける時間も与えないためにも。

 一方で、皇甫嵩は唇を痛いほどに噛み締めている。
 如何に総大将といっても、所詮は三将軍のうちの一人。同格である彼をとめる権力は実の所彼女には無かった。
 しかも、彼女とて心の隅で朱儁の意見に賛同している部分も確かにあったのだ。
 罠の可能性も捨てれないが、もしもこのまま後退している敵軍の背後をつくことができたならば間違いなく各地の黄巾の反乱の勢いを止める事ができるほどの成果を上げることが出来るだろう。
 しかし、皇甫嵩は朱儁とは異なり、戦争の先を見て動く。其れゆえに、どうしても一か八かの賭けに踏み出すことに躊躇いを持ってしまった。

 撤退する敵を追撃するという朱儁とこの場にとどまる皇甫嵩。
 軍は見事なまでに二つに割れた。それぞれ二人の配下は強制的にどちらにつくかは決定されてしまうが、それ以外の兵士達の反応は様々だ。
 皇甫嵩とともに戦ってきた兵士達は彼女の手腕を信頼しているために、この場に残るものも多かった。
 特に劉備玄徳は、手柄をあげたいという気持ちもあったため朱儁とともに行きたかったが、彼ら義勇軍はあくまで皇甫嵩の計らいで参戦することが出来ていた。となれば、気持ちはどうであれこの場に止まることになったのは仕方の無いことだ。
 
 さらには曹操孟徳。
 彼女もまた、皇甫嵩とともにこの場に残ることを選んだ。
 もはや十分な手柄をあげたために、無茶をしなくても戦争後の恩賞は期待できる。そのために、ここに止まるのだろうというのが多くの人間の考えだったが、呂布は首を捻る。
 あの銀髪の魔人がそんな俗人のような思考で動くわけは無い。なにかしらの考えがあるのだろうと思ったが、彼女の策略を自分が読めるはずも無い。そうあっさりと判断すると、夜の最中に進撃を開始した朱儁の軍とともに轡を並べた。


 陣地から去っていく軍勢を見ながら、曹操は腕を組んで静かに佇んでいる。
 周囲で燃えさかる松明の火が、薄暗い夜の闇を赤く切り裂き、曹操の白い肌を浮き立たせていた。
 功を焦り、手柄に目が眩んだ朱儁率いる官軍の一団が地響きをたてながら彼方へと消えていく光景を見届けている曹操の横には無言で夏侯惇が控えている。
 難しい表情の彼とは異なり、曹操はどこか楽しげだ。

「どうした、惇? 何か言いたげにしているが……」
「……別に。お前が朱儁についていかなかったのが少々意外だっただけだ」
「何、たいした理由があるわけでもない。別にあちらに私が行かなくても壊滅的な被害を受けることはないと判断したまでさ。呂布殿がいれば大抵の窮地は潜り抜けることは可能だろう」
「つまり、お前の予想では何かしらの罠がある、と?」
「確かに突然すぎる撤退ではあるが、間違いなく張宝ならば何かしらの手を打っている筈。呂布殿が動かなければ私が行こうと思っていたが……手間が省けたぞ」

 流石は呂布奉先と、満足気に頷くと踵を返し自分の陣幕へと姿を消していった。


 
 

 
 

 



 ▼















 夜の帳が支配している中を、朱儁率いる軍が突き進んでいく。
 撤退をしていく張宝軍に追いすがるために、どうしても騎馬を中心とした部隊が先導する形で行軍を続けていた。
 歩兵が騎馬に必死になってついていこうとするも、如何に夜とはいえ騎馬と同速度で進むことができるはずもなく―――朱儁の軍は縦長に伸ばされて展開される形となっている状況だ。

 呂布と陳宮はその軍の中でも中心からやや前よりの位置にいた。
 行軍を開始して二時間ほどが経過した時分、朱儁軍は深い森が続く山道へと突入する。
 道幅は狭く、左右は木々が生い茂り、前方は道が曲がりくねり、夜の暗さもあわさって視界が非常に悪い。
 
 伏兵が置かれるには絶好の場所。
 朱儁に仕える軍師は、今の状況に焦りを感じていた。
 直情型である朱儁は、如何に黄巾に追いつき追討するかしか考えていないが、軍師としてはそうはいかない。
 彼らは常に最悪の事態を考えに入れて行動しなければならないからだ。
 撤退している張宝軍ではあるが、何かしら足止めする策をうっていることを軍師は確信していた。そして、その手をうつならば、軍が縦に長く伸びてしまい、道の幅も狭く大軍が機能しないこの場所を狙ってくる可能性が高い。

 それを何度も朱儁に進言するも、聞き入れる様子は全く見られなかった。
 自分の主の姿に頭が痛くなるのを我慢しながら、何度目になるかわからない進言をしようとしたその時―――。

「う、うぁあああああああ!!」
「敵だ!! 敵がいるぞ!!」
「矢が、矢がふって―――」

 森に響く官軍の絶叫。
 朱儁から撤退をしている黄巾賊を追うということしか聞かされていない兵士達は、思いもよらない奇襲に恐慌に陥った。
 森の両側から突如として降り注いできた矢が雨のように官軍の兵士へと突き刺さる。
 馬から振りおとされ地面に叩きつけられる者もいれば、矢が頭に突き刺さって絶命する者もいた。次々と官軍を襲う矢の雨は、途切れることなく人の命を奪っていく。

 森の入り口近くにいた官軍は降り注ぐ矢から逃れるように撤退を開始する。
 このような状況で将の命令を待てるわけもない。ましてや左右の伏兵に対して戦いを挑む気概があるほど士気が高いわけでもない。朱儁の軍にいる兵士とて、熟練の兵士ではない。折角今夜は休めると考えていたところに、無理な行軍。
 彼らのような兵士が奇襲を受けて即座に逃げたとしても、それはある意味当然とも言えた。
 
 入り口に近かった兵士達はまだ幸運だ。
 森に潜んでいる黄巾賊にとって、第一の目的は時間を稼ぐこと。森からでた相手を追撃することはない。
 悲惨なのは森の中心から出口の兵士達である。中央付近の兵士達はどちらに逃げるか迷ったあげく、矢の雨にうたれる時間も長い。
 出口に近い―――軍の前方に居た者達もまた慌てて森から出ようと急いだものの出た瞬間、前方から狙い澄まされた矢の連打をくらって命を落とす。
 森を出た場所を包囲する形で黄巾軍が布陣しており、森から出るということは彼らの良い的になるということだけがはっきりとわかっていた。かといって、森の中に居座るということは、左右に潜んでいる敵に狙い撃ちをされるということであり―――結論を言うと、朱儁の軍はパニック状態となっていた。
 
 肝心の将軍である朱儁もまた、周囲の兵士達に庇われて命を拾うことが出来ていたが、どうやって現在の状況を打破するか目まぐるしく思考していたが、そう都合良くそんな策を思いつくほど朱儁は優れた男ではなかった。

 逃げ惑い、恐慌する官軍の中で、呂布はあくびをしながら手に持っていた方天画戟を一閃。
 物騒な轟音をたてて自分に迫ってきた数十の矢を一薙ぎで弾き飛ばした。ぱらぱらと散っていく矢を視界の端にとどめながら隣にいる陳宮に迫ってきた矢を同じく一閃ではたき落とす。
 怖れ、怯えている周囲の人間とは異なり、陳宮は清々しいほどに堂々としていた。まるで降り注いでくる矢など気にも留めていない姿は天晴れとも言える。呂布の横に居る限り、この程度は怖れるまでもないことを熟知していたのだ。

「陳腐な策ではあるが、こりゃまいったねぇ」
「ああ。本当に何も考えずに行軍していたようだな、朱儁は。ここまで考え無しとは思ってもいなかったぞ」

 呆れているのか怒っているのか。
 どちらか微妙な表情で陳宮が肩をすくめた。
 別に特に優れた策という訳でもなかったが、ここまで恐慌状態に陥っていることに陳宮はため息を吐きたくなる。
 官軍の兵士の質と、将軍の能力の低さになんと言ったらいいのか、言葉にもならないとはこういうことか。

 そんな不満をありありと全身から滲ませている陳宮に対して、呂布は興奮している馬を撫でて落ち着かせる。そのついでに馬上から方天画戟の切っ先で転がっている剣を幾つか宙に弾きあげた。
 それを掴むと左右の森へと投擲。薄暗い森の中へと放り投げられた剣が、闇の中へと消えていくと同時に、投げられた剣の数と同じだけの人の苦痛の声が上がった。

 さてっと唇を舌で舐めて濡らした呂布は、口元を歪める。
 
「じゃ、行ってくるぜ」
「ああ。大丈夫とは思うが気を付けてな?」

 肺の中の酸素を全て吐き出し、そして数秒間かけて大きく吸い込む。
 限界まで吸いきった呂布は、ぴたりと呼吸を止めて―――。



「―――ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 
 

 寝静まっていた森が目覚める。
 鳥が飛び立ち、獣が逃げ出し、虫が縮こまった。
 
 到底人とは思えない。ましてや獣でもない。
 それは例えるなら幻想の種。龍の雄叫びと称するしかない、理解しがたい咆哮だった。

 空気が震え、森が揺れる。
 大地が怖れたように、地響きを立てたという錯覚をこの地にいる者達は感じた。

 呂布の周囲にいた官軍の兵士は、腰を抜かしただ呆然としている。
 黒い甲冑の化け物。触れてはならない禁忌の存在を前にして、思考を止めてしまうほどの恐怖に襲われていた。
 森の空間が軋む。呂布の咆哮で時が止まったこの場所で、ぎちぎちと音を立てて、痛いほどに静寂に響くのは呂布が発するとてつもない覇気。黒い乱世が、方天画戟を手に持ち、今にも爆発しそうな気配を漂わせて、世界を圧している。
 
 呂布の眼前にいる官軍は腰を抜かした者も、そうでない者も、自然と左右に散る。
 伏兵がいることも忘れて、呂布奉先の駆け抜ける道を造り出す。
 森に潜む黄巾の者達でさえも、弓を射る手を止めさせてしまう。彼らの時を凍えさせる一騎当千が、一つの黒い弾丸となって大地を疾駆する。
 呂布の乗る馬もまた、馬上の武人に呼応するかの如く四本の足で大地をたたいた。
 夜の闇よりなお深く暗い。そんな呂布奉先が、燃え盛る黒炎を纏い、周囲に撒き散らし、官軍が開けた道を行く。
 朱儁もまた、伝説の武人が駆け抜ける様を呆然と眺めているだけしかできない。

 そんな朱儁を遥か後方へと置き去りにし、息を呑むほどの圧倒的な気配とともに、呂布は森の出口へと飛び出した。
 彼が放った咆哮と、遠目からでも分かる尋常ならざる雰囲気に出口を包囲していた黄巾も動きを止める。
 そして、その存在を目の当たりにした途端、黄巾賊は理解した。彼こそが、張梁を討ったという生きる伝説。万夫不当の呂布奉先ということを。

 愕然としながらも、いち早く我を取り戻した人間がいた。
 それが現在この部隊を指揮している黄巾の将の一人―――高昇。
 元は漢に仕える役人であったが、太平道に魅せられて、黄巾に荷担している男だ。張宝の片腕として名を馳せる、黄巾賊としては有名な賊将の一人でもある。

「な、何をしている!! 如何な相手といえど、これだけの矢からは逃れられん!! 放て!!」

 高昇の怒号に、愕然としていた黄巾の兵士は正気を取り戻す。
 それぞれ手にしていた弓を引き絞り、飛び出してきた呂布へと狙いを定めた。 
 しかし、呂布とて無策で飛び出してきたわけでもない。彼は馬を走らせながらも方天画戟を地面へと突き刺し、勢いよく振り上げた。瞬間、地面に転がっていた官軍の兵士の死体が爆発したように弾き飛ばされる。
 人間の死体。しかも鎧を着込んだ物体が、弓から放たれた矢のように飛ばされる光景は圧巻ともいえた。
 凄まじい速度で弾かれた幾つもの死体が弓を引き絞っていた黄巾の兵士に叩きつけられ、幾人もの人間を巻き込み地面へと転がる結果を作り上げた。

 そんな非常識な光景に、矢を放つことも忘れて馬で駆ける黒い武人の姿に釘付けとなる。
 あまりの光景に彼の突撃を止めねばならないことを思い出すのに数秒の時を要するも、それはあまりにも遅すぎて―――。

 黒い炎を纏った呂布が、方天画戟を横一文字に薙ぎ払う。
 それだけで、数人の黄巾賊が消し飛ばされた。ある者は首を断たれ、ある者は胴体を両断され、ある者は肩から脇腹にかけて袈裟懸けに切り裂かれ。返す刀の一閃で、それ以上の兵士が吹き飛ばされた。
 上段に振り上げられた超重兵器が地面に叩きつけられ、小規模な爆発が巻き起こされる。大地が抉れ、土が弾き飛び、土砂が降り注ぐ。圧倒的な破壊に僅か数秒を数える間に数十の人間が物言わぬ骸と化す。
 
 呂布に呼応して、彼の馬が嘶く。
 目の前に広がる黄色の大海に怖れることもなく、彼の愛馬は人を蹴散らし、踏みつぶす。
 そのついでと言わんばかりに振るわれる方天画戟は、一振りするたびに確実に数人の命を奪っていく。
 あまりにも速く。あまりにも力強く。あまりにも無造作に。

 黄巾の兵士達では視認もできない超速度の斬撃が振るわれる度に、血飛沫が舞っていく。
 音を立てて積み重なっていく同胞の肉体。狂える武。圧倒的な武。凶がった武。
 
 とても人とは思えない、人の姿をしただけの黒い魔人が黄色の大海原を浸食していく。

 高昇は、死を怖れない。
 いや、高昇だけではない。彼の同胞である黄巾の者達は皆が三人の指導者のためならば命を捨てる覚悟があった。それに偽りはなく、恐らくは死ぬと分かっている足止めの部隊に自分達の意志で参加してきたのだから。
 だが、そんな彼らでさえ、確かに恐怖した。
 信仰をも凌駕する。漆黒の恐怖そのものに、彼らが戴く神たる存在―――張三兄弟へ対する信心さえも、粉々に打ち砕かれ。
 この場にいる黄巾の者達は、呂布の手によって死をも怖れぬ軍団から、死に怖れる民に引き戻された。
 剣から手を離す。弓をその場に落とす。槍の穂先が力なくたれる。

 それでも、狂う厄災は歩みをとめることはない。
 恐怖に震える黄巾賊を圧殺しながら、呂布の瞳は一直線に高昇の姿を捕まえていた。
 数十メートルはあった距離は、瞬く間に詰められ、間にいた兵士達は命無き骸に落とされ。

 一際高い蹄の音を高鳴らせ。
 呂布の乗る馬が高く嘶く。

 馬上から振り下ろされた方天画戟は、やはり高昇の視認を許さず。
 煌めく白銀の虹を夜の闇に残しながら、一直線に空間を断った。

 最後に高昇が見た光景は―――。

 彼の視界全てに広がる無残な同胞の骸。
 山のように積まれ、血の池ができあがったこの世の地獄。

 屍山血河。

 それをたった一人で作り上げた黒い怪物は。
 まさに幼き頃に聞いた絵物語の死神のようであった。 

  
 












[38680] 六章 孫呉の王
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/19 13:57








 張梁率いる黄巾軍を打ち破ったときを思い出させる圧倒的な力を見せつけた呂布の功績で、朱儁軍は致命的な被害を受ける前に敵軍を撃退することが出来た。
 元々黄巾賊は時間を稼ぐことが目的。寡兵による奇襲が失敗した以上、速やかに撤退するのは当然である。ましてや兵を指揮していた高昇が討ち取られ、呂布によって戦うことの恐怖を思い出させられた黄巾賊は、討ち死にする覚悟もなく逃げ出してしまったという方が正しいかも知れない。

 さて、敵を退けた朱儁ではあったが、彼は全軍に追撃の命令を出すことはなかった。
 彼は即座に怪我人の手当てを指示すると、森を抜けた先にある場所で陣を引く事にしたのだ。猪突猛進である朱儁にしては、冷静な対応だったとも言えよう。彼に仕える軍師の進言を受け入れたからだと周囲には思われていたが、それは少々事実とは異なっている。
 
 普段の彼の行動を見ていればわかるが、多少の被害を受けたとしても、今回のように兵のことを考えて進軍を止めることはまずない。特に壊滅的な被害をうけたわけでもないのだ。ならば何故か。
 それは、呂布の戦いぶりを見て、恐怖という感情を抱いてしまったからだ。黄巾賊を蹴散らす黒い乱世の姿を見て、恐れたのは敵だけではなく、味方も当然同様の恐怖を胸に刻まれた。

 確かに彼は強い。強すぎる。口を挟む余地が無いほどに、圧倒的なまでの強さを誇る武人である。
 如何なる戦いに及んでも、彼は決して敗れることはないだろう。だが、それ以外の者はどうか。
 彼の力を頼りに突き進んでいって、果たして無事に帰還することができるのか。手柄をあげることはできるだろうが、それを朱儁の命と天秤にかけたとき、軍配は後者にあがる。

 皮肉にも、呂布の圧倒的な強さが朱儁の功に焦った思考を落ち着かせる結果となった。

 天下十剣に数えられる朱儁だが、それはあくまでもこの腐りきった漢朝の中での話。
 命のやりとりをろくに体験したこともない彼は、突き詰めれば手柄よりも己の命を優先するのは当たり前といえば当たり前の結論でもあった。

 仮にも総大将である皇甫嵩の制止を振り切って張宝を追撃した朱儁にとって、このままこの場所に止まり後続の軍を待つというのは少々具合が悪い話だ。
 しかしながら、それは何も手柄をあげていない場合の話であり、今回とは事情が異なる。
 張宝の片腕として黄巾賊を束ねている高昇の首級をあげたのだ。張梁ほどではないにしろ、彼の賊将はこれまで散々と官軍を苦しめてきた相手でもある。
 その高昇の首をあげたとなれば、皇甫嵩に対しても十分に言い訳が聞くというものだ。

 自分の都合を第一に考えながら指示を出した朱儁であったが、この日以降の黄巾賊の攻撃は一切行われずに―――数日の時が流れた。













 ▼














 
 皇甫嵩率いる官軍が、朱儁の拠点にたどり着いたとき、どうにも微妙な違和感を彼女は嗅ぎ取った。
 張宝の追撃のために軍を動かした朱儁だったが、途中奇襲を受けたがこれを撃退。賊将の一人でもある高昇の首をあげる。この情報は既に先日もたらされているため、素直に朱儁の手腕に感心をしていたところだ。
 
 勿論、皇甫嵩に送られた情報の内容は上手く改竄され、呂布がいなければ下手をしたら壊滅していたという真実は握りつぶされている。
 あくまでも朱儁の指揮により、高昇の策を破ったという偽りの情報しか彼女は聞き及んでいない。
 だが、呂布の活躍事態は握りつぶされてはいない。彼が朱儁の命のもとで高昇を切り伏せた。そういった内容に擦りかえられているのだが、特に呂布は気にしてもいなかった。
 呂布の目的は呂布奉先の名前を天下に轟かせること。
 手柄や褒賞といったものは二の次だ。
   
 そのことを知らない皇甫嵩だったが、僅かな時間で朱儁の軍の違和感に気づく。
 戦場の前線であるにも関わらず、どうにも弛緩した雰囲気に包まれているのだ。鼻につくのは、眉をしかめるほど強い酒の臭い。別に酒自体は特に文句を言うつもりは彼女には無い。
 もともとが戦争に慣れてもいない兵士達だ。酒を呑んで気を紛らわさなければ正気を保つことも難しいだろう。

 だが、少しだけ皇甫嵩は嫌な予感に襲われた。
 朱儁の軍団は、士気は落ちてはいない。その点は構わない。
 しかし、どうにも必至になって戦争をしようという気概が感じられないのだ。
 なんとかなるだろう、という漠然とした気楽な雰囲気が軍全体から伝わってきている。

