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[37800] Strato Dancer―ストラトダンサー―【ライトノベル風航空アクション】【第三部開始】
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2015/05/30 21:49
5/30
新話更新。
ここだけで見るとわからないが前回より一年経っているという驚愕の事実。
試験的にpixivにあげてみた。「いろんな人が見てくれる」というので。
実際のところどうだかわからん。合わないようなら消しますが。


5/6
新話更新
ゴールデンウィークがもう数日ほしい。


3/8
新話更新。
旅に出たいと最近思います。


2/8
新話更新。
第二部完結マーク付けるの忘れてたので付け直す。

雪とか、雪とかやめてください。


1/17
新話更新。あけましておめでとうございます。
今回ちょっとだけアレな描写がある――けど直接的な表現は一切ないし内容的にもヌルいから、特に指定は付けませんけど。
問題ないと思うけどやっぱり問題あると思ったらご指摘ください。


12/21
新話更新。
今年最後の更新になるかなあ。
来年もよろしくお願いいたします。


12/7
新話更新。
生活苦ではない(笑)と思いたい(え
……バイク用ETC高すぎんだろおい……


11/2
しばらくぶりに更新。
やっぱり自宅にネット引くべきのような気がしてきた。


8/10
タイトルを微妙に改変。某所で指摘されていたので開き直り。
そもそもが「~オンライン」ってのが、某人気ライトノベルのパクリみたいでなんかあれだったし。
……まあ、趣味だからそれはそれでいいかと思ってた節がなくもないんですがね。


8/3
主人公機の設定を掲載。
ただの設定では面白くないと思って某フリー百科事典風にしてみました。


7/28
第二部を開始しました。


6/15
……あまりに反応が薄いので少しタイトルをいじってみる。

確かになぜだか人気のないジャンルではあるけれども。

むろん内容が面白ければという但し書きが付くにせよ、
どうして航空アクションってこう人気がないんだろうと時々思います。

ロボットものならいつの世代も大人気なのにね。
と、マイナージャンルファンの僻みも込めて。


6/28
ああ、見てくれる人はいるんだなあと小さな感動。

スパイク作品群
赤松板「麻帆良学園都市の日々」
赤松板「麻帆良学園都市の日々 中間考査」
その他板「けみかる!」
オリジナル板「Messiah platoon」(完結)

よろしくお願いいたします。



[37800] 第一話 その世界にて
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/09 01:29
――――空と、踊れ――――
     ――――果てのない、空と宙の交わる場所で――――

――STRATODANCER Online CONTACT――

                    2030.17.February  On sale――――


RailioⅢ専用ソフトウェア 予価¥9450




第一部 ――STRATODANCER Online CONTACT――

第一話「その世界にて」

 人間とは、詰まるところ世界で脳を感じているのだと、最初に“それ”を使ったときにはそんな風に思った。そう思ったときの自分は、まだ年端もいかない子供だったように、彼は記憶している。
 果たして彼は、自分で思い返しても、かわいげのある子供では無かったと思う。けれど、それでもその時の自分は、ただの子供だった。そんな子供に、そんな大層な、考えたこともないような事を考えさせてしまうほど、“それ”の衝撃は大きかった。

 目の前に広がる世界は、自分の脳が捉えて、自分にわかりやすいように処理された世界なのだ。
 自分の体も、目の前にあるテーブルも、窓の外に広がる世界も。
 言い換えれば、自分にとっての現実が何なのかなど、その当人にしかわからない。自分の脳が捉える世界が現実である事を確かめる術などありはしない。
 もっともそんなのは、ただの戯れ言でしかない。大昔にそう言った事をテーマにした壮大な映画があった気がするけれども。その程度だ。身の丈に合わない、壮大な妄想。
 しかし、脳が捉える世界が、自分にとっての現実であり得るなら――“その世界”もまた、一つの現実と言えるのではないだろうか?

 ――わかっている。そんなのは、ただの現実逃避だ。

 彼は頭の何処かで、意識のスイッチが切り替わった事を感じる。
 仮想の“現実”から――本物の“現実”へと。
 彼は頭からそれを外した。ヘッドホンのような形状で、それほど重さも感じない、意図された未来的なデザイン。首の後ろに当たるフレームが、薄く青い光を放ち、それは彼の座るソファの脇にあるデスク、その上にある黒い箱が放つ同じ光と同期している。
 彼はそこで動きを止め――もう一度息を吐いてから、ヘッドホン様のそれを、完全に首から外し、デスクの上に置いた。




 仮想空間体感型ゲームマシン「Railio」が発売されたのは、もう十年程も前のこととなる。
 コンピュータの中に構築された仮想空間。それを外から眺めるのではなく、実際に自分の感覚として体感する――大昔からサイエンス・フィクションなどではたびたび取り上げられたテーマである。
 その“夢”を現実にする技術がもたらされた時、当然世界には少なからぬ衝撃があった。
 「今までの集積回路を石器時代のものに変えた」とまで言われる三次元結晶型集積回路の登場により飛躍的に向上したコンピュータの処理能力と、「その気になればゼロから人間を造ることが出来る」と噂される程に進歩した脳外科学。
 その二つの下地があって誕生した体感型仮想空間は、登場から二十年足らずで人々の間に急速に浸透していった。
 むろん、それは簡単なものではなかっただろう。人間の脳に、四肢や感覚器官から送られるのと全く同質の疑似信号を流し込むことにより、造られた仮想の世界にその人を送り込む――それこそ、SF小説などでは当たり前かも知れないが、基礎理論の構築から最終的な安全性の確保まで、どれだけの技術者が、どれだけの挫折を味わったのだろう。
 ただ、今それを末端で使用する人間に、いちいち彼らに感謝を捧げろと言うのも無理な話であるが。
 実際に体験できる仮想空間――“何でもあり”の、もう一つの世界。
 それがもたらす恩恵は、列挙すればそれこそ、枚挙にいとまがない。たとえば視覚や聴覚を失った人々に、再び鮮烈な世界を与える事が出来る。あるいは高度な職業訓練をリスク無しに行えるというものから、本を読むのに目や手が疲れないという細々としたところまで。
 そしてその恩恵が“娯楽”――遊びの世界にまで浸透するのに、それほど時間はかからなかった。
 究極のリアリティを謳い文句に登場したそれら体感型のゲーム機は、瞬く間に人々の心を掴んでいった。
 半世紀以上前、「テーブルトークロールプレイ」というものがあった。何かしらのシナリオを用意して、一つのテーブルにつくように(むろん本当にテーブルにつく必要があるわけではないが)プレイヤーが集い、空想の世界に思いを馳せるのだ。
 それは後に生み出された多くのゲームの原型であった。ノートに書かれたシナリオは、コンピュータによって造られたゲームソフトの中に組み込まれ、思い描いた空想の戦士達は、実際にテレビ画面の中でモンスターと戦った。
 そして現在、そう言ったプレイヤー達は、実際に空想の世界を生きることが出来る。
 彼らは剣と魔法を操るファンタジー世界の騎士になることもあれば、荒廃した世界を舞台に戦場を駆けめぐる兵士になることもある。
 レーシングマシンを駆って世界中のサーキットを走ることもあれば、かつて存在した高名な棋士と差し向かって、将棋やチェスを指す事もある。あるいは現実に存在しない恋人を相手に、愛欲の快楽に耽ることも――
 ともかく、満を持して現れたこの“究極のゲーム機”に、人々は熱狂した。
 そしてその享楽に対する情熱は、さらなる改良をこれらのゲーム業界にもたらすこととなり――西暦2020年代初頭に登場した仮想空間体感型ゲーム機の元祖「Railio」は、二年前、西暦2028年ににその三代目「RailioⅢ」が発売され、その地位を不動のものとしていたのだった。




 海に張り出した断崖が延々と続くその場所は、春の季節を迎えていた。断崖の上の高原地帯には緑が芽吹き、真白い草花の群生が、そのあちらこちらに彩りを添える。ふとそこから目を移せば、何処までも広がる大海原と、その海原との境界線がわからなくなってしまいそうな、何処までも青い空。
 しかし果たして――そのただ中に漂う彼らには、その雄大な光景を楽しんでいる余裕など、ありはしなかった。

『エネミー・タリホー。ボギーは六機――方位一三〇、距離六五〇〇、高度二〇〇〇――いや、八機だ。この間の連中かも』

 仲間から放たれる声に、その“彼”は、マスクの下で唇を舐める。
 さしたる意味がある行為ではない。現実と見紛うばかりのこの世界であるが、わざわざ喉の渇きまで表現する必要はない。不要なものは、排除される。

『繰り返す。ボギー八機――上昇姿勢に入った。来るぞ、全機、続けっ!』

 複合素材で作られたキャノピーフレームと、特殊樹脂製のキャノピーの向こう側。その巨大さ故に、手が届きそうだと錯覚するほどに近くを飛んでいた“僚機”が、一瞬その翼を揺らし――刹那、虚空に翻る。
 そう思った時には、既に自分の手も操縦桿を引いている。途端、ヘルメット投影型ディスプレイに写し出される仮想地平線、それを表す目盛りがめまぐるしく動き――外の世界が、一回転する。音速に迫る速度からの反転降下。視界が歪み、世界は一瞬、意味を成さない光の羅列に取って代わる。
 体がシートに押しつけられるのを感じる――が、苦しさはない。
 この世界で自分たちに襲いかかる“負荷”とは、所詮デジタルデータが見せるエフェクトでしかない。とはいえ、あまりのリアリティに、本当に息が詰まりそうになる。
本物の空を自在に舞う兵士達は、どれだけの化け物かと思った事もある。何せ彼らは、実際に重力の数倍の負荷を、現実に体で受け止めながら空を舞う。
 感傷に浸る暇はない。レーダーディスプレイの中を、赤いシンボルが急激に接近。視界の果て、雲と大地、そして海に彩られた世界の中で、何かが煌めく。
 間をおかず――後方で爆発。一瞬にして爆炎に飲み込まれた味方は、もはやその中から出てくる事はない。

『――“エルム”が喰われた』
『出会い頭は仕方ない――お返しだ、ミサイルシーカー・オープン』

 相対速度は、おおよそ音速の二倍。この距離で真正面からの撃ち合いとなれば、出会い頭に多少の犠牲は致し方ない。何せものは裏通りの交通事故とは訳が違う。明確に相手を狙った、攻撃の意思なのだ。
 虚空に散った仲間と自分で何が違ったのかと言えば、多少の運でしかない。

『フォックス・ツー!』

 既にこちらも、相手を射程に捉えている。ヘッドマウントディスプレイの中にロックオンマーカーが出現し、相手を捕捉した事をこちらに報せてくる。叫びながら、操縦桿のトリガーを引く。
 翼下パイロンに懸架されていたミサイルのジョイントが切り離され、ほぼ同時にロケットモーターに点火。一息で母機を追い越した空対空ミサイルは、ろくな回避行動も取らずにこちらに突っ込んでくる敵機に真正面から突っ込み――その漆黒の主翼を食いちぎった。
 微妙に操縦桿を揺らし、姿勢を整える。そこで、ようやく相手と交錯する。
 キャノピーの外を、黒煙を切り裂いて漆黒の翼が駆け抜ける。その一瞬で、相手は既に遙か後方へ飛び去っているが――

『ナイスキル! 何機墜とした!?』
『3機だ――だが、こっちも2機やられた!』
『敵機の機影を確認――Mig29か!?』
『いや、Mig-35だ! この間のアップデートで投入されたばかりの奴だな――よくもあれだけ頭数を揃えたもんだ』

 春を迎えたこの世界――眼下の平原には、この季節を待ちわびた花々が彩りを添えている。しかしその頭上で、彼らの舞う大空を彩るのは、複雑に絡み合う飛行機雲と、赤黒く空を汚す爆炎である。そこは戦場――空が混じり合うこの場所は、鋼鉄の翼が舞い踊る戦場なのである。

 混じり合う空――空で繋がれた世界。
 その“世界”は、そのような惹句で紹介されることがある。
 仮想体験型フライトシューティングゲーム「ストラトダンサー・オンライン」は、“RailioⅡ”の時代に発売された、人気のフライトシューティングゲームである。
 フライトシューティングゲームとは、一言で言い換えれば、「戦闘機のパイロットごっこ」と言うことになる。テレビゲーム黎明期の、弾をかいくぐりながら敵を撃つ通常のシューティングゲームとは違い、多くはパイロットの視点で、三次元の空間を自在に飛び回りながら、敵を撃つ。
 仮想体験型ゲーム筐体によってもたらされるそれは、まさに戦闘機パイロットの疑似体験である。プレイヤーは実際に愛機のコックピットに身を沈め、空の中を飛び回り、機関銃やミサイル、あるいはレーザー光線で敵を撃墜するのである。
 多くのタイトルが存在する中でも、この「ストラトダンサー・オンライン」は、非常にリアルな戦闘機の描写と、緻密な風景描写を謳い文句としている。多人数参加型ゲームであるが故の無目的な戦闘を、逆に「終わりの見えない戦争」というリアリティのある世界観に投影し、見事に描いたシナリオが高い評価を得て、仮想体験型フライトシューティングゲームでは最も人気のあるタイトルであった。
 今年の二月に、満を持しての続編“RailioⅢ”版「ストラトダンサー・オンライン・コンタクト」が発売されたが、現役の戦闘機パイロットに「実機と変わらない」とまで言わしめたリアリティと(多分に広告のために言わされた台詞であろうが)、前作よりも更に拡張された機能を持ってして、日本を中心として世界中に多くのプレイヤーを抱えるキラータイトルとなっていた。
 そしてその世界では今日も――多くのプレイヤー達が、空を舞う戦士となって死闘を繰り広げているのだった。

『畜生――ケツに一機食いついた!』
『ブレイクしろ、今そっちに行く』

 虚空に鋭い霧の帯を引き、濃紺に彩られたF-35AライトニングⅡ戦闘機が急激に旋回する。同時に機体の尾部から光り輝くオレンジ色の火球――“フレア”と呼ばれるマグネシウム片がまき散らされる。
 赤外線に食らいつく電子の瞳を持ち――その機体を追尾していた空対空ミサイルは、まんまとその“餌”に食らいつき、近接信管を作動させる。回避に成功――しかし、秒速数キロでまき散らされる破片が、至近距離から機体を穿つ。
 巨大なタッチパネル式ディスプレイで構成されるF-35の計器パネルに、毒々しいエラーメッセージが流れる。後部動翼破損――一部動翼制御機構に異常発生。

『くそっ――尾翼をやられた』
『“ピアサー”が援護につく。退避しろ』
『この混戦じゃ良い的になるだけだ。俺の事は構うな。敵機、スターボード!』
『……了解、スターボード』

 既に敵機に捕捉された事を報せる警報が鳴っている。しかしエンジンにも何かしらの異常が発生しているらしく、スロットルをマックスに叩き込んでも速度が上がらない。苦し紛れに操縦桿を捻る。機体は煙を曳いたまま、もたつくように旋回――回避行動を行うのは不可能だった。
 万事休す、と、プレイヤは目を閉じる。すぐに訪れるだろう敵機の攻撃と、自らの死――無機質な“ゲームオーバー”表示を覚悟する。小さく息を吐いて操縦桿から手を離した瞬間だった。

「!?」

 自らの背後に迫っていた敵戦闘機が、突然爆発した。
 援護――? しかし、味方はこの混戦の中で、数位で優勢な敵を相手取るのに精一杯。落伍した自分を助けてくれる余裕など無かった筈だ。思わずキャノピーに手を付いて、体ごと後ろを振り返る。
 特徴的な機体が、愛機を追い越していく。
 エッジの効いた形状ステルス構造に、外見的に最も目を引く前進翼。大振りなカナードと、外反角の大きな双垂直尾翼、水平尾翼を持つ、三翼面構造の戦闘機。
 三菱・川崎重工「F-3」型制空戦闘機――現実世界では一昨年、老朽化したF-15J制空戦闘機の後継機として、自衛隊に配備が始まったばかりの最新鋭機である。
 縦列副座のコックピット――その後部座席に収まるプレイヤーが、こちらに向かって片手を上げるのが見えた。

「……」

 途端、その機体は翼を翻す。3次元推力偏向パドルを持つエンジンノズルからは、青紫色の燐光が尾を引いている。アフターバーナー全開、翼端から長く霧の帯を曳きながら、鋭く旋回――飛行機雲が絡み合う戦場に、機首を向ける。
 淡い灰色の低視認性塗装。ゲームであるが故に、各々の愛機を特徴的に彩る事の多いこの世界に於いては珍しい、現実的な地味な塗装。しかしその尾翼周りは、空の色を切り取ったような、鮮烈な蒼に彩られている。

「あれってひょっとして――リアルタイムで遭遇したの初めてだ」

 プレイヤーは、自分が所属する“勢力”に存在する、とある腕利きプレイヤーの噂を思い出していた。神出鬼没、気まぐれに戦場を渡り歩くトップエースの集団――その中で、わざわざ副座仕様の機体に“二人で”乗る、風変わりなエース・パイロット。
 そのあまりの強さから、プレイヤーは本物の戦闘機パイロットではないかと噂される事さえあり、さすがにそれは眉唾物だろうと思っていたが。

「美味しいトコかっさらいやがって――お陰で助かったが」

 飛び去っていくその機体を追わず、シートに深く身を預ける。ディスプレイには相変わらず警告が出ているが、戦闘機動を行わないのなら問題はない。この程度なら、修理の為に差し引かれるスコアも大したものではない。
 撃墜されていればまた、初期配備の機体からやり直さなければならないところである。それなりの時間を費やして手に入れたカスタム仕様の新鋭機であるから、素直にありがたいと、彼は思った。

 それから数分――彼ら『ティグリア共和国 第443戦術戦闘航空隊』は、少なくない犠牲を支払ったものの、彼らの“領土”であるこの沿岸部の防衛に成功した。いくつか僚機が抜けて隙間が増えた編隊を組み、基地へと戻るその道すがら――彼らに勝利をもたらした風変わりな機体は、既にそこには存在していなかった。




『空で繋がれた世界』などと、「ストラトダンサー・オンライン」の舞台は呼ばれる事がある。
 舞台となるのは、地球によく似た架空の惑星である。同じような環境を持ち、同じような歴史を辿り、同じように空を飛ぶ翼、戦う翼を生み出した。
 むろんそこは、架空の世界であるから、地球と大きく違うところもある。むしろ、“そうである”からこその、この世界と言うべきだろう。そこに地球に実在する戦闘機が存在することに関しては――まあ、言わぬが華というものであるが。
 この星には、とにかく陸地と呼べる場所が少ない。
 広大な大洋の中に、小さな島々が点在する世界である。だから人々は有史以前より、その僅かな大地を求めて彷徨ってきたのだという。氷に閉ざされた小さな島から、南洋のただ中に佇む孤島から、あるいは超自然的な力によって、空に浮かぶ不思議な岩山から。とにかくそこがどういう場所であろうとも、人々は空に挑み、そして、大地を求めて旅を続けた。
 空が、別の何処かに繋がっている。その事実を、ただひたすらに信じ続けて。
 それが空を飛ぶ機械を作り出す原動力となり、鋼鉄の翼は世界に満ちたのである。だからここは、空に繋がれた世界。世界を繋ぐ空を、鋼鉄の翼で駆けめぐる。そんな世界なのだ。
 「ストラトダンサー・オンライン・コンタクト」のグランドクエストは、この世界の中心に存在する唯一の超大陸「ユグドラシル」を統一することである。誰もが目指す、世界の中心に広がる大地――当然皆が皆、そこを自分の手中に収めようとすれば、ぶつかり合いが起きる。だから、「CONTACT(会敵)」。前作よりの大規模アップデートである。
 プレイヤーは選択可能ないくつかの勢力から、自分の所属を選び、その勢力の戦士となって戦うのであるが、最終的な目的はそれだ。
 だが初期に選択出来る戦闘機が多少異なるくらいで、その機体にもそれほど大きな差がないとなれば、後は好みの問題である。自然、各々の勢力に所属するプレイヤーの技量は、拮抗してくる。
 果たして発売から数ヶ月を経た現在でさえも、このゲームのグランドクエストが達成される見通しは、未だに立っていない。だからこそ、世界中のプレイヤー達は、我こそはと群雄割拠の世界に飛び込み、己の腕を競い合うのである。

 ――その勢力の一つ。南方の島嶼地帯を領土とする「ティグリア共和国」。
 鮮烈な青い海と、そこを彩る珊瑚礁が目にも鮮やかなその場所に、“それ”はある。
 珊瑚が隆起して出来た白砂の島。しかしその島を上空から見れば、まるでその白を切り取ったような図形が描かれているのが確認できる。果たしてそれは、軍用機の滑走路。斜めに交差する二本の大きな滑走路と、そのうちの一本に平行する補助滑走路を持ち、その周囲をそれらしい構造物が取り囲む、れっきとした軍用基地。
 ティグリア共和国、アルミナ島防衛基地。
 この国に存在する基地の中では最も西に位置し、目的である“超大陸ユグドラシル”からは最も遠い。
 それが――知られざるこの国のトップエース達が集う場所であった。




「……何やってんだ」

 呆れたような声が聞こえた。
 アルミナ島防衛基地は、先に述べたように、珊瑚礁で出来た島の上にあり、その島の大部分を使って作られている。ではそれ以外の部分には何があるかと言えば、仮想体感型ゲームの膨大な情報量を使って再現された、無駄なまでにリアルな大自然である。
 ふかふかとした草地、熱帯特有の植物、白い砂浜に打ち寄せる波の音。何処の観光地かと見紛うばかりの風景が、そこには広がっている。
 そしてその一角――砂浜の隅に広げられたシートの上に寝転がる人影と、それを見下ろす人影がある。
 果たしてその人影はアバターである。仮想世界で、プレイヤーの分身となるキャラクター。
 一人は東洋系の男であった。彫りの浅い顔に少し浅黒い肌、短く刈り揃えた茶色の髪が、精悍な顔つきによく似合う。もっとも好きこのんで醜い外見のアバターを使う物好きなプレイヤーも少ないから、果たしてこの世界では一般的な外見だと言えるかも知れない。
 しかしもう一人、シートの上で寝転がる方はどうだろうか。
 こちらは白人の少女である。しかし小柄で華奢であり、十代前半というのが関の山。目元をサングラスに覆われているが、あどけない顔立ちをしているのがわかる。見た目に可愛らしいと言うことも出来るが――この殺伐としたオンラインゲームには似つかわしくない。
 更にそんな彼女は、その未熟な体に露出度の高い水着を纏って、簡素なシートの上に大の字に寝転がっているのだ。これは一体何のゲームだと、そう言いたくもなるだろう。

「日光浴」

 そしてこともなげに彼女は答える。少しずらされたサングラスからは、熱帯には似つかわしくない、アイスブルーの冷涼な瞳がのぞいている。

「見ればわかる」
「いやあ、意外と今日の戦闘は早くにカタが付いちゃったから。まだ寝るには早い時間だったし、せっかくこう、無駄に良いホームがあるんだしね?」
「意味あるのかよ」

 確かに見た目には美しい世界である。だが、ものは所詮主旨の違うゲームの中の世界だ。本格的なリラクゼーション施設にあるようなそれとは違い、肌を焼く日光の感覚は無いし、どれだけ美しく見える海でも、実際にそこで泳げる事もない。
 テレビを眺めるよりは現実感はあるが――どうせプレイヤーの体は、部屋の片隅で脱力しているだけだ。精神を休めるには良いかも知れないが、いくらアバターの肌を焼いたところで、現実世界の自分に何かしらの影響があるわけでもあるまいに。

「気分の問題だよ。リラックスするには丁度良い。ここの所リアルじゃ忙しくて――今日だって久々のインだったんだし、たまには良いじゃない?」
「よく水着なんて揃えたな」
「これ? アバターの女性用インナーを、ちょっと加工しただけだよ。だから正確には水着じゃなくて下着。セクシー?」
「俺にそれを聞くか。ならもうちょっとそれっぽいアバターを選べよ」

 大体、目の前にいる少女は、緻密に描かれたコンピュータ・グラフィックスでしかない。本人の感情や表情を動かそうとする脳の動きをコンピュータが感知し、それすらもトレースするから相当に生々しく感じるにせよ。本物の彼女がどういう人間なのかは、ここからでは何もわからない。そもそも“彼女”ではなく“彼”である可能性すらある。

「いやいやいや、ちゃんとリアルでも女だよ?」
「やめようこの話は。それを証明する方法が無い以上、お前の中の人がいい歳のオッサンなんじゃないかって思うと吐き気がしてくる」
「失礼だな。だったらいっそのこと君ん所に写メでも送ってあげようか? 胸の谷間にIDとか書いた紙挟んで。そしたら信用してくれる?」
「要らん。下手したら悪質なナンパだって運営に弾かれそうだから勘弁してくれ」

 アバターの表情を引きつらせながら、男は少女の隣に腰を下ろした。

「一週間ぶりくらいだったな――忙しいのか。仕事?」
「ううん、あたし学生」
「そんじゃ、テストとかか」
「それもあるけどまあ、何処の親もこういうネットゲームにはいい顔しないでしょ? なかなか纏まった時間、取れなくて。週末にしても――あー、もう、こういう不景気な話は、ここじゃやめよう。ね?」
「確かに、ゲームしながら愚痴も無いわな」

 そう言う君は? と、少女は言った。

「一人暮らしの大学生だから、お前よりは気軽だわな。ただサークルだとかアルバイトだとか、それなりに使える時間ってのも限られてくる。来年は就職活動だってあるし――まあ、あれだ。お前と同じでこういう話をここではするまいよ」
「んー、了解。あ、でも、言った側からで悪いけど、聞いての通りあたしって君より年下なんだよね」

 今更だけど敬語の方が? と言う彼女に、彼は首を横に振る。
 この手のネットゲームは、非日常を楽しむために遊ぶのだ。このアバターにしても、現実世界の自分とは全く違うものであるからこそ、この世界の登場人物になりきることが出来る。
 現実の年齢差がどうだからとか、立場がどうだからと言って、そんなものを気にしたくはない。

「たとえばアバターの中身が同じ会社の社長と社員とかだったらどうするのかな」
「あー……とりあえず会社で会ったら敬礼するかな」

 何処のコマーシャル、と、彼女は笑う。

「今度暇だったら受験のコツとか教えてよ」
「コツも何もあるか。ああいうのはただ地道に勉強する以外に方法はねえよ。一芸入試とか狙ってんなら、そもそも俺に聞くのが間違いだしな」
「地道に勉強なんて普通出来るもんなの? 君が受験生の頃って、そんなに真面目に勉強してたの?」
「面接試験でな、無口で無愛想な受験生と同じ組になったときは思わず感謝したよ」
「結局は運?」

 口を尖らせつつ言う彼女に、彼は仕方ないだろうとばかりに肩をすくめた。

「だったらオフ会でもするか? ちょっとは勉強教えてやるよ」
「え……リアルで君に会うって事? それは――ちょっと」

 それを口に出した途端、彼女は“あわあわ”と、顔の前で手をひらひらと振る。

「いや別に君の事が嫌いなんじゃないからね!? でもさ、やっぱり――さっき君が言ったじゃん。君のことはそれなりに信用してるけど、やっぱりリアルで顔も見たことのない男の人と、二人っきりで会うってのはちょっと……」
「お前結構そう言うトコお堅いのな。とはいえ女の子はそれくらいが丁度良いさ。別に気にしてないからちょっと落ち着けよ。ま、そういうのは機会があればそのうち、な?」
「……うん、そうする」

 男はふと、背後を振り返った。熱帯の植物が生い茂るその向こう側には、アルミナ島基地の滑走路が見える。
 その誘導路の片隅には、一機の戦闘機が翼を休めていた。特徴的な前進翼は今は折りたたまれ、水平尾翼は力なく項垂れている。コックピットは開け放たれ――今はこの機械の鳥には、魂は宿っていない。
 その垂直尾翼には、デフォルメされたドラゴンのエンブレムが描かれている。
 ただ普通のドラゴンではなく、首が二つある。だからその機体のパーソナルネームを“ハイドラ”――複数の頭を持つという伝説の獣である――という。このゲームでは一風変わったプレイヤーである自分たちにはこれしかないと、彼女が付けた。

「――何やってんの?」

 遠くに向けられていた視界の焦点が、一気に手前に切り替わる。見れば茂みの中から、一人の女性がこちらに現れた所だった。心底、目の前の二人組が何をやっているのかわからない――そう言った、面持ちで。

「「日光浴」」

 だから二人は、彼女にそう答えた。
 当然――濃緑の軍服に身を包む彼女の表情は、余計に呆れたようなものとなる。

「まさかこの隠れ基地を作った運営のデザイナーも、あんたらみたいな使い方をする馬鹿が現れるとは思っても見なかったでしょうね……」
「ちょっと待て複数形。馬鹿をやっているのはこいつだけだ。俺を一緒にするな」
「訂正するわ。馬鹿な奴ら――あら?」
「喧嘩売ってんのかおい」
「いや、むしろ褒め言葉のつもりだったのよ? うん――まあいいわ。もうじきに“シウン”が戻って――あら」

 言いかけて彼女は、上を見上げる。

「戻ってきたようね」

 彼らの頭上――思わず首をすくめてしまいそうなほどの低空を、巨大な影が駆け抜ける。F-3制空戦闘機。誘導路に佇む「ハイドラ」の同型機である。すでに着陸脚と前照灯を下ろし、背面のエアブレーキを展開して、着陸態勢にある。
 現実感を失いそうなほどのすぐ近く、ビーチの超低空を一瞬で通過したその機体は、危なげなく滑走路の端に着陸――瞬間、タイヤスモークが巻き上がる。

「それじゃ――“ティグリア共和国第501特務航空隊”――第五回のミーティング、始めるわよ」




 目が覚めると、朝だった。
 朝日が顔に当たるまぶしさに瞼を開けてみれば、そこはワンルームマンションの一室である。大学に通う自分が、下宿のために借りている部屋――間違っても、離れ小島にある軍事基地の、兵舎の一室ではない。
 だが果たして、彼はベッドではなくソファに腰掛けたまま眠っていたのだ。凝り固まった体を動かすように伸びをすると、首の後ろにある機械が乾いた音を立てる。
 デスクの上のパソコンと、その隣にある黒い直方体は、どちらも電源が落ちているらしく、部屋の中には冷蔵庫の立てるかすかな音が響くのみ。もっともそのように“設定”してから眠りに就いたのだから、当然であるが。

(シャワーでも浴びるか――その前にコーヒーでも飲むか。今日は、バイトも無かったよな、確か)

 首の後ろから、丁度一昔前のヘッドホンの様な端末を外す。意図して作られた未来的なデザインを持つその端末には“RailioⅢ”の刻印が刻まれている。
 時計を見れば、午前八時を過ぎ指している。学生としては少々遅い朝だが、休日ならば逆に早いくらいではないだろうか。だが果たして、目が覚めた事を自覚して尚、眠気が取れない。ソファに座ったまま寝てしまった場合は、大抵はその寝心地の悪さ故に、不快感を伴うとはいえ意識はすぐに覚醒するものであるが。
 いや――それも当然かと、彼は思う。

(会議の後模擬戦になだれ込んだもんなあ――時計見てないけど、三時過ぎくらいまで)

 体はこれ以上ないほどの脱力状態にあったから、寝ているのと変わりないと言えばそうだろう。だが、脳だけは仮想世界でフル回転していたのだ。眠りのメカニズムというものを彼は詳しく知らないが、体と同時に脳も休ませるべきではないのだろうかと、単純にそう思う。
 自分はまあ、いい。適度に暇な大学生である。だがあの“部隊”の中には、社会人も居るはずだ。確かめたことはないが、恐らく。彼ら彼女らは、平気なのだろうか。少なくとも社会人の仕事というものは、徹夜明けの疲れた頭で回せるようなものであるのか。あるいはそうでなければ回らない仕事もあるのかも知れないが――出来ればそんな仕事には就きたくないものだと、彼は他人事のように考える。
 そんなことがあって、昨日――厳密には“今朝”は、ログアウトしてからベッドに入るのも面倒だと、ゲーム内でそのまま眠りに就いたのだ。そのまま放っておけばゲーム機の安全装置が入り、そのままログアウトする事が出来る。“Railio”には、ゲーム中の体調不良による不慮の事故を防ぐため、脳波のレベルが低下すると自動的に端末の電源が落ちる機能が付いている。そしてそれは、プレイヤーがタイマーとしてセットする事も可能である。
 存外これが、心地良い。
 覚醒したままログアウトしたときに僅かに感じる目眩のようなものもなく、目が覚めれば現実世界である。彼の場合座っているのが安物のソファであるため、起きたときに体が強ばっているという欠点があるにせよ。
 ――結局、シャワーを浴びるのはやめておいた。昨晩ログインする前に風呂には入っているし、寝汗をかいたというわけでもない。顔を洗ってコーヒーでも飲めば事足りると、彼はソファから立ち上がった。
 何気なく、カレンダーが目に入る。そう言えば、もうすぐ学校は夏期休暇に入る。抱えている試験や課題などもこの間一段落している――だからこそ、夕べは遠慮無く“ネットゲーム”に手を出していたわけだが。

(……夏休みかあ)

 何となく、内心で呟いた。
 大学に入って二度目の夏期休暇である。来年、再来年は就職活動や卒業論文が控えている事を考えれば、本当の意味での“夏休み”というのは、これが人生で最後になるかも知れない。
 だがそんな風に考えてみたところで、何か予定があるわけではない。
 今のアルバイトは学生向けのそれであり、夏期休暇の間はかなり閑散としたシフトになる。休暇も関係なく大学に出向くような研究生ではなく、友人の何人かが行っていたように、“見聞を広げるため”とやらで海外に出かけていくようなバイタリティもない。
 考えれば、自分は割合つまらない男ではないか。そんな風に暗澹たる思いに捕らわれることがないでもないが――そんなことを言っても始まらない。
 恐らく大人になれば。こんな風に暇を持て余す事など無くなるのだろう。
 空いた時間を前にして、“暇”だと考えている今が最高の贅沢なのだと、そういう風に思う日も来るのだろうが――果たしてそれはまだ、未来の話。自分がどんな状態だろうと、時間は等しく流れていくのだ。

(去年の夏は――確か実家に帰って)

 そして、生まれ育った実家に帰る――と言うのも一瞬考えた。確か少し前に、母親からも夏休みくらいは帰ってこいという連絡が入って居たはずだ。

(でも、なあ)

 だがそれも、正直気が乗らない。
 彼の実家は、割合近い場所にあるから、帰ろうと思えばすぐに帰る事は出来る。多少干渉が過ぎる両親ではあるが、それもまた息子の事を心配するが故だろう。元気な顔を見せて安心させてやるくらいは、やぶさかではないのだが。

(……)

 彼は小さく息を吐いた。

(“あいつ”は確か、今年が受験だったよな。だらけた大学生が帰ってきて、邪魔をするのもアレだろう)

 それが何処か責任転嫁気味の思考であることは、彼自身理解している。彼が頭に浮かべたその“相手”は、きっとこんな自分の事など、歯牙にも掛けないのだろう。
 その事実は彼を安心させ――心の何処かで、苛立ちを覚えさせる。そしてその事実に、彼はまた、ため息をつく。
 自分は馬鹿か。いや、間違いなく馬鹿なのだろう。“彼女”には何の非もない――ただ、単純に自分の度量が低いだけだ。そうとも、出来の悪い兄が、出来の良い妹に嫉妬するなど――みっともないどころの話ではない。
 両親には悪いが、そんな妹の邪魔をするのは良くないだろうと自分に言い聞かせ、彼――草壁燕は、洗面所のドアを開いた。その先の鏡に映る自分の姿は、予想通りに、酷い顔をしていたことは言うまでもない。









投稿した後に知ったのですが。

F-35って、周囲360度の映像をHMDに投影出来るんだとか……体ごと向き直る必要ねえじゃん……
現実の技術進歩には驚かされれます。本当にF-35って、僕が生まれた頃ならSFの世界の架空機だって言われても信じるよ。



[37800] 第二話 彼の配役
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/09 01:21
第二話「彼の配役」

 RailioⅢの本体は、大きめの百科事典ほどの大きさがある黒い直方体である。スイッチと拡張端子のジャック以外に、突起物は何もない、見た目はただの黒い箱だ。燕は、そこから敢えて有線で伸ばしたケーブルをノートパソコンに繋いでいる。
 先にノートパソコンの方を立ち上げる。RailioⅢは本体のみでの起動がもちろん可能であるが、拡張端子を介してパソコンに繋ぐことで、パソコン側のCPUの一部を補助演算装置として使うことが可能である。
 燕のパソコンはもう古いものだが、それでもご多分に漏れず、三次元結晶型中央演算装置を組み込んでいる。二十一世紀初頭のスーパーコンピュータに匹敵する演算能力を、並列で使えるメリットは大きい。現にパソコンを所有するRailioユーザーは、大抵この方法を使ってロード時間の短縮などを行っている。
 程なくパソコンが立ち上がると、今度はRailio本体の電源を入れる。青い電源ランプが点灯し、本体側面の補助ディスプレイと、パソコンのディスプレイに警告文が踊る。
 曰く、体調が悪いときは使用しないこと。
 曰く、使用中は寝具など安定性に高いものに体を預けること。
 曰く、法律に関する云々。
 見慣れたその画面をスキップして、ヘッドホンのような神経接続端子を首に装着し、ソファに深く腰掛ける。この端子を介して本体から神経に疑似信号が伝わり、プレイヤーは完全に“仮想現実”の世界を感じ取る。当然その間、脳からの神経信号は逆にRailio本体に送られ、プレイヤー本人の“操作”となる。
仮想世界にプレイヤーが居る間、体は完全に脱力して動かないから、注意書きの通りにベッドにでも寝転がるか、あるいは燕のように安定して体を預けられるソファなどに横たわる必要がある。
またプレイヤーが現実世界に戻るとき、あるいは非常時に強制的に本体との接続が切断された場合、プレイヤーはさながら夢の中から跳ね起きる状態になる。したがってRailioを発売するメーカーは、専用ベッドの購入を強く推奨している。が、このベッド、値段が張る上に場所を取るため、使用している者はほとんど居ないという。
目を閉じて、接続端子のスイッチを入れる。
途端、目の前に「RailioⅢ」のロゴが踊り――燕本人は、まるで海の中を漂っているかのような錯覚に陥る。
初めてこの感覚を味わったとき――“これ”だけでも相当な衝撃だった事を、遠い昔のように思い出す。いや、当時の自分は十二歳――十分“昔”の話なのかも知れない。
ゲームライブラリから、プレイするソフトを選択する。
もっとも今現在、燕はこのRailioⅢ専用では、一つしかソフトを所有していない。迷わずにタイトルロゴを選択。

――STRATODANCER Online /CONTACT――

 青空をバックに、流麗なタイトルロゴが現れる。「ニューゲーム」と「コンテニュー」から「コンテニュー」を選択し、オンラインモードでゲームを開始する。
 気がつけば燕は、古ぼけたコンクリート製の建物の中で、同じように古びた、味気ないパイプベッドに横たわっていた。
 そう――この瞬間彼は、仮想体験型フライトシューティングゲーム“ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”の世界に、降り立ったのだ。




 “ストラトダンサー・オンライン”の世界における“ティグリア共和国”は、南洋の島国である事は、先に述べた。設定上の面積は、首都“ログマ”のある最も大きな島が、現実で言えば日本の淡路島くらいの大きさである――と言えば、わかりやすいだろうか。
 もっともそれは、他の勢力にしても似たり寄ったりである。このゲームの目標であるところの“超大陸ユグドラシル”以外には、さして大きい島というものは存在しない。
 そしてそんな離れ小島が点在する“ティグリア共和国”の外れに、アルミナ島防衛基地という空軍基地があることを知るプレイヤーはほとんど居ないだろう。
 そしてこの場所が――“ティグリア共和国”の中でもトップエースと言われる上級プレイヤーで構成される“第501特務航空隊”の本拠地であることを知る者は、当事者である彼らを除けば皆無ではなかろうか。
 南国情緒漂う――と言うよりも絶海の孤島と言い換えるべきか。現実ならば物資の搬入に難儀することこの上無さそうなこの島には、いかにも“基地”然とした設備が揃っている。
 むろんその全てをプレイヤーが使うことは出来ないし、またそうする意味もない。
 彼が使うことが出来るのは、“司令棟”の中にある会議室と、“宿舎”にある個人の部屋――あとは、各種設定や機体の調整が行える格納庫くらいである。これは、この基地に限らずゲーム内での“基地”――プレイヤーのホームに共通している事ではあるが。
 果たしてその日、格納庫の中で一人退屈そうにあくびを噛み殺す、一人の男の姿がある。
 彼の他に、この場所には誰もない。
 その代わり――天井から吊された照明に照らされて、五機のF-3戦闘機が、翼を折りたたんだ状態で駐機されている。
 全長二十メートル近い大型の戦闘機である。それがずらりと並ぶ様は、まさしく壮観――あるいは、現実感を失わせる。
 三菱・川崎重工共同開発F-3制空戦闘機――現実では日本航空自衛隊が誇る、最新鋭機である。
 非公式の愛称として“神狼”と呼ばれるこの機体。2028年、老朽化したF-15J戦闘機の後継機として、日本政府はこの国産開発の戦闘機を制式採用する事を決定した。
 全長18.8メートル。双発エンジンで、標準離陸重量は二十トンを優に超える、大型の戦闘機である。
 一見して――“まとも”な戦闘機ではない。エッジの効いたステルス形状を持ってはいるが、大振りなカナード翼を装備する三翼面機であり、更に主翼は前進翼と、そもそもがステルスという言葉に真っ向から反する機体構成だ。
 更に見えないところでも、レーダーとエンジンはアメリカ製のモンキーモデル――所謂性能劣化の輸出仕様を、わざわざライセンス料を払って国内生産した上で、性能向上を図ったものを搭載している。
 そして何よりも――この機体は、“制空”戦闘機と言えば聞こえは良いが、逆に一切の対地攻撃能力を持っていない。戦闘機の高性能化が進み、マルチロールファイター――どんな任務もそつなくこなす、所謂“戦闘攻撃機”が軍用機の主流となってきた昨今に於いて、である。
 むろんそれは、日本という特殊な国柄にあって、抜群の格闘戦能力を持つことを第一に計画されたこの機体が、最大限外交圧力に“配慮”した結果である。しかしそれでも、この翼を広げたコウモリのような外見を持つ機体が制式に配備されることが決まった際には、少なからぬ騒ぎが巻き起こったと言うが。
 果たしてその騒ぎの余波からか、一機百五十億円以上とも言われるハイコストがたたってか、配備は遅々として進まず、最終生産数も百機に届かないと見積もられている。結果航空自衛隊は、老朽化したF-15J戦闘機を大改造したF-15J改制空戦闘機、そしてF-4EJ改の更新で2018年頃から配備された軽戦闘機F-35Jとの“ハイ・ローミックス運用”を余儀なくされることとなる。
 と――現実のこの機体に対する逸話はともかくとして。
 “ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”にも、当然この機体は採用されている。その特異な形状と生い立ちに纏わるエピソードから、プレイヤーにとっては人気の高い機体である。
 初期配備の機体からは選択が出来ず、ゲームの中でスコアを稼いで初めて使用可能になる機体ではあるが、それでも“上級”と言われるプレイヤーの間では、珍しい機体ではない。
 目線を、この格納庫の中で所在なげに立ちつくす青年に戻してみれば、果たして。翼を休めるF-3の中で唯一、この機体だけが他と違う事に気づくだろう。それは――

「よう“カツラギ”――何やってんだ?」

 名前を呼ばれた男は、顔を上げる。
 “カツラギ”――それが、この世界での彼――草壁燕を指す名前だった。その由来に特に深い意味があるわけではない。単純に、好きな航空アクション小説の登場人物から拝借している。

「いや、“クロネコ”――うちの相方待ち。いつも大概あいつの方が先に来てるんだが、今日は俺が待ちぼうけ喰らってる。“トニー”あんたは? 今日来るとは聞いてなかったけど」
「お前と違って、どっちみちソロで出るんだから予定は関係ないだろ。何つうかその――リアルで嫁と喧嘩中でな」
「……だったらゲームなんかやってる場合じゃないだろあんた……」
「幸い子供が俺の味方でな。何とかお母さんの機嫌を直してみせるから、お父さんは適当に時間潰していろと。それでまあ――近所のネットカフェに来たついでにな」
「気楽な大学生にはわからん世界だ」
「まあそう言うわけで、時間稼ぎと、ちょいとストレス発散にな。今レノン川の国境線でウチの防衛部隊が押されてるらしいって聞いたからまあ――ちょっくら助太刀に行ってくるわ」

 “トニー”と呼ばれた金髪の男は、燕の前を通り過ぎ、隣の機体に近づくと、割合低い位置にあるコックピットに、短いはしごを使って滑り込んだ。既にフライトスーツは着用済み――ヘルメットを被り、酸素マスクを装着する。
 NPC、コンピュータ制御の無人キャラクターである整備士が現れて親指を立て、ジェットフュエル・スターターが回される。F-3神狼は、現実に於いても起動に外部からの補給を必要としない。ましてやゲームに、そんな面倒な付加要素を付ける理由はない。
 腹に響くような重低音と、耳をつんざく高周波が混ざったジェットエンジンの排気が、格納庫の中に木霊する。現実ならば耳栓をしていなければ聴覚が馬鹿になるところだろう。

(これが一部の間じゃもてはやされる、ティグリアのトップエースの実体だからな)

 閉じられたキャノピー越しに、こちらに向かって親指を立てる彼に何となく答礼を返し、燕は苦笑する。ゲームでリアルの話題を持ち出さないに越したことはない――ネットゲームでは割合昔から言われている事であるが、なるほど納得である。
 まあそれは、自分に関しても同じ事であるか――と、彼は自分の“愛機”である“ハイドラ”を見上げた。
 先に述べたとおり、その機体には他の機体とは明らかに違う特徴があり――それは、後部座席を持つ副座の戦闘機だということである。
 現実のF-3戦闘機には、単座のA型と副座のB型があり、どちらも戦闘能力に大差はない。副座型は慣熟訓練などに使われる練習機としての意味合いもあり、その辺りは単座型・副座型の双方が存在する現代戦闘機に共通する要素である。
 しかし副座型の神狼は、後部座席に前席よりも多くの情報機器を集中させることで、情報処理専門のフライト・オフィサを同乗させ、高度な戦場分析を行う事を念頭に設計されている。つまり、現実ではこの後部座席は、単に訓練の際に教官が座るだけの椅子ではないと言うことだ。
 ただ――これがこと、このゲームになってくると、話は違う。
 これは、“フライトシューティングゲーム”である。
 空を自在に飛び回りながら、技を競い、敵と戦って楽しむゲームなのである。そんな中でひたすら、計器盤とにらめっこをして過ごす――現実では重要であるとはいえ、そんな地味な役回りを進んで行いたいプレイヤーが、何処にいるだろうか。
 副座型しか存在しない機体を使用するプレイヤーも、大概後部座席は空席のままである。NPCのキャラクターを、お飾り程度に座らせる事はあるにせよ。そしてこの格納庫の機体も、先程出て行った“トニー”の“ファルコン”を含め、全てが単座型だ。この“ハイドラ”を除いて。
 だから自分たちは――このゲームにおいて、風変わりなプレイヤーであると評されている。だからこその“ハイドラ”――双頭の、獣。なかなかのセンスであると、今はここにいない相棒を褒める。確か彼女は自分よりも年下で、受験を控えた学生であると言っていた。
 ならば高校生か、まさか中学生か。さすがに小学生と言うことは無いだろうが。どちらにせよリアルの彼女とは、随分頭の出来が違うのだろうと自嘲する。

「ごめんっ! 待った!?」

 そして噂をすれば影――ではないが。そんなことを考えていると、小柄な人影がこちらに向かって駆けてくる。プレイヤーネーム“クロネコ”――名前に反して美しいプラチナブロンドのアバター。

「俺も今来たところだ」

 実際は十五分程度待っているが、目くじらを立てるような時間ではない。だが彼女は申し訳なさそうに言う。

「ごめんね――テストの成績が下がったからって、お母さんがうるさくてもう」
「おいおい、ゲームしてる場合か? メールの一本でもくれたら今日は――」
「いいの」

 そう言うと彼女は、燕の前を通り過ぎ――軽やかな仕草で、コックピットに滑り込む。

「何かあたしね、ここに来てる時の方が生き生きしてるって、自分でも思うし」
「それは単なる駄目人間だ。ゲーム廃人になる前に更生しろ」

 呆れたように言った彼に、“クロネコ”は舌を出してみせる。ここにいるときに現実の話をするのはマナー違反だ、と、彼女は歯を剥き出しにして、可愛らしく凄んでみせる。むろん、何の迫力もありはしない。
 そも、現実の話を持ち出したのはそちらが先ではないか――と、ここで言うのもやぶ蛇というものだろう。燕は苦笑して――自分もまた、“ハイドラ”のコックピットへと収まった。
何処からともなく現れたNPCの整備士達がタラップを外し、親指を上げて彼らに合図を送る。
 アナログメーターを廃し、巨大なタッチパネル式の液晶ディスプレイで構成される、F-3のコックピットが、目を覚ます。

「システムオールグリーン」

 表示された情報を一瞥して、燕は言う。
 機体に異常が無いのは当然である。敢えて“そう言う設定”にしない限り、この世界で彼らを待つ愛機は、いつでも万全の状態である。
 それでも何となくそう呟いてしまう辺り――自分も中々“あれ”な人間であると、思わなくもない。

(――確かに暇だと言っては、こうやってゲームして時間潰してるあたり、言い訳は出来ないけど。俺も“クロネコ”のことは笑えないな)

 ヘルメットを被り、酸素マスクを装着。見た目には重苦しい装備であるが、体感上は何も変わらない。多少視界が狭まる程度で、重さも息苦しさも感じることはない。そこまでリアルな感覚表現は、「ストラトダンサー・オンライン」には存在しない。
 後部警戒ミラーを一瞥して、相棒が指を立てるのを確認してから、燕はエンジンスターターのスイッチを押し込む。軽い振動、すぐに爆音に変わる。右側のエンジン、次いで左側に点火。当然ながら異常なし。
 整備士の誘導に従って格納庫を出る。丁度先に出て行った“トニー”の愛機“ファルコン”が離陸するところであった。滑走路の端で待機するF-3は、その強力なエンジン出力を無理矢理押さえ込んでいるため、降着装置のサスペンションが最大まで圧縮されている。まるで猛獣が獲物に襲いかかる前、大地に身を伏せた様なニーリング姿勢。
 突然、そこから機体は、つっかえ棒を外されたように加速する。滑走路を全て使い切る前に機首上げ、離陸――すぐさま、車輪を格納。機体の背面を霧で白く染め上げ、翼端から白く霧の帯を曳きながら、南国の青空の中へと消えていく。

「――グッドラック」

 現実では平凡な父親に過ぎない仮想の戦士に向かって、燕は静かに、親指を立てた。




 きっかけはいつのことだったか――燕はそんな風に考える。
 その日彼は、資料として借りっぱなしになっていた図書館の本を返却するために、夏期休暇中の大学へと出向いた。
 休暇中と言うこともあって、キャンパスの中は閑散としている。だが誰も人がいないというわけではない。彼が用があった図書館などは休暇中でも一般に開放されているし、研究室などに詰めている教授や学生も多い。
 むろんそれでも、日頃講義が行われる講義棟などは、入口こそ開放されているものの人の姿はほとんど無く、“休日の学校”というものを意識させる。そして彼が茫漠たる思考に浸っているのは、普段なら学生で溢れているだろう、昼時の学生食堂だった。
 ここにも人が居ないと言うわけではないが、やはりほとんどの席は空いている。食事をしている者よりも、ノートパソコンや資料を広げて何やら作業をしている者が目立つ。恐らく誘惑の少ないこの環境を選んだのだろうが、普通なら食事時の混み合ったこの場所で、そんなことをする勇者は居ないだろう。
 さて、大学生の中には一人で食事をすることが耐え難い苦痛だと感じる者も居ると言うが、果たして燕はそうではない。むしろ落ち着くと考えるくらいだ。だからと言って、誰かと一緒に食事をすることが嫌な訳でもないが。
 そんなわけで一人、優雅なランチと決め込んで、食堂の片隅の席に腰を下ろしたところで、ポケットの中で携帯電話が震えた。すぐに留守番電話機能に切り替わったようだが、何か急用だろうかと、彼はそのディスプレイを確認する。

(実家――母さんかな。俺が帰ったってすること無いだろう)

 実際――この休暇中実家に戻らない事を決めてから、これで何度目かであった。
 両親が自分の事をある程度心配してくれているのは、ありがたいと思う。しかしもう、自分もいい年なのである。いつまでも子供扱いされることに、思うところがないわけでもない。
 日頃から音信不通と言うわけでもなく、何かにつけて連絡は入れている。それで何の不満があると言うのか――いや、自分には理解できないが、親というのはそういうものなのだろう。何時か自分にもそれが理解できる時が来るのだろうか。
 普段考えたこともないような事を考えつつ、燕は携帯電話をポケットに戻す。
 実際、だからといって実家に帰ったから何をすると言うのでもない。同じく帰省している友人はいるだろうから、退屈はしないかも知れないが――いくら学生身分とは言っても、それこそいい年の息子が一ヶ月以上もダラダラと家に居座っていたら、自分だったら鬱陶しいことこの上ない。両親がそれを望んでいるのだとしたら酔狂な事だ。
 まあ――社会人になってしまえば、そうも言っていられなくなるのだろう。親孝行に越したことはない。

(でも――なあ)

 自分一人ならまあ、いい。気を遣うような間柄ではない。だが――実家には一人、そうも言っていられない相手が居る。
 妹の――草壁湊が。
 彼はこの妹が、苦手だった。
 そこで冒頭に戻る。いつからなんだろうな、と、彼は思う。
 少なくとも幼少の頃からではない。どちらかと言えば兄妹仲は良かった筈だ。彼の実家が新興住宅地の中にあると言うこともあって、すぐに同年代の友人が見つけられなかった兄妹は、お互いが遊び相手だった。
 だが、近頃は違う。
 燕自身、現在中学三年生であるはずの彼女のことが嫌いではない。いや、嫌いとは思いたくない。世界でたった二人、同じ血を分けた兄妹である。さすがにそんな相手を、大した理由もなく“嫌い”だとは思いたくない。
 けれど――苦手なのだ。
 自分から見ても、彼女は出来の良い子供だった。
 一を聞いて十を知る――とまでは言わないが、物覚えがよく飲み込みが早い。勉強に限らず、あらゆる事に関して。運動は少し苦手なようだったが、アスリートにでもなろうと言うのでなければ、学生時分の体育など気晴らしのようなものである。
 それに比して兄の自分はと言えば、お世辞にも出来が良いとは言えない。出来が悪いとも思いたくないが、平凡――と言うのが正しいだろうか。現にこうやってそこそこの大学に合格することが出来たのだから。
 けれど、そう言うことが言いたいのではない。
 そもそもそんなもの、比べるようなものでないのはわかっている。彼女には不得手で、燕には大得意なものくらい、探せばいくつでもあるだろう。

(今のところわかっているそれがゲームの腕というのが心底情けない話だが)

 自嘲する。だが、そうではないのだ。
 自分も彼女も人間である以上得手不得手はあるだろうし、それを比べたところで何の意味もない。
 そのはずなのだが――どうも彼女と接していると、嫌な感覚に襲われるのだ。
 いつの頃からか、湊は大人しい少女になっていた。周囲が何を言おうとも我関せずを貫き通し、常に冷静に行動する。どうしたって周りの目が気になる自分と同じ環境で育ったとは、とても思えない。
 そして、その結果が悪いものではないのだ。
 学校の成績は言わずもがなであるし、日頃の行いも品行方正。友達が居ないわけではないのに、携帯電話の使用料金すら基本料を超えたことはないらしい。両親からしてみれば、そして兄の燕に比べれば――どれだけ手の掛からない子であろうか。
 妹が“良い子”であり、出来が良いのは悪いことではないと、燕自身もそう思う。だが――やはり彼女と接していると、思う。

(……あいつが時々、俺の知らない誰かみたいに思える時がある)

 兄妹とはいえ別の人間なのだから、それは当然だ。相手の全てなど知らないし、知りたいとも思わない。
 けれど――自分が当たり前と思っていることが、実は間違っていると。そんな正体のわからない恐怖に襲われる事があるのだ。彼女と、接していると。
 たとえば何気ない会話を交わしていても。知らない間に、彼女は自分が知らない、自分の妹の草壁湊という少女ではない何者かになっているのではないだろうかと、そんな錯覚に襲われる事がある。
 そこでいつも、燕は退いてしまう。
 当たり障りのない会話を選んで――結局、自分が本当に言いたいことは言葉に出来ない。

(兄貴としては駄目なんだろうなあ)

 いつもいつも相手と言葉で殴り合うような間柄にはなりたくない。けれど、今の状態よりはそちらのほうがまだ幾分かマシではないか。上手く言葉には出来ないが、地雷原の上を歩いているような気分なのである。今自分が間違えば、彼女は自分の知らない何かを剥き出しにして来るのではないだろうか。そんな風に思えてしまうのだ。
 単に彼女は大人しいから、あまり会話が膨らまないだけだと、そう自分を納得させる事にして、いつも燕はやり過ごす。
 正解などはわからないが――きっとそれは、普通の兄妹としては間違いなのだろう。
 それがわかっていても、ままならない。
 だから――否応なしに彼女と顔を合わせなければならない実家には、帰りたくないのである。
 ああ、どうしたものだろうと――食事に手を付ける事もなく大きくため息をついた彼の耳に、学生食堂に置かれたテレビから流れるニュースが届いた。
 全く注目していなかったから意識の外にあったそれに、何故突然意識が向いたのかと言えば、そこに日常生活で触れることは珍しく――しかし、彼にとっては馴染み深い単語が聞こえたからである。

『――の発表によりますと、本日午前10時15分頃、房総半島沖を飛行していた自衛隊、百里基地所属のF-15J改戦闘機二機が空中で衝突、墜落したとの事です。二機は午前9時過ぎに基地を離陸、訓練飛行の後帰投する予定でしたが――』

 自衛隊の戦闘機に関する事故のニュースであった。
 仮想空間では彼らと同じような事をしている燕であるが――やはり、現実はゲームとは違う。
 ティグリアのトップエースと言われ、実機のパイロットではないかと噂される程に技量が上達したとしても――きっと自分に、現実のパイロットは務まらないのだろうと、彼は何となく考えた。

『では続いて――お天気です』

 テレビ画面の中のニュースキャスターは、何事も無かったかのように自分の仕事を続けている。




 その日彼らは、戦闘を終えて帰路の途中にあった。
 基本的にゲームである“ストラトダンサー・オンライン”に於いて、現実の戦闘機なら必ず必要となる「航法」という作業はあまり意味がない。これはフライトシューティングゲームなのである。敵が出るかどうかもわからない空を何時間も漂う必要はない。
 離陸すればすぐさま、アクティブになっている戦場が表示され、プレイヤーはそれを選択することで、時間も距離も無視して戦いの空に舞い降りる事が出来る。ゲームとしては、当然の“省略”であるだろう。
 ただ、時にはその現実に迫るリアリティを持つ世界を、何処までも広がる空から、もっとゆっくり見てみたいと思うこともあるだろう。そういうプレイヤーの為に“フリーフライトモード”が存在する。自分の所属する勢力の領土に関してのみであるが、戦場が一切出現しない空を、自由に飛び回る事が出来るのだ。
 それは珊瑚礁の美しい海であったり、複雑に河が蛇行する熱帯雨林であったり、万年雪を頂いた高山地帯であったりする。そのグラフィックは本当に素晴らしく、ゲーム内での“空撮写真”を競い合うコンテストも存在する。
 ティグリア共和国のトップエース――チーム“ハイドラ”。カツラギこと草壁燕と、彼の相棒であるクロネコは、その日の戦闘の帰路、何気なくこの“フリーフライトモード”を楽しんでいた。
 高度七千メートル。雲海の上を飛ぶ。速度はマッハ1.2――F-3神狼の巡航速度である。自重を大きく上回る推力を持つエンジンは、それによって超音速巡航を可能にしている。だがその世界のあまりに広大さに、まるで雲海の上にただ浮かんでいるような錯覚。
 本来ならそこは、現実の戦闘機パイロットにしか許されない世界。
 ティグリア共和国の一角であるその場所は、現在夕刻である。傾いた太陽が世界をあかね色に染め上げていき、雲海はその光を受けて黄金色に輝く。当然出来るはずはないのだが、あの雲の上を歩いたらどんな感じだろうと、燕は思った。

「何だったっけなあ」
「ん?」

 後部座席の声に、燕は振り返る。もちろん射出座席と後席計器盤が邪魔になり、そこから彼女の顔を伺うことは出来ない。出来たところで、ヘルメットのバイザーとマスクに隠された、宇宙飛行士のようなものが見えるだけだろうが。

「小さい頃に読んだ童話。雲の上に上がって、その雲を食べてみたら、綿菓子みたいな味がしたって――」
「ああ――いや、待て、何だか俺もそれは聞いたことがある覚えが。それで雲の上から帰れなくなってどうしようかと――」
「そうそう! それそれ!」
「いや待てそこら辺が全然思い出せんのだが。結局どうなったんだったか――そもそもタイトルは何だったか?」
「それが――ここまで出かかってんだけど、思い出せないの」

 こつこつ、と、硬質な何かを叩く音がする。喉まで出かかっているとそう言いたいのだろうか。酸素マスクの辺りを手で叩いている彼女の姿が頭に浮かぶ。

「駄目、そっちじゃないの。わかってるのに――ミヒャエル・エンデとごちゃ混ぜになる」
「そうだよな、確かアレは日本人作家の――駄目か。どれだけ考えたってそうそう――」

 クロネコの妙に可愛らしい苦悶に、燕が何かを言いかけたときだった。
 不快感を伴う電子警告音が、コックピットに響く。

「?」

 通常ではあり得ない出来事だった。“フリーフライトモード”において出現する警告と言えば、領地を出そうになっている時に出現する警告と、後は高度が低すぎる時に出現する“プルアップ・キュー”くらいのものである。実は、この状態では燃料すら気にする必要はない。
 しかし今のは――レーダーが未確認機を捉えた時の警告音。
 燕は慌てて、ディスプレイに目を走らせる。“ストラトダンサー・オンライン”では、全ての必要な情報を、通常のシューティングゲームのように視界に浮かべておくことも出来るが、その逆に機体の計器から全てを読み取る必要があるようにも設定できる。
 そしてこのゲームをプレイするプレイヤーは大概が後者を選ぶ。その理由は言うまでもない。リアリティを売りにするこのゲームである。どうせなら、面倒でも突き詰めた方が気分が出る。

「レーダーに反応――高度7000でヘッドオン――何、これ?」
「わからん――何かのイベントか?」

 後席からのクロネコの困惑したような声。それを聞いて、燕は意識を切り替える。
 通常ではあり得ない事が起こっている――もしかすると、何か特殊なイベントかも知れない。こういうときに、一人ではないというのは実にありがたい。自分は機体を操作する事だけを考えればいいのだから。

「そういうの責任放棄って言うんだと思う」
「前にお前が言ってた事だろ? “ハイドラ”のご主人様はパイロットじゃなく、ナビゲーターの自分だって」
「あれは――だって、カツラギ君が、あたしが機体の操縦下手なの知ってて、たまにはパイロットもやってみろって言うから。別にあたし、退屈してないって言ったのに」
「悪かったよ。まさか離陸でデスペナルティ喰らいそうになるとは――」

 微笑ましい過去の失敗を思い返しながらも、レーダー画面から視線は外さない。
 不明な反応はもうすぐそこまで来ている。一体何が――

「来る」

 クロネコの、小さな声と共に、“それ”はキャノピーの外、数百メートルの距離を置いたところを、恐ろしい速度で駆け抜けた。

「あれって――X-47?」
「何だそりゃ?」
「知らないの? 開発中止になった米軍の無人戦闘機だよ」

 燕はこのゲームは好きだが、ミリタリー全般に詳しいというわけではない。無人機はゲームには登場しない。開発中止になったと言うのなら知名度も低いだろうそんな機体のことまで知っているわけがない。
 むしろそんなことを知っている後席のクロネコの方が少し心配である。彼女の言葉が本当なら、現実の彼女は受験生であるはずなのだが。もう少し必要な知識をため込んだらどうであるのか。

「何考えてるのか大体わかるけど失礼じゃない?」
「濡れ衣だ――それより、どうして無人機が?」

 基本的にプレイヤー同士が戦うこのゲームに、無人機は登場しない。ただそれだけだとあまりに不自然なので、一応この世界には無人兵器を規制する条約があるのだと、そんな設定があった筈だ。
 ならばこれは、やはり通常ではない、特別イベントなのだろうか?

「わからないけれど――不明機、後方で旋回――やる気なの?」
「売られた喧嘩は買うさ。“ハイドラ”の名が廃る――エンゲージ(交戦)」

 操縦桿の一ひねりで、ハイドラはその特徴的な前進翼を翻す。身体的な負荷は感じないが、世界が回転する、この感覚。精神が高ぶるのを、燕は感じる。
 こちらが旋回したことで、相手も緩く、しかし速い速度で旋回。こちらの背後を伺う体勢となる――所謂「ドッグファイト」の幕開けである。小手調べとばかりに、燕は操縦桿に付いたスクロールスイッチを操作する。
 現代の戦闘機のほぼ全ては、操縦桿とスロットルレバーに手を置いたまま計器やスイッチの類を操作出来る――所謂「HOTAS」概念が取り入れられ、F-3もそれは例外ではない。
 便利である反面、パイロットはその煩雑なスイッチ操作を覚えなければならない。ゲームであるこの世界では、それに配慮して簡易操作も行えるようになっているが――彼はこの機体を手に入れてから、ほとんど意地になって、実機と同じ操作をマスターしていた。
 ディスプレイの表示が切り替わり、武器選択画面へ。

「AAM、スタンバイ」

 ステルス性を考慮して、F-3の武装はほとんどが胴体内に格納される。そのウェポンベイの扉が開き、空対空ミサイルがスタンバイされる。
 未だ緩く旋回し続ける敵機のシンボルに、ミサイルをスタンバイしたことによってアクティブになったロックオンマーカーが重なる。

「ターゲットロック」

 いつもとは違う――冷涼なクロネコの声。彼女もまた、戦闘に集中している。
 不思議な満足感を覚えつつ、燕はトリガーを引き絞る。
 ハイドラのウェポンベイから、空対空ミサイルが放たれる。すぐさまロケットモーターに点火――一直線に“不明機”に向けて飛翔する。が、命中せず。

「今の見たか?」
「うん、何て機動力」

 現実に於いても、脆弱な人間を考慮しないが故の機動力だろうか。六角形と菱形を組み合わせて作られたような不格好な翼は、旋回中にその“軸”を無理矢理外し、まるで空中を蹴って向きを変えたような起動で、ミサイルをかわして見せたのだ。
 そのまま白い霧に包まれて加速――かと思えば、一瞬でハイドラの脇を駆け抜けて、遙か後方まで飛び去っている。

「速い――どんなエンジン積んでんのよ!?」

 クロネコの焦ったような声。機体のスペックは、最新鋭機であるF-3よりも上なのだろうか? だが、これはゲームだ。いちいちその程度の事に絶望していられない。現実ならいざ知らず、パイロットの体力を半ば無視できるのは、こちらも同じだ。

「カツラギ君――あいつ、見た目は似てるけどX-47じゃない。もしかすると――このゲームのオリジナルの機体なのかも」

 ならばやはりこれはイベントの類か。燕はディスプレイを一瞥し、兵装の状況を確認する。万全、とは言えない。既に戦いを終えてきた身である。さっき撃ったので、空対空ミサイルはあと一発。機銃も三百発程度――連続でなら十秒も掛からず撃ち尽くしてしまう。

「ついでに言うと燃料もあんまり無いよ」
「そっちはまあ――気にしても仕方ないな。念のため航空救難でタンカー呼んどけ。無駄かも知れんが」
「了解」

 緩くループして上昇――から、一転して急降下。地面すれすれの所を引き起こして、更にまた上昇。今のところ相手は激しい機動を行ってはいるが、ミサイルの回避で見せたような無茶な回避は行わない。こちらが後ろについているのを、振り切ろうと思えば出来るだろうに。

「舐めるなよ」

 翼端から盛大に白い帯を曳きながら上昇する機体を、照準の中心に捉え――燕は呟く。
 不気味な造形の機体だった。外見は扁平な六角形を組み合わせた様な格好である。厚みのあまりない、しかし滑らかなふくらみを持った、真上から見ると六角形に見える胴体から、同じような形の主翼が伸びている。
 尾翼はない。全翼機というやつだろうか。のっぺりとした機体にはコックピットらしきものもみあたらず、ただぽっかりと、エンジンのエアインテークであるのだろう穴が空いている。
 漆黒のペイントも相まって、そののっぺりとした造形は、酷く不気味だ。
 クロネコの言う“X-47”とやらも、こんな姿をしているのだろうか?
 スロットルをマックス――背中を蹴飛ばされたような加速感。影のような機体が、視界の中で急速に大きくなる。ディスプレイの隅で燃料計の数字が急激に減っていくが――どのみち、ここで敵を撃墜出来なければ同じ事だ。
 武装は機銃を選択。ヘッドマウントディスプレイを兼ねるヘルメットバイザに、機銃の照準が現れる。射程距離まで、あと僅か――

「!?」

 刹那――視界の中から、黒い影がかき消えた。
 あそこから一体どういう機動で――いや、考えている場合ではない回避行動に移らなければ、しかしどこへ!?

「背後上空!!」

 だが、後部座席の相棒の絶叫に、体はしっかりと反応した。勝算があったわけではないし、背後上空のどの位置なのかもわからない――だが、何故かその瞬間、燕の頭の中には、ハイドラの垂直尾翼のすぐ真後ろでこちらを狙う機体が、鮮やかに想像出来た。
 咄嗟に操縦桿を――“一杯”に引く。コンピュータはそれを、正規の機動のための動作ではないと判断。同時にパイロットの意思をくみ取るべく、一瞬で舵を最大の位置へ。
 機首カナードに前進翼――そして水平尾翼を持つ三翼面機。ステルス性などの面で絶大な不利を被るが、反面それは、“空気を捉える能力”を最大限に発揮する構成でもあるのだ。
 舵が進路を変える前に、機体の姿勢が一気に変わってしまう。
 ハイドラは、進行方向を固定したまま、百八十度仰向けに倒れ込むような格好になる。目の前には、そこだけ空を切り取ったような影と、不気味に開いたエアインテーク――いやむしろ“口”とも言えるような穴。
 そこを食いちぎってやるつもりで、燕はトリガーを引き絞る。
 同時に、相手からも発砲。あれだけステルス性を重視した形状の機体だ。おそらく機銃やミサイルの類も胴体内に搭載するのだろう。曳光弾の火線が、不安定な状態で飛行する二機の間を凄まじい勢いで行き来する。
 がん、がん、と、耳障りな音と共に機体が揺れる。被弾――だが構わずに、弾切れになるまでトリガーを引き続ける。ディスプレイに「GUNS EMPTY」の表示が出るのと同時に、目の前が爆発した。敵機を撃破――しかしその“あおり”をくらって、ハイドラは半ば吹き飛ばされた様な状態になる。
 破片がいくつも機体を貫き、世界がめまぐるしく回転する。機体を立て直そうにも、どう操縦桿を動かしたらいいのかがわからない。

「くそっ――クロネコ、脱出――」
「落ち着いて!」

 墜落してゲームオーバーになる前に脱出が成功すれば、デスペナルティは大幅に減る。機体を引き続き使用できるのが何より大きい。相討ちになったようで気分は良くないが――しかしそれを口にした燕に、相棒は強い調子でそれを止めた。

「いや――しかし、すまん、立て直せない!」

 ハイドラは、不規則に回転しながら急激に高度を下げている。もはや自由落下だ。猶予はあとどれほどもない――しかし、彼女は冷静だった。

「操縦桿とフットペダルに触らないで! オートパイロット、エンゲージ!」

 クロネコの声と共に、何かに支えられるような感覚があった。墜落状態にあった機体が、姿勢を立て直しつつある。
 はっとして後ろを振り返れば――もはやハイドラは満身創痍だ。カナードは片方が吹き飛び、主翼にいくつも弾痕が穿たれ、垂直尾翼までもが片方無い。しかしそれでも、残った動翼を懸命に動かし――機体は、体勢を立て直そうとしていた。

「大丈夫、この子は、まだ飛べる。さっきのはダメージからじゃない。爆発の余波で、一時的に気流が剥離して失速しただけ。だからあとは、コンピュータに任せればいい」

 信じがたい事だが――あの混乱の中で、後部座席の彼女は、機体の状態を把握することをやめていなかったらしい。しかしこの戦闘機が“この子”か――女性の感性とはよくわからない、と、燕は思う。

「もう少し――頑張れ」

 クロネコの声と共に、浮遊感。ハイドラは夕焼けの空の中、煙を曳きながらも、その翼を翻した。










「501航空隊」「クロネコ」「カツラギ」等々。
特に「カツラギ」なんかは、作中で好きな小説が云々と言ってますが、実際これは作者の代弁だったりする。

この三つのキーワードと、この小説のジャンルからして、
もう僕が何のファンなのかは……わかる人には察してもらえるでしょうw



[37800] 第三話 自宅にて
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/21 21:00
第三話「自宅にて」

「“ルナ”と“アタゴ”がやられた?」
「うむ。恐らく、お前達の遭遇したのと同じ奴にな」

 どうにかホームであるアルミナ島防衛基地までたどり着いた燕とクロネコを待っていたのは、同じ“第501特務航空隊”のメンバーである“シウン”という男からもたらされた、衝撃の報告だった。

「二人とも脱出には成功したらしいから、こちらの戦力に響くことはない。だが、まさかあの二人を墜とせるような敵を、運営が用意して来るとは。アベレージプレイヤーでは相手にもならんぞ」

 がっしりとした長身に、ひげ面。サングラスという強面のアバターを使う“シウン”は、いつも何処か芝居がかった様子で、少し癖のある喋り方をする。プライベートに立ち入らない程度に聞いてみたところ、どうやら彼は日本好きが昂じて日本に住むことになったアメリカ人であるらしい。
 本国にいた頃も、わざわざ日本のサーバーからログインしていたというのだから、物好きなものである。
 閑話休題。
 ともかく、彼によりもたらされた情報は、彼らの仲間である“第501特務航空隊”のメンバー、“ルナ”と“アタゴ”が、恐らく燕が遭遇したのと同じであろう無人機によって、撃墜されたというものだった・
 もっとも二人もさるもので、周りの味方が全滅する中で最後まで善戦し、機体が撃墜されても脱出には成功したという。デスペナルティによって機体を失う事はないから、このチームの戦力が減少するわけではない。

「お前達はよく無事だったな。二人の口ぶりからすると、反則のような動きをする無人機だったと聞いているが」
「まーな。クロネコがいなかったら確実にやられてたよ」

 “わしゃわしゃ”と、隣に立つ少女アバターの頭を撫でながら燕が言う。彼女は特に嫌がることはなかった。名前の通り猫のような奴だ、と、どうでも良いことを考える。

「けど、あれってやっぱり運営が仕掛けた新しいイベントなのか?」
「お前達のログを私も見せて貰った。“クロネコ”殿の言うとおり、X-47によく似た機体だったが、当然あんなものは、今のところプレイヤー機として配信されてはおらん。トップエースですら喰われる強さだというのは、些か“ゲームバランス”に問題があるような気はするが――それでも、他に可能性はあるまい」

 確かにその通りである。ここはゲームの世界。作られた世界だ。全てのものに意味はある。この会議室に置いてある備品でさえ、ゲームデザイナーが意図してそこに置いていったものなのだ。
 あの無人機らしきものの正体はわからないが、自然に湧いて出たものであるはずがない。悪質なプレイヤーが作った改造データという可能性もなくはないが、そんなものが我が物顔で飛び回っていればそれこそ運営が黙っていないだろう。

「“ユグドラシル”での勢力争いは、未だに遅々として進まぬ状態。私とて、この戦いがあっけなく終わってしまう事は望んではいない。だがにらみ合いが既に数ヶ月――何かしら運営が、我々を飽きさせない何かを投入してくるには、頃合いではないか」
「そう言えばユグドラシルが空白地帯だって情報があったわけじゃないんだよな。あるいはあそこには先住民がいて、そいつらが等しくプレイヤーの敵になるとか」
「まあ……そこに至れば、気になるのは過ぎた強さではあるが」
「二度は負けねえよ。まさか運営のスタッフが人力でアレを動かしてるわけじゃなかろうから、結局はコンピュータ仕掛けの“無人機”なんだろ? そんな奴に二度も三度もやられてたまるか」
「ふむ――その意気だ」

 目元は相変わらずサングラスに隠されてわからない。だが、“シウン”の口元が、柔らかな弧を描く。

「あー……とは言え、俺、明日から暫くログイン出来ないんだよな。多分、半月かそこら」
「何だ。リアルが忙しいのか?」

 “シウン”の問いかけに、隣に立っていたクロネコも顔を上げて、燕の方を見る。
 さも疲れた、と言う風に、彼は答える。

「いや、実家の親が、休みの間に一回くらいは帰って来いってうるさくて。実家にはRailioが無いからなあ。ネットでゲームの動向をチェックするくらいしか、多分出来ない」
「私はそれを責める気は無いぞ。日本には確か、“孝行をしたい時には親はなし”という諺があるそうではないか。お前が多少なりとも両親に親子の情を感じているのならば、それぐらいの我が儘は聞いてやるべきだ」
「あんた本当にアメリカ人か?」
「生まれはテキサスだ。ハイスクールの時に見たサムライ映画に衝撃を受けてな……」

 あれはいいものだ、と、何かを思い出して感動に打ち震える“シウン”を無視して、燕はクロネコに申し訳なさそうに言う。

「そう言うわけだから、暫く我慢してくれるか?」
「わかった。でも、メールくらいはしても良いよね?」
「おう。何か情報が入ったら教えてくれ」

 二人はそう言って、小気味の良い音を立てて手のひらを打ち合わせた。




 “シウン”の言葉に後押しされた――と言うわけでもないが、燕は結局、夏期休暇の間の二週間ばかりを実家で過ごす事にした。まさか帰りたくない理由が、実の妹が苦手だからなどと、自分でもみっともないと思っている。
 それに多分、それを気にしているのが自分の方だけなのだろうという事実も、余計に格好が悪い。だから強がる意味も込めて、燕は何でもないように、気が変わったからと告げて電車に飛び乗った。
 そのまま一時間ほど電車に揺られ、最寄りの駅からバスで三十分ほどの住宅地にある、それほど古くも新しくもない住宅。表札に「草壁」とある平凡な一軒家が、彼の実家であった。
 この時間なら、母親は家にいるだろう。妹は――学校は夏休みに入っている筈だが、補習か塾でもあれば、その限りではない。
 玄関のチャイムを押し、鍵の掛かっていない玄関の扉を開けて中に入る。
 何も難しい事を考える必要はない――単に、自分の家に帰ってきただけだ。現にそれに気がついたのだろう彼の母は、久しぶりに見る息子が嬉しいのか、お茶でも淹れるわ、と言って、台所に消えた。
 これなら――実際深く考えることは何もなかった。大体が、そんな必要など無いのかも知れない。
 その時は、そう思ったのだけれども。

「……それを俺に言ってもどうにもならんだろ」
「それはそうかも知れないけどね?」

 冷房の効いたリビングでお茶を飲みながら、燕は疲れたように言った。
 先程から母親の口からもたらされるのは、ここ最近言葉も交わすことの無かった妹・湊の事ばかり。
 どうやら自分が思っていたのと、妹の性格は大して変わっていないらしい。出来が良くて大人しいのは結構なことだが、何か困ったことがあったら相談くらいしてくれてもいいのに――と、彼女は言う。

「あいつプライド高そうだし――そう言う年頃なんじゃないのか?」
「その点あんたは心配しなくて良かったんだけどねえ」
「どういう意味だよ」
「言葉通りの意味よ。あんたはあんたでよく頑張ってたと思うわよ? でもあんたの場合なんて言うのか――そう言うのが、ちゃんと私やお父さんにもわかったもの」
「あいつだって同じだろ。あいつは俺より出来は良いんだろうが、それでも何の努力も無しに優等生やってられるはずも無い」
「それはわかってるんだけど……ねえ」

 あの子の事を覚えてるかしら、と、彼女は言った。

「ユウちゃんって覚えてる?」
「いや――誰それ?」
「湊の友達で、うちにも良く来る子よ。小さい頃はあんたにも懐いてたじゃない?」
「……?」

 イマイチ思い出せない、と言うのが正直なところだった。いつしか湊に苦手意識を持つようになっていた燕は、当然彼女の交友関係など知るよしもない。子供の頃の事となれば、単純に覚えていないと言うのが正直なところである。

「まあとにかく、湊の友達のその子が何だって?」
「何か喧嘩してるのかなって――急に家に来なくなっちゃってね」

 それで大体想像は付いた。自分は覚えていないが、その“ユウちゃん”とやらは湊と仲が良い子だったのだろう。その子の姿を突然見ないようになり――しかし、湊の口からはそれらしいことは何も出てこない。
 何となく心配だというのも、わからなくはない。

「けどそれを俺に言ったってどうしろって言うんだよ」
「湊にもプライドみたいなものはあるだろうし、やっぱり親には言いにくい事もあると思うのよ。でもあんたはあの子と年も近いし――」
「親に言えないことを日頃家にいない兄貴に言えると思うか?」
「日頃家にいないからって思ったんだけれど、駄目?」

 正直なところ、気乗りなどするはずもない。だが、頃合いなのかも知れない。自分一人がみっともなく妹に対して苦手意識を持っている――そんな愚にも付かないような状況を、ここらで打破しておくには。




『――何、カツラギ君のところ、兄妹仲悪いの?』
「悪いというか――俺が一方的に気にしているだけというか、多分向こうは俺のことを何とも思ってないんだろうけれど」
『割合格好悪いわねえそれ』
「……ほっとけ」

 その顛末がいかなるものであるかと言えば、その夜、燕は実家の自室のベッドに寝転がって、携帯電話で愚痴をこぼしていた。
 相手は“ルナ”――我らが『ティグリア共和国第501特務航空隊』のメンバーの一人である。彼らはこのゲームが開始されてから程なく、ある特別なイベントによって結成されたチームであるが、他のプレイヤーとの繋がりがあまりなく、逆にコミュニティの中では頻繁に顔を合わせるため、仲間意識はかなり強い。
 こうやって、ゲームに関係ない雑談に興じることが出来るほどには。
 “ルナ”はリアルでは――あくまで彼女が言うことが本当であれば――会社員の夫を持つ二児の母であるという。近頃子供達が部活や塾に行くようになり、自分の時間が増えた事をきっかけに、何となくネットゲームに手を出すようになったと言うが――その結果彼女に最も向いていたのが、専業主婦とは最も縁遠いような“戦闘機のパイロットごっこ”であるとは、何ともはや。
 そう言う類の人々に人気のカードゲームや育成ゲームは、その単純作業がどうも夫のパチンコを連想させるので好きではない、とのことである。

「俺が情けない兄貴なのは自覚してますが。“ルナかーさん”の所はどうなのよ」
『人の家庭に当たらないでくれるかしら? うちは男二人の兄弟だし、遠慮するような事が無いせいか、私から見れば結構仲良くやってるわよ?』
「何とも羨ましい話だ」
『私としては一人くらい女の子が欲しかったんだけれどね』

 燕の実家に“Railio”の本体はないが、そもそも彼らのキャラクターデータは、運営会社のサーバーの中にコピーされている。何となればその一部を、パソコンや携帯端末に落とし込んでアバターとして使うことは可能である。だから携帯電話から聞こえる彼女の声は、現実の彼女のものとは違う、ゲームの中でいつも聞き慣れた、何処かの声優のものである。

『まあそれで――母親である私なら、多少は相談に乗ってくれるかも知れないと思ったの? それで人妻の所に電話を掛けられるあなたの神経って結構凄いわね』
「この仲間達で戦い抜く。絶対に仲間は見捨てない――それが501特務航空隊だろう?」
『そんな言い訳に結成の合い言葉を使わないで頂戴。そりゃま、人並みに育児を経験してる経験論なら聞かせてあげられるけどね――そう言えば “クロネコ”ちゃんは? 仲間って言うなら、まずあの子に相談するべきじゃないの? “相棒”でしょう?』
「年下の女の子に妹の扱いがわからないって助けを求めるとか――さすがに死にたくなるからやめてください」
『知り合いのオバサンに泣きつくのも五十歩百歩じゃないの?』

 電話の向こうから少し唸るような声が聞こえ――ややあって、“ルナ”は言った。

『そもそも――何があったって言うの』

 時間を遡り――燕の妹である草壁湊が帰宅したのは、夏の長い一日が終わりを告げようかという頃だった。聞けば、その日は塾があったのだという。
 自分の高校受験に際しては、塾に通った覚えがない燕である。別にそれをして彼の頭の出来が良かったわけではない。単に志望する高校のレベルがそれほど高くなかったのと、近所に定年を迎えたばかりの教師が住んでいて、彼の妻が燕の母親と友人であったため、その“つて”で、苦手な分野の勉強を教えて貰ったのである。
 どうやら湊は、兄と同様に彼の所に通う一方、近所の大手学習塾にも通っているらしい。それが自発的なものであるのかどうかは聞いていない。聞かない方が良いと思ったからだ。
 そんな彼女が帰宅した時――燕はリビングで一人、携帯端末をいじっていた。

「――ただいま――あれ、兄さん? 帰っていたの?」

 そんな声に、振り返る。
 リビングのドアを開けた格好で、彼女はこちらを見ていた。前に見たときよりも背丈が伸びたせいか、少し大人びて見える。飾り気のないシャツにジーパンと、近頃の少女らしくない大人しい格好は相変わらずであった。

「今日な。そっちは塾か?」

 案外――と言うべきか、いつも通りと言うべきか。
 苦手だ苦手だと自分で認めている割には、話すことそのものは苦であるわけでない。

「うん」
「夏休みだって言うのに大変だな。鈴木さんの所か?」
「ううん、今日は違うところ。駅前の“マエシン”――鈴木さんの所は国語と英語だけ。数学はちょっと、あそこじゃ勉強できないから」
「俺普通に勉強してたぞ」

 少なくとも夏休みの宿題は、そのOB教師の所に持ち込んでいた。果たしてそれが“受験勉強”と呼べるのかどうかはさておくとして。きっと目の前の少女の言う勉強とは、そう言うレベルのものではないのだろう。
 彼女は首を傾げつつ台所にはいると、お茶のペットボトルを持って戻ってきた。そして特に何を言うでもなく、ソファに腰掛ける燕の隣に座る。

「兄さんはいつまでこっちにいるの?」
「あー……二週間くらいか? 夏休みになってバイトも無いし――来年になったらゆっくりも出来ないと思うから、せいぜいのんびりしておくさ」
「そう」

 短く応えて、湊はペットボトルに直接口を付けてお茶を飲む。
 自然、会話は途切れることになるが――彼女はそんなことは気にならないのだろう。

「……兄さんも飲む?」
「いや、いい」

 半分ほどになったペットボトルを、彼女は振って見せた。燕は携帯電話をいじる手を止め――首を横に振る。

「他人も飲むかも知れないものに直接口を付けるな」
「いいじゃない。家族なんだから」
「――」
「はいはい、ごめんなさい。次からは気をつけます」

 そう言って湊は再びペットボトルに口を付け――そこで、燕は口を開く。

「お前さ」
「ん? 何?」
「えっと――近頃どうなのよ」
「……どうしたの急に。今まで電話どころかメールもしてこなかったのに?」
「どうって――いや、久しぶりに顔を見たから気になって。今日だって結構遅くまで塾だったじゃないか。普段お前とメールするような話のネタがあるわけでもないしな」
「別に――こっちも、それほどどうってわけじゃないよ」

 ペットボトルをテーブルに置き、湊は燕の方に向き直る。

「確かに今年は受験だから――勉強は、時々しんどいなあって、そう思うときもあるけど。でもそれがずっと続く訳じゃないし、みんなやってることだし」
「いや、そうでもないぞ? 俺が受験の時なんかは――まあ、言わなくても知ってると思うが」
「よくお母さんに怒られてたね」

 彼女は苦笑した。
 違う――そう言うことが言いたいわけではないのだ。燕は、心の中で否定する。
 母親が彼に期待したように、自分が目の前にいるこの妹の――仮にあるのだとしたら――悩みを解決できるなどとは思っていない。そうまで自分を大した奴だとは思わない。そうとも、自分は目の前で無邪気に笑う彼女の事が、苦手だと思っているほどだ。
 けれど、それは良くないと思ったのではないか。
 “こういうこと”を言うのは良くないと、そう思った筈ではないか。

「彼氏とか出来たか?」
「私まだ中三だよ? それにそんなこと兄さんに言われたくない」

 多少むっとした様子で、湊は言い返す。

「むしろそう言うのを心配されるのは兄さんの方じゃないの?」
「お前とは逆の意味だろうがな。そう言えばお前って女の癖に一人ファミレスとか一人カラオケとか平気だよな」
「そんなの普通じゃない。一人焼肉だって別に気にならないよ」
「一人焼肉に行く中学生とかどうなんだよ。俺も大して人目とか気にする方じゃないが――」

 適当な言葉を返しながら、兄妹の雑談は続く。
 けれど燕は――やはり、感じていた。心の奥底で、何処かに引かれた見えないラインを遠くに見つめる、もう一人の自分を。

『――話を聞いてると、普通に仲の良い兄妹じゃない』
「だから仲が悪い訳じゃないんだよ。それに言ったろ? 俺が一方的に苦手意識持ってるだけだ、って」
『大体何でカツラギ君はその妹さんが苦手なのよ。良い娘じゃないの。世の中には兄貴の事を毛虫のように嫌う妹もいるそうよ?』
「実際にそうなるのは嫌だけど、まだその方が救いようもある気がする」

 何故彼女が苦手なのかと言えば――燕自身にもわからない。それが問題なのだ。

「結局とりとめのないと言うか……当たり障りの無い会話に終始してしまうと言うか。仲が悪くて喧嘩をしてるって言うなら――俺が相手を許容するとか、あるいは何とか歩み寄れるように努力するとか、色々方法はあるんだろうけど」
『それならあなた自信がわからないことを、私にアドバイス出来るわけが無いじゃない』
「う……」
『こういう言い方したら何だけど、あなたその妹さんのこと、女として意識でもしてるの? 合コンとかで距離を測りかねてる男みたいな印象を受けるわよ』
「それはない。俺はノーマルだよ」
『だったらどうして――って、それがわからないのよね、カツラギ君は』

 疲れたような“ルナ”の声。申し訳ない、と、燕は応える。

『もう少しシンプルに考えたら良いんじゃない? 妹さんがあなたの事を嫌いでないなら、開き直って苦手意識なんて忘れてしまえばいいじゃないの。私はその子がどれだけ“出来た”子か知らないけど、身内の才能を素直に認めるくらいの度量はあるんでしょう?』
「容赦ねえなあ」
『まあ私も人の親だから、そんなに簡単なものじゃないって言うのもわかるけれど――』

 いい? と、彼女は言った。

『それでもあなたは、私たち“第501特務航空隊”のエースなのよ? ゲームに現実の事を持ち込むのはマナー違反だってわかってるけれど、それでも私はそれなりにあの世界に愛着があるし――あなたがそんなんじゃ、しまらないじゃないの』
「……ものがネトゲだってのが――どうかと思うけど」
『ふふ、そう思えば、不思議と元気、出るでしょう?』

 主婦などやっていると、満足感を得られることが少なくなる、と、“ルナ”は言った。
 家事や育児に追われる生活の中で、それでも達成感や満足感が得られる事は無いとは言わない。だが、自分で仕事をこなす勤め人や、学ぶべき事の多い学生に比べればどうか。
 たしかにものはただのゲームである。
 けれど実際に、そこには彼女たちの活躍に一喜一憂してくれる仲間達がいる。褒められたことではないのかも知れないが、それでもあの世界で自分が認められている事には、不思議な満足感があるという。

「まあそう卑下したもんでもないか――ルナかーさん。たとえば野球だってただのゲームだけど、甲子園に出る奴を“たかがゲームに”って馬鹿にする奴もいないだろう」
『あらそう? 今度息子もこっちに誘ってみようかしら』
「母親がネトゲにはまってると知ったら息子としたらどうだろう」
『上の子はもう知ってるわよ? 私がこの世界じゃ知る人ぞ知るトップエースだって聞いたら、旦那と二人して微妙な顔してたけど』
「そりゃそうだろうよ。旦那さんと息子さんに同情するよ」

 電話の向こうから、軽い笑い声が聞こえる。
 燕はもう一言二言彼女と言葉を交わし、電話を切った。
 気持ちが晴れたわけでも悩みが解決したわけでもない。だが、会話の内容には満足できた。
 大きく息を吐き――彼は一度枕に投げ出した携帯電話を、再び手に取った。アドレスを開き、名前を検索。家族や友人も本名で登録する彼のアドレス帳の中で、その名前は酷く浮いている。たったカタカナ四文字――“クロネコ”。

(ま――相棒に余計な心配を掛けるのもアレだしな)

 それが“ルナ”だったらいいと言うわけでもないが――燕はアドレス帳を閉じて、もう一度携帯を枕元に置いた。






[37800] 第四話 無責任な、励まし
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/21 21:06
第四話「無責任な、励まし」

 何となく眠くならなくて、体を起こした。部屋に置いてあるデジタル時計は、まだ午後十時を指している。
 この夏休みまでは、大学の課題が皆無に等しい――その分来年以降はどうだか知らないが。そのうえ娯楽の類は大概実家でなく一人暮らしのワンルームマンションの方に移動させている。仲間に言った通り、“Railio”だってここにはない。
 パソコンを旅行鞄に入れることが憚られたので、暇をつぶせるものは携帯電話と、昔ため込んで処分していなかった、半ば読み飽きた漫画くらいしかない。
 いや――自分が楽しむために実家に戻ってきた訳ではないのだが、存外自分はわがままなのだろう。向こうで一人暮らしの気ままさに慣れてしまったのかも知れない。やはりこんな時間に眠れたものではないと、体を起こす。
 さりとて、眠るのには早い時間であるが、地元の友人を呼び出すにも気が引ける時間である。
 とりあえず近所にある大手古本屋にでも行ってみようかと、部屋を出て階下に降りたところで母親に声を掛けられた。

「外に出るなら、ちょっと湊を探してきてくれない?」

 真面目な彼女が夜遊びとは珍しい――一瞬そう思ったが、仮にも中学生である。ご多分に漏れず心配性気味の母親がそれを許すとは思えない。

「ちょっとユウちゃんと会ってくるって――あの子の家までだったら道も通りに面してるし、すぐ戻ってくるって言ってたのよ。でももう二時間ちょっとになるし」
「ユウちゃんって帰ってきた時に言ってた? 大げさだろうよ。大方その子の家で遊んでるんじゃねーの?」
「でもメール送っても返事が来ないから……」

 正直、過保護ではないかと思うが――自分の時は口うるさく言われたことはあっても、こういう心配をされた記憶はあまりない。あの妹は真面目な性格であるし、女の子だからそれも仕方ないと言うべきなのだろうか。

「みどり町の本屋でしょう? ユウちゃんの家、あの近所にあるマンションだから――それとなくその周りを見てくれるだけで良いわ」
「ん、わかった。けどあんまり期待するなよ」
「父さんにも連絡するべきかしら。それとも警察に」
「だから大げさだっつうの。父さんが帰ってくるまでにあいつが戻ってこなかったら――まあその時は、向こうの家に連絡でも入れて、それからで良いだろ」

 なるほどどうやら女の子というものは、やはり親からしてみれば可愛いのだろう。何となく、“ルナ”の言っていた事がわかったような気がした。




 だが――彼の予想に反して、その妹は、あっさり見つかった。
 目的地に向かう途中には大きな公園がある。夜間でも常時照明がついていて、近くには交番もあるから、この時間でもランニングをする老人やスケボーや自転車の練習をする若者などの姿が多く見られるが――その、向こう側。周囲からは少しくぼんだ格好になった大きな広場があり、そこには噴水がある。
 何となくそこを覗き込んだ燕は、その噴水の縁に腰掛ける二人の少女の姿を見つけたのだった。その片方は見慣れたものである。言うまでもなく、妹の湊だ。
 もう一人の方は――燕には見覚えがない。妹の交友関係など知るはずもないのだから、当然である。
 身長160センチ強の、中学生の女子としては割合長身の部類に入るだろう湊と比べれば、かなり小柄で、ここから見てわかるほどに体つきも華奢である。背中の中程まである長い黒髪が相まって、愛らしい日本人形のような印象を受ける。それが彼女にとって褒め言葉になるとは思えないが。
 その表情は――うつむき加減で、前髪に隠され、ここからは彼女がかけている黒縁の眼鏡くらいしかわからない。
 さてどうしたものか。声を掛けるべきなのかも知れないが、友達同士でいるところに兄貴が声を掛けるというのもどうなのだろうか。家にメールだけ送って後は知らん顔をしておくのが良いのだろうか――
 逡巡と言うにも足りない思考が頭に浮かんだのは、ほんの一瞬だった。
 何故なら突然、彼女の隣に座っていた湊が立ち上がり――駆け出したからだ。俯きながら走っていく彼女は、きっとすぐ側にいた燕の事にも気がつかなかったのだろう。いくら何でも、駆け抜けた脇にいたのが自分の兄だとわかっていれば、何らかの反応を見せたはずだ。

「え、ええー……」

 情けない声が口からこぼれるが、どうしようもない。中途半端に携帯電話をポケットから出して握りしめたまま、妹が走り去った方向に目を向ける。そちらは家の方向――心配ないとは、思うのだが。
 このまま彼女を追いかけるのが正解なのか、それとも――いや、“正解”などあるはずがない。こんな状況では。

「……」

 だからその時、その行動を選んだことに、何か意味があったわけではない。
 自然と足が進み――気がつけば、噴水の縁、その少女の隣――先程まで自分の妹が座っていた所に、腰を下ろしていた。むろん、その距離は幾分離れたものであるが。

「あー……“ユウちゃん”?」
「!?」

 俯いていた少女は、弾かれたように顔を上げた。当然だろう、突然現れた身も知らない男が、突然自分に向かって声を掛けたのだ。この際、彼女が“ユウちゃん”であるのかどうかは関係ない。

「悪いな、急に声を掛けたりなんてして。実は、俺は――」

 最悪、彼女に叫び声を上げられたり、結果最寄りの交番から官憲が飛んできたりと――そういう事態にだけならねばいいと、燕は急ぎ、弁解を口にする。具体的には先程走り去った少女が、自分の妹であると、それだけ伝われば問題はないだろう。
 だから逆にそれだけは伝えようとしたのだが、それは目の前の少女によって遮られる。
 だが――果たしてその結果、彼女は叫び声を上げるでも、電話で警察を呼ぶのでも、防犯ベルを鳴らすのでもなかった。

「お……おにい、さん?」
「え?」

 驚いたような顔で――実際、驚いているのだろう。口に手を当てた格好で、何処か野暮ったいようなその眼鏡の奥の大きな瞳を、これ以上ないくらいに見開いて。
 彼女は、そう言った。燕が――“それ”を口に出す前に、である。果たして今の自分は、彼女と同じような顔をしているのだろうと思う。

「えっと――ミナちゃんの、お兄さんですよね? 五年――六年ぶり、かな? その、ご無沙汰……してます」
「……」
「あれ?」

 そこでようやく、彼女は違和感に気がついたのだろう。自分を気にして声を掛けてきた筈の彼が、自分が声を掛けた事で逆に黙り込んでしまった事実に。

「ひょっとして……覚えてません? え? でも、さっきあたしのこと、“ユウちゃん”って――」
「あ、いや、それは」

 果たして何と応えたものか。仕方がないので頭を掻きつつ、正直に言う。
 出がけに母親から湊が“ユウちゃん”なる友人の所に出かけたまま中々帰ってこなかったと言うことを聞かされていたため、一緒にいた彼女がその“ユウちゃん”なのだろうと判断したのであると。

「あ……そう、ですか」

 何となく、気まずい。
 向こうはこちらのことを覚えているのだ。恐らく本当に、彼女らが幼い頃、自分たちは顔を合わせた事があるのだろう。
 だが言い訳をさせてもらうのならば、仮に五年前に出会っていたとして、当時彼女らは十歳だ。その時十五歳だった自分はともかくとして、目の前にいる少女は、人生で最も成長する時間をすっ飛ばして自分の前に立っているのである。それではわからなくても当然ではないか――

「すいません」

 素直に、頭を下げることにした。




「それで――何があったのか聞いても良い? もちろん、俺が聞けるような事なら、だけど」
「……」

 十数分後、公園の同じ場所に、燕と少女は並んで座っていた。二人の手には、先程燕が近くの自動販売機で買ってきた缶コーヒー。彼女がコーヒーを嫌いである可能性を失念していて、手渡してからお茶かジュースにするべきだったと思ったが、もう遅い。
 だが彼女はコーヒーの缶を持ったまま、俯いている。遠くの方からは、相変わらずスケボーの技を練習しているのだろう少年達の、楽しそうな笑い声。彼らには何の非もないのだけれど、今はそれが無性に癪に障る。

「お兄さんは、私のこと――覚えてないんですか?」
「う……」

 責められているわけではないのだと思う。が、その質問は地味に心に痛かった。
 妹の湊は、その大人しい性格の故に、それほど友人が多いわけではない。だが、決して友達がいないと言うわけでもない。
 何度も自宅に友人を招いているし、その少女達の一人が“ユウちゃん”――本名を水戸由香と言う目の前の彼女であることも理解した。
 だが、相手は五歳も歳が離れた妹の友人達である。家の中で顔を合わせれば挨拶くらいはするものの、間違ってもその輪の中に入っていこうとは思わない。だから、彼が彼女の顔を見忘れたところで、それほど気に病む必要はないのだろう。
 ――ただ、同じ事は相手にも言える事だから、結局反論は出来ないのだが。
 何か記憶の糸を辿るきっかけはないものか。そんな風に考えていたら、彼女――由香が言った。

「あ、そうだ……お兄さん、“ドラゴンナイツ”ってゲーム……覚えてます?」

 それは、燕が小学生の頃に大ヒットした、携帯端末用のゲームだった。
 仮想空間体感型ゲームは確かに、爆発的な人気と共に人々の間に広まった。確かにそれによって、テレビ画面を使う従来のゲームはある程度のシェアを奪われた。しかしそれでも完全にそれらは無くならなかったし、携帯用ゲーム機はむしろ、シェアを拡大したと言っても良い。
 早い話が、仮想空間体感型ゲームは、非常に時間を食うのだ。
 一度ゲームの世界にダイブしてしまえば、気軽に戻れない。いや、戻ろうと思えばいつでも戻れるが、それらのゲーム世界は、仮想空間がもたらすリアリティを最大限発揮する格好で構成されている。その為、テレビゲームのように「ちょっとポーズをかけてコーヒーでも飲んでくる」というわけにはいかないのである。
 テレビゲームや携帯ゲームが生き残ったのは、ひとえにその「気軽にいつでも」という性格上だった。
 そして“ドラゴンナイツ”は、その携帯用ゲームのキラータイトルの一つである。
 今も続編が登場しているが、昔からある『ハンティングアクションゲーム』の一つだ。早い話が、プレイヤーはドラゴンがいる世界の住人となり、時にはドラゴンを狩り、時にはドラゴンを仲間にして育て上げ――ゲームの説明書曰く“全ての竜の始祖を名乗る邪悪な存在”に挑むのである。
 全くの余談であるが、携帯ゲームから派生したこのシリーズも、今は“RailioⅢ”向けのタイトルが発売され、それなりの人気を博している。

「懐古厨になるつもりはないけど、あの頃のゲームは夢があって良かったと思ってる。“キセノスⅣ”なんてタイトルは無かった。無かったんだ」
「え、“キセノス”ってあのRPGの? かいこ……ちゅう?」
「いや、こっちの話。それで、あれがどうしたって?」
「まだ思い出せませんか? あたし――“ドラゴンキャット”がつかまえられないって、お兄さんに泣きついた事ありましたよね?」
「……あっ!?」

 その一言――何とも馬鹿馬鹿しい一言であるが、その一言を聞いた瞬間、燕の脳裏に蘇る記憶。言うなれば、今まで床に散らばった何十枚もの古い写真の中から一枚を探し出そうと悪戦苦闘して――本当に何の前触れもなく、それを探し当てたような感覚。
 湊の後ろに隠れるようにしていた、一人の小さな少女の姿が、燕の脳裏に蘇る。

「ユウちゃ……ユウちゃんって、あの」

 あの時、自分は小学生だった。小学生の男子と言えば、ゲームや漫画、そうでなければスポーツなどに熱中するものである。ご多分に漏れず燕もそうだった。友人とゲームの腕を競い合って、少し勝ち越したりすると意味もなく得意げになって――そんな普通の少年だった。
 だから妹の友人だというその少女が、自分が得意だったゲームで助けて欲しいと言ってきたとき――二つ返事でそれを引き受けた。内心、彼女に対する先生気取りで。
 冷静に考えるとたかがゲームで恥ずかしいと思わなくもないが、それでも小学生の男の子である。反応としては普通だろうと、内心で言い訳をする。
 ともかく――当時の由香は眼鏡も掛けていなかったし、髪も肩ほどまでしかなかった。それより何より小学校に上がるかどうかと言うくらいの子供の顔を、面影が残っているとは言え現在のそれから思い出せと言うのは酷な話。
 だが――ひとたび思い出してみれば、記憶の中に浮かぶ。
 床に寝転がってゲーム機を睨んでいる姿や、目当てのアイテムが見つかってはしゃいでいる姿など。一頃は、湊の所に遊びに来たというのに、自分と一緒に居る方が多かったのではないだろうか?
 彼女が自分に良く懐いていたとは――あの母親、あれで子供のことをよく見ているものだ。

「やっと思い出してくれましたか、お兄さん」

 まだ表情に影はある――しかしそれでも、彼女は嬉しそうに笑った。

「いや、ごめん。でもあれは――それこそ十年くらいも前の話じゃないか。ユウちゃん、知らない間にこんな大きくなって」
「あたし小学校卒業したときから二センチしか伸びてないんですけど――嫌味ですか?」
「でも、まだ中三だろ? まだまだ、これからだよ」

 湊よりもかなり小柄な彼女は、どうやらその事を気にしていたようである。小規模な地雷を踏んだ事を後悔しつつ、まあ緊張が取れたのならそれも悪くないと思う。自分の発言がセクハラでない事を祈りつつ、燕は缶コーヒーを口にする。
 ともあれ――子供の頃はそうやって自分に懐いてくれていた少女であるが、当然そんな時間がいつまでも続くわけはない。ものは、たかがゲームだ。いつの間にか燕と由香の接点は無くなり、時折草壁家を訪れた彼女と顔を合わせる程度になり――彼女曰く、最後に会ったのが五年か六年か前とのこと。
 それにしたって、当時の彼女が十歳そこらなのだ。

「覚えていろと言う方が無理だろ……」

 その嘆息は、決して自分の我が儘ではないと、燕は信じたい。




「――ミナちゃんが、友達のあたしのことを気遣ってくれているのはわかるし、すごく、嬉しいです」

 燕が由香の事を思いだしたことで、すこし場の空気が和らいだ。それで彼女も楽になったのだろうか。ややあって――しかし缶コーヒーのタブを開けずに両手で持ったまま、彼女はぽつりぽつりと、燕に言った。
 中学三年生――進学を考える、いや、考えなければならない時期である。そして高校は義務教育ではない。何とかして、そこに自分の力で入らなければならない。義務ではないが入らないという選択肢は無いに等しい。それが今の日本である。中卒の女性を、何処の働き口が雇ってくれるというのか。ろくなものでないに違いない。
 いや――むろん、由香とて、高校に入る事に異存はないのである。

「でも――あたしはミナちゃんみたいに頭が良くないから。無理に上のレベルの学校に入ったって、良いことはないと思うんです」

 力なく、彼女は言った。
 身内のひいき目を抜きにしても、妹の湊は、頭が良い。彼女が志望している高校は、中学三年生当時の燕からすれば、雲の上と言っても過言では無いレベルのものであった。
 由香の学力がどの程度のものなのか燕は知らないが、彼女の口ぶりから察する事は出来る。

「ミナちゃんは――そんなこと無いって。頑張れば絶対に出来るって、そう言うんです」
「気持ちはわかるが無責任なことをあいつはまあ……あ、い、いや、決して君の頭が悪いって言ってる訳じゃないからね!?」
「いいですよ別に。事実ですから。気にしてません」

 それこそ嫌味か――と、燕は思ったが、由香の目はそう言っていない。
 彼女は自分の現状を、理解している。オブラートに包んだところで変わらない現実を、理解しているのだろう。

「あたしには、将来に絶対こうなりたいとか、そう言う夢はまだありません」

 彼女は続けた。

「だから、ミナちゃんの言うことは正しいと思います。目標もないのにただ勉強している現状って、辛いかも知れないけど無駄じゃないって。いい学校に入ることが出来たら、それだけ可能性を広げることは出来るって」
「……」

 湊の言うことは、確かに正論だろう。燕とて、今なら同じような事を言っていた両親や、学校の教師達が間違っているとは思わない。現状に不満があるわけではないにせよ、もう少し真面目に勉強しておくべきだったと思うことは、一度や二度ではない。

「それで喧嘩になっちゃった、と」
「喧嘩というか――でも、あたしが言いたいことがわかって貰えなかったのは、多分」
「俺があいつの代わりにユウちゃんの話を聞いても仕方ないかも知れないけど、どういう事が言いたいんだ?」
「生き方は、人それぞれだって、事」

 確かにそうなのだろう。由香の言葉に、燕も納得できる部分はある。
 だが――なるほど喧嘩になるわけだ、と、そちらの部分でも納得できてしまった。

「――さっきユウちゃんは、自分が何をやりたいのか、今はまだ見つかっていないって、そう言ったよね?」
「え? あ……は、はい」
「俺は決して湊の肩を持つ訳じゃない。けど、ユウちゃんの現状で“それ”を言っても、多分相手には言い訳にしか聞こえない。それは、理解してる?」

 由香の動きが止まる。
 言っては何だが、彼女はまだ子供だ。その彼女に自分は、何を偉そうに言っているのかと。そういう風に思わないわけではない。
 けれど、自分は彼女より少しだけ大人だ。まだ完全に子供を抜け出し切れていないと言われれば否定は出来ないが――それでも、今年で成人である。世の中に出て、大人になる。そう言う世界が、彼女たちよりも目の前に迫っている。
 そんな場所に立つ自分は少なくとも、その現状だけでも、彼女に伝えることは出来るはずだ。

「ユウちゃん、さっき自分で言っただろ。可能性は多いに越したことはない。それは理解してる、って。だったら、目標が見つからないユウちゃんの可能性を、最大限に多く持てるようにはどうすればいいか――辛いかも知れないけど、勉強して良い高校に入る。今はそれがベストだ」
「それは――っ!」
「それとも、ユウちゃんに何かやりたいことがあるなら、その限りじゃない。ある意味では、勉強なんかしている暇がないって、そう言う状況もあるだろう」
「……」

 目の前の少女は、辛そうだった。燕は、真正面から彼女を見ることが出来ない。
 こんな事を言われて愉快な人間がいるはずはない。ましては、久しぶりに会った、録に自分の顔も覚えていなかった男から、そんなことを言われて。

「でも――でも、あたしは、ミナちゃんみたいに」
「中学生時分の勉強なんて、多少要領が良いか悪いかの違いだ。今は信じられないだろうけど、高校に入って大学に行って――俺くらいになったら心底そう思う。俺は多分今のユウちゃんより出来の悪い中学生だっただろうけれど、それでも今になって思うんだ。真面目に勉強してたら多分、県内トップの高校に入るくらいは楽勝だったろうな、って」
「……」
「俺は君のこと、何も知らない」

 悪いけれど、と、燕は言った。

「だから、断言は出来ない。どうなんだ? 漠然とでいい。ユウちゃんは、どういう大人になりたいんだ? 少しでも君が思う理想の将来に、ほんの少しでも勉強が足しになるって言うのなら……まあ、勉強するのは悪い事じゃない」

 居心地の悪い沈黙が、流れた。
 どうしてこんな事になっているのだろうと――自問しても仕方がない。それでも自問したくなるくらいの、間の悪い沈黙。
 何となく隣の彼女は泣いているのだろうと、そんな風に思う。

「あたし、だって」
「うん」
「あたしだって――頑張ってる、もん」
「うん」
「お母さんや、先生や、ミナちゃんが言ってることが正しいんだって――わかってる、もん――お兄さんが言うことだって。多分、後になって、あたしが、お兄さんくらいに、なって、思い出したら、そう思うんだって」
「……」
「でも――でも、あたし、ミナちゃんみたいに、みんなみたいに、出来ないんだもん……! あたし、頑張ってるのに――頑張って、それでも出来ないのに。どう、頑張ったら、いいの?」

 やはり、自分のような人間がわかったようなことを言っても無駄だ。燕は唇を噛んだ。目の前の少女は、何も考えていなかったあの頃の馬鹿な自分とは違う。自分はともすれば彼女よりも成績という面では下だっただろう。周りに湊のような友人がいなかったのも確かであるが――それでも、自分自身の未来を悩んだことはない。疑った事さえ、ない。

「――どうすりゃいいんだろうなあ」

 燕は頭を掻いた。

「ああ……すまん。ユウちゃんに偉そうに言ってた言葉、正直、全部俺に刺さる気分だわ。おまけにユウちゃんと違って、俺は“頑張って”すらないからな。俺、この先一体どうなるんだろう。大学入って――それなりに上手くやってるような気はするから、ドロップアウトして引きこもりになったりはしないだろうけど」

 隣で彼女がこちらを向く。視界の端にそれが映るが――顔をそちらに向ける事は出来ない。主に自分の精神安定の為に。

「多分いいとこ――就職活動が上手くいって、何処かの会社に勤めて、そのうち誰かと結婚して、子供が出来て育てて、年を取って――そう言う人生なんだろう。いや、そう言う人生大歓迎だけどさ、そういや昔ユウちゃんと遊んでた頃の俺、あの“ドラゴンナイツ”の主人公みたいな、正義のヒーローになりたかったんだよな」

 それは今ではもう、叶わない夢なのだろう。たとえば警察官や自衛官になるという選択肢もあるが、それは何かが違う気がする。

「結局どういう人生を送ったところで、最終的に俺が満足できるかってそう言うことなんだろうけど――だから正解がないし、迷いやすい」

 ああ、と、彼は思う。だからルナはああ言ったのか。だから彼女は、あの世界にいるのだろうか。

「自分の生き方を褒めてくれる人が居たら、最高だよな」
「……?」
「いや――そう言う生き方を探せって、そう言うことか。なあユウちゃん。君が湊の心配を受け入れるも突っぱねるも勝手だけどさ、その結果に君が満足出来るんなら、多分湊は――あいつだけじゃない、君の周りの人は、きっとそれを馬鹿にしたりはしないんじゃないか?」
「結果がどうでも、ですか?」
「まあ……多分。きっと精一杯頑張った君を褒めてくれる人は、いるよ」

 そこで――燕は、由香の方を向く。
 彼女は驚いた表情をしていた。今の話――何処に驚くところがあったのだろうか?

