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[37979] 水色の星A2(灼眼のシャナ)
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2013/07/02 17:26
 
 はじめまして、或いはお久しぶりです。
 本作品はライトノベル『灼眼のシャナ』の二次創作で、以前に私が書いた完結済の『水色の星』という作品をリメイクした『水色の星A』の続編に当たります。
 なので、本作を読む前に『水色の星A』の方を先に読んで頂けると嬉しく思います。
 原作とは設定を改変している部分も幾つかございますが、予めご了承下さい。
 
 
 
 
 
 
 この世の歩いて行けない隣には、紅世と呼ばれるもう一つの世界がある。
 太古の昔、隣に住まう紅世の徒はこの世という世界を見つけ、渡り来た。
 しかし彼らは、本来ならば居てはならない『隣』の住人。己だけではこの世に留まる事さえ出来ない。
 故に彼らは……人間を喰らう。己に近しい意志を持つモノから、この世に在る為の根源……存在の力を奪う為に。
 だが、在る筈の人間の欠落はこの世を歪ませ、いつしか両界の破滅を齎らす。それを危惧した紅世の王たちは、人間の器に力を預けて同胞を討つ使命の剣……フレイムヘイズを生み出した。
 同胞殺しの目を逃れる為に、徒は歪みを和らげる道具を編み出す。
 その名は、トーチ。
 喰らった人間の存在の残滓を使って作られる代替品。それは急激な欠落を和らげる為に居場所に残り、少しずつ薄れて、いつしか消える。誰の記憶に残る事も無い。
 
「……………」
 
 日本の御崎市という街に住む少年・坂井悠二も、そのトーチの一つだった。
 だが、只のトーチというわけでもない。身体の中に宝具を蔵する特別なトーチ・『ミステス』だ。
 彼の宝具は『零時迷子』、毎夜零時に失った力を回復させる永久機関。その恩恵によって、悠二は消滅の運命を免れている。
 
「……悠二」
 
 部屋のドアをノックして、一人の少女が入って来る。
 水色の髪と瞳を持つ小柄な女の子。彼女の名は“頂の座”ヘカテー。紅世真正の神より生まれた眷属の一人である。
 
「そろそろ時間です」
 
「……うん、行こう」
 
 ヘカテーとの出会いが悠二の日常を変え、因果の齎らす幾つもの戦いを彼女と一緒に乗り越えて来た。
 積み重ねた結果は、今も少年の日常と非日常に繋がっている。
 
「わざわざ見送る必要もないと思うのですが」
 
「……かもね」
 
 二人で階段を降りる。
 会話する悠二の声は暗く、段差を踏む足取りは重い。
 少しでも顔に出さないようにと努めながら、玄関で靴を穿く。
 
「……………」
 
 自分が人間ではない事、掛け替えの無い日常から取り残される事に恐怖しながら、それでも悠二は襲い来る脅威と戦って来た。自分と、自分の大切なものを守る為に。
 それなのに―――
 
「(僕は………)」
 
 扉を開いて外へと踏み出す、苦悩を越えて怯えすら見せる少年を……
 
「グッモーニン! 今日も爽やかな朝ですなぁ♪」
 
 太陽のように笑う少女が、出迎えた。
 
 ―――その胸に一つ、人ならざるモノの灯火が揺れている。
 
 
 
 
「結局、一番肝心な教授には逃げられちゃったんだよねぇ……」
 
 平井ゆかり。
 高校に入ってから仲良くなった、今では誰より近しい坂井悠二の親友である。
 その少女の世界は……ほんの半日前まで、日常の側にあった。
 頭の両端で小さく結んだ焦げ茶色の長い髪も、爛々と輝く紫の瞳も、眩しいばかりの笑顔も変わらない。
 しかしその胸には……トーチの証たる灯火が燃えている。
 
「あの状況で贅沢は言えません。“壊刃”を倒せただけでも幸運と思わなければ」
 
 ある切っ掛けで悠二とヘカテーの真実を知った平井は、彼らを拒まず、受け入れ、それどころか自分から積極的に紅世に関わろうとした。悠二が何度言っても意志を曲げず、時には危険を冒して。
 そして遂に、先の戦いで悲劇は起きた。
 
「どちらにせよ、悠二の炎を見られた以上、おじ様は遠からずまた現れます」
 
 “探耽求究”ダンタリオン教授の実験と、それに雇われた殺し屋“壊刃”サブラクとの死闘。
 その激しい戦いの最中、宝具によって戦場を見張っていた平井が、敵の凶刃に倒れたのだ。……だが、敵が仕掛けたのは攻撃のみ。それで平井がトーチになる事など無い。
 
「……だったら、それまでに出来る準備はしとかないとね」
 
 平井をトーチに変えたのは、徒ではなく……他でもない、ここにいる坂井悠二だった。
 瀕死の彼女の傍に居た悠二は、死別の間際、少女との別離を受け入れられず……その身をトーチへと変化させたのだ。
 
「あ、もう来てる」
 
 結果として、平井ゆかりという存在は今もここに残っている。……しかし、その身は既に人間ではない。本来なら迎える事が出来た筈の『人間として死ぬ事』すら、もはや不可能。
 悠二は己の弱さから、平井を自分と同じ道に引き摺り込んでしまった。……いや、正確には、同じですらない。
 
「はよー、坂井、ヘカテーちゃん。あと……」
 
 ミステスには、二つの種類が存在する。
 一つは『旅する宝の蔵』と呼ばれる、世界中の器を無作為に転移する宝具が偶々入っているだけの……自身は通常のトーチと変わらないミステス。
 もう一つは、高性能な下僕……燐子を造れない徒が宝具を核に造る、“戦闘用のミステス”。
 喰われた人間の残滓である通常のミステスと、戦う事を前提に造られる戦闘用のミステスでは構成原理が異なる。
 戦闘用のミステスは、その人間から過去、現在、未来に広がる世界への影響力……運命という名の器を焼き払い、その器に外れた者としての存在の力を満たされて完成する。
 内に蔵するモノに違いはあれど、これはフレイムヘイズと同じ構造である。……故に、そこに居た人間の代替物として造られる通常のトーチとは違い、その身は完全にこの世から欠落する。
 悠二は前者、平井は……後者だ。
 
「平井さん……だったよね?」
 
「おうよっ、ちなみに前は“ちゃん”付けで呼んでたから、その方向でヨロシク」
 
 ここにいる二人の少年、佐藤啓作と田中栄太も、ほんの半日前まで平井ゆかりの事を友人だと認識していた。
 彼らはわけあって『この世の真実』を知っている数少ない人間だったが、それでも今……彼らは、平井を“友人だったらしい少女”としか認識出来ていない。異能者らにそうだと告げられて、実感の無いまま適応しようとしているだけだ。
 例外は、悠二やヘカテーを含めた異能者と……
 
「平井さん、昨日はシャナちゃんの家に泊まったんだって?」
 
「うん、今日メリーさんも連れて来ようと思ったんだけど、起きたらもうバイトに出ててさ」
 
 歪んだ世界を均す自在法『調律』の中核となっていた、同じく世界の真実を知る友人、池速人のみ。
 この取り返しのつかない現状に、悠二は無言で唇を噛み締める。
 
「(平井さんは、僕のせいで……)」
 
 この事態を、悠二は想定していなかった。それどころか、あの時の悠二は錯乱状態にあった。
 正気に帰った時には、手元にあった大剣型宝具を中核に、少女を戦闘用のミステスに変えていたのだ。
 もっとも、通常のトーチなら許されるというわけでもないし、あのまま彼女の死を見届ければ良かったかと訊かれれば……悠二には答えられない。
 解っているのは、もう変える事の出来ない残酷な現実だけだ。
 
「痛っ!?」
 
 いつしか目に見えて沈痛な顔になっていた悠二の脇腹を、池の肘鉄が打った。
 非難の目で振り返る悠二は、呆れたような半眼を向けられて黙らされる。……確かに、これでは自分の悩みを周りに押し付けているようなものだ。
 
「約束の時間より少し早いけど、これで全員揃いましたね」
 
 ちなみに今は、教授と“壊刃”の襲撃から一夜明けた御崎大橋。その目的は、昨夜の内に街の調律を終えたフレイムヘイズ『儀装の駆り手』カムシンの見送りである。
 同じくフレイムヘイズであるシャナ、ヴィルヘルミナ、マージョリーもまた、この場に集合している。
 そのカムシンは、予想以上の形で巻き込んでしまった池に向き直り、フードを少し深く被り直した。
 
「ああ、今度こそ調律は成功させました。……ですが、昨日の言葉は撤回しなければならないかも知れません」
 
「ふむ、どうもこの地は因果を引き寄せる性質にあるようじゃしな。調律一つで解決するかどうか、もはや儂らにも解らんのじゃよ」
 
 二人で一人の『儀装の駆り手』は、調律の協力を求めるにあたって、池に一つの保障をしていた。
 「歪んだ街を調律すれば、もうこの街に徒は来ない」と。半ば騙された形の池は、怒りもせず静かに首を振る。
 
「……いいんです。誰だって、思い通りになんかならない。フレイムヘイズだって、それは同じだと思います」
 
 たった二日で、池速人の世界は変わった。今はもう、強い者に無責任に縋りつく気にはなれなくなっていた。
 
「カムシンさんは自分の意志で戦ってる。それだけで十分です。僕も……この現実に向き合って生きて行きます」
 
 力強く言い切って、池はカムシンに手を差し出した。カムシンもまた、口元に薄い笑みを浮かべてそれを握る。
 二秒あるかないかという握手が終わり、カムシンの視線はシャナへと移った。
 
「ああ、“天壌の劫火”。我々はこれから、近隣の外界宿を回ってみる事にします」
 
「ふむ、無性に嫌な予感がするのでな」
 
 より正確には、シャナのペンダントに意識を表出させる天罰神アラストールへと。その視線は、横にゆっくりと動いてヴィルヘルミナ、マージョリー、そして悠二に流れる。
 
「“探耽求究”の実験を阻止し、“壊刃”サブラクを討滅した手並みは見事でした。ですが、いつも上手くいくとは限りません」
 
「今回は運が良かっただけという事実を、念頭に置いておいても良いじゃろうな」
 
「言われるまでもないのであります」
 
「って言うか、今回はアンタの調律が利用されたんだろうが」
 
「今から逃げるジジィ共が偉そうに」
 
 その忠告に悠二とマージョリーから手痛い皮肉を返されるも、カムシンは表情一つ変えない。そして、同じ忠告をヘカテーには向けない。
 
「ああ、では、そろそろ行きます」
 
「因果の交叉路でまた逢おう」
 
 必要最低限の事だけ言って、カムシン・ネブハーウは去って行く。
 結局最後まで、悠二は彼の事が好きになれなかった。最初に抱いた印象そのままに、自分の日常を掻き乱していた最古の討ち手が。
 
「さってと、んじゃ、あたし達も行くとしますか!」
 
 どことなく解散の空気が広がる寸前、平井が両手を伸ばして宣言する。
 『どこに?』という一同の視線を受けて……
 
「これから修行篇に突入します!!」
 
 清々しいほど脈絡の無い提案を、自信満々に言い切った。
 
 
 



[37979] 7-1・『禊げぬ罪』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:51b3551e
Date: 2014/02/23 06:26
 
「こんなに早く戻って来られるとは、思いませんでした」
 
 開店直後で自分たち以外に客のいないレストランで、対面の席に座った男に、女が最初に掛けた言葉がそれだった。
 袖の無い深紅のドレスを着た金髪の美少女と、硬い髪を逆立て、黒い外套を目深に羽織る男。異色過ぎる二人に店員は好奇の目を向けているが、当人らに気にした様子は無い。
 女の問いに答えるでもなくメニューを広げる男に、女はさらに言葉を重ねる。
 
「今度の仕事は、また手応えが無かったとか? 依頼主から考えると、とてもそうは思えなかったのですが」
 
「……逆だ。あそこまで無茶苦茶な注文を繰り返されては応える気も失せるというものだ。今後は依頼主も選ばせて貰う」
 
 不機嫌そのもの、といった声で男が応える。それも無理からぬ事だろう。男の姿を見てからずっと、女の声は隠しようもなく弾んでいるのだから。
 
「でも、貴方が助かったのも“探耽求究”のお蔭なのでしょう? 『非常手段(ゴルディアン・ノット)』……だったでしょうか」
 
 そう、この女には彼の戦地に赴く前に一通りの内容を説明してある。
 つまり、男の顛末を殆ど把握した上で何故か喜んでいるのだ。これで気分が良い筈が無い。
 
「かの発明品は巨大な貴方の全身を転移させるだけの力は無いとか。まさか貴方が、自分の身体を千切り捨てて逃げる日が来るなんて……想像した事もありませんでした」
 
 男……“壊刃”サブラクは、異界からの来訪者“紅世の徒”の中でも飛び抜けた力を持つ『王』だ。しかし今の彼は、本来の百分の一の力も無い。
 理由は彼女が言った通り、四肢を捨てて逃げの一手を打たねばならない程の窮地を経たが為。サブラクはその身体の性質上、逃走には向かないのだ。
 
「(こいつは、俺が敗北する姿が見たくて付いて来ているとでも言うのか)」
 
 だが、別にそれで目の前の女……“戯睡郷”メアの力が増すわけでもない。サブラクには、なぜ彼女が嬉しそうにしているのか理解できなかった。
 ……いや、今に限った話でもない。
 
『貴方のように大きく強ければ、誰も彼も、己という渦に巻き込む事が出来るのでしょうね』
 
 初めて会った時からずっと、不可解な事ばかり言う女だった。極端な話、今こうして一緒にいる事さえ……
 そこまで思って、ふとサブラクは顔を上げる。
 
「けれど、貴方に傷を負わせるとなると、よほど強大なフレイムヘイズだったのでしょうね」
 
 その理由は決して愉快なものではない。と言うより、そもそも未だ理由が良くわからないままだが……ここまで機嫌の良い彼女を見るのは初めてだった。
 解らない、という事に対する無自覚な苛立ちを、やはり無意識に流して、サブラクはメアに言葉を返す。
 
「勝手な解釈で評価を下げられる憶えは無い。そもそも、あのイカレた絡繰り使いが余計な真似をした事が敗因なのだからな。初手から標的を狩る、殺し屋 本来の仕事であれば、この俺があんなミステス如きに遅れなど取るか」
 
 そして、いつものように取り留めの無い文句を零す。
 
「宝具を奪うという当初の依頼には目を瞑るとしても、仕掛けた自在式を敵に利用されるなど失態という言葉では片付けられまい。あれがなければ我が『スティグマ』が破られるという事も無かった。いや、それを言うならあの自在式そのものが問題か。あの男はふざけた試みに己のみならず この俺までも巻き添えにしようとしたのだからな」
 
 自身の失態によって変じていた会話の姿が、いつものものへと戻っていく。
 いつものメアは何処か遠慮がちに、或いは怯えたように接する事が多い。サブラクの長口上に対して、メアが聴き役に回るのが日常的なのだ。
 ……だからこそ、サブラクは気付けなかった。
 
「…ミス、テス……?」
 
 いつになく饒舌だったメアが黙り込み―――目の色を変えていた事に。
 
 
 
 
 御崎市から新幹線で一時間、バスで40分、そして徒歩で二時間という場所に位置する森の奥で……
 
「はあっ!!」
 
「ぐあっ!?」
 
 坂井悠二、ヘカテー、シャナ、メリヒム、そして平井ゆかりという面々が、山籠りという名の修行に明け暮れていた。
 
「メリーさん、まだシャドウしてなきゃダメですかぁ~」
 
「黙って続けろ」
 
 この合宿が決行された理由は二つある。
 一つは言うまでもなく、鍛練の為。特にミステスになったばかりの平井と、二つの生命線を失った悠二には不可欠だ。いくら封絶があると言っても、やはり無関係な人間を取り込んでしまう街中は好ましくない。
 そしてもう一つは、平井ゆかりの住居を確保する為の時間潰しである。
 平井は悠二と違い、代替物としてのトーチではなく、戦闘用のミステスとして生まれ変わった。必然的に この世との繋がりは断たれ、彼女が生きた痕跡は消滅した。
 つまり平井が暮らしていたマンションは空き部屋となり、私物の一切が消え、口座の財産も失くなったという事だ。
 それは現在、教授が“封絶を張れなくした上で起こした騒ぎ”の爪痕を修繕、鎮圧するため御崎市に残ったヴィルヘルミナが、片手間に用意してくれる手筈となっている。
 この場所にしても、ヴィルヘルミナが外界宿(アウトロー)に掛け合って借用したものだ。数年前に『天道宮』から出てきたばかりだと言うのに、その有能さには頭が下がる。
 
「……ゆかり、少し拳に力を回し過ぎです」
 
 悠二と平井が参加する以上、当然ヘカテーも参加を決めた。そして、悠二とヘカテーを監視する為に御崎高校に入学したシャナも同じく。
 最初はバイトが忙しいと嫌がっていたメリヒムも、シャナと悠二が保護者もなく同じ場所で外泊すると知るや否や、一も二もなく参加を決めた。
 
「むっ、こんな感……じ!?」
 
 そんなこんなで訓練の日々が始まり、本日は合宿二日目の昼。暑い夏の日差しに輪を懸けて暑苦しい封絶の中でトレーニング真っ最中である。
 とはいえ、別段やる事に変化は無い。今まで朝と夜に少しずつやっていたメニューを、より集中的に詰め込むというだけの事だ。
 
「うりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃーーー!!!」
 
 雄叫びを上げる平井の拳が、残像を残すほどのスピードで空を切り刻む。ここまでなら単なるシャドーボクシングなのだが、普通のシャドーとは決定的に違うものがある。
 彼女の背中に貼りついているヘカテーだ。
 
「自然破壊!!」
 
 平井の右ストレートが、罪もない巨木を粉々に打ち砕く。明らかに人間の枠を超えた力だが、これは実質 平井の実力ではない。ヘカテーの特殊能力である。
 
「とうっ! 空中十回転半ひねり!!」
 
 呼吸同然に存在の力を繰るヘカテーの感覚を共有し、反復し、擦り込む事で、力を操るコツを掴む。以前は悠二もやっていたメニューだ。
 超常の力を思う存分満喫する平井……を、遠目に見ていた悠二を、シャナの竹刀が容赦なく吹っ飛ばす。
 
「んぶぁ!?」
 
「鍛練の最中に余所見しない!」
 
 頭から地面に叩きつけられそうになった悠二は、ギリギリで片手を着いて空高く跳び上がる。
 その眼前に、炎髪を靡かせ、灼眼を燃やす紅蓮の少女が、炎翼を噴かせて踊り出ていた。
 
「ちょ、ちょっと待った! まだ『莫夜凱』出してないから……」
「そんなの敵は待たない」
 
 こちらも、いつも朝にしているのと同じ格闘訓練。但し、人目のつかない環境ならば、いつものように手加減する必要が無い。
 普段なら千草やクラスメイトの目があるので悠二に目立つ傷を残せないが、異能者しかいないこの場なら話は別。どうせ零時には全快するのだ。思いきり取り組む事が出来る。
 
「ふんっ!!」
 
 縦一文字に悠二の竹刀が風を切る。シャナはこれを下に避け、そのまま悠二の足下を抜けて背後に回った。
 間髪入れずに繰り出される一撃を悠二も竹刀で受けるが、返す二撃目を凌げずに脳天に貰ってしまう。
 
「く……っあ……」
 
 クラリと視界が揺れる。その隙を見逃す事なく、シャナの刺突が身体の中心を打った。
 叫ぶ事も出来ずに眼下の地面に叩きつけられた悠二を、足裏を向けたシャナが追って来る。
 
「うわっ……!」
 
 慌てて跳び退いた場所が、ミサイルじみた両足蹴りで派手に割れた。それを見るでもなく体勢を立て直そうとする悠二……
 
「っ」
 
 の首筋に、竹刀の切っ先が当てられた。これが実戦なら、あっさりと首を落とされている所である。
 
「……どういうつもり?」
 
 呆れたと言うより苛立った声で、シャナが悠二を睨む。
 この格闘訓練の主役は悠二だ。シャナにとっては格下相手の仕合いなのだから、それほど実りあるモノにはならない。
 
「お前、私が本気だったらこの二日で五十回は死んでるわよ」
 
「……ごめん」
 
 ヴィルヘルミナ、シャナ、マージョリー、そして“壊刃”サブラク。素人同然の悠二が世に名立たる強者達と、曲がりなりにも戦って来れたのは、二つの宝具の力に因るものが大きい。
 火除けの指輪『アズュール』と、魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』。
 しかし今や、『吸血鬼』はミステスとなった平井ゆかりの核であり、『アズュール』もまた彼女に渡してある。
 幾度もの戦いを経て実力を身に付けた悠二だが、同時に、今まで彼を支えて来た宝具を手放す事になった。ならば当然、より以上の実力で以て抜けた穴を補うしかない。
 ……のだが、結果はこの通り。
 剣技でシャナに勝てないのは今に始まった事ではないし、それを理由に悠二を責めるほどシャナも理不尽ではない。
 問題は、その内容。反応は鈍く、動きに精彩を欠き、攻撃には気迫が足りない。
 要するに、全く集中出来ていない。はっきり言って、初めて会った時の方がまだマシという有様だ。
 
「ごめん……」
 
 下を向いたまま、悠二は重ねて謝る。シャナが怒る理由は、悠二にも十分わかっている。
 しかし、その、謝っていながら、気持ちは別の所に向いているとハッキリ判る態度が、シャナには非常に面白くない。
 
「(今は私が、目の前にいるのに……)」
 
 剣を突き付けているのに、眼中に無いと言われている。戦士として……そう、あくまでも戦士として軽んじられている事実が気に入らない。
 だが、いくら他者の心情を察する事が不得手なシャナでも、流石に今回は原因が判っている。
 もっとも、原因以外は判っていない。そのもどかしさと歯痒さから、
 
「平井ゆかりの事?」
 
 シャナは、一人の少女の名前を口に出していた。
 
 
 
 
 悩んだところで取り返しはつかない。そんな事は解っている。だが、だからと言って、自分がした事から目を背けるなど出来る筈も無い。
 あの日からずっと、坂井悠二はそんな自縄自縛に捕らわれ続けていた。
 
「平井ゆかりの事?」
 
 周りにも気付かれている。その自覚はあったから、驚きは無かった。いずれ必ず訪れていた必然とでも言うべきものだ。
 
「(まさか、シャナに訊かれるとは思わなかったけど)」
 
 この奇妙な状況を作り出した自分に苦笑して、悠二は近くの木の根本に腰を下ろした。
 シャナは動かない。竹刀の石突きに両手を添えて立てて、真っ直ぐに姿勢を正した仁王立ち。見ようによっては詰問のようにも見える。
 
「シャナは……物心つく前から、フレイムヘイズになるって決められてたんだろ。それって、どんな気分だった?」
 
 今までのシャナとの関係を思えば、些か踏み込み過ぎた質問かも知れない。
 しかし悠二は、敢えて自分の罪に触れて来た少女に遠慮なく訊ねる事にした。案の定、すぐに答えが返って来る。
 
「別に、どうとも思わなかった。アラストール達が私に何を求めてるのかは知ってたし、それが当たり前の事だったから」
 
 悠二の予想の域を出ない答えが。
 
「(やっぱり、シャナじゃ参考にならないか)」
 
 赤ん坊の頃から“外れる”事を定められていたシャナと、悠二に巻き込まれて“外れた”平井では違い過ぎる。
 悠二はそんな風に、シャナを“見縊っていた”。
 
「でも、それが理由でフレイムヘイズになったわけじゃない」
 
「え……?」
 
 悠二が呆気に取られた顔を上げる。それを見て、シャナは得意気に頬笑んで見せた。
 
「私はお前が思ってるほど律儀じゃない。どれだけ望まれても、どれだけ愛されても……それが嫌なら絶対にしない」
 
 いつかの宣誓は今も変わらず、この胸の内に在る。己が選択と生き方に誇りを持っているからこそ、シャナは悠二の見当外れな感傷を笑い飛ばせるのだ。
 シャナの首から下がる『コキュートス』から、アラストールが続く。
 
「討ち手の使命も、我らの愛情も、何者も この者を縛れぬ。全てを決めるのは、ここにいる彼女なのだ」
 
 己が娘を誇る宣言に、悠二の中にあったシャナへの偏見が溶け消えていく。
 『他の事を何も知らないままフレイムヘイズにさせられた少女』という侮辱に等しい決め付けが、消え……
 
「……凄いな、シャナは」
 
 強い憧れ、僅かな嫉妬すらも孕んだ羨望が湧き上がった。
 フレイムヘイズの使命に共感したわけではない。ただ、自分で決めた生き方に誇りと信念を持って立っている……その心の在り方が眩しかった。
 ミステスである自分に嘆き、戻る事も出来ない日常にしがみつき、未だ己の進む先すら見えない悠二とは雲泥の差だ。
 その少女から、
 
「多分、平井ゆかりも同じよ」
 
「……何だって?」
 
 思いも因らない発言が飛び出した。ちゃんと聞こえていたのに、思わず訊き返してしまう。
 
「シャナと平井さんは違うよ。だって、平井さんは僕が……」
 
 自分の意志でフレイムヘイズになったシャナと、同じである筈が無い。
 平井は悠二と関わったばかりに外れた世界に足を踏み入れ、悠二と関わったばかりに徒の凶刃に倒れ、そして……悠二の手によって人間を失ったのだ。
 もう何百回と反芻して来た自分の罪を、今また噛み締める悠二の言葉を一顧だにせず、シャナは言う。
 
「平井ゆかりをミステスにしたのは お前でも、そうなると判った上で踏み込んだのはアイツよ」
 
 クルリと翻した竹刀で、シャナはトントンと自分の肩を叩く。
 
「紅世に関わる以上……破壊に巻き込まれて死ぬ、存在を喰われて消える、そういう事態も覚悟してた筈。お前に文句の一つも言わないのが良い証拠でしょ」
 
 不意に、一つの光景が脳裏に蘇る。
 
『……あたし、後悔してないよ。あなたと会えて、この道を選んで……』
 
 炎と、笑顔と、涙と―――血に彩られた光景が。
 『覚悟していた』、『後悔は無い』、『自分で選んだ』。それらは全て、既に平井から貰った言葉だった。
 だが―――その言葉が彼女の優しさではないと、誰が言い切れるだろうか?
 いや、仮に平井が全てを覚悟していたとしても、それで悠二の罪が消える事など有り得ない。
 
「……途方に暮れること自体に、意味は無い」
 
 何かを払うように竹刀を振って、シャナは悠二に背を向ける。
 
「思い煩い、悩み苦しむ事も、同じ」
 
 背を向けて、それでも静かに言葉を紡ぐ。
 
「“何があっても、立ち向かう”。そう心に決めていれば、きっと全てが拓ける」
 
 不完全で、明確な形の無い……しかし何処か強く重い言葉を残して、シャナはその場から去って行った。
 
「何があっても、か……」
 
 一人残された悠二は、自分の右手を広げて、握った。何を掴みたいのかも解らない掌が、実像以上に小さく見える。
 
「(……僕には何の覚悟も無かった。『零時迷子』が転移して来て、襲われるから戦ってた……ただ、それだけだ)」
 
 何に向かって立ち向かうのか、シャナはそれを言わなかった。進む道は自分で決めろと、そういう事だ。
 人から外れ、ミステスとなった自分が何を目指せば良いのか、それはまだ解らない。
 
「(いつまでも逃げてちゃいけないんだ。目の前の現実を、受け入れるんだ)」
 
 それでも今、自分の罪と正面から向き合う勇気だけは、持つ事が出来た気がする。
 
 
 
 
「……………」
 
 誰もいない深夜の屋上で、“壊刃”サブラクは空を見上げる。
 その傍らに、金髪の少女の姿は無い。サブラクの話を一通り聞いた後、行き先も告げずに行ってしまった。
 
「一体なにを考えている。まさかとは思うが、この俺が遅れを取った相手に戦いを挑もうなどと愚劣な野望を抱いているのではあるまいな」
 
 届かぬ声を、独り言として夜の闇に零す。
 失った力を少しずつでも取り戻さなければならないのに、何故かサブラクは何をするでもなく立ち尽くしていた。
 
「……ふん、いずれにしろ、俺には関わりの無い事か。元より、なぜ俺に付き纏っていたのかも解らん女だ」
 
 サブラクの力に恐れ、羨み、憧れ、なのに変わらず傍らに在った。力が欲しいと願いながら、力を与えてくれるわけでもないサブラクに付いて回る女。
 無理だ、やめろと何度言っても、それに反発するように意欲を燃やしていた女。
 全くもって理解に苦しむ。
 
「…………ふん」
 
 大きな肩を小さく落として、サブラクは屋上の縁に座り込む。
 ―――その、背後から声が掛かった。
 
「やれやれ、ようやっと見つけたわ」
 
 聞き覚えのある……いや、一度聞いたら忘れられない類の声に、サブラクは振り返る。
 
「お前ほどの王が、何とも酷い有様じゃないか。よほど教授は人使いが荒いという事かねぇ」
 
 金の三眼、その右眼を眼帯で隠した女怪。紅世に携わる者なら誰もが恐れる鬼謀の王。
 
「“逆理の裁者”、ベルペオル」
 
 少しずつ、だが確実に―――歯車は動き始めていた。
 
 
 



[37979] 7-2・『悠かなる伴侶』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:4cbf4e28
Date: 2014/03/04 08:15
 
 とにもかくにも、平井と正面から向き合おうと決めた坂井悠二。しかし、当の平井がかなり真剣に修行に勤しんでいるせいで、なかなか二人になる機会を作れないまま迎えた合宿四日目の朝。
 
「っりゃあ!」
 
「ふっ……!」
 
 悠二は、当たり前の……しかしヘカテーと一緒にいると忘れがちになる事実を目の当たりにして、軽いショックを受けていた。
 
「なに呆けてるのよ」
 
「いや……別に……」
 
 それは、坂井悠二は才能に溢れた天才などではない……という、ごくごく当たり前の事実だった。
 
「シッ!」
 
「なんの!」
 
 間断なく繰り出されるメリヒムの刺突を、必死に竹刀で捌く平井。不恰好ながらも神速の攻撃に反応できる動きは、既に人の域を越えていた。
 はっきり言って、悠二の時よりずっと上達が早い。
 
「よもや、これまでの成長速度は己の才能の結果だと思っていたのではないだろうな?」
 
「お、思ってないよ!」
 
 アラストールに痛い所を突かれた悠二が、必要以上に強く言い返す。自惚れているつもりはなかったが……幾度かの戦いを経て細やかながら自信もついて来ていたのだ。この結果には些か動揺を隠しきれない。
 
「(真に恐るべきは、“頂の座”の能力か……)」
 
 今度は言葉に出さず、アラストールも悠二とは違う意味で密かに息を呑む。
 存在の力の統御は、最も基本的な……だからこそ最も重要な技術だ。ヘカテーほどの技をものにしようとするならば、それこそ極限の命のやり取りを幾度となく繰り返し、生き残り、存在の真髄を掴む必要があるだろう。
 それをこうも簡単に他者に伝播してしまえるなど、完全に常軌を逸している。この力がフレイムヘイズの側にあれば、未熟な内に死する討ち手が一体どれだけ減るだろうか。
 などと、栓なき事を思われているとは露知らず、ヘカテーがポソリと言う。
 
「ゆかりには元々、存在の力に対する適性がありましたから」
 
「へぇ……そういうの、人間の内から判るもんなんだ?」
 
 自分は全く判らなかった、という実感と共に、悠二が返した。ヘカテーは続ける。
 
「以前、『リシャッフル』で私とゆかりが入れ替わった事がありました」
 
「? うん。憶えてるけど、それが?」
 
 会話の内容が急に飛んだ、と悠二は感じた。対して、悠二を挟んでヘカテーと反対側に立つシャナが、何かに気付いたように横目を向ける。
 
「最初から器や代替物として造られるフレイムヘイズやトーチと、私たち紅世の徒は違います。本来“隣”の住人である徒にとって、『この世に在る事』それ自体が一つの異能……即ち“顕現”です」
 
 淡々と語られるこの世の真実。その意味する可能性の一つに行き着いて、悠二の背筋がゾクリと冷えた。
 
「じゃあ、あの時ヘカテーの身体に入ってた平井さんは……」
 
「無意識の内に、私の存在で、人間程度の身体を顕現させていた事になります」
 
 何でもない事のように言われて、悠二はゴクリと生唾を飲み込む。確かにあの時のヘカテーは、何かを気にして平井に確認を取っていた。
 つまり、あの平和な日常の一幕が、実は一触即発の窮地だった。ヘカテーの身体と平井の意志総体が、ヘカテーの力に呑まれて消えてしまう可能性があったと、そういう事だ。
 結果的に無事だったとは言え、引きつり笑いでも浮かべておくしかない。
 
「……ヘカテーはあれ、不用意に使わないようにね」
 
(コクリ)
 
 外野がワイワイと分析を続けている間も、平井とメリヒムの太刀合いは続いている。
 
「(……確かに、並の資質ではないか)」
 
 ちゃんと存在の力の通った、しかし避けて下さいと言わんばかりの袈裟斬りを、メリヒムは身体の軸を僅かに退いて避ける。
 性格的に向いてないように思えるが、これでもメリヒムは、シャナを含めた“炎髪灼眼の討ち手候補”を数百年に渡って鍛え続けたコーチのスペシャリスト。言葉など使わずとも、対する動きの一つ一つが教え子を強者へと導いてくれる。
 
「(同じ時、同じ地に……)」
 
 そんなメリヒムだからこそ、平井の資質をすぐに看破できた。
 確かにヘカテーの能力は凄まじいが、それは上達速度に限った話。肝心の伸び代が無ければ、共有した感覚に実力が追い付きはしない(現に、悠二の体術はマージョリー戦前後から極端に伸びが悪くなっていたりする)。
 そもそもヘカテーの能力など無関係に、ミステスとして彼女の持つ力の総量自体が、ヘカテーとフリアグネの力を吸収した悠二をも越えているのだ。才能を疑う余地が無い。
 
「(これだけの器を持つ人間が、二人)」
 
 雑な攻撃を叱責するように、メリヒムが大きく強く踏み込んだ。そこから繰り出された一突きが平井の水月に鋭く減り込み、吹っ飛ばす。
 
「か…ッ……!?」
 
 肺から空気を全て吐き出したような呻き声を上げて、平井がゴロゴロと地面を転がる。
 
「(偶然と言うより、むしろ必然か)」
 
 痛みに悶えて動きを止める事がどれだけの隙を作るか、それを身を以て思い知らせるべく襲い掛かるメリヒム。
 
「っっのぉ~~~!!」
 
 その竹刀を、間一髪の跳躍で平井が躱した。宙高く舞い上がった少女は、やおら竹刀を放り捨てて、両手を腰溜めに構える。
 
「さ…め…は…め……」
 
 そこに存在の力を集中させ、炎のイメージに変えて……
 
「にゃぁーーーー!!?」
 
 爆発した。
 
「平井さんんーーーー!?」
 
 全身からプスプスと煙を上げる平井が、コミカルな擬音を立てて落下する。失敗を恐れない姿勢は立派だが、やる気に実力が追いついていない。
 
「体術に比べて、自在法は苦手なようですね」
 
 こんがり焼けた平井を木の枝でつつきながら、ヘカテーが悪意なく評した。
 
 
 
 
「「はあ……」」
 
 犬の散歩に出ていた吉田一美と、部活帰りの緒方真竹。道でバッタリと出くわした二人は、公園の東屋で缶ジュース片手に一休みしていた。
 その表情は、夏の日差しで隠せないほどに暗い。
 
「……一美、あれから坂井君に会った?」
 
「……ううん、池君も予備校で忙しいみたいで、遊びの誘いとかも無いし」
 
 理由は言わずもがな、先日のミサゴ祭りの一件である。
 悠二達にとっては生死を懸けた非日常だったわけだが、吉田達から見れば当然違う。
 吉田にとっては心機一転、恋敵に正々堂々と挑む決意を固めた矢先の一大イベント。吉田ほど大袈裟ではなくても、緒方もまあ似たようなものだ。
 その結果が、『肝心な花火の最中に見知らぬ女性に想い人を連れて行かれる』という、名状し難い顛末。おまけに、その女性は頭に超が三つ付くほどの美女だった。一目でそうと判るレベルなのだから、実物は多分もっと凄いだろう。
 
「緒方さんはその、田中君とは……?」
 
「……電話はしたけど、何かあからさまに誤魔化された」
 
「いやっ、でも、その……大丈夫じゃないかな? 二人とも連れて行ったんだし」
 
 ヘカテーやシャナも超が付くほどの美少女だが、何と言っても彼女らは色々と小さい。
 あの時の美女は何と言うか……目の前に立たれるだけで女としての自信を根こそぎ奪い去ってしまうような、残酷なまでの破壊力を持っていた。
 邪推するには情報が少な過ぎるのだが、あんな美女が想い人の手を握った、という事実だけで何だか凹まざるを得ない。
 
「まぁ……うん。あんな美人が、田中や坂井君を相手にするとは思わないけど」
 
「でも……だったらどんな関係なんだろ」
 
 結局、非現実的すぎる彼らの関係を察する事など出来るワケがないのだ。
 
 
 
 
 合宿という状況下にあっても、トレーニングのメニューは大して変わらない。悠二が蔵する宝具の性質上、零時前に少し大きめの力を使った鍛練を行い、悠二の力を喰らい、零時になったら全開、というやり方が最もリスクが少ないのだ。
 
「(正面から向き合うって言っても、具体的に何を話せばいいんだ)」
 
 今は夕食のカレーを食べ、零時前の鍛練が始まるまでの束の間の自由時間。皆がペンションで寛ぐ中で、悠二はフラリと外に出ていた。
 
「本当は僕を恨んでたとしても、それを口に出すような娘じゃないし」
 
 近くの川の上流まで足を運び、滝の音に紛れさせて、思ってもいない事を声にして発する。
 ……覚悟を決めたつもりで、どうしても、色々な事を考える。
 平井があそこまで真剣に鍛練に取り組んでいるのは、何かに没頭する事で悲しみから目を逸らしているのではないか?
 いや、そもそもこの合宿自体、本当に鍛練が目的なのか? ただ、彼女が御崎市から離れたくなっただけではないのか?
 ―――彼女の居場所が失われた、御崎市から。
 
「(……僕の心構え一つで、変えられるような事じゃない)」
 
 自分は取り返しのつかない事をした。その事実を重く噛み締めて、それでも、今のままで良いワケがない。
 
「っ」
 
 砂利の上を歩く悠二の足が、不自然に止まる。こちらに近付いて来る一つの気配を、自身の鋭敏な感覚で掴んだからだ。
 徒……ヘカテーやメリヒムではない。平井か、シャナか……流石に平時では、力の大きさでどちらか判断できない。
 
「(もし、平井さんだったら……)」
 
 その機会を待っていた筈なのに逃げ腰になる自分を自覚して、悠二は密かに自嘲する。
 今のままではいけないと判っていながら、いざとなったら躊躇する。
 
「(結局……怖がってるだけじゃないか)」
 
 彼女に拒絶を受ける事が、彼女から人間を奪った身で。つくづく自分が嫌になる。
 
「(いつまでも逃げてられないんだ)」
 
 感情を理性で押さえ込む。いつも無意識に行なっている事を今また行ない、来訪者を待つ。
 ジリジリと詰まる距離をもどかしく思ったのか、気配は異能者ならではの跳躍で以てあっという間に接近し……
 
「こんな所でどうしたの?」
 
 平井ゆかりは、坂井悠二の前に現れた。
 
 
 
 
 他に誰もいない、二人きりの空間。自分の不審は既に感付かれている、という前提の下、悠二は胸に手を当てて深呼吸した。
 
「……ちょっと、考え事」
 
「そっか」
 
 ここに来て、漸く肚を括れた。それを証明するような落ち着いた声音に、平井も静かに相槌を打つ。
 身体ごと水面を向いた悠二の隣に駆け寄って、平井も同じく水面を見つめる。森の夜は暗い。けれどこの川辺だけは、月と星の光に青白く照らされていた。
 
「平井さんは、これからどうしたい?」
 
 悩んだ末に、出て来たのはそんな言葉。
 
「僕は取り返しのつかない事をした。どんなに望んでも、もう君を人間には戻せない。……だけど、何も出来ないわけじゃない」
 
 時は戻せない。罪は消せない。それでも、少しでも報いる事があるのなら、それは平井に決めて欲しかった。……これ以上、自分の傲慢を彼女に押し付けたくはない。
 そんな、悠二にとっては限界まで悩み抜いた結論を……
 
「それはつまり、あたしに全部の選択を押し付けようって事?」
 
 遮るように、あまりにも厳しい一言で断じた。
 
「ッそんなつもりじゃない。けど、ミステスとして平井さんが生きていくには『零時迷子』が必要なんだ」
 
 膨らみ続けた自罰心……誰でもない坂井悠二が抱く自らへの怒りが、知らず声を荒げさせる。
 平井は人間には戻れない。けれど、ミステスとなった彼女がここにいる。
 
「今ここに在る君の未来まで、僕が縛る事なんて……」
 
 断固として宣言するべく、振り返った。
 否、振り返ろうとして……その動きが止められた。
 
「――――――」
 
 頬に当たる柔らかい感触が、悠二の動き全てを、問答無用で止めていた。
 
「……はふ」
 
 数秒ほどの硬直を経て、浮いていた踵が落ちて、熱い吐息と共に、触れていた何かが離れる。
 恐る恐る視線を向けた先、近過ぎる場所から潤んだ瞳で見つめ返されて、悠二はやっと―――それが唇だったのだと確信した。
 
「…な……や……え……の……?」
 
 瞬間、火が出るかと思うほどの熱が顔面を支配する。意味不明な声を発して後退ろうとする悠二。
 
(ポスッ)
 
 を、平井は逃がさない。自ら悠二の胸に収まり、その額を押し付けた。
 湧き上がる熱はそのまま、より大きな何かを予期して、悠二は混乱から逃げるのを止めた。
 
「……あたしは、嬉しかった」
 
 囁くような小さな声が、この距離だからこそはっきりと届く。
 
「人間を捨ててでも生き延びたかったとか、そういう事じゃない」
 
 これだけの近さにあって、平井は自分から手を伸ばす事はしない。
 
「死にそうな人間が目の前にいたって、それを勝手にトーチにしちゃいけない。“悠二”はそれを解ってた」
 
 触れているのは額だけ。手を伸ばせば簡単に抱き締める事が出来るのに、自分からは決してしない。
 
「解ってたのに、した。優しさでも正しさでもない、貴方だけの願いで……あたしを求めてくれた」
 
 あの時のように、彼自身の意志で動いてくれるのを……待っている。
 
「あたしは、それが嬉しかった」
 
 熱に浮かされた頭で、悠二は自問自答する。
 これが、優しさか? 本当にそう見えるのか?
 
「後悔なんて要らない。贖罪とか、責任とか、そんな理由で一緒に居て欲しくない」
 
 ……いや、もう、どちらでも構わない。とっくに、結論は出ていたのだ。
 
「悠二は……っ」
 
 なおも言葉を重ねようとする少女の身体を、思い切り抱き締める。
 呻きにも似た吐息の音を確かに聞いて、それでも力を緩める事はない。
 
「……ごめん」
 
 我が儘な自分を知って、それでも変えられない頑なさを思い知らされて、悠二は小さく謝った。
 
「ありがとう…っ……」
 
「………うん」
 
 ミステスに変えてでも、失いたくなかった……そんな悠二の傲慢を、受け入れてくれた事への感謝。
 平井は、嬉しそうに頬笑んだ。抱き合う肩が嗚咽に震えている事には触れず、大きな背中を何度も撫でる。
 
「“ゆかり”……」
 
 人から外れた自分が、これからどんな道を進んで行くのか……今はまだ解らない。
 それでも、一つだけ心に決めた。
 
「(―――この娘と一緒に生きて行こう)」
 
 たとえどんな道であろうと、彼女となら歩いていける。いつまででも、どこまででも。
 
 
 
 



[37979] 7-3・『莫夜凱』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:b1d9823f
Date: 2014/03/04 08:19
 
 悠二が益もない自縄自縛を吹っ切ってから二日、このペンションで暮らし始めて一週間、合宿最終日に当たる今日。これまでの総括として、正面から向かい合う悠二とシャナの姿があった。
 両者の手にあるのは竹刀。だがそれ以外は実戦と変わらない真剣勝負。一応のハンデとして悠二の前にシャナと戦った平井は……ヘカテーの膝枕に頭を乗せて気絶している。
 
「宝具が無いからって手加減しない。本気で行くわよ」
 
 ジャージ姿の少女の身体を黒衣『夜笠』が纏い、髪と瞳が紅蓮に染まる。
 シャナとて、今の自分に満足しているわけではない。しかも相手は『吸血鬼(ブルートザオガー)』と『アズュール』を手放した坂井悠二。絶対に負けるワケにはいかない。
 
「こっちだって、そう簡単にはやられないよ」
 
 対する悠二の身体を、輝く銀が包み込んだ。炎を払って姿を現したのは、緋色の凱甲と衣を鎧い、後頭から髪のように漆黒の竜尾を伸ばす少年。
 これはサブラクとの戦いでモノにした、シャナの『夜笠』やマージョリーの『トーガ』と同種の、“坂井悠二の本質の顕現”。この戦闘形態を、ヘカテーは『莫夜凱』と名付けた。
 
「「……………」」
 
 シャナは竹刀を正眼に構え、悠二は右手に竹刀を下げる。火の粉を舞わせる沈黙を先に破ったのは……悠二。
 
「はっ!」
 
 横薙ぎに払った左手から炎が走り、十の火球となってシャナへと襲い掛かる。
 シャナは当然、貰わない。足裏に爆発を生んで まずは右へ、さらに前へと加速して距離を詰める。
 しかし、迫るシャナの動きを、悠二もまた読んでいた。
 砲弾の如く飛んで来る少女の前に、半透明の鱗壁が展開される。危うく激突……という所で、シャナは地面を蹴って壁を跳び越え、悠二の後方上空へと回った。
 無防備な背中に一撃を加えるべく、竹刀が紅蓮の炎を纏い……
 
「ぐっ!?」
 
 それが放たれるより僅かに早く、伸長した竜尾が鋭くシャナを叩き落とす。
 その墜落も待たず、悠二は壁に使った『グランマティカ』を素早く組み換え……
 
「(ここだ……!)」
 
 『束縛』の自在式に変えて放った。墜落の瞬間を狙い澄ました絶妙な一撃、回避も防御も儘ならない。
 ―――だからシャナは、攻撃した。
 
「燃えろぉ!!」
 
 竜尾に打たれても力の集中を解かずにいた紅蓮の大太刀を、竹刀の切っ先から解き放つ。
 灼熱の奔流は銀の自在式を一瞬で焼き尽くし、そのまま悠二へと殺到する。
 
「なあっ!?」
 
 完全に虚を突かれた悠二は、それでも咄嗟に蛇鱗の壁を眼前に張るが……式の構築が間に合わない。
 耐火を持たない障壁はいとも容易く突き破られ、炎が悠二を呑み込んだ。
 
「ッッ……!!」
 
 受け身を取る事すら捨てて攻撃を選んだシャナが頭から地面に激突するのと、悠二が爆炎に包まれるのは殆ど同時だった。
 
「(坂井悠二は……)」
 
 痛む首を押さえて、シャナは一筋の血が伝う顔を上げる。手応えはあったが、決定打にはなっていない筈だ。
 案の定、黒い球体が炎の中から飛び出し、すぐに解けた。姿を見せたのは勿論、竜尾で球状に自身を護っていた坂井悠二。流石に防ぎ切れなかったのか、衣と凱甲が所々焦げている。
 
「(とにかく距離を―――)」
「取らせない」
 
 その眼前に、既にシャナは跳び込んでいた。神速の一撃が、悠二の首を狙って振り抜かれる。
 
「っ」
 
 咄嗟に上体を逸らした悠二の前髪を、竹刀の剣圧が撫でる。返しの一閃に割り込ませるように、悠二も下から竹刀を振り上げるが、シャナはそれを身を沈めて躱した。
 
「はあっ!」
 
 シャナの体勢を崩せなかった必然として、返す刀が悠二を襲う。竹刀は風を切って走り……脇腹に当たる直前で、漆黒の竜尾に阻まれた。
 と同時に、悠二が竹刀を振り下ろす。上方からの一撃を今度は躱せず、シャナは竹刀で受け止めた。踏ん張る足下に亀裂が走る。
 両手で頭上に竹刀を構えるシャナ。そのガラ空きの胴体を狙って、悠二の左掌から銀の炎弾が放たれた。シャナは竹刀を柔らかく逸らし、軽やかなステップで悠二の側面に回る事でこれを躱す。
 そして当然、そのまま一気に畳み掛ける。
 
「っはああああ!!」
 
「ッおおおおお!!」
 
 凄まじいまでの連撃が、両者の間で嵐の如く乱れ飛ぶ。
 悠二の方は純粋な剣技とは言い難い、竹刀と竜尾による波状攻撃。対するシャナは竹刀一本だが……その程度で実力は埋まらない。段々とシャナの動きについて行けなくなっていく。
 
「(絶対、逃がさない)」
 
 そう……スピード、それこそが悠二最大の弱点だった。
 無限の可能性を秘めた『グランマティカ』は確かに強力だが、それは“幅が広がる”という一点にのみ発揮される。複数の自在式を掛け合わせて発動させる分、必然的に通常の自在法より発動が遅くなる。
 複雑な式の構築を歌という形式で簡略化するマージョリーの『屠殺の即興詩』とは、ある意味で正反対の自在法なのだ。
 
「くっ……そ……!」
 
 それでも今までは、不意の炎も『アズュール』の結界が護ってくれていた。苦手な接近戦も『吸血鬼』の能力がカバーしてくれていた。
 しかしもう、その二つの宝具は無い。
 悠二の課題はつまり、『グランマティカ』の構築速度と接近戦、二つの弱点を克服する事にあった。
 堅牢な鎧と自在な竜尾を兼ね備えた『莫夜凱』は、失った防御力を補うのに最適である筈だが……それでも、まだ足りない。
 
「(このままじゃ負ける……!)」
 
 一瞬も気を抜けない打ち合いの最中、まともな自在法など練れない。しかし無理矢理にでも距離を取らねば押し切られる。
 悠二は片手間とも言えない粗雑な、しかし十分な威力の存在を己が内で燃やし……
 
「っだあ!!」
 
 全身から噴き出す爆火へと変えた。ダメージらしいダメージは無くとも、これでシャナの連撃から逃れられる。
 ―――筈だった。
 
「う……」
 
 結果は、否。
 悠二が爆発を起こすのと全く同時に、シャナも同じく爆発を起こして威力を相殺し、その場に踏み止まっていた。
 
「く……っ」
 
 後頭の竜尾で地面を打って、悠二が飛ぶ。しかし、より以上の疾さを以てシャナの炎翼が燃える。
 
「終わりよ」
 
 天高く振り抜かれたシャナの一撃が、悠二の竹刀を弾き飛ばした。痛みに歪んだ顔に、容赦ない追い打ちが打ち下ろされる。
 
「あ…ぅ……」
 
 血の出る鼻を押さえて悠二が着地した。まだ戦闘不能ではないが、さっきの一撃が『贄殿遮那』だったらと考えれば、勝敗は誰の目にも明らかだろう。
 
「私の勝ちね」
 
 鼻高々に腕を組むシャナに、悠二は苦笑いを返すしかなかった。
 
 
 
 
「んじゃ、また夜にね」
 
 一週間の合宿を経て、坂井悠二一行は御崎市へと帰って来た。最低限の機能は復活した駅で待っていてくれたヴィルヘルミナと共に、悠二とヘカテー以外の面々が去って行く。
 
「僕たちも帰ろうか」
 
「はい」
 
 ヴィルヘルミナの用意した平井の新居の見物と、生活必需品の調達である。シャナとメリヒムは、手伝いの報酬として夕食を振る舞われる事となっている(シャナとメリヒムは勿論、ヴィルヘルミナも料理だけは出来ない)。
 ほんの一週間しか経っていないのに、こうして故郷を歩くというだけの何気ない行為が酷く懐かしい。……もちろん、全てが元通りという訳ではないけれど。
 
「(いつか旅立つ、僕の故郷)」
 
 いつしか、大切だと思う気持ちの中に、旅立つ未来を受け入れている自分を感じて、悠二は小さく苦笑する。
 闘争の渦という、雲を掴むような、しかし危険極まりない仮説のお陰で、今すぐの別れにはならないだろうが。
 以前より何処か雰囲気の変わった悠二の横顔を、隣のヘカテーがジーッと見ている。
 
「(やっぱり、嬉しい)」
 
 悠二と居ると、嬉しい。胸の奥が熱くて、温かくて、でも心が柔らかく包み込まれるように落ち着く。千年以上も生きてきて初めての、不思議な気持ちだった。
 
『坂井君の事、好きなんでしょ』
 
 吉田一美はそう言った。
 ……この気持ちが、そうなのだろうか?
 認める事が、怖い。“いずれ失うと判っている想い”を認めてしまえば、自分の存在意義すら見失ってしまいそうで。
 
『いま好きかどうか、それだけなの。他には本当に、何も無いんだから』
 
 坂井千草はそう言った。
 何も知らない人間である彼女の言葉は、まるで一つの真理であるかのように克明に響いた。
 
「(好き……)」
 
 怖れと共に、心中で呟く。躊躇う理性とは裏腹に、想いは形になっていく。
 
「(私は悠二が、好き……)」
 
 怖れを越えて、一歩踏み出す。ミサゴ祭りの日、吉田と戦うと決めた時と同じように。
 だって……しょうがないではないか。認めようが認めまいが、好きなものは好きなのだから。
 開き直るように思って、悠二のポロシャツをソッと摘む。摘まれた悠二は少しだけ驚いた顔になったが、特に何を言うでもなく、そのまま二人で歩いて行った。
 
 
 
 
「ん〜、まぁ当面はこんなトコかな」
 
 背中のザックを丸々と太らせ、両手いっぱいに荷物を持つヴィルヘルミナと、そのヴィルヘルミナの倍はある荷物を無理矢理に持つメリヒムを見て、平井は妥協の呟きを漏らす。年頃の少女は何かと入り用なのだが、それは追々と言ったところか。
 
「おい小娘、何で俺がこんな事を……」
 
「まままま、メリーさんの希望の晩ごはん作りますからして!」
 
 往生際悪く文句を垂れるメリヒムの背中を押して、先に“ヴィルヘルミナと帰らせる”。自分とシャナは、引き続き夕食の買い出しである。
 
「好きな物って、メロンパンも?」
 
「あー……ごめん。手作りメロンパンはちょっと無理」
 
 瞳を輝かせるシャナに断腸の思いで手を合わせつつ、ホームセンターから外に出た。食材だけなら近所のスーパーで十分である。
 並んで歩く平井の横で、シャナがぼやく。
 
「でも、どうしてヴィルヘルミナは新しい住居なんて用意したんだろ。部屋なら余ってるし、お前と一緒に私の家で暮らせば良かったのに」
 
 シャナにとって、ヴィルヘルミナは生まれてから十数年一緒に過ごした家族だ。それをどうして、別々に暮らす為の住居など用意する必要があると言うのか。
 娘として当然の疑問には、彼女の胸元から答えが返る。
 
「ヴィルヘルミナ・カルメルにも、思う所があるのであろう。我らが口を出す問題ではない」
 
「? ……まあ、アラストールがそう言うなら」
 
 答えと言うより、誤魔化しだろうか。彼女ら……否、ヴィルヘルミナとメリヒムの間の問題は何かと複雑な状況下にある。平井も察してか、あまり深くは突っ込まない。
 と、そんな二人の背後から、
 
「あれ、平井さんとシャナちゃん? 合宿から戻ってたんだ」
 
 聞き慣れた声がした。振り返ってみたらば、夏休みにも拘らず制服姿の池速人。
 
「おひさ池君、予備校の帰りかね?」
 
「まぁね。そっちはいつから戻ってたの?」
 
「ついさっき。今から晩ご飯の材料買って新居を見に行こうってトコさね」
 
 人間でなくなった友人に対して、何のわだかまりも感じさせない自然な会話。度量の大きさか、それとも単なる気遣いのポーカーフェイスか、どちらにしろ、平井は素直に感嘆する。
 
「池君って、思ってたより順応性あるね。あたしの事、憶えてるんでしょ?」
 
「んー……憶えてるから、じゃないかな。あと、先に坂井のこと聞かされてたのも大きいと思う」
 
 そう、平井がミステスになった時『調律』の核を担っていた池は、平井の事を憶えている。同じく事情を知る友人たる佐藤や田中も出来るだけ自然な態度を心掛けていたようだが、やはりぎこちなさは拭えなかった。
 ……無理もない。彼らからすれば、いきなり見知らぬ他人が現れて『以前からの友人』を名乗り出したようにしか見えないのだから。
 
「それに……平井さんには悪いけど、坂井の方が気になってたよ。あいつ、ちょっとは持ち直した? ケータイ繋がらなくてさ」
 
 流石に、親友と呼ばれている男は違う。悠二の悩みを的確に把握しているからこそ出て来る返し方だ。
 平井は見るだけで不安が吹き飛ぶような笑顔を見せつつ、親指を立てた。
 すると池は……訝しそうに半眼になった。
 
「平井さん、顔赤いよ」
 
「あ、あはは……八月ですからなぁ……」
 
 照れ笑いで誤魔化す、という残念すぎる平井の反応を見て、池は何処か遠い目で空を仰ぎ見る。
 
「僕はどうするかな……」
 
「………?」
 
 二人のやり取りの意味が、シャナには まるで理解できなかった。
 
 
 
 
 悠二たちが合宿に行っている間、自己を高めていたのは彼らだけではない。
 
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
 
「ヤバい……血管っ…切れそう……」
 
 広い庭先で大の字に引っ繰り返る二人の少年……佐藤啓作と田中栄太の両名もまた、トレーニングの日々に明け暮れていた。
 違いは三つ。
 悠二らは自衛能力の向上を第一の目標にしていたが、彼らは野望の実現を目指している事。
 彼らは悠二らと違い人間である事。
 そしてだからこそ……その成果が無意味である事。
 
「ちょっとは強くなったかなぁ、俺たち」
 
 薄っぺらな強さに拘り、自分を強く見せようと馬鹿な時間を過ごした過去を持つ彼らは、やはり今でも強さに憧れていた。子供の喧嘩などではない、本当の強さに。
 そして、全くの偶然の結果として……出会った。圧倒的な力で人喰いの化け物を屠る女傑。理屈も常識も吹き飛ばし、誰に縋る事もなく己が手で道を切り開いていく理想の存在。―――即ち、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーに。
 強烈な憧れはミサゴ祭りでの非日常を経て明確な目標となり、二人を焦燥に駆り立てていた。
 
「……………」
 
 しかし同時に、思い知らされてもいた。宝具『玻璃壇』で戦場の様子を見ていただけだが、それでも“何が起きているか理解していた側”なのだ。
 御崎駅をあんな風に無茶苦茶にした事さえ、徒の下僕の燐子の仕業。その主である紅世の徒は、一体どれだけの化け物なのか。
 ……無我夢中にトレーニングに励んでいるのも、「無理だ」という考えを無理矢理に振り払う為だとさえ言える。
 だが……
 
「いや……やっぱり無理だ。体力とか筋力でどうこう出来るレベルじゃねーよ」
 
 その現実逃避も、もはや限界。トレーニングに没頭すればするだけ、虚脱感が増していく。
 
「……坂井達は、まだ合宿かな」
 
 同時に湧き上がる、強い羨望と僅かな嫉妬。
 自分たちと同じ一学生だと思っていた坂井悠二が、フレイムヘイズと肩を並べ立て戦えるミステスであるなど、正直いまでも信じられない。
 しかし……
 
「坂井と、平井ちゃんか……」
 
 ―――それが逆に、一つの可能性も示唆していた。
 
 
 
 
 悠二達が一週間ぶりに帰宅した翌朝、昨日の今日でも変わらない習慣として虹野邸に鍛練に出ていた一同が、戻って来た。
 
「はじめまして、お姉さん。あたし、平井ゆかりと申します。ヘカテーの姉的存在です」
 
「はじめまして、平井さん。悠二の母の千草です。ヘカテーちゃんのお姉さんなのね」
 
 それにくっついて来た平井ゆかりと、坂井千草の、“初対面”。ペコリと行儀よく頭を下げる平井に、千草も同じく頭を下げてから柔らかく頬笑む。
 
「あっ、お母さんだったんですか。凄く若いからお姉さんかと思っちゃいました」
 
「ふふっ、ありがとうね。でも、流石にそこまで言われると恥ずかしいかな」
 
「そんな事ないですって。まだまだ痛っ!?」
 
 白々しく茶番を続ける平井の頭に、悠二が後ろから手刀を落とす。
 “千草が平井を忘れている”という悲しい事実も、当の本人がこれでは嘆く気も失せるというものだ。色々と逞し過ぎる。
 
「何する悠ちゃん!?」
 
「僕が一人っ子だって知ってるだろ。そもそもヘカテーの姉でもないし」
 
 息子と可愛い女の子の微笑ましいやり取りを見守る千草の肩が、何故かピクリと揺れた。それには気付かず、悠二と平井はそれぞれリビングの席に着く。
 
「……………」
 
 ただヘカテーだけが、一人その場に立ち尽くしていた。……覚えた違和感を許容できずに。
 平井の存在は欠落し、千草は彼女を憶えていない。そんな世界の理など、とっくの昔に解っていた筈なのに―――自身でも不可解なほどの衝撃を受けていた。
 
 
 



[37979] 7-4・『恋と欲望のプールサイド』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:4ec2609c
Date: 2014/03/17 21:45
 
 とある場所へと向かう為のバス停。そこからほんの30メートル程のコンビニの前に、数人の高校生が集まっていた。
 
「途中で置いてったのは悪かったって。もう何度も謝ってるんだから良いだろ?」
 
 先日のミサゴ祭りで、教授の強制転移によって緒方らの前に現れ、そしてすぐに悠二らと共に去った事を謝る田中栄太。
 
「いやーそれはイカンね田中クン。あんな遅くにオンナノコ残して帰るとは。まあ、俺は人混みで合流出来なかったからしょうがないけども」
 
 田中と違い、約束はしていても緒方らの前に姿を見せなかったが故に、素知らぬ顔で調子の良い言い訳を並べる佐藤。
 
「そんな事はもういいのよ! あの美人の外国人は誰なのかって訊いてんの!」
 
「いや、誰って言われても……なあ?」
 
 そんな二人……と言うか殆ど田中一人に噛み付く緒方。
 
「(人に言えないような素性……? 坂井君に訊いても、やっぱり答えられないのかな……)」
 
 ほど露骨な詰問こそ出来ないまでも、きっちりかっちり聞き耳を立てている吉田。
 
「あの人は“カルメルさんの友達”だよ、緒方さん。そこの二人より、シャナちゃんや坂井に訊いた方が良いんじゃないかな」
 
 さりげなくフォローを入れて緒方の不安を除き、ついでに悠二に全てを丸投げする池、の五人である。
 もっとも、これでフルメンバーというわけではない。
 
「い、池君も知ってるの!?」
 
 池のフォローに仰天したのは、緒方ではなく吉田だった。緒方はまだ、このメンバーに入って日が浅い。共有してない情報も多くて当然と言えるが、吉田は違う。ゴールデンウィーク前からの『いつものメンバー』で自分だけが謎の美女の正体を知らないというのは、何とも言えない疎外感を彼女に与えた。
 
「知ってるって程じゃないよ。向こうは僕の名前も知らないだろうし」
 
 そんな吉田に、池は努めて“何でもない事”という風に呟く。携帯を操作しながらの、わざとらしさの欠片も無い仕草である。もっとも、胸中は見た目ほど穏やかではない。
 
「(吉田さんはいつも通りだけど、“これから”どうなるか……)」
 
 事情を知っている池からすれば、件の美女……マージョリーへの誤解など大した問題ではない。問題は、待ち合わせに遅れている悠二“達”にある。
 
「(って言うか、連れて来るのかな)」
 
 大体、その“問題”を自分はどう思えば良いのか……と考える間に、横断歩道の向こうに姿が見えた。
 数は……四人。
 
「遅れてごめん! ヘカテーとシャナが水着持ってないって言うから」
 
 信号が青になるや、小走りで駆け寄って来る悠二。
 
「必要な物があるなら先に言っておいて貰わなきゃ解らない。そもそも、“ぷーる”って何よ」
 
 自分が悪いかのような悠二の言い草に口を尖らせるシャナ。
 
「……オメガはブカツが忙しいのだから、私たちが合わせる方が良いのです」
 
 そんな事は一切気にせず、期待に瞳を輝かせるヘカテー。
 そして……
 
「これでもデパート開いた途端に突貫したんだけどねー」
 
 何食わぬ顔で最後尾に付いて来ている、平井ゆかり。
 
「(普通に来た……!)」
 
 その登場に緒方と吉田が怪訝そうな表情を浮かべ、佐藤と田中が完全に虚を突かれ、予期していた池にも緊張が走る。
 悠二、シャナ、ヘカテーは別として、平井は先日のミサゴ祭りで“人間を失った”。ここにいる池以外の友人は彼女の事を忘れている。事情を聞かされた佐藤と田中にしても、平井が友人だという実感は持てないままだ。
 そんな平井が、ペースを上げて悠二らを追い越し、吉田らの前に立つ。
 
「あたし、先日こっちに越して来た平井ゆかりです! 悠二の好意に甘えて同伴させて貰いました、どーぞヨロシク!」
 
「あ、うん……よろしく平井さん。私は緒方真竹」
 
 満面の笑顔で敬礼する平井。元より人見知りするタイプではない緒方と、至って自然に握手を交わす。
 
「(そういえば、元から友達だったんだよな。遊びに来ても可笑しくないか)」
 
「(ボロ出す前に自己紹介しとくぞ)」
 
 それに続いて、佐藤と田中もそれぞれ初対面を装って挨拶を交わす。二人は平井について殆ど知らない。とりあえず名前だけ名乗っておけば、二人の方からボロが出る心配は無くなる。
 
「“前に坂井ん家で会ったよね”。引っ越して来てたんだ?」
 
「……あー、うん。イケ君だよね?」
 
 さらに、佐藤らとは違い旧知である事を最初に示して予防線を張る池。こちらはボロを出す事を心配してと言うより、この方が緩衝材として動き易いと思っての事だ。
 
「(……今、“悠二”って言った?)」
 
 元から友達だった者同士、一から関係を築くのは難しい事ではない。……但し、環境の変化というものは侮れない。
 
「よ、よろしく平井さん、吉田一美です。えっと……ヘカテーちゃん達とは、知り合いなの?」
 
「ふふん、義姉妹と言っても過言ではないね」
 
 以前の吉田にとって、平井は幼馴染みであり、悠二と友達になるキッカケを作ってくれた恩人だ。だが、今は違う。いきなり現れて悠二をファーストネームで呼んだ少女の存在に、吉田は明らかに困惑している。
 その挙動不審な様を、緒方は即座に察知した。恋に悩める少女同士、こういった時の理解は早い。
 
「ねーね、いきなり何だけど、平井さんと坂井君ってどういう関係なの?」
 
「(お、お……緒方さんーーーー!?)」
 
 ただし、緒方は吉田の七割増しで直球である。心の準備が出来てない吉田が取り乱し、悠二がピタリと硬直する中、平井はわざとらしく腕を組んで首を傾げた後……どこからともなく大きなプラカードを差し上げた。
 視線が集まる。そこに書かれていたのは……
 
①親同士が決めた許嫁
②小さな頃に離れ離れになった幼馴染み
③親の再婚で新しく家族になった義姉
④平井家は代々 坂井家に仕えてきた家柄
⑤普通に従姉(血の繋がりは無し)
 
『……………』
 
「どれが良いと思う?」
 
「とりあえず③はダメ」
 
 皆が呆気に取られて言葉を失う中、真面目な顔で訊ねる平井の脳天に、まずは悠二が手刀を落とした。
 ちなみに、ヘカテーとシャナは状況をイマイチ理解していないが為の沈黙である。
 
「ど、どれが良いと思うって……」
 
「あ、あはは……何か面白い人みたいだね」
 
「つーか、あのプラカードずっと持ってたのか……?」
 
「ならさっきの考えてるポーズは一体……」
 
 吉田が、緒方が、佐藤が、田中が、それぞれ小さく突っ込む陰で……池が密かに眼鏡を押さえる。
 
「(……隠す気0。こりゃ吉田さんも大変だ)」
 
 この状況にめげるどころか、ちゃっかり関係の再構築を謀ろうとしている平井の逞しさに言葉も出ない。最初からライバルだとアピールしておく方が、それは以前よりずっとややこしくないだろう。
 あんなプラカード、その気が無ければ冗談でも絶対に出さない。
 
「(また増えたぁーーー!!?)」
 
 案の定、吉田は心の中で切ない悲鳴を木霊させた。声に出していないだけで、その動揺は彼女の全身に現れている。緒方がポンポンと肩を叩く。
 
「あっ、バス来た。積もる話は後にしよっ!」
 
 友人らの困惑を知ってか知らずか、否、知った上で大いに楽しみつつ、平井が小走りで皆を急かす。
 
「いざ、御崎ウォーターランドへ!!」
 
 拳を高々と天に突き出し、本日の舞台の名を叫んだ。
 
 
 
 
 御崎ウォーターランド。波のプールやウォータースライダーを備えた遊園施設である。
 池の父親の仕事の関係で大量に入手したチケットに肖り、こうして悠二らは青春の一ページを刻ませて貰っている。合宿や部活のせいで機を逃した彼らにとって、これは渡りに船だった。自然の海にも心惹かれるが、今頃はクラゲが大量に発生していること請け合いだ。
 
「さてサカイクン、説明してもらおうか?」
 
 男子の着替えは早い。一足先に水着姿になった悠二らは、人混みから少し外れた場所で女子組を待っていた。
 
「……説明って、何の事?」
 
 と言うより、追い詰められていた。謎の圧力を発する田中に、ジリジリと壁まで後退する悠二の姿。
 
「とぼけるなぁ! 吉田ちゃんとヘカテーちゃんだけでも憎たらしいのに、平井ちゃんもってどういう事だコラァ!?」
 
「な、何も泣かなくても……」
 
「やかましい! 俺だって高校入って心機一転の予定だったのに何だこの差!」
 
 肩を揺さ振られて、悠二の頭が前後にカックンカックンと倒れる。田中にどうこう言われる筋合いなど無いのだが、何故だか反論できない空気である。
 悔しさに震える田中の肩を、佐藤が諫めるように叩いた。
 
「落ち着け田中。俺達には新情報だけど、坂井から見たら『今さら何言ってんだ』って感じなんだぞ? 虚しくなるからもうよせって」
 
「いや……平井さん、前までは一応『女友達』って感じだった筈だよ」
 
 横からサラリと補足した池の一言に、佐藤のボディーブローが軽く炸裂する。
 
「おい……そろそろ怒って良いか?」
 
「大人しく殴られろ。お前に怒る権利は無い」
 
 珍しく青筋を浮かべる悠二に、池が無情な宣告を下す。理不尽な話だった。
 そんな悠二の気など余所に、佐藤が肘をグリグリと悠二に押し付ける。
 
「んで? 実際どうなんだよ、ん?」
 
「どうって?」
 
「お前、平井ちゃんと付き合ってんの?」
 
 ギクリと、悠二の表情が固まる。同時に、池の眼鏡が鋭く細められた。田中も、我に帰って聴きに入る。
 
「……………」
 
 今までの理不尽な僻みとは、少しばかり事情が違う。悠二にとっては自分も、そして平井も、外れた今でも彼らの友達だ。それを隠すのは、不義理というものだろう。
 
「……付き合ってるわけじゃ、ないかな」
 
 なので、正直に告げる。
 
「大切に……うん、凄く大切には思ってる。『零時迷子』の事が無くても、ずっと一緒に居たいと思う。だけど……」
 
 胸の中に在る大きな何かを、言葉にする事で確かめるように……。
 
「これが恋愛感情なのかどうか、まだ自分でも解らないんだ」
 
 どこまでも嘘の無い、平井の想いを知ったからこそ中途半端な結論を許さない真摯さが込められた言葉。
 その彼らしさも含めて、
 
「あだっ、痛、何で!?」
 
「なーに小学生みたいなこと言ってんだコノヤロウ!」
 
「……お前、今のセリフ吉田さんやヘカテーちゃんでも言えるんじゃないだろうな」
 
「やっぱ許さん、締め上げてくれる!」
 
 非常に憎たらしかったりするのだが。
 
「……何してるの」
 
 背中を叩かれたりヘッドロックを極められたりしている悠二に、呆れ果てたような声が掛かった。
 頭を上げる。 
 そこに、セパレートタイプの黒い水着に身を包んだシャナが立っていた。長い黒髪をポニーテールに纏めているのも新鮮である。
 
「お待たせー、一美の往生際が悪くてさー」
 
 その後ろから、他の面々も姿を現す。青と白のチューブトップ水着を着た緒方に手を引かれて、
 
「お、緒方さん引っ張らないで……!」
 
 白いワンピースタイプの水着を着た吉田が、胸元を腕で隠しながら現れ、
 
「………………」
 
 フリルの付いた水色のワンピースを着たヘカテーが、気負ったような顔で自分の胸と吉田の胸を交互に見比べながら続き、
 
「はぁ……可愛い……」
 
 スカート付きの青緑色のタンキニを着た平井が、少女らを蕩けそうな笑顔で見つめながらやって来た。
 ……全くもって今さらな事だが、非常にレベルが高い。
 シンプルな水着程度では隠し切れない女性の象徴を持つ吉田。日頃の成果で無駄なく引き締まった緒方の脚線。その間を取るスタイルの平井。
 ヘカテーとシャナにしても、流麗な曲線を描く白磁のような肢体が、身長のハンデなど容易く撥ね除けている。
 
『………………』
 
 悠二らは思春期の男子だ。友達であろうと……いや、友達だからこそ、少女らの水着姿を褒めるのは抵抗がある(特に吉田)。しかし、自分の気持ちに嘘は吐けない。
 そこで彼らは……
 
「……今日はサンキュな、池」
 
「流石だぜ、メガネマン」
 
「お前と友達になれて良かったよ」
 
 今日という日を与えてくれた池速人を、かつてないほど讃えた。
 
 
 
 
「ヘカテー、ポテト食べる?」
 
「……はい」
 
 泳ぎ、潜り、滑り、遊んで、一時の休憩に入るヘカテー、平井、シャナ、吉田、緒方。因みに悠二らは、売店での奢りを賭けた競泳に興じている真っ最中である。
 
「わー……やっぱり田中が一番かぁ」
 
「単純な身体能力なら、御崎高校で田中栄太に並ぶ奴はいない。部活っていうのに入っても、それなりに活躍できると思う」
 
 吉田にのみ拭えぬ不安を微かに残しつつも、平井はあっという間に輪の中に溶け込んでいた。
 平井の性格や、元から友人だったという相性は勿論だが、意外にもヘカテーとシャナの存在が大きい。そもそも平井を忘れていない彼女らとの仲の良さは、自然と吉田らとの余所余所しさを薄れさせてくれた。
 
「(……平井さん、素敵な人だなぁ)」
 
 だが、それが吉田の心を掻き乱す。平井の好ましい一面を見る度に、感じた好意がそのまま、坂井悠二を奪われる恐怖に繋がってしまうのだ。
 そんな、とっくに乗り越えた筈の重圧を感じて、吉田は自分の頬を両手で叩いた。
 
「(このままじゃいけない……!)」
 
 今さらライバルが増えたから何だと言うのか。『相手が強いから諦める』そんな小さな想いではない事くらい、ヘカテーに宣戦布告した時に自覚している。肝心なのは、自分の気持ちなのだ。
 
「(平井さんにも、私の気持ちを伝えよう)」
 
 そこまで解って、嫉妬や抜け駆けに走らないのが吉田の吉田たる所以だろうか。ヘカテーにそうした様に、平井にも正々堂々と立ち向かおうと心に決めた。
 しかし当然、皆で楽しく過ごす今の時間を壊す事など出来ない。あくまで機を見て、の話だ。
 などと決意を固める間に、男子の競泳が終了する。佐藤と田中がこちらに向かって歩いて来る一方で、池と悠二が売店に向かう。最下位は池だったが、悠二も持ち運びの手伝いに付いて行っているのだろう。
 それを見て、当たり前のようにヘカテーが追い掛ける。
 
「わ、私も手伝って来る!」
 
 そして、吉田も反射的に続いた。友達も大事だが、恋も大事だ。せっかくの機会、少しでも悠二と過ごしたい。
 
「(ただでさえ、いつも空回ってばかりだし……)」
 
 アトリウムアーチ、ファンシーパーク、ミサゴ祭り、不本意な結果を残した過去が脳裏に蘇る。小走りに近付いて、さりげなく悠二の隣に並んだ。池が小さく苦笑する。
 ただ、悠二はそんな吉田の行動に気付かない。
 
「あっ、ヘカテー」
 
 最初からそれが目当てだったのか、悠二を追い抜かしたヘカテーが売店のメニューを吟味し始めたからだ。ただ食欲に衝き動かされているだけなのに、ヘカテーがすると何とも言えない愛嬌がある。
 
「………………」
 
 次いで、焼きそばと悠二を交互に見つめる。判りやすいおねだりに、悠二も「はいはい」と足を早めた。
 何気ない行動に見え隠れする遠慮の無さが、二人の距離を思わせる。伊達に同居してはいない。
 
「(う〜〜……)」
 
 吉田には、ヘカテーに対抗して悠二に何かを強請るという真似が出来ない。それが悠二に迷惑を掛ける、という心配の方が先に立つ。
 
「坂井君、ヘカテーちゃんの分は私が出しますから」
 
「え? 吉田さん?」
 
「? ……今度、返します」
 
 逆に、こういった形で対応するしかないのが惨めだ。当のヘカテーが不思議そうな顔をしているのが、尚更に。
 
「(……可愛いからズルい)」
 
 自分が一歩も二歩もライバルに遅れている気がする、その理由に吉田は見当を着け始めていた。
 シャナや平井は解らないが、ヘカテーは甘え上手なのだ。何もしなくても庇護欲を掻き立てる上、あまり他者に遠慮しない。それを迷惑に思わない優しい悠二とは、さぞ相性が良い事だろう。
 
「(でも、私だって……)」
 
 悠二と一緒に過ごしたい。そう願う彼女の視界に、それは天佑のように飛び込んで来た。
 
「あれ、は……」
 
 人込みの向こうの壁の貼り紙、この御崎ウォーターランドで開催されるイベントの告知だった。おまけに日取りが……今日。
 
「水中カップル騎馬戦……!!」
 
 小さな叫びと共に、吉田一美の眼が全力で見開かれた。
 
 
 



[37979] 7-5・『父の帰還』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:cadedb32
Date: 2014/04/18 17:31
 
「一度触ったクジは必ず引く事。後で交換とかも禁止ね」
 
 水中カップル騎馬戦。吉田が見つけたこのイベントに、皆も彼女のやる気に牽引されるように参加を決めた。運動音痴の吉田がここまで気合いを入れているというのに、黙って見物など有り得ない。
 通常の騎馬戦との違いは、四人ではなく男女一組、つまり騎馬と言うより肩車である事。そして舞台がプールの中である事だ。優勝商品は『ペアで夜景の見えるレストラン』、高校生が狙うには少々場違いにも思えるが……吉田は頗る本気である。
 
「これ、田中と組んだ人が断然有利よね」
 
「そんなの判んないだろ。大体、それ言ったらヘカテーちゃんとシャナちゃんも反則みたいなもんだ」
 
「だから公平にクジ引きなんだろ。負けても余っても恨みっこなしだぜ?」
 
 そして今、池が握るクジの束を皆が囲んでいる。男子四人に女子が五人、女子一人が必然的に余ってしまう形だ。当然、組み合わせも完全な運任せ。
 
「……自分のハチマキを保持したまま、より多くのハチマキを他者から奪えば良いのですね」
 
「……そりゃそうだけど、あんまり無茶な事はダメだよ?」
 
「水中騎馬戦かぁ……パートナー次第じゃ、シャナに雪辱も果たせるかもね」
 
「挑んで来るなら容赦しない、やるからには勝つ気でやる」
 
「夜景の見える、レストラン……!」
 
 楽しむ者、心配する者、燃える者、受けて立つ者、気負う者、それぞれの指先がクジの先を掴み、
 
『せーの』
 
 運命は静かに分かたれた。
 
 
 
 
【さー、いよいよやって参りました! 水上を駆ける幾つもの愛! この夏、最も暑苦しいカップルは誰か!!?】
 
 カップルひしめく広大なプールに、テンション高くアナウンサーの声が響き渡る。夏の日照りにも負けない異様な熱気が、彼ら彼女らの戦場に満ちていた。
 その中に、いつもの面々の姿もある。
 
「ヘカテー、くれぐれも相手に怪我とかさせないようにね?」
 
(……コクリ)
 
 軽快に拳を振るヘカテーと、彼女を肩に乗せた悠二。
 
「……今更だけど、良かったのか? オガちゃん。これ一応カップルって見られるんだけど」
 
「ク、クジで決まったんだから仕方ないでしょ! それより、ちゃんと本気でやりなさいよ!」
 
 申し訳なさそうに呟く田中と、彼の髪を上からグシグシと掻き回す緒方。
 
「……坂井悠二にだけは負けない。お前、しっかり動きなさいよ」
 
「シャナちゃん、目が据わってるんだけど……」
 
 密かに灼眼を燃やすシャナの下で、重圧に圧し潰されそうな佐藤。
 
「ふふふ……うん、偶々だよね……くじ引きだもん。そうだよね……」
 
「……勝てたら券あげるから元気出してよ」
 
 虚ろな瞳で宙を眺める吉田の下で、何とも言えない顔で慰める池。
 そして……
 
「行けぃモノドモォ! 道半ばで力尽きた儂に代わり、御崎高校の名を天下に知らしめてやるのじゃ!!」
 
 ハズレを引いたが為に、一人プールサイドで大漁旗を振り回す平井である。
 もちろん参加者は彼らだけではない。中学生のマセたカップルから子供連れの夫婦まで、様々な男女が目を光らせている。
 
【相手にハチマキを奪われれば負け! 騎馬が崩されても負け! 制限時間内により多くのハチマキを手にしたカップルが優勝となります! それでは……】
 
 審判の右手がゆっくりと上に伸びる。その人差し指がオモチャの鉄砲の引き金を引き、
 
【はっじめぇ!!】
 
 戦いの火蓋は切って落とされた。
 
「先手必勝!」
 
「もらったぁ!」
 
 ハチマキの数を競うこのゲーム。自分より弱そうな相手を狙うのは至極当然の作戦だ。
 よって、開始と同時に周囲の攻撃が殺到したのは……ヘカテーとシャナ。その性急さこそが彼らの敗因だろう。
 
「「遅い」」
 
 二人の手が素早く動き、ある者はプールに引き倒され、ある者は何が起きたかも解らぬ内にハチマキを奪われる。その先制に合わせて悠二と佐藤が走り、呆然とする後続を二騎三騎と仕留めて行く。
 その一方で、池は早々と密集地帯から逃れていた。
 
「池君、ヘカテーちゃんとシャナちゃんスゴいよ!」
 
「わかってる! 僕達もやられる前に離れるんだ!」
 
 吉田は、ヘカテーやシャナと違って本当に弱い。そして池も、さほど運動神経が良い方ではない。彼女らのように一斉に狙われたら一溜まりも無いのだ。
 
「とにかく生き残る事を優先しよう。正直、僕らにヘカテーちゃん達の真似は出来ない」
 
 無難な戦法を迷わず選ぶ池の胸に去来するのは、義務感だけで動く虚しい自分への落胆。
 
「(仮に勝てたとして、それに意味なんてあるのかな……)」
 
 万一優勝出来ても、池と吉田が二人きりでディナーに行く事など有り得ない。……いや、今こうして悠二以外の男子とカップル騎馬戦に出ていること自体、吉田にとっては不本意だろう。
 それは解っている。勝ったら券を譲るという言葉にも嘘は無い。
 たとえそれが……吉田と悠二を近付ける引き金になったとしても。どこまで行っても独り善がりに生きられないのが、池の美徳であり……弱さだった。
 
「(どっちにしても全力でやろう。勝てたら勝てた時だ)」
 
 池にも自覚があるからこそ、心は迷う。吉田の背中を押す今の自分すら道化に思えて、それでも止められない。
 そんな心理状態だったからか、或いはどちらでも同じ事だったのか……
 
「池君、後―――」
 
「え―――」
 
 不意に伸びた細い右手に、呆気なく吉田のハチマキは奪われた。
 
 
 
 
「六本目ぇ!!」
 
 横から現れた緒方の両手が、掴み合っていた二組の騎馬から同時にハチマキを奪い去る。
 
「ふふん、騎馬戦は頭使わないとね」
 
 緒方・田中ペアも池・吉田ペアと同様、ヘカテーやシャナとの対決を避けていた。しかし池達とは違い、緒方らは他のカップルからハチマキを奪う実力がある。
 
「よーし、このままガンガン稼ぐわよ。田中、走って!」
 
「おう!」
 
 緒方には勝算があった。
 
「今度こそ沈めます……!」
 
「出来るものならね」
 
 遠方に、早くも火花を散らすヘカテーとシャナの姿が見える。
 シャナがライバル視する悠二の上に、シャナと犬猿の仲のヘカテー。この激突は容易に想像出来る展開だ。
 
【何という事でしょう! プール中央、二人のちびっこが凄まじい攻防を繰り広げております! 周りのカップルは近づく事も出来ない! こんな展開を誰が予想したでしょうかぁーー!?】
 
 二人の実力が拮抗している事も知っている。そして如何に実力があっても、決着のつかない勝負を続ける限りハチマキの数は増えないのだ。
 
「もっらいー!」
 
 ヘカテーとシャナが主役となっている間に、七本目のハチマキを手にする緒方。数だけならば、既にヘカテーやシャナを上回っている。
 
「大成功だな。このまま時間いっぱいまで潰し合っててくれたら楽なんだが」
 
「流石にそれは無理でしょ。熱くなってる二人はともかく、佐藤や坂井君が気付くって」
 
 そう、緒方が数を稼いでいると気付かれれば、二人は躊躇なくハチマキを奪いに来るだろう。
 それでも、緒方に負ける気は無い。
 
「いざって時は頼むわよ、田中」
 
 これが個人によるハチマキの奪い合いなら、緒方に勝ち目は無かっただろう。しかしこれは水中カップル騎馬戦。このルールの、この組み合わせならば、緒方は二人に負けない自信があった。
 
「(そう、私と田中なら……)」
 
 その根拠は、リーチと高さ。誰から見ても長身の田中の肩に、女子にしては長身の緒方。このコンビより高いカップルはそうはいない。小柄なヘカテーやシャナなど完全に見下ろせる。
 腕の長さも同様。どれだけ運動神経が良くても、届かなければハチマキは奪えない。
 地上で足を使えたなら、こんな優位も二人はあっさり潰してしまっただろうが、今の二人の足は佐藤と悠二、おまけにプールの中で人を肩車した状態である。
 条件は同じだが、田中が佐藤や悠二に遅れを取るとは思えない。リーチと騎馬の違いで勝てると、緒方はそう踏んだのだ。
 もっともそれは一対一の話であり、同時に複数から狙われて捌ける自信はあまり無い。だからこそ今、ハチマキを稼ぎながら横槍を入れてくる可能性のある相手の数を減らしている。
 後はヘカテーとシャナ、どちらかが脱落してくれれば御の字である。
 
「よぉし次は……」
 
 勢い込んで次の標的を探す緒方。だが、そこでふと異変に気付いた。
 
「……あれ? 一美は?」
 
「って言うか、いつの間にこんなに減った?」
 
 ハチマキを奪うべきライバルの数が妙に少ない。大勢が入り乱れてぶつかり合っているのだから、それほど可笑しな話でもないのだが……などと考える緒方らの目に、
 
「「ん?」」
 
 見知った女性が、見知らぬ男性の肩に乗り、向かって来る姿が見えた。
 
 
 
 
「こっ……の……!」
 
「ふ、んぬ……!」
 
 傍から見れば上半身だけとはいえ常人ならざる体術を魅せるヘカテーとシャナが目を引くだろうが、その下で悠二と佐藤も頑張っている。
 攻守に合わせた前進と後退、少しでも騎手が有利になるよう懸命に努めていた。
 
「(つ、疲れた……)」
 
 日々鍛練を続けて来た悠二の経験も、水中でヘカテーを肩車した状態では全くと言って良いほど活かせない。
 それどころか、悠二の肉体的成長は四月の時点で止まっている。体力ではむしろ佐藤の方が有利なのだ。
 
「(勝てる……坂井に勝てる……!)」
 
 その手応えに佐藤も、いつの間にか熱くなっている自分を自覚していた。
 佐藤はマージョリーに……外れた世界で戦う勇者に憧れている。自分と同じ普通の高校生だったにも関わらず、彼女と肩を並べられる場所に居る悠二に対して……思うところは確かにあった。
 少なくとも、こんなお遊びにムキになってしまう程度には。
 
「(これじゃ退くに退けないぞ)」
 
 不味い展開に悠二は顔には出さず焦る。
 これ以上シャナ達と争っても時間の無駄だと判ってはいるのだが、シャナだけでなく佐藤まで燃えている。いま背中を向ければ、間違いなく後ろからハチマキを奪われるだろう。逃げ切る自信もあまり無い。
 
【スゴい! スゴ過ぎる! 互いにあれだけ攻めているのに一向に勝負が着かない! この蒼海大戦争(アクアウォーズ)を制するのは果たしてどちらの幼女なのかーーー!!?】
 
 ……ついでに言うなら、既に退却を許されない空気が出来上がってしまっている。ここはヘカテーに頑張ってもらうしかない。
 
「シッ!」
 
 佐藤の前進に合わせて、シャナの右手が鋭く伸びる。ヘカテーをブリッジよろしく上体を反らしてこれを躱し、すかさずその右手首を掴んだ。
 それを強引に引き寄せる動きに合わせて悠二も後退。シャナのバランスを崩そうとするが、それを察した佐藤が勢いよく悠二にタックルして怯ませる。
 それと同時、引かれる勢いそのままにシャナの左の掌底がヘカテーの鳩尾を打った。悠二に肩車された状態でこれは躱せない。
 
「ぐ……っ」
 
「ヘカテー!」
 
 バランスを取ろうと右に左に悠二が揺れる。ここぞとばかりに佐藤が背後に回った。
 
「終わりよ」
 
 真後ろからシャナの手が迫る。ヘカテーからは完全に死角だ。
 伸ばされた腕は、無防備な後頭部に結ばれたハチマキを掴み……呆気なく抜き取った。
 
「え―――」
 
 しかし抜き取られたのはヘカテーではなく、“シャナのハチマキ”。
 
「ふふ、油断大敵よシャナちゃん。ちゃんと後ろにも気をつけないと」
 
 油断などしていない。シャナは常に自分に向けられた“殺し”の気配を逃さぬよう感覚を研ぎ澄ませている。 しかしその手に在るのは殺気でも戦意でもなく、まるで子供の頬っぺたに付いた御飯粒を取るかのような穏やかさ。
 だからこそ、シャナは反応出来なかった。
 
【これは意外! ちびっこ対決が決着するかに見えた瞬間、隠れたダークホースが黒髪ポニーのハチマキを奪ったぁーー!!】
 
 シャナが佐藤が振り返る。ヘカテーが悠二が目を見開く。平井がポテトを飲み下す。
 そこにいたのは、茶色い髪を首の後ろで束ねた優しげな女性。
 
「おば様……!」
 
 悠二の母、坂井千草だった。
 そして、これはあくまでカップル騎馬戦。当然ながら彼女一人ではない。
 千草の下で一人の男性が、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべていた。
 普段から海外を飛び回っている坂井家の大黒柱。居候のヘカテーでさえ一度も会った事の無い千草の夫。
 
「父さん……!?」
 
 悠二の父・坂井貫太郎。堂々の帰還であった。
 
「悠ちゃん達と入れ違いに帰って来たのよ。貫太郎さんったら、どうせならビックリさせてやろうって聞かなくて」
 
「いや申し訳ない。しかし、高校生の夏にはこれくらいのサプライズがあった方が面白いだろう?」
 
 呆気に取られる悠二らの顔を見て、二人仲良くニコニコと笑う。悠二の父、千草の夫、今まで伝聞でしか聞いていなかった貫太郎をまじまじと見るヘカテーの下で……我に帰ったように悠二が動き出した。
 
「悠二?」
 
「話に付き合っちゃダメだヘカテー。もう時間が無い!」
 
 言われて、ヘカテーは横目にタイマーを確認する。残り時間は……40秒。いつの間にかプールには坂井家の四人しか残っていない。ハチマキの数は……どうやら僅かに千草らが勝っている。
 
「あら、バレちゃった」
 
「うん、成長しているようで何よりだ」
 
 悪戯レベルの作戦を看破されて、坂井夫妻は朗らかに笑う。時間稼ぎをしようとしていた割りに逃げようともしない。
 
【父さん? いま父さんと言いましたか!? ここに来てまさかの嫁姑対決!! テレビのチャンネル権を手にするのは果たしてどちらかぁーー!!?】
 
 好き勝手に喚く実況の声を背に、一騎討ちが始まった。手捌きはヘカテーが上、しかしリーチは千草にある為、なかなか反撃に移れない。押された分だけ退き、退かれた分だけ押す。貫太郎の間合いの取り方も絶妙だった。
 ヘカテーが正面からハチマキを奪われるとは思わないが、このままタイムオーバーになれば自動的に敗北が決定してしまう。
 
「(こうなったら、一か八か……!)」
 
 肚を括って悠二が駆け出す。貫太郎でも咄嗟に距離を取れないほどの、だからこそ無防備な突進。迎撃される危険も大きいが、ここは勝負だ。
 
「ん……っ!」
 
 案の定、千草の手が伸びて来る。こちらから向かっている分、常の倍の速さにも感じられるが……
 
「むっ……!」
 
 流石にヘカテーも甘くない。間一髪で受け流し、間合いに入った瞬間 反撃に移る。
 二組の騎馬がすれ違い………
 
「(ここだ!)」
 
 ―――高い水飛沫が、カップル騎馬戦の終結を告げた。
 
 
 
 
「と、言うわけで……」
 
 脱落したシャナ、池、吉田、佐藤、田中、緒方。応援だった平井も含めた一同が着替え終わり、集まった場で、貫太郎はゴホンと小さく咳払いする。
 
「挨拶が遅れてしまったね。私は悠二の父、坂井貫太郎だ。息子がいつもお世話になっている」
 
 子を成して十六年とは思えない外見と、それに不似合いなほどの柔らかい貫禄。夏場に背広にコートという格好も、彼だと不思議と暑苦しく感じさせない。
 
「は、はじめまして」
 
「やっぱ若ぇ〜」
 
「坂井君の、お父さん……」
 
 池と平井以外は……いや、今や平井も初対面という事になる。各々が挨拶をする中で、悠二だけは両親を半眼で見ていた。
 思春期の少年として、あまり居心地の良い空間ではない。
 
「それで、何でこんな回りくどい事を?」
 
「さっきも言っただろう。いつもは家に居られない分、こういう形でサービスしようとな」
 
「……もしあれで父さん達が勝ってたら非難轟々だったと思うけど」
 
 悠二の一言に釣られるように、ヘカテーは二枚の券に目をやった。
 ペアで夜景の見えるレストラン。この場合は、悠二とヘカテーである。
 
「でも、本当に優勝しちゃうなんて……」
 
 自分の作戦が完全に裏目に出た吉田から、隠し切れない落胆が漂う。
 そう、悠二らは見事に坂井夫妻を撃破し、勝利の栄冠を掴んだのだ。
 
「結局あれ、最後どうなってたの?」
 
「悠二が千草さんのハチマキ引っ張ったんだよ」
 
 交錯の瞬間、千草はヘカテーの手を確かに躱した。上体を柔らかくしならせ、すれ違うヘカテーの手が届かない一瞬を作り出した。
 しかし、身体を斜め後方に反らせてヘカテーの手を避けた瞬間、騎馬である悠二にハチマキを掴まれ、プールに落とされたのだ。
 無論、頭に巻いたハチマキに届くワケが無い。掴まれたのは千草の肘に重ねられていた戦利品(ハチマキ)の方である。
 
「作戦勝ちか咄嗟の反応か、どちらにしろ私たちの負けだ。成長したな、悠二」
 
「……よく言うよ。その気になれば、時間いっぱいまで逃げ回る事も出来たでしょ」
 
「それは無理だ。父親としては、あまり格好悪い姿は見せられない」
 
「だったら最初から参加しなければ良いんです。若い子に混ざって恥ずかしかったんですからね」
 
 貫太郎が屈託なく認め、悠二が照れ臭そうに誤魔化し、千草が困った風にはにかむ。その千草に、平井がウリウリと肘を押し付けた。
 
「そんなこと言ってぇ、千草さんも結構ノリノリだったじゃないですか。ちょっと学生時代を思い出してたんでしょ? ん?」
 
「もぉやめてゆかりちゃん、本当に恥ずかしかったんだから」
 
 夕陽に隠して顔を朱に染める千草に、悠二が小さく嘆息する。普段から日課の如く惚気ている癖に、何を今さら照れているのか。
 
「では帰ろうか。千草さんの手料理も久しぶりだ」
 
「え? 帰るんだ?」
 
 自然にそう言う貫太郎に、悠二は思わずそう訊き返していた。
 貫太郎は普段は家に居ない。だからか、たまに帰って来た時は殆どの場合、貫太郎と千草はデートに出掛けるし、朝まで帰らないパターンも多い。
 今回のも、イタズラ込みのデートだとばかり思っていたのだが……。そんな悠二の耳に、小さく貫太郎が耳打ちする
 
「(流石に、お前とヘカテーさんを二人きりには出来ないだろう)」
 
「な……っ!?」
 
 反射的に大声を出してしまう悠二だが、言われてみれば確かにそうだ。以前ならば二人が出掛けても悠二が一人で留守番するだけ、出前でも取って貰えば話は済む。
 しかし、今はヘカテーという居候がいるのだ。表向き年頃の男女である悠二とヘカテーに間違いが起こらないとは限らない……と、思われても仕方がない。
 その一連のやり取りを察したのか、やおら平井がシュビッと挙手する。
 
「あたし今日、坂井家に泊まってきます。晩御飯とかもオマカセを!」
 
 次いで、軍人よろしくキビキビと敬礼。そんな平井の行動を、ヘカテーが無言で見ていた。
 
「……………」
 
 ヘカテーは平井と違って、千草らの心中を察している訳ではない。
 ヘカテーの考え方は実に単純なものだった。
 
「(おば様たちは、これが欲しい?)」
 
 カップル騎馬戦に参加した千草らが、賞品たるこの券を欲しがっているのではないか……という、一連の会話とは関係ない思考である。
 正直なところ、“男女一組(カップル)”という名称がどういう意図を持って使われていたのかさえ、ヘカテーは気付いていない。
 だが……
 
「(おば様は、夫と二人で……)」
 
 千草がいつも、自分の夫の事を嬉しそうに話しているのは知っている。大好きな人と一緒に居たいという気持ちは……ヘカテーにも解る。
 まして千草は、普段は一緒にいられない。
 
「……おば様」
 
 気付けば、ヘカテーは自らの勝ち取った券を千草に差し出していた。
 
「……ヘカテー?」
 
 幼い。誰もがそう思っていた少女の行動に、何とも言えない温かな沈黙が場を支配する。
 周りのそんな評価に気付いているのかいないのか、ヘカテーは無言でグイグイと券を押し付け続けていた。
 
「良いんじゃない? 貰っとけば。僕とヘカテーには場違いな店っぽいし」
 
 珍しく困っている千草に、もう一人のチャンピオンたる悠二までもが助け船を出す。
 こうまで背中を押されると、断る方が却って悪い気になってくる。千草は貫太郎に視線を向け、彼が頷いたのを確認すると、ヘカテーを包むように抱き締めた。
 
「ありがとうね、ヘカテーちゃん」
 
 夕陽の差し込む中の抱擁。娘を慈しむ母そのものの声音が、巫女の耳を心地好く震わせた。
 
 
 



[37979] 7-6・『錯綜』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:3c483142
Date: 2014/05/16 19:26
 
 赤い夕陽に照らされて、二つの影がアスファルトに伸びる。
 ヘカテーやシャナほどではないが元から背の低い吉田の影は、実像よりも更に小さく見えた。
 
「はぁ……私なんて、どうせ……」
 
 カップル騎馬戦で悠二とペアになれなかった。カップル騎馬戦で悠二とヘカテーが優勝した。しかも優勝したヘカテーは、その賞品を悠二の両親に譲った。そして吉田は……悠二とヘカテーが二人で素敵なレストランに行かない事に安堵してしまった。おまけに、今日いきなり現れた平井ゆかりまでが坂井家に泊まるという始末。
 
「まぁ、ほら、その……男はか弱い女の子の方が好きって奴も多いから」
 
 劣等感と自己嫌悪で沈み込む吉田に掛ける池の慰めも何処か頼りない。
 ……無理もない。言っている池自身も、吉田の勝ち目が薄いと思ってしまっている。
 
「(やっぱり、厳しいよな)」
 
 いつか、池は平井に訊いた。「吉田が振られる」と思うのかと。
 
『そんな単純な話でもないんだけど……ううん、そういう事に、なるのかな』
 
 あの言葉の意味が、今ならば理解できる。
 吉田がどれだけ悠二に好意を示そうと、どうしてもそこには『何も知らないから』が付く。悠二の真実を知らない吉田の想いは、あの朴念仁の心の奥までは響かないだろう。
 
「(……そう思うのも、僕の願望なのかもな)」
 
 そこまで思ってから、呆れたように溜め息を吐いた。吉田と悠二が結ばれるのが嫌だからこんな考え方になっている、という可能性を否定出来ない。
 
「あー……やっぱり、駄目だ」
 
 投げやりに呟いて天を仰ぐ。公明正大を掲げるメガネマンも、今回ばかりは自分を客観視できる自信が無い。
 
「……池君?」
 
「いや、吉田さんが駄目なんじゃなくて、僕の事」
 
 こんな状態で何を言っても、全てが欺瞞になってしまう気がする。きっと気付かない内に、吉田か自分のどちらかを騙してしまう。
 ならば何も言わずに口を閉ざして目を背ければ良いのか? それこそ欺瞞だ。
 
「……はぁ、それだけ本気って事だよなぁ」
 
 本気だからこそ嘘は吐けない。本気だからこそ悩む。だったら、意地でも後悔だけはしない道を選びたい。
 
「……よし」
 
 言い聞かせるように呟いて、池が足を止めた。不思議そうな顔をして振り返る吉田の顔を、池は真っ直ぐに見つめる。
 
「池く―――」
「吉田一美さん」
 
 吉田の声を遮って、改まって名前を呼んだ。呼ばれた側に否応なく本気を悟らせる、そんな声で。
 
「僕は、貴女が好きです」
 
 ―――手提げのバッグが、軽い音を立てて地面に落ちた。
 
 
 
 
 悠二とヘカテーに千草、貫太郎、そして自分の荷物を預けた平井ゆかりは、一人夕食の買い出しに向かっていた。
 悠二やヘカテーも付き合うと言ったのだが、今回は坂井家の食卓を預けられた平井の使命感が勝った。
 元々自炊していた平井にとって、買い出しくらい大した手間ではない。さっさと買って坂井家に帰宅したいところだった。
 
「ククク、逃げずに来た事だけは褒めてやるゼ」
 
「……いや、呼んだの俺らだし」
 
 のだが、現在平井は御崎大橋下の河川敷に来ていた。
 やって来た平井を待っていたのは二人の少年、佐藤と田中。何やら微妙に緊張した面持ちである。
 
「電話じゃ話せない事って? わざわざこんな呼び出し方したって事は、悠二やヘカテーにも聞かせたくないって事だよね」
 
 あまりふざけるのも良くなさそうな空気だったので、さっさと本題に入る。
 平井の主観だとコロッと忘れそうになるが、今の二人にとって平井ゆかりは『友人だったらしい“ミステス”』なのだ。
 ……となると、用件も自然と限られてくる。
 
「あー……うん。ヘカテーちゃんはともかく、あんまり坂井にゃ聞かれたく無いな」
 
 前置きのように長い相槌を打ってから、佐藤が意を決したように口を開いた。
 
「平井ちゃんはさ、人間だった時から“坂井の事”知ってたんだよな?」
 
「うん」
 
 佐藤がわざと短くした部分も正確に読み取った上で、平井はあっさりと即答する。
 やはり、今の彼らが敢えて平井にする相談となると、こういう内容になる。
 
「俺たち、マージョリーさんに憧れてるんだ。あの人に付いて行きたい、でも今のままじゃ力が足りない……!」
 
 柄にもなく熱く、佐藤が自分の想いを吐露する。対称的に、人の良い田中は気まずそうに視線を逸らした。田中には、佐藤ほどの確信が持てない。
 
「……平井ちゃんも、同じだったんだろ?」
 
 真っ直ぐに、どんな嘘でも見破ると言わんばかりに、佐藤は平井を見つめる。
 そう、佐藤は確信していた。平井は元々、自分たちと同じだったのだと。自分が人間であるが故に外れた存在に近付けない絶望を知っているのだと。
 短絡的で視野狭窄のきらいはあるが……あながち的外れでもない。
 
「……ミステスになる気は無かったけどね」
 
 それを直接口に出すほど佐藤は無神経ではないが、平井にはその意思がハッキリと伝わった。つまり……異能者になる方法を教えろ、という事だろう。
 
「ミステスは身体に宝具を持ってるだけのトーチだからね。基本的に自分一人じゃ存在を保てない。“今のあたしも”、悠二がいないといつか燃え尽きて消える」
 
 ミステスの儚い運命、それがすぐ目の前にいるのだと教えられて、空気が僅かに張り詰める。
 この二人はマージョリーの子分を、自称している割に、マージョリーから大した情報を貰っていないらしい。それもまた優しさなのかも知れないが……生憎と平井は彼女ほど優しくない。
 
「あたしは―――フレイムヘイズになりたかった」
 
 悠二やヘカテーにさえ伝えていない、伝えるつもりのない過去を、平井は語る。
 
「外界宿(アウトロー)に関わって紅世と接し続ける事で、いつか契約の機会を掴めると思ってた。……でも、駄目だね」
 
 過去の自分を嘲うように、平井は両手を上向けて肩を竦める。
 佐藤と田中からすれば、ようやく見えた具体的な希望を否定された気分だった。
 構わず、平井は続ける。
 
「フレイムヘイズは、紅世の徒を憎む人間と世界の安定を願う紅世の王が契約する事で生まれる。でもあの時……死にかけてたアタシに在ったのは、自分を殺した徒への憎しみでも、世界のバランスなんて立派なものでもなかった」
 
 忘れる事など出来ない記憶を、想いを、言の葉に乗せる。
 
「一緒に居たい、それだけだった」
 
 聞いていた二人の顔が赤く染まるのを見て、平井は両手を後頭で組んで背中を向けた。
 偽るつもりも誤魔化すつもりもないが、流石に少し恥ずかしい。
 
「馬鹿だよねー……こんな気持ちで、フレイムヘイズになんてなれるわけない。だってあっちに何のメリットも無いもん」
 
 自分自身を茶化すように笑ってから一転、真面目な顔で振り返る平井。視線に射貫かれるように、二人はビクッと震えた。
 
「力を求める理由がマージョリーさんなら、二人もフレイムヘイズになれないよ」
 
「っ」
 
 無理だと、一番言われたくない筈の言葉を受けて、佐藤は即座に言い返せない。
 平井に懸けた希望が、全てそのまま絶望へと反転していた。
 同じ境遇の平井に無理だったのだから、自分たちにも無理だ、と。
 
「仮に契約出来たとしても、それで生き残れるとも限らない。封絶の中で動けないのも、悪い事ばっかりじゃないよ。あたしが死んだ時、佐藤君達もグチャグチャだったし。止まってなかったら助からなかったね」
 
「「……え?」」
 
 みるみる内に、二人の顔が青ざめていく。懸けた希望を否定されるどころか、目指していた目標の残酷さを突き付けられている。
 夢を追う少年には些か酷かも知れないが、平井はやはり容赦しない。
 
「それに、フレイムヘイズになること自体が死ぬ……ううん、消えるって事なんだよ。過去、未来、現在、自分が確かに存在していた世界から欠落する。ピンと来ないなら、あたしを見てみて」
 
 同じように外れた存在を求め、同じように苦悩したからこそ、躊躇わない。
 進むか戻るか、それは全てを知った上で決めるべきなのだ。
 
「……憶えてないでしょ? なーんにも」
 
 寂しそうに苦笑する平井に……二人は何も答える事が出来なかった。
 
 
 
 
 ウォーターランドから真っ直ぐに帰宅したヘカテーが、リビングのソファーにうつ伏せに寝転がる。
 悠二はヘカテーと入れ替わりにシャワーを浴びている。プールにも当然シャワーはあったが、ああいう人を待たせかねない場面ではゆっくりと身体など洗えない。
 
「……………」
 
 テーブルのグラスを眺めながら、今日の出来事を振り返る。
 楽しかった。それは間違いない。……でも、何か許容できない違和感が、常に何処かにこびりついていた。
 ……いや、何かでも何処かでもない。理由などハッキリ解っている。
 
「(ゆかり……)」
 
 当たり前のように輪の中にあった存在が、まるで異物のように扱われる違和感。ヘカテーからすれば、平井をそんな風に見る級友達こそが異質に見えた。
 外れた人間は世界から欠落する。とっくの昔に理解していた筈の現象を目の当たりにして、何故か大きな衝撃を受けた。
 
「(存在を奪われた、人間……)」
 
 解っているつもりで、解っていなかった。理解はしていても、感じ取れていなかった。
 徒の巫女として生きてきたヘカテーにとって、それはどこまでも他人事でしかなかったのだ。
 それが自分の日常に侵食して来るなど、想像した事も無かった。
 
「(この世に徒が在る限り続いていく、世界の理)」
 
 人間の生活に混ざり、同じように大切な人を奪われて初めて、それがどれだけ残酷な事か思い知らされた。
 ヘカテーでさえこうなのだ。当の平井は、一体どんな気持ちで今を……これからを生きていくのか。
 だが、胸を苛む痛みと同時に、不可解な疑問も湧いて来る。
 
「(どうしてゆかりは、笑っていられるの?)」
 
 胸の内に解がある事に気付かぬまま、巫女の少女は微かに震えた。
 
 
 



[37979] 7-☆・『天使の運命』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:4cbf4e28
Date: 2014/05/17 18:28
 
(ピピピピピピピピッ!!!)
 
 目覚まし時計の不快な音が、睡眠中の悠二の意識を揺さ振る。
 教授の襲撃、ヘカテー達との合宿、暫く続いた非日常から開放されたいつも……と、少しだけ違う日常の朝。即ち、夏休みの朝だった。
 
「(あと、十…五分……)」
 
 朝の鍛練は相変わらず続くものの、時間が遅れて学校に遅刻するという心配も無い。そんな気の緩みが、少年を覚醒から遠ざける。
 無意識の内にノロノロと右手が目覚まし時計を探し……始めたところで、何故か音が為り止んだのでペタンと力尽きる。
 それに疑問を持つ事もなく、再び夢の世界に逃げようとする悠二の頬に、何か柔らかい感触があった。悠二は、当然のように目覚めない。
 それからたっぷり十秒ほど経ってから、
 
「ふーっ♪」
 
「どわぁあ!?」
 
 耳の穴に、勢いよく息を吹き掛けられた。一瞬にして覚醒する。
 
「ゆ、ゆゆ、ゆかり!?」
 
「あっはははは♪ おはよ悠ちゃん。目覚めはいかが?」
 
 ケラケラと笑いながら、逃げるようにベッドから離れるのは、平井ゆかり。寝起きの悠二は頭がついていかない。
 
「もうシャナとカルメルさん来てるよ。メイドにリボンで投げられたくなかったら、そろそろ着替えて降りて来たまえ」
 
 返事も待たず一方的に告げた平井が、触角を揺らして階下へと降りて行く。閉まったドアを呆然と見つめる悠二は、今更ながらに彼女が家に泊まっていた事を思い出した。
 
「……順応、早すぎ」
 
 いくら千草の性格を熟知しているとはいえ、よくもまぁ忘れられた直後にあんな提案が出来るものだと素直に感心する。
 前向きなのは元々だが、最近は特に勢いがある……と、冷静に分析出来る程度には気持ちが落ち着いた。
 
「僕も、少しは見習わないとな」
 
 背負ったものの大きさと先の見えない未来を思って、悠二は意外と軽い溜め息を吐いた。
 
 
 
 
(モグモグ)
 
 朝の鍛練を終えたリビングで、目玉焼きの乗ったトーストをヘカテーが齧る。半熟の黄身が割れて汚れた口元を、平井が狙い済ましていたかのようなタイミングで拭いてやる。
 ちなみに、千草はまだ帰って来ていない。本日の朝食は平井の担当である。
 
「今まであんまり知らなかったけど、ゆかりも料理上手いんだ」
 
「ふふん、あたしだって女の子だもん。大体、ネタみたいな料理オンチが三人も四人も居るわけないしね」
 
 悠二の率直な感想に平井が得意気に胸を張り、ヴィルヘルミナの肩がギクリと揺れる。
 そんな珍しくもない光景の中にあって、ヘカテーの心中には小さな変化が起きていた。
 
「(女の子、料理……)」
 
 ミサゴ祭りの前、吉田一美の宣戦布告に対して、半ば開き直りに近い決意表明をしてから、人知れず起きていた変化。悠二に対するヘカテーの気持ち……というより、心構えだ。
 
「(おば様には出来る。ゆかりも、吉田一美も……)」
 
 吉田一美に挑まれて、引き下がる事が出来なかった。“壊刃”サブラクに追い詰められても、命を懸けて戦った。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』としてではなく、この街で彼と暮らす一人の少女として。
 その事実が、ヘカテーに以前とは違う勇気を与えていた。悠二が復調した今になって、漸くそれが表面化してきたのだ。
 
「(……料理)」
 
 以前、平井に読ませてもらった少女漫画のワンシーンを思い出す。
 少女が少年に料理を作る、ただそれだけのエピソードが描かれていて、周囲の登場人物もそれだけで何やら納得したように話が進んでいた。
 よくよく考えれば、あれは吉田一美の日常風景と繋がるものがあったのではないだろうか。悠二を好きな、吉田の。
 
「……………」
 
 未だ理解したとは言い難い行為に、今の自分に重大な何かを感じて、ヘカテーは瞳に静かな火を灯す。
 
 
 
 
「何だ、別に告白されたわけじゃないのか」
 
「あー……うん、好きとかハッキリ言われたワケじゃない……はず」
 
「……どっちだよ」
 
 人の混む直前のファミリーレストランの一画に、悠二と池が向かい合って座っている。
 千草と貫太郎が堂々の朝帰りを果たして暫くした後、悠二は理由も告げられぬまま八月の猛暑に締め出された。理不尽な話である。
 悠二としてはこの炎天下で一人鍛練に励む気にもなれず、池を誘って手近なファミレスに避難した次第だった。注文はドリンクバーとポテトフライだけだが。
 
「で、お前の方は相変わらず、と」
 
 カリカリとシャーペンを走らせるノートから目を離さずに池が言う。
 彼の手元にあるのは勿論、夏休みの宿題などではなく予備校の予習だ。痛いところを突かれて、悠二の顔が露骨に渋くなる。
 
「しょうがないだろ。何て言うか、こういうのは考えて解が出るようなもんじゃないし」
 
 吉田の気持ちに、平井の気持ちに、悠二は気付いている。気付いていて明確な答えを出していないのは、肝心の悠二自身の気持ちが不鮮明だからだ。
 好きか嫌いかで言えば好きに決まっている。だが、それが……“彼女らと同じ好き”なのかどうか、悠二には解らない。
 
「誰を選んでも構わないけど、中途半端に流されるなよ。『よく解らないけど振りました』じゃ、振られた子が不憫すぎる」
 
「っ……解ってるよ」
 
 困った子供を嗜めるように眼鏡を直す池に、悠二は罰が悪そうに顔を背けた。
 ……実際、考えなかった訳ではない。恋愛感情の有無はさておき、もう悠二が平井と離れる事は有り得ない。こんな状態で吉田の好意を受け取り続ける事は出来ない、と。
 池の言い分は全くもって正しい……が、相変わらずのメガネマン的な発言が悠二には引っ掛かった。
 
「(誰を選んでも構わない、だって?)」
 
 まるで第三者の視点からアドバイスしているような口振りだが、池にとっても決して無関係な話ではない。
 
「そう言う池はどうなんだよ。今の僕に言いたい事だってあるだろ」
 
 そっちも本音を出せとばかりに反撃し、
 
「ああ、プールの帰りに告白した」
 
「っっっ!?」
 
 予想だにしないカウンターを貰って、椅子から綺麗に滑り落ちた。飲みかけていたコーラが気道に入って激しく咳き込む。
 
「ゲホッ、ごふっ……こ、こく…告……!?」
 
「返事は要らないとも言ったけどな。恋人になろうと思って告白したわけでもないし」
 
 動転する悠二とは対称的に、池はシャーペンを指先で回していたりする。玉砕したばかりの男とは思えない。
 
「だったら何で告白なんて……気まずくなるだけじゃないか」
 
 池が玉砕した最大の原因は自分と知りつつも、ついそんな言葉が出てしまう。池は特に腹を立てるでもなく、可笑しそうに薄く笑った。
 
「気まずいくらいで済むんなら、それで良いんだよ」
 
 初めての恋。
 今回ばかりは、池も無難に立ち回る自信が無かった。……或いは、無難に立ち回る事をこそ怖れたのか。
 一人ではきっと間違える。吉田を騙し、自分を偽り、後悔するような選択をしてしまうかも知れない。
 だが、二人ならば話は別だ。吉田は既に池の気持ちを知っているから、騙す事も偽る事も出来ない。
 池らしくもない、駆け引きも何も無い選択だが、悪くはない気分だった。
 
「……………」
 
 当然、悠二にはそんな池の心中など解らない。ただ、大人びた顔で曖昧に笑う池の姿に、少年として憧れと劣等感を抱かずにはいられない。
 
「(何だよこいつ、勇者か……)」
 
 自分の気持ちを知って間もなく、好きな女の子に真っ正面から告白して、受け容れ難い結果を受け容れて、それでも笑う。
 恋愛感情すら自覚出来ない悠二とは、まさしく雲泥の差だった。こんな自分が吉田の好意を受け取っている事に、申し訳なさすら感じてしまう。
 打ち拉がれる悠二を見て、池は呆れたように半眼になった。
 
「……お前って変な奴だよな。化け物相手に何度も死線を潜り抜けてる癖に、こういう事では物凄い悩むし」
 
 池からすれば、悠二の方こそ格好良く見えるのだ。
 自分が知らぬ間に食われたと聞かされ、人から外れてなお化け物に宝具を狙われ、それでも我を保って立ち向かっている。
 正直、とても真似できる気がしない。
 
「単なる成り行き。自分の身と縄張りを守るくらい、動物でもやるだろ。……僕自身は何も変わってないよ」
 
 そして悠二は、そんな憧憬をあっさりと否定する。シャナのように信念を持って戦っているならともかく、悠二の場合は狙われるから撃退しているだけ。これで成長したなどと思えるほど悠二は厚顔無恥ではない。称賛されても居心地が悪くなるだけである。
 
「(こんな調子じゃ、いつか旅立つ日が思いやられ―――)」
 
 何気なく、本当に何気なく思考を巡らせて……ふと、悠二は自身の心の変化に気付いた。
 
「(いつか、旅立つ)」
 
 繰り返し思って、確認する。確認してやはり、変化があると自覚する。
 坂井悠二は……いつから自分の運命と向き合えるようになった? 人間を捨て、故郷を離れ、外れた世界で生きていく未来を怖れて、なるべく考えないようにするばかりではなかったか?
 