 皇甫嵩はその理由にすぐさま思い当たった。
 
 その原因は、間違いなく呂布奉先という武人である。
 元々朱儁の軍は黄巾討伐の後詰となる軍だ。即ち、実は戦という戦を経験してきていない。
 初めてが張梁と戦った時なのだが―――その時は結局呂布の活躍で圧倒的な勝利をおさめた。その後も、似たようなものだ。呂布がいればなんとかなる。もしくは、戦争といっても、こんなものか、という楽観的な目で見てしまっていた。
 勝っている分には問題ないが、こういう場合少しでも敗北という事実を目の当たりにすると崩れるのも早い。呂布が悪いわけではないのだが、非常に困った難問を抱えながら、皇甫嵩はため息をつきつつ朱儁の陣幕を、二人の人間を伴って潜った。

 陣幕の内部では、朱儁と彼の配下である何人かの武将がそれぞれに酒に舌鼓をうっているところに出くわした。
 あまり深酒していなかったのは救いだろうか。皇甫嵩が訪れたことに気づいた彼は、立ち上がり拳礼をする。そして、何故この場に止まっていたのか改めて説明をした。

「―――というわけで、我が軍は敵の伏兵によって多少の被害を受けてしまってな。確実に張宝めをうつにはやはり貴殿の力が必要になると考え、この地で陣を敷いていた次第だ。いや、面目ない」

 酒に酔っているせいもあるのか、高昇の首をあげた手柄のせいか、言葉とは裏腹に全く恥じることは無い様子に頭痛を隠せない皇甫嵩だったが、ここで怒鳴りあっても仕方なしと自分を戒める。

「しかし、流石は張宝といったところでしょうか。捨て置けない相手ですね」
「ここからどう動くか。高昇は討ち取ったとはいえ、黄巾の本体はほぼ無傷。まだまだ油断できぬ」
「ええ、全くです。ですが、こちらも随分と戦力を補充できましたし、総力戦を仕掛けても問題はないかと思います」
「……なんと。いや、なに。それでは、そちらの方々が?」

 皇甫嵩の背後にいた二人の人間にようやく気づいた朱儁は、一目見て己の中を巡っていた酒が吹き飛んだような錯覚に陥った。緊張を隠せずに、言葉が震えてしまったが、それも仕方がないと自己弁護をしてしまう。
 陣幕にいた配下の者達も同様で、今までの陽気がどこにいったのか。まるで戦場にいるかの如き焦燥に襲われている。

 一人は、まさに武人。実直な雰囲気を滲ませる、長身の大男だ。
 体格だけならば、呂布をも上回る四十近くの男だ。だが、並々ならぬ使い手ということは、自ずと理解できてしまう凄味を皆が感じていた。朱儁とは明らかに武人としての格が違う。

 もう一人は、対極ともいえる女性。
 女性にしては背が高い。女性としても背が僅かに低い曹操より頭二つ分くらいは上背がある。
 薄紫の長い髪がふわりっとゆれていた。同色の瞳に、汚されていない新雪のような白い肌。ほんの少し吊り上った目元が、勝気そうな印象を与える。
 豪奢な金色の刺繍がほどこされた―――拘りがあるのか髪と同じ紫の衣服。さらにはやはり同色の外套を羽織った女性。
  
「お初にお目にかかります。姓は孫。名は堅。字は文台。以後お見知りおきを」
 
 男の静かな、だが確かな圧力を感じさせる声に皇甫嵩を除く人間が息を呑む。
 このような武人がいたのか、と。朱儁は愕然とする。

 だが―――。

「そして、これなるは我が娘。孫策にございます」
「ご紹介にあずかりました。孫伯符であります。ご指導ご鞭撻のほどを宜しくお願いします」

 孫堅以上の異質を感じるのは、その娘―――孫策伯符だ。

 威圧してきているわけではない。ただ意識せずとも声から感じられるのは、凄まじいまでの覇気。
 もしも曹操に最初に出会っていなかったならば、やはり本能が肉体を平伏させていたかもしれない。
 朱儁の部下の誰かが、ひぃっと短い悲鳴をあげたが、それを咎める余裕も今の彼にはなかった。当然だ、こんな怪物を前にして平静でいられるほうが人間としておかしいのだ。もしもこの娘を前にして通常通りでいられるならば、孫策伯符に匹敵する怪物か、空気を全く読めない愚か者くらいだろう。

 はっきり言って孫策伯符は。美麗だ。麗人といってもいい。文句のつけ様が無いほどに美しい。
 曹操や陳宮といった女性にも見劣りしない。まさに傾国の美女と称しても良い筈だ。

 しかし、この女には何故か女性としての魅力を感じられない。

 彼女を前にすれば、見惚れるよりも命の心配をしてしまう。
 まるで人喰い虎の前に放り出されたかのような、死の危険に襲われてしまうのだ。

「孫堅殿と孫策殿には、我が軍とともに黄巾賊と戦ってもらいます」
「……あ、ああ。宜しく頼むぞ、お二方」

 なんとかそれだけを言うのが精一杯であった。
 今すぐにでも寝台に横になりたいと考える朱儁だったが、孫策が何かを思い出したのか、あっと小さい声をあげる。
 皇甫嵩と朱儁が何事かと孫策へと視線を向けた。

「先日、人公将軍張梁を打ち破ったという朱儁将軍に失礼ながらお聞きしたいことが」
「……何か。申してみよ」

 言葉遣いは丁寧だが、朱儁としてみては話すだけで臓腑を抉られるような重い衝撃を味合わされる。
 眉を顰めながら、孫策の言葉の続きを促す。

「張梁といえば、相当な武人と噂に名高き賊将でしたが……それほどの相手の首級をあげたのは、一体誰なのでしょうか?」

 爛々と目を輝かせて、孫策伯符は彼女がずっと気になっていたことを口に出した。
 南方より黄巾を討伐しながら北上してきた孫呉の軍ではあるが、張梁が討ち取られたことしか情報が伝わってきていなかったのだ。張梁の武勇は嫌というほど聞いていただけに、それを倒した者の名を気にするのは孫策としてはある意味当然だった。
 女性でありながら、武を求め続ける者。天下に孫家の名前を轟かせるためにも、それを為すだけの力を欲していた。
 孫策伯符。彼女もまた、曹操と同等に、乱世の覇王となれるだけの器と武勇を秘めた怪物である。

「……呂布だ」
「―――はっ?」

 小さく呟いた朱儁に、反射的に聞き返してしまう孫策。
 無礼といえば無礼だが、そんな細かいことを気にする彼女でもない。
 隣では、はぁっと疲れた表情を見せる孫堅がいるのだが、それに気づいたものはいなかった。

「……呂布奉先。一騎当千の飛将軍。その者が、張梁を、此度は高昇の首をあげたのだ」
「りょ、呂布ですか!?」

 目を大きく見開き、やや素っ頓狂な声をあげた孫策に、父である孫堅は珍しいものを見たと表情を緩ませる。
 しばらく何かを考え込むように視線を地面に向けていたが、やや経つと顔を上げ拳礼をして朱儁に頭を下げた。

「失礼な質問にお答えいただき有難うございます」
「いや、なに。気にするほどでもない」

 下がって良い、との朱儁の退出の言葉に孫堅と孫策が陣幕を後にする。
 皇甫嵩は他二人の将軍と話すことがあるのか、そのまま陣幕に残ることになった。外に出てみれば、周囲では兵士達が酒宴を開いて騒いでいるのか、楽しそうな声が耳に届いてくる。
 二人は黙って歩いたまま朱儁の陣幕から離れると、孫堅は隣で思案している娘に語りかけた。

「伝説の武人、呂布。なかなかに心強いことだ。もっとも、恐らくは騙りであろうがな」
「……ですが、張梁を討つほどの者。決して名ばかりの武人とは思えませんが」
「確かに。それなりの力量を持つ者ではありそうだ。顔を合わせるのが楽しみだな、孫策よ」
「……はい」

 気楽な孫堅とは違い、やはり表情が硬い孫策。
 人生経験が豊富な孫堅とは異なり、まだ歳若い孫策は父ほど思考が柔軟ではないのだろう。
 呂布という伝説を聞いて、それを一笑にふすことがなかなかにできなかった。
 噂に聞いた彼の残した伝説。それを為した万夫不当の武人に憧れているのは、何を隠そう孫策伯符自身なのだから。

 偽者にしろ本物にしろ、一度は顔合わせをしなければならないと考えている孫策だったが、それが手に取るようにわかる父の孫堅だった。
 彼としては、娘をしとやかな女性にと躾けていたつもりだったが、何故かそうはならなかった。
 孫堅が目指していた孫策伯符とは百八十度―――とまではいかないが、かなり違った成長の仕方をしてしまったが、それでも愛する娘。本人は否定するが目に入れても痛くない可愛がりようである。 
 
 何せ孫策伯符の美貌は孫堅の治める地でも評判で、幾つもの縁談話がきているが、それら全てを断っているほどだ。 
 そのことを知らない孫策だが、本人自身もまだまだ嫁に行きたくない気持ちがあるため、結局は一緒の結果になるのだが。

「……明日にでも呂布奉先に挨拶に行って参ります」
「うむ。失礼のないようにするのだぞ」

 娘が言い出したらどうあっても止まらない事を知っている孫堅は、苦笑しながら頷いた。
 孫策の武への執着は異常だ。天賦の才に恵まれながらも、努力を怠らない。孫呉が生んだ稀代の武人。それこそが、孫策伯符。二十を越えたばかりでありながら、純粋な武人としての力量ならば既に自分を越えていると、孫堅は見抜いていた。
 恐らくは呂布奉先を名乗る者に手合わせを願い、そのまま打ち倒してくる光景が目に浮かんできた。明日は騒がしくなりそうだ、と孫堅は軽く頭を振ったその時、二人の前方でざっと土を踏みしめる音がする。

「ほぅ。呂布殿に用がある、と? 中々に怖いもの知らずな方だ」

 涼やかな美声が、周囲の兵達の騒がしさの中でもはっきりと聞こえた。 
 まるで耳元で囁かれた錯覚。孫堅と孫策の二人でさえも、反射的に息を呑むほどの不可思議な圧力を秘めた女性の声だ。
 声の発生主。前方に静かに佇んでたのは、一人の少女。
 夜の闇でさえも彼女の美しい銀髪を彩る色合いにしかならない。孫親娘の視線を釘付けとする乱世の覇王。

 曹操孟徳は、二人をして背筋を粟立たせる寒気を感じさせながら、冷たい笑みを口元に浮かべている。

 三人を包む空間が捩れ、周囲の雑音が突然聞こえなくなった。
 実際には彼らが互いだけに意識を集中させたために、感覚が余計な音を遮断しただけなのだが、孫堅も孫策も突如現れた見知らぬ少女を前にして、気圧されていたことに気づくのに暫しの時を必要とした。
 孫策はそのことを恥とは思わない。鳥肌が立つほどの相手を前にして、心が高揚する。

「ふむ。噂には聞いていたが、これほどとは正直思っていなかった。孫呉の勇、孫堅殿と孫策殿とお見受けするが、如何か?」
 
 パチンっと小気味が良い音を鳴らし拳礼をする曹操。
 二人の器を測ろうとする彼女の視線に、孫策はふっと短い呼気を漏らす。
 ぎらぎらと狂暴に輝く瞳で、曹操の顔を見返しながら―――。

「孫伯符だ。宜しく頼む」

 非常に尊大な名乗りをあげつつ、曹操に近づいていく。
 口元が微かに震えているのは、隠しようの無い喜びだろう。
 今回の黄巾の乱を平定するためにこなければ、故郷にてただ平穏を貪っていただけでは決して会うことが出来なかった、自分と同格の選ばれし異端。それと出会えたことに、孫策の胸中は嵐のように掻き乱されていた。
 右手を差し出してきた孫策に対して、曹操もまた笑みを深くしてその手を握り返す。
 ただし、尊大な口調に比例して胸を張るのと同時に力強く自己主張している豊かな双胸に視線を走らせた曹操は、続いて自分の平坦な胸に目をやり―――若干危険な雰囲気を滲ませたが、それを一瞬で消し去る。

「曹操。字は孟徳。貴殿とは長い付き合いになりそうだ」
「そうだな。私もそう思う」

 ぐっと力を込める孫策だったが、曹操は表情一つ変えない。
 十秒近くも互いの手を握り合っていた二人だったが、何時までもそうしているわけにもいかずに、名残惜しそうに両者とも同時に手を離した。
 その光景を見ていた孫堅は、茫然と目を見開く。
 何故ならば、彼女達の背に凄まじい数の兵士達を背負っていたのだから。
 そんな馬鹿なと目を瞑り、開いてみれば先程まで見ていた兵士達は消えている。やはり幻影だったのかと納得した孫堅だったが、二人の間には不思議な因縁があるように見えて仕方なかった。 

「ところで、曹操殿。先程の物言い。貴殿は呂布殿のことを知っているのか?」
「ああ。何度か話をした程度の間柄ではあるが。孫策殿は呂布殿に興味があるみたいだが」
「……無いといえば嘘になる。伝説の武人、呂布奉先と聞いて心が躍らぬ武人がいまいか」
「ふふ。確かに貴殿の言うとおりだ。しかし……」

 ふっと目を細めた曹操が、やはり薄く笑みを浮かべたまま―――。

「やめておいた方が良い。孫策殿の並々ならぬ力量……実に見事。しかし、呂布殿には到底及ばない」
「―――っ!?」

 ぴしりっと空気が凍った気がした。
 何時もどおりの曹操とは対照的に、侮られたと勘違いをしているのか孫策の目に危険な色が混じる。
 武人としてお前は呂布には勝てないと、はっきりと言われたのだ。孫策とて、それで黙っていられるほど大人ではない。
 ただでさえ、孫策の武は揚州にて誰一人として追従することを許さない孤高の域に達しているのだから。
 井の中の蛙ではないにせよ。確かに孫策伯符という武人は、既に中華において五指に入るといっても過言ではない猛者。
 曹操の言葉に反発を感じるのも仕方の無いことだ。
  
「貴殿を侮辱するつもりの発言ではなかったが、もしそう取られたならば先に謝罪しておこう。だが、呂布奉先を名乗る者、伝説通りの天下無双。下手に手を出すのはやめておいた方が良い。自分から龍の逆鱗に触れに行くようなものだ」

 孫策が不満を口に出すよりも早く、曹操はそれを察してか言葉を続ける。
 真剣味を帯びた彼女の台詞に、流石の孫策も訝しげに眉を顰めた。
 孫策の目から見ても曹操という人間は明らかに常人とは違う領域に住んでいる住人だ。武人としても底知れない力量の人物だろう。その彼女がこうまで忠告をするというのはどういうことか。

 可能性は大きく分けて二つ。
 曹操孟徳が呂布の名を騙る人物に肩入れしている。偽者だということが発覚するのを防ぐため。
 もう一つが、心の底からの忠告。言葉通り孫策を心配しての発言ということだ。

 孫策は、曹操の目から視線を逸らさずに黙って見つめ続ける。
 力ある彼女の気あたりに曝されながらも、曹操は優雅に微笑んで佇んだままだ。
 その姿からは、全くといって良いほど相手の底も真意も読み取ることが出来ない。
 
 十数秒も無言で両者は対峙していたが、やがて曹操が何かに気づいたのか、孫策達の背後に視線をずらした後にやれやれと首を振った。
 
「あまり派手なことをしないで願いたいな、呂布殿」
「ん? 何かあったか、曹操ちゃん」

 刹那。
 空気が。周囲気配が。空間が。世界が凍った。
 なんでもないような男の言葉。曹操の発言に続いた気楽な男の言葉。
 得体の知れない悪寒が全身を貫く。あらゆる毛が逆立ち、嫌な汗が毛穴から滲み出る。
 目の前が一瞬暗闇に染まったが、それは即座に本来の色を取り戻す。
 まるで全力で戦った後のように、呼吸も侭ならない。四肢がまるで鉛をつけていると勘違いするほどに重く、自由が効かなかった。

 自分がこれまで感じたことの無い脅威。
 言葉では表現できない相手。まるで頂が見えない巨峰。そんな存在感を背後に感じた孫策の躊躇いは一瞬。

 腰に差してあった二本のうちの一本。
 何の飾り付けもしていない無骨な剣を引き抜くと、振り向くと同時に地を駆けようと両足に力を込める。
 爆発的な力の解放。地面に両足がめり込み、大地に彼女の踏み後を残す。
 孫策の視線は、数メートルほど前方に立っている黒い甲冑の武人に突き刺さった。
 言葉で語るよりも、何よりも彼の気配が雄弁に語ってきている。

 自分こそが、天下無双。呂布奉先だ、と。

 緊張で口内が渇き、咽がひりつくように痛い。
 孫策とて気配を感じただけでここまでの脅威を感じたのは生まれて初めてだった。
 曹操とは異なる、武人としての極地。対峙するだけで相手の希望を、願望を、気力を、自信を、精神を叩き折る一騎当千。

 そこまでの気配を感じているのだが、知らず知らずのうちに孫策は、口角を吊り上げて獰猛な笑みを浮かべていた。

 それが不思議と彼女に良く似合う。
 しとやかに笑っているよりも余程、孫策伯符という女性の魅力を発揮していた。

 覚悟を一瞬で決めた孫策は、剣の握りを確かめて、呂布奉先なる怪物との間合いを詰めるべく両足で地面を蹴りつけようとしたその時―――。

「止めろ!! 策!!」

 凍えた空間に響くのは、堅く重く、だが戦を駆け抜けてきた武人の声だった。
 夜の闇を切り裂き、孫策の足を止めるのには十分な力がこもった制止に、反射的に彼女は足を止めた。
 尊敬する父の声でなければ、集中しきった孫策の行動を止めることはできなかっただろうが―――。

 その時になって孫策は、じわりっと背が汗で濡れていることに気づく。

 何故ならば、今彼女の目の前には―――呂布が片手で持った方天画戟の切っ先が突きつけられていたからだ。
 一体何時の間に、と息を呑む。呂布の全身の動きを見逃さないように凝視していたというのに、その動きを僅かたりとも追うことができなかったのだから。
 後一歩でも踏み込んでいれば、白銀の切っ先に貫かれていた。
 それを悟った孫策は、自分が死んでいたかもしれないという恐怖を抱くよりも、己の弱さにぎりっと歯を噛み締める。
 彼女のその姿に、呂布は珍しく感心したように、ほぅっと呟いていた。

「我が娘が失礼を致しました。呂布殿とお見受けします。我が名は孫堅。字は文台。突然の娘の行動に深くお詫び申し上げます」
「いや、別に構わんぜ。逆に少し楽しませて貰ったよ。まだまだ無名でありながら、とんでもない武人ってのは隠れているものだ、とね」

 頭を深く下げる孫堅だったが、呂布はひらひらと手を振って謝罪は必要ないと笑いながら答えると、そのついでに方天画戟を自分のもとまで引き寄せる。
 兜で表情は見えないが、微かに見える口元が笑みを浮かべているところを見ると本心なのだろう。
 内心で胸を撫で下ろした孫堅は、娘のもとまで歩いて行くと、彼女の頭を掴んで無理矢理に下げさせる。

「し、失礼をしました。孫伯符と申します」
「あー、気にしなさんな。さっきも言ったが、中々楽しませてもらったし」

 伝説の武人のわりには気安い呂布の言葉に違和感を拭えない孫策だったが、その実力は疑う余地はもはやない。
 まさか一合も剣を交えることなく敗北するとは思ってもみなかった。
 しかし、天下無双の力の片鱗を僅かにでもこの身に受けることができた喜びが彼女の中には確かに存在したのだ。
 頭を上げた後の孫策は、孫堅に引っ張られてこの場から去っていく最後まで、呂布から視線を外すことなく見つめ続けていた。それはまさに虎を連想させるほどに、雄雄しく、熱く、力強く。爛々と瞳を輝かせて、孫策伯符は己が求め続ける武の頂を見つけたことに、隠しようの無い喜びの炎を胸に灯したのだった。
 
 呂布と曹操から離れていった二人だったが、数分も歩き自分達が連れてきた兵が陣幕を張っている場所に着いて漸く、息をつく。

「……あれが、呂布奉先、か。どうやら本物のようだな」
「……」

 深呼吸をするとこれまでずっと緊張していた身体から、力が抜けていくのがわかる。
 数多の戦場を生き抜いた孫堅が、ここまで緊張状態になるのは初陣以来だと思考しながら、傍に居る孫策の姿を盗み見た。父である孫堅の独り言に全く反応を示すことなく、孫策の瞳はある方角だけを射続けていた。
 