「……そう、ですかね」
「当たり前だろ。君の親も、先生も、ついでにウチの妹も。誰が頑張った君を笑えるか」
「でも、ミナちゃんは」
「それはあいつが勝手に勘違いしてるだけだ。中学生のガキに相手の気持ちを理解しろなんて無理難題だ。俺だってろくにそんな事出来やしない。おおかた、今日だってあいつ、ユウちゃんの悩みを解決してやろうって思ってたんだろうが――自惚れるなよ、あのガキ」

 ああ、本人の目の前でなければ暴言も吐けるのかと、燕はどうでも良いことに気がつく。当然、口に出しはしないが。

「でもそう言う連中も、今は君のことがわかってないだけだろ。わかってくれるときが来たら、何というか――“褒めて”くれるさ。君が、そうして欲しいなら」
「たとえそれが、良い高校に行くとか――あの人達の考える未来でなかったとしても、ですか?」
「ユウちゃんの未来を決めるのはユウちゃんだろ。ただその為には、ユウちゃんも“勉強が出来ないから嫌だ”程度の気持ちじゃ、駄目だけどな?」

 最後にそう付け足しておく。これで――少なくとも、自分の妹を筆頭にする人々を敵に回すことは無いだろう。そんな風な打算的な事を、何処かで考えながら。
 ただ、こちらをじっと見つめてくる少女に、そんな内心を知られたくはない。彼女の澄んだ黒い瞳は何処までも深く、涙に潤んできらきらと輝いて見える。適当にその場限りを取り繕って、身内の人間にもいい顔を見せておきたいと、心の何処かでそんなことを考える自分が、本当に恥ずかしくなる。
 それはただの、自分の良心が生み出した錯覚なのかも知れない。
 だが――結局、それだけで。「わかったようなこと」を言うだけで終わらせることが、燕には出来なかった。

「――よし、それじゃ、こうしよう」

 とはいえ、それは出しゃばりに過ぎないのだろう。目の前の、顔すら忘れていた少女に対して、自分がしてやれることなど本当は何もない。する必要もなく、それは単なる自己満足に過ぎないのだろうけれど。

「俺が、今のユウちゃんを褒めてやろう」
「え?」

 少女は、その大きな瞳を一杯に開いた。

「な、何――何が、ですか? あたし、褒められるようなこと、何も――」
「ユウちゃんは、頑張ってるんだろう?」
「――」
「申し訳ない話だが、俺は今のユウちゃんの事を何も知らない。けど、そんな俺でも、今のユウちゃんが頑張ってるんだろうなと、そういうことなら、わかる。だから」

 一度言葉を切って、燕は彼女に向き直る。

「俺がユウちゃんを褒めてやる。君は、よく頑張ってる。俺なんかに言われても、何が変わるわけでないし、ただ馬鹿にされたように思うかも知れない、けど――何度も言うが、ユウちゃんは本当に頑張ってる。俺がそれを、保証する」
「あ……う」

 その瞳から、溢れそうになっていた涙がこぼれ落ちる。
 そこからはもう、彼女自身にはどうすることも出来なかったのだろう。彼女は燕の胸元に縋り付いて、肩を震わせる。硬い感触は眼鏡のフレームだろう。これでは顔が痛くて仕方ないだろうが、彼女はそれでも離れようとしない。胸元に顔を押しつけたまま、小さく震えている。
 無理に引きはがそうとは思えなかった。押しつけられた眼鏡のフレームの辺りに、不自然に、驚くほどに熱い感覚。夏場の薄着だから、よくわかる。
 自然と、その小さな頭を撫でてやった。嫌がられた様子はない事に、安堵する。
 そう言えば、湊を相手にはこんな事をしてやった覚えはない。それが何だと言うわけではないのだが――燕はふと、そんなことを考えた。






[37800] 第五話 無敵の所以
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/21 21:10
第五話「無敵の所以」

「あら? カツラギ君?」

 “ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”内――ティグリア共和国アルミナ島防衛基地、ティグリア空軍第501特務航空隊基地ハンガー。
 所属する五機のF-3神狼のうち、本日は三機が翼を休めているその場所に現れた男を見て――自分の愛機“カグヤ”のコックピットに身を沈め、インターネットの掲示板に目を通していた“ルナ”は言った。

「あなた確か半月ばかりイン出来ないんじゃなかったの? 実家にRailioが無いとかで」
「近所に知らない間に新しいネットカフェが出来てて。そこ、Railioの貸し出しやってたんだよ」
「ふうん――苦手な妹さんとは、少しは仲良くなれた?」
「だから“仲良く”はしてるんだって」

 この間はありがとう、けれどここでは出来ればその話に触れないでくれ、と、“カツラギ”――燕は言った。

「それは追々な。感謝してるよ、ルナかーさんには」
「その言い方もやめなさい」
「何見てるの? 掲示板?」
「そう。この間私と“アタゴ”を負かしたアレ――結構な噂になってるわよ。やっぱり私たちの所だけじゃなく、他の勢力にも現れたみたい。それぞれのエースも刃が立たなかったって――どんな鬼ゲーだってお祭り騒ぎ」

 そう言えば、と、彼女は言った。

「アレと戦って撃墜されなかったのって、もしかしたらカツラギ君とクロネコちゃんだけじゃないの?」
「それは知らないけど……俺らだって半分相討ちだったしな」
「私らは相手に一矢報いることさえ出来なかったのよ。掲示板からしたら、余所の“エース”も、多分そう」

 他の勢力にもまた、この“ティグリア共和国第501特務航空隊”のようなエース部隊は存在する。ゲーム開始初期に、各々の勢力でトップエースを選抜するイベントが開催された事があるのだ。果たしてその結果選ばれたのが、今の彼らである。
 特典として彼らには、専用の隠しホームと、アクティブになっている戦場に、タイミングさえ合えば任意に介入出来る権限が与えられている。まさに各勢力の切り札と言うべきだろう。プレイヤーホームである基地に関して言えば、一定の規模とスコアを満たせばそのチームには専用の所属基地が出現するため、単なる名誉のためのもの――とも言えるが。

「あれの出現条件もイマイチわかっていないみたいなのよ。私が出くわしたときは、いつもの国境紛争地帯に介入したときだったし、あなた達はまさかのフリーフライトモードでしょう?」
「ああ」
「そう言う事を私も匿名で書き込んでみたんだけれど……中には、国中を隅から隅までフリーフライトモードで飛んでみたってプレイヤーまで居るわ」
「そいつ絶対引きこもりか何かだろ」

 社会人に比べれば時間を持て余している学生の燕でさえ、そんな根気の要る作業を行おうとは思わない。途中で気が狂いそうになるだろう。

「何処にでもそういう廃人プレイヤーはいるものよ。けどこと仮想体験型ゲームは、どれだけ廃人プレイしたところで、昔みたいに職人芸が出来るようになるわけじゃないけどね」

 テレビゲームの時代ならば、あるいはそうだった。常識を越えてゲームをやり込んでいれば、たとえば敵のモーションまでをコンマ何秒単位で体が覚えてくる。そうなると、アベレージプレイヤーではどうやっても不可能な動きを、苦もなく行えるようになる。むろん、世間一般で褒められた事ではないにせよ。
 だがこれが、こと仮想体感型ゲームとなってくると話が違う。“客観的な操作ができない”というのが、最も大きいだろう。操作とはすなわち自分の体を動かすことであり、手先の器用さや“慣れ”に直結するわけではない。ある程度はそうであるにせよ、本人の限界が大きな壁となって立ちはだかるのだ。
 人間の限界を超えた動きをする、たとえばアクションゲームや格闘ゲームなどとなれば、コンピュータの補助が大きい分また話は変わってくると言うが、基本的に現実と同じ動きをする――このようなシミュレーター系のゲームは、確かに“やり込む”事である一定のラインまでは上達するが、そこから先は時間を掛けたからと言ってどうにかなるものではない。

「そう言う意味もあって俺らみたいなのは賞賛される――か。正直、全然嬉しくねえ」
「確かに、ゲームが得意なのがあなたの才能ですとハッキリ言われてもねえ……」

 全く嬉しくないわけではない。口ではどうこう言っても、結局は燕もそうである。
 けれど、その才能とはすなわち、“ゲームの中の戦闘機を上手く操作する才能”である。そんなものが秀でていたところで、何の得にもなりはしない。体に掛かる負荷が完全にカットされているこの世界では、現実の航空機の操縦にさえ、それは結びつけられない。

「それはともかく――私はこれから北に飛んでみようと思うの。そっちの地域でまだ、アレを見かけたって言う報告がないから。カツラギ君は?」
「うーん……どうすると言っても、クロネコが居ないし」
「あら? 約束してきたんじゃないの?」
「“あわよくば”くらいだよ。あいつ俺が居ないときでも、よくここでネットしてるって言うし」

 プレイヤーの中でも、副座の機体を二人で使うが故の不便さである。二人の予定が合った時しか、チーム“ハイドラ”は出撃できない。

「タイミング悪かったわね。昨日はあの子、こっちに来てたんだけど」
「……あいつ確か今年受験だって言ってたぞ?」
「私も年配者として忠告はしたけど――勉強自体はおろそかにしてる訳じゃないって言ってたわよ。まあ、息抜きくらいはさせてあげましょう。こっちでのあの子、もの凄く生き生きしてるものね」

 燕は顔をしかめて首を横に振る。由香のように人生の一大イベントに思い悩むものもいるというのに、全く気楽なものである。まあだからこそ――自分と気が合うのかも知れないが。

「カツラギ君が来てないから飛べないって言うのに。わざわざ“ハイドラ”の後席でネットサーフィンしててね。何か良いことでもあったのかって思うくらい、楽しそうだったけど」
「羨ましい限りで。今度宝くじでも当たったのかって聞いておくよ」
「そうして頂戴――それじゃ私、行ってくるわね」
「グッドラック」

 燕が彼女に向かって親指を立て――“ルナ”それに自分も同じようにして返し、コックピットの中でヘルメットを被る。すぐにNPCの整備士が現れ、慌ただしく発進準備が始まる。
 ハンガーに木霊するエンジン音と共に、外に出て行く“カグヤ”の尾翼を見送り――さて自分は一旦ログアウトしようかと考えたところで、不意に声が掛けられた。

「あれ? 何でカツラギ君が? 実家に帰るから暫くログインできないって」

 不思議そうな顔で、彼の相棒がそこに立っていた。




 NPCの整備士が走り回るのを尻目に、手早くプリフライトチェックを終了――重ね重ね、現実的には何ら意味のない行為である。将来的に自分が本物のF-3のコックピットに収まり、離陸準備をする日がやって来るなら話は別だが――その可能性は限りなく低いだろう。
 当然ながら、異常なし。整備士が大きく手を振るのを確認し、エンジン・イグニッション。ジェットフュエル・スターターの甲高い音が響いてから程なく、アメリカはGE社のライセンス生産――川崎・IHI-F255ターボファン・ジェットエンジンが目を覚ます。
 航続距離を延長させるための、複雑な可変バイパス機構を持つ特異なエンジンである。可変ダクトが最適位置に調整され、排気の音が僅かに変わるのを認めつつ――燕は言った。

「なあ、クロネコ。俺が居ない間も、お前結構ここにいるのか?」
「え? あ、うん――そうだね、カツラギ君と約束してない日でも、二日に一回くらいはインしてるかな」
「何でまた――この間もテストがどうこう言ってただろうに。“ルナ”が心配してたぞ」

 確かに仮想空間に居る状態でも、ゲームとは関係のない処理を並列で走らせる事も可能である。Railioにはその様な機能はないが、大概のユーザーは本体にパソコンを繋いでいるから、そのパソコンを使って行うことならば、何でも出来る。
 だから先に述べた、“戦闘機のコックピットでネットサーフィン”などという、間抜けな絵面だって可能なのであるが。
 あるいは勉強ををしたり調べ物をするのに仮想空間からネットを利用する者も多い。こちらは、単純に快適だからである。目も手足も疲れない。肩も凝らない。暑さも寒さも無視できる――もっともゲームソフトの中で勉強をする物好きは居ないだろうけれど。

「何だよう、カツラギ君もルナさんも。あたしだってちゃんと勉強はしてるよ?」
「まあ……実際俺も偉そうなことが言えた立場じゃないが。勉強に限らず、ここに来たって俺が居なきゃ飛べないだろ。この間の日光浴じゃあるまいし、一人でインしても」

 チーム“ハイドラ”は、副座型の機体を本当に二人で操縦する。だから、二人が揃った時でないと飛ぶことが出来ない。家族や夫婦――リアルでは友人ですらない他人同士、予定を合わせるのは楽ではない。
 特にクロネコの方は、プレイヤースキルという制約もある。彼女の情報処理能力は驚くほど高いが、反面操舵能力はアベレージプレイヤーを大きく下回る。以前面白半分にポジションを入れ替えた際は、咄嗟に燕が操縦に介入しなければ、ハイドラは“離陸に失敗して墜落”という、初心者プレイヤーですらほとんど類を見ないミスによってゲームオーバーとなっていた。
 そんな彼女には、たとえばコンピュータ相手のソロプレイであっても不可能だろう。そんな彼女がわざわざ仮想空間にログインして、この場所の居続ける理由とは何なのだろうか。

「別に大した理由は無いよ。あたし――この世界が、好きなんだ」
「現実逃避はよせよ」
「違うよ。でも――あたしが、プレイヤー“クロネコ”が、ティグリア共和国第501特務航空隊の一員、チーム“ハイドラ”であることには、誇りを持ってるつもりだよ」

 だから、と、彼女は言う。

「その“誇り”って言うか――自己意識って言うか。そう言う奴、あたしにとっては結構大切なんだ。だから、カツラギ君が居ないときでも、この場所――ハイドラのナビゲーター席に座ると、凄く落ち着く。あたしが、満たされる感じ。あ、別にカツラギ君にまでそういう考えを押しつけるつもりはないから、安心してね?」
「いや、頭から否定しようとは思わないけど」
「まあ……何時か終わるゲームだし、ここでプライド持ってる事が何かの役に立つかって言われたら困るけど」
「それこそたかがゲームに大げさすぎるだろ。たとえば子供がオモチャのレースにハマっててだな。それで大きな大会で優勝なんかしたとして――その経験が大人になってまるっきり無駄になるとは、俺は思わないぜ?」
「暗にあたしが子供っぽいって言ってる?」

 その事実は否定できない――が、現実でも中学生か高校生であるクロネコに、言葉を取り繕っても一緒だろう。燕は苦笑して、ヘルメットにマスクを接続する。

「むう……とにかく、カツラギ君。君の背中は、あたしが守る。この世界が続く限り、ずっと――あたし自身が飛べなくてもここにいるのは、あたしの決意表明だって思ってくれて良いよ」
「決意表明とはまた大層だな。よし、なら景気づけに、俺も一つここに誓おう」

 ヘルメットのバイザー部分に、仮想地平線が投影されるのを見ながら、燕は言った。

「お前が信じてくれるなら、俺は何処までだって強くなってやる。どんな状況でも、必ずお前を守ってやる。だから――お前は安心して、俺の背中に居てくれ。そうやってる限り、俺たちは――“ハイドラ”は無敵だ」

 ここは仮想の世界だから。自分は“草壁燕”という、つまらない大学生ではなく、ティグリア共和国のエースパイロット“カツラギ”だから。
 だからそういう――恥ずかしくなるような台詞だって、自然と口に出来てしまう。

「……殺し文句だね、それ」

 “クロネコ”が果たしてどんな顔をしているのかは、ここからはうかがい知れない。だが、彼女の声を聞く限り――そのいかにも芝居がかった恥ずかしい台詞は、“正解”でなくとも“不正解”では無かったのだろう。

「カツラギ君、それ、聞きようによっちゃプロポーズだよ?」
「安心しろ。お前のことは最強の相棒だと思ってるが、男かも知れない相手に愛を囁きたくはないぞ? まあ、額面通り受け取ってくれ」
「もうちょっと浸らせてよう! もう、ちゃんとリアルでも女だって何度言ったら――あたし“クロネコ”は、十五歳の女子中学生ですっ! いい加減しつこいよカツラギ君は! ホントに下着姿でも写メで送ったら信じるの!? いっそ全裸!?」
「歳がわかった以上リアルに捕まりそうだからやめてくれ――何だお前、俺の妹と同い年か? 悪いことは言わんから、プロポーズってのはもうちょっとこう、しかるべき時にとっとけよ。そもそもお前――高校受験と言うものはだな?」
「何を突然語り出してんのさ!? カツラギ君、自分の妹が苦手だからって、あたしで代償行為とかやめてよね!?」

 もう少し良い気分にさせてやるべきだっただろうかと、後ろで吠える彼女の声を聞きながら燕は思う。だが――やはり無理だ。あれ以上はやはり、恥ずかしすぎて言葉が出ない。いくら“カツラギ”は自分とは違う仮想のキャラクターだとは言っても、プレイヤーである自分のメンタリティには限界というものがある。
 ああ悪かった――と、燕は手を振って見せながら、彼女に言う。

「お前を相手にプロポーズをする気は無いが――お前が最強の相棒だって思ってるのは、嘘じゃないよ」
「う……か、カツラギ君って意地悪だよね?」
「そんなことはない。勉強の相談、人生相談、攻略の方針――お前相手なら何でも乗ってやる。それこそ恋愛相談だって聞いてやるぜ?」
「カツラギ君って遊んでる方?」
「自分じゃ割と清らかな男を自負してる」
「うん、どういうつもりで言ってるのか知らないけど、普通に気持ち悪からやめて」
「妹と同い年の子から気持ち悪と言われた。死にたくなった」

 はいはい、と、疲れたような声。

「クロネコさんは好きな男とかいねーの?」
「何でそんなこと聞くのさ」
「別に。この間その、俺の苦手な妹サマに似たような話題を振ってみたんだが、話が続かなかった。どうすればいいのか教えてくれ。お前らくらいの歳の娘と話すなら、コイバナが一番かと思ったんだが」
「あたしが君の妹なら引くよ?」

 ヘルメットのバイザーとマスクに隠されて、後部警戒ミラーからでも彼女の顔は伺えない。けれどその下で、彼女がどんな表情を浮かべているかは手に取るようにわかる。
 本当の彼女の顔など、自分は知らないというのに――不思議な感覚だと、燕は思った。





「茶化さないで聞いてくれる? なんか――カツラギ君って、あたしが憧れてた人に似てるんだ」

 ティグリア共和国西北の国境地帯――ユグドラシルを流れる大河が運んだ土砂が堆積した、広大な三角州地帯。地殻変動によりその場所は大きく隆起し、今やジャングルの中を深い峡谷が縦横に走る特異な環境を作り上げている。
 まるで南米か何処かの秘境を思わせるその光景の上空――高度二万五千メートル。
 もはや蒼空と言うよりは、“蒼暗い”と形容するべきだろうか。以前何処かで聞いたことがある。そこは“宇宙の渚”――空と、宙の交わる場所。
 そんなただ中を、ただ一機――ハイドラは、遊弋していた。

「悪い気はしないが、それってどういう奴なんだ?」
「上手く言葉には出来ないよ。でも――何か、雰囲気って言うか――そういうのが、似てる」
「そいつのことが好きなのか?」
「……わかんないよ。わかんない。あっ、大丈夫、カツラギ君の事は、相棒として大好きだからね?」
「いらねーよその言い訳は。俺はお前に嫌われたくはないが、ゲームの中で愛を囁かれる趣味もねえよ」
「い、いや、だって、カツラギ君は」
「心配すんな。どうやらその辺の倫理観、俺とお前は似通ってるつもりだよ。俺もお前のことは嫌いじゃないが、ゲームの中でしか知らない相手じゃな。ちゃんと現実とゲームは分けて考えてる。それが出来るくらいには、俺も大人だよ」

 あくまでここでは、自分はプレイヤー“カツラギ”を演じているだけである。
 クロネコに慕われる事に悪い気はしない。だが、そこを通して現実の彼女にどうこうという下心はない。自分が好きなゲームだからこそ、そう言うことは割り切っている。

「だから仲間として、相棒としては相談に乗ってやるって言ってるんだ。もちろん大した事は言ってやれんが、俺は男だからな。男の視点でアドバイスくらいは出来る」
「だから、そんな大層な――なんて、言うか、子供の頃、憧れて。もちろん、向こうはあたしの事なんて、何とも思って無いんだろうけれど」
「白状したようなもんじゃないか。お前、そいつの事好きなんだろ。ただ、あれだな、言い方すると随分歳が離れてるんだろうな。恋愛に年の差なんて――とはいうものの、現実的にはなあ」
「だからそうやって勝手に話を進めないでよっ!」

 きっとその誰かは、“クロネコ”にとっての「あしながおじさん」のようなものなのだろうと、燕は思った。むろん彼女の言い方を察するに、別に正体がわからない訳ではないのだろうけれど。
それ以上のことを聞こうとは思わない。彼女がその誰かのことを現在どう思っていようと燕には関係がないし、何が出来るわけでもない。
 ただ――そう言った幼い頃の憧れのようなものは、誰にでもあるだろう。燕にも、似たような記憶はある。つまりは初恋というのだろうか。自分の場合もはやその相手が誰だったのかさえ、覚えていないけれど。

「カツラギ君はどうして、あたしを拾ってくれたの?」
「俺は自分で自分の事を“トップエース”なんて自惚れるつもりはない。自惚れられるような腕でもない」
「そうかなあ。そこは自信もって良いと思うけどなあ。大体、ゲームの世界で謙虚になってもしょうがないじゃない。“神プレイヤー”くらい名乗っておけば、丁度良いんじゃない?」

 お前がそれを言うか――燕はそんな風に思わなくもない。けれど、口には出さないでおくことにする。

「だから、“ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”が始まって、行き詰まってたのは確かだ。何かのブレイクスルーがなけりゃ、エースにはなれない。ただそれが操縦技術のことなのか、それとも自分に合う機体の事なのか、そう言うことはわからなかった」

 そんな時に出会ったのが、クロネコだった。コミュニティ“ティグリア共和国”万単位のプレイヤーがひしめき合う、ネットの雑踏の片隅で。
 彼女はその操縦技量の低さから、ろくにゲームを楽しめないでいた。こと、このジャンルのゲームには“必勝法”が存在しない。上手な攻略法というのも結局、プレイヤーに最低限の技量が伴うことが前提となる。それがこの“フライトシューティングゲーム”というジャンルの、残酷なところだ。翼を持たない人間を、空は受け入れない。
 それでも諦めきれずに空を見上げるひな鳥に手を差し伸べた――もとい、希望を捨てきれず、しかし他のプレイヤーには鬱陶しがられていた“クロネコ”に声を掛けたのは、単なる気まぐれだった。

「あの時のお前、本当に酷い言われようだったよな。“半年ROMってろ”とか“構ってちゃん乙”とか、あとあれは絶対にネカマだって言われてたな」
「……あたしってそんなに男っぽいかな?」

 単純にアバターのせいだろう、と、燕は思う。このゲームにおいて、アバターを作り込む事にはさしたる意味がない。こうして戦闘機に乗っている間は、ヘルメットとマスクに覆われるプレイヤーの顔など、あってないようなものである。
 それをわざわざ、多少なりとも手間を掛けて――この間の水着姿といい――可憐な少女のそれを使用しているのである。その実情は言わずもがな――実際にそう言う男性プレイヤーも少なくないと聞く。
 その上で、“彼女”自身には全くと言って良いほどこのゲームに対する適性が無く、そのくせしつこくコミュニティに現れては“必勝法”を聞きねだる。それは鬱陶しがられるというものであろう。

「まあ、気まぐれというか、あの時のお前が見てて悲惨だったって言うか」
「でも、ティグリアに居る数え切れないプレイヤーの中で――君だけが、あたしを見てくれた。だからあたしはこの世界が好きになったし、この世界を飛ぶことが出来るようになった」
「よくある話さ。俺は多分、お前が憧れてた誰かさんみたいに良い奴じゃない。そう言えば――」

 燕はふと、彼女に言った。

「お前はどうして、出だしで躓いて周囲から煙たがられて、それでもこのゲームやめなかったんだ? 中学生にとっては高い買い物かも知れんが、手を出したゲームがクソゲーだったなんて、良くある話じゃないか。世間でどれだけ評価されようが、自分にとってつまらないものは、つまらないんだよ」
「単純に、昔から戦闘機が好きなんだ」
「……」
「いいよもう。またあたしが男じゃないかって思ったんでしょ? 別にそう思われてて何か不都合があるわけじゃなし、そう思いたいなら思えばいいよ」
「拗ねるなよ。確かに女の子らしい趣味じゃないが、そんなもん人それぞれだろう。女の子だからファッションやスイーツに興味がないと駄目だって事でもなかろうし」
「それなりにそっち方面も好きだよ?」

 でもそう言うものとはまた違う、と、“クロネコ”は言った。

「ちゃんとそう言うこと“勉強”しておかないと、仲間はずれにされちゃうし」
「嫌々やることでもないだろ。それこそ、人それぞれ趣味は違う」
「だから別に嫌いじゃないんだってば。でもカツラギ君。君は女の仲間意識ってやつの粘っこさというか、どろどろした部分を知らないからそう言うことが言えるんだよ」
「まあ、そう言う話を聞くに付け、俺は男で良かったって思えるな」
「男の子って得だよね本当に。あたし、次に生まれ変わったら絶対男になりたい。生理とかないし。とにかく、あたし戦闘機が好きって言うか――これも一種の憧れなんだ」

 彼女が女らしいかどうかはさておき、その感覚は否定できるものではないだろう。このゲームのプレイヤーは皆そうであるし、そもそもこういうゲームが開発された経緯だってまた、現実の戦闘機パイロットへの憧れが根底にある事は否めない。
 大空を自由に舞い、敵を倒す空の戦士。無論現実のそれは、憧れだけでは語れない嫌な部分もあるのだろうが――そんなことは、ここでは関係ない。

「そうとなれば、やっぱり拘りたくなるじゃない。“ストラトダンサー・オンライン”は、この手のゲームの中じゃ群を抜いてリアリティ高いし。まあその……リアリティありすぎて難易度的な問題で躓いたけど……」

 キラータイトルになることが出来た故に許される“こだわり”と言うものが、確かにこのゲームには惜しげもなく盛り込まれている。
 反面――爽快感優先のシューティングゲームと比べると、現実に近い“ストラトダンサー・オンライン”の難易度は割合高めである。一応の救済策として、たとえば計器を見る必要を無くしたり、燃料を無視できたり、操作にコンピュータのアシストを付けたりと、所謂“イージー操作”も設定されている。
 が、このゲームをプレイする大半の人間は、その気になれば実機を操縦できるだろう煩雑さを誇るマニュアル操作を、半ば意地になってでも習得する。
 その理由の根源にあるのは、実のところ“クロネコ”と同じ、非日常への憧れに過ぎない。

「それでも結局、最初の頃にカツラギ君に出会えてなかったら、きっと何処かで放り出してたんだろうけど」
「お前を馬鹿にしてた連中、きっと今頃悔しがってるぜ? ティグリアのトップエース“501特務航空隊”の“クロネコ”が、まさかあの構ってちゃんだと思う奴は居ないだろうよ」
「だったら悔しがりようがないじゃんか」
「今更悔しがらせる必要も無いだろ? それとも――意趣返しのつもりで、連中を見捨ててみるか?」

 燕はそう言って、軽く操縦桿を倒す。機体は緩い角度でバンク。眼下に広がる不思議なジャングルが、よく見えるようになる。
 その一角が、時折きらりと光る。陽光を反射する戦闘機と、敵機に向かって放たれる火器の閃光である。ティグリア共和国空軍・第303前線戦術飛行隊に所属する五機のF-15J改イーグルは、越境攻撃を仕掛けてきた隣国のSu-30MKI制空戦闘機と交戦中である。
 燕は機外カメラの映像をメインディスプレイに呼び出す――目標注視モード。視線をコンピュータが感知してズーム。

「……あいつら見捨てても、いろんな意味でうちの国に実害は無い気がしてきた」
「ま、まあ……さっき趣味は人それぞれって言ったばっかりだし」

 F-15J改は、西暦2018年に初飛行した、航空自衛隊が配備するF-15の派生型である。
 原型機であるF-15は、二十世紀最強とも名高い傑作ジェット戦闘機ではあるが、2018年当時でも初飛行から半世紀が過ぎようとしていた老兵でもある。その完成度の高さと拡張性の大きさ、更には「パイロットの体が耐えられる戦闘機の機動の限界」という副次的要素が加わり、いまだ一線級の戦力を保持し続けてはいたが、そのような背景があると言っても、五十年は短い時間ではない。
 先代の主力戦闘機であったF-4EJ改の後継機であるF-35Jの配備が遅々として進まず、そもそもの導入機数の少なさから、日本は未だにこの“一線級の老兵”を酷使し続けていた。
 果たして西暦2016年、防衛省は、現在配備されているF-15Jに、順次延命・近代化改修を加え、2045年頃まで現役で使用する事を決定。その結果誕生したのが、このF-15J改である。
 機体を一旦、構造部材レベルまで分解しての、大改造。主翼や胴体の新素材への転換や、エンジンのグレードアップ、アビオニクスの新調。追加されたカナード翼と、外反角を付けられた垂直尾翼、二次元推力偏向機能を持つノズルが、外見上の他のF-15シリーズとの大きな違いであるが、実際には似通っているのは見た目くらいのものであり、実情はまるっきり別の戦闘機を新造したのと変わらない。果たしてそのコストも馬鹿にならないものであり、改修の遅れが問題となるうちに、新鋭機であるF-3神狼の開発が決定した経緯は、本末転倒と言うべきだろうか。
 ともかく――現実のF-15J改とはそう言う戦闘機なのであるが。ステルス性においてこそ諸外国の最新鋭戦闘機に劣るものの、それ以外は第一線で戦うのに遜色ない性能を持っている。このゲームにおいても、ゲームスタート時点でプレイヤーが選択できる機体には含まれていない。それは暗に、この機体の高性能さを表している。
 なので仮に彼らが全滅すれば――むろん“ティグリア共和国”としてはそれなりの痛手ではあるのだろうが。

「あのアニメ、あたし小さい頃見てたよ。まだ続いてたんだ」
「……」

 問題はその外装である。“ストラトダンサー・オンライン”は、プレイヤーがほぼ自由に機体のペイントを決めることが出来る。ハイドラのような、現実にありそうな割合地味なものから、眼下で戦う“彼ら”のようなものまで――果たして“ティグリア共和国第303前線戦術飛行隊”の機体には、何処かのアニメのキャラクターが、でかでかと踊っていた。
 しかもクロネコの台詞から察するに、低年齢の女児向けアニメであるらしい。
 まさかあのパイロット達の中身が、小学生以下の女の子――と言うのは考えにくいから、現実のプレイヤーがどういう連中なのかは推して知るべし。自家用車にアニメキャラクターなどの絵をでかでかと貼り付けるドレスアップの事を、俗に“痛車”と言うらしいが。ならばアレは何なのだろうか。“痛戦闘機”――語呂が悪い。
 別にそう言う趣味を根っこから否定するつもりは、燕にはない。クロネコの言うとおり、趣味は人それぞれであるし、門外漢がそれに文句を付けても意味はない。だが――どうにも、脱力するような感覚を覚えるのは何なのか。

「いやいや、現実の自衛隊でも、航空祭とかでああいうペイントはあるらしいよ? 正直あたしもどうかと思うけど」

 知りたくもなかった情報を、後席の相棒が教えてくれた。いち日本国民として、国を守る軍隊に一抹の不安を覚えてしまうのは、致し方ない事だろう。

「まあ……相手方さんには戦いにくいかもな。良い具合に力が抜けちまうだろ――新手の精神兵器と言えなくもないか?」
「まさに趣味と実益を兼ねるって奴だね」

 対する敵軍のSu-30MKI――現実では“フランカー”のコードネームで知られる、ロシアの大型制空戦闘機であるが――は、蒼の濃淡と白が混じり合う不思議な迷彩に彩られている。クロネコ曰く、ロシア空軍式の航空迷彩を、輸出専用モデルであるSu-30MKIが纏っているのも何処かおかしいのであるそうだが――我らが前線飛行隊に比べれば些末なものである。
 だが、数の上で勝るその相手プレイヤーに、“特異な外装”を持った五機のイーグルは押され気味であった。冗談はともかくとして、彼らが敗北すれば、このエリアの制空権が敵に奪われてしまう。Su-30MKIは、原型型T-10の初飛行こそかれこれ半世紀近く前であるが、二十一世紀に入ってから誕生したインド向け輸出仕様である。F-3と同じカナード翼を持つ三翼面構造と推力偏向ノズルの装備により、驚異的な機動性を持つに至った機体。プレイヤーレベルにもよるが、複数を相手に単機で挑んで、楽に勝てる相手ではないだろう。
 つまり、仕掛けるなら乱戦が続いている、今だ。

「行くぞ――連中にチーム“ハイドラ”を――“クロネコ”の事を、見せつけてやれ」
「おーけい、そう言う見返し方なら、大歓迎」

 後席でクロネコが戦闘態勢を取ったのが、燕にもわかる。ディスプレイに映る情報が、入れ替わる。エンゲージ――ドッグファイトモード、オン。火器管制システムを解放。神の名を冠する電子の狼が、目を覚ます。

「――ん? ちょっと待って、カツラギ君」
「おう……出鼻をくじくな、何だ?」
「長距離レーダーに反応――まっすぐこっちに向かってくる。これ……何?」




 その異変に最初に気がついたのは、峡谷に逃げ込んで追撃を振り切ろうとするF-15J改に食らいついていたフランカーのパイロットだった。相手の技量はこちらと拮抗し、機体性能にも大差はない。
 機体背面にでかでかと描かれたアニメキャラクターの少女が、何となくこちらを馬鹿にしているような気がして仕方がなかったが、無理矢理気にしない事にする。
 どのような地学的歴史を経て、このような地形が誕生したのかは定かではない。だがそれを考えることに意味はない。ここは作られた架空の世界。なにせ、空中に浮かぶ島さえ存在するのだ。どのような地形が存在していても不思議ではないが――それを“意図”したゲームデザイナーは、中々センスが良い。
 崖の幅は二百メートルか、もう少し広い。渓谷としては相当な規模だが、ジェット戦闘機で飛び抜けるには狭すぎる。ちょっと気を抜けば、張り出した岩肌がゴーストの手のように迫ってくる。
 僅かでも操縦を謝れば、一瞬でそこに激突することになる。その中を敵機を追って、自分に出来る限界の速度で駆け抜ける。余りの速度に脳の処理が追いついていないのだろう。見据える敵機を中心とした範囲以外には、全ての景色が溶けて流れていくように見える視界。
 自然、口元に笑みが浮かぶ。このスリルと、爽快感。これこそが、フライトシューティングゲームの醍醐味である。スロットルを更に押し上げる。フランカーの特徴的な機首周り――ロシアでは“ジュラーヴリク(鶴ちゃん)”という非公式の愛称を付けられた、優美な曲線。そこに霧のヴェールを纏い、機体は加速する。
 機銃の射程にはまだ遠い――機首の赤外線センサを機動。武器を短距離空対空ミサイルに切り替える。ヘッドマウントディスプレイに表示される、「SHOOT」の文字――

「!?」

 途端、機体が大きく揺れた。崖に接触したわけではない。被弾――しかし、何処から撃ってきたのかがわからない。
 敵機の追尾を諦めて操縦桿を大きく引く。機体は多少右にずれながら上昇し、渓谷の上空に抜け出した。そこで後方を確認――右の主翼に銃痕。前縁フラップが脱落し、エルロンに大穴が空いている。翼端ハードポイントも吹き飛んでいたが、既にその位置のミサイルは発射した後だったので大した被害はない。だが、危ないところだった。もう少し当たり所がずれていれば、右主翼がちぎれ飛んでいただろう。あの渓谷を飛びながらそんなことになっていたら、何もわからないまま墜落していたに違いない。
 敵機を追いかける事に夢中になりすぎて、警戒を怠ったか――損傷した右の翼を庇うように大きく旋回する。
 と――何かが、自分の機体を恐ろしい速度で追い抜いた。
 影のように黒いボディそして幾何学的と言うにも単調な――単に図形を寄せ集めて作ったような、のっぺりとした全翼形状。
 彼がこのところ、“ストラトダンサー・オンライン”に存在する勢力を問わず流れている噂に行き当たるのに、そう時間は掛からない。

(こいつが――例の無人機か!)

 彼らの自国に存在する、トップエース部隊。その誰もが、この無人機を前に敗北を喫していると言う。
 だが――気後れはない。そんなことで気後れしているようでは、このゲームは楽しめない。彼は操縦桿を捻る。機体は損傷しているが、戦闘機動に耐えられない程ではない。薄く煙を曳きながらも、漆黒の無人機を追従する形で、ループ。
 先程からスタンバイ状態になっている、赤外線探知センサーが敵機を捉える。あの排気ノズル――と言うよりも、もはやスリットと言うべきか。明らかに排気熱を抑え、赤外線による探知を避ける形状であるが、これだけ接近していれば無意味だ。ターゲット・ロックオン。
 十発以上ものミサイルを搭載できるフランカーである。ティグリア共和国軍との戦闘を経ても、まだ残弾ば十分にある。それにこいつは、出し惜しみなど出来る相手では無いだろう。短距離空対空ミサイルを二発、発射――
 一気に加速したミサイルは、旋回中の黒い機体に吸い込まれるように向かい――そこで、目標を“見失った”。
 チャフ(レーダー型のミサイルを欺瞞するアルミニウム箔)やフレアをばらまいて逃げたのではない。旋回中に“かき消えた”――プレイヤーからは、そうとしか見えなかった。目標をロストしたミサイルが、虚しく自爆。

(くそっ――何処へ)

 その刹那、胴体中央部にミサイルの着弾を受け――彼の操る鋼鉄の鶴は、虚空に消える。




「あ、クテシフォンのフランカー、一機やられた。くっそお、あの無人機、人の獲物を」
「離れて見てりゃ多少の余裕はあるが、やっぱりあの機動力は反則だな。俺もあれにやられかけた」

 現代の戦闘機は、全ての機種がHUD(ヘッドアップディスプレイ)あるいはHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装備し、視界の中に照準を重ねる事が出来る。またF-3を含む先進的な機体は、HMDにパイロットの視線を感知するセンサーを搭載し、パイロットが敵機に視線を向けるだけで捕捉が出来る“オフ・ボアサイト”能力を備えている。
 大昔のように、照準スコープを覗き込み、敵機以外に何も見えなくなるような状況は無いのだが――それでも目の前の敵に集中すれば、視野狭窄の状態に陥ってしまう。そこであの化け物じみた機動をされれば、目の前から消えたようにしか見えないのだ。
 その状態から燕が生き延びられたのは、ひとえに後席のクロネコが、常に冷静な第三者視点で、戦場の情報を処理し続けていたからに他ならない。機体の操縦に一切関与せず、冷静な情報処理と“見張り”を続けてくれる彼女が居るから、逆に燕は操縦だけに集中できる。
 未知の敵に対して、このアドバンテージは、一般のプレイヤーに比すればあまりに大きい。

「相討ち覚悟ならまだ目もあるが、あの機動力にマトモに戦ったんじゃ勝ち目は薄い」
「それには同意だけど――具体的にどうするつもり?」

 F-3は戦闘機の中でもトップクラスの機動性を誇る機体であるが、それでも人間を排除した無人機相手では荷が重い。このゲームの世界では、パイロットは負荷など感じる事はないが、そこに登場する戦闘機は現実に即するもの――すなわち、パイロットの“存在”を前提に設計されているのだ。
 速力、機動力、ともすればレーダー機能や情報処理能力までが、人間を上回る。そんな相手を前に、パイロットによって首輪を付けられた狼は、どうすればいい?

「上手い具合に、ここは“おあつらえ向き”だからな――やりようはあるさ。クロネコ、うちの連中に援護要請」
「ラジャー――ティグリア共和国空軍第303前線戦術飛行隊へ緊急連絡。こちらは第501特務航空隊所属、パーソナルネーム“ハイドラ”。未知の勢力による戦場への介入を確認した。可能であれば、こちらを援護せよ」
『501エースの連中か――さてはお前ら、高見の見物と決め込んでやがったな?』

 毒づいたような声が無線から聞こえる。当然である。彼らは自分たちの部下というわけではなく、実力で圧倒的に劣っていると言うわけでもない。チーム“ハイドラ”が501特務航空隊に選抜されたのにしても、ただ一度だけのイベントで、実力はもちろんのことだが、それなりの幸運に恵まれたからに過ぎない。
 むろん――正面から腕を競い合って負けてやる気は全くないが、それは相手も同じ事である。ここはそう言う世界――頭ごなしの指示など、面白くはない。

「今度お前らがピンチになったときには、うちの総出で援護してやるよ――だが、今は勘弁してくれ。あの無人機の噂くらいは、聞いただろう?」
『わかってるよ――だが、具体的に何をすればいい?』
「奴を牽制するだけで良い。何とかして、渓谷に追い込む。クテシフォンの連中は無視できるか?」
『心配しなくても、さっき仲間がやられて完全に意識が向こうに行ってる。あちらさんにしても状況はこっちと変わらんだろうから、無理もないが』

 上昇してきた一機のF-15J改が、彼らの横で翼を翻した。
 どうにも、そこに書かれたアニメキャラクターが、こちらを小馬鹿にしている気がする。味方にも等しく効果を発揮する精神兵器――実戦では使えまい。
 馬鹿馬鹿しいことを考えつつ、燕は戦場に意識を戻す。
 事は、上手い具合に進んでいた。ティグリア共和国第303前線戦術飛行隊だけでなく、敵対組織――隣国である“クテシフォン公国”のSu-30MKI部隊もまた、自然と攻撃の矛先を無人機に向けている。
 だが既に三機を撃墜され、生き残った者もまた、常識を越えた機動の前に翻弄されている。あれでは全滅も時間の問題だろう。
 そこへ、303前線戦術飛行隊の荒鷲が襲いかかった。上空にて一度隊列を整え、そこで一斉に、長距離射程のミサイルを発射する。現実では、15式空対空誘導弾と呼ばれている、アメリカの高性能ミサイルAMRAAM(アムラーム)を上回る性能を目標に作られた、新型ミサイル。
 上空を弾幕に抑えられた無人機は、低空に逃げ込むしかない。曲がりくねった渓谷の中を高速で飛行すれば、機械的に目標を追う事しかできないミサイルを振り切るのは、あの性能をもってすれば難しい事ではない。
 だが――そこが、燕の狙いだった。
 彼は高々度より機体をパワーダイブさせる。スロットルはマックス――機体は降下中、楽々と音の壁を突破した。虚空に一瞬、同心円状の霧が現れる、が、それらもすぐに置き去りにする。
 操縦桿を引き、渓谷に侵入――速度はマッハ1,5。
 F-3神狼は、空中格闘戦に主眼を置いて設計されたため、最大速度はそれほど重視されていない。無理をすればマッハ3に迫る速度をたたき出せるF-15よりも遅い。が、それも高空では――と言うべきだろう。こんな低空、それも地を這う崖の中を飛ぶのに、正気と思える速度ではない。
 渓谷という閉ざされた場所を超音速で飛ぶと言うことは、相対的には全ての障害物が超音速で突っ込んでくる――と言うことでもある。瞬きをしている間に岩肌に激突するかも知れない――だが、そんな極限の世界の中で、燕はただ、前を見据えていた。

「距離500――AAMスタンバイ、シーカー、オープン」

 そして後部座席のクロネコは、黙々と自分の職分を果たす。彼女にはきっと、触れそうな距離を音速で駆け抜けていく景色など、全く見えていない。いや、見る必要はない。
 燕が目を細め――大きく息を吸うのと同時に、トリガーを引き絞る。発射のコールはしない。この場でそれを報告する必要のある味方は居ない。
 黒い無人機は、それに反応した。
 だが――すぐに回避できない。上空には、所属は違えど十機を越える戦闘機が睨みをきかせている。彼らからの攻撃を受けないためには、この渓谷を高速で飛行するしかない――しかし、背後からは――
 その逡巡があれば十分であった。至近距離から、機体のスピードが上乗せされた状態で発射された空対空ミサイルは、すぐさま敵機との彼我距離を、ゼロにする。
 密林に覆われた渓谷の片隅――赤黒い火柱が、空を汚した。










X-47ペガサス開発再開……空母運用実験成功……

マジかいwwww
全てが全て史実に沿う必要はないんですが、2013年現在で「これ」だと、
僕がこの作品を書くのに作った年表と大きくズレが出そうだなあ。

というか「CAPTAIN ALICE」読んでてこいつが出てきたときに、気づくべきだった。
近頃航空ニュースのチェックを怠ったツケがここに出ました。
取材は大事。趣味だからあえて「取材」と言ってみる。





[37800] 第六話 あり得なかった筈の危機
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/28 21:09
第六話「あり得なかった筈の危険」

 各勢力のトップエースを寄せ付けなかった謎の無人機が、初めて明確に撃墜された――そのニュースにプレイヤー達は大いに湧いた。特にその立役者である“チーム・ハイドラ”が所属するティグリア共和国はお祭り騒ぎとなったが――後が続かなかった。
 一応の攻略法のようなものは見つかったが、それを実際に行えるプレイヤーがほとんど居ないのだ。

「無人機はやはり無人機――極端な状況に追い込んでやれば、過負荷になる」

 愛機のコックピットでディスプレイに写し出された情報を眺め、彼女は言った。東洋人風の顔立ちだが、肌は褐色、しかし頭髪は雪のように白い。プレイヤーネーム“アタゴ”――“第501特務航空隊”の一員である。

「とはいえ――あれだけの相手をそこまで追いつめられる技量のプレイヤーが、どれほどおるんや、っちゅう話や」

 何処か癖のある関西弁で、彼女は首を横に振る。現実の彼女は関西弁など使う人間ではないのかも知れないが、それを指摘するのも野暮な話である。ここにいるのはリアルで彼女を操るプレイヤーではなく、あくまでこの世界に存在する“アタゴ”というアバター。どのようなキャラクターを演じるのかは、彼女次第である。

「奴の処理能力は実際大したもんさ」

 その彼女の機体――“パトリモニアル”にもたれかかりながら、燕は言った。

「けどあの瞬間、奴は躊躇った。先に崖に逃げ込んでミサイルを回避してるから、上空に逃げればまた撃たれると判断したんだろう。そういう“判断”をしている最中に後ろから狙われればな」

 そういう状況でなければあれだけの機動力である。至近距離から放たれるミサイルだろうが、難なく回避していただろう。けれどそこで機動を躊躇ったということは――状況判断が間に合わず、動けなかったと言うことなのだろう。

「でも、エトメニア川下流の渓谷地帯やろ? あの渓谷の中を超音速で飛べるプレイヤーは、そうそうおらへんで? “必勝法”言うにはなあ」
「簡単に倒せる相手じゃ無いことはわかってた。だったら、状況次第で処理能力が低下する――それがわかっただけでも収穫だろ?」
「あんたどっかイカレとるんちゃうか?」
「褒め言葉だ。それに――“トンネルミッション”は、男のロマンだろ」
「ウチは女や」
「そうなのか?」
「見てわからんのやったら眼科に行ったほうがええで」
「いやそれアバターだから。クロネコにしてもそうだけど――まあ、そう言う事言うとあいつえらく怒るけどさ」
「ネカマ扱いされて喜ぶ女がおるわけないやろが――カツラギ、あんたはもうちょい女心っちゅうもんを理解したほうがええ」
「リアルじゃそれなりに気は遣ってる」

 肩をすくめる燕に、アタゴはそれ以上何も言わずに溜め息を一つ。

「まあ、ええわ――“トンネルミッション”はともかく、飽和攻撃は一つの手段や。問題は単機で挑んだときのやり方なんやけど――」
「難しいな。下手な距離じゃミサイルはほぼ通用しない。かと言ってあの機動力を前に、機銃の狙いを付けるのも難しい。俺たちみたいな特殊なプレイヤーでもなけりゃ、動きを目で追い切れるかも怪しいぜ」
「ふうん――そこは今後の研究課題、やな。いい加減、あれが何なのかわかりそうな時期やから――せや、カツラギ。今日はどないすんねん?」
「今日はパス。クロネコがいない」

 手を振って見せた燕に、アタゴは首を傾げる。

「呼び出したらええやないの?」
「さすがに受験生相手にゲームしようぜってのは気が引ける」

 それに彼女は、現実には中学三年生の少女であると言い――それが本当であるなら、何となくプライベートで連絡を入れるのが憚られていたのだが。

「嫌がりはせんと思うけどなあ。あの子、あんたの事はえらい持ち上げよるさかい――捕まるなや?」
「俺はリアルじゃあいつの顔も知らねえよ。それにあいつ、好きな奴が居るらしいぜ?」
「何やフラれたんか」
「最初から付き合ってもいねえよ。俺もあいつも、ゲームと現実をごちゃ混ぜにするほど、ガキじゃねーっつう事だよ」
「ふんふん――くやしいのう、くやしいのう。お姉さんが慰めてあげようか?」
「もういいよ。実のところルナかーさんにも一度冷やかされてるんだ。もう勘弁してくれ」

 げんなりして肩を落とす燕に、アタゴは笑う。

「ほなら、今日はウチのサポートしてくれへんか? チーム“ハイドラ”としての強さは別格としても、ソロのあんたかて十分“エース”は名乗れる。今日の防衛戦は、下手したら泥仕合になりそうな気がすんねん」
「トランスヴァル国境防衛だったか――」
「せや。ここのところにらみ合いが続いとるさかい――向こうの“エース”が出張ってくる可能性がある。そうなったら、うちの前線プレイヤーだけやと歯が立たん」
「クロネコが居ない俺はせいぜい“エース手前”程度のものだけどな。それで良いなら」

 軽い調子で構わないと言うアタゴに首肯して、燕は自分の機体――“ハイドラ”へと戻る。ちらりと伺う後部座席には、当然誰もいない。
 そう言えば一人で飛ぶのは、いつ以来だっただろうか。そんなことを考えながら、彼はコックピットに身を沈めた。
 丁度、その時だった。

「アタゴ殿、カツラギ殿――お前達も来ていたのか。丁度良い」

 掛けられた声に、燕は被りかけていたヘルメットを脱いでそちらを伺う。格納庫の入口に立っていたのは、サングラスを掛けた長身のアバター。

「シウン」
「お、あんたも来とったんか。丁度ええわ。今からウチらと一緒に、国境防衛戦に行かへんか? クロネコがおらんっちゅうても、普通なら単機で動く501エースが三機や。向こうのエースが出張って来ん限りは、オーバーキルもええとこやで」

 たまにはいいだろ、と、燕は嘯く。

「マキシマム・オーバーキルだ。やってしまおうぜ」
「いひひ――ええやん、ええやん。普段のカツラギは木石の草食系やけど、こと戦闘だけは頼れる男やっちゅう事を忘れとったわ」
「どういう意味だそれ」
「その言葉には私も同意する」
「シウン――あんたまで」
「私の口からはそれ以上の事は言えぬ。そう言われて何か思うところがあるのならば、日頃の行いを省みる事だ」

 ともかく、と、彼――シウンは、首を横に振った。

「とにかく会議室に来い。話はそれからだ――既にルナ殿とトニー殿、クロネコ殿はこちらに来ている」

 言われて燕とアタゴは、顔を見合わせた。




「本題に入る前に、これを見て貰おう」

 シウンが「こつり」とホワイトボードを叩けば、そこには鮮明な地図が浮かび上がる。見た目は何処にでもありそうな古びたホワイトボードであるが、それは大した問題ではない。ここは仮想空間。どれだけリアリティがあっても限界はあるし、それとは逆に出来ることなら何でも出来る。

「これは超大陸ユグドラシルにおける、我がティグリア共和国の勢力範囲だ。そしてここに――これを重ねる」

 浮かび上がった地図の数カ所に、赤い×印が現れる。

「それって――ひょっとして?」
「左様。我らが領域内で、“X-47もどき”が目撃された場所だ。大まかなばらつきはあるが、ほぼ全てが、ユグドラシルの未踏破地帯に近い場所に集中している」
「と言うことは、あれか? あの無人機は、いわばユグドラシルの“先住民”って事なのか?」
「それが単なる設定だと考えるなら、そうであるのだろう。私のようなアメリカ人には考えさせられる設定だが」

 その地に遙か昔から住んでいた人々を追いやり、駆逐し――それを“間違い”だった事に気づいた国の男は、首を横に振る。
 ともかく、その“設定”自体は不思議なものではない。ユグドラシルはプレイヤー達にとっては空白地帯であるが、そこが無人の沃野であるとの説明がされてたわけでもない。ともすれば、外からやってきた“蛮人”達に、そこにいた人々が立ち向かおうとしている――そういう物語も“あり”だろう。

「このゲーム元々がそう言うモンやとは言え――何かそう言う話をされるとなあ」
「日本人の貴殿でもそう思うか、アタゴ殿」
「ったり前やん。ウチは誇り高き空の戦士や。理非をわきまえん盗賊やない――ああ、今更アメリカ人がどうとか言うつもりは無いさかい、シウンは勘違いせんとってえな」
「心得ている」

 だが、と、彼は首を横に振る。

「何故、運営からの正式発表がない?」
「それは――そう言うストーリーだからじゃないのか? 突然現れた未知の勢力。最初からご丁寧に運営の挨拶付きじゃ萎えるだろ。まあ、近頃のゲームは親切設計が多いから、それもまあそれで良いが」
「確かにトニー殿の言うとおり、普通であればそう考えるべきだ。しかし、我々が初めてあの無人機に遭遇してから既にかなりの時間が経つ――あれだけの強さを誇る相手に対して、何らかの説明があっても然るべきだ」

 あるいは、その正体をほのめかすようなイベントの存在。
 この501航空隊が結成されたときと言い、“ストラトダンサー・オンライン”を運営する会社は、そう言うタイミングを外さない。だから、このゲームはフライトシューティングゲームで最も人気がある。

「けどそれも、ただの“じらし”と言えばそれまでだし、わざわざそこに突っ込む理由は無いと思うわ。シウン――それが前置きなら、本題はなに?」

 パイプ椅子に腰掛けていたルナの言葉に、シウンは頷く。もう一度ホワイトボードを叩くと、今度は何か文字の羅列が浮かび上がった。

「文字化けしてるぞ」
「そうだな、だが、これが原文だ」

 そこに現れた文字列は、いわゆる“文字化け”を起こしていた。そこに何が書いてあったのかは、まるで読み取ることが出来ない。意味不明な文字と記号の羅列。

「これが何やて?」
「出所はわからぬ。だが――これは、“ストラトダンサー・オンライン”のアメリカサーバーが、数時間前に“悪意のあるプログラム”として弾いたデータだ」

 コンピュータネットワークが普及してからこちら、そこには常に悪意のある人々の存在があった。ネットワークセキュリティとは、ファイアウォールとコンピュータ・ウィルスのいたちごっこの歴史であると言い換えても良いだろう。
 当然、企業のパソコンとて同じ事である。悪意のあるプログラマーや、一部の危険なプレイヤーにより、ネットワークゲームの根本が狙われる事は、多々ある。

「これがネットに流れた経緯はわからんが――その暫くあとに、妙な書き込みがアメリカサーバーの掲示板に流れた」

 シウンが言うのと同時に、数行の英文がホワイトボードに現れる。
 同時に顔をしかめたのが、女性陣三名。

「え、英語は――中学レベルです」
「高校の時英語は2やったわ。あ、い、一応――五段階のな?」
「十段階の7だったけど子育てしてる間に忘れたわ。忙しさに追い立てられたせいかしら」

 それを見遣ったトニーがため息をつき――腕を組んで言った。

「ウチの女共が案外アレなのはわかったが――実際なんて書いてある?」
「インテリ面してあんたも読めてへんやないのトニー!」
「これが読めるかどうかはともかくとして、これとさっきの文字化けと、何の関係が?」
「違うの、だってあたし中学生だから! 難しい英語なんてわかんないの! だからそんな目で見ないでカツラギくん!」

 シウンが指示棒でホワイトボードを叩くと、その文字列が日本語に変わる。
 そこには、こう書かれていた。

 ――――この場所は我らの創造した大地である。この大地によくも土足でもって上がり込んだ見知らぬ者どもよ。我らの新天地を我が物顔で踏みにじろうというのならば、その時は情け容赦などがあると思うな――

「訳したのは私であるから、細かなニュアンスまでは保証せぬが」
「シウンが訳したってんなら、間違いはないだろ。ざっとさっきの目で追ってたけど、そういう感じの事が書かれてたのはわかったしな」
「え……カツラギくんって意外とインテリ?」
「少なくとも大学には合格できたな。よしクロネコ、今度ログインしたときお前メモ帳と辞典ソフト持ってこい。俺がどっかから、英語の勉強資料ダウンロードしてきてやる」
「何が悲しくてゲームの中でまで勉強しないといけないの!?」

 頭を抱えてうずくまる相棒を尻目に――燕は言った。

「シウンの翻訳を疑うんじゃないなら、妙な文章だな」

 流れからしてこれは、“ストラトダンサー・オンライン”のプレイヤー達に対する挑戦状である。これを送ってきたのが“ユグドラシルの先住民”というのならば、具合は良い。
 ただ――それにしては少し、文章がおかしいのだ。

「プレイヤーがユグドラシルに侵攻してきたことに怒る原住民――そういうキャラクターがいるのならば、この文面はおかしい。何せ我らが“新天地”とある」
「せやったら単純に、ウチとは違うどっかの勢力が送ってきた手紙やと思えば、ええんちゃうの?」
「そうだったら掲示板に堂々と載せればいいだろ。自分の身元を明らかにした上でな――そうやって役に“なりきる”のも、この手のゲームを楽しむコツだろうよ」
「そうね――ねえ、シウン。この文章の“出所”は?」
「リアルでは言語学を研究している大学教授――そう自称するプレイヤーだ。そしてそのプレイヤーによれば、この文章は先程の“文字化け”を解読した結果らしい」
「まさか」

 トニーが言った。
 文字化けとは、コンピュータの中に存在しないフォントを表示するような指示に、コンピュータが対応する事が出来ず、結果として文字がおかしくなってしまう現象である。
 だからそれを読み解くことは不可能である。文字エンジンを入れ替えてコンピュータ自体に解読させるならともかく、“読み解く”ことは。コンピュータの中を流れる、0と1のデジタル信号を、生身で読み取れるとでも言うのなら話は別だが。

「馬鹿げてるわ、確かにね。頃合いは良いかも知れないけれど――どうせ、何処かの暇なプレイヤーの悪戯でしょう」

 そもそもの文字化けが、出所不明の場所からアメリカサーバーに送りつけられたデータであるという情報にだって、信憑性はない。

「それでも一部の物好きの間ではお祭り騒ぎだ。その文章を“解読”したという者が、本物かどうかもわからぬと言うのに――やれ、これは幽霊からの手紙だ、やれ、ソースコードはヴォイニッチ写本がどうだと」
「近頃そういうの流行らないと思ってたんだがな。俺がガキの頃にはまだ夢があったぜ」
「年に一回は地球が滅亡するんだって言うのを“夢”って言うならね」

 トニーとルナが何やら頷き合うのを横目で見つつ、燕は言った。

「まあ、これが悪質な悪戯なのか幽霊からの手紙なのか――それはまあ、好きな奴らが突き止めれば良いんじゃないか? 最終的に何処まで尾ひれが付くのか見物だ」
「それと前後して、欧州サーバーである事件が起きた。知っているか。その影響で、現在欧州サーバーは一時停止中だ」
「?」

 その場が静かになるのを待って、シウンは口を開く。

「――ゲームの中で撃墜されたプレイヤーが――現実に死んだ」
「え……ええ?」
「言いたいことはわかる。Railioの安全装置に、プレイヤーの脳波異常を感じ取る緊急ラインがあるのは知っているか? あれが作動すると、Railioのコンピュータはネットワークを通じ問答無用で、最寄りの救急を自動手配する」
「説明書にはそんなことを書いてあったわね、でも――」
「言ったら何だが、それはそいつ自身に問題があっただけだろう?」

 Railioを含む、仮想空間体感装置には厳重な安全装置が備わっている。どのような使い方をしても、それ自体が原因で人体に悪影響が及ぼされる事は無いと言われている。“脳”という、人体の最重要機関をフル稼働させて味わう世界であるからこそ――その脳に過負荷が掛からないように、とりわけゲーム機であるRailioには、大げさな程の安全装置が備わっている。
 ゲームに興じすぎて餓死したなどという信じられないニュースが、しかし昔から存在していたのは事実だ。だがそれはあくまでプレイヤーの自己管理の問題であり、ゲームそのものに原因があるわけではない。

「プレイヤーの遺体を発見したのは、その緊急連絡で駆けつけた救急隊員であるそうだ。ログを解析したところ、脳波異常が感知されたまさにその瞬間――“あの無人機”と戦い、そして撃墜されている」
「そう言われても」
「だから英語圏のプレイヤーと、ゲームファンの間ではちょっとした騒ぎになっている。正体の今だわからぬ敵にやられたプレイヤーが、実際に死亡した――時間を同じくして流れた、出所不明の声明文。話題性は十分だろう」
「……」
「これは私の予想だが――じきに欧州サーバーは復調するだろう。これでも私はリアルで、仕事柄、仮想空間体感装置についてある程度の勉強をしているが――あれを使って脳に損傷を与えるのは、絶対に無理だ。言うなればそれは、本に書かれた文章で持って読んだ人間を殺す――そういう行為だからな。常識的に考えれば、運悪くその時、そのプレイヤーが体調を崩したとしか思えない」

 それでもこの事件は、すぐさま日本サーバーにも波及するだろう。
 押し黙った仲間達を見遣り――シウンは、重々しく言った。

「そこで、どうする。我ら――ティグリア共和国第501特務航空隊の面々としては」




 シウンの予想は、正しかった。
 声明文云々はさておくとしても、欧州でゲームをプレイ中の人間が突然死したというニュースは、それなりに話題になっていた。こと、仮想空間体感型ゲーム機の使用中に死亡事故が発生したのは、初めての事例である。
 Railioは前述した安全装置の存在があって、通常のパソコンやゲームよりもある意味で危険が少ないのだ。ネットワークゲーム黎明期には、それこそ寝食を忘れてゲームに没頭し、衰弱死してしまうという極端なプレイヤーも存在した。しかし、Railioを含む仮想空間体感型ゲーム機は、そうなる前に機械の方が医者を呼んでくれる。その機能が故障していたる状態では、ゲームに接続は出来ない。
 だから警察やRailioを作ったメーカーは、やはりこれが偶然の――プレイヤー自身の体調不良によるものであると結論づけている。
 ただそれでも、“ゲームをプレイ中のプレイヤーが、アバターと同時に死亡”というのは、中々にミステリアスなニュースである。原理がどうこう言うのではない。そのニュースに“話題性がある”と判断したマスコミのせいで、欧州サーバーの封鎖が解かれている現状にも関わらず、多くの人がそれを知るところとなる。

『――ではこれについて専門家の意見はこちら――原理的に、そう言った事故はありえない』
『それは何を根拠にそう言っているのか。そもそも仮想空間体感機というのはですね』
『ネットワークゲームの中毒性と危険性というのは、それが登場した頃から指摘されているものでありまして――』

 テレビの中で、普段は何をしているのか良く分からない自称“専門家”が、勝手な推論を並べ立てている。今のところ捜査に協力的である“Railio”のメーカーに批判が及んでいないのは、幸いと言うべきだろうか。

「怖いわねえ……これ、燕の下宿にあったゲーム機でしょう?」

 だがそれでも、門外漢に取ってみれば同じ事である。
 ただ夕食の席で、テレビを眺めていた燕に掛けられた母親の一言には、酷く苛立ちを覚えた。

「大げさだよ」
「でも私たちにしたら十分恐ろしいのよ。用は、脳に電波を流し込んでるわけでしょう?」
「そう言うのに詳しい知り合いに言わせたら、昔のパソコンの前で座ってるゲームの方が余程危険らしいぜ」
「そうかしら」

 自分がここで母親に反論したところで、彼女がそれを認めることはないだろう。自分で納得できるまで文句が出るに違いない。そして日常的にその様な代物とは縁の薄い彼女に、それが“理解”出来る日が来るとは思えない。

「湊もああいうのをやったことがあるの? あなたゲームとかに興味が無さそうだから、うちには必要ないって安心してたけど」
「友達の家でやったことはあるけど、気持ち悪くなってすぐやめちゃった」
「そこで俺を見るなよ母さん。それは機械のせいじゃない。ゲームの中外で感覚が変わるのを中々受け付けられずに、そういう症状が出る奴は居るんだ」

 結局それを治そうとしたら慣れるしか無いんだが、と、燕は言った。

「それでも、やっぱり私は怖いし、好きにはなれそうにない」
「それはそれで仕方ないだろ。車みたいなもんだよ」

 危険度で言えば、車は仮想空間体感機の比ではないだろう。しかしここでそう言うことを言っても言い訳にしか聞こえまい。

「……兄さん、ああいうゲームって、面白いの?」

 そこで妹が会話に食いついてくるとは意外だった。これは自分の敵となるか味方となるか。

「普通に面白いけど。お前さっき気持ち悪かったたって言ったろ。興味あるのか?」
「よしなさいよ燕。湊は受験勉強があるんだから、あんまり変な誘惑するんじゃないの」
「だとさ。俺も悪いことは言わないから、手を出すなら受験の後にしとくべきだと思うぜ?」
「私はあの気持ち悪いのに耐えてまでゲームしようとは思わないし、そんなにゲーム自体が好きじゃないから別にいいけど……ただ、人によってはそんなに面白いと思うものなんだったら……」
「――ひょっとしてあれか、“ユウちゃん”の話か」
「え?」

 何か考え事をするような表情をしていた湊は、その一言にひょいと顔を上げた。

「ちょっと前の夜に、お前“ユウちゃん”と喧嘩になったろ。お前気づいて無かっただろうけど、あの子宥めたの俺なんだからな」
「えっ? えっ? な、何で兄さんが?」
「だから偶然通りかかって。お前俺の事にも気がついてないみたいだったし、あそこであの子一人放っておくのもどうかと思ったし――幸いにも向こうは俺の事覚えててくれたから、そこそこ話が出来たけど」
「え、あ、あの――ゆ、ユウちゃん、何て?」
「その前の俺の方から一つ聞かせろ。お前、あの子とちゃんと仲直りしたのか?」
「あ、うん……」

 小さく、しかし、彼女は頷いた。

「あの次の日に――話しも聞かずに怒鳴ったりしてごめんなさい、って、電話で」
「そっか。いや――先に言っとくけど、俺は何も言ってないからな。ただあの子がもうちょい冷静になれるようにって、それらしいこと言って宥めただけだ」

 母親の何処かにやにやとした笑みを視界に入れないようにしながら、燕は首を横に振る。

「お前の方から、偉そうな事言って悪かったって言っておいてくれないか? 運良く大学に受かったとは言え、俺があの子にわかったような事が言える立場だとはとても思えん」
「そんなこと、気にしなくても良いと思うよ? ユウちゃん――もう少しだけ、勉強頑張ってみるって。それ聞いて、私思ったの。あの子だって――怠けてるはず無いのに、自分は何言ってるんだろうって、だから――」
「その話はもう終わりにしてくれ。俺がそう言う柄かどうかわかるだろ。それよりRailioがどうだって? 俺はただ自分が面白いとしか言えんぞ」
「あ、うん」

 強引に話の矛先を変える。燕は、自分があの水戸由香と言う少女に大した事が言えたとは思っていない。無責任に自分の持論を押しつけたのが関の山である。考えてみれば、あの場で彼女の怒りを買っていてもおかしくはなかった。
 出来ればそう言うことを、いつまでも覚えていたくはない。他人に偉そうな事を説教するのは、もう少し年を取ってからで良いだろう。

「何て言うか、ああいうのに熱中できるのって――やっぱり、それだけ面白いって事なのかなと思って。ううん、何が面白いかは人それぞれだって言うのはわかるんだけれど」
「お前の言うとおりだよ。それが何か問題でも?」
「お金とか時間とかつぎ込んだりとか」
「ああ――お前は大丈夫だよ。そういうしっかりした意識があれば」

 オンラインゲームは時間と金を浪費する。“ストラトダンサー・オンライン”においても、課金によって高いランクの機体や武器、デザイナーによるオリジナルペイントなどを提供するサービスが存在する。
 燕としては今のところそちらに手を出すつもりはないが――時間を浪費していると言えば、言い訳は出来ない。

「けど、他の趣味と一緒だろ。そう言うのは。そりゃまあ、ものがゲームだからな。不健康というか、活動的とは言えないけど――たとえば車をいじったりだとか写真を撮ったりだとか山に登ったりだとか。極論を言えばそれだって時間と金の浪費だろ?」

 趣味というのは詮ずるところそういうものだ、と、燕は思う。
 達観するつもりもないが、卑屈になろうとも思わない。

「……」
「悪い、受験生には耳に毒だな。まあ、もう暫く辛抱してくれ」

 “息抜き”を全くせずに受験勉強をするのは、余程“勉強”という行為が好きでない限りは苦行でしかないだろう。だが、喜々として趣味に時間を割けるほど、今の彼女には余裕がないはずだ。
 先程他の趣味と同列に語ったものの、ネットゲームなど時間の浪費の最たる例である。あまり彼女の前で語るような事ではない。

「――つまりはあれか? ユウちゃんが?」
「あら、そうなの湊? ねえ、燕――」
「俺に二度も三度もカウンセラーの真似事なんて出来るか。大体日頃ネットゲームやってる暇な大学生に、“ゲームはほどほどに”なんて言われて素直に聞けるかよ?」

 母親は自分を便利屋か何かと勘違いしているのではないかと、燕は鼻を鳴らす。
 まさか本気でそう言うことを言い出すわけではないだろうが、単純に自分には無理だ。

「――どうなんだよ。ユウちゃんそんな、勉強に影響が出るほどゲームにはまってんのか?」
「……」

 燕は、額に手を当てた。

「勘弁してくれ。それと――あの子に関しては、心配ないだろ。お前だって勉強の息抜きにテレビ見たり漫画読んだりくらいはするだろうが。あの子がどれほどのゲーム好きかしらないけど――“それ”があるから勉強をおろそかにしてるってのは、ちょっとお前、言い過ぎじゃないか」

 湊は応えない。
 そうなってしまえば――燕の方から、口を開けない。
 結局夕食の場は、何だか居心地が悪いまま終わってしまった。




 湊と入れ替わりで風呂に入り、父親が仕事から帰ってきた辺りで、燕は自分の部屋に引っ込んだ。自分でも薄情なのではないかと思うが――湊と由香の話に関しては、これ以上関わり合いになりたくはない。
 むろん、彼女らの事をほとんど何も知らない自分が、首をつっこめるはずもないのだ。それは事実なのだが――どうも、そうして自分を納得させようとしている気がする。

(帰ってくるんじゃなかったかな、やっぱり)

 自分が想像していたのとは、少し違うけれど。
 溜め息混じりにベッドに座り、投げてあった携帯電話を手に取る。着信履歴有り――見覚えのない番号だった。
 無視しても良かったのだが、何となくその番号をインターネット検索に掛けてみる。

「……スターゲイザー・エンターテイメント――運営じゃないか」

 それは、“ストラトダンサー・オンライン”の発売元であり、ゲームを運営するアミューズメント企業であった。
 しかし――何故?
 ゲームに関する『お知らせ』であるならば、ネット上のメールボックスに配信される。自分たち“501特務航空隊”の性格を考えても、せいぜいユーザー登録の時に入力した携帯のアドレスにメールが来る程度だろう。
 それがメールではない、電話である。

(何だって言うんだ? 別にチートとかした覚えはないぞ?)

 運営から直接電話が掛かってくるなど、ただごとではないはずだ。だが、心当たりはない。お叱りを受けるようなプレイをした覚えは無い。
 この番号に電話を掛けて聞いてみればいいのかも知れないが、何となく気持ちが悪い。
 さてどうしたものかと――そう悩んでいると、再度の着信。
 思わず背筋が跳ね上がった。
 一人部屋の中で呼吸を落ち着け、恨みがましく携帯電話を睨み、そこに表示されている文字列を確認。

「……クロネコ?」

 そう言えばプライベートでは電話など受けた覚えのない――彼の相棒の名前が、そこには表示されている。
 意を決して電話に出てみれば、耳慣れた少女の――ものに聞こえる、何処かの声優の声。

『あ、カツラギ君、もしもし――起きてた? 聞いた!?』

 まくし立てるように、彼女は言う。何となく予想はついたものの、敢えて知らない振りをする。主に自分の精神の安定のために。我ながらみっともない、と、思わなくもないが。

「何だよ藪から棒に。さっきまで風呂に入ってて、今携帯を見たところなんだが――何かあったのか?」
『それじゃ、電話のこと、まだ知らないの?』
「……着信があったのは知ってる。だが内容までは――どうでも良いがお前、ちゃんと勉強はしてるんだろうな?」
『今はそれどころじゃないよっ!!』

 この剣幕は――ただごとではない。一度彼女の気持ちを落ち着けようとしたのだが、これでは何を言っても逆効果だろう。

「運営からのアレな――お前は内容を知ってるのか?」
『知ってるも何も――ああもう、あたしもまだ、頭が混乱してるんだけど』
「ふむ……よし、クロネコ、結論から話せ。聞きたいことは俺から質問する」
『あ、うん、えっと、結論って――』

 電話の向こう側から、少しの沈黙。彼女なりに考えを纏めているのだろう。
 ややあって、多少歯切れ悪く、彼女の声がする。

『運営は――“スターゲイザー・エインターテイメント”は、あたしたち“チーム・ハイドラ”に協力して欲しいって。その――世界を救うために』
「……は?」

 そしてその彼女の言葉は、自分の理解の外にあるものだった。



[37800] 第七話 知らずに通い合う心
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/06/28 21:10
第七話「知らずに通い合う心」

 三日後の午前八時半――燕の姿は、彼の実家から電車で割合すぐのところにある、地方都市の駅にあった。具体的には、彼にとって最寄りとなるこの新幹線の駅に、である。
 目当ての列車がホームに滑り込んでくるのをぼんやりと眺め、ドアが開いたところで車内に入る。グリーン車である。彼は未だかつて、指定席以上の付加価値を持つというこのシートを、自らの意思で選んだ事はない。
 切符に書かれた番号を確認し、ショルダーバックを荷物棚に押し上げ、シートに腰を下ろす。運が良いのか、窓際だった。もはや今の新幹線の座席は二列シートが主流である。昔のように窮屈さを感じる事はない。
 ようやくひと心地が付けたところで――燕は記憶を辿る。
 まだ刻まれて間もない、その記憶を。

『このような時間に突然のお電話を申し訳ありません』

 三日前の夜――“ストラトダンサー・オンライン”の運営からの謎の電話を受け取り、混乱の極みにあるクロネコをどうにか宥めた後。
 自分の携帯電話の着信のあった番号に掛けてみれば、受付らしい女性を取り次いだ後で、落ち着いた、若い男の声がした。
 だが、その返答は異常であったと思う。何せ、相手は電話を掛けてきたのが“草壁燕”といういちユーザーであることを知っている。この時点で、人違いではないだろうか、あるいは悪戯ではないだろうかという希望的観測は、消えた。

『私は、“スターゲイザー・エインターテイメント”、システム管理運営部の角田と申します。以後よろしくお願いいたします』

 何をどう宜しくと言うのか――何と返答をすればいいものか迷っていると、電話口のを名乗る男は言った。

『結論から申し上げますと、草壁様。実はあなたに、とある事案についてご協力を頂けないかという用件で、お電話を差し上げたのです』

 はあ、と、燕は気の抜けた返事をした。
 協力をしろ――とは言っても、自分はただの、電話口の男の会社が提供するネットゲームを利用する、いちユーザーでしかない。せいぜいがアンケートに答えるくらいのことしか、頭に浮かばない。

『その“とある事案”というのは一体何でしょうか?』

 だから当然、燕はそう聞いた。

『うちの相棒の言うところによると、何でも世界を救うためだとか』
『ユーザーネーム“クロネコ”様ですね。どうしても電話口ですと、遣り取りできる情報が限られてしまいます。我々としても何と説明すればいいものやら苦心したのですが――余計な不安感を与えてしまったようで、お詫びいたします』
『いや、別に』

 何かの宗教だとか、そう言った類のものでなければ良いのだが。
 そう言うことをやんわりと伝えてみたところ、電話口の男は言った。

『そう思われても無理はありませんが、我が“スターゲイザー・エインターテイメント”はどのような宗教とも無関係の、ただの営利企業です』
『ただの営利企業が世界を救うんですか』
『言葉の遣り取りの上では誤解もありましょう。むろん、現実にこの地球が存亡の危機にあるというわけではありません。あくまで比喩的なものです』
『何がどういう事態なら、そんな比喩が出てくると。第一、それを単なる顧客である自分たちに言って、どうしろと?』

 燕は困惑のうちにあったから、別にそういうつもりはなかったのだが。聞き返したその言葉は、自分の耳にもひどくぶっきらぼうなものに聞こえた。

『詳しいお話は、電話よりも直接お会いした上でお願いしたいのですが』

 燕の疑問に対する男の回答は、それに集約した。
 どうやら相手が“ストラトダンサー・オンライン”の配信元である会社であるのは、間違いないらしい。だから、おかしな所に騙されているという可能性は薄い。そんなことを考えていると、相手はそれを察したのだろうか、言葉を続ける。

『草壁様が困惑されるのも、無理はないと思います。だからこそ我々は、直接あなた方と会って話がしたい。逆にそうすることで、我々の誠意と受け取っていただければ幸いです』
『直接会うと言っても』
『差し支えが無ければ、ご都合の宜しい日に、東京にある我々の本社までご足労頂けないでしょうか。むろん交通費、滞在費の一切は、こちらで負担させていただきます』

 果たして、冒頭に繋がるわけである。
 燕は送られてきた目的地までの切符――それの一部である新幹線乗車券が指定するこのグリーン席の、やたらと座り心地のいいシートに体を預けて考える。
 自分たちが、他の万単位を数える“ストラトダンサー・オンライン”のプレイヤーと比較して、一体何が違うのだろうか。
 ティグリア共和国のエース部隊であることは、理由にはなるまい。あれは単なるイベントの結果であるし、特別仕様のプレイヤーホームと戦場介入権の他に特典があったわけでもない。いわば“501特務航空隊”は、ただのプレイヤー同士のコミュニティの一つに過ぎない。
 だとすれば――どうしても、嫌な想像が、頭を過ぎってしまう。
 あるいはあの“シウン”の話が無ければ、ここまで不安を感じることは無かったのかも知れないが。

(欧州サーバーで起こったっていう、プレイヤーの死亡事故)

 だが同時に、あれはただの事故であるはずだ。
 タイミングとしては、悪い意味で神懸かり的なものだった。しかし実際に、どういう使い方をしたところでRailioを持ってして人を死に至らしめる事が出来ない以上、それは偶然であるとしか言いようがない。
 ただそれでも。
 そのプレイヤーが死亡した原因が、ゲームに出現した謎の無人機にあるのだとしたら――果たして、今現在“カツラギ”と“クロネコ”の“チーム・ハイドラ”は、その未知の脅威を相手に明確な勝利を収めた、確認されている唯一のプレイヤーなのである。だから運営は、その彼らに助けを求めた。
――そこまで考えて、自分でも「それはない」と思った。

(たとえば単純に、こういうのはどうだ。あれは正規の敵キャラクターデータじゃなく、ハッカーが流し込んだ非正規プログラムだった。だからあれを相手に出来る俺とクロネコに、運営は――)

 それも馬鹿馬鹿しい、と、思い直す。
 何故ゲームの運営会社が、電子攻撃を受けたとしてそれをプレイヤーに丸投げするというのか。普通なら配信を一時停止してメンテナンスを行う。それが正常な対応だろう。燕は“ストラトダンサー・オンライン”のトッププレイヤーの一人ではあるが、実のところ、プログラミングなどのコンピュータ関係の事については、ほとんど素人も同然なのである。
 そんな相手に、何か頼み事をしようという企業もないだろう。

(だったらどうして、俺たちが呼ばれる事になったんだ)

 わからない。少なくとも現時点では、どれだけ考えても。
 それでもこうして考えを巡らせてしまうのは仕方ないだろう。こんなものは、自分の理解の範疇を越えている。
 単純に突っぱねてしまえばいいと、そうする事も出来た。むしろ、やましいことが何もない以上、そうするべきだったのかも知れない。ただ――

「無視して知らない振りするのも、難しいよな」

 あの夜、自分の相棒である少女の言った言葉が、頭を過ぎる。
 結局自分は、運営会社が言いたいことも、相棒の言いたいことも理解しきれない。けれど――自分には関係ないと高をくくる事は、難しい。
 そうしたところで誰からも責められる事はないだろうし、果たしてこの場にいる自分は、どちらかと言えばお人好しなのだろう――それも悪い意味で。
 しかし知らない振りも、出来なかったのである。知らない振りをしたままで、今までのように“ストラトダンサー・オンライン”というゲームを続けるのは難しい。何故だか直感的に、そういう風に感じられたのだ。
 だから自分は――

「ここ――いいですか?」

 茫漠とした思考に沈みかけていた燕は、はたと声を掛けられて我に返る。どうやら彼の隣の席を指定された乗客が、声を掛けてきたらしい。
 どうぞ、と言いかけて顔をそちらに向け――彼は、一瞬固まった。

「……ユウちゃん?」
「お兄さん?」

 どうやらそれは、向こうも同じだったようだ。
 小柄な体に、腰程まである長い髪。あどけない顔に、似合っているのかどうかよくわからない黒縁の眼鏡――妹である湊の親友、水戸由香の姿が、そこにはあった。

「あ、き、奇遇、ですね。お兄さんは、何処かへご旅行にでも――」

 何故だろうか、その言葉が、口をついて出たのは。
 直前まで、“そのこと”を考えていたせいかもしれない。だがどうしてだろう。似も付かない筈の目の前の少女が――自分の見知った彼女に見えたのは。だから気がつけば、燕はその名を口にしていた。

「――“クロネコ”?」
「――!?」

 少女の目が、これ以上ないほどに見開かれる。ややあって、震える彼女の唇が紡いだ言葉は、果たして自分と同じものだった。

「か……カツラギ――くん?」




『本日は、新幹線をご利用いただき、誠に有り難う御座います。この電車は、のぞみ○○号、東京行きでございます。途中の停車駅は――』

 モーターの音を響かせながら、十六両編成の列車がホームを滑り出す――かと思えば、数分も経たないうちに既に速度は時速二百キロを超えている。車窓の景色が、普通の電車の比にはならない速度で流れていくのを横目に、しかしそのグリーン車両の一角、二つ並んだシートには、何というか気まずい空気が流れていた。

「あ、あの――えっと」

 由香は、何かを言おうとした。しかしその視線は燕の方を向いてはおらず、ふらふらと頼りなく宙を彷徨う。

「や、やっぱり、普通に敬語で話した方が良い――です、よね?」

 ずっと黙っていたと思ったら、そんなことを考えていたらしい。どうやら彼女が抱いていたのは、自分の思う気まずいと言う感情とは、少し違うものであったらしい。その事実に、燕は少しだけ気持ちが落ち着いたような気分になった。
 だから、とりあえず肘から先をまっすぐ伸ばした右手を、額の辺りにあてる――所謂“敬礼”のポーズを取ってみる。

「前に言ってたよな。たとえば自分の知り合いがゲームの中で戦友だったらどうするかって――とりあえず、敬礼でもしてみるかって」
「あ……」
「どうするのが正しいのかは俺にもよくわからないけど、意味もなく気まずいのもな。その点、“カツラギ”と“クロネコ”には、そう言うのは無縁だろ?」
「う……う。うん」
「とりあえず、遠慮はしなくていい。俺も――それもどうなのかとは思うけど、“いつも通り”にしてるから」

 こくりと、由香は頷いた。その仕草は、小柄で子供っぽい彼女にはよく似合っていたけれど、さすがに黙っておくべきだろう。
 どちらにせよ、燕の選んだ選択肢は、正しいかどうかはともかく、間違ってもいないようだった。ややあって、彼女はゆっくりと――燕と同じ姿勢を取る。つまりは、“敬礼”の。
 新幹線の中で、隣同士の席に座り、“敬礼”を交わす男女――傍目には異様な光景に見えただろうが、この際それは気にしないことにする。

「まさか――お兄さんが、カツラギくんだったなんて」
「不思議と俺の方にはあんまりショックは無いな。俺が“ユウちゃん”の事をほとんど知らないから、そう思うのかも知れんが」
「……ほとんど知らない、かあ」
「“カツラギ”と“クロネコ”の事を考えたら、そりゃ、何だか虚しい気分にはなるけどな」

 むろん、それはただのゲームの中の出来事である。“カツラギ”と“クロネコ”がどれほどの信頼で結ばれていようが、それは所詮、彼らが「そう言う役回りを演じている」と言うことでしかない。虚しいと言えば、虚しい。けれど本来、ものはただのゲーム。深く考える必要など何処にもない。楽しければそれだけでいいのである。
 そう――本来こうして、ゲームのプレイヤーであるはずの自分たちが、現実に顔を突き合わせる事など、あり得ないことなのだから。

「おにいさ――“カツラギくん”は、本当にあたしの事、全然覚えてないの?」
「この間のアレで、少しは思い出したよ。けど正直、二人してゲーム機持って転がってた事くらいしか覚えてない」
「なんてムードのない思い出……」
「だってあの時の俺って小学生だぞ。お前なんて幼稚園児くらいじゃないか?」
「小学校には上がってましたー」

 何が気に入らないのか、ふくれっ面で由香はこちらを見上げてくる。
 その顔に――見慣れたアバターの少女が重なる。
 やはり彼女は自分の知っている“クロネコ”なんだなと、そう思う一方で――現実の彼女が、おぼろげな記憶にしか残っていなかった妹の友人であり、そして今、自分がこうして彼女と会話をしているというこの事実こそ、何だか現実感を感じない。

「お前の方こそあんまりはっきり覚えてんなよ……いくら子供の頃の話だって言っても、そんな自分よりずっと小さな子供相手にだな、たかがゲームで得意になって、恥ずかしすぎるだろ昔の俺」
「あたしの中では、結構楽しい思い出だからいいんじゃない?」

 ことり、と。そんな擬音でもくっつきそうな様子で、由香の頭が、燕の肩口に触れる。

「――“クロネコ”?」
「いいじゃん。あたしと、カツラギくんの仲でしょう?」
「それはあくまで――まあ、いいか」

 燕は小さく咳払いをしたが、彼女の好きにさせる事にした。スキンシップとしては少々積極的過ぎるきらいはあるが、ここで無理に素っ気なく装うのもどうかと思う。内心、悪い気もしないわけであるし。

「何でだろう。あたし今、すごく落ち着いてきた」
「羨ましいな。俺はまだ冷や汗が引かねーよ――汗くさくても知らんからな?」
「平気。嫌な匂いはしないよ? えーと、男の匂い?」
「無邪気な顔でよく考えずにものを言うのはやめような。な?」
「実はね、ここに来るまで、すごく怖かった」
「……」

 肩に感じる心地の良い重み。由香の息づかいを感じる。

「運営の言ってる事は、正直あたしにはよくわからなかった。今でも、何が起きてるのか、正直、よくわからない」
「俺にだってわかんねーよ。ここに来るまでずっと色々考えてたんだが、堂々巡りで」
「でも、さっきお兄さんに会って、お兄さんが“カツラギくん”だってわかって。何だろう、胸の奥が、すうっとした感じ」
「……」

 それは結局、根拠のない安心感に過ぎない。燕がプレイヤー“カツラギ”であることがわかり、連帯感のようなものが生まれたのだとしても、果たして状況が変わったわけではない。燕と由香は今――二人の理解の外側にある出来事に、巻き込まれたままである。
 一人きりなら不安に押しつぶされそうでも、道連れがいれば開き直れる。そういう単純で、あまり褒められたものではない思考を経ての事かも知れない。
 ただ燕も――厄介なことに、由香の言葉が何となく理解できてしまう。多分彼女ほどでは無いけれど、彼女の言う安心感のようなものを、自分も感じてしまっている。

「カツラギくん――ここは現実で、“ハイドラ”は無いけれど」

 ここにいさせて――囁くように、彼女は言った。

「今更だろ」

 だから、燕は言った。
 その時の自分は、由香にとって友人の兄である草壁燕ではなく――エースプレイヤー“カツラギ”であったから。

「お前がそこにいる限り、俺たちは無敵だ」
「……んぅ」

 “クロネコ”が、彼の首筋に鼻先を寄せる。
 火照った頬とは対照的に――その小さな鼻先は何だかひんやりとしている。ぼんやりと燕は、そんなことを考えた。

「ね、あたし――今、なんにも怖くない」
「知っての通り、あのゲームの中じゃともかく、現実の俺はただの大学生だぞ」
「でも、カツラギ君だもん」
「理由になってねえよ」
「……ねえ、覚えてる?」

 燕の呆れたような言葉を軽く無視し、“クロネコ”は甘えたように言う。

「あたしには憧れの人が居て――その人は、なんだかカツラギ君に似てるって」
「そういえばそんな――」
「あれって、お兄さんの事だったんだよ?」

 言葉が、止まる。

「んふふ――そっか、そっかあ。似てても、当たり前だよね。お兄さんが、カツラギ君だったんだ――うふ」

 ずるずると――首筋にあった由香の顔が、下に下がってきて、腹の辺りで止まる。丁度、倒れ込んできた由香を膝枕しているような格好だ。彼女の顔が腹に押しつけられたままでなければ、であるが。

「お腹硬い。男のお腹ってこういうもの?」
「その状態で喋るなくすぐったい。それとこんな所を人に見られたらお前、誤解されるぞ」
「何想像してんのスケベ」
「殴って良いか?」
「ごめん。その――多分あたし、今、お兄さんの顔、ちゃんと見れないから。……覚えてる?」
「日本語はちゃんと主語と述語を考えて喋れ、受験生」
「カツラギ君は、あたしがその“憧れの人”の事――多分好きなんだろうって、言ったよね?」

 確かに、そう言った。
 と言うよりも、ああいう言い方をされれば誰でもそう思うだろう。幼い頃の彼女は“あしながおじさん”のようなその誰かに憧れて、きっと今でも、その誰かの事を好きなのだろうと。

「えへへ……あたしね? あのゲームの中で、昔のお兄さんみたいに、とっても優しいカツラギ君の事が、大好きだった。でも、あれはあくまでゲームだから――カツラギ君にどうこう言われなくても、それはわかってた」
「……」
「正直ちょっと、もやもやしてた。頭ではちゃんと、割り切ってるんだけど、何だかこう――それであたしって“浮気性”なのかなって」
「いい機会だから言ってやるがクロネコよ。お前、何年も顔も見てないような相手に気持ち引きずって、挙げ句ゲームで出会った誰かに対してモヤモヤするのはどうかと思うぞ。昔の俺だって、妹の前で良い格好しようとしただけだし、お前は多分俺のことを勘違いしてる。俺はそのうちお前が悪い奴に騙されるんじゃないかとヒヤヒヤしてる」
「まさか。“カツラギ君”は、途方に暮れてたあたしを拾ってくれた。“お兄さん”は、久しぶりにあったあたしに、変わらず優しい言葉を掛けてくれた。それともあの全部、嘘だって言うの?」

 そうではない。そうではないのだが――彼女に憧れを抱かれるほどに大した気持ちではないのも、また事実なのである。ちくちくと、心の奥底が、痛い。

「でも、全部、解決しちゃった。あたし、すごいラッキーかも。世界で一番、幸せかも」
「安い幸せだなおい」
「カツラギ君は、あたしをずっと支えてくれた。現実で何も出来なくて、でも、あたしを必要としてくれる人が居る事実を教えてくれた。そしてまた出会ったお兄さんは、あたし自身を、認めてくれた」
「やめてくれ心が痛い」
「そんな二人が、あたしには、とても大事。どっちが大事かなんて、選べなくて」
「そもそも選ぶなよ。俺の意思は無視かよ」
「でも、カツラギ君はお兄さんだったんだもの――もう、何も心配なんてしなくていいんだ――えへへへぇ」

 ここで自分はどうすればいいのだろう。腹に顔を押しつけたまま泣き笑いの由香を前にして、平凡な――下手をすれば平凡以下かも知れない大学生の自分には、いささか難し問題である。
 結局検札に来た車掌に対して大あわてをする羽目になるのだが、それはもう少しだけ後の話であった。




 株式会社「スターゲイザー・エインターテイメント」は、元々は長尾情報機器サービスという、電子機器の製作とプログラム開発を主な業務としていた会社から派生した企業である。株式上でも大きな関係を持ち、スターゲイザー・エインターテイメントの社長は、もとは母体となった会社で重役を務めていた人物であるという。
 だから、主に仮想空間体感型ゲームを開発販売、管理するこの会社は、他のゲーム会社に比べればアドバンテージがある。スーパーコンピュータを一から設計出来るだけの下地があるうえで、膨大な情報の管理が必要となる仮想空間の構築が出来るのだ。“ストラトダンサー・オンライン”をはじめとするこの企業のゲームが、その完成度から高い評価を得ている一端には、そう言う理由もあるのだろう。
 信頼と実績に裏打ちされた“こだわり”――それが、このゲーム会社の売りであった。
 そのオフィスは、東京のオフィス街の一角にあった。真新しい、何処かのデザイナーに依頼したのだろう洒落た五階建てのオフィスビル。正直なところ、まだ学生身分の燕にとって、足を踏み入れるには場違いすぎる場所である。
 新幹線を降りてからこちら、ずっと彼の手を握って離さない由香――“クロネコ”にとっては尚更だ。
 だからここは、自分が格好を付けるべきである。どうせ来年になれば、就職活動で似たような思いは腐るほどしなければならないのである。その予行演習と思えば――燕は、鉄壁の営業スマイルを浮かべる受付嬢に相対する。内心、せめてスーツを着てくるべきだったと後悔しきりである。

「あの、すみません」
「いらっしゃいませ――本日はどのようなご用件でしょうか?」
「あの、私、草壁と申します――本日二時より、御社の角田様と会う約束をしているのですが――」
「角田で御座いますね? 少々お待ち下さい――受付です。今こちらに、草壁様と仰る方がお見えなのですが――はい」

 受付嬢は電話を取り――何か確認をしているのだろう。二言三言言葉を交わすと、恭しく燕と由香に頭を下げた。

「お待たせいたしました、草壁燕様と、水戸由香様ですね? お待ちしておりました。角田が応対致しますので、右手のエレベーターから四階へどうぞ」
「あ、ど、どうも」

 その一分の隙もない、来客を前にした模範的な一礼に、いまだ世間知らずの学生でしかない燕は、歯切れ悪く返す。こちらは非常にぎこちない答礼。
 手を繋ぐと言うよりは、腕にしがみつくような格好の由香を引きずるようにして、案内されたエレベーターへと向かう。

「お前さ」
「何?」
「新幹線の中で、俺が側にいれば何も怖くないとか言ってなかったか? その手は何だよ。手のひらが汗で凄いことになってるんだが」
「恐怖と緊張は似て非なるものですよ、カツラギ君」
「屁理屈こねてる暇があったら英語の文法でもやってろよマジで」

 溜め息混じりに、しかししがみつかれた腕を振り払うまではしない。すでに到着していたエレベーターに乗り込み、十数秒にも満たない間の悪い時間を過ごせば、機械の音声が無駄なまでに爽やかに、到着を告げてくれる。
 下りた場所は、パーテーションで仕切られた大きな空間だった。
 要所要所に鉢植えの観葉植物などが置かれ、掃除が行き届いている。目隠しのせいで、エレベーターホールからこのフロアの全景を見渡すことは出来ないが、パソコンのキーを叩く音や、明らかに専門用語混じりの会話が漏れ聞こえて来るところから、大勢の人間がここで働いているのだろうと想像が付く。
 未だ労働には縁遠い由香と、アルバイトくらいしか経験の無い燕は、その雰囲気に思わず足を止める。まだ“雰囲気”の段階であるにもかかわらず、である。だから――そのまま呆けていたのはどれくらいの時間だったか。声を掛けられた二人は、揃って背筋を跳ね上げる。

「草壁様と、水戸様ですね。お待ちしておりました」

 振り返れば、真夏だというのに、きっちりとスーツに身を包んだ背の高い男が立っていた。年の頃は三十そこそこと言ったところか。いかにも仕事が出来そうなビジネスマン――と言った風体である。
 その見た目にそぐわぬ無駄のない動きでポケットから名刺入れを取り出し、燕に差し出す。その名刺には、彼が少し前に聞いたのと同じ肩書き――システム管理運営部の主任、角田と記されていた。
 さてビジネスマナーとして、名刺は両手で受け取らねばならないのだったか――そんなことを考えつつ、目の前の男はどうにも、システム管理などという裏方よりは、営業にでも出た方が良いのではないだろうかと詮ない事を考える。

「本日はわざわざ遠方よりご足労頂きまして、有り難う御座います」
「いえ」

 ただ。
 ここであっけに取られて、馬鹿のような面を晒しているばかりでは居られないのである。ちらりと、受け取った名刺を両手で持ち、穴が空きそうな程に眺めている由香に目を遣ってから、燕は言った。

「ああいう言い方をされては、無視するわけにも」
「こちらとしましては、タチの悪い悪戯だと思われるくらいならまだマシだ、程度に思っていたのですが」
「……何で敢えてそう言うやり方を」
「上司の意向です。正確には上司の意向があったから、敢えてそうした、と言うべきですか――何しろ最初は、どうせ疑われるのならばと、連絡も無しに突撃訪問をと言われていたくらいですから」
「そうしないでいただけたのは幸いですが――」

 何処までが冗談なのかわからないその言葉に、燕は肺の奥から妙な息がこぼれ出るのを感じた。もし最初から、この男を含めてこの会社の人間が、大挙して家に押しかけて来たらどうだろうか。考えたくはない。

「ここで立ち話と言うのも失礼ですので、こちらへ。社長がお待ちです」

 未だかつて、現実でその肩書きを有するような相手に対面した事のない燕である。緊張してしまうのは仕方あるまい。結局そのような肩書きなど、自分の関係のないところで生きる人間ならば、社長だろうが大統領だろうがさしたる意味がないとしても。
 パーテーションで仕切られた通路の中を歩いて、そのフロアを横断する。その奥にはまた廊下が延びていて、案内されたのはその先だった。角田というその男は、軽い調子でドアをノックする。

「どうぞ」

 聞こえてきた声と共に、ドアが開かれる。
 そこは“社長”とやらの部屋なのか、あるいは応接室なのか。さほど広くはない部屋であった。部屋の奥には大きめの木製デスクがあり、その脇には観葉植物が置いてある。その手前には、ガラスのテーブルが鎮座し、それに向かい合うように、座り心地の良さそうなソファが二つ、置かれている。
 手前と奥――所謂上座と下座の配置でないのは、来客を考慮しての事だろうか。ともあれその片方に、一人の男性が座っていた。恐らく彼が、先程部屋の中から彼らを招いた男であろう。
 年の頃は六十過ぎと言ったところだろうか。少し薄い白髪に、皺が刻まれた柔和な顔立ち。恰幅のいい体を、ゆったりとした仕立ての良さそうな服に包んでいる。

「社長、草壁様と水戸様をお連れしました」
「ご苦労。君はもう下がっていい。どうにも君が居ると、そこの二人も落ち着いて会話が出来んだろうからね」
「畏まりました」
「全く君は職務に忠実だが、もう少し気持ちに余裕をと言うか、適度に気を抜くことを覚えた方が良い。そこの彼らに“世界を救ってくれ”と頼んだと聞いたときには、頭を抱えたくなった物だ」
「嘘は一言も申しておりませんし、社長の考えに悖るような事をしたつもりも御座いません。では、失礼します」

 その言葉と共に、二人を案内した角田を名乗る男は、部屋から出て行った。ドアが閉まる音と共に、呆然と立ちつくす二人は、その空間に取り残される。

「どうもすまんね。あれは知り合いのつてで引き抜いたのだが、どうにも根が生真面目な男でね。嘘つきになれとは言わんが、いい加減冗談の一つでも覚えてくれればと、年寄りのお節介程度に思っているのだが――」

 初老の紳士はそう言って立ち上がり――何かを思い出したように、二人に対して頭を下げた。

「申し遅れたが、私は田島正宗という。戦国武将のような名前の割に名前負けしているとよく言われるが――ともかく、“スターゲイザー・エインターテイメント”、この会社の社長をやらせてもらっているものだ」

 まあ掛けなさい、と、社長と来客というには砕けた風に彼は言う。どちらかと言えば、遠路を訊ねてきた孫に会った祖父、とでも言った感じだ。
 そういう燕の視線を感じ取ったのだろうか、腰を上げた彼は、その皺が刻まれた顔に、人なつっこい笑みを浮かべてみせる。社長という肩書きを持つともなれば、愛想笑いの一つも学んではいるのだろうが、その時に彼が浮かべたそれは、一見してそうとは思えなかった。

「この年まで独り身だった私が“おじいちゃん”とは行かないが――だがこの場では、君たちとは社長という肩書きを抜きにして話がしたい。そうでなければ、君たちをここへ呼んだりはしなかっただろう」

 自分で部屋の奥にあった冷蔵庫から、ペットボトルに入った飲み物を取り出し、燕と由香の分をテーブルの上に置きながら、田島は言った。

「そうだな――歳の離れた友人か、あるいは仲間――そう、仲間だ。君たちのチームに入れてくれとは言わないが。そういう風に、君たちも遠慮せずに自分の気持ちを伝えてくれればいい」

 自分のところに呼びつけておいて、図々しいとは承知しているが、と。彼は言った。
 むろん、その一言で緊張が取れるわけではない。燕はどこか硬い動きで、そして由香はそんな彼に引きずられるようにして、ソファに腰を下ろす。

「ところで君たちは、ただゲームの中でコンビを組んでいるだけと言うには、随分と仲が良さそうに見える。リアルでも知り合いだったりするのかね」
「え――わかりますか」
「そんな風に腕を組んだままではね。独り身には目の毒だよ」

 何故か嬉しそうに言う由香に、田島は大げさに肩をすくめる。燕は苦笑した。同時に、先程まで感じていた緊張感が、わずかだが和らいでいる。これは自分が単純なのか、目の前の相手が、それだけ人と接する事に長けているのか。

「あ、あのっ……カツラギ君は」
「ああ、俺も今日知ったんですけどね、実はこいつ、俺の妹の友達なんです」
「……」
「おい、何でそこで睨むんだよ。本当のことだろう?」
「カツラギ君は本当に時々アレだよね? あたしが新幹線の中で何を言ったか、頭から抜けてるんじゃないよね?」
「俺がお前の“あしながおじさん”だった事については、正直なところそれなりに誇りに思ってるが」
「君さ、それ、本気で言ってる?」

 軽い調子で由香の頭を撫でる燕だったが、彼女はそれを不機嫌そうに払いのけた。まあ、言うまでもなく難しい年頃である。他人の前で子供扱いされるのが気に入らないのだろうと、彼は思った。

「まあ、それはそれで仲良くやるといい。仲良きことは素晴らしきかな。今更その様なことは、敢えて言うほどの事でもあるまい」
「いえ、本題に入る前に少しはいい気分転換になりました」

 大きく息を吐いて、燕はペットボトルを手に取った。今更この程度を遠慮する必要はないだろう。多少和らいだとは言え、緊張感で喉はからからだった。何処か不機嫌そうなまま、由香もそれに倣う。一息で二人が、その半分ほどを空けるのを待ってから――田島は言った。

「さて君たちは、“ストラトダンサー・オンライン”というゲームのことをどの程度知っているかな」

 その問いに、二人は顔を見合わせる。まだ、この老紳士の言わんとするところは、わからない。
 燕が“ストラトダンサー・オンライン”を初めてプレイしたのは、二年ほど前のことになる。最新作“コンタクト”でなく、まだ無印の頃。究極のフライトシューティングゲームを銘打って、RailioⅡでそれが発売された頃の事である。
 田島は、ややあって、ゆっくりと語り出す。

「私は昔、パイロットになりたかった。だが生まれつき目が悪くてね。何となく、それを理由に諦めていた。もっとも結局、それはその程度の夢でしかなかったと言うことなのだろうがね。だが、何の縁かこうして、コンピュータの仕事に就くようになり、更には何の因果か、ゲームを開発運営するこの会社を任されるに至った」

 そこで思い出したのが、その昔からの夢だったのだ、と、田島は言う。仮想空間体感型ゲームは、それこそ、荒唐無稽な夢をもう一つの現実にしてしまう、そう言う装置なのである。

「私と同じように、非日常世界に生きるパイロットに憧れ、“ストラトダンサー・オンライン”のパッケージを手に取ってくれた君たちならば、私の言いたいことも少しはわかるのではないだろうか?」

 燕はパイロットになりたかったわけではない。それはおそらく、自分には務まらない高度な職業であろうと考えていた。言い訳でなくそういう風に思っていたから、最初からその道を目指そうと思ったこともない。
 けれどこうして――時にはそれが重荷にすらなる、“ストラトダンサー・オンライン”のリアリティを楽しんでいる自分は、結局は“そう”なのだろう。戦闘機パイロットという非日常の世界への憧れ、それがプレイヤー“カツラギ”を、あの世界へ駆り立てたものなのだ。

「君たちのような人間が存外に多いことは、“ストラトダンサー・オンライン”が、世界中にプレイヤーを持つゲームへと成長してくれたことが証明している。私はあのゲームを作るに当たって、限界まで妥協はしなかった。実機と同じマニュアル操作にせよ他の何にせよ――そこまでの拘りに何の意味があると、何度も企画会議でつるし上げを食らったものだ」

 果たして、“ストラトダンサー・オンライン”は満足のいくゲームに仕上がった。これから先、究極のリアリティを手にしたこれらのゲームが、どのような進化を遂げていくのか。もはやそれらのゲームを生み出す立場の田島にすらわからない。
 けれどこのゲームは、自信を持って自分が作り出した傑作と言える――彼は、何処か誇らしげにそう言った。

「まあ、私の自慢はさておくとして。それだけのリアリティを持つ“ストラトダンサー・オンライン”が、どの程度の規模の情報量でもってして管理されているのか、考えたことはあるだろうか?」

 燕と由香は、もう一度顔を見合わせる。
 彼らには、コンピュータの専門知識などありはしない。最新型のゲームがどのように稼働しているのかなど、全く理解の外の事象である。

「プレイヤーデーターや戦闘機のデータ、それを飛ばすフィールドデータその他諸々――情報量は決して少ないものではない。しかし現実に迫るリアリティを提供する仮想空間体感型ゲーム機を可能にした現代技術にとってみれば、あくまで不可能でない情報量だから、それが可能である――と、言い換える事も出来る」
「……?」
「外国にいくつかサーバーはあるが、それは我々のようなネットワークゲームを提供する企業のために用意された、いわば借り物だ。そして、この建物の地下もまた、“ストラトダンサー・オンライン”の他、各種ネットゲームを管理するサーバー室になっている。後で時間があるときに見学していくといい」
「あの……それは光栄ですが、それが何か?」
「デジタルデータとはつまり、0と1の織りなす二進法の世界。どれだけ膨大な情報であろうが、それをたった二つの数字だけで表すことが可能であり――そしてこのちっぽけな会社で管理できる程度の情報量なのだ。あの“もう一つの世界”と、そう言い換えても言いあれは」

 あまり考えたことはない。しかし、結局はそうなのだ。あの現実に迫る光景も、群雄割拠の世界も――結局はゲームデザイナーの手によって作られた、データの集合体でしかない。
 だが、それがどうしたというのか。自分たちを相手に、ゲームプログラムの授業をやりたいわけでもあるまいにと――そんな風に燕が思っていると、田島は言った。

「“ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”が発売される暫く前のことだ。ここに、一人の人物がやって来た」

 そう――と、彼は短く言葉を切り、視線を燕と由香に投げかける。
 その仕草の意味を考える前に、彼は言った。

「その手に、一つの“世界”を携えて」






[37800] 第八話 スーツケースの中の世界
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/07/05 12:06
第八話「スーツケースの中の世界」

 その人物は明らかに、普通ではなかったと、田島は言った。何せ、寒い季節でもないのにロングコートを着込み、目深に帽子を被り、ろくに顔など見えはしない。燕と由香を完璧な営業スマイルで出迎えてくれた受付嬢も、その来訪者には面食らっただろう。
 声の調子からあれは女性のように思えた、と、田島は続ける。

「声の調子から……って、田島さんはその人の顔を見ていないんですか?」
「帽子にコートの襟をを立て、口元にはマフラーだ。受付にはいつでも警察を呼べるように準備をして貰ったよ。私がここで彼女――だろうその人物の相手をしている間、ドアの外にはウチの社員の中でも腕っ節の強い奴を何人か、機械のメンテナンスに使う工具を武器代わりに持たせて待機させていた」
「その状況を作ってまで、よくもまあその不審人物の相手をしようと思いましたね」
「彼女の持っていたものに、興味が湧いた」

 彼女は金属製のケースと、一台のノートパソコンを携えていた。果たしてそのケースの中身は一枚のディスク――三次元結晶型の、大容量ディスクだった。
 彼女はただ、それを売り込みたいと言った。当然、田島がそうするかどうかはそのディスクの中身次第である。

「奇妙なディスクだった。量販店で売られている数テラバイトの結晶ディスク――そのはずが、その中に入っていたのは数百ペタバイトオーダーの膨大なデータだったのだ」

 どんな圧縮をしたとて、それほどのデータが一枚のディスクに収まる筈がない。そして今なお――その情報の総量は、本当のところはわからないのだという。

「どうしてですか?」

 由香が不思議そうに言った。

「その圧縮技術が、何かもの凄く画期的なものだったとして――それでも、それは数百ペタバイトのデータだったって、さっき」
「人間の脳に収まっているデータは、実は数百メガバイトの情報量に置き換えられる。そんな話を聞いたことは?」

 彼女の疑問に、まるで教師のような振る舞いで、田島は応えた。

「人間の脳細胞のネットワーク、その“構造的限界”を調べてみると、どう考えてもその辺りに行き着くのだそうだ。これは数十分の音楽を、旧式のデジタルデータで変換した情報量に等しい。我々は果たして、そんなちっぽけな情報量で、この世界を感じ――そして、心の中に一つの世界を持っているというのだろうか?」

 脳科学が格段に進歩した現在でさえ、その本当のところはまだわかっていない。人類が本当に、たったそれだけの情報量を駆使して、一個の人格を作り上げているのか。それとも、人間の脳細胞ネットワークは、その持ち主である人間にさえ想像も付かないやりかたで、その構造限界を遙かに超える情報を処理しているのか。その真実を、まだ人類は導き出していない。

「それと同じだ。彼女の持ち込んだディスクは、そういうものだった。それは確かに、何処にでもある情報ディスクとしては破格の情報量を収めていた――しかし、本当に、一つの世界がそれだけの情報量に収まるものなのか? 我々は終ぞ、その答を見つけられていない」
「その女性は、それを何だと? それに――“世界”?」

 田島は首を横に振る。

「ディスクの読み込みが終わるまでは時間が掛かる。自分はそれまでの間、少し外を歩いてくると、彼女はそう言い残してここを後にし――そして、戻って来なかった」
「……」
「残されたパソコンやディスクから、どうにか彼女が何者なのかを調べようとしたこともあったがね。残念なことに、その全てが徒労に終わっている。彼女が何者で、そして何故このデータを我々に託したのか――今となっては、誰にもわからない」

 どこか不気味な余韻を、燕は感じる。隣を見るまでもない。由香も、多分そうだろう。
 そんな二人の様子を見遣り――田島は言った。

「さて、我が社の看板タイトルでもある“ストラトダンサー・オンライン”は、そのリアリティに高い評価を得ている。君たちも数あるフライトシューティングゲームの中からこのタイトルを選んでくれた理由の中には、それもあるのではないかと思う」

 事実、その通りであった。
 一口に仮想空間と言っても、果たしてそのあり方は千差万別である。まるで漫画の中のようなうすっぺらなものから、“ストラトダンサー・オンライン”のような、現実と区別が付かない程のリアリティを持つものまで、様々である。

「“ストラトダンサー・オンライン”の舞台となる、“惑星オデッセイ”。その名称は私の趣味の映画から借り受けたものだが。そこは現実に迫る世界だ。日が昇り、風がそよぎ、雨が降り――草花が芽吹き、木の葉が舞い落ちる。君たちが音速で駆け抜ける空には鳥が舞い、海には魚が泳ぐ」
「……はっ?」

 思わず、妙な声が漏れた。この男は今、一体何を言っている?

「君たちのプレイヤーホームであるアルミナ基地は、海に囲まれている。そこで泳いでみようと思った事はあるかね? ゲームの都合上、実際にそれはできない。しかしそれは、“不可能である”という意味ではない。それは単純に、“Railio”が扱える情報量の限界でしかない。その気になれば君たちはあの海で泳ぐことも出来るし、そこに泳ぐ魚を捕まえる事だって出来る」

 そんな馬鹿な話があるか、と、思う。リアリティに対する拘りも、そこまで行けば単なる無駄な作業でしかない。実際、ゲームの中では立ち入り不可能エリアが多数存在する。
 そもそもが“Railio”の為に作られたソフトウェアにおいて、そのハードの限界を超える描写を押し込んだところで、そんな物はプログラマーの自己満足にさえなりはしない。
 そこでふと――由香が、言った。

「……もしかして、“世界”――って」
「ふむ、どうやら“クロネコ”くんは気がついたようだね」

 田島は、小さく頷く。
 燕も、気がつかなかったわけではない。だが、常識がそれを否定した。
 そんなことがあるはずがない――そんな馬鹿げた話が、実際にあるはずがない。しかし、現実はそれを否定するのだろう。では、何故自分たちはこんな場所に呼び出されているのか。この状況がそのまま、それを否定させてくれない。

「君の予想は正しい。その時、その不審な女性が持ち込んだものが――“ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”にアップデートされた、君たちプレイヤーの目指すグランドクエスト。“超大陸ユグドラシル”と、それが存在する新しい“惑星オデッセイ”だ」
「……何故、そんなことを」

 果たして、とどめとばかりに放たれた田島の言葉に、燕は短く反論した。
 そのディスクが謎の世界を収めた、理解の範疇の外側にあるものだったとして――ならば何故、それをる“ゲーム”などに流用しようとしたのか。
 利益を追求するためだとしても、開発者の探求心を満たすためだとしても――疑問は残る。

「その世界はあまりに深く、そして広い。我々だけではその深淵を探るには、あまりにも時間も人間も足りない。さりとて、然るべきところ――たとえば国の機関にでもこれを持ち込んでみるべきか? 考えるまでもない。馬鹿げた話を、と、一蹴されるのが“落ち”だろう。だが、ミステリアスなゲームと銘打って売り出せば、興味のある人間は向こうから集まってくる。そのうち、この世界の謎が解き明かされる可能性もある」
「だからと言って――」

 燕は一度言葉を飲み込み――しかし、改めて口を開いた。

「それじゃ、そう言うことをするに当たって、最低限の安全性の確保とか、そういうものは? まさか“何が何だかわからないもの”を、そのままゲームの世界に突っ込んだわけじゃ?」

 欧州サーバーで発生した、ゲームの中で乗機を撃墜されたプレイヤーが、実際に死亡した事件。
 普通に考えればそれは単なる事故でしかない。だが、それは予見されていたのではないのだろうか? 田島は“ストラトダンサー・オンライン”を、理解の及ばない未知の世界だと言った。ならば、何が起こっても不思議ではない。
 だが、彼は重い息を吐き、首を横に振った。

「我々もそこまで馬鹿ではないし、人でなしでもない。今この場で倫理を説いても君にとっては無価値だろう。だが逆に、不測の事態が起きた時のことを考えてみるといい」

ゲームが原因で死者が出たなどと言うことが明るみに出れば、恐らく“スターゲイザー・エインターテイメント”は責任を追及され、そうなればゲームどころの話ではなくなるだろう。ソフトは回収され、そうでなくてもゲームの配信自体が停止される。
 彼らがその謎のデータを探求するには、プレイヤーに好きなように振る舞って貰う必要がある。そうなってしまっては、その目的は果たせない。

「だが――そもそも、そんな危険を想定する必要はなかった筈だった。君も“Railio”がそんなに危険な物かどうかくらい知っているだろう」

 そうなのである。燕も先日、仲間である“シウン”からそれを聞いたばかりだ。
 Railioは、脳に疑似データを流し込むことにより、プレイヤーを仮想空間へと誘う。その様に書くと大層に感じるかも知れないが、脳が処理しているのは通常と全く変わらない事象なのである。
 たとえば日常生活をするにあたって、脳は感覚器官から送られた情報を処理し、世界を認識している。仮想空間体感ゲームは、その感覚器官からの信号を、機械からの信号に置き換えただけである。その入力に関しても、基礎研究の段階から細心の注意が払われている為――結局それは、たとえばテレビを観たり本を読むのとさして変わらない行為なのだ。
 まさか本に書かれた主人公が死亡するのと同時に、それが原因でそれを読んでいた人間も死ぬ――あり得ない話である。

「オカルト好きな人間の間では、かなり話題になっているようだがね。“ストラトダンサー・オンライン”のソースコードが、オカルトを利用して作られたものだと吹聴する人間まで居る」
「当たらずとも遠からずじゃないんですか。あなたたちはそのデータを、全て理解できてはいないのでしょう」
「私が若い頃に、“見ると死ぬビデオ”というものを題材にしたホラー映画があった。何度かリメイクされて、今の君たちにもわかるくらいに有名となった映画だが――では君はああいうものが、実際に存在すると? その存在を考慮して、ただのゲーム会社である我々が動く必要があると?」
「……」

 確かに、その通りだ。普通そんなことを考慮する必要はない。反論は、出来ない。

「……いかんな。すまない――私は君を挑発するつもりも、自分たちを正当化するつもりもないんだ。だがどうしてもこの話をすると、こういう風になってしまうと――わかってはいたのだが」
「……いえ、俺も、少し落ち着きが足りませんでした」

 では、と、燕は言った。

「そもそも俺たちは、どうしてここに呼ばれたのですか?」
「“惑星オデッセイ”を救うためだ」

 田島は言った。その表情に、悪戯めいたものはない。

「そういう風に、角田からは聞いているだろう。その認識に間違いはない。“ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”は、元を辿れば確かに出所不明のデータを元に構築された世界かも知れない。だが今更、君たちはあの世界を忌避しようとは思わないはずだ。君たちの絆がそれを証明している。プレイヤーネーム“カツラギ”くん、そして“クロネコ”くん」

 肩が触れ合う距離に座る二人を見て、彼はそう言った。
 反論することは出来る。自分は、ゲームはあくまでゲームであると割り切っていた。たとえば“クロネコ”の事は、気の合うゲーム仲間だとは思っていたが、間違っても仲間達に冷やかされるような事は考えていなかった。お互い顔も知らない、男か女かもわからないような相手にほのかな思いを抱くほど、自分は馬鹿ではない。
 自分が彼女とこうしていられるのは、あくまで現実の“草壁燕”が、“水戸由香”という少女と繋がりがある人物だっただけの話である。

「――」

 けれどそれとは別に、燕は田島の言葉を何故か否定したくなかった。
 仮想空間は圧倒的なリアリティを持ってプレイヤーに迫る。だが、リアリティはあくまでリアリティ。現実とは比べるまでもない。ゲームは、何処までいっても所詮はゲーム。暇な人間を楽しませるためだけに存在する、娯楽の道具。
 いい加減、大人に片足を突っ込んだ燕としては、まさかその程度の事を理解できないわけではない。けれど――

「君たちがこの世界を愛してくれていること――それこそが私は、いつかあの謎に満ちた世界を解き明かす足がかりになると、そう信じている。今君が考えている事がそのまま、我々が君たちに期待しているその理由になっていると、そう捕らえてくれていい」
「俺はまだ何も言っていませんが」
「目は口ほどにものを言う。君もあと数十年生きれば、この諺の意味がわかるようになるだろう」

 やはり自分は若造なんだろうな、と、燕は内心で苦笑する。

「話を戻そう。ことは――君たちを何度も脅かし、オカルトじみた噂の原因ともなった、あの“無人機”の話だ」




 田島は、ソファに座ったまま体を少し前に傾け――膝に肘をつけて、顔の前で手を組んだ。自分よりもずっと先に立っている筈のその男の姿が、それだけで何故かひどく、小さく見えてしまう。

「あれは我々が開発したキャラクターデータではない」

 それは、半ば予想された言葉だった。
 全ての事象が、あの正体不明の無人機を発端に始まっている。

「だが、悪意あるプレイヤーが作ったチートデータであるという可能性も低い。そうであるなら、強制メンテナンスで排除するくらいのことはできる」
「その言い方だと、運営はあの無人機をどうにもできないと言っているように聞こえますが」
「恥ずかしい話だが、その通りだ」

 田島は言った。

「我々は“ストラトダンサー・オンライン”の全てのプレイヤーデータと、シナリオデータを管理することが出来る。君たちのアバターや、使用する機体。ソロプレイ用のコンピュータ制御の“テロリスト”の機体など、それは実際、我々が管理しているものだ」
「あれは、そうではないと」
「そう――我々のもとに持ち込まれた“世界”――惑星オデッセイ。その中にもともと存在していたのか、あるいはその中で作成されたデータなのか、それはわからない。だが、“惑星オデッセイ”の謎を解くことが出来ないで居る今、あのデータが何処から現れた何者であるのか、それを知ることは我々には出来ない。ましてや、管理することなど」

 根本的な対策が無い以上、ゲームの運営を停止することも出来ない。停止したところで復帰させる目処が立たないからである。そうなれば、田島の言う“惑星オデッセイの調査”など、それ以上続ける事は出来ない。

「敢えて運営としては、それを放置した。理由は簡単だ。あれが“ストラトダンサー・オンライン”と言うゲームにとって不自然な存在ではなかったのと、そもそも“危険”などと言うものが存在しなかったからだ」

 “惑星オデッセイの調査”と銘打ったところで、現実にロケットを飛ばして未知の惑星を調べに行こうというわけではない。謎のデジタルデータをあえて放置してゲーム上で走らせ、プレイヤーの動向を調査するのと平行して、その解析を行うだけの話である。未知への挑戦などと言うにはあまりに地味な絵面ではある。
 その上で、管理できるプレイヤーデータにはハッキングなどの被害はない。課金プレイヤーの端末情報など、個人情報が引き抜かれた形跡もない。そして現れた物が偶然にも“ゲームの内容”に迎合するものであった。

「静観を決め込んだ我々が軽率では無かったと、そう言いきる事も出来ないが。君たちとしては、憤りを感じるかね?」
「正直、理解がついて行っていませんので」

 憤るも納得するも、相手の言うことがわかって居ての話である。燕は続けてくれと、田島に話の続きを促した。

「欧州サーバーで起こったプレイヤーの死亡事故は、現在のところでは、私も“不幸な偶然”であると考えている」

 “Railio”に、人を死に至らしめるだけの危険はない。しかしプレイヤーの体調管理までは、その範囲の外にある。本を読んでいてその内容で人を殺すことは出来ないが、本を読む環境はその限りではない。極端な話をすれば、車を運転しながら本を読めば事故を起こすだろうし、病気の発作を堪えて本を読み続ければ死に至る可能性もある。

「死亡したのはドイツに住む三十六歳の男性で、職業はタクシードライバーだった。当人に死に至るほどの重大な持病は確認されては居ないが――」

 人間の体は意外と頑丈であるが、奇跡的なバランスの上に成り立っているのも事実。たとえば心臓に、悪いタイミングで外部からの力が加わると、ボールが胸に当たった程度の衝撃でも人は死んでしまう。
 つまり外見上は健康に見えていた彼が、その時突然死に至った原因も、全く存在しないというわけではないのだろう。

「時を同じくして、脅迫状じみた謎の文章が発見された。アメリカのユーザーの間では随分と騒ぎになっているようだが、知っているかね?」
「うちのチームの一人はアメリカ人で、丁度あなたが言っていた“脅迫状”に関しては、うちでも思案していたところです」

 それは間違いなく、“シウン”が見せてくれたあの出所不明の文章だろう。そもそもの出所がわからず、文字化けされた文字を“解読”して発覚したという、あまりにも胡散臭い文章。
 だが、燕は一つ気になった。

「ふむ、どうやら私の言葉のおかしなところに気がついた、と言った顔だね」
「……カツラギくん?」

 彼の言葉に、由香が首を傾げるようにして、小さくこちらを見上げる。
 あれは脅迫状じみた文章であると言ったが、実際に脅迫状そのものであろう。だがあれが実際に“脅迫状”だとすると、彼の言葉は何かおかしい。
 そうだ――彼は今“発見された”と言わなかったか?

