<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[35897] 装甲悪鬼村正 正道編 
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/10/03 12:35
チキン南蛮と申します。

本作はニトロプラス作品『装甲悪鬼村正 -FullMetalDaemon MURAMASA-』の二次創作で御座います。
主人公、新田雄飛。創作劔冑、一騎登場。鬱要素有り。

※4/24整合性を取るため、三話の報告書、十三話の鬼丸に関する文章を一部消去。
※4/19 書式変更。それ→其れ その→其の 雄飛の俺→おれに統一。
※4/17 序幕大幅改訂。一話の一人称を三人称に改訂。

11/21序幕投稿
11/23BLADE ARTS 壱投稿
11/25悪鬼投稿
11/27慟哭投稿
12/06雄飛投稿
12/08大鳥投稿
02/17秋空投稿
02/19修養投稿
02/23狂気投稿
03/12白銀昇星投稿
03/14進駐軍投稿
03/18閣議投稿
04/07閣議-弐投稿
04/12遭逢投稿
04/24剣甲投稿
05/14須要投稿
07/06破戒投稿
07/11深紅投稿
08/10八幡宮投稿
08/13深藍投稿
08/27閣議-参投稿
09/02薄鴇投稿
10/03冀望投稿



序幕



これは英雄の物語である
一人の少年が織り成す、正道の物語である

英雄を志した若者は、復讐でも、懺悔でも、因縁のためでもなく、ただ己の目的のために往く。
友が虐げられている現状を打ち砕かんとするために。世界を笑顔で埋め尽くすために。理不尽な悪を、巨大な悪を否定するために。
そんな己の夢を叶えるために、少年は往くのだ――







――装甲悪鬼村正 正道編――


廃校舎の教室。裏山に打ち捨てられた其の場所は、鎌倉市の直ぐ傍に位置しながらも、麓の喧噪は鳴りを潜め、現世と隔絶された沈黙が支配していた。
草木が躯体に生い茂り、老朽化した骨の軋んだ音が、時折静寂の腹中に木霊する。其れはさながら、滅びゆく運命を呪う校舎の怨嗟であった。

仄暗い教室。其処に、四つの箱が在る。其の中身は、教師の凶刃によって生を奪われた生徒の骸である。
凡そ人が入る事叶わぬ狭さの木箱から、赤と緑と茶と青が入り混じった、生理的嫌悪を催す混濁めいた液体が木床に染み込み、室内に充満した狂気を彩る。

陽の光を拒む朽ち果てた教室。教卓では、鎧武者が一騎、三人の生徒に向かって教鞭を執っていた。
百足を模した鉄の鎧。其れを装甲した教師は、絶対強者として此の場に君臨している。劔冑を用いた課外授業を、教師――鈴川は嬉々として行った。其の証が、廃教室に轟く、三つの慟哭であった。

少年は右足を穿たれて。其の友人は目を抉られて。もう一人は四肢を斬られて。
三者三様の反応を示す生徒達。鈴川は苦しみ絶望する三人に慈愛の眼差しを向けながら、更に指示棒を振るう。

<<嘆け! 此の悪夢を! 絶望を!>>

両目を鈴川に奪われた少年の友は、言葉にならぬ絶叫で喚き散らしている。
四肢を奪われた少女は声こそ出していないが、色を喪った眼、絶望に染まりきった顔が、無言の慟哭をかき鳴らしている。

前者は下半身、後者に至っては全身、裸であった。
無機化合物アンモニア)の匂いが少年の鼻腔を擽る。
人を拒絶する冷たい床に、芋虫のように横たわっている少女の身体は、小便で穢されていた。うら若き少女の秘所は露わにされ、其処から白濁色の液体が露と垂れる。

其れは凌辱の爪痕。鈴川が強要した、三人を絶望へと導く墓標である。

三人の生徒の内の一人――新田雄飛は、其の光景に目を奪われた。そして仕儀を理解していく内に、為すすべもなく、恐怖に囚われ失禁寸前だった少年の心は、急激な変化を遂げていた。

<<悔しいか、哀しいか、新田。だが大丈夫だ、直ぐに開放してやろう。そうすればもう、お前たちは嘆かずにすむ。永遠に、美しいまま、眠れ>>

鈴川は言った。美しいものは脆弱だと。我々は泣くことしか出来ないのだと。
鈴川は言った。この世は絶望に支配されていると。お前たちを、其の絶望から開放してやろうと。

(……何を、言ってやがる)

鈴川の言葉を聞いた新田雄飛は、最早恐怖など感じていなかった。雄飛のこめかみから血管が浮き出る。両手の拳に爪が食い込み、血が流れる。

リツは殺された。小夏は四肢を奪われた。忠保は両目を奪われた。薄暗い廃教室に轟く叫喚が雄飛の耳を揺らす。其れは小夏の泣き声と、忠保の呻き声。

(……これが、絶望、だと? そんで、この絶望から、開放してやろう、だと?)

雄飛は心の中で自嘲する。鈴川の物言い。其れは余りにも――可笑しかった。笑止の沙汰。意味不明である。

(おれが、今、絶望、してるって?)

沸沸と血潮が煮え滾る。心臓は爆発寸前の態で鼓動している。

(なんだよ、そりゃ? おかしすぎる。有り得ねえよ、鈴川)

歪になった身体で目の光を喪った小夏。あの快活な姿は見る影もない。
両目を抉られ悲痛な叫びを上げている忠保。あの陽気な姿は見る影もない。

二人の惨状が網膜に焼き付き、二人の慟哭が鼓膜を貫く。相して、雄飛の胸の奥から沸々と“何か”が湧き上がっていく。

絶望、ではない。

違う。

湧き上がり体内に溢れ返る“此れ”は絶望とは余りにもかけ離れている。

(……此の気持ちが、絶望、だって? おいおい、間違えるにも、程があるぜ、先生)

<<嘆け! 嘆く事しか出来ないのだ、人は!>>

「ざ……け…んな」

雄飛の全身が震慄する。勿論、眼前の武者に対する恐怖が原因ではない。
道理にそぐわぬ鈴川の言質が心を揺さ振り、抑えきれぬ震えによって、堪らず膝を付いてしまう。立ち上がりたくとも、武者の刃によって肉が抉られた右足は一寸たりとも動かない。
仕方なしに、雄飛は上半身だけでも起こしてから、自分の言葉に酔った様子で天井を仰いでいる鎧武者に声をかける。

「おい……」

教壇の前に居る鈴川は今も尚、両手を広げ、支離滅裂の言葉を吐き出していた。

馬鹿に聞く。この感情が絶望なのか、と。
馬鹿は答える。そうだ、と。我々に必ず齎されるものだ、と。

「そうですか。でもおかしいなぁ。うん、おかしい」

<<……何がだ?>>

鈴川が首を傾げた。心底意味が解らない、そんな態で。

(ああわかったよ。なら、どんな馬鹿にでも解るように言ってやる……)

激情を、憤激、激憤、憤懣、忿懣、悲憤慷慨を。

解き放つ。

爆発させる。

眼前の悪に。全ての悪に――

「……今おれが抱えているヤツが、そんなおとなしいモンとは到底思えないんですけどねぇぇぇ!!」

柳眉りゅうび)を逆立て咆哮する。煮え滾る激情を以て。

「……ぐッッ!」

咆吼の勢いに任せ、雄飛は倒れ伏せていた体を無理やり起こした。
――激痛。
稲妻の如き電撃が全身に疾走り、足骨が軋んだ音を立てる。意にそぐわぬ行動に、血達磨の足は抗議の声を漏らし続ける。

だが、知った事ではない。肉体的な痛みなど、雄飛は最早怖くもなんともないのだ。
 
……嗚呼、そうだ。本当に怖いのは己の死なぞではない。自分は此の状況に陥ってから漸く気付いたのだ。

あの日々が好きだったのだ。
掛け替えのない存在だったのだ。

当たり前の日常が、あれほど尊きものだったと。
何時も傍に居る友が、これほど大切な人達だったと。

漸く雄飛は自身の感情に気付いた。だからこそ、其れを奪い、あまつさえ消滅させようとしている此の悪を許せない。

不倶戴天。

悪を許せない。奪われる事を認めない。

鉄心石腸てっしんせきちょう)の意志で己が足を屈服させる。埃の舞う薄暗い教室の中、教壇で呆気のとられている鎧武者へ、雄飛は歩みを進める。

軋んだ床を一歩踏み締める度、凡そ人生で経験した事のない激痛が襲う。焼け火ばしを当てられたような錯覚。然し、進む事を躊躇ってはならない。

痛い。知った事ではない。痛い。其れがどうした。些事に気を取られるよりも先に、己には為すべき事がある。

<<新田……?>>

鈴川の前に立つ。目の前の馬鹿は痴呆の様に、琥珀色の眼で呆然と、此方を眺めているのみ。

(コイツ、おれが何してるのか、何故こうしているのか、まだわからねえってのかよ。……ホント、馬鹿だ)

雄飛は奥歯を噛み締め、眼前の鋼鉄を睨み付ける。

心から湧き出す激情が在る。紅蓮のような感情が胸に巣食い暴虐の限りを尽している。雄叫びを上げろと。牙を剝けと。胸の鼓動はひたすらに身体を急き立て駆り立てる。
其れに任せて、雄飛は勢いよく右腕を振りかぶった。重心を意識して。拳を握りしめて。全身全霊を込めて。

―――殴る!

<<!?>>

鈍い音が骨越しに伝わる。右拳から鉄を殴った衝撃が奔る。骨が砕けた感触。知った事ではない。沸騰した血液が、痛みを覆い隠している。

正面で佇む相手を見やる。効いていない。武者は木偶の坊のように突っ立っている。渾身の一撃は、少しばかり鈴川を揺らしただけに留まった。

なら――

(なら、これでどうだ!)

左足で踏み込み、穴の開いた右足を一旦折り畳む。
力を貯める。丹田に意識をやる。貯める。貯める。貯める。

―――右足を蹴り上げる!

上段蹴り。普段小夏が使っていた技を見様見真似でやっただけの、素人の蹴り。

しかし、其の蹴りが的確に武者の顎に命中。棒立ちのままであった鈴川が其の衝撃で仰け反り、そして成すすべもなく――鉄の巨躯が倒れた。

“生身の人間”に蹴られて、“劔冑を纏った鈴川”が尻餅を付いたのだ――!

<<な……にをする>>

大の字に寝転がったまま、鈴川がのたまう。其の言葉を聞いた雄飛は激昂し、更に声を荒げる。

「何を、じゃねえ!!」

――まだ解らないのか。自分が何をしたのか、まだわかっていないのか。

憤懣やるかたない雄飛は、怒髪天を衝く。

「―――おれは怒ってるんだッ!!」

当たり前だろう。当たり前だろうが!

リツを殺されたのだ!
忠保の夢を奪ったのだ!
小夏を汚し、未来を奪ったのだ!

絶望? 諦め? 馬鹿を言うな。何より大切な物を奪われた人間が抱く感情は其れらではない。

――――激怒に決まっている!!

<<…………。怒り、だと……>>

鈴川がよろめきながら立ち上がる。其の声は震えていた。甲冑越しでも動揺の色が明確に分かる。

<<そんな物、無駄だ……! 其れで何が出来るというのだ!? 怒りで私を倒せるのか!? 六波羅を倒せるのか!? 無理に決まっている! だからこそ、絶望するのだ!!>>

「しない!」

鈴川の戯言を突っぱね、雄飛は息巻く。

「倒せるのかなんて関係ない。力の差など、関係ないんだ!」

数分前まで、雄飛は武者の圧倒的な迫力に気圧され、唯黙って友が傷つけられるのを見過ごしてしまった。
後悔してももう遅い。小夏と忠保は心を砕かれ、未来を奪われた。

だが、一つだけ。雄飛には分かったことがある。奪われて初めて、気付いた事がある。

「理不尽に奪われる事は、悪なんだ! そんな事は、罷り通ってはいけないんだ! 否定しなくちゃいけないんだ! だからこそ、怒って戦うべきなんだ! 目の前の武者に! 六波羅に!」

<<……無駄だ、無駄だ無駄だ>>

「無駄? だからなんなんだ? 勝てるかどうかは関係ない。戦わなければならないから戦うんだッ!!」

何処かで聞いた言葉。其れが自然と雄飛の口から紡がれた。

雄飛はふと、先刻の忠保との会話を思い出す。
無為に過ごした日々は、自分にはやりたいことがないと思っていた証拠。

『でも僕はね、いずれ雄飛は何かに向かって走り出すと思うんだ』

『犬小屋?』

『うーん、たぶんほかのなにか』

『そうかなぁ』

『きっとそうだよ』

「おれが走り出すのは今なんだ! おれは自分のやりたいことを、今! 見つけたんだ! 理不尽に立ち向かうんだ! もうおれの友達が泣かないようにするんだよ!」

<<……お前は、何も分かっていないのだ! 今に理解する時が来る。来栖野、稲城が何を失ったのかを。お前が、お前達が何を失ったのかを! そして……絶望するのだ!>>

「―――くどい! おれは絶望なんてしない!!」

<<ッ!?>>

「おれは何も失ってなんかいない!! 何を失ったのかだと? 小夏の体か? 問題ない、おれが助ける。忠保の目か? 問題ない、忠保は諦めたりしない。
じゃあなんだ? おれ達の絆か? 其れこそ失うわけがねえ! こんな事で、おれ達の絆が壊れる訳がないんだ!」

戸惑う鈴川に捲し立てる。言い切った所で、勢いよく息を吸い込む。

「―――おれ達は、何も失くしてなんかいないんだッ!」



<<……馬鹿……な>>

雄飛は鈴川の過去に聞き覚えがあった。
妻子が風邪をこじらせた末、苦しみながら死んだらしい。本来なら助かった筈の命を、六波羅の収奪のため引き起こされた食料不足と医療費の高騰によって、奪われたのだ。

……だから、絶望した? 六波羅は倒せないから、せめて教え子を絶望から救う?

馬鹿馬鹿しい。筋が通らない。六波羅への怒りを他に向けただけだ。妻子の死、其の悲しみを余所へ充てつけただけの、幼稚な行為だ。

「美しいものは脆弱だと? 間違ってるぜ、其れ」

<<……黙れ>>

「教えてやるッ! 弱いのはお前だ、鈴川! 綺麗な物が消えちまった事に耐え切れず、何もかもヤケになったお前が弱いんだッ!」

<<黙れェ……!>>

「―――てめえの絶望に他人を巻き込むな! おれ達はそんなに弱くねえッ!!」

<<黙れェェッッ!!!!!>>

言葉に詰まった鈴川が、咆哮した。目の前の武者から放たれる圧倒的な殺気が雄飛の肌を焦がす。

劔冑。其れは正真正銘最強の兵器である。
戦車、戦艦、尽く劔冑を打倒できず、其の兵器を装甲した鎧武者は一騎で現代歩兵百人以上の力を持つという。
伝説に名高い武者の金剛力は山をも砕き、海を割る。斯様な与太話が罷り通るのが、劔冑という古来兵器。

(……だけど全然強そうには見えねえよ、鈴川!)

正面で怒り狂う武者は、迫力というものがまるでない。いや、実際生身で虎と向き合うような圧迫感によって胸腔が圧搾されてはいる。
だが、鈴川の咆哮、其の発露の原因を知っているからこそ、雄飛は臆さない。己の確固たる決意に比べれば、幾ら劔冑で武装していようが、鈴川は恐れるに足りない。

(――こんな奴に、おれ達は絶望なんてしない!)

「来いよ、弱虫!」

圧倒的な存在感を放つ甲鉄の鎧武者が、勢いよく鞘を抜いた。
雄飛は精神を集中させ、己の取るべき行動を模索する。

第一に、一息もつかせず迫りくるであろう鈴川の斬撃を躱す事が求められる。

先程、右足を穿たれた際の剣速は、疾風迅雷と云って差支えの無い程であった。端的に言えば、目で追う事すら困難な速度である。

其の斬撃を、今度は鉛の様に動かない右足を引きずりながら避けなくてはならない。

不可能。無理。我田引水。荒唐無稽の極み。絵に描いた餅というが、そもそも餅を探す処から始めなくてはならないような話である。

(だから?)

だから何だというのか。

勝てるかどうかなぞ、全く以て関係ない。己は戦う。そう決めた。無理だとか、諦めるべきだとかいう言葉は、もう二度と使う事はないだろう。

諦めない。
絶望しない。

相手がどれだけ強くても。
相手がどれだけ巨大でも。

「おれは、戦う!」

雄飛の雄叫びに、鎧武者は刀を振り上げる事で応えた。

刃銀が薄明りに淡く煌く。振り上げている刀を疾走らせんと、正面の武者が初期動作を始める。

体を身構えるも、質量の伴った武者の殺気が血達磨になった右足を縛る。雄飛は息を呑み、今にも振り下ろさんと鎌首を擡げる刃を睨みつける。

(考えろ。考えろ。考えろ!)

どうにかしなくてはならない。此の状況を打破し、小夏と忠保を救わなければならない。

何か打つ手は――!

逡巡の間もなく、猟奇的な煌きを刀身に宿らせた刃が、己に向かい号哭する。

(く――!)



其の瞬間。



――――硝子の割れる音が、廃教室に響いた。



<<なッ! ―――ぐはぁ!>>

校舎が崩壊するのではないかと見紛う程の衝撃に地面が揺れる。
突如窓を突き破って現れた“物体”が鈴川へ突貫、勢いよく其の巨躯を弾き飛ばしたのだ。
鎧武者が教室の錆びた鉄扉に激突し、其の衝撃で埃の溜まった教室中に粉塵が舞う。

(なんだ……!?)

雄飛は埃を吸い込んで咳き込みながら、煙越しに浮かび上がっている巨大な影像に注視する。

(……鍬形?)

装甲した鈴川をいとも容易く吹き飛ばした“何か”。其の姿を捕えた瞬間、雄飛は思わず息を呑んだ。

煙にぼやけているが、其の特徴的な形状は隠しきれていない。
鋭く大きな二対の顎は万物尽く砕かんと戦気満ち満ちている。細く、然れども力強さを感じさせる六本の脚は、圧倒的な意志を体現しているかのようだ。
そして何より目を見張るのが、其の体積である。人の背丈を優に越えている体躯は、雄飛の常識からは余りにもかけ離れ過ぎている。

煙が薄れていく。改めて目の前の物体に目をやる。
分厚い翅。鈍く光る、“紫色”の甲殻。眩い双の光輪は、虫の眼光によって発せられているのか。

よくよく目を凝らせば。其の虫の甲殻は鉄で出来ていた。
破邪の甲鉄。菫の眩耀は溜息が出るほど力強い王の品格を睥睨させている。孤高の鉄鋼。硬質の輝きを放つ巨躯は形容しがたい荘厳な存在感を罷めさせている。

鋳鉄の鍬形虫――斯様な生物が、世に存在するのだろうか?

否。

断じて否。

ならば―――

<<“雄飛”。此の国綱、其の言葉を然と受け止めたぞ>>

突如頭蓋に響く声。まるで金を打ったかのような甲高い音が脳裏に直接響く。
理屈ではなく、本能で理解する。此の声は、突如現れた鍬形虫から発せられていると。

(――此れは、劔冑だ。間違いない)

確信があった。
何故なら、己こそが森羅万象の力を形象化させた鉄の化身であると、正面の鋼は主張して已まないのだ。

然し……まるで夢現のような光景に、依然として頭の理解は追いつかない。

何故劔冑が動いている?劔冑が自発的に行動する事など、有り得ないのではなかったのか?
だが目の前の鍬形虫は、明らかに自分の意志で喋っている。こんな劔冑の存在は道理に適わない。
そもそも、なんで此処に劔冑が在る? 今の時代、劔冑は六波羅以外誰も持っていないのではなかったのか?

<<何を呆けておる。何を成すべきなのか、己の信に従え>>

脳髄を刺す金打声で叱責する劔冑。雄飛は何故か、懐かしい匂いがした。

(……そうだ。おれがどうしたいのかなんて決まっている!)

嗚呼、そうだ。全く以て其の通り。
今は細かい事なぞどうでも良い。そんな事を考えるよりも、己には成すべき事が在る。

<<……ぐっ……何が……起こったのだ……>>

鈴川が身を起こそうと身動ぎする。あれ程勢いよく吹き飛ばされ、鉄扉に激突したというのに、損傷は殆ど見られない。

<<我が錆を撫でよ。其れが帯刀の儀。さすれば、吾の顎が鬼を貫き、吾の刃が鬼を斬る >>

中性的な声が頭骨に響き、雄飛は自然と動く身体に促されるまま、劔冑へ歩み寄る。相して瞬く間に距離が零となり――雄飛は心中で感嘆の声を洩らした。

至近距離で見れば見るほど、其の甲鉄の虜になる。
幾人もの視線を釘付けにし、決して離さないであろう艶やかな光沢。心が吸い込まれてしまいそうな紫。覇気を纏った鋼。

砕けた右拳は使い物に成らない。雄飛は左手の掌を、紫の甲鉄に重ねた。
背筋が凍る程冷たい感触を覚える。だが、鉄の無機質な冷感の奥には、烈々たる熱情が秘められているようだ。

撫でる。

瞬間、鍬形虫の甲鉄が蒼く脈動。そして掌から全身に、蒼の鼓動が吹き抜け波動していく。

(――――!)

高貴な菫色の鋼は、雄飛の胸に得も知れぬ高揚感を齎した。
活力。気力。精気。意気。数多の感情が凝縮され、蒼天を駆け巡る。

<<我が銘は鬼丸。我、正道を往く劔冑也。吾と共に往く者、鬼を滅ぼす刃と成らん>>

(正道。其れがおれの往く道)

<<ま、待て――>>





<<――――宣誓せよ!>>


肩幅程度に両足を開き、左手で顔を覆う。


――装甲ノ構。


詩を口ずさむ。


――誓約の口上。


義を見てせざるは勇無きなり 為らば、鬼を断つ剣と成らん


鋼が組み合わさる刃金音が廃教室に轟く。


そして少年は変貌を遂げ、天下五甲――鬼丸国綱が、世に顕現した。


内から迸る圧倒的な力と、己を覆う甲殻の剛毅さに、少年は打ち震える。




<<往くぜ、鬼丸……!>>




これは英雄の物語である。
一人の少年が織り成す、正道の物語である。



[35897] 壱話 BLADE ARTS 壱
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:39
BLADE ARTS 壱



井上真改。江戸時代前期に造られた名甲、至極の一品である。
独立形態である百足の風貌を色濃く残す武者。其の仕手は、突如眼前に現れた劔冑の姿に気圧された。

正面に佇む一騎の鎧武者は、鈴川令法の教え子――新田雄飛が装甲している。
鈴川は、嘗ての教え子の余りの変貌に驚愕していた。

先程の口上に関しても、生身で己に立ち向かってきた愕然たる事実を省みても。最早新田雄飛を、唯の生徒と認める事は出来ない。
此奴は、己を脅かす敵なのだ。我が正義を阻もうと目論む、敵なのだ。

だがどうした事か。
敵と認識する事は出来ても、実際に行動に起こす事叶わぬのは何故だ。

今直ぐ斬りかかるべきなのだ。相手は精神こそ一端の子供ではないが、所詮唯の学生。
剣術の心得等ないだろう。素人同士ならば、先手を取った方が圧倒的優位に立てる。

そして何よりも。
己の纏う劔冑は、かの真改なのだ。他の武者等恐れるに足らず。

然し、鈴川は何度もそう自問してみても、如何せん手足の震えは止まらず、唯痴呆のように、眼前の光景に目を奪われるのみであった。

紫色の鉄塊が、陽当りの殆どない教室内に淡く反射している。
其の劔冑は、鈴川が装甲している真改に比べ、一回り以上大きい。ましてや九○式竜騎兵等とは、比べ物にならぬ。

まず何といっても最初に目を惹かれるのは、特徴的な兜の形状。
どんな名刀でも、決して貫くこと叶わぬと思わせるほど頑強そうなしころ)が、頭部を囲んでいる。
側面に向かってこむら返っている吹返しは、正に威風堂々といったところか。素人目でさえ、匠の技を垣間見られる。
そして兜の華とも云える、前立ての部分。
兜の三倍以上の大きさの前立て――いや、顎というべきだろう。其の顎が二本、荒々しく天を衝いているのだ。
兜の姿は、一見すると鍬形虫と似ているものの、其の実全くかけ離れている。“そんな生易しい物”ではないのだ。もっと凶暴で、かつ有無を言わさぬ威厳を保有しているのだ。

次に否応無く注目してしまうのが、無骨過ぎる両の脚。
鍬形とは燐寸棒のように細く頼りない六足の脚を持っているのではなかったのかと、昆虫学者を呪いたい気分になる。
腰から真っ直ぐ伸びる極太の脚は、老朽化している脆い床を、これでもかと踏みしめている。

手甲、小手、膝当の部分は黒漆塗の甲で覆われている。
また、二対の顎は黄金の硬質によって作製され、全身の細部には金茶色の平糸巻きが施され、綺羅びやかな輝きを放っている。
腰に差しているのは、大きな反りのある、二本の刀。鞘は茶色皺革で包まれており、刀身を抜かずとも、其の柄と鞘に施された装飾の見事さから、大業物であろう事が分かる。

鈴川は奪われたままの目で正面の劔冑を舐める様に見た後、震えと共に、感嘆の息を吐いた。
――嗚呼、此れが名甲なのだ。此れこそが劔冑の最高傑作なのだ。目利きの心得などないが、其れでも判る。判ってしまったのだ!

<<往くぜ、鬼丸……!>>

突如、其の劔冑から指向性を持って発せられた、金打声が鈴川の耳を貫く。
其の声色は美しく、気高く、生命力に満ちていた。そして其の色から――新田雄飛が鈴川令法に明確な敵意を向けている事が理解出来た。

其れを理解した途端、真冬に冷水を掛けられたかのように、鈴川の全身が凍り付く。
ただでさえ予想だにしなかった、武者との対峙。其の悪夢が、よりによってこんな“化物”との対峙とは――!

真改の母衣を畳む。

――恐ろしい。

合当理を吹かす。

――恐ろしいのだ! 

<<ああァァあぁァ!!>>

理性など教室の隅に置き去り、一目散に離脱。天井を突き破り、真改の全力を持って、鈴川は空に飛翔した。







<<逃がすかよ!>>

異能の力、万物の流れを無視する程強大な力を手にした新田雄飛が猛る。
右拳と右足の激痛は、不思議と気にならなかった。全身から溢れ出る活力が、唯思考を支配している。

武者は六波羅の象徴。武者こそが悪。

そう認識していた自分が、別の使い途を知った。
力あるものが私欲に使う兵器を、自分は友のために使うのだ。世に蔓延る悪を討つために使うのだ。正義のために使うのだ。

雄飛は悪を討ち友を救う事を決意した。であるからこそ、あの悪を此の侭逃がすなど到底見過ごせるものではない。
己の刃で、悪の権化を斬り伏せなければならぬ。理不尽を打ち砕かねばならぬ。

<<うぉぉ! …………!?>>

而して、威勢よく意気込んでみても、教室に取り残された武者は空を翔ばず、傍目から見れば何とも滑稽な姿勢で固まるのみであった。

「……えっと、鬼丸!?」

<<どうした、御堂>>

「どうやって飛ぶんだ!?」

<<腹に力を込め、背の合当理に意識を向けよ。後は吾がやる>>

紫の武者は、二つの大筒を背負っている。其れは合当理という名称の、武者を大空の覇者足らしめる装置である。

雄飛は言われた通りの所作を行い、合当理に火を入れた。途端、熱量変換型の双発火箭推進から圧縮された空気が放出され、狭い教室内が爆音に包まれる。
鬼丸を装甲した少年は、未だ唖然と此方を見上げている二人の友人を一瞥すると、鈴川が開けた天井の大穴に視線を戻した。

「判った! ……往くぜッ! 鬼丸!」

<<心得た>>

目にも留まらぬ神速で、雄飛と鬼丸は飛翔した。







茜色に染まった鎌倉の空を、百足の武者はひたすらに騎航する。限界以上の急発進で、只々速度を追い求め、“敵”から逃れる。

鈴川は鉄籠の中に出現した計器類を確認した。高度が思うように伸びず、もどかしい心持ちが腹に溜まる。

飛ぶ。翔ぶ―――!

<<敵機、二四○度下方、距離九○○>>

恐ろしい。背後から迫ってくる、有無を言わさぬ風格を持つ、あの鎧が恐ろしい。

<<敵騎の最大速力は当方を“遥かに”上回ると予想。戦域離脱は不可能と断定>>

「なんとかならないのか、真改!?」

<<敵機との距離は大幅に開いている。よって、自騎が充分な速力を得た後、旋回を駆使し追尾を振り切るのが妥当である>>

「よ、よし。なら―――」

逃げよう、そう言いかけた自分に、鈴川は言い様のない違和感を覚える。

……逃げる? 

(逃げるのか、私は)

此の侭逃げ遂せて、果たして其れが何になるというのだ? 来栖野、稲城は生きている。そして、当然新田も。

使命を果たす。
美しいものを、救うのだ。自ら終わらせる事で、美しいものが汚れずに済むのだ。

新田雄飛。あの者こそ、鈴川の人生で遭った人間で、誰よりも美しい存在。

(私が逃げれば、新田はどうなる……?) 

決まっている。彼奴は無垢な心で、六波羅に挑むだろう。そして、為す術なく敗れ、其の心を腐らされるのだ。
此の世に跋扈する無慈悲な悪意が、彼らを汚すのだ。そんな未来など、鈴川は到底認められぬ。

「……真改。あの劔冑の銘、何と言った?」

<<鬼丸――鬼丸国綱。山城国、京粟田口派の刀工、国綱の作。鎌倉、室町時代における五振りの名刀、天下五甲が一つ。
かの北条時政の劔冑であり、高時自刃後は新田義貞に手渡され、後、義貞を討ち取った足利尊氏へと送られた、稀代の至宝である>>

<<……此れほどの相手、到底相見える事叶わぬ>>

「何故そんな名甲中の名甲を、新田が持っているのだ!?」

<<詐称の可能性があり。然しながら、生前書物で知った形状と酷似しており、写し、贋作の可能性もあり>>

「―――あの劔冑が紛い物なわけがないッ!」

美しいものを、美しいまま終わらせる。其れが鈴川の使命であり、責務である。

(私の手で愛する生徒――新田を葬り、其の曇りなき清い心が汚されないよう務めるのだ!)

「……私は逃げんぞ。新田を、私の生徒を、この手で救うのだ! 六波羅から! 巨悪から!」

<<諒解。自騎の戦闘行動を開始する>>







「居やがったな、鈴川ァ!」

<<敵騎、八○度上方>>

紅の空に、轟音を立て飛翔する一騎の大名物。
然しながら、かの天下五甲は、嘗て世に轟かせた名甲の名残は消え失せ、何とも辿々しく舞っている。覚束ない有体の蝶々泳ぎバタフライネイル)を見れば、仕手が如何に素人か判るというものだ。

「――く、お、お……!」

<<力むな。騎航は合当理のみで成らず。母衣を使い、気流を味方に付けよ>>

「ん、な、こと、言われても、ですねェ……!」

<<素人ならば素人なりにやってみせよ、御堂。斯様な調子では、鬼を断つのなど到底不可能ぞ>>

武者が空を自在に翔けるためには、母衣ほろ)の有効な活用が必要不可欠である。腰回りを覆う翼甲ウイング)の向きを巧みに操れば、気流に乗り、勢いを殺す事なく騎航する事が出来るのだ。

「―――クソッ、これで、どうだッ!」

雄飛は口に出した声の勢いとは裏腹に、体全身の力を抜いた。思い描くは、鳥の姿。人間が鳥のように空に住まうには、余計な力など無用である。
すると、左右に揺れていた母衣がピタリと止まり、騎航が安定。真っ直ぐと空を昇り始める。

新田雄飛の非凡な才能が、今此処に発現した。

雄飛が目指すは、上空の鈴川令法。
鈴川が纏う真改は、其れまで一心不乱に逃げていたかと思えば、ゆるりと反転、此方へ向かって合当理を吹かしてくる。

対角線上に、井上真改、鬼丸国綱の二騎が相対する。

<<新田……安心しろ。私の手によって、美しいまま葬ってくれる>>

指向性を持った通信が、上空前方の武者から発せられた。

<<フ、ザ、ケ、ン、ナ!! てめえは絶対許さねえ!>>

鈴川の物言いに怒り狂いそうになるのを必至で堪え、雄飛は腰に差している一本の太刀を抜く。右掌及び右足の損傷は軽微。いや、痛みが気にならなくなったというべきか。

(つっても、どうすりゃ良いんだ……?)

雄飛は反り返った長刀を握りしめ、数瞬後に取るべき行動を思案する。

剣術など、体育の授業以外では全く触れる機会がなかった。確かに大抵の男子ならば自ずと剣術を習っていただろう。其れが例え我流の喧嘩剣術であろうとも、何もないよりかはマシである。

だが、雄飛という人間はこれ迄全ての事象に熱意を持った事がなかったのだ。依って、剣術など何の心得もない。其れは相手――鈴川も同じだろうが、かと言って楽観視出来るほど、頭の造りが幸せでもない。

(……太刀といえば、こんな構えだろ!?)

結論。上段による、袈裟斬り。

この結論は、雄飛にとって不幸中の幸いであった。
通常の刀より長い鬼丸の太刀ならば、成程、確かにこの構えが正解である。
更に雄飛は、ずぶの素人。高度な運剣捌きを必要とする下段や、突きを主体とした八相の構えなど論外である。

構えは良し。意気込みも、十二分に良し。

惜しむらくは――自騎と敵騎の高度差であろう。

<<接敵まで5秒>>

雄飛は太刀の柄を固く握り、右肩に鍔を載せた。
探知機能によって捉えている豆粒の様に小さかった機影は、みるみるうちに扇形へと変化。雄飛と同じく、前方の武者も刀を上段に構え、此方へ猪突猛進、没入ダイブ)してくる。

両者の立合は猪突戦ブルファイト)の流れ。

一合目。

武者と武者。真打と真打。
鶯と紫の稲妻が、鎌倉の空で交差する。
鉄が激しく衝突する音が大気を震わす。

「―――ぐあぁ!」

<<左肩部甲鉄に損傷。騎航及び戦闘には支障なし>>

一合目を勝利したのは、狂人――鈴川であった。

紫の鋼が割れ、破片が遥か彼方へと落下する。全身を揺らす衝撃によって、雄飛の内臓に負荷がかかる。
鬼丸は刃金を受けた衝撃によって失速。胃液を吐き出しながら、雄飛は辛うじて体勢を整え、揚力を引き戻す。

対して真改は、攻撃の勢いに任せ一気に降下、其の後横転ロール)し、上方旋回、上空の敵騎を見据える。
つまり――鈴川は太刀打の作法に乗っ取らず、高度確保をしなかった。

答えは明白である。“知らない”だけだ。素人同士の戦いは、混乱の様相を見せた。







自分がみすみす勝機を手放した事など露知らず、鈴川は己の両手から伝わる手応えに身震いする。

<<ふははは!! 呆気無い、呆気無いものだ、新田! 所詮、鬼丸国綱など、この真改に敵うものか!>>

先程抱いた恐怖は何処へ行ったのか。鈴川は鼻高々に笑いのける。
次で決めてやろうと、鈴川は“自騎の高位で”くるりと垂直旋回している鬼丸に突進する。

二合目。

亜音速で、刃金と刃金がぶつかり合う。

「―――うがぁぁ!!」

二合目の勝利者は、正道を往く者――新田雄飛である。

恐ろしい程鋭利な刀身によって、真改の胸が袈裟斬りに裂けた。

「ぐぅぅ! な、何故だぁ!! 何故押し負ける!」

<<胸部甲鉄に損傷。敵騎位置、二七○度下方>>

「……真改、何故私は負けたのだ!?」

<<回答。双輪懸ふたわがかり)における、高低差が原因である>>

「高低差……?」

<<武者同士の空中戦闘において勝利を収めるには、高度確保が絶対の条件であり、基本である>>

双輪懸における太刀打の作法。
其れは、敵騎に先んじて高度を確保する事を第一とする。

武者同士の空中戦では、高度の優位が占める割合が非常に大きい。
高さとは、即ち速度。そして速度と質量を掛け合わせる事によって、運動力を生む。

高度から降下すれば、自騎の重量は凶器に成る。更に、重力を味方にすれば、速度を増す事が出来るのだ。

高度の優劣は其れだけではない。剣技においても高度の影響は顕れる。
高位の者が速度と重量を転化し迅速かつ強力な運剣を行う事が出来るのに対して、低位の者は重力に抗いながら刀を振るわなければならぬ。

また、重力は高位の者に対し、あらゆる恩恵を齎す。重力を味方にすれば、全ての動作がより鋭敏に、迅速に成る。
つまり、高位の者は敵を補足しやすく、攻撃を当てる事が容易くなるのだ。

必然、高度が低い者はあらゆる点において不利。

「……そうか。 其れさえ判れば、此方の物だッ!」
一合目は自騎が高い位置に居たのだ。二合目は逆。
ならば、この逢瀬は私の勝利。そして、新田に次の勝機はない!

鈴川はそう得心すると、低度の位置に居る鬼丸国綱の機影を正面に据える。
此方を射抜く視線が、鬼丸の兜越しに伝わる。露の煌めく刀身を掲げ、猛然と向かってくる敵騎。

<<新田ぁぁ!! 美しいまま、散れぇ!!>>

<<うるせえ! この気違い教師がぁ!!>>


三合目。

真改は重力の勢いに任せ、出鱈目に刀を振り落とす。
鬼丸の太刀も同じ動作で、憎き鈴川を討たんと、上段から馬鹿正直に振り下ろす。

―――剣が交差。僅かに動作開始が速かった新田雄飛の刀と、一瞬遅れながらも、重力によって加速した鈴川令法の刀が火花を散らした。

剣同士が同じ軌道で正面衝突したが、其々の運動力には明確な差があった。
鬼丸の太刀のみが弾け飛び、鎌倉の空を舞う。

鈴川は一合目の所作を省みて、騎航の流れのまま下降、速度を乗せた後、直ちに兜角を上げた。大きな弧を描き、真改は速度を殺さず上昇を始める。

鬼丸は勢いを失ったまま、緩やかに速度を落とし、二本目の太刀を手に取る。

四合目。

速やかに高度の優位を得た真改が、待たしても猛威を振るう。為す術もなく、鬼丸の甲鉄に斬撃が加えられる。







「ぐはぁ!! ―――クソ、クソ、クソォ!!」

胃が逆流し、骨が軋む。
何故勝てないのか、其の答えも見つからぬまま、雄飛は我武者羅に騎航するのみ。
あれ程力強かった鬼丸の装甲は、三度の剣撃によって、所々亀裂が入っていた。

(考えろ、考えろ……! 何で急に勝てなくなった!? 一回は勝てたのにッ)

体の悲鳴を無視し、己の頭を働かせる。

(あの時と、其れ以外の違いは何だ……)

<<其れは、高度である>>

(――ッ!?)

口に出していないにも関わらず、鬼丸が仕手の悩みを解決した。仕手として縁を結んだ人間は、言葉を交わさずとも劔冑と会話出来るのだ。
最も、仕手が意図的に伝える意思を持ち念を放つ必要があるのだが、雄飛は無意識に其れを成していたのだった。

<<高度こそが、双輪懸における肝。然と理解せよ>>

「……よくわかんねえけど、なら、次から鈴川よりも速く上昇すれば……!」

<<不可能。吾の上昇性能は、敵騎以下。其の方法では、現在の高低差を覆す事は出来ぬ>>

儚い希望を砕かれ、雄飛は唇を噛み締める。
こんな所で、躓く訳にはいかぬのだ。自分は、鈴川以外の悪も同様に滅ばす決意をしたのだ、と。

「……じゃあ、何か他の手はないのかよ、鬼丸!」

<<御堂。我が母衣をどう見るか>>

「え?」

突然の劔冑の問に、雄飛は戸惑う。
見る、といっても、実際に自分の体を眺める訳ではないだろう。装甲した結果、武者は人外の部分をも、まるで己の体と錯覚するほど感知出来るのだ。
雄飛は腰の出っ張りに意識をやった。

「……あー、でっかくて、すっげえ分厚いな」

<<左様。其の母衣によって、吾の旋回性能は敵騎を上回っておる。更に、我が合当理の性能も同じく敵騎を上回る。つまり、最高速度も吾が上である>>

劔冑の性能とは、主に四つの項目で表す事が出来る。

壱 上昇性能
弐 最大速力
参 加速性能
肆 旋回性能

上昇性能とは、高度優勢の確保に重宝する。
最大速力とは、一合目の威力を決定する。
加速性能とは、二合目以降、激突で減殺された速力を回復する。
旋回性能とは、一合目以降、迅速に反転を可能にする。

なお、この四つ全ての項目を高水準で兼ね備える劔冑は存在しない。
如何に名甲であろうとも、全ての劔冑はこの掟から逆らえない。

鬼丸の性能に当て嵌まるのは、弐と肆の部分。

母衣を拡大すれば、旋回性が増し、加速性は犠牲になる。
母衣を分厚くすれば、最大速力が増し、上昇性能は犠牲になる。

つまり鬼丸は、壱と参を犠牲に、最大速力と旋回性能を高めているのだ。

また、巨大な母衣は重力も増すが、其の分強固な骨格を造る事が出来る。
簡単に劔冑を分類すれば、細い劔冑は速度、上昇性能に優れ、耐久性は低い。
対して、骨太の劔冑―――鬼丸は、最大速力、旋回性能、耐久性に優れるのだ。


<<この状況を打破する手は二つ。逃げるか、否か。御堂、何方を選ぶ>>

「……当然、後者だ!!」

<<諒解。其れでこそ、我が仕手なり。次の一合後、迅速な旋回を成功させ、敵騎が上昇中に突撃。奇襲を図る事が最上の手である>>

「わかったッ!」





<<無駄、無駄! 全く、お前は覚えが悪い生徒だな、新田。…………永遠に眠っておけッ!>>

「鈴川……!」

自騎より高度で接近してくる真改を、雄飛は睨みつけた。沈む太陽を背負い、此方へ没入してくる武者。

其の仕手は、嘗て尊敬していた教師であった。
だが、今現在、雄飛が鈴川に対して抱くのは、怒りと憎しみの感情。

素行は良くなかったが、実は寂しがり屋だったリツ。
劔冑競技への夢を、毎日楽しげに語っていた忠保。
そして――小夏。

泣かせたくはなかった。いつも明るいあの子が泣く姿など、見たくなかったのに。

泣かせるどころか、鈴川令法は。

この、鈴川令法は! 

奪ったのだ! 小夏の手足を! 未来を!

(許さねえ……許さねえ!!!)

<<御堂、先ずはこの攻撃を躱す事が第一条件ぞ>>

「――ああ、わかってる!」

頭を冷やせとばかりに、鬼丸の注意を促す声を聞く。
人間味のない其の金打声が、やけに優しく聞こえたのは気のせいだろうか。

(とにかく、躱す……)

と、考えてみて、脳裏で予行練習をしてみる。
結果。失敗。自分が華麗に武者の斬撃を避けるイメージは、どうしても思い描けない。

(いや、……躱すのは……無理か)

幾ら武者の能力によって反射神経や動体視力が高められているといっても、相手も武者なのだ。条件が同じなら、生身で避ける事と同じ。いや、高低差が有る以上、此方の方が、圧倒的に分が悪い。

(なら、一か八かだ……!)

雄飛は己が取るべき行動を決定した後、最後の太刀をきつく握る。
全身から滝のように汗が出る。視界がぼやけ、心臓の鼓動が高鳴る。
失敗すれば、即、死。鈴川の凶刃によって呆気無く切り伏せられるだろう。

(……だからなんだ。おれは諦めない。絶望もしない)

恐れはない。唯、胸から溢れ出る活力のみ。

――未来を、せめてこれからの小夏達が笑って過ごせる未来を、掴み取りたい。

「おれは戦う! 戦って、勝つ!!」

<<―――往けェ! 御堂!>>

敵騎が間合に入る。
敵が刀を振り落とそうと身動ぎした瞬間、右上段に構えていた太刀を動かす。

斬るのではない。


―――逸らす!!



「らァァァ!!!」

真改の刀が振り落とされ、自騎の兜を割ろうとした瞬間。神速の運剣で、右から左へ。敵の“刀”を叩き伏せる!

雄飛の取った戦法。
この状況化に置いてのみ、極めて有効な剣技であった。

武者を操るのが素人同士という、極めて異質な戦いにおいてのみ、である。
剣術をある程度修めた者にとっては、このような、新田雄飛の規格外の攻撃は難なく対処できる。闇雲に剣を水平に薙いだ所で、剣技の前では赤子同然なのだ。

然し。
鈴川令法は、其のような技術を持っていなかった。

<<――――なにッ!?>>

これ迄の立場は逆転、真改の刀が軌道を逸らされ、空を切る。

雄飛は直ぐ様、自騎の巨大な母衣を操り、急旋回する。重力加速が、少年の体を押し潰す。呻き声を上げながら、極めて小さな弧を描き、空気を裂く。

急速旋回を果たした鬼丸は、体勢を立ち直そうと空中で藻掻いている真改を正面に捉えた。

合当理を限界まで稼働させる。己の体の熱量を全て、雄飛は知らず知らずに合当理の稼働に費やす。

暴れ狂う背の筒を、勢いのまま爆裂させる。両手に握るは、反り返った一振りの太刀。

「これで終わりだ、鈴川ァ!!!」

夕暮れの空に、紫色の雷鳴が一閃。

鬼丸の一撃が、真改を切り伏せた。







<<背部甲鉄に甚大な損傷。戦闘行動に支障発生>>

「う……ぐ……」

真改の合当理は悲鳴にも似た高音を出しながら、筒の甲鉄から煙を噴く。受けた刃の衝撃によって、至る所が軋み、歪んでいる。

重力に引かれ、緩やかに落下していく。浮遊感こそ心地良いが、霞がかった大地を見れば、其処が地獄の入り口だと気付く。

(死ぬ……?)

痛めた内臓から全身に行き渡る激痛によって、ふと、或る事実が鈴川の頭に過ぎった。

死。

鈴川にとって何より恐ろしい事実。死ねば、鈴川は自分の使命を果たせなくなってしまうのだ。

美。

鈴川の人生で、唯一信じることが出来るもの。其れは、美しさである。

(美しさだけは、私を裏切らないのだ。例え、永遠ではなくとも)

妻と子。

醜くやせ衰え、苦しみながら死んでしまった、愛する妻子。

(もう嫌だ)

耐えられない。

(もう、あんな思いは沢山だ)

美しいものが変わり果ててしまう事は耐えられない。

だからこそ、美しさを、永遠の存在に。

己に課した使命こそが、鈴川が妻子へ報いる唯一の手段であり、この世に生きる若人を救う手段なのだ。

(嫌だ)

(死ぬのは嫌だ)

(―――美しいものが醜く成り果てることだけは、我慢ならないのだ!!)

「嫌だ、嫌だ、嫌だ……。死ぬのは、嫌だァァァ!!」

力。

力が。

(新田を救い、私の使命を果たせる力が欲しい!)


――瞬間、夜の帳が落ち、鈴川の視界が漆黒に包まれる。


「――!?」
其の暗闇の中で、輝きを放つ存在に遭う。


――――銀色の、母?


子宮の感覚。

胎児。

腹の中の赤ん坊が、激痛と共に産声を上げる。

「あ、あ、あ、あああぁぁあぁあぁぁぁぁあああぁ!!!!」

(力だ! 全ての悪から愛しき者達を救う事の出来る力だ! 全身から漲る、膨大な、強大な、圧倒的な力だ!!!)

開放しよう。この力を。

「……来々包囲狂曲輪くるわ・くるくる・くるい・くるう)暮葉紅々刳々刃くれは・くれくれ・くれくれ・は)!」

真改の隠義を、この力によって開放するのだ!!

「―――――白華爛丹燦禍羅びゃっか・らんたん・しゃん・かあら)!!」



[35897] 弐話 悪鬼
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:39
悪鬼



――竜巻、であった。

真改の胸部甲鉄が開き、中の鉄が赤黒く脈動したかと思えば、突如海上から“巨大な質量を持った竜巻”が出現したのだ。

其の竜巻は、世の理から大幅に逸脱していた。

通常、竜巻とは、積乱雲が発生した際に生じる上昇気流によって、高速の渦巻きが地上から雲へと伸びる気象現象である。主に陸上では砂塵、海上では水柱を伴う。この場合では後者が当て嵌まるのであるが、而して、この竜巻は常軌を逸していた。

物理法則を無視した勢いで、突如海上より遥か上空まで伸びる水の群体。

水とは、本来は我々人類に様々な恩恵を齎す、生物にとって最も馴染み深い物である。だが、膨大な質量を持った水の集合体が、一度勢いを持ったのならば、其れはこの世の全てを破壊する矛となる。
質量とは、即ち威力。容易く山を砕き、貪る程の威力で、この竜巻は、全てを食い散らかす龍のように暴虐極まりながら、何の慈悲もなく、鬼丸に向かう。

(……なんだよ、これは!?)

雄飛は一瞬の内に起こった出来事に、唯舌を巻くことしか出来なかった。己の体感速度がゆっくりと流れていく様は、まさに走馬灯のようであり、死が目前に迫っている事を意味していた。

<<御堂。躱す事は不可能である。腹を括れ>>

金打声が、雄飛の鈍くなった頭を覚醒させる。

(……嫌だ! おれは勝つんだ!)

後数瞬もすれば、纏う劔冑の甲鉄ごと、濁流の餌食となる事は明白。
だが、雄飛は決して諦めない。誰ぞに往生際が悪いと罵られようが、少年の瞳が絶望に染まることは、金輪際有り得ないのだ。

<<……打つ手が無いわけではない。吾は、腹を括れ、と述べたまで>>

(……!)

鬼丸の言葉を聞いた瞬間、雄飛の脳内に“ある言葉”が流れ込む。其れは、真打劔冑のみが保有する、異能の術を発現させるための呪句。
―――陰義。
鍛冶師の命を心鉄として鍛造された真打劔冑の中でも、極、限られた品のみが備える力。其の力は理外の絶技。驚天動地の神の力。

雄飛は本能に従い、唇を動かす。呪句の詠唱。

「……色は空に異ならず、空は色に異ならず!」

色即是空。

「色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり!」

空即是色。

「奥義―――サイ)!」

詠唱を済ませた途端、鬼丸の甲鉄が脈打つ。紫の鋼が振動し、周囲が眩い光に包まれていく。

竜巻が、鬼丸に迫る。




<<…………吾の仕手ならば、この試練、打ち勝ってみせよ>>




―――暴虐な水龍が、鬼丸の鋼を食らった。







「はっ、ははは! 見たか、新田よ! 此れが、我が正義だ!」

濁流に飲み込まれた鬼丸を確認した鈴川は、己の内から沸き立つ力に震え、吼えた。
真改の言質も取ってある。

―――鬼丸国綱、新田雄飛は死んだのだ! 甲鉄諸共、我が陰義の前に屈した!

「私の正義が、教え子を救ったのだ……! 嗚呼、素晴らしい……」

勝利の美酒に酔いしれんばかりに、恍惚の表情を作り出す鈴川。
自分の手によってまたひとつ、美しいものを救ったという事実が、強烈な快感を鈴川に与える。

「お前達4人は、いつも仲睦まじかった……。新田よ、寂しがる事はない。直ぐにあの2人も、お前の元へ向かわせてやろう……」

廃校舎には、後2人、救わなければならない教え子が居る。
そう思い至った鈴川は刀を鞘に収めると、踵を返そうとした。


刹那。


<<新たな機影を確認。二三○度下方、来襲>>

「―――――な!?」

真改が伝える情報に、鈴川は驚愕した。
敵?“新たな”敵? 一体、何が――?

振り返り、鈴川は見た。
高度下より迫り来る、一騎の劔冑を。

同時に、鈴川の肌が栗立ち、心が戦慄する。

其の劔冑は、深紅色の蜘蛛のような風貌であった。
武者。其れも、鬼を想起させるような、禍々しい覇気を纏った劔冑。

逢魔が刻。鎌倉の紅空に、一騎の武者が現れたのだ。

<<鈴川令法。殺人容疑4件の下郎。其の命、貰い受ける>>

指向性のある金打声が、鈴川の耳を刺す。
紅い武者から発せられた通信は、この世の物とは思えぬ声を乗せていた。恐ろしい程、陰鬱な声。全ての事象を否定するかのような、低い、低い声。

<<……誰だ!?>>

新たな敵の来襲により恐怖に囚われながら、鈴川は問うた。

<<貴様に名乗る名などない。太刀を構えよ>>

だが、赤い武者は聞く耳持たず、此方へ接近してくる。手に持つ刀が、夕暮れと相まって、血のように赤く反射している。

「く!?」

其れこそ、己を斬る凶刃。そう理解した鈴川は、手の震えを知覚しながら、覚束ない所作で鞘に収めていた刀を抜く。

轟音を伴いながら、赤い武者は刀を上段に構え、真改に接近していく。

真改の高度位置は襲撃者より遥か上空。つまり、高度優勢は真改が取っている。
だが、何故なのか。鈴川は一向に勝てる気がしなかった。

<<一手、馳走>>

「ぐふゥ!?」

闇雲に振り下ろした鈴川の刀を、明確な技術を持って切り破る武者。仕手の技量を発揮する本物の武者――其の存在が、鈴川を恐怖に打ちのめす。

<<胸部甲鉄に損傷>>

「し、真改、あれは何だ!?」

<<右衛門尉村正と認定。南北朝に争乱を巻き起こした、名甲にして妖甲である>>

「―――村正、だと!?」

鈴川は其の銘に聞き覚えがあった。
村正。件の呪われた劔冑は、争乱を地獄へと変えた元凶。教鞭を執る者ならば、一度は聞き及んだ事が有る程、悪名高き劔冑であった。

「がはぁ!?」

真改の合当理は、全く性能を発揮出来ていない。新田雄飛の攻撃によって、著しく損傷していたのだ。
唯でさえ見苦しかった騎航が、腐肉に群がる蝿のように辿々しくなっていた。当然、斯様な有体では、かの村正に勝てる筈がない。二合目の立合も、鈴川は何の抵抗も出来ず、一方的に切り伏せられるのみ。

<<よ、妖甲めェェ! 我が正義を阻むというのか!>>

憎悪を持って叫ぶ鈴川。目は血走り、口からは、斬撃の衝撃により生じた臓器損壊から齎された血を吐いていた。

<<……貴様の正義とは、弱者を甚振るだけか。剣に見るものがまるでない>>

<<ほ、ほざけェーーー!>>

三合目。
最早何が起こっているのかも解らぬまま、鈴川は太刀を振るう。
何方が高度を占めているのか、其れすらも理解できぬまま。

「ぐっゥ!」

卓越した剣技が、鈴川の身体を切り裂く。

<<右上腕部に甚大な損傷。先の戦闘と併せて、自騎の損傷は許容範囲を大きく越える。騎航は極めて困難>>

「……知ったことか! 村正ァ……! 此れでも、食らうがいい!」

鈴川は、先程鬼丸を葬った陰義を、再度使おうと唇を戦慄かせた。
甲鉄が再び脈動――然し。

「曲輪来々包<<―――させん>>

村正は、居合、抜刀の構えで真改を射抜いた。
刀を鞘に収めたかと思えば、鞘全体から、蒼い稲妻が発生。膨大な力の渦が、村正の鞘に宿る。

<<吉野御流合戦礼法“迅雷”が崩し……>>

磁力反発が齎す、神速の一刀。
其の技の前には、回避も防御も不可能。

必殺の一刀。

天波崩稜落煉鬼属。 妙法八界死辰雷領。

<<電磁抜刀レールガン)――――“マガツ)”>>




―――稲妻の斬撃波が、真改を切り捨てた。




<<いかで我が……こころの月を……あらはして……>>

「闇に……惑える…………ひとを、てらさむ…………」









<<野太刀の刀身よ、御堂>>

空中で爆発した真改から“卵”を取り返した村正は、戦闘を終了、下降体勢に入った。

卵。2年前の銀星号事件から端を発した村正の旅路は、この卵の孵化を阻止する事を目的としていた。
銀星号。銀星号は特有の汚染波を放出する。自己を中心とした広範囲に、特異な重力波、汚染波を放散するのだ。この汚染波を受けた人間は、銀星号と精神を同調させる。即ち、魔王と同じ、獣に成り果てる。

其の魔王は、大和の武者に7つの卵を植え付けた。
卵も汚染波の一種である。光球状で、劔冑と接触すると吸収され、内部で成長していく。そして――卵が孵化すれば、銀星号と同じものになる、というのが村正の仕手、湊斗景明の考えであった。

「村正、あの劔冑はどうなった?」

景明は先程見た光景を頭に描きながら、己の劔冑に問う。

<<探知機能を使ってみたけど、生体反応はなし。完全に破壊されたでしょうね>>

「……そうか」

三人の学生が竹林に入っていったという目撃情報を受けた湊斗景明は、直ぐ様後を追った。そして、僅かな足跡を頼りに辿り着いた廃校舎を発見し、中へ入ろうとした刹那。

突然後方から“巨大な鍬形虫”が現れたのだ。

そして、其の劔冑から卵の気配がする、と村正はのたまった。今迄は一個の気配しかしないと断定していた大蜘蛛は、鍬形虫を見た途端考えを修正したのだ。

独立状態であった村正は動きを止めるため、鍬形虫に糸を吐いた。だが、強靭な顎によって難なく破られ、其の劔冑は教室の窓を破り、室内に突入。湊斗景明が村正と合流した頃には、廃校舎の天井を突き破り飛翔する、2騎の武者の姿があったのだった。

卵を植え付けられた寄生体同士の戦闘。其れは、卵を処理する村正にとっては有益な成り行きであった。

湊斗景明は戦闘を開始した2騎に介入するべきか迷ったが、村正の作戦を聞き、結果、傍観を貫いた。

村正は、何方かに孵化の兆候が見られた瞬間に、速やかに戦闘介入、電磁抜刀により消滅する事が最善であると判断したのだ。
村正にとって、一度に寄生体2騎を相手取るのは、幾ら仕手として優秀な湊斗景明でも些か不安要素があった。ならば、二騎をぶつけ合わせ、残った何方かを殲滅するほうが理に適っている。
武人ならば確かに卑怯な手だろうが、己は銀星号を倒すだけの機械。そう考え及んだ村正は、逸る湊斗景明を抑え込んだ。

結果として。
湊斗景明もまた、武人としての自尊心よりも、己の成すべき事を優先した。
また其れ以外にも、湊斗景明が村正の考えに賛同する理由があった。

其れは、“村正の呪い”。

殺すのは、二人より一人のほうが良いのではないか――。其の卑劣な考えが、無意識に湊斗景明の身中に渦巻き、心を揺らしたのだった。


<<だけど……変なのよ>>

「変、とはどういう事だ、村正」

奥歯に衣着せる物言いの村正に、景明が問い詰める。

<<あの劔冑からも、確かに卵の気配はあった。でも……其の卵が此方に返ってこないのよ。そんな事、有り得ると思う?>>

寄生体が死んだ瞬間、卵は村正の元に還る。其れは、卵が村正の野太刀を媒介として造られた物であるからこその現象であった。当然、この方程式に“例外”はない。

「…………では、死んでいないのではないか?」

<<……いえ、其れはないわ。確かにあの劔冑の反応はないと断言できる。見落としているとも考えられないし、そもそも、粉々になって海に落ちた劔冑なんて、絶対に助からない>>

「…………」

<<とにかく、後日改めて捜索するしかないでしょうね>>

「……そうか」

<<ええ>>

「…………」

景明は目を伏せ、此れから起こす“地獄”に思いを馳せる。
戦闘が終了したという事は、即ち――

<<…………御堂>>

何の抑揚もない鉄の金打声が、景明の心を刺す。

<<―――死を始めましょう>>




-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------




病室。
気が付けばおれは其処の真っ白なベッドに横たわっていた。

(…………)

身体は鉛のように重く、ぴくりとも動かない。腕には点滴の針が刺さっている。

(……おれは、なんでこんなとこで寝てるんだ?)