 父という身内からの贔屓目を除いても、娘である孫策伯符は天才だ。恐らくは長く続く孫家でも随一。武将として、天下に名を馳せるだけの才能を持っている。それ故か、孫策は幼い頃から挫折を知らない。失敗もなく、常に最善にして最高の道を駆け抜け続けてきた。

 そんな彼女が初めて出会った異質な二人。
 覇王としての器である曹操孟徳。
 武人として極限の域に達している呂布奉先。

 こんな外れすぎた異端と出会ったとき孫策はどうなるだろうか。
 張り詰めすぎた糸は容易く切れる。それと同様のことが起きるのではないか。
 そんな一抹の不安に襲われた孫堅だったが、それは無用の心配となる。

 何故ならば、今の孫策は歓喜に満ち溢れているのだから。
 常に最高であり続けた孫策伯符は、この時初めて自分の敵たるに相応しい存在に出会えて、心の底から感謝している。
 既に並ぶ者なしと褒め称えられている孫策伯符。されど、未だ彼女は成長途中。彼女の伸びしろは切れることがなく。やがて天をも掴む領域に達するだろう。

 ぎらぎらと野望に満ち溢れる眼差しの娘の姿を見て、我が子ながら末恐ろしいと破顔するのであった。
 















[38680] 七章 呂布と曹操
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/20 22:51













 孫堅と孫策の姿を見送った呂布と曹操だったが、どちらともなく顔を見合わせて苦笑する。
 独自の情報網を持つ曹操だからこそ、孫堅達の名前を知っていたが、四海においてあの二人の名前はまだそれほど広まってはいない。だからこそ、呂布も孫策の名前を知らなかったのだ。
 ただでさえ、孫堅達がいるのは南方。一言で言ってしまえば田舎の方なのだから、そちらで勇名を馳せていても中華の中心である北方では無名であって然り。

「ところで、こんな夜更けに出歩いてどうかしたのかな、呂布殿?」
「ん。あぁ、あんたを探してたんだよ、曹操ちゃん」
「私を?」

 奇襲をくらった時でさえ平然としているだろう曹操が、キョトンっとする様が普段との落差が激しく非常に可愛らしくさえあった。
 方天画戟を片手で持ち、もう片方の手に持っていた大き目の徳利を曹操の目の前に掲げる。

「あんたとは一献是非にと思ってたんだが。今夜の都合は悪いかね」
「……なんと」

 呂布の思いもかけない提案にまるで百面相のように、変化していく曹操孟徳の表情に、してやったりと呂布は内心で自分の行動の成功に喜んだ。
 この銀髪の魔人とは一度話をしてみたいという欲求はあったが、ただ誘っただけでは面白くない。
 そういうわけで、突然の奇襲をしかけていたが、どうやらその効果はあったみたいで、自分が誘われたことに暫しの間驚いていたが―――やがて満面の笑顔で頷いた。

「それは嬉しい誘いだ。私も呂布殿とはゆっくり話をしてみたいと思っていたが……どうやら相思相愛みたいで嬉しいな」

 裏の無い曹操の発言に、今度は呂布が虚をつかれる番であったが、そういった冗談めいた求愛の言葉は陳宮で慣れている。
 もっとも彼女の言葉には不思議な力がこもっており、一言二言話しただけで魅了するような怪しさがあった。

「さて、どこで飲もうか。できれば静かに飲める場所がいいんだが」
「ふむ。であるならば、私の幕舎はどうだろうか? そういったことに煩い者がいるが、確か今夜は席を外しているはずだ」
「そりゃいいねぇ。俺のところは喧しいのが一人いる」
「はっはっは。きっと貴殿のことを心配してるが故にだろう」
「それはわかっているんだがなぁ……」

 まるで十年来の友のように気軽に会話をしながら、曹操の幕舎へと歩みを進めるが、そこまで遠い場所ではなく僅か二、三分程度で到着する。
 幕舎の大きさに自分のところとは大違いだと感嘆しながら、曹操とともに近づいていくと一人の女性―――いや、少女の年頃だろうか、慌てて駆け寄ってきた。

 美しく長い黒髪を後ろで縛っている。
 迷いの無い瞳。感情を見せない表情。しかし、それが少女の美を引き立たせていた。
 可愛らしいというよりは美人と評したほうが相応しい。
 曹操よりも随分と背が高く、女性としては長身にあたる。孫策伯符と同程度だろうか。
 手にもつ長槍が異彩を放ちながらも、彼女の立ち振る舞いから只者ではないことが一目でわかる。

「……ん?」

 よくよく見れば、どこかが曹操に似通っていた。
 顔の造りや、目元など。曹操と瓜二つとまではいかないまでも、彼女を連想させるイメージを受ける。
 ただし、曹操孟徳の覇王の雰囲気までは似通ってはいない。だが、少女が纏う武人としての空気はそこらの者と一線を画す。

「そ、曹操様!? 供もつけずにどちらへ!?」
「なに。すぐそこまでだ。誰かを連れて行くまでもないと思ってな」
「し、しかし……何かあっては……。あれ、こちらの方は?」

 訝しげに氷の表情のまま、隣に立つ呂布へと視線を送る。
 黒い甲冑と兜の武人。即座に官軍で噂になっている呂布奉先ということを察した少女の視線がさらに鋭くなった。
 主に害を為す相手ならば例え呂布だろうが斬り捨てる。そんな覚悟を秘めた少女の瞳に、ぞくりっと呂布の遊び心が刺激されつつあった。
 
 全くどうしてこの軍は自分を怖れも恐れも畏れもしない武人が多いのだろうか。
 どしようもないほどに、呂布の心が躍る。心が震える武人が、あまりにもこの場所は多すぎる。

「落ち着け、子廉。呂布は私の客人だ」
「……それは失礼致しました」

 曹操の屈託の無い笑顔を向けられ、子廉と呼ばれた少女はようやく呂布への視線に敵意がなくなった。
 だが、どんなことにも対応できるように、警戒だけは解いていない。
 武人としてなかなか将来性に溢れた少女に自然と口元が綻ぶ。

「この娘の名は曹洪。字は子廉。歳の割には落ち着きがあって頼りになる」
「……歳の割にはと言われても、幾つかわからんので何とも言えん」
「それもそうか。確か今年で十七になるのだったか?」
「はい。呂布殿。曹子廉と申します」

 見かけ同様に元々口数が少ないのか、言葉少なに自己紹介をすると口を閉ざした。
 それと同時に十七、ということに表情に出さずに驚きを隠すことに苦労した呂布は、曹洪の全身を軽く見渡す。
 自分と大人びている少女なのは間違いない。特に胸元が、曹操とは桁外れに違っている。
 恐ろしいまでの戦力差を見せ付けて、曹洪は静かに佇んでいた。

「というか、俺はお前の年齢の方が知りたい」
「なんだ、呂布殿? 私に興味があるのか? だが、女性に年齢を聞くのは少々頂けないな」
「……曹洪殿の年齢をあっさりと答えたお前がそれを言うのか?」
「子廉はまだまだ若いから問題ないのだ。私とてそこまで若かったら躊躇い無く答えるさ」

 肩をすくめる曹操に対して、呂布はああっと口に出すと。

「なんだ、三十路に近いのか? 安心しろ全然見えん」
「失敬な!? まだ十九歳だ!!」
「……お前も気にする歳じゃないだろう」

 反射的に怒鳴り返してきた曹操に、ため息一つ。
 まだ二十にもなっていないのに拘る理由がいまいちわからない呂布だった。ちなみに陳宮に同じことを聞いたら本気で怒られるのだが―――二十代を半ば越えた彼女には死活問題なのだろうか。

「あれ、子廉? 孟姉見つかったの!?」

 やけに甲高い声が響き、新たな乱入者が現れた。
 赤い鎧をまとった幼い少女。長剣を背に、駆け寄ってくる姿は何故か子犬を連想させる。
 三人のもとまで近寄ってきたのは、曹仁子考。
 どこかで見た顔だと頭を悩ませた呂布は、数日前に曹操と初めて出会ったときに、彼女の背後に控えていた人物だということを思い出す。朱儁に妹だと紹介していた少女で、名前は―――。

「曹、仁殿だった……か?」

 うろおぼえではあるが、記憶のなかの断片を繋ぎ合わせて、曹仁の名前を思い出すことに成功した。
 突然名前を呼ばれた曹仁は、黒尽くめの甲冑の武人を見上げながらしばし考え込む。
 曹仁は兜で顔を隠す前の呂布を知っている数少ない人間だが、それ以降顔合わせをしてはいない。そのため、目の前の武人が呂布だと気づいていなかった。
 それに勘付いた曹操が曹仁の耳元で、この者が呂布奉先だ、と囁く。
 
 曹仁は呂布の爪先から兜の先まで視線をいったりきたりさせると―――。

「お、お前が呂布奉先だってこと、私は気づいていたんだからなー!!」
「……ああ、うん」

 曹仁の雄叫びに、呂布は黙って頷いた。
 この場で一番小柄ながらも、そして一番平坦な胸を力一杯反らし呂布と相対する曹仁を見てどう対応すればいいのかいまいち彼にもわからない。

  
「気にするな。子考は何時もそのような感じだ」
「……そうか。いや、曹操ちゃんのところは良い武将が揃っているのだな」
「本心からの言葉か、呂布殿?」
「……勿論だ」

 赤い瞳でじっと見つめてくる曹操から、ついつい視線を逸らしてしまった呂布。
 シンっと静まり返る三人とは異なり、曹仁だけは胸を張って喜んでいる。伝説の武人に褒められたことが嬉しいのか、彼女の表情は満面の笑顔だった。

「ま、まぁ。私はこれから呂布殿と少々話がある。外の警備は任せても良いか?」
「……わかりました」

 呂布と二人で話をするということに危険と警戒を最大限まで高めるが、主である曹操の言葉に異論を唱えるわけには行かない。内心では不満ありありといった様子の曹洪だったが、表情にはあまり出ていないところを見た呂布が、本当に彼女は十七歳なのかと疑いをもつほどであった。 

「ええ、孟姉!? 呂布と二人っきりなんて危ないよ!?」

 曹洪とは対照的なのが曹仁である。
 目の前に呂布がいるというのに、平然とこんな発言をしてしまうのは、器が大きいのか何も考えていないのか。
 
「なに。二人が心配することは何も無い。むしろ私が呂布殿と二人っきりで話をしたいと願っていたのだから」

 ぽんっと曹仁の頭に手を置いてわしわしと撫でる。
 髪が乱れてしまったが、そんな曹操の手の心地よさに曹仁は夢見心地だった。
 尻尾があったならば、千切れるんばかりに振っているのは間違い無い。嬉しさ爆発。それを身体全体から滲ませていた曹仁を置き去りに、曹操と呂布は幕舎の入り口の布をかき上げて中へと入っていく。

 内部は他の幕舎と変わりがなく、戦場らしい簡素な造りとなっていた。
 見栄に拘る武将ならば、豪勢に飾ったりもしているが、少なくとも曹操にはそういった趣味は見られないようだ。

 二人は腰を下ろすと、一息つく。そして気づいた。
 酒は持ってきたが、肝心の盃がない。駄目元で曹操と一献やるという目的を持ってやってはきたが、今先程の思いつき故に、大切なところが抜けている。
 しまったなっと考え込んだ呂布に気づいたのか、曹操は近くの整理されてない荷物に手をかけた。
 立ち上がるのが面倒だったのか、四つん這いになって荷物をごそごそと漁る姿は、どうにも昼間に兵士達に見せている毅然とした曹操孟徳と同一人物とは思えない。
 しかも丁度呂布へと腰を向けているのだが―――元々曹操の服装の下半身部分の丈は非常に短い。
 辛うじて下着が見えることを防いでいるのだが、四つん這いになれば、その丈の短さが災いするのは当然で―――。

「むぅ……どこにしまったか。確かここらへんに入れておいたと思ったが」

 なかなか見つからないのか荷物のあちらこちらに手を入れて探っている。
 
 床に投げ出されている両足。白く眩しい太股。そこが続く丸い尻の曲線。
 細く、長く、きめ細かい肌にをした下半身が誘うように揺れている。
 彼女の肌と同色の純白の下着が、ちらちらと呂布の視界に入ってくることに、どうするべきか悩む。
 このまま眼福と思って見続けるべきか。それとも気づいていない曹操に忠告するべきか。
 
「……なぁ、曹操ちゃん」
「ん? もう少し待ってくれないか。多分もうすぐ見つかるとは思う」
「いや、それよりも一つ言って良いか?」
「ああ。別に構わないが……?」

 四つん這いのまま振り返った曹操が、何事かと首を捻る。

「白、好きなんだな。俺も好きだが、次は縞々を頼む」
「……はっ?」

 一体何を言ってるんだこいつは、と何の脈絡も無い呂布の発言に眉を顰めた曹操だったが―――呂布の突き刺さるような視線が自分の下半身に向いていることに気づく。
 そして、呂布の発言を思い返し、己が今日穿いていた下着の色をさらに思い出す。

 沈黙。静寂。
 全身の血液が沸騰したかのように熱くなり、顔を朱に染め上げた。
 
「ば、ば、ば、馬鹿者ぉ!?」

 悲壮な声をあげた曹操は、荷物の中に突っ込んでいた手が堅い何かを掴み上げ、反射的にそれをおもいっきり呂布へと投擲する。しかも飛んでくるのは何やら堅い物体が二つ。
 常人だったならば視認も出来ない速度で飛来したソレを、呂布は驚くことも無く片手で二つとも受け止めるが一体なにを投げてきたのか確認すると、偶然なのか天の定めなのか、曹操が探していた盃であった。

「おお、ようやく見つけたか。さぁ、一献やろうぜ」
「な、な、な……言うに事欠いて、それか、貴殿は!?」

 曹操が顔を赤くしたまま詰め寄ってくるが、呂布は被っていた兜を外して横に置く。
 ふぅっと息を吐くと、迫ってきていた曹操に受け止めた盃のうちの一つを手渡して、屈託の無い笑みを浮かべた。

「まぁ、気にするな。下着は見られても減りはせんよ」
「減るんだ!! 主に私の気持ちが!!」
「そうなのか? 良いものが見れて嬉しい俺がいるから互いに相殺されて丁度いいな」
「なるものかっ!!」

 暖簾に腕押し状態の呂布を相手に、言い寄っても無駄だと理解したのかどこか疲れたため息を吐いて曹操は盃を受け取ると呂布の目の前にて改めて座り直す。
 そんな曹操の盃に徳利から酒を注ぐと、彼女はひったくるように徳利を呂布から奪い取り、酒を注ぎ返す。
 互いになみなみと酒がつがれた盃を片手に持つと、その盃を前に差し出し―――。

「さて。乾杯といくか」
「……全く。私も面の皮が厚いと良く惇に言われるが。貴殿には負けるぞ」
「褒め言葉として受け取っておこうか。では、俺と曹操ちゃんの出会いに―――」
「呂布殿と私の出会いに―――」


「「乾杯っ!!」」 


 チンっと盃をかるくぶつけ、小気味の良い金属音が幕舎に響き渡る。     
 二人は同時に盃に口をつけると、一息で飲み干した。

 呂布が用意した酒を毒味もせずに呑んだ曹操の度胸に感心しながら、徳利から新たに酒を注いでいく。
 本来ならば曹操ほどの立場の人間ならば、毒味役を用意して然るべきだ。   
 現に朱儁や皇甫崇といった将軍は何かを食すとき常にそういった役目を担った者が側に侍っている。
 呂布が毒を仕込む可能性を考慮していないのか、信頼しているのか不明だが、曹操は赤い瞳をより一層強く輝かせて注がれた酒に舌鼓をうっていた。
 
「ふむ。これはなかなかに旨い酒だ。ただの安物とは違うな」
「ああ。朱儁将軍のところから失敬してきた代物だぜ? そこらの兵士が呑んでいる安酒と一緒にされたら困る」 
「……譲り受けてきたもの、か?」
「いや。盗んできた」
「……」

 平然と言い切る呂布に、曹操は一体何度目になるかわからない微妙な表情になるが、遂に我慢出来なくなったのか―――。

「くっ……ははははは!! あはははははは!!」

 破顔一笑。曹操は呂布の前でありながら、腹を抱えて笑い転げる。
 そんな様でさえ絵になるのだから、曹操孟徳という少女は恐ろしい。
 幕舎の外では突然聞こえた主の爆笑の声に曹洪も曹仁も何事かと気が気ではなかったが、無断で入るわけにもいかず悶々とした様子で警備にあたっていた。

「いやぁー笑った笑った。本当に貴殿は面白いな、呂布殿。私も多くの人間に会ってはきたが、貴殿程私の興を惹く者はいなかった」

 目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭いながら、笑顔のまま盃に残っていた酒を飲み干す。
 そこに呂布は阿吽の呼吸にも似た動作で徳利から酒を注いでいく。

「ああ、すまない。本来ならば私がつがなければならないのに申し訳ない」
「いや、気にしなさんな。酒を呑む時は小難しいことを考えても仕方が無い。酒が不味くなるだけさ」
「くくくっ……違いない」

 改めて呑む酒は、何故かこれまで飲んだ中で一番美味いと感じる。
 きっと一緒に飲んでいる相手が呂布だからだろう。まだ会って間もないが、何故か彼と共にいることが心地よく感じてしまう。伝説の武人だからではなく、彼本人の魅力が曹操孟徳を惹き付けてやまない。
 
「お前は不思議な女だな、曹操」

 呂布が盃に注がれている酒を見ながら独白するように呟いた。
 突然の発言。しかも、今までちゃんづけしていたくせに、呼び捨てで曹操の名前を呼ぶ。
 無礼な、と怒る気も不快な気分もしない。逆に心のどこかがそれを喜んでいる。

「立ち振る舞いは武人そのもの。戦を指揮する姿はまさしく覇王の如し。それだけではなく、謀略や政にも秀でているはずだ。それ以外にも、お前には出来ないことはないと、会ったばかりの俺でさえも自然と理解できる」

 呂布の予想は的を射ている。
 曹操孟徳という少女は詩も読めば、歌も歌う。絵にも精通し、踊りさえ嗜んでいた。
 あらゆる芸能に秀で、その道で名を馳せる者でさえも彼女の才に頭を下げる。
 
 だが、それらは所詮曹操孟徳を構成する僅かな片鱗に過ぎない。
 
 彼女の本質が、いまいち掴めない。
 呂布の目から見ても、こうして酒を酌み交わしていても、それでも理解が及ばない。
 呂布奉先という天下無双の武人でさえも、乱世の覇王たる曹操の全てを知ることが出来なかった。

「……だからこそ、お前に惹かれる。こんな気もちは久しぶりだ。ここまで誰かを知りたいと思ったのは、あいつ以来だ」
「ふむ。なかなかに嬉しいことを言ってくれるが……二番目というのが若干の癪に障るな。どうせなら貴殿の初めてになりたかったものだが」
「そりゃ、欲張りってもんだ。二番目で我慢しておけ」
「それで我慢できないのが曹操孟徳なのだ」

 薄い胸に手をあてて語る曹操は、まるで愛を囁くようにも見えた。
 
「お前の言葉をそっくりそのまま返そう、呂布よ。私もお前が知りたい。お前という人間の真実を知りたい。戦場にただ一人狂い咲く大輪の黒き花よ。お前は私の心を惹き付けてやまない。お前は、これからどう生きる? 私の敵として生きるのか。それとも私の覇道とともに生きるのか」 

 カツンっと盃が再び音を高鳴らせた。
 何時の間にか二人の距離はさらに近づき。
 見詰め合う瞳は、まるで磁力を発しているかのようで、視線を逸らせない。
 互いの息遣いが聞こえ、匂いが鼻につく。
 曹操の甘い香りが。呂布の汗の匂いが。

 二人の体臭が両者の正気を奪っていくような錯覚。
 どこまでも堕ちていく様な―――。

「孟姉!! 惇兄どこ行ったか知らない……って、何やってるの?」

 突如布幕をまくって現れた曹仁だったが、戦場でも滅多に見せない超速度で両者とも飛び退いて間合いを取っているのだが―――呂布も曹操も幕舎の隅っこに背中をつけて苦笑いをしている光景に、首を捻る曹仁。
 雰囲気をぶち壊された二人だったが、曹仁を追い出した後ここからさらに二人で深酒を続けるのであった。






