「あれがどうして、アメリカサーバーから漏れたのかはわからない。プレイヤーの中に、我々よりも優秀なプログラマーやハッカーが居たと言うことなのかも知れないが――そう」

 脅迫状とは、“相手に届ける物”だと、田島は言った。燕も、それに同意する。

「考え過ぎかも知れないけれど。ただ相手を脅そうと思ったら、それが相手に通じていないと意味はない。だから普通脅迫状ってのは、その相手に送りつけられるものだ」
「その通り。表現に多少の違いはあれど、地面を掘ったら出てくるようなものではないな。そうであるなら、それには脅迫状の意味はない」

 だが、と、田島は首を横に振る。

「実際にそれは、“ストラトダンサー・オンライン”のバグデータの中に紛れ込んでいた。欧州サーバーでの事故がなければ、チェックも無しにただ隔離し、削除されるだけのデータの中にだ」

――――この場所は我らの創造した大地である。この大地によくも土足でもって上がり込んだ見知らぬ者どもよ。我らの新天地を我が物顔で踏みにじろうというのならば、その時は情け容赦などがあると思うな――――

 シウンが見せてくれた“脅迫状”の内容である。明らかにこちらを敵対し、警告するために送られてきたのだろう文章。これが、普通なら目に付くはずのない場所に紛れ込んでいたという。

「じゃあそれは、やはり悪戯ですか? それとも――」

 それが単なる悪戯ならば、何も思い悩む必要はない。言っては何だが悪意を持つ人間は何処にでも居る。“ストラトダンサー・オンライン”はそれなりに人気のあるゲームだが、世の中には人気のある物だからとりあえず悪意をぶつけてみる――そんな人間さえもいるのである。
 だが、燕はそうは思わない。田島の表情はそう言っていないし、それならわざわざそんな話をここでする必要がない。

「この文章がどうして出回ったのか、実は私たちにもわからない」

 ややあって、彼は言った。

「発見された文章らしきデータを、“惑星オデッセイ”をロードしたのに使ったのと同じプログラムを使って、それらしい言葉に修正することに成功した。それがこの文章だ」
「ではこれは、“惑星オデッセイ”と同じ出所であると?」
「単純に出所の問題でもない」

 出所が同じというのならば、それは単純に頭を抱えるべきものでもない。ともすれば、それをもとに、データ“惑星オデッセイ”を持ち込んだ何者かの手がかりが得られるかも知れない。

「だが――こうも考えられる。これは、“惑星オデッセイ”の『中』から送られたものではないのか、と」
「まさか――」
「一つの惑星をまるごと閉じこめた膨大なデータだ。正直なところ、その解析は遅々として進んではいない。その果ての知れないデータの何処かに」

 隣に座る少女の喉が鳴ったような気がした。自分も、ともすればそうしていたかも知れない。
 そして、田島は言った。

「我々に敵意を持つ“何者か”が存在する可能性――そういうものは、考えられないだろうか」






[37800] 第九話 夜の帳に隠されて
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/07/05 12:07
第九話「夜の帳に隠されて」

 こちらに着いてから曇り始めた空は、夜になって小雨が降るようになっていた。そのホテルの一室からは、雨に煙る東京の夜景がよく見える。眠らない街などと形容されるその夜景は、この時間になっても尚明るい。自分の地元の地方都市とはえらい違いである――そんな風に燕は思った。
 通っている大学のある街ならともかく、実家のある街など、夜の十一時にもなればその大部分が、僅かな街灯を残して闇に包まれてしまう。センター街ですら、日付をまたぐ頃には静かな暗闇の中にある。
 どちらが良いとは言わないが、何だが自分がこうして夜景を見下ろしているのが、酷く場違いに感じるのである。
 そもそも、この部屋が場違いだ。
 最高級ホテルのスイートルーム――とはさすがに行かないが、それでも都心に建つ、それなりに立派なホテルである。今まで生きてきて、ホテルという物に泊まった経験が、修学旅行の雑魚寝か、受験で使用した簡素なビジネスホテルか――その程度のものであれば、逆にそれなりに立派なこの部屋が落ち着かないのだ。
 宿泊費用のことは聞いていない。むろん、それほど常識外に値が張る訳ではなく、旅行に行こうと思えば誰でも躊躇はない程度の部屋である。自分が特に小心者であるとも貧乏性であるとも思えないが。とするとやはり、今の状況のせいだろうか。
 小さく、息を吐いた。自分は酒も煙草も嗜まないが、今ここに強い酒の一つでもあれば、少しはこの落ち着かない思考が楽になるだろうかと、そんな風に思った。残念ながら、備え付けの冷蔵庫にそう言ったものは入っていなかったけれど。
 ――よそう、いい加減限界だ。
 燕は、先程の溜め息に倍するほど大きな息を吐き、とりあえずベッドに倒れ込んだ。
 大概のホテルなら当然なのだが、当然靴は履いたまま。布団に土足を乗せるほどマナーが悪いつもりはないので、両脚はベッドから投げ出したまま。
 小さな、電子音が鳴った。同時に、硬質な金属の音。電子式のオートロックであるこの部屋の鍵が、解錠された音だ。チェックインしたときに受け取った自分の電子キーは、変わらずポケットの中にある。だから、それが出来る人間は今、一人しかいない。

「ただいま――ああ、いいお湯だった。あれ? カツラギくんまだお風呂入ってないの?」

 浴衣の上に、ホテルのマークが入った上着を羽織り、首からバスタオルを下げた由香は、ベッドに突っ伏したままの燕に不思議そうな視線を向ける。

「あたしなら平気だからカツラギくんも行ってきなよ。ここのお風呂すごいんだよ。ジャグジーとかサウナとか――今日って平日だからかな、泊まってる人もあんまりいないみたいで、ほとんど貸し切りみたいで長湯しちゃったよ」

 火照って少し赤くなった頬で、しっとりと濡れた長い髪を揺らしながら、彼女は燕の前を横切り、冷蔵庫の扉を開ける。

「やっぱりこういう場所のドリンクって高いんだね。でもまあ、いいか。ここはおごりだし――カツラギくん、あたしビール飲んじゃっても良いかな?」
「止めはせんがお前にはまだ早いと思うぞ?」

 いい加減、無視は出来なかった。腹筋に力を入れて起きあがり、じとっとした目線を、目の前の少女に向ける。

「いや、やっぱり止める。これ以上自分の立場を危うくするのはごめんだ。今でさえこの状況がお前の親御さんにでも知れたら、俺は後ろに手が回るぞ」
「えー、何。今更そーゆー事気にしてたの? あたしとカツラギくん仲なのに」
「それは所詮ゲームの中での話だと言ってるだろうが」
「でも結局、“カツラギくん”は“お兄さん”だったわけだし。もう何も遠慮しなくてもいいわけだし」
「遠慮をしろとは言わんが、お前は自分が微妙な年頃の女の子だって自覚した方が良いぞ」
「心配しなくても、それなりに身持ちは堅いよ? それはカツラギくんだって知ってる筈だけど――だって“お兄さん”だしねえ」

 ないない、と、彼女は顔の前で手を振った。
 そもそもあの時――田島が今夜の宿を用意すると言った時である。
 彼の告げた事実は、あまりにも突拍子がない物であり、それを信じるにしても信じないにしても、落ち着く時間が必要だろうと、彼は近場にあるこのホテルを予約してくれたのだ。
 当然、年頃の男女である。田島とて最初は、別々の部屋を用意するつもりだっただろう。
 それを強引に相部屋に変更させたのが、とうの由香である。自分と燕は昔からの知り合いだし、こんな話を聞かされた夜に一人で思い悩みたくはないと、彼女はそう言った。
 大の大人から、一介のゲームのプレイヤーでしかない女子中学生に対して告げられるには、あまりに理解の範疇を越えた話である。二人の現実世界での関係を聞いた田島は、それなら“間違い”もあるまいと、由香の要望を受け入れたのではあるが。
 何だか面白い物を見るような彼の表情は、今思い出すと何だか胸にこみ上げるものがある。

「でも――“お兄さん”の方にその気があるんだったら――ね? あたし、カツラギくんが相手なら、まあその……いいかな、って気もしてる」

 そう言って由香は、口元で手を摺り合わせて見せる。
 相手によっては、脳髄を焼かれるような仕草だったのだろうな――と、燕は思うが。如何せん相手が相手である。

「俺は妹の友達に手を出して人生ゲームオーバーにはなりたくねえよ。つかお前、全然余裕じゃねえかよ? 俺はお前が一人じゃ怖くて眠れませんって言うから、仕方なく相部屋で我慢してやってんだぞ」
「そういう言い方は酷いよカツラギくんは。そりゃまあ……あたしだって、ちょっと悪のりしてテンション上がってるけどさ」

 口をとがらせ、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを引き抜き、由香は部屋のソファに乱暴に腰を下ろした。

「なら無理はすんな。俺だって今日のことは色々、まだ、自分の中でも纏め切れてない。けど俺はお前より年上で、男だから。それになにより、お前の相棒だからな。そういう“無理”は、俺に任せてお前はさっさと寝ろ」
「それはずるいよカツラギくん。相棒なら、ちゃんと、あたしも悩まないと」
「“悩んでる”なら無理はすんなって言っただろ。それに、“ハイドラ”のご主人様はお前だ。面倒なことは俺に任せて、お前はいつも通り、舵取りをしてくれたらそれでいい」
「……」

 ふっと、口元に笑みが浮かんだのが、自分でもわかる。そうだな、と、彼は言った。

「俺もちょっと風呂に行ってくるか――でも何か大浴場まで行くのも面倒だな。ここのバスルームで良いか」
「もったいないよ。折角だから入ってきたら?」
「気が向いたらそうするよ――念のために言っておくけど、覗くなよ?」
「それって前振り?」
「……じゃあ別に覗くのは構わんがそれでどうするつもりだ」
「それを年下の女の子に言わせるかなあ、きみは」
「やっぱり大浴場に行ってきます」

 クローゼットを開いてバスタオルと浴衣を引っ張り出す。着替えは向こうですればいいだろう。丁度同じようにして由香が持って行ったコンビニのビニール袋があったので、それを手に取る。

「ちょっ……カツラギくん!? それはちょっといくら何でもっ! あたしの下着とか入ってんだよ!? 使用済みのっ!!」
「“使用済み”とか言うなよ。俺は下着泥棒なんざ趣味じゃねえよ」
「カツラギ君がそれを使うのは別にいいけど!! だからそれを男湯の脱衣場に放置するつもり!?」
「俺がこれを何に使えと? 別に中が見える訳じゃないし――すまん。俺の荷物の中に適当な袋があったと思うからそれを――」

 彼女と同い年の妹がいて尚、年頃の少女の扱いは難しいと感じる物らしい。もっとも、その妹に苦手意識を持って距離を置こうとしていた自分が言えた話ではないか。しかしそれならそもそも別の部屋を用意して貰えばいいものを――
 そこまで考えて、やめた。
 冗談めかして言う彼女だが、それなりに心の中は穏やかではないのだろう。でなければそれこそ、一応は大人の男である自分と同じ場所で寝泊まりしようなどとは言い出さないだろう。
 赤い顔でこちらを睨む由香に手を振りつつ、燕は部屋を出た。
 ――仕返しのつもりだろうか、戻ってきたときに防犯ロックを閉められて一悶着あったのは、ご愛敬である。




 考えてみれば、今の人類の存在にしても奇跡のようなものである。燕は、大学の一般教養で聞きかじった、普段考えたこともないような知識の欠片を、頭の片隅で弄ぶ。
 太陽のように自ら輝く事の出来る恒星――その系列にあって、生命が存在できる可能性のある領域をハビタブル・ゾーンと呼ぶ。もしもここから地球が外れていたら、そもそも地球に生命は誕生しなかった。
 その幸運に恵まれて、地球には海が出来た。そしてその海の中で、様々な元素が攪拌されるうちに、生命の素となる有機物が出来た。
 ここまでは、現代の実験でも再現することが出来るのだという。様々な元素が詰まった岩盤を溶かす、強酸性の原初の海。現在よりも地球に近かった月が起こす強烈な潮汐力。それに加えて、落雷や隕石、火山の噴火――そう言った刺激の中で、無機物から有機物が生成されることは、偶然にも十分あり得ることである。
 だが、たかが分子構造の中に炭素を含むというだけの“それ”が。
 人間を含む、全ての生物が持つ遺伝子――二重螺旋構造を描くDNAに発展するというのだろうか?
 たとえばそれは、生命の素となる元素を全て含んだ液体をペットボトルにでも入れて――それをただひたすらに振り続けていたら、偶然の組み合わせから遺伝子が誕生しましたと、そう言っているようなものではないか。
 原初の生命誕生とは、未だに謎に満ちている――その講義を何となく聴いていた時、自分は何を考えたか。昔手のひらでパズルのピースを踊らせているうちに、パズルを組み立てる事の出来る男――そんな手品だか隠し芸だかわからないものをテレビで見たことがあるが、何故かそれを思い出した程度である。
 かたや、一つ一つでは何の意味も成さない、元素の塊でしかない有機物。
 かたや――複雑に組み合わさっているとはいえ、0と1の複合体でしかないデジタルデータ。
 さて、この世に奇跡はあるのだろうか。
 本当に普段考えたことも無いようなことを考えつつ、燕は常夜灯が薄暗く照らす天井を眺めていた。
 眠れない。
 眠れないと感じた夜は何度もあったが、今度はそのどれとも違う。
 自分は、どちらかと言えば眠りに対して悩みはない。どれだけ眠れないと感じていても、布団に横になって電灯を消し、目を閉じれば、いつの間にか眠りに就いている。不眠症などの病気を抱える人間ならともかく、大抵の人はそうではないかと思う。
 とかく人間の体とは良くできているもので、頭が眠れないと考えたところで、“寝る体勢”を整えてしまえば容易く眠れるのである。
 しかし今日は違った。本当に、眠れない。
 枕元のデジタル時計は、午前二時を表示している。かれこれベッドに潜り込んでから、もう二時間以上が経っていることになるが――一向に、眠気が訪れない。

「――カツラギくん」

 隣のベッドから、声がする。とうに眠りに就いたと思っていたが――やはり、“相棒”もまた、同じような事を考えていたのだろうか。

「もう、寝ちゃった?」
「……いや」

 天井を見つめたまま、燕は言った。

「田島さんが言っていた事を、考えていた」
「?」
「現れた“敵”が、“惑星オデッセイ”ってデータの中から生まれた、一種の生命体みたいなものじゃないかって話」
「……」
「俺は生物学者じゃないし、コンピュータの事にも詳しくはない。それがどれほどあり得ない事なのかは良く分からない。下手なSF映画とか、似たような話は誰でも聞いたことがあるだろうし、下手をしたらそう言うこともあるのかも知れないって、そう思ってしまう。それこそ学者が聞いたら腰を抜かすかも知れないが」

 もっと単純に考えて、と、彼は続ける。

「田島さんの言う“謎の人物”が持ち込んだ“惑星オデッセイ”の中に、最初からあの“無人機”と、それに連なるデータは存在していて、それが時間差でもって現れただけかも知れない。でも、それに何の意味が?」
「その女の人は、“惑星オデッセイ”が、こんなゲームに使われるとは思っていなかったんじゃないの?」
「“スターゲイザー・エインターテイメント”はゲーム会社だぞ。ゲーム会社にデータを持ち込んで、それを他の何に使えって?」
「それも――そうか」

 暗闇の中で暫く由香は黙り込み――そして、言った。

「何だか、首の辺りとか、膝の裏とかがちりちりする感じ。寝苦しい」
「ちょっと冷房強めてみるか?」
「暑いわけじゃないの。カツラギくん、そっち、行って良い? ――大丈夫、変なことはしないから」
「それは前振りか?」
「そうだったときに困るのはカツラギくんじゃない?」
「こんな状況、どう転んだところで最終的に困るのは俺だ」

 とかく世の中は不条理なものなのである。ここ東京のような大都会では、サラリーマンは両手を挙げていないと電車に乗っていられないと言うが。

「それじゃ、おじゃまします」
「おう――落ちるなよ? こっちの方が壁際だし、場所替わるか?」
「寝相は悪くないから大丈夫。カツラギくんは?」
「俺もそこまで悪いって自覚はないが、起きたら布団を跳ねとばしてることはある。危険を感じたらすぐに逃げろよ」
「そこまで?」

 暗いので、彼女がどのような顔をしているのかはわからない。だが今の一言で一歩引いたような事を言いつつも、自分のベッドから抜け出して、もそもそと燕の方に潜り込んでくる。
 小柄な彼女だが、シングルベッドに二人はやはり狭い。直接に触れなくても、彼女の体温を感じる。間違ってもここで相手を抱きしめたりするのは正解ではないだろう。燕は自分の寝ている側の背後が壁だったので、出来る限りそちらに寄ってみる。

「そんなにすみっこに行かなくても大丈夫だよ」
「そうは言ってもな」

 異性の知り合いと同じベッドの上というのは、いくら草食系の極みと仲間内でからかわれる燕としても思うところがある。

「カツラギくんでもそう言うこと思うの?」
「お前は俺を何だと思ってる」
「だって――あたしの事、ミナちゃんの友達くらいにしか思ってないのかと」
「お前が湊の友達だとか関係あるか。このシチュエーションで何も感じなかったらそりゃお前、どう思うよ」
「それは――でもあたし、ミナちゃんに比べたら全然子供みたいだと思われてるのかと。背も低いし、胸もないし――」
「あいつは妹だろ」
「カツラギくん、ミナちゃんが学校でどれだけ人気あるか知らないでしょ? 街とか歩いてても、すごいんだから」
「同じ血を分けた兄妹なのにその差は何だよクソが。超うらやましい」

 こぼれ落ちたその言葉は、場を和ませようとしたのか素直な嫉妬だったのか。自分でもわからない。すぐ隣で感じられる由香の息づかいと、形容しがたい甘い香りに、思考がおかしな具合に溶かされていくのを感じる。

「そんなミナちゃんが妹だから、あたしは女の子として見られてないと思ってた」
「だから俺を何だと思ってる。大体クロネコ――今の“ユウちゃん”と顔を合わせたのは、今日以外には、お前がうちの馬鹿と喧嘩してたあの夜だけじゃないか。女として見るも何も、そんな暇すらあるもんか」
「あたしがもっと、ミナちゃんみたいに美人でスタイルも良かったら、そうは思わないかも知れないよ?」
「ねえよ」
「ねえ、知ってる? ナンパされたりするのって、確かに気持ちの良いものじゃないけどさ。ミナちゃんに声を掛けられる脇で、空気みたいに扱われる時――あたし、それなりにみじめだなって思うんだけど」
「気の利いた言葉を掛けてやれなくてすまんが、俺にそう言う手合いと同じ事は求めんな。あの夜に俺がお前に、『彼女、ちょっとそこでお茶でも?』とか声かけてたらお前どう思うよ」
「きみにはナンパのセンスが壊滅的に無いんだろうなってそう思う」
「だから実際言わねえよそんなことは。ああもう、余計に眠れなくなっちまう」

 八つ当たり気味に、がりがりと燕は頭を掻く。

「真面目な話していいか」
「今のは今ので、あたしにとっては割と真面目な話だったけど」

 そうかもな、と、燕はおざなりに応える。隣で彼女がどういう表情を浮かべているのかはわからないが、確認しようとは思わない。

「今の“ストラトダンサー・オンライン”には、正体もわからない謎の意思が存在してる。単なるデジタルデータの塊に向かって対話をしようってのも馬鹿な話だが、しかし“意思”を持ってるらしい相手に向かって、対話が成立しないのももどかしいものだ」
「田島さん達は、それを突き止めようとしているんだよね」

 明らかにこちらに向けられた敵意――一つの世界を内包する、果てのない“データの星”に、自分たちの現実世界を認識して、憎悪を抱く何者かがいる。

「コンタクト――“会敵”どころの話じゃねえ。ある意味では、未知との遭遇だ。ファースト・コンタクトって奴だな」

 そう、それは――もしかすると、場合によっては人類が初めて遭遇する、“人類以外の意思を持った存在”とのコンタクトなのである。
 そう考えるのは大げさすぎるだろうか? いくら謎に包まれたものであるとはいえ、所詮は一個人によって持ち込まれたデジタルデータ。その“敵意を持った何か”とて、それを作った誰かがあらかじめそこに置いていったもの――それが妥当なところである。

「カツラギくんはどう思うの? さっきみたいに――データの中から勝手に、意識とか命とか、そう言うものが生まれ出たと思うの?」
「俺は怪談は嫌いじゃない。けど結局、そういうのは現実にはあり得ないんだろうなって常識を持ってるから、だから怪談を楽しめるんだろうな、とも思う」

 だが、もし――その“コンタクト”が、敵意と憎悪にまみれたものであったとしたら。
 自分たちは悠長に構えていても良いのだろうか? たかがゲームの世界だと、割り切ってしまっても構わないのか?
 だから唯一、その脅威が形を持って現れた、“謎の無人機”に対して、唯一対抗できる“チーム・ハイドラ”に、田島は頭を下げた。この世界を救う、手助けをしてくれないだろうかと。

「俺はどうするべきなんだろうか。あのゲームの中では、俺はエースパイロットかも知れないが、現実の俺は何の力もない、ただの大学生だ」
「でも逆に、現実でどれだけの英雄だったとしても、あの世界じゃそれは役に立たない」

 がん、と、頭を殴られたような気がした。
 由香のその言葉は、単なる慰めではない。
 確かに――その通りなのだ。どれだけゲームの腕が立ったところで、実生活に役立つことはほとんど無いだろう。
 普通なら、そこで終わる。それは一方通行の関係だ。ゲームが単なる、娯楽の一つでしかない限りは。けれど、今回は違う。現実世界でどれほど完璧で有能な人間だったとしても、“ストラトダンサー・オンライン”というゲームにおいて役に立たなければ、意味がないのだ。
 たった一言の彼女の言葉が、すうっと胸に響いた気がした。

「クロネコ」
「ん?」
「抱いて、良いか?」
「――」

 ごろりと寝転がって彼女の方を向いて、そう言ってみた。
 もともと大きな彼女の目が限界まで見開かれ――そして、首筋の辺りまで、顔が一瞬で赤く染まる。何故だか暗闇の中でも、それははっきりとわかった。

「あ……あ、あ、うん――きょっ、今日は、あの、多分大丈夫な日で、でも、その――やさしく、はじめてなので、優しくしてくださいっ!」
「何言ってんだお前……――いや待てそう言う意味じゃない。単に抱きしめさせてくれるかって、そう言うことが言いたかったんだ。本当だ。言い方が悪かったのは謝る。だからその勘違いはやめよう真面目に外が歩けなくなる」




「俺に、何かが出来ると思うか?」

 ひとしきり騒いだ後――ようやく落ち着いた燕は、小さく言った。腕の中には、由香の小さな、しかし柔らかな感触がある。彼女の体温と息づかいと――そう言ったものが、心の中に渦巻いていた何かを優しく洗い流していく気がする。
 だから、初めてそう言えた。
 自分の中で、形も、その行き場もわからなくなっていた、その感情を、言葉にする事が出来た。

「今日聞かされた事は、まだ俺の中で実感が湧かない。どういう事なのかわからない、と言った方が正しい。俺程度の頭じゃ、これから先どれだけ考えても、正解にたどり着けるのかどうかもわからない」

 さらさらと、手触りのいい頭からは、不思議と甘い香りがする。自分と同じく、ホテルの備え付けのシャンプーで頭を洗っている筈なのだが。

「本当に、俺に何かが出来るのか? 必要なのは、本当に“俺”の力か?」

 たかが、ゲームの話。そのはずだった。
 由香の言葉で多少落ち着いたとは言っても、結局不安が消えるわけではない。周りが認めても、田島が選んだのが果たして自分であったと、そう言う事実があっても――誰も保証など、してくれない。
 自分が、期待されるだけの事が出来るのか。それをはっきりと判断してくれる誰かが居たとしたら気分は楽だろうが、結局そんな誰かは存在しない。

「どうだろうね」

 腕の中で由香が言った。
 その言葉は突き放すようなものだった。しかし、燕が何かを言う前に、彼女は続ける。

「カツラギくん一人なら、わからない。カツラギくんは確かに上級プレイヤーの一人だけれど、何十万人からのプレイヤーのトップに立ってる訳じゃない」

 ならば、自分が田島に選ばれた理由は何だろうか? 自分たちが最初にあの無人機を撃破したから――それが理由だろうか? まさか、近場に住んでいたからであるとか、大学生だから時間の自由が利きそうだからとか、そう言う理由でもあるまいが。

「でも、カツラギくん。それだけじゃ――足りてない」

 腕の中で、由香が身じろぎした。かと思えば、触れ合いそうな距離に、こちらを見つめる大きな瞳。

「あたしが、いる」
「――」
「あたしたちはきっと、“チーム・ハイドラ”だから、選ばれた。君の背中にあたしがいる、君があたしを守り、あたしが君を守ってる、そんなあたしたちだから――あの“敵意”に勝つことが出来た。あたしたちは、相棒でしょう? どうしてきみは、一人で全部背負い込もうとするの?」
「クロネコ」
「きみが、自分で言ったんじゃない。そうしているかぎり、自分たちは無敵だって。無敵なら、たくさんのプレイヤーの中から、あたしたちが選ばれたのは、当然じゃない」

 腕の中から、由香は這い出した。顔と顔が、まっすぐに向かい合う位置になる。

「きみ一人に何が出来るかなんて、多分誰にもわからない。でも、あたしは? “チーム・ハイドラ”は、きみ一人を見ただけじゃ、はかれない」
「クロネコ、俺は」
「カツラギくんは――“お兄さん”は、どうしてそうなの? どうして、あたしを頼らないの?」

 全部わかっている人なんて居ないんだよ、と、由香は言った。

「カツラギくんは――多分いつも、そうなんだ。もっと驚いても良いし、慌てふためいてもいい。みっともなくうろたえたって、良いんだよ」

 田島という他人や、自分の前だから何だというのか。普通に生活していて、こんな風な出来事が起こることなんて、まず無い。だから慌ててもうろたえても、混乱してわけがわからなくなっても――それは仕方ないことなのだ。
 そんな風に、彼女は続けた。

「なのに、どうしてカツラギくんは、それを悪いことだと思うの? きみはいつも、自分を何処か別のところから見てる気がする。“あの世界”でもそうだし、ここでも、そう。自分を何処か別のところに置いて、“自分”という人間が、ここではこうするべきだって、そういう正解を探してる気がする」
「……」
「だから、あたしに対してもそう。いつも理屈だとか、そういうものを押し出してくる。さっきは少しだけ素直になれたみたいだけれど――それでもまだあたしに、“妹の友達を前にした正しい姿”を演じようとしている」
「そんなことは」

 ない、と――言い切れるだろうか?
 心の何処かで訴えかける。

「あたしは、信用できない?」

 由香は言った。

「確かに現実じゃ、小さい頃に一緒に遊んだくらいだった。今日になって初めて顔を合わせたようなものかも知れない。“カツラギ”と“クロネコ”は、結局はゲームの中の相棒で――でも、あたしは、カツラギくんの、お兄さんの事は、信じてる」
「――」
「あたしは、あたしに何が出来るかなんてわからない。でも、ここで何かをやるなら、不安はない。あたしは、カツラギくんを、頼るから。みっともなく助けてって、きみに縋るから。そうしたら、きみはあたしを助けてくれるから」

 だから、と、彼女は燕を抱きしめた。
 先程とは逆に――彼女の小さな体に、燕を包む込むように。

「君はあたしに縋ったって良いんだよ。一体何を――気にしてるの?」
「待てクロネコ、この体勢は、ちょっとまずい」
「先に抱きついてきたのそっちでしょ。でもあたしはね、君のこと嫌いじゃないよ。こういうこと、してもいいって思うくらいには」

 確かに、と、彼女は笑う。

「久しぶりに会ったばかりの、妹の親友にしていいような事じゃないかも知れないけどね?」

 でも、それは――正しい行動でも格好の付く行為でもないかも知れないが、それで良いのだ、と、由香は言う。

「こんなところは、ミナちゃんに見られたくない?」

 さりげなく抜け出そうとした燕の頭を、しっかりと抱えこみ――由香は言った。

「当然そうだと思う。でも、きみだって人間だもの。それも聖人君主だとか仙人だとか、そういうのじゃなくて、普通の人だもん。後ろ暗いこと、みっともないこと、そういうことだって、山ほどあるよ。それをあたしが知って、あたしがきみを軽蔑すると?」
「すると思うぜ?」
「するかもね。あたしだって人間だから。けど、カツラギくんの事みっともないって馬鹿にしたところで、自分を馬鹿にしてるのと一緒なんだよ。あたしだって、ただの子供なの。後ろ暗いところとかみっともないところとか、格好悪いところとかエッチなところとか、色々あるの」
「それは――俺だって、否定しない。できない。俺自身、そう大した人間じゃない」
「だったらあたしにそう言ってよ。遠慮しないでよ。相棒でしょ?」

 自分に何が出来るのか。確かに、意味があって選ばれた自分達には、期待されるだけの事が出来るのかも知れない。けれど、出来ないのかも知れない。
 だからと言ってそれが何だというのか。何も出来なかったから、草壁燕は駄目な人間なのか。そうではないだろう。強がりでも何でもなく、そうであるはずだ。特に今度のような「わけのわからない」事が起きて、そこで何かが出来なかったから、何だというのだ。
 なのにどうして――自分自身は、それを認めようとしていないのか。
 自分一人で、追いつめられたような気になっていた。どうして由香は脳天気にはしゃいでいられるのかと、ここに来てからそんな風に思ったりもした。
 けれど何のことはない。そういう風に――自分で自分を追い込んでいただけだ。

「……男は自分のことを情けないとは思いたくないんだ」
「頼れる男は理想だけど、男だからっていつも強がらなくて良いと思う」
「あるいは“友達のお兄さん”でいてもらったほうが、お前にとっては良いかも知れないぞ」
「うん。でもそれで良いかどうかを判断するのはあたしだから。逆にお兄さんは、あたしに良いように思われたいの? 好きこのんで悪く思われたくは無いだろうけれど――良い格好する理由も思いつかない」

 一つ、息を吸った。
 嫌でも一杯に、由香の匂いを吸い込んでしまうことになる。頭の芯に響くような、形容しがたい――それでも結局“甘い”としか表現できない匂いに、顔が熱くなる。

「……暫くこうしてていいか」
「おやすいご用だよ。おあつらえ向きに実は今ノーブ……」
「ストップだ。確かにお前の前で良い格好をする必要は無いかも知れんが、かと言って変態になろうとも思わない」
「あたしから言い出した事だからそんなこと思わないって。何か、こうしてると、きみのこと、かわいいなって、思うし」
「男相手にそれは褒め言葉じゃねえ。むしろ心を抉ってる」
「……吸ってみる? 落ち着くかも」
「何を――いや、言うな。言わなくて良いし何もするな。そのまま黙って――」

 じっとしていてくれ、と、燕は言った。




 夢を見た。
 あれは、幼い頃の自分と妹、そして――由香だった。
 幼い少女二人は、泣きそうな顔をしていた。泣きそうな顔をして、こちらを見ていた。
 そんな二人に自分は――何でもないと、取り繕った。痛くて、辛くて、泣きたくて仕方がなかったのに、何でもなかったんだと、傷だらけの顔で言った。
 多分それからだ。
 自分が――“そこで生きている誰か”の仮面を、被るようになったのは。






[37800] 第十話 目指すべき未来
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/07/13 20:39
第十話「目指すべき未来」

「レーダー・コンタクト。ボギー四機、ヘッドオン。高度四〇〇〇から上昇姿勢――あ、今、敵機ミサイルを発射――到達まで八秒」
「任せた」
「了解――ハイドラ、フォックス・ツー」

 視界に重ねられたターゲットマーカーが、そこに脅威を捉えている。この距離では、まだその姿を見ることは出来ないが、F-3“神狼”に備え付けられた、新型のアクティブ・フェイズドアレイ・レーダーは、とうにその姿を捉えている。
 四機の敵機が、一斉に空対空ミサイルを発射――相対速度も相まって、直撃はおろか、どれか一つ、近接で自爆されただけでも危険である。それはもはや、獲物に襲いかかる鮫の群れだ。僅かでも傷を負えば、寄ってたかって食いちぎられる。
 だが、こちらとて伊達に神の名を冠する狼ではない――空対空ミサイルを二発リリース。
 後部座席に座るフライトオフィサの指が、タッチパネル式の計器盤を踊るように滑る。
 発射された二発のミサイルは、こちらに向かって飛来するどん欲な殺意――相手の空対空ミサイルを四発巻き込んで自爆した。
 包囲の一角に生じたその空白地帯に向けて、ハイドラはそのまま突っ込む。機体の周囲で圧縮された空気が、爆煙に丸く穴を空け――そのまま、敵機のただ中にダイブ。

「挨拶代わりだ」

 小さく呟いて、操縦桿のトリガーを引き絞る。一瞬、虚空に鮮やかなオレンジ色の火線が走り、次の刹那、それは突進してきたブーメランのような機体――その滑らかな表面を、思うがままにえぐり取った。
 燃料か弾薬に引火したのか、突進してきた勢いそのままに、爆発と破片を前方にまき散らすようにして、その翼は虚空に消える。その煙の縁をなぞるようにして、更に降下、重力の助けを借りて、高速で旋回。
 耳障りな電子音。既に敵機にロックオンされている。相手の機動力ははやはり、F-3神狼を上回っているようだ。僅かあれだけの時間で、もう旋回を終えてこちらの背後を伺っている。

「ボギー二機、背後に着いた。ミサイルの発射を確認――接触まで四秒、三秒、二秒」

 言葉を口に出している分、どうしても時間の“ずれ”は生じるだろう。しかし、死をまき散らす矛を前にして紡がれるその冷静な声は、どんな時計よりも正確無比だ。
 操縦桿を斜め下に――同時に後部座席ではフレアディスペンサーをアクティブに。F-3は、赤熱したマグネシウムリボンをまき散らしながら急旋回――エンジンからの排熱を捉えて敵機を追う空対空ミサイルには、この距離での欺瞞は致命的だった。

「ばーか、そんな間合いじゃ当たんないよ」

 マスクの下から漏れたのは、挑発的な甲高い声。それに呼応するかのように、機体後部、三次元ベクターの推力偏向ノズルが、淡い燐光を放つ。アフター・バーナーに点火。分厚い空気の壁を突き破るようにして、神狼は加速する。
 その先には、雲の尖塔。
 まるで砦か険しい山脈のごとく聳え立つ巨大な雲の間を、その空気を最大限に捉える異形の翼でもって駆け抜ける。
 むろんレーダーを装備する現代の戦闘機にとって、相手が雲間にいようが大した問題ではない。だが結局、レーダーは相手の“位置”を教えてくれるだけであって、その“動き”までがすぐにわかるわけではない。
 突然、雲の尖塔がオレンジ色の火の玉をはき出す。
 たまらず追従してきた一機が、それを全身に浴びて砕け散った。それはさながら、神話に登場する神罰の如き光景。雲の塔を駆け上がろうとした哀れなコウモリは、稲妻に撃たれてその一生を終える。

「残り一機――狐狩りだな」
「武装も燃料も十分――ドロップタンクさえ着けっぱだしね。でも、もうちょっと踊らせてもらってもいいかな? 疑似データってのはわかってるけど、あの手合いに、もうちょっとだけ情報が欲しいの」
「具体的にはどうするんだよ」
「少し好きにさせてあげたらいいよ。五分くれたらそれなりに“慣れる”から」
「了解」
「ほうら、逃げろ逃げろ。早く逃げないと食べられちゃうよ」
「ウチの相棒が恐ろしすぎる件――単なる疑似データとは言え、同情するぜ」

 そう言う彼もまた――マスクの下の口元が、小さく弧を描いている事に気がつかないのだ。HOTAS概念が取り入れられた、複雑な形状の操縦桿とスロットルを握り直す。
 ジュラルミン合金と炭素複合材で作られた翼を持つ神の狼は、彼の意思に応えて翼を翻す。その翼によって圧縮された空気は、すぐさま解放されて白い霧となり、翼の先端から流れて長く尾を引いていく。

「敵機減速」
「オーバーシュート狙ってんだろうけど、見え見えなんだよね。てか、この状況で“誘い”も何もないっての」

 フライトオフィサは、嘯く。
 基本的に戦闘機同士の空中戦は、相手の背後を取った方が圧倒的に有利となる。近年ではレーダーやミサイルの誘導装置の発達により、敵機の真後ろは以前ほど絶対的に安全なポジションではなくなった。しかしそれでも、どちらが有利かと言えば言うまでもない。
 自然、空中戦とは相手の背後の取り合いになる。それが相手の尻尾に噛みつこうとする犬の喧嘩にたとえられて“ドッグファイト”と言われている所以である。
 その中で、F-3神狼や、ロシアの概念実証機Su-47ベルクトなどの前進翼機、そしてX-47や目の前の“無人機”のような全翼機は、そういった戦いを第一に作られた形状である。
 まるで空中を蹴って跳ねるように、漆黒のブーメランは急激に進路を変える。下手をすればエンジンストールか、最悪、空中分解を起こしかねない機動。そもそも人間が乗っているならば、耐えられるはずのない機動。

「ちょこまか動き回ってこっちのお尻を狙う筋なら――もっと勢いがないとね」
「意味深だな。もうちょっと慎ましくしてないと男にモテねーぞ」
「カツラギくんがいるから別に良いよ」
「……」
「あ、もちろんカツラギくんがそういう女の子の方が好みなら、努力はするけどね?」
「目標をロック――どうする。撃っていいか?」
「誤魔化したね。照れてるんだね、この人。意外とそう言うところは可愛いって言うか――もしかして彼女が出来たこと無かったりする?」
「何でお前にそんなことを教えなきゃならん。もういい、撃つぞ」

 だが、急激な機動はそれだけ急激に速度を落とすということでもある。どれだけ強力なエンジンを積んでいても、二〇トンもあろうかという巨大な現用戦闘機を、再び戦闘速度にまで加速させるには、時間が掛かる。
 そして音速の数倍の戦闘を念頭に作られる現代の戦闘機を前に、“動きが鈍る”と言うことはすなわち、死を意味する。低速でエンジンストールを起こさず、機体を制御できるだけの舵が利くと言うのは、とりもなおさず高性能である証ではあるが――空中で“はね回る”相手など、結局は良い的でしかない。
 漆黒の無人機――正しくは“無人機を模したその機体”が、デジタルデータへと還元されて消滅するのに、それほど時間は掛からなかった。




「我々がログを解析して作った疑似データとは言え――戦闘能力ではオリジナルにひけを取らないだろう“無人機”四機を相手に、全機撃墜まで七分十七秒――それも武装や燃料に余裕を残し、最後は相手を“泳がせる”ような真似を――か。私は君たちを甘く見ていたのかも知れないな」
「え? そんな――まぐれですよ、まぐれ。あんなのはそれこそ“ただのゲーム”じゃないですか。どういうこと――カツラギくん? 何で頭抱えてるの?」
「中学生のお前にはわからんだろうが、来年成人式に出る俺には色々思うところがあるんだよ」
「どうして?」
「君の言いたいことは痛いほどわかる。やはり真実がどういうところにあるにせよ――自分が誇れるのはゲームの腕前、と言う事実は、いい大人として思うところがあるのだろう?」

 意地の悪そうな笑みを浮かべる田島を前に、燕は眉をひそめる。

「まあ、いい大人が誇れるような事じゃありませんよね」
「カツラギくんはまだそういうこと気にしてるの? あたしの前で格好付けるのやめるって言わなかった?」
「今更お前の前で格好付けようとは思わないし、出来たモンじゃないと思うが――それでもな。自分がいい年してコントローラー握ると目つきが変わる程度のガキだったと思うと。社会人にはTPOってものがあるんだ。覚えておけ」

 大きく息を吐き、燕はソファに腰を下ろす。
 場所は“スターゲイザー・エインターテイメント”の社長室。燕と由香が東京に呼び出されて、二日目のことである。
 何かを吹っ切ったらしい彼らは、自分たちが本当に役に立てることがあるのかと再度田島に問い――その結果、行われたのが先の空中戦である。
 角田を含む“スターゲイザー・エインターテイメント”のスタッフが、ゲームデータのログから作成した“謎の無人機”のコピー四機。簡易人工知能任せの間に合わせアルゴリズムが、果たしてオリジナルより劣っている事は明白であるが、それでも戦闘力や機動力は同じものである。
 果たして今までは相討ちになるのが関の山。物量で押し切って過負荷に追い込んで、どうにか勝利を収める事が出来た相手が、四機。一見して、まともな戦いではない。
 だが、彼らは勝利した。それもそんなことは、大した事ではないと言わんばかりに。

「個人的な意見ですが――“ストラトダンサー・オンライン”は、身体的な負荷がカットされているので、現実の空中戦と安易に比べることは出来ない。しかしそれでも設定として、F-3の操縦は実機と全く同じ物であるし、レーダー機能や武装に関してもそう――あの世界に於いては、という但し書きが着くにせよ、草壁様は恐らく、日本最強の“ウルフ・ライダー”である事は事実でしょう」

 角田が言った。
 “ウルフ・ライダー”とは、要するにF-3神狼のパイロットの事である。最新鋭機であり、その配備の遅れも相まって、航空自衛隊でのF-3パイロットは、一種の花形のような扱いを受けている。
 かつて先代の主力戦闘機F-15が、二〇世紀最強の戦闘機として恐れられ、そのパイロットが“イーグル・ドライバー”と呼ばれて憧れの対象になっていたように。

「けれどゲームの中の話でしょう」
「“惑星オデッセイ”は、既に一つの世界。ならば、もはやそれは単なるフィールドの違いと判断しても宜しいのでは無いでしょうか。むやみと喧伝する事が憚られたとしても、その技量は十分に誇られるべきです。逆に現実のF-3パイロットが、身体的負荷を全く感じなかったとして、草壁様を圧倒出来るとは思えません」

 角田の言葉に、燕は閉口する。
 どうにも、電話の時から開口一番に“世界を救ってくれ”とのたまったこの男が、彼は苦手であった。
 悪い人間ではない。それはわかるのだが――何というのか、生真面目を通り越したような性格なのだ。彼が口を開いたとき、たとえそこからどういう言葉が飛び出してこようが、それは彼にとって冗談を一切含まない、全くの本気と言うことになる。

「ふむ、角田――君でも彼らには勝てんかね」
「全く可能性が無いとは言いませんが――それでも一対一であれば、難しいでしょう」

 田島の満足そうな言葉に、しかし燕は首を傾げる。
 はてこの角田という男は、第一線の営業マンのような風体をしてはいるが、本業はシステムのメンテナンスであったはずである。彼もまた、あの仮想世界ではそれなりの腕を持つゲーマーだということだろうか? この生真面目そうな男の趣味がネットゲームとは、何とも似合わない――

「いえ、私は以前航空自衛隊のパイロットでした。三沢基地にF-2のパイロットとして配属された後、F-15J改への機種転換を行い、新田原基地飛行教導隊に二年在籍しておりましたが――訓練中の事故で左目の視力をほとんど失いまして。治療を受けてそれなりに回復はしましたが、パイロットを続ける事は危険であると自ら判断いたしました」
「えっ!? それじゃ角田さんって、元アグレッサー!? 後でサイン貰っても良いですか!?」

 彼の言葉に反応したのは由香だった。
 彼女は勢い込んで立ち上がり、角田に憧れに満ちた目線を向けると――

「……」
「だからどうしてそう、カツラギくんは無関心でいられるのかな!?」
「いや、すまん。言っただろ? 俺はこのゲームは好きだがミリタリーに詳しい訳じゃない。角田さんの居た部隊って、そんなに凄いのか?」
「新田原基地飛行教導隊って言ったら、自衛隊のアグレッサー――仮想敵機部隊の事だよ? 全国の第一線のパイロットの、更に教官。とりもなおさず、日本最強の戦闘機部隊だよ!?」
「正味な話、俺はお前に好きなことには情熱を燃やせと言ったが――お前の場合もう少しその熱意を勉強に向けても良いんじゃないか」

 大体それはサインをねだるような相手なのか。確かに角田の経歴には驚くべきものがある。彼が元とはいえ、現実のエースパイロットだったという事実を知れば、憧れを抱かないではない――が、それにしても相手は俳優やスポーツ選手とは訳が違う。
 現に角田本人も、珍しく困ったような顔をして居るではないか。それを見遣る田島は、当然面白そうな顔をしているけれども。

「いーもん。あたし、“惑星オデッセイ”の冒険家になるもん」
「あ?」
「だって、あたし達が田島さんに協力するって言うのは、そう言うことでしょ? それだけ謎の世界の事が、すぐにわかるとは思わない。だったら、あたしのやりたいことは“これ”なんだって――」
「いやいやいやいや、ちょっと待て。お前はまだ中学生だ。進学だって――」

 何だか雲行きが怪しくなってきた。
 確かに――今になって深く考えてみれば、やりようはいくつもない。燕と由香が、“惑星オデッセイ”の究明に力を貸すと言った以上、事は今までのように、気ままにゲームを楽しんでいれば良いという物ではなくなるだろう。
 ともすれば、燕とて今まで通り大学に通いながら――と言うことすら、難しくなるかも知れない。しかし今だ義務教育を終えてすらいない由香は、どうなるというのだ。

「それは私も考えていた」

 田島が言った。

「――何ですって?」
「草壁君に関しては心配は要らないだろう。君さえ良ければ、我が“スターゲイザー・エインターテイメント”の社員として採用という形を取ればいい。時に草壁君、その気は?」
「ええ、まあ」

 自分に適性があると胸を張れるような事ではない。乗りかかった船と言うつもりもない。
 しかし、今更目の前に用意された道――あるいは“未知”を前にして、もはや見なかった事にして引き返すという選択肢は、自分の中には存在しなかった。
 実際に、明確な将来のビジョンが存在しなかった燕である。漠然とどういう職種に就きたいだとか、そう言うことさえ考えていなかった。

「些か普通とは違うと言っても――“やってみたい”と思う気持ちは、もちろんあります」

 その言葉が出ただけでも、自分は随分吹っ切ったのだろうと思う。
 ただ、それだけでは満足行かないとばかりにこちらを見上げるお姫様を、一体どうしたものなのか。

「ただクロネコ――“ユウちゃん”はそうもいかんだろ」
「どうして。大体“お兄さん”だって言ったじゃない。もしもあたしに、勉強よりもずっとやりたい事があるなら、あるいは勉強なんてやってる場合じゃないって」

 確かに、自分はそう言った。
 けれどそれは、言い方は悪いが、あの時の由香にはそれを選ぶことは出来ない――そういう確信があったからだ。
 もしも彼女に何か、勉強よりも他にやりたい事があるのなら。彼女のことだ、いくら正論を盾に取る優等生――湊が相手でも、何も言えずに喧嘩別れになったりはしない。そう、あの時の彼女には、そう言うものは存在していなかった。
 ならば、彼女がするべきは一つしかない。選択肢を広げ、自分の将来を真剣に考えることである。その為には、結局勉強するしかないにしても。

「あたしは、“惑星オデッセイ”の謎を解き明かしてみせる。勉強しろって言うなら、するよ? でも、知識として必要なのは、高校に入るための勉強じゃないよね?」
「だからってお前――まさか今時高校に行かないわけにもいかんだろ」
「どうして?」
「どうしてって――」

 それが当たり前だから、と言っても、どうせ彼女は納得しないだろう。
 今更、あの夜の自分の発言を悔いても仕方ない。勉強という行為は、結局手段である。それが彼女の目的に通じない手段であるならば、彼女がそれを選択する道理はない。
 言い訳じみた問答であるにせよ、そう言ってしまったのは、燕自身だ。

「まあ、落ち着きなさい」

 田島が言った。

「“クロネコ”君の熱意は十分に伝わったが――確かに事は、そう簡単に決めて良い事でもないだろう」
「どうしてですか」

 鼻息も荒く、由香は田島に詰め寄る。

「あたしに普通に高校に通いながら、勉強や部活の片手間に、この“世界”の謎が解けるって言うんですか?」
「だが、君は若すぎる。幼いと言っても良いだろう」

 そんな彼女に目を細め――田島は首を横に振る。

「君は冒険家になりたいと言った。ならば、その幼さはいただけん」
「あたしが冒険家になりたいのと、年が若いのと、何か関係があるんですか?」
「冒険家は確かに、誰にも務まるような仕事ではない。だが、実のところ孤高の天才に向いた仕事でもない。どれだけ才能に満ちあふれていたところで、世間は奇人を認めようとはせんからね」
「でも、それは現実の冒険家の話でしょう?」

 確かに、現実に冒険家などと聞くと、向こう見ずで無鉄砲な無頼漢を想像しがちである。けれど現実にそんな人物に冒険家が務まるとは思えない。冒険という行為が成り立つには、冒険家がそれを成し遂げる事によって利益を生む必要があるからだ。その辺りはもはや、ビジネスの話である。むろん、一介の中学生に手出しが出来るような事ではない。
 だが、“惑星オデッセイ”を踏破するとなれば話は違うのではないか。由香はそう反論する。

「あたしにはスポンサーを探す必要もないし、旅支度をする必要もない。それに、現実に“依頼者”は目の前に居る。“惑星オデッセイ”の謎を解いて、この世界を救ってくれ――そう言ったのは、他ならぬ田島さんじゃないですか」
「ふむ――だが、焦る話でも無いだろう。私はこんな話を、そう方々で吹聴する気はない。そうとも、我々は君たちが“君たち”であるから、無茶で無責任であると知りつつ頼み事をしたのだ。それに、“惑星オデッセイ”に降り立つのに旅支度は確かに必要ないが、実際にその場に立って行動するときに、我々が手助けを出来ないのも事実だ」

 そうなったときに、単純に経験が少ない事が、どれほどの危険になるのか。仮想空間体感装置にどれほどの危険が無いと言ったところで、ともすればそれは“未知との遭遇”である。

「う……」
「それに単純な話――君たちの力が想像以上であり、すぐさま“惑星オデッセイ”の謎が解き明かされる可能性も、無くはないのだ。一つの未踏峰を越えたからと言って、冒険家の人生がそこで終わるわけではない。さてそうなったときに、高校すら通っていない君を、世間はどう見るだろうね」
「そ、そう言う言い方は意地悪ですよ!」

 頬を膨らませる由香を横目に、燕は正直、「上手いなあ」と思ってしまう。これが人生の年期という奴だろうか。単純に“今時高校に通わない選択肢はあり得ない”という、世間の一般論以上の言葉が何も出てこなかった彼には、感服するしかない。

「ふむ、私は別に学歴を偏重しようとは思わない。だが曲がりなりにも高校を卒業し、大学に合格した草壁君はまだしも――会社の経営者として、中卒の人間を雇い入れたいとは思わないね」
「ううううう」
「――ほれ、お前の負けだ。“惑星オデッセイ”は逃げはしねーし、田島さんのつてがありゃ、お前の親御さんやウチの妹だって、単にネットゲームに填り込んでる――とは、言わないだろうよ」

 多分、と、心の中で燕は付け加える。保証はない。自分はネットゲームを嗜む人間であり、一通りの理解をしているからそう言うことが言えるが――今だに仮想空間体感ゲームを、体から魂を引き抜くような装置と勘違いしている自分の家族に、同じ理屈が通じるかは定かではない。

「ともあれ田島さん。今まで通りに行かないというのは確かです。今まで通り、あなたの作った“ゲーム”の範疇で、暢気に遊んでいれば良いという訳じゃない」
「そうだね。まあ、草壁君に関しては――体験入社という格好をとれば、それなりに自由が効くだろう。夏休みの間だけなら水戸君もある程度の自由は確保できないだろうか」
「受験勉強なら俺が責任持って」
「意地の悪い顔になっているよ、草壁君? では、ここからは我々の方針を決めるとしよう。つまり――」

「……いいもん」

 話は一区切り着いたと、燕はそう思っていた。多分、田島もそうだろう。
 だが、ふと――彼らの会話の途中に、由香が口を挟んだ。

「あたし、やっぱり高校は行かない! カツラギくんと一緒に、この世界の謎を解くんだもん!」
「はあ、お前――いい加減にしろよ」

 疲れたように、燕は由香の頭に手を置く。

「お前の熱意はよくわかった。だが、俺も田島さんも、意地悪で言ってるわけじゃない。現実的に考えて、お前にそう言う選択肢は取らせられないんだよ」
「あたしが将来的に困らないため?」
「そうだ」
「だったら、あたし別に将来困ったりしないよ?」
「だから、何かあってこの話が続けられなくなったらどうするんだよ。高校浪人か? 俺なら御免被る。ましてや中卒のお前を雇ってくれるところなんて、そうそうありゃしないぞ」
「あるもん」
「田島さんには期待すんなよ。ここの採用条件は高卒以上だそうだ。お前一人に特別扱いは出来ねーぞ?」
「ちがうもん!」

 頭に置かれた燕の手を振り払い――しかし体ごと彼に向き直って、その顔に人差し指を突きつけ――由香は、言い放った。

「あたし――卒業したら、カツラギくんと結婚するもんっ! そうしたら、何も心配なんて要らないでしょっ!?」






[37800] 第十一話 ヒーローを辞める勇気
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/07/13 20:44
第十一話「ヒーローを辞める勇気」

 今まで自分は一体何をしてきたのだろうと、そんな風に考えた。
 結局自分は、“草壁燕”という一人のキャラクターを演じていただけなのだ。それはきっと、“あの時”からずっと。
 きっかけは何だったのかわからない。けれど、幼い日の自分は、ヒーローになりたかった。ヒーローで、あろうとした。
 それは別に、たとえば休日の朝に子供を虜にしている正義の戦隊のように、強い力と正義の心を携えて悪の組織を相手に戦う――そんな華々しいものである必要はなかった。ただ純粋に自分を慕ってくれる、たった二人の少女にとって、自分が“ヒーロー”であれば、それで良かったのだ。
 けれど、燕はそんなことを、とうの昔に忘れていた。
 その事実を忘れる代わりに、“草壁燕”を演じることにしたのだ。
 つまり草壁燕とはどういう人間なのか。どういう人間であるべきなのか。どういう人間ならば――あんな屈辱を、思い出さずに済むのか。
 果たしてそれは、何処までも平凡な、普通の少年だった。
 だから、ことある事に彼は考えた。“普通なら”ここは――どうするべきなのか。行動するときは、必ずそれが頭についた。草壁燕は、普通の少年である――“だから”“その場面ではどうするべきか”を、考えた。時には自分を押し殺したとしても、そうやってきた。そう、その場面で“それが適当”と思われるならば、本当の気持ちなどは無視できた。
 そしていつしか、彼は被り続けたその仮面を、自分の素顔だと錯覚するまでに至った。
 果たして“それ”を思い出さない事には、成功していた。もはや自分は、意識して“普通”を演じる必要はなかった。考えなくても、自然とそうするようになってしまっていた。
 なるほどだから――彼女のことを苦手だと“錯覚”しても無理はない。
 自分が忘れたかった過去など、最初から全く気にすることもなく――あの日のままの視線で自分を見つめていた彼女に、仮面を被ったままの自分が、まっすぐ向かい合える筈もない。
 忘れ去った記憶の彼方――しかしその場所から、今の自分を責め立てるもう一人の自分。そんな風に仮面を被らなければ、彼女の顔を見ることも出来ないのか、弱虫め――昔の自分が、燕をなじる。
 むろん――そんな風に考えたところで、燕は良くも悪くも完璧ではない。
 “あの日”からこちら、ずっと世界を斜視して、自分自身を俯瞰してきたわけではない。そんなことが出来るほどに彼の心は強くはなかった。その証拠がきっと、“ストラトダンサー・オンライン”――もう一つの世界で生まれ育った、“カツラギ”という名前の戦士だったのだろう。
 自分は、ヒーローにはなれないと思っていたし、その事を嘆くことのないよう“普通”を演じていた。けれどもその満たされない心が、無意識のうちに、あの虚構の世界に何かを求めようとしていたのかも知れない。
……――などと、いい加減過去を振り返って現実逃避をするのも限界だろう。燕は半ば中に漂っていた意識を、諦めて目の前に戻すことにした。

「ユウちゃん――私はあなたが何を言っているのか、最初から最後まで、全く理解できないのだけれど。確かにこの間――いいえ、結局私はずっと、あなたに自分のエゴを押しつけようとしていたのかも知れない。もっと単純に、一番の友達と同じ高校に行きたかったって、それだけの我が儘なのかも知れない――」

 その表情を前髪に隠し――うつむき加減のまま言うのは、草壁湊。燕が自分でもよくわからない苦手意識を持っていた、彼の妹である。
 そんな彼女の言葉は、表面上は冷静であるけれども、色々と限界であるのかも知れない。その声は普段よりもずっと低く、拳を握りしめたまま、肩を小刻みに震わせているようにも見える。

「うん、私、自分のことを何様だって、反省したわ。あなたが頑張っているのは知っていた筈なのに、私と同じように出来ないのは、単にあなたが怠けてるからだって」
「別に良いよ? 出来る人って、どうしてそれが出来るのかわからないから仕方がないんだって聞いたことがあるし。あ、今のは別に嫌味じゃないからね?」

 そして彼女を前に、眼鏡を掛けた小柄な少女は、涼しい顔で手を振ってみせる。つまり水戸由香は、目の前の相手の状態を理解していないのだろうか? むろん――そんなはずはない。

「この際だから言っちゃうけど、ミナちゃんはあたしの憧れでもあるんだよね。美人だし、優しいし、勉強も出来て、将来のこともちゃんと考えてる。うん、あたしが男の子だったらソッコーで惚れちゃうね」
「それはどうも。けれどあなただって十分魅力的だと思うけれど」
「お世辞は別に要らないよ。自分がどの程度なのかは、自分が一番良く分かってる」
「だって」
「だから別に悲観してるわけじゃないんだって。ミナちゃんみたいに誰からもモテるってわけじゃないだろうけど、あたしは別に、そういうの要らないし」
「だから――って、そう言う話がしたいんじゃなくて!」

 首を左右に振り、湊は言う。

「私はただ、この間は自分勝手だったって謝りたくて――でも、ユウちゃんと一緒に高校に行きたいから! ただ、そう思って! それが――」
「ん……うん、ごめん。それに関しては、謝ります。あたし、ミナちゃんの事本当に大事な友達だって思ってるから、自分勝手とかそう言うのじゃなく、ちゃんと、申し訳ないなって、思うもん」

 顎の辺りを人差し指で掻きながら――意味のある仕草ではないのだろうが――由香は、困ったように言う。

「でも――ごめん。あたし、ミナちゃんと同じ学校には行けない。通信制の高校に通うか単に大検取るかはわからないけど――東京に出て、働きながら勉強するから」

 それで、と、彼女は照れたように笑う。

「卒業したら、お兄さんと結婚するの。ミナちゃんがあたしの妹になるって、何か変な感じだけど――そう言うわけだから、何も心配は要らないよ?」
「何がどう心配が要らないって言うのよ!? そもそもどうして、ユウちゃんが兄さんと――……兄さんっ!?」

 所在なく立ちつくしていた燕を、湊は睨み付ける。
 そこで、燕は現実に引き戻されたのである。
 ああ――こうして、真正面から“喧嘩”まがいの事をするのも久しぶりかも知れない。草壁燕は正しく普通の人間であり――意味もなく兄妹喧嘩など、するものではないのだから。それが正しい行動であると、自分はそう思っていたから。
 今にして思えばそれが愚かな行動であることは、自分でもよくわかっている。
 けれどこの瞬間だけは――今までのように、「自分はどうあるべきか」を考えても悪くないのではなかろうかと思った。




 燕と由香が、東京の“スターゲイザー・エインターテイメント”から戻ってきた翌日の事である。突然日をまたいで出かけたかと思えば、妹の友人と連れだって戻ってきた燕に、彼の母親などは相当怪訝な顔をしていたが――何か勘ぐられるような事があったわけではない。
 果たして彼が家を空けていた間、由香と一緒に居たなどと言うことを、彼女は知るよしもない。燕とて、言える筈がない。
先日は名前さえ覚えていないと言っていた相手と、何故急にああも仲良くなったのか――その事に疑問は無くもないのだろうが、それはもう、当人同士の問題だとでも思っているのだろう。
 ただ何かにつけて、子供の頃に仲が良かっただとかどうだとか、そう言う話を振ってくるのには、燕は辟易させられたが。そして話を振られる度に由香が嬉しそうにそれに食いつくものだから――きっとあの時には、つまんでいた茶菓子以上のカロリーを、その場で消費したに違いないと、彼は思う。
 結局母親にとって、息子はいくつになっても息子でしかないのだろう。知りたくもない事実の再認識であったが――果たしてその場は、茶菓子のカロリーを消費するくらいで済んだのだ。
 それくらいで済まなかったのが、妹の湊だった。
 当然、二人の様子に彼女は驚いたに違いない。そんな彼女に――由香は言った。
 数日前の夜の――その、謝罪の言葉を。

 ――あの時はごめんなさい。きっとあたし、ミナちゃんの言うとおり、自分が上手くできないことを理由にして、逃げだそうとしていたんだと思う――

 「ほらあたしって怠け者だから」と、苦笑混じりに軽い調子で言った由香を、湊は怒ろうとはしなかった。その時彼女が何を考えていたのか、それを察する事ができるくらいには、二人は“親友”と呼んで良い間柄だったのだろう。
 ただ――その後に続いた言葉が問題だった。

 ――でもあたし、やりたいことを見つけた。学校を卒業したら、お兄さんと一緒に東京に行くの――

 それで、冒頭に戻るわけであるが。

「くろね――由香の妄言は気にするな。とりあえず最初から話すから」

 妄言ってどういう事と、噛みついてくる由香をあしらいながら、燕は口を開く。

「俺とこいつが顔を合わせたのは、お前も知ってるとおり何年かぶりだよ。そう、お前らがさっき話してた、この間の夜のことだ。けどちょっと前から、自分でも気づかないうちに、俺たちは再会してたんだ」
「どういうこと?」
「まあ、お前にとっては愉快な話じゃないだろうがな。この間話題に上ったゲームの話があっただろ? あれだよ。俺も由香も、たまたま同じゲームのプレイヤーで――でもそう言うゲームは、まさか実名に顔写真入りで参加してるわけじゃないからな。たとえ知り合いと同じ場所で遊んでても、そうだとは気づかない」

 ああ、と、湊は得心が言ったように頷いた。ただ、その顔に浮かぶ不機嫌そうな表情までは変わらないが。

「それで――納得はした。けど、兄さんとユウちゃんには悪いけど、何だかそう言うのって、不健康というか、不健全に思える」
「その辺の事はまあ、価値観の違いだろうな。俺たちにとっては、オンラインゲームで自分のキャラクターを演じるって言うのはごく自然な事だ。逆にそうしないと、個人情報をネット上にばらまいてるって事にもなるわけだからな。そうしなきゃならないこと自体が不健全だとか言えるかも知れんが――俺はそこまで生真面目に生きようとは思わない」

 むろん、ネット上に一つのキャラクターを作り上げるのは、何も自分の素性を隠すという意味合いだけではない。むしろそのような理由は副次的なものだ。ゲームを楽しむには、ゲームの登場人物に自分を重ねる必要がある。そうなったときに、現実の肩書きなどは邪魔になる。
 いわゆる“ロールプレイング”という奴である。ゲームをプレイしている間、プレイヤーはあくまでゲーム上に存在する登場人物なのであり、ゲーム機の前でコントローラーを握っている現実など、考えないに越したことはない。
 それを指して現実逃避であると、あるいはこの手の世界を毛嫌いする人間は言うかも知れないが、それ以上は大げさな言い方をすれば価値観の問題である。無理に理解できるものではないし、しようとする意味もない。

「……それで、兄さんは」
「“ストラトダンサー・オンライン”って言うゲームがあってな。この際だから言っちまうが、お前と母さんが気味悪がってた――この間プレイ中の人間が突然死したって、あのゲームだ。俺と由香は、そのゲームのプレイヤーでな」
「――」
「言いたいことはわかるが、そういう顔をするだろうと思ってたから黙ってたんだ。まあとにかく今は話を聞いてくれ。すぐに信じられるような話じゃ無いと思うが――」

 そして、燕は語った。
 “ストラトダンサー・オンライン”が存在する“惑星オデッセイ”の事を。
 そこに潜んでいるかも知れない、謎の意思の事を。
 そして、自分と由香が、その意思に対して“コンタクト”を取るべく、運営会社直々に指名された事を。
 ――どれだけ長く話していただろうか。燕自身に、それほど長いことを話していたと言う自覚はない。しかし、窓から差し込んでいた、夏の長い夕暮れの光は随分と暗くなり、先程まで言葉を紡いでいた喉が、酷く渇いている事に、燕は気がつく。
 しかし、そんなことはどうでも良い。彼は目の前に座る自分の妹に、目線を向ける。
 今までのような、彼女を見つめているようでそうではない――何処か逃げ腰の視線ではなく、しっかりとしたそれを

「――さっきも言ったが、すぐに信じられるような話じゃないのは理解してる」

 うつむき加減に、表情を前髪に隠す湊に、燕は言った。

「けど、嘘を付くならもうちょっとマシな嘘を付く。俺はお前ほど頭の出来は良くないが、それくらいの判断は付くつもりだ」

 だから、と、言った。

「そんな馬鹿げた話に乗っかるのは、自分でも馬鹿なんじゃ無いかと思わなくもない。けど、俺はそれをやってみたい。“惑星オデッセイ”の謎を、俺は、解いてみたい」

 両親には申し訳ないが、大学は休学か中退と言う形になるだろう。だが、そもそも何かやりたいことがあって大学に通っていたわけではない。今日び、大卒でなければまともな企業には就職など出来ない。つまりはそういう、“学生”であるにはふざけた動機である。たとえ世の中の大半がそうであったとしても、言い逃れをするつもりはない。
 だが逆に、もはや職を探す――将来のためにそう言うことをする必要は無いわけである。いざとなれば“スターゲイザー・エインターテイメント”にそのまま就職すればいい。その程度のしたたかさは燕も持っていて、その辺りのことは、だから田島とも約束を取り付けてある。

「……ユウちゃんは」

 ぽつりと言った湊の言葉に、燕は困ったように首を横に振る。

「すまん、正直、説得に失敗した」
「本人目の前にそう言うこと言うかなカツラギく――お兄さんは」

 じっとりとした目線が、由香から注がれる。

「まあ、そう言うわけで。ミナちゃんには悪いと思ってる。あたしだって、ミナちゃんと一緒に高校に通うのは、それはそれで楽しいと思う。素敵だと思う。けど」

 自分に嘘は付けない、と、彼女は言った。

「ねえ、ミナちゃん。あたし、勉強苦手だよね。どれくらい苦手かは、よく勉強に付き合ってくれたあなたなら、良くわかってると思う」
「……そんなにお前、勉強駄目なの?」
「にゃはは……一番得意なの英語なんだけど、それでも平均点が取れた事ってあんまり――あ、でも“ストラトダンサー・オンライン”始めてからは、少しだけ英語得意になったよ?」
「あんなパチもんの航空英語で勉強した気になってんなよお前!? 偏りまくってる上に、あれってゲーム上の演出だからな? ハッキリ言って盛大に間違ってる時も結構あるからな?」
「えっ」
「気づいて無かったのかよ!? こいつ真面目に救えねえ!?」
「ま、まあ、とにもかくにも」

 わざとらしく咳払いをして、由香は続ける。

「ゲームの中であたし達が使ってる戦闘機――F-3って言うんだけれど。現実にもちゃんとある機体で――“ストラトダンサー・オンライン”はリアリティが売りだから、その操縦も、ほとんど実機と変わらないんだって」
「……」
「もちろん、ゲームとして操作を簡単にすることも出来るけど、あたしはそうしてない。でもその機能を全部使おうと思ったら、電話帳くらいあるマニュアルを読まなきゃいけない。ぶっちゃけ――参考書を丸暗記する方がよっぽど楽だと思う。でもね」

 一度言葉を切り――そして、彼女は再び言う。

「あたしはそれ、全部覚えてる」

 由香の言葉に、湊は応えない。
 燕も、彼女が言わんとするところがわからず、ただ彼女の言葉を待つしかない。

「それはもちろん、好きなことだから覚えられた。お兄さん――“カツラギ君”のためだから、覚えられた。ミナちゃんやお母さんや先生は、たかがゲームに、って、怒るかも知れない。あたしだって、普通に考えたら馬鹿なことに頭使ってるってそう思う。けど――そうじゃない。あたしにとって、それは“必要なこと”だったんだ」
「必要な、こと?」
「そう」

 湊の問いかけに、由香は頷く。

「あたしはミナちゃんみたいに勉強出来ないし、美人じゃない。子供みたいな体だし軽くミリタリーオタクだし、要領もあんまり良くない」
「そんな」
「いいの。ミナちゃんみたいに何でも持ってる子には憧れるけど、あたしはあたしだし――そんなあたしでも、“あの世界”では、必要とされてた」
「必要って……でも、それは」
「たかがゲームの世界。そう、ミナちゃんなら言うと思う」

 でも、と、彼女は首を横に振る。

「確かにそこで何が出来たからって、自分の将来に役に立つものじゃない。けれど、あの世界では確かに、たくさんの人が生きてる。ゲームをプレイしてるその時間――その個々のプレイヤーの意識は、あの世界にある。そんな世界で、あたしは、必要とされていた。それは、きっとミナちゃんにだって、出来ないこと」
「だからそこで必要な知識を覚える事の方が、あなたにとっては勉強よりも大事だったとでも言うつもり? 気持ちは、わかるよ。けど、それって!」
「ただの現実逃避。結局はそうだった――今の、今までは」

 ゲームがどれだけ上手くなっても、果たして得るものなどあるわけではない。ごく一部からの称賛と、自分自身の満足感。その程度の話である。“ゲーム”という行為そのものが得意なわけではない由香などは、それを突き詰めて、たとえばゲーム雑誌のライターや、攻略本の編集者などになることすら、出来はしない。
 けれど“惑星オデッセイ”は――現実に、存在していた。

「だからあたしが身につけたことは、無駄じゃなかった。カツラギくんと一緒に、“惑星オデッセイ”の謎を解くためには、学校の勉強なんてどれだけ出来ても無駄だもの。私が得た物は、確かにあったの」
「でも」
「まあ結局、本当に中学卒業と同時に“オデッセイ探検家”になるっていうのは、お兄さんと田島社長に止められちゃったけど。何かこういう“保険”みたいなことするのもどうかと思うんだけどさ、二人の気持ちも、まあ、わかるし」

 だから、と、由香は言った。湊には悪いが、自分は勉強をして、優秀な高校に進学するという――世間一般で目標とされる道からは、ここで外れる。けれど、その道の先に自分の目指す物が無いのだから、仕方がない。

「東京の定時制高校にでも通うか、通信教育受けるか――その辺りの事は決めてないけど。“オデッセイ探検”しながらでも、高校卒業の資格は、まあ一応取るつもりではいるから、ミナちゃんは安心して良いよ」
「安心ってあなた――そ、それじゃ兄さんと結婚するって言うのは一体何なのよ!?」
「ああ、そっち?」

 ゲーム云々の話から、由香を言い負かすのは無理だと判断したのだろうか。湊は音がしそうな程に首を左右に振り、言った。
 それにあっけらかんと、由香は応える。

「そんなの、お兄さんの事が好きだからだよ。言わせないでよ恥ずかしい」
「何でよ!? だってあなた――」
「だってあたしとお兄さんは一心同体の相棒だもの。心と心が繋がってるもの」
「だからそれはゲーム――ああもう、兄さん!?」
「結婚云々はそいつが勝手に言ってるだけだから落ち着いてくれ」

 疲れたように、燕は言った。

「勝手にって、酷いよカツラギくん!」
「酷くねえよ。それを方々で言う方が酷いと気づいてくれよ。中学生のお前がそう言う事言うと、下手したら俺逮捕されるからな?」

 大体、と、彼はため息をつく。

「前にも言わなかったか? お前は相棒として信頼してる。お前以外の奴に背中を任せる気にはならないくらいにはな。だが湊の言うとおり、ものはゲームだ。今はどうあれ、もともとは、な。ゲームの世界で出会った奴を好きになるなんて、痛いとか通り越して危ないだろう」
「でも、現実にカツラギくんはお兄さんだったわけで」
「そいつはあくまで結果論だ。現実には、お前と再会してまだ半月も経ってない」

 そんな相手に結婚とか考えられないだろう――と、燕は言う。
 それを見て、湊は多少落ち着いたのだろう、小さく息を吐いて、机の上にあったペットボトルに口を付け――

「むうう――! カツラギくん、あたしのおっぱい吸ったくせにっ!!」
「ぶふっ」

 吹き出した。
 丁度ボトルの水が喉を通りかけた時の不意打ちだったのだろう。咄嗟に彼女は手で口を押さえたようだったが、時既に遅し。周りに水をまき散らして、激しく咳き込む。慌てて燕がそれを助けてやろうとするが――とうの妹は、その手を払いのけて兄を鬼の形相で睨む。

「に い さ ん !?」
「してねえよそんな事はっ!! お前、本気で俺が外を歩けなくするつもりか!? 俺に対する家族の評判を地に落として、お前になんかメリットでもあんのかよ!?」
「ミナちゃんミナちゃん、口と鼻から水が――それ以上はミナちゃんのイメージ崩れまくりだからとりあえず拭いたら?」
「聞けよお前!?」

 確かに、二人で東京に泊まったあの夜――自分はみっともなく、由香に抱きしめられたりもした。
 だが、決してそれ以上のやましいことはしていない。
 正直に言えば、由香の胸に抱かれて――“安心”以上の何かを感じなかったわけではない。言い憚られるような事も、当然。
 けれどそこで実際に行動を起こせるほど、燕は人でなしではない。あの時自分が由香に抱いていた感情は、間違っても男としてのそれではなく――いくら何かしら思うところがあったにしても、その場の低俗な本能に任せて、自分と彼女の“絆”を踏みにじるなど考えられないことであった。

「もう一度言う。俺はもう、お前の前で格好付けようとは思わない。だがあの時も言ったが、単なる変態と思われるのも御免被る」
「男の子なら仕方ないでしょ」
「ガキが生意気言うんじゃねえ。あと、いくらお前でもそう言う冗談は二度と言うな。お前が思っている以上に、世間ってのは厳しいんだぞ?」
「冗談なんか言わないよ。こんな事冗談で言えないし――まあ、逆に、ちょっと自慢したい気持ちも無くはないけど」
「だから俺には身に覚えなんか――」
「カツラギくん、あの日の朝、あたしより後から目が覚めたでしょ」

 これ以上は冗談が冗談で済まなくなる――既に妹の方を見るのが恐ろしいのである。だが自分が潔白である事は、自分が一番よく知っている。いくら相棒とはいえ、悪ふざけが過ぎる――由香を睨み付けながら何かを言おうとした言葉を、燕はとうの彼女に遮られた。

「……確かに朝起きたら、朝風呂に行くとかメモがあったな」
「あたし朝風呂に入る習慣とか無いんだけどさ。あの時ばかりは仕方なかったんだ。だってその――そりゃ、多分無意識なんだろうけどさ、寝てる間に、カツラギくんが」
「……」
「いや、そっ――嘘だろ?」
「だから言ってるじゃん。きみに覚えが無いんなら――寝てる間の無意識の行動なんじゃない? 責めないよ? 顔の真ん前にあたしの胸があったんだし、浴衣の下、ブラ付けてなかったし」
「……」
「……」
「ええ」
「えーと……ミナちゃん、判決は?」
「なんかものすごくイライラ来た」
「いやそれひどくない? あたしはこれでも真剣に」
「お前ちょっと黙って……湊? ちょっ……クロネコ! ブレイク! ブレーイクッ!!」




「――ともかく、俺が由香と一緒に東京に行ってたのは、そう言うことだ。こいつの言い分はおいとくにしても、俺は――“惑星オデッセイ”の謎を解きたい」

 その後の騒ぎは割愛するが――ややあって、湊が落ち着いたと判断してから、燕は言った。
 湊がどういう風に言おうが――額面通り以外には、恐らく解釈できない。それだけ、はっきりと。

「なんかあたし、納得いかない。どうしてあたしだけ殴られるの? ねえミナちゃん、あたしちょっと怒ってるよ? 歯が折れるかと思ったんだよ?」

 頬を抑えながら、由香が不満げに言う。実際少女の細腕とは言え、かなり“本気”の音がしたと、燕は思う。“その後の騒ぎ”に関して彼女が受けた痛手は、軽くはない。

「そうだな、それに関しては、お前ちゃんとこいつに謝れ。お前にとっては俺たちの話は愉快な物じゃないだろうが――それでも、暴力は良くない」

 それはむろん、由香の胸を燕が云々という話ではない。“惑星オデッセイ”がどうだという話など、一度聞かされて信じられる類の物ではないのだ。燕は湊の心中を察してやれる程の立場ではないが――ともすれば、馬鹿にされたと思っても仕方がないだろう。
 俯いたままの湊を、燕は目を細めて睨み付ける。
 感情の爆発に、自分でも頭がついていかないのだろうか。由香が勝手に喚き立てた事とはいえ、真剣な話の最中に馬鹿なことを言うものではなかったと、後悔する。

「ひどい。カツラギくんはそう言うこと言うんだ。あんなに強くあたしの――」
「お前が腹切って詫びろとか言うならそうしてやるよ。大丈夫か? ほれ――ちょっと口開けろ」
「え? い、いや、いいよ。ちょっと、カツラギくん顔が近い」
「良いから口の中見せてみろって言ってるんだ。歯は折れてないと思うが――血とか出てないか? もし切れてたら消毒薬を」
「いいから、いいから――くっ、口に指入れようとしないで! やだ、これある意味、胸見られるより恥ずかしい――」

「――何で?」

 その声に、燕と由香は同時に、湊の方を向く。

「何で? 兄さんは本気で――そんな馬鹿な事をやろうって言うの?」

 馬鹿なこととは何だ――と、眉をつり上げる由香を抑え、燕は言った。

「信じられるような話かどうかは、俺にだってわかってる。むしろそれを“馬鹿な話”と言うお前の方が正常なんだろう」

 自分の中でも、実感があるわけではない。話は、山に登ろうだとか海に潜ろうだとか、宇宙に飛んでみようという事ですらない。
 “惑星オデッセイ”を探検する――その行為に於いて、普通の探検と何が違うというのだろうか。それはひとえに、そのビジョンが描けない、と言うことである。未開の奥地を踏破するような、明確が目的が、そこにはない。
 仮にその、デジタルデータで構築されている筈の不思議な世界を歩き尽くしたところで、そこにある“謎”が解けるわけではないのだ。燕も由香も、便宜上自分の目指すべきところを“惑星オデッセイの探検”とは言っているが、それはあくまで「便宜上」でしかない。

「目指すべき物は何なのか、それに対して何をするべきなのか。そんなことさえ明確じゃない。“惑星オデッセイ”そのものだって、お前にしてみれば絵に描いた餅とそう変わったものじゃない」
「そうだね、私には兄さんやユウちゃんが何を言っているのか、正直、わかんない」

 けれど、と、湊は首を横に振る。

「それがわかってるならどうして、兄さんはそんなことをやろうって思ったの?」
「それは言葉に出来る物じゃない。出来たところでお前にはわからない」

 それは燕の本心だった。
 有名な話に、登山家にどうして山に登るのかと聞いたところ、“そこに山があるから”という返事が返ってきたというものがある。
 だがきっと、登山家が言いたかったのは、字面通りの事ではないのだろう。それは恐らく、“そこに山があるから”という彼の回答から、我々が思い描くものとは、まるっきり異なる物であるに違いない。
 どんな言葉を吐いたところで、きっと湊は納得などしないだろう。そういうものなのだ、自分を駆り立てる何かとは。

「そうじゃない」

 けれど、彼女は続ける。

「兄さんが何をやりたいかなんて、私にはわからない。そんなことは――わかってる」
「そうか。俺はお前が何を言いたいのかわからん。とりあえずこいつに一言謝って――」
「でも、いつもの兄さんなら、絶対そんなことしようとしなかった」
「……あ?」
「それだけは、わかる」

 鼻先が触れ合いそうな距離に、彼女は顔を寄せる。
 以前の燕であれば――耐えられなかっただろう。だが自然と、彼は妹の瞳に映る自分の姿を、目をそらすことなく見つめていた。

「信じられるような話じゃない。いくら自分に適性があるって言っても、兄さんはそんなこと、しようって思わない」
「何でそんなことがお前にわかる」
「わかるよ。ずっと、見てたもの」
「……」
「兄さんは、いつだってそう。自分がどうしたいとか、そう言うのは関係ない。そこで正しいと思うことを、する」
「――!」

 由香と同じに、思い切り顔面を殴られた思いだった。
 それは――しかし、何故、湊がそれを、知っている? 由香と違い、いくら家族であっても、何となく距離を取るしか無かった筈の、彼女が?

「どうして? バレバレに決まってるでしょ。兄さん――“兄貴だから”って、いつも私の我が儘、許してたじゃない」

 側でずっと見ていれば、嫌でも不自然さに気がつくと、彼女は言った。

「そりゃあ、親とか、大人から見れば、四つも年上の“お兄ちゃん”の方が我慢するのは当たり前かも知れない。けどさ、当事者にとってそれって納得できる? 少なくとも、私だったら、無理。“年上だから”“お姉さんだから”とか、自分が我慢する理由にはならないよ」

 むろん、後から考えれば子供の喧嘩など“そういうもの”である。大人の目線からしてみれば、年長者の方が“気配り”をすることは当然のことだ。けれど当事者にしてみれば、“年長者”と言ってもただの子供でしかない。

「どう考えても、妹の私の方が我が儘言ってるそんな状況で、自分はお兄さんだから我慢する――そんなの、おかしいよ。普通じゃない」
「しかし、それは」
「私の事だけじゃない。兄さんは、全部、そうなんだ。自分がどれだけ我慢しても、“それが普通だから”とか“それが正しいから”って理由が付く方を選ぶ。兄さんは私のことを出来の良い子だって言うけれど、お父さんやお母さんにしてみたら、余程兄さんの方が良い子だと思うよ? だって、叱る必要がないもの。正しいことを考えて、正しいことしかしないもの」
「俺はそんなに殊勝な奴じゃない」
「うん、だから、私も驚いてる。一体、何があったの? どうして急に、そんな信じられないようなことをしようと思ったの?」

 カツラギくん? と、不安そうに由香が顔を覗いてくる。
 応える言葉が見つからないまま、揺れる湊の瞳をただ見つめていると――彼女は、言った。

「どうして、ユウちゃんなの?」
「――え?」
「は?」

 胸元に手を当て、叫ぶように、彼女は言う。

「兄さんが――一番近くにいた私にさえ、そんな風になって。私、辛かったんだよ? こんなこと、言いたくないけど、寂しかったんだよ? どうして、兄さんはいつもそうなんだって――そう、言いたかったんだよ?」
「……」
「兄さんがいつもそうだから――私、だから、「良い子」になろうって、頑張ったんだよ? 真面目に勉強して、なるべく我が儘言わないようにして――頑張ったんだよ!?」

 何がいけなかったの、と、湊は言う。

「兄さんが、そんな無理をしないで済むようにって思ったから――だから私、“良い子”でいようって――でも、兄さんは全然、変わらなくて――」
「湊――」
「私にはそのゲームの事はよくわからないけど、そんなに、そんなに兄さんにとって大事な何かが、そこにあるの? それは、ユウちゃんのことなの? だったら私、何で――何のために今まで頑張ってきたの!?」

 堰を切った、と言うのはこういう事を言うのだろうか。湊の瞳は、涙に濡れていた。
 それでも嗚咽を堪えて、声を振り絞るように彼女は言う。
 燕は、愕然とした。
 自分は今まで、どれだけ馬鹿な生き方をしてきたのだろうか。幼い頃のよくある過ちだと、言い訳をするきにはとてもなれなかった。
 自分は今まで――本当に、どれだけ、目をつぶり、耳を塞いで生きてきたのだろうか。
 それはひとえに、彼女に――目の前で涙を流すこの少女に、見られたくなかったから。弱い自分を、見られたくなかったから。ただそれだけの理由で、自分は仮面を被り続けてきた。
 その仮面越しでは、少女の顔など見えなかった。
 自分の事を見て欲しいと、必死で訴える彼女の顔など。
 あまつさえ――そんな彼女が“苦手”だと、自分はそう思っていたのだ。自分は平気だ、何でもない、そんなすまし顔の仮面被った自分のすぐ側で――幼い日のままの彼女は、大声で泣き喚いていたと言うのに。目が見えず、耳を塞いでいた自分は、それに気がつかなかったのだ。

「――」

 ぐしゃり、と、前髪を掻き上げるように、額を抑える。

(ここでいつもなら――どうするのが正しいか考えるところなんだけれど)

 それは考えたところで無駄だろう。どうするにしても、きっと「正解」など、ありはしない。それに――

「おいクロネコ。ちょっとこっちに来い」
「うーん、何て言うか“お兄さん”にそう言う癖があるのは何となくわかってたけど、これは予想以上って言うか――何?」
「いいから――よっと」
「わっ!?」
「それで湊――舌噛むなよ」
「え――きゃっ!?」

 絵面としても、実際のところも、褒められた物ではないのだろうけれど。
 燕は両腕を湊と由香の首筋に回し――そのまま、湊の部屋にあるベッドに仰向けに倒れ込んだ。

「びっくりした――兄さん、急に何を」
「まさかこのまま三人で!? そんなっ……あ、あたしはともかく、ミナちゃんときみは実の兄妹で――」
「とりあえず、聞いてくれるか。あのままじゃ話をしようにも、間が持たない。お前らなら知ってるだろうけど、俺って情けない男だからな」

 少女達のステレオでの抗議を遮り――燕は、一つ息を吐いてから、口を開いた。




「俺とクロネコ――由香が初めて会ったのって、覚えてるか」
「覚えてるって言うか――それ忘れてたの、カツラギくんの方だよね?」

 つい先日の筈なのに、何故だから酷く前の事に感じる、燕と由香が再会したあの夜の事である。燕は彼女の事を覚えておらず、結局彼女の口からそれが語られる段になってようやく、彼は思い出したのだ。

「すまん。で――湊は、覚えてるのか?」
「うん」

 淀みのない返事だった。

「あの時は確か、流行ってたゲームで、ユウちゃんが先に進めなくて――兄さんがあのゲーム、得意だったって思い出したから、そしたら兄さんにアドバイスしてもらえばって、私が」
「俺って記憶力も無いのかな」
「思い出せたみたいだから、まあ、あたしは許すよ?」

 腕の中で、由香が緩んだような笑みを浮かべる。まるで猫のようだと、燕は思った。プレイヤーネーム“クロネコ”とは、なかなかのセンスである。そう言えば自分たちを“チーム・ハイドラ”と名乗ったのも、彼女の発案だった。勉強はともかくとして、色々な意味でセンスはあるのだろう。

「……由香にはこの間言ったけど、俺は子供の頃、ヒーローになりたかったんだよな。ああいうゲームに出てくるようなヒーローに」

 自分の体を挟んで、少女達が顔を見合わせたのがわかる。それを無視して、燕は続けた。

「その辺りはまあ、俺も夢とか希望に満ちた男の子だったって事で。けどまあ、すぐにそれは無理だって気がついた。ああいうヒーローは所詮、フィクションの中だけにいるもんだって、子供ながらに思ったんだ」

 それもまた、当然の帰結であった。
 いい年になろうというのに、テレビに出てくるようなヒーローになりたいなどと――将来そういう俳優にでもなろうかという意味でもなければ、ただの頭がおかしい少年である。

「でもまあ――あの時由香が、ゲーム教えたくらいでいちいち大喜びしてくれるのが――子供心に俺は嬉しくて。だからせめてこいつと、湊の前では、頼れるヒーローになりたいって、そう思ってたんだ」

 実際には、よく言えば微笑ましい、悪く言えば痛々しいものであったに違いない。それでも彼は、二人よりは幾分年上だった。年齢が一桁か二桁か、その程度の時代にあって、その“年上”というのは大きい。体力的にも知識にしても、自分が幼い少女達に対して優位に立てるのは、当然であった。

「何だかんだでカツラギくんって優しいよね。そこで兄弟を“家来”みたく扱うのも、弟とか妹が居る子供には結構多いらしいけど」
「その中身はそいつらとそう変わらないさ。形が多少違うだけで、得意になってただけの、馬鹿なガキだよ」
「でも、あたしは嬉しかったよ? ミナちゃんも、だよね?」
「え……あ、う、うん」

 湊がどのような顔をしているのか、横目で見ようとは思わなかった。由香と違い、血の繋がった兄妹である。得てして、相手を褒めるのは照れくさいだろうに、そんな顔を見られたくはないだろう。

「まあヒーローだの何だの――早い話、俺はお前らに“凄い奴”だって思われたかったんだよ」

 けれど、世の中というのもままならない物だ、と、燕は大げさに言った。

「原因はもう覚えてないけど、俺、確かお前らの事で同級生のグループと喧嘩になって――いやもう、今思い出しても泣けてくるくらいボロボロにやられたよな」

 それも、お前らの目の前で、と、燕は言った。
 その原因は何だったのか――本当に忘れてしまったのか、忘れたいだけなのか。それすらもはや燕は思い出せない。しかし、湊と由香がそれに絡んでいたのは確かである。その結果自分は、当時のクラスメイト数人と一人で喧嘩をすることになり――当然の帰結として、敗北した。
 幸いにもそれはただの“子供の喧嘩”であり、後腐れもなかった。それが原因で燕が虐めにあったりであるとか、そういう事態も起こらなかった。
 しかしその一件は、燕の心に、大きな影を落とすことになる。

「それで俺、もう駄目だ、って思ったんだよな。俺はお前らのヒーローになろうと思ったのに、あんな、みっともなくやられて、びーびー泣いて。ああ、俺はもうヒーローではいられないって思ったんだよ」
「兄さん、それは」
「それで」

 湊の言葉を、燕は遮る。

「その時からだよ。俺が湊の言うところの、“良い子”になろうとしたのは」
「えっ?」
「だから――ああ、改めて話すのも恥ずかしいんだけど――何て言うのか。“こうあるべき自分”みたいなのを演じようとしたのは、それが原因なんだよ」

 今更、同級生に敗北した事実を無かった事には出来ない。二人の前で、みっともなく泣き喚いた事を無かったことには出来ない。二人はきっと、こんな自分には失望しただろう。
 だったらせめて――そんなことは大したことでは無かったのだと、そう思える自分を装うことにしよう。幼い日の燕は、そう決めたのだ。

「俺はもう、馬鹿な真似も恥ずかしい真似もしない。とことん普通でいれば、ああいう恥ずかしい思いはせずに済む。何に対しても、それが正しくて、普通ならこうするべきだって事をしていれば――お前らを失望させずに済むって」

 湊も、由香も、何も言わなかった。
 暫く何も言わず――ややあって、先に口を開いたのは由香だった。

「あたし――“お兄さん”の事を失望なんてしたことない」
「その言葉は素直に嬉しい。単なる俺の被害妄想では、あるんだろうな」
「ほんとうに。“あの時”の事だって――あたし、むしろ、嬉しかった。言葉には出来なかったけど、お兄さんはあたしの、ミナちゃんの為に必死になってくれたんだもの」
「わ、私だって――」

 追従するように、湊が言う。

「私だって、そう。喧嘩に負けたからって――そんな兄さんを格好悪いなんて、思わなかった!」
「……ありがとな」

 二人の頭を抱き寄せ――燕は言う。

「ただまあ、昔の俺はそう思ってしまったんだ。だから、湊の言うような――“普通の仮面”みたいなものを、被ることにした。そう言う自分を演じることにした」

 けれど、結局それも限界だったのかも知れない。
 少なくとも、何も知らなかった頃の“ストラトダンサー・オンライン”は、ただのゲームで。だからあの世界で――自分は、“クロネコ”に手を差し伸べる事が出来たのだろう。
 “カツラギ”という、草壁燕とは違う人間として。
 けれど、仮面を被り続けた自分ではない、ヒーローになりたかった、あの日のままの草壁燕として。

「だから――今はもう、そう言う馬鹿なことをしようとは思ってない。だけど、湊がそこまで悩んでた事も知らなかった。それは、素直に悪かったと思う。ごめん」
「兄さん――」
「それとまあ、そういうわけだから。俺はもう、お前らの前で格好を付けたり真面目ぶったりするのはやめようと思う。けど、だから――“惑星オデッセイ”の探検を、諦めようとは思わないんだ」
「……」
「まあ――それで」

 実の妹とはいえ、もう子供とも言えない相手に対してこれは失礼なのかも知れないが、などと思いながら、ゆっくり頭を撫でてやる。
 幸い、湊はそれを拒んだりはしなかった。

「勝手な言い分ではあるが、お前が今まで無理してきたって言うなら――もう、無理はしなくて良いんだぞ?」
「……」
「んで、由香」
「んあ? 何? あ、あたしもそれ、頭撫でてほしーな」
「お前の場合は素直に生きすぎだ。何度も言ってるが、俺と一緒に東京に行くなんて現実的じゃねえだろ」
「あたしにはむしろ他の選択肢が思いつかない。だってどーすんの。確かに“惑星オデッセイ”にはこっちからでもログインできるかも知れないけど、今までの遊びとは違うんだよ? あたしだけこっちにいたら、色々不便じゃない」

 とりあえずおざなりに頭を撫でてやるが、どうも彼女はそれだけでは不満らしい。

「それはまあ――そうかも知れんが。だからってお前、向こうに行って一人暮らしとか出来んのか?」
「カツラギくんと一緒に住む」
「お前の親御さんが許すわけねえだろ」
「うちの親は関係ないでしょ。それじゃ、逆に聞くけどさ、カツラギくんは、あたしと結婚するの、そんなに嫌? 他に誰か好きな人とかいるの?」
「話が飛躍しすぎてんだろうが。そう言うのはまず段階を踏んでだな」
「段階って何さ、段階って。それじゃカツラギくん、あたしカツラギくんの事が大好きです。付き合ってください――これで第一段階クリア?」
「だからそもそも俺の意思は!?」
「ええ? 確認する必要あるの?」

 由香が不満げに体を起こし、燕の顔を見つめる。

「自分が相手のことを好きだから、相手も自分の事を好きに違いないってお前、そりゃストーカーか何かの思考回路だろうが」
「それじゃカツラギくん――あたしのこと、嫌い?」
「……」
「あたしは人の気持ちに敏感だなんて言えないけどさ、それでもきみに嫌われてるかどうかくらいは、わかるよ? それは、自惚れじゃないよね? たしかにあたしは美人じゃないし、性格だってきみの好みじゃないだろうけど――だから、きみはあたしの事嫌い? 好きには、なれない?」
「そう言う言い方は卑怯だろお前。いや……大体その好きだの嫌いだの言っても、恋愛感情とはまた別個に――その、何というか、人間の気持ちはそうそう単純で無いというか……」
「んん?」
「――ッ! ああもうわかったよ、俺はお前のこと好きだよ! だけど恋人とか同棲だとか結婚だとかに関しては、また別の話だからな!」
「照れるな照れるな。あたしプロポーズは男の方からして欲しい派だから、待ってるよ?」

「兄さん、ユウちゃん」

 仲が良いのやら何やら、言い争いをする二人に、湊が声を掛けた。
 その声に、燕は由香の頭を抱いたまま振り返り――由香は由香で、燕の肩に頭を預けたまま振り返る。
 その二人の様子に苦笑を漏らしつつ、彼女は言った。

「――あのゲームって、いくらくらいするの? 私ゲームってほとんどやったことないんだけれど、そんな私でも出来るのかな、あれ」






[37800] 第十二話 追う背中、目指す世界【第一部完結】
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/07/13 20:50
第十二話「追う背中、目指す世界」

 そこは何処までも青い世界だった。何処までも続いてるのでは無いかと錯覚するほどの外洋は、好天に恵まれて風もない。ともすれば数十メートルの波高が立つ海原であるが、その日は穏やかで、何処までも続く青が、水平線の彼方で空の蒼と混ざり合う。
 空から見下ろせば、その蒼のただ中を、一筋の白線が流れていくのが見えただろう。
 それは、海原を切り裂いて進む艦船が残す航跡である。この広い外洋のただ中にあっては、それらはあまりにも小さく、まるで青い砂漠の中に落とされた一本の針のようにも見える。
 だが、近づいてみれば“それ”は、もはや船と呼ぶにはあまりに大きい。
 全長355メートル、全幅50メートル、基準排水量約90000トン――“ティグリア共和国”が誇る正規空母“カーヴァ・フランク”である。
 “現実”に存在するアメリカ合衆国の正規空母ジェラルド・R・フォード級をモデルにデザインされているが、全長、全幅ともにそれよりも一回り大きい。現実に存在すれば、間違いなく世界最大の空母――いや“船”になるだろう巨大船舶である。
 それが海原を行く姿は、まるで一つの巨大な要塞が移動しているように思える。
 この空母は、つい先日、ティグリア共和国の新たな拠点として“ストラトダンサー・オンライン”にアップデートされたばかりのプレイヤーホームである。ゲーム内での設定は、ティグリア共和国が、海からの脅威に対抗するために投入した新造艦で、随伴する五隻の駆逐艦と共に“ティグリア共和国カーヴァ・フランク空母打撃群”を形成している。
 実際に米軍の空母を取材して作られたというリアリティのある船内や、海上ならではの特別なイベントが発生するという事もあり、現在プレイヤーの注目を集めている。
 ともかく――青い世界を進むその空母の甲板上は、それなりに騒がしかった。
 甲板後方の一角、甲板と格納庫を繋ぐエレベーターが上昇する。そこには既に、翼を折りたたんだ戦闘機が乗せられ、NPCの作業員による最終チェックが行われている。むろん、この世界に於いてそれは意味のある行動ではないが。
 単発単座、二枚の垂直尾翼を持ち、特徴的な形状ステルス構造の戦闘機。そのコックピットにはアナログメーターが存在せず、巨大なタッチパネル式ディスプレイを備える先進的なグラスコックピット。
 ロッキード・マーチンF-35C戦闘機。現在F-16軽戦闘機の後継機として、開発国アメリカをはじめ、旧西側諸国を席巻しつつある軽戦闘機である。日本も航空自衛隊の戦闘機としてA型を導入――ライセンス生産を行いF-35Jとして配備されており、全世界での最終的な生産数は四千機に達すると言われる、次世代ステルス軽戦闘機の先駆け。
 C型はその通常艦載機型である。主翼や尾翼の大型化と折りたたみ構造の追加、着陸脚の強化など、空母上での運用に必要な改修がなされている。F-35には通常型であるA型とこのC型の他に、“短距離離陸・垂直着陸(STOVL)型”であるB型が存在し、軽空母や強襲揚陸艦などに搭載されているが――“世界最大”の空母であるこの船には必要ない。
 そのコックピットに身を沈めるパイロットは、計器板の表示とヘルメットのバイザーに投影された情報を一瞥する。当然ながら、問題なし。軽い衝撃と共に、機体はまぶしい陽光が降り注ぐ飛行甲板へと持ち上げられる。
 主翼が展開されるのを確認して、操縦桿を前後左右に傾ける。それに連動して、動翼が正常に動くのを目視確認。スロットルレバーを少し押し上げ、ホイールブレーキを解除する。
 NPCの甲板作業員が誘導してくれるのに従って、機体をカタパルトに接続する。機体の背後でディフレクターが立ち上がり、強烈なジェット排気から後部甲板を保護する。
 エレベーターに機体を乗せてから、この時点で約三分。スキップする事も出来るこの動作をわざわざ行うのは、もちろん気分の問題である。自分もいい加減“あれ”な人間だったのだなと、パイロットは小さく息を吐いた。

『溜め息なんてついてどうしたの?』

 唐突に耳に飛び込んできた声に、パイロットは顔を上げる。
 気づけば、隣のカタパルトに同じF-35Cがスタンバイするところだった。そのコックピットで、まるで宇宙服のような装いに身を包んだパイロットが、こちらに手を振っている。なるほど、このゲームで“アバター”を作り込む事にさしたる意味はない――“友人”がそんなことを言っていたのを思い出す。確かにその通りである。とはいえその友人、口ではその様なことを言いつつも、非常に特徴的なアバターを使用している事は、この際言うまい。

「いえ、何でも。少し考え事をしていただけです」
『悩みがあるなら相談に乗るけれど?』
「悩みって程のものじゃありません」

 それに、と、パイロットは言う。

「ただ何というか、私、このゲームを始めるまで、こういうミリタリー趣味というか何というか……そう言うのって、きっと自分には理解できない類のものだと思ってたんです」
『ああ……なるほど』

 その言葉で、向こうも得心が行ったのだろうか。

『私も友達の誘いでこれ始めた時には、自分がこういうものにハマるなんて思いもしなかったわよ』
「“シャルロット”さんもですか?」
『というか――大概の女性プレイヤーはそうじゃないかしら?』

 コックピットの中で、“彼女”はそう言って後方を指さす。先程自分が乗せられてきたエレベータから、更に同型のF-35Cが甲板へ持ち上げられたところだった。その垂直尾翼には、自分たちと同じエンブレムが描かれている。ほうきに乗り、ロケットランチャーを構える魔女――剣呑なのか間が抜けているのか、よくわからないエンブレム。
 そのエンブレムの下には、所属を表す白抜きの“CF”の文字。
 果たしてそれは、“彼女たち”の僚機である。フライトシューティングゲームという内容から、“ストラトダンサー・オンライン”にはそれほど多くない女性プレイヤーのみで構成される特異な部隊――正規空母カーヴァ・フランク戦闘機部隊“ライトニング・ウィッチーズ”隊所属機。
 ――もっとも特異だの何だのと言っても、所詮はゲームの中の話である。深い意味があるわけではなく、数少ない女性プレイヤー同士のチャットで意気投合した結果というだけであるが。

『ゲームなんて単なる趣味――って割り切ってるつもりでも、なかなか、ねえ。この間国境防衛戦で大盛り上がりしてる時に友達に合コンに誘われて、何て断ろうかって考えて――それ考えてる自分に気づいて、暫く自己嫌悪に陥ったわよ。彼氏が出来るかも知れない機会をフイにして、私何やってんだろう、って』
「それは」
『ま、“ミケネコ”ちゃんにはそう言うことまだわかんないか――あなた確かまだ高校生だったっけ?』
「いえその――中学生、です。今年で卒業だけど」
『色気がどうこう言ってる時期じゃないか。まさかとは思うけど、彼氏がいるから余裕見せてんじゃないでしょうね?』
「シャルロットさん声が怖い――そういうわけではないんですけど」
『そ。なら良いのよ。今はせいぜい、勉学に励みなさい――受験とか大丈夫なの? こういうゲームやってて、親に怒られたりとかしないの?』
「一応、親には内緒で――志望校の判定はAランクだったから、しばらくは大丈夫だと思いますけど」
『ミケちゃん結構優等生?』
「胸を張っては言えませんけど。何せ、親の目を盗んで夜な夜なネットゲームに手を出してるくらいですから」
『あはは、そりゃまあ、違いないわね』

 前輪の接続ブームが、カタパルトの適正位置に接続されている事を確認する。ヘルメットを被った甲板作業員が、こちらに向けて親指を立てている。

『“ライトニング1”“ライトニング2”、カタパルトクリア、発艦を許可する』

 そうこうしているうちに、準備が整ったらしい。一昔前の空母に比べれば、その船体の巨大さの割に小さく見える艦橋から、指示が飛ぶ。巨大な船体は、その心臓部である四基の原子炉から得られる莫大なエネルギーを推進力に変え、風上に向かって全速力で航行を始める。

「シャルロットさん、こういうゲームでリアルの事を持ち出すのは、マナー違反なんでしょう?」
『それもそうね、その通りだわ。それじゃ今日もティグリア共和国の平和のため――そして“ユグドラシル”の覇権を握るため、行きましょうか』

 甲板作業員が機体の脇に付き、体を低く沈めて対ブラスト姿勢を取る。スロットルをアフターバーナー位置に。単発ながら、下手な双発機よりも高出力のエンジン推力に、主脚がぐっと押し縮められているのを感じる。
 キャノピーフレームに付いた取っ手を握り――身構える。
 甲板作業員の腕が伸び、前方をまっすぐ指さした瞬間――今まで押さえつけられていた力が、一気に解放される。ブレーキリリース、同時にカタパルトが動き出す。前時代からのスチームカタパルトではない。潤沢な電力を最大限に生かした、リニアカタパルト。見た目に地味で音もほとんどしないが、十数トンに達する艦載機を、そのエンジン推力と合わせて離陸速度にまで――僅か百メートル足らず、数秒もしない間に時速二百キロ超にまで加速させる。
 百メートルそこそこと聞けば、かなりの長さがあるように聞こえるかも知れない。しかし、空母の全長の三分の一弱である。そもそもが、現用ジェット戦闘機は、小さいものでも十数メートル程度の全長を持つのだ。自身の全長のたった数倍で、離陸速度を稼がなければならない。だから空母は僅かでもその助けになるために、風上に向かって全速力で航行しながら戦闘機を離発着させるのであるが。
 ともかくその一瞬で、稲妻を纏う魔女を乗せた鋼鉄の翼は、十分な速度にまで加速され――虚空に放たれる。すぐさま車輪を格納――速度計の表示が跳ね上がるのを視界の隅で捉えながら、上昇姿勢に移る。
 既に巡航速度に達している。超音速巡航能力こそ持たないが、エンジン推力だけでも自重を支える事の出来る強力なジェットエンジンには、造作もない事である。艦隊の上空で大きく旋回――空母の後方上空から、艦隊を追い抜くように前に出てみれば、自分たちに続いて空母から発進した僚機が、既に待っていた。

『こちらカーヴァ・フランク空母打撃群第四飛行隊“ライトニング・ウィッチーズ”所属一番機――パーソナルネーム“シュナイダー”。これより、国境防衛ラインに向かう、オーヴァー』




 視界に重ねられたコンテナが、気を抜けばそこから一瞬でかき消える異形の影を追う。ミサイルシーカーをオープン――ほぼ同時に、敵機に重ねられたターゲットマーカーに、ロックオンマーカーが重ねられる。
 ターゲット・ロックオン――躊躇せずトリガーを引き絞る。放たれたミサイルは撃ちっ放し機能を備えるアクティブ空対空ミサイルである。たとえミサイルを放った母機を振り切ったところで、ミサイル自体が自分の判断で獲物を追う。
 だがそれでは足りない――操縦桿のスクロールスイッチに素早く指を這わせ、別種のミサイルを選択。
 先程とは違う胴体下部のウェポンベイが開き、そこから再度、ミサイルが虚空に放たれる。
 異形の敵機は、大きく旋回しながら赤熱したマグネシウムリボンをまき散らす。最初に放った赤外線追尾タイプのミサイルはその欺瞞に食いつき、虚しく自爆――だが、後から放ったレーダー型ミサイルが、先程とは別の軌道を描いて、一息に敵機との距離を詰める。
 この距離ではよもや外れまい――だが、パイロットの思惑は崩される。
 旋回中に、更に機種を跳ね上げるように体勢を変えた敵機は、あろうことか飛来するミサイルを狙って機銃掃射――この極限状態で、呆れるほどの精密射撃である。どう考えても人間業ではない――相手に迫ったミサイルは、信管を撃ち抜かれて砕け散った。

「ミサイル、目標に命中せず――」

 宣言している場合ではない。自分も、操縦桿を一杯に引く。視界の中に捉えていた敵機をそれで取り逃がしてしまうが――案の定、自分が先程まで居た位置に、曳光弾の描くオレンジ色のシャワーが降り注ぐ。ほんの僅かでもその本能的な行動に躊躇していれば、それでやられていた。
 視界の中で天地がめまぐるしく入れ替わり――身体的な負荷を感じないはずなのに、自然と呼吸が荒くなる。酸素マスクは“この世界”では半ば飾りのようなものだから、どれだけ大きく息を吸い込んだところで、楽にはならない。

『くっ……こいつ――ちょこまかと!』
『ライトニング3、深追いしちゃ駄目! いけない、この距離じゃもう、レーダーに映らない!』
『ライトニング2、ライトニング4、そっちで捕捉できる?』
『ライトニング4――無理、こっちも今二機に追い回されて――出来れば援護が欲しいくらい!』

 戦況は、芳しくない。
 最初は、ただの国境防衛戦の筈だった。相手はクテシフォン皇国前線部隊――こちらと数の上では同数の、Su-33“フランカーD”戦闘機四機との空中戦を行っていた。
 奇しくも相手も艦上戦闘機――だが、こと機動力にかけては世界最強とも言われる誇り高き血統――Su-27フランカー・ファミリーの一員である。強力なエンジンと推力偏向ノズルを組み合わせ、左右独立可動するカナードがもたらす三翼面構造が、もはや航空機とは思えないほどの驚異的な機動性を生む。
 対してこちらは、高いステルス性と軽量な機体、敢えて高速性を犠牲にしてもたらされた軽快な機動力を最大限に発揮する軽戦闘機である。相手より先進的な機体――第五世代を代表する戦闘機の一つであるが、楽な相手ではない。
 だが、負ける気はない。自分の腕が物を言うフライトシューティングゲームとはそういうものである。多少の機体の性能差など、プレイヤーの腕の差に比すれば大したものではない。
 だが、その極限の戦闘は、思わぬ形で幕を引く。
 突如現れた漆黒の機体。X-47に酷似した、全翼機。
 いまだその所属も目的もわからず――ただ、この“ストラトダンサー・オンライン”のプレイヤー達に、無機質な死をばらまく、謎の無人機。
 純粋な空中戦で勝てるプレイヤーは各勢力のエースにもほとんど居ないと言われるその機体が、四機。
 彼女達“ライトニング・ウィッチーズ”の全員がいまだ健在なのは、単なる幸運である。その時たまたま相手に背を向ける位置に、敵対勢力のSu-33が陣取っていただけだ。彼らは恐らく、自分に起こった出来事が何なのかわからないまま、虚空に消えた。
 メインアラームがやかましく鳴り響く。敵機から、レーダーの照射を受けている。既に相手にはロックオンされているかもしれない。しかしどれだけ機体を振り回しても、警告が消えない。回避行動が、通じていない。
 身を乗り出して後方を伺う。驚くほど近い位置に“それ”は居た。
 黒いブーメランのような、のっぺりとした単純な構造。本来コックピットがある位置には、まるで口のようにエンジンのエアインテークが存在している。
 気流の関係上、実は空気の取り込み口は機体上面にもうけるのが望ましいと言うが――それを実践するのは難しい。パイロットが脱出した際に、エンジンに巻き込まれてしまう危険性があるからだ。
 だからそれが可能なのは、そう言った危険を考慮せずに済む機体――すなわち、無人機のみである。追いすがって来る機体を見て、パイロットはそれがまるで、自分を飲み込む暗い穴のように見えた。

「――ライトニング2より全機へ――背後に付かれました。ロックオンされています!」
『暫く持たせて! こっちが片付いたらすぐに――持たないと感じたら脱出しなさい!』
「了解!」

 叫ぶように返事をして、彼女は操縦桿を引く。数の上で同数――性能差は歴然。自分の持ち分を放置して、こちらを助けてくれるほどの余裕は無いだろう。機体を不規則に左右に振り、相手を引きはがそうとするが――振り切れない。
 このままでは間違いなく撃墜される。そう感じた彼女は、片手をスロットルレバーから離し、脱出ハンドルに掛ける――が、躊躇する。
 機体が完全に破壊される前に脱出に成功すれば、デスペナルティは大幅に減少する。ゲーム内での貨幣としても使えるプレイヤーポイントと、同様に上位ランクの機体を入手するのに必要な“経験値”のマイナスは喰らってしまうが、機体そのものは引き続き使用できる。脱出に間に合わなければ初期配備の機体からやり直す事になるのであるから、仲間の言葉はもっともだ。
 その躊躇は何だったのか。自分にもよくわからない。ものはたかがゲーム――生身で空中に放り出される恐怖を感じる必要はなければ、ただのデジタルデータである機体に愛着を感じる必要もないのだが――だが、その自分にも良く分からない僅かな躊躇が、致命的だった。
 その一瞬で敵機はアタックポジション――それも、こちらは攻撃を避けようがない位置を抑えている。

「――!」

 思わず脱出ハンドルを引くより先に、強く目を閉じた。
 衝撃が、機体ごと体を揺らす――閉じた瞼の裏の暗闇に、彼女は爆風に引き裂かれる自分の姿を幻視した。

「……?」

 しかし、覚悟していたゲームーバー画面は訪れない。恐る恐る――瞼を開く。
 視界には先程までと変わらない空――しかし、鳴り響いていたアラートは、今は聞こえない。はっとして後ろを振り返れば、黒い煙が帯を曳いて、雲海の下へと消えていくのが見えた。
 軽い警告音に、慌てて視界をメインディスプレイに――移そうとしたところで、コックピットに影が差す。
 ――思わず、首をすくめそうになった。
 手を伸ばせば触れられそうな程近くを、巨大な影が追い越していく。それは、果たして戦闘機だった。エッジの効いた形状ステルス構造に、特徴的な前進翼を備える三翼面構造の戦闘機――そしてその垂直尾翼に描かれた、二つの首を持つドラゴンのイラスト。

「あ……!」
『幸運を(Good Luck)』

 無線越しに声が聞こえた。まるで子供のような、甲高い声。
 そしてその戦闘機――“この世界”では珍しい、副座仕様の後部座席に座る人影が、明確にこちらに向かって手を振った。
 それは、機械仕掛けのNPCにはあり得ない、柔らかな動作。
 刹那、その機体は翼を翻す。まるで曲芸のように機体をくるくると回転させ、翼端から長い霧の帯を曳きながら、こちらから離れていく。

『ライトニング2――無事!?』

 仲間からの通信に、我に返る。

「あっ……は、はい、無事です! 今のは――」
『“ティグリア共和国空軍501特務航空隊”――通称“501エース”の連中だわ。もしかして、遭遇したのは初めて?』
「――」
『“自称エース”とかって馬鹿にしてる奴らも結構いるけれど、実際に見せつけられると文句も出ないわね』

 “ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”開始直後に、各勢力で行われた「エース選抜戦」。
 開始直後とは言っても、人気ゲームの続編である。既に万単位を数えるプレイヤーの中で、選ばれるのは各勢力において、ただの数名。
 彼らには専用の隠しプレイヤーホームと、アクティブになっている戦場に、タイミングさえ合えば任意に介入する権利が与えられている。まさに今のような、味方のピンチに颯爽と駆けつける――そう言う“プレイ”も可能であるわけだ。
 むろん、その「選抜戦」の結果がそのまま、プレイヤーの腕の差であるというわけではない。「今ならば自分たちも遅れなど取らない」と、勢力の代表のように振る舞う彼らを、良く思わないプレイヤーも多いだろう。
 だが少なくとも、その実力は本物なのだろう。魔女達のリーダーを務める彼女はこぼす。自分たちが手も足も出なかった――いや、今だにゲームの中では攻略の糸口が掴めていないはずの強敵、それも複数機を相手に、単機で挑んで圧倒するなど、考えられるものではない。
 完全にクリアになった空域を尻目に、長く飛行機雲を曳きながら離れていく機体を目で追って――“彼女”は、小さく呟いた。

「……遠い、なあ」

 だが、すぐに首を横に振る。

「でも――絶対に追いつくよ。待っててね」




「――カーヴァ・フランク空母戦闘機群“ライトニング・ウィッチーズ”――あれってミナちゃんだよね? 思わず割って入っちゃったけど、良かったのかな」
「構わねえだろ。あいつ程度のプレイヤースキルで、あの状況で“連中”が倒せるとは思わない。F-35Cはそれなりにポイント溜めないと使えない機体だし、無視してデスペナ喰らわせるのもまあ、あれだろ」
「うふふ――やっぱり“お兄ちゃん”は、自慢の妹には優しいんだね」
「いや、ゲームの中でそう言うことやっても、正直アレだと思うがなあ」

 酸素マスクの中に溜め息を吐き、燕は空を見上げる。キャノピーの向こうにどこまでも広がっている筈の空は、今は狭い。頭上すぐのところに見えるのは、巨大な鋼鉄の円筒。
 果たしてその円筒は、自分たちのすぐ上を飛んでいる大型機から伸びていて、その先端は機体背面に展開された給油コネクタに収まっている。
 現在、チーム・ハイドラ――ティグリア共和国第501特務航空隊所属三番機である“ハイドラ”は、自国の勢力圏ギリギリの場所を飛行しながら、NPCが操るKC-767空中給油機から、給油を受けている。
 いや――“通常ならNPCが操っている筈”と言い換えるべきだろう。無人であるはずのその大型機から、無線が入る。

『予定地点までは無補給の筈でしたが、何かトラブルが?』
「すいません角田さん。少しその――顔見知りを見かけてしまったもので」
「仕事の範囲じゃないですか? 相手は例の連中だったわけだし」

 そう、現在その機体の操作をしているのは――実際に操縦桿を握っているわけではないにせよ――今は彼らの直属の上司となる男である。元航空自衛隊パイロットにして、現在“スターゲイザー・エインターテイメント”で“ストラトダンサー・オンライン”を管理する職にある男、角田。

『確かに、テストとしては上々であったかも知れません。如何でしょうか草壁さん、水戸さん――新しく作られた、専用ダイブデータの感覚は』
「今までも体に負荷が掛からないだけで、凄くリアリティはあったんですが――これは」
「何というか、本当に、ここが仮想空間だとは思えない。マスクの金具が鳴ったりとか――すごい、かすかに、プラスチックとか、乾いた空気の匂いがする」

 今現在、彼らは通常のプレイヤーと同じ条件で“ストラトダンサー・オンライン”にログインしているのではない。“RailioⅢ”ではなく、東京にあるスターゲイザー・エインターテイメントの本社に急ごしらえで作られた一室に据えられた高性能端末を使用し、通常のプレイヤーより更に深いところでこの世界に――“惑星オデッセイ”に旅立っているのだ。
 ただゲームをやっている時にはカットされていた、不要な感覚――味覚や嗅覚と言った感覚器官からのフィードバックや、ゲームよりも更に細やかな世界観。それはまさしく、本当に“もう一つの世界”と呼ぶに相応しい。
 だが、「これ」が。
「これ」こそが、“惑星オデッセイ”の真の姿。
 “ストラトダンサー・オンライン”で見ていたのは、あくまでそれをゲームという、わかりやすい形に作り直した世界に過ぎない。
 瞳に突き刺さる鮮烈な太陽光、手のひらを覆う無骨なグローブの感覚と、それ越しに感じられる操縦桿の硬さ。顔を覆う酸素マスクの僅かな息苦しさや、そこから吸い込む空気の匂いまで。
 やっていることは、今までと変わらない。
 “突き詰めれば本を読むに等しい行為”と言われる、仮想空間体感装置を通して感じられる、疑似データに過ぎない。けれど――

「そうか――“ここ”が惑星オデッセイ。ここは、この子の――“ハイドラ”のいる世界なんだ」

 僅かに震える声で、由香が言うのが聞こえた。
 そう、やっていることは、今までと変わらないものであるのかも知れない。ただ扱えるデータの上限が大きくなっているため、格段にリアリティが増したというだけで。
 だが、それでも燕には、背後で彼女がこぼした言葉が、その答えになっているのではないかと思った。すなわち今――自分が未知の惑星に立っているという、奇妙で、現実感のない、しかし確固たる実感。

『では、これより予定空域に向かいます。ポイント、TFF-98745、ティグリア共和国国境より東北東へ四百五十キロの前進地点――現時点での、観測限界です』

 気づけばいつしか、ハイドラと並ぶようにもう一機のF-3が飛行している。ただこちらは濃紺の迷彩に身を包み、機体下部には、ハイドラには存在しない紡錘形の白い物体をぶら下げている。
 RF-3――F-3神狼制空戦闘機に、偵察ポッドと高感度センサーを追加した、偵察機仕様である。今回、燕と由香――チーム・ハイドラの任務は、角田が操るその戦闘偵察機の護衛である。
 彼らが向かうべきポイント――いまだどの勢力の領土ともなっていない、超大陸ユグドラシルの空白地帯。
 じきにそこは、まるで獲物に覆い被さるアメーバのように、それぞれの領土を広げていく各勢力のどれかに飲み込まれるだろう。しかし、それはただのゲーム上での話である。“ストラトダンサー・オンライン”に存在するユグドラシルは、所詮見かけだけのもの。仮想の世界で戦う戦士達の、背景に過ぎない。
 そして今だ謎の片鱗さえも掴めない真の“超大陸”への扉を開くため、彼らはそこへ向かう。
 急ごしらえの偵察機によってデータ収集されたその場所には、近く前線基地が出来る予定である。
 “ストラトダンサー・オンライン”というゲームとは関係ない――“この世界”を解き明かすための、ベースキャンプが。

『給油終了』

 角田の声と共に、ハイドラの背面に差し込まれていた給油ブームが抜き取られる。ブームの先端部に残っていた僅かな航空燃料が、相対速度数百キロで流れる気流に巻かれて、一瞬で真っ白な霧となる。
 “惑星オデッセイ”は単なるデジタルデータに過ぎない。しかし、その場所は、こちらの手が及ばない、真の秘境。
 そこに入るとなれば――“ストラトダンサー・オンライン”という世界を操る牛耳る彼らとて、全能の神では居られない。知らない場所は実際にその目で見て確かめる必要があるし、そこに行くための翼には、無制限にも設定出来るはずの燃料が必要になる。
 むろん、それらは“ストラトダンサー・オンライン”のデータを流用して作ったただのデジタルデータであり、そう言うものを作り出すことくらいは出来るのであるが――やはり無制限に“何でも出来る”というわけではないのだ。仮想世界であるはずの、この惑星は。

「“ストラトダンサー・オンライン”の前線部分はいわばそう言う場所――我々の手が及ぶ場所から、及ばない場所への境界線であると考えて欲しい。そこから先、君たちは“何でもあり”が信条の仮想空間で、現実に即した行動を強制されることになる」

 そうとも、と、田島は言った。

「我々が管理できるゲームの部分と、真の“惑星オデッセイ”とでは――その“ことわり”からして、違うのだ」

 そうでなければ触れるもの全てを防ぐバリアであるとか、人型ロボットに変形する戦闘機だとか――そう言うものを作って惑星オデッセイに降り立つのも“あり”なのだが、と、田島は笑った。
 それを聞いた由香が何処か残念そうな顔をしていた事を、燕は知っている。

「お前ホントに、そう言う男の子が好きそうな奴が好みだよな――」
「カツラギくんがそう言うことに興味なさ過ぎなんだよ。変形と合体はロマンでしょ」
「俺には手足が二本ずつしかないし、指だってそれぞれに五本ずつしかついてねえぞ。ああいう人型ロボットってどうやって操縦してるんだよ」

 人間の体の可動部など、上半身だけでも五十を超えるだろう。何をどうすれば、テレビアニメに出てくるようなロボットは操縦できるのだろうか。可動部分と言えば動翼くらいしかない戦闘機でさえも、操縦桿とスロットルに着いたスイッチの数は、両手の指を上回ると言うのに。

「そう言うこと考えたら始まらないでしょ」
「考え始めずに、どうやって俺にああいうのを動かせと?」
「そこはもう――“こいつ――動くぞ!”的な」
「お前は俺を何だと思ってる?」

 ため息をつき、空中給油機が遠ざかっていくのを横目に見ながら――燕は、操縦桿を握り直した。
 見据えるのは、“惑星オデッセイ”の地平線。低緯度に森林が何処までも広がる“ティグリア共和国”近郊の、大森林地帯である。これから始まる大冒険の第一歩を刻むには、丁度良い。

「それじゃまあ――行くか」
「うん――今更だけど何て言うか」

 “軽い”ね、とは、“クロネコ”の言。
 確かに、ちょっとそこまで散歩に行ってくるとでも言いたげな彼の言葉は、おおよそ“冒険”などという行為にはそぐわないものである。