鈍くなっている頭を必至に使い、現状に至った理由を考える。

ここ数日間の記憶。

まず、リツが居なくなった。
其の後、仲間と共に失踪した友人を探し、道中色々な事もあった。湊斗景明という警察族員に協力したり、ヤクザに絡まれたり。そして、教師と共に雷爺が居る竹林に入り。

それから。

(―――小夏)

あの光景を思い出す。鈴川によって、四肢を奪われた幼馴染の姿を。

そして、其の光景を想起すると、心に、熱く燻ぶる想いが芽生えた。

(ああ……そうだ)

事ここに至って、漸く気付いた。

……おれは、小夏の事が好きなんだ。

失いかけて、初めて自分の気持ちに気付いたんだ。
遠縁の孤児である自分の面倒を、来栖野家にみてもらってから、数十年。おれはいつも小夏と一緒だった。何をするにも、だ。
あの明るい性格と、そこに秘められている優しさに、おれは惹かれていた。自分でも気付かぬ内に、おれは小夏を想っていたんだ。

小夏。

あの眩しい笑顔が、脳裏に広がる。

(…………!)

突然、心が焦燥感で満たされた。
そうだ。あの後鈴川と戦ったんだ。突然現れた劔冑を使って、武者と戦った。

そして――負けた。

其処までは良い。
負けたのに、何故今もこうして生きているのかとか、そんな事はどうでもいい。

其れよりも、其の後だ。

(―――小夏は、どうなったんだ!?)

あの後、鈴川は廃教室に向かったのではないか?
そうなれば、当然其処には小夏が居る。あの怪我では自力で逃げることなんて不可能だろうし、頼みの綱の忠保も目を失っていたのだ。

……小夏は大丈夫だろうか。おれの大好きな小夏は。

あの子の支えになると誓った。
あの子の手足になると誓ったのに。

大丈夫だろうか。心配で堪らない。

(動けッ……動けッ……!)

直ぐに逢いに行きたい。無事を確かめたい。

身を起こそうと試みても、どうやっても全身は動かない。仕方がなしに、必至に首だけを動かす。

「……た……だ………ゃ……す……?」

口が痺れてまともに動かせないが、何とか微かな声を絞り出せた。
ベッドの脇を見れば、簡素なパイプ椅子に座って此方を“眺めている”親友の姿があった。目には包帯が巻かれ、杖を手に持っている。

「……其の声は……雄飛、起きたんだね…………」

親友の声を聞いて、思わず顔が綻んだ。忠保は無事だったのか。本当に良かった。

「こ……な……つ……は……?」

期待を込めて、忠保に尋ねた。忠保が生きているという事は、当然同じ教室に居た小夏も無事だろう。

心底安堵する。

早く逢いたい。小夏に逢って、優しい言葉をかけて、そして、自分の気持ちを伝えたい。

「…………」

何故か、忠保は押し黙っている。忠保の目に巻いている包帯が濡れていく。

血? いや、違う……?

「ぉ……ぃ……た………だ……や……」

何で黙っているんだよ? おれを驚かすつもりなのか? 全く、お前はいつもそうやって人をからかうな。

もう十分わかったから、だから。笑って小夏は無事だって教えてくれよ。

「小夏はね、雄飛。…………小夏は」

……嫌だ。聞きたくない。

「…………小夏、は……」

嫌だ。

嫌だ! 

嫌だ!!












「――――殺されたよ

「……………………………………………………えっ」



[35897] 参話 慟哭
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/23 23:57
慟哭



=事件簿 九十六号 鎌倉警察署記録=

興隆四十一年、十月十五日。
午後六時半頃、鎌倉市立入禁止区画内の建造物から二名の生存者、四名の腐乱死体が発見された。
生存者二名は重体であったため、直ちに病院へ搬送。なお、本事件は内務省警察局鎌倉市警察署属員湊斗景明が第一発見者である。
生存者の身元は 甲 来栖野小夏 乙 稲城直保 と判明した。
本事件で最も奇妙であったのが、この二名の様態である。
甲は四肢を切断され、乙は両目を鋭利な刃物で切りつけられていた。
だが、何方も出血は殆ど見られず、切断面から骨が飛び出るなどといった外傷も診られなかった。
両者は病院へ搬送後、治療が行われたが、上記で述べた通り継続的外傷は皆無であったので、命に別状はなかった。

十月十七日、最低限の精神状態が保証された乙に対して事情聴取が行われた。
聴取から判明した記録は以下の通り。
本事件の加害者は鎌倉市教職員、鈴川令法。そして、新たな被害者の存在が判明。身元は 丙 新田雄飛。
乙によれば、甲乙丙三人は、事件が起こる十月十七日以前から、失踪した友人を独自に捜索していた。
事件当日、担任である鈴川令法が三人を「失踪者を探す手助けをしてやる」という名目で騙し、事件現場へと誘導。そこで犯行に至ったものと思われる。
乙は後の記憶を失っていると証言しており、何故犯人が甲乙丙を見逃したのかは目下捜査中である。
なお、加害者は劔冑を保有し、凶行を重ねてきたと被害者乙は訴えている。
事実、当日には午後六時頃に計三騎の武者を鎌倉市内上空で見たという目撃証言が相次いでおり、この点に関しても(以下同文。犯人は以前発見出来ず、(以下同文。

追記 十月十八日、鎌倉市内某所で被害者丙を発見、極度の衰弱状態であったため、直ぐ様病院へ搬送。一命は取り留めたものの、数日は予断を許さない状況であった。





<鎌倉市 商店街通り>

時刻は午後五時。茜の刻とも云う。
冬の到来を告げる寒風が、雨を伴って鎌倉に吹き抜けていた。秋の日は釣瓶落としとはよく云ったもので、既に辺りは日が暮れている。
通りに建ち並ぶ商店は、生憎の悪天候も相まってか、客足が乏しい。路地裏には、猫の死骸に集る蛆虫の群れと、其の虫を啄む烏の鳴声が木霊している。

如何に鎌倉が大和の事実上の首都とはいえ、町人の暮らしは決して良いものではない。
確かに市内には立派な建物が幾棟も建設されており、田舎から上京して来た人間ならば、其の文明的な街並みに驚嘆するだろう。
だが、どれだけ外見を着飾ろうが、肝心要の中身が伴わなければ意味が無いというもの。鎌倉市民ですら、日々身を擦り減らして生活しているのが現状であった。

国際連合軍――つまるところ大英連邦、と大和間の大戦に依って生じた煽りを受け、大和の民は厳しい食料制限、労役、臨時税を六波羅に課されている。
働き盛りの成人男性は漏れ無く労役に課され、来る再戦に備えた物資調達のために、生活の命綱である食料ですら、何の慈悲もなく奪われる。

実行者、六波羅の言い分はこうだ。
誇り高き大和国民ならば、大和の国内主権奪還のため、国民総動員の精神を持つ事が当然である。今は雌伏の時。国民が窮困する様は見るに忍びないが、どうか耐えて欲しい。さすれば、近い将来、再び大和は栄光を取り戻すであろう。

このような御題目に殉じる人間は、相当の阿呆か、極度に偏った思想家だけだ。
国民の大半――いや、ほぼ全国民が、六波羅の圧政に不満の声を上げている。当然、声高に叫べば、次の日には留置場行きであるため、家でひっそりと文句を垂らすのであろうが。

兎にも角にも、国民の基本的人権など大和では保証されておらず、歯向かう人間は六波羅によって蹂躙されるのが関の山。
どれだけ理不尽な扱いを受けても、誰も文句は言えない。誰も逆らう事は出来ない。
其れが六波羅という存在。巨大な力の前では、一市民など、富士に積もる塵芥程度の存在でしかなかった。

(……………………)

其の六波羅によって陰鬱さを醸し出している商店路に、新田雄飛は居た。
病院を抜け出し、目的もなく、彷徨う一人の少年。雄飛は傘も差さず、芋虫のようにゆっくりと、蹌踉めきながら一歩ずつ足を動かし前に進む。
其の様は、屍人のように暗澹とした様子であり、すれ違う人々が少年に怪訝な視線を送るのも、無理からぬ事であった。

現在の日時は十月二十四日。
十月十五日に病室で目を覚ましてから四日後であり、鈴川と戦ってから一週間と二日後でもある。

一日前。雄飛は漸く、僅かながらも体を動かす事が出来る様になったのであるが、其処に至るまでの三日間は、まさに薄氷を踏むが如くであった。
動かない身体のあらゆる神経、あらゆる細胞が悲鳴を上げ、体中に千の針が刺さっているかのような激痛が、三日三晩継続して襲ったのだ。
激痛に咽び泣く声帯すら枯れ果て、音にならぬ呻き声を出し続けながら、地獄の底で焼かれ続けた。
狂ってしまわなかったのは、持ち前の強靭な精神に加え、稲城忠保より伝えられた現実が、ある意味雄飛を支え続けたのだった。

―――小夏が殺された。

雄飛は忠保の言葉を聞き、最初は現実を認めなかった。
当然である。新田雄飛という男は、来栖野小夏を護るために生きると決めたのだ。
あの事件の折り、雄飛は鈴川に激怒し、そして其れに連鎖するかのように、初めて、今迄我慢してきた六波羅の圧政にも強い憤りを感じた。
其の怒りの発露は、理不尽な悪が自分を傷つけたからではなく、友人や、何より小夏が其れに虐げられ、蹂躙された事が原因だった。
だからこそ、武者に生身で立ち向かえた。だからこそ、悪逆無道の行為を否定するため、将来六波羅とすら戦う決意をしたのだ。

然し。

護るべき小夏は死んだ。己が愛する小夏は死んだ。

―――殺されたのだ!

雄飛は押し寄せる激痛の波に身体を蝕まれながら、次第に、其の現実を認めていった。
現実逃避をしようとも、身体を襲う痛みが其れを許さなかったのだ。

何故小夏が殺されたのか。何故おれは小夏を助けられなかったのか。其の思いだけが新田雄飛の胸に残り、なればこそ、地獄の炎に焼かれても正気でいられたのだった。

漸く痛みが収まった昨晩の事である。
見舞いに来た来栖野家の大黒柱、雄飛の叔父が、一週間で知り得た情報をつらつらと雄飛に伝えた。鬼の形相で、何があったのか教えてくれと懇願する雄飛に、叔父は根負けしたのだ。

十月十五日。其の日、叔父は警察署からの連絡に、思わず我が耳を疑った。
愛する愛娘が、重体で鎌倉総合病院に運ばれたというのだ。着の身着のまま、叔父と叔母は小夏の元に向かった。

そして。

戦慄し、泣き喚いた。

あれ程快活だった、太陽のように明るかった娘は、目が死んでいた。
其の理由はひと目で分かった。手が、足が。無くなっていたのだ。

達磨。

其れが、愛娘の変わり果てた姿であった。
娘の姿を見た叔母は、狂ってしまった。だが、気丈にも叔父は娘を励まし続けた。
叔父も叔母と同じく絶望したい心境であったが、何とか平静を装った。
何より辛いのは娘なのだ。娘の此れからの生活は、辛酸を嘗めるほど、苛烈極まるだろう。

其れでも。

生きていて欲しかった。とかく、其の考えだけが叔父の頭に在った。

……だが、娘は死んだ。

戌の刻。
病室で泣き伏せる叔母を宥めながら、小夏の両親は娘が横になっているベッドの傍に居た。
夜の病院は、神経質になってしまうほど静まり返っていた。錯乱状態であった娘も遙々にして寝付き、叔父は此れからの事に思いを馳せていた。

すると、背後から静寂を斬り破る物音。

反射的に振り返ろうとした刹那、鈍い衝撃が頭骨に疾走り、叔父は意識を手放した。

そして――見た。

薄れゆく意識の中、朧気に揺らめく“紅”の巨躯を。そして其の巨躯が振り上げていた、月明かりに照らされた金属の煌きを。

看護師に身体を揺さぶられ目を覚ました叔父と叔母は、瞬く間に現実と剥離していた病室を視界に入れると、唯、立ちすくんでしまった。

其処は、凄惨極まる有様であった。

娘が居たベッドのシーツは真っ赤に染まり、鉄の匂いが強烈に鼻を刺激した。
娘の首だけがあった。
娘の手足はなかった。
娘の身体は、最早人間ではなかった。
恐ろしいほどの切れ味鋭い“何か”で、娘の胴体と首は分離させられていたのだ。

娘の死に直面してから、息子同然の少年へ見舞いに行くまでの一週間。叔父にとって其の期間は、光陰矢の如く過ぎ去っていったようでもあり、何十年も苦しみ続けたようでもあった。

鎌倉署の人間は、形だけの現場検証を行い、さっさと退散していった。何を聞いても、捜査中の一点張り。ぞんざいな態度で、煙に巻くのみであった。
其の態度を見た叔父は、娘の殺人事件に関する捜査をする気が全くないということが、痛いほど判った。大和の警察は、六波羅の奴隷である。市民に対して有益な仕事は決してしない。何故なら、労力と費用の無駄だからである。

結果、此処数日の間、叔父は鎌倉市内を駆け巡った。
無駄な事をしているという自覚はあった。紅い巨躯というだけの朧気な手がかりを頼りに一人で捜査するなぞ、何処ぞの探偵が聞けば一笑に付すだけだろう。
其れでも、叔父は疾走った。そうしなければ、心が死んでしまうような気がしたのだ。
娘の痛ましい姿が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。だからこそ、叔父は疾走った。そして、目に付く人間に、何か知っていないか尋ね回った。

叔父の予想に反して、直ぐに新たな手掛かりが見つかった。由比ヶ浜付近の漁師から得た、紅い武者の目撃情報である。
十五日。其の夕暮れ時、突如、遥か上空に二騎の武者が現れ、漁師は暫し其の夢幻のような光景に魅入っていた。
すると、目の前の相模湾から竜巻が発生。竜巻が途絶えると、其れ迄戦っていた一騎の武者が消え失せており、其の後新たな武者が現れたというのだ。

……其の武者は、血のように紅い肌をしていたそうな。


叔父の集めた情報を聞いた雄飛は、愕然とした。
自分が鈴川に敗れた後の真相を聞いた途端、全身が震え、血の気が引いたのだ。
新たに現れた謎の武者が鈴川を倒したのだと、雄飛は判断した。成程、其の点だけを見れば、謎の武者はまさに正義の英雄だ。

……だが、何故だ? 何故、其の武者は、小夏を殺した?

幾ら鎌倉広しと云えども、武者は極めて異質な存在である。而も、紅い武者ときている。
そんな劔冑なぞ、雄飛も叔父も覚えがなかった。
雄飛は成績こそ余り良くなかったが、授業は真面目に聞いていた。教科書で見知った数打と呼ばれる劔冑の中には、紅どころか灰色以外の劔冑は存在していなかったのだ。
つまり、自分の劔冑と同じく、紅い武者は真打だろう。そして、真打は唯でさえ希少な存在の中の、更に極限られた劔冑である。
ならば当然、上空に現れた紅い劔冑と、小夏を殺した紅い劔冑は、同質の存在という帰結に辿り着く。

鈴川を倒した武者が、小夏を殺した。
そして、何故、自分は惨めに鈴川に敗れ、其の紅い武者の凶行を止める事が出来なかったのか。

無力感に苛まれた。己の無力が不甲斐なかった。
力さえあれば、小夏を救えたのだ。巨悪を打ち滅ぼす、圧倒的な力さえあれば。


商店街通り。
雄飛は何となしに、左側でシャッターを閉めていた雑貨屋に目をやった。
其の商店は、嘗て学友達と芋サイダーを購入した、リツの実家である。余りにも不味い味だと、仲間達と愚痴を吐いた記憶が、脳裏に浮かび上がる。
腐れ縁の四人組で、些細な事でも楽しく騒いでいた日々の記憶は、今の雄飛には余りにも眩しく、そして現実的ではなかった。

(おれは……自惚れていたんだ……。偶々降って湧いた劔冑を偶然使えたからって、其れが自分の力だって過信してた……)

薄暗い通りをふらふらと歩きながら、雄飛は後悔の念を抱いていた。
自分の子供じみた英雄願望を体現した結果、小夏は死んだのだ。何故、もっと上手くやれなかったのか。何故、常日頃から鍛錬を積んでおかなかったのか。
偶々劔冑を手に入れ、自分は力を手に入れた、と過信し、結果鈴川に敗れた。自分が死んだのなら納得出来た。だが、自分の不手際が、想い人が死ぬ要因を造ったのだ。

(……小夏…………おれは……)

「―――コラァ!! 何処見て歩いとんじゃい、このボケ!」

突然、耳を劈く不快な怒声が、下を向いて歩いていた雄飛を覚醒させた。
雄飛が気怠い身体に鞭を打って面を上げてみれば、自分の進路を塞ぐように、一人の大男が立っていた。其の男の風貌は、特殊自由業の典型的な例だった。

センスという言葉を地平線の彼方までふっ飛ばしたような、悪趣味なスーツを着こみ。
これまた知性を疑う、金色の下地に日の丸を縫いつけてある扇子を右手に持ち。
爬虫類のような目をぎょろぎょろと動かしながら、首は常に上にやり、左手で傘を差す。

人に迷惑を掛ける事を生き甲斐とする生物種『ヤクザ』が、新田雄飛の正面で、早くも動物的本能に従って威嚇動作を始めていたのだ。

「……何とか言わんかい、この糞餓鬼がァ!」

この生物に、新田雄飛は見覚えがあった。
忘れることはない。リツを探すため、暗黒星人――湊斗景明と共に鎌倉市内で聴きこみを終え、三人で飲み屋通りに赴いた際、この男に絡まれたのだ。原因は小夏の何気ない一言だった。そう、小夏の。

「……テメエ……み……てえな……やつ……が……」

目の前でヤニ臭い悪息を放ちながら此方を睨みつけている生物を見た途端、雄飛の心が怒りに染まった。あの際、この生物は全裸で土下座しろ、と極めて下卑た処遇を小夏に強要したのだ。
幸運にも現れた湊斗景明――は腰抜けだったが、其の後現れた綾弥一条という女学生によって、事なきを得たのであるが。

ヤクザ。六波羅。何方も、理不尽な暴力を強いる存在。
倒すべき巨悪。そして――倒せなかった悪。

「……あ?」

「テメエ見てえなヤツが居るからッ!! 小夏はァァ!!」

最早雄飛は、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
唯胸に巣食う、懴悔の念と、小夏を殺した理不尽に対する怒りが、ぐちゃぐちゃと頭で混ざり合い、録に動かない身体に活を入れていたのだ。

雄飛はヤクザの胸倉を掴み、咆哮する。

「…………おいおい、何晒しとんじゃ」

「うああぁぁぁああッッ!!」

雄飛は拳を振り上げ、理不尽に立ち向かった。其れは、自分の弱さを認めたくないが故の行動であった。だが……。

「――――オラァ!!」

「ぐふゥ!?」

拳は空を切り、逆に腹に重い一撃を食らう始末。
身体がくの字になる。打撲の衝撃で胃液がせり上がり、口からは吐瀉物が吐き出される。

「この、ボケ、殺したろか、ああ!?」

「が、はぁあ!」

倒れ伏せた少年に向かい、容赦なく追撃を加えるヤクザ。足で雄飛の体中を踏んでから態々腰を下ろすと、髪を掴み、殴り抜ける。
ヤクザは鬱憤晴らしと言わんばかりに、数分に渡って雄飛を痛みつけた。

通りの人々は、暴行の光景を気の毒そうに眺めるだけで、決して少年を助けようとはしない。下手に手を出せば、次は自分達の番なのだ。唯見て見ぬふりをし、触らぬ神に祟りなしの精神を貫き通すだけ。大和の人々に染み付いた、負け犬根性の顕れであった。

雄飛はヤクザに暴力を受け身を縮こませながら、慟哭した。泣き喚いた。
自分を殴るヤクザが怖いわけではない。ましてや、痛みによって引き起こされる涙でもない。

只々、自分が情けないのだ。

一人のヤクザにすら敵わないという事実が。己の無力が。ひたすらに、情けなかった。

「ぺっ。此れに懲りたら、二度と舐めた口聞くんやないど」

やっと気が晴れたのか、野木山組のヤクザは、血達磨になった餓鬼に唾を吐き捨て、自分の権力を周囲に再確認させる作業を終えた。

(……ちくしょう。痛え……)

唯でさえ録に動かなかった身体は、一連の被害によって、完全に其の役割を放棄していた。
大雨が、地面に倒れ朦朧としている意識に容赦なく降り注ぐ。冷たい雨粒と、体中から生じている鈍痛。泥だらけになった学生服は、自分の血で所々赤く染まっていた。

すると、濡れた地面越しに、此方へ向かってくる足音が聞こえてきた。

「―――な、なんじゃいお前ら!?」

自分を痛めつけたヤクザが発した其の声に、雄飛は驚いた。焦りの色が、声に乗せられているのだ。此の鎌倉で、ヤクザを焦らせる事の出来る存在とは、一体……?

「儂は六波羅お雇いじゃ! お、おい、ま――」

銃声。

硝煙の匂いが、雨と血に濡れた雄飛の鼻を刺激する。

「新田……雄飛様ですね」

何が起こったのか確かめるべく、腫れ上がった瞼をゆっくりと開ける雄飛。
斯くして、眼前に飛び込んできたのは、銃を手に持った二人の兵士と、其の横で頭に穴を開け、血沼に倒れている筋者の姿であった。

「…………六波羅」

ひと目でそれと分かる、特徴的な兵士の軍服。六波羅。大和に暴虐の限りを尽くす、己が倒すべき巨悪の尖兵である。

「雄飛様、私達についてきてください」

「六……波羅……!」

六波羅兵士の言葉などには耳を貸さず、雄飛は兵士二人を睨みつけた。
また、理不尽に奪うのか。次は何を奪う気だ。忠保か。其れとも、叔父と叔母か。巫山戯るな、と。
雄飛は紅い武者も六波羅も鈴川令法も、同じ存在だと確信していた。強さを免罪符に自分達を虐げる、憎き悪の権化であると。

「おい、直ぐ近くまで来てるぞ!」
「……時間が有りません。御無体どうかお許しを。御身を保護させて戴きます!」

雄飛の怒りを込めた眼差しなど一顧だにせず、兵士二人は何かに怯えた様子で、少年の身を起こそうと近寄った。

刹那。

一つの閃光が、周囲に疾走った。

音を立てて崩れ落ちる六波羅の兵士達。
そして――雄飛は見た。

堂の入った構えを解き、本来の佇まいに戻った品の良い老婦人と。
桃色の長髪と、大和人にしては珍しい長身が特徴的な、細い目筋から優しげな視線を自分に向けている、令嬢風の美人を。

「―――あらあら、ばあや。私の獲物を奪わないでほしいのだけれど」

「おや、お嬢さま。このさよ、あくまで穏便に事を進めようとしたまででございます。人面獣心のお嬢さまに任せれば、忽ち周辺一体が血の海になるというもの」

「まあ、なんて言い草でしょう。この子を無理やり連れていこうとするような輩には、それ相応の末路が必要でしてよ?」

「其の点については否定致しかねますが。
ですがお嬢さま、少しは他人の視線というものを意識するべきかと。
此処でお嬢さまが“余興”を致すのは勝手ですが、其の振る舞いを雄飛様に見られては、好感度がガクッと下がりますぞ」

「其れもそうかしら。 ……雄飛さん」

「…………」

「大丈夫ですか?」

「……貴方、は…………駅に居た……占い師……」

「あらあらまあまあっ! 聞きまして、さよ! 雄飛さんはしっかりと私の事を覚えて下さいましたわっ」

「はい、お嬢さま」

「天に昇る気持ちとはこの事でしょうか。ああ、今日はなんて素晴らしい日でしょう! 太陽が燦々と私達を祝福しているわ!」

「今日は生憎の大雨、而も既に日が暮れておりますが」

「細かい事は言いっこなしですっ!」

二人の漫才に突っ込むという自分の特性すら忘れ、雄飛は疑問に思った言葉を女性に投げ掛ける。

「貴方が……何で此処に……?」

「……ええっと、どうしましょうか……」

「お嬢さま。謎を秘めたヒロインは最初こそ魅力的ですが、余りにも度が過ぎると
『っけ、なんだよこのキャラ。勿体ぶってんじゃねえっての。どうせ大した伏線じゃねえんだろ? てか、何でこんなに図体でかいんだよ。何で糸目なんだよ。需要がないって理解してねえのか、あーん?』
などといった罵詈雑言を浴びる可能性が多分に含まれます」

「……ぷっちん」

「ああ、お嬢様の脳神経系が致命的断裂を!」

「シャラップ!! ……ふふふ、いいでしょう。私がどれだけ魅力溢れるヒロインか、執拗なまでに教えて差し上げます」

「空気読めよ、この人」

「御黙りなさいッ!! ……とまあ、冗談はここまで」

「そのほうが宜しいかと」

「…………」

「お嬢さま。このさよにジト目を向けるのはそれくらいにして、そろそろ本題に入るべきでは?」

「…………おっほん! 雄飛さん。貴方は、何故私達が此処に居るか、とお聞きになりましたね」

「……は……い……」

「お答えしましょう。其れは、私が貴方を守りたいからです」

「…………え?」

「別の言い方をすれば、貴方の意思を尊重したいから、とも」

「…………どういう、事……ですか」

「大鳥、という名に聞き覚えはありまして?」

「え…………そりゃ……勿論……」

当然、雄飛は其の名を知っていた。
大鳥。六波羅幕府の最高権力者、足利護氏に次ぐ四公方が一人、大鳥獅子吼の苗字である。
大和人ならば、小学生ですら知っている、常識中の常識だ。
訳の分からぬ女性の問いに答えた雄飛は、其の真意が何処にあるのか検討も付かなかった。
然れども、直ぐに雄飛は解を得る事になる。
目の前の女性が顔色一つ変えず、衝撃的な事実を雄飛に伝えたからだ。

「単刀直入に言います。貴方の本当の名は大鳥雄飛大鳥家の正当な継承者です



[35897] 肆話 雄飛
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/05/14 00:01
雄飛



新田雄飛は、ごく平凡な人生を歩んできた。

年端もいかぬ頃に両親を事故で亡くし、鎌倉の来栖野家へ預けられてから幾余年。物心つく頃には、既に彼は来栖野家の一員としての暮らしを享受していた。
叔父、叔母は娘と変わらぬ愛情を雄飛に注いできたし、来栖野家の娘――小夏と雄飛は、兄妹のように、また、一個人同士としても深い親交を深めてきた。
何処へ行っても、何をするにしても一緒。其れが小夏と雄飛の関係だった。

雄飛は複雑な生い立ちを物ともせず、両親代わりの二人と小夏の存在によって、歪むことなく、真っ直ぐに育った。
何事もなく時が流れていれば――おそらく雄飛は一市民として、真っ当な人生を謳歌していただろう。

だが、歯車は狂った。

友人の失踪から始まった地獄の演目は、少年の人生を大きく変化させることとなったのだ。

少年は激怒した。友を傷つけた悪を。
少年は否定した。理不尽な巨悪の存在を。

そして彼は決意した。自分の成すべき事を。自分が歩むべき道程を。

然しながら、少年が歩む道は、挫折と云う名のと共に幕を上げた。

小夏の死。少年は嘆き、苦しんだ。其の事実を、認めたくなかったのだ。
自分の不手際によって、己の半身とも云える少女が犠牲となった。
勿論、直接的に手を下した訳ではない。だが自分の敗北が、少女の死に起因している事は紛れも無い事実なのだ。

事ここに至り、とうとう少年は絶望した、と云えるのかもしれない。
其の絶望は、自分の無力に対するもの。救えなかった、自分の愚かさを憎むもの。
少年は絶望した。水と暴力の雨に打たれながら、慟哭したのだ。

其処へ、救いの手が差し出された。

其の手を、少年は握り締める。実は其れは救いなどではなく、更なる苦悶へと誘う、悪魔の導き手だとしても。

少年が求めてやまない力が、其の手の先に続いているのだから。








<鎌倉市外 宿>

鎌倉市郊外、旅館の一室。
其処の本間に、大鳥香奈枝と永倉さよの姿があった。

香奈枝は座椅子に腰を下ろし、傍で控えているさよが淀みのない動作で紅茶を入れている。カップに注がれていく紅茶の音が、窓から打ち付けられている雨音をかき消していく。
香奈枝は一言礼を伝えた後、カップに口をつけ、今日も変わらぬさよの腕前に舌鼓を打った。

襖越しに響く少年の呻き声を聞きながら、さよは顔を顰めている――とは言っても、長年連れ添ったさよ以外には普段と変わらない表情だが――己の主人に水を向けた。

「お嬢さま。雄飛様が何方を選ぶおつもりか、検討はついているのでございますか?」

香奈枝は綺麗な木目の入った長机にカップを置くと、左側の寝室を一瞥した後、自分の考えを述べる。

「十中八九、雄飛さんは大鳥家を継ぐ決断をなさるでしょうね」

其の答えは、香奈枝が雄飛の顔付きを観察した結果だった。
数時間前――雨ざらしになっていた少年に香奈枝は真実を伝えた。其れは、これ迄少年の身を案じてひた隠していた内容。

では、何故今になって真実を伝えたのか。

まずひとつは、獅子吼の包囲網が鎌倉周囲に張り巡らされ、最早少年が生まれ育った土地に骨を埋めるのは困難になってしまった事に起因する。
もし獅子吼の追手が少年を見つけたのなら、“有無を言わさず”身柄を確保され、獅子吼の元に連れられていくだろう。
其れは香奈枝にとって許容出来る流れではない。であるからして、香奈枝は少年に真実を告げ、選択の余地を残した。

そしてもう一つは、少年自身の心情を憚っての事でもあった。
香奈枝は知っていた。此処数日の間に、愛すべき従兄弟の周囲で起きた事件の存在を。
勿論、全てを把握している訳ではなかったが、少年の友人や家族同然の人間が、狂人の刃によって失われ、其の事件が少年の心に深い爪痕を残している事は、GHQ監察官としての立場を利用した独自の情報網によって知っていたのだ。

香奈枝は真実を伝えた後、少年は逃避行動を取ると予測していた。何もかも捨てて鎌倉を去り、平穏な日々を送るという選択を選ぶと考えていたのだ。
齢壱拾にも満たぬ少年が凶悪な殺人事件を生き延びて数日も経たぬ時に決断を迫られれば、当然自分にとって楽な方を選択するだろう。其れは無理からぬ事であるし、何より香奈枝にとって、雄飛を自分達の居る世界に巻き込みたくない、というのが本心でもあった。
依って、一旦少年の身を保護し、精神の安定を図ろうという思惑もあったのだった。

だが、少年は香奈枝の予想を裏切った。

真実を伝えた途端、少年の顔付きが絶望の其れから一転したのだ。其の顔は何処か決意めいた、有無を言わさぬ眼力を秘めていたのだった。


「左様でございますか。して、そうなった暁には、どうなるのでしょう」

「数日の内に、大鳥家当主は花枝から雄飛さんへと代わる。獅子吼が最も尊ぶものは形式、筋道、道理です。骨の髄からの形式主義者、其れがあの男。
なら、雄飛さんを当主に仰ぐのは必然。其のために、篠川軍の一部すら動かしているのですから」

「ですが……獅子吼殿は、雄飛様を傀儡として扱うやもしれませぬぞ」

「それでも」

「私は、あの子の意思を尊重します。無理やり連れて行かれて、無理やり獅子吼に当主として祭り上げられるのでは駄目。もし雄飛さんが市井の身としての人生を送り続けたいのなら、私は其のお手伝いをする。でも、あの子が大鳥家を継ぐと、自分の意思で決めるのなら。其れは、私個人の意思で否定すべき事ではありません。
飽く迄、私がすべき事は経路を示すだけ。どの線路を辿るのかについては、あの子が自分で選び、そして何より――自分の力で進む事が、私の望みです」

「其の道が、雄飛様の“最良の未来”に繋がらないとしても?」

「ええ。嘗てこの腕で抱いた雄飛さんの温もりは、とても心地良く、優しい気持ちになれたけれど、もうあの子は赤子ではないのだから」

「そうでございますなぁ」

「願わくば……雄飛さんが大鳥家を継ぐのなら、民への責務を果たす、過去の大鳥に戻ってほしい……なんて言うのは、些か虫がよすぎるかしら」

「……お嬢さまの御父君は、立派な志を持っておりましたが、手段を誤ってしまいました。結果は、現状の有様。例え雄飛様が当主となっても、いやむしろ…………劇的な変化によって、大鳥家は更なる悪化の一途を辿るやもしれません。其の時、お嬢さまはどうなさるので?」

「壊します」

「雄飛様も、獅子吼殿も、諸共に?」

「ええ、其れが大和の民にとって“最良の未来”なら、私の意思など関係ありませんもの」







二人が少年の行末に思いを馳せてから半刻後。漸く雄飛が目を覚ました。

反射的に身を起こそうと身動ぎした途端、身体の節々から刺すような痛みが疾走り、遅れて鈍痛がやってくる。
雄飛は痛みに顔を歪めた後、自分の身体に違和感を覚えた。見れば、胸部と右肩には包帯が巻かれ、布越しに硬膏剤が塗られているようだ。腫れ上がっていた瞼には氷袋が当てられており、火照った身体に冷たい感触が心地良い。

何故自分は此処にいるのか、そもそも此処は何処なのか――と考えてみて、直ぐに思い当たる節を見付ける。

(ああ、あの後気絶しちまったんだな、おれ)

意識を手放す寸前の記憶はある。
突如現れた女性から、想像だにしない、衝撃的な事実を伝えられ、簡単な自己紹介を半ば強制的にされてから数分後、意識を手放したのだ。
おそらくは、彼女達が自分を此処まで運び、親切にも傷の手当までしてくれたのだろう。

(……親切、か)

桜色の長髪に、西洋風の服装が印象的な女性――大鳥香奈枝と名乗っていた人から伝えられた事実を思い出す。

『貴方の本当の名は大鳥雄飛。大鳥家の正当な継承者です』

彼女は真剣な顔付きで、何の感慨も感じさせず、唯事実だけを伝えたように思えた。
其れが却って、紛れも無い事実なのだ、と雄飛に印象付けた。
更には、此れは何の確証もない事なのだが――大鳥香奈枝という女性が“悪意を持って”自分に嘘を付くことは、天と地がひっくり返っても有り得ないと、雄飛は断言できる。
其れは駅で初めて会った時に抱いた印象に通じるものがあった。自分は大鳥香奈枝に無条件で愛されている、などと云った馬鹿馬鹿しい考えだ。
だが伝えられた事実を加味すれば、成程、少しは納得できるようでもある。自分が大鳥家の跡継ぎだったのならば、同じ大鳥という名の彼女が自分を慈しんでも、別段不思議ではない。

『貴方が取る事の出来る方法は二つ。此のまま大鳥家を継ぐか、否か。何方にせよ、暫く此の鎌倉から離れた土地で暮らすことになります』

布団から身を起こし、頭に大鳥香奈枝の言葉を反響させながら、雄飛は雨の音に耳を傾けた。断続的な雨音が、心を落ち着かせていく。

<<御堂>>

考えに耽ってから数十分程経っただろうか、突然脳裏に金打声が響いた。
部屋を見渡してみても別段変わりはない事から、此処から離れた場所で発せられている声だと雄飛は判断した。

「……鬼丸か。今迄何してたんだ?」

<<“再構築”に全機能を費やしていたため、つい先程まで自立行動が取れなかった故。
……よくぞ黄泉から還った。流石、我が仕手として選ばれた男ノ子よ>>

再構築という言葉が少々気に掛かったが、直ぐに納得する。
あの時、己の身体は甲鉄ごと濁流に呑まれたのだ。其の衝撃で自分の身体が粉砕されたかのような感触を覚えた経験からさして日も経っていない。
だのに、自分の肉が、骨が。こうして組み直されているのは、劔冑の力なのだろう。そして其の後生じた弊害についても。

雄飛は改めて自分の身体を眺めた。
未だ動かすと痛みが疾走るが、少しずつ回復しているようである。其の証拠に、特に支障なく口を動かす事が出来るようだ。

「……ああ、だからおれ、今もこうして生きてるのか」

<<肯定。して、何があったのか説明せよ>>

鬼丸の言葉は、単なる劔冑の領分から逸脱しているようであった。鉄の凶器とはとても思えぬほど、“自我”というものがあるように思える。
だが、雄飛は其の点に関してはさほど気にせず、むしろ人間味のある劔冑を好ましく思った。

「……あれから――」

鬼丸に促され、雄飛は事の次第を説明し始めた。
自身に降り掛かった出来事を整理していく。病院で目が覚めた事、小夏の死、大鳥家、そして――紅い武者について。

説明が終わると、暫し両者の間に沈黙が漂った。
其の静寂を破ったのは、無機質な金打声。

<<……此れからどうするのか、決めておるのか>>

「…………」

此れからどうするのか。つまり、何方の選択肢を選ぶのか。
雄飛は目を伏せ、暫し、亡き少女の姿を思い浮かべた。
そして、独り言のようなか細い声で、己の劔冑に語り始める。

「……実は大鳥家の血筋で、しかもおれが大鳥家の継承者とか言われても、ハッキリいってよくわからない。両親は事故で死んだって聞かされてたのにな。
其れに、来栖野家も大鳥家の遠縁で、今迄此処で匿われてたなんて言われても、現実味がない。だけど……」

少し言い淀んだ後、雄飛は両の拳をきつく握り締め顔を上げた。其の目には、大雨に打たれながら大地に伏せていた時とは打って変わって、強烈な意思を含んだ焔が灯っていた。

「おれは力が欲しい。もう、誰も失いたくないんだ。自分の無力で、大事な人が守れないのは嫌なんだ」

小夏。リツ。忠保の夢。
雄飛は失われた友人達と過ごした日々を思い出す。

毎日のように四人で過ごした。
小夏の四の字固めで起こされて、二人で登校。教室に着くと、既に待ち構えているリツにからかわれ、忠保と馬鹿な話をする。
放課後は買い食いをしたり、舞台を観に行ったり。とにかく、四人で行動する。其れが自然。
雄飛にとって、三人は掛け替えの無い友人だった。

だからこそ。

<<武力を求めるだけならば、他の道もあろう>>

「わかってる。おれが欲しいのは、腕っ節だけじゃない。他の力も得る事が出来る道があるんなら、其の道を行く」

雄飛は自分の無力を痛感した。
其れは、肉体や技量のみならず、知識や精神など、多岐に渡る。

そして、腰抜けのまま、無力に嘆く日々を送るつもりなぞ、毛頭ない。
ただ貪欲に、ただ我武者羅に強くなりたいという気持ちが、雄飛の心に在るのだ。

<<……力を得て、其の後、何を成す?>>

「…………」

<<えてして、強大な力を持った輩は堕落する。時代の権力者は、大半が同じ末路――畜生道を辿った。御堂は、何を成すのだ?>>

「……明日を」

<<明日、とは>>

「おれは皆が好きだ。忠保、叔父さん、叔母さん、クラスメート、田中の雷爺、安田のじいちゃん、鎌倉に住む皆が好きだ。だから」

「“もう二度と”、皆が理不尽に奪われないようにしたい。理不尽に虐げられないようにしたい。そんな大和の明日を、おれの手で掴み取りたい」
まだ痺れの取れない右拳を、雄飛は固く握り締める。

<<其れは、悪を滅ぶす事で成すのか>>

「…………」

<<六波羅を滅ぶす事が、御堂の目的か>>

「…………いや、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。おれは何も知らないガキだから、単純に六波羅を滅ぼせば良いと思ってる。でも――」

「――もしそうじゃないんだったら。別の方法が皆にとって最良の手段なら。おれは其れを成す。知識を含めた力が、おれは欲しい。皆が幸せに暮らす事の出来る未来を見極め、其れを成し遂げる力が欲しいんだ」

六波羅は憎い。認めてはならない存在であるとも思っている。
だが、己は無力で、無知蒙昧なのだ。そんな己が、自分の裁量で悪を断ずる事なぞ滑稽の極み。

まずは知を。全ては、然るべき能力を得た後だ。

雄飛はそう思い至った。己の無力を認識する事で、子供じみた正義の味方から、本物の英雄になると決意したのだ。

<<…………紅い武者>>

「―――ッ!」

突然鬼丸から放たれた言葉によって、雄飛の身体が震える。

<<復讐は、せぬのか>>

「…………」

<<御堂の知己の友を殺した武者に、復讐せぬのか>>

「それは……」

紅い武者。己の半身とも云える少女を殺した存在。

「……確かに、憎いよ。おれの手で、復讐したいって気持ちはある。
ただ…………鈴川を倒した武者が、小夏を殺したのがどうにも腑に落ちない。先ずは知りたい。何故小夏を殺したのかを。其のためにも、紅い武者について調べる事の出来る力が要る。大鳥家を継ぐ理由のひとつが、其れだ。
そして、もしも其の理由が皆を害するものだったら――おれは紅い武者を討つ。其れは復讐とは違うと思う」

<<…………>>

仕手の言葉を聞き、鬼丸は口を閉ざした。まるで聞こえるはずのない劔冑の息遣いが頭に響くように、唯押し黙っている。
やがて、雨音をかき消すかのように、鬼丸が指向性のある声を雄飛に届けた。

<<相仕った。御堂、復讐の道を往くのなら、吾を捨てよ。我欲の道、正義の道を往くのなら、同じく吾を捨てよ。だが……>>

<<正道の道を往くのなら。我が力、全て御堂に委ねよう>>

「……ああ」







麩が開く音と共に、身体に包帯を巻いた少年が本間に現れた。

「あら、雄飛さん。まだお休みになられたほうがよくってよ?」

雄飛は香奈枝の言葉をやんわりと否定すると、二人に向き直り、居住まいを正した。

「まず……助けてもらって、ありがとうございました」

誠意の込もった感謝の意を伝えた後、少年は頭を下げた。次に少年が紡ぐ言葉を聞くため、香奈枝とさよは軽く会釈するのみ。

「おれ、決めました。大鳥家に行こうと思います」

雄飛の眼は、強固な意思を香奈枝に感じさせた。

最早自分が何を言っても、少年の決意を曲げる事は叶わない――。
香奈枝はそう判断すると、最終確認の意味を込めて、愛する従兄弟に向けて声を掛ける。

「雄飛さん。其の決断の意味を、正確に理解していますか?」

「大鳥家を継ぐという事は、貴方は“個人”ではなくなる。家督は勿論の事、貴族としての責務も、其の背に背負うという事。其の覚悟が、お有りですか」

「はい」

極めて明瞭な発音で、唯一言発すると、雄飛は頷いた。

「……このまま、平穏な日々を送る事も可能ですぞ。勿論、数年は身を眩まして頂く必要がありますが、其の為の助力は、我々が責任をもって果たす所存です」

「貴方達がおれを心から心配してくれているのはわかっています。
今思えば、初めて会った時、香奈枝さんとさよさんは、おれを逃がすために乗車券を渡してくれたんですよね。今回の事と併せて、本当にありがとうございます」

「…………」
「…………」

「でも。それでも。おれは行きます。自分の信じる道を。自分が守りたい人達を、もう二度と失わないために」

「……ご立派になられましたな」

さよの一言に苦笑した雄飛は、掛けてあった学生服を手に取る。
泥や血は綺麗に取り除かれており、袖を通した途端、身が引き締まる思いを感じる。

「もうお行きになさるので?」

「はい。出来れば叔父さんと叔母さん、あと――忠保に、宜しく伝えておいてもらえたら嬉しいです」

改めて頭を下げた雄飛は、迷いのない足取りで其の場を去る。

「ひとつ」

雄飛が扉に手をかけると、後ろから香奈枝の声が響いた。

「ひとつだけ、覚えておいて欲しい言葉があります」

貴族の義務ノブリス・オブリージュ)。今はこの言葉の意味を解らなくても構いません。いつか、雄飛さんが大きな決断をなさる時、この言葉を思い出して下さい」

はい――と返事をした雄飛は、振り向く事なく、扉を開いた。







―雄飛様!

―おい、至急獅子吼様に連絡を。……ああ、そうだ。此れから会津へ向かう

―警戒を怠るな。あの御方がいつ何時現れるのか予想もできん

―ああ、わかっている。……雄飛様。我々にご同行頂きたい

(小夏、リツ、忠保。おれ、行くよ。次に帰ってくる時は、もう情けないおれじゃないから……)



斯くして、少年は歩み始めた。
己の志を胸に秘め、其の名の通り、大空に羽ばたくように。

英雄を志した若者は、己が英雄に成る事を誓った。
少年は、復讐でも、懺悔でも、因縁のためでもなく、ただ己の目的のために往く。
そして、少年が其の歩みを止めることは決してない。
例え其の先に更なる絶望や、想像だにしない困難が待ち受けているとしても。

これは英雄の物語である
一人の少年が織り成す、正道の物語である



[35897] 伍話 大鳥
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:40
大鳥



大鳥家。其れは、大和の頂点に位置する武家の名門である。
宮中の武者を統括する立場として平安期以前から其の名を轟かし、現在では六波羅幕府の軍司令官、四公方の任を請け負っている。

大鳥家の最大の特徴は、偏に其の家格である。
何時の世も、軍事こそが政の肝。其処を完全に掌握していた大鳥家は、千年に渡り大和の実権を支配していたといっても過言ではない。
平安初期に宮中や行幸啓を警護する六衛府が形成されてからというもの、其の惣領である六衛大将領――現在では足利護氏が其れに当たる――は殆どが大鳥家から輩出されていた。それどころか、一時は一族内で世襲していた程である。

また、一族の団結力も他家とは逸脱していた。千年もの間、大鳥家は、家督を争う内部抗争とは無縁であったのだ。
其れは奇跡的な幸運であったが、運だけで成し遂げられるほど簡単な事でもない。何より、当主が当主たる責務を果たしていた事が大きかったと云えよう。
代々の当主達は皆、貴族の責務を忘れず、私欲や情欲に溺れる痴れ者も居なかった。部下達はそんな誉れ高き当主を崇拝し、絶対の忠誠を誓う。其れが大鳥家の美徳、伝統であり、名門たる所以であった。

だが、そんな大鳥家にも、未曾有の危機が訪れてしまう。

興隆三○年の事である。
其の頃の世界情勢は、正に戦乱の世。欧州諸国は大英連邦によって統合され、世界は大英連邦と露西亜が凌ぎを削っていた。そして其の戦火が、大和に降り注かんとしていたのだ。

当時、大和は表向きこそ朝廷が政治を担っている立場として据えられていたが、実質は一軍事組織である六波羅が実権を支配していた。
言い換えれば、大鳥家の影響力が絶大であったとも云える。六衛大将領こそ足利家から輩出されていたものの、軍事面は大鳥家が担っていたのだ。

当時の大鳥家当主――雄飛の父は、来るべき欧州との戦に備え軍拡を推し進めていた。
其れは彼が極右思想者であった事も一つの要因だが、大和の未来を憂いての行動でもあった。
大英連邦と露西亜間の大戦において、大和は両者の最重要拠点として位置していた。大英連邦は対露西亜封鎖網を完遂させるために、是が非でも大和を植民地化したいという思惑を抱いていたのだ。
当主は大局を見据え、欧州側の譲歩を拒み、大英連邦との戦争を決意した。大鳥家の影響力は絶大であるため、大和は彼の意向にそぐわぬよう舵を取る。

其処へ反旗を翻したのが、彼の弟――香奈枝と花枝の父であった。
当主の弟は平和主義者であった。戦争を是とする兄の思想とは相容れぬ人柄であったのだ。
弟は大英連邦との戦争によって生じる犠牲を否定し、兄に対して下克上を起こした。千年の大鳥家の歴史に、初めて家督争乱が起こったのだ。

クーデターにより、当主である兄は幽閉され死亡。嫡男の雄飛は弟の手によって大鳥一門の遠縁に預けられた。

大鳥家当主の座を得た弟は、其れ迄の政治戦略から一転、融和への道を模索し始めた。
だが、大鳥家の伝統に泥を塗った男を、他の家名に連なる有力者達が認める筈もない。次第に内部抵抗は苛烈を極めていき、弟は政治活動を満足に行う事が出来なかった。
当然大和の政治は停滞し、また外敵がかくの如き事に考慮する訳もなく、政の場は混乱の波が渦巻いた。

大英連邦と大和との戦争が今にも勃発せんと、大陸情勢が緊張を増していた頃になっても、弟は頑なに平和主義を貫き、融和を求めた。
だが、弟は己の描いた絵図を完成させる事も無いまま、其の一生に終止符を打たれたのである。

己の行いは、己に還るのだ。

当主を殺害した弟を憎悪し、大鳥家の乱れた家督を正さんと起った男がいた。
其の名を、獅子吼。獅子吼は前当主に心酔していた。

彼は正当な継承者である雄飛を当主に戴くため、其の行方を探しに探した。
だが、一向に身柄を発見出来ず、仕方がなしに、苦渋の決断をする。

彼もまた、当主の仕儀に倣いクーデターを起こし、大鳥家当主――香奈枝の父を殺害した。
そして花枝を一時的な当主の後釜として据えたのだ。また、実質は獅子吼が権力を掌握し、花枝は飽く迄傀儡として扱われた。

獅子吼にとって、花枝は敬愛する前当主を殺した仇の娘であり、其の様な人間を一時的とはいえ当主に据えるのは腸が煮え繰り返る思いであった。
依って、一刻も早く前当主の嫡男である雄飛を発見し、当主と仰ぐ。其れが獅子吼の悲願であった。

獅子吼のクーデターが興隆三十五年。
大英連邦との大戦に敗北し、六波羅幕府が大和を連盟軍に売り渡し、GHQが国内に置かれた年でもある。

そして現在の興隆四十一年。
六年という、彼にとって余りにも長過ぎる時を経て、漸く。

大鳥家前当主嫡男、雄飛発見の報せが獅子吼の元に届いたのだった。



< 会津 大鳥家邸宅 貴賓室 >

屋敷の貴賓室に、篠川公方にして大鳥家の支配者、大鳥獅子吼の姿があった。
其の男の風貌は正に軍人然としたものであり、常に六波羅軍の上将式軍服を纏っている事が、獅子吼という男の性格を顕している。
まるで猛禽類を想起させるような鋭い眼光と、武士として十分な体格。襟まで真っ直ぐと伸びている黒髪は一切癖がなく、筋道や道理に頑なまでに固執する性格を体現しているようである。

(…………)

獅子吼は貴賓室で下品に足を組んでいる“現当主”など一顧だにせず、塞がった右目に倣い左目も閉じ、腕を組みながら大窓の傍で立ち尽くしていた。

一見すると唯立っているだけのようだが、よく見れば僅かに足を揺らし、眉間に皺を寄せているようだ。
普段は冷静沈着、決して心を乱さぬ男である獅子吼も、今日ばかりは浮き足立つ心を抑える事が出来ずにいたのだった。

鎌倉市内で雄飛を発見したとの報告が入ったのが、六日前の十月十九日。
十九日以前には既に鎌倉市内に雄飛が居る事を突き止めていたが、正確な住居や身柄を発見する事までは出来ずにいた。
だが、十五日に鎌倉市内で殺人事件が発生したとの報せと其の続報から、遙々にして雄飛の存在を確認するに至ったのであった。

殺人事件など普段は気にも留めぬ些事であったが、鎌倉市内で捜索する折、獅子吼はどんな些細な事でも迅速に報告書を上げるよう鎌倉警察署に厳命しており、今回其れが功を奏したのである。
また、当初鎌倉市警は捜査のための措置として殺人事件を公表しないとの一点張りだったが、唯の警察署が篠川公方の命に刃向かう事なぞ出来る筈もなかった。

報告では、事件の被害者の一人、新田雄飛という少年が鎌倉市内某所で突如発見されたとの事であった。
獅子吼は直ぐにでも雄飛を此処会津へと向かわせたかったものの、敬愛する先々代当主の嫡男は虫の息であり、更には原因不明の痛みを訴えていたため断念、回復まで待つ事に決めた。
此れは余談であるが、獅子吼は雄飛の治療を担当していた医師に、文字通り死んでも雄飛を生かせと直々に釘を刺し、万が一にも死ぬようなことがあれば、一族郎党皆殺しにするとまで言い放ったのであった。

医者の見立てでは雄飛は絶対安静であり、治癒には少なく見積もっても数週間は掛かるとの報告を受けた獅子吼は、鎌倉総合病院に部下を配置し、おそらく雄飛の存在を目聡く知ったであろう“狼藉者”の来襲に備えた。
だが、“外”にのみ神経を集中していた獅子吼の部下は、思いもよらぬ雄飛の“脱走”を看過してしまう。
雄飛が病室から抜けだした事に気付いた部下達は皆一様にして血の気が引き、直ぐ様市内捜索に当たった。然しながら、部下の奮闘虚しく、“狼藉者”によって再発見した雄飛を奪われてしまったのである。
此れもまた余談ではあるが、雄飛を取り逃がし無様に気絶した部下の二人は、まだ一日しか経っていないのにも関わらず、既に職を失い、途方に暮れているとか。

屋敷に居る部下達は、本日の明朝、雄飛を発見したとの報せを聞くまで気が気ではなかった。
其れも当然だろう。度重なる部下の失態に血管が破裂寸前であった獅子吼の形相を見て、思わず失禁しそうになった者も居たほどである。

兎にも角にも、数十分前、無事雄飛は会津に向かう列車に乗車した。先程其の報せを聞いた獅子吼は、来るべき雄飛の来訪を、今か今かと待ちわびているところである。

(愈々だ……。思えば此の六年……雄飛様のお姿を夢にまで観たものだ……)

獅子吼は目を伏せたまま、辛酸を舐めた六年間を、感慨深い心境で振り返っていた。
本来、獅子吼は影として、表舞台に出る事など容認出来ぬ男であった。其れは己の領分――先々代に拾われた身――を弁えているが故である。

形式や筋道こそが最も尊ばれるものなのだ。なればこそ、己のような者は飽く迄裏の舞台で暗躍して然るべし。
斯様に考えていた獅子吼であったが、現実、そうは問屋が卸さなかった。

先代の愚行とも云える思想では、己が心酔し、傾倒している先々代当主の、志半ばで潰えた悲願なぞ叶う筈もなかったのだ。
であるからして、花枝という先々代当主を殺した畜生の娘を、一旦は当主に据えなければならぬという苦渋の策をとったのだった。

獅子吼が仰ぐべき人間は、先々代当主の血脈を持つ者、つまりは雄飛である。其の大願が、六年の月日を経て、愈々叶うのだ。

(此れで漸く……俺の悲願の一つを達成出来る……。後は雄飛様への“教育”と、大和の独立を果たすだけだ……)

雄飛が先々代のような当主たる人物に育っているのなら良し。何の問題もない。
例え、軟弱者、半端者、反骨心に溢れた者であったとしても、また良し。強制的に教育してしまえば事が足りる。
幼子であった雄飛がどのような成長を遂げたのかを想像するだけで、獅子吼の胸は踊る。