 ▼


















 朱儁と皇甫嵩の軍が合流した翌日。
 朝一番の早馬で運ばれてきた伝令からの木簡を眼を覚ましたばかりの皇甫嵩は、目を見開いて幾度と無く読み直す。
 まさか、と思うような内容がそこには書かれており、それを理解した彼女は慌てて主だった武将を陣幕に呼び寄せた。

 皇甫嵩の陣幕に集められたのは朱儁を初めとして、将軍直属の武将。
 それ以外には陳宮と呂布。劉備玄徳に曹操や孫堅と孫策といった人間も皇甫嵩の計らいで同席することを許されていた。

 曹操や孫堅はまだしも、呂布や劉備といった武将まで呼ばれるところを見るに、皇甫嵩の彼らへの期待の大きさが理解できる話である。

 朱儁や多くの武将が眠たい目をこすりながら座っているのだが、それも仕方ない。
 まだ朝六時という早い時間なのに加えて、昨日は随分と深酒をしていたことも理由の一つにあげられるだろう。

 それに対して孫堅や曹操は身嗜み一つとってもしっかりしており、朱儁との差が浮き彫りになっていた。
 ちなみに呂布や劉備はどちらかというと朱儁寄りである。彼らもまた、昨日は寝るのが遅かったのだ。

 劉備は自分の兵士達と朝までどんちゃん騒ぎ。
 対して呂布は、孫策達と別れた後に曹操に誘われて一対一で酒を呑んでいたのだが、途中で二人の姿が見えないことに気づいた夏侯惇と陳宮が凄まじい形相で割って入ってきて、呂布は引き摺られて帰っていったという後日談があった。
 結構な量を飲んだというのにけろりとしている曹操に末恐ろしいものを感じながら呂布は欠伸を噛み殺す。

 木簡に書かれている内容を朱儁は舟をこぎそうになりながらも見ていたのだが、果たして内容がわかっているのか不安になってくる皇甫嵩。
 その予感は的中しており、内容を読みながら特に慌てる様子も見せない朱儁に、頭痛を感じながらため息をついた。
 しかし、ようやく内容を飲み込めたのか、カッと目を見開いて木簡を握り締めながら立ち上がる。

「張宝めが、青州にて全土の黄巾に召集をかけておるだと!?」

 朝の静寂を切り裂く朱儁の雄叫びに、陣幕の中にいる武将がようやく理解できたのかといった目で見てくるが、それに気づくことは無かった。
 この将軍はもう駄目だと、心底考えながら陳宮は冷たい視線を送っているが、これくらい愚かなほうが扱いやすくて助かるという気持ちもあるので、その視線は若干生暖かく変化していった。


「逃げも隠れもせぬとは、なんとも思い上がった愚か者よ!! 次の戦は我らと黄巾賊の総力戦となるだろう!! 皆の者、心してかかれ!!」

 先程まで眠たげにしていたとは思えないほどの苛烈さで吠える朱儁の声を頭の隅に留めつつ、皇甫嵩は先日の黄巾賊の行動に合点がいったと内心で頷いていた。
 官軍と向かい合っていながら、突然の撤退。普通ならば撤退している軍の尾から蹴散らされて終わりだ。
 張宝の強かさを知っていた皇甫嵩だったために、何かしらの罠だと読んだために全軍で追撃することはなかった。だからこそ、張宝は命を拾えたといっても過言ではない。いや、もしかしたら張宝は皇甫嵩の性格と思考を読みきった上での撤退だったかもしれない。賊将にしておくには惜しい相手だと、本気で考えながら彼女はもうひとつの木簡を握り締める。

 それだけの危険を冒してなお、張宝達が撤退した理由。
 それはやはり―――。 
  
「敵将である張角は、病に臥せっているということでしたが……」
「はい。余命いくばくもないとのことですが」

 皇甫嵩の独り言に、平伏した曹操が短く返す。
 握り締めた木簡に目を落としながら、皇甫嵩は朱儁よりも余程頼りにしている曹操へと視線を送った。 

「曹操殿。張宝の動き。貴殿はどう見ますか?」
「はっ……察しますに、張角は既に亡き者かと」
「……私も同意見です。張宝は三人のうち二人の指導者を失ったために焦っているのでしょう。ただ一人残された自分にまだ求心力があるうちに決戦を仕掛けようとしている、といったところでしょうか」

 曹操と同じ考えだったことに、より一層自分の辿り着いた結論に自信を持った皇甫嵩が、陣幕にいる全員に聞こえるように静かに、だが力強く呼びかける。
 そして、数日前に張宝が退いた時に呂布が語った予想が的中していたことに内心で驚きを隠せなかった。
 あくまで予想だったとはいえ、これが呂布奉先の戦場における第六感なのか、と改めて伝説の武人に恐れと畏れを抱く。

 だが、味方であるならば心強い。
 呂布奉先。曹操孟徳。夏侯惇元譲。劉備玄徳。関羽雲長。張飛翼徳。孫堅文台。孫策伯符。
 これだけの破格の才ある者が集まる官軍。
 誰が相手であっても敗北することは決して有り得ないだろう。
 皇甫嵩は、果てが何時とも知れない黄巾の乱の終焉を感じていた。

 




















  ▼














 軍議は青州へと進軍を開始するということを伝えられ解散となった。
 各々進軍の準備をするために散っていく中で、呂布と陳宮もまた陣を歩いて行く。
 行き交う兵士達は、既に呂布の名と姿を知らぬ者はいない。というか、漆黒の鎧と兜で着飾っている長身の人物。しかも方天画戟という巨大な兵器を持ち歩いている呂布の姿は官軍の中でも一際浮いている。
 いやがおうでも目立つのは無理なかろう話だ。
 
 恐怖を滲ませて散っていく兵士達。
 それらを目の端に捉えながら、顎に指をあてて隣にいる陳宮に語りかける。

「敵の数はどれくらいになるんだろうな」
「……黄巾の総数は数十万とも言えるが、各地でかなりが平定されたとも聞く。それに元々暴れたいだけで参加した者もいるだろう。そういった者達は旗色が悪くなってきている現状、逃亡するのがおちだ」
「そうだろうな。地方の奴らなんざ、そういった奴が多いだろうが」

 呂布は特に敵の戦力に対して心配をしているわけではない。
 今のこの腐りきった漢朝が治める天下。それに対してどれだけの人間が命を賭けてまで不満を、憎しみをぶつけるであろうか。それに関しては、呂布とて興味を抱く。

 或いは官軍の総兵数を超えるかも知れない。
 もしくは、兵の数が官軍には及ばなかったとしても、黄巾のあの死を恐れない蛮勇が、官軍を打ち破るかもしれない。
 呂布とて正直な話、黄巾よりも官軍を相手取ったほうが余程楽である。

 失笑しそうになった呂布だが、いやっと首を振った。
 確かに官軍の方が手応えはないだろうが、こちらには曹操孟徳がいる。関羽雲長がいる。孫策伯符がいる。
 生半可な相手ではなく、まとめて相手取れば生死を削る戦いを期待できるが―――今はまだ官軍から離反することは考えていない。呂布の第六感を信じるのであれば、黄巾賊と官軍の戦いは、もはや勝敗は決定している。間違いなく官軍の勝利は揺るがない。例え呂布が黄巾賊に手を貸したとしても、時代の流れは呂布をも呑み込むだろう。
 如何に一騎当千といえど、この流れを止めることはできないことは呂布自身が理解している。あくまでも呂布は、自分の名前を歴史に残すことしか考えていないのだからこのようなところで負け戦にかまけている暇はない。

「しかし……一つ気になることがある」
「んー? 何かあったのか?」

 難しい表情の陳宮が、周囲に目を配りながら小さな声で囁いた。
 相変わらず深読みするのが好きな奴だと、十年来の相棒に耳を傾ける呂布奉先。

「……あの張宝は、死に急いでいるようにも見て取れる」

 それは若干呂布も気にかかっていたことだ。
 全土の黄巾を召集。言ってしまえば負ければそれで終いの総戦力での戦を行うということだ。
 黄巾にとっては、それはあまり宜しくない。どちらかというと漢朝の方が具合が宜しいといえる。
 例えば中央から遠い地方政権を倒して乗っ取ってしまえば、後はその地を中心として太平道を広げていけば良い。
 今の求心力が低下した漢朝にとって、乱を長引かせれば長引かせるほどどんどんと疲弊していく。戦争をするのにも金や物資が必要だ。その分を無理矢理にでも民から徴収しなければならない。そうすれば、民の心は自然と黄巾へと向かっていくだろう。

 しかし、張宝はそれをしない。
 まさか気づいていないという訳は無い筈だ。
 まるで自分に注目を集めながら行動しているような違和感。
 もはや残されたただ一人の指導者。どうして、その張宝がこんな博打に出たのか、それが陳宮には読み切れなかった。 


「どっちにしろ難しいことを考えても仕方ないさ。そんなことはお偉いさんに考えさせておけば良い」
「……それもそうだな。私たちは私たちの目的のために突き進むのみ、だ」

 この場で幾ら考えようとも所詮は予想に過ぎない。ならばこれ以上考えても言葉通り無駄なことだ。
 二人が自分達の陣幕の方角へと向かっていたその時、遠くで陳宮の名を呼ばれる。一人の兵士が手を振りながら近寄ってきていたが、呂布の姿を見るや否や、足がぴたりと止まった。

「どうかしましたか?」

 自分に対しては遠慮も何もないぶっきらぼうとも言える言葉遣いだが、それ以外にはわりと丁寧な口調で会話をする。
 その口調に背筋が痒くなる呂布だったが、それを見越した陳宮が、兵士には見えない角度で肘を脇腹に叩き込んできた。
 たいした痛みはないが、陳宮らしい無言の抵抗に、やれやれと肩をすくめながら陳宮から距離を取ると、素知らぬ方角へと視線を向けて立ち尽くす。
 陳宮に声を掛けてきた以上、何かしらの用があったのだろう。自分が居ては会話もままならないと判断をしての行動だった。

「そ、その兵站のことでご相談が……」
「……」

 ちらりっと離れている呂布を見た陳宮に対して、軽く頷く。それを見た陳宮は、兵士と共に場所を移動する。  
 文官として朱儁の下で活動している彼女は、最初はそうでもなかったが、今では周囲の人間から随分と頼りにされていた。元々頭の回転は速く、そういった裏方の仕事を得意とすることもあり、あまり有能な人材がいない朱儁軍にあって、陳宮に聞けばなんとかなるだろう、といった空気が蔓延している。
 基本的に呂布の傍を離れることは無いが、官軍に世話になっている以上、手透きの時は多少は協力しているのだから大したものだと彼は見えなくなった陳宮の後姿を見送った。

 
「全く。俺には真似できんねぇ。頭の良いやつは大変だ。そうは思わんかい、劉備殿?」
「おぉ、なんだ。俺に気付いてたのかい? いやー流石は天下無双!! すげぇな」


 近くの陣幕の影から歩み寄ってきたのは、劉備玄徳だった。
 昨日の酒が残っているのか、眉を顰めながら片手をあげて呂布に気安く声を掛けてくる。
 そんな劉備の姿に周囲にいた兵士達は、得体の知れない薄気味悪さを彼に感じた。呂布の機嫌を損ねれば、気がつかぬまに殺されてもおかしくはない。
 会話一つ注意しなければできない相手に対して、普通に接する劉備の姿が異様に映っても仕方ないだろう。

「官軍に加わって間もないが、随分と手柄をあげたみたいだな」
「はっはっはっは。いやー、俺は特になにも手柄をあげてないさ。全部関羽と張飛のおかげだ」 

 何の含みももたせない満面の笑顔でそう語る劉備が、多少意外だったのか呂布は、感心したのかほぅっと小さく呟いた。
 確かに官軍に流れている噂では、関羽と張飛の話題で持ちきりだ。圧倒的な力を見せつけ、黄巾賊の将の一人を討ち取ったのだと。軍の中でも曹操に次いで名を馳せるようになった武人達。それとは対照的に、劉備の噂はあまり聞かない。
 あくまでも関羽と張飛の主上ということになっているが、特別な武功をあげたのでもなければ、陳宮のように文官として功をあげたのでもない。
 
 そんな劉備玄徳だが、関羽と張飛の手柄を自分のことのように言葉にださない。
 それどころか、彼女達の手柄だと認めた上で素直に称賛している。嫉妬といった感情がないことくらい向かい合って話せば理解するのは容易い。
 
「……すまんな、劉備殿」
「ん? 何がだ? 呂布殿に謝られるようなことはされてないんだが」
「気にするな。俺が謝罪をしたいからしただけだ」
「お、おぉ。よくわからんが確かにその謝罪受け取ったぜ」

 呂布が口にだした謝罪は、自分が劉備玄徳を見誤っていたことに対してだ。
 彼が劉備達義勇軍が官軍に加われるように皇甫嵩に口ぞえしたのは、関羽雲長と張飛翼徳という二人の一騎当千の武人がいたからだ。正直な話を言うと、呂布は劉備を二人のオマケ程度にしか考えていなかった。
 だが、こうして腰を落ち着けて話してみれば、はっきりとわかる。

 普通の人間では理解できない筈だ。
 武に優れているわけでもない。智に優れているわけでもない。
 だが、それでも何故か惹かれてしまう。この男を自分が支えなければならない、と思わせてしまう人間的な魅力が確かにあった。
 この男―――劉備玄徳という男は、天下を包み込む器なのだと、呂布は心の隅で確信を得た。
 

 乱世の覇王である曹操孟徳とは対極に位置する人徳の王たる者。
 不思議と呂布はこの男の行く末を見届けたくなったが―――。

 それでも、呂布はそれが出来ない理由がある。
 劉備玄徳は乱世を憎む男だ。民のため。民の平穏のために心血を注ぐ。

 だが、まだそれを認めることは出来ない。
 呂布奉先という男には、まだ戦に狂うこの地獄のような世界が必要なのだ。
 呂布という名前を。天下の隅々にまで轟かせるために。これからの中華の歴史に延々と語られるために。
 悪名であれ。勇名であれ、構わない。

 呂布奉先が、確かにこの時代を生き抜いた。
 決して敗北することなく、絶対不敗の名の下に戦い続けたという証を刻まなければならないのだ。

 そのためならば、男も女も子供も赤子も―――どれだけの民が死のうと、構わない。
 あらゆる骸を積み上げ、踏み越える覚悟が彼にはあった。

 そして、それを知った時劉備玄徳は、呂布奉先を許さない。
 乱世を欲し、願い、続かせる。
 劉備玄徳とも曹操孟徳とも異なる修羅道。それを歩む呂布を、誰もが認めないだろう。
 中華すべての民に、憎まれ、恨まれ、怖れられ。誰一人として理解されない道を行く。
 
 それでも、呂布の歩みに迷いは無い。
 
 天下無双を名乗ることを決めた時から、彼の修羅道を妨げるものは存在しない。

 その全ては呂布奉先の名前を真の意味で伝説に刻み―――。

 












 ―――そして、俺が。ただの【銀】が、お前・・を殺す。完膚なきまでに。骨の一欠けらも。塵芥も残さず、灰燼と化してやる。











 




 凄絶なまでの覚悟。
 己の生きる道を再確認した呂布の表情は、冷たくも燃え盛る灼熱。
 矛盾した氷と炎を孕んだ危険な雰囲気を漂わせ、周囲の人間を圧迫していた。
 
 それを目の前で全身に浴びた劉備は冷や汗を流しながら―――それでも笑顔を崩さない。
 それだけでも劉備玄徳の器の大きさがはっきりとわかる。

「お、おいおい。呂布殿よぉ……もうちょっと抑えちゃくれないか?」
「―――ああ、すまんな」

 我に返った呂布は、申し訳なさそうに頭を下げる。
 ついつい昔のことを思い出して、物騒な気配を出してしまったことを反省しながら、頭を軽く下げた。
 そんな呂布に対して劉備の態度は実に気持ちのいいものだった。いいってことよ、と笑いながら呂布の肩をバンバンと音が鳴るほど力強く叩く。
 それを見ていた兵士達は、今度こそ腰が抜けそうになるほど驚いたものの、呂布は特に気にすることもない様子に、さらに驚かされる結果となった。
 
「りゅ、劉備殿ーーー!!」

 二人で話し込んでいる最中、突然女性の声が遠くから聞こえ、徐々に近づいてくる。
 誰かと思いきや、官軍でも噂にあがっている一騎当千の猛者。関羽雲長だったのだが、何時も涼やかな彼女にしては珍しくどこか焦りを滲ませて慌てている様に劉備が首を捻った。

「おう。どうした、関羽? 何か面倒なことでもあったのか?」
「な、何を暢気な!! 凄まじい気配が立ち昇ったが故に、心配になって探していたのです!!」
「……だってよ、呂布殿」

 はははっと面白そうに笑う劉備に、これはまずったと呂布が深々とため息をついた。
 ある程度の力量の武人ならば先程の呂布の気配を間違いなく感じ取ることができたはず。昔の敵のことを思い出していたがために遠慮も何もない純粋な殺意を発していた呂布の気配はそれはもう、関羽の言うとおり凄まじい領域に達していただろう。
 これから後の、他の人間への説明が非常に面倒になってしまったことに、呂布は再度深々とため息をつくのであった。 

  

















 ▼






















 張宝を指導者とした黄巾と官軍との決戦の地。
 この場に集った者達は本当の意味での勇者だった。
 死ぬことを怖れずに、太平道のために命をかけて戦い続けてきた信徒。既に彼らは民という枠組みを越えて、一流の兵士と称するに相応しい者達だ。

 張宝とて、目の前に布陣する官軍が悪いわけではないことくらい理解している。
 官軍の兵士は命令とはいえ、漢を滅ぼそうとする黄巾を治めるために命を賭けてきた。その点に関しては差があれど志は一緒だったのだ。国の平穏を願って戦い続ける。
 
 本来ならば滅さなければならないのは、都の宮殿にいる宦官達だ。
 この国を腐敗させ、民を苦しめる諸悪の根源。
 
 彼らを根絶するのが最も血が流れず、正しい戦いだったのかもしれない。
 しかしながら、それが出来なかったがために、張角とともに黄巾を率いて乱を起こすしかなかったのだ。
 そして、ここまで黄巾の乱が大きくなった以上、もはや止まることはできない。

 漢朝を滅ぼし、悪しき宦官達をも根絶やしにして、そして新たな国を打ち立てる。
 そうしなければ四海の民を救うことも出来ないし、この乱に参加した人間を納得させることも出来ない。

 張宝は遥か彼方の官軍を見据えたまま、口を開いた。

「皆、今までよく戦ってくれた」
 
 張宝の声は静かだった。
 それでも数万にも及ぶ軍勢の隅々にまで響き渡る不思議な声だ。
 黄巾の兵士達は、それには頷くだけで答え、眼差しは張宝と同じく彼方の官軍へと向けられていた。

「これより我らは官軍に対して、心胆をぶつける。世を変えるには血と屍を用いるしかない。されど、屍山血河の向こうには、必ずや黄天の世が待っていよう」

 張宝の宣言を合図に、黄巾の者達は誰一人として迷うことなく一斉に拳を天に振り上げた。

「蒼天既に死す!!」
「黄天まさに立つべし!!」

 数万人による怒号。
 それは音の波となって布陣している官軍を打ち抜いた。
 
「―――我が名は地公将軍張梁也!!」

 そしてたった一人の怒声が、数万の黄巾の声の中で確かに官軍にまで響き渡る。 
 そこに込められたあまりの圧力に、官軍の兵士達は怖気を感じ、震え上がった。
 冷静でいられたのはほんの一握りの人間だけ。多くの兵士や果ては武将までもが、この場から逃げ出したくなる気持ちを抱かせるほどに、張宝の気配は鬼気迫るものがある。

「……こりゃ、すげえ。張梁もたいしたものだと思ったが、どういうことだ? 張宝の圧も負けるとも劣らんぜ」
「恐らくは残された最後の一人としての意地。武人というよりは策を弄する人間のため、張角の死によって後がないことに気づいているのだろう。背水の陣の気持ちでこの戦いに挑んできているみたいだ」