「そう言われてもな。俺が“一人の人間の小さな一歩だが――”とか、ここで言い出すのも何だかな」
「別にカツラギ君に月面着陸の焼き直しをやれとは言わないけどさ」

 果たしてそれは、場合によっては月面着陸以上の衝撃を、世界にもたらすかも知れないのだ。人類の知らない――謎の意思との遭遇は。

「あんまり最初から飛ばすと後が続かないぞ。結局そいつが、このデータを持ち込んだ誰かの悪戯じゃないと、何故わかる」
「自分でもそう言うことは思ってない癖に、よく言うよカツラギ君は」

 確かに彼女の言うとおり――それは、自分の望む結末ではない。むろん、自分が何を求めているのかなど、彼自身にもわからないし、そんなものが都合良く結末として用意されているなど考えられないだろう。
 けれど自分が――草壁燕と言う男が、冒険の果てに、つまりは“つまらない結末”を望んでいないことは、確かなのである。
 ならばそれを――敢えてここで言う必要はないのだろう。

「よし――それじゃ、改めて」
「うん」

 ヘッドマウントディスプレイと、風防の向こう側に見える空を見据えて、彼は言った。

「“行く”か」
「うんっ!」

 今度は、彼女は満足そうに応えてくれた。
 その声を合図として――“ハイドラ”は、その翼を翻す。
 薄い灰色の低視認性塗装が空の色と混じり合い、鮮烈に彩られた尾翼の蒼が、宙の色に、溶け込んでいく。


そこは、空で繋がれた世界、青空の舞台。

空と、宙が、交わるところ。












「ライトニング・ウィッチーズ」隊に関しては、半ば悪乗り。
ヒロインが戦うなら普通こういうことだろうに。
ちなみに彼女らがどういう姿なのかは、手っ取り早くwikipediaのF-35の項目にある、
ヘルメットを装着したパイロットの画像を見ていただければご理解いただけるかと。

……まあ、リアルな戦闘機のアニメ化が難しい理由はわかる。


区切りとしてあまり意味はないのだけれど、「第一部」終了。
次回より、新展開となります。

区切りにしてもいまいちうまく決まらなかったので、後日修正の予定。



[37800] wikipedia風 F-3設定
Name: スパイク◆59269ebe ID:1c2c1e95
Date: 2013/08/03 05:31
F-3

・ 用途:戦闘機
・ 分類:第五世代ステルス戦闘機
・ 設計者:三菱重工業・川崎重工業(主要設計者)
・ 運用者:日本(航空自衛隊)
・ 初飛行:2026年8月24日
・ 生産数:46機(低率初期生産型14機を含む)最終的に196機(予定)
・ 運用開始:2028年4月1日
・ 運用状況:現役
・ ユニットコスト:177億円~192億円


F-3は航空自衛隊が配備する戦闘機である。第五世代ジェット戦闘機に分類される。ステルス戦闘機でもあるが、前進翼に機首カナードを装備するその形状から、そのステルス性を疑問視する声もある。

開発計画は元を辿れば2010年代の後半、F-4EJ改戦闘機の後継機としてF-Xに選定されたF-35Jの配備が、遅々として進まない状況にあったという。この状況に対して、防衛省関係者の中には、当初より国際情勢に大きく影響を受け、また国防の主力を外国に依存する状況を危惧する声は強く存在しており、果たして以前研究が進められていた先進技術実証機計画(ADT-X“心神”)の継続研究という形で、国産戦闘機の研究が進められていた。
2021年頃にF-35の配備の遅れ、F-15J戦闘機のF-15J改への改修の遅れに後押しされる格好で、防衛省が次期主力戦闘機の国産開発を決定。開発は驚くほど滞りなく進み、初飛行に成功したのはそれからわずか五年後の2026年4月の事であった。
防衛省や開発企業は特に愛称を定めていないが、“神狼”という非公式の愛称を持ち、最近では自衛隊内部でもこの愛称を用いる事が増えているという。


>開発の経緯

 前述の通り、2010年代後半の、防空構想における対外圧力への危惧から計画が始まったと言われている。
 正式な開発開始の時期は不明だが、2010年代末には、一度終了していた先進技術実証機研究に再度予算が割り振られていることから、このとき既に防衛省上層部の中では、次期主力戦闘機を国産化する計画が存在していたのでは無いかという声もある。
 2020年代に入り、航空自衛隊の保有する戦闘機はF-15J改とF-15J(F-15DJ)、F-35、F-2の四機種であった。このうち対艦攻撃に主眼を於いて開発され、マルチロール機といえども攻撃機的性格が強いF-2をのぞけば、純然たる要撃戦闘機は残りの三機種である。
 F-15Jは老朽化、陳腐化が進み、また大規模な近代化改修であるF-15J改への改修も、そのコストの高さから進捗率は高いとは言えなかった。またF-4EJ改の更新で配備が始まったF-35Jも、その配備が遅れていた上に最終的な調達機数が50機前後であった事から、要撃戦闘機の不足が危惧されていた。
 そんな中で2021年2月15日、アメリカで訓練飛行中のF-35が空中分解を起こして墜落する事故が発生し、更にF-15J改に使用されていた構造部材の一部に不具合が見つかる事態が重なって、一時的に日本の防空は老朽機であるF-15と、攻撃機的性格の強いF-2のみに委ねられる事態となった。
 上記の問題が解決した後もこのような事態に対する懸念は消えず、周辺諸国にT-50やJ-20と言った最新型のステルス戦闘機が配備されつつある状況を鑑み、防衛省はこれらに対抗できる国産戦闘機の開発を行う事を決定した。

 一般には公表されていないが、F-3は性能に比して、その開発期間のあまりの短さから、軍事評論家の間では、このとき既にADT-Xの後継研究を名目として、F-3の雛形が出来上がっていたのではないかという意見がある。

 2021年9月に、三菱重工業、川崎重工業を主契約者として、時期主力戦闘機開発計画は正式に開始された。
 このときの防衛省の要求は、
・ 世界各国の第五世代戦闘機に匹敵、あるいは凌駕するだけの格闘戦能力を有する。
・ 基準装備重量において3000㎞以上、フェリーで3500㎞以上の航続距離を持つこと。
・ F-35Jに匹敵するか凌駕するレーダー性能を持つこと。特に高度差のある敵機に対する索敵能力に優れること。
・ 超音速巡航能力を有する。
・ ある程度のステルス能力を有し、武装の一部を胴体内部に格納出来る。

上記の通りであったと言われている。
結果として現在のF-3の構成である、ステルス構造を持ちながらも機首カナードに前進翼を備える三翼面機という特異な設計が選定された。これに対して防衛省は、ステルス性に関する懸念を最後まで払拭出来なかったが、結果として格闘戦能力を優先する格好となり、設計は承認された。
 しがらみの少ない純国産開発機という性格上、開発は驚くほど順調に進んだ。

 最終的な問題となったのは、外交圧力である。日本に対する武器輸出国であるアメリカと、日本の先進武装化を危惧する中国・韓国は、露骨なまでの政治的圧力を掛けようとしたと言うが(そもそも自国で戦闘機を開発するという行為には、国際法上の問題などある筈はないが)結果として防衛省はそれを押し切る格好となった。
 F-3はその任務の性格上必要のない対地攻撃力を持たず、また日本で独自開発する事が難しかったエンジンは、アメリカ製をライセンス生産するという最後の妥協と共に、F-3は正式に航空自衛隊に配備されることが決定した。

 配備が急がれる現状から、F-3は試作機の制作を行わず、いきなり量産型をスローペースで生産し、問題を洗い出していくと言う所謂クック・クレイギー方式が採用された。これはかつてアメリカの艦上戦闘機F-14などにも用いられ、一定の効果を上げた手法である。
 これに則してまず4機が製作され、各種試験に供される事が決定した。
 内約は以下の通りである。
 初号機……設計強度実証機 各種強度実験に使用され、その後破棄
 2号機……飛行特性検証機 各種飛行状況による機体特性の確認
 3号機……アビオニクス実験機 あらかじめ用意されたプログラムテスト
 4号機……兵装実験機 各種兵装との適合テスト

 低率初期生産型と言えども製作機数が少ないが、これはエンジンやレーダーと言った機体主要部分に、輸入品を使わざるを得なかった副次的効果であると言われている。F-3に使用されるエンジンとレーダーは、アメリカのF-22改修型で既に十分な実績を上げている製品であり、2号機と3号機のテストのみで問題なしと判断された。
 2号機の初飛行は2026年8月26日に行われ、航空自衛隊百里基地を離陸した2号機は約40分間の飛行を終え、無事に着陸した。
 4号機のテストが半ばにさしかかる頃には、更に8機の低率初期生産型が製作され、各種のデータ収集が行われた。2027年1月のテスト飛行に於いて、戦闘機動の実験を行っていた9号機がエンジン停止によりあわや墜落の危機に陥ったが、空中で体勢を立て直して緊急着陸に成功した。これにより図らずも、F-3の空力特性の優秀さが実証される結果となった。
 これら低率初期生産型と量産型では、コックピットの計器盤まわりと、キャノピーを開閉する可動部に若干の差異が見られるという。

 2028年4月1日、航空自衛隊新田原基地に於いて、航空自衛隊への引き渡し式典が行われ、制式化の為の軽微な改修を終えた6号機と7号機が航空自衛隊に納入された。
なおこの式典を見ようと詰めかけた航空ファンと、F-3配備に反対する人権団体や在日外国人団体の間で小競り合いが起き、式典が十数分に渡って中断するというハプニングが起きた。
2028年内に初号機から4号機をのぞく初期生産型の14号機までが航空自衛隊に納入された。正式な量産型が自衛隊に納入されたのは、翌2029年2月の事である。
2030年2月現在、46機が製造されている。最終的な調達数は、当初計画では247機であったが、諸般の事情から196機(A型146機、B型50機)にまで削減されている。これにより1機当たりの単価が上昇することなった。防衛省は2040年を目処に、随時配備を進めて行く予定であるが、F15J改とF-35が想定されていた防衛能力を満たしていることから、最終生産数は100機前後まで削減されるのではないかという意見もある。


>機体構成

機体形状
 前進翼に機首カナードを装備し、全遊動型の水平尾翼を持つ三翼面機である。平面形は、20世紀末にロシアが開発した概念実証機Su-47ベルクトに似ているが、ステルス能力を意識した形状であるため、外見から受ける印象はかなり異なっている。
通常任務では、全ての武装を胴体内部格納とする。またF-35の程ではないが明確に機体の上面と下面を分けるチャインや、直線と曲線を滑らかに融合させたシルエットは、明らかにステルス性の向上を狙ったものである。
ただ機首後方に備わる、僅かに上半角を持つ大振りなカナード翼と、前縁フラップを持たないシンプルな構造の前進翼である主翼により、相当にステルス性能が損なわれていると考えられる。特にカナードの付け根にある大きな切り欠きが、レーダー反射面積を増大させるのでは無いかと考えられているが、これに対して防衛省は「無視できるレベル」だと発表している。
果たして公開された形状から非公式に行われた電波反射実験に於いて、F-3のレーダー反射面積は中型の鳥よりは大きいが、大型の鳥やハンググライダーなどよりは小さいという結果が出ているという。
 前進翼は、気流の剥離が翼の根本から始まり、翼端には最後まで気流が留まっていると言う特性上、戦闘機には適していると言われている。だが十分な強度を翼に持たせていない場合は、翼が完全に負荷により破壊されてしまうという特性がある。また、前述の通りにレーダー反射面積をも増大させる。
 実用的な前進翼機を制作した実績のない日本において、強度的な問題は危惧されていたものの、主要な素材である炭素複合材に於いて日本が開発先進国であった事が幸いした。実機を用いた強度試験では、仮に機体に致命的な破壊が生じたとしても、主翼が破壊されるのは最後の段階となるであろうという結果が出ている。
 ステルス性に関しては、これを損なう形状であることは否定できない。主要設計者は「要求に応えるだけのステルス性は確保している」とコメントしている。

 F-3の主翼は、外見上最も大きな特徴である前進翼を採用している。前進翼は失速状態に於いて、最後まで翼の先端に気流が残っているため、回復不能なスピンに陥る可能性がある翼端失速を原理上起こさない。だが、空力負荷からかつては実現困難とされ、実現を可能とする素材が開発される頃には戦闘機のステルス化が進み、ステルス性能を損なう形状である前進翼を採用した実用戦闘機は他に存在しない(実験機に於いてはロシアのSu-47をはじめいくつか存在する)。
 主翼はストレーキを介して胴体と繋がる。このストレーキは空力特性とステルス性の確保を目的に付けられたものだが、これにより胴体面積が拡大して燃料搭載量が増加している。
 主翼の根本には可動ヒンジがあり、駐機状態においては翼を折りたたむことが出来る。重量を増加させる機械的構造は搭載せず、簡易なロック機構を介して、駐機状態では自重で翼を折りたたむ。一説にはこの主翼を折りたたんだ姿が、耳を立てた狼の顔に似ていた事から、「神狼」の愛称が付けられたとも言われる(主要開発企業は、愛称の出処については特に説明していない)。
 しかしこれは、十分な駐機スペースを確保できる空軍機であるF-3には本来不要な機能である。当初の計画では、この部分で飛行中に翼を可動させることにより、機動力を上昇させることが目的であったといわれる。実際、開発当初の案ではアクチュエーターにより飛行中に可動するようになっていた。だがシミュレーションの結果、飛行特性の悪化を招く上に翼の強度を低下させるおそれがあったため、前進翼の可動化は果たされていない。
 とはいえ実際の運用上、省スペースの為に駐機中に翼を降りたたむ事は、実際に多々ある事であるという。

 主翼前方には大振りなカナード翼を備える。このカナード翼にはわずかに上半角が付けられている。
 カナード翼は機体前方の気流を積極的に制御する事で機動性の向上に寄与するが、反面ステルス性を大きく損なう。近年では、フライ・バイ・ワイヤによる動翼制御技術の向上から、たとえカナード翼を外しても、それに匹敵するだけの空力制御を残りの舵面だけで補えると言う理由から、多くの戦闘機はカナード翼を装備せず、かつてカナード翼を装備していた機体ですら、それを省略する傾向にある。しかしF-3では敢えてカナード翼を装備することにより、より高度な気流制御を実現しているとされている。
 このカナードはフライ・バイ・ワイヤによって制御され、左右独立可動する。また、着陸時には俯角を一杯にしてエアブレーキの役割を果たす。

 垂直尾翼は43度の外反角が付けられた双式である。ロシアのT-50や中国のJ-20のように全遊動式ではなく、垂直尾翼後方の舵面のみが可働するオーソドックスな形式を採用している。
 全遊動式に比べて舵面が小さいために翼面積は全遊動式垂直尾翼を持つ戦闘機よりも大きいが、F-3はこの尾翼内のスペースを利用して、後方警戒レーダーと赤外線センサの一部を、左右の尾翼内に分けて搭載している。

 水平尾翼は、後方に大きく翼端が張り出した三角形で、全遊動式を採用している。前縁と後縁の角度はどちらも41度で、垂直尾翼との干渉を避けるために、俯角方向への可動範囲は狭い。


エンジン
 エンジンは、IHI-F255ターボファン・ジェットエンジンを二基搭載している。これはアメリカのステルス戦闘機F-22の改修型に搭載される、F119-PW-100の能力向上型であるF119-PW-255の輸出型を、国内でライセンス生産したものである。
 後述の対外的問題から、ほぼ競合することなく選定されたエンジンであるが、原型であるF110-PW-225E(Eは輸出仕様を示す)は、オリジナルと比較して15パーセント以上の出力低下仕様であると言われる。今のところプラット・&・ホイットニー社はその正確な出力を公開してはいない。IHI-F255は、その所謂モンキーモデルをライセンス生産する上で、出力向上改修を加えたモデルである。
 防衛省もまた、その正確な出力を公開してはいないが、超音速巡航能力を持ち、諸外国の最新鋭戦闘機に遜色ない機動性と加速力を発揮することから、オリジナルに匹敵する出力向上が施されていると言われている。
 エンジンは機体下部に装着され、側面から見るとその取り付け角は、僅かに後ろに向かって緩やかに登る傾斜になっている。また左右のエンジンの間には間隔が付けられ、その間に武装や増槽を懸架する事が可能である。
 エンジンを左右離して搭載した場合、片方のエンジンが破滅的な故障を起こした場合でも、もう一方のエンジンに損傷が及ぶ危険性を低くできる。しかし出力軸線が機体の中央からずれるため、操縦は困難になる。F-3ではこういった場合、動翼が自動で最適位置に調整され、パイロットの操縦負担を軽減するように設計されている。
 エンジンノズルは、通常のノズルの上にパドルをかぶせたような独特の形状をしている。
 これはロシアのように複雑に稼働するエンジンノズルは部品点数の増加を招き、最終的には故障の危険を高めるという危惧からだと言われている。F-3のノズルは推力偏向機能を持つが、その機構はただ根本が稼働するだけの機能を持つ通常型のノズルを、3枚のパドルが押す事によって推力を偏向しており、類似の機構を持つ推力偏向ノズルは世界で他に存在しない。
 エアインテークには複雑な可変機構が用いられている。これとエンジン側の可動するファン軸を組み合わせる事により、ある程度バイパス比を自在に変えることが出来る。バイパス比を最大にした場合の航続距離は、未確認ながらスペック上限値の3900㎞を越えたという記録もある。


アビオニクス
 アクティブ・フェイズドアレイ式レーダーであるAN-AGP95E改レーダーを機首に搭載している。
 これはF-22改修型に装着されるAN-AGP95の輸出仕様であり、特にライセンス生産は行われていない。この経緯は後述する。

 操縦系統には、フライ・バイ・ワイヤ方式を採用する。動翼は三重のフライ・バイ・ワイヤによって制御され、秒間最大で75回の動翼の微調整を自動で行い、最適な飛行姿勢を維持する。これによって機体形状には静的安定性弱化を付加する事が可能となり、高い機動性を発揮するに至っている。
 また、メインコンピュータに新規開発された超高速演算装置を搭載していると言われ、機体そのものが高度な状況判断能力を有する。これにより非常時、たとえばパイロットが意識を喪失した場合などは、操縦装置の状況から自動的にそれを判断して自動操縦に切り替え、危険が無ければ最寄りの空港、軍事基地への自動着陸が可能である。機体の損傷が激しいとき、あるいは当該空域のでの継続飛行が危険だと判断した場合は、パイロットを自動で射出する。


コックピット
 タッチパネル式の大型ディスプレイを一基、サブディスプレイを三基備えるグラスコックピットである。ヘッドアップディスプレイではなく、ヘルメット投影式のヘッドマウントディスプレイを採用し、視線誘導式の武装を運用する能力を持つ。
 操縦桿はサイドスティック式を採用し、擬似的な操縦付加が掛かるように設計されている。自動操縦時に於いても、動翼の動きが操縦桿にフィードバックされるようになっており、パイロットが一定以上の力でこの動きを阻害する、あるいはそれに逆らう動きをすると、自動操縦が解除される。
 所謂「ケアフリーハンドリングシステム」が搭載され、パイロットが空間識失調(機体の体勢がわからなくなり、計器も冷静に判読出来ない状態)を起こした際、操縦桿から手を離すと、自動で機体は水平に戻る。この際障害物が存在していても、機体の判断で自動回避行動を取る。
 射出座席は国産の15式射出座席を装備する。F-15J改の為に開発された座席であり、高度ゼロ・速度ゼロでも射出可能な「0/0システム」の射出座席である。それに加え、パイロットの意識が無いような非常事態でも機体の判断でパイロットの射出が可能であるため、射出時にキャノピーとの激突で致命傷を負わないよう、キャノピーの開閉装置には、キャノピーが機体から完全に外れた事を感知するセンサが搭載されている。


>外交圧力
 先述の通り、導入に際して、アジア諸国やアメリカから強い圧力があったと言われる。
 戦闘機を国産開発するという行為は、独立国家にとって当然認められるべき行為であるが、政府はF-3の制式採用に際して、以下の発表を行っている。

・ F-3は、陳腐化が進んだ航空自衛隊の戦闘機を置き換え、高性能化が進む空の脅威に対応する為の装備である。その目的はあくまで既存の制空戦闘機の置き換えである。既に対地・対艦能力を必要十分に備えるF-2との組み合わせが可能なため、現時点での対地攻撃能力は持っていない。
・ レーダーは国産開発で所定の条件を満たすことが出来ず、戦闘機用の小型・高出力ジェットエンジンの国産開発も要求を満たす水準にない。これらを国産開発している時間的余裕が無いため、レーダーとエンジンは外国製の輸出仕様を選定する。


果たして対地攻撃能力の一切を持たないというのは、最終的なF-3の性能と価格を考えれば看過できないレベルである。武器格納庫の大きさから、十分爆装に耐えうるだけの基本性能は備えているが、火器管制システムに大幅な書き換えが必要となるため、現時点での改修予定はない。
また、エンジンに関しては、過去にアメリカ製戦闘機のライセンス生産を行ってきた実績を考えても、「開発力が要求水準に満たない」事は考えにくく(無論開発期間の余りの短さに“間に合わない”事は十分考えられるが)、レーダーに至っては、F-2開発時に最先端の性能を持つフェイズドアレイ・レーダーを国産開発した実績があり、いわばこれらはF-3というパッケージを表に出したときの「言い訳」として用意されたものだと考えられる。
結果として、特にレーダーの選定に関しては、以下で述べる事件に発展した。

レイセオン事件
 F-3に搭載されるレーダーは、F-22の改修型に搭載されるAN-AGP95の輸出仕様であるAN-AGP95Eが選定された。AN-AGP95はそれまで単体で輸出されたことも、これが搭載された戦闘機として輸出された事も無かったため、事実上F-3の為にわざわざ輸出仕様が開発された事になる。
 AN-AGP95は、次世代型のアレイ素子による極小レベルでのレーダー波の感知と、2020年頃から実用化が始まった三次元結晶型集積回路の情報処理能力により、旧世代の航空用レーダーとは一線を画す能力を発揮し、一説には有効探知距離300㎞超、255目標同時捕捉、120目標同時交戦が可能だと言われている。これは一世代前の艦船用レーダーに匹敵する能力である。また同時交戦能力に於いては、脅威の高い目標を優先的に選択、自機からの攻撃や防衛行動だけでなく、データリンクによって味方機からの援護を受ける事が可能であり、パイロットはそれらの操作をコンピュータに任せて操縦に専念できる。
 このように高い能力を持つAN-AGP95であるが、実際にF-3のレーダーとして受領する筈だったAN-AGP95Eは、名前と外見こそオリジナル由来のものであるが、探知能力は100㎞に満たず、同時捕捉能力12、同時交戦能力4と、もはや性能劣化仕様とも言えない代物であった。なおこの数値は、既に退役した第四世代戦闘機であるF-14のレーダー性能に及ばず、F-3が装備する99式空対空誘導弾の射程距離に届かない。
 当初この仕様は公開されず、実際にほぼ完成した機体を抱える開発企業にさえも知らされていなかった。

 しかし実際に第一陣が日本に輸入されてくるのとほぼ同時に(一説には空輸されてきたレーダー本体が空港に到着するのと同時だという説もある)、何者かの手によってこのレーダーの性能がインターネット上に流出した。
 通常戦闘機のレーダーの性能など、一般市民が知るところではないが、その性能の余りの酷さと、軍事関係コミュニティがこぞって参加した情報拡散作戦により、主に若い世代の対米感情が急激に悪化した。
 この対応に苦慮したアメリカ政府は、事態を製造元が独断で行った行為であり、同盟国を侮辱するに等しい恥ずべき行為だと非難した。しかし、実際にはそれを判断したのは誰なのか、企業首脳部はそれを知るところであったのかと言った事はその後公表されていない。また、このレーダーを実際に製作したのは、原型を開発したレイセオン社の関係会社であるとされているが、その企業名やその後の処分もまた公表されていない。
 結局AN-AGP95Eは、一度オリジナル型を生産するレイセオン社に戻された上で性能向上改修が行われ、AN-AGP95E改としてF-3に搭載される事となった。このレーダーはオリジナルに匹敵する性能を持つと言われ、また前述の事件に対する「誠意」としてアメリカ政府が資金援助を行い、一基100ドルという破格でF-3開発企業に納入されている。これにより図らずも、F-3は少なくないレベルでのユニットコストの削減に成功した。

 この一連の事件は原型であるAN-AGP95を開発したレイセオン社にちなんで「レイセオン事件」と呼ばれているが、前述の通り実際にAN-AGP95Eを開発したのはレイセオン社そのものではない。
 現在もレイセオン社は、この事件の報道に社名が使われる事に遺憾の意を表している。


エンジン
 エンジンに関しても、ライセンス生産品であるIHI-F255は、原型であるF119-PW-255の性能劣化型であると言われる。しかしこちらに関しては、ライセンス生産を請け負った石川島播磨重工が、出力劣化仕様であることを承知で生産を承諾し、その上で性能向上改修を行ったために、オリジナルと遜色ない出力と、オリジナルに勝る即応性を持つに至ったと言われている。


>形式・派生型
 F-3A
 ……単座の基本型。146機が生産予定。初号機から14号機までは低率初期生産型で、量産型とは細部が異なる。初号機は強度試験に供され、スクラップとして処分。2号機から5号機は、日本各地の航空博物館などに寄贈され、一部機密部品を取り外した状態で公開されている。実際にフライトモデルとして航空自衛隊に納入されたのは6号機から。

 F-3B
 ……副座の訓練機型。50機が生産予定。訓練機型であるが、A型と性能に大差はなく、後席に情報分析専門のフライトオフィサを同乗させることで、高度な戦場分析を行う事を念頭に設計されている。後部座席にも操縦装置はあるが、基本的にフライトオフィサは操縦に関与しないため、F-15DJやF-2Bと言った自衛隊が配備する副座型戦闘機よりも、後部座席の前方視界は悪い。ただ後部座席からはほぼ前が見えないF-4とは比べものにならない程度ではある。

 RF-3B
 ……副座型F-3Bのうち数機を改修にあてる予定で計画が進められている偵察型。機体下部に外付け式の偵察ポットを懸架し、専用の通信装置とアビオニクスが用意される。また自機防衛の為に最高速度が引き上げられ、これに伴って機体各部に改修が加えられる予定である。

 F-3BAG
 ……新田原基地飛行教導隊専用に改修が施されるF-3B。4機が2031年度予算に計上されている。模擬戦闘を記録する装置と、機体各所に高感度センサが設置され、格闘戦で機体に掛かる負荷等を検証することが出来る。

 QF-3A
 ……F-3Aをベースにした無人機。強度試験に使用された初号機を修理して改修、先進的航空機としての実験に供される計画であったが、実現しなかった。

 F-3B“blue”
 ……航空自衛隊ブルーインパルスに於いて曲技飛行を専門に行うための改修型。F-3Bのうち、最終的に6機が改修される予定で、2040年頃の配備を目標としている。機内・機外に次世代型の高解像度カメラを装備し、またエンジンノズル内部にスモークオイル燃焼装置を装備する。この装置は現在アフターバーナーの無いT-4で使用されているものと大差無いため、アフターバーナーを使用した際には器機冷却の為に常にオイルを噴出状態にする必要がある。その為その際にはオイルに引火し、T-2時代以来の「トーチング」が復活する予定である。


>仕様
 F-3
・乗員1(A型)2(B型)
・ 全長 18,8メートル
・ 全高 6,25メートル
・ 全幅 14,5メートル
・ 空虚重量 17700キログラム
・ 最大離陸重量 32500キログラム以上
・ 動力 IHI-F255推力偏向・アフターバーナー付ターボファン・ジェットエンジン×2
・ 最大速度 M1,7以上(高高度)
・ 巡航速度 M1,2(高高度)
・ 実用上昇限界 31500メートル以上
・ 航続距離 3900㎞(機体内部タンクのみ)4300㎞(フェリー時)
・ 空中給油 機体背面にフライングブーム式の給油ダクトを装備
・ 要求滑走路長 290メートル

兵装
・ 24式20㎜航空機関砲(固定武装)最大装弾数700発
・ 90式空対空誘導弾
・ 90式空対空誘導弾改
・ 99式空対空誘導弾(胴体中央部ウェポンベイのみ)
・ 15式空対空誘導弾(胴体中央部ウェポンベイのみ)
・ 32式広範囲空域制圧弾(予定)





ただ設定をつらつらと書いただけではつまらないので、wikipediaの記事風に書いてみました。
いろいろ戦闘機の記事を参考にしたのですが、どうやらあれはあれでテンプレートがあるわけではないらしい。

いろいろ突っ込みどころはあると思いますが、試験的に上げてみる。



[37800] 第二部 第一話 変わり始める日常 【第二部開始】
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/07/28 20:02
第一話「変わり始める日常」

 夜が明ける。
 この世界でも、世界の闇を照らすのは日の光だ。便宜上それは太陽と呼ばれているが、当然、現実世界の地球を照らす太陽系の主星――その“太陽”ではない。
 ともあれ、他の数多くの恒星と同じように、水素の核融合により膨大なエネルギーを生み出しているらしいその星が、今日もこの大地に、朝を連れてくる。
 最初は、東の空が淡いエメラルドグリーンに輝き始める。その輝きは西に行くに従って濃く蒼くなり、西の地平線の近くには、薄ぼんやりと二つ存在する月が輝いている。
 やがてその淡い輝きは、その強さを増していき――ある瞬間に、光が溢れた。
 山の稜線を越えて太陽が顔を覗かせた瞬間、西の空に残っていた夜の世界は、あっという間に消え去った。朝焼けの光が宵闇を一気に洗い流し、世界は全て、触れればその色に染まってしまいそうなあかね色の光に染め上げられる。
 そしてその中を――輝く光の帯がいくつも伸びていく
 それはいくつもの航空機が虚空に描く航跡――飛行機雲であった。ただの排気ガスに含まれる不純物が、強制的に作り出した雲に過ぎない筈のそれは――朝焼けの光を浴びて、白く、そして黄金色に輝いて見える。
 十数機からの戦闘機が、払暁の空に描く航跡――それを少し離れていたところから見ていた“彼”は、思わずため息をついた。それほどまでに、ただのデジタルデータで構成されている筈のその世界は、美しかった。
 慌てて、シャッターを切る。自分がこの場所に――払暁のキャンバスを彩っていく翼の群れから、一機だけ離れて飛行していたSu-27UBの後部座席に座っていた彼は、思わず自分の役割を忘れかけてしまっていた。
 その反応に気づいたのか、前席に座るパイロットが言う。

「ボーッとしてんなよ。折角これだけのいい画だぞ」
「悪い悪い――いや、真面目に見とれてたわ」

 続けざまにシャッターを切りながら、彼は申し訳なさそうに言う。
 シャッターを切ると言っても、カメラを携えているわけではない。彼の視界には、切り取るべき風景の“フレーム”が重ねて表示され、後はシャッターボタン代わりに操縦桿のトリガーを引くだけだ。

「もう二、三日粘る必要があるかと思ったが、予想外にラッキーだったな」
「そいつは何よりだ――で? 何が貰えるんだったか?」
「何でお前らはそうも即物的なんだ。このヴァルハラとも見紛うばかりの光景を前に、他に言うことはないのかよ」
「ヴァルハラじゃお前、そこら中でヴァイキングが殴り合ってんだろうが。生憎と俺は風景写真なんか撮った事はねえし、リアルでもカメラと名の付くものは携帯とタブレットの備え付けの奴くらいしか持ってねえよ」
「――優勝賞品はプレイヤーホームって聞いたが? ほら、例の――おまけに、“エース”とほぼ同等の権限が与えられるって話だ」

 話を続ける間にも刻々と、朝焼けの空はその姿を変えていく。彼は夢中になって、その様子を写真に収め続ける。
 その熱意を、パイロットは完全に理解することは出来ない。しかしそれでも素直に、ただのゲームと言うには、この世界はあまりに美しい。何度かそう思った事はある。

 “ストラトダンサー・オンライン 空撮写真コンテスト”――そう銘打って開催された特別イベントに、朝焼けの空をバックに飛行する戦闘機の部隊――この時撮影された写真が投稿され、華々しく優勝の誉れを受けるのはその暫く後の事である。
 そしてこの写真が――その美しさとは全く違うところで物議を醸し出すのも、それからすぐのことであった。

 果たしてその時――その美しい光景に目を奪われていたのは、“彼ら”だけではなかったのである。




 八月、東京。
 一千万人もの人間がそこに集まる日本の中心地は、茹だるような熱気の中にある。
 ただでさえ、熱帯に匹敵すると言われる日本の夏である。ただ暑いだけではなく、蒸し暑いのだ。この感覚は日本人であるなら誰もが理解できるだろう。気温だけを比べれば大差がない欧州人が、耐えられるものではないと口を揃える所以である。
 そして近年は、やれ地球温暖化がどうだ、ヒートアイランドがどうだと、その酷暑が毎年のように煽り立てられている。実際のところはわからない。十年前の夏の暑さなど、大抵の人間は忘れているだろう。
 だから結局今年の夏も、事実として、ただただ暑い。それだけである。
 その一角――数十年も前から、電気街として有名なとある街角で開かれているイベントがあった。
 言っては何だが――何の変哲もないイベントである。
 広場の一角を占有して、あちらこちらに看板を掲げ、即席のステージをあしらって。
 ステージの上では、軍服を模した――しかしまっとうな軍人が見れば卒倒しそうな、妙に露出が多い衣装を身に纏った若い女性が、マイクを片手に猫なで声を張り上げる。当然、ミニスカートである。この暑さも何のその、流れ落ちる汗も気にせずに。そんな彼女に向かって、詰めかけた群衆が野太い歓声を響かせる。

「これが平常運転ですか」
「そうとも。むろん、この光景になんら思うところがない私は、既に何処かが切れている人間だと言われれば、否定は出来んが。この場所でゲーム会社など経営しているとな」

 そのステージの脇には、何処か疲れたような顔でステージ上を見上げつつ、額に浮いた汗を拭う青年と、その脇で腕を組んで何やら頷く初老の紳士。
 ここ東京に本社を持ち、主にネットワークゲームの開発販売、運営を業務とする企業“スターゲイザー・エインターテイメント”――その社長である田島正宗と、先日からそこに研修生という形で籍を置く事となった草壁燕である。

「まあ、盛り上がってる分には良いんでしょうけど。これで人が集まらないなら販促イベントの意味がないし――彼女は何でしたっけ?」
「近頃ゲーム好きのアイドルとして売り出している娘でね。先日顔合わせがあったのを思い出して――まあ、こういう事には使えるのではないかと思ったのだが」

 その“スターゲイザー・エインターテイメント”が販売する、フライトシューティングゲームのキラータイトル――“ストラトダンサー・オンライン”。
 この日、そこで行われているのはその販促イベントであった。
 燕にはよくわからないが、“一定の需要”を持つという「サブカルチャー好きの美少女アイドル」を起用し、今までそういう方面からの売り込みを掛けた事のない“ストラトダンサー・オンライン”を、新たな層へアピールしてみようと言うわけである。
 その売り込みが功を奏するかと言えば、目の前に存在する光景がこれである。

「盛り上がるのは良いことかも知れませんが、ここの連中のどれだけが純粋に“ストラトダンサー・オンライン”に目を向けてくれるんですか? 大方が彼女の追っかけじゃ、意味が」
「まあ、今回のこれは彼女のプロダクションとの付き合いもあっての事だ。とりあえず人が集まれば及第点だろうよ」

 その辺りの加減は、社長である田島がそう言うのだから別に構わないのだろう。経営などかじったこともない若造に口を出せるような世界ではない。せいぜいが、“スターゲイザー・エインターテイメント”のスタッフと共に、汗だくになりながらこの会場のセッティングをしたくらいである。

「“惑星オデッセイ”が、ああいうオタクに浸食されるとなるとなあ……前から一定数いたにしても」

 うちの“痛戦闘機部隊”とか、と呟く燕に、田島は首を横に振る。

「世間としては君らのようなプレイヤーとて五十歩百歩だ。今のところ所詮は、ただのゲームに過ぎないのだからね」
「……」
「さて――そろそろ二時間か。彼女ももう限界の筈だ。頃合いを見て下がらせよう」
「そうですね、おいクロネコ――げっ……お前、何か、湯気出てないか?」

 燕が手招きすると同時に、駆け寄ってくる大きな影。
 戦闘機用のヘルメットを被り、フライトスーツに身を包んだ猫――“ストラトダンサー・オンライン”のマスコットであるキャラクター、の、着ぐるみである。
 もともと殺伐としたフライトシューティングゲームにマスコットキャラクターなど存在しないし、新たに作られたと言うこともない。ただこういうイベントにあって、単純に人目を引くために作られた、急ごしらえのキャラクターである。その実は、“スターゲイザー・エインターテイメント”が運営する他のネットゲームのキャラクターとのコラボレーション。
 ――言い換えれば、それを流用したでっち上げとも言う。
 ともかく、燕の前まで駆け寄ってきたそのキャラクターは、膝に手を付くと、大きく肩を上下させる。気のせいだろうか、その肩口と、巨大な頭のつなぎ目――そして、便宜上口に付けられた覗き穴からは、何か湯気のようなものが立ち上っている――気がした。

「大丈夫かね?」
「水分と塩分は補給できるようになってますから大事には――多分。とはいえ如何せん」

 燕は空を仰ぐ。水っぽい真夏の空には、容赦なく照りつける太陽が燦然と輝く。腕時計に備え付けられた温度計は、三十七度を過ぎ指していた――得てしてこういうものは少しオーバーな数値が出るものであると、そういう風に信じたい。

「この暑さじゃ――」
「本部テントの中にスポットクーラーを入れて貰っているから、そこで休ませなさい」

 慌てて着ぐるみの手を引き、会場側に建てられたテントの中に入る。周囲をシートで仕切られたその場所には、確かに作業用のスポットクーラーが据えられていて、中は涼しさを感じられる。
 空調が行き届いたと言うにはほど遠い環境ではあるが、外と比べればそこは高級ホテルのスイートルームも変わらない。

『かつらぎ……くん……』
「待ってろ、今それ外してやる」

 着ぐるみの首筋にあるボタンとクリップを外し、背中のファスナーを押し下げる。巨大な頭部がごろりと、ビニールシートの上に敷かれた“ござ”の上に転がり、毛皮と言って差し支えない体の部分が左右に割れ――

「ああああ――つうういいいいい――っ!!」

 その中から出てきたのは、眼鏡を掛けた小柄な少女だった。燕の“相棒”にして、この夏“スターゲイザー・エインターテイメント”でアルバイト中――そう言う扱いになっている、水戸由香である。
 彼女は、下ろせば腰程まである長い髪を後頭部でひとまとめにして、タンクトップに短パンという格好であった。むろんこんな着ぐるみの中に入るには当然の格好なのだが――それでもその環境は、まだ幼さを残す彼女には過酷すぎたらしい。色白な肌は火照ったように赤く染まり、全身から滝のように汗が流れ落ちる。

「みずっ! かつらぎくん、水ちょうだいっ!」
「わかった、わかったからちょっと落ち着け。ちゃんとそいつから足抜かないと危ないぞ」
「うああ、体中が、汗で体中が超気持ち悪い――こんなもん、着てられるか!?」
「おい馬鹿何考えてんだこんなところで脱ぎ出すな!? クーラーの真ん前に行けば濡れてる分冷えるから」
「ぅあ」

 地の底からわき上がってきたような声と共に、彼女は燕の手からペットボトルのミネラルウォーターをひったくるように奪い取り、ほぼ一息でそれを空にする。そのままふらふらとスポットクーラーに歩み寄ると、冷風が吹き出している排気口に、半ば抱きつくようにしてうずくまった。

「ああ……生き返る」
「だから無理はすんなって言っただろうが。俺の知り合いがバイトで似たような事やったって聞いたが――大の大人が、秋口になろうかって時に熱中症でぶっ倒れたって聞いたぞ。おまけに一日で体重が三キロも減ったとか」
「それ納得――あ、でも今日、体重計乗るのがちょっと楽しみかも」
「お前それで体重とか気にしてんのかよ。これ以上お前の何処から肉をそぎ取るって言うんだよ」
「カツラギ君、暗にあたしが貧乳だって言ってる?」
「これでも妹が居る身だからな。女相手に言って良いことと悪いことくらいの区別は付いてるが――敢えて言うなら、女性がダイエットすると、胸から痩せるらしいぞ? 純粋に脂肪の塊だからな」
「聞きたくなかった事実!? カツラギ君それガセネタだよね!? ガセだって言ってよ!? 三ヶ月前にやっとスポブラ卒業したばっかりなのに!?」

 クーラーに抱きついたまま喚き立てる相棒に、小さくため息をつき、燕は首を横に振る。

「今更だけど、目に見えてた結果だろうそれは。お前昨日――今朝か。暑くて寝苦しいって、夜中にシャワー浴びただろ。俺、あれで目が覚めたんだからな」
「それについては謝るけど。だって仕方ないじゃん。あたし中学生だし――言いたくないけどこういう見た目だし。それに実際問題、力もないからカツラギ君達のお手伝いも出来ないし、かといって他に何が出来るわけでもないし」
「あの売り出し中のアイドルと一緒にステージに立ってみたらどうだよ。吉野さんとかも言ってたじゃないか。お前なら売り子の代わりをやってくれた方が――って」
「……だって、あたし、そういうキャラじゃないし」

 少し口をとがらせ、由香は言う。

「背は低いし、その割に頭でっかいし、胸ないし寸胴だし――そもそも美人じゃないし」

 中学生時分など、コンプレックスをもっとも感じやすい時期である。彼女曰く、見てくれの良い親友と一緒にいると、どうしてもそう言うことを感じずには居られないと言うが。
 むろんそう言うことを言われても、ましてやその親友――草壁湊の兄である燕としては困ってしまう。確かに身内のひいき目を考えても、妹の湊は多少、見てくれは良い。だが所詮は何処にでも居るような“ちょっと可愛い女の子”止まりである。アイドルやモデルなどとは比べようもない。

「そう言う言い方無いでしょ。だったらあたしはどうなるのさ。そんなあたしが、あの“アイドル”の横に並べって?」
「落ち着けよ。あのアイドルと比べろとは言わんが、お前だって別に不細工じゃないだろ」

 少なくとも、それは本心である。確かに目の前の少女は、誰もが振り返る美人というわけではないが――間違っても不細工ではない。
 十分以上に、可愛らしいとは思うのだ。ただ、その“可愛らしさ”のベクトルが、彼女本人が望んでいるものとは、幾分以上にずれたものであるだろうと、そういう事であって。

「それでも、何か嫌。ああ――あのお姉さんとか、そういう人たちを馬鹿にするわけじゃないんだけど――あたしは多分、知らない大勢の前で、愛想なんて振りまけないから」
「……まあ、得手不得手は人それぞれだからな」

 彼女がそう言うのなら、もう何も言うまいと、燕は首を横に振る。
 そんな彼に、由香はにんまりとした笑みを浮かべる。

「もちろん、カツラギくんは別ねっ! うわべだけじゃなくて、心からの笑顔をきみに送るよ!」
「ありがとよ」
「心がこもってないなあ。あたしが、こんなに君のこと好きなのに」
「お前のことは相棒として、最大級の信頼を置いてるさ。安心して背中を任せてくれ、“クロネコ”殿」
「どうせなら背中を任せるだけじゃなくて、お姫様抱っことかして欲しい」
「そのうちにな」

 おざなりにそう言って、荷物の中から彼女の着替えとバスタオルを取り出してやる。床に転がる着ぐるみの頭と、“抜け殻”を見下ろす――イベントは昼過ぎまで行われるが、もうこの着ぐるみに出番はないだろう。現場の誰もが、そもそも由香にそんな形での労働を望んだわけではない。

「それに着替えたら、お前先に帰ってろ。俺はこっちの片付けが済んだら、角田さんと吉野さんとミーティングしてから戻るから」
「あたしもそのミーティング一緒に出る」
「今後のスケジュール調整だから、お前にはそれほど関係ねえよ。俺が聞いてお前に伝えれば事足りる。それに――お前昨日、ノルマ分の宿題片付けてねえだろ」
「うえ……全くカツラギくんはお堅いって言うか。あたしには“惑星オデッセイ”の謎を解き明かすっていう、崇高な使命があるというのに」
「何に対してもその決意が免罪符になると思うなよ」

 着ぐるみの胴体部分、その“抜け殻”を折りたたみ、頭部をその横に並べて置く。由香の流した汗は、厚手の毛布とそう変わらないその生地を、じっとりと湿らせる程である。間違いなく自分が彼女なら、この中で蒸し上げられるくらいなら、見知らぬ相手に愛想笑いでも振りまいている方がよっぽどマシだと思うのだが。

「いつまでもそこに張り付いてたら風邪引くぞ。ちゃんと体拭いて着替えろよ? とりあえずそれまでは外で待ってるから――」
「ねえ、汗拭いてよカツラギ君」
「お前は時々ナチュラルに、俺に道を踏み外せと言うな」
「別にそういうつもりはないけど、今更でしょ? ちょっと早いか遅いかの違いだと思うけどな」

 何が起こるのが早いのか遅いのか――などと、問いただそうとは思わない。わざわざ藪を突いて蛇を出す必要はないのである。自分の容姿だの性格だのに結構なコンプレックスを持っている割には、こと自分と燕の関係に関してだけは、この自信は何処から湧いて出るのだろうか。
 確かに“クロネコ”――由香の事は大事に思っている。それがたとえば、妹の湊に向けるようなものとは微妙に異なっていることも、認めようではないか。
 だがそれでも、それなりに複雑な“出会い”を経て今に至るこの少女を、男として好きなのか――そう問われれば、燕は応えに窮するだろう。むろん、彼女の事が嫌いなのかと言えば、こちらは間違いなくそうではないと、すぐに答える事が出来るけれど。

「そりゃもうね、あたしと、カツラギくんの仲だもんね」
「現実でもハンドルネームで呼ばれることに、思うことが無いわけじゃないんだが」
「でも今更“お兄さん”って言うのも――カツラギくんにそういう趣味があるんなら、まあ……やぶさかでもないけれど」
「ねえよ」
「ねえねえ、汗拭いて。拭いてよ、おにーちゃんってば」
「だからやめろっての――こら脱ごうとすんなっ! 顔とか首なら拭いてやるから、後は自分で――」
「クロちゃんお疲れ様、これ氷水差し入れ――って」
「え」
「あ」

 前触れ無く、テントの入口が開き――入ってきたのは“ストラトダンサー・オンライン”のタイトルロゴがプリントされたTシャツ姿の、若い女性。
 そんな彼女に呆然とした視線を向けるのは、上半身裸で燕に手を伸ばす由香と、その彼女にバスタオルを投げつけようとしていた燕。

「……お邪魔、しました?」

 終わったかも知れない――何が、とは言わないが。草壁燕は、その瞬間、そんなことを思ったという。




「いや、私は君らのこと、大事な仲間だと思ってるし――愛し合う二人なら当たり前の事だとも思ってるよ? けどまあ何て言うか、もう少し場所は選んで欲しいというか」
「その“大事な仲間”であるはずの俺の気持ちが、何一つ伝わってないように思うのは気のせいですか?」

 多分今の自分は、いわゆる“死んだ魚のような目”をしているのだろう。そんな風に思いながらも、機械的に機材の片付けを行いつつ、彼は隣で作業を行う女性に言った。
 吉野凛子――二十六歳。幼い頃からの趣味が昂じてイラストレーターになったという女性で、“スターゲイザー・エインターテイメント”で開発されるゲームのキャラクターデザインを主に担当している。いくつかのパターンを組み合わせる自由度の高いものであるとはいえ、燕や由香がゲームの中で使う“アバター”も、彼女の手によるものだ。
 そして彼女自身も結構なゲーム好きであり、田島が立ち上げた“惑星オデッセイ探検隊”のメンバーとして、元自衛隊パイロットの角田と共に、真っ先に名乗りを上げた人物でもある。
 “スターゲイザー・エインターテイメント”の中で、言うまでもなく燕と由香の立場は微妙なものである。とりわけ中学生である由香の扱いなどには、田島とて苦労しているだろう。
 社内のほとんどの人間が“惑星オデッセイ”の謎を解くことに熱意を持っていて、その先鋒が彼ら二人である事に、異論を持ってはいない。けれどそれでも、非常に特殊な条件で仕事を与えられた大学生と、まだ子供と言っても差し支えない中学生である。その距離感を推しはかる事は簡単ではないだろう。
 ともかく――吉野はそんな二人に対してすぐにうち解けることが出来た、希有な人物である。
 何だか“カツラギ”くんも“クロネコ”ちゃんも、年の離れた弟妹みたいで仲良くしたいのよ、とは、彼女の言。
 それをストレートに実行するのは中々難しいだろうが――非常に特殊な条件でもって、会社という組織に放り込まれる事となった燕にはとっては、彼女のこの性格は色々とありがたいので、文句は言わない。

「あなたの気持ちって何なのよ。全くあなたが羨ましいわ。あんなに可愛いクロちゃんを、欲望のままに好き放題に」
「勝手に人を犯罪者扱いしないでください」
「そんなつもりはないわよ。二人とも若いんだし――考えるより先に下半身が動く年頃でしょう?」
「それセクハラですよ」
「私は事実を述べたまでなんだけれど。あなた達のプライベートに口を出す気も無いし――あ、でも、避妊はきちんとしなさいね?」
「あなた訴えられても文句言えませんからね? それと、俺があいつに手を出してる事は確定ですか」
「逆にクロちゃんの方から――え? 何、カツラギくん、まだクロちゃんとしてないの?」
「もうこの話はやめませんか。あなたが俺をどういう目で見てるのか、なんとなくわかったんで」

 これが友人相手ならふざけて笑い合う事も出来るのだろうが。しかし相手は会社の先輩なのである。一緒になって悪のりをするのはどうかと思うが、さりとて必要以上にかたくなになることも出来ないのである。

「え? 本当に何にもないの? あなたたち同じ部屋に暮らしてるのよね? ヤダ、信じられないわ」
「俺にはあなたの頭の作りの方が信じられませんが。女性ならもう少し慎みを持っては如何ですか」
「男女差別だわ。お母さんみたいな事言わないでよカツラギくん」
「吉野さんのお母さんには心底同情します」
「草食系男子だとか何だとか言うけれど、お姉さんちょっと心配になってきたわ。カツラギ君って若い癖に不能じゃないでしょうね。クロちゃんが泣くわよ?」
「泣きたいのは俺の方ですが。いい加減にしてください」

 幾分声の調子を落とし、睨み付けるようにして言ってみる。それがどの程度の効果を持っていたのか、吉野女史は両手を掲げて“降参”のポーズを取る。

「――ま、正直カツラギ君の言い分もわからなくはないけど。あなたくらいの歳の男の子が、女の子と同じ部屋でよくもまあ、紳士でいられるなって思うわよ」
「思うところはありますよ。あいつわざとやってんだろうなあ、あからさまに無防備ですから」

 けど何て言うか、と、燕は頬を掻きながら言う。さすがに、相手はそれなりに気を許した仲ではあるが――それでも、照れくささと言うものはある。

「草食系を気取るわけでもやせ我慢する訳でもなく――ムラムラするとか何とか、その程度の馬鹿げた理由で、その、自分たちの絆っつうのか……大げさな言い方するとそういうものを、壊したく無いんです」
「ほほう」

 彼女の唇の端が弧を描くのを見るに、その言葉が正解だったのか失敗だったのか。燕にはそれは判断できない。

「男だねえ。でもさ、クロちゃんとしてはそういうの、望むところなんじゃないの?」
「あいつの前で良い格好が出来るとはもはや思いませんが。本能に任せてあいつを押し倒して、その段になってまで、あいつの好きな“優しいカツラギくん”でいられる自信はありませんせんから」
「面倒臭いもんだねえ。でもそれは仕方ないんじゃないの? 人間だもの」
「何言ってるんですか」

 結局自分は、“ストラトダンサー・オンライン”のプレイヤー“カツラギ”ではなく草壁燕なのだ。それをはき違えているわけではないだろう? と、吉野は言う。付け加えるなら、由香はその辺りのことは間違えていないと思う、とも。

「ともかく大前提として、俺は中学生に手を出して人生投げ出したくはないし、それ以上にあいつの事は大事な相棒と思ってるんです」
「クロちゃんは相棒であって恋人じゃないから、手は出さない? まあ、言いたいことはわからないでもないけどねえ――ま、君らはまだまだ若いわけだから、焦る必要が無いのは確かだけど。私はきちんと、君らの事応援してるからね?」
「何の応援ですか」




 果たしてそんな遣り取りを繰り返しているうちに、何処からともなく現れた角田が、吉野を引っ張って何処かへ消えていった。確かこの後はミーティングが控えていた筈なのだが――しかしここで彼らを呼び戻すのも藪蛇という奴だろうか。手近な社員を捕まえてみれば、生暖かい笑みが帰ってきた。

「人の事を言いたい放題言っておきながら、あの二人付き合ってんですか」
「どうだかね。吉野さんは満更ではないだろうけど、角田主任はどうだかわからない――ってところかな」
「全然同情する気にはならないけど、あの人も苦労してんのかな」
「独り身の男からしてみたら、君も大概のもんだよ。月のない夜には気をつけろよ?」
「せめて笑顔で言ってくださいそう言うことは」

 あらかた片付けが終わっているという理由で、もう帰って良いとのお達しを受ける。研修生に残業代は出ないからだというが、だからといってまだ誰もが作業をしているところで、ただ一人先に帰るのも気が引けるものである。
 そう言うことを控えめに伝えはしたのであるが、うちのお姫様の世話がお前の仕事だ――意訳するとそう言う返答が帰ってきた。そのこと自体に異存はないが、何だかやりきれないものを感じてしまう。
 しかしそこで文句を言っても始まらないのである。溜め息混じりに駅に向かい、電車に乗り込む。
 田舎と言って差し支えない程度の地方都市出身者からすれば、十分おきに電車がやってくるこの街は脅威でしかない。それで尚電車の到着時刻に文句を付ける輩が、燕には理解できない。電車の中で腕時計を気にしているスーツ姿の男を見ながら、そんな風に思う。
 逆に意外と、変わらないものもある。
 電車を乗り継いで郊外に向かえば、景色は所謂“コンクリートジャングル”から、何処にでもありそうな住宅街へと取って代わる。その場所その場所での風景を切り取ってみれば、こちらは彼が生まれ育った街と、何が違うわけではない。
 違うのは、その規模だ。
 燕の故郷ならば、住宅街と言っても、端から端まで歩いて三十分もかからない。しかしここは、それがひたすら何処までも、延々と続いているのである。さすがに一千万都民のベッドタウンは規模が違う。
 そしてこういう場所で暮らす段になってもまた、色々違いが見えてくる。
 イベント会場の某電気街から、電車に揺られて数十分。駅から歩いてほど近い住宅街の一角に、今の彼の住処はある。築十数年の、何処にでもありそうな軽量鉄骨のコーポであるが――2LDKのその物件の家賃を聞いて、正直燕は目を剥いた。冗談でなく、彼の故郷で同じ規模の賃貸を探せば、家賃はその半額かそこら。同じ値段で探すのならば、贅沢と形容して差し支えない物件が見つかることだろう。会社からの補助がなければ、とても手を出そうとは思わない。
 さりとて、悪いことばかりでもないのであるが。特に暮らしに必要なものは全てがすぐに、何処からでも調達できる。先述の通り移動の手段には不自由しないし、娯楽にも溢れている。
 この辺り、この場所を良いと取るか悪いと取るか。それは個々人の感性次第だろう。
 燕はポケットから鍵を取り出してドアを開ける。自分の部屋は、コーポの二階部分である。玄関を入ってすぐの階段を上り、ドアをもう一つ開く。

「あ、お帰り――早かったね?」

 ビーズクッションにうつぶせに寝転がり、アイスを口にくわえた由香が、出迎えてくれた。

「……おう、ただいま」

 ――もっとも自分の故郷がどうだとか、ここ東京がどうだとか言うよりも、今この状況にこそ、思うところはあるのだろう。燕は彼女に気取られないよう、こっそりため息をついて、荷物をテーブルに置くのだった。




 燕が“惑星オデッセイの冒険”をするのにあたって、取り急ぎ解決せねばならないのは、現実での彼の生活である。形容としては非常に奇妙なものであるが、“惑星オデッセイ”が存在するのは仮想空間の中であり、現実に存在する自分の肉体までが、そこに旅立つわけではない。
 田島や角田、スターゲイザー・エインターテイメントは、燕と由香に、より深い場所で“惑星オデッセイ”に繋がる為の「扉」を提供したが――それは即ち、家庭用ゲーム機よりも遙かに高性能の仮想空間体感装置である。
 通常は高度な作業訓練などに使われるものであるが、ゲーム機とは異なり、周辺機器も含めて相当な規模になる装置である。当然、燕の下宿や由香の実家に据え付けることが出来るわけもない。
 従って、彼らの方がその「扉」がある場所、つまりは東京のスターゲイザー・エインターテイメントまで脚を伸ばす必要がある。
 燕にとっては、さしたる問題はなかった。
 もともと彼にとって大学など、就職のためのステップでしかなかったのである。休学の手続きを取り、スターゲイザー・エインターテイメントの研修社員として東京に移住する事に、抵抗はなかった。
 しかしまだ中学生でしかない由香は、そうはいかない。
 中学校は義務教育であるから、それを放り出して“仕事”をさせるわけにはいかない。本人の意向はともかくとして、このご時世、出来ることなら高校くらいは卒業して貰いたいと言うのが周囲の希望であるが、果たして“惑星オデッセイ”の探検は、学業の片手間に出来るようなものなのか。
 そしてまず第一に、新幹線が必要な距離である彼女の実家と、東京のスターゲイザー・エインターテイメントを毎日往復することは、現実的に不可能なのである。
 実際に、まだそのあたりの事をどうするのか、結論は出ていない。
 もっとも憶測ではあるが、燕も、そして恐らく田島も、この広大な惑星を収めた謎のデータが、一朝一夕に解き明かされるとは思っていない。ともすれば年単位の仕事になるだろう。由香が何と言うかはさておくとして。
 しかし今は八月――学生にのみ与えられる、長い自由時間である。
 果たして、とりあえずその間だけと言う制限を付けて、彼女はここにいる。そう――燕が東京で間借りしている、この部屋に。

「え? あたし中学卒業したら、ここに住むつもりだけど」
「人が色々考えてやってんのを全否定すんなよ」

 未練がましくアイスの棒を囓りながら、由香は言う。燕が心底疲れたようにそれに応えるが、彼女には何処吹く風である。

「せめてもう一部屋間借りしてだな」
「もう二週間も一緒に住んでるのに今更だよ。もちろん出来ることは手伝うよ? 家事とかその他諸々。これでもあたし、料理は得意だしね」
「心底意外だったよ」
「きみは地味に失礼な事を言うね?」

 ビーズクッションの上にあぐらを掻き、由香は腕を組む。

「カツラギくんはあたしと暮らすの、嫌?」
「それ何度目だよ。成り行き上こういう事になって――まあ、正直お前が側にいてくれる事で、何処か安心出来てる部分はある。けど、やっぱり恋人でもない年頃の男女が同居ってのは――やっぱりあれだろ」
「あたしはカツラギ君の事大好きだって言ってるのに」

 世間体が気になるのはわかるけれど、と、彼女は小さく頷きながら言う。

「カツラギくん、これでこういう事言うの何度目? もう世間一般の常識人というか、そういう仮面被るのやめたって言ったのは、他ならぬきみの方じゃない?」
「それは程度の問題だ。模範的に生きていこうなんて殊勝な事は言わないが、だからって何をしてもいいわけじゃない――ほんとにお前の親御さん、よく許してくれたよな」
「まーね、こういう事には理解ある親だから。自分たちの若い頃を考えたら、強くは言えないってさ。ただ、後悔するような事はするなって言ってたよ。その辺、カツラギくんは問題ないでしょ。ね?」

 若い頃の彼女の両親とやらがどういう人物だったのか――多分、考えない方が良いのだろう。とはいえその二人の娘が彼女なのである。本来ならそれは、苦笑と共に語られるような思い出話なのかも知れないが、この場合は頭痛の種くらいにしかなりはしない。

「まさかミナちゃんが最後の関門になるとは思わなかったよ」
「毎日二回はあいつから電話があるぞ。お前あいつに何て言ったんだよ」
「あたし五回。いや、特に変なこと言った覚えはないんだけど。でも駄目だよカツラギくん。いくらヤキモチやいてくれる可愛い妹でも、君とは血を分けた実の兄妹なんだからね?」
「お前の中の俺って、どんだけ外道なんだよ」

 深く考えると真剣に気分が悪くなってきそうだったので、その話は早々に打ち切る事にする。まあ、妹である湊の気持ちもわからなくはない。自分たちのやろうとしていることに一定の理解を示してくれているとはいえ――やはり自分の兄と親友が、二人っきりで同居しているなどと、気持ちがいいものではないのだろう。

「まあ、そう言うわけで。今日の晩ご飯は何が食べたい?」
「別に何でも」
「もう、そう言うのが一番困るのに……でも何かこのやりとり新婚さんみたいで良くない?」
「お前が幸せなら俺はもう何も言わんよ」
「カツラギくん好き嫌い全然無いからそういうところは楽で良いんだけど……ホントに何でも良いの? あたしがどんなもの作っても?」
「何を作るつもりだよ」
「一瞬女体盛りとか考えたけど……駄目だあれ現実的じゃない。フツーにお腹壊しそう。あたしも、カツラギくんも」
「おまえもう発想がオヤジだぞ」
「あたしも食べ物で遊ぶのは好きじゃないしね――よっと」

 わざとらしく声を出して、ビーズクッションから由香は立ち上がる。椅子に掛けてあったエプロンを手慣れた様子で身につけると、スリッパを履いてキッチンに向かう。

「オムライスとかどうかな。ケチャップで何か好きな絵、描いてあげる」
「俺は子供か」

 実際彼女がいることで、かなり救われているのは事実なのだ。多少悪戯が過ぎるくらいは、どうと言うことはない。ただそれを面と向かって言う気はないし、多分、言う必要もないのだろう。

「ああそうだ、一つ忘れてたことがあったな。メシの支度はその後だ」
「え? 何? ただいまのキス?」

 何処か嬉しそうな顔でキッチンから顔を出した由香に、燕は笑顔で言い放つ。

「宿題のノルマ、今日の分」




 “スターゲイザー・エインターテイメント”の有志からなる、ささやかな「惑星オデッセイ探検隊」が結成されてから、二週間あまり。その日の社長室には、その主立ったメンバーが顔を揃えていた。
 つまりは実働部隊である燕と由香、全ての発端である田島と、アドバイザー役の角田。そして何かと細々としたバックアップを担当してくれる吉野の五人である。
 むろん、「惑星オデッセイ探検隊」はこの五名のみではない。“スターゲイザー・エインターテイメント”の大方の人間はこのプロジェクトに賛同しているが、当然彼らには日々の仕事がある。“そちら”をメインに動ける人間は、限られてくる。実のところ吉野や角田とて暇を持て余しているわけではなく、田島など言わずもがなであるが――それでも他の人間よりも仕事の割り振りに自分の裁量が利きやすいと言うことがある。

「先だって、全勢力の共通イベントとして開催された“空撮写真コンテスト”の事は知っているかね」

 顔を揃えた彼らに向かって、田島が言う。燕が小さく頷くと、由香が手を挙げた。

「うちのチームの“アタゴ”って人が、この間やる気になってた」

 その言葉に、怪しげな関西弁の女性が燕の脳裏に浮かぶ。意外と言えば、意外である。彼女は根っからのフライトシューティングゲームのファンであり、そういうゲームの主旨から外れるイベントに喜々として参加するようには思えなかった。

「カツラギくん知らなかった? 彼女、リアルじゃ美大生なんだよ」
「あんまりリアルでどうこうって話になったこと無いからな。実際、お前が顔見知りだって事には結局、最後まで気づかなかったわけだし」
「それはあたしのこと完璧に忘れてたカツラギくんにも責任があると思います」

 腕を組んで、目を細めるようにしてこちらを睨む由香に、燕は白旗を揚げるしかない。自分の記憶力が悪いわけでも薄情な人間だとも卑下するつもりはないが、反論が出来ないのだから仕方がない。

「ま、まあ……それはそれとして。そのコンテストが何だって?」
「実のところ“アタゴ”君も、かなり良いところまでは行ったのだがね。ものは、今回そのコンテストで見事優勝に輝いた作品だ」

 そう言って田島が取り出したのは、カラー印刷がされたコピー用紙だった。
 何気なくそれを取り上げ――燕は、思わず感嘆のため息を漏らす。それほどまでに、その“空撮写真”は美しかった。
 まさに夜が明けたばかりの払暁の空を、いくつもの白銀の煌めきが薙いでいく。それは生まれたばかりの太陽が照らし出す、戦闘機の軌跡。大空というキャンパスを、これでもかと言わんばかりに生かし切った、傑作と言える一枚だった。

「“アタゴ”君のような専門家には申し訳ないが、このコンテストは普通の写真品評会というわけではない。いかにして、この世界ならではの風景を切り取るか、それに掛かっている」
「なるほど――単に綺麗な風景写真じゃない、“ストラトダンサー・オンライン”だからこそ撮れるベストショットじゃないと、意味がないってわけか」
「そう言う事だ。これを撮ったプレイヤー達にしても、純粋な美的感覚や写真の技巧が、他の応募者と比べて飛び抜けていたというわけでもない。そもそも技巧などとは――視界に風景を入れてスイッチを押すだけだからね」

 まあ、君らのチームの仲間には、慰めにもならないかも知れないが、と言って、田島は首を横に振る。

「むろん――今日は写真の寸評をするために君たちをここに集めたわけではない。写真のこの部分をよく見てくれないか」

田島が、写真の一角を指さす。そこは朝日が照らし出す山肌で、朝焼けの光を浴びて黄金色に輝いて見える。そしてその一角に――“何か”が見えた。

「……これ――?」
「え、どれどれ?」

 日頃眼鏡のお世話になっている由香は、矯正視力でも尚燕よりも目が悪い。
 だが自分の背中にしがみつくようにして、肩越しに写真を覗き込もうとするのは、きっとわざとなのだろう。視界の端で吉野が、笑いたいのを堪えるような顔になっていたのは、この際気にしない事にする。

「そう。その部分を拡大したのがこれだ――普通なら、これだけの拡大をすれば、すぐに最小画素を割り込んでしまって、何がなんだかわからなくなるところなのだが――幸いにしてこれはデジタルの見せる仮想世界だ」

 何となれば、プログラムを解析して“その場所”に何が会ったのかを調べることが出来る。普通の写真なら耐えられないほどの超望遠映像であろうとも、解析用のプログラムを通すだけで鮮明な画像として蘇る。
 果たして、そこに写し出されていたのは――

「……人?」

 逆光と朝霧を通してでは、さすがにその細部までもはわからない。しかしそれは確かに人のように見えた。岩陰に手を付いて両脚でしっかりと立ち上がり、顔に手をかざして上空の戦闘機を見上げている――そんな風に見える、人間の姿。
 燕は、顔を上げる。

「データのログを解析してみても、その場所に地形データ以外の物体は存在していなかった。つまりそこには、何もあるはずがない」
「これが岩だとか木の陰だとか――そう言う可能性は?」
「どうも近頃、そう言うのは流行らないけれどね。カツラギ君、忘れていない? “惑星オデッセイ”は、デジタルデータの世界なのよ? そこにその時何が存在していたのか――そんなことは、ログを見ればすぐにわかる」

 吉野が意地悪そうに言う。
 写真のトリックというものはままあるものである。たとえば火星や金星を捉えた、探査機の映像――どうやたって人間が存在するはずのないところに、人影のようなものが見える。大昔のオカルト番組などでは定番の話である。
 ただ、先も述べたとおりここはデジタルデータで作られた、管理される世界。
 それらのオカルト番組では確かめようが無く、また確かめる意味もない“物体の正体”までもが、すぐに明らかにされてしまうのである。

「でもそれなら――」

 何を悩むことがあるのだろうか――言いかけたところで、燕は思い当たった。

「当然それは“ストラトダンサー・オンライン”の世界の話だ。君も知っての通り、これが真なる“惑星オデッセイ”となれば、また話は変わってくる」
「……」

 同じデジタルデータで作られた筈の世界。しかし、それは本当に世界の全てを内包しているかのような膨大な情報量で持って、彼らに迫っている。そう、こうして燕と由香が、“惑星オデッセイ探検隊”として、かの場所に降り立つ必要が出ている程には。
 だがそれにしても、謎は残る。

「問題はそこだ。これは当然、ゲーム側のデータ……“ストラトダンサー・オンライン”上で開催された、単なるイベントに過ぎない。しかしそこに、ともすればその表裏に存在する真の“惑星オデッセイ”の何者かが紛れ込んでいる。ここまで聞いて、何か思うところは無いだろうか?」

 田島の言葉に、由香は顎を人差し指で押さえているようだが――燕は、すぐにその答えに行き着いた。

「……例の無人機か」
「あっ!?」

 その言葉で、彼女も気がついたのだろう。目を丸くして、燕の顔を覗き込む。

「その通り。あれもまた、恐らくは“惑星オデッセイ”の深淵に存在するものの一つなのだろう。しかし現実はご覧の通りに、連中はその垣根を跳び越えて、“ストラトダンサー・オンライン”に乗り込んでくる」

 ログの解析や修正プログラムでは対処できず、実際にゲーム内部でプレイヤーが“撃墜”するほかに撃退する方法がない。そして実際には、あれらもまたデジタルデータによって作られた存在でしかない。撃墜されたデータはすぐに消滅し、いまだあの“無人機”の詳細はわかっていない。
 わかっているのは、プレイヤーとの戦闘記録を解析して判断できる、その戦闘能力くらいのものである。

「これが“惑星オデッセイ探検隊”の最初の山場になるだろう。草壁君、水戸君――君たちの任務は、この正体不明の人影が何なのかを調査し、もって無人機との関連性を探る事だ」




 “ストラトダンサー・オンライン”の世界から“惑星オデッセイ”に渡るには、いくつかの制約が存在する。
 一つは、通常プレイヤーが“ストラトダンサー・オンライン”の世界に降り立つ窓口――平たく言えば読み込みを行うハード筐体であるところのゲーム機RailioⅢ。仮想空間体感型のゲーム機では最新鋭の世代であり、惹句通りに“現実と見紛うばかり”の仮想世界をプレイヤーに体感させてくれるが、“惑星オデッセイ”に降り立とうと思えば、これでもまだ足りない。
 RailioⅢはあくまでゲーム機だから、ゲームに必要のない感覚はカットされている。
 つまりは法律的にフィードバックが許されていない痛覚、フライトシューティングゲームには必要のない嗅覚や味覚、必要以上の触覚、温感や冷感と言った感覚――等々である。
 それらはゲームに必要がないからカットされているわけであるが、逆にそれら全てを再現しようと思えば、RailioⅢにそこまでの情報処理能力が存在しないのだ。したがって“惑星オデッセイ探検隊”を名乗る彼らは、“スターゲイザー・エインターテイメント”本社の片隅に設置された、高度職業訓練用の仮想空間体感装置を流用した装置でもって、“惑星オデッセイ”に旅立つ事となる。
 そうすることで初めて彼らの前に姿を現す“惑星オデッセイ”は、“ストラトダンサー・オンライン”では絶対の管理者である彼らにすら、その全てを知ることが出来ていない。
 一部のデータを流用した“ストラトダンサー・オンライン・コンタクト”のコードを使って入り込む事は出来る。しかしソースコードの全容が知れない“惑星オデッセイ”においては、彼らもまた、そこで活動する個々の“データ”に過ぎないのである。

「F-3“神狼”制空戦闘機の航続距離は、カタログ上で3900km――機体下部中央のハードポイントにフェリー用の増槽を装着した状態で4400kmになる。これは現用戦闘機の中でもかなり優れた数字であると言って良いでしょう。航続距離延長改修がなされたIHI-F-255可変バイパス・ターボファンジェットエンジンの恩恵と、空気抵抗の低減を狙って設計当初より形状変更された胴体が、燃料の搭載増という福次効果を生むこととなった」
「はあ……機体の選択にそれほど意味があったわけじゃないんですが。今となっては図らずも悪くない選択だったってことですか」

 その“惑星オデッセイ”上――超大陸ユグドラシル、ティグリア共和国領から少し離れた場所に、その基地はある。
 一般プレイヤーはその存在を知らない。そもそも、通常通りに“ストラトダンサー・オンライン”にログインしても、その基地を認識することは出来ない。そこは、“ストラトダンサー・オンライン”に表裏として存在する、真の“惑星オデッセイ”の上に作られたものだからである。
 そしてその基地のハンガーの中には、特徴的な戦闘機が一機、翼を休めている。
 三菱・川崎重工共同開発F-3制空戦闘機。現実では自衛隊の最新鋭機であり――“ストラトダンサー・オンライン”における、燕と由香の愛機でもある。
 果たしてそれは、副座のB型。垂直尾翼に、デフォルメされた二つの首を持つドラゴンのイラスト。パーソナルネームを“ハイドラ”という。
 現在“ハイドラ”は、格納庫の中にただ佇んでいるだけのように見える。しかし実際は、この機体を構成するデータを、“スターゲイザー・エインターテイメント”がオンラインゲームを管理するスーパーコンピュータに接続し、各種のチェックを行っている最中なのだ。現実であればこの機体の周りを何人もの整備士が走り回ることになるのだろうが、ここは現実とは違う理を持つ世界の中である。データの解析結果は、燕の目の前に浮かぶ仮想ディスプレイに数式の羅列となって、凄まじい速度で流れていく。
 当然、それを追いかけて理解する事など出来ない。ただ眺めているだけだ。どうせ、エラーが発生すればその時点で作業は一旦中断となる。

「角田さんはどうしてこの会社に?」
「お恥ずかしい話ですが、戦闘機のパイロットを続けられなくなって暫く、私も無気力になりかけていた時期がありました」

 燕の隣に立ち、同じようにデータの羅列を目で追っていた角田が言う。彼は燕とは違い、現実と寸分違わぬ姿でそこに存在している。
 ともかく――戦闘機のパイロットなど、簡単にはなれない職業である。彼がそうなるためにどれだけの努力を積んだのかはわからないが、突然の事故でその道を断たれたとなれば、無気力状態に陥ったと言っても、それを責めるのは酷だ。

「色々あって田島社長に拾っていただいたのですが――何だかんだと言いつつも感謝していますよ。仮想空間の中とは言え、私は再び、飛ぶことを仕事に出来たのですから」
「そう言えば、ゲームに出てくる戦闘機の調整をやったのは、角田さんだとか」
「現実の空を知っている人間など、そう多くありませんから。適任と言えばそうだったのでしょう。無論私は世の中の戦闘機全てに乗ったことがあるわけではない。自分が乗っていた“戦闘機”という代物から、現実に即した調整を行っただけですが」

 軽い音と共に、数字の羅列が止まる。
 流れていたその一行がオレンジ色に明滅を繰り返している。プログラムの一部でエラーが発生している。

「動翼制御のプログラムが一部エラーを起こしているようですね。飛行そのものに問題は無いと思いますが……念のため修正を行いましょう」
「お願いします」
「この際ですから、機体の調整に関する要望はお伺いしますよ。何か気になる点があれば、何なりと」

 “惑星オデッセイ”に於いては、彼らとて絶対の管理者ではいられない。
 繰り返しになるが――それはどういう事を意味するのか。
 “ストラトダンサー・オンライン”の中であれば、管理者である自分たちはあらゆる事が出来る。それこそ現実にはどうやっても出来そうにないこと――たとえば人間型ロボットに乗って戦うことも出来るし、SF映画のようなレーザービームを乱れ撃ちする事だって出来る。
 しかし“惑星オデッセイ”に於いてはそうはいかない。
 この世界では、「現実的にこの星に存在できるもの」しか、その存在を許されないのである。具体的には、“惑星オデッセイ”を構成する、正体不明の膨大なプログラムデータに合致する、そこに無理のないものでなければならない。
 データの上に於いて“そうである”というのがどういう事かと言えば、見ての通り。無理も無茶も出来ない。“世界の理”から外れることは、出来ないのである。
 ――この基地は現段階での、“惑星オデッセイ”と“ストラトダンサー・オンライン”の境界線上にある。この先に進むには、それこそ現実の探検隊と変わらない作業が必要になる。何らかの外的要因で、目の前のデジタルデータの塊であるはずの機体が不調を訴えることもあれば、燃料だって必要になってくる。

「そう言うものをまだ無限に調達できるだけ、現実の探検隊よりはマシなんでしょうが」
「そうですね。これが現実であれば、機体を抜きにしても装備や食料だけでさえも、とても用意できたモノではないでしょう」
「それ以前に俺は勘弁ですよ。リュックサック背負ってザイルとピッケル持って、未踏の尾根を制覇するなんてのは」

 ただ――と、燕は腕を組み、小さく息を吐く。

「わくわくしてる――それは、俺も同じです」




『間もなくポイントに接近――ポイントLIN-2455689――例の写真が撮られた辺りよ』

 通信機から聞こえた吉野の声に燕は小さく頷き、操縦桿に僅かに力を込める。F-3の操縦桿は、人間工学に基づいたサイドスティック式のものであり、フライ・バイ・ワイヤ(動翼制御コンピュータシステム)によって制御される機体の動翼とは、機械的な繋がりはない。
 操作の時間や高重力機動下での手の動きを考えれば、最も合理的なのは全く動かない操縦桿に圧力感知センサーを搭載し、腕に込められた力でもってパイロットの意思を判断することである。現実に圧力感知(フォース・コントロール)式を採用する一部の戦闘機の操縦桿は、固定されていて動かない。
 だが、F-3の操縦桿はそれ自体が大きく動くようになっており、更には速度や動翼に掛かる負荷に応じて、擬似的な操縦負荷を掛けられるようになっている。それは過去の教訓から。操縦桿が動かなければ、今どれだけの力を動翼に伝えているのかがわかりにくい。
 燕が操縦桿に力を込めた事により、“ハイドラ”の自動操縦装置が外れる。視界の隅でカナード翼が、まるで目を覚ましたようにぴくりと動くのが見えた。そのまま、緩く旋回降下。滑らかではあるが、自動操縦とは明らかに違う有機的な動き。動翼が、小刻みに震える。
 F-3神狼は、静的安定性弱化が成された機体である。つまりは、“まっすぐ安定して飛ぶ”能力をそぎ落とすことで、驚異的な機動力を得ている。ただしそれだけでは普通に飛ぶ事すら難しいので、コンピュータにより秒間数十回もの動翼の微調整を自動で行う事により、この機体は静的安定性と高い機動性を高次元で両立させているのであるが。

「クロネコ」
「データ収集用の後付けセンサには特に何も――もう、ここにはいないのかな」

 後部座席の由香――クロネコは、機体のメインディスプレイだけでなく、視界に浮かべられるだけ各種情報処理装置のデータを表示させているはずである。燕のほうではそれを手伝うだけでも頭が痛くなりそうな作業だ。

「本当にもう――お前何でそれで勉強苦手なんだよ」
「仕事中は勉強の事は言わないでよ。邪魔するなら黙ってて」
「……はい」

 どうやら自分はライオンの尻尾を踏んだらしい。溜め息混じりに機体をコースに載せる。飛行ルートは、大きく潰れた「8」の字。所謂エンドレスエイトにて、目標上空を旋回する。

「――こちらハイドラ、“クロネコ”から吉野さんへ」
『はいはい感度良好――どう? クロネコちゃん。何か変わったものはありそう?』
「後付けして貰ったプログラムで拾えるのは、地形のデータだけみたいです。念のため田島さんに入れて貰った解析ツールを三つほど、並列で走らせているけれど――今のところは何も」
『……ホントにカツラギ君の言じゃないけどさ、何であなた、それで勉強苦手なの? まあ今はいいや、その辺はカツラギ君に任せるわ』
「こと勉強に関してはこいつ俺の言うこと聞きやしないんで――どうか年長者からガツンと言ってやってください」
『ふむ……ねえクロちゃん。ただ勉強しろって言われても面白くないのはわかるけど――君がテストで良い点取ったら、“お兄さん”がとーっても“イイコト”してくれるらしいけど、興味ない?』
「ちょっ……吉野さん!?」
「えー、そんなあからさまに今考えたようなことを言われても」
『その辺私には考えあるから任せて頂戴。クロちゃんや、この夏休み、“女”になってクラスメイトに差を付けたいとは思わんかね』
「――是非に」
「おいフザケんなよあんたら何を勝手に、吉野さんその“考え”って何だよ“考え”って――」

 どうせデータは送信済みなのである。悪い大人が少女に悪いことを吹き込む前に、いっそ通信を切ってしまおうか――そんな事を考えていると、耳障りな電子音。

「……レーダー・コンタクト。クロネコ」
「あ、うん了解――さっきの話はまた後でね」
「……」

 こちらがこれ以上食い下がるのもどうかと思った燕は、言いかけた言葉をぐっと飲み込んで、彼女の次の言葉を待つ。

「ロングレンジレーダーに感――アンノウン4。反応が薄い――ステルス機だね。ただこの距離で捕まえられたって事は、あちらさん、射撃管制レーダーはアクティブにしてる?」
「未確認機(アンノウン)だって……? でもここは“ストラトダンサー・オンライン”の勢力エリア内で、なおかつ“惑星オデッセイ”上だぞ? 俺たちの他に誰が――例の無人機か?」
「んー……この動きは違うね。カツラギ君、回避して」
「了解」

 こちらに向かってくる機体の予想進路から、僅かに進路を外す。

「撃ってきても良い距離だけど――こりゃ相手はあたし達と同じプレイヤーだね」

 現代の空中戦は、意外なほどに目視射程の戦闘にもつれ込む事が多いという。だがそれでも、現用戦闘機のメインの武装はミサイルだ。その射程は長距離のものならば百キロ以上にも及ぶ。
 果たして相手がこちらに気づく前にミサイルを撃ち、反撃を受ける前に逃げる。その格好に持ち込むことは、空中戦の理想型である。即ち先に見つけ・撃って・撃墜する――ファーストルック・ファーストショット・ファーストキルの原則である。当然この間合いなら、それが外れるか否かは別として、まずは先制攻撃を行うべきだ。
 だが――それがこと“フライトシューティングゲーム”となってくると話が違う。
 当然だが、これらのゲームは楽しくなければならない。超長距離から相手をレーダーで探し、ミサイルを撃つだけのゲームなど、当然楽しくも何ともない。空中戦――ドッグファイトを行ってこその“フライトシューティングゲーム”なのである。
 相手は数の上でこちらを上回り、恐らく先にこちらを捕捉した筈である。しかし先制攻撃を行うことなくこちらに近づいてくる。これは空中戦を“楽しもう”としている、プレイヤー特有の動きだ。

「どうする――角田さんか吉野さんに頼んで排除してもらうか」
「それは最後の手段にしておこうよ。無人機の問題が解決してない今の“ストラトダンサー・オンライン”で、そう言うチートじみた真似を明らかにプレイヤーのあたし達がやるのは目立つかも知れないし――どうして“ストラトダンサー・オンライン”に、“惑星オデッセイ”が入り混みかけてるのかを、知るチャンスかも知れない」
「――了解」

 クロネコの言葉には、ある程度の説得力がある。ならば運転手の自分は、それに反対する道理はない。

「来るよ――右舷を通過」

 レーダーに表示された未確認機との距離が、ゼロになる。
 刹那――窓の外を、鋼鉄の翼を持つ猛禽が、音速を超える相対速度で駆け抜けた。

「厄介だな――F-22か」

 F-22ラプターは、アメリカが開発した史上初の第五世代戦闘機である。一節には昆虫並みとも言われるレーダー反射面積の純然たるステルス戦闘機であり、さりとてフライ・バイ・ワイヤによって制御される高度な動翼制御機構と、二次元推力偏向能力を持つエンジンノズルが、第一線級の格闘戦能力をも確保する。
 F-15やSu-27と言った、制空権を確保するのが目的であった第四世代“制空”戦闘機の更に先を行くこの機体には、ただこの機体をさしてのみ“空域支配”戦闘機というカテゴリが与えられている。目に見えず、ただ高みから全てを見下ろす空の支配者。あまりの高性能ゆえに、アメリカはこの機体の輸出を許可していない。まさしく孤高の“猛禽(ラプター)”たる所以である。

「連中が遊ぶつもりでも――四機は辛いな」

 F-3神狼は、純粋な格闘戦能力でこそF-22に勝ると言われる。だが、前進翼に機首カナードを装備するその機体構成から、ステルス性の面では絶大な不利となる。相手がそのアドバンテージを半ば放棄してドッグファイトを楽しむつもりであるとはいえ――楽な相手ではない。

「敵機垂直尾翼に髑髏マーク――あれは」
「ジョリー・ロジャー……リベルタリアの連中か」

 後部座席のクロネコは、その垂直尾翼に描かれたマークを捉える。“ハイドラ”よりも淡い色合いの、低視認性塗装。しかし垂直尾翼は上端が黄色に縁取られた黒一色に塗りつぶされ、そこには白抜きで、交差した大腿骨と頭蓋骨が描かれている。
 所謂ジョリー・ロジャー、海賊旗である。

「あれさ、どうなんだろうね。昔F-14が現役でアメリカ海軍の主力やってたときに、髑髏マークを尾翼に描いてた部隊が実在したんだけど。確かVFA-84『ジョリー・ロジャーズ』――その後はスパホのVF-103に引き継がれて」
「相変わらずお前はそういう事には死ぬほど詳しいな。今更先人もそれをパクリだとは言わんだろうが――よりによって面倒臭え連中に」

 今のところ海賊旗をエンブレムに使用する勢力は、“ストラトダンサー・オンライン”には一つしかない。その通称を『リベルタリア』――“海賊共和国”である。
 特定の領地を持たず、空を漂う二機の空中空母を根城とする、空のならず者達。
 領土を持たないが故に、“ユグドラシル”の覇権を狙うにはかなり不利な立ち位置である。おまけにそこに所属するには、「一度他の勢力からゲームを始めた上で、そこを離反する」という条件が科せられている。
無論、面倒であるし単純に不利である。しかし、リアリティが何よりも重視される仮想空間体感ゲームに於いて、「役を演じる」“ロールプレイ”という行為は重要である。
 そこにあって、昔から善悪を問わず、様々な物語の主役となってきた“海賊”を演じられると言うのは、かなり魅力的である。他のプレイヤーとの差別化という意味もあり、人気は高い。ただ前述の条件と、グランドクエストに対する不利から、実際には二の足を踏むプレイヤーが多いのであるが。
 つまりそこで二の足を踏むことなく、“空のならず者”となることを選ぶ度胸を持ったプレイヤー達――それが、海賊共和国民である。

「堂々と海賊旗を掲げてるような連中だ。やるしかないだろうな」

 ここは“惑星オデッセイ”とはいえ、“ストラトダンサー・オンライン”の権限が及ぶエリアである。彼らを強制排除するか、自分たちがペナルティ無しでログアウトすることも、あるいは可能であろう。だが――

『お二人さん、あくまで仕事の範囲でお願いね』

 どうやら自分の考えていたことは、吉野には筒抜けだったらしいが――返事は要らないだろう。燕は、操縦桿を握り直した。

「それじゃまあ――海賊退治と洒落込むか」




 “リベルタリア”は、“ストラトダンサー・オンライン”が無印――RailioⅡで発売・配信されていた頃の末期に登場した、新興勢力である。惹句はそのもの、『何者にも属さない、ただ己の思うがままに生きる、空の無法者』――程度の違いはあれど、今まで何処の勢力に所属していたとしても、「国家に従う兵士」というスタンスに変わりはなかったプレイヤーにとって、それは斬新な設定だった。
 とはいえ、ゲームの都合上、この世界の空が“海賊”で溢れかえると言うのも困りものである。
 だから彼らには、いくつかの不利な条件が科せられている。
 まずプレイヤーは、“ならず者”でなければならない。通常の勢力からゲームをスタートし、一定の経験値をそこで稼いだ後に、その勢力から“離反”しなければならない。その一定の経験値というのも低くはないため、プレイヤーはゲームの攻略という意味合いに於いては、一度ゼロからのスタートを余儀なくされる。
 そして彼らの本拠地は、“超大陸ユグドラシル”の周囲を遊弋する、二隻の巨大な空中空母である。
 領土を持たないが故に、単独で“超大陸ユグドラシル”の覇権を握るというグランドクエストを達成するのは難しい。結局そこは、海賊らしくそれを達成する勢力が現れたら、まさにその時それを横からかっさらう――そう言ったものになるだろう。
 現時点で拮抗する全勢力の中から、頭一つ飛び出した存在になるに違いない勢力を相手にして、横から獲物を奪い取る。当然、簡単な事ではない。
 また、彼らは設定上、他の全ての勢力から等しく狙われているという事になっている。
 “ストラトダンサー・オンライン”上では、ランダムに“海賊狩り”というイベントが発生し、それが発生している間、ログインしている全てのリベルタリア・プレイヤーは、問答無用で全ての勢力から狙われる状態になる。仮にそこで撃墜された場合、ペナルティは通常撃墜された場合よりも厳しいものとなる。

 ただ――これだけの不利な条件を背負って尚、“異世界の海賊”として暴れ回れるというのは、プレイヤーにとって大きな魅力である。
 そもそもが、単なる犯罪者でしかないはずの“海賊”という言葉には、不思議な魅力がある。ずっと昔から、海賊が単なる犯罪者の集団ではなく、いわば自由な“アウトロー”として、様々な物語の主役を飾ってきたように。
 時に彼らは、「海賊」という言葉が示すとおりの暴虐な略奪者になることもあれば、巨悪に立ち向かう義賊になることもある。どういう“海賊”を演じるのかはプレイヤー次第であり、それを演じる事自体が、大きな楽しみなのである。
 こと――自分が架空の世界を実際に生きる事が出来る、このような仮想空間体感ゲームではなおのことだ。実際、ロールプレイングゲームやアクションゲームの類でも、海賊や盗賊を主人公に据えたモノは多い。
 つまりそれだけ――人々は飢えているのだ。
 日常を生きる中で、誰にも縛られることのないアウトローである、“海賊”という非日常に。

『レーダーに感』

 だからそのパイロットも同じだった。
 リベルタリアのプレイヤーは、領土を持たない故に、国土の防衛戦などに参加する必要はない。戦場を探し求めているプレイヤーや、既に交戦中のプレイヤーに横合いから攻撃を仕掛けて、彼らを撃墜する事でスコアを稼ぐのである。
 彼らにはアクティブになっている戦場と、待機中の他のプレイヤーを確認することが可能で、そこに割り込むコマンドも与えられている。奇しくも、各勢力の“エース”を名乗る連中と、ほぼ同じ行動が出来るのである。
 レーダーが敵機を捉えたのと同時に、視界にメッセージが現れる。

『未確認機を捕捉しました――攻撃しますか』

 間の抜けたメッセージではあるが、ゲームとしては仕方ないところだ。時々彼は、このメッセージが自分たちのようなプレイヤーに対する安全弁なのではないかと思う事がある。これはあくまでゲームであり、実際の犯罪行為とは関係ない――そう示す為の、安全弁。
 むろん、自分はそこまで馬鹿ではない。
 現実世界で犯罪者になろうなどとは夢にも思わないし、海賊などという連中が、高価な戦闘機を用意できるとも思えない。所詮これはフィクション、作られた世界である。そんなことは、よくわかっている。
 だが、だからこそ――思う存分ここでは、自分の思う“海賊”を演じられるわけである。

「さてはて、今日最初の不運な獲物は何処のどいつだ?」

 だから、わざと悪ぶったように言ってみる。
 ステルス対策のために、金が蒸着コーティングされたF-22の風防。その薄く色づいた視界越しに、僚機が軽く翼を振るのが見える。仲間もまた、やる気は万全のようだ。垂直尾翼に描かれた自分たちの象徴――髑髏をかたどった海賊旗が、気分を高揚させる。
 リベルタリア遊撃戦闘機部隊――四機のF-22ラプターで構成される“スカルディセクツ”。
 F-22の高いステルス能力を最大限に発揮して、獲物に忍び寄り、その喉元に牙を突き立てる。それこそ、哀れな草食獣の頭蓋を裂き、脳髄を啜る獰猛な獣の如く。

『IFFパターン照合――こいつは、ティグリア共和国所属機か?』

 仲間の一人が、リベルタリア・プレイヤーにのみ許されるコマンドを使い、目標の勢力を割り出す。しかし――何かおかしい。
 ティグリア共和国は、南洋の島嶼部をメインランドとする勢力である。“超大陸ユグドラシル”に於いても、彼らの勢力圏はもう少し南方に位置するはずだ。

『それも単機だ。他に航空機の機影は無し――何なんだこいつ、大体、どうやってここに?』

 “ストラトダンサー・オンライン”において、プレイヤーはアクティブになっている戦場にすぐさま舞い降りる事が出来る。ゲームの中で、何時間も哨戒飛行をする趣味のある人間など、そうは居ないから当然である。
 フリーフライトモードで気ままに空の散歩――と言うには、ここは彼らの勢力圏内ではない。フリーフライトモードが可能なのは、自国かその勢力圏内に限定される。ならば何故――レーダーに映るこの機影は、“ここにいられる”のだろか? それは、このゲームの制約を超えた現象である。

『このところ話題の無人機ってわけでも無さそうだし――チートプレイヤーか?』

 不正改造データを使用した、所謂“チート”行為は、純粋にゲームを楽しむプレイヤーからしてみれば忌むべきである。
 マスクの下で、パイロットは舌打ちをした。

(海賊が道理を説くのも何だろうが――それは頂けねえだろ)

 FSC(武器管制システム)を解放、だが、まだ撃たない。ウェポンベイの扉が開かれた事により、F-22のステルス能力は大幅に低下する。ともすれば、向こうもこちらに気がついただろう。だが、構うモノか。
 F-22の編隊データリンクが、仲間と共有出来ている事を確認する。F-22は高度な情報統制能力を有していて、部隊に所属する全機が、データリンクにより、いわば一つの“戦闘体”として機能する。この辺りが、“空域支配戦闘機”たる所以。

『来るぞ』

 仲間の通信が、耳に入るその瞬間。レーダー画面に表示されたシンボルとの距離がゼロになり、編隊の右舷を、凄まじい速度で敵機が通過した。

(今の間合いで撃ってこないとなると、あちらさんも同じ思惑か)

 だが――その行動は、チートプレイヤー……「卑怯者」にしては妙だ。こちらの誘いに、堂々と乗ってきている。ならばこれは何かのイベントか? それなら望むところである。こちらは誇り高き海賊共和国の戦士――空の全てを手中に収めんと画策する、どん欲なアウトローである。

『機影を確認――あの前進翼、F-3だな』
『いいねえ、新鋭機だ。スコアが稼げるな』
『舐めてかかるなよ。イベントか何か知らないが、こんなところに単機だ――まともなプレイヤーじゃないぞ』

 それはそれで結構なことだと――と、パイロットはマスクの下で嘯いた。

「ここで俺たちに遭ったのは不運だったな。変わりにその不運、神に嘆いてやる――全機攻撃態勢に移れ。同情を込めて、破片一つ残らず消し炭にしてやる」

 四機の猛禽は、一斉に翼を翻す。同時に、レーダー画面の中で敵機を表すシンボルも急激に動く。
 F-3神狼――現実には航空自衛隊に配備されたばかりの最新鋭機。その機体構成ゆえにステルス能力はラプターに劣るが、格闘戦能力では上回ると言われる。楽な相手ではないが、そうでなければ面白くない。

『カトラス1、攻撃位置についた――ターゲット・ロックオン。FOX2!』

 仲間のうち一機が、空対空ミサイルを発射――同時に敵機のF-3が急激な降下姿勢に入る。アフターバーナーを全開にしての、パワーダイブ。
 ミサイルを回避しようとしたのだろうが、馬鹿げている。眼下に広がるのは急峻な山脈地帯――そこに音速を超えて突っ込むつもりだろうか? 僅かでも引き起こしのタイミングを誤れば、頭からその尾根に突き刺さる――

『くそっ――カトラス1、ロスト・コンタクト――何だあいつ、何であそこから引き起こして間に合うんだ!?』

 まるで山の尾根を舐めるように超音速で飛び抜ける機体をミサイルが追い切れず――山肌に激突して、爆煙と雪煙を盛大に巻き上げる。
 本当に、刹那のタイミングだった。あと僅かでも引き起こしが遅れていれば、機体は山に突っ込んでいただろう。ともすれば、機体の腹と山肌の距離は数メートル程度ではなかっただろうか?
 さりとて、迫り来る山肌に恐怖して引き起こしが早すぎれば、ミサイルの餌食である。機体の機動限界をギリギリのところで見極めていなければ、とても出来た動きではない――

(だが、そう言うことが出来る奴がチート野郎だとは思えねえ――面白くなってきた!)

 操縦桿を引き、スロットルを押し上げる。
 F-22は二次元推力偏向ノズルを装備することで、二十世紀最強と名高いF-15をも上回る機動力を得ている。本来は舵の効きが悪い高々度・高速下において、最低限の機動性を確保するための装備であるが、結果としてこの機体は、ステルス性に加えて第一線級の格闘戦能力を保持するに至った。
 格闘戦では及ばないと言われるF-3であるが――戦えないわけではない。
 超音速巡航をも可能にする、二基の高出力エンジン、F119-PW-255が咆吼を上げ、機体は蹴飛ばされたように加速する。
 実はF-3に搭載されるIHI-F255の原型となったエンジンである。近代化改修により、F-22開発当初に搭載されたF-119-PW-100の性能向上仕様。いくら日本お得意の「魔改造」が施されようが、性能劣化の輸出仕様よりも当然強力な出力を誇る。
 その出力にものを言わせて敵機を追跡――僚機と共に、薄い雲の中に逃げ込んだ敵影を追って――

『うわっ!! なんっ――』

 唐突に、叫び声と共に仲間からの通信が途絶えた。
 攻撃を、受けた!? 雲を抜ければ、火の玉と化して落下していく機体が見えた。

「何だ――カトラス2がやられた!? 何が起こった!? あいつ、後ろに向けてミサイルでも撃ったのか!?」
『違う――あの野郎、増槽をぶつけて来やがった!? 何なんだよあいつ、後ろに目でも付いてんのかよ!?』

 長距離飛行用のドロップタンク――機外燃料タンクを、ぶつけてきた!?
 そんな攻撃が、果たして可能だと言うのだろうか? ものはミサイルでも、爆弾ですらないただの“燃料タンク”である。いわば機体から投げ捨てたものを、狙いを過たず追跡してくる敵機にぶつける――後ろに目が付いているのかと仲間は言ったが、たとえ後ろに目が付いていたとしても出来るとは思えない。何という勘と、予測能力!
 そして更に、増槽を捨てたことで相手の機動力は更に向上したと言うことだ。
 ――動きから察するに、不正データを使ったチート行為とは思えない。
 だからこそそれ以上に、そんな事が可能なプレイヤーが存在する事が、信じられない!

『くそっ……カトラス3、カトラス4――散開しろ! 固まってたんじゃ的にされる!』

 仲間の言葉に、反射的に操縦桿を引く。飛行機雲が長く、白い帯を虚空に曳いていく。だがそれを見届ける暇はない。
 敵機は一旦上昇したが、再度山脈を盾にするように低高度に逃げ込む。
 こちらを誘っているのか――複雑な地形に逃げ込んで、操縦ミスによる墜落を誘う、所謂“マニューバ・キル”にこちらを填めるつもりか。それを挑発と受け取ったのだろう、仲間の一機が翼を翻す。

『カトラス4! 誘いに乗るな! 機動性は向こうが上だ!』
『これくらいの差なら最後はパイロットの腕だろ! ナメられたままでたまるかよ!』
『よせカトラス4それは死亡フラグだ――くそっ!』

 敵機は狭い山間を超音速で飛行している。格闘戦重視で最高速度の遅いF-3が、F-22を振り切れるとは思えない。思った通り、こちらのミスを誘うつもりか。
 だがこちらとて、高性能機を扱うだけのプレイヤースキルを持った上級プレイヤーである。先程の奇襲には驚きはしたが、二度はない。単純なミスなど――

「――カトラス4、敵機がミサイルを発射!」
『は? ミサイル――何処に向かって――まさか!』

 刹那、敵機はミサイルを発射した。しかしその正面には何もない――だが“まさか”と思ったその瞬間、ミサイルは急激に方向を変え、左右に迫る山肌に突き刺さった。慌てて操縦桿を引いても、時既に遅し――山肌が崩落してくる。
 かろうじてそこに飲み込まれる事は無かったが、エアインテークが異物を吸い込んだらしい。エンジン火災発生――コックピットに警報が鳴り響く。たまらずパイロットは脱出レバーを引いた。
 キャノピーが外れ、ロケットモーターによって座席が射出される。十分な高度を取ったところで、パラシュートが展開――パイロットは、そこから主を失った自機の最期を見届けた。
 あっという間に、二機がやられた――それも、まともなやり方でない方法で。
 勝てない――そんな弱気が、頭を過ぎる。
 確かに奇襲じみたやり方ではあった。普通のプレイヤーなら、思いも付かないようなやり方――だが、それを可能にする事実が、あのプレイヤーの技量を物語っている。
 追跡してくる敵に増槽をぶつける? 超音速で山間を飛び抜けながら崖崩れを誘発して敵を巻き込む? 思いついたところで、自分には実行に移せないだろう。

『カトラス3、どうする――相討ち覚悟で突っ込んでみるか』
「ああ――だが奴は一体何なんだ? チートプレイヤーでも、例の無人機でもない――どうしてあんな奴が、こんな場所に?」
『それはやはりイベントか何かで――くそ、敵機旋回――やる気か』
「なら、こっちだって付き合うさ。ここで尻尾を巻いて逃げたんじゃあ、究極の自由人――海賊共和国の名が廃る」

 相手プレイヤーの力量が、こちらを上回っている。それは素直に認めるしかない。
 だが、こちらとて黙ってやられるつもりもない。せめて一矢報いてやるとスロットルに手を置いた時――冷たい声が、響いた。

『よせ――お前らが敵うような相手じゃない』



[37800] 第二部 第二話 ゲームの続き
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/08/10 22:17
第二話「ゲームの続き」

「エゲツねえ……俺が連中ならフザケんなって叫びたくなるぞ」
「四対一だったんだし、誰も卑怯だなんて言わないよ。第一、やれと言われてこんな事が出来るのはカツラギ君くらいだと思うけどね」
「お前のナビがなかったら俺にだって出来ねーよ。何なんだよお前のその一点集中を具現化したような才能は」
「いやあ照れるな」
「皮肉のつもりで言ったんだが」

 山脈の上空を緩く旋回しながら、燕は溜め息を吐く。
 敵の残りは、あと二機。だが、今のところ攻撃を仕掛けてくる様子はない。それも当然だろうか。あんなふざけたやり方で味方の半数を失ったとなれば、下手に手出しは出来ないと考えても仕方がないだろう。

「とはいえこっちもお仕事の途中だしね。このままにらみ合いしてるわけにもいかないし――カツラギくん、あいつらサクっとやっちゃってよ」
「血も涙もねえなお前は。俺でも気の毒になるわ」
「人を冷血漢みたく言わないでよ。それに海賊退治と洒落込もうって言ったのは君のほう――ッ!? カツラギ君回避ッ!!」

 突然、クロネコが叫ぶ。反射的に燕は操縦桿を捻る。
 ハイドラはばたついたようにその翼を翻し――その刹那、まさにさっきまで機体があったその位置を、オレンジ色の閃光が薙ぎ払った。

「銃撃――連中の増援か?!」
「レーダーに感無し――でもこれは――索敵モードをIRSTに切り替え」

 その意識の切り替えには、本当に驚かされる。燕が機体の体勢を立て直すより先に、クロネコは既に敵機の姿を探す事に取りかかっている。
 レーダーに感知できないと言うことは、またステルス機――それも今度の奴は、先の連中とは違ってそのアドバンテージを完全に活かす腹積もりらしい。いけ好かない奴――彼女は小さく呟き、赤外線探知モードを機動。

「アイ・リンクシステム起動――何処?」

 神狼の機外センサの一つ――赤外線探知装置(IRST)は、ステルス機に対して絶大な効果を持つ。いくら電波を寄せ付けないステルス機といえど、ジェットエンジンの力で飛行している以上、空中に熱をまき散らしている事には違いないからだ。
 むろんF-22をはじめとするステルス機はその辺りの事も考慮されているとは言うが、ジェット戦闘機の宿命上、レーダー探知に対する鉄壁の防御程の効果は無い。
 ただこの装置は探知距離も範囲もレーダーほどではない。クロネコは周囲を機械的に索敵する通常モードではなく、敢えて捜索範囲を視界と連動させるモードを選び、自分の“勘”を頼りに、敵を捜す。

「捕まえたっ! 右舷後方上空――来る!」

 彼女の声に、燕は操縦桿に力を込め、フットバーを蹴飛ばすようにして機体の体勢を変える。果たして――死の閃光をまき散らしながら、恐ろしい早さで“それ”は突っ込んでくる。

「クソがっ――メチャクチャだなこいつ!?」

 銃弾が尾翼を掠めたが、何とか回避に成功――だが、先程の連中とは明らかに違う。
 山脈を照らす陽光に、その特徴的な主翼が一瞬、鋭く煌めくのが見えた。

「あれは――スホーイT-50! 主翼に海賊旗――奴らの仲間!?」

 T-50は、F-22と双璧を成すロシアの第五世代ステルス戦闘機である。平面形はまさに、F-22と酷似した純粋なステルス構成であるが、そこかしこに戦闘機に対して独自の思想を持つかの国の特徴が見て取れる。
 Mig-29やSu-27と言った、第四世代の制空ジェット戦闘機を代替する目的でPAKFA(パクファ)――戦術空軍将来戦闘複合体と呼ばれる計画に基づいて開発された、まさにロシアを代表する新世代機である。
 その機体構成から、純粋なステルス能力では僅かにF-22に劣ると言われるが、それでも効果の程は実証済み。小振りな全遊動式垂直尾翼、可動するストレーキと言った見た目にも目を引く特徴を持ち、エンジンノズルは三次元の推力偏向機能を持つ。
 F-22のそれが、舵の効きが悪い高空高速下での機体の制御を目的にするのとは対照的に、T-50を含めロシアのそれはあらゆる状況でそれを積極的に使う思想が貫かれている。
 即ちステルス機の思想――“ファーストルック・ファーストショット・ファーストキル”の原則を理想としながらも、空中格闘戦に於いても相手を圧倒するだけの驚異的な機動力を併せ持つ。
 果たしてその様な剣呑な機体。ロシア式の航空迷彩に彩られたその主翼には、本来の生まれ故郷を示す赤い星ではなく、先の連中と同じく頭蓋骨と交差した大腿骨――海賊旗が描かれている。

「カツラギ君――あいつ、ヤバい。連中の“エース”かも」
「は――気弱になってンなよ。こっちだって伊達にティグリア最強を名乗ってはいねえ――来いよ、“チーム・ハイドラ”を見せてやる」
「カツラギ君って人にあれこれ言ってる割に大概アレだよね……まあ、そう言うところもある意味格好いいんだけどさ――敵機、降下。山間に逃げるつもり?」
「あからさまな誘いだが――受けて立つぜ」

 燕はスロットルをアフターバーナーに叩き込み、高速で低空に飛び抜けた敵機を追う。
 T-50は主翼前縁やテイルコーンなど、通常の戦闘機ではあり得ない位置にアクティブ・フェイズドアレイレーダーを搭載する。ステルス性の維持の為にそれらの使用には一定の制限が掛けられるが――この状況下で遠慮は要らないだろう。こちらの動きと、ある程度の思惑はあちらに筒抜けだろう。下手をすれば、後方にいてもロックオンされて、ミサイルを撃たれる危険性もある。
 だが――それを危惧しようとは思わない。燕は素早くスクロールスイッチを操作。赤外線探知のミサイルを選択肢、トリガーを引き絞る。

「ハイドラ――フォックス2」

 機体側面のウェポンベイが展開され、90式空対空誘導弾改――自衛隊の性能向上型空対空ミサイルが発射される。F-15JがF-15J改に改修される際の計画に際して、既存のミサイルに性能向上処理を計ったもので、新型の誘導装置と、数十Gの旋回負荷に耐える新鋭ミサイルである。
 ロケットモーターに点火したミサイルは、すぐさま母機であるハイドラを追い越し、その電子の瞳に貫くべき目標を刻み込む。それは盛大に排熱をまき散らすT-50のエンジンノズル。当然かの機体にも、欺瞞用マグネシウム――フレアは装備されている。しかし90式改は敵機の赤外線反応を光学認識――つまり“機影”を判断する能力がある。簡単に避ける事は出来ない。
 T-50のエンジンノズルから、紫色の燐光が放たれる。敵機、アフターバーナーに点火して加速――機体の背面を霧で染め上げながら上昇。

「あいつ何を考えて――高機動ミサイルを、回避機動だけで避けきれるわけが――」
「――まさかっ!?」

 クロネコが何かに気づく。燕は何かを言おうとして――だが果たして、彼女の言わんとする事がわかった。
 一息に上昇したT-50の向かった先――そこには、まだ空域に残っていた二機のF-22がいる。彼らは仲間――明らかに“エース”級の実力を持つプレイヤーの介入に、半ば蚊帳の外に押しやられた状態にある。
 そこにT-50は超高速で突っ込んだ。味方機を追い越し様に機体を一回転――従来機とはまるで異なる動翼制御系統を持つT-50は、まるで空中を敷かれたレールに無理矢理向きを変えられたような動きで、急激に進路を変更――その場を離脱する。
 そこに、燕の放ったミサイルが追いついた。
 90式空対空誘導弾改は、敵機を光学認識する赤外線追尾ミサイル――似たような機影を持つF-22とT-50。結果は、明らかだった。ミサイルは突然のことにろくに回避機動も取れないF-22を一機巻き込んで火球となる。秒速数キロの爆風と破片に至近距離から晒されれば、いかに空の王者たる猛禽といえども打つ手はない。
 その鋼鉄と炭素複合材の翼を易々ともぎ取られ――炎上しながら落下していく。

「あいつ――味方を盾に」
「海賊らしいといえば、らしいがな。奴さんにはどうもそれなりの美学があるらしいが――」

 あれがどういうプレイヤーを演じているのかなど、燕には与り知らぬところである。相手が極悪非道な海賊を演じているというのなら、それはそれでこの世界では“あり”だろう。
 だが――気に入らない。自分が所属している501特務航空隊の気質故かもしれないが、燕はそう思った。
 敵機、再び低空で大きく旋回――燕はそれを追う。
 ヘッドマウントディスプレイの向こう側、視界の中で、特徴的なT-50の機尾が急激に大きくなる。武器は機銃を選択。視界の中央に、丸い照準マークと、それを取り囲むゲージが現れる。レーダーと連動したコンピュータが敵機との距離を測り、命中精度として理想的な距離を教えてくれる。
 まだ――遠い。
 だが相手とて、のんびりとこちらに背を向けてただ飛んでいるわけではない。上下左右に、その設計思想を最大限に発揮した機敏な動きでもって、こちらを振り切ろうとする。フェイントを織り交ぜた驚異的な機動。しかしこちらも、伊達に一国のエースを名乗っては居ない。
 音速に近い速度で飛び回るとなれば、当然だが機体は一秒間に三百メートルも進むことになる。ちょっとした判断のミスで、この至近距離で相手を追跡するにはもはや致命的だ。おまけにここは山が連なる山間部。相手ばかりに気を取られていれば、迫り来る尾根に激突する危険だってある。
 しかし、燕にとって、その様な危険は無いも同然だ。目の前の敵機以外の全ての危険は、後部座席に座る相棒が逐次教えてくれる。自分はただ、目に映る相手を倒せばいい。
 ループして上昇、一転急降下――その最中に旋回軸を無理矢理引きはがして横方向への捻り込み。それらの全てに、絶妙なフェイントを仕込む。
 戦闘機は通常の航空機よりもはるかに小型で軽量、高出力であるとは言え、当然どのような機動でも出来るわけではない。たとえば急旋回をするにはまずその方向に対して機体を“縦”にする必要がある。これは左右方向(ヨー)の機動を制御を司る舵面よりも、上下方向(ピッチ)の機動を制御する舵面の方が遙かに広く、主翼や胴体という平面も加わって効率が高いからだ。だから通常戦闘機の急旋回は、横方向の舵面でなく、縦方向の舵面を使って行われる。
 だからそれを追うならば、その動きを見極めればいい。動翼を使って体勢を変える戦闘機は、機動のために必ず“体勢を整える”必要があるのだ――大げさに言えば。
 そして追われる方は、それを頭に入れて機動の前にフェイントを入れる。ピッチアップから急激に機首を戻したり、あるいは旋回と見せかけて機体をロールさせ、敵機からエアブレーキを隠して急減速したり。
 だが、生半可な欺瞞など、二対の目を持つ双頭の獣には通じない。逃げるT-50とハイドラは、まるで糸で繋がれたように一定距離を保っている。
 いや、その二機の距離が、僅かに縮む。

「よし――右ロールからの捻り込み――もらった!」

 照準の中に、T-50の広い背部が一杯になる。燕は相手の最後の動きに追従するように操縦桿を捻り、トリガーを――

「カツラギ君そっちは駄目っ!」
「!」

 クロネコの声に、射撃に集中しようとしていた意識を戻すが、遅かった。
 目の前が、一瞬真っ黒になる。ブラックアウト? いや、身体的負荷がカットされたこの仮想世界では、人間の限界など存在しない。
 視界を覆った黒が一瞬で晴れ、目の前からT-50の姿がかき消えている事に気がつき――燕は舌打ちした。

「野郎――これを狙って」

 燕の視界を奪ったのは、煙だった。フィールドの一部から、空を汚す黒煙が上がり続けている。墜落した三機のF-22、まだ十分に余裕のあった燃料から発生した火災。その煙を目くらましに、敵機はハイドラの瞳から逃げ切った。
 だが――何という技量!
 ハイドラにわざとつかず離れずの距離を保たせて、自分の“癖”を教え――それを餌に、ここしかないだろう最高のタイミングで、彼らをこの場所に“誘導”したのだ。

「何て奴――ごめん、カツラギ君――読み切れなかった」

 クロネコの悔しそうな声。直接戦闘に参加せず、常に冷静に戦場を見下ろす第三者視点――そんな大きなアドバンテージを持つはずのハイドラを、あの敵機は騙し切った。
 自分の技量の限界は“ここ”だと――相手に誤認させる。
 それがどれだけの事なのか。ともすれば自機が危険に晒される状況下で、奥の手を隠し続ける。

「謝るな。騙されたのは俺も同じだ――だが、まだ負けた訳じゃない。同じ手は二度は喰わない――そうだな、クロネコ?」
「――任せてっ!」

 スロットルをマックスに叩き込む。どうせあれだけの相手だ。今の僅かな隙でアタックポジションに着かれただろう。相手にレーダー照射を受けている警告が出るよりも早く、クロネコの声が響く。

「敵機背後――レーダー照射を受けてる。R-73――R-77、かな?」
「アムラームスキーか、だが――」

 T-50にも搭載される、ロシアの空対空レーダーミサイルR-77。正式名称はマムシを意味する「アッダー」だが、アメリカの高性能空対空ミサイル「アムラーム」に比肩する性能から、「アムラームスキー」という蔑称で呼ばれることがある。
 しかし、と、燕は思う。

「わかってる。多分あれは――こっちを手のひらで踊らせるための、囮」

 R-77アッダーは、撃ちっぱなし能力を持つアクティブホーミングミサイルだ。一度発射してしまえば、後はミサイルが自分の判断で敵機を追う。
 だがあれだけの技量、そして味方を犠牲にしてまで空中戦を楽しむプレイヤーの“性格”を考えれば、こちらにトドメを指すのに機械仕掛けの弾丸任せとは思えない。
 刹那――ミサイル警報装置が耳障りな警告音を立てる。敵機、ミサイルを発射。

「タイミング任せたぞ」
「了解、到達まで四秒――ブレイクレフト!」

 クロネコの絶叫に近い指示と共に、思い切り操縦桿を引く。同時に、レーダー欺瞞用アルミ箔“チャフ”が虚空に散布される。僅かの間をおいて、三回。
 近年高性能化のめざましい空対空ミサイルに対して、欺瞞装置は以前ほどの効力を失いつつある。コンピュータの進歩による欺瞞手段への対抗に始まり、敵機を光学認識するミサイルへの根本的な対処法は、まだ開発されていないのが現状だ。
 だが、それでも所詮は機械仕掛けで相手に突進するだけの兵器である。現実世界ならまだしも、ここは思考能力だけが、戦闘の中で極限まで研ぎ澄まされる仮想世界――やりようはある。
 チャフはレーダーを乱反射させるアルミ箔によってレーダーを欺瞞する防衛装置であるが――ここまで近距離で放たれたそれは、ミサイルにとっては突然目隠しをされたに等しいものであった。
 近接信管を誤作動させ自爆――だが、敵機もそれは承知の筈だ。闇夜に獲物を狙う猫の瞳の如く、極限の時間の中で研ぎ澄まされたクロネコの情報処理能力が、的確に敵の一手を先読みする。

「敵機のガンレンジ(機銃射程距離)に入る――来るよ、構えてっ!」
「了解!」
「三、二、一――ブレイク、ナウッ!!」

 燕はその声をと共に、操縦桿に力を――

「!? カツラギ君何やってんの、ブレイク――あ!」

 だが、それは叶わなかった。まんまと相手の思うとおりに――敵機の真ん前に躍り出てしまう。間をおかずに、曳光弾のオレンジ色の光が、無防備な翼に降り注ぐ。
 がん、と言う耳障りな音と共に、激しい揺れ。メインディスプレイ一杯に毒々しい警告メッセージが表示される。

「ヤバい、主翼が――」

 F-3神狼の特徴的な前進翼――その右側の翼が、半ばからちぎれ飛んだ。瞬時にコンピュータが動翼の調整を行い、機体はかろうじて飛行できる状態を保つ――が、とても先程までのような戦闘機動は行えない。機体形状において安定性が皆無である神狼は、通常飛んでいるだけでもコンピュータのサポートが必要な機体なのだ。主翼という航空機にとっての生命線が片方無くなった状態で、機体を振り回すことなど出来るはずがない。

「カツラギくん!?」
「すまん、言い訳っつうか、あとで説明してやる――くそ、脱出するべきか?」

 燕と由香は、“ストラトダンサー・オンライン”にログインしてこの世界に降り立っているわけではない。その延長線上に立っているにしても、ゲームシステムに縛られる事はない。だからここで機体を失っても特にペナルティはないが――
 敵機にロックオンされた警報がやかましく鳴り響く。燕は脱出ハンドルに手を掛けたまま逡巡する。仮にここで撃墜されても、自分たちならそれを“なかったこと”にさえ出来るだろう。しかし――

「後ろ、ロックオンされてる――ああ、でも駄目! ――今出力を上げても、失速するだけ――!」

 万事休すか――思わず背後を振り返る。
 刹那――背後から死神の鎌を振り下ろそうとしていた敵機が、何かに気が付いて大きくダイブした。途端に降り注ぐ、曳光弾のシャワー。

「何だ――?」
「待って、IFFに応答――あれって」

 一瞬、空の彼方に何かが見えた――確認する暇もなく一瞬で拡大したそれは、ハイドラと高速ですれ違う。
 まるで外洋のような深い蒼――濃紺の洋上迷彩を身にまとう、前進翼の戦闘機。ハイドラの同型機F-3――いや、違う、あれは。

「RF-3――角田さん!?」

 確かにそれは、ある意味ではハイドラの同型機であるF-3Bに見える。しかし機体下部、エンジンの間に懸架された、紡錘形の物体。果たしてそれは、光学観測装置をはじめとする高感度センサが収められたデバイスである。
 RF-3――純粋な偵察機であったRF-4が退役し、F-15に間に合わせの偵察ポットを搭載して後継機として運用していた航空自衛隊が、再び手に入れた純粋な前線偵察機。
 完全に制空権を確保できない状況で相手の情報を持ち帰ることを目的に設計され、F-3の世界随一と言われる格闘戦能力はそのままに、最高速度をマッハ2級に引き上げた、いわば“戦闘偵察機”である。
 そして現在、“ストラトダンサー・オンライン”において、その機体を扱えるプレイヤーはいない。
 それは単純に、プレイヤーが使用可能な機体として、ゲームの中に登場しないからだ。
 だが、彼らは違う。
 “ストラトダンサー・オンライン”に表裏として存在する、真の“惑星オデッセイ”。“ストラトダンサー・オンライン”を管理する運営にとて、計り知れない謎の世界。そこを踏破する目的で、現実にも情報収集を主な任務とするこの機体は投入された。
 ゲームとは違う彼ら――“惑星オデッセイ探検隊”の装備として。

『援護に入るのが遅くなって申し訳ありません。こちらに一般プレイヤーが入り込めた理由を解析するのと、私自身の“惑星オデッセイ”へのダイブを用意するのに手間取りまして』

 音速を超える速度で旋回する機体から、通信が入る。

「いえ、それは別に――けれど、それよりも」
『わかりました。ひとまずここは私に任せて安全圏へ退避してください』
「ですが」
『言いたいことはわかります。それに何か事情があったとはいえ、お二人を手こずらせるレベルのプレイヤーに、偵察機仕様の機体で勝てるとは思いませんが――言い訳を用意できるだけの時間が稼げれば、それで十分です』
「言い訳?」