「……ク…ククッ……」

幾ら武人にして篠川公方獅子吼中将といえども、六年間も焦らされれば、己の胸から沸き立つ歓喜の心を律する事は困難なのだろうか。知らずと嗤い声が彼の口から零れていく。

「きもい男め。不愉快な鳴声を妾に聴かせるな」

獅子吼の漏らした声を目聡く耳に拾い悪態を付いたのは、大鳥家現当主であり、雄飛の許嫁、大鳥花枝であった。

「……チッ」

己を舐めきった視線を投げかけてくる花枝によって興が削がれた事に苛立った獅子吼は、舌を鳴らすと、目を開け、現当主の女を見やる。

「余り調子づかれぬよう。雄飛様が発見出来た以上、“雌猫”の当主は今日を持って仕舞で御座いまする」

「フン。狛畜(いぬ)が吠えよるわ。貴様は尻尾を振る様が似合っておる」

「…………」

花枝という女は、口を開けば罵詈雑言の嵐を止めど無く放つ。獅子吼は一々相手をするのも馬鹿らしいと匙を投げ、大窓に向き直った。

「おい、犬畜生。雄飛くんを無理やり連れてくるつもりではなかろうな」

だが、そんな獅子吼の判断など、花枝は気にもしないようである。
花枝の言葉に血管を膨らませながら、獅子吼は返答する。

「……貴方達姉妹と雄飛様は“格”が違うのです。あの御方は、御自身の意思で此処会津に向かわれるとの報告が入っています」

「…………なら良い」

「予め忠告しておきます。…………雄飛様に“粗相”なぞしてみされよ。直ぐ様野犬の餌にしてくれましょう」

獅子吼の声は、強烈な“殺気”を孕んでいる。六波羅兵卒でさえ、此の声を聞けば、玉の底から震え上がるだろう。
獅子吼は政敵である雄飛を、花枝が“排除”する可能性を危惧しているのだ。

「全く、何を言っておるのやら。うんこ人の独自言語は理解できんな。妾は雄飛くんの妻だぞ」

而して、花枝は兵卒顔負けの肝っ玉の持ち主であるので、怯むことなぞ無縁であったのだが。

「――――ッ! 貴様なんぞが雄飛様と婚約するなど……! 嘆かわしい……!」

「分かったら雄飛くんを無事に連れてこいうんこ野郎。次期大鳥家当主大鳥雄飛が婚約者、花枝の命令だぞうんこ野郎」

「……其の下劣極まる品性、争乱が収まれば必ずや叩き直してくれる……!」

「フン」


「―――獅子吼様!」

突如扉が開き、獅子吼直属の部下、千羽が貴賓室に入ってきた。
獅子吼は振り返り、用向きを促す。

「なんだッ!」

「報告します! 仰せの通り列車周辺に武者による探知を行った結果、所属不明の劔冑が一領、列車に並行して移動中であると判明しましたッ!」

「……なんだと? それで、排除したんだろうな」

「そ、それが……」

「…………」

歯切れの悪い千羽の報告に痺れを切らす寸前の獅子吼は、射殺すような眼光で部下を睨みつけた。

「武者による武力制圧を加えようとしたのですが……ゆ、雄飛様が」

「―――雄飛様がどうした!?」

鳥羽の胸倉を掴み上げ、獅子吼は咆哮した。

「ウグゥ! ゆ、雄飛様は其れを、自分の劔冑であるとおっしゃっています!」

「…………何? 馬鹿な……」

「あ、あの……」

「……なれば手出しは無用。車両に配置している竜騎兵隊から武者を二騎、其の劔冑の警戒に充てろ。可笑しな真似をしない限り、決して危害を加えるな」

「は、はッ! 了解しましたッ!」

中将の命令を受け、足早に場を去っていく鳥羽。獅子吼は顎に手を当て、予想外の事態に眉を顰める。

「劔冑を保有していらっしゃるとは……どういう事だ」









列車に揺られ、六時間弱。
途中鬼丸が警備隊に見付かるというトラブルもあったが、雄飛は無事、大鳥家本屋敷の前に到着した。

まず雄飛を愕然とさせたのが、土地の広さだ。列車から降り、黒光りしている高級車に乗せられてから数十分後、無駄に巨大な正門が目に入った。
そして其の門をくぐると、立派としか言い様が無い建物が敷地内に所狭しと列挙していたのだ。更に、門から此処に辿り着くまで、“車で”数分掛かったのだから笑えない。

(……すげーな)

雄飛は高級車から降り、暫し呆然と正面の屋敷を眺めていた。敷地内に有った建物の中でも一際巨大で、荘厳な建造物だ。
先程になって雨は止み、今は太陽が燦々と輝いていた。広大な土地に広がる庭木の葉から、溜まった水滴がひたりと落ちている。

<<ふむ、大鳥家か。千年以上経ってもなお、栄枯盛衰の理から逸しておるようだな>>

車の後を自力で追ってきていた鬼丸が、雄飛の横に姿を現す。
劔冑は隠密に優れる。其れは鬼丸にも当て嵌まるが、此処で下手に隠れると、余計怪しまれるだけである。露見してしまっては仕方がなし。雄飛と鬼丸は開き直っていた。
また、周囲には武者達が雄飛を護衛するように囲んでいるが、おそらく鬼丸を警戒しているという理由も多分に含まれるのだろう。

数人の六波羅兵士に先導され、雄飛は劔冑と共に、屋敷の中に入っていく。

(玄関だけで、おれの部屋の何倍あるんだよ、これ……)

正面には大階段。果てし無く遠い天井には馬鹿でかいシャンデリア。木造建築で統一されている屋敷内は派手さこそ感じさせないが、とにかく広い。
もう何度目の驚きだろうか、捻りのない例えを思い浮かべた雄飛は、少し嫌気が差していた。

「貴様らは下がれ」

「し、しかし――」

「二度言わせるな」

「……はッ!」

玄関の奥から現れた男が、冷淡な声で傍の鎧武者に命令すると、此の場は雄飛と其の男、そして劔冑が一領だけになった。
雄飛は正面の精悍な顔付きをしている男を知っていた。新聞で、幾度と無く見た顔だ。

「…………。此の劔冑は、真逆……!」

眼光鋭い其の男は、雄飛の傍に居る劔冑を見た途端、驚愕の表情に変わり、左目のみを見開いた。

「……そうか、そういうことか。ク……クックックッ! ……悪くない、悪くないではないか!」

紫の鋼を観察し終えた男は、合点がいったのか、独りでに嗤い出す。
其の表情は実に不気味であり、雄飛と鬼丸は困惑する。

<<気味の悪い男だ>>

(……ああ)

「……失礼致しました。雄飛様、私は大鳥獅子吼めで御座います。御身を戴く日を、一日千秋の思いで心待ちにしておりました」

「…………」

大鳥獅子吼。六波羅の頂点に位置する男。
而して、其の男が自分に接する態度は極めて丁寧である。雄飛は複雑な思いを抱いた。

「おれは、新……いや、雄飛です」

「はッ」

「えーっと、此の劔冑の事を、知っているんですか?」

「其の前に、雄飛様。真に僭越ながら申し上げます。貴方様は先々代御当主の嫡男にして“たった今から”大鳥家当主となられる御方。私めなぞに斯様な口調で接する必要など微塵も御座いませぬ」

「……は……わかった」

「ご心配召されぬよう。不肖ながら此の獅子吼、我が身命に懸けて雄飛様が“立派な”御当主に成られるために奮迅致します故」

「は、はぁ」

「……其の覇王の如き劔冑。銘を鬼丸国綱とお見受け致します」

「あー、そうだ」

「天下一名物である其の劔冑が雄飛様を仕手と“見做している”とは……。流石、流石で御座います。先々代御当主の血脈、改めて感服仕りました」

「…………」

「悪くない。悪くないぞ……!」

予期せぬ事態に歓喜するかのような獅子吼の呟きが、雄飛には印象的であった。



[35897] 陸話 秋空
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:37
秋空



―――空から魔王が降りてくる。
銀色の星が墜ちてきて、誰も彼をも殺してしまう。

< 数週間前 伊豆 堀越公方府 >

其処は、地獄であった。
大和の経済を一手に担う伊豆。其の地を束ねる堀越公方府に、狂乱の渦が巻き起こっていたのだ。

広大な公方府には、死屍累々の如く、数打の屍が至る所に遍在していた。其の様は、見る者に戦場を想起させる有体である。

……而して、其の実。此処は戦場とは到底云えぬ場所であった。
戦場とは、如何程戦力差が歴然だったとしても、互いに武と武をぶつけ合い、己の命を賭けるもの。
其れが戦。其れが常。

然しながら。其の常識は、一領の劔冑によって、いとも簡単に破壊されていたのだった。

精根尽き果て、倒れ伏せている九○式竜騎兵ら。
武の象徴たる竜騎兵は、最早見る影も無く。
息も絶え絶えに、二十ばかりの武者は皆一様にして、寒空の下、大地に其の身を委ねていた。

眼前に広がる朽ちた同僚達を憐れむ余裕もなく、辛くも無事であった兵士の一人は、今現在、己に向けられている“暴力の塊”に怯え、震えている。

兵士の正面には、真打の劔冑が一領。
茜色に染まった空を背負い、悠然と佇む女王蟻。其の劔冑の鉄肌――“銀色”の鋼が落陽に照らされ、眩い輝きを放っている。
其れは、まるで欧州画家らの絵画のような幻想的な光景であった。見る者を魅了して止まぬ魔性の劔冑。銀の劔冑。

其の劔冑が、有無を言わさぬ圧倒的な武で、周囲の竜騎兵らを灰燼に返していたのだ。

銀色の魔王は、まるで円舞曲ワルツ)の様な優美な所作で、今にも攻撃を開始せんと、予備動作を行う。
緩やかに左足を天へと突き上げた魔王は、全身を発射台へと変貌させる。

兵士は喉を鳴らすと、無駄な抵抗だと知りつつも、来たる武の襲来に備え、構えた。

<<天座失墜フォーリンダウン)――>>

魔王の右掌が、禍禍しい瘴気に覆われてゆく。思わず平衡感覚を失うかのような“圧力”が其処から発せられ、相対している憐れな武者の脳を揺さぶる。

<< 小彗星レイディバグ)―――>>

其れは、魔王を武の極と至らしめる、絶対無欠にして至高の技。

天賦の才を持つ仕手と、理から外れた劔冑が織り成す、死の輪舞曲ロンド)

そう、此処は戦場ではない。『狩場』なのだ。
魔王が満足するまで決して幕が閉じぬ、戯曲なのだ。













<<―――投球版ピッチング)ッ!!>>



<<……ぐぼぁぁッ!!>>



つまるところ。



<<む? また捕手が吹っ飛んでしまったな。では、今ので壱正球ワンストライク)>>



―――――野球、であった。



<<次は文字通り、消える魔球でも投げてみるとしよう。途中で破裂するから絶対に打てんぞ>> 

其れも全員劔冑着用の。

<<……御堂、其れでは勝負にならんのではないか?>>

<<ふむ、其れもそうか。あ、空気摩擦で燃える魔球もいいな>>

大分宇宙アストロ)風味な。

<<か、勘弁して下さい……長庚局ゆうつづのつぼね)様>>





「ありゃりゃ、こりゃまた酷い」

バッターボックスで涙目になっている兵士の懇願が、遥か後方の壁に激突し、ミットを持ったまま気絶している武者への鎮魂曲とばかりに響き渡ったと同時に、呆れているような、それでいてとても楽しげな声が上がった。
広大な公方府の中にある模擬訓練用広場――今は白線が引かれて球場と化しているが――に、一人の少女が姿を見せたのだ。

其の少女の名は茶々丸。伊豆を掌握している堀越公方にして六波羅幕府竜軍中将、足利茶々丸其の人である。
半蝦夷ハーフドワーフ)を彷彿とさせる金髪を靡かせている少女は、右手を水平にしたまま額に当て、球場の惨劇ぶりを心底興味深そうに眺め始めた。

ややあって、マウンドに立っていた銀色の劔冑が少女に近寄り、声を掛ける。

<<茶々丸か。物は試しとやってみた全身装甲野球フルアーマーベースボール)、中々どうして興があるな。さて、人員を追加してくれ>>

銀の劔冑は、周囲に広がる屍――勿論死んでいないが、なぞ一顧だにせず、まるで醤油が切れたから新しいのをくれ、とばかりに、軽い調子で破天荒極まる要求をした。
其の要求に茶々丸もまた、あいよと、軽妙に応えると、両手でパンパン、と音を立てる。
すると、傍で控えていた侍女が新たな生贄を追加すべく、兵舎へと走り去って行った。

一旦中断と見做した銀の劔冑は、装甲を解く。
硬い金属音が鳴り響くと、女王蟻を模した劔冑、二世村正と、長庚局――湊斗光が姿を現した。

後ろで束ねている藍の髪、純白の欧州式衣服に身を包んだ少女、光。凛とした表情は見る人間に活力を与える。茶々丸は光の顔を満足そうに眺めた後、此処に足を運んだもう一つの目的を消化する事にした。
先日己の探知機能みみ)で聞いた、或る事件についての話、である。

「ねえねえお姫。ウチの宝物庫に入ったりした?」

まだまだ暴れ足りないのか、早くも次に向けて準備体操を始めた光に、茶々丸が声を掛ける。

「うむ! 確かにおれは倉の中に入ったぞ!」

威風堂々と答えた光。此処までは想定内、お姫には何処でも入っていいよ、とは言ってあるし――と考え、茶々丸は問を重ねる。

「……其処に有った鬼丸っち知らない? 行方不明つーか、見当たらないんだけどさ。
……てか、お姫がなんかやったと、あては疑っているのだけれども」

「うむ! 確かにおれがなんかやったぞ!」

屈伸運動をしながら、待たしても元気の良い答えが光の口から飛び出した。気持ちが良い返事は本来ならば好ましいものだが、今回に限っては逆に不安である。
茶々丸の額からうっすらと冷たい物が流れる。

「…………何やったの?」

というか何故、光という人間は此処まで悪びれもなく、自由奔放な振る舞いをするのだろうか。
基本的に礼節の通った人間なのだが、一度暴走すると手が付けられないのが光だ。
茶々丸は犇々ひしひし)と嫌な予感がした。
嗚呼、神様――は止めておこう。兎に角何かに縋りたい心持ちである。

「こう、ピリっと、辰気を当てた。そしたら勝手にどっか行った」

「―――――――――――」

予感的中。流石である。期待を裏切らない。

「なっ」

「な?」

茶々丸は眼を見開いた後、これ迄溜めに溜めた鬱憤を今こそ晴らさんと、光を見据え、息を吸い込む。

「何をするだァーッ! ゆるさんッ!」

「ハッタリぬかすなよーッ! 金持ちのアマちゃん!」

而して、哀れ茶々丸の糾弾は、あっさりと掻き消された。
まあ幾ら叫んだ所で、茶々丸が光に手を焼かされるという関係が変わる訳ではない。
方や傍若無人な型破り者。方や生粋の被虐主義者(自分が認めた人間限定)。
見方によっては此れほど相性が良い二人も居ないだろう。当人には堪ったものではないが。
被虐主義者は溜息を吐き出すと、暴君への抵抗を試みる事にした。

「……はぁ。お姫はいっつもそうだ。この前も倉二棟ぶっ壊したしさ。それに昨日、文明堂のカステラ、あての分まで全部食べたし」

両指をイジイジとこねくり回している少女は、とても大和を統べる六波羅の竜軍中将には見えない。そんな姿を見て、やはり可愛い生き物だな、と光は頬を緩めるのであった。

「まあそう拗ねるな。少しばかり鍛錬に身が入り過ぎたのだ。其れにカステラは、お前が好きなだけ食べて良いと言ったではないか」

「確かにそういったけども! 十箱も一気に食うなんて有り得ないっしょ!」

「いや、余りに美味かったのでな」

「うっうっ。お姫の暴虐っぷりに、涙をちょちょぎれさせる茶々丸であった。ぐすん」

此処ぞとばかりにいじける茶々丸を尻目に、光はくつくつと笑うと、先日聞き及んだ“今最も関心のある物”についての話題を振り直す。

「其れで、あの劔冑の事だが」

「うん、鬼丸っちっしょ? 前も言ったけど、何百年もの間、うんともすんとも言わねーからってんで、ウチの宝物庫で預かってた劔冑だよ。いや~、真逆動いたなんてね。おじじが知ったら仰天してから昇天すんじゃねーかな」

拗ねた姿は完全にポーズであった茶々丸は、ケロリと面を上げ、おじじ――足利護氏が天に召される姿を思い浮かべ、からからと笑う。
其れ程までに“有り得ぬ”事なのだ。あの劔冑は唯の鑑賞用、代々天下五甲と称されていたから壊さずにいただけの骨董品のような物なのである。
しかも唯の美術品なら兎も角、“仕手を認めぬ”劔冑なぞ、物笑いの種にこそ成れども、何の役にも立たぬが今の時代。乱世を闊歩せんとする足利護氏が、件の”骨董品”を後生大事にする筈もなかった。
そこで、無碍に扱われるのならと、茶々丸が堀越で預かるようにしたのであった。

茶々丸は、”同心”と光にだけは優しいのだ。

「にしてもどうすっかなぁー、バレたらおじじはともかく雷蝶のやつはうっせーだろうなぁ」

己の大願を果たす時まで、不安の種を抱えたくない茶々丸にとって、この状況は少々好ましくない。余計な事をしてしまった、と自分の行動をそこそこに悔いた後、何かしら手を打っておくべきか思案する。

「(とにかく情報収集だな)んで、どやって動かしたの?」

「なに、卵を植え付ける要領でな」

「あえ? でもでも、三世村正の野太刀は全部変えたんじゃなかったの?」

「ああ、そうだ。だから二世村正のを、少しばかり」

<<……全く、良い迷惑だ>>

「なんで其処まですんの? “診た”ところホントにちょっぴりみたいだけど、態々身を粉にしてまで、鬼丸っちを動かす義理なんてないじゃん」

「ふっ。鬼丸国綱だぞ? 天下五甲の一つだぞ? 此れほど戦ってみたい劔冑もない」

「あ、そうですか……」

「其れに、お前は先日こう言っていたではないか。最近、今にも動きたいと足掻いているようだと。だから手助けしてやったのだ」

「…………んー、そっか。まぁ鬼丸っちも、倉で埃かぶってるよりは嬉しいかね」

茶々丸は空を仰ぎ、鬼丸の事を思い出す。己の能力を持ってしても、大した会話は出来ぬままであった。
なんとも身持ちが固い劔冑――いや、鉄の処女アイアンメイデン)というべきか。
というのもあの劔冑は、仕手にとって最悪な陰義を持っているらしいのだ。飽く迄古書に記述があったのみで、詳細は知らぬが。

鬼丸を此方に寄越してから、何故仕手を受け入れぬのか、暇つぶしに聞いてみたことがある。
返ってきたのは、なんとも滑稽な理由であった。

「ふーむ、にしても一体何処に向かったんだろね。あの劔冑を動かせる人間なんていんのかな?」

「心配無用だ! 此れは勘だが、もう既に仕手を見つけているやもしれん」

「……お姫の動物的勘は侮れないけど。あてとしては、いらん心労は増やしたくないっつーか。バレたらヤバいし……。そこんとこ、どう責任取ってくれるんでやがりますか」

夕星ゆふづつ) も 通ふ天道あまじ) を いつまでか 仰ぎて待たむ 月人壮人つくひとおとこ)

「来るべき逢瀬、楽しみだな……」

「聞いてねえし!」



-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------



< 会津 大鳥家邸宅 貴賓室 >

舞台は戻り、大鳥家邸宅。獅子吼は鬼丸についての簡単な説明を終える。

「……つまり、雄飛様の劔冑は堀越で保管されていたものなのです。今まで名高い武人が幾人も試し、そして反応を示さなかった劔冑……」

「…………」

来賓室の椅子に腰掛けつつ、話を聞いていた雄飛は、隣に居る劔冑に目をやった。
――ここ最近目まぐるしい事が起こりすぎていたため気にも留めていなかったが、まさか其処まで特殊な劔冑だったとは。

「先々代御当主も、非凡な才の御仁でありましたが……。雄飛様、一体、どの様な経緯で其の劔冑と縁を結んだのか、伺っても宜しいでしょうか」

「ああ、えっと――……ッ」

答えようとした矢先、雄飛の頭が揺れた。
貧血のような倦怠感が襲い、思わず椅子から崩れ落ちそうになる。

「雄飛様ッ」

「ッ、大丈夫」

やはりまだ本調子ではないらしい。が、此処で弱音を吐いても始まらない。
雄飛は話を続けようと椅子に座り直す。

「……大変失礼致しました。とにかく今はお休みになられて下さい」

「いや、おれも聞きたい事が――」

「御自愛下さい。御身は大鳥にとって無くてはならぬ存在。御話は明日にて」

聞く耳持ぬ口調で一方的に話を切り上げた獅子吼は、脇に置いてある無線を手に取る。

「おい、雄飛様を御案内しろ。其れと医療班を直ちに準備しておけ」





有無を言わさず連れて行かれ、強制的に寝かされ。其の後学校の健康診断とは比べ物にならないほど綿密な検査を終え、また就寝。
やはり影響が残っていたのか、本日二度目の就寝も難なく成功させていた雄飛が、漸く目を覚ます。

身を起こして目を開けば、シンと静まった室内が広がる。
想像とは違い、この部屋は簡素な造りであった。調度品は何やら高級そうな雰囲気を匂わせているが、全体的に派手ではない。一言でいえば居心地の良い洋室、といったところか。
部屋を眺めていると、ふと、小夏と過ごした木造住宅を懐かしく感じた。自分はもう別の場所で暮らすのか、と改めて思う。そうして暫し、あの頃に想いを馳せる。

頭の中に、小夏達との思い出が広がる。だが、最後に脳裏を満たすのは、あの光景。
色を失った目。跳んだ四肢。救えた筈の、己の半身。

「――ッ」

雄飛は奥歯を噛み締めると、思い切り両手で頬を叩いた。
そうして勢いよく起き上がり、もう一度気合いを入れ、完全に気持ちを入れ替える。

大窓の外を見れば、もう完全に陽が沈んでいた。窓に映りこんでいる己の顔は、数日前とは別人だ。

寝間着を脱ぎ、学生服に着替える。何やらあの男が衣服を用意してくれているようだが、やはり自分には此方が性に合うのだ。

上着のボタン)を留めながら、室内の隅に視線を向ける。其処には微動だにしない巨大な鉄塊があり、見事に部屋と調和していなかった。

「なあ、さっきの話、本当なのか?」

着替えの手は止めず、己の相棒に問い掛ける。
よくよく考えれば、やはり不可解な劔冑であった。

<<肯定>>

「……何でおれを選んだ? そもそも何であの時、あの場所に現れたんだ?」

他にも聞きたい事はある。だが、やはりこの二つが気になって仕方がない。
余りにも――都合が良すぎるのではないか?
まるで漫画のような話だ。自分は選ばれた勇者だから、等と子供のように納得できるわけもなく、やはり何か理由があるのだろうと思う。

<<回答の必要無し。其れは、自ずと御堂自身が知ることになるだろう>>

「……?」

期待とは裏腹に、返ってきたのは腑に落ちぬ言葉であった。答える気はない、という事なのだろうか。雄飛は追及すべきか迷ったが、結局止めておく事にした。己を助けてくれた劔冑に猜疑の目を向けるなど、馬鹿馬鹿しいと思い至ったからだ。
もし何か事情があっても、自分の目的には関係ない。

<<最も、何故自立行動を取れたのは、吾も完全には解らぬがな。だが、些事に構うよりも、成すべき事を成す、其れが重要ではないのか、御堂>>

「……そうだな」

そう、其れだけが重要。やはりこの劔冑もまた、性に合う。
雄飛は改めて顔を引き締め、最後の鈕を留め終えた。

と同時に、扉を叩く音が聞こえてくる。

「雄飛様、夕食の準備が出来ましたので、御案内致します」





< 会津 大鳥家邸宅 食堂 >

執事に案内され、扉が開かれる。すると、雄飛の瞳に一人の女の姿が映った。
貴族を想起させる華やかなドレス。腰まで伸びている二つ結びの黒髪が、シャンデリアの眩い光によって、微かに煌めいている。背丈は自分より少し低い。整った顔立ちをした其の女は、まさにお嬢といった風貌である。

だが、雄飛は女の外見など直ぐに頭の隅へ押し遣ってしまった。
そんな事よりも――女が自分に向けて魅せた笑顔が、少年の心を掴んだのだ。

「雄飛くん」

女の口から、自分の名が零れる。何故なのだろうか。あの時と同じ感覚。
自分は無条件で愛されている。そんな感覚だ。
何故こうも、慈愛に満ちた目を己に向けるのか。雄飛の心臓は早鐘を打ったように激しく動き、目の前の女に魅入られる。

「月並みな言葉だけど、大きくなったね……本当に」

「……あ、貴方は?」

澄んだ瞳に目を奪われたまま、雄飛は尋ねる。
其の瞳の色は、昨日出会った女性――香奈枝と酷似していた。

「覚えてないのも無理ないよ。私は花枝。雄飛君の婚約者」

「……こんやくしゃ?」

女――花枝の言葉を聞いた途端、雄飛の思考が停止する。
口から出したのは、ただ鸚鵡返しのように反復しただけだ。

「そう、婚約者」

「えっとすみません正直理解が追い付いていないっていうかそもそも婚約した覚えがないというか」

「許嫁」

「あそうですかつまり親が決めた結婚という事ですねなるほど」

「フィアンセ」

「いえもう大丈夫ですわかりましたから」

「one's betrothed」

「いい発音ですね英語は解りませんけど意味の予想はついてますからもう理解しましたから」

思考が停止したまま、雄飛は訳のわからぬ言葉を喚く。其の様を見た花枝は、視線を雄飛に固定したまま、顔に微笑をはだ)いた。

「くく、雄飛君は面白いね。突然こんな事を言われても納得できないだろうけど、とにかくまた雄飛君と会えて嬉しい」

「はぁ……」

無い頭を必死に稼働させてみても、やはり花枝との記憶はない。
物心ついた頃には――いや。そういえば。自分の最も古い記憶では、既に来栖野家で小夏と出会っていた……。
何故だ? 何故自分は、幼少の頃の記憶がない……? 幾ら何でも、“七歳”以前の記憶が微塵もないというのは、余りに不自然ではないか――?

「失礼。雄飛様、御体は問題ないでしょうか」

自分の記憶に疑問を抱き始めた雄飛の意識を覚醒させたのは、背後から聞こえた男の声であった。
振り返れば、見知った姿が。

「チッ、うんこ野郎か」

「……あれなんか幻聴が聞こえたような気がする」

「おいうんこ野郎。お前はどっか行け。私は雄飛君と食事するんだ」

「…………貴様」

「あ、やっぱり幻聴じゃなかったなんでおれの人生で会う女の人って皆こんな感じなんだろう」

獅子吼は花枝をひとしきり睨みつけた後、部屋から出て行った。まるで射殺さんばかりの眼光。花枝と獅子吼には何らかの確執があるのだと、雄飛は判断した。
雄飛が席につくと、純白のクロスが掛けられた長机に、次々と料理が運ばれてくる。
目の前に置かれた鉄の棒は、ナイフとフォーク、というやつだ。とりあえず手に取ってみるも、さっぱり使い方が分からない。
当然だ。大和の平民にとって、箸以外を使う機会など全くないのだから。

どうすればいいのかわからず石像の如く固まっていると、正面――長机の対角線上に座っている花枝が、給士に箸を持ってこさせる。
彼女の心遣いに安堵し、やはり優しい人なのだなと思う雄飛であったが、先程垣間見た本性――なのだろうか、とにかく衝撃的な言葉遣いを忘れる事は出来そうにない。
なんとも微妙な雰囲気の中、黙々と料理を口に運ぶ。

雄飛は生まれてこの方、芋や玄米、小魚以外の食べ物など、碌に食べた経験がない。
付け加えるのなら、化学調味料満載の芋サイダーぐらいであろう。
そんな雄飛にとって、目の前の料理は全て新鮮であった。
余程高級な食材なのだろう。給士の説明はさっぱりわからないが、何やら名称の長い料理を次々に平らげていく。
この高級な食事も、六波羅のように大和の人々の犠牲の上で成り立っているのか――と、引け目を感じたが、体は自然と飯を食う。

気が付けば、最後の一口を胃に飲み込んだところであった。

腹が膨れ、椅子の背に凭れ掛かる。行儀が悪いのだろうが、長年培ってきた来栖野家作法をいきなり変える事は難しいものである。

正面の花枝は食事の手を止め、己の顔を微笑みながら眺めていた。
口に食べかすでもついているのかと顔をぬぐうと、花枝はさらに笑った。

何となく気恥ずかしくなったので、辺りを見渡す。
見れば、物々しい装備の兵士が数人、自分を取り囲むように整列しているのに気付く。

――獅子吼はわたしが雄飛君を“排除”するのを警戒しているんだよ

雄飛が怪訝な表情を兵士に向けていると、花枝が事も無げにそう言った。
折角の食事が不味くなるけど――と付け足した後、花枝は其の言葉の意味を雄飛に語る。

政敵。
其れが雄飛と花枝のもう一つの関係であった。

花枝は淡々と事実を述べる。大鳥家の家督騒乱について。
花枝の父が雄飛の父を殺した事。そして雄飛の父の部下――獅子吼が花枝の父を殺し、花枝を仮初の当主に据え、敬愛する先々代当主の血脈を持った雄飛を当主と仰ぐべく画策していた事。
つまり、花枝にとって――雄飛は己の地位を脅かす敵、という訳である。

雄飛は其の事実を聞き、呆然とした。
其処まで血生臭い争いが起こっていたなぞ――しかも自分は覚えてすらいないとは。

理解が追い付かぬまま、雄飛は花枝に問う。周囲の兵士らなぞ忘却の彼方に去り、唯純粋に。

――おれを“排除”するんですか?

雄飛の言葉を聞いた花枝は、目を丸くした後、ゆっくりと首を横に振るのであった。




< 同時刻 小村 >

華が咲く。紅い鉄が、更に紅く。
狂おしいほど鋭い刃が、娘の首を撥ねたのだ。

娘の頭は、隅に転がっていった。


刀を逆手に持ち替える。
切っ先は幼子の胸へ。

鬼の凶刃が、幼子の胸を貫く。


一体誰がこんな事を? 
鬼が。

一体何故?
殺したから。

其れは可笑しい。理に合わぬ。

殺したから殺すなぞ――。

鬼は刀を振り上げると、幼子の細い首を撥ねた。
哀れ蝦夷の娘らは、仲よく首を撥ねられたのだ。

誰に?
悪鬼に。

何故?
殺したから。


仮初の安らぎを、自ら血沼と化した悪鬼。
鬼は其の場を後にした。次なる華を咲かせるために。

「…………ヒヒ」



[35897] 柒話 修養
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:42
修養



竹刀を振り上げ、全身全霊で振り下ろす。意識を全て、其の所作に費やす。

二千九百九十八。

鉛となった両腕は、三千を超えてから赤黒くなっている。血管が破裂しているのか、それとも酸素が足りぬのか。

二千九百九十九。

微かに空気を切る音が道場に木霊する。気力は十分。だが、身体はとっくに限界を超えている。

三千。

目標数を達成した途端、腰が崩れ落ちる。尻が道場の床に激突し、軽く悶絶したまま大の字に寝転がる。

――雄飛が大鳥家に来てから、既に六日が過ぎていた。

この六日間は、鍛練の記憶しかない。心も技も知も、全てを鍛えるのが現在成すべき事。
休んでいる時間さえも惜しい。こうしている間にも、“理不尽”は存在するのだから。

雄飛は荒い息を吐き出しながら道場の天井を眺め、小夏の仇――紅い武者の姿を思い浮かべる。

其の姿は靄がかかったようで朧げだ。想像上の魔物のような――だが確かに存在する悪。
獅子吼に頼み込んだ紅い武者の調査も、まだ成果を出していない。分かっているのは、其の武者が全国に出没し、“英雄”のように振る舞っているという噂のみ。

雄飛は唇を裂けるほど強く噛み締めた。鉄の味が口を満たす。

英雄。

英雄なら、何故殺した。

実態の掴めぬ紅い武者の姿を想像すると、“殺意”に蝕まれそうになるのが常。
まるで、下の裏側に苦渋が湧くような、不快な情操。

意趣遺恨。

四肢を失い、心も壊れた小夏の首を――

不倶戴天。

――其の武者は撥ねた

何の抵抗も許さぬまま。慈悲もなく。理不尽に。
許せるものか。如何なる理由があるにせよ、到底許せぬ。

だが――

雄飛は掴んでいたままの竹刀を両手で掲げ直し、眼前にやった。
握りしめた掌の中は、早くも血豆が潰れている。


既に日課となった三時間弱の早朝鍛錬。基礎中の基礎である。
焦りはある。本音を言えば、一瞬で己の目的を果たせる力を渇望してやまない。
然し、其の様に夢想し戯言を喚いて、何が変わるというのか。
武の道は、一日にして成らず。為れば己の道程を、無我夢中で往くのみだ。
況して目指す山の頂は、武人だけに非ず、という途方もない境地なのだ。

臨終間際のような疲労感を、確固たる活力を持って振り払う。
そうして雄飛は立ち上がると、直ぐ傍の鬼丸から治癒されつつ、次なる鍛錬の場へと足を向けた。





大鳥家本宅を少し歩いたところに、敷地内には珍しい大和建築の離れ座敷がある。
松の木が周囲の庭園を彩り、風情を感じさせる小池と、鹿脅しの小気味の良い音が響く離れ。雅に、勉学には打って付けの空間という訳だ。
余談であるが、広大な大鳥家に列挙する建造物がこの場を除いて西洋建築なのは、代々大鳥家が諸外国――主に欧州との結び付きが強固であった事に起因する。
然れども、現在においては、大陸の情勢、大和と英の確執などにより、連携網は風化寸前であるが。

雄飛は庭道に沿って歩き、離れの縁側へと向かう。其の足取りは些か重い。
少年にとって、どうにも此の道は好きになれないのだ。
昨日は、朝から国民科―大和史を夜通しで学び、一昨日は理数科と“特別講師”を招いての帝王学。
雄飛にとって、学ぶ事は必須だと頭では解っていても、勉学に励んだ経験が皆無なのは辛いところだ。生まれ持った性分なのか、否応なしに身体が拒否反応を示してしまう。

そんな自分の不甲斐無さに嫌気がさしつつ、雄飛は深呼吸してから襖に手を掛けた。
さて、今日は何の授業なのか。出来れば群を抜いて息苦しかった帝王学だけは先延ばしにしたいのだが――

……的中ビンゴ)。どうやら当たりを引いたようだ。
襖を開いて見れば、和服に身を包み、神経質なほど背筋を正しく伸ばしている獅子吼が、此方に向かって慇懃な会釈をしていた。
雄飛は一昨昨日に習得したばかりの礼儀作法に乗っ取り、此方も会釈を返す。十○五度で、一拍置くのが重要である。
丸眼鏡に紳士然とした髭が印象的であった理数科講師を懐かしみながら、雄飛は座布団に座った。



「では僭越ながら、本日の講義を開始致します」

獅子吼――この部屋に置いては師――の明瞭な声を皮切りに、雄飛は壱語一句漏らさぬよう集中する。

「今日は科書を用いませぬ。雄飛様、先ずは昨日の復習を。現代大和史の概略について、簡潔に述べて頂きたい」

「……えーと。大和の歴史が大きく変化したのが、八年前、国記2992年の、国際連盟軍との戦争。
で、戦争開始2年で、九州、中国地方が侵略され、首都の京都も壊滅。
それで……軍事組織だった六波羅が、帝国議会の承認を待たず、独断で連盟軍と終戦協定を結んだ、以上」

「では、六波羅幕府設立に伴う概略を」

「六波羅の降伏に、国際連盟軍が提示してきた条件は三つ。
一。六波羅は連盟軍と共に速やかに国内の騒乱を治める事。なお、其れが成されたのなら、大和の統治権は六波羅に委任する。
二。貴族院、衆議院の廃止を確約する事。
三。進駐軍を横浜に置く事。
で、軍事組織だった六波羅は既存の政治体制を武力で崩壊させ、六波羅幕府を開いて、鎌倉に普陀楽山塞を築き、周囲に四公方を起き、関東一帯を軍事基地化した、以上」

「宜しい。さて、其の基本事項を踏まえ、本日は科書に載っていない内容を御話致しましょう」

そう言うと、獅子吼は何時にも増して―実際殆ど変化がないが―顔を引き締めると、雄飛の眼に視線を合わせる。

「そも、雄飛様は六波羅の取った行動を如何様にお考えか」

「…………」
獅子吼の唐突な問いに、雄飛は僅かに巡回する。
此の問いは即ち、獅子吼らの取った行動をどう思うか述べてみろ、という意味。

「取り繕わず、率直に述べて頂いて構いませぬ。例え間違った認識でも、私が矯正すれば良い話」

「昔――鎌倉に住んでいた頃は、裏切り者、って考えてた」

「当然でしょう」

「だけど今は、まだ判らない。周りがこう言っているから、教師がこういっているから。そうやって流されてんじゃ、本質が見えない。
とにかく自分の判断を下すには、まだおれは無知すぎる。よって、判らない」

「今は其れで良いのです。己が生兵法を認め、研鑽に臨むという想念は、其れだけで万人には出来ぬ事。
上に立つ人間で最も厄介なのは、己の衆愚を認めず、権力を笠に切るだけの能無しです。中には気付いてすらいない阿呆もおりますが」

獅子吼は目に入れるだけで気分の悪くなる、毒々しい厚化粧の大男を想起しながら言った。

「王者には、全てを己で決断する事が求められます。知識、経験、大小様々な材料から正確かつ最良の答を見出さねばなりません。
こうして私が直に講師として馳せ参じているのも、どこぞの者に任せ、間違った認識を植え付けられる事のないようという想いからで御座います。
雄飛様が御立派に成られるまでは、此の獅子吼めが雄飛様に“材料”を提供させて戴きましょう。そして、然るべき時、其処から御自身で思考し判断する域へと達する事が私の望み」

「さて、先ずは裏切り者、という言葉について。成程、概ね間違っておりませぬ。
大和国民の大半は、六波羅に反感の念を抱いております。尤も、我ら篠川軍が鎮圧して以来、目立った反乱こそ皆無ですが。
国民が六波羅を怨嗟の的とする理由は言わずもがな。
では、そもそも何故我ら六波羅が祖国を裏切り、一時的とはいえ、あの忌々しい欧州の白人共に遜ったのか。雄飛様」

「……そうせざるを得ない理由があったから」

「然り。連合軍との地力の差は歴然でありました。戦を続行しても、敗戦は必至。
武人ならば、玉砕覚悟で特攻するのが本懐というものでしょう。
然し、我ら六波羅が背負うは大和という国其の物。各々の矮小な自尊心を満たすため、民を、国を見捨てるなぞ、愚行という他ありませぬ。
であるからして、忸怩たる思いで、あの降伏に踏み切ったのです」

「……なら、なんで帝国議会に無断で、勝手に和平したんだ。其の後、獅子吼の言う“守るべき民”を、何故六波羅自身が害したんだ? 矛盾してる」

「――――」

獅子吼は目を見開くと、口元を歪ませた。

「くっくっく。……失礼。鋭い指摘です」

「六波羅は自分達が絶対的な権力を握るために、連合軍の手先になったんじゃないのか?」

「肯定です。そうした思惑は少なからずありました。特に六衛大将領――足利護氏様は、顕著でありましたな。
くっく。私ののたまう耳聞えの良い綺麗事に流されず、確かな目をお持ちだ」

「なら―「ですが六波羅も、本懐ではなかった事は事実。統治者トップ)がどうであれ、兵は、少なくとも篠川軍の兵士は。民のために尽力し、そして国家に人命を捧げた者以外おりませんでした」

「そして其れは、此の獅子吼にも当て嵌まる。此れだけは理解しておいて頂きたく」
獅子吼の厳とした物言は、本心以外の何物でもないと雄飛に伝える声色であった。
雄飛は決まりの悪い顔で、嫌々ながらも納得する。一つ、悪と確信していた六波羅の認識を、訂正する事になったのだ。

「さて、話を戻しましょう。何故六波羅が国家を裏切ったのか。
雄飛様、当時の大和民は、御自身の目からみて、如何なる様子でしたか?」

「暴動寸前……」

「其の通り。そして其れを可及速やかに鎮めるためには、武力を持って事に当たる他ありませぬ」

「――そんなことは「否、他の手段はありません。暴漢に説いて言い聞かせる事なぞ、夢想家の戯言でしかない」

「な―」

「もし百歩譲って可能だとしても、其の手段では時間がかかりすぎる。其の隙を、進駐軍が黙って見過ごす筈がない。
また、戦で恐慌寸前であった議会を残しておけば、連合軍に媚を売り、そして国すらも売る蛆虫共が際限なく湧く。
あの状況下、混乱した民を律し此の国を存命させるには、独裁政権以外では不可能だったのです」

「……もし大和が連合軍に全面降伏していたら?」

「私情を抜きに申し上げます。
其れは欧州人による大和植民地化を意味します。そして其の後に続く弊害こそが、大和という国の完全な崩壊。
彼奴等は我々黄色人種を、人間と認めておりません。白人至上主義を躊躇わずに遂行する背景には、宗教という免罪符が根底にありますな。大義名分を得た白人は、嬉々として大和民を嬲るでしょう。
仮に、平和的譲歩で連合軍が国民に平和を齎そうが、其れは一時の仮初に過ぎぬもの。
大英連邦の日本占拠―其れに伴う包囲網完成に危機感を募らせた露西亜が、連合軍に宣戦布告するのは火を見るより明らか。
忽ち、大英連邦支配下の最前線である大和は大戦の主戦場となり、土地も民も業火に焼かれ、最後には枯葉も残さぬ地獄となる」

「…………」

「どうか雄飛様には、“先々代”当主のような目先の餌につられる虚け者を他山の石とし、御父君である時治様を倣っていただきたい。
時には、己の手を汚し、兵を、民の犠牲を厭わなければ、真の平和なぞ手に入らぬのです」







行幸。行幸だ。

獅子吼は今日付けの案件を全て片付け、ひとり、執務室でほくそ笑んでいた。
篠川軍を束ねる竜軍中将は、多忙を極める。無数の案件を処理し、設備、兵站の受注に、諸外国の動向にも目を光らせておかねばならない。
更には、“一七連隊新兵器)”の軍備も間近。やるべきことは山程ある。

だが、斯様な一分一秒無駄にできぬ職務を削ってまで、獅子吼は雄飛の“教育”に出向く。
何故か? 其れは獅子吼の個人的な想いだけでなく、大鳥家―ひいては大和の未来に、雄飛の成長が必要不可欠であるからだ。

大和は、未だ前代的思想が根強い国である。能力至上主義なぞ、この地では流行らない。
上に立つ者は、大前提として、正統なる血脈を持った人間でなくてはならぬのだ。其れが兵の忠誠、民の信頼に繋がる。無駄飯を食らうだけの鉄漿おはぐろ)共を態々存命させているのも同等の理由である。

幾ら職務を十二分に全うし、国家のため日夜帆走しても、所詮獅子吼は拾われた身。
規律を持って兵を律し、恐怖を持って民を律する事は出来ても、其れでは自発的忠誠を促す事は出来ようもない。何時か大きな綻びを見せるだろう。
傀儡として血脈者を据えても、とどのつまり同じ事。愚にもつかぬ痴れ者を当主に据えたままよりかは無難であろうが、最善ではない。



獅子吼は少年の姿を、頭に描いた。

予想を遥かに超えた、尊敬に値する人物であった。
此れは、決してあの人物の息子であるから―などという思考停止の贔屓目ではなく、客観的視点に基づく評価である。

確かに未熟。青い希望を持っているのだとも感じる。
だが、齢を鑑みれば、育った環境を鑑みれば。其れはどうというものでもない。
寧ろ同年代に跋扈する、自分では何もせず、不平不満を言うだけの腑抜け者とは比べ物にならぬ、確かな信念を持っている。

行幸だ。

あの幼子が――あの死臭漂う大鳥で、「心を喪失した」幼子が。
よくぞ彼処まで立派に育ったものだ。

そうなった原因――来栖野家の尽力も多分にあったのであろうが――鈴川という狂人と紅い武者には、感謝してやってもいいとすら思えてくる。

少年が此処に到着した翌日。彼は己に決意を表明した。
曰く、理不尽を打ち砕くため、大和の民を守るため、自分を鍛えてほしいと。其れも生半可な物でなく、目的を達成するなら睡眠時間すら犠牲にすると言い放ったのだ。

此方としても、何時かは公方職も雄飛に任せ、己は影として仕える事が本望。
渡りに船である。勿論、大和を平定し、“完璧に仕上げてから”だが。

夜分にも関わらず、現在も鍛練を積んでいるであろう少年。
真打である劔冑の仕手は、身体能力の向上に加え、治癒能力を獲得する。
腕一本程度なら、数週間もすれば生えてくるのだ。況して、天下五甲ともなれば、其の能力は人知を脱するだろう。
斯様な恩恵がなければ、此の数日の明らかな過度鍛練オーバーワーク)なぞ、到底認められぬものではないが。それにしても、何とも気骨のある若者ではないか。



獅子吼は雄飛の決意を聞いた瞬間を、胸を熱く燻る想いで思い出す。

幾つもの鉄火場を乗り越え、悪意の満ちた腹の探り合いに身を投じた人生の中でも、あれほど感極まった経験は少ない。
先々代に拾われ、己の全てをあの御方に捧げると誓った夜と同等の震え。

忠義に生きる。其れが宿命。
元来、己は愛国心なぞ無用の男であった。物心付いた頃には既に、銃を手に戦場を這いずり回っていたが、其れは何の思想も持たぬ、唯生きる為、守るための戦い。
だが、唯一の肉親であった弟と逸れ、ちっぽけな理由すらもなくなった。そして、自暴自失し、独り明日をも知れぬ日々を送っていた時。
あの御方が、救いの手を差し伸べてきたのだ。己のような野犬を拾い、大鳥新として取り立てた人物が。

「時治様。御為、必ずや大和を救い、雄飛様を育て上げましょう……」

獅子吼は誰に聞かせるでもなくそう呟くと、ふと、感傷に耽っている己に気付き、苦笑する。

どうにも今日は、夜風に当てられたらしい。
顔すら思い出せぬ弟の事も、今日に限っては気にかかる。

曖昧な弟の影と、雄飛の影とが重なる。
来たる日。精悍な顔付きの雄飛が、大鳥を束ね、大和を導く。そして其の傍には、己の姿が。
斯様な情景を想像すると、夢見の心持ちが胸中を満たす。

同じ血肉で出来た弟と一緒に生き、一緒に戦う。
どうやら己は、そんな心地を味わいたいらしい。

「……下らん。全く、これでは俺も腑抜けではないか」

獅子吼はかぶり)を振り、明日の案件に取り掛かった。





昼の喧噪も露と消え、静寂が包む競技場。
韋駄天の如く駆けた彗星は、鬼の稲妻によって瓦礫と化した。

鉄の無機質な足音が、唯周囲を支配する。

やがて――兄のため生きた皇路操は、其の生涯を闇夜に散らした。



[35897] 捌話 狂気
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:44
注意事項。

此の八話には、一部ショッキングかつグロテクスな表現が含まれています。
そうした内容・表現に気分を害される方は、通読を中止して下さい。





狂気



十一年前。大鳥家の千年にも及ぶ歴史において初めて、内部騒乱が起こった。

兄は民を守るため、武力を以て矛とならんとした。
弟は民を守るため、外交を以て盾とならんとした。


時治と時継。両者の目指す処は同一である。
貴族としての責務を果たすため。即ち大和国民の幸福のため。
だが、目的を達成するための手段――戦争か融和か――を両者合意し統合する事は叶わず、大鳥家の崩壊すらも危険視されるほど、両者の諍いは苛烈を極めた。
兄弟が周囲に及ぼす影響は絶大であった。家督騒乱クーデター)が決定打になったにせよ、其れ以前から既に兄弟は仲違いし、其々の思想に連なる部下達もまた、右派、左派と分断された。

花枝が生まれ、続いて雄飛が生まれた瞬間。
赤子を取り巻く人間――永倉老は、兄弟の仲を取り持つため、二人を結婚させる事を仕組んだ。
兄弟も渋ったものの、どちらも大鳥を二分化したままでは本末転倒だと悟ったのか、合意に至ったのだった。

貴族において、従兄妹同士の結婚は珍しい事ではない。
寧ろ血を慮る大鳥家では、家格の低い余所者を是とせず、積極的に血を重ねる事が尊ばれた。
最終的に、世の情勢から最早一刻の猶予なしと判断した兄が戦争の道へと進み、其れが発端となって数年にわたる血塗れの家督騒乱が勃発したが、終ぞ此の婚約は破棄されず、むしろ今となっては重要視される事となった。

忌わしき過去を払拭する天衣として。二分化された大鳥が、再び統合される象徴として。
獅子吼が幾ら花枝を忌み嫌おうとも、婚約を解消しないのは此れが理由である。



十一月五日。
雄飛は大鳥本宅のテラスで、柵越しに殺風景な建物の群れを眺めていた。
つい先ほどまで、名前も判らぬ数多の人間に、祝賀であると、やんややんや祭り上げられていた。
雄飛にとって、其れ自体は決して不快ではなかったのだが、初対面の人間と幾度となく挨拶と杯を交わすのは、やはりどうにも気を使う作業であった。
また、乱痴気騒ぎに興じたいという心境でもなく。訓練に身を投じたくとも、獅子吼の目が光っている今日に限ってはどうにもならない。

仕方がなしに、雄飛は息苦しい室内を飛び出すのみに留めた。
夜の帳は既に降りている。黒のタキシードを容赦なく通す冷風が、肌寒くも幾らか心を落ち着かせる。

「雄飛くん」

ぼんやりと外を眺める雄飛の背後から、女の声。
背後に居た人物は、今回の慶祝における、もう一人の主賓であった。

「外は冷えるよ。もう十一月だからね」

見目麗しき礼服を着こなし、薄化粧の映える女性が、此方に肩掛けを投げて寄越す。
雄飛は有り難く頂戴し、其れを肩に羽織った。

暫し、両者無言のまま、然れども些か居心地の良い時間が流れる。


「こんな事聞くのもどうかと思うんですけど……。花枝さんは納得しているんですか?」

口火を切ったのは、雄飛であった。

「勿論。此れは大和の未来に繋がる事だしね」

「…………」

「そっちこそ……いや、止しとく」

花枝が言い淀む。

「とにかく、私は全くこれっぽっちも嫌じゃないし、寧ろ望んでいたんだ。此の言葉は本心」

「そう、ですか」

些か安堵し、かつ良心が痛む雄飛。

「わたしに七つ上の姉が居る事は言ったよね。雄飛くんも会ったんだっけ」

「はい。香奈枝さん……ですよね」

「そう。大鳥家じゃ、居ない者として扱われてるけど」

「……あの人が、何かしたんですか?」

「何てことないよ。あのろくでなしは、屑を塵箱に入れただけ」

花枝は自然に雄飛の横へと並ぶと、同じように味気ない光景を眺める。

「私が五歳の時。雄飛君が生まれた。父さんも本心はどうであれ、仲よくしろって頻りに言っててね。直ぐにわたし達姉妹は雄飛君に夢中になった」

「オシメも替えてたね。乳母をどかして、ひっきりなしに面倒みてたから」

「覚えてないだろうけど、其れから数年間、雄飛君とわたし達はずっと一緒に遊んでたんだ。元々、私たち姉妹の周囲に他の子が居なかったってのもあったんだろうけど、ずっと三人で行動してた」

「やがて、大きくなって父さんに真実を知らされた時、わたしは純粋に嬉しかった。姉さんなんか血の涙を流してたね」

「姉さんには、少し引け目を感じたぐらいだよ。まあ、其れから三日三晩、枕元で呪詛吐かれたから蹴り飛ばしたけど」

「其の後、姉さんがキレて、姉さんが欧州に放逐されて、馬鹿な争いが起こって、今此処に至る、ってわけだ」

雄飛は黙って耳を傾けていた。

「随分と脱線したね。じゃあ、わたしは戻るよ。獅子吼の顔といったら、何度見ても傑作だ」

そう言うと、花枝はあっけらかんとした顔で踵を返す。

「ちなみに。今晩も元の部屋で寝ていいよ。其の気があるんだったら別だけど」

「……はい!?」

「冗談だよ。じゃあお休み」

「お、お休みなさい」



<<…………>>

花枝が去って一瞬後、物音一つ立てず、暗闇から巨大な鍬形虫が現れた。
其の眼光は、何時にも増して鋭いような。

「なぁ鬼丸。お前今日、何処か様子が変じゃないか?」

<<……御堂>>

「あ、ああ」

<<余り口煩い物言は控えるが。女に現を抜かし、鍛練の手を休めるなぞ以ての外ぞ>>

「へ? いや、勿論判ってるけど」

<<なら良い。駆航訓練と並行して、明日からは陰義についての訓練を始める。もう休め>>

「了解」

「やっぱ、変わった劔冑だな……」

夜は更ける。









翌日。敷地内の武者訓練場。
青天の霹靂と云わんばかりの日光の下、花枝は“夫”の姿を、目を細めながら眺めていた。

昨日。花枝と雄飛の婚約は正式に果たされ、盛大に執り行われた。
其れは偽りの祝福であった。未だ婚約に反対している家来や狡猾な爺婆共は腹に逸物を抱えたまま、嘘で塗りたくられた仮面を貼り付け、心にもない謝辞を送るのみ。
また、反対せず婚約を是とする人間も、関心事は二人の男女が結婚したという事よりも、其れによって齎される一族の団結に対してのみである。
だが、花枝は周囲の些事なぞ、気にもしなかった。ただ、其の夜限りは一人の女として、少年と婚約したという幸福が全てであった。

大鳥に生まれた者は、須らく其の生き様を決定される。政略結婚もまた、貴族の義務。
其れを考えると、自分の望む伴侶と添い遂げられるなど、何たる慶福であろうか。

花枝は幸せであった。

然し、本来なら幸福の絶頂であろう花枝の顔は、新婚初日のそれではない。
其の顔に笑みはなく、何処か愁いを帯びた表情が、日傘の影に隠れている。

少年の妻は、昨晩の光景を思い出す。
獅子吼らが大和の未来のため必要不可欠であると言い聞かせたのか、雄飛は婚約を拒否しなかった。
其れが棘のように、花枝の心にちくりと刺さる。

本意ではないだろう。会って数日の女と行き成り夫婦になるなぞ、御免蒙るだろう。
其れに、女の勘――というやつだろうか、花枝は夫となった少年が別の想い人に心を傾けている様子を感じ取ってしまった。

女は日傘の持ち手を強く握りしめる。申し訳ないという想いと、自分自身の幸福感に戸惑っている心を、赤みを帯びた手が顕しているのか。
そも、花枝は年頃の女のように、色恋ばかりに目が行く性分ではない。彼女もまた、貴顕ノーブル)の血統に連なる者としての責務がある。
為ればこそ、雄飛が本意ではないだろうと勘付きながらも、婚約が大和の平和に繋がると確信し、獅子吼らの強引な婚約日程に口を挟まなかったのだ。

――出来る事なら、互いの理解を深めてから婚約に至りたかったという気持ちもある。が、今となっては其れも詮無きこと。

花枝は艶のある黒髪を揺らしながら、此方に気付き鍛練の手を止めた鎧に近づく。
鎧の傍には、不要となった木材や鉄鋼の山、そして風に吹かれていく“塵”の川。


「雄飛くん」
慈愛を込めて、噛み締めるように花枝は少年を呼ぶ。
嘗て、かいな)に抱いた幼子が、今は目の前で、立派な志を持って大地を踏みしめている。
花枝にとって、其れが嬉しくてたまらない。親の諍いに巻き込まれ、心も居場所も喪った雄飛を案じ、此れまで花枝は気が気でなかったのだ。

<<……あ、えーと>>

照れているのだろうか。紫の劔冑は左手で頭をかいた。
其の様が可笑しくて、花枝は笑う。つられて、雄飛も笑った。

傀儡当主に甘んじながら、臥薪嘗胆の心持で耐えていた花枝は、獅子吼を三年程生かしてから、独りで事を成さんと画策していた。つまり、父を殺めた仇に倣い、全てを乗っ取るという絵図である。
其れは何年経っても雄飛の行方が知れなかったためであった。花枝はつい最近まで、自分のみで貴族の責務を果たす他ないと決断していたのだ。
だが、今となっては話が別。此処には、雄飛が居るのだ。今後は夫を助けるため、妻として共に歩むのだ。

権力に隷属する蛆蝿共が群がる肥溜。獅子吼の台頭により単なる軍閥と成り果てた大鳥家も、雄飛とならば変えられる。斯様に思わせる意志がある。

「随分と変な事してるね。其れも訓練?」

幸福だ。

<<おれもよくわからないんですけど、陰義ってやつの訓練を―>>

信念を持って、大願へとひた走る雄飛の姿が、花枝には眩しく、そして好ましい。

時間はある。これから少年の往く道は、困難を極めるだろう。
だが、其の横には自分が居る。苦楽を共にし、父と叔父とが求めた理想を、自分達夫婦が成し遂げるのだ。

此れから、少しずつ互いの事を理解し、いつか本当の夫婦となる事が出来れば、これほど嬉しい事はない。



幸福だ――












<<――――――――え?>>

急に、正面の雄飛が凝固し、狼狽する。其の只事ではない様子に得も言えぬ緊迫感を、花枝は肌で感じ取った。
何事かと声を掛ける間もなく、紫の巨躯は花枝の手を取る。

「……?」

<<は、花枝さんッ!>>

「な、に?」

焦燥感の高ぶった雄飛の大声に、花枝は思わずたじろぐ。
凶兆、というものだろうか。毒舌に尽し難い心持ちが花枝を蝕む。久しく覚えなかった感情――恐れ、怯えのようなものが、渦を巻いて胸にとぐろを巻く。

<<い、今通信があって―>>




――瞬時。轟音が鳴り響く。


二人が同時に其の方向へ首を向けると、其処には九○式竜騎兵が此方へ飛翔し接近してくる姿があった。

<<御館様ッ! 奥方様ァ!>>

けたたましい噴出音を連れて、武者が十六尺ほどの至近距離に着地した。其の衝撃で土砂が巻き起こる。
花枝は咄嗟に壁となった雄飛に感謝しつつ、屈めた身を起こす。

「……鳥羽か。一体何が―」

気後れする心中を隠し、聞きたくないという内なる声を無視して、花枝は問うた。











<<今すぐお逃げ下さい!! ぎ、銀、白銀の――>>






声を荒げ、上擦った武者の金打声と同時に。





其の場に居た者一様にして、空を見上げた。





絶対的な命令に従うように。見なければならないという使命感にも似た感情を以て。








――流星。




陽も沈まぬ今、決して有り得ぬ光景。

されど、現実。幻想に非ず。

有無を言わさぬ、絶対真理。

正気と狂気が混ざり合った、歪な光景。




知覚する。其の色を。




「――うっ」

瞬間、花枝の視界が暗転し、脳裏に阿鼻叫喚の地獄図が過ぎる。
突発的に襲う眩暈によって、女は地に膝をついた。





「――――」

……耳鳴りが。

不快で不安で堪らぬ音波が。


耳を通し脳を揺さぶる。
生理的嫌悪を催す超音波が、頭をかき回す。





<<生と死の選択を己に課す命題として自ら問う>>





――うたがきこえる。

此の声に耳を貸してはならない。

此れは、悪魔の囁き。

花枝は暗闇の中、失いつつある意識を必死で手繰り寄せる。





<<されば嘲笑の歓喜する渦に喜劇の幕よいざ上がれ>>





――うたがきこえる。

此の声に耳を貸してはならない。

此れは、狂気の松籟。

花枝は無我夢中で抵抗する。幸せが零れ落ちないように。



「あ……ア……ゥ……」

心が犯される。
蛇のような猛毒が、脳を這いずり、締め付ける。

こんな理不尽があるものか。こんな馬鹿げた事など、あってはならない。

花枝は抵抗する。両手で一心不乱に耳を塞ぐ。

漸く得た幸福を此処で失う事など、あってはならない。





<<生と死の狭間に己を笑い恍惚として自ら忘らるる>>





――うたがきこえる。

駄目。耳を貸してはならない。

此れは、破滅へと導く魔笛。





<<されば夜明けの嘆きを鐘に新曲の幕よいざ上がれ>>





「う……ぎ……ィ……ガ」

嗚呼、何故。

何故、こんな理不尽が罷り通るのか。

あってはならない。

巫山戯るな!