 黄巾の陣から迸る圧力に、陳宮は周囲の兵士達の動揺を見ながら眼を細める。
 官軍の兵士の数は黄巾に比べて倍近い。圧倒的な兵力差がそこにはある。
 だが、黄巾のこの戦いにかける覚悟は並々ならぬもの。士気も高く、下手をしたらひっくり返される危険性も感じられた。

 全土の黄巾に召集をかけたにしてはその数は随分と少ないのには理由があった。
 黄巾にとって張角が死亡したという情報が流れたのが一番大きかったのだろう。参加していた多くの民が、その情報を耳にした途端、戦うことを諦めてしまった。それほどまでに張角という指導者は民の希望であったのだ。
 もう一つは、呂布達が予想していた通り、己の命をかけてまで反乱に最後までつきあうという人間がそこまでいなかったということだ。反乱に参加した多くが、黄巾とは関係なくただ暴れたいだけ。そういった野盗となんらかわらない暴力の世界に生きる者達が大半だった。そういった者達は、旗色が悪くなればすぐに手を引く。恐らくは自然と黄巾の敗北の臭いを嗅ぎ分け、逃げ出してしまった。

 それでも、今ここには数万の信徒が集まっている。
 これだけの民が、漢朝の終わりを命を捨ててでも願っているのだと考えると、皮肉な気持ちが込みあがってきた。

 冷静に思考している中、総大将たる皇甫嵩が馬首を進め、外套を翻す。

「黄巾賊の首領、張宝!! このまま戦を始めれば多くの信徒が命を落とすことが貴方に分からないはずがないでしょう!! 私も出来る限り力を尽くします。ですので、大人しく縛についてください!!」

 皇甫嵩とて、今更張宝が投降するとは考えてもいない。
 だが、万が一にでも降伏すれば、黄巾も官軍も悪戯に血を流し、命を落とす必要はなくなる。
 その可能性を信じて、彼女は眼前に広がる黄色の大海原を見据えた。

「笑わせるな!! 今更!! 貴様らに語る言葉などあると思ったか!!」

 常人では抱えることも出来ない長刀を片手で蒼天へと振りかざし。

「殲滅、せよ!!」 

 長刀が振り下ろされ、向けられた切っ先の官軍に向けて―――死を恐れぬ勇者達の進撃が始まった。
 地面を駆け抜ける音。黄色い旗が揺らめき、矢が雨のように降りかかる。

 こうして黄巾賊と官軍との最終決戦が幕を開けた。




    









[38680] 八章 天下無双  【黄巾の乱 編 終了】
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/22 20:59
















 背水の陣で命を捨ててくる黄巾の者達は恐ろしいほどに手強かった。
 多くの戦を生き抜き、太平道に全てを捧げた狂信の民は、官軍の軍勢を一時とはいえ押し留めることに成功する。
 圧倒的な兵数の差。武器の質の差がありながら、それでも彼らは一歩も退くことは無く突撃を緩めない。

 だが、そんな黄色の軍勢を切り裂く二つの異色の兵士達がいた。
 官軍の中にいてなお、異彩を放つ軍。官軍全体から見れば小数に過ぎない人数で構成されている部隊。

 紅の鎧を身に纏い、死を恐れぬ黄巾賊をも易々と穿ち貫く騎馬部隊。
 曹仁子考は躊躇いも逡巡もない愚直ともいえる特攻を仕掛け、それを冷静な曹洪子廉が補助に走る。彼女達の反対側からは、戦場でありながら冷たい空気で周囲を圧する夏侯惇元譲が突撃し、挟撃にて黄巾の軍勢を壊滅させた。
 それを演出するのは司令官でありながら、己の部下とともに前線で戦い続ける銀髪の魔人。
 曹操孟徳は、敵である黄巾賊さえも魅了されかねない危うい笑みを浮かべながら、戦場の一画を支配していた。

 それと同様に、大海を思わせる蒼い鎧を纏った騎馬部隊。
 黄巾の軍を貫いていく光景は荒れ狂う大河を連想させた。
 兵士の誰もが洗練された身のこなし。それは一人一人が、官軍の兵士では相手にならない者達ばかり。曹操率いる部隊と互角にも渡り合えるほどの精鋭だった。
 冷静冷徹に黄巾を屠る曹操軍とは異なり、焼き尽くすような熱を持って敵の命を刈り取っていく。
 彼らを従えるのは孫呉の王たる孫堅文台と、その後継者孫策伯符。

 この二部隊が、死をも恐れぬ黄巾賊の進撃を止め、逆に押し返しつつある。
 もしも、彼女らがいなければ官軍は瓦解してもおかしくはないほどの攻勢であった。

 そして曹操と孫堅の間を守護するように小さな部隊が配置されている。
 手勢は二百に及ぶかどうか。劉備玄徳率いる義勇軍。
 彼の背後には当然官軍が配置されているが、戦場においての最前線も真っ青な場所だ。
 しかしながら、彼らには死への恐怖は無い。逆に誰もが笑みを浮かべていた。
 死をも超越して笑みを浮かべれたのは、彼らの前に立つ二人の武人がいたからだ。

 軍神。関羽雲長。
 燕人。張飛翼徳。

 黄巾の乱にて既に四海において名前を轟かせた二人の一騎当千。
 官軍でさえも憧憬を抱くものが少なくない、嘘偽りなき英雄英傑。

 戦線がぶつかりあった瞬間。
 関羽の青龍エン月刀が翻り、二桁にのぼる黄巾賊をまとめて薙ぎ払う。
 張飛の蛇矛が数人をまとめて貫き弾き飛ばす。

 見ている光景が夢か幻かと勘違いしかねない、一騎当千の猛者が黄巾軍の進撃を押し留めた。

 
 また、官軍の兵士とて飾りではない。
 確かに平和に慣れきった彼らではあったが、黄巾の民が幾多の戦を乗り越えて兵士と名乗るに相応しい存在になったのと同様に、官軍の兵士も黄巾との戦場を生き抜いてきたのだ。
 単純な兵士の質という点では、良質な武器を使用している官軍に軍配があがるのは当然。
 それを死をも恐れない心意気だけで互角以上に渡り合っている黄巾賊が驚異的なのだ。

 それを理解していた張宝とてなにも策を弄さなかったわけではない。
 最終決戦が始まる前に彼は幾つかの手を打っていた―――が、全てが失敗に終わっていたのだ。
 まるで張宝の思考を読まれていたと思わせる手腕を、官軍の誰かが見せ付けていた。
 それを行ったのは曹操孟徳なのだが、張宝にはそれを知る由はない。

 官軍と黄巾賊。
 二つの軍の差は圧倒的なまでの武将の質の差。
 歴史に名を残す化け物達が、官軍には笑ってしまうほどの数が存在したのだから。
  

 張宝は、己の力不足に嘆きながら痛いほどに手を握る。
 彼の目の前で次々と信徒達が命を落としていく。
 蒼天の死を願い。黄天の到来を願い。
 本来ならば、彼らは鍬を手に持ち畑を耕す。国の土台を支えるもっとも重要な民だった。
 そんな彼らが鍬の変わりに剣を握り、戦場にて命を散らす。
 こんな地獄のような景色を創った原因は誰か。他ならない自分なのだ。
 張宝が噛み締める唇から血が垂れて、地面に吸い込まれていった。あまりにも強く噛みすぎたがために、知らず知らずのうちに食い破っていた。

 信徒達は死を恐れず戦い続けている。
 それでも、官軍を撃破することはできなかった。
 黄巾の怒りを、嘆きを、憎悪を持ってしても、官軍を支える人外の域に達した怪物達はそれらをそよ風の如く受け流して、殲滅していく。
 
 戦いが始まって幾分かの時が流れ。

 張宝は、既に戦の趨勢が決まったことを理解していた。
 もはや何が起ころうとも、奇跡が起きたとしても覆しようがない勝敗の結果。
 黄巾の民の悲壮な覚悟をも打ち破る官軍の強さ。死に体だと思っていた漢朝の底力を見誤っていたのかもしれない。

 何時しか、戦いは黄巾の撤退先へと変化していた。
 だが、果たしてこの戦いを撤退先と読んで良いのかどうか、見ている人間がいたならば疑問に思ったかもしれない。
 黄巾の誰一人として背中を見せていない。決死の形相で、迫り来る官軍と戦いながら退いている。
 次々と殺されていく同胞を見る張宝の目が、蒼天を見上げた。
 雲一つない蒼い空。まだ蒼天は死なぬ、と空が語っているような声を張宝は聞く。

 兄である張角。弟である張梁。そして、自分。
 三人で始めた戦いは気がつけば、数十万の人の想いを背負うものになっていた。
 多くの民を犠牲にしながら、結局何を為すこともできずに死ぬことが、張宝にとっては許しがたい苦痛に感じる。
 
 太平道は腐りきった漢朝を終わらせることは出来なかった。
 ただ、乱世をもたらしただけで終焉を迎えたのかもしれない。
 しかし、違うっと首を振った。これは始まりにしか過ぎないのだ。この後に続く誰かが、きっと新たな世を導いてくれる。
 乱世とは英雄をうむものである。

 秦の始皇帝然り。
 漢の高祖劉邦然り。

「……だが、もはや死にゆく我にはどうでもいいことだ」

 手に持っていた長刀を今一度力強く握り締める。
 張宝の周囲の空間が熱されたように温度を上げていく。並の者では近づくことすら躊躇う、強大な覇気。
 太平道を導いてきた指導者の最後の一人として、彼には最後の仕事があった。
 出来るだけ、多くの民をこの場から離脱させること。死ぬのはその後でもできるのだから。
 これまで散っていった同胞の願い。想い。無念。
 この場で戦っている同胞を意思を背負う地公将軍張宝は、黄巾の乱によって産み落とされた最後の魔人と化す。

 だが―――。

「……蒼、天が……割れ、た?」

 愕然と張宝が呟いた。
 一瞬だが彼の目が捉えたのは―――蒼い空が両断された幻としか言えない光景であった。














 ▼

















 



「ああ、すげぇな。流石は曹操ちゃん。あそこまで見事に兵を動かせる奴なんざ、見たことがない」

 カラカラっと戦場らしからぬ楽しげな声に、周囲の兵士達は無言で通す。
 曹操への手放しの称賛に、陳宮だけは眉を顰めている。先日の曹操と呂布が二人で酒を呑んでいたところを発見されて以来、どうにも陳宮の曹操を見る目は厳しかった。だが、そんな陳宮でも呂布の言葉に納得するしかないほどに、曹操孟徳の用兵術は目を見張るものがある。。
 本陣を防衛する兵士達と一緒に呂布は、遠目に黄巾賊と官軍の大激突を傍観していた。
 遠くからだからこそ曹操の用兵を理解できるが、あれを目の前でやられてしまったら相手はたまったものではない。
 決して書を読み学んだだけではない、用兵の才。敵を、戦場の空気を、時間さえも計算にいれて兵士を手足のように操る曹操の指揮に、自然と目を奪われる。
 
 また、見るべきなのは曹操だけではない。
 孫堅率いる孫呉の軍も、個々の能力が圧倒的だ。それに加えて彼らを率いる孫堅の指揮も実に見事。
 単純な軍を操る技量は曹操に及ばずとも、それでも黄巾を相手にするには十分すぎる。

 このまま放っておいても勝敗は明らかだ。間違いなく官軍に戦いの天秤は傾く。
 だが、こんなに美味しい戦場を黙って指をくわえたまま見過ごすわけにもいかない。
 何よりも、あれほどの化け物達の狂乱の宴を見せ付けられて、黙っていられるほど呂布も大人しくはない。
 
「……久しぶりに、本気で行くかねぇ」

 さして大きな声でもなかったというのに、周囲の人間達の表情が固まった。

 何を言っているのだ、この男は。言葉に出すならそれしかなかった。
 呂布の何でもないような一言を信じるのならば、張梁の時も、高昇の時も―――手を抜いていたということになる。
 伝説に違わぬ武人振りを見せ付けていながら、あれでも本気ではなかったというのか、と。
 兵士達は呂布を疑いながらも、心の底から湧き出てくる恐怖に脅えていた。

 この男ならば。呂布奉先ならば、決してそれも有り得なくはない。
 そう思わせてしまう凄味が、彼には存在していたのだから。
 
「……待て、呂布。まだ行くな。幾らお前でもまだ危険すぎる。もう少し待てば、絶好の機会が―――」
「なぁ、陳宮。お前の心配もわかるが、今回は俺に任せておけ」
「しかし……」

 呂布は隣で馬首を並べている陳宮の頭を優しく掴み、くしゃくしゃと軽く撫で上げる。
 最近はすることが無くなった、まだ彼女が幼い頃によくしてあげた行為だ。
 安心させるように何度か撫でた呂布は、口角を深く吊り上げて、獰猛に笑った。

「呂布奉先に勝る者無し。それが例え―――万を越える相手だったとしても」

 最後にポンっと陳宮の頭を叩くと、呂布は馬を走らせた。
 十年来の友の不安げな視線を背中に受けて―――。

「……さてっと」

 
 命じられるがままに戦う官軍。
 大儀のために戦う黄巾。
 そんな戦馬鹿達が眼前の大地を埋め尽くすように広がっている。
 彼らを見る呂布の目は冷たい。

 狂人達が目の前で繰り広げる命の削りあい。
 鼻につく血臭。臓物の香り。大地を埋め尽くす黄巾と官軍の死体。
 まともな人間ならば耐えられない。これが乱世。命の価値が塵の価値しかない世の中だ。
  
 
「―――呂布、奉先!! 推して参る!!」


 ならば、何の価値もないその命。
 呂布奉先の名を轟かせるための礎となれ。  

 呂布の狂気染みた歓喜の名乗りに、走らせている馬が一際高く鳴き声をあげた。その嘶きに驚いた周囲の官軍の目も気にせず、方天画戟を蒼天に向かって一直線に突き上げる。
  

 そして―――蒼天が割れた。 

 この世の終わりを連想させる天空の光景に、ぽかんっと口をあけて空を見上げる兵士達。
 しかし、そんな彼らを嵐と勘違いする強烈な風が吹き付ける。
 背筋を凍えさせる悪寒と、恐怖。戦場を支配し、塗り替えていく暴風が吹き荒ぶ。
 まるで幼子が明かり一つない夜の世界へ取り残された時のような孤独感。
 
 風の後には音が来た。
 戦場を揺らす巨大な地響き。大地が脅え、恐れている躍動に似ていた。
 揺れは大気を打ち震わし、戦場の空気さえも打ち砕く。

 呂布奉先という名の黒い乱世が、官軍の兵士達が散った空間を疾駆し、黄巾の大軍勢に喰らいついた。
 方天画戟の切っ先が、数人の黄巾賊を貫き絶命させると、片手で軽々とそれを放り捨てる。十数人の敵を巻き込みながら投げ捨てられた死体には目もくれず、声なき咆哮をあげつつ黄色の大海原を黒い雷光となって消滅させていく。
 たった一人の人間が。撤退を開始しているとはいえ万を超える軍勢とぶつかりあい、だが―――次々と蹴散らしていく姿は夢幻の如く。

 両手で握りなおした方天画戟が勢いよく振り回す。
 三日月状の刃が、周囲にいた黄巾賊数十人をまとめて斬り殺した。
 血が。顔が。腕が。胴体が。足が。脚が。無情にも宙を舞っていく。

 馬に呂布の意思が宿ったのか、呆れるほどの黄巾賊を前にしても脅える様子すら見せない。
 逆に四肢を最大限まで利用して、時には踏み潰し、時には蹴り飛ばし、呂布の道を切り開く手伝いをしていた。

 振り下ろした方天画戟が、数人の人間を惨殺し、おまけに大地にも巨大な破壊痕を刻み込む。
 瞬きする間に数十人の黄巾が斬り殺され、突き殺される。数十秒にも満たぬ間で、呂布の後方には千を超える死体と、茫然としている官軍が取り残された。
 黒い乱世は、暴虐を尽くしながらも美しく狂い咲く。 

 その光景は、戦いに非ず。
 中華に語られる戦いに非ず。
 万民が知る戦いに非ず。

 一人の人間が、万を超える軍を相手を凌駕する。

 人が長い間かけて生み出した、策も。軍も。何もかも。
 単騎で全てを否定する暴虐の化身。
 文字通りの万夫不当。 
 武に―――いや、暴において彼に勝る存在はなし。

 天下無双の呂布奉先。
 ここに在り。








「な、なんだ、ありゃぁ。あれが、天下、無双かよ。冗談きついぜ……」

 脂汗を流しながら劉備玄徳は頬を引き攣らせた。
 言葉で表現できない化け物を前にして、彼の笑顔も消え失せている。





「呂布、奉先……。これが、生きる伝説か!!」

 関羽雲長は、己の未熟さを嫌というほどに思い知った。
 見えていたと思っていた背中は幻で、手も届かない遥か彼方に伝説はいたのだ。






「怪、物め……」

 張飛翼徳は、一対一であるならば関羽が四海最強だと信じている。
 相手が人であるならば、だが。
 あれは既に人の枠組みを超えた黒い乱世そのものだった。ならば人が勝てる道理はあるわけがない。







「これほどの、ものか!! 呂奉先!!」

 孫策伯符は、自分の目指す頂の高さに愕然と声をあげた。
 先日味わった呂布の力の片鱗は、あくまでも片鱗にすぎなかったのだ。
 彼の本当の力は、孫策の想像を遥かに超えている。
 手に持っていた長剣を握る手が小刻みに揺れ続けていた。







 しかし―――。









 
「―――ふ、ふははははははは!! そうだ、呂、奉先!! それが貴殿だ!! 貴殿の前では全てが無意味!! 無価値!! だが、不思議だ!! この胸の高鳴り、私は貴殿に心の底から惹かれているぞ!! 魅かれているぞ!!」

 誰もが我を忘れ、息を呑む。
 あらゆる人間を死に至らしめる暴神の行進を狂気と狂喜をもって眺めるのは曹操孟徳ただ一人。
 新雪の肌を赤く染め上げ、どこか陶然と。艶やかに。戦場にいることを忘れているのか、両腕を大きく広げ、己を強く抱きしめる。それはまるで遠く離れた呂布を抱きしめたかのようにも見える動作だ。     

 そこにあったのは、四海になだたる猛者をも恐怖させる天下無双に懸想している、乱世の覇王の姿だった。

 恐怖も。憎悪も。畏怖も。嫉妬も。怨恨も。悲哀も。
 天下無双。呂布奉先に向けられるあらゆる負の感情を一笑に付す。
 激しくも苦しい胸の動悸に狂おしい熱を感じながら、曹操孟徳は、黄色の大海を塗りつぶしていく黒き死神を見つめ続けていた。












 数え切れない死体と、生者が存在する戦場において、それは一人だった。孤独だった。孤高だった。
 完全であり、完成された個人。究極にして至高。遥かな天空より兵も武人も見下ろす最強の名を欲しいがままにする乱世の化身。彼は敵も味方も寄せ付けない。たった一人で戦場を支配する黒い乱世は、疲れも見せずに黄巾の兵士を方天画戟で蒼天の果てへと導いていく。
 
 雲一つなかった蒼天に、雲が見え始めた。
 血を運ぶ狂風が、何処かから雲を運んできたのだ。
 吹き荒れる暴風の到来を雲の流動が告げ、天空だけではなく、地上に訪れる余波だけで風塵を巻き上げる。
 凪いでいた空に、呂布の殺戮を祝福するかのごとき気流が回り始めた。
 宙を舞う風は、まるで大雨の後の河を流れる濁流。空気を、大気を切り裂き轟々と音をあげる。
 
 天下無双を中心として蒼天までも脅かす、嵐を巻き起こしながら砂塵が散っていく。
 方天画戟を真上に掲げる姿は、鎌首を擡げた龍を思わせる。

 黄巾も官軍も、名だたる武将の心を押し潰す。
 嵐の中心を駆ける呂布奉先を騙る、一人の武人。

「―――遠からんものは音に聞け!! 近くば寄って目にも見よ!!」

 狂う。狂う。武が狂う。
 狂う。狂う。暴が狂う。

「我こそは―――天下無双!! 呂布、奉先也!!」 
 
 黄巾があげる断末魔をかき消す、呂布の名乗りが世界に響く。
 肺の中の空気を全て吐き出し、呂布の名を高々に轟かせる。
 ギチギチと音をあげる四肢の筋肉を動かし、方天画戟を縦横無尽に走らせた。
 長く鋭い切っ先が。三日月の刃が。
 