 とにかく退避を。そう促す角田に、燕はスロットルを押し上げた。右の主翼がほとんど機能していないため、いたずらに速度は上げられない。探るように、気流が剥離しないぎりぎりの速度域を狙う――高空を高速で飛行するジェット機にとって、実は許容される速度の範囲というのは驚くほどに狭い。
 背後を振り返れば、蒼暗い空を背後に、複雑に絡み合う二筋の飛行機雲。

「そういや角田さんって、元自衛隊のエースパイロットなんだよな……いいのかな」
「この世界じゃカツラギ君だって負けてないよ。前に角田さんも、ここで本気でやりあったら、たぶんカツラギ君には勝てないって言ってたし――それより」

 クロネコが何か言いかけた瞬間、世界が暗転した。

――通信障害が発生しました。大変ご迷惑をお掛けしますが、今しばらくお待ちください――

 そんな無機質なメッセージが、目の前に踊る。




「原因そのものはわからないのだけれえど――顧客データのアカウントを検証した実験から、条件に関しては割とすぐにわかったわ」

 そう言って吉野は、手に持った紙片を捲る。そこに描かれたのは、燕には理解できない文字の羅列。“ストラトダンサー・オンライン”を構成する、プログラム言語である。

「“惑星オデッセイ”は“ストラトダンサー・オンライン”と表裏に存在する――とは言っても、ゲームとして解放されているのは、そのデータの一部を流用したものだから。たとえば“惑星オデッセイ”が現実のこの部屋だとすれば、“ストラトダンサー・オンライン”はそうね、この部屋をデジタルデータに置き換えて構築した世界になるわ」

 そのデジタルデータは、構成される情報量が多ければ多いほど、現実に近いものになる。けれどそれがあくまでも、こちらの手によって作られた偽物であることに変わりはない。

「問題はここから。あの“無人機”や、今回の“海賊”達は、その本物と偽物の垣根を跳び越えて“惑星オデッセイ”に現れている」
「何か話を聞く限りじゃ、それこそあれじゃないですか。ビデオを見ていたら画面から手が出てきました――的な?」
「おいやめろよ。言いたいことはわかるが――“惑星オデッセイ”は現実のこの部屋と違って、正体不明とはいえデジタルデータで出来た世界だろう? 物理的に存在している現実の世界とは同列には語れないだろ」
「おや? カツラギ君はこういうの苦手?」

 にんまりとした口元に手を当てて言う由香を睨み付け、燕は首を横に振る。
 吉野はそれを見て、持っていたレポート用紙の束を机の上に置いた。

「まあ確かにカツラギ君の言うとおり、単純に現実とは比べられないかも知れない。だけど、“惑星オデッセイ”と“ストラトダンサー・オンライン”が――大ざっぱに言えば同じインフラの上に存在しているとは言っても、別個のデータであることに変わりはないのよ?」
「あくまでプログラムでたとえるなら、パソコン上で誰かが絵を描いた。その絵をコピーして、コピーの方に色々描き込んで遊んでいたら、オリジナルの絵の方にもコピーに描き込んだものが現れた――そんなところでしょうか」
「今度は途端にスケールの小さな話になりましたね」

 燕は苦笑混じりに言った。しかもそれなら、単なるソフトの不具合として、あり得なくも無さそうな気がしてくるから困る。

「それだけ私たちのやろうとしていることは、今まで例が無かった――そう言い換える事も出来るわよ?」

 遠慮無く彼に人差し指を向けて、吉野は笑う。

「まあ、現実にたとえて理解しようとしていたのが、そもそもの間違いだったのかも知れない。ともかく、“ストラトダンサー・オンライン”の全てのプレイヤーアカウントの中から、無作為に抽出したデータを使用した実験では、その二つの“世界の垣根”を越えるには、明確な条件がある。それだけは、はっきりしたと言うことだ」

 田島がそう言うと、角田が小さく頷く。

「各勢力の“エース”と、それに準ずる権限を持つプレイヤー――この条件を持つアカウントを“ストラトダンサー・オンライン”上で走らせると、“惑星オデッセイ”にもリンクする事がある。検証の結果、それがわかりました」

 燕と由香は、その言葉に顔を見合わせる。
 そう言えば――“海賊共和国”は、不利な条件を背負う変わりに、与えられる特権があって、それは各勢力の“エース”に近いものだった。確か“ストラトダンサー・オンライン”の説明書には、そう言うことが書いてあった筈だ。

「じゃあ逆に、“ストラトダンサー・オンライン”に現れ始めたあの無人機は?」
「残念ながら、そこまでの事はまだわかっていません。我々の母体企業である長尾情報器機サービスに打診して、そこのスーパーコンピュータを使っての解析を試みてはいるのですが――何分、本業を全て止めて、全てをこちらの手伝いに回して貰う事も不可能なもので」
「あまり進捗状況は良くない――と」

 残念そうに頷く角田の表情を、何か意外な感じがする――と、燕は思いつつ見遣った。どうにも彼のことは、顔を突き合わせる事が日常になった今でさえ良く分からない。冗談が全く通じない堅物か何かかと思いきや、実はとんでもなく馬鹿げたことを真顔でいったりもする。いや、それはそれで、彼にとっては冗談でも何でもないのかも知れないが。
 その視線に気がついた吉野が、何故か特異そうな表情を浮かべていたのには気づかないふりをした。逆に彼女はわかりやすい。自分には妹しか居ないが、もしも姉が居たとしたらこういう感じかも知れない――と、燕は思った。

「いやあ、どうかなあ。ミナちゃん一人にうじうじしてた、似非良い子ちゃんのカツラギ君じゃあねえ」
「お前は俺に喧嘩売ってんのか」

 ともかく、“惑星オデッセイ”に巣くう何者かの解析は、遅々として進んでいない状況らしい。それも無理はない。何せ相手は、一つの惑星をまるごと閉じこめたという、規格外の情報体である。
 当然たかがゲーム会社の設備でどうにかなるようなものではなく、“スターゲイザー・エインターテイメント”の親会社であるシステム開発企業に回してはいるらしいが、今自分たちがやっていることは正規の業務ではない。いいところ、企業が主体の部活動のようなものである。何か得るものがあるにしても、彼らが営利企業である以上、通常業務を放り出して趣味にかまける訳にはいかないのである。

「でも、“海賊共和国”はまた別にしても――出くわす可能性のあるプレイヤーが、全部エース級ってのはなあ。こっちは自分たちの正体なんて明かせないから、下手すりゃあの“無人機”と同列視されるぞ」
「それでむしろ“無人機”が、こちらが用意した単なるイベントだと言う解釈が広まってくれれば、あるいは助かるかも知れないがね」
「そんな無茶な」

 田島の言葉に顔を引きつらせ、燕は首を横に振る。

「その辺りのことはうちの開発チームが対策中だ。二度も三度もあんな手段は使えんからな」

 運営の管理権限を使った、全プログラムの一時停止。窮地に陥ったハイドラを救った苦肉の策であった。
 だがそれはそうそう使える事でもないだろう。通信障害やプログラムのバグが頻発して、たびたび配信が停止されるネットゲームなど、ただの欠陥品である。顧客離れを起こしてしまえば、営利企業である“スターゲイザー・エインターテイメント”は立ちゆかない。
 少々重苦しい沈黙が、会社の一角にあるこの会議室に立ちこめる。
 果たしてそれを破ったのは、燕の溜め息だった。

「ま――その辺の事は問題ないでしょう。相手がプレイヤーなら、俺がなんとかすりゃいい話だ」
「ほう、君にしては珍しく強気の発言だね」

 からかうように言った田島に、燕はひらひらと手を振ってみせる。

「私にはわかるような気がします」

 彼に追従したのは角田だった。

「私が自衛隊にいた頃には、当然訓練飛行を行っていました。しかし燃料は無限にあるわけではなく、機体の整備も一回の飛行ごとに欠かすことは出来ない。おまけに日本の上空では、訓練など出来る場所も時間も限られている」

 何が言いたいかと言えば、戦闘機の操縦というのは、空を飛ぶ生物ではない人間に本来備わっていない能力である。それを見いだして維持するには、当然反復訓練によって体に無理矢理叩き込むしかない。
 逆を言えば、“やればやっただけ”能力は増す。個人によって程度の差はあるだろうが、それは純然たる事実である。だが現実は、なかなかそうもいかないのだ。

「近年では自衛隊でも、仮想空間体感機を使った訓練も行われてはいますが――あまりそれに頼ると今度は、脳が覚えた技能と実際の身体能力にズレが生じる」
「つまりそういうしがらみのないカツラギ君は」
「“惑星オデッセイ”の空を飛べば飛んだだけ、強くなる」

 由香と、そして吉野のニヤニヤした視線が癪に障る。だから自分はこの男が苦手なのだと思う。別に嫌いだと言うのではないが。

「その理屈じゃ引きこもりの廃人プレイヤーが最強ってことになっちゃいますが」
「大丈夫、その辺はあたしが身を以て実証済みだから。アクションゲームとか格闘ゲームならともかく、“ストラトダンサー・オンライン”はね。適正がなけりゃ、どれだけ廃人プレイしたって一定のラインから上には進めないから」

 相棒に言葉尻を捉えられ、果たして燕は両手を挙げる。味方が誰もいない状況で、口先で立ち回れる程の自信はない。

「それじゃあ、その“ストラトダンサー・オンライン”最強のパイロットさんは、どうしてこの状況を問題ないって?」

 吉野の何処か楽しそうな様子をなるべく気にしないように、燕は首を横に振る。

「あのT-50――技量は相当なもんだけど、次に遭ったら負けませんよ」
「そりゃやる気のあるのは結構なことだけど。端で見てるだけでもわかるくらい、あの子強いわよ? ログイン時間だって」
「吉野」
「あ、ごめんなさい。つい」

 何かを言いかけた吉野に、角田は強い調子でそれを止めた。

「申し訳ありませんが草壁さん――名目上まだ当社の研修生であるあなたと、アルバイトという立場の水戸さんでは――顧客の個人情報をお話しすることが」
「ああ――それは」

 むろんそれは、企業として当然のことだろう。もはや燕はこの会社に骨を埋める覚悟くらいは出来ているが、果たして今の立場が“研修社員”である事に変わりはない。
 それを申し訳なさそうにしているくらいだから、角田や吉野と言った“惑星オデッセイ探検隊”の面々を始め、この会社の人間と軋轢が生じているわけではない。その事実があれば、燕には文句などあろうはずもなかった。
 吉野の言葉に気になるモノはあったが――あえて気にしない事にして、話を続ける。

「由香。お前がブレイクって言ったのに、俺が機動に入れなかった理由、何だかわかるか?」
「え?」

 言われた由香は、唇に指を当てる。
 そう――敵機からの被弾を受けたあの時、確かに彼女は、それを予想していた。

「そう言えば――あいつの動きはカツラギ君もある程度わかってたはずだよね? どうして?」
「うん――ああ、いざ言うとなると勇気が要るが」

 燕は一つ咳払いをして、言った。

「あの時――山の尾根に、人が、見えた。だから――避けられなかった」




 草壁燕と言う青年は、取り立てて体力がないと言うわけではない。取り立てて身体能力が優れているというわけでもないが、ごくごく平均的な十九歳男性の体力は保持しているだろう。
 何となれば、所謂“体力系”のアルバイトも経験したことはある。警備員だとか、配達だとか。だからぶらぶらと町中を歩き回るくらいのことは何でもない筈だった。普通に考えれば、それは体力云々の話を出すようなモノではない。

「だがどうだこれは……」

 心底疲れ果てた、と言った表情で、その場所の一角にあったソファに腰を下ろす。ぴりぴりと、足の裏が痺れたような錯覚。今日の外出に倍する距離くらい、いくらでも歩いたことがあるはずなのだが――多少マナーが悪いが、そのまま脚を投げ出すようにソファに深く背中を預ける。

「おや、カツラギ君――その顔はいただけないな」
「吉野さん」

 私服姿の彼女が、いつもの笑みを浮かべて、燕の隣に腰を下ろす。
 会社ではその役割から、悪く言えば野暮ったいラフな格好の彼女であるが、それなりに洒落た格好に身を包み、薄く化粧を施した彼女は、いつもよりずっと大人に見える。実際、燕にとって彼女は大人だ。自分もいい加減子供という年齢ではないし、歳だってそう離れているわけではないが――何というか、隔たりを感じる。

「ほほう。つまりきみは私の大人の色香にあてられていたと言う訳か。だが、浮気は感心しないよ青少年」
「……」

 口に出していたわけではないが、実際いつも“年の離れた姉”のように接していた彼女の、意外な一面を見た気がして戸惑っていたのは確かなのかも知れない。結局思うところをはき出された燕は、もう何も言う気が起きなくなって、ぐったりとソファの背もたれに頭を載せた。

「えーまー、吉野さんは割と美人だと思いますけどねー。確かに今日、そんな格好ではからずもドキッとした事も認めますけど」
「ちょ……て、照れるじゃないのカツラギ君。お姉さんを褒めたって何にも出ないぞ?」
「だからそういう事はもうちょっと然るべき時に取っておいたらどうなんですか。それこそ俺をからかったって、あなたの得にはならんでしょうに。角田さんが休日出勤だからって寂しいのはわかりますが」
「……結局きみは私に喧嘩売ってるわけ?」
「そうじゃないですけど」

 燕はわざと声に出して体を起こし、いい加減現実逃避を決め込んでいた目の前の光景に意識を戻す。
 ここは東京の一角――某大型ファッションモールの一角である。
 そして彼の前の前には、咲き誇る花畑――もとい、夏場の在庫一掃を謳って開催中の、特設水着売り場。むろん、概してこの手の商戦に、男性用のそれを取りそろえたところであまり意味が無いので、果たして売り場のほとんどは女性用――男性である自分には近寄りがたい空気で満ちあふれている。

「休日とはいえ、俺は一体こんなところで何やってんだろうと」
「休日なんだから仕事の事考えても仕方ないでしょう。大体、仕事の方は今の状況で私たちが気を揉んだってどうしようもないわよ。“パイロット”の君と、デザイナーの私じゃ、君が見たって言う“謎の人物”の解析なんて出来やしないんだから」

 そうなのである。
 結局燕が見たと言う何者かは、当時“惑星オデッセイ”を監視していたスタッフ達の目には見えておらず、ログを解析してその痕跡を捜すという根気の要る作業に回される事になった。
 そうなってしまえば、プログラミングの知識などまるでない彼には出来る事がなくなってしまう。角田が言うには、この週末が開ける頃には、新しいプログラムを用意した上でやって貰うことがあるらしいが――

「待つしかないってのも、割合しんどいものですね」
「逆に君らがあっちの世界に行ってるとき、私たちは逆に、見えてるのに何も手伝いが出来ないもどかしさみたいなものを感じるけどね」
「……」
「まあ君がそうやってワーカーホリックになるのは構わないし、気持ちがわからないわけでもないけどさ。じゃあ君は、クロちゃんにも同じ事を当然と強いるわけ?」
「俺は女子供には優しいつもりですよ。だからこうやって、場違いな場所で居心地の悪い思いしてるんじゃないですか。割と疲労が半端じゃないんですよ?」
「居心地の悪いのはともかくとして、女の子の買い物に付き合ったら疲れるのは当然じゃない。お姉さん、カツラギ君はもうちょっと度量の大きな子だと思ってたんだけど?」
「度量って言うんですかそれ」

 言い訳をするわけではないが、少し前の自分なら、気乗りがするしない以前に、そもそもこんな場所には来なかった。この状況は、普通ではない。周囲の女性客の目線が自分に突き刺さっているような錯覚を覚える。

「自意識過剰だよカツラギ君。あそこ見てみなよ。彼女の水着を一緒に選ぶ彼氏の姿が」
「カップルなら普通じゃないですか。俺は」
「……君とクロちゃんは十分カップルでしょ」
「……」
「あ、否定はしないわけね。まあそれだけでも成長したと言えばそうなのかも」

 言いたい放題言ってくれる“先輩”に、こめかみの辺りが小さくひく付くのを感じる。むろん、彼女とて、燕や由香を気に掛けて色々お節介を焼いてくれているのだろう。それを感じ取る事くらいは出来るのだが。
 これは、普通ではない――では何か?「最悪」だ。
 そんな昔のSF映画の一節が、頭を過ぎった。

「これ以上クロちゃんに空回りさせなさんなよ」
「……何がですか」
「いいから。これはお姉さんの忠告。今君たちがやってることがどれだけのことか、君にはわかってるんでしょ? いくら社長や角田さんに太鼓判押されたって、不安な気持ちもあるはずだよ。他ならぬ君自身だってそうだよね?」

 吉野は彼の方を見ずに、淡々と続ける。

「クロちゃんは見た目の割にしっかりしてるし、君には突拍子もないことばっかり言ってるように見えるかも知れない。けど、君でさえ不安に思うこと、あの子が怖くないとでも思ってるの?」
「……俺より肝は据わってるでしょう。迷いもなく“オデッセイ探検隊”になろうと言ったのは、あいつだ」
「それが君の本心なら、私は君を軽蔑するね。まあ、カツラギ君はそういう男じゃないって事もわかってるけど」

 ねえ、と、彼女は言う。

「ああいう子だから、微笑ましいって言うことも出来るけどさ。これじゃあの子がかわいそうだよ。君があの子の事を嫌いならしょうがない。あくまで妹の友達だって言い切るなら、それでも。でもさ」
「俺がこういう面倒な奴だって事は、あいつも吉野さんも知ってるでしょ」
「そういうダメ男アピールは、カツラギ君には似合わないよ。君は“ハイドラ”の操縦席に座ってる時とのギャップが激しすぎるね。あっちの世界での君は誰もが認める最強の戦士だって言うのに、現実の君と来たら」
「何だか自分が最低のネット廃人みたいな気がしてくるんで、その言い方はやめてください」

 げんなりした顔で燕は言う。
 だが――むろん吉野はそこまで露骨に自分をけなそうとしたわけではないのだろうが――その発言は的を射ているのだろうと、燕自身もそう思う。口先ではどうとでも言えるし、自分が変わっていきたいという意識はあるが――それでも、もう十年ほども、弱虫で、勘違いを続けてきた自分だ。そうそう簡単に変われるはずがない。

「もう少し楽になりなよ。誰も君に、完璧超人なんて求めてない。現実の君にあの子が求めてるもの――それは最強のパイロットなんかじゃない。もっと言えば、優しいお兄さんでもない。それくらいのこと、わからない君じゃないでしょう?」
「……頭ではわかっている――思い知らされたつもりだったんですが。でも――クロネコ、由香に空回りさせるなって言っても。具体的にどうすれば」
「だからそう大げさに考えなさんなって。君がもうちょっと自分に素直になるだけで、きっとあの子は満足できるから。ほら――可愛い彼女が呼んでるよ?」

 スペースの隅に作られた試着室のカーテンから顔だけ出して、こちらを呼ぶ。

「まずは、この状況を楽しめ青少年」
「砂糖で出来たあり地獄に落ちた気分です」

 ソファに凭れて、軽く手を振る吉野に溜め息を吐きつつ、燕は由香が呼ぶ方へと向かう。彼女は喜び勇んで中に入れと言うが――いいのだろうか? ブースの隅に立っていた店員に目を向ければ、何というか、まさに形容しがたい生暖かい微笑みを返された。なるべくカーテンを開かないように、隙間を空けて中に入る。

「どうかな? 似合う?」

 自分が気に入った水着を身につけた由香が、ポーズなど取ってみせる。夏らしい爽やかな色彩のビキニ。腰にはパレオを巻いている。素直に可愛らしいと思うが、咄嗟に褒め言葉が出てこない。だから吉野にからかわれるんだろうな、などと思いつつ、似合ってる、と言ってやる。

「これ試着って言っても――直接肌に触れてもいいのか?」
「基本は下着の上から着けてるし、試着用の――カツラギ君何想像してるの?」
「別に他意はねえよ――ちょっと派手過ぎないか? こことか、何かほどけそうでヒヤヒヤするんだが」
「これは飾りだからほどけないよ。こっちの背中の方でね――」
「その辺は説明しなくて良い。でもお前まだ中学生だし、ちょっと派手なんじゃないか?」
「これくらい普通だよ。それともカツラギ君はスクール水着とかの方が好み?」
「お前は時々普通に俺の人格を否定してくるな」
「あたしはカツラギ君の趣味まで否定しようとは思わないだけだよ。それで、どうかな?」
「それが気に入ったんなら、いいんじゃないか?」
「……君は本当に、わかっててあたしのことからかってるの? こういうときは――」

 ふと、ポケットで携帯が震える。何気なく引き抜いてディスプレイを見遣れば――メールが一件。送信者は――

「湊?」

 はて、今朝も一度お決まりの電話を掛けてきた自分の妹が、何の用だと言うのか。何気なくメールボックスを開いてみれば――

「……あれ……俺、あいつとはそれなりに仲良くなれたつもりだったんだけどな……いきなり、脈絡もなくメールで罵られるって、何でだよ……」
「ひょっとして」

 由香が籠の中に入れてあった自分の服を探り、彼女の携帯電話を取り出す。暫くその画面を眺め――小さく息を吐いて、服に戻す。

「……やっぱり“お兄さんと一緒に水着の試着中”はまずかったか」
「おいお前その文面絶対わざとだろ――わざとだろ!? 大体そんなことあいつに報告する必要ねえよなあ!?」
「いや、やっぱりこう、幸せを感じると人間、意味もなく報告したくなるもんじゃない?」
「お前実は俺たち兄妹の事嫌いだろ!?」
「とんでもない! カツラギ君はミナちゃんが、どれだけ君にベタ惚れか知らないからそう言うこと言えるんだよ。あたしは君の趣味を否定しないって言ったけど、さすがに兄妹でそう言うことはちょっと……」
「お前の中での俺たちって何なの!? 大体あいつがこういう事になってるのはお前が煽ったからだろ!?」
「それなら言わせて貰うけどさカツラギ君。あたしがこっちに来る前、ミナちゃんとどれだけ揉めたか知らないでしょ!?」

 突然燕の両腕をがっしりと掴み、由香は言う。彼の顔を、下から覗き込むようにして。

「こういうとんでもない事が無くたってさ、仮にあたしとお兄さんが付き合ったって、それはあの子には関係ない事じゃない!? それを――まああたしが中学生だからってのはわからなくもないけど、兄さんと二人っきりで何するつもりだとか、あげく兄さんの側にずっと居たのは私の方なのにとか――」
「……」
「アレ絶対妹が兄に向ける目線じゃないよ!?カツラギ君あの子にどーゆー接し方してたのさ!?」
「お……落ち着けクロネコ、目が怖いぞ。こんなところで騒ぐな――正気に返れ」
「あたしは最初っから正気だよ!」




 試着スペースからかすかに聞こえる喧噪に、吉野は笑いを噛み殺す。さていい加減に、店員に怒鳴り込まれなければ良いのだが。
 どだい、今のあの二人に、あわよくば見ていて楽しめる、その程度の恋愛を期待するのは難しいのかも知れない――彼らには彼らのペースというものがあるのだろう。だから彼女は、冷房の風を心地よく感じながら、一人呟く。

「くく――計画通り――なんてね」




「正気の沙汰とは思えませんね」

 ほぼ同時刻、都内某所“スターゲイザー・エインターテイメント”本社ビル。休日と言うこともあって、当番制で出社している社員とアルバイトの他には人が居ない、いつもより閑散としたその場所で、“システム管理主任”の肩書きを持つ角田は、呆れたように言った。
 彼が居るのはプログラムを開発するためのセクションがある一角で、現在そこには、いつも詰めているプログラマー達の姿はなく、変わりに普段そこには居ない人物の姿がある。
 この会社の社長、田島正宗その人の姿が。
 彼は手慣れた様子でキーボードに指を走らせ、画面を流れるプログラム言語に目を通し、満足そうに頷いた。

「褒め言葉だね」
「社長が仮想空間用のプログラムに精通しているとは思っておりませんでした」
「これでも前の会社にはプログラマーとして入社している。現場に立つことが少なくなったと言っても、私の専門はこういうところだよ。好きでやっている事だから、逆に勉強もおろそかにはしておらん」

 それに、と、彼は言った。

「私が幼い頃にパイロットになりたいと思ったのは、そこに非日常の世界への憧れを見たからだ」
「現実のパイロットとは、そのような憧れだけで語れる世界ではありません」
「現実を知っている君としてはそうだろうね。だがそう言ったことは、実際にその世界に足を踏み入れた君のような人間が考えればいい。夢を持つ少年少女にまで現実を見据えろとは、私は言いたくはない」
「それには私も同意ですが、それが何か?」

 角田が怪訝そうに問う。彼の言うことと、今彼が行っていること――それに何か関係があるというのだろうか?

「空想に夢を馳せる少年にとって、仮想空間というのはまさに夢の世界だ。そこでは頭の中に思い描く馬鹿げた妄想でさえも、現実のものとなるのだから」
「では、社長は空想好きが昂じてプログラマーを目指したと?」
「私が若い頃は、まだ仮想空間というのはSFの中の世界だったがね。妄想力ならそこらの人間には負けはせん」

 角田は呆れたように小さく息を吐き、隣のデスクに腰を下ろす。
 それを気にした様子もなく、田島は相変わらす軽やかなタッチでキーボードを叩く。

「これで――名実共に彼らも“探検家”を名乗れることだろう」
「それで彼らが――特に水戸様が喜ぶとは思いませんが」
「夢と憧れだけで探検家が語れないことは、彼女とて認識している。そう彼女自身が言っていた事だ」
「さっきと言っていることが逆ですよ」

 何にせよ、と、田島は言う。

「これで準備は整った。後は彼らの仕事だ――存分に、頑張って貰おうじゃないか」




 そこは何処とも知れない場所だった。
 さりとて、映画に出てくるような秘密基地や異空間――と言うわけではない。何処にでもありそうな部屋である。
 だが、カーテンは厚く閉ざされ、照明が落とされた部屋は暗く、その暗がりに窓やドアの輪郭さえもすぐにはわからず、まるでそこだけが何処とも知れない中に存在しているような錯覚に陥る。
 唯一、その部屋の中に光源がある。それは部屋の隅に無造作に置かれたノートパソコンのディスプレイが放つ光と、その横に置かれた黒い直方体が放つ、薄青い光。
 その光が、かすかに部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。床を配線がはい回り、雑誌が散らばり、ゴミが無造作に投げ捨てられた、雑然とした狭い部屋――その部屋を更に狭く感じさせるパイプベッドの上で、誰かが動いた。
 起きあがり様、首の後ろから何かを外したその誰かは、小さく呟く。

「……なんだよ……そんなの……なんで」

 その声もまた、薄暗い部屋に消えていく。










この小説のタイトルで検索をかけてみたら、「ネトゲ設定活かせてない」と言われてた。

――やっぱり作者がネトゲやったことないのバレたか……
とはいえこの作品は「変則的スカイアクション」であって、
「架空ネットゲーム」が主題じゃないから、そのあたりは勘弁していただきたい。

……平均的なネットゲームはどういうものなんだろう? と思いつつも、どうもそちらに手を出す気は起きないんだよなあ。



[37800] 第二部 第三話 探検隊
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2013/11/02 23:42
第三話「探検隊」

 さて、日本人ならば日本の夏は暑いものであることを知っているだろう。気温だけならばさしたる差のないヨーロッパやアメリカの人間が揃って白旗を揚げ、あまつさえ熱帯に住む人々にさえ暑い、と思わせる程度である。
 少なくともかつてより、その酷暑の度合いは増しているという。地球温暖化、ヒートアイランド現象、エルニーニョが云々――もはや風物詩のように毎年繰り返される騒ぎではある。ただ、この暑さの原因が何だろうと今後日本の夏がどうなっていくのであろうと、今を生きる我々は、その年その年の夏を耐え抜く以外に出来ることはない。

「――なんだろう、デジャブだ」
「あたしがこの間蒸し焼きになりかけたのはあたし自信の我が儘が原因だとしても――普通にあたし、暑いの苦手なんだよね?」

 ともかく、暑いのである。
 気温は腕時計による確認に寄れば三十六度。市街地から離れ、コンクリート舗装もないこの場所では、ともすれば割合正確な温度なのかも知れない。だとしたら逆に知りたくはなかったけれども。
 車の排気やエアコンの排気、アスファルトとコンクリートの蓄積熱に苛まれる都心から離れ、緑の豊かな場所に来てみれば――少なくともその環境は聞こえは良いが、結局は暑いのである。ただそれだけだ。
 空には遠く入道雲。むせかえるような緑の匂いに、頭の真まで響くような蝉の声。
 ここが田舎の古民家の縁側で、スイカと風鈴と蚊取り線香でもあれば、それなりにこの暑さも楽しめるのかも知れない。だが目の前に広がる風景は、郷愁を感じさせるのにはあまりにほど遠い。

「あたし結構汗っかきなんだよね……既にアンダーが凄いことになってるんだけど」
「俺も似たようなもんだ。気持ち悪いを通り越してちょっと慣れてきた」

 我らが草壁燕と水戸由香――“チーム・ハイドラ”の二人が立つその場所の前に広がるのは、真夏の太陽の下に鬱蒼広がる大樹海。むろん今の日本に残された樹海など、地質学的な見地から見れば大した規模ではないのだろう。一見して樹木が生い茂る山林でさえも、大戦後に大規模に手が入れられた人工林である場合も多いという。
 だが――どちらにせよ一人の人間にとって、実際にそれを目の前にしては、とても“ちっぽけな雑木林”とは言い難い。揃いの迷彩服に特大のリュックサック――おまけに肩からは“黒光りする物騒な玩具”をぶら下げた彼らにしてみれば。

「アテンション!!」

 そしてそんな二人に投げかけられるのは、やけに楽しそうな女性の声――振り返ってみれば、同じような迷彩ルックの彼らの同僚――“スターゲイザー・エインターテイメント”所属デザイナーの吉野凛子が、無意味に胸を張って立っていた。
 ただ彼女は上半身はTシャツで、足下もスニーカーと、随分楽な格好である。長袖の迷彩服の下を滝のような汗が流れ、コンバットブーツの足下に溜まっていくような錯覚を覚える燕としては、何とも羨ましい限りである。

「さあ覚悟は良いか戦闘処女共!」
「何かもう色々限界なんで、少し黙っててもらえませんか吉野さん」
「何だようノリが悪いな。始める前からそんな気構えでどうするのさ」
「この場に必要な気構えというのが何なのかは――まあ、大体想像は付きますが。ただそれを、一ヶ月前までただの大学生だった人間に当然と強いるのはどうかと思うんです」

 右に同じく、と、由香が言う。彼女に至っては現在進行形で“ただの中学生”である。

「最低限、身体的な危険は無いように準備はしています。あくまでこれは一種のシミュレーションであるとお考え下さい」

 と――吉野のような“迷彩ルック”ではなく、燕や由香と同じような本式の装備に身を包み、しかしこの暑さでもいつも通りのポーカーフェイスを浮かべる角田が言う。

「何というか――仮想空間って、言い換えればシミュレーターですよね。シミュレーターの世界に入るために現実世界でシミュレーションするって、何か本末転倒じゃないですか?」
「……発案者は田島社長ですので、文句の類は全てそちらへお願いします――まあ、これが終わってからの話になりますが」

 とはいえさしもの彼も、燕の言葉と由香の冷たい目線には思うところがあったらしく、彼としては珍しく、やや目線を逸らしながら、そんなことを言う。
 事の始まりは、先日の休みが明けて今日も今日とてと、燕と由香が“スターゲイザー・エインターテイメント”に出社した時に遡る。




「訓練――ですか?」
「そう。先日君らが海賊プレイヤーと交戦したあのポイントは言うに及ばず、これから“惑星オデッセイ”の未知の領域を探索するに当たって、必要になるだろう事だ」

 田島以下数名からなる“惑星オデッセイ”探検隊の今回のミーティングは、そんな一言から始まった。
 すなわち――燕と由香には、探検隊としての訓練を受けて貰うことになる、と。

「知っての通り、ただのデジタルデータで構成されているはずの“惑星オデッセイ”は未だ未知の世界。“ストラトダンサー・オンライン”の世界を作り出した我々でさえ好き勝手な行動は出来ない」

 当然、“ストラトダンサー・オンライン”の世界において、彼らゲームマスターは神である。世界のルールは全て彼らが決めることであり、それは世界の理とて同じ事である。何となればボタン一つで、“ストラトダンサー・オンライン”の世界を崩壊させる事だって可能である。当然そんなことに意味はないにせよ。
 だが、同じデジタルデータで“作られた”世界である筈の“惑星オデッセイ”はそうではないのだ。そこは一つの世界を内包した場所――彼らもまた、全能の神ではいられない。“作ったもの”を送り込む事は出来る。それが果たして燕や由香の分身である“カツラギ”と“クロネコ”の事であり、彼らの愛機であるF-3制空戦闘機“ハイドラ”の事でもある。
 ただ、そこまでだ。
 そこでは何もかもを自分たちの思うとおりにする事は出来ないのである。
 ボタン一つで大陸に道を通すような事が出来ないのは当然のこととして、持ち込んだものにさえも“その世界での現実”に沿う事が科せられる。“ハイドラ”が人型ロボットに変形して惑星オデッセイを闊歩する――馬鹿げたことと言えばそうであるが、“ハイドラ”が作られたデータでしかないことを考えれば、当然出来る筈のそう言ったことさえ、出来ない。
 その事実に由香が落胆していたことは、この際置いておく。

「ですが探検隊の訓練と言いましても」

 だからと言って、“惑星オデッセイ”がデータで構成される世界には違いはないのだ。現実に燕と由香が、生身でそこに乗り込むわけではない。現実の彼らはこの会社の片隅で、仮想空間体感装置に寝転がっているだけである。
 言うなれば身体的には強制的な弛緩状態にあるその時間が長い分、二人には日課として軽いトレーニングが科せられているが――ある意味では“それ”が訓練だと言えなくもないだろうが。
 確かに燕にはピッケルで崖を登ったり、梯子でクレバスを渡ったりする技術はない。簡易型のものでなければテントを組み立てられるかさえも怪しいところである。しかしそんなことは問題にはならない筈だ。

「それこそ、未踏破の場所を実際に歩くことになったとしても――そういう訓練はそれこそ、仮想空間でやれば良いことでは?」

 当然の疑問である。その言葉に田島は、隣に立つ角田に目配せをする。
 何故だか少し苦笑を浮かべた角田は、口を開いた。

「以前、自衛隊でも仮想空間体感装置による訓練は既に行われている――そんなお話をしたことは覚えておられますか?」

 そもそも、“仮想空間”を“体感”出来る装置である。ゲームに使われるそれは、あくまで娯楽用に特化した、一つの用途でしかない。ゲームなどしていると“それ”は身近になりすぎて気がつきにくいが――どのような場面をも現実に迫るリアリティで再現可能で、なおかつリスクは全くない――果たして仮想空間体感装置は、高度な職業訓練を行うにはまさに夢の機械なのだ。

「あの時申し上げましたように――しかし、それだけに頼る訳にはいきません、あまりそれに頼りすぎると、脳が学習した能力と、実際の身体能力の間にズレが生じます」
「でも、あたし達は現実で何をどうこうしようってわけじゃ……」
「“その逆”もまた、然りと言うことです」

 不思議そうに言う由香に、角田は応えた。

「非常に乱暴なたとえになりますが、仮想空間での体験を、本を読む事になぞらえましょう。たとえば水戸さん、あなたが空手の本を読んだとします。その本を読み込むことで、あなたは空手の何たるかを理解することは出来るでしょう。ですが、そこまでです」
「実際に空手を使うことは出来ない?」
「厳密に言えば難しい話になるのですが、そういうことです。仮想空間で仮想空間の訓練を行っても、究極的には“本を読み込む”という事でしかない。しかし仮に水戸様が、ほんの少しでも空手道場に通ってから、その本を読めばどうなるでしょうか」
「ああ……何となく納得。本と比べるのもちょっとどうかと思うけど……」

 実際は脳科学と運動科学云々の複雑な話になるという。しかし、簡単であるにせよ“探検家”の訓練を行うことは決して無駄にはならない。
 その言葉に、燕と由香は一応の納得をして――“惑星オデッセイ探検家”として、その訓練を受けることを承諾したのだった。
 ――思えばその時に気がつくべきだったのだろう。田島と吉野が、何かにやにやと嫌な表情を浮かべていて――彼らに説明をしてくれた角田が、どこか疲れたような、気の毒そうな顔をしていたのを。




「カツラギくんとクロちゃんには、この樹海を踏破してもらいます」
「吉野さんのノリが軽すぎる。“皆さんにちょっと殺し合いを”で始まる有名な映画じゃあるまいし――下手したら遭難しませんか?」
「申し上げましたとおり、ここは自衛隊の演習林です。お渡ししたGPSと救難信号発信装置があれば、何かあってもすぐに救援が駆けつけますよ」
「救援が駆けつけてくるような事態になるのは想定の範囲内なんですね……」

 げんなりと燕は、“物騒な玩具”を抱え直す。
 つまりはこの場所を借りてきた元航空自衛隊の戦闘機パイロット教官――角田のつてで同じくレンタルされた、訓練用の自動小銃を。装填される弾丸は空砲だから危険はないと言っていたが、言い換えれば銃自体はどうなのだろうか?
 その事実をあまり考えないことにして、燕は小さく息を吐く。この訓練にとってはただの重りでしかないが――そうであるなら鉛のベルトでも巻き付けられた方がまだマシだった。

「角田さん角田さん。これってどうやって撃つの? セレクトレバーは三点バーストにしとくのが、やっぱり基本?」
「私も一遍の訓練を受けただけですので詳しくはありませんが――陸自のほうではあまり三点バーストモードを使わないのが主流だそうですね。状況に応じてフルオートと単発モードを切り替えて」
「そこのミリタリーオタク、ちょっと楽しんでんじゃねえよ」
「それくらいの現実逃避しないと後が続かないよ?」
「吉野さんはちょっと黙っててください。あとその笑顔は何とかなりませんか」
「私こういう性格なの。社会人は楽しめることなら何でも楽しまなきゃ」
「角田さんに愛想尽かされても知りませんからね」

 ちらりと、由香に自動小銃の使い方を教える迷彩ルックの青年に目をやり――燕はため息をつく。危険はない――それだけを信じて、結局は耐えるしかないのだろう。
 まあ自分も、結局は自分の意思で“惑星オデッセイ”探検に名乗り出たのだ。今更後戻りは出来ない。

「あ、そうだ――その、質問」

 一通りの装備の点検を終えて、由香が何故か遠慮がちに手を挙げる。
 何故か、燕の方をちらちらと気にしながら。

「えっと――その、吉野さん、ちょっとこっち」

 手招きした吉野に、何やら彼女は耳打ちする。
 それを聞いた吉野は小さく頷く。何故か――いつになく、真剣な表情で。果たして彼女は足下にあったリュックを探り――ややあって出てきた“それ”を由香に手渡す。

「……嘘だよね?」
「……世の中、見ないようにしている部分が結構あるって、今更ながらに実感するわよね?」

 それを見た彼女の絶望はいかばかりのものか。燕ですら、正直“オデッセイ探検隊”の進退を真剣に考えたくらいである。ここで逃げ出すならばあるいは――と。
 呆然とする彼女に手渡されたのは、4ロールが一つのパックになったトイレットペーパーと、片手持ちの小さなスコップだった。
 ああ確かに――戦場ではどうするんだろうな、と、考えたことが無いわけではないが。こんな形で回答がもたらされることもまた、自分は望んではいなかった。




「まあ――それに比べたら、いちいち家にお手洗いに帰る探検家が“あり”かよ、ってところなんだろうけどな」

 適当な岩に腰掛けた燕は、腰にぶら下げていた水筒の蓋を開け、中身をあおる。
 生ぬるい水が、喉を滑り落ちていく感覚。全くこれが、ただの機械で作られた感覚だとは思えない。服を通して感じる硬い岩の表面、体を伝って流れ落ちる汗、濡れた肌を撫でる風が、無性に心地良い。
 そして今――燕は、“惑星オデッセイ”の森林地帯を歩いていた。
 場所は少し前、空撮コンテストと彼自身の目が捉えた、未確認の「人影のようなモノ」が現れた山岳地帯から、少し北に移動した場所。“惑星オデッセイ”の未踏破の森林地帯である。

「あんまりリアリティあっても、体に悪そうですね」
『その辺はあんまり気にしなくて良いよ? 痛みとか、過度なストレスとか、そういうのはカットされてるし。夢の中で暑いとか寒いとか思っても、目が覚めてみたら忘れちゃうでしょ? それと同じで』

 そう言うものだよ、と、無線から吉野の声が聞こえる。
 “仮想空間体感装置”という機械について、別段詳しい訳ではない燕は、その言葉を納得するしかない。
 それにしても――実際に何という世界だろうか、ここは。少し離れた岩の上に、蝶がとまっているのが見えた。少なくともそれは、普通にそこらで見る蝶に見える。ひらひらとその辺りを舞い踊り、やがて何処かへ飛び去っていく。
 あの蝶は、ただのデジタルデータが作り出した“乱数”なのだろうか。
 それとも、実際に――自分の意思を持っているのだろうか?
 この世界に降り立っているとき、数え切れないほどそんな事を考える。
ここがコンピュータ上で展開可能なデジタルデータの世界である以上、必ずここを作った誰かが存在している筈なのだ。仮に――もしも今の技術では説明など出来ないやり方で、実際に“惑星オデッセイ”が存在していたとしても、それはこの会社に持ち込まれた、一枚のディスクの中に収まっていた。
それを成したのは、一体誰なのだろうか?
そしてこの世界は――本当に、何だというのだろうか?

(結局――それを解明するための俺たちなわけだが)

 だからこその、“惑星オデッセイ”探検隊である。燕は水筒の蓋を閉じると、視線を横に移す。そこには岩に腰掛けたまま微動だにしない、小柄な少女の姿がある。しかしややあって、彼女の体が小さく震える。
 とたん――先程まで人形のようだったのがまるで嘘のように、生気に満ちあふれた動きで、彼女は大きく伸びをした。

「んん……やっぱり暑い……冷房きいた部屋からダイブすると、堪えるなあ。あ、お待たせカツラギくん。カツラギくんも、トイレ行ってくる?」
「しまらねえなあ……」
「何とでも言いなよ。あたしはもう恥じたりしないよ。結局人間だってただの生き物。食べて、出さなきゃ生きていけない――そんな当たり前のことが、身に染みてわかったから」
「俺も風呂とトイレが普通に存在する現代文明ってのどれだけありがたいか、ようやく理解できた。だからその話はもうやめにしないか」

 この場所を踏破するための訓練と称して行われた樹海のロードワークは、果たして現代文明に浸りきった若者達の心に多大な傷跡を残していった。本人達の名誉のために、多くは語るまいが。
 しかしならば結局、ここは“そういう”世界なのだろう。由香が仮想空間体感機を通してここに降り立つまで、アバター“クロネコ”はただの置物に過ぎない。間違いなく、彼女は作られた人形でしかないのだ。“惑星オデッセイ”の上で生きているわけではなく。
 トイレ休憩から戻ってきたクロネコは、暑い暑いと文句を言いながらも体を動かす。彼女は“中身”とアバターの性別が同じで背格好も似ているから、現実との違和感はほとんど無いはずであるが――気分の問題だろうか。

「ここら辺って、現実で言うところの熱帯なのかな」
「そうなんじゃないか? まさにジャングルって感じだしな。この暑さにしても――どうも今年は呪われたみたいに暑さに追いかけられるな」
「カツラギくんはあの着ぐるみ被ってないからまだまだ。正直あれ被ってなかったら、この間のロードワークだって耐えられたかどうか」
「だからやめようその話は」
「同感。どうせ暑いにしても夏を楽しむ感じが良いよね。今度のお休みは海かプールに行こうよ。折角水着も買ったんだし」
「東京から気軽に行ける海とかプールとか――人が凄すぎるって聞いた覚えがあるんだが、大丈夫かな?」
「いざとなったら吉野さんに車出して貰おうよ。ね?」
『私としては構わないけど、クロちゃん的にはそれでいいの? ともかくカツラギ君の方は休憩しなくて良いの? それじゃ目標地点を現在地の北側に設定するから。一応こっちの方でデータの解析は平行でやってるけど、何か変なものがあったらすぐ教えてね?』

 了解、と、小さく口にして、燕は立ち上がった。
 腐葉土の積もったぬかるんだ地面、縦横に木々の根が走る熱帯の密林である。仰ぎ見た樹冠からは、南国の日差しが照りつけていた――いや、この場所は“惑星オデッセイ”の赤道より南にあるから、その言い方は適当でないかも知れないが。

「いかにも探検隊らしいっちゃ、らしいがな」

 知らず呟いたその言葉がこの過酷な環境を肯定するモノだったことに、燕は自分でも驚きを隠せない。




 やがて、太陽が西の地平に沈む。朝方“惑星オデッセイ”に降り立ってからまだ四時間程度。現実世界では昼過ぎと言ったところであるが、この地点での現実との時差は約七時間。低緯度の長い一日も、いい加減終わりを迎えようとしていた。昼食を終えて再度“惑星オデッセイ”に燕と由香が降り立ったとき、既に辺りは夕闇に包まれようとしていた。

「こちらカツラギ――こっちはもうかなり暗くなってますが」
『こちらでも確認しています。そのまま進めそうですか?』

 角田の声に、燕とクロネコは顔を見合わせる。
 どれだけリアリティがあってここは仮想空間――自分たちの体は現実世界で夢の中にある。夜のジャングルを進もうが、特に危険があるわけではないが。

「一旦ここで夜明けを待ちます。“装備”の具合を試してみます」
『コントロール了解。一旦こちらからの監視を終了します。ログアウトは適宜。あまり根を詰めすぎないように』

 角田の多少過ぎた気遣いに苦笑しつつ、燕は「オーバー」を口にして通信を終了する。
 彼や吉野は“惑星オデッセイ”探検隊のメンバーではあるが、燕は由香と違ってその為だけにこの会社に居るわけではない。最低限のデータの監視は、業務の片手間に“惑星オデッセイ”探検隊に名前を連ねる社員が交代でやってくれるが――それでも“カツラギ”と“クロネコ”は、この世界のただ中に二人、取り残される格好になる。
 遠く地平線がオレンジ色の輝きに包まれ――周囲のジャングルが何とも言えない影絵を地面に描く。

「さすがにちょっと心細いね」
「まあなあ。いつでもログアウト出来るとはいえ」

 既にゲームではないこの世界で、一旦現実世界に戻る事に特にペナルティがあるわけではない。それこそトイレに行きたくなる度に探検を中断する――そんな馬鹿げた探検家になってしまうわけであるが。

「こういうときよくあるSFじゃさあ、謎の力でログアウト出来なくなったりして」
「おいやめろ。この状況でそう言うことを言うな。洒落にならん」

 むろん、程度の低い物語ならともかく、そんなことが起こるはずもないのであるが。しかし現実に迫るこの秘境の地において、真顔でろくでもないことを呟くのはやめてほしいところである。なまじ、アバター“クロネコ”は人形のように可愛らしい外見だから、その台詞に妙な迫力を感じるのである。

「むう、そりゃまあ、現実のあたしはこんなに可愛くないけどさ」
「ゲームのキャラクターに嫉妬すんなよ。俺だって現実じゃこんな漫画の主人公みたいな風貌は御免だよ――キャラデザインした吉野さんには悪いけど」
「まあそうかも知れないけど」

 そう言って彼女は頬を膨らます。
 まあ、気持ちはわからないでもないのだが――ここで気の利いた言葉の一つでも掛けてやることが出来るのなら、自分は吉野に要らぬお節介など焼かれたりはしないのだろう。試しに、言ってみる。

「現実のお前も十分可愛らしいと思うけどな」
「……カツラギくん、それ、犬とか猫に言うのと同じニュアンスでしょ」

 案の定、頭の中で一瞬思い浮かべたヴィジュアルまでもを、彼女はどうやら見抜いている。降参だとばかりに両手を挙げる。やはり自分にそう言うのは似合わない。
 とはいえ、自分は現実に存在する水戸由香という少女を、普通に“可愛い”とは思うのだけれど。それを彼女自身に伝えようがないし、また、伝えるのも気恥ずかしい。“俺は子供か”と、心の中で毒づいて、傍らに置いてあったリュックを手に取る。

「……でもちょっと今の言葉は素直に嬉しかったり。カツラギくん、後でもっかいお願いできる? 出来れば今度はこう――あたしの顔を見ながら、頬に手を添えちゃったりして」

 そんな自分の、どうでも良いような言葉が、彼女にとっては幸せなのだろうか。薄く頬を染めながら言うクロネコの姿に、今更ながらに思う。自分はきちんと――この少女の気持ちに応えてやれて居るだろうか?
 むろん、それは義務ではない。クロネコにどう思われようが吉野に何を言われようが、自分は自分の思うままに生きればいい。くだらないプライドは、捨て去ったつもりだった。
 だから――この。自然と目の前の少女の笑顔を見ていたいと思ってしまう自分は、既に結局、強がりを言うには遅すぎるのかも知れない。

「芝居の台本よろしくそう言うことを言うのもどうかと思うが」
「そりゃ、心がこもってれば言うことは無いけどさ。でもこう――ちょっとした幸せに浸れるじゃん? それに、何て言うかカツラギくんは――とにかく、嬉しいのっ!」
「身に余る光栄だな」

 それでは少し趣向を変えるのも“あり”かも知れない。燕はリュックを探る手を止めて、クロネコに向き直った。

「まあ座れよ」
「?」
「良い機会だから、俺も少し素直になってみようと思う」
「その台詞何度目かの気がするけど――つまり?」
「つまり、俺は“ユウちゃん”の事――可愛いと思ってるぞ?」
「――ほわっ!?」

 妙な体勢で、クロネコの動きが止まる。
 現実にこんな体勢を維持しようと思えばかなりのものである気がするのだが――これは仮想空間云々の問題なのだろうか。そんな場違いなことを、燕は何となく考える。

「か――かか、カツラギくんっ! きみは――あ、あんまりからかうと、あたしだって怒るよ!?」
「別にからかったつもりはねーよ。ほら、あれだ――この間、二人で水着選びに行ったあれ」

 あの後の妹からの着信の山には辟易したが。この際それはもう、思い出さない方がいいだろう。記憶の扉に鍵を閉め、燕は続ける。

「俺は女を顔とスタイルだけで見るような男にはなりたくねえけど――それでもお前、欠片も可愛いと思わない相手のファッションショーになんて付き合えるかよ。そんなのは単なる苦行だろ」
「でっ……でも、その、カツラギくんは何だかんだで優しいから――」
「そういうのは優しさとはまた違うと思うがな」
「だったら、あたしは――えっ、じゃあ、カツラギくんはリアルのあたしみたいな童顔ツルペタが好みだって事?」
「お前その言葉が自分にも思いっきりブーメランだってわかってるか? もちろん一番人格否定されてんのは俺だけどさ」

 アバターのこめかみをひくつかせつつ、燕は言う。もしかしたら血管のエフェクトくらい浮いているかも知れない。吉野あたりがやりそうなことである。

「というわけで、俺はお前のこと、可愛いと思ってるぜ? まあ、お前にしてみれば“可愛い”って言われるより“美人”って言われたいのはわかってるにせよ、だ」
「結局犬猫と同じニュアンスじゃないですか」
「さすがに犬猫と一緒にはしねえよ。それに――」

 クロネコの鼻先に、指を伸ばす。

「掃除洗濯料理と、意外に家事万能で――性格も良い。“いい人”だってのは当然のこととして――こんな傍目につまんねえ男にいつまでも付き合ってられる時点で、性格的には十分“いい女”だろうしな?」
「は――い、いやカツラギくん――きみ何か変なものでも食べたんじゃない!?」
「失敬な。俺は舌先だけでお前を喜ばせたくはない――それを証明してやると言った筈だ。だからこれは紛れもなく俺の本心だぜ?」
「やばい、これやばいってカツラギくん!? し、心臓がバクバクして――カツラギ君、あたしもうすぐ生理なんですけど?!」
「それを俺に教えてどうしろと――その前にまずは落ち着け。確かに何だ――“わかってて”お前のこと、空回りさせるのは酷い行為なんだろう――俺だって、それくらいのことはわかってるつもりですよ」
「……へ?」
「俺には俺のやり方がある――そう言いませんでしたか、吉野さん?」

『……あら、バレてた?』

 無線から、ばつの悪そうな声が響く。
 果たして――クロネコが、そのプレイヤーネームに反して、真っ赤な顔で組み立てたテントに頭から飛び込むのは、その数秒後の話である。
 頭に拳銃を突きつけて“死んでやる”と喚く彼女を宥め賺す羽目になるのは、さらにその数分後の話。やはりあんな馬鹿げた真似はそうそうやるものではない――自業自得としか言いようがないだろうが、自分自身に燕は嘆息する。
 その時――彼の顔に浮かんでいた表情を見て、少しでもクロネコに冷静な思考能力が残っていたとしたら――訪れる未来は、少しだけ違うモノになっていたかも知れないけれど。

(仮想空間でも、顔が熱いのはわかるんだな)

 だから、そんなことは口には出さない。燕はそれなりに狡猾な立ち回りが出来るほどには、彼女よりも長く生きているのだった。




「アメリカ軍の戦闘食料にMREってのがあるわけですよ」
「名前くらいは聞いたことあるな」
「二十世紀末から開発されてきた代物で――近頃はそれなりに改良されてるらしいけれど、登場当初は保存を第一に考えたせいでそりゃもう、えらいことになってたとか。その名前をもじって、ミステリーだの、食べ物に似た何か(Materials Resembling Edibles)だとか」
「ふうん……」
「あたしはもちろんそんなの食べたこと無いけどさ――なんて言うかこれ、そういうエピソードを思い出した」

 そう言ってクロネコは、握っていた棒状の物体を突いてみせた。
 一件、クッキーか何かのような質感で、実際にその様な味がするという“補給食”である。ただ――実際には気分を出すために、田島が遊び半分で作った代物に過ぎない。
 触感こそクッキーに似ているが、匂いはなくただただ甘い。つまりは砂糖を囓っているような錯覚に襲われる。味はアプリコットとのふれこみだったが、これを口にしてあんずを連想するのはかなり難しいのでは無かろうか。

「田島さんが味音痴なのか――それともこういうもののデータ構築が思うより難しいんだろうか」

 確かに、簡単なモノではないだろう。ものを食べると言う行為に、人間は驚くほど多くの感覚を使っている。
 脳の表面に置いて、どこがどの場所の感覚を司っているのか――それをマップにしてみると、巨大な頭と巨大な手を持った不思議な人間の姿が出来上がる。果たしてその巨大な頭に相応しい巨大な口を持つそれを“ペンフィールドのホムンクルス”――脳の中に住む小人などと呼ぶこともあると言うが。
 つまり脳の中で、それだけ口や舌と言った場所の感覚は大きな容量を締めていると言うことになる。いくら現実に迫る世界を構築できる仮想空間体感装置とはいえ――“体の内側の感覚”までをも再現するのは容易ではないのだろう。門外漢の燕には、よくわからない事であるにせよ。

「そういうの突き詰めて“仮想空間食い倒れ”みたいなソフト作ったら、馬鹿売れしそうだな」
「多分そうなると思う――ただ外食産業からクレーム入りそうだけど。ああ、でも田島さん達にはそれ、是非実現してもらいたいなあ。だって太ること気にせずにいくらでも甘いもの食べられるとか――最高じゃん?」
「何なら俺のこれも喰うか」
「甘いからって砂糖の塊を囓ろうとは思いません」

 鼻先に突き出した“あんずバー”から顔をそらして、クロネコは言う。燕は苦笑して、そのバーに齧り付いた。やはり、まずい。しかし――気分を出すには丁度良いだろう。そもそもがそれ以上の意味はない代物だ。空腹を覚えれば、現実に戻って腹を満たせば良いだけの話なのだから。
 むしろ仮想空間で満腹感を覚えると、体には悪いのでは無かろうかと思う。それを突き詰めすぎれば餓死者が出るかも知れない。やはり、何事も程々が一番である。

「こいつは洒落みたいなもんだが――探検隊の装備ねえ」

 燕はバーを口にくわえたまま、手の中の物体を弄ぶ。
 正式名称は9ミリ拳銃――自衛隊が制式採用する拳銃である。採用は1980年代――海外製品をライセンス製造したもので、割合近年になってから登場した拳銃に共通する、無骨でシンプルな外見を持っている。
 世界で標準的な9ミリパラベラム弾を使用する拳銃である。日本の警官が使用するリボルバー式の拳銃よりも威力は高いが――あくまで対人用の非常装備と考えて良いだろう。

「これがこの世界の脅威に何処まで通じるか。だいたい、そんな危険なものなのか」

 危険に関しては、何とも言えない。
 ただ、今の自分の体は“カツラギ”という、ただのアバターだ。その辺りは正しくゲームの延長線上だろう。格闘ゲームや戦争ゲームで主人公が倒されたからと言って、プレイヤーが悶え苦しむわけではない。再度ゲームをスタートすれば、主人公は何事もなかったかのように立ち上がる。
 この世界に外から足を踏み入れる人間に、死はない。

「そうなんだけどね。惑星オデッセイ――未知の星。一体どんなものがいるのやら」

 クロネコは拳銃をまっすぐ構え――引き金を引く。かちん、と、硬質な金属の音。弾丸は装填されていない。

「少なくとも動物だとか昆虫だとか――そう言うのは、地球と変わらないように見えたな」

 現実には生物で溢れる熱帯雨林である。当然彼らが今居る場所も、そういう生き物たちで溢れていた。幸か不幸かまだそれほど大きな生き物に出会っては居ないが――空を舞う鳥や羽虫、木の陰からこちらを伺う草食獣――少なくともそう言った生き物たちは、地球と変わらないように思える。

「それを考えると、やっぱり“惑星オデッセイ”は誰かが作り出したとんでもないデジタルデータ――そう思えるよな」
「そりゃまあ――」

 結局はそうだろう。ここは確かに規格外な世界であるが――現実には、ただのディスク上のデータとして存在している。“スターゲイザー・エインターテイメント”が備える、データ管理用のスーパーコンピュータ。それなりの設備さえあれば、読み解くことが出来る世界。逆に言えば――“読み解かれる”ことを前提に、作られた世界。
 アバター“カツラギ”の腕に付けられた時計を、燕は一瞥する。

「……現実世界じゃそろそろ夕方か。装備品が普通に使えることは確認できたし――ここを観測起点にして、今日はそろそろ上がるか?」
「そうだね。あ、でも寝袋とかはまだ試してないよね」
「とりあえず何でも突っ込んだ感じだけど――この中で寝る意味って無いよな?」
「いかにも探検って感じで気分は出るかも知れないけどね。カツラギくん、今日はこっちに泊まってみる?」
「勘弁してくれ。風呂くらい入りたいし、あのダイブ装置の中に一晩中籠もってたら、体がおかしくなっちまうよ」

 寝袋の袋をテントの中に放り投げ、燕は言った。かわりに何もない空中を、親指と人差し指でつまむような動作をする。
 途端――空中に、淡く光るメッセージウィンドウが開かれる。パスワードを打ち込み、決定ボタンを押せば、二人を中心として解析プログラムが作動を始め――“惑星オデッセイ”の謎の片鱗を解き明かしていく。
 “Now mapping”の表示と、仮想インジケータの明滅を、彼は何となく眺めた。現実の探検隊にはあり得ない、その非現実的な光景を。

「あ……ごめん、カツラギくん。ちょっと先にログアウトするね」
「トイレか?」
「ハッキリ言わないでよ! こういうところはもう、デリカシーが無いんだから」

 頬を膨らましたクロネコは寝袋に潜り込むと、彼にわざとらしく背中を向ける。そのまま――彼女の動きが止まった。ログアウトしたのだろう。今、目の前に横たわる少女に、魂は宿っていない。
 マッピングは程なく終わる。そうなったら自分もログアウトして、日報を書いて今日は終わりだ。いや、ここは“探検日誌”と言うべきだろうか。気分の問題として。

「?」

 そこでふと、燕はテントの入口を振り返った。
 何というか――誰かに見られているような気がしたのである。もちろん視線の先には、テントの入口と、真夜中のジャングル――ただ底の知れない暗闇が広がっているだけである。

(……気のせいか。まあ、気のせいに違いはないが――くそ、あいつが変なことを言うもんだから)

 怪談を聞いたら眠れなくなると、さすがにそんな歳ではない。しかし場所が場所だ。ある意味で、ここには自分以外には誰もいないのである。かつて人類で最も孤独だった人物は、月面着陸へ向かったアポロ宇宙船で、着陸船が月面に降りている間、その帰りを月軌道上でただ一人待っていた司令船の宇宙飛行士だと言うが、考えるまでもなく、自分にはそんな「史上最大の留守番」は御免被る。
 何となく気味が悪くなり、先程の仮想ウインドウを開く。そこにちゃんとログアウトの表示があることに気がつき安堵する。安堵している自分が、何となく情けなく思う。自分も寝袋を引っ張り出して、そこに潜り込む。
 ひんやりと冷たく、滑らかなナイロンの感触と、薄い綿の感触。倉庫にでも押し込められていたと言えばわかるような、独特の匂い。

(つかこれ再現する必要あんのかよ……)

 その無意味なまでのリアリティに嘆息しつつ、燕はログアウトの決定ボタンを押した。すぐに視界に一瞬ノイズが走り、無機質な“LOG OUT”の文字が目の前に浮かぶ。まるで水中を漂っているような不思議な感覚に包まれた後――背中が何かに包み込まれるような感触。仮想空間体感装置の筐体に備え付けられたクッションである。身体的な反射を制御下に置いてしまう高性能型装置の付属品であるそれは、医療用や介護用のエアマットと同じように、内部の空気圧を変化させることで”床ずれ“を防止する機能がある。
 軽く頭を押さえながら、彼は上半身を起こす。
 そして――ふと思う。
 あの世界での時間は、今も流れ続けているのだろう。
 そこに彫像のようにただ横たわる“カツラギ”と“クロネコ”は――果たして今、どうなっているのだろうか。




 それでもはやり、この世界は仮想空間で――現実に秘境をかけずり回る冒険家に比べれば、自分たちは恵まれているのだろう。苔むした岩に手を掛けながら、燕は思った。そのまま足が引っかけられそうなところを捜し、一瞬そちらに体重を掛けてから、懸垂の要領で思い切り体を引っ張り上げる。
 こんなに簡単に――実際そう思ってしまう気楽さで、彼の体は巨大な岩の上にふわりと降り立った。とてもではないが、現実では出来そうもない動きである。
 別に“カツラギ”の身体能力が、アクション映画の登場人物並みに優れている――と言うわけではない。ゲームならまだしも、リアリティを感じること自体も一種の“仕事”と言えなくもない“オデッセイ探検隊”である。果たしてアバター“カツラギ”の身体能力は、現実の燕に準じたものになる。
 ただ、この世界ではまず疲労がない。
 体を重くする疲れや、足をすくませる苦痛、そして危険に対して覚える恐怖――現実の探検隊ならば、何を置いてもまず戦わなければならない、人間としてのそう言ったマイナスの本能が、無視できる。
 己のイメージが、やろうと思った事がそのままトレースできる。ただそれだけの事が、こうまでも気持ちが良いものだとは。
 奇妙な全能感を覚えながら、燕はリュックの中からロープを取り出し、岩の下に垂らしてやる。

「おっけー、それじゃ行くよ、ファイトー!」
「いっぱ……やらないとダメなのかそれ?」
「探検するならお約束じゃない? 知ってるカツラギ君、あの栄養ドリンクの二人組が、どうしてああも危険に挑むのか――そのこころは“冒険を求めて”なんだよ?」

 ロープづたいに――それでも何処か軽い身のこなしで、小柄な少女が岩の上にはい上がってくる。アバター“クロネコ”の身体能力もまた、現実の水戸由香――どちらかと言えば運動が得意ではない、中学三年生の少女に準じたものなのである。

「どうせならこの暑さとか、何か土臭いっつーかそう言う匂いとか――そういうものもシャットアウトしてしまえばいいのになあ」
「設定上は出来なくもないって聞いてるけど。でも、“惑星オデッセイ”の上を歩くなら、ある程度の事は必要なんじゃないかな?」
「わかってる。今のはただの愚痴だ――さて、もう随分歩いてきたけど、どう思う?」

 現在燕とクロネコが立っているのは、先の空戦が行われた山岳地帯から、丸三日ばかり歩き続けた場所である。現実に森林地帯を歩くよりは随分ペースが速いから、ここが二歩アルプスか何処かなら、既に太平洋に出たくらいにはなるだろう。

「……そう考えるとさほどの距離でも無いか?」
「まあそれは――あたしも、実家からこっちに出てきたのが、今までの人生で一番の移動だったわけだし」

 けど、と、彼女は額に手のひらをかざし、何かを見つめるようなポーズを取る。
 そんな彼女が見つめる先は、今まで二人が歩いてきた道筋だ。

「気になることはあるよ。多分――カツラギくんも気づいていると思うけど」
「そうだな。このルート――歩きやす過ぎる」

 道筋、とは言ったが、実際にそこに道があるわけではない。あくまで“ストラトダンサー・オンライン”の話ではあるが、ここは“超大陸ユグドラシル”のただ中。無人の沃野である。万年雪を頂く数千メートル級の山岳地帯からそれほどもない距離。低緯度に熱帯雨林が広がる、文字通り手つかずのジャングルである。
 東からこの一帯に吹き込む湿った風は、山岳地帯にぶつかり、大量の雨となり、この森を育んでいる。逆に山脈に遮られた反対側は、乾いた砂漠が広がっていると言うが。

「その辺もすごくリアルだよね――やっぱりユグドラシルは、現実の何処かに存在する?」
「せいぜい中学か高校レベルの地学だろ。多少考えればリアルなマッピングくらいは出来る――まあ、何にせよ」

 この場所が“手つかず”の大地であることは、間違いない筈である。
 それがどうだ、この歩きやすさは。
 確かに、地面には草が生い茂り、ところどころがぬかるんだジャングルである。しかし――それをかき分けて進むと言うほどでもない。
 熱帯雨林というのは即ち、“植物に覆われた場所”である。決まった道など存在しないから、まさに草をかき分け枝をかき分け進むことになるのだ。普通に考えれば。それが――数日ばかりこの場所を歩いて来た燕には、嫌でもわかる。
 そこには、まさに道があった。
 まるで道のように――明らかに、開けた場所が続いている。ジャングルのただ中、何処かに向かっているように、ただひたすらに。その両側は、実際かき分けて入らねばならないような鬱蒼とした熱帯林。

「やっぱりこれは――道?」
「獣道――って奴か? でも実際にそういうものを見たこともないしなあ」

 そもそもが、獣道というのは単なる例えの事では無かろうか? いくらなんでも森林のただ中、遊歩道の如くそこだけくっきりとした道があるとは考えにくい――などと考えたところで、山に分け入った経験があるわけでもない燕には詮ない事であるが。
 言い知れない感覚が、背中を這う。
 “惑星オデッセイ”に何者かの意思が潜んでいる――それは最初からわかっていたことだった。
 だが、現実に――等身大の自分としてその“何か”の片鱗を目の当たりにして、燕は奇妙なおそれを抱いている自分に気がつく。
 今までとは違う、実際に目の前に存在する“何か”――おまけに今の自分たちには“ハイドラ”だってありはしない。

(――ビビっててもしょうがないだろ。“惑星オデッセイ”の探検家になるって決めたのは、俺自身だ)

 自分を、奮い立たせる。そんな大層なものではないが。しかしその理由には事欠かない。隣に、この小さな少女が立っている限り。彼女に対してヒーローでありたいと願っていた、昔の自分に恥じないよう、そう思っている限り。

「――しかし無目的に歩き続けるのもあれだな。この道――道みたいなものを、辿れる限り辿るっていうのもありかも知れんが」
「カツラギくんの見たって言う人影に、それで行き当たれば言うこと無いんだろうけど。でもひょっとしたら」

 この惑星は、未知の大地。ならば、解き明かすべきものに、順序などありはしない。クロネコはそう言って笑った。

「結局は手当たり次第の行き当たりばったり――でも、行くところ全部、やること全部、何にもわかんない探検の世界――なんて、ワクワク」
「本当にお前は――比喩でも何でもなく、探検家ってのはお前の転職かも知れねえな」

 ひとまずこの道を辿ってみることにして――結局何が待っていようとも、彼女にとっては同じ事なのかも知れない。燕は一人、そう思う。
 確かにそんなことを考えていたのだけれど。
 その彼が――理解の範疇を越えたものに出会うまで、そう時間は掛からなかった。












あたり前ですが、この辺りは考証よりもエンターテイメント的なわかりやすさ優先で。
それが物語にどう影響するかは、自分でも未知数だったりする。



[37800] 第二部 第四話 生存者
Name: スパイク◆b698d85d ID:1c2c1e95
Date: 2013/12/07 16:03
第四話「生存者」

 それはまるで、墓標のように見えた。

 無惨に本体からえぐり取られ、地面に突き立ったそれは――まさに、そう見えた。“ただの部品”とは言っても、数メートル単位の直線で構成された巨大な物体である。数メートルもある巨大な“鋼鉄の板”が、地面に突き立つその異様な光景。
 そう、異様な光景である。何をどう形容したところで、現実感を感じさせない、まるで出来の悪い作り物を見ているような、そんな光景。
 それを見て、彼は思ったのだ。
 これは――墓標のようだと。




「クロネコ――これって」
「戦闘機の、翼――だよね?」

 ジャングルの中に不自然に続く道のような場所。そこからほんの少し離れた森の中に、“それ”はあった。
 異常にはすぐに気がつくことが出来た。その場所の近くの木々が、黒く焼けこげていたからだ。どれほどの生命力があるというのか、その焼けた消し炭の表面には、既に新しい芽が芽吹いている。後どれほどもしないうちに、この場所はまた、新しい森に飲み込まれて消えてしまうのだろう。
 しかし未だ、痛々しく残る、何者かに寄る破壊の傷跡。そこを目印にしてそのすぐ近くに、それはあった。
 木々が焼けこげ、土が抉られ――そんな“破壊”によって作られた、ジャングルの中の小さな空き地の、その中心。地面に突き立つ、巨大な“鉄板”。
 むろんそれは、字面通りに鉄で出来ている訳ではない。ジュラルミンか炭素複合材か――文字通りの鉄ではないそれは、雨に打たれても錆びる事がないのだろうか。真新しいようにも思えた。
 まるでつい先程、その主から――戦闘機から、もぎ取られたばかりのように。

「この形は――ユーロファイター?」

 ユーロファイター・タイフーン。ヨーロッパの数カ国によって共同開発された、新世代多目的戦闘機――開発者が言うところの“スウィングロール・ファイター”である。二十世紀末より、旧式化した従来機を代替する目的で開発が進められ、のちに欧州の空を席巻する事となる。
 欧州の戦闘機に多く見られる、尾翼を持たず、三角形の主翼を持つデルタ翼機。更に高度な気流制御を狙って、機首にカナード翼を追加された“クローズカップルドデルタ”と呼ばれる独特の機体形状。
 世界随一と言われる格闘戦能力を備えており、安定性をそぎ落とした機体をコンピュータ制御する事によって逆に機動力を高めるその思想は、F-3神狼にも通じるものである。
 むろん――目の前のその“なれの果て”からは、堂々と空を舞うその勇姿を思い起こす事は難しい。

「いや――こいつが何なのかはさておいて――おい、ここは“惑星オデッセイ”だぞ?」

 燕は言った。
 “惑星オデッセイ”に、現実に存在する戦闘機が同じように存在しているとは考えにくい。むろんこの惑星は結局は誰かによって作られたデジタルデータ――そうであるなら、その可能性もゼロではないとはいえ。

「でも待ってカツラギくん。あたし達だって、ここには“ストラトダンサー・オンライン”の延長線上から入り込んでるでしょ? 極論を言えば同じデジタルデータの世界――この間、そう言う話をしなかった?」

 そう、付け加えて、彼女の――クロネコの言うとおりである。
 自分たちはそもそも、“ストラトダンサー・オンライン”のデータを持ってしてこの世界に入り込んでいる。それだけではない。“ストラトダンサー・オンライン”に物議を醸し出している無人機にせよ、“惑星オデッセイ”に降り立った筈の自分たちが出くわした海賊プレイヤーにせよ――二つの仮想世界、その境界線は、不思議と曖昧なものであるのかもしれない。

「だとしても――これは“残骸”だぞ?」

 “ストラトダンサー・オンライン”で使用される戦闘機は、実物と見紛うばかりのリアリティを持っている。しかし結局それは、ゲーム上のプレイヤーデータでしかない。
 実際の航空機メーカーの協力を得て、吉野を筆頭とするデザイナーチームが作り上げた、デジタルデータにコンピュータ・グラフィックの外装を纏う、いわば“張りぼて”である。いくらその張りぼては、ゲームの中では現実と同じに大空を自由に飛び回るとは言え――たとえば吉野が、そのジェットエンジンのタービンブレード一枚一枚、配線の一本一本までをも描ききっているわけではない。
 損傷を受けた際の“エフェクト”は用意されているが、それはあくまでゲーム上の演出である。
 だが目の前に存在する残骸は――本物の戦闘機からもぎ取ってきたような構造をしている。内部のフレームの、そのリベットの一本一本までが、目に見えて存在している。

(そう考えれば――逆にこいつは、“惑星オデッセイ”にもとから存在していたと考えるべきかも知れない)

 この惑星を作り出した誰かは、そこに現実に存在する戦闘機も置いていったのだろうか。どこからとも無く現れるあの“無人機”はともかくとして。だとすれば――何だかこの惑星までもが、誰かが作った張りぼての舞台のような気がしてくる。

「だったら残念な反面話は早いけど――カツラギくん、どうもそう、一筋縄じゃ行かないみたいだよ?」
「何だと?」
「そこ、見てみなよ」

 クロネコは、そう言って首をしゃくる。地面に突き立つその戦闘機の翼――恐らく形状からして尾翼だろう。それを見て何だというのか? 破壊されて煤にまみれた痛々しいその姿に、燕は目をやり――そこで、動きが止まった。

「……これは」
「“うち”のエンブレムだよね」

 蒼い二つの三日月と、その傍らに輝く南十字星――厳密には「そのようなもの」。南洋の島々をメインランドとする、コミュニティ「ティグリア共和国」。その、空軍旗である。ストラトダンサー・オンラインのプレイヤーは、機体のカラーリングをほぼ自由に決定できるが、元から用意されている、このいかにもありがちなエンブレムを使用する者は少なくない。かくいう燕も、ハイドラの主翼に小さくではあるが、このエンブレムを入れている。
 ネットゲームにおけるコミュニティであるとか、そこに対する帰属意識であるとか、案外そう言うものもまた、ゲームを楽しむ要素の一つであることは間違いないようであるが。

「コードが“BR”……どこだったか?」
「ブリスト空軍基地。ストラトダンサーが無印だった頃からある古株のコミュニティだよ」
「詳しいな。俺なんてティグリア共和国にどれだけチームがあるのかわかりゃしない」
「普通はそうだと思う。少なくとも知り合いのプレイヤーがいるところとか。まあ、あたしはほら、あれだから」

 ちょっとした黒歴史だけど、と言って、クロネコは両手の人差し指を突き合わせる。
 彼女はかつてその技量のなさからまともにゲームを楽しむことが出来ず、何処のコミュニティにも所属出来ていなかった。
 後から考えれば、そうやって片っ端からコミュニティに顔を突っ込んで攻略法を聞きねだるというのは、たとえものがただのネットゲームであるとしても紅顔の至りであると、彼女は言う。

「でもそのお陰でカツラギくんに出会えたわけだから、悪いことばかりじゃないけどね?」
「別にゲームのルールを破ってる訳じゃない。多少悪目立ちするプレイヤーの事なんて誰も覚えちゃいないだろ」

 軽く彼女の頭を撫でてから、燕は地面に突き立つ機体の残骸に目を向ける。

「ええ、こちらカツラギ――見えてますか? ちょっと妙な物を発見したんですが」
『こっちでも記録している。一度戻ってきて貰えるか? さっきデータを受け取ったシステム管理部の連中――角田主任や社長も含めて何だか騒がしいことになっているんだが』

 その時たまたまこちらをモニタリングしていたらしい社員からの言葉に、燕とクロネコは顔を見合わせた。




「それじゃあの残骸の出所――すぐに割れたんですか?」
「“ストラトダンサー・オンライン”を管理してるのは何処の誰だと思ってるの。っても私はデザイナーだけど――ともかくね、それはすぐにわかったんだけど、問題はその後というか――その出所が問題だったって言うか」

 惑星オデッセイからログアウトしてきた燕と由香だったが、戻ってきた二人に特に指示はなかった。と言うよりも、惑星オデッセイ探検隊メンバーを含む、“スターゲイザー・エインターテイメント”のシステム管理を担当する社員全員が慌ただしく動き回っていて、探検の他に業務を持たない二人にまで指示を出す暇がない、と言ったところである。
 幾分か手が空いているらしい吉野が、休憩室で二人に事情を説明できたのが、それからしばらくしての事である。

「ストラトダンサー・オンラインに登録されているプレイヤー数は約百八十万。実際には一人で複数のアカウントを持っていたり、アカウントを残していてもゲームを辞めている人間もいるだろうから、現在のプレイヤー総数はその半数かそこらってとこだと思うけれど」

 さすがにジャンルでトップのキラータイトルと言うだけのことはある。高性能でそれなりに値が張る上、プレイ時間が延びる傾向にある仮想空間体感型のゲームは、その人気に比して、個々のタイトルのプレイ人口が少ないのもまた事実なのであるが。

「と言っても、それを管理してるのはうちのオオモト――長尾情報器機謹製の最新型ストレージだから。あの無人機に唯一対抗しうるプレイヤー、そんなあいまいな条件からあなた達を見つけてきたくらいだから、“あれ”が何なのか。それはすぐにわかったんだけど」
「持って回ったような言い方ですね」
「ん……まあね。私自身信じられないというか、信じるのに勇気が要るというか」

 口に出すと言うことは、自分自身がそれを認めた事の証明であるから、と、吉野は言った。それ自体が、彼女にしては珍しい言い方である。

「そう――その無人機。近頃じゃあなた達以外にも、あれに対する戦法みたいなのが編み出され始めて――少なくとも以前みたいに一方的にやられることは少なくなっている。まあそれでも、正面を切ってあれを圧倒できるのは、君らを含めて両手の指で数えられるかどうか」
「別に今は俺たちを持ち上げて貰わなくても結構ですが。それで、あれがなにか?」
「あはは、別にご機嫌を取りたい訳じゃないけど――カツラギ君はどうもあれだよね、こういう話になると目の色が変わるって言うか」
「……自覚はあるんでまあ、その辺は放っておいてください」
「最初は出現条件もわからない、そもそもが滅多に出現しないあれが、どうしてああも爆発的に話題になったか――その原因、覚えてる?」

 ぴくり、と、自分の眉が動くのがわかった。
 隣を見れば、由香も同じような反応をしているのがわかる。
 忘れるはずもない。あれは確か――

「スターゲイザー・エインターテイメントに送りつけられたっていう、謎の脅迫状と――それと前後して起こった、欧州でのプレイヤーの突然死」

 ヨーロッパで死亡したプレイヤーに関しては、それ自体不幸な事故だろう。だが、そのタイミングがタイミングであったが故に、一時期“ストラトダンサー・オンライン”は、命に関わる危険なゲームではないかと、そんな噂が流れた事さえある。
 むろん、そんなはずはない。このゲームを実際にプレイする人間が、その事は一番よくわかっていたのだろう。それが原因で、このゲームから人が離れる事はなかったけれど。

「そういえばうちのチームでも、それについてミーティングしたっけな。結局結論が出ないからお流れになったけれど」
「そう言えば近頃みんなと顔合わせてないなあ。あたし達がこういう事してるのは、さすがに話せないにしても――近況報告くらいはしておこうかな? あたしとカツラギくん、同棲生活始めましたって」
「どう考えてもろくな事にならんからやめてくれ。でもそれが?」
「君たちが見つけたあの“機体の残骸”」

 それがね、と、一呼吸置いてから、吉野は言った。

「それがどうやら――亡くなったプレイヤーのものらしいのよ」

 ひうっ、と、由香が妙な声を上げた。

「……冗談ですよね?」
「だから言葉にするのに勇気が要るって、そう言ったのよ。それが冗談だったら、こうまで大騒ぎにはなっていないし――そもそも冗談にしては不謹慎にも程がある」

 何気なく袖を掴んでくる由香の頭を軽く撫でたりしつつ、言葉を返すが、吉野の表情は変わらない。いつもなら無意識にこんな仕草をしようものなら、何かからかいの言葉が飛んできそうなものであるが。

「でも、そんなことが」
「あり得るかどうか、そこからまずわからない」

 吉野はそう言って、首を横に振る。
 通常“ストラトダンサー・オンライン”の中で撃墜されると、プレイヤーはペナルティを喰らった上でゲームをリスタートさせられる。
 では撃墜された機体はどうなるのか――ただのゲーム上の道具でしかないそれに、そのような事を考えても普通は意味がない。それでもわざわざ説明するならば、撃墜された機体はしばらくは残骸として、そのフィールドに残留する。先日燕と由香が海賊プレイヤーを相手にしたときのように、たとえば炎上してフィールドのエフェクトとして機能することもある。
 だが結局は、そのフィールドが消滅――戦闘が終結してそのエリアがプレイヤーの戦闘範囲から外れると、戦闘によって影響を受けた部分はリセットされる。当然、後には何も残らない。
 ゲームとしては当然よね、と、吉野は言った。

「データとしてリセットされて何も残らない筈の機体の残骸が、どうして残っているのか。それがどうして“惑星オデッセイ”に存在しているのか。それが寄りにも寄って死亡したプレイヤーのそれであることには、何か因果関係があるのか」

 その辺りのことは、何もわからない。そう、吉野は言った。
 ただ、デザイナーである自分はこうして頭を抱えるだけで済むが、会社としてはそうも行かない。システム管理担当者が慌ただしくしている理由はそこだ。
 これがただの偶然なら構わない。だが、状況としてそれはあり得ない。
 プレイヤーの死亡とゲーム自体に何の因果関係が見いだせないと言っても、それが“偶然でない”となれば、そのまま流して良いような問題ではない。
 やはり、“ストラトダンサー・オンライン”には何かがあるのではないか、ゲームそのものに問題がないとしても、表裏に存在する“惑星オデッセイ”とは、実は非常に危険な世界ではないのか。
 ことによれば、Railioの発売元にも話を通すべきではないのか――等々、そんな騒ぎになりつつあるというのである。

「……ま、田島社長も角田さんも、あれで仕事は出来るし頭は切れるから、そういう事に対する対処は任せても良いと思うけど――まあ、何だ。何度目かだけど、待つしかないって言うのも、やっぱりそれはそれで辛いものよね」
「……」

 燕は自然、自分に縋るように立つ由香に目を向ける。
 自分はもう、大人と言っていい年齢である。“惑星オデッセイ”に何らかの危険があったとしても、その結果自分に何か累が及んだとしても、それを自己責任として受け止める覚悟はある。つまりはリスクを承知で、この道を歩き続ける事が出来る。
 だが――同じ危険を彼女に冒して欲しくないと思うのは、自分の我が儘なのだろうか。
 もっとも自分がこんな事を考えている事が彼女に知れたら、また腹を立てられることだろう。水戸由香とは、そう言う少女である。
 それはわかっているつもりだが――これは自分の悪い癖なのだろうか。それともそう考えてしまう事は自然なのだろうか。燕は一人そう思う。

「おおごとにならなきゃいいけど――ミナちゃんも心配するだろうし」
「ミナちゃん? ああ……ヤバいくらいにブラコンだっていう、カツラギくんの妹さん?」
「おいちょっと待て、吉野さんに何を吹き込んだ」
「いや大したことは……実際事実でしょ? 今はまだあたしもミナちゃんもまあ子供って呼べる年頃だから許されてるけど……あの子がこのまま治らなかったら正直危ないと思うよ?」
「カツラギ君……その、愛情のあり方は人それぞれだと思うけれどね? 世間一般で守られる倫理道徳の類って、あると思うのよ」
「毎度思うんですが吉野さんとかこいつの中での俺って、どんだけ人でなしなんですか?」

 こういう馬鹿なことが言えるうちは、まだ余裕がある。そう言うことなのかも、知れないけれど。




 果たして丸一日ほどの検証の結果、やはりストラトダンサー・オンラインというゲームソフトと、そしてそれを走らせるRailioというハードには問題がないという結論に至ったらしい。専門的な事はわからない燕にしても、その事に関しては疑問は抱かなかった。
 専門家が問題ないというのだから、そうなのだろう。仮想空間体感装置の安全性に関しては、それらの専門家がそろって太鼓判を押すところであるし――何よりも、何らかの問題があったところで、今この場でそれを隠すことに意味はない。
 むしろ問題があるならあるで、それは一つの手がかりであると言い換える事が出来るくらいである。

「では一体、これは何か――システム管理部の方で、何名か“惑星オデッセイ”にダイブしてみた結果、草壁さん達が発見した尾翼の他にもいくつか、断片的な残骸を発見することに成功しました」

 角田が指し示すプロジェクター画面が切り替わり、いくつかの画像が表示される。
 それは確かに、何かの残骸だった。森の中に散らばる金属の破片や、あるいは翼の一部なのだろう、平面的な金属の板。焼けこげた木々の中に横たわる、ある程度原形をとどめたままのエンジンなど。

「それらに残された機体マークなどから――やはりこの残骸は、欧州で死亡したプレイヤーが使っていたものであると判断されます」
「それじゃまず、そこから」

 燕が手を挙げる。

「何だかんだ言っても、俺たちがストラトダンサーで使ってる機体は、ただのデータでしょう? ゲームの演出上破壊されたりすることはあるだろうけれど……それがどうして?」
「現時点ではわかりません」

 角田は簡潔にそう言った。

「我々は機体を一つのパッケージとしてデザインを行っていますが……機体の内部までは当然、その限りではありません。ほとんどの機体のデータは、協力を結ぶことの出来た現実の航空機メーカーから、ライセンス提供されたデータを元に、こちらで吉野を含むデザインチームが描き起こしたものです」
「言ってみれば、君たちのアバターと同じようなものだ。あの世界での君たちの分身である“カツラギ”や“クロネコ”は、確かにあちらでは、君ら自身の変わりであろうが――それでもただの人形だ」

 あのアバターを分解したところで、骨や内臓が出てくるわけではない。そこまで作り込みを行うデザイナーなど、存在しないだろう。

「では何故、あの機体は残骸として存在することが出来るのか――それが現時点ではわからないのです。あれが実際に、“惑星オデッセイ”側に存在していたものであれば、話は早かったのですが」

 たとえばあの残骸が、“無人機”のものであったとしたら。
 惑星オデッセイのデータは、現時点でも全て解析出来ないのである。そういうものがあっても――あの無人機がそこまで“作り込まれた”ものであったとしても、不思議でも何でもない。
 しかし見つかったのは、“ストラトダンサー・オンライン”に存在していたはずのものであった。残骸などそもそも“存在しない”はずのものが、存在していたのである。

「時に草壁君、君は先日研修期間を終えた筈だったね」
「え? ええ……はい」

 不意に、田島がそんなことを言ったので、燕は顔を上げる。

「では改めて君に問うが――君はこの先、我が社に身を置いてやっていく意思は変わらないかね?」
「……志望動機が“乗りかかった船”というのは、就活生としてどうかと思いますが――もちろんです」
「では改めて、君を我が社――“スターゲイザー・エインターテイメント”の一員として迎えよう。ようこそ我が社へ。正式な入社式は、来年の新入社員と同じになると思うがね」
「……それが今、何の関係が?」
「君には以前、君らを襲った海賊プレイヤーの個人情報を、立場を理由に教えなかった事があっただろう」

 その一言で、合点がいった。
 ここから先は――会社として守るべきラインに触れることなのだろう。
 だが、それは今更である。きっかけはともかくとして、今更燕はこの仕事を降りる気はない。たとえ何かを理由に田島や角田に“降りろ”と言われても、拒否するだろう。

「……クロネコ、由香の方は、どうするんです?」
「内容が非常に特殊なアルバイトだからね。会社の方では、水戸君に指示を出す系統が存在しないのが現状だ――果たして草壁君の業務の一つとして、それを任せる事になる」
「なるほど、その辺りの裁量は俺の責任と言うわけですか」

 企業というのは実際に面倒なものだと燕も思うが――そもそもこの“惑星オデッセイ探検隊”とて、道楽というわけではない。気持ちを入れ替える。

「その辺の事は、当然拝命致しますよ」
「結構、では、角田」

 角田が小さく頷き、手元の端末を操作する。するとプロジェクターの画面が切り替わり、英文の羅列と、証明写真のような誰かの顔写真が表示される。果たしてそれは一見して外国人であった。二十代か三十代か、それくらいの年の頃に見える、若い白人男性である。

「ひょっとしてそれは――」
「ええ、“ストラトダンサー・オンライン”をプレイ中に死亡した、欧州のプレイヤーです」

 この男が――自分でも、表情が硬くなるのが燕にはわかった。隣で由香が小さく動く。唾を飲む音が聞こえたような気がした。

「ラックス・アブレヒト――三十六歳。プレイヤーネームは“クライン”。コミュニティ“ティグリア共和国ブリスト空軍基地”所属。プレイヤー登録はストラトダンサー・オンラインが発売されて間もない頃からの、古参プレイヤーです」
「……」
「ユーザー登録時の署名欄には、自営業とありました。Railio製造元への調査の段階で、こちらに回ってきた情報によりますと、どうやらドイツの地方都市でタクシードライバーをしていたようですね」

 それを聞いて、思い出す。確か自分たちの仲間――501航空隊の“シウン”も、その様なことを言っていた。このような事件において、亡くなった人間の情報などそう簡単にわかるものなのだろうかと思ったが、地方都市で事故に遭った人間の名前とて、その日のうちにはネットに流れるのである。少し調べればすぐにわかることなのかも知れない。

「もっとも、その“タクシードライバー”というのは表向きの職業であったようですが」
「表向き?」
「ええ。アブレヒト――いえ、“クライン”氏の実家は、古くからある実業家のようで。彼自身はその事業に参加していないようでしたが、生活するには困らない環境であったようで――申し訳程度にタクシードライバーとして働いてはいたようですが、もっぱら趣味の活動に時間を費やしていたようですね」
「死んだ人間の悪口は言いたくないけど……ネトゲ廃人って奴ですか?」

 働かなくとも生きていける環境など、ある意味羨ましいと思わなくもない。だがそんな事を今言っても仕方ない。燕は何となく嫌そうに口に出した。

「いえ、クライン氏のログイン時間は、“廃人”と呼べるような長さではありませんね。草壁さんと同じか、少し長いくらいです」
「……」
「どうやら彼はアマチュアの考古学者であったようでね。そう、大学や研究期間に所属していないので、結局そう呼ぶほか無いのだろうが――精力的に調査活動を行い、実際にいくつかの考古学的発見を、学会にも発表しているようだ」
「はあ」

 どうやらかの人物は、働いていないと言えば聞こえが悪いが、決して怠惰な生活を送っていたわけではないようだ。それはそれで結構なことであるが。食うに困らないというのであればひたすらに自分の好きなことに打ち込むというのは、悪いことではないだろう。

「気になるのはそこからです。彼が死亡する数ヶ月前から、突然彼が“ストラトダンサー・オンライン”にログインする時間が、非常に長くなっているのです」
「先に我々は、彼を指して“ネット廃人”とは呼べないと言った。しかし死の直前のログイン時間だけを見ていれば――そう呼べない事もないだろう。食事や睡眠と言った、生命の維持に必要な時間を除いては、ほとんどが“ストラトダンサー・オンライン”にログインしていたようなのだ」

 更には、と、田島は続ける。

「ログを解析すると、どうやらプレイスタイルも変化している。それまでは所属するコミュニティと共に、あくまでグランドクエストの達成を目指していたようだが――ログイン時間が長引き始めた頃からは一転して、一人でフリーフライトモードばかりを行っていたらしい」

 気味の悪い、震えのような感覚が、背中をはい回る。そんな錯覚を、燕は覚える。
 確かに“クライン”氏は、普通の生活をしていたとは言い難いが、それでも奇特な人物というわけでもなかったのだろう。それが突然、人が変わったようにネットゲームに没頭し始め――最終的に、ログイン中に命を落とした。
 “ストラトダンサー・オンライン”というゲームにのめり込みすぎた、と言うのなら、まだ話はわかる。しかし彼は古参のプレイヤーであり、ゲームを始めた当初から、あくまで“ゲームを楽しむ”範囲の事しかしていないのだという。
 それがあるときから、人が変わったようにゲームに没頭し、それも、普通のプレイヤーならまず行わないような、奇妙なプレイスタイルに変化している。

「何だそりゃ……まるで出来の悪い怪談みたいだ」
「あ、あの、角田さん――“ストラトダンサー・オンライン”って、ずっと続けたらおかしくなっちゃうとか、サブリミナル的な何かとか――無いですよね?」

 由香が恐る恐る、角田に問う。当然彼は、苦笑して首を横に振る。

「そう言うことが出来るのであれば、いっそ販売促進に使ってしまいたいくらいですが」
「角田――君がそう言うことを言うと冗談に聞こえんから自嘲してくれ」

 田島はため息をつき、由香に言った。

「だが結局、“ストラトダンサー・オンライン”にも、ハードであるRailioにも問題がない以上、彼がそうしたのは、彼自身の自発的な行動であったとしか言いようがない。彼がどうしてその様なことをしたのかは、今となっては誰にもわからない」

 問題はだ、と、彼は続ける。

「完全に消滅したはずの、彼のプレイヤーデータの欠片が、よりにもよってどうして“惑星オデッセイ”に存在していたのかと、そういうことだね」
「ログの解析によると“クライン”氏は、フリーフライトモードでティグリア共和国国境地帯を飛行中に、例の無人機の襲撃を受けたようです。交戦の後、機体にダメージを受け――ログアウトしています。そのログアウトが本人の意思によるものなのか、それとも生命活動の――脳機能の停止によるものなのかは、わかりません。検死の結果からでは」
「角田」

 顔色の悪い由香の様子に気がついたのだろう。もう十分だと、田島は角田の言葉を遮る。
 申し訳ありません、と、一言謝ってから彼は言った。

「しかしそれとほぼ同じ時間に彼が死んだらしい――それは事実です」
「結果として、プレイヤーが撃墜されると同時に死亡したと、そんなショッキングなニュースになって、俺たちに知られる事となった」
「はい」
「とりあえず、その“クライン”氏の情報はわかりました。あの機体の残骸が普通じゃないって事も。それで――俺たちは、何をすればいいんですか?」

 燕は問うた。角田は一呼吸置いてから、口を開く。

「クライン氏が使用していた機体の残骸――そのコックピット部分が発見されました」

 その言葉に、燕と由香に緊張が走る。
 “ストラトダンサー・オンライン”はただのゲームで、アバターやプレイヤーはただのデジタルデータである。だから、本来そう言うことを考える意味など無いのかも知れない。
 戦闘機のコックピットとは即ち――それを操縦する人間が収まる場所であると。

「そしてその部分には、脱出の形跡がありました」
「それじゃ――」
「ええ」

 角田は頷き、燕に向き直る。

「草壁さん、水戸さん――機体の残骸が見つかった以上、それを操っていたプレイヤー……厳密にはプレイヤーアバター“クライン”も、何処かに存在している可能性がある。草壁さんが先日見かけた人影というのも――これは話が飛躍しすぎているのかも知れませんが」

 そう、彼は続けた。

「我々は、彼の足跡を辿りましょう」




「やだなあ、結局これって死体の捜索じゃんか。リアル“スタンド・バイ・ミー”なんて勘弁だよ。映画の連中は死体を見つけてどうしようとかって思わなかったのかなあ」
「幼いが故の怖いもの見たさとか、そう言うものだろ」
「うう、潰れてるとか虫が湧いてるとか白骨化してるとか――そう言うんじゃなけりゃいいけど」
「お前……俺たちが捜すのは死体じゃなくてアバターだぞ。言ってみればこの“カツラギ”だって、俺がログアウトしてる間は“惑星オデッセイ”上では死体みたいなもんだろう?」

 ぶつくさ言いながら、ジャングルの中を歩くクロネコに、燕は溜め息混じりに言った。
 自分たちに科せられた任務は、存在しているかも知れないアバターを、もしくはその痕跡を捜すことである。
 これが現実なら、墜落した死体を捜すに等しい行為であるから、出来れば勘弁してもらいたい。しかしこの世界でのアバターは、中身が無ければただの人形も同じである。

「わかんないじゃんか。吉野さんだって、ユーロファイターの中身までデザインした覚え無いって言ってたよ?」
「それは――でも、俺たちだって惑星オデッセイ上に居ることは変わりないんだぞ。だからといって今、お前がその腰の拳銃で俺の頭をブチ抜いたところで、“カツラギ”のアバターに穴が空くだけだろ。とは言え多分、ここには脳みそも詰まってないぜ?」
「やらないよそんなことは! でもさあ、カツラギくんさ、このアバター結構リアルに出来てんだよ? 吉野さんに聞いたら、ロックは掛けてあるけど、それがなかったら十八禁ゲームに転用できるくらいに、しっかり作り込んであるって」
「聞きたくなかったよそんな情報は……」

 どうせ見られないものにそんなに手間を掛けてどうするのか。そもそも何故そんな手間を掛けるのか――それはデザイナーとしての拘りなのか。燕は何だか頭が鈍く痛むような気がした。

「巷のフィギュアだって、ちょっと拘ってる奴はそうらしいよ? 実際服は脱がせられないようになってても、ちゃんと裸から作ってあるって」
「そんなの絶対おかしいよ……もういいよ、そう言うコアな趣味の話は。別にそう言うのが好きな連中を否定する事はないけど、俺にはついて行けん世界だ。だからひょっとしてこのアバターの中には筋肉だの内蔵だのが詰まってて、アバターが“死ぬ”と目も当てられないことになるんじゃないかって?」
「考え過ぎって言うならそれまでだけどさ、仕方ないじゃん。あたし、スプラッタとかダメだもん」

 俺も苦手だ、と言って、燕は垂れ下がった大きな木の葉をくぐる。
 途端に視界が開ける。そこは、川縁だった。差し渡しが数十メートル程度の、濁った水が流れる、まさに熱帯の川と言った景色。その景色の中に、そこに相応しくないものが、存在している。

「あれか」
「うん……」

 茶色く濁った流れに、半ば浸かっているもの――それは戦闘機の座席であった。現用の戦闘機には全て備わっている射出座席。

「確かに完全に作動してるみたいだな。まあ、ゲームの世界で動作不良も何もあったもんじゃないが」
「うん。でもパラシュートが開くときには、パイロットは既にシートから離れてるんだよね? それらしいものは――この辺には無いなあ。空自で開発中の新型なんかは、シートが一つのユニットとして、不時着したときの緩衝材にもなるらしいけど」
「ふうん……さて、どうしたもんかね」
「え?」
「“惑星オデッセイ探検隊”が寄ってたかって、この辺りは調べたんだろう? その上で痕跡がないんだとしたら――しらみつぶしに捜したって仕方ないだろ」
「ああ……うん、そうだね。でも」

 とはいえ、すぐに妙案が浮かぶわけでもないだろう。燕は周囲をもう一度確認しようとして――動きが、止まった。

「……カツラギくん? 何が――」

 自然と、彼の目線の先を追ったクロネコも、そこで動きを止める。
 差し渡し数十メートルの川の向こう側に“それ”はいた。
 熱帯には似つかわしくないコートのようなものを纏った、何者かだった。そう、それは確かに、そこにいる「良く分からない誰か」――“何者か”だった。
 距離が遠く、遠目にはコートのような装いで細部もよくわからない。けれど、それは二本の足で立つ“何者か”に見えた。そう、それは“物”ではなく“者”だったのだ。
 そんな何者かが――川の向こう側から、こちらを見ていた。

「――っ!」
「カツラギくん、だめっ!」

 知らず、右手が腰に伸びていた。腰にぶら下げたサバイバルキット――その中にある自衛用の拳銃に。クロネコの叫びに、我に返る。
 当然、拳銃の扱いなど素人の自分である。数十メートルから先に立つ相手に、咄嗟に抜いた拳銃の弾など当たるわけがない。
 けれど――そう言うことではない。

「落ち着いて――あたしたちは、何?」
「ああ――すまん、俺たちは、探検隊だ」

 少なくとも、見知らぬ土地で出会った見知らぬ誰かに武器を向けるのは、探検隊のする事ではない。それは明確な殺意である。かつてアメリカ大陸を蹂躙したヨーロッパ人にすら、当人にその意識は無かったのだという。
 クロネコを伺う。彼女の瞳は、揺れていた。それでも気丈に、彼女は言う。

「吉野さん――見えてる!?」
『君たちの視線としては――でもだめ、リアルタイムじゃズームも解析も出来ない。あれは――“惑星オデッセイ”に存在してる。今――えっ? あ、確かに――カツラギ君、クロちゃん、一旦ログアウトして!』
「ログアウト? どうして」
『このエリアのマッピングはある程度終わってるから――今なら君たちを、川の向こう岸に移動させられる!』

 現実世界で誰かにアドバイスを受けたらしい吉野から、指示が飛ぶ。
 確かにデータとして解析できている地点なら、自分たちはある程度任意の地点に降り立つ事が出来る。一旦現実世界に戻った後なら、目の前に立ちはだかる川を、無かったことにすることくらいは出来るだろう。
 だが――

「吉野さん、俺が先行する! クロネコ、礼儀がなってないのは重々承知だが、ヤバくなったら俺は迷わず撃つぞ!?」

 同時にそれは、無防備に、得体の知れない何者かの前に降り立つと言うことでもある。そこで相手が何かを仕掛けてこない保証は何処にもない。そうなってしまえばいくら仮想空間とはいえ、多少の自衛は致し方ない。
 むろんそこは仮想空間――想像がすべて現実になる世界である。良くも悪くも。現実には簡単に相手の命を刈り取るだろうこの拳銃が、果たして通用する相手なのか。先日クロネコ相手に、このようなものは気休めだと――そう言う類の事を言ったのが、今更ながらに悔やまれる。

『カツラギ君絶対無理はしないでね!? ダイブ位置を覚醒までには上げずに、そのまま再ログインするから、目を回さないように気をつけて!』

 一瞬目の前が真っ暗になる。まるで海の中を漂っているような、それで居て何処か底のない深い洞穴にでも落ちていくような、言いようのない感覚――そのすぐ後に、燕はたたらを踏む。彼は、再び地面の上に立っていた。
 そして彼の十メートルばかり先――そこには紛れもなく、川向こうからこちらを見ていた“何者か”が立っている。
 異様な、風貌だった。
 背丈はせいぜい、クロネコより少し高いくらい。外套のようなものを纏っているせいで、ほとんどその姿を伺うことは出来ないが、その外套の下から伸びる裸足の足は、とても華奢だ。

(女――いや、子供?)

 そういう風に見えなくもない。ただ、外套のフードに隠されて顔はよく見えない。願わくば昔の都市伝説のように、口が耳まで裂けているだとか――そういう類のものだけは勘弁して欲しいところである。
 燕は腰から拳銃を抜きそうになるのを必死に堪え――そして、悩む。

(――どう、する?)

 相手に動きはない。とはいえ、川の対岸に立っていた人間が突然目の前に現れたように、向こうには見えたはずである。
 この世界が仮想空間であるからこそ出来る芸当――それを相手は、理解できるのか?
 自分たちはここを、“惑星オデッセイ”という未知の惑星であると――それもまた、理解していたはずだ。もしも目の前に立つこの相手が、そういった“惑星オデッセイ”の深淵に潜む者ならば――果たして目の前に現れた燕に、友好的になろうという気になるだろうか?

「……あの……」

 自分でも間の抜けた問いだ、と、思った。この場面で、たどたどしい挨拶などに、意味はあるのか?
 そもそも、日本語など通じるわけがないし、相手が言葉というものを持っているのかどうかさえも――そんな彼の耳を打ったのは、明確な“言葉”だった。

「Hold Up――Release your weapon」

 独特の癖がある、英語――同時に、後頭部に何かが押しつけられる。
 燕は振り返らない。振り替えれないまま、両手を上に上げた。
 果たしてその行動が正しかったのか――後頭部に押しつけられていた何かが、すっと消え失せる。

「……僕の言葉が通じると言うことは、あなたはこの世界の人間じゃないらしい」
「……」

 やはり、癖のある英語で――彼の後ろから、誰かは言う。

「応えてくれ。あなたは――外の世界の人間か? ひょっとして、僕を助けにきてくれたのか?」
「助けに来てくれた? それは、どういう意味だ? あなたは何者? ――こちらに、敵意はない。振り向いても、構わないか?」

 燕もそれに、英語で返す。とは言え所詮、二流と言った大学生の語学力である。きっと先に掛けられた言葉の癖などよりも、余程酷いものであるのに違いない。だがこの際、言葉の発音などどうでも良い。通じる言葉があるというそれだけで、十全である――

「かっ……カツラギくんから、離れろっ! さもないと――蜂の巣にしてやるからっ!」

 振り返りかけた足が脱力して、その場にへたり込みそうになったのは致し方あるまい。
 彼女は先程自分で何を言ったのか忘れているのではないだろうか――そう思いながら振り返った先には、震える手で拳銃を構えるクロネコの姿。
 そして――戸惑ったように両手を挙げる、一人の青年の姿があった。




「お互い色々と言いたいことは山ほどあるだろうが――一つ、聞かせてくれ。あんたは、一体何者だ?」

 燕の問いに、青年は両手を挙げたままで応える。

「僕には名前と呼べるべき者は一応ある。けれど、きっとそれは今の僕自身に対しては意味を成さないものなのではないかと、そう思うこともある」
「あんたがそう思う理由は、俺にはわからない。あんたが何を考えていて、それが事実かどうかはともかく――俺は、あんたを何と呼べばいい?」
「……では、“クライン”と」

 その答は――ある意味で、彼らの求めていたものだった。

「ここでは、そう名乗っている」

 そう、あまりにもシンプルに、堂々と――世界の何処にも居るはずのない男の名を、彼は、名乗った。













登場した「彼」の名前。

最初は「メビウス」だったんですが。
……航空アクションで「メビウス」は、さすがにまずいよなあ……と、途中で気付いて、似たようなニュアンスのこれを選択。

なんでまずいのかわからない方は、さっそくエースコンバット4をプレイしよう。

「一人で一個師団に相当する戦力を持つ男(公式)」ですからなあ。
まかり間違っても名もなきエトセトラにやられるような名前じゃない。



[37800] 第二部 第五話 彼の決意
Name: スパイク◆b698d85d ID:1c2c1e95
Date: 2013/12/22 01:58
第五話「彼の決意」

「これは、畑?」
「そう――僕が現状を認識せざるを得なかった、その一端でもある」

 その場所は、彼らが邂逅を果たした川縁から、少し森の中を歩いた場所にあった。
 既に彼らにとって、その道は歩き慣れたものだったのだろうか。鬱蒼と茂るジャングルの中には、僅かだけ踏み固められたような場所があり、“彼ら”は、迷うことなくそこを歩いていた。

「か、カツラギくん――大丈夫なの? と言うかさっきからカツラギくん何て言ってるの? あたしに宇宙語で話しかけないで!」
「お前には話しかけてないから安心しろ。それはあれだ――毎日お前が嫌だ嫌だって逃げ回ってる勉強の類も、たまには役に立つことがあるって事だろ。大体お前、ストラトダンサーやり始めて英語が得意になったとか言ってたよな?」
「それを即座に否定してくれたのもカツラギくんじゃんか……勉強嫌いな中学生にいきなり英会話しろったって無理に決まってんじゃん」
「まあ、それもそうだろうがな」
「カツラギくんは結構英語得意な方? いくら大学生でも、外人と不自由なくしゃべれる人なんて珍しいんじゃない?」
「不自由が無いとまでは思ってないが。知り合いに海外慣れしてる奴がいてさ。こういうのは出来て困ることは無いからってまあ、付き合って色々やってるうちにある程度は」

 頭を掻きながらそう言う燕に、クロネコは小さく溜め息を吐く。何か気にくわない事でも言ったのだろうか。確かにこんな状況で、勉強が云々などと言うのは間違っているかも知れないが。

「……まあ、とにかくおおざっぱ通訳してやると、あの人は自称――あくまで自称だが、プレイヤーネーム“クライン”だと、そう言ってる」
「……本当?」
「俺もこれが冗談で良いならと思ってる。いいや、結局その可能性が一番高いんだろうな。たとえばあいつらは何処ぞのハッカーで、俺たちと同じように“惑星オデッセイ”に潜り込んで――」

 そこで、言葉が止まる。
 プレイヤーネーム“クライン”――彼の名乗るその肩書きが、嘘でないのならば。それが最も、信じがたい。
 それは、既にこの世にいないはずのプレイヤーの名前である。ならば、目の前にいるのは一体誰だというのだろうか。現状に於いて正常な判断を下すのは、難しい。
 ただ、何者かが。
 何らかの手段で自分たちと同じこの惑星に降り立っているとして――そのうえで、死んだプレイヤーの名前を騙ることに、一体何の意味があるだろうか? 彼もまた、あの墓標のような戦闘機の残骸を目にしたことで、それを思いついたのだろうか?

「だとしたらセンスは最悪だね」
「少なくとも友達になりたいタイプじゃあないな。だが――」

 目の前を進む“彼ら”――クラインを名乗る青年アバターと、彼の側に寄りそう謎のアバターの足取りに、迷いはない。
 その姿を見ていると、そういう事を考えるのが、自分たちに都合の良い現実逃避なのだろうと思えてくる。
 暫く迷ったあとで、彼は“クライン”に言った。

「その……何だ。俺たちは、まだ状況を飲み込めていない。こういう状況で、あんたが自分を偽る必要はないだろう。何だって――死んだプレイヤーの名前を騙る?」
「……」

 “クライン”の歩みが、止まる。
 それは少なくとも、彼にとって予想し得なかった言葉だったのだろうか? それは、彼と共に歩いていた正体不明のアバターが、戸惑ったように足を止めた事からも判断できた。このアバターの正体はわからない。言葉が通じているのかどうかも。けれど、燕の言葉によって“クライン”が歩みを止めることは、そのアバターにとっては予想外の事だったのだろう。

「……俺は、何か妙なことを言ったか?」
「いや、何も」

 だが、次の瞬間、“クライン”は何事もなかったかのように踵を返す。その時、冷涼な美貌を持つ白人の青年――そんな外見を持ったそのアバターの表情からは、何の感情も読み取ることは出来なかった。

「少なくとも君は、僕らを“ストラトダンサー・オンライン”の単なるプレイヤーとは思っていないのだろう。そうとも、その指摘は正しいと言える」
「持って回ったような言い方はやめてくれ。俺はあんたほど英語は得意じゃないし、目の前で起こってることは半分理解の範疇を越えてるんだ」
「目の前の相手に言葉が伝わるというのならば、それで十分だ。彼女の時は、そりゃあもう酷いものだった」
「……“彼女”? そのアバターの事を言っているのか?」

 フード付きのコートのような外套を身に纏う、異様なアバター。体つきは小柄で華奢ながらも、声すら聞いていないからそう言えば男か女かもわからない。
 目の前の男が“クライン”を名乗る何者かであるとして、ではこのアバターは何者なのか。気にならないわけではなかった。だが、そこまで余裕がなかったのだ。

「まあ、実のところ僕自身、君の言う“持って回った言い方”というのは好きじゃない。これは僕自身の個性なのか国民性なのか――“カツラギ”と名乗っていたね。君は日本人か? それとも日本に堪能な他の国の人間か?」
「俺もクロネコも日本人だよ。そう言う意味じゃ、それこそ言葉が通じてる事に感謝してくれよ?」
「違いない。実は僕自身日本に知り合いが居るが、システムの自動翻訳機を使ってどうにか意思疎通を図るのが精一杯だった。そう言う意味では、君の語学力は十分に誇っていいものだ」
「いや本当に褒められてもそれはそれでどうしていいやら」

 けれど、と、燕は言う。

「あんたがそう言う持って回ったようなというか――“奥歯に物が詰まったような言い方”が嫌いだというのなら、事のあらましを正直に話してくれると助かるんだが」
「“歯にものが詰まった状態で喋る”? そう言う慣用句は知らないが、まあ、言いたいことはわかる。だが――歩きながら話せるようなものでもない。どうせじきに――」

 その問いかけに彼が何かを言いかけたとき、視界が開けた。
 先程まで歩いていた森の中の畑のような場所――そこを抜けた先に“それ”はあった。

「……これは、家?」
「粗末な作りで申し訳ないがね」

 そう言って苦笑する青年の置くには、木と草で組み上げられた、まるで古代のそれか、そうでなければ何処か未開の地に建っていそうな小屋が存在していた。




 その“家”の中は、外から想像できる通りのものだった。周囲よりも一段土が掘り下げられ、その中心にはたき火を焚いた跡がある。つまりは“いろり”のようなものだろうか。
 所謂竪穴式住居という奴だろうか。だが実際、これで雨風はしのげるものなのだろうか? 灯りを取り入れる為か、屋根には少し隙間が空けられているし、床は先に述べたように土が掘り下げられただけのものである。こんな事をすれば、逆にここに水が溜まってしまうのではないだろうか?

「ここが現実に存在する僕の自宅なら、お茶の一杯でも出してやりたいところだが――見ての通りのこの現状では、“お茶”とまではね。悪いが、適当に腰掛けてくれないか」

 そう言う彼の装いはと言えば、くたびれたTシャツに何処かごわごわとしたワークパンツと言ったものである。そこではたと気づく。これは、“ストラトダンサー・オンライン”のアバターが着ているフライトスーツを加工したものではないか? ズボンと見えたのは、ツナギのフライトジャケットの下半身である。
 もう一人の正体不明のアバターが、奥の方から何かを持ってきたかと思えば、それは“土器”だった。土をこね上げて作ったのだろう、一抱えほどの器。彼女――“クライン”曰く女性なのだというそのアバターは、長い木の枝で“たき火”の後をかき回す。小さく火の粉が舞い上がり、すぐさま中心に淡い輝きが宿る。
 置かれていた石を土台に、彼女はそこに土器を載せた。手慣れた動きである。相変わらずその顔はフードに隠されてよく見えない。あれでよく、前が見えるものだと思う。
 今更何を躊躇っても仕方がない。燕は小さく息を吐き、土の床に直接あぐらをかく。
 クロネコは少し迷っていたようだが、ややあって、ゆっくりと彼の隣に腰を下ろした。

「あたた……クッションとかないのかな? ブーツ履いたまま座るの難しいよ」
「待っててもその類が出てくるようには見えないな。それ脱ぐか、そうじゃなかったら俺みたいに足崩すか」
「あたし、あぐらって……それはそれで苦手なんだよね。股関節がなんかこう痛くなるの」

 そう言って彼女は、正座からそのままお尻を床に着けたような座り方――所謂“アヒル座り”の姿勢を取る。

「それはそれで足がおかしくなりそうなんだが」
「男の人は出来ない人も多いみたいだね。それに骨盤が歪んでホルモンバランスが崩れるとかって……楽は楽なんだけど、あたしもリアルじゃあんまりやらないよ」

 ちらりと前を見れば、外套のアバターも彼女と似たような格好で、“クライン”の隣に腰を下ろしている。やはりあれは女性なのだろうかと、そんなどうでも良い事を思う。そう、この状況では相手の性別などどちらでも同じだ。

「君らにとって落ち着いて――とはとても言えないだろうが、話をする準備としてはさっきよりはましだろう」
「その縄文土器みたいな奴の中身を、まさか飲めと言うんじゃないだろうな?」
「“ジョウモンドキ”が何なのかはわからないが、これの事かい? 見た目はともかく、味は悪くないよ。薬と思えば体にも良さそうだ」
「何を言ってる。ここは仮想空間の中だぞ? それを――」
「……そこだな、まずは」

 “クライン”は、燕の言葉を遮った。

「君のことを、聞いても良いだろうか? 君たちは恐らく“ストラトダンサー・オンライン”の正規のプレイヤーではないだろう」
「その質問には、そうだと答えられる。俺たちは“ストラトダンサー・オンライン”の発売元であるスターゲイザー・エインターテイメントの人間だ」

 だから、と、彼は目の前の男に視線を向ける。

「普通に考えれば、あんたの存在はゲームシステムを逸脱したチート行為だ。何を好きこのんでこんな事をやってるのかは、もはや俺の理解の範疇にはないが――事と次第によっちゃあ、あんたは違法なプログラム改竄行為で訴えられるぞ」
「それが可能であるなら――むしろ願ったりと言うところか」
「……何だと?」

 “クライン”は、肩をすくめて首を横に振る。

「ある程度の覚悟はしていたつもりだったが――ああ、君のことは何と呼べばいい?」
「……“カツラギ”でいい」

 ここで本名を名乗る必要はないし、なによりもこの世界では、はっきりと自分を意味する言葉としては本名よりも適当だろう。燕はそう名乗る。

「カツラギ――君は道中、僕に言ったね。どうして、死んだプレイヤーの名前を騙ったりしているのだ、と」
「……それがどうした?」
「君の知る死亡したプレイヤーというのは、一体誰のことだろう? このゲームに何が起こったのかを教えて貰っても? あるいは君がゲーム販売元の人間だというのなら、今君がこうして、君自身の言うゲームから逸脱した状況にあるのは、その事故調査の一環だろうか?」
「それとは別だ」

 だが果たして“惑星オデッセイ探検隊”の事を目の前の青年に話してもいいものか。いや、話すべきなのか。その判断は、すぐにはできない。

「この際だから、あんたに付き合ってやろう。一ヶ月ほど前の話になるが、欧州サーバーで“ストラトダンサー・オンライン”をプレイ中の人間が、プレイ中に突然死した」

 だから燕は、彼が望むとおりに顛末を語る。自分の知る、その事件の顛末を。

「結局のところ、悪い意味で神がかったようなタイミングとはいえ、それは不運な事故と言うことで結論づけられた。Railioやストラトダンサーに、人を殺せるような機能はそもそも備わっていない。そう結論づけられた以上、そう考えるしかない」

 人が突然命を落とすなど、気味の悪い事件ではある。しかし所謂“突然死”など、世界中で日常茶飯事に起きている事である。恐ろしいことだが健康に見える人間だって、何の拍子で死んでしまうか、わかったものではないのである。

「そのプレイヤーネームが“クライン”だ。日本人の俺たちにすら聞き慣れたレベルの外国名だからな。あるいは死んだそのプレイヤー以外にも“クライン”を名乗るプレイヤーは居るのかも知れない。“ストラトダンサー・オンライン”には、確かプレイヤー名の重複を防ぐ機能は無かったからな」

 だが、出来すぎである。
 森の中で見つかった戦闘機の残骸と言い、目の前の男が“クライン”を名乗ることが。
 彼が自分たちの行動指針――“惑星オデッセイ探検隊”の事を知っているとは考えにくい。だが、ならばこの状況は何だ? それはそれで、燕には答が出せそうにない。

「君は神を信じるか?」

 ふと、“クライン”はそう言った。

「神や悪魔を信じるか? 死後の世界を、神の審判を信じるか?」
「悪いが俺は無宗教だ。格好だけ墓前に手を合わせたり初詣に行ったりすることはあるが、胸を張って仏教徒とも言えない。そんな俺には、あんたらの言う神様はきっと語れない」
「ではハッキリと言わせて貰おう。僕がその死んだプレイヤー本人だと言ったら、どうする?」
「信じられるような話じゃない」

 燕は首を横に振る。

「あからさまに怪しすぎる。正直なところ、そう言う可能性だって思い浮かばなかったわけじゃない。いや、逆にそういう風に思っていた――正直に言うとな」

 はっきりとは理由がわからない死を遂げたプレイヤー。そして彼に結びつくような、ゲーム上ではあり得ないデータの断片。
 そして現れた正体不明のアバターが、死んだはずのその彼の名前を口にすれば――嫌でも、そうおもう。だが、

「誰だって、思うだろ。そんな馬鹿な、って――俺は神様も幽霊も信じちゃ居ない。いや、そういうものがあるのかも知れないってこの際思ってもいい。けど、ここがどこだかわかってるか?」

 現実の世界なら、あるいは本当にそう言うものはいるのかも知れない。燕は今更オカルト番組を間に受けるような歳ではない。けれど面と向かってそういうものがいるのだと言われたら、逆に反論のしようがない。世の中には不思議なことはたくさんあると言い、中にはそういったものを信じてしまいそうな事も、多々ある。
 だが、ここは、この“惑星オデッセイ”はその限りではない。

「ここは作られた――デジタルデータの世界だぞ? 出所はわからない謎のデータではあるが、それでもスーパーコンピュータで読み解ける、作られた世界だぞ? リアルの世界で、あんたがいつの間にか俺の背後に立っていたら、俺は絶叫して念仏でも唱えるかも知れない。だが、俺もあんたも、ここにある全てが作られた何かなんだぞ?」
「君の言うことはもっともだ。“ネンブツ”というのは、仏教で言うところの祈りの言葉か?」
「似たようなモンだ」
「祈りの言葉なら、僕も何度も唱えたよ。幼い頃に洗礼を受けたきり、日曜に教会に行くことも億劫になっていた不信心者だが、それでも神に祈らずには居られなかった」

 “クライン”は小さく息を吐く。それは、あまりに自然な動作。
 まるで、ただの、本当の人間が、目の前に座っているかのような錯覚。

「君が“ストラトダンサー・オンライン”の正規プレイヤーでないことはわかる。だが、ゲームに関わりのない人間、と言うわけでもないのだろう。確証はないが、そんな気がする」
「まあな、もとはただのプレイヤーだが、今は運営の立ち位置でここにいる」
「ふふん――知る人ぞ知るティグリア共和国のエース、“双頭獣”“チーム・ハイドラ”とはあたしたちのことっ! カツラギ君訳してよ」
「悪いが俺にはゲームの腕を誇る趣味もねえし中二病は卒業してるよ」

 ここぞとばかりに首を突っ込んだクロネコをあしらいながら、燕は言う。
 “クライン”はそんな二人の様子に変わらぬ薄い笑みを浮かべたまま、続けた。

「君たちがどれほどの上級プレイヤーだったとしても、撃墜されたことくらいはあるのだろう」
「そりゃまあな。こいつと組むようになってからは、そういや一度もねえけど」

 “カツラギ”と“クロネコ”の“チーム・ハイドラ”は、今でこそ突出したエースプレイヤーであるが、当然最初からそうだったわけではない。燕とて、“ストラトダンサー”の古参プレイヤーの一人ではあるが、ゲームの発売と同時にそれを始めたわけでもない。上達の過程で、よりプレイ時間の長い上級者に撃墜されることもあった。

「所詮は、ゲームの中。バーチャルの世界での出来事だ。だが、気持ちのいいものでもない。脱出に成功しても無様に空を漂い――自分は“負けたのだ”と思い知らされる」
「そりゃあ――でもそれこそゲームなんだから、当たり前だろう」

 相手と戦って、勝ち負けを競う。ゲームとはそういうものである。
 それが何か今関係があるのだろうか? 燕の問いに、“クライン”は言った。

「そう。ただのゲーム――だが、カツラギ君。僕はそこで見つけたんだ。そしてあの日から――僕にとって、ここはゲームでなくなってしまった」




 話が長くなるので、いきさつは別に話そう。そう告げて“クライン”は、火にかけていた“土器”の中身をカップ、というよりは「椀」だろうか。粗末な木製の器で掬い、ためらいなく口に含んだ。
 彼の喉が動くのを見て、燕は自分の喉が鳴るのがわかった。

「飲むかい?」

 それを見て、彼は言う。燕は当然、首を横に振った。

「……今の僕の姿を見て思うことがあるのだろうが、もうしばらく我慢してほしい。ともかくあの日――僕はある目的のため、フリーフライトモードでゲームをプレイしていた。そして――なんだろうな、よくわからない敵に撃墜された」
「……」
「あるいは君たちは、もうそのことは知っているのかもしれないな。X-47によく似たシルエットの黒い機体だった」

 びくり、と、クロネコの肩が震えた。彼女には英語はわからない筈だ。だが――言葉の中に現れた“X-47”という単語を聞き取ってしまったのだろう。そう言えば、自分たちがあれに初めて遭遇したとき、クロネコはその単語を口にした。

「自分なりに食い下がってはみたが、勝負にはならなかったね。僕の機体は被弾し――しかしコックピットへの直撃は免れた。当然の選択肢として、僕は脱出レバーを引いた」

 その行動には、何ら不自然なものはない。現実ならば言わずもがなであるが、“ストラトダンサー・オンライン”においては、機体が致命的なダメージを受けてから完全に破壊されるまでの猶予がある場合、脱出に成功すればペナルティは大幅に減る。
 プレイヤーは一定時間フィールドを漂ったのちにゲームオーバー画面を経てタイトルに戻され、ゲームの再スタートを行わされる。

「そして――“それきりだ”」
「それきり?」
「僕の記憶が正しいなら、脱出後のプレイヤーは、パラシュートで地面に到達すればそこで“リセット”される。プレイヤーは再びゲームのスタート画面に戻される。後には何も残らない」
「……」
「そして――僕には、“そのあと”が、来なかった」

 クロネコと同じように――自分もまた、無意識に唾を飲む。ああ、この感覚は何なのだろうか。口の中がからからに乾いていたように思うのに、生暖かな唾液が喉を伝い落ちるのがわかる。

「それから僕はずっとここにいる。Railioが見せていたよりもずっとリアルな世界を見ながら、ここにいる。ログアウトは出来ない。まるで現実世界に於いて“それ”が出来ないことが当たり前であるかのように」
「それじゃ――あんたが言っていた、俺たちが自分を助けに来てくれたのかというのは」
「僕の感覚でも、あの時から結構な時間が過ぎている事くらいはわかる。そして、そんな状態は言うまでもなく異常だ。何故、僕はログアウトが出来ない? Railioに繋がれていた僕の体は、一体どうなっている? 誰かがこの状況に気がついてくれたのなら、あるいは――そう思っていた」
「……」

 目の前の青年の言葉を、そのまま信じることは出来ない。
 そんな話は、あまりにもあり得ない。現実世界で死んだはずの人間が、いまだにこの謎の世界に留まり続け、あまつさえ、こうして自分と言葉を交わしている――その出来事が。

「君が気に病むことはない」
「あ……」
「君がこの場にいるその状況から、僕は君が正規のプレイヤーではないと思った。そして君は運営側の人間だと言う――だが、そちらの相棒さんも含めて、ただの運営――“ストラトダンサー・オンライン”が必要とするメンテナンス要員でも無いはずだ」

 そんな君は、と、彼は続ける。

「顔を見ればわかる。いやむろん、それはアバターなのだろうがね。そういう顔をしている。仮に――“僕の話が真実だったと仮定して”だ」

 彼は器を床に置くと、燕に言った。

「自分の状況がわからず、助けを求める僕に――死を突きつけた。そんな風に思っているのだろう」
「――」

 言葉は、出なかった。
 そこまで明確に、燕はそう思っていたわけではない。なによりも、自分自身、今の状況を理解しているとは言い難い。
 けれど――心臓と言わず、胸の中を丸ごと、見えない巨大な手に握りしめられたようなこの息苦しさは、何なのだろうか。

(そうだ――俺は当然、“クライン”が生きているはずはないと思っていた)

 現実の彼、ラックス・アブレヒトは既に死亡が確認されている。この世には既に存在していないのだ。ならばそのアバターである“クライン”もまた同じ事ではないか。
 クロネコは言った。これはリアル「スタンド・バイ・ミー」つまりは、「死体探し」であると。アバターがどのような状態で存在しているにせよ、それは中身を失った“死体”であるはずだったのだ。

(だから、パニックになってる。目の前の男が本当に“クライン”なのかって)

 常識で考えれば、そんなことはあり得ない。目の前の男がアブレヒト氏の幽霊であり、その幽霊がコンピュータの世界に入り込み、いまだ“クライン”として振る舞っている――そんな馬鹿げた想像が現実になっているのなら話は別だが。

(けれど、目の前のこいつが――“そう”だとしたら?)