――汚染波うた)が、聞こえる。











雄飛は本能に命じられたまま、強制的に空に在る物体を凝視していた。




――銀。



武威の白銀。

狂気の純銀。

剛毅の鋼銀。


……果たして。銀の魔王が、其処に在った。


目に見えぬ地に立つように、“空中で静止”している。

仁王の如く腕を組み、此方を見下ろしている。

其れは、絶対強者の眼光。暴虐の炯眼を浴びた雄飛の顔は、鉄籠越しでさえ、焼けるように熱を持つ。





民草は口を揃えて噂する。

殺戮の雨と。


民草は口を揃えて噂する。

死を司る死神と。


そして、民草は口を揃えて噂した。

銀の星と。




<<……銀……星、号……>>

眼前の劔冑。其の通名が、無意識に口をついた。
其れと同時に、雄飛は今現在、己が何と対峙しているのか、漸く理解するに至った。

<<――――>>

周囲尽く消失したかのような凄まじい喪失感が、雄飛を襲う。
肌が栗立ち、眼球が血走る。背筋が震え、熱を帯びた肌が一瞬にして絶対零度となる。
脳が、全身が。一目散に逃げろと危険信号を送っているが、而して一寸も身動ぎする事叶わない。
まるで蛇に睨まれた蛙の如く。巨象を前にした蟻の如く。


げに恐ろしき、銀の鬼。



雄飛は何処か他人事のように、自分の決意を思い出す。

あの日の決意を。



……愚の骨頂だ。愚劣の極みだ。

己は、こんな物とも戦おうと思っていたのか。
馬鹿馬鹿しい。無知蒙昧とは此の事か。

其の様な次元ではない。矮小なる人間同士の争いではないのだ。
最も、自ら剣山の穴に飛び込む事が戦いというのなら、其の限りではないが。



武者ではない。人でも、獣でもない。不条理な一己の存在。


天災に似た其れ。

町を呑み込む津波を前に、一匹の鯉が抗おうとするような。
猛り狂う火山の噴火口から、一握りの氷を入れるような。


暴虐極まる、無慈悲な力。

万物砕く、三叉の矛トライデント)
有象無象等しく滅する、煉獄メギド)の炎。





――武の塊が、其処に在った。





<<か、ハッ……!>>

相対しているだけで、息継ぎする事すら困難な圧迫感。
己の死は既に決定していると、強制的に理解する。其れほどの絶対的畏怖が、銀の魔眼から齎されている。

慄き、地べたに頭を擦り付け、己を生かしてくれと懇願しても、誰が咎めよう。
無様な醜態を晒す事を、誰が咎めようものか。

<<天下五甲……。早くも仕手を見付けたか>>

其の姿見に寸分違わぬ狂声が、雄飛の耳にこびり付く。
此の声を聴くだけで、万民が狂人になってしまうのではないだろうか。
“正気”の声なのだ。唯の女の声なのだ。其れが返って恐ろしい。

<<此れは失礼。先ずは名乗っておこう。おれの名は光。世に武の法を曳く者だ>>

<<……ハッ……けハッ……!>>

<<どうした、何故返礼をせん? 礼節は尊い物だ。円滑な関係を築くためにも、自己紹介ぐらいはすべきだろう。行き成り声を掛けた非礼は詫びるが>>

<<……ふむ、まあ良い。こうした若者達が礼を慮らぬ昨今、ゆっくりと失われていく大和作法の行く末は全く持って嘆かわしいが>>

<<それにしても……其の体たらくはなんだ?>>

魔神が此方を見据え、冷えた眼差しを向けてくる。
すると、更に雄飛の身体は縮こまり、一斉に血の気が引いた。

<<情けない。ひたすらに情けないぞ>>

憤慨し、失望するかのような負の感情。
まるで、長年愉しみにしていた名劇団の公演が学芸会の如しであった―そんな際に見せる憐憫の眼差し。

<<そんな有体で、かの名甲を纏うなぞ……。武を愚弄しているのかと勘繰ってしまうほどだ>>

銀星号と呼称される不条理な存在は、すっと、指を此方の横へ差す。

<<少しは其方に御座す女性を見倣ったらどうだ?>>





<<…………?>>



……がちりと、心胆冷える嫌な音が、雄飛の意識を覚醒させる。

己の左腕に微かな違和感を覚え、雄飛は本能的に首を向け、

そして、


――見た。







鉄の左腕にぶら下がる、女の姿を。






<<……花……枝…さん?>>


雄飛の声に反応した女は、笑った。


否。其の笑みは、決して雄飛の見知ったものではない。


犬歯を剥き出しにして嗤う女。


否。此の形相は、女どころか人の創り出すものではない。


<<――ひッ――>>


餓鬼である。化生である。鬼妖である。物怪である。畜生である。

抑圧された斗争とうそう)の性が解放された姿である。闘争本能に従った阿修羅の姿である。


「グッ、グヘ、ゲハァァァァァ!!!」

獣から吼声が上がった。
其れは、殺意の産声。其れは、害悪の産声。

狂気を内包した餓鬼は嗤う。そして、上体を煽り、勢いよく、


顔面を、


武者の鋼鉄に激突させた。


<<――――!?>>

其処には知性なぞない。

唯、瞭然たる害意の顕れ。
殺意に恥溺している化生の末路。

当然、鉄塊の如き左腕に傷一つ付く事はない。
だが、知能が雲散霧消した餓鬼は一切顧慮せず、再び頭を振りかぶる。


……頭蓋骨が鉄に粉砕される音が、響く。


血の飛沫を散らし、壊れた絡繰からくり)の如く、何度も何度も齧り付く。

歯が砕けようが、顎が陥没しようが、ひた齧るのみ。

愉悦に浸り、害を成す地獄の権化。


<<あ……ああぁ……!!>>

<<花枝……さ、ま?>>

雄飛も鳥羽も眼前の有り得ない光景に戦慄し、呆然自失の有様であった。
連続した無機質な衝突音だけが、周囲の空間を支配する。

<<あ……ひ……>>

目から涙が零れ、下半身が温くなる。

雄飛は失禁した。恥も見聞も投げ捨て、赤子のように小便を漏らした。



禍々しき物とは、斯くやあらん。



……やがて、ぐちょりとした音を断末魔に、狂鬼と狂忌の楽奏は、終わりを迎えた。



雄飛の左腕。




其処に残るは、下顎の無い肉塊のみ。



<<――――うっ>>



まさに、狂気であった。



<<ああぁああァああアああァァァァッッ!!!!>>



[35897] 玖話 白銀昇星
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:49
白銀昇星



「クヒッ」

産声が上がった。
大鳥家邸宅に駐屯し、現在警備任務に就いていた六波羅兵卒ら。
其の一人、筧という名の青年が、突如嘶いたのだ。其の声は波紋のように、周囲の兵士に波及する。

「ウゥゥゥ……ガァァァ!」
「ギィ……ガハァ!」

唄と共に、産声が上がる。其れは歓喜の声であった。本能の体現を悦ぶ畜生の鳴声である。
彼らの顔は知性を投げ捨て、幽鬼へと成り果てた造りへと変貌していく。
涎を垂れ流し、舌を出しながら荒い息を吐く様に、ヒトの名残は見られない。目は焦点が合っていないどころか真っ赤に染まっている。

兵卒らは揃うように、両の手で抱えていた九十九式小銃を構えた。
其の銃は、本来であれば平和のために使われて然るべき物であった。
だが、此処数年を振り返ってみれば、其の銃は数多の民を鉛に沈めていた。
治安維持。反乱鎮圧。そういった札を免罪符に、其の銃は数多の民に理不尽という鉄槌を喰らわした。

其の忌忌しい過去を持った、独裁政権六波羅を顕している小銃が今。
向ける銃口の先は――。

彼らに命を奪われた、民の怨念が憑り付いたかの如しであった。

――会津の空に、銃声が轟く。

ボルトアクション特有の乾いた単発音が、一斉に鳴り響き、木霊する。
7,7mmの銃弾が群れを成して彼らの顔、腹、足へ無造作にめり込み、滴る鮮血が六波羅軍服を更に紅く染め上げる。
絶命したのは、僅か数名。他の者は不幸にも致命傷には至らず、再び銃を構え直した。
目が陥没しようが、耳が吹き飛ぼうが、彼らは苦悶の声一つ上げていない。
其の代りに、彼らの口から一斉に湧き上がる猛りがあった。其れは、愉悦の色を帯びている。
愉しくて仕方がない、其の様な貌で、兵卒らは嗤いながら引き金を引いていった。
かつての上官、かつての部下、かつての同僚に向かって、一切容赦せず、銃弾で顔が抉れようが、絶命するまで引き金を引き続ける。
暴力を貪り食う其の様は、第三圏に落とされる貪食者に似つかわしい。

やがて、最後の銃声が鳴り止んだ。
たった数分前、新人らの私語と、上官の叱咤が飛んでいた場所の面影は一切ない。
其処には、血沼のみがあった。





続いて、二幕。

轟音。爆音。炸裂音。
大鳥の威光を示さんと、広大な敷地内に列挙する建造物から、瞬く間に火の手が上がった。

軒下には、十年式擲弾筒を嬉々として窓へ投げ付ける兵士と、獣の身でありながら、身体に沁みついた経験をいかんなく発揮し、野砲を操る兵士の姿。
一度、建物の中を覗けば。火柱が上がり崩壊しつつある中で、逃げるどころか、互いを殺戮し合っている餓鬼の群れがあった。
人が死に、人が死ぬ。辺りは死に魅入られてしまったのだ。

敷地を雅に彩っていた森林に火の粉が飛び、辺り一面は一層激しく燃え上がる。
建物より出でたる硝煙と火災の黒煙はバベルの塔もかくやと天へ昇り、燦々と輝く太陽の陽射しを覆う。
銃声と猛り声のみが支配する其処は、さながら阿鼻叫喚のそれであった。
地獄の窯より出でたる餓鬼の叢り。百鬼夜行、魑魅魍魎の宴である。

名家の歴史が、忽ち紅蓮に包まれていく。栄枯盛衰、其の後者には無縁であった大鳥が、崩壊してゆく様であった。



凄惨極まる会津、其の上空を疾駆する鉄の群れがあった。
数多の数打を連れ、先頭を往く武者――其の風貌は、鴉を想起させる。
眼下の炎すらも呑み込むような漆黒の鋼を持ち、頭巾を被り、両腕を翼のように広げ、大気を裂きながら空を疾走する劔冑。
銘を―都合上呼称するのであれば―銘伏という。其の銘に違わず、影に身を落とし、汚れた義を全うする者が纏う劔冑である。
其の仕手、大鳥獅子吼は、眼前で繰り広げられている煉獄を睨み付け、歯を噛み締めた。

<<滅茶苦茶だ……殺し合って、喰い合って……>>
<<この唄はなんなんだ!? こいつのせいなのかよ!?>>
<<此れは……夢だな……其れも飛び切り最悪な……>>
<<……あ、有り得ねえだろうが! 何でこんな――>>
<<閣下ァ! こ、これは如何なる――>>

<<――狼狽えるな! 篠川軍竜騎兵隊ともあろうものが、此れしきの事で取り乱して何とする!>>
<<今俺達が成すべき事は、一刻も早く此の馬鹿げた騒乱を治め、雄飛様を無事此処から生き延びさせる事だ! 何があろうと!>>

<<…………>>

<<貴様らも誉れ高き会津武士ならば、見事此の境地を脱して見せろ!!>>

<<――り、了解!>>

部下の悲鳴にも似た困惑声を一喝した獅子吼。
而して、実の処彼をしても、此の惨状は俄かには受け入れがたいものであった。

地上は狂瀾も怒濤も共に荒れ狂っていた。言い表すなら、混沌カオス)の一言に尽きる。
暴徒と化した兵士らの嗤い声と剣林弾雨が飛び交い、次々と血達磨が積み上がっていく。然しながら其の光景も、此処大鳥邸宅においては地獄の一遍に過ぎない。
あろうことか目を少し横にやれば――、一目で高い地位だとわかる服装を纏った老人や、下働きに従士していたであろう女、男が、皆一様にして“共食い”という狂乱に耽っているのだ。
肩肉を剥ぎ取られながら、相手の細腕に犬歯を突き刺す者は般若の如し。目玉を喰ろうて、喉を喰らわれる者は山姥の如し。
つがい)になって互いを貪り食う様は、八大地獄ですら生温いと断定して差支えの無い光景であった。
会津に大鳥ありと云わしめた釈天御由緒家、当麻真人大鳥の邸宅が、瞬時に奈落へと引きずり込まれたのだ。
たった一己の劔冑によって。

(化物めが……!)

獅子吼はこめかみに血管を浮かび上がらせ、憎々しげに吐き捨てた。

数分前。周辺を巡回中であった竜騎兵から報があった。
――帝釈山上空に、熱源反応有。
其れだけならば、単なる些事と聞き捨てる事も出来たのであったが。而して其の熱源は――異常極まる速度で会津へと接近中との事であった。
帝釈山から大鳥邸宅まで、凡そ二十五里。(100km)其の距離を、僅か数分で横断できる程の速度と云えば、どれほど荒唐無稽で規格外か想像できるだろうか。

獅子吼は其の報を耳に入れると、直ぐ様熱源の正体を看破した。
思い当たる節があったのだ。むしろ逆説的に言えば、其れほどまでに異常な物体なぞ、“其れ”以外に考えられなかった、というべきか。
周辺を巡回中であった竜騎兵隊へ、急遽七ヶ岳で防衛網を張らせるべく伝令したものの、“其れ”の正体が獅子吼の読み通りであるならば、中隊なぞ時間稼ぎにすらならない。
最悪な事に――目下繰り広げられている事象は、其の読みは正鵠を射ていたと主張して已まないのだった。

(銀星号ォ……!)

極東の地、大和。其の地を統べる六波羅を悩ませる事象は、忌忌しい英国ブリテン)の手先―GHQや、隙あらば六波羅へ噛み付こうとする朝廷、六波羅内における権力抗争に加えて、無視できぬ存在があった。

其れは災厄。

大和各地に突如出現し、忽ち村々を灰燼に帰す化物。

―――空から魔王が降りてくる。
銀色の星が墜ちてきて、誰も彼をも殺してしまう。

誰もがそう噂し恐れた、得体のしれぬ怪物。其れが銀星号と呼称される災厄であった。
二年前、町人が一人残らず死に絶えた怪奇現象――後に銀星号事件と呼称された――を皮切りに、其の化物は何の規則性もなしに各地に出没した。
現在に至るまで、其の回数は両の手では足りぬ程である。

関東に眉唾付で広まっている、武者の一個中隊が銀星号なる者に全滅させられた、という噂がある。
だが、其れが真実であるどころか、実は一個“大隊”であると聞かされれば、果たして人はどの様な反応を示すであろうか。見物ではあるが――少なくとも誰も本気にはすまい。
五十騎からなる武者をたった一騎で塵殺する羅刹、其の存在が夢物語などではないと正しく理解している者は、六波羅でも数少ない。
そして、獅子吼は其のひとりであった。何を隠そう、其の大隊は、鎮圧に臨んでいた篠川軍に属する部隊であったのだ。

現世に出でたる魔王。無論其の様な妖魔を、何もせずに捨て置く六波羅ではない。
だが、調査を進めてみても一向に情報が出てこなかった。而して、其れも已む無しと云える。

詰る所、銀星号は文字通り各地を“全滅”させるのだ。銀の前には、老若男女、六波羅、GHQ、皆等しく死に絶える。
当然確たる目撃情報は掴めず、精々周囲の村人が銀の流星を見た、という益体の無い報告のみ。
死人に口なし。唯一の判断材料は、積み上がった骸ばかりであった。

(目撃情報無し。町民は文字通り全滅、か。成程、漸く得心がいった。確かに此の方法なら、一人残らず死に絶えるであろうよ)

如何なる手段を用いてか―十中八九陰義であろうが―、周囲の人間を等しく狂わせ喰い合わせるのならば、生き残りなぞ居る筈がない。

(……手を打っておくべきだった。如何なる労力を厭うても、早急に始末すべきだったのだ……!)

先日――と云っても彼是数週間程前である――獅子吼は鎌倉に足を運び、四公方として足利護氏を長とした審議に出向いた。
そして、最早話題に挙がるのが定例となった銀星号事件に関して、獅子吼は此れまでと同様に、直ちに本腰を入れた対処を成すべし、と護氏に再度上告した。
具体的には、四公方の一人を責任者とした、捜査班の拡大である。

だが、其処に竹槍を突いたのが、和尚――遊佐童心であった。

曰く、六波羅という圧倒的強者が愚にも付かぬ狼藉者一人に多大な労力を割く事は、畏敬を失いかねないと。
其の儀は時期尚早であり、本格的な対処は横浜に巣食う“敵”を排除し、大和に確固たる地位を築いてからでも遅くはないと。
更には、もしも六波羅が銀星号の対処によって疲弊したのならば、其の隙を進駐軍や岡部残党を代表格とした反幕府勢力が突かぬ道理もなし。ならば、現状においては黙殺すべき。
幸か不幸か、銀星号の被害は何も六波羅のみが蒙っているわけではないのだから――といった言であった。

確かに理は遊佐同心に在った。為ればこそ、其の時は獅子吼も身を引いたのである。

だが――だが! やはり其の判断は誤りであった!
放置するには、余りにも厄介な化物であったのだ! 現にこうして、煮え湯を食わされているではないか!

(まだだ)

獅子吼は歪めた頬を平常のそれへと戻し、煮え滾り苛立つ心を静める。

(俺は諦めん。……まだ、終わったわけではない)

過ぎたるを何時までも悔やむのは、愚か者のする事である。
現実から目を離し、嗚呼神よと天を仰ぐのは、虚け者のする事である。
では己は? 決まっている。自分が取れる最良の手を、最速で成すのみだ。何もせず手遅れになるまで呆けるなぞ、愚者の極みである。

熱源報告から現在まで、僅か数百秒。だが、迅速なる対応も虚しく、地獄の窯は開いてしまった。
噴水盆に返らず。破鏡重ねて照らさず、落花枝に上り難し。
然し。然しだ。まだ終わりではない。

邸宅が燃え、崩壊している。だからどうした。建物なぞ、また建てれば良い。
兵士や従者が次々に死んでいる。だからどうした。代わりなぞ、腐るほど居る。
大鳥に連なる者達が死んでいる。だからどうした。寧ろ好都合、掃除が済んだだけの事。此れで反対勢力は消滅した。

斯様な態は、全く持って些事に過ぎない。

篠川軍は一枚板ではない。当然此処大鳥家邸宅に駐屯しているのは、軍全体の一部のみ。
更に、配下の竜騎兵らは狂っていない。報を聞き、瞬時に第壱種戦闘態勢――直ちに武者は装甲すべし――を発令した事は、此の地獄において何よりも得難い行幸であった、と獅子吼は思う。
如何やら、狂うのは生身の人間のみのようである。

為ればこそ、希望はある。
軍において、武者一騎は百兵以上の価値があるのだ。そして、竜騎兵隊はなおも健在。つまり現状において――“篠川軍”にとっては脛を噛まれた程度の損失でしかない。

そして何より、雄飛が劔冑を保有していた事。其れはさながら地獄に垂れた蜘蛛の糸であった。唯一無二の救いである。
篠川軍と、正統なる血脈を持った雄飛さえ無事であれば、一時片翼が捥がれようと、大鳥は決して地に落ちぬ。

<<分隊甲、速やかに“鎮圧”しろ>>

<<――――ッ>>

命令を下された数騎は息を呑み、一瞬巡回する。其の意味するところは、如何に彼ら六波羅精鋭の軍人をしても、躊躇わずにはいられぬものであった。
而して、他に打つ手はない。是非もなしと、彼らは腹を決め降下していった。

武者らは地上に降り立つと、次々にかつての同僚を一刀に撥ねていく。
最優先は、火器を用いた殺戮に魅入られている亡者の首である。

成程、速やかに状況を把握した中将閣下は最善の手を打った。
狂ったのなら、殺せばよいのだ。同胞の悲劇を嘆き、手を拱いていれば、事態は悪化する一方である。
当然ながら敷地内の全棟が瓦解している訳ではない。狂乱の開始は僅か数分前なのだ。此処で止めれば、再建の目途も付くだろう。
更に、狂人共を長時間放置した結果、騒ぎが漏れ、進駐軍及び反幕府勢力に気取られる事なぞあれば、其れこそ国家の大事である。
為ればこそ、非情に“対処”して然るべし。

<<…………>>

獅子吼は僅かに目線を下げると、憎々しげに眼下の光景を睨み付けた。
地上にて、同胞の竜騎兵に殺戮されていく狂った兵士ら――最早面影は皆無であるが――は、かつては大なり小なり国を憂い決起した、身命を国家に捧げた兵達である。
そんな彼らが無残な死を遂げていく。撚りにもよって、こんな馬鹿げた顛末で終えるなぞ、無情にも程がある。

呪うのなら、忌忌しい銀魔と、此の俺を呪え。
大願果たした折には、必ずや腹を切り、地獄で詫びよう。

獅子吼は苦虫を噛み潰した表情で面を上げ、此の地獄における糸を求めて我武者羅に空を駆けた。

最優先事項である雄飛の所在は、一向に掴めぬままである。
熱源反応の報を聞き、急遽装甲せよと雄飛に信号を送ったものの、認識信号コード)を振ってある篠川軍の武者でもない限り、此の燃え盛る敷地内において、熱源探知で地点を特定する事は不可能。
為ればこそ、肉眼で視認するため、斯うして空から探しているのだ。獅子吼の胸を焦りが支配する。

獅子吼は駆けた。
先日、亡き主君へと独りでに告げた誓いを守るために。







人間は得てして、理解不能かつ現実から極度に逸脱している事象を目にした際、思考を放棄するものである。
もし、百戦錬磨の兵だったのであれば、即座に我に返り、対応する事が出来るやもしれぬ。
幾度も修羅場を経験した老獪であれば、同じく理性を保ったまま最良の行動を取る事も出来るだろう。

だが、雄飛は違った。

雄飛は何もできず、怯え、慄くのみであった。
己の伴侶となった女が狂い、死に絶えた間――数十秒を。
雄飛は何もできず、唯見ているだけであった。

あの日と同じように。








現実感がない。身体が尽く喪失したかのように、己という存在を認識できない。
足元が覚束ず、自分が何処にいるのか、自分の眼が“何”を見ているのか理解できない。

……本当に?

違う。解っているのだ。此の左腕に“粘り付いている肉片”の本質を、否応にも理解しているのだ。
実際、鉄籠越しの身体は正常に機能している。現に斯うして、眼球を埋め尽くしている色が、朱だと判別できているではないか。
認めたくないだけだ。現実から目を逸らしたいだけだ。此の現実を拒否したくて、深淵に捕らわれた愚者の真似事をしているだけだ。

……何故? 

何故……、そんな真似をするのか。
凄惨極まる地獄から、目を背けたいから? 
優しく、己を嘘偽りなく愛すると言ってくれた女が、変わり果ててしまったから? 



否。



認めたくないのは。何より許せぬのは――





……其れを理解したと同時に、糸が切れたような感覚がした。



<<ああぁああァああアああァァァァッッ!!!!>>

――絶叫。

其れは、激怒の咆哮。逃避の顕れ。愚者の嘆き。
空になった肺から限界まで空気を絞り出し、声帯を通じて喉を震わす。
哮り狂う少年は、怒を体現した阿形像の如く。喉が潰れようが一切構わず、憤怒の相貌で猛り狂う。
全身に纏わりついていた恐怖を殺意が塗り潰す。氷が解けたように、雄飛の身体に血が流れ、熱が戻る。

肉片から――上空へ顔を向ける。腕を組み、己を見下ろしている銀魔を、明確な敵意、害意、殺意の基、血眼にて見据える。

雄飛は瞬時に左腰の太刀を抜いた。
骨が粉砕するほどの握力にて、両手で柄を握りしめると、剣先を銀へ向ける。
正眼、刺突の構え。

其の侭、背面の翼筒バレル)を稼働させる。
目的は飛翔ではなく――突撃。仕手は無意識のまま、“全熱量の十割”を合当理に充てた。
其れは、怒りの顕れ。理性を失った獣の顕れであった。
合当理が大量の空気を取り込み、酸化、燃焼。武者は圧倒的推力を求め、臨界点まで鉄翼を稼働させる。

――爆音。

熱量変換型双発火箭推進の穿孔から、膨大な噴出気体が放出された。
其の反作用によって生じた爆発的な推力は、距離百寸なぞ瞬時に零と化す。

<<銀星号ォォォ!!!>>

衝動に任せ亜音速にて突撃する紫鎧。其の様は、闘牛を思わせる。
……そう、獣なのだ。武人ではない。何故なら――武者は熱量を的確に配分する事が求められるからである。
劔冑にとって、熱量は生命線であり、動力源であり、構成物質である。一時的とはいえ、合当理に十割充てるとなれば、其の皺寄せは当然他へ行く。

熱量が十あるとすれば、合当理と筋力増強に五ずつ分配するのが常。
武者が太刀打に臨む際は、間合に入る寸前までは合当理に熱量を費やし、間合に入れば即座、身体強化に熱を注ぐ。斬り合う前は合当理に充て、斬り合う時は筋力増加に充てる。
これが武者の鉄則である。

では、今まさに刺突せんとしている紫鎧は武者と云えるだろうか。
文字通り一瞬の内に全熱量を身体強化へと瞬時に充てる技量を、経験を、此の仕手は持っているのであろうか。
または、可能か不可能かは兎も角、其れを成そうという理性に基づいた意識を、此の仕手は持っているのであろうか。

否。奇しくも、否である。為ればこそ獣と云えよう。
強引極まる推力確保の代償は、余りにも大き過ぎた。此の武者は現在、其の風貌に反して、甲鉄の脆弱化という致命的欠点を抱えたまま自爆しようとしているのだ。
本来この状況ならば、熱量は合当理と甲鉄均等に充て、己が御せる速度で攻撃に臨むが是。熱量変更が出来ない速度――つまりは扱いきれぬ速度で猪突猛進するなぞ、愚の極みと云える。
もし此の一連の動作を的確に把握し評価できる者がいるのならば、即座に素人と看破したであろう。其れほどまでの、酷い有体であった。

<<ふむ、最低限向う気骨はあるのか。……だが、其れだけではな>>

両者激突する瞬刻前。其の刻に至っても、銀魔は彫像のように動かず、何の反応も見せない。
雄飛の行動は、確かに無謀な特攻である。だが幾ら甲鉄が脆弱化していようが、刺突、然る後激突する際に生じる衝撃は、一笑に付すには大きすぎるというもの。
速度即ち威力。鬼丸は自爆するであろうが、銀星号も無傷であろう筈がない。

では何故――魔王は避けないのか。答えは単純かつ明瞭であった。



人の動体視力では到底捕えきれぬ速度で、紫の剣閃が銀の喉へ疾走る。



而して、其の刃が魔を穿つ事は叶わなかった。





――止まったのだ。

物理法則を無視するかのように。万物の流れを嘲笑うかのように。
圧倒的推力を持った紫の巨躯が、瞬時に停止させられたのだ。





……魔王が翳した、たった二本の指で。



<<非の打ちどころがない、見事な太刀だ。刃が零れ滴る様は、水面に映る月夜の如し。この光、驚嘆の意を禁じ得ないぞ>>

銀星号が人差し指と中指で挟んだ太刀を眺めながら、事もなしにそう言った。
未だ呆然と立ち尽くしていた鳥羽は、上空の様を見て、呻き声にも似た悲鳴を零す。
加速の乗った武者の斬撃を止めた事は、百歩譲って陰義によるものであると納得もできよう。
真打劔冑のみが保有する異能の力を以てすれば、此の馬鹿げた仕儀――片手で武者を静止させる事――も有り得るやもしれぬ。

……然し、然しだ。

如何に陰義とて、斯様な絶技、妙技、神技を成す事が出来ようものか。真剣白刃取りなどとは訳が違うのだ。
“刺突”を“片手の指二本”で捕えるなぞ――確実に人間の範疇ではない。

「ぐ、ぎ、ぎ……!」

雄飛は再度合体理に火を入れつつ、漸くにして身体強化に熱量を充てた。
そうして、武者が齎す金剛力の基、全身全霊を以て太刀の柄に力を込める。
然しながら、どれ程足掻こうが懸命虚しく、一寸も刃は奥へと進まない。まるで、鋼鉄の大山に剣を突き刺しているかのような感触が、雄飛の指先から齎される。

<<一見、絢爛とした装飾に目を奪われるが、斯うして直に触れれば、煌く刀身は飽く迄凶器であると主張している事が判る。大業物の銘に相応しい名刀、名甲だ……>>

尚も刃を押し込もうとしている紫武者なぞ何処吹く風か。銀の劔冑は其の存在を一顧だにせず、繁々と摘まんだままの刀剣を眺め続ける。
やがて、銀星号は感嘆めいた吐息を吐き出し、天下五甲が一つ、鬼丸国綱の検分を終えた。

――瞬間、一遍して銀の双眸は鋭さを増す。

<<実に素晴らしい拵えであった。――だからこそ。度し難い……!>>

突如、空気が凍った。
空間が抜き取られたような錯覚が雄飛を襲う。
燎原の火のように燃え立つ地上と剥離し、氷点下の如く冷気が猖獗を極める。
生物の存在を許さぬ絶対零度。其れは、銀から齎されていた。

銀星号が指先を弾く。驚くべき事に――むしろ先の異常を鑑みれば当然の帰結と云えるのか――銀魔が指二本で摘まんでいた刃が、たった其れだけの所作で跳ね上がった。
どころか、其の衝撃は其れだけでは止まらず、鬼丸の巨躯諸共舞い上げるに至り、雄飛はくの字の態で、遥か宙へと弾き飛ばされる。


<<――御館様ァ!! お逃げ下さい!!>>

突如金打声が響き渡る。
恐怖で藁人形の如しであった鳥羽が、事此処に至り、遅まきながらも上官に命じられた職務を全うすべく動いていたのだ。
精神力全てを動員し、怖気を奮い立たせた鳥羽――九○式竜騎兵は刀を右上段で構え、斜め上空の魔神へと疾駆する。

<<ふむ、其の意気や良し>>

狂気の声が鳥羽の耳に流れ込む。肌が一斉に栗立つ感触を、彼は知覚した。
鳥羽は勇敢であった。無論雄飛と同じく、銀魔の圧倒的畏怖と、嘗て主と仰いでいた女の樽俎に凍り付き、身動ぎ一つ取れなかった様は軍人として恥ずべき行状であった。
だが其れを差し引いても――やはり鳥羽は勇敢であったと云えよう。

<<――ふッ!>>

何故なら。鳥羽は、己が辿る末路を既に嫌というほど理解していたからである。
二十余年培ってきた兵士としての経験と生物的本能で、色濃く映し出された映像ビジョン)。其れに抗う偉業は、誰にでも出来る物ではない。
捨身の行動。兵卒としての正しい在り方。而して、其れは余りにも呆気なく。魔王の前には、何の意味もない。

一瞬、銀の陽炎が空に映った。
銀星が軌跡すら残さず駆け――遅れてやってくるのは、死の匂い際立つ爆発のみ。


遥か上空へと弾き飛ばされ、衝撃の余波に悪戦苦闘していた雄飛の眼に、一陣の煌きが映った。
また一つ。彼岸の花が咲いたのだ。少年の貌は更に憎悪に染まる。
雄飛は無限に続くかと身粉う程の推力を合当理の反動で強引に押し止めると、低度に位置する銀を見定め、はやて)の如く突貫する。

<<てめえが!! てめえがやったのか!! あの人を――壊したのか!!>>

雄飛は太刀を振りかぶり、降下の勢いに任せ袈裟懸けに振るう。

<<壊した? 其れは違う。おれはただ、枷を外しただけだ>>

而して、銀星号は動じる事なく上体を数寸ずらした。
殺意の乗った剣閃は銀を掠める事すら叶わず、虚しく空を切る。

<<――枷!?>>

一条の紫は最短の弧を描き、再び銀へ向かう。

<<現世に生きる人間は、皆一様にして倫理という軛を填めている>>

上昇からの切り上げ――又しても手ごたえ無し。銀は靄のように揺らめくのみ。

<<――欺瞞だ。本能の命ずるままに闘争を遂行する。其れこそが、ヒトという種の正しい在り方であろう>>

銀星号は組んだままであった両腕を解き、右手の人差し指で地上を差す。
其処には、恐悦に染まった人間達が互いに殺戮を繰り広げている地獄絵図があった。

<<天下布武。おれは武の法を曳く。武者、兵士、老人、女、子供、皆が枷を外し、戦うのだ。其れが世の本質であり、そして――おれの目的にも繋がる>>

<<――目的、だと!?>>

水平からの逆袈裟で銀を両断せんと接近しながら、雄飛は問い返す。
目的。花枝を狂わせ、大和の民を滅殺する行為に何の目的があるというのか。

<<世に存在する全ての武と競い、尽く打破する事だ。おれを恐れ、戦わずして逃げる者は、武とはいえん>>

<<――――――>>

雄飛の問いに、銀魔は懇切丁寧に、嘲笑無しの本音で報いる。
果たして返ってきた答は、余りにも大逆無道な――狂人の発想であった。
理解できぬ馬鹿げた思想。其れは、雄飛を更に、烈火の如く激昂させるに至る。

<<……ふ、ざけるなァァ!!!>>

<<ふざけてなどおらぬ! 其れこそが唯一の方法! 神座たかみくら)へ至るには! 宿願を果たすには! おれ以外の存在をすべからず消滅させ、人の法を破壊しなければならぬ!>>

威風堂々たる語調。己の所業を全く恥じない芯の入った威声は、強烈な意志を孕んでいた。
其れは偽悪でもなければ、狂気の沙汰でもない。殺戮魔の妄言と切り捨てるには、余りにも覇気の籠った声であった。

其れが却って、雄飛の逆鱗に触れる。

……何の権利があって、己の意志を通すのだ。
神になる――其の烏滸がましい目的を果たすため、人類を全滅させるのか!
花枝のように、忠保も叔父も叔母も殺すのか! ふざけるのも大概にしろ!

雄飛はそう吼え、駆けた。
唐竹。袈裟切り。逆袈裟。薙ぎ。左薙ぎ。左切り上げ。右切り上げ。逆風。刺突。
紫の弧は幾度も銀と重なる。而して、銀は健在であった。
さながら空の闘牛場。悪を討つと決めた雄飛の刃は、魔王に擦傷一つ負わせる事が出来ぬまま空を切り続ける。

「くそォォ!!」

嗚呼、何故。何故! 何故!! 何故己は此れほどまでに矮小なのだ!!
悲痛な声を上げながら、雄飛は半ば破れかぶれに太刀を振るった。

……相して、何度目の邂逅であったか。
円形闘技場の演目は、往々にして終わりを迎えた。

銀星号は小虫を払うような所作で、眼前に迫っていた鬼丸の刃を“平手で弾く”と、空中でくるりと回転する。
瞬く間に周回を終えた銀の右足は、獰猛極まる速力を以て、紫武者の頭部に襲い掛かる。

――踵落とし。

爆発的な蹴りによって、瞬く間に地表目掛け吹き飛ばされる紫の鉄塊。
何が起こったのか、其れすら理解できぬまま、雄飛は訓練場の地面に激突した。
まるで隕石が落下したかのように、亜音速の物質が引き起こす衝撃によって、轟音と共に膨大な土砂が舞い上がり、大地が揺れる。

文字通り鬼丸を一蹴した銀星号は、一瞬の内に形成された地上の衝突地形クレーター)を睨めつけ、声高々に吼えた。

<<――体捌き母衣捌き剣捌き、全てにおいてなっていない! 劔冑の力を殺しきっている!>>







銘伏の探知機能みみ)が、轟音を拾った。
続いて、視覚)に捕えたのは、邸宅の建築物を遥かに超える長大なる土砂の激流。
狂乱に満ち満ちた此の場所ですら、明らかに異常な光景であった。

獅子吼は台風の目と云える異常地点に向かうべく、母衣を操る。
異常の中心には、恐らく此の会津を地獄に誘った張本人が居るであろう。為らば、其処に向かわぬ道理はない。

獅子吼は駆けた。

――果たして、彼らの目に飛び込んできたのは、白銀の劔冑であった。

<<――――>>

破壊と殺戮の化身。一騎当千の阿修羅。
此の地獄において、其の白銀は狂気的な程美しかった。
此の地獄において、其の白銀は猟奇的な程凶暴であった。

「……銀星号、か。ふん……」

獅子吼は肌を突き刺す強烈な威圧を物ともせず、此方に向き直った銀魔を睨み付け、刀を抜く。

<<――凶徒テロリスト)がァ! 生きて此処から帰れると思うな!! 各騎、奴を撃墜しろ!>>

獅子吼の怒号により、竜騎兵隊が一斉に銀へ向かい飛翔する。
数十騎の武者隊が散開し、或る者は軍刀を構え、或る者は機銃を構える。一見すると散漫な隊列は、其の実非常に合理的かつ統制のとれた布陣であった。

<< 凶徒テロリスト)? むう、如何にも誤解されているようだな。おれは政治的主張など持ち合わせていないぞ。唯武を競いたいだけだ>>

<<御堂、相手にはさして変わらぬであろうよ>>

「いやいや村正。こういう些細な擦れ違いは、何れ両者の間に多大な亀裂を生む要因と成り得るのだぞ――と」

「ふっ、おれは強引な男は嫌いではない。主菜メインデッシュ)は出涸らし以下であったが、さて、前菜はどうか」

機銃を持った数打らは先行し、瞬く間に射程距離まで接近する。銀を囲むようにして灰の鉄騎が駆け、熱量圧縮型単発プロップ推進の排煙が空に円を描いていく。其の後方に、刀を持った数打らが陣取る。
九○式竜騎兵らは揃う様に両腕で担いでいる機関砲の照準を銀へ合わせた。機関砲――真打が織りなす戦場の剣戟舞踏に数打が対抗すべく開発された兵器である。

そも数打とは、有体に言えば量産式の劔冑である。其の歴史は短く、一世紀にも満たない。
近代、現代の区分は諸説あるが、其のひとつが新型劔冑――数打の誕生をもって現代の始まりとするものである。

元来、劔冑とは、鍛冶師の身魂を以て生み出される兵器である。心金を通す――己の命を劔冑に宿すという理からは、如何に有能な鍛冶師も逃れられない。
故に劔冑鍛冶は生涯一打。当然希少価値が非常に高く、近代以前はごく一握りの士族以外には保有する者はいなかった程である。
此の伝統に則った製法で打たれた劔冑を、真打と呼ぶ。最も、其の呼称も新型が世に台頭してから付けられた物であるが。
言うまでもないが、其れほどまでに希少な劔冑は非常に高価であり、当時の幕府は一領揃えるだけで軍事費用を圧迫する程であった。

だが、劔冑は大枚をはたく価値が十二分にある兵器であったのだ。
徹頭徹尾、劔冑は最強の兵器である。何故ならば、劔冑は着用する人間――仕手に、神通力にも似た圧倒的武力を授けるからである。
自在に空を駆ける翼と、人類の能力を大幅に逸脱させる身体能力を以てすれば、百兵も一振りで薙ぎ払えると云うもの。
現代においても、戦車、飛行艦すら劔冑の前には平伏する。劔冑を打倒できる兵器は無く、劔冑に打倒されない兵器も無いのだ。

斯様な最強兵器が唯一保有する致命的弱点は、偏に其の希少性であった。而して其の常識を終ぞ覆したのが――二重帝国ハプスブルク)の兵器メーカー、ゼクラー社である。
国記2544年。大英連邦のフォレット教授による多重複写方を用いた整体複製技術開発が頓挫し、研究成果をゼクラー社に売却した事が新型開発の契機となった。
国記2549年。ゼブラー社のアルブリヒト博士は、フォレット教授の複製人体技術を劔冑の製造工程に転用するという偉業を成し遂げたのである。
複製人体コピーボディ)機械式演算装置CPU )命令系プログラム)で劔冑特有の統御機能OS )を代用するという画期的技術により、世界初、鍛冶屋の生命を消費しない劔冑が完成したのであった。

量産可能な劔冑の誕生――其れは世界国家に革命を齎した。
最も、性能面でいえば真打には遠く及ばず、陰義も使用できないが、現実的な価格で大量に量産出来る数打は重宝され、即座に各国に配備され、後に改良されていく運びとなる。

話を戻そう。

其の数打劔冑――九○式竜騎兵らが抱えている機関砲。其れは数打の凡庸性を更に高める武器である。
主に指揮官騎以外の数打が装備する場合が多く、武者の頭部と機銃を送熱管ケーブル)で連結させ、劔冑の動力を以て巨大な機関砲の発射を補うのだ。
此の機銃は、飽く迄牽制として使用されるのが常である。機銃の牽制によって機先を制し、体勢を崩した敵機を腰に差している軍刀にて両断する――此れが数打の兵法。
現在国内で目下開発中である発振砲ヴァイブロカノン)や、次世代対武者射撃兵器ADSA)として最も有望視されている高速徹甲弾HVAP)なら兎も角、歩兵銃を少しばかり巨大化させた程度の機関砲では、武者の鋼鉄を貫く事は到底不可能なのだから。

だが。

其の常識も、此の状況では覆る。

圧倒的な、多対一。

数十騎からなる機関砲の集中運用――十字砲火クロスファイア)の前には、如何に堅牢な武者鋼鉄とて無事では済まぬ。
竜騎兵らは相互支援原則に従った位置関係から、獰猛なる銃口を銀へ向けた。

――射撃ファイア)

銀星号に、銃弾の雨嵐が全方向から一斉に襲い掛かる。
劔冑の熱量により稼働した機関砲は、自動で銃身元部の薬室へ弾丸を装填し、発射、排莢を繰り返す。
唸るような駆動音と射撃音が大気を震わし、着弾した弾丸の火薬が爆ぜ、灰煙が銀を覆っていく。

やがて、弾丸を全て使い果たした竜騎兵隊は、最早視認できぬ程立ち込めた煙を祈るような眼差しで注視した。

<<――や、やったか!?>>
<<……ふん、好き放題やってくれた報いには、ちと物足りんがな>>
<<念には念を。各騎油断するな>>

後方で控えていた竜騎兵隊が合流する。彼らは歴戦の兵に違わぬ振る舞いで軍刀を構え直した。
銀魔は墜落していない。為らば、些か信じがたいが、未だ敵は健在である事は自明であった。故に彼らは油断せず、傷ついた獅子を狩る心構えで煙を睨み付ける。

次第に煙が晴れていく。幾人分もの心臓が揃う様に早鐘を打ち鳴らす。ごくりと、喉を鳴らした彼らに緊張が疾走る。

<<――――>>

そして――彼らは不可解な物を見た。

「……は?」

余りの衝撃に脳が揺さぶられる。自分達の眼が捕えている光景を認識できない。

銀魔は健在であった。だが、其れは予想済み。
銀魔は無傷であった。口惜しいが、此れも予想の範疇を多少逸脱した程度。

何より信じがたいのは――

銀星号の両掌の上に在るモノ。
其処には、無数の弾丸が山のように堆く積み上がっていた。
そう、富士の山のように、高く、高くである。其れは過度に不合理で、物理法則を完全に無視していた。
瞭然たる異常。球状の弾丸は一つも零れず、米粒のように接合し、巨大な縦状の塊を形成している。其れは余りにも非現実的で有り得ない事象であった。

<<乙女を口説くには、些か度胸が足りぬな。其れでは何時まで経っても、箸にも棒にもかからぬであろうよ!>>

銀星号の声をきっかけに、魔神が持っていた弾丸の山が途端に崩れ始めた。
焼き付いた鉄の鉛は次々と落下していく。其れはさながら、彼ら竜騎兵隊の末路のよう。

<<ひッ!?>>

背筋がぶるりと凍える。竜騎兵隊は皆一様にして恐慌状態に陥ってしまった。
彼らが幾度戦場に身を投じていようが、其れは飽く迄人間との戦いであったのだ。この様な御伽噺にすら出てこないであろう化物との対峙なぞ、彼らの辞書には載っていない。

<<――ふッ!>>

銀星号が丹田から吐き出す息が、始まりの合図であった。
銀は踊るように舞い、歪な軌跡を空に残す。鼠花火のように、至る所で次々と爆発が起こる。
死。死。死。銀の道程は数打の爆焼で派手に彩られていく。

<<――ば、化物めェ! 刀の錆にしてくれようぞ!>>
<<逃げても無駄だ! 一斉にかかれ!!>>

勇敢に立ち向かう竜騎兵隊。而して、彼らは銀魔に一矢報いる事すら叶わぬまま、一瞬の内に蒸発していく。
銀は踊る。有りっ丈の死を振り撒きながらくるくると踊り、彼らを殺戮する。



(無敵の化物、か。笑えんな)

次々と竜騎兵隊が鉄塊、肉塊と化していく。
部下が嬲られる様を視界に入れながら、竜騎兵隊の後方に位置していた獅子吼は毒づいた。

(十七連隊は出せん。機銃も効かん。斬る前に一瞬でやられる。ふん、其れが如何したというのだ)

獅子吼は聞き取れぬほど小さな声で、何事か呟く。
すると、彼が纏う漆黒の劔冑が、一瞬脈動したかと思うと、地上の火災で彩られた茜空に同調していく。

――隠身いんぎょう)の陰義。
甲鉄の色を空間に溶け込ませ、相手の視覚情報を欺く陰義である。
劔冑の信号探知みみ)熱源探知はだ)には捕らわれる陰義だが、此の状況ならば、使い用はあると云うもの。
混戦では、如何に魔王とて、逐一位置情報を確認する余裕はないであろう。

獅子吼は透明のまま合当理を巧みに操り、銀星号の遥か高度へ上昇した。
そして、真下に銀魔を捕えると、背面の翼筒を停止させ、音を消す。
重力に身を任せ、銀へと落下。ややあって、遂に目前へと迫ると、瞬時に合当理を再稼働させる。

――完全なる不意打ち。
神速の一刀は、無防備な銀の脳天へ稲妻のように疾走る。

(殺った!! 貴様の首級しるし)を、同胞の手向けにしてくれる!!)



<<――ほう、珍しい陰義だな>>

而して、銀魔は目に頼らずとも、天賦の才を以て暗殺者の気配を捕えていた。後方の軸へと僅かに“ぶれる”事で、獅子吼の斬撃を回避したのだ。

<<――な!?>>

銀星号の居た位置を、亜音速で銘伏が通り過ぎる――が、銀魔は其れを是とせず、獅子吼の片足を掴んだ。

<<だが無粋! 男子たる者正々堂々とあるべし! 出直すが良い!>>

銀星号は受けの足を肩に担ぎ、投げた。空中での一本背負いである。

地上の衝突地形クレーター)――其の横に、もう一つ同様の地形が形成された。







暗闇。

万物全て呑み込むような暗黒の世界が一面に広がっている。

辺りは水を打ったように静寂に包まれている。
地面に脚を付けている感覚がない。浮遊感のみが身体を支配する。

(…………)

己は何者なのか。そも、己は何処にいるのか。
其れすらもよく判らぬ。


(――――!)

瞬間、爆発的な轟音が真横から鳴り響き、其の音によって夜の帳が挙がった。思考が鮮明クリア)になり、紅く点滅している鉄籠の表示が眼に映し出される。
右方向から聞こえた轟音と共に、圧倒的衝撃が地中に埋まったままであった己の身体を揺さぶり、雄飛は覚醒に至る。

(――――ぐ、うゥゥゥ!?!?)

――突如、刺すような激痛が身体を駆け巡り、痛覚という痛覚が悲鳴を上げる!

何だ! 此の激痛は一体どういう事だ!
五臓六腑に焼鏝を当てられたかのような此の衝撃的で驚異的で鮮烈な苦痛苦辛重苦倒懸は何なのだァァ!!

千切れた神経を無造作に縫い合わせたような激痛! 溶けた内臓を掻き集め捏ね繰り回したような激痛!

<<御堂。耐えてみせよ>>

耐えろ!? 耐えろだと!? 馬鹿も休み休み言え! 此れは気力云々でどうこう成る痛みではない!

(い、ギ、あァァ!!!)

思い出した! 己が気絶する前の事を!
成程、確かに己は銀星号の蹴りによって大地に激突した! だが此れは其の様な常識的で善良な要因で引き起こされた代物では断じてない!
己は此の痛みに似たモノを知っている! だが――だが! 此の痛みは更に異質! あの地獄のような経験すら霞んでしまう!

(あ――――)

痛みに脳が狂う――其の直前。ふっと、身体を締め付けていた鎖が解かれたような解放感に満たされた。

(う……あ……?)

ぼんやりと、身体の感触が戻ってくる。其れは不思議な感覚であった。
雄飛は違和感を覚え、息を呑む。恐ろしい程完璧に――己を蝕んでいた痛みが雲散霧消しているのだ。
更にあの蹴りによる損傷も完全に回復している。其の証拠に、鉄籠の表示は通常の状態へ戻っていた。

<<持ち直したか。――見よ御堂、あの悪鬼を>>

土砂に埋もれている鉄の巨躯を身動ぎすると、土が崩れ、其処から木漏れ日のように光が差した。
相して得た僅かな視界から覗く、銀の魔鋼。其れを見た途端、雄飛は怒髪天を衝く。

(……銀、星、号ォ)

<<討つのだ。吾ら正道を往く者は、如何に強大であろうと其れが“悪”なのであれば、討たねばならぬ>>

討つ。そうだ、己の成すべき事は、跳梁跋扈する悪を打ち砕く事である。

(…………ッ)

だからこそ。如何しても許せぬのだ。


雄飛の目に灼熱が三度灯る。

其の怒りの矛先は、眼前に佇む魔王へ。

――そして、もう一つ。

少年は憎悪し嫌悪する。恐怖に蝕まれ、唯呆然と震えていた己を。

何も、何も変わっていない。
あの日から、何一つ。

守れなかった。だからこそ、もう二度と。そう決意したのではなかったのか!!



許せぬ。

不甲斐無い己を。悪を討つどころか、怯え震えるだけであった己を。

己が脆弱だから、自分が愛した小夏は死んだ!
己が怯弱だから、自分を愛した花枝は死んだのだ!


反吐が出る。虫唾が疾走る。何故お前は今も尚、斯うして息を吸っている? お前のせいで彼女達は無残に死んだというのに! 恥を知れ!


(討つ……)

理不尽を万民に強いる存在、銀星号。

断じて生かしておけぬ。
己の刃で討たねばならぬ。

勝てるかどうかなぞ関係ないのだ。だが、せめて行動しなければならぬ。泥を啜ろうが足掻いて足掻き遂せなければならぬ!

そうしなければ、己という存在が消滅してしまう。そうしなければ、己の決意が揺らぎ、心が腐り果てて狂ってしまうのだ!

魂を支える館骨。此れが崩壊すれば、自分という存在はいとも簡単に崩れ落ちてしまうだろう。

悪を討つのだ。万民のため、もうこれ以上理不尽に虐げられる人間を生み出さぬため――悪を討つ事が、己の宿命であり生きる方法であり宿願なのだ!!