 恐怖に竦む黄巾を被った兵士―――いや、民を貫き、裂き、断ち、砕き、潰し、穿ち、斬り、撃ち、削り、滅ぼす。
 嵐の中心。いや、既に嵐そのものになった呂布は、近づくだけであらゆる命をすり潰していく。  

 恐怖そのものである呂布に剣を振るう者もいた。
 抗って生き抜こうとする者もいた。
 
 だが、剣戟の音は響かず。
 黄巾賊の誰も彼もが、方天画戟の速度を視認できず。
 自分達が死んだと認識する間も与えず、屍の山へと積まれていく。
 
 しかし、ここに集った黄巾は勇者だった。
 暴神を前にしても背中を見せることは無い。恐怖に震えていたのだとしても。それでも彼らは自分達に出来ることをやりとげようとしていた。例え一矢も報いることが出来ずとも、彼らは確かに勇者の称号を得るに相応しい者達であった。

 勇者の群れを方天画戟で貫く黒い閃光。
 吹き飛ばされた人間が、宙高く舞い上がり、四方の彼方へと叩きつけられていく。
 僅かな緩みも見せずに呂布は、黄色の大海原を潜りきった。
 漆黒の鎧は返り血で濡れ、彼の後方には原型をまともに残さない死体の山が幾つも作られている。

 黄巾の総大将。
 張宝の姿を確認した呂布が、馬蹄の音をさらに高く、力強く鳴らし、一直線に疾風と化す。
 戦場を渡る漆黒の武人の姿を遠目で見た張宝は、その正体を一瞬で看破した。

 あれこそが、弟でもある人公将軍張梁と討ち取った伝説の武人呂布奉先なのだと。
 
 いや、アレが呂布でなければ官軍はあのような人ならざる者を二人以上抱えていることになる。
 そんなわけが無い。万を超える軍を単騎で押し通る怪物が二人もいてたまるか。
 言葉には出さない張宝の本音。
 人馬一体となった紫電雷光の弾丸が張宝へと迫り来る。間に割って入ろうとした黄巾の兵士は蹴散らされ、切り裂かれ、壁はおろか盾の役目すら終えずに散っていく。

「呂布!! 奉先か!!」

 張宝は長剣を振りかざし、瞬く間に間合いを詰めてくる呂布を鋭い眼光で貫いた。
 駆け抜けてくる呂布の姿が放つ重圧で本来の姿の数十倍にも見える光景を目の当たりにして、得体の知れない怖気に襲われた。だが、それ以上に歓喜が勝った。何故ならば、もはや勝敗の行く末は明らか。自分の首はこのまま乱戦のうちに名も知れぬ者達に討たれ、一生を終えるのだと内心で予想をしていた。
 しかし、まさか最後の最後で、呂布奉先という伝説と真正面から戦えるとは望外の喜び。
 黄巾を率いた地公将軍張宝。彼もまた、性根は武人であったのだ。
 
「―――我が死出の花道!! 貴様の首で飾らせて貰うぞ!!」

 黒雷の呂布を迎え撃つために、張宝もまた馬首を走らせる。
 両者が間合いを詰めていき、その光景を見ていたすべての人間が固唾を呑んで見守った。
 黄巾の想いを背負った張宝の圧力は凄まじい。かつての張梁を思い出させる重圧を放ちながら、恐ろしい形相で長剣を振りかざす。それは見ている官軍はおろか黄巾の者でさえ、心胆を寒からしめるに値する圧である。
 今の背水を背負い、黄巾の想いをまとった張宝は、名だたる名将である関羽や張飛とも渡り合える領域に達していたと判断しても過言ではない。

 互いの得物を、天にかざしたまま振り下ろす。
 張宝の長剣が。呂布の方天画戟が。同時に己の敵へと斬戟を見舞った。
 二人の丁度中間にて、両者の得物が勢いよく激突し、激しい金属音を高鳴らせ―――は、しなかった。

 風も。音も。衝撃も。光さえも置き去りにして―――天下無双の刃は張宝の肉体を腹部から見事なまでに両断していたのだ。

 ずるりっと馬上から落ちていく張宝の肉体。
 そして、彼の手から零れ落ちる、真っ二つに叩き切られた長剣。
 大地を染め上げている血の池に、パシャっと音をたてて黄巾の乱が生んだ最後の魔人の骸が沈んでいく。

 ここに黄巾最後の将軍は、地に墜ちた。 



























 ▼





















 黄巾との最後の決戦より数日。
 長きに渡って戦い続け、疲労がたまっていた兵士達は、己が生き残れたことに喜び、酒宴を楽しんでいた。
 だが、何時までもそうしているわけにもいかないのが現実で、彼らは自分の荷物をまとめている。乱を平定したのならば、もはや軍は解散であるからだ。

 しかし、解散の前にやるべきこともある。
 多くの者達がこのために戦ってきたと言っても良い、論功行賞が行われているところだ。
 ある一定の階級の者達が一堂に集められ、都から駆けつけてきた中央官吏を出迎えた。
 戦後の陣に迎えられた官吏は、疲労が見える兵士達にねぎらいの言葉をかけることもなく、戦功があったものへの恩賞を読み上げていく。

 次々と読み上げられていく中、官吏がコホンっと咳払いをする。
 彼の視線の先には曹操孟徳の姿があるが、官吏が彼女を見る目には様々な感情が込められていた。
 もともと宮中での評判は宜しくない曹操。だからこそ、遠方へ飛ばされているのだが、その理由がまた漢朝に勤める者の間では結構な評判になっている。
 都にて役人を務めていた曹操は、ある日と法律を破ったある男を捕縛した。だが、その男は力を持っていた宦官の親戚。処罰すれば、曹操自身も進退が危うくなる相手だった。普通の役人であれば無罪放免にするところ、曹操は法に則った処罰を下したのだ。
 それは都の官吏ならば誰であろうと知っていること。

 この官吏もまた、曹操の噂を聞いたことがあり、どんな人物かと見てみれば花も恥らう可憐な少女。
 驚くなというほうが無理な話だ。  
 
「曹孟徳!! 貴殿の功を讃え、済南県の相に任ずる!!」
「有り難き幸せ。謹んでその任をお受けいたします」

 曹操が恭しく拳礼を返す。
 その後も様々な者達への恩賞が読み上げられていく中、曹操はこの場に彼女が探している人間がいないことを確認。
 恩賞の読み上げが続くなか、誰の目を憚ることなく踵を返した。 
 


 曹操が探していた人物。即ち呂布はそこから少しだけ離れた場所にある草原にて寝転がり蒼天を見上げていた。
 普段は被っている兜も傍らにおいて、珍しくも素顔を曝け出している彼を見て、呂布だと見破れる人間はそうはいない。

 基本的に呂布は陳宮の配下ということになっている。 
 張梁を討ち、高昇を討ち、張宝を討った彼はこのたびの乱平定の論功行賞の第一位であることは誰の目にも明らか。
 相当な恩賞を期待できるだろうが、それら全てを陳宮に丸投げしていた。
 
 基本的に呂布は地位も名誉も欲してはいない。
 今回の戦で彼自身の目的でもある呂布奉先の名は知れ渡っただろう。
 これまではただの伝説に過ぎなかった呂布の武威を、これだけ多くの人間に示すことができたのは大きい。
 彼らは故郷に帰って隣人に、友に、家族に伝えるはずだ。
 呂布奉先とは、伝説通りの武人であったことを。

 だが―――。

「……まだ、足りんよなぁ」

 空に向かって手を伸ばす。
 力強く握り締め、大きく開くものの、蒼天を掴みあげることは出来はしない。
 暖かい太陽の光に眼を細めながら、それは深いため息を吐いた。

「―――何が足りないのかな、呂布殿?」

 太陽の光を背中に浴びて、逆光となっている少女が一人。
 緊張も恐怖も何も無い、実に気軽な声がかかる。
 この陣営で、呂布にここまで平然と話しかけることができる人物は数えるほど。
 それを考えると、この声の持ち主は誰かあっさりと判明する―――それ以前に声で丸わかりなのだが。

「……論功行賞はどうした?」
「なに。私の番が終わったのでな。抜け出してきた」

 寝転がっている呂布の頭のすぐ傍で、腕を組み、赤い外套を風にたなびかせて仁王立つ銀髪の魔人が、楽しげに笑いながら見下ろしている。
「おいおい、いいのか? 上から目を付けられるぜ、曹操ちゃん」
「曹操孟徳は曹操孟徳の心にのみ従う……といいたいが、上から睨まれるのも慣れているから気にする必要はない」
「なんだ、あんたは意外と上からのうけが悪いの―――よく考えたら良い訳が無いな」

 今の漢朝では、如何に上司の機嫌を取るか。賄賂を贈るか。
 そういったことが重要視される。

 曹操が媚びへつらったり、賄賂を贈ったりする姿をどうやっても想像することができない。

「それで、だ。先程の質問を答えてもらっていないのだが、何が足りないというのだ?」
「ちっ……忘れてなかったか」
「舌打ちとは酷いな。繊細な私の心が傷ついてしまうぞ?」
「新しい冗談か。あんたほど丈夫な人間を俺は知らんぜ」

 はははっと乾いた笑い声が草原に響く。
 面倒くさい相手に聞かれてしまったと考えながら、寝転がったまま曹操を見上げる。
 そして、気づく。仁王立ちしている曹操のほぼ真下から見上げているということもあり、そうなれば曹操の短い丈で隠された下着が見えるのは―――必然。
 
 以前酒を呑んだときとは異なり、白と蒼の縞々。
 まさか呂布の希望に添ったわけではなかろうが、彼の好みにピンポイントで直撃する下着の色だった。
 穴が開くほどじっと下着を見つめる呂布の視線に気づいた曹操が、先日とは異なり余裕の笑みを口元に浮かべる。

「まさか乙女の下着を黙って見ておきながら、ただで済むと思っているのか、呂布奉先殿?」
「……いや。見たのは悪いと思うけど、そんな無防備なあんたも悪いと思うがね」
「なるほど。確かにそうだ。しかし、傷心の私は、ついつい口が滑ってこのことを誰かに言ってしまうかもしれないな」
「……誰かって誰だ?」

 女人の下着を覗き見る武人。呂布奉先。
 そんなことで伝説に名を刻まれでもしたら死んでも死に切れない。
 むしろ、死んだ後あの世であの人にもう一度殺される。それは間違いない。

「例えば―――陳宮殿とか」
「……俺が悪かった」
 

 計算どおりなのか、勝ち誇った表情の曹操が少しだけ憎らしい。
 呂布の生活は陳宮に全て頼っている。住居も御飯も武器や馬の調達も、基本が全て陳宮頼みだ。
 戦が無い時は家で食べるか寝るかの生活が出来ているのは陳宮のおかげ。そんな生活をしていても、陳宮は特に文句も言わずに働いている。もしも彼女が機嫌を損ねたら甚大な被害に陥る。
 呂布からしてみれば、万の兵と戦うよりもよほど困った事態になってしまう。

「では、その対価として先程の質問に答えてもらおうか」
「そこまでして聞く価値がある質問だとは思えんが……まぁ、いいか」
 
 曹操の下着を未だ、じっと見つめながら呂布は続ける。

「たいした理由があるわけじゃないぜ? 俺の名前を。呂布奉先の名を、歴史に刻むにはまだ足りないってなだけの話だ」
「……ふむ。私はそうは思わないが。呂布奉先の名は既に伝説。この四海において、知らぬ者は無し―――」
「ああ、違うんだ。曹操ちゃん……あんたが考えているのとは少し違う」

 真剣な表情の呂布に、曹操の胸がトクンっと高鳴る。
 もっとも肝心の呂布は曹操の縞々下着を見上げ続けているのだが。

「俺が望んでいるのは歴史に呂布奉先の名を刻むことさ」
「歴、史? 貴殿が亡くなった後もその勇名を語り継いでいかせたい、ということか?」
「ああ、そうだ。それも十年や五十年なんて単位じゃない。千年、二千年。それだけの気が遠くなる年月の果ての彼方にも、この時代に呂布奉先という名の人間がいたのだと。歴史に語り継がれる名を残したいのさ」
「二千……それはまた、随分と壮大な目的だ」

 何を馬鹿な、と普通の人間だったならば切って捨てたかもしれない。
 だが、曹操は呂布の目的を受け入れた。受け入れてなお、彼ならば出来ると考えてもいた。
 曹操は、呂布が自分の名声を気にしているとは思えない。地位も名誉も金も、一切興味を示そうとしない地面に寝転がっている青年が、一体何故そこまで頑なに呂布奉先の名を歴史に刻もうとしているのかわからない。
 
 曹操には数多の想像をすることしかできないが、静かに首を振った。

 彼がそれを望んでいるのならば、止めることは決して出来ない。
 他の人間が幾ら言葉を紡いでも、無駄にしかならないだろう。

 いや、本当のところ、曹操孟徳は―――呂布の道を見届けたくなった。
 自分の手元に置くよりも、彼の思うがままに歩き続ける道を見てみたい。
 その果てに、曹操の覇道に立ちふさがるのならばそれもまた良し。
 
 その時は曹操孟徳の全てを賭けて雌雄を決するのみ。

「貴殿と別れるのは、心を裂かれるように痛いな」
「ああ。俺もだ」
「……凄まじく嘘くさいな、貴殿の言葉は」
「おいおい。酷いやつだ。俺のこの純粋な瞳を見てみろよ」
「私の下着から目を一時も逸らさない貴殿は確かに純粋と言えるかも知れない」
「おう。それだけ曹操ちゃんが魅力的なのさ」
「ふむ。今まで数多の男から口説かれてきた我が身。美辞麗句には慣れているが、貴殿の口から紡がれる言葉には心が躍る」

 自分のなだらかな丘陵を描く胸に片手をあてて、ほぅっと艶めかしい吐息を漏らす。
 そんな二人だけの世界を壊すように、彼方が人の声で騒がしくなってきたところを見ると、論功行賞が無事に終わったのだろう。

「―――貴殿とはまた会いたいものだ。出来れば味方として」
「そうだなぁ。曹操ちゃんと戦うのは骨が折れそうだ。俺も祈っとくぜ」

 優しい色を視線に乗せて、寝そべる呂布を愛でた後、曹操孟徳は背中を向けて去っていく。
 遠ざかっていく後ろ姿を見送っている呂布は―――。

「あー、ところで曹操ちゃん。恥ずかしいなら我慢せずに言うべきだな」
「―――っ。まったく、貴殿はやはりよくわからない男だ」

 驚異的な精神力で羞恥心を表に出していなかったが、実のところ下着を見られて恥ずかしくて仕方がなかった曹操。
 逆行で見えにくかったが、顔を朱に染め上げていたことに呂布は気付いていた。
 そんな曹操を見送った呂布のもとに、入れ違いに陳宮がやってくる。曹操が去るのが、陳宮が訪れるのが後一分でも異なっていたら鉢合わせていたのだが―――呂布はその幸運を天に感謝した。

「ここにいたか。探したぞ」
「んー。ああ、お疲れさん。論功行賞終わったのか?」 
「特に問題なく。珍しく特に不満もなかったぞ」
「ほー。そりゃ珍しい」

 相変わらず寝っ転がりながら、先ほどまで曹操がいた場所に今度は陳宮が佇んでいる。
 生憎と彼女は下着が見えるような服装ではないため、特におもしろみを感じられない呂布は、大人しく体を起こした。

「さて、と。当分は戦は起きないだろうから、羌族か匈奴の侵入に困っている地域でも回ってみるかねぇ」
「……いや、そうとも言い切れない」 

 呂布の台詞に難しい顔をした陳宮が彼の意見に待ったをかける。
 
「黄巾の乱が平定されたばかりだぜ? さすがにすぐには何かが起きるとは思えんが」
「……一つだけ、気になることがある」
「気になること?」

 あの陳宮が、ここまで渋い顔をするのも珍しい、と考えながら続きを促す。
 
「……董、卓という人物を覚えているか?」
「董卓?ええっと、ちょっと待て」

 どこかで聞いたことがある名前だと気付いた呂布は、必死に頭を回転させて記憶を掘り起こす。
 以前聞いたことがあるのは確かで、それがいつだったか思い出せない。
 南か東か西か北か。どこかを放浪していたときに確実に聞いたことがある名前だ。
 考え込んだのは十秒程度。それでようやく思い出した。確か―――。

「思い出した。羌族と戦っていたときに見た覚えがあるな。よくわからん奴だった記憶があるが……」
「そうだ。得体の知れない、曹操孟徳とは異なる怖さの雰囲気を持つ異質な武将。董卓仲穎」
「で、その董卓がどうかしたのか?」
「……黄巾賊の討伐に出ていたらしいが、特に戦らしい戦をしていない」
「いや、別にそれは普通じゃないか」

 呂布の問い掛けに、陳宮自身も確信を抱いていないせいか口ごもる。

「あの董卓が、勝ちもせず負けもせず。黄巾討伐に出ていながら戦いもしない。それが納得がいかない。恐らくは戦力を減らしたくなかったのだろう」
「そりゃあ、気持ちはわからんでもないな。戦は金がかかるしなぁ。恩賞が確実に期待できるかどうか、今の漢朝だと怪しい。それを考えたら……」
「ああ、それなら良い。だが、董卓は黄巾の乱が平定されたというのに涼州に帰還しようともしていない。兵を増やしながら都に向かっているらしい。」
「……おいおい、本当か?」
「ああ。私の情報網が今朝送ってきたばかりだが、信憑性は高い。恐らく―――都で何かをしでかす気だ」

 大体の予想がついてはいるが、あえてぼかす陳宮。
 それを汲み取った呂布が、へぇっと興味深そうに口元を歪めた。

「戦の匂いがするな。こいつは、都に顔を出す価値があるかもしれん」
「……無駄足になるかもしれないが。とにかく行ってみるぞ」

 勢いよく立ち上がると西方の空をじっと眺める。
 呂布の視線の先―――都の方角は黒い雲に覆われていた。
 それはまるで、これからの漢朝の未来を指し示すような、不吉を漂わせていた。 










  
 
 
   









----atogaki------
一区切りついたので次回更新は未定とさせて頂きます。
ご愛読有り難うございました。



[38680] 九章 魔王董卓
Name: しる◆ea61bf4a ID:636c9534
Date: 2013/10/24 21:30










 漢という国は一度滅びを迎えている。
 それを漢王朝の皇族であった劉秀―――光武帝が再興して現在に至っていた。
 
 都は洛陽。第十二代皇帝でもある霊帝が君臨しているが、彼には実質的な権力というものは無いに等しい。
 この時代、宦官と呼ばれる者達によって霊帝は殆ど傀儡として操られている状態だった。
 そのため政治は宦官―――特に十常侍とも称される宦官の思うが侭の状態が現状だ。彼らは私服を肥やすことしか考えておらず、当然そんな人間が頂点にいれば政治が上手く回らないのは必然。
 黄巾賊が反乱を起こしたのも、宦官によって漢朝が腐敗の極みに達したからだ。

 さて、傀儡となっている霊帝には幾人かの子供がいる。
 とはいっても、病弱のために幼くして死んだり、事故で亡くなったりという不幸も多く―――本当にただの事故だったのかは定かではないが―――現在は二人の子供しかいない。
 
 長男でもある劉弁。今年で十六を迎える後継者候補。
 もう一人が劉協。今年で十三を迎える―――皇女である。

 本来であるならば、劉弁が霊帝の後を継ぎ、十三代皇帝となるのは当たり前といえば当たり前の話だ。
 
 だが、霊帝は悩んでいた。
 劉弁は、特に優れた才能を発揮しているわけではない。武芸も政も、人を惹き付けるカリスマというべき魅力も。どれ一つとして常人の域をでない。
 それでも皇帝としてやってはいける―――こんな時代でなければ、の話だ。
 宦官のよって政治はまともに機能せず、民が苦しむ世の中。不正が罷り通るのが常識となっているこんな時代では、劉弁では乗り越えることは不可能だ。霊帝とて、自分の無能さを知っている。政治を変えようと努力はしたものの、あくまでも努力で終わってしまった。宦官の持つ権力は既に途方もないものになっていたのだ。