「……はは」
 
 ゴツンと、テーブルに額を落とす。少しは変われたのかと一瞬気持ちが浮かれたが、切っ掛けに気付いてすぐ消沈した。
 
「(“独りじゃなくなった途端にこれか”。僕って奴は……)」
 
 本当に情けない。
 だからこそ変わらねばと、幾度となく繰り返して来た誓いを、もう一度自らに刻みつけた。
 
 
 
 
『はあっ……はあっ……!』
 
 混乱と恐怖に苛まれながら、田中栄太はどこへともなく走る。いつも通りの、何の変哲もない朝だった筈だ。
 
『何でッ……こんな……!』
 
 起きて、顔を洗って、台所に辿り着く。何の気なしに行なったその行動に……実の母親が悲鳴を上げた。
 「誰だ」「出ていけ」「泥棒」。まるで空き巣にでも遭遇したような態度を取られ、何を言っても聞く耳を持たれなかった。挙げ句に警察に電話を掛けられそうになって、靴も履かずに飛び出した。
 走る先に、幾つもの人影が現れる。
 佐藤、悠二、池、吉田、ヘカテー、シャナ。前方に現れた彼らは、逃げる田中を怪訝な目で一瞥してから、すぐに視線を外す。
 
『おい、ちょっと待ってくれよ!』
 
 大声で呼び掛けても、誰一人振り返ろうとしない。自分が呼ばれたのだと、誰も思っていない。友達である筈なのに……。
 
『ちょっと、みんな待てよ!』
 
 愕然とする田中の脇を、一人の少女が小走りに追い抜いた。その姿を認めた瞬間、田中は殆ど無意識に彼女の腕を掴んでいた。
 
『オガちゃん!』
 
 強過ぎる力で女の子の腕を掴んでいる、という事に気付く余裕も無い。
 得体の知れない恐怖の中から、縋りつくように呼び掛けて………
 
『あの―――誰ですか』
 
 逆に、怯えた声を返された。
 自らの意識が闇の底に墜ちていく錯覚の先で……
 
「うわあぁ!!?」
 
 田中栄太は、悪夢から目覚めた。見慣れた自分の部屋を見渡して、それでも安心出来ずに机の上を漁り、いつかの試験の用紙を見つけて漸く溜め息を吐いた。
 我知らず左胸に手を当てる。そんな事が人間の証明になどなりはしないが、脈打つ鼓動はそれだけで生きている実感を与えてくれる。
 
「この世から……消える……」
 
 切っ掛けは判っている。こんな夢を見る理由も解る。だからこそ、田中は己自身に苦悩する。
 
「佐藤は今頃……どうなってんのかな」
 
 自分と同じように悩んでいて欲しいのか、それとも相棒の奮起に引っ張り上げて欲しいのか、それは田中にも判らなかった。
 
 
 
 
 ベッドに寝転がったまま、佐藤啓作は自室の天井を見上げる。朝から食事も採らず、部屋からも出ず、起きてから一歩も動いていない。
 
「……くそっ」
 
 何に向けてのものなのか、口汚い言葉が静かな部屋に響く。全ては昨日の、平井ゆかりとの会話が原因だった。
 
「(……俺達じゃ、マージョリーさんの所まで行けない)」
 
 漸く見えた夢への懸け橋は、少年にどうしようもない現実を突き付けただけだった。マージョリーと同じフレイムヘイズには、なれない。彼を衝き動かすマージョリーへの憧れでは、フレイムヘイズには届かない。
 それでも、佐藤はまだ諦めてはいなかった。
 
「(あれは、平井ちゃんがそうなったってだけだ。俺までそうなるなんて決まっちゃいない)」
 
 平井に聞かされた、外れた世界の怖さ。それを十分に理解していながら、佐藤の心を占めているのは怖さではなく悔しさだった。
 その心の動きこそが、佐藤に強く確信させる。やはり、そう簡単に諦められる夢ではないのだ。
 
「(フレイムヘイズだって元は人間なんだ。こうなりゃ片っ端から訊いて回ってやる)」
 
 打ちのめされてなお強く、少年は己が夢を目指す。
 
 
 
 
 フライパンから火柱が上がる。至近距離から迫る炎の猛威を、ヘカテーは絶妙なスウェーバックで躱した。
 攻撃はそこで収まらない。弾けた油に炎が引火して胴体を襲う。千草が用意してくれたエプロンを守るべく、ヘカテーは飛んで来る一滴一滴を全てフライ返しで防いでみせた。
 一見ヘカテーの優勢に見えるが、現実は甘くない。彼女が防戦に回っている今も、彼奴は炎に蝕まれているのだ。
 
「二人目いたぁぁーー!」
 
 切実な悲鳴を上げて、控えていた平井がフライパンに蓋をする。突貫するのも躊躇われる火力だったが、平井には火除けの指輪『アズュール』がある。この場には千草もいるが、これくらい地味な力ならバレはしないだろう。
 
「ヘカテーちゃん、大丈夫!?」
 
 慌てて駆け寄る千草を無視して、ヘカテーは平井からフライパンをふんだくった。
 期待と不安、3:7の気持ちで蓋を開けると……そこには、かつて卵と呼ばれていた食材が凶々しく黒光りしていた。味見などするまでもない。
 
「……………」
 
 三角巾を被った小さな頭を落ち込ませて、雰囲気だけで沈み込むヘカテーに、平井も千草も掛ける言葉が無い。
 
「(ようやくヘカテーが前向きに頑張りだしたって言うのに……)」
 
 そう、吉田や平井の行動に思うところがあったのか、ヘカテーは千草らに料理の指南を願い出たのだ。悠二が一人追い出されたのはその為である。
 しかし、結果はこの通り。ヘカテーは真面目な生徒だったし、多少危なっかしい所もあったが、手順は概ね間違ってはいなかった。千草らも目を離さずに監督していたと言うのに、何が起こったらこんなプチ火災に到るのか。
 
「……よし、まずはおにぎりから行ってみよう」
 
「(……コクッ)」
 
 へこたれないヘカテーの頷きを以て、少女らの戦いは続いていく。
 そんな女の戦場をリビングから眺めていた貫太郎に、千草がお茶を持って近付いて行った。
 
「悠二のやつ、少し見ない間に隅に置けない男になっている。平井さんの事は、電話で話してくれなかったね」
 
「私も先日知り合ったばかりなんですよ。悠二とは、以前からお友達だったみたいですけど」
 
 居候のヘカテーの事はもちろん、シャナや吉田の事も貫太郎は伝え聞いている。ただ、ほんの二日前に千草に会った平井の事は知らない……否、忘れていた。
 これだけ可愛らしい少女らに好意を寄せられるようになった息子の成長に、素直な感心と何とも言えない寂しさを感じる両親である。
 
「誰かと付き合ってる風でもなかったが、この分だと彼女達は苦労する事になりそうだ」
 
「大丈夫ですよ。少なくとも、私たちの時みたいな事にはさせませんから」
 
「ああ、もちろん」
 
 自分たちの過去を振り返って、二人は静かに、固く、誓いを立てる。
 何があろうと、どんな道を選ぼうと、自分たちだけは味方であろうと。
 
 
 
 
 時刻は正午を回り、池を予備校に見送った頃になって、漸く悠二に帰還許可のメールが来た。居候と半居候が人の家で何をコソコソしているのかと訝しみつつ、悠二もさっさと帰途に着く。
 高校に入ってから何かと多忙だったので、急に一人放り出されてもやる事がなくて困る。
 
「(理由もなしに除け者にされた訳じゃないと思うけど)」
 
 女性は女性で色々とあるのだろう、と物分かりの良い男的な心境で納得する悠二。
 メールが来る前から何となく家に向かって歩いていたから、大した時間も掛からずに到着する。
 
「ただいまー」
 
 そうしてドアを開いた直後、仄かな焦げ臭さが漂って来た。それだけで『料理の失敗』と連想出来るシチュエーションである。
 
「(……失敗? 母さんやゆかりが?)」
 
 不穏な気配に、悠二が小走りでリビングに辿り着いたらば、
 
「おかえりなさい」
 
 三角巾とエプロンを装着したヘカテーが、文字通り待ち構えていた。ドアから1メートルも離れていない。
 
「あ、うん、ただいま」
 
 危うくぶつかりそうになる足をギリギリで止める悠二。突然の事に、ヘカテーの珍しい格好に気付く余裕も無い。
 そして、悠二の様子を冷静に観察する余裕が無いのはヘカテーも同じだった。
 
「お昼ご飯です」
 
 まるで敵将に剣先を突き付けるような仰々しい雰囲気で、手にした皿を悠二の顔に伸ばす。
 ご飯、という単語で、やっと悠二の中で一本の線が繋がった。
 
「(ヘカテーが、料理?)」
 
 異臭の原因も、ヘカテーの格好も、他に考えようがない。
 それ自体は別におかしくはない。最近のヘカテーは色んなものに興味を示すし、平井や千草の真似をしたがるのも頷ける。
 しかし……それをなぜ悠二に隠していた?
 
「……………」
 
 何故こんな、途轍もなく緊張した面持ちで、それでも悠二から目を離さない?
 
「(……ヘカテー、が……?)」
 
 調子の良い妄想を、と笑い飛ばすには、悠二はヘカテーという少女に慣れ過ぎていた。
 こんな冗談を言う性格では無いし、平井に何か吹き込まれていたら、こんな態度にはまずならない。
 明らかに、下手な料理を悠二に見られたくなかったのだ。他でもない、悠二だけには。
 
「(いや、でも……)」
 
 妄想というレベルでなら……これまでにも考えなかったわけではない。ミサゴ祭りでヘカテーが吉田を敵視し出した時、ほんの僅かに頭を過った。
 あれは嫉妬だったのではないか、と。
 
「……………」
 
 あまりの不意打ちに前後不覚になる悠二の前で、水色の瞳がみるみる内に不安に彩られていく。その雰囲気を敏感に感知して、悠二は慌てて目の前のおにぎりを手に取った。
 
「あ、ありがと、ヘカテー」
 
 ちゃんとテーブルに着いて食べたい所だが、ヘカテーの瞳が今すぐ食べろと言っている。少し行儀が悪いが、このまま立って……
 
「(……食べられるのか?)」
 
 改めて、手にしたおにぎりを見る。とても……三角形だ。
 いや、普通おにぎりは三角形なのだが、これは少しレベルが違った。前から見ても横から見ても上から見ても三角形、とても手で握って作ったとは思えないほどの完璧な三角錐である。
 外見だけで判断するのは失礼千万だが、立ち込める異臭と併せると言い知れない迫力があった。
 
「……あぐ」
 
 まあ、どちらにしても食べるのだが。ほど良く水分を含んだ白米が、塩と海苔にスパイスされて舌の上を転がり……
 
「うん、美味しい」
 
 ちゃんと美味しかった。塩の代わりに砂糖が入っているくらいは覚悟していたが、そんなベタなミスも見受けられない。こんな形なのに固く握り過ぎているという事もないし、お世辞ぬきで評価できる。
 
「…………!」
 
 目に見えて、ヘカテーの雰囲気が明るくなった。微かに見開いた瞳の奥で、温かそうな水色の炎が揺れている。
 桜色に上気した頬が、言葉より雄弁に彼女の感情を表していた。
 
「……………」
 
 隠す気がない……と言うより、これで悠二に気付かれるとは微塵も思っていない、という風情だ。ヘカテーの心境を考えると、あまり大げさなリアクションは良くないだろう。
 
「これ、全部もらってもいい?」
 
 新たに肩にのしかかる重さに情けなく冷や汗を流しながら、悠二は二つ目のおにぎりに手を伸ばした。
 
 
 
 
 世界の何処かを彷徨う常夜の異界、星明かりに照らされたテラスに立って、一人の女性が溜め息を吐いた。
 一見すれば普通の美女。しかしその額には人ならざる金眼が光り、左目は眼帯に隠されている。もっとも、この浮遊要塞に人間など一人も居はしないが。
 
「なるほど、やはり“壊刃”の言葉に偽りは無かったわけだね」
 
 その女怪の言葉を受けて、後ろに控えていた悪魔が身じろぎする。悪魔と言っても、翼や角や尻尾以外は見るからに冴えない中年男性である。
 
「魔神憑きに戦技無双、殺し屋に九垓天秤までとは……なぜ大御巫は、このような危険な任務を御一人で……」
 
 額の汗をハンカチで拭いながら、中年は出来るだけ選んだ言葉で返す。「こんな事は巫女の役目ではない」などと、思ったまま口に出来る訳が無かった。
 その本心を当然のように察して、女怪は困った風に肩を竦めて笑う。
 
「任務ではないという事さね。道楽ばかりの将軍に比べれば可愛いものだが、このまま捨て置くわけにもいかんか」
 
 いくら『零時迷子』があの天才に繋がるとしても、巫女の行動にしては不自然な点ばかりだ。報告の内容だけでは断言できないが、十中八九そのミステスが原因だろう。
 よりによって人間の蛻とは、何だかんだ言っても、あの酔狂な神の娘というわけか。将軍あたりが聞いたら暴走しそうな話である。
 
「(あれで頑固な娘だ。下手に押さえつけても逆効果だろうねぇ)」
 
 同じ三柱臣(トリニティ)でありながら、あの妹にばかり過酷な運命を強いている。その引け目を策謀に差し込む事なく、三眼の女怪は顎先を撫でる。
 どう転ぼうと、その先に在る結果を次に活かす。逆境に挑む事をこそ己が本質に持つ彼女は、今も儘ならぬ道をどう拓いていくかを考えていた。
 
「久々に、デカラビアに働いてもらおうか」
 
 避けられない運命の歯車が、音を立てて回り出す。少女の想いも、少年の迷いも、容赦なく巻き込んで。
 
 
 



[37979] 8-1・『新学期』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:0973b51b
Date: 2014/08/05 18:14

 世の理から切り離された陽炎の世界。崩れた瓦礫に塞がれた地下通路で、桃色の炎が薄く灯る。
 人ならざる女は傷む身体を無理矢理に起こし、口に溜まった血の塊を吐き出した。

「ったく、派手にやられたなぁ」

「あっちが封絶を使ってくれてるのが、不幸中の幸いってところだね」

「バカ言え、これも含めて“何かの準備中”って事だろうが」

 彼女に言葉を返すのもまた、人ではない。ブレスレット型の神器に意識を表出させる紅世の王である。
 そのどちらもが、既にこの形勢が覆らない事を悟っていた。
 
「不本意な封絶を使ってまでする準備か。僕らを逃がしてはくれそうにないね」

「んじゃ、見事に逃げ切って悔しがらせてやろうぜ。で、次は殺す」

 命を懸けるべき場面ならば、喩え死ぬ事になっても立ち向かう。しかし恐らく、この襲撃は更なる災厄に繋がる布石に過ぎない。
 今すべきは、勝てない相手に挑んで犬死にする事ではなく、逃げ延びてこちらも準備を整える事だ。それすら難しい状況だが……

「(タイミングさえ合わせりゃ、“どっちか”は逃げられるだろ)」

 そう判断して、呼吸を整える。生き残ったのは自分だけではない。きっともう一人、セコい詐欺師が生き残っている。
 彼の能力を考えると、いつまでも地中に隠れている訳には……と、そこまで考えたところで、一体の燐子が“射程に入った”。

「っよし、行くか!」

 燐子が踏んだ『地雷』を炸裂させ、一拍も待たずに別のルートから地上へ飛び出す。
 見つかったのは百も承知だが、だからと言って自棄になって上空を飛んだりはしない。ビルの合間を縫うように低空飛行し、その間に幾つもの『地雷』を設置する。
 追って来れば纏めて吹き飛ばしてやろうと考えての自在法だったが、敵は馬鹿正直に追って来ない。
 彼女……『輝爍の撒き手』レベッカ・リードに近付く事なく上空から彼女に併走し、数多の燐子による炎弾の雨を降らせて来た。

「(貰った!)」

 連鎖的な爆発が市街地を蹂躙する。建物などでは到底 防ぎ切れない威力に、レベッカは動じない。
 逃げるどころか、正面に展開した瞳のような自在式で受け止めた……だけではなく、その力を圧縮した。薄白い炎が桃色の炎へと変色し、

「そーら、よ!!」

 特大の炎弾となって投げ返される。灼熱の業火が天に伸び、居並ぶ人型に直撃する。
 ―――寸前、縦に開いた碧玉色の瞳に遮られた。自在式は炎弾を一瞬も受け止める事なく、全く同じ軌跡に『反射』させる。

「ッ!?」

 すぐ後方で弾ける炎弾の爆火を受けて、大量の車と一緒にレベッカは飛ばされる。
 『反射』を予測していたわけではない。炎弾を投げ返すと同時に、既に逃走体勢に入っていたのだ。無傷とはいかないまでも、取り敢えず直撃は避けられた。
 だが、

「う……」

 受け身を取ったレベッカは、そこに待ち受けていた光景に息を呑む。
 立ち上がった彼女の周囲を、統率された燐子の軍勢が取り囲んでいたからだ。
 それぞれの掌に薄白い炎が燃えるのを見たレベッカは、それを上回る速さで数多の光球を全方位に生み出して……

「――――――」

 そこで漸く、燐子の攻撃を囮にして彼女を狙う、斜め後方の気配に気付いた。

 ―――避けられない。

 そう悟った時だった。

「伏せろ!」

 彼女の後ろの地面の中から、一人の青年が現れる。
 きっと生きている。そしてコソコツと逃げていて貰わなければ困るとレベッカが思っていたフレイムヘイズ……アーネスト・フリーダー。もちろん、今更それに文句をつける暇など無い。
 敵の指先が引き金を引く。しかしフリーダーは割って入った時点で既に己の身体を『骸躯の換え手』の能力で『硬化』していた。
 鋼鉄より遥かに堅牢な身体が、放たれた銃弾と衝突し……

「あ―――」

 ―――レベッカの視界を、鳶色が埋めた。








 未だ夏を抜けたとは言えない、日射しの強い九月の御崎高校。夏の思い出や宿題をやったかどうかなど、定番の話題で盛り上がる一年二組には、それに加えてささやかなサプライズも待ち受けていた。

(カッ、カッ、カカッ)

 始業式が終わった直後のホームルーム。軽快にチョークで黒板を叩いた少女が触角を揺らして振り返り、

「一身上の都合でこちらのクラスに転入する事になった平井ゆかりです。どうぞよろしく」

 満面の笑顔で挨拶した。言わずと知れた、平井ゆかり。転入して来たというより、戻って来たというべきだろうか。当の彼女にとっては、夏休みに入るまで普通に通っていた場所である。
 もっとも、かつてのクラスメイトはその事を覚えていない。彼女に集まる視線は、あくまで初対面の転校生に向けられるものである。

「(んー、やっぱり来たかー)」

 そんな中で、夏休みの内に何度も遊んだ緒方真竹は冷静であった。事前に聞いていた訳ではないのだが、流石に三度目となるとサプライズにもならない。
 所謂、転校生=坂井悠二の知り合いパターンである。他のクラスメイトもすぐに気付く事だろう。

「(美少女三人が坂井君を追い掛けて、って言うのは……流石に現実味ないけど)」

 ここまで重なると、偶然で片付ける方が不自然に思えてくる。しかしまあ、緒方からすれば友達が増えるのは大歓迎だし、悠二の秘密を詮索しようとも思わない。
 が、それは緒方に限った話……

「(一美は正直、複雑だろうなぁ)」

 悠二に想いを寄せる吉田の反応を、緒方は横目でさり気なく窺う。どうせまた狼狽しきっているに違いない……と思いきや、

「(あれ?)」

「…………」

 平井の登場に、吉田は何の反応もしていなかった。と言うよりボンヤリと宙を見つめていて、明らかに上の空。まるで数学の授業中の田中のようである。
 吉田らしくない様子を訝しんでいる間にも、転入イベントは進む。

「ん? どうした近衛」

 空いた席に座るように、という担任の言葉に平井が返事するより早く、ヘカテーが動き出したのだ。
 無言でグイグイと平井の手を引き、“何故か空いている”悠二の後ろの席に座らせる。これには初対面のクラスメイトだけでなく、悠二や平井も驚いた。
 ヘカテーがこんな風にワガママを示すのは珍しい。平井の思いつきに便乗したり興味本位でフラリと居なくなる事は多いが、自分から他人を引っ張り回す事は多くないのだ。

「えーっと……」

 おまけに少し、様子がおかしい。まるで子どもたちが拗ねているような頑なな主張が感じられる。
 よく解らない……が、平井としては悪い気はしない。

「先生、悠ちゃんの後ろの席で良いですか!」

「悠ちゃん言うな!」

『またお前か!?』

 平井が挙手し、悠二が叫び、クラス全体が打てば響くようにハモる。
 予定調和にも似た騒がしい教室で、

「はっ!?」

 些か以上に遅れて、吉田一美は我に帰った。
 そんな彼女を―――池速人はジッと見つめていた。




 まだ日の高い佐藤家の室内バー、冷房の効いた部屋で昼間から酒を呷るマージョリー・ドーの許に……今日は客人が来ていた。

「先の一件に関する情報操作と隠蔽は完了。“探耽求究”の『撹乱』が一般人の意識を妨げていた事もあり、今後への影響は無いと考えて良いのであります」

「事後報告」

 同じくフレイムヘイズ、ヴィルヘルミナ・カルメル。以前からの飲み友達という事もあり、彼女はしばしば佐藤家を訪れていた。
 もっとも、根が実直な仕事人間であるため、その話題はシリアスなものになりがちである。

「ヒャッヒャッ! そいつぁゴクローサン。毎日毎日ダラダラやってる我が怠惰なる相棒マージョリー・ドーとは大違ブッ!?」

「事後処理の心配なんて最初からしちゃいないわよ。で、あのミステスはどうなわけ?」

 耳障りな声で余計な皮肉を言うマルコシアスを、マージョリーは平手で乱暴に黙らせる。
 『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーにとって、坂井悠二はやっと見つけた仇敵の手掛かり。その動向を気にするのは至極当然なのだが、

「……坂井悠二については、自在法の上達と近接戦闘技術の停滞以外に特筆すぐき変化は無いのであります。先の戦闘で発現した姿も、“彼の炎”と関連する現象ではなかったようでありますから」

 ヴィルヘルミナには、その関心が上辺だけのものに感じられてならない。
 常は自堕落に、徒を前にすれば苛烈に、というのはマージョリーの基本スタイルだが、これは彼女にとって平常であってはならない案件の筈なのだ。
 案の定と言うべきか、マージョリーは「ふぅん」と鼻を鳴らすだけで、それ以上言及して来ない。らしくない……とは思うものの、ヴィルヘルミナの方から口を出す事は無い。只でさえ複雑な坂井悠二……『零時迷子』の問題を、不用意に荒立てる事はしたくない。

「大きな変化という意味では、むしろ平井ゆかり嬢の方が顕著でありましょうな。“頂の座”の助力あってのものとはいえ、一月前まで人間だったとは思えない成長であります」

「ヒラ? ……あー、あの子か。素質はともかく、“二人共”ってのは流石に珍しいわね」

 いずれ敵に回る可能性がある平井に対する関心も薄い。
 ただ、ヴィルヘルミナとてマージョリーの事ばかりは言えない。教授は必ず近い内に再び現れる。『零時迷子』に刻まれた自在式の正体を知る日も遠くない。
 それが……彼の、彼女の今を、どんな未来へと導くのだろうか。

「…………」

 その時 自分は―――どんな選択をするのだろうか。




 新学期……と言っても、登校初日は始業式とホームルームのみで、昼を待たずに解放される。夏休みの宿題をしていなかった一部の生徒以外には気楽な日なのである。
 転校生たる平井も、小一時間ほど質問責めの嵐に見舞われてから近場のファミレスに繰り出していた。無論、悠二やヘカテーを始めとする『いつものメンバー』と一緒に。
 しかし昼頃という事もあって店内は混んでおり、少し離れたボックス席に男女別で座る形となっていた。

「ふー……」

 そしてこの成り行きを、吉田一美は大いに大いに有り難がっていた。「息が詰まっていました」と言わんばかりの溜め息が、彼女の心中を如実に物語っている。
 そしてこのタイミングでこの態度は、流石に平井の触角に引っ掛かる。

「どったのKY?」

「イニシャルで呼ばないで!?」

「じゃあ……D?」

「それもヤメテ!」

 軽いジャブに対する反応は良好。女子だけになった途端にこれならば、取り敢えず自分が原因ではなさそうだと平井は安堵する。
 しかし入学当初ならともかく、今さら吉田が悠二らと居る事に緊張するとも思えないのだが……

「まーまーメニューでも見なさいな。あたし的にはイチゴミルクかき氷とか推してみる」

 敢えて平井は追及しない。吉田から見れば知り合って一月足らず、悩み事に無遠慮に踏み込める関係ではない。

「(うぅ……何か、気付かれてる?)」

 一方の吉田も、自分の態度が不自然な事くらいは理解していた。
 解っていても、繕えない。何もなかったかのように振る舞う事など彼女には不可能だった。

「(池君が、私を……)」

 そう……夏休みのある日、吉田にとっては初めて平井に会った日に、彼女は池告白にされたのだ。
 吉田からすれば、想像すらしていなかった異常事態である。何しろ池は、これまで何度も吉田を助けてくれていたのだから。
 ―――悠二を振り向かせようとする、吉田を。

『返事は要らない。ただ、知っていて欲しかった』

 もちろん、それで吉田の気持ちが変わる訳ではない。しかし、だからと言って何も感じずにいられる筈もない。
 気まずさ、申し訳なさ、後ろ暗さ、嫌でも浮かんでしまう、「どうして私を好きになんてなったんだ」という手前勝手な気持ち。

『だからもう、吉田さんの背中は押せない。自分で頑張って……って言うのも無理かな』

 冗談めかして笑う横顔が……別人のように大人びて見えた。

「来週には実力テストだけど、また勉強会とかする?」

「んー……池さえ良けりゃ頼みたい」

「へぇ、意外と乗り気なんだ?」

「追試と補習が無い解放感を知っちまったからなぁ~」

 その池はと言えば、離れた男子の方の席でごくごく自然に融け込んでいる。吉田には会話の内容までは知りようがないが、和気藹々とした雰囲気は遠目にも見て取れる。
 あの告白は本気ではなかったのか? という疑念が僅かに浮かぶが……そんないい加減な事をする少年では断じてない。

「(これから、どんな顔してれば良いんだろ……)」

 自分の想い、池の想い、ヘカテーの想い、平井の想い、そして未だ掴めない悠二の想い。四方から壁が押し寄せて来るような困難な恋に、吉田は弱々しく頭を抱えた。

「……………………」

 そんな吉田を不思議そうに見つめる平井や緒方とは違い、ヘカテーの目は警戒に細められていた。彼女にとって、吉田はある意味でシャナ以上に油断ならない敵なのだ。
 基本的に興味の無い事に無頓着なヘカテーだが、吉田の動向には必要以上に敏感である。

「………………」

 そんなヘカテーは、隣りのシャナに横目で観察されている事に気づいていない。
 今は黒く冷えた瞳が、紅世の巫女を静かに見つめていた。

「(こいつがこの街に来た理由は、今でも解ってない)」

 シャナが御崎市に留まっている最大の理由は、ヘカテーと悠二の監視だ。もっとも、シャナとて今ここでヘカテーが暴れ出すなどと考えている訳ではない。
 “壊刃”サブラクを相手に命を懸けて戦った事実。擬態では有り得ない危険な行為が、ヘカテーの『今』への執着を証明していた。故に今、シャナの眼に映るのは警戒以外の色。

「(だけど……)」

 転校して来た平井を、半ば強引に“彼女の席”に座らせたヘカテーの態度が、シャナには少しだけ理解できていた。

「(存在の、欠落……)」

 シャナはフレイムヘイズとして、ヘカテーは紅世の徒として、『この世の本当の事』を理解している。しかし、だからこそ、それは彼女らにとって己の世界に大きな影響を持つ事のない“他人事”にしかなり得なかった。
 それが人の暮らしに紛れ、馴染み、奪われた事で、漸く己が喪失として実感出来ているのだ。
 あの時の態度は、その一端の現れ。自分の日常に侵入して来た『現実』に対する、怒りにも似た拒絶だった。

「(悪い傾向じゃ、無いんだろうけど……)」

 心の機微に疎い自分が、何故ヘカテーの感情をここまで察する事が出来るのか。その理由を解っていながら―――シャナは気付かないフリをする。





[37979] 8-2・『白の爪痕』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:0973b51b
Date: 2014/09/06 06:23
「うっりゃあぁーーー!!」

 実力テストを控えた九月の夜中、今日も今日とて封絶の中に雄叫びが木霊する。全身全霊で振り下ろされる平井の竹刀……を、シャナの振り上げた一撃が いとも簡単に弾き飛ばした。

「軽い」

「ギャフン!?」

 丸腰となった脳天に全体重を乗せた一振りを受けて、平井は虹野邸の庭に減り込む。
 相も変わらずの鍛練の風景を横目に、悠二は静かに座って『グランマティカ』を弄り続けていた。

「(ミステスになって一月ちょっとか……僕は丁度、『万条の仕手』相手に必死に逃げ回ってたっけ)」

 どうしても自分の頃と比べてしまうが、比較対象が規格外すぎて良く判らない。そんな悠二の対面で自在式を観察するヘカテーも、悠二の視線を追って平井を見た。

「……悠二はトーチとして造られ、ゆかりは戦闘用のミステスとして転生しました。ある程度の差は仕方ありません」

「……あー、うん」

 ヘカテーなりのフォローのつもりの様だが、おかげさまでハッキリしてしまった。やはり、当時の悠二より今の平井の方が強いらしい。

「ミステスの中には、造られた直後に“製作者”を殺してしまう者もいる。そういう連中と比べれば、あの娘の成長は寧ろ遅いくらいだ」

 長年『炎髪灼眼の討ち手』候補を育成し続けていた習慣からか、メリヒムまでが会話に入って来る。
 ミステスとなった直後に徒を倒す。悠二の時には、全く考えられなかった事である。

「戦闘用の、ミステスか……」

 弱いより強い方が良いに決まっている。そんな風に考える悠二は、自分と平井……似て非なる存在を交互に見比べてから、

「だからゆかりの灯火は、脈打ってないのかな」

 何の気なしに、見たままの感想を述べた。ヘカテーやメリヒムが、言葉少なに肯定してくれると思って。
 しかし二人は……怪訝そうな視線を悠二へと向けた。

「……脈、ですか?」

「どういう意味だ?」

「ヘ? どういうも何も、見たままだけど」

 悠二としては、それほど妙な事を言ったつもりは無い。……が、二人の反応は ごく当たり前の発言に対するものとは明らかに違う。
 という事は、

「二人とも、見えてないの?」

「……私には、どの灯火にも鼓動など確認できません」

「あの娘以外の灯火は、全てがそうなのか?」

 肯定。今までずっと“トーチとはそういう物だ”と思っていた認識を指摘されて、悠二は首を捻る。
 今回は『零時迷子』に刻まれた自在式の影響とも思えない。何せ、悠二以外の灯火……未だ街中に散在するトーチ達にも鼓動は在るのだ。例外は戦闘用ミステスである平井だけ―――いや、

「違う」

 かつて目にして、しかし気付けなかった違和感が、鼓動というキーワードによって鮮烈に蘇る。

「最初にメリヒムに会った街……あそこのトーチにも、鼓動が無かった!」

 何か変だとは思い、しかし明確に出来なかったせいで忘却していた記憶に、漸く得心がいった。
 だが、それはそれで新たな疑問が生まれてくる。戦闘用のミステスが何処にでも彷徨いている訳がない。つまり灯火の鼓動は、通常のトーチ全てに共通する現象ではないという事だ。ならば……“これ”は、一体何だと言うのか。

「ゆかりと あの街のトーチだけ、灯火の鼓動が無い……」

「いや……逆だ。俺たちに見えない以上、その鼓動とやらが在る方が異常と考えるべきだろう」

 悠二の言葉をヘカテーが反芻し、メリヒムが客観的に判断する。
 平井が戦闘用ミステスだから鼓動が無いのではなく、トーチの鼓動という現象そのものが異常。そして、あの街のトーチには鼓動が無かった事を考えると……

「“僕を含めた御崎市のトーチが”、おかしいのか」

 他の街のトーチと、悠二が造った平井には鼓動が無いのだから、消去法で考えれば結論は出る。ヘカテーが無表情を微かに顰め、悠二の脳裏に薄白い姿が鮮烈に蘇る。
 この御崎市で存在を乱獲し、トーチを大量に生み出した張本人。悠二にとって決して忘れられない絶望の象徴―――“狩人”フリアグネ。

「そもそも、この街のトーチは数が多い割に一体一体の力の残量が妙に多い。まるで……“わざと長持ちするように造った”様にさえ見える」

「……フリアグネが、トーチを使って何かしようとしてたって事?」

 よく考えれば、フリアグネが何を目的に御崎市に留まっていたのか、悠二は知らない。悠二という餌に食い付いて来た所を、ヘカテーの力で返り討ちにしただけ。今にして思えば、ただ人間を喰い荒らすだけが目的ではなかったのかも知れない。
 元凶たる王を倒した安心感から これまで深く考えはしなかったが、トーチに何かの仕掛けが残ったままというなら、もう一度……

「(―――いや、待て)」

 そこまで思って、一つの可能性に気付いて―――戦慄する。
 それと同時、

「丁度良い話をしているようでありますな」

 外界宿(アウトロー)の書類整理で今夜は欠席の筈だったヴィルヘルミナが、音もなく現れた。相変わらずの鉄面皮だが、身に纏う空気に不穏な何かが漂っている。

「……何かあったの?」

 それを察してか、平井とシャナも鍛練の手を止めて集まって来た。何故か悠二から視線を外さないヴィルヘルミナの横顔に浮かぶ感情を、シャナだけが正確に見抜く。

「最近、外界宿から送られてくる資料の粗雑さが気になっていたのでありますが、先刻、漸く その原因が判明したのであります」

 淡々と、ヴィルヘルミナは事実を告げる。何の感情も伺い知れない声色に、何故か悠二は嫌な予感を覚えた。

「結論から言うと、東京外界宿総本部は壊滅させられていたのであります」

「…………」

 その予感のおかげか、努めて冷静に衝撃の事実を受け入れられた。
 フレイムヘイズの情報交換・支援施設『外界宿』。その総本部が“壊滅した”と言われれば、大して情報に通じていない悠二にも事の重大さが伝わって来る。
 そして、フレイムヘイズの敵として真っ先に思い浮かぶのは……

「襲撃犯は判っているだけで“紅世の王”が三名。一人は不明、一人は“探耽求究”ダンタリオン」

 やはり徒。しかも一人は良く知る名前である事に悠二が反応しようとした時、

「最後の一人は、多数の燐子を従え、薄白い炎を纏った、宝具使いの王だったそうであります」

「…………え?」

 続けられた言葉に、悠二は今度こそ間抜けな声を上げた。対称的に、ヘカテーは僅かに眼を険しく細める。

「“狩人”フリアグネは、貴方方が討滅したと聞いた筈でありますが?」

「いやいやいや! そんなわけないって!」

 あからさまな詰問に、たまらず悠二は叫んだ。イマイチ話の見えなかった平井、シャナ、メリヒムが、ここにきて納得の顔をする。

「“狩人”が生きてる訳が無い! あの時 確かに―――」

 確かに……“倒したのだろうか?”
 言葉の途中で、悠二は致命的な誤解に気付いた。突き出した右手、弾けた銀炎。自分とヘカテーだけで迎えた、静かで穏やかな零時。
 確かに……“倒していてもおかしくはない”。だが、“そこまで”だった。

「徒は人間と違って死体が残らないからな。炎になって消える瞬間を見たとしても、それが実は分身だったという事もある。詰めの甘い未熟者には特にな」

 悠二が不自然に言葉を切ったのを肯定と見てか、メリヒムが意地悪く笑う。
 ……実際は、メリヒムが挙げた例よりも酷い。消えた瞬間を見るどころか、炸裂と同時に腕が焼失したせいで手応えすら曖昧だった。

「だ、だけど……」

 何とか否定しようと判断材料を探して、しかし見つからず、逆に……ついさっき気付いた可能性を思い出してしまった。

「……そう、か」

 外れた存在が消滅すれば、仮初めの因果を失い、この世に在った痕跡すら無くなる。
 つまり、フリアグネが施しただろうトーチの仕掛けも消えるのだ。それが今も残っているという事は……そういう事なのだろう。

「あの“狩人”が生きていて、おじ様と手を組んだという事ですか」

「何か、ものスッゴい厄介そうだね」

 当事者だった悠二の証言によって、当たって欲しくない憶測は確信に変わった。
 目に見えて重くなる雰囲気の中で、シャナは変わらず冷静に言う。

「仕留め損ねた事を今 後悔しても意味が無い。むしろ、いま気付けたのは運が良かったと思うべきよ」

「その通りだ。敵の正体を知っていた方が、事前に対策も立て易かろう」

 アラストールも同意する。揺らぎの欠片すら見えない毅然とした少女の姿に、ヴィルヘルミナとメリヒムは誰にも判らないほど小さく、微笑んだ。

「そうか……うん、トーチの仕掛けも、今の内に何とか出来るかも知れないな」

「……次は、負けません」

 悠二が気を取り直し、ヘカテーが密かに燃える。御崎市を守るという一点に於いて、もはや一片の迷いも見せない二人の後ろで……平井は、静かに拳を握り込んだ。

「(王が三人、か……)」

 『零時迷子』を取り巻く事態が加速度的に動いている事は、彼女にも解っていた。激化するだろう戦いを前に、自分が未だ戦力外だという事も同様に。
 人ならざる身で紅世の異能に曝される恐怖は勿論ある。だがそれ以上に、ミステスになったにも拘わらず力の足りない自分へのもどかしさがあった。
 戦いが激しくなるからこそ、尚更に。

「(今のあたしには、決定的に何かが足りない)」

 まともに炎が出せないのも、単に自在法が苦手というだけではないだろう。己の存在そのものを完全に意志総体の支配下に置く、異能者として不可欠な何かが。

「よぉーっし! やる事も決まったし、チャッチャとレベルアップしないとね!」

 自分の弱さが、誰かを泣かせる。もうあんなところは見たくない。
 ―――その決意が御慈悲に踏みにじられるなど、この時の平井には知る由もなかった。




[37979] 8-3・『都喰らい』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2014/12/20 11:21
 実力テストを越え、夏服の白が冬服の深緑に変わる頃、御崎高校には大きなイベントが訪れる。

「では、発表します」

 清秋祭。主催が学校のみに留まらず、近隣の地域にも展開される、御崎高校最大のイベント……平たく言えば学園祭である。もっとも、今は準備期間の頭も頭。クラスの出し物を決めるホームルームの時間だ。

「今年度、我が一年二組の扮するテーマは……」

 但し、クラスの意見を生徒会が調整する出し物とは別に、一年のみに許された“晴れ舞台”については、その限りではない。既にクラス代表同士の話し合いによって答えは出ていた。

「『シンデレラ』に決定しました」

 清秋祭は、一年の各クラスの代表が開会パレードで仮装して街中を練り歩き、学園祭を宣伝するという一風変わった催しがある。
 例に漏れず一年二組にも、パレードに参加する権利が与えられていた。そして同時に、クラスの出し物の方も決定した。

「まあ、予想の範囲内かな」

「配役どうするー?」

「オレ絶対やりたくねぇ……」

「いや、無駄な心配しなくても誰もオマエ推さねーよ」

 そう、即ち、『パレードのテーマに合わせた演劇』である。
 このパレード、実は仮装コンテストというイベントにも発展する。「本気で優勝を狙うなら」と、夏休み前に平井が激しく主張した結果、クラスの皆も根負けする形で納得したのだ。
 実際、ヘカテーやシャナのような絶世の美少女がいるのだから、優勝というのも決して絵空事ではなかった。
 ……ただ、悠二ら異能者を除く誰も、それを誰が主張したのかは覚えていない。それを不思議にも思わない。

「っていうか、ヘカテーちゃんとシャナちゃんは決定でしょ?」

「どっちがシンデレラなんだ?」

「そりゃやっぱり、王子様次第でしょ」

「……今更だけどさ、あの二人に演劇なんてやれるの?」

 ともあれ、演目が決まった今からが、一年二組の文化祭の始まりである。演劇だけでは暇な人間も出てしまうので他の出し物もやるが、やはり真っ先に話題になるのは演劇の……仮装パレードの配役だ。

「心配ご無用! あたしが配役に合わせてアレンジ脚本つくるから!」

 クラスの視線を独占するかのように、平井が元気よく手を伸ばす。転校生が目立ち過ぎると不況を買う事も多いが、彼女には不思議とそういった反発が起きない。まるで、“最初からクラスの一員だったかのような”収まり具合である。

「誰でも知ってるシンデレラの話なぞるより面白そうだけど、それが出来るまで役も決められないじゃん」

「ん、だからメインだけは今から決めとこうと思います」

 自分が脚本を作りたい、などという物好きは平井しかおらず、提案はあっさりと通る。ややのイレギュラーを挟みつつも、話は本題に至った。

「細かい配役は平井さんの台本が出来てからにするとして、最低でもシンデレラ、王子、魔女、継母と姉二人くらいは決めておこうか」

「……女子ばっかだな」

「男役の水増し、と……」

 池がまとめ、悠二が呟き、平井がメモる。じゃあ立候補は、と、藤田晴美が言うよりも早く、

「は、はい……!」

 顔を真っ赤にした吉田が、カチコチに身体を強ばらせながら、手を挙げた。

「わたし、その……シンデレラ! を……やり、たい……で、す……」

 自らを奮い立たせるような声を出して、それが尻窄みに小さくなっていく。振り絞った勇気が、ピークを過ぎて恥ずかしさと申し訳なさに押し潰されそうになっているのだ。
 無理もない。他のクラスメイトを差し置いて「自分がシンデレラしたい」など、吉田でなくとも言いにくい。それを率先して口に出すほど、彼女も必死なのだ。

「(ここは絶対、退いちゃダメ……!)」

 成り行きから言って、ヘカテーとシャナは間違いなく何らかの役を与えられる。この演目が“そういう要素”を全く持たないものであれば、吉田とて立候補などしない。むしろ目立たないように小さくなっていただろう。
 だが、ヘカテーが『シンデレラ』に参加するとなれば話は別だ。ヘカテーがシンデレラになれば、おそらく王子役は悠二になる。怖じ気づいている場合ではない。……このホームルームを仕切っているのが、池であっても、だ。

「(目を合わさないようにされてる分、まだマシなのかもなぁ)」

 全く気にもされなかったら、その方がショックは大きかった。そんな切ない事を考えながら、池は黙々と吉田の名前を黒板に書く。勘の良い者はもう、薄々池の玉砕に気付いているかも知れない。
 一方、

「む」

 ヘカテーは吉田の行動を見て、ただならぬ空気を感じ取っていた。他の者も驚いてはいるが、それとは種類の違う関心……つまりは危機感である。

「(ケーワイの、あの顔は……)」

 実のところ、ヘカテーは『シンデレラ』がどんな話なのか知らない。吉田が傍観していたとしても、よく解らぬまま主役を別の誰かに譲っていた可能性も高い。
 だが恋敵の見せた並々ならぬ決意が、無垢な少女に気付かせた。「これは戦いの始まりだ」と。

(シュピッ!)

 先手必勝。鋭く振られたヘカテーの指先から、純白のチョークが矢の如く放たれる。
 しかし吉田の席はヘカテーより後ろだ。いくら吉田でも、身体ごと振り返るモーションの大きな動きに反応できないほど愚鈍ではない。

「はあーっ!」

「あ痛ぁ!?」

 ベッタリと机に張り付いて回避する。チョークは吉田の頭上を越えて、後ろの席の菅野の鼻っ柱に直撃した。

「ヘカテー、止めなさい」

 すかさず次のチョークを取り出すヘカテーの首根っこを捕まえる悠二。不満そうに見てくるヘカテーの眼をジッと見つめ返して、渋々ながらも止めさせる。

「(はぁ……何でシンデレラになんて……)」

 この状況を誰よりも嘆いているのは、実はこの悠二だった。
 ハッキリと言葉にされた事こそ無いが、悠二はヘカテーに、吉田に、そして平井に好意を寄せられている事に気付いている。気付いて、しかし、彼女らに示せる明確な答えを持てずにいた。
 当然、そんな自分の情けなさが原因でヘカテー達が揉めるのも見たくない。
 かと言って、吉田がシンデレラに立候補してしまった今となっては、もう自分以外の誰かを王子に推薦する事も出来ない。それがどれほど無神経な行為なのかくらい、流石に判る。

「シンデレラ希望が吉田さんとヘカテーちゃん、と。他にやりたい人いる?」

 そんな悠二に助け船を出した、というわけでもないが、表面上は平静な池が他の女子達にも呼び掛ける……が、当然のように手は挙がらない。内心興味がある者も何人かいたが、ここまで決意を固めて事に臨んでいる二人の邪魔をする勇気は無い。
 ……ごく一部の例外を除いて。

「はいはいっ、あたしやりたい!」

 その例外たる平井が、張り詰める空気に気付いていないかのような朗らかな笑顔で手を振る。

『(やっぱり来た!)』

 そして、誰もその事実に驚かない。転校して来てから三週間足らず、もはや隠そうともしない平井の好意は周知の事実となっていた。「脚本を作る」などと言い出した時点で、こう来る事は予想がついた。

「(あーあ、坂井君すっごい汗かいてる)」

「(坂井君て、そんなにイイかねぇ。私にゃわからん)」

「(何をどうやりゃあんなにモテるんだ?)」

「(……秘訣を教えて頂きたい)」

 針のムシロに座っているような心境の悠二とは裏腹に、周りの目には好奇の色が強い。
 これで三人がドロドロとした陰険な争いを続けて、教室内の空気を悪化させていたなら迷惑にも感じただろうが、彼女らの性格では そういう事も無い。
 こうなってくると、漫画でしか見られないレベルの四角関係、傍で眺める分には正直おもしろい。一年の間ではちょっとした名物になっていたりする。
 クラスメイトが無責任に、かつヒソヒソ声で、しかも聞こえよがしに盛り上がる中、

「って感じかな」

「……ん、大体わかった」

 前の席の中村公子と何やら話していたシャナが、小さくも良く通る声で、

「シンデレラは私がする」

「何で!?」

 彼女までもが、静かに意思表明した。只でさえ崖っぷち気分の悠二が堪らず叫ぶ。
 シャナは「何故そんな事を訊くのか」と言わんばかりに眉を潜めて返す。

「シンデレラの姉って、立場の弱い妹を見下して優越感に浸ってた癖に、最後は鳥に目玉を抉られるんでしょ? そんな役、演技でもやりたくない」

「……………」

 シャナの後ろでニヤケ顔を作る中村を見て、彼女がわざと魔法使いの説明を省いた事を悠二は確信した。
 “転校して来たばかりの”平井と仲良くしている為か、シャナも以前よりずっとクラスに馴染んでいる。
 とにかく、シャナの偏った認識を改めさせようとした悠二は……不意に思った。

「(……もしかして、シャナがシンデレラやってくれた方が良いんじゃ?)」

 吉田達と違って、シャナには役に託けた意図など無い。ある意味、他の立候補者の誰より純粋に演劇に臨もうとしているとも取れる。
 しかしまあ、そんな調子の良い正論など誰も求めていない。黙ってしまった悠二など余所に、四人のシンデレラは立ち上がり、睨み合う。

「……ここは、公平にジャンケンで決めよう」

「投票とかにすると、後でヤな感じになりそうだもんね」

「望むところです」

「運も実力の内」

 瞳を燃やし、拳を握る。気炎を巻く少女らをオロオロと見守る悠二の姿は、情けないを通り越して哀れだった。

『ジャンケン……』

 突き出す拳が運命を分ける。
 誰かの直感が少しでも違えば何かが変わったのか、それとも何も変わらなかったのか。

「誰か私を労って……」

 鼻を押さえた菅野が、涙目で嘆いた。



 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 巨大な魔獣の腕が振り上げられ、それを上回る長大な槍が天を衝く。

「我らがババアにゴマ摺る為に死んでくれ」

 その槍が濁った紫色の炎を纏い、尋常ならざる存在感を撒き散らす。対する老体の生み出す幻影が全くの無意味だと、即座に確信できる程に。

「イヤァアアアーーー!! 逃げるのよドレルーーー!!」

 契約する王の叫びは、届いて、しかし受け入れられず、生み出した幻影もろとも、“若きフレイムヘイズ”は一撃の下に両断された。

「(来るか……?)」

 燃えて散り逝く最後の火の粉まで見届けてから、男は漸く槍と腕を元に戻す。
 警戒していた現象……契約した王の最期の顕現は、起こらなかった。

「これで……そろそろ拠点を移す外界宿(アウトロー)も出てくる頃合いか」

 サングラスの下の眼が見下ろす先で、紫の煉獄が広がり続けている。そこはかつて、『クーベリックのオーケストラ』と呼ばれる外界宿の本部の一つ……“だった”場所だ。
 闇夜に溢れた魔軍がその煉獄を包囲してはいるが、これはあくまで討ち漏らしを始末する為だけの布陣。この惨状は、ここにいるたった一人の徒によって起こされたものだ。

「(異常に気付いて何人か外界宿に向かってくれれば儲け物だが、流石にそこまで甘くもないだろうな)」

 掌の中央に牙だらけの顎門が開き、持っていた槍を飲み込んだ。男が咥えた煙草に紫の火を点すのを見計らってから、一人の徒が近付いて行く。

「お疲れ様です、将軍閣下。以前と寸毫違わぬ技の冴え、感服致しました」

「くくっ、あまり無意味に持ち上げるな。こいつを振るのも久しぶりだ。先の事を考えれば、もっと勘を取り戻す必要があるくらいだろう」

 組織を離れて好き勝手に動いていた自分にも変わらず尊崇の視線を向けてくる部下を可笑しそうに見返して、しかし王はすぐに視線を彼方へと移した。
 らしくない、その理由まで知っている部下は、まるで己が事のように消沈する。命令と言えど納得できない。しかし、疑念を挟むなど絶対に許されない。
 そんな部下の葛藤に、

「そう苦い顔をするな」

 将軍たる男は、憂いの中でも気づいた。

「ベルペオルに任せておけば何の心配も要らんさ。こういう事で俺が口を出して、上手くいった試しがないしな」

 吐き出す煙草に隠すように、疲れた溜め息が夜闇に溶ける。

「俺は……俺のヘカテーが満足してくれりゃそれで良いのさ」

 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の将軍、“千変”シュドナイは そう言って、意味も無く星空を見上げた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 実行委員に選ばれ、来たる清秋祭に向けて人より更に多忙を極める池速人。

「知恵を貸してくれ」

 そんなある日の昼休み、貴重な安らぎタイムであるはずの昼食を、何故か彼は屋上で、佐藤啓作と二人で採っていた。
 今ごろ教室で手作り弁当を貰っているだろう幸せ者に心中で呪詛を送りつつ、池は購買のパンにかぶりつく。

「前に言ってた、マージョリーさんに付いて行くって話か? 僕だってそういうの殆ど解らないって言っただろ」

「いやそうじゃなくて! どうやったらマージョリーさん達から話聞き出す方法が知りたいんだよ!」

 ドライに流そうとする池に、佐藤も噛み付くように食い下がる。
 要約するとこうだ。
 佐藤はマージョリーに惚れ込み、彼女のように強くなる為にフレイムヘイズに近付こうとした。その足掛かりとして平井に助力を求めたが、残酷な現実を見せつけられ、突っぱねられた。それでもめげずにシャナ、ヴィルヘルミナ、メリヒム、更にはマージョリー本人にも聞いてみたのだが、全て撃沈。
 しかし他に手掛かりを持たない佐藤は、何とかして情報を訊き出すべく、池の話術に目を付けた、という事だった。

「……って言われてもなぁ」

 やる気は漲っているのに、それを向ける先が見つからない。もどかしい気持ちは理解できなくもないが、メガネマンも少しばかり要領が良いだけで佐藤と同じ普通の高校生なのだ。あまり無茶な頼り方をされても困る。

「皆が反対したり隠したりするのは、それだけ危険だって事だろ? それに負けない覚悟と熱意を見せるしかないんじゃないか?」

 それでもどうにか、出来うる限りの助言はする。規格外な案件なのは確かだが、状況的には無謀な進路に反対する親の説得、に近い。相手を納得させる為のカードが精神論しかないのは難点だが、相手の方も親ほどに佐藤を止めはしないだろう。

「覚悟と熱意、かぁ……うぅ~ん。因みに、訊くなら誰が良い?」

「平井さん」

 覚悟を示せと言われて唸りつつ訊いてくる佐藤に、今度は即答する。

「平井ちゃん、かぁ?」

 佐藤は当然、首を傾げる。まともに相手にして貰えなかった他の面々はともかく、平井には理詰めで完膚なきまでに黙らされた。今さら口を割らせる自信は、はっきり言って無い。

「平井さんに言われたのは、“あっち”に関わるのがどれだけ危険かって事だけだろ。それを理解さえしとけば、僕たちの誰より佐藤を応援してくれる筈だよ」

 そんな佐藤の錯覚を、池が迷い無く否定する。池は今でも、佐藤の最初の見立ては正しかったと感じていた。
 外れた存在に惹かれる、無力な人間。かつての平井と佐藤の境遇は極めて近い。その認識を佐藤があっさりと改めてしまった事もまた……この世の真実の持つ残酷さだった。
 佐藤は、人間だった頃の平井を憶えていない。だから簡単に見誤る。“自分とは違う”と思い込む。

「それに、他の人達の方が断然厳しいと思うぞ」

 何より説得力のある一言で締めて、池はパック牛乳のストローを咥えた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「……ではやはり、トーチから敵の企みを看破するのは不可能、という事でありますか」

「予測不能」

 その日の放課後、虹野邸の一室でヴィルヘルミナと向かい合う悠二とシャナの姿があった。ヘカテーと平井は中村らに誘われて寄り道している。

「ああ、外部からの自在法に共鳴するだけの単純な仕掛けで、だからこそ それ単体じゃ何の意味も無いタイプだった。あれじゃ解析も何も無い」

 今日の案件は、『今も御崎市に残るフリアグネのトーチ』。以前話され、調査を開始し、その幾度目かの確認作業の締め括りである。

「トーチそのものを消せば自在法の種類なんて関係なくなるけど、あれだけ余力の残ってるトーチを残さず消したら歪みも相当大きくなる」

「……いざとなったら躊躇しないけど、出来るだけやりたくないな」

 結果は上々、とはいかなかった。もしまた……いや、近い内に必ず訪れる敵の襲撃に備えて不安の種は消しておきたかったのだが、それもどうやら難しいようだ。

「外界宿の方は?」

「……日本だけではなく、世界各地に点在する重要拠点が次々と落とされているようであります。情報伝達の崩された現状では、正確な被害を把握するのは至難でありましょうな」

 良くない報せばかりが相次ぐ。悠二は、フレイムヘイズであるシャナやヴィルヘルミナはまだ無事な外界宿の防衛に就くべきなのではと提案した事もあるのだが、彼女らはそうしない。
 一連の被害の終着点が、この御崎市にあると確信しているからだ。

「……トーチを利用する仕掛けならば、一つだけ心当たりがある」

 不意に、シャナの胸元のアラストールが重々しく口を開いた。ヴィルヘルミナの眉が、悠二には判らない程度に動く。

「一定量に達した街中のトーチを、一斉に分解する秘法だ。急激に安定を崩された空間は雪崩を打つように崩壊し、“都市そのものが存在の力に分解された”。本来なら徒が喰らうに適さぬ人間以外の生物や、物質までも」

「街一つを、丸ごと……?」

 唐突に出て来た恐ろしい話に、悠二は顔を引き攣らせて戦慄する。封絶の中ならば、破壊されたモノはいくらでも修復できる。しかし、存在を奪われたモノは二度と元には戻せない。それを、この御崎市そのものに行われたら……
 最悪の未来を思い浮かべる悠二の後ろから、

「……ハッ」

 嘲るように鼻で笑う声が聞こえた。振り返れば、さっきまで熟睡していたメリヒムが、ソファーに寝転んだ体勢のままアラストールに半眼を向けている。

「何を言い出すかと思えば、それが心当たりか? “狩人”か何か知らんが、かの『都喰らい』を有象無象に再現出来る訳がない。無用な混乱を招くぐらいなら大人しく装飾品としてぶら下がっているが良い」

「貴様こそ、協力する気も無い輩は下がれ。常に最悪の事態を想定しておかねば、いざという時に出鼻を挫かれるのだ」

「焼くしか能の無い破壊神が大規模な自在法の仕組みを見破ろうとする事自体が身の程知らずと言うものだ。お前は黙ってシャナに炎だけ貸していろ」

「破壊しか出来ぬのは貴様の方であろう。気紛れに戦いを楽しむだけで普段は寝てばかりの穀潰しが」

「……えー、と」

 『都喰らい』という不気味な言葉に反応する暇もない。ガミガミと言い争うメリヒムとアラストールに、悠二は所在なく頬を掻く。
 そんな二人を脇に置いて、ヴィルヘルミナが素知らぬ顔で話し出した。

「かつて『都喰らい』を発動させた徒というのが、彼が仕えていた王なのであります。かの秘法を低く見られたようで気に入らないのでありましょう」

「メリヒムの主、ね……」

 この傲慢を絵に描いたような王が誰かに仕える姿というのも想像し難い情景だ、などと思いつつ、悠二の関心は見知らぬ歴史より眼前の光景に向いた。
 前から薄々気付いていたが、やはりこの二人 恐ろしく仲が悪いらしい。

「“天壌の劫火”の仮説を想定したとしても、“都喰らい”の発動に必要なトーチの数は全体の一割。今の御崎市のトーチは、まだ完成には程遠い状態であります。万一の場合であっても……」

「完成する前に討滅すれば良い」

 そんな男共の言い争いに構わず、ヴィルヘルミナとシャナがお茶とミックスジュースを啜りながら話をまとめた。

「(……何か、シャナ達と協力するのも当たり前になってきたな)」

 話の内容こそ物騒なものの、今この瞬間は間違いなく平和な彼女らの様子を見て、ふと悠二は思う。
 初めて会った時は、間違いなく敵だった。それから幾度か、利害の一致という理由で命懸けの戦いを経て……共に戦うのが当然のように感じられてきている。
 状況は大して変わっていない。悠二は自分の命と街を、シャナ達は世界のバランスを守る為に戦っている。それでも、確かな違いがある。互いの目的の為に力を合わせる事に、抵抗というものが無くなっていた。

「(フレイムヘイズか……)」

 世界のバランスを守る為に紅世の王から見出された“元人間”。その使命に実感など湧かないが、結果的に何も知らずに喰われる人間を守れるなら、それは悪い事ではないと思う。
 終わりの見えない戦いの運命に自ら身を委ねたシャナの決意と覚悟には尊敬の念すら抱く。だが、その背中を追い掛けたいかと問われれば、言いようの無い違和感に見舞われる。

「(どんな道を進めば良いんだろうな、僕は……)」

 正解など無い未来を思って、少年は静かに嘆息する。
 ───運命の邂逅は、もうすぐそこまで迫っていた。





[37979] 8-4・『清秋祭、来たる』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/03/17 17:57

「……完成です」

 ヘカテーが両手で掲げた一品を見て、おぉ、と隣で見ていた平井が感嘆の声を上げる。
 その手にあるのは、不自然なまでの三角形を誇るチョコバナナクレープ。中のバナナまでトライアングルカットである。

「……四度目にして成功かぁ。やっぱりお菓子だと上達早いみたいだね」

 幸せそうにクレープに齧り付くヘカテーを見て、平井が感慨深く唸る。料理を始めて一ヶ月、未だに目玉焼き一つ満足に作れないものの、お菓子に関しては意外な上達を見せるヘカテーだった。作った物が漏れなく三角形になるのはご愛嬌。

「悠二に作ってあげられそ?」

「……………」

 からかうでもなく、慈母のような笑顔で訊かれ、ヘカテーは顔を背けて頷いた。
 ほんのり桜色に染まった横顔に芽生え始める花を重ねて、平井は更に笑みを深める。見ているだけで癒やされる可愛らしさだ。

「(うんうん、この調子なら、その内うまく役割分担出来そう)」

 やや目的を履き違えている感もあるが、この練習は別に悠二へのポイント稼ぎではない。一年二組のもう一つの出し物がクレープ屋に決定したのだ。
 勿論ヘカテーの担当は劇に集中するわけだが、劇が行われるのは二日ある清秋祭の初日のみ。本人の意向もあって、彼女は二日目の午前にクレープ屋を任される事となった。吉田に張り合って始めた事だが、今では純粋に料理を楽しんでいる節が見受けられる。

「よし、クレープはこれくらいにして晩御飯にしよっか。ヘカテー、そっちのボールとかお願いね」

 まだクレープを齧っているヘカテーの肩を叩いて、平井はエプロンを装着する。本日は千草が町内会の付き合いで留守なので、夕食を作るのは彼女の仕事だ。そうでなくとも、最近は平井も千草の料理を欠かさず手伝っている。

「……………」

 そして当然、ヘカテーはそんな平井の姿を見ていた。

「(……何故?)」

 当たり前の疑問が、当たり前に浮かんでくる。平井がこんな風に坂井家の厨房を預かるようになったのは、八月後半……彼女がミステスとなって暫くしてからだ。
 ヘカテーは悠二への想いを自覚し、同じく悠二に想いを寄せる吉田に対抗して料理を始めた。ならば……平井はどうして? そう思っていながら、何故かそれを口に出して訊ねられない。
 自分でも不可解な心の動きに困惑していると、平井がヘカテーの視線に気づいた。

「あー……これ?」

 ヘカテーは、ただ平井を見つめていただけ。その瞳の色に何を見たのか、平井は照れ笑いのような顔でエプロンを抓んだ。相変わらずの察しの良さが、今だけは妙に居心地が悪い。

「あたし料理はそこそこ出来るつもりだけど、まだ“千草さんの料理”はマスターしてないからさ」

 スルスルとジャガイモの皮を剥きながら、訊いてもいない事を語り出す平井。イマイチ真意が掴めない。

「……あたしはもう憶えてないけど、やっぱり“お袋の味”って特別だと思うんだよね」

 素早く『達意の言』を繰る。“お袋の味”とはつまり、自分を育ててくれた母親の馴染み深い料理を指すらしい。
 確かに、坂井千草の料理はとても美味しい。習得できるなら、それに越した事は無いだろう。中途半端に納得しようと努めるヘカテーに、

「───いつかここを旅立っても、あたしが作ってあげられるようになりたくて」

 あまりに優しい声で、平井は告げた。
 その横顔が、あまりに楽しそうで、あまりに嬉しそうで……

「……………」

 何だか平井が、遠く見えた。





 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 ヘカテーと平井が夕食の支度に励んでいる頃、自室のベッドで台本と睨めっこする少年の姿があった。言うまでもなく、坂井家の実子・坂井悠二である。

「意外にセリフが少ないのが、救いと言えば救いか……」

 台本の『王子』……相談らしい相談も無く任された大役を思って、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。

「(気が重い)」

 外見ならば佐藤、要領の良さなら池、他にも悠二より王子に適任な男子はいくらでも居る。この人選は明らかに間違っている……のだが、実際には悠二は唯々諾々と大役を請け負った。
 あの場で別の誰かに役を譲ろうとすれば男女問わず全てのクラスメイトを敵に回すのは解っていたし……正直、悠二自身も面白くなかった。
 何はともあれ、引き受けたからにはやるしかない。隣に立つのは規格外の美少女だ。只でさえ不釣り合いなのに、そのうえ舞台でオドオドした姿を晒せば どれだけ無様に映る事か。

「(王子様……王子様……)」

 イメージ作りの為にそれらしい姿を思い浮かべ……銀髪の傲慢王子が脳裏を過ぎって頭を振る。長身の美形は正直うらやましいが、外見は芝居の参考にならない。
 まぁとりあえず威厳のある感じにやってみるか、などと思いながら台詞を読み上げようとした時、

(コンコン)

 軽いノックがドアの方から聞こえてきた。台詞の練習を聞かれなかった事に安堵しつつ「開いてるよー」と気軽に答えると、自室のドアが開き───予想外の人物が入って来た。

「……へ?」

 帽子と背広をキッチリ着こなした老紳士。こんな平凡な時間に出会うなど想像した事もない“紅世の徒”。

「暫くぶりだな、坂井悠二。元気そうで何よりだ」

 悠二の自在法の師にして『グランマティカ』の名付け親、“屍拾い”ラミー……否、“螺旋の風琴”リャナンシーだった。

「ビックリした~。こんなに早く会えると思ってなかったから」

「本当は少し前から御崎市にはいたのだがな。『弔詞の詠み手』を警戒していたら遅くなった」

 紅世の徒と言っても、リャナンシーは消えかけのトーチしか喰わない無害な徒だ。
 紅世の徒 最高とまで言われる自在法の腕に加えて、性格的な意味での器も大きい この老紳士に、悠二は小さくない敬意を抱いていた。

「因果の交叉路で~なんて言ってたのに、こんな普通に会いに来るんだもんな」

「タイミングは悪くなかっただろう?」

「う……まさか見に来るつもり?」

 再会の凡庸さを笑う悠二の手元を指して、リャナンシーもまた笑う。
 何をしに来たのか。それを言わないし、訊かない。リャナンシーの途方もない旅の目的を知る者からすれば、わざわざ口に出すまでもなく判り切った事だからだ。

「とにかく、またよろしくお願いします」

「お互いに、な」





 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 日本の東北、居並ぶ建物の列に不自然に拓けた空き地……かつて外界宿(アウトロー)の支部の一つがあったその場所に、二人の討ち手が立っている。

「人間どころか、資材も建物も残っていませんね」

「ふむ……壊し損ねの一つもあれば助かったのじゃが、喰えぬ“物”まで丁寧に分解されておるか」

 一人は“不抜の尖嶺”ベヘモットのフレイムヘイズ『偽装の駆り手』カムシン・ネブハーウ。

「……妙だね。やってる事が矛盾してる感じだ」

「ああ。正体を隠そうとしてる割に、暴れ方が派手過ぎる」

 そしてもう一人は“糜砕の裂眥”バラルのフレイムヘイズ……『輝爍の撒き手』、レベッカ・リード。この一連の外界宿襲撃事件に於いて、恐らくは唯一の生き残りだ。
 東京外界宿総本部にて『骸躯の換え手』アーネスト・フリーダーと共に敵と交戦したものの、敗走。怪我の功名と言うべきか、フリーダーにトドメを刺した最後の一撃、一発の銃弾の起こした途方も無い爆発が、彼女に瀕死の重傷を与えながらも生き残らせた。皮肉な事に、助かった事が信じられないほどの威力が、逆に敵の詰めを甘くしたのである。
 カビと苔だらけの下水道で半日以上も生死の境を彷徨ったのは、まだ記憶に新しい。

「ああ、確かに。情報伝達の妨害と言うよりも、フレイムヘイズの戦力そのものを削りに来ているようにも思えますね」

「……最初から隠し続ける気は無いんだろうね。らしいと言えばらしいのかな」

「ふむ、おまけに実行すれば世界中のフレイムヘイズが黙っていない“何か”、という事にもなるかの」

「……にしてもなぁ」

 カムシンが賛同し、バラルが推察し、ベヘモットが溜息を吐き、レベッカが眼を険しく細める。
 それぞれが、もはや間違いなく起こるだろう厄災を思って陰鬱になる。外界宿の多くは、『テッセラ』という気配遮断の宝具によって隠されていた。その外界宿が幾つも落とされた今、『テッセラ』も相当数が敵の手に渡ったと見て良い。先んじて計画を阻止したくても、今から見つけ出すのはまず不可能だ。
 つまり、後手に回るしかない。いつもの事ながら歯痒い限りである。

「私はこの地での調律を終えたら、また御崎市に向かいます。貴女はどうしますか?」

 起こるであろう事態の規模と、後手に回るしかない現状を考え、カムシンは最も警戒すべき地での待ち伏せを選ぶ。即ち、数多の因果を引き寄せ、巻き込み、膨れ上がる闘争の渦……御崎市へ。
 あの街には規格外の使い手が数多く揃っているが、それで楽観出来る事態ではない。戦力は多いに越した事はないのだ。
 そんなカムシンに対して、レベッカは首を振る。

「俺はもう少し外界宿襲撃の方に探り入れて見る。連中の活動範囲の広さがちょっと気になるからよ」

 レベッカは今回の敵の強さを、その身を以て知っている。しかし、それでも、『テッセラ』に隠された外界宿をこの短期間で次々と落としている事実には違和感があった。入念な準備があったにしても、あまりに効率が良すぎる。これまで彼女を生き残らせてきた直感が、このまま目の前の脅威に捕らわれる事に対して警鐘を鳴らしていた。

「ああ、わかりました。そちらの方が万一の時の危険は大きいでしょう。気をつけて」

「因果の交叉路でまた逢おう」

 カムシンの方も、特に追求するでもなく背中を向けて去って行く。レベッカの抱いた違和感に、彼もまた気付いていた。気付いて、しかしカムシンはそれもまた御崎市に収束すると判断したのだ。

「……ヤバいのはこっち、か」

 判りきった事実を噛み締めて、レベッカは拳を固く握り込む。いざ敵と遭遇した時、御崎市のフレイムヘイズと合流するカムシンと単身のレベッカ、どちらが危険かなど考えるまでもない。……こんな時こそ、慎重で、姑息で、口うるさい者が必要だというのに。

「……フリーダーの馬鹿野郎が」

 吐き捨てるレベッカの独り言に、バラルは何も返さなかった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 御崎市の市街地から僅か外れたホテル。その一室で、窓際から街を見下ろす少女の姿がある。
 金の髪に金の瞳、凝った意匠の深紅のドレス。これだけなら派手な外国人で済むだろうが、彼女の頭には一対の羊の角が生えていた。
 当然、そんな人間がいる筈がない。彼女は人を喰らって世を渡り歩く“隣”の住人……紅世の徒だった。

「(……大丈夫)」

 であるにも関わらず、街を見つめる彼女の表情は暗い。そこにあるのは捕食者というよりも、死地に赴く兵隊のような悲壮な覚悟である。

「(なんて、大きな気配なの……)」

 少女は弱い徒だった。いま彼女が感じている気配の持ち主達から見れば、それこそ虫けらに等しい力しか無いだろう。それを判っていてもなお……いや、だからこそ彼女は挑む。絶対に覆せない現実を、己の手で覆す為に。

「っ」

 目標の大きさに気負っていると、突然テーブルの上の携帯電話が鳴った。その液晶に映る名前を確認して、少女は生唾を飲み込んだ。

「……はい」

【数日ぶりです。守備はどうですか、同志メア】

 電話口の向こうから、穏やかな声が語り掛けて来る。矮小な自分に向けられた確かな敬意、得難い信頼を、なればこそ少女は居心地悪く思う。

「私には、貴方に同志と呼んで頂く資格はありません。私は貴方方の思想に共感したわけではなく、ただ己の存在を誇示する為に戦っているのですから」

 せめてもと、突き放すような本音で応えて……

【意志ある者が集うのですから、各々の立場が異なっているのは当然でしょう。立場に伴う理由も、また然り。しかし同じ志へと走りだした時、元居た場所は過去となり、理由は走らせる力へと変わっているのです。何より貴女は、どうしようもない現実を自らの手で切り拓こうとしている】

 いともあっさりと、受け入れられる。少女は余計に居心地が悪くなって、早々に会話を切り替える。
 彼の言葉が、ではない。自分を認めてくれる王の器にさえ嫉妬の念を抱いてしまう、己の小ささを自覚してしまったからだ。

「……標的の行動パターンと統御力は大凡 把握できました。私なら、機を見て接触する事も可能です。それより、貴方から連絡が来たという事は……」

【ええ、同志ダンタリオンの最終調整が終わりました。後は実行に移すだけです】

 来るべき時が、来た。潜伏が長引けばそれだけ見つかるリスクが上がる。故にこれは待ちに待った朗報であるはずなのだが、それでも少女は顔を強張らせずにはいられなかった。

「タイミングは、私に任せて頂けますか?」

【ええ、いつでも動けるようにしておきます。御武運を祈っていますよ、同志メア】

 駒ではなく、同志だからこその信頼の言葉を最後に、プツッと通話が切れた。

「……ええ、“私が”、必ず」

 もう誰とも通じていない携帯に向けて、少女は誓いを口にする。
 そう、必ず、成功させてみせる。この戦いを終えた後、誰もがその名を胸に刻む。あり得ない奇跡を起こした歴史的な徒の一人として。
 ───“戯睡郷”メアの名を。



 逃れられぬ運命とそれぞれの想いを引き寄せながら───清秋祭、来たる。






[37979] 8-5・『サンドリヨンのヘカテー』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:87fa7f50
Date: 2015/03/18 18:28
 御崎高校清秋祭。
  主催が学校側のみならず、高校に隣接する商店街によっても運営される関係で、御崎市に住む者ならば知らぬ者はいない程の一大イベントとなっている。
 そしてこの清秋祭の火蓋を切るのは、御崎高校の一年生。即ち悠二らの学年による仮装パレードだった。クラスの代表として仮装して街中を歩くという行為だけでも、栄誉に見合ったプレッシャーを伴ったのだが、今、悠二ら一年二組はそれ以上の緊張を持って“開幕”の時を待っている。

「う~、うぅ~、ううぅ~……」

 舞台裏の更に隅っこで、シンデレラこと吉田一美が、破裂しそうな心臓を押さえて蹲っている。紆余曲折あって主役の一端を担う事になった彼女だが、やはり恥ずかしがり屋の彼女には相当なプレッシャーだったようだ。
 流石に心配になって声を掛けてみたらば、

「吉田さん、大丈夫?」

「はいぃ!? だ、だだだ大丈夫です王子様!!」

 そんな事を口走り、クラス中からクスクスと笑われる始末。ある意味、早くも役に入り込んでると言えなくもない。

「大丈夫大丈夫、一美なら立派な灰被りになれるって!」

 そのガチガチの肩を、シンデレラの姉こと平井ゆかりが励ますように叩く。こんな時でも解かないツーサイドアップが、無骨な鎧姿に奇妙な愛嬌を持たせている。

「灰被り……うぅ……」

「主演女優が何へこんでんだか」

「ゆかりちゃんに言われたくないよ!?」

 そう、シンデレラと言っても、あくまで“平井が手掛けた脚本における”シンデレラである。
 無論、脚本が出来上がった後に少なからず物議を醸しはしたのだが、その再考の結果が今の配役なのだから今さら文句も言えない。
 笑い混じりに言い争う二人にフォローは不要と判断して、悠二は嘆息を吐いて離れる。

「(って言うか、人の心配してる余裕ないもんなぁ)」

 カーテン越しに伝わってくる雑談の声に、悠二は生唾を飲み下す。仮装パレードの間中ずっと自信満々に劇のアピールをしていたソフィア様のせいか、それともヘカテーとシャナの常識外れな容姿のせいか、体育館は超満員である。

「(まあ、観客が何人いたって、やるしかないもんな)」

 凄まじい緊張感を確かに肌身に覚えながらも、そんな感情を外からの理性で以て納得させる。自分が特殊な事をしているという自覚も無いまま開き直る悠二の鼓膜を……

(ビィィィーーー!!)

 開幕を告げるブザーの音が、揺らした。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




【時は昔、とある国の王族に、一人の王子がおられました。王子は幼い頃から聡明で心優しく、親である国王や王妃だけでなく、家臣の誰もがその将来を期待する若者でした】

 池速人の流暢で良く通るアナウンスの下、舞台は始まる。演目は言わずと知れた、シンデレラ。
 物語は、外れた村の視察に赴いた王子が、怪我をした一匹の白い鳩を助ける所から始まる。この鳩が実物で、かつ完璧な演技を見せた時点で、体育館は声なき感嘆に包まれていた。
 言うまでもなく悠二ではなく、ヘカテーの友達(名前はキグナス)に対してのものである。

【そんな王子の姿を、一人の少女が見ていた事に、鳩だけが気付いていました】

 その一言を合図に一度カーテンが閉ざされ、頼もしき裏方がセットを入れ替える。
 新たにカーテンが開いた時、舞台の中央に立っていたのは緒方、平井、そして吉田。古びた屋敷、一目で裕福ではないと解る衣装に身を包む三人の少女。その内、平井と吉田は無骨な鎧を身に着けている。

【それから一年後、町外れの一画で睨み合う家族がおりました】

 僅かに目を伏せた緒方が、別人のように厳しい表情で顔を上げた。

「良いですね。勝負はただの一度きり、言い訳も再戦もなりません。両者……構え」

 その言葉を受けて、平井と吉田が模造剣を構える。見る者にまで緊張が伝染してきそうな真剣な横顔である。

「始め!!」

 二人同時に、床を蹴る。そして……二度目の歓声。

「どうしたシンデレラ! 今日こそは負けないと息巻いていたのはお前だろう!」

 運動神経には全く自信が無い。それでも今日の為に練習を積んできた吉田が、“当てるつもりで”攻撃を繰り出している。
 いくら拙かろうと、下手な演技では出せない“本気”がそこにはあった。何せこの打ち合い、実は演技ではない。

「勝ちたい気持ちが強すぎる。そんな大振りが当たると思うのか!」

 練習の時から、吉田には『本当に当てるつもりで攻撃するよう』言い含めてある。普通ならば、素人だろうと危ないものは危ない。だが平井は吉田の剣を易々と捌き、いとも簡単に弾き飛ばした。

「そこまで! 勝負あり!!」

 喝と、緒方が決着を告げた。平井が悠然と剣を鞘に納め、吉田が絶望の表情で両膝を落とす。

「では、我が家を代表してパーティーに出るのはソフィアです。良いですね? シンデレラ」

 ギリッと奥歯を軋ませて吉田が悔しがった所で、再び舞台は暗転する。
 次に照明が光ると、舞台は夜。窓際で悲しそうに月を見上げるシンデレラがいた。

【シンデレラの家は代々王家に仕える武門の家柄。しかし二代前の当主が王の怒りを買って以来、徐々に中央から遠ざけられ、更にはシンデレラの父が先の戦で戦死した事で家の存続も危ぶまれておりました。そう、シンデレラの家には、男子が生まれなかったのです】

 本来の『シンデレラ』とは異なる設定を、池がやはり淀みなく説明する。

【そんな折、城から一枚の手紙が届きます。それは王子の花嫁を探す為のパーティーの招待状でした。王子の成長に伴い、城内の意識にも大きな変化が起こり始めていたのです。シンデレラの母は王家に仕える者として、妻として王子を支える使命を娘達に求めました。しかし……城から招待されたのは一名のみ。一つしかない椅子を賭けた姉との勝負に、シンデレラは負けてしまいました】

 ガックリと、窓際に頭をつけて項垂れるシンデレラ。

【武門の家に生まれた者として、シンデレラはこれまでも日常的に剣を抜き、そして幾度となく姉に敗北してきました。しかし……今回だけは負ける訳にはいかなかったのです】

「王子様……」

 微熱に浮かされたような表情で、吉田が呟いた。

【一年ほど前、シンデレラは偶然、怪我をした鳩を助けた優しい少年の姿を目にしていました。それが一目惚れだったと気付いたのは二週間後、その時の少年が王子だと気付いたのはつい最近の事です】

 窓から飛び出し、城の方角を見つめるシンデレラ。しかし彼女には招待状も無ければドレスも無い。憧れの王子様に一目会う事も叶わない。

【悲しみに暮れるシンデレラ。その時、不意に空が光りました】

 カッ! と青い照明が体育館を照らし、吉田も観客も視界を灼かれる。次の瞬間、舞台には新たな役者が現れていた。
 黒い外套と三角帽子に身を包み、不気味な形の杖を握る少女である。いつもなら後頭で結ばれている緑の髪が、黒衣の背中に広がって伸びている。

「はじめまして、シンデレラ。月の綺麗な夜ですね」

 魔女である事を隠しもしない菅野の姿に、吉田は恐れ戦いて後退る。

「ま、魔法使いの、方ですか……?」

「はい、シンデレラ。貴女を助けに来ました。お城のパーティーに、出たいのでしょう?」

 いきなり現れて不可解な提案をしてくる魔法使い。シンデレラは当然、警戒する。
 しかし、有り得ない筈のチャンス。愛しい王子を想う気持ちを巧みに刺激されて、シンデレラは徐々に説き伏せられていく。

「大丈夫よ。ドレスも馬車も招待状も私が用意してあげる。ただし、十二時までに戻るのよ? 私の魔法は午前零時にリセットされてしまうのだから」

「で、でも我が家からは一人しかパーティーに招かれていないんだよ? いくら招待状があっても、簡単にバレてしまうわ」

「ええ、そうよ。だから今宵の貴女は、シンデレラではいられない」

 シンデレラの気持ちがこちらに傾いていると悟った魔法使いは、杖を仰々しく一振りし、呪文を口にする。

「ビビディ・バビディ・ブウ!」

 途端、白煙が吉田の周囲を包み込む。その煙が不自然に横の動きを見せて晴れたかと思えば……

「……これが、私?」

 そこには純白のドレスに包まれた少女が立っていた。
 まるで人形のように美しい、“小柄で、水色の髪と瞳を持つ少女”である。平たく言えば、ヘカテーだった。

「今宵の貴女は『サンドリヨン』。この招待状を持って、王子に逢いにお行きなさい」

 招待状を手渡した魔女が、パチリと指を鳴らす。すると舞台脇から、荷車をダンボールで飾ったカボチャの馬車が進み出た。流石に馬はハリボテに入った人間だが、御者として本物のハツカネズミがヒモを咥えている辺り芸が細かい。

(コクッ)

 何故かシンデレラの時と違ってやる気満々に頷くサンドリヨンを乗せて、馬車が舞台脇に去っていく。
 一人きりになった舞台で、

「……頼みましたよ、シンデレラ」

 魔女が小さく、しかし観客にしっかり届くように呟いた。

【その頃、城ではパーティーの真っ最中。数多くの貴婦人が王子に自分の魅力を見せ付けますが、花嫁が決まる気配はありません】

 再び舞台は移り変わり、今度は城のパーティー会場。
 中央に座る王子の両脇に二人の兵士。その周囲にドレスアップした十数人の女子。悠二の引き攣った顔が、劇中の王子の心情と見事にマッチしている。

「いきなり結婚とか言われても、なぁ」

 心の底から気乗りしない、そんな渋面で王子は愚痴る。

【何せこの王子、生まれてこの方 誰かに好意を持った事がありません。人として好感を持つ事はあっても、それが恋愛感情かどうか判断できず適当にその場を濁すのが常というタチの悪い悪癖を持っているのです】

 練習の時には無かったはずの、悪意の垣間見えるナレーションが流れる。ギクリとする悠二の顔が、体育館に小さな含み笑いを呼んだ。

【国中から評判の気立ての良い娘を集めれば違う結果になると思ったのですが、そう上手くはいきません。今日も王子の愛想笑いが冴え渡ります】

 まるで池と口裏を合わせていたかのように面白そうな顔でダンスの誘いをしてくる女子達を、言われた通りの愛想笑いでやんわりと断ってから、王子はテラスへと逃れた。

「集まってくれた皆や父上母上には悪いけど、とても決められる気がしないよ」

 仮にも王家に生まれた者、恋愛結婚に拘っているわけではない。しかし結婚する以上は大事にするし、そう思わせてくれる相手が良いに決まっている。
 しかし、大臣の手腕で集められた娘達でさえ、王子の心は動かない。
 と、その時、

「ん?」

 会場がざわめき、王子は振り返る。紛れもない貴婦人らが、まるで何かに気圧されるように道を開け……

「あ───」

 それら好奇と羨望の視線を意にも介さぬ堂々とした姿勢で、一人の少女が歩いていた。
 星を思わせる水色の髪と瞳。翼かと見紛う純白のドレス。比喩でも何でも無く、女神か天使に見えた。

【その時、王子の全身に雷が走りました】

 ピシャーン! と激しい効果音が響き渡る。今が演劇の最中だという事も忘れて、悠二は見惚れた。

「綺麗、だ……」

 意図せずして、台本と同じ台詞が零れ出る。その微かな呟きを聞き取ったのか、シンデレラの顔がみるみる朱に染まっていく。
 その反応で自分の呟きを聞かれたと悟った王子もまた、赤くなった顔を背けた。

【一目惚れ。そんな言葉が王子の脳裏を過ぎります。憧れの王子との対面に、シンデレラもまた緊張を隠せません】

 微妙にアドリブを織り交ぜる池のナレーションに背中を押され、シンデレラがぎこちない足取りで王子の前までやってくる。

「……はじめまして、王子様。この度ご招待に預かりました、サンドリヨンと申します。どうぞよしなに」

 ここは本来、魔法を受けたシンデレラが王子を一瞬で魅了するシーン。ヘカテーはもっと毅然と振る舞う予定だったのだが、今の彼女はとても固い。セリフを間違えなかったのは幸いか。
 冷静沈着を地で行くヘカテーの貴重な姿を、むしろ興味津々で見ている気配が舞台脇からする。
 だが、舞台に立っている悠二にはそんな余裕は無い。

「こ、こちらこそよろしく、サンドリヨン殿」

 抗い難い動揺を敢えて抑え込まず、シンデレラの美しさに狼狽する王子の姿へと転換させる。

「こうしてお逢い出来る日を、ずっと待っておりました」

「? どこかでお会いしたのでしょうか。貴女のような方を、一度会ったら忘れる筈が無いのですが……」

「王子の前に姿を見せるのは初めてに御座います。一年前、ディングの町の視察に来た事を憶えておられますか?」

 夢の中にいるかのようなフワフワとした気分で歓談に花を咲かせる王子とシンデレラ。
 その余人の立ち入れぬ空気に、他の令嬢らも遠巻きに見守る事しか出来ない。

「………………」

 ただ、シンデレラの姉ソフィアだけが、訝しげな目でサンドリヨンを見つめていた。

【時を忘れて王子と語らうシンデレラ。いつしか二人は、静かな場所を求めて裏庭に語らいの場を移していました】

 またも舞台は移り変わる。この多彩なセットを作った裏方こそが真の功労者と言っても過言ではない。

【実際に会って、言葉を交わして、シンデレラはますます王子への想いを募らせます。弾む気持ちとは裏腹に、シンデレラの表情は少しずつ翳っていく。何故ならサンドリヨンは本来の彼女ではなく、十二時の鐘が鳴れば元のシンデレラに戻ってしまうからです】

 躊躇いがちに、というよりも憮然としながら、シンデレラは王子の傍を離れる。
 十二時まで少し時間はあるが、不慣れな状況では余裕を持って行動しなければならない。

【王子への気持ちが膨らむにつれて、シンデレラの心境に変化が起こります。王子と話していたい気持ちよりも、自分の正体を知られたくない気持ちが大きくなっていたのです】

 という流れなのだが、ヘカテーの演技は決して巧くない。さっきまでのは王子を想うシンデレラと悠二を想うヘカテーの心情が一致していたからこそのもの。生憎いまのシンデレラの心は、とっくに悠二に正体を知られているヘカテーには共感出来ない感情である。

「貴方様といつまでも一緒に居たい。ですが、私は行かなければならないのです」

「何故です! 共に居たいならここに残れば良い! 私も気持ちは同じです」

「此度の逢瀬は束の間の夢。私の事は、忘れて下さい」

 哀しげな顔(をしているつもり)で立ち去ろうとするシンデレラを、王子は手を握って引き留める。
 常ならば相手の都合を無視して強制などする性格ではない王子も、二度と逢えなくなると言われて黙って見送る訳にはいかない。
 放して下さい。いや放さない。互いに退かず、埒の明かない説得を続ける二人の前に、

「あら、何を言い争ってらっしゃいますの?」

 照らされた新たなスポットライトの下、紅いドレスの少女が声を掛けた。
 シンデレラに負けず劣らずの美貌と、背中まで伸びた長い黒髪を持つ少女……シャナである。

「……君は?」

「可笑しな事を訊かれますのね。貴方の花嫁候補に決まっているではありませんか」

 意味もなくクスクスと笑う謎の美少女……のシーンなのに、真顔で悠二を睨むシャナ。

「今宵の宴に招かれた娘は皆、王子の心を射止める為に来た者ばかり。それなのに、肝心の貴方が彼女一人を連れて出て行ってしまうなんて、酷いとは思いませんか?」

【言葉とは裏腹に、少女の瞳に非難の色はありません。それどころか、不可解な愉悦の笑みを崩そうともしません】

 ナレーションとシャナの演技が致命的なまでに噛み合っていない。シャナ自身、別にふざけているわけではないのだが、どうにも大根役者である事は否めなかった。
 それでも一年二組はシャナを起用した。無論、ルックスだけが理由ではない。

「そんな自分勝手な王子様には……」

 瞬間、シャナの手が動いた。恐ろしく切れた一振りの先から、銀光が矢の様に奔り───

「っ!?」

 気付けば、王子の手には銀の短剣が握られていた。シャナが投擲した短剣を、王子が直撃する前に受け止めたのだ。
 隠し持っていた血のり袋が割れて、赤い液体が掌中からポタポタと零れ落ちる。体育館に歓声と響めきが広がる。

「……何者だ?」

 王子の表情が、別人のように鋭くなった。軽く宙に放り投げた短剣を逆手に掴み、黒髪の少女を睨む。

「不届き者、とだけ名乗らせて頂きましょう。助けを呼ばれても構いませんが、パーティー会場を手薄にするのはお勧めしません。偽りの貴婦人は、私一人ではありませんので」

 静かな脅迫を口にしながら、シャナは更に二振り、背中に隠していた短剣を抜く。王子は退く事なく、シンデレラを庇うように前に出た。

「サンドリヨン殿、確かに今宵はこれまでのようです。振り返らず、逃げて下さい」

 有無を言わさぬ王子の言葉、それにシンデレラが何かを言い返すより速く、二人は同時に床を蹴った。
 そして、これまでで最大の歓声が湧き上がる。

(キキキキキキキィン!!)

 断続的な衝突音を奏でながら、悠二とシャナの短剣が光の軌跡を描き続ける。
 吉田と平井が見せたリアリティなど比ではない。本物の演劇でも剣道の世界大会でも拝めない、前代未聞のバトルアクションがそこにあった。
 異能の力を使っているわけではない。しかし、人間レベルの身体能力に落としても、日頃から磨き続けた戦闘技術はそのまま活きる。力の使い方、力の読み方が超人的なのだ。

「早く!」

 シンデレラに怒鳴りながら、王子は少女への攻撃を更に苛烈にする。
 速さを増した王子の剣を嫌がる様に、少女は後退る。激しく雄々しく切り結びながら、そのまま二人は舞台脇へと消えて行った。

「………………」

 遠ざかる背中を、シンデレラは呆然と見送る。王子を助けもせず、王子に言われるまま逃げる事もせず、
ただその場に座り込んでいた。
 魔法に飾られただけの無力なシンデレラが、見せ付けられた現実に竦んでしまう……という気持ちを表現するヘカテーだが、その無表情を見分けられる人間は少ない。

「そ、そうだ助けを……」

 ややの自失から立ち直り、立ち上がろうとするシンデレラ。その彼女の視界に、不意に影が差し込んだ。

「ぬぅん!」

 背後から振り下ろされる戦斧を、妙に機敏な動きでシンデレラは避ける。見ればそこには、武骨な鎧に身を包んだ二人の騎士……佐藤と田中がいた。

【その姿にシンデレラは驚きます。先ほどの少女は、残りの刺客は令嬢の中に紛れているような事を言っていたからです。よもや王国の騎士に襲われるとは夢にも思っていませんでした】

 佐藤が剣を構えて笑う。

「悪いな お嬢さん。あんな所を見られたら、すんなり帰す訳にもいかなくてね」

 田中が戦斧を振り上げる。

「恨むなら、あんたをこんな場所に連れて来た王子を恨むんだなぁ!」

 迫り来る凶刃。今度こそ死を覚悟して眼を瞑るシンデレラの耳に、

(ガキィッ!!)

 耳障りな金属音が届いた。恐る恐る眼を開けると、

「何を怯えている、シンデレラ」

 そこには、手にした直剣で戦斧を受け止めるシンデレラの姉……ソフィアの姿があった。
 足下まで伸びていた青いドレスは半端に破れ、所々が返り血に染まっている。

「敵を自分で大きくするな。こんな連中、我ら姉妹の敵ではない」

「何だ貴様はぁ!!」

 ソフィアの威圧的な態度に神経を逆撫でされて、二人の騎士が同時に襲い掛かって来る。剣が突き出され、斧が振り下ろされ───虚しく空を切った。
 標的たるソフィアは、既に彼らの背後。

「鈍い」

 斬られた事にも気付かぬまま、二人の騎士が崩れ落ちる。
 倒した敵には一瞥もくれる事なく、ソフィアは真っ直ぐにシンデレラを見る。

「どうして……」

 そんな姉の姿に、シンデレラは疑問を抱かずにはいられない。
 今の彼女は姿も声も完全に違うサンドリヨン。なのに何故、彼女を助け、彼女をシンデレラと呼ぶのか。

「私はお前の姉だぞ。気付かれないとでも思ったのか?」

 事もなげにそう言って、ソフィアは手にした直剣をシンデレラに投げ渡す。それから先ほど倒した敵の剣を拾い上げてヒュンヒュンと振って具合を確かめる。

「どうやら隣国の内通者が紛れていたらしい。王族や貴族には既に近衛隊が護衛に付いたが、まだどこに敵が紛れているか……」

 油断なく辺りを睨みながらシンデレラに状況を説明するソフィアは、そこでふと気付いて言葉を切った。

「シンデレラ、殿下はどこだ」

 シンデレラと二人でいなくなった王子がいない。当然一緒にいるものと思っていたソフィアは、微かに目を見開いて妹を見た。
 ……そして、その表情だけで事態の深刻さを悟った。

「どこにいる?」

「え、あの……」

「どっちに行った!?」

 怒鳴る姉の剣幕に圧されて、シンデレラは頼りなく王子が向かった方を指差す。その先に向かって、ソフィアは矢の如く駆け出した。

「付いて来い! 殿下を御守りする!」

 その行動力と迷いのなさに、シンデレラは付いて行く事が出来ない。すぐ追い掛けて来ない妹を、ソフィアは待たない。振り返る事もなく駆け去ってしまう。

「私、は……」

 目まぐるしく移り変わる非現実的な光景に頭が付いて行かない。自分が今、どんな感情でここに立っているのかさえ解らない。その一方で、これが夢だと思わせてはくれない生々しい実感も常にあった。
 目の前に倒れている二人の騎士など、その最たるものだ。

「……怖い」

 斬られて死ねば、こうなってしまう。もう立てない、歩けない、聞こえない、喋れない、何を感じる事も出来ない無へと消える。
 抗い難い絶望を予感して、

「“王子様が死ぬのが怖い”」

 より以上の恐怖が、シンデレラを目覚めさせた。そのやる気を示すように剣を高々と掲げると、その気持ちに応える様に剣が輝き出した。
 不可解な現象に目を瞬かすシンデレラの頭上で、白い鳩が円を描いて飛び回っている。

【それは貴女から光の加護を受けた魔法の剣。きっと貴女を助けてくれる】

 スピーカーから聞こえてくるのは、池の声ではなく、菅野の声。観客にとっても、聞き覚えのある声だった。

「貴女はまさか、魔法使いさん?」

【お願いします、シンデレラ。あの人を助けてあげて……】

 力強く頷いて、シンデレラは走り出す。

【その時、シンデレラの頭の中には一つの光景が蘇っていました。町外れの湖畔で、優しい王子に助けられている美しい鳩の姿が】

 池のナレーションと共に舞台は移る。その幕が開き切る前から、既に激しい剣戟の音が響いていた。
 王子と、刺客たる少女の対決シーンである。

(キィン!)

 硬い音を立てて、短剣が宙へと弾かれる。痛む右手を押さえて後退るのは……王子。

「流石は国の将来を期待される王子様。私のダンスにここまで付いて来て頂けるとは思いませんでしたわ」

「それはどうも。これだけ時間を掛けてしまったら、もう君の仲間も無事ではないだろう。逃げ場が無くなる前に去った方が良いんじゃないかな?」

「せっかくのご忠告ですが、聞けません。元より、私に逃げ道なんて不要なんですよ。貴方の命さえ頂ければ、ね」

 無論、少女は止まらない。両手に握られた二振りの短剣が、武器を失った王子を容赦なく襲う。
 どう見ても本気で斬り付けているようにしか見えない双剣の連撃を、王子が軽やかに、しかし必死に躱し続ける。素早い剣舞の、微かな間隙、

「ふっ!」

 そこを逃さず、王子は懐から懐中時計を取り出し、少女に向けて投げ放った。
 至近距離から顔面に飛んで来る時計を……少女は身を斜めに仰け反らせて避け、そのままクルリと一回転して王子の腹に回し蹴りをブチ込み、吹き飛ばす。
 王子が倒れるのと同時に、パリィンと硝子の割れる音がした。
 それは、投げた時計が窓ガラスを割った音。音はざわめきを呼び、ざわめきは近付いて来る数多の足音へと変わる。

「最初から、パーティー会場から距離を稼いで、あそこの離れに助けを求めるおつもりでしたか」

「……私一人で何とか出来れば、それが一番だったのだけどね」

 増援が来る前に任務を果たそうとしてか、少女が起き上がったばかりの王子に斬り掛かる。
 だが、大きい。焦りで微かに直線的になった太刀筋は王子の体技に躱されて空を切る。

「っ!?」

 振り上げた短剣を王子のハイキックが捉え、弾いた。撥ね上げられた短剣を王子が掴み、二人の間に得物の優劣が無くなった。

「残念だよ。出来れば君とは、王子でも刺客でもなく、只の剣士として決着を着けたかった」

 その間に、鎧で武装した兵士が舞台脇からやって来ていた。

「…………ええ、本当に」

「……?」

 その少女の……シャナの台詞に、悠二は内心で戸惑った。台詞が違う……いや、足りない。
 シャナは確かに大根役者だが、性格そのものは不器用なまでに勤勉だ。ここまでの演技も決して自然ではなかったが、セリフそのものは一文字たりとも間違えていない。それは前日のリハーサルでも同じだった。
 想定外の事態に一瞬、演技の前後を忘れる悠二……いや、“王子”の胸に、

「……え?」

 一本の矢が、突き刺さった。先を丸めた矢は見事に王子の右胸、衣装の下の血ノリ袋を貫いた。

「ぐ……っ」

 片膝を着いて敵を睨む王子。その目の前で、少女の後ろからやって来た兵士達は……少女の脇を素通りした。

「残念です、王子。もう少しだけ、貴方と踊っていたかったのに」

 シャナにしては気の利いたアドリブで軌道を修正する。
 そんな少女の前で、兵士達は構えた槍を王子へと向けた。

「……残る刺客が紛れていたのは、ご婦人方ではなく兵士の方だったという事か」

「ええ、正解には紛れていたのではなく、敵と内通した“元”王国軍の兵士です。運が無かったですわね」

 淡々と語る少女の言葉に、王子は奥歯を軋ませる。立ち上がる事も出来ない少年に向けて、槍が一斉に突き出される。
 その、寸前───

「殿下ァアアーー!!」

 獣染みた咆哮と共に、剣を担いだソフィアが割って入った。
 接近と同時にまずは一人、そのまま流れる様な連続斬りが次々と敵を薙ぎ倒し、あっという間に全滅させる。
 剣速自体はそのまま、皮にすら触れずに鎧だけを切る様は十二分な迫力を生み出していた。

「遅れて申し訳ありません。……立ち上がれますか?」

 王子を背中に庇いながら、少女を睨むソフィア。この平井が舞台脇から悠二を射たと知っているクラスメイト達が、舞台脇の奥で笑いを堪えている。

「私の事は良いから、今すぐ逃げるんだ。君の腕前は今見たが、それでも彼女には勝てない。君まで殺されてしまう」

「なおさら退けません。貴方が立ち上がれないというなら、私は増援が来るまで僅かでも長く時を稼ぎます」

 無駄にカッコいいポーズで、ソフィアが剣を構える。少女もまた、倒れた兵士の槍を拾って無駄にクルクル回して見せた。

「王子様の言葉に従った方が良いのではなくて? 貴女が逃げても、私は追ったりしませんわよ」

「黙れ女郎。殿下の命を狙った罪、その死を以て償わせてやる」

 剥き出しの憤怒を剣に乗せて、ソフィアが猛然と斬り掛かる。戦いが、始まった。
 短剣同士の戦いとはまた違う趣きのある打ち合いを、観客が興奮の眼差しで見守る。
 時間にして凡そ一分、絶え間なく続く激しい攻防の果てに……

「なっ!?」

 渾身の一撃によってソフィアの剣は砕け散った。勢いそのまま回転した槍の柄に腹を殴られてソフィアが地面に転がる。

「勝てない、と言われたでしょう? それとも、まだみっともなく足掻いてみますか?」

「───その必要はありません」

 嘲笑う少女の言葉に、全く別の所から冷厳な声が答えた。暗い影の中から姿を現し、その身を月光の下に晒すのは……天使の如き異彩を放つ一人の少女。
 先程までの狼狽ぶりが嘘のように凛々しく歩くシンデレラだった。

「サンドリヨン、殿……」

 逃がした筈のシンデレラが戻って来た事を責める事を、王子は出来なかった。

「これはまた、面妖ですわね」

 さっきは腰を抜かしていた癖にノコノコ戻って来た小娘を嗤う事を、少女は出来なかった。
 何故ならば、少女の剣が月光に負けない程に皓々と光り輝いていたからだ。

「……美しいな」

 ただ、妹の姿が変わるという不思議な体験を既にしていたソフィアだけが、満足そうに妹を見ていた。
 剣を優雅に突きつけて、シンデレラは宣誓する。

「我が名はサンドリヨン。恩義を果たさんとする少女の使いとして、借り受けた剣を振るう者。王子の身命を護る為、貴女をここで討ち果たします」

 覚悟を決めたシンデレラの気迫に、しかし少女は怯まない。低く槍を構えて攻撃の体勢に入る。

「ごめんなさいね。これ以上時間を取られる訳にはいかないの」

 軽やかに地を蹴り、身体ごと突き出す槍の刺突。それが……

「はあっ!」

 下から振り上げた剣の一振りで、中途から切り飛ばされた。予想外の反撃に、少女は槍を手放して距離を取る。

「……これは、流石に予想外でしたわね」

 ヘカテーは異能を使ってはいないし、そもそも剣には刃が付いていない。光る仕掛けを中に仕込んでいる分、むしろ構造は他の模造剣より脆いと言える。
 それでもこんな真似が出来るのは、彼女が紛れもない達人だからだ。

「覚悟」

 シンデレラに最早迷いは無い。槍を切られた少女に容赦なく斬り掛かる。
 だが、ソフィアに倒された兵士は一人や二人ではない。当然、まだまだ槍は転がっている。少女はそれを足だけで器用に拾い、迫る光の刃を……

(スパンッ!)

 “防げない”。槍は再び真っ二つになり、少女の赤いドレスのスカートに一筋の切れ目が入った。
 シンデレラは止まらない。返す刀で二度三度と剣を振るって少女を狙う。少女は曲芸染みた動きでそれを紙一重で躱して再び距離を取った。
 その口元が不敵に歪む。

「なるほど、理解しました。掛かって来なさいな」

 言われるまでもない、と言わんばかりにシンデレラが挑む。高速の剣が間断なく少女を襲い、

「ナニィ」

 その全てが、一つ残らず擦りもせずに空転した。あろう事か、少女は武器も持たずにシンデレラの斬撃を全て避けているのだ。

「怖いのは剣だけですわね」

 シンデレラの横薙ぎを、少女は身を沈めて避ける。そのままシンデレラの片脚を払って、脇腹に右拳を叩き込む。
 動きの止まったシンデレラの頭に渾身の回し蹴りが炸裂……するより速く、

「させるかぁー!」

 復活したソフィアが、拾った槍で少女に刺突を繰り出した。
 あまりにも不安定な体勢、今度こそ決まったかと思われた刹那……少女は蹴りの軌道を無理矢理に変えて槍の穂先を弾く。
 しかし、そこに……

「くっ!」

 更なる槍が飛んで来た。速さも力強さもない、子供が投げた様な非力な槍。
 手負いの王子が、絞り出す様な力で投げた物だ。それでも……少女のバランスを崩す事だけは出来た。

「終わりです」

 今度こそシンデレラの剣が捉える。超至近距離で体勢を崩した状態、いくらこの少女でも避けきれなかった。

「勝っ、た……」

 死闘の決着を見て、張り詰めていた糸が切れたかのように王子が倒れる。
 そこで舞台は移り、セットがマッハで交換される。

【王子を襲ったのは、王位継承権を握らんとする叔父の手の者でした。叔父は隣国の高官と手を組んで王子を抹殺しようとしたのです】

 ここまでで、ヘカテーの出番は終わりである。

【王子暗殺を企てた者達は囚われ、王子自身も命に別状はありませんでした。しかし、王子を救い救援を呼んだ二人の少女は、いつの間にか姿を消していました】

 サンドリヨンは十二時になる前に姿を消し、シンデレラに戻ってしまう。ここから先のシンデレラは吉田一美の役だからだ。

【王子は手を尽くしてシンデレラを探しましたが、何日経っても見つかりません。“サンドリヨン”という名前の少女は存在せず、姉のソフィアも王子に名乗らなかったからです】

 無駄にバトルアクションを盛り込んだシンデレラだが、ここから先は大した変化は無い。
 王子が探しているのは偽りの自分だからと引き篭もるシンデレラ。王子に名乗りを上げろと説得する母。最終的には、結果はどうあれ自分の想いを告げて来いというソフィアの叱咤を受けてシンデレラは城へと向かい、本当のシンデレラを受け入れた王子と結ばれる。

「………………」

 そのシーンを、ヘカテーは舞台脇から憮然とした気持ちで眺めていた。
 王子が一目惚れしたのはサンドリヨン。王子が護ろうとしたのも、王子を救ったのもサンドリヨン。なのに何故……最後に王子から愛を囁かれるのはシンデレラなのか。
 物語の上では同一人物であろうと、役を演じるヘカテーには関係ない。美味しい所だけ吉田に持って行かれた気分だった。
 ……解っていた。吉田がシンデレラになりたがっていた時から、こうなる事は解っていた。ジャンケンに負けた自分が悪いのだ。

「むくれないむくれない。一美だって、ホントは全部ヒロインしたかったんだしさ」

 むすっとしているヘカテーの頭を、後ろから平井が撫でる。もっとも、不機嫌だと気付けるのは悠二と平井……後はヴィルヘルミナを見慣れているシャナくらいだ。

「ヘカテーはまだ良いよ。あたしはサブだし、シャナなんて名無しだよ?」

「……解っています」

 結局のところ、平井が脚本を作る前の段階で役が決まったのは吉田と平井、緒方と菅野のみ。
 その後に作られた脚本でヘカテーがサンドリヨンになれたのは平井の采配のお陰だ。それは解っているのだが……今のセリフは、少し引っ掛かる。

「ゆかりは……」

「ん?」

 何が“良い”のか、そんな素朴で他愛ない筈の疑問は……

「……何でもありません」

 ───最後まで言い切られる事は、無かった。




[37979] 8-6・『戯睡郷』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/03/22 13:54

 大盛況の内に幕を閉じた一年二組の『シンデレラ』。しかしまだまだ清秋祭は終わらない。学生、一般客問わず賑わう校庭の真ん中を……

「(え……あれ? え……?)」

 緒方真竹と田中栄太は、二人きりで歩いていた。

「(何これ! 何これ! 何これ!?)」

 ほんの少し前まで、吉田、佐藤、池、ヘカテー、も一緒だった。だがわざとらしい言い訳と連携であれよあれよと散っていき、あっという間に二人きりにされてしまった。
 心のどこかで臨んでいて、しかし難しいだろうと諦めていた状況が、訳の分からない内に目の前にある。

「(えっと……もしかしなくても、バレてる?)」

 緒方は田中の事が好きなのだ。高校に入ってから危機感を覚え、悠二達のイベントに紛れ込んで地道なアプローチを重ねながら今日に到る。
 そこまで露骨だったとは思えないのだが、この不自然な展開は明らかに作為的に作り出されたものだ。……恐らく池か佐藤、或いはその両方に気付かれている。つまり気を遣われたのだ。

「……何なんだろうな、一体」

 そんな事とは露知らず、不思議そうに頬を掻く田中を見て、緒方はガックリと落ち込む。気を遣ってくれたのは有り難いが、肝心の田中が唐変木では意味が無い。
 ……と、思っていたのだが、

「まぁ……その、何だ。せっかくだから、二人で回るか?」

 などと、田中はやや固い表情で視線を逸らしながら宣った。
 ……おかしい。明らかに、以前の田中とは違う。思い返せば、新学期が明けた辺りから微妙に態度はおかしかった。どことなく悩んでいるような雰囲気もあるのだが、少なからず“意識されている”。

「うん!」

 気にならない、と言えば嘘になる。しかし今はどうしても喜びが先に立つ緒方だった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「アウトロー?」

「ああ、フレイムヘイズの情報提供とか、支援したりする人間の組織、らしい」

 前方、わたあめの列に並ぶヘカテーと吉田を眺めながら、池と佐藤がジュースを啜る。

「フレイムヘイズになれなくても、人間のままマージョリーさんを手助けする事は出来るってわけか」

「……いや、それもちょっと微妙でな。最近その外界宿(アウトロー)がガンガン落とされてるんだと」

 佐藤は憧れのマージョリーを追い掛けるべく、自分に出来る事を模索していた。池はその相談を受け、熱意を持って平井から情報を聞き出せとアドバイスしたのだ。
 佐藤はそのアドバイスを実践し、先日見事に成功した……かに見えたのだが、タイミングが悪かった。

「今から外界宿も入っても今おきてる事件の助けにはならないし、リスクしかないから暫く様子見ろってさ」

「うっわ……やっぱり相当危ないんだな」

 直接戦うフレイムヘイズでなくとも、支援に徹する人間も命懸け。壮絶な世界である事を再認識して、池の表情が強張る。佐藤はもっと深刻だ。覚悟を決めた矢先だというのに、大人しく引き下がってしまった事が情けない。

「……で、田中は一緒じゃないんだな?」

「……まぁ、な」

 その一連の行動は、佐藤一人でやった事。同じくマージョリーに憧れている筈の田中は同行していない。
 こんな風に二人の行動が分かれだしたのは……“平井ゆかりという友人を忘れた”、と明確に思い知らされてからだ。
 恐らく……あの宣告が、それぞれの本当に望むモノを浮き彫りにした。佐藤にとっては、憧れへの更なる執着を。田中にとっては……憧れに呑まれて見えなかった、本当に失いたくない存在を。
 明確に言葉にした事こそないが、共に過ごす日常に生まれた微かな相違が、それまで重なっていた二人の道を少しずつズレさせていくのを感じる。
 佐藤が、田中が、気付いていながら認めずに目を逸らし続けていた事実を、池がアッサリと指摘した。佐藤はただ、曖昧に相槌を打つ。
 そうこうしている内に、ヘカテーと吉田が戻って来た。ヘカテーはともかく吉田に聞かれるとマズいので、この話はここまでだ。
 ライバルを綿アメで手懐けながら戻って来る吉田を見ながら、池は思う。

「(僕は……どうするかなぁ)」

 田中と違って、親友と一緒に憧れのフレイムヘイズを追い掛けたいと思った事などない。大切なモノが日常の側に在ると断言できるし、その事に引け目など微塵も無い。
 ただ、好きな少女が外れた親友に惚れている事は気掛かりだし、“知らない間に喰われるかも知れない”という現実は変わらない。外界宿やフレイムヘイズと関わらなければ良いという問題ではないのだ。
 今のところ そういう事に対する恐怖が無いのは、悠二やヘカテーが御崎市にいるからだ。遠くない未来、抗う術の無い怪物にいつ喰われるかも判らない日常が待っている。

「(……こっちはこっちで大変そうだぞ、坂井)」

 絶望とも達観とも違う、奇妙な感情が胸の奥に広がっていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「はむっ♪」

 幸せそうにタイ焼きを頬張りながら、シャナが校舎を練り歩く。その後ろに、ヴィルヘルミナとメリヒムが続いている。異様に目立つ光景だった。

「納得いかないのであります。なぜ彼女が名も無き刺客などという意味の解らない役をさせられるのか。脚本を手掛けた平井ゆかり嬢の真意を問い質す必要がありましょうな」

 勿論この二人……いや三人、開幕のパレードも先ほどの演劇もきっちり見ている。しかもビデオカメラに納めている。

「ふん、あれで良かったんだよ。あの演劇では魔女の出番の方が少なかったし、シャナがシンデレラになって坂井悠二に口説かれるなど演技でも不愉快だ」

「しかしあれでは……いや、そもそも王子役を坂井悠二が担っていた事自体が誤り。現代では女性が男装して行われる演劇も少なくないと聞くのであります」

「男、装……? なるほど、確かにそれならば……」

 普段は会話も満足に交わせない癖に、熱が入って饒舌になっている。
 何とも言えない気恥ずかしさを感じるシャナだが、何故かいつもぎこちない二人がいっぱい喋っている事の方が嬉しくて静観していた。実はアラストールとティアマトーも口を挟みたがっているのだが、ここは流石に人の目がありすぎる。

「(……気付かれてない)」

 そんな親バカ共を一瞥して、シャナは密かに安堵の吐息を漏らす。演劇の最中にやらかしたミスの事を多少なりとも気にしていたのだが、どうやら上手く誤魔化せていたようだ。
 もちろん、シャナは誤魔化せたからそれで良しなどとは考えていない。曲がりなりにもクラスの一員として今日まで頑張ってきたのだ。自分以外の人間の練習や苦労も目の当たりにしてきた。それを『演劇なんてどうでも良い』と切り捨てられはしない。そう……今では思えるようになっていた。
 なのに、ミスした。責任感はあっても気負いは無かった。練習通りにやれば問題ないと本気で思っていたし、事実、殆どはその通りに出来た。
 だが、あの時、

「(……どうして、言えなかったんだろ)」

 台詞を忘れた訳では無い。緊張していた訳でもない。なのに、あの時、躊躇した。
 ───貴方とは、もっと違う形で出逢いたかった。
 只それだけの、何でもない台詞を。

「………………」

 そんな事を考えながら歩いていると、いつしか校舎から外に出ていた。半ば本能的に嗅覚を働かせて甘い物をサーチする。その結果として、甘い物……あくまでも甘い物に反応して、自分のクラスのクレープ屋を切り盛りしている坂井悠二に目が向いた。
 丁度、彼の母・千草がクレープを買いに来ている所らしい。

「……クレープ、買いに行く」

 後ろの二人に意思表明して、やや小走りでシャナが行く。準備期間中、悠二には『シャナに任せたら摘まみ食いで全部なくなる』などとからかわれた。もししょっぱいクレープを出したら思う存分ワーワー言ってやる、という心待ちで近付こうとしていると……
 何やら、千草がカメラを取り出した。それを見て、悠二の隣に居た平井が彼の腕に自分の腕を絡ませ、心底楽しそうにピッタリとくっついてピースマークを出す。真っ赤になって慌てる悠二に構わず、千草はシャッターを切った。

「ッ……」

 何故か、猛烈に面白くない。
 如何ともし難い衝動に駆られて、シャナは動いた。提げたビニール袋から素早くメロンパンを取り出し、包装を破って投擲する。放たれたメロンパンは怪獣の如く回転しながら人混みをすり抜け、抜群のコントロールで悠二の口に直撃した。
 もちろんメロンパンは地面に落ちたりはしない。口に納まり切らないまでも絶妙に押し込まれたように咥えさせられている。

「……い、今の行動は、一体?」

 平井、千草、メリヒム、のみならず周囲一帯の何事かという視線を代表して、ヴィルヘルミナが疑問を口に出した。

「別に」

 シャナは、説明するまでもないという風に返した。坂井悠二が自分を不機嫌にさせた事が許せない、だから制裁を加える。自分たちの関係性を考えれば妥当と思われる結論に納得して、それ以上深くは考えない。悠二の何が自分を不機嫌にさせたのか、という事も。

「……何なんだ」

 ひっくり返った悠二が、モグモグとメロンパンを咀嚼する。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 清秋祭初日、午後四時半を少し回った頃、

【レディース&ジェントルメン! 今年もこの時がやって来ました! 御崎高校ベスト仮装賞!】

 御崎高校の校庭は、地面が見えない程の観客で埋め尽くされていた。御崎高校一年生による開幕仮装パレード、それに選ばれたメンバーから更に男女の上位三人を投票で選抜、発表、表彰する儀式の始まりだ。

【さあ御覧下さい! ここに集まったのが群雄割拠の仮装パレードの中から選りすぐられた十人の勇者! まずは一年一組、『赤ずきん』猟師役───】

 司会の少女が言うところの“勇者”が、まずは男子から紹介を始める。あくまでも紹介であり、この順番と順位は必ずしも一致しない。
 ちなみに、この紹介も順位の発表も男子からである。まるっきり前座扱いだが、毎年やっていて文句が出た試しが無い。
 そして、その選ばれし男子五人の中に……

【一年二組『シンデレラ』の王子役、坂井悠二君!】

 ちゃっかりと、この男も紛れ込んでいた。完全に、演劇で無駄なバトルアクション盛り込んだせいだと悠二は見ている。
 ───そして、女子。

【さぁさぁさぁこれは前代未聞! なんと入賞した五人のうち四人が同じクラス! “ヤツ”を含めたら全入賞者の半分が同じクラス! こんな花園が存在して良いのか!? 一年二組『シンデレラ』───】

 一年一組の女子が一人呼ばれた後、彼女らは同時に前へ出た。

【シンデレラ役、吉田一美!】
【サンドリヨン役、近衛史菜!】
【シンデレラの姉役、平井ゆかり!】
【他国の刺客役、大上準子!】

 ワッ!! と、爆発的な歓声が地鳴りのように響いた。狙い澄ました、それでいて予想以上の結果に、平井のドヤ顔が止まらない。
 途中から演劇そのものが本命になっていたが、最初の狙いは演劇によるアピールで以て仮装パレードの票数を稼ぐ事にあった。ヘカテーとシャナのどちらかが優勝すれば十分だったのだが、これは嬉しい誤算である。

【ではいよいよ、ベストスリーの発表です! まずは男性三位!】

 猛る観客に静寂を齎さんと、司会が発表を急ぐ。結果発表のこの瞬間だけは、校庭に沈黙が下りる。
 そのまま男性三位、二位と発表されて……

「(四位と五位、どっちだったのかな)」

 もはや完全に他人事のスタンスで拍手製造マシーンと化していた悠二の名前が、

【そして第一位! 男子生徒の憎しみを一身に受ける優柔不断な地味モテ男! シンデレラの王子役、坂井悠二君!!】

「…………は?」

 優勝者として、読み上げられた。

「っしゃあぁぁーー!!」

 悠二が、観客が反応するよりも早く、人目も憚らずステージ上で平井が拳を突き上げた。一拍遅れて、歓声やら怒声やら呪詛やらが一斉に悠二に降り注ぐ。
 全く予想だにしていなかったが為に目を白黒させる悠二が、近くにいた同じく入賞者の男子らにバシバシと叩かれた。
 そして進行は女子へと続く。

【さぁさぁここからが本番ですよ! 女性三位! 一年二組『シンデレラ』───】

 グッと、四人の間に生まれる緊張。そして……

【サンドリヨン役、ヘカテーちゃんこと近衛史菜さん!!】

「っ!」

 ヘカテーが、ピクッと跳ねた。三位……人によっては喜んでも良い結果だが、実のところヘカテーは見知らぬ不特定多数の評価には興味が無い。
 ただ、何となく、“悠二とお揃いじゃない事”を素直に喜べない。

【続いて、二位! またまた一年二組『シンデレラ』他国の刺客役、シャナちゃんこと大上準子さん!!】

「っ……!」

 続く二位は、シャナ。こちらも当然、満面の笑みとはいかない。何かにつけて悠二をライバル視するシャナにとって、男女別とはいえ悠二より下の順位は屈辱でしかなかった。

「(……あり?)」

 そして当事者達とは別に、この流れに首を傾げる少女が一人。そう、平井ゆかりである。

「(ヘカテーが三位で、シャナが二位?)」

 悠二の一位は思い切り狙った。本来のシンデレラには無いバトルシーンで悠二の見せ場を作り、日常生活ではお目に掛かれないハイスペックぶりを観客に見せ付けてやった。
 しかし女子の方は……ヘカテーとシャナでワンツーフィニッシュの予定だったのだ。

【そして栄えある女性一位、一年二組『シンデレラ』───】

 釈然としない平井に構わずに式は進行して、

【シンデレラの姉役、平井ゆかりさん!!】

 疑わしげに一組の『不思議の国のアリス』アリス役の黒田寿子をジロジロ見ている平井の名前が、呼ばれた。
 故に平井は数瞬気付かず、

 ワアッ───!!