<<おれは討つ。不義を討つ。理不尽を討つ>>

凶呪のように、雄飛は呟く。
己に言い聞かせるように。己の意志を口に出して再確認するように。

<<おれは、悪を殺す>>


――音が、消えた。


百折不撓。不撓不屈。狂気じみた確固たる意志が、邪魔なモノを消失させる。怒り。怨み。恐怖。葛藤。後悔。全て不要。

雄飛は知覚し自覚した。此の瞬間に限り、己が悪を討つのみに特化した存在と昇華した事を。


然らば、大鳥雄飛という一己の存在が成すべき事も、唯一つ。





<<だから――お前の力をおれに貸せ!! 鬼丸ッ!!>>



<<――応!!>>







<<……なに? 生きていただと? おれの渾身の蹴りを喰らって?>>

突如、会津に爆音の如き噴射音が鳴り響いた。土砂を跳ね上げ、一心不乱に空へ飛翔する紫。
銀は驚愕の態で其れを視界に入れる。紫武者は太刀を持っていなかった。

銀へ突撃せんと合当理を吹かす紫。其処に空戦技術かかりわざ)の気配はない。
だが、其の動きには剣戟舞踏ブレイドアーツ)を圧倒するかのような、瞭然たる迫力があった。
つい先ほどの、愚直な突貫ではない。明確かつ合理的な理由に基づいた突撃。

<<御堂! 当方の最大武力を以て、外道を滅するのだ!!>>

雄飛は鬼丸の助言を聞き入れ、丹田に力を込める。
最大武力――即ち陰義。其れは一握りの真打劔冑が保有する怪力乱神の力。
武具という枠組みに囚われぬ其の力は、最早神が齎す奇跡の類と云える。
心鉄しんがね)に刻まれた、鍛冶師の意志を体現する力である。

生前、鬼丸国綱が成さんとした想いが、今此処に顕現する。

<<色即是空、空即是色。諸法無我を此処に顕す!>>

呪句の詠唱。
鬼丸から眩い輝きが発せられた。
燦然たる力の濁流が蒼天を駆け巡り、やがて一点に集中する。
全熱量が片腕へ送熱され、闘氣が爆発的に凝縮していく。

――右拳に黄金の焔が宿る。

拳から轟轟と立ち昇る金色の波濤は、龍が荒れ狂うような獰猛さを秘めている。


<<――――来るか!!>>

銀星号は己に飛翔してくる黄金を驚愕の眼差しで睨み付けると、此の幕において初めて構えた。其の所作に余裕の色は一切見られない。

両騎の相関距離が即座に縮まる。
雄飛は波動を放つ右拳を固く握りしめ、天へ突き刺す。

<<原子掌握――コウ)!! >>

銀と紫の流星が、空に軌跡を残し、激突する。

膨大な質量を持った閃光が、鬼丸の拳から爆散した。

慈悲の無い、大自在天シヴァ) の鉄槌が牙を剝いて魔王に襲い掛かる。





黄金の拳は、一切衆生を破壊する。




















<<良いのか、御堂>>

「……面白い」

「ふふっ。実に、実に面白い!」

「彼には随分と無礼な事を言ってしまったな! ふっ、反省せざるを得まい。おれの目は真、節穴であった!!」

「欠片を頼りに遠路遥々赴いたかいがあったと云うものだ! そうであろう村正!」

<<…………>>

「なに、まだ摘み取るのは早い。元々、今日は顔見世に留めておくつもりだったし――果実は十二分に熟してから食す主義だぞ、おれは」

「一瞬の逢瀬であったが、良い一刻であった……。晴れやかな気分だ。滾ってくる」

「……そうだな、久方ぶりに、我が愛すべき景明に会いに行くか――」



銀の魔王は流星の如き速度で、会津を去った。
尽く死に絶えた大鳥の地。其処には、雄飛の絶叫だけが、何時までも木霊していた。



[35897] 捨話 進駐軍
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:50
進駐軍



アングロサクソンの歴史は侵略の歴史である。

紀元前55年。ローマのユリウスカエサルは、ブリタニアに侵攻した。
其処に住まうケルト人は必死に抵抗したものの、紀元後43年、ローマ皇帝クラウディウスが、万の軍勢を率いて再侵攻。にべもなく、グレートブリテン島の南部と中部は、ローマの属州となった。
然し、ローマ人は拡大領土思想に囚われていながらも、実に理知的であった。此れは当時のケルト人にとって、不幸中の幸いだっただろう。
『すべての道はローマに通ず』“All roads lead to Rome.”) ローマ人はケルト人に文明を与えた。
そして約500年後――、ローマ帝国は滅亡してしまう。此の理由について諸説あるので割愛する。
兎にも角にも、ブリタニアにおけるローマ属州の歴史に終止符が打たれたのだ。漸く自国文明を築き上げる事が出来る――ケルトの民は歓喜に包まれた。
だが、彼らは飛び切り不幸であった。其の頃、デンマーク周辺にいたゲルマン人は、民族移動時代の渦中であったのだ。彼らゲルマニア民族はブリタニアに移動、侵略を開始する。
瞬く間に先住民は支配され、ケルト文化はゲルマン文化に塗り潰された。この侵略者が後のアングロサクソン人である。

1914年、第一次世界大戦勃発の頃には、アングロサクソンによる侵略の爪痕は北米・カリブ海は勿論、アジア、アフリカにまで及んでいた。
英国イギリス)は第一次世界大戦を尽く勝利、更に版図を拡大する。其の勝利は多大な植民地を保有していた影響もあったのであろうが、何より“劔冑”の存在が大きかった。
1889年、二重帝国ハプスブルク)の兵器メーカー、ゼクラー社による数打劔冑の量産化。其れは英国のフォレット教授による多重複写方を用いた生体複製技術開発がゼクラー社に売却されたという背景がある。
英国は研究完成の翌年である1900年、二重帝国ハプスブルク)に宣戦布告している。宣戦の理由は“自国独自技術の奪取”。二重帝国ハプスブルク)から見れば、言い掛かりにも程があるだろう。
而して、倫理的にどれだけ問題があろうと、英国の判断は素晴らしかったと云えよう。アングロサクソンは圧倒的武力を以て小国を侵略し、数打劔冑の生産技術を独占したのだ。

彼らは10年間に渡って数打を大量に生産、各軍に配備し、来たる第一次世界大戦に臨んだ。数打生産技術の流出を極力防いで、戦争に至ったのだ。
結果は言わずもがな。当時の戦争は、真打は飽く迄制空権確保にのみ運用されていたのだ。少数の真打は切り札的存在でしかなく、基本的に陸は戦車と歩兵、海は駆逐艦の出番であった。
其処へ英国は大量の量産式劔冑を運用したのだ。数打の性能が真打に遥かに劣るとはいえ、戦争は数である。連戦連勝、立憲君主制による英国女王陛下クイーン)の支配は瞬く間に拡大し、欧州に大英連邦という超大国を築き上げていった。
斯うして第一次世界大戦は、大英連邦の誕生を以て終結した。また、広大な領土を背景に露西亜も勢力を拡大。『大英連邦』と『露西亜』の二強、此れが世界の縮図となり、現在も変化していない。

其の後、大和は国際平和機関である国際統和共栄連盟軍――実質的には大英連邦と其の属国が主導権を握っている――と戦争、大和の敗戦、六波羅幕府成立に繋がる。

六年前、国際連盟軍は六波羅の降伏を受け入れ、対大和戦争を集結させた。
現在大和民が貧窮している原因――六波羅による大和統治の始まりである。然しながら其れは連盟軍、ひいては大英連邦が当初目的としていた結果とは異なる結末であった。
大英連邦にとって、極東の地は是が非でも完全占領しなければならなかったのだ。其れは世界の盟主である大英連邦に唯一対抗できる露西亜の存在が要因であった。
バルト三国、モンゴル、スカンジナビア。第一次世界大戦によって大英連邦が世界規模で構築した対露封鎖網は、大和占領を以て完成に至る。此の封鎖網完成は、英国にとっての最後の敵、露帝の勢力拡大阻止を意味する。
もし大英連邦が大和を放置し、かつ露西亜が大和を征服すれば、必然的に起こりうる英露戦争の折、大和は南洋への脱出口に成り得る。そうなれば、大英連邦は露西亜に完勝する事自体が不可能になるのだ。

斯様な背景にも関わらず、大英連邦が対大和戦争を終結したのは、六波羅の和平提案によって連盟軍加入国で湧き上がった厭戦感情を抑えられなかったからであった。
また、極東の地まで戦線を伸ばしていたため、補給物資の輸送が困難を極め、前線、後方共に疲弊した事も要因の一つである。

そして何よりも懸念すべき事項であったのは、連盟軍に対する大和人の感情であった。
六波羅の和平を蹴り、武力を以て強行的に占領した場合、長期にわたって抵抗運動が続くであろう事は容易に予測できた。
如何に超大国大英連邦も、植民地の反抗は許容できない。確かに国家機関が消滅した土地の原住民なぞ、大英連邦にとって蟻を踏み潰すように簡単に全滅させる事は可能である。
だが、民のいない植民地ほど意味のない物もない。軍を極東の地に置くだけでも、インフラやら何やらで現地住民の協力は必須であり、また黄色人も人間であると見做している同属は大英連邦に不快感を示すだろう。
其れが最終的には国際連盟軍の崩壊に繋がるであろう事は、子供でも理解できる話だ。
対露西亜戦の前線協力が欲しい大英連邦にとって、大和人の協力は不可欠。もし無理を押して占拠し、大和人が連盟軍に非協力的思想を持つようになれば、露西亜にとって付け入る隙が有り過ぎると云うもの。

そういった観点から、六波羅の和平を大英連邦は受け入れざるを得なかった。
然しながら、大英連邦は露西亜封鎖網完成を諦めた訳ではない。大和完全占領を成し遂げようと布石を打つのは当然である。
其のひとつが、六波羅による独裁政治並びに圧政の黙認であった。
対露西亜戦略における大和軍事基地化――其の実現には大和民を味方につける事が必須。だからこそ、六波羅を“あえて”黙認する事で火種を煽る。
大和国民による六波羅幕府への反対感情が沸騰すれば、国際世論は大和開放を訴えるであろう。其の瞬間を、進駐軍GHQ )は手薬煉を引いて待っている。
そうなれば、大英連邦は大和占領に全力を注ぐ事が出来る。六波羅という“悪”に虐げられている哀れな大和人――そんな弱者を救う“正義”の執行者として、大英連邦は大手を振って歩む事が可能となるのだ。





< 横浜 国際連盟大和進駐軍総司令部参峰第二部 執務室 >

大和において、明らかに異質な場所がある。
其れは横須賀と、此処横浜である。六年前の和平により設立された進駐軍GHQ )は、横浜と横須賀を軍事基地化したのだ。
基地内では溢れんばかりの兵士が一様にして訓練に励み、幾輌もの戦車が所狭しに軒を連ねている。港には、入念に整備された駆逐艦が数隻停泊しており、威圧的な存在感を放っていた。
横須賀を含めた、大和に駐屯している進駐軍の戦力は、六波羅軍の全戦力を凌駕する規模を誇っている。其の事からも、如何に大英連邦が大和占領を重要視しているか窺えるだろう。

海岸に面した此の基地は、まさに前線基地として打って付けの場所であった。東京湾の周辺一帯及び横須賀湾は進駐軍により完全に封鎖され、何時でもフィリピンへの補給線を構築する事が出来る。
鎌倉の補陀楽城とは目と鼻の先であり、いざ六波羅と戦争になれば、横浜と横須賀による二重攻撃を仕掛ける事が可能だ。
横浜基地の戦力が八王子街道を沿う様に展開し、横須賀基地の戦力が相模湾を抑え平塚に回り込めば、補陀楽に駐屯している六波羅軍は忽ち補給路を失う。
難攻不落と評されている補陀楽であっても、兵糧攻めには一溜まりもないであろう。

そんな六波羅にとって忌むべき横浜基地の執務室。
其の部屋は、大和という国に土地を構えておきながら、現地の文化を完全に無視した造りをしていた。
床は畳ではなくフローリング。薄い色の木目が整然と並べられ、落ち着いた――というよりは冷ややかな空間を演出している。
セメントで塗りたくった土台の上に張られた真っ白な壁紙は、やけに人工的で、温かみと云うものがまるで感じられない。
僅かに置かれた調度品の類も全て西洋式であり、此の部屋から大和の文化を意地でも排除するという強烈な意志が滲み出ているようだ。
送電線を蛇の如く壁に伝わせ、中央に無理やりぶら下げてある電燈は電気が点いておらず、代わりの光源といえば、縦長窓から差し込む光だけ。
窓を背に置いてある机――其の上の隅にある三角プレートには、参峰第二部と記されている。

部屋の奥に位置する机に左肘を預け、椅子に腰掛けている男が居た。
堀の深い其の顔は、当然ながら大和人のそれではない。耳元から刈り上げ、其れを頭頂から伸びた髪で覆いかぶせるような髪型――無論、金髪である。
やはり食生活からして違うのか、其の体格は大和人の比ではない。鍛え上げられた筋肉が、軍服をせり上げている。
武骨な造りの顎は、対峙する相手に力強い印象を与えるであろう。でありながら、神秘的に輝く青目は聡明さを主張している。
参峰第二部G2 )の資料管理課長。其れが此の男の役職であった。

彼は受話器を耳に当て、眉を顰めていた。

「……すまないな。どうやら電波が著しく悪いようだ。やはりこういう繊細な機械は大和製のやつを使うべきだったよ。それともついに俺の耳がイカレちまったのか?」

『まあ、其れはいけませんキャノン中佐! 中佐は進駐軍GHQ )、ひいては大英連邦ブリテン )にとってなくてはならぬ存在、どうか御自愛下さい。今すぐ其の受話器を置いて、医務室で精密検査を受けるべきですわ。そう、半年ぐらいじっくりと』

「そうしたいのはヤマヤマだがね。もしこの通信機が正常に機能していて、更に身体に異常が診られなかった場合、俺はますます仕事にかかりっきりにならなきゃいけなくなる。今でさえ睡眠時間はフランスの英雄も裸足で逃げ出すくらいだっていうのに、全く、勘弁願いたいよ」

『心中お察し致しますわ。不肖ながら、精一杯応援させて頂きます』

「有り難う。何時の時代も男を支えてきたのは美人の声援エール)だ、此れからも存分に舌を動かしてくれて構わない。さて、もう一度確認しよう。何があったって?」

『江ノ島の巨大化物クラーケン )を、勇者ペルセウスと其の御一行が発見、戦いを挑みます。ところが、其処に突如魔王が現れ滅茶苦茶にしました。おしまい』

「――ソイツは随分と大活劇ビッグ・スぺクタクル )だったな! 英国アカデミーBAFTA )賞も目じゃない!」

「……だがね、大鳥大尉。生憎と俺は現実主義者 リアリスト)なんだ。君が妄想家ファンタジスト)ではないと証明するためにも、もう少し詳しく説明してもらえると助かるんだが」

『あら? 何だか、らしくない声ですわ、中佐。ひょっとして虫の居所が悪いのですか? 大和では、ストレス解消には煮干しドライフィッシュ )を食べると良いとされています。丁度海岸に居られるのですから、暇を見つけて釣糸を垂らしてみては?』

「いや、遠慮しておこう。なぁに、別に苛ついている訳じゃあないんだ。ただ、子供が遠足 ピクニック)に出掛けたまま何時まで経っても帰ってこない――そんな心境なだけさ」

「そもそもだ、レディ。君という有能な人材を水質調査なんていう使いっぱしりにしていた民政局の魔の手から、我々勇敢なる資料管理課が救った際の事を覚えているかい?」

『勿論です。あの時の感激ったら、もう! 髪長姫 ラプンツェル)になった心持ちでしたわ』

「そいつは重畳。苦労して其の長髪を梯子にしたかいがあったってものさ。では、ついでに其の時通達した任務内容を復唱してみようか」

『進駐軍司令部を代表して八幡宮宮殿下に仕え、諸事に便宜を図る事』

「裏は?」

『親王の監視と、皇室周辺の資料収集です』

「正解だ。そこで質問なんだがね、大鳥香奈枝大尉。なんだって君は任務を放棄して江ノ島に行ったんだ? 幾らなんでも、リゾートで骨休みするには早いと思うが。其れとも俺が知らないだけで、大和人は三歩歩く度に一々休息が必要なのか?」

『そんな事は決して。体格こそ小柄ですが、大和人は勤勉で通っております』

「そうかい。なら君は例外ってワケか」

『…………』

「いや、すまない大尉。紳士としてあってはならない言動だった。だから電波に乗せて殺意を送るのは一旦止めてくれないか?」

『仕方がありませんですわね』

「ふう、嫌な汗をかいてしまった」

『わたくしは資料管理課の一員として行動しただけです、キャノン中佐。独断で調査せよとの命令でしたので、独断で調査した……』

「何事も単純明快 シンプル)が一番だが、少々味気なくもある。俺は英国料理には唐辛子タバスコ)をぶっ掛ける主義でね」

『最初から説明致します。実は、宮殿下に或る助力を頼まれていまして。一時的とはいえ、親王に仕える身とあっては無碍にする事も出来ず……』

「ほう、助力ってのは?」

『銀星号事件の解決です』

「――そりゃあ良いな! あの怪物モンスター )を打ち倒すってのか! あながちさっきの話も嘘じゃなかったってわけだ」

「……で、何か釈明はあるかい? 報告は綿密かつ頻繁に――なんてかたっ苦しい規則は此処管理課には存在しないが、其れにも限度というものがある」

『御座いません。飽く迄資料調査の一部と判断致しましたので、報告は何か有益な情報を掴んでから、と。キャノン中佐の睡眠時間を削るのは、私としても心苦しかったものですから』

「物は言いようだな。まあ、いいさ。では続きをどうぞ」

『銀星号調査隊の元に、一通の手紙が届きまして』

「調査隊ねぇ、締まらない名称 ネーミング)だ」

『其処には、江ノ島で“銀の劔冑シルバークルス)”を見た、なんて書かれておりました』 

「成程。で、其の情報を馬鹿常識に信じて、ノコノコ江ノ島くんだりまで行った、ってことか」

『“何処の誰が”密告してきたのか図りかねましたけれど、隊長がどうしてもって言うものですから』

「随分と親切なヤツもいたもんだ。態々義憤に駆られて八幡宮に矢文を送ったってのか、全く頭が下がるよ」

『ええ、本当に』

「要点は解かった。なら俺は上司としての寛大なる精神に基づき、君の行動を不問に処そうじゃないか。で、君達調査隊は、江ノ島で信じられない物を見たってワケだ」

『はい。――何と其処には! 悪の秘密結社が開発した、巨大な二足歩行ロボットの姿が!―― という次第です』

「なんともまあ、B級映画らしい展開だ」

『調査隊の隊長は正義の英雄として、謎の巨大ロボットに立ち向かいます』

「凄いな、其の隊長とやらは! なんて素晴らしく高潔な精神の持ち主なんだ! そんな敵を相手にするなんて!」

『其の人の事は中佐もよくご存じではなくって?』

「ん? 俺の友人にそんなヤツいたかな? ちょっと待ってくれ、手帳を調べてみる」

『いえ、及びませんわ。其れで、隊長が奮闘する様を、わたくしは草葉の陰で見守っておりました』

「実に健気だな。ついでに、ジョージの中隊も江ノ島で資料調査に従じていたんだが、鉢合わせなかったかな?」

『そうらしいですわね。ですが、如何せん薄暗かったものですから、見当たりませんでした。そして気付いた頃には、もう手遅れでしたし』

「手遅れ、というと?」

『英雄が悪の巨大兵器と戦っていたところ、突如魔王が現れ、何故か現場に居た少佐の中隊を全滅させたのです』

「全滅? ハハハ、全滅だって? ……嗚呼神よoh my god )! この世に救いはないのか!?」

『報告は以上です、中佐』

最後にもうひとつ one last thing )。なんでも、先日江ノ島に歴史的な地盤移動が発生したそうじゃないか。其れも怪物モンスター)の仕業だったりするのかい?」

『判りかねます。わたくし、恐怖の余り途中で気絶しておりまして……目が覚めた頃には全部終わっていたものですから』

「無理もない、ああ無理もないさ。よし、報告はもう結構だ、大鳥香奈枝大尉。君に新たな指令を命じよう」

『何なりと』

「既存の任務に並行して、銀星号に関する調査を進めてくれ。無論、既に調査隊とやらは結成されているようだから、此方から支援する必要はないだろう?
ああそれと、とりあえず現状で得た資料を速達で横浜宛てに送ってくれると助かるね。勿論、郵便局に出すなんて馬鹿な真似はしないように」

『ええ。了解しました』

「詳細は追って知らせる。今後の君の働きに期待するとしよう。全ては英国女王陛下クイーン)のために、大尉」

『全ては英国女王陛下クイーン)のために、中佐。では失礼致します』







「……ふん、売女マタ・ハリ)め」

大鳥香奈枝――連盟軍将校でありながらの大和人である。
二重帝国ハプスブルク)に国籍と軍籍を所得しており、つい先日まで、駐軍司令部より巡察官として派遣されていた。
だが、彼女は“仕事をしてしまった”。
施政の実態を調査し、好ましからぬ事実が発見された場合は、状況の悪化を防ぐ措置を取る――これが巡察官の責務である。名目上は。
実際、真面目に仕事をする人間は巡察官として相応しくないのだ。当局の無能な豚は、財布を焼き払った女を人員整理した。
相して民政局を解雇され、行く当ての無くなった大鳥香奈枝が送られたのが、参峰第二部G2)の資料管理課である。

資料管理。自分の足で資料を収集し管理する。要は諜報活動である。
当然ながら、此の課は能力の著しく高い人間を欲していた。もし下手を打てば、進駐軍にとって要らぬ心労を抱え込む可能性に成り得るし、そうでなくてもトカゲの尻尾切りや KIA になる人員は後を絶たない。
そういった背景もあり、大鳥香奈枝は第二管理課に転属となった。そう、彼女は間違いなく有能だったのだ。だからこそ、仕事を頑張り過ぎたのだから。


銀星号 コード・シルヴァー)……ね。なんとか始末したいところだが……現状では打つ手なし、か」

キャノンそう独りごちると、天国――若しくは地獄か、神が白人至上主義者でなければ――に召されたであろう部下、ジョージガ―ゲットに下した任務を思い起こす。
江ノ島にある六波羅幕府直轄の漁業研究所。而して、其の実態は兵器研究施設。
其れも極めて危険性の高い新型兵器の開発が行われている施設である――との情報を基に、キャノンはジョージ少佐を江ノ島へ派遣、進駐軍による研究施設の接収を命じた。
そして其の命令は、新兵器の実態を確かめる事に加えて、もう一つの思惑もあった。其れは“英雄の抹殺”である。

(D8号を使った作戦は、一旦凍結するべきか? 英雄を退場させる事に労力を注ぐべきかもな)

進駐軍の絵図シナリオ )、其れは暴虐なる支配者からの解放という名目を得る事である。
この名目によって、進駐軍は何に憚る事なしに、“正義”を執行できる。其の為に、大和国民から進駐軍への救いを求める声が必要不可欠。
だが、六波羅を放置するだけでは、万全ではない。大和民が六波羅、GHQ以外の劔冑に頼る可能性があるのだ。
だからこそ、進駐軍は劔冑狩りを行い、六波羅幕府以外の武者を根絶した。此の政策によって、民が頼る相手をGHQ以外消滅させたのだ。

此れで盤石――ではなかった。進駐軍は、大和民の国民感情を完全に掌握しようと駄目押しの手を打った。

――大和各地における、大和武者の凶行。

大和国民の、大和武者に対する信頼を、完全に失わせるべく。
キャノンはD8号という間者を通じて、大和民から狩った劔冑を危険人物に提供させたのだ。
卑劣な策である。だが、同時に非常に有効な策でもあった。

然し、キャノンの予想に反して、此の一手は十分な成果を得る事が出来ないでいた。
其の原因が英雄――紅い武者の存在である。

劔冑を提供した見返りは、数件の殺人事件と、一村の壊滅だけ。
どの提供者も、紅い武者によって殺害されているのだ。

各地で出没する、凶行に走った大和の劔冑を討って回る紅い武者。其の存在は、最早大和民にとって、噂の範疇を逸脱する寸前である。
進駐軍からすれば、此れ以上紅い武者が活躍し、英雄へと昇華する事だけは防がなければならない。
そうなれば、六波羅を倒しても、大和民は紅い武者に救いを求めるだろう。進駐軍を“悪”と見做して。
よって紅い武者を江ノ島に誘い、始末する、という筋書きを描いたのだ。最も、銀星号によって計画は水泡に帰したのだが。

(最悪、彼女を締め上げるか?)

キャノンは先の通信で、紅い武者とやらが大鳥香奈枝の隊長とやらに該当すると理解した。
部下の調査により、紅い武者が銀星号を探し回っているという情報を基に、思いつく限りの場所に餌――偽の目撃情報を流したのだ。そして、其れが八幡宮で釣れた。

(いや……紅い武者とやらの居場所は掴めたんだ。其れに何より――彼女は聡明だしな)

大鳥香奈枝という人間は、非常に優秀だ。為ればこそ、キャノンは彼女をある程度信頼出来る。
つまり、彼女が大和人であろうが――いや大和人であるからこそ、聡明な大鳥香奈枝は大和の未来にとって“何が”一番良いのかを正しく理解しているのだ。
六波羅。露西亜。大英連邦。現状維持か農奴化か紳士による植民地支配かの三択で、どの選択肢が大和民にとって最大幸福なのか、大鳥香奈枝は正しく判断出来るだろう。
更に、態々情報を此方に流したのだ。もし大鳥香奈枝が敵対勢力に属する者であれば、江ノ島に行った――つまり紅い武者と行動を共にしている、などと報告する訳がない。
勿論、此れからも継続して部下を張りつかせておくが――余り心配する必要もないだろう。

「全く、何故こう次から次へと問題ばかりが丁寧に包装ラッピング)されて届けられてくるんだろうか。西部開拓時代ワイルドウェスト)の先人に倣って、俺も努力的解決を模索しなければな」




注釈。冒頭にある大英連邦の歴史は一部独自設定です。



[35897] 捨壱話 閣議
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:53
閣議



普陀楽城塞。
六波羅幕府成立に伴い、六年という異常に短い期間を経て築かれた軍事基地にして官邸。
民から掻き集めた金穀を湯水のように投じて急造された普陀楽城――そう、城である。
全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方――国記二千五百三十三年の廃城令により、数多くの城が解体された。
かつて大和には二万以上の城が存在したと謂われる。最も、城として機能していない砦のような建造物も含まれるので、実際には其の数値を下回るであろうが、其れを吟味しても膨大な数の城が存在していた事は確かである。
だが、戦火や藩主の命による破却、火災、天災、上記の廃城令、連盟軍の九州及び中国地方の侵略により、現在も残存する城は、両手で数える程度しかない。
城の時代の終焉。だが六波羅はそんな刻の流れに逆行するかの如く、此の普陀楽城を伝統的な形式に則った造りで建造した。其れは六波羅の反骨心の顕れ――と云えなくもないが、当然確たる理由がある。
軍事要塞然とした城の典型的かつ解り易い外見は国民に畏怖を与え、更には大和に唯一存在する城――斯様な特異極まる存在が、六波羅は大和において最も警戒すべきであると知らしめる事を可能とするのだ。
のみならず、山間部という城を築くに適した立地を、幸運にも大和で事実上の首都である都市、其処の直ぐ北に見出した事も要因の一つであった。
辺境の地よりも活気付いた都市近辺の方が、あらゆる点で魅力的であるのは言うまでもない。

普陀楽城は江ノ島と進駐軍横浜基地の間に位置しており、南に大和で最も栄えている城下町、鎌倉市を据える。
雪ノ下を中心に広がる普陀楽城の敷地面積は、基地としても官邸としても規格外の一言に尽きる。城内は最早――町、其の物であった。
田畑や蔵、工業施設は言うに及ばず、果ては雑貨、生活用品を扱う店まで存在する。下級武官の詰所を外周に、官舎、貴族邸宅、政務施設と、安土桃山の匂いを感じさせる屋敷が領内を埋め尽くす様は、まさに圧巻である。
城内で生まれ、城内で死ぬ。そんな与太話が、此処普陀楽という町においては罷り通るのだ。現に一歩も外に出ず、城内で暮らす女官は少なくない。
普陀楽城に招かれるというのは、大和人にとって或る種社会的地位獲得ステータス)と云って良い。普陀楽は選ばれし人間のみが住まう事を許された、現世に出でたる極楽浄土なのだ。
資本主義の最たる例――貴族階級の女は、戦乱の世において安全が保障された箱庭で何不自由ない暮らしを送り、華の青春を謳歌する。徴税で苦しむ貧民の存在なぞ知りもせず。

石垣で構成された外郭が広大な敷地を囲み、更に其処から内に向かって何層にも重ねられた曲輪が侵入者を拒む。
甲州武田式の平山竜塞、其の典型例とも云える構造であるが、如何せん規模が違い過ぎ、其処に共通性を見出す事は出来そうにない。
堀切、竪堀、障子堀。区画内には様々な構造が施されており、古臭いながらも極めて合理的であった。膨大なる戦力を以てしても、此の城を地上から落とすのは容易ではないだろう。

また、此の普陀楽城。戦国時代のような、唯の城とは訳が違う。
広大な面積を保有する城塞に付いて回る、兵の展開が遅いという短所も、普陀楽城においては問題ではない。
最新式技術で舗装されたアスファルトの道路は、迅速な移動を可能にしていた。生活面においても、車を用いる事によって、城内に住まう上流階級の貴族は不便なく過ごす事が出来る。
幾層もの堀には必ずと言って良い程仰々しい対空砲が設置されており、数多の砲身が空を射抜いている。
如何に武者とて、此の数の対空砲を掻い潜る事はまず不可能。竜騎兵による空からの電撃作戦も、成功確率は極めて低いと云えよう。

鎌倉周辺に住まう平民にとって、普陀楽城は常に視界に入る存在であった。其れは比喩ではなく、純然たる事実である。
城の中枢部、富士の山もかくやと堆く積み上がった連結式の本丸は、鎌倉の何処に居ようが否応なく目に入るのだ。
鎌倉市民は其れを見る度、六波羅の脅威を身体に刻まれるのであった。普陀楽城は難攻不落の評に寸分違わぬ圧倒的な存在感を放ち、彼らを威嚇する。

斯様な本丸の頂上に、一際目立つ荘厳な建築物がある。
大棟の上に上げてある青銅製の鯱が印象的な其処は、天守閣と呼ばれる最終防衛拠点である。
軒下の官舎とは格が違う。入母屋破風の造りは雅趣に富み、金属瓦の見事さは江戸城天守や名古屋城大天守をも凌駕している。
天守閣の直ぐ下、八角形が特徴的な小守天閣――其処には、六波羅幕府の舵を切る重鎮が参集していた。





公方とは、六波羅の軍司令官を指す。或いは管領とも。公方府とは、公方隷下の司令部を指す。
六波羅は鎌倉に普陀楽山塞を築き、周囲に四公方を置く事で、関東一帯を軍事基地化した。
公方府は下総古河、下総小弓、伊豆堀越、会津篠川の関東四点である。公方は六波羅幕府において絶対的な権力を掌握しており、上には長たる六衛対大将領が在るのみ。

「銀星号……。いやはや、まっこと難儀な輩よのう」

顎に手を当て、難渋した声を絞り出した破戒僧は、古河公方、遊佐童心。軍政両略共に優れ、大将領の懐刀と評される人物である。
剃り上がった頭と角の張った顔は、一見すると凡庸な坊主――其れも人当たりの良い――を想わせる。
而して、此の遊佐童心。釈迦の教えなぞ馬耳東風と、天に嬉々として唾を吐く気質を持っていた。人呼んで、婆裟羅公方である。

「江ノ島の“餌”に食いついたGHQは魔王によって全滅。其れだけなら六波羅ウチら)としちゃ、棚から牡丹餅で終わったっつーのにな?」

あっけらかんとした顔で遊佐童心の言に続いたのは、堀越公方、足利茶々丸。四公方きっての経済力を保有し、六波羅の地盤を固める存在である。

「割に合わないったらないわ。会津の惨状を見れば、ね」

朱く染め上げられた唇から、溜息と共に憂慮の込めた声を零したのは、華麗にして優美なる小弓公方、今川雷蝶であった。
上品な化粧が、彼の見目麗しい顔を更に淡く彩り。腰まで伸ばした長髪は、絹の様な柔らかさと、獅子の様な雄雄しさを併せ持っている。
大理石で出来た筋肉はギリシャ彫刻の美々しさを以て、大和職人の手によって製作された個人注文の軍服と見事に調和していた。
風光明媚。眉目秀麗。崇高美の世界に独り佇む、紅の美丈夫。彼は美を好み、美もまた彼を好む。今川雷蝶とは、そんな男である。

「些か“おいた”が過ぎるというもの。むぅ、それがしの判断は蒙昧であったかな」

遊佐童心の判断――即ち銀星号対策は時期尚早である、というものである。

「んなこと言ったってどうしようもねーだろ。実際、取れる手は何にもねーんだからさ」

「アンタが言ってた、GHQが黒幕って説。あれはどうなのかしら?」

開始数分にして早くも匙を投げた茶々丸に呆れつつ、雷蝶は水を向けた。

「さあ?」

「さあって……アンタね」

「今回これ見よがしに江ノ島で展開していた進駐軍を全滅させたってのを鑑みると、可能性は高いんじゃねえの?」

涼しい顔で茶々丸は続ける。

「敵をだますには味方から。GHQの御歴々は疑惑を逸らすために、江ノ島の哀れな同胞をまたしても新兵器銀星号)の毒牙にかけたってーことだろ」

前回の会議で茶々丸が論じた考察は、銀星号は進駐軍の新兵器である、という考えであった。
其れは、銀星号が関東防衛網に捕まらないのは何故か、という論議に端を発する。
関東防衛網とは、会津―堀越間を直径に、楕円形で囲んだ六波羅の金探網である。人員と経費の問題上、関東全域に張り巡らせる事は出来ぬので、関東の外縁のみに設置されている。

そして、銀星号は一度足りとも此の金探に関知されず、“網の中で”凶行を成す事が常であった。此れは銀星号が関東の外からやってくる訳ではない、という何よりの証拠。
低空騎行ならば金探に掛らないが、当然、其れは考えられなかった。何故なら、武者という存在は一際目立つのだ。
一度低空で合当理を吹かせば、必ず其の噴出音を聞き取った者が存在して然るべき。而して、斯様な目撃情報は無いので、犯行現場への移動は高度を取った騎行によって成されている事は自明。
そうなれば、当然犯行現場以外の場所で、行きに離陸、帰りに着陸をしなければならぬ。

離着陸の際に生じる轟音を、人目を気にせず吹かす事が出来るのは、関東では公方府か、進駐軍のみ。例外として、人里離れた山奥等も有り得るが、既に対策班が捜査済みであった。
其処を踏まえれば、銀星号は進駐軍の新兵器と見る事は妥当である。むしろ、進駐軍が開発している陰形竜騎兵ステルスドラゴ)ならば、そもそもの前提である、関東防衛網に掛る事もない。

「いやいや、茶々丸殿。先の会合で的外れな論を述べた恥を捨てて申すが、今となっては其の説、どうであろうな。江ノ島の状況を見れば、銀星号が進駐軍の新兵器であるというのは余りにも無理がござる」

「……」
「あー」

童心の鶴の一声で、騒がしかった室内が途端に静まり返った。重苦しい雰囲気が場を支配する。
茶々丸はへらへらと笑いながらも、何処か呆れ返っている顔で、空を仰いでいる。無論、天井しかないが。
雷蝶は苦々しい表情を、其の美麗なる横顔に写す。其れは、己の信じてきた“武”を破壊されたような当惑を孕んでいた。

「民には隕石の落下による地殻変動と説明してあるが、誰も信じておらんであろうなぁ」

江ノ島――半島である。数日前から。

「……全く、馬鹿げてるわ。あんなの、常識じゃ考えられないわよ」

「おいおい提灯鮟鱇。信じたくねーのは分かるけど、いい加減現実見ようぜ? ちょっとこっから外見てみろよ」

「――また言ったわね! こんのチビすけがァ!」

茶々丸の言葉に、雷蝶は激昂する。

「チビで結構コケコッコウ。茶々丸の愛らしさは、何を隠そう其の小ささにあるのだ!」

えへん、と無い胸を張り、少女は金髪を揺らした。

「ま、ま、落ち着かれよ御両人」

「でも童心様ッ! 此奴にはいい加減解らせるべきですわ! 何時も何時も麿を馬鹿にして!」

恒例となった遊佐童心の仲裁も、今日に限っては実を結ばない。
雷蝶は烈火の如く声を荒げ、未だけらけらと笑っている茶々丸を指差した。
悲痛めいた雷蝶の声は、美を尊ばぬ者への弾劾を秘めている。
童心は場を治めようと、とっておきの策を弄する事にした。

「提灯鮟鱇の通名を知ってござるかな、雷蝶殿」

「い、いいえ」

「闇夜を照らす月明かり。其れが、かの深海魚の通名でござる。いやはや、雷蝶殿に相応しい、なんとも雅な魚体よのう!」

何処から取り出したのか、童心は金の刺繍が入った扇子を開き、雷蝶を仰いだ。

「……! 月明かり……」

忽ち、雷蝶は険しかった表情を破顔させる。

「茶々丸、アンタ良いセンスしてるじゃない。疑って悪かったわね」

潔さこそ武人の美徳。真に美々しい男は、斯うして己の間違いを認める事すら出来るのだ。
雷蝶は慎み深い漢であった。まさに天晴である。

「…………ッ」

対して、茶々丸は腹筋に全身全霊の力を込め、孤独な戦いに身を投じる事で其の謝罪に応えた。

「話を戻し申そう。さてさて、もし茶々丸殿の説が正鵠を射ておったのなら……。ふぅふぅ、これほどぞっとしない話もないのぅ! くわばらくわばら」

そう言うと、童心は芝居めいた所作で両手を擦り合わせた。
其の余りにも胡散臭い姿に多少辟易しつつも、雷蝶は童心に疑問を投げかける。

「ではGHQが黒幕ではないとしたら、銀星号は一体何処に身を隠しているのでしょう」

否応なく目立つ存在、劔冑。其れは化物であろうと関係ない、不変の理である。
当然、銀星号を囲っている組織が有って然るべきだ。そうでなくては、目撃情報が皆無という点と辻褄が合わない。
雷蝶の問いに、童心は真面目な表情を顔に張り付け、重々しく口を開いた。

「無論、儂らの誰かが……という事になり申す」

「――――――――」

雷蝶は目を見開き、絶句した。

「確かに其の通りかもなぁ、むぐむぐ」

「喰うなよ」

カステラに齧り付いている茶々丸に、雷蝶がお決まりの突っ込みを入れる。

「――ふわっはっはっは!」

突如、童心は悪戯めいた笑い声を上げ、呆気にとられた雷蝶と最後の一口を腹に収めた茶々丸を見据えた。

「冗談でござる。流石に其れは道理に合わぬというもの。我ら竜軍中将が、“人知れず”虎を飼う理由がござらん。
唯一考えられるのは、そうであろうのぉ、銀星号という武を用いた、下克上、と言ったところか。然し、これもまた有り得ぬ。今儂が斯うして首を繋げておる事が、其の反証」

「……反証、とは? 童心様」

「簡単な事よ。もし儂が野心を抱いていたとする。然らば、先ずは虎を進駐軍に向け、四公方の御三方を襲わせ、最後に殿の首を獲るであろう。そうすれば、禿坊主は自動的に大和の頂点に君臨、酒池肉林の一丁出来上がりよ。
然し、今も尚、殿が存命で何も変化がない。つまり其れが、儂らが虎を飼っていない何よりの証拠よな。無論、虎を御せぬという点も考えられるが、一人で抱え込むには、銀星号はちと危険すぎる爆弾。虎に手を噛まれては元も子もないからのぅ」

「もしソイツが破滅思想だったらどうすんだよ、坊主?」

「其れならもうどうしようもないのぅ! 末法の世を望むのは、時代遅れに過ぎようぞ!」

呵呵と笑い、童心は茶々丸の考えを一蹴した。

「……解りました、童心様。つまり、銀星号は何処にも属しておらず、奇天烈な術を駆使して六波羅の金探レーダー)を欺いている、という事ですね」

金探を欺く術なぞ、驚天動地の陰義を含めても、此処にいる四人は聞いた覚えがないが、銀星号は最早規格外に過ぎた。常識の枠に囚われては、如何に六波羅とて足元を掬われかねない。

「然り。若しくは……朝廷、かの」

「朝廷……」

前回の会合では出なかった単語に、雷蝶は意外そうな声を漏らした。

「考えてもみされよ。銀星号の被害を蒙っていないのは、朝廷以外にござらん。大宰府もちぃとばかし怪しいが、此方は九州じゃからのゥ」

「なるほど……。一理ありますわ!」

「まあこの考えも疑問点は多いでござるが。なんせ竜騎兵は一際目立つ。我ら六波羅、GHQならば武者の出入りに紛れて銀を隠す事も出来ようが、朝廷は丸腰であるからして、むゥ」

「森がなけりゃー木は隠せねーもんな」





「童心。そちの考えをまとめてみせい」

会合が一段落付くと、其れまで静観に努めていた男が、漸く口を切った。
家門の入った漆黒の袴を羽織り、王者たる振る舞いで佇む男。
其の男こそ、六波羅の頂点に君臨する六衛対大将領正三位にして元師竜軍大将、足利護氏である。
切れ目の入った細眉と胸元まで蓄えられた顎鬚。其の獰猛な目で見据える先は、女王と露帝。
武人然とした護氏の貌は、相も変わらず、圧倒的な威圧感を放っている。

「承知。まず、江ノ島の被害を鑑みると、かの化物が進駐軍の新兵器ではない事は間違いないでござる。で、あるならば、どうやって魔王は我らの目を欺いているのか。
壱、銀星号がGHQと協力関係を結んでいる。此の場合は、進駐軍への警戒を強化し、横浜、横須賀に目を光らせておけば良し。
弐、銀星号が朝廷と協力関係を結んでいる。此の場合は関東包囲網内の朝廷所有地に捜査という名目でがさ入れすれば良し。
参、銀星号が何処にも所属しておらず、何らかの術を用いて金探を欺いている。むぅ、此れは最悪、打つ手がござりませぬ。精々巡回監視の人手を増員するぐらいが関の山かと」

「では三手打っておく。此処に来て要らぬ出費は業腹だが、已む無しであろう。横浜に潜入している厩衆を動かせ。朝廷の捜査は悟られぬよう、一度で決めよ」

「委細承知仕った」

神妙に頷く童心。護氏と童心――彼ら二人は年若くして共に肩を並べ、数多の戦場を駆け巡った仲であるが、当然上下関係は明白にしてある。

「銀星号、進駐軍を排除するまでは捨て置くべしと思っておったが……。最早、羽虫と見做す事は出来ぬ」

護氏は己に刃向かう忌忌しい狼藉者に反感を募らせ、其の貌を更に険しく歪めた。

「殲滅するにせよ、先ずは正体を露見させるべきでしょうからなァ」

「うむ。最悪、手札を切らざるを得ないやもしれぬ……あれの準備を急がせておけ。して、雷蝶。物見はもう帰還しておるであろう。会津の被害はどうなっている」

「はい、お父様。駐屯していた竜騎兵隊七十八騎は全滅、建物の損壊はある程度に留まっておりますので、費用さえあれば修復可能です」

「……大鳥の権力者は粗方死に絶えたか」

「まあ篠川軍は壊滅してねーし。大鳥家の分家は生き残ってるし。問題ないんじゃね? 前のヤツと合わせて128騎ってのはかなり痛いけどね」

「とりあえず、公方府の仮移転先を考えなければならんのゥ。人員の振り分けやら事後処理やらで、まっこと猫の手も借りたいものよな」

「なんにせよ、四公方が欠ける事がなかったのは不幸中の幸いですわ。気に食わない陪臣上がりだけれど、今誰かが欠けたら困るもの」

「…………」

皆々が思う処を述べていく中、護氏は押し黙っていた。
あまり口数の多くない男であるが、今に限り、形容しがたい様相を周囲に覗かせている。

「お父様?」

「……此れで獅子吼の権力は盤石と成り得た、という訳か」

「ふむ、物は考えようでござるな。反対勢力は今頃お釈迦様の元へ行っておるからして、もう獅子吼殿に歯向う人間は会津におりませなんだ」

何故か――いや、童心は其の真意を勘付いていたが――重々しい口調の護氏に、婆裟羅公方が同意する。
獅子吼が統べる大鳥家では、二大派閥が存在していた。端的に言えば時治派と時継派である。
強引な手段の代償は、時継派という反対勢力の団結を強固な物にした。更に当主を傀儡に落とし、獅子吼が篠川公方に就いているというのは、些か道理に合わぬものであった。
茶々丸。遊佐童心。他の公方を見ても判る通り、本来ならば其の地を纏め上げている派閥の当主が公方職を手にするのが常識である。依って、花枝を差し置き大鳥を統括している獅子吼に反感を抱く者は少なくなかった。
だが、其れも先の事件で根絶されたのだ。無論、大鳥本宅に居を構えぬ権力者も存在するが、最早烏合の衆でしかない。加えて、近い未来、獅子吼を責める唯一の弱点も消え失せる。

「…………堀越公方府は至急、会津公方府の立て直しを図れ。特に篠川で開発中の新兵器を何としても確保しておけ。進駐軍に悟られては全てが水の泡よ」

「うえー、またあてが金出すのかよ。なんかさー、何かにつけて堀越から金せびってね、おじじ」

「茶々丸。今は火急の時ぞ」

「へいへい。はあ、金使いが荒い人達はこれだからヤダねー」

「――茶々丸、アンタって子はどうしてそうなのッ! 仮にも足利の血を引く者でしょうに、もう少し慎みってものを身に付けなさい!」

「つーか。もし銀星号を発見できたとしてもさ、どうしようもなくね? 相手は竜騎兵百二十八騎に加えて、江ノ島を吹っ飛ばした化物だってーのに」

「無視すんじゃないわよ!」

「其れに関しては獅子吼の言を聞き入れてからでよかろう」

会津崩壊、江ノ島事件から三日。
獅子吼は辛くも地獄を生き抜いたが、其の際負った怪我は甚大であった。
武者の治癒能力を以てしても、完全に癒えるには後数日安静にしなければならないだろう。
而して、先程の報告で、獅子吼は無理を押してでも此処鎌倉に参集するとの事であった。

「……銀星号事件始まって以来の、唯一の生存者、といったところですかなァ」

「いやいや、あと一人いるらしいじゃん。獅子吼の秘蔵っ子」

「……時治の息子、か」

懐旧の情を掻き立てた護氏の呟きを最後に、閣議の幕は閉じた。



[35897] 捨弐話 閣議-弐
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/19 19:59
閣議-弐



土瀝青どれきせい)に排煙が跡を残す。
力矩トルク)の効いた駆動音が、六波羅の本丸へと続いていく。
直列六気筒三軸受の内燃機関が四百貫もの鉄塊を悠々と動かす様は、等しく文明の利器であった。
傾斜を沿って走る、トミタAA型乗用車。四年前に発売された初の国産車である。
時代の最先端である流線型デザインが特徴的な此の車の車体は、木骨鋼板張りではなく、全鋼製。当然ながら値が張る。
一般人ではとても手が出せるものではなく、彼らは都会で見かける事はあっても、直に座席の座り心地を確かめた経験は少ないだろう。

後部座席の硝子窓に、二つの人影が映っている。
右側の影は、顔色が極端に悪い――とは言っても、常識に照らせば其れで済む筈もないのだが――男。六波羅軍服を着込み、精悍な顔付きをしている。
左側の影は、背丈は控えめにも大きいとは言えぬ、目元まで伸ばした茶髪が特徴的な少年。草臥れた学生服ではなく、余所向きの小奇麗な服で着飾っている。

男――獅子吼は現当主の精神状態、会津大鳥邸宅の惨状、様々な懸念事項に煩悶を重ねながら、数日前に思考を沈めていた。
銀星号に敗れ意識を失った獅子吼は、会津本宅から多少東に離れた、篠川軍第三駐屯基地の医療棟で目を覚ました。最も、獅子吼が斯うして僅かながらも動く事が出来たのは、其の日から丸二日要したのであるが。
生き残りは、此処にいる二名のみ。また、斯うして事件の早期発見が成されたのも、雄飛が適切な行動を取ったためであった。

大鳥邸宅は今も尚、凄惨極まる有体である。死体が多過ぎるのだ。悠長に墓に埋める暇も手間もない。而して、放置すれば冬場といえども徐々に腐り始める。
そうなれば、腐乱臭が周辺の村に散らばり、情報が拡散してしまう。また、余り大袈裟に作業を行っても同じ事。依って、今頃は肉片全てを一緒くたにして、大穴にでも埋めているのであろう。
最も、あれ程の大惨事ならば、遅かれ早かれ民と進駐軍には気取られるだろうが。本宅近辺を立ち入り禁止にして、遺族に詭弁を弄しても、大量の死者数までは誤魔化せるものではない。
其の前に手を打っておくべきかもしれない、と獅子吼は脳裏で対策を練る。毒性気体の流出事故とでも発表すべきか。六波羅の公方府が一騎の武者に蹂躙されたなど――絶対に知られてはならぬのだ。
六波羅は大和国民にとって恐怖の象徴でなくてはならない。今六波羅に隙を生む事は、即ち大和の崩壊を意味する。

(……チッ)

瞬間、対処案の模索に耽っていた獅子吼の貌に、じわりと、汗が滲んだ。而して彼は冷徹な表情を微塵も崩さず、代わりに内心で舌打ちし、己の身体に意識をやる。
全身がみっともなく泣き言を喚いていた。如何程の衝撃を受ければこうなるのか――内臓器官は深刻な損傷を被り、尽く職務を放棄している。骨は車の振動でさえも、一々悲鳴を上げる始末。
無残な結果だった。獅子吼という男の人生において、とび抜けた汚点といって相違ない。大鳥家歴代の当主らは、草葉の陰から落胆の声を上げているだろう。此れで増々、合わす顔が無くなったというものだ、と彼は声を出さずに一人ごちた。

(…………)

然し、生き恥を晒してでも、成すべき事が残っている。大和の未来を掴むまでは、万民に嘲笑されようが構うものか――。
獅子吼はそう決意を新たにしてから、左に居る少年、雄飛に目線を流した。
木々と石垣堀。木造屋敷の群体。少年は硝子越しに、代わり映えの無い景色を眺めている。今、其の顔を窺い知る事は出来ないが、恐らく変化はないだろう。
獅子吼は雄飛に視線を残したまま、重々しく口を開いた。

「奥方様の事は、残念でなりませぬ。然し、雄飛様。今は大鳥家にとって存亡の秋。どうか悲嘆に暮れるだけではなく、堅忍不抜の精神であられますよう」

思ってもない形式事――ではなかった。獅子吼にとって、花枝個人の死については大して悲観に暮れるものでもなかったが、曲がりなりとも奥方となれば話は別である。

「わかってる。何度も言わなくても良い」

「……はッ」

依然として窓の外を眺める雄飛を尻目に、獅子吼は口角を上げた。
前に進む意志がある。足を止めぬ剛健さがある。
やはり己の目は節穴ではなかった。既に少年は当主たる人物に育っている。

「獅子吼も六波羅に滞在するのか」

「いえ。殿下への上申が終わり次第、会津に戻ります。雄飛様は暫くの間、普陀楽城に居を移して頂きます」

「学問訓練は」

「手配しておきましょう」

「そうか」

獅子吼は平淡極まる声調な雄飛の問いに返答し終えてから、当主として正しい姿勢を見せる少年に改めて敬服しつつも、微かに貌を顰めた。
雄飛の毅然たる精神は傍から見ても称賛に値するであろう――だからこそ、獅子吼は多少の懸念を禁じ得ない。

平然と敢闘精神を表す雄飛は――明らかに“異常”だ。齢二十にも満たぬ少年の思考経路ではない。
雄飛の友人が狂人に殺害されてから一ヵ月も経っていない。況してや会津の地獄から数日。
客観的に考えれば、泣き喚くか、自暴自棄になるが必然。兵士ならばいざ知らず、市井で普通に暮らしてきた少年ならば、心が死んでも可笑しくない。

雄飛は此の数日間、殆ど表情を変化させていない。
獅子吼はどうにも、其の理由を推し量る事が出来なかった。
哀しい故、という訳では無いだろう。獅子吼は戦場で数多の孤児を見てきたが、雄飛の表情は其れらと同質の様でいて、全く違う。

あの日――雄飛の決意を聞いたあの夜――の事を思い出す。
“皆が理不尽に虐げられることの無い世界を掴みたい”
其れが雄飛の決意だった。なら、雄飛は其の悲願のために今も行動しているのだろう。だが――。

強い心を持っている、などという言葉では片付けられぬ截然たる違和感が獅子吼の胸中にあった。気味が悪い程の異常さと言ってもいい。雄飛は己を研鑽する事しか考えていないのだ。
今の雄飛は無機質な機械のようであった。“無駄”を省き、“必要”な事だけを着実に成す――役割を果たす事だけに特化した絡繰からくり)
銀星号への復讐に支配されているのか――否、獅子吼は内心で頭を振る。ならば感情の発露があって然るべきだ。

獅子吼は袋小路に陥った。
確かに己にとって実に都合が良い。むしろ雄飛が弱音を吐くのなら、張り手の一つでもくれてやり、強制的に鍛練を積ませるのも吝かではない。一刻も早く雄飛の“教育”を終える事が獅子吼の本望なのだから。
だが、いや――だからこそ。獅子吼は雄飛の変貌を手放しで喜ぶ事は出来ない。神経質なまでに完璧主義である獅子吼にとって、当主の精神状態が掴めぬというのは、非常に厄介で好ましからぬ事態であった。

「此処で、一番強い人間は?」

「……そうですな。武のみならば、今川雷蝶か……、柳生常闇斎かと存じます」

「柳生……」

「六波羅膝元の、新陰流宗主で御座いまする」

「新陰流……。門徒になる事は出来ないか?」

「其れは……」

獅子吼は言い淀み、即座に脳裏で計算を始める。
大鳥家当主のような人間は、一兵卒のように気軽に流派の門を叩く事は出来ない。
六波羅新陰流を、大鳥家の剣術指南役に据える利益と損害。其れを獅子吼は脳内の天秤にかける。結果――

「宜しい。伝えておきましょう」

数多の門を潜り、トミタAAは坂道を駆けあがる。
暫くすると、前方に一際巨大で荘厳な大門が姿を現した。
門の周辺には、竜騎兵が起立し、侵入者を拒んでいる。
黒塗りの高級車が滑らかな動作で停止。運転席へ、門衛が近寄る。
多少のやり取りの末、運転手が降車し、後部座席の扉を開いた。

「要らん」

獅子吼は松葉杖を用意していた従者に一言告げると、毅然とした足取りで門へ進む。
雄飛もまた、其の後に続いた。

「……お待ちしておりました、大鳥獅子吼様、大鳥雄飛様。どうぞお通り下さい」

門衛がうやうやしく会釈し、其れに呼応するように、周囲の竜騎兵らが一斉に敬礼する。

「では、戒飭かいしょく)の通りに」

獅子吼の声に雄飛が頷いたのと同時に、軋んだ音を立てて門が開いた。







「以上で、報告を終了致します」

悉く黄金の輝きに支配されている小守天閣にて、獅子吼は己が体験し、得た情報の報告を終えた。
数日振りに此処に参集した四公方と六衛大将領にとって、其れは驚愕すべき内容であった。獅子吼の口から荒唐無稽の言葉が紡がれる度、彼らは夢物語を聞いているような心境に襲われたのだ。
獅子吼の表情が否応ない説得力を報告内容に持たせていたが、其れが却って現実味の無さに拍車をかける。真剣極まる表情で、夢想を語る超然たる不調和――如何にもし難い。
報告を聞き始めた頃は、彼らにも冗談を飛ばしたり大袈裟に驚く余裕があったものだが、次第に口数が減り、仕舞には獅子吼の抑揚のない声だけが小守天閣の室内に響くのみとなった。

「…………」
「……むゥ」
「あはー」

獅子吼の報告が、彼らに冷雨を浴びせていた。
護氏、童心は押し黙り、僅かに吐息を漏らすのみ。茶々丸は笑いにも似た声を口にしたが、他の四人は其れが茶々丸の癖だと知っていた。二の句が告げない際に、誤魔化し茶化す癖だ。
暫し、沈黙が場を包む。皆々は矢継ぎ早に押し寄せた銀星号の情報を整理しているようであった。

「何にしても」

ややあって、口火を切ったのは、今川雷蝶であった。

「一騎の武者に公方府が全滅させられたというのは、流石に責任重大ではなくって?」
雷蝶は座布団に腰を下ろしたまま、煌びやかな扇子を口に当て、追及の色を込めた眼差しを獅子吼に送る。

「……無論だ」

雷蝶の粘っこい眼光を正面で受け止め、獅子吼は室内の奥に鎮座している大将領に向き直り、平伏する。

「全ては己の不徳が成す処。殿下の大和統一が成された折には、腹を切って詫びる所存であります」

厳然な口調。其の語気は、周囲に嘘偽り無い獅子吼の本心を垣間見せた。
あわよくば獅子吼の権力弱体を目算していた雷蝶も、此処まで言われてはにべもない。
後は大将領の決定を待つのみ――獅子吼を除いた、室内の左右に分かれ着座している三人の視線が、一斉に奥へと注がれる。

「よい。そなたを咎め立てても始まらぬ。寧ろ、報告からすれば迅速かつ的確な対応であった」

虎の屏風を背負い、王者の風格で腰を据えていた護氏は、一言の元、獅子吼への処罰を不問とした。

「岡部を打倒した汗馬の労は記憶に久しい。面を上げよ。今は銀星号を如何に対処すべきか考える時ぞ」

「……はッ。寛大な御心に感謝致します」

護氏の形式ばった声と、再度頭を下げた獅子吼。
其れを皮切りに、先ずは童心が銀星号事件始まって以来の目撃者に質問を投げ掛ける。

「して、獅子吼殿。合当理がない、というのは真でござるか?」

「正確には、合当理らしき物に穿孔が見当たらなかった、といえる」

「――ならどうやって騎行してるっていうのよ!?」

「陰義だろう。常識では有り得ぬ動作だった」

「空中で静止する、瞬時に最高速度に達するって? うは、ありえねー」

武者を空の覇者足らしめるのは、合当理という推力増強装置アフターバーナー)である。
此の装置により推力を獲得し、更に母衣で揚力を得る。此れは星の数程存在する武者、竜騎兵共に共通事項であり、ごく当たり前の事である。
だが、其の当たり前が銀星号には当て嵌まらない。其れは例えるならば、内燃機関の存在しない車や、心臓の無い人間のようなもの。銀星号の異常さ、薄気味悪さが質量を持って四公方らの胸中に溶ける。

「銘の判別は付いておるのか」

「はッ。専門の劔冑利きに特徴を伝えたところ、千子右衛門尉村正、と鑑て間違いないかと」

「ほほゥ……村正……とな」

「南北朝戦争を地獄に落とした張本人の御登場ってワケだ」

南北朝時代――南朝と北朝に朝廷が分裂するという未曽有の事態に端を発した、戦乱の時代である。
両陣営が同じ旗を掲げるという奇怪な現象は、血で血を洗う泥沼の争いを招いた。
其の時代に終止符を打ったのが――悪名高き妖甲、千子右衛門尉村正であったと謂われる。

「何分、資料が古く曖昧な故に、仕様等の詳細は不明で御座いまするが」

村正。其の銘は多少道に通ずる者ならば必ず耳にする程、知名度の高い劔冑である。
而して、南北朝以降、妖甲が表舞台に出たという記録は無く、現在では伝承の類ではないか、等と風説される始末。

「武力は如何程か」

「化物とみて相違ないかと。率直に言って、六波羅軍本隊を投入しても、殲滅は困難でしょう」

護氏の問いに、獅子吼は整然たる見解を吐露した。其の返答を呼び水に、再び閣議の場に重苦しい沈黙が訪れる。
六波羅軍本隊――つまりは普陀楽城に駐屯する圧倒的物量を以てしても、銀星号を殲滅する事は出来ないという事実。
其れは余りにも、世の常識に真っ向から喧嘩を売っていた。つまり現状において、銀星号が普陀楽に現れた場合、六波羅は成すすべもなく壊滅させられる可能性がある、と獅子吼は示唆しているのだ。