 だが、劉協ならばどうか。
 彼女ならば可能性が万に一つでも見えてくる。
 まだ十三になったばかりという幼い身でありながら、彼女の才は次元が違った。
 本当に自分の娘なのか、と疑いを持つほどだ。
 武においても政においても。何よりも民の気持ちを理解する優しさを持っている。さらには、自然と周囲に人間が集まってくる異様なまでのカリスマ性。どれか一つとっても歴史に名を残すことが出来る才能を持った少女だった。
 恐るべきことに、彼女はその異才が兄である劉弁に憎まれ、宦官に刃を向けられることに気づくほどに聡明だ。父である霊帝であるからこそ、彼女の才に気づいたものの、他の人間―――宦官にも悟られていない。もしも気づかれたら自分が不幸な事故に会う可能性も考慮していたからだ。
 劉協は、無邪気な顔で、静かに牙を研いでいる。宦官達を黙らせるだけの力を得ることができるその日まで。

 だが、幾ら才能があるからといって、劉協に皇位を継がすのは様々な困難がある。
 基本的に皇位の継承権は長男が持つ。ましてや、劉協は女人。長男を差し置いて皇帝になるなど漢の歴史を見てもありえないことだ。
 
 さらには、劉協は幼い頃には母を亡くしている。つまりは後ろ盾が何も無い。
 決して優秀とは言えない霊帝にとっては超えねばならない壁が多すぎる。
 それでも、彼は自分が出来る最後の仕事だと考え、劉協を次の皇帝にするべく動き出そうとした。

 劉協ならば、或いはこの腐りきった漢朝に新しい風を入れてくれるのではないか。
 そういった淡い期待が霊帝の頭から決して離れなかったからだ。

 年端もいかない実の娘に、途方もない重荷を背負わせることに苦悩しながらも、霊帝は逡巡を振り切り―――。
 
 
















 ▼


















 黄巾の乱が平定されてから僅か一週間。
 漢の中心である洛陽にて、世を変えようと動き出す者たちがいた。

 漢の大将軍阿進は、この日の夜。
 とある一人の武将を宮中に招きいれていた。
 
 大将軍とは名ばかりで、親戚の宦官の取り成しで妹を皇妃にあてがい、現在の地位までのぼりつめた男だ。
 武将として優れた力もない、指揮も取れない。平然と賄賂を受け取り、私腹を肥やす。
 このような男が大将軍の座に居座り続けることができるのが、今の漢朝の腐敗ぶりを端的に現しているとも言えた。
 そんな丸々と肥え太った阿進の前に跪いている一人の女性―――と、表現するにはまだ若い少女がいる。

 金色に輝く髪を後ろでまとめあげ、先端だけ軽くカールがかかり、空中にて躍っている。
 女性としては平均的な身長と体格。蒼い瞳に健康的な白い肌。引き締まった顔立ちは、可憐さと苛烈さの相反した雰囲気を見るものに与えてくる。
 金の装飾が施された白い鎧と、同じく汚れ一つない純白の外套を羽織った少女に、大将軍阿進は一時とはいえ目を奪われた。入り口から阿進の前に歩んできて、そして跪く。言葉にすればそれだけだが、その所作のあらゆるところに気品が見え隠れしている。宮中にいるどの者よりも、彼女の動きは美しい。そう表現するしかない何かが、少女にはあった。

「司隷校尉。袁本初―――参りました」

 漢に代々勤めてきた功臣。宦官とも渡り合えるほどの大きな権力を持つ一族袁家の当主。
 袁紹本初。それが少女の名前であった。

「袁紹殿。よくぞ参られた」

 阿進は、脂ぎった視線を袁紹へと向ける。
 若く可愛らしい袁紹の肉体の隅々まで嘗め回すような阿進に、流石に不快さを感じるものの、それを表情に出すわけにもいかない。特に阿進の視線は、袁紹の白い太股あたりを刺すように見つめてきているが、眉を僅かに動かす程度ですませた彼女を褒めるべきだろう。
 もっとも、背中にはあまりの気持ち悪さに鳥肌がたっていたのだが。
 そんな袁紹の内心がわかっていない阿進は、生理的に受け付けない気味の悪い笑みを浮かべて、袁紹を迎え入れた。

「この度の黄巾賊の反乱では、貴殿には礼を申さねばなるまい。よくぞこの洛陽の平穏を保ってくれた」
「お言葉ではありますが、私はさしたる武勲をたててはおりませぬ」
「この洛陽の守護は、誰にでも頼める任ではない」
「……大将軍の威光のおかげかと。私はただ兵をまとめていただけに過ぎませぬ」
「はっはっはっは。よく出来た御仁であるな、袁紹殿は」

 名門袁家の後継者として生きてきた袁紹にとって、阿進のような相手は非常にわかりやすい。
 適当な美辞麗句を述べておけば、機嫌をよくする。非常に手玉に取りやすく、彼らが何を考えているのか手に取るようにわかってしまう。

「さて、袁紹殿。貴殿に報告しなければならないことがある」
「……何かございましたか?」
「蘆植将軍の件は既に聞いているか?」
「はい。つい先日」

 蘆植という名前を耳にした袁紹の口元がきつく結ばれた。 
 特に親しい知り合いというわけではなかったが、現在の漢朝では誠実で、信用ができる数少ない人間だったことを知っていたからだ。
 黄巾賊を討伐した三将軍の一人として活躍した彼だったが―――反乱平定より数日後には、罷免されてしまったのだ。

 表向きは、黄巾賊と裏で繋がっていたため、ということになっているが、そんな訳が無い。
 朱儁や皇甫嵩ほどではないが、十分な武功をあげたものの、彼の配下には身分の低いものが多かった。そのためか、恩賞が功績に比べて随分と少なかったらしい。それに対して、蘆植は部下のために上奏をしようとした結果、無実の罪を背負わされたという。元々彼は、宦官に賄賂を贈ることがなく、それを不満に思っていた宦官達の手によって罷免されてしまったというのが真実だ。

「あの蘆植殿に対して実に許しがたい。貴殿もそうは思わぬか?」
「はい。今回の件には納得がいっていない者も多いかと」

 阿進の問い掛けに、袁紹も力強く頷く。
 戦場で命をかけて戦った者達に、あまりにも酷い仕打ちだ。
 事実、蘆植の件に関しては、口には出さないものの不満を感じている者が大多数であった。

「奴らは黄巾の平定に追われている間も、私財を貯えていた。この宮中でさえも、我が物顔で専横する奴らをこのまま野放しにはできぬ」
「確かに。このままでは……」
「そうだ!! やつらがのさばっては、この国が再び混乱に陥るだろう!!」

 既に漢朝にとっては未曾有の危機に瀕しているが、宮中にいる阿進ではそこまでの危機感を持てないのだ。
 中華を統一した秦でさえも滅びた。その原因となったのは宦官である。
 長きに渡って続く漢朝が、同じ失敗を繰り返すことは許されない。

「この袁紹。漢朝に大恩ある袁家の出自。漢朝に仇名す宦官の専横は決して許せませぬ」
「貴殿の忠節、誠に見事。そんな貴殿に、話しておかなければならないことがある。近こう寄れ」

 出来るだけ阿進に近づきたくないというのが袁紹の本音だったが、仕方なしと割り切って距離を詰めていく。
 耳に阿進の吐息がかかり、ぶるりっと身体を震わせたが、我慢だと心の中で必至になって呪文のように唱え続ける。

「……既に殿下は崩御されておる」
「―――なっ!?」

 想像もしていなかった発言に、さしものの袁紹が声をあげた。
 確かに最近は公の場に顔を出していなかったが、まさか霊帝が亡くなっているとは―――袁紹とて思ってもいなかったことだ。しかしながら、皇帝崩御の情報が流れていなかったのは、英断だったともいえよう。
 黄巾賊との戦いの最中に、そのような情報が広まりでもしたら、恐らくは未だ反乱を平定することは出来ていなかったはずだ。それどころか、下手をしたら多くの官軍が敗走していたかもしれない。

「一つ、お聞きしても?」
「構わぬ。何が聞きたいのだ、袁紹殿」
「殿下の崩御……あまりにも突然ではないか、と」
「うむ。私もそれが気になって独自に調査していたが……十常侍が薬と偽った怪しげな薬を殿下に処方していた所を見た者がいる。確証はないが、恐らくは……」
「っ!!」

 ギリっと歯が軋む音が部屋に鳴り響く。
 恐れ多くも、皇帝たるお方に牙を剥くとは、なんと愚かなことを。そんな想いが袁紹の胸の内を覆う。
 宦官のあまりの専横に、目の前が暗くなる。吐き出す息がやけに熱く感じた。
 宮中を好き放題にしていることは認識していたが、まさか漢の皇帝をも毒殺するなど天をも怖れぬ所業。

「もはや一刻の猶予もない……恐らく十常侍は、協皇女を新しい皇帝へと祭り上げるだろう。殿下の今際の際の遺言と偽って」
「まだ幼い劉協様ならば、容易く自分たちの傀儡にできると判断してのことでしょう」

 都にいる誰一人として劉協の本性に気づいていないがために、彼女を操り易いを誤解している。
 十三歳の小娘の演技に気づかない愚か者と言うべきか、或いは海千山千の者達を騙し通せる小娘の才を褒めるべきか。
 もしも彼女の本性に気づくものがいたならば、後者を選ぶはずだ。

 また、ここまで阿進が焦るのにも理由がある。
 このままでは間違いなく十常侍は、劉協を新皇帝とするだろう。だが、阿進にとってはそれは最悪の結果だ。
 何故ならば、劉協の兄である劉弁の母に当たる人物は―――阿進の妹に当たる人物だからだ。つまりは実は阿進は、劉弁の叔父に当たるのだ。もしも、劉弁が皇帝となれば、阿進は皇帝の叔父という立場を手に入れる。そうすれば、宮中での阿進の立場や地位、発言権は今の比ではなくなる。十常侍でさえも、飲み込むだけの立場を得られるのだ。

 つまりは、十常侍にとって、それが最も避けたい状況。
 阿進にこれ以上の権力をもたせないためにも、劉協を擁立しようとしているということだ。

 そんな状況の中で、黄巾の乱が平定された。
 戦争が終われば、皇帝崩御を隠す理由も無くなる。
 阿進が口に出したとおり、一刻の猶予もないとはこういう理由である。

「私は漢朝に仕えた身として、この国の行く末を憂えている。今こそ、この国に寄生する輩を排除せねばならぬ。血の粛清を今こそ行う時がきたのだ!!」
「―――御意。微力なれど、この袁本初。阿進様とともに宮中の澱みを一掃する覚悟があります」
「感謝するぞ、袁紹殿!! 貴殿の力があれば、必ずや成功するだろう」
「お任せください。阿進殿―――何時、発たれますか?」
「……明日。内通者によれば、明日は十常侍が皆集まるという。そこを狙い一網打尽とする」
「はっ!!」

 ようやく宮中に巣くう宦官を排除できる。
 明日には自分が漢という国を自由に動かすことが出来る権力を握れるようになると信じて疑わない阿進に背を向け、戦の準備のために外套を翻すと入り口へと足を向けた。
 だからこそ、阿進は気づかない。袁紹のとてつもなく冷たい微笑に―――最後まで気づくことは無かった。

   
 
 
  
  

  
  
   
 









 ▼
















 阿進と袁紹の密会の翌日。
 十常侍が集まるという情報通り、確かに夜になると彼らが宮中へと姿を見せた。
 それを確認した阿進と袁紹は、遂に軍を動かす。

 袁紹直属の兵士は、宮殿に突入するや否や敵対する者達を躊躇い無く斬り捨てて行く。
 特に宦官を優先的に粛清していくなか、騒ぎを聞きつけた警備兵が次々と集まってくる。
 その多さに眉を顰めるのは袁紹だ。確かに宮殿には多くの兵隊がいるが、これは幾らなんでも多すぎる。彼女の予想を超えた兵の数に些かの計算違いだったことを認めねばならない。
 だが、それでも袁紹が考えていた最悪を超えてはいない。ならば、十分に対処が可能である。

「今こそ、漢に巣くう害虫を裁く時だ!! 恐れるな!! 怖れるな!! 迷うな!! この私、袁紹本初を信じて突き進め!!」

 怒号と剣戟が響き渡る宮殿で、袁紹の声は不思議と透き通り、兵士達の迷いを打ち砕く。
 怒涛の勢いで宮殿の警備にあたる兵隊達を蹴散らし、宦官達の息の根を容赦なく止めていった。

 だが、奇襲であるにも関わらず敵の動揺は少ない。
 それを見抜いた袁紹は、そのからくりを察した。
 
「……なるほど。私達は泳がされていたわけだ」

 正確に言うならば、泳がされていたのは阿進。
 内通者を通じて、劉協を擁立するという情報を流せば、それを阻止しようと阿進は必ず行動に出る。
 さらには十常侍が全員集まるという好機も合わされば、間違いがない。
 後は前もって控えさせていた十常侍直属の兵士達で包囲殲滅する。阿進ほどの大物なれば、そう簡単には政治的には処罰は出来ない。しかし、今この状況であれば先に宮殿に攻撃を仕掛けてきた阿進を始末するのに何の問題もないわけだ。
 虎の巣に飛び込んだ阿進と袁紹。もはや打つ手は無いように思われた。

 ―――もしも、この袁紹本初が相手でなければ、だが。

 ふっと苦笑した袁紹が剣を抜き、迫ってきてた敵兵をまとめて撫で斬りにする。
 そんな彼女に呼応して、袁紹の兵士達は敵兵を見る見るうちに押し返し始めた。
 名門袁家の直属兵。その力はただの官軍兵では相手にもならない。個人の力量があまりにも違いすぎるのだ。
 数で勝る警備兵を次々と撃破していく袁家の兵士に、顔を青くしていた阿進は、現金なもので相手を蔑む笑みを口元に浮かべながら高笑いをする。

「くっはっはっは!! 無礼者どもめが!! 所詮はこの大将軍阿進様の前では、貴様ら雑兵など塵芥に過ぎぬわ!!」

 その声を聞きつけた敵兵が、狙いを阿進に定めて長槍を両手に握り締めて踏み込んでくる。
 ふんっと鼻で笑った阿進は、袁家の兵の後ろに回ろうとして―――とんっと軽い音を残して背中を押された衝撃を受けた。
 
「―――はっ?」

 茫然とした呟き。
 それが仮にも大将軍にまでのぼりつめた阿進の最後の言葉となる。
 背中を押されて前に突き出された彼は、ただの一介の雑兵の槍に貫かれ、大量の血を吐いた。
 一体何が起きたのか理解できない阿進だったが、ギギっと機械のように首を後ろに向けて、自分を押し出した犯人を見ようとした阿進の瞳に映ったのは―――。

 どこか冷たい表情で阿進を見下す、袁紹本初の姿だった。

「―――閣下の死を無駄にするな!! 漢の存亡、この一戦にあり!!」

 自ら剣を片手に敵兵に斬りかかる袁紹に従い、彼女の兵は恐ろしい熱量を持って進撃を開始した。
 その光景をかすれる視界で見届けていた阿進は、死の間際に自分がとんでもないことをしたのだと、ようやく気づく。
 目の前の女は、少女の姿をしただけの何かは―――十常侍よりも遥かに恐ろしい怪物だということに。
 
「……袁、紹……き、さまは……」 
「漢朝の腐敗に貴方が関わってはいないとは言わせません、阿進殿。実に残念ですが、ここでお別れです。ですが、ご安心を……漢の汚辱を我が手で全て雪いで見せましょう」

 袁紹の剣が煌くたびに、兵士が血を流し倒れてゆく。
 彼女の剣は特別に速いというわけではない。力強いという訳でもない。まるで敵兵から袁紹の剣に当たりに来ているようにも見える不思議な剣技だ。一太刀で確実に敵を沈めていく袁紹の姿は、華があった。見惚れる美しさがあった。魂を惹き付ける魔性があった。

 死の淵に立っていながらも―――死の淵に立っているからこそわかることもある。
 ただの小娘と侮っていた袁紹本初もまた、この時代における乱世の申し子なのだと。
 かつて見た、異質。曹操孟徳に匹敵しかねない、生まれながらの王の資質を持つ者。

 それを解き放ってしまった後悔を抱きながら、大将軍阿進はここに生涯を終えた。
 


 漢朝を食い荒らした原因の一人に冷たい眼差しで一瞥。もはや阿進には目もくれず、袁紹と彼女の直属兵は一直線にある場所に向かう。
 霊帝の子供でもある、劉弁と劉協の私室だ。
 はっきりいって今の袁紹がやっていることは漢朝への反乱である。逆賊扱いされてもおかしくは無い―――というか、逆賊なのだが。
 今のこの状況をひっくり返すには、どうしても劉弁か劉協のどちらかが必要なのだ。どちらかを皇帝として擁立し、十常侍を始末する。最低でもどちらかを行わねば、袁紹としても身の破滅だ。

 袁紹は兵を連れて、劉弁の私室になだれ込むが、そこには人の気配が無い。
 劉弁が自分から逃げ出すとは思えない、となれば、宮殿の騒ぎを聞きつけた十常侍のだれかによってかどわかされたと見るべきだ。劉弁がいない以上、恐らくは劉協も同様。
 
「……皆のもの!! まだ皇子は遠くに行っていないはずだ!! 捜せ!!」

 宦官に先んじられたことに歯噛みをしながら、袁紹は歯噛みする。
 相手の危機察知能力を甘く見ていたことを反省しながら、袁紹もまた皇子の探索にあたった。 
 袁紹は言葉に出した通り、皇子達は遠くまで離れていないと読んでいた。だが、王たる資質を持つ彼女の想像を超える者が銃常侍にはいた。そう―――袁紹の想像を超える臆病者が。
 だが、臆病者だからといって侮るべきではない。そういうものこそ、死の香りには敏感なのだ。
 十常侍の一人は早い段階で、それを嗅ぎとって宮殿を脱出し、洛陽から西へと逃げ出していく。それに気づくには袁紹でさえもしばしの時間を必要とした。

 洛陽からそう離れていない森を疾走する馬車の一群。
 舗装されているとはいえ、速い速度で駆け抜ける馬車は激しく揺れている。
 そんな馬車の中で、宦官達は凄まじい形相で怒りの言葉を吐き出し続けていた。

「くそっ……阿進だけならば容易く返り討ちに出来たものを!!」
「袁家の小娘が、まさか阿進につくとは……」
「青二才が、このような愚かな真似を!!」

 怨嗟の念を口に出しながら、宦官達は洛陽から逃げ出す羽目になった原因の、袁紹に恨み言をぶつけ続けている。
 袁紹が予想したとおり、この度の狙いは阿進を葬るための罠だった。
 彼が動かなければならない状況をつくりだし、阿進が送り込んできていた内通者を金で買収し、こちらの狙い通りの情報を渡す。後は今宵、罠にかかった鼠をしとめるだけ。その筈だったのが、宦官にとって予想外だったことが、袁紹を引き込んだことだ。しかも、彼女の執念とでもいうべきか、動かせるだけの兵をこの反乱に投じている。
 宦官達にも袁紹の情報が回ってこなかったということは、ごく最近袁紹は阿進に協力することになった状況のはず。そんな状況でありながら、あれだけの数の兵を投入できるのは、ある意味異常ともいえた。漢朝に反乱を起こすというのに、それを可能とするのだから生半可な求心力では兵はついてこないだろう。

 だが、宦官達はまだ負けたわけではない。

 何故ならば、彼らの手元には皇子劉弁と皇女劉協がいるのだから。

 宦官のぎらつく欲望の視線が、隅にいる二人の少年少女を貫いた。
 劉弁は、実に素朴な顔をしている。本当に皇族なのかと疑いたくもなるが、それは霊帝の血をい色濃く継いだため。
 一方の劉協は、十三歳という幼い年齢と比例した小柄な身体。長い黒髪と可愛らしい顔立ちは、将来数多の権力者に求婚されるのは想像に容易い青い蕾。今でもそちらの方面の方々には凄まじい人気だ。
 そんな劉協は禁断の果実を思わせる危うい魅力を醸しだしている。