「うわっ!?」

 校庭中の途轍もない歓声を受けて、我に帰った。

「スゴい……ゆかりちゃん、優勝だよ!」

「え……は……あたし?」

 場の空気に引きずられるように興奮した吉田に肩を揺すられて、今更ながらに事態を理解する。
 平井は吉田ほど弱気ではないが、ヘカテーやシャナを押さえて一位になれるなどと思い上がってはいない。ベスト5に入れただけでも大喜びだったのだ。
 しかし実際に、彼女はこうして一位に選ばれている。

【今回のベスト仮装賞はホンット~に大接戦でした! 一位の平井さんと三位の近衛さんの間には十票差もありません! 許されるなら三人とも優勝にして差し上げたい!】

 おそらく、単に容姿だけを競えば平井の目論見通りになっただろう。だが、平井が脚本を手掛けた演劇こそが結果を左右した。
 あの演劇で最も優れていたのは、ストーリーでも女優でもなく、アクションだ。そのアクションの差でヘカテーはシャナに敗れた。今回の『シンデレラ』に於いて、シンデレラは王子や刺客どころか姉よりも弱い設定だったからだ。
 そして、平井。彼女には一人で王子やシンデレラを追い詰める刺客役ほどのアクションは無かったものの、全体的な演技力はヘカテーやシャナとは比較にならなかった。
 役者としての総合力で平井はヘカテーらに競り勝ったのだ。

【では平井さん、優勝者インタビューをどうぞ!】

「……おおぅ」

 差し出されたマイクを受け取る段になって、ようやっと平井にも実感が湧いてくる。やや分不相応な気もしているが、ここで退くほど空気の読めない少女ではない。
 ただ、こんな事態は想定していなかったから何を言ったものか……と考えた時、ふと思い付いた。

「(……“言っちゃおうかな”)」

 もはや隠す気も偽る気も無い。まだ明確な言葉にしていないのは、お楽しみを取っておいているに過ぎない。
 奇しくも男女のベスト仮装賞。おそらく全校生徒+αが集まっている状況。カードを切るのは今ではないだろうか? 何より、言われた少年が大衆の前で、可愛い少女らに囲まれた状況で慌てふためく姿を想像したら……堪らない。思わず頬が緩んでしまう。

「っ………!?」

 イタズラ心に満ち溢れた流し目を受けて、悠二が露骨に怯える。ならば期待に応えようとマイクを受け取った平井が、大きく一歩前へ出る。
 その、視線の先で───

「?」

 溢れる人混み、歩くのも儘ならないの中で……唐突に派手な日傘が咲いた。
 まるで吸い寄せられるようにその持ち主に視線を下ろすと……微笑する金色の髪の少女と───目が合った。
 瞬間、

「んなぁっ!?」

 少女を中心に広がった朱鷺色の世界が、驚く平井を取り込んだ。

「ふ、封絶!?」

 あまりにも突然の出来事にパニックに陥る平井の前で、少女が人混みの中からフワリと浮き上がり、何もない中空に降り立った。

「フフ、はじめまして、ミステスのお嬢さん」

 深紅のドレスに身を包んだ、肩に届かない柔らかい金髪の少女。間違いなく美少女と断言出来る容姿だが、後頭から羊の様な角が生えている。
 その姿、展開された自在法、何より目に映る違和感が紛れもない事実を示していた。

「紅世の徒……!」

「はい、“戯睡郷”メアと申します。以後お見知り置きを」

 メアと名乗った少女が、柔らかく頬笑む。余裕とも見える態度に必要以上のプレッシャーを感じた平井が後退……ろうとして、陽炎の壁に背中をぶつけた。

「無駄ですよ。私の『ゲマインデ』からは、出る事も入る事も叶いません」

 そこで平井は、漸く今の正確な状況を知った。この封絶……否、『ゲマインデ』というらしい自在法は、メアを中心に平井を取り込む形で展開されている。しかし範囲は校庭どころか公園程度、そして結界の壁は平井の真後ろ。……つまり、すぐ近くにいた悠二、ヘカテー、シャナすら取り込んでいない。
 出入りが不可能、という言葉が真実だとするならば……

「(分断された……!?)」

 愕然とする平井の前で、少女は日傘を消し、代わりに神楽鈴を握り、鳴らした。

「お行きなさい、『パパゲーナ』」

 それに応えるように、朱鷺色の炎弾が数発、一斉に平井を襲う。

「(挨拶してすぐ攻撃ですか……!)」

 初の実戦、味方はいない。気負いはある、恐怖はある、だが……人の身で燐子を欺いた時ほどのものではない。

「(女は度胸!!)」

 意気込む平井ごと、連鎖的な爆発がステージの前半分と、ステージ近くにいた生徒を呑み込む。
 広がり燃える爆炎の中から、

「っりゃあぁーー!!」

 火傷一つ負っていない平井が、大剣を片手に飛び出した。悠二から譲り受けた火除けの指輪『アズュール』の力である。
 そして、悠二から引き継いだもう一つの宝具が血色の波紋を浮かび上がらせる。

「『吸血鬼(ブルートザオガー)』!!」

 平井の核を為す魔剣が、唸りを上げて振り下ろされた。メアは神楽鈴で刃を受け止めようとするが、それこそが平井の狙い。
 『吸血鬼』には、注いだ力で刃に触れた相手を斬り刻む能力がある。即ち、防御は無意味。
 しかし───

「えっ」

 その力が発現される事は、無かった。何故ならば、大剣は止められる事なく振り抜かれたからだ。
 ───構えた神楽鈴ごと、メアを真っ二つに両断して。断ち切られた二つの身体が、火の粉となって散っていく。

「これで、終わり……?」

 あまりにも呆気ない決着に、平井は逆に困惑する。散っていく朱鷺色の炎……その残滓に漂う気配を感じて、漸く気付いた。

「気配が、小さすぎるんだ」

 そもそも、こんな距離に徒が居たのに誰も気付けなかったというのが不自然なのだ。
 その理由が、この“弱さ”。直接視認しなければ気付けないほどの、人混みに紛れるだけで隠れてしまえるほどに小さな、トーチ程度の力しかない徒だったのである。

「そんな奴が何で正面から……ってヤバ!」

 そんな事を考えている間に、術者を失った結界が揺らぎ始めた。平井は今の自分に使える数少ない自在法・封絶で塗り潰す形でこれを維持する。
 それと同時に、悠二、ヘカテー、シャナが飛び込んで来た。

「ゆかり、敵は……!?」

 真剣そのものといった風な悠二に、平井は誇らしげに親指を立てる。

「楽勝!」

 後れ馳せながら実感する。只の人間でしかなかった自分が、紅世の徒を倒したのだと。彼の隣を歩くに足る力を得たのだと。
 しかし、肝心の悠二は怪訝そうな顔をする。

「楽勝って……封絶が張られてから“まだ一秒も経ってないぞ”?」

「……はい?」

 どれだけ速く倒したんだ、と訝しがる悠二だが、平井の方こそ意味が解らない。
 確かに呆気なかったが、いくら何でも一秒などという事は有り得ない。だが、

「信じられんな。貴様、本当に敵と戦ったのか?」

「大体お前、どうしてそんなに急いで敵を倒したの?」

 証人は悠二だけではなかった。二人で一人の『炎髪灼眼の討ち手』までが疑わしげに平井を見てくる。

「……外にも気配はありません」

 ヘカテーに至っては、平井に何か訊く前に、一度封絶の外に出て気配を確認してきたりしていた。
 一秒未満というなら確かに、倒したのではなく、封絶を張って、悠二らが侵入すると同時に逃げたと思うのが自然だろう。
 しかし当然、それで平井が納得できる筈がない。

「あたし嘘ついてないよ!?」

「いや、僕も嘘ついたとは思ってないよ。とにかく、話は後にして封絶解こう」

「あ、だったらまず壊したトコ直さないと……」

 と、言い掛けた平井はふと気付く。封絶の中に、“破壊された痕跡など微塵も無かった”。

「どんな徒だったのですか?」

 クイクイと袖を引っ張って、ヘカテーが訊いてくる。平井はごくごく普通に答えようとして、

「ん? えっとね……あれ?」

 答えようとして……

「………………何だっけ?」

 ───答える事が、出来なかった。




『フフ、フフフ』

 どこかで、誰かが、

『さあ───覚めない夢に微睡みなさい』

 ───昏く笑った、気がした。






[37979] 8-7・『革正団』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/03/31 06:03

 慮外のトラブルを挟みながらもベスト仮装賞を終えた御崎高校清秋祭。しかし、その一日目はまだまだ終わらない。
 地域ぐるみの一大イベントだけあって、この初日だけは学校への泊まり込みが認められている。夜通し馬鹿騒ぎが御崎高校生としてのマナーである。
 無論、悠二達いつものメンバーも泊まる予定で行動していた。
 ……ただし、流石に何も無かったようにとは行かない。

「……つまり封絶を張った徒を倒しはしたものの、どんな姿でどんな力を使ったのかは憶えていない、と?」

「……はい」

 学校から少し離れたマンションの屋上に、悠二、ヘカテー、平井、シャナは勿論、ヴィルヘルミナ、メリヒム、ラミーまでが集まっていた。
 ヴィルヘルミナの無表情に問い詰められて平井が小さくなっている。

「“化かされた”と考えた方が自然だな。本物は今も何処かに隠れているだろう」

 ちなみに、マージョリーはいない。清秋祭に顔を出していなかったものの、当然異変は感知していたが、連絡用の栞でラミーの名前を出した途端に丸投げしたのである。個人的に顔を合わせたくないのだろう。

「それでも気配を悟らせないんだから、かなりの自在師って事かな」

「……かなりの自在師が、わざわざ自分から姿を現して平井ゆかり一人に追い払われたりするかな」

 メリヒムの断言に悠二が思い、シャナが唸る。昨今の情勢を考えると警戒心が強まるものの、今回の敵の襲撃は何とも不可解に過ぎた。
 誰にも気付かれていなかった癖に、自分から姿を現した。姿を現した癖に何かを成し遂げたとも思えない。もし平井が本当に敵を倒していた場合、『やられに来た』としか思えない状態である。平井が化かされていた場合でも、無駄にこちらの警戒心を煽った事実に変わりない。
 わざわざそんな事をする理由、

「挑戦状、でありますな」

「支持」

 二人で一人の『万条の仕手』の言葉に、悠二が眉を上げる。

「そんな馬鹿な事、するのかな」

「珍しくはありません。外れた世界で力を振るう徒の中には、『自己顕示欲』を抗い難い欲求として持つ者も多いですから」

 無謀としか思えない仮説を、ヘカテーが徒としての観点から支持した。
 しかし、敵の思惑がどうであれ、今の悠二らに取れる選択肢は多くない。

「無謀な挑戦だとは思うけど、あんまり楽観も出来ないな。“そいつら”、普通なら封絶を使わずに暴れるような奴らなんだろ?」

 気配察知の自在法を街中に広げながら、悠二はヴィルヘルミナに問う。
 平井が遭遇した徒の事は解らないが、近い内に現れるだろうと予測していた徒については多少の事前情報があった。

 ───『革正団(レボルシオン)』。

 十九世紀後半から二十世紀前半に掛けて存在したという集団。その掲げる思想は“紅世の徒の存在を人間に知らしめる事”であり、だからこそ真実を隠蔽してしまう封絶を好まない。人間に致命的な絶望と混乱を齎すだろう危険な思想ゆえにフレイムヘイズの軍団の手で滅ぼされた筈だった。
 しかし今、各地で外界宿(アウトロー)を潰して回っているのが、その『革正団』である可能性があるという。襲撃犯と交戦し、生き延びた数少ないフレイムヘイズにしてヴィルヘルミナの友人、『輝爍の撒き手』レベッカ・リードからの情報である。
 生き残りがいたのか、ずっと機を窺っていたのか、最近になって『革正団』の思想に共鳴したのか、いずれにしても、現実の脅威として存在する。それも、“狩人”と教授という極め付けに厄介な味方をつけて。

「いない……いや、見つけられない」

 自在法の手応えの無さに嘆息して、悠二はヴィルヘルミナに目を向ける。

「結局、向こうから何かしてくるまで動けないって事かな」

「フレイムヘイズ……いえ、護る者はいつだって受け身なものであります。貴方も慣れておくべきでありましょう」

 親切からの忠告を受けて、悠二は渋い顔をする。今回だけならまだしも、これからずっとと言われると思う所があるのだ。
 ……何より、先手を打たれて取り返しのつかない事にならないとは限らない。

「それほど心配なら、君が護ってやると良い。君も以前のままではないだろう?」

 そんな悠二の心中を見透かしたようなタイミングで、ラミーがそう告げる。それを聞いて不満そうに膨れるのは平井だ。

「あたし、もう自分で戦えるよ?」

「阿呆が。少しは身の程を弁えろ」

 そして、間髪を入れずメリヒムに呆れられる。すかさずヴィルヘルミナが続いた。

「現に今も、戦った敵の姿すら思い出せない。戦場に出すにはあまりに危険であります」

「う……でも、せっかく戦えるようになったのに」

「今のお前は“戦える”ようになってない。もし戦ってる時に邪魔になったら、お前から斬る」

 シャナにまで釘を刺されて、平井がガックリと項垂れる。
 シャナはともかく、メリヒムやヴィルヘルミナは平井がどれだけ強さを求めていたかを知っている。それでも、当然、そんな理由で参戦を認めはしない。

「……はーい」

 その理由も解ってしまう平井は、渋々ながらも引き下がる。
 人間だった時は言われなくても割り切れていた事も、今では酷く焦れったい。そんな自分の心を危険だと自覚して戒める。

「(……僕が、護る)」

 そんな平井の背中を見ながら、悠二もまたラミーの言葉を噛み締めていた。

「(今度こそ、護る)」

 癒えない傷が、消せない過去が、胸の奥を軋ませる。後悔に裏打ちされた恐怖は四肢を竦ませる事なく、理性によって強靭な意志へと結実される。

(クイクイ)

 覚悟を固める悠二の袖を、ヘカテーが軽く引っ張った。

「……そろそろ、ファイアーストームが始まります」

 上目遣いに訴えながら、落ち着きなく身体を揺らしている。
 ヘカテーにとっては、いつ現れるかも判らない敵よりも初めての文化祭の方が優先順位が高いようだ。
 場に、解散の空気が流れる。

「まあ、敵の狙いが判らん以上、どこに居ても同じだからな」

「警戒だけは怠らぬように。有事の際には何を措いてもまず封絶を」

 メリヒムとヴィルヘルミナが、そう言い付けて去って行く。ラミーもまた、帽子の鍔を抓んで軽く会釈してから何処かに消えた。

「よっし! 気を取り直して踊るか悠ちゃん」

「ったく、自分が襲われたって解ってる?」

「次は返り討ちにします」

 平井も、悠二も、ヘカテーも、束の間の日常に戻っていく。
 夕焼けに照らされて伸びる影が、黄昏に呑まれて薄れていった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 手を繋ぎ、肩を抱いて、悠二は慣れないステップで炎の周りを踊る。

「(……見られてる。ものすっごい見られてる)」

 自分に好意を寄せてくれている少女と、夜闇の中で炎に照らされた雰囲気の下、身体を寄せ合ってフォークダンス。この状況に対する緊張や動悸も尋常ではないが、周囲からの好奇の視線も羞恥心を掻き立てる。
 見世物じゃない、と言ってやりたい所だが、これは見るなという方が無理だろう。
 ベスト仮装賞に選ばれた男子が、同じくベスト仮装賞の候補に挙がった女子と……“代わる代わる”踊っているのだから。

「(開き直れ坂井悠二。これは僕と彼女たちの問題であって、外野は関係ない)」

 どんな風に見られているかを察しながらも、悠二は執念で無視する。彼女らが向けてくれる気持ちの真摯さに比べれば、悠二のちっぽけな世間体など塵芥に等しい。
 などと考えている時点でダンスに集中できていない、という事実の証明のように……

「痛っ!?」

 三人目のダンスパートナー……ヘカテーに足を踏まれた。

「……すいません」

「いや、今のは僕が悪い」

 普段は日常であってもキビキビチョロチョロとしているヘカテーが、今は酷くぎこちない。真っ赤な顔でカクカクと動くヘカテーは、言い方は悪いが吉田のようだ。

「(……あーもう、可愛い)」

 その仕草があまりにも可愛らしく、直視できなくなって悠二は顔を逸らした。
 悠二にとってヘカテーは外れた世界の師であり、頼もしい戦友であり、手の掛かる妹だった。今でこそ彼女の気持ちに気付いているが、未だに戸惑いが大きくて気持ちの整理がつかない。
 ……いや、整理がつけば解るという自信も無いのだが。

「(……ごめん、色々)」

 己の愚鈍な心を本気で呪いながら、悠二は口の中だけでヘカテーに謝る。
 拙くも懸命なダンスはあっという間に時間を迎え、二人は並んで炎の傍から離れて……

「せいっ!」

「ぐはぁ!?」

 佐藤の一撃を皮切りに、悠二は複数のクラスメイトから袋叩きに遭った。

「うわぁ、気持ち解るけど酷いねアリャ」

 その様を、当事者たる悠二、ヘカテー、佐藤を除く『いつものメンバー』が、少し離れた校庭の階段から眺めていた。

「一美、助けなくて良いの? 坂井君の被害の三分の一は一美のせいだと思うけど」

「え、えぇ!?」

 緒方から意地悪く無茶ぶりされて、吉田が可哀想なくらいに狼狽する。その横から、

「男子の社交辞令みたいなものだから、放っときなよ。大体、いま吉田さんが出て行っても敵が増えるだけだと思うし」

 メガネマンがさり気なくフォローする。その言葉に、緒方はなるほどと納得して、ドロップキックされている悠二を見る。確かに、本気で抵抗している様には見えない。甘んじて制裁を受けているようにも見受けられた。

「でも、坂井君があんなに強かったなんて知らなかったよ。田中達は知ってたわけ?」

 演劇の最中、達人的な技量でシャナと戦う悠二の姿を思い出して緒方は呟く。

「それ、もう何度目だよ」

 もちろん、ぶっつけ本番でやったわけもない。緒方が悠二のバトルシーンを拝むのも一度や二度ではなかったのだが、よほど衝撃の事実だったらしい。

「あれは演劇に合わせて手加減しただけ。私や近衛史菜に比べたら、あいつもまだまだ弱い」

「ほぇ~、世界は広い……いや、狭い? ねぇ」

「何だそりゃ」

 よく分からない表現で緒方が小さな笑いを呼ぶ。その反面、吉田は少し複雑そうだった。

「(私って、坂井君の事なにも知らないなぁ)」

 一緒に住んでいるヘカテー、意味深な絆を匂わせる平井、親友である池は勿論、佐藤や田中、そして少なくとも表面上はそれほど仲良く見えないシャナまでもが、自分より悠二に近いような気がする。
 これは恐らく、以前から度々感じている『壁』……何らかの秘密の共有だろうと吉田は直感する。
 少し前なら、『簡単に話せない事情があるのだろう』と自分を納得させる事も出来たのだが、『壁』の内側に池達が入ったとなると心中穏やかではいられない。

「(……そういえば、ゆかりちゃんも強かったんだよね)」

 思って目を向ければ、階段に座って俯いたまま動かない平井の姿があった。どうしたのかと近付いてみると、小さな寝息が聞こえてくる。

「ゆかりちゃん?」

「ん……あれ? あ、ごめん、寝てた?」

「うん、多分」

 浅い眠りだったのか、少し声を掛けたら薄い反応で目を覚ます。

「大丈夫? ジュースでも持って来ようか?」

「んー……じゃあ、コーヒーお願いしてい? この夜をオールで駆け抜けられそうなヤツ」

「あはは……うん、ブラック買って来る」

「ブラックはやめて!」

「冗談だよ」

 微笑を残して、吉田は駆けて行く。恋敵相手でも普通に優しく接する事が出来るのは、吉田の長所であり強さだ。

「んー! っよし!」

 平井は立ち上がり、グッと伸びをして気合いを入れる。日常でも、非日常でも……

「これからが本番、ですからね」

 ───知らず、少女の口元が微かに歪んだ。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 清秋祭初日の夜は徹夜で騒ぐのがマナー。と言っても、学生の屋台や喫茶店では備蓄にも限界があるし、楽しい夜にずっと出し物を続けたいなどというクラスは稀有だ。
 故に、こういう場合は学生ではなく隣接した商店街の屋台に頼るべきであり、校内で騒ぐなら必然的に買い出し組が必要になってくる。

「っ~~♪ ♪♪~~」

 そのジャンケンに負けた平井と悠二が、両手に大量の食糧を持って夜道を歩いていた。厳密には負けたのは平井一人で、悠二はボディガード兼お手伝いとして同行を申し出た形だ。
 夕方にあんな事があった以上、平井を一人には出来ない。同様に、人間の付き添いも無意味だった。

「いやはや少年、このシチュエーションはなかなか悪くないと思わないかね?」

「……何が少年だ」

 機嫌良さそうに回って見せる平井の言葉が照れ臭くて、悠二はぶっきらぼうに視線を外す。
 二人は今、買い物を終えて騒がしい通りから少し離れた路地を歩いている。せっかくだから遠回りしよ、という平井の提案に付き合わされた末の今だった。

「(そりゃ僕だって、意識しないワケじゃないけど)」

 高一の文化祭、どうしたって気持ちが浮かれる夜に、気になる女の子と二人きり。祭り囃子が耳を擽る静かな空間は、否が応にも鼓動を高鳴らせる。
 ……が、悠二はその衝動に身を任せられない。自分は本当に平井を好きなのか? もし違ったら自分も、彼女も、別の少女も傷つけてしまうのではないか? そんな懸念が先に来て、あと一歩を踏み出せない。
 ……いくら“考えても”、自分の気持ちが解る事はないと判っているというのに。

「しつこいようだけど、妙な徒と戦ったの ゆかりだよ? ちょっとくらい緊張感ってもんを……」

 半ば誤魔化すようにシリアスな話題を出した悠二は……

「だけど───悠二が守ってくれるんでしょ?」

「っ」

 思わぬカウンターを受けて、絶句した。……いや、少し正確ではない。
 別人のように穏やかな笑顔で柔らかく微笑む彼女に、思わず見惚れたのだ。暗くて良かったと、ちっぽけな安心感を抱く悠二……の顔を見て、平井はニンマリと笑った。完全にバレている。

「んしょ」

 不意に、スキップよろしく平井が先行した。然る後に反転し、何故にか両手の荷物を地面に置く。
 何? と訊く暇も無かった。

「えぃや♪」
「!!?」

 荷物を置いた低い姿勢からそのまま、平井が胸に飛び込んで来たからだ。

「ゆ、ゆかり……!?」

 甘い香りと柔らかい感触に、今度こそ悠二は耳まで真っ赤になった。いつもの気安さとは違う大胆さに、悠二は掛ける言葉すら忘れて、次の瞬間……

「─────え?」

 “脇腹に焼けるような痛みを感じて”、間の抜けた声を洩らした。
 現実感の無い痛みは瞬く間に形容し難い激痛へと変化し、その半分くらいが麻痺してぼやける。

「何……ぐぶっ!?」

 何が起きたのか理解しようとする頭が、横っ面に受けた衝撃で揺さ振られる。次いで、痛む脇腹に更なる衝撃が深々と突き刺さった。

「ッ……か……」

 堪らず膝を着いた悠二が真っ先に目にしたのは、自分の血で出来た水溜まり。次に目にしたのは、脇腹に触れた手をベッタリと汚す鮮血。
 そして、顔を上げて……漸く理解した。いや、信じたくなかったモノを見せ付けられた。

「ふふ、ふふ、あはは……」

 その手に握る粗末な短剣を血に染めて、歪んだ笑みを浮かべる───平井ゆかり。
 “平井ゆかりが、坂井悠二を刺した”のだ。

「アハハハハハハッ!!!」

 歪んだ口元が裂けるように広がり、酷薄な笑声が弾ける。

「こんなにアッサリやられるなんて、まだ“人間が抜けきってない”って話は本当だったんですね」

 深緑の制服が霞み、揺らめき、深紅のドレスとなって少女を飾る。

「だけど、私はやった! 彼を退けた貴方を、私がこの手で!」

 噛み締めるように粗末な短剣を見つめる紫の瞳が、金色に輝く。立ち上る存在感に靡く髪もまた、金色に染まる。自慢の触角が、羊のような角へと変貌する。

「お、前……誰だ……!?」

 不安定な肉体も、振り撒く気配も、胸に燃える灯火も、間違いなく平井ゆかり。だが、こんな存在が彼女である筈が無い。

「ああ、そうでした。貴方にはまだ名乗っていませんでしたね」

 憤る悠二に誇らしげな表情を向けて、平井の姿をした何かが掌を広げ……

「“戯睡郷”メア。この名を、胸に刻んでおいて下さいな」

 ───鮮やかな血色の炎が、少年を呑み込んだ。





[37979] 8-8・『ヘカテーVSメア』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/04/03 19:56

 傷だらけの少年を抱えて、金髪の少女が夜空を飛ぶ。その夜景の全てが、紅蓮の陽炎に染め上げられた。御崎市を丸ごと覆い隠す、巨大な自在法・封絶だ。
 それに合わせて、尋常ならざる気配が次々と近づいて来る。

「くすっ、今さら慌てて出て来たところで遅いですよ」

 少し前なら対峙するだけで竦み上がっていただろう存在感を、冷静に捉えられる。そんな小さな事さえ喜びとして噛み締めながら、メアは虚空から顕れた日傘を掴む。
 手元のスイッチで開かれた傘は、盛大に限界を超えてひっくり返り、アンテナのような形になった。
 そのアンテナが、馬鹿のように白けた緑色の光線を、前方の時計塔へと照射する。同時に、変貌が始まった。

「……本当に、発動した」

 時計塔を形作る鉄骨が無茶苦茶に変形し、パイプやらコードやらが至る所から樹木の如く伸び始める。形容し難い物体と化した時計塔は、なおも蠢くように変質し続けていた。
 その内側から、複数の違和感が頼もしく迸る。

【サァーークセェーーース!!! こぉーれで遂に! いよいよ! 待ちに待った実験に取り掛かる事が出来まぁーーすよぉーー!!】

 しなくてもいいやる気の主張までが、騒々しく響き渡る。馬鹿でかい声で催促されるのも時間の問題と判断したメアは、再びアンテナを操作して光線を照射、時計塔だった物体に滑り台の入り口のような穴を開けて悠二を放り込んだ。

「……流石に、消耗が大きいですね」

 ゴッソリと力を削ぎ落とされたような感覚に、メアは微かに表情を顰める。時計塔内部に味方を『転移』させたのは教授による改造を受けた日傘の能力だが、その動力に使われたのはメアの……平井の力だ。撒き散らす違和感も並ではないし、あまり多用はしたくない。……が、今回は必要な事だった。

「(まあ、無くした力は後で注ぎ足せば良い)」

 支障が無いとは言えないが、今の自分には力を蓄えられる『器』がある。そう思えば、疲労を笑いに変える事さえ出来た。

「さあ……」

 日傘が虚空に溶け消える。代わりに右手に握られたのは、血色の波紋を揺らす魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』。

「どこからでも、掛かって来なさい」

 挑む事が出来る、それ自体が嬉しくて堪らないように、メアは近付いて来る光に剣を向ける。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 不思議と、時間の感覚はあった。おそらく十分と経っていない。……同時に、その十分が致命的なミスに繋がった事も理解できていた。

「………………」

 薄く目を開けると、鉄と機械とコードだらけの薄暗い空間が見えた。無数に広がっている、恐ろしく複雑な自在式も同様に。
 その自在式の先を追うと、囚われた自分へと繋がっている。パイプと呼ぶのかコードと呼ぶのか、床から天井まで繋がる、硬く柔軟な管で編まれた鉄樹の中に、悠二は肩と頭だけを残して埋め込まれていた。

「(……力、吸われてるな。自力で脱出するのは無理か)」

 あちこちを蝕む痛みに脂汗が止まらない。人間以下に搾り取られた身体に力が入らない。そんな中で、頭だけが妙に冴えていた。
 ただ、何か巨大な存在に取り込まれているようで、殆ど気配が掴めない。いくら冷静になれても、肝心の判断材料が無くては大して意味が無い。

「お目覚めですか」

 不意に、落ち着いた声が聞こえた。僅かに遅れて碧玉の火の粉が渦を巻き、一つの姿を結晶する。
 豪奢な法服を纏い、波打つような長髪を足下にまで届かせる妖艶な男だ。

「はじめまして、『零時迷子』の坂井悠二。『革正団(レボルシオン)』に名を連ねる王の一人、サラカエルと言います」

 丁寧に挨拶をされて、しかし当然、悠二の表情は緩んだりはしない。ただ、『革正団』という名前のみに反応する。碧玉の王……厄介な自在師だと聞いてはいたが、それだけでは対策の立てようが無い。

「……ゆかりに、何をしたんだ? メアとか言ってたけど」

 『戒禁』があるから『零時迷子』は取り出せない。無作為転移が起こると不味いから悠二自身も壊せない。だから悠二は、自分が生きたまま攫われた事は順当だと理解している。
 だが、攫われる原因となった平井の変貌は話が別だ。

「同志メアの『ゲマインデ』は、対象の意思総体を夢の世界に沈めて意のままに操る自在法、と聞いています」

 駄目で元々の質問だったのだが、サラカエルは意外にもアッサリと答えてくれる。

「これだけなら無敵の様にも聞こえますが、実際はそこまで便利な自在法でもないそうです。自分より意思総体の強い相手には通用しないどころか、夢を破られた時に大ダメージを受けるらしいですし」

 それが逆に、悠二を不安にさせる。「もう何を話しても問題ない」、そんな余裕が透けて見えるようだった。

「この世に顕現する徒の器は意思総体の強さに比例しますから、普通なら実力差を覆せる自在法ではありません。“二つの意識”を持つフレイムヘイズに対しても無力……ですが本人の意思と無関係に、代替物として造られるミステスだけは例外だ」

「……ゆかりを、乗っ取ったのか」

「ええ、同志メアはずっと待っていたんですよ。強大な器と未熟な精神を併せ持つ、彼女のような存在をね」

 一つの疑問が、氷解した。ミステスを乗っ取る力があるなら、最初から平井ではなく悠二を乗っ取れば良かったのにと思っていたのだが……要するに、しなかったのではなく出来なかった、或いはリスクが大きかったのだろう。
 そして、こんな欠点だらけの自在法の説明をしてくれるという事は……平井を取り戻す事は最早不可能。少なくとも、サラカエルはそう思っているという事だ。
 もちろん敵の言葉を鵜呑みにする気は無いし、そんな理屈で諦める訳もないが、無視も出来ない。もしシャナ辺りがサラカエルと同じように判断すれば、悠二が対策を講じる前に平井が破壊されかねない。

「やれやれ、恐ろしい人だ」

 危機感を表情に出さないよう務める悠二を見て、サラカエルが溜め息を吐いた。

「私に対する恐怖も、同志メアに対する憤怒も間違いなくあるのに、その感情に呑まれない。これだけ絶望的な状況に置かれながら、今も冷静に頭を働かせている。少し前まで普通の一般人だったとは思えないほどですよ」

「………………」

 悠二に言わせれば、この状況で悠二を侮る事の無いサラカエルの方が余程恐ろしい。
 初対面の徒にここまで高く評価された事はないが、敵に回すには一番厄介なタイプだと一瞬にして理解した。

「残念です。貴方の宝具が『零時迷子』ではなかったら、今すぐ『革正団』にお誘いしたのですが」

 本気で買い被ってくれているようなサラカエルの態度にも、悠二は反発しか覚えない。平井の身体を乗っ取り、悠二も痛めつけて拘束し、どの面を下げて仲間になれなどと抜かすのか。

「出来れば、貴方とはもっと話をしていたかったのですが……刻限のようです」

 遠方、とも呼べない距離から爆音が聞こえて、サラカエルは壁を睨む。どうやら外では戦闘が始まっているらしい。

「では、さようなら。もし貴方が消える前に外の敵を掃討する事が出来れば、また会う機会もあるでしょう」

 悠二にとって不吉極まる別れの言葉を言い残して、サラカエルは虚空に溶け消えた。
 広い空間に一人残された悠二は、僅かな情報から今の状況を整理する。

「(今、何時くらいかな。割とそろそろだと思うけど……)」

 今の悠二には脱出するだけの力は無い。となると、誰かに助けて貰うか力が回復するのを待つしかない。そして悠二の『零時迷子』には毎夜零時に宿主の力を完全回復させる機能があり、その零時もそれなりに迫っている筈だった。
 力さえ戻れば、こんな拘束わけなく破壊できる……のだが、

「(やっぱり、それを待ってたらマズいんだろうな)」

 敵がその事を知らない訳がない。むしろ、こうして『零時迷子』を手にした今、宝具の力が発動する零時にこそ敵の狙いがあると見るべきだろう。
 そしてサラカエルの口振りから見て、恐らく“それ”が起きれば坂井悠二は消滅する。

「(……見てろよ、絶対出し抜いてやる)」

 紅世最強の自在師に教えを受けた者として、悠二は部屋中の自在式と睨めっこを開始した。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 それを見る前から、ある程度は覚悟していた。

「(まさか、そんな……)」

 捉えていた、慣れ親しんだ気配の一方が唐突に膨らみ、もう一方の気配が消えた。自在師である悠二は気配の波が独特なので、どちらがやられたのかも即座に判った。
 あの時はまだ他の気配は感じなかったから、それは当然の推測。それでもヘカテーは、眼前に立ちはだかる少女の姿に衝撃を受けた。

「ゆ、かり」

 髪と瞳を金色に輝かせ、羊の角を生やした平井ゆかり。気配は変わらず、しかし一目で異形と判る姿。……やはり、彼女が悠二を倒したのだ。

「操られて……いや、乗っ取られているな、これは。恐らくは夕方襲撃された時には既に……」

「……どいつもこいつも緩みすぎ。こんな事なら私も付いて行くんだった」

 ヘカテーに数秒遅れて、二人で一人の『炎髪灼眼の討ち手』も追い付く。その眼に映るのは異形と化した平井と、変貌した時計塔。

「……悠二は生きています。恐らく、今はあの中に」

 学生手帳に入れた写真、そこに変わらず映っている悠二の姿を確認して、ヘカテーが断言した。
 すぐさま純白の巫女装束を纏い、手にした大杖『トライゴン』を制するように横に振る。

「ゆかりは私が何とかします。お前は、悠二を助けて下さい」

 自分なら洗脳を解ける、という自信がある訳では無い。それでもヘカテーは、この役目をフレイムヘイズに任せる気にはなれなかった。

「お前……本当に大丈夫なんでしょうね」

 シャナもまた、自分がそんな風に思われていると理解した上で問い掛ける。特異な力を持っているとはいえ、ヘカテーは自在師ではない。何か具体策があるとは思えない。
 そもそも……本当にヘカテーに平井と戦う事など出来るのだろうか? これは普段の鍛錬とは違うのだ。

「無論です」

 しかしヘカテーは即答する。理屈も無謀も関係ない。無垢にして純粋な意思こそがヘカテーの強さだ。

「………………」

 硬く、真っ直ぐな物ほど、側面から叩かれれば脆い。理解とも呼べないレベルの漠然とした不安を抱いて、シャナは顔を顰める。
 だが、悠長に話をしている暇はなさそうだ。薄白い炎が、時計塔の裏から飛び出して来た。

「……任せたわよ」

 一抹の不安を抱きながらも、シャナは紅蓮の双翼を燃やして飛翔する。迎撃に出て来たらしい薄白い炎は無視して、まずは一撃。

「燃えろォ!!」

 『贄殿遮那』から迸る紅蓮の炎を、未だに蠢き続ける時計塔へと放った。
 どう見ても一番怪しい物体に灼熱の奔流が直撃する……寸前、時計塔の表面に碧玉の瞳が開いて、炎が『反射』した。

「くっ!?」

 迷わず仕掛けはしたものの、もちろん警戒して距離を取っていたので、シャナは何とか自分の炎を回避する。
 その頭上から、薄白い炎弾が雨となって降って来た……が、それらは空を掃く虹の一閃によって払われる。

「こいつらも強いな。くく、本当にこの街は楽しませてくれる」

 凶悪無比な自在法を挨拶とでも言いたげに“虹の翼”メリヒムが、

「まったく……世を乱さない、という誓い、よもや忘れたとは言わさないのであります」

「不謹慎」

「俺が荒らしてる訳じゃないだろうが」

 そんな彼を嗜めるように『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルが、

「漸くお出ましって訳ね。知ってる事、洗い浚い吐いて貰うわよ」

 意気込みの中にらしくない躊躇いを混ぜる『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーが姿を見せる。
 それに呼応するように、敵も並び立って現れる。

「『炎髪灼眼』に“両翼の右”、『戦技無双』に『弔詞の詠み手』。判ってはいましたが、こうして向かい合うと圧巻ですね」

 広がる髪に、縦に開かれた碧玉の瞳を顕すサラカエル。

「誰が相手でも関係ない。私の目的を邪魔する者は、一人残らず狩るだけだ」

 薄白い炎を轟然と燃やす“狩人”フリアグネと、彼の従える数多の燐子。……その中に、『可愛いマリアンヌ』の姿は無い。
 教授の姿も見えないが、そんな事は気休めにもならない。むしろ裏で何をしているのかと不安が増すばかりである。

「さて、一応お訊きしておきましょう。我々は貴方達の命に興味はありません。大人しく退いてくれるなら、危害を加える気はありませんが?」

「奇襲を掛けた者の台詞ではないな」

 革正、野望、復讐、使命、享楽。それぞれの戦う理由が、封絶の空でぶつかり合う。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「そぉ、れ!!」

 メアの突き出した左掌から、血色に燃える炎弾が容赦なく放たれる。まだ本来の平井には使えない自在法が、ヘカテー目掛けて飛んで行く。

「『星(アステル)』よ」

 それが水色の光弾と衝突し、弾け、爆炎が溢れかえる。その炎を裂いて、更なる『星』が弧を描いてメアに殺到した。

「やっぱ、遠距離じゃ勝負にならないか」

 高速で飛来する光の連弾を縫うように避けながら、メアは間合いを詰める。避けきれなかった一発が顔面に迫るが、大剣の一振りに斬り払われた。

「軽い軽い! こんなのじゃ直撃したって倒せないよ! やっぱり“あたしに”攻撃できない!?」

「っ」

 戦いが始まってからずっと、メアは平井の声と口調を使っている。その狙いはヘカテーにも判っているが、それで抵抗が消える筈もない。

「(こいつは、悠二じゃなくてゆかりを狙った)」

 大剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』が振り下ろされる。大杖『トライゴン』が振り上げられる。二つの宝具が激突し、火花を散らす。
 『吸血鬼』の能力を知っているヘカテーは、鍔迫り合いを避けて距離を取り、メアは追撃する。

「(意思総体に干渉する自在法は、統御力の精密度が影響するものが多い。未熟なゆかりしか、こいつは乗っ取れなかった)」

 技量はヘカテーが遥かに上、だが『吸血鬼』は触れた相手を存在の力で切り刻む。まともに防御しても、まともに防御されても、ダメージは避けられない。いなすか、弾くか。寸暇の接触しか許されない。
 接近戦に於いて、これほど厄介な宝具もそうはない。

「(でも私は、他者の意思総体に横から干渉する自在法なんて使えない……!)」

 魔剣の力、傷付けたくない相手。二つの要素がヘカテーの実力を阻害し、防戦一方となる中、

「そんなに傷付けたくないんだ。“紅世の徒の癖に”」

「ッ…………!」

 メアが、平井の声で、語り掛けてくる。

「貴方達がいなかったら、あたしと悠二はずっと幸せに暮らしていられたのに。どうして今ごろ守ろうなんて思えるの?」

「ゆかりの声で……喋るな!」

 平井の身体を乗っ取った徒が、平井の声で好き勝手な事をほざいている。激昂に駆られたヘカテーの一振りが、血色の波紋を揺らす刃に“受け止められた”。

「あぅ……!?」

 途端、ヘカテーの左肩と右脇腹が切り裂かれる。間髪入れず、至近距離から炎弾を食らった。怯んだところに繰り出された刺突を、ヘカテーは辛うじて受け流す。
 なおも変わらず、メアの斬撃はヘカテーを襲い続ける。

「本当は、ヘカテーだって解ってるんでしょ? あたしと悠二の運命の器が、“本当は同じ大きさ”なんだって」

「黙れ!」

 メアが言葉を重ねる毎に、ヘカテーの動きが目に見えて雑になっていく。斬り結ぶ中で、魔剣の力がヘカテーを次々と傷付けていく。

「(悠二と、ゆかりは……!)」

 同じ時代、同じ場所に、これほど大きな器を持つ人間が複数生まれるなど、普通はまず考えられない。だが───例外がある。

「あたしの方が力の総量が多いのは、あたしが戦闘用のミステスで、生まれた瞬間に器を力が充たすから。悠二は『戒禁』で力を吸収したけど、別にあれが“容量の限界”って訳じゃないもんね」

 悠二も、平井も、現在に於いては只の高校生であり、世界に大きな影響を及ぼすような大人物ではない。それはもちろん過去に於いても同様だ。ならば、残るは『未来』しかない。
 そして、未来に影響を及ぼす人間が二人、同じ場所に現れる場合……その運命は絞られてくる。

「つまり本来───“悠二とあたしは結ばれる運命だった”」

 そう……未来に於いて悠二も、ゆかりも、世界を揺るがす大人物になどならなかった。そうなるのは“彼らの子供”。血族全員が運命の因果に結び付く訳ではないが、何よりも直接的に誕生に繋がる両親の場合、自然と未来への影響力が大きくなるのだ。

「(悠二と、ゆかりが……でも、私……ッ)」

 その事に……ヘカテーは気付いていた。気付いて、ずっと、気付かないフリをし続けていた。
 そんな脆く、危うい心を……

「───もう消えてよ」

 メアが容赦なく、踏みにじる。

「や、めて……」

「ヘカテーがいなかったら、あたしと悠二は幸せなままで居られたのに……どうしてこの世になんて来たの? ずっと紅世に閉じ篭もってれば良かったのに」

 身体が震える。涙が頬を濡らす。

「やめてぇぇーーーー!!!!」

 拒絶の悲鳴を上げて、ヘカテーが大杖を振りかぶる。何もかも忘れた無様な大振りが、『吸血鬼』と“ガッチリと噛み合った”。

「ぁ───」

 今までの比ではない深さの傷が、ヘカテーの全身に刻まれる。水色の炎が、まるで鮮血のように噴き出した。

「ゆ、かり……」

 意識が揺れる。力が入らない。飛翔すら儘ならない状態で……

「か……せ……」

 ズタズタに引き裂かれ、追い詰められた心は、それでも、だからこそ……

「返せ……!」

 断固たる一つの意志を、結実させた。最後の力を振り絞って、メアに……否、平井の身体に飛び付く。

「……人間だった身で、王にここまで慕われているなんて、羨ましいですね」

 もはや演技は不要と判断たメアの口から、彼女自身の声と言葉が零れる。羨望と同情は、しかし力への渇望に容易く押し流される。

「さようなら」

 零距離で炸裂した炎弾が、傷付いたヘカテーをボロ雑巾のように吹き飛ばした。
 痛々しく血色に燃えて落ちて行くヘカテーの姿を見たメアの瞳は、僅かに遅れて喜色に染まる。

「倒した……私が、神の、眷族を……」

 現実味のない現実を、ゆっくりと言葉にする事で噛み締める。ジワジワと、爆発するような歓喜が胸を満たしていく。

「やった……やったぁ!」

 ちっぽけな徒、“傍にいる”だけで潰れてしまいそうな“戯睡郷”メアはもういない。ミステスの身体を馬鹿にする輩がいたら黙らせてやる。それだけの力が、今の自分にはある。

「後は誰もが認める名声さえあれば、私は“王”にだって……」

 手にした力に陶酔するメアの心臓が、

「っ……?」

 一打ち、強く跳ねた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 何処かの立体駐車場、なけなしの炎で着地の瞬間に路面を破壊したヘカテーが、瓦礫にまみれて倒れている。

「(……生きてる)」

 下手をすれば、落ちただけで死にかねなかったという今の自分を顧みて、ヘカテーはそう思った。しかしすぐに、死んだ方が良かったのではないかという考えが頭を過ぎる。
 そんな事を思ってしまうほど、メアに突きつけられた“真実”が堪えている。

「(取り戻さ、ないと……)」

 立ち上がらねば、そう思っているのに、身体が動かない。最後の悪あがきで気力を使い果たしたかのように、指一本動かせない。
 氷像のように凍り付いた顔から、涙だけが流れ続ける。
 その時───

「やれやれ、酷い手際じゃないか」
「っ」

 声が、聞こえた。
 全ての人間が動きを止める封絶の中で、聞こえる筈の無い足音が近付いて来る。

「(今の、声は……)」

 ヘカテーの背筋が、ゾクリと震えた。気配は感じない、にも関わらず感じずにはいられない、それは恐怖だった。

「動揺を誘っていると判っていながら耳を貸すからだよ。不器用すぎて見ちゃいられない」

 やがて、足音の主は暗がりから姿を現す。
 灰色のタイトなドレスに身を包み、種々のアクセサリーで着飾った美女。だがその金の瞳は額にまで存在し、右眼があるべき場所は眼帯に隠されている。
 その周囲を漂い、気配を完全に遮断しているのは拘鎖型宝具『タルタロス』。

「───ベルペオル」

 何かが……終わりを迎えようとしていた。





[37979] 8-9・『銀の正体』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/04/08 10:49
 二人の王と対峙し、三人の味方と合流した時、シャナが真っ先にしようと思ったのは、マージョリーに対する頼み事。
 一度はヘカテーに任せたものの、乗っ取られた平井への対処はやはり自在師の方が適任である。マージョリーが来たのなら彼女に任せた方が良い。
 だが、シャナが何か口にするよりも早く、

「『弔詞の詠み手』」

 サラカエルが、マージョリーに話し掛けた。教授ならともかく、初対面の徒と話す事など無いと考えるマージョリーは、

「同志ダンタリオンから伝え聞いた“銀”の正体、望み通りお教えしましょう」

 続く言葉を聞いて、息を呑んだ。それと同時に、閃虹がサラカエルに向かって飛ぶ。メリヒムの『虹天剣』だ。爆発的な光輝の塊が、回避したサラカエルの法服を掠めた。

「ちょっと! 余計な事すんじゃないわよ!」

「他人のお喋りを待つほど気長じゃないんでね」

 烈火の如く怒るマージョリーを鼻で笑って、メリヒムが飛翔する。それを迎え討たんとフリアグネの燐子が数体、立ちはだかり───ハンドベルが鳴り響いた。

「──────」

 メリヒムが斬り倒そうとしていた燐子が、至近で大爆発を巻き起こす……瞬間、ヴィルヘルミナのリボンがメリヒムを引っ張った。
 燐子を爆発させるハンドベル。悠二の報告通りである。

「あの“銀”という鎧は、徒ではありません。ある目的の為に同志ダンタリオンが造った『我学の結晶』です」

 その間も、サラカエルの言葉は続いている。その声音に混じる色に“時間稼ぎ以上の”不吉な予感を覚えたシャナは、大太刀を強く握ってサラカエルへと襲い掛かった。

「むっ……!」

 その瞬間を待っていたかのように、フリアグネの手にした拳銃がシャナへと向けられる。しかし引き金を引く瞬間、シャナは高速で弾道から逃れていた。

「(あれだけは貰えない)」

 東京外界宿(アウトロー)総本部が壊滅させられた時、『骸躯の換え手』アーネスト・フリーダーは“狩人”の弾丸を受け、“鳶色の炎を弾けさせて”消滅した。それが、生き残ったレベッカ・リードからの報告だった。
 フリアグネの炎の色は薄い白。鳶色は、フリーダーの炎の色だ。この事から、シャナ達は一つの仮説を立てた。即ち……“フリアグネの銃弾を受けた相手は自爆する”。
 もちろん確証など無いが、実際に爆殺された前例がいるのだ。当たれば終わり、そう考えて臨むしかない。

「あれは強烈な感情の持ち主の元に、ただ現象として現れる。現れて、その心を写し取る。そんな、鏡のような只の道具だ」

 フリアグネを無視出来ない。その間に、サラカエルの言葉は核心へと迫っていた。

「(感情を写す、只の……道具……?)」

 マージョリーは、動かない。ただ呆然と、サラカエルの話を聞いている。
 脳裏に蘇るのは、数ヶ月前の死闘。自らの炎を『反射』された時に幻視した……一つの光景。

「聞くな! マージョリー!」

 群青色の炎の中、剥がれ落ちた鎧の下で狂ったように笑う、“マージョリー・ドーの姿”。

「貴女の復讐は、とっくの昔に終わっていたんですよ」

 メリヒムの『虹天剣』がサラカエルを襲い、シャナの紅蓮の大太刀がフリアグネへと奔り、ヴィルヘルミナのリボンがマージョリーに伸びる。

「『“銀”という道具』を使った、貴女自身の手でね」

 虹は躱され、炎は燐子の爆発で相殺される。動かないマージョリーをフリアグネの銃弾が狙うが、ヴィルヘルミナのリボンがマージョリーを弾道から逃がす。
 必殺の一撃から逃れたマージョリーの胸に───碧玉の瞳が縦に開いた。

「だからもう、休みなさい」

 その瞳が、サラカエルの言霊に応えて『爆破』した。『トーガ』すら纏っていないマージョリーの全身が、碧玉の爆炎に蝕まれる。

「ぐ……あっ……」

 鮮血を撒き散らし、煙を燻らせ、マージョリーが墜ちていく。少し離れた所で、ヘカテーまでもが同様に落下していた。
 上に視線を向ければ、異形の姿となった平井ゆかりが笑っている。

「こんな……」

 ヴィルヘルミナの口から、思わず擦れるような声が零れた。
 数はこちらが上、質だって決して負けていない。そう自負していた、事実間違っていなかった戦力差が、ものの数分でひっくり返されてしまった。

「……なるほど、巧いな」

 メリヒムが素直に賞賛する。
 未熟な平井ゆかりを乗っ取り、騙し討ちで坂井悠二を仕留める。
 大切な友人の身体を盾にヘカテーをも倒す。
 フレイムヘイズの存在理由を揺さ振る事でマージョリーを自失させ、狩る。
 情報収集と事前対策に裏打ちされた、鮮やかな手際だった。

「(となると次は……)」

 冷静に敵を評価するメリヒムは、だからこそ敵の次の狙いを看破し、

「はあっ!」

 それにいち早く気付いたサラカエルから、碧玉の瞳を飛ばされた。サーベルから奔る虹の刃が、迫る自在式を一つ残らず両断する。
 その連弾の最中、サラカエルの光背に浮かぶ瞳の一つに一際強く力が集まり、

「ふっ……!」

 広げたメリヒムの外套に“転移”した。すかさず脱ぎ捨てた外套が碧玉の杭に貫かれる。

「便利な自在法だな」

「『呪眼(エンチャント)』。睨んだ対象に自在法を転移させる私の能力です。『弔詞の詠み手』を確実に仕留める為とはいえ、一度見せたのは失敗でしたね」

 言葉ほどには、サラカエルが焦った様子が無い。“やはり”、彼自らメリヒムを全力で足止めするのが狙いらしい。

 ───頭上で、二つの赤が衝突を開始した。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 封説の空を、仮面の討ち手が踊るように舞う。数多の純白の花嫁がそれを追う様は、幻想の舞踏会を思わせた。

「(これも奴らの狙い通りでありましょうか)」

「(狡猾)」

 睨むだけで自在法を転移させるサラカエル。必殺の銃弾を放つフリアグネ。一瞬たりとも目を離せない強敵に徹底マークされる事で、メリヒムもヴィルヘルミナも他者の戦いに介入できない。
 その間にメアがシャナを倒す、というのが『革正団(レボルシオン)』の狙いなのだろうが……

「(随分と甘く見られたものでありますな)」

「(憤慨)」

 ヴィルヘルミナは、敢えて乗る。間違っても、焦って隙を見せるような間抜けは晒さない。
 対するフリアグネも、“狩人”の真名そのままの鋭い眼光でヴィルヘルミナを睨んでいた。

「(流石は戦技無双の舞踏姫。これだけの燐子で囲んでも隙を見せないか)」

 いくら数で押しても接近戦でヴィルヘルミナを捉えられるとは思っていない。フリアグネは包囲した燐子に炎弾を撃たせたり、接近されたらハンドベル型宝具『ダンスパーティ』で破壊される前に自爆させたりしながら、拳銃型宝具『トリガーハッピー』を撃ち込む隙を窺っている。
 だが、ヴィルヘルミナは隙を見せない。絶えず舞い続け、時には燐子を隠れ蓑にして銃口から逃れ続けていた。敵の武器を警戒するのは当たり前だが、それにしても些か過敏に過ぎる空気を感じる。

「(やはり、『トリガーハッピー』の事がバレている。能力まで知られているとは思えないが、獲り逃がしたフレイムヘイズでもいたか)」

 それでも、フリアグネが動じる事は無い。『トリガーハッピー』が警戒されているなら、それはそれでやりようはある。この膠着状態が続くなら願ったり叶ったりだ。

「(もうすぐだ、マリアンヌ)」

 大切な燐子、銀炎の中に消えた愛しい存在を、今も鮮明に思い出せる。

「(必ず君を、取り戻す……!)」

 かつてない決意と覚悟を胸に、白の狩人は引き金を引く。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「はあっ!!」

 紅蓮の炎が迸り、金髪の少女を一息に呑み込む。大気すら焼き尽くす灼熱の業火の中から無傷のメアが飛び出し、お返しとばかりに特大の炎弾を放った。
 初見の相手なら生まれただろう隙は、『アズュール』を知るシャナには生まれない。血色の火球は紅蓮の双翼を捉えられず、眼下のビルを粉々に吹き飛ばす。

「流石は悪名高き魔神の契約者。ですが使う力が炎である限り、私には通じませんよ」

 大剣を握るメアが、微笑すら浮かべて飛んで来る。余裕……というより舞い上がっているメアを冷たく見返して、シャナは再び紅蓮の大太刀を振り下ろす。

「だから、効かないんですよ!」

 しかし、メアには届かない。『アズュール』の生み出す火除けの結界に阻まれ、髪の毛一本焦がせない。
 避けようともせず反撃の力を練るメアは、炎の晴れた先にいるはずの敵を……見失った。

「(いない……いやっ!)」

 頭上からの斬撃を直感で察知したメアが大剣を振り上げる。刃と刃は衝突し、しかしぶつかった反動ですぐに離れる。

「惜しかった……ですね!」

 『吸血鬼(ブルートザオガー)』の力を警戒して離れたところを、メアの炎弾が追撃する。避けられる距離ではない。咄嗟に盾にした『夜笠』ごと爆炎がシャナを焼いた。

「勝てる! 今の私は、『炎髪灼眼』にだって勝てる!」

 この一撃で勝ったと思える程の手応えではなかったが、それでも、戦いを有利に進めているという確かな実感がメアを高揚させる。
 この身体を奪えさえすれば、坂井悠二は油断する。精神的にムラのあるヘカテーも倒せる。そして『炎髪灼眼の討ち手』にも勝てる。彼女の武器は大太刀と炎のみ、『アズュール』を持つ『吸血鬼』のミステス……平井ゆかりとは、絶望的なまでに相性が悪いからだ。

『順調に事が運べば、同志メア、貴女がこの計画の鍵となります』

 何もかも、サラカエルの作戦通りだった。
 最高の器を見つけてくれた事、得た力を振るう機会を与えてくれた事、そして何より、矮小な“戯睡郷”メアを信じ、頼り、大事な役目を任せてくれた事に感謝の念が尽きない。

「(恩には報いなければ。邪魔者を殺して、計画を成就させる事で)」

 感謝の気持ちと力への陶酔が混ざり合い、歪んだ笑みが浮かび上がる。炎を払って現れたシャナの、あちこちを焦がした姿が、メアの自尊心を潤す。
 ただ、一つだけ、

「……はぁ」

 痛みに歪むでもなく、敵意に燃えるでもなく、変わらず涼しげなままの灼眼が目についた。呆れにも似た溜息が、厭に神経を逆撫でする。

「お前の炎、何で血色なの?」

 シャナは大太刀を構えない。無防備に片手にぶら下げる。

「平井ゆかりの力を喰らって取り込んだなら、炎は持ち主の色に染め変えられる。それが変わってないって事は、まだ平井ゆかりの意思総体は残っていて、今も力を統御してる」

 その切っ先をメアに突きつけて、シャナは愚者を見下すように挑発的な笑みを浮かべて見せた。

「理由を、当ててあげましょうか?」

 言葉によって心を揺さ振るのは、『革正団』の専売特許ではない。シャナは力に陶酔するメアの様子から彼女のコンプレックスを察して、抉りに来ているのだ。判っていても、メアはシャナの言葉を無視できない。

「それは“お前が弱いから”。平井ゆかりの意思を消したら、小さいお前はそいつの力を統御できなくなる。いや、今だって統御できてる訳じゃない」

 それはメアがずっと否定し続けていた、戦う理由そのものなのだから。強さを求めて、強さを手にして、今なお弱いと呼ばれる。そんな事は、断固として認める訳にはいかない。

「お前は今も、平井ゆかりに“力を使ってもらう”事で戦ってる。お前自身は何も変わってない。弱いままよ」

「……可愛らしい挑発ですね」

 完全に図星を刺されて、それでもメアは「それがどうした」と笑う。言い返さずには、いられなかった。

「私が彼女の力を使える事には変わりありません。それに、借り物の力を振るっているのは貴女も同じでしょう? 天罰神を身に宿しただけの、“人間ですらないお嬢さん”」

 無論、言い返すだけでは終わらない。シャナが借り物と揶揄した平井の力でシャナを葬る事こそ何よりの報復となる。血色の炎が全身から燃え上がり、

「「弱い私に殺されるのは、さぞ屈辱的な事でしょうね」」

 “声が二つ、重なった”。
 シャナの灼眼が丸くなる。メア自身も、思わず自分の口を押さえた。今のはメアと……そして“平井の声だった”。
 異変はそこで終わらない。

「お前、眼の色が戻ってるわよ」

「「何を……っ!?」」

 金色の瞳が本来の紫色に戻っていた。それを指摘したシャナに言い返そうとして、また声が重なる。
 そして何より……夢の世界に異変が起き始めていた。

「(平井ゆかりの意識が、目覚め出している……!)」

 あり得ない事だった。メアの『ゲマインデ』は確かに脆い。意思総体の強い者には通じないし、それが夢だと気付かれるだけで崩されてしまう。しかし、一度完全に夢の底に沈んだ意識が戻って来た事など無い。

「「そんなッ……馬鹿な! 私に身体を奪われたミステスが、どうして……!?」」

 何故なら、メアは一度平井の意思総体に勝っているからだ。負けた意識は、そのまま夢の世界に沈んで眠り続ける。眠りの中にある者が成長して、メアの支配を破るなど考えられない。
 混乱するメアと違い、一つの可能性に気付いたシャナが告げる。それは、死に逝く者への餞別にも似ていた。

「お前、“頂の座”に触ったでしょ」

 触った。確かに、ヘカテーは敗北の寸前、未練がましく縋り付いて来た。だが、今のメアにはその意味が解らない。既に平井の記憶を読む事さえ出来なくなっていた。

「あいつは触れた相手に自分の感覚を共有させる事が出来るのよ。触った瞬間に、平井ゆかりに伝えたんでしょ。精神支配の破り方を、ね」

「「嘘よ! あんな一瞬で、こんな簡単に……!」」

「だから、コツを掴むのに今まで掛かったんでしょ」

 事も無げに言ってのけるシャナに、メアは言葉を失う。メアにとって信じられない事を平然と受け入れるシャナの姿に……そのあまりの違いに愕然とする。

「「認めない……認めてたまるか!!」」

 抵抗の意思を剥き出しにして広げた掌から、“朱鷺色の炎弾”が放たれる。脆弱な炎はシャナを呑み込み、しかし黒衣に阻まれて容易く払われた。

「「そんな……何でッ……!?」」

 全身から噴き出す血色の炎。さっきまであれだけメアの心を充たしていた力が、今はメアという存在そのものをギリギリと締め付けている。

「嫌……いやぁ……せっかく強くなれたのに! あの人の隣に立てるようになったのに!!」

 もはや声は重ならない。メアだけの悲痛な絶叫は平井の唇からは出ずに、何処か深く暗い所で叫ばれている。

「貴女は、強くなんてなってないよ」

 平井の口から、平井の声が言の葉を紡ぐ。金色の髪が、本来の焦げ茶色に戻っていく。

「うぁああああァァァーーーー!!!」

 遠ざかっていく悲鳴を最後に、羊の角が砕け散った。その中から、馴染みの触角がフリフリと現れる。

「よくも……よくも、よくも……」

 その全身から、先程までとは比較にならない存在感を伴った炎が溢れる。かつてない激情を煮え滾らせて、

「百倍にして返してやる!!!」

 ───平井ゆかり、完全復活。





[37979] 8-10・『血塗れの蛇姫』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/04/12 11:05

 軽やかに、激しく、柔らかく、鋭く、桜色の妖狐は舞い続ける。並の徒より遙かに強力な数多の燐子に四方八方から攻められながら、その舞踏は滞る事は無い。
 炎ならば躱し、自在法で跳ね返し、距離を詰めれば自爆される前にリボンで切り裂き、或いは投げる事で逆に爆弾として使い、他の燐子までも巻き添えにする。
 常に『トリガーハッピー』の銃口に注意を払いながらの戦闘は少なからず神経を削るものだったが、歴戦のフレイムヘイズたるヴィルヘルミナにこなせないものではない。着実に燐子の数を削って反撃の機を窺っていたヴィルヘルミナは、一つの異変に気付いた。

「(おかしい)」

 警戒すべきは『トリガーハッピー』のみではない。統率された包囲攻撃の気配を感じ取り、燐子を爆発させるハンドベルの音を聞き逃さない事も重要だ。その聴覚が、違和感を訴えている。

「(ハンドベルが鳴っても、燐子が爆発しない時がある)」

 最初はフェイントかとも思った。爆発を警戒させて別の攻撃で不意を突くのは悪くない。だが、本当に爆発したら危なかった場面もあったし、何より注意深く観察しても爆発する時としない時の違いを見出せなかった。フェイントだというなら、所作や力の集中に何らかの違いがあって然るべきだろう。
 数百年の戦歴が、経験に裏打ちされた直感が告げていた。

「(何かを、仕掛けている)」

 フレイムヘイズとの戦い。当たり前とも思える迎撃に隠して、この狡猾な王は何かを狙っている。
 一つの疑念が、事前情報と、数百年前の光景と合わさり、

「(───御崎市のトーチ───爆発しない燐子───傀儡の“爆発”───オストローデ───)」

 流れるような想念が一つの解へと辿り着いた時、

「粉砕しろ!!」

 フリアグネの燐子が十体、同時に飛び掛かって来た。炎の集中すら見られない、ここまでの攻防から考えれば芸の無い特攻である。
 いつまでも捉えられない相手に焦れたようにも見えるが、タイミング的に“気付いた事に気付かれた”のだろう。

「(相当に目聡いであります。しかしこれで……)」

「(確定)」

 微かな焦りが、疑念を肯定する。今まで以上の危機感を覚えて、しかし焦らずリボンを伸ばすヴィルヘルミナの耳に………

「ッバオオオオオオオォーーーーー!!!」

 ハンドベルの音ではなく、眼下からの遠吠えが届いた。それに応えるように……

『ッバオオオオオオーーー!!!』
「っ!?」

 接近してきた燐子達からの、爆発的な咆哮が反響する。無茶苦茶な音の怒涛が一気に高音へと跳ね上がり、ヴィルヘルミナの聴覚を狂わせ、意識を揺らした。

「今……のはッ……!?」

 何も聞こえないヴィルヘルミナの視界に、自分以上の苦痛に悶える燐子達の姿が映り、

「──────」

 その燐子が、今度こそ、至近で一斉に弾けた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「ちっ」

 燐子の爆発を受けて落下するヴィルヘルミナを視界の端に捉えて、メリヒムは小さく舌打ちする。轟音に意識を揺らされながら、その隙を突かれまいと『虹天剣』を振り回す。
 離れていた分、メリヒムにはヴィルヘルミナ程のダメージは無い。恐らくまともに食らっても、数秒程度の撹乱にしかならなかっただろう。だが、その数秒が勝敗を分けた。

「まだ駒が残ってたのか。未だに隠してるって事は、一発限りの隠し球だな」

 先程の咆哮は、フリアグネの燐子の力ではない。マネキン人形の中に、別の燐子が隠れていたのだ。
 その燐子の主たる徒は、今も眼下の街の何処かに身を潜めている。恐らくは、サラカエルの自在法で気配を隠してもらいながら。

「駒ではなく、同志です」

 きっちり訂正しながら、サラカエルは『呪眼(エンチャント)』をメリヒムへと飛ばす。そこにどんな自在法が込められているかに頓着せず、メリヒムは『虹天剣』を放った。
 極太の閃虹がいくつもの瞳を消し飛ばしながら驀進し、それが当たる寸前でサラカエルが消えた。

「貰った」

 次の瞬間には、メリヒムの討ち洩らした『呪眼』の一つにサラカエルが『転移』している。その掌には新たな『呪眼』が貼り付き、『強化』された炎弾がメリヒムを一息に呑み込み……

「こっちがな」

 一拍遅れて、内側からの『虹天剣』に吹き散らされた。申し分ないタイミングの反撃だったが、虹の奔流はサラカエルの二の腕を抉ったのみ。

「「(今のに反応するのか)」」

 互いが互いを脅威と認めて、しかしメリヒムは不敵に笑う。その表情ともう一つの疑惑……なかなかフリアグネが加勢に現れない事を怪訝に思ったサラカエルの背後、変貌する時計塔の反対側で……

「うおりゃあああぁーーー!!!」

 ───猛々しい雄叫びが、木霊した。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 シャナが制止する暇も無い、復活直後の出来事だった。

「百倍にして返してやる!!」

 ヒールを脱ぎ捨て、ドレスのスカートを短く破り捨て、血色の炎をジェット噴射のように放出して、平井ゆかりは飛び立った。

「悠二を……」

 真っ先に向かうのは、変貌を続ける時計塔。加速の勢いそのまま、

「返せーーー!!」

 大剣で斬り込もうとする。馬鹿正直な突入を迎えたのは、

【こぉーんな事もあろうかとぉー!!】

 ハイテンションな叫びと……時計塔のあちこちから飛び出した、白けた緑炎を推進力とする“ミサイル”だった。

「いっ!?」

 思わず平井は進路を変えて反転、縦横無尽に空を駆けるも、ミサイルは紐で固定されているかのように標的を追って来る。

「邪魔!!」

 平井は振り返り、左手に生んだ特大の炎弾を放り投げた。血色と白緑がぶつかり、弾けて、凄まじい猛火を空に広げる。

「(やっぱり簡単には入れないか)」

 『アズュール』の結界で炎を退けながら大剣を強く握り直す平井に、頭上からマネキン人形が襲い掛かる。

「むっ!」

 戦斧の一撃を魔剣が受け止め、血色の刃紋が燐子をバラバラにした。それを囮に背後から突き出された細剣を間一髪で躱し、後ろ蹴りで粉砕する。続く二体の燐子も、振り返り様の炎弾が焼き尽くす。
 誰より『アズュール』を知り尽くしているからこそ、爆発も炎弾も使って来ないのだろう。

「悪いが、教授は繊細な作業に追われていてね。集中力を乱されると困るんだよ」

 純白のスーツを纏い長衣を揺らめかせる美青年、“狩人”フリアグネが平井の前に立ち塞がった。
 ───その後方から、紅蓮の大太刀が迫っている。

「まったく、歯車が一つ狂っただけで とんだ重労働だ」

 その炎の前に燐子が数体飛び出し、『ダンスパーティー』の自爆によって相殺する。確認するまでもなく、『炎髪灼眼の討ち手』シャナ。

「予定通りなら、私と“戯睡郷”がサラカエルに加勢して“虹の翼”を三人掛かりで狩って終わりだったのだが……やはり何もかも思い通りとはいかないか」

 気を入れ直すように深呼吸するフリアグネの言葉を聞き流して、シャナはジッと平井を見る。
 怪我の功名というべきか、メアに乗っ取られる前とは比べ物にならないほどの力の充溢を感じる。意思総体の主導権を奪い返した事で、己の存在を顕現させる統御力をも掴んだのだ。使えなかった炎も問題なく出せるようになっている。
 仮にも味方が多少なりとも使えるようになったのだから、これは喜ばしいのだが……

「(“狩人”は、どうして撃たなかった?)」

 逆上して突撃した平井の行為はあまりにも不用意だった。燐子を倒す事は出来ても、フリアグネの銃口にまで意識を割けてはいなかった。撃とうと思えば……撃てたのではないだろうか?

「………………」

 戦う前から、仮説はあった。悠二の話では、フリアグネはヘカテーと戦った時に『敵を自爆させる拳銃』を使わなかったらしい。
 そんな強力な宝具を、なぜ使わなかったのか? もしくは───使えなかったのか。

「(アラストール)」

「(試してみる価値はありそうだ)」

 契約者と一言で相談を済ませて、シャナはフリアグネから目を離さず平井に告げる。

「私はお前を助けない。それでも良いなら、戦いなさい」

「押忍!」

 闘志をそのまま炎と燃やす二つの赤に、フリアグネは目を険しく細めた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「(くそっ、戦いはどうなってんだ)」

 広い空間の床と天井を結ぶ鉄の大樹に埋まる坂井悠二は、激しく鳴り響く戦闘音に落ち着きなく奥歯を噛み締める。相変わらず、誰かが助けに来てくれる気配は無い。

「(ヘカテー達が簡単にやられるとは思えないけど……今のゆかりにどう対処するかな。『弔詞の詠み手』が何とかしてくれると良いけど)」

 おまけに、悠二が居る時計塔そのものの違和感が強くて戦況が全く解らない。そんな不安と戦いながら、悠二は周囲の自在式の解析を続けていた。
 もちろん今の悠二に『走査』の自在法は使えないので、肉眼と知識とフィーリングが頼りの作業だ。部屋中に広がる膨大な自在式の全てを理解するには時間が足りない。式の種類と組み合わせ、外と繋がる箇所と全体の流れ、把握しきれない部分は想像力で補い、要の用途を推測する。

「(性質的には、ヘカテーの同調に似てるな。僕の器とこの建物を同調させて、『零時迷子』の効果範囲を拡大させてる)」

 あり得ない、という決めつけで視野を狭める愚は冒さない。この自在式と『零時迷子』の力から考えられる狙いを着けて……しかし、やはり、今は何も出来ない。

「(……自信も無いし、やらずに済むならそれに越した事はない。やっぱり零時前に助けて貰えるのがベストだ)」

 微妙に要領が良い、というメガネマンの評価を思い出して、悠二は少しゲンナリとした。刺された脇腹が痛い。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 『アズュール』を持つ平井には効果が薄いと判断したのか、それとも実力で警戒されているのか、ほぼ全ての燐子がシャナを集中的に狙って来る。

「はあっ!!」

 しかしシャナはヴィルヘルミナほど厳しい戦いを強いられる事は無かった。二対一でフリアグネの注意がシャナのみに集まらなくなった、というのも勿論あるのだが、それ以上に大きいのは……フリアグネが、銀の拳銃を納めた事にあった。

「(何なんだろ)」

 悠二、ヘカテー、そして平井に対して使わなかった事から、シャナは『フレイムヘイズにしか効かない宝具』なのではないかと睨んだ。だからこそサラカエルやメアが積極的に徒とミステスの相手をしたのだと思った。
 しかし実際に平井と二人で挑んだ結果、まだシャナが残っているにも関わらずフリアグネは銃を納めた。

「(弾切れとかもあるのかも。単なるフリかも知れないけど、それくらいで油断すると思われてるかな。私たちの事、かなり調べてるみたいだし)」

 むしろ、その逆。ポーズとして拳銃を持っていてもすぐにバレると判断された可能性の方が高い。

「(だったら、今が勝機!)」

 何が理由で銃を使えなくなったのか解らないのだから、いつまた使えるようになるのかも判らない。今この瞬間こそが、最大最後の好機かも知れないのだ。

「燃えろ!!」

 迫る燐子を紅蓮の炎が焼き尽くし、そのまま主たるフリアグネに向かう。
 それが躱された瞬間に、

「っやあ!!」

 平井が炎弾を炎にぶつけ、誘爆させた。至近距離の爆発に全身を焼かれて大きく距離を取るフリアグネを、無傷の平井が追っている。

「(相性も悪くない)」

 炎を得意とするシャナと、炎の効かない、接近戦を得意とする平井。互いが互いの邪魔にならず、相手にとっては同時に対応し辛い組み合わせである。
 燐子の数も残るは十数体。これを狩り取れば、一気に攻勢に移れる。
 と、その時、

【聞こえるでありますか】

 制服に入れていた連絡用のタロットカードから、シャナだけに届く声が聞こえた。

「(ヴィルヘルミナ!)」

 先ほどフリアグネに爆撃を受けて墜落した筈のヴィルヘルミナの声だった。感覚を研ぎ澄ませてみるが、気配は未だ感じない。

「(無事だったんだ)」

【予め服の下に巻いていたリボンを咄嗟に『強化』しただけの事。無傷とはいかないまでも、十分に継戦は可能であります】

 という割に、ヴィルヘルミナは戦線に戻って来ない。気配を隠している理由も含めて、シャナにはすぐに解った。

【私はこのまま気配を隠して時計塔に潜入し、『零時迷子』を奪取、もしくは“探耽求究”を討滅するのであります】

 敵の狙いが『零時迷子』を要とした計画である以上、当然の判断だった。襲い来る燐子を捌きながら、シャナは傾聴する。

【ついては、“狩人”の相手を貴女に任せるに当たり、聞いて欲しい事があるのであります】

 平井の『吸血鬼(ブルートザオガー)』を、フリアグネの剣が叩いた。それは変幻自在に形を変え、生き物のように動く炎の剣。

【奴の狙いは恐らく『都喰らい』。都市そのものを存在の力に変換する秘法であります】

 以前、アラストールが仮説として口にした秘法。しかしそれには人口の一割のトーチが必要で、今の御崎市では数が全く足りていないと否定された筈だった。

【奴はトーチを分解するのではなく“爆発させる事で”、トーチの不足を補うつもりであります。鍵となるのは……】

「(あのハンドベル!)」

 最後まで聞く前に、シャナも気付いた。傀儡を爆発させる宝具の力で、御崎市のトーチを一斉爆破、生じた歪みで都市そのものを存在の力として手に入れるつもりなのだ。

【『都喰らい』もまた、敵の計画に不可欠なものでありましょう。大きな企みには、相応の存在の力が不可欠でありますから】

 もはや答えず、シャナは双翼を燃やして加速する。これまでの戦いでも、フリアグネは馬鹿の一つ覚えのように燐子を爆発させ続けていた。どの程度『都喰らい』の準備が整っているか判ったものではない。
 その前に、またも燐子が立ち塞がった。

「ハンドベルを壊せ!!」

 舌打ち一つ、シャナは怒鳴ると共に炎を放った。燐子も弾けて、爆炎と爆炎が鬩ぎ合う。

「ハンドベル?」

 怒鳴り声を聞いた平井が、フリアグネの左手に視線を向ける。メアに乗っ取られた平井は、いつの間にかタロットカードを紛失しており、ヴィルヘルミナの伝言は届いていない……が、シャナの必死さは伝わった。

「オッケー」

 もっとも、平井には戦法を選べるほど引き出しが無い。炎を撃ち、炎を防ぎ、近付いて斬るのみ。左手に持った小さな的を狙うよりは、まだ“狩人”本人を斬る方が簡単そうだ。
 とにもかくにも、

「やっつける!!」

 思い切り力を込めた炎弾を放つ。それは例によって燐子の爆発に防がれるが、平井は炎に紛れてフリアグネの直下へと高速で回り込む。
 もっとも、

「甘い」

 フリアグネはうつ伏せに浮かんで、平井を待ち構えていたりするのだが。

「『回炎剣(ラハット)』よ!」

 フリアグネの右手に握られた柄だけの剣から、炎の刃が鞭のように伸びる。変幻自在の斬撃は非常に読みにくいが、平井はヴィルヘルミナとの鍛錬のおかげで辛うじて切り結ぶ。
 だが、とても『吸血鬼』の能力は使えない。軽く柔らかい刃は、ぶつかる度に反動で離れてしまう。これが本当の鞭なら絡め取って存在の力を流す事も可能だったろうが、この刃はフリアグネの意のままに動くようだ。重さも慣性も無視してグニャグニャと動き回る。

「わっ……たッ……ち、近付けないぃ!」

 斬り倒すどころか、斬られないようにする事で精一杯。そんな平井に向けて、フリアグネはハンドベルを持ったまま、器用に指弾を放った。

「当たるか!」

 平井とて簡単には貰わない。放たれた金色の何かを大剣の腹で弾き、

「(コイン?)」

 それが何であるかを視認すると同時、コインが磁石のように剣に貼り付いた。次いで、放たれたコインの軌跡が鎖となって刀身に絡み付いた。
 予想外、だが……

「(チャンス!)」

 『吸血鬼』を絡め取った鎖は、フリアグネの左手に繋がっている。ならば、剣に存在の力を送り込むだけで……

「あれ?」

 “何も起きない”。
 思惑が外れた事が、逆に平井の隙となった。

「え───」

 『ラハット』の刃が鋭く長い錐へと変じて、平井の胴体を串刺しにする。

「『バブルルート』。武器殺しの宝具だよ」

 刺さった錐から無数の牙が生まれ、そのまま引き抜かれる。

「うっ、あ……ああぁああぁーーー!!!」

 貫いた傷口をズタズタに剔って、薄白い刃が鮮血を撒き散らした。戦闘用のミステスだろうと、間違いなく致命傷だ。
 浮かぶ力すら失って落下する平井は、それでも『吸血鬼』を手放さない。絡めた『バブルルート』を手元に引き寄せ、念を入れて刃を振り上げるフリアグネに向かって、

「“狩人”!!!」

 全ての燐子を始末したシャナが、紅蓮に燃える大太刀を差し向けた。平井と戦いながらもシャナへの注意を怠っていなかったフリアグネは、劫火の範囲から危なげなく逃れて……

「『レギュラーシャープ』」

 無数のトランプに薄白い炎を宿して、一斉に飛ばした。
 速く、多い。躱すのも捌くのも難しい。紅蓮の大太刀を放った直後で、全てを焼き尽くす程の炎を練り上げる余力が無い。
 だが、軽い。
 シャナは『夜笠』を幾重にも纏って防壁を作り、カードの怒涛を一枚残らず受け止めた。
 そう……確かに止める事は出来た。

「(身体が動かない……!?)」

 黒衣に包まれた身体が、何らかの自在法で固定されて動かない。『夜笠』を盾にしたシャナは、カードの雨に紛れて指輪が一つ、投擲されていた事に気付いていない。

「『コルデー』。自在法を込めて飛ばせる便利な指輪だ」

 その間に、フリアグネは渾身の炎弾を練り上げている。先程の『レギュラーシャープ』とは訳が違う。とても『夜笠』で防げる威力ではない。

「吹き飛べ」

 動けないシャナに向かって特大の炎弾が迫り、

「っやあ!」

 斜め下からの火球を受けて、軌道を逸らされ、外された。
 落下中の平井が、絞り出すように放った炎弾である。

「(……あたし、このまま死ぬのかな)」

 真っ逆さまに墜ちながら、朦朧とする意識の中で、平井はぼんやりとそんな事を思う。

「(いや、もう死んじゃったんだっけ。あの時はちょっとは役に立てたのに、今回は散々だなぁ)」

 あの時はあの時で、酷かった。何度も何度も止められたのに、懲りずに首を突っ込んだ挙げ句……死んだ。
 そして───

「(……ああ、そっか)」

 脳裏に蘇るのは、涙。自分がそうさせた、愛しい少年の悲痛な泣き顔。次いで、可愛らしい妹の泣き顔までもが浮かぶ。
 どちらも、平井ゆかりの弱さが招いたものだ。

「(変わらなきゃ、いけないんだ)」

 せっかくミステスになったのに、足手纏いでは意味が無い。このままずっと、この理不尽な世界で、彼の帰りを待つだけのか弱い女にでもなるのか?

「冗談じゃない」

 こんなところで諦めるような弱い女に、彼の隣に立つ資格など無い。

「フンッ!!」

 頭から落下していた平井は空中で反転、ギリギリで足から墜落する。アスファルトの路面が轟音を立てて割れた。

「護られるだけのお姫様なんて、ガラじゃない」

 瀕死の身体から、火よりも赤くどす黒い血色の炎が立ち上る。

「強くなる。理不尽で、残酷な、この世の理だってねじ伏せられるくらい」

 その両脚を、燦然と輝く銀の蛇鱗が覆っていく。

「ッッアアアアアァァーーー!!!」

 獣でも出さないような咆哮を受けて、左右の建物の窓ガラスが残らず割れ飛ぶ。
 瞬間、平井は翔んだ。

「「っ!?」」

 『束縛』を解いたシャナ、対峙するフリアグネ、双方が思わず振り返る。
 唐突に膨れ上がった気配が、無茶苦茶な速度で近付いて来たからだ。

「馬鹿な……! 立っても居られない傷の筈だぞ」

 驚きながらも、フリアグネは指輪型宝具『コルデー』を数多、複雑な曲線を描いて飛ばした。
 動きを止めた瞬間に狙いを付けて、『ラハット』に渾身の力を込める……が、その目論見は外れる。
 超速が接近していた平井が、そこから更に加速して全ての指輪を躱したからだ。

「クソッ!」

 しかも逃げ回った結果ではなく、稲妻形の軌道を描きながら接近して来ている。

(ビッ!!)

 再び、フリアグネの手から『バブルルート』が放たれた。接近を待たずに『吸血鬼』を封じられた平井は、一瞬も躊躇わずに魔剣を放り投げる。
 ただし、フリアグネに向けて。

「ぐっ!?」

 砲弾じみた速度で飛んで来る大剣をフリアグネは紙一重で避ける……が、大剣に絡めた鎖があっという間に限界まで伸びて、フリアグネの右手を激しく引っ張った。
 バランスの崩れたフリアグネを打ち砕くべく、平井は右の拳をギリギリと固めて、

(ドスッ!!)

 “胸の中央に刃を突き立てられた”。咄嗟に『バブルルート』を手放して繰り出された、『ラハット』による長大な刺突である。
 あれだけのスピードで突っ込んで来ているのだから、そこに鋭い切っ先を向ければ串刺しは必至、という見立ては間違っていないのだが……

「(この手応えは)」

 『ラハット』の剣先は、平井の身体を貫けない。皮を裂き、肉を剔り、そして……胸骨で止まっていた。

「っがあ!!」

 間髪入れずに、平井の膝蹴りが炎の刃を粉砕する。
 異常なのは、スピードだけではない。

「(こいつは、何だ?)」

 どこからどう見ても瀕死の筈なのに、一向に力が衰えない。それどころか、万全だった時でさえ考えられなかった力を発揮している。
 追い詰められた者が形振り構わず全力を出している、などというレベルの力ではない。
 だが、この距離でそんな思索が許される訳もない。

「はっ!!」

 振り上げられた前蹴りが───ハンドベルを打ち砕いた。衝突の瞬間に爆炎が弾けて、左腕をも吹き飛ばす。

「(狩人を喰い殺す、獣)」

 激痛も恐怖も抑え込んで、フリアグネは生きる道を探す。右手の『ラハット』を消すと同時に握ったのは……『トリガーハッピー』。

「(使えるの……!?)」

 直撃すれば硬さも強さも関係なく自爆させる最凶の宝具。このタイミングでそれを出した事にシャナは戦慄する。
 銃口が外しようのない距離で平井を捉え、そして……

(ガンッ!!)

 引き金が動くよりも速く、平井の右拳がフリアグネの顔の真ん中を打ち抜いた。そのまま縦に一回転して繰り出した踵落としが、手負いの“狩人”を彗星のように叩き落とす。

「(退き時、か……!? 死んでは元も子もない。だが、今ここで退いたらマリアンヌは……)」

 身動きが取れないままビルの屋上に墜落し、そのまま全ての階層を貫いてフリアグネは地に墜ちる。
 その胸から、

「っ…………!」

 軽妙な音が、聞こえた。

「っだあああぁぁーーー!!」

 烈迫の気合いと共に、今までで最大の紅蓮がビルを貫通し、一拍の後、巻き起こる大爆発が街そのものに大穴を穿った。

「……勝っ、た……?」

 その凄絶な炎を見届けた平井が、今度こそ限界を迎えて崩れ落ちる。別人のように軽くなった身体を、シャナが比較的優しく抱き止めた。

「これで『都喰らい』は止められたし、後は坂井悠二を回収すれば……」

 形勢は完全に再逆転した。最も警戒すべき『都喰らい』も阻止した。事実上、勝敗は決したと、シャナでさえ思った。
 その時───

『っ!!?』

 シャナが、ヴィルヘルミナが、メリヒムが、敵であるサラカエルまでもが、走る怖気に表情を引き攣らせた。

「(これは、何でありますか……)」

 それは、気配。

「『都喰らい』は、止めた筈なのに……!」

 外れた存在なら……いや、生き物ならば本能的に畏怖を感じずにはいられない程の、絶望的な存在の力。

「……『都喰らい』の比じゃないな。貴様ら、一体何をした?」

 ただ、サラカエルだけが笑う。

「ふ、ふふふ……これは、想像以上でしたね」

 世界の革正。それを成し遂げられるだけの存在の大きさに、知らず表情が綻ぶ。

「この賭けは、私たちの勝ちですね」

 時は既に───零時を回っていた。






[37979] 8-11・『敖の立像』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/04/16 11:14

 得体の知れない力が時計塔から溢れ出している頃、

「あー……何か派手な事になってるわねぇ」

 その異常な気配を感じて、マージョリー・ドーは気怠げにぼやいていた。傍ら、画板ほどもある分厚い本からマルコシアスが火の粉を漏らしている。

「これが敵の奥の手っつーならいよいよヤベーな。こっちで残ってんのは三人か?」

「私がこうして無事なんだから、“頂の座”だってそのうち起き上がって来んでしょ」

 マージョリーがサラカエルから受けた傷は、決して浅いものではなかった。しかし今の彼女の身体に傷は無く、こうして待機しているのは消耗した力を少しでも回復させる為である。
 まったく、紅世最高の自在師とはよく言ったものだ。

「きっちりブチ殺すだけの力を溜め込むつもりだったってのに、これじゃ全快でもギリギリでも大差ないわね。これ以上“貴重な戦力”削られる前に戻ろうかしら」

「そこまで判ってんなら、無理に戦う必要も無ーんじゃねえか? シッポ巻いて逃げるっつーなら止めやしねーぜ」

 冗談めかした口調の中に本気の色を感じ取って、マージョリーは『グリモア』を優しく撫でた。
 マルコシアスの言いたい事は、マージョリーにも解っている。
 サラカエルの語った“銀”の正体は、おそらく出任せではない。そう感じて、確信してしまったからこそ、こうして無様に転がっているのだ。

「あのミステス……ユージと戦ってからずっと、私は心のどこかで怯えてた。あいつをブチ殺そうとする私自身の炎の中に、“銀”がいたような気がして」

 何百年も追ってきた仇敵が、只の道具でしかなかった。

「本当は“銀”なんていなかったんじゃないかって。私はとっくに復讐を遂げてて、あれは狂気に酔った私が見た夢だったんじゃないかって」

 “銀”は心を写す鏡。西洋鎧に姿を変えたマージョリー・ドーは、壊したい全てを自らの手で壊し、討ち手として生きた数百年は全て無意味だった。もはや戦う意味も無い。フレイムヘイズとしての存在意義すら、残ってはいない。

「だけど───違った」

 そう思われても仕方ない。だからこそサラカエルは真実を告げて、マルコシアスは杞憂を抱いている。
 しかしマージョリーは、そうは思わなかった。

「私が望んでいたのは、あんなモノじゃない」

 自分を利用してきた奴ら全てを、ブチ殺し、踏みにじり、嘲笑ってやる筈だった。

「だって私は誰も殺してない。だって私は何も壊してない。あの時の私は、ただ瓦礫の中に転がって、“横取りした奴”を見上げている事しか出来なかった」

 『我学の結晶』? 心を写す鏡? そんなもの知った事か。マージョリー・ドーは“銀”を使って復讐を遂げたのではない。手前勝手な理由で行われた模倣によって、文字通り復讐を奪われたのだ。

「やっとスッキリしたわ。これで心置きなく、慎重に、確実に、徹底的にブチ殺してやれる!!」

 腹の底から湧き上がる殺意。消える事なき憎悪を思う存分ぶち撒けられる事への歓喜。

「ヒヒッ」

 漲る戦意に当てられるように、マルコシアスまでもが堪えきれないように笑っていた。

「さあ行くわよマルコシアス! 殺して、殺して殺して殺して殺して殺して殺して、ブチッ殺すわよ!!」

「ここが女の正念場だぜ! 我が麗しのゴブレット、マージョリー・ドー!!!」

 殺戮の雄叫びが群青の気炎を撒き散らす。獲物は白緑の科学者───“探耽求究”ダンタリオン。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 時計塔だった物体が、銀色の炎を噴き上げながらグニャグニャと蠢き、形を変えていく。未だそれを形容する言葉は見つからないが、不揃いに伸びた四つの突起は、人間の手足のようにも見えた。

「何、あれ……生きてるの?」

「そのようだ。しかも、この気配は……」

 唐突に生まれた莫大な存在感が、みるみる内に“ここに在る事がおかしい”という違和感に変わっていく。紛れもなく、紅世の徒の持つ気配。
 硬いようにも柔らかいようにも見える肉の隙間から、桜色の炎が飛び出てきた。

「ヴィルヘルミナ!」

「間に合わなかったようであります」

「無念」

 それは、気配を消して時計塔内部に侵入していたヴィルヘルミナ。加速度的に変化を始めた時計塔の様子に、これ以上の捜索は不可能と判断して離脱したのである。実際、その判断は正しかった。

「敗北を装って気配を消し、時計塔の内部に侵入していたのですか。やはり侮れませんね」

 ヴィルヘルミナの登場に目を見張りつつも、サラカエルは余裕を見せつけるかのように笑った。
 今まで敵を過小評価せず、徹底して弱点を突いてきた王が見せる、初めての余裕。それは、既に勝利が確定したのだと告げているかのように見えた。

【んーん、驚いて喜んで騒いで魂消てくれるのは大っ変結構なんですが、予定した数値のじゅーっパーセントのエネルギーも出ていないのは非常に不本意なんですがねぇ~】

 拡声機から教授の不満そうな愚痴が聞こえてくる。それらを耳にしながら、シャナは視線を外さずにゆっくりと下降、適当な建物の屋上に瀕死の平井を横たえた。
 放っておくだけで死にかねない程の深手だが、シャナに傷を治す手立ては無い。何より、あの巨大な存在を放置できない。

「“敖の立像”。それが彼の真名です」

 ハイテンションで要領の得ない自慢だか説明だかを続ける教授を尻目に、サラカエルが語り出す。

「真名、だと?」

 浮上してきたシャナの胸元から、アラストールが訊き返す。不快そうに疑問を呈する魔神に、サラカエルはニッコリと微笑んだ。

「“銀”が強烈な感情を持つ人間の元に転移するのは、その人間の持つ感情を模倣、収集する為だったんですよ。そうして数百年に渡って蓄積された無数の感情を元にして、生まれ出る存在の意思総体を形成する」

 四肢を備えた“敖の立像”の口が、裂けるように開いた。真っ黒な肉のみで構成された身体が、隆起と鳴動を繰り返す。

「その上で、『零時迷子』から得た莫大な力を使い、紅世でしか生まれ得ない徒をこの世で生み出す。不可能の壁を超えた存在です」

 その全身を、歪な鈍色の鎧が覆った。異形の徒が、立ち上がる。

「まあ偉そうに語りはしましたが、これは以前から同志ダンタリオンが温めていた実験で、私は後から便乗させて頂いただけなのですが」

 サラカエルの背後に、圧倒的な違和感を撒き散らす巨人が聳え立つ。
 ポツリ、と、

「坂井、悠二は……」

 零れるように、シャナは訊いていた。『零時迷子』は本来、失った力を毎夜零時に回復させる事しか出来ない。こんな風に、今まで持っていなかった力を捻り出す機能など無い筈なのだ。
 だが、それより何より、

「坂井悠二は、どうなったの?」

 その言葉が、口を突いて出た。頭で考えての事ではない、衝動にも似た焦りから思わず、である。
 主犯であるサラカエルは、僅かに眼を伏せて、

「彼の『零時迷子』は“彩飄”の『戒禁』と『大命詩篇』が複雑に作用し合った結果、同志ダンタリオンでさえ取り出せない状態にありました。我々は彼の身体ごと『零時迷子』を立像に組み込みましたが……あれだけの存在の力に彼が耐えられたとは思えません。『零時迷子』ごと、“彼”に取り込まれたでしょうね」

 憐れむでもなく、嗤うでもなく、彼自身が惜しむように、告げた。

「………………」

 シャナの中で、何かが煮え滾るような感覚があった。
 『戒禁』をどうにか出来るなら、メアに捕まった時点で悠二は殺されている。『零時迷子』があれだけの力を放出したなら、悠二の器は許容限界を超えて消滅する。
 頭のどこかで予感していた事実を告げられただけで、目の前が真っ赤になった。

「………さない」

 仇を討ちたいと思うような関係だったか? 『零時迷子』さえ残っていれば問題ない。怒りに身を任せるな。
 常ならば当たり前に出て来る言葉が、欠片ほども浮かんで来ない。感情が抑えきれない……否、抑えようとさえ思えない。

「許さない!!!」

 『贄殿遮那』から、未だかつてない熱量の劫火が迸る。紅蓮に輝く炎が、灼熱の奔流となって放たれた。

「(疾い!)」

 避けられる大きさでも、正面から受け止められる威力でもない。だがシャナの激昂の予兆に気付いていたサラカエルは、既に『呪眼(エンチャント)』を直下の家屋の屋根に移していた。
 直撃の寸前の『転移』、その中途半端な避け方が仇となる。

(ドォオオオオォォン!!)

 紅蓮の大太刀は“敖の立像”に炸裂し、大輪の華が一帯を呑み込んだ。直下へと転移したサラカエルも、同様に。
 何物をも焼き尽くす煉獄の向こうから───無傷の右腕が伸びて来る。シャナの身体など容易く握り潰せる掌が迫り……虚空を掴んだ。

「ぇやあ!!」

 双翼を燃やして旋回したシャナは、火焔を纏った大太刀を立像の腕に突き立てる。
 渾身の力を込めた刺突は、しかし切っ先すらも埋まらない。シャナは注いだ力を残らず切っ先に集め、一気に『爆破』。その反動で離脱する。

「(私の炎が、効かない!?)」

 爆発を受けた跡にも、傷一つ付いてはいない。驚愕を胸の内に留めて距離を取ろうとするシャナに……今度は左拳が迫っていた。

「(避け───)」

 られない。そう思うシャナの身体が、不可解な方向に加速する。巨人の拳の風圧にも負けない吸引力に引っ張られて、シャナは“半透明の鱗壁”に吸着した。

「(! この自在法……!)」

 状況把握と呼ぶのも憚られる、反射的な感情。それより速く、次の自在法が放たれていた。
 遠方より飛来する銀炎の大蛇が、まだ動きの覚束ない“敖の立像”に絡み付き、

「喰らえ」

 膝裏に噛み付いた瞬間、全ての力を牙に流動させて炸裂した。範囲こそ狭いが凝縮された爆炎が巨体のバランスを崩し、

「“緑の芝に雨よ降れ”」
「“木にも屋根にも雨よ降れ”」
「“私の上だけ避けて降れ”!!」

 群青の豪雨が“敖の立像”に降り注いだ。膨張した炎が渦となって巨体の全身に纏わり付く。
 メリヒムでもヴィルヘルミナでもない援護射撃に、シャナが目を向ける。

「ふふーん? 良い感じに露払いも済んでて悪くないタイミングじゃない」

「ヒャッハッハッ! まだデッケー露が丸々残ってやがるがなぁ!」

 かつてシャナらと戦った時とは比較にならないほど濃密な炎を纏う、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。
 そして───

「むっ」

「ほう」

「これは……」

 緋色の衣と凱甲を鎧い、後頭から漆黒の竜尾を伸ばす、少年。

「あー……これ、僕が捕まったせいなんだよな、やっぱり」

 莫大な存在の力に呑み込まれた筈の『零時迷子』のミステス、坂井悠二。
 殆ど封絶の端という遠距離から、豆のような銀炎が超速で接近してきていた。

「(生き、てた……)」

 普通にあっさり生還してきた少年の姿に、シャナは身体全体で脱力する。猛り狂う激情が水泡の如く一瞬で消え去り、どこまでも無心の空白が頭を支配し、

「(あ、れ……あれ……?)」

 次の瞬間、理由の判然としない羞恥心に埋め尽くされた。炎も出してないのに顔が滅茶苦茶に熱い。自分の顔が炎髪にも負けないほど赤くなっていると自覚して、シャナは全身を燃やしてカモフラージュした。

「『弔詞の詠み手』、何か絶好調みたいなのは良いけど、あれ倒すの手伝って貰える?」

「あんな化け物、一人じゃ手に負えないしね。その代わり、イカレ教授は私が殺るわよ」

 恐らく『グランマティカ』で『加速』の自在法を使っているのだろう。とんでもないスピードであっという間に近付いて来る。

「ゆかりとヘカテーは?」

【心配ないわよ。コソコソ手助けしてるヒゲがいるから】

「……そっか」

 マージョリーが悠二にだけ聞こえる声で師の活躍を伝える頃にはもう、悠二はすぐ傍にまで接近し、

「あ痛っ!?」

 『贄殿遮那』による峰打ちをお見舞いされていた。

「何するんだよ。さっきシャナ助けたの僕だぞ」

「うるさいうるさいうるさい! 無事なら無事って早く言いなさいよ! 大体、お前が捕まらなかったら最初からこんな事になってないの!」

「う……そこ突かれたら痛いけど、これでも全速力で戻って来たんだけどなぁ」

 照れ隠しで喚くシャナの姿も、炎を纏うだけで鬼の形相に早変わりである。怒鳴るシャナにしどろもどろに言い訳する悠二───の背中に、碧玉の瞳が開いた。即座に『爆破』の自在式が発動する。

「わっ!?」

「うあああぁぁーーっ!!」

 急な攻撃で前に吹っ飛ぶ悠二の小さな驚愕と、その悠二に飛び付かれる形になったシャナの悲鳴が同時に上がる。
 悠二の背中、とはつまり、動かさなくても竜尾がある場所でもある。頑丈な悠二の身体の中でも最大の硬度を誇る竜尾で受ければ、この程度の攻撃はダメージに繋がらない。
 それでも、攻撃されたという事実は変わらない。奇襲の失敗を見届けたからか、敵は堂々と紅炎の中から姿を現す。

「幻という訳でもなさそうですね。一体どうやって抜け出したのですか?」

 ボロボロに焦げた豪奢な法服を脱ぎ捨てる、サラカエル。シャナの渾身の炎を、直撃はせずとも確実に受けていた。少なからず消耗しているようだが、それでも確かに生きている。

「あんた達の脱出口を使わせて貰ったんだよ。思ったより遠くに出ちゃって焦ったけどね」

「それは力が回復した後の事でしょう。“敖の立像”が起動したなら、貴方は消滅している筈なのですが」

 だが、同じ疑惑をより強く抱いているのはサラカエルの方だった。
 『零時迷子』が発動しなければ“敖の立像”は起動しない。起動した以上、悠二は許容限界を超えた力に呑み込まれて消滅、既に“敖の立像”に取り込まれている『零時迷子』は『無作為転移』を起こさず、そのまま彼の心臓となる筈だった。
 だが、現に悠二は完全回復した姿でここにいる。

「自在式の形式から、あんた達の狙いはある程度推測出来てたからな。準備万端で待ち構えてれば、回復直後に抜け出すのは大して難しくなかった」

「……直後? 『零時迷子』は零時になると同時に全ての力を瞬間的に放出する。割り込む隙などありませんよ」

 群青の渦が吹き散らされ、立像がノロノロと立ち上がる。あれだけの攻撃を受けて、特に堪えた様子は無い。

「確かに『零時迷子』の発動には割り込めなかったよ。でも“僕が力に呑み込まれてから消滅するまでには”、ほんの少しだけ猶予があった」

 憶えてなさいという顔で悠二を睨むシャナが、ヴィルヘルミナが、マージョリーが、またお前が美味しい所を取るのかという顔で悠二を睨むメリヒムが立像に向き直る中で、悠二だけがサラカエルを睨み続ける。

「とても信じられません……が、こうして貴方が生きている以上、信じるしかないですね」

 恐らくサラカエルは、“敖の立像”が負ける事は無いと考えている。

「つまり、『零時迷子』は貴方の中に在る、と」

「そういう事だ」

 『炎髪灼眼の討ち手』、『万条の仕手』、“虹の翼”、『弔詞の詠み手』。これだけの使い手……いや、更にヘカテーや平井が加わったとしても負けない自信があるのだろう。
 だが……

「やれやれ、“敖の立像”の力を確かめる為に、後は観戦するつもりだったのですが」

 悠二だけは、“敖の立像”に任せる訳にはいかない。この莫大な力を維持する為にも、悠二の破壊による『零時迷子』の無作為転移だけは避けなければならない。
 悠二もそれが判っているから、サラカエルから眼を離さないのだ。

「良かったな。話の続き、出来そうだぞ」

「ええ、本当に」

 護る為に、変える為に、二人の自在師が向かい合う。
 どこかで、少しでも歯車が違えば、別の運命もあったのだろうか。それを知る術は、二人には無い。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 迫る炎弾を碧玉の瞳が受け止める。広がる髪に開く『呪眼』が悠二を睨み付け、咄嗟に振るった竜尾に移った。
 また爆発かと警戒する悠二の身体が、宙に縫い止められたように動きを止めた。

「睨むだけで、どんな自在法も転移できるのか」

「小狡い自在法ですよ。貴方の『グランマティカ』のように、不可能を可能にする力はありません」

 苦笑して、サラカエルは悠二に右掌を差し向けた。そこに生まれた『呪眼』に『強化』の自在法が宿り、放つ炎弾を二回り膨れ上がらせる。
 碧玉の火球が動けない悠二へと一直線に迫り……半透明の鱗壁に『反射』された。

「くっ……!」

 反射された炎弾を躱すには距離が近すぎる。咄嗟に『呪眼』の盾を展開するも、自ら『強化』した炎を防ぎ切れずに貫かれる。
 全身を焼かれて怯むサラカエルを、頭上から振り下ろされた竜尾の一閃が叩き落とした。
 小学校のグラウンドにサラカエルが墜落するよりも早く、既に特大の炎弾が彼を追っている。

「(さすがに“壊刃”を撃退したというだけはありますね。私が万全であっても勝てたかどうか)」

 飛ぶ事も出来ない衝撃の中、サラカエルは力を振り絞って『呪眼』を上空に放ち、その瞳に自らを転移させる事で墜落と爆発から逃れた。
 その眼前に、既に悠二が迫っている。

「何であんな怪物を創った? 『革正団(レボルシオン)』の目的は、徒の存在を人間に知らしめる事じゃなかったのか?」

 その右手から銀炎が溢れる。気体は液体に、液体は固体に変質し、硝子細工のように銀の直刀へと姿を変えた。

「だからこそ、ですよ。坂井悠二」

 尋常ならざる膂力から繰り出される重く鋭い斬撃を、サラカエルは両掌に生んだ瞳で懸命に受け流す。

「先駆者は数多くいました。ある者は言葉によって訴えかけ、ある者は破壊によって見せつけ、一番新しい前例だと、インターネットに動画を流す者もいましたね」

 一際強く、振り下ろした刃をサラカエルが頭上で受け止める。ギリギリと軋む両手で競り合うが、腕力が違い過ぎる。

「ですが、その全てが志半ばで潰えました。我々紅世の徒が死ねば、その痕跡は消滅し、人々の記憶にも残らない。人間の同志もいましたが、そういった者も存在ごと分解されてしまいました」

 振り切った直刀が、サラカエルの左腕を肩口から切り落とした。想像を絶する激痛の中でも、変わらずサラカエルは語り続ける。

「我らの夢には敵が多い。だからこそ必要だったのです。何者にも壊せず、己の力のみで立ち続け、その身を以てこの世の真実を体現する最強の存在が」

 足裏に爆発を生んで、サラカエルは悠二から距離を取る。その光背に浮かぶ数多の『呪眼』が一斉に悠二を睨み付け……るより僅かに速く、漆黒の竜尾が球状に悠二を包んだ。

「超常の存在が知れ渡り、世界の仕組みを多くの人間が理解した時、この世の真実は“あり得ない事”ではなく、真に“この世の真理”として定着するでしょう。力の素養が無い者でも、ありのままの世界を感じ取れるようになる」

 全ての『呪眼』が竜尾の表面に『転移』し、『爆破』する。連鎖的な大爆発が校舎を丸ごと吹き飛ばす。
 燃え盛る爆炎を、悠二は竜尾を解く際の風圧で払い除けた。衣と凱甲が所々焦げているものの、ダメージらしいダメージは無い。
 どう見ても余裕など無いのに語るのを止めないサラカエルの姿を見て、悠二は思う。

「……どうして、そこまでしてこの世の真実を人間に伝えたいんだ」

 この王は、戦う前から自分の敗北を悟っていたのではないか、と。
 ヘカテーが倒れ、マージョリーが倒れ、ヴィルヘルミナが倒れ、メアが倒れ、フリアグネが倒れても、その間中ずっとサラカエルは、あのメリヒムと戦い続けていた。それも、彼が他者の戦いに介入出来ないよう徹底して。
 決定的だったのは、激昂したシャナの紅蓮の大太刀。直撃こそしなかったものの、あの埒外の炎を防ぐ為に残った力をゴッソリと削らされてしまった。
 捕まっていた悠二にそこまでの事情は解っていないが、この王がなけなしの力で戦っている事は判る。

「貴方は、今の世界の在り方が正しいと思いますか?」

 それでも悠二は容赦しない。今も仲間達が、サラカエルより遙かに危険な怪物と戦っているのだ。

「徒が人間を喰らい、人間は喰われた事にも気付かず、家族も恋人も友人も、奪われた者を忘れる。この歪んだ世界の在り方が、本当に正しいと思いますか?」

 問い掛けると共に、サラカエルは炎弾を悠二に放つ。それに向かって悠二も炎弾を撃ち返し、銀と碧玉が鬩ぎ合うのも数瞬、あっさりと銀が押し勝った。

「全ては徒が悪いと、貴方は思うかも知れません。だが、嘆いても憎んでも何も変わらない。この世から徒がいなくなる事はありません。だったら、ありのままを受け入れて新たな道を捜すしかない」

 迫る火球を横っ跳びに躱して、なおもサラカエルは訴える。

「真実を知れば、混乱と恐慌が世界中に広がるでしょう。無為な闘争で何百人何千人が死ぬでしょう。それでも私は、人間はその絶望すらも越えて行けると信じている!」

 悠二は直刀を片手に走り出す。サラカエルの言葉は、確かに悠二の胸に響いている。それでも、今は、大切なものを護る為に、迷ってなどいられない。

「“敖の立像”には心があります。教えを説いて導けば、必ず共に革正を成し遂げてくれる!」

 何の保障も無い夢に、それでも命を懸けて臨む男が、炎弾で悠二を迎撃する。銀の斬撃が一振りで切り払い、悠二は足裏を爆発させて突進した。
 サラカエルは特大の『呪眼』を広げて盾を張り、そして……

「貴方なら───」

 瞳の盾ごと、銀の一撃がサラカエルを貫いた。大の字にひっくり返った王の口から、吐血のように碧玉の炎が漏れる。

「殺すだけでは、護るだけでは、何一つ、変えられ、ない……」

 もはや立ち上がる力も無い男の傍に近づいて、悠二は片膝を下ろした。時間が無いのは判っている。それでも、最期だけは、と。

「徒が死ねば、痕跡すら、消える……。でも、暗号化して、因果の結びつきに穴を見つければ……遺る事も、あるんです……」

 弱々しい力で、サラカエルが手を伸ばす。そこに碧玉の炎が燃えて、一冊の本が現れた。

「貴方なら、解る筈だ」

 その全身が碧玉の炎に包まれて、薄れていく。

「人に生まれ、徒に喰われ、それでも狭間で道に迷う事が出来る、貴方なら───」

 その一言を最期に、サラカエルは炎と共に消え去った。その手にあった本は消えず、瓦礫の上に落ちる。

「……サラカエル」

 その本を手に、悠二は言いようの無い悔しさに奥歯を噛み締める。
 勝てないと判っていたなら、どうせ『零時迷子』を回収できないと理解していたなら、何故戦いを挑んだのか。

 その答えが、最期の言葉に込められていた気がした。





[37979] 8-☆・『大命の王道を』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:87fa7f50
Date: 2015/04/21 11:21

「“六ペンスの歌を歌おうよ”!」
「“ポッケにゃ麦がいっぱいさ”!」
「“二十四羽の黒ツグミ”!」
「“パイんなって焼かれちまう”!」

 高らかに響く『屠殺の即興詩』に合わせて、千にも及ぶ群青の炎弾が“敖の立像”に殺到する。
 かつてない程の力強さを見せるマージョリーの自在法を受けて、しかし巨人は倒れない。激しい雨を煩がるように腕を振り回す、そんな他愛ない仕草さえもが恐ろしい反撃だった。

「(ヤッバ……!)」

 大きく速い掌を、躱しきれないとマージョリーが覚悟する。その瞬間、ヴィルヘルミナが割って入った。
 純白のリボンが一条、迫る立像の腕に絡まり……

「笑止」
「であります」

 怪物の巨体が“投げ飛ばされた”。こんな馬鹿げた戦技を魅せるのは、世界中を捜してもヴィルヘルミナ一人だろう。
 仰向けに倒れたガラ空きの背中に、シャナとメリヒムが剣を振り上げ、

「「はああっ!!」」

 紅蓮の大太刀と『虹天剣』を叩き込んだ。桁外れの破壊力が、アイスを刳り抜いたような巨大なクレーターを穿つ。
 そして虹と紅蓮に彩られたキノコ雲の中から、

「ッオオオオオォーーー!!」

 咆哮を上げる立像が、腕を伸ばして飛び掛かって来た。この巨体と速さなら、距離など瞬く間に潰されてしまう。

「“どこぞに失せろ”」
「“うすら馬鹿”!」

 その視界を、群青の閃光が灼いた。標的を見失った立像を、またしてもヴィルヘルミナが放り投げる。

「(こいつ……)」

 転倒する巨人を睨んで、シャナは額の冷や汗を拭う。
 一見すれば、シャナ達が立像を手玉に取っているように見える。マージョリーの自在法は研ぎ澄まされているし、あれほど炎を乱発してきたシャナもまだまだ余力がある。
 何より、メリヒムとヴィルヘルミナの連携が凄まじい。ヴィルヘルミナがどんな巨体の攻撃も投げ返し、そうして出来た隙をメリヒムの『虹天剣』が貫く。メリヒムは否定するだろうが、相性は抜群なのである。
 問題は、それでも倒れない“敖の立像”の桁違いの硬さだった。

「(どうやったら、倒せる……?)」

 無防備の背中に『虹天剣』を当てても倒れない。それは即ち、他のどんな攻撃も通用しないという事を示していた。
 こちらの攻撃が効かない。加えて、赤ん坊のように稚拙だった動きが、戦う間に少しずつまともになってきている。最初は歩くのも覚束なかった癖に、さっきは不格好ながらも走っていた。

「(こいつは絶対、ここで倒す……!)」

 時間を与えたら、本当に誰にも手が付けられない怪物になる。そう確信するシャナの視線の先で……立像が“飛び起きた”。

「何───」

 声を上げる頃には、巨大な身体が高々と跳躍している。跳んだ先は……マージョリーの真上。

「っ冗談でしょ!?」

 無茶苦茶な風圧に翻弄されながらも、『トーガ』の獣は踏み潰されまいと懸命に飛翔し、柳の葉の様に風を縫って逃れ、

「か───」

 立像の掌に、文字通りハエの如く叩き落とされた。流星のように吹っ飛ぶマージョリーは、その勢いのまま地面に激突し、凄まじい“水柱を立てる”。

「何だ今のは?」

「地面を沼に変えて、落下の衝撃を和らげたのでありましょう」

 メリヒムが訝しみ、ヴィルヘルミナが察する。同時に、数多の銀の炎弾が空中の立像へと放たれた。
 確認するまでもなく、坂井悠二だ。

「……あんたねぇ、女の助け方としては0点よ」

「いいから早く上がって来いよ。踏み潰されても知らないぞ」

 全身泥だらけの着ぐるみが、沼からヨロヨロと浮かび上がる。判っていた事だが、軽く叩かれただけでも相当に効くらしい。

「(デカい奴には至近距離で戦えって前にシャナに言われたけど、それじゃ派手な攻撃出来ないよな)」

 身体が大きいから簡単に距離を潰されてしまう。逆に小回りの悪さを突いて死角に回り込むべきだ、と教わった。
 しかしこの“敖の立像”に生半可な攻撃は通じない。至近距離で全力攻撃をすれば自分まで巻き込まれてしまう。
 ───ならば、遠距離で戦いながら相手の攻撃は全て躱す他ない。

「長引かせるとマズそうだ。一気に決めよう」

 悠二の、シャナの、ヴィルヘルミナの、メリヒムの、マージョリーの背中に銀炎が燃え、自在式を内に燃やす半透明の蛇鱗が貼り付いた。
 同時に、“敖の立像”が駆け出した。爆発じみた土煙を上げて疾走する巨人は、あっという間に悠二の目前に迫り、ついでのように踏み潰そうとする。
 が、寸前で悠二を見失った。

「うっおりゃああぁーー!!」

 その悠二が、頭上から銀鱗を纏う鉄鎚を立像の後頭部に打ち下ろす。怪力と超重に裏打ちされた凄まじい豪撃が、巨人の体勢を前のめりに崩した。
 間髪を入れず、悠二は掌を天に翳した。空に広がる『グランマティカ』が銀の星座を宿し、尖塔ほどもある銀光の剣を“敖の立像”へと落下させた。空気を切り裂いて奔る刃は超速で巨体の背中に突き立て───

(バキィイイン!!)