「……いやいや、其れは言い過ぎにも程があるでしょうが」

「ふん。消耗戦に持ち込めば其の限りではないだろうがな。相手が常識の範疇に収まっているのならば、だが」

呆れ返った雷蝶を一瞥し、獅子吼は吐き捨てる。
銀星号が陰義で飛翔しているとなれば、当然熱量消費が枷となる。然らば消耗戦に持ち込み、其の致命的弱点を突けば勝利は必然――。
だが、銀星号が熱量に関してのみ都合よく常識の範疇に収まっていると断定できる程、獅子吼は楽観的な人間ではなかった。
既にあらゆる常識を銀星号は覆している。熱量に限って、化物が大人しく武者の領域に居座っているなぞ、砂上の楼閣甚だしい。

「数では勝負になりませぬ。事実、竜騎兵大隊が一斉に太刀打を挑もうが、全方位から機関砲の雨を降らそうが、銀星号に掠り傷一つ負わせる事は叶わなかったのです」

「……六波羅百万騎が最精鋭、奉公衆、厩衆ならばどうか」

「……私如きでは、皆目見当付きませぬ次第で」

「虎の子ならばどうでござろう」

「奴の防御力が通常通りならば、或いは」

「ふむゥ。光明は其処にしかない、という事ですな」

童心は顎に手を当て、奥に視線を配らせた。其れに対し、護氏は僅かに目を伏せる事で応える。

「獅子吼よ。新兵器を一刻も早く配備し、普陀楽の守りを不動のものとせねばならぬ。そちは此度の仕儀を終え次第、会津に戻り、公方府の立て直しと十八番隊の調整を急がせよ」

「はッ」

銀星号打倒。其れは六波羅にとって、絶対に成し遂げなければならない類のものではない。
国土を焼き、民を全滅させる存在を放置する事は六波羅権力の失墜、民への更なる失望に繋がるが、進駐軍という難敵が横浜に居を据えている以上、迂闊な行動は禁忌するのが是。
然し――庭の不審火が、屋内、引いては住人にまで飛び火するとなれば話は別である。己が身を焼かれぬため、降りかかる火の粉を排除する必要がある。
つまり、銀星号が普陀楽に侵入し、為すすべもなく六波羅が蹂躙される――そんな悪夢だけは何としても防がなければならない。其の為、火を消化する手段を是が非でも確保するのだ。



「……何より理解できないのは、銀星号の行動理由です。武を曳く? 神になる? 狂人としか思えないわ!」

「いいじゃん単純明快で。あてはそういうの好きだぜー」

雷蝶の喚声を受け流し、茶々丸は小気味良く笑う。

「くっふっふ。祇園精舎の何とやら、寂滅為楽、此れを以て世を滅ぼす、とな。まっこと、愉快痛快な御仁よのゥ」

「…………笑い事じゃないでしょうに」

「いやいや、至極御尤もでござる、雷鳥殿。この童心坊、酔狂な輩を見ると、どうにも興が移ってしまう性分。どうかお許しあれ」

依然として顔を緩めたまま、童心は形だけの謝罪を済ませる。そうして軽く唸ると、一転して真剣な表情に変わった。

「それにしても……全く難儀なものよなァ。傍目から見る分には一興、されども此方に近寄ってくるとなると厄介極まる、というのが狂人の常であるからして。
化物の皮を剥げば、其処には奴さんの言質通り、見境なく暴れる狂人の貌があるのか? 其れとも虚言で、実は攘夷思想を持った阿修羅か? 如何にも判断付くまいて」

前者ならば一時的に矛先を変えるべく仕向けるか、せめて被害を最小限にすべき画策する。後者ならば詭弁奇策を弄して此方に取り込むか、無理ならば殲滅を視野に入れる必要がある――
そんな童心の独白に、場に居る者は揃って銀星号の人物像を頭に思い描こうと試みた。が、四人とも、そもそも人なのか、中身はあるのか、という根本的な前提から確証を持てない有様であった。
ヒトの言語を用いて目的を語った事は分かった。而して、やはり銀星号は人ではなく正真正銘の怪物である――という方が余程、胸にすとんと落ちるのだ。


其れから数十分間。
護氏と童心が主となり、更に幾順かの問答が小守天閣に飛び交う。獅子吼は其の都度、理路整然と私感を込めず回答し、銀星号の脅威を周囲に刻み込む。
結局、銀星号の致命的な弱点、基本仕様、所在などは掴めず、話は平行線のまま一段落ついた。


「ふゥ。捜査方針を修正せねばなりませぬかな、殿」

如何にも心労が積もったという態で、童心は溜息を吐き出すと、護氏に対策案の変更を促す。特に銀星号の合当理音が極僅かであるという報告は、憂慮すべき事態であった。
其の事実は、数日前の会合で決議した内容を根底から覆す。無論、街中で飛翔なぞは出来まいが、少し郊外に出た所で闇夜に紛れ飛翔、離陸する事は不可能ではない。
捜査の大前提であった関東防衛網ですら、適当な場所で着陸し、生身の足で移動すれば金探に引っ掛かる事はない。銀星号の本拠地を特定する事は、最早大海の中で一握りの砂を探すが如しであった。

「……否応にも捜査の手を広げねばなるまい。闇夜に潜み厨芥を食い散らかすのみならば捨て置くものを……。予の覇道に半畳を入れるとあらば容赦せん」

憎々しげに虚空を睨む護氏。其の眼光には己の覇道を邪魔する痴れ者への明瞭な殺意が込められている。

「然し、殿。まっこと口惜しい事此の上御座らんが、仮に所在を掴めたとしても、此方から藪を突く訳にはいかんのでしょうなァ。
獅子吼殿の言からすれば、銀星号は予想以上の化物。事を起こし消耗すれば進駐軍に付け入られるのは必至であるからして、六波羅に其れ程の化物を相手取る余裕は御座いませなんだ」

「……腸が煮えくり返るわ」

而して、童心の物言は至極尤もであった。故に銀星号の大規模捜査は頓挫せざるを得ないと、護氏は怒りに煮え滾る頭の隅で、渋りながらも受納する。

「お父様。八幡宮奉刀参拝の件、些か危険ではないのですか」

雷蝶が上座に腰を下ろしている父へ進言する。
八幡宮奉刀参拝――源氏長者が鶴岡八幡宮に詣でて武運隆興を祈る年令行事である。
八幡太郎義家が源氏長者名代として最初に奉刀を執り行って以来の伝統であり、六波羅をしても、朝廷に威光を示すため欠かす事は出来ぬ行事であった。

「此処で弱腰になっては臆病者のそし)りを受けるわ。予定に変更はない」

現在の六波羅幕府は、“威”こそが肝である。依って、銀星号に怯えていると取られる素振りさえ、民衆に見せるわけにはいかない。

「……奉刀参拝の折には、麿も御供致しますわ、お父様」

尚も憂慮の込めた声を父に向ける雷蝶に、護氏は薄く哂い、手で制す。

「其の心事だけで十分よ、雷蝶。そなたは其の頃、小弓で政務に従事しなければならんであろう」

「そーだぜ雷蝶。其れともなにか? あてじゃ信用できねーから、東都守護月番の任を代われって言いたいのか、あん?」

茶々丸が仰々しい態で噛み付く。対して、雷蝶は茶々丸を一瞥し、鼻を鳴らした。

「アンタを信用できないなんて当然じゃない。いまさら何を言っているのかしら、此の子ったら」

「……あんですと?」

「其れに……何だか嫌な予感がするのよね」

「そちらしくもない。予は六波羅幕府の頂点、足利護氏。心配は無用ぞ。いざとあらば、予が銀星号を冥途に案内あない)してくれるわ」







「殿下。貴重な御時間を奪う事、真心苦しいのですが……」

銀星号に関する閣議の幕が終わりを迎えた折、獅子吼が護氏に前々から言い伝えてあった件を示唆すべく、口を開いた。

「わかっておる。誰ぞ、かの者を連れてまいれ」

「ははッ」

護氏が襖へ声をやると、奥に控えていた近習の了解が返ってくる。
数分後、近習の訓練された小さな足音に加えて、もう一人分の音が襖越しに近づいてきた。

そして、襖が開かれ――、一人の少年が、六波羅幕府最高権力者が集う此の場所に足を踏み入れた。

獅子吼を除いた八の眼が、一斉に入口で跪いている少年に向けられる。
皆一様に、値踏みするような眼差しで少年を見やる。
背丈は低い。外見も特に目を瞠る程のものではない。平均的な少年像に合致するであろう風貌である。
だが――少年の眼光。少年の表情。其れらは、明らかに異常であった。

「その方が雄飛とやらか」

「は」

少年の厳然たる返答が天守閣に響く。

「……」

護氏は不快げに眉を顰める。
少年――雄飛は膝こそ付いているが、其の表情は不遜とも取れる程、泰然自若な面持ちであった。
大和を統べる六波羅幕府の面々を前に、全く臆していないとばかりに、ぴくりとも表情を変化させていない。
敵も味方も恐怖によって統治してきた護氏にとって、他の人間、其れも年端もいかぬ少年なぞが斯様な態度を取る事は、腹立たしく、屈辱的でもあった。

だが、何より護氏が不快なのは――雄飛“も”此方を値踏みしている事である。
じろりと、くすんだ眼で四公方らを眺め、更には六衛大将領たる護氏を正面から射抜いているのだ。立場、権力、全てにおいて上の護氏を、まるで“裁く”かのような視線で。

護氏は増々眉間に皺を寄せた。絶対強者たる己が、唯の餓鬼に呑まれるなど不愉快極まりない。
そんな護氏が苛立ちを隠さず口を開こうとした際、途端に彼の憤懣を吹き飛ばしたのは――獅子吼の告げる一声であった。

「殿下。此の雄飛という者――かの天下五甲、鬼丸国綱の仕手で御座いまする」

「――――――」

瞬間、場の空気が硬直する。

「……なんと!」

童心の眼が、驚きを示して瞠られる。

「あへ?」

茶々丸は呆気にとられ、間抜けな声を漏らす。

「な、な……」

雷蝶は肩を震わせ、声を荒げた。

「……お、お、鬼丸国綱を、こんな餓鬼がですって!? 嘘おっしゃい!!」

雷蝶の明瞭なる暴言に、獅子吼は即座に床を蹴ると、軍刀の鍔に手を掛けた。
獅子吼は無言のまま、眼光に殺気を乗せる。憤怒の面相。鯉口三寸抜かば、即ち謀反――殿中の絶対不律を破らんとする其の行動は、獅子吼の怒りの顕れであった。

緊迫した空気を解いたのは、通例通り護氏である。

「やめよ」

「……確かに麿とあろうものが、美しくなかったわね。ご免なさいな」

「ふん」

無機質な音を立て、獅子吼は僅かに抜いた刀を鞘に戻した。

場は収まったものの、全員の表情は驚きの態を残したままである。
先程明らかになった銀星号の洗脳能力を顧みれば、生存者である雄飛が劔冑を保有している事は各々察する処であった。
だが、其れが鬼丸国綱と、誰が予想出来よう。天下五甲、其の中でも曰く付きの劔冑――其の仕手の登場は、先の銀星号情報に引けを取らない衝撃を齎した。

「茶々丸。貴様の了見を聞かせて貰おう」

獅子吼は先程から口を半開きにしたままの茶々丸を睨み付ける。

「え?」

「え、ではない。貴様、鬼丸国綱を預かる身であっただろうが。然し、雄飛様は“何故か”自分の危機に劔冑が“一人でに”助けに来たとおっしゃっておられる。此の意味する処はなんだ?」

「い、いやーなんの事だかさっぱり」

「…………」

視線を泳がす茶々丸を、周囲の冷ややかな眼差しが襲う。

「わーったよ。実はさ……」

「実は?」

「気付いたら勝手にどっかいっちゃってた」

「……そんなふざけた理由があるか!」

「本当だっつーに。なんなら鬼丸国綱自身に聞いてみろよ」

「そちは己の劔冑に仕儀を問うたか」

茶々丸の言質を聞き入れ、護氏は雄飛に旨を促す。

「はい。ですが、劔冑自身も良く判らない……と述べていました」

「獅子吼」

「嘘偽りは御座いませぬ。だからこそ、茶々丸が“何か”隠していると踏んでおります」

場が静まり返り、皆々の視線が一斉に茶々丸に注がれる。
腹の探り合いが此処の常である故に、其の視線には明確な猜疑心を孕んでいる。

「……劔冑が勝手に動いた、と。いやはや、何とも摩訶不思議な事もあるものですなァ、のう茶々丸殿」

「だよねー。ほんと、世の中は不思議で溢れてやがるねー」

「……百歩譲って本当だとしても、報告無しは問題よ、茶々丸。アンタ自分の不手際を隠蔽したのね?」

「おじじに心労を掛けたくなかった、あての純真無垢な気持ちの顕れ……じゃ駄目?」

「駄目だな」
「駄目に決まってんでしょうが」
「駄目でござるなァ」

「うえーんおじじー。三馬鹿衆があてをいじめるよー」

「アンタ、いい加減死になさいよ」

「良い。不問に処す」

此れを機に、茶々丸の権力を削ぐ。そんな周囲の期待に反して、護氏は一言告げるのみであった。
当然、四公方で最も権力欲の強い雷蝶は激昂せんとばかりに、髪を逆立てた。

「――お言葉ですがお父様! 獅子吼の件はともかく、其れは幾らなんでも寛大に過ぎるのでは!?」

「予は不問に処すと言ったのだ、雷蝶。よもや予の決定に不服がある訳ではあるまいな」

「……で、ですが」

護氏の猛禽類を思わせる鋭い眼光に、雷蝶は気圧された。
そして雷蝶が二の次を告げる前に、護氏が続けて口を開く。

「鬼丸国綱。結構ではないか。伝説の劔冑を纏う者が六波羅の旗を仰ぐ。此の事実は兵士の士気を上げ、民にとっても象徴となるであろう。大和を統べるに相応しいのは、六波羅であるとな」

護氏はふんと鼻を鳴らす。

「其の利益を鑑みれば、多少の些事なぞ構わぬ。加えて、四公方の任を務める者に代わりはおらぬのだから――此処で茶々丸を責めても詮無い事であろうよ。無論、事実確認のため、堀越に監査の手は入れる。よいな、茶々丸」

「ほいさー」


其の後、獅子吼と同様に、雄飛へ銀星号情報の詰問と、形ばかりの大鳥家家督継承の承認が行われた。
此れで内外共に、晴れて大鳥雄飛という人間の権力が確立したのだ。四公方ら三人も近い将来竜軍中将の職に就くであろう雄飛を推し量るべく、障りのない話題を雄飛に振った。無論、影に様々な計りを忍ばせて。

「では今回の閣議は此れで終いとする。皆の者、ご苦労であった」
閣議が始まってから一刻。護氏が終了の旨を告げる。

「……? どうした」

だが、雄飛は依然として席を立たず、護氏に視線を残したままであった。
其の眼差しに再び不快を露わにした護氏は、半ば苛立った語気で声を掛ける。

「一つだけ」

雄飛は感情の色を感じさせぬ口調で呟く。

「どうしてもお聞きしたき儀が御座います、六衛大将領殿下」

又しても、同じ眼。

「ほゥ。予に問いを投げかけるか」

護氏は虚を突かれた態で息を漏らすも、其の貌は険しい。

「アンタ、幾ら大鳥家の現当主だからってねぇ……!」

「申してみよ」

噛み付く雷蝶を無視し、護氏は雄飛を促す。
どうにも癪に障る眼。だからこそ、其の意味する処を知りたいという思いが護氏にはあった。

「はい」

雄飛は護氏の貌を射抜き、抑揚のない声で問う。

「六波羅と……其れを統べる足利護氏公は」


死蝋のような貌に血肉を戻し。
一瞬だけ、強烈な意志を双眸に滾らせて。





「――――悪か否か」





「―――――――」




「くふ」

童心の漏らした嗤いを合図に、凍り付いた場が瞬時に溶ける。
雷蝶は雷電の如き速度で床を蹴り、迷うことなく鍔に手を掛けた。其れと同時に、無礼を働いた少年――其の傍で控えていた獅子吼は即座に右腕を振りかぶると、雄飛の顔面を殴り飛ばす。
鈍い音。渾身の一撃を放った獅子吼は、吹き飛び地面に激突した雄飛の頭を掴み、強制的に頭を下げさせる。

「此の者、市井の身でありました故、礼儀というものを知りませず! 自儘に暴言を吐いた事、伏してお詫び申し上げます!」

獅子吼は声を荒げ、謝罪を告げる。雷蝶は獅子吼の行動に機先を制され、渋々腰を下ろした。
茶々丸は一連の流れを見て、腹を抱えて笑っていた。童心は未だに不気味な笑みを絶やしていない。

「よい。若者に己が答えを示す。此れも王者の務めよ」

何故か弾んだ声で、護氏は雄飛に面を上げさせる。

「大鳥……雄飛といったな」

「……」

雄飛は左頬に赤い痕を付けたまま、護氏の答えを待つべく再び貌を射抜く。
だが、最早護氏は其の視線にさほど不快を感じなかった。

「予は偏に覇者」

「悪だの正義だの……くだらぬ。犬に食わせておけばよい」

「予は統べる。大和、大陸、全てを掌中に収める。結果、民草は予に感謝し、崇め、称えるであろう。言うなれば、其れが答えよ」

此れで満足か、と護氏は告げ、そして雄飛の答えを待たずに続けた。

「下がれ」






小守天閣にて、二人の男が先刻の出来事を肴に、酒を舌の上で転がしていた。

「くっふっふ。何とも、何とも面白き御仁で御座った!」

童心は玩具を得た子供のように目を煌かせ、心底愉快気に猪口に口をつける。

「ふ、随分と機嫌が良さそうであるな、童心。興が乗り過ぎる余り、“悪い癖”を出すでないぞ」

「まっこと魅力的な少年であった故、確約は致しかねますなァ。其れに殿の方こそ、珍しく頬を緩めておられる。一つ、肩の荷が下りた……、といったところですかな?」

童心の含みのある物言いに、護氏は口の端を釣り上げると、少年の血で汚れた畳を一瞥する。

「大した事ではない。唯、拍子抜けしただけよ」

相して、護氏も猪口を口に運んだ。



[35897] 捨参話 遭逢
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/24 00:38
遭逢



< 普陀楽城 本丸 居住区 >

燃える様な日輪が、静寂の地平へと傾いていた。
相模湾の水面が橙色に染まり、叢雲で彩られた夕空は陽と影とが溶け込んでいる。
潮風を乗せて吹き抜ける風は何処か空虚で、身体を刺すように凍て付かせる。

雄飛は宛がわれた自室の縁側に佇み、其処から見下ろす光景を眺めていた。

季節は霜月。着替え直した学生服の詰襟は冷え切り、無機質な感触が首筋から伝わる。
其の感触が不快で、襟元を無意識に緩める。

雄飛が居る場所は、天守閣の三つ下階に位置する。
此の和室に到着するまで、雄飛が廊下ですれ違った人間の中にはちらほら、何処かで見た顔があった。どうやら四公方ほか六波羅幕府の重鎮は、基本的には本丸に居を構えるようである。
御多分に漏れず、雄飛も其の重要人物とやらに見做されたのであった。

(……)

左頬を軽く撫でる。

馬鹿な質問をしたという自覚はあった。目的を遂げるためには、不必要な愚行で権力を失う事は避けるべきだとは解っていたのに。
あの後獅子吼に叱責されたのも当然だろう。余計な真似をするのなら此方にも考えがある――獅子吼がそう言った際の眼光は、此の世のものとは思えない程鋭かった。
だが、頭では余計な真似だと承知しつつも、心中で燻り続ける焦燥感が、あの時、己の身体を突き動かしていたのだ。

(……六波羅幕府は純粋悪なのか。其れとも必要悪なのか)

以前の帝国議会による統治と比べて、六波羅幕府の強硬な軍国主義体制が大和の人々を更に苦しめているのは、身を以て実感していた事である。労役、食糧制限、反幕府勢力の武力弾圧――枚挙に暇がない。
然し、かといって六波羅幕府、ひいては足利護氏を討つべき悪と断言する事は、今の雄飛には出来なかった。拙いながらも得た知識で大和を取り巻く情勢を鑑みると、確かに六波羅にも正統性はあると理解せざるを得ないからだ。
だからこそ、雄飛は自分の眼で確かめたかった。結局、返ってきた答えは眼前に広がっている夕闇のように掴みどころのないものだったが。

『予は統べる。大和、大陸、全てを掌中に収める。結果、民草は予に感謝し、崇め、称えるであろう。言うなれば、其れが答えよ』

足利護氏は、覇気を込めてそう言った。字面だけを追えば、傲岸不遜極まりない物言いである。
此の答えは、実際の人物像は知る由もないが――大漢カン)の覇王を彷彿とさせた。全てを掌中に収める、つまり戦争という手段を用いた領土拡大を行うという事。
其れは無辜の人々の死を意味する。理不尽を強いる行い。憎むべき、討ち果たすべき所業である。

だが――。

現状、あの一言だけを根拠に足利護氏という統治者を推し量る事は不可能だった。
目的を完遂するには、正しい選択を見極める事が必須である。だからこそ、雄飛は市民として積み重ねてきた六波羅への悪感情に流されず、物事の真理を見抜かなくてはならない。

六年前、六波羅は国家を売り、大和の政権を得た。其れは足利護氏個人が取った行為とも云える。
六波羅の政治形態を鑑みれば、足利護氏が六波羅の舵取りを決定付けているのは明らかだ。
無論、表向きの公表通り、四公方の意見も汲み入れてはいるのだろう。だが先日の会合の様子を見た限り、やはり最高権力者に最終的な決定権を一任しているのが実状であった。

そう考えれば、戦を起こす腹積りの足利護氏は雄飛にとって悪と云える。其の行為は確実に民の犠牲を伴うのだから。
然し――雄飛は考える。戦を選ばずに進駐軍に従う事が正しいのか? 大英連邦の従属に成る事が、果たして大和民にとって最良の道なのだろうか?
六波羅幕府が議会を裏切らず連盟軍との本土決戦を繰り広げていたらどうなったか……。獅子吼の言葉を鵜呑みにする事は危険だが、やはり国土は焦土と化したのではないだろうか。

――戦争か融和か。

父と叔父。二人が決別した原因が、鉛となって雄飛を押し潰す。

結果として、足利護氏の取った行動が今現在国民を最低限守りぬいているという現実は直視せざるを得ない。
主観を排除し、実状的な観点から洞察すると、六波羅幕府の政治が悪政だと決めつけるのは早計だ、という結論に行き着いてしまう。

とどのつまり、現状では傍観を決め込むしかなかった。然したる確証もないまま、己の未熟な価値観で悪と決めつける事は禁忌すべきなのだ。
早急に下した結論によって、大和の情勢が変貌し、自分が理不尽という存在になってしまう事だけは、雄飛としては何としても避けねばならない。

(だけど。もしあの答えの通り、此の先、徒に戦の火種を熾すつもりなら……、おれが殺す)

芳香族化合物コールタール)のような殺意を胸中で練り上げていく。
瞬間、突き抜ける様に吹き荒んだ風が前髪を掻き上げ、黒ずんだ意識が色鮮やかな外界へと向かう。

此の高所からは、鎌倉市全域が見渡せた。夕暮れが町を覆い尽くし、鎌倉市の工場地区から立ち込めている排煙が、微かに茜色の空に滲んでいる。
雄飛は町並みを眺めていると、ふと、謂い様のない剥離感に襲われた。自分が住んでいた町との距離は左程遠くない。目と鼻の先と言ってもいい。だが――
たった一ヵ月経っただけで、周囲を取り巻く環境、そして何より自分の心が、完全に変貌を遂げていたのだ。少し前に眼下の町で平和に暮らしていた事が、遠い過去のように思える。

一市民の間は、直情的な性格で良かった。無気力だったにしろ、雄飛という人間は考えるより先に体が動く性質であった。
だのに、一ヵ月経った今では、肉体鍛練以外の時間は休むことなく頭を動かしているのだ。ひたすらに考え、考え続けている。
忠保が今の自分を見たらどう思うだろうか――何気なくそう思った雄飛は自嘲する。合わす顔が何処にあるというのだろう? 小夏の死は、自分のせいだというのに。

自分が着ている学生服を見やる。草臥れている此の服は、かつて暮らしていた眼下の世界との唯一の接点。
此の服に袖を通す度、雄飛は小夏達との日々を想起する。其れは心臓を串刺しにされるような、耐え難い苦痛を伴うのが常だった。

(でも其れで良い)

此の服を着ている限り、否応にも自分の無力を自覚させられるというのは、雄飛にとって享受すべき事であった。
学生服は己の罪を弾劾する。喪った故郷への慕情や憧憬が、身体を斬り刻み、灼き尽くすのだ。雄飛にとって、其れが己を突き動かす動因と成り得ている。

「雄飛様」

後ろから、軽く戸を叩く音に遅れて、自分を呼ぶ声が聞こえる。
雄飛が振り返り入室を許可すると、戸口が開き、篠川の軍章を襟に付けた壮年の男が姿を見せた。

「此方になります」

獅子吼が目付け役として残した男は、両手に提げていた二つの大袋を畳の上に置き、大量の中身を床脇の棚に並べていく。
其れが終わり、雄飛が礼を言うと、男は恭しく頭を下げて退出していった。

雄飛は頼んだ所用を直ぐ様成し遂げてくれた従者に感謝しつつ、整然と連なる書物の題目を眼で追う。
檜色の木板には、基本的な学術書に加え、帝王学、政治学の書物から、武術に関するものまで、多種多様の分厚い本が並んであった。
娯楽小説ならいざ知らず、少し前なら目に入れるだけで憂鬱になった本の群れ。其れらが今の雄飛には、何物にも替え難い宝石のように輝いて見える。
知は剣なのだ。雄飛にとって、魅力は其の一点に尽きる。

(銀星号を討つ。紅い武者を討つ。此の世に存在する全ての悪を根絶し殺し尽す……)

足利護氏が悪だと断定出来た瞬間、躊躇なく殺す。銀星号を発見次第、例え一人でも立ち向かい殺す。紅い武者が討つべき悪なら、確実に殺す。
其れらが可能かどうかは問題ではなく、そうしなくてはならない。
其れは雄飛にとって息を吸うように当たり前の事だ。人間が酸素を肺に取り入れなくては生命活動を継続できないように、雄飛も悪を討つため行動しなければ生きる事が出来ない。

……網膜に焼き付いた花枝の亡骸が、脳裏を過ぎった。

床脇の棚から一冊の書物を抜き取り、もう一度だけ、茜色に染まりきった外の町並みを眺める。
自動車に燃料を入れる様に、斯うして感傷に浸り決意を固める事は必要だ。が、何時までも無為に時間を擦り減らすべきではない。
雄飛は故郷への哀愁を捨て去るため、勢いよく縁側への襖を閉める。相して書院に腰を下ろし、心を文字の海へと沈めた。







日課の素振りを終え、朝餉を腹に仕舞い込んだ頃には、すっかり朝靄も晴れきっていた。
透かし彫りの施された欄間から陽の光が差し込み、雀の鳴き声が耳を打つ。
雄飛は起き抜けに着替えた道着のまま、床の間の掛け軸や壺と一緒に鎮座してある紫の鉄塊に軽く声を掛け、自室を出る。
部屋の前には、昨日と同じ顔の従者が既に待機していた。

従者の案内に任せ、荘厳な造りの渡り廊下を歩く。
漆塗りの床板は、一歩踏み込むたびに軋んだ音を立てる。かといって、豪奢な廊下は老朽という言葉とは無縁であるから、鴬張りにでもしてあるのだろう。
廊下を歩く時間は移動距離以上に長い。昨日と同じく、擦れ違う人間に度々足を止められるのだ。其れが雄飛には億劫だった。

目的を果たすため、己の権力を利用する可能性は大きい。依って、今の内に顔を売っておく事は必要な事であった。
其の為、態々取り留めのない会話を交わすのも致し方ないとは云える。だが、やはり雄飛は此の時間が好きになれない。
其れは珠玉の如く貴重な鍛練時間が減ってしまう事が第一の要因だが、彼らの目が不快なのも大きな割合を占めている。
彼らは好意的な――媚びていると云ってもいい――造りの仮面を顔に貼り付け、贅言を振り撒く。其の様は、砂糖に群がる蟻のようであった。
人を見抜く観察眼を養えるという点においては、ある意味此の時間も鍛練になるのかもしれない――心中で辟易しつつ、そんな益体の無い事を考えながら会話を済ませていく。そうしている内に、気付けば本丸を抜けていた。

用意してあった車を尻目に、徒歩のまま仰々しい大門を潜る。
従者の後ろ姿を標として、土瀝青どれきせい)をなぞっていく。石一つない道路は完璧に整備されており、足裏に同じ感触を残し続ける。

雄飛は周囲を見渡しながら歩く。
視界を塗り潰すように聳え立つ石垣堀。瓦葺かわらぶき)の上に、蒼天を射抜く鉄の野砲。
乱雑するように軒を連ねる、出入りの激しい詰所。歩兵銃を構えた警邏の兵士。声を張り上げ、業務に没頭している文官。
軍事基地よろしく、本丸の周囲は物々しい空気で包まれていた。

本丸曲輪の中庭へ。
ふと、其処で目を引いた光景に、雄飛の足が止まる。

数人の女官に交じって、一際目立つ姿があった。
野暮ったい石垣と相まって、黄金の拵えが一層強調されている。
齢十二ばかりの、あどけない横顔。御世辞にも、絢爛な着物と釣り合っているとは言い難い。

口さがない女官らの小声と鎧武者特有の鉄が擦れる音に混じって、とん、と球が弾む音が聞こえてくる。
服装からして当然だろうが――ぎこちない動作で壁に向かい体と足を動かす少年は、どうやら壁当てをしているらしかった。

物憂げな表情で蹴鞠に興じている少年。其の顔に、当然雄飛は見覚えがあった。
――足利四朗。六衛大将領たる足利護氏と養徳院の孫である。父親が既に亡くなっている事から、将来的に祖父の跡を継ぐ事が約束されている人物だ。

堅牢な堀の壁で覆われたこの場所で独り佇む少年は、さながら籠の中の鳥であった。

(……呑気なもんだな)

生まれた時から人生の春秋を奪われ、王者としての責務を背負う事となった足利四朗は、或る意味同情して然るべき人物なのかもしれないが。
どうにも此の光景を、雄飛は納得出来そうにない。

(遊ぶ暇があるんなら――)

齢十と少しの四朗には酷であろう感慨を持ってしまう。其れが理不尽な要求である事を解っていながらも、“何も知らない”四朗を見ていると、謂い様の無い憤りが鬱積していくのだ。

(……今まで自堕落だったおれが思う筋合いはない、か)

四朗への苛立ちは、自分の人生を悔やんでいるからこそ抱く類のものなのかもしれなかった。
壁から跳ね返った球が、あらぬ方向へ飛んでいく。其れを契機に、最早興味はないと、雄飛は足利四朗から視線を外した。


其れから数十分程経った頃だろうか。足裏で踏みしめる感触が柔らかい物へと変わった。
山麓の本丸から大手門まで直線に敷かれてある硬質の道路を逸れ、土道へ入る。
堆く積み上げられた石垣堀は影を潜め、青茂った山々が視地平線に顔を見せた。
格調高い造りの屋敷堀が道の左右に立ち並ぶ。更に進むと、途端、今迄拭い切れなかった圧迫感が雲散霧消した。

開けた平原。
潅木の匂いが鼻をくすぐる。膝下の高さで刈られてある樹木が左道に沿う様に植えてある。
右側には、檜林と松の木に囲まれた家屋が数多く偏在しており、其の群れの中で、一際面積を占めている尊厳な屋敷があった。

――屋敷の表看板には、六波羅新陰流と記されている。

上空では二羽の鳴禽めいきん)が陽光を遮り、合当理の排煙で双輪懸の軌跡を残している。
剣戟の刃金音が地上にまで伝わってくる。丁度草木が揺れたのは、単なる風に煽られたのか、其れとも上空の鬼気迫る松籟によるものか。
逸る気持ちに任せ、雄飛は従者に先んじて戸を開いた。

外観通り、道場の面積は雄大だった。一般的な其れの比ではない。
外と見紛う程の面積に、見事な武床工法の木床が敷き詰めてある。
黒紋付の袴を着込んだ武骨な武芸者達が各々鍛練に励んでいる様は、壮観としか言い表し様がなかった。

大人数に反して、怒声はない。在るのは、剣が奏でる嬌声のみ。
饐えた臭いに混じって、微かな血臭が漂っている。張り詰めた緊迫感、緊張感が、道場に根を下ろしていた。

一角、土床となっている区面に雄飛の目が奪われる。
実戦主義である六波羅新陰流の名は伊達ではなかった。其処では、装甲した竜騎兵が土を踏みしめ、立ち会いに臨んでいたのだ。
仕手となった際に得た視力で、彼らが握り締めている刀の煌きに注視する。

……刃先が潰されていない。竜騎兵が掲げる刀剣は、一切牙を抜かれず、純然たる凶器として死気を振り撒いている。

右手――蒼昊を穿つ如く八相に太刀を構えているのは、九○式竜騎兵。分厚い鉄甲を睥睨へいげい)させ、大木を想わせる武骨な両足で土床を踏み締めている。
左手――竜騎兵に相対する武者は左半身を正面に据え、右足を半歩退いた脇構え。正眼の構えとは対照的に、柄頭が相手に向き、剣先が後方へ流れる構えである。
人間の形状と逸脱した棒状の足――漆黒の武者は其れを地面に突き刺すようにして膝を落としていた。

其の風貌は、細身。腰回りは特に顕著であり、鬼丸の数倍は細い華奢な造りである。背の母衣は板のように薄い。
かといって、黒武者は脆弱さとは無縁であった。竜騎兵が重厚な鋼なら、黒武者は極限まで研ぎ澄まされた白刃のような鋭さがある。

眺め始めてから数十秒。
両者微動だにせず。琥珀色の双眸で鍔競り合うのみ。

雄飛の手にじわりと汗が滲む。遠目から見ているだけで、胸腔が圧搾されるような感覚が襲う。
刺すように張り詰めた空気は、正真正銘、命のやり取りを意味していた。

<<……ッ>>

身体に正中するように刀を掲げている竜騎兵から、息を呑むような気配。
対して、黒武者は彫像の様に凝固するのみ。

更に幾許かの時が流れる。
絵画の如く変化しない場景――其処に、漸く筆が奔った。

竜騎兵が僅かに揺れた。左摺り足で三寸(約10cm)程の間を詰めたのだ。
立合経験のない雄飛でも解る。傍目には代わり映えのない其の行動は、当人にとっては谷底に飛び込む如き決心によって為されていると。

一速一刀の間合いを求め、竜騎兵が更に相対距離を縮めていく。
真綿で首を絞めるようにゆっくりと間を詰める竜騎兵の、鈍重であるが確実な挙措――然り乍ら、黒武者は其れを意に介さず、唯斯くあるのみ。

雄飛は一瞬も見逃すまいと、目を凝らした。

第三者視点の恩恵から、竜騎兵の間合いが朧気に見えてくる。

……幕は近い。

道場の天井へ突き上げられた刀。其処を半径とした円が、雄飛の眼に映る。
幻視の円環は鎌首を擡げ、両者の距離を食い潰していく。

竜騎兵が圏内に入る――



遭逢は一瞬であった。

先。

瞬間、竜騎兵が右足で踏込み、疾風迅雷の運剣を以て切り下す。

後の先。

一寸光陰の間で、黒武者が反応。

――轟、と。黒武者が歪な足で突き刺していた土が抉れる。

八相から放たれた刃先は黒武者の首筋へ向かい疾走る。
同時に、右の脇構えから左へ巻き上げられる刀。

紫電一閃。

両者の軌道が交差し、刃金が火花を散らす。剣戟の咆哮と共に、金属粒が光芒を放ち踊る。

「六波羅新陰流、下藤さがりふじ)

突如、立合に魅入っている雄飛の背後から呟かれた声。
其れに雄飛が反応する暇もなく、眼前で繰り広げられた一幕は終焉を迎える。

左斜めから振り下ろされた刀の軌道を、黒武者は神速の絶技で逸らしていた。
打ち切った身体が伸び切り、竜騎兵は為すすべもなく死地を晒す。

黒武者は握りを逆へ変えてから、両脇を締める。くるりと刀身が踵を返し、刃先が無防備な相手の首を射抜いた。

――轟。再び土砂が巻き起こる。

黒武者は運剣により右半身となった身体を、圧倒的回転を以て元に戻す。
燕返しの特色を濃く残した太刀捌き。全身を弓のように撓らせ放たれた剣閃は、雷鳴の如き速度で駆け走る。

決着は明白であった。


而して一向に、血飛沫が飛び散る事も、刀が骨を断ち切る独特の音も聞こえてこない。

眼前には、最後の瞬間を切り抜いたように時が止まった両者の姿。

竜騎兵の首筋を見やる。黒武者の刃先が、甲鉄に隠された薄皮を薄く剥いでいた。







夕闇の陽炎。
鴉の物憂げな鳴き声が響く。雄飛は未だ動悸が激しい身体で帰路に着いていた。

格調高い造りの屋敷堀が立ち並ぶ道を歩く。
火照った体の原因は、初稽古の疲労によるものだけではなく、或る種昂奮によるものだ。
先の立合。今迄行われた稽古の手際。其れらは武の頂点を垣間見せた。

雄飛は乳酸の溜まった右腕で、強く拳を握る。
到達すべき境地は遠く険しい。だが、少なくとも今日、一歩踏み締める事は出来たのだ――。

瞬間。

何故か肌が栗立っている事に気付く。

本能に命じられたまま、雄飛は視線を“矛先”へと向けた。

「――――」



……憎悪。

第一印象は其の一言に尽きた。

浅紅色の着物で暮れなずむ、儚げな佇まい。
細い身体は華のように憂愁を称えている。顔の造りも美しく、美貌というよりは可憐という言葉が似合う。

女の長髪が夜風に揺れる。眼光が此方を刺す。

瞭然として純然たる異常さだった。
屋敷堀が女に影を落とし、薄明りも相まって、一層其れに拍車をかける。

女は怨敵を据えた眼で、此方を糾弾しているのだ。
本来なら優美であろう貌を歪めて。底知れぬ深淵を瞳に宿らせて。


「あれは?」

雄飛は不可解な女に目を合わせたまま、傍に居る従者に尋ねる。

「……逆賊の娘、岡部桜子で御座います」

答えを聞いた途端、撃衝が体内を疾走り、血を凍らせた。

(岡、部……)

驚愕の態のまま凝固した雄飛を尻目に、女――桜子が踵を返す。
雄飛は立ち尽くしたまま、其の背を眼で追う。

桜子が屋敷に入っていったと同時に、檜色の光が奈落に落ち、夜の帳が降りた。



[35897] 捨肆話 剣甲
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/04/27 04:18
剣甲



「やっほー鬼丸っち。元気してた?」

日暮れが夜陰へと移ろい、欄間から月光が零れた頃、無造作に戸を開く音が大鳥雄飛の自室に響いた。
家主不在の此の和室に、ずんずんと足を踏み入れたのは足利茶々丸である。
彼女は人懐っこい顔を転がしながら、部屋に鎮座している鉄塊に声を掛けた。

<<…………>>

「あれ、聞こえてない? へい、はばないすでーい」

<<……自動回復中である>>

茶々丸の見目相応な甲高い声に反して、野太くこそないが、かといって少女のようでもない中性的な声が、金打を乗せて鉄から滲出した。

「いやいや、あてを欺こうったってそうはいかない! あては一目見ただけで劔冑の状態を把握出来る特殊能力持ちなのだ! ずばり、鬼丸っちは健康そのもの! 呼吸、脈拍ともに異常は診られません! 
……まあ劔冑にそんなものないけど! てかそもそも自動回復中に返事なんてできねーし!」

室内に差し込む夜光で淡い光沢を帯びた鍬形虫は、突然の乱入者に無い眉を顰める。

<<喧しいかしま)しいかまびす)しい鬱陶しい。去ね>>

「やだ」

棘のある口調で言い放れた金打声に、茶々丸はきっぱり一言で応えた。

<<…………>>

微かに鉄が軋む音が鬼丸の頭部から鳴り響く。俗にいう「ピキッ」という音である。

「まあまあ固い事言わずに、あてと鬼丸っちの仲じゃん」

茶々丸が右掌でぺしぺしと鍬形虫の左翅を叩く。更に音が鳴る。

<<吾は劔冑、硬いのは言うまでもない。判ったのなら去ね>>

「……なにちょっと上手いこと言った感じでドヤ顔してやがりますかこのクワガタは」

<<そもお主は誰だ?>>

「へ!?」

鬼丸の言に茶々丸は素っ頓狂な声を上げた後、ぷるぷると震えだした。

「……は、薄情過ぎる! この人でなし!」

<<人ではない>>

「ああ言えばこう言いやがる……」

<<数年前相見えた際、お主は其の様な軽薄なる気質ではなかった。姿形こそ同じであるが、中身は別物同然と見るが、如何に>>

鬼丸国綱という劔冑は数年前、堀越の薄暗い倉へと押し込まれた。其の際、中将の職に就いたばかりの茶々丸が度々其処へ足を運んできたものであった。尤も、次第に姿を見せなくなったのであるが。

「あの頃はキャラ固まってなかったからねー」

<<きゃら? まあお主に関しては実の処どうでも良いのだが>>

「酷いっすねー……」

<<お主の部屋は此処ではない。何の権利があって御堂の許可なく立ち入るか>>

鬼丸の問い詰めに、ちっちっち、と、堀越竜軍中将は指を振った。

「おじじに鋳潰されそうになってた鬼丸っちを救ったのはあて。という事はあのチビ助の命を救ったのもあてですね。つまり此の部屋はあての存在なくして成しえない訳ですよ。
依ってあては鬼丸っちを好きにする権利がある。以上証明終了」

<<随分と恩着せがましい物言いであるが、お主は“同属”のよしみ)で吾をたす)けた訳ではあるまいに>>

「そだね」

途端、茶々丸の快活な笑顔が消え失せる。氷雨の如き其の表情は、少女の底知れぬ深淵を鬼丸に垣間見せた。

「おめーはあてにとって仮初の安らぎだった。だからおじじに無理を頼んでまで堀越に運ばせた」

露骨に苛立ちながら、茶々丸は逆手の親指で床を指す。

「――鬼丸っちは“あのくそったれ”と同じ音がする」

怨念を抽象化したような声紋。其れが、足利茶々丸が今しがた吐き出した声色に対しての適切な表現であった。
茶々丸は忌忌しげに地面を突き刺していた親指を収め、ふと、双眸を伏せると、険しい顔を物憂げなものへと移り変える。

「でも不思議と、おめーを近くに置いとくだけで、最低最悪の気分が多少は薄れるんだよな」

茶々丸は自嘲気味に薄く哂う。

「逆位相ってーのかな? 鬼丸っちの波と“神”の波とが反発しあって打ち消し合ってるって事実に気付いた時は最高の気分だったよ。
劔冑競技レーサークルス)の会場から二、三騎の劔冑が抜けたくらいの微々たるもんだけど、其れはあてにとって紛れもなく救いだった」

其れは鬼丸も承知していた。当時の茶々丸は情緒不安定であり、一目見ただけで“少女の本質”を看破出来た程である。

<<人と劔冑、か。難儀なものよな>>

心金を持つ“人間”――其れが茶々丸。

鬼丸はふと思う。力の濁流である“神”を、人間の感覚器官で捉えたのなら、一体如何様に聞こえるのか。
心地よい讃美歌のような此の音が、果たして茶々丸にはどう聞こえているのであろうか――と。

「そですよー。ほんと大変ですよー。あ、そうそう。其れについて一つ言っておく事があんだけど」

茶々丸はそう言うと、燐光が如き鬼丸の碧眼に焦点を合わせる。
其の射抜くような眼差しは、人の創り出すものとは到底思えぬ程、無機質で峻厳しゅんげん) であった。

「――あての“秘密”を洩らしたら、あの雄飛ってやつ殺すから。今も部下が張り付いてるし」

剣呑な気配を衣よろしく縫い付けた、単なる恫喝や恐喝の類ではない其の語調は、茶々丸が持つ昏い殺気の顕れであった。
欄間から吹き荒んだ寒風が、菫色の鋼を凍て付かせる。

<<吾も警告しておこう。)し御堂を害するのであれば、吾の顎が其の細首を切断し、骨という骨を砕くであろう>>

鬼丸の大顎が、がちりと噛み合い、掻き鳴らされる。
鋸鍬形ノコギリクワガタ)を想わせる双対の顎は、根本から頂点にかけて湾曲しており、雄雄しさと王者の貫録を醸し出している。顎の内側に造られた豪胆な棘は、凶暴さと剛健さを兼ね備えていた。

「へっ、仕手失った劔冑がどうやって……ってそっか。鬼丸っちは例外だったね」

<<茶々丸。堀越で何を隠している>>

「何も」

<<吾に何をした>>

「だから知らないって」

<<自立行動を取れるようになったのは、何故だ>>

「さあ? さしずめ“くそったれ”の恩恵なんじゃねえの。良く分からんけど」

<<…………>>

「あんまり疑り深いとしわ)、もといひび)はいっちゃうよ?」

仕手と縁を結ばぬ劔冑は、直接人間に触れられるまで、感覚機官を使用する事は出来ない。人を介さぬ限り、劔冑は唯の武具なのだ。
然らばこそ、鬼丸が疑問を抱くのも当然である。心金の傍で、微かに脈動している“違和感”の正体を――

そんな鬼丸の詰問を右へ左へといなし、茶々丸は人差し指でびしっと鉄塊の側頭部を指す。

「ま、とにかくさっき言った事覚えとけよな」

鬼丸は何処か呆れたとばかりに左手の茶々丸を流し見ると、軽く探知機能はな)を鳴らした。

<<存外に甘いのであるな、茶々丸。態々勧告なぞせずに、問答無用で破壊すればよかろう>>

「できりゃ苦労しないっての」

先刻の閣議の後、足利護氏の名において、正式に雄飛への帯刀許可が下された。
大鳥雄飛が鬼丸国綱を保有する、との情報は、不自然な程瞬く間に――或いは意図的に――六波羅に知れ渡った。
今現在、普陀楽で交わされる話題の渦中に、当然ながら鬼丸国綱の銘も挙がる。えもいわんや、大鳥雄飛並びに鬼丸国綱を害する者が現れたとすれば、下手人の正体は直ぐ様露見するであろう。

獅子吼は絶好の機を逃さなかった。持てる札を最大限活用したと云っても良い。
大鳥家嫡男の凱旋。そして鬼丸国綱の登場。六波羅における大鳥雄飛への注目度は、さながら水を吸った絹の如く高まるばかりである。

「ま、正直、別にバレたって大した問題じゃねえからさ。此れはあてからのささやかな恩返しってとこかな」

<<……吾は賢しらに舌を動かす性分は持たぬ。安心するが良い>>

「そいつは良かった。うんうん、何事も平和が一番ですね」

腕を組みしきりに頷いた後、茶々丸は改めて鬼丸に視線を配った。
そして、言葉にならぬ乾いた声を洩らす。

「あー、あとさ。さんざ真面目な話シリアス)やっといて今更だけど、突っ込んでいいよな? いや、突っ込む。例え駄目だと言われても、此の光景には突っ込みを入れざるを得ない」

<<何か不自然な物でもあるのか。部屋に異常はないが>>

「い、いやそうじゃなくてですね……」

ごほんと喉を鳴らし、茶々丸は大きく息を吸い込む。

<<……?>>

「――なんで劔冑が黙々と本を読んでるんだっつーの! 其れも馬鹿でっかい鍬形虫が前足を器用に動かして頁をめくってるって何なのさ!? これが不自然じゃないって言うんなら、茄子が盆に盆踊りするのも自然だってば!!」

針金のような前脚のフ節で黙然と頁をめくり、哲学書に目を落とす超弩級の甲虫目。御叮嚀に蝋燭に火を灯している。
――異常であった。間違いなく。ありふれた光景とは百万光年程離れていた。

<<ふむ。もう少し捻りの或る喩えは思いつかなかったのか>>

「……あー、もういいや。とりあえず此処で休憩していい?」

<<多少なりとも嘗ての恩義は覚えておる。吾の邪魔をしない限り、好きにするがよい>>

「へいへー」

軽い調子で返すと、茶々丸はどかっと畳に腰を下ろし、鍬形虫の前胸背板へ凭れ掛かる。
相して暫しの時が流れ――ない。

「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」

<<……>>

「ねえねえ」

<<……主の耳は錆びておるのか? どうやら交換が必要らしい>>

「何でアイツを選んだんだよ? いや、選んだっつーか、なんで助けたん? 見知った仲……でもないっしょ。接点がねえもん」

<<何が言いたい>>

「いやさ。堀越を脱走した理由はともかく、アイツに関しての事が全然わからねーんだよな」

「大鳥雄飛って唯の素人だろ? なのに何で敢えてアイツなのかってこと。雷蝶とすら縁を結ばなかったおめーが、アイツを仕手にする意味が理解できねえ」

<<吾は雄飛のために心金を打った。其れだけだ>>

「はぁ?」

<<吾は雄飛に救われたのだ>>

「……話が見えねーんだけど」

<<要は剣術の優劣で仕手を選んでいる訳ではない、という事だ>>

「いや、そりゃ知ってるけどね。なんたっておめーは“仕手を制限する劔冑”なんだからさ。だからってアイツは――<<話は仕舞いである>>「唐突過ぎるッ!」

<<…………>>

「……わーった。もう聞かない」

「そんなにあいつが良いのかね。人の趣味にケチ付けるのは野暮だけど、さっぱりわかんねーな」

「……でも、少し羨ましい、かな」

儚げに呟いた茶々丸は、束の間の安らぎに包まれ、瞼を閉じるのであった。









常陸ひたち)の鹿島に、愛洲移香斎という刀術に秀でた者が居た。
移香斎は伊勢の人であったが、日向の鵜戸の岩屋に参籠したところ、神が猿の姿で現れ、猿飛の術を伝授されたという。
彼は其れを陰流と称し、武者修行を兼ね諸国巡礼してから、武道の守護神としてとくと知られた鹿島の明神社に居を据えたのである。
大胡秀綱おおごひでつな)という若者が鹿島に赴いたのは、其れから暫くの事であった。

大胡城主の嫡子であった若者は移香斎に教えを乞い、夏も冬も剣理の追求に明け暮れた。
やがて、秀綱が壮年になる頃、『愛洲陰流之目録』なる巻物を移香斎より授けられた。大胡秀綱は上泉伊勢守信綱かみいずみいせのかみのぶつな)と名を改め、陰流を研鑽、“新陰流”を編み出したのである。

そして永禄六年(1563年)。
新陰流の創始者として大和に剣風を靡かせた信綱は、新陰流を雷名天下に轟かせるため廻国修行に出ていた。信綱は当年、伊勢の御所に滞在していた折、新当流の塚原ト伝に手解きを受けた北畠具教と出会う。
信綱が兵法修行の旨を伝えたところ、伊勢の国司であった具教は、己のみならず伊勢の武芸者らでは新陰流当主である信綱の相手は務まらないと答え、代わりに和州柳生谷の柳生宗厳むねよし)を推挙したのである。

具教に促され奈良に赴いた信綱は、宗厳と立合に至った。
剣交は信綱の圧勝で幕を閉じたのであるが、信綱は柳生の里が積み重ねてきた其の技術に光る物を見たという。また宗厳も、自由自在に剣を振るう新陰流に感服し、信綱に流儀の伝授を請うた。

宗厳は寝食を忘れて新陰流に没頭し、其の尽くを修めた。宗厳の目まぐるしい成長に驚嘆した信綱は、彼に新陰流の極意『無刀取り』完成を恃む。
其れから数年。血の滲む刻苦努力によって、遂ぞ術理完成に至った柳生宗厳は、信綱に一国一人に限られた印可状を与えられ、後の柳生新陰流が誕生したのであった。

六波羅新陰流。またの名を、柳生新陰流六波羅派。何れも六波羅幕府設立に伴い改められた新陰流の名である。
そも、新陰流と柳生新陰流は同義であり、上泉伊勢守信綱以前と柳生石舟斎宗厳以降を区別するために『柳生』の名を冠しただけに過ぎない。
では何故、態々区別する必要があったのか。其れに関しては諸説あるが、今日に至る新陰流の繁栄が偏に柳生一族に依るものである、という説が有力である。

柳生宗厳、柳生宗矩、柳生十兵衛、柳生厳周と、数多の天才剣士に脈々と柳生新陰流の剣理は受け継がれ、一世代の間すらも、其の刃が鈍る事は無かった。
柳生新陰流は時代の幕府に重用され、今日の六波羅政権に至っても尚、大和最大かつ大和最強の剣術として、隆盛を極めているのであった。

五百年近い歴史を誇る新陰流は、其の年月の間、只管に刃を研ぎ、嗣子相伝に伝えてきた。

『一器の水を一器に移し、一灯を分かって千灯と成すが如く』

晩年、上泉伊勢守信綱の言葉である。
其の遺言に追随するかのように、外歴千九百四十年の現在も。普陀楽城の剣術道場において、師範が新しく入門した若人に剣理を説いていた。



<普陀楽城 六波羅新陰流道場>>

「切り手にて鍔を握り、手首の膂力を以て、刀を振るいます」

素振りをしている雄飛にそう助言したのは、六波羅新陰流宗主、柳生常闇斎である。
其の風貌は、異形の一言。黒塗りの夜間天眼鏡ナイトビジョン)を掛け、縮緬の灰装束を羽織り、長髪を後ろで括っている。えら)の張った顎に痩せこけた頬が張り付いている相貌は、幽鬼のようである。

夜間天眼鏡ナイトビジョン)が鼻骨から額全体を覆っており、其の表情を推し量る事は出来ない。
といっても、起伏の富んだ表情なぞ一時も見せる事はなく、常に冷静沈着、情緒纏綿じょうちょてんめん)という言葉とは無縁の男であったので、機械で覆われていないとしても、顔は感情の示唆を見抜く判断材料には成らないであろう。

今日、十一月十三日は、雄飛が六波羅に居を据えてから五日目である。そして、道場に足を運んだのは此れで四回目。

柳生常闇斎が斯うして直に稽古を付けるのは、初日を入れて二度目である。
常闇は新陰流宗主であると共に、厩衆元締でもあるという。厩衆とは、六波羅幕府、主に其の中でも足利一族に元来服従している剣客集団である。
身辺警護は勿論、公に事を成せぬ様々な職務に従事する。其れは要人の暗殺、潜入捜査など多岐にわたる。

大鳥家にも楽恩陣という同質の集団を抱えていた事から、厩衆に対する雄飛の理解は早かった。尤も、楽恩陣は伊賀忍者の系譜から連なる集団であったので、剣術の教えを乞う事は出来なかったのであるが。

「間とは“魔”……。熟練された間積りは、矛となり、盾となります。先ずは、無心で振るうのではなく、一振りずつ、其の太刀筋を意識、確認して、振り下ろすのです」

不世出の達人と謳われた常闇の言葉は正確無比に尽きた。見事な手際とも云える。
雄飛にとって、柳生常闇斎は謦咳けいがい) に接するに値する人物であった。

剣術の素人にも解り易い具体的な表現で、次々と自分の動作に対する適切な助言が下される。其の言葉を愚直に実践するだけで、見る見る太刀筋は鋭く、鋭敏になっていく。

「動は『陽』、静は『陰』で御座います。重要なのは、『陽』と『陰』を、内外に“変える”、という事。内で『陽』動かざれば、外見そとみ)は『陰』とせねばなりません」

時に比喩の篭もった心事に関する説明もあるが、一語一句に有無を言わさぬ重みがあり、剣理と密接に関わる言葉であると雄飛に思しめた。

そして、何より度肝を抜いたのが、常闇の観察眼である。
心中でふと疑問に思った次の瞬間には、此方から口を出さずとも答えが返ってくるのだ。
其れは己の内を全て見透かされているような薄ら寒さを覚える程であった。

「新陰流に、構えという概念はありません」

「……え?」

思わぬ言葉に、ふと素振りの手を止める。
なら、どうやって刀を振るうのですか――と口に出す前に、常闇の悄々しょうしょう)たる声が紡がれる。

くらい)にて。敵の動きを『月』として、其の影を映す水面を、踏み出した足の甲に据えます」

身を偏になし、敵の拳に我が肩を較べ、我が拳を盾とし、左の肘を伸ばし、先の膝に身を持たせ、後の足を伸ばすべき事――。其れが新陰流の五カ之身之位における心得であると常闇は言う。
刀を己の身体の中心線――人中路に沿わせる『無形の位』が、柳生新陰流における基本の位であるらしい。

「前に踏み出す右足の甲が『水』であり、向かい合う相手の挙措が『月』に御座います」

雄飛は言われるがまま、右足の踵を浮かせ、刀を正面に据える。上体の力を抜き、首の根を張る。顎を引き、臍を下に向ける。
重心を前に置く姿勢。剣尖は上段、中段、下段、何れに向いても委細構わず、ただ人中路に刃先を乗せる事だけを意識する。

……成程、と心中で頷く。此の姿勢は、何とも自然なのだ。相手が如何なる角度から打ちこんできても即応出来るような解脱感がある。

「常時自在に、対手の動きに応じる。其れが、新陰流で御座いますれば、構えに囚われては、なりません」

刀の風切音に紛れた常闇の呟きに傾聴しつつ、ひたすら鍛練に没頭する。
何時の間にか陽が昇り、降り始める。相して息が切れ、身体が鉛となり、膝が笑う様になった頃である。