 あり得ない、あり得ない、あり得ない――自分の中での常識が、激しく訴えかける。だが、では目の前の彼が死んだプレイヤーを騙ることに、何の意味が?
 そして目の前にある現実があり得るかあり得ないか――そう言うことを一切合切取っ払った時に、仮に彼が本当に“クライン”だとしたら?

「――気分が、悪い」

 口元を押さえ、燕は言った。

「……僕自身、落ち着いているわけじゃない。ただ、わけもわからないままにこの世界に放り出されて――今こうやって、君たちが目の前に現れた。それが僕にどういう結末をもたらすにせよ、僕はようやく“先”を得たわけだ」
「……カツラギくん、大丈夫? ねえ、あの人は何て言ってるの? 酷いことを、言われたの?」

 心配そうに、クロネコが背中をさすってくれる。その小さな手の感触――現実の彼女とほとんど変わらないそれが、どうにか自分の思考回路を正常に保つ。

「時間はいくらでもある。少なくとも、僕はいくらでも待てる。君が現状に耐えられないというのなら、場を改めてもいい。君が運営の人間なら、他の誰かと代わって貰っても」
「いや」

 しかしクラインの言葉には、燕は首を横に振る。

「あんたには関係のない話で恐縮だが――俺がここにいるのは、俺自身の意思だ」

 そう、由香と湊――彼女らにとって、自分はもはやヒーローではいられない。そんな当たり前の現実を受け止めて、それでも自分はここにいる。自分自身の意思で。
 無論そんなことを、目の前の彼に言ったところでそれがどうなるわけでもない。だが――

「――そっちにばかり騙らせるのはフェアじゃないな。あんたが“クライン”だというのなら」
「そんなことを君が気にする必要はない」
「まあ、そう言うな。俺はアバターネーム“カツラギ”――本名は草壁燕。色々あって“スターゲイザー・エインターテイメント”の社員として、プレイヤーの死亡事故を含めて“ここ”の謎を探ってる」
「……」

 その時、“クライン”の表情が変わった。
 それまでの、何処か影のある穏やかな表情ではない。攻撃的な表情と言うのだろうか。むろん彼が、燕やクロネコに対する敵意を剥き出しにした――と言うわけではない。だが燕はその時、彼の瞳の奥――コンピュータによる描画でしかないはずのそこに、感情の炎が灯ったような錯覚を感じた。

「あんたが本当に“クライン”だとして――死者にむち打つような真似をして、申し訳ないと思っている。俺では、あんたを助けてやることなんて出来そうにない。その上で我が儘を言わせて貰えば――俺たちに、協力してくれないか?」
「是非もない。願ったり叶ったりだ」

 そしてどうやら、自分の勝手な決意表明は、この男の希望に合致するものだったようである。




「いきなり話の腰を折るようで悪いが――僕は恐らく、自分が“クライン”――“ラックス・アブレヒト”本人では無いだろうと考えている」
「あん?」

 唐突にそう言ったクラインに、燕は眉をひそめた。

「だが、僕が“クライン”の名を騙っている、というわけではない。これは僕なりの推論だが、構わないか?」

 燕が頷くと、彼は続けた。

「ここは僕にはとても計り知れない謎の世界だ。それこそ君たちが“惑星オデッセイ探検隊”などと言うような馬鹿げたチームを結成する必要があるくらいには――ああ、今のは一応、褒め言葉のつもりだからね」
「ストレートに馬鹿と言われても否定は出来ないと思ってる。それが?」
「ここがデジタルデータの世界であり、機械で読み解ける――そして、現在の技術でも、それを人間の脳に理解可能な情報として解放できる――それが大前提だ」

 確かにここは、そう言った技術論で騙るにはあまりにも謎の多い世界だと、彼は言った。

「だが、単純に僕を含めて、通常プレイヤーがここにアクセスする方法はただのゲーム機、RailioⅢだ。あれもまた三次元結晶型の高速演算装置を含むハイテクの結晶でもあるが――仮想空間体感機としては、最も廉価で性能も限られている」
「それが?」
「つまり僕が“ラックス・アブレヒト”の魂かなにかだとすれば――それは“あり得ない”と言う話だ。仮にここが現在の科学では解明しきれない、それこそ超自然的な何かで作られた世界だったとしても――単なるゲーム機であるRailioには、人間の魂を抜き取る機能があるはずもない」
「ああ……まあなあ」

 それはもちろん、そうなのである。安全性の問題から、技術的な問題まで。
 「人間の魂を抜き取る技術」など、字面としては馬鹿馬鹿しいことこの上ない。そしてそんな馬鹿げた技術が、RailioⅢに盛り込まれているかと言えば、当然答は否である。頭部に装着するインターフェースから、どういったシグナルが脳に送られ、また脳の電気信号がどのように変換されて本体に送られるのか――そう言ったことは、全てが設計の段階で明示されている。
 いまだ人類は、“魂”だとか“死後の世界”だとか、そう言ったものが存在するのか判断出来ずにいる。だが、仮にそういうものが存在したところで、ただのゲーム機に、そこにアクセスする機能などあるはずがない。

「ならば、今このアバターに収まっている“クライン”は、死亡したプレイヤーとは別人と言うことになる」
「いや――だってあんたはさっき」
「そう、僕は“ラックス・アブレヒト”としての、連続した記憶を持っている。だからややこしく感じるが――単純な話だ」

 ラックス・アブレヒトと言う人物が死亡したまさにその時――彼の記憶を引き継いだ“クライン”という、不正規アバターが生成された。
 そう考えることは出来ないだろうかと、彼は言った。

「星を一つ内包する、とてつもないデータの世界だ。一人分の人間の記憶を引き継いだアバターを存在させることくらい、わけはないだろう」
「……」
「認めるのに、勇気は要った。例え僕自身が、今の僕を“そのようなもの”だと理解したところで――僕には、“ラックス・アブレヒト”としての記憶がある。今まで積み重ねてきた、人生の記憶が」

 それが全て複製品だと言われて、納得など出来ない。クラインの言うことは、燕にも想像することくらいは出来る。

「――君が罪の意識を感じることはない。“ラックス”が死んだのは君のせいではないし、僕は僕で、君がこうして目の前に現れてくれたから、現状を認識することが出来た」

 とはいえ強靱な精神力だ――感嘆するほどの。素直に燕はそう思う。自分が同じ状況に置かれたら、正気を保てる自信はない。

「まあ……自分がろくな状態に無いだろうというのは覚悟していた。意識が完全にこちらにシフトしていると言うことは、Railioの構造限界を超えた負荷が脳に掛かっている可能性が高い――それくらいにはね」

 それに実のところ、と、少し言いよどんだように、彼は付け足す。

「最初の頃は随分取り乱していた。単に落ち着けるだけの時間があったとも言えるし――」

 そこでちらりと、クラインは隣に目線を移す。フードで顔を隠した、謎のアバターの方に。そう言えば――目の前の男が“クライン”だとすれば、このアバターは一体何者なのだろうか?

「……か、カツラギ……くん?」

 恐る恐る、と言った風に、クロネコがこちらを向く。

「……ん、そうだな」
「ひゃっ!?」

 燕はクロネコの脇に手を入れると、その体を持ち上げる。呆れるほど軽い。アバターとはいえ、ここは“惑星オデッセイ”。人間の体の重さなど、見た目に準ずるものであるはずだが。
 そして持ち上げた彼女を、そのまま自分の足の間に下ろす。

「自己紹介が遅れたな。こいつは――“クロネコ”。俺の相棒だ。ほら――挨拶してみろ。Nice to meet youくらいは言えるだろ?」
「あ、ま、マイネーム・イズ・クロネコ――ってカツラギくんそうじゃないでしょっ!?」
「“クロネコ”か――日本語だね。不思議な響きの言葉だ。どういう意味だろうか?」
「“Black Cat”」
「どうにも、その見た目に似つかわしくない名前じゃないか」
「まあ今時、黒い猫が単に不吉の象徴ってわけでもないだろう。それで――」

 身をよじるクロネコの頭を撫でながら、燕は問うた。

「あんたが“クライン”だとして――そいつは、一体何者だ?」




 ――最初に感じたのは焼け付くような痛みだった、と、彼は言った。

「Railioではカットされているはずの身体的苦痛――気がつけば僕は、脱出用のパラシュートに絡まって、木の幹にぶら下がっていた」

 ゲームオーバー画面は訪れない――こんな状況に陥ったのは初めてである。
 これは、何かの特殊なイベントなのだろうか? “ストラトダンサー・オンライン”はそのゲームの性格上か、要領の限界からか、プレイヤーが生身で歩き回れるエリアはそれほど広くない。それが自分は今――何処とも知れない密林の中で、無様にもがいている。
 焼け付くような痛みの原因は、すぐにわかった。右肩が、上手く動かない。落下した時に何処かにぶつけたか――いいや、そんなはずはない。ここはゲームの世界であるし、何よりもRailioのソフトに、痛みを伴うような表現は許可されていない。

「目の前の状況が何かのイベントだろうが、この痛みは僕自身の異常だ。そう思った僕はログアウトを試みた」

 そう言ってクラインは、何もない空中を二度、つつくように指を動かす。
 その動きには燕にも見覚えがある。通称を“タップ”という、ゲーム内でメインメニューを呼び出す為の動きである。
 燕は何気なく、その動きをなぞる。
 右手を動かした場所に――自分にしか見えない、光の板が浮かび上がる。“ストラトダンサー・オンライン”のものとは若干異なる、“惑星オデッセイ探検隊”用のシステムメニュー。その下部には、きちんと「ログアウト」のコマンドが明滅している。
 このメニューを呼び出す動きは一つではない。空中をつまむようにしたり、特定の言葉を登録して呪文のようにそれを唱えたり――それらを全て忘れてしまった時のために、“それらしい動きをすればとりあえずメニューが出る”という安全機構も備わっている。
 ゲームの中で不利になる、ならないを別にすれば、この仮想世界から帰還することは、実際のところいつでも出来る。

「――君の想像通りだ。僕の目に、メニューウインドウは映っていない。あの時から、ずっと」

 考えてみれば当然だろう、と、クラインは言った。

「僕の仮説では、僕は“ラックス・アブレヒト”本人でなく、その“データ”に過ぎない。この世界で新しく生まれた、“クライン”というデータだ。僕にとってはこここそが現実なのだから、僕が“現実世界にログアウトする”という事などは、不可能だ」
「……」
「納得のいかない、と言う顔をしているね」

 燕は、彼に何と言葉を投げかければ良いのかがわからなかった。だが、彼は首を横に振りつつ、続ける。

「もちろん、僕も最初からこうも落ち着いていたわけではない。だがカツラギ君。酷な事ではあるが――どうにもならない自体に出くわしたとしても、人間は最終的にそれを受け入れるしかない」
「あんたは自分で“酷な”と言った。受け入れるのは、難しいだろう」
「だが、どうすればいい? パニックになったところでここにいるのは自分だけ――パニックになって、何が変わる? 結局パニックというのは極限まで心の乱れた状態だ。おかしな言い方だが――長続きは、出来ない」

 むろん、と、クラインは言った。

「そこに至るまでに時間は掛かった。君は道中、この家の近くにあった畑を見ただろう」
「あんたが“現状を認識せざるを得ない”原因だと言っていた、あれか」
「そう――人間は生きていれば空腹を覚えるし、トイレにも行きたくなる。だが、それは仮想空間を漂う意識ではなく、肉体的な欲求から来るものだ」

 だから仮に仮想空間の中で何かを食べても腹は膨れないし――出来ればの話だが、用を足してもすっきりはしない。当然の話である。

「痛みに耐えかねて傷の“手当”らしいことをした。喉が渇いて仕方なかったので、雨水を飲んだ。当然もよおしてきたので用を足した――本来ならこれらの欲求は、“現実世界”に置いて満たされなければ意味のないことだ」

 けれど、本来何の意味も成さないはずの仮想空間内のそれらの行為で、欲求は満たされた――それが、何を意味するか?

「つまりは、このアバターこそが自分自身――そう言うことだ」

 だから、あの“畑”である。
 仮想空間の中に存在しているあの畑は、燕にとっては単なるデジタルデータの羅列でしかない。高度職業訓練用の高性能筐体の恩恵から、仮にそこで取れる収穫物を口にしても何らかの味はするかも知れないが――当然、“カツラギ”がどれだけ食べ物を口にしても、“草壁燕”の腹が膨れるわけではない。
 逆に言えば、それが実際に、自分にとって必要であるならば――
 おかしな言い方となるが、それを必要としている“自分”とは、一体何か? そういうことである。

「……まあ、そう言う推測は――出来なくもないか」
「君の予想は正しい。僕はその答を認めたくはなかった。実際に頭を抱えて叫び声を上げ、苦しみ悶えた時もあった」
「……」

 知らず、腕の中の小さな相棒を抱きしめる力が強くなっていたのだろう。クロネコが、小さく声を出す。
 だが彼女は、抗議の声を上げることはなかった。
 彼女には理解できない会話の中で――燕がどれだけ、信じがたい事を聞かされているのか。それがどれだけ恐ろしいことなのか――自分の存在で、それが少しでも和らぐならば構わないと、そう言わんばかりに。

「……とどめを刺したのは、俺か?」
「さっきも言ったけれど、君がそれを自分の責任だと思う必要はない」

 クラインは小さく笑みを浮かべ、言った。

「見方を変えれば、僕に対してそれを確かめることは、君の仕事でもある」
「“惑星オデッセイ探検隊”をやろうと言ったのも、死んだプレイヤーのアバターを捜すことに同意したのも俺だ。だが、俺はいくら仕事とは言っても、人に向かって“死ね”というつもりはない」
「そうだとは思わない。今君と僕が行っているのは、単なる現状の確認作業だ。あるいはここに来たばかりの頃なら――僕は今頃、発狂して君に掴みかかっていたかも知れないが……幸い、良くも悪くも、人間というのは慣れるものなのだと理解した……いや」

 強がるのはよそう、と、クラインは言った。

「彼女がいてくれたから、僕は壊れずに済んだのだろう」
「“そいつ”の事か」
「まあ“彼女”とは言っても、そう見えるだけだ。ひょっとすると男かも知れないし――僕らの言うところの性別の概念が通じるのかもわからない」
「そう言うことを言って居るんじゃない」

 ふと、クラインが、隣に座っていたアバターに手を伸ばす。
 そのアバターは、その手を拒もうとはしなかった。その彼の手によって、アバターの顔を隠していたフードが、取り払われる。

「――」

 その下から現れたのは、クロネコと――現実世界に於いては、由香ともそう変わらないだろう年頃に見える、少女の顔だった。クラインは何だかんだと言っていたが、少なくとも燕にも、そう見えた。黒髪に黒い瞳。肌は浅黒く、アジア人のような彫りの浅い顔だが何処か西欧人の雰囲気も感じさせる――そんな顔をしている。

「今更ながら、そいつは何者だ? まさか“ラックス・アブレヒト”の他にも、世界の何処かで人知れずに死んだプレイヤーが居る――だとか言い出すんじゃないだろうな」
「彼女がそう言う存在なら、頭を抱えて発狂する人間が二人になっていただけさ。そう――彼女は厳密には“アバター”じゃない」
「……何?」
「遅まきながら紹介しよう――彼女の名前はトト――トト・エラフタル。僕のようにこの世界に迷い込んだ亡霊でなければ、君たちのような“冒険家”でもない。紛れもない、この未知の世界――“惑星オデッセイ”の、住人だ」



[37800] 第二部 第六話 決して、あなたにはなれないけれど・前
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/01/17 23:28
第六話「決して、あなたにはなれないけれど・前」

 希薄な大気が、震える。
 上空一万メートル――眼下に、雲海を望む。
 オントップコンディション。その雲海はどこまでも続くかのように、地平線の彼方で空の蒼と混ざり合い、上空には何もない蒼暗い成層圏が広がっている。
 そこを切り裂いて、鋼鉄と炭素複合材で作られた翼が、極限のダンスを踊る。F-3“神狼”制空戦闘機――自衛隊に配備が進められている、日本の最新鋭戦闘機。特徴的な前進翼が空気を切り裂き、自身をそれに乗せ、何もない空間の中を自在に舞い踊る。
 一機が、急上昇する。アフターバーナー全開。翼端からは長く霧の帯が流れる。蒼い世界を切り裂いて、何処までも昇っていけそうな勢いで。
 しかしその恐ろしいまでの速度も、今は何の役にも立ちはしない。その後方数百メートルを、影のようにぴたりと追いすがるもう一機。その全身を、この世界から切り取ってきたような濃紺の染に上げられたその機体のコックピットで、パイロットはただ、無感動に空を見つめる。
 空の中に消えていきそうな、低視認性のグレーの翼を見つめる。
 視界の中で照準レティクルが、理想的な距離を教えてくれる。それに従って、操縦桿のトリガーを引き絞る。
 小さく、無機質な電子音が響いた。

『KILL』

 ディスプレイに表示された剣呑な文字を見遣る。パイロットは小さく息を吐き、手から力を抜いた。それまでがむしゃらに機体を押し上げていた暴悪な二基のエンジンは、その手綱を緩められる。機体は大きくループして、ゆっくりと水平飛行に移る。
 キャノピーの向こう側に――こちらと並んで飛行する、ライトグレーの機体。

「本調子ではありませんね」

 パイロットが言う。

『買いかぶりですよ』

 相手の機体からの通信。その声に、疲労の色は無いように感じられる。

「それが買いかぶりというのならば、我々は最初からあなた方に声を掛けはしなかったでしょう――今朝からあなたは、もう五回も死んでいます」
『……』
「とはいえ――草壁さんの気持ちもわかるのです。少し休憩をしましょう。どうやらあなたには、少し時間が必要なようだ」
『しかし』
「他ならぬ“彼”は――あなたにそう言ったのではないですか?」
『……』

 決まりですね、と、パイロットは言った。虚空に手を伸ばし、何かを叩くような動作をする。
 すると――その場所には何処から徒もなく、淡い光のプレートが現れる。その非現実的な光景を彼は見遣り――“ログアウト”の文字が明滅する場所に、指を這わせた。




「で――何となく予想は出来るんだけど、あの二人そんなに参ってるんですか?」
「参っているというのとは少し違うだろうがな」

 近頃“オデッセイ探検隊”の詰め所となりつつあるスターゲイザー・エインターテイメントの社長室である。ソファに深く身を沈めて、チョコレート菓子など口に放り込みながら、あまり緊張感のない声で吉野が言う。
 対して顎に手を当て、溜め息混じりに応えたのは角田である。
 “惑星オデッセイ”に関する事は確かに、現在会社でも力を入れて究明に取り組んでいる事柄ではある。が、専門の研究機関ではないただの営利企業であるスターゲイザー社のこと。結局傍目には会社の部活動――程度の規模を抜け出せていない。燕と由香を除いては、“探検隊”に名を連ねるスタッフは、他に自分の仕事を持っているわけである。
 さりとて、社外の組織が、今以て謎の多い“惑星オデッセイ”の事など、そうそう信じてくれるはずもない。仮想空間体感型ゲームという技術の最先端を扱う企業であるから、今時下手なオカルト雑誌に取り上げられそうな与太話を本気にして無駄金を使っている――などと噂されればたまらない。
 結局何か周りを納得させられる“成果”が上げられるまでは、社員は自分の職務をこなしつつこちらの手伝いをしなければならないわけである。現実の探検は夢や希望ばかりでは語れない――以前社長の田島は由香にそんなことを言ったが、こればかりはどうしようもない。
 だからせめてもの足しにと、割合居心地の良いこの部屋が解放されているわけである。そしてこの場にいる時は、社員同士の立場や上下関係などはあまり気にされず、“惑星オデッセイ探検隊”の仲間として振る舞うことが黙認されている。
 そう言ったことは社長である田島の提案であるが――割合そのガス抜きが機能しているあたり、彼の手綱捌きが悪くはない証拠であろう。
 閑話休題。

「出来れば私にもその辺りのことは聞かせて貰いたい――吉野。確かに私はここにいる間は探検隊の仲間同士無礼講でいいじゃないかとそう言ったが、年頃の女性としてもう少し慎みを持ったらどうだ」

 パンツルックとはいえ足を開いてソファに沈む部下に、置くから出てきた田島がため息をつく。

「そんな社長まで、お母さんやカツラギ君みたいなこと言わないでくださいよ! “リヴァース・フェイス”のキャラデザが終わったの昨日――正確には今朝の三時なんですから。これからも細かいチェックとかあるし、ここにいる間くらいは休ませてくださいよ」
「前途有望な“惑星オデッセイ探検隊”にだらけた空気を持ち込まれても困る。ここは君個人の休憩所ではないのだがね。それとその二人には私でも同情してしまう」
「社長――以前から思っていたのですが、会社組織の中にあって、吉野のような人間がいることは、そう言う事柄に疎い私から見てもどうかと思うのですが」
「うわ角田さんどストレートに。今のにはさすがの私もちょっと心が抉られた」
「そう思うなら普段の行いを省みろ」
「確かに仕事が出来て態度の良くない人間というのは、会社として非常に扱いに困る。吉野の腕は厄介なことに誰もが認めるところではあるからな。いっそのこと、仕事場と称して地下のサーバールームの空きスペースに、座敷牢でも作ろうかと本気で考えたこともある」
「なんというブラック企業――いや、さすがに私、そこまで勤務態度悪くないっすよ!? オンオフの切り替えって言うか――そう言うのはちゃんと出来てるつもりです!」
「戯言はさておいて、だ」

 こういう冗談が言えているうちは、まだ救いがあるのだろうが、と、田島は言った。

「実際のところ、あの二人の精神状態はそこまで危険な域にあるのだろうか?」
「いえ――少なくとも私が見る限り、若干の動揺はあるにせよ、“危険”と呼べるほどのものでは。“惑星オデッセイ”が現実に存在し、そこに死んだはずのプレイヤーが居た――その事実を前にしては、大なり小なり、我々は皆同様を隠しきれません」
「そうだな。では?」
「上手くは言えませんが――戦闘機の空中戦というものは、完全な頭脳労働だと私は考えております」

 確かに、戦闘機の高重力機動に耐えられるだけの身体能力や、持久力、敵機を捉え続ける事の出来る動体視力等々、身体的な資質もまた、切り離して語る事は出来ない。しかし最終的には、全てはパイロットの頭脳が決めるのだろうと、角田は言う。

「天候から機体の状態、兵装や燃料の状態、敵の動向や、仲間の援護――現実的には、自分たちを実際に動かしている政治的判断まで。そう言ったことを背景に、いかにして敵を騙し、味方の援護を得て、勝利を掴むか」
「なるほど、そう言う意味では確かにそうだ。チェスや将棋と言った、思考能力をフルに使う知的ゲームの代名詞は、果たして戦争をモチーフにしたゲームだ。些か短絡的ではあるが」
「ましてや身体的負荷のほとんどが無いあの世界では――と言うことです。プロの棋士もまた、心に不安を抱えた状態で盤面に向かいたくはないでしょう。それがどんな些細なことであったとしても」
「えー、アイドルのコンサートに行きたいが故に、相手を秒殺した棋士の話とか聞いたことありますけど?」
「そういう特殊な例を引き合いに出してどうする」

 角田は吉野にじっとりした目線を送り、続ける。

「そしてあの二人の場合は、更に複雑です。社長、あの二人はどうして、数多のプレイヤーの中から、我々の目にとまったのか? あの二人を“最強”たらしめているものは何だと?」
「何となく言いたいことはわかるが――」
「パイロットである草壁さんは、卓越した空間認識能力の持ち主です。恐らく現役の戦闘機パイロットと比較したとしても、頭一つ以上は抜き出た存在でしょう。機体がどんな状況にあっても、彼は頭の中で、第三者視点からそれを把握できる。操舵能力もそれなりに高いものを持ってはいますが――彼の本当に恐ろしいところはそこだ」

 腑に落ちない、と言うような顔をしている吉野に、角田は言う。

「彼は恐らくどれだけ激しい機動をしていても、常に機体がどんな体勢にあって、どういう動きが可能かを把握している。何も目印のない空の中、重力の感覚さえ消え失せた高重力機動下において、計器を一瞥する事さえせずに」
「……うえっ……そ、それって結構凄いことなんじゃ」
「――“結構”どころの話ではないさ。戦闘機を操縦するという同じ技能を持つ自分からすれば、寒気さえ感じる。その感覚を想像する事さえ出来ない。事実、現実のパイロットでさえ、空間識失調と言って、機体の体勢がわからなくなり、計器も信用できなくなって墜落したという事故は数知れない」
「……君がそう言うのなら、そうなのだろう。では“クロネコ”君の方は?」
「何となくおわかりでしょうが、あの情報処理能力の高さ」

 由香は燕とは違い、機体の操縦能力という意味では、アベレージ・プレイヤーをすら大きく下回る。激しい機動を行う機体に目を回す――とまではいかないが、自分の入力に対して機体がどういう反応をするのか、どうやらそこを繋ぐのが苦手なようである。
 僅かなズレを修正しようとして更なるズレを誘発し、それが最終的に取り返しが付かなくなったり、自分が行った動作に機体が追従していないと錯覚して、過大な舵操作から失速を招いたり。“フライトシューティングゲーム”であるはずのストラトダンサー・オンラインで、普通に空を飛ぶ事すら困難なのである。
 だが――反面、その情報処理能力は、それこそ空恐ろしいものがある、と、角田は言う。

「以前彼女は、通常のフライトオフィサの処理をこなしつつ、こちらが用意した捜索プログラムを複数個、並列で動かしていた事があります。草壁さんや吉野が勉強が云々と茶化していたりで、あまり目立ったものではありませんでしたが――冷静に考えて、あれは常人には不可能なはずの操作です」
「……並列思考とか分割思考とか、って奴ですか? 格闘漫画なんかじゃよくある奴」
「その格闘漫画がどのようなものであるのかわからないが――字面から推測すればそう言うことになる。だが、現実的にその様なことが可能だと思うか?」
「あー……すいません、多分、無理です」

 何かの処理をしながら別のことを考えたりというのは、存外誰でも出来る。だが、吉野の言うような――そして“クロネコ”が実際に行っている事となれば、話が違ってくる。
 ものは、パソコンを操作しながら夕食の献立を考えたりだとか、編み物をしながら歌を口ずさんだりだとか、そう言う程度の話ではない。
 一つ一つに情報の読み取りと処理が必要な作業を、複数個同時に行い、更に本当に必要な情報だけをそこから抽出する――実際には、それを“目で見て読み解く”という処理が加わってくるために、異常とも言える難易度は更に上がる事になる。

「……あの子……何で勉強が苦手なのかしら……」
「苦手意識と、考えるプロセスそのものの違いだろう。頭の回転という意味合いで捉えるならば、ひょっとしてあの子は世界でも有数の天才児かもしれない」

 田島が苦笑しながらそれを言う。

「更にそこに、ここ一番の勘と言いますか――戦う中で必要な直感のようなものが加わってくる。これは言葉で言い表せるものではありませんが、水戸さんにはそれもまた、高いレベルで備わっている。この二つから導き出される指示があまりに的確すぎる。それはまるで、戦場を見下ろす神の目だ」

 常に冷静に最善の戦場分析を下せる頭脳と、その判断を具現化できる操縦能力――その二つが備わったパイロットなど、現実にも存在しないだろう。そんな二人組と互角に渡り合えた海賊プレイヤーなど、その事実だけでも誇れるものだと、角田は言う。

「そして彼らの異常な強さは、自然体で、しかし恐ろしいほど高度な連携が為し得ている」

 単独でも異常に高い能力を持った二人であるが、その二人がお互いを補い合う事で、彼らは実際に、無敵とすら思える能力を発揮する。それが双頭の獣――“ティグリア共和国第501特務航空部隊、チーム・ハイドラ”なのである。

「草壁さんと水戸さんの能力は、個々でも確かに恐ろしいものがある。けれど」
「真に恐ろしいのは、そんな二人がまさに一心同体となる脅威の連携――ああ、それで」
「そう。彼らは気がついていないのだろうが、それは言うまでもなく非常に難しいことだ。少なくとも――心理的に乱れを起こしているような状態で、出来ることではない」

 その心理の乱れとは、普通ならば危険と思われるほどのものではない。人間生きていれば誰しもショックを受ける事柄には出会うが、大概気がついた時に、それらは過去のものとなっている。
 だが、とてつもない難易度の離れ業を、自然体で行ってきた二人にとって――その影響は小さなものではないのだろう。

「しかし、それでも――」

 田島は腕を組み、天井を仰ぐ。

「彼らはまだ若い――幼いと、言っても良いだろう。そんな彼らにとっては無理もないことかも、知れないが」




「――僕は脳神経学については素人だ。少なくとも、仮想空間体感機に携わるような知識を持っては居ない。だがそれでも、自分に起こっている事態が異常であること――それくらいのことは理解できた」

 その時、クラインは言った。
 その言葉は先程までと同じように淡々としていて、感情の起伏は読み取れない。彼が何を考えているのかはわからない。絶望か、それとも諦念か。
 だが――燕がさっきしていたのと同じように、彼の隣に立つ不思議な“アバター”の頭を優しく撫でる彼の瞳は、穏やかだ。
 どうしてそうしていられるのかが、わからないほどに。

「水を飲んだから、喉の渇きが癒えた。用を足したから、尿意が消えた。言うまでもないが、これらの生理的欲求は、仮想空間体感機の中にある意識ではなく、現実の自分の肉体が発するものだ。Railioの安全装置の一つとして、そう言った欲求のレベルを調整するレギュレータは備わっていない。肉体が感じた欲求を、プレイヤーはそのまま仮想世界で感じることになる」

 だから、逆に安全なのだ。
 空腹や、眠気や、尿便意など。そう言ったものをまるっきり無視できるのならば、それこそ死ぬまで仮想空間にダイブし続けるプレイヤーが続出するだろう。かつてテレビモニターの中の世界を、外から眺めるだけだった時代のゲームですら、それに没頭しすぎて衰弱死する事件は存在していた。
 それ故にRailioで、それらの感覚はカット出来ない。肉体が生理的欲求を覚えれば、プレイヤーはゲームを中断して、“生きる”為に必要な行為を行う必要がある。
 仮想空間の中で同様の行為を行ったからと言って、当然現実の肉体にはそれは無関係である。そうすることで欲求が消えたというのは、異常な事態――他に言い様はない。

「そうでなくとも――カツラギ、君はさっきから、メニューウィンドウを出したままにしているだろう?」

 びくり、と、燕の手が震えた。視界の隅には、確かに先程から、何もない空間に浮かぶ、淡く光るプレートがある。

「ああ――責めているつもりも脅すつもりもないから、気を悪くしないでくれ。こんな話を聞いているからには、不安を覚えるのは当然だ」

 だが、と、クラインは言った。

「そのウィンドウが“現れない”ことの恐ろしさは――仮想空間体感機を使った事のある人間なら、誰しも理解できるはずだ」
「……」
「僕は今、一体どうなっている? そんなことを問うても、誰も応えてはくれない。日が昇り、そして沈んだ。時間は過ぎているはずだ。これがRailioのトラブルなら、既に僕の異常は発見されていて然るべきだ。頼むから、誰か僕の目を覚まさせてはくれないか――不思議な世界に放り込まれて、暴虐な女王に殺されそうになった不思議の国のアリスは、最後には姉の声で目を覚ます事が出来たじゃないか――これは現実逃避だろうが」
「そんな――そんなことは」

 燕は首を横に振る。

「俺には、あんたの気持ちはわからない。あんたの言っていることを否定しているわけじゃない。恐ろしすぎて――考えることが、出来ない」
「それが正常な反応だ。他でもない、僕自身がそれを経験したのだから――僕がこんな事を言っても意味はないかも知れないが」

 ともかく――クラインは続ける。

「僕もあの頃の事はよく覚えていない。軽々しく言うように聞こえるだろうが――発狂しかけていたのかも知れない。それが可能なことであるかは、別にしても」

 そんなときに出会ったのが彼女だった。クラインはそう言った。
 “トト・エラフタル”――燕には奇妙に感じる語感の名前。クラインと同じく、この世界には存在するはずのない、奇妙なアバター。

「僕は最初ぼんやりとしていた。もう、何が起きても構わないと思っていた。この世界にはどうやら、現実のジャングルと同じように、鳥や獣が存在するらしい。ならば猛獣か何かもまた存在していて、僕を喰い殺したとしても、それはそれで構わない。ここでない何処かに、行けるのならばと」
「……」
「だから、彼女と初めて会ったときも、そう思った。“超大陸ユグドラシル”には、人が住んでいるという設定はなかった筈だ。しかしそんなことはどうでもいい。突然現れたこの少女はこの大陸の原住民か何かで――あるいはあの“無人機”と同じように、僕を敵だと認識して、襲いかかってくるのかも知れない。だが、それで構わないのだと」

 どれくらい経ったのか自分でもわからず――しかし、森の中をさまよい歩いた果てに、彼は、彼女に出会った。
 突然目の前が開けたかと思えば、そこは畑の様に見える、明らかに人の手が入り整えられた場所――そしてその片隅に、呆然とこちらを見つめる“人間”がいた。
 少なくとも、それはクラインの常識が知るところの“人間”に見えた。褐色の肌に黒い髪――いくつかの人種がハイブリッドされたような、不思議な容貌。しかし顔も体も、普通の人間に見えた。その時の彼女は、裸だった。だから、“彼女”だと、そう思った。

「彼女のこの服は、パラシュートの生地を使ってそれらしいものを作ってみたんだ。カツラギ――君が運営の人間なら、プログラマーかデザイナーに聞いて欲しい。彼らは、布地の質感や縫い目までも、全て緻密に再現しているのか?」
「……」

 同じだ――燕は思った。
 デザイナーである吉野は、アバターや戦闘機を緻密なCGとして描き起こしている。しかし、どれだけ彼女が凝りに凝ったところで、機体の内部やパラシュートの布地までをも、現実と同じように再現する必要はない。
 ではなぜ――それがそこに、存在している?

「まあそれはさて置くとしよう。僕は最初彼女が、僕に引導を渡してくれるのではないかと思っていた。だから警戒などせずに、近づいた。裸の少女に近づくボロボロになった男――絵面としては最悪だね」

 どうしてあんたはそうやって、冗談めかして笑っていられる――それがわからなくて、燕は問うた。
 それはきっと僕にしかわからない、と、クラインは応えた。

「僕がそれをじっくり説明すれば、君はわかるかもしれない。だが、結局そうではないと僕は思う。言葉でどれだけ説明したところで――ね。それはきっと、僕自身にしかわからない。ただ、今の僕は捨て鉢になっているわけでも、気が狂っているわけでもない。少なくとも、僕はそう思っている」
「……いい、続けてくれ」
「どこまで話したか――そうだ。僕は彼女――“トト”に近づき、言った。“やあ、こんにちは”と」
「おい――英語――ドイツ語か? それが、通じるのか?」
「もちろん――通じるわけがない」

 愉快そうに、クラインは言った。
 そこだけを見れば、あるいは彼は気がおかしくなってしまった――そう思ったかも知れない。だが、彼を見て受ける感覚、自分の心が、それを否定する。

「すると彼女はこう言ったんだ――“E-lu Banulih?”」
「……何だって?」
「まあつまりは、彼女たちの言葉で“あなたは誰?”という意味だ」
「――ッ!? 言葉が――わかるのか!?」
「えらく苦労したが、今ではお互いに、お互いの言葉で喋ることも出来る。――×××、×××××、××」

 クラインが何事か――燕には理解できない音の羅列を紡ぐ。
 彼の隣に座る“少女”が――その“言葉”に、小さく頷く。

「Ah……はじめ、まして――わたしの、なまえ、は――トト、です(Nice to meet you, My name is Tohto)」

 果たして彼女の喉から紡がれたのは――舌足らずで、燕と比べても発音が拙い――しかし、ハッキリとした、「英語」だった。




「自暴自棄というのなら、あの時の僕はまさにそうだったのだろう」

 呆然と――もしかしたら口が半分くらい開いていたかも知れない。アバター“カツラギ”が、それを忠実に再現していたとしたらえらく間抜けだ――頭の片隅で、どこか自分自身の事を他人事のように考えながら、燕はクラインの言葉を待つ。

「だから普通に考えれば踏みとどまるような事でも、躊躇いはなかった。つまりは、僕はこの子に恐怖を感じなかった。あるいは彼女が、“クライン”の生命を脅かすほど危険な存在だったとしても――それはそれで構わないと思っていた」

 だから何でも出来たのだ、と、彼は言う。
 言葉は通じなくても、相手が何を言わんとするかを読み取るくらいは、顔を突き合わせて必死で頑張れば何とかなるものである――と、彼は言った。
 そして彼は、この少女がここに一人で暮らしていること。この“畑のようなもの”は実際にその様な役割をしていて、作物を収穫して食べることが出来ること。雨露をしのげる程度の家があって、飲み水は近くの小川から確保出来て――そう言うことが、すぐにわかった。
 少女――“トト”と名乗った彼女は、クラインをそこから追い出さなかった。
 彼女にしてみれば、クラインにとって彼女自身が未知の存在であったのと同じで、自分にとって危険なものであるかどうかもわからなかったはずだ。

「なのにどうして僕を追い払おうとしなかったのか――まあ、そう言うことを思わなくもなかったが」

 クラインは、その理由を話さなかった。
 今であれば――お互いの努力により、トトはある程度の英語を操る事が出来る。ならば、その理由を問いただしても良いはずだ。だが、クラインはその言葉を継がず、当然燕も、そこに口を挟むことは出来なかった。

「僕は現実では、食うに困った事がないからね。まあ、色々と苦労はあった。言葉が完全に通じるようになる前に、一度何か毒のある木の実にあたった事があって――あの時は本当に死ぬかと思った。死んでも良いと思っていた僕ではあったが、みっともなくトトに助けを乞うたよ。思い出したくもない――上も下も滝のようで」
「思い出したくないなら詳細に語るのはよしてくれ」
「これは失敬――いけないな、どうも――やはり、気分が高揚しているのだろう」

 “アバターの体調が崩れる”など、正気の沙汰ではない。燕は鈍く痛む頭を押さえる。

「――聞かないのか?」
「え?」
「僕はそれほど、人の顔色を伺うのは得意じゃない。ましてや君はツバメ・クサカベ本人ではなく、“カツラギ”というアバターだ。だが――僕に何かを聞きたい。そんな顔をしているじゃないか。さっきから、ずっと」
「……」

 その問いに、燕は口を開きかける。
 しかし――何と言ったら良いのだろうか。半分開いた口からは、小さく空気が漏れただけだった。

「あの……よく、わからないんだけれど」

 そんな彼の代わりに、口を開いたのはクロネコだった。

「その――クラインさんは――クラインさん、なの?」
「どういう事だ?」
「だって、その人はそう言ったんでしょう?」
「ああ。それで今は――まあ、今に至る経緯みたいなものを教えて貰っていた。どうもさっきそっちのアバター――ああ“トト”って言うその子が英語を話せたのは、“クライン”が極限状態で、ビビりもせずにばったり出くわしたその子に話しかけられたからだって」
「ああ……うん、そうなの?」
「その辺の事は追々説明してやるよ」

 自分とてえらそうな事は言えないが――それでも、中学三年生の少女が受け止めるには重すぎる話だろう。クラインが外国人であり、自分に彼と話せるだけの語学力があったのは単なる偶然だが、それは幸いだったのだろうと、燕は思う。

「それで、このアバターがクラインかどうかって、そう言う話か?」
「それに関しては、信じるしかないと思う――だって、確かめようがないし、ここに“ストラトダンサー・オンライン”のアバターが居ること自体がおかしいわけだし」
「それじゃ、何だ?」
「何だって言うか――この人がクラインさんだったら、どうしてそんなに、平気でいられるの? ここは、仮想空間。目に見えてる全部が作られたもの――ひょっとしたら、クラインさんにとっては、その子はもちろん、あたしやカツラギくんだって、仮想空間が作り出したまやかしかも知れない。そう言われても、確かめる方法は無いんだよ?」
「それは――そうなんだが」

 むしろそれなら、逆の方がまだ受け入れられる。目の前のアバターは、不正にプログラムを操作する何者かが作り出したまやかしで、自分もクロネコも、その何者かに騙されて、踊らされているだけなのだと。

「彼女は――“クロネコ”は、何と?」

 ふと、クラインが口を開く。燕は少し躊躇ったが、彼女が口にした言葉を、訳して伝えてやる。むろん、自分の語学力などたかが知れている。あちらもネイティブスピーカーではない。それがどれだけ伝わっているかは、わからないが。
 その事実が何故か――少しだけ自分の心を安心させる。それを、燕は感じていた。

「――なるほど、ね」
「何が言いたい?」
「彼女が感じているのは、恐らく恐怖の類だ」
「恐怖? 恐怖というのなら――悪いが、今のあんたを目の前にして、それを感じるなと言う方が無理だろう」
「未知との遭遇、“惑星オデッセイ”に内在する脅威――そう言った、わかりやすいものではない」

 クラインは言った。

「彼女が英語を理解できないのなら、むしろ今から僕が告げることは黙っておいてくれないか? 君たちがこの未知の大地に挑もうと言うのなら――僕の言葉は、きっと彼女を惑わせる。そしてその惑いはきっと、君たちの足かせになる」
「……」
「そもそもカツラギ、君は、何者だ? 肩書きを聞いて居るんじゃない。君の本名はツバメ・クサカベだったな。それは一体、何を意味する言葉だ?」

 彼の言葉に、燕はすぐには応えられない。
 そんな燕に、彼は続ける。

「“うちの国”の有名な哲学者は言った。我思う、故に我あり――君の国でこの言葉の知名度がどれほどのものかはわからないが、字面から想像出来るとおりの事だ。勘違いして欲しくはないが、僕は哲学なんぞ、暇を持て余した人間の戯れ言だと思っている。いや、哲学者連中も、僕のような人間にだけは言われたくはないだろうが」
「……難しい話は苦手だ。おまけに、俺はあんたが思うほど英語に堪能じゃない」
「まあ、そういう格言を引っ張り出すまでの事もない。人は他人になることは出来ないんだよ、カツラギ」
「――」
「僕らは自分の目で見た世界しか認識できない。僕という人間としてしか、存在できない。どれほど近くにいたところで、僕は君にはなれないし、君として世界を認識する事も出来はしない」

 けれど――と、クラインは首を横に振る。

「僕は既に、“ラックス・アブレヒト”じゃあない。現実のラックスが死んでいるというのなら、その事実は明白だ」
「いや、それは(Then…But――)」
「“But”などと、否定をしても始まらない。僕はラックスとして生きている筈なのに、既にラックスではない――では、僕は一体何者だ? この謎多き世界に突如として生成された不正規アバター、クライン――そう言うことが言いたいんじゃない。今僕自身として、世界を見ているこの“僕”は――一体、誰なんだ?」

 そこまでまくし立てて――ややあって、クラインは、肩をすくめた。

「そう言うことを考え始めたら、とても正気ではいられない。永久に出口のない迷路を、たった一人で彷徨っていろ――そう言われたに等しい」

 そこで、燕は気づく。
 現状がきちんと認識できていない自分は、自分の中に渦巻く、言いようのない不安なような、淀んだ何か――それが何なのかが、わかっていなかった。それがクラインの禅問答じみた言葉により、確固たる“恐怖”として、理解できた。
 言葉には力がある。漠然とそこにあるだけの何かを、明確な“なにものか”として認識させる力が。
 クロネコは、少なくとも自分よりは純粋だと、燕は思う。単純に幼いと言い換えてもいいくらいの年齢であるし、自分ほど周りに合わせて生きる事が、得意ではない。言い換えれば――確固たる自分を持っている。
 少なくとも、“妹分”に格好を付けることも出来ず、馬鹿げた仮面を被り続けていた自分よりは。
 だから彼女は――自然に、その恐怖を感じ取ってしまったのだろう。
 普通ならば耐えきれない程の恐怖を感じ――尚平然としているクラインが、信じられないのだろう。

「いや――そう言う意味では、僕はもうとっくに壊れているのだろう」

 ふと、クラインが言った。

「何がと言うのではない。その問いかけは、既に無意味だ。けれど、僕は――今の僕を動かしている、この感情は」

 そこで彼は、隣に座る少女――“トト”の肩に、そっと手をやった。
 “トト”の方は、一瞬戸惑ったように、顔をクラインに向ける。

「××××」

 クラインが、何事かを彼女に言う。その言葉を、燕は理解できない。きっと彼女が使っていたという、未知の言語だろう。
 その言葉を聞いて――どこか冷たい固さを感じられた彼女の表情が、ふっと、緩んだ気がした。そのまま彼女は、すっとクラインにすり寄る。犬のように、その首筋に鼻先を押しつけるようにして。

「?」

 彼は一体、彼女に何を言ったのだろうか?
 どことなく――“トト”の見た目のせいもあるが、犯罪じみた絵面だな、などと、間の抜けた事を考える。表情からそれが伝わったのだろうか。クラインは苦笑する。

「トトを、安心させてやりたかった。この子にとっては、君たちの存在は僕以上に異質なものである筈だったから――カツラギが思うような性的な感情を、僕はこの子に抱いてはいない」
「ああ……すまん、俺の語学力なんざ、悪友の付き合いで自然と身に付いたものだが――もう少し勉強しようと今、切に思った」
「僕と君では、少なくとも十分に意思の疎通が出来ていると思うが?」
「いやまあ……それは良いんだが、急に何なんだ? お前はその子に、何を言った?」

 ――その子――本当に存在しているかもわからない、“トト”というそのアバターを、自然と外見通りの扱いをしようとしている。その事実に、燕は気がつかない振りをする。

「××××」

 クラインがまた、何かを言う。
 彼にすり寄っていた少女が、こちらを向いた。

「……え?」

 そのまま、彼女は立ち上がり、そして燕の前に歩み寄る。
 手を伸ばせば、楽に顔に触れられる。その程度の距離から、じっと彼女の黒い瞳が、こちらを見つめている。そこに映るのは、当然アバター“カツラギ”の姿。
 その姿が急に大きくなる――いや、“トト”が、その身をこちらに近づけて来る。
 燕は、その行動に理解が出来ず、動けない。やがてお互いの息が掛かりそうな距離にまで、彼女の顔が近づいて――

「ちょ、ちょっと待った!? いきなり何見つめ合っちゃってんの!?」

 我に返ったクロネコが、そこで二人の間に割り込んだ。

「いやそれは俺の方が聞きたい。クラインがその子に何を言ったのかわからんが」
「本当に!? だってカツラギ君英語わかるじゃん!」
「今のが英語に聞こえたんなら、お前本当にもうちょっと勉強した方がいいぞ。別の理由で俺も勉強し直そうと思ってたところだから、一緒に――」

 燕の言葉は、そこで途切れる。いつのまにかトトが、じっとクロネコの方を見つめていたからだ。
 白人の少女然としたアバター“クロネコ”と、褐色の肌と黒い髪を持つ“トト”というアバターは、非常に対照的に映る。と――トトの手が、クロネコの顔に伸びた。

「ひゃっ!?」

 そのまま、クロネコの輪郭をなぞるように、トトの手が、彼女の顔を滑る。

「ちょ、ちょっと――やめてって! 何かそれ、ぞわぞわってするから――顔っ! 顔が近いよ!? 息が怖い――匂い嗅がないで!?」
「お、おい――クライン!」
「心配はない」

 見た目に対照的な二人の少女のやりとりを、面白そうに眺めていたクラインは、小さく言った。また――燕には理解できない、あの言語で。

「×××××、××××」

 その言葉を聞いたトトは、クロネコの顔をもう一度覗き込み、そして、言う。

「“カツラギ”――“クロネコ”――あなた達も、私、に、同じ?」

 拙い英語――しかし燕にははっきりと、そう聞こえた。




「ともかく、現実の彼は既にこの世にはおらず――“惑星オデッセイ”の中に、その意識だけが生き続けていた。そのプログラムデータがいかなるものなのか、我々には理解できないが――事実だけを見れば、そういうことになる」

 しばし、つい先日あったばかりの事を思いだして、思索に耽っていた田島は、ややあってそう言った。自分でもまだ、その話が信じられたわけではない。それを言外に物語る表情で。

「彼が本当に“クライン”であるのかは、彼の言葉と現実の照合を待たねばならんだろう。いや、結局はそれも状況証拠に過ぎないのだろうが。現実のアブレヒト氏を、我々は知っていたわけではない。ならば綿密に彼のことを調べた誰かが、この茶番を仕組んだと言うことも」
「何のために?」

 だが吉野の一言は、そんな田島の迷いを斬って捨てた。

「……年を取ると頭が固くなってな。そう簡単に認めてやれない事も増えてくる」
「社長はそう言うガラじゃないでしょう」
「君は芸術家肌だが、もう少し社会人としての礼儀も覚えておいた方が良い――まあそれはそれとして、留守中の彼らの事は君に任せる。果たして今の我が社で、彼らと最も交友があるのは君だからな」
「いかにも納得できないように言わないでくださいよ。私はこういう性格だし、カツラギ君やクロちゃんと年も近いから適任でしょ?」

 田島を含めた数名は、これからドイツに向かうことになっている。表向きには、欧州市場の視察と軍事関係者への取材――しかしその実、“クライン”の口からもたらされた情報が、現実の“ラックス・アブレヒト”の遺したものと一致しているかどうかの確認である。
 当然本人しか知りえないような事が一致すれば、彼の存在はより確かなものとなる。
 むろん――常識で考えれば、田島の言うように、ラックス・アブレヒトの事を緻密に調べ上げた誰かの悪戯――それが一番妥当である。その行為に、全く何の意味も感じないものであるにしても。

「しかし――気になりますね。彼の言葉が」

 角田が言う。
 あれから――一旦燕とクロネコがログアウトしたあとも、角田を含む何名かが“惑星オデッセイ”に降り立ち、実際にクラインと言葉を交わした。
 証拠となるべき情報もまた、その時にクライン自身の口からもたらされたものである。
 その中で、彼は言った。自分が趣味で考古学を囓っていたことを知っているか、と。
 その問いかけを不思議に思いつつも、角田はそれを肯定した。

『ならば、一つだけ注意してくれ』

 クラインは真剣な表情で言った。

『僕の家に――いや、今は警察か僕の家族が持っているかも知れないが――僕の研究成果を纏めた文書と、その為の資料がある。それは僕が独自に調査を行い、いくつかの遺跡――いや、まだ遺跡と確認されたわけでもないが――から発見したものだ』

 それが何の意味があるのか、と言う角田の問いかけに、クラインは応える。

『断片的だが、いくつかのテキストがある』

 それは彼が遺跡“らしきもの”から発見した、未知の言語であるという。
 それが本当ならば、考古学的にはかなりの発見であるだろう。しかし、今この場で、それが何の意味を持つのか? それを彼が解読しようとしていたというのならば、その研究成果とクラインの言葉が一致すれば、それなりの“状況証拠”として確かなものであるが。

『そうではない、これは警告だ』

 それを、クラインは否定する。

『“カツラギ”や“クロネコ”は当然として――君を含めて、“惑星オデッセイ”に降り立つ可能性のある人間は、決して、それを、見るな』

 それは研究上の機密という意味か――と、角田は問うた。気持ちはわからないでもないが、既に“ラックス・アブレヒト”が死亡している現状で、その行為に意味はあるのか?
 しかし――クラインは、首を横に振って、その言葉を否定する。

『そうではない。単純に、君の身の安全のためだ』

 彼は言った。

『今はまだ、理由は言えない。確証がないし、そもそも信じられる話ではない。だが――このまま君たちが僕の言葉を確かめようとするならば、必ずそのテキストに行き当たる筈だ』

 もう一度言う、と、彼は強い調子で告げた。

『“ここ”に来る人間は、決してそのテキストを見るんじゃない。何となれば、テキストの解読をしようとするのも構わない。しかしそれは“ここ”に来る可能性のない人間だけに限定させてくれ。いいか――視界に、入れるな。それは、“危険”だ』

 ――僕のような目に遭いたくなかったら――

 その言葉は、“惑星オデッセイ探検隊”の心に、重くのしかかった。




「まあ――今焦っても良いことなど何もない。十分な証拠を得た上で動き出しても、何も遅いことはない。もともと一朝一夕にカタが付くように思っていたわけではないのだから――とうの彼らには、もうスケジュールは伝えたのかね?」
「ああ、それでしたら、今日角田さんが伝える予定だったんですけど」

 田島の言葉に、吉野が軽く手を挙げ、応える。

「今朝方カツラギ君から、お休みの連絡貰ってます」



[37800] 第二部 第七話 決して、あなたにはなれないけれど・後【第二部完結】
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/02/08 23:49
第七話「決して、あなたにはなれないけれど・後」

 軽い電子音に気がついて、燕は台所から顔を出してリビングに足を向ける。とは言え、場所は首都圏のベッドタウンにある、それなりのコーポであり、広さなどたかが知れている。
 “同居人”曰く、この狭さが良いんじゃないかと言うことであるが。燕としてもむろん、むやみとだだっ広い部屋に住みたいとは思わないが、自分が大学に通うのに下宿していた学生用のマンションに比してもそれほど広くないこの部屋の家賃には思うところがある。
 それはともかく。
 リビングとは言ったが、結局そこが生活スペースになるのである。果たしてその壁際には折りたたみ式のベッドが広げられ、今はその上に、シーツにくるまった何かが鎮座している。

「検温だぞー」

 燕がその“物体”に声を掛ければ、シーツの一角がめくれあがり、白く細い手が伸びてくる。燕はその手に握られていたもの――デジタル式の体温計を受け取って、ディスプレイを一瞥する。

「38度7分か……結構高いな。どうだ? 吐き気がするとか腹が痛いとか、そういうのあるか?」
「ううん……でも、喉が、痛い。関節、というか、腕とか足とかが、何かひりつく……」
「――まあ、ノロとかインフルとかそう言うのじゃなさそうだしな。どうだ、あんまり食欲もないと思うが、お前昨日の夜から何にも食べて無いし、食べられるなら何か作るぞ?」
「……カツラギ、くんが?」
「一人暮らしの大学生ナメんなよ。自炊が上手くルーチンに入ったらお前、楽なバイト一つ分くらいの節約にはなる――と、これはお前には釈迦に説法とか言う奴か。お前、料理は普通に得意だもんな」
「別に、得意って、わけじゃ」
「いつも自信満々なクロネコさんがどうしたよ。胸張って良いと思うぜ? 中学生であれだけ出来りゃ、文句の一つも出ようがねえ」

 燕は苦笑して体温計をケースに戻し、テーブルの上に置く。どうせ定期的に使う必要があるのだ。救急箱に戻す必要はないだろう。

「そう言うわけで、男の手料理だからな。お前と同じレベルは期待出来んだろうが、欲しいものがあるなら言ってみろ。なるべくリクエストには応えてやるよ。喉が痛いなら、お粥とかそういう……」
「ごめん……あたし、お粥苦手。あの何か、どろっとした、でもカタマリ感のあるお米が、何か苦手」
「よくわからんが、どういう感じなら行けそうだ?」
「お茶漬けかお雑炊だったら……」
「あんまり変わらん気もするが。そんなので良いのか?」
「うん……あのね、わがまま言っていい? たまごの、お雑炊が食べたい。鰹節のお出汁で、おしょうゆでちょっと味付けて、溶き卵入れて蒸らしたの。前にね、あたしが酷い風邪引いたときにお母さんが作ってくれて、それから、なんか……風邪引いたときにあれ食べたら、何か元気が出る気がするの」
「おっけ。まあどうしたってお前の親御さんレベルは無理だろうが、似たようなモンで良ければな」

 燕は“シーツの塊”を軽く撫でると、立ち上がる。
 その背中に、声が掛けられる。

「いいの?」
「今更だろ」
「でも――あたしと一緒にいたら、カツラギくんにも、移っちゃうかも」
「移る感じじゃ無さそうだし、そもそもほっとくわけにもいかんだろ。これで俺も共倒れになったらまあ、その時はその時だ。一緒に地獄に付き合ってくれ」

 さて土鍋は何処にやったか、と、燕は台所の戸棚を探る。こちらに越してきてからこちら、引っ越しの荷ほどきから片付けまで、妙に張り切る由香に任せっきりだったのがいけなかったのだろう。自分の部屋であるはずなのに、何処に何があるのかわからない。特に普段立ち入らない台所などは酷いものである。
 さりとて――今の彼女に助けを乞うなど以ての外である。
 かなり小柄な彼女は、土鍋のような重量物はそれほど上の方に収納はしないだろう――そう読んでシンクの戸棚を開けてみたら、目的のものはそこにあった。しかしこの推理をいちいち繰り返しながら料理をするのはかなり骨だな、と、燕は一人ため息をつく。もちろん、リビングで床に伏せている由香には聞こえないように。自業自得と言えなくもないのであるから。

(――忘れてた)

 台所の椅子に掛けてあったエプロンを装着する。普段由香が使っているものだからサイズは小さいし、デザインも大の男が着けられたものではない。恐らく今の格好を吉野あたりにでも見られたら、自分は即座に裏の窓から川に身を投げるだろう。それで死ねる可能性が相当に低いものであったとしても。
 一人暮らしをしていたときのエプロンは、かなり汚れていたのでこちらに来る時に捨ててしまった。以来、ここの台所を仕切っていたのが由香だったから、買い直してもいない。

「……何というか……俺も結構駄目だよなあ……」

色々文句を言い、吉野あたりに愚痴をこぼし――その実、一人ではない今の現状を心地よく思っているのだから、自分勝手なものだ。格好など付けられない。

(その上で“本業”は調子が出ねえ……と。今の時点じゃ“クライン”に関する調査が優先されてるから、俺たちの空戦能力にはそれほど出番がないとは言え――)

 だったら何故、自分たちはここにいるのか。いつしか自分の肩書きは、平凡な大学生から特殊な会社員になってしまった。そうなることが出来たのは、どうしてか? あの時妹の前で「惑星オデッセイの探検を辞めようとは思わない」と、啖呵を切ったのはどうしてだったか?

(俺たち、というか――わかってるさ)

 燕は炊飯器の蓋を開けながら、一人ごちる。

(俺の操舵能力なんて、結局そこらの上級プレイヤーと変わらない。単独じゃ――多分、あの海賊野郎にだって勝てやしない。結局“チーム・ハイドラ”は“クロネコ”で持ってるんだって)

 その事に、歯がゆさのようなものを感じてしまうのは、仕方がないことか。彼女が自分の古い知り合いだったという事実も含めて――“クロネコ”が自分の側に居るのは、実はとてつもない幸運なのだろう。
 燕は、息を吐く。

「……マジであるんだなあ、“知恵熱”って奴」

 昨晩頃から、何だか寒気がすると由香が言い出した。当然、八月の暑い盛りである。冷房を掛けていて尚、それでも“寒い”と感じるにはほど遠い。早々に寝かしつけはしたが、朝になってみれば彼女は既に動けなくなっていた。
 電話で吉野に、由香の体調不良と、それの看病のために自分自身の休暇を申し出ては見たが――電話口の声から察するに、もしかすると彼女も、由香の状態を察していたのかも知れない。
 そう――燕は由香の体調不良が“それ”であると、あたりを付けていた。
 確かに風邪と言えばそうなのだろう。しかし彼女は体調を崩す前――“クライン”の話を聞いてから、明らかに考え込むことが多かった。角田との模擬戦闘の間でさえも、何処か連携に淀みが出るほどに――それは、燕も気づいていた。
 クライン自身がそう言っていたから、彼との会話は彼女にはぼかして伝えていたつもりだったのだが――

(それでも大体のところは伝わっちまうだろうし、あの“トト”ってアバター――クラインに言わせるなら“惑星オデッセイ原住民”か。あいつのあまりの生々しさが――)

 空調が微妙に行き渡らず、少し蒸し暑さを感じる台所で、それでも背中に感じる寒気のようなもの。
 燕は、無意識に顔に手をやる。
 仮想空間の中とはいえ――彼女の吐息の感触、かすかな匂いまでもが、鮮烈に残っている。
 クラインとトトは、現実に迫るリアリティを持ったデータが見せる、ただのまやかしなのか。それとも、本当に“惑星オデッセイ”という、自分たちの手の及ばない場所に、存在している人間なのか。
 そして――

「……」

 考えを打ち切るように、燕は土鍋に水を張って火をかける。由香のリクエスト通りに鰹節で出汁を取ってから、炊飯器から移したご飯を投入――醤油で味付けをしてから、適当に解きほぐした卵を回し入れ、一旦蓋をする。
 料理と呼んで良いのかもわからないほどのお手軽料理であるが、その分これは彼女が所望しているものと同じなのかがわからない。味付けのさじ加減も、自分の適当である。

「ええい、ままよ」

 だが、何を言ったところで自分に出来るのはこの程度のものなのだ。適当な分量を器に移し、ネギを散らし、レンゲとお茶の入ったグラスと一緒に盆に載せ、燕はわざと気の抜けた声で、台所を後にした。

「ほれ――ご注文の卵雑炊、お待ちどうさん」




「体起こせるか? しんどいとは思うけど、ちょっと我慢しててくれよ」
「ん……へいき。その匂い嗅いだら、何かお腹もすいてきた」
「それは何より」

 何かの期待に満ちた目を、由香がこちらに向けてくる。今くらいは、我が儘を聞いてやっても良いだろうと、燕は盆を自分の脇に置いた。

「辛いなら食べさせてやるよ」
「ほんと? えへへ……今日のカツラギくんは優しいね?」
「さすがに病人相手じゃ優しくもなるだろ。ほら、ちょっと体起こしてくれ」

 由香の背に手を添えて、彼女が上体を起こすのを手伝ってやる。薄いパジャマの生地は、しっとりと汗に濡れていた。

「ごめんね……今あたしちょっと、汗くさいよ」
「多分それだけ熱も下がってる。病人は余計なこと気にするんじゃねえっての」
「……へへ」
「どうした?」
「何でも……あ、カツラギくんごめん、さっき寝苦しくてズボン脱いじゃった」
「体が冷えなきゃ構わんが、黙ってりゃわからんことを宣言しなくていいぞ」
「大丈夫パンツははいてる」
「宣言しなくて良いと言ったよな?」
「さっき汗かいてから体がほかほかするの。正直なところ、今、裸になってシーツにくるまれたら気持ちいいんじゃないかなって思ってるんだけど」
「元気なんなら料理下げちまうぞ」

 ごめんなさい冗談です、と、頭を下げる由香に、燕は小さく息を吐く。吉野には何を言われるか知らないが、この手の冗談は流すに限る。
 レンゲで軽めに雑炊をすくって、少しだけ息を吹きかけて覚まし、お決まりの「あーん」という言葉と共に由香の口元に持って行く。
 彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに、レンゲに食いついた。

「はふっ……あひっ、あちっ……」
「あ、すまん。まだちょっと熱かったか?」
「んぐ――大丈夫。ちょっとびっくりしただけ……おいしい。お母さんが作ってくれたのと同じ味がする」
「その台詞はそこはかとなくお前のオフクロさんに申し訳がない気がしてならん。適当だったから、上手くいったんなら何よりだが」
「ほんとだよ? ね、カツラギくん、ほら、あーん」
「へいへい」

 甘ったるい遣り取りを暫く繰り返すうちに、器の中の雑炊は空になった。由香がグラスのお茶も綺麗に飲み干したのを見て、燕はようやく少し安心する。

「ごちそうさま」
「おかわりもあるけどどうする?」
「あ……今は、もういいや」
「わかった。胸焼けとか、吐き気は無いな?」
「うん……なんか、満足。しあわせ」

 そのまま由香は、ころりと枕に仰向けになり――

「……汗が何か気持ち悪い……」
「結構熱が高いからな。しばらくは汗かくと思うが――シーツだけでも換えるか? 動けるだけの元気があるなら、風呂の用意でもしてやるが」
「風邪ひいてるのにお風呂に入って大丈夫なの?」
「疲れるほど長湯しなきゃかえって体にはいいそうだ。ヨーロッパの民間療法じゃ水風呂に浸かったりとか。さすがにそれはやりすぎだって言われてるそうだが。そもそも向こうは、お湯を張った風呂に日常的に浸かる習慣があんまりないみたいだしな」

 どうだ? と、燕は由香に問う。

「ごめん、何にもしなくても……何だか、疲れてる感じがする。お風呂は、ちょっと無理かも」
「そうか」
「でも、服は着替えたい」
「わかった――あ、蒸しタオル作っとくから、体拭いとけ。いくらかはマシだろ」
「カツラギくん、拭いてくれる?」
「……顔とか手足は拭いてやるから、体は自分でしなさい」
「だって、今、手に力が入らないもん……背中とか絶対無理だよ。お腹だって怪しいのに――あたし、気にしないよ? そりゃ、ちょっとは、恥ずかしいけど」
「恥ずかしいなら我慢しろよ」
「恥ずかしいんだけど……あのねカツラギくん、あたし、カツラギ君の前で裸になりたい」

 氷のような時間が流れるのがわかった。
 由香が自分に好意を寄せてくれているのは、何だかんだと言いつつも嬉しい。
 耳年増――というよりは、この情報化社会の中で育てば致し方ないのだろうか。彼女が精一杯背伸びをして、自分を“誘う”のも、この際年長者として暖かい目で見守れる。
 だが不幸にも、そんな彼女の性癖までは――この際、遠くない将来の自分と彼女の関係を、精一杯拡大解釈したところで、笑って受け入れるのが当然とは言えないのである。

「……い、いや、違っ……そうじゃなくてっ! カツラギくん、違うよ!? 君が思ってるようなのじゃなくて! あたし、エッチな話題は好きだけど変態じゃないからね!?」
「出来ればそっちも自重してくれ。あと、弁解の機会は与えてやるから無理して大声出さなくて良いぞ」
「だから違うって! その……頭がぼーっとして、変なこと言っちゃったけど」

 咳払いをしつつ、由香は言う。燕は食器の片付けをしながら、とりあえず彼女の言葉を待った。

「改めて言うのも、何か凄く恥ずかしいんだけど」
「内容を自覚してるなら心にしまっておけよ……会社でそういうことぽろっと口に出してみろ。ガチで俺、逮捕されるぞ」
「吉野さんが居るから多分大丈夫」
「……あの人そのうち逆セクハラとかで捕まらなきゃいいがなあ」

 溜め息混じりに言う。言葉とは裏腹に、一割くらいは本当にそういう可能性もなくはないかなあ、という期待と共に。彼女の事は嫌いではないが、顔を合わせれば二度に一度は由香との事をからかわれるのでは、たまったものではない。
 今の自分の状態が普通でないことくらいは、理解していても、である。

「あのね? あたし……その、男の人と一緒にお風呂に入るのが夢なの」
「……何でまた」
「違うよ? とりあえずその、お風呂に入ってエッチな事するとか、その後にどうこうとか……いや、そう言うのも、全然なくは、ないけどっ! 普通に、一緒にお風呂に入るの」
「混浴の温泉にでも行けば夢は叶うぞ?」
「そうじゃなくて――カツラギくん今のはさすがにわざとでしょ!?」
「ああうん……すまん。でも正直、意味がわからんというか。そう言う趣味があるんでなけりゃ、どういう事だよ?」
「もちろん、誰でも良いってわけじゃないからね? 言い直すよ? カツラギくんと一緒にお風呂に入りたい」
「だから何で?」
「何でって言われると困るんだけど……一言で言えば、恋人なら、そういうこと、出来るでしょ?」
「なら“恋人になりたい”でよくね?」
「それは日頃から言ってますし」

 ぺろり、と、由香は舌を出す。大きな瞳が薄く細められたその笑顔は、いつもの少女には無い何かを感じさせるもので。燕は思わず、目を逸らしそうになった。

「……カツラギくん?」
「何でもない」

 平静を装えたのは幸いだったかも知れない――そうか、と、気づく。由香は今、眼鏡を掛けていないから、こちらの表情がよく見えないのだろう。それにしても、彼女の顔にあの大きな眼鏡はあまり似合っていない気がする。現に今こうして眼鏡を外した彼女の印象が、いつもと大分違う気がして――

「ともかくその、恋人だから出来ること、でさ――あたしが一番してみたいのが、それ」
「ふうん……まあ、理解できてるとは思わんが、納得はしたよ」
「背中流しっこしたりとか、髪洗ってもらったりとか、並んで湯船に浸かって数を数えたりとか、お風呂上がりにお互いの体を拭いてあげたりなんて」
「いかにもなカップルだな。頭に「バ」が着くような。まあ、そういうのならわからなくもない」
「カツラギくんさえ良かったら、あたしのそのささやかな夢はいつでも叶うんですが」
「今はとりあえず風邪を治すのが先決だがな」
「え? 風邪治ったらいいの!?」
「違えよ!!」

 とはいえ、今の自分たちにはまだこういうものが似合いなのだろう。燕は息を吐きつつ首を左右に振り、立ち上がる。

「溜め息の数だけ幸せが逃げるってのが、迷信だと良いんだがなあ」
「あたしが息吹き込んであげるよ?」
「俺の肺を破裂させる気か」

 さて、と、燕は心の中だけで呟く。
 由香は表面上――いつも通りに見える。先程のやりとりで何処かのスイッチが入ってしまったのか、弱っていたのが嘘のように感じる。むろん、そう見えるだけで実際にはすぐさま体調が回復するはずはない。
 だが――彼女の抱える不調は、単なる風邪などではない。
 表面上いつも通り振る舞えたとしても、その原因が取り除かれなければ根本的な解決にはならない。しかし、どうすればそれが出来るのか。あるいはその鍵を握っているのは、“未知の惑星”に棲まう、彼らなのかも知れないけれど。
 間違っても今――少なくとも、今のまま何も変わらない状況で、由香を再び彼らに会わせる事は出来ない。燕は、そう思う。
 ならば、自分は一体この少女に、何をしてやれるのだろうか。彼女に背を向けたときの自分の表情は、きっと見せられたものではなかっただろう。燕は、そう思った。




「……しかし、やっぱり何かあったときに困るよなあ」
「んぷ……何が?」

 由香の顔を、電子レンジで作った蒸しタオルで拭いてやりながらの燕の呟きに、彼女は首を傾げて問うた。

「こういう事になったときに、俺とお前みたいなよくわからん関係の二人暮らしだと、色々不都合が出るって事だ。お前の着替え用意してやってる時とか、変な考えがなくても何とも言えない気持ちになったぞ」
「その水色のブラ可愛いでしょ? あたしがスポブラ卒業したときに、ミナちゃんと一緒に買いに行ったの。おそろいで。……もちろん……カップは……アレだけどさ……」
「俺には何一つ掛けてやれる言葉がない上にもの凄く反応に困るから、そういう事は黙っててくれ」

 お前も何となくわかるだろ、と、燕は言った。

「ほらアレだ。家族でテレビドラマなんか見てたときに、唐突に濃厚なラブシーンが始まったりなんかした時の」
「ああ……うち、一人っ子だし、お母さんがあんまりテレビ見ないから、クリティカル起こした事はあんまりないけど。カツラギくんのところはそういうのあるの? でもこれはそう言うのとは違う気もするけど」
「かと言って俺がその話題に食いついてきたら嫌すぎるだろ」
「責めないってば。男の子なんだし」

 首筋の辺りを、少し強めに拭いてやる。そんなことがあるはずもないのだが――指を押し返す感触が、少し恐ろしい。本当に、簡単に折れてしまいそうなほどに、由香の体の線は細く、小さい。そして自分と同じ物質で出来ているとは思えないほど柔らかく、滑らかだ。

「下着の着替えとその辺拭くのはあたしが自分でするから、それ以外はお願いしていい?」
「ええ……?」
「カツラギくんこの前、普通にあたしの水着姿見てるじゃん。隠れてる面積一緒だよ?」
「そうかも知れんけど、何か良くねーだろ、そういうのは」
「もう、どんだけカタいのカツラギくんは。そりゃ確かに、あたしはまだ中学生で、カツラギくんはもう成人の大人の男かも知んないけどさ?」

 それでも今の道を選んだのは自分の意思だと、由香は言う。燕がそうしたのと、何も違わない。

「あたしがカツラギくんに何かされたって、誰かに言うと思うの?」

それくらいの覚悟はしていると、彼女は言った。もっと言えば、それは“覚悟”などという、負担を強いるような悪いものではない、と。

「そりゃまあ、やって良いことと悪いことの線引きくらいはあると思うよ? あたしとカツラギくんの間柄も、わかってる。けどそれって、ほんとーに、そんなに悪いこと?」
「恋人同士がやることなら別に何やったって構わんだろうよ。年の差だってまあ常識の範囲だしな」
「……お?」

 意外そうに、彼女は目を丸くした。

「何だ?」
「え? いや……カツラギくんは、何か違うのかと思ってた」
「はあ?」
「その……あたしがまだ十四で、ミナちゃんの友達で、“オデッセイ探検隊”の相棒だから、“だから”そう言うのは駄目なんだってそう思ってるのかと」
「……ああ、そう言うことか」

 燕は頭を掻いた。正直――気づいて欲しくはなかった。いや、そう言うのは語弊があるだろうか。成り行きでこういう生活を始めて――考えないようにしていたかった。結局自分は、ただの男だということを。

「俺がお前に手を出したり――まあ、そう言うことをしないのは、それが間違っているからだとか、お前が俺の相棒だからだとか、そういう“建前”あっての事じゃない。単純に、恋人でもない女に手を出したらその――面倒だろ」

 口に出して、身も蓋もないと思った。由香の瞳を正面から見るのが、何だか躊躇われるような感覚。
 面倒だというのは言い方が悪いかも知れないが、結局はそう言うことだろう。少なくとも、自分はそう思う。世の中にはそれを何とも思わない――それほど気にしない人間も居るのだろうが、少なくとも燕は違う。恋人ではない女性に手を出して、それと当然としてはいられない。
 あるいはそれを“カタい”と言うのなら、そうかも知れないけれど。ただ由香が考えているようなものとは、明らかに違うだろう。まだ幼い彼女とは、確実に。

「お前には――こういう事言いたくなかったんだよな。何か、軽蔑されそうで。それに二人っきりで辺に意識してギクシャクすんのも嫌だしさ」
「え? ああ……」

 果たして由香は――呆れたように言った。

「そんなこと?」

 そして、続ける。

「正直、ちょっと、安心したよ? 確かに、意外。カツラギくんはてっきり、極度の草食系なんだろうって確信してたけど、そう言うのとは、違うんだね?」
「前も言ったが、その方がお前にとっては良いかも知れないぞ? 湊の“優しいお兄さん”で居てくれた方が」
「うん、それはあたしが嫌なので、好都合です」
「好都合ってお前……」

 彼女の口の端が、弧を描く。
 しかしいつもの――彼女のアバターネームが示すような、悪戯めいたものではない。
 柔らかく――優しい。自分よりずっと年下の筈の彼女であるが、女性としての包容力を感じるような、そんな笑み。

「カツラギくんは、あたしと恋人同士になるの、嫌?」
「前も言ったがその言い方は卑怯だろ――この期に及んで煮え切らないというか、自分でも自分の事を火付きが悪いとは思うが――答が、出せそうにない」

 あるいは由香が、単に自分と親しい少女であり、そんな彼女が自分に告白をしてくれたのなら――喜んで受け入れていたかも知れない。
 ただ、彼女の前で不格好な仮面を被り、仮想現実の中で再会し、“惑星オデッセイ”を旅する相棒となり――そんな過去を経てたどり着いた今。自分にはわからない。自分の中にある、由香への――“クロネコ”への気持ち。それが、果たして何と形容していいものであるのかが。
 その中には、男としての好意も混じっている。それはもう、認めざるを得ない。ただ――それを故として単純に、由香と恋人になるのが正しいのか、それはわからない。
 こんなものに正しいも間違っているもないのかも知れない。いや、実際に“ない”だろう。だから結局は、自分がその気持ちの方向に――“ただの恋人”という枠を填めたくない、それだけの、自分勝手だ。
 彼女が嫌いであるなら、そうでなくても単に女性として見られなくて、“相棒”のままで居たいというのなら、ここで彼女を突っぱねたところで構わないだろう。しかし――

「お前のことは、見も知らない誰かとは一緒にしない。だから“めんどくさい”ってのは違うと思う。けど――俺は自分の気持ちに嘘は付けない。俺たちの関係を“恋人”って、ただそれだけで表現したくない。俺のその気持ちに整理が付くまで――お前がそうやって俺を誘ってんのが本気か悪戯か知らないが、どっちにしてもろくな結果にならんから――出来ればやめてくれるか?」
「それはできない」
「おい」

 だってね、と、由香が言った。

「あたしだってね――きみと同じくらい、自分勝手だもの」

 唐突に彼女が体を起こす。何も反応は出来なかった。
 ふわりと、唇に柔らかい感触――由香の唇が、自分のそれに、触れた。風邪のせいだろうか、乾いた柔らかさが、自分の唇の水分を僅かに奪ったのがわかった。

「あたしはきみの事が――好き。大好き」
「――」
「きみがそうやって悩むのを、あたしは否定できない。でも、あたしはきみが、自分の事を自分勝手だって思うのと同じで――“勝手に”そう思ってるから。だからやめない。やめてあげない。あたしはあたしで、自分が思うようにやるから」
「お前」
「ふふ――ああもう、熱が上がるなあ」

 ぽてり、と、由香は枕に体を落とす。

「今の、告白だよ?」
「……そりゃあ」
「いくらあたしでも――あんな馬鹿げたのが告白ってのは、ちょっとアレだから」

 彼女が何を言っているのか、燕はすぐにわかってしまう。彼女と湊に決意表明をしたあの日――由香が冗談交じりに言っていた事だ。だから、燕は言い返した。

「お前、告白は男からされたいんじゃなかったのか」

 その言葉に、彼女は目を丸くした。
 だがそれもすぐ、悪戯めいた笑みに変わる。

「何、してくれるの?」
「今は出来ん。ただ――」

 彼女の顔の側に肘を突き、そのまま体を屈める。
 再び二人の距離は、ゼロになる。

「さすがに我慢できねえ。これくらいは反撃させろ」
「ふふ――ふふふっ! 望むところだっ!」

 そう言って由香は、何処にそんな力が残っていたのかと疑問に思う動きで――燕の方に、飛び込んだ。




「カツラギくんは――小さい頃に、怖い夢を見たことはない?」

 カーテンが引かれた薄暗い部屋の中、狭いベッドの上で、燕の腕を枕に、由香は言った。

「そりゃ、ある……と、思う」

 何気なくその長い髪を手で梳きながら、燕は応える。
 とは言え、それを覚えているわけではない。夢など、そういうものである。どれだけ恐ろしいと思っていても、目が覚める頃には忘れている。
 仮にとてつもなく印象深くて覚えている何かがあったとしても、きっとその記憶の断片は、実際に夢を見ていたときに抱いた思いには届かない。

「そんな夢を見て夜中に目が覚めて――寝るのが怖いって思ったことは?」
「どうかな」

 俺は寝付きが良い方だから、と、燕は言った。

「夜中に目が覚めたこともあんまり無いし、覚めたら覚めたで眠気が全てに勝ってるような状態だから――怖いとか何とか、そういう事を考える前に多分また寝てる」
「あたしは時々ね、あったんだ」
「寝直すのが怖いって思ったことが、か?」
「そう」

 由香は続ける。

「さっきまでの怖いのが夢だったんだって思って――安心して。でも本当は、今こうしていることが夢なんじゃないかって。目が覚めたら、自分はまた、あの怖い世界にいるんじゃないかって――そう思ったら眠れなくなって」

 お父さんやお母さんに泣きついてた、と、彼女は照れくさそうに言う。
 幼い子供の頃の話である。彼女が言うのがいつ頃の事なのかはわからないが、しかし子供であればそういう事はままあることだろう。

「そう言うのを題材にした映画もあるよね? 実はこの世界が全部夢で――」
「あー、タイトル挙げろって言われたらわかんねえけど、確かにあるな、そういうパターンの。まあ……そう言うのが怖いって言うのは、誰でも考えたことはあるんじゃないか?」

 人間が自我を持っている以上、そういう思考の模索が生まれるのもまた自然なのかも知れない。人は皆自分の主観で世界を見ているし、そうすることしかできない。例え突然現れた誰かに、あなたの見ている世界は偽物だと言われたところで、それを証明する術は無いのである。
 そこまで考えて……燕は気がつく。

「“クライン”の事か」
「あの――クラインさんの事が言っていた事が本当なら、って話だけど」

 彼の話は、まさに悪夢そのものである。由香の小さな手が、燕の胸元の服を掴む。
 彼は、まさしく“そう”言われたに、等しいのである。

「あたしがこうやってるのも、全部夢で。目が覚めたら、何処か知らない場所で、悪夢みたいな現実が待ってる――そうじゃないって、保証はないよね?」

 悪い夢を見た後や、何か衝撃的な出来事の後など――考えたことのある人間は多いのではないだろうか。今現実にこうしているのは、実は夢の中の出来事で――本当の自分は、こことは違う現実の中に生きているのでは無いだろうか?
 むろん、大人になってまで怖がるような妄想ではない。
 その、筈だった。

「……怖くなったのか? 連中を見て」
「あのね、今でも――“惑星オデッセイ”を探検してやろうって気持ちがなくなったわけじゃない。むしろ、やっぱりあそこは、誰かが単純に作った、単なるデータじゃなかったんだろうって、そう思ってる」
「恐怖を感じるのは悪い事じゃないだろ、どれだけ覚悟してたとしてもな」

 それは由香だってわかっているはずだ。探検隊には、そのイメージ通りに、未知の事柄に向かって突き進める勇気は必要である。しかし恐怖を抱くことが悪い筈はない。むしろ危険に対して恐怖を抱けない探検隊など、ろくなものではない。果たしてそんなものは、勇気と蛮勇をはき違えて無謀な挑戦を繰り返し、最後には無駄に命を散らすだけである。

「これから未踏峰に挑もうって人間に、恐怖心が要らないとでも?」
「だから、そっちは別に気にしてないよ。ただ……ただね」

 そう言って由香はそこで言葉を切り――燕の首筋に、顔を埋める。暖かく、柔らかな感触――中心に感じる熱い湿り気は、彼女の舌だろうか?

「……キスマーク付けて良い?」
「せめて見えないところにしてくれよ」
「じゃあ、カツラギくん服脱ごうよ?」
「さすがにそれは理性が吹っ飛ぶ自信があるんで勘弁な――で?」
「……あたしは今、カツラギくんに優しくしてもらって、すごく幸せだと思ってる。これは、夢? いやある意味、幸せすぎてこれって夢じゃないかって、思わなくもないけど」
「俺はもうお前や湊の前じゃ格好は付けられないし、いっそ少し素直になろうと思っただけだ。ただ――俺だって、これは現実だと思ってる」

 それが聞けて安心だと、由香は言った。

「これが全部ただの夢だったなんて、そう言われたら――あたしは耐えられない」
「……」
「クラインさんは、本当にそれに、耐えられたの?」

 おまけに、事はそれだけでは終わらない。クラインは、その上既に自分は“死んでいる”と教えられたのだ。

「あの人は、“ラックス・アブレヒト”だった筈なのに。自分がそうじゃないって言われて――そうしたら、どう思う? あたしだったら、もう、絶対に無理」

 自分の中に渦巻いている全ての思いが、実は今さっき作られたもので――それは自分ものではないと言われたら。
 自分は、実は“自分”ではなく、他の何かだった。
 目の前にあったはずの現実は既に無く、否応なしに、目の前にある非現実的な何かを押しつけられて。
 クラインは言った。自分にはある程度の時間があり、そして惑星オデッセイに棲む、不思議な少女が共にいてくれた。だからどうにか――すでにラックスとしての人格はおかしくなっているのかも知れないが――自分というものを、保つことが出来た。

「それを考えたら、何だか――胸がドキドキして、頭がクラクラして。そんなことを平気で口に出来るクラインさんが怖くて、何もわからない筈なのに、あたしに言葉を投げかけたあの“トト”って女の子が、気持ち悪くて」

 同じようなことは、燕も感じていた。
 何故あの男は、ああも平然としていられたのだろうか? 最初は混乱していたと言うが、自分ならそこから立ち直る事など出来るのだろうか? 惑星オデッセイで新しい朝を迎える度に、気が狂いそうになるのではないだろうか?
 実際、今でもその事に対する恐怖心のようなものはある。
 クラインという、自分では推し測れない謎に対する恐怖。
 万が一“惑星オデッセイ”で死ぬような目に遭えば、彼と同じようにある種の亡霊として、あの世界を彷徨い続けなければならないのではないかという恐怖。
 ましてや自分より純粋な由香は――想像してしまったのかも知れない。あるいはこの目の前にある現実世界すら、本当のものではないのかも知れない――そんな疑問を。それはクラインさえ現れなければ、暇を持て余した思春期の人間が思い描く、馬鹿げた空想でしかなかったのだろうが。

「カツラギくん――カツラギくんは、ここに、いるよね? あたしがここにいるの、わかるよね?」

 由香の大きな瞳が、涙に濡れていた。それは風邪によるものばかりではないだろう。

(……ああ、もう)

 それに関しては――燕は自我の何たるかを語れる哲学者ではないし、魂の存在を感じられる霊能力者ではないし、仮想空間の構築を論じられる専門家ですらない。結局由香を――恋人という間柄さえチープに感じてしまう、大切なこの“相棒”を安心させる言葉は、見つからないのだ。

「お前は俺が、目の前にいるのがわからないか?」
「ううん――でも」
「今こうしているのが、自分以外の誰かだって、そう思うか?」
「思わない、でもっ……!」

 頭の中で、躊躇を考えた冷静な自分を、敢えて蹴り飛ばす。

「――むっ……ぐ!?」

 腕枕をしていた手を、由香の後頭部に回し――先程の触れ合うようなそれとは違う。強引に、彼女の唇を奪う。

「ん、んぅ……んっ」

 反対の手は、彼女の腰に回して、引き寄せる。シーツの中でパジャマがずり上がったか、回した腕にはしっとりと汗が浮いた、柔らかな肌の感触。ああ、ヤバいかも知れない――などと、頭の何処かで冷静な自分が囁いた。目は閉じたまま。どうせ目を開けていたところで、由香の顔しか見えない――いや、近すぎてそれさえもよくわからない。
 舌が、彼女の唇に触れる。風邪のせいで少し乾いているからか、舌先にかすかにちくりとする感触。けれど、信じられないほどに、柔らかい。無理にその先に分け入る――不思議と少しだけ冷たく感じる硬いものが――これが由香の歯だというのはわかるのだけれど――歯というのはこんな舌触りだったか? 自分の口の中をなめ回しても、こんな感じでは無いような気がする。
 そして僅かに開いた歯の間から、舌の先が、驚くほど熱くて、ぬるぬるした、柔らかい何かに触れた。

「んふっ……」

 由香の体が、跳ねる。驚いたのだろうか。妙な声と一緒に、上唇の端の辺り――彼女の鼻息が当たるのがわかった。

(……やばい)

 そう思った。強烈な眠気にも似た、耐え難い恐ろしい感覚が、一瞬で脳を支配する。

「……ねえ」

 僅かに離れた唇の間に、唾液が糸を引くのがわかる――見えているわけでもないのに、何故かはっきりと。
 先程よりも湿り気を増した少女の唇が、言葉を紡ぐ。

「あたしはここが、現実かどうかなんて――わからない」

 由香の指が、燕の胸元のボタンを一つ、外す。

「あたしは、あたしの目線でしか世界を見られないから。そこが本物でも、偽物でも、わからない」

 だから怖いのかも知れない――と、彼女は言う。
 自分は、自分でしかない。どんな状況にあっても、それは変わらない。どれだけ苦しくても、助けて欲しくても、一人が寂しくても――それを真にわかってくれる他人など居ない。それがわかるのは、それを自分の事として捉えられる――自分自身だけ。

「今、あたしがどれだけ怖いと思っても――カツラギくんにも、助けて貰えない。あたしはカツラギくんにはなれないし、カツラギくんだって、あたしの目から世界は見られない。あたしの心を持つことも、出来ない」

 でも、と、彼女は言う。その言葉に、怯えはない。

「あたしはあたしで、カツラギくんは、カツラギくん――だから、こういうことができる」

 右手を燕の頬に添え、由香はゆっくり、彼に唇を重ねる。少し開かれたままの口――伸ばされた舌が、自分のそれに触れる。一度侵入を許せば、押し戻すことも叶わない。口を閉じることはもちろん出来ないし、何よりもこの感触を、もっと味わいたいと思ってしまう。
 口の中も舌も、人間の体の中では相当に感覚が鋭い場所である。そんな場所を無遠慮に触られて、冷静に考えれば心地の良い感触とも言い難い筈なのに――どうしてこうも、それが気持ちいいと思ってしまうのか。

「きっとそれは――あたしと、カツラギくん――だから、かな?」

 燕を見下ろすように彼の両肩に手を置き――由香は、妖しく笑う。




「――そしてすげえ俺。何で耐え切れた」
「むしろどうして耐えきるかなカツラギくんは……!」

 はだけかけたパジャマの胸元を押さえ、風邪からくるそれよりも数段真っ赤になった顔で抗議する由香から、燕は視線を逸らす。そう言う彼も上着のボタンがいくつかはずれていて、息が荒い。顔色など言わずもがなである。

「そりゃ……あたし風邪引いてるし、ちょっとアレだけど……でも、何でここまで来て踏みとどまるの……踏みとどまる意味、ないよね!?」

 そのままそっぽを向いて、彼女はぼそぼそと文句を吐き出し続ける。言い訳をしようとは思わないし、今回に限っては出来るとも思えない。

「まあその何だ……ここがちゃんと現実で――“そう悪くない”もんだってのは、よくわかったじゃないか」

 その言葉に、由香は燕を睨み付けるが――ややあって、小さく言った。

「……カツラギくんにしては、頑張ったんじゃない?」
「ぶん殴られても文句は言えないと思ってるんで、その言葉はむしろありがたい」
「そうじゃなくて! だからもう少し頑張ってよって、そう言ってるの!」
「頑張ったから踏み留まったんだよ」

 そう言う言い方しないでよ、と、彼女は頬を膨らませる。

「あたし今日は、多分平気な日だよ?」
「そんなのは単なる幻想だ。“安全な日”なんて女にはねえよ。男の俺が言うことでもねえけどさ」
「むう……カツラギくんはやっぱあれだ。草食系でもめんどくさい男でもない。ただのヘタレだ」
「情け容赦ねえなおい」
「あたしとカツラギくんの関係は、恋人なんて安っぽいものじゃない――何カッコつけちゃってんの。きみはあれだよ、単なるヘタレ。意気地無し」
「もうこの際否定しないから許してくれ。いやもう許さなくても良いから落ち着いてくれ。まだ熱があるんだから、興奮したらぶっ倒れるぞ」
「心配ないよ――さっき押し倒してくれた時までだったら、わかんなかったけど」

 肺の底から絞り出すような溜め息を由香は付く。が、それがどうも荒れた喉には優しくなかったらしく、小さく咳き込む。
 それを見た燕が苦笑するのを、彼女はどうやら視界の端に捕らえたらしかった。

「でもま――」

 不承不承と言った声。
 しかしその不承不承を明らかに“作っている”声で、由香は言った。

「でも――もう、怖くはなくなったよね」
「まあな。そりゃ――結局俺達は一人でしかない。それは変えられない事実だろうけど」
「……だからあたし達は――“チーム・ハイドラ”は、無敵でいられる?」
「無様にお互い手を繋いで、背中越しに未知の世界を睨み付けて――そんなもんだ。格好は、付かないけどな。でも、やっぱりこういうのが俺たちらしい」
「……ね、カツラギくん」

 由香が言った。

「あたしたち、恋人同士?」
「いいや」

 燕は、首を横に振る。

「相棒だろ」

 最高のな、と、彼は言った。

「そうかもね――恋人じゃなくて、相棒。でも、最高の。」

 由香の瞳が、燕に向けられる。

「カツラギくん、キスして」

 ――そういえば、そうして欲しいとはっきり口に出したのは、それが最初だったように思う。




「敵機三時方向――雲の中ね。あれ? 角田さん? もっとこう、後ろを伺わなくてもいいんですか?」
「相手がどう出るかわからない。当然向こうも、こちらが背後を狙っていることはわかっているし――仕掛けられる距離とタイミングじゃない。そのまま相手の状況を逐一教えてくれ」
「了解」

 ティグリア共和国国境線から北にいくらか進んだ“惑星オデッセイ”上――“惑星オデッセイ探検隊”の前線基地からもほど近い空域。
 石灰質の大地が、長い年月を掛けて複雑な浸食を受けて出来た地形を、眼下に望む。熱帯雨林の中を渓谷がはい回り、あちらこちらからテーブル上の奇妙な山塊が雲の上にまでも顔を出す。
 果たしてこれもまた、何処かの誰かが作ったデータの背景に過ぎないのだろうか。それともあるいは――
 少なくとも。その遙か上空、雲間を高速で飛行する戦闘機のパイロットとフライトオフィサに、それを考察する余裕は、今はない。操縦席に収まる角田は、今は後席に座る吉野に指示を出す。むろん――彼女が役に立つとは、最初から考えていない。

「あっ、角田さん、酷い。そりゃまあ、私は角田さんみたいな元本職でも、カツラギ君みたいな上級プレイヤーでもないですけど? これでもアカウント持ってるし、それなりには――」
「監視を行う目が増える事に不利はない。だから無駄口を叩いている暇があったら、敵影から目を離すな」
「ぶう……敵機変わらず、三時方向」
「誘ってるな。機動力ではともかく、最大出力ではRF-3にいくらかの分があるが」
「敢えて誘いに乗ろうじゃないのクロちゃん!! 角田さん頼みますよ!? 私これでもう、あの子に何回ランチおごらなきゃいけないと思ってるんですか!?」
「一応これは業務のうちだと言うのに何をやっているんだお前は――大体張り合ったところで、吉野では彼女と比較になどならん」

 角田はそう言って、スロットルレバーを押し上げる。
 偵察機仕様のRF-3は、原型であるF-3Bに比較して、最大速度がマッハ2,5超級にまで引き上げられている。
 そもそもF-3は、格闘戦に特化した機体形状であるため、最高速やステルス性がかなり割を食う構成となっている。それを偵察機に仕立てるに至って、RF-3は世界各国の高速戦闘機を振り切れるだけの速度向上改修が加えられている――しかし果たして、それだけの改修を施して尚、“神狼”の格闘戦能力には、それほどの低下は見られなかった。この結果は開発メーカーすら想定外だったらしく、急遽RF-3の設計を見直して、原型であるF-3へのフィードバックが行われている。本末転倒と言えばそうかも知れないが、どちらかと言えば“棚からぼた餅”とでも言うべきだろうか。
 ともかく――最高速度やエンジンパワーでは、RF-3はF-3Bを凌駕する。角田はそのパワーに物を言わせて、レーダー上に見える機体に一気に肉薄する。
 薄い雲を通して、特徴的な機影が見え隠れする。濃紺と灰色――二機の神狼は、雲間でダンスを踊るように位置を入れ替えながら、尖塔のような雲の間を抜けていく。

「動いたっ!」

 ライトグレーの低視認性塗装を身に纏うF-3Bが、翼を翻し、こちらに濃紺の尾翼を見せつけるようにして加速――急激に高度を落とす。
 眼下には、ここが訓練空域に選ばれた所以である複雑な地形。渓谷や山塊が多く存在し、低空ではまっすぐ飛ぶこともままならない。

「追うぞ――高度計から目を離すな」
「了解――う、うわっ……バーチャルってわかってても怖すぎる――角田さん、低空にも結構雲がありますから、山に激突とか勘弁してくださいね!?」
「プレイヤースキルによっては、それを誘うのも戦術的には有効だろうが――向こうはこちらにその程度のフェイントが通じないことはわかっている。何を……狙ってる?」

 低空のジャングルには所々に雲がかかっている。あるところは太陽に照らされているのに、雲の真下ではスコールが降っている。狐の嫁入り――と言うには些か乱暴すぎるが、混沌とした天気である。

「敵機渓谷に入る」
「……誘いにしても妙だな。こちらを翻弄するにしても、そんな機動の制限される場所では――」
「様子見ですか?」
「ここで目視外に逃げられて仕切り直されても同じ事だ。追うぞ」

 卓状に盛り上がった火山高地と、浸食によって作られた渓谷が織りなす複雑で急峻な地形――人間の足では踏破など望めないだろうその場所を、音の速度に迫る早さで駆け抜ける。視界の両側を、ゴーストのように岩肌が流れていく。それ自体、もはや目で追うことも難しい。
 警報が鳴っている。地面に接近しすぎた事を示す対地接近警報と、低空での激しい機動が、主翼からの気流の剥離を招きかけている失速警報――前に座っているのが角田でなく、ここが現実の戦闘機の座席だったら、自分はとっくに脱出ハンドルを引いていたに違いない。そんな中で吉野はただ、角田の指示で武器を選択する。
 ヘッドマウントディスプレイの向こう側には、“敵機”の尾翼が見える。それを取り囲むターゲットマーカー。そこにロックオンマーカーが出現。こちらのレーダーは、相手を捉えている。

「ターゲットロック――クロちゃん覚悟――ッ!?」
「消え――吉野、チェックシックス!」
「後ろ!? そんな、どうやって――」

 気の抜けた警告音が、コックピットに響く。メインディスプレイに『KILLED』の文字。たった今、二人の乗るRF-3は「撃墜」されたことになる。
 角田が小さく息を吐き――操縦桿を引き、機体を上昇させる。

「ああ……これで六回目」
「半ば予想できた結果ではあるが――ここまで鮮やかに決められると、悔しいとさえ思えないな」
「何悟ったようなこと言ってるんですか角田さんは……」
「私はお前のように、この“ゲーム”に何かを賭けているわけではないからな」
「うぐ」
「――ただ、今は二度とそこに帰れない身の上とは言え――戦闘機乗りの矜持を無くしたわけではない」
「あっ……あの、すみません――」

 角田とて、悔しい気持ちが全くないわけではないだろう。いくらここが仮想空間であり、彼がもともと身を置いていた世界とは、似て非なるものであるとは言え。

「ともあれ、今の私はただの会社員だがな」
「……あ、それ、私へのフォローのつもりですか?」
「――だが、不思議と、単純な悔しさのようなものはない。単なる畑違いだという言い訳も出来るが――何だろうな」

 彼らに対しては、不思議な気持ちを覚える、と、角田は言った。
 特殊樹脂で作られた風防の向こう側――一機のF-3が、翼端からベイパーを引きながら上昇していく。まるで何処までも飛んでいくのだと言わんばかりのその姿に、吉野は、迷いを感じなかった。




「アレ結局何だったの? ホントに目の前から消えた訳じゃないよね? チートでも使わない限り――ううん、“惑星オデッセイ”じゃあ、そもそもチートは使えないし」
「運営の中枢の人が何言ってるの吉野さん……ただ不意を突いて背後を取っただけだよ」

 “スターゲイザー・エインターテイメント”からほど近いオフィス街。その一角にある小さな洋食屋。幸せそうにオムライスを頬張る由香と、恨めしそうな視線で彼女を睨む吉野――そんな構図が完成されたのは、それから小一時間ほどが過ぎての事である。

「ただ不意を突いて――って、角田さんでさえ目の前から消えたって言ってたよ!? 人間の目を誤魔化したって、機体のコンピュータを誤魔化しきれるわけが」
「戦闘機のレーダーだって、三百六十度全方位を捉えてる訳じゃないんだから、そこから外れたら無力ですよ。おまけにあれだけの至近距離じゃ、尚更――それにあの時、角田さん、ロックオンに視線誘導使ってたでしょ」

 あの間合いなら多分そうしてた筈だから、と、由香は続ける。
 F-3を含む先進的な戦闘機には、ヘルメットにパイロットの視線を感知するセンサーが搭載されている。それによって、機首を敵機に向けることすらせずに、パイロットが敵機を視界に収めるだけで照準が出来る――所謂“オフ・ボアサイト”能力を得ているわけである。機動力の高い機体に対しては当然有効な装備であるが――狭い場所を高速で飛行している最中、視野狭窄の状態では、それも諸刃の刃であると、彼女は言う。
 しかし当然、由香は角田の操作を逐一のぞき見ていたわけではない。あくまで――状況を元にした、彼女の推測に過ぎない。
 果たしてそれが、実際に敵機のパイロットを覗いていたようなものであったから――吉野は、背中を冷たいものが這ったような錯覚に襲われた。

「あたしがタイミング指示して、カツラギくんに――クルビットって言うんでしたっけ? その場で後方に一回転してもらったんです」
「あの――谷の中で?」
「カツラギくん曰く、トンネルミッションは男のロマンだとか、ネジが飛んでるは褒め言葉だとか――男の子の考える事って、いまいちわからないですよね?」
「いやあんたも大概だと思うわよクロちゃん」

 クルビット――失速限界付近で、機体が操舵を受け付ける高性能な機体にのみ許される機動である。高度、進行方向を大きく変えることなく、水平飛行中に機体を後方に一回転させる――“航空機”という機械を知る人間からすれば、まるで悪い冗談のような機動。
 水平飛行中に機体を垂直近くまで機首上げする“コブラ”と並び、格闘戦能力の高さを誇示する為に、良く引き合いに出されるが――実際には、その様な動きが出来る状況は限られている。
 速度が速すぎれば空力負荷に耐えきれず機体は空中分解する。速度が遅すぎれば言わずもがな。加えて進行方向に対して機体が垂直に立つ瞬間が存在するため、機体全体が巨大なエアブレーキの役割を果たして、速度が一気に低下する。ともすれば、失速限界を割り込む程に。
 F-3など、推力偏向機能を持つ機体は、エンジンパワーに任せて機体後部を“振り回す”ことで、ある程度の舵の効きを確保できると言うが――

(あんな狭い場所で――おまけに直後には速度も舵の効きも極端に低下するから、仮にうまくいかなかったら――)

 下手をすれば空中に止まった巨大な的である。いや、それ以前に、単純に失速して岩壁に激突、それでゲームオーバーだろう。
 それをこともなげに言う由香には、それがどれほどのことかわかっていないのか――いや、彼女はそれなりに、ミリタリーに対する造詣があったはずだ。現に“クルビット”などと言う単語は、その手の趣味がなければまず聞くことはない。
 いやひょっとすると――彼女の操舵能力が低すぎる事が原因なのかも知れない。今までずっと燕とコンビを組んできた彼女は、彼以外のプレイヤーを知らないのだ。アベレージプレイヤーの技量など、彼女にはわからない。

「角田さんでも出来ないって言ってたし――いくら仮想空間でもさ」
「何か言いました?」
「何にも――それ美味しそうねえ」
「刻んだサイコロステーキが入ってるんですよ。柔らかくて美味しい。吉野さんも一口食べます?」
「そもそもあたしのおごりだけどねえ……あーん、していい?」
「いいですよー」

 割合和やかな雰囲気のまま食事が終わり――ふと吉野は、由香が何気なく、メニュー表に目を落としたのに気がつく。

「デザート欲しい? 頼んでも良いわよ?」
「え――でも」
「遠慮は要らないわよ? 今日の賭けとはまた別で――私からクロちゃんへの快気祝いみたいなものだと思ってくれたら」
「快気祝い――ですか? あれって単なる風邪だったんですけど? そんな、心配されるようなことでも」
「それも含めて――“チーム・ハイドラ”復活祝いとでも言うべきかしら?」

 それを聞いて、由香はどこかばつの悪そうな顔をする。

「誰もあなたたちの事を――クロちゃんの事を責めたりしないわよ。人間なら誰だって調子が悪いときはあるでしょうし、あんな事があった後じゃ、ね」
「……」
「正直な話、クロちゃんが――もう“探検隊”辞めちゃうんじゃないかって思ってたの。もちろん――辞めちゃったとしても、誰もクロちゃんを責めはしないし、むしろその方が、あなたのためには良いんじゃないかって思うもの」
「よ、吉野さん――あたしは」
「あ、正確には“思ってた”かな? 今日会社に来て、あなたの顔を見て――角田さんにこの間のリベンジだって言った時、安心した。私は人の顔を見てその内心がわかるほど大した人間じゃないけど、それでも、ああなんか大丈夫なんだろうなって、そう思えたから」

 吉野は笑みを浮かべてみせる。努めて――人の悪そうな笑みを。

「あなたみたいな子が、そうそう折り合いを付けられる事じゃないとは思うんだけど――やっぱり、カツラギ君のお陰?」
「ぶっ」

 由香が、飲みかけの水を吹き出して、むせる。中途半端に我慢しようとしたのがまずかったのか、口元を押さえて何度も咳き込む――その顔が面白いくらいに赤いのは、苦しさのせいだろうか。

「まあ、私も大人だし? 今ここで根掘り葉掘り聞くのもあれだけど――あの朴念仁も、たまには男を見せる事もあるわけね?」
「それなんですけど……カツラギくん、朴念仁とか草食系とか、多分そう言うのとは違いますよ?」
「え? どういう事?」
「ただのヘタレ」
「……いやまあ……クロちゃんみたいな子と一緒に暮らしておいて、そう言う言い方するなら、そうかも知れないけどさあ……」

 いやね? と、吉野は言う。
 口では散々煽るような事を言ってはいるが、実際に燕と由香が、今の状況を良いことに、好き放題やられても困るのである。むろん、二人がそういうタイプでない事は吉野とてわかっている。
 ――多少の“行きすぎ”があったとしても、二人の間柄を考えれば別段問題ではないだろうけれど。

「でもまあ……そのヘタレのお陰で、元気が出たんでしょう?」
「元気が出たというか、安心は、出来ました」

 あのね、と、由香が口を開いた。




「想像してみてください。たとえ話ですけど」

 由香は、言った。

「いつも通りに――昨日までと同じに朝起きて、学校や会社へ行って、時間が来て家へ戻る――そして家に戻ろうかと言うときに、吉野さんはとんでもないものを見るんです」
「とんでもないもの?」
「はい。今まさに、家に入っていく吉野さん自身を」
「――」

 背筋がぞくりとする。吉野はそう思った。
 ヨーロッパに、ドッペルゲンガーという伝説がある。自分と同じ人間がもう一人現れ――その人間に会った自分は、死んでしまうと言うものである。
 が、そんなものは単なる言い伝えであるし、ゲームというものを通して、数多の創作物に触れてきた吉野にしてみれば、怖がるようなものではない。ただ――

「それは、“クライン”の事?」
「つまりは、そう言うことです」

 由香は続けた。
 クラインの“恐怖”とは、そこなのだ。
 ドッペルゲンガーの恐ろしさというのは、単純なものである。人間は誰しも、自分自身に会うことは出来ない。例えそれが作り物であったとしても、何の心構えもない状態で、暗闇で自分そっくりの何かに出会ったら、腰を抜かすだろう。あり得ない者に出会うから、つまりは恐ろしい。
 それに加えて、ドッペルゲンガーは出会えば死ぬと言い伝えられている。つまり、具体的な危険がある。警戒心をかき立てられ、恐怖をするのは当たり前だ。
 だが――“クライン”というアバターを前に感じる恐怖は、それとは違う。

「自分ではない自分が現れて、自分のように振る舞っている――けれど、逆に、そう思っている自分が“本物”だと言う保証は何処にもない」

 仮にそこに何者かが現れて、“お前は本物の吉野凛子ではない”と言われたら。
 吉野は、それに対して反論出来ないのである。唐突に、自分の全てを否定されるのである。それは先に挙げた怪談とは、違う方向の恐怖。

(自分がそこにいるのに――それが“嘘”だって言われる。そして現実に、自分が、今まで自分だと思っていたものと違う何かだったとしたら――)

 普通に考えれば、あり得ない。
 けれどもし、そう言うことがあったとしたら?