 られず、反動で砕け散った。光の破片が硝子の様に舞い散る。

「(鋭く研ぎ澄ませても駄目か……!)」

 こかされた立像が起き上がり、両手を振り回して悠二を狙う。粗雑ながらも素早く大きい腕は、しかし悠二を捉えられない。
 飛び回る羽虫に苛立ち拘る立像に、シャナが後ろから劫火をお見舞いする。灼熱の大火輪が巨人を呑み込んだ時、既に悠二は上空に逃れていた。

「“王様目指す獣達”!」
「“ライオン倒す一角獣”!」
「“街中ぐるぐる追い回す”!!」

 灼熱の猛威に呑まれた立像を、マージョリーの纏う群青の螺旋が紅蓮の爆炎ごと突き刺した。

「ギイッ!?」

 突き倒されそうになりながら、立像は炎の螺旋に向けて足を振り上げた。当たれば確実にマージョリーを粉砕するだろう蹴撃は、空しく炎を散らすのみ。マージョリーは一瞬にして離脱している。

「寝ろ」

 倒れた所に、再びメリヒムの『虹天剣』が撃ち下ろされた。並の王ならもう何度死んでいるかという連続攻撃を受けて、またも立像は問題なく起き上がって来る。

「キュアアァァーー!!」

 そして、メリヒムを掴もうとした右掌がまたも空を切る。驚愕する巨人の背中に、悠二とシャナとヴィルヘルミナとマージョリーによる特大の炎弾が叩き込まれた。

「(良し、とりあえず避けられる!)」

 そう、悠二が『グランマティカ』で仲間達に掛けたのは『加速』の自在法だった。
 急に速くなった敵を捉えきれず、“敖の立像”は一方的に攻撃を受けている。だが、まだ足りない。まるで立像の力は衰えない。
 その焦燥に応えるように、

(ドカァアアン!!)

 褐色の炎を推進力に燃やす瓦礫の塊が、隕石としか思えない破壊力で立像の肩に直撃した。

「な、何だ……!?」

 得体の知れない援護射撃に、悠二は褐色の軌跡を眼で追った。その先に居たのは、武骨な鞭を握る、ビルの半分ほどもあろうかという瓦礫の巨人。
 こんな時でなければ大いに大いに驚いたと思うほどの勇壮だが、“敖の立像”の前では子供にしか見えない。

「褐色の炎……『偽装の駆り手』か!?」

「ああ、お久しぶり……という程でもありませんが、挨拶は後にしましょう」

「ふむ、その巨人は敵で間違いないな?」

 悠二の確認に答えた『偽装の駆り手』カムシン・ネブハーウが、瓦礫の巨人……『偽装』の足から炎を噴き上げて飛んで来た。瓦礫の鞭……『メケスト』から、褐色に燃える『ラーの礫』を次々に飛ばしながら。
 一撃一撃が立像を怯ませる程の大威力……だが、

「マズい! 鎧を脱げ!」

 悠二が叫ぶも、遅かった。立像は新たに現れた“丁度良い大きさの敵”に狙いを付けて、前傾姿勢で地を蹴った。

「くっ!」

 悠二は慌てて『グランマティカ』を繰る。あの瓦礫がどれだけ頑丈でも、立像の攻撃には絶対に耐えられない。普通なら敵を圧倒するだろう巨体も、今に限っては枷にしかならない。
 その懸念に違わず、

「っ!?」

 アッパー気味の立像の拳が、中空の『偽装』を一撃で粉砕した。
 だが、ロクに事情を把握していないとは言え、カムシンも馬鹿ではない。敵の気配の大きさから、こうなる事くらい読めていた。

「(封絶を感じた時は駆けつけて正解……かと思いましたが)」

「(どこまで役に立てるかの)」

 飛び散る瓦礫の一つに乗って、カムシンは立像の一撃から逃れている。そして、砕かれた瓦礫が褐色の炎で連結し、立像の全身を縛り付けた。

「来い!」

 その瓦礫の拘束が一斉に爆発するタイミングで、悠二の鱗壁が引力に似た力を発して、カムシンを引き寄せた。
 連鎖的な大爆発が巨人の全身を叩く……その、遥か頭上、

「「せーの」」

 二人の少女が、互いに繋いで作った拳を眼下へと向けていた。

「「ゆカテー・コンビネィション!!」」

 血色に燃える、水色の恒星。カムシンの『偽装』をも呑み込むほど巨大な光球が、天空から一直線に立像を撃った。

『ッ……!!!』

 シャナとメリヒムの二重攻撃と同等……否、それ以上の大爆発が封絶を揺らした。大地は抉られ、爆風が建物を薙ぎ倒し、既に封絶の中は破壊されていない場所を探す方が難しい。

「ヘカテー! ゆかり!」

 未だ響き渡る爆音の中、悠二は遥か上空を見上げる。ヘカテーに肩を支えられた平井が、弱々しい笑顔でピースサインを出した。
 実際に目にしてやっと安心する悠二……の感覚が、警鐘を鳴らす。

「(来る───)」

 どす黒い赤と明るすぎる青が支配する煉獄、未だ視界の晴れない粉塵の向こうから、背筋が凍る程の馬鹿げた力の集中を感じる。

「みんな避けろぉおーー-!!」

 悲鳴じみた絶叫を聞くまでもなく、全員が動いていた。鋭敏な感覚など無くても判る、それほど絶望的な予感。
 だが、力の集中は察知出来ても、姿が見えなければ何処を狙うかまでは判らない。
 刹那、

『──────』

 灼熱の銀が、御崎市を貫いた。広範囲を一直線、街を破壊の傷痕が奔る。炎の過ぎた跡には瓦礫すら残らず、焦げた大地が煙を上げるのみ。
 “敖の立像”の感知能力が未熟だったのが幸いして、まだ誰一人死んではいない。

「っ……これは、炎弾……?」

 カムシンの右腕と、

「う、ぐ……あぁ……」

 悠二の両脚が、炭も残さず消えただけで済んだ。

「ッッ……悠二!!」

 その姿を目の当たりにしたヘカテーが、自分の脚がもがれたかのように表情を歪めて、

「ッッンニャロォオーー!!」

 “敖の立像”へと突っ込もうとする平井の肩を、掴んだ。爪が食い込む程の力で押し止められた平井が、水を掛けられた様に振り返る。

「……ゆかりは、悠二をお願いします。今の炎をもう一度撃たれたら、『アズュール』で防ぐんです」

「あ……えっと、うん」

 非日常に慣れた者の冷静な判断、という風にも聞こえるヘカテーの言葉に、平井は微かな疑念を抱いた。
 悠二を想えばこそ心配を押し殺している。それは解るのだが……何だか、らしくない。

「悠二を頼みます───“   ”」

「え……?」

 それを確かめる時間は、無かった。何かを小さく言い捨てたヘカテーは、一直線に“敖の立像”に突進を開始する。
 同様に、

「瓦礫が少ないのは痛いですが」

 片腕のカムシンと、

「時間稼ぐから、何か対策考えなさい!」

 『トーガ』を纏ったマージョリーも突撃を開始した。
 平井の『アズュール』で全員を守れる訳では無いし、巨人の攻撃は炎でなくとも必殺の威力がある。
 最も有効な対処方法は、逃走ではなく攻撃。一方的に畳み掛け、何をする間も与えない事。

「クッソ……っ! あんなの、どうやって倒せばいいんだよ……ッ!!」

 その奮闘を遠目に見る悠二の全身を、噴き出した脂汗が濡らす。
 化け物だという事は、戦う前から判っていた。だが、戦えば戦うほど絶望が深くなっていく。万に一つも勝ち目など無いのではないかと思えてしまう。
 それを肯定するかのように、

「……退くぞ」

 近寄って来たメリヒムが、そう言った。同様に集まったシャナと平井、そして言われた悠二が耳を疑う。ただヴィルヘルミナだけが、青ざめた顔で黙り込んでいる。

「いよいよ炎まで使い始めた。このまま戦い続けても勝ち目は無い」

「待てよ。僕らが逃げたら御崎市はどうなる? あいつが封絶の中を修復する訳がない。封絶を解いて逃げたら街は───」
「それは俺たちが全滅しても同じ事だ。何も守れず犬死にするくらいなら退いた方が遙かに良い」

 悠二の反論を最後まで言わせず、メリヒムは少し早口で主張する。理屈として間違ってはいないが……凄まじい違和感がある。少なくとも普段のメリヒムからは考えられない発言だった。

「“勝つ方法など無い”。お前とて、玉砕を美徳とするほど愚かじゃないだろう。だったら今すぐ……」

 明らかに、何かを恐れている。
 この不敵で傲慢な王が“敖の立像”の力を? それこそ有り得ない。あの炎を身に受けた悠二でさえ心が折れていないのに、メリヒムが怯える筈が無い。
 おまけに、勝つ術が無い事を強調するような口振り。

「メリヒム……もしかして、勝つ方法があるのか?」

「無いと言ってるだろうが!」

 怒鳴って、メリヒムは悠二にサーベルを突き付ける。あからさまな反応に、今度は平井が食い付いた。

「メリーさん、これだけ充実した戦力で勝てなきゃ、後から誰が来ても勝てないよ。それに、時間置いてあれ以上強くなっちゃったら……」

 理屈で諭して、遠回りに「喋れ」と要求する平井……を、七色の火球が襲う。炎弾自体は火除けの結界に遮られたが、怒りの程は怖いくらいに伝わってくる。

「あわわ……」

「文句があるなら、今すぐお前らがアレを倒して見せろ。出来ないなら、余計な口を開くな」

 逃げたければ一人でさっさと逃げれば良い。何故か退却の決定を討ち手ではなく悠二に納得させようとしている。
 そんな、不自然すぎるメリヒムの態度の理由を察して、

「───『天破壌砕』───」

 シャナが、覚悟を決めた顔で呟いた。
 メリヒムとヴィルヘルミナの肩が、ギクリと揺れる。

「てん、ぱ?」

「“天壌の劫火”アラストールの、『神威召喚』よ。普段のアラストールは王と大きな違いは無いけど、『神威召喚』を使えば天罰神の権能を存分に使う事が出来る」

 無表情に淡々と告げるシャナの横顔が、どんどん青くなるメリヒムとヴィルヘルミナの顔色が、単に凄そうだ、では済まないと物語っている。

「『天破壌砕』は一人の徒を心臓(コア)にして発動する。そして、強大過ぎる力は顕現と同時に……器を破壊する」

 言葉の意味を理解するのに、数瞬かかった。

「シャナが、死ぬって事か?」

 悠二がそれを口にした瞬間、虹の火花が爆ぜた。

「俺は、認めんぞ」

 鬼の形相となったメリヒムが、シャナの胸元のアラストールを睨み殺すように見る。

「……何を黙ってる。なぜ何も言わない! このまま、仕方ないからと“天破壌砕”を使わせるつもりか!? 答えろ“天壌の劫火”!!」

「………………」

 怒鳴り散らされて、それでもアラストールは沈黙する。それしかないと、誰より理解しているのはメリヒムだと知っているから。
 それを優しさだと、メリヒムは思わない。

「お前はっ……いつだってそうだ」

 軋む程に奥歯を食いしばり、噛み切った唇で罵倒する。

「つまらん綺麗事の為に同胞を殺し、愛する者を使い潰し、自分だけは生き残る! 生き残って、何度でも繰り返す! そんなに使命が大事か!? 彼女を失って、何も思わなかったのか!!?」

 他の誰も、口を挟めない。心の底からの叫びだった。それでも、変わらず、アラストールは何も言わない。
 メリヒムの言う通りに、何とも思っていない訳では無いからこそ、何も言わない。言う資格が無いと、判っていた。

「シロ」

 他でもない、自分の為に怒ってくれている大切な家族の手を、シャナが取る。

「(………………ああ)」

 その澄んだ灼眼に、揺らぐ事の無い不屈の覚悟に、メリヒムは悟る。

『あなたの愛では、私は止められない』

 あの時と、同じ。自分の愛した女は、自分の鍛えた娘は、愛情では止まらない。何者にも曲げられない、何物にも染められない、気高い心の持ち主なのだ。

「…………わかった」

 無意識に、理解はしていた。覚悟を決めたシャナに、何を言っても無駄だと。だからこそ、討ち手ではない悠二を説得しようとしたのだ。
 だが、止められなくとも───道を同じくする事は出来る。

「召喚の心臓(コア)には、俺がなる」

「………………え」

 その言葉に、茫然と立ち尽くしたままのヴィルヘルミナが小さく呻いた。メリヒムはその声を聞き逃さず、敢えて無視する。

「俺も俺の意思に殉ずる。お前は永遠に殺し続けていれば良い」

 アラストールに吐き捨てて、メリヒムが“敖の立像”に向き直……ろうとした時、

【やれやれ、揃いも揃って、少し短絡的ではないか】

 この場にそぐわないほど落ち着いた声が、聞こえた。直後に、どこからともなく白い羽根が渦を巻き、中から清げな老紳士が姿を現した。

「師匠!」

「誰が師匠だ」

 “屍拾い”ラミー、否、“螺旋の風琴”リャナンシーである。陰ながらヘカテーや平井やマージョリーを回復させつつも、表立って戦場に姿を出す事はしなかった彼女が、このタイミングで現れるとは思いも因らなかった。
 そのリャナンシーが、手にした銀の拳銃をクルリと回して見せる。

「“狩人”の持ってた宝具……」

 シャナが呟き、他の皆も目の色を変えた。ちゃっかり回収していたらしいフリアグネの拳銃、確かにこれは盲点だった。

「これならば、あの巨人も爆殺できるでありますか」

 未だ推測の域を出ないが、恐らく『撃った相手を自爆させる宝具』。殆ど攻撃が通らない上に狙いやすい巨体を持つ“敖の立像”にはお誂え向きの代物に思われた。
 が、希望に目を輝かせるヴィルヘルミナにリャナンシーは首を振る。

「それは不可能だ。少し調べてみたが、これはフレイムヘイズにしか効果を持たない宝具らしい」

 シャナが、小さく頷く。戦闘中、その可能性も考えた。最後に平井を撃とうとしたのは、やはりハッタリだったのだ。

「これの性質は、『フレイムヘイズと契約する王の力の休眠を破る』というものだ。自分の炎で内側から破壊されるから自爆している様に見えるのだろう」

「……何だと?」

 ずっと黙っていたアラストールが、唸る。
 基本的に、フレイムヘイズと契約するの   は“王”だ。王の力は大きすぎて、並の人間の器では納まりきれないので、普通は力の一部を休眠状態にして器に入る。
 その休眠状態を破られれば、許容限界を超えた力に内側からフレイムヘイズは破壊される。
 原理はともあれ、当たれば爆死という結果には変わらない。正しくフレイムヘイズには最強の宝具だ。

「だが、“狩人”は君を撃たなかった。ここまで言えば、もう解るな?」

 悪戯っぽく笑って、リャナンシーはシャナに銃口を向けた。
 「解るな?」と言われても、悠二や平井は全く意味が解らない。
 しかしシャナには、ヴィルヘルミナには、メリヒムには解った。

「なるほど、だから私にも使わなかったのね」

 フリアグネは、フレイムヘイズであるにも係わらずシャナを撃たなかった……否、撃てなかった。
 それが無意味である以上に、自分達にとって最悪の結末を招くと気付いていたのだ。

「“一緒に行こう”、アラストール」

 死を覚悟した者とは違う、生きて勝利せんとする者の光が、灼眼に宿った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 脚の傷を自在法で止血しながら、悠二はその光景を呆然と見ていた。シャナ以外に説明している時間は無いという切迫した状況でもあり、他の皆もただ飛び去るシャナの後ろ姿を見送った。
 未だヘカテー達と交戦する“敖の立像”と悠二達との距離が等しくなった時に、リャナンシーがシャナに向けて引き金を引いた時も、頭が付いて行かなかった。

「(フレイムヘイズ殺しの宝具で、シャナを撃った?)」

 不可解極まりない異常な光景を大人しく見ていたのは、誰よりシャナを大事に思っているヴィルヘルミナやメリヒムが静観していたからに他ならない。
 シャナがリャナンシーに撃たれ、“それ”は起きた。

「うわっ!?」

 爆発、としか思えない炎の膨張に、平井が小さな悲鳴を上げる。膨らんだ炎が果てなく広がっていく様は、天罰神の休眠が解かれたと言われても納得する光景だった。
 爆死───そんな言葉が頭を過ぎる悠二の見る先で、炎が膨張を止めた。山の様に広がった炎は、しかし消えず、一つの形を取って山のように聳え立つ。

「あれ……アラストール、なのか?」

 漆黒の塊を奥に秘めた灼熱の魔神。鉤爪を備えた長い両腕、歩くだけで大地を揺らす太い脚、悪魔にも似た不気味な角が頭から伸び、それら全てが紅蓮に燃えている。皮膜を張った黒い翼が、夜空の如く広がった。
 あまりにも、巨大すぎる。この距離だから辛うじて解るが、近くで見たら色くらいしか解らないだろう。

「……何これ、どうなってんの」

 あまりの威容に、貧血も相まって平井がへたり込んだ。
 あの銃は、休眠を破ってフレイムヘイズを内側から破壊する宝具と聞いた。それが何故、こんな事になっているのか。

「簡単な事。“天壌の劫火”は最初から、力を休眠させてなどいなかったのであります」

 圧倒される平井に、ヴィルヘルミナが腕を組みながら言い放つ。さっきまで憐れになるほど動揺していた癖に、悠二でも判るほど得意気になっている。

「王が力を休眠させるのは、人間の器が耐えられないからであります。しかし彼女にそのようなものは不要。何故なら彼女は天罰神の全存在をも受け止める大器。果て無き時空に名を轟かせる筈だった『偉大なる者』なのであります」

 常ならば親馬鹿めと呆れ返るところだが、今回ばかりは笑えない。あんな巨大な存在を顕現させて有り余る器など、完全に常軌を逸している。
 未だ自力では引き出し切れないアラストールの力を宝具によって覚醒させた結果が、目の前の光景なのだ。

「“頂の座”、『弔詞の詠み手』、『偽装の駆り手』。巻き添えになりたくなければ離れているがいい」

 “敖の立像”さえ子供にしか見えないアラストールの姿に、ヘカテー達が慌てて巨人から離れた。そのまま大回りに悠二達の許へと戻って来るのも待たず、牙だらけの口が開いて……

「受けよ───報いの火を」

 神罰にも似た紅蓮の奔流が、一呑みに立像を攫った。熱風が遥か後方の悠二らにまで届いて来る。

「ぬぅん!!」

 間髪入れず、燃える巨人をアラストールが蹴り上げる。撥ね上げられた立像を左の手刀が叩き落とし、墜落した所に全体重を乗せた右の拳を打ち下ろした。
 直撃の瞬間、紅蓮の大爆発がアラストールすら巻き込んで大地を砕く。

「うっわぁ圧倒的……“天破壌砕”ってのはあれより強いんだよね」

 壮絶な戦いに、平井が感嘆を通り越して呆れの溜め息を吐いた。
 その、まるで既に決着が付いたかのような気の抜けた台詞に、

「……阿呆が。良く気配を探ってみろ」

 メリヒムが、苦々しく吐き捨てた。見れば……その横顔に冷や汗が伝っている。

「……え?」

「……確かに、体格はアラストールの方が大きいよ。だけど───」

 感覚の鋭い悠二が、見るからに固い表情で答えるのと同時、

「“敖の立像”の方が、強い」

 ───アラストールの巨体が、銀炎の咆哮を受けて吹き飛んだ。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「「ッオオオオオォォーーーー!!!」」

 二体の巨人による、力と力、炎と炎のぶつかり合い。途方も無い破壊力の応酬が大気を焦がし、大地を揺るがす。
 一見すれば体格に勝るアラストールが有利に見えるが、戦いは徐々に立像の勝利へと傾いていた。

「……サラカエルの言ってたのは、こういう事か」

 脚を焼失した悠二が、竜尾を器用に使って立ち上がる。その表情には追い詰められた者特有の焦燥の色が濃い。

『必要だったんですよ。何者にも壊せず、己が力のみで立ち、その身を以て真実を体現する最強の存在が』

 実際、アラストールまでやられたら今度こそ終わりだ。こうなった以上、“天破壌砕”とやらを使う暇は得られないだろう。アラストールの敗北はシャナの死に直結する。

「言っとくけど、逃げるってのは無しよ。ここで逃がしたら手つけられなくなるし」

「ま、少なくともオメーの復讐のチャンスは無くなるわなぁ」

 わざとらしく図星を突いてくるマルコシアスをぶっ叩こうとしたマージョリーは、振り上げた掌を下ろした。
 まさか、こんな形で自分の復讐に他人を巻き込む事になるとは思っていなかったから、微妙に対応に困る。

「逃げないさ。何がなんでも倒す」

 そんなマージョリーの複雑な心境を知ってか知らずか、悠二は迷い無く断言する。
 世界のバランスと“敖の立像”の討滅を最優先に考えるなら、それこそ今すぐ逃げるべきだ。シャナを見殺しにし、アラストールは紅世に帰り、再び契約して今度こそ“天破壌砕”を使う。それが最も堅実な手段だろうが……悠二はフレイムヘイズではない。御崎市もシャナも見捨てる気は微塵もなかった。

「どうするつもりでありますか?」

「もちろん、アラストールを勝たせる」

 確かに“敖の立像”はアラストールより強い。互いに力をぶつけるばかりで相性というものも殆ど関係が無い。だが、そこまで致命的な差でも無い。

「勝たせるって、援護射撃……?」

 フラフラしながら平井が首を傾げている。傷は癒えているらしいが、ダメージはまるで抜けきっていない。
 平井だけではない。ここまでの戦いを経て万全な者など皆無である。

「そうだ。でも、バラバラに攻撃しても効かない」

 なればこそ、悠二は提案する。

「攻撃するなら、皆の力を一点に集中するべきだ」

 そう言って、悠二は『グランマティカ』で全員に『強化』を施した。こんな程度で劇的に強くなる訳もないが、やらないよりはマシだ。

「よし、行くぞ!」

 まだ勝てる。そうアピールするように悠二が飛んだ。集中攻撃、工夫としては弱いものの、不思議な風韻に引かれるように全員が空を舞う。

「『万条の仕手』、全員にリボンを!」

「っ了解であります!」

 強く言われて、ヴィルヘルミナが全員にリボンを伸ばした。それぞれのリボンはそれぞれに繋がり、機械の配線のように絡み合う。

「なるほど、そういう事か」

 そのリボンにリャナンシーが自在式を灯し、全員が全員と手を繋いでいるも同然の状態が出来上がる。

「ヘカテー」

「はい」

 打てば響くようにヘカテーが応えた。祈るように両手を組んだ巫女の全身が淡く光り、リボンで繋がった全員が感覚を共有する。

「(へぇ)」

「(これが……)」

 瞬間、誰もが体感していた。自分だけでなく他人の存在の力まで完全に把握出来、手に余る部分は言葉などなくとも他人に委ねる事が出来る。
 これは、一斉集中攻撃などという生易しいものではない。力の合一と並列統御だ。

『力を、集中させる』

 悠二の銀色が、ヘカテーの水色が、平井の血色が、ヴィルヘルミナの桜色が、マージョリーの群青色が、リャナンシーの深緑色が、カムシンの褐色が、眩い光の翼となってメリヒムの背中に広がった。
 束ねた力を解き放つのは当然、最強の威力を誇る徒の剣士。

「満場一致か。当然の判断だな」

 不敵に笑う両翼の右が、サーベルの切っ先を“敖の立像”へと向けた。魔神の炎弾を受けて巨人が怯んだ瞬間、虹の翼が収束し、

「───『七星剣』───」

 異色の七星が、眩い破壊の濁流となって解き放たれた。

『っ──────』

 奔る閃虹は魔神の撒き散らす炎を紙のように切り裂き、瞬きの間に駆け抜けて───

「ギィイイイィィーーーー!!!」

 巨人の脇腹を、“深々と剔った”。

『………は?』

 誰もが……発案した悠二までもが目を疑う。もちろん、ある程度の効果を見越して行った作戦ではあるのだが、当人らの予想を遥かに超える威力である。
 未だ理性の光を持たない剥き出しの憤怒が、遠方の悠二らを睨んだ。

「! 来る!」

 間を置かず、兜ごと開かれた顎門から灼熱の銀が吐き出される。
 避けられる大きさでも速さでもない。固まっている悠二らは一撃で全滅してしまう。

「なんのぉー!!」

 平井の宝具、火除けの指輪『アズュール』が無かったら。

「どこを見ている」

 遠雷のように唸って、アラストールが立像を蹴り飛ばす。宙に舞う巨人に紅蓮の鉤爪が突き刺さり……その鉤爪が、腕ごと消し飛んだ。“敖の立像”の吐き出した銀炎によって。

「ぐっ、ぬぅ……!」

 失った腕に炎が流れ込み、再生する。だが、無から有を生み出している訳では無い。腕の部分に他から注いでいるだけ。その証明のように、アラストールの巨体が一回り小さくなっていた。

「(また強くなっている。これ以上、長引かせる訳にはゆかぬ……!)」

 勝負を掛けるべく踏み出す魔神。その両腕と翼が、

「っ……!?」

 唐突に“生えた”立像の銀翼に、その羽ばたきから放たれる光の斬撃に切り飛ばされた。
 両腕を失った魔神に“敖の立像”は顎門を開き、練り上げた炎を……

「「ッゴアアアァーーー!!!」」

 “アラストールと同時に”放った。炎と炎が至近でぶつかり合い、数秒の拮抗の後───紅蓮は銀に押し流され、灼熱の濁流に魔神は浚われる。
 その瞬間、二つの炎を裂いて異色の虹が奔る。

「ギッ……!」

 二発目の『七星剣』が、立像の胸に突き刺さった。怯んだ頭に三発目が着弾、兜を粉々に吹き飛ばす。
 堪らず銀炎を撃ち返す“敖の立像”だが、火除けの結界に防がれる。

「消えろ!!」

 そして四発目の『七星剣』が、寸分違わず胸の傷を抉った。証言で仰け反る立像に、

「歪んだ願いを託され、不条理に生み出された憐れな王よ」

 もはや立像と変わらぬ体躯となったアラストールが、拳を振りかぶる。

「罪無きその身に天罰を下す我を───許すな」

 全身全霊を込めた紅蓮の一撃が───遂に立像の胸を貫いた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




【ッノオオオォォーー!! こぉーの私が技術の粋を結集したこの『我ぁー学の】

 拡声機で喚く教授の絶叫は最後まで言い切られる事は無かった。
 群青に輝く巨大な狼が、傷口を貪るように立像に食らい付いたからだ。皮の下まで頑強だった肉体は主を失って脆く崩れ、群青の炎が猛然と雪崩れ込む。
 それは当然、人口臓器のように体内に設けていた教授の一室にも及ぶ。

【こぉーんな事もあろうかとぉー!!】

 教授は雄叫びと共に人差し指を振り上げ、備え付けていた脱出ボタンを押した。

【……おや?】

 が、何も起こらない。
 教授は知らない。教授の脱出口を使って悠二が立像から逃れた事を。その悠二が、自分が通った後に脱出口を使えないように細工していた事を。

「待ってたわよ、この時を、ずっと……!!」

 巨大な狼に姿を変えたマージョリー・ドーが、隠そうともしない出鱈目な憎悪を炎に変えて流し込む。

「殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」

 巨人の至る所から群青が噴き上がるが、教授の悲鳴は聞こえて来ない。拡声機を切ったのか、壊れたのか、どちらにしても断末魔が聞けないのは残念だ。
 そう、マージョリーが微かに思った時……

「エスケイィーープ!!」

 UFOにも似た飛行物体が、脆くなった巨人の頭を砕いて飛び出した。

「ドォーミノォー! さっそく次の実験に取り掛かりまぁーすよぉーー!」

「はいでございますです教授~!」

 いつものように、過去を振り返らず、新しきを求め、興味の赴くままに教授は飛ぶ。
 後先を見ず、どこまでも未知への探究を求める天才の未来は……

「いいわねぇ……大事な玩具を壊されて、これからの事を考えながら」

 巨大な顎門に呑み込まれ、凶悪な牙に貫かれ、

「全てに絶望して───消えなさい」

 ───獄炎の中で、消えた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「終わった、のか……?」

 “敖の立像”が、“探耽求究”が倒れた戦場を眺めて、悠二が実感も薄く呟いた。
 平井が乗っ取られ、自分も捕まり、“敖の立像”が生まれ、サラカエルと戦い、アラストールが顕現し……とにかく、壮絶な事が立て続けに起きたせいで感覚が麻痺している。ほんの二時間前まで過ごしていた清秋祭が遠い過去に思えた。
 とにかく今は座りたい、と願う悠二に、

「いや、まだだ」

「ええっ!?」

 リャナンシーが無情に告げた。告げて、しかし求めず、真っ直ぐに悠二を見る。

「君は見ているだけで良い」

 言い捨てて、倒れた立像に向かって飛んで行くリャナンシーと……

「ヘカテー?」

 悠二の呼び掛けに、ヘカテーは応えない。振り返りもせず、背中だけを見せて立像に飛んで行った。
 そして、

「……あれ、二人は何してるの?」

 倒れた立像、もはや輪郭すら薄れて消滅に向かう巨人の炎を、吸い上げているように見える。ヘカテーは自身の身体に、リャナンシーは手にした毛糸玉に。
 得も言われぬ予感に表情を曇らせる悠二と平井に、ヴィルヘルミナが言う。

「以前“螺旋の風琴”を守った時と同じであります。膨大な存在の力が制御を失って暴走すれば、それだけで甚大な被害が出る」

「あの巨人は、力を使い果たして死んだ訳じゃないからな」

「あぁ、それで」

 メリヒムにまで補足されて、悠二はとりあえず納得する。
 理屈は解った。解ったのだが……

「(ヘカテーが、何で……)」

 何かがおかしい。
 その直感を肯定するように───

「足りるかね?」

 リャナンシーが問い、

「ええ、十分です」

 ヘカテーが答えた。
 そして、次の瞬間───

「───『星(アステル)』よ───」

 水色の流星群が、“アラストールを撃った”。連鎖的な大爆発が、傷付いた魔神の全身を呑み込む。

「…………えっ」

 あまりに突然の、予想もしなかった出来事に、誰もが目の前の光景を理解できなかった。

「(ヘカテーがアラストールを攻撃した?)」

 思考が追い付く頃には、数え切れない光弾の嵐が水色の爆炎を広げている。
 明らかに悪ふざけでは済まないレベルの、本気の攻撃だ。

「ヘカテー!! 何してるんだ!!!」

 叫んでもヘカテーは止まらない。悠二が止めようと動き出す前に、アラストールが動いた。

「“頂の座”、今さら何のつもりだ!!?」

 光弾を撥ね除けながら、前傾になって腕を伸ばす。どう見てもヘカテーの危機にしか思えない光景を前にして、

「(何、だ……?)」

 悠二の鋭敏な感覚は、捉えていた。
 唐突な、強大な気配の出現。『隠蔽』を解いて剥き出しにした、虎のような凄まじい闘気を。

「アラストール! 避けろォォーー!!!」

 悠二の叫びと、

「ッオオオオオオオオオオォーーー!!!」

 何者かの咆哮は、全くの同時だった。
 水色に輝く炎の中、前のめりになるアラストールの眼下から、全てを貫いて繰り出される、巨大な槍。
 全身全霊を一点に乗せた槍の穂先が濁った紫の炎を撒き散らして天に伸び……

「やめ───」

 力の大半を失った魔神の胸に突き刺さり……

「ろぉおおーーー!!」

 胸の奥に在る漆黒の球体を、砕いた。その内に眠っていた───シャナの身体ごと。

「な……ぁ……」

 何が起こったか解らない……否、信じられないアラストールが、空っぽの胸に手を当てて後退る。
 その、頭上に……

「───やれやれ、何とか上手くいったか。今回ばかりは流石に肝が冷えたよ」

 いつの間にか、一つの影が浮かび上がっていた。
 金色に光る拘鎖を周囲に巡らす、三眼の右眼を眼帯で隠す女怪。

「“逆理の裁者”! これは貴様の企みか!?」

「ふふっ、そう怒らなくても良いじゃないか。目的の為なら神だって殺すのは、お前達も同じだろう? “フレイムヘイズ”」

 挑発的な笑みに、アラストールの激情が燃え上がる。

「き……貴様ァアアーーー!!!」

 巨大な掌が細い体躯を握り潰さんと伸び、熱気が女怪の髪を炙り、そして……

『──────』

 開かれた掌は握られる事なく、魔神の腕は火の粉となって消えた。
 腕だけではない。天罰神の巨大な身体が、文字通り火のように儚く散っていく。

「せめて悼みを、“天壌の劫火”アラストール」

 そうして、あれだけの勇猛を誇った天罰下す大魔神は、呆気なく……あまりにも呆気なく───死んだ。

「ふざ、けるな……」

 全身を戦慄かせて、メリヒムが“逆理の裁者”ベルペオルを睨む。

「ふざけるなぁーーー!!」

 そのサーベルの切っ先から、爆発的な光輝の塊が放たれた。虹の濁流が距離など関係なくベルペオルに迫り、

「っ」

 直下から伸びて来た巨大な剛槍の刺突に直撃し、弾かれた。その槍が縮むに合わせて、シャナを破壊した張本人が浮かび上がってきた。

「俺たち『三柱臣(トリニティ)』の宝具は特別製でな。この『神鉄如意』は、俺が望まない限り折れも曲がりもしない」

 ダークスーツにサングラス、プラチナブロンドの髪をオールバックにした長身の男。『将軍』“千変”シュドナイ。
 そのシュドナイと『参謀』ベルペオルの間に、ヘカテーが並んだ。

「『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の最高幹部、『三柱臣』……」

 カムシンが、小さく呟く。繋がりが薄かったからこそ、彼が一番驚きが少ない。いつか来る必然、とさえ思った。
 逆に……

「……ヘカ、テー」

「え……ぇ……?」

 悠二と平井は、目の前の光景を信じられない。悪い夢でも見ている感覚で、怒る事も悲しむ事も出来ずにいた。
 そこから立ち直るのを、『三柱臣』は待つ気は無かった。

「挨拶くらいは、構わないよ」

「……必要、ありません」

 ベルペオルの言葉を拒んで、ヘカテーは『トライゴン』の遊環を鳴らす。涼やかな音色が織り成すように、銀に輝く複雑怪奇な自在式が無数、ヘカテーを取り巻く。絡み合う式が速度を増して、摩擦のように燃え上がった。
 燃える炎は燦然と輝く銀ではない。明るすぎる水色でもない。一切の光を持たない、闇とも見紛う───“黒”。

「……嘘でしょ」

「……あり得ない、であります」

 その炎の中から、ヘカテーが現れる。漆黒のドレスを翻し、側頭を黒薔薇で飾った、ヘカテーが。

「……私は、この道を進みます」

 『トライゴン』が、ゆっくりと天空を差す。その命ずるままに、黒い天体が封絶の空に広がった。

「───大命の王道を───」

 黒の裁きが、降って来る。

「うあっ……!」

 人間に全ての雨粒が避けられないように、悠二達もまた、降り注ぐ流星群を避けられない。

「こ……のっ……」

 防ぐ力も、撃ち返す力も、残ってはいない。“敖の立像”との死闘に、全てを出し切ってしまっていた。

「ヘカテー! やめて!」

 撃ち落とされ、吹き飛ばされ、翻弄され、蹂躙される。

 黒い炎に鎖される視界の彼方に、悠二は確かに見た。




 ───さよなら───




 涙を浮かべて、別れを告げる───ヘカテーの姿を。

 ───時は弾け、動き出す。誰にも止め得ぬ流れを以て。
 少女の願いは闇夜に融けて、それでも止まらず己が理想を目指す。







[37979] 9-1・『残された者達』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/04/28 06:20

 幾つもの炎が入り乱れ、かつてない戦火が陽炎の異界を壊していく。
 この世に生まれた異端の徒、魔神さえも凌ぐ最強の徒が、猛然と襲い掛かって来る。

「(僕は……僕らは……)」

 連なる光、束なる力、異色の虹が怪物を貫いた。

「(勝った、のか……?)」

 絶望を乗り越えた安堵が胸を満たし───すぐさま凍り付く。

「(シャナ!)」

 紫の炎を纏った巨大な槍が、魔神の内で眠る少女を砕く。

「(何なんだ、こいつらは……!?)」

 消えゆく魔神を、三眼の女怪が嘲笑う。
 そして、

「(ヘカテー!!)」

 この世から外れてずっと、当たり前のように傍に居てくれた少女が……変わる。


 ───さよなら───


 広がる“黒”が、どこまでも深い闇の底へと少年を誘い……

「ヘカテー!!」

 己の叫び声に、坂井悠二は目を覚ました。

「……ゆ、め……?」

 真っ先に目に入ったのは、夜空でありながら泣きたくなるほど明るく綺麗な、満天の星空。

「ここは……」

 次に気付いたのが、寂れた遊園地のような懐かしい光景。忘れもしない、ヘカテーと二人でフリアグネと戦った依田デパートの屋上だった。

「あ……」

 振り返れば、他の皆も同じく無造作に転がっていた。平井が、ヴィルヘルミナが、メリヒムが、マージョリーが、カムシンが、未だ意識を取り戻さぬまま倒れていた。

「あ……ぁ……」

 動揺の極みにあっても何処かで冷静な心が気配を探る。それでも、やはり、いない。

「そん、な……」

 平井はいる。ヴィルヘルミナもいる。メリヒムも、マージョリーも、カムシンもいる。跡形も無くなっていた街は元の姿を取り戻し、焼き消された脚もある。
 だが、違う。
 見慣れた時計塔が、無い。自在法の手解きをしてくれた師がいない。艶やかな黒髪の少女が、いない。
 家族のようにいつも一緒にいた、いる事が当たり前の少女が、いない。

「ヘカテー……」

 アスファルトに落ちた一粒の水滴が、現実を突き付ける。

 いつか終わると知っていた、いつまでも続くと願い続けた優しい日々は───終わりを告げたのだと。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 何処か世の空を彷徨う『星黎殿』、常夜の異界を見渡す回廊を、二人の王が歩いていた。

「お前にしては随分と性急だったな。あの“天壌の劫火”を殺す為の仕込みが、たったの二ヶ月とは」

 一人は『将軍』、“千変”シュドナイ。

「長い間 待っていた好機だからこそ、確実に間に合わせるよう動いたんじゃないか」

 一人は『参謀』、“逆理の裁者”ベルペオル。どちらも、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の最高幹部『三柱臣(トリニティ)』に名を連ねる神の眷属である。

「大命遂行に於ける最大の懸念は奴だったからねぇ。その首を取れる千載一遇の機会となれば、多少の危険には目を瞑るさ」

 そのベルペオルが、咽を鳴らして小気味良く笑う。常ならば人も徒もフレイムヘイズも掌の上で踊らせ嘲笑う鬼謀の王が見せる、安堵と興奮の同居した笑みである。

「(ヘカテーの気紛れに感謝しないとねぇ)」

 “天壌の劫火”アラストール。
 紅世に於ける世界法則の体現者にして、神をも殺す破壊神。その神威を召喚し全てを焼き尽くす『天破壌砕』こそが、『仮装舞踏会』にとって唯一にして絶対の障害だった。
 だからこそベルペオルはその障害を事前に除く術を数百年の大戦以来探し続け……しかし、見つけられなかった。
 器たるフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』を破壊するだけなら、いくらでも手段はある。だが、それでは駄目なのだ。討ち手と契約した王は、器が壊れれば紅世に帰り、また新たな器と契約して この世に舞い戻る。ある意味これが、フレイムヘイズというシステムの最も厄介な所かも知れない。
 一応、例外も存在する。それはフレイムヘイズが破壊された直後、器たる人間と契約を越えた絆を結んだ王が、仇敵を討つ為に容れ物も無いまま強引に顕現する“自殺行為”だ。契約に縛られた王が器も無いまま顕現すると、紅世に帰る事が出来なくなる。元々の使命から人を喰って顕現を維持するという事も出来ず、そのまま立ち枯れて消滅するしかなくなるのだ。
 それでも命を捨てる覚悟で顕現する前例もいるのだが、あの天罰神に限ってそれは期待出来ないと───“思っていた”。

「(『大命詩篇』が完成する今という時節に、よもやこんな偶然が重なるとは)」

 契約した王の休眠を破る『トリガーハッピー』、天罰神の顕現にすら耐えうる偉大なる者・シャナ、その顕現をせざるを得ない程の怪物を生み出す『革正団(レボルシオン)』の計画。収集した情報の全てが、一つの可能性を導き出していた。御崎市の者らを誘導できる立場にある“協力者”がいたのも、『仮装舞踏会』にとっては幸いだった。

「これでお前も“魔神殺し”の“千変”シュドナイだ。悪くない気分だろう?」

 シナリオはこうだ。
 まず『トリガーハッピー』を持つ“狩人”フリアグネに餌をちらつかせて味方に引き入れる。そのフリアグネに御崎市の使い手の細かい情報を持たせた上で『革正団』に送り込む。その情報を武器に『革正団』は御崎市の使い手相手に優位に事を運び、計画を成し遂げ、規格外の怪物を造る。まともに戦っても勝ち目が無い怪物を前にした『炎髪灼眼』に、『トリガーハッピー』の能力を説明し、“天壌の劫火”の顕現を促す。後は怪物と怪物を潰し合わせて、存分に消耗した所で潜んでいたシュドナイが器たる少女を粉砕する。
 契約者が破壊された後に“天壌の劫火”が無謀な顕現をする事は有り得ない。だが、契約者が生きている状態で我が身を顕現させるという、普通なら考えられない選択肢ならば可能性は充分にあった。そして、器を破壊した後に魔神を顕現させるのは不可能でも、魔神を顕現させた状態で器を破壊する事は───不可能ではない。
 不確定要素も多く、心臓に悪い場面もいくつかあったが、結果的には上手くいった。“天壌の劫火”アラストールは契約に縛られた身で器も無く この世に顕現し、その圧倒的な力ゆえに瞬く間に存在を枯渇させて、紅世に帰る事も出来ずに死んだ。もはや『天破壌砕』はおろか、『炎髪灼眼』の再臨すら起こり得ない。

「笑えん冗談だな。俺は用意されたトドメを刺しただけだ。魔神殺しはお前の方だろう」

「ふふ、嘘は言っちゃいないよ。それに、お前を英雄にした方が喜ぶ連中が多いのさ」

 斯くして『仮装舞踏会』は最大の障害の排除に成功した最高の状態で、数千年の時を経た『大命』に臨む事が出来ている。
 既に『革正団』の“準備”に紛れてフレイムヘイズの足と耳は削いだ。最凶の魔神なき今、最早この形勢は何者にも覆せはしないだろう。

「それで、ヘカテーはどうしてる?」

 この、怖いほど順調な戦況を前にして、シュドナイは愛想笑いの一つも浮かべない。サングラスの奥の双眸は、常の彼からは考えられないほどに鋭く、重い。
 その理由も百も承知で、己もまた同じ気持ちを抱いていて……敢えてベルペオルは言及しない。何があっても覆らない事を わざわざ口に出しても、互いに傷口を抉る事にしかならないからだ。

「『星辰楼』で『神門』を開く場所を探ってるよ。『秘匿の聖室(クリュプタ)』の天辺を開いてるのは、その邪魔になるからだ」

「……そうか」

 一心に使命の遂行に耽る巫女の奮闘を聞いて、シュドナイは煙草の先端に紫の火を点す。深呼吸のように吐き出した煙が、夜の闇に広がって消えた。

「なら俺も、負けないように励むとしようか」

 猛虎の瞳が彼方を睨む。守るべき巫女の決意に触発されるように、その牙は次なる標的を探す。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 前年より確かな盛況を見せた御崎高校『清秋祭』が終了してから三日が過ぎた今日、

「っりゃああぁーーーっぷ!?」

 封絶に覆われた佐藤家の庭園で、思い切り突き出した右ストレートにカウンターを合わされた平井が、綺麗に宙を舞って吹っ飛んでいた。

「攻撃が馬鹿正直過ぎんのよ。いくら速くても、あんなバレバレの大振り貰う訳ないでしょ」

「やる気があんのは解ったがよぉ、ちーっとばかし力み過ぎだーなぁ」

 鼻を押さえて立ち上がる平井を見下ろして、二人で一人の『弔詞の詠み手』が酷評する。最初は面倒くさい面倒くさいと文句ばかり言っていた癖に、いざ始めるとしっかり指導してくれる辺り、意外と面倒見が良いのかも知れない。

「了解!」

 懲りずに地を蹴り、なおも平井は挑み掛かる。この異色のトレーニングは、ヘカテーが消えた翌日から毎日、朝から夕方までずっと続けられていた。

『彼女の目的が何なのか、ある程度想像はつきます』

 あの場にいた中で誰よりも冷静だったカムシンは、言った。

 “祭礼の蛇”。
 アラストールと同じ紅世に於ける世界法則の体現者にして、『造化』と『確定』を司る『創造神』。そして、ヘカテー達『仮装舞踏会』の頂点に立つ盟主だった存在。

『支配という行為に興味を持った彼は、数多のフレイムヘイズの手で数千年前に滅ぼされた。今ではそんな風に話が変わっていますが、事実は少し違います』

 ヴィルヘルミナやマージョリーにとってもお伽話と呼べるほど古い出来事だが、最古のフレイムヘイズたるカムシンは、その『神殺し』に加わった数少ない生き残りだ。

『我々は“祭礼の蛇”を討滅した訳ではありません。共振を遮断して紅世にもこの世にも行けなくした上で、両界の狭間へと放逐しただけなのです』

 『久遠の陥穽』という秘法によって神さえ無力な狭間に墜とされた“祭礼の蛇”は、二度と再び姿を現す事は無い。永遠に無力化したという意味では討滅と変わらない。
 だが、その“祭礼の蛇”の持つ炎の色こそが───“黒”だった。

『創造神の巫女が黒い炎を纏い、あんな手段で、神さえ殺す魔神を殺した。信じ難い事ではありますが、もはや間違いないでしょう』

 即ち、創造神“祭礼の蛇”の復活。さらに、その蛇神の権能を以て途轍もない“何か”をしようとしている。それこそ、天罰神が看過する筈が無いと始める前から決め付ける程の、である。

『私は早急に、全世界のフレイムヘイズにこの事を伝えます。……貴方達も、自分が良かれと思う選択をして下さい』

 必要最低限の説明だけして、またカムシンはさっさと何処かに行ってしまった。使命以外に頓着しない代わりに、他人に選択を強制しない。そんなスタンスが、今ばかりは有り難い。

「はああああぁぁーー!!」

 今のヴィルヘルミナとメリヒムには頼れない。ヘカテーはいない。シャナもいない。悠二も今は自分の事で手一杯。それでも悠長に自主練に耽る気になれなかった平井は、今までロクに話した事も無かったマージョリーに頭を下げた。

「あ、ちょっとはマシになってきた」

 復讐を遂げて気が緩んでいたのか、それとも元から女の子には甘いのか、マージョリーは平井の頼みを渋々と受け入れて今に至る。

「でも、今度は動きに懲りすぎて一発一発が軽い」

 人間の胴体より太い『トーガ』の拳が平井を一撃、ガードの上から殴り飛ばした。踏ん張った両足がガリガリと削りながら十数メートル後退する。

「あんた、真面目にやってんの? “狩人”ぶっ飛ばした時は、こんなもんじゃなかったでしょうが」

「っ……そこまで言うなら」

 呆れ混じりに言われて、これ以上なく本気で取り組んでいる平井は目の色を変えた。

「本気モード!」

 その全身から血色の炎が噴出し、重心を落とした両脚を銀の蛇鱗が覆う。まだ使い慣れていない事、訓練で使うのは危険ではないかという危惧から使用を控えていたのだが、ここは一泡吹かせたい。

「怪我しても恨まないで下さいよ!」

 気炎を巻いて平井が飛び掛かる。蛇鱗を纏った硬質の跳び蹴りが一直線にマージョリーへと繰り出され……

「ぎゃふん!?」

 両手を組んだ『トーガ』による鉄槌の一撃を受けて、地面にめり込んだ。

「ま、その“狩人”も生きてるでしょうけどね」

「そうなんですか!?」

「当然でしょ。じゃなきゃ、あんな都合よくラミーの奴が“あの銃”を持って来る筈ないじゃない」

 衝撃を受ける平井に、マージョリーは疲れた風に溜息を吐く。
 魔神の顕現と消滅は、もはや疑いようもなくベルペオルの策略だ。となれば、鍵となる拳銃型宝具を持っていたフリアグネも当然『仮装舞踏会』とグルだったと考えるべきだろう。らしくないほど穴だらけの計画だったが、流石にそこまで偶然に頼ったなどとは考え難い。

「(……あのチビジャリも、運が無かったわね)」

 『敖の立像』の力とアラストールの力が“共倒れさせるのに丁度良いほど”拮抗していたのは、ベルペオルとて確証と呼べるほど理解していた訳では無いだろう。何せ、当のサラカエルでさえ正確に把握できてはいなかった様子だった。
 加えて……あの『七星剣』。あれを魔神の顕現より先に思い付いて実行していれば、もしかしたらアラストールの顕現なしでも勝てていたかも知れない。
 一見すると狡猾な策謀に見えるが、実際はベルペオルにとっても博打に近い奇策だった筈だ。

「(そういう意味じゃ、この子の力も計算外ではあったのよね)」

 あの時の平井の力は本物だった。たとえ元々やられたフリをして離脱する予定だったにしても、フリアグネはあの瞬間、間違いなく死を覚悟しただろう。
 比べるまでもなく、こんな程度の力ではなかった。……というより、さっきまでと何一つ変わっていないような気さえする。

「……いいわ。ちょっと興味出て来たし、あんたの力を診てあげる」

「押忍!」

 乗り気になってきたマージョリーに、平井はもう何度目かという突撃を開始する。

「(強くなる。今のままじゃ全然足りない)」

 神の復活、大きな企み。フレイムヘイズにとっては看過できない異常事態なのだろうが、平井にはスケールが大きすぎてピンと来ない。シャナの仇討ち、などという柄でもない。そんな理由で強さを求めている訳では無い。

「(あたしがメアに乗っ取られなかったら、ヘカテーはいなくならなかったかも知れない)」

 平井の身体を使ったメアの侮蔑も、ヘカテーの変心と全く無関係では無いだろう。自分の弱さが大切な妹を傷つけた事実が我慢ならない。
 何より……ヘカテーは自分たちを殺さなかった。理由など、考えるまでもない。『仮装舞踏会』の目的も、創造神の偉大さも、平井の考慮の内には無いのだ。

『悠二を頼みます───“ずっと”』

 あの言葉だけが、ずっと、耳の奥に残っている。

「やぁああああーーー!!」

 想うだけでは何も変えられない。力が全ての世界で己が意志を通す為に、少女はより強く力を求める。

 そんな少女と美女から離れた場所で、

「あー……くそっ、やっぱりカッコいいなぁ」

「……カッコいいか? あの着ぐるみ」

 少年が二人、群青のリングに守られた状態で見物していた。一人はマージョリーに憧れる佐藤啓作。そしてもう一人は、これまで積極的に外れた世界に関わろうとはしなかった、池速人。

「こうして見てたって、自在法が使えるようになる訳でも無いんだけどな」

 こういう機会を得られたのは、完全に平井のおこぼれだ。マージョリーからしても夢見がちな少年に現実を突き付けても良い頃合いかと思っていたので、要望は意外なほどあっさり通った。
 何もなくとも佐藤は見学しただろう。が、池は違う。

「じゃあお前は何で来たんだよ?」

「そうだな……とりあえず、実感にはなるよ」

 池は、佐藤は、そして田中は、“シャナの事を憶えている”。千草も、吉田も、緒方も、他のクラスメイトも忘れてしまった……死したフレイムヘイズの事を。
 平井がミステスになって以来 外れた世界の事をより強く、頻繁に意識し続けていた影響か、この世の本当の姿を知覚できるようになっていたのだ。
 そして……憶えているからこそ衝撃は大きかった。憧れるだけだった非日常が、遠ざけていたかった恐怖が、最悪の形で現実になったのだ。そう……友人の死という形で。

「(まだ会ってから半年も経ってないってのに……フレイムヘイズでさえ、こんな簡単に死ぬんだ)」

 覚悟を固めて外界宿(アウトロー)を目指そうとしていた佐藤は、今まで以上の恐怖と……それとは別の感情を抱くようになった。

「(守って貰ってるから今は大丈夫。そんな風に甘えて構えてた結果が、これだ)」

 この先の日常を生きる。その安寧すら絶対ではない事に不安を感じていた池は、佐藤とは真逆の、諦観にも似た立ち位置で友人達を眺めていた事を恥じた。
 実際に何が出来るのか、という現実的な問題はともかく、二人の心境には大きな変化があったのだ。

「(魔神の消滅に、創造神の復活か……)」

 ちっぽけな少年の葛藤とは裏腹に、世界は逃れ得ぬ運命へと進み始める。意味があるから足掻くのではなく、足掻く事に意味がある。少年達がそう思えるようになるには、まだ少しだけ時間が足りなかった。

 ───暗い部屋で、一人の少年が、

「……こんな事に、何の意味があるんだろうな」

 誰にともかく、低い声で呟いた。





[37979] 9-2・『大地の四神』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/05/04 15:50

 『大地の四神』。
 古来より長きに渡って南北アメリカを守護してきた四人の強大なネイティブ・アメリカンのフレイムヘイズである。
 しかし十九世紀後半、白人による大陸侵略に対して決起した四神は、それを止めようとしたフレイムヘイズとの間に『内乱』を勃発させた。外れた存在が表舞台に介入しようとする愚行を止めようとする者、逆に四神に呼応して力を貸す者。十数年にも渡る名前を付ける事さえ憚られる闘争は、最終的には四神が矛を納める形で幕を引いた。
 フレイムヘイズの混乱に乗じた徒の放埒が、もはや看過できない域にまで達したからである。つまりは妥協と懊悩の末の決断であり、考えを改めた訳では無い。同胞の犠牲の上に発展を続ける世界を守る意欲を失くした彼らは、とある調律師の進言を受け、『外界宿(アウトロー)から動かない』という鉄の掟を自らに課した。
 のだが───

「“伊達とはいえ”神を名乗るだけはある。思った以上に楽しめたぞ」

 その四神の管理する外界宿の一つが今、見るも無惨に壊滅していた。遥か彼方から円形に広がる魔物の軍勢……は、“何もしていない”。ニューヨークの街並みを更地に変えたのは一人の神の眷属……“千変”シュドナイと、

「……この尋常ならざる悪霊の数、厄災が始まるのか。神の眷属」

 唇を最低限震わすように喋る、岩の如く頑健な男……『星河の喚び手』イーストエッジの二人である。彼こそが、『大地の四神』に名を連ねる討ち手の一人なのだった。
 しかし……その額からは鮮血が滴り、右腕は千切れ落ち、削ぎ落とされた脇腹からは肋骨が覗いている。外界宿とその周辺にいた彼以外のフレイムヘイズに至っては、とっくに絶命してしまっていた。

「昔も今も、厄災なぞ起こす気は無いんだがな。まぁ理解して貰う必要もない」

 大地の四神、と名乗ってはいるものの、彼らは“祭礼の蛇”や“天壌の劫火”のような紅世真正の神とは何の関係も無い。
 彼らは天賦の才を厳しい修行で磨き上げた古代の神官であり、彼らと契約した王を“御憑神”と称えているが故にそう呼ばれているに過ぎない。だが、神ではなくとも その実力は本物。世界中のフレイムヘイズの中でも間違いなく最強クラスの使い手である。
 そんな彼でさえ、“千変”シュドナイには届かない。

「雄々しい地の獣として」
「猛烈に駆け抜け、戦う」

 イーストエッジが、彼と契約するケツァルコアトルが、唇を震わせて歌う。

「また我ら、この日に鳥として」
「生の艱難を前に、強く羽撃く」

 その歌声に合わせて、炎に照らされた封絶内の光が凝縮、青磁色の光弾となって、美しい銀河を広げた。

「我ら住まう星の、いかに小さきかを」
「星々の世界より眺め、心に確かめる」

 一定空間の光を凝縮して破壊の力へと変える自在法『夜の問い』。

「かくして我ら、星の大空で高らかに笑い」
「恋しい大地へと、再び馳せ下りて、立つ」

 その圧倒的な青磁色の流星雨が、一斉にシュドナイへと殺到し、そして……

「ぬぅん!!」

 突き上げられた剛槍、尖塔ほどに巨大で、数十にも及ぼうかという量の刺突が、濁った紫の炎を撒いて星空を撃ち落とした。

「星空を降らす自在法。なるほど、美しい」

 これこそが自由自在に姿を変化させる“千変”シュドナイ。そして使い手に合わせて姿を変える剛槍『神鉄如意』の力。

「だが、ヘカテーの光には遠く及ばん」

 肩から背中から、あり得ない大きさと量の腕を生やすシュドナイが、咥えていた煙草を吐き捨てる。同時に全身が様々な獣の特徴を備えたデーモンへと変貌し、

「武骨な炎ですまんな」

 天空へ伸びた槍の全てが、途轍もない圧力と熱量を以て振り下ろされた。大地を揺らす程の衝撃に一拍遅れて、弾けた炎が、危うく彼方の味方まで巻き込みかねないほど膨れ上がる。溢れ返った紫に、青磁色の炎が吞まれて消えた。

 ───時を同じくして、

「う、うぅ……」

 同じく四神たる『滄波の振り手』ウェストショアの外界宿もまた、壊滅の危機に瀕していた。こちらはまだ開戦したばかり、ウェストショア以外のフレイムヘイズも“今はまだ”生きている。

「一撃」

 無数に聳えるは剣。燃え盛る炎は茜。何の前触れもなく瓦礫の上に現れたのは、外套を靡かせ硬い髪を逆立てた男。殺し屋……“壊刃”サブラク。

「そう、奴が俺の生存を知らぬままなら、初撃はこうして通るだろう。だが、その後はどうなる」

 倒れた討ち手を見下ろしながら、常のようにサブラクはブツブツと訊いてもいない言葉を並べる。

「この炎……貴方は、『鞘持たぬ剣』」

「以前のように俺の特性を逆手に取る事など、奴にとって難しくもあるまい。弱点を無防備に晒したまま再戦に臨むほど、俺も酔狂ではない」

 その瞳に悲嘆を浮かべる麗容な女……ウェストショアの言葉も、サブラクは聞いていない。彼の垂れ流す言葉は他者に向けるものではなく、どこまでも自分の所感を述べているだけなのだ。

「何より、この身体では逃げる敵を追うには向かん。秘密を知られた以上、殊更に隠す事で選択の幅を狭めるのは愚者のする事だ」

「……『波涛の先に踊る女』、どうやら説得は無意味である以上に危険なようです。速やかに屠りなさい」

 サブラクの自在法『スティグマ』は、付けた傷を時と共に拡げる力。既にウェストショアを含めたフレイムヘイズ全員が初撃で傷を受けている。長期戦になれば勝ち目は無いと判断して、ウェストショアは全身から珊瑚色の炎を噴出させた。
 立ち上る炎が近隣の海に伸び、珊瑚色に燃える海水が津波のように押し寄せて来た。水を操る自在法『セドナの舞』である。

「ならば俺も、覚悟を決める必要があろう。まずは貴様だ、『滄波の振り手』」

 茜色の怒濤が、無数の剣を踊らせて燃え上がる。

 ───この戦いの後、『大地の四神』はその半数を失い、残る二神は執拗な追撃から逃れた後、何処かへと姿を消す。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 秋から冬へと動き始める十月の御崎高校。実力テストも清秋祭も終わり、特にイベントもなく冬休みまで中途半端に長い、何とも気が抜ける時期であるという事以上に、

「おはよー、一美」

 ここ、一年二組の教室は常の活気を失っていた。ほんの五日前、清秋祭の初日の頃には、校内のどのクラスよりも盛り上がっていたというのに。

「おはよう、緒方さん」

 理由は明白、ベスト仮装賞にまで選ばれたクラスの顔が“三人”、初日の後夜祭の途中からいつの間にかいなくなってしまったからである。
 以降、清秋祭の二日目にも姿を見せず、振替休日を終えた後も一度として登校して来ていない。普段から何処か謎めいた雰囲気を見せる三人が揃って休み続けている事実は、場合によっては無責任な邪推の的にもなりそうなものだが、そうさせない者がいる。

「田中も、おはよっ」

 登校してはいるものの、明らかに他とは違う態度を見せる佐藤と田中である。別に彼らが無神経な噂を諫めたりしている訳ではない。その重苦しい、悲壮感すら漂わせる雰囲気に、誰もが不吉な結果を予感して閉口してしまっているのである。
 実際に休んでいる悠二らより、むしろ彼らの態度こそが空気の重さの原因であるとさえ言えた。実は池にも少なからず変化があるのだが、その異変に気付ける者は少ない。

「……あ? あぁ、おはよう」

 特に、田中が酷い。親でも殺されたのではないかという情緒の不安定さに、質問すら憚られる有様だった。そのあまりに露骨な様子に、

「いで!?」

 佐藤が無言で、座っている田中の脳天に肘を落とした。田中が激痛から回復して顔を上げる頃には、もう佐藤は後ろ手に手を振って自分の席に向かっている。

「(……そりゃ、見てて苛つきもするよな)」

 頭の痛みを実感として味わいながら、田中は虚しく自嘲する。佐藤も池も立場は同じなのに、こんな無様を晒しているのは田中一人だ。
 事実として、クラスメイトが考えている三人……悠二、ヘカテー、平井の三人は、“無事ではないが健在”である。だが、“他の皆が忘れている四人目”に関しては、殆ど推測されている通りの事が起きた。
 平井がミステスとなって以降、心の奥底で『この世の本当の事』に恐怖を抱いていた田中は、シャナの消滅を今度こそ正確に認識した事で心が折れてしまったのである。田中の動揺は、友人の消滅と更なる喪失への恐怖の二つによるものだった。
 無理もない。普通の学生はこんな現実を受け入れられない。……そんな言い訳を、田中は自分に使えない。何故なら、佐藤と池が懊悩しつつも前を向いているからだ。平井に至っては、元はクラスメイトだったというのに自ら戦う気満々で特訓に明け暮れていると聞く。あまりの違いに泣けもしない。

「(何でお前らは、そんな風に出来るんだよ)」

 佐藤や池に悔しさを持っていられる。それ自体が、まだ本当の意味で心が折れてはいない証なのだと、田中はまだ気づかない。

 一方で、当然、見守る者らは知らないなりに、心を痛める。

「(……もう、そろそろ、限界だよ)」

 元来 竹を割ったような性格の緒方には、何も訊かずに黙って見守るような気の遣い方は向いていない。

「(こんな田中、もう見てられない)」

 緒方真竹は選ぶ。傷付ける事を怖れるよりも、たとえ傷を剔ってでも共に傷付き、悩もうと。
 そして、もう一人。

「………………」

 吉田一美は、ただ俯いて机を見ていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 ───こんな事に、何の意味があるのか。
 ヘカテーは自分の意思で街を去った。魔神の消滅も、創造神の復活も、それがどんな意味を持つのか……本当の意味で理解してはいない。そんな小さな坂井悠二に、巫女としてのヘカテーの決断に口を挟む資格があるのか?
 解の出ない自問自答に悩みながら、とりあえずやるべき事には取り組んでしまえる自分が恐ろしくドライな感じがして、悠二は何とも嫌な気分だった。

「(田中とか、思いっきり凹んでそうだよな)」

 いっそ彼らも呼ぶべきだろうか、と少しだけ考えて、すぐに却下する。発動直後の状態次第では、男の目は少ない方が良いだろう。
 いつの間にか殴り書きのルーズリーフだらけになっていた部屋を軽く整理して、毛布を一枚持って、千草を起こさないよう物音に気をつけて窓を開ける。

「行くか」

 ベランダに一歩を踏み出すと同時、悠二の姿は変わっていた。緋色の凱甲と衣を纏い、後頭から漆黒の竜尾を伸ばした異形の姿へと。

「(もしかしたら今じゃない方が良いのかも知れないけど……何でだろうな)」

 不思議なくらい、迷いは無かった。やろうとしている事自体は間違っていないのだが、タイミングには大いに疑問が……いや、迷いが無い時点で疑問は無いのだろうか。

「(でも この先どうなるか判らないし、“前半”の事は言わない方が良いな)」

 フワリと宙に浮いた悠二は、そのまま空を泳いで一飛び、御崎大橋のA字主塔の頂に立つ。そのまま気分を落ち着けながら五分ほど待機してから、右の拳を前に伸ばし、上に向ける。
 瞑目して集中する悠二の周囲を半透明の鱗壁が取り巻き、そこから伸びる光の帯が鎧の胸へと吸い込まれ、そして───零時。

「むっ……!」

 光の帯と鱗壁が花火のように弾け、確かな手応えが悠二の全身を充たす。握り締めた拳を開くと、溢れた火の粉が銀の水晶玉へと結実した。
 “あの時ほどではない”、が、

「これだけあれば、充分だな」

 さっきの自在法も思っていたより派手になってしまった、という反省も込めて、適当な大きさの封絶で一帯を覆う。
 異変に呼ばれて、

「悠二! 完成!?」

 まずは平井が、

「ユージ? 何よアンタ、久しぶりに特訓? 引き籠もりは治ったわけ?」

 次いでマージョリーが、姿を見せた。この封絶には、彼女らを呼ぶ目的もあったのだが、肝心の二人がまだ姿を見せていない。

「引き籠もってたのは事実だけど、病気みたいに言うなよ。ちょっとやる事があっただけだ」

「あっそ。別に心配しちゃいないけどね」

「あたしもあたしも!」

「いや、ゆかりには最初に話したでしょ」

 ので、他愛ない会話を交わしながら待つこと数分、

『っ』

 とんでもない殺意の塊が、猛スピードで封絶の中に飛び込んで来た。見る間に虹色の炎が接近、悠二らの目の前に落下する。

「うわー………」

 七色の炎を不気味に揺らめかせたメリヒムが、そこに立っていた。いつもの不敵な余裕面は見る影も無く、見開かれた双眸には狂気にも似た危険な殺意が充ち満ちている。

「おい」

 やたら低くて無闇に威圧的な一言が、悠二を凄む。殆ど脅迫か恫喝かという勢いである。

「『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の徒は、どこだ?」

 知らない、と言った瞬間に斬り殺されそうなほど殺気立っている。何だか自分の狂態を再現でもされている気がして、マージョリーは居心地悪そうに顔を顰める。

「(酷ぇなオイ、自暴自棄で酒浸りじゃなかったのかよ)」

「(封絶に過剰反応したんでしょ。うわ、酒くさ)」

 そんなマージョリーとは裏腹に、悠二は溜め息一つ。『清めの炎』をメリヒムにぶつけて酔いを醒まさせる。

「今さら何かしてくる位なら、あの時とっくに全滅させてるだろ。しっかりしろよ、らしくもない」

「……何だと」

 酔いが醒めても、シャナを失った悲しみは消えない。そんな事は百も承知で、悠二はメリヒムを真っ直ぐに見る。

「僕があんたを呼んだんだ。力を貸せ、“虹の翼”メリヒム」

 得体の知れない確信の宿る眼光が、危うく揺れる瞳を射貫いた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 深夜の、暗い部屋の中。部屋の主は眠っていない。ベッドに横たわらず、椅子に座らず、壁際に背中を預けて、ヴィルヘルミナ・カルメルは虚空を眺めていた。
 彼女は食べない。彼女は眠らない。彼女は動かない。その瞳は光彩を失い、何も見てはいない。まるで……心を失った人形のようになってしまっていた。

『この人は“こんな事”じゃ絶対に挫けないし、諦めない。そんないい男に相応しい、完全無欠のフレイムヘイズを見つけてあげて。男を残して死ぬ女の……これが最後のお願い』

 彼女の瞳は今を見ない。

『だから……貴女は生きて、ヴィルヘルミナ。ヨーハンが生まれ、私が愛した……この世界で』

 彼女の瞳は過去を見ていた。

『解ってる。ヴィルヘルミナは今、自分と私を誇りに思ってる』

 失ってしまった、もう二度と戻らない、過去を。

「(私はもう、戦えない)」

 いつも、いつでも、全てを守ろうとして何も守れない。友達も、戦友も、約束も、娘も、何も……。

「(戦いたく、ない……)」

 それでもガムシャラに使命を果たす事で、使命に逃げる事で、彼女は自分を仮面で偽って前に進んで来た。
 だが、それも遂に限界らしい。ヘッドドレスに意識を宿して頭上に鎮座するティアマトーも、もはや何も言わない。既に幾度か試して、何の効果も得られなかった為である。彼女もまた、決定的な喪失を受けた一人。絶望に沈んだ他者を引っ張り上げる気力など残ってはいない。

「封絶」

 そのティアマトーが、暫くぶりに口を開いた。……が、やはりヴィルヘルミナは動かない。この街では零時前後の封絶は日常茶飯事、という事もあるが、そうでなくとも彼女が動いたかは疑わしい。
 幾つかの気配が封絶に集まって暫くして、封絶が解け、中に在ったらしい気配が近付いて来る。空虚ばかりが広がるヴィルヘルミナの心に、僅かな波紋が広がる。だがそれは決して前向きなものではない。つまりは、放っておいて欲しい気持ちである。

「いつまで待っても来ないと思ったら……立ってくれ、“万条の仕手”」

「時間要求」

 誰かが目の前に立っている。そうと気付いても、反応する気さえ起きない。こんな虚ろな顔を他者に見せるなど以前なら考えられなかったが、今は心の底からどうでもいいと感じていた。ティアマトーの擁護だけが、少しだけ有り難い。

「まったく……どけ、坂井悠二」

 聞こえてきた声、こんな時でも聞こえてしまう嫌な奴の声が届いて、僅かに残った理性が顔を俯けさせ……るより早く、抱え上げられた。
 説明する間も惜しいと言わんばかりに窓から飛び出し、そのまま屋根の上に着地するメリヒムを、悠二が、平井が、マージョリーが、ゾロゾロと追って来る。

「相変わらず無茶苦茶だな」

「さっさと始める事がこいつの為でもあるだろう。いいから始めろ」

 しつこく急かしてくるメリヒムに肩を竦めて、悠二は『グランマティカ』を展開する。どちらにしても説明は不可欠なのだが、こうしておかないとメリヒムがうるさそうだ。

「厳密に言うと、“シャナは死んだ訳じゃない”」

「不審」

 この一言に、ヴィルヘルミナの瞳が光を取り戻す。取り戻して……困惑した。“天壌の劫火”顕現の最中に行われた殺害だ。幻である筈が無い。写真からも姿は消えている。
 その困惑を肯定するように、悠二は続ける。

「シャナは死んでない。正確には、死ぬ事も出来ずに消滅した。人間を捨てて、フレイムヘイズになった時に」

「詭弁」

 途端、ヴィルヘルミナの瞳は失望に染まる。そんな言葉遊びをする為に呼び出したのかと、怒りすら湧いてくる。
 しかし勿論、悠二とてそんな悪趣味な真似をする気は無い。死なずに消滅した、という事実が重要なのだ。

「師匠……“螺旋の風琴”が、失った物を復元させようとしてるのは、知ってるよな?」

 コクりと、ヴィルヘルミナが首肯する。ティアマトーではなくヴィルヘルミナと意思疎通が成立しているという事実を確認して、悠二は左手に古めかしい巻物を顕した。

「僕の部屋に、その自在法の構築式が残してあった。師匠みたいに零から編み出すのは無理でも、再現するだけなら そう難しくない」

 揺れていた瞳が、限界まで見開かれる。希望と、失望に怯える恐怖が鬩ぎ合う。

「死という普遍的な現象は払えない。だけど“存在の力”の喪失なら、この自在法で復元できる。その為に元の型……人間だった頃のシャナを知ってる二人に協力して貰う」

 言って、悠二は膨大な数の蛇鱗を連結させる。全く同時に、自在法にイメージを投写する為の鳥籠がヴィルヘルミナとメリヒムを内に取り込んだ。

「準備は、いいな?」

 銀の水晶玉を手に、笑みさえ浮かべて訊ねる悠二に……

「当然で、あります」

 ヴィルヘルミナはハッキリと、答えた。迷いはもう、無かった。

「───起動───」

 水晶玉が砕け散り、膨大な量の存在の力が溢れ出す。それに食らい付く蛇のように、『グランマティカ』の壁から無数の自在式が這い出て、絡み合う。

「この自在法には喪失の断面を鮮明に再現する事が不可欠になる! シャナの姿を思い出せ! “フレイムヘイズになろうとしていた少女の姿を”! その昇華と喪失を!」

 視界全てを埋め尽くす程の自在式が……否、自在式を含む空間そのものが、異常なまでの力の発露に歪み始める。軋み震える空間とは対称的に、銀の自在式は極限にまで凝縮を続け、そして───

『っ……!!』

 物理的な力の余波まで撒き散らして、銀炎が爆ぜた。揺らめく銀が輝きの中で綻び、解れ、

「あ、あぁ……」

 艶やかな黒髪が流れ、白い肢体が露わになり、

「うわぁあああぁぁん!!」

 悠二が毛布を投げ渡すよりも早く、少女の華奢な身体を、ヴィルヘルミナが抱き締めていた。

「ヴィルヘル、ミナ……?」

 寝ぼけたようなシャナの声に、ヴィルヘルミナはただ何度も首を縦に振る。まともに喋れない事は、自分が誰より良く判っていたから。泣き顔を見られないように、もう二度と失わないように、力の限り抱き締める。

「っ……ッ……」

 背中を向けたメリヒムは、決して振り返らない。恐らく、今日はもう顔を合わせる事も無いだろう。小刻みに震える肩が、その理由を言葉よりも雄弁に物語っている。
 そんな三人の家族を見て、

「復活したー! マージョリーさん! シャナが復活したぁー!」

「見りゃ解るわよそんなもん! ちょっ、やめなさいってば!」

 泣き笑いの平井と、無理矢理ダンスに付き合わされているマージョリーを見て、悠二は口元を緩めて深く息を吐く。

「───やっぱり、そうだよな」

 かけがえのない今を、失った少女を取り戻した結果を見て、思う。
 ───このままでは、終われないと。





[37979] 9-3・『神の代行者』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/05/06 16:21

 ずっと、一つの道を目指して来た。その為だけに、生きてきた。

『他に道のあった筈の者を、我らは一つの道に導いた……いや、一つのみを示し、それ以外を隠し、我々の求める運命に縛り付けた……他でもない、我々の、愛で』

 それを求められていた。どれだけ大切でも、どれだけ大好きでも、皆にはそうするしかなかった。
 でも、それは自分も同じ。望まれたから、そうするんじゃない。求められても応えられない。
 悪い子だから。
 与えられても、隠されても、自分が納得しない限りは絶対に選ばない、本当に悪い子だから。

『私はずっと疑ってきたの。この世のバランスを守る為に“紅世の徒”と戦うっていう、フレイムヘイズの大義を』

 でも、迷いは消えた。これでやっと、選ぶ事が出来る。

『貴方の志に敬意を、我が身を器に顕現を』

 身の内に王を宿す使命の剣。世界を歪める異邦者を斬り捨てる調停者、フレイムヘイズ。

『共にフレイムヘイズたるの使命を、斃れる日まで果たしましょう』

 紅蓮の髪と瞳を煌めかせ、天罰神の炎を振るう者、『炎髪灼眼の討ち手』。

「(私は、フレイムヘイズになる)」

 契約が始まる。紅蓮の炎が流れ込む。人間として広がる筈だった全てを捨てて、終わらない戦いの道を踏み出した少女は……

「うわぁあああぁぁん!!」

 不意に、力いっぱい抱き締められて、目を覚ました。

「ヴィル、ヘルミナ……?」

 ここにいる筈の無い育ての親が、なぜ泣きながら自分を抱き締めているのか、少女には解らない。

「(……ここ、どこ?)」

 次いで、そもそもの“ここ”が間違っている事に気づいた。踏み出した水盤の上どころか、『天道宮』ですらない。見た事はないが、これは外界……なのだろう。
 知らない顔が……四人。背中を向けて肩を震わせている銀髪は……シロだと解る。他の顔触れもまた、どいつもこいつも人間ではない。

「(何がなんだか、解らない……)」

 変わらず弱いままの両腕で、人間の少女は育ての親を抱き返す。他にどうすればいいのか、判らなかった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 天の開いた神殿の中心、祭壇も無い円形の台座に、一人の少女が立っている。
 水色の髪、水色の瞳、小柄な体躯を飾るのは漆黒のドレスと同色の花飾り。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の奉る巫女、“頂の座”ヘカテーだ。
 身の丈を越える大杖を真っ直ぐに立てたヘカテーは、その杖に額を当てて瞑目していた。

『お前の事情は、大体掴んでるよ。隠すのが無意味な事くらい、判るだろ?』

 巫女の大杖『トライゴン』。
 大命遂行時にのみ使用を許されている この宝具は、実のところ武器ではない。創造神による『完全一式』で以て構成されているがゆえに破壊不可能な強度を誇ってはいるが、本来の用途は別に在る。

『あの徒はお前を動揺させる為にあんな事を言ったんだろうが、言葉そのものは……あながち間違っちゃいない』

 神の権能をその身に降ろし、行使する巫女の力を増幅させる、言わばアンテナのような役割を担っている。故に当然、その能力を活かせるのはヘカテーただ一人。

『あの二人は結ばれる運命にあった。それを歪め、殺して、外れさせたのは我々“紅世の徒”だ』

 本来なら、これだけで充分なのだ。神さえいれば、巫女はその力に共鳴するだけで事足りる。……だが、今、この世にも紅世にも創造神“祭礼の蛇”はいない。

『誰が悪い、なんて小さい話をしてるんじゃないよ。罪だの罰だのは、誰かさんが“生きてる内に”せいぜい考えていれば良い』

 だから、必要だったのだ。眷属として役割を果たすだけではなく、放逐された神に代わり この世で権能を振るう、全く新しい“神使”が。

『気に入らないなら変えてしまえ。不可能ならば可能にしてしまえ。それが未踏に踏み出し、遼遠を目指す我ら“仮装舞踏会”の在るべき姿だ』

 故に“祭礼の蛇”は、両界の狭間から この世のヘカテーへと、自らの権能を込めた自在式を送り続けた。その自在式の名は、『大命詩篇』。

『お前の想いを否定する気は無いよ。強制も脅迫もしない。その上で、お前自身が選ぶんだ』

 そうして数千年、気の遠くなるような積み重ねを経て……遂に全ての『大命詩篇』は完成し、起動した。今のヘカテーは只の巫女などでは無い。『造化』と『確定』を司る、もう一人の創造神である。

『自分の進むべき、道をね』

 その神の代行者が今、黒い火の粉を踊らせながら、大杖を天に掲げている。かつて秘法『久遠の陥穽』によって生じた歪み、この世の亀裂たる“最も盟主に近き場所”を探し求めて。

「(悠二)」

 少女は決して、止まらない。どれだけ傷付いても、どれだけ辛くても、

「(貴方の世界は、私が守る)」

 ───必ず叶えると心に決めた理想を、実現させる為に。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 坂井悠二が『復元』の自在法を起動する、およそ十時間前。

「や」

 御崎高校から程々に離れた運動公園にて、平井ゆかりと緒方真竹が向かい合っていた。

「それで話って? ……とかは失礼だよね」

「いや、そんな風には思わないけど……うん、思ったより元気そうで良かった」

 ここ最近の田中の異常を見るに見かねた緒方は、お節介なのは百も承知で介入しようと腹を括った。しかし勿論、無闇に田中を傷つけたくなどはない。
 あらゆる事態を覚悟した緒方が最初に採った行動は、清秋祭の間は全く繋がらず、田中らの異変に気付いてからは試す気にもなれなかった……欠席組への連絡である。三人の中で真っ先に平井に掛けたのは、単純に彼女が一番話しやすかったからだ。
 ヘカテーは、あれで傷付き易そうなイメージがある。悠二や平井に何かあったとした時、彼女を問い詰める気には とてもなれない。
 悠二は逆に、自分以外の不幸ならば、落ち込んで欠席したりはしなさそうだ。欠席組以外で様子がおかしいのは男子ばかりという事もあって、“何かがあった”最有力候補である。
 消去法、かつ芯の強そうな平井に白羽の矢が立ったというわけだ。そして結果的に電話は繋がり、こうして平井は来てくれた。

「連絡も無しで、ごめんね。こっちもちょっと大変でさ」

 罰が悪そうに笑う平井の笑顔に、緒方の方が申し訳ない気分になる。だが、同時に、水臭いとも思う。後夜祭にいなかったのは悠二、ヘカテー、平井だけ。つまり、登校して来ている三人は当事者ではなかったのではないだろうか。田中達には話して自分や吉田には話さなかったのは、やはり納得がいかない。

「何があったか、聞かせてくれる?」

 その気持ちに背中を押されて訊いてみる、と、

「ヘカテーがいなくなったの」

 まるで最初から隠してなどいなかったかのように、平井は即答した。ここに来るまでに、既に考えを整理していたのだろう。いや、そんな事よりも……

「いなくなった……て」

「言葉の通り、行き先も言わずにドロンですよ。なに考えてるか解んないけど、人の気も知らずに勝手だよね」

 肩を竦めて溜め息を吐く、努めて平然と振る舞う平井の姿に、緒方はどう反応すれば良いか判らなくなった。困惑する緒方を励ますように、平井が軽く笑う。

「ま、そんな訳で あたしも悠二も忙しくしてるのですよ。ヘカテーの実家、ちょっと凄いみたいだからね」

「…………ぁ」

 軽く笑って、当たり前のように、言った。その目の色を見て、緒方は悟る。
 平井の態度の軽さは、強がりでも現実逃避でもない。ヘカテーの失踪が、もうどうしようもない、取り返しのつかない出来事などではないと……否、させないと決めているからこそのものなのだ。

「(まるで、ドラマみたい……)」

 詳しい事情こそ知らないものの、家の都合で引っ越しを繰り返す少女を愛情一つで追い掛ける、などという行動を現実に起こす人間がいるとは思っていなかった。

「(でも)」

 嘘は言ってない……だろう。本気だという事も、判る。
 だが、何かおかしい。それが事実だったとして、それだけで田中があんな風になるだろうか? 緒方の知る田中栄太なら、「俺も一緒に行ってやる」くらいは言ってのけそうに思える。少なくとも あんな風に、周りを心配させるほど沈み込むとは思えない。
 そんな疑念が思い切り顔に出ていたのか、

「今、あたしの口から言えるのは ここまで」

 機先を制するように、平井は告げる。口調こそ静かだが、その声には反論を許さない不思議な圧力があった。
 話はここまでと言わんばかりに、平井は断りも無しに歩み始める。

「今の田中君に必要なのは理解者じゃなくて、当たり前に居る筈の人が、当たり前に居てくれる事だと思うよ」

 すれ違い様に、肩に手を置いて、囁くように平井は告げた。同い年の少女とは思えないほど深みのある一言に、緒方は数秒 思考を止められて、

「っ待って!」

 振り返り、呼び掛けた時には、既にそこには誰もいない。

「(……ああ、そっか)」

 相変わらず、肝心な事は解らないまま。だが、パズルのピースが嵌まるように、腑に落ちる。きっと、“これ”なのだと。自分とは明らかに違う種類の人間。自分には近付く事も出来ない、壁。
 この、猛烈な寂しさを伴う実感こそが、田中や佐藤が抱いてきた苦悩なのかも知れない。自分も協力する、などとは、もう言い出せなくなっていた。

「当たり前にいる筈の人、か……」

 ヘカテーがいなくなった後で言われると、重みが違う。……まだ納得は出来ないが、緒方の目的は真実を知る事ではない。田中が、そして皆が元気になれば良いのだ。

「……一美にお弁当でも習おうかな」

 自分に出来る事を探して、緒方真竹はポツリと呟いた。この翌日、田中の状態は大きく改善する。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 竹刀が鋭く風を切り、身体を沈めた少女の頭上を横薙ぎに過ぎる。間髪入れず その手首を竹刀で撥ね上げ、大きく一歩、踏み込んだ右足を軸に身体ごと回転し、ガラ空きの脇腹に膝を突き刺す。
 痛みに顔を歪めた少年が、それでも歯を食いしばって左拳を固めるが……遅い。

「ぶっ!?」

 下から伸び上がる勢いで繰り出された掌底で顎を一撃、流れるように正拳を水月に打ち込まれて膝を着いた。

「……勝っ、た?」

 一方的な勝負の結末に、勝った少女の方が目をパチクリとさせる。
 一つの目的の為に日々 己を磨き、白骨と勝負を繰り返していた少女だが……結果は全敗。そんな彼女にとって、勝利という結果自体が初めての経験だった。
 その白骨はと言えば、少し離れた場所で、今や精悍な顔つきの青年の姿で別の少女を叩きのめしている。

「はぁ~……今なら勝てるかもって、ちょっとは期待したんだけどなぁ」

 蹲っていた少年が、腹を押さえて悔しそうに立ち上がる。聞いた話の割には……意外と弱かった。

「でも実戦なら存在の力の繰りもあるから、こうはいかないよね」

「シャナはそっちの訓練もずっと続けてたんだろ? 多分、接近戦なら結果は同じだよ」

 人間レベルに身体能力を落とした上での勝負。だが、この少年はそれを言い訳にしない。ヴィルヘルミナ以外の人間の会話というのも、新鮮だった。……いや、ヴィルヘルミナも彼らも、正確には人間ではないのだが。

「(シャナ、か)」

 本当に、少女にとっては何もかもが唐突だった。
 これからフレイムヘイズとしての道を進もうと一歩目を踏み出した……筈なのに、気付けば数年後。それも、人間のままで。もちろん、それは人間としての自分の感覚であり、真実が違うという事は理解している。
 『炎髪灼眼の討ち手』の誕生、契約直後の『天目一個』とシロ……“虹の翼”メリヒムとの死闘、ヴィルヘルミナとの別れ、今や記録すら残っていない数年の旅路、ミステス坂井悠二との邂逅と、メリヒムやヴィルヘルミナとの再会、御崎市での戦いの日々と……敗北。それらの変化の象徴として厳然とあるのが、この少年に貰ったらしい『シャナ』という名前だった。
 とりわけ衝撃だったのは……アラストールの死だ。

『……それは、無理だよ』

 自分を復活させたという坂井悠二に、当然、訊いてはみた。同じように、アラストールを蘇らせる事は出来ないのかと。だが、結果は否。

『存在を失ってフレイムヘイズになったシャナと違って、“天壌の劫火”は在るべき自分の姿のまま、死んだ。この自在法は、死を覆す事は出来ないんだ』

 アラストールは、もういない。『炎髪灼眼の討ち手』も、二度と現れない。この……“いつの間にかそうなっていた”現実に対して、シャナはまだ実感が湧かない。実感が湧かないまま、新しい日常に放り込まれていた。

「(これは……何の為の時間なんだろ)」

 三眼の鬼謀、巫女の敵対、次々と落ちる拠点。遠からず、未曾有の大戦が起こるだろう事は聞いた。現にヴィルヘルミナはシャナの世話を他者に預けざるを得ないほど忙しくしている。ミステス二人も、昼夜問わず訓練に明け暮れている。

「(アラストールは、いないのに)」

 自分を置いてきぼりにした時の流れが、掴んでおく事が出来なかった過去が、真綿で締め付けるように少女を蝕んでいた。





[37979] 9-4・『それでも私は』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/05/10 20:15

 少女の朝は、格闘訓練から始まる。

「はっ!」

 育ての親の一人たる銀髪の青年との勝負。以前は不意打ちが当たり前、四六時中いつ襲って来るか判らない骸骨を警戒していたシャナにとって、この程度は全く苦にはならない。……ただし、相変わらず勝てもしないが。

「(シロは、どう思ってるんだろ)」

 以前の……フレイムヘイズになる前からの習慣だ。今さら不満など無い……いや、何もかも変わってしまった現在に於いて、変わらず続くものがある事には僅かな安堵すら覚える。だが……それはあくまで自分にとっての話でしかない事もシャナには解っていた。

「(私はもう、『炎髪灼眼』にはなれない)」

 元々この鍛錬は、『炎髪灼眼の討ち手』となる人間を鍛える為に行われていたものだ。アラストールが死んだ今、メリヒムがどういうつもりで稽古相手を勤めてくれているのか、シャナには察する事が出来ないし、訊けない。

「(悠二達の、ついでなのかな)」

 殆ど初めて、少女は自分の進むべき道を見失っていた。これまではずっと、『炎髪灼眼の討ち手』となるべく己を磨いてきた。疑う事はあっても、決して立ち止まる事は無かった。納得出来なければ選べない、とは考えたが、拒んだ場合に進む道を考えた事は無かった。……正確には、他の道を知らなかった。
 何より、主観では、迷いを払って覚悟を決めてアラストールと契約した瞬間の出来事なのだ。情けない話だが、今は喪失感ばかりが胸中を占めている。

「ぼーっとするな」

「うあっ!」

 そんな集中力の不足を見抜かれ、メリヒムの竹刀がシャナの脳天を打つ。全く同時、

「見切ったぁ-!」

 バチィイン!! と派手な音が響いた。見れば、平井ゆかりが竹刀を逆袈裟に振り切った姿で一時停止している。僅かに遅れて、宙を舞っていた坂井悠二がグシャリと地面に落ちた。

「ふっふっふっ、思い知ったか。『吸血鬼(ブルートザオガー)』使えば勝率は更に上がるゼ」

「……言っとくけど、僕だってまだ『莫夜凱』使ってないからね」

 鞘も無いのに竹刀を腰に納める仕草をする平井に、悠二が倒れたまま負け惜しみを言っている。そのやり取りが何だかんだ楽しそうで、見ていたシャナもクスリと笑う。その険の無い笑顔に少し驚きつつ、悠二は仰向けに空を見上げたまま腕を組む。

「(契約前のシャナどころか、ゆかりにまで勝てなくなってきた)」

 実際、人間にもこういう事は普通にあるのだ。中学三年間部活に打ち込んできた者が、高校から始めたばかりの運動神経抜群の者にあっさりレギュラーの座を奪われるような、理不尽なまでのセンスの差。自在法なら悠二の方が得意なのだが、この先の事を考えると『接近戦に持ち込まれたら負ける』などという“必敗パターン”があっては話にならない。

「体術、苦手なの?」

 悩む……というより頭を捻る悠二の頭上にして眼前に、シャナが躊躇いもなく顔を出す。長い黒髪が、目の前で揺れている。

「(多分、これが素なんだろうな)」

 今のシャナは、悠二や平井に対して殆ど隔意を感じさせない。何度も一緒に戦ってきた事。メリヒムの存在を繋ぎ止めている事。シャナを復元させた事。それらをヴィルヘルミナから、シャナならば判る程度には好意的に語られた、というのも大きいのだろうが、悠二は何となく思う。
 フレイムヘイズだった時から、根は素直な良い子だった。あの自他に厳しく少し高圧的な態度は、おそらく討ち手になってから意識的に身に付けたものだったのだろう。
 誰より強く、誰にも縋らず、余分は排して使命にのみ生きる。そう己を戒め続けて来た結果が、あの姿だったのではないだろうか。

「短所は長所で補うさ。実はアイディアも無い訳じゃないんだ」

「どんなの?」

「今は内緒。夜になったら試してみるから、その時にね」

 出会いが違っていれば もう少しマシな関係になれるのでは、と思っていた時期を思い出して、悠二は小さく苦笑する。
 そんな悠二を見て、シャナは不思議そうに首を傾げた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「いい匂いがする」

「ほらシャナちゃん、動かないの」

 風呂上がりの濡れた黒髪に、坂井千草がドライヤーで風を送る。『天道宮』では『清めの炎』で済ませていた行為だが、温かな湯で汚れを流す感覚は気持ち良く、身体に残る石鹸やシャンプーの匂いも悪くない。フレイムヘイズだった時に経験した感嘆を、シャナは今また新鮮な気持ちで抱いていた。

「相変わらず見事だな。有り難い限りだ」

「そりゃどうも」

 坂井千草は、いつもと変わらない。
 ヘカテーが消えた あの日から、学校にも行かず部屋に籠もっていた悠二に対しても何も言わなかった。こうしていきなり“見知らぬ美少女”を連れて来ても、何も訊かずに誇り高い母としてそこにある。ヘカテーがいなくなった、只その事実を伝えられただけで。

「(……本当、有り難い)」

 メリヒムの率直な感想を、心の中だけで悠二もなぞる。悠二らの抱える非常識な事情など欠片も知らない筈なのに、間違いなく坂井千草は坂井悠二の理解者だった。
 一方で、シャナは少し戸惑う。

「………………」

 千草に乾かしてもらった髪を平井にツーサイドアップにされつつ、テーブルの上の朝食を見つめる。

「(温かい)」

 今ここにあるものを在るがままに感じて、しかしそこに自分という異物がある事を素直に受け入れられない。
 人間を捨ててフレイムヘイズになり、フレイムヘイズを失って人間として甦った自分が、何故ここにいて、何をしたいのか。そんな自問が頭から離れない。

「………………」

 手を合わせて、いただきますを言って、ヴィルヘルミナの用意する物よりも美味しいご飯を食べる。
 自分の知らなかった、それでも確かに人としての暮らしは、朝食だけに止まらない。

「よしっ、次はあっちのお店 行ってみよ!」

 平井ゆかりに引っ張り回され、何とも動きにくそうな物も含めた様々な服を着せられ、

「メロン果汁入りのメロンパンは邪道、だったっけ?」

「うん、邪道」

 午後を回ると、“本物のメロンパン”なる物を御馳走されて新たな境地に至り、

「今、入ったのに……」

「そっちのラインはダブルス用。シングルスの範囲はこっちの線までなの」

 午後になったらテニスなるスポーツを実践。不慣れゆえの連敗を喫し、悔しいからと勝つまで続けていたら、あっという間に日が暮れ始めていた。

「(一日がこんなに早く終わるの、初めて)」

 そして今、生涯三度目の夕焼けの美しさを目に焼き付けながら、シャナは真南川の河川敷をスキップしている。その後ろを、悠二が薄く苦笑しながら続いていた。
 平井は、いない。“悠二とシャナは遅くなる”という旨を千草に伝える為に、一足先に坂井家に帰ったのだ。

「どうだった? 今日」

「楽しかった」

 目を細めて訊ねる悠二に、花が咲くような笑顔を見せてシャナは答える。無邪気に今を謳歌する人間の少女の姿を見て、悠二は僅かに躊躇する。躊躇して……すぐに、その侮辱に近い感慨を振り払う。

「こんなもんじゃないよ。人間にはもっともっと楽しい事があるし、嬉しい事も、寂しい事も、虚しい事も、沢山ある」

 たかだか十六年生きてきただけの坂井悠二は、自分の見知に余る人間の可能性の大きさを、それでも少女に伝える。
 明らかに空気が変わったと気付いたシャナが、真剣な顔で振り返った。

「シャナは、フレイムヘイズになる為に育てられた。“天壌の劫火”も、『万条の仕手』も、“夢幻の冠帯”も、君が別の道に惹かれないよう、一つの道のみを示した」

 今さらの確認、とっくに判っていた事実を突き付けられて、シャナは固く頷く。仲間だろうと恩人だろうと、アラストールやヴィルヘルミナの事をとやかく言われたくない。

「僕は、そういうやり方はしない。あの人達みたいに確実にシャナをフレイムヘイズにしたい訳でもないし、選ぶなら全部を知った上で選ぶ方が正しいと思うから」

 だが悠二は、同情も義憤もしてはいなかった。他の相手ならともかく、シャナには、しない。

「だから“こっち”も、見せたいと思う」

 スッと伸ばした指先に、蛍火のような淡い銀炎が点った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 夕日の差し込む虹野邸の一室に、種々雑多な書類が堆く積まれている。それら全てが外界宿(アウトロー)から送られてきた郵便物である……が、その殆どが役に立たない情報や苦情、そして応じる気も無い出頭要請。
 その全てに一応 目を通したヴィルヘルミナ・カルメルは、薄い溜め息と共に眉根を微かに寄せた。御崎市で起きた出来事を告げる為にカムシンが旅立った筈なのに未だにこれとは、呆れるほど出足が鈍い。

「不意の強襲でどこもかしこも混乱状態。“天壌の劫火”を討つ前に、打てる手は打っていたという事でありますな」

 数少ない例外は、『輝爍の撒き手』レベッカ・リードからの手紙。殆どの者が正体すら掴めず、ヴィルヘルミナでさえ『革正団(レボルシオン)』の仕業と考えていた外界宿襲撃の実態に、彼女だけは疑念を持っていた。その真実が『革正団』の犯行に隠れた『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の仕業だと掴んだ……が、一歩 遅かった。
 数の優位も完璧な布陣も問答無用で焼き尽くす最強の魔神、おそらくベルペオルが唯一 恐れていた“天壌の劫火”アラストールは、もういない。

「いつまで そんな紙の山と睨み合っている。どうせ数では勝負にならんぞ。あの大戦の時点で奴らは相当な兵力を備えていた。逆にフレイムヘイズは、封絶の普及で“生産率”が落ちたんだろう?」

 そんなヴィルヘルミナを横目に眺めて、長椅子に寝転がったメリヒムが興味なさそうに口を挟む。危機感の欠片も無い無責任な発言だが、内容そのものは的外れでもない。

「そんな事より、シャナを坂井悠二に預けたままで良いのか? あいつはフレイムヘイズの味方って訳でもないだろう」

「………………」

 『そんな事』呼ばわりは敢えて流して、ヴィルヘルミナは返す言葉を模索する。シャナは、可愛い娘だ。こんな情勢下であっても、最優先したくなるほどに。

「……あの子にどう接すれば良いのか、判らなくなったのであります」

「大義喪失」

 だが、ヴィルヘルミナはその愛情以上に、先に逝った戦友との誓いを果たす為にシャナと接していた。
 即ち、天罰神と契約するに相応しい完全無欠のフレイムヘイズとする為に。しかし……肝心要のアラストールが死んだ今、そんな手前勝手な信念を少女に押し付ける意味は無い。さりとて今更どんな態度を取れば良いかも判らず、苦し紛れに書類と向き合っている。
 つまり、彼女をそう育てた親の一人として、使命に忠実なフレイムヘイズとしての姿を見せんと努めているのだった。

「良いも悪いもあるか。好きに接すればいいだろう。相変わらず不器用な奴だ」

 まるで他人事のように馬鹿にしてくる嫌な奴に、ムッとなったヴィルヘルミナは身体ごと振り返る。

「そういう貴方は、どうなのでありますか」

 メリヒムとて、ヴィルヘルミナと立場は変わらない。『炎髪灼眼』の後継者を可能な限り鍛える事こそがメリヒムの誓い。よもや“可能ではなくなったから”と容易く放り出せる訳が無い……という確信に反して、

「そうだな……『俺はもう、新しい時を生きている』、とでも返せば良いのか?」

 嫌味たらしく、メリヒムは言い切った。無表情が常のヴィルヘルミナの両目が、見て判る程に見開かれる。
 信じられない。どこまでも一直線に彼女を……マティルダ・サントメールを想い続け、その誓いを果たす為だけに生き延びてきたと断言した男とは思えない。
 この変化を、ヴィルヘルミナは知らない。他でもない、その誓いの果ての戦いを見ていない彼女には解る筈もなかった。当のシャナも記憶を失ってしまったが、メリヒムの胸には確かに残っている。

「それに……今はあいつに任せてみるのも面白いと思ってな」

 呆気に取られるヴィルヘルミナに、メリヒムは一方的に続ける。

「今のシャナは、使命も期待も持たない真っ白な状態だ。家族、徒、フレイムヘイズ……俺達の言葉は余計な偏りに繋がりかねないが、あいつらは違う」

 口の端を薄く歪めて、メリヒムはヴィルヘルミナに笑い掛ける。
 その姿は、娘の行く末に思いを馳せる父親そのものだった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 額に点った火が、消える。それに僅か遅れて、シャナは閉じていた眼を開いた。もうすっかり夜になっている。いつの間にか肩に掛けられていた茶色のジャケットが、夜の外気を遮ってくれていた。

「どうだった?」

 こちらもいつの間にか薄着になっている坂井悠二が、真剣な顔で訊いてくる。

『シャナの記憶は戻せない。だけど、僕の記憶を映像として見せるのは簡単なんだ。“弔詞の詠み手”の過去を視た時の逆ってだけだからね』

 とは、彼の弁。
 口頭では伝えきれない映像や細かい会話まで、失った過去の一部を鮮明に見せつけられたシャナは、

「……うん」

 何だか気恥ずかしくなって、曖昧に答えて顔を背けた。
 目指し続けた『炎髪灼眼の討ち手』の姿には、僅かな安堵と強烈な喪失感を覚えた……のだが、それは戦闘中の限定的な場面の話。数年の旅による変化なのか、それとも坂井悠二の視点で見たせいなのか……些細な事で悠二に突っ掛かる『炎髪灼眼の討ち手』の姿は、今のシャナから見ても非常に子供っぽい。
 ……というより、悠二の視点から見たシャナにも、なぜ“彼女”がああも悠二を目の敵にしていたのか理解できない。自分の態度というのは、存外に読み取り辛いものだったらしい。
 しかし、“悠二から見てどんな風に見えていたか”は、余す所なく伝わった。

「コホン」

 わざとらしく咳払いして、自分の過去ばかりが気になってしまう頭を切り替える。切り替えて、真っ直ぐに悠二を見つめる。

「どうして私に、これを見せようと思ったの?」

 全部を知った上で選ぶ事が正しい。その考えはさっき訊いたが、「なぜ自分にここまでするのか」という気持ちが拭えない。……もう、アラストールはいないのに。

「僕は、さ」

 そんなシャナの“弱気”までも正確に読み取って、悠二は真南川へと視線を移し、シャナも倣う。やってみると、なるほど、向かい合うより話しやすい感じがした。

「シャナの生き方に、憧れてた」

「っ」

 澄んだ声で言われて、心臓がドキリと跳ねる。軽い響きなど欠片も無い本音に、思わず横顔を盗み見ると……眩しいものを見るように目を細めていた。

「この世の真実を知っても、『万条の仕手』達に求められても、自分の意思だけで生き方を決める君の姿が、僕には眩しかったんだ」

 どこまでも真剣で、どこまでも隠さない。慣れない賛辞に顔を赤くしてしまう自分の方が、不謹慎だと思える程に。

「だから、気付いてた。たとえ人間を取り戻しても、“天壌の劫火”を失っても、“それでも君は、何度だってこの道を選ぶ”って」

 ───いつかの言葉が、

『私は、それでも、自分で選ぶの、この道を』

 別の口から、紡がれる。
 より開けた世界で、より先の見えない、今という時に。

「(この人は、私を……)」

 理解して、くれている。或いは、ヴィルヘルミナやメリヒム以上に。その事が、何故か仄かな熱さを生んだ。今まで感じていた温かさとは違う、内側から勝手に身体を衝き動かしてくるような、初めての熱さを。

「だから、見せたいと思ったんだ」

「っ!?」

 いつしか釘付けになっていた横顔がこちらを向いた事で、シャナは慌てて川を向いた。見つめていた、という何でもない事実を、何故だか知られたくなかった。

「これからも君が守る世界を、ほんの一部だけでも」

 それだけ言って、悠二は黙って星空を見上げた。次の言葉が来ない事を訝しむシャナは、たっぷり十秒ほど経った後に、さっきまでの言葉が自分の質問に対する答えである事を、まったく今さら思い出した。
 何か返さなければと必要以上に慌てて、柄にも無く悠二の顔色を窺って……落ち着いたままの少年の姿に引かれるように平静を取り戻す。

「私は……本当は、ずっと疑って来たの。世界のバランスの為に紅世の徒を討つっていう、フレイムヘイズの大義を」

 落ち着きを取り戻して、熱さはそのまま、彼の本音に、自分も本音で応える。

「“あの時”、初めて紅世の徒を見て、その違和感を肌に感じて、『あれはこの世を歪める存在だ』って確信した。その瞬間に迷いは消えた……筈だった」

 あの時の本音と、そして……今の本音を。

「だけど今、貴方の記憶を見て、また判らなくなった。紅世の徒にも色んな奴がいて、色んな想いを抱えて生きてる」

 確かに感じた、偽らざる本音。だが、その最後には必ず“それでも”が付く。

「それでも私は、この道を選ぶ。アラストールがいなくても、色んな徒がいても、世界のバランスを守るフレイムヘイズの使命は、間違っていないと思うから」

「っ……く」

 フレイムヘイズを失った人間の少女。その変わらず誇り高い宣言に、悠二は笑声すらも忘れた。やはり、シャナはこうでなければと。

「………………」

 シャナもまた、言葉にする事で確かな形となった己が信念を自覚して、抑えようもなく笑っていた。

「悠二」

「うん」

 複雑怪奇な火線が河川敷に広がり、銀炎の踊る封絶が世界から二人を隔絶する。のみならず、悠二が変貌を遂げていた。緋色の凱甲と衣を鎧い、後頭から竜尾を伸ばした異形異装へと。

「礼装って訳じゃないけど、フレイムヘイズの門出にあの格好はないかなって」

 訊いてもいない理由を話して、悠二は鼻の頭を掻く。
 封絶が普及して以降、徒に大切なモノを奪われた事に“憎しみを抱く事が出来る者”さえ激減した。近代のフレイムヘイズは、フレイムヘイズや外界宿と関わりを持った人間が適正を高め、自発的に王と契約してフレイムヘイズとなるのだ。シャナならば、復讐心など無くとも その意志一つで王を喚べるだろう。
 しかし……

「悠二、私の大太刀、持ってる?」

 シャナは、悠二の予期せぬ事を言い出した。元々シャナの物なのだからと、悠二は深く考えもせず大太刀を出す。
 銀の炎が揺らめいて、一振りの刃が地に突き刺さった。
 どこまでも優美な反りを持つ、細くも分厚い刀身。切っ先は刃の広い大帽子。どんな材料を使ったのか、刀身の皮鉄と刃の刃鉄は刃紋も見えない程に溶け合う銀色。刃渡りに比して異常に短い柄。一個の芸術品とすら映る神通無比の大太刀、『贄殿遮那』。
 討ち手となってからずっと一緒に戦ってきた戦友を、シャナは手に……取らない。

「シャナ?」

「貴方は……私がフレイムヘイズじゃなくなっても、無力な人間になっても、私の意思を理解してくれた」

 強く、穏やかに、シャナは頰笑む。

「おかげで、気付いた。私が私の道を進むのに、“フレイムヘイズである必要なんて無い”って。必要なのは私の意思と、それを実現できる力」

 ゾクリと、悠二の背筋を寒気が撫でる。この少女は……

「自分が何物かなんて関係ない。ただ、やる。絶対にやる」

 悠二の憧れに、見事に応えただけではない。それを容易く、越えてきた。

「それに、貴方の記憶を見て思ったの。アラストール以外で私と一体になって戦うとしたら、お前しかいないって」

 言葉の最初は悠二に、終わりは……『贄殿遮那』に向けられていた。
 そう、彼女はこう言っている。フレイムヘイズではなく、“ミステスになる”と。

「解ってない……訳ないよな。ミステスはフレイムヘイズとは違う。僕みたいな例外を除けば、失った力は回復しないんだぞ」

「解ってる。でも、構わない」

 『零時迷子』の無いミステスは、徒と大して変わらない。フレイムヘイズのように力は回復せず、人を喰わねば存在を保てない。普通なら自殺としか思えない選択を、それでも少女は不敵に笑って選ぶ。

「どうせ死ぬまで戦い続ける運命なら、討滅した徒を喰らって戦い続けるだけよ」

「っ……!」

 フレイムヘイズすら生温いと思える凄絶な選択に、悠二は今度こそ絶句した。……『仮装舞踏会』は、標的を誤ったのではないだろうか、この少女こそ、天罰神すら凌駕する怪物なのではないだろうか。そんな風にさえ思えてしまう。

「く……くくっ、ははは……! 君は本当に、まったく、ははは!!」

 圧倒されて、痛快に笑って、だからこそ躊躇など微塵もなく、悠二は大太刀を引き抜いた。

「誰でもない君の選択だ。責任を取るなんて言わない。だけど、君が燃え尽きそうになったら、必ず僕が繋いでみせる」

「うん!」

 もはや、言葉は要らない。腰溜めに構えた悠二の大太刀が、僅かな迷いすら見せずに少女の身体を貫いた。

「(燃える……私の全てが、過去に未来に広がり続けていた、私の運命が)」

 膨大な炎が巨大な柱となって天を衝く。少女を失った世界の穴に、それに見合うだけの力が流れ込み、埋めていく。

「(私は、刀)」

 胸を貫く凶悪な刃が、己と溶け合う感覚があった。

「(折れず、曲がらず、道阻むモノを斬り裂く、一振りの大太刀)」

 かつて、己が存在全てを 懸けて この大太刀を打った刀匠がいた。
 かつて、己が使い手を求めて世界を彷徨った鎧武者がいた。
 その残留思念のような炎の鼓動に、少女は応える。

「一緒に行こう、お前も」

 剣と一体になって戦う。或いは剣士の究極型とも呼べる解によって、彼らの剣の主となる。

「っああああああぁぁーーー!!」

 咆哮と共に、火柱が爆ぜる。風のように たゆたう炎を払って、一人の少女が姿を見せる。
 その身は黒衣を纏わない。その髪は紅蓮に煌めかない。その双眸の左にだけ、幾度となく炎を注がれてきた名残を受けて、灼眼が光っていた。

「ようこそ、誇り高く偉大な、何者でもない女の子」

 冗談めかして、悠二が笑う。“こんな事”、彼女の覚悟の前では笑い話にしかならない。
 だから少女もまた、冗談めかして笑う。

「強者よ」

 かつて剣を元に名を貰った少女は、今また剣と共に歩み始めた。剣そのものとなった少女は、その名を世界に轟かせる。

 その銘───『贄殿』のシャナ。





[37979] 9-5・『震威の結い手』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/05/21 10:22

 黒い斬撃が、激しい嵐となって絶え間なく襲って来る。その一つ一つが常識外れに重い剛撃。太刀筋が見えていても、下手に受ければ防御ごと潰されかねない。

「(凄い! これが……)」

 剣技そのものが向上した訳ではない。だが剣速が段違いに上がったせいで、隙を見つけても迂闊に攻められない。

「(これが、外れた世界の戦い!)」

 眼前の少年・坂井悠二の手に握られているのは、一振りの直刀。彼の記憶に見た物とは異なる、蛇鱗に被われた銀の柄と、刃も峰も真っ黒な黒刀。その刀身には、複雑怪奇な銀の自在式が灯っていた。
 彼が“創った”新たな武器であり、銘は『草薙』。能力自体は自在式による『強化』と『加速』を、存在の力を込めるだけで発動できるというシンプルなものだが、元々の怪力と相まって恐ろしい威力になっている。
 明らかな劣勢に立たされて、

「(でも、見える!)」

 それでも少女は、堪えきれないように笑っていた。目指し続けた戦場に立ち、その場所で通用する自分自身が堪らなく誇らしい。

「初めて会った時、シャナはいきなり襲い掛かって来たんだ」

 上段から振り下ろされる刃を躱す。更に踏み込んで横薙ぎに払われる一撃から、バックステップで逃げて……すかさず伸びて来た竜尾に弾き飛ばされた。

「強い相手を宛がいたかったってメリヒムの悪巧みでさ。僕らにとっては迷惑な話だったけど、アイディアそのものは悪くなかったって、今ならそう思うよ」

 宙を舞う小柄な身体を銀炎が捉え、しかしすり抜ける。『贄殿』のミステスとなった今のシャナは気配を持たず、そして自在法の干渉を受けないのだ。

「シャナ、君は強すぎたんだ。それこそ、並の王なら剣一本で倒せてしまう程に」

 この現象に僅か目を見開いた悠二は、しかし大太刀の性質から今のシャナの体質を察して、即座に炎弾を遠隔操作、封絶で止まった虹野邸に着弾させた。

「今の君を見て確信した。自分と同等以上の相手と戦わないと、限界なんて超えられない」

 爆砕された屋敷の破片、それら全てがジェット噴射のように銀炎を噴いてシャナへと飛んで行く。いくら自在法が効かなくても、形質強化された瓦礫までは防げない。
 身動きが取れない中空で、自分の体躯など優に上回る弾岩に曝されて、

「はああああぁぁーーーっ!!」

 シャナはそれらを、次から次に両断していく。タイミングのズレる着地のタイミングを狙われても、問題なく切り払う。
 そんなシャナの至近に、

「───だから、僕が教える」

 いつの間にか、悠二が踏み込んでいた。『草薙』の能力と『グランマティカ』の併用による、瞬間移動としか思えない神速で。

「ッ──────」

 黒刃一閃、悠二の直刀がシャナを弾き飛ばす。間一髪 『贄殿』で刃を受けたシャナは、しかし止める事は適わず、地にも着かず空にも上がらず、一直線に飛ばされて敷地の壁をブチ破った。

「今の限界を超えなきゃ勝てない程の、力を」

 もはや鍛錬の域など軽く超えている。なおも悠二は構えを解かず、黒刀の切っ先を巻き上がる粉塵へと向けた。
 ───直後、紅蓮が爆ぜる。額から流血したシャナが、足裏に爆発を起こした超速の弾丸となって飛んで来たのだ。とんでもない加速をつけて身体ごと叩きつける、シャナ渾身の一撃を、

「“よし”」

 悠二はその場に踏み止まり、肉体と剣の力のみで受け止めた。噛み合う刃の向こうに、悠二とシャナは互いの顔を見る。

「私は誰よりも強くなる。『炎髪灼眼の討ち手』よりも強くなる……!」

「知ってるよ。だからこうして協力してるんだ」

 交わす刃の下で、顔に血さえも流して、二人は楽しそうに笑っている。
 この……壮絶なのに愉快な、傍から見ていると理解不能な“模擬戦もどき”を、

「……何あれ、ボコボコにやられて笑ってるわよ」

「悠二が本気で相手してくれてるのが嬉しいんですよ」

「理解不能。って言うか、あんたよくそんなの解るわね」

 マージョリーと平井が、

「……ミステスになった事よりも、こちらの方が事件であります」

「破壊推奨」

「記憶を失ったならと思ったが……結局こうなるのか」

 ヴィルヘルミナとメリヒムが、離れた所から眺めている。
 シャナがミステスとなった事は主にヴィルヘルミナに凄まじい衝撃を与えはしたのだが、大して騒ぎにはならなかった。無論、シャナの異変に気付いたヴィルヘルミナは真っ先に悠二に詰め寄ったのだが、

『これはシャナが選んだ道だ。文句なら受け付けるけど、それは彼女の覚悟に対する侮辱だよ』

 と、胸を張って告げられた上、

『うん』

 シャナがそれを淀みなく肯定した事で、いとも簡単に黙らされてしまった。
 そもそもシャナをフレイムヘイズにしようと育てていた手前、ヴィルヘルミナには娘の未来を案じる類の感情論は口にし辛い。
 逆に、メリヒムはシャナが再び戦う事を予期していたのか、予想以上の壮絶な覚悟を聞いて悠二同様に大笑いしていた。
 ただ、シャナが妙に……いや、明らかに悠二を信頼している様子が、実に奇妙に映っている。
 ……もっとも、別に奇妙になど感じていない者もいた。