道場に一人の大男が姿を見せたのは。

風雲急を告げる。そんな言葉が雄飛の脳裏に浮んだ。



現れた大男の正体は果たして――竜軍中将、今川雷蝶であった。

「大鳥雄飛とやら!」

紅白粉を薄く塗った唇から、威勢の良い声で名を呼ばれる。面識はあの一件以来皆無であるが、どうにも記憶に残る男であった。
頭上のごう)天井に届くのではないかと見紛う程、恵まれた体躯。六尺(約180cm)を優に超える背丈は、此処大和の地において明らかな異質であった。
癖の掛かった長髪は腰のあたりまで伸ばされており、拭き込まれた板敷に朱い光沢を覗かせる。

「麿が直々に相手をしてあげるわ。光栄に思いなさい!」

「――――」

意表を突く言葉に、一瞬思考が停止する。
相手とは、つまり立ち合うという事なのだろう。此の大和最強の武人と、恐らく今現在、此の道場で最も弱い自分が、である。

「其れとも……稽古に精を出し過ぎて刀を持つのも儘ならないかしら?」

目を瞠る。驚くべき事に、雷蝶は一目で此方の肉体を看破したようであった。
雷蝶の言う通り、頭頂から爪先まで精進潔斎に消耗し尽くしている。何時頃から道場に足を運んだかは覚えていないが、人生で第三位には間違いなく入る程の疲れなのは確かである。
また、日々の無理も祟ったのかもしれない。全身は、体重が数倍になったかのように重い。何もせずとも、ふらつく程である。

「まあ麿の“美々しい”黄金の肉体に臆したとしても、無理はないけれど」

そう言って鼻を鳴らした雷蝶は、威勢よく煌びやかな上着を脱いだ。
何故脱ぐ必要があったのか、其れは定かではない。何故意気揚々と脱いだのか、其れも定かではない。

唯一つ言える事は。

(……すげえ)

――美しい。感嘆の息と共に吐き出した其の言葉だけだった。

素手で熊を殴り飛ばせそうな筋骨隆々とした肉体である。かといって無意味に膨れ上がっている訳ではなく、節々の筋肉は極限まで凝縮され、研ぎ澄まされている。贅肉なぞ小匙一さし分も存在しない。
裸である筈なのに、服を着ていた時よりも物々しい。何故ならば、全身が筋繊維という鎧で包まれているからだ。
押し上げられた大胸筋が威風堂々と中央に鎮座しており、勇猛無双の剛毅さを醸し出している。上腕二頭筋はまさに力の象徴といったところか。組み込まれた岩の腹筋は当然八に割れている。
三角筋は鋼のような安定感を滲ませながら、両肩にずっしりと載せられている。腕頭骨筋と総指伸筋は鞭のしなやかさを以て艶やかに煌いている。

一体如何程の鍛錬、修練、研鑽を積めば、斯様な肉体構造を身に付ける事が出来るのか。そんな想像すらもつかせぬ、理想的かつ文句無しの、完全無欠の上半身であった。
雷蝶の肉体は武の極みであると主張して已まない。雄飛には其の体躯が余りに眩しく、そして美しく見えた。

「えー、と。……謹んでお受けします。御指導の程、宜しくお願いします」

覚えた言葉を使い、平身低頭の態で一揖いちゆう)する。此れは要らぬ問題を齎さらぬための形式事でもなければ、機嫌を取るための所作ポーズ)でもなかった。
降って沸いた機会に、心臓が激しく鼓動している。俄に立ち込めた想念――絶対強者との立合。望む処である。寧ろ、此方から床に頭を擦り付けてでも願いたい事であった。

「……そう、ならさっさと構えなさい」

雷蝶の言葉に、またしても目を丸くする。常日頃から慣れるべしとの教えにより、此方が握り締めていたのは純然たる凶器、真剣であった。
周囲に木刀らしきものはない。さてどうしたものか、一旦蔵に取りに行くべきか――と悩む内に、雷蝶はつまらなそうな視線で、其の侭で構わないと告げてきた。

……然し、幾ら素人とはいえ、流石に四公方に白刃を向けるのは拙いのでは――と周囲を睥睨するものの、どうやら誰も咎める気はないらしい。彼らはいつも通り黙々と剣を振るっており、此方に視線を配る者はいない。
唯一近くに居たのは柳生常闇斎であったが、傍観者に徹しているようだ。常闇は相も変わらず無表情にて、夜間天眼鏡ナイトビジョン)の赤い透鏡レンズ)を淡く光らせるのみである。

柳生常闇と比肩するとまで噂されている、あの獅子吼をして最強と言わしめた今川雷蝶――六波羅新陰流は眼前の男に絶対の信頼を寄せているのであろうか。……或いは其れが普通なのか。
未だ戸惑っていると、雷蝶は軽く溜息をついてから口を開いた。

「安心していいわ、麿は此れを使うから。蟇肌竹刀ひきはだしない)といって、八割りにした竹に牛皮を被せた竹刀よ。麿の究極美を体現させた一刀を喰らっても、命を失うなんて事はないわ」

雷蝶が右手に掲げているのは、三尺三寸(1m)の棒である。筒状の棒には朱漆の革が被せてあり、表面の皺が蟾蜍ひきがえる)の肌のようであった。
真剣と竹刀。素人と達人の差が、歴然と顕れている。

「……ちょっと待って貰えませんか」

戸惑うような間を挟んでから、いざ構えんとする雷蝶に二の足を踏ませる。

「なによ」

此れ真剣)じゃなくて……おれも其れ蟇肌竹刀)に持ち替えたいんです」

「…………」

告げた途端、空間に亀裂が奔ったような錯覚があった。

「なんですって?」

其の眼光に、体内を氷塊が滑り落ちる。

「――舐めるな餓鬼がァ!! 此の今川雷蝶が! アンタみたいな素人に!! 不覚を取るとでも思っているのかァ!!」

凄味ドス)の効いた声が唐突に響き渡った。広大な道場が揺れるかのような怒声が鼓膜を揺らす。剣呑とした声が刃となって消耗しきった身体を斬り刻む。

「違います」

当然の如く否定する。
敵意と侮蔑の篭もった雷蝶の言葉は、間違いなく真理であるのだ。

「貴方は強い、其れも物凄く。おれに相手の力量を測る眼はないですけど、其の鍛え抜かれた身体を見れば一目瞭然です。天と地の差があるって事くらい、理解してます」

未だ刺す眼光が網膜を焼き尽くす。

「でもこれだけは譲れない。”何も考えずに”、此の刀を人に振るう事だけは我慢ならないんです」

「…………」

「其れはおれにとっての絶対規律です」

「ふん、大鳥家現当主の癖に随分と甘いわね」

ふっと、殺気の込められた雷蝶の眼が平然のそれへと戻った。同時に堰を切ったような解放感が全身を包む。
横目で常闇を見やる。己の述べた言葉を咀嚼しているのか、顎に手をやり、微かに口元を結んでいた。

「まあ、麿の美々しい肉体を見る目は正しいと言わざるを得ないかしら。……仕方ないわね、其れに免じて許可してあげましょう」

ふらつく足で道場脇の蔵に赴き、朱塗りの竹刀を手に取る。軽く振ると、刀に比べて群を抜いた軽さであった。

(此れなら、今の身体でも振る事は出来る……)

多少の安堵に包まれ、道場に戻る。

「――――」

而して、戸口を開けた瞬間、其の儚い安息は一瞬で掻き消された。

道場の中心部、其処に白線のような紙糊テープ)が二本貼られている。此処から距離にして凡そ十六間(30m)。
其処で凝然と立っているのは、今川雷蝶。

別人、である。

先程とは纏う覇気がまるで違う。比喩ではなく、殺気が色付いている。

鬼神。

其れが此の不条理で不現実な存在を称するに最も適切な単語だった。

一歩ずつ、乳酸の溜まった足で中央に進んでいく。まるで死刑台に赴く囚人のような心持ちである。

声が出ない。皮膚が毛羽立ち戦慄おののく)く。相手は絶対強者。此方は弱者。

そう思い至った瞬間、喉奥で唸る。

(…………)

此の感覚を、知っている。

敵わない。勝てる訳がない。そう思い震え情けなく小便を洩らした唾棄すべき経験を己は経ている。

忘れる筈がない。
あの一瞬一瞬が、側頭葉にこびり付いているのだ。

蛇の如く纏わり付いている此の心境。



”あの時”と同質の感覚である。



(……なに呑まれてやがる。ふざけんなよ。いい加減にしろよ)

己の肉体を、己の魂を叱咤する。暴虐なる憎悪を以て。

(もう逃げない。もう諦めない。そうだろ……)

誓ったのだ。花枝の墓標に。

(此れは実戦だ。だから、甘い考えは捨てろ)

竹刀ではない。相手は正真正銘、刃を煌かせている。そう思い込む。

(絶対に負ける訳にはいかない。頑張ったから、努力したから、なんて言葉で自分を慰めるのは許せねえ)

醜い自分はもう見飽きた。行動が伴わなければ、己の行為なぞ何の意味も成さない。

(おれは銀星号を殺す。だから、此処で勝てないようじゃ話にならないんだ……!)

全身を奮い立たせる。細胞を高揚させる。煮え滾る激情を以て。

戦気で鼓舞した足で、勇み良く道場の板敷を踏み締めていく。
其の先には六波羅最強の武人。而して、もう怖れはない。心が怯む事もなくなった。


相対する。


(――勝つ)


構える。


「六波羅新陰流、今川雷蝶。参る」

「六波羅新陰流、大鳥雄飛。参ります」







正面の雷蝶は大上段に“刀”を振りかぶっている。
対して、此方は右足で踏み込む右上段の構えである。

何故右上段に構えたのか。当然確たる理由があった。

正眼の構え。此れは有り得ない。
自在に刃筋を変化させる正道の構えを取るには、技術も有効射程リーチ)も足りはしない。中段は守りに秀でるが、極太の腕で繰り出される雷蝶の斬撃を、真正面から受け止める事なぞ無理に決まっている。

然らば、下段はどうか。論外である。
そも、下段で繰り出す技なぞ想像もつかない。劔冑を纏った騎航ならば、下段から跳ね上げる様に刃を置く事で、形だけは事足りる。
だが、地に足付け其処から繰り出すとなれば、話は別であった。下段から一々振り上げる事なぞ無駄の骨頂であるし、唯一思い付いた地滑りに這わせた刺突という策も、技術無しではまず不可能。

八相の構え。悪くはないが、威力にかける。
左半身を正面に晒し、右脇に刀を掲げる待ちの構えでは、踏み込みを犠牲にしてしまう。
唯でさえ心許無い剣威を擦り減らすには、余りにも雷蝶の体躯は剛健過ぎた。

依って消去法で、此の右上段を選択したのである。更に、明朝の日課となっている素振りの型が此の右肩担ぎである事にも起因する。要は一番振り慣れているのだ。
素肌剣術では正面の雷蝶のように真上に振りかぶるらしいが、甲冑剣術では兜が邪魔になるため、必然右肩に担ぐ事となる。
武者正調、上段の太刀取り。其れが大和最強の武人、今川雷蝶との対決において選択した構えだった。

左手の人差し指、中指、親指で柄頭を強く握り、薬指、小指を虚空に添える。
右手は切り手にて、鍔にかける。

「……」

「――」

相対したまま、気迫にて鍔競り合う。
距離を正確に測る事は出来ないが。此の距離は、確実に両者の間合いではない。

今は間積めの刻である。

第一に確認しなくてはならない事は、相手の打ち間を測ることであろう。
雷蝶は六尺(約180cm)以上の大男。対して此方は五寸(15cm)程低い。

形勢の不利は明らかだった。

内部骨格によって鉄の巨人と成り得る劔冑を装甲した立合ならば、身長の差は関係ない。
而して、此れは生身の死合である。背丈の差は、単に腕力の優劣のみに留まらず、打ち間にも明確に影響する。得物こそ同じ尺だが、腕の長さは圧倒的に違う。其れは其の侭、刀の長さに繋がるのだ。

技術に加え、有効射程リーチ)にも歴然たる隔絶があった。

雷蝶が斜め後ろに掲げた刀身は身を隠しており、視覚情報から刃の長さを捉える事は困難を極める。
依って、己が握り締めている刀の長さと、雷蝶の腕の長さ――軽く曲げられており正確に測る事は出来そうにないが――の合計を、素人目で目算する。

そして、歪に繋ぎ合わされた直線を、此の立合の場に落とし込む。

(――――)

結果、驚愕に息を呑み、次いで身震いするような死気が蒼天を駆け巡る事となった。

雷蝶の間合い。其れは胸先三寸だった。まだ生存距離がある――何と愚かか、其れは読み間違いであったのだ。
開始早々、既に足裏二足分程度しか残されていないという愕然たる事実が心臓を抉る。雷蝶の間合いは壁立千仞へきりつせんじん)となって目前に迫っていた。
凡そ十六寸(50cm)、此の距離を超える地点が死線デッドライン)――其れを往々にして理解するに至る。

(このままじゃ拙い)

僅かな距離が詰まり次第、大上段構えを取っている雷蝶は、電光石火の一撃で己の脳天をかち割るだろう。
思わず心胆で苦渋を沸かせる。雷蝶の斬撃。其れに遅れて反応する技も、才能も。全く微塵も持ち合わせてなぞいなかった。

つまり、『先』を相手に仕掛けられた瞬間、此方の敗北は決定するのだ。己が保有する『後の先』という選択肢は手放さざるを得ない。

後方に退避――下策中の下策である。崖から一時離れたとしても、其処は安息の地ではない。後方への重心移動は威勢を殺す事になり、確実に攻め込まれる。

ではいっその事、先手で攻めるべきか――不可能、内心で頭を振る。
此方の間合いは遥か彼方に位置する。『先』を取る事は、海中に埋められた砂金を掴むが如しである。
ゆっくりと間積めする隙を、相手が呆然と待つ筈がないのだ。其れは両足の脚力で飛び込んでも同じ事。此方が間境に足を踏み入れた瞬間、雷蝶は神域の反応で刀を振り下ろすだろう。

「……ッ」

「――――」

(……くそッ)

窮地に瀕した状況を顧みて、思わず外に焦りを浮かべてしまった――そんな己の未熟さに舌打つ。
雷蝶は此方の愚鈍な挙措を一顧だにしない。微かな呼気すら浮かばせず、大上段で構えたまま凝固している。

攻める気はないのか――つまり何時でも勝ちは拾えるから打ってこいとの事なのか。

緑に染め上げられた雷蝶の双眸。其処から灼熱の如く出でたる眼光が頬肌を焼く。
舐められている訳ではない、そう確信させられる眼差しだった。雷蝶が敢えて間積めしないのは、血の滲む研鑽によって練りに練られた自信の顕れなのだと理解する。

六波羅新陰流は、後の先を取って良しとする。
対手に打たせ、其れを陽炎にて捌き、斬る剣術である。



……つまり、雷蝶は新陰流に“固執”している?



ふいに浮かんだ考えによって、暗闇に一筋の光明が差し、豁然と天地が開ける。
剛、速、技。全ての項目を遥かに劣る自分が、戦機を掴んだ瞬間だった。然らば、其処を突くが必定。

(あれでいこう)

構想を想念する。

“逸らす”。

鈴川との戦闘で行ったあの技を使うほか、活路はない。
俗に言う『切落きりおとし)』の類である。数日前取り寄せた剣術書によると、本来の切落は伊藤一刀斎の秘剣であり、相手の刀ごと肉を斬る殺法であるらしい。
対手に打たせ、『後の先』を取り、切り落とす――其れが天下に名高い一刀流の極意、切落である。其れを素人が成す無謀さは、毒舌に尽し難いかもしれない。素人の夢想と嘲笑されるかもしれない。

だが、一抹の望みがあるのならば、賭けてみる価値はある。
何故ならば――対手の動きが制限されている此の状況では、達人の技量で見切る必要なぞないのだ。雷蝶が『後の先』を取ると確定している以上、其の剣筋は限られてくる。
大上段から繰り出される一刀の刃筋は、まず間違いなく一直線に違いあるまい。いや、道中で袈裟切りに変化する可能性も無くはないが、其れなら其れで構わない。無理やり太刀筋を変化させれば、剣速、威力は確実に減少するだろう。其の太刀筋に、右上段からの切落がかち合えば、何れにせよ勝機はある。

此処で一つ、問題が生じる。其れは雷蝶の剣速を考慮していない、という点である。
天下至境の竜軍中将。其の勇名は大英連邦ブリテン)にまで轟くという。然らば、其の剣速も推して知るべし。

つまり。剣速に人と劔冑並の隔絶がある以上、『後の先』を取る事は出来ない。開始の合図を自在に操れるとはいえ、速度の優劣に絶対的な差があるのだ。尤も、絶望する事はないが。『後の先』は先程諦めたばかりである。

問題を解決する策。其れは切落の性質を利用する事である。
切落の長所メリット)は、剣速に依存する太刀捌きではない、という点である。相手の頭部ではなく刀に狙いを定める此の技法は、普通に斬るよりも遥かに到達地点が近いのである。

……而して、従来の切落では、まず勝てない。切落は剣速の占める割合が低い。だが其れも、今川雷蝶に立ち向かう素人という構図では無に帰す。

此の侭では、“足りない”。


然らば。

切落を、『先』によって運用するのだ――。


右足の裏で木床を擦る。先日覚えた摺り足で一寸(3cm)、間を詰めた。
重心、姿勢、共に崩してはならない。重鈍な前進は筋肉を酷使するが、此処は耐えねばならぬ刻である。

もう一度。

十六寸(50cm)の距離を、天岩戸あまのいわと)を強引に削るように縮めていく。

相対距離を削る度、今川雷蝶の輪郭が更に大きくなり、無双武者の威圧を放つ。
肌が冷え、黄泉路に迷う心細さが胸に巣食った。血に飢えた野獣の檻に自ら諸手を差し入れていくかのような心持ち。天照アマテラス)は神罰の白玉刃を携えて、虎視眈々と岩に篭もっている。

(つゥ! ……此処が斬り間、だ)

間一髪、暴走ぎみの右足を寸でのところで押し止める。一足一刀という名の崖に足を滑らす寸前であった。
幻視の谷底は鎌首を擡げ、深淵を覗かせていた。僅かに死線からはみ出した親指に、焦げ付いたのかと見紛う程の熱を感じる。

此方が保有する唯一の矛――其れは瞬時タイミング)を制している事である。

雷蝶は絶対に『先』を取らない、と決めつける。其れは狂気にも似た盲信だった。
此の蒙昧卑怯な策に恃む以外、勝利を掴む方法がない。相手が此方の意表を突き、間を詰めるのであれば、堰き止めた堰堤ダム)はいとも容易く崩壊するが、其の可能性を敢えて無視するのだ。

雷蝶の絶対的な自信に頼りきり、限界まで瞬機を掌握する。
此の構想は、曲りなりとも新陰流を学ぶ身としては、唾棄すべきものであろうか。

……だが、卑怯で何が悪いのか。矜持は要らぬ。唯、勝てば良い。勝利以外に求めるものなど何も無い。

(おれは勝つ。泥臭くったって良い……!)

幾ら此方が素人、相手が最強とて、瞬時タイミング)を掌握し、研ぎ澄ました『先』を取る事が出来るのであれば、或いは勝負の天秤は元に戻るかもしれない。
今か今かと待ち兼ねている雷蝶の拍子リズム)を乱す――其れが暗夜の中、必死に見つけ出した希望であった。動きの立ち遅れという鎖は最強武者を縛り付け、其の獰猛な牙をも抜く。

『吸』。一握りの酸素を取り込み、死線で踊る。制限時間タイムリミット)は此の僅かな酸素を消耗した刻。

焦らす。

鍛練で消耗し切った肉体が、逐一悲鳴を上げている。耳を貸してはならない。此処は正念場である。

焦らす。

打ち込む際、留意すべきなのは、無意識に息を吐いてしまう事だろう、と半ば直感する。
『呼』と共に斬りかかれば勢いは増すのは自明の理。だが其れは、己の『機』を白日の下に晒す事と同義である。

焦らす。

数瞬後に取る行動を決定、確定。
『先』による右上段の切落を以て雷蝶の大上段振り下ろしを左へ逸らし、間髪入れず刀を振り上げ、無防備な首を撥ねる。

焦らす。





……動。


「――――」

「――――」


『先』を取り、右上段から袈裟蹴りに振るう。

遅れて、上から下へ、断罪台の如く振り下ろさんと煌く刃先。



完璧な瞬時タイミング)だった。



此方の刃筋が導かれるように雷蝶の刃筋へと交差す































(………………)





何だ。





(………………)





何が。





「脇の締めが甘い。腕の振り、足捌きが全然これっぽっちも全くなっていない。百点満点中五点ね」




(………………?)


“何故”だ。


……何故、木床が“眼前”にある?

天地が逆転したのか。重力が狂ったのか。

いや。


――斬られた、のか。


其の事実に漸く気付いたと同時に、頭頂部に存在する撃衝を感知する。
頭蓋骨が陥没したのではないかと錯覚する程の膨大な衝撃が、其処に在った。

見えなかった。否、本当に斬ったのか、未だ信じられなかった。

魔術の類ではないだろうか。魔剣の類ではないだろうか。

果たして、人間は此れ程の一撃を生身で放つ事が出来る生物なのか。

神速の一刀を司る天照大御神。其れが雷蝶という男――。

「……ぐ」

全身がもんどりうって痙攣している。神経が焼き切れたようにぴくりとも意志が介入できない。
極寒の如き木床に抱かれ、意識を失う――

「……今……一手……」

安息を拒否する。絶望のかいな)に抱かれる事を拒絶する。
両腕を木床に突き刺し、必死の態で這い上がる。右足、左足に全身全霊を込め、鉄火場に戻る。

幸いな事に、竹刀は握り締めたままだった。
もし斬衝で手放してしまっていたのなら、是非もなかった。
拾いに行く余力は微塵も残っていない。


今一度、相対する。


押し寄せるような疲労が肩に圧し掛かっていた。雷蝶の一撃によって、張り詰めていた戦気が断ち切られてしまっているのだ。

膝が嗤った。己の無力を嘲笑するかの如く。

今、立ち上がってからどれ程の刻が経ったのだろうか。一瞬? 一分? 一時間?

判断がつかない。物事の判別がつかない。

荒い息を吐く。肩を揺らす。

世界が混濁し、対手の姿が道場の薄闇に溶けていく。

“刀”を正眼に構える。半ば無意識で。

総指伸筋と腕橈骨筋が悲鳴を上げる。筋繊維が断裂する錯覚。

振り上げる――余力はない。

突き出している右足を折り、重心を前に。
後方の左もも)へと、全身から力を掻き集め、溜める。

――突く。

間は判らぬ。技も知らぬ。

嘲笑うかのように、刺突は的を得ず、虚空を穿つ。突進の態で蹈鞴たたら)を踏む。
瞬間、後頭部に衝撃。暗闇に火花が散る。

「踏み込みが足りないわ。三点」

再び道場の床に倒れる。鈍い音。硬い木床に、顎をしたたかに激突させた。

「…………一手……」

刃を床に突き立てて立ち上がる。直ぐ様よろけ、尻餅を付く。
後頭部の斬撃と顎の衝撃。頭蓋骨の中を右から左へ、神経系の中枢たる脳がふりかごのように揺れている。

(……駄目……だ……。普通にやったって、勝てやしねえ……)

三半規管が揺れている。横隔膜がせり上がり、嘔吐感が蜷局とぐろ)を巻く。
真夏の陽炎のように視界がぼやけ、眩暈を払拭する事が出来ない。

「もう終わりかしら。全く、情けないったらありゃしない」

尻餅を付いたままの此方へ、斜め前方から嘲笑するような、興ざめするような男の声が上がった。誰の声なのかは、判別がつかぬ。

「アンタが鬼丸国綱の仕手に相応しいとは到底思えないわ」

怒りの込められた声が、鼓膜を貫き、蝸牛かぎゅう)に届く。内耳神経を通って大脳へと伝達された、其の単語を咀嚼する。

(鬼丸……)

鬼丸国綱。己の劔冑。

窮地を救い、求めて已まない力を与えてくれた。

正道を示してくれた。

鬼丸国綱。己の劔冑。

「気骨はあるけれど、ね。其れだけで『美』は完成しないのよ」

……嗚呼、そうか。

自分の力だけで戦う事は、出来ないのだ。何時も、鬼丸が力を貸してくれたように。


群を。


個に。


消耗し切り死に体であった身体を、ゆるりと起き上がらせる。
地に足を付け、刀を握り直した。活力は、大脳の単語一つで事足りる。


――己の矮小な力のみを信じるな。戦友とも)に恃み、恥じる事なく、先達の智恵に縋れ。


(さっきの教えを……思い出せ……あの人は……なんて……言ってた?)

身を偏になし、敵の拳に我が肩を較べ、我が拳を盾とし、左の肘を伸ばし、先の膝に身を持たせ、後の足を伸ばすべき事――。

(そうだ……人中路……中心に刀を据える……)

前に踏み出す右足の甲が『水』であり、向かい合う相手の挙措が『月』――。

右足の踵を浮かせ、刀を正面に据える。上体の力を抜き、首の根を張る。顎を引き、臍を下に向ける。
重心を前に置く姿勢。剣尖は対手の顎へ。人中路に刃先を乗せる。

(見たって……わかんねえんなら……いっそ見ない……)

目で捉えられないのであれば、最早肉体の感覚器官は用を成さない。

「沈みなさい」


銀星号。紅い武者。











『あの感覚』を思い出せ。呼び起こせ。揺り起こせ。



『昇華』せよ。



『自己』を捨てよ。



『大義』だけを成す『一己の存在』へ。



「――――――――――――――――――」



無我に――。



(六波羅……新陰流……)

人中路より放たれた一の太刀が虚空を切り裂く。
其の隙を、最強剣士は決して逃しはしない。

剣気を頭頂部に浴びる。
頭上で、雷槌ミュニエル)の一撃が繰り出されんとしている。

(……さがり)……ふじ)……)


二の太刀


「ぐぎッ!」

途端、蛙が潰されたような声が出た。
脇を締め、脊椎骨を海老反りにさせつつ、内臓ごと腰を右回転した結果、背骨と肋骨が占める割合が急激に狭まった。人体構造上無理な動作が、五臓六腑を掻き乱す。

「――!」

息を呑む気配を捉えた。
大空を駆ける雄鳥雄飛)の如く。極限まで引き絞られた切上きりあげ)の斬撃が天を駆け、其の気配へとひた疾走る。


(…………畜生)





――手ごたえは、無い。


“竹刀”の剣風によって、雷蝶の朱髪が数本、はらりと落ちたのみ。

剣理に適った逆撃カウンター)で報いられる。
紫電めく魔剣が己の頭蓋骨を割り、これでもかと脳を揺らす。

(…………)

三度目の撃衝により、

無様に、

成す術もなく、

意識を、

手放した――。









「先生」

「ええ。最後の一合に限ってですが、目を瞠るものがありました」

「何時からでしょうか」

「剣術を初めてから、まだ一ヵ月程度との事です」

「……其れは、俄かには信じられませんわね」

「大鳥雄飛。天稟てんぴん) を持つ少年……と云ったところですか」



[35897] 捨伍話 須要
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:97bbc99a
Date: 2013/07/06 17:59
須要



「私は戦争主義者だ。部下に銃を持たせ、彼らの命を戦火に)べる」

セピア)色の視界の中、霞の様に輪郭がぼやけた人物を見上げていた。
死肉が至る所に偏在する屋外で、引っ切り無しに響く怒声と銃声の二重奏。だが目の前の男の声は、騒乱の中、酷く鮮明に聞こえる。

「其の結果、兵のみならず、民の犠牲が出ると承知していながらも、だ。私の選択は、大多数の民を守るため、少数の民を見殺しにする行為」

其れが何故なのか――痛いくらいに判っていた。壱語一句聞き逃すまいと、全神経を聴覚に集中しているからだ。もう二度と会えないと、本能で理解しているからだ。

「お前も大鳥に生まれ付いた以上、遅かれ早かれ選択を迫られる事になる」

敷地内の建物が燃え盛り、肌がちりちりと焼け付く。時折生じる爆発で、鼓膜がこれでもかと揺れる。

「いいね、雄飛。其の眼で、何が最良なのか、何が守るべき民に必要なのかを見極めなさい」

男の声は、まるで外来語の音楽のよう。難しい言葉の羅列は組み合わず、其の意味を理解できない。

「時継は……優しすぎるのだ。目先の犠牲を厭う事は人間的には高潔だが、其れでは上に立つ資格はない」

大地を踏み鳴らす幾つもの雑音を耳が捉える。見れば、物々しい兵士が数人此方に近寄り、瞬く間に自分達を囲んだ。
何処か苦虫を噛み潰したような表情の兵士らは、霞掛かった目の前の男に銃口を向ける。

「大局を見よ。民と己を“区別”せよ。貴族たるというのは、そういう事だ」

其れでも尚、男は言葉を続ける。恐らく、此れが今生の別れである。

「――貴族の義務ノブリス・オブリージュ)。此の言葉を、どうか覚えておいてほしい」

父の最後の言葉は、何処かで聞いた事があるように思えた。奇妙な既視感。形容しがたい感覚に襲われながら、ゆっくりと、視界の帳が降りていく――。





「……うぐ」

雄飛の目覚めは最悪だった。まず知覚したのは猛烈な吐き気。次に頭痛と、遅れて、体の節々が忙しなく訴える鈍痛である。

<<起きたか>>

僅かだが、視界が揺れている。腹越しに鉄の無機質な感触を覚える。どうやら、うつ伏せになって“相棒”の背に体を預けているようである。
度重なる上官)の無謀な命令に、部下肉体)愈々いよいよ)謀反クーデター)を起こしたようだ。指先一つすら動かせず、まさしく疲労困憊の態である。
成すがまま鬼丸に運ばれていく様は、まるで亀の甲羅に張り付いた海星ヒトデ)のようだった。

気だるげに顔を上げてみれば、道場から帰路に着く途中のようである。完全に陽は暮れており、砂利道の途中、時折覗く屋敷前に一つ掲げられた篝火以外は、暗闇が支配していた。
屋敷掘りに沿うように伸びている道は真っ直ぐ本丸へと続いている。右側には狐の嫁入りの如くぽつぽつと灯が点在し、左側の豊かな森林からは、そろそろ季節外れとも云える蟋蟀こおろぎ)が、終奏フィナーレ)に向けて淑やかに鳴いていた。

何とも幻想的な光景である。
だが、其の感慨は一瞬で台無しとなった。

「あー。……ごめん」

ふいに鼻腔をくすぐった不快げな匂いが、此の雅趣に富む風景に水を差した。
顎下、紫の鉄板の上には冷え切った吐瀉物があった。どうにも拭い切れぬ吐き気の原因は、最も解り易い形で顕れていたのか。情けなさ此処に極まれり、である。

<<委細構わぬ>>

特に気にする風でもなく、鬼丸は六足の脚を器用に動かし、道を往く。

<<熱量が危険域に達しておる。肉体の負荷も甚大、原子機能も低下の一途。明日は休息に努める事を強く推奨する>>

自分の身体は自分が一番よくわかっている――市井に身を置いていた頃、そんな言葉を娯楽小説でよく耳にしたが、仕手となった人間には縁の遠い言葉である。
劔冑と結縁した人間は、逐一相互間で身体情報を連結リンク)する。高度な演算能力を備えた劔冑にとって――其れも鬼丸ならば尚の事――受信した仕手の情報を処理する事なぞ容易い事この上ない。

休息。確かに此処に来てから肉体鍛練の手を休めた事はない。然らばこそ、鬼丸の勧告も道理である。

だが。

「……なら、熱量が回復次第装甲するよ」

近い将来、あの悪鬼銀星号)は殺戮行動を再開するであろう。雄飛にとって、鍛練が丸一日遅れる事なぞ、とても看過出来るものではなかった。

装甲。此れ即ち、肉体の強制回復。無論、鬼丸に限定しての話であるが。
鬼丸の陰義は、原子掌握である。其の能力は複雑怪奇であり、未だ深淵の端にも到達してはいないが、基本的な能力は何とか理解出来ていた。

奥義、裁。鈴川との戦闘で使用した能力は、原子を予め分解する事で、攻撃をいなす奇術である。言うなれば、強引極まる隠れ身の術といったところか。
尤も、あの状況下――竜巻の到達速度は遅く、避ける事は不可能でも、術を完成させる時間的猶予はあったのだ――以外では、此の能力を十全に使用する事は困難だが。
双輪懸ふたわがかり)において、敵の斬撃を喰らう直前で咄嗟に奥義を使用する事なぞ不可能なのだから。
更に言えば、奥義、裁は半ば博打であり、逃げの一手でもある。こんな能力は、今後使用する機会も無ければ、使用する気も微塵も無い。

兎にも角にも、奥義発動を契機に、鬼丸は異常に強力かつ瞬間的な回復能力を使用する事が可能となった。鬼丸曰く、あの奥義は身体情報を記録する事も兼ねているらしい。
成程、つまりあの激痛とすら生温い生体作用は、細胞を記録した状態に戻しているのであろう。強制的に。

尤も、戦闘中に此の回復能力を連続使用して好き放題出来るかと言えば、又しても否である。
回復する際の隙は許より、熱量の消費が激しすぎるのだ。無策に熱量を消費すれば、忽ち大地と激突する羽目になるだろう。其の場合、当然だが奥義を使用する熱量も枯渇しているので、万事休すである。

だが戦闘中ではなく平時に使用するのであれば、此れ程適した能力はない。

(使いたくねぇもう嫌だ)

知らず本音が漏れていた。だが、其れも已む無しか。何故なら、“あれ”は生物が許容できる痛みを大きく逸脱しているからだ。
棚に鎮座してある医学書では、痛みとは、身体に何らかの異常や異変が生じている事を気付かせる警報に過ぎないらしい。眉唾物だ。“あれ”は警報というより自決用の毒薬だろう。

<<却下。何度も言うておるが、其の手段を多用する事は自殺行為である>>

平時において、能力で回復する事は禁忌すべきである、そう鬼丸は口酸っぱく何度も言い含めてきた。
法外な利子を無視して、生命力を間借りしているようなものだと。確かに説得力のある喩えである。あれ程化物じみた回復能力を、熱量だけで賄える筈もないのだ。

「……んな事言ってる場合じゃないんだよ」

<<否決。棄却。不採用>>

「……」

卓越した、いや人知を超えた仕手は、戦闘中に保有する熱量を無視して陰義を使用する事も可能らしい。彼らの其の“火事場の馬鹿力”というべき能力も、此の回復能力と似たような物だと、鬼丸は言っていた。
恒久的に“火事場の馬鹿力”を出す――死体に鞭打つような行為である。

<<気持ちは分かる。が、いざという時に廃人かつ老人になっていては元も子もないだろう>>

<<なに、案ずる事はない。部屋に着き次第、胃に限界まで食事熱量原)を詰め込み、丸一日冬眠すれば、ある程度は回復するであろう>>

「ああもう、わかった、わかったよ」

にべもない。どんな反論も、文字通り鉄心石腸の意志でねじ伏せられる事は容易に予測出来た。結局、雄飛は鬼丸の忠告を許諾する事にしたのだった。

(飯、か)

仕手にとって、熱量原の確保は重要な仕事である。無論、吐き気を無視して食事するのは、些か気乗りしないが。

幸い、此処は普陀楽城、そして其処での地位は大鳥家当主であった。故に、其処彼処で餓死者が続出している大和においても、熱量原食事 )は湯水のように湧いて出てくる。
全く以て、其の格差に憤りを感じずにはいられない。が、文句を垂らしつつも、結局のところ飯を食うので、此の感情は偽善であろう。無駄な感傷で箸の手を止める事は愚行と云える。

何にしても――

「……また、負けた」

夜陰の中に軒を連ねる篝火を眺めながら、早急に熱量を確保する事態となった原因を思い起こす。今川雷蝶。最強武者は実際、其の勇名に寸分違わぬ実力を兼ね備えていた。
思えば、鈴川、銀星号と、敗北続きである。お笑い種だ。天下五甲の仕手は、勝利とは無縁の存在らしい。

(ちくしょう……)

強くなれるのか。そんな疑問が物言わぬ火の弧となって頭を覆う。弱気になっている訳ではないが、武の頂点に君臨する存在に凡人の己が匹敵する事は可能なのかと、どうにも焦燥に駆られるのだ。

<<此れは確証に基づいた事であるが>>

「……ん?」

<<御堂は強くなる。心配せずとも、其れは半ば約束されておる>>

「……ああ、確かに、落ち込んでる場合じゃないよな」

鬼丸は度々意味深な事を言う。而して、其の含むところを問うと、決まって口を閉ざすのだ。
結局、一種の励ましとして受け取るのみで、深く考える事はしない。

「ん、ちょっと停止ストップ)

帰路の途中、見覚えのある屋敷を見かけ、足を止める。
札には京極の名。あの女性――岡部桜子の居る屋敷に差し掛かったところであった。

(……)

多少の戸惑いと共に、明日の予定を吟味する。
鍛練が出来ないのなら、学を得る事に傾視すべきだろう。

視線で人を殺す事が出来るような、あの眼光を想起する。獅子吼に比肩するのではないかと思えるくらい、心胆寒からしめる鋭さだった。

(必要な事だ。おれの意志は関係ない)

心の憂鬱を闇夜に溶かして、雄飛は取るべき行動を決定するのだった。







岡部弾正伊頼綱公。
鎮守府を任されていた岡部頼綱は、足利護氏に匹敵する軍勢を有し、遂には弾正伊の官職に至った人物である。

幕府設立から今日に至るまで、六波羅は好き放題に民という肉を貪ってきたが、其れも岡部という枷が無ければ、骨の髄までしゃぶり尽くす事になっただろうと、民草ではもっぱら云われている。

詰る所、軍事力が物を言う大和において、岡部頼綱は六波羅にとっての“肉に刺さった棘”であり、民衆にとっては希望だった。
政権を確立してからというもの、富国強兵の後半部分にしか興味がない足利護氏に対し、民衆を想う――実際のところは定かではないが――岡部頼綱は度々、二十世紀の大政奉還もかくや、朝廷に政権を返上せよと勧告した。

言わずもがな、足利護氏並びに四公方が首を縦に振る筈もなく。故に、先日の反乱は起こるべくして起こったと云えよう。
発足当時は岡部を相手取る余裕もなく、横槍を入れてくる存在を疎ましく思いつつも軽々には事を動かせなかった六波羅幕府であったが、民衆から徴税の限りを尽くす六波羅と、民の生活を第一とした岡部の鎮守府では――対外的には幕府主権の組織であるが、実状は別個の軍閣であった――次第に戦力の差は歴然たるものとなるのは自明である。
滔々とうとう)六波羅と鎮守府の諍いは武力衝突という目に見える形で世に有象化される運びとなったのだった。

(ふう)

溜息一つ。
丸一日眠りこけ、昼餉を済ませた折、雄飛はかの姫君が住まう京極屋敷に足を運んでいた。今は血の気の引いた使用人に案内され、屋敷の縁側を歩いている途中である。
岡部頼綱の娘に面通しを求め、屋敷の使いに声を掛けた途端、辺りは騒然となった。
其の要因は明々白々、大鳥家当主が岡部の姫君に会いに来たのだ。堀越軍を指揮し岡部の乱を鎮圧した大鳥獅子吼、其の男が束ねる公方府の当主が、である。

岡部の反乱は六波羅の勝利で幕を閉じた。岡部の血を持つ者は一族郎党皆殺しにされ、唯一六波羅の刃から免れた――無論、意図的に――岡部桜子は、賊将の落としだね)として普陀楽に囲われ、京極家の預かりとなった、とは、先日あの目付け役の男から聞いた話である。彼が言うには、岡部桜子は、度重なる閣老らの諮問にも、忽然として口を閉ざしたままだという。

ではそもそも、何故六波羅は岡部の娘を黄泉へと送らず、普陀楽で飼い殺しているのか――大して政治を知らぬ雄飛でも、少し考えれば解る事である。つまり、桜子は餌なのだろう。
当主が敗れても尚、六波羅への憎悪を秘かに滾らせる岡部残党は無論の事、岡部の名に何の縁もない反幕府勢力にとっても、六波羅という巨悪に滅ばされた姫君という存在は、飾り神輿として実に華があり、何とも具合が良い。
要するに、六波羅は反幕府勢力の動向を探る餌として岡部桜子を普陀楽に置き、京極家に囲ったのだ。桜子を普陀楽という籠に閉じ込め、鳥を救わんと忍び込んだ鼠を捕獲、尋問し、最終的には大和に巣食う害虫を纏めて一網打尽するために。

「こ、此方になります」

足元覚束ない事この上ない使用人が、漸く屋敷の一室で歩みを止め、此方に振り返った。其の目は未だ、信じられない生き物を見たように訝しげである。

「失礼します」

既に話は通してある。そして相手に拒否権はない。作法もそこそこに、襖を開いた。

果たして、其処には予想通り、岡部桜子が居た。室内の奥に佇む見目麗しき姫君は、両の手を前に組み、恭しく頭を垂れている。
室内の空気は重い。雷蝶との立ち合いに引けを取らないくらいの圧迫感、とは流石に誇張に過ぎるかもしれないが、とにかく其れを引き合いに出すくらいには、胃に負担がかかる雰囲気である。

「……敗残の徒に、勝者が何の御用向きでしょう」

頭を下げたまま、桜子が憎々しげに吐き捨てた。全く以て其の通り。敗者は伏して語らず、其れが道理であろう。

「今日は大鳥家当主としてではなく、一人の人間として、貴方に会いに来ました」

口に出した途端、心中で唾を吐く。一体どの口がほざくのか。どうやら己の卑しさは留まるところを知らないらしい。

大鳥家当主でなくては、此処に足を踏み入れる権利も無ければ、面会を拒否する権利を桜子から奪う事も不可能なのだというのに。
逆賊の汚名を被った岡部は無論、上流階級の京極家とて、大鳥家当主の訪問を無碍に扱う事なぞ出来ようものか。地位を利用して敗者に鞭打つ――己の取った行為は、人の尊厳を無視した最低の行為であろう。

其れが判っていながら、大鳥家当主としての自分を忘れてくれと言うのだから救えない。

「虫の言い話だって事は分かってます。だけど、どうしても聞きたい事があるんです」

「…………。何を、で御座いましょう」

押し殺すような、か細い声。見れば、肩が震えている。
無論、怒りに依るものだ。鈍い雄飛でも、其れぐらいの観察眼はある。

「貴方の父は、何を想って六波羅に立ち向かったのか。そして六波羅を討った後は、どんな構想を練っていたのか、其れを教えて貰いたく」

「――ッ!」

用向きを述べた瞬間、桜子は顔を上げ、此方を睨み付けた。双眸を刃物と見紛う程鋭利にさせ、整った相貌もまた、険しく歪められている。

「……何故、そんな無体な真似をなさるのです」

親の仇、大鳥家。其の存在を前に、本来であれば桃色の花の様に艶やかであろう桜子の貌は、あらゆる憎悪を凝縮したかのように、醜く歪められている。
地母神カーリー)もかくや、桜子の憤怒の形相が肌を焼く。
許より彼女が己に抱くであろう感情の示唆は、初めて見た時から判っているつもりであった。
為ればこそ、彼女の小さな身体から放出されている迫力に圧されてはならないし、筋違いの同情による躊躇いで、二の足を踏むべきでもない。

「知る必要があるから、です」

極めて簡潔に答える。とどのつまり、そういう事だ。
六波羅を討つ事が民の平穏に繋がる――斯様な確信に基づいた反乱であったのであれば、何れ六波羅を討つかもしれぬ身としては、是非に其の含むところを知りたいのである。

果たして、かの岡部弾正は、六波羅の悪たる部分を何処に見受けたのか。そして、六波羅を討つ事で、大和の情勢をどのように変えたいと想ったのか。
また、仮に六波羅を打倒し得たとして、其の後如何なる法策を取るつもりであったのか。

六波羅の首脳陣を粗方殺し、岡部の鎮守府が六波羅に取って代わる。そして朝廷に政権を移し、議会を復活させ、嘗ての政治形態に戻る。
果たして、其れで万事上手くいくのだろうか。もし其の方法で大和に恒久的な平和が齎されるのであれば、いや、そうでなくとも――やはり己の目的のため、知る必要があるのだ。

「知る必要……? 何を言っているのですか……」

「……」

馬鹿正直に答える事は出来ない。まさか将来六波羅を討つかもしれないので、参考までに貴方の父親について教えて欲しいんです、などとは口が裂けても言える筈がないのだ。

「……私は敗者です」

無言を答弁の拒否と受け取ったのか、桜子はひとしきり此方を睨んだ。相してから、往々にして口にしたのは、厳然たる事実の吐露であった。

「敗者は何も語りません。其れが武家の倣いなれば……敗れた後の雄弁は無知の謗りを受けます」

「其れでも、おれは――」

「斯うして御足労頂いた事、誠に恐縮の極みですが、私の意志は今しがたお伝えした通りです。どうか御引取下さいまし」

矢継ぎ早に捲し立てた桜子は、拒絶の意志を身を以て顕さんと、此方から背を向けた。
彼女の想いを推し量る事は容易だった。岡部の名を汚すまいと、虜囚の身に甘んじながらも、一人孤独な戦いを続けるつもりなのだ。

「――貴方の想いも、武家の矜持も関係ない。知った事じゃない。おれには知る必要がある」

「……帰って」

「貴方だって六波羅に思うところはある筈だ。唯坐して死を待つよりも、貴方の意志を、岡部頼綱の意志を余所に知らしめるほうが有意義じゃないんですか」

「帰って下さいっ!」







あの後、半ば女性特有の昂奮状態ヒステリック)になった桜子は、どう説得しようが依然として態度を変えなかった。
彼女の涙を尻目に、恥を捨てて、また来る旨を言い残してから京極家の門を潜った先には、一人の少女が所在無さげに佇立ちょりつ)していた。

「あは、ほんとに此処に居たとは。噂通り常識知らずの御人のようだ」

此方に気付いた少女は、当人には悪気はないようだが、軽く悪態をついた。
見覚えのない待ち人に怪訝な視線を送ったところ、人懐っこい笑顔を称えた少女はぺこりとお辞儀をする。

「これは失礼。遊佐童心様の小姓を務める、義清と申します」

義清。俄かには信じがたいが、彼女は男らしい。

「大鳥雄飛様、入道様がお呼びです。どうか御足労願います」

予想だにしない註文が小姓の小さな口から飛び出した。
どうやら、まだ今日という日は終わらないらしい。



[35897] 捨陸話 破戒
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/07/11 08:45
破戒



男とは思えぬ程華奢な小姓の背を標に、雄飛は城内を移動していた。
大鳥家当主という地位にある雄飛の自室が最上階近くにあるという事は、“目的地”もまた同階付近にあるのは明白であった。必然、斯うして螺旋の如き階段を幾度となく上がる作業を要求される運びとなる。
角度の険しい木造の大階段を、遮二無二上り続ける。此の際、雄飛は一段一段腰に意識しながら足を運ぶ事を心掛けていた。
というのも、平素に生きた嘗ての己ならば弱音の一つも吐いただろう億劫な移動であったが、此れも鍛練の一種と思えばそう悪い事ではなかったからである。

(ほんと、趣味わりいな)

辟易を込めた溜息を吐きつつ、そんな事を思う。
全く以て、普陀楽城は市民が抱く六波羅への固定観念を其の侭体現している造りであった。
金箔で拵われた天守閣を筆頭に、豪奢な屋敷群、潤沢な資金の基建造された数多の砲台など、貧窮に喘ぐ市民の神経を逆撫でする要因には事欠かない普陀楽城である。
そして此の本丸の在り方も、其れに一役担っているようなのだ。

雄飛は昔忠保から借りた戦国小説の描写を思い起こした。
其の内容によると、通常、本城の上階は生活の場ではないらしい。
上階は飽く迄武器や兵糧の貯蔵庫、見張り台を兼ねたものであり、天守閣も来賓に威光を示すための謁見の場に過ぎないのだ。
つまり、城内に住まう人間の生活の場は周囲に建てられた数階建ての御殿であり、当然移動は苦にならないのである。

だが、此処普陀楽城において、其の常識は当て嵌まらない。何故なら、六波羅軍における階級の位と居住区の階層は比例するのだ。
竜軍将並びに筆頭家中、四公方、大将領と、本丸は上に行く程重鎮が居を構える造りとなっているのだった。

下々の者を上階から支配するという精神の顕れなのだろうか。
または食物連鎖を体現しているつもりなのか。
どちらにせよ、悪趣味な城である。

斯様な仕儀では、若い者は兎も角、位の高い老中らは移動に難儀しそうなものである。
が、其の問題を払拭する画期的な発明があった。

自動昇降機エレベータ)である。
二十年前に欧州より渡来してきた自動昇降機エレベータ)。実際、雄飛が目にしたのは初めての事であった。
何しろ、十年程前から始まった政策――戦時中における兵器製造の資源確保――で大和中の鉄製機械は政府に徴収されたのである。
更に六年前の六波羅幕府設立によって一層其の政策に拍車がかかり、徴収は略奪に姿を変えた。多分に漏れず、俄かに浸透しつつあった自動昇降機エレベータ)は軒並み大和から消滅してしまったのだった。

にも関わらず、普陀楽城本丸では自動昇降機エレベータ)が一基設置されていた。
一基というのは六波羅らしくない慎ましさではないか――と思うも、其れは早計であろうか。なにせ、十階越えの自動昇降機エレベータ)なぞ雄飛は聞いた事がないのだ。建造費がどれだけ掛かるのか予想もつかない。

兎にも角にも、本丸には自動昇降機エレベータ)がある。では何故、二人は斯様な原始的移動手段を用いているのか――答えは単純明快であった。

実の処、自動昇降機エレベータ)の使用は大将領、四公方ら及び筆頭家中に限られるのだ。公に規則がある訳ではない。だが、其れは暗黙の了解として六波羅内部に浸透している。
雄飛が自動昇降機エレベータ)に搭乗したのは、初日、獅子吼と共に天守閣へ赴いた時の一度のみ。其れから現在に至るまで、移動には階段を用いてきた。
無論、曲りなりとも大鳥家当主なのだから、自動昇降機エレベータ)の使用を咎める者はいないだろう。だが、如何に六波羅の政治社会に入って日が浅い雄飛とて、自分が何の実績もない飾り神輿である事は自覚していた。
一々気を憚る必要はないとも思うが、やはり今後己の地位を利用する可能性がある以上、他の家中に要らぬ反感を持たれる危険を冒す気にはなれなかったのである。

そして、そういった不明瞭な問い――つまりは六波羅内における己の評価――への答えが今、下されていたのだった。
現状が明白に語っている。雄飛を連れた小姓は迷う事なく階段を選択した。軍部内の地位はともかく、同じ当主である遊佐同心が雄飛を呼び寄せた事からも明らかである。
突如現れた何の実績もない小僧が四公方に筆頭する地位を得た事に対し、分を弁えろと念押しをしているのだろう。或いは先日の今川雷蝶の行動も、そういった思惑があったのかもしれない。

(……なんか深読みばっかして嫌になってきたな)

気が付けば五階にたどり着いた頃であった。
元来淡泊な気質の雄飛にとって、どうにも鬱蒼たる政治社会の思考は性に合わない。
そこで、気分転換と情報収集の意味も込めて、前の階段を行く小姓に話しかける事にする。

「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」

小姓――義清といったか――は先程の態度とは打って変わって黙々と歩みを進めていたが、踊り場に差し掛かったところで声を掛けると、其れに応じて足を止め、此方へ向き直った。

「僕で答えられる事でしたらなんなりと」

小姓は綽々しゃくしゃく)と頭を下げた。
二つ結びツインテール)の結び目に括られたひょうたんが二つ、僅かに揺れる。

「遊佐童心……殿、はどんな人なんだ?」

「……ふふっ、何をお尋ねになるかと思えば。答えなんて一つしかないのに。勿論、素晴らしい御方です、当たり前じゃないですか」

面を上げ、軽く含み笑いを漏らした義清の双眸に、雄飛は何か嫌な物を感じ取った。
澄んでいるように見える翠色の目の奥に、狂信、盲信の気配が滲んでいるのは気のせいだろうか。

「……例えば?」

「うーん、口頭では説明し尽くせませんねぇ」

顎に人差し指を当て、可愛らしく頭を傾ける義清の姿は、如何ともしがたい艶めかしさを醸し出している。だが、男である。

「……あっ、そうだ!」

暫く唸っていた義清であったが、急にぽんと手を叩くと、あどけなさの残る顔の上に、今日一番の華を咲かした。

「雄飛様。宜しければ今夜御一緒しませんか?」

「は?」

理解出来ない言葉に口が開いたままになってしまう。

「うん。そうだ、それが良い。何事も体験してみるのが一番っていうし……」

「……あのさ、話が見えないんだけど」

「ああ、御心配なさらずとも大丈夫です。入道様は外見通りとてもお優しい御人なんですよ? 昨晩なんか、行き成り入れるのは辛いだろうって、僕の)「断固遠慮させてもらいます!」……そうですか、残念だなぁ」





(鬼丸)

義清なる小姓には今後一切関わってはならぬ。
そう本能で察した雄飛は早々に話を打ち切り、再び階段を上り始めた。
其の道中、予め探索させていた相棒に思念を飛ばす。

<<うむ。真打ノ反応一騎有。隠行能力が極端に低いのか、端から隠れる心算がないのかは判らぬが、微動だにせず襖の奥で腕を撫しておった>>

(やっぱりか……)

四公方及び大将領が専用の劔冑を保有している事は簡単に予測がついていた。
GHQの劔冑狩り以降、大和における真打は根こそぎ進駐軍に奪われた。
だが、やはり六波羅は真打劔冑を残しておいたのだろう。或いは軍内部における一定の階級層にのみ真打劔冑の保有が免除されているのかもしれない。

<<……あの亀、若造であるが故に侮れん。吾は文字通り箱入り虫であった故に銘は鑑れぬが、鋼の堅牢さは吾に通ずる物があったな>>

(……亀? 真打劔冑って虫限定じゃないのか?)

唐突に浮かんだ疑問を投げかける。思えば、劔冑に関しての勉学は怠っていた。

<<其れは甚だ誤解である。犬、馬、猿、劔冑の形態は千差万別であるぞ。寧ろ劔冑が虫の形態を成す事例こそ稀である。
何故なら、虫を独立形態とする劔冑は真打の中でも更に能力が高い劔冑であるという一種の共通点があるからだ。無論、源氏の至宝、髭切や膝丸など、幾らでも例外はあるがな>>

(……ん)

<<端的に言えば、虫形態の劔冑は必ず強く、弱い虫などといった例外はない。そして他の形態は能力が雑然としている>>

(あー、そういう事か。なんか急にわかりやすくなったな)

<<故に虫形態を獲得したという事は鍛冶師にとって誉れであり、業の証明でもある。武の極みが虫である、というのは鍛冶師達がよく唱える噺だ。
……考えてもみよ。虫が動物と同じ大きさであったのなら、どちらが食物連鎖の上にいるかは明白であろう>>

(成程な)

<<虫形態の劔冑は剛健で強靭。覚えておいて損はない>>

(……)

ふと、此方の問いに完璧に答えてくれた鬼丸の姿を想像する。
教鞭にて、漫画化デフォルメ)された鍬形虫が足を器用に使って指示棒を振るい、虫の偉大さを熱弁する光景を――。

<<……言っておくがこれは自画自賛ではない。劔冑鍛冶における唯の事実だ>>

はたと、咎めるような気配の声で我に返る。

(……いや、何も言ってねえって)

<<斯うして連結している以上、御堂の事は頭から爪先まで感知、把握しているのだ。口に出さずとも言わんとする事は百も承知である>>

他の手合いはどうかわからんが、と独りごちてから、鬼丸は話を続ける。

<<そも、劔冑の独立形態構築における型の多様性には確固たる理由がある>>

(理由?)

<<簡単な事である。鍛冶師が心鉄しんがね)に何を込めたか――其れが其のままかたち)になるのだ。鍛冶師が邪な想念を動機に鉄を打てば蛾、若しくは蛇にでも成るだろう>>

尤も宗派や鍛造法も影響するので、必ずしも劔冑の形態のみで生前の人柄を判断出来るとは限らないらしいが、一種の指標にはなるとの事である。
成程、忌わしき鈴川が纏う劔冑は害虫、百足ムカデ)であった。鬼丸の説、一理あるのではないだろうか。

(じゃあ鬼丸は?)