「恐ろしくなるのは当然だと思うわ。もしも自分が、そんなことを考えてしまったら、とても。おまけにそれを口にしたクラインは、正真正銘、亡霊のようなものだし」

 彼の前ではとても言えないだろうが、と、吉野はため息をついた。

「クロちゃんは、怖くなくなったの? 自分の中で、折り合いが付けられたの?」
「折り合いというか――そこはカツラギくんのお陰で。それを折り合って言うのかは、わかりませんけど」
「そうは言っても……」

 由香が燕に惚れ込んでいるのは、誰にだってわかる。けれど、彼が居てくれたからと言ってどうにかなる問題でもないだろう。吉野はそう思う。
 何せ、自分が偽物だったとしたら。
 彼からの優しさも、そして彼に抱く気持ちも――自分のものではない、偽物なのである。

(……たとえ話の上では、だけどさ。駄目だわこれ、クラインって言う実例が目の前にあると、本当に考えるのが恐ろしい)

 こればかりは、どれだけ由香が大好きな彼が側にいてくれても、どうにもならない。それは由香自身の問題だからだ。
 彼女自身でない他人には――たとえそれが燕だとしても、どうにもならないのである。

「あんまり深く問いただして、クロちゃんのモチベーション下げるわけにもいかないけど」
「ああ――そんなに深く気にしなくても大丈夫ですよ? “クライン”さんのことは今だって怖いし、自分がそんな風になるなんて考えたくも無いけれど」

 由香はそう言って笑う。何処か恥ずかしそうな――こんな話には似つかわしくない、少女の顔で。

「仮にあたしが偽物だったとしても、カツラギくんは側にいてくれるから、大丈夫です」
「え?」
「だからさっきのたとえ話、仮にあたしが偽物で、他に本物のあたしが居たとしても――“水戸由香”の気持ちをあたしが持ってる限り、カツラギくんは受け止めてくれる。だから、あたしはもう、クラインさんが怖くて見られない、なんて事はないんです」

 かつて、ある有名なSF小説のヒロインは言った。
 自分が本当に、ここに存在しているのか――あるいはここに存在している自分は知らない誰かで、本当の自分は、まだ残酷な現実の中で、夢を見ているだけではないのか。あるいは何処かに、報われなかった自分が居るのではないかと。
 そんな事をこぼした主人公に、彼女は言った。
 あなたが二人も三人もいたら、私は愛しきれない。しかしあなたはここにいる――と。

「ああ、それ私も読んだことあるけど――でも、それが何か?」
「あたしが二人とか三人とか――もっと言えば、あたしが“あたし”のコピーだったとしても、カツラギくんはあたしを受け止めてくれる。オリジナルのあたしと一緒に可愛がってくれるって、そう言うことです」

 先のたとえ話に戻るが――もう一人の自分の姿を見て、そして自分の方が、実は偽物であると知らされる。
 自分の体や記憶や――自我そのものが、実は作られたものであったとする。
 それが事実だとしたら、正気ではいられまい。

「でも、そういうのは関係ない。カツラギくんは、それが“あたし”である限り、受け止めてくれるから」
「……」

 何となく、吉野の頭の中に映像が浮かぶ。
 ソファか何かに腰掛けた燕の周り――まるでそれこそ、猫のように彼に群がる大勢の由香の姿。

「クロちゃんでハーレムとか……犯罪じみた絵しか思い浮かばないわ」
「そうですか? あ、吉野さん、今度そのビジュアル、実際に描き起こしてくれませんか? お金はちゃんと払いますから」
「……何だかお姉さん、あなたがちょっと怖くなってきたわ」
「出来ればあたしもカツラギくんも裸で」
「さすがの私もちょっと引くわよ?」

 まあ冗談はさておき、と、由香は咳払いをする。何だかんだで恥ずかしい気持ちはあったのだろうか。

「そういうわけなんで――意味もなく怖がるのはやめようと思ったんです」

 いや、それも違うか、と、彼女は顎に指を当てる。

「さっき言ったのは、カツラギくんが居てくれるあたしにとっての、一つの答だけど――多分考えたって仕方ない事じゃないですか。理屈を誰かが説明してくれても、あたしはきっと納得なんて出来ない。熱が出るまで考えて、出てきた結論がそれだって言うのも、どうかとは思いますけど」
「まあ――そうかも知れないわね?」
「あたしには、クラインさんの事はよくわかりません。もしかしたら、あたしにとってのカツラギくんが、あの人にとってのトトちゃんなのかも、だから、あの人はああも冷静でいられるのかも」
「あれが本当に“ラックス・アブレヒト”の作ったアバター“クライン”ならね。いやもちろん、本音を言えば、アレが悪戯で作られた不正規アバターなら、その方がありがたいんだけれども」

 吉野は苦笑と共に、由香に言う。
 彼女の心境の変化など、本当のところはわかりはしない。カツラギ――あの草壁燕という青年が、この少女の恐怖を完全に取り去るほど頼りになるかは、正直怪しいところである。
 けれど――きっともう、大丈夫なのだろう。
 彼女の顔を見ていて――吉野は何となく、そんな風に思った。
 だから、彼女に切り出した。今現在進んでいる、“クライン”の謎を解く手がかりを探せるかも知れない、その予定の事を。

「来週、社長がドイツに行くことになっているんだけどね――」




「あんたは、それで良かったのか?」

 リュックを担ぎながら燕は振り返る。そこには、自分と同じように荷物を担ぎ上げる白人の青年と、人種という意味では良く分からない少女の姿。
 “惑星オデッセイ探検隊”式の装備に身を包んだ、クラインとトトの姿がある。

「僕にとってもトトにとっても、あそこでただ日々を浪費し、朽ち果てていくのが正しい選択とは思えない」

 クラインは言った。

「今の僕にとっては、クラインとしての意識が自分の全てだ。ならば、僕は僕の目的を果たそうと思う」
「目的?」
「この世界の謎を解き明かす――君たちと同じだよ」

 そう言って、彼は笑う。自分の見方が変わったからだろうか。そんな彼の顔は、何だか生き生きとしているように思えた。

「物心付いた時に、トトはこの土地で母親と共に暮らしていたらしい。その母親もずいぶん前にこの世を去った――つまりはどういう事だと思う?」
「あの子はひとりぼっちだと言いたいのか?」
「そう考える事の出来るカツラギ――君はやはり優しい男なのだろう。何となくわかっていたがね――そうではなく、もっと単純なところだ」

 彼女は親から生まれた。自分たちと同じように――そう、彼は燕に言った。
 トトが女性に見えるからと言って、実際に彼女が現実の人間と同じような男女の概念が通じる存在かはわからない。母親というのも便宜上だ。果たして性的な知識など一切無いだろう無垢な少女には確認のしようがない。
 けれどごくシンプルに考えて、彼女が“何者かから産まれた存在”だというのならば。
 彼女はこの不思議な世界に、突然湧いて出た存在ではないと言うことになる。
 そこには彼女を産んだ何者かが――そしてまた、その何者かに通じる人々が存在する。

「ここは惑星オデッセイでも僻地だろうが、トトの話では、ここから遙か北に歩いたところには、街が存在している。その可能性は高い」
「――“惑星オデッセイ”の、街か。遠いのか?」
「遠いだろうが、それは大した問題ではない」

 君たちと違って、実際にその道程を歩き通す自分達にとっては楽ではないが――と、クラインは言う。

「本当にいるのか。クライン――あんたの話を信じるにしても、“トト”が単なる不正規アバターだという可能性もある」
「そのお陰で僕は壊れずに済んだんだ。それならそれで構わない」

 今はそこを疑っても仕方がない――そうだろう? と、彼は言った。燕は、その言葉を否定しようとは思えない。

「少なくとも、“惑星オデッセイ”に存在しているのは僕らだけではない。それは確かだろう――カツラギ、君が見たという、山岳地帯の“人影”のように」
「……」

 果たして、燕が見た、尾根に立つ人影。それは“クライン”ではなかったのだという。考えてみれば、ここはあの山脈から、現実の距離に直せば数百キロはある。何の装備もなく踏破出来るような距離ではなく、またそうする必要もない。
 ならば――あれは一体なんだったのか。こちらもごくシンプルに考えれば、“クライン”以外の“何者か”と言うことになる。“惑星オデッセイ”に存在する、何者か。

「何にせよ――僕はまだ、考え続ける事が出来る。礼を言うよ、カツラギ」
「礼ならあいつに言ってくれ」

 燕は肩越しに親指を指す。その先には、二人の少女の姿。
 慣れない服装に窮屈そうにしているトトと、それを見て楽しそうに笑っているクロネコの姿。
 あるいはクロネコが彼女を受け入れなかったら、きっと自分も最後まで、“クライン”の事を認めようとはしなかっただろう。ましてや、二人が自分たちの旅に同道するという申し出を受け入れようなどとは。

「正直――僕は自分が何者なのか、今でも思い悩むことはある。けれど君たちの姿を見て――先に進まないという選択肢は、僕にはない。トトが、どう思っているのかは本当はわからない。けれど」
「あの子を信じてるなら、深く考える必要はねえだろ――あれだけ楽しそうなんだ。アレが答えでも良いんじゃないか」

 褐色の少女の笑顔は、相応に愛らしい。恐怖のあまり彼女に拳銃を向けた過去など、まるで悪い冗談のように感じられる。燕は自分で出した言葉に、自分で納得した。

「とにかく――ようこそ“惑星オデッセイ探検隊”へ。貴重な“現地住民”の水先案内人だ。感謝するぜ」
「期待に応えて最高のシェルパとなれるよう努めるさ」

 軽口をたたき合いながら、燕とクラインは握手を交わす。
 この判断が――正しいのか間違っているのか。燕にはわからない。けれど――“惑星オデッセイ”の探検は、今また次の局面を迎えているのだろう。
 そんな直感が、自分の中に存在することに、燕は気がついていた。












予想外の湊さんの人気にブーストかけてみた。
いえ、冗談ですけど。

これR指定くらいかな、と思ったけど、直接的な描写は一つもないから多分OKじゃないかと思いますが。
気になる方がいたら教えてください。

以前とある純文学作家が、「ライトノベル」に挑戦したら、いつの間にか「ライトノベル」じゃなく「官能小説」になっていたという話を聞いた。
……今回なんとなくその作家の気持ちがわかった気がする。
小説じゃないけど、たとえば漫画家の矢吹先生とか。どういう精神してたらああいうのが描けるんだろう。いや、マネしようとも思わないけど。




[37800] 閑章 日常を、変える
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/02/08 23:53
第九話「日常を、変える」

 夏休み。
 世界的に見て勤勉と言われる日本に於いて、実際にそれを謳歌出来るのは学生時分である。地域や通う学校によっても差はあるが、一ヶ月程度――長くなれば二ヶ月以上もの休暇が与えられる。一度実社会に出てしまえば、これだけ纏まった自由な時間を手に入れる事は中々難しいだろう。
 無論その間に課題に追われるというのも、ある意味ここ一世紀近く続く日本の学生特有の、夏の風物詩という奴であろうが――後々思い出してみると、それが実際追われると形容するほどの量なのか。むろん、それは結果論という奴なのだろうが。
 だから、と言うわけではないが。
 とある地方都市の、何処に出もあるような中学校――夏休みにただの二日程度存在する“登校日”という日にあたって、朝の校門で挨拶を交わす学生達の顔は、実に気だるそうであった。

「不思議だよな――部活だ補習だって、休みの間も結構普通に学校来てるのに――“登校日”だって思うと、どうしてこんなに気が重い」
「そりゃお前、部活はそれなりにやる気出るし、補習も仕方ないと言えばそれまでだろ? このクソ暑い中先生の話を聞かされて、時々面白くもねえビデオとか見せられてだな――」

 何かしら、必要な理由はあるのだろう。だが、大した用でもなく、夏休みのただ中に呼び出される方とすれば、たまったものではない。
 ――やってらんねえ、と、小さく毒を吐く男子生徒の背中を、友人が叩く。

「だったらこんなところでブツブツ文句言ってねえで、サボっちまえばいいじゃんよ」
「誰だってそうしたいと思ってるよ。けどこのクソ田舎で登校日に学校サボったら、どっかの暇なジジババから確実に通報が行くぜ。おたくの生徒が制服でうろついて云々って」
「お前以外と真面目なのな」
「ごく普通の中三だろ。真面目に勉強すんのも嫌だけど、今時拗ねくってツッパったって、それこそ馬鹿のすることだろ。卒業式ん時に改造制服で来てた先輩を忘れたか?」
「ああ……あれは見てて悲惨だったな……まあ、本人が満足してんならどうでもいいわ。正直関わりたくはねえし」
「だろ?」

 だから結局自分は、日々の学業や、こういった意味のない行事に文句を言いながらも、律儀にそれを受け入れてしまうのである。

「無力だねえ」
「そうそう――無力なボクらはさっさとお勤め終わらせようぜ。どうせ二時間くらいで終わるだろ? そのあとカラオケでも行かねえ?」
「いいけどこの三人でか?」

 スポーツバッグの紐をリュックのように背中に引っかけた少年が、気だるそうに言う。

「暇してそうなのに声掛けてみたらどうよ。いつものメンバーは来るんじゃね?」
「女子来ねーかもよ」
「何でよ――森崎とかカラオケ大好きじゃん。暇してんなら来るだろ」
「あいつ彼氏出来たって噂だぞ?」
「マジで!? うわけっこうリアルにショックだわ。あいつサバサバしてて話しやすいから、俺結構好きだったのに」
「今更そう言うこと言うなよ。あくまで噂だし、玉砕覚悟でアタックしたらどうよ」
「それこそ今更出来るかバカヤロウ。惨めすぎんだろ俺」

 果たして気心の知れた仲である。馬鹿げた話に話に花を咲かせつつ、下駄箱に向かう。自分の出席番号が張られた棚から上履きを引っ張り出し、無造作に床に放り投げる。かかとが半分履き潰されているのはご愛敬。今のご時世不良のように振る舞うのは馬鹿馬鹿しくても、小さな反抗はしてみたいのである。

「ドラマとかである蓋付きの靴箱ってさ、ホントに置いてある学校あるのかな」
「知らねえけど、うちは未だ解放廊下だしなあ。俺はドラマと言えばそっちの方に違和感覚えるぜ?」
「あれ夏はすげー暑そうだけど」
「ああいうところって、きっと冷房とか標準装備なんじゃね?」
「マジかよ格差社会とかやってらんねーな――っと!?」

 大げさに気だるい動作をしていたのが悪かったのだろうか――いかにも若者が好みそうなプリントTシャツの上に、カッターシャツを羽織ったその少年は、履き潰した上履きに足を取られて、思わずその場でたたらを踏む。

「うわった――!」
「ひゃっ!?」

 何とか転倒する前に踏みとどまったが、腕がその場にいた誰かにぶつかってしまう。甲高い悲鳴が聞こえたから、女子生徒か。失敗したな――と、顔が熱くなるのを感じる。

「何やってんだよ、だっせえ」
「うっせ――悪かった」
「あ――うん」

 振り返って、その女子生徒に詫びる。
 小柄な少女だった。未だ成長期を終えておらず、大人の男に比べれば身長が低い彼であっても、視線にまず頭髪が映る。華美では無いが品の良い髪留めに飾られた、綺麗な長い黒髪。

「あたしは平気だけど。きみは足くじいたりしてないの?」
「え? お、おう……上履きの踵踏んづけてバランス崩しただけだ」
「そう。気をつけてよ? 夏休みだからって、ボケすぎじゃないの?」
「悪かったな! えっと……」
「あはは、冗談冗談。それじゃあたし、先に教室行くね、霧島」

 その少女は、少年に軽く手を挙げて、踵を返す。長い黒髪が、ふわりと広がる。
 少年は半ばぼんやりと――その後ろ姿を見送って、片手を上げた。彼女にはもはや、その挨拶は見えていないだろうに。

「――いつまでボケっとしてんだよ。さっさと行こうぜ。ここ風通し悪いんだから」
「あ、ああ――なあ、今の」
「あん?」
「水戸――だよな?」
「……」

 その言葉に、少年の友人は口を閉ざし――もう一人の少年と一緒に、手のひらを彼の額に当てる。

「ってやめろよ気持ち悪い! 何だよそのリアクションは!」
「お前が何だよ……いや、いくら休みを挟んだとは言え、同じクラスの奴の顔を忘れてたら、そりゃ心配にもなるだろうよ」
「心配してるようには見えねーんだけど?」
「そりゃ半分は冗談だが」

 もう一人の友人は肩をすくめ、首を傾げつつ言う。

「だったら何で疑問系なんだよ。クラスの人間の顔を忘れたってんじゃなけりゃ」
「……水戸って、あんな奴だっけ? ――……だから額に手を当てんじゃねえよ!?」
「だってなあ……」
「うん……まあ」

 腕を組み、友人は言った。

「何かこう、雰囲気変わった……的な感じはしたけど」
「わかってんなら俺だけおかしい人みたいな扱いすんじゃねーよ!?」




「それじゃお前ら、残りの夏休みもあと僅かだが――まず死ぬなよ? ついでに事件も起こすなよ? もしお前らに何かあって見ろ、俺は他人のような顔でテレビのインタビューに『そんな子には見えなかったんですが』と応えてやるからな」
「先生真顔でとんでもないこと言うのやめてよ――」
「つか、そういうインタビューに普通担任が出ねえだろ」

 生徒からそれなりの人気を得ている担任が、ジョーク混じりに二学期の準備や、補習の時間についてなどの諸注意をしているのを聞き流しつつ――その少年、霧島和希は、視線を斜め前に向ける。
 そこには、長い髪の女子生徒が座っている。
 水戸由香――今年初めて同じクラスになった女子である。とはいえ、霧島少年と何か接点があるわけではない。
 中学生時分など、友人同士のグループが出来やすい年の頃ではある。グループ内の友人とは親密であっても、その外の人間となれば、たとえ同じクラスであってもあまり会話を交わさないことさえ、珍しくはない。
 ご多分に漏れず、このクラスもそうである。
 仲間はずれだとか“いじめ”だとか。そう言うことが起こっていない事は幸せであるのだろうと、似合いもせずそんなことを霧島少年は考えたこともあるが。ともかくそうであっても、客観的に見ればどうかと思うものが、やはりこのクラスにも存在しているのであって。
 水戸由香は、仲の良いグループが“大人しい女子”のそれに属する。どちらかと言えばクラスの中では地味な存在で、男子とは接点がない。だからとりわけ霧島少年と親しいというわけではない。
 だが――そう言ったグループの中では割合話しやすい方なので、別段取っつきにくいと思うわけでもない。
 単なるクラスメイト――そう呼ぶのが最も適当な相手だと、彼は思う。

「――お前さー、こう言ったらあれだけど」
「あん?」

 後ろの席の友人が、ボールペンの頭で背中を突く。

「水戸の事意識しまくってね?」
「……」
「お前ああいうのが好みだっけ? 家にアイドルのポスターとか貼ってるくらいだから、もっとぱっと見で美人なのが好きなんだと思ってたけど」
「あれは兄貴のだ」

 口に出した後で言い訳がましいとも思ったが、仕方ないだろう。彼は覚悟を決めて友人に言う。

「でも何かこう……雰囲気変わってねえ?」
「ああ――そう言えば眼鏡変えてるな、あいつ」
「あ」

 どうして気がつかなかったのか、と、思った。確かに一学期には、彼女はもっと野暮ったいというか、分厚い黒縁の眼鏡を掛けていた。長い黒髪も表情を覆い隠すようで、それで目立たない感じだったのだ。
 暗い、というのではなく。話しをすれば割合快活であるから、それで不快感だとかは覚えないけれど。
 それが今は――線の細い洒落た眼鏡をかけ、長い黒髪は髪飾りで纏められている。

「前のアレよりは似合ってね? つか――普通に可愛いじゃん。全然イケるわ」
「ストレート過ぎんだろお前」
「で、どーすんのよ。夏休みももうあんまり残ってねえし、告るん?」
「話し飛びすぎてんだろ――仮にそうだったとしても、望み薄なんじゃねえ?」
「何で」
「だって、夏休み開けたら急に女の雰囲気が変わってた――なんて、良くある話しだろ?」
「ああ」

 合点がいったとばかりに、友人は頷く。

「一夏の経験を経て、女になりましたって奴な」
「何か改めて口にすると、結構アレだけどな」
「いいや言うね! その厳しい現実を受け入れないで何たるかよ! 俺らまだ中三! 先は長えって」
「小野寺! 霧島! さっきからうるせえぞお前ら! お前らだけ揃って居残り補習喰らわせるぞ無論エアコンはオフで! そして俺は監督もせずに放置するね!」

 担任からの流れ弾に、友人と揃って両手を挙げる。クラスからは失笑がこぼれるが――まだ夏休みが残っているが故だろう、この教室の雰囲気は、何だか心地良い。
 それからホームルームは解散。
 霧島は今日の放課後に、友人達と遊びに行く約束を取り付けて、帰路についたのであるが――




「だからそう言うんじゃねえって――いい加減しつけーよお前ら!」

 片田舎のカラオケボックスというのは、意外に来客が途切れることはない。平日の昼間は時間に余裕のある高齢者や主婦層が、夕方からは学校を終えた学生が、夜は飲み会の二次会など――ともかく、娯楽が少ない場所では必然的にそうなるのだろう。
 そう言う状況で、平日とはいえ大人数の飛び込みで、フリータイムを確保できたのは運が良かったのだろう。そこまでは件の霧島少年も認めるところであるが――

「俺のことはどうでも良いから、あいつの歌を聴けっ!」
「片山―、悪いけど今良いところだから、ちょいボリュームダウンなー」
『あいよー』
「お前らここに何しに来てんだよ!?」

 どうやら今この場で、自分に味方は居ないようである。あるいは来るんじゃなかったか――それとも、今日の自分はそんなにおかしかったのだろうかと、前髪を掻き上げるように額を抑える。

「まあまあ、みんな気になるのよ。だって霧島君、今までずっとそう言う浮いた話し無くて、女になんか興味ねえってオーラ出してたじゃない?」
「そんなオーラ出した覚えはねえよ」
「このままじゃきっと、将来はお見合いでもセッティングしてあげなきゃならないって、そう思ってたくらいで」
「お前は俺の母親か」
「せめてお姉さんって呼んでくれない? 覚悟決めて喋っちゃいなよ。悪いことばかりじゃないよ? 気が楽になるかも」

 隣に座っていた女子が、わざとらしく“しな”を作りながら彼に寄りかかる。からかわれているのがわかっていて、何となく面白くはない。けれど、触れ合った肌の柔らかな感触や、形容しがたい甘い匂いに、首筋が熱くなる。

「あはっ、赤くなってる」
「写メ撮るよ写メ――アヤちゃん、もっとこう、抱きついてっ!」
「こう?」
「おい馬鹿やめろ――マジでやめろ!」

 咳払いをしつつ、乾いてもいない喉に飲み物を流し込む。

「霧島君そういう可愛いところ、意外とクラスの女子にも人気だよ?」
「お前らみたいな連中の言う噂ほど、アテにならないものがあるか」

 羨ましい羨ましいと声を揃える男連中に蹴りを入れる真似をしながら、霧島少年は幾分乱暴に、グラスをテーブルに戻す。

「でも正直な話しさ――水戸さん、女子から見ても、何か雰囲気変わったと思う」
「だったら俺一人からかう必要ねえだろ」
「けどお前ほどガン見してた奴もいねーからな。今までのは冗談半分としても、お前、あの娘の事、好きなん?」
「いやそもそも、俺、あいつのこと良く知らないし」

 口に出して――自分でもその通りだと思った。何故彼女の変化がああまで気になったのかは自分でもわからない。

「ちーちゃん、あの子と去年も同じクラスじゃなかった?」
「あ、うん。でもそれほど仲が良いわけじゃないからなあ……見た目のせいで話しかけにくいって言うか。本当は全然話しやすい子なのに」
「見た目?」
「ほらいかにも真面目って言うか、勉強してますみたいな……」
「ああなるほど。お前らみたいなチャラチャラした女子とは壁があると」
「喧嘩売ってるなら買うわよ? ともかくその実、別にそんなに硬い性格でもないのよね。勉強できるように見せかけて成績ガタガタだって、自分で笑いながら言ってるくらいだし」
「マジ?」
「草壁さんと一緒に居ることが多いから、余計にそう思うのかも知れないけど」

 言われて霧島は思い浮かべる。
 草壁湊――その少女は、わかりやすい言い方をするなら“高嶺の花”であろうか。容姿端麗で成績も良く、人当たりも良い。
 もちろん、ここはドラマや漫画の世界ではない。ただの片田舎の中学校である。客観的に見れば彼女は“多少可愛くて出来の良い”子であると、ただそれだけなのだろうが。
 だが、だからこそ逆に――そう言う馬鹿げた事を、無為に考えてしまうのだろう。当人の気持ちなど、関係なく。

「おお、昨年の“ミス片中”」
「ねー、あの子可愛いわよね。すらっと背ぇ高くて、スタイルも良くて」
「体育の着替えの時とか見た? 腰細いの。お尻小さいの。脚長いの」
「やべえ……女子連中羨ましすぎるだろ。くっそ俺も女だったら」
「深井――それ本末転倒って言うんだと思うよ?」
「あれで“自分が可愛いのわかってます”的な、性格悪い奴だったらまだアレなんだけども」
「わかる。わかるわ」
「性格良いの?」
「少なくとも、そう言う事考える自分が惨めだって思うくらいには」
「マジかよ。完璧じゃん」
「そうだな、少なくともお前じゃあ相手にされねえわな」

 しかし話がズレてないか、と、誰かが言う。霧島は舌打ちした。

「まあ正直に言うと――確かに、俺は水戸のことは気になった」
「「おおー」」
「だが、別に好きとか、付き合いたいとか、そう言うのではない」
「「ええー」」

 こんな時だけ綺麗に纏まるんじゃない、と、彼は嫌そうに手を振る。
 ただ、確かに――自分の中でも気になるのは確かなのだ。
 水戸由香という少女のことを、自分はほとんど何も知らない。ただ、同じクラスに居る、あまり目立たない少女――ただそれだけの筈だった。
 確かに、今朝彼女の様子が少し変わっていたのには驚いた。
 けれど、それだけである。自分が言うのも何であるが、自分たちくらいの年頃の少年少女が休み明けにイメージを変えようと試みたところで、それは普通のことである。少なくとも彼女の場合、それは良い方向に成功していたと思う。
 しかし霧島という少年にとって、それは何の関係も無いことなのだ。それがどうもこうして、意識してしまうのだろう。現にこうやって、友人達にからかわれる程度には。

「いや、お前そりゃあ深く考えすぎだろ――人を好きになるのに理由がいるのかい?」
「きめえ」
「バッサリ過ぎんだろ!? 今のは確かに俺自身どうかと思ったが……」
「だったらやらないでよもう……鳥肌立っちゃったじゃない」
「そこまで!? もう、拗ねるぞ俺は!」
「好きなだけ殻に閉じこもってろよ。つまりあれだろ? 一目惚れって奴じゃないか?」
「……一応俺、水戸とは知り合いレベルではあるんだが」
「じゃあ、“一目惚れみたいなもん”」
「何か一気にどうでもよくなったな」

 そうなのだろうか。完全に否定は出来ないけれど。
 彼女が変わったように見えて、自分がどう思ったかと言えば――

 ――あ、何か可愛い――

 自分でも馬鹿げていると思うけれど、そんな風に思ってしまったわけで。

「ああもう、これは完全にアレだね。やられちゃってるね」
「やられちゃってますか岡田さん」
「やられちゃってますなあ、片山君」
「いや、ちょと待って」

 自分を置き去りにして話しをするな、と、霧島は言った。

「何ですか。気持ちさえ決まればあとはもう、する事は決まってると思いますが、霧島君」
「いや、岡田さんのそのキャラ何? え? 何? 何か俺が水戸さん大好きみたいな流れになってるんだけど」
「きっかけは人それぞれだと思うのよね、私。まあ、男の子がドラマチックな出会いに憧れるのはわかるけどさあ。ド田舎の中学生に、そうそう男が憧れるような出会いなんてあると思うの?」
「そう言いつつ楽しそうだよね?」
「そりゃもう――こういう話しが嫌いな若者なんて居るわけ無いじゃん」

 そんなものなのか――と、納得されそうになる一方で、ふと、思い返す。
 いくら自分がまだ子供で、果たして女性と付き合った経験もないからそんな風に思うのかも知れないが。自分は同級生のイメチェン一つにノックアウトされるような性格だったか?
 当然、おかしな言い方になるが、自分とて年頃の男である。女子と会話が出来るのは嬉しいし、出来れば恋人も欲しい。
 けれど本当に――これは自分として、何かおかしいのではないだろうか? それとも単純に、若さ故の強がりか。それはそれで、好きな子に悪戯をしてしまう子供と同レベルではないのか?
 そんなことを考えて――ふと、突然、ある光景が、脳裏にフラッシュバックする。
 それは、何でもない光景だった。少なくとも、その時には。ただの日常のひとときを切り取ったポートレートのようなそれが、




 霧島が家に帰ると両親の姿はなく、代わりに就職して今は家に居ないはずの兄の姿があった。聞けば、今夜は両親とも戻ってこないという。

「それじゃ兄貴は、留守番を任されたと?」
「いいや、たまたま。今日から連休で、ふらっとツーリングがてらこっちに来て――まあ、実家なら宿泊費もかからないからな」
「そもそも我らがご両親はどうしたよ?」
「親父は会社の方で何かトラブル。オカンは――本人曰く、ご近所様と“女子会”だと」
「女子会……」
「思うところがあるのは俺も同じだ。お前が今日登校日で、そのままカラオケに行ったらしいから、それだけ伝言宜しく、だと。今頃はどっかの温泉宿で肌でも磨いてんだろうよ」

 想像させるなと毒づいて、とりあえず冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出す。

「……というか俺の晩飯どうするの」
「ああ――お前てっきり外で喰ってくるんだと思って、俺が喰っちまった」
「オイコラてめ」
「いやあ近頃のガキはリア充でいいなあ。俺が中学時代に学校帰りに男女でカラオケとかあり得ねーよ」
「それは兄貴が部活ばっかやってたからだろ……」
「リアルで女子中学生と知り合いとか犯罪だね」
「俺は現役の中学生だっつうの!」
「可愛い子がいたら紹介してくれな?」
「身内から犯罪者とか勘弁だよ」
「俺は全然いけるね」
「死ねロリコン」

 どうにも、根っから体育会系の兄のことを、霧島は苦手に思ってきた。別に仲が悪いとかそう言うことは無いのだけれど。いや――この兄に関しては体育会系とか何とか、そう言うカテゴリではない。ただの馬鹿というか――変態だ。

「ほほう、俺はこれでも、可愛い弟にひもじい思いをさせるのはどうかと思って、一つ恵んでやろうかと思ったが――変態の施しはいらんだろ?」
「鬼か貴様」

 腰のポーチから財布を取り出して振ってみせる兄に、残念ながら弟は対抗する術を持たないのである。両手を挙げると、胸元に長財布が飛んできた。

「え、おい、これ」
「そいつはさっき俺の部屋から持ってきた使ってない奴だよ。大した金額も入ってねえが、まあお前の晩飯代には十分だろ」

 中を確認してみると、一万円札が入っている。これが社会の現実という奴か――自分は目の前の兄のことを尊敬した事など全くと言って良いほど無いが、今の彼と自分を比べたときに、世間はいかなる判断を下すのか。それは明白だった。

「いや……たまに帰ってきたから小遣いのつもりもあって……そんな顔になるほど腹が立つか?」
「そうじゃねえ……ありがたく頂きます、お兄様」
「お、おう……外食? ピザでも取るか?」
「いや、外で何か適当に食ってくる――遅くなるかも……」
「ああ、別に俺は母さんみたいに口やかましく言うつもりはないけど――一応気をつけろよ? 近頃は物騒だって聞いたからな」

 おざなりに“了解”と口にしてから、入ってきたばかりの玄関を、彼は再びくぐることとなる。




 ――それが、数十分前の事である。
 霧島の姿は、町中にある一件のラーメン屋の中にあった。
 別段、腹を満たすには不思議ではない場所である――が、カウンター席で、彼の隣に座る人物が問題である。

「ごめんね霧島、何か無理を聞いて貰っちゃったみたいで」
「あ、いや別に……」

 小柄な体に、あどけない顔。腰ほどまでもある長い黒髪――ある意味で、自分が今一番一緒に居るはずのない少女、水戸由香である。
 いや――そう言う言い方もおかしいかもしれない。霧島と彼女は、同じ学区の同じ学校に通う生徒なのである。彼女の家はこのラーメン屋からほど近いマンションであると聞くし、同じ街に住む者同士、何処で顔を合わせても不思議ではない。
 ――それはもちろん、そうなのであるが。

(昼間の流れでこれとか――あり得ねえだろ……)

 思わず額に手を当てて、信じたことも無いような神に祈りたくなるのである。

「この店さあ、東京でも結構話題なんだって。でも何だかんだで行く機会なくて、カツラギくんなんて聞いただけで胸焼けがするから勘弁してくれって――」
「え?」
「えっ……あ、いや、こっちの話。とにかく一回行ってみたかったんだけど、ほら、女の子一人じゃ入りにくいでしょ?」
「ああ……」

 そう言われてみれば、そうなのかも知れない。
 数分前に路上でばったり彼女に出くわして――唐突に、夕食はまだかと聞かれた。
 訳もわからない戸惑いと高揚感の中でまだだと応えると、引っ張り込まれたのがこの店である。正直、脳の処理が現実に追いつかない。
 ともあれ――ラーメン屋だの牛丼屋だの、いかにも男の外食というイメージがある。近頃はその限りではないと言うが、やはり年頃の少女一人、お世辞にも綺麗とは言えない外観に、同様の店内。威勢の良い店員の声と、胸焼けがしそうな程にこってりとした匂いが充満するこんな場所に脚を踏み入れるには、それなりの勇気が要るのかも知れない。

「駄目もとでミナちゃん誘ってみたんだけどさ――“絶対に嫌”だってさ」
「ミナちゃん?」
「ほら、同じクラスの草壁湊」

 引き合いに出された“高嶺の花”――“ミス片中”か、とは、さすがに口には出さないけれど。
 当然と言えば、逆に失礼かも知れないが。あの少女に、このいかにもなラーメン屋は、確かにそぐわない。別段当人が、自分のイメージを守っているわけでもなかろうから、単なる好みの問題なのだろうけれど。

「“オニイサン”と一緒にご飯なんだってさ。わざわざ嬉しそうに報告して来やがってあのブラコン娘――この間の意趣返しのつもりか何か知らないけど、兄妹が一緒にご飯食べるの、当たり前じゃん。なんでわざわざあたしに報告を――」
「え」

 何というか、聞き捨てならない言葉を聞いたような気がした。
 果たして問い返してもいいものか――結局好奇心に負け、霧島は聞いてみる。

「草壁って、ブラコンなの?」
「あ、うん――ちょっとヤバいくらいに――あっ! ご、ごめん。変なこと言った」

 わざわざ手で口を押さえ、彼女は言う。

「無かったことにしてくれない? さすがに――君に言うような愚痴じゃなかった」
「ま、まあ……兄妹仲が良いなら、悪い事じゃないんじゃないか?」
「どうだか――あれほっといたら、きっと堕ちるところまで堕ちるよ」
「あ?」
「いやなんでも」
「……?」

 確かにイメージにはそぐわないが――と、付け加える。
 さりとて、接点が無いから妙なイメージだけが先行しているが、草壁嬢とて、自分と同い年の子供である。目の前で生き生きと話す少女の友人だと考えれば、途端に普通の子供に思えてくるから、現金なものであるが。

「イメージって?」
「多分、水戸が考えてるのでそう間違いない。何せ去年、二年生の分際で“ミス片中”――容姿端麗、頭脳明晰。おまけに今日岡田さん達から聞いたけど、それでいて嫌味のひとつも無いって言うんだから」
「あー……まあねー……あたしからしても、その辺は思うところあるよ」

 隣に座る少女は、目を細めて水が入ったコップを傾ける。

「あの子と遊びに行ってナンパされたの、両手の指じゃ足りないもんね……おまけにその時のあたし、完全に空気」
「い、いや……水戸もその、可愛いと思うぜ?」
「そう? ふふ、冗談でも嬉しい」
「いや――」

 冗談など言ったつもりはない。けれどその場で何を言ったとしても無駄だろう。
 そもそも、言葉は継げなかった。それ以上何か言葉を継ぐと言うことが、気恥ずかしくて出来ない。

「お待たせしました、ラーメン大盛、ニンニク野菜増し盛りのお客様」
「お、来た来た――はい、あたしっ!」

 そのタイミングで注文を持ってきてくれた店員が、天の使いに見えた。幾分驚いたように、小柄な少女の前に大きな丼を置く、頼りのない天使だけれども。

「続いてチャーシュー麺普通盛のお客様――」
「ああはい……それ、俺です」

 丼を受け取って隣をちらりと窺えば、いかにも嬉しそうに両手を合わせる少女の姿。

「いただきます!」
「おう……お前、それ、食いきれるの?」
「んー、美味い! この、見た目以上でも以下でもない、脳みそが求めている通りの味が――何?」
「あ、いや……何でもないわ」

 丼から麺をすすり上げたままこちらを振り向く彼女に、霧島は慌てたように首を横に振り、割り箸を割った。おお、今日は綺麗に割れたな――などと、どうでも良いことを考えつつ。




「まあ、そうなるのは――目に見えてたわな」
「あはは……返す言葉もないです」

 それから一時間ほど経って。少年少女の姿はと言えば、ラーメン屋の奥の席にあった。
 水戸由香は、見れば誰もが不安を抱くだろうあの量のラーメンを、どうにか完食した。けれど果たして、それは当然の帰結である。全く動くことが出来なくなり、店員の厚意により、他の席から影になっているこの座敷に横になることを許されている。
 もしかすると店員も――彼女の果敢な挑戦に、影ながらエールを送りたかったのかも知れない。でなければ、それなりに混み合う時間帯に、延々と座敷席を占領させ続ける理由もない。
 むろん――無理をして追い出して、店内だの店先だのを、彼女由来の汚物で汚したくないという理由も、多分にあるだろうが。

「沈めた野菜に麺を載せて先に食えって――こういう意味か。最後の方、あんなにスープを吸うなんて……」
「無理して喋るなよ。暫くゆっくりしてて良いって言ってくれたしさ」
「以上、レポっす……」
「何言ってんだお前?」
「あ、うん……様式美って奴? うぷ」
「マジで我慢できないなら早めに言えよ? 他の客の顰蹙買う前にどうにかしねえと……」
「ああ、うん……最悪の事態は多分大丈夫だから、もう少しだけ待ってて」

 薄着だからと言うのもあるが、体の線が出やすいタイトなシャツを着ていた彼女の腹部は、傍目にわかるほど膨らんでいる。食事中はこの小さな体の何処に入るのかと疑問に思いもしたけれど、結局彼女とてただの人間。食べた物がブラックホールに消えていくわけではないのだ。

「草壁って、それで付き合いたくなかったんじゃねえの?」
「う、その可能性は否定できない」
「水、もう少し飲むか?」
「……今はたとえ水の一滴でも、胃袋の中には入れたくない気分……」
「もうちょっと服緩めるか?」
「その提案は魅力的だけど、さすがに男の子の前じゃちょっと……それとも、期待してる?」
「純粋に心配してやってるのに何て言いぐさだ」

 冗談冗談、と、彼女は手を振ってみせる。少しばかり落ち着いてきたのだろうか、天井を見上げて、満足そうな溜め息を一つ。

「……ホントになあ、俺、水戸ってもうちょっと真面目な奴だと思ってた」
「それどういう意味さ?」
「見た目だけは優等生っぽいじゃん。見た目だけは」
「何故二度繰り返した――いや、自覚はなくもないけど」

 こういう愚痴っぽい事は言いたくないけど、と、彼女は言う。

「そりゃまあ、ミナちゃんみたいなのの親友やってるとね。石ころはどれだけ磨いても宝石には勝てんのですよ」
「それはちょっと言い過ぎじゃねえか?」
「本気で悔しがってるならちょっとどうかと思うけど、あたしは別にそう言うの興味ないしね。それにあたしが言うのも何だけど、ミナちゃんのホントの魅力は見た目じゃないって思うし――それがわからん男には、娘はくれてやるもんか」
「何でお前が草壁の親父みたいになってんの」
「……まあ、その辺の事は心配しなくても大丈夫だと思うけど……むしろそれくらいの勢いであってくれた方が、逆に安心できるかも知れないけど」

 はあ? と、霧島は間の抜けた声を上げ――刻まれて間もない台詞を思い出す。

「ああ……草壁が実はブラコンだって?」
「それ本人の前では絶対言わないでね?」
「言わねえ……っつうか、言えねえ。ああそれで、兄貴以外の男に目を向けてくれれば安心だって?」
「ねえ、あたし何でこんな苦労してんだろうね?」
「それこそ考えすぎだろ?」
「……」

 小さく気合いを入れて、小柄な少女は体を起こす。ある程度落ち着いたのだろうか。口元に手を当てて、肩を跳ねさせるのは頂けないけれど。押さえきれない何かいやな音が漏れた気がする。

「ま……霧島の言うとおり、あんまり見た目に気を遣わなすぎるのも、ちょっとアレだと思うようにはなりました」
「……それって」
「ん?」
「……何でもない」

 そうだな――と、彼は言う。

「考えてみたら――思い出した。水戸は、そう言えばそう言う性格だったよな」
「うん? ――あれ? あたし、霧島とそんなに話したことあったっけ?」
「去年さ、社会科見学で空港に行ったことあったろ? バス停がやったら遠くて、炎天下の中で小一時間も歩かされ続けた奴」
「ああ……ああ! あ、そっか、あれって霧島か!」

 思い出した思い出したと、少しはしゃいだように彼女は言った。
 どうやら彼女は、この年頃の少女にしては非常に珍しく、飛行機にかなり興味があるらしかった。
 社会科見学で授業が潰れるのはありがたいが、さりとて、あんな苦行を誰も望んでいたわけではない。しかし実のところ、霧島自身もそのイベントは楽しみにしていた。普段は入れない旅客機の格納庫の中や、わざわざエンジンのフェアリングを外して簡単な解説もしてくれたのだ。
 そういう趣味がマイナーであることはわかっていたが、それでも友人が「この暑い中で」とあきれ顔をするくらいには楽しんでいたと思う。
 そして――自分と同じような顔をしていた少女の事を、霧島は覚えていた。

「話しに花が咲いたね。クラス違ったから、そう一緒にはいられなかったけど」
「まさかあの手の話題に食いついてくる奴がいるとは思わなかった。ジェットエンジンのバイパス比の話に、それも女子が」
「いやあ、昔からあたし、ああいうの好きで――霧島も?」
「いやその……フライトシューティングゲームっつうんだけど、飛行機が出てくるネトゲやってたら、はまっちゃって」
「……お、おう」
「い、いや――自分でもオタク臭え趣味だってのは自覚してるけどさ……」
「え? あ、いや、そうじゃない。そうじゃないのよ!? あ、あたしは全然そういうの、気にならないしさ!?」

 何故かうろたえたように言う彼女に首を傾げつつ――自分の中で、何かが腑に落ちた感覚。どうしてああも――クラスメイトにからかわれるくらいに、彼女の事が気になったのか。
 カラオケボックスでフラッシュバックした、そう遠くない日々の記憶。あの時に見た――彼女の、笑顔。
 考えれば、同じクラスになってからこちら、あんな表情は見ていない。
 もちろん、大して親しくもない男子の前で浮かべるような表情ではない。けれど――記憶の中とくらべてあまりに地味ないつもの印象が、それを覆い隠していた。だから、自分でもわからなかった。

「霧島?」
「あのさ、水戸」

 今ここで言うべきだったのかどうかは、わからない。
 少なくとも格好は付かないはずだった。偶然出くわした、大して親しくもない女子生徒と一緒にラーメン屋に入り、果ては食べ過ぎで動けなくなった彼女に付き添って、色気の欠片もないような話しをして。
 そしてそんな今。

「俺――水戸の事、好きだ」

 そんな言葉が、自然と口からこぼれた。







「何て言うか――俺は一目惚れっつうのがあるかどうか知らないし、自分の状態がそういう甘酸っぱいモノとも思えねえけど。そもそも、そいつのこと“好きだ”ってのはどういうことよ。どうせ最初は一緒に居て楽しいとか、ドキドキするとか、そういう他愛ないもんだろうが」
「それで結局、勢いで水戸に告白した結果は?」
「察しろよ馬鹿野郎」

 あと数日で夏休みも終わりを告げる――そんなある日。
 近所のファミリーレストランで、迷惑にもドリンクバーだけで数時間居座り続けつつ、宿題の最後の追い込みをする少年少女達の姿が、そこにはあった。

「見事にフラれたよ――そこ、女共。わざとらしく同情なんてしなくていい、かえって惨めだから」
「そ、そんなことないよ? そ、それじゃ私、霧島の彼女に立候補――なんて」
「冗談で言ってんだろうが本気にするぞオイ」
「ごめんなさいまずはお友達から」
「今までは友達以下だったとか逆にショックだよ――いや、そういう馬鹿げた話しはともかく、さ。マジで同情とか慰めはいらねえって。何か……あんまりショックがあるわけでもないし」

 霧島は何杯目かわからないオレンジジュースを喉に流し込み、苦笑いを浮かべる。思い切りシートの背もたれに体を預けるが、そこはたかだかファミリーレストラン。あまり気持ちの良くない柔らかさが感じられるだけだった。

(そう――ショックがあるわけじゃないんだよな。それが良いのかどうかわかんねーけどさ)

 確かに――自分の告白を、彼女は受け入れてはくれなかった。
 けれどその事に、不思議なほど残念がっていない自分が居る。霧島は、それに気がついていた。
 そもそも――自分は本当に、彼女のことが好きだったのだろうか?
 少し印象が変わって、それが気になって、そこを仲間達に冷やかされて。“好きになった”つもりになっていただけではないだろうか?
 彼女とは似たような趣味を持っていて、だから一緒にいれば楽しいかも知れない。
 けれど“それ”だけの理由で、彼女と恋人になろうとは。

(ああ――うん。あの笑顔が、見たかったんだ。あれを――俺に向けて欲しかったんだ)

 それはあるいは、恋ですら無いのかも知れない。けれど、自分は見ていたかったのだと思う。彼女の側で――あの、形容すら出来ないほど屈託のない、明るい笑顔を。
 それを思えば、やはり彼女の恋人になれないのは残念――と言うことではあるのだろうけれど。

「――もともとそれほど入れ込んでたわけでもねえし――きっぱり、忘れる」
「まあ……昨日の今日でえらく急展開だとは思ったけど」
「――ねえ?」
「それで納得できんのかよお前――いや、突き詰めてストーカーとかになられても知り合いとして困るけど」
「さりげに友達じゃなく“知り合い”っつったかお前――納得って」

 霧島は肩をすくめる。

「小野寺。俺言ったじゃん。女の子が休み明けにイメチェンしたら、その理由なんていくつもねーだろ、って」
「そう言えばそんなことを――って、それじゃ」
「ええ! 水戸さん彼氏出来たの!?」
「誰! 誰! うちのクラス!?」
「詳しくは俺も聞いてねえ。つか、聞けねえ。そんな自分の傷口抉るような真似、誰が出来るか。ただ――年上とは聞いたな」
「年上とか! 年上とかっ!」
「水戸さんちっちゃくてかわいいよね!? ちょっとヤバくないかしら!?」
「おい女子ちょっとトーン落とせ。さっきから店員に睨まれてる」

 それにしてもこのはしゃぎようである。この連中との友達づきあいというのを真剣に考えた方が良いのかも知れない――などと考えながら、霧島は小さく息を吐く。
 刻まれて間もない――言うなればほろ苦い記憶を、思い出す。




「ギャグ? ドッキリ――じゃ、ないよね?」

 小柄な少女は、目を白黒させながら言った。

「でも――どうして?」

 そんなことは、自分にだってよくわからない。話しやすいから? 一緒にいて、楽しいから? 何にせよ明確な理由ではない。けれどそう思ったのは確かだし、その気持ちに間違いはない。

「あ……うん、ありがと。ありがとう? って、言うのが正しいのか、わかんないけど」

 冗談でも嬉しいと、彼女は言う。むろん、冗談でこのようなことが言えるわけがない。
 口に出した後、自分でも、とんでもないことをどうしてこうも。さらりと口に出したのか――直前の自分を叩き倒したい気分である。
 それで――答を聞かせてくれるのだろうか。

「――ごめん」

 小さく。
 けれどはっきりと、彼女は言った。

「ごめん――いや、君のその言葉は、ホントに、嬉しい。まさかミナちゃんみたいな子じゃなくて、あたしみたいなのを、見てくれる人が居るなんて……こう言ったら君は怒るんだろうけれど、たとえそれが冗談だったとしても、あたしは、嬉しい」

 でも、と、彼女は続ける。

「あたし――好きな人が居るから。ずっと一緒に歩いていくんだって決めた人がいるから」

 それは、あまりにも明確な理由だった。
 だから――だろうか? その時自分の頭の中には、自分でもわからないうちに堰を切った、自分の内なる気持ちに対する混乱はあっても――絶望感のようなものはなかった。
 そして彼女が困惑するのも無理はない。自分と彼女には、あの夏の日意外には、ほとんど接点がないのだ。それでも敢えて言うなれば――彼女の笑顔は、自分の心の深いところに残っていたのだろう。
 それが今日――ふと、雰囲気の変わった彼女を目にしたことで、目を覚ました。
 だから自分自身、自分の気持ちをまだ完全には掴み切れていなくて。
 その“気持ち”自体の行き場がなくなってしまっても、こうも平気でいられるのかも知れない。

「……こういう事、君に言うのは、本当はいけないのかも知れないけど」

 ふと、彼女は言った。

「きっと――その人が居なかったら、あたし、今の言葉でやられてた」

 本当に――こんな言い方をするのは良くないのだろう。そう前置きして、彼女は続ける。

「きみはきっと、あたしの外見に惹かれたんじゃないと思う。言ったらなんだけど、あたしはそんなに、男の子に受けそうな見た目じゃないから」

「そういうのはね、ミナちゃんとか見てたら、よくわかる。けどね――だから逆に、君がそれでもあたしを好きになってくれたのなら――それは本当に素敵な事だって。すごく、誇らしく思う」

「変な言い方だけど、ごめん。あたしも結構、舞い上がってる。心臓が破裂しそうなくらい」

「きっとあたしは――君が今日、あたしの事を好きだって言ってくれた事を、一生誇れる。うん――君の気持ちに応えられないのにこんな言い方するのは、酷いんだろうけれど」

 あのね、と、彼女は言った。

「あたし、もうすぐ転校するの――親の都合とかそう言うんじゃなくて、自分で決めた道を歩きたくて。いや正直、周りからは逆にせめて中学卒業してからにすればいいって言われてるけど。主にミナちゃんに――後数ヶ月だし、言いたいことはわかるけどね」

「うん――正直、不安は、ある。いくらカツラギくん――あ、う、うん――あたしの好きな人が、一緒にいてくれるからって」

「でも……でもね。あの、さ。その――図々しいお願いなのはわかるけど、これからも友達でいてくれる? きみがいてくれたら――きっと、少しだけ安心できると思うんだ」

「ああうん――思いっきり自慢してやる。カツラギくんには。それくらい、君に告白されたことは――あたしは、誇りに思う」

「それで、すごく勝手な言い分だけど」

「あたしは確かに、君の恋人には、なれない。あたしはきっと、これから先もずっと、カツラギくん以外の人を好きになることはないから」

「でも、友達では、居て欲しい。飛行機のエンジンの話で盛り上がったりとか、ラーメン屋で馬鹿なことしたりとか、ミナちゃんと同じで、ずっと、そういういい友達で居て欲しい」

「だから――」




「だからまあ、この話はもうやめ。一夏の恋で変わる女がいるなら、逆にフラれる男も大勢いるって事だよ。言わせんなよ恥ずかしい」
「よし。それじゃ今日は霧島ん家で残念会だな」
「お前さ、泣きっ面に蜂とかって言葉、知ってるか?」
「馬鹿お前、受験生ナメんなよ?」
「俺も受験生だよバカヤロウ」

 この馬鹿騒ぎが出来る仲間達と過ごすのも悪くはない。それはそれで、大事な時間だろう。何だかんだと言いつつも、彼ら彼女らは、自分に対して気を遣っているのだろうし。
 けれどさすがに今だけは、そう言う気遣いは要らないのである。
 彼女に自分の思いが通じなかった事にショックを受けていないとは言っても、本当に全く何も感じなかったわけではない。その上彼女には他に好きな人が居ることを知らされて、自分とはずっと友達で居たい、などと言われた日には。
 今更未練がましい事は言いたくないし、実際不思議なほどそう言う気持ちは起こらないのだが――だからといって、何も感じないわけではない。

「宿題さっさと終わらせて、一人寂しく気分転換でもやってるよ」
「一人で気分転換――カッコ、意味深」
「小野寺てめえマジでブチ殺すぞ」

 近頃出来ていないネットゲームとか、と、霧島は言う。

「霧島お前――いくら現実の彼女が出来ないからって、ついに二次元に――いやちょっと待て国語辞典は普通に死ねるからな!?」
「霧島君なんで電子辞書持ってるのに国語辞典を?」
「入学の時に意味もなく買わされたあれ――何で今時紙の辞典をって思ったが、こういうときには役に立つ」
「角を、マジで角をこいつ」
「片山と時岡は誘ったことあったじゃん? ほら“ストラトダンサー”ってシューティングゲームがあって――」











大人になって思う、思春期の心理の難しさ。

こちとら永遠の「十代のキラメキ」が信条のバイク乗りなんだけどなあ。

なるたけ「普通の少年」イメージで書いてた霧島君。なんかクロネコさんにとっては彼のほうがいい気がしてきた(笑)
言ったら何だけどうちの主人公はめんどくせえ男だからな……



[37800] 第三部 第一話 足音は、続く
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2014/03/08 21:05
第一話「足音は、続く」

 長くなり始めた春の一日と言っても、その場所での夕暮れは非常に短かった。それも当然である。日暮れから夜へ――沈みつつある太陽に背を向けて飛ぶ航空機からしてみれば、そのあかね色の時間は余りに短い。
 果たして彼らは、そんなことにはもはや感傷を抱かない。ドイツ、ハンブルク国際空港を離陸し、地球をほぼ半周する長い旅を終え、目的地である東京、成田空港へとランディングアプローチに入ろうとする、ボーイング787型旅客機――その操縦桿を握る、その機体の機長と副操縦士には、もはや見慣れた光景であった。

『成田コントロールより、NNA1128――磁方位九十度を維持し、高度七〇〇〇まで降下せよ』
「NNA1128了解」

 副操縦士はちらりと、機長に目配せする。
 果たして人生の少なくない時間を空の上で過ごしてきた偉大な先達は、小さく頷く。それは彼の判断が間違っていない事を証明していた。

『空港周辺の天候、気圧状態に問題なし』
「了解――到着予定時刻は予定通り、十九時四五分」
「高度七五〇〇、通過します」
「確認。成田コントロール、NNA1128、間もなく予定高度に到達」
『コントロール了解。そのままの進路を維持しつつ待機せよ』
「NNA1128了解――ベルトサイン出しますか」

 副操縦士がそう言い、機長が首肯したその瞬間だった。機内電話のコールが、コックピットに響く。何だこんな時に――副操縦士の顔には、僅かであるが不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
 その事に機長は気づいていたのだろうが、何も言わない。彼は電話を取る。

「こちらコックピット」
『L2田村です――お客様から座席ディスプレイの異常が出ていると――キャビンの複数箇所です』
「詳しく聞かせて」
『はい。ついさっきです――私も確認しました。座席ディスプレイの映像が消えて、白と黒の画面が交互に点滅する状態になっています』
「コックピット了解――機長」
「こちらの電装系に異常はないか?」
「――システム・オールグリーンです」
「鷺沢、代われ――コックピット、機長吉岡だ。キャビン――客席のディスプレイが故障した理由はわからないが、機体の操縦系統に異常はない。乗客を落ち着かせて、座席ベルトの着用指示を」
『あ、はい、わかりました』
「鷺沢、キャビンにアナウンス」
「了解――緊急事態、宣言しますか?」
「キャビンのアナウンスが終わったらシステムのセルフチェックを行う。コントロールには私が」
「わかりました――皆様、副操縦士の鷺沢でございます。当機は間もなく成田空港に着陸いたします。先程より、一部座席設備に不具合が生じておりますが、航行に支障を来すものではありませんのでご安心下さい。大変ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞ皆様、座席ベルトをお締めになり――」
「成田コントロール。こちらNNA1128。キャビンの電気系統にトラブルが発生している。操縦に問題はないが、緊急着陸を要請する。繰り返す。NNA1128緊急着陸を要請」

 無線に語りかける傍ら、自分でもメインディスプレイを操作して、機体各部の状況を呼び出す。エンジン、油圧に問題なし。対気速度、降下率ともに正常。フライバイワイヤにもエラーは検出されていない。

『成田コントロール了解。滑走路は現在クリア――アプローチ中の航空機に待機命令を出している。こちらは貴機が最優先で着陸出来る状態にある』
「NNA1128了解。現在――」
「機長――あれを」

 機長が管制塔に現状を報告しようとしたところで、副操縦士の声がそれを遮った。
 はたと、彼の指さす方に目を向けてみる。
 月の光を浴びた、薄明るい雲海の上――自分たちと並んで、一機の航空機が飛行している。
 旅客機とは明らかに違う。幾何学図形をつなぎ合わせたようなシンプルでのっぺりとした造形。尾翼を持たない全翼形状。

「あれは――アメリカの無人戦闘機? なんでこんな空域に」
「こちらに気がついているのでしょうか――監視されているようで、気味が悪いですね」
「米軍が助け船を出してくれると言うのなら良いが――コントロール、至近に米軍機と思しき機影を確認」
『成田コントロール――こちらでは貴機以外に機影は確認できない。横田基地からも報告は受けていないぞ』
「しかし現に」

 その“米軍機らしき機影”は、その刹那、翼を翻す。
 翼端から霧の帯を曳きながら、こちらから離れていくその姿は、先程見た不気味さからは一転して、一種の美しさのようなものさえ感じられる。
 さて一体、軍用機が正規のフライトプランさえ立てずに何をしていたというのか。下手をすれば空中衝突を起こしかねない。今の距離は十分に“ニアミス”だ――その思いの丈を、機長がマイクに向かってぶつけようとした時だった。キャビンから、再び連絡が入る。

『R3永井です。客席ディスプレイ、復旧しました』
「何だって? 他に異常は?」
『ありません――窓から戦闘機が見えたと一部の乗客が騒いでいますが――どうしますか?』
「席を立たせるな。これ以上トラブルが出ないうちに着陸する――NA1128より成田コントロール。キャビンのトラブルは復旧したが、このまま緊急着陸を続行する。カウント」
「高度五五〇〇を通過――ファイナルアプローチに入ります」

 果たして暫く後、NA1128便は無事に滑走路に着陸する。
 乗客のほとんどは、長い旅の最後、ほんの一瞬だけのトラブルのことなどすぐに忘れ、幾ばくかの疲労とともに機体を後にしていく。
 むろんコックピットでチェックリストを捲っていた機長は、その限りではないだろう。だが、彼がいくら考えたところで答えは出ない。鞄を片手にコックピットから出て行く副操縦士の後ろ姿を見遣り――その小さなトラブルは、また彼の日常の中に埋没していくのであった。








 翼を持つ者は、皆が皆、空気の流れに乗る。
 そもそもその為の“翼”であり、空を飛ぶのにそれが必要でないのならば、そもそも翼など持つ必要がない。
 だから――“それ”にとっても、同じ事が言える筈であった。
 「超大陸ユグドラシル」――“ストラトダンサー・オンライン”のグランドクエストであるその巨大な大陸からほど近い場所――その上空、一五〇〇〇メートル。成層圏の中を、その“翼を持つ者”は行く。
 しかしそのあまりの巨大さ故に、そして周囲に比較物となる雲などが存在しにくい高度であるが故に。“それ”はまるで、空中に静止した、巨大な城のように見える。
 全長二四〇メートル、全幅八八〇メートル。巨大なブーメランを互い違いに三つ重ねたような形状のその物体は、八基の小型原子炉から得られる無尽蔵のエネルギーにより、整流器で圧縮された大気を加熱、それを後方に排気することで空をたゆたう。
 この機体は、それが生まれただろう大地に戻ることはない。この巨体を受け止められる滑走路などは存在せず、また、それ自体に降着装置も持っていない。では、いつ誰が、この巨大な建造物をどのようにして作りだし、そして遙かな大空へ持ち上げたのか――今となっては、その技術は失われているのだという。
 果たしてどれくらいの間、それは空を漂っていたのだろう。少なくはない時間が流れた今――その巨大な空の砦は、ならず者達の根城となっていた。
 “アンティキティラ”級空中空母――二番艦の“ネヴラ”と共に、“超大陸ユグドラシル”の外周を遊弋し、そして虎視眈々とこの惑星の覇権を狙うならず者達“海賊共和国(リベルタリア)”の本拠地である。
 “アンティキティラ”級は大きく三層の構造からなっており、最下部にプレイヤーホームとして設定が可能な居住区画。時折イベントが発生する“謎のエリア”である中層の機関区画。
 そして最上段に航空機の格納庫と、離発着のための飛行甲板がある。海洋を航行する通常の空母とは違い、カタパルトやアレスティングワイヤーと言った、艦載戦闘機の離発着に必要な装備は備えていない。ただ、機体の着陸脚を必要に応じて固定する可動フックがあるだけだ。あまりの巨体にそうは見えないが、“アンティキティラ”は時速にして五百から六百キロで移動している。つまり、それだけの対気速度を常に稼げるのだから、わざわざ航空機を“必要速度”まで加速させる必要はない。着艦に関しても相対速度を合わせれば“滑走”などというものは必要ない。
 さりとて、その離発着は簡単なものではなく――アベレージプレイヤーであれば、常に墜落の危険がつきまとう難易度の高いものである。しかし、ここに身を置く海賊達にそんなことは関係ない。その程度の事が出来なければ、この星の“海賊”は務まらない。
 その更に上部――丁度髑髏のマークがでかでかと描かれた背面にせり出すように存在する一区画がある。
 NPCによって操船が行われるブリッジの上階――“頭領会議”と呼ばれる、リベルタリアのエースプレイヤーに与えられるホームであるその場所は、果たして限られた一部のプレイヤーしか足を踏み入れる事は許されない。
 その一角に、展望台のような区画がある。
 機尾に向かって大きく張り出したその場所からは、“アンティキティラ”の巨大な構造物はあまり視界に入らず――ただ、何処までも広がる成層圏と、原子力エンジンの排気が生み出した、八筋の巨大な飛行機雲が尾を引く様だけが眺められる。
 そこにただ一人、佇む人影があった。
 銀色の長髪を後頭部で束ね、古びた作業着のような服に身を包む、長身の男である。正しくは、その様にデザインされたアバターであるが。
 男は何をするでもなく、ただその場に立ちつくし、空を眺める。
 “ストラトダンサー・オンライン”がフライトシューティングゲームである事を考えれば、馬鹿げた無為な時間である。役になりきるロールプレイングがそれなりのウェイトを持つ仮想空間体感ゲームとは言っても、誰も周りにいないこの状況では意味がない。

「ご機嫌斜めじゃの」

 だが――一見して誰もいなかったその展望台に声が響く。
 先の男の声ではない。見れば何処から現れたのか、彼に向かってゆっくりと進む、小柄な人物。
 男と同じような服装に身を包んだ、老人である。“ストラトダンサー・オンライン”――いや、仮想空間体感ゲームにあって、このようなアバターを使うプレイヤーは珍しい。アバターは即ちその世界での自分の分身なのである。好きこのんで格好の良くないものを使う物好きも少ないのだ。
 そしてその“物好き”は、先の男の脇に立つ。身長はせいぜい、男の胸の辺りまでしかない。

「何をその様に荒れておるのか」
「……“海賊”に荒れるなと言うのも、馬鹿な話だ」
「むろん、そう言うことを言っておるのではないよ」
「何を根拠にそう思う」
「ほほ――歳を取るとな、自然とそう言うことがわかってくる」
「何を馬鹿な。ここは――」
「ある程度はのう、こういう場所に於いても、人間というのはさほど変わらん。ちょっとした仮想パーティーと思えば、どうじゃ?」
「戯れ言を。お前の“中身”が現実に年寄りかどうかなどわからない。単なる中二病を拗らせたガキでないと、何故わかる」
「その様な無粋なことを言い出しても始まらんと思うが。仮想空間でそのような事を言うのは、ネットのマナー違反という奴じゃよ」

 まったくしまらない、と、男はため息をついた。だが、実際にそう言うことを言っても意味はないのである。ここは仮想空間。今目に見えている世界こそが全てであり、現実を生きるプレイヤー自身のことなど、考えないに越したことはない。

「ミーティングにはまだ時間があると思うが――何か嫌な事でもあったのかね」
「リアルでの事を口に出すなと、そう言ったばかりだろう」
「単なるお節介というか老婆心じゃが――では、海賊らしく今後の悪巧みを始めるとしようか」

 男に睨み付けられた老人アバターは、楽しそうに言う。男はそれを見て、食えない奴だと呟いた。

「惑星オデッセイにおいて、各勢力が睨み合うこと約一年――ようやくここに来て、グランドクエストを前に、幾分かの差が付き始めた」
「……」
「勢力として最も勢いがあるのは“アルベサス帝国”――ついで“ニケーア都市連合”と“ティグリア共和国”――そして“オルレアン自由主義国”。この四つの勢力が、“超大陸ユグドラシル”の覇権を争うレースの中で台頭しつつある」

 男は何も言わない。それを気にした様子もなく、老人は続ける。

「さりとて、他の勢力がそれを指をくわえて見ているわけにもいかんじゃろう。既にいくつかの勢力において不可侵協定が結ばれ、上級プレイヤー同士が結託して他の勢力と戦う状況が現れ始めておる。“超大陸ユグドラシル”の覇権を巡る戦いは、新しいステージに入ったと言ってもよかろうの」
「……その事を少し考えていた」

 ふと、男が口を開く。

「“超大陸ユグドラシル”の覇権を握る――何をして、それを成し遂げたと言うのだろうか?」
「ふむ……他の勢力の駆逐、絶対的な勢力圏の構築――考えられる事は色々あるが、何処かの勢力が突出したところでそれを“是”として受け入れる人間もおるまい。まあ何かしら――今から先を読むことが出来ない、そんなイベントが用意されていると見るのが妥当じゃろうか」
「――今日の“頭領会議”はその事について話しがあると言う事だったな」
「おお――“ネヴラ”の“猟犬”と昨日一緒になってな。その時に渡された画像があるんじゃが」

 老人の手が、虚空を叩く。
 果たしてその動作と共に、何もない空中に、淡く輝くウィンドウが現れる。果たしてそれはパソコンのデスクトップ画面である。この場所には、何とも不釣り合いな代物ではある。
 その事を気にせずに、彼は画面を操作する。仮想空間体感型ゲーム機Railioは、パソコンへの接続を前提に作られている。何となれば、こうしてゲームの中からでも補助端末として機能しているパソコンを操作する事くらいは出来る。

「はてさて、こいつをどう思うね」
「これは――」

 そこに現れた画像を見て――男の表情が、小さく動く。

「これは――街?」




「“ユグドラシル”に街があった?」

 その“超大陸ユグドラシル”から遙か南――ディープブルーの外洋のただ中に、エメラルドグリーンの珊瑚礁が美しく彩りを添える島嶼部。その一角にある“ティグリア共和国第501特務航空隊基地”。ティグリア共和国のエースである彼らの、そのホームにて。
 褐色の肌と白い頭髪を持つ少女のアバターが、小さく声を上げた。

「それはアレかいな? 前に正体不明の相手から脅迫状が送りつけられたとかいう――その関係の?」
「それはまだわからないわ」

 対してパイプ椅子に腰掛けた、長い金髪を持つ白人女性のアバターが首を横に振る。
 もう半年ほど前になるが――“ストラトダンサー・オンライン”に正体不明の無人機が現れ始めたあの頃。欧州で起こったという不可解なプレイヤーの突然死と、出所不明の脅迫状が、プレイヤー達の間で話題になったことがある。
 その脅迫状の内容である。“超大陸ユグドラシル”は自分たちのものであり、そこに入り込もうとするのであれば、容赦などしない、と。
 まるでその言葉を証明するように、圧倒的な性能差でもって、プレイヤーを苦しめる無人機の登場。ようやくここに来て、一定の“攻略法”を編み出すプレイヤーが現れ始めたとはいえ、各勢力のエース級にとってさえ、いまだ楽な相手ではない。

「その妨害もあって、“ユグドラシル”の陣取り合戦は亀の歩み――それでも、ここ最近で差が付いてきたようだけれど」
「わからんで? 下位組織の間やと、上位に対する巻き返しを図って協定を結ぼうとする動きが現れとる。うちやニケーア、アルベサスは現時点では上位勢力やけど――この先アドバンテージを保てるかどうかはわからんで」

 とはいえだからこそ面白い。褐色の少女アバター“アタゴ”はそう嘯く。現実の戦争ならばともかくこれはゲームである。それも、自分一人がコンピュータを相手にする独り相撲ではなく、多人数参加型の所謂MMO――事がすんなりと運び、あっさりとゲームがエンディングを迎えてしまっては面白くない。
 ましてや自分は、そこで“エース”を名乗る上級プレイヤーの一人なのだ。

「詳しいわね」
「サブアカウントを他の勢力で作っとるからな。そこでアベレージプレイヤーを演じとったら、情報なんて簡単に手に入る。セルフスパイやな」
「よくそこまでやる気になるわねえ」
「こういうMMOやと、珍しい事やあらへんで? もちろん、向こうでは地味なソロプレイヤーを演じとるし、向こうの手助けになるようなことをしてない代わりに邪魔もしとらん。マナーは守っとる」

 白人女性のアバター――“ルナ”は、特にその事をとがめるつもりはない。“アタゴ”がやっている行為は、ゲームのルールからすればグレーゾーンだ。中にはサブアカウントではなく自身のメインキャラクターを使って他の勢力に乗り込み、実際に“スパイ”を演じることを楽しむプレイヤーも存在する。
 各勢力の代表のように振る舞えるがその実、少数精鋭で横の繋がりがあまり持てない、自分たちのようなコミュニティであれば、致し方ない事かも知れない。それに彼女は確かにトップクラスのプレイヤーではあるが、彼女一人で、万単位を数える各勢力の動向を左右できるわけではない。

「アルベサスの“戦略偵察飛行隊”を知ってる?」
「前線にちょくちょく現れるあの覗き魔連中なあ……鬱陶しいんやけど、何せあいつら速すぎるんや。フィールドに侵入したその瞬間から、マッハ3級の高速を保ったまま高空を駆け抜けてフィールドから逃げる――ただでさえ足の遅いF-3やと、追いつくどころか射程にも入らんわ」

 現在“超大陸ユグドラシル”で最も勢力を伸ばしている“アルベサス帝国”が擁する、十三機のMig-31“フォックスハウンド”戦闘機によって構成される部隊である。
 Mig-31は、原型であるMig-25の近代改修型である。Mig-25は、もともと越境攻撃を仕掛けてくる高速の爆撃機を迎撃する、ただそれだけのために作られた戦闘機である。高空を高速で飛行する爆撃機を、射程に捉えてミサイルで迎撃する。その為に特化した機体。だから戦闘機と言うにはかなり大柄で機体重量が重く、実際に戦闘機を相手に出来るほどの機動力を持っておらず、その代わりにトップスピードは恐ろしく速い。
 だが時代の変化と共にそう言った“迎撃戦闘機”の需要はなくなり、その結果誕生したのがMig-31である。真空管すら使われていたという電子部品を現用のものに更新され、エンジンの換装や機体構造の見直しなどで、ある程度の格闘戦能力を与えられている。
 しかしそれでも、“迎撃戦闘機”として開発された機体構造は如何ともし難い。結局戦闘機の中ではかなり鈍重であり、開発国ロシアがSu-27シリーズやT-50と言った機動力に優れた戦闘機を配備している現状もあって、“戦闘機”として運用させることはほぼない。果たして、“ストラトダンサー・オンライン”の中でも、この機体を使うプレイヤーは少ない。
 では何故このような部隊が存在するのか――それは、ひとえにMig-25/31の高速性能にある。
 Mig-25は、クリップドデルタの主翼に、水平尾翼、二枚の垂直尾翼を持つ、西側のF-15戦闘機とよく似た機体形状を持つ。鈍重ではあるが、知らない人間からみれば“いかにも”な戦闘機である。しかし――その最高速はマッハ3をゆうに上回る。
 単に速度では、その数値に対抗できる機体は存在する。アメリカの偵察機SR-71の最高速度はマッハ3,3――実用型の機体としては、世界最速。ギネスブックに登録されたその数値は、半世紀以上が過ぎる今でさえ更新されていない。偵察衛星が進歩して、この手の“偵察機”の需要が減り続ける現在、戦術的な意味合いでこれ以上の速度を求める事に意味はない。
 だが、SR-71は“速度を出すためだけ”に開発された機体である。専用のラムジェットエンジンは言うに及ばず、高速で機体表面が加熱されて膨張する事を前提に設計されているため、駐機状態では部品の隙間から燃料漏れを起こす。そこまでして高速に特化した機体――それがSR-71ブラックバード。
 Mig-25はカタログスペックでは、機体構造の限界から最大速度はマッハ3弱と言われている。
 しかしその高出力から、しばしば限界を超えて運用されていたと言われ、非公式な記録ではあるが、SR-71の最大速度を上回るような例も存在する。
 Mig-31では、燃費と効率を重視した上で、現用のターボファンジェットエンジンに換装され、Mig-25よりは最大速度が低下しているというが。

「まあ、ある種のロマンではあるけれど。特に男の人は“最速”って好きじゃない? こういうゲームだと特に」
「そうかも知れへんけど」

 そして恐らく、アルベサスの擁する“戦略偵察飛行隊”のMig-31は、特別製のジェットエンジンを搭載しているらしく、通常プレイヤーが使用する戦闘機では、とても追いつけない。戦闘に使えるかはともかくとして、とにかく速い。
 “偵察任務”――つまりは戦う気もなくバトルフィールドに侵入し、そのまま逃げられたのでは、こちらの迎撃はままならない。
 しかしよくもこのゲームで――戦闘に参加せず、ただフィールドと、敵の情報を持ち帰る。そんな地味な任務を淡々とこなすプレイヤーが存在するものである。

「“統制国家”アルベサス帝国――うちには務まらんプレイスタイルやなあ」
「役を演じるって言うのは仮想空間体感ゲームでは重要だからね。ストイックに一つの職人芸に徹するのもありだと思うわ――ともかく、そいつらを筆頭に、前線プレイヤーの間で騒がれてるのよ。“超大陸ユグドラシル”に現れる、謎の街」
「……何や大層な言い方やけど?」

 最初に“それ”に気づいたのは、先に述べた偵察機の部隊だった。
 彼らは戦闘に参加せず、ひたすら他勢力のプレイヤーデータを収集し続ける。“アタゴ”が言うには、味方からさえ時に陰口を叩かれる、そんな彼らが近頃収拾したデータの断片に“それ”は紛れ込んでいたのだという。
 自分も他のプレイヤーや攻略情報サイトの掲示板から情報を得ただけであるが、と、前置きをして、“ルナ”は言った。

「フィールドを撮影した画像データだとかに、時々そうとしか見えないものが写る事がある――けど、実際そこに行ってみても、何があるワケじゃない」
「……光の加減とかやないの? 火星の人面岩やとか――せやなかったらもっと単純に、バトルフィールド上にバグが発生しとるだけやない?」

 圧倒的なリアリティを誇る“ストラトダンサー・オンライン”ではあるが、結局は作られたデータでしかない。極端な話、それを構成するプログラムデータにミスがあれば、存在しないはずのおかしなものが見える――それは、何ら不思議な話ではない。

「運営からは?」
「回答無し。あったらあったで騒ぐ連中も居るのかも知れないけれどね」

 普通に考えれば、“アタゴ”の言うとおり「何かの間違い」である可能性が高い。いや、それ以外には考えられない。
 だが――かつての“脅迫状”の存在が。そして、それに呼応するように現れた無人機の存在が。
 “超大陸ユグドラシル”に現れた、幻のような街――それと、合致するのだ。
 つまり“ユグドラシル”には、先住民族のようなものが住んでいて、そこに我が物顔で上がり込んできたプレイヤー達――“外の勢力”に対して、敵意を抱いていると。
 この期に及んで運営からの正式な発表が何もないのは気になる。しかし敢えて情報を伏せ、プレイヤー達がその謎を解くに任せる――そういうスタイルを選択しているというのもありだろう。親切設計が多いという昨今のゲームには珍しいが。

「――うちらとしては、どう動く?」
「そうね……私たちは、各勢力のエースの中では、比較的自由度が高い方だから」

 どう動くも自分たち次第だろう。何となれば、一人一人がバラバラに動いても構わないのだが。

「せやけど「ここからが本番」言う時に――なあ。せめて“501エース”だけでも意見を揃えといた方が」
「仲間の絆、がうちの強みだもんね?」

 そう言って“ルナ”はウインクをする。

「けど、どうしようかしらね。“シウン”と“トニー”は、リアルの仕事が忙しくて、暫くログイン出来ないって聞いてるし」
「“カツラギ”と“クロネコ”は――あの二人ここん所見てへんなあ。どないかしたんやろか?」
「クロネコちゃんが受験だって言ってたから、無理もないわよ。カツラギ君も、あれでクロネコちゃんには優しいしね。リアルで妹さんがいるって言ってたから、そういうのも関係してるのかもしれないけど」
「ほほう――優しいお兄ちゃんとか最高やないの……どうやってからかってやろか?」
「よしなさいよ。ともかくクロネコちゃんの方が一段落付くまでは――」

「あたしがどうかしたの?」

 唐突に、甲高い声が響く。
 二人してそちらを伺えば――この狭い会議室の入口に、小さな人影。名前にはそぐわない、プラチナブロンドの少女アバター。

「クロネコ」「クロネコちゃん」
「お久しぶりっ!」

 元気よく額に伸ばした右手を当てる――“敬礼”のポーズと取りながら、彼女は部屋に入ってくる。

「ごめんね、何か連絡しないといけないとは思ってたんだけど」

 少し申し訳なさそうに、彼女は言った。“ルナ”と“アタゴ”は顔を見合わせる。果たしてその口元には、柔らかな弧が描かれる。

「気にする必要なんてあらへんで? これはただのゲームやし、受験生がゲーム仲間に近況報告する義務があるはずも無いしな」
「そうね。基本的には特に予定も合わせずにゲームの中で一緒になるだけだし――リアルが忙しいのに、わざわざ予定合わせてミーティングするわけにもいかないし。あ、でも」

 “ルナ”が少し身を屈め、小柄な彼女に目線を合わせて言う。

「久しぶりにこっちに来たって事は、受験は無事に終わったの?」
「おかげさまでっ! あたし四月からは、東京の高校に通う女子高生になるよ! アタゴさんはたしか、東京の美大生だったよね? 今度一緒に遊ぼうよ?」
「ああうん、そらもちろん――つか、えらい思い切ったな? 大学ならともかく、高校から地元離れるんか? 確かクロネコの地元、東京やないやろ?」
「実は去年の秋から転校して、もうこっちには来てたよ。うちの親がこういうの理解あって助かったとはいえ――友達とか先生には色々言われちゃったけど」

 まあ、その思い切りに後悔はないですよ――と、“クロネコ”はその薄い胸を張る。

「……アタゴさん今なんか失礼なこと考えなかった? これ、アバターだからね?」
「うちは“可愛いは正義”やと思とるで?」
「むう……いや……リアルでもそう体型変わんないからアレだけどさ……」
「まあ、アレや。あんたのリアルに深く突っ込んで詮索する気もあらへんから、思うように頑張ったらええと思うで? あとは――今更やけど一人暮らしに困った事があったら力になるで?」
「ああ、ありがとう。でもその辺の事は一通りお母さんから教わってるし――そもそも、一人暮らしってわけでも、ないしね」
「へえ。学生寮とかかいな?」
「そう言うわけでも無いんだけど――まあ、その、生活の方は何とかなってるんで、ありがとうございます」

 口ごもるように彼女は言う。その言い回しが気にならないわけではなかったが、単純に大して気にするような事でもない。学生寮や一人暮らしでないというのなら、きっと親戚か何かの所に下宿しているのだろう。
 その事にあまり関心を抱くこともなく、“ルナ”が言う。

「何にせよ、無事に高校に受かったならおめでたいことだわ。私もリアルでは関東圏の人間だし――すぐにすぐとは言えないけれど、何か困ったことがあったら頼っても良いわよ?」
「ありがとう、“ルナかあさん”!」
「その言い方はやめてって……カツラギ君ね?」
「うぃ」

 全くあの子はいくら言っても聞きもしない――と、“ルナ”はため息をつく。“アタゴ”がそれを見て面白そうに笑っているのは、この際気にしないことにしたようである。

「そういえばカツラギ君は? 私たちと違ってあなたとカツラギ君は――それなりに連絡とかは取ってるんでしょう? 近頃顔を見ていないから、忙しいのか、あるいはあなたに気を遣ってログインしてないんじゃないかと思ってたんだけど」
「えっとそういうわけじゃ……カツラギくんだったら、この時間はお仕事に」
「仕事? 確かカツラギは大学生やなかったか?」

 “アタゴ”は首を傾げる。
 口ではどうこう言いつつ、お互いアバターの中身がリアルでも異性であることはわかっていたから、“クロネコ”ほどお互いのリアルについて突っ込んだことは聞いていないが――確か彼は年下で、大学生の筈だった。

「えっとその――色々あったみたいで、ね?」

 何故か人差し指を立てた両手をくるくると回しながら、“クロネコ”が応える。

「ああいや、いや。さっきも言うたけど、別に詮索する気はあらへんて。“シウン”や“トニー”かて、リアルの仕事が忙しい言うて、ここ最近顔合わせてへんし」
「あ、そうなんだ」
「ほならクロネコは、今は春休みかいな? まだ始業式には早かったと思うけど」
「来月の頭だね。あ、でも制服の採寸と教科書の注文で、明日は学校に行かなきゃいけないんだけど。ここに来たのはまあ、そう言うこともあっての、近況報告?」

 間違っても、以前のように日付を大きくまたいでのプレイなど、今日は出来ない。
 そのこと自体は仕方ないのだけれど――何だか彼女の言い方が可笑しくて、自然と女性アバター二人の口元には、笑みが浮かぶ。

「そんじゃま――“ティグリア共和国第501特務航空隊”レディースによる作戦会議、始めよか?」
「しまらないわねえ……クロちゃんはどう思う? ここ最近、前線プレイヤーの間で話題になってる怪現象――」




「“ミラージュタウン”――ですか?」
「そう――グランドクエストに関係があるのか、それともただのバグなのか。近頃それを目にするプレイヤーが増えているのは確かね」
「フランス語と英語が混ざってますよ?」
「細かいことは気にしないのよ。その呼び名もそれぞれのコミュニティが好き放題言ってるから。“月の宮”だとか、“レムリア”だとか、“天空の城のアレ”だとか」
「目が! 目があっ!」
「今度あれってリメイクされるらしいわね。嫌な予感しかしないけど」
「ほんと? え、どっかに動画とか落ちてないかなあ――」
「……話、元に戻していい?」

 “超大陸ユグドラシル”の南岸から、数百キロを遡る。
 未だにそこは、見ようによっては大洋のただ中のようにさえ感じられる。しかし大海原と違ってその水面は茶色く濁り、遠くにはうっすらと、密林に覆われた陸地が存在する。
 差し渡し数キロの規模を持つ巨大河川“レノン川”――“超大陸ユグドラシル”の未踏地帯に源流を発すると言われるこの川は、中流域にさしかかって尚、見る者にそれを内海とさえ錯覚させる威容を誇っている。
 マップ上から計算されるその長さは数千キロ、“ユグドラシル”の西側から海に注ぐ琥珀色の大河――その名もそのもの“アンヴァ川”と対を成す大河である。事によればその源流は同じではないかと言われているが、未だそれを確かめたプレイヤーは居ない。
 そしてその巨大な川の中を、六隻の戦艦が遡上する。
 独特の艦影である。“船”というイメージから連想される形からはほど遠いその形。喫水線から、上に行くに従って絞り込まれていく――通常の船とは逆の構造。その艦首ですら、波を切り裂く喫水線部分が最も前に突き出したスラント形状をしている。
 言ってみれば、潜水艦のふくらみをスッパリと切り落としたような形状――“タンブルホーム船型”と呼ばれる独特の形状である。
 “戦艦”と言うにはあまりに不格好で、また不気味にさえ感じられるその船体――現実のアメリカ合衆国のミサイル駆逐艦“ズムウォルト級”をモデルに作られた、ティグリア共和国のイージス艦“ケディーヴ級”である。
 オリジナルのズムウォルト級よりは船体が少し長く、上部構造物が後方にまで続いている。果たしてそこは航空機の格納庫になっている。オリジナルもまた、艦載機として二機程度のヘリコプターを積み込む事が可能であるが、“ケディーヴ級”に載せられるのは、更に剣呑な代物である。

「それにしても――亀の歩みよねえ」

 そしてその異様な艦隊の先頭を切って川を遡るネームシップ“ケディーヴ”――その後部甲板に、人影がある。

「そりゃこれがイベントである以上しょうがないじゃないの。現実に時速三〇キロくらいで川を遡ったとして――百時間で三千キロ、四日と少しもあったら、すぐさま“ユグドラシル”の奥地に到達だもの」
「ゆっくり、しかし止まらず――が、船の強みだって。でもあと暫く遡ったら、川の蛇行地帯に入るらしいし、“ケディーヴ級”で何処まで行けるか。そうなったらまた、基地の陣取り合戦になるのかも」
「多分アンヴァ川の方からも、似たようなイベントが発生してるんだろうしね」

 果たしてそれは、後部甲板にパラソルとビーチチェアを広げ、その上で横になる、四人の女性。
 厳密には、女性アバター。水着であったりランニングシャツであったり、日光浴とでも洒落込もうかという露出度の格好である。この世界においては何ら意味のある行為ではないが――気分の問題だろう。
 開かれた艦載機格納庫のシャッターからは、彼女たちの“愛機”が見える。F-35B戦闘機――第五世代ステルス戦闘機F-35ファミリーに於いて、“短距離離陸・垂直着陸”機能を有する機体である。
 胴体中央部に下方への気流を生むリフトファンを搭載し、更にエンジンノズルを真下に可変させることが出来る機構を持つことにより、垂直離着陸機能を得た局地戦仕様。通常は短い滑走路から離陸し、燃料や武装を消費して軽くなった機体を垂直に着陸させることで、十分な設備のない場所、あるいは軽空母や揚陸艦などでの運用が行われるが、その気になれば運搬用トレーラーからでも直に発進が出来る――まさに“何処からでも飛べる機体”なのだ。
 果たして彼女たちの機体もまた、滑走路など全くないこの駆逐艦の後部甲板から発進し、またここに舞い戻る。
 そうすることで、“超大陸ユグドラシル”の奥地へ殴り込みを掛ける――彼女たちはその先発隊としてここにやって来たのだ。正しくはそう言うイベントに参加して――“カーヴァ・フランク空母戦闘機群ライトニング・ウィッチーズ”隊は。
 イベントとしては、中々楽しめる。
 結構な速度で進んでいる筈なのに、全く進まないマップ。通常の倍ほどの頻度で現れる、NPCを含む敵機の襲撃。最新鋭艦艇にはあり得ないほどの頻度の故障と、それを回復させるイベント――歩みが進まないことには思うところがあるが、これはゲームである。それなりに楽しめれば、それでいい。
 さて彼女たち“ライトニング・ウィッチーズ”を含む、この新たなイベントに名乗りを上げた三部隊は、今日も今日とて、ゆっくりと川を遡る。
 どうやらこの時間は、突発的なイベントは起こらないらしく、こちらから出撃しない限り戦闘は起こりそうにない。だから、この間の抜けた作戦会議であったのだが。

「それでその天空の城がどうしたって?」
「マップに存在しないはずの街を見たプレイヤーが大勢居る――そう言う話しよ」

 大胆な水着を纏う、金髪の女性アバターが言った。大人びたその外見に相応しい、豊かな胸が重たそうに揺れる。

「何か思うところがあるわねえ――もうちょと慎み持とうとか思わなかったの」
「自分のキャラ作るのに遠慮したってしょうがないじゃないの。そういうあなたこそアバターにスクール水着って……」
「ジョークグッズみたいなものじゃない? まあ、あんまり胸が大きくたって、それはそれで良いこと無いってのはリアルでわかってるし?」
「OKそれは私に対する挑戦と取っていいな」
「ま、まあまあ、喧嘩はよしてください――“マリン”さんも“シャルロット”さんも。マップに存在しない街、ですか?」

 大人しいワンピースタイプの水着を身につけ、その上から部隊章の入ったシャツを羽織った、亜麻色の長髪を持つ少女のアバターが、少し慌てたように会話を元に戻そうとする。先の二人も本気では無いのだろうが――そんな少女の様子を見て、彼女たちは可笑しそうに笑う。

「個人的には、それはバグじゃないと思ってる」
「どうしてわかるのよ」
「最初に“街”が目撃されてからもうかなりの時間が経つのよ? 今回は例の無人機とは違って、戦闘やイベントには直接関係ない――脈絡がなさ過ぎるのよ。街のような何かが見えたから、何だって言うの? バグならとうに修正されて然るべきだし、それが修正されないなら、そこには何かの意図があると見るべきでしょ?」
「まあ……言われてみれば」
「でも、その“意図”って何でしょうね?」
「それこそも無人機がらみ――そんな気がするけど」
「今の状況じゃ情報が少なすぎる。先入観は危険だわ」
「“危険”かどうかもわかんないけどね」

 そう言って金髪の女性――“シャルロット”と呼ばれた彼女が、肩をすくめる。

「そう言う部分が次のイベントに繋がるんじゃないかって、そう思ってこっちに出てきたわけだけど」
「そう言えば、ありがとうございます。私受験であまりこっちに来られなくなってたのに、色々フォローとか入れてくれて」
「気にしない気にしない。ゲームなんて単なる気晴らしなんだから、楽しむために悩み事抱えてちゃ馬鹿みたいじゃないの。肝心の受験は上手く行ったの?」
「シャルロット、それ以上はマナー違反よ。私たちは、誰?」
「失礼――そうね、私たちは“カーヴァ・フランク空母戦闘機群ライトニング・ウィッチーズ”隊だものね」

 そういうこと、と、幼い少女のような容貌のアバターが言う。身に纏うのは小学校で使われていると言われても違和感のない、野暮ったい紺色の水着。胸元のゼッケンにはひらがなで「まりん」の文字。
 その言葉に笑みを浮かべていた茶髪の少女だったが、ふと、何かに気がついたように顔を上げた。

「あれ? もうこんな時間――ごめんなさい、私明日朝早いんです」
「そうなの? 明日土曜日よね――何か約束?」
「制服の採寸です」
「ってことは、受験は見事に上手く行ったわけね?」
「リアルでも何かお祝いしてあげようか? “ミケネコ”ちゃんさえ良かったら、オフ会なんて」
「ありがとうございます――それじゃその話は落ち着いたらまたメールでも」
「了解。それじゃ、お休み――寝坊しなさんなよ?」
「あは――寝起きは良い方なんで、絶対、大丈夫、です」

 それじゃあ、と言い残して茶髪の少女は立ち上がり――そして、空中を叩くような仕草をする。と、すぐにそのアバターの動きが変わった。機械的な動きで、仲間に背を向けて格納庫の方へと歩いていく。プレイヤーの意識がログアウトしたのだろう。アバターは自動で初期位置――この場合、“ケディーヴ”の船内にある船室へと戻る。
 何となくその後ろ姿を見送って、ふと“シャルロット”は呟いた。

「……何かやけに気合い入ってたわね? そんなに制服が気に入ったのかしら?」




 時々、まどろみの中で不思議な感覚に捕らわれる事がある。
 カーテン越しに差し込む朝の光を感じて、意識が覚醒しようとしている。それを自覚してふと思う――はて、ここは何処だったか。自分はどうして、ここにいるのだろうか。
 存外、多くの人がそういう感覚を覚えたのでは無かろうか。
 目覚めたばかりの脳は、まだ記憶領域がうまく働いていないのだろうか。では、時折感じる違和感のようなものは、何か。
 あるいはそれは、自分の意識が芽生えた原初の記憶ではないだろうかと、燕は考えたことがある。さて自我が生まれたころ、自分は何処で何をしていたか? 大抵の人がそうだろう、自分が育った家の、見慣れた場所で、毎朝目を覚ましていた筈だ。
 結局自分は、何処まで行っても“そこ”からやって来た事実を変えられるわけではないのだろう。むろん、それが悪いことではないし、仮にそれをねじ曲げる事が出来たところで、そこに意味があるわけではない。
 ともあれ、暇な時間に任せて屁理屈じみた事を考えたところで、結局まだ自分はこの暮らしに慣れていないのではないだろうか。近頃目を覚ますここは、生まれ育った実家の自分の部屋でなければ、大学に通うために借りていた下宿の一室でもない。それに――
 ――かれこれ半年が過ぎようというのに、自分はまだ今の環境を、心の何処かで受け入れられずにいるのだろうか? 全く、草壁燕という人間が、ある意味で頑固なことは知っていたが、それにしても。
 しかし今朝は違った。
 いつも感じているその様な違和感――違和感にも似た感覚をほとんど感じることが無く、意識は徐々に覚醒していく。遮光カーテン越しにそれでも感じる、朝の光。目覚め始めた都会の空気と、どこからか聞こえてくる小鳥の鳴き声。
 そして漂ってくる、懐かしい匂いと音。これは何だろう? 味噌汁の、匂い? そして何かを炒める音――

(クロネコの奴今日は早えなあ……)

 ぼんやりと、そんなことを考える。
 由香は意外と――と言っては何だが家事は得意で、怠け癖もない。ただ、どうにも朝は苦手なようで、起きるのは大抵燕の方が早い。本当は毎朝自分が朝食を作ってやりたいのだけれど、などと申し訳なさそうに言っている。
 むろん、そんな義務など彼女にはないわけである。その気持ちはありがたいが、燕だって家事一切を“相棒”に押しつけて平気な顔は出来ないと思う。そう考えること自体が、何処かズレているのかも知れないが。

(……今、何時だ?)

 ぼんやりと、ゆっくりと。
 意識が覚醒するに任せる。ここは実家の自室ではなく、東京のコーポ。起床すれば出勤の準備をする必要があるが――今日は休日であるから、急ぐ必要はない。
 そうだ、今日は休日であった――では何故由香は早起きして食事の用意を?
 ああ、今日は制服の採寸と教科書販売があるとか言っていた。そして自分もそれに付き添う予定になっている。
 思い出す、と言うのとはまた違う。最初から頭の中にある、忘れる筈もない新しい記憶に、目覚めた意識が“気がつく”そのような感じ。

(この間まで高校行くことに渋りながら勉強してたって言うのに、いざとなったら張り切ってまあ……)

 “見慣れない”と錯覚する“見慣れ始めた”天井。
 あくびを噛み殺し、腹に力を入れて上体を起こし――

「ん?」
「ぁん……」

 体を支えようとした左手が、柔らかくて暖かいものに触れた。

「……んん?」

 何となく布団を捲ってみる。
 長い黒髪、細くて白い手足、華奢な体。
 彼の“相棒”であるはずの少女――水戸由香が、小さな寝息を立てている。布団が剥がされたのが寒いのか、しかし目は閉じたまま、何か口元を動かしながら、その手が宙を彷徨う。
 指先が、燕の肌に触れる。
 安心したような笑みが少女の口元に浮かび、そのまま――

「いやちょっと待て――それじゃ」

 この音は、匂いは。外からのものではない。コーポの隣の部屋ですらないだろう。薄いドア一枚隔てたリビングには、確かに人の気配を感じるのである。
 この部屋には自分と由香しか居ないはずだ――そんなことは、確認するまでもない。では隣のキッチンに居るのは、誰だ? あまつさえその誰かは、何故食事の支度などしているのか?
 意識が一気に覚醒する――が、次の行動が思いつかない。不審者? 部屋の隅にある鉢植えでも抱えて殴りかかるか? いや――キッチンにいるだろう“手合い”は、“不審者”などというわかりやすい相手か? 何故ここに自分たち以外の人間が居て食事の――思考がループに填って、どうすればいいのかわからない。そもそも、正解があるのか?
 とにかく由香を起こして――そう考えた刹那、ドアが開いた。

「――あら、兄さん起きてたの?」
「……え、ええ……み、なと?」

 そこに立っていたのは、違和感など覚えようのない顔。
 自分と何処か似通った――けれど、明らかに女性としての特徴が加味され、“可愛らしさ”を感じる顔。
 この年頃にしては割合長身で細身の体を、飾り気のないシャツとジャンパースカートに包み、その上からエプロンを掛けた格好の草壁湊――自分の妹の姿だった。

「他の誰かに見える? さすがに妹の顔を忘れたとか、笑い話じゃ済まないわよ?」

 それとも、と、彼女は口元に小さな笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「ひょっとして、まだ寝ぼけてる?」

 腰に手を当て、覗き込むようにしてこちらを伺う。何がそんなに楽しいのだろうかと、そんな彼女の笑顔が――吐息が掛かりそうな距離に近づく。

「い、いや――目は覚めた」
「そう? まあ、兄さんは寝坊とかしないタイプだもんね。面白みに欠けることに」
「そういう問題じゃ」
「遠慮しなくても私が優しく起こしてあげるよ。兄さんはエプロンと制服どっちが好き? おはようのキスは?」
「ちょっと待てお前は俺を何だと――いや、待て、そもそも、だから何でお前が」
「ま、その辺りのことは追々話してあげる――そこの寝ぼすけさんも一緒に、ねっ」

 ごく自然な動作で、湊はすっと腕を伸ばし――燕にしがみつくようにして寝息を立てていた由香の、その鼻をつまんだ。

「んっ――んぅ!? んあっ、もが、げふうっ!? ぶはっ!! な、何事!? 敵襲!?」
「おはようお寝坊さん。目は覚めた?」
「目が覚めるって言うか今口も一緒に塞いだでしょ!? 目覚ましのふりして永遠に目覚めさせないつもりなん――……え?」

 突如生命の危機に瀕したらしい彼女は、顔を真っ赤にして抗議するが――目の前に立っている人物が誰なのかに気づいて、言葉が止まる。

「え? え? ミナちゃん? ど、どうして、ミナちゃんがここに?」
「そりゃああなた」

 燕をまたいで湊に詰め寄ろうとした由香のその鼻先に、細い指が突きつけられる。

「私もユウちゃんと同じ学校に通うから――今日からここにお世話になります。よろしくね?」












さあミナっちゃん出番だよ!



[37800] 第三部 第二話 「トリガー」
Name: スパイク◆55d120f5 ID:1c2c1e95
Date: 2015/05/30 21:01
第二話「トリガー」

「これは……」

 金髪の青年は、双眼鏡の接眼レンズに目を付けたまま、半ば呆然と呟いた。
 目の前に広がる光景は、半ば彼にとって予想されたものには違いなかった。
 けれど現実にそれが目の前にあって。目の前にあるそれを、実際に自分の目で見て。
 それでも“信じられない”と――そう思わずには居られない。

「街だ」

 彼はまた、一言だけ呟いた。
 それは彼の母国語であったのか、あるいはここに来てから覚えた言葉だったのか――はたまた、ここ最近の共通語となっていた英語だったのか。言葉が口からこぼれてさえ、わからない。
 それはまさしく“街”だった。
 青年が立つ丘陵から少し離れたところには、草地を切り裂いて土肌が露出した地面が、線のように長く続いている。つまりはそれは街道だ。緑の草原を切り裂く街道を視界で追えば、それは少し先で林に入り――そこから先、世界は一変する。
 その林の先に“街”はあった。
 簡素で、しかし堅牢そうに見える煉瓦塀で、半径一キロ程度に渡って林が切り取られている。果たしてその中には、漆喰だろうか、白い壁の建物が、あるところでは整然と、あるところでは乱雑に並んでいる。
 ここが森林の中であることを別にすれば、古いヨーロッパの沿岸都市に見えなくもない。そう言えば、街の中心に向かって地面はなだらかに傾斜し、街の中央部は広場のようになっているようだった。
 そしてその中央部には、白い塔のようなものが立っている。
 しかし彼にとって、果たして街の景観などはどうでもいいことである。ここは作られた世界。少なくとも、そうであるはずの場所。たとえそれが何者であったとしてもここを作り出した誰かは存在しているはずで、ならばその人物の気まぐれ一つで、何を作り出すことも可能なのである。
 だが――“彼ら”ばかりは、違う。
 街とは即ち、人が寄り集まって生活する場所。
 そう、そこには、人が居た。
 双眼鏡を通して、まるで芥子粒のように小さく見えるだけだが、そこには人が居る。通りを歩き、建物から出たり入ったりしている様子が見える。建物の脇に見える構造物は露店だろうか。その前に立ち止まるのは、その客だろうか。
 街の中央の広場には多くの人が集まっている。あの塔のようなものは一体何だろうか。あるいは、それは神の像に祈りを捧げる信徒のようにも見える。
 いや――こんな場所から、単純な先入観は禁物だ。しかし――あそこには、確かに、人が居る!

「カツラギ――見えるか。今更言うのも何だが――人が居る。本当に、ここには、街があるぞ!」

 興奮を抑えきれない――そんな表情で、迷彩柄の探検ルックに身を包んだ青年は、後ろを振り返り――

「……カツラギ?」

 近くの岩に腰掛けて、何処か遠い瞳で虚空を見つめる、褐色の肌の青年に気がつく。

「――トト、カツラギは一体どうしたんだ?」

 果たして、それを不思議そうに眺めていた、黒髪と――先の青年とは幾分色合いの違う褐色の肌を持つ少女は、首を傾げる。

「I don’t know(わかんない)」

 簡潔に、彼女は言った。
 当然だろう。彼女には、人生経験と呼べるモノがほとんど無い。半年かそこら前までは、この人間が居ない“はず”の大陸の片隅で、ただ一人で暮らしていたのだ。そんな彼女に、自分でも良く分からない状態の仲間の事を問うても詮なきことである。

「今朝“こっち”に来てから、こんな感じ?」
「確かにそれは僕も感じていたが――おい、カツラギ」

 言い知れぬ不安を覚えつつも、青年は魂が抜けかけたような彼の肩を叩く。
 そこで我に返ったのか、相手は今目が覚めましたと言わんばかりの仕草で、こちらを見上げた。

「あ、ああ……何だって?」
「何だって――じゃない。街が本当にあったと言って居るんだ。トトの言葉からある程度の予想は出来ていたとはいえ――これは驚くべき発見と言っていいだろう。街があり、そこには人が住んで居るんだぞ。あれは、どう考えたって不正規アバターなんかじゃない」
「いやそれは――わかってる。そんなことは、“ありえない”――そのはずだ」
「無論“惑星オデッセイ”がデジタルデータである以上、そこに何があっても不思議ではないとそう言えるのかも知れない。僕やトトが、その証拠と言えるのかも知れない。だが、カツラギ――」
「いや、驚いていないわけじゃないんだ。俺自身――ここに来てから信じるのに勇気が要ることの連続で」

 青年――“カツラギ”は、そう言って肩をすくめてみせる。

「仰天して飛び上がれとは言わない。だが、君は“惑星オデッセイ”探検隊の中心人物だろう?」
「――驚いてるよ。それは、確かだ」

 ただ、と、彼は言う。

「あんたと同じだ“クライン”。俺は“惑星オデッセイ”にこういうモノが存在する可能性があるとわかっていた。そして今までの経緯から――具体的に言えば、あんたらに出会った事で、目の前のあれを“そう言うものもあるかも知れない”って、そう思えるだけだ」
「……それはそうかも知れないが。だとしてもこれでは僕が馬鹿のようではないか。ひとりはしゃぎ回って――君の様子を見てトトですら気味悪がっている。何があった?」

 その言葉に、カツラギの肩が、ぴくりと震える。

「……なあ、クライン。人生って何だと思う」
「――よりにもよって、僕にそれを聞くか?」

 果たして白人の青年――“クライン”は、呆れたようにため息をつくのだった。




「んっ……ごめん兄さん。この海苔の瓶、蓋が硬くて開かないんだけれど」
「ああ――ちょっと貸してみろ――ほら」
「わ、すごい。えへへ――やっぱり男の人は違うわね? こういうときに便利」
「人を何だと思ってるんだよ。食器棚の引き出しにクロネコが買ってきたオープナーがあるからそれ使えよ。目から鱗だぞ。時々男から見ても、どんだけ鬼トルク掛けてやがるって瓶があるんだが」
「あるある! お父さんですら顔を真っ赤にして――ふふ」
「何だよ急に含み笑いなんか――親父が必死になってるとこでも思い浮かべたか? お前にそんな風に笑われてるって知ったら落ち込むぞ。いい年してナイーブなんだからあのおっさんは」
「そうじゃなくて――ふふふっ」

 蓋を開けた瓶をテーブルに置き、その少女は笑う。
 自分の妹である、草壁湊は。

「兄さんは日頃、会社にはスーツで?」
「ああ――最初はそうしようかとも考えたんだけどな。結局仮想空間へのダイブ――機械に寝てるか、その分筋トレさせられてるかどっちかだから。動きやすい格好で構わないってさ」
「なんだ――私、ネクタイ結んであげるの練習したのにな」
「お前何言ってんだよ。俺の高校ブレザーだったの忘れたのか? それもうちの市内じゃ、唯一ワンタッチ式じゃないネクタイでさ。お陰でスーツとネクタイには困ってない」
「でも兄さん、緩めたネクタイ首から抜いて、また締め直しての繰り返しだったじゃない?」
「あれは単に面倒だったからそうしただけだ。別にネクタイが結べないわけじゃない」
「――でも今日は、私たちの付き添い、スーツだよね?」
「張り切ってるなら止めはせんが――練習の成果とやらを見せて貰おうか?」
「言ったな? お父さんにはもう完璧だって言ってもらってるんだから」
「いい加減うちの親父が哀れに思えてきた。今度帰ったら肩でも揉んでやるか」

 もう、と、彼女は小さく、頬を膨らませる。

「とにかく、兄さんのネクタイは私が結ぶから、ね?」
「何がお前をそこまで駆り立てるのかわからんが――まあ、頼むわ」
「任されましたっ!」
「あ――そのタッパーも蓋硬いんだよ。ちょっと貸してみろ」
「あ、うん――えへへ」

 目を細めながら、漬物の入ったタッパーを差し出す湊に、燕は不思議そうに首を傾げる。はて、自分は何か変なことでも言っただろうか。

「そうじゃなくて――何かこういうのってアレだよね?」
「あれ?」
「ほら――新婚さんみたい?」
「何馬鹿な事言ってんだ。大体お前――」
「大体どうしてミナちゃんがここにいるのかって、そのあまりにも当然の疑問に応えてもらってもないってのに――何やってんのそこの馬鹿兄妹は」

 横合いから響くのは、氷のように冷たい声である。見れば納豆の入った器を箸でかき混ぜつつ、極寒の視線でこちらを射抜く相棒の姿。

「ミナちゃんがいい加減兄離れ出来てないとか、そーゆーレベルじゃないのはわかってたけど。まさかカツラギくんまで同レベルだとは思わなかったよ」

 燕が小鉢に取り分けた漬物を指で摘んで口に放り込み、奥歯で噛み慣らす。どうにも行儀が良くないのは、きっとわざとやっているのだろう。普段の由香は、礼儀正しいかはともかくとして、意外と躾は行き届いている。

「どういう意味だよ。そりゃまあ――俺も親バカっつうか兄馬鹿っつうか、そう言われたらはっきり否定は出来ないかも知れないが。兄妹仲が良いに越したことないだろ?」
「きみはそれ、本気で言ってる? きみらの“それ”が、ほんとーに、“仲の良い兄妹”で済むようなものだと思ってる?」
「済まなかったらそれこそ異常だろ……」
「三十秒前のきみの姿を認識してから言ってんのかなあ、それは!?」

 思わず叫ぶように言ってから――由香は、大きく息を吐き、椅子に座り直して、乱暴にティッシュで口の周りを拭いた。

「朝からそんなに怒ると体に悪いよ?」
「――ミナちゃん?」

 苦笑しながら湯飲みを差し出す湊を、由香は睨み付ける――ようやく、これ以上は冗談で済まないとばかりに、湊は両手を挙げた。

「でも――私がここに居る理由なら、もう話したじゃない? 私はユウちゃんと同じ高校に通うことになったから――親元を離れた学校に通うにあたって、兄の家に厄介になるのは、別におかしくないと思うけど」
「その前段階がおかしいでしょ!? だから何でミナちゃんが、あたしと同じ高校に通うのかって、そう言ってんの!! 大体受験の時ミナちゃん居なかったよね!?」
「あの学校、遠隔地の生徒は自分の中学でネット受験出来るんだよ? 知らなかった?」
「いい加減喧嘩売ってる!? 今のこの流れで! あたしが、あの学校の受験システムを聞きたい理由があるとでも!?」
「――兄さんとユウちゃんの手伝いがしたかった」

 腕を振り回すように喚く由香に――湊の笑みは崩れない。真正面から、由香の顔を覗き込む。

「私は“ストラトダンサー・オンライン”というゲームも、そこに隠されているという大きな謎もわからない。当然仮想空間体感装置に関する知識や技術もないし、仮想の世界で戦闘機を上手に操縦したり出来ない。もっと言えば、現実の“探検隊”に必要なサバイバル知識とか、そういうのも無いし」

 けれど、と、彼女は首を横に振る。

「でも、たった二人で――誰も知らない世界に挑む。そんな兄さんとユウちゃんの助けになりたかったのは、確かだよ」

 覚えてる? ――と、彼女は続けた。

「ユウちゃん、言ってた事があったよね? 自分はカツラギくん――兄さんがいるから、自分を見失わずに済む。自分を見失わずに居ることが何よりも意味を持つ仮想の世界で、兄さんがいるから、不安になることもない、って。正直自慢かよこの泥棒猫が――とか思わなくもなかったけど」
「最後ツッコミ待ち? えっと――でも、それは」
「直接的に、私が兄さん達の助けになれるとは思えない。けど――私には、私に出来ることで、兄さんの助けになりたい。一緒にリュックを担いで、未知のジャングルを歩くのは無理でも――私だって“惑星オデッセイ探検隊”の仲間でありたい。そう思うのは、迷惑?」
「それは――」
「迷惑だとか足手まといだとか、そう思うならハッキリそう言って。“そうならない”ように、努力はするつもり。今の私に出来る事って、こういう家事だとか、兄さん達の“日常”であり続ける事だとか――そう言うことだけだろうけれど」

 それが言える筈はない――少なくとも由香には。燕はそう思った。湊は彼女なりに、いわば前線にいる自分たちの銃後を守ろうとそこに立っているのだ。
 あまりに唐突で勝手な行動、それそのものに文句はあっても、彼女を突き動かす信念、その言葉に偽りが無いのであれば、感謝こそすれ、迷惑だとは思えない。
 ともあれ――継ぐべき言葉を見失った由香に、燕は助け船を出す。

「……お前の気持ちはよくわかった。俺自身としては、“惑星オデッセイ探検隊”としてお前がいてくれたら、心強いと思う」
「ううん、兄さんがそう言うことを思う必要はないよ? 私が兄さんを助けたいのは単なる勝手だもの。それを“助け”だと思いなさいと、兄さんに強いるつもりはないよ?」
「お前の言うとおりにしたら、俺は単なる駄目男だっつうの――でも良いのか? 今更だけど――学校とか、そんな理由で選んじまって」
「そ、そうだよ――“三原”は私立だから、学費だって」

 私立“三原学園”高等部――それが、四月から由香の通う予定の学校である。付け加えて、湊の言葉を信じるならば、彼女もまたそこに。
 日本一の人口密集地である首都圏には、いくら少子化云々と危惧される現代にあっても、燕の故郷とは比にならない程多くの学校がある。その中から、吉野が由香に勧めてきたのが、この学校であった。何を隠そう――吉野自身の母校でもあるという。
 むろん、単に彼女が自分の勝手知ったる母校だから――ただそれだけの理由で、ここを選んできたわけではない。曰く、この学校は非常に自由度が高い事が特色なのだという。
 私立であるが故の豊富なカリキュラムを持ち、生徒は自分の目指すものに打ち込む事が出来るという。それは勉学であったり、スポーツであったり様々だ。変わったところでは、芸術系の専門学校というわけではないのに、美術に音楽――ダンスや芸能活動まで専門に扱うコースがある。
 なるほど、今の由香にとってそれは都合が良かった。
 何せ、今の彼女は “いち企業から名指しでスカウトを受ける”ほどの特技を持つのである。言い換えれば、彼女はこの学校の学生が目指すべき立ち位置に、既に立っている。これ以上のアピールポイントはそうそうない――OGである吉野の推薦という強力な後押しもあったのだろうが、ほとんど面接だけで、由香はこの学校に進学する事が出来た。
 “あの人に足を向けて寝られない”という彼女の言葉が何処まで続くかは、今後の吉野の心がけ次第であろうけれども。
 閑話休題。
 果たして学校外の活動も考慮されているらしく、授業時間の変更や公休も割合簡単に取ることができる――実際に、“惑星オデッセイ探検隊”である由香には、大変に都合が良い。
 だが――当然、湊にとっては同じ事は言えない。
 単に大学に進もうとするならば、もっとレベルが高い学校はいくらもある。いくら進学のコースがあると言っても、彼女のレベルで本来目指すべき、優秀な進学校とは比べようもない。
 それに目標に合わせてカリキュラムをいくつも――それも高い水準で用意しようとなれば、コストがかかる。私立の学校と言うこともあって、富裕層向けとまでは行かないまでも、授業料はかなり高額である。
 この点“惑星オデッセイ探検隊”としての給料をそれに充てられる由香であれば、それは大した問題ではないが――

「まあうちの親も――湊がそう言うなら駄目だとは言わんだろうが」
「ああ、それは別に気にしなくて良いよ?」
「いや、気にするなと言われてもだな」

 確かに兄の自分が気にするべき事では無いかも知れないが――そんな風に眉根を寄せた燕に、湊は手を振ってみせる。

「大丈夫だってば。ユウちゃんがパスした一芸入試と一緒だよ」
「……? って事は、ミナちゃんにも吉野さんが推薦文書いてくれたの? ……あの人、そんなことあたし達には一言も」
「違う違う。そうじゃなくて――大体私はどれだけ望んでも“惑星オデッセイ”の事に対しては素人なんだから、ユウちゃんと同じやり方が出来るわけ無いでしょ?」
「そりゃまあ、そうか。だったら――」
「まあ――今のところ、私がユウちゃんに胸張って勝てる事って、それこそ勉強くらいなんだけど」

 ずい、と、何故か顔を寄せられて、由香は箸を口に含んだまま後退る。
 その表情を見て満足したのか、湊は咳払いをして、言った。

「特待生枠、取っちゃったから」

 その言葉に、湯飲みを持ち上げたまま動きを止めた燕と、いまだ箸をくわえたまま目を丸くした由香に、ピースサインを掲げてみせると言うおまけ付きで。




「それで今――カツラギの家には、クロネコと“イモウト”が住んでいる? クライン、イモウト、って、何?」
「同じ親から自分から後に生まれた相手で、女性――男女の区別に関しては、この間クロネコから聞いたろう?」
「聞いた。子供を産めるのが、女の人」
「ああ、そっからなのね……」

 クラインの言葉に、何やら自信ありげに頷くトトに、燕は少し疲れたような目を向ける。
 だが――彼女は実のところ、頭は悪くないのだろうと思う。状況が状況とは言え聞き取るに不便のないだけの英語を既に操っているのもそうだし、彼女は既に、この“惑星オデッセイ”と現実の世界の関係――燕が「現実世界からこの世界に降り立つ」という事象を、おぼろげながら理解している節がある。
 ただ単純に、子供にしても知識量が少ないから、今はまだこの程度だけれど。
 もしも彼女が現実に存在していたら――きっととんでもない才媛になっているのではないだろうかと、何となくそんな風に思う。

「それで? 君の所の妹とクロネコは、仲が悪いのか?」
「いいや、一番の親友だって言ってるよ。お互いに」
「ならば何の問題があると言うんだ? 直接的に言わせて貰うが、君とクロネコは相棒とは言うが、そのあり方は恋人にも近い。なるほど確かに、身内が一つ屋根の下に居ては落ち着かない事もあるかも知れないが」
「クライン――すまないが今度英語を俺に教えてくれ。それとも俺は、文章力だとかその辺の事を鍛えるべきなんだろうか。あんたの言葉は地味に耳に痛い」
「会話に於いて、君は直訳以上の理解をしているとは思うがね。それに忘れているかも知れないから敢えて言うが、“ラックス・アブレヒト”はドイツ人だ。僕が英語を話せるのは、英語の論文を読む為だとか、そう言う必要に追われての事だ」

 とにかく、と、クラインは言った。

「大した問題ではないのではないか? 部屋が狭いのなら引っ越せばいい。君と妹は仲が良いようだし、クロネコに関しては言わずもがな――その妹が君をサポートしてくれるというのなら、渡りに船と言う奴ではないのか?」
「ああ……まあ、そう――なんだけどなあ」
「随分煮え切らない態度だな。人に人生の何たるかなど馬鹿げた事を聞いておきながら――君がそんなでは、僕に何を応えろと言うんだ」

 その言葉には、かすかな苛立ちがあるように思える。
 それも当然だろう。クラインは今――その意識だけを拠り所にして生きている。そしてその意識の目的は、この“惑星オデッセイ”の謎を解き明かすこと。目の前に大発見と言って良いだろうものがあるのに、信頼できるはずの仲間がこの調子では、腹が立たない方がおかしい。

「えっと、クロネコは、カツラギが好き。でも、妹、も、カツラギの事が好き。だけど、カツラギは一人しかいないから――取り合いになる? クロネコが、言ってた」

 苦笑混じりに燕は何かを言いかけたが――そこに、無垢な少女が爆弾を投げ込む。
 クラインは黙って、立ち上がった。その少女を、微妙に背中に隠すようにして。

「カツラギ、僕には確かに人生の何たるかは君に語れない。けれど人間――文明人として最低限守るべきラインというか、何と言われようがそう言うものは確かにあると思うんだよ」
「頼むからクロネコの言葉は真に受けんなって! あいつ時々、俺のこと表歩けないようになればいいと思ってんじゃないかって、そう思う時さえあるんだからさ!?」

 何でこんな所に来てまで――と、燕はため息をつく。

「まあ僕としても思うところはある――君がそんな様子では、“オデッセイ探検隊”はままならないと、それは本心だ」
「……すまん。いや、驚いてるのは本当だ。ただ――逆に、ここまでの道中、あんたらと出会った事も含めてそう言うこともあるかも知れないと」

 いや、これは違うな、と、彼は首を横に振った。

「きっとそういうものはあるんだろう――“あるはずだ”と、何だかそういう風に思うようになっていた」
「……思うところがないわけではないが――今のところは、そう言うことにしておこう」

 燕の言葉に、クラインは苦笑しつつ、一つ頷いた。




「さてカツラギ――君に考古学的知識はあるか?」
「残念ながら――それなりに好奇心はあると自負している。ピラミッドが実は、シリウスの宇宙人と交信をするための施設だとか」
「なるほど君の考古学に対する理解は良く分かった」

 むろん――今の現状を鑑みれば、事は宇宙人と交信をすると言う行為に匹敵するかも知れないが。つまりは突拍子もないと言う意味においては。

「まずここが何者かによる被造世界であるか否か――それにかかわらず、あの街が、ただの“惑星オデッセイ”の背景として作られたのではないと。そう仮定してみよう」

 クラインはそう言って、燕に向き直った。

「光あれ、と神は言った――その神から人間は作り出され、やがて狡猾な悪魔にそそのかされて知恵の実を口にし、知識と引き替えに楽園を追放され、世界に下った――敬虔な信者ならば、そう言うだろう」
「以前あんたは無神論者だとか言ってなかったか?」
「こちらに来てからは尚一層ね」

 皮肉げに彼は続ける。

「しかしその神話もあながち捨てたモノではない。僕ら人間は知性を持つが故に、鋭い爪も牙も持たずして、地球上の生物の頂点に立つことが出来た。しかし逆に言えば、知性を持たない僕らはただの動物でしかないと言うことになる」
「ふむ」
「そこで果たして文明というモノが現れる。多少の道具や言葉を操っていたところで、結局は野生動物の延長線でしかなかった人類は、そこで初めて歴史を手にする」
「つまり考古学とは、それを紐解く学問であると言いたいのか?」
「そう」

 聞き役に回った燕に気をよくしたのか、それとも元々彼はそう言う気質なのか――まるで教師のような立ち振る舞いで、クラインは言う。

「たとえばカツラギ、地上には雨が降る。冬には雪だって積もるだろうし、夏には太陽の熱が容赦なく照りつける。果たしてそこで――君はロールプレイング・ゲームをやったことはあるか? 近頃のようなリアルなそれじゃない。所謂レトロゲームと呼ばれるものだ」

 何故そこでゲームの話しになるのか――燕はあえて口を挟まずに、小さく頷く。

「今で言うなら、一枚の高画質画像ほどしかないデータを駆使して、テレビ画面上に表示される世界に、かつてのゲーマーは熱狂した。だがそこにあるのはあくまで、ゲームをプレイする上で必要な記号でしかない。それを想像で補ってこその、“ロールプレイング”だった」
「……」
「現実にああいう世界があったらどうだろうか? モンスターを倒したからと言って、金貨とアイテムをばらまいて死体が蒸発する事はないだろう。神ならぬ人間には、建物の中に入ってしまった冒険者を俯瞰することもそもそも出来ない」

 それはあくまで、ゲームという世界を“遊ぶ”為に存在する記号であるから。
 そこにあるのはたとえば壁や山や海ではなく、ゲーム上のルールを表すオブジェクトに過ぎないのだ。冒険者はゲームの世界で、壁で仕切られた迷宮を進む。だが、本当ならば――それは迷路の天井を切り取ったように、第三者視点から俯瞰出来る筈はない。

「そして今一度カツラギ、君に問うが――あれは、果たしてゲーム上のオブジェクトなのだろうか?」

 そう言ってクラインは、遠くに見える“街”を指さした。

「……少なくとも、そうは見えない」

 燕は応えた。
 ここがゲーム上のオブジェクトと呼べないのは百も承知。それを“スターゲイザー・エインターテイメント”が管理できないからだとか、そう言うことではない。
 あれは、“誰かに見せることを前提に作られたオブジェクトであるか”という事である。
 そうだ、と言うのであれば、それはあまりにもリアルだ。
 もっと言えば“無駄”で、“意味がない”。

「あの建物の白は、漆喰か何かのようだな。この辺りは僕たちが居たジャングルよりも幾分緯度が高く、山脈の影響か雨が少ない。丁度地中海沿岸のような気候なのだろう」
「言われてみれば」

 燕は双眼鏡を覗く。

「ヨーロッパの絵はがきとかで見たことあるような――イタリアとかあの辺」
「あるいはギリシャであるとかね。ただ――見たところ、ああいう古い都市とは違うな。もっと建物が整然としている。壁はきちんと鉛直に建てられているようだし、歪みもない。となると、あれは規格化された部品が用いられた建築かも知れない」
「意外と文明レベルは低くないって事か」

 不思議そうに、トトがこちらを見上げていることに気づく。先程この子は頭が良いかも知れない――そう思ったばかりであるとはいえ、今の彼女にこの会話の意味がわかるとは思えない。
 クラインがそんな彼女の頭を、優しく撫でてやりながら続ける。

「知的生命の活動に於いて、僕はそれが二つの大きなスケールに分類できると考えている。つまり「文明スケール」と「産業スケール」だ」

 彼は言った。その生命が言葉を持ち、文字を持ち、そして文化を持ち――そうやって一つの文明を築き上げるまでが、最初の段階である。そこから先、文明は新たな舞台へと進む。知的生命の活動が、文明として存在するのは当然のこと――その文明は洗練され、発展していく。
 その発展の過程で経済という概念が生まれ、生命はただ生存していく以上のことを、文明活動に求めるようになる。

「ああ――うん。俺は実際、トトやうちの相棒ほど頭の回転が良くはないんだが、何となく言わんとするところはわかる」
「それでいい。僕の持論を君に押しつけるつもりもないから、それは単なるイメージに過ぎない。ただ、目の前のあれを言葉で言い表すことが難しいからイメージに頼る――そういうことだ。それにこの言葉は、僕が子供の頃遊んだゲームにそういうのがあって――便利だから使わせて貰っている」
「へえ」

 律儀に理を入れなくとも――そのゲームを作った誰かも、今この場所で彼にその言葉が使われる事に文句を挟もうと言うこともないだろうが。
見たところ、と、彼は言った。

「目の前のあれは、文明スケールから産業スケールへの過渡期――割合進んだ文明ではないかと思う」
「確かにな。建物と言い、街全体の雰囲気と言い――クライン、あれは見えるか? 街の入口から見て右側――少し丘の影になりかけてはいるが」
「煙突――のように見えるな。先入観は禁物だが。なるほど、では、既に工業分野の萌芽が見られるのかも知れない」
「それで気になるのがあれだな。あの塔みたいな奴――オベリスクか?」

 ふむ、と、クラインが自分の顎を押さえる。
 “街”の中央部には広場があり、そこには塔のようなものが聳えているのである。
 街を行き交う人々の背丈が、自分たちと大差ないのであれば、大体高さは十五メートルかそこらだろうか。塔とは言ったが高さに比べて幅はなく、中に人が入れるようにも思えない。小さな塔、いや、あるいは巨大な石碑と言った方が正しいのかも知れない。
 燕は何となく、自分の知識にある中で似たものを上げてみた。古代エジプトの碑文が刻まれた石碑――かの有名なオベリスクである。細かな見た目はともかく、全体のシルエットはそれに似ている。
 色は白く、僅かに青みがかっているように見えるが、あるいは空の色が移り込んでいるのかも知れない。双眼鏡越しでもわかるほどに、表面は滑らかに見える。
 しかしオベリスクのような“碑文”ではない。こちらから見えない背面に何かが刻んである可能性もゼロではないが、丁度街の入口に向いたこちら側には、絵や文字が刻まれているようには見えなかった。

「宗教的なものにしては、随分無造作に据えられているように思う。祈りを捧げるような姿が見られないのも気になるが――そもそもここに宗教のような概念があるかはわからないから、先入観は禁物だ」
「そうだな。ここであれこれ想像を展開しても、結局は何も解決しないんだろう」
「下手をすればトイレの便座を古の神だと勘違いして恐れおののく羽目になる。そう言う馬鹿げた事をしたくないのならば、自分の目で見て確かめるまでは全てを疑って掛かるべきだろう。幸い、遺跡を掘り返すのと違って、全ては目の前にある」

 何故だろうか――今の燕から見ればコンピュータ・グラフィックスでの描画でしかない筈のクラインの瞳が輝いているように感じられる。もっとも、それも仕方のない事かも知れないが。

「さてどうする」

 燕は言った。
 その“全て”を目の前にして、指をくわえて見ているのはナンセンス。しかし実際に自分たちがそこに手を伸ばせるか?