「(う~ん、妬ける)」

 触角をピンと伸ばした平井ゆかりが、率直に思う。
 シャナが悠二を信頼しているのは、特異に過ぎる彼女の覚悟と生き様を受け止め、応えてくれたからだ。悠二がシャナをミステスにした、という事実だけで、平井はそれを確信できる。
 そして悠二がシャナ相手に全く容赦しないのは、彼女の強さに絶対の信頼を置いているからだ。むしろ、今という状況で半端な課題を与える事を侮辱とすら考えている。
 互いが互いを信頼しているからこそ、あの二人は刃を交えながら笑い合う事が出来るのだ。

「(あたしじゃ、あれは無理だよね)」

 悠二にとって平井ゆかりという少女は、『守るべき存在』という側面が強い。あんな対応は、頼んだってしてはくれないだろう。それに……求められている強さもまるで違う。
 実のところ、シャナは今のままでも十分強い。人間だった時から体術を磨き、存在の力の繰り方も学んできた。自在法への対応は完全なド素人だが、そもそも今のシャナには殆ど自在法が効かない。もしかしたら、今の時点で既に『炎髪灼眼のシャナ』よりも恐ろしい使い手かも知れない。
 しかし悠二は、そこで満足しない。“最も強くなる可能性が高い人物”として、シャナを自ら鍛えている。
 この期待値の違いが、平井は面白くない。相手が悪いと判ってはいても、こればかりは妥協したくない。……次の戦いだけは、なおさら。

「マージョリーさん! あたし達もあれ、やりましょう!」

「はぁ~……言うと思った。物好きの相手も楽じゃないわ」

「ん~なこと言いつつ付き合ってやるオメーも物好きだと思うけどなぁ、我が律儀なブッ!?」

 やる気を炎に変えて物理的に燃える平井に、呆れながらマージョリーが『トーガ』を纏った。
 ───その時、

『っ!?』

 封絶の中にいる全員が、不意の存在感に上空を見上げた。陽炎の壁、その天頂部を潜って、存在感の塊が降って来る。徒ではなく……フレイムヘイズだ。

「やっぱり来たか」

「敵!?」

「………………」

 悠二の掌上に『グランマティカ』が浮かぶ、平井の大剣に波紋が揺れる、シャナの灼眼が輝きを増す。
 対称的に、

「これは……」

「ほう」

「あれま、引っ張り出されちゃったわけね」

 ヴィルヘルミナ、メリヒム、マージョリーの三人は臨戦態勢に入らない。マージョリーに至っては、纏ったばかりの『トーガ』を解除までしていた。

「久しぶり、そしてはじめましてですね」

 穏和な顔で挨拶してくる、四十過ぎの修道女。悠二の知る限り初めての、愛想が良いフレイムヘイズである。
 勿論、それだけで警戒を解く理由にはならないが、ヴィルヘルミナらの反応が気に掛かる。

「知り合いか?」

「『震威の結い手』ゾフィー・サバリッシュ。心配しなくても、私の十倍 人の話を聞く奴よ」

 それは謙遜し過ぎなのでは、と最近のマージョリーのコーチっぷりを思い出す悠二。しかしまぁ、確かにこの面子に正面から挑むような化け物にも愚か者にも見えない。

「貴方が坂井悠二、そして貴女が平井ゆかりね。……話には聞いていたけど、本当に“虹の翼”まで」

 人の良いおばさんそのものといった態度で、悠二を見て、平井を見て、メリヒムを見て……

「…………?」

 そして、シャナを見て固まった。

「? 何?」

 明らかに不自然な態度を訝しむシャナには答えず、ぎこちない動きでヴィルヘルミナに向き直る修道女……ゾフィー。

「どういう、事かしら?」

「……何から話すべきでありましょうな」

 『肝っ玉母さん(ムッタークラージュ)』と呼ばれる彼女が混乱する様を見て、ヴィルヘルミナは諦めたように溜息を吐いた。
 観念して語るヴィルヘルミナの言葉から、またゾフィーの言葉から、様々な真実が明らかになる。
 ゾフィーが、かつてシャナに師事したフレイムヘイズである事。この非常事態に際して編成された『フレイムヘイズ兵団』の総司令官に推薦されてしまった事。シャナの消滅は知っていても、復活とミステス化は知らなかったという事。そして……ヴィルヘルミナがそれらの情報を外界宿(アウトロー)に話すつもりが無かった事。

「あんた……他のフレイムヘイズと協力する気なかったのか」

「“頂の座”の一件で、既に私は外界宿の信頼を失っているのであります。この上、ミステスを三人も連れて従軍など到底叶う筈もないでありましょう」

「想像力皆無」

「…………あぁ、そう」

 事もなげに開き直るヴィルヘルミナ。その当たり前のように告げた言葉が、悠二は少し……いや、素直に認めて、かなり嬉しかった。
 正直なところ、動向を把握した上で利用する事は考えていたが、まさか普通に共闘してくれるとは思ってもみなかった。何せ……悠二にはヘカテーを殺す気も殺させる気も無いのだから。
 ……いや、むしろ、だからこそ、彼女は他のフレイムヘイズの協力を最初から視野にすら入れなかったのではないだろうか。使命一筋に見えて、その実 情に厚い女性である事は知っていたが、まさかその情がヘカテーや自分たちに向けられるとは夢にも思っていなかった。それに、客観的に見て今の自分が物凄く胡散臭いという自覚もあった。
 ぶっきらぼうに視線を逸らす悠二、小さく拍手する平井、咽を鳴らして笑うメリヒムとは真逆に、

「はぁ……まったく、貴女は」

「無謀にも程がありますぞ、『万条の仕手』、“夢幻の冠帯”」

 ゾフィーは頭を抱えて嘆息した。そのベールに描かれた五芒星から声を出すのは、“払の雷剣”タケミカヅチだ。

「一緒に来なさい、ヴィルヘルミナ・カルメル。これは既に、貴女達だけの戦いではないのですよ」

「なに、悪いようにはしない。話を聞くだけでも、足を運ぶ価値はある。いかがかな?」

 早く……本当に早く動き続ける事態に、シャナは知らず下唇を噛んだ。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「それで、カルメルさんは外界宿の総本部に行ったのか?」

「正確には、潰された東京総本部の近くの第二支部らしいけどな」

 明くる土曜日の昼食時。虹野邸の食卓に、佐藤啓作の姿があった。今の実戦訓練は見物だけでも危険が伴うので、彼は今、封絶内への侵入を禁じられている。殆ど一日中戦い続けている事もあって、こういうタイミングにしか顔を出せないのだ。

「あー……シャナちゃんがまたフレイムヘイズになるんなら、絶対その瞬間を見届けようと思ってたのになぁ」

「……見て解るもんでもないと思うけど」

 なお、池はいない。シャナの復活を経て持ち直した田中と一緒に、訳も解らず心配させてしまっている友人のフォローを務めてくれている。池は能力ゆえに、田中は代わりがいないゆえに、である。

「また馬鹿な事を……。言っとくけど、万が一契約できたって こんなタイミングで契約したフレイムヘイズなんてロクな死に方しないわよ」

 何やら不穏な流れになりそうな会話を、マージョリーが強引に打ち切る。
 実のところ───今こそが“佐藤がフレイムヘイズに成り得る千載一遇のチャンス”なのである。
 『仮装舞踏会』の連続襲撃事件で多くのフレイムヘイズが命を落とした。しかし……契約した王は死なない。器を破壊された王は紅世に帰り、新たな契約者を探す。
 つまり、“事の深刻さを痛感した王が”、“手遅れになる前に再契約しようとしている”。それが、大戦を目前に控えた今の状況なのだ。契約さえ出来るなら、動機にも才能にも頓着しない……そう考えている者は、きっと少なくない筈だ。事実、数百年前の大戦でも『ゾフィーの子供たち』と呼ばれる即席のフレイムヘイズが乱造された。
 少年の無邪気な憧れが“使い捨て”という極めて非情な現実に肯定されかねない今の状況に、マージョリー顔を顰める。

「でも実際、手掛かり0でヘカテー見つけるのは厳しいよね。カルメルさんが上手くやってくれると良いんだけど」

 幸いにも、すぐに話題は逸れた。サンドイッチを頬張りながら平井がぼやく。

「はむっ、悠二は元々、どうするつもりだったの?」

 幸せそうに“五個目の”メロンパンを齧りつつ、あちこち包帯だらけのシャナが悠二を見た。普通なら痛ましい姿なのだろうが、表情だけは清々しいほど充実している。

「『仮装舞踏会(バルマスケ)』の本拠地の『星黎殿』は、『天道宮』と同じ『秘匿の聖室(クリュプタ)』に守られてるって聞いてる。たとえ大勢のフレイムヘイズの協力があっても、簡単に見つかるとは思えない」 

 ただただ闇雲に鍛錬を続ける、ある意味悠長とも思える対応を続けてきた悠二が、その心中を語り出した。

「だけど、『秘匿の聖室』で何もかも隠せるなら、そもそも外界宿を潰す必要だって無い筈だ。神の復活でも謎の計画でも、『秘匿の聖室』の中でコッソリやってしまえばいい。なのにここまであちこち外界宿を潰して回ったのは、それが出来ないからだ。……いや、色んな国の外界宿が落とされた事を考えると、神の復活には全世界規模の違和感が伴う可能性が高い」

 悠二は敢えて、その違和感の発生する可能性を“神の復活”に限定した。大いなる企みのみに違和感が生じるなら、やはり外界宿を潰す意味は無いからだ。何せ、気付いた時にはもう手遅れなのだから。
 おそらく、神の復活は誰にも隠せず、そこから計画を遂行するまでにも時間を要する、という事だろう。

「結局向こうのアクション待ちかぁ。焦れったいなぁ」

「無い物ねだりしても仕方ない。私たちは、戦いが始まる前に出来る事をすればいい」

 平井が唸り、シャナが開き直る。ただ、悠二は少し違った。

「(“無い物”ねだり、か……)」

 ほんの半日前までは二人と同じ意見だったのだが、昨夜のヴィルヘルミナの様子が少し引っ掛かっている。
 ヴィルヘルミナは、後にも先にも他のフレイムヘイズと組む気が無かった。悠二でさえ、フレイムヘイズの軍団を『仮装舞踏会』に嗾ける、くらいの事は考えていたのに、である。
 もしかしたら彼女は、何か『星黎殿』を見つける手段を持っているのではないだろうか。それも……少数精鋭でなければ都合が悪い類の。

「(いっそ、僕も行くべきだったかな。余計ややこしくなるかも知れないけど、何か嫌な予感がするし)」

 動きにくくなる事を恐れての失踪を、悠二はヴィルヘルミナの秘策への期待で押さえ込む。




[37979] 9-6・『紅蓮を継ぐ者』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/05/26 06:14

 ヴィルヘルミナがゾフィーと共に御崎市を発ってから四日。変わらず熾烈な鍛錬を続ける封絶の中は……現在、三人しかいない。

「っりゃあ!」

 大剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』を振り下ろす平井。

「はっ!」

 その斬撃を真っ向からは受け止めず、大太刀『贄殿』で横から叩くシャナ。

「………………」

 そんな二人を見守りつつ、自在式を弄り続ける悠二、の三人である。
 剣技そのものはシャナが上だが、平井の『吸血鬼』は鍔迫り合うだけで斬り刻まれる危険を伴う魔剣だ。自在法の干渉を受けないシャナの体質も、宝具の能力までは防げない。『アズュール』を持っている事もあり、平井は紛れもなくシャナの天敵だ。
 実際、このまま続けていれば遅かれ早かれ平井が勝つだろう。昼夜問わず組み合わせを変えて戦い続けてはいるが、シャナが平井に勝った事は一度もない……ものの、マージョリーやメリヒムには勝った事がある。

「(やれば出来る子だ。ホンットやれば出来る子だ)」

 人間ならば不可能な恐ろしくスパルタなトレーニング方法だったが、まさかたったの四日でここまで伸びるとは、提案した悠二にも予想外だった。本当に、シャナはいつも予想を越えてきてくれる。
 それは喜ばしい、のだが……

「(このタイミングでメリヒムと“弔詞の詠み手”が欠席か)」

 ここにいない二人……連絡も寄越さず電話にも出ず、“ただ来ない”二人の動向が気に掛かる。マージョリーだけでなく、メリヒムもいないというのは むしろ安心する要素ではあるのだが。

「(状況の変化は望むところ、なんだけどな)」

 虹野邸のみを覆う陽炎の異界。修復可能な上に人間に異変を悟らせない便利な戦場ではあるが、これは同時に“目隠し”にもなってしまっている。
 内外の因果を断絶する結界を、こんな狭い範囲に長時間張り続けていれば、もし敵が接近して来ても気付けない。奇襲を仕掛けて下さいと言っているようなものだ。そして、現在は午後11時ちょうど。『零時迷子』の特性を知る者ならば、回復直前の最も消耗が大きい時間帯を狙う。

「(もし僕なら───)」

 思う間に、“それ”は来た。
 封絶を突き抜けて飛来する、メリヒムの虹と似て非なる、鮮やかな極光の矢雨が。

「「っ!!」」

 勝負に夢中になっていた平井とシャナが目を見開いた。その周囲を半透明の鱗壁が覆い、極光を弾いた。

「来たか」

 球状に自身を守っていた竜尾を解いて、悠二は封絶の範囲を一気に御崎市全域にまで広げて空を見た。
 数は四人、その全員がフレイムヘイズ。

「おー、反応いいねぇ! 封絶の外から不意打ちされて全員無傷だぜ」

「というか、バレてたんじゃないかな。あの少年、驚いてもないみたいだし」

 その美貌を獰猛に歪め、桃色の光球を巡らせる黒髪ショートカットの女。

「ったく、不毛だな。この非常事態に何でこんな面倒な真似を」

「その愚痴はもう聞き飽きたよ。緊張感を殺ぐだけの軽口は閉じたまえ」

 カウボーイハットに分厚い外套……時代遅れのガンマンスタイルの男。

「気を抜いちゃ駄目ですよサーレさん。あの平井って娘、物凄い気配を感じます!」

「そういうアンタは気負い過ぎ」

「いつも通り、思い切り歌いなさいな、私たちのキアラ」

 頑丈な旅装に身を包み、オーロラの弓を引き絞るブラウンの髪の少女。
 そして……

「ああ、暫くぶりです。出来ればもっと、違う形で再会したかったものですが」

「ふむ、これが我らの因果の交叉路というなら、何とも皮肉な因果じゃて」

 パーカーのフードを目深に被った、ヘカテー以上に幼い外見の少年───『儀装の駆り手』カムシン。

「ずいぶん手荒な挨拶だな。びっくりして封絶解いちゃうトコだったじゃないか」

 心にも無い言葉で戯ける悠二、そして平井やシャナの前に、カムシンがゆっくりと降りて来た。傷だらけの顔には何の感情も浮かんでいない。闘志も、敵意も、苦悩も。

「『万条の仕手』は、フレイムヘイズ兵団の説得に失敗したんですよ」

 前置きもなく、いきなり本題に入るカムシン。その全身が褐色の心臓に包まれ、そこから伸びた炎の鎖が壊れた虹野邸の瓦礫へと繋がった。

「“頂の座”と懇意にしていた貴方達を、兵団は脅威と見做しました。野放しにしておくには危険すぎる、いつ牙を剥くか判らない不確定要因だと」

 それらの瓦礫が全てカムシンへと集約、変質し、巨大な人型を形作る。

「ま、そう思われても仕方ないか」

 突然の敵対宣言を受けても、悠二は特に衝撃を受けた様子は無い。
 腰の黒刀を抜き放ち、銀の炎を迸らせ、燃え立つような喜悦を浮かべて受けて立つ。

「見せてやるよ、フレイムヘイズ。僕たちの力と覚悟をな」

 唐突に、或いは必然に、人ならざる者達の炎が入り乱れる。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 三対四の集団戦。数の不利は連携で覆す、という悠二の目論見は───いきなり崩れた。

『っ』

 瓦礫の鞭『メケスト』による超重量の一撃。それを悠二らは全員、跳躍で躱した。間髪入れず、桃色の光球が数多飛来し、連鎖的な大爆発で以て戦場を爆炎で呑み込んだ。
 爆発によって引き離された平井を、

「うわっ、うわわわわ!!!」

 極光の弾幕を張りながら、巨大な鏃に乗った少女が追い立て、

「ああ、では彼は任せました」

 瓦礫を操るカムシンが、大質量の攻撃でシャナを追撃して行った。
 あっという間に、この場には悠二と二人のフレイムヘイズしかいない。

「……なるほど、下調べも万全ってわけね」

 カムシンの自在法は この世の瓦礫を利用する。自在法の干渉を受けないシャナにも通用するだろう。
 そして『吸血鬼』と『アズュール』を持つ平井には、遠距離タイプの光使い。
 それぞれに相性の良い相手をぶつけて、応用力の高い悠二には二人掛かり。能力を事前に把握していなければ出来ない対応だ。カムシンに平井やシャナの能力を説明した憶えは無いのに、的確に隙を突いてくる。

「大人気ないとは思うんだが、悪いな坊主」

 両手に十字操具を持つガンマンが、何ともノンビリと、しかし隙を見せず歩いてくる。

「遠慮しねーで掛かって来な。俺の期待を裏切るなよ?」

 対称的に、やたら好戦的に笑う女傑も降りて来る。
 ……どちらも、強い。多分、ヴィルヘルミナやマージョリーにも引けを取らないだろう。フレイムヘイズ陣営も、それだけ本気だという事か。

「わかった。そっちこそ、簡単に死ぬなよ」

 悠二の全身から銀炎が溢れ、数多の火球となって放たれる。

「上等!」

 それに匹敵する桃色の光球が正面から激突し、双方の爆炎が一瞬で周囲を焼き尽くした。
 女……『輝爍の撒き手』レベッカ・リードは上空へと逃れ、悠二は離れた家屋の屋根に着地する。桃に銀に燃える破片が幾つも飛び交う中でレベッカを見上げる悠二……の周囲で、飛来する破片が唐突に菫色に燃え上がった。

「(これは───)」

 気付いた時には、乱れ飛ぶ破片を芯材とした炎の人形が悠二を取り囲んでいた。菫色の人形は炎の海から次から次へと這い出し、襲い掛かって来る。

「(色が違う。もう一人の自在法か)」

 数多の傀儡はまるで……否、事実 一つの意思に束ねられた無数の手足となって攻めて来る。一体一体の力はフリアグネの燐子に及ばぬものの、完璧に統一された波状攻撃は厄介だ……が、悠二とて以前とは違う。
 全周から迫る攻撃の全てを『草薙』の剣は捉え、黒い斬撃が容易く人形を斬り散らしていく。傀儡では敵し得ない神速の舞踏。その黒い嵐に一条、桃色の光が差し込み───

「くっ……」

 それが照射された足下に、瞳の自在式が浮かび上がった。桃色の眼は一瞬にして極限まで光量を増し、一帯を吹き飛ばす程の大爆発を巻き起こす。

「(態度の割に、器用な人だな)」

 その炎を『グランマティカ』で、爆圧を竜尾で退けて、黒い球に包まれた悠二が山なりに空高く飛ばされた。

「喰らえ」

 更なる追撃が来るより先に、悠二の掌が男に向けられた。溢れた炎が銀の大蛇となり、特有の曲線を描いて眼下の男へと伸びる。
 が、その動きが不自然に止まる。軋むように大蛇の全身が震え、直後に銀炎が菫に塗り変わった。

「げ……」

 制御を奪われた大蛇が反転、術者へと襲い掛かる。悠二は何とか蛇鱗を構築するが、咄嗟に張ったそれは単なる障壁でしかなかった。
 菫色の大蛇が障壁を突き破り、弾けた業火が今度こそ悠二を捉えた。

「流石に……甘くないか!」

 身を焙る高熱の菫が芯まで届く前に、悠二は全身から爆火を生んで炎を押し返す。
 二対一とはいえ、まるでペースを握らせてくれない敵を悠二は見据える。
 強い。このまま続けても勝てない……“事はないが”、長引きそうだ。消耗を恐れて勝負を長引かせ、結果的により多くの力を浪費するのも馬鹿馬鹿しい。
 となれば……

「終わらせるか」

 星の無い陽炎の天空を───銀蛇の鱗が覆い尽くした。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 光の刃を両翼と広げる巨大な鏃が、極光を棚引いて旋回する。幾度となく繰り返される、迫り来る極光の刃を、

「ふんが!」

 平井は、魔剣で受け止め……切れずに、いちいち撥ね飛ばされていた。渾身の斬撃で迎え撃ったりもしたが、結果は同じ。わざわざ正面から挑まなければと思わないではないのだが、背中を追い掛けても追いつけない。側面を狙っても当たらない。
 パワーもスピードも、あちらが上という事だ。

「ちょっとショック……飛行速度なら負けた事なかったんだけど、世界は広いね」

 突進しては弾き飛ばし、弾き飛ばした隙を突いてまた突進する。この嫌な構図を断ち切るべく、平井は左拳を腰溜めに引いて、迫り来る少女に突き出した。
 その拳撃の先から血色に燃える特大の炎弾が放たれて、

「『グリペンの咆』!」

 少女の両翼の光が極限まで圧縮され、

「『ドラケンの哮』!」

 二条の流星として放たれた。奔る極光は血色の火球を一瞬で突き破り、

「ひゃっ!?」

 咄嗟に逃げた平井の、さっきまでいた空間を走り抜けた。その速度と圧力に、平井の顔が見事に引き攣る。
 だが、驚いている暇など無い。流星の後を追って、少女自身を乗せた鏃が飛んで来る。

「ふぎ……!」

 騎馬に蹴り飛ばされる歩兵のように、またも蹴散らされる平井。剣もダメ炎弾もダメでは、もはや平井には打つ手が無い。残念ながら、悠二のように器用ではないのだ。

「結局、こうなっちゃうか」

 まともに戦っても勝てない。屈辱と共にそれを悟って、平井は大剣を横一文字に構える。
 その刀身に血色の波紋が浮かび上がり、

「あたしの奥の手、見せたげる」

 その両脚を───銀の蛇鱗が覆った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 瓦礫の鞭が、縦横無尽に暴れ回る。ほんの少し前までなら躱す事など到底不可能だった破壊の嵐を、

「(あいつ知ってる。悠二の記憶で見た、“儀装の駆り手”)」

 シャナは、“空を飛ぶ事で”何とか逃げ回っていた。上下左右正面背後、全てが自由な空ならば、巨大な瓦礫の鞭が相手でも辛うじて逃げ道を見つけられる。紅蓮の羽衣を引いて舞う優美な姿は、赤い天女を思わせた。

「(とんでもない破壊力……だけど、たぶん私の方が速い)」

 カムシンは重厚な動きを広大な攻撃範囲で補っている。事実、自分の方が速いと分析するシャナも逃げるのに必死であり、別に破壊を目的としている訳でもないのに辺りは巻き添えを受けて廃墟と化している。
 だが───それは敵の間合いで戦っているからこその話だ。

「(──斬る──)」

 鞭の間隙を縫って、シャナが一気に加速する。的を絞らせぬよう稲妻状の軌道を描いて接近してくる少女を、瓦礫の巨人が鞭を持たぬ左拳で狙い……空転した。二撃三撃と連なる打撃を全て掻い潜り、シャナは大太刀を『儀装』の背中に突き立てた。

「(硬い……けど!)」

 突き刺した刃は瓦礫に埋まるも……それは切っ先だけ。『儀装の駆り手』の存在の力に統御された巨人の強度は並ではない。
 故にシャナは、突き刺した切っ先から爆発を起こした。
 紅蓮が爆ぜ、普通ならばシャナ自身をも炙るだろう熱気が広がり、そして……

「くっ……!」

 瓦礫の背中は大きく剔られた、だけ。中のカムシンには届いていない。逆に背中から炎が噴出し、視界を妨げられる事を嫌ってシャナは離れた。
 しかし、大きくは離れない。膂力があろうと速さが伴おうと、巨体では小回りが利かない。常に腕より短い距離を飛び回り、死角から何度も斬り付けるも、通らない。今度は刃先も入らない。

「(硬度が、上がってる)」

 さっきの一撃を警戒されたのかと訝しむシャナ……だが、死角を取られ続けて単に防御を固めるほどカムシンは受け身ではない。

「『ラーの礫』」

 敵が近すぎて役に立たなかった瓦礫の鞭。それを構成する岩塊の全てが、褐色の火を噴いて飛散した。
 隕石じみた燃える弾岩の向かう先は、カムシンを内に取り込む瓦礫の巨人。───シャナが至近に張り付いた、『儀装』の鎧。

「(マズい!)」

 咄嗟にシャナは巨人から離れた。瓦礫の着弾が凄まじい轟音を響かせ、破裂した岩の欠片がシャナの額を裂く。
 顔を濡らす鮮血を拭いもせず、眼下の敵を左の灼眼が睨み……

「ッアアアアアアーーー!!!」

 振り抜いた切っ先から、特大の炎弾が迸った。一拍遅れて、

「『アテンの拳』」

 『ラーの礫』を自らに受けて小揺るぎもしない巨人の右手、その肘から先が褐色の火を噴いて放たれた。
 炎弾と拳が正面から激突、紅蓮の炎が膨れ上がり───その爆炎を、『アテンの拳』が突き抜ける。

「──────」

 必殺のつもりで放った炎弾の直後、回避も迎撃もままならない。反射的に避けたくなる本能を抑え込んだシャナは、自ら飛翔を解除する。落下と共に大太刀を縦に構えて、

「ッッ!!!」

 下半身のみを下方に逃がし、上半身は刀で受け流し、縦に高速回転しながら吹き飛ばされた。
 途轍もない衝撃に軋む身体、揺れる意識の中で歯を食い縛り、ただ身体に存在の力を巡らせる事だけに意識を集中させ……

「ぷあ!?」

 運良く、真南川に墜落した。

「………………」

 冬を控える冷たい水の中、少女は大太刀の柄を一層 強く握り締める。
 恐怖は無い。諦観も無い。ただ、悔しさだけがあった。

「(私の炎が、突き破られた……)」

 死闘という名の鍛錬の中で、『炎弾』と『飛翔』を習得した。
 紅蓮の炎を己が身から生み出した時の気持ちは、今でも胸に焼きついている。
 悠二が、平井が、メリヒムが褒めてくれた。こんなに早く覚えるとは思わなかったと。

「(でも、押し負けた)」

 同じ紅蓮の炎でも、この炎は天罰神の炎ではない。だから……負けたのだろうか。

「(でも、私しかいない)」

 アラストールは、もういない。『炎髪灼眼の討ち手』は、もういない。だから負けても仕方ない……“訳が無い”。

「(違う、“私がいる”)」

 天罰神がいなくとも、炎髪灼眼がいなくとも、その炎を背負った器は残っている。
 ヴィルヘルミナが見つけ、アラストールが認め、メリヒムが鍛え、悠二が受け入れた、一人の少女が。

「(私が戦う。私が勝つ。この世に唯一残った、この紅蓮の炎を背負って)」

 紅蓮の輝きを増す少女の灼眼に……

「? ………あれは」

 ───水面を埋め尽くす程の、燦然と輝く銀が映った。





[37979] 9-7・『祭基礼創』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/05/29 20:24

 その場で戦う誰もが、空を見上げた。

「……鱗?」

「『グランマティカ』ってやつか」

 悠二と対峙する『輝爍の撒き手』レベッカ・リード、『鬼功の繰り手』サーレ・ハビヒツブルグも。

「あれが全部、自在法……!?」

「……格好付けた直後にこれとか、あたしキマんない」

 今まさに切り札を使おうとしていた平井と、それに身構えていた『極光の射手』キアラ・トスカナ・ハビヒツブルグも。

「ああ、これは不味いですね」

「……悠二、わかった」

 吹き飛ばされたシャナと、吹き飛ばしたカムシンも、誰もが空を見上げた。
 天を埋め尽くす半透明の蛇鱗。その全てが内に燃える自在式を起動させ、

『──────』

 燦然と輝く銀の豪雨を、“封絶全域に”降らせた。
 滝のように降り注ぐ灼熱の業火の前に、逃げ場など有りはしない。

「舐めやがって」

 レベッカが頭上に瞳の紋章を壁として展開する。

「味方まで巻き込む気か……!」

 サーレが菫色の巨腕を編み上げて上方で交差させる。

「こんなのっ、全部 撃ち落としてみせます!」

 キアラが鏃を解除し、オーロラの弓を天に引く。

「ああ……不味いですね。何より……」

「ふむ、有効な防御策を、我らは持っておらん」

 カムシンは『儀装』により以上の力を注ぎ、身構える。
 それぞれで防御を固める討ち手らに高熱の怒濤が容赦なく降り注いだ。

「こ……のっ……!」

 尋常ならざる音の津波が封絶の中に反響する。炎が弾け、建物が崩れ、山が焼け、川が水煙を上げる。
 身の毛も弥立つ破壊の光景に呑み込まれて、

「(あいつ、正気か?)」

 討ち手らは全員、無傷だった。
 彼らが優れた使い手である、という事も勿論あるが、それ以上に……“悠二の攻撃が軽い”のだ。

「(いくら何でも範囲が広すぎだ。こんなもんじゃ二流どころも倒せやしない)」

 攻撃の範囲を広げれば広げるほど、威力は当然 分散する。この自在法に悠二が注ぎ込んだ力は相当に多いが、御崎市全域という広範囲に充分な威力の炎弾を降らせるには まるで足りない。
 逃げ場も無いが、そもそも逃げる必要が無い。現に討ち手らは全員、炎の豪雨を難なく凌いでいる。
 凌いでいる……が、

「(これっ、いつまで続くのぉー!?)」

 その半端な攻撃が、いつまで経っても終わらない。どう見ても通用していない、牽制程度の威力しかない攻撃を……

「……牽、制?」

 レベッカの脳裏にその言葉が過ぎった時、

【ああ、すいません】

 視覚も、聴覚も、気配の感知も、集中力も滅茶苦茶に掻き乱す豪雨の向こうから、

【『天目一個』を見失いました】

 カムシンの『遠話』が届いた。
 その必然に近い失態を糾弾するより先に、まずレベッカは己が現状と重ねる。眩しい銀の豪雨の中、覚束ない視界の向こうに、坂井悠二の姿を見つけた。

【キアラ! お前の相手はいるか!?】

 次いで、平井ゆかりの居所を確認して、

【え? え!? あれ……どこ!?】

 その姿が消えた事を知る。
 せめて彼女だけはと意識を集中するレベッカは……その気配を見つけ、同時に気付いた。
 ───ほんの数秒前に『遠話』を交わしたカムシンの気配が、無い。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 時を僅か、遡る。
 必殺には程遠い、しかし無視できない威力の炎の中を、平井は血色の炎を轟然と噴かせて飛んでいた。常軌を逸する その飛翔には一片の翳りも無い。
 向かう先はキアラではなく、シャナを見失ったカムシン。

「(うん、相性って大事だよね)」

 あらゆる感覚を妨げられる豪雨の中で、カムシンは平井の接近に気付くのが僅かに遅れた。逆に平井には、嫌でも目立つ瓦礫の巨人の姿が こんな時でも良く見えていた。この一瞬の差が、“今の平井”相手には致命的な隙となる。

「っ……」

 シャナの不在を『遠話』で伝えた直後、カムシンは平井に気付くと同時に『メケスト』を振るった。天を掃く瓦礫の鞭、衝突する その一節を平井は“軽々と粉砕し”、

「(──遅い!!──)」

 キアラに圧倒されていた時とは比較にならない神速で以て突撃した。カムシンは『儀装』を限界まで強化して拳を振りかぶり、

「とああぁ!!」

 それを振り抜くより一拍早く、身体ごと叩き付ける平井の『吸血鬼(ブルートザオガー)』が『儀装』の胸に突き刺さった。
 流石に硬い、本体には届かない。だが、平井にとってはこれで充分。魔剣の刃に血色の波紋が揺らめき、

「一人目ぇ!」

 流れ込んだ膨大な力が、『儀装』の中のカムシンを一瞬で斬り刻んだ。『吸血鬼』の能力の前に、防具は意味を為さない。あらゆる攻撃を寄せ付けない頑強な瓦礫の鎧も、今に限っては術者を縛る枷にしかならなかった。

 僅かに遅れて、彼の敗北は他の討ち手らにも伝わる。

「ちっ、最初からこれが狙いか……!」

 レベッカ同様 異変に気付いたサーレが、十字操具型神器『レンゲ』と『ザイテ』を鋭く切る。
 彼を守る巨腕にぶつかり続ける炎弾、その炸裂に伴う爆炎には、絶えず不可視の糸が絡み続けていた。制御を奪い続け、蓄積された炎が一気に解放される。それは、サーレの頭上を覆って余りある巨大な炎の人形。

「へぇ、凄いな」

 その技巧の冴えに感嘆した悠二は、言葉とは裏腹な余裕を見せながらサーレの前まで降りてきた。

「“片手で”そんな事が出来るなんてね」

「……片手?」

 その言葉をサーレが完全に理解するよりも早く、

「……あ?」

 ぼとりと、“既に切断されていた彼の右腕が地に落ちた”。
 信じられないような顔で その光景を見下ろすサーレの背中に、普通なら間違っても貰わない類の……全身全霊の掌底が叩き付けられた。

「が……っ!?」

 背骨が折れたのではと錯覚するほどの衝撃に悶絶し、飛ばされるサーレの頭を悠二が中空で掴み、

「二人目」

 全力で地面に叩き付けた。蜘蛛の巣状の亀裂を広げて陥没するアスファルトに顔を埋めてサーレは意識を失う。

「……死んでない?」

 その容赦の無さに心配そうに声を掛けるのは、サーレの背後にいた……シャナ。

「大丈夫。フレイムヘイズが死んだら火の粉になって消えるし、この人そこまでヤワじゃないよ」

 そんな彼女に微笑み掛けて、悠二は軽く指を鳴らした。
 瞬間、時が止まった───ような錯覚にシャナは襲われる。その原因は、天から降り注ぐ炎の雨。唐突に中空で制止した銀の雫。

「これもそろそろ、終わりで良いね」

 右掌を前に広げて、そして握る。その指の動きに合わせて、全ての銀炎が収束された。
 最も防御が拙かった、キアラへと。

「──────」

 夥しい数の炎弾による、全方位からの同時攻撃。頭上の豪雨を撃ち落としていただけの今までの攻撃とは訳が違う。何よりも、それまでの傾向から自分の横に落ちる炎は至近であっても放置してきた事が、キアラに一切の防御を許さなかった。

「うあ……!」

 真横、真後ろ、真ん前。至近距離の炎弾が一瞬と待たずにキアラを襲い、怯む少女に そのまま灼熱の銀が殺到し続ける。
 いかに半端な炎弾とはいえ、これだけの量を一斉に叩き込まれては一溜まりも無い。

「三人目」

 キアラの墜落を見届けてから、悠二は最後に空を見上げる。
 そこに浮かぶのは、訳の判らぬ内に味方を一人残らず失ったレベッカ・リード。

「あの自在法は、端から“贄殿の”と“平の字”の援護だったって訳か。食えねえ野郎だ」

「言っただろ。“僕たちの”力を見せるってさ」

 そう、余りの規模ゆえに最初は考えもしなかったが、悠二の降らせた銀の豪雨は単なる援護射撃だったのだ。
 平井やシャナには効かない炎の自在法で敵全員の注意力を奪い、動きを止める。その間に平井が相性の良いカムシンを倒し、シャナは姿を隠す。
 あの豪雨の中、気配を持たず自在法も効かないシャナが敵の背後を取るのは、さして難しくはなかった。

「(トドメは刺さず、か。こりゃホントの目的もバレてんなぁ。ったく、これじゃ俺達の方がカッコつかねえじゃねーか)」

 既に戦況は一対三。普通なら迷わず逃げる場面だが、レベッカは敢えて挑戦を選ぶ。
 先程まで炎の豪雨を防いでいた自在式……そこに長々と吸収、蓄積していた炎を巨大な桃色の光球に変えて浮かべた。

「やっぱり器用だな」

「お前が言うなっての。イヤミにしか聞こえねーから」

 特大の光球が、眼下の悠二 目掛けて高速で放たれる。凝縮された高熱の塊は一直線に悠二に伸び───『グランマティカ』の鱗壁にぶつかって弾けた。
 視界を埋め尽くす程に溢れかえる桃色の爆炎……が、晴れるよりも早く、

「私が相手」

 高熱の炎を そよ風のように突き抜けて、シャナが空に躍り出た。
 光球で弾幕を張りながら距離を取ろうとするレベッカ。その攻撃の全てを意にも介さず すり抜けて、神通無比の大太刀が迫る。

「あーもうっ、やっぱ無理だよなぁ!」

 レベッカは本来、接近戦も熟せる。だがそれは、高速の接近戦にも対応できる速さと精度で自在法を使える、という意味だ。ゆえに彼女は武器を持たず、ゆえに彼女は……

「うっお!?」

 肉体一つで、シャナの剣技を凌がなければならない。

「(速……すぎ……!)」

 そして、そんな事はレベッカには不可能だった。
 白刃の嵐が猛然と彼女を襲い、やがて反撃どころか回避すら追い付かなくなり……

「斬る!」

 一閃の斬撃が、レベッカの胴体を袈裟に薙いだ。
 鮮血を撒いて力を失い、落下する前にシャナに襟首を掴まれる討ち手の姿を……無傷の悠二が見上げていた。

「四人目……と。ふぅ、やっと終わった」

 長い間 炎の豪雨を受け止め、束ねたレベッカの一撃を……悠二の『グランマティカ』は完全に防いでいた。

「お見事。あの速球を防ぎきるとは、自分の炎が奪われていた事も計算の内だったのかな?」

 そんな悠二に、気障ったらしい声が掛かった。サーレが意識を取り戻した訳ではない。声を発しているのは、彼の手に握られた十字型操具である。

「そういう訳じゃないよ。ただ……“ああいう自在法”の対策は真っ先に済ませてたってだけさ」

 両者の間に、もはや敵意と呼べる空気は無い。……いや、最初から無かったのかも知れない。

「それで───僕らは合格か?」

 偽りの制裁を乗り越えて、坂井悠二は不敵に笑った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 悠二達が三人の討ち手と激突する、およそ二日前。外界宿(アウトロー)東京総本部に程近い第二支部の会議室の中に、ヴィルヘルミナ・カルメルの姿はあった。

「そもそも『万条の仕手』はミサキ市に於いて“頂の座”の監視役であったという話ではないか!? 此度の事態は彼女の見通しの甘さが招いた結果なのではないかね?」

「しかし当時の彼女が“頂の座”に手出し出来なかったのも当然でしょう。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』はもう何百年も大規模な動きを見せていなかった。自ら戦争の引き金を引けと仰るのか?」

 フレイムヘイズ、そして人間。この世の真実を知った上で紅世の徒と戦い続けてきた者の代表達の姿も、また。
 ……もっとも、先の襲撃事件でドレル・クーベリックやピエトロ・モンテベルディを始めとするトップを欠いた上での代表だ。

「その見通しが甘かったんじゃないかと言ってるのよ。放っておいたら戦争どころではない厄災が起きる事だって考えられた。現に“頂の座”は御崎市を去り、戦争は目前に迫っている」

「過ぎた事をグダグダ騒いでんじゃねーよ粘着野郎共。んな事より『万条の仕手』を説得する方に頭使えや」

 当然、予想通り、円滑に会議が進む事は無い。元より従軍はせず独自に動こうと考えていたヴィルヘルミナにとっては、ただただ うんざりするだけの時間だった。
 この場の主張で何人かの知己が協力してくれれば御の字、くらいに考えていたのだが、

「(私一人の独断専行で この有様では、引き抜きなどすれば大混乱でありますな)」

「(面倒)」

 と、その時……

(ゴンッ)

 静かに、小さく、誰かが床を打った。
 誰もが……人間さえもが口を閉じて視線を向けた先には、会議室の壁に背中を預ける『偽装の駆り手』カムシンの姿。

「ああ、まずは情報を整理しましょう。当面、我々の目的は『仮装舞踏会』の企みの阻止になります。まず間違いなく、『仮装舞踏会』そのものを相手取る“戦争”になります」

 相槌も求めずカムシンは語り出す。誰もそれに異を唱えず、ただ傾聴する。純然たる事実を語るという一点に於いて、彼ほどの適役はいないと知っているからだ。

「ですが、総力戦になれば勝ち目はありません。ならば我々は敵の計画の核を潰すしかないのですが……それは即ち、創造神“祭礼の蛇”を討滅するという事です。天罰神“天壌の劫火”が死んだ今、これも不可能でしょう」

 最古のフレイムヘイズ、かの“神殺し”を経験した討ち手の一人として、カムシンは己の知りうる真実を口にする。
 何せ数千年前の御伽話だ。人間は勿論フレイムヘイズとて、“祭礼の蛇”について詳しく知る者など殆どいない。

「しかし他の神の例に漏れず、創造神の『神威召還』は生贄を必要とします。それが彼の『巫女』たる“頂の座”です」

 『神威召還』には巫女が不可欠。その言葉を聞いた何人かがヴィルヘルミナに非難の眼を向ける。「お前が始末していれば」と。
 ……だが、カムシンは続ける。

「ならば“頂の座”を討滅すれば『神威召還』を防げるかというと、そんな事はありません。蛇の三柱は、討滅しても神ある限り何度でも復活します」

「……は?」

 不死身。その馬鹿げた体質にレベッカが思わず間抜けな声を上げた。
 神は殺せない。巫女を殺しても蘇る。或いは全軍の士気を根刮ぎ奪いかねない絶望的な真実が打ち明けられた直後、

「だからこそ、彼女に懸けるのですよ」

 それまで場を収めもせず沈黙を守っていた総司令官、ゾフィー・サバリッシュが口を開いた。確信と信頼に満ちた眼差しが、ヴィルヘルミナへと向けられる。

「問います、ヴィルヘルミナ・カルメル。貴女は“頂の座”ヘカテーを見誤ったが故に、不覚を取ったのですか?」

 今さらの、しかし誰にも受け入れられはしないだろうと強く答えはしなかった質問を受けて、

「──いいえ──」

 迷い無く、確と、ヴィルヘルミナは言い切った。創造神の巫女ではなく、日常に生きる一人の少女の姿を思い描いて。

「御崎市に於ける“頂の座”の姿に、偽りは無かったと断言するのであります」

 同じく誰かに想いを寄せる一人の女として、言い切る。

「“頂の座”ヘカテーは、ミステス坂井悠二を、確かに愛していたのであります」

 誰も信じてくれなくても、誰に嗤われても、断固として。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「んでまぁ、主張が主張だからな。ごねる奴は散々ごねたし、今でも反対してる奴は大勢いる。そういう連中を納得させる為にも、こういう“デモンストレーション”は必要だったんだよ」

 戦闘……いや、“腕試し”の終わった虹野邸のリビングで、手当てを済ませたレベッカがコーヒーを啜る。
 一連の話を聞いたシャナが、眉根を寄せてレベッカを睨んだ。

「今の話じゃ意味が解らない。ちゃんと説明して」

 左眼に微か、紅蓮が揺れる。我知らず、眼光が鋭くなっていた。
 頬が少し膨らんだシャナの頭を、後ろから平井が撫でる。

「神様は倒せない。ヘカテーも死なない。だけど、殺さずに『神威召還』を防ぐ事は出来る。……そういう事でしょ?」

 ヘカテーを殺しても復活する。それでは『神威召還』は防げない。だが……“ヘカテー自身が生贄となる事を拒絶すれば”話は別だ。

「僕達になら、ヘカテーを説得出来る。その可能性がある、って事か」

 悠二もまた、全てを察して瞑目する。
 ……神の巫女を、説得。実際にヘカテーを知らない者が聞けば、寝言にしか聞こえないだろう。

「まあ、本気でそれを信じてるのは一部だけだ。最優先課題は“神の帰還そのものを阻止する事”。その作戦にお前達を同行させるかどうかって話でな」

 ヘカテーの想いを利用するような言い分は面白くないが、やろうとしていた事が変わる訳では無いし、相手を利用するつもりだったのは お互い様だ。
 そこに異論を挟む気は無い。だが、本題はここからだ。

「神の帰還を阻止、ね。つまりアンタ達は、『星黎殿』を見つける手段を持ってるって事だな?」

「俺らっつーか、ヴィルヘルミナがな」

 事ここに至って、悠二は四日前の自分の仮説に確信を持つ。
 やはりヴィルヘルミナは『星黎殿』を見つける手段を持っていて、それを御崎市のメンバーだけで遂行しようとしていたのだ。
 そしてゾフィーは そんなヴィルヘルミナの独走を許さず、その手段を兵団の作戦に組み込んだ。
 だからこそ、こんな茶番が必要になったのだ。兵団の大事な作戦に弱輩者を同行させる訳にはいかない、これぐらいの保障は必要不可欠だろう。
 一応は筋が通っている……が、それはフレイムヘイズの側に限った話だ。

「(何でここまで、僕達の参戦を疑ってないんだ?)」

 神の巫女は、戦死しようが生贄にされようが復活する。その情報と、ヘカテーやフレイムヘイズの対応の間にある猛烈な違和感に、悠二の顔が険しく歪んだ。
 その予感に違わず、

「先ほど『ヘカテーは死なない』と言っていましたが、それには少し誤解があります」

 カムシンが、変わらず平静な声と表情で口を開いた。

「確かに創造神の眷属は復活します。“祭礼の蛇”の巫女たる力の全てを持った“頂の座”が。……ですが、巫女であっても、“頂の座”であっても、それは“ヘカテー”ではありません」

 声は小さく、それでも重く、最古の討ち手は真実を告げる。

「蘇るのは あくまでも、同じ能力と使命を持つ“別人”です。つまり───」

 少年に絶望を齎す、真実を。

「───“頂の座”は秘法『祭基礼創』の供物となって、死ぬつもりです───」





[37979] 9-8・『二つの旅立ち』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/06/07 18:56

「……よし、こんなもんか」

 暫くぶりに掃除した部屋を眺めて、悠二は満足そうに一人呟く。厚手のジャケットに袖を通し、掃除しながら必要な物を『収納』しておいたタロットカードをポケットに突っ込んだ。

「……こんなもんか」

 ドアノブに手を掛ける段になって、悠二はもう一度自室を見て、同じ言葉を別の意味で重ねる。不思議と……寂寥は無かった。そんな自分の心中を掴みかねながらも、少年の足は一段ずつ階段を降る。足取りは、澱まない。

「悠二」

 階段から限界までの短い廊下。その途中で、開きっぱなしになっていたドアの向こうから……母、千草の声が掛かる。

「行くのね?」

 振り向けば、常の笑顔とは違う、真剣で……それでいて不安を微塵も感じさせない母の姿が、そこに在る。

「……うん」

 悠二は、ただ肯定する。肝心な事は、何も言えない。そして千草は、答えられない事は訊いて来ない。そんな母の強さに、甘える事しか出来ない自分が歯痒かった。

「母さん」

 それでも、

「ヘカテーを連れて、帰って来るよ」

 本当に大切な事だけは、約束する。少女が消えた事情すら語らず、手段も勝算も口にせず、言葉自体には何の根拠も無くても、それでも。

「……そう」

 不安が無い訳がない。心配しない訳がない。それでも千草は、決意と共に発つ息子の、何よりも欲しかった約束を受け取って、微笑む。

「いってらっしゃい」

 受け取って、送り出す。

「いってきます」

 別れる為ではなく、帰って来る為に旅立つ───二人目の息子を。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 必要以上に ゆっくりと、坂井悠二は御崎市を歩く。ずっと暮らしてきた、大して変わり映えのしない故郷。毎日学校に通って、放課後は寄り道をして、休日には遊びに出たり、家で寛いだりする……どこにでもある、ありきたりな、でも掛け替えのない、日常。
 そこに今は……確かな、放っておけない欠落がある。

「(……うん)」

 自分の決断に、後悔は無い。その事を僅かな誇らしさと共に自覚して、悠二は少しだけ歩を早める。準備に手間取ったせいで、池との約束の時間が迫っていた。

「(直接会って話したいなんて、あいつらしくないな。……まあ、こんな時に らしくしてろってのが無茶なのかも知れないけど)」

 こういうタイミングでこそ、電話で軽口でも叩いて送り出すのが、悠二の知るメガネマンである。もし池に「絶対生きて帰って来いよ」などと真顔で言われたら、気合が入るどころか気持ち悪いだけだろう。実際、佐藤と田中からは背中に平手打ちをお見舞いされていた。

「(いや、どっちかって言うと これは───)」

 そうして歩く先、約束の御崎大橋に差し掛かる手前の路上に、

「坂井君」

 ほんの三週間足らず、だが随分と久しぶりに思える吉田一美の姿が、あった。

「吉田さん……久しぶり」

 動揺も数瞬、悠二はすぐにいつも通りの……否、“いつも通りだと思っている”笑顔を浮かべて見せた。

「池からは、どこまで聞いた?」

 対する吉田は、いつものようには微笑まない。誰が見ても張り詰めていると判る顔を、それでも悠二から逸らさない。

「詳しい事は、何も。ヘカテーちゃんがいなくなって……坂井君や ゆかりちゃんも今日、いなくなるって事だけです」

「……そっか」

 池や田中に任せたフォローの内容を、悠二は知らない。余計な事は喋るまいという信頼もあったが、何より“そっち”にまで気を配っている余裕が無かったのだ。
 何も言って貰えなかった。その事実に苛まれ続けていた少女は、それでも言葉を重ねる事なく……

「ヘカテーちゃんの為、ですか?」

 それだけを、訊いていた。それだけを、訊きたかった。
 悠二の表情は変わらない。繕っているのではなく、自分で自分の気持ちを掴みかねているような不透明な笑顔のまま、茜に染まる夕焼け空を見上げる。

「いや……違うね」

 胸の空白を、そっとなぞる。

「ヘカテーが何を考えて出て行ったのかは、今でも解ってない。だけど……ヘカテーは全てを理解して、自分の意思で出て行った」

 巫女の使命、世界の真実、聞いてしまえば危険や恐怖を齎す事は伏せて、それでも、出来る限りの本心を言の葉に乗せる。

「そんなヘカテーの事情や気持ちなんか お構いなしに連れ戻しに行くんだ。ヘカテーじゃなくて、自分の為にする事だよ」

 そう……神の帰還も巫女の使命も知った事ではない。

「ヘカテーは勝手に決めて勝手に出て行った。だったら僕だって、ヘカテーの都合なんか知らない。勝手に乗り込んで、力ずくでも連れ戻す」

 固い決意、それに裏打ちされた純然たる怒りまでもが、つい漏れ出た。
 と同時に、今まで真っ直ぐに悠二を見ていた吉田が、急に下を向く。

「吉田さ───」
「どんなに危なくても、ですか」

 気遣う悠二の言葉を、俯いたまま吉田は遮る。か弱い少女の、か細い声に、悠二は否応なく動きを止めた。……踏み込んでは、いけない。

「……自分でも、変だと思うよ」

 ただ、問われた言葉に本音を返す。

「最初は、いるはずのない……いちゃいけない存在だった」

 異界からの来訪者、人間を喰らってこの世に生きる紅世の徒。

「いつかは別れの時が来るって、頭では解ってた筈なのに……」

 些末な日常を全力で謳歌する、無垢な少女。

「いつの間にか、傍にいる事が当たり前になってた」

 右手を伸ばし、そして握る。そこには無い何かを、それでも掴もうとするように。

「自分でも呆れるよ。この期に及んでも、僕は何も変われちゃいないんだ」

 平井の想い、シャナへの憧れ、ヴィルヘルミナの私情、マージョリーの憎悪、メリヒムの矜恃、サラカエルの悲願……ヘカテーの、覚悟。
 これだけの生き様を見せつけられても、悠二の選択は変わらない。即ち……己が大切なモノを守る為に、戦う。

「そう……ですか」

 言葉の割には、以前とは別人のように澄み切って見える悠二の横顔を、顔を上げた吉田が見る。
 そこにはもう、俯き隠していた表情も、張り詰めた固い表情も無い。ただ、穏やかな微笑だけがあった。

「こんな言い方しか出来なくて、ごめん」

 悠二もまた、穏やかに微笑み返す。少しだけ、申し訳なさそうに。巻き込まないように、傷付けないように、近付けないようにして、何も話さず、ただ謝る。
 そんなズルい少年を、

「私、待ってますから」

 少女は笑顔で、送り出す。

「坂井君が……ヘカテーちゃんと一緒に帰って来るのを、待ってますから」

 少しだけ、寂しい笑顔で。

「………………」

 切ないエールに背中を押されて、坂井悠二は歩き出す。足を止めず、躊躇いを残さず、力強く。
 すれ違い様に……

「───ありがとう───」

 小さく、けれどハッキリと囁いて。
 優しい声に、心地好い風韻に、吉田は一度だけ振り返る。振り返って───絶句する。

 歩き去る悠二の向こう、御崎大橋を背に、五つの影が立っていた。
 赤い軍服と紺色のミニスカート、黒のベルトブーツという姿の平井ゆかり。
 白い衣と緋色の袴、つまりは巫女装束を纏う見知らぬ少女・シャナ。
 見た事はあっても詳しくは知らない二人の美女、ヴィルヘルミナとマージョリー。
 長い銀髪を首の後ろで束ねた執事、メリヒム。

 知った顔が、知らぬ顔が、坂井悠二と同じ異質な空気を纏って彼を待っていた。

「行こう」

 悠二が彼女らと合流するか否か、というタイミング。瞬きの内に彼らの姿は忽然と消えていた。まるで、最初からそこにいたのは幻でしかなかったかのように。

「坂井、君……」

 誰もいなくなった真南川脇の道路を、冷たい風が通り過ぎる。現実感を持てずに、空虚な喪失感に打ちのめされる吉田は、

「言いたい事は、言えた?」

 そのまま、やって来た池速人に声を掛けられるまで、呆然と立ち尽くしていた。

「言いたい、事」

 ただ、声を掛ける切っ掛けとして池が選んだ無難な言葉。それが予想外に核心を突いた事で、吉田の瞳は揺れた。
 無様に歪む顔を両手で隠して、傷付いた少女は首を振る。

「言え、なかった」

 上擦った声で、己の弱さを少女は嘆く。

「わたしは、何も知らない。坂井君の事……」

 吉田一美は、ただの人間だ。池や佐藤、田中のように、真実に触れる切っ掛けを得る事も無かった。
 もし、ほんの少しでも歯車が違えば、悠二が抱える苦悩や決意に近付けたかも知れない。だが……吉田は真実を隠した池を責めようとは思わなかった。

「だけど、一方的に伝える事なら、出来た筈なの……」

 何も知らない。その事を言い訳にはしない。……否、出来ない。

「無知でも、無謀でも、邪魔でも、迷惑でも、気持ちが本物なら、そんなもの無視出来た」

 訊いたところで答えては貰えない。ついて行きたいと言っても拒まれるに決まっている。だが、それは問題ではない。

「力になりたいとか、支えになりたいとか、そんな行儀の良い気持ちじゃない! 相手の気持ちだって無理矢理に変えてみせるくらいの強引で傲慢な想いが、私には無かった!」

 かつて人間だった平井ゆかりがそうしたような、今、坂井悠二が選んだような、想いの強さ。
 踏み込む事で拒まれる。押し付ける事で枷になる。そんな遠慮と理性を、吉田は越える事が出来なかった。

「近付こうとして拒まれたんじゃない! 私には、近付こうとする事も出来なかった!」

 想いを告げて、行かないでと引き留めて、それを拒絶されたなら運命を呪う事は出来た。吉田は……それすら出来なかった己を許せずにいる。

「………………」

 傷付き、嘆き、涙を流して慟哭する愛しい少女を、池は……抱き締めたいと、そう思った。

「僕は今、吉田さんを抱き締めたい」

「っ……!」

 思ったままを口にして、しかし決して実行に移さない。
 顔を隠すのも忘れてハッとする吉田の顔を見て、曖昧に笑う。

「だけど、それをして吉田さんの傷に付けこむ事が、正しいとは思わない。正解なんて……無いんだよ」

 自らの言葉を、自らの結果として、池速人は思い知る。彼女を傷付けまいと、こうして何も隠さず向き合う事が、本当に正しいと言えるのか? いやそもそも、こんな風に本心を見せられる事自体が、恋の在り方として正しいのか?
 正解など、在りはしない。あるのは只、結果だけ。

「ご、めん……私……ッ!」

 好きな少女が、別の少年への想いの弱さを嘆く。そのあまりにも無神経な現実に気付いて、再び吉田は顔を隠す。

「……いいよ、それで」

 池はそんな吉田の想いも弱さも解った上で、今まで通りそこにいる。
 抱き合わず、寄り添わず、恋に迷う少年と少女は同じ距離のまま、寒空の下で向かい合い続けていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 広大な中国の中南部、分け入る者の無い深山幽谷の地に、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』が本拠・移動要塞『星黎殿』の姿はあった。

「………………」

 その上階、全てを眼下に納めるテラスに、巫女たる少女は進み出る。両脇に立つは、彼女と同じ神の眷属『三柱臣(トリニティ)』。
 見下ろす先で静まり返るのは、種々様々な異形異装を見せ付ける紅世の徒。前代未聞、史上を遡っても前例が無いほどの徒の大軍勢である。

「(ここから、始まる)」

 漆黒のドレスに身を包むヘカテーは、何も語らず、語るまでもなく注目を遺漏なく集め、練り上げた莫大な力を放出する。
 溢れ出した炎は、全てを塗り潰す───黒。天に昇る黒炎は頭上一円の星空を染め上げ、一切の輝きを持たぬ闇が渦巻いた。天を裂き地を吞む程の絶大な力に驚嘆と畏怖が巻き起こるのも構わず、ヘカテーは自らの喚んだ黒い力、その中心を指で突いた。

「───命ず───」

 その一点、空に穿たれた穴に炎が流れ込み、爆縮とも見える収束が星空を呼び戻し、真黒の球体を浮かべた。

「『神門』よ、在れ」

 その球体が潰れ、広がり、円形の縁が銀に燃え上がる。そうして創造されたのは、何物も写さず返さない、巨大な黒き鏡。

「愛しき紅世の徒よ」

 常と変わらぬ無表情で、しかしその内面までも寒々しく、黒の巫女は同胞に告げる。

「神の眷属たる我ら『三柱臣』は、これより我らが盟主……創造神“祭礼の蛇”を取り戻すべく、世界の狭間へと発ちます」

 同行するは同じ眷属たるシュドナイ、ベルペオル、そして護衛の“壊刃”サブラク。

「『仮装舞踏会』の巫女として命じます。創造神の帰還まで、この『星黎殿』を守り抜きなさい」

 大杖『トライゴン』を振り上げて、ヘカテーは無数の同胞を鼓舞する。神の巫女として、一人の少女として、目的を果たす為に。

「『神門』創造による世界の揺らぎは、討滅の道具らにも伝わっているでしょう。兵力差にも怯まぬ決死の侵攻が予想されます。ですが……」

 迷いも躊躇いも在りはしない。これは……“誰にとっても素晴らしい事”なのだから。

「紅世の徒よ。神の御業にて我らが『楽園』を目指す同胞よ。共に新たな世界へと到らんが為、力を貸して下さい」

 軍を鼓舞するには優しい言葉を投げ掛けて、ヘカテーはハッキリと“微笑んだ”。
 瞬間、空気が弾ける。

『ッオオオオオオォォォーーー!!!』

 熱狂が、歓呼が、咆哮が、狂喜が、音の怒濤となって木霊する。
 既に治まる事なき狂乱に震える軍勢を見下ろすヘカテーの顔から、既に偽りの笑顔は消えていた。

「……行きましょう」

 ベルペオルを、シュドナイを、サブラクを促して、ヘカテーは空に舞い上がる。

「(……やれやれ、やはりこの世は儘ならぬ、か)」

 妹の悲痛な覚悟を知ってなお、変わらず大命を目指すベルペオルは、因果な運命に溜め息を吐く。

「(坂井、悠二か……)」

 巫女として生き、そして死ぬ。大命の為に死へと向かう彼女を守り、そして見送る。己が使命に課せられた皮肉な運命を呪って、それでもシュドナイは繰り返す。

「(創造神、“祭礼の蛇”……)」

 『仮装舞踏会』の構成員ではなく、あくまでも護衛として同行するサブラクの表情は、誰にも読めない。

「(未踏も遼遠も越えてみせる、今こそ……!)」

 ───神の創造せし鏡を抜けて、天使は世界の狭間を目指す。この先に在るべき理想の姿を求めて。






[37979] 9ー9・『開戦』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/12/14 21:18

 鮮やかに燃える炎の雨が、緩やかな放物線を描いて降って来る。都会の街並みが砂礫のように崩れ去り、轟音と粉塵が一帯を包み込んだ。
 悲鳴も絶叫も上げず、しかし迷わず撤退するのは、この世の安定を守る討ち手……フレイムヘイズ。背中を見せた敵に容赦なく雪崩れ込むのは、紅世の徒最大の軍団……『仮装舞踏会(バル・マスケ)』。

 走る討ち手の一人が、低く呻いた。肩を押さえて躓いた男は、数秒と待たずに燃え上がる。己が身に余る炎を、器を砕く程に弾けさせて、周囲にいた同胞すらも巻き込んで。
 そんな異様な現象が、一度きりでは終わらない。撃ち抜かれた者は抗う術もなく、爆炎を撒き散らして四散する。味方の傍にいれば味方ごと。強い者であればあるほど、より凄惨に。それを恐れて孤立すれば恰好の的となり、陣形の乱れは致命的な隙となる。
 何度となく繰り返されてきた、敗北の図式。完全に崩壊した討ち手の軍勢に、徒の群れが文字通り牙を剥いて襲い掛かる。

 ───瞬間、大地が軋んだ。

 逃げる討ち手を庇うように、迫る異形を遮るように、銀の鱗が瞬く間に聳え立つ。ビルよりも高く、城壁よりも厚く、街を区切る程に遠くまで。
 異能を以て世を荒らす紅世の徒らが、有り得ない光景に言葉を失う。そんな彼らを、鱗壁の頂から見下ろす少年の姿があった。
 緋色の凱甲に、同色の衣。後頭より髪のように伸びるのは、自在に蠢く漆黒の竜尾。人ならざる証たる灯火が、儚く淡く、胸の中心で揺れている。
 黒い双眸が戦場を睥睨し、少年は右の掌を上向きに開く。

「始めようか、『仮装舞踏会』」

 ───銀の炎が、燦然と輝いた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「おーおー、のっけから飛ばしてんなぁ。へへっ、こりゃ痛快だぜ」

 “天壌の劫火”アラストールの消滅に端を発する、『仮装舞踏会』と『フレイムヘイズ兵団』の大戦。度重なる外界宿(アウトロー)の襲撃という形で密かに始まって居たこの戦いは、中国中南部より発生した世界規模の違和感を合図にして盛大に火蓋を切った。

「僕らと戦った時より、また一段と凄いね。あれからまた成長したのか、あの時は力を抑えてたのか」

 かつて両界の狭間に放逐された創造神による、世界の在り様すら変質されかねない企て。何を於いても急行し、一丸となって阻止しなければならない。
 ……と、誰もが考えるが、現実はそう上手くは行かない。『仮装舞踏会』は正体不明の違和感を発生させると同時、東西に夥しい規模の将兵を進軍させたのだ。
 フレイムヘイズ兵団は攻勢に出るどころか、各地の拠点を守るのに手一杯という事態に陥っていた。

「……なるほど、実力も性質も申し分ない。この状況でこれ以上の適任はおるまい」

 元より兵力差は承知の上。フレイムヘイズの側も劣勢は覚悟の上で、それでも死守しなければならない戦線を維持するつもりだったのだが……その東軍の拠点が、予想を遥かに上回る早さで突破されてしまった。
 その最大の原因が、“味方を巻き込んで爆発するフレイムヘイズ”である。
 
 ───宝具『トリガーハッピー』。
 王の休眠を破り、討ち手を強制的に自爆させる“狩人”フリアグネの切り札。この宝具が使われていると悟った討ち手らは、強行な抗戦は避け、ただ遠距離から敵の進軍速度を鈍らせる事に徹した。
 何せ強い者ほど大規模な自爆を起こされ、数多の討ち手を巻き込んで消滅するのである。フレイムヘイズを殺すという一点に於いて、これほど恐ろしい宝具は無い。追い詰められたフレイムヘイズ兵団は、こんな状況で使うつもりなど無かった切り札を呼び寄せた。
 フレイムヘイズでも人間でもない、正確には兵団の一員ですらない、ミステスの少年を。

「だが、気に入らんな。子供の色恋に大戦の命運を預けるなど、まともな判断とは思えん」

 『剣花の薙ぎ手』が細く、長く、息を吐く。彼女が言っているのは、“こちら側からだけ透けて見える鱗壁”の向こうにある戦場の事ではない。
 『仮装舞踏会』の巫女をあの少年……坂井悠二を使って味方につけようという、あまりにも馬鹿馬鹿しい方針の方にである。

「ハッ、判ってる癖に らしくもねぇ愚痴だな、虞軒」

 『輝爍の撒き手』が快活に笑い飛ばす。上辺だけの笑みは、すぐに隠そうともしない苦笑へと変わった。

「───その馬鹿馬鹿しいモンに縋るしかないほど、勝ち目が無いってだけの話だろ」




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 限界まで伸ばした左腕を、右から左へ鋭く切る。円形の自在式が波紋のように広がり、氷結からなる銀世界が一帯の徒を覆い尽くす。

「(“狩人”の位置は……ダメだ。気配がゴチャゴチャしてて全然わからない)」

 ビルも家屋も瓦礫も道路も凍り付かせた銀の結界に、怯む事なく踏み込んで来る異形の大群。見た事もない数の怪物を前にして、坂井悠二は黒刀を片手に悠然と構えた。

「(紅世の、徒……)」

 巨大な牛が、角を立てて突進して来る。その胴体を真っ二つに断ち切って、悠二は大きく飛び退いた。最初の一人が間合いに入った時点で、引きつけとしては充分。最初から、この数を剣で一人ずつ相手する気など微塵も無いのだ。

「(人間を喰らい、この世を荒らす、異界の存在)」

 切っ先を薄氷に突き立てる。僅かな亀裂が蛇鱗となって銀世界に這い回り、氷結した街が眩しい程に発光し───爆発した。
 景色を一変させるほどの銀炎の中に在って、半球状の蛇鱗に守られた悠二だけは、無傷。溢れかえる業火が天空で渦を巻き、恒星の如き巨大な火球を形作る。

「(ヘカテーと、出会ったからかな)」

 鋭く向けられる指先の動きに導かれるまま、火球は遠方の山肌へと奔った。迎撃として放たれる数多の炎弾を弾き返し、自在師の一団が張った障壁を突き破り、射撃舞台の真ん中で炸裂する。

 圧倒的な強さで戦場を蹂躙する悠二の胸には、愉悦も狂気も無い。自分が紛れもなく“戦争”に身を投じているという、決して小さくはない恐怖と……そして、受け入れ難い違和感が心中を占めていた。
 こうして戦う事にも意味はある。フレイムヘイズを助けるというだけでなく、日本という地に坂井悠二がいると敵に印象付ける事。それが本命の作戦……ヘカテーの奪還にも繋がる筈だ。
 頭は冷静に状況を把握し、身体は淀みなくそれに対処している。しかし感情は、何かが違うと頻りに訴えていた。
 何よりも、フレイムヘイズの側について、数え切れないほどの徒を虐殺し続けている自分自身に。

「(……今は、余計な事は考えるな)」

 戦争が起ころうと、創造神が相手だろうと、必ずヘカテーを取り戻す。固く決めた筈の覚悟が揺らいだ気がして、それを無理矢理に押し込めた。

「ヘカテーに、会うんだ」

 決意も新たに歩き出す悠二の頭上から、炎弾の雨が弧を描いて降って来る。
 燐子砲兵───この大戦の為に『参謀』ベルペオルが用意していた道具タイプの燐子である。起動と同時に消滅するまで強力な炎弾を放つ、自我の無い兵器。その一つ一つが下手な徒が自前で放つ炎弾より遙かに凶悪な破壊力を秘めていた。
 事前に備えていなければ、これだけでも相当に厄介だったろう。

「邪魔するな」

 悠二の周囲を、『耐火』を無数に連結させた『グランマティカ』を包み込んだ。その表面に、周辺に、砲撃が着弾して瞬く間に火の海が燃え広がる。
 これだけの数、これだけの威力で放たれる炎弾の斉射だ。普通に考えれば一個人に対する攻撃ではないが、銀の鱗壁は小揺るぎもしない。
 人の戦と徒の戦。その最大の違いが、これだろう。場合によっては、“個人の力で”、戦況が容易く覆る。故に、強者同士が戦う前にどれだけ相手の力を削れるか、というのが勝利の鍵となる。

「む……」

 不意に、砲撃が止んだ。爆煙と砂塵に埋め尽くされた戦場で、悠二は『グランマティカ』を解除する。晴れない視界の先、そう遠くない位置に魔軍が迫っている気配を感じて、黒刀を強く握り締める。

「(かなり派手に自在法を使ったし、そろそろ……)」

 更なる襲撃に備えて軽くバックステップして……“足を縺れさせた”。

「……あれ」

 少し蹌踉けた悠二は、調子を確認するように足を踏み締める。足は問題ない。が……何だろうか、この浮遊感にも似た薄い違和感は。

「……あ」

 その疑問の解は、殆ど視界の全てを埋め尽くす黒煙の中に在った。
 いつの間にか、煙の中に混じって、菖蒲色の靄が漂っている。

「(これが『ダイモーン』って奴か)」

 『仮装舞踏会』屈指の『捜索猟兵(イェーガー)』、“蠱溺の杯”ピルソインの使う悪名高き自在法。吸い込んだ者を酩酊・錯乱させる悪魔の靄、らしい。
 フレイムヘイズの中の王までも毒し、発狂、暴走、酷い時には失神する程の凶悪さと聞いたが……そこまで大袈裟な変化が自分に起きている感じはしない。理由は判らないが、どちらにしろ好都合だ。

「(試してみるか)」

 開戦前からやってみよう、と思っていた事を実践する。『グランマティカ』で複数の自在式を組み合わせ、

「はっ!!」

 大気全てを掠うような竜巻を呼び起こした。黒煙も、砂塵も、そして『ダイモーン』をも支配し、突風に変えて前方に……

「──────」

 放とうとした眼前に、象ほどもある巨大な甲虫がいた。

「ッオオオオオーーー!!!」

 旋風をモノともしない重厚な突進から繰り出された三本角の一撃が、悠二の身体を軽石の如く弾き飛ばす。

「っ~~~!?」

 衝撃に息を詰まらせ、自由の利かない空中に飛ばされる悠二。巨大な甲虫は間髪入れずに、四本の腕で練り上げた渾身の炎弾を放り投げた。
 式を連結させる悠二の『グランマティカ』は、こういう連続攻撃に弱い。おまけに悠二は平井ほど飛行に長けてはいない。

「っこの!」

 後頭から伸びる漆黒の竜尾が、迫る炎弾を全力で叩いた。爆炎が弾けて、弁柄色の猛火が悠二の身体を一呑みにした。
 燃えながら落下してくる、子供と見える体躯目掛けて、甲虫は尚も畳み掛ける。タイミングを合わせて跳躍し、硬く握り締めた拳を容赦なく振り抜いた。

 ───その拳と、少年の拳がぶつかり合う。

「あんたが、リベザルか」

 衝突の余波で大気が爆ぜ、悠二を燃やす炎が吹き飛んだ。直撃こそしなかったとはいえ、火焔の下から現れた悠二には衣の端々を焦がす程度の変化しか見られない。

「っ……流石は」
「お返しだ」

 逆に、至近距離から炎弾を受けて、甲虫……『仮装舞踏会』東部方面主力軍司令官・リベザルが吹き飛ばされた。

「(やっぱり、一筋縄じゃいかな───)」

 墜落する巨体を見届けて、悠二もまた着地する。
 その足下に───見慣れない水晶の数珠玉が転がっていた。

「いかぁーー!!?」

 その数珠玉に弁柄色に光り輝き、連鎖的な大爆発が悠二を襲う。『グランマティカ』どころか竜尾すら使う間が無く、今度こそまともに貰ってしまった。

「立て、坂井悠二。これで終わりな訳があるまい」

「いや、倒れてないし」

 それでも一切油断せずに、リベザルは歩み寄って来る。悠二の方も、内からの銀炎で弁柄色の炎を押し返してみせた。

「“ミステス風情”とか思ってくれてた方が、こっちとしては有り難かったんだけど」

「あれだけ派手に暴れておいて、油断してくれってのはムシの良い話だろ」

 少年の調子の良さを笑い飛ばしながらも、強大なる王は密かに冷や汗を流していた。
 “天壌の劫火”亡き今、『零時迷子』のミステスこそが最大の脅威。身命を捧げた『三柱臣(トリニティ)』にそう告げられ、彼が油断する道理など無い。
 だが、それでも、甘く見ていたと認めざるを得ない。完全に不意を突いた宝具の連撃をまともに受けて、この程度のダメージしか負っていないというのは少なからずショックである。

「(兵の損耗に目を瞑ってでも、もっと力を削いでおくべきだった。大御巫のお気に入りってだけはある)」

 このミステスの方が、明らかに格上。屈辱的な事実を冷静に受け止めて、リベザルは数珠型の宝具『七宝玄珠』を起動させる。遠巻きに陣取った自在師の一団が、予め渡されていた数珠玉を介して十重に二十重にリベザルを『強化』していく。
 そんなリベザルの威圧感……ではなく、確かめた事実の方にこそ悠二は落胆していた。

「アンタさっき『ダイモーン』中を突っ切って来てたけど、あれって徒には効かないのか?」

「毒す相手を選べるだけだ。でなけりゃ、集団戦で使い物にならんだろう」

「まあ、そうか。良いアイデアだと思ったのになぁ」

 事実は、少し違う。ピルソインの『ダイモーン』は敵味方を選べるのではなく、一度に一つの種族しか毒せないのだ。しかし勿論、それを馬鹿正直に教えてやるリベザルではない。
 味方のサポートを一身に受けて、消耗した難敵を砕くべく、弁柄色の輝きを四つの拳に纏わせる。
 瞬間───

「うお……!?」

 自在師特有の茫漠とした波を漂わせていた悠二の気配が、爆発的に膨れ上がった。力の充溢が炎となって総身から漏れ出している。

「まだ力を隠してやがったのか!?」

「力を隠してた……か。確かに、そういえなくもないかな」

 強大な敵を引き摺り出す為に形振り構わず使った力……“たった今とり戻した全力”を、坂井悠二は思う存分練り上げる。

「悪いけど、持久戦は得意なんだ」

 ───時計の針は、いつしか零時を回っていた。






[37979] 9ー10・『デカラビア』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/12/30 17:53
 最初は、気に入らないと、抑えようもなくそう思った。
 それはそうだろう。信奉する『三柱臣(トリニティ)』の巫女を、“人間の残り滓”が惑わせている。しかも参謀や将軍までが、そんな子供を敵として警戒しているのだから。ベルペオルの側近としての実力と矜恃を備えたリベザルが、これを面白く思う筈が無い。
 『トリガーハッピー』をチラつかせて坂井悠二を“可能な限り引き付けておけ”という命令にも、疑問も反発も抱きはしないが、心中は穏やかではなかった。
 だが、実際に力を目にしてそんな悋気は吹き飛んだ。戦士として培ってきた意識が、安っぽい意地を上回ったのだ。

「くそっ、強ぇなぁ……ッ!!」

 だが今になって、とうに捨て置いた筈の意地が、形を変えて再燃しているのをリベザルは自覚していた。
 自在師の補助を受けているとは言え、感覚的には一対一という状況が、そうさせているのだろうか。

「(いや、それだけじゃねぇ……か!!)」

 二つの右拳を同時に突き出し、その一つを左腕でガードさせ、もう一つを滑り込ませて頬骨を打つ。確かな手応えを拳に感じて、しかし眼前の少年は一瞬も怯まずに打ち返して来る。鋭い踏み込みでリーチの差を潰し、右の拳をリベザルの腹に打ち込……もうとして、左手でガードされた。その左手ごと拳が腹に突き刺さり、リベザルは僅かに蹌踉けた。

「おりゃあ!」

 さらに悠二の左アッパーが巨体を跳ね上げ、浮いた巨重を回し蹴りで吹っ飛ばす。砂埃を上げて倒れるリベザルに対して、悠二は両の拳をぶつけて見せた。

「(こいつ、だ)」

 自在法も使わず、黒刀も納め、坂井悠二はその肉体のみで紅世の王に立ちはだかる。黒い眼は銀光を受けてギラギラと燃え立ち、口元は漏れ出すような喜悦に歪んでいた。
 その姿が、炎が、言葉よりも雄弁に語り掛けてくる。掛かって来いと、受けて立つと、まるでリベザルの秘めていた闘争心を汲み取るかのように。それが、どうしようもなく、戦士の本能を駆り立てる。

「(こんな子供に招かれた勝負から、この俺が逃げる訳にはいかねぇよなぁ……!)」

 リベザルが感情に任せて行動する愚者ならば、司令官など任されてはいない。ここで背中を見せれば、悠二はリベザルどころか東方軍そのものに壊滅的な打撃を加える。そう確信しているからこその対峙だった。
 そして司令官としての判断と合致しているからこそ、リベザルは戦士としての激情を隠さない。

「(俺の力の全てをぶつけて、この存在を乗り越える! 俺の力を、俺の意志を、一滴残らず見せ付けてやる!!)」

 リベザルの全身が弁柄色の光に包まれる。自在師の加護は受けても、自身の自在法は使わない。悔しいが、何でもありの勝負では敵わない。せっかく肉弾戦を受けてくれているのだ。ぶつけるのは、己の肉体のみ。

「行くぞ!!」

「おう!」

 拳と拳が衝突する。踏み締めた大地に亀裂が広がる。その一撃を皮切りに、力任せな打撃の応酬が始まった。
 腕の長さも、“手数”も、体術もリベザルが上。にも関わらず、悠二は一歩も引き下がらない。パワー、スピード、タフネス、極めて単純な身体能力の差である。

「(熱いカブトムシだな)」

 感情剥き出しで繰り返される硬い連撃に対して、悠二もまた小細工抜きの打撃戦を挑む。リベザルの熱気に当てられた、という訳では……少ししかない。
 自在師としての本領を見せれば、リベザルを圧倒する自信はある。だが、恐らく決定的な劣勢になればリベザルは即座に撤退するだろう。そして悠二は、幾多の修羅場を潜り抜けてきた王を、確実に仕留める自信は無い。となると、もう暫くはここに居て貰った方が良いのだ。
 そういった理性による判断の下、悠二は本質の外にある自身の感情を客観的に見つめてみる。

「(何ていうか、意外と感化されやすいんだよなぁ)」

 マージョリーと戦った時にも、似たような気分になった憶えがある。相手は敵だというのに、その凄まじい激情に正面から応えたくなってしまう。とことん付き合ってやろうという気になってしまう。
 感情に引き摺られる性分ではないから実害こそ出ていないが、難儀なものだと自分でも思う。

「(悪い気分じゃ、ないけどさ!)」

 迫る拳撃を額で受け止める。咲くように散る血飛沫も意に介さず、歯を剥いてボディブローをお見舞いした。

「ぐ……ぉ……」

 呻き声を上げて悶絶するリベザルを、前蹴りで突き飛ばす。並みの王なら一溜まりもなく潰されているだろう一撃を受けて、リベザルはそれでも立ち上がる。

「まだまだぁ!」

「ああ、とことん付き合ってやる」

 互いが互いを少しばかり買い被る二人の殴り合いの遥か空を、見えざる影が進み続ける。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 『トリガーハッピー』は、東軍のみならず『仮装舞踏会(バル・マスケ)』全体から見ても非常に強力な宝具だ。
 故に当然、リベザルは『トリガーハッピー』の効かないミステスが大規模な攻撃を開始した時点で、狙撃手を真っ先に後退させた。半端な距離ではあの自在法からは逃げられない。一度完全な安全圏まで撤退させる必要があった。実力の差を理解しながら、リベザルが命懸けの時間稼ぎに身を投じている最大の理由がここにある。

 そして───

「逃げる様すらキビキビしてんなぁ」

 悠二がリベザルを撤退させないように戦っている理由もまた、ここにあった。
 リベザルの奮闘によって十二分に距離を稼いだ東軍。その移動型の封絶の天から、一人の女が降って来る。
 圧倒的な存在感を隠そうともせず、桃色の光球を周囲に巡らせる、女。地上を照らす光の色を、東軍の誰もが知っていた。
 凶悪な爆弾の自在法で戦場を蹂躙し、徒を羽虫のように焼き散らすフレイムヘイズ、『輝爍の撒き手』レベッカ・リード。

「撃てぇーーー!!!」

 炎弾の豪雨が、阻むもの無き天へと昇る。間断なく放たれる猛火の弾幕、普通ならば躱す事など考えられない窮地の中を、レベッカは常識外れの超速を以て縫うように翔け回る。

「どうしたどうしたぁ! リベザルがいねーとこんなもんかよ!?」

 躱しながら、光球の輝きをより一層強くする。
 だが、『仮装舞踏会』は只の徒の群れではない。強大な王の下に束ねられ、統率された軍である。

「今だ!!」

 部隊長の合図と同時、放たれた炎弾が一斉に起爆し、灼熱の雲が空を埋めた。直撃はせずとも この数だ。余波だけでも途轍もない威力になる。
 しかし、“狙撃手”は一切楽観してはいなかった。

「(下で戦われては自軍にも被害が出る。遥か上空にいる内に、確実に仕留める……!)」

 『遠視』の自在法で炎海を睨み、銃口を突き付ける。ピクリとも揺れない指先は正確にタイミングを測り、

「「(来た!)」」

 敵が炎から飛び出すと同時、迷いなく引き金を引いた。この長距離にも係わらず吸い込まれるように実体の無い弾丸は突き進み、頭から降って来たレベッカの眉間を見事に撃ち抜いた。

 撃ち抜かれて───砕け散った。

「…………は」

 レベッカ・リード…………の“姿を見せていた幻が”。

「ハズレだよ」

 女性にしては短い黒髪、美貌を歪める獰猛な笑み、黒のスラックス、着こなしたジャケット、全てが鏡のように砕けて、霧のように融け消える。
 その奥から現れたのは、赤い軍服と紺色のスカートを身に着けた、触角頭の少女───の、“ミステス”。

「……見っけ!」

 その少女が、受けた弾丸の軌道を追って、狙撃手を鋭く睨んだ。少なくとも、狙撃手はそう感じた。

「(“二人目の”、ミステス!?)」

 少女……平井ゆかりが、一直線に落下する。迎撃として変わらず飛んで来る炎弾に対して、もはや避ける素振りすら見せず、その一切を火除けの結界で掻き消しながら。

「嬉しい誤算、っぽいね」

 平井の右手に炎が燃える。幻術で見せていた桃色の炎ではない、彼女本来の血色の炎が。

「当っったれぇーーーー!!」

 加速を味方につけた豪速球が、眼下の一団に容赦なく炸裂する。
 レベッカに扮してまで『トリガーハッピー』の銃撃を誘ったとはいえ、実のところ平井は狙撃手の姿をハッキリと視認できた訳ではなかった。何せ相手は遥か下方の大群に紛れていたのだから。
 だが、大まかな位置さえ判れば十分。

「くっ……そ……!」

 木を隠した森ごと焼き払え、と言わんばかりの一撃。数多の兵を枯れ葉のように焼滅させる炎の渦から、一人の男が飛び出した。
 もはや隠れてなどいられる状況ではない。跳び上がった長身の男は中空で姿を変え、四枚の翼を持つ鷹となって加速した。

「(あれがユカリ・ヒライか!? 馬鹿な、幻術が使えるなんて情報は無かったぞ!)」

 彼の取った行動は、一瞬の迷いすらなく逃走。だが、それは臆病風に吹かれての事ではない。
 彼に与えられた最大の役割は、何があっても『トリガーハッピー』を守り抜く事。敵がフレイムヘイズではない以上、自分の安全が確立されていない以上、彼には交戦という選択肢自体が最初から無いのだ。
 逆に、

「掛かれぇ!!」

 他の将兵は、身を挺してでも彼を守る役目を持つ。先程の炎弾に耐えた、部隊長を含めた数人の徒が、一斉に平井に襲い掛かった。

「(『トリガーハッピー』を餌に“奴ら”を可能な限り足止めする?)」

 それに振り返る事もなく、異形の鷹は一心不乱に飛ぶ。リベザルからは引き離され、敵の戦力も予想を越えて大きい。姿を見られてしまった以上、もはや兵に紛れて逃げようなどと甘い考えは持たない。只ひたすらに速く、どこまでも速く飛ぶ。

「(不可能だ! だが、この光景は総司令官も見ている! 逃げ延びる事が出来れば、編成を組み直して───)」

 どこまでも速く飛んだまま、“二つに割れて絶命した”。
 全速力で飛行する背後から、己を優に上回る速度で斬り殺されたのだと、彼が理解する事はなかった。

「これ、没収ね」

 火の粉となって霧散する徒の傍に落ちた銀の拳銃を、平井は手早く拾い上げる。正直 成功する自信など殆ど無い作戦だったのだが、思いの外うまく行った。

「(『トリガーハッピー』だけあって、“狩人”がいない。あんまり信用されてなかったりして)」

 拾って、即座に飛び上がる。こんな大群の真ん中で上空に逃げるなど良い的だが、『アズュール』を持つ平井に炎弾は効かない。加えて、飛行が得意な使い手というのも そう多くはない。
 さらに───

「よし、逃げる!」

 ポケットから取り出した大量の指輪を放り、血色の炎を目眩ましとして周囲に燃やした。
 一瞬の爆炎の後に現れたのは、“十人のレベッカ・リード”。その全員が全員、全く別の方向に加速する。

「(ま、ちょっとくらいは保つでしょ)」

 『革正団(レボルシオン)』との戦いの最中、平井は“狩人”フリアグネの左腕を吹き飛ばした。その時 腕と一緒に飛ばされていたのが この指輪───宝具『コルデー』だった。
 自在法を込めて弾丸として飛ばす、悠二やマージョリーのような卓越した自在師には大した恩恵は無い宝具だが、平井のように自在法が苦手で、自在師をパートナーに持つ者にはもってこいの代物である。
 今『コルデー』に込められているのは悠二の『幻術』。フレイムヘイズのフリをして狙撃手を誘き出す為の選択だったが、多少は逃走の役にも立つ筈だ。

 ───不意に、

「わっ……!」

 戦場が、割れる。
 街も、人も、徒も、遮る全てを跡形もなく消し飛ばす、七色の虹によって。

「……あたしの位置、ホントに判ってるのかな」

 これまで目撃情報が無かったとはいえ、平井らは当然“狩人”フリアグネと戦う事も想定していた。だからこそ、平井一人で行かせるような無謀な作戦は立てていない。
 狙撃手を誘き出す為に最初は平井一人で突入し、時間差をつけて援軍が駆け付ける手筈だった。

 その援軍が、これである。

「久しぶりだな、こういう感覚は」

 銀髪の執事が口の端を引き上げる。

 この日『仮装舞踏会』は、開戦以来初めての、決定的な敗走を喫する事となる。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「(強い。これほどとは……未完成という事実が逆に脅威だ)」

 深く、昏い、底知れぬ闇の底で、彼はその光景を見ていた。

「(もし“狩人”とリベザルが揃っていても、あの三人は止められはしなかった。『仮装舞踏会』の将兵の中にも、あれに敵し得る者が何人いるか)」

 フレイムヘイズ兵団の、恐らくは切り札。出来る事なら こちらも余計な被害が出る前に最大戦力に出陣願いたい所だが、現状ではそれも叶わない。
 予想以上の強さ……だが、『トリガーハッピー』を奪われた事を除けば予想を越える事態ではない。やはり坂井悠二は現れた。
 フレイムヘイズ兵団の危機に姿を現したのは、あのミステスもまた、兵団の力を借りねば『星黎殿』には到れないという事だ。そして『トリガーハッピー』を奪った今、次はまず間違いなく中国に上陸してくる。貸しを作ったフレイムヘイズ兵団と共に。

「(予定を早める他ないか)」

 当初の作戦では、第一段階で東西に軍を向けてフレイムヘイズの反抗の余力を奪い、第二段階で勢力圏内に軍を引き揚げて守勢を固めて創造神の帰還を待つ、という予定だった。
 だが、その攻勢で逆にこちらが戦力を削られるようでは意味が無い。それで敵の切り札を止め得るなら話は別だが、東軍だけではそれも不可能である。

【全軍に通達する】

 鉄色の炎を揺らし、細長い魚身を震わせ、彼───外界宿(アウトロー)征討軍総司令官・デカラビアは命を下す。己が鱗を介して世界中に意識を巡らせる、自在法『プロビデンス』へと。






[37979] 9ー11・『初陣』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2015/12/30 18:05

 前にも、後ろにも、左右にも上下にも、大地が在る。古びた石柱群、崩れかけたドーム、精緻な細工を施された身廊、鋭く複雑に天に伸びる尖塔。この世ならざる異様な空間の中を、三人の神の眷属が進んでいく。
 両界の狭間に這うこの道の名は、『詣道』。放逐された“祭礼の蛇”と、彼の持つ“旗標”、それらと彼の眷属らを結ぶ因果そのものを、神の剛力によって実体化された、創造神へと至る道である。
 本来であれば、こんな道は必要ない。この世から、紅世から、異界に続く因果を頼りに形無き狭間を渡るだけで良いのだ。しかし今の創造神“祭礼の蛇”には、それが出来ない。その元凶が今、彼の眷属の前に立ちはだかっていた。

「狭間に堕ちて数千年、時という概念すら失っているだろうに、よくもまあ精神が保っている」

 それは、薄く色づく人影の集団。かつて秘法『久遠の陥穽』によって神と共に両界の狭間に落ちたフレイムヘイズの成れの果てである。

「こいつらの執念こそが『久遠の陥穽』を不帰の秘法たらしめていた根源さ。忌むべき愚行には違いないが、その意志の強さには敬意を以て応えようか」

 押し寄せる刃の群れに、ベルペオルが拘鎖『タルタロス』を踊らせる。数も威力も関係ない。因果を断絶する理の壁が、全ての攻撃を小揺るぎもせずに受け止めた。

「ベルペオル、防いで下さい」

 それを見届けるや、ヘカテーが大杖『トライゴン』の遊鐶を鳴らす。黒い流星が不気味に踊り、ベルペオルの眼前の影に降り注いだ。
 至近で弾けた黒い爆炎に曝されながら、拘鎖に守られたベルペオルには火傷一つ無い。

「意志の強さも、ここまで来ると憐れだな。敬意というなら、終わらせてやるのが せめてもの敬意か」

 広がる黒炎の中に、剛槍を担いだシュドナイが躊躇なく飛び込む。振り上げた『神鉄如意』の太さが数倍、長さが十倍ほどに変じ、大質量の一撃が後続の影を叩き潰し、溢れた炎が跡形もなく霧消させた。

「………………」

 そうして生まれた僅かな猶予の中で、ヘカテーは『トライゴン』に意識を集中させる。集中させて、一先ずの安全地帯を探す。
 あの人影は、本来であれば神の創造物たる『詣道』には立ち入れないフレイムヘイズらが無理矢理に因果を繋げて現出したものだ。そして、その干渉力には限界がある。『詣道』内部の因果の隔絶が強力な場所まで行けば、あの影は立ち入る事は出来ない。

「いっその事、全員まとめて掛かって来てくれれば手間が省けて助かるんだがな」

 『久遠の陥穽』は、異界の因果を辿る感覚を遮断して狭間に墜とす究極の“やらいの刑”だ。神を放逐する為、数多のフレイムヘイズ自滅同然の……否、世界の揺らぎを加速させるため実際に何人かは自決して、秘法を発動させた。
 そして放逐に自ら巻き込まれた数多の討ち手は、狭間に落ちてからずっと“秘法を発動させ続けている”。神さえ無力な世界の狭間の中で、“無限に回復するフレイムヘイズという器を使って”。
 死よりも辛い永遠の地獄。それを自ら選んで、やり遂げてきた討ち手の執念。それを、“祭礼の蛇”は逆手に取った。

「こいつらは秘法を維持する為だけに自らの存在を純化させた連中だよ。本能のままに我々を襲いはしても、全滅して秘法を解く様な真似はしないさ」

 逃れ得ぬと悟った瞬間、正に神の御業たる権能によって自らに作用し続ける秘法の力の一部を自身へと取り込み、蓄積する事に成功したのだった。
 その力で自らを縛る討ち手らを始末できれば話は早かったのだが、狭間には物理的な距離や方向という概念は存在しない。感覚を遮断された創造神がどれほどの力を振るおうと、まず討ち手らには届かない。
 故に“祭礼の蛇”は自らに流れ込む力を、自身の帰還、その為の創造に注いだ。それこそが神へと至る『詣道』であり、巫女たるヘカテーにこの世で神の権能を振るわせる『大命詩篇』なのだ。

「……見つけました」

 太古のフレイムヘイズらも、最初の内は異変に気付く自我を持っていただろう。だが……だからと言って何が出来る訳でもない。自分達の力が利用されていると判っても秘法を止める事だけは出来ない。神そのものを殺せるならば最初からこんな手段は採っていない。結局彼らは、帰還へと歩を進める神を縛り続けながら、その精神を緩やかに薄れさせていった。
 そして今、唯一残された“神の帰還を防ぐ”という本能に従い、こうして神の眷属を阻んでいる。
 ……もっとも、阻む事など出来はしないが。

「ヘカテー、先に行ってくれ」

 シュドナイの右手が巨大な虎の頭に変化する。その顎門から吐き出された灼熱の咆哮が、眼前の一団を焼き払う。
 視界の端でヘカテーが割れ砕けた窓の一つに飛び込むのを見届けたベルペオルが、『タルタロス』の鎖輪を一つ砕いた。溢れ出た金色の炎から植物型の燐子に後ろを守らせて、ベルペオルとシュドナイも悠々とヘカテーに続く。

「思っていた以上に時間が掛かるな。ここまでで丸二日、といったところか」

 ヘカテーの背中を追う途中で、何の気なしにシュドナイが呟いた。返事を求めていたのかも定かではない言葉に、ベルペオルは答える。

「如何にここが『詣道』の中とはいえ、微かな共振を頼りに進むのは簡単な事じゃないのさ。この共振がそれほど確かなモノだったら、盟主御自身が狭間を渡って帰還する事も出来たんだが」

 ただの愚痴に懇切丁寧に返されて、シュドナイは煙草の煙を苦く吐き出す。その様を面白そうに眺めながら、ベルペオルはそっと右眼の眼帯に触れた。

「判っているさ。嫌な予感がするのは、私も同じだ」

 ヘカテーの意志の強さを、二人はもう疑ってはいない。気掛かりなのは、“この世の方”だ。

「フェコルーやデカラビアが出し抜かれるとは思わんが、ここではあちらの戦況も判らんからな」

 天罰神は死した。もはや創造神を止められる者はいない……という前提は、事実としては決定的に矛盾している。
 殺せない筈の天罰神を殺したのは、他でもない『三柱臣』だ。神殺しは不可能ではないと、自分達自身の手で証明しているのだから、楽観など出来る筈もない。
 脳裏に焼き付くのは、『革正団(レボルシオン)』の生み出した怪物───『敖の立像』。元凶たる“探耽求究”ダンタリオンこそ討滅されたが、核となった『零時迷子』は“敵”の手にある。万が一、あれを再現される様な事があったとすれば……倒せるのは“『神威召還』された創造神”くらいのものだ。今、神も眷属もいない『仮装舞踏会』にあれが差し向けられたら……などと、考えるだけで怖ろしい。

「心配は無用です」

 不意に、決して近くはない距離の二人の会話に、背中を向けたままヘカテーが割り込んだ。

「どれほど資質があっても“彼”はまだ子供。おじ様の真似事など出来はしません。『敖の立像』を射抜いた『七星剣』も、私の能力抜きでは再現できない。今の彼らは、一介の王と同程度の戦力でしかありません」

 彼女らしい静かな声で、しかし彼女らしからぬ長く早い口調で。
 その、家族から見れば露骨だとハッキリ判る反応に、シュドナイもベルペオルも押し黙った。
 言っている言葉にも理はある。一介の王などという評価以外は事実でもある。だが発する声の裏側から、“彼ら”を軽視して欲しいというヘカテーの私情が手に取るように伝わった。

「(だが、それでいい)」

 ベルペオルは、ヘカテーの想いを否定しない。
 その想いがあるからこそ、ベルペオルは『零時迷子』に手を出せない。だが、その想いがあるからこそ、ヘカテーは必ず大命を果たすだろう。

「(私はもう、迷わない)」

 水色の少女は、か細い因果の糸を必死で辿る。硬く、固く、紡いだ決意を胸に抱いて。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 悠二、平井、メリヒムの三人に『トリガーハッピー』を奪われ、フレイムヘイズ兵団に追撃を受けた『仮装舞踏会』東軍が敗走した翌日、東西を攻めていた外界宿(アウトロー)征討軍は撤退し、兵力の全てを『星黎殿』の防衛に回すべく動いていた。

「(この判断の早さは、流石と言うべきでしょうか)」

 たった一度の敗走から敵の戦力を読み取り、敵戦力の削減より自軍の損耗と『星黎殿』の守護を優先したのは、征討軍総司令官たるデカラビアの判断だ。
 彼は自在法『プロビデンス』によって全ての戦場の一部始終を“視て、知っている”。『神門』へ向かったシュドナイが全軍を託したデカラビアが、その上で撤退を指示したのだ。『仮装舞踏会』の動きは迅速だった。

「(元より兵力はこちらが上。防衛に徹すれば破られる心配は……)」

 要塞司令官として『星黎殿』近衛軍を統括する“嵐蹄”フェコルーもまた、彼の采配によって盤石の防衛線が敷かれる事に一片の疑問すら持たなかった。

 ───だからこそ、驚いた。

「っ!?」

 突然……そう、全く突然、要塞を襲った正体不明の震動に。

「なな、何事です!?」

 情けない声を上げて竈型宝具『ゲーヒンノム』を覗き込む。どす黒い灰が要塞の全体像を形作る……より僅かに早く、部下から自在法による映像が送られて来た。

【た、大変です! “虹の翼”が、あの『両翼』の右が!】

 映し出された光景の中で、七色の閃虹が尖塔を薙ぎ払い、また要塞が揺れる。一瞬にして滝のような汗を流すフェコルーは、確かめるように傍らの松明・『トリヴィア』を見る。
 やはり、『星黎殿』を守る『秘匿の聖室(クリュプタ)』が破られた形跡は、無い。

「(馬鹿な! 一体どうやって……!?)」

 『秘匿の聖室』に隠された『星黎殿』の位置は、何者にも捉えられない。『神門』の創造によって隠しようの無い気配の発現こそあったものの、正確な位置まで知る事は出来ない。
 先んじて東西に軍を出したのも、『星黎殿』から相当に離れた位置に防衛線を敷いているのも、全ては『星黎殿』の位置を知られていないという前提あってこそだ。
 その『星黎殿』に敵が潜入してくるなど有り得ない。否、有ってはいけない。……だが、今は原因究明よりも直面している危機への対処が先決だ。

「プルソン! 状況は理解していますね? 部隊を率いて敵を迎撃して下さい。ウアルは要塞内の侵入者を捜索、潜入経路を探って下さい!」

【【はっ!】】

 指示を出しながら、自身は指揮者のように両手を広げて自在法を行使する。
 ここではない屋外で臙脂色の粒子が渦を巻き、瞬く間に『秘匿の聖室』と、そして『神門』を覆い隠した。その直後に粒子の壁に虹が着弾して、またも肝を冷やす。

「(これが、『虹天剣』)」

 『マグネシア』。
 粒子の嵐を自在に操り、あらゆる攻撃を払い除ける攻防一体の自在法。フェコルーを『星黎殿』の守護者たらしめる鉄壁の守りである。
 その『マグネシア』で受けてなお、かつてない衝撃を生む破壊の虹に、フェコルーは戦慄する。

「(あれがもし、全力ではなかったら……)」

 フェコルー自身は、『マグネシア』を鉄壁の自在法だと誇った事は無い。『とむらいの鐘(トーテン・グロッケ)』の『両翼』より自分が上だなどと考えた事も無い。
 それでも……たとえ何が襲って来ようと、『星黎殿』を、そして『神門』を護るのがフェコルーの使命だ。

「(プルソン、ウアル、頼みましたよ)」

 自分はきっと、『秘匿の聖室』と『神門』を護るだけで手一杯になると、フェコルーは確信に近い予感を抱いた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 桧皮色の炎を纏った埴輪型の鎧の群れが、次から次へと侵入者に襲い掛かる。剣が、槍が、斧が、矢が、華奢な身体を容赦なく貫き、

「(な、何が……何が起きている……)」

 隠し扉に身を隠した“駝鼓の乱囃”ウアルは、ただ怯えていた。自在法『ビト』……埴輪型の鎧を通じて眼に映る光景に、ガタガタと歯の根を鳴らす。

「(話が、話が違う……!)」

 侵入者は足を止めない。身体に突き刺さった“かに見えた”刃を幻のように擦り抜けて、右に左に視線を巡らせる。

 ───自在法の効かない、“ミステス”。

「『天目一個』は、死んだ筈ではなかったのか!」

 それは……紅世の徒、フレイムヘイズ、双方から恐れられた怪物の名前。その姿を見て生き残った者はいないという史上最悪のミステス。
 凶悪な伝説と目の前の光景が重なり、ウアルは堪らず叫ぶ。
 埴輪の鎧、その内から溢れた黒い雲が膨れ上がり、視界を埋め尽くす程の大群となって“少女”を呑み込んだ。
 それが、内側からの爆炎で弾け飛ぶ。燃え盛る炎は、全てを焼き尽くす───紅蓮。

「紅蓮の、炎……? “天壌の劫火”は、確かに死んだと……」

 死んだ筈の怪物の力。死んだ筈の魔神の炎。にも係わらず気配の欠片すら感じない不気味なミステスの姿に、紅世の王であるウアルは、どうしようもなく恐怖した。

「そう、アラストールは死んだ。お前たちに、殺された」

 その身は黒衣を纏わない。その髪は紅蓮に染まらない。

「貴様は、一体……!?」

 左にだけ残された灼眼を光らせて、黒髪の戦巫女は大太刀を振るう。

「強者よ」

 ───神の帰還と世界の命運を懸けて、『贄殿』のシャナは初陣に臨む。






[37979] 9ー12・『黄金の獅子』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/01/05 21:40

 触れるもの全てを消し飛ばす虹の奔流が、眼下の近衛軍には向けられずに天を衝く。光輝の塊が偽りの夜空を砕く寸前、臙脂色の嵐が空を包んだ。七色の爆発が鮮やかな火の粉を夜空に舞わせる。
 そう……『虹天剣』に直撃されてなお、『秘匿の聖室(クリュプタ)』は、そして『マグネシア』は健在だった。

「あれが“嵐蹄”フェコルーの『マグネシア』か。流石に鉄壁と謳われるだけはある」

 瞬く間に臙脂色の粒子を凝結させた防壁が、球状に展開する『秘匿の聖室』を、そして中天の黒い鏡を覆い隠した。星光すら失った暗闇の世界に次から次へと灯火が広がり、暗夜の戦場の如き物々しい情景が出来上がる。
 それら懐かしい戦場の風を肌身に受けて、銀髪の執事……“虹の翼”メリヒムは獰猛に笑った。とりあえず、自分に向けて燐子の砲口を構えている一部隊にサーベルの切っ先を、

「ん?」

 向けるより一拍早く、血色に燃えて吹き飛んだ。見上げれば、例によって炎弾の砲火を無料化しながら飛び回る小娘の姿。人の事を言えた立場でもないが、少しばかり派手すぎる。

「何を気負っている」

 警告の意味を込めて、先程より力を込めた『虹天剣』を飛来する少女にお見舞いしてみた。必死に避けた少女の背後で、破壊の虹は再び『マグネシア』に防がれる。

「……なるほど、な」

 喚いている少女……平井ゆかりは無視して、メリヒムはサーベルを握る手に力を込めた。

「退屈せずに済みそうだ」

 鉄壁を誇る嵐の壁に、最強の矛は矜恃を燃やす。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 両脇に二列の円柱を並べる五廊式の大伽藍。天井に広がるのは、中央をのたうつ黒い大蛇と、絡み合わず掴み合わず、噛み合わず噛み砕かれず、どこまでも広がる“紅世の徒”のパノラマだった。
 『天道宮』で暮らしていたシャナは、これに似て非なる大伽藍を知っている。だからこそ、ここを傷付けたくないと封絶を張った王の意図も判った。さぞや厳かで神聖な空間として扱っているのだろう。

「(これが徒の自在法。悠二にもいっぱい見せて貰ったけど、やっぱり今の私には見破れない)」

 無数の蜂も、埴輪の鎧も、自在法である以上シャナには通用しない。一方で、シャナも逆転の一手を探していた。喋っているのは蜂や埴輪だが、どう見ても敵の本体ではない。感覚を共有させた自在法で敵を攻撃し、自分自身は安全な場所に姿を隠しているのだろう。
 この王自体は脅威にこそならないが、このまま情報を与えて逃がすのは美味くない。

『シャナは僕たちの切り札だ。出来ればギリギリまでは隠しておきたい』

 至極当然の事のように言っていた少年の言葉が思い出される。

「(仕方ない)」

 あちらから封絶を張ってくれたのは都合が良い。少しばかり消耗が大きいが、封絶の中を丸ごと焼き尽くしてやろうと力を込め……

「ッギャアァアアアァァーーー!!」

 た所で、壁の一画から群青色の火柱が飛び出した。直立するヒトコブラクダ、という姿の紅世の王が転がり出て来て、シャナは間髪入れず大太刀を突き立てる。
 『星黎殿』の留守を預かる王の一人たるウアルは、鮮血のように桧皮色の火花を噴いて絶命した。

「勝っ、た」

 初の実戦、初の勝利、思っていたほどでもない感慨に包まれるシャナの前に、隠し扉の奥から一人の女性が歩み出る。

「相っ変わらず凶悪ねぇ。自在師相手なら無敵じゃない」

「こーりゃ怒らせねーように気ィつけとかねーとな、ッヒヒ」

 炎の色で判ってはいたが、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。ついさっき別れた筈の味方が、得意気な顔でそこにいた。

「一人で大丈夫だって言ったのに」

 気配を隠してシャナと戦っていた敵の背後を、逆に気配を隠して襲う。まるで囮のような自分の扱いに、少しシャナはむくれる。

「別に狙って助けに来たワケじゃないわよ。あちこち回ってたらここに出たの」

 現在、『星黎殿』の外で暴れているのは平井、メリヒム、悠二。そして内部を探っているのはシャナ、ヴィルヘルミナ、マージョリー。当然の事ながら『星黎殿』の内部構造など知る由も無いから、探索は運と勘だけが頼りの一発勝負になる。

「外はどうなってる?」

「思ってたよりは控え目ね。少なくとも『三柱臣(トリニティ)』は出て来てないわ」

「アテが外れちまったなぁ。あの判りやすい巫女さんなら、ユージ見せびらかしゃスーグ飛び出して来ると思ったんだが」

 悠二らの役割は陽動と、『三柱臣』を引き摺り出す事。シャナらの役割は、敵の計画にとって重要な『鍵』を探す事。

「だったら、私達が引っ張り出すだけ」

 最優先捜索対象は───“頂の座”ヘカテー。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「メリヒムの奴、あれだけ偉そうなこと言ってた癖に……」

 『虹天剣』を以てしても破壊できない『マグネシア』の堅牢さを、坂井悠二は細長い主塔の屋根の影で見上げていた。
 予定では開戦から僅かに遅れて『秘匿の聖室』を破壊、敵軍全体に動揺が広がったところで“始める”予定だったが、これ以上は敵に落ち着く時間を与える事になりかねない。

「(そっちは、頼んだよ)」

 指先を擦って、パチンと鳴らす。事前に仕掛けておいた大規模な『グランマティカ』が発動した実感を得て、悠二は改めて眼下の戦況を見下ろした。どちらにとっても、こちらの作戦の方こそが本命なのである。

「(ヘカテー、いないな)」

 ヘカテーは『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女にして、『大命』の要だ。いくら強くても、そう簡単に敵の矢面に立たせる訳にはいかないのは当然だろう。しかし、それを差し引いても、『星黎殿』近衛軍の抵抗は苛烈さに欠けているように思えた。
 事前に覚悟していた敵の最大戦力は、五人以上。だが実際に視認できるのは“嵐蹄”フェコルーの『マグネシア』のみ。『星黎殿』に敵が現れたというのに、『将軍』“千変”シュドナイが出て来ないのも妙な話である。

「(下手すりゃ侵入した途端に創造神に遭う可能性だってあったんだから最悪って程じゃないけど、これはやっぱり……)」

 ヘカテー……いや、『三柱臣』は今、『星黎殿』にいないのではないかという疑問に悠二は行き着く。
 そもそも、神の帰還と言われて真っ先に思い付くのは、『神が自分で戻ってくる』と『神を誰かが迎えに行く』の2パターンだ。加えて『マグネシア』に覆われる前に見た、あからさまに怪しい巨大な黒鏡。素人考えだが、あれが“狭間に続く扉”なのではないだろうか。もし本当にヘカテーがここにいないとするなら、一番怪しいのは あの鏡だ。

「(どっちにしろ、『マグネシア』を何とかしないと始まらない)」

 カンッ、と靴音を立てて屋根を打つ。そこから広がる半透明の蛇鱗が主塔を這い回り、それら全てが銀に燃え上がった。噴き出す炎が飴細工のように変質していき、燦然と輝く鎧の軍勢となって戦場に飛び出した。
 同様に自分自身も参戦しようと黒刀を握る悠二の耳に、

「(もう少し様子を見て、ヘカテーが出て来る気配が無かったら、僕も中に───)」

 一際大きな轟音が、届いた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「はあっ!!」

 仮にヘカテーがいたとしても、彼女がこの程度でどうにかなる筈がない、という前提の下、平井ゆかりは特大の炎弾で城を丸ごと一つ吹き飛ばす。
 アピールは十分と判断した彼女に、炎弾は通じないと察した近衛軍が様々な武器を、あるいは爪や牙を以て襲いかかる。

「……遅い!」

 平井の剣技が未熟と言っても、それはシャナやメリヒムのような同等以上の力を持つ者を相手にした場合の話だ。並の徒では、まず彼女の身体能力に対応出来ない。
 円を描いて繰り出される大剣の斬撃が、四方から迫る徒を抵抗なく両断する。即座に地を蹴って加速、弓を構えていた射撃部隊へと斬り込んだ。極めて高い機動力と大剣の間合いを活かした速攻が、雑草を刈るように徒達を屠っていく。
 敵陣の中に斬り込めば、敵も下手な飛び道具は使えない……と思いきや、弓兵は躊躇いなく矢を放った。見当外れの、上空へ。

「うぇ!?」

 その矢の全てが放物線を描いて、寸分違わず平井に吸い寄せられる。見た目には燃え盛る炎の矢だが、今さら本当に炎で攻撃してくるとは思えない。十中八九、『アズュール』では防げない“物質化した炎”だろう。

「こっの!」

 敵に囲まれた状態では逃げられない。平井は練り上げた炎を全身からガムシャラに放出して矢雨を力任せに弾き飛ばした。
 ───瞬間、血色の炎に穴が開いた。

「──────」

 自ら放った炎の中、塞がれた視界で大剣を構えたのは、単なる反射だった。

(ドッ!!)