 傍で縮こまっていた劉弁は、何が起きているのかわからずに脅えた目で宦官達を見ていた。
 対して劉協も兄である劉弁にしがみつくようにして震えていた―――外見だけの話だが。
 内心では目まぐるしい速度で思考を繰り返している。

 本来ならば劉協は反乱に参加して十常侍を討ってもよかった。
 だが、反乱を起こした者の名前を聞いて、宦官達と逃亡する選択を選んだのだ。
 大将軍阿進。彼は、兄である劉弁の叔父にあたる人物。恐らくは、彼に協力したとしても、意味は無い。確かに宦官達は掃討できるだろうが、間違いなく阿進は劉弁を皇帝へと押し上げるだろう。その後、危険な芽である劉協が無事である保証はない。
 ならば、今はまだ雌伏の時だと判断して、劉協はこの逃亡劇に付き合うこととした。
 内心で深いため息をつきながら、外面は脅えた演技をしつつこれからの苦難をどう乗り切ろうか考えに没頭する。  

「くっくっく。だが、奴もまだまだ青い!! 劉弁様と劉協様がこちらの手にある限り、奴らは逆賊よ!!」
「そうだ。いずれあの青二才を、死んだほうがマシだと思わせる目にあわせて見せ―――」

 息巻いていた宦官を遮るように、馬車が突如として急停車をした。
 突然の停止に、馬車にのっていた宦官達が転がりながらも、慌てて立ち上がり馬車から降り立つ。
 彼らの目の前に広がっていたのは夜の闇を侵食するほどに多くの光を照らす篝火。
 少なくとも千や二千ではきかない兵士達が居並んでいた。あまりの多さに肝を冷やす宦官達。

 まさかこの方角へ逃げることを予測していた袁紹の伏兵なのか。
 流石にこれだけの数の兵から逃げられるわけがない。宦官が引き連れてきた兵士は精々が数十名。戦いにすらならないだろう。宦官子飼いの兵士達もまた、目の前の敵の数に顔を青ざめさせていた。

「十常侍の皆様。ご無事で何よりです。私めは李儒と申します。そしてこちらは、董将軍の軍にございます」
「なん、だと? 董……?」

 袁紹の兵ではないことに胸を撫で下ろす宦官は、軍の前面に出ている、文官姿の細目の男に見下す視線を送る。
 だが、細目の―――李儒と名乗った男は、その視線に怯みも、不快感も抱きはしない。
 逆に彼の浮かべている笑みには、どこか不吉さを感じ取っていた。一言で言うならば、蛇。そう表現するにぴったりな男であった。

「乱も平定され、涼州への帰還を申し付かっておりましたが、なにやら禁中にて不穏な影ありと噂されておりましたので、この地にとどまっておりました。今宵の宮殿の騒ぎを聞きつけ、こうして兵を引き連れ参った次第であります」  
「なんと!! これぞ天の助け!!」

 宦官は李儒の説明を聞き、喜びの声をあげる。
 これだけの兵がいれば、間違いなく袁紹を討ち取れるはず。
 有り得ない幸運に喜悦を浮かべる宦官と劉弁。しかし、劉協は、李儒の笑みと背後の軍に嫌な予感がとまらなかった。
 このまま彼らを引き連れて都に戻って果たしていいものかどうか。
 そんな劉協の心配をよそに、宦官達は自分たちが助かることに一片の心配もしていない。

「李儒とやら。董将軍をこちらに。火急の用がある!!」
「逆賊阿進と袁紹が、皇子と皇女のお二人を亡き者にしようとしたのだ!!」
「奴らを討つために、董将軍の力が必要なのである!!」

 次々と言い立てる宦官に、李儒は手に持っていた木簡を軽く握り締め、喚きたてる宦官達へ順番に視線を送る。
 その様子はまるで宦官達の話を聞いていないようにも見えた。それどころか、何やら別の物事を考えているのではないか、と劉協は訝しむ。
 そんな時、突如として篝火の河が、二つに割れた。
 割れた中心から騎馬に乗った一人の男性がゆっくりと進み出てくる。

 男とは思えない長い白髪。
 血のように赤い瞳で、宦官達に囲まれる皇子と皇女の姿を睥睨している。到底武人には見えない傷一つ、染み一つ、日焼け一つしていない白い肌。鎧もまとわずに、豪勢な服で己を着飾り、腰には辛うじて一刀だけ剣を差していた。
 
 白髪の男が歩み出てきた瞬間、李儒の表情が変化する。
 どこか機嫌を伺う卑屈な笑みへと変わり、宦官達の前とは平然としておきながら躊躇いも無く平伏した。
 背後の兵士達も同様。頭を地面にこすりつける様は、異様にも見える。

 男性の視線が劉弁を貫いていたが興味を僅かにも見せず、次に劉協へと移った。
 男と視線が交錯したと同時に、少女の身体がビクンっと反応する。
 
 白髪の男性の瞳には何も無い。一切の感情が見られない、完全な虚無。
 人を人と見ていない。ただのモノとしか見ていない、いかれにいかれた狂人の瞳。
 冷静に、冷徹に、確実に。この世の全てに価値を見出していない化け物。
 関わってはならない。劉協の第六感が、これまで宮中で会って来た誰よりも危険な怪物だと告げてくる。
 この男に比べれば、十常侍も阿進も赤子のようなものだ。完膚なきまでに、あらゆるものを破壊する。破滅そのもの。
 
 演技ではなく、ガクガクと震える己の身体を抱きしめながら、劉協は目の前の魔人の視線に恐怖で竦んで動けなかった。

「……お前らは、いらんな」

 温度を感じさせない声で、男は腰の剣を抜く。
 篝火の光を反射させた白銀の刀身が、きらりっと輝いた。
 そして、男は喚き散らしている宦官の一人に近づくと、無造作に一太刀を振るう。
 パシャっと赤い華が咲く。容易く宦官の一人の首を落とした男性は、その場で湧き出る血の噴水を眺めながら、返り血を拭う。斬られた宦官の身体がぐらりとゆれ、地面に倒れて鈍い音をあげた時、凍った時が動き出した。

「き、きさまぁ!?」
「ま、待て!! 思い出したぞ!! そやつは、その男は!! 涼州の董卓!!」

 宦官の一人が叫んだ男の名前。それに誰もが顔を引き攣らせた。  
 董卓仲穎。漢朝の威光が届かない西方にて、力であらゆる民族を従わせた武将。
 その武勇は並ぶ者無しとまで言われ、今の漢朝において最強とも噂される。ただし、彼の残虐性もまた並ぶものは無く、西方では魔王とまで呼ばれている男だ。

 董卓の正体を知った宦官の誰もが震え上がり、その場から動けなかったが、流石というべきか彼らが連れてきた護衛の兵士達は即座に行動を開始した。
 敵の大将が手の届く所にいるなど、愚策にも程がある。董卓を人質とすれば、この囲みも突破可能と判断した兵士達の動きは素早い。宦官が直属の護衛とするだけはあって、彼らの力量は相当なもの。そんな兵士達が一直線に董卓へと襲い掛かるが―――そこに一陣の疾風が吹く。

 黒い風が董卓の前に現れ、手に持っていた得物で一閃。
 剣も鎧もまとめて叩き切って、数人の兵士もまた血飛沫を上げて地面に転がっていく。
 目の前に佇むのは、董卓を庇うように立ち塞がる黒の甲冑をまとった一人の武人。
 手には三メートル近い、不可思議な形の矛。吹き寄せる血風が、董卓へと迫っていた兵士達の鼻をくすぐるも、それと同時に自分が死ぬという予感。
 兵士達の予感を証明するかのごとく、黒い武人は手に握り締める武器を軽々と振るい、兵士達を惨殺していく。
 あまりの圧倒的な強さに、宦官達は愕然と目を見開いた。
 
 強すぎる黒い鎧の武人。それを見ていた宦官の一人が、恐怖を滲ませて一歩後退する。

「黒い鎧の、武人だと? まさか……まさか!? まさか!!」

 董卓の名前を知っていた宦官が再び叫ぶ。
 頬を引き攣らせ、恐怖で唇を震わせて。
 この世の終わりを前にしたかのような宦官の様子に、他の者たちでさえ只事ではないと勘付く。
 
「黄巾の乱にて、数多の武威を示した天下無双―――呂布奉先っ!!」

 そして、宦官の口から発せられた名前は、この場にいる人間に絶望を植え付けるには十分すぎる衝撃だった。
 人々の願望がうみだした、飛将軍。漢も異民族も等しく滅ぼす天下無双。
 少なくとも黄巾の乱が起こる前まではそう考えていた噂。だが、伝説は確かに存在し黄巾の乱平定に多大な功績をもたらした。初めは呂布の功績をきいて笑い飛ばすことしか出来なかったが、黄巾討伐を指揮した三将軍は皆同じことを報告し、従軍した者は皆、天下無双の称号に偽りはないと語る。

 そんな化け物が、目の前にいて兵士達を蹂躙していく様子は確かに、呂布奉先はとてつもない怪物だと納得するしかなかった。一分もかからずに護衛の兵士数十人を物言わぬ骸と化す。その原因となった呂布奉先は、手に持っていた自分の得物を軽く一振り。刃についていた血糊を払い落とす。

「……つまらぬ。この程度で、精鋭を名乗るか。話にもならぬわ」

 顔が見えない兜の奥から、しゃがれた声が漏れる。
 追随を許さない武を示した伝説を前にして、残された劉弁と劉協―――そして、僅かばかりの人数の宦官。
 これまで見たこともない異端の二人を前にして、誰一人として声を発することが出来なかった。
 下手なことを言えば自分が死ぬ。この場の雰囲気が、何よりも雄弁にそれを伝えてきている。
 劉協もまた、他の者たちと同様であった。確かに彼女は異才である。しかしながら、まだあまりにも幼い。人外ともいえる董卓を前にして、脅えたとしても無理なかろう話だ。ましてや、彼の傍には威圧感を撒き散らす伝説の武人。
 何も出来なかったとしても責めるものはいないはずだ。

 だが、劉協は唇を力一杯噛み締める。
 駄目だ、と。このまま沈黙を保てば、恐らくは劉協の予想通りの結果になるだろう。

 董卓は、地位や名誉を欲してこの場にいるわけではない。
 義心に駆られ、漢朝の腐敗の原因である十常侍を斬ったわけでもない。
 帝の血統にも敬意を微塵も払わない董卓は、一体なんのためにここにいるのか。それがわからない劉協だったが、このままでは危険だという己の直感に従って、腰がひけている宦官や劉弁を庇うように一歩足を踏み出した。

 董卓と呂布の圧力を前にして、その一歩を踏み出せるものはなかなかいない。
 少女の勇気に、李儒は素直に驚きを抱く。

「控えおろう、董卓!!」

 可憐な少女が発したとはおもえない、苛烈さを伴って森中に響き渡る。

「先帝亡き、今!! 我が兄、弁皇子は皇帝となられるお方である!! 董仲穎、貴殿は帝に叛する者か!! 五材を持って臣下の礼をとる者か!?」
「勇。智。仁。信。忠。臣たる将に求められる五材か」
「いかにも!! 勇なれば即ち犯すべからず!! 智なれば即ち乱すべからず!! 仁なれば即ち人を愛す! 信なれば即ち欺かず!! 忠なれば即ち二心なし!!」

 手を董卓にかざし、真っ向から睨みあう劉協と董卓。
 その勇気に董卓軍の誰もが驚き、心の中で賞賛を送った。臣下である彼らでも、あそこまで堂々と董卓と向かい合うことはできないからだ。しかも、十三歳という幼い少女がそれを為した。
 対照的だったのが、残された宦官と劉弁だ。機嫌を損ねれば殺されかねない相手に対してここまで堂々と説教をかますなど、信じられない。それは勇気ではなく、蛮勇であると断じた。

「……小賢しい、小娘だ」 

 にらみ合う劉協と董卓。
 操り易しと判断していた幼い少女の本性。董卓の虚無にも負けじと佇む彼女に、宦官も劉弁も言葉もない。
 二人の対峙に割ってはいるように、ズシンっと地を揺らして足を踏み出したのは黒い鎧の巨人。
 天下無双の呂布奉先は、手に握る巨大な矛の切っ先を劉協に向ける。

「教えてやろう、小娘。戦場において、貴様が誇りにする帝の血など何の役にもたたないことを。そして、戦場において最も速く死ぬのは、蛮勇な者からだ」

 呂布は、片手で軽々と巨大な矛を天へと掲げる。
 その光景を見て誰もがまさか、と思った。仮にも皇帝の血族である劉協に刃を向けるだけではなく、彼が放つ殺気は本物で、このままでは躊躇いなく刃を皇女に振り下ろすことは明白であった。
 キラリっと矛が光を反射する。呂布が放つ殺意は、甲冑をまとっていてなお、溢れてあまりあった。
 物理的な衝撃をももたらす呂布の圧力に、乱れる呼吸。それでも劉協は逃げ出しはしなかった。
 自分が死なないとは思っていない。だがらこそ、ここで逃げ出せば皇族としての誇りも失ってしまう。そんな予感じみた想いに囚われていた。

「―――逝ねぃ、小娘」

 振り下ろされる刃。
 寸分違わず呂布の得物は、容赦なく劉協の頭に叩き込まれ、幼い彼女の身体を真っ二つに両断する。















「おいおい。こんな逸材を、そんな簡単に殺すなんて勿体ないぜ」
















 ―――はずだった。 
  

 
 
 













 ギィンっと激しくも耳障りな音。
 呂布が放った必殺の一撃は、劉協の背後から繰り出された刃に防がれていたのだ。
 自分が命を拾ったことが信じられないのか、目を見開いて頭上で交差している矛と奇妙な形をした武器を仰ぎ見る。
 劉協を救ったのはこれまで見たこともない不思議な代物だった。
 
 槍のような先端。だが、それだけで普通の剣よりも長く分厚い。さらには、その切っ先を補助するように巨大な三日月の刃が反り返っている。慌てて背後を振り返ってみれば、柄もまた長い。全てを合わせれば四メートル以上にもなる超重兵器だ。呂布が使っている矛にも驚いたが、この武器はそれ以上に驚かされる。
 
 そして、もっとも注目すべき点は―――常人では持ち上げることすらできないであろう武器を、馬上にのった青年が片手で持っていたことだ。さらには、ふわぁっと戦場において有り得ないことに欠伸までしている始末。
 戦争には行ったことない劉協だが、眼前の青年の異質さだけは理解出来る。

 さらに、ここで初めて董卓の生気のない瞳に、興味という色が混じったことに誰も気付かなかった。 

「……何者だ、小僧」

 ギャリンっと刃同士を高鳴らせ、呂布は己の武器を引き寄せた。

「おっと、危ないな」

 青年は、弾かれた拍子に馬ごと後方へ数歩たたらを踏む。
 そして馬上から、軽々と飛び降りると頭をガシガシとかきながら劉協の前に進み出てきた。

 劉協は突如として現れた青年をまじまじと見つめる。
 宮中のものかとも考えたが、一度見た相手は忘れない特技を持つ彼女の記憶にはない。つまりは、そういった関係の人間は薄い。ただし、呂布の言葉から推測するに董卓の手勢というわけではないようだ。

 短く切られた銀の髪が、やけに眩しく光を放っている。
 呂布には及ばないものの、劉協が見上げねばならないほどの背丈。
 文官かとも考えたが、その割には巨大な武器を片手で持つなどと言う荒技をやってのけている。
 ただの優男ではないのは、それだけで劉協には理解出来た。

 劉弁も宦官も、銀髪の青年の姿に眉を顰める。
 今度は一体どこのものだ、と。怪しんでいるようだった。

「あ、あの―――」
「よくわからん状況だったが、助けに入って大丈夫だったか?」
「は、はい。助かりました」

 劉協が何者かと問おうとした途中で、青年が割っては入って問いかける。
 皇女と知らないせいか、やけに乱雑な言葉遣いだったが、劉協にはそれを咎める気にはなれなかった。逆に、青年のそんな言葉遣いが新鮮で、少しだけ嬉しくなってしまう。
 
「小僧。貴様、何者だ? そやつらの手下か?」

 呂布なる者が、青年を油断せずに睨み付け、矛を向けてくる。
 手加減なしの殺気が荒れ狂い、波となって打ち寄せてきた。息を呑む気配に、宦官と劉弁は腰を抜かして座り込む。劉協は辛うじて耐え切れたものの、今にも背後の者達と同様に地面に座り込みたくなる。だが、彼女の前にいる青年は全く気にも留めた様子もなく、軽々と受け流していた。

「いや、名乗るときは自分からって教えられなかったか?」

 さらには平然とこんなことまで言ってしまう青年は、周囲の者達を慌てさせた。
 伝説を前にして余裕を崩さない青年に、呂布は些か機嫌を損ねたのか、彼の筋肉が怒りで膨張していく。
 
「よか、ろう。冥土の土産に我が名を持ってゆけ」

 矛をぐるりっと頭上で回し、勢いよく振り下ろし空中でピタリと静止させると―――。

「我が名は呂布。呂布奉先なり!!」

 ビリビリと空気を打ち振るわし、森に眠っていた鳥が飛び立っていった。
 騒がしくなる周囲とは裏腹に、青年は呂布の名に流石に驚いたのか、目を大きく開いて眼前の黒い甲冑の戦士を呆然と見つめた。そこにあったのは、恐れか、怖れか。武人である限り、呂布奉先の名前は畏怖と崇拝の対象にもなっているのだから青年の表情も当然。だが、劉協は青年の姿に違和感を拭えなかった。青年が呂布に向けているのはどう見ても恐怖ではない。単純に驚いているだけ、そうとしか思えなかった。

「呂布、奉先……だ、と?」
「然り。我の前に立つということは、貴様の命が終わると同義」

 燃えるような殺意を漲らせ、呂布は高らかに宣言を続けた。

「安心しろ、小僧。痛みもなく、一瞬で終わらせて―――」

 呂布の言葉を遮る轟風が吹き付けた。
 森も。大地も。空も。人も。何もかも。
 森羅万象が怖れ戦く。あまりにも超越的すぎる覇気がバチリっと音を立てて世界ごと包みあげる。
 呂布が漲らせた気配など、そよ風。そう称してもおかしくはない。そこまで桁が違う得体の知れない圧力。
 劉協は、ばくばくと高鳴る胸なり。乱れる呼吸を必死になって落ち着かせる。目の前で立ちのぼる、尋常ならざる気配に恐怖以上の高揚感を覚えた。

 死をも怖れぬ董卓軍の兵士でさえも、その場から逃げ出すように後退する。
 董卓は何も語らずに、興味深そうに呂布と青年の対峙を傍観していた。


 が―――。



 誰も彼もが理解出来ない。
 結果だけが、そこにはあった。

 パシャリっと吹き出る鮮血。
 地面に転がる黒い甲冑。そして、巨体。赤い血の池に浮かぶ臓物。 

 物言わぬ骸となったそれは―――天下無双。呂布奉先の身体だった。
 
 頭から股間までを一刀のもとで切り裂かれたという結果のみ。
 この場にいた全ての人間が、その結果だけしか見ることは出来なかった。

 それを為したであろうと、予測できる人物。
 銀髪の青年は、誰の目にも止まることなく呂布の背後に回っており―――吐き気を催すほどの圧力を発しながら佇んでいた。
 彼がどうやってこの光景を作り出したのかわからない。それでも、人間としての生存本能が痛いほどに警告を繰り返す。
 この人間には関わるな。戦うな。この者こそ本当の死神なのだ、と。

 青年は、首を後ろに軽く曲げ。
 もはや物言わぬ肉体となった呂布を見下ろしながら―――。

「―――奇遇だな。俺も、呂布奉先と名乗っているんだが?」

 方天画戟を肩にかけ、珍しく不機嫌に言い捨てた本物の呂布。 
 この場の人間が、その発言の意味を理解するまで暫しの時間を要することになるが―――森の中に多くの人間の怒号にも似た驚愕の叫び声があがった。
 
 李儒でさえ、驚愕と恐怖を隠しきれずにいる中。
 ただ一人。董卓だけは、不気味な笑みを口元に浮かべ嗤っていた。




 天下無双。呂布奉先。
 乱世の魔王。董卓仲穎。
   
 


 後の世にて董卓の乱とまで言い伝えられる悲劇を巻き起こす、破滅と破壊の象徴である二人の初めての邂逅であった。



 










 


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