「ここに至るまでの道中、他に街や人を見なかった事を考えれば、この“超大陸ユグドラシル”に於いては、それほど大規模な人の交流は無いと見るのが自然だろう。だとすれば好都合だ。我々のように、彼らから見れば明らかに奇異に映る人間とて“遠くから来た”という理由だけで納得させられる」
「……なら、俺が先行する。俺かクロネコなら、最悪でも生命の危険は無いからな」

 すまない、と、クラインは言った。

「気にするな。あんたにとって、もはやこの世界は現実だ。けど俺にとってはまだ、ここは“仮想世界”の延長線上にある。怪しい奴だと言われて槍を向けられても、平気でそれを無かったことに出来る。さて――」

 善は急げとばかりに双眼鏡から目を離した時、今まで黙っていたトトが立ち上がった。彼女もまた、すっかり使い方を覚えた双眼鏡に目を当てて、遠くに見える街を見つめていたのだが――今の彼女には、燕とクラインの会話はわからないだろう。
 そう思って、いたのだが。

「××××――×××」

 彼女が、何事か呟く。
 彼女の言葉はいくらか覚えてきたが、燕には聞き覚えのない言葉。クラインが小さく眉を動かした。彼にもまた、聞き覚えのない語彙なのだろうか。彼は静かに、トトに顔を寄せた。

「KALFATICE――FILO――僕にはそう聞こえた。トト、君はあれが何か知っているのか?」
「知らない、でも」

 彼女は言った。

「わたしは、あれを、知らない。けれど――白い、塔。“フィロ”の“カルファティス”――お母さんが、言っていた。その話しと、同じに思う」

 ――母親。
 その言葉に、思い出す。そう言えば彼ら――クラインとトトが、この“冒険”への同行を申し出た時のことである。
 いまだその存在に、明確な回答が出せないクラインとは違い、トトは正真正銘、この世界の住人である。もはやその事に、燕は疑問を抱かない。
 しかし彼女は――それこそ、誰かがそこに意図して置いていったオブジェクトと言うわけではない。彼女にはかつて親が居て、だから彼女は、そこにいた。そしてクラインがこの世界に捕らわれ、燕がこの世界に降り立つよりも随分前に、彼女は“この世”を去った。
 このデジタルデータの世界から、消え去ってしまった。
 今の今まで忘れていたのはあまりにも間抜けかも知れない。だがそれを今悔やんでも仕方がない。
 そう――あるいはトトよりも、この世界を知っていたのだろう彼女は、娘に何を伝えたのだろうか?

(それは、どういう――)

 口を開き――出しかけたその言葉は、しかしかき消される。
 何に? ――その刹那、轟音と共に彼らが居る丘のすぐ上を、巨大な影が駆け抜けた。猛烈な風が吹き、よろめいたトトを、何とかクラインが抱き留める。燕は思わず両腕で頭を庇い――そして、その腕の向こう側に、それを見る。

「あれは――おい、まさか!」

 そのあまりの巨大さからは想像も付かない軽やかさで、空気を切り裂き空を舞う――金属と炭素複合材で作られた翼を持つ、機械の鳥。
 紛れもなく、地球の戦闘機――“この世界”にあり得ない筈のそれが、視界の中で大きく翼を翻した。




「――本当に、街だ」

 “彼”は、言葉が口から出たことに気がついていただろうか。
 ユグドラシル上空一万二千メートル、成層圏の中を飛ぶ。特徴的なステルス形状を持つ、双発の戦闘機――スホーイT-50。翼に染め抜かれるのは、彼らのあり方を示す髑髏のマーク。

「どういうことだ。これは――どう見たって人工物だ。フィールドのバグなんかじゃない。意図して、あそこにある」

 これだけ上空から見下ろしても、それがわかる。
 白亜の建造物が見える。それを取り囲む、直線的な壁が見える。
 中世ヨーロッパの城塞都市とでも言うのだろうか。少なくとも、一見して“そういうもの”であるということが、わかる。
 それは以前自分が思っていたような思わせぶりなものではなく――あまりにもはっきりと、そこに存在していた。

『確かに間違えようもなく、あれは“街”じゃな』

 無線から、声が響く。
 自分の右斜め前方――編隊を保って飛行する、もう一機のT-50。周りに比較するものがなく、また編隊飛行用のデータリンクで距離と速度が保たれているため、それはまるですぐ側に、ただ浮かんでいるように感じられる。既に対気速度は音速に近い。

『しかし――連中は、あれに気づいておらんのか?』
「――」

 彼はレーダー画面に一度目を落とし、機体を傾ける。
 眼下には森林と草原、そして低空に綿菓子のように散らばる雲――穏やかなその光景を無遠慮に切り裂くいくつもの霧の帯、そして黒煙。T-50のレーダーは、この空域で激しい戦いを繰り広げる者達が居ることを教えてくれている。
 そもそも、彼らは自分たちの獲物でもある筈だった。戦闘の前線が“ユグドラシル”の内陸に移動し始めるに従って、自分たち海賊プレイヤーの行動範囲も広がっている。だからいつもの通り、戦場に横から乱入して勝利を奪う。そのはずだったが――

『ユグドラシルは無人の筈じゃ――少なくとも設定上と、ゲームの都合上はそうである筈じゃ』

 少なくとも、敵性勢力の存在は、今までは公式上は明らかにされていない。プレイヤー同士の争いである多人数参加型のゲームに於いて、参加できない勢力は存在できない。当然の話である。
 だからこそ、フィールドに現れ始めた謎の無人機は、運営が用意したグランドクエストに立ちはだかるものだと言われているし、そうとしか思えない。
 しかし、ならばあの“街”は何だと言うのか?
 “ストラトダンサー・オンライン”は「フライトシューティングゲーム」である。仮想空間体感型ゲームの特権である「ロールプレイ」の部分が強調されてはいるが、結局戦闘機に乗って戦う、ただそれだけのゲームであるとも言える。
 ならば――無人であるはずの大陸に、街が存在する理由は何だ?
 いや、それが運営の用意したイベントならば、それはそれで構わない。

『あれだけ堂々とフィールド上に存在しているんだ。嫌でも目にとまるし、前々からそういう噂は流れていた――じゃが、どうじゃ。連中には、まるであれが見えていないようではないか?』
「……」

 そうなのである。
 その上空――“彼ら”から見れば眼下で繰り広げられる空中戦は、あまりにも“いつもと同じ”に見える。
 あの街が何なのかはわからない。だが、未知のオブジェクトにこれほど接近した空域で、それを全く気にせずに戦闘に集中できるだろうか? 生死がかかった現実の空中戦ならともかく、これはただのゲームなのである。
 どう考えても通常のイベントとは異なるものが目の前にあって、眼下の彼らは、それをまるっきり無視している――?
 “彼”のヘルメットの遮光バイザーの下で、眉が小さく動く。

『それで、どうする?』
「……どうもこうもない」

 “彼”は言った。

「これがバグなのか、それともあれが見えている事に何らかの条件があるのかそれはわからんが――わざわざ海賊が、それを馬鹿丁寧に教えてやる必要はない。あいつらを全部叩き落として、未知の大陸に一番乗りと洒落込もうじゃないか」

 そう嘯いて“彼”は操縦桿に力を込める。
 機体はその意思を汲み取り、その翼を翻す。視界に映る世界が回り、頭上から、大地が“降ってくる”ような錯覚。スロットルはアフターバーナー位置に。高度一万二千メートルからの、パワーダイブ。超音速巡航すら可能にする強大なエンジンパワーに重力の助けを借りて、機体はたやすく空気の壁を突き破る。
 視界の中で、急速に「それ」は大きくなる。フィールドの中を高速で飛行する敵戦闘機――ほとんど黙視することはできないほどの距離。しかし当然、機体のレーダーはすでにそれを捉えている。視界に重ねられたコンテナと照準が、そこに彼の獲物がいることを教えている。
 それが、一気に大きくなる。
 獲物に襲い掛かる猛禽には、きっとこんな世界が見えているのではないだろうか。ただレーダーが捉えていただけの機影は、すぐに目視できるようになる。水平尾翼を持たないデルタ翼機――しかし機首後方にカナード翼を備えるクロースカップルドデルタ形状。
 ユーロファイターに代表される欧州の戦闘機によく見られる機体形状である。静的安定性弱化がなされた機体をコンピュータ制御することにより、高い機動力を発揮する――あれは、ユーロファイターよりも一回り以上、現用戦闘機としてはかなり小柄な機影。
 その機体を操るパイロットは、敵機を追うのに夢中でこちらには気が付いていないのだろう。T-50は純然たるステルス戦闘機。射撃管制レーダーを使用せず、武装をアクティブにしていないこの状態では、その存在に気付くことは極めて難しい。
 だが――“彼”は目を細める。戦いの中に雑念はいらないと、その事実を思い出すように。

「……その程度か。伝説の怪物の名が泣くぞ」

 マスクの中で、彼は呟く。サーブ39“グリペン”――スウェーデンを主として開発された小型戦闘機。機体サイズが小さく航続距離や武装搭載量において不利であるが、その分高速道路からですら離陸できる。伝説に登場する、鷲の頭を持つライオン――その剣呑な怪物はどこにでも潜み、そして獲物に襲い掛かる。
 だがそれも――髑髏の旗を掲げた有翼の悪魔の敵ではない。“彼”は薄めた瞼の向こう側、視界を横切る翼にむかって、トリガーを引き絞った。










難産
暗中模索。



[37800] 第三部 第三話 「接触」
Name: スパイク◆55d120f5 ID:056a0cd1
Date: 2015/05/30 21:02
第三話「接触」

 視界の中で、世界が周る。空の蒼と、森林の緑――それが何度も取って代わる。その中で、数百メートル前方――この速度と、自分たちが操る“翼”の大きさからすれば手の届きそうな距離にある目標――彼女はただ必死に、それを視界から外さないように追い続ける。
 ターゲットマーカーが、すでに敵機を捉えている。しかし、同じ単発機にあっても、彼女のF-35BライトニングⅡよりも更に小柄で軽快な機体――JAS39グリペンを、その“稲妻”にぶち当てるのは楽な作業ではない。相手はこちらと同じく小型の軽戦闘機であり、静的安定性をそぎ落としたクロースカップルドデルタ機――あるいは“欲張り”が過ぎる多目的戦闘機であるライトニングⅡ、その中でも垂直離着陸用の装備をデッドウェイトとして抱えるB型よりも、格闘戦能力はあるいは上かも知れない。ましてやその中枢――コックピットには案山子が乗っているわけではない。あの翼を御しているのは自分と同じ、空の、戦士。
 だが、気後れなどしている殊勝さを持ち合わせているわけではない。彼女はスロットルレバーをマックスに叩き込む。果たして機体の心臓部――単発でありながら、下手な双発機よりも高出力のP&WF-135ジェットエンジンが咆吼を上げる。同時にこの機体の目であるAN/AGP81フェイズドアレイ・レーダーは、既に鷹の頭を持つ獅子の姿を捉えている。
 音速に迫る速度域での急速旋回――機体背面の気圧が急低下して真白い霧のヴェールが生じ、それが主翼を伝って後方に長く伸びていく。体がシートに押しつけられ、操縦桿を引き続ける事さえ困難になる――だが、負けない。逃がさない。
 F-35Bの機体下部、エアインテーク側方――普段はステルス性確保のために閉じられているウェポンベイが開く。ミサイルシーカー・オープン。ターゲットを完全に捕捉。

「もらった――ライトニング2、フォックス――」

 トリガーを引き絞ろうとした瞬間――目の前が、爆ぜた。

「!?」

 今まさに彼女が貫こうとしていた敵機が、一瞬で爆ぜ飛んだ。ヘッドマウントディスプレイを兼ねるヘルメットのバイザー部分に、危険を知らせる警告が表示される――しかし、反応できるような暇はない。視界を覆い尽くした爆発に、機体はそのままの勢いで突っ込んでしまう。
 鉄板を叩くような硬質な音が続けざまに響く。空中に飛散した敵機の残骸が、推進力が消失した事により空気抵抗で減速――その相対速度から、さながら散弾銃の弾のようにこちらに浴びせられる。こうなればもう、あとは自分の運に掛けるしかない。彼女は操縦桿を思い切り引いた。

「敵――何処から!?」
『ライトニング3より全機――ライトニング4がやられた! 敵機主翼に海賊旗を確認――海賊共和国(リベルタリア)よ、注意して!』

 急旋回からパワーダイブ。敵機の爆発から抜けるのと、仲間からの通信、さらには、自分がさっきまで巻き込まれていた黒煙が、オレンジ色の閃光に貫かれるのがほぼ同時だった。
 仲間が一機やられた? その情報を能が処理してようやく、事態が把握できる。これはならず者の襲撃――海賊の奇襲である。海賊プレイヤーには、任意のバトルフィールドに任意のタイミングで介入できる権限がある。さながら各国のエース・プレイヤーと同じように。
 つまりさっき自分が追いかけ回していた敵機を横合いから撃墜したのはその海賊で――果たして今この場は、等しく彼らの殺傷領域(キリング・フィールド)にあるというわけだ。自分と仲間達はもちろんのこと、先程まで砲火を交えていた敵性勢力さえも。

『海賊機――こんなエリアに!? ここは最前線イベントよ!?』
『現実逃避しても始まらないって――よし、ライトニング4は脱出に成功してる! マリンの弔い合戦よ! 死んでないけど!』

 仲間からの通信にひとまず安堵する。撃墜された仲間は脱出に成功した――デスペナルティは軽い。ならば、ぼんやりしている暇はない。海賊は、退治されるべきだ。彼女は操縦桿を握る手に力を込め――スロットルレバーを押し上げる。

『――ほう、今のを避けるか――まぐれかも知れんが、せいぜい愉しませろよ?』

 唐突に――冷たい声が響く。変わらずレーダーに反応はない――しかし、彼女は“あたり”を付けて、操縦桿を引く。低空を高速で飛行していたF-35Bは、右ロールから急激なピッチアップ。森林が広がる丘陵を舐めるようにして、大きく旋回する。
 敵からの通信――操縦桿を引いたまま、通信装置のパネルにあるダイヤルを左手で回す。
 現実ではむろん、通信に使われる周波数は勢力ごとに異なり、敵機に“話しかける”などと言うことは不可能であるし、その意味もない。
 しかしここは“究極の戦闘機ごっこ”を謳う仮想空間である。“そうする”事に、それなりの意味はあるのだ。ならば今の声は――こちらへの挑発か、それとも“海賊らしさ”を演じるためのロールプレイか。

『ライトニング1よりライトニング2――ミケちゃん、そっちに一機食いついてる!』

 今まで姿の見えなかった敵機のシンボルが、レーダーディスプレイ上に現れる。自機のレーダーは、いまだ敵機を捉えては居ない――しかし、F-35のデータリンク機能により、味方が捕捉した情報が転送されたのだ。F-35をはじめとした第五世代戦闘機は、友軍同士の高度な情報共有能力を持ち――その全てが、ひとつの意思を持つように行動することが出来る。現用戦闘機に於いて真に恐ろしいのは、個々の戦闘力よりも戦場を統御する高度な情報網であると言えるかも知れない。
 その張り巡らされた蜘蛛の巣が、自機にとっての脅威を教える――敵機背後上空。旋回するこちらに、恐ろしい速さで接近しつつある。位置エネルギーを運動エネルギーに変えてのパワーダイブ。恐らくエンジンパワーそのものも向こうが上。しかしそれにしても、早すぎる!
 耳障りな警報が響く。敵機、ミサイルを発射。同時にスロットルをアフターバーナー位置へ。急旋回で避けるには、速度が足りない。

(この間合い――半分は牽制のつもり? なら、まだ間に合う!)

 速度計の表示が見る間に上がっていく――同時に燃料計の表示も目に見えて減っていくが、燃料など気にしては居られない。ただでさえ航続距離の短いF-35Bであるが、その不利を嘆くつもりなど今はない。
 コンピュータが背後に迫る危機を感知し、自動で欺瞞用マグネシウム――“フレア”を放出。扇形に広がったその熱源に、ミサイルが食いつく。爆発の衝撃波が機体を揺らす。回避に成功――だが、喜ぶのはまだ早い。思い切り操縦桿を引き、急上昇に移行。
 機外カメラが追従してくる機影を確認――F-35にも通じるところがある、扁平で幾何学的な、しかし何処か生物的なものも感じさせる独特の機影――スホーイ、T-50。

(敵機上昇――ここ!)

 彼女はその動きを認め――一つのレバーを引き上げる。刹那、操縦桿に力を込める。機体は独特の螺旋状機動、バレルロールへ移行。同時に、上昇速度が一気に鈍る。
 キャノピーの外側を、特徴的な機影が通り過ぎる。敵機を、オーバーシュートさせることに成功。遠慮無く、操縦桿の引き金を引き絞る。虚空にオレンジ色の火線が流れる。20ミリ航空機銃の銃撃――威力も射程もミサイルには及ばないが、それでも航空機程度の鋼鉄と複合材を蜂の巣へと変えるには十分すぎる。
 だが――

「――えっ?」

 キャノピーに、影が降る。
 照準レティクルの中央に捕らえていたはずの敵機が――その刹那、すぐ側にいる。本当に、すぐ目の前。彼女にはそれがスローモーションのように感じられた。難なく火線を避けながら、相対的には今度はこちらが、敵機の前に躍り出そうになっている。だがそれに気づいてももうどうしようもない。敵機のコックピットがこちらから伺える。ヘルメットとマスクに隠されたその敵の顔は、こちらからは見えるはずもない――しかし、彼女は、その隠された顔が笑っているように感じられた。

『雑魚にしては中々しぶとい――まさか一時でも俺の背中を取るとはな』
(――!)

 相手の機動に追従できない。こちらを中心に変則的なバレルロールを行い――敵機はまるでそこが自分の位置だと言わんばかりの、アタックポジションへ。

『そのこと自体、誇って良いぞ。では――死ね』

 冷たい声が響く。ここからでは――避けられない、“減速のために着陸脚を降ろした”この状態では、相手にとって今のこちらはただの的だ。やられる――彼女は、思わずぐっと目を閉じた。

『三時方向――避けろ!!』
『――!?』

 唐突に響いた声。自分に向けられていた殺気が消え失せるのを、彼女は感じた。スロットルレバーから手を離し、体を捻る。機外カメラではなく、自分の目で相手を伺う。敵機はこちらに腹を見せる格好で急激に遠ざかり――いきなり、至近で爆発。何処からか放たれたミサイルが、敵機の放出したチャフに引っかかって自爆。衝撃波が、機体を揺らす。

「助かった――援護? でも、どこから?」

 ここは現在、“ストラトダンサー・オンライン”の最前線フィールドであるはずだ。海賊機が現れたこと自体、半ば予想の範囲外であった。そんな場所に一体、何処の誰が割り込んでこられるというのか? そして――それは、こちらにとって敵なのか、味方なのか?

「こちらライトニング2――今のは、誰が?」
『IFFに反応無し――うちの味方じゃない。でも、状況からして相手方の勢力でも海賊の仲間でも無さそう』
「ひょっとして、例の無人機?」

 だとすれば、良いタイミングだったと思うが、同時に厄介でもある。このゲームをやり始めてからこちら、それなりのプレイヤースキルは身に付いた筈だが、それでもまだ、あの“謎の無人機”を相手にするには荷が重すぎる。

『いえ――不明勢力を目視確認。青いF-3――無人機じゃないわ』
「F-3?」

 現実では、自衛隊に配備が進められる日本の最新鋭戦闘機。格闘戦に特化し、対地攻撃能力を持たない、現代では珍しい純粋な戦闘機。
 見たところ海賊機ではない。明確に今の攻撃は、海賊のT-50に対するものだった。しかしだとすれば、戦闘が開始されたフィールドに割り込むことが出来る権限があるのは、海賊の他には各勢力のエースしかいない。しかしここは最前線イベントである。エースが出張ってくるとは思えないし、そもそも彼女が所属する勢力の“エース”とは――

『主翼や尾翼にコードやエンブレムはなかったわ――何なのあいつ、これも何かのイベント?』

 仲間の声には困惑がある――だが、それだけだ。当然である。ここは仮想空間で繰り広げられるゲームの世界。何が起きても不思議はないし、何が起きたとしてもそれを楽しめばいいだけの話だ。
 その――筈だった。
 少なくとも、何ヶ月か前――“彼女”がこのゲームにまだ、手を出していない頃であれば。

(兄さん――ユウちゃん)

 あれがもし彼女の思うとおりの物ならば。彼女――草壁湊、プレイヤーネーム“ミケネコ”は、フライトジャケットの胸元を軽く握りしめた。自分自身もまた、その動作に気がつかないまま。




『“ディアブロ”より“ケルベロス”――無事か?』

 仲間からの通信。“ケルベロス”と呼ばれた彼は、小さく首肯する。それが相手から見える筈もないとわかっていても。

「久しぶりに冷や汗をかいた――だが、機体に損傷はない。相手は何者だ? “ディアブロ”、そちらで確認できたか?」
『レーダーには捕捉している。ステルス機ではあるようだが――あれはF-3だな』
「F-3?」

 アバターの表情が動いた事に、彼は気がつく。この世界で、実はポーカーフェイスというのは存外に難しい。表情を隠そうとしても、無意識の脳内信号を、機械が読み取ってアウトプットしてしまうからだ。だからそう、彼は時折その事に苛立つ。
 レーダーディスプレイに映るシンボルを確認。僚機からのデータリンクにより、既に自機のコンピュータも敵の機影を捉えている。

(……まさか)

 レーダー上のシンボルが、自機の表示と重なる。
 同時に――キャノピーの右舷側を、音速を超える相対速度で機体が通過。濃紺の洋上迷彩色に彩られた、前進翼の機体。

「F-3――いや、RF-3だ……奴は」
『知っているのか、あれを? 何処ぞのエースか?』
「わからない。だが以前――うちの遊撃部隊を手玉に取ったティグリア機が居た。その話を覚えているか?」
『“スカルディセクツ”か。誰がお前に盾にされた連中の機嫌を取ったと思っている』
「……そんな昔の話は忘れたな」
『お前――まあいい。そういうのは儂の役目じゃと割り切っている』

 無線越しに、わざとらしい溜め息が聞こえるが、知った事ではない。

「その正体不明のティグリア軍機の救援に現れたのが奴だ。IFFに応答しないのは妙な話だが――ティグリアが絡んだ何かのイベントかも知れん。あの時は通信障害で叩き起こされたから、それ以上の事はわからなかったが」
『……では、奴はティグリアの? 確か今ここにいる片方は、ティグリアの前線部隊だったな』
「そこまではまだわからん――が、」

 彼はマスクから大きく息を吸い、操縦桿を握り直す。

「こっちのやることは変わらない。奴ののど笛を食いちぎって、全てを奪い尽くす」
『威勢の良いのは結構じゃが――お前の言う“雑魚共”の事を忘れるなよ? 連中とて案山子ではない。状況が変わったと見れば、集ってくるぞ?』
「悪いがそちらは任せる。奴は手練れだ――雑魚を相手にしながらあしらえるような相手じゃない」
『都合のいい奴め――では、これは貸しじゃな?』
「いいだろう。返すアテは無いがな」

 思い切り、握り直した操縦桿を引く。F-3程ではないにせよ、T-50もまた格闘戦能力には重きを置かれた機体である。その洗練された気流制御と頑強な機体構造は、相対速度時速数百キロで流れる気流の中で暴れ回る機体を安定させ、また、翼に空気を留め続ける。
 T-50は百八十度のロール――丁度天地逆になった姿勢から、一気に機首上げ。バックで飛行するような姿勢になる。機首と主翼前縁に設置された高性能レーダーが、虚空に帯を曳きながら旋回する敵影を捉える。

「挨拶代わりだ――今度は逃がさない」

 そのまま彼は、操縦桿のトリガーを引き絞った。




(こいつ――強い――ッ!)

 濃紺の機体が、超音速で虚空を駆け抜ける。RF-3戦闘偵察機――副座型のF-3Bを偵察機仕様に改造した、航空自衛隊に新たに配備された偵察機である。格闘戦に特化された機体構造はそのままに、最高速度をマッハ2,5超級にまで引き上げられ――偵察衛星や無人ドローンの技術が進んだ今、世界にも類を見ない“戦闘”偵察機。
 その縦列副座のコックピットの後部座席、フライオフィサ席は、まさに小さな情報分析室である。常人なら目を回す情報量を、この座席に収まる人間は処理しなければならない。
 そして今、その役割を担っている小柄な少女は、その情報処理能力を“目の前の戦闘”だけに集中させている。RF-3の能力を、そして“彼女自身”の能力を考えれば明らかにオーバースペック――しかし、それが必要なだけの脅威が、目の前にはある。

「敵機降下――ロックオンされてる。角田さんスライスターンから緊急降下! タイミングはそっちに任せるから、そのまま低空で回避行動に移ってください!」

 彼女――“クロネコ”の叫びにも似た指示に、前席に座るパイロット――角田は首肯する。声を返す暇はない。操縦桿を倒し、ラダーペダルを蹴飛ばすようにして、無理矢理に機体の進行方向を変える。

(全く――いるところには、いるものだ。“天才”という奴は)

 自嘲気味にそんなことを考えても意味はないのだが――襲いかかる曳光弾の火線を避けつつ、彼は思う。
 彼もまた、エース級のパイロット――彼の場合は現実の世界においても、一線級のパイロットであった。それは決して自惚れではない。その性格上目立つことはないが、こと練度に於いては世界屈指と言われる航空自衛隊、さらにその教官であるアグレッサー部隊の一員に、異例とも言える若さで抜擢された事実が、それを示している。
 確かにここは仮想世界である。身体的負荷が一切排除された現実ではあり得ない空中戦を持ってして、一口に現実世界のパイロットとの優劣など決めることは出来ない。極端な話、それは剣道と将棋の名人の優劣を決めろと言っているようなものであるから。
 スロットルレバーを押し上げる。翼から気流が剥離しかけている。激しい機動に失速警報が何度も鳴る――しかし、後部警戒レーダーは、敵機の機影を捉えている。引きはがせない。

「高度50――これ以上はろくに回避行動が。しかし格闘戦に於いてはF-3にいくらかの分があります。高度を稼いだ方が良いのでは?」
「あいつ、さりげなくミナちゃん達――もう一機が引っかき回してるフィールドから、あたし達を遠ざけようとしてる。射線を限定できるだけでも、まだこっちで粘った方が――ここなら、ミナちゃん達の行動を完全には無視できないから――くぅ、低空でも逃げ切るのは無理か!? 何か遮蔽物でもあれば違うのにこの場所、おまけにあんなっ!」

 クロネコの言いたいことはわかる。先程から視界の隅に――明らかに“未確認の人工物”が映っている。つまりは――“惑星オデッセイ”上に存在している、街が。
 むろん、ここはオンラインゲーム“ストラトダンサー”のデータ上でもある。ある程度の無理は利くが――しかし、それが“惑星オデッセイ”にどんな影響を及ぼすか。同じ“探検隊”の仲間であるあの青年と少女は――“この世界”の人間なのである。

(ともかく――何という技量だ、あのプレイヤー)

 現実の戦闘機パイロットが見る世界を知り――“この世界”を作り上げた自分ですら、押されている。後部座席に座るクロネコの本来の相棒――草壁燕という男もそうであるが、自分が現実世界でエースパイロットなどともてはやされていたのは、単なる偶然と幸運だったのだろうと思ってしまう。もしも、彼らが本気でその道を目指そうとしたのならば――そう思ってしまうのだ。

(無論今、それを嘆いたところで意味はないし、それは馬鹿な話でしかない――だが、このままでは)
「敵機ミサイル発射――レーダー型? 角田さん、一発目は囮。近接信管気にしないくらいでいいから。タイミングは――」
(このままでは――私では、彼女の剣となるには足りたものではない)

 後部座席の少女は、まるで戦場の全てを見下ろしているような、恐ろしいほどの情報処理能力を持っている。パイロットはただ機体を操縦することに専念すればいい――副座型の機体を実戦で運用するときのメリットというのは、要するにそれだ。後部座席で事務方に徹する事に不満を感じないプレイヤーなどほぼ居ないこのゲームの世界で、それは大きなアドバンテージになる。
 しかし、とてつもない技量を持つあの海賊の前では、ただそれだけでは足りない。
 角田もまた、個人の能力が低いわけではないが――この急造のチームでは、クロネコが要求するだけの連携が取れない。いや――もはや連携という形容では足りない“それ”を成し遂げられるのは、一人しかいないのだ。
 手足を動かすのに、まさかいちいち別個に動けと念じる人間は居ない。クロネコと言う“頭脳”に追従できる“手足”など――角田は、その雑念を振り払う。力不足も状況的不利も百も承知である。泣き言を言うくらいなら、自分は最初からここには居なかった。

「――周囲への影響を無視して反撃に移りますか?」
「……でも、それじゃ――“惑星オデッセイ”にどんな影響が……それに、カツラギくんだって」

 視界に映る街。自分たちが作り出したわけではない。しかしそれは現実に目の前にある。では――あの街は何か。街と言うからにはそこには人が居るだろう。その“人”とは一体何か。
 そして――“コンタクト”を行うべく、この光景の何処かに居るはずの、この少女が愛しく思う青年は、無事なのか?

「すでにこちらから確認できるマップ上にも影響が出はじめている。ストラトダンサー・オンラインのデータに今のところエラーは検出されていませんが――手をこまねいているだけでは、今の状況が保たれる保証はありません」
「……」

 言われてクロネコは、躊躇ったようだった。
 当然である。正規のプレイヤーは知るよしもないが、ここは未知の世界――何が起こるかわからない。それは自分たちが、ここで動くか動かないかに関わらず。

「わかった。角田さん、あれ使おう――AAM-4・モーニングコール」
「了解」

 だが果たして、その逡巡は一瞬だった。彼女の声と共に、多目的ディスプレイが切り替わる。表示されたのは武器選択画面――後席の彼女の操作により、選択武器が切り替わる。
 F-3の胴体下、エンジンが収まるフェアリングの外側に張り出したウェポンベイ。F-35や他のステルス機同様、普段はステルス能力確保のため閉じられているその場所が、展開される。

「AAM-4――リリース」

 角田がトリガーを引き絞る。胴体左右のウェポンベイに収められていた紡錘形の物体が、機体から切り離される。コールと共に音もなく機体から切り離されたそれは、僅かに放物線軌道を描き自由落下を開始――その直後に、バラバラに砕け散る。
 否、砕け散ったように見えたのは、表面を保護していたカバーだった。その内側に整然と収められていた数十もの“物体”が、空気抵抗により周囲にまき散らされる。

「今は情けを掛けられる余裕なんて無いから――悪く、思わないでね」




「なんだ――あれは、クラスター爆弾?」

 敵機から何かがリリースされた――それを見て、“海賊”は全身を緊張させる。
 見た目には、そう見えた。一つの弾体の中に、無数の子爆弾を詰め込み、地上に“爆弾の雨”を降らせる広範囲殲滅兵器。歩兵部隊などには絶大な効果を発揮するが、攻撃範囲が広すぎて誤爆を招く危険性があるうえに、不発弾は出来の悪い地雷として機能する――兵器としては優秀かも知れないが、あまりに非人道的すぎると、現在では実戦で使われる事の無くなった兵器である。
 むろん厳密には人道的な理由ではない。経過の全てが世界中に生中継される現代の戦争に於いて、“非人道的な武器を使う”と言うことは即ち、“世界を敵に回す”事に等しいからだ。憎むべき敵は、世界から哀れな被害者として庇護されてしまう。
 ともかく――そう言った剣呑な代物に見た目は似ていた。
 しかし、このフィールドには地上目標など無い。
 あるいは、あの街のような物はやはり敵の拠点か何かであり、そこを先に潰そうと考えたのだろうか?

(しかし――F-3に対地兵装は装備できない筈だ。一体――)

 現実のF-3は、日本という特殊な事情を背負う国で生まれたが故に、“侵略”の手がかりになる対地兵装を装備できない、現代に於いては時代錯誤も甚だしい、純粋な“戦闘機”である。
 そして詰まるところ“戦闘機ごっこ”であるこの仮想空間に於いても、通常対地兵装など必要はない。敵勢力を削る際に、敵基地を爆撃すると言うようなイベントはあるが、それはあくまで特殊なイベントである。
 ならば、敵機が“ばらまいた”あれは一体何だったのか――

『――いかん!! ケルベロス、それ以上奴に近寄るな!』
「は?」

 その解答は――敵勢力を牽制していた筈の味方機からもたらされた。
 いや――彼が叫ぶように告げたのと、コックピットに警報音が鳴り響くのとが、ほぼ同時だった。無意識にスロットルをアフターバーナーに叩き込み、操縦桿を引く。コンピュータが脅威を捉えている。こちらに向かって、高速で接近してくる飛翔体をレーダーが捕捉。

「ミサイル!?」

 後部警戒ミラーに、こちらに向かって飛翔してくるミサイルが僅かに見える。レーダー型ではない――手動でフレアを放出。しかし、そんな物は関係ないとばかりに、ミサイルは一直線にこちらに突き進んでくる。

「くそ――光学式か!?」

 電波でも赤外線でもなく、“見えている敵機の機影”を認識して目標を追う光学認識機能を持つミサイルに対して、決定的な欺瞞装置という物はいまだに開発されていない。それらは餌をばらまけばそれに食いつくような純朴さは持ち合わせていない。あくまで見据えるのは、敵の姿のみ。それを誤魔化すというのは即ち、何も遮る物のない空の中で、巨大な現用戦闘機の図体でもって“かくれんぼ”をしろと言うのと同じ事である。
 しかし白旗を揚げたところで、無慈悲な電子の瞳はこちらを追うのをやめてくれるわけではない。

「舐めるな――!!」

 分厚い空気の壁を突き破り、同心円状の霧と空気の揺らぎを残し――T-50は加速する。その軌跡を追うように、虚空にいくつもの白線が伸びていく。複数のミサイル? いつの間にこちらが照準されていたというのか――しかしそれを考える暇はない。操縦桿を一杯に引く。超音速で飛行してきた運動エネルギーを位置エネルギーに変換――機体は一直線に上昇していく。

「来たな――ここ、だっ!」

 機体が急激に体勢を変える。その動きに追従しきれない周囲の空気が、霧の塊となって機体を包む。その程度でミサイルのセンサーをごまかせるはずはない。
 しかし――その冷たい瞳を、強烈な光が灼く。ただ一直線に目標を追い続けるが故に――太陽にセンサーを向けることになってしまったミサイルは、その強烈すぎる情報に混乱し、自爆する。

「よし、ミサイルを回避――何処から撃たれた? まだ、仲間が?」
『ケルベロス、無事か?』
「何とかな――今のは? そちらで捕捉出来たか?」

 仲間の声に、彼は問い返す。
 果たして帰ってきたのは、俄に信じがたい回答だった。

『いいかケルベロス。あのF-3にそれ以上近づくな。あれは恐らく32式広範囲空域制圧弾――自衛隊で開発中の最新装備だ』
「……何だと?」
『ネットで流し見した程度じゃがな――その名の通り2032年の制式採用が見込まれている、航空自衛隊の新型ミサイルじゃ。絶対的な制空権の確保が目的とされている』

 彼は続けた。その声には――普段とは違う、感情の揺れが感じられる。

『一つのパッケージに二十くらいの小型ミサイルがセットされ――母機から切り離されると即座にフェアリングを捨てて、母機の周囲に拡散される。そこからは小型のジェットエンジンで周囲の空域を自律飛行し、敵機影を光学認識するとジェットエンジンを切り離し、ロケットモーターで目標に突進する』
「なん……」

 思わず、声を失う。
 反則級の兵器である。少なくとも、それを相手にして“まともな空中戦”など出来るはずがない。

『そう――空中に地雷原が出来るようなものじゃ。いや、それよりもタチが悪かろう。敵を相手にする前に、その周りをうろつく数十からの番犬を全て片付けねばならん。もっとも――現実のそれは、センサの信頼性の問題と、小型ジェットエンジンの滞空能力の問題から、予定よりもずっと開発が難航している代物らしいがのう』
「だがここはゲームで――おい待て。そんな武装がすでに実装されているのか? あんなものを使う相手に、どう戦えと!?」
『落ち着けと言っても無理な話じゃが――さて、あれはどうにも“まとも”な相手では無いようじゃのう』

 その装備が現実に存在する以上――あるいはそれは不正データ、“チート行為”ではないのかも知れない。しかしそのスタンスは、あまりにもこの世界にそぐわない。
 自在に空を舞い、敵と戦い、そして制する――そうであってこその“ストラトダンサー・オンライン”だった筈である。
 もちろんその装備とて、無敵であるわけではない。最も単純な攻略法は、32式広範囲空域制圧弾の有効範囲外から、長距離射程の武装で攻撃すればいいだけの話だ。敵機を目視確認するという常識はずれのセンサーは、そうであるが故に遠すぎる目標物を捉えられず、既存のミサイルよりも射程距離はずっと短い。
 だが、そんな“空中戦”とも言えない行為に何の意味があるというのだ。操縦桿を握る手に、力が入る。それに比べれば、圧倒的な機動力を誇るとはいえ、“空中戦が出来る”だけ、まだ例の無人機の方がいくらかマシである。

『そもそもあんな武器はゲームに実装されていない筈じゃ。正規のプレイヤーではない。しかしチートと言うにも何かおかしい。ならば一体、奴は何者か――お前が遭遇した不審なティグリア機といい』
「……」
『……まあ、良いように考えれば、じゃ。明らかに普通ではないあの街のようなものに、ここに来て現れた普通ではない勢力の機体――あるいはここは最前線。何かのイベントだと考えるも、それはそれで自然な事じゃがな?』
「――いけ好かん。ああ――くそ。そうかも、知れんがな」
『どのみち燃料がない。潮時じゃな』
「フザケやがって――次は絶対に、何があろうと墜としてやる」

 ミッションの放棄を宣言――二機の海賊機は、その翼を翻す。




「連中は退いたか――少なくとも、一番厄介なのはカタが付いたね」
「しかしまだ空域がクリアになったわけではありません。現状では、この周囲で空戦が行われる事は危険です。草壁さん達にどのような影響があるか」
「ん……まあ、“惑星オデッセイ”にもこの新兵器のデータ、ある程度通じるみたいだし――真面目な前線プレイヤーには悪いけど、一旦ご退場願いましょう」
「と、言いますと――やはり?」
「現実でもチート兵器とか言われてるしね。海賊機“だけ”をターゲットにするの、ちょっと無理みたい」
「それは――しかし一般プレイヤーだとしても、この空域に留まられるのは今の状況ではまずい。イベントの最前線がこの辺りにあったのは不幸な偶然ですが」
「――ミナちゃん、聞こえてないだろうけど先に謝っとく――デスペナ喰らわせちゃったらごめん。そう言うことだから、さっさと逃げてくれるとありがたいけどね?」




「爆音が遠のいた――角田さんがやってくれたか? クライン、無事か!?」

 頭を押さえながら、燕は立ち上がって周囲を見渡す。幸いにも、自分が立つこの場所の付近は、空中戦の直接的な影響を受けては居ない。だが、ずっと遠くの森から黒い煙が上がっているのがここからでも確認できる。
 そう――それは単なる幸運な偶然だ。撃墜されたジェット戦闘機が頭上に落ちてきたら、生身の人間などひとたまりもない。
 むろん燕自身はどうと言うことはないだろう。ここに立っている“カツラギ”という青年はあくまで、この世界に於いての自分を示す記号でしかない。たとえばロールプレイングゲームの勇者というものは、絶命したところで次の瞬間には王様の前に跪いて『死んでしまうとは云々』と嫌味を言われるものなのだ。
 だが、自分の仲間達に於いてはそうはいかない。
 しかし果たして、自分の問いかけに対し――草むらの中で、少女に覆い被さるようにして伏せていた青年が、体を手で払いながら起きあがり、こちらに手を挙げてみせる。無事だと言うことだろう。

「今のは――」
「“ストラトダンサー・オンライン”のプレイヤーデータだろう」

 クラインの声には、力が感じられなかった。目の前の光景を、素直に信じることが出来ない――彼の声色は、そう言っているような気がした。

「この“惑星オデッセイ”は、“ストラトダンサー・オンライン”のワールドマップと表裏に存在する。だが――その相互がどう関わっているのか、スターゲイザー・エインターテイメントのプログラマーにすら理解できていないのが現状だ」

 燕は以前、そう説明された。
 “ストラトダンサー・オンライン”は、田島曰く謎の人物によって持ち込まれた、“惑星オデッセイ”という未知のデータを基盤として作られている。しかし当然、民生品では現在最高スペックの処理能力を持つスーパー・コンピュータでさえも、そのデータプログラムの基底を暴くことが出来ない。
 当然それをそのままゲームに転用など出来るわけがないから、結局“ストラトダンサー・オンライン”は、元の“惑星オデッセイ”のデータを元に、それを「読み解ける範囲」で形にしたものを使用したコピーに過ぎない。

「田島社長に言われたよ。それは子供が、自動車の現物を前にして絵を描いたようなものだって。当然その子供には自動車の構造なんて理解できてないし、その絵の中に見えない部分までが描き込まれているわけじゃない」

 しかしそういうものであるはずの両者が、何故か相互に関係し合うのである。
 ネットワークが隔離されているわけではないとは言え、相互にリンクするようにも作られていない筈の、別個のデータが。

「さっきの喩えを使うなら――僕らがその車の絵にドライバーを描き込んで、運転操作をしようとすると……目の前の車が動き出したようなものか。なるほど、あり得ない」

 トトの頭から汚れを払ってやりながら、クラインは言う。

「正直僕は、君たちの事を最初は馬鹿げていると思っていた。僕やトトという存在を知っていたわけでもなく、ただ奇妙なデータが存在すると言うだけで――よくもまあ、世界中の道楽者の中から、君やクロネコと言った人材を捜し出し、それなりのコストを掛けてまで“ここ”を探ってみるつもりになったものだと」
「褒め言葉だと受け取っておく」

 燕は苦笑して、先程放り出してしまった双眼鏡を拾い上げ、周囲を見渡す。遠くに響いていたジェットエンジンの爆音も今は聞こえない。この周囲のフィールドから、プレイヤーはいなくなったのだろう。
 ふと、その双眼鏡を“街”の方に向けてみる。

「……見てみろ、クライン。ここからだと判断は付かないが――街の様子がさっきと違う。もしかすると、連中にもあれは見えていたのかも知れない」
「僕やトトがこの有様なんだ。そう考えるのが自然だろう――トト?」

 ふと何かに気がついたクラインが、隣に立つ少女に目を向ける。
 彼女は何処か放心したように、空を見上げていた。
 当然である。物心着いてからずっと、ジャングルの奥地で暮らしてきたような彼女が、空を飛ぶ鋼鉄の機械に一体何を思うのか――

「××××――××――××××××――……」

 その唇が、何かを紡ぐ。燕には、その意味がわからない。トトの知る、この世界の言語。一応記録して言語体系が分析され、辞書ソフトが作られてはいるが――トトが字を知らなかったためにその作業は難航しているという。ましてや割合頭が良い彼女が、会話をするのに不自由なく英語を操れるから、そもそも仲間内では使われることも減っていたが。
 その言葉が唯一わかる“こちらの人間”――あるいは、その様な存在。
 クラインがその言葉に耳をそばだてる。ややあって、彼の表情が、動く。

「――クライン、トトは、何だって?」
「――“我らは神となり、決して届かない場所より全てを見下ろす。世界を隔てたその場所より。既知の――”いや、違う。“概念だったそれは影を得て、力となりて我らを守る剣となる。我らはあまねく全てに遍在する――ここは、楽園だ”――」

 彼は静かに――だがはっきりと、彼が聞き取った言葉を、燕に訳して聞かせる。

「……何だそれは? 何かの詩か? 神だの楽園だの――随分仰々しいが。何処ぞの賛美歌か、そうでなきゃ中学生の黒歴史ノートか?」

 わざとふざけたように、燕は言った。そうでもしないと耐えられなかった。今この状態でも、心臓が早鐘を打っているのがわかる。
 断言は出来ない――しかし、今の出来事を見て、“この世界の少女”は何かを知っているようだった。その事実に、胸が締め付けられるような、得体の知れない不安感を覚える。
 燕の様子はクラインも気がついただろうが、敢えて何も言わず、彼はトトに問う。

「トト、今の言葉はどういう意味だ?」
「わからない――昔、お母さんが言っていた言葉」

 彼女は弱々しく、首を横に振る。

「空を飛ぶのは、神様が作った影の剣――私たちは何をしていても、それに見張られている。でも同時に、守られてもいる――“アルガス・エディア”――それは、影より現れる、翼」

 やけに仰々しく、また堅苦しい口調である。恐らくそれは彼女自身の言葉ではなく、彼女に伝えられた伝聞なのだろう。そのニュアンスまでをも彼女が再現できたのか、あるいは直訳したが故の無機質さがそう思わせるのか・

「“アルガス・エディア”――戦闘機のことか?」
「状況を考えればその可能性は高い。しかし」

 クラインは首を横に振る。

「この世界にゲームの情報が影響を与えるのはもはやそう言うものだと割り切る事にしよう。しかしずいぶん前に死んだ筈の彼女の母親が、何故戦闘機の事を知っている?」
「それは――でもここは出所不明のデータなんだろう。その――」

 燕は言いよどんだ。しかし、クラインは構わない、と、言った。

「僕は君と出会ったときに覚悟を決めたと言ったはずだ。ここにいる僕は死者の魂ではない。例え己が何者であったとしても、それを受け止めるしかない」
「……その、トトの記憶だって、作られたものかも知れない」
「ふむ」

 彼は口元に手を当てる。その仕草はとても生々しい。そして――彼の言葉通りに、その表情に、絶望は感じられない。燕にはそれがありがたかった。何度も何度も、仮にも仲間と認めた相手に、“お前はもう死んで居るんだ”とは言いたくない。

「確かにそう考えれば、一番話は簡単だ。しかし――」

 クラインは暫く、何かを考えているようだった。ややあって彼は何かを決心したように顔を上げ、燕に向き直る。

「僕は敢えて今まで君には言わなかったのだが――一つ黙っていた事を、君に伝えよう。何、身構えることはない。角田やスターゲイザー社の幾人かには既に伝えた事ではあるからね」

 ただし、信じられるかどうかは別にしても、と。
 既に存在自体が常識外であるはずの男は、真顔でそう言った。

「“惑星オデッセイ”は、謎の誰かによってスターゲイザー社に持ち込まれたデータディスクである――それは、間違っている」
「……何だって?」
「そのディスクのデータは、あくまで“扉”に過ぎない。本当の“惑星オデッセイ”は、現実に――そうだな、今までの言い方に倣うのならば」

 ――現実世界と、表裏一体に存在する――

 クラインは、そう言った。



[37800] 第三部 第四話 発見
Name: スパイク◆55d120f5 ID:056a0cd1
Date: 2015/05/30 21:03
第四話「発見」

「君は“ヴォイニッチ手稿”を知っているか?」

 クラインの唐突な言葉――“惑星オデッセイ”が、現実世界と表裏に存在するという、現実感を持たない、突拍子もない言葉に半分固まっていた燕は顔を上げた。
 ここで今、先の言葉に対して疑問をぶつけるのは正解ではないのだろう。半ば言われるがままに、燕は彼の言葉を記憶に探してみる。奇妙な響きの言葉だ。だが、自分はどこかでそれを聞いたような気がする。

「……少し前に、そう、ここの事を知る前に、うちの仲間とゲームの進捗について話し合いをしたことがある。丁度あの無人機が現れて、“ラックス・アブレヒト”の死亡ニュースが流れた頃に――」

 仲間の一人がそんな単語を呟いていた気がする。あれは誰だっただろうか? そもそも、何の流れでそのような奇妙な単語が現れたのだろうか?

「中世に書き記されたとされる、未解読の言語で書かれ、奇妙な挿絵が描かれた古文書の事だ。その筋では割合有名な代物だから、検索でもすればすぐに出てくる」

 クラインが解答を述べる。
 曰くそれは、羊皮紙に記された不可思議な写本であるという。そこに書かれた言語は解読不明――しかし、言語学のセオリーに照らし合わせて、全く出鱈目の“文字を模したもの”ではなく、確かな規則性を持った言語であることだけは確証を得られているのだという。
 挿絵もまた奇妙なもので、かなり緻密に描かれた植物のスケッチや、銀河のように見えるものや、パイプで繋がった奇妙な浴槽のようなものに浸かる女性の姿など。しかしそのどれもが現実には存在しないものであり、それが何を意味するのかは、未だ持って解明されていない。
 そこまで聞いて、燕は思い出した。
 “ストラトダンサー・オンライン”に謎の脅迫状が送りつけられ、そして時を同じくして「プレイヤーの突然死」という事故が発生し――このゲームが、一種のオカルト的なものではないかと囁かれた事があった。その話に僅かに登場したのだが、その謎の古文書の名前である。
 燕は言った。

「まさか――その古文書が、“惑星オデッセイ”に関係があると?」
「いや、そういうわけではない――まあ、突飛すぎる話という意味では、その可能性も全く零ではないが。これはただの自分語りだ」

 何処か不安そうな表情で彼を見上げるトトの頭を、優しく撫でてやりながら、クラインは続ける。

「僕が考古学に手を出していた事は?」
「ああ、あんたの――“ラックス・アブレヒト”の情報は、それなりにスターゲイザー社の方から受け取っている」
「まあ、世間的には僕はただの道楽者だろう。ろくに働きもせず、家の資産を食いつぶしては、自分のやりたいことだけに没頭していた。そんな僕が道を踏み外すきっかけになったのが、その古文書だ」

 幼い頃のラックス少年は、そういう超常的なものが大好きな子供だった。たとえば未知の生物であるとか、古代の文明であるとか、あるいは幽霊であるとか未確認飛行物体だとか。
 サブカルチャーの中に於いて、今となっては昔ほどの魅力を失ってしまったジャンルである。パソコン一台あれば、素人にだって“驚愕の映像”が作れてしまう時代だ。写真に映り込んだ知らない顔に大騒ぎ出来るほど、情報化社会という時代は寛容ではない。

「そうであるのだが――僕にはどうにも、そういうロマンが捨てきれなかった。世の中は確かに、小説だとか映画だとかよりもずっとシビアでつまらないものかも知れない。けれど、本当にそこには、僕らが子供の頃に夢見ていたような欠片も無いのだろうか? 僕はそれを確かめてみたくなった」
「別にそれが悪いとは言わないんじゃないか。俺だってまさか自分がこんな所でこんな事をしているなんて、将来の夢としては欠片も思わなかったさ」
「だがカツラギ、僕は子供の頃に夢見ていた“将来の夢”をかなえたわけではない。たまたま自分の境遇が恵まれていたのを良いことに、現実を見ようとせず、馬鹿のように夢の続きを追い求めていただけさ」
「日本では死者のことを“仏”と言う。ホトケって言うのは釈迦のことだ。つまり死んだ人間はみんな悟りを開いて釈迦になるのさ。そこでは西洋人の言う最後の審判なんて些細なことだ。日本の有名な僧侶は、善人が天国に行けるのに何故悪人が行けないことがある、と、真顔で言ったことがあるそうだが」

 つまり死者を悪く言うような趣味はない、と、燕は首を横に振る。

「ましてやその仏さんの事を“よく知る”人間が目の前にいるなら――尚更だ。子供の頃の夢をずっと追い続けることが出来たなら、それはそれで幸せな人生じゃないか」
「ありがとう、カツラギ」

 クラインは苦笑して、続けた。

「ともかくラックス・アブレヒトは、たまたま資産家の息子だったから、そう言うことが自由に出来た。けれど、そんな幸運な僕であっても、何でも運良く手に入れてきたわけではない」

 つまり、発見できた物は少なかったと、彼は言った。
 世界の何処かには、自分を惹きつけてやまなかった未知の何かがあるはずだ。彼はそう信じて活動を続けたが――その様なことは当然、世の中の数多の学者が既にやっているのだ。ただひとり、知識的にも十分とは言えない彼が出来ることなどたかが知れている。

「親の資産を食いつぶして生きてきたくらいだから、僕は相当な楽天家なのだろうと思っている。けれどそんな楽天家の僕でも、年を取り、焦りを感じていた。僕はこのままずっと、世間に背を向けて、発見の見込みもなく、スコップで土を掘り返しながら朽ち果てていくのだろうかと」

 燕にその気持ちがわかるとは言わない。三十代など世の中ではまだまだ若い部類に入るだろうが――実りのないまま十年以上を過ごしてそんな年になれば、そう思っても仕方ないことだろう。

「丁度その頃に、僕は仮想空間体感型のゲームを始めるようになった。気分転換と言えばその程度で、実際趣味の領域を出るものではなかったが――しかしその実。それも一種の現実逃避だったのだろう。まさにその機械さえあれば、僕はいつでも、自分が夢見ていたようなロマンの世界に旅立てるのだから」
「ああうん……だがゲームってそう言うモンだろ。あれは人を楽しませる為にあるんであって、それを現実逃避と言っちゃ立つ瀬がない」
「いいんだ。今更それを気にしているわけではない――それに、僕が言いたい事は結局“それ”を抜きにしては語れない」
「?」

 クラインはそう言って、静かに、歩みを進める。トトが戸惑ったようにその背中を追い、彼は数歩歩いて立ち止まった。そこからは、数キロ先にある“街”が一望できる。

「ある時僕は、一つの遺跡を調査していた。考古学の学会に於いてはそこは遺跡だとは認められていない。時折、古い時代の――それも大した価値のない土器の欠片が出土するだけの場所だ」
「それは十分遺跡と呼べるんじゃないか?」
「ヨーロッパの文明活動はそれこそ数千年前から続いている。古代の遺物と言えば大層だが、僕らが使っているマグカップだって数千年後には遺物になっている。場所にも寄るが、そう珍しい物じゃない」

 ともかく、と。
 こちらを振り返らずに、彼は言った。

「僕はそこで――あるプレートを発見した。水晶のような材質の板に刻まれた不思議な図形だった。最初はそれが何なのかはわからなかったが」

 彼はそれを持ち帰り、何なのかを調べようとしたという。

「驚いた。その水晶のような板の材質は、現代で言うところのプラスチックに近く――しかし全く劣化した様子は見られなかったのだ」

 むろん、それがごく最近、何らかの偶然で、あるいは人為的に埋められたものではないのかという予測は、彼にも立てられた。

「そう――一度は落胆した。何故ならその板に刻まれた図形に、僕は見覚えがあったんだ。それは地図だった。この世界――“惑星オデッセイ”の地図。つまり、“ストラトダンサー・オンライン”のマップだよ」
「それじゃその板は、結局誰かの悪戯だった?」

 古い時代の地層から出土したとはいえ、ものはゲームのマップが刻まれた板である。誰がこんな手の込んだ事をしたのかはわからないが、それでもそれがフェイクであることは明らかだった。
 だが燕の言葉にクラインは何も言わず、言葉を続ける。

「僕は一度は落胆したが、何となくその板が見つかったあたりの調査を継続した。すると今度は、木の板や陶器に刻まれたいくつかのテキストを発見した」

 これもまた何かの悪戯か――その可能性を捨てきれなかったラックスは、それを知り合がいる大学の研究室に持ち込み、それらのテキストが作られた年代の測定を依頼した。

「その結果、それらの板や陶器が作られた年代は、少なくとも数千年から一万年以上は前だという。だとしたら、その木片や陶器に関しては、少なくとも過去の遺物と言うことだ」

 全く未知の文字が書かれたテキスト――まさしく、形態は違っていても、彼をこの道に誘う事になったヴォイニッチ手稿と同じ物である。ラックスの心は沸き立った。

「だが最初に見つかったプレートが問題だった。あれはどう考えてもつい最近作られたもので、何のためにそうしたのかは知らないが人為的にあそこに置かれていたモノだ。そんなものの近くで古代の木片や陶器が見つかったら、どう思う?」
「まあ……胡散臭くは思うよなあ」
「そうだ。たとえそれらの木片や陶器が、古い時代に作られた本物だったとしても、そこに文字が刻まれたのは最近かも知れない。そこまでの事を証明する技術が、現代にはない」

 限りなく胡散臭い代物と言うことになる。
 しかしラックスは、敢えてそれを偽物とは断じなかった。

「ただのいたずらにしてはあまりに手が込んでいた。僕が掘り出さなければ、それは永久にその場所に埋まっていただろう。そうすることに何の意味が? あるいはそれを自分で彫り出して何かをするつもりだったのか? 馬鹿げている。一見してゲームの二次創作物であるとわかるものを使って、一体何をすると言うんだ」
「まあ確かに……考古学上の発見を捏造するなら、そんな馬鹿な事はしないよな」
「だから僕は、とりあえずマップが刻まれたプレートは捨て置いて、その“テキスト”だけは本物だと信じてみることにした」

 幸いと、彼には時間と金銭的余裕があった。それが全くの徒労に終わったとしても、失う物は少ない。いや、誰かがこれを作ったのだという人間が居るのなら、その人物に会ってみたい。そんな風にさえ考えていた。

「けれどそのテキストを解読することは出来なかった。テキストの文章を統計的に考察して、恐らく何らかの文章なのだろうと言う事は理解できたが、とっかかりが何もない。まさにそれはヴォイニッチ手稿と同じだったのだ」

 燕はその様な知識は何もない。文字列らしき物を調べて、それが出鱈目な記号の羅列なのか、確かな文字列なのか――解読も出来ないのにどうしてそれがわかるのか、理解に苦しむ。しかしそう言った研究は確かに存在して、確かな成果を上げているのだから、それを疑っても仕方がない。

「僕は悩んだ。このテキストを大々的に公開して、世界の学者に読み解いてもらう事を期待するべきなのだろうか? あるいはそうすれば、僕はこのテキストの発見者として、道楽でしかなかった考古学の歴史に名を刻む事が出来る」

 しかし、当のそれは“良くできたフェイク”と同じ場所で見つかったのである。

「どれだけ良くできていようが、所詮それだって同じフェイクではないのか。それを考えると、テキストを公表することは憚られた」

 その懸念は当然である。ただの道楽者から大法螺吹きになってしまったとなれば――いくら何でも、今までと同じようには暮らせないだろう。彼にその意図があろうが無かろうが、世間はそう言う目線を向けるに違いない。

「僕は悩みすぎて、精神を病んでしまった。今ならあの時は、そう言う状態だったのだろうと思う。そんな極限状態の中で、僕はある馬鹿げたことを思いついた――思いついてしまったんだ」

 こちらに背を向けたままのクラインの表情を見ることは出来ない。しかし、燕は彼に言葉を掛けられなかった。

「もしかすると――“ストラトダンサー・オンライン”と言うゲームは、ここで発見された“これ”こそをモデルにして作られたのではないか――? 僕はそう、思ってしまったんだ」




「もちろん、その予想は間違っていた。だが、全くの的はずれであったと言うわけではない」

 スターゲイザー・エインターテイメント社長室――またの名を“惑星オデッセイ探検隊ブリーフィングルーム”。応接ソファに腰掛けて、ここの本来の主である男、田島はそう言った。

「君たちの活動に差し障りが出るおそれがあったから、詳細までは伏せていたが……去年の夏の終わり、丁度君たちが“彼ら”に出会った頃に、我々は視察の名目でドイツに飛んだ」
「あ、それ、吉野さんから聞きました」

 その言葉に、由香が手を挙げる。

「表向きは取材とか、ヨーロッパのマーケティングがどうとか……でも本当は、“ラックス・アブレヒト”の事を確かめに行くためだって」
「そう。クラインの言葉が、たとえば現実のアブレヒト氏本人しか知らないような事と一致しているのであれば、少なくとも彼の存在は悪戯だとかハッキングだとか、そういう単純に片付けていいようなものではない」

 その為の調査だったと、彼は言う。
 ――既に窓の外には夜のとばりが降りている。眠らない街はいまだ煌々とした灯りに照らされてはいるが、就業時間もとうに終えたこの時刻。そんな時間になって、“惑星オデッセイ”から戻ってきた燕を含め、主立った“探検隊”のメンバーは、この部屋に集まっていた。今彼らの目の前にある状況は「続きはまた明日」で済ませていいようなものではない。
 回線を通じてクラインのミーティング参加も考えられたが、それは彼の方から断られた。自分一人ならともかく、この状況でトトを蚊帳の外には置けないという。むろん、誰もそれに対して反論はしなかった。

「結論から言えば、クラインの言うことは正しかった。つまり最低限、クラインというアバターは、アブレヒト氏本人と無関係ではないと言うことが証明できる。その程度には」
「今更それを疑ってもしょうがないでしょうけど」

 燕が首を横に振り、言う。

「彼の言葉が的はずれでないというのは?」
「“ストラトダンサー・オンライン”は、彼が発見した謎のプレートを元に作られたというわけではない。しかし――出所のわからないデータを下書きにしているという点に於いては、結局は同じ事だ」

 “ストラトダンサー・オンライン”の下地になっている“惑星オデッセイ”のデータは、謎の人物によってこのスターゲイザー社に持ち込まれた。その経緯も、そのデータが何処でどうやって作られたのかもわからないのである。

「極論を言えば、アブレヒト氏が発見した遺物が、実は正真正銘の本物であり、“惑星オデッセイ”のデータは、それを元に作られている――そう言う推論だって出来てしまう」
「そ、それは――でもそれって何でしたっけ、“悪魔の証明”とか、そう言う奴じゃ?」

 由香の言葉に、田島は苦笑して――恐らくその表情は、彼女を安心させるためなのだろうが――頷いた。

「だが、我々がやっていること自体が既に常識はずれだ。“あり得ない”と思われても、“完全に否定する理由がない”以上、我々は単純にそれを否定することは出来ない。文字通りの悪魔の証明になるが、“惑星オデッセイ探検隊”というのはそう言うものだ――水戸君も、それはわかっているのでは?」
「い、いやっ……その」
「未知の世界を前にしては、中卒になるくらい何でもないとか抜かしたお前には反論は出来んわな」
「あれは――大体それを言うならカツラギくんだってあの後」
「ともかくアブレヒト氏は自分の発見と常識の迫間で苦悩し――そして馬鹿げた結論にたどり着いた」

 燕が冗談交じりに言い、その言葉に由香が噛みつき――そんな彼らに、田島は幾分空気が和らぐのを感じたのだろう、再び口を開く。

「アブレヒト氏が“事故死”する前の奇妙な行動――廃人と呼べるほどにゲームに没頭し、しかしゲームのクリアを目指していたのではなく、フリーフライトモードでマップをひたすら飛び回っていた――クラインからも聞き及んではいるが、その行動は即ち、マップの何処かに自分の発見に結びつく何かが無いか、それを探していたのだと」
「でも結局、“ストラトダンサー・オンライン”のデータに関しては、元の出所がどうあれうちがデザインしたただのゲームデータだから、そこに何があるわけじゃない。そもそも何をもってして、“関連がある”なんて決めつけられるのか」

 パイプ椅子に前後逆に腰掛け、背もたれに組んだ腕に顎を載せて、吉野が言った。緊張感のない格好であるのはいつものことであるが。

「その辺りのことは、ノイローゼになってたっていう当時の“ラックスさん”ならともかく、今のクラインにはわかってるでしょうけど――その上で“惑星オデッセイ”が、現実世界と表裏に存在するって言うのはどういう事?」
「“ストラトダンサー・オンライン”と“惑星オデッセイ”――二つの独立したデータのような関係を想像して欲しいと、私は彼にそう言われた」

 コーヒーカップを片手に、立ったまま話を聞いていた角田が、彼女の問いに答える。

「その二つはただ相互に存在している。ものがデータだからというのもあるが、“それは何処に存在するのか”などという問いかけはナンセンスだ。データというのは我々の目に見える更に高次の存在だと捉えることも出来るが、明確な何かとして目の前にあるわけではない」
「ごめんなさい角田さん――高校入り立ての子供にもわかるように説明して貰えませんか」
「理解は出来るのですが、私もわかりやすい概念的な物として説明できるわけではないのですがね」

 恐る恐る手を挙げた由香に、角田は苦笑して首を横に振る。

「ごく乱暴に言えば――我々が生きているこの現実の地球。少なくともこの地球という世界は確かに存在している。そして――どういう方法で、どういう形態でなのかは皆目見当も付かないが、“惑星オデッセイ”もまた、実際に存在していると言うことです」
「……うん? ……うん? え、いやちょっと待って角田さん。確かに、それは、そうだと思いますよ? でも――」

 由香は首を傾げる。
 そもそも“惑星オデッセイが存在しない”というのならば、この探検隊の存在意義もまた存在しないのである。それがただの作られたデジタルデータなのか、それ以上のものなのかはともかくとして、「惑星オデッセイが存在する」からこそ、自分たちはここにいるはずだった。

「ちょっとゴチャゴチャになってきた。そもそも何で、クラインさんはそんなことを今更――?」
「“アルガス・エディア”――恐らくあの世界で戦闘機の事を指すんだろう単語」

 燕が小さく呟く。

「あの空中戦を目の当たりにしたトトから引き出された言葉――おそらく、それを聞いたから、クラインはある種の確信を得たんだろう。クロネコ」
「な、何?」
「“惑星オデッセイ”は、単なるバーチャルワールドじゃない。この世と表裏とか、スターゲイザー社に持ち込まれたデータが単なる扉だとか――そう言うことは俺にもよくわからないけど」

 そこで彼は、田島に目配せした。名目上、彼らを統率する立場であるその男は何も言わない。それは果たして、燕の言いたいことが正しいと言うことなのだろう。

「“惑星オデッセイ”は、確かに存在するんだ。かつての“ラックス・アブレヒト”には解答にたどり着く術は無かったが――今ならそう言える。つまりスターゲイザー社のデータは、“惑星オデッセイ”そのものじゃなく、“惑星オデッセイ”にアクセスするためのキー――そういうことだ」




 燕が住居としている東京郊外のコーポに帰り着いたのは、既に日付が変わる頃になってからだった。終電の時間を過ぎているというので貸し出して貰った営業車をカーポートに入れ、由香と車を降りる。

「こういうときは自家用車があると便利だね。カツラギくんお金貯めて買う?」
「そうだなあ、ここ東京じゃ珍しく駐車場一台分付いてるし。でもまだ俺二十歳だから保険も高いしなあ」
「保険料くらいだったらあたしが出すよ? あたし名目上はバイトだけど、“探検隊”のお給料、学費に充てる分引いてもそこらのコンビニでバイトするよりずっと良いし」
「検討はするが、お前金があるからって無駄遣いすんなよ? まあ、お前はそういう性格じゃないのは何となくわかってるけど」
「わかってるよ。結婚資金とか色々入り用になるんだしさ」

 これは何も言い返さない方が良い流れだろうか――燕は車の鍵を閉めて建物を振り返る。その二階部分、自分たちの部屋には、まだ灯りが灯っていた。果たして玄関を開けて灯りを付けると、すぐに上階から足音が聞こえてくる。

「兄さんお帰り――遅かったね?」
「ちょっとな――クロネコが連絡入れてた筈だけど」
「それでもこんなに遅くなるとは思わなかったから……夜食に軽い物作ったんだけど食べる? あ、上着預かるね」
「悪いな。一応外で軽く食って来たんだけど折角だから――クロネコ、お前どうする?」
「相変わらずナチュラルに仲むつまじい事でこの兄妹は」

 靴を脱ぎながらじっとりとこちらを睨む由香に、燕は引きつった笑みを浮かべる。自分の妹はと言えば、わざとらしく視線を逸らしていた。同じ血を分けた兄妹であるというのに、恐らく彼女の胆力というものは、自分の数段上を行くのだろうと思っている。

「ま、まあほら……あれだ。湊だって、俺たちのことを心配してくれてたんだろうし」
「カツラギくんにはね。さっきのあたし、完全にアウトオブ眼中だった気がするけど――今の君らと来たら、まるで新婚の夫婦みたいだったよ?」
「え? そんな風に見えた? いやだ、照れちゃうわ」
「……ミナちゃんてばここしばらく、ホントにあたしの神経逆撫でするのが上手くなったよね!? てか何なの!? ミナちゃんはあれ? 本気で禁断の兄妹ルートとか狙ってんの!?」
「私はそんなつもりはないわよ? 兄妹仲が良いに越したことは無いじゃない……ねえ、兄さん?」
「そこで俺にキラーパスとかやめてくれんか」

 口と鼻から湯気を出しそうな勢いの由香に小さく笑みを浮かべ――湊は言った。

「今日ユウちゃんが急にフィールドに割り込んできたあれ――何かあったんでしょ?」

 う、と、由香の動きが止まる。

「あの――ミナちゃん?」
「大丈夫、撃墜される前にエリア離脱したから――うちのフレンドにも、さりげなくそういう風に言っといた。あのRF-3普通じゃないから、体勢立て直して出直した方が良いって」
「……あれが純粋に“ストラトダンサー・オンライン”のフィールド上なら、海賊機だけを狙えたんだろうけど――あの場所じゃ、兵装のデータもそれなりの補正受けるみたいで。現実の“あれ”――まだ開発中の代物みたいだし」
「だから別にその事は良いよ。それに私があのゲームに手を出してるのは、ユウちゃんと兄さんがやってることに対して理解を深めるためだもの。多少自分が楽しんじゃってるきらいはあるにせよ、私が“ストラトダンサー・オンライン”をプレイするのには、それ以上の意味はないから」

 そう言って湊は、燕から受け取った上着を壁のハンガーに掛けながら振り返る。

「ああ――別に話してくれって言うつもりはないよ。部外者の私に、軽々と話せるような事でも無いんでしょう?」

 その言葉に、燕と由香は顔を見合わせる。
 確かに二人の立ち位置が、ゲームの運営――“スターゲイザー・エインターテイメント”の一員である以上、一定の守秘義務というものはある。けれど“惑星オデッセイ”の事については、実際それは曖昧だ。方々に吹聴したところで信じられるようなものではなし――第一、湊は兄と親友が“惑星オデッセイ探検隊”であることを既に知っているのだから。

「私は間違っても、兄さんやユウちゃんを困らせるつもりはない。こうやって馬鹿な事を言い合って――それが少しでも二人の助けになれるなら、それで十分」
「お前……」
「悲観的になるつもりも自分を卑下してるつもりも無いってば。私には二人みたいな特技は無いんだから、当たり前だよ。その上で二人を手伝いたいって言うのは、私の我が儘」

 そう言って肩をすくめる湊の仕草は――兄である燕に似通っていたが、どこか自分よりも強かさを感じると、燕はそう思った。

「……確かにミナちゃんがいてくれるのは凄く心強いけど――なんつーか、もうちょっと遠慮してくれても良いんじゃないかってさ……」
「いひひ、私ってまだまだお兄ちゃん大好きなコドモだからねー。いくらユウちゃんでも、そう易々と思うようにはさせてやんないよ?」
「そう言うこと自分で言う?」

 ちょいちょい、と、そんな擬音が付きそうな仕草で、ふと湊が由香を招く。怪訝な顔をしながらも近づいた彼女の耳元に、湊は何事かを呟き――

「――ッ!? み、ミナ、ミナちゃん!?」
「? おいクロネコどうした? 顔が真っ赤だぞ? 湊、お前コイツに何を言った?」
「ん? それはね――」
「言わないで良い! 言わないで良いからっ!! ミナちゃん、ちょっと!!」
「あはは――それじゃ私夜食の用意するから、暇してるなら手伝ってよ」

 わざとらしく頭を庇いながら湊が台所に逃げ込み、由香が真っ赤な顔のままそれを追い――果たして、その場には燕一人が残された。ややあって、彼は小さく呟く。

「……何なんだ一体?」

 少なくとも今、彼の疑問に応えられる者は、この場には居ない。




「え!? それじゃ、あの時あのフィールドに、兄さんがいたの!?」

 それから暫く――シャワーを浴びて、濡れた髪をタオルで拭きつつ、湊が作ってくれたおにぎりを摘みながら、燕は頷いた。

「大丈夫だったの!? あんな――墜落する機体に巻き込まれたりしたら!」
「だからクロネコと角田さんが大急ぎで空域をクリアにしたんだよ。でなきゃあんな後々揉めそうなやり方出来るもんか。あいつが学校帰りだったから――間に合って良かったぜ」

 とはいえ、と、彼は首を横に振る。

「アバター“カツラギ”に関してはどういう事はないだろう。ログインやログアウト、マップ上の移動なんていう事が出来る時点で、“カツラギ”は記号でしかない。現実の俺には関係ないさ」
「でも――」
「“クライン”の事を言ってるなら、とりあえずは安心してくれ。それに関しちゃ根拠はないが――ある程度確かな仮説がある。まあ、その仮説自体が突拍子もないものではあるが」
「それって全然安心できないよ」

 湊は納得できないような表情をしていたが、それ以上は何も言わなかった。それ以上食い下がるならば、自分が応援すると言った“探検隊”の進退にも関わる――それを察したのかも知れない。
 だからと言って、みすみす兄を危険な目に遭わせたくはないのである。仲間内から他人の機微に疎いと言われる燕でも、それくらいのことはわかる。

「……それが“ミラージュタウン”……」
「ああ――一部のプレイヤーの間で話題になってる街のような物――恐らく間違いないだろうな。正確なデータは今システム管理の方で調べてるし、俺らみたいなのが実際に“マッピング”しないとそこを直接覗くことも出来ないから、結局は“探検隊”の行動が必要になってくるんだけど」
「でも、私たちには見えなかったよ?」
「あの時のお前らの敵対勢力や海賊連中に見えてたのかはわからんが――恐らく一般プレイヤーには見えてないんだろう」

 一般プレイヤーは、完全に“ストラトダンサー・オンライン”の側に立っている。“超大陸ユグドラシル”をどれだけ究めたところで、そこにあるのはあらかじめ用意されたゲーム上のプログラムだけである。
 だがそれが、特定のプレイヤーになると変わってくる。何がそうさせているのかはまだわからないが、彼らには“惑星オデッセイ”が、実際に見えてくるのだ。

「その条件もまだよくわかってない。エースや海賊はそれに当てはまる事が多いみたいだけど……確実にそうなのかというと、検証が要る」
「……この際その条件はどうでもいいとして……その街には?」
「人間が居る。それは間違いない」

 湊の喉が鳴ったのがわかった。当然である。はじめは馬鹿らしい物思いに耽っていた自分ではあるが、クラインに言われるまでもなく――到底信じられる話ではない。だからあれは、ある種の現実逃避だったのかも知れないと思う。
 シャワーの音が聞こえる風呂場を意識から切り離して、燕は言った。

「明日――もう今日か――は休日の予定だったけど、すまん、返上だ。朝からクラインと、本格的に街の調査を始める。どのみち接触することにはなるんだろうが、クラインとトトは俺たちと違って“記号”じゃない。安全は確保する必要がある」

 だから逆に、心配はしなくて良いと彼は言う。起こりうる不測の事態――なるべくそれを起こさないように行動する。自分たちにとってはバーチャルの世界だからといって、無理はしない。いや、出来ない。

「わかった――でも、気をつけてね?」
「俺の性格は知ってるだろ? 俺はそれが正しいと確証が持てなけりゃ、石橋を叩いても渡らない男だ。単純につまらない男と言えるかも知れんがな?」
「少なくとも私は、夢ばっかり語るよりは現実が見えてる男の人が好き」
「大いに結構。クロネコに聞いたけど、お前結構ナンパとかされるんだってな。気をつけろよ?」
「だから大丈夫だよ。そこらの男になんて、興味はないから」

 なんだか背中がぞくりとした気がした。目の前の少女は自分の妹で――だから彼女が生まれたときから一緒にいる。なのにそんな彼女が、自分の知らない大きな謎を抱えた存在――つまりは“女性”という、男には一生かかっても理解できない相手に見えてしまう。

「? どうかしたの?」
「いや別に……」
「兄さんの性格は慎重と言うよりはあれじゃないかな……今までの事を考えたら、少しくらいは思うように行動してみても良いと思うけど?」
「いや、この現状を見てみろよお前――十分好き放題やってるぞ?」

 そうかもね、と言って、湊は舌を出してみせる。
 その表情に燕は小さく苦笑して――ここからが本番だと、言った。

「探検隊の仕事は地図を作る事じゃない。そこにある何かを、確かめることだ」

 そう、今までの“惑星オデッセイ”の踏破が無駄だったわけではない。しかし獣道をどれだけ探ったところで、新しい発見があるわけではなかった。そして新しい発見とは、今目の前にある。
 それが酷くつまらない物なのか、あるいは仰天するべきものなのか――それはわからない。けれど、今目の前にあるのは、解き明かすべきものなのだ。

「……兄さん、変わったね」
「半年前にわかってたことだろ? ま、俺自身“探検隊”なんてキャラじゃないのはわかってるけどな」
「私、どこまでもついていくよ。どこまでも、兄さんを助けるから」

 まっすぐにこちらを見る双眸が、燕を射抜く。
 見慣れた筈のその顔に――彼は、声を出すのを忘れてしまった。

「……兄さん?」
「え? あ、いやなんでも……そろそろ寝るか。起きられなくなる」
「一緒に寝ていい?」
「またクロネコと喧嘩したいのか?」
「私は別に気にしないんだけどなあ。別段今は……」
「何だって?」
「何でもないよ」
「大体もうそんな年でもないだろう。まあ、一歩外から、俺たちが何をやってるかも良く分からない状態で、不安になるのはわかるし、負担掛けてるのも自覚してるが」
「だーかーらー、何でそういう風になるかな。私は兄さんの助けになりたいんだから、それを負担なんて言うと思う?」

 人差し指を一本立て――湊は、燕の鼻先に押し当てる。

「私が不安だから兄さんと一緒に寝たいんじゃなく――兄さんの支えでありたいから、一緒に寝て欲しいの」
「? 何が違うんだ? ああ――ちょっと待て。俺は誰かに添い寝してもらわなきゃ眠れないような歳の頃は、さすがに卒業してるんだが?」
「ふーん。それじゃ私がこっち来たとき、どうして兄さんはユウちゃんと一緒に寝てたのかな?」
「……えっ?」
「つまりはそういうこと。私はね――むきゅ」
「はい、そこまで。ちょっとお口にチャックしておこうかミナちゃんは」

 何かを言おうとして――彼女のその口が、燕の背後から伸びてきた手によって塞がれる。果たして振り返れば、風呂場から出てきたばかりの由香が――

「っておいお前床びっちゃびちゃ!!」
「全くもう油断も隙もありゃしない――カツラギくん、いい加減これ以上はまずいと思うんだよね?」
「まずいのはお前の格好だよ! とりあえず体拭けよ! んで何か着ろよ!」
「今回は有耶無耶にされないよ。そう思ってバスタオル巻いてきたんじゃん」
「それは何か着てるとは言わねえよ!」
「ぷはっ……随分早かったのねユウちゃん。もうちょっとゆっくりしてても良かったのに」
「中々そうも言っていられない心配事があってね。具体的には目の前に」
「今日のことがあって、私が兄さんの心配をするのは何かおかしなことかしら?」
「ああもう……湊もクロネコも何が気に入らないんだよ……お前らが本気で喧嘩しようってんじゃないのは何となくわかるが、何をそんなにピリピリと。俺がクロネコと“探検隊”やってて、それで今の状況が普通じゃないのはそりゃまあ、何となくわかるし――お前らのことだって」
「カツラギくん」
「兄さん」
「「ちょっとうるさい。黙ってて」」
「……はい」

 繰り返しになるが――例え今こうして、いわれもなく一人蚊帳の外に置かれたとて。
 彼がその理由を問いただせる相手というのは、今この場には誰一人として居ないのである。



[37800] 第三部 第五話 ファースト・コンタクト
Name: スパイク◆55d120f5 ID:952cae7c
Date: 2015/08/30 14:56
第五話「ファースト・コンタクト」

「――クライン?」

 “自分”を呼ぶ小さな声に、テントの外に出て空を仰いでた金髪の青年は、後ろを振り返る。見ればテントの入口から顔だけ出して、褐色の肌を持つ少女が、その黒い瞳で彼のことを見つめていた。

「眠れないのか?」

 咄嗟に口をついて出たその言葉は、彼の母国語だったのか、あるいは“仲間達”と話すための言葉だったのか。彼自身にさえ、すぐにはわからなかった。言葉という物は不思議な物で、単なる音とは明確に異なる。ただの音の羅列である筈なのに、その特定の音の羅列は、音を感じ取るのとは違う脳の部位が捉えているのだという。
 果たして今の自分にそんなものがあるものなのか――当然、青年はそんな事は口に出さないが。

「さっきまでは寝てた。でも」
「まあ、今日はあれだけの事があったんだ。知らず気持ちが高ぶっていても不思議ではないさ」

 青年――クラインは、そう言って空を仰ぐ。
 澄んだ空気を通して見上げる空には、綺麗な満月が掛かっている。少なくとも、それは地球から見上げる“それ”と同じように見える。
 月という地球の衛星が誕生した経緯については諸説あるが、一節には太古の地球に巨大な小惑星が衝突し、その衝撃ではじけ飛んだ欠片が月を形作ったのだとも言われている。ならば、こうして見上げるあの“月”にも、同じような物語があるというのだろうか?

「……カツラギと、クロネコの世界のこと、考えていたの?」
「――!」

 少女の一言にクラインは動揺した。
 彼女が自分の心中を見透かしたような言葉を発したことに――そして、今更ながらに、彼女がこの世界のことと、自分たちの仲間である“カツラギ”と“クロネコ”――彼らの住む、“現実の地球”に対して、かなりの確度での理解を持っていることに。

「トト――君は本当に賢い。僕らの世界に君が生まれていたら、きっと僕は君のことを羨望の眼差しで見ることしか出来なかっただろう。生まれながらにして才能豊かな者を普通に見ることが、年を取ると難しく感じる」
「……? よく、わからない」
「わからなくていい。今のは失言だ、忘れてくれ」

 トトは首を傾げながらテントから這いだしてくると、クラインの隣に立つ。そしてじっと、彼の顔を見上げる。
 ふと、クラインはあることに気がついた。

「トト、また背が伸びたんじゃないか?」
「うん、多分、そう。前はクロネコとあんまり変わらなかった。でも、今は私の方がこれくらい背が高い」

 そう言って、彼女は親指と人差し指で、数センチの空間を作ってみせる。彼女の言う比較対象は単なるアバター、一種の記号であるのだから、それが自然に縮む事はない。即ちそれだけ、彼女が成長したということになる。
 彼女の見た目は大体十代前半の少女のように見えるから、現実に当てはめれば成長期まっただ中である。本人が自分の年齢もわからず、ここに暮らす人間の実情など知るよしもない現状では、それも単なる推測に過ぎないが。

「クロネコも自分の世界では、私と同じように大きくなる?」
「現実の彼女は、君よりも少しお姉さんらしい。もっとも体が小さいことを気にしているようだから、あまりそう言うことは言わない方が良いが」
「……」
「……トト?」
「あのね、クライン」

 ふと、彼女は言った。

「わたし、クロネコの事大好きだよ? 言葉はまだよく、わからないけど。でも、あの子と一緒にいると――今までずっと、それが何なのかわからないまま、私にまとわりついていた何かが、すうっと、離れていく感じ」
「それはきっと、寂しいという感情なんだろう。君は母親と死に別れて、僕と出会うまでずっと一人だったから、その感情の正体に気がつかなかっただけで」
「カツラギも、そう。優しいし、一緒にいると、何だか安心する感じがする」
「彼自身に自覚は無いだろうが――彼は年の割に包容力があるというか。自身に良く懐いてくれている妹が居ると言うが――あるいはクロネコも、彼のそう言うところに惹かれたのかも知れないな」

 否定するだろうが、と言って、クラインは苦笑する。別に彼を女たらしと言っているわけではないのだが、と、誰に言うでもなく言い訳して。

「――でも、カツラギもクロネコも――本当の“カツラギ”と、“クロネコ”じゃあ、ないんだよね?」
「……」

 そう、彼女はそれを理解できているのだ。普段は考えることが無くても――今日のような、自分の理解の外にあるような事があると、どうしても思ってしまうのだろう。
 現に彼らは、夜になれば何処へともなく消えてしまう。“世界”の“外”へ、帰ってしまう。
 自分の目に見える、自分に感じられる彼らは、結局作り物の記号でしかない。そしてもしかしたら、向こうにとっても――
 クラインには、トトの内心を推しはかる事が出来る。しかし――それは想像の域を出ない。彼女の小さな胸の内に、どのような感情が渦巻いているのか。本当のところは、彼女自身にしか、わからない。

「そうだな――こうして彼らと出会えたことは、奇跡に等しいのだろう」
「クラインは」
「ん?」

 そこで、彼女は言葉を切った。
 何かを言いたい――けれど、言い出せない。彼女の表情はそう言っている。“クライン”が仮想空間体感型のゲームをしていた頃とは違う――コンピュータ・グラフィックスが見せる“キャラクターの顔”ではない。生身の、少女の顔が、そこにはあった。

「――僕はきっと彼らとは違う。だがこうして“ここ”に居る以上、君とも、そしてあそこに見える街の人たちとも違うのだろう」
「――」
「大丈夫さ」

 クラインは言った。

「僕は時間がある。この体は、ここの世界に都合の良いように作られたものかも知れない。けれどならば、文字通りに都合が良い。僕は君を見守ってやれる。君が、その不安を感じなくなるその時まで、きっと」
「違う――そうじゃない! クライン、わたしは」
「今はまだ、その程度しか言ってやれない。けれど――この旅が終わる頃には。きっと君にも、その気持ちの落としどころが――もとい」

 彼はトトに言葉を継がせず、首を横に振る。

「君自身がこれからどうするべきなのか――そう言うことが、見えてくるはずさ」




「旅の人間だというのはその格好を見ればわかるが――何処から何をしに来た?」
「南の方から、北を目指して旅をしている。出来ればこの街で宿を取りたいのだが」
「本当か? ここは“カルファティス”でも一番“外”にある街だぞ? ここより“外”に人がいるなんて、聞いたことがない」
「だが現実に、私たちはその“外”から来たわけだが」
「い、いや、別にそれ自体を疑っても仕方がないんだが――」

 そこは白い壁の家が建ち並ぶ街角だった。
 街は堅牢な煉瓦で外界と仕切られ、中心部に向かうに従って、小高い丘のようになっている。ここが何処までも広がる森林地帯のただ中でなければ、ヨーロッパの片田舎か、あるいは海岸部の町並みに見えなくもない。
 街路や建物はきちんと整地され、ぱっと見た限りでは汚れても居ないし、悪臭もしない。所々に水路が見えるが、もしかすると下水までもが整備されているのかも知れない。
 そのような町中には人々が行き交う。質素だがちゃんとした衣服を身に纏い、ある者は露天のような物を広げ、ある者は白壁の街角で談笑に興じる。
 そう、その街には確かに人が居た。
 だからそこは、間違いなく“街”だった。
 そしてその一角で――困惑したようなその住民と会話をする、明らかに異質な出で立ちの一行。
 迷彩柄の上下に、ポケットがいくつも付いたベストを羽織り背中にはリュックサック――まさに“探検隊”としか言いようがない格好の“惑星オデッセイ探検隊”であった。




「よし、それじゃこれからテストしてみる。トト――“君の言葉”で、何かを喋ってみてくれ」
『×××××――××××』
『――ええと、今日は、いい、天気、ですね』

 僅かに間をおいて聞こえた合成音に、燕は苦笑した。こういうときに出てくる言葉は、万国共通――そう言うのも何かおかしいのだろうが――なのだろうか。

「今日は良い天気――大丈夫だ、良く聞こえる」
『×××――×××××××――××××』

 そして燕が口を開くと、また少し遅れて、彼自身には理解できない言葉が耳に響く。それを聞いたトトは、小さく頷くと、大きく両手で丸印を作って見せた。

「Today is fine――All right, I’m hear」
「よし、意味も通じてるな。翻訳ソフトなんてフリー素材の適当な奴しか使ったこと無かったからどうなるかと思っていたが」

 トトが“自分が聞こえた言葉”を訳してくれたのを聞いて、燕は“それ”がちゃんと機能していることを理解する。つまりは、この数ヶ月、クラインとトトの協力で作られた、“惑星オデッセイ現地語”の翻訳ソフトである。
 プログラマー曰く、まだ完全なものではないらしいが、それでもお互いが意思疎通を図るには十分だろう。

「翻訳ソフトってそんなに酷いの?」
「物によるがな。適当に“再翻訳”で検索してみろよ。俺初めてその手の奴を見たときなんて、腹筋が攣るかと思ったぜ」
「あたし結構学校の宿題で使ったりしてたんだけど……」
「あるいはそういう怠慢な学生への対策にはなってるかも知れんがな?」

 その言葉に頬を膨らませるクロネコを見て満足し、燕はトトの側に立っていたクラインの方を見る。彼は小さく頷いた。

「口の動きと言葉にどうしてもズレが出るから、口元を隠した方が良いだろう。いざとなれば僕とトトが誤魔化すとして」
「けどこの探検隊ルックで顔を隠すのは大丈夫なのか? どう考えても、“ここ”の習俗に合致するとは思えないが」
「現実の地球でも同じ事だ。僕らは“旅人”なのだから、それを隠す理由はない。外から来る人間が不自然に見えるのは、ある意味自然な事だから、それ以上の疑問を抱かせないには、あるいはその方が良い」
「そもそも、トトの言葉はここの人間に通じるのか?」
「その可能性は高いと思っている。何故なら、僕らが旅を初めて最初の集落が“ここ”だ。トトと彼女の母親が何処から来たのかはわからないが、歩ける範囲の場所か歩いてきた事には変わりないだろう。敢えて言葉の通じない更に遠距離から――と言うのも、状況から考えると」

 果たしてクライン――“ラックス・アブレヒト”に、そう言った言語習俗に関する知識までがあるのかはわからない。だが、未知の言語に憧れて“道を踏み外した”と自重するくらいなのだから、あるいはそう言うことも勉強しているのかも知れない。

「まあ、実際出たとこ勝負なのは間違いない。僕らがここでどれだけ議論を重ねたところで、あの街の有り様が変わってくれるわけではないからな」
「あー……今になって緊張してきた」
「カツラギくん、そう言うときは手のひらに“人”って書いてさ」
「試験に行く受験生じゃないんだぞ――あとそれって舐めるのは自分の手のひらな」
「ふむ、面白いな、それは日本のまじないか?」
「トト、そうじゃない、クラインの手じゃなくて、自分の手のひらを舐めるんだ――ほらお前、間違えて覚えてしまっただろ!?」




 そうして、緊張と共に第一歩を踏み出したのが一時間ほど前である。
 結論から言えば――彼らのファースト・コンタクトは、拍子抜けするほどにあっさりとしたものだった。
 堅牢な煉瓦の城壁は、見た目こそ仰々しい物だったが、果たして街の入口である門は開け放たれて見張りすらおらず、街を行き交う人々は、明らかに異質な風体である“惑星オデッセイ探検隊”を遠巻きに見遣ったが、あからさまに警戒されたり、あるいは取り囲まれたりはせず、もちろん攻撃を受けたり危険な目に遭うことも無かった。
 ただ周囲から奇異の目線を向けられるだけ――“探検隊”としては何とも締まりのない第一歩ではあるが、もちろん危ない目に遭うよりはよっぽどマシなわけである。
 だから燕は、毒を食らはば皿までとばかりに、通行人を捕まえて話を聞くことが出来た。
 先の燕の不安は杞憂だった。あっさりと会話は通じたのである。果たして未踏峰に一歩を刻むというのは、あるいは客観的に見れば酷く地味な行為なのかも知れない。燕は内心、世界の登山家を敵に回すような事を考えつつ、男に言葉を投げかける。
 不運なその男は、見た目には四、五十歳程の中年で、どこかヨーロッパの人間を思わせる顔立ちをしていた。この街の人間に関して言えば、大体が皆そう言う風貌であるようだ。

「とにかくそう言う場所だから、ここに泊まろうなんて奴はそう居ない。ここより“内側”か、“並び”の“カルファティス”まででも一ヶ月はかかるからなあ。用もないのに外に出ようなんて奴は――」

 そこで男は一旦言葉を切る。

「まあどうするにしても、“レグラド”に相談するしかないだろうが。ただ昨日の大騒ぎのせいで、あんたらみたいなのが相手をしてもらえるか」
「……そうするしかないのなら、そうする。“レグラド”は何処か、案内して貰っても」
「案内も何も――“フィロ”の見えるあそこのすぐ側だが?」

 何を当然な事を言っている――そう男の表情は言っていた。
 その表情に、クラインは何かに気づいたようだった。燕は彼の表情から何となくそれを察したが――自分には、彼が気がついたその何かがわからない。

「……昨日の大騒ぎと言うのは、何だ?」
「――あんたらは、あれを見なかったのか?」

 むろん――その内容というのは、燕には想像が付く。あれだけの空中戦が至近で繰り広げられたのだから、あるいはこの町が恐慌状態に陥っていても不思議ではない。
 男もまた――多くを語りたくはないようだった。少なくとも昨日の光景は、この町の人間には理解の範疇外にあったに違いない。自分なら果たしてどう思うか――燕は、黙って男の言葉を待った。

「……見なかったなら、その方が良い。悪魔の怒りだ。俺たちは、“フィロ”に祈るしかない」
「――悪魔の? 悪魔とは――何のことだ?」

 結局その問いに、男が答えることは無かった。




「さてここに来て――いくつかわかったことがある」

 “街”の一角――木箱が雑然と積まれた部屋の中で、その古びた木箱に腰掛けて、クラインは言った。
 この倉庫のような建物は、実際に倉庫としての用途であるが、普段はあまり使われない場所だという。果たして他に提供できるような場所がないという街の人間の言葉に従って、“惑星オデッセイ探検隊”の面々は、ここを当面の拠点とすることになる。
 この事実に対して街の人間は申し訳なさそうに――少なくともこちらから見ればそう見えるようにしていたが、半年ほども続けてきた徒歩の旅路に比べればどうと言うことはない。燕や由香はともかく、クラインも、そしておそらくトトも、あの森の中での生活に、何か限界のような物を感じていたから、あるいはそれを成し遂げられたのかも知れない。

「ファースト、コンタクトとしては、まあ上々だろう。我々はほぼ完全に、彼らとの意思疎通を果たすことが出来た」

 想像していたよりもずっと、衝撃は少なかった。
 それは、彼らがあまりにも“普通すぎた”からである。
 未知の大陸にたどり着いた過去の船乗り達は、たとえ相手が自分たちと同じ人間であるとわかっていても、その場所での邂逅に大きな衝撃を受けたに違いない。けれど自分たちはどうだろうか。せいぜいが、ずっと人気のない場所を歩いてきて――“久しぶりに人間に会った”程度の感慨しかない。
 そこにはあまりにも自然に人々が暮らしていて、その事実には何ら驚くべき所はなかったのだ。
 だから彼らと意思疎通が出来たことはあまりにも“当然のこと”であり、そこに衝撃などはない。

「むろん、我々の感慨など、目の前の事実に比べればどうでも良いことだ。逆に我々がどれだけ驚いたところで、その事実に実体が伴わなければ意味はない」
「そうかも知れないが――興奮してないとは言わせないぞ」
「うむ……まあ、否定はしない」

 芝居がかった様子で熱弁をぶっていたクラインは、燕の言葉に照れくさそうに頬を掻く。その仕草を、何だか微笑ましい物を見るような顔でトトが見ていたのが印象的だった。自分からすれば不思議なこの少女は、こんな顔もするんだなと、燕は思う。

「ま……敢えて水を差そうとは思わない。で? その“わかったこと”と言うのは何か聞いても良いか? “考古学者のクライン先生”」
「茶化すな。そう言われる事に悪い気はしない自分が、何だか嫌だ」

 燕の言葉に口を尖らせつつ、クラインは言う。

「まず先だって不明だったいくつかの言葉だ。“レグラド”は恐らく、我々で言うところの役場か、あるいは自治組織のようなものだろう」

 当然だが、燕達が使う翻訳ソフトが、トトの語彙をベースに作られている以上、彼女の語彙にない物は翻訳できない。そして彼女の言葉のうち、クラインや燕達“探検隊”の人間に、それに相当する概念が無い物もまた同じである。
 だから――トトや、街の人間が言う“カルファティス”や“フィロ”そして“アルガス・エディア”と言った現地の言葉は、未だに本当の意味がわからない。
 最初にコンタクトが取れた街の人間が言っていた“レグラド”のような言葉はすぐに理解できた。それはどうやらこの街を統括している組織であり、警察組織のようなものも兼ねている。現実で言えば、先にクラインが述べたように、役場か自治組織のようなものであろう。
 果たして彼らによってあてがわれたのが、今、この間借りしている倉庫である。

「彼らとの遣り取りからわかったことだが――まず、この街はそれなりに高い割合で自立している」

 周囲に全く集落のような物はなく、どうやら衣食住、最低限必要な物はこの街の中でまかなえているようである。燕らのような旅人が珍しいと言い、宿屋のような場所が商売として成り立たず、従ってそれが存在しない状況がそれを物語っている。

「しかし――それにしては奇妙なこともある。僕は、文明とは未知の相手に触れることで刺激され、そして進歩していく物だと考えている。それが良いと悪いとに関わらず、文明が進歩するには何らかの外的要因が必要なのだ」

 別に差別的な意図はないが――と、わざわざ前置きしてから彼は続ける。

「絶海の孤島や密林の奥地で、今も有史以来ほとんど変わらない生活を続けている人たちが居る。彼らは彼らなりに文化を育んできただろうし、だからこそ現代ではそう言う人々は保護されていたりもする。しかしそれが良いと悪いを別にして、果たして現代文明の一部であると言えるだろうか?」
「それはちょっと極端な気もするが……」
「全く他の地域、あるいはこのような街か個人的な旅人か――そういうものとの接触が無いわけではないのだろう。しかし、“対外的な必要性”に迫られての施設がほとんど無いことを考えれば、過去の地球と比べても、外部との交流は乏しいと考えられる」

 最初に“レグラド”の事を問うたとき、相手が“さも当然”のように答えた事が、その証明になっている。クラインはそう言った。どうやら彼があの時何かに気づいたような表情をしたのは、そのことだったようだ。

「……それが何かおかしいのか?」
「なら問うがカツラギ――君は日本人だ。何か日本独自の文化はないだろうか? それを思い浮かべてくれ。出来れば日本特有の施設のような物がいい」
「急に言われても……日本ねえ、サムライ、富士山――ああ、銭湯とかどうだ?」
「“セントウ”か。確か日本の公衆浴場の事だな。僕はその程度の事しか知らないが、さてカツラギ、僕と君が、連れだって“セントウ”に行ったとしよう。僕は果たして、君と同じようにつつがなくそこを使うことが出来るだろうか?」
「いや……まあ、トラブルが起こるようなことも無いだろうが、戸惑うことはあるだろう」

 それは当然のことである。それが何かおかしなことだろうか?

「先程の話に戻ってだ。あの男は、我々が“レグラドが何か”を知っていて当然のような事を言ったのだ。明らかに自分たちとは違う風体で、遠い場所から旅をしてきたと言うことを理解していながら」
「……」
「僕は君と“セントウ”に行って、そこの使い方に戸惑う。その時カツラギ、君は不思議に思うだろうか? 僕はドイツ人だが、さてこのドイツ人の男は、何故こんな当たり前の事がわからないのだろうか? と」
「思わない――そうか、だからあの男は」
「そうだ。僕らが“レグラドが何かはわからない”などとは夢にも思わなかったのだ。僕らが彼らに対するファースト・コンタクトの衝撃をあまり感じなかったのは、彼らが僕らを、無意識のうちに、自分の理解の範疇にあるものでしかない――そう思っていたからだという側面もある」

 燕は口元を押さえて黙り込む。クラインの言うことは筋が通っている。彼は結局アマチュアの学者だと言うが――仮にプロを名乗れなかったとしても、彼が“探検隊”に居ることは、やはり幸運だったのだろう。
 自分ではとても、この短い間の遣り取りではそこまでの事は考えられない。トトでは言わずもがなであるし、自分の隣で頭から煙を上げそうになっている相棒にもまた、そう言うことは期待できそうにない。

「つまりそれだけ、この街は閉じた世界だと言うことになる」
「しかし、それ自体は別に不自然な事じゃないだろ? “惑星オデッセイ”と地球じゃあ、人口密度だって全く――」
「そこが、不自然なんだ。“これ”に関して言えば、この世界は本当に作られたものではないかと、疑っても仕方がないと僕は思っている」

 クラインが首を横に振る。燕には、何も言えない。

「仮にこの世界には人間がとても少なくて、だからこういう街は閉じた世界になっている――そう言う考え方も出来るが、ならばこの街が、ここまで発展している理由が見つからない。もっと言えば、この街はすでに経済の概念を持っている。全く可能性が零というわけではないが――ここまで閉じた世界に於いて、経済と言う概念がここまで発達する可能性があるのか?」

 “レグラド”の人間は教えてくれた。この街には訪れる人間などほとんど居ないから、“宿屋”のようなものはないと。それが何を意味するか? 前提として彼らは“他人に対して宿泊サービスを提供することで対価を得る商売”というものを、“何故か”彼らは知っていたのだ。
 それはあくまで、自分たちとは違う“世界”と交流している事が前提の話である。なのに。

「この街はそれなりの規模を持っている。しかし外界との接触がそこまで乏しいなら、何故ここまで発展できる。今の今まで、森の奥深くで隔絶されて生きてきた部族が居たとする。我々は彼らにコンタクトを取り、いきなりビジネスの話をするのか?」
「じゃ、じゃあ……」

 燕は言った。

「やはり、この世界は作られたもので……」
「結論を急ぐなカツラギ。先入観は目を曇らせる。僕だって、そうであって欲しくはないと思っているが――僕らにはまだ時間がある」

 謎は多いが、一足跳びにそれらの解答を得るのは間違っている。また、そうする意味もない。それが“探検隊”だ――クラインはそう言った。

「もう一つ気になることがある。“フィロ”そして“カルファティス”――広場にあったあの石碑のようなものに何らかの関係があるのだとは思うが、未だに対訳がわからない」
「そうだな、まんま“石碑”だとか言う意味でもなさそうだし――」

 住人の言葉から、“カルファティス”とは街を意味する言葉ではないのかとも考えた。しかしどうにも、ニュアンスが違う気がする。

「もっと言えば、ここの住人は外のことを知らない。我々のこの格好も自然に見えてしまうくらいには。しかし――ここは“最も外側にあるカルファティス”と言っていた。つまり“カルファティス”なるものはここの他にも存在していて、ここがその“一番外”である――彼らは、それを知って居るんだ」

 さながら、世界地図を渡されて、しかしそれが世界だと知識だけは持っている――そんな、アンバランス。それがこの街であると、クラインは言った。




「これは珍しい油だな――見るからに良く燃えそうだ。だが、あんたらが持ち運べる程度の量なんだろう。燃料としては足りないぞ」
「別にそれ自体を売り込みたいわけじゃない。こいつをあんたは見たことがあるか? 珍しい代物だと思ったんだろう? 俺たちはそれが当たり前の場所から来た。遠いところからやって来たんだと――それを理解して欲しいだけだ」

 男の眉が、小さく動いた。
 その風貌を、よく観察してみる。全体的には、ヨーロッパの白人に似た風貌である。つまりははっきりとした目鼻立ちと、色素の薄い肌と、同じく薄い色の頭髪を持ち、身長はおおよそ百七十~百八十センチ程度。女性はそれよりも十~二十センチ程度背が低い。体格的にも、西欧人に近いものを感じる。
 身に纏うのは、燕の感覚からすれば少し固そうに見える繊維で作った服である。それよりもう少し薄手で、簡素な服を内側に着込んでいるようだから、恐らくそれは肌着なのだろう。
 ボタンはなく、どれも頭から被るタイプで、それを帯で巻いているものもいる。下はゆったりしたズボンで、足下は革製の靴――女性はワンピースのような装束も見かけたが、ともかくそういうものが、この街の平均的な装束と見て良いだろう。
 燕が居るのは、彼らが“レグラド”と呼ぶ自治組織である。
 あの石碑が建つ広場の近くにある建物で、彼がそこを訪れたとき、中には数名の男女が何やら話し合いをしていた。その視線が自分に集中し、燕は思わず逃げ出したい衝動に駆られたが、それをぐっと堪え、わざと何も知らないような顔をして、その中の一人の男に話しかけた。
 彼が見せたのは、石油である。
 “惑星オデッセイ”において、この“カツラギ”というアバターを含め、ある程度のものをデータとして作り出せることは最初からわかっていた。でなければ、そもそもがこの星に降り立つことが出来ないのだ。
不思議なことに、ある程度の雛形を作ってやれば、それが“惑星オデッセイ”の摂理に反しないものである限りは、勝手に最適化が行われるらしい。例を挙げれば、“リンゴ”だと判断できるデータを作ってやれば、それは実際に“リンゴになる”のである。更に言えば、吉野がデザインしたただの張りぼてであったはずの“クライン”のユーロファイターが、本物の“残骸”としてフィールドに残された所以である。
スターゲイザー社のプログラマーが頭を抱える所以ではあるが、今は彼らの苦悩は一時忘れるしかない。何となれば、クラインやトトの食料などはそうやって調達している。食べ物と言えば自給自足だった彼女が、すっかり食事の時間を楽しみにするくらいだから、その“最適化”はかなりの精度で行われているのだろう。
 だからといって、あらゆるものを無尽蔵に生み出せるわけではなく――そこが悩ましいところなのであるが。“惑星オデッセイ探検隊”が、現実のそれよりはかなり恵まれていて、しかし根本的な謎に包まれている部分でもある。
 元がデジタルデータである筈のこの世界に、今更何を言うのかという話であるのか? しかしそうやって割り切ってしまうならば、草壁燕という男が紆余曲折を経て、“カツラギ”としてこの世界に立っている理由も無くなってしまうのである。
 閑話休題。

「見たこともない格好に持ち物――あんたらが遠い場所から来たのはわかっている。ろくなもてなしも出来なくて申し訳ないとも思うが」
「気にするな――昨日の“あれ”は、俺たちも見たんだ」

 その言葉に、男の表情がまた変わる。
 そして、その部屋にいた人々の視線がこちらに向けられた事にも、燕は気がついた。

「ここに来たときに、あれは悪魔の怒りだという話を聞かされた。あんた達は、あれについて何か知っているのか?」
「……何が言いたい」
「そう警戒しないでくれ。少なくとも、俺たちはここの事を何も知らない。何も知らない上であんなものを見せつけられたから聞いている。それは不自然な事か?」

 自分でもおかしな言い方だと思いながら、燕はそう言った。トトとの会話である程度試せているから、この翻訳がきちんと働いていることもわかっているが――それでも、なるべく回りくどい言い回しはしたくない。相手に真意が伝わらなければどうなるかわかったものではないのだ。だからおかしな言い方だと思っても、“直訳しやすい”と思われる言い回しを選ぶしかない。

「あんたらには信じがたい話かも知れないが、実は俺たちは“フィロ”も“カルファティス”も無い――この大陸の外側から来た」
「……そうだな、すぐに信じられるような話ではない」
「それならそれで構わないから、話を聞いてくれ。ここに来る途中に“アルガス・エディア”という言葉を聞いた。それは、昨日の“あれ”か?」

 燕の問いかけに、男は何も言わず――ただ目線を、側にいた仲間達に向ける。
 ややあって、彼は小さく息を吐いた。

「あんたらは、本当に“何も知らない”のか?」
「だから、教えてくれと言っている。あんた達に取って利益はないかも知れないが――俺たちは何も知らない場所で地雷を踏みたくはないんだ」
「L-A-N-D-M-A-I-N? それは、何だ? それを踏みたくないとはどういう意味だ?」
「地雷というのは一種の武器で――踏むと爆発して、相手を殺傷できる」
「そんな武器など聞いたことも――」
「“そういう”場所から、俺たちは来たと、そう言っている。こっちのことなら、信じられるかどうかは別にしても話してやっていい。だから、教えてくれ」

 何――と、燕は嘯く。

「子供におとぎ話を教えるのとそう変わらない。俺たちが知りたいのは、“そういう”当たり前の事なんだ」




 ――昔、この世界を作った者がいた。世界を作れるほどの力を持った者なのだから、即ちそれらを神と呼んでもいいだろう。
 神が暮らしていた世界は、危機に瀕していた。
 神は大きな力を持っていたが、その力を持ってしてもどうにもならないほどの危機に、その世界は襲われていた。
 だから、神はこの世界を作った。
 自分たちの安住の地として、自分たちの世界を真似て、一つの世界を作った。
 その後、神はこの世界に移り――そして、この世界に住む人々を作った。
 神はまた、この世界を支えるための仕組みも作った。その仕組みを、作り出した人々に守らせるように命令した。
 人々は忠実にその命令を守ったが、あらゆる困難から神の作ったこの世界を守れるはずもない。だから、万が一に備えて神は番人を作った。
 人々は“フィロ”を守り、その礎である“カルファティス”を次の世代へと伝える。
 神はそんな彼らを遠い場所から見守り、困難があれば“アルガス・エディア”を使役して人々を守り、時にその力でもって人々を諫める。
 だからこの世界に作られた人々――我々人間は、神を崇めなければいけない。
 神に守られて繁栄出来るように謙虚に――神の諫めを受けないように傲慢にならぬように。

「――……だから善行を積み、日々を生きねばならない――と。そう言うところは地球の宗教にも似ている……というか、まんまそれだな」

 “レグラド”の人間から伝え聞いたところを、燕は反芻する。
 大体が、そう言う話であった。

「だが気をつける必要があるのは、それが単なる――たとえば地球上の宗教にあるようなおとぎ話ではない。それは彼らにとってのあり方であり、それを基盤に生活が成り立っている。そういうところだ」
「現実にもそう言う宗教はあるんじゃないか? イスラムだとか――東南アジアあたりの厳格な仏教だとか」
「確かにそう言う物にも似てはいるが――現実に、“フィロ”と“カルファティス”は存在する」
「仏像や――ムスリムは偶像崇拝は禁忌だったな。だがメッカは存在してるぞ?」
「奇跡も天罰も山ほど言い伝えられるが――ではカツラギ、君は実際にそれを目にした事は?」

 クラインの言葉に、燕は首を横に振った。

「明確にその言葉が何を示すかは、もう少しの検証が必要だ、だが、“フィロ”と“カルファティス”が、あの石碑のようなものと、この街そのものを指している――それは確かだ。つまり、“神に作られたものが実際にここにある”」
「いや、おとぎ話や神話ってのはそう言うものだろう? “一説によると”神に作られた山だの川だのが、この世にいくつあると思ってる」
「そんな漠然とした話じゃない。実はインターネットとパソコンは神様が作り出したもので、そう言う神話が残っていて、人々が皆それを当たり前だと思っている――そういうレベルの話になってくるぞ」

 下手に宗教がどうこうと言うよりは、よっぽどイメージしやすい話だった。
 しかしイメージしやすいが故に、余計に“あり得ない”と思ってしまうのも事実である。たとえばこの仮想空間体感装置にしても、一昔前の人間にしてみれば夢物語の産物でしかないだろう。しかしそれを作り出しているのは神ならぬただの人間である。そんなことは、わかっているはずだった。

「――と、さっきも言ったが、この辺りのことは今わかっている事をどれだけ考えたところで結果は知れている。ここがどういう場所なのかおぼろげながらわかってきたと言っても、結論を出すにはまだ早すぎるのだ」
「ん、それには同意」

 燕は一つ、大きく伸びをする。この世界にいる限りは疲労などほとんど感じることはないが、気分の問題である。実際に“体をそういう風に動かした”時の感覚は伝わってくるから、実際に凝り固まっていた体がほぐれたような気分にはなれる。

「それと――どうも妙な視線を感じる。いや、もちろん俺たちみたいなのが注目されない方がおかしいんだが」

 そう言うのとは、また違う気がするのである。
 先程の“レグラド”の連中もそうだった。彼らは確かに、見慣れない風体の自分たちに驚いていたようであり、それは実際自然なことであるが――一度“探検隊”一行をそういうものだと認識してしまえば、それで終わりの筈である。
 クラインの言う奇妙な常識――外の世界に触れられないはずなのに、外の世界をよく知っている――そう言うものを持つここの住民ならば尚更。

「……君のアバターと、それにトトの外見は、人種からしてここの人間とは違うからな」

 どちらもかなり濃い褐色の肌に、“カツラギ”は明るい茶色、トトは黒い髪である。クラインと“クロネコ”の容姿は、この町の人間から大きく逸脱するものではないが。

「それに君たちの住む日本は、地理的な要因も相まってかなり純粋な単一民族国家だ。僕は実際に日本を訪れたことはないが、それでも日本という国を外国人が訪れた時にどういう事になるのか。その手のジョークくらいは聞いたことがある。そう言う国に住む君たちだから、そう思うのかも知れない」
「……クロネコ、お前はどう思う? あるいはこのアバター変えた方が都合が良いと思うか?」

 色々と考えることは多い――カツラギは、顎に手を当てて逡巡しつつ、相棒に問いかける。

「……あのさカツラギくん」

 何故か相棒は、じっとりとした目線をこちらに向けてきた。

「――あたしに英語で話しかけられても困るんだけど。今あたし、君がエイリアンか何かに見えてるよ?」




「What dreams do you have? My dream is to travel around the world――」
「はい、水戸さんそこまでで結構です。それではここの後の“it”が何を指しているのか、誰に答えて貰いましょうか――あら?」

 黒板に味気ない英語の例文を、味気ないブロック体で書き出しつつ――その教師は何かに気がついたように時計を見る。

「ごめんなさい、時間になってしまったようですね。それじゃ明日はこの続きから始めますから、教科書の二十一ページから二十二ページまでの文章を訳しておくこと。授業の頭にいつもどおり五分間の小テストをするので――」

 実際にはチャイムがなるまでまだ少しの余裕があり、教師の口からは次の授業のための連絡が行われている。とは言っても、ごく一般的な高校一年生の少年少女達にとって、教師の口から「時間が来たのでここまで」などという言葉が出れば、例えその後に何かしら必要な情報があったとしても、それは既に終わっていることと同義なのである。
 既に教師の言葉をかき消す勢いで、教科書やノート、筆記用具の類を片付ける音が響き始め、同時にチャイムが鳴り響く。
 果たして教壇に立つ彼女は何を思うのか。生徒の態度を不愉快だと考えているか、あるいはかつての自分を思い返したりしているのだろうか。むろん、そんな事を生徒が考える事に意味はないが。

「ああ、やっと終わった――やっぱり取り残されてる感、あるよねえ……」
「何が?」

 そんな喧噪の中で大きく背伸びをした水戸由香は、ふと後ろから声を掛けられる。東京に引っ越してきてから友人となり、たまたま同じ学校に進学することになった彼女が、首を傾げるようにこちらを見ていた。

「あ、ごめん。こっちの話」

 学校に通っているこの時間を、まるっきり無駄なものだとは思わない。けれど、自分がここでこうして机に向かい、“日本人の平均的な少年少女が受けるべき学習”を受けている間にも、仲間達はあの不思議な世界の謎に挑んでいるわけである。その事実に思うところがないわけではない。たとえその“仲間達”が、自分がこうすることを望んでいたとしても。
 もっとも、そのような事は友人には言えないし、言う必要もないが。

「あ、そうそう、さっきの休み時間にメッセージ回ってきたんだけど、この後トモちゃん達とアイス食べに行かない? 隣の“プラム・クォート”」
「あ――……ごめん、あたしパス」
「えぇ? またバイト? ユウちゃんちょっと根詰めすぎじゃない?」
「ここちゃんには悪いけどさ、あたしこれでも勤労少女なのよ? そのお陰でこうやって、学費の高い私立に、それも親元離れて通えてんだからさ」
「う、それ言われたら何か、親のすねかじってる私がダメ駄目に思えてくるから言わないで」

 申し訳なさそうにされても、それはそれでいたたまれない。由香はとりあえず気にする必要はないと言って、ふわふわとした長い彼女の髪を撫でてやる。

「でもユウちゃん、放課後はずっとバイトで――言おうか迷ってたけど、みんなちょっと心配してるよ?」
「だから大丈夫だって。勤労がどうとか言ったから心配掛けちゃった? あたし、今の仕事やりたいからやってるの。別にお金に困ってるワケじゃないし、ホントに心配は要らないよ?」
「それならいいんだけど……」

 まだ完全に納得はしていないのか。撫でられるままになりながら、友人の少女は小さく言う。

「もうちょっとしたら中間テストだけど、ユウちゃん大丈夫なの?」
「まあ、勉強に関しては教えてくれるつてがあるし。ミナちゃんとかカツ――色々」
「ああ、特別進学クラスの友達? 今度紹介してよ。私英語が結構ヤバくて……ユウちゃんは英語得意そうだけど、その子に教えて貰ったの?」
「何でそう思うの?」
「だってユウちゃん、英語の授業で当てられてトチった事ないじゃん。何か英文の発音とかも、私たちみたいな“カタカナ英語”じゃなくて、すっごく綺麗な発音だし」

 あれだけ綺麗な発音だったら茶化す気にもならない、と、彼女は言った。

「ほら“アッポゥ”的な」
「それわざと言ってるでしょ」

 わざとらしく、大げさにアクセントを強調した言葉に、由香も笑う。
 ややあって――彼女は大きく息を吐いた。

「……どうしたの?」
「いやね……そう言ってくれるのはありがたいんだけど。これでもあたし全然ダメなのよ――英語」
「ええ? でも、だって」
「あたしに必要なのは、“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳せる感性なのよ――ああどうやったらそんな風に思えるのよ何気に吉野さんまで! あいつらの頭はどうなってるって言うのよ!?」
「それって確か夏目漱石がどうしたって奴? 何、ユウちゃん作家にでもなるつもりなの? ヨシノさん?」
「ああいや……こっちの話」

 首を横に振り、由香は何でもないと言う。

「あ、そう言えば」

 話は変わるけど、と、友人が言う。

「技術の課題あさってまでだったよね。ユウちゃんはやった?」
「集積回路に関するビデオ見て書く小論文的な奴だよね? ……うちのバイト先そういう関係のメーカーと繋がりがあるんだけど――マニュアル的なもの写したらまずいかな?」
「……子供の夏休みの工作に親が本気出す状態だからやめた方が。それよりなにより、そう言うのって企業秘密なんじゃないの?」




「英語の勉強?」
「そう。学校で習うような受験英語じゃなくて――まあ、クラインさんやトトちゃんと不自由なく話せるくらいの」

 その夜――帰宅した燕と湊との三人で夕食を終えた由香が、食後のお茶を啜りながら言ったのがそう言うことであった。その言葉に燕は湯飲みを持ち上げた手を止め、食器を流しに片付けに行って帰ってきた湊が、由香に視線を向けつつ椅子を引く。

「俺の通訳じゃ不都合多かったか? でもお前、確かトトとはそれなりに二人で話してたような……」
「うんまあ、二人だと何が言いたいかくらいはわかるんだけど、やっぱりさ――それに最近、あたしが英語覚えるより先に、トトちゃんが日本語覚えそうなのがその、何というか」

 あの子本当に頭良いよね、と、机に顎を載せて力なく言う由香に、燕は苦笑する。むろん、彼女がそうしたいと思うのは状況を考えれば自然なことである。彼女は勉強嫌いを自称してはいるが、怠惰なわけではない。“友人”と言葉を交わすための努力など、惜しむ意味はないのである。

「だからカツラギくん、あたしに英語教えてくれない?」
「教える事に関しちゃやぶさかじゃないが、実際俺も人に教えられるような物じゃないと思うぞ? その程度の俺が、急に英会話教室やれと言われても……」
「実際カツラギくん英語喋れてるじゃん。カツラギくんはどうやって勉強したの? それこそ英会話教室とか?」
「え? あ、ああうん……その」

 そこで何故か燕は言葉を切り――ちらりと視線だけを由香から移す。斜め向かいに座っている彼の妹の方へと。

「……?」

 当然由香には、その行動の意味がわからない。
 まさか彼に英語を教えたのがその妹だと言うわけでもないだろう。確かに湊は英語の成績も由香に比べればかなり優秀であるが、燕が英語を覚えたのは、まだ高校一年生である彼女が更に幼かった頃なのである。

「ミナちゃん……ひっ!?」

 つられて由香も彼女の方に視線を移し――思わず、息を呑んだ。
 表面上は、いつもの愛らしい少女の顔である。表情もまた、微笑みと呼んで差し支えない。
 けれど何故か――それを見ると背筋が凍る。言葉に詰まってしまっても、由香の表情はそれを雄弁に語っていた。
 慌てたように、燕が言う。

「い、いやあのさ、前にも言ったけど俺の友達に海外慣れしてる奴が居るんだよ。で、そいつが英会話くらいは出来て損は無いからって――高三の夏休みの時だったかな。“日本語一切禁止”ってルールで生活しろと」
「……え、ええ? そんなお笑い芸人のバラエティ番組みたいなやり方で? 何だったっけ前にあたし見たよ。アメリカで目的地まで現地の人に案内して貰ってどうとか……」
「まあ言うは易しだけどさ。ああまで徹底されると本当にもう――」
「兄さん一時期ノイローゼみたいになったもんね。何せ毎朝上がり込んできては“グッドモーニングコール”でさ――そのお陰で、関係ない私まで少しは英会話出来るくらいになったんだから」

 何とも穏やかではない。確かにそんな馬鹿馬鹿しいとも言える方法で英語を覚えたというのなら、その実その内容とは凄絶な物になるのかも知れない。

「……あの、何でその、ミナちゃんはそんなに機嫌悪そうなの?」
「あの時は湊とか、うちの親にも日本語禁止だったからなあ……うちの親は親で面白がって言いなりだし、ああもう、思い出したくもねえよ」
「てか何者なのそのカツラギくんの友達って人は」

 何者と言われても――と、燕は苦笑する。

「まあ悪友かなあ。小学校の時からの腐れ縁で。英語が話せるのは親の仕事で良く外国に行くかららしいけど、まあ実際そうじゃなくても嫌味なくらい頭は良い奴でさ」

「――The crony? Enough joking, that thieving cat.(何が悪友だあの泥棒猫が)」

「……み、ミナちゃん? 何だって?」
「お前……一体何を言って」
「あれ? 私今何か変なこと言った? ねえ――兄さん?」
「い、いや……何でもないです」
「カツラギくん? ど、どうしてそんな、ミナちゃんから目をそらすの? ねえ、ホントに一体何があったの!?」


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