 見えない何かが、幅広の刃を盾にした『吸血鬼(ブルートザオガー)』ごと平井を吹き飛ばす。
 身動きどころか声すら出せない衝撃は、そのまま少女の華奢な身体を城壁に叩きつけた。というより、城壁を二枚突き破って反対側に突き抜けた。

「か……っ……は……」

 冷たい地面が頬に当たる。右腕と左足にのし掛かる瓦礫が痛い。詰まる気道を無理やり広げて息を吐き出せば、一緒に血の塊まで飛び出した。

「(音の、衝撃波……)」

 敵陣のど真ん中で悠長に苦しんでなどいられない。そう判っているのに、身体が言う事を聞いてくれない。歯を食い縛って身を起こそうとする平井は、

「……え?」

 仰ぎ見た空に、自分へと向けられる喇叭を見た。

「謳え、『ファンファーレ』!!」

 天空から打ち下ろされる破壊の咆哮。目には映らない音の暴力が、動けない少女を容赦なく撃ち抜いた。
 床と呼ぶにはあまりにも分厚い石畳が貫かれて、階下の通路がガラガラと崩れ落ちる。駄目押しとしても十分と見える威力を見せて、なおも喇叭は次なる一撃の為の力を練り上げ───横合いから現れた銀蛇に喰われた。
 術者は無論、一撃目の轟音を聞いて急行した坂井悠二。

「喰らえ」

 その左手を、城壁の屋根の一画へと鋭く差し向ける。導かれるように銀炎の大蛇が旋回し、そこに立っている、派手な宮廷衣装を着た獅子頭の男に牙を剥いた。
 黄金の獅子は逃げない。大きく息を吸い込み、不可視の衝撃波で以て迎え撃つ。

「ッゴァアアアァァーーー!!」

 大蛇の顎門が歪み、裂けて、二人の中点で銀が爆ぜた。爆炎が広がる視界の下端で、平井が叩き落とされた穴へと向かう坂井悠二を獅子は捉える。
 間髪入れず破壊の咆哮で狙い撃つが、少年の影が不自然なほど急激に加速した事で空を切る。

「ゆかり!」

 自在法で加速した悠二は、後頭の竜尾を発条にして柔らかく着地する。『グランマティカ』で目の前の瓦礫をフワリと浮かび上がらせる……が、

「(いない?)」

 そこに少女の姿は無い。外れた者が死ねば、亡骸は跡形もなく消滅する。忘れたくても忘れられない、茜色の悪夢が脳裏を掠めて、

「っ」

 すぐ、現実に引き戻された。

 悠二の正面、通路の奥、地上からは死角となる その場所に───薄白い影が揺らめいていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「(馬鹿が。力を出し切る前にやられるとは)」

 平井や悠二の戦いを一瞥し、数百年ですっかり染みついたコーチ感覚でメリヒムは舌打ちする。一番未熟で強さにムラがあるのは判っていたが、こういう時は予想を越えて貰わないと指南役としては不満なのだ。

「(まあいい、こっちはこっちの仕事をするだけだ)」

 幸い、悠二の方は平井のような失態は見せていない。それどころか、銀の傀儡が無秩序に暴れ回ってくれているおかげで、メリヒムへの注意は予想よりかなり控え目である。
 ……あるいは、『マグネシア』が破られる訳がない、だから最優先で殺す事もない、と高を括られているか。

「(舐められるのも、気に入らないしな)」

 サーベルの切っ先を、天に向ける。七色に輝く“虹の翼”が光背の如く広がる。

「(もっと強く、もっと鋭く、もっと力を研ぎ澄ませろ)」

 思えば、今まで『より強力な破壊力を』などと思った事など、数える程しかない。何せ、メリヒムの『虹天剣』は“当たれば消し飛ぶ”中世最強の自在法だ。当てる為の努力はしても、威力そのものを上げようとは考えなかった。
 しかし、“千変”シュドナイに防がれ、『敖の立像』に耐えられた。そして今、“嵐蹄”の『マグネシア』が目の前にある。

「(一撃に)」

 全身全霊の力を、剣先に乗せる。限界の壁を越える為に、新たな領域に到る為に。

「(全てを、込めろ!)」

 渾身の『虹天剣』が立ち上る。肌に突き刺さる迫力に比して細い、破城槌ほどの太さの閃虹が、臙脂色の障壁に突き刺さった。七色の火花が暗闇を眩しく照らし、凝結された粒子がボロボロと崩れ落ちる。

「こ、これは……」

 『星黎殿』下部の岩塊部の中心に位置する司令室『祇竈閣』に在るフェコルーの両目が見開かれる。『マグネシア』を制御する両手が小刻みに震えだす。
 『星黎殿』の誇る鉄壁の護りに、這うように亀裂が広がり……

「砕けろォ!!」

 闇夜に咲いた虹翼の剣が───偽りの空を撃ち砕いた。





[37979] 9ー13・『取り引き』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/01/14 12:13

 円の中に五芒星を、五芒星の中に瞳を浮かべる自在式の奥深く、暗い水中と見える異空間の中を、無光沢の大魚が泳いでいる。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』征討軍総司令官・デカラビア。誰にも読めない無表情の奥で、彼は(彼にしては)大いに驚愕していた。

「(『星黎殿』に、侵入者だと?)」

 彼は己の魚鱗たる『プロビデンス』を介して己が知覚を、そして自在法を世界中に広げる事が出来る。総司令官たる今も勿論、各隊長に鱗を持たせる事で自軍の全状態を完璧に把握していた。それは、同等の権限を持つ要塞総司令官であるフェコルーにもだ。

「(早過ぎる。いや、“こんな真似”が出来るなら、なぜ今まで使わなかった)」

 外からの敵襲をこそ最も警戒していたデカラビアでさえ、まるで接近に気付けなかった。あるいはそれも、当然なのかも知れない。

「(いずれにせよ、現実としての脅威だ)」

 『星黎殿』を守る戦線は、定石から外れた“極めて離れた”布陣となっている。『秘匿の聖室(クリュプタ)』に隠された『星黎殿』の周りに大規模な陣など敷けば、敵に本拠地の場所を自ら教えるようなものだからだ。
 そうして広く長く、たとえ突破されても『星黎殿』の位置など掴めないよう計算された戦線の内側に───見紛う事なき兵団の姿がある。
 突如として燃え広がった銀の煉獄の中から、虚ろなる幽鬼のように、『フレイムヘイズ兵団』が顕れていた。
 信じがたい事だが、紛れもない事実。あのミステスは軍を丸ごと『転移』の自在法で運んでみせたのである。
 だが、問題はそこではない。こんな荒業を使えたところで、肝心の転移先を指定できなければ意味が無い。どういうわけか、“敵は『星黎殿』の位置を知っている”。それも、少数精鋭を『秘匿の聖室』内部に直接転移できるほど正確に。
 こうなってくると、『星黎殿』の位置を悟らせない為に敷いた防衛線は全くの逆効果。本拠地の周囲をガラ空きにした馬鹿げた布陣でしかない。

「(間に合う、か……?)」

 幸い、東西の外界宿(アウトロー)征討軍は既に撤退を開始している。虚を突かれたのは間違いない、万全などとは程遠い……が、絶望的という程ではない。

「(最も憂慮すべきは『星黎殿』内部だが、“嵐蹄”フェコルーさえ健在なら何も問題は───)」

 東西の征討軍司令官に指示を出す『プロビデンス』と、『星黎殿』内部の現状を探る『プロビデンス』を同時に起動したデカラビアは、

「──────」

 天を貫く虹の奔流に撃ち砕かれる、鉄壁と夜空を見た。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「おーっ、ホントにやりやがった!」

「あの色からしてプランAだね。一時はどうなる事かと思ったけど」

 遠方……ではあるものの、視認出来る程度には近く、『輝爍の撒き手』は割れ砕ける『秘匿の聖室(クリュプタ)』を眺める。

「“虹の翼”メリヒム。味方に付けるとここまで頼りになるか」

「逆に言えば、敵に回すとこの上なく恐ろしいがの。果たして、いつまで気紛れに身を委ねてくれるものか」

 同様に、『剣花の薙ぎ手』も嘆息する。「『マグネシア』を破ってみせる」というのは、大した根拠も無い大言だった。強者の驕りと笑い飛ばして然るべき過信だったが、こうして実現されてしまうと言葉も出ない。

「ああ、彼らは託された役割を果たしてくれました。我々も存分に励むとしましょう」

「ふむ、見る限り“祭礼の蛇”が帰還した様子もない。それだけでも抗う甲斐はあるというものじゃな」

 対照的に、別段驚いた風もなく『儀装の駆り手』は鉄の柱を地に突き立てる。正直なところ、既に神の帰還が為っていたら戦況は極めて絶望的だった。

「実際どうなんだ? 実力はともかく、巫女を口説き落とすって話の方は」

「さあ? 少なくとも君みたいな ひねくれ者には難しいだろうね」

 こんな状況でもマイペースにぼやく『鬼功の繰り手』は、ホルスターに納めた操具からの皮肉に眉を顰める。どれだけ戦術で優位に立っても、肝心の神の企みを阻めなければ意味が無い。

「今更ですけど、本当に坂井さん達だけで大丈夫だったんでしょうか。相手が相手だし、もう少し戦力を裂いた方が……」

「ホントに今更ね」

「人の心配してる余裕は無いわよ。少し距離があるって言っても、敵地のド真ん中に『転移』されたんだから」

 『極光の射手』が難しく唸る。最低でも『三柱臣(トリニティ)』とフェコルーとは、彼らが戦う事になるだろう。これでもし“頂の座”ヘカテーを味方に引き入れられなければ、はっきり言って勝ち目が無い。

「仕方ありません。ヴィルヘルミナとマージョリーの同行が、互いに譲歩できるギリギリの条件だったのですよ」

「何せ、彼らにとって最大の目的は“頂の座”の奪還。場合によっては我々が敵となる可能性もありますからな」

 『震威の結い手』が十字を切って、なかなか抜けない癖に嘆息する。フレイムヘイズ兵団にとっての最善は神の帰還の阻止、次善は巫女の説得による『神威召還』の封殺だ。
 だが、坂井悠二と平井ゆかりは違う。今は利害が一致しているから共同戦線を張ってはいるが、神の帰還を阻止する過程でもし目的が食い違ったら……この戦いは三つ巴になりかねない。彼らがフレイムヘイズの同行を二人しか認めなかったのも当然である。逆にフレイムヘイズ兵団は『トリガーハッピー』の一件を含めて散々彼らの力を借りている。これ以上無理な要求など通せる筈もない。
 何より……今や彼らこそがフレイムヘイズ兵団の頼みの綱だ。どのみち危ない橋を渡るなら、小賢しい保険よりも信頼を得る方が良い。特に、あの少年を相手するには。

「さあ皆さん、ここからが正念場ですよ」

 既に彼らが『星黎殿』に入った以上、肝心要の作戦は彼ら頼みだ。だが、異変に気付いた軍勢が『星黎殿』に押し寄せたら、巫女の説得どころではなくなる。
 その為の、フレイムヘイズ兵団だ。

「世界の在り様にまで手を伸ばす邪神の企み、必ずや叩き潰してみせましょう」

 一兵でも多くの敵を引き付ける為に、フレイムヘイズ兵団は開戦の狼煙を上げる。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 『マグネシア』に覆われた暗闇の中、松明の光すら届かない通路の奥で……薄白い人影が揺れている。違和感に溢れ返った要塞の中、まるで幽霊のように浮かび上がった その姿に、悠二はギョッとなって剣を構えた。

「こっちだ」

 揺らめく影が、どこかで聞いた声で通路の奥に悠二を呼ぶ。敵意も“違和感”も全く無いが、だからといって不用意に付いて行く事など出来る訳が無い。
 だから───“準備万端で付いて行く”。

「ほう」

 床を、壁を、天井を、『グランマティカ』が覆っていく。銀火を灯す半透明の蛇鱗が、通路の奥にいた人影を照らす。

「やあ、『革正団(レボルシオン)』の時は入れ違いだったから、半年ぶりになるかな」

 自在法で四方を囲まれながら、そこにいた美青年……“狩人”フリアグネは平然と笑った。
 この狡猾な王がここにいること自体に驚きは無い。突入する前から、敵として遭遇する事も覚悟の上だった。問題はその後ろ、純白の花嫁に抱えられて気を失っている───平井ゆかり。

「(人質、か……)」

 冷や汗が一筋、悠二の頬を撫でる。あの花嫁姿の燐子が平井を傷付けるより先に、『グランマティカ』で腕を落とす。そのタイミングを狙う悠二の前に、

「命に別状はありません。彼女なら、少し休めば戦線に復帰する事も可能でしょう」

「……え、あ、うん?」

 燐子の花嫁は、当たり前のように平井を差し出してきた。逆に面食らう悠二は、おっかなびっくり、一瞬も気を抜かずに手を伸ばし、そして……本当に何事もなく受け取った。

「……どういうつもりだ?」

 無事に平井を取り戻せたのは何よりだが、とても手放しで喜べない。いや……実のところ、全く心当たりが無い訳ではない。

「私に敵対する意志が無い、という事を理解して欲しかっただけさ。あまり時間も無い事だしね」

 そう、そもそもフリアグネは『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の構成員ではない。『革正団』の時も今回も、フリアグネが『仮装舞踏会』に手を貸していた理由の方こそ判っていないのだ。
 『トリガーハッピー』を他の徒に使わせていた事もフリアグネの本意とは思えない。ある程度の摩擦は予想できていた。

「私が『仮装舞踏会』に協力していたのは、“君に殺された”マリアンヌを復活させる為だった」

「………………」

 一方的に、フリアグネは語り始める。
 最初にフリアグネと戦った時の、悠二の最後の一撃。あれは確かにフリアグネを仕留め損ねていたが、その燐子たる花嫁……マリアンヌは別だったらしい。目を細めたフリアグネは、隣のマリアンヌの肩をそっと抱いた。

「いくら私がオリジナルの自在式を持っていても、燐子はこの世の物質をベースに作られるからね。『マリアンヌになる前の人形』が無ければ、再びマリアンヌに命を吹き込む事は出来なかった。だからどうしても、『仮装舞踏会』と“螺旋の風琴”の力が必要だった」

「そのアンタが、何でまだ『仮装舞踏会』にいるんだ?」

 仇だと言われたところで、悠二は罪悪感など覚えない。命懸けだったのはお互い様だ。対するフリアグネもまた、穏やかな口調のまま続ける。

「マリアンヌの復活は確かに危ない綱渡りだったが、これでもまだ振り出しに戻ったに過ぎない。私達にはまだ、『都喰らい』で叶えようとしていた悲願があるのだよ」

 どこまでも勝手な言い分にも、御崎市に暮らしている悠二は腹を立てない。嫌な方向に感覚が麻痺してきている。
 スッと、フリアグネは指を差した。悠二の腕に抱かれて眠る平井、その左手中指に光る『アズュール』を。

「“螺旋の風琴”が編み出した『転生』の自在式。掛けた対象をこの世に定着させ、確たる一個の存在に変える秘術が、その指輪に刻まれている。私はこの自在法で、マリアンヌを燐子などという儚い存在から昇華させたいんだ」

 努めて表情に出ないようにしながら、悠二は冷静にフリアグネの言葉を整理していく。
 大方、今度は大命に協力する代わりに『転生』の自在法の発動を報酬として受け取る契約になっているのだろう。『アズュール』を奪われても、開発者であるラミーさえいれば再現は容易な筈だ。
 ……だが、腑に落ちない。

「『アズュール』が欲しいなら今さっき ゆかりから奪えば済んだんじゃないか」

「『都喰らい』を狙っていた事からも判るだろう? 『転生』の自在法には莫大な存在の力が必要だ。いま指輪だけ取り戻しても、また一から力を手に入れる算段をつけなければならないし、成功率も高くはない。だったら、より確実な手段を得たい」

 確実な手段、と口にしながら、フリアグネは真名通りの“狩人”の眼で悠二を見据える。獲物を狩る……というよりは、貴重なアイテムを見つけたコレクターの眼だが。

「……なるほど」

 目的と立ち位置が判れば、自然と状況と要求も見えてくる。つまり、取り引きがしたいらしい。

「シャナを、見たんだな」

「御名答」

 判断材料は、まずそれしかない。いくら気配が無いといっても、別にシャナは透明人間ではない。感知能力に長けている訳でもないし、死角から一方的に姿を見られる事もあるだろう。

「私もマリアンヌを復活させて貰う時に『復元』の自在法を目の前で見ているが、あれはまともなやり方では到底集められないほど莫大な存在の力が必要だ。君があれを成し遂げたという事は……既に持っているんだろう? 『零時迷子』を核とした、存在の力の精製法を」

 ……完全に、バレている。いつまでも隠し通せるとは思っていなかったが、こんな形で目を付けられるとは思わなかった。

「(いや、悪くはないのかな)」

 相手が相手だ。これくらいの事は予想されているかも知れないとは思っていた。しかし「シャナを見たのか」と開き直って見せた時のフリアグネの反応から見るに、フリアグネがこの事実に気付いたのは ついさっきだ。準備万端で備えられているよりは遙かにマシである。

「信じられないな。『アズュール』だけじゃ駄目なのは判ったけど、僕に取り引きを持ち掛ける動機としては弱すぎる。より確実な手段って言うなら、このまま『仮装舞踏会』に協力してた方がよっぽど確実な筈だ」

 全く合理的にフリアグネの矛盾を指摘する悠二に、

「それは、『仮装舞踏会』が勝った場合の話さ」

 ごく当然といった風に、フリアグネは答えた。逆に悠二の方が面食らう。

「『革正団』の時も、私は状況に合わせて どちらの味方にもなれる用意をしていた。あのまま そこのお嬢さんが“戯睡郷”に乗っ取られ、『革正団』が勝利するようであれば、私は『トリガーハッピー』を“螺旋の風琴”に渡す事なく、『革正団』の協力者として『敖の立像』の余剰エネルギーを貰い受けるつもりだったからね」

「……それをよく僕の前で言えるな」

「元々、全面的に協力する気はないんだよ。私が『仮装舞踏会』と手を切って君たちに味方する、なんて言っても冗談にしかならないしね」

「そりゃそうだ」

 要するに、『仮装舞踏会』が勝っても悠二達が勝っても、マリアンヌを『転生』して貰える。そういう状況をフリアグネは作りたいのだ。
 いっそ天晴れなまでのコウモリ主義だが、一応筋は通っている。この場で細かく追求する気はないが、恐らくベルペオルが信用出来ないという事もあるのだろう。直接話した事はないが、恐ろしく悪辣な策謀家という話である。
 だが、やはり、腑に落ちない。

「それにしても……僕たちが勝ったら、か。随分高く買ってくれたもんだ」

 悠二達が勝利する可能性を考慮して敵と内通するなど、博打にしか思えない。悠二達には分の悪い賭けだと知っても命を懸けて臨むだけの理由があるが、フリアグネは違う。
 しかし、

「もちろん、買うさ。現に君はこうして、踏み入る事など出来ない筈の『星黎殿』に現れた」

 フリアグネはまたしても、理屈に合わない確信で返した。

「愛というものは、時としてあらゆる“絶対”を覆す途轍もない力になる。私の可愛いマリアンヌが、今ここに存在しているように、ね」

「フリアグネ様……」

 蕩けるような瞳で傍らの花嫁の頬を撫でて、見つめ合う。
 その言葉に、その姿に、悠二の背筋がゾクリと粟立つ。口先の誤魔化しや冗談では有り得ない、彼と彼女だからこその重さがそこにはあった。
 危うく吞まれそうになる感情を制して、悠二は努めて冷淡に話を進める。

「で、僕がその要求を飲んだ場合のメリットは?」

「私が知る『仮装舞踏会』の情報全て。それに、君たちに奪われた『アズュール』と『コルデー』もそのまま譲ろう」

「へえ、太っ腹だな」

「そうでもないさ。『仮装舞踏会』の情報なんて私には何の価値も無いし、マリアンヌを『転生』させられるなら指輪くらいは安いものだ。君達が殺されるような事があれば、回収させて貰うしね」

「……ああ、そう」

 悠二はしばし、考える。
 普通に考えれば、フリアグネは信用ならない。もし自分が『仮装舞踏会』の立場なら、こんな部外者に重要な情報は与えない。フリアグネの持つ情報全てと言っても高が知れているだろう。
 ……だが、今は完全に未知数のまま飛び込んだ敵の本拠地の中。正直なところ、僅かな情報だろうと喉から手が出るほど欲しい。それに何より、ここでフリアグネと戦うのは避けたい。只でさえ神やその眷属に挑もうというのに、その前にこんな厄介な王と矛を交えるなど御免である。

「(だったらいっそ)」

 悠二の中で、答えが出る。それを口に出そうとした刹那───空が砕けて、陽光が降り注いだ。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「な、何という事だ……!」

 貫かれる『マグネシア』を、砕かれる『秘匿の聖室』を、フェコルーは自在法に映し出された光景の中で見ていた。
 まさに前代未聞、かつてない失態に目眩を起こして蹌踉めく。決して自惚れていた訳ではない。破られてしまうのではないかという緊張と常に戦っていた。
 それでも、結果として、破られた。

「(いやっ、『虹天剣』の威力に戦慄しておきながら『マグネシア』の防壁のみで対処しようとした私の失態……!)」

 気弱な悪魔は、大いに、大いに後悔する。気を抜けない、と考えながら、防げる前提で備えていた。知らず驕っていた己の慢心に、常ならば滅多に感じない憤激が湧き上がる。

「(しかしまだ、護るべき物は残っている!)」

 『秘匿の聖室』を砕かれた事も、『星黎殿』の守護者として許されるものではない。だが今は自罰心に沈んでいる暇など無い。『秘匿の聖室』より、『星黎殿』より大切な『神門』がまだ残っていて、今やいつ砕かれてもおかしくない危機に曝されているのだ。
 こうしている間にも、“虹の翼”が『神門』を狙っているかも知れない。もう迷っている暇は無かった。

「(防げぬならば、元から断つ他ない)」

 松明型の宝具『トリヴィア』を起動させ、空間に『銀沙回廊』を作り出す。『星黎殿』内部を自在に繋げる特殊な通路の続く先は、『星黎殿』要塞部。

「私自身が責任を持って、“虹の翼”を排除する」

 生まれて初めてと言っても過言ではない決意と使命感を持って、“嵐蹄”フェコルーが戦場に舞い降りる。






[37979] 9ー14・『シャナVSプルソン』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/01/22 19:57

 夜空が砕けて、陽光が降り注ぐ。有り得てはならない、前代未聞の事態から程なく……おそらくは三十秒と経たずに、『星黎殿』要塞部の光景は一変した。

「(ふ、ん……? 流石にやるな)」

 慌ただしく銀の鎧と戦っていた数多の禁衛兵が、波が引くような淀みない動きで要塞内部に引っ込んで行く。
 ある者は内部の潜入者を探しに、ある者は岩塊部下方から出撃を開始している直衛軍と合流しに、鎧の群れを油断なく牽制しながら。この異常事態で慌てる事なく命令を機敏に熟せるとは、相当に鍛えられている。

「(目の色を変えて襲って来ても良い場面だが、迷わず退いたとなると……)」

 『マグネシア』を貫ける敵など、一刻も早く始末したいに決まっている。でありながら兵を退く意味。それに気付いて文字通りに燃えるメリヒム───の頭上から、立方体の塊が降って来た。

「お出ましか」

 跳躍によってメリヒムが躱した瞬間、さっきまで立っていた尖塔が撃ち抜かれた。硬く、速く、重い打撃の余波で、砂城を叩くように崩壊する。
 奇襲をしくじり、もはや隠れる意味はないと判断してか、向かいの城壁の壁……そこに浮かんだ銀の穴から一人の男が姿を見せた。
 悪魔の如き角、翼、尻尾を備えた、冴えない中年の男。お世辞にも強そうには見えない外見と、外見に見合わない破格の実力を持つ嵐の守護者。

「“嵐蹄”、フェコルー」

 怪物と呼ぶに相応しい強敵の来訪を、『両翼』の右は好戦的な笑みで以て迎えた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 侵入後、真っ先に『秘匿の聖室(クリュプタ)』を破壊する。それが叶わなければ、フェコルーを倒して『マグネシア』を解除する。並行してヘカテーを捜索、発見し、説得する。運良く敵の重要施設や宝具を見つければ、それを破壊する。
 『星黎殿』の構造も何も判らない当初の計画では、それが大まかな方針だった。

「では、既に彼は“嵐蹄”と交戦を?」

 ヴィルヘルミナもまた、シャナやマージョリーと同じく、白い着ぐるみで気配を隠蔽して要塞内部を探っていた。
 シャナのように王と遭遇する事もなく、姿を見られた敵は速やかに排除し、極めて順調に奥へ奥へと潜っていたのである。

【ああ、上にいた徒はこぞって内部に引っ込んだ。難しいと思うけど、何とか切り抜けて上がって来てくれ。あいつを倒して、鏡の奥に向かう】

 その最中、異様な気配の顕現から僅かに遅れて、悠二からの『遠話』が届いた。
 曰く、ヘカテーや『三柱臣(トリニティ)』は『星黎殿』におらず、神を取り戻すべく中天の黒鏡の向こうに行った、と。

「……陽動を担っていた貴方が、どのような経緯でそんな情報を?」

「不審」

【想像に任せる。それより、早くしないと袋の鼠になるぞ】

 平坦な声に出来る限りの猜疑心を込めて問い返すも、軽く流して『遠話』を切る悠二。とても怪しいが、確かに問い詰めている時間は無い。

「しかし、どうしたものでありますかな」

「脱出困難」

 音も無く暗い通路を走りながら、ヴィルヘルミナは思案する。
 元より無駄骨は覚悟の上だが、なまじ順調に潜入していただけに戻るのは容易ではない。流石に道順を忘れたなどという間抜けな真似はしないが、このタイミングで大兵力を投入してきたとなると、来た道をそのまま戻るのは上手くない。破壊力に乏しい彼女は、狭い場所での強行突破は得意ではないのだ。やられる気は更々ないが、少し時間が掛かりすぎる。

「………………」

 考えながらも、ヴィルヘルミナは足を止めない。直感レベルでは、既に答えは出ていた。

「(“嵐蹄”は、どうやって要塞部に向かった?)」

「(近道)」

 即ち、来た道ではなく、フェコルーが通った道を使うという事だ。
 根拠は無い。経験則に基づいた勘に過ぎないが、フェコルーは岩塊部のかなり奥で指揮を執っていたとヴィルヘルミナは考える。そして、メリヒムが『秘匿の聖室』を壊してからフェコルーが現れるまでの間隔から見て、恐らくは最短距離で脱出できるルートが存在する。
 その為にはまず、

「(“嵐蹄”が指揮を執っていたと思われる司令室を見つけるのであります)」

 右も左も判らない敵の本拠地に在っても、ヴィルヘルミナは冷静に目標を目指す。
 その実直さから従軍経験に厚く、でありながら単独任務を担う事の多かった彼女は、このテの潜入任務に慣れていた。

「なっ!?」

「フレイム───」

 また二人、遭遇した徒の首を純白のリボンが斬り飛ばす。その敵の配置、遭遇してから討滅されるまでの挙動、目線の動きを瞬時に看破し、また走る。判断材料と呼ぶには余りにも小さな情報を、戦士の直感で無理矢理に繋いで、不確かな道程を駆け抜ける。

「喰らえ!」

 曲がり角に差し掛かった直後、通路を埋める程の炎弾がヴィルヘルミナを狙い撃った。
 タイミングは悪くない。気配を隠しているヴィルヘルミナを待ち伏せして見せたのも評価できる。だが、少しばかり気配の予兆が大きすぎた。

「甘いであります」

「失笑」

 着ぐるみが一瞬にして盾となり、表面に光る桜色の自在式が炎弾を『反射』する。
 逃げ場の無い砲弾は使い手に跳ね返り、暗闇の中で鮮やかに咲いた。爆圧よりも高熱を誇る炎は、瓦礫の崩落など起こさない。壁を、床を、天井を、煮え立つ溶岩に変えて刳り抜いた。
 その中で、

「舐めるなぁ!」

 ただ一人、無傷で立っていた男がヴィルヘルミナに挑み掛かる。跳躍の最中、その全身が隆々と膨れ上がり、精悍な顔は恐ろしい牛頭へと変じる。担がれた大斧が尋常ならざる重さと速さを以て───

「あ?」

 すれ違い様、“牛の頭を斬り落とした”。振り抜く瞬間に絡められた、たった一条のリボンによって。

「なるほど」

 火花を噴いて消えていく徒……否、王の姿を見届けて、ヴィルヘルミナは吐息を漏らす。結果だけ見れば一瞬だが、その膂力はカムシンと比べても遜色なかった。呆気なくやられたのは、単純に相性の問題である。

「(これほどの王が待機していたという事は)」

 溶岩を越えて、更に奥へと歩を進める。今の戦いで他の敵が集まって来るのも時間の問題になったはず。ますます急がなければならない。
 そんな理屈とは裏腹な確信めいた予感を抱いて、ヴィルヘルミナは最奥の扉を開いた。

「これは……」

 そこに広がっていたのは、巨大な竃を中心に据えた広大なドーム。広大でありながら無人、それに反して絡み広がる自在式の痕跡が、この場所の特殊性を匂わせていた。

「(ここに“嵐蹄”がいた……のでありましょうか)」

「(推測不要)」

 考える前に動け、というパートナーの指示に嘆息し、一歩を踏み出そうとするヴィルヘルミナ。

【やはり、ここまで来てしまったのか】

 その耳に、懐かしい声が届いた。

「っ貴女は」

 見る間に白い羽根吹雪が渦を巻き、ドームの中央、大竃の真上で弾けた。
 天使の羽撃きを思わせる幻想的な光景の中に、一人の少女の姿がある。紫の短い髪と折れそうなほど華奢な体躯を持つ、儚げな美少女。

「“螺旋の風琴”、リャナンシー」

 アラストールを死に追いやった一人。シャナを蘇らせる手掛かりを残した者。そして……数百年からの知己。

「(やはり、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』に……ッ)」

 複雑な思いが微かに出足を鈍らせ、しかしリャナンシーの右手の動きを鋭く察知して地を蹴った。
 紅世最高の自在師と言っても、彼女自身はとても小さな徒だ。当たれば終わると、幾条ものリボンを矢のように放った。細い身体を一瞬にして白条が絡め取り───霧のように掠れて消えた。

「(幻術……!?)」

 ヴィルヘルミナは即座に踵を浮かせて視線を巡らせる。脆いリャナンシーが堂々と姿を見せた時以上、これくらいの事は想定済み。どんな自在法が飛んでくるかと身構えるヴィルヘルミナの背後で───松明が一つ、轟然と弾けた。

「むっ」

 死角から迫る炎の帯を、ヴィルヘルミナは苦も無く軽やかに回避する。しかし……否、やはり、攻撃はそれで終わらない。広大なドームを照らす膨大な松明全てから、矢雨のように炎の帯が飛んでくる。そこまで大きな力の気配は感じないが、相手は紅世最高の自在師だ。迂闊に防御する訳にもいかない。
 しかし、

「(遅い……!)」

 逃げ場など無いように見える深緑の猛威を、ヴィルヘルミナは全て紙一重で躱し続ける。まるで全ての攻撃をスローモーションで捉えているかのような信じ難い“見切り”である。

「流石だな」

 それでも、リャナンシーは顔色を変えない。竜をも殺すヴィルヘルミナの絶技を、彼女もまた承知している。
 そう、“躱されると判っていた”。

(パチンッ)

 見えない何処かで、軽妙に指が鳴る。途端、ヴィルヘルミナの周囲に犇めいていた炎の帯が弾けて、複雑怪奇な火線を描いた。
 それは規則正しく並べられた松明の配置を利用した、ドーム全体を使った自在陣。

「(マズい……!)」

 気付いたところで、既に遅い。色すら失う輝きの渦に、仮面の討ち手は呑み込まれていった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 薄暗い迷宮を、群青の獣が疾走する。向かう先は『星黎殿』要塞部、対するは『仮装舞踏会』禁衛員。
 にも係わらず、そこに激しい戦闘音は無い。静寂の中、『トーガ』の獣が無人の通路を進み、

「(ッ……)」

 遠目に一瞬、何かが光った。と気付くや否や、獣の衣に身を包んでいたマージョリーは後退する。一拍遅れて飛んできた破壊の咆哮を、自在式の盾が間一髪受け止め……切れずに、吹き飛ばされて硬い床を水切りのように転がった。

「(痛ぅ~……下っ端でこれとか、先が思いやられるわね)」

「(天下の『仮装舞踏会』の根城だからなぁ。そりゃ雑魚ばっかなわきゃねーだろうよ)」

 悠二からの『遠話』を受けて上階を目指したのは、ヴィルヘルミナだけではない。マージョリーらも同じく外に出ようと動き出していた。
 結果、殆ど同時に要塞内に雪崩れ込んだ迎撃部隊と見事に鉢合わせてしまったのである。

「(完全に地の利を取られてるわね。グズグズしてたら挟み撃ちにされるかしら)」

 その筆頭が、獅子頭の王。どうも複数の喇叭から不可視の衝撃波を放つ自在法を使うようで、この威力がまた凄まじい。
 加えて、使い方も厄介だった。生み出した喇叭を部下に持たせ、『遠話』による合図を受けて獅子が咆哮を繰り出す。それを要塞内部の構造を完璧に把握した禁衛員が、逃げ場の乏しい迷宮で使って来るのだ。変幻自在を旨とするマージョリーにとって、最悪に近い戦法である。
 もっとも、マージョリーもそんな事は百も承知で動き回っている。

「(雑魚はだいぶ引き付けたし、後は任せたわよ)」

 勝ち誇った笑みを、『トーガ』の衣が覆い隠した。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「(妙だ)」

 兵を率いて侵入者を追い詰める獅子……プルソンは、湧き上がる部下達とは真逆の警戒心を抱いていた。
 彼が操る喇叭『ファンファーレ』は、破壊の咆哮『獅子吼』を繰り出す砲門となる強力な自在法だ。それを部下に持たせて地の利を生かし、追い詰める作戦は間違っていないと、今でも思う。だが、敵を発見する頻度が多すぎる。

「(『ファンファーレ』の無い道から回り込めるとでも考えているのか? それとも、こちらの包囲を抜けて上に向かおうとでも?)」

 頭に浮かんだ可能性を、プルソンは頭を振って否定する。
 プルソンに至る道、屋外に至る道、全てが既に封鎖ずみだ。攻めるにしろ逃げるにしろ、『ファンファーレ』を構えた部下を正面から突破する他ない。そう仕向けた。
 そして、そうと気付けないほど呑気な相手ではない筈だ。となると、悪足掻きのように見える行動は、わざとそうしている事になる。

「(敢えて注意を引き付けている。つまりは陽動。やはり侵入者は他にもいる)」

 マージョリーとは逆方面の部隊に注意を促そうと『遠話』を繋ごうとしたプルソンは、

【プ、プルソン様ぁ……!】

 その矢先で逆に『遠話』を受けた。考えるより先に該当する『ファンファーレ』から『獅子吼』を放ち、そして……『ファンファーレ』の反応が消えた。

「……何だと?」

 撃つ前に破壊されたのではない。確かにプルソンは『獅子吼』を放った。だが現実に、発動の直後に『ファンファーレ』は破壊されている。
 狭い通路で『獅子吼』を凌ぎ、逆撃に転じたというには、余りにも早過ぎる。

「(正面から『獅子吼』に攻撃をぶつけ、押し勝ったというのか。だとすれば、逃げ場が無いのは我々の方……!)」

 当然のように『遠話』も通じない。隊の編成を組み直す暇もなく、同胞の悲鳴が聞こえ、少しずつ大きくなってくる。

「プルソン様、逃げて下さい!」

 通路の向こうから、怯えきった蟷螂が逃げて来た。開口一番の腑抜けた台詞に一喝する……

「奴は、自在法を───」

 より一瞬早く、背後から真っ二つに断ち切られた。左右に割れた蟷螂の奥から姿を現したのは、凶悪な大太刀を握る黒髪の戦巫女。

「(気配が、無い?)」

 目の前にいるのに全く気配を感じない。亡霊とも見える小柄な少女は、その左眼を紅く燃やして地を蹴った。
 疾い。しかし、プルソンの反応が僅かに上回る。

「ッゴァアアアアーーー!!」

 大太刀を振りかぶる少女を、プルソンの『獅子吼』が至近距離で捉えた。大気を揺るがす破壊の咆哮が少女の身体を“すり抜ける”。

「────────」

 その瞬間、プルソンは目の前で何が起こったのか理解できなかった。
 本能的に構えた右腕を、微かな翳りすら持たない斬撃に切り落とされて、

「お……おおおおぉぉぉーーーッッ!!」

 切られた腕が鉛丹色の火花を噴き出すのを目の当たりにして、漸く理解した。己の放った自在法が、まるで微風のように敵を素通りした事を。

「(幻術!? いや、そんな気配は……違う! 気配そのものが無いのだ! 大体、幻というなら何故わたしの腕が───)」

 混乱の極みにあるプルソンが立ち直るのを待つほど、眼前のミステスは親切ではない。返す刀で二の太刀、三の太刀が繰り出され、プルソンは俊敏なバックステップで危うく躱す。紙一重の所を過ぎた刃が、豪奢な鬣を幾分散らした。

「っがあ!!」

 腕の痛みも心中の揺らぎも猛る戦意でねじ伏せて、プルソンはガムシャラに吼えた。
 不可視の衝撃波は少女の身体を再び素通りし、しかし頭上の天井を崩した。砕けた瓦礫の崩落に、巫女は初めて目の色を変え、距離を取って躱した。

「(そうか! 『天目一個』!)」

 自在法の効かない、刀のミステス。絶対の危機の中で、プルソンは伝説の怪物を連想する。歴戦の戦士たる彼は、咄嗟の閃きから即座に動く。
 己の身の丈を越える瓦礫に片手を添えて、存在の力で『強化』し、自在法『獅子吼』を、瞬発力を極限まで下げて“押すように”吹き付けた。

「消えなさい! 忌まわしき亡霊よ!!」

 互いに逃げ場の無い空間。敵の特性を咄嗟に見抜いて先手を仕掛けたプルソンの判断は、間違ってはいない。

「消えるのは、お前よ」

 ただ一つ間違っていたのは、目の前の少女……シャナは、己を捧げる主を求めて剣のみを振るっていた怪物ではない、という事だ。

「燃えろ!!」

 瓦礫が砕ける。
 咆哮が爆ぜる。
 『天目一個』には有り得ない紅蓮の劫火が、手負いの獅子を噛み砕いた。






[37979] 9ー15・『VSフェコルー』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/01/28 12:25

 サーベルの切っ先に意識を集中し、全霊の力を叩きつけるように『虹天剣』を放つ。渾身の虹が鉄壁の嵐を一息に貫き、中空の悪魔に迫った。

「む……っ!」

 即座にフェコルーは防御する。粒子の嵐ではなく、凝結させた分厚い壁状の『マグネシア』を翳し、“貫かれる前に退避する”。

「(やはり、簡単には当てられんか)」

 不満な結果にメリヒムは小さく舌打ちする。全力の『虹天剣』なら『マグネシア』を破れるが、いつものように一瞬で貫通できる訳ではない。数秒『マグネシア』で防ぐ間に軌道から逃げるだけで、フェコルーは最強の虹を悉く避けていた。

「(もう一度、やってみるか……!)」

 意を決して、メリヒムは飛翔する。七色の翼を広げて猛然と嵐の領域を突き進み、

「くっ……」

 その中に吹き荒れる臙脂色の粒子に打たれ、全身を鑢掛けされるような痛みに呻いた。
 呻いて、しかし、並外れた集中力で虹を練り上げ、突き出した。多少なりとも距離を縮めて放たれた一撃は、容易く防御、回避される。

「(なるほど、確かに鉄壁だ)」

 防御出来ない距離から撃てば、という戦法も通じない。
 粒子の『マグネシア』では『虹天剣』を止められない。にも係わらずフェコルーが嵐を展開し続ける理由がこれだ。接近を許さない事で敵の攻撃を遠距離に絞らせ、確実に対処している。
 部下を全て屋内に引き揚げさせたのも当然だ。これだけ大規模の自在法なら、下手な増援は逆効果になる。味方を『マグネシア』に巻き込まないよう注意しながら戦うなど、有り得ない愚策だろう。
 何せ他の禁衛員全てを合わせた戦力よりも───フェコルー一人の方が強いのだから。

「(仮に『空軍(アエリア)』があっても、あれの突破は難しいか)」

 粒子のこびり付いた重たい身体を、それでも高速で飛翔させながら、メリヒムは飛び来る立方体から逃げ回る。
 強力だが単発の一撃を、盾で防いで危なげなく避けるフェコルーと、数多の立方体を必死に躱すメリヒム。どちらが優勢かなど考えるまでもない。
 メリヒムが歯噛みする一方で、

「(不味い、不味い、不味い、不味い……!)」

 その何倍もの焦燥に、フェコルーは駆られていた。
 元々フェコルーは『星黎殿』を任されるほどの重臣だ。『秘匿の聖室(クリュプタ)』を守る『マグネシア』に手加減などしていた筈がない。……だからこそ、こうして交戦に臨んだところで、『虹天剣』を防ぎ切れないのも必然だった。
 そして『虹天剣』を防げない以上、メリヒムが健在である以上、『神門』の破壊というリスクは絶えず付きまとうのだ。

「(早く、早く、早く倒さねば……!)」

 嵐を広げ、鉄壁を翳して、堅実な護りを続けながらも、フェコルーは立方体を飛ばしてメリヒムをしつこく攻撃し続けていた。
 一つは勿論、一刻も早くメリヒムを討つ為。もう一つは、攻撃によって自分の脅威をメリヒムにアピールし、『“神門”に攻撃する』という選択肢から少しでも遠ざける為。
 メリヒムは渾身の『虹天剣』で『マグネシア』を破れる。言い換えれば、研ぎ澄ました一撃でなければ貫けない。攻撃の回転ならばフェコルーに分がある。それでも捉えられないのは、焦りによる所が少なくはないだろう。

「(使うか?)」

 その焦りが、フェコルーを衝き動かす。だが、裏腹に、司令官としての理性が安易な軽挙を諌めてもいた。
 既に、プルソンともウアルとも連絡が着かない。もし彼らが討たれたとすれば、“虹の翼”と同等以上の使い手が複数残っている事になる。そんな状況で、不用意に手の内を晒して良いものか。
 焦燥と抑制が鬩ぎ合いながら、メリヒムが『神門』を狙う気配を見せない事も重なって、二人は決着の見えない射撃戦を続けていた。
 だが、その均衡も長くは続かない。

「──────」

 不意に強烈な気配を感じて、フェコルーが振り返る。その視線の先に───燦然と燃える銀の大蛇の姿があった。

「ぬお!?」

 バチバチと粒子を焼きながら嵐を突き抜けて来る大蛇を、咄嗟に張った壁で防いだ。銀蛇の牙は臙脂色の盾にぶつかって爆炎を撒き散らすも、『虹天剣』のように壁を突き破りはしない。円形の防壁は表面を焦がしながらも健在だった。

「悪いけど、横槍を入れさせて貰う」

 緋色の鎧と凱甲を纏い、長い竜尾を後頭から伸ばした少年が、嵐の向こうで黒刀を向けている。

「(坂井悠二、ですか……)」

 新たな難敵の出現に───フェコルーは刀の柄を握った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「出し惜しみ出来る相手じゃないしな」

 剣を持たない左の掌を、悠二は天に向けて振り上げる。途端、フェコルーを中心に展開された粒子の嵐、それを更に『グランマティカ』が覆った。
 連なった半透明の蛇鱗が、内に燃える自在式を星座のように繋ぎ合わせて、

「喰らい尽くせ」

 全方位から、八岐の銀蛇がフェコルーに襲い掛かった。生半可な自在法なら粒子だけで削り落としてしまう暴嵐の渦を、灼熱の蛇は一息に突き抜けて───

「はあっ!」

 内側から爆発的に膨れ上がった球状の『マグネシア』に遮られて、弾けた。空を丸ごと照らす銀炎の坩堝に呑み込まれてなお、鉄壁の塊は小揺るぎもしない。

「(大御巫の想い人。出来る事なら傷付けたくはありませんが……)」

 『マグネシア』の中、鉄壁に守られた安全地帯で、フェコルーはほんの僅か気を抜いた。その無自覚な油断は、

「(っ!? いや、マズい!)」

 間一髪の所で、醒めた。
 激しい擦過音に僅か遅れて、後方の『マグネシア』を解いて飛び退る。
 その片翼を───鉄壁を貫いた破壊の閃虹が消し飛ばす。

「ぐ……うっ……!」

 怯むフェコルーを、再び銀炎の大蛇が襲う。今度は一匹、しかしフェコルーの周囲を取り囲むように蛇身を踊らせ、爆ぜた。

「(また、これか……!)」

 激痛を押し殺して『マグネシア』で爆炎を防ぐフェコルーは、またしても鉄壁を貫いて来た『虹天剣』から必死で逃れる。

「(……癪だけど、メリヒム様々だな)」

 用意していた作戦の予想以上の効果に、悠二は内心で感嘆する。
 フェコルーの『マグネシア』は強力無比な防御陣だ。周り全てを鉄壁で守れば一切の攻撃は通らない。だが、いざ『マグネシア』を貫ける攻撃を受けた時、全方位に張った防壁は術者を閉じ込める檻になってしまう。
 だから悠二は全方位に『マグネシア』を張る防御を誘発し、メリヒムはそのタイミングに合わせて『虹天剣』を撃つ。『虹天剣』が『マグネシア』を貫けたからこそ成り立つ戦法である。

「(このまま押し切る……!)」

 一気に畳み掛けようと銀炎を燃やす悠二。その狙う先に、立方体の塊が顕現した。

「え……」

 悠二は一瞬、こちらが攻撃するまでもなく防御を張ったのかと思った。というよりも、攻撃なのか防御なのか判別できなかった。
 それほど巨大な───ビル程もある臙脂色の立方体。

「(デカい! しかも速い!)」

 力負けしてしまうメリヒムに対しては使われなかった攻撃。それが功を奏してか、悠二の反応が微かに遅れた。
 そして自在式の連結を発動工程に含む悠二の『グランマティカ』にとって、その微かな遅延は致命的だった。

「はあっ!!」

 苦し紛れに渾身の炎弾を叩きつける。銀の炎が溢れかえり、熱を帯びた大気が肌に突き刺さる。
 その炎の向こうから、巨大な塊が降って来る。

「──────」

 『星黎殿』を揺るがせる程の大打撃が要塞を叩き、粉塵と瓦礫が巻き上がった。
 その瓦礫の雨を、小さい影が跳ねていく。

「…………?」

 逆撃に備えていた筈のフェコルーは、その影を数秒、捉え損ねた。より正確には、瓦礫の上を跳ねる何かを敵だと認識できなかった。
 何故ならその影からは、人間ほどの気配すらも感じ取れなかったから。
 その特性を最大限に利用して、

「ッはあああぁ!!」

 “シャナ”は、吼えた。
 振り上げた大太刀から紅蓮の奔流が迸り、灼熱の顎門が頭上のフェコルーに向かって伸びる。
 全く気配を持たない少女から放たれた強力な自在法。静から動への急激な変化。そして何より、失われた筈の紅蓮の炎。
 それら、動揺を誘うには十分な要素を前にして……フェコルーは見事に反応する。下方への障壁を即座に展開し、劫火を阻んだ。同時に、タイミングを合わせて撃たれた『虹天剣』にも広大な『マグネシア』を張る。
 悠二のような全方位攻撃でなければ、同時に対処する事は可能なのだ。
 が、

「(紅蓮のミステス!? “天壌の劫火”は死んだ筈では!?)」

 直感のみで反応したものの、内心では大いに大いに動揺していた。
 下方に展開した『マグネシア』を足場に、一足跳びに『虹天剣』の軌道から逃れて、

「え──────」

 ふくらはぎから盛大に火花を噴いて、転倒した。真下から、『マグネシア』の下から伸びて来た大太刀の切っ先に触れて。

「次は、斬る」

 大太刀と共に、オッドアイの戦巫女も『マグネシア』から生えて来る。破壊どころではない。少女は完全に『マグネシア』を無視していた。

「(て、てて、『天目一個』……!?)」

 『マグネシア』を解いて、フェコルーが逃げる。その頼りない背中を、紅蓮の羽衣を広げてシャナが追う。

「(逃がさない)」

 ウアルを追い詰め、プルソンを倒し、シャナは自身の特性をより強く実感していた。自在法を無視して距離を詰め、斬る。恐ろしく単純な戦法が、この上なく有効であると。
 先ほどは『マグネシア』に隠れたせいで逆に視界を塞がれ、急所を外してしまったが、今度こそは仕留める。

「(私の方が、速い)」

 片翼の背中に炎弾を投げ放つ。フェコルーも即座に障壁を張ってこれを防ぐが、すぐさま横合いから『虹天剣』を狙い撃たれて飛び退った。
 不安定な体勢のフェコルーに向かって、シャナは一気に加速、肉薄する。

「ぇやあ!」

「うわぁ!」

 鋭い斬撃の切っ先を、フェコルーの曲刀が辛うじて弾く。しかしシャナは止まらない。必死に距離を取ろうとする悪魔に、途切れる事なき斬撃の嵐を繰り出し続ける。

「「ッ!?」」

 不意に、切り結ぶ二人を虹の一撃が狙い撃った。『マグネシア』さえ貫く破壊の光線に射抜かれても、シャナには傷一つ無い。
 逆にフェコルーは……今度は“左腕を失った”。

「(やっぱり、強い)」

 シャナには自在法が効かない。敵のものも、味方のものも。それは即ち、高速の近接戦闘の最中でも、何の遠慮もなく援護射撃が出来るという事だ。
 シャナの神速の剣を捌きながら不意の『虹天剣』を躱すなど尋常ではない。片腕で済んだだけでも、フェコルーは大したものである。

「終われる……ものか!」

 『虹天剣』を恐れてか、フェコルーが『マグネシア』の壁を張る。だがやはりダメージが大きいのか、それは人間大程度の大きさしかなかった。
 シャナは能力に驕って突っ込んだりはしない。彼女にとって『マグネシア』は障害にこそならないが、通り抜ける瞬間視界は塞がれる。既にシャナの特性を理解したであろうフェコルーに対して、その一瞬はあまりにも危険だ。『マグネシア』を抜けた直後を待ち構えられたら、確実に防げる自信など無い。

「(あれくらいの大きさなら)」

 全速力で回り込む、その為に加速したシャナは、

「ッ──────」

 その背中に───鮮血の花を咲かせた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 弱々しい滑空から、完全な落下を始めたシャナの身体を、

「シャナ!」

 意識を取り戻した平井ゆかりが、受け止める。背中に回した掌に、ベットリと温かい血が付いた。

「(止まったらヤバい!)」

 シャナを抱えたまま、平井はジグザグに飛びながら要塞の死角に逃げ込む。シャナが何をされたのか、下にいた彼女にはハッキリ見えていたのだ。

「(あの時、刀身が消えてた)」

 シャナと自分の間に壁を張ったフェコルーは、誰もいない空間に向かって曲刀を振り下ろしていた。その瞬間、曲刀の刃は姿を消し、直後にシャナが血を噴いた。
 宝具なのか自在法なのかは判らないが、

「(空間を超えて斬撃を放つ能力……!)」

 『マグネシア』だけでも厄介極まりないのに、とんでもない隠し球である。あんな能力の前では何処に逃げても無駄……とは、思わない。
 何故なら、今シャナが生きているからだ。

「(ここなら多分、大丈夫)」

 空間を超えた斬撃。どれだけ離れていても死角から急所を斬り放題とも見える能力を使ったにも係わらず、シャナは生きている。背中の傷は確かに深いが、致命傷という程ではない。
 つまり、恐らく、あの斬撃の操作は“目分量”なのだ。こうして要塞の中に隠れてしまえば、フェコルーの視界から消えてしまえば、あの斬撃は来ない。
 シャナの急所を外したのも、能力を使う瞬間を隠す為に『マグネシア』で互いの視界を遮った事が一因だろう。

「(とりあえずシャナの止血を……)」

 周囲に敵がいない事を確認してから白衣を脱がせる平井。
 その頭上から、

「んべ!?」

「……むむ?」

 唐突に壁から現れたヴィルヘルミナが降ってきた。

「ここは……なるほど、あれは転移に属する自在法だったのでありますか」

「複雑」

「……でありますな。やはり彼女も、本心で我々と争いたい訳では」
「いーから下りろ-!」

 ヴィルヘルミナの体重などモノともせず、平井が立ち上がる。空中でクルリと回って着地したヴィルヘルミナは、そこで漸く血まみれで倒れるシャナに気付いた。
 事情を訊くよりまず先に、伸ばしたリボンを包帯のように巻き付けて止血する。

「“嵐蹄”の剣です。何か、好きな場所に刃を転移できるみたいで」

 それを見守りながら、平井が横から説明する。ヴィルヘルミナも空を見上げて、未だ渦巻く嵐に眉根を微かに顰めた。

 そこから離れた瓦礫の山の影で、

「自在法じゃないな。あの曲刀、宝具か」

 間一髪で助けられた悠二と、

「みたいね。チビジャリが動けないんじゃ、私たちでやるしかないか」

 間一髪で助けたマージョリーが、見上げていた。

「兄ちゃんも次はもーちっと気ぃつけな。我が怠惰なる横槍マージョリー・ドーはいつでもどこでも助けてくれるほど優しくねーぜ?」

「うん、今度は油断しない」

 マージョリーにも、『マグネシア』の塊は壊せない。だが、その下の『星黎殿』は別だ。マージョリーは悠二の落下地点を予測して岩盤を事前に砕き、悠二が押し潰されるのを防いだのである。

「じゃ、行くわよ」

「ああ」

 悠二とマージョリーが、虹と嵐がぶつかり合う天を目指す。

 その先で、満身創痍の嵐の守護者が、それを感じさせない毅然とした態度で構えていた。

「(これで『天目一個』は暫くは動けないでしょう)」

 悠二とマージョリーは、傷を塞ぐ自在法も使える。以前のシャナならば短期間で復活させる事も出来た。だが……今のシャナは自在法を無効化してしまう。例えそれが、自身に有益なものであってもだ。
 それを、フェコルーは既に見抜いていた。

「(何という恐ろしい使い手達だ。こんな者共を、『神門』の奥には向かわせられん)」

 命には届かなかったが、それでも十分な深手だ。天敵を排除した安堵が、反撃の余裕を生む。
 依然として『神門』の破壊という事態への焦りはあるが、ならばこそ、グズグズしてはいられない。

「『天目一個』が蘇る前に、決着をつけましょう」

 気弱な王の容貌が───悪魔の如く歪んだ。





[37979] 9ー16・『両界の狭間へ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/02/03 16:33

「ッおおおおお!!」

 まるで似合わぬ荒々しい咆哮を上げて、フェコルーは鉄壁の砲弾を雨のように降らせる。
 外見からは考えられない大質量が超速で飛来し、飛び回るメリヒムを追い詰める。大規模な攻撃は眼下の『星黎殿』にも少なからず破壊を齎している。正に形振り構わずという猛攻だった。

「(ちっ……あの深手でよく動く)」

 降り注ぐ立方体を躱しながら、メリヒムは嵐の向こうのフェコルーから視線を外さない。鬼の……否、悪魔の形相で曲刀を振り上げる様を確認して、直前で反転、加速した。
 そのまま飛んでいたらメリヒムがいたであろう空間を、渾身の斬撃が薙いでいた。

「(情報には無かった。あれが奴の切り札か)」

 あの曲刀の前では、常に敵の間合いに捉えられているようなものだ。いや、あり得ない角度からの斬撃も考慮すればそれ以上の脅威だ。一瞬たりとも気が抜けない。反撃するどころではない。

「(闇雲に攻撃している、訳もないな)」

 飛び来る立方体から懸命に逃げ回る、その先に唐突に刃が出現した。首を狙った斬撃から身を翻して避けるメリヒムの頬から、虹色の火の粉が血のように散る。
 曲刀こそ躱したものの、急に動きを加えた事で飛翔が乱れた。ギリギリで『マグネシア』から逃れた頭上から刃を振り下ろされて、間一髪サーベルで止める。
 次の瞬間、臙脂色の塊がメリヒムの身体を軽々と弾き飛ばした。

「ぐ……っ!」

 強烈な打撃に意識を揺さぶられながらも、メリヒムは直感で背後に剣を振るう。案の定待ち構えていた斬撃を弾くが、そこまでだった。
 先の一撃で飛ばされたメリヒムに殺到する、数多の『マグネシア』には対応できない。

「(『虹天剣』が、間に合わん……!)」

 サーベルを構えて歯を食い縛るメリヒム。その長身に立方体が届く寸前、

「っ!」

 半透明の蛇鱗が顕現し、メリヒムを守った。銀に燃える鱗壁は打たれる毎に軋み、ひび割れ、遂には砕け散る。しかしそれは、最後の『マグネシア』を受けるのと同時だった。

「(坂井悠二……!)」

 メリヒムを倒せる好機を潰された事で、フェコルーの顔が苦渋に歪む。すぐさま視線を巡らせて悠二を探すが、その姿は見当たらない。
 いや……見えないのは悠二の姿だけではない。

「(これは、霧……?)」

 いつの間にか、銀の霞が一帯に立ち込めている。人影どころか巨大な『星黎殿』すら見失うほど濃密な霧が、フェコルーの視界を妨げていた。

「(私の『オレイカルコス』を封じるつもりですか。ですが、こんなもの……)」

 フェコルーの細い眼が、限界まで見開かれる。それに呼応して、彼の周囲を取り巻いていた粒子の嵐が一気に範囲を拡大し、荒れ狂う粒子の勢いが加速する。文字通りの嵐が巻き起こす爆風が、瞬く間に銀霧の結界を吹き散らした。
 とはいえ、これを続けては自らの嵐で結局視界が塞がれてしまう。嵐を弱めて敵影を探そうとするフェコルーの眼に───嵐を貫く銀雷の蛇が見えた。

「(油断も隙も)」

 即座にフェコルーが壁を張る……より一拍速く、蛇が爆ぜた。

「うわぁ!?」

 予想外の攻撃にフェコルーは情けない悲鳴を上げる。しかし、弾けた雷撃の余波すらフェコルーには届いていない。咄嗟に張った障壁が、それすらも完全に防いでいた。

「(狙いは、これか!)」

 だが、この攻撃は直撃が無理でも余波ならば、などという甘い狙いではない事を、フェコルーは自身の状態から理解していた。目の前で弾けた銀雷が、その爆発的な雷光が、彼の視界を完全に灼き潰している。

「っはあ!!」

 迷っている暇は無い。フェコルーは周囲に巡る粒子の嵐全てを、一瞬にして重厚で巨大な球体へと変えた。
 そのままぶつければ『星黎殿』でも墜とせるだろう大質量を纏いながら、フェコルーは油断なく意識を研ぎ澄ませていた。
 この防御でも『虹天剣』は止められない。だが、他の攻撃は全て防げる筈だ。奪われた視覚に頼らず、存在の気配と音だけに意識を集中させ、

「(よし!)」

 『マグネシア』を剔り抜いて来た虹の猛威から、絶妙に空白を作り、逃れた。同様の攻撃が二発三発と続くが、危うい所で全て回避する。
 そうしている内に視力が回復し、フェコルーは『マグネシア』を解除する。その背後に、唐突に新たな気配が現れた。

「(やはりか!)」

 フェコルーは驚かない。解除の瞬間を狙われるのは予測していた。即座に背後に壁を張り、振り返りもせず前方に曲刀……宝具『オレイカルコス』を振り下ろした。
 ────筈だった。

「!?」

 曲刀の柄を支点に、フェコルーの身体が無茶苦茶に回転する。“空間を超えて投げられた”のだと、定まらぬ視界の中で理解した。

「(しまった、今のは『万条の仕手』か!)」

 些か不用意だったとはいえ、空間を超えた斬撃まで投げられるなど完全に予想外である。柄から手を離さなかった自分を、フェコルーは今度ばかりは賛美する。
 その、左右から、

「ここだ!!」

「吹っ飛べ!」

 銀と群青に燃える特大の炎弾が挟撃した。もう何度目か、臙脂色の球体に隠れて防御したフェコルーは、球体から零れ落ちるように『虹天剣』の追撃から逃れる。燃え盛る銀と群青に、肌と片翼を炙られながら。

「(また二人、恐ろしい敵が増えましたか。四の五の言ってはいられませんね)」

 満身創痍とは思えぬ力強い飛翔で、フェコルーは空高くから全ての敵を見下ろした。見下ろして、無数の立方体を全員に繰り出した。

「(一人一人、確実に)」

 “虹の翼”メリヒム。
 『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメル。
 『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。
 逃げ惑う敵の動きを睨みつけ、標的を見定める。そして……十秒に経たずに獲物は決まった。明らかに一番動きが鈍く、竜尾や障壁を多用して『マグネシア』を捌いている少年───坂井悠二。
 『オレイカルコス』で斬り捨てるには、これ以上ないカモである。

「(大御巫……)」

 フェコルーは僅かに躊躇して、

「(申し訳ありません!)」

 しかし、決断する。
 横薙ぎに振るわれた曲刀から刀身が消え、

「っが……!?」

 悠二の背後。通常ならば考えられない、竜尾と背中の僅かな隙間から現れ、凱甲の僅かな隙間に刃を叩き付けていた。
 皮を裂き肉を切り臓腑に迫る凶刃を受けて……

「く、そ……外れか」

 首か顔を斬られると踏んでいた坂井悠二は、悔しそうに呟いた。

「(何だ───)」

 その表情に不吉な予感を覚えたフェコルーは、脇腹を裂くように曲刀を引き抜……“けない”。
 大量の鮮血を流しながら、悠二は己の受けた凶刃を尋常ならざる膂力で掴んでいた。

「(読んで、いたのか!?)」

 予想外の行動に驚くフェコルーだが、何をするまでもない。こうしている間も『マグネシア』の連弾は続いているのだ。
 立方体の一つが、動きを止めた悠二を容赦なく直撃する────と、フェコルーが思った瞬間、

「ぐわぁあああぁあぁ!!?」

 打撃とも斬撃とも違う、形容し難い衝撃が全身を駆け抜けた。
 それは、電撃。『オレイカルコス』を介して空間を越えた、銀の稲妻だった。

「自慢の宝具が仇になっちまったなぁ!」

「ご愁傷様!」

 『マグネシア』の間隙を突いて、『トーガ』の獣が特大の火球を吐き出した。普段なら避けるのに十分過ぎる距離から放たれた一撃が、銀雷に痺れるフェコルーを直撃する。
 悠二が『マグネシア』に弾き飛ばされるのと、フェコルーが曲刀を手放すのは、全くの同時だった。

「(もはや、勝ち目が、無い……)」

 『オレイカルコス』はフェコルーの宝具。それが奪われるという事の意味を、彼自身が一番よく解っている。

「『一つだったらなにもなし、二つだったら少しだけ、三つだったらたくさんで』!」

「『四つだったら小遣い気分! 五つとなりゃあ大・金・持ち』!!」

 マージョリーの繰り出す五つの炎弾が無数に弾けて、回避不可能な猛火の豪雨となって中天の悪魔に殺到する。その一粒一粒が並の炎弾に匹敵する破壊力。
 だがフェコルーは、これを下方に展開した広大な『マグネシア』で難なく凌ぐ。長大な建造物の上にいると錯覚しそうになる臙脂色のステージを、フェコルーはガムシャラに走り回った。その舞台を、天を衝く閃虹が一発ずつ、しかし確実に貫いていく。
 気配察知の自在法の感覚を覚えて、フェコルーは即座に『マグネシア』を解除した。『虹天剣』は防げず、敵には自在師まで付いている。『オレイカルコス』も奪われた。

「(防げぬ……ならば!)」

 臙脂色の炎を撒いて、フェコルーが加速した。この戦いで初めて、自ら敵との距離を詰める。
 真っ先に狙ったのは、ヴィルヘルミナ。

「御覚悟!」

 距離を詰め、加速を付けた状態からの『マグネシア』。硬質の立方体が砲弾以上の疾さで迫り……それ以上の疾さで“投げ返された”。
 とても避けきれる物ではない。全身から鈍い軋みを上げて、軽石のように打ち上げられる。

「(わざ、とか……!?)」

 自在法とはいえ、『戦技無双の舞踏姫』に実体のある攻撃は通用しない。さっきまで立方体から逃げ回っていたのは、こういうタイミングで最硬の攻撃に頼るよう仕向ける為の布石だったのだ。
 悲鳴を上げる身体を奮わせ、強引に飛翔するフェコルー。
 ……その残った片翼が、不意の斬撃に切り落とされる。

「ッッ~~~、やはり、甘くはありませんね」

 縦横無尽の飛翔を止めず、フェコルーは再び現れた敵を見る。
 脇腹を裂かれ、『マグネシア』に叩き落とされ、血まみれの身体で空へと昇る、坂井悠二。その手に在るのは、フェコルーの宝具『オレイカルコス』。

「終わりだ、“嵐蹄”フェコルー」

 空間を超える曲刀。あの宝具の前では、『マグネシア』の防御は意味を為さない。……いや、感知能力に長けた自在師が相手では、使わない方がマシだろう。

「はあっ!!」

 万条の刃が襲い掛かる。

「往生際が悪いわよ!」

 群青の自在式が追い縋る。

「くたばれ」

 虹の閃光が迫り来る。

「ヘカテーに会うんだ。邪魔するな!」

 そうして逃げ回る先に、空間を越えた斬撃が待っている。

「(今の私に、出来る、事……)」

 みるみる内にボロボロにされていく。惨めな最期を頭の片隅に過ぎらせながら、フェコルーは今も『マグネシア』に覆われている『神門』を見た。

「(結局一度も、彼らは『神門』を攻撃しようとはしなかった)」

 得体の知れないモノに対する軽挙を躊躇っているだけ、という可能性も十分にある。
 だが、『神門』の姿は客観的に見ても非常に怪しい。多少なりとも事情を察している者ならば、『神へと続く道』と察しても全くおかしくない。真っ先に集中砲火を受けても驚きはしない。
 しかし結果として、『神門』は今もそこに在る。

「坂井悠二!!」

 もう、自分の力で『神門』は守れない。そう悟って、フェコルーは叫んだ。

「あの鏡の名は『神門』! 創造神“祭礼の蛇”へと続く狭間の道!」

 あの言葉に、

『ヘカテーに会うんだ。邪魔するな!』

 巫女の想いと絆に、懸けた。

「大御巫に会いたいなら、決して『神門』を破壊するな! その中へと進め!!」

 命懸けで叫ぶその肩に、虚空から伸びた切っ先が埋まる。

「(申し訳ありません。参謀閣下、将軍閣下、大御巫、そして……我らが盟主“祭礼の蛇”)」

 その切っ先から銀炎が溢れ、巨大な蛇となって嵐の守護者の胴体に喰らい付く。

「『仮装舞踏会(バル・マスケ)』に、栄光あれ!!」

 銀炎の大蛇が、星の宮殿に墜ちた。溢れた業火が煉獄となり、燦然と輝く炎光に照らされる中で……嵐の盾は消え去った。
 その中から姿を現したのは、銀に縁取られた黒き鏡。神へと続く狭間の入り口。

「前哨戦でこれか。やっぱり、簡単には……」

 言葉の途中でフラつく悠二。その肩を、横から平井が寄り添い、支えた。
 彼女も、彼女が守っていたシャナも、『星黎殿』にいたにも係わらず火傷一つ無い。平井には炎が、シャナには自在法そのものが効かないからだ。

「二人とも、平気?」

「あたしはダイジョブ。ラッパに撃たれるギリギリで網タイツ間に合ってたし」

「私も、もう平気。少なくとも今の悠二よりは動ける」

 心強い二人の少女に微笑して、悠二は自身の脇腹に自在法を掛けて癒す。まだまだ、弱音を吐いてなどいられない。

「『三柱臣(トリニティ)』がいつ狭間に向かったのか、神の帰還にどれだけの時を要するのか、全く判らない状態であります」

「拙速推奨」

「大金星あげたって言っても、目的は何も達成できてないのよね」

「バケモン片っ端から食い千切れるなんざ、二度と来ねぇ大舞台だろうぜ。せーぜー死ぬ気で励むとしようや」

「ほぉ、お前とは気が合いそうだな“蹂躙の爪牙”」

 ヴィルヘルミナが、マージョリーが、メリヒムが、こちらも問題なさそうに先を促す。あれだけ『虹天剣』を連発したメリヒムの消耗は決して軽くはないだろうに、それをおくびにも出さない。

「(何か、いつの間にかチームっぽくなってるな)」

 利害の一致、という側面は今も厳然とある。本当の意味で悠二の味方と呼べるのは平井だけだろう。
 それでも、弾むような心強さがあるのも確かだった。この六人にして八人……否、“九人”ならば、相手が神でも怖くない。

「よし、行こう。『神門』へ」

 決意を固めて、狭間を目指す。

 まるで───新たに生まれた迷いを振り払うかのように。





[37979] 9ー17・『狭間の死闘』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/02/14 16:34

 管のように伸びる狭間の『詣道』。進むに連れて近代化を進める道の最奥に、管を縮めた奥の奥に、執拗な装飾を施された無骨な門がある。
 空を飛ばねば辿り着けない四角い扉を抜けた先に聳えるのは、黒ずんだ青銅で構成された荘厳な祭殿。更にその内部を進み社を抜けた先に在るのは、世界の果てとも見える青銅の絶壁だった。
 そこに───三人の神の眷属は辿り着いていた。

「務め、ご苦労」

 壁に刻まれた幾百重にも折り重なる同心の環。その中心に在る“生身の瞳”が、ベルペオルと眼を合わせる。途端、壁に在った瞳が金色の火花となって弾け、ベルペオルの眼帯の奥へと吸い込まれた。
 眼帯を外した美貌に在るのは、全ての瞳を取り戻した真の三眼。
 これこそが、不帰の秘宝たる『久遠の陥穽』を受けてなお巫女の託宣を可能とさせた正体。放逐の寸前で盟主へと託された、ベルペオルの右眼だった。

「───“頂の座”ヘカテーより、立ち居たる御身へ、此方が大杖『トライゴン』に御身が結装を任されよ───」

 姉を労う時間すら惜しいとばかりに、ヘカテーの『トライゴン』が床を打つ。
 明るすぎる水色の三角形が花吹雪のように舞い、雪のように祭殿に降り注いだ。欠片が祭殿に触れる度に波紋が広がり、全てを塗り潰す黒き炎が溢れ出した。
 心臓にも似た黒炎の脈動に合わせて、祭殿を構築する青銅塊が蠢き出した。無駄な力を少しでも抑える為に祭殿の姿で眠らせていた神の蛇身が、本来の姿を取り戻している。
 討ち手らが何より怖れ、必死に阻もうとし、そして果たされる事はなかった───創造神“祭礼の蛇”の復活である。
 数千年の悲願の成就を前に、ベルペオルが、シュドナイが、言葉もなく目を奪われる中で……

「………………」

 ヘカテーただ一人が、一度だけ振り返っていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 『神門』を抜けた狭間の道を、七羽の鳥ならぬ鳥が飛んで行く。
 先行する一羽を除く全ての鳥は、その背中に一人ずつ人ならざる者を乗せていた。

「『万条の仕手』と『弔詞の詠み手』に付いてきて貰って正解だったな」

 “嵐蹄”フェコルーを下し、『神門』を抜けてやってきた招かれざる客人。悠二、平井、シャナ、ヴィルヘルミナ、メリヒム、マージョリーである。
 大地に囲まれた異様な道に踏み込んで早々、彼らはこの鳥の形をした影に乗せて貰っていた。

「やっぱり、あたし達ミステスだけだったら敵扱いだったかな?」

 かつて『神殺し』に居合わせたという鋼の竜王。その相棒だったというメリヒム曰く、彼らは『久遠の陥穽』で“祭礼の蛇”共々放逐された太古のフレイムヘイズだろう、という事だ。
 何千年も両界の狭間を漂っていた為か、或いはこの『詣道』という道が『神門』以外から干渉する者を阻んでいるのか、侵入者たる悠二らにハッキリした事は解らない。判っているのは、彼らに敵意が無い事。そして何処かに案内してくれようとしているらしい事である。この道が何なのかを考えれば、それが何処なのかは想像に難くない。

「だろうな。実際ありがたい話だ。まさかここまで面倒な道だとは思わなかった」

 目まぐるしく変化する光景を横目に、メリヒムが呟く。
 暫く進んで判った事だが、この『詣道』は見た目通りの単純な一本道ではない。数多の因果が複雑に絡み合い、目には見えない迷宮となっている。もし彼らがいなければ、ヘカテーを追うなど到底不可能だっただろう。

「悠二、どう? 気配はある?」

「……どうかな。はっきりと掴めないのがアイツの怖い所なんだ」

 事実、悠二も、ヘカテーも、創った“祭礼の蛇”さえ知らない事だが、干渉できない一部の空間を除けば彼ら以上にこの『詣道』に精通している者はいない。
 形の無い他神通を頼りに進むヘカテーより、『久遠の陥穽』で感覚を遮断されながら『詣道』を創った蛇神より、感覚を失わずに数千年この道の創造を見続けてきた彼らの方が、この『詣道』を知り尽くしているのだ。
 現に今も、『三柱臣』が進んだ時より遙かに早いペースで行程を進められていた。……もっとも、だからといって何もかも順風満帆とはいかない。『三柱臣』にはフレイムヘイズの影が妨害を行ったが、悠二らにはベルペオルの仕掛けた燐子が妨害を仕掛けていた。
 正面、数えて十二番目になる防衛線にヴィルヘルミナと平井が躍り出る。消耗の激しいメリヒムとシャナは回復に徹し、悠二とマージョリーも自分の仕事に専念しているので、燐子退治は専ら彼女らに任せてある。

「(僕が奴なら、燐子軍団に気を取られる時を狙っ───)」

 瞬間───何の前触れもなく“それ”は来た。
 上から、下から、右から、左から、巨大な獣の顎門の如く聳える城塞全てから、茜色の炎が桁外れの濁流となって噴出したのだ。無数の剣を内包した茜色の怒涛は、叫ぶ暇すら与えず、燐子の防衛線ごと一息に悠二らを呑み込んだ。

「………………」

 燃え盛る煉獄の渦に、放たれた剣が雨となって落ちていく。その刀身の大半が折れ、欠け、砕けている様を認めて、その男は炎の足場を轟然と立ち上らせた。
 硬い髪を逆立て、外套と覆面で身体の殆どを隠した剣士。依頼を受けて標的を狩る、強大極まる紅世の王。
 “壊刃”サブラク。

「相変わらず、いきなりだな」

 それに合わせて、灼熱の雲が内側からの爆風を受けて晴れた。現れたのは不意の斬撃に苦しむ獲物ではなく、半透明の鱗壁にて攻撃を完全に防ぎ切った宿敵の姿。

「この俺の初撃を無傷で防ぐとはな。かつて『スティグマ』を破った事といい、流石と言っておくべきか」

 察知不能の不意打ちを凌いだ悠二らが、鳥から下りて臨戦態勢に移る。無視して通り抜ける、などとは考えない。半数が足止めをして半数を抜けさせる事は可能かも知れないが、その向こうには“千変”シュドナイを含めた『三柱臣』がいるのだ。半端な戦力では、ヘカテーを引き入れても勝ち目は無い。

「だが解せんな。今の防御は、明らかに俺の一撃を想定したものだ。貴様ら、俺の存命を一体どこで聞いた」

「……そりゃ、判るよな」

 サブラクの指摘に、悠二は軽く肩を竦める。
 悠二は、別にサブラクの不意打ちを読んで咄嗟に自在法を展開したのではない。察知不能の不意打ちに対して、そんな防御はまず間に合わない。故に悠二は、“最初から結界を張っていた”。その上でサブラクが攻撃を仕掛け、姿を見せるように、マージョリーに鱗壁の姿と気配を隠蔽して貰っていたのだ。
 正にサブラクの言う通り、サブラクの不意打ちを知っていたからこその対応である。もっとも、情報の出所を教えてやる義理などない。

「悪いけど、お喋りしてる時間は無いんだ」

 肌に突き刺さる凄まじい存在感。思わず竦みそうになる心を押さえ付けて、悠二は冷然とした態度を保つ。
 相変わらず、桁外れのプレッシャーだ。かつての戦いでは最終的に悠二一人で倒したものの、もう一度勝てと言われてもまず不可能だろう。
 だが……既に種明かしは済んでいる。

「無理矢理にでも、通らせてもらう」

 “壊刃”サブラク。
 察知不能の一度きりの不意打ちと、不死身とさえ思える異常な耐久力を持ち、埒外の力と洗練された剣技を振るう怪物。
 そう謳われ、事実無敗を誇った彼の正体を、悠二らは先の戦いで看破していた。
 それは、サブラクが自身の巨大な身体を薄く淡く、広域に浸透させる徒であるという事。彼自身たる領域に踏み込んだ者は、彼が姿を見せる瞬間まで気配を感じ取れない。そして姿を見せた人型も彼の一部でしかない為、いくら攻撃しても広げた全体から受肉されてしまう。
 しかし、その偽りの姿こそが最大の弱点。たとえ一部だろうと、普通に攻撃しても瞬時に再生されようと、それがサブラクの意志総体を宿した本体には変わりない。ならば、その人型を全体から切り離してしまえば良い。
 現に悠二は、そうやってサブラクを倒した。一対一で再現する事は難しくとも、これだけの味方がいれば決して不可能ではない。

「行くぞ!!」

 悠二とマージョリーが自在法を練り、平井とシャナとヴィルヘルミナが距離を詰める。そしてメリヒムが、いきなりの『虹天剣』をお見舞いする。

「やれやれ、よもやここまで侮られるとはな」

 その虹を横っ跳びに躱したサブラクに、平井が、シャナが、ヴィルヘルミナが迫る。
 だが、それも時間稼ぎに過ぎない。彼女らがサブラクを食い止めている間に、二人掛かりで本体から人型を切り離す隙を窺う悠二とマージョリー。
 ───その目論見は、一瞬にして破られる。

「この俺が、何の策も無く再戦に臨むと思ったのか」

 ドクンと、大地が脈動する。

「(何かヤバい!)」

 雪崩に呑み込まれる直前のような、途方もない力の予兆に、平井は怯まない。それどころか、一気に加速して斬り掛かった。
 血色の刃が神速で振り下ろされ、

「っ」

 それ以上の疾さで、切り返された。身体ごと叩きつける全力の斬撃は、軽々と身体ごと弾き飛ばされた。平井自身、剣の柄から手を離さなかった事が不思議に思える程の威力である。

「初めて見る顔だな」

 ついでのように、数多の剣が茜色の炎を纏って飛ばされる。咄嗟に炎弾で撃ち落とそうとするも、全霊を込めた一撃の直後だ。力の溜めが追いつかない。

「迂闊であります」

「軽挙自重」

 その眼前に、ヴィルヘルミナが躍り出た。『アズュール』の結界によって炎を払われた剣を、白い万条が一本残らず投げ返す。

「燃えろ!!」

 同時に、シャナの大太刀から紅蓮の奔流が放たれる。
 飛来する刃が、灼熱の劫火が、サブラクを直撃した。
 或いはそれが、ほんの僅かでも遅ければ……少しはダメージを与えられていたのだろうか。

「(力を、集中してる!)」

 サブラクの領域に在ってなお感じ取れる……否、思い知らされる気配の濁流に、悠二はサブラクを切り離す為に練り上げていた蛇鱗の壁で前衛三人を囲んだ。
 瞬間、感じた気配そのままの茜色の煉獄が、渦潮の如く紅蓮の火柱に殺到する。
 悠二やメリヒムやマージョリーも炎の中にいるが、熱も痛みも感じない。それも当然、これは攻撃として顕現した炎ではなく、存在の力が……炎のような姿で具現化されているだけなのだから。

「……そういう事か」

 炎の渦は、あっという間に枯れ果てる。正確には、呑み込まれる。シャナの紅蓮も掻き消す濁流の消えた先に立つのは、傷一つ無い“壊刃”サブラク。
 外見に大きな変化は無い。覆面から覗く目元、異形の肌と赤い眼が、人間のものとなっているだけ。
 だが───その総身から漲る存在感は、もはや別人とさえ言えた。

「何、あれ……」

「……ちょっと、洒落になんないわよ」

 平井が、マージョリーが、呆然と呟く。他の皆も、内心は似たようなものだ。
 先程までのサブラクも、十二分に化け物だった。だが今のサブラクの威圧感は、それとすら比較にならない程に圧倒的である。単純な力の大きさだけなら、間違いなくフェコルーをも凌駕している。

「(スタイルを、切り替えたって訳か)」

 サブラクは別段、特別な事は何もしていない。あれは、近代の徒ならば誰もが当たり前に使う『人化』の自在法だ。
 “人の姿となる自在法”を応用する事で、広域に浸透した自身の巨体を小さな人型に押し込めたのである。故にこれは、強くなった訳でも余所から力を借りた訳でもない、“壊刃”サブラク本来の力。

「理解できたようだな。常ならば我が鰭のみに掛ける『人化』の自在法を全身に掛ける事で、全ての力を一点に集約したこの姿。意志総体を切り離すなどという小細工はもはや通用せん。目の前に在るこの俺の力の全て、砕けるものなら砕いてみるが良い」

 そうと気づいた直後に、訊いてもいない事を長々と説明するサブラク。話したところで問題ないという、自信とも侮蔑とも違う、無自覚な慢心がそこには在った。
 その慢心を、メリヒムは鼻で笑う。

「なるほど、前よりずっと判りやすくなった。だが良いのか?」

 笑って、手にした曲刀を振り上げる。

「俺の『虹天剣』を、まともに食らう事になるんだぞ」

 言うが早いか、極太の虹閃が迸る。光輝の刺突が瞬く間に『詣道』を奔り、一呑みにサブラクを貫いた。
 ───ように、見えた。

「疾いな」

 悠二が見失ったサブラクの影を、メリヒムは捉えていた。“上空の尖塔に”着地する殺し屋を睨み付けたメリヒムは、柔らかく曲刀を振るう。
 その刀身が、虚空に融け消えた。

「ほう」

 そして次の瞬間、躱された『虹天剣』が上空のサブラク目掛けて“曲がった”。
 感嘆するサブラクを虹が呑み込む寸前で、またも茜色の影は超速で回避する。そして再び、メリヒムが曲刀を振って閃虹の軌道を曲げて見せた。

「なるほど、こいつは便利だ」

 銀髪の執事が口の端を引き上げる。
 その手に在るのは以前のサーベルではなく、フェコルーから奪った宝具『オレイカルコス』。空間を越えたい斬撃を放つ曲刀である。
 メリヒムには、『虹天剣』の遠隔操作は出来ない。だが『オレイカルコス』の力で放った虹に剣を触れさせる事で、その欠点を見事に補っているのだ。

「ちょっとちょっとメリーさん!? あたし達の場所わかってます!?」

「心配無用だ。シャナには効かん」

「それシャナだけ!」

 サブラクを追って暴れ回る『虹天剣』に、危うく味方が巻き込まれそうになる。
 一撃必殺の破壊力を持つ、縦横無尽の乱反射。凶悪という言葉すら生温い虹の猛威。
 しかし……

「流石は中世最強と謳われた“虹の翼”の『虹天剣』。人の身に固めた俺の身体も、それを受ければ一撃で砕けるだろう」

 当たらない。

「だが、解せんな」

 自由自在に変化する神速の虹が、いつまで経っても当たらない。
 その凄まじい動きを懸命に追うメリヒムの眼と……サブラクの眼が、合った。

「───避けて、斬る。只それだけで済む事の、何を“良いか”と訊いたのだ?」

 音より疾く、茜の凶刃が空を翔る。変わらず追ってくる虹を苦も無く避けながら、一直線にメリヒムに襲いかかる。

「ちぃ……っ」

 動きを追うのが精一杯で、虹の把握にまで意識を割く余裕が無い。メリヒムは瞬時に意識を切り替えて、

「くたばれ」

 反射させていた虹を、“七色に裂いた”。背後から迫る七条の虹閃と───新たにメリヒム自身の放った『虹天剣』が挟撃する。
 全く同時に、サブラクもまた、無数の刃を内包した茜色の怒濤を繰り出していた。

「ッッ……!!」

 横薙ぎに振るった曲刀の軌跡から、巨大な虹刃が怒濤を斬り裂く。背後から迫る七つの光輝が剣海を貫く。
 それら、必殺の挟撃を受けたサブラクは、

「直接剣を合わせるのは、初めてになるか」

 自らの放った怒濤に紛れて、その全てを掻い潜っていた。滑るように踏み込んだそこは、既に互いの間合いの中。

「っはああああ!!」

 メリヒムの曲刀とサブラクの双剣が、複雑に噛み合うの軌跡を描いて火花を散らす。
 互いに自在法を練る隙など与えない神速の接近戦は、しかしものの数秒で決着する。
 剣技は殆ど互角。しかし重さが違う、速さが違う。能力そのものが決定的に違いすぎる。

「こい、つ……!」

 左の剣が曲刀を弾き、右の剣が胴を薙ぐ。辛うじて後退した事で致命傷は避けたが、それも悪足掻き。返す刀で一歩踏み込んだサブラクの凶刃が迫り……

「させない!」

 頭上からの炎弾が桜色に弾けて、メリヒムごと吹き飛ばした。
 転がるメリヒムを一瞥して、ヴィルヘルミナが地を駆ける。

「お前の相手はこの私、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルであります」

 メリヒムと違い、ダメージらしいダメージを負っていないサブラクに、仮面の討ち手が肉薄する。
 想い人を追い詰める、友人の仇に、死に物狂いで挑み掛かる。

「かつて貴様は、『スティグマ』を受けた身で俺の剣を凌いで見せた。あれには少なからず矜恃を傷つけられたものだが、雪辱を果たせるとは運が良い。“嵐蹄”を越えてこの地に辿り着いてくれた事に感謝しよう」

 距離を取って炎を使う、という素振りすら見せずに、サブラクも真っ向から斬り掛かる。

「っ……!」

 確かに御崎市の戦いで、ヴィルヘルミナは『スティグマ』を受けた身体でサブラクの剣をかなりの時間、捌いた。
 あの時のサブラクは本体から常に供給を受ける事で異常なまでの耐久力を誇り、だからこそ一切の防御を捨てて攻撃に全力を注ぐ事が出来ていた。だが今のサブラクは違う。目の前にいる人型がサブラクの全てであり、傷を受ければ簡単に再生などしない。

「(身体、が……)」

 しかし、それでも、

「(追いつか、ない)」

 徐々に、ヴィルヘルミナが押され始めた。
 元よりサブラクの技量とて、決して低くはないのだ。ヴィルヘルミナとて、楽に捌けていた訳ではない。そのサブラクの技が、段違いの剣速を持って迫って来ている。太刀筋を読み切ってなお、速過ぎて投げ返す余裕が無い。それどころか……受け流す事も難しくなってきた。

「これがあの『戦技無双の舞踏姫』とはな。如何に雪辱を果たす為とはいえ、選択を誤ってしまったか。いや、元より過剰な期待はしていない。今の俺の前では、かの『大地の四神』でさえあの様だったのだからな」

 首に迫る斬撃から、寸での所で後退する。それでも、鎖骨の下から肩に掛けてを派手に斬られた。
 同時にリボンが幾条かサブラクに突き立てられるが、殆ど刺さっていない。

「人の身だからと侮るなよ。見た目は変わらずとも俺の身体は一帯に広がる程に巨大なものだ。こうして小さく凝縮させた今、存在の密度は重厚を極めよう。そんなか細い刃では皮しか裂けんぞ」

 外套の端から、ナイフが一振り射出される。不意を突かれたヴィルヘルミナの腹部にそれは命中し、

「ッあぁ……!」

 続け様にサブラクの蹴りを受けて、深々と突き刺さった。なおも止まらず、殺し屋は剣を振り上げて……

「どいつもこいつも」

 いきなり割って入った半透明の鱗壁に、弾かれた。

「横から手出しにくい状況に持っていくなよ」

 悠二の鱗壁は、ヴィルヘルミナとの間に割って入っただけではない。半球状にサブラクを取り囲み、閉じ込めていた。
 もちろん、そこで終わらない。

「『あんたは何方』!?」

 マージョリーの詩と、

「『兵隊だぁ』!!」

 マルコシアスの詩が交互に響き、

「『なにをお望み』!?」
「『酒一杯』!!』」

 群青に輝く自在式が十重二十重に顕現し、『グランマティカ』を“擦り抜けて”サブラクを捕縛する。

「『お金は何処に』!?」
「『置いてきたぁ』!!」

 『弔詞の詠み手』の誇る、『屠殺の即興詩』。
 さらには、血色に燃える指輪までが釣瓶打ちにサブラクを縫い止める。ヘカテーを捕獲する為に『束縛』の自在法を込めていた、平井の『コルデー』だ。

「シャナ!!」

 念入りに動きを封じたサブラク目掛けて、大太刀を燃やしてシャナが駆ける。半端な力ではサブラクの身体に“刃”が立たないのはヴィルヘルミナが実証済み。ならばと、シャナは足裏から全力で爆発を起こし、自身を超速の砲弾へと変えた。

「(この程度で)」

 故にそれは、刹那の内に起こった。

「(俺の動きを止めたつもりか!?)」

 群青と血色の束縛が一息で引き千切られ、広げた外套から無数の剣が奔る。
 ───そこまでは、予想していた。

「(な……!?)」

 サブラクを取り囲む悠二の『グランマティカ』は、“斬撃のみを遮断する”結界だった。強力過ぎるサブラクの剣に対抗する為、敢えて効果を限定して強度を高めたのだ。
 その、斬撃にのみ特化した悠二の『グランマティカ』が───一瞬にして、剣の投擲で破られた。

「──────」

 加速したシャナは、突進を止められない。自在法を無効化する彼女の身体も、自在法ではないサブラクの剣は防げない。
 シャナは咄嗟に、刺突の為に大太刀に込めていた存在の力を、紅蓮の劫火に変えて放った。渾身の炎が飛び来る刃を蹴散らし、そのままサブラク本体に突き進み……

「“斬る”」

 サブラクの握る一振りの剣に、十戒の如く両断された。

「(あんなに、簡単に)」

 炎を放つ反動で静止を果たしたシャナは、瞬間的に湧き上がった絶望的な威力に茫然とする。
 その微かな動揺を、サブラクは見逃さない。シャナが炎を練るより速く、剣の雨を矢のように放った。

「(疾い!)」

 尋常ならざる威力と速度。放たれた刀剣を弾き返す事も出来ず、或いは躱し、或いは辛うじて受け流す。
 それでも何とか捌けたのは、正直なところ運が良かっただけだった。
 そして、

「三人目だ」

 シャナがそれを凌ぐ事を、サブラクは読んでいた。必死に捌いた直後、最も体勢の崩れた瞬間を狙って、神速で踏み込んでいた。

「(あ───)」

 一瞬にして大きくなるサブラクの姿を見て、己の状態を理解して……避けられないと悟った。

(ドンッ!)

 少女の身体を、衝撃が突き飛ばす。死すらも覚悟していたシャナは、歯を食い縛って地を転がり……それが、予期していた痛みではない事に気付いた。

「(あ……)」

 誰かが、自分の上に覆い被さっている。それが平井ゆかりであり、彼女に突き飛ばされる事で自分がサブラクの斬撃を逃れたのだと、今更のように気付く。

「(っ立たないと)」

 礼を言うよりまず先に、シャナは立ち上がろうとする。今この瞬間にも、サブラクの追撃が来ないとも限らないのだ。
 なかなか動かない平井を待たず、その身体を退かせようと背中に手を回し───その掌が、生暖かい感触に濡れた。

「ゆ、かり……」

 背中を鮮血に染めた平井ゆかりは、答えない。

「あと、三人」

 感慨もなく、余韻もなく、どこまでも冷淡に、殺し屋は次なる剣を振る。





[37979] 9ー18・『ラーミア』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/02/17 16:57

 それは数秒か、或いは数分か、

「……ん…………」

 己から零れた血溜まりの中で、平井ゆかりは目を覚ました。
 深々と裂かれた背中の傷に顔を顰めながら、大剣を杖代わりに力無く立ち上がる。
 大気を震わす爆圧に視線を向ければ、程よく離れた所で派手に激突する幾つもの炎が見えた。どうやら、やられた三人の為にサブラクを誘導してくれたらしい。

「お目覚めでありますか」

「起死回生」

 頼りない肩を、後ろからヴィルヘルミナが支えた。彼女は既にリボンを包帯のように巻いてはいるが、内側から血が滲んでいる。

「やっぱりこれ、『スティグマ』ですか?」

「いや、この傷は塞がりこそしないものの、どうも拡がる様子は無いのであります。恐らく、再戦に備えて用意した改良型でありましょう」

 ヴィルヘルミナの推測に、平井は小さく苦笑した。
 時と共に傷を拡げるサブラクの自在法『スティグマ』。御崎市で悠二は『逆転印章(アンチシール)』を使ってこれを逆転させ、受けた傷を瞬時に再生してみせた。それを教訓に『傷の消えない自在法』を編み出したのだろうが、有り難い勘違いである。
 実のところ、悠二にはもう『逆転印章』は使えない。あれはそもそも、教授が御崎市に使おうとしていた自在式を『玻璃壇』で視覚化したものを、平井が携帯のカメラで撮り、それを悠二が『グランマティカ』に写し取っただけのものであり、真に悠二が習得した訳ではないのだ。
 平井がミステスになった事で画像は携帯ごと消滅した為、後から研究する事も不可能。何とか再現しようと頑張った事もあるのだが、流石に天才の真似事は一朝一夕では成せなかった。
 要するに、サブラクの改良型は傷が拡がらない分『スティグマ』よりマシなものだという事だ。……もっとも、このまま全滅させられれば同じ話だが。

「で、どうだ。行けそうか?」

 同じく切り伏せられたメリヒムが、裂かれた腹を押さえてやって来る。傷口から止めどなく流れ落ちる炎が痛々しいが、それを表情や声には表さない。

「何か話してないと意識飛びそうなくらいシンドイです」

「よし、行け」

「うん、いっそ清々しいまでに無慈悲ですな」

 人使いの荒いメリヒムはとりあえず放置して、平井は遠方の悠二らを見る。
 あのサブラクの圧倒的な力の前では、恐らく長くは保たないだろう。悠二とシャナとマージョリーは、むしろメリヒムやヴィルヘルミナよりもサブラクと相性が悪い。
 何とか、しなくてはならない。

「カルメルさん」

 魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』。今や平井自身でもある大剣を、傍らの討ち手に差し出す。

「とっておき、お願いします」




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 
「『パンチとジュディのパイ取り合戦』!」
「『パンチはジュディの目に一発』!」

 数十にも及ぶ『トーガ』の群れが空を駆け、しかし数など無関係な茜色の怒濤に攫われる。

「『パンチが曰く、もひとついかが』!?」
「『ジュディが曰く、もうケッコー』!!」

 呑み込まれた『トーガ』が群青に弾けて、内から茜を吹き飛ばす。砕けた剣が細雪の如く舞い散る中を、サブラクが超速で突き抜けて来る。

「させるか!」

 『グランマティカ』の鱗壁が何重にも展開し、次から次へと貫かれる。阻めない……が、確実にスピードを殺す結界。その最後の一枚を破る頃には、サブラクの突進は突進ではなくなっていた。

「っはああ!!」

 その瞬間を狙って、シャナの大太刀が振り抜かれる。灼熱の奔流が轟然と突き進み、しかし着弾の寸前で標的を見失う。

「喰らえ!」

 砕かれた鱗片が中空で連結し、銀炎の大蛇が顕現する。
 回避直後の隙を突いた筈の攻撃は、しかしサブラクを捉えられない。
 外套の端を焦がしながら大蛇を往なすサブラクに意識を集中したまま、

「むっ」

 悠二は左手を鋭く切った。それに合わせて銀蛇が旋回し、生き物のようにサブラクに牙を剥く。いくらサブラクが疾いと言っても、それは機動力という次元の話。追跡する飛び道具ならば話は別だ。

「絶望の果てに消えろ、か」

 『虹天剣』の乱反射を躱していた時と同様、喰らい付く一瞬に急加速を繰り返して逃げ回るサブラク。
 その加速が、中途で止まった。

「確かにあの時、俺は死すらも覚悟した。だが、俺にはわからん」

 双剣が茜色の十字を描き、炎の大蛇が四つに裂く。サブラクは両手に剣を握る腕を交叉させ、全力で振り抜いた。
 弾けたのは、天災にも等しい茜色の猛威。一帯全てを埋め尽くす、灼熱の剣舞。
 察知不能の不意打ちと言われていたものと同等の、『人化』を使わないサブラクでは初撃限りだった筈の、強力無比な大規模攻撃だった。

「っ後ろに来い!!」

 咄嗟に叫んで、悠二は全力の『グランマティカ』を前方に張る。間一髪で悠二の背中に逃げ込んだシャナとマージョリーを気配で感じて、悠二は『グランマティカ』の維持に集中する。
 だが……只でさえ力の差がある上に『グランマティカ』は構築に一手間掛かる。後出しで防ぎきれるような攻撃ではなかった。

「やっぱり、無理か」

 亀裂の広がる蛇鱗を認めて、悠二は歯を食い縛る。竜尾で全身を完璧に包んで、両腕で首と頭部を守って、息さえ止めて力を入れた。

「『黄金の卵は海の中』!」
「『投げ捨てられちゃあ、いたけれど』!」

 その背中に守られながら、マージョリーは歌う。

「『キミョーな魚がもう一度』!!」
「『持ってぇ帰ってきてくれたぁ』!!」

 竜尾が貫かれ、凱甲が穿たれ、肉に刃が埋まり、流れ込んだ高熱が全身を炙る。

「『現れたのはぁ、おっかさん』!」
「『雌のガチョウを、捕まえて』!」

 身を盾にして二人を守った悠二は、攻撃が止むと同時に崩れ落ちる。落下する少年とは逆に、上方に翳したマージョリーの両掌からは無数の自在式が伸び、天空に巨大な自在陣を描き出す。
 だが、『屠殺の即興詩』の歌声はサブラクにも聞こえている。

「『やおら、背中にまたがれば』!」

 径を絞った鉄砲水のように、凝縮された怒濤が“発射”された。
 空を裂く茜色の槍を、この瞬間の為に力を練り上げていたシャナの獄炎が迎撃し───数瞬と保たずに貫かれた。

「『お月様まで――

 あと一節。その刹那を、神速の茜が撃ち抜く。
 槍の穂先がシャナを斬り飛ばし、凝縮した炎がマージョリーを焼き払う。

「あれを、あんなものを、絶望と、そう呼ぶのか」

 天空の自在式が砕け散るのを見上げながら、サブラクはブツブツと独り言を垂れ流す。
 その、未だ無傷という怪物の姿に、

「……『加速』」

 満身創痍の坂井悠二が、地面を殴って立ち上がった。

「加速、加速、加速、加速、加速加速加速加速加速加速加速加速」

 数多の『グランマティカ』に『加速』の自在式を宿し、それら全てを連結させ、銀炎と変えて我が身に纏う。

「まだ、終わってないぞ!」

 銀の流星となった悠二が、サブラクに挑み掛かった。当然のように受けて立つサブラクと二人、二筋の光跡が衝突を繰り返しながら天空で暴れ回る。

「同じ自在法を幾多も重ねる事で、これほどの威力を見せるか。何という多様性、なるほど、凡百の王では貴様の鱗に対応など出来はすまい」

 だが、それも無駄。

「それでも、俺には届かん」

 間隙を突いたサブラクの蹴りが、悠二を地表に叩き落とす。急ぐという風もなくそれを追ったサブラクに、悠二は尚も黒刀を振るう。

「お前は何故、俺に挑める。力の差を理解出来ぬような愚物ではあるまい」

 黒刀と白刃が無数にぶつかり合う。
 悠二のスピードは、確かにサブラクに対抗できている。だが、それだけだ。
 只でさえ互いの技量には雲泥の差がある上、悠二の傷は決して浅くない。自慢の腕力も、今のサブラクから見ればどうという事もない。

「時間を稼げば味方が蘇るとでも思っているのか。無駄な事を。奴らに刻んだのはお前に破られた『スティグマ』ではない。拡がる事はなく、ただ消えぬ事にのみ力を尽くした『スティグマータ』だ。『逆転印章』の小細工はもう通用せん」

 硬い衝突音を響かせて、悠二の『草薙』が弾き飛ばされる。

「お前は何故、俺から離れた。絶望というものがあの程度のものならば、何故あれほどまでに力を求めたのだ」

 ここにはいない誰かに向けた言葉に、悠二は言葉を返さない。ボロボロになった竜尾を苦し紛れに叩き付け、一撃で切り落とされる。

「そんなもの、言葉で言って解るもんか」

 近距離から繰り出された悠二の銀炎が、同じく放たれた茜色の炎に容易く押し流される。
 灼熱の猛火の中で、痛みをねじ伏せて自在法を練った悠二は、

「今度こそ、思い知らせてやる……!」

 内からの力で、茜色の炎を吹き飛ばした。放たれたのは、燦然と輝く銀炎の大蛇。
 その牙がサブラクに届く───瞬間、

「ッおおおおお!?」

 “斬られる前に”、大蛇が爆ぜた。
 悠二自身すら巻き込む無茶苦茶な戦法に、今度こそサブラクはまともに焼かれた。
 自分の炎に吹き飛ばされて大地を転がる悠二は、それでも薄くほくそ笑む。
 一矢は報いた。これで心置きなく───任せられる。

「……やはり、解は得られんか」

 もはや遊ばず、サブラクが加速する。まともに食らったとは言え、所詮は直撃ではなく余波だ。致命傷には程遠い。

「終わりだ、坂井悠二!」

 走る勢いそのまま、サブラクは倒れた悠二に剣を振り上げる。その切っ先が神速で心臓に奔り───瞬間、

(バキンッ!!)

 硬質な音を立てて、砕けた。
 それどころか、

「ぐ、ぬぅ……」

 サブラクの肩から、茜色の火花が血のように噴き出している。

「(今のは……)」

 悠二に意識を集中していたとはいえ、何が起きたか判らないほどサブラクは鈍くない。
 とんでもないスピードで突っ込んで来た何者かが、すれ違い様に、悠二に迫る凶刃ごとサブラクを斬ったのだ。
 振り返るよりまず先に、サブラクは上に跳んだ。案の定、一瞬前にサブラクがいた空間を鋭い風圧が駆け抜ける。
 そうして今度こそ、その姿を見下ろした。

「……何だと」

 その両脚に銀の蛇鱗を纏い、その全身に血色の炎を帯び、その右手に魔剣を握る一人の少女。
 平井ゆかりだった。

「(奴の傷は誰より深かった筈。我が『スティグマータ』を受けて、未だに立ち上がれる訳が……)」

 疑問が浮かぶ間に、更なる追撃がサブラクを襲う。特大の……否、極大の炎弾が一瞬にして顕現し、凄まじい弾速で放たれた。

「貴様、何故まだ立っている!」

 避けられる大きさと速さではない。サブラクはシャナとマージョリーを撃ち抜いた巨大な炎槍を再び編み上げ、平井の炎弾に倍する勢いで発射した。
 衝突と同時に血色の炎が波紋の如く爆散し、炎を纏った直剣が大地を剔る。
 しかしそこに平井はいない。血色の輝きが稲妻状の複雑な軌道を描いて空を飛んでいた。

「ちいっ!」

 接近して来る平井を迎撃せんとサブラクの剣が唸る。それが、桜色に輝く平井の魔剣とぶつかり合い……一撃で砕け散った。

「(やはり、先の一撃はマグレではないか……!)」

 これを予期していたサブラクは、もう一方の剣による斬撃を威嚇に使って平井を仰け反らせ、すぐさま距離を取る。
 悠二にトドメを刺そうとした剣を折ったのだ。偶然である筈が無い。
 まずは様子を見ようと超速で飛ぶサブラク。

「──────」

 そのすぐ背後に、剥き出しの殺意を感じた。咄嗟に身を下げた背中に刃が掠め、

「ぐあっ!?」

 大剣を振り下ろす動きに連動した踵落としが、サブラクを軽石の如く蹴り墜とす。

「(逃げる背中に、追い付かれた……? あの娘、この俺よりも疾いとでも言うのか!?)」

 全くもって、不可解だった。
 先の戦いで受けたのは『人化』する前に弾いた一太刀のみ。だがそれだけでも……平井が一番弱いと断ずるには十分だった。
 そんな小娘が、致命傷に近い傷を受けた身で、何故“壊刃”サブラクに敵し得ているのか。

「面白い」

 墜落寸前に足で着地したサブラクは、爆炎で大地を割って飛翔する。桜色の『吸血鬼』を握る平井に、真っ向から。

「宝剣『ヒュストリクス』」

 これまでの使い捨ての物とは違う、一目で業物と判る西洋風の大剣を両手で握り、正面から鍔迫り合った。
 今度は砕かれない。
 ───代わりに、全身を斬り刻まれた。

「ぐ……っ」

 堪らず下がったサブラクを、血色の炎弾が追撃する。瞬時に練り上げたとは思えない大威力が、容赦なくサブラクを吹き飛ばす。

「(マズい。目が、霞んできた……)」

 気を抜けば折れそうな足を叩いて、平井は地上に押し戻したサブラクに肉薄する。
 更に剣速を増した斬撃が、猛然とサブラクに襲い掛かる。

「……なるほど、そういう事か」

「そ」

 今にも倒れそうな平井の様子を見て、サブラクも遂に気付いた。平井も最早、隠さない。

「───血を失うほど強くなる、自在法『ラーミア』」

 告げると同時、蛇鱗を纏った平井の脚がサブラクを蹴り上げる。
 空中の敵に再び極大の炎弾を放ち、再び炎槍を放たれ、貫いて来た剣先を『吸血鬼』で弾き飛ばす。

「(キツい……けど、いける)」

 『ラーミア』の能力自体は、到ってシンプルな統御力強化の自在法だ。その効果は自分自身にしか齎されず、他者を強化する事は出来ない。しかも、そのまま普通に使っても何の効力も無い、不便と言えば実に不便な自在法である。
 その代わり、死に瀕するほど血を失った“こういう状況”に限っては、絶大な威力を発揮する。

「いっけぇ!」

 平井の左手から、数多の『コルデー』が弧を描いて奔る。今は『束縛』の自在法が込められている指輪が、全てサブラクの投剣に撃ち落とされた。

「死に追われながら、死に向かうか。つくづく解せんな。そうまでして無謀な望みに果てる事が、小さき者の本懐だとでも言うつもりか」

 大地に降り立ったサブラクの周囲に、無数の剣が燃え上がる。これまでのような、剣を内包した怒濤とは違う。一本一本が茜色に発光する程に炎を吸収した刃の嵐である。

「(炎弾じゃ、突き破られちゃうかな)」

 いくらスピードで上回っても、あの数は避けられない。平井には悠二のような多彩な技も無い。
 ただ一振り、己に残された対抗手段を、平井は祈るように握り締める。
 今、平井の『吸血鬼』にはヴィルヘルミナの『形質強化』の自在法が入念に掛けられている。数百年前の大戦で『両翼の左』たる“甲鉄竜”の鱗さえ貫いた、ヴィルヘルミナの切り札である。

「死に向かう、か。それ、とんだ見当違いだよ」

 震えそうになる足を強引に踏み締め、青ざめた顔で不敵に笑う。

「諦めない事だけが、現実を超える強さになるんだから……!」

 突きつけられる絶望に向かって、少女は勢いよく地を蹴った。

「縋り付けば望みが叶うだと。そんな戯れ言に何の意味がある……!」

 茜に光る剣の雨が、幻想的な流星群となって降り注ぐ。
 逃げ場など無い絶対的な死に、だからこそ少女は立ち向かった。

「無意味じゃない」

 桜色の剣閃が刃を弾く。絶え間なく飛んで来る投剣を、それを上回る斬撃が叩き落とす。

「戯れ言なんかで終わらせない」

 砕いた欠片が頬を裂く。逃した剣が肩を薙ぐ。魔剣を握る腕が悲鳴を上げる。

「だってあたしは、ここにいる」

 剣が刺さる度に大地が揺れる。剣が過ぎる度に大気が割れる。

「どうしようもない現実を超えて、今ここに立ってる……!」

 背筋が凍る。冷や汗が流れる。足が竦む。身体が震える。

「だからあたしは、何度だって超えてみせる!」

 それでも逃げず、退かず、怯まず、ひたすらに前だけを目指して、

「たとえそれが、どれだけ大きな絶望だったとしても!!」

 死の嵐を───平井ゆかりは乗り越えた。
 振り抜けばそこに、剣は届く。

「はあああぁぁぁーーーっ!!」

 渾身の一撃が、渾身の一撃とぶつかり合う。
 『吸血鬼』と『ヒュストリクス』が茜と桜の火花を散らして、互いの刃を弾き返した。

「何度も、言わせるな……」

 時が止まったかのような刹那の硬直を経て、

「絶望とは何だと、訊いているのだ!」

 神速で踊る二人の剣が、鮮やかに光る無数の華を咲かせた。
 平井自身、どう切ってどう防いでいるのか判らない。思考というものの介在する余地を持たない、それは忘我の剣舞。
 ───しかしそれは、平井に限っての話だ。

「っ……!?」

 額を横一文字に裂かれて、平井は後退る。

「(やっぱり、勝てない!)」

 それはある意味、必然だった。
 元より平井は、『ラーミア』でサブラクの強さを超えた訳ではないのだ。上回ったのは、最大の長所たるスピードのみ。
 スピード、ヴィルヘルミナの『形質強化』、そして『吸血鬼』の能力。己の武器を立て続けに見せ付ける事で、強引に主導権を握ったに過ぎない。
 こうしてサブラクが『形質強化』に対抗出来る武器を持ち、『吸血鬼』の能力を理解していれば、刃を通して存在の力を流される事なく捌き切れる。

「“行くよ”」

 もはや血なのか炎なのかも判らない赤を噴いて、平井は飛んだ。そして、それを撃ち落とさんと剣を向けた頃には───既に目の前にいる。

「ぬ……っ」

 勢いに乗った一撃が、咄嗟に構えた『ヒュストリクス』越しにサブラクを叩いた。すかさず振り返れば、既に超速で飛んで来る平井の姿がある。

「ちっ」

 飛び退いたそこを、桜色の斬撃が派手に剔り切る。
 離れては突撃し、突撃の勢いで離れ、開いた距離で加速する。一度嵌まると飛び道具を使う暇さえ許さない、超高速のヒット&アウェーである。

「どっっりゃああぁーーー!!」

 光の乱反射のように、平井の突進が血色の軌跡を描いて乱れ飛ぶ。
 途轍もない助走から繰り出される斬撃は膂力の差を容易に追い越し、一撃離脱を繰り返す戦法は技量の差の影響を希薄にする。

「(このまま、押し切れる……?)」

 神速の連続突撃は、あっという間に数十にも届く。気を抜けば一瞬にして斬り飛ばされかねない猛攻に曝されながら、

「(愚かな)」

 サブラクは、冷静にタイミングを測っていた。
 確かに疾さには目を見張るが、所詮は直線的な突進に過ぎない。これだけ突撃して一つ残らず防がれている事から見ても、やはり技量の差は明白。ならば、“相手に合わせて防御してやる理由も無い”。
 赤い閃光が、迫る。

「「ッッ!!」」

 その影が交叉する瞬間に、『ヒュストリクス』が振り抜かれ、

「──────」

 平井の右腕が、中途から斬り飛ばされた。

「ッ~~~~!!」

 声にならない激痛に悶えながら、それでも平井は足を止めない。突撃の勢いそのまま砂塵を巻き上げながら、歯を食い縛って大地を駆ける。
 だが、流石に動きが鈍い。
 そして───

「もらったぞ!」

 動きが鈍った標的を、むざむざ逃がすサブラクではない。
 先程の平井と同じく、全速力で猛然と距離を詰め、加速のままに大剣を振り抜いた。

 ───筈だった。

「………………あ?」

 振り抜いた、と思った時には、既に手には柄の感触は無く、視線を下げれば……“自分の腹に大剣が刺さっていた”。

「絶望を知りたいなどと囀るその傲慢こそが、“壊刃”サブラク、お前の敗因」

 力の入らない足で、たたらを踏みながら振り返る。

「この戦い、我々の勝利“であります”」

 血塗れの少女が───無表情に勝ち誇った。





[37979] 9ー19・『神の帰還』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:bb65f5d8
Date: 2016/03/04 17:21

 時を僅か、遡る。

「やはり、無理か」

「悔しいですけど、ね」

 『吸血鬼(ブルートザオガー)』の『形質強化』を時間を掛けて念入りに掛けて貰いながら、平井、ヴィルヘルミナ、メリヒムの三人は、遠方で爆ぜるサブラクの猛威を眺めていた。

「今まで何度も血を抜いて『ラーミア』の効力は把握してますけど、死ぬまで抜いても多分あれには勝てないと思います」

 恐れるでもなく強がるでもなく、平井はその怪物の力を評した。メリヒムもヴィルヘルミナも、異は唱えなかった。
 そこに平井は、言葉を重ねた。

「あたしには、ですけど」

「何やら含んだ言い回しでありますな」

「邪推」

「追い詰める所までは、何とかやってみます。だからカルメルさんは、あたしと“壊刃”の戦いから一瞬も目を離さずに見てて欲しいんです」

 サブラクは強い。しかし、強いから無敵かと言うと……そうでもない。

「攻撃力に騙されそうになるけど、あれは別に強くなってるワケじゃない。倒しにくいデッカい身体を、一カ所に固めてるだけ。だから……“必殺”技なら、一撃で決められる」

 一発逆転。しかし当然、来るかどうかも判らない隙を待つ気など平井には無かった。勝機は、虎穴に飛び込んででも掴み取るものだ。

「絶対引き出して見せますから、見逃さないで下さいね」

 信頼を込めて、笑顔で手渡す。

 その切り札の名は───『リシャッフル』。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「その口調……表情……貴様、まさか……」

「そう、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルであります」

 呻くサブラクを血塗れの平井が……否、平井の身体に意志総体を宿したヴィルヘルミナが見据える。

「『リシャッフル』。互いの意志総体を入れ替える宝具」

 平井は、自分がサブラクの力を超えられないと判っていた。
 ヴィルヘルミナは、自分の技がサブラクの疾さを超えられないと判っていた。
 だがそれはあくまで、“『戦技無双』を相手にしているサブラク”だ。

「意志総体を、入れ替える、だと……?」

 己より疾く、捉え難い敵。
 己より拙く、侮り易い敵。
 それ故に生まれる僅かな焦燥と、僅かな油断。
 ───その一瞬を待っていた。

「人型に押し固めた攻撃力が、仇になったようでありますな」

 漸く捕まえた平井ゆかりを仕留めるべく渾身の力を込めたサブラクの一撃は、元より技量で勝るヴィルヘルミナに、容易に投げ返されたのである。

「ぐ……ぁ……」

 全力の刃に胴体を貫かれて、サブラクは低く呻く。己が一部を削らせていただけの今までとはまるで違う、初めて受ける決定的な致命傷に、身体が悲鳴を上げている。
 不慣れだからこその短絡的思考で、力任せに腹の剣を引き抜くと、案の定茜色の炎が勢いよく噴き出した。
 痛みすら麻痺した脱力感に蝕まれて、殺し屋は重く仰向けに倒れた。

「(何だ、これは……身体が、動かん……)」

 声すら出せない、生きている事が不可思議なほどの状態で、サブラクは敵を見る。
 なるほど、確かに悔しい。可能ならば雪辱を晴らしたいが、そんな機会は最早望めない。この敗北という感覚は、確かに受け入れ難いものだろう。
 だが、これは、何か違う。

「(当然か)」

 敗北自体は以前にも味わっているが、その時も違うと思った。大体、彼女とは戦った事すら無いのだ。敗北感など与えていよう筈がない。

「これで、終わりであります」

 左掌に、ヴィルヘルミナは桜色の炎を燃やす。普通ならば放っておいても死にそうな状態だが、この相手は普通ではない。念には念を入れてトドメを……

「むっ」

 刺そうとした左手が、動かない。
 その微かな違和感に、半ば防衛本能に近い反射で抗おうとして、

「っ……あぶな~」

 不意に、ヴィルヘルミナの意識は自分の肉体に戻った。再びの『リシャッフル』元の身体に戻った平井が、安堵の溜め息を漏らす。危うく握り潰されてしまうところだ。

「さて、と……」

 改めて、平井は倒れたサブラクを見下ろす。結果的に上手く行ったが、紙一重の勝負だった。正直なところ、ヴィルヘルミナに託す自分の身体から右腕を奪われた時は失敗を覚悟した。
 本当に、恐ろしい相手だった。

「(これでも、判んないだろうなぁ)」

 サブラクの知りたい感情は、対等の敵に出し抜かれた末の敗北感ではない。
 戦う前から勝負にもならない。そもそも戦おうと考える事すら許さない絶望感、どうしようもないほどの無力感だ。
 サブラク以下の力しか持たない平井らでは、たとえ百回負かしても与える事の出来ないものだ。

「覚悟はいいね」

 天に開いた掌上に、特大の炎弾が燃え盛る。舞い上がるような跳躍から、それを力いっぱい放り投げる。

「墜ちろ、“壊刃”サブラク!」

 一撃。血色に咲いた爆発が、『詣動』を震わせた。爆煙も砂塵も上げない猛火の鉄槌が大地を墜とし、そこに……“何も無い穴”が開いていた。
 光が無いのに闇でもない。音が無いのに真空でもない。それは大地ではなく、世界の穴だった。

「よし、これで……」

 薄氷の勝利を掴み、絶望的な敵を倒した。その安堵が張り詰めていた緊張の糸を断ち切り、極限状態で耐えていた平井の意識を奪う。
 その、常より一回り軽くなった身体を、

「お疲れ様」

 落ちる途中で、悠二が抱き止めた。痛々しい姿とは裏腹に満足そうに眠る頬を、起こさないようにそっと撫でる。

「どういう事でありますか」

「説明要求」

 そんな二人の傍まで、ヴィルヘルミナが飛んで来た。常と変わらぬ無表情だが、その声には明らかに詰問の色が濃い。
 無理も無い。あのタイミングで再度『リシャッフル』を使えば、何かあると言っているようなものだ。
 というより、その何かまで気付かれているだろう、と悠二は諦める。

「使えそうだったから、だってさ」

「……全く、貴女という人は」

 ヴィルヘルミナもまた、視線を下げて溜め息を吐く。まあ今さら出し抜かれる事もないだろうが、だからと言って普通の神経ならまずやらない。無茶をするのは相変わらずだ。

「連戦連勝、概ね順調か」

 そうしている間に、捌かれた腹を押さえたメリヒムが、

「これで、順調なの?」

 白い衣を血で濡らしたシャナが、

「あの化け物共を相手に一人も“脱落”してないんだから、上出来でしょ」

「つっても、それで満足するワケにゃーいかねぇがなー」

 眼鏡を失い、栗色の髪を振り乱したマージョリーが集まって来る。
 『スティグマータ』が切れた事で皆の傷は徐々に回復を始めているが、万全な者など一人もいない。

「とりあえず鳥……じゃなくて、フレイムヘイズにまた乗せて貰おう。皆の傷は、飛びながら治すよ」

 それでも、身体を休めている暇は無い。こんな状態で『三柱臣(トリニティ)』と戦うなど無謀もいい所だが……間に合わなければ、それこそ意味が無い。
 只でさえ先に『神門』に入ったヘカテーを後から追いかけているのだ。もはや一秒たりとも無駄には───

「………………ぇ」

 そう思った、時だった。

「どうしたのよ顔色変え……て……」

 感覚が鋭敏な悠二に僅か遅れて、他の皆も気付く。
 何か、巨大な、狭間の道を埋め尽くす津波のような存在感の塊が、道の先から近づいて来る。
 形の無い違和感はやがて全てを押し潰し踏み砕く轟音に変わり、束の間の時を経てその姿を現した。

「間に合わ、なかった……」

 それは、蛇。
 真黒の鱗を纏い水晶の銀眼を光らせる、龍より巨大で壮麗な大蛇。
 誰が誰に訊くまでもなく、一目見た瞬間に理解した。あれこそが、天裂き地呑む創造神───“祭礼の蛇”。

「あれが、神……」

 誰かが呟き、誰もが息を吞み、そして見惚れる。
 単純な力の大きさのみではない。顕現させたその姿から放たれる神の本質、まさしく神聖と呼ぶに相応しい存在感に当てられたのだ。
 そんな中で、

「やっと……」

 ただ一人、

「やっと見つけた」

 坂井悠二だけが、

「ヘカテー……!!」

 兜の如き蛇の額に立つ、一人の少女を見ていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 ───夢を、見た。

「(あれは、一体)」

 横たわる自分に降って来る、抗う術なき巨大な炎の塊。その色が、鮮やかな血色から燦然と輝く銀へと、変わった。
 銀の炎が迫り、膨らみ、どこまでも広がっていく。その輝きが視界の全てを埋め尽くした時、“それ”は光の中から這い出て来た。
 鈍色の体表と翼を持つ、鎧とも魔物ともつかない巨人。その体躯を遙かに超えた膨大な力を内包した怪物。

「(何という、大きさ)」

 “壊刃”サブラク。誰もが恐れる不死身の殺し屋が、剣すら向けずに認めた……否、思い知らされた。
 あれは、己がどう足掻いても敵する事すら叶わない、全く別の生き物だと。

「(身体が震える。心が竦む。これが、恐怖)」

 兜の下から覗く眼には、殺意も闘志も宿ってはいない。サブラクを敵だとすら思っていないのだろう。
 にも係わらず、恐怖が消える事は無い。一撃で自分を消滅させられる存在が目の前にいる、その現実を本能が精一杯拒絶している。

「(俺はお前に、こんな気持ちを与えていたのか)」

 それも、泡沫。
 気付けば銀は血色に染め変わり、絶望と呼ぶには脆弱な炎弾がサブラクを襲った。

「(それなのに、どうして、お前は……)」

 神の創造した大地が砕けて、どこまでも深い……否、深さも遠さも無い両界の狭間に墜ちる。
 墜ちて、しかし抗わず、“壊刃”サブラクは何度も何度も思い描く。夢だったのか、幻だったのか、歩き出せば薄れて消えてしまいそうな刹那の残滓を、拾い上げる。

「(どうして、俺は……)」

 眠りに落ちれば、夢の続きが見られるだろうか。
 閉ざされた目蓋の裏で───朱鷺色の蝶が舞った気がした。




[37979] 9ー20・『黒の再会』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2016/04/05 19:18

 どれだけの時間が経っただろうか。
 最初から勝ち目など無い戦。坂井悠二が“頂の座”ヘカテーを説き伏せ、連れ去るまで、敵を引き付けるため、ただ只管に戦い続ける耐久戦。

「……遅ぇ。あの鏡の向こうでやられちゃいねーだろうな」

「今の台詞、兵の前では言わないで欲しいね。只でさえ下がってる士気に関わるから」

 誤算は、二つ。
 一つは、恐らく両界の狭間に続いているだろう中天の黒鏡。坂井悠二らがあの奥に向かったという事は、“頂の座”も狭間だろう。あの先に何が在るのかは知らないが、『星黎殿』で決着をつけるより時間が掛かる事はまず間違いない。当然、稼がねばならない時間も長くなる。

「予定とは違ったが、あいつらが鏡に入った時点でこっちの役目も半分は果たせてる。理由は知らんが、『仮装舞踏会』の徒も鏡の中には入ろうとしないしな」

「後は待つだけ、ですね」

 そしてもう一つの誤算は、『仮装舞踏会』の軍の配置である。
 坂井悠二一行によって撃退された東方征圧部隊。その凄絶な敗北を“目撃した”総司令官デカラビアは、東西に差し向けた軍をいち早く呼び戻していた。
 結果、見つけられる訳の無い『星黎殿』に突然現れた筈のフレイムヘイズ兵団は、

「ああ、死ぬまで戦う。ただそれだけですね」

 予測を遥かに上回る短時間で、『星黎殿』直衛軍と外界宿(アウトロー)征圧軍による挟撃を受けていた。奇襲によって一時的に引き寄せていた形勢は見る間に覆り、本来の戦力差が浮き彫りになっていく。

「(……ヴィルヘルミナ)」

 それでも、撤退は出来ない。
 既に敵軍を引き付ける事に意味は無いが、だからと言って全てを突入部隊に任せる訳にはいかない。
 何故なら、仮に“頂の座”ヘカテーの説得に成功したとしても、それだけでは意味が無いからだ。離反したヘカテーを、『仮装舞踏会』がむざむざ逃がす訳がない。まず間違いなく、ヘカテーを討滅して新たな巫女を創造しようとする。
 それを阻止する為、フレイムヘイズ兵団はヘカテーをこの戦場から確実に逃がさなければならない。だからこそ、いくら劣勢になろうとも……否、劣勢ならば尚更、退く事は出来ない。
 ……だが、それらは全て、悠二らの作戦の成功を前提とした上での方針である。

「(そう長くは、持ちませんよ)」

 神の眷属を、たった一人のミステスの手で神から引き離す。そんな荒唐無稽な作戦を、全軍の命を懸けて信じなければならない。極限まで追い込まれたフレイムヘイズ兵団を、

「何だ、これは……!?」

 ───天地を巻き込む不可解な震動が、襲った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 自らが創造した道を崩壊させながら、巨大な蛇身が向かって来る。蛇の這った後に広がるのは、音も光も介在しない両界の狭間。
 その蛇行に巻き込まれるだけで、荒れ狂う因果の大海に墜とされる。

「ヘカテー!!」

 その脅威を理解して、悠二は一も二も無く飛び上がった。僅かに遅れて、ヴィルヘルミナらも続く。
 止められるとは思わない。しかし、あの驀進に背中を見せて逃げる事もまた自殺行為だ。

「見事」

 深淵から響くような深い声が、蛇の口から零れ落ちる。巨大な顎門がゆっくりと開き、

「! 後ろにつけ!」

 全てを塗り潰す黒き炎が、濁流の如く吐き出された。一切の輝きを持たない闇に向かって、悠二は迷わず飛び出す。そのすぐ後ろに続く仲間ごと、平井の『アズュール』が、火除けの結界が包み込み、何事も無かったかのように炎を押し退けた。

「……どれくらい寝てた?」

「五分も経ってないよ」

 悠二が『アズュール』の力を借りようと思っていた腕の中から、火除けの結界を張った平井が呻く。
 覚醒してすぐ悠二の腕から平井が離れるのと、黒炎の奔流を抜けるのは同時だった。
 ───その眼前に、神が迫っていた。

「摑まるのであります!」

「緊急回避」

 止められない。逃げ切れない。故にヴィルヘルミナは『三柱臣(トリニティ)』に倣う。即ち、巨大な蛇身に万条を絡めて貼り付いたのだ。当然、他の仲間達にもリボンを伸ばして。

「こ……のっ……」

 戦うどころではない。振り落とされただけで狭間に墜とされてしまう。

「……やれやれ、まさか本当にこんな所までやって来るとはねぇ」

 だがそれは“祭礼の蛇”の背中に立つ『三柱臣』も同様。故に蛇は、自身に摑まる討ち手やミステスを払い除けようとはしない。
 いや、そもそも悠二らを敵だと思ってすらいない。先程の炎も、文字通りの挨拶代わりだ。

「見事、か。本当に……盟主殿の言う通りだ」

 称賛と悲哀を等しく乗せた溜め息が、シュドナイの口から紫煙と共に吐き出された。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)に、』『星黎殿』に、フェコルーに、サブラクによって守られていた筈のこの『詣道』に、坂井悠二がいる。その意味を……可愛い部下の犠牲を思えば、無邪気に褒める気にはならない。そして同時に、尋常ならざる壁を乗り越えてここまで辿り着いた敵に対して、敬意を払わずにもいられない。

「………………」

 ただ一人、蛇の額に立つヘカテーだけが、蛇身にしがみつく敵の姿に視線すら寄越さない。
 一歩間違えれば狭間に墜ちる、誰もが戦いを避けるこの状況で、


「ヘカテー!」


 悠二だけが、ヘカテーの前に飛び出していた。
 『グランマティカ』で風を操り、通常では考えられない飛翔で以て。

「「──────」」

 黒刀と大杖が、ぶつかり合う。鍔迫り合う刃の向こう、寄せれば触れる程の距離で、視線と視線が絡み合う。
 数秒とも数分とも思える沈黙を経て、

「……何をしに、来たんですか」

 ヘカテーが、口を開いた。
 何の感情も読み取れない、冷厳極まる表情と声音で。

「決まってるだろ、ヘカテーを連れ戻しに来たんだ」

 同じ無表情でも、まるで別人。願って、目指して、漸く辿り着いたというのに……再会できた気がしない。
 その姿に、怯まなかったと言えば嘘になる。

「言葉の意味が解りません」

 戸惑う少年に眉一つ動かさずに、少女は返す。

「私は“頂の座”ヘカテー。創造神の眷属であり、『仮装舞踏会』の巫女」

 攻撃と呼ぶには余りに力の抜けた刃を弾いた『トライゴン』が円を描き、

「私の居場所は、最初から“こちら側”です」

 無防備な悠二の側頭を叩いた。鮮血を散らせて身体の軸をズラした悠二の脇腹を、反対側から石突きが打つ。
 だが、膂力なら悠二に劣るヘカテーの、『莫夜凱』の上からの打撃だ。打たれながらも、悠二は叫ぶ。

「だったら───」

 しかしヘカテーは、それすら言わせない。
 身の丈を優に越える大杖を、自身の身体を軸に自在に回転させ、多彩な打撃を次々と繰り出していく。

「(くそっ! やっぱりこうなるのか!)」

 簡単に説得できる程度の覚悟なら、最初から何も言わずにいなくなったりはしないだろう。
 解っていた事だが、実際に拒絶されるとやはり堪える。今という状況と併せて、焦燥ばかりが先に立つ。

「がっ!?」

 防御の隙を縫って、大杖の先が悠二の顎を跳ね上げた。
 重い斬撃を高速で繰り出す悠二の『草薙』も、悠二の太刀筋を熟知しているヘカテー相手では効果が薄い。初見にも係わらず、みるみる内に斬撃を捌き始めている。

「『儀装の駆り手』から話は聞いた。『神威召還』を使えば、ヘカテーは死ぬんだろ!」

「私はその為だけに数千年の時を待ち続けたんです。そこに疑問も躊躇もありません」

 高速で進み続ける蛇の上、墜ちれば下は世界の狭間。窮屈な接近戦しか許されない状況で、『トライゴン』に繰り返し全身を打たれながら、悠二は叫ぶ。

「その為だけに? だったら、僕らと過ごした御崎市の時間は何だったんだ! 『仮装舞踏会』から離れてあんな所で過ごして、戦って、あんなのが『大命』なんて言うのかよ!」
「全ては『天罰神』を滅ぼす為のベルペオルの計略。あの街で見せた私の姿は、偽りでしかありません」

「嘘つくな!」

「嘘ではありません」

 理論武装していたと言わんばかりの、しかしミエミエの即答に悠二は呆れた。
 一般人に毛が生えた程度の知識や経験しかない悠二でも、あれがイレギュラーにイレギュラーを重ねた綱渡りだった事くらい流石に判る。

「(……やっぱり、ヘカテーだ)」

 冷たく固められた表情の奥から、当たり前の事実が、言葉を交わす事で染みていく。
 無愛想で、自分勝手で、不器用で、頑固で……やっぱり、間違いなく、悠二の取り戻したいと願ったヘカテーが、ここにいる。
 そう……ヘカテーに演技など、最初から出来る訳がないのだ。

「ぶ……っ!」

 知らず弛んだ横っ面を、『トライゴン』が打ち据える。怯んだ所を無駄の無い突きが二度三度と強打する。
 しかし、これだけ一方的に戦いを運びながら、ヘカテーは悠二を吹き飛ばさない。本当に悠二がただの邪魔者だと言うなら、さっさと蛇から突き落としてしまえばいいのだ。

「(だけど……)」

 それでも、ヘカテーが御崎市での全てを捨てて『仮装舞踏会』に戻った事もまた事実。

「(どうすればいい……?)」

 御崎市を発つ時、覚悟は決めた筈だった。だが、心のどこかで思い込んでいた。
 『仮装舞踏会』の企みなど、きっと碌でもないものだと。自分や平井には絶対に受け入れられないからこそ、ヘカテーは何も言わずに姿を消したのだと。
 ───だが、違った。確かに納得は出来ない。納得は出来ないが……理解は出来る。
 そして坂井悠二という少年はその特異な性質ゆえに、理屈で認めてしまったものを感情だけで否定する事を極めて不得手としていた。
 今に限って言えば、むしろ大命の内容を知らない平井の方がマシな説得が出来るかも知れないが、平井を含めた仲間達は全員シュドナイとベルペオルを挟んだ向こう側だ。
 疾走する蛇身の上、墜ちれば狭間に真っ逆様という状況で、互いに牽制以上の戦闘はしていない。

「……要らぬ心配だったらしいな」

 悠二相手に戦うヘカテーを“背中の眼で見て”、眼前の敵から目を離さぬまま、シュドナイは隣のベルペオルに呟く。
 そのあからさまな気休めに肩を竦めて、ベルペオルは敢えて別の……しかし無視出来ない異常について口にする。

「おかしいね」

 ここまで幾度となく『仮装舞踏会』の徒を驚愕させてきた、ミステスの姿を。

「あれは……消えた『炎髪灼眼』の娘じゃないか」

 既に炎髪は燃えず、灼眼も左目一つきり。それでもかつて最も恐れた敵の姿を、ベルペオルが忘れる筈がない。

「可能性があるとすれば、坂井悠二か?」

「一時期“螺旋の風琴”に自在法の手解きを受けていた筈だから、恐らく。とはいえ、『天壌の劫火』が蘇った訳じゃない。厄介な敵が一人増えた程度に考えておけばいいだろうさ」

 狼狽する事もなく、受け入れ難い現実を受け入れる神の眷属。その的確な状況把握に、シャナではなくメリヒムが眉尻を吊り上げる。
 別にベルペオルがシャナを侮っている訳ではない。『三柱臣』にとって、『炎髪灼眼』かそうでないかという一点はそれほど重要な事なのだ。

「“狩人”との戦いの後、言った事を憶えていますか」

 それら、優劣のハッキリした睨み合いを背に、ヘカテーは大杖を振るう。

「紅世の徒が人を喰らう。それはどうしようもない事なのかと、貴方は言った」

 日常を生きる少女としてではなく、創造を導く巫女として、言葉を連ねる。

「受け入れられないならば、神に祈れと私は言った」

 敵と味方を乗せて『詣道』を猛然と突き進む神は、あっという間に“それ”を抜けた。

「ッオオオオオオォォーーー!!!」

 躍り出た空に、懐かしきこの世に、神たる大蛇が歓喜の咆哮を上げる。
 見上げれば曇天の空が、見下ろせば炎に彩られた戦場がある。
 粉々に砕けた黒鏡の破片を撒いて、

「───今こそ、神に祈る時です」

 『創造神』“祭礼の蛇”が、数千年の時を経て帰還を果たした。



[37979] 9ー21・『楽園』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2016/05/05 17:43

 自分が起きているのか眠っているのか、それすらも判らない茫漠とした意識を繋いで、男は空を見上げていた。
 より正確には、偽りの空も嵐の盾も失って、その姿を天地に晒す黒い鏡を、一心に見つめ続けていた。
 全ては、己に課された守護者としての使命を全うする為に。
 『星黎殿』の下、今は見えないその場所で、数多の同胞と数多の敵が戦い続けている気配を感じる。デカラビアの判断は、やはり正しかった。煩雑に入り乱れた気配だけでも、フレイムヘイズ兵団が追い詰められているのがハッキリと判る。

 不意に、異変が起こった。

 空に浮かぶ『星黎殿』に起こる筈の無い、地震の如き揺らぎが一帯に……否、世界中に起こったのだ。
 男はそれを、限られた将帥にのみ事前に報されていたモノと理解して、昂揚した。これは凶事ではなく吉事。盟主“祭礼の蛇”がこの世に舞い戻る予兆だからだ。
 だが、そう受け取るのは味方ばかりではない。知識など無くとも不穏な予感を確信したのか、フレイムヘイズ兵団にも動揺が広がっていく。
 突入部隊を信じて待つのも最早限界という事か。大軍の中でも一際強い存在の集中を感じた瞬間───凶悪な攻撃が天を衝いた。
 紫電を纏った修道女と褐色に燃える瓦礫の巨腕が、中天に聳える『神門』へと伸びる。

「(ああ……そういう事ですか)」

 それを臙脂色の障壁で完璧に阻んでから、男……“嵐蹄”フェコルーは気付いた。
 自分は、この為に坂井悠二に“生かされたのだ”と。
 結果的には助かったが、全くもって喰えない少年である。

「(……大御巫は、どうされたのでしょうか)」

 元より自分の力を過小評価する傾向にあるフェコルーは、この傲慢とも取れる行為に屈辱も憤慨も感じない。
 感じるとすれば、それは巫女の気持ちも知らずこんな場所にまで乗り込んで来た事に対してだろう。……もっとも、今ものうのうと御崎市で日常を過ごしていたら、それはそれで怒りの対象になっただろうが。

「(参謀閣下の御言葉借りるなら、まさしく“儘ならぬ”というものですかな)」

 我ながら理不尽な話だと苦笑を浮かべて、フェコルーは空を見る。

 砕けた鏡の向こうから───龍とも見える巨大な蛇神が姿を現した。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 戦争の最中にあって、徒も、フレイムヘイズも、誰もが戦いの手を止めた。剣を下げて立ち尽くし、空を見上げて魅入られる。
 全てを呑み込み、全てを受け入れ、全てを塗り潰す───あまりにも圧倒的な神の威容に。

『っうおおおおおぉぉーーーー!!!』

 歓喜が、崇拝が、興奮が、切望が、乱れ、弾けて、深山幽谷の地に反響する。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』が沸き上がる……というより燃え上がる一方で───フレイムヘイズ兵団の戦意は既に失せていた。

「(あれが……“祭礼の蛇”!)」

「(沈んでいる場合ではありませんぞ、ゾフィー・サバリッシュ君)」

「(……判っていますよ、タケミカヅチ氏)」

 『神門』への攻撃を阻まれ、落下する『震威の結い手』ゾフィーは、眼下の兵団を見るまでもなく察していた。
 神の帰還は果たされて、その額に立つ巫女の姿から見て、説得も出来てはいない。
 こうなってしまっては、拘泥する事など無意味。覆しようもない、フレイムヘイズ兵団の敗北だった。

「撤退を開始します。坂井悠二、聞こえますか?」

 兵団の総司令としてゾフィーが呼び掛ける。その頭上で───

「『星(アステル)』よ」

 ヘカテーが、大杖『トライゴン』を差し向けた。その先端から水色……ではなく、黒の流星が迸り、『神門』を抜けた拍子に投げ出された悠二らを襲う。
 それは、『星』を防ぐ為に悠二が事前に編み出していた“遮光”の『グランマティカ』を砂礫の如く突き破り、

「(光じゃ……ない!?)」

 黒い爆炎を撒き散らして、羽虫のように吹き飛ばした。

「やはり、フェコルーや“壊刃”との戦いで消耗しきっているか。少しばかり残念だが……ッ!」

 弾け飛ぶ敵の中から的確に悠二を見つけ、シュドナイが『神鉄如意』を振り上げる。その動作の途中、腕ごと巨大化した剛槍の一閃が、

「ッッ!!!」

 まるで丸めた新聞で蝿を叩くように、悠二の身体を打ち落とした。紫に濁った少年の身体が、燃え盛る流星となって『星黎殿』へと墜ちる。

「(潮時……でありますか)」

「(無念)」

 今や形だけとなった仮面の下で、ヴィルヘルミナが奥歯を軋ませる。
 今、突入部隊の中で満足に戦える者は一人もいない。この状況でシュドナイを、ベルペオルを、『仮装舞踏会』の大軍を、そして創造神“祭礼の蛇”を相手取りながらヘカテーを連れ出すなど、博打にすらなっていない。完全な自殺行為だ。

「冗談じゃ……ないわよっ!」

 『トーガ』の大群を差し向けたマージョリーが、平井を摑まえていち早く離脱を始める。飛ぶのもやっと、という状態の平井はそれに抗えない。
 何より、これ以上の交戦は無謀という判断も出来ないほどに弱り切っている。

「私が行く!」

「ちっ」

 シャナが真っ先に悠二の下に向かい、メリヒムが舌打ちしてそれを追う。その背中を守るように『三柱臣(トリニティ)』から視線を外さず続くヴィルヘルミナを、『三柱臣』は追わない。

「予想はしていたが、何とも酷い有様じゃないか」

 傍目には途轍もない威容として映っているだろうが、数千年もの永きに渡り休眠させていた“祭礼の蛇”の神体は万全には程遠い。
 碌に状況も把握できていない今、『三柱臣』を神の傍から離してまで深追いする訳にはいかないのだ。
 不意に、

【参謀、閣下……】

 『遠話』の自在法が、『三柱臣』全員に届く。

「フェコルーか、生きていたとは嬉しい誤算だよ。……それで、状況は?」

【どんな手を使ったのか、敵は『秘匿の聖室(クリュプタ)』に隠された『星黎殿』の位置を正確に掴んでいました。突然『転移』してきたフレイムヘイズ兵団に直衛軍は強襲を受け、禁衛兵も坂井悠二一行の手によって半壊状態。現在、デカラビア殿の采配で呼び戻された外界宿征圧部隊によってフレイムヘイズ兵団は包囲されています】

 己の失態も含めた流れるような状況説明を受けて、ベルペオルは難しそうな顔で顎先を撫でる。
 坂井悠二が『詣道』にいた時点で被害状況はある程度予想出来ていたが、少しばかり引っ掛かる。
 だが、今は……

「『星黎殿』に奴らが墜ちたが、余計な手出しはしなくて良いよ。今は我々も、盟主の帰還を喜ぼうじゃないか」

 三眼を細めて、鬼謀の王が空を見上げる。彼女の盟主たる黒き大蛇が、その総身を歓喜に震わせていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「───仰ぎ見よ───」

 天空を遊弋する巨大な黒蛇。途方もない時間と道程を超えて再びこの世に顕現した創造神の口から、大海よりも深い声が零れ落ちる。

「余こそ神さぶ。奇しき業なり」

 無数の細かい三角形が、水色の雪となって天地に舞う。巫女の権能を受けた絶大な力は、神の声をこの地のみならず“世界中に”響き渡らせる。

「心の予感を、火と燃やせ。身の戦きを、打ち震え。余と進む者らよ、今こそ機は熟し、思いは改まり、力は充ちた」

 未曾有の大戦の最中に在って、誰もが耳を傾けた。討ち手は恐れを、徒は祈りを持って聞き入る。
 絶対的な存在が小さき己に下す、文字通りの『神託』を。

「ここに大命の最終段階、かつて阻まれた創造の再往にして、更なる大業を宣布する」

 シュドナイの一撃によって『星黎殿』に墜落した悠二……まともに動く事も出来ない難敵を前にした禁衛員も動かない。“そんな事”に構っている場合ではないのである。

「余は持てる権能に従い、“世界を望まれた形へと変革する”。即ち、両界の狭間にこの世の写し世───『無何有鏡(ザナドゥ)』を創造する!!」

 地平の果てまで、銀河の隅々まで、星々の彼方まで、その言葉は届いた。

「『無何有鏡』の全ては汝らの為に在る。『無何有鏡』は汝らを寛容に受け入れる。どこまでも“この世”と同じ形。広がり、命を宿す一個の世界。尽きる事なき存在の力に溢れる、汝らの為の楽園!!」

 己が奇跡を、それを授ける喜びを、その先に広がる無窮の世界を、悠然と誇る神の声は……同時に、興奮した子供のような熱も帯びていた。

「かつて阻まれた『大縛鎖』のような鎖された箱庭とは違う。どこまでもこの世と同じ、無窮の天地全ての創造。奇しくも追い遣られた狭間を彷徨う中で、余はそここそが真に大命を為すべき場所だと気付いたのだ」

 尽きる事なき無限の力に溢れた、徒の楽園。

「今こそ、余は新たな創造に踏み出そう。汝らの望んだ世界を、汝らの求めた楽園を、世界の狭間に創り出そう!!」

 手を伸ばし、辿り着き、しかしどこまで行っても来訪者でしかなかった“この世”の、完全な写し世。

「さあっ! 共に一歩を踏み出そうではないか、愛しき紅世の徒よ!!」

 そして、それを無上の歓喜と共に与える神の存在に。

『ッッ────────!!!』

 爆発的な歓声が起こり、幽谷の地に木霊した。もはや誰にも止められない、楽園への希望と神への崇拝が、音の怒濤となって氾濫する。
 そしてそれら全てが、フレイムヘイズにとっての絶望であり───敗北だった。

「…………ああ、そうか」

 神が謳い、天使が笑い、徒が沸き、討ち手が怯える中で───

「そう、だったのか……」

 倒れたまま天を仰いでいた坂井悠二は……静かに、気付いた。

「ったく、我ながら遅すぎだよな」

 傷付いた身体を自在法で治しながら、震える両脚で淀みなく立ち上がる。
 足りないピースが填まったように、ズレた歯車が噛み合うように、今までの煩悶が嘘のように“腑に落ちる”。そんな自分が可笑しかった。

「神様ってのは凄いね。言葉の中身は大差ないのに、こんなにも心に響くんだから」

「悠二?」

 こんな時に薄笑いを浮かべてよくわからない独り言をブツブツと零す悠二を、傍らのシャナが心配そうに見上げる。そんな少女に軽く手を振って、悠二は黒刀を強く握った。
 握って、

「じゃあ、逃げようか」

 拍子抜けするほどあっさりと、撤退を口にした。
 周囲に降り立った仲間らが思わず固まる。

「ここで粘っても勝ち目は無い。悔しいけど、今回はヘカテーの勝ちだ」

 そんな反応を予想していた悠二は、反論の余地の無い正論を平然と口にする。

「いいの? 言っちゃ何だけど、“頂の座”にこれだけ近づけるチャンスなんて、もう無いかも知れないわよ?」

 今までの苦労を、何よりヘカテーへの想いをも切り捨てるのかというマージョリーの問いにも、

「勝てないって判ってる時点で、それはもうチャンスじゃないさ。大丈夫、“楽園創造にはまだ時間が懸かる”」

 何故そんな事を知っているのか、という確信で以て返した。
 本人も判ってやっているのだろうが、物凄く胡散臭い。しかし、だからこそ、撤退という理性的で正常な判断が───“諦めた”という当たり前の理由ではないと理解させられる。
 チラリと、ヴィルヘルミナは平井を見た。ここまで来てヘカテーを奪い返さず逃げる、という決断に一番異を唱えそうに思われた少女は、悠二の話に黙って首肯している。恐らくは理解ではなく、信頼で。

「急ごう。また戦争が動き出す前に」

 一度だけ空を見上げて、坂井悠二は『星黎殿』を跡にする。それに促されて、平井も、シャナも、ヴィルヘルミナもマージョリーもメリヒムも飛び立った。

 ───敵と呼ぶのも憚られる、絶対的な存在に背を向けて。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「………………」

 轟き充ちる歓声を眼下に、微笑む蛇神を頭上に、楽園創造に畏れ沸き立つ全ての感情を意に介さず、ヘカテーは一人、小さくなっていく六つの影を見送った。

「(…………それで良い)」

 心のどこかで、思っていた。
 彼ならば、大軍も『秘匿の聖室(クリュプタ)』も乗り越えて、自分の前に現れるかも知れないと。
 思っていたからこそ、心乱す事なく戦う事が出来た。
 だが、それも終わりだ。
 ここで退く判断が出来るなら、二度目が無い事も判るはず。だからもう……二度と出会う事はない。

「(どうか、無事で)」

 後はこのまま、生きて戦場を離れてくれればそれで良い。
 非日常を齎した徒の娘の事など忘れて、穏やかな日々に戻ってくれればそれで良い。

「(貴方達の世界は、私が守る)」

 最後にもう一度、出会えた。
 幾つもの不可能を越えて、会いに来てくれた。
 ───だからこそ少女は止まらない。
 水色に光る鋭い瞳が、挑むように『どうしようもない現実を内包したこの世』を睨み付けた。




[37979] 9-22・『退路』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2016/08/15 04:59
「……侮っているつもりはなかったが、やはり評価を引き上げる必要がありそうだ」

 未だ顕現の覚束ない“祭礼の蛇”を『星黎殿』の上方に降ろし、当面の護衛をシュドナイとヘカテーに任せたベルペオルは、好き放題に荒らされた神殿を『銀沙回廊』で練り歩いていた。

「それとも……お前の働き如何では状況も違ったかね?」

「笑えない冗談だな。“嵐蹄”を下すような連中と戦うなんて、完全に契約範囲外だ。『トリガーハッピーさえ貸せば前線に出る必要はない』と言ったのはそっちだろう?」

 真っ先に向かったのは司令部たる『祠竃閣』。より正確には、案じていたのはその奥に秘したモノだ。
 そこにいたのは、ここを任せた“螺旋の風琴”リャナンシーと、或いは死んでいるとさえ思っていた“狩人”フリアグネ。

「約束通り、何者も“この先”には通してはいない。これが私に果たせる精一杯だ」

 リャナンシーの言葉に、ベルペオルは一先ずの安堵を覚えた。流石にあれに手を出されていたら面倒な事になる。
 ……本当に、『星黎殿』の場所以外にロクな情報も持たずに攻め込んで来たようだ。

「(しかし……やはり妙だねぇ)」

 『秘匿の聖室(クリュプタ)』に隠された『星黎殿』の位置の特定。フレイムヘイズ兵団をまとめて転移させるほどの自在法。
 複数の自在式を組み合わせて新たな自在法を生み出す『グランマティカ』は確かに未知数の力。どんな可能性も否定しきれない。
 だが……どうにもしっくり来ない。『グランマティカ』の存在をチラつかせて、わざと自在法の力押しを印象づけようとしているような……。

「(本当に『星黎殿』の位置を『グランマティカ』で特定できるなら、何故もっと早く来なかった?)」

 それを編み出すのに今まで時間が掛かった、という可能性も勿論ある。
 しかし……もしそうではなかったら? 『星黎殿』の探索は全く別の要因によるものであり、派手な襲撃や兵団の転移はそれを悟らせない為のカモフラージュだったのではないか? だとすれば、今からでも暴く価値はある。

「(兵の話では、奴らは『星黎殿』の“中から”現れた)」

 虱潰しに探っても見つかるだろうが、それでは恐らくまた後手に回る事になる。ある程度の推測と直感は不可欠だ。
 『星黎殿』に繋がる“何か”など、そう多くはない。少し前まで人間だった坂井悠二や平井ゆかりは論外。孤高の殺し屋たるマージョリー・ドーも考えにくい、となれば……

「さて、鬼が出るか蛇が出るか」

 未知数の者に挑む悦びに、三眼の女怪は薄く笑った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 只でさえ圧倒的に不利な包囲戦を強いられていたフレイムヘイズ兵団。その凄惨たる戦況を見下ろして、坂井悠二は眉を顰めた。

「(前哨戦で派手にやりすぎたかな。こんな短時間でここまで完璧に包囲されるなんて)」

 外界宿(アウトロー)を襲撃していた時と比べて、危機感が高まっていなければあり得ない対応だ。仕方なかったとは言え……いや、今にして思えばそもそもこちらの出方を見られていたような気さえする。
 鬼謀の王ベルペオル。絶対敵に回したくないと言われるのもよく解る。
 そして、何より……

「流石に、これだけ混戦してちゃ集団『転移』が使えない。皆、前線を切り離そう」

「いいんじゃない?」

「了解であります」

 長々と話し合っている暇はない。悠二の提案にそれぞれが言葉少なく頷く中、悠二は親指を立てる平井を暫し見つめる。
 平井はもう、戦える状態ではない。かと言って、戦場の真ん中で彼女を預けられる場所などない。フレイムヘイズ兵団も信用するには足りない。やはり、自分で守るしかないだろう。

「ゆかりとシャナは、僕と一緒に北に。後の三人は西に。南と東は兵団に何とかしてもらう。『震威の結い手』、聞こえてたね?」

『ええ、何とかやってみせましょう』

 少し前から『遠話』を繋いでいたゾフィーにも告げて、それぞれが戦場に飛ぶ。

『………………』

 メリヒムも、ヴィルヘルミナも、悠二の何気ない選定に口を挟まなかった。
 ───頭の片隅、形の無い予感としてこびり付いた何かが、そうさせていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 決した勝敗に恐慌するフレイムヘイズ。逆に、『仮装舞踏会』の徒は楽園創造という壮絶な神託を受けて気力を文字通り爆発させていた。
 否応なく突き崩される前線を、

「少し……おとなしくしてろ!」

 限界まで伸長させた竜尾の一撃が叩いた。長大な竜尾が横薙ぎに払われて、勢い込んで雪崩れ込んで来た徒の群れが吹き飛ばされる。

「お前ら、うるさい!!」

 勢いを失った瞬間を狙って、紅蓮の劫火が前線を焼き尽くす。

「ううぅーー!!」

 思わぬ反撃に猛然と放たれる炎弾の雨を、平井が振り絞った『アズュール』の結界が払う。

 こうして、一時的に眼前の敵を一掃するだけならば、悠二らにとっては然程難しくはない。
 だが、こんな局地的な戦闘では四方の一面を下がらせるには足りない。何より、四方全ての敵を一時的にでも下がらせる為には、ある程度の時間はこの状態を維持しなければならないのだが……。

「(士気が高すぎる)」

 目の前で味方を焼き払われても平然と進んでくる。ちょっとやそっとの攻撃では二の足さえ踏んでくれない。
 そして、狂乱に近い戦闘意欲を見せる敵を黙らせるには、今の悠二らには余力が無かった。

「(思った以上に、長引きそうだ)」

 四方の敵を同時に下がらせ、フレイムヘイズ兵団のみを『転移』させられる瞬間。それを掴むまで耐え続けるしかない。
 何せ……一人でも敵を転移に巻き込めば、撤退そのものが台無しにされかねないのだから。
 形振り構わず大規模な自在法を連発すれば、或いはこの硬直を崩せるかも知れない。だが、すぐ近くに『三柱臣』を始めとした将兵がいる状況で全ての力を使い切るのは、あまりにもリスクが高すぎた。

「(けど、このまま力を削られ続けるのも……)」

 経験の浅さから決断を躊躇う悠二。その感覚に、

「───ぇ」

 最も恐れていた違和感が、触れる。
 集団転移の為に配置していた数多の自在陣が、瞬く間に焼き消されていく感覚。

「そんな、まさか………」

 思わず振り返った先───戦場から遠く外れた岩峰群から、金色の火柱が立ち上った。
 隠蔽の殻を砕かれた“それ”は、見せつけるように、突き付けるように、空へと浮かび上がる。

「………『天道宮』」

 自軍の切り札の最悪な形での到来に、悠二の表情が苦渋に歪んだ。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 時を僅か、遡る。
 生き残った部下達に『星黎殿』内部の探索を命じたベルペオルは、自身もまた『星黎殿』を駆け回っていた。
 嘆くべきか喜ぶべきか、探索に出した部隊と少しずつ、連絡が取れなくなっていったのである。睨んだ通り、やはり『星黎殿』の中に何か在る。

「(この期に及んで痕跡を残す利があるとは思えないが、となると、都合に合わせて切り替えの出来ない類の……)」

 思う間に、ベルペオルは不意に足を止めた。勝手知ったる『星黎殿』だと言うのに、“これ”は何とも恥ずべき不覚である。

「いや、これはお前の手並みを褒めてやるべきかねぇ。いつから迷い込んでいたのかさえ気付かなかった。本当に素晴らしい“絵”じゃないか」

 独り言にしては大きい言葉に応えるように、松明に照らされたベルペオルの影が───弾丸となってベルペオルを襲った。至近距離からの影の連弾は、彼女に巻き付く『タルタロス』の結界に苦も無く弾かれる。

「焼くには惜しいが」

 薄く笑って、ベルペオルはヒールで軽く床を打った。そこから広がる金色の炎が、波紋のように薄暗い通路を……いや、“薄暗い通路に見えていた絵画”を焼き払った。
 その奥から現れたのは、夜の神殿には有り得ない陽光の庭園。そして……侵入者を待ち構える一人の討ち手。

「『天道宮』か……! 元は『星黎殿』と一つの宝具と聞いてはいたが、よもやこんな機能があったとはねぇ」

 好き勝手に翻弄された敵の策を看破した事実に、鬼謀の王は満足そうに頰笑んだ。
 その余裕とも見える態度に、漆黒の貴婦人が炎を纏う。

「こちらも、まさか貴女が直々に乗り込んで来るとは思っていませんでした」

 “鬼道の魁主”ヴォーダンのフレイムヘイズ・『昏亜の御し手』ヒルデガルド。
 姿こそ見えないが、先ほどの絵画は“異験の技工”ヨフィエルのフレイムヘイズ・『興趣の描き手』ミカロユス・キュイだろう。

「おかげさまで人手不足でねぇ。必要とあらば足くらい運ぶさ」

 『星黎殿』と『天道宮』は、元は一つの宝具だった。今までは何らかの形でその機能を抑制していたが、恐らくは二つの要塞は引き合い、融合しようとする性質があるのだろう。こうして……ある程度近付けば内部の空間が繋がってしまうように。
 『星黎殿』の位置を特定出来たのも、『天道宮』があったからこそ。前代未聞の集団転移も、この『天道宮』による接近を悟らせない為の短距離のものでしかなかったのだ。
 確かに、完全なノーマーク。本当にこの世にはどんな想定外があるか解らない。
 ───だが、それもここまで。

「こうして自ら戦うのは随分久しぶりだ。少しは愉しませて貰おうか」

 因果の鎖が、金色の炎が、陽光の宮殿に乱れ舞う。
 ───秘匿の結界が砕け、討ち手らの逃げ道が鎖されるまで、それほど時間は掛からなかった。






[37979] 9-23・『崩壊』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2016/08/18 06:34

 天空に座す創造の蛇神、四方を囲む無数の軍勢、そして───鎖された退路。
 全ての希望を奪われて藻掻き苦しむフレイムヘイズの姿を見下ろして、

「(───何という、哀れな)」

 敵の首領たる“祭礼の蛇”は、何の悪意もなくそう思った。
 既に大戦の決着は誰の目にも明らかだ。討ち手らもそれを察して逃げる算段をつけていただろう矢先に、姿を見せた『天道宮』。恐らくはあれに『転移』して『秘匿の聖室(クリュプタ)』に隠れて逃げるつもりだったのだろうが、それすらも奪われた。後は逃げる事すら許されず、一方的に殲滅されるしかない。
 何千年も無為な戦いを繰り返し、今まさに楽園創造が成されようというこの時に。

「(これを、哀れと言わずして何と言う)」

 自分の……否、紅世の徒という種の大願を阻もうとした敵に対して───彼は本気でそう思った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「……これだけ好き放題やって、黙って帰してもらおうってのは虫が良すぎたか」

 『天道宮』という切り札を奪われたという事実に、退路を失って動揺するフレイムヘイズ兵団の姿に、悠二は奥歯を忌々しげに軋ませる。
 四方には自軍を遙かに凌駕する大軍勢。こちらは既に消耗と絶望を重ね、逆に敵は大命の宣布により著しく士気を高めている。それでも『天道宮』さえあれば『秘匿の聖室』に隠れて戦場から離れる事も出来たのだが、その希望すら断たれた。
 一点突破で包囲を抜けたとしても、一体どれだけの討ち手が逃げ延びられるのか。

「(いや……本当に抜けられるのか?)」

 誰一人包囲を抜けられず、この魔物の群れに喰い尽くされてしまうのではないか。
 最悪の未来を、悠二が客観的に思い描いた時───

「残念だったな」

 頭上から、巨大な塊が超速で降って来た。

「う、お……ッ!?」

 慌てて空高く跳躍した悠二の眼下で、その塊が大地に突き刺さり、揺るがせた。
 離れた事で全体を視界に収め、それが“槍”だと気付いた時には、次なる斬撃が悠二を追っている。

「(くっそ!!)」

 『グランマティカ』が間に合わない。漆黒の竜尾が球状に渦巻き、その上から巨大な槍……『神鉄如意』が悠二を叩いた。

「──────」

 頑強な悠二が、竜尾の上から危うく意識を持っていかれそうになるほどの衝撃。
 燃え盛る砲弾と化した悠二が兵団の真ん中に撃ち込まれ、弾けた炎が紫色の煉獄となって討ち手らを焼き尽くす。

「……ここでアンタか。容赦がないにも程があるだろ」

 その地獄の真ん中で、頭部から滴る鮮血を袖で拭いながら悠二が立ち上がる。
 その姿をサングラス越しに認めて、たった今 悠二を攻撃した男……“千変”シュドナイは笑った。

「盟主殿の安全もある程度確保出来たんでな。まともに話すのは初めてか。『零時迷子』の坂井悠二」

 中空に浮かぶ一人の男。ただし右腕だけが冗談のように大きく、尖塔のような剛槍を当たり前のように握っている。
 千変万化の力を持つ『三柱臣(トリニティ)』の将軍、“千変”シュドナイ。

「お前とは、一度戦って───」

 遠方で余裕の笑みを浮かべるシュドナイの言葉を、悠二は待たない。
 突き出した左手から銀炎の大蛇を奔らせ、一直線にシュドナイを狙い撃つ。

「みたかった」

 それを、『神鉄如意』の一閃が軽々と切り払った。
 直後、

「むっ」

 続け様に繰り出していた暴風が、不可視であるがゆえに反応の遅れたシュドナイを浚う。
 荒れ狂う風は竜巻となって敵軍上空までシュドナイを押し流し、

「お返しだ」

 銀の落雷が、直下の大軍もろともシュドナイを打った。
 大地を穿つ稲妻。その粉塵が晴れるのも待たず、

「はあっ!!」

 シャナの放つ渾身の劫火が、悠二の一撃に倍する広範囲を焼き尽くした。

「(出し惜しみする───)」

「(余裕はない)」

 悠二が、シャナが、炎を纏って加速する。
 持てる力の全てをぶつけなければ、渡り合う事すら出来ない強敵。味方を逃がす術が無いならせめて、味方ではなく敵を巻き添えにしながら戦いたい。

「悪くない判断だ」

 紅蓮に燃える炎の中で、シュドナイは咥えていたタバコを吐き捨てた。
 再び変貌させた両腕から、迫り来る二人に『神鉄如意』による巨大な刺突を繰り出し───

「うわ……っ」

 外れて、しかし、その後ろのフレイムヘイズ兵団に直撃、爆砕した。まるで、悠二らの狙いを嘲笑うかのように。

「だが、余計な事に気を回すな。でないと、己の生すら拾えんぞ」

 傷一つないシュドナイが炎の海から浮かび上がり、悠然と槍を構えて悠二とシャナを迎える。
 『神鉄如意』を持ったシュドナイにとって、自分達が邪魔にしかならないと理解している『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の兵隊は、既に一糸乱れぬ迅速な後退を始めていた。逆に、逃げ場の無いフレイムヘイズ兵団はシュドナイから離れたくても離れられない。
 理不尽なほど分の悪い戦況に、悠二は黒刀の柄を握る力を我知らず強めた。

「生きて帰ってやるさ。まだまだやりたい事が残ってるからな」

 銀の蛇鱗が天を覆う。
 最強の天使に、神の導く運命に、その牙を突き立てる為に。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 世界の命運を分ける戦い。その戦火から遠く離れた日本の御崎市で、

「今の、やっぱり……」

 佐藤啓作と、

「例の、神様って奴……だろうな」

 池速人と、

「そいつの声が聞こえたって事は……復活しちまったって事だよな。クソッ!」

 田中英太が、コソコソと体育館の裏に集まっていた。
 ちなみに今日は日曜日。バレー部の試合に一年生で出場する緒方の応援に来ていたのだ。吉田も一緒に来ているので、あまり長々とは席を外してはいられない。
 何せ……“先程の声”に困惑しているのは、彼女も同じな筈なのだから。

「僕らにまでこんな声が聞こえるなんて、いよいよ他人事じゃなくなってきたな」

 そう、“祭礼の蛇”復活に伴う大命の宣布は、ヘカテーの手により全世界に届いていた。
 徒やフレイムヘイズ、そして池達のような非日常に関わった人間だけではない。何も知らない一般人にさえ、この声は届いていた。

「世界の狭間に徒の楽園か。ヘカテーちゃんがその気になるのも仕方ないスケールだ」

「そんなこと言ってる場合か! その世界が創られたら、ヘカテーちゃんが死んじまうんだぞ! って言うかその前に、坂井達は無事なんだろうな!?」

 この中で最も非日常に過敏な田中が、大いに慌てて携帯を手にする。悠二に電話を掛けてはみるが、当然のように繫がらない。

「落ち着け田中。確認するならこっちだろ」

 可哀想なくらい狼狽える田中に、池は携帯の画像……旅立つ前に撮らせてもらった集合写真を見せた。
 悠二、平井、シャナ、ヴィルヘルミナ、マージョリー、メリヒム。誰一人として消えてはいない。別の画像に残されたヘカテーの姿も、同様に。

「これは……」

「少なくとも、まだ誰も死んじゃいないって事さ。少しは皆を信じてやれよ」

 励ますような池の言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。無理もない。彼らの知る異能者の数は十にも満たず、またその力を十分に理解出来ている訳でもない。ヴィルヘルミナやメリヒムやマージョリーが世界でも指折りの使い手という話は聞いたが、所詮は言葉のみ。一般人である池には、彼らの強さも、世界の広さも、実感する事が出来ない。
 そんな池とは対照的に、

「ああ、マージョリーさんがついてるんだ。何の心配も要らないだろ」

 佐藤が、本当に何の不安も感じさせない声で言い切った。代わりに、悔しそうに拳に掌を打ちつける。

「けど、確かに悔しいよな。マージョリーさんや坂井達が命懸けで戦ってるのに、今の俺達じゃ後方支援も出来ないんだから」

 憧れて、追い掛けて、それなのに世界が否応なしに彼を置き去りにした。せめてもう少し時間があったら……そう思わずにはいられない。

「世界の運命を懸けた戦い、か……。本当、遠いよなぁ」

 それでも、いつか。
 この時の彼は───それが当たり前にやってくると、信じて疑いもしなかった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 八つの首を持つ銀炎の大蛇が鎌首をもたげ、八方からシュドナイへと殺到する。
 余程の王でも絶望する包囲攻撃を前にして、蛇神の眷属は爆ぜるように笑った。十六本の巨腕と四方を睨む四つの頭、という歪な虎の化け物に変じた彼は、こちらも八本の剛槍による刺突で以て炎蛇の頭を貫いた。
 潰された蛇身が弾けて爆炎を撒き散らすも、玄武のような甲羅を纏ったシュドナイには届かない。
 そして、その甲羅にも無数の目玉が生えている。

「燃えろ!」

 だからこそ、甲羅ごと焼き尽くさんと繰り出したシャナの炎も見えているし、

「ッゴァアアアアーーー!!」

 甲羅に生えた巨大な顎門から業火を吐き出し、迎撃する事も出来る。
 紅蓮と紫が数秒鬩ぎ合い、しかし、将軍の誇る途方もない底力に押し戻された。

「なんてっ、力……!」

 悔しげに呻くシャナは、それでも即座に切り替えて突撃した。紫に濁った炎が怒濤のようにシャナを呑み込むが、シャナはそれを微風の如く擦り抜けてシュドナイへと迫る。

「っなるほど、フェコルーの守りが抜かれるわけだ」

 流石に『贄殿』を生身で受けるのは上手くない。人型に戻ったシュドナイは『神鉄如意』を上段に構え、迫る大太刀を受け止めた。

「こちらは、どうかな」

 その一合を皮切りに、二人の斬撃が銀光を引いて激しく衝突を繰り返す。
 シュドナイは、何の変身していない。完全に人の姿で、純粋な槍術でシャナの相手をしている。
 否───

「(これが、“千変”……!)」

 圧倒している。
 打ち合う度に剣を握る両手が痺れ、手足のように自在に迫る穂先が少しずつシャナを捉え始める。
 流石に『人化』したサブラク程ではないが、恐るべき膂力と技量である。

「(ついて、行けない……!)」

 渡り合うのも最早限界、というタイミングで、シャナを、

「ぐっ……」

 そしてシュドナイを、悠二の銀炎が撃ち抜いた。シャナにだからこそ出来る、無茶苦茶な援護射撃である。
 そこに生まれた僅かな隙を、シャナは見逃さない。劣勢から一転、大太刀の刃がシュドナイの右手首を斬り飛ばした。

「連携も悪くない」

 たまらず下がった……ように見えたシュドナイの右手が、一瞬にして“生えかわる”。

「っ」

 息を呑むシャナの眼前で、『神鉄如意』が数倍に膨れ上がった。シュドナイは痛みに耐えかねて怯んだのではなく、このために距離を取ったのだと今更に気付いて……

「ぬぅん!!」

 それでも、この距離でシュドナイの腕より速く動ける筈もなく、シャナは弾丸のように打ち出された。
 辛うじて『贄殿』で刃を受ける事で真っ二つにされる事は防げたが、途轍もない速さで眼下の大地に叩き付けられる。
 それと同時、

「げっ」

 シャナに斬り飛ばされたシュドナイの右手が、巨大な海蛇となって悠二に襲い掛かっていた。

「何でもありか!」

 堪らず突っ込む悠二の左手から、銀炎の奔流が放たれた。同じく海蛇も口から灼熱の濁流を吐き出し、ぶつかり合った炎が雲海の如くに膨張する。
 その、塞がった視界の向こうから、巨大な剛槍が飛んでくる。
 だが、今度は悠二も予測していた。盾のように展開した『グランマティカ』の鱗壁が、『神鉄如意』の穂先を軋みながらも受け止める。

「よく止めた……が、次はどうかな」

 その声に、弾かれたように上を向けば。今まさに槍を振り下ろさんとするシュドナイの姿。
 今も悠二が受け止めている『神鉄如意』は、海蛇の口から伸びた物だったのだ。

「く……っ」

 まともに貰えば一撃で終わる。せめて竜尾で受けようと意識を集中する悠二の視線の先で、

「え……」

 シュドナイの胸から、“刃が生えた”。

「吹き飛べ」

 それを視認した瞬間、刃から七色に輝く虹の奔流が噴き出し、シュドナイの上半身を粉砕した。
 それを見て、気付いて、悠二は後ろを振り返る。

「メリヒム!」

「俺も混ぜてもらうぞ」

 獰猛に笑うメリヒムが、さらに遠方にマージョリーとヴィルヘルミナが、増援に来てくれていた。
 『天道宮』が奪われた今、四方の前線を切り離して集団転移で逃げるという当初の作戦は使えない。それぞれが、状況の変化を読んだ自己判断で駆けつけてくれたのだ。

「まったく、これだけの古強者が揃っていながら、何とも物好きな事だ」

 その姿に、低い声が反応した。

「…………は?」

 思わず再度振り返れば、吹き飛ばされた筈のシュドナイの上半身が、残った下半身からグニャグニャと生えていた。スーツまで瞬く間に再現され、いとも簡単に元の姿を取り戻す。感じる気配も、微塵も衰えていない。

「……反則だろ。さすがに」

 おそらくは、上半身を砕かれる寸前で力の大半を下半身に回したのだろう。
 元々、徒には臓器も急所もありはしない。だが、顕現させた肉体を砕かれる事は己の本質を砕かれるに等しい。
 しかし、自分の身体を自由自在に変化させるシュドナイには、“決まった形の本質”がない。傍目には必殺の一撃に見えても、シュドナイにとってはトカゲの尻尾を切られたようなものに過ぎなかったのだ。

「『オレイカルコス』と『虹天剣』の合わせ技。厄介な技を身に付けたな」

 “虹の翼”、『万条の仕手』、『弔詞の詠み手』。世に名だたる三人の加勢にも、シュドナイの表情は揺らがない。
 本当に、この面子を相手に一人で勝てる自信があるのだろう。

「(……実際、勝てないだろうな)」

 ここにいる全員が万全であれば、まだ勝機もあっただろう。だが、既にここに至るまでの連戦で誰もが消耗しきっている。こんな化け物を倒す力など残ってはいない。
 如何にして生き残り、如何にして逃げ延びるか。今の悠二らの活路はそこにしかない。

「(だけど……)」

 正直なところ、悠二らが逃げるだけならば決して不可能ではない……が、この大量のフレイムヘイズを逃がすとなると、もはや不可能としか思えない。

「(切り捨てるしかないのか? 僕の転移を恃みにここまで戦い続けてきた、大勢のフレイムヘイズを)」

 何か方法はないか。
 焦燥の中で必死に思考を巡らせる悠二の耳に、

「───聞け、フレイムヘイズ───」

 ───思わず聞き入ってしまうほど深く清い声が、届いた。

「───なぜ抗う? 我が大命の成就は、この世に平穏を齎すものだというのに───」

 悠二だけではない。興奮冷めやらぬ『仮装舞踏会』も、死地に喘ぐ『フレイムヘイズ兵団』も、全ての者が戦いの渦中でその声を聞いた。

「───楽園『無何有鏡(ザナドゥ)』が創造されるは、真に“両界の狭間”。即ち、生み出された楽園はこの世に渡る徒の障壁となるのだ」

 敵も味方も否応なしに畏敬の念を抱かされる神託。創造神“祭礼の蛇”による再びの宣布だった。

「───世界の歪みなる妄言を怖れるか? ならば余は確信を以て告げよう。“両界の狭間に楽園を創造したとて、この世への影響など何ら無い”───」

 この後に訪れる事態を察した悠二が掌に存在を集め、その前にシュドナイが立ち塞がる。

「───虚偽と問うか? 不審を抱くか? ならば余は問い返そう。両界の狭間に、余より永く在ったモノが一人でもいたか?───」

 誰かの足が、止まった。
 小さな揺らぎが無数の波紋となって、戦場に広がっていく。

「───狭間にて数千年、我が身を削りたる『詣道』にて創造を試行錯誤し、確信した。楽園創造によって、危惧される大災厄など起こり得ぬ───」

 虚偽や欺瞞では有り得ない。己が偉業を訴えんとする熱が、その声にはあった。

「───楽園『無何有鏡』を得た我らは、往きて、二度とは還るまい。我ら徒が去った時、誰も喰われず、消えぬ世界が生まれる。我ら徒を見送るが良い、ただそれだけで汝らの世界は安らごう───」

 何かが、音を立ててひび割れていく。

「───もう、良いのだ。抗い戦わずとも良いのだ。フレイムヘイズ───」

 どこまでも優しく、どこまでも穏やかに、眩い理想と温かい真心によって、

「───汝らの戦いは、終わったのだ───」

 優しい神は、愚かな討ち手に───トドメを刺した。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「う……うわぁあァアアァアーー!!」

 すぐ後ろで、半狂乱の声が聞こえた。

「ひゃっ!?」

 前線のフレイムヘイズと共に悠二らとシュドナイの戦いを見上げていた平井ゆかりは、唐突に背中を突き飛ばされてつんのめった。
 何事かと振り返るより先に、何人かの討ち手が叫びながら前方へと駆け出していくのが見えた。
 シュドナイのいる、前方へと。

「ちょっ、待っ───」

 制止の声は、届かない。
 何故ならば、次から次に走りだしたフレイムヘイズに突き飛ばされて、そのまま絨毯のように踏まれまくったからだ。

「痛い!!」

 一喝して弾き飛ばし、飛び上がった平井は、見下ろした戦場のあまりの様相に愕然とする。
 絶対絶命の死地の中でも心を折らずに戦ってきた屈強なフレイムヘイズ兵団が……完全な恐慌状態となって滅茶苦茶に暴れ回っていたのである。

「(……タチが悪い)」

 その頭上、シュドナイと対峙する悠二は、諦めたように呟いた。
 “祭礼の蛇”の宣布は、言葉通り人間にさえ優しい理想の未来だ。だがそれは、願っても呪っても変えられない『この世のほんとうの事』と戦い続けてきたフレイムヘイズにとって、“お前達の永きに渡る戦いは無駄だった”と告げるも同然だった。フレイムヘイズの戦う意思を、存在理由ごとへし折ったのだ。
 いくらフレイムヘイズが復讐者だと言っても、この作戦に参加しているのは、世界の安定を守る為に敵陣の中心に転移される事を承知でここまで来た者達だ。大義の喪失が持つ意味は大きい。

「(神様ってのは、ズルいね)」

 理屈で考えれば、あんな宣告には何の意味もない。『仮装舞踏会』の目的は大命の成就で、その邪魔となるのがフレイムヘイズだ。真偽がどうだろうと、大災厄の危険が伴うなどとわざわざ告げる筈がない。
 実際、ベルペオルやシュドナイがどれだけ説得力のある理屈を交えて同じ言葉を吐いたところで、信じる討ち手はいなかっただろう。真に恐るべきは、言の葉だけで完璧な楽園を信じさせてしまう“祭礼の蛇”の絶対的な求心力にある。
 実際、悠二も彼の言葉が嘘だと思っているわけではない。悠二自身……その神託を受けて己の心を理解したのだから。

「(いや、それより今は……)」

 恐る恐る、視線を眼下へと向ける。
 その先で───眩い紅蓮が、弾けた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 無限の力に溢れた楽園。
 本当は、最初の宣布でそう聞いた時点で、気付いていた。

『───それでも私は、この道を選ぶ。アラストールがいなくても、色んな徒がいても、世界のバランスを守るフレイムヘイズの使命は、間違っていないと思うから───』

 気付いていたのに、目を背けていた。

『───貴方は……私がフレイムヘイズじゃなくなっても、無力な人間になっても、私の意思を理解してくれた───』

 そう在るように願われて、そう成る為に進み続けて、そこにあった小さな疑念を超えて掴んだ、己の道。

『───自分が何物かなんて関係ない。ただ、やる。絶対にやる───』

 その一歩目を踏み出した瞬間に奪われた未来。そして……奪われたからこそより強く誓う事が出来た、使命。

『───どうせ死ぬまで戦い続ける運命なら、討滅した徒を喰らって戦い続けるだけよ───』

 少女が選んで、少女が失って、なおも少女が求めて、そして……彼が憧れたと言ってくれた、フレイムヘイズの使命。

『───汝らの戦いは、終わったのだ───』

 “それに何の意味もなかった”。


「ッッッぁあああァアアァアアアァァアァアアーーーー!!!」


 心の深く、深く、深いところで───何かが砕ける音がした。






[37979] 9-24・『ワガママ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2016/08/22 23:16

 使命を目指し、覚悟を決め、道を鎖され、それでもなお、少女は求めた。自分が何物であろうとも貫き通すと誓った、フレイムヘイズの使命を。
 『贄殿』のシャナほど純粋な使命に生きる存在は他にいない。だからこそ、予想していなかった訳ではなかった。

「(間に、合え……!)」

 怖気を誘う紅蓮の炎が、視界を猛然と埋め尽くしていく。危惧していたからこその反応の速さで、悠二は必死に『グランマティカ』を編み上げた。
 銀炎を灯す半透明の蛇鱗が、城壁のような大きさで幾重にも聳え立ち───

「……ふうっ」

 間一髪、爆発的な炎の猛威から自身とフレイムヘイズ兵団を守った。
 だが、全くもって気は抜けない。

「何だよ……これはっ!?」

 炎を防ぐ。ただその為だけに全力を注いだ悠二の『グランマティカ』が、想定を遥かに超えた熱量を受けて軋み始めている。いくら広域をカバーする為に範囲を拡げたとはいえ、これほどとは思わなかった。

「(持たない……!)」

 己の根幹を揺るがされたシャナが、我を忘れて出鱈目に炎を吐き出している。以前マージョリーと戦った時にも似たような状況になったが、シャナのこれは桁が違う。

「(僕よりも、シャナが持たない!)」

 いくら何でも異常だ。防ぎきる自信も全くないが、恐らくその前にシャナが力尽きる。どれだけシャナの器が大きかろうと、これだけ稚拙な炎を、これだけの威力で、これだけ無作為に撒き散らし続ければ、あっという間に力は枯渇する筈だ。

「悠二!」

 呼ばれ、下方に目を向けると同時、飛んできた物体を悠二は掴んだ。
 声の主は平井ゆかり。投げ渡された物は、火除けの指輪『アズュール』。

「やるべき事は判るな? 坂井悠二」

 その意図を問うより早く、横合いからメリヒムが口を挟んだ。まるで脅迫するかのような鋭い眼光に、悠二は僅かに怯む。

「些か以上に不本意ではあるものの、事態は極めて急を要するのであります」

「不承不承」

 同様に、ヴィルヘルミナが苦虫を噛み潰した顔で苦渋のエール(?)を送っている。この鉄面皮がこんなに判りやすく顔に出すなど、よっぽど不満なのだろう。

「(何だこれ)」

 やるべき事、それは解る。このまま力を吐き出し続けていれば、恐らくシャナは“死ぬまで力の放出を止めない”。炎が収まるまで待っていては手遅れになる。だから誰かが『アズュール』を持って炎に飛び込み、シャナを正気に戻さなければならない。それは解る。
 解らないのは、なぜ揃いも揃ってその役目を悠二にやらせようとしているのか、だ。悠二としては、てっきりヴィルヘルミナが往くのだとばかり思っていた。

「ユージ」

 困惑する悠二の肩に、今度はマージョリーが腕を回す。そのまま、親馬鹿二人に聞こえないよう耳元で囁いた。

「あんたは、このまま戦場を離れなさい」

 悠二も考えて、しかしヴィルヘルミナに託そうと思っていた事を。

「あんたなら、これだけ言えば解るでしょ。しっかりエスコートしなさいよ」

 バシッと背中を叩いて、マージョリーは離れた。やはり彼女も、悠二に行けと行っている。

「お願い。多分、悠二にしか出来ない事だから」

 そして、浮かび上がってきた平井までもがそんな事を言ってくる。
 いくら何でも今の平井を置いては行けない、と思って口に出そうとすると、平井の後ろのマージョリーが唇だけで「任せなさい」と告げてきた。

「………………わかった」

 僅かに躊躇い、そして応える。
 自信など無いが悩んでいる時間は無いし、皆がここまで言うからには確かな理由がある筈だ。

「後、頼んだよ」

 返事も待たずに、悠二は結界を張って炎の中に飛び込んだ。
 こうしている間も、『グランマティカ』の障壁は悲鳴を上げ続けている。グズグズしてはいられない。
 とはいえ、別にさっきまでと距離が変わった訳ではない。炎の向かってくる方に突き進み、すぐにシャナの姿を見つける。
 見つけて……言葉を失う。

「あ……あぁ、ァ……あァー……!!」

 膝を着いて頭を抱え、呻き声を上げながら髪を振り乱す、シャナ。
 着ていた筈の巫女装束は跡形も無く焼失し、その顔は涙と鼻水でグシャグシャに歪んでいた。

「(あの、シャナが……)」

 心に落ちた絶望の一滴を、悠二は無理矢理に抑え込む。
 そして、今すぐにでも何とかしたいという衝動をも抑え込んで、

「シャナ、ごめん!」

 発狂するシャナを、そのまま抱きしめて連れ去った。
 自分の体表の周りだけを火除けの結界で守りながら、紅蓮の炎を撒き散らすシャナを抱いて───敵陣目掛けて突っ込んでいく。

「……ぇ」

 誰かが、小さく呻いた。
 目の前の光景を信じたくない、という祈りにも似た声が、報われる事はなかった。

「──────」

 灼熱の津波を押し出しながら、引き連れながら、悠二は大軍の真ん中を突っ切った。地面を埋め尽くす虫の大群に、人間が強力な火炎放射器を食らわせているようなものである。

「(これで、道は作れた!)」

 自らに『加速』を掛けた悠二が戦場を離れる頃には───北方の『仮装舞踏会(バル・マスケ)』は殆ど一掃されていた。
 シャナの暴走という紛れもない窮地を逆手に取って、絶対の危地に活路を作り上げたのだ。
 これでやっと、次に移れる。

「シャナ! 目を覚ませ!」

「い、や……嫌ァ!!!」

 火除けの結界の範囲を拡げて、シャナの全身から噴き出していた炎を消し去る。
 なおも暴れるシャナの拳が、悠二の顔を、胸を、頭を、無茶苦茶に打ちまくる。

「(これが、あのシャナのパンチか……)」

 存在の統御も力の伝え方も無茶苦茶で、痛くも痒くもない。まるで、暴漢に襲われた無力な少女のようだった。
 憧れていた誇り高い少女の変わり果てた姿に、不思議と失望は無かった。

「シャナ! 君の強さはフレイムヘイズの使命なんかに───」
「嫌! 嫌……イヤァ! 私……認めてくれたのにっ、いらない……みないでぇ!!」

 ただ、怖かった。
 シャナという少女が、このまま壊れて、二度と戻ってこない気がして、堪らなく怖かった。

「(何で、僕なんだよ!)」

 シャナを崩したのは、使命の喪失だ。
 シャナを壊したのは、全てを懸けて選んだ未来の全否定だ。
 悠二には、そんな絶望を覆せるものなど無い。口先だけの嘘など今のシャナには届きもしない。
 この場に到って、悠二は場違いな人選に憤りさえ覚えた。

「(……でも、僕しかいない)」

 今さら、誰かを頼ってもどうしようもない。ここには悠二しかいない。シャナを救えるとしたら、悠二しかいない。

「ゃだ、私……ヤ───」

 暴れるシャナを、悠二は……正面から力いっぱい抱きしめた。

「僕がシャナに憧れていたのは、フレイムヘイズだからじゃない」

 抱き締められて腕を封じられたシャナが身をよじらせ、頭を悠二の顔に当てて来る。

「使命そのものが、立派だからでもない」

 それでも構わず、悠二は少女を抱き締め続ける。
 それでも構わず、悠二は胸の内を垂れ流す。
 他に……どうすればいいのか判らなかった。

「自分で未来を選んで進んでいく君自身の姿が、眩しかったからだ」

 知らず知らずの内に、叫ぶような呼びかけは、穏やかな語りかけに変わっていた。

「使命なんて要らない。未来なんて判らない。だけど……シャナがいなくなるのは、嫌だ」

 唐突に、シャナの身体から力が抜けた。
 悠二も、顔を離して少女の顔を見る。
 目が───合った。

「強くなくていい、立派じゃなくてもいい、僕の前から、いなくならないで」

 虚空を見つめて定まらなかったシャナの瞳に、か細い光が差し込む。

「わ、たし……私……」

 震える唇から、声が零れ落ちる。悠二はその頭をそっと押さえて、自分の胸に押し当てた。
 受け止めるようにではなく、求めるように、放さないように、包み込んだ。

「ぅ……っ……ふぇ、ふえぇ~~…………!!」

 自壊では決してない、子供のような涙が、止まる事なく溢れ出す。
 傷が癒えた訳では断じてない、しかし確かにシャナが“戻ってきた”と確かめて、悠二は静かに目を伏せた。

「(何とか出来た、のかな)」

 記憶を失った今のシャナにとって、悠二は戦友とすら呼べるかも怪しい存在だ。悠二がシャナに与えられるものなど、はっきり言って何も無い。
 だから出来るのは、悠二の方から一方的に気持ちを伝える事だけ。とどのつまりは、ワガママを言う事だけだった。ヤケクソに近い行動だったので、成功した今になっても今一つ現実感がない。

「(皆は、どうなったのかな)」

 泣きじゃくる少女を抱きながら、少年は今はもう見えなくなった戦場を眺める。
 今度こそ必ずと、確かな決意を胸に抱いて。




[37979] 9-☆・『麗しの酒盃』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2016/11/13 20:07

 何もかもを焼き尽くして彼方へと疾走する紅蓮の猛威を見送って、ヴィルヘルミナは表情を隠すように仮面を着けた。

「(あの状況で、あの子の炎を敵の殲滅に使うとは)」

「(冷徹)」

 どうしようもないと誰もが覚悟した戦況に、文字通り風穴を空けてみせたのは見事な機転だが、いつシャナが消滅するかという瀬戸際で、シャナを暴走させたまま撤退するという選択をした事実には、親として許し難いものがある。
 いや……親でなくとも、咄嗟にああいう決断を下せてしまうのは、坂井悠二の背景からすればハッキリ言って異常だろう。
 己が本質に備えた理性で以て感情を統べ、極めて合理的に目的を遂行する。無謀とは真逆の意味で危険な男に娘を託した事に、今更になって不安が募る。

「大丈夫ですよ、悠二なら」

 そんなヴィルヘルミナの心中を察して、平井が引き攣るような笑みを浮かべた。
 そこには、悠二の行動にパートナーとしてのバツの悪さはあっても、シャナの安否を憂う様子は無い。本当に、あの少年に全幅の信頼を寄せているのだろう。
 過ぎた事案に頭を悩ませざるを得ないヴィルヘルミナの隣で、

「人の心配してる場合じゃないでしょ。───来るわよ」

 マージョリーが、上方を鋭く睨み付けた。
 それに応えるかのようにメリヒムの『虹天剣』が天を衝き、

「……ちっ」

 遥か上空、豆粒ほどの大きさから瞬時に巨大化・接近してきた槍の穂先にぶつかり、弾けた。
 軌道の逸れた刺突が、新幹線のような勢いで眼下の大地に突き刺さる。
 縮む槍に引かれる形で、あっという間にシュドナイが接近してきた。全身のあちこちが、紅蓮の炎にブスブスと炙られている。

「あれに直撃されてその程度か。噂以上の怪物だな、“千変”」

「こちらの台詞だ。たかが暴走であの威力とは、本当に俺は魔神を殺したのかと記憶を疑ったぞ」

「はっ、俺の娘を、あんな愚物と一緒にするなよ」

 暴走したシャナの炎から逃れて……否、爆圧に押し上げられて、シュドナイは遥か上空にまで飛ばされていた。
 全身を玄武の甲羅で隙無く覆ってはいたものの、とても防ぎきれる炎ではなかった。

「だが、なおさら見逃せんな。ここで逃がせば、あと何万人の可愛い部下が消されるかわからん」

 だが、それでもシュドナイに追い詰められた様子は無い。兵の一画を失おうと、想定外の炎に焼かれようと、その程度で形勢は変わらないと、全身に漲る存在感が告げている。
 結局は、そういう事。

「行かせると思うか?」

 この“千変”シュドナイをどうにかしない限り、フレイムヘイズ兵団の撤退など有り得ない。

「………………」

 大剣の柄を握る手応えの弱々しさを感じながら、平井ゆかりはチラリと眼下に目をやった。
 シャナの焼き払った大地に二筋の城壁が聳え立ち、左右からの敵を寄せ付けない道が出来ている。まだまだ優秀な討ち手は残っているようだ。この様子なら……少なくとも全滅は免れる事が出来るだろう。

 ───誰かが、敵の追撃を食い止めさえすれば。

「よっし、やるかぁ!」

 足止めに必要なのは二つ。敵を食い止められるだけの強さと、味方を逃がした後からでも逃げられるだけのスピード。
 そう考えて、故に最後まで残るのは自分だと意気込む平井。

「………………」

 そのあまりにも弱々しい背中を、マージョリー・ドーが静かに見ていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 シャナの炎で薙ぎ払われた戦場の風穴に、『犀渠の護り手』ザムエル・デマンティウスが城壁を左右に張る事で道を造る。
 その唯一の活路に向かって、敗北したフレイムヘイズ兵団は一目散に雪崩れ込んだ。
 無論、全員ではない。ザムエルの張った城壁は自在法『ジシュカの丘』。建造物に乗り込んだフレイムヘイズの力を束ね、統べる、異端の能力。そこに残った討ち手らの力で、空からの敵を迎撃する。
 だが、当然、それでも完璧には程遠い。“翠翔”ストラスの自在法『プロツェシオン』で鳥の姿となって運ばれた“煬煽”ハボリムの軍が逃走先に回り込み、フレイムヘイズ兵団の行く手を阻む。
 そんな死に物狂いの戦場の遥か上空で───

「ッうあ!?」

 『トーガ』の上から獣の巨腕を受けたマージョリーが、肺の空気を全て吐き出すような呻きを上げた。

「ちいっ……!」

 メリヒムの『オレイカルコス』が閃き、空間を超えてシュドナイの背後から『虹天剣』を繰り出す。虹の濁流が虎の魔獸を貫いた……ように、見えた。

「甘い」

 貫かれる前に“自ら穴を開けた”シュドナイが、爆ぜるような笑みと共に『神鉄如意』を突き下ろす。その巨大な穂先は持ち主の変貌に合わせて数十に増え、逃げ場すらない巨大な槍衾と化した。

「下がるのであります」
「後退推奨」

 間髪入れずヴィルヘルミナがメリヒムの前に飛び出し、全ての穂先にリボンを伸ばす。
 そして、それを待っていたと言わんばかりに剛槍が濁った紫に燃え上がった。無双を誇るヴィルヘルミナの戦技も、触れる事すら許さない高熱の炎には対処できない。

「間に合えぇーー!!」

 動きの止まったリボンを超速で飛んできた平井が掴み、刺突の雨から二人を救い出す。
 逃げ場のないと思われた広範囲攻撃の外まで一息に離脱する、桁外れの機動力である。

 だからこそ、

「──────」

 その勢いのまま正面から攻撃を受ければ、只では済まない。

「お前の速さは、もう判った」

 平井の行く手に待ち構えていた小さな蝙蝠が不自然に膨張し、人間を優に超えるサイズのガーゴイルとなって平井を殴り飛ばした。
 新たな敵ではない。本体から分離したシュドナイの一部だ。

「ちょっとアンタ! しっかりしなさいよ!」

 人形のように動かなくなった平井の身体を、マージョリーが慌てて抱き止める。
 元々、とっくに戦える状態ではなかったのだ。並外れた精神力と『ラーミア』の特性で何とか持ち堪えていたのだが……今の一発がダメ押しになってしまった。

「その身体でよく粘った。だが……」

 そして、

「終わりだ」

 平井という荷物を抱えたマージョリーの隙を、見逃すシュドナイではない。
 巨大な剛槍が紫の炎を纏って、一直線に二人に伸びて───

「まだであります!」
「断固阻止!」

 割って入ったヴィルヘルミナに軌道を流されて空を切る……否、吹き飛ばす。
 だがそれは……あくまで槍だけの話だった。

「う……ッ……あああぁ!!」

 戦技では防げない業火が、灼熱の暴風となってヴィルヘルミナを焼く。白い鬣が燃え上がり、狐の仮面が砕け散り、瀕死の討ち手が崩れ落ちる。

「こ……のっ!」

 落下するヴィルヘルミナを群青の炎が素早く包み、『トーガ』の獣が形を成した。それのみならず、大量の『トーガ』が天空に舞い踊ってヴィルヘルミナを隠す。
 その一つに身を隠しながら、マージョリーは眼下の戦場と、眼前の敵を睨んだ。

「(15分くらい、か。思ったよりは保ったけど、やっぱり……)」

 平井だけではない。誰も彼もがギリギリの状態で凌ぎ続けていた綱渡り。僅かでも綻べば、こうしてたちまち突き崩される事は判っていた。

「………………」

 残された力を吐き出すように閃虹を振るうメリヒムを眺めて、マージョリーは思いの外軽い溜息を吐く。

 きっと───とっくに覚悟は出来ていたのだろう。

「悪いわね、マルコシアス」

 何も答えない相棒に短く告げて、今もどうにか『虹天剣』を食らわせようと足掻いては『神鉄如意』に弾かれているメリヒムの所まで浮かび上がる。

「はい、パース」
「なっ……」

 そうして、『トーガ』に隠していた平井とヴィルヘルミナを放り渡した。
 予想外の行動に慌てて二人を受け止めるメリヒム。そして、そのあまりに隙だらけの行動を罠かと疑って動きを止めるシュドナイに構わず、マージョリー・ドーは詠う。
 ───『弔詞の詠み手』が誇る自在の詩を、『蹂躙の爪牙』の奏でる『屠殺の即興詩』を。

「“豚がお空を飛んだとさ”!」

 詠う即興詩の響きに合わせて群青の自在式が天に伸び、シュドナイの周囲を不可視の障壁で包み込む。

「“ホイ、茶色い服を着た男っ”」

 『天道宮』が奪われてから、いつになく静かにしていたマルコシアスが、いつものように応えてくれる。

「“ハイ、すぐさま御許に引き戻すっ”!」
「ディケリ・ディッケリ・ディケリ・デアッ”!」

 捕らえて、しかし、こんなものでは終わらない。

「“二十日鼠が六匹いたよ”!」
「“座って糸を、紡いでる”?」
「“通りがかったニャンコが覗く”!」
「“なにしていなさる、皆々さん”?」

 無数の自在式がマージョリーから迸り、一帯の空域を包囲すると同時に、至近にいたメリヒムを内側から押し退けるように突き放した。
 群青の太陽とも見える力の塊が、眩いほどに天地を照らす。

「“旦那の上着を、織っているの”!」
「“入って糸をば切りましょか”?」

 常のマージョリーならば、不用意にこんな大規模な自在法は使わない。入念に準備を重ね、時間を懸けて仕掛けを行う。

「“いえいえ、けっこう、ニャンコさん あんたはワシらの頭をかじる”!」
「“とんでもないない、んなことない ちょっぴり手伝う、それだけよ”?」

 使わないというより、使えない。これほどの力を瞬間的に発動させるのは、いくらマージョリーでも負荷が大きすぎる。

「“そうかもしんない、でも――嫌、よっ”!!」
「“やっぱり、入れて――くんない、のっ”!?」

 それをマージョリーは、躊躇う事なく実行した。
 ───取り返しのつかない力を削って。

「何のつもりだ! 『弔詞の詠み手』!!」

 あまりにも突然の、あまりにも判りやすい意思表示に、メリヒムが結界の外から怒鳴りつけた。
 マージョリーは、振り返りもせず肩を竦めてみせる。

「今のアンタじゃ時間稼ぎにもなんないでしょ。こいつは私がやるから、その二人頼んだわよ」

 判りきった答えを、言葉として伝えられる事で、心が頭に追いついた。
 人選は……間違っていない。ここまでの戦いで、最も傷が浅いのはマージョリーだ。だがそれは───“千変”シュドナイと渡り合えるという意味では決してない。

「………………」

 脇に抱えたヴィルヘルミナの、赤く焼かれた横顔を見る。
 メリヒムは、別段マージョリーと親しい訳ではない。仲間かと訊かれれば、悩みもせずに違うと即答できるだろう。
 だが、ヴィルヘルミナは違う。戦士の癖に情が厚く、情が厚い癖に失ってばかりの馬鹿な女は、起きた時どう思うだろうか。
 ───また一人、友達を失ったと知って。

「こんな状況で二人抱えて逃げるなんて、半端な男には頼めない。あんたにだから、頼んでんの」

 そんなメリヒムの感傷を見透かしたように、マージョリーが振り返る。

「お願い。その子達まで、死なせられないでしょ」

 だらしない日常の姿とも、暴れ狂う戦場の狂気とも違う。別人のような穏やかな微笑で告げられて……メリヒムは俯いて舌打ちした。
 せめてもの、当て付けとして。

「どいつもこいつも、勝手な事だ」

「悪いわね、嫌な役させて」

 マージョリーの言葉にもはや答えず、メリヒムは二人を抱えて逃走する兵団の方へと飛び去った。
 最後に残ったのが彼で良かったと、マージョリーは苦笑する。ヴィルヘルミナや平井には、少しばかり酷だろう。

「話は終わったか」

 その一連の流れを見届けたシュドナイが、拘束を力任せに引き千切ってマージョリーの前まで下りてくる。

「よく黙って見逃す気になったわね」

「ここまで豪華な舞台を用意されては、流石の俺も無碍には出来んさ」

 槍を担いだシュドナイが、周囲を見渡して苦笑する。
 広大な範囲を球状に包む群青の舞台。マージョリーとシュドナイだけの戦場がそこに在った。

「(これでは逃げる力も残るまい。本気で全てを捨てるつもりか)」

 肉体を自由自在に変貌させるシュドナイを、一人で食い止めるのは難しい。だからこそマージョリーは、致命的な欠損を押してこれだけの結界を張ったのだ。
 そしてこれだけの結界を張っても、そう長くシュドナイを閉じ込めていられる訳ではない。十分……いや、五分保つかどうかも判らない。
 だからマージョリーは、己自身も結界の中に取り込んだ。シュドナイを閉じ込め、かつ、結界の破壊を妨害し続けてやる為に。
 自らの退路まで断って、勝ち目の無い戦いに臨む。何を犠牲にしてでも仇を追い求めていた復讐鬼の変貌に、『仮装舞踏会』の将軍は感嘆とも羨望ともつかない溜息を吐いた。

「まさかあの『弔詞の詠み手』が、自ら捨て石になるとはな」

「捨て石? 私が? アンタにしては笑える冗談ね」

 わざとらしく鼻で笑って、マージョリーは強気に笑う。
 恐怖も無い。気負いも無い。打算も保険も何も無い。覚悟を決めたその表情に、シュドナイもまた薄く笑った。

「以前とは別人だな。くくっ、ゆっくりと楽しむ時間が無いのが惜しい」

 その姿が、昂ぶるように膨らみ、歪む。

「せめて激しく、熱く、存分に炎を酌み交わそうか」

 蝙蝠の翼と鷲の手足、蛇の尾を備えた、虎とも呼べない虎の姿へと。

「ええ、今日はリタイア無しよ」

 群青の炎が、弾ける。
 雲海の如く膨れ上がった爆炎が、渦を巻いて一つの姿を形作る。
 それは、狼。
 巨大な体躯と幾つもの頭を備えた、群青の炎狼だった。

「ッオオオオオオオォーーー!!!」

 かつて暴走した時のそれとはまるで違う。確かな意志と揺るぎない覚悟に裏打ちされた、美しささえ伴う力の塊。

「おぉ……!」

 虎の口から、我知らず感嘆が零れる。この世に渡り来て数千年、戦い護る事をこそ使命として生みだされた神の眷属をも唸らせる、極上の戦士の姿がそこにあった。
 その美しくも儚い炎に、シュドナイは夜空の花火を幻視する。

「さあ、覚悟はいいかしら」

「ああ、どちらかが果てるまで喰らい合うとしよう」

 異形の者達が炎を交わす戦場の空、群青に輝く光の檻の中で───二匹の獣が咆哮を上げた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




『───ねえ、マルコシアス』

 敗北した兵団の背中を、昂揚した魔物の群れが追い掛ける。
 紫電が轟き、瓦礫が舞い、地雷が爆ぜ、菫が踊り、極光が奔る。
 一騎当千の討ち手が死力を尽くして抵抗を続けて……それでも敵わず、押し流されていく。
 “その程度で済んでいる”戦場の頭上で………

『───なーんか、笑っちゃうくらいボロボロね。慣れない事するもんじゃないわ』

 もう幾度目か、群青の巨狼が唸りを上げた。砕かれた身体に炎が燃え広がり、形ばかりの復活を遂げる。

『───だから俺は言ったのさ。そこまでしてやる義理はねぇ、逃げ出したって誰も責めねぇってな』

『───そりゃそうだけど、しょうがないじゃない』

 狼の多頭が龍のように伸びて、絡み付き、喰らい付く。灼熱の牙を身に受けながら、“千変”シュドナイはその全ての首を一撃の下に斬り裂いた。
 群青の炎を払って現れたのは、巨人。巨大な剛槍を振るうに相応しい、重厚極まる黒の鎧が、紫の炎を噴き上げて進み出る。

『───“そうしたい”って、思っちゃったんだから』

 狼の口から恒星のような炎弾が吐き出され、鎧の胸を打つ。爆炎を受けて後退する巨人は、怯む事なく槍撃を返した。

『───付き合わせちゃって、悪いわね』

『───今さら何言ってやがる。俺が何百年オメーに付き合ってると思ってんだ』

 狼の半身が、剛槍の一閃で吹き飛ばされる。
 ───中にいたマージョリーの、右腕諸共。

『───えぇ、そうよね』

 砕けた狼は炎へと解け、解けた炎は十にも及ぶ巨大な杭となってシュドナイの全身に突き刺さる。
 鎧を穿たれ、血飛沫のように濁った紫を噴き出す巨人は……無論、そんな事では倒れない。全身を串刺しにされたまま、それを抜く素振りさえ見せず、突然新たな身体を生やした。背中、腕、胸に腹、至る所から這い出してきたのは、龍と見紛う巨大な海蛇。

『───そんな貴方にだから、もう一つ、頼むわ』

 素早く、鋭く、不規則に、文字通り獣の如く天を這う怪物を、マージョリーは一つ一つ撃ち落とす。
 正面から迫る炎を押し返し、左右から喰らい付く頭を空間ごと捻切り、上下から突き出された槍の穂先から逃れて、

『───私の愛しい、“蹂躙の爪牙”』

 回り込んできた海蛇の顎門に───下半身を丸ごと食い千切られた。

 残された上半身が、ただ死を待つばかりとなって墜ちていく『弔詞の詠み手』が、

「………………ぎっこんばったん、マージョリー・ドー……、♪ 」

 空で、歌う。

「……ベットを売って、わらに寝た……、♪ 」

 『屠殺の即興詩』ではない。戦う力など残っている訳がない。

「……みもちが悪い、女だね……、♪ 」

 何の意味も持たない歌を、擦れるような声で、それでも彼女は歌う。

「……埃まみれで、寝る、なん……て……、♪」

 楽しそうに、本当に楽しそうに歌いながら───墜ちていった。


「……終わったか」


 己を封じていた結界が完全に消滅するのを見届けてから、“千変”シュドナイは変化させていた肉体を人型に戻した。
 決して小さくはない昂揚の余韻と、等量の寂寥が、全身に広がっていた。敵とはいえ、彼が敬意を表する程の相手は多くない。
 複雑な別離を噛み締めるように、煙草の先端に火を点す。

「……いや、まだだな」

 そうしながら、次は誰を狙おうかと視線を巡らせる。
 マージョリーの目的は、最初から時間稼ぎだったのだ。このままみすみす敵を逃がしては、いくらマージョリー自身を倒してもそれは敗北というものだろう。
 敬意を払っているからこそ、手は抜かない。やはり手負いの二人を連れた“虹の翼”を追うべきかと考えた時、

「───まだだ───」

 地の底から響くような声が、聞こえた。
 幻聴とも思えるその声は、すぐさま現実の脅威として“顕現”する。

「ッオオオオオォォォーーー!!!」

 突如、眼下の一画が丸ごと煉獄へと変わった。そこにいた『仮装舞踏会』の一軍をも呑み込んで、“群青の炎”が咆哮を上げる。

「……考えが、甘かったか」

 その炎を見て、シュドナイはサングラスの奥の眼を細めた。
 フレイムヘイズが死ぬ時、契約した王が眼前の仇を討とうと強引に顕現する事が稀にある。だが多くの場合、その悲願は果たされる事なく終わる。器を失った王が、人間を喰らって世界のバランスを崩す事など出来ない王が、長時間この世に留まる事など出来ないからだ。そして、強引に顕現した王は紅世に帰る事も出来ずに朽ち果てる。
 だが───今回だけは例外だ。
 この場には、人間ではない大量の存在の力と、それを一瞬で刈り取れる力の持ち主がいる。

「同胞を喰らって顕現したか、“蹂躙の爪牙”マルコシアス!」

 その声に応えて、炎が弾ける。『トーガ』ではあり得ない、確かな実体を持った巨大な狼……“蹂躙の爪牙”マルコシアスの顕現だった。

「あぁ、やってやるよ、我が麗しのゴブレット」

 牙を剥いて、マルコシアスがシュドナイを睨む。荒々しい吐息が、牙の間から炎となって溢れ出す。

「世界一佳い女への鎮魂歌(レクイエム)だ! テメーらも一緒に歌ってくれやぁ!!!」

 断末魔という名の歌声を求めて───孤高となった凶狼が殺戮の舞台へと駆け出した。



 “頂の座”ヘカテーの失踪に端を発する『大戦』。
 創造神の復活と世界の変容を懸けたこの戦いは、結果としてフレイムヘイズの完全敗北に終わった。
 神の帰還を阻めなかったフレイムヘイズ兵団は圧倒的兵力に追い立てられ、実に全軍の3分の2を失って敗走。以降の戦いへの気力すら奪われる形となった。

 創造神“祭礼の蛇”による第二の宣布が行われるのは、これから一月先の事である。






[37979] ☆-1・『覚悟と後悔』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2017/01/03 19:49

 星空に包まれた『星黎殿』にはあり得ない陽光の中、穏やかな庭を一人の少女が歩いていく。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女、“頂の座”ヘカテー。その足が踏み締めるのは、『星黎殿』と対を為す宮殿『天道宮』。先の大戦において、フレイムヘイズ兵団から奪い取った宝具である。今や『星黎殿』と融合して一つの宝具となったこの場所に、今は少女が二人。
 一人はヘカテー。もう一人は、

「坂井悠二にあの自在法を教えたのは、貴女ですか」

 “螺旋の風琴”リャナンシー。

「無理にそんな呼び方をしなくてもいい。どうせ私達しかいないのだ」

 『詣道』で坂井悠二一行と交戦したヘカテーは、当然のようにそこで一人のあり得ない姿を目にしている。以前ヘカテーが『三柱臣(トリニティ)』と共に罠に掛け、消滅させた『炎髪灼眼の討ち手』───シャナの姿を。

「はぐらかさないで下さい」

 この世から欠落した存在を蘇らせる自在法など、ヘカテーの知る限り一人しか使えない。もし使える者がいたとしても、それは“彼女の教えを受けた自在師”くらいのものだろう。

「元々、彼に自在法の手解きをするよう頼んだのは君の方だろう。今更になって苦情を言われても困る」

 元より隠す気もなかったのか、リャナンシーは悪びれもせず肯定した。確かに、毎夜回復する悠二の力の譲渡と引き替えに自在法の手解きを頼んだのはヘカテーだ。
 まさかそれが、こんな形で『仮装舞踏会』に甚大な被害を齎すとは思っていなかったが。

「………………」

 元を正せば自分のせいだからなのか、ヘカテーはそれきり追求を止めて黙り込んむ。千々に乱れる心を無理やり押さえ込めるように、ドレスのスカートを握り締めた。

「(これで……良い)」

 大嫌いだった少女の復活を、心の中だけでヘカテーは受け入れる。別に、ヘカテー自身のちっぽけな罪悪感が少しばかり和らいだ事を喜んでいる訳ではない。
 あんな頭が固くて気位が高くて融通の利かない討滅の道具でも……いなくなったら、悠二が悲しむからだ。

「(彼の世界から、もう、これ以上は……)」

 ───マージョリー・ドーが死んだ今になったからこそ、強く、そう思う。

「…………ふん」

 聞こえよがしな溜息が聞こえて、ヘカテーは振り返る。そのリアクションを待っていたように、リャナンシーは一枚の絵をヘカテーに差し出した。

「これは……」

 それが何なのか、ヘカテーは知っている。撃破した『敖の立像』から溢れ出した存在の力を回収する事で遂に甦ったリャナンシーの悲願。失われ、復元された物体。だが、内容を見るのは初めてだった。
 お世辞にも上手いとは言えない、妖精のような少女の絵。

「その絵を描いたのは、人間の青年だ。何度も何度も私に神の教えを説く癖に、私の自在法を見る度に目を輝かせる可笑しな男だった。馬鹿な事で笑い合い、馬鹿な事で喧嘩する、他愛ない時間が、ずっと続くと思っていた」

 何の関係もない筈のリャナンシーの言葉が、何故か……ヘカテーの心に刺さった棘を揺さぶる。

「だがそんな日々も、ある日……呆気なく終わった。私が人を喰っている事を知られて、嫌という程に否定されて……私は全てから逃げ出した」

「……何故そんな話を、私にするのですか」

 話しているリャナンシー自身が一番辛い筈だと判っているからこそ、ヘカテーは疑問に思う。
 自分と彼女は、違う。そんな心の中を読んだかのように。

「私は彼を、愛していた」

「っ」

 リャナンシーが、ヘカテーの目を真っ直ぐに見ながら、告げた。

「逃げ出した事を後悔した私に残ったのは、一つの約束だけ。それを取り戻す為に、数百年の時を費やした」

 告げて、ヘカテーから絵を返して貰い、そっと撫でる。嬉しさと淋しさの同居した笑顔を見ていられなくなって、ヘカテーは思わず顔を背けた。

「嫌われるのが怖くて、怖いから逃げ出して、逃げ出して後悔した馬鹿な小娘の話だ。嗤ってくれて構わんよ」

「………………」

 意地の悪い物言いに、ヘカテーは踵を返して歩き出す。歩いて、しかし、断固として言い返す。

「私は貴女とは、違います」

 悠二は最初から、目の前の小さな少女が人食いの化け物だと知っていた。嫌われるのが怖くて逃げ出した訳では断じてない。
 そして、後悔などしない。自分が遺すのはあんなちっぽけな絵画ではなく、徒の楽園……それによって生まれるこの世の安寧だ。
 逃避ではない。後悔もしない。だから絶対に止まらない。

「(……悠二)」

 愛しい少年の姿を思い浮かべ、だからこそ決意を固く結び直して、

「(どうか二度と、私の前に現れないで)」

 自ら思った言葉に───傷ついた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 中国から日本へと向かう飛行機。フレイムヘイズ兵団の用意した、フレイムヘイズだらけの飛行機の一室で、包帯まみれのヴィルヘルミナ・カルメルは座り続けていた。
 ガッチリと固定された視線の先には、彼女の娘たる可愛らしい少女の寝顔があった。

「………………」

 少女……シャナは、あれからずっと目を覚まさない。坂井悠二に任せた結果、暴走や自壊こそ免れたものの、泣き疲れて眠りに落ちてから人形のように静かに眠り続けていた。
 無理もない。彼女が全てを捧げて目指したフレイムヘイズの生き方……その存在意義を、粉々に打ち砕かれたのだから。

「(我々は今まで、一体、何のために……)」

 他のフレイムヘイズでさえ、戦争中に半狂乱になって暴れ回ったのだ。復讐など無関係に、ただ純粋にフレイムヘイズの使命に生きたシャナの喪失感は計り知れない。
 そして、それ以上にヴィルヘルミナを苛んでいるのは───マージョリーの死である。

「(気付く事は、出来た。そのヒントはいくらでもあった筈なのに、私は……)」

 十人足らずの少数精鋭で『星黎殿』に乗り込むなどという無謀な作戦に、あのマージョリーが平然と協力してくれた時点で、気付くべきだった。
 マージョリー・ドーは、決して無敵のフレイムヘイズではない。狂気にも似た仇敵への憎悪と執着が、彼女を何百年という戦いの日々の中で生き残らせてきたのだ。

「(以前の彼女ならば、あんな行動にはでなかった! 復讐を終えた彼女の空虚に気付いていれば、もっと別の───)」

 後悔と自罰心の渦に落ちていくヴィルヘルミナ。
 の頭を、

「っ!」

 上から、硬い拳が、割と強く小突いた。
 見上げた先に、視線をシャナに固定したままのメリヒムの姿があった。

「隙だらけにも程がある。目覚めないシャナの横で沈み込むな鬱陶しい」

「……余計なお世話であります」

 殴られた頭をさすりながら、無感情にヴィルヘルミナは言い返す。
 “彼女”と真逆の弱い姿はメリヒムには見せられない。長らく見栄を張り続けた末の、条件反射に近い反応だった。

「『弔詞の詠み手』がいなければ、俺達も無事では済まなかった。よもや全滅した方がマシだったなどというつもりではないだろうな」

「だから、余計なお世話であります」

 今日に限って突っ掛かってくるメリヒムを、ヴィルヘルミナは横目に睨む。

「誰がお前の世話などするか。鬱陶しいから陰鬱な空気を撒き散らすなと言っている」

「っ貴方は……!」

 思った傍から、ヴィルヘルミナは自らの不文律を破る。“優しい言葉を掛けてくれない”嫌な奴に、八つ当たりのように掴み掛かった。

「貴方のような男には、解らないのであります! 数少ない友を失うという事が、どういう事か!」

「お前がそれを俺に言うか。俺の相棒を殺したお前が」

 掴まれた手を無理矢理に振り解こうと力を込める。掴めない。投げられる。背中を強かに床に打ち付けられる。
 投げられて床に倒れても、メリヒムの口は止まらない。

「出来もしないのに強がるな。お前はマティルダじゃない。どこぞに失せてみっともなく泣いてこい」

「うるさいうるさいうるさい!!」

 倒れたメリヒムを力いっぱい踏みつけてから、ヴィルヘルミナは逃げ出した。

「意外」

 頭を小突いた拍子に外れていたのか、床に転がったヘッドドレスが声を発する。
 メリヒムはそれを無造作に拾い上げて、軽くシャナの枕元に放り投げた。

「勘違いするな。この狭い部屋であいつと二人でシャナを看たくなかっただけだ」

 椅子に腰掛けて、背もたれに倒れ込む。長身のメリヒムには、少しばかりサイズが合わない。

「……どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ」

 シャナではなく、天井を睨んで、メリヒムはつまらなそうに吐き捨てた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 神の帰還と共に崩れ去った狭間の異界。既に役目を終えた天地の欠片。打ち捨てられた瓦礫の一つ、その上で……黒く、長い何かが蠢いた。
 それは、漆黒の鱗に被われた竜尾。“壊刃”サブラクとの死闘の最中に切り落とされた、坂井悠二の本質の一部である。
 それが生き物のようにグニャリと動き、膨らみ、そして弾けた。

「……よし、成功」

 その内から現れたのは、竜尾の持ち主たる少年───坂井悠二。茶色のジャケットにジーンズというありふれた姿で、具合を確かめるように握り拳を作る。

「流石に少し“接続”が悪いけど、いけるな」

 無論、これは坂井悠二本人ではない。悠二の意思総体と力の一部を宿した分身体である。
 この世と、狭間。分かたれた世界で力を振るうのは決して楽ではなかったが、秘法『久遠の陥穽』で感覚を封じられていた“祭礼の蛇”に比べれば大した荒業でもない。
 大変なのは、ここからだ。

「急がないとな」

 馬鹿げた夢を、文字通り手探りで、それでも諦める事なく坂井悠二は目指す。
 暗さも明るさも無い狭間の世界で───見えない星に手を伸ばすように。





[37979] ☆-2・『緋色の空』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2017/04/14 04:33

 肌を刺す冬空の外気の中、池速人は一人、夜の雑踏を歩いていた。
 彼にとっては特に珍しくもない、予備校の帰り道。代わり映えしない日常の風景である。
 そう……変わらないという事実にこそ、何とも言えない、罰の悪さのような感覚があった。

『…………ごめん』

 最後にパソコンの通信で会話した坂井悠二の言葉が、頭にこびり付いて離れない。

「(お前が謝る事じゃないだろ)」

 三日ほど前、創造神“祭礼の蛇”の宣布から数時間後、遠く御崎市で悠二らの身を案じていた池、佐藤、田中の三名は……一つの訃報を受けた。

 ───『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーが戦死した、と。

「(覚悟はしてた、つもりだったんだけどな)」

 どんな顔をすればいいのか判らない。強張った無表情で謝る悠二を、池はもちろん、佐藤も田中も責めなかった。
 別に、人間が出来ている訳でも人の死に慣れている訳でもない。
 単純に、意識の違いである。悠二にとってマージョリーは背中を預ける戦友だったのかも知れないが、池達は……そう思ってはいなかった。心のどこかで、“マージョリーは悠二を守る側”と考えていた。
 同年代のクラスメイトで、少し前まで人間だった悠二を、本当の意味でフレイムヘイズと対等に考えていなかったのだろう。だからこそ、悠二がマージョリーの死の責任を口にしても“ピンと来ない”のだ。
 今の池が思うのは、ただ……あのマージョリーですら、こんなにも呆気なく死ぬという事実に対する、底冷えするような恐怖だけ。

「(シャナちゃんが死んだ時に、解ってた事じゃないか)」

 シャナが蘇った時のような奇跡は、起こらない。悠二が言うには、あれは人間だった時のシャナをよく知るヴィルヘルミナやメリヒムがいたからこそ出来た事らしい。数百年前にフレイムヘイズになったマージョリーを蘇らせる事は───出来ない。

「(坂井、お前まだ続けるつもりなのか……?)」

 そして当然、悠二自身が死んでも、蘇らせる者はいなくなる。非日常が確実に日常を壊していく恐怖に、池は外気以上の寒さを感じて俯いた。

「(お前まで、死んじゃうんじゃないのかよ)」

 何を選択する力も持たない人間の少年は、それでも思い悩む事を辞めず、空の彼方の月を見上げた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 こちらの動きを完全に読み切った特大の炎弾が、飛来する少女を正確に捉えた。直撃と同時に爆炎を撒き散らす筈の火球は、少女の纏う火除けの結界によって泡のように搔き消える。
 驚愕は一瞬。その一瞬で急加速した少女の“飛び”蹴りが、炎弾を放った男の胸を打つ。蹴り飛ばされた男は身動き一つ取れずに墜落し、肺でも痛めたのか、苦しそうに血を吐き出してのたうち回る。

 血を吐く……つまりは紅世の徒ではない敵の姿に、少女……平井ゆかりは、疲れた風に長い息を吐いた。

「(こうして見ると、あたしだって捨てたもんじゃない感じに見えるんだけどなぁ)」

 炎は無駄と悟ってか、残る三人が槍と双剣と大刀を手に飛んでくる。最初に来た時は十人編成だったが、既に七人は戦える状態ではない。

「よっ」

 風を纏った竜巻の槍が突き出されるよりも速く、血色に輝く『吸血鬼(ブルートザオガー)』が腕ごと切り落とす。

「ほっ」

 目にも止まらぬ双剣の乱舞から急速な後退で逃れ、口から火を吹いて逆撃する。

「せぃや!」

 炎を吸い取る大刀を右手の大剣で受け止め、指輪型宝具『コルデー』を指弾で放った。
 指輪に込められた『束縛』の自在法で動きの止まった大男を、アッパーカットでKOする。

「あっちも随分、大変そうだなぁ」

 十人のフレイムヘイズ。あれから二度目の“坂井悠二討伐隊”を倒した平井は、指から飛ばした血色の火の粉で封絶内の修復を始めた。
 多忙な悠二の手を借りなくて済んだ事に、小さな満足感を得る平井である。何せ現在悠二が取り組んでいる作業に於いて、平井は何の役にも立てない。今の状況で、自在法の苦手な平井はこういう形でしか悠二に貢献出来ないのだ。

「(……マージョリーさんがいたら、力になってくれたかな)」

 獰猛で、自堕落で、でも間違いなく優しくて強かった女傑を思い出して、僅か目を伏せる。
 ヘカテーと親しかったわけでも、使命に篤いわけでもないマージョリーが、何故あんな無謀な作戦に協力し、命を懸けて自分達を生かしてくれたのかは解らない。だが、少なくとも平井は、「巻き込んでしまった」などとは考えない。それは、彼女の決断に対する侮辱に思えた。
 仇討ちなどする気は無い。マージョリーの為に戦うつもりもない。それでも、もういないマージョリーが笑ってくれる結末があるとすれば、それは……自分が生かした者達の痛快な勝利であるような気がした。

「よし、終わりっ」

 修復を終えて、封絶を解く。陽炎も炎も火線も消えた夜の闇に紛れて、平井は軽やかに跳んだ。
 向かう先は、悠二の待つホテル。どうせすぐまた追っ手が来るだろうが、だからと言って襲撃された場所にいつまでも留まる気は無い。また場所を移す必要がある。

「悠二ー、終わったよー」

 大きい割に開きにくい窓に細い身体を滑り込ませて、分厚いカーテンを潜って部屋に入ると、出る前と寸分違わぬ光景がそこにあった。
 即ち、直立不動で瞑目し、全身に貼り付けた銀の鱗から自在式を踊らせる坂井悠二の姿が。

「………………」

 戻って来た平井に対する返事も無い。『詣道』に残して来たという傀儡に意思総体を集中させているのだろう。
 邪魔の入らない個室が欲しくてホテルなど借りてはいるが、悠二はあれから完全な不眠不休である。異能者であり『零時迷子』を宿す悠二の身体がそれに参る事は無いが、人間としての精神の方には決して少なくない負荷が掛かっているだろう。

「(がんばれ、悠二)」

 自分以外の少女を取り戻す為に命を懸けて神にすら挑もうとする少年に目を細めて、平井はベッドに座って布団に包まり……脇に置いていた缶コーヒーを啜った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 冬の寒さを和らげる陽光の射し込む一室。懐かしさすら感じる御崎市の虹野邸で、ヴィルヘルミナ・カルメルはボンヤリと虚空を眺めていた。

「(薄情な奴であります)」

 あの大戦から数日。日本に着いた翌日に、坂井悠二と平井ゆかりはフレイムヘイズ兵団の前から姿を消した。未だ目を覚まさないシャナを置いて、ヴィルヘルミナやメリヒムにも何も告げずに。
 その理由くらい、ヴィルヘルミナとて判る。今の情勢が正にそのまま、彼らが逃げる理由となっていた。

「(妥当判断)」

「(解っているのであります)」

 先の大戦で敗北し、大命の宣布を受けたフレイムヘイズ兵団は……ものの見事に分断されてしまっていた。
 戦場での混乱や士気の低下という、戦略レベルの話ではない。組織としての体制が、収拾する気にもならない程バラバラにされてしまったのだ。

『徒が楽園に行ってくれるというなら、それを邪魔する理由はない』
『信じられる訳がない。楽園を騙った恐ろしい企てが、起こってからでは遅いのだ』
『たとえ真実でも見逃せない。家族の仇を、楽園になど逃がせるものか』
『俺たちには復讐の権利がある。その為に全てを差し出したのだ』
『ならば邪魔するというのか、人が徒に喰われ続ける現状を、甘んじて受け入れろというのか』
『阻めるというならそれも良いだろう。だがこれ以上の抗戦は無駄な犠牲を増やすだけではないのか。先の大敗を忘れたとは言わせないぞ』

 “祭礼の蛇”の大命は、フレイムヘイズという存在を根底から否定する神託だ。だからと言って「はいそうですか」とそれを受け入れられる者など殆どいない。逆に、私怨も疑惑も抑え込んで世界の未来を憂う者もいる。
 復讐を糧に、使命を押し付ける。フレイムヘイズという歪んだシステムのツケが、世界の変革を前にして最悪の形で浮き上がって来たのである。
 ある者は人間への配慮も忘れて形振り構わず仇を狙い、ある者はそれを止めんと仲間割れを始め、ある者は存在意義を失って自壊する。
 そして当然、こう考える討ち手も現れた。

『この世の平和の為に、楽園創造を支援する。即ち、邪魔する者は排除せよ』

 討ち手が復讐目的で個人の徒を狙おうと、それで大命が崩れる訳もない。彼らが言う邪魔者とは、無謀にも創造神の巫女を取り戻す為に『星黎殿』にまで乗り込み、『仮装舞踏会』の大軍さえも脅かしたミステス……即ち、坂井悠二である。

『あんな大それた真似をしでかす少年だ。このまま指を咥えて黙っているわけがない。奴は必ずまた神に挑むに違いない!』

 猜疑に呑まれて楽園を否定するでもなく、憎悪に任せて復讐に走る事も無い。今まで散々利用してきた相手に弓を引くのもお構いなし。
 受け入れ難い感情を抑え込んで世界の未来を優先する。ある意味、最も使命に忠実に在ろうとする討ち手らが、統率を失った兵団を離れて坂井悠二を狙いだしたのだった。
 そして悠二は、こうなる事が判っていたかのように姿を消した。御崎市に戻ってもやはり、彼の姿は無い。

「………………」

 わざとらしい罵声とは裏腹に、ヴィルヘルミナには悠二に対する非難の感情が無かった。彼を狙う討ち手や、復讐に逸る討ち手、そしてヘカテーや“祭礼の蛇”にさえ、同様に。
 理由は明白。

「(私はこれから、どうしたい?……)」

 他でもないヴィルヘルミナが、自分の進むべき道を見失っていた。彼らを咎める資格を持っていなかったからだ。

「(使命を失って、私は……)」

 ヴィルヘルミナ・カルメルは、決して揺るがぬ使命の剣などではない。
 情に厚く、情に流され、情に懸け、情に泣いて生きてきた。そんな彼女をこれまで立ち止まる事なく歩かせて来たものこそ、フレイムヘイズの使命に他ならない。
 己の生き方を肯定してくれる大義名分があってこそ、彼女は己が情を正当化し、時にはねじ伏せてきたのである。だが、今や、その使命こそが揺らいでいる。

「(彼は、何を考えているのでありましょうな)」

「(戦闘欲求)」

 何の気なしに庭を見れば、曲刀『オレイカルコス』を手にした銀髪の執事が、空高く放り投げた粘土球を“遥か離れた上空で”斬りまくっていた。
 どう見ても新しい宝具の練習。紛れもない戦闘の準備である。何を迷う事もなく求めるがまま力を振るう徒という種が、今だけは羨ましく映る。
 視線を外して、傍らで眠るシャナを見た。

「……貴女は、誰を待っているのでありますか」




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 ────夢を、見ていた。

『そう、お前は人じゃない。モノよ』

 薄白い炎の踊る陽炎の世界で、一人のフレイムヘイズが、一人のトーチを見下ろしている。
 斬られて加工された自分の身体を蒼白な顔で見ている姿が、何だかイメージと合わなくて笑ってしまう。

『捨てるんじゃない。生かすんだ』

 自分がいつか消える抜け殻だと知った少年は、クラスメイトを庇って自らの存在を差し出した。優しげな横顔が、焼き付いて離れない。

『自分が何者かなんて関係ない。ただ、やる。それだけだったんだ……』

 命を懸けた、戦い。

『うるさいうるさいうるさい! お前が! あんなっ……いじわるするから!』

 他愛のない、すれ違い。

『悠二は私と一緒にいる方が絶対に良いんだから!』

 殆ど知らない筈の少女との、衝突。

『あなたはもう、人間を越えられる』

 その全てが、優しい光景ばかりではない。

『シャナは、それでいいの?』

 だけどその全てに、胸の奥が切なく疼いた。

『何でこんなにっ……弱いんだ!』

 仮に“もしも”があるならば、こんな世界もあったのだろうか。

【だけど、それは“もしも”でしかない】

 唐突に、夢の世界が一変した。
 紅蓮の炎が一瞬にして全てを呑み込み、瓦礫も地面もない無辺の煉獄だけが視界を満たす。

「お前は……」

 そこに、一人の少女が浮かんでいた。黒衣を靡かせ、灼眼を燃やし、炎髪を煌めかせる……自分自身が。

【私はフレイムヘイズ。この世と紅世のバランスを守る使命を選び、決意した者】

 紅蓮に燃える炎の中で、炎髪の討ち手と黒髪の戦巫女が向かい合う。
 かつて目指して、かつて焦がれて、かつて為し得た筈の姿が……今はどうしようもなく儚く見えた。

「フレイムヘイズの使命……でも、それは……」

【そう……“無意味になった”】

 諦めるように、吐き捨てるように、『炎髪灼眼の討ち手』は告げる。

【いくら徒を討滅しても、それは結局その場しのぎでしかない。途切れる事なくこの世にやってくる徒を殺し続ける戦いは、もう要らない】

 その姿が移ろい、揺らいで、変わった。水色の髪と瞳を持つ、白い巫女の姿へと。

【全ての徒を引き連れて、盟主は楽園へと旅立ちます。もうこの世から徒はいなくなる。同胞殺しの道具など、もう必要ありません】

 限界まで追いつめられた心を、水色の炎が冷たく撫でる。
 そしてまた、変わった。

【シャナはここでリタイアかー。ま、仕方ないよね。悠二の事は、あたしが支えるよ】

 血色の炎の中で、何でもなさそうに、どうでもよさそうに、平井ゆかりが笑う。

 ───わかって、いた。

「(ここは私の心の中。私以外、誰もいない)」

 虚像の言葉は全て自分の言葉。絶望の底に囚われて、どうしようもない悲嘆に酔っているに過ぎない。

「(そこまで解っていて、どうして……?)」

 どうして、いつまでもこんな惨めな眠りに沈んでいるのか。自分はこんなにも弱かっただろうか。
 戸惑うシャナの前で、また炎が変わる………燦然と輝く、銀色に。

「(あ……)」

 坂井、悠二。

【僕は、シャナに憧れていた。自分一人で未来を選び、進んで行ける君が眩しかったんだ】

 こんなにも情けない姿を見て、少年は言葉通り、眩しそうに目を細める。
 いつか胸を熱くさせたそれが、今は冷たく影を差す。

【フレイムヘイズかどうかなんて関係ない。強くなくてもいい、立派じゃなくてもいい、僕の前から……いなくならないで】

 わかって、いる。
 待っているからだ。
 待っているという、自分の心が、解ってしまうからだ。

「(……わかってる)」

 使命も未来も失って、行き場もなく空っぽになった自分を、迎えに来てくれるのを、待っているのだ。
 呼んでさえくれれば、すぐにも自分は目覚めるだろう。弱くて、脆くて、情けないシャナとして、彼の傍へと戻るだろう。彼はそれを……許してくれるだろう。

「(だけど私は、許せない)」

 完璧なフレイムヘイズなどあり得ない。天下無敵の『炎髪灼眼』などどこにもいない。弱さも脆さも確かに認めて、それでも譲れないものがある。

「ここで立ち上がれないような私を、私は絶対に認めない!」

 使命も目的も失って───ただ、意地だけで少女は叫んだ。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 袋いっぱいの焼きたてメロンパンを手に、ヴィルヘルミナ・カルメルは虹野邸の廊下を歩く。

「(この戦いの果てに、何がある)」

 何を期待していた、という程の事もない。

「(もはや何が正しくて、何のために戦うのかさえ……)」

 大好物の匂いに釣られて、今までの昏睡が嘘だったようにひょっこりと目覚めてくれるのではないか……という、現実逃避にも似た思い付きだった。

「(『弔詞の詠み手』は、何を思って彼らを───)」

 だからこそ、ノックもせずに扉を開けて、そこにある姿に……馬鹿みたいに呆けてしまった。

「───おはよ、ヴィルヘルミナ───」

 何日も眠り続けていた愛しい娘が、誰より偉大な使命の剣が、当たり前のように、或いは冗談のように、そこに立っていた。

「……ぁ…………」

 思わず目を擦って、もう一度見てみても、やはり幻覚などではない。
 ロクに事態も呑み込めていない筈なのに、当然のように緋袴の紐を絞って戦装束に身を包む姿は、紛れもなくシャナだった。
 ……だが、何かが違う。そこにいるのは、存在意義を砕かれた哀れな少女でもなければ、ただ直向きに使命に生きるフレイムヘイズでもない。

「ねえ、ヴィルヘルミナ」

 何も変わらない筈の幼い少女が、何処か大人びた横顔で母親を見る。

「夢を見たの」

 心配する事も、声を掛ける事さえ忘れて、ヴィルヘルミナは立ち尽くす。気配を持たない筈のシャナから、形容出来ない衝撃を受けて。

「私が最初に、悠二に出会うの。“頂の座”よりも、シロよりも、ヴィルヘルミナよりも早く。悠二は今よりずっと弱くて、今よりずっと頼りないけど……いつも一緒に戦ってくれるの」

 掌を開いて、そして握る。そこに大切なものがあるかのように、シャナはその拳をそっと胸に押し当てた。

「ほんの少し……少しだけ歯車がズレてたら、あんな未来もあったのかな」

 愛しそうに、切なそうに、左の灼眼が揺れた。憂いを帯びて、しかし迷いのない言葉が少女の唇を震わせる。

「今の私が何なのか、今の私がどうしたいのか、それはまだ解らない。だけど………」

 静かな声が、確かな響きを持って、

「───私、悠二が好き───」

 誓うように、誇るように、シャナは告げた。

「今はそれだけ!」

 朱に色付く美貌に笑顔を咲かせて、唐突にヴィルヘルミナの脇を抜けて部屋から飛び出した。
 これ以上ない照れ臭さからの逃走を、止める暇も無い。

「(そう……それだけ)」

 走りながら、シャナは自分の心に形を見つける。口に出す事で、誰かに告げる事で、想いはより鮮明に総身を充たす。

「(それだけで、戦える)」

 未来を捨てて使命を選び、使命の果てに大義を失った少女は、いま再び進み出す。
 異界の魔物を屠る為でも、歪んだ世界を正す為でもなく、ただ己が想いに導かれる儘に。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「やれやれ」

 走り去るシャナの背中を見送り、石のように動かないヴィルヘルミナを眺めながら、庭にいたメリヒムは窓枠に肘を乗せて寄り掛かった。

「いいのか? ヴィルヘルミナ・カルメル」

 一部始終を見ていた彼の、諦め半分呆れ半分の問い掛けに、ヴィルヘルミナは漸く再起動を果たす。

「いいわけが、ないのであります」

「断固反対」

 常の無表情を、苦虫を噛んだように歪ませるという、苦渋そのものを具現させたような形で。

「坂井悠二の眼に、あの子の姿は映っていないのであります。どれだけ強く想っていても……いや、強く想えば想うほど、傷は深く刻み付けられる!」

 ヘカテーを救わんと命懸けの戦いに臨む坂井悠二。その背中を追い掛ける娘の姿がかつての自分と重なり、ヴィルヘルミナはらしくもなく声を荒げてしまう。
 報われぬ恋など、するべきではない。破れてもまた前に進めるとは限らない。数百年経っても我が身を蝕み続ける傷だってあるのだ。
 シャナと悠二の運命を呪う言葉を、ヴィルヘルミナはメリヒムを睨み付けて言い放った。メリヒムは当然、動じない。

「確かに、厄介なのは間違いないな。巡り合わせの悪さは誰に似たのか」

 ヴィルヘルミナと同様……いや、討ち手としての妙な拘りが無い分、或いは彼女以上にシャナを溺愛しているメリヒムが動じていないのは、別に悠二をシャナの想い人に相応しいと認めた訳では断じてない。
 それは、諦めというものだった。

「だが、そんな理屈で止まれるなら誰も苦労はしない。俺も、お前もな」

 シャナの灼眼に在ったのは、既に無邪気な子供の眩しさではなく、恋する乙女の輝きだった。
 ならば、誰にも止められはしない。メリヒムがそうであったように、ヴィルヘルミナがそうであるように。

「………………」

 このどうしようもない気持ちを、その強さを、全て解った上で当てつけてくる酷い男に、ヴィルヘルミナはわざとらしく奥歯を軋ませた。
 ……そう、解っているのだ。“これ”は、誰に何をされたところでねじ曲げられるようなものではない。こんなどうしようもない、どうにもならない気持ち、消せるものなら消し……たいとさえ、思えないのだ。

「それに、俺はお前ほど悲観してはいない。何せシャナは世界一可愛いからな。お前と一緒にするな」

「……えぇそうでありますな!」

 近くにあった目覚まし時計をメリヒムの顔面目掛けて思い切り投げつける。
 この反撃を予期していたメリヒムは軽く体を逸らして躱し、室内からは視覚となる窓より下で『オレイカルコス』一閃。空間を超えた峰打ちがヴィルヘルミナの足を見事に払い、しかしヴィルヘルミナは数本のリボンを支えにして転倒を避けた。
 二人、窓越しに構えて距離を取る。

「(……本当に、救いようのない馬鹿だな、こいつは)」

 前々から思っていた事実を、メリヒムは呆れたように噛み締める。
 自分の事を見向きもしない、口を開けば嫌味ばかりの男の事を、よくもまあ数百年も想い続けられるものだ。
 強くなどない癖に仮面を被って強がって、虚勢すら張れずに醜態を晒す。何から何まで“彼女”とは正反対だ。

 ……だが、何故だろうか。

「(娘を持った、弊害か?)」

 無様で、愚かで、滑稽で、気に掛けた事すら無かった筈のその姿が──────可愛く、見えた。

 しかも、実のところ初めてではなく、御崎市で暮らすようになってから、時々。

「……何となく、目標が見つかったのであります」

 その可愛い馬鹿が、諦めた風に溜息を吐いた。陰鬱なわりに何処か清々しい、けれどそれを認めたくないという表情である。

「あの子の、そして彼らの痴話喧嘩の行く末を見届ける。どうもそれが、今の私が心底やりたい事であるようであります」

「は?」

 一瞬、メリヒムは呆けた。

「何か、文句でもあるのでありますか」

 別に、その選択自体に異論はない。実際、メリヒムが悠二に力を貸すのも似たような理由だ。
 だが、あの堅物なヴィルヘルミナが、新世界創造を企てる蛇神との決戦を指して……痴話喧嘩、である。

「……くっ」

 思わず、小さく吹き出した。

「……自分でもおかしな事を言っている自覚はあるのであります。しかし楽園創造を控えた今、使命を失ったからと傍観する気にはやはり…─」

「ああ、いや、わかるぞ? こんなっ、派手な痴話喧、嘩は、二度と見る機会は、ないからな」

 ヴィルヘルミナは笑いを堪えて一々喉を震わせるメリヒムに───今度は椅子を投げつけた。






[37979] ☆-3・『ただ隣を歩く敵として』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2017/06/14 19:23

 遡る事、三日前。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』から世界中へと二度目の宣布が行われた。楽園創造の地は日本。人間の乱獲は大命の妨げとなるので控えよ、という簡素な内容。御陰様で、フレイムヘイズが大命の邪魔をする理由がまた一つ潰れたというわけだ。
 大勢など無視して復讐に逸る者。そんな独断専行を止める者。あまりの戦力差に諦める者。楽園創造の妨げとなりかねない一人のミステスを追う者。
 フレイムヘイズ兵団が見るも無残に瓦解したタイミングで、それは起こった。

『──────』

 天空を覆う銀の蛇鱗から降り注ぐ、少年の声。落ち着いた声音にも関わらず、「言う通りにした方が良い」と自然に思えてしまう、不思議な安心感を抱かせる声。
 それが、日本の本州。フレイムヘイズの脳裏だけに響いたのだ。

「………………」

 その、荒唐無稽にして堪らなく胡散臭い演説を、外界宿(アウトロー)第二総本部から程よく離れたバーのカウンター席で、『鬼巧の繰り手』サーレ・ハビヒツブルグは聞いていた。
 もう幾度となく兵団から追っ手を差し向けられている少年の大胆不敵なパフォーマンスに、呆れを通り越して感心してしまう。

「どういう、つもりなんでしょう」

 隣で、キアラ・トスカナが困惑した声を出す。それも当然。たった今聞かされた……坂井悠二の計画では、“頂の座”ヘカテーは助からないのだ。

「どうもこうも、単純に戦力が欲しいんでしょ」
「目的が何にせよ、あの二人だけじゃどうしようもないからね」

 その声に、キアラの髪を両側で結った鏃に宿る契約者達が答える。
 現時点で、坂井悠二の味方と呼べるのは平井ゆかり唯一人。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』に挑むには、考えるまでもなく戦力が足りない。

「と言っても、全くのデタラメでもないだろうけどね」

 気障な声が、サーレの腰の操具から発せられる。坂井悠二は当然、彼を知る者にこの提案がどれだけ白々しく聞こえるか理解しているはずだ。
 その上でなお実行したという事はつまり、そういう事だろう。

「……まったく、どこまでも舐めたガキだ」

 このゲームへの招待状に乗るか、否か。何となくもう決めてしまっている事をそれでも思索するように、サーレはウイスキーを呷った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 未だ雪に至らぬ冷たい雨が、人の住めない樹海全体に降り注ぐ。その奥で歪に切り立った崖の上で、

「よっし」

 平井ゆかりは、軽く左拳を作った。強化した右手の人差し指で、強化していない左の手首を浅く切る。手入れする必要さえない短い爪は、まるでカッターナイフのように血管を断つ。
 雨と混じってダラダラと流れる鮮血を眺めた平井は、両腕を眼前で交叉させる。その両脚を銀の蛇鱗が這い上がるように覆い、両腕を払うと同時、

「はあああぁぁーーー!!」

 その全身から、尋常ならざる存在の力が炎となって迸った。常の平井では為し得ない力の発露、明らかに自分を上回る存在感を目にして、

「……もうちょっと、欲しいな」

 後ろから見守っていた坂井悠二は、そう辛口に評した。
 荒ぶっていた少女はその一言に肩を落とし、捨てられた仔犬のような顔で振り返る。構わず降り続く雨がいい感じに悲愴感を感じさせる。

「ダメ?」

「相手が相手、だからね」

 妥協など有り得ない。そう判った上でわざとらしく甘やかして貰おうとする平井に、悠二は苦笑しながらNOを突きつけた。

「ん~……どうすれば出力上がるかなぁ」

 間近に迫る決戦。相手は創造神とその眷属。悠二は『グランマティカ』で複数の自在式を掛け合わせる事で、次から次に新しい自在法を編み出している。
 しかし当然、平井にそんな真似は出来ない。自在法は苦手だし、ヘカテーがいない今、近接戦闘技術も急激に伸びたりはしない。故に平井は、己が本質の顕現たる自在法・『ラーミア』に懸けた。

「やっぱり反復練習しかないんじゃないかな。何度もやってる内にコツとか掴めてくるよきっと」

「う~、これ痛いからあんまし好きじゃないんだけど」

 血を失うほど自身を強化する自在法。限定的ながら絶大なその自在法の効力を更に高める為の特訓である。
 限界まで失血すればあのサブラクにさえ抗し得る『ラーミア』だが、逆に言えば……そこまでしなければ『三柱臣(トリニティ)』とは戦えない。今のままではたとえ強敵を一人倒せても、そこから先は足手纏いになりかねないのだ。事実……中国の大戦ではそうなった。

「よーし、それじゃもう一丁」

 必要最小限の失血で勝つ。その為に、あっという間に塞がった傷口を再度裂こうとする平井の手を、

「待った」

 悠二が止めた。彼方を鋭く睨む真剣な顔つきに僅か見惚れてから……平井も気付いた。
 隠しようもない大きな気配が二つ、こちらに向かって近づいて来ている。

「うっわぁ……これ強いなぁ」

 これは、二人にとって慮外の事態ではない。むしろ封絶も張らずに『ラーミア』の練習をしていたのは半分はこれが狙いだ。
 以前の“募集”を受けたフレイムヘイズが、こうして二人を訪ねて来てくれるのを待っていた。
 問題なのは……敵か味方か。今までも散々フレイムヘイズに襲撃されてきたのだ。あんな真似をして味方だけが集まると思うほど楽観的ではない。

「けど、気配も隠さないで近づいて来るって事は───」

 まだ十分に距離がある。その事に僅か余裕を持った声を出す平井の、そして悠二の、

「───本当に待っているとは思いませんでした──」

 “後ろから”、声が掛かった。
 いつの間にか背後を取られたという事実、そして今も肌に突き刺さる凄まじい存在感に少なからず動揺する平井とは対称的に、

「悪戯であんな大仰な真似はしないよ」

 悠二は、全く涼しい顔のままで振り返る。これからやろうとしている事を考えたら、こんな程度で一々心乱してなどいられない。

「あなたは?」

 そこにいたのは、。存在感の大きさや、それに似合わぬ静かな圧力は、あのカムシンにも引けを取らない。
 これだけ強大な力を持つ、ネイティブ・アメリカンのフレイムヘイズ。という時点で、早々に察しは着いた。

「はじめまして、“踊る霞”、“空泳ぐ人魚”。」

「私は『雨と渡りゆく男』センターヒル。そして我が御憑神“殊寵の鼓”トラロック」

 ───『大地の四神』。
 かつてフレイムヘイズとの間に『内乱』を引き起こし、以降は戦いから離れて外界宿の管理者となった異端の討ち手達。
 先の大戦の直前に『仮装舞踏会』の襲撃を受けた四人の怪物の生き残りだった。

「(仮装舞踏会を恨む理由は、十分ある……!)」

 願ってもない人材の登場に、悠二は内心で喝采を上げた。
 同じく四神だった『星河の喚び手』と『滄波の振り手』は『仮装舞踏会』に殺されている。おまけに、彼らは既に一般的なフレイムヘイズの使命とは無縁の存在。従来の使命とは掛け離れた悠二の提案にも乗ってくれる可能性はある。
 そんな心を見透かすかのように、

「───貴方の、“本当の目的”は何ですか───」

 古代の神官の眼が、悠二の眼を捉えた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 神さえ無力な世界の狭間。そこに創られた『詣道』という異界に足を踏み入れ、そこからこの世を捉えて初めて気付いた事がある。
 この世に於いて、存在とは常に変動するものであるという事。破壊、腐食、忘却、死滅、再生。自在法など使わずとも移り変わるのが摂理であり、そこに徒の干渉があろうと世界は大きく歪みはしない。
 しかし、徒の干渉なくしては起こらない現象がある。それは、存在の力という歪なエネルギーだ。どんな形であれこの世の存在として在るべきモノを存在の力というエネルギーとして保持し続けるという行為こそが、最も大きく世界を歪める。
 そして、それはこれから生まれる楽園に於いても変わらない。

「楽園創造。その瞬間に危険は無くとも、そこで徒が存在の乱獲を続ければいつか『大災厄』の危険は再び起こり得る。それが貴方の大義名分でしたね」

 センターヒルが並べ立てた言葉は、悠二がフレイムヘイズに対して無差別に発信したそれと同じもの。
 このタイミングでわざわざそれをなぞる意味に、悠二は早々に気付いた。

「それは、嘘ですね」

 つまりは、バレていると。

「(まあ、そう都合良くはいかないか)」

 初対面の相手に、こういう観点からバレるとは思っていなかったが、それでも十分に想定の範囲内である。

「そこに在るはずの存在が在り得ない存在に奪われ、在り得ない不思議が起こされる事で世界は本来の姿から“ズレて”歪みは起こります。貴方の理屈では、どれだけ存在の喰らっても、それを保持せず使い続ければ世界は安定する事になる……そのような事は有り得ません」

「……はぁ。内容の胡散臭さは同レベルなのに、やっぱり“祭礼の蛇”みたいにはいかないね。神様ってのは不公平だ」

 元よりバレても構わないつもりでばらまいた招待状である。悠二はあっさりと認めて肩を竦めた。

「けど、作戦の内容自体は嘘じゃない。少し前まで人間だった子供としては、そこまでおかしな願いじゃないだろ?」

「嘘ではなくとも、全てではないでしょう。『星黎殿』に乗り込んだ貴方が、今になって“頂の座”を諦める筈がありません」

 言葉を交わす内に、確信する。恐らく、この会話自体に意味は無いのだと。

「貴方が『詣道』で気付いた事は、“全く逆の真実”なのではないですか」

 眼前のこの男は、悠二の虚言も真実もある程度見抜いた上で、“反応を”見ているのだ。

「さあ、どうかな」

 そして、それが判ったからと言って、数千年を生きる古代の神官を欺けると思うほど悠二は演技力に自信がない。努めて平静を装おうとするが、本当の計画を隠しているのが事実である以上限界がある。

「……直接会って、貴方という人間を確かめたかった」

 悠二には悠二なりに、フレイムヘイズを募るこの作戦に勝算があった。だが、これは、もう駄目だ。

「そして、確信した。『仮装舞踏会』より、『三柱臣』より、“祭礼の蛇”より、“貴方が一番危険だ”」

 悠二の真意など解る筈も無いのに、その言葉は鋭く真実を抉る。

 瞬間───

「(来た!!)」

 象牙色の炎弾が、悠二らの立っていた崖を一撃で吹き飛ばす。
 既に遠方とも呼べない距離にまで来ていたもう一つの気配。センターヒルとは裏腹にゆっくりと近付いて来ていたフレイムヘイズから狙撃を受けたのだ。

「うわっ!」

「もー! クジ運ワッルいなぁ!!」

 『アズュール』の結界を広げた平井が、悠二を抱いたまま爆炎を裂いて飛翔する。
 そのまま超速で離脱しようとする彼女の目の前に───いきなりセンターヒルが現れた。

「ッ!?」

「く……っ」

 全身の力を集約させた重い掌底が平井の横っ面を張り飛ばし、次の瞬間には至近からの炎弾が火除けの結界から離れた悠二を撃ち抜く。
 翻る竜尾で瑠璃色に輝く炎を払い、

「ああ、本当にツイてない」

 緋色の凱甲を纏った悠二が、センターヒルに斬り掛かった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 『星辰楼』。
 壁も天井もない、床と柱だけで構成された純白の祭壇に膝を下ろして、漆黒の巫女が祈りを捧げていた。

「(私は……)」

 この祈り自体に、意味は無い。出来うる限り“いつも通り”の体を装いながら、乱れる心を落ち着けようと懸命に努めているのだ。

「(……どうして)」

 悠二による決意表明は、フレイムヘイズにしか聞こえない。だが、それを聞いたフレイムヘイズが内容を他者に話す事は制限出来ない。
 この情勢下に於いて必然の如く、その内容はフレイムヘイズの口から『仮装舞踏会』の耳にも届く事となった。

「(悠二は一体、何を考えて……)」

 呆れる程に、お粗末な話だ。こんな杜撰な作戦が成功するなどと、あの悠二が考えるわけがない。これは嘘だと初めから前置きしているようなものである。

 そう、頭では解っている。

「(どうして、私は……)」

 覚悟だって、決めている。
 だと言うのに……

「(こんなに、心が寒いの)」

 情けない自分の心に、ヘカテーは冷たい怒りを覚える。
 “悠二が私を切り捨てた”と理解する事が、それが偽りだと判っているのに、辛いのだ。自ら彼の許を離れた癖に、全てを投げ出してでも楽園を創ると決めた癖に……この惰弱な意思が、許せない。
 許せない……が、紛れもない事実だった。

「(……認めましょう)」

 “頂の座”ヘカテーは、怖れている。自らの喪失が坂井悠二に少なからぬ傷を与えると知って、それでも、彼にとって自分が何の価値もない存在に堕ちる事を怖れている。
 そう認めて……その上で、ねじ伏せる。怖いのならば、覚悟しよう。覚悟が鈍れば、研ぎ直そう。

「(貴方が何を想い、何をしようと、私が必ず叩き潰す)」

 愛しい少年と戦ってでも、幼い少女はそれを求める。
 ───彼と彼女が、いつまでも二人で生きていける……徒のいなくなった世界を。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 強化と加速。二つの特性を持つ黒刀『草薙』が、悠二自身の怪力と相まって重い斬撃を軽々と繰り出す。
 紅世の王でも容易には受けられない剛撃が、黄金の仮面を被った土塊の化け物を捉えて、

「くそ……!」

 その胴体を両断する事なく、半ばで止まった。すかさず両手で柄を握り、渾身の力で斬り裂いた。
 その背中に迫る別の亡者を、竜尾で思い切り叩き潰……せない。地面に這い蹲った怪物は、土塊をボロボロと崩しながらも立ってくる。
 こんな化け物が、“群れを成して”襲って来るのだ。

「(思ってた以上に、ムチャクチャに強い)」

 無作為に群がってくる亡者の動きを自在法で把握しながら、僅かな隙間を縫って悠二は跳び上がった。すぐさま追い掛けてくる亡者の群れ、比較的直線に並んでくれた標的を、

「喰らえ」

 銀炎の大蛇が正面から直撃した。土塊の塔とも見える亡者の群れが爆炎に巻かれて崩れ落ちる。
 ───その下から、新たな亡者が追ってくる。

「(今ので倒しきれないのか……!)」

 驚愕しつつも竜尾で全身を球状に覆う悠二に、亡者の群れが次から次に食らい付く。
 漆黒の球は見る間に巨大な土の塊に包まれ、激しい音を立てて墜落した。

「壊せないなら!」

 中心に在る竜尾の球。悠二はその漆黒の表面に『グランマティカ』を展開する。
 溢れ出した水銀が濁流となって一帯の森と亡者の大群を呑み込み、そして凝結する。
 森を呑み込んで現れた銀色の大地から、悠二だけが銀塊を裂いて飛び出してくる………が、その足下からガリガリと銀を齧る音が聞こえて来た。

「……いやいやいや」

 とりあえず空に逃げる悠二の眼下で、銀の大地を食い破って亡者の群れが姿を見せる。
 ただ突破してきた訳ではない。銀を喰らって肥大した亡者が分裂し、一気にその数を倍以上に増やしていた。

「ははははは! 次から次に見事なものだ! 自在に踊る銀の具象! 何とも美しいものじゃないか!」

「如何にも如何にも! 極東の島国にまで足を運んだ甲斐があったというものよ!」

 必死になって逃げ回る悠二を見て、ややの遠方から笑声を投げ掛ける者がいる。
 センターヒルと同じく『大地の四神』。細く尖った体格と容貌を、ポンチョと山高帽で飾った少年。『死者の道を指す男』サウスバレイである。黄金の輿に据えられた椅子に悠然と腰掛け、左の義足をプラプラと揺らしている。

「すっかり分断されちゃったなぁ」

 そんなサウスバレイと、今なお地面から迫り来る亡者を他人事のように眺めて、悠二は顔を濡らす雨を拭った。
 封絶を張って戦っているというのに止まないこの雨も、少なからず不気味である。

「(って言っても、人を気にする余裕もないか)」

 一体一体が王にも迫る力を誇り、喰らった力を変換・増殖して襲い来る亡者の大群。これだけの数と力を行使する統御力と器の総量は尋常ではない。地力では明らかに悠二を上回っている。

「(気は進まないけど)」

 力でねじ伏せる事は不可能。ならば、全霊の一撃で隙を突くしかない。

「悪く思うなよ」

 一切の躊躇をかなぐり捨てて、悠二も即座に覚悟を決める。
 鋭く睨んだ黒い瞳に───淡い銀光が宿った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 両脚に銀鱗を纏う平井ゆかりが、血色の炎を引いて空を翔る。凄まじい速さで豪雨を弾き飛ばしながら、的を絞らせない稲妻状の軌道を描き、

「はっ!」

 『吸血鬼』の斬撃が繰り出される。血色の波紋を揺らす刃は容赦なくセンターヒルの眼前に迫り───空を切った。

「か……っ」

 空振りした隙だらけの背中を、いつの間にか背後にいたセンターヒルが蹴り飛ばす。
 息を詰まらせ落下する平井を瑠璃色の炎弾が追撃し、『アズュール』の結界に阻まれて消えた。危うい所を宝具に救われた平井は、墜落直前に持ち直して地面スレスレを飛翔する。

「(瞬間移動? あれじゃいくらスピード上げても……)」

 思索に耽るも一瞬。逃げる眼前にまたしても唐突にセンターヒルが現れ、低空飛行する平井の頭に足裏が迫る。

「たわっ!?」

 慌てて身体を捻った平井はそのまま地面をバウンドして巨木をへし折り、藪に突っ込んだ。間一髪で難を逃れた平井の代わりに、大地が蜘蛛の巣状にひび割れる。
 その光景に雨とは別の水滴を流しつつ、平井は障害物を嫌って自由な空に逃げた。

「(やっぱり、このままじゃ勝てない)」

 どれだけ必死に動いても、こちらの動きを捕捉している限りセンターヒルの近距離転移からは逃れられない。
 ならば、目にも止まらぬ速さにまで“上げる”しかない。

「(一気に決める!)」

 横一文字に構えた『吸血鬼』が血色の波紋を揺らし、平井自身を切り刻む。浅く、しかし全身を刻んだ傷口から流れた鮮血が雨と混じって滴り落ちる。
 頭を擡げる不快な虚脱感を強引に無視して、平井は全身から炎を噴き上げた。

「ゴー!!」

 血を失うほど、『ラーミア』の効力は強くなる。先程とは段違いの速さで突撃してくる平井に虚を突かれたのか、僅か早いタイミングでセンターヒルは転移し、

「む」

 背後を取った、と思った時には既に平井の姿は無く、

「そこぉ!!」

 逆に、後ろ手に放った平井の炎弾が直撃した。軽く放った火球が大爆発を巻き起こし、弾けた業火がセンターヒルを炙り、吹き飛ばす。
 その間にも、平井は次の攻撃に移っていた。足裏に爆発を起こして反転、宙を舞うセンターヒルに刃を突き立て

「いっ……!」

 ようとして、またしても見失う。
 魔剣を突き出した平井の後頭部に掌底が迫り……左肘でそれを受け止めた。返す刀で振り下ろす魔剣は躱されるも、その勢いのまま身体を一回転させた踵落としがセンターヒルを捉えた。

「(もう少しで、勝てる!)」

 確かな手応えを感じて、平井は指先を強化して自ら首を切った。水鉄砲のような勢いで血が飛び出し、一気に意識が遠くなる。
 だが、これで良い。人間ならば死んでしまう傷でも、今の平井ならばその前に傷が塞がる。

「あああああああぁぁーーーー!!」

 咆哮と共に平井は飛んだ。
 サブラクをも上回る最速の飛翔が、一直線に古代の神官を追った。
 そのスピードを逆手に取ろうとしてか、センターヒルは周囲の雨粒を雹の弾丸に変えて放つ。全速力の突撃の最中、向かって来る雹に対して、平井は止まらない。

「うりゃあ!」

 左掌から炎弾を繰り出し、全ての弾丸を飛沫の如く消し飛ばした。加速する平井から放たれた極大の火球は神速の閃光となって大地に突き刺さる。
 血色の爆炎が森を焼き払い、大地を抉り、空を照らした。渦巻く炎の中に巨大なクレーターを認めて、しかしセンターヒルの姿は無い。

「(わかってる)」

 慌てず、動じず、平井は大剣を振り抜いた。

「後ろでしょ!」

 視認もせずに繰り出された魔剣は狙い通りに背後にいたセンターヒルを捉えて───逆に弾き飛ばされた。

「ぇ…………」

 勝利を確信した直後の、信じられない光景に、平井は不覚にも自失する。自失して、鋭いボディブローを食らわされる。
 鈍い感触と共に肋骨が一本折れる激痛に僅か遅れて、横っ面に掌底が叩き込まれた。

「か……あっ……」

 視界が真っ赤に染まり、飛翔すらも覚束ない身体を、冷たい雹弾が容赦なく撃ち抜く。
 混乱する頭で辛うじて顔と胸を庇いながら、平井は轟音を立てて地面に墜ちた。

「なん……で……」

 理不尽とさえ思える反撃に、平井は倒れたまま奥歯を軋ませた。
 平井の『ラーミア』は、最大限に発揮すればサブラクとも渡り合えるほど平井を強化する。いくら『大地の四神』と言えど、身体能力で敵う訳がない。現にさっきまでは明らかに優勢だったではないか。
 それが、いとも容易く素手で大剣を弾き、一撃で肋骨をへし折るなど納得出来ない。

「絶対……おかしい」

 痛む身体に鞭を打ち、膝に手を当てて立ち上がる。その動きの途中で、気づいた。
 さっきまで確かに平井の両脚を覆っていた銀の蛇鱗が、無い。『ラーミア』が解けている。

「大結界『トラロカン』。これが御憑神トラロックより授けられし自在法です」

「この雨の結界内の自在法を阻害し、強制的に解除する力よ」

 唖然とする平井の前に、センターヒルがゆっくりと降り立った。もはや勝負を急ぐ必要もないと、その悠然とした態度が物語っている。

「平井ゆかり。ミステスとなって数ヵ月、戦闘経験は数えるほど、固有自在法は失血に応じて自身を強化する『ラーミア』」

 センターヒルが口にするそれは、一つの事実。

「人間であった頃から外界宿に出入りし、『鞘持たぬ剣』の撃退にも貢献した逸材。その勇気と機転には敬意を払います」

 この恐るべき敵が、自分達の事を綿密に調べ上げて来ていた、という事実である。

「貴女のような“賢明な未熟者”は、自らの経験の浅さを自覚しているが故に勝負を急ぐ傾向がある。長期戦になればなるほど、手札の少なさや実力差が顕著になるからです。貴女のように速さが武器の使い手ならば、尚更に」

 今となっては、それも納得出来る。この戦いの運び方は、明らかに平井の性質を掌握したものだ。

「わざと劣勢を演出して、あたしが『ラーミア』を使う為に自分から血を流すよう誘導して、弱り切ったところで『ラーミア』を強制解除する。素人相手に随分慎重だね」

 能力どころか、頭の中まで見透かされている。歴戦のフレイムヘイズの底知れない器の前に、平井は怒りも悔しさも吹き飛んだ。

「“踊る霞”は、貴女にだけは計画の全容を明かしているのでしょう。それを知った上で止めようとしない貴女も、十分に危険な存在です」

 悠二の計画は、いくら頭が良くても推察出来る類の内容ではない。にも拘わらずこうも見事に危険を見抜くのも恐ろしい。実際、図星なのだから反論も難しい。

「(さーて、どうしたもんか)」

 話している間も常に不意打ちを狙ってはいたが、やはりと言うべきか、隙など無い。
 実力は下回り、切り札も封じられた。おまけに失血でコンディションは最悪に近い。センターヒルが勝利を確信して余裕を見せるのも無理からぬ状況である。
 だが、

「(だからって、誰が諦めてやるもんか)」

 絶望的な窮地など、今に始まった事ではない。今から飛び込む先に待っているのは、こんな生易しい戦場ではない。
 “こんな程度”で怯んでいては、神に挑む資格などないのだ。

「(考えろ、考えろ)」

 無論、気迫だけで勝てるほど世の中甘くない。まして今は窮地にこそ力を発揮する『ラーミア』が封じられているのだ。何かしら、今ある武器で勝機を掴むしかない。
 基礎能力は相手が上。ダメージは色濃く、『ラーミア』も使用不可。『吸血鬼』の力も知られているだろう。
 唯一知られていないだろう手札は、指輪型宝具『コルデー』に装填した自在法だが、間が悪い事に今入っているのは戦闘用の式では……

「(ん?)」

 不意に、気付いた。
 確かに戦いの為に用意された自在式ではない。悠二もこんな使い方を想定していた訳ではないだろう。だがこれは……使えるのではないだろうか。

「はは……」

 諦めた、と受け取るには不穏な笑い声が零れて、センターヒルの顔が僅かに引き攣る。

「(まだ、終わっていない……!)」

 油断などしていない。隙など見せない。何が来ようと対応できる。
 そう自分に言い聞かせ、実践していたセンターヒルの警戒が、唐突に危機感に塗り潰される。

「(“今やらなければ、やられる”!!)」

 この時、危機感のままに逃げ回れば、或いは勝機もあったかも知れない。
 しかし彼は、瞬間移動による死角からの一撃で勝負を決める選択をした。

「さっきの、訂正……」

 視聴覚を妨げる豪雨の中で、零れるような小さな言葉を、確かにセンターヒルは聞いた。

「───運が無いのは、そっちだったね───」

 雨降りしきる陽炎の世界に、鮮血の華が咲く。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 降る筈のない雨が、上がる。
 それがパートナーたる少女の勝利の証だと知る坂井悠二は、二重の意味で安堵の溜息を吐いた。
 ほとんど同時、

「“あっちも”終わったか」

 土塊の亡者達が、ボロボロと崩れ落ちていく。一歩間違えれば群がられ、貪り喰われていた化け物共の消滅を見届けてから、悠二は一っ飛びに地上に降り立った。
 見下ろす先には……胸に風穴を開けて倒れるサウスバレイの姿。こんな状態でも息があるようだが……間違いなく、直に死ぬ。

「はは、ははは。油断したつもりは、なかったが……これは一本、取られたようだ……」

「『仮装舞踏会』対策のとっておきだ。加減できる相手じゃなかったからな」

 訳が解らない内に殺された。そう感じる筈の攻撃を受けたサウスバレイは、どうやら自分が何をされたのか明確に理解しているらしい。恐らく二度は通じないだろう。……二度目など、訪れる事は無いが。

「どうして二人だけで来たんだ? 少し数の有利を作るだけでも全然違った筈だろ」

「我々は……とうに、フレイムヘイズと袂を分かっている。口先だけの連中を引き連れて、背中を刺されても敵わん……」

「異端はお互い様ってわけだ」

 道を外れて、覚悟を決めて、それでも往生際の悪い悠二の理性が、得も言われぬ昂揚と混じって渇いた自嘲を零させる。

「お前は、気付いているのだろう。フレイムヘイズとなる人間が、本当は……どういう存在なのか」

「ああ、解ってる」

 その真実は、悠二が『詣道』で手に入れた大きな副産物だった。
 フレイムヘイズとは、それに選ばれる人間とは……“徒という異物に対するこの世の抗体”なのだ。ゆえに、彼らは理屈や感情以前に徒を許せない。許さないのではなく、存在の在り方として許せない。
 あれだけ完璧な楽園を謳う『仮装舞踏会』が、何故あの場面まで大命の内実を秘匿してきたのか? 本当に人間やフレイムヘイズにさえ理想的な世界を創れるなら、最初から戦う必要すらなかった筈だ。その根本的な理由が、これである。それぞれの都合や信念によって個人差は出るだろうが、結局最後にはフレイムヘイズは徒の前に立ちはだかる。
 悠二が今回のような破天荒な“募集”を掛けた理由も同様。大義名分さえ与えてやれば、僅かな勝機を見せてやれば、『仮装舞踏会』に挑むフレイムヘイズが少なからず現れると確信したのだ。

「世界の狭間で……“楽園の創造にさえ耐えられる世界の狭間”を使って、お前は何をする気だ……“踊る霞”」

「協力してくれたフレイムヘイズを出し抜いて、ヘカテーを取り戻す。それだけさ」

「はは、ははは……戯れるな。それで満足するような、殊勝な男ではあるまい」

 恐らく、この二神は『仮装舞踏会』の大命さえも、その実体を見定めようとしたはずだ。
 それが、今回は悠二の真意を見極めるまでもなく排除しようとした。そうさせるのは、全てが神の掌上で解決しそうな状況のせいか、或いは神に比べて悠二の“底が浅い”からか。

「……我らはかつて、世界の理に反して人間の戦に介入した。フレイムヘイズさえも敵に回し、この不条理な世界を変えようと立ち上がった」

 サウスバレイの身体から生気が薄れ、淡く象牙色に輝き出す。

「その結果は凄惨なものだ。母なる大地を救う事も出来ず、いたずらに血を流し、更なる悪霊共の跋扈を許す事となった。残されたのは、討ち手の使命も世界を守る熱意も失った抜け殻だけ」

 肉体が、器が、限界を迎えて内なる炎を吐き出している。

「お前は、どうなるかな?」

 神官とは思えない悪辣な笑みを見せ付けながら、サウスバレイは燃え尽きた。象牙色の炎は膨張する事なく、神を名乗った強大な王は紅世へと還っていく。

「どうなる、か……」

 自信がある訳では無い。それどころか、過去に類を見ない前代未聞の大博打になるだろう。

「それでも僕は……」

 完全な独り言。覚悟とも決意ともつかない傲慢な意思を自分に言い聞かせる為の言葉に、

「───やめるつもりはないんでしょ───」

 全く予期せぬ声が、被せられた。

「(……最悪だ)」

 その声を、気配の一切も感じずに背中を取られる感覚を、悠二はよく知っている。
 よりによってフレイムヘイズを殺した直後に再会するなど、間が悪いにも程がある。

「……久しぶり、シャナ」

 振り返る事なく、悠二は少女の名前を呼んだ。その声に、微かな恐れすら滲ませて。

「(逃げられる、かな)」

 大命の宣布で自失したシャナが、いつまでも眠り続けている訳がない。
 その性格から、そして悠二の性格をよく知っているという事実から、まず味方にはならないだろうと踏んでいた。
 そんなシャナに、これ以上なく最悪のタイミングで再会してしまった。ただでさえシャナは自在師の天敵な上、悠二は力をかなり消耗している。……というより、今この瞬間にも背中から突き刺されてもおかしくない。
 とりあえず竜尾を強化しながら逃げる策を考え続ける悠二を、

「心配しなくても、戦うつもりなんて無い」

「……へ」

 予想だにしないシャナの言葉が、止めた。平然と、何の警戒も見せない無防備な仕草で、シャナはいつまでも振り返らない悠二の前に回り込む。

「あんな派手な事をしたら、敵まで呼び寄せるって思わなかったの?」

「いや、それも覚悟の上って言うか……」

 靡く黒髪も、左のみの灼眼も、何故か愛用しだした巫女装束も以前のまま。違いと言えば、彼女の核である大太刀を鞘に納めて背負っている事くらいだが……何か、違う。
 外見はまるで変わらないのに、目の前にいる少女が別人であるかのようにさえ感じられる。
 そんな悠二に対して、

「……悠二、変わった?」

「えっ」

 シャナの方こそが、不思議そうに小首を傾げた。悠二と全く同じ感想を、シャナもまた抱いていたのだ。

「(ああ、そりゃそうか……)」

 悠二がそうであるように、シャナもまた、大きな運命の中に身を委ねているのだ。彼女も、自分の中で一つの壁を越えたのだろう。

「どうかな……。変わったと言えば凄く変わったけど、変わってないと言えば変わってない。多分……僕は元々こういう奴だったんだ」

「そう」

 それだけ言って、シャナは薄く頬笑んだ。訊きたい事も、解せない事も山ほどある筈なのに、それを口に出す事はない。
 訊いても答えは貰えないと、判っているからだ。

「貴方にやりたい事が見つかって、それを貫く意志があるなら、それで良いと思う。使命が無くなった今、私もやりたいようにやる」

 強気な笑みを見せ付けて、シャナはまたも無防備に近付いてきた。小さな拳が、緋色の凱甲をコツンと叩く。

「“あれ”がただの餌だって事は判ってるけど、それでも私は叶えたいと思った。悠二が何を企んでても、きっと出し抜いて叶えてやるから」

 魔神と契約した偉大なる者。神通無比の大太刀を携えた最凶のミステス。
 その挑戦を受けているというのに……何だろうか、妙に可愛らしい。

「…………何を考えてるんだ?」

 思わず、無駄と判りきっている質問が口を突いて出る。案の定、シャナは答えない。

「今はまだ教えない」

 悪戯っぽく笑顔を見せて、悠二からピョンと逃げた。
 何となく、納得する。

『───私もやりたいようにやる───』

 使命を失い、存在意義を失い、それでも己の意思一つで戻って来たからこそ、別人に見えたのだ。
 『炎髪灼眼の討ち手』で無くなっても、儚いミステスの身になってでも世界の安定を目指した少女が、それほどに全てを使命に捧げた少女が、その喪失を乗り越えて立ち上がったのだ。以前と同じである筈がない。

「何にしても嬉しい誤算だ。せいぜい利用させて貰おうか」

 引っ掛かる部分はあれど、そんな贅沢を言える状況では断じてない。かつて仲間だった少女に、かつて憧れた戦士に、悠二はせめて露悪的に右手を伸ばす。

「嬉しい誤算になれば良いけどね。せいぜい足元掬われないように注意すれば良い」

 シャナも同じく、心底楽しそうにその手を取る。

 己の傲慢を自覚して、故に少年は仲間にはならない。
 己の慕情を自覚して、故に少女は仲間にはならない。

 欺瞞と葛藤だけを結び付けて──二人の戦士は共に一つの戦場を目指す。




[37979] ☆-4・『仮面の奥の』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2017/07/24 12:18

 限界まで研ぎ澄ませられた貫手が、死角から平井ゆかりの頭蓋へと伸びる。大剣を弾いた事で少女の間合いは大きく狭まり、その分センターヒルは近距離に転移する事が出来た。
 王をも貫く四神必殺の一撃は、

「ッ」

 振り返り様に繰り出された少女の裏拳によって、ものの見事に防がれた。鋭く伸ばしていた中指と薬指が、嫌な感触と共にあらぬ方向にへし折れる。

「(こ、れは……!?)」

 予想外の反応速度と膂力に後退るセンターヒルの、“全身の肉が裂ける”。

「ぐ………ぬ……ッ!!」

 それが、今は平井の手には無い魔剣の力だとセンターヒルが気付いた時には、もう勝負は着いていた。

「ごめん」

 砲弾のような超速の踏み込みから放たれた、平井ゆかり渾身の正拳が、センターヒルの胸の真ん中を撃ち抜いた。動きが止まり、呼吸が止まり、思考が止まる。痛みすら感じない刹那、古代の神官は確かに見た。
 『トラロカン』の中で、平井ゆかりの両脚を覆う………銀色の蛇鱗を。

「(そうか、これが貴方達の───)」

 極大の火球が、撃ち抜き、爆ぜる。視界全てを埋め尽くす血色の炎に呑まれながら、センターヒルは瑠璃色の火の粉となって消えていった。

「あっぶなぁ……」

 余波で抉られた大地のクレーターから程よく離れた茂みで、平井ゆかりは漸く安堵の溜息を吐く。
 普通なら、こんな近距離で炸裂式の炎は使えない。火除けの指輪『アズュール』が無ければ平井自身も丸焼きになる所だ。

「うぅ、あたしこんなのばっか……」

 『アズュール』で炎そのものは防げるが、衝撃や爆圧はそうはいかない。自分で放った炎弾の余波で飛ばされる程に弱った平井が、モゾモゾと茂みから身を起こす。限界近い失血のダメージが、今になって全身を苛んでいる。

「(本番は、こんなんじゃダメなのに……)」

 起き上がり、しかしすぐにフラリと泳いだ身体を、

「(───は?)」

 後ろから、細い何かが支えた。
 倒れなかった安堵よりも、気配もなく後ろにいる何者かに背筋を泡立てた平井は……

「……OH」

 振り返り、何か見覚えのある、やけに大きな白キツネの着ぐるみを見て変な声を出した。

「どうやら一足遅かったようでありますな」

「遅刻確定」

 隠すでもなく、着ぐるみを織り成していたリボンが解ける。現れたのは、リボンで自身を包む事で気配を隠蔽していた『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメル。

「相変わらず無様な戦いだな小娘。まったく、先が思いやられる」

 と、彼女をおんぶしている“虹の翼”メリヒム。無論、ふざけている訳でもイチャついてる訳でもない。リボンで自身を包むヴィルヘルミナの気配隠蔽を二人で使うにはこうするしかなかったのだ。

「……“先”があるなら、ホントありがたいんですけどね」

 バックステップで距離を取り、たたらを踏んで平井はフラつく。右手を開いて『吸血鬼(ブルートザオガー)』を呼び戻そうとして……止めた。これはもう、万に一つの勝機すらない。説得するにしろ一目散に逃げるにしろ、この二人に剣は無意味だ。
 その様子に、メリヒムはヴィルヘルミナを下ろしながら小さく鼻で笑う。

「逃げ切れるかどうか試してみるか? 俺の『オレイカルコス』から」

 曲刀を揺らして、メリヒムの顔が好戦的に歪む。七色の翼を輝かせ、絶大な存在感を振りまく執事は……

「時と場合を考えるのであります」

「悪戯禁止」

 傍らのリボンに腕を取られて、冗談のように宙を舞った。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 銀と紅蓮の炎を散らして、刃と刃がぶつかり合う。以前よりも強くなっている。互いに互いの成長を感じて、悠二とシャナはどちらともなく笑みを浮かべた。

「本当に良かったのか?」

 “鍛錬”と呼ぶにはあまりにも苛烈な斬り合いを見下ろして、メリヒムは傍らのヴィルヘルミナに話を振った。
 鍛錬の話ではない。“坂井悠二と手を組んでいる”という今の状況そのものに対してだ。

「まったくもって、今更でありますな」

 シャナも、メリヒムも、ヴィルヘルミナも、ある程度この状況を予期した上でやってきたのだ。フレイムヘイズが悠二を狙うだろう事も、その討ち手が手加減できるほど弱い者ばかりではないだろう事も、判っていた。今さらこの程度で驚きはしない。

「俺から見ても、今のあいつはどこか危うい。『四神』の気持ちも解らんではない」

 問題があるとすれば、長らく外界宿(アウトロー)の管理に就いていた『大地の四神』が、重い腰を上げて悠二を狙った理由だろうか。
 『命を狙われたから返り討ちにした』で片付けるには、あまりにも相手が特殊過ぎた。尤もその四神も、とうの昔にフレイムヘイズの使命から逸脱した存在であるため、判断の難しい所はあるが。

「……………」

 だが、自分でも驚くほどに、ヴィルヘルミナには動揺も迷いも無かった。

「何の問題も無いのであります」

 純粋な仲間意識などではない。片や世界のバランスを、片やちっぽけな故郷を守る為に、何度も肩を並べて戦った。
 外れた存在たる自覚もなく、人間だった日々に縋って、いつまでも日常に拘泥していた少年。
 しかし、だからこそ解る。

「仮に何を企んでいるにせよ、あの坂井悠二が家族を、友人を、そして“頂の座”を悲しませるような選択をする筈がないのであります」

 坂井悠二は、シャナやヴィルヘルミナにすら真意を話さない。それは恐らく求める結果が問題なのではなく、その過程や手段に何かしらのリスクを伴うからだ。
 だが、それでもなお、ヴィルヘルミナは迷わない。

「私の知る坂井悠二ならば、賢しく、狡く、都合良く、求める結果を手に入れる事でありましょう」

「不確定」

 ティアマトーが余計な茶々を入れて頭ごと殴られ、メリヒムが甘いメイドの考えにクッと喉を鳴らす。
 大した根拠もなく、ほとんど無条件に力を貸す。直接的な言葉にする事こそないが、それは……信頼と呼ぶべきものだろう。

「あいつらの痴話喧嘩の結末も、見届けないといかんからな」

 本当に結果だけを求めるのならば、もっともらしい嘘を吐いてシャナ達を味方に引き入れる方が利口だ。だが悠二らはそうしない。真の狙いがある事を隠しもせず、偽悪的にすら振る舞ってみせる。
 その態度が、せめて“裏切りにならないようにする”という、彼らに出来る精一杯の誠意なのだと悟って……逆にヴィルヘルミナも覚悟を決めた。

「ええ、必ず」

 悪友の望む未来を叶える為に、無様な道化となって掌上で踊る覚悟を。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 坂井悠二、平井ゆかり、シャナ、ヴィルヘルミナ、メリヒム。御崎市で共に戦っていたメンバーが揃ってから一週間が過ぎ、悠二の提案に乗ったフレイムヘイズもまた、数十人程度集まっていた。相反するように、悠二の命を狙う討ち手は激減していく。
 皮肉な話だが、『大地の四神』が討たれたという事実が、悠二に与する討ち手に期待を、悠二を狙う討ち手に躊躇を与えたのである。楽園創造を控えた今、フレイムヘイズ同士で争ってまで悠二の“悪足掻き”を止めようとする輩はいなくなっていた。

「(さて、どうしたもんか)」

 限界まで広げた封絶の中心。自分たち以外誰もいない樹海の奥地で、悠二は深く思索に耽る。
 戦力は思ったよりも集まった。数はともかく、質は明らかに当初の想定を超えている。だが、それでも、足りない。

「(世界を丸ごと創る程の大仕事だ。“祭礼の蛇”自身に戦闘する余裕は無いはず。最大の障害はやっぱり……“千変”シュドナイか)」

 敵は大軍と言っても、肝心のヘカテーの傍で護りに就く者は限られるだろう。『三柱臣(トリニティ)』のレベルに付いて来れない者は、逆に彼らの妨げになる。特に、あの巨大な剛槍を振り回すシュドナイにとっては。故に求めるのは彼に対抗し得るだけの少数精鋭。しかし、やはり、足りない。悠二も当然シュドナイ用の切り札くらい用意しているが、それだけで打ち破れると楽観出来る訳もない。
 前回は結局サブラクを破った時点で殆ど全ての力を使い果たし、結果失敗した。同じ轍を踏む訳にはいかない。前回以上の戦力を、前回以上に余力を残して破る必要がある。

「(希望があるとしたら……)」

 目の前で準備運動のように大太刀を素振りする戦巫女……シャナに目をやる。彼女が何をするつもりなのか、実は悠二も知らない。
 実戦さながらの鍛錬が終わった後、休憩の時に何気なく訊いたのだ。

『ところでその鞘、どうしたの?』

 と。
 シャナは自身の核たる大太刀『贄殿』を自由に出し入れ出来る。わざわざ鞘に納刀する必要などないのだ。そのシャナが、再会した時には何故か長い鞘を背負っていた。
 その理由を訊ねた結果、何故か更に樹海の奥地まで連れて来られ、こうして馬鹿でかい封絶を張らされている。

「これはあれだね。新必殺技の匂いがするね」

 しかも、平井まで一緒に。シャナ曰く「念の為」という事らしい。

「必殺技……うん、そうかも」

 ワクワクしている平井に、シャナは少し得意げに笑って見せた。

「きっかけは、前の大戦。使命を失って暴走した、私の炎」

 恥ずべき過去を、今や前へと進む足がかりに変えた。煌めく灼眼が、その力強さを物語る。

「シロとヴィルヘルミナに聞いた。あの時の炎は、今まで見た中で一番強かったって」

 我を忘れて本当の力を発揮するなど、自分の力を使い熟せていない証だ。メリヒムにはそう言われたし、シャナ自身そう思う。
 だが、その失態の中にこそヒントがあった。

「まだ完成したわけじゃないけど」

 身の丈を超える大太刀を、シャナは器用に鞘に納めた。納めて、脇に構えた。

「“ちゃんと防いでね”」

 この日、悠二と平井は一つの希望を目の当たりにする。
 ───恐怖という名の、希望を。


 楽園を望む者。楽園に抗う者。絆に生きる者。神に挑む者。
 外れた世界に生きる様々な想いはうねり、加速し───闘争の渦へと呑み込まれていく。




[37979] ☆-5・『悠二という名』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:1d58a868
Date: 2017/10/30 13:05

 冷たい風の吹き抜ける御崎大橋の歩道を、坂井悠二は一人歩いていた。平日の午前という事も手伝ってか、橋の上には他に誰もいない。

「(運が良かったと、そう考えるべきなのかなぁ)」

 自分が黙っていれば、恐らく大した問題もなくこの街は……否、“この世”は安息を手に入れるのだろう。その事への罪悪感と、それでも全く止まる気のない自らに苦笑しながら、悠二は無造作に親指を弾いた。
 見えない何かは緩やかに弧を描いて水面に落ち、見えない波紋を広げながら解けていく。

「(何もかもがぶっつけ本番。勝算は少ない割りにリスクは特大。我ながら馬鹿げた事してるな)」

 理屈っぽい自分らしくない動機と信念。だが、そんな今の自分を悪くないとも思う。
 今までずっと受け身だった自分が好き勝手に状況を搔き回してやるという気概が、罪悪感と等量の高揚となって、口元を自然と歪ませる。そして即座に、その過程で生まれるだろう必然に消沈する。
 いかにも情緒不安定な忙しい百面相を、

「学校サボって何してるんだ? 不良少年」

 ある意味、今一番見られたくない人物に見られてしまった。

「……帰ってたんだ、父さん」

 神に仇なす反逆者も、この時ばかりは見た目通りの少年のように引き攣り笑いを見せるのだった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 生まれて来る事が出来なかった子供。それでも確かに存在した子供の分まで生きて欲しいと、生まれて来る事が出来た子供に名を付けた。

 名を───悠二。

 この真実を、貫太郎は今まで悠二に話した事は無い。あまり子供に聞かせられる話でもないし、良いきっかけもなかった。
 しかし今、貫太郎は悠二にそれを話して聞かせた。

「だから次に生まれて来る子供に、“三”の字を付けようと思ってる」

 もう子供は出来ないだろうと言われていた千草が、この度めでたく懐妊した事が判ったからである。

「……そっか」

 滲み出るような穏やかな息子の笑顔は、自分よりも妻に似ていた。

「ごめんね。大事な時に傍に居られなくて」

「千草さんに顔は見せないのか?」

「連れて帰るって約束したからね。次に帰る時は、ヘカテーと一緒だよ」

 学校を休み、家を飛び出し、事情すら一切話さない息子に対して、貫太郎もまた一切の詮索をしない。
 こうして向かい合っているだけで、我が子が“非常識な何か”に、本気の決意で挑もうとしている事くらいは解る。ならば責める気も止める気も無い。

「順調なのか?」

「全っ然。凄く大変だし、勝っても負けても地獄。始めてもない内から気が滅入ってるよ」

 悠二の方も、一切事情を知らない貫太郎に、伝わりもしない愚痴を零す。どちらにとってもこれで良いのだ。
 少なくとも、今はまだ。

「けど……決めたからにはやってやる。僕だって、これでも結構怒ってるし」

 見慣れた息子の横顔が、見慣れぬ酷薄の色に染まっている。見慣れない筈のその表情が意外と似合っていて、貫太郎は何とも言えない気分になった。

「………………そうだ、父さん」

 少し考える素振りを見せてから、悠二は黒い瞳で父を見る。
 聞く前に既に、答えは決まっていた。

「頼みたい事があるんだけど」

「いいぞ。困っている人を助けるのが、私の仕事だからな」




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 ヘカテーの失踪。シャナの消滅と復活。坂井悠二の旅立ち。フレイムヘイズ兵団の敗北。マージョリー・ドーの死。
 激動の裏側で、少なくとも傍目には変わらず流れ続ける日常の中で、こんな時間を夢見ていなかったと言えば嘘になる。
 ……が、それがこんな形で実現するとは思っていなかった。

「何この状況」

 軽快に峠を走り抜けるワゴン車の中で、池速人は困惑塗れの呟きを零した。

「保護者同伴、二泊三日の温泉旅行。費用は全額こっち持ち」

 それに淡々と事実のみを返す、“助手席の坂井悠二”。左右には同じく困惑顔でいる佐藤啓作と田中栄太。後ろの席では、吉田一美や緒方真竹と一緒に平井ゆかりも座っている。そして無表情にワゴン車を運転しているのはフレイムヘイズ、ヴィルヘルミナ・カルメル。
 あまりにも理解を超えた展開に、池はついさっきまでの日常を振り返ってみた。

 いつものように目を覚まして、いつものように顔を洗って、朝食を食べて、歩いて登校してみれば……校舎が爆破されていた。
 校門に貼り出された『臨時休校』の紙を前にざわつく生徒達に混じって……何故か、旅立った筈の平井ゆかりがいたのだ。彼女はそのまま「皆の家族には説明済み!」と言いながら登校してきた『いつものメンバー』を来た端から拾い上げ、このワゴン車に押し込めた。
 せっかく休校になったから皆で温泉旅行に行こうという事らしい。

「………………」

 思い返してみても、やっぱり脈絡がなさ過ぎて意味が判らない。ある程度事実を知る池、佐藤、田中はもちろん、吉田や緒方も只ひたすらに困惑顔である。感動の再会も何もあったものじゃない。
 しかも吉田や緒方がいるこの状況では、問い詰めたくても問い詰められない。

「(……少しは自分で考えるか)」

 納得のいく説明でなければ、いつかのように顔面に渾身の右をぶち込んでやると決意しながら、メガネマンはワゴン車に揺られながら思索の海に耽っていった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 車で3時間ほど移動して辿り着いた、学生が泊まるには豪華な旅館。その男湯にて、

「悪いな、突然」

 必然的に男だけに……つまりは事情を知る者だけになった温泉に浸かりながら、悠二は吐き出すように謝った。
 控え目に言っても辛気臭いその表情を、佐藤が快活に笑い飛ばす。

「ま、俺は正直良い事尽くめで何の不満も無いからな。田中クンはオガちゃんとクリスマス二人きりになれなくて残念だろうけど?」

「ばっ……お前変な事言うなよ! 別に予定とか無かったし!」

 余計な冷やかしまで入れた佐藤に、田中のヘッドロックが炸裂する。空元気にしか見えないやり取りに、悠二はそれでもクスリと笑う。笑って、しかしはぐらかさない。

「今回の事だけじゃない。………………マージョリーさんの事だって、そうだ」

 それどころではないと先延ばしにしていた言葉を、一瞬にして冷え切った空気の中で、構わず続ける。

「僕らが助けを求めなければ、きっと彼女はあんな無謀な作戦には乗らなかった。覚悟を決めたつもりだったけど……心のどこかで、あんな強い人が死ぬわけないって思ってた」

 フレイムヘイズ兵団との協定も、敵対も、互いの利害に基づいた必然的な成り行きだった。だが少なくとも、『星黎殿』に乗り込むメンバーにマージョリーが選ばれたのは悠二のせいだ。マージョリーが足止めを担ったのも……悠二らが一因だったのかも知れない。
 何より、マージョリーの子分たる佐藤と田中にとって世界の命運や討ち手の思惑など関係ない。
 悠二がマージョリーを巻き込み、そして死なせた。それが全てなのだ。

「だから、ごめん」

 そう考えているのは……

「「……いや、何で?」」

 “悠二だけ”、だった。

「お前と平井ちゃんとシャナちゃんが無事なだけ良かっただろ。もっと胸張れよ」

 田中がバシバシと肩を叩き、

「今のセリフ、多分マージョリーさんに聞かれたらぶっ飛ばされるぞ。自意識過剰にも程がある」

 池が呆れたように眼鏡を擦り、

「んー……いやまぁ、そういう事になる、のか?」

 佐藤が、イマイチ整理できていない顔で首を捻る。
 あまりにも予想外の反応に、逆に悠二の方が困惑した。
 死んだのが、例えば平井だったとしたら、三人はそれを悠二の責任だと考えたかも知れない。だが……マージョリーは違う。
 この場にいる誰一人、『マージョリー・ドーは坂井悠二が守るべき存在』などと考えてはいないのだ。当然、何も出来ず安穏とした日常にいた自分を棚に上げて悠二を責める筈もない。

 むしろ……

「(……死ん……だ……ああ、死んだん、だよな……?)」

 最も消沈している筈である佐藤啓作の胸中には、本来あるべき悲哀や悔恨の感情が、無かった。

「(解ってる。坂井がこんな悪趣味な嘘つく訳ないし、写真に映ったマージョリーさんも消えた)」

 彼にとってマージョリーが、どうでもいい存在だったという事では、断じてない。
 頭では理解している。理解しているのに……心が、納得出来ていない。

「(なのに何で、俺は悲しくなれないんだ?)」

 身の程知らずに追いかけた背中が、今も色褪せない純粋過ぎる憧れが、現実を未だ受け入れられていないのだ。

「………………」

 そんな自分の心を掴みきれずにいる佐藤を、隣の池が、細めた裸眼で見ていた。
 今日再会したばかりの悠二とは違う。マージョリーの死を知ってから今日まで、佐藤の様子をずっと見てきた池には、彼の胸中にもある程度察しが着いていた。

「(……その内ひょっこり帰って来るって、心のどこかで思ってるんだろうな)」

 純粋で、盲目で、愚劣なまでの憧れが、マージョリー・ドーの死を今も拒み続けている。
 誤魔化しようがない現実を本当の意味で実感した時、どうなってしまうのか。……残念ながら、これは佐藤自身に乗り越えてもらうしかない。

「それで、坂井」

 今はきっと、“それどころではない”のだから。

「───その話をする為に、こんな所に連れて来た訳じゃないんだろ」

 問い質す声には、疑問の響きすら混じっていなかった。
 ここに来るまでの間に、池も池なりに思考を巡らせた。それは既に確信に近い。

「……どういう意味だよ」

「今の坂井達に、旅行なんてしてる暇があるわけない。もっと言えば、“僕達一般人なんか”に構ってる場合ですらないはずだ」

 非日常に人一倍敏感な田中が強張った声で聞き返し、既に整理をつけた池が淡々と返す。


「───御崎市なんだろ? 次に“戦場”になるのは───」


 静かに告げられた言葉に、田中が、佐藤が凍り付く。
 二人と同じく、しかし全く別の意味で沈黙する悠二の態度が、それを肯定していた。

「最初は僕達を安全な所に逃がす為かと思ったけど、それだと“僕達だけ”逃がしても仕方ないんだよな。それこそテロリストの真似事でもして住人全部追い出すべきだ」

 それこそ、学校を爆破した時みたいに。重々しく告げる池を、悠二は少し感心したような顔で見返した。事実、池の状況判断は間違っていない。

「それでも僕達だけわざわざ連れ出したのは……人質対策か?」

 楽園創造の障りになると、『仮装舞踏会』は現在日本に於ける人喰いを、世界中の徒に対して禁じている。
 自儘に世界を放埒する紅世の徒がどこまでこの宣布に従うかは疑問だったが、どうやら楽園はあらゆる徒にとってこの上なく魅力的に映ったらしく、今のところはしっかりと守られているらしい。

「人……質……?」

 現実味のない、しかし確かに自分達に向けられた脅威に、佐藤が擦れた声を出した。
 本当ならば、池だってそんな物騒な事を考えたくはない。だが、一介の学生に過ぎない自分達を、今から神と殺し合おうという坂井悠二が連れ出す理由など、他に考えられない。

「わざわざ僕達だけ連れ出したのは、他の一般人とは別に僕達に危険があるからだ。そして僕達が“外れた世界”に少しでも影響を与えるとしたら、個人的な付き合いがあるお前と平井さんくらいだ」

 湯を掬って、顔に当てる。
 自分が今なお晒されている危険に対して、心の中でスイッチを入れ替えるように。

「万が一、僕達が『仮装舞踏会』の人質に取られたりしないように、お前は僕達を逃がしたんだ。千草さんだって、今頃お前のお父さんが海外にでも連れ出してるんだろ」

 そして、改めて悠二に向き直ろうとした時、


「───人質か、その発想は無かったな───」


 見知らぬ男が、水面の上に立っていた。

「………………は?」

 全く、意味が解らない。
 ダークスーツに身を包んだサングラスの男が、瞬間移動でもしたのかという唐突さで、温泉に“立っている”。
 混乱のままに視線を巡らせれば、

「さ、坂井……?」

 温泉の端、男女を仕切る柵に背中を預けて……いや、叩き付けられた姿で、血塗れの坂井悠二が倒れていた。

「な、なん……なん……」

 歯の根の合わない田中の声に目を向ければ……湯船の中から、ズブ濡れの平井ゆかりが立ち上がってくる。
 悠二は緋色の凱甲と竜尾を、平井は赤い軍服を纏っていて、一目で今の今まで戦っていたと判る装いだった。

「ま、だ……っ終わってない!!」

 平井が吼えると同時、目の前で鈍い音がする。振り返るとそこには、化け物としか表現できない異形の右腕に握られた剛槍を振り上げた体勢の男がいて、

「あ……っ」

 天高く弾き飛ばされた平井が、遥か上空にいた。槍の一撃どころか、平井の突撃すら、池には全く見えなかった。

「(や、ば……い……)」

 封絶が張られた。
 戦いが起きた。
 悠二と平井が……負けた。

 慣れた者ならばすぐさま理解できる現実を、池はようやく理解する。
 その瞬間に、平井の突撃に引っ張られた湯が津波のように池に打ち付けられ、顔を拭う間もなく首を片手で掴まれた。

「む……これでも辛いか。力加減が難しいな」

 気付けば、首を掴まれたまま宙にいた。呼吸困難どころか、そのまま首をへし折られるのではと思うほどの激痛。無論、眼下の悠二らを見る事など出来ない。

「(───死ぬ、のか───僕は、ここで───?)」

 まともな思考など出来ない。
 ただただ死の恐怖に支配された池の意識に……

「(吉田、さん……)」

 最後に届いたのは、鼓膜どころか全身を震わせるほどの、激しい轟音だった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「はあっ……はあっ……」

 天に翳した右の掌。その先に張られた銀の鱗壁が、紫の業火を完全に防ぎ切ったのを見届けてから、坂井悠二は力無く崩れ落ちた。

「二対一で、この様か……」

 意表を突かれたとはいえ、ここまで一方的に負かされたのは少なからずショックである。
 つくづく本番が思い遣られる。

「……悪いな、池」

 トラウマレベルで怖い目に遭っている親友に、少なからず自分のとばっちりで巻き込んでしまっている親友に、悠二は心の底から謝った。






[37979] ☆-6・『魔王の花嫁』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ef8f5727
Date: 2018/03/09 12:56

 金色に燃える数多の蔓が、八方から弧を描いて向かって来る。逃げ場など無い。そして逃げる必要も無い。迫る蔓に等しい数の白条が仮面の縁から躍り出て、一瞬にして絡め取る。

「舐められたものでありますな」

 瞬間、攻めていたはずの植物の大群が木の葉を散らすように舞い上がった。巨大な花が見えない穴に吸い込まれるかの如く渦を巻いて殺到し、一纏めになるや否や万条の槍衾によって串刺しとなる。貫かれたリボンの表面に桜色の自在式が浮かび上がり、花の魔物は内側から爆火を撒いて砕け散る。
 破壊が得意とは言えない『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルだが、それはシャナやメリヒムと比べての事。いくら天使の眷属と言えど、燐子風情ならばこの通りである。

「急がなければ」

「迅速救援」

 ほんの少し前まで、ヴィルヘルミナはこの森の真ん中で一人の王と対峙していた。
 ───“逆理の裁者”ベルペオル。
 ヘカテーやシュドナイと同じく、『三柱臣(トリニティ)』に名を連ねる創造神の眷属である。……もっとも、ヴィルヘルミナはその実力の片鱗すら見たとは思っていない。牽制程度の攻撃しか仕掛けず、徹底した防御と回避。あげく燐子を残して姿を消してしまった。明らかに時間稼ぎを目的とした戦い方だった。
 そして、そのベルペオルが燐子を残して去ったという事はつまり……そういう事なのだろう。既に手遅れである事を半ば覚悟しながら、ヴィルヘルミナは全速力で元の温泉旅館まで飛翔する。真っ先に思ったのは、「やはり封絶は解けている」。次に思ったのは、「修復されているなら、恐らく彼らは無事だろう」だった。
 結果は半分アタリで、半分ハズレ。

「友人の一人が、連れ去られた?」

 悠二と平井は手酷く痛めつけられたものの命に別状はなく、しかし彼らの友人である池という少年が攫われた。はっきり言って、意味が解らない。

「不可解」

 身の回りの友人を御崎市の外に逃がす。
 ヴィルヘルミナからすれば大して意味の無い、しかし悠二の立場を考えれば十二分に理解できる提案に乗ったのは、あくまで悠二が心置きなく戦えるようにと配慮しての事だった。『三柱臣』の内二人までもが、わざわざ何の力も持たない一般人を狙って来たなどと、いざ目の前で起こっても現実感が湧かない。

「……わざわざ攫ったって事は、少なくとも今すぐ危害を加えたりはしないはずだ。取り戻す相手が一人から二人になっただけさ」

 当の悠二は、憤怒とも焦燥ともつかない真顔で、気を失った平井に回復の自在法を掛けている。とはいえ、彼の場合非日常に関わる時にこういう“不自然なまでに平静な”態度をとるのはいつもの事である。残念ながら、ヴィルヘルミナにその胸中を察する事は出来ない。
 だが、

「まさか、本当に人質に使うなんて事はないだろうしね」

 身近な友人を、自分を遥かに凌駕する強敵に連れ去られた男の姿には、とても見えない。憤り一つ見せる事なく決戦を見据える黒い瞳は、頼もしいを通り越して不気味ですらあった。メリヒムがここにいたら、間違いなく面白そうにほくそ笑む事だろう。

「………………」

 “まさか”という気持ちと、“こいつならやりかねない”という気持ちが鬩ぎ合う。何度も共に死線を潜り抜けてきたヴィルヘルミナでさえこうなのだ。フレイムヘイズ兵団や『大地の四神』に命を狙われるのも納得である。

「(まったく、いつもいつも)」

 非常識な輩の規格外な行動に振り回されるのは、いつだって自分だ。
 何百年経っても変わらない厄介極まる世の不条理に、ヴィルヘルミナはわざとらしいほど大きな溜息を吐いた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 日本という小さな島国を緩やかに進む『星黎殿』。
 攫った人間を燐子の見張る客室に放り込んだ二人の天使が、
銀の散りばめられた道ならざる道を歩く。数千年の悲願成就を前にして、その足取りはどこか重い。

「こうも容易く事が運ぶなら、我々自ら出るまでもなかったかねぇ」

「『タルタロス』による完全な気配隠蔽からの奇襲。魔神さえ屠った戦法が上手く嵌まっただけだ。“本番”ではこうはいかんさ」

 池速人の誘拐はもちろん、こうして連れてきた今になっても、ヘカテーは彼に会おうとはしない。『大命詩篇』の最終調整に追われているという事もあるが、それ以上に……御崎市での日常を想起させるものに触れたくないのだろう。

「本番、ねぇ……。開戦直前にあれだけ手酷くやられても、やはり来ると思うかい」

「残念ながら確実だろう。出来ればヘカテーの視界の外で片付けたいが、そう上手く行くかどうか」

 これだけ圧倒的な戦力を持っていながら、シュドナイもベルペオルも敵を一切侮っていない。何せ、神をも殺すと呼ばれた天罰神を殺してみせたのは他でもない彼らなのだ。創造神が目覚めようと、どれだけの軍勢を引き連れようと、絶対などあり得ない。
 まして楽園創造は敵の土俵で行わなければならないのだ。いかな『三柱臣』でも、余裕と呼べる程のものは無い。

「残念ながら、というのはどうかねぇ。来なければ良いと、本気で思えるかい」

 或いはそれは、願望でもあったのかも知れない。

「ヘカテーは己が使命に準じて自ら消える。───かつての“頂の座”女媧がそうだったように。だがヘカテーは……もう使命の為に使命を果たそうとしてるわけじゃない」

 ヘカテーにこれほど想われている男が、この程度で尻尾を巻くような腑抜けであって欲しくない。
 ヘカテーにこれほど想われている男が、都合の良い未来だけ受け取ってヘカテーの死を享受するなど許せない。

 坂井悠二が来ればヘカテーが苦しむ事など判りきっているのに、そう思わずにはいられない。
 矛盾した願いと晴れる事なき葛藤に苛まれながら、

「だからこそ、大命は必ず成就する」

 二人は決して、歩みを止める事は無い。

「坂井悠二がヘカテーを求めれば求めるほど、ヘカテーの想いは大きくなる。そしてその想いこそが、ヘカテーを大命へと衝き動かす最大の原動力になるのさ」

 将軍も、参謀も、神さえも、いつも創造の対価を、巫女だけに背負わせている。故にこそ、己に課せられた領分は何があっても完遂する。ヘカテーが消えても、ヘカテーが傷付く事になっても、ヘカテーの望んだ楽園は断固として実現させる。
 それが同じ眷属として、ヘカテーの覚悟に応える敬意だった。

「(……遺せるものが増えたというなら、それに越した事はない)」

 サングラスの奥の眼を細くして、シュドナイは健気な妹の胸中を思う。
 神威召還の供物として、ヘカテーは消える。そんなものは生まれた時から解っていた事だ。だがそんな運命に彼女の細やかな我が儘を乗せる事が出来るなら是非もない。

「この上、ヘカテーの決意を強める必要もないだろう。奴らが来るなら、俺は全力で排除するだけだ」

 シュドナイも、ベルペオルも、自分達が負けるなどとは露ほどにも思ってはいない。それは慢心というより、何が来ようと何が起きようと目的を完遂させるという決意の現れだ。
 そして、その決意を誰より強く持っているのは、他ならぬヘカテーだった。

「(あのヘカテーにそこまで想われているお前が、心底憎たらしいぞ)」

 必ず再び対峙する銀の影を思い浮かべて、最強の徒は知らず拳を握り固める。やり場の無い虚しい怒りは、その命が尽きるまで消える事はないのだろう。

 ───その時の彼は、そう思っていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 飲み物を買ってくる。そう言って部屋を抜け出して来たのが何分前だっただろうか。
 月光に照らされた旅館の庭を、佐藤は一人でトボトボと歩いていた。

「………………」

 池が攫われてすぐに、悠二と平井とヴィルヘルミナは行き先も告げずに発った。それ自体に文句はない。むしろ、今もここでグズグズしていたら感情任せに怒鳴りつけてやるところだ。
 しかし当然、これで緒方や吉田が納得する訳がなかった。いきなり温泉旅行に連行されたかと思えば、今度は悠二と平井とヴィルヘルミナと池がいなくなったのだ。説明の一つも求めない方がおかしい。
 最初は知らぬ存ぜぬを貫いて全部悠二に丸投げしてやろうかと思っていた佐藤だが、如何せん田中の状態が悪すぎた。誰とも目を合わせず顔面蒼白で黙りこくる田中の隣で、何も知らないは通らない。
 だが結果的に、それが緒方の追求の手を止めた。あまりにも深刻な田中の様子が安易な質問を躊躇わせたのだ。或いは、緒方や吉田も思ったのかも知れない。
 “この異常な状況は既に、得体の知れない大きな事件に巻き込まれた結果なのではないか”と。

「(……田中みたいな態度になる方が、よっぽどまともだよな)」

 佐藤には、田中ほどの動揺は無い。池を心配する気持ちも、悠二を応援する気持ちもある。だが……抗いようもなく湧き上がる別の気持ちが、佐藤に奇妙な冷静さを与えていた。

「(俺って一体、何なんだ?)」

 何も言わずに悠二は消えた。協力も相談もなく、この旅館に自分達を残して。
 徒は、池だけを連れて去って行った。ただの人間な筈の池だけを連れて、佐藤には見向きもせず。
 ヴィルヘルミナも、敵が池以外には無関心と見るやフレイムヘイズも残さずに放置した。この旅館も外界宿(アウトロー)の息が掛かった施設なのだろうが、それだけだ。
 何の脅威にもならない。何の役にも立たない。どこまでも無力で、どこまでもちっぽけな餓鬼。それを言葉などより遙かに雄弁に突き付けられて、腸が煮えくり返る。

「(俺って奴は……)」

 そして、友人どころか世界の一大事にこんな気持ちを捨てられない己に、強烈な自己嫌悪も感じていた。傍目にはどうしようもなく重症な田中が、今は無性に眩しく見える。
 一人でフラフラと抜け出して来たのも、緒方の追求から逃げたというよりは、今の自分の浅ましい内心を悟られたくなかったからだ。

「(で、俺がこうやって悩んでるのも無意味ってわけだ。……ハッ、笑える)」

 人目を避けるように林道に進むにつれて、佐藤の心もまた己の暗がりへと向かって行く。
 どうせ誰もいないのだからと、開き直りに近い感覚で自身の心を吐き出す。そうでもしなければ、燻った気持ちをいつまでも内に収めておけない気がした。

「(力不足? 身の程知らず? 解ってんだよそんな事は! だから強くなりたかったのに、誰も切っ掛けをくれなかったじゃねぇか!)」

 限界まで握り絞めた拳を、目の前の樹の幹に叩きつける。皮が裂け、骨が軋み、腕が痺れる。決して小さくはない痛みの代償に、かっこ悪い自分を少しだけ追い出せたような錯覚を得る。

「……もう、やめよう」

 今までずっと抗い続けたものを、佐藤の中の冷静な部分が受け入れ始める。

「悩んだって意味ねーし、頑張ったって何も出来ねーし、どうせ何一つ変えられないなら、苦しむだけ損ってもんだ」

 諦めてしまえば、楽になれる。自分は無力な人間だと受け入れて、帰ってきた友人を出迎えてやるだけで良い。
 手始めに、消沈している田中を励まして、混乱している吉田と緒方を安心させる。今は池すらいないのだ。これは自分にしか出来ない大切な役割だろう。

「大体、もう俺が出しゃばる必要なんて───」

 流れるような自虐。厳然たる事実の怒濤が、不意に止まる。自らが口にした言葉によって。

「理由が、無い……?」

 言葉にされても、姿の消えた写真を見ても、誰もいないあの部屋を見ても、実感出来なかった“それ”が今、去来する。

 ───足掻く意味など無い。追い掛ける背中は既に無いと、それを認めてしまった事で。

「マージョリーさんは、いないんだから……?」

 ハリボテが崩れて、そこに大きな孔が空く。

「あぁ……あ、ぁ……」

 その孔を掻き毟るように数秒呻いて、漸く襲って来た途方もない痛みに、

「ウォオオオアアアアァァァーーーーーー!!!」

 無力な少年は慟哭した。悲鳴とも怒号とも聞こえる混沌とした声の奔流が、林の静寂を裂いて木霊する。

「(ああ……俺は、俺は……)」

 普段はだらしがなくて、でもいざとなれば誰よりも獰猛で鮮烈で、強さの象徴のような彼女に憧れた。
 そう……憧れでしかなかったのだ。だからこそ、マージョリーが死んだという“あり得ない”事実を、いつまでも認める事が出来なかった。
 坂井悠二は、マージョリー・ドーを死なせた事を、謝った。きっと彼には解っていたのだ。マージョリーが……誰にも負けない無敵の英雄などではないという事を。

「(マージョリーさんの事を、何も知らない)」

 子分だの付いて行くだのと身の程知らずに喚いておきながら、肝心のマージョリーの事を何も知らない。“自分の理想”しか見ていなかったという事実が、言葉にならない後悔に混じって我が身を蝕んでいく。

「何が子分だ! ただのファンじゃねぇか!」

 彼女と過ごした日々も、それを追おうと重ねた覚悟も、何もかもが薄っぺらい虚構のように思えてしまう。泣いても喚いても治まらない。苦しくて苦しくて仕方ない。

「(何でこんなに……辛いんだ……ッ)」

 マージョリーはもういない。失った存在が、それを目指した想いが、本物ではないというのなら少しは楽になってもいい筈だ。
 苦しみから逃れたくて過ぎった思考は、しかし何の慰めにもならない。胸を苛む痛みは誤魔化しようもなくそこにある。

「ああ、そうか……」

 その痛みに、ほんの少しだけ、救われた。
 自分にとってマージョリーが、マージョリーを追いかけた日々が、取るに足りないモノに成り下がった訳ではない。それだけの事が、佐藤の心をギリギリで踏み止まらせた。
 大切だから……大切だったから、痛いのだ。

「……だっせぇ」

 誰を守ろうとした訳でも無い。どうしようもない理由など何も無かった。ただ目の前の姿に憧れて、その強さの意味も解らずに追い掛けた。
 確かに……小さい。小さくて、薄っぺらくて、格好悪い。だが───本気だった。

「どうすれば、よかったんだよ……」

 後悔も自己嫌悪も、今になっては意味を為さない。既にマージョリーはいないのだから。
 胸に渦巻いた負の感情は解に至る事なく巡り続ける。あまりにも無力な少年の、あまりにも救いのない絶望に───

「ッ……!?」

 応えるようなタイミングで……パキリと、小枝を踏む音が聞こえた。
 別にここは佐藤の部屋でも庭でもない。人気のない場所を選んだつもりでも、誰かに見られても何の不思議もない。しかし佐藤の胸に去来したのは、無様を見られたかも知れないという羞恥の感情ではなかった。

「あれ、は……」

 目を凝らしても何も見えない闇の奥。振り返った視線の先に在ったものが、佐藤の目を釘付けにした。

「銀の、炎……?」

 打ち拉がれた少年を闇の底へと誘うかのように───この世ならざる淡い灯火が揺れていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「このタイミングでツレを攫われた、ね。あれだけデカい口を叩いた直後に何やってんだか。こっちの士気にも響いてくるぞ」

「あの“千変”に不意打ちされて、生きてるだけでも大したものだよ。あっちにその気があったらの話だけどね」

 他人事のような調子でサーレ・ハビヒツブルグがブランデーの入ったグラスを鳴らし、契約者たるギゾーが気取った口調で答える。

「それってやっぱり、『仮装舞踏会』にとっても坂井さん達が重要人物って事ですよね」

「ここまで来て“頂の座”にヘソ曲げられちゃたまんないって? “千変”の奴、お姫様にだけはダダ甘だからね~」

「ま、あいつらに振り回されてるって意味では私達もそんなに変わんないけど」

 大真面目に唸るキアラ・トスカナ・ハビヒツブルグにウートレンニャヤとヴェチェールニャヤが姦しく相槌を打つ。

「ああ、善戦してくれるに越した事はありませんが、いずれにしても我々のすべき事は変わりません」

「ふむ、まかり間違って勝ってもらっても困るしの」

 相も変わらず淡々と言ってのけるカムシン・ネブハーウに、ベヘモットが更にハッキリと断じる。

「つーか何でこの場にヴィルヘルミナがいねーんだよ。見張るだけなら他の奴でも良かっただろうが」

「彼女も色々複雑な立場なんだよ。君、判って言ってるでしょ」

 ふて腐れるレベッカ・リードを腕輪からバラルが宥める。

「あの娘は確かに優秀だけど、それ以上に優しすぎる。兵団の一人ではなく、彼らの味方として扱ってあげた方がいいわ」

「こちらの意向を伝えたところで、素直に聞き入れてくれる保障もありませんからな。どう転んでも悪者は我々のみ。彼女には蚊帳の外にいて貰いましょう」

 眼を伏せて十字を切るゾフィー・サバリッシュと同じく、タケミカヅチもまたレベッカの不満を一蹴する。

 御崎市から十数キロ離れた外界宿の一室で、世に名だたる五人のフレイムヘイズが顔を付き合わせていた。恐らくは最期の最期まで意思統一する事の出来ないフレイムヘイズ兵団から離脱した彼らでも、この程度の融通は利かせられる。或いは、こうして堂々と外界宿を利用する事もまた、自分達の正当性を示す行為の一環なのかも知れない。

「ハッ、こんなバラバラに戦って勝てる相手かよ」

 彼らを始めとしたフレイムヘイズ数百人は、ただ座して大命の遂行を見守ろうという保守派でもなければ、楽園に逃げられる前に己が仇を討たんと暴走する強硬派でもない。
 楽園創造を容認しつつも己が信念を貫くべく、坂井悠二の号令に乗った者達である。

「だからせめて、僕達だけでも一致団結しようって事さ。気持ちはよく解るけど」

 使命を奪われ、大義を失ったフレイムヘイズ達にとって、悠二の提案は甘く、魅力的だった。あまりにも都合が良く、理想的で、それでいて坂井悠二がいなければ成立しない作戦だった。
 もはや大半が敵と言っても過言ではないフレイムヘイズを誑かす発想。それを実際に体現してみせる能力。その双方に薄ら寒い感嘆を覚えさせられる。既に彼は、ベルペオルやシュドナイとは別種の“怪物”として周知されていた。

「出来る事なら敵対したくないってのは、俺達だって同じなんだけどな」

 作戦自体に不満は無い。結果として得られる未来も、彼がつい最近まで人間だった事を考慮すれば妥当なものだろう。しかしレベッカらには、無条件で悠二の味方になれない理由があった。
 それは、悠二の提示した作戦に於いても“頂の座”ヘカテーの消滅は避けられていないからだ。その一点だけで、悠二の裏を疑うには十分すぎた。そして当の悠二は、それを公然と認めてすらいるのだ。

『知っての通り、僕はヘカテーを連れ戻す為に命懸けで星黎殿に乗り込んだ。大命の内実を知った今でも、その気持ちは変わらない。だからこれは、ここにいるフレイムヘイズを焚き付ける為の提案だ』

 レベッカ達も、楽園の創造自体を否定している訳ではない。故に当然、その礎となるヘカテーの生存を望んではいないのだ。

『共同戦線って言うより、三つ巴になるのかな。貴方達の奮闘に期待してるよ』

 坂井悠二は“頂の座”ヘカテーの奪還を諦めていない。必ず『祭基礼創』を阻みに掛かって来る。レベッカ達は、そこに至る為の露払いとして集められたのだ。抗い難い餌と、確かな光明によって。
 一同の結論は、『敢えて乗る』というもの。
 何せ餌そのものは本物な上、一番分が悪いのはどう考えても悠二の方なのだ。むしろ生意気な小僧に吠え面をかかせてやろうという者が多かった。……或いは、そうやって反発を生む事すら悠二の思惑通りなのかも知れない。自軍の何倍もいる敵に挑むという絶望的な戦況は変わらないのだ。気迫の種は一つでも多い方が良いだろう。

「理想としては、こっちの作戦は成功して、坂井悠二は間に合わずに秘法が発動。俺達はそのまま新世界に徒と一緒に離脱……かな」

 この場にいる誰もが……否、恐らくは坂井悠二自身でさえも、言葉にせずとも理解していた。

「本当に……そう出来れば、良いですね」

 もし本当に、坂井悠二が大命を阻止しそうになった時は───フレイムヘイズがその背中を撃つのだと。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 決戦を控えた真冬の空の下、ビルの屋上からホテルの一室を覗く二つの影があった。
 一人は桜髪のメイド・ヴィルヘルミナ。一人は銀髪の執事・メリヒム。フレイムヘイズや徒にとって睡眠は不可欠な行為ではないとは言え、それでも決戦前夜の行動としては不自然に過ぎた。
 見下ろす視線の先、窓の向こうで抱き合う男女の存在を考慮しなければ、の話だが。

「何をやっているんだかな」

 対象は言うまでもなく、坂井悠二と平井ゆかり。他の討ち手に推され、ヴィルヘルミナ自身も快諾したのがこの監視任務である。因みに、監視対象には隣にいるメリヒムも含まれている。

「ななな何をも何も、見たままでありましょう。貴方ともあろう者が何をわわ、童のような事を」

「錯乱」

「見たままと言うならまず焦点を合わせろ。何のための監視だ」

 無表情のままカタカタと全身を揺らすヴィルヘルミナの頬を、メリヒムが雑に叩く。
 あの二人の関係を思えば連想するのも無理はないが、よくよく見ればそれが情事などではない事くらいは判るのだ。

「(シャナがいなくて良かった)」

 しかしまあ、遠目にはイチャついてるように見えるのも確かである。可愛い可愛い娘の心中を思うと、今すぐあの部屋に特大の『虹天剣』を撃ち込みたくなる。

「んん…………あれは、恐らくは彼女の自在法であります。敢えて警戒する程のものでもないかと」

「小事」

「ん? ……ああ、なるほど。つくづく不憫なものだな。好き放題に振り回されて」

 咳払いと共に再起動したヴィルヘルミナが、一つの経験則から彼らの様子を看破し、メリヒムが他人事に肩を竦めた。
 何の事はない。決戦に際して何かを企んでいて、それは外からは解らないようになっている、というだけだ。大体、このタイミングで堂々と手の内を晒すほど馬鹿ではないだろう。監視している、という事実によって行動を制限していればそれで十分なのである。
 そして、その程度の任務にわざわざヴィルヘルミナを指名した理由にも、大凡察しがつく。
 状況次第でフレイムヘイズは坂井悠二の敵に回る。そして、その意図をヴィルヘルミナに伝える気は無いと、そういう事だ。

「(随分と、余計な気を遣わせているようでありますな)」

「(妥当采配)」

 ヴィルヘルミナには坂井悠二や平井ゆかりを討つ事は出来ない。しかし、彼らに弓を引いたフレイムヘイズの敵に回る事もまた出来ない。そう考えられているのだろう。……実際、それほど外れてはいない。もっとも、彼女らの思っているような結末にはならないだろうが。

「(せいぜい、上手く出し抜くのでありますよ)」

 仮面の討ち手は少年の真意を知らず、それでも掌上で踊ると決めた。この先に待ち受ける未来を思い描く事もなく。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 何度も何度も、繰り返す。いざという時に失敗しないように、辛くて挫けてしまわないように、何度も何度も繰り返す。
 泣いてはいけない。嘆いてもいけない。自分の望む未来を、自分の意志で、自分の為に掴み取る。誰が憐れむ必要もない、完全で完璧な結末を迎える為に。

「(……大丈夫。怖くない)」

 満天の星空を仰ぐでもなく、両手を組んで背中を丸めて、“頂の座”ヘカテーは思い描く。───自由な徒の楽園と、それによって訪れるこの世の安寧を。

「(これで、いい)」

 神の放逐から数千年。使命遂行を待ち続けた永い歳月も、彼と出逢って過ごした人間としての日々も、育んだ想いも、生まれてしまった生への未練も……何一つ無駄ではなかった。
 怖いという事実が、そう思える尊さが、より強い確信となって背中を押してくれた。

「(思い残す事は、何も無い)」

 一方的に言い捨てた言葉だが、約束だと信じている。いや、約束などしなくても、何の心配も要らないだろう。

「(悠二の事を、頼みます)」

 ───彼女ほど彼を想っている者など、この世のどこにもいないのだから。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 何度も何度も、繰り返す。いざという時に失敗しないように、辛くて挫けてしまわないように、何度も何度も繰り返す。
 泣いても良い。嘆いても構わない。けれど……折れる事だけは、絶対に許されない。歩みを止めれば全てが終わる。終わらせたくなければ、勝つしかないのだ。

「ゆかり!!」

 力任せの抱擁と、絶叫にも似た呼び掛けが、平井ゆかりを夢想から現実へと引き戻した。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 バラバラになりそうだった心が、急速に元の形に収束する。今ここに在るモノを確かめるように、弱く強く縋りつく。とっくに濡れていた冷たい頬の上を、今度は暖かい涙が滑り落ちて行く。

「悠、二……」

 身体の震えを隠す事もなく、自分を抱き締める愛しい少年に身を預ける。これで……良いのだ。いくら覚悟を決めていようと、この辛さに慣れる事など出来はしない。それでも、必ず“ここ”に帰って来ると刻み付けておけば……耐えられる。

「……ごめん、こんなやり方しか出来なくて」

 15分程だろうか、抱き締めたまま背中を擦り続けてから、悠二は腕の中の少女に謝った。頬を寄せるほど近くにある悠二の顔は、今の平井からは見えない。それでも、その表情が傷ましく歪んでいる事はハッキリと判った。

「……ま、確かに主人公の発想じゃないよね」

 悠二が傷付く事を望んでいる訳ではないのに、今……悠二が胸を傷めている事が平井は嬉しかった。
 ただ優しいだけでも、ただ非情なだけでもない。本当は優しいのに、本当は辛いのに、歯を食いしばって戦う事が出来る強い少年にこそ、惹かれたのだ。

「誰も彼も敵に回して、色んなもの犠牲にして……て言うかもう、神様じゃなくて悠二がラスボスだよね」

「………………弁解はしない」

 身を捩って彼の左腕だけに背中を預けて、両手を首に回す。罰の悪さと気恥ずかしさで赤くなった困り顔が可愛らしい。この悪辣な少年を可愛らしいなどと思える女が、世界に何人いるだろうか。そう思うと、奇妙な誇らしさが湧いてくる。

「でも……いいんじゃない?」

 優しくて、悲しくて、多分どこか歪んでいるこの人には、あたしがついていてあげないと。

「普通の人生なんてとっくの昔に外れてるもん。ここまで来たら、魔王の花嫁も悪くないよ」

 思った通りに、吹き出すように悠二は笑った。こんな時でも、そんな事で楽しそうに笑う事が出来る平井に引っ張られるように。
 どちらからともなく指を絡めて、ベッド脇の灯りを消す。温かい橙に照らされていた寝室に青い月光が差し込んだ。冷たくも優しい夜空の光は、自然と明日対峙する少女を思い浮かばせる。それがまた来るべき戦いを、その先の光景を想起させて、絡めた指を強く握る。

「(ヘカテー、あたしも覚悟決めたよ)」

 命を懸けて戦う事でしか互いの望む未来を掴めないと言うのなら、それ以上を懸けてでも受けて立つまで。どれだけ危険であろうと関係ない。

「(あたしは悠二を、信じてる)」

 一人の少年を想う二人の少女。似て非なる恋は異なる形を以て顕現し、世界を闘争の渦へと巻き込んでいく。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 ───12月24日。雪の降りしきる聖夜だった。
 いつかの大戦とは比較にならない大群勢。全世界から終結した世界中の紅世の徒の気配が、鋭敏な悠二の感覚を狂わせる。
 『日本』としか伝えられていなかった大命遂行の地が、『御崎市』とされた事で、その気配の密度を爆発的に高めていた。単純に数だけで見れば悪夢としか言い様がないが、あれを整理する為にほぼ全ての人員を割いているせいで『仮装舞踏会』の軍団もまともに機能していない。
 あちらはあちらで物凄く大変そうだ。

「(勝っても負けても、天変地異か)」

 この数を捌く為か、単純に秘法発動に膨大な時間が掛かるのか、それとも悠二の生存率を僅かでも上げようというヘカテーの配慮か、何にせよ一番の懸念だった時間稼ぎは何とかなりそうだ。

「(色んな事が、あった)」

 8ヶ月と少し。時間にすればたったそれだけの、しかし間違いなく人生で最も濃密な日々が、否が応にも蘇る。
 楽しい事ばかりだった訳じゃない。辛い戦いの記憶や、消える事の無い心の傷も確かにある。だがそれら全てがあったからこそ、今ここに在る想いを信じる事が出来る。

「(ヘカテー)」

 勝てば全てが変わるだろう。負ければ全てが終わるだろう。
 普通に考えれば、こんな馬鹿な話は無い。外界宿の御偉方がそうしているように、安全な場所で楽園の創造を見送るのが一番賢くて無難な選択だ。そんな考えを鼻で笑い飛ばせる自分が、何だか少し誇らしかった。

「(僕も少しは、変われたのかな)」

 理不尽な運命から、ただ自分の日常を守るだけの日々は終わった。今から自分達は、運命を破壊してでも望んだ未来をもぎ取りに行く。

「(変わって、良かったのかな)」

 振り返ればそこには、ただ安寧を受け入れる事を拒み、命懸けで抗うと決めた数百人の誇り高きフレイムヘイズ。中でも、敵地の真ん中に飛び込む数人が目に付いた。歴戦の英雄ばかりと言えど、一体何人が生き残れるのか。今さら引き返す気など毛頭ないが。

「(本当に、感謝しないと)」

 ヴィルヘルミナ、メリヒム、そしてこの場にいないシャナには、悠二がフレイムヘイズの思惑を越えた何かを企んでいる事を勘付かれている。気付いてなお、何も訊かずに悠二のシナリオ通りに動こうと努めてくれているのだ。いくら使命に忠実だった以前の姿を装っても、それくらいは解る。

「(せめて勝たなきゃ、顔向け出来ないな)」

 これから起きる……いや、起こす事を考えると、心臓を締め付けられるように胸が痛む。いざ向かい合った時、自分が本当にそれを出来るのか。絶対の自信などありはしない。

 それでも──────やろうと思った。

「行こう、ゆかり」

「オッケ」

 掛け替えのない無二のパートナーと共に、世界から外れて歩んで来た、これまでの全てを背負って、

「始めよう、この世の運命を賭けた戦いを」

 どうしたって変えられない事を、今度こそ変える為に。







[37979] ☆-7・『楽園の卵』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ef8f5727
Date: 2018/08/12 18:45

 今まで望んだ事もない豪奢なインテリアに囲まれた寝室。用意されていたスーツに身を包んだ池速人は、ガタガタと震える自分の身体を抱き締めて座り込んでいた。

「大丈夫だ……殺される訳ない……殺すつもりならこんな部屋に寝かさない……とっくに殺してる……だから大丈夫……殺されない……」

 独り言にしては大きな声で、自分に言い聞かせるように精一杯理屈を並べる姿は、見るからに痛ましい。
 無理もない。彼は悠二のように場慣れしている訳でもなければ、悠二のように特異な人格を持っている訳でもない。恐怖を自覚しながらも我を失っていないだけ大したものである。
 何せここは、池を容易く捻り殺せる力と、それを何とも思わない心を持った化け物の巣窟なのだ。人間どころかフレイムヘイズでも竦み上がる地獄と言える。

「(これから、何をさせられる?)」

 池は紛れもなく普通の人間だ。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』にとって利用価値があるとは思えない。あるとすれば、悠二や平井に対しての人質……だと思っていたのだが、今となってはその考えも薄れてきている。
 何せ悠二も平井も、こうしていとも簡単に池を攫われているのだ。素人目に見ても、わざわざ人質など欲しがる戦力差には見えなかった。
 ……というより、自在法を使えば無力な人間を操り人形にする位の事は出来るのではないだろうか? 人質にするなら、そっちの方が遥かに効率的に思える。

「(僕と皆で、何が違う?)」

 逃げられるとも逆らえるとも思えない。それでも池は思考を止めない。考えもしない内から何も出来ないと諦めるには、今の状況は絶望的すぎた。空論でも妄想でも、希望が無ければ己を保てない。

「(力も無けりゃ知識も無い。僕にあるのは……言葉くらいか)」

 ヘカテーを説得する。悠二でさえ失敗した事を自分に出来るとは池も思っていない。だが、悠二を梃子にして揺さぶる事くらいは出来るかも知れない。
 そんな池の考えは、

「起きましたか」

 音もなく開いた扉から聞こえた、幼くも澄んだ声に振り返り、

「ヘ──────」

 暫くぶりに目を合わせた────その瞬間に、崩れ去った。

「(これは、駄目だ……)」

 小柄な体躯に、明るい水色の髪と瞳。外見の違いと言えば漆黒のドレスに身を包んでいるという程度の、紛れもなく池の知るヘカテー。
 だが、違う。同じ無表情だというのに、こうまで印象が変わるものなのか。今の池には、目の前にいるのがヘカテーそっくりの人形にしか見えなかった。

「(説得なんて、出来る訳がない)」

 こんな短期間で心の底から冷酷に染まるなどあり得ない。即ちこれは、鉄の仮面。目的の為にあらゆる不純物を捨て去るというヘカテーの覚悟の表れである。
 それは、ただ目が合っただけの池から、僅かな希望を容易く奪い去るほど圧倒的なもの。

「(下手なつつき方したら……ヤバい)」

 ヘカテーを揺さぶろうなどという身の程知らずな考えは、一瞬にして吹き飛んでいた。
 そのヘカテーが、久しぶりの級友に眉一つ動かさずに告げる。

「貴方にやってもらう事があります。拒否権はありません」

 今のヘカテーにとって、池でさえ目的を果たす為の道具に過ぎない。そう、ハッキリと判る声で。

「しかし怖がる必要はありません。私達は貴方を、無事に帰すと約束しましょう」

 池を安心させる為に歪められた笑顔からは、恐怖しか感じなかった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「(甘かった)」

 友人として、ヘカテーを死なせたくない気持ちは勿論ある。同様に、悠二や平井を助けたい気持ちもある。だがそれ以上に……それが不可能であるという確信を持ってしまった。
 自分でも信じられない。これが意志を以て我が身を顕現させる徒という生物なのか。その小さな背中から滲み出る途方もない圧力に、池は完全に呑まれてしまっていた。

「(坂井……お前、本当にこの娘を連れ戻すつもりなのか?)」

 こんな強烈な意志が翻る事などあり得るのか? 自分が無力だからではない。誰が相手であっても、この凄まじい覚悟が敗北するなど池には考えられない。もちろん……悠二であっても。

「そう構えるな」

 隣を歩く、ヘカテーより更に小柄で華奢な紫髪の少女が、打ち拉がれる池に声を掛けた。
 悠二らとも交友がある徒最高の自在師、名を“螺線の風琴”リャナンシーというらしい。

「まったく、“頂の座”も余裕がない。君に無用の重圧を与えない為に自ら出向くと言った癖に、これでは完全に逆効果だ」

 そのリャナンシーが、前を歩くヘカテーに聞こえるように言ってみるが、反応は無い。頑なな姿勢にわざとらしく肩を竦めて、リャナンシーは池を見た。

「君にやってもらう事は、危険な事でも残酷な事でもない。おとなしく協力してくれれば、明日にも自由の身になれるはずだ」

「御崎市の調律……ですよね」

 ピタリと、ヘカテーとリャナンシーの足が止まる。それは小さな驚愕だった。

「佐藤や田中には無くて、僕にあるもの。消去法で考えるとそれしかなかったんです」

 以前にも、一度あった。年経た最古のフレイムヘイズが、只の人間でしかない池の協力を願った事が。考えてみれば、池が外れた世界に僅かなりとも干渉できた前例はこれしかないのだ。

「楽園なんて大規模な異物を創る。その時に生まれる巨大な歪みを緩和させる為に調律をする必要がある。……そうじゃないですか」

 特別な知識が無くとも、自分が何も持っていない事は知っている。それをこの異常事態で冷静に分析できたという事実にこそ、リャナンシーは僅かに感嘆した。坂井悠二ほどではないが、彼もまた闘争の渦に呑み込まれた特異点の一つなのだろう。

「驚いたな。当たらずとも遠からずだ」

 長い階段を昇る歩みは、いつしか拓けた空間へと至り───池はいきなり、腰を抜かした。

「な……なっ……なあっ!?」

 一面純白に染め上げられた、天井の無い祭壇。その上方に見える星空に……水晶のような銀色の眼が見えたからだ。
 目を離せず、必然的に凝視すれば、それは夜空に眼が浮かび上がっているのではなく、夜よりもなお黒い巨大な大蛇が顔を覗かせているのだと気付く。
 説明されるまでもなく解る。あれが、神だと。

「気持ちはよく解るが、落ち着きたまえ。取って食われはせんよ」

 座り込んだ池の肩にリャナンシーが手を置く。それだけで、心地良い電流にも似た刺激が全身を駆け抜け、池は再び立ち上がる事が出来た。……もっとも、頭上の蛇に対する畏怖は毛ほども薄らいではいないのだが。

「(やっぱり、無理だろこれ)」

 その威容に、人間でも解る圧倒的な存在感に、池はますます確信を強める。悠二や平井がどれだけ強いのか知らないが、こんなモノと戦える訳がない。
 何かの奇跡でヘカテーを取り戻せたとしても、それをこの神が見逃す筈もない。やはり、どう考えても不可能だ。
 不可能……なのだが、

「(坂井の奴は、まるで諦めていなかった)」

 そこが、どうしても腑に落ちない。交戦経験のある悠二が、敵の戦力を判っていない筈がない。そして感情に任せて無謀な戦いに挑むタイプでも無い。

「(僕の認識が間違ってるのか? 僕にとってはどうしようもない怪物でも、ミステスやフレイムヘイズから見ればそこまででもないのか? それとも……)」

 池の思考がまとまりきるのを待たずに、ヘカテーがパチンと指先を鳴らした。瞬間、彼女を中心とした陽炎のドームが御崎市全域を覆い隠し、それに呼応して幾つもの封絶が発動・連結し、御崎市どころかその周囲の都市までも呑み込んだ。発動したヘカテーの水色の炎も、あっという間に見た事もない鉄色の炎に塗り替えられる。封絶の制御を明け渡したのだ。

「これで、街や人が破壊されても元通りに修復できます。そしてベルペオルの宝具『タルタロス』ならば、人間の存在が分解されるのを防ぐ事も可能……もうやってくれたようですね」

 淡々と言いながら、ヘカテーは眼前の竃に手を翳す。その灰が渦を巻いて形を変え、御崎市全域を模した地図を描いた。
 『玻璃壇』と違い、人間やトーチだけでなく徒の姿も映している。それを……見なければ良かった。

「これが全部……紅世の、徒……?」

 信じられない程の、夥しい数の徒が、封絶を合図と受けてか、全周から雪崩のように群がってくる様を、池は眼下の竃に見る。同時に、人間らしきマークが金色の光に守られている光景も。

「恐ろしいでしょうが、これは貴方が……人間が徒に抱く最期の恐怖です。これだけの数の徒が残らず別の世界に行ってくれると考えれば、怖いばかりでもないでしょう」

 徒などそうそう現れない。一生会わないのが普通だ。その徒がこれほどの群れを為して御崎市に集まっているとなれば、これがこの世に在る全ての徒だという言葉にも説得力がある。
 自分達は敵ではない。これは人と徒を救済する行為だ。だからお前も、この世を生きる人間の一人として力を貸せ。
 圧力というより、聖者の抱擁にも似た柔らかく温かい存在感がヘカテーから溢れ出す。

「……なるほど」

 逆らえば最悪、殺される。それどころか、万が一にも『仮装舞踏会(バル・マスケ)』が敗北すれば、この馬鹿げた数の徒を抑制できる者がいなくなる。池は最早『仕方なく従うしかない』のではなく、『絶対神に勝って貰わないといけない』立場にあった。ヘカテーの死という代償さえなければ、断る理由が見つからない。
 言い訳も大義も存分に与えた上で、『人類の救世主の一人』になれと、ヘカテーはそう言っているのだ。

「やるしか、ないみたいだね」

 奥歯を軋ませて、絞り出すように池は言った。街を守る為に、未来を守る為に、家族を、友達を守る為に……友達の死を肯定すると。平和な国の少年には重すぎる決断を、自分の意思で下した。
 少なくとも、ヘカテーにはそう見えた。

「(坂井は、どうする気なんだ)」

 そう見せながら、池は今も思考を巡らせ続けていた。
 拒否権が無いのは変わらない。仮に池が命懸けで抵抗したとしても、『仮装舞踏会』は何らかの代替案を用意する。自分が絶対に替えの利かない唯一無二の人間だなどと思えるほど自惚れてはいない。この重い役割を違う誰かに押し付けるほど無責任にはなれないし、無駄と知りながら犬死にする気にもなれない。
 迷う余地は無いというのに、それでも開き直る事が出来ないのは、

「(単純に、流されるのが嫌なんだろうな)」

 他に選択肢がないとか、こうしなければ街が滅ぶとか、そんなお膳立てされた大義ではない。自分の意思だけで選び取った動機が欲しかった。
 思っていたよりも我が儘な自分の一面を見た気がして、池は内心だけで苦笑する。

「(坂井、お前なら……)」

 深呼吸して箱庭を見下ろす。調律と似て非なる何かを、流されながらも為す為に。
 そこで……異様な物を見る。

「ほう」

 リャナンシーが、

「……想定の範囲内です」

 ヘカテーが、同じく目を見開いた。
 殺到する徒の大群。それを堰き止めるように、街中から黒い茨が生えてきたのだ。
 影から伸びる黒い薔薇が、容赦なく徒に絡み付き、貫き、貪っていく。

「(やっぱりお前は、戦うつもりなんだな)」

 それが誰の仕業か、訊くまでもなく理解して、池速人は密かな可能性を思索する。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 封絶の中に揺れる炎に照らされて、人に物に影が出来る。その影が黒い茨を形作り、迫り来る徒を“喰っていく”。そうして奪った存在の力が花を咲かせ、花が更なる茨を伸ばす。近付く敵さえ活力に変えて根を張る燐子。
 楽園に沸いた徒を出迎えたのは、そんな、最高に質の悪いトラップだった。

「馬鹿野郎共が、何をいつまでも頭から突っ込んでやがる。焼けばいいだけの事だろうが」

 その光景を見て、巨大な甲虫の姿を持つ紅世の王・リベザルが忌々しげに舌打ちをする。彼ら『仮装舞踏会)』は封絶が張られた時点で『星黎殿』直下を円形に護るように陣を敷いているが、既に彼らは黒い影を次々に処理し始めていた。
 彼らの敵はフレイムヘイズや坂井悠二だけではない。熱狂に駆られた同胞も、大事な儀式の中枢に近付ける訳にはいかないのだ。

「焼くって簡単に言うけど、弱い徒には難しいんじゃない? うちの兵隊は訓練されてるから連携して上手くやれてるけど、ここに集まってるだけの弱い徒にはちょっと……」

 リベザルの肩の上でピルソインが低く唸る。
 ここに集まっている大半は楽園に行きたいだけの只の徒。状況把握も覚束なければ他人に配慮する度量もない。ロクに状態も理解せずにひたすら前の徒を急かすばかりで、トラップにすら気付いていない輩も多い。徒の大群のせいで力を察知する感覚がまともに機能していない事も大きい。
 などと頭を抱えている間に、何処かの下手くそが撃った炎弾が飛んできた。

「ああ面倒くせぇ! 燐子砲兵でまとめて焼き払ってやろうか!」

「それ、確実に連中も巻き込んじゃうじゃない。冗談でもよしてよ」

 それを片手で弾いたリベザルが吼えて、ピルソインが宥める。
 自在師を数多く備えた先遣隊が来た時、こんな罠は見つからなかった。判っていたつもりだったが、自在師としての格が違う。

「どうします? 救援に向かいますか?」

 このまま放置すれば影は増殖を続けるばかり。危機感からピルソインは、掌上の魚鱗へと指示を仰ぎ、

『まだ早い。予定通り、陣形を維持して敵の襲撃に備えよ』

 鱗から、無機質な命令が下った。己の魚鱗を切り離して入出力機関とするデカラビアの自在法『プロビデンス』。大命遂行とその守護に『三柱臣』やフェコルーが全力を注ぐ現在、全軍を指揮しているのは実質このデカラビアである。

「陣形を維持、ね……。いつまでそれが続くもんだかな」

 リベザルとて愚鈍ではない。これが陽動で、僅かでも隙を見せれば坂井悠二が『星黎殿』を狙うだろう事は判っている。
 だが、それはあくまでも『仮装舞踏会』の見方でしかないのだ。ここに集まった徒の大半は坂井悠二なんて名前は知りもしない。知ったところで人間の残滓程度に何を思う事もない。
 『楽園に連れて行ってやると呼ばれて来てみれば、いきなり黒い影に殺され掛けている』。それが、今襲われている徒達に見えている全てなのだ。このまま助けにも入らず静観を続ければ、何もかも『仮装舞踏会』の罠だと騒ぎ出すのも時間の問題だろう。いっそこの場にフレイムヘイズの一団でもいてくれた方がまだありがたい。

「(だからまだ攻めて来ないってか。策士も結構だが、そんなんで間に合うのか?)」

 リベザルが見上げるは遥か頭上。『星黎殿』よりなお高い空の彼方で雄大に泳ぐ黒き蛇神。そして……その蛇神が抱く巨大な光の卵。

「(グズグズしてると、全部手遅れになっちまうぜ)」

 新世界の創造は───既にその胎動を始めていた。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「やはり、すんなりとは行かせてもらえないか。なかなか悪趣味な嫌がらせじゃないか」

 彼方の戦場を『遠視』で見据えて、

「だが、あれを見てもまだそんな生易しい希望を抱いていられるかねぇ」

 そして頭上の偉業を見上げて、ベルペオルは不敵に笑う。
 着眼点は悪くない。兵でもなければ協力者ですらない無数の有象無象を誘導するのは、普通の戦とは些か以上に勝手が違う。現にあの程度の自在法で動揺が広がっていた。

「だが今回ばかりは、相手が悪い」

 いくら罠を張ろうと、いくら小細工を練ろうと、本物の持つ存在感には敵わない。新世界の卵を抱く創造神の威容。あれを目の当たりにして、あの創造の予兆を感じて、楽園を夢見ない徒など存在しない。
 少しばかり驚かされはしたが、所詮は時間稼ぎ。そして、一番時間を稼ぎたいのは『仮装舞踏会』の方なのである。

「本気で我々を止めたいなら……む、もう動いたか」

 しかし、敵も機を見るに敏だった。揺さぶりの効果が無くなったと見るや否や、群がる徒の南方にフレイムヘイズの一団が出現し、その背後を強襲したのだ。集結した全世界の徒に比べれば少数もいいところだが、こんな無謀な作戦に参加するだけあって活きが良い。背後からの強襲を繰り返す分には有効だろう。

 だが当然、これも陽動。判った上で、敢えて乗る。

 見誤らず、デカラビアから指示が下り、『星黎殿』直下を護っていた円形の陣が、影の茨を排除すべく動き出した。
 影と討ち手、前後から攻められては徒の集団が恐慌状態に陥りかねない。それを防ぐ為の進軍……と、彼らの目には映っただろう。

「案外、早かったねぇ」

 陣が広がったとほぼ同時。“それ”はやってきた。
 彼方の空から途轍もないスピードで、隠そうともせず一直線に。

「シュドナイ」

『ああ、“もう見えてる”』

 遠話で呼び掛けた声に、低い肯定が即座に返る。
 既に中空、『創造神』のすぐ傍に待機していたシュドナイの肉眼でも見えるほど、圧倒的に速い。遠く見える、しかしみるみる大きくなるそれは、凄まじい暴風を纏った銀の竜巻だった。

「今度は風か。つくづく便利な自在法だ」

 ベルペオルも、シュドナイも、ヘカテーも判っていた。
 敵の狙いは大命の阻止。倒しきれるはずもない大群の相手など、する意味も余裕もない。『転移』か『飛翔』か、遅かれ早かれ一気に飛び込んで来る事は読めていた。
 世界中の徒が集まったと言っても、自由自在に飛べる者はそう多くない。空ならば確かに飛び込む隙はある。現に今も、少数の徒が運悪く竜巻に呑まれてバラバラに千切れ飛んでいる。空に浮かんでいる徒だけでは、肉の壁としてすら機能していない。
 厄介な……しかし想定内の強襲である。

『撃て』

 『遠話』による指示を受けて、『星黎殿』禁衛員による一斉砲撃が竜巻を襲った。炎弾ではなく、とびきり硬く造った“燐子の砲弾”である。
 空を塗り潰すような弾幕……だが、敵の方が一枚上手。竜巻の先端から一閃、破壊の閃虹が放たれた。それは燐子の弾幕に風穴を穿ちながら、一直線に『星黎殿』へと飛んでくる。
 それを即座にフェコルーの『マグネシア』が遮り、

「はあっ!!」

 シュドナイの『神鉄如意』が巨大化して薙ぎ払う。その間にも、竜巻は接近を続けている。

「(一息に近付こうとは、舐められたものだ)」

 噂に聞く『約束の二人(エンゲージ・リンク)』を彷彿とさせる風の自在法。だが、そんな程度で抜けられるほど『仮装舞踏会』の守りは緩くない。そろそろ槍の間合いかと柄を握るシュドナイ……より僅かに早く、水色の流星が飛来した。

「邪魔は、させません」

 『星黎殿』から矢のように飛び出し、シュドナイと同じく創造神の傍に来たヘカテーの繰り出す『星(アステル)』。直線的な燐子砲弾とは違う、その全てが流れる曲線を描いて収束する光の連弾が、迫り来る竜巻を捉えた。
 眩い閃光と共に連鎖的な大爆発が巻き起こる寸前、シュドナイは銀に燃える半透明の鱗壁を見た。

「……届いたか」

 ここまでの加速、そして上方からの強襲を受けた九つの影が、煙を引いて墜落する。そのまま墜ちれば地上まで真っ逆様の軌道だったが、執念にも似た滑空が『星黎殿』に隣接した『天道宮』の縁に引っ掛かった。

「(まあ、来たからにはそれくらいはしてもらわないと困る)」

 昔、教授が手を加えた『星黎殿』の防衛機能が使えればもう少し違ったのだろうが、その教授もマージョリー・ドーに討たれた。彼の残した『我学の結晶』も軒並み機能を止めている。こんな状態で、敵の接近を完全に阻めるなどとは最初から考えてはいない。
 いや……やはり、“こうでなくてはならない”。

「ここまで来い、坂井悠二。お前の本気を全てねじ伏せてやる」

 見下ろす陽光の宮殿に、人ならざる気配が湧き上がる。それこそが、真の戦いの狼煙となった。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 数百年に渡って『仮装舞踏会』が改築を重ねて来た『星黎殿』とは違い、『天道宮』には何もない空間が多すぎる。墜落した瞬間にはもう、侵入者は恰好の的になっていた。

「っ撃え!!」

 体勢を整える間もなく一斉に放たれる砲弾型の燐子。火除けの指輪では防げない破壊の雨が降り注ぎ、

「流石に迅速、しかし……」
「不用意」

 その全てが、まるでビデオの巻き戻しのように同じ軌跡を辿って“投げ返された”。無双を誇るヴィルヘルミナ・カルメルの戦技によって。

「正面から突き破ります! しっかり掴まってて下さい!」

 完成された包囲網から繰り出された淀みない斉射。それが逆に包囲網を一瞬にして崩壊させた。間髪入れず、巨大な鏃に乗ったキアラ・トスカナが地面スレスレを翔る。
 極光の翼を広げた突進が斬撃となって前線を蹴散らし、一直線に『星黎殿』へと奔る。その後ろに、ヴィルヘルミナのリボンで繋がれた八人の戦士を引いて。

「空には上がるな! また狙い撃ちされるぞ!」

「はいっ! 任せて下さい!」

 墜落した直後の砲撃をヴィルヘルミナが投げ返し、包囲網を崩した直後の電光石火の速攻。『仮装舞踏会』の禁衛員が完全に後手に回る中で、

『!?』

 違和感の溢れる戦場に於いても一際大きな気配の発現に、誰もが警戒を強めた。強めて、しかし、防げなかった。

「えっ!?」

 キアラの『ゾリャー』が、見えない何かに摑まれたかのようにいきなり止まる。勢いそのまま他の八人が飛ばされそうになる寸前……一番不安定な体勢を突いて、

「そぉら吹っ飛べぇ!!」

「舐めんな!!」

 頭上から特大の炎弾が降ってくる。平井が『アズュール』を展開しようとするが、同時に投げ出された状態で全員はカバーしきれない。
 だが、逆様の姿勢から繰り出したレベッカの光球がこれを撃ち落とす。爆炎と衝撃波が八方に広がり、悠二らも上から石畳に叩き落とされた。

「弁柄色の炎……」

 何事もなかったように立ち上がる悠二。その睨む先で、炎を裂いて巨体が降ってくる。
 巨大な甲虫の姿をした、リベザル。
 双頭のガスマスクに襤褸を纏った妖術師、ハボリム。
 白皙の美貌と粘るような色気が特徴的なマモン。
 黒服の青年・オロバスに白衣の女・レライエ。ラクダに乗った貴公子パイモン、巨象の姿をしたバルマ。
 どいつもこいつも、『星黎殿』の直下で有象無象の相手に追われていた筈の難敵達である。

「生憎だったな。確かにあの数は厄介だが、デカラビアさえいれば俺達がいなくても何とかなる。『転移』は何も、お前らの専売特許じゃないぜ」

 “参謀閣下”の読みを誇ってか、リベザルが得意気に鼻を鳴らした。確かに、この程度の距離を『転移』するだけなら悠二じゃなくても不可能ではない。
 ただし、悠二がこれを予測していなかったかと問われれば、答えは否だ。いくら何でも、“下”に戦力を回しすぎだとは思っていた。

「こっちの台詞だ。捨て駒共」

 真っ先に動いたのは、メリヒム。振り下ろした曲刀の軌跡に沿って『虹天剣』が迸る。防御も相殺も不可能な破壊の奔流を前にして、並み居る強者が一斉に飛び退いた。その一撃を追うように、悠二が、平井が、ヴィルヘルミナが、メリヒムが駆ける。
 駆けて……次の瞬間、平井が止まる。見えない何かに全身を摑まれたかのように。

「サイコキネシス!?」

 意中のものを引き寄せ掴み押し退け払う、“冀求の金掌”マモンの自在法『貪恣掌』。
 掴んだ次の瞬間には、『虹天剣』を跳んで躱していたリベザルが超重の拳撃を平井に振り下ろし、

「させるか!」

 悠二の竜尾がその巨体ごと弾き飛ばす。そうする間にもキアラの弓がマモンを狙い撃ち、『貪恣掌』がそれを止めた。
 薄く笑うマモンの首の横に……『オレイカルコス』の刃が顕れた。

「くっ!?」

 空間を越えた斬撃。確実に首を落とす筈の曲刀を、マモンは倒れるようなスウェーバックでギリギリで躱す。頬を切っ先が剔り、黄檗色の炎が血のように噴き出した。
 斬首は免れ、しかし『貪恣掌』は綻ぶ。マモンに止められていた極光の矢が弾けて、至近で爆発する寸前……レライエの広げた薄絹の壁が割って入り、その威力を柔らかく受け流した。
 その際どい攻防を見るでもなく、パイモンの展開した衣服の供連が一斉に矢を放つ。逃げ場の無い矢雨の前にサーレが飛び出し、不可視の糸でその全てを絡め取った。
 時が止まったかのように静止した矢が綺麗に反転、菫色の炎を纏った瞬間……戦斧を振りかぶったオロバスが躍り出た。王と比しても見劣りしない鋭い豪撃は、サーレに届く寸前で悠二の黒刀で受け止められる。間髪入れずに銀の炎弾がオロバスを直撃し、吹き飛んだオロバスを中空でハボリムが受け止めた。
 オロバスの突撃で一拍遅れたサーレの逆撃。それを裂いて、リベザルが猛進する。自身の肉体を構成するバルマの糸……それを纏って強化された力強い突進は、飛び来る矢の雨を物ともしない。
 走りながらバラ撒いた数珠玉が七体のリベザルへと変じて───

「献血済みだぁあーーー!!!」

 両脚に銀鱗を纏った平井の連打を受けて、残らず殴り飛ばされた。分身はそれで数珠玉に戻るが、バルマの自在法で強化されたリベザル本体は面食らいながらも平然と立ち上がる。

「(……不味いな。想像以上だ)」

 決して長くはない、しかし密度の濃い攻防を経て、悠二は表情を変えずに内心で苦虫を噛み潰す。
 無傷で勝てる相手ではない。だがこの奥に待っているのは、万全であっても絶望的な相手である。余計な消耗は命取りになる。
 そんな悠二の葛藤に追い打ちを掛けるように、

「流石だ。我らが捨て駒呼ばわりされるのも、頷ける」

 ハボリムが動いた。
 彼の足下から広がった影とも見える楝色の炎が薄皮のように味方を覆っていく。リベザルらは勿論、『星黎殿』の禁衛員すらも。
 ───自在法『熒燎原』。自身の強化しか出来ない平井の『ラーミア』とは対極と言える、“一軍丸ごと強化する自在法”である。これだけの強者が更に強化されるとなると、もう出し惜しみしてはいられない。下手に長引かせる方がよほど体力を消耗する。

「(一人一人、確実に獲る)」

 後先の事は考えない。まずは目の前の障害を排除する事だけを考える。
 そう覚悟する悠二に、

「……ここは、私達が引き受けましょう」

 同じく考え込んでいたゾフィーが、言った。

「……いいのか?」

 まさにこういう時の為に欲した戦力だ。悠二に不満などあるはずがない。しかしあまりにも自分達に都合のいい提案に数秒思考を巡らせて、

「(ああ、そうか)」

 すぐに気付く。“いざという時に背中を撃つにしろ”、こうして一緒に同行している状態はフレイムヘイズ側にとっても都合が悪いのだ。
 『三柱臣』と交戦中。目の前の敵しか把握出来ない状態を隠れて見ている、というのが彼女らにとってもベストなのだろう。
 正直なところ、ありがたい。

「貴方達の目的は、こんな所で戦力の削り合いをする事ではないでしょう。大義を掲げて人を動かした以上、貴方にはそれを成し遂げる義務があるのです」

 おそらくゾフィーは、『坂井悠二はフレイムヘイズに撃たれる可能性に気付き、対策している』と考えている。
 しかし実のところ、“悠二にはフレイムヘイズ対策などない”。目的の準備と『三柱臣』対策で手一杯で、フレイムヘイズ対策までしている余裕がなかったのだ。
 自分の怪しさを自覚してわざと悠然と振る舞っていたのが、ここに来てハッタリとして機能していた。

「ああ、確かに。こうなった以上わざわざ敵の思惑に乗る意味はないでしょう」

「ふむ、気に病む必要はないぞ。何せそちらにはもっと厳しい相手を任せる事になるからの」

 返事も待たずに、カムシンが『メケスト』を地面に突き立てた。褐色の炎が四方に伸びて戦いで崩れた瓦礫をかき集め、瞬く間に瓦礫の巨人を形作る。

「───『アテンの拳』───」

 『儀装』から放たれる巨大な拳の一撃が、『星黎殿』を震わせた。









(あとがき)
感想返信をしたかったのですが、何故かエラーが出て出来ませんでした。すっかり全盛期のリズムを失っていますが、それでもこの作品を読んで下さる読者の皆島、いつもありがとうございます。完結目指して頑張ろうと思います。


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