鍬形。悪い印象が無いどころか、甲虫カブトムシ)と並び、子供に大人気の虫である。
為らば鬼丸の込めた想念もまた、其の威風堂々たる姿に通ずるものなのだろうか――。

<<吾の事はどうでもよい>>

而して、思いの外期待を込めて投げ掛けた質問は、一言で流されてしまった。

(……おれの内心は筒抜けなのに、鬼丸にだけ私事の自由プライバシー)があるってのは、なんか釈然としないな)

<<得てして世は不条理なものだ。……そういえば先日書籍で知ったのだが、欧州には“うぃりあむてる”という珍妙な劔冑もあるらしい。なんでも琵琶を演奏する事で装甲するとか。
……むぅ、其れにしても楽器に相成ったとは、全く以て正気の沙汰ではないな>>

そもそも独立稼働形態が琵琶とは此れ如何に、矛盾にも程がある、としきりに呟いてから、鬼丸は咳払いを一つ。

<<……話が逸れたな。つまり何を言いたいのかといえば、相手の劔冑が虫でないからといって決して油断するな、虫ならば一層警戒せよ、という事だ>>

(了解)

雄飛は鬼丸の忠告をしかと噛み締めた。油断なぞ出来る筈もないが、心に留めておくべきであろう。
虫の劔冑。思い起こせば、あの真改という劔冑はやはり天下一名物だったのだろう。
なにせあの強大無比な陰義によって――返す返すも口惜しい――己は惨めに敗れたのだから――。

<<液体操作か。南北朝の動乱においてから、操作系の陰義を持つ輩は存在していたようであるな。例えば、備後の正家は凍気、相模の広光は気圧を操作したと謂われている。だが……>>

<<両者とも直接刃を重ねた経験はないが、流石にあれ程常識はずれの陰義ではない筈だ。
……何か理由があるのか、其れとも最近の若者は皆“ああ”なのか定かではないが、亀の陰義についても真改と同等の威力を持つと想定しておくべきであるな>>

「南北朝……銀星号アイツ)が造られた時代か」

あの襲撃から九日。魔王に関する新たな情報があった。

――銀星号の銘は千子右衛門尉村正であると。

曰く。南北朝を地獄へ変貌させた妖甲。
曰く。敵味方選ばず殺し尽す狂甲。

村正

血液が沸騰する。眼球が充血し、奥歯ががちりと噛み合う。
忘れはしない。あの流星の陽光を。あの蠱惑な銀の光芒を。

<<……御堂。心事は察するが、猛る時は今ではない。ある程度感情を抑える術を身に付けなければ、いざ鉄火場に身を置いた際何も見えなくなる可能性がある……留意しておくべきであるな>>

「……ああ、そうだな」

最早呪いの類だろう。脳裏に染みついた激情は、機を選ばず再熱して已まない。
雄飛は抑えがたい衝動を、胸を抉るように握る事で何とか押さえつけた。

「どうしました? ご気分が優れないようですが」

此方の顔色を窺う小姓に気付き、軽く頭を振ってから応える。

「いや、なんでもない。……此処が」

「ええ、入道様の執務室です」





小姓が襖を開けたと同時に、煙の匂いが鼻についた。
部屋に入りてついと見やれば。光焔万丈こうえんばんじょう)な屏風を飾った床の間を背に、肘掛けに右腕を預け、座布団を尻に敷いた翁が一人、悠々自適に煙管キセル)を吹かしていた。

「おお、これはこれは! 待っており申した!」

黄金の袈裟を着込んだ其の翁は、勢いよく煙を吐き出してから、快活な声でそう言った。
右手の欄間から零れる陽の光に、紫煙の渦が混ざり合う。

剃り上がった頭に、角ばった顎と眉骨。一見すると温和な坊主といった風体であるが、其の半ば閉じられた細目の奥に、諸悪の晦冥かいめい)が潜んでいる事を雄飛は知っている。

町民にとって、四公方の評判は御世辞にも宜しくない。
一部の特権階級を集めて文化芸能に精を出す今川雷蝶、黒い噂がついて回る足利茶々丸、冷酷無比に町を滅ぼす大鳥獅子吼。
そして――目の前に居る婆娑羅公方。

雄飛は対面の座布団を勧められ、床に腰を落とした。

「いやいや、態々呼びつけてしまって申し訳ないのゥ。此処は鎌倉で御天道様に最も近う場所なれば、あの糞長い階段を上るのはさぞかし骨が折れたであろうに。いや、重ねて済まなんだわ」

煙管の腹でぺしりと額を叩きながら、神妙に畳に目を落とす婆娑羅公方。其の所作は何処か大仰めいていて、実に胡散臭い。

「なあに、御心配めされるな。帰りは自動昇降機エレベータ)で一瞬よ。行きはつらいが帰りはよいよい、とな。ふわっはっはっは!」

「……」

雄飛は我知らず顔を顰めた。
あの日、初めて対面した時から感じていた。やはり――癪に障る。
業を抜きにすれば尊敬すべき武人である雷蝶、獅子吼に比べて、どうにも此の遊佐童心を視界に入れると嫌悪感が募った。
水と油が相容れぬように。どうやら童心と己は前世から折り合いが悪いようである――。
何気なくそう思った雄飛は、早くも退出したい心持ちになった。

「さてさて、改めて御挨拶しておこうかのう。それがし、四公方が一、遊佐惟盛これもり)入道童心と申す。禿坊主でも官兵衛とでも、好きに呼んでもらって構いませぬぞ?」

「大鳥雄飛です、遊佐童心殿」

改めて部屋を見渡す。思いの外、此処は僧院の一室のように飾り気がなかった。
装飾品といえば、床脇の棚に飾られた仏像と茶碗に、床の間の屏風ぐらいである。
何時の間にか義清は退出しているようであり、此の付近には仕手と劔冑が二組在るのみ。

「雄飛殿。普陀楽での生活にはもう慣れたかな?」

「……ええ、まあ」

「なんでも日夜鍛練に明け暮れているとか。いや、天晴天晴! 亡き時治殿もさぞかし鼻が高かろうて!」

「……あの。早く本題に入って欲しいんですけど」

世間話に興味なぞない。雄飛は軽く苛立ちながら、目の前で豪快に笑っている童心にそう促した。

「いやなに、御足労願った手前憚られるが、特に用向きがある訳ではござらんのよ。しいて言えば……そうさな、交友を深めるため、とでも言っておこうかのゥ!」

「……」

(鬼丸)

<<……>>

(殴っても問題ないよな?)

<<吾の顎で縊り殺されるよりは良いだろうな>>

「すみませんけど、此れでも割と忙しいんで。失礼します」

肩透かしを食らったのか。馬鹿馬鹿しい。時間の無駄、愚の骨頂である。
最早此れ以上無為な時間を過ごすまいと、雄飛は座布団を蹴って踵を返した。其処へ――。

「殿への問い。いや、実に興味深いものであった」

ふいに投げ掛けられた声に、思わず足を止める。

「雄飛殿、何ゆえ)悪を憎む? 性善ゆえ)か、其れとも経験によるものかな?」

背を向けたまま応答する。答えなぞ、一事に尽きる。

「……“悪は理不尽を強いる”。其れが許せないし、そんな道理は認められない」

「ほゥ。いかにもいかにも。唐天竺まで探しても斯様な道理はござらん。悪、討たれるべし。いや、お主の言う通りでござるなァ」

予想だにしない童心の言葉が雄飛の鼓膜を揺らす。

「先日の問い。不肖ながら殿に代わって、此の童心坊めが答えて進ぜよう。おう、六波羅はまっこと悪の棟梁よ!」

「何を……」

此の坊主は、一体何を言っているのか。そんな雄飛の内心を知ってか知らずか、童心は殊更に挑発の言を弄す。

「民草から禄を奪い! 好き放題に命を散らす! 斯くいう儂も、老若男女関係なしに殺しまくったわ! まず極楽浄土には逝けぬ身じゃな、はぁっはっはっはっは!!」

下卑た大声が背をなぞる。最早辛抱溜まらず、雄飛は般若の態で振り返った。
卑俗極まった童心の眼が瞳に映り。其の相貌に、神経が逆撫でに成った。
無意識に鬼丸を呼ぶ。此の坊主。道理を承知の上で、糞喰らえだと言いたいのか――!

「許せぬか?」

「許せない」

「悪を憎むか?」

「憎む」

「ふっふ……。では雄飛殿。“其の劔冑”で儂を殺すかな? 其れとも殿を暗殺するかの?」

「――――」

粘つくような視線を覚える。海千山千の気配。此の化生に、小細工は通用しないようだ。
途端、童心はがばりと立ち上がると、仁王の体躯を大字に広げて、阿吽の如く声を荒げた。

「ほぅれ、此処に悪の大官がおるぞ!! 如何いかが)する!!」

<<御堂>>

鬼丸から発せられた電気信号こえ)が心を揺さ振る。
血潮滾る此の身体に浮かされたのか、其れとも生前故なのか――雄飛は鬼丸の激情を感じ取った。
恐らく鶴の一声で、鬼丸は其の大顎を遊佐童心の胴体に食い込ませるであろう。

だが――。

(……駄目だ)

雄飛は内心で頭を振った。
脳の判断に、身体の熱が退いていく。

<<……是非も無し>>

不承不承ふしょうぶしょう)ではあるが、鬼丸も心胆の矛を収めた。
行動の無意味については、鬼丸とて理解している筈だろう。寧ろ、普段は理路整然としているにも関わらず、此処まで感情を高ぶらせた事こそ珍しい。

「六波羅は悪、そんな事は解ってる」

尚も此方の動向を観察している童心へ、雄飛は真っ向から視線を衝突させた。

「ほゥほゥ」

「見極めるんだ。何が最善なのか」

「其れは問題を先延ばしにしているだけではないかのゥ? 行動に起こす勇がないから、其の言葉に逃げておるのではないか?」

「どっちにしろ、今アンタを討ったところでどうにもならない」

「…………」

暫し双眸睨み合わせたまま、互いの腹を探り合う。無論、相手が何枚も上手であろうが、せめて意気で負ける訳にはいかぬのだ。

「ふぅふぅ。いや、少し見くびっておったかな」

やおら息を吐いて、童心は顎をさすった。

「義憤でなく大義。情でなく理で動かんとしているか。……だが徹底できてはいない様子」

「……!」

はたと、雄飛の心臓がざわめいた。老獪なる童心の観察眼に、内面の奥深くまで見透かされているような錯覚を覚える。
決して悟られまいと心身を落ち着ける。相していると、童心は床脇から茶碗を一つ取り出していた。

「銘を不二山と申す。聞いた事はござろう?」

立ったまま、ずいと差し出された童心の右手の腹には、古めかしい茶碗が載せられている。

「……いえ、生憎と」

気の無い返事を返したものの、肌が栗立つのは隠しようがない。
骨董品に造詣の無い雄飛でさえも、其の見事さには心を掴まれてしまった。

不二山なる茶碗は、下半分が焦茶色、上半分が柑子色に染め上げられていた。
多少色合いが歪なれども、其れが深い味わいを醸し出している。

「本阿弥光悦作の白樂茶碗でござる。大名物の中でも至極の一品でのゥ、無理を押して儂の茶器にと寄越させたのよ。本来なら然るべき場で披露するのが道理であろうが、若者に茶道はちと窮屈よな」

呵呵かか)と笑い、童心は骨ばった左掌で茶碗を擦った。

「此の世は二色で判別出来る。多少境目が曖昧なれども、結局はどちらか一方。悪は悪。善は善。万物全て二者択一かな)

説法めいた口調で弁じた童心は、白樂茶碗を棚に戻して、床の間に飾ってある屏風を指差す。
あか)あお)。二対の鯉が描かれた屏風であった。

「此の屏風もそうじゃ。一見すると仲良う泳いでおるが、其の実、絶対に交わる事はない。……なんせどちらも雄じゃからのゥ! ふわっはっはっ!」

しきりに破顔させた後。やにわに童心の表情が謹厳きんげん) なる造りに変わる。

「雄飛殿」

「…………」

「悪を許せぬのであれば、何も悩む必要はござらん。感情で動くからこそ、人は人の領分で留まる事が出来る。そして何より……」

溜めてから、にたりと嗤う。婆娑羅を体現するかのように、愉しげに。



「――其の方が面白かろう?」







「困ったのゥ。此処で襲い掛かってくれれば万々歳であったのじゃが」

無言のまま去った大鳥雄飛を想いながら、遊佐童心は目を眇めた。

「入道様、あの者は危険です。早々に始末しておいたほうが……」

立場を憚ってか、控えめに申す義清。

「そういう訳にもいかんのよ。張り子とはいえ、大鳥家当主であるからなァ」

童心は手に持った扇子でぽんと頭を打った。

「かといって此の“欲求”は成就させたいところであるし、獅子吼殿に追い打ちをかけることも出来て一石二鳥。
ふむ……何か趣向を凝らした催しでもするか……其れともいっそ、目の前で赤ん坊でも引き裂いてみようかのゥ……。
大義のみでは趣に欠ける。情念をも含めて刃向かってもらわねば、婆娑羅の相手に似つかわしくないゆえ)

「入道様……」

「いや、すまんなァ。此ればっかりは、性分でござる」

義清の案ずる声も、“げに面白き”を見付けた童心の心を溶かす事は叶わない。

「む。そうそう、赤ん坊といえば……そろそろだったかの?」

「はい、入道様! もう臨月も真近です!」

「いや、実に目出度き事よなァ。……さて、どうしたものやら」

困った態で、またしても愉しげに嗤う遊佐童心であった。





※劔冑に関する設定は独自考察です。



[35897] 捨柒話 深紅
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/08/10 09:38
深紅



< 鎌倉市 上空 >

夕刻。学童は家路に着き、村の喧噪も漸く鳴りを潜めだした頃。
鎌倉の茜空に飛翔する凶星が二つ在りせば。まば)らに居残った村人は、揃って空を見上げるのが道理であろう。

彼らの視線の先――其処には冬鳥すら辿り付けぬ高度であま)駆ける、紅と翠の鉄塊があった。
大気を震わし轟く筒音、現世の物とは思えぬ程で、俄かに地表の草木が揺れる。
合当理と呼称される噴流生成機構ジェットエンジン)の噴煙が、空に双輪ふたわ)の軌跡を残す。
其れこそが為虎添翼いこてんよく)の古来兵器、剱冑によるいくさ)情景であった。

すい)色の剱冑。
青江派独特の特徴である黒斑の合当理に、板目肌の地鉄じがね)が夕陽に映える。
前立ての形状は夢魔インキュバス)を想わせる羊角であり、兜前面部の彫り込みは口端が吊り上った面を相している。
ニッカリと笑う奇怪な緑顔――余りにも特徴的な肩部甲鉄は魑魅魍魎をも上回る怖気さで、悪霊もかくやの妖しさであった。

備中国青江で興った青江一門の歴史は平安時代末期にまで遡る。
康次、恒次と、名うての剱冑鍛冶師を輩出した青江派は瞬く間に脚光を浴び、遂には後鳥羽院に剱冑を納めるに至った。
備中の剱冑に勝る物無しとまで謳われた青江派であったが、南北朝時代を迎えた途端に没落の一途を辿り、後世青江の名は禁忌される事となってしまう。
青江一門の末弟。格式高い鍛冶衆らの歴史に泥を塗った妖甲――其の銘を、貞次という。

対するは、紅色の剱冑。
重拡装甲おうぎづくり)の甲鉄が、茜に染まった穹窿きゅうりゅう)に溶け込んでいる。
柾目肌まさめはだ)の各部甲鉄。前立てと胸板に乗せられた刺刺しい角。
単発火箭推進の合当理に接合された八本の後進翼が、蜘蛛のようにざわりと蠢く。

淡く煌く白刃が、颯の如き速度で翠を斬り裂いた。
一合に勝った余韻に浸らず、深紅の鬼は速やかに旋回、高度確保に移る。
其の旋回性の高さはまさに疾風迅雷であり、美濃関鍛冶衆の系統である事が窺えよう。
ともすれば、次の一合も紅色の剱冑が高度優位を保てる事は自明であった。


双輪懸の開始から青江を圧倒し続けている剱冑の銘こそ――千子村正三世。善悪相殺の呪縛を持つ、血塗られた剱冑である。
村正の仕手、湊斗景明は逸早く上昇を終えると、未だ体勢維持に悪戦苦闘している青江を照準レティクル)に捉えた。

「馳走する」

景明は合当理に意識を集中させた。体内に保有する熱量が背部に送熱されてゆく。
合当理の吸気口が空気を取り込み、圧縮、燃焼。甲高い響きと共に排気口から青白い酸素が噴射され、其の反作用により爆発的な推進力を得る。
一条に加速降下、軽く胸腔が圧搾され視界が狭まり、風が固くなるのを甲鉄はだ)で感じる。
敵影との逢瀬は三秒後――つまりは充分。即座、全熱量を身体強化へ充てる。

一牛鳴地いちぎゅうめいち)にて斬り結ぶ。

共振ドップラー)効果に依るものか。交わった轟音が一瞬で雲散する。
振り向いて確かめるまでもない。両腕の感触が、己の勝利を明確に伝えていた。

<<奇襲は一撃を以て達成すべし。殺人鬼にも来世があるのなら、覚えておいた方が良い>>

土台有り得ぬだろうがな、と独りごちて、景明は刀身に乗った青江の血潮を振るいはらった。
最早相手は死に態である。後二、三撃も加えれば、確実に墜落おち)るだろう。

――斯うして青江の肉体に刃を食い込ませるに至った経緯。其の背景には、一人の立役者が居た。

<<ぬゥっ……かせェェェ!!>>

報道記者ジャーナリスト)、時田光男である。
彼は圧制者への憤りを胸に秘めた、絵に描いたような高潔漢であった。
法に縛れぬ者どもの悪行を白日の下に晒し、民衆に真実を報せる。失意に浸かった大和民に一抹の希望を届け、勇気の灯を燈す。
其れがやがて、圧制を打ち砕く力となるのだと――時田は報道記者として、巨悪に立ち向かう男だった。

<<既に太刀筋は読めている。女子供のみを狙う刃では、一生掛けても俺には当たらぬ>>

ペン)は剣よりも強し。其の信念を胸に時田は行動した。
弱きを助け強きを挫く紅い武者――鎌倉市を中心として流布していた其の噂を調べ上げたのだ。
時田は朧げな風聞を繋ぎあわせ、遂には紅い武者の正体に辿り着いた。
そして、彼は圧制者に挑む一個人、英雄の存在についての報道を景明に熱望したのだった。

<<ええ、御堂の言う通りよ! ……この青江一門の面汚し! 貴方みたいななまくら)が、私の甲鉄はだ)を傷つけられるとは思わないで!>>

出鱈目である。皮肉である。死者への冒涜である。
無辜の民を己の都合で殺して廻る悪鬼を、大和の人々は英雄と触れ歩いている。
――諧謔かいぎゃく)的な話であった。嫌悪感で噎せ返る程に悪辣な噂であった。
無知こそが罪、ソクラテスの言葉である。だが今となっては、景明は其の言葉に同意しかねた。
真なる罪は――人々を謀り誤った知を授けた者にこそあろう、と。

<<吼ォえたなぁ、村正ァァ!!>>

時田は報道の許可を得られないと知ると、またしても勘違いをした。
人々を守る英雄は、犠牲を疎むからこそ一人で決起したのだと。故に、時田自分)の危険を憂い、協力を拒否したのだと。そうではない。根本が間違っているのだ。
自身の覚悟を示すつもりだったのか、時田は危険を顧みず景明を襲った剱冑を調べ上げた。
其の代償に利き腕を失った彼の尽力により、湊斗景明を襲撃した謎の武者――神出鬼没であった青江の所在が判明したのだ。
仕手を惑わし、殺人衝動に耽る剱冑――青江は村正に負けず劣らずの妖甲であった。余程馬が合ったのだろう。今回の青江は、仕手と完全に融合していた。

「何時までも寄生体ヘイタイアリ)を生かしておく趣味はない。……そろそろ決めるぞ、村正」

快楽殺人者と殺人趣向剱冑。彼らの存在は、鎌倉市民に眠れぬ夜を齎している。
だが、湊斗景明が斯うして刃を振るう理由は、青江が町民を襲うからではない。
景明は警察署属員、つまりは公僕である。故に殺戮を以て殺戮を止めるなぞ――職務として正しくあろう筈もなかった。
警察に属する者が犯罪者に対処する方法は、法の裁きを受けさせるため捕縛する事なのだ。
警察官は司法の忠実な手足と成らなくてはならない。一存で罪を測り裁きを下し、あまつさえ殺害するなど、道義に反して余りある。

<<諒解、さっさと終わりにしましょう>>

例え相手が救い難い悪人であろうと。
断じて。個人の意思で成して良い所業ではない。

<<…………? ちょっとまって、まさか……>>

村正の焦燥の色が金打声に乗せられ、景明の蝸牛をくすぐ)る。

<<――敵騎から極度の熱源反応! 御堂!>>

「――陰義かッ」

喉がひりつき、冷雨が脊髄を刺す。
腐っても鯛という事か。真打の中でも限られた名甲のみが備える理外の業を、ニッカリもまた保有しているのだ。
景明は村正の操縦画面コクピット)中央に収められた翠の剱冑を注視した。
相対している青江の輪郭がぶれ、徐々に其れを取り巻く空間が余光の中に浮かんでゆく。

<< )! 阿! 阿阿阿阿阿阿!!>>

奇怪な笑い声を契機に、青江の鋼鉄からだ)が禍々しく脈動した。
瞬間。吊り上ったニッカリのかお)が、此方へ津波の様に押し寄せてくる――!

「――――何!?」

底知れぬ深淵。暗夜の陽炎が網膜に映る。
其れは亡者の群れであった。
或る者は眼球が零れ落ち、視神経のようなモノでぶら下げている。
また或る者は首が無く、或る者は四肢が無い。

怨嗟のやじり)が耳を打つ。殺意の奔流が鋭利な毒針となって体内を駆け巡り、神経という神経に楔を刺し込む。
憎悪を凝り固めたような形相で一斉に此方を糾弾する亡魂らは、皆湊斗景明の手によって殺められた人々であった。

(……成程、幻惑の能力か)

正当な主張である。正当な復讐である。彼らの声を傾聴する事に異論を挟む余地は無い。
だが、口惜しくも今は其の時ではないのだ――。
悪逆非道の行いである事を自覚しつつ、景明は丹田に力を込め、息を吐き出した。

「――はあッ!」

瞬時、降りた帳の幕が上がる。
気付けば首元に迫っていた青江の刃に――身体に染み付いた鍛練の成果か――脊髄反射で刃筋を寝かせた。
刃金が交差、摩擦によって眼前で火花が散る。棟から物打まで数瞬滑らし、完璧な機で村正の剛力を発露、剱冑ごと敵騎の刀を弾き飛ばす。
景明は剣技舞踏ブレイドアーツ)を以て剣撃を受け流し、再び戦事いくさごと)に身を委ねた。

<<ぐゥゥ!! 何故だァァ!?!? この悪夢をォ!! 微塵も意に介さぬなどォ!! 有り得ないィィィ!!!>>

<<毎夜毎夜、此の光景を飽きる程観ている。今更動揺する筈がない>>

横転ロール)し、対手を視界に入れ直す。
策を功せず忿懣ふんまん)やるかたない青江は上空に位置していた。

此の幕始まって以来の高度劣勢であるが、手妻はある。
闘牛型ツキウシ)の流れを観てとり、景明は迷う事なく下段に構えた。今回もまた、相手は執拗に武者上段を取り続けているのみ。
上段の青江は此方の下に抜けつつ刀を振り下ろす筈。当然、下段の景明は其の背に抜けつつ斬り上げる。
つまりは、剣速と見切りの妙が勝敗を決定付けるのだ。曲りなりとも吉野御流に心得のある景明が負ける道理は無い。

正面相対エンゲージ)。気流を遡りながら上昇、徐々に大きな図形になりつつある照準に目を眇める。
すると――。

<<御堂! またあの気色悪い笑みがくる!>>

「……? 確かに効かぬと言った筈だが」

何故か青江は構えを解き、再び剱冑を脈動させた。

(己の技に殉ずるつもりか……?)

<<<<阿ッ! 阿阿ッ! 阿阿阿阿阿阿ッ!!>>

再び奇怪な笑い声が虚空を踊る。
呪句コマンド)の詠唱により、先程の光景が再現される――。

「――ッ!?」

<<はははははァ! 凍て付く地獄に耐えられるともォ! 此の温もりには抗えまァァいィィ!!>>

……映し出された幻影は先の煉獄ではなく、或る女性の姿だった。
続いて、騒がしくも暖かな嘗ての記憶が脳髄を染め上げてゆく。

(……っ、スバル)様……)

悪鬼に堕ちた湊斗景明にとって唯一の篝火。
喪った日々への慕情が月灯明に薄く差し込み、心地良い波音を奏でる。

<<悪鬼の名は、我がニッカリにこそ相応しいィィ!! 死ィッねェェェ!!>>

――否。

<<げっ……ぐがっ……!?>>

吐き気を催す自己嫌悪を糧に、妄念を振り払う。
己の醜さを突き付けられただけだ。悪の性根を曝け出されただけだ。
此れは断じて安らぎではない。況して、鬼にそんな物が必要であろうものか。

重度の障害を患った女学生を殺した。
疑う事を知らぬ無垢な娘を二人殺した。
兄をひたむきに想う女性を殺した。

他にも大勢の人間を血沼に沈めたのだ。彼らには何の罪も無かった。
善良なる人々を、都合を免罪符に殺す。仕方がない事だと己に言い聞かせ、矮小な心を保つ。彼らには後悔する暇も与えなかったというのに。

<<貴様が魅せた安らぎは……俺が此の手で斬ったものだ! 俺が此の手で殺したものだ!>>

悪鬼の所業である。断罪されるべき行状である。
そして、何より。忌むべき悪鬼は――“親殺し”という畜生の咎を以て産声を上げたのだ――!

<<安息に眠る権利など、俺には無い!!>>

激情に身を委ねる。殺戮の恥辱を開始する。
青江に突き刺した刀を抜き、最上段に構え直す。
瞬時、景明は体内の熱量を絞り込んだ。熱を呼び水に電気を生み出し、其の電気に磁気を重ねる。

<<吉野御流合戦礼法「雪崩ナダレ)」が崩し……>>

強圧的な磁極反発が刀身に宿る。
沸騰した濁流の如き力の渦を、両の手に握り締め、寄生体を見据える。

<<電磁抜刀レールガン)――――>>

狂瀾怒濤きょうらんどとう)に荒れ狂い。
光彩陸離こうさいりくり)たる一刀を燈す。

<<――「オドシ)」>>

是即これすなわち)
蒐窮一刀也おわりのたちなり)



<<……ぐっ……カハッ! なんと……なんとなァ!>>

落雷の如き斬撃は、青江の半身を吹き飛ばすに至った。
肉が抉れ、蛇のような腸が数本、だらりと垂れ下がっている。
まず間違いなく仕手は即死だろう。死体に残存する一握りの熱量が尚も青江の意識を留めているが、其れも詮無き事。

<<やはり貴様こそが……悪鬼であったかァァ! 認めよう、認めようぞォ、村正ァァ! このニッカリをして及ばぬ、正真正銘の外道畜生よォ!!>>

自由落下しながらも張り上げる青江の声は、何処か清清しさを滲ませている。

<<……然らば冥府に逝く前に答えてもらおう。銀星号は――光は何処にいる!?>>

<<阿阿……白銀の……魔王……>>

<<何処だ! 答えろ青江!!>>

<<かの姫は……六波羅の……>>

果たして、其の言葉の先を聞き出す事は叶わなかった。
仕手の熱量が引火したのか。奈落の禊を受ける前に、青江は爆発四散してしまった。

<<野太刀の刀身。其の破片よ、御堂>>

「ああ……」

尚も残る爆ぜた硝煙、其れに紛れて死の匂いけはい)が暗闇に滲んでゆく。
夕焼けは何時の間にか姿を暗まし、斜陽の刻が訪れていた。
煌々と輝く満月が、蒼茫そうぼう)の闇に深紅の甲を浮かばせる。

残る欠片は後一つ。
終焉おわり)を迎えるまでに、幾人が。
湊斗景明の道程において、路傍の石と成り果てるのか。


――今宵、一本のペン)が折れる。






鎌倉の中心、雪ノ下に位置する鶴岡八幡宮。
其の歴史は古く、国記1723年、源頼義が氏神たる石清水八幡宮を領地であった鶴岡若宮に祀ったのが始まりとされる。そして後の源頼朝は、此の八幡宮を中心に武家の都、鎌倉幕府を開いた。
代々の源氏長者が尊崇した大宮に対する武家衆の崇敬たるや並々ならぬものであり、或いは興福寺の摩利支天のように、現在に至るまで鎌倉の八幡宮は武士の守護神として崇められている。
斯様な背景を持つ、霊験あらたかな八幡宮境内の中枢部に建てられた舞殿。其処に湊斗景明は足を運んでいた。

「おーおー、よう来てくれたねえ景明くん」

暖簾の奥に御座すは舞殿宮春熙親王。先帝の長兄である基熙皇太子に次いで、皇位継承権第二位に位置する人物である。
やんごとなき身分の人間は、本来であれば朝廷がある京都に坐する。ともすれば、春熙親王の御名の由来も窺い知れよう。
六波羅の手によって京の都から招かれ、此の奥殿へ迎えられた親王――故に舞殿宮。

源氏棟梁を称する六波羅一門は、当然源頼義を開祖とする八幡宮を信仰している。
であればこそ、六波羅は朝廷への信仰心、勤皇精神を顕すため、京都から八幡宮の祭祀長職別当として春熙親王を奉じたと。表向きにはそう謂われている。
実際は、皇室をも自在に動かしうるという六波羅の権威表明であった。
とどのつまり、宮殿下は人質なのだ。直接的に手を下せぬ朝廷に睨みをきかせるために、六波羅は春熙親王を鎌倉に囲った。

「はっ。血に穢れし我が身を皇族の御前に曝け出すは畏れ多くも、然り乍ら、どうか御容赦下さい」

本来、社稷を司る場所に悪鬼は足を踏み入れるべきではない。
汗顔の至りで膝を突き、恭しく頭を垂れた景明に、宮殿下は飄々と笑いながら構わないと告げた。

「こうして会うんは二度目やなあ。いやいや、何はともあれ無事で良かったわ」

「御蔭をもちまして。宮殿下におかれましては、ますます御清祥であられますよう」

宮殿下は尊き身分に相応しい、恩寵おんちょう)の念をむね)とする人柄であった。
二年前に端を発する銀星号事件の惨状を憂い、事件解決を図る景明を助力し続けた後援者、其れが暖簾の奥に坐す舞殿宮殿下である。
宮殿下の援助――超法規的措置である――があればこそ、未決囚である景明が銀星号を追う事が出来るのだ。

「この間はご苦労さん。またえらい迷惑かけてしもうたねえ」

「身に余る御言葉なれども。自分如き凡愚には、未だ解決に至らぬ不手際を叱責頂くが間尺相応かと。
自儘に舌禍ぜっか) し、宮殿下の御忠告を無下にせしめただけでは飽き足らず、結局は銀星号を取り逃してしまう始末。……面目次第も御座いません」

「まぁまぁ、そう言わんと。六波羅の秘密兵器をぶっ壊して、GHQの陰謀も知れたんや。なら、それで良しとしとこうやないか」

「……掌中の珠の如き御配慮、痛み入ります」

「署長から聞いてるえ。なんや、昨日は大変やったみたいやねえ」

「はっ」

「“卵”の孵化は確実に阻止したのだな、景明」

景明にとって聞き慣れた声が舞殿の室内に響き渡る。
宮殿下の横に控えている男は、鎌倉市警察署の署長、菊池明堯である。
景明にとって大恩があるなどという一言では済まされぬ人物であった。

「はい。確実に仕留めました」

「うむ……御苦労だった。これで後は一つ……か。此のまま上手く行けば良いのだが」

「また、寄生体を殺害するにあたって、銀星号に関する新たな情報を得ました」

「……なに?」

「“かの姫は六波羅に”。其れが青江の今際の言葉です」

「…………六波羅だと?」

「御意に」

「六波羅があれを飼う事なぞ出来る筈もないが……」

思わず喉奥で唸る菊池署長。其の表情は渋柿を食ったようである。
銀星号を匿う何らかの支援者について、此れまで景明と菊池署長は議論を重ねてきた。
二年間、全国に失踪者扱いの捜査手配をしているにも拘わらず、まるで引っ掛からないのだ。
単独犯である事は考えにくい。何処かに、何者かが、保護していると看るのが道理である。
だが、其の支援者の正体が六波羅なのかという疑惑を肯定する事は難しかった。
署長の表情が雄弁に語っている。そう、あの怪物に首輪を付けるなぞ、断じて不可能なのだ。

「ブヒャヒャヒャヒャ! そりゃあそうやろ菊池!」

はたと、宮殿下はしきりに凡そ皇族に似つかわしくない笑い声を上げる。

「ついこのあいだ、銀星号が六波羅の公方府に何をしたんか忘れたんかえ?」

其の言葉を聞きとめ、景明は心胆で苦渋を沸かした。
銀星号は誰彼かまわず襲い掛かる狂犬だが、特に武力が集中している地点に出没するという傾向がある。
必然、六波羅が割りを食う事になり。此の二年間で積り重なった六波羅の戦力被害は、甚大な数に及ぶ。
そして、記憶に新しくかつ強烈であったのが――銀星号が篠川公方府を壊滅させた事である。

即座に戒厳令を曳いた六波羅は、今も尚火消しに躍起になっている。が、其れも無理はない。
一騎の武者に公方府の全戦力を殲滅されたなどと町民に知られれば、六波羅の権威は飛ぶ鳥を落とす勢いで失墜するからだ。
尤も、人の口に戸は立てられないという格言がある以上。また、明確に数字として出ている膨大な犠牲者を何時までも誤魔化す事は困難である。
故に。斯うして六波羅関係者以外にも情報が洩れてはいるのだが。

「……」

誰も彼をも害する殺戮者に、誰がどうして手を貸すのか。
目的は? 方法は? 結局、思考は其処を堂々巡り。何時までも答えは返ってこない。

「うむ……少なくとも六波羅と銀星号に何らかの関連性があるのは確かだろう。……ある意味都合が良いのかもしれんな」

「……? 署長、其れは如何なる」

「殿下」

景明の問いには応えず、菊池署長は一言、暖簾に顔を向けて呟いた。
躊躇するような間を挟んでから返事をして、軽く咳払いする宮殿下。

「景明くん。今日来てもろたんは他でもない。ちいと、今後の事について話しときたくてな。……近う」

「……ははっ」

無作法であろうが、馬鹿正直に立ち上がる訳にもいかない。
景明は膝摺りで、暖簾に近付いた。

「……なあ景明くん。今の情勢をどう看る? 此の先、大和はどうなるんやろうか?」

其の声色は愁いを帯びていた。未だ見た事の無い表情が、何故かありありと景明の脳裏に浮かぶ。
答えを所望している訳ではないのだろう。宮殿下は景明の返答を待たずして続けた。

「わしはな。今の大和に未来はないと思っとる」

其れは歴然たる事実であり、厭世的な吐露でもあった。

「このまま六波羅の好きにさせといたら、間違いなく大和は滅びる。かといって、大英連邦、露帝による統治もまっぴら御免や。
わしの立場でこんな事言うんは不敬やろうが、この際歴史や宗教はどうでもええ。最悪、大和という国“自体”が滅びるんはしゃあないかもしれん……。
でもな。其処に住む人々に此れ以上苦労を懸けんのだけはいやや。まして、皆の生活そのものが脅かされるとなれば、黙って見過ごす訳にはいかん」

大和の未来は暗雲が立ち込めている。此の先、何の変化もなく時が過ぎれば、確実に開戦の火蓋が切って降ろされるであろう。
其の先にある結果は、大英連邦による植民地化か、或いは露帝による支配だ。
一応、大英連邦は植民地に人道に則った対応をするとされている。だが、白人至上主義である彼らが、大和を欧州列強と同じ扱いにする事なぞ断言出来る筈が無く。
かといって、露帝による農奴化が大和の民にとって幸せかと問われれば、当然回答はいいえNO )である。
また可能性は低いが、六波羅が大英連邦及び露帝の猛攻を凌ぎ切るかもしれない。だが、其れは恐らく最悪の未来だ。其の頃には、大和の土地は軒並み、鬼灯の野と化している。

つまり。進駐軍と開戦した時点で、天下安寧の未来は消滅するのだ。
せっかく苦労して創った大和が戦火に蹂躙される――伊邪那岐イザナギ) 伊邪那美イザナミ)両神とも、堪ったものではないだろう。

「……ほんまは、もっと穏やかに事を進めたかったんやけど。GHQの手段がなりふり構わずになってきとる以上、そうも言うてられんえ……」

進駐軍は調略の糸を張り巡らしていた、とは大鳥香奈枝嬢による情報。
進駐軍の策――大和各地における、大和武者の凶行である。
大和国民の大和武者に対する信頼を完全に失わせるべく。進駐軍は間者を通して狩った劔冑を危険人物に提供させていたのだ。

「大和を巡る抗争は日々苛烈極まってきており、最早一刻の猶予もない。此のまま安楽椅子を気取る訳にはいかないのだ」

「……」

旭日昇天きょくじつしょうてん)たる敵勢力に比べ、我々の戦力は擦り切れた蝋燭の灯火に等しい。だが、其れでもやりようはある」

景明は押し黙り、署長と宮殿下が何を言わんとしているのかについて察した。
小規模の集団が体制に対抗する唯一の方法は――常套手段テロリズム)である。つまりは、暗殺。

舞殿宮の目的が大和の平和である以上、刃が向かう対象は一人に限られる。
進駐軍の総司令を排除しようが、幾らでも大英連邦から補充されるのは明白であるし、そもそも何の解決にもならないどころか、自ら首縄を締める事になるのだ。
進駐軍への強襲は戦争に消極的な統和連合の穏便派にすら警報を鳴らす事になり、ひいては大英連邦に直接的手段による大和実効支配を踏み切る理由を与えてしまう。
故に、狙うとすれば六波羅幕府の最高権力者である足利護氏唯一人。

「大和の政権は、支配力を確立するにあたって必ず朝廷の支持を必要とする……。鍵は其処にあるのだ」

そう言って、菊池署長はつらつらと説明を始めた。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は大和全土の支配者となったが、旧来の支配者であった朝廷を滅ぼさなかった。
代わりに、武家政権を確立するにあたって、公家の政治介入権を剥奪したのだ。
源氏は朝廷から距離を取り、朝廷を京都に据えたまま、東の鎌倉に新たな幕府を開いた――権威と権力が分離した瞬間である。
政権を朝廷に承認させるという政治構造によって、鎌倉幕府は朝廷の権威という皮を被る事に成功したのである。実際、狐は飼殺しにしておいて、だ。
この政治構造は、今も尚大和に根付いている。六波羅も先達の叡智に則った。朝廷を滅ぼし政治構造を破壊するより、利用したほうが遥かに益があるからである。

また既に支配を確立した政権にとって、朝廷は大した用を成さない。
だが、“改めて”支配を確立する政権は違う。再び朝廷という印籠を翳し、民衆を付き従わせる必要がある。

護氏が亡き者となれば、四公方を中心とした内部派閥が対立を開始する事になるだろう。
あらゆる意味で、六波羅は足利護氏という傑物一人の豪腕で纏め上げられている。
故に、護氏の後継者が誰であれ、前代ほどの政治腕力を発揮するには時間が掛かる。

「そこで、ぐらついた六波羅をわしら朝廷の権威で補強してやるんや。当然、こっちの発言力は一気に鰻上りになる……っちゅう寸法やね」

菊池署長から宮殿下に説明が移った。

勝算は、民衆が六波羅に抱く悪性感情を捨てさせる事に尽きた。
圧政極まる既存統治から、緩やかな統治をする幕府に塗り替えさせるのだ。出来うる限り税も下げ、軍部を縮小する。
相して造り変えた六波羅幕府が国民に承認されれば、目的達成、勝利である。現地の反感感情を何より恐れる進駐軍は、大和に手を出す事が事実上不可能となるのだ。

「景明。近々行われる八幡宮奉刀参拝は知っているな?」

「無論です」

幡宮奉刀参拝――源氏長者が此処、鶴岡八幡宮に詣でて今年一年間の武運隆興を祈り、太刀を奉納する儀礼である。
八幡太郎義家が源氏長者名代として最初に奉刀を執り行って以来の伝統であり、六波羅をしても、朝廷に威光を示すため欠かす事は出来ぬ行事であった。

当日、若宮大路を跋扈する大名行列は圧巻の一言であろうが、町民が物見に出掛ける事はない。
其れは六波羅への悪感情に依るものも過分に含まれるのであろうが、何より大将領が普陀楽の外へ出向く際は、決まって十全な警備体制と懇ろになるのだ。
奉刀参拝の折には、八幡宮内は元より、周辺一帯に直属の武者衆による警備網が敷かれるだろう。また、足利護氏には奉公衆、厩衆と呼ばれる親衛隊が常に付き従っているという。
然らば、武者どころか、羽虫一匹近付く事は叶うまい。

「……成功する見込みがあるとは思えませんが」

「だからこその奉刀参拝なんよ」

「……? 浅学を恥じ入るばかりで恐縮ですが、どうか御意を受け賜わりたく」

「公表されてへんねんけどな、護氏が奉刀する刀は二口なんえ。地上に一口、地下に一口……ここが味噌や。地下への奉刀には、源氏長者と介添えの神官だけでしめやかに行われる」

「機は其処だと……?」

「せや。……確かにこんな隙、やっこさんが警戒しない筈がない。でもな、もう此処にしか勝機は残されてへんのや」

宮殿下は苦々しくも毅然とした語気で言った。

「景明くん。決断の時や」

思わず景明は目を伏せた。
心事は理解出来る。論理的推察も正鵠を射ている。

「……大和の歴史を変えるために、動くときがきたんや。どやろ……? 頼まれてはくれへんやろうか」

「……然し、宮殿下も御存じの筈。我が剱冑が、呪われし妖甲である事を」

「わかっとる。そんときは遠慮なくわしの首を撥ねたらええ。わしみたいな阿呆が護氏と刺し違える事が出来るんやったら、それに越したことはないわ」

「いえ、宮殿下。誠に恐縮ですが、其れには同意しかねます。……景明、其の時は私を斬れ」

「菊池」

「此ればかりは譲れません。いいな、景明」

宮殿下も菊池署長も、心の底から大和の行く末を憂いている。
私欲ではなく、大義のため事を為さんとし、あまつさえ事が成就した暁には己の首を差し出しても良いとまで言った。
其れは俗に高潔と呼ばれる人物の特徴なのかもしれなかった。

彼らの絵図には、足利護氏さえ葬れば、近い将来に大和という国へと降りかかる絶望の雨を回避できると描かれている。
確かに、元帥大将の死は歴史の転回点ターニングポイント)に成り得る。其処に異論を挟む余地は無い。
現状では飽く迄予測だとしても。暗殺が成功しようが結局は未来が変わらないかも知れぬとしても。
少なくとも何もせず座して待つよりは行動に移す方が良いだろう。舞殿宮春熙親王、菊池明堯。両名の主張は――道義的にどうあれ――正しい。

だが――。

大義を以て悪を討つ。敵も味方も己の命すらも、“義”の達成に必要ならば斬り捨てる。
……其れは英雄の仕事だ。湊斗景明の範疇ではない。

「あのな、気休めかもしれへんけど、これだけは言うておくえ。
……罪の意識を持つ必要はないんよ。例え何が起ころうとも、命令したんはわしや。景明くんは苦しまなくてええ」

答えに窮した景明を見て取ったのか、宮殿下が慰めの言葉をかける。

「其れは」

違う。そう景明は断言したかった。
心情なぞは問題ではない。殺すという行動が。悪と断じて人を斬るという所業にこそ問題があるのだ。

そして罪の所在に関しても、景明は親王の意見に同意出来なかった。
実行犯と計画犯。何方も同等の罪を負う事が大和警察法における定義である。

「ついでやし言うとくけどな」

況して、実行犯に選択の余地があったのなら。其の上で犯罪に手を染めたのなら。
知らぬ存ぜぬで押し通せる道理なぞ断じて無い。実行犯だけが裁かれぬなぞ赦されない。

「ぜんぶに型がついたら、おまさんの身は誓って自由にしたる。のんびり休めるところも手配するわ」





「―――――――――――――――――――――な、に?」

親王の言葉を聞き止め、景明の背筋に怖気が奔った。
肌がぞわりと栗立つ。体内に冷塊が滑り落ちる。

「銀星号事件が解決した後も、景明くんが罪を背負う必要は無いんよ」

おぞ)ましい恩赦の声が紡がれてゆく。
膝に置いていた腕が痺れ、余りの事に脳が揺れた。視界が陽炎めいて吐き気がする。

「…………まさか、あんたも承知の上なのか、今の戯言を」

法の番人である警察局署長を、半ば激怒の態で睨み付け景明は問うた。

「ああ、そうだ。お前が為した事は全て私と宮殿下の承認の下行われている。故に責は我らにある」

返ってきたのは――。



「罪の所在は湊斗景明には存在しない」



湊斗景明を構築する精神にとって死刑宣告に等しかった。




「……………………莫迦な」



[35897] 捨捌話 八幡宮
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/08/13 16:43
八幡宮



飛び道具の発明は戦事いくさごと)における一種の転換点である。

人類史において、転換点と成り得る発明は数多ある。例えば農業は文明の発端であるし、マヤの歴やエジプトの筆記は人々に歴史を与えた。
また、ローマに代表される車輪技術の発達やアラブの帆走技術によって、広大な領地の維持を可能とし、未知の大陸の開拓にも繋がったと云えよう。
詰まるところ何時の世も、其れまでの常識を根底から覆す革新的な発明を立脚点として、人類は文明を発達させてきたのだ。

では其の偉大な発明群の中で最も“戦”に貢献した発明は何であろうか。
鉄器か。畜産か。工学か。

否。

答えは――飛び道具の発明である。
弓の発明こそが、戦の形態を決定付けたのだ。
これによって、動物のように我武者羅に殴りかかる方法から、隊列を組み、陣形を編成し、統率を以て戦に臨むようになったのである。

飛び道具の最も長ずるところは、其の普遍性にある。
腕力や体躯、技術が及ぼす影響が少なく、万の兵士が皆同等の戦闘力を保有する事が出来るのだ。
無論、個々の鍛練によって命中率に開きは生じる。であるが、やはり近接武器の其れとは雲泥の差であろう。
其れは火縄銃が大和に伝来してから、より顕著になった。
兵の戦力を均等化し、容易に百戦錬磨の強者をも打ち倒す事が可能な飛び道具――戦場に如何ほど貢献したのか、想像に難くない。

だが、斯様な発明にも一つだけ弱点と呼べる存在があった。

剱冑である。

鍛冶師の生命を燃やし鍛造された甲鉄には、弓矢も銃弾も砲弾すらも効かぬ。
であればこそ、剱冑は剱冑足り得るのだ。騎航性能や攻撃力もさる事ながら、やはり其の堅牢さによって、剱冑は戦場の覇者という玉座に腰掛ける事が出来ている。
故に、剱冑を倒すには剱冑のみ。銃によって侍の時代が終わろうとも、未だに剣戟舞踏ブレイドアーツ)が乱世を席巻している所以である。

では、もしも。

剱冑をも打倒し得る“飛び道具”が発明されたのなら?

紀元前の人間が石器を振りかざす事を止めたように。
或いは火縄銃が侍の時代に終焉を齎したように。

其れは戦の常識を革新する転換点と成り得るのではないか――。







――斯様な仕儀を、銀の魔王は一蹴した。







何故だ。
其の言葉が足利護氏の脳内で木霊していた。
幾度も幾度も自問する。何故だ。何故だ。

足利に生まれつき、同輩が鼻垂らしの小僧であった時から、足利護氏は覇者であった。
三歩歩けば皆が頭を垂れ、鶴の一声で皆々を顎で使う事が出来た。
其の頃から、一度刀を持てば誰もが恐れをなして逃げおおせた。筆を持てば誰もが括目しに寄ってきた。
神童と持て囃されもした。其れを疎んだ父妾の女に毒殺されそうになった時も、逆に殺してやった。
武家衆を束ねる者の倣いとして、遊佐童心と肩を並べて戦場に足を運んだ時も、自ら鉄火場に鏃を入れ、無事生還したのは勿論、両手に抱えきれぬ程の首を持ち帰ったものである。

足利護氏に敗北はない。
滝が下に流れるように。彼の幼き頃から、其れは万物不変の理であった。
そして其の理は今も尚、滅びてはいないのだ。

――忌わしき進駐軍に膝をついたが、まだ頭は垂れておらぬ。
やがて白蟻共を大和から駆逐し、逆に害虫らの巣を一つ残らず征服するという未来は既に確定しているのだ――。

……其の筈だった。少なくとも数分前の護氏にとっては。

<<どうしたどうした。 まだまだ半分程も残っているというのに、よもや数分で戦気が削がれた訳ではあるまい?>>

足利護氏に敗北はない。
其れは天地神明に誓って真の事実である。

では何故、鎌倉の中心、八幡宮境内にて。斯様な事態に陥っているのか。
此の未来――八幡参拝の機を狙った“銀星号”の襲来である――とて、護氏は予想していなかった訳ではないというに。

<<分隊乙、丙は全滅! し、至急撤退の許可を!>>
<< 腑ぬけめが! 残った者は盾となって殿下をお守りするのだ! 急げ!>>

獅子吼の報告にあった通り、並の数打らでは束になっても敵わぬ魔王である事も含めて、護氏は想定済みであったのだ。
だが――だが。虎の子であった零零式竜騎兵甲が、いとも簡単に鉄屑と成り果てるとは。
然も“当たらぬ”ならいざ知らず、そもそも“発振砲が効かぬ”とはどういう次第であろう事か――。

<<其の大仰な砲、なかなかに面白き試みだ。が、既に江の島で同じようなものを味わっている故、些か飽いたな>>

いや、其れすらも仰々しく喚き散らす程の事ではない。
戦場や政場では、時として予想だにせぬ問題が発生する場合もあるのだ。
齢五十をとうに過ぎた護氏は、一度や二度、そういった未曽有の事態に遭遇した経験はあった。

幾ら優れていようが所詮は駒。真に信ずるは己のみ。
如何様な困難に直面した時も、其の信条を掲げ打破してきた護氏である。

で、あればこそ。
今現在、足利護氏は心の底から驚愕していた。恐らく、生まれて初めての事である。

何故なら。
柳生常闇斎すら存分に打ち倒す事が出来ると自負している己の業が、己の剱冑が、六波羅自身が。
――銀魔に一太刀入れる事すら叶わず、あろうことか一撃で倒幕されかかったのだから。

「ぐ、髭切……、損傷を報告せい」

<<胸部甲鉄前面部に深刻な裂傷。戦闘行動は困難、即座に撤退すべきと判ずる>>

「ち――」

予想通りの回答に舌を鳴らし、護氏は正面で繰り広げられている光景を眼に入れた。
四方八方から火の手が上がり、金切り声の金打声メタルエコー)が飛び交っている。
蜘蛛の子を散らすように、瞬き一つで数打らが散ってゆく様は如何にもし難い。
倒れ伏せていた護氏に向かい竜騎兵隊が展開せんとする――が、流星が其処へ通り過ぎ、次の瞬間には見るも無残な有体へ変貌した。

<<其れにしても興ざめだ。曲りなりとも大和の覇者が、実は唯の自己顕示欲の権化に過ぎぬとは、な>>

「――――」

地獄と化した此の空に、悠然と佇む魔王。
空中で静止し、両腕を組みながら、つまらぬ物を見るような視線で護氏を“見下ろしている”。
無数の屑鉄が引き起こす戦火に照らされた銀の甲鉄はだ)が、見るも妖しい光芒を放っていた。

(断じて認めぬ)

如何なる時も、覇者は膝をついてはならない。況して何某を“見上げる”なぞ、絶対にあってはならぬ事――。
護氏は隕石に激突したかの如き損傷であった鋼鉄からだ)に気合一閃、鞭打った。
相して両の脚で大地を踏み締め忽然と起立し、空の魔銀を睨み付ける。

<<其れでよく覇を気取る、どうやら厚顔無恥という言葉を知らぬようだ。……いや、どの道此処で潰えるのだから、最早何も問うまいよ>>

<<……戯けた事を>>

激昂せんと高ぶる血潮に任せ、護氏は右脇に手をやった。
大名物特有の魅惑的な鞘抜き音――これ)を聞き止め生きている者は居ない。
抜いた刃中の沸が煌き、千年前と依然変わらぬ光彩を魅せる。
二度と八幡大菩薩に恨み言を申すまい。数多の武者を沈めてきた刃味の鋭さは尚も健在である。

<<ではそろそろ……おれの覇道の礎となってもらおうか、虚仮威しの王よ!>>

――足利護氏という一己の人間は敗北の味を知らぬし、今後舌打つつもりも毛頭無い。

<<――抜かすでないわ! 痴れ者がッ!!>>

即座、護氏は太刀を振りかぶり、剣気を漲らせた。
肚の底から憎悪の込もった声を契機に、合当理を稼働。
すると――。




<<――しゃあああァァ!!!>>

<<む! ――ぐぅ!?>>

雷鳴――!
突如、上空から稲妻が奔り、猛猛しい威勢声が轟いた。
現れた何者かの突撃によって――銀星号が弾かれるように吹き飛ぶ。
其れに数瞬遅れて激突音。吹き飛んだ銀星号による衝撃で八幡宮の宮廷が倒壊し、埃で視界が霞む。

「ッ、雷蝶か!?」

護氏と宮廷を挟むように降り立った謎の武者――其の姿を視とめるまでもなく、護氏は正体を看破した。
あの電光石火の一撃――思い当たるところはひとつ。

<<御無事で! お父様!>>

其れは髭切と同等の形状である、黄金の輝きを秘めた鎧武者の姿であった。
義経の如く華麗でありながら、弁慶の如く剛健である剱冑――銘を、膝丸。

<<ま、まさか……雷蝶様!?>>
<<雷蝶様ァァ!!>>

先程までの弱り果てた士気は何処吹く風か。
周囲に展開していた竜騎兵隊から瞬く間に歓喜の声が上がった。
大和最強武者の増援。戦々恐々たる思いであった武者衆にとって此れ程心強いものは無い。

<<お言いつけを守らず、申し訳の程も立ちません。御叱責は後程にて>>

<<――いや。……よくぞ参った。少しばかり難儀していたのでな>>

薄く嗤いつつ、護氏は妾母の息子に声を掛けた。
雷蝶は軽く頷く事で其れに応えると、意気高々に刀を掲げ、周囲の武者衆を鼓舞する。

<<アンタ達! 六波羅武者衆ともあろう者達があんな“ちんちくりん”に後れを取るなんて不甲斐無いわね! ほら、ぼさっとしてないでお父様を避難させなさい!>>

雷蝶の指示により慌ただしく動き出す竜騎兵隊を左手で制し、護氏は右腕の刀を雷蝶に翳してみせた。

<<……よい、雷蝶。儂は退かん、退いてなるものかよ。此のままおめおめと引き下がるを良しとせん事は、息子であるそちが一番よく知っているであろう>>

<<ですが……いえ、そうですわね>>

元々軍部であった六波羅にとって、大将領は名実ともに“頂点”であらねばならない。
此処で撤退すれば汚名を被る事に繋がり、ひいては其れが反乱の蕾になる可能性もある。
そして何より――生まれ付いての足利護氏の性分が、此の場に足を踏み留まらせるに至った。

<<いつもの事ながら、お父様の大将領たる御意気には感服する限りで御座います>>

内心、護氏は安堵の息を吐いた事も事実である。覇者たる護氏が銀星号如きに負けるなぞ想像も出来ぬ事であるが、万に一つの憂いは拭っておきたい。
故に、雷蝶の増援は素直に有り難かった。髭切に膝丸――鬼に金棒である。
加えて、何者にも勝ると自負している護氏にとっても、こと武芸に関しては、雷蝶が己よりも一歩抜きん出ていると認めている程なのだ。
然らば、此の二人を誰が倒せよう。其れが例え大和最凶の剱冑であろうと、大和最強の剱冑らには敵うまい。

<<……ふ。っふふ>>

突如、倒壊した宮廷の瓦礫山から魔性の嗤い声が上がった。
相して、瓦礫の山が爆発。四方八方に瓦礫が吹き飛び――其処から“無傷”の銀星号が姿を現す。

<<今川雷蝶!! よもやおれに一撃を入れる程の武士もののふ)であったとは! 然も接近を勘ずる間も与えぬ電光石火の突撃! 驚嘆に値するとは此の事だな!>>

銀星号はゆるりと浮かびつつ、声を張り上げ称賛の限りを尽す。
両の手を広げ、此の世の何事よりも嬉しそうに、愉しそうに。

<<うるっさい子ねぇ。麿とお父様の『ビューティフル・コミュニケーションタァイム』を邪魔しないでちょうだい>>

辟易した雷蝶の声に反応したのか、魔王はしきりに嗤い続ける。

「……まったく、あの一撃を受けて生きてるなんて、しぶといったらありゃしないわ。麿の大っ嫌いな御器被ごきかぶ)りみたい」

雷蝶が軽く溜息を吐き――瞬間、周囲の空間が“軋んだ”。
臨戦態勢に入ったのだ。兜によって素顔が見えなくとも、雷蝶の表情は推し測るまでもなく険しいであろう。
其れに倣い、護氏もまた、剣気を高ぶらせる。

<<……ふっ。まさかそちと肩を並べる時が来るとはな>>

<<麿とお父様が組めば、世に打倒できぬ者など存在しませんわ。今迄散々暴れていたけれど……あの痴れ者の命運も此処までのようです>>

<<違いないわ。髭切と膝丸。対であった嘗てのように、共に鬼退治と参るも一興よな>>

軽口を叩いた後、護氏と雷蝶は前方上空の銀星号を睨み付ける。

<<話は済んだか? 親子の対話は尊重すべしと口を噤んでいたが、生憎と今日のおれには“時間が無い”。そろそろいいだろう?>>

<<ふん、尚も抜かすか、銀星号! 露も残らぬ刃味を、貴様の肉を以て味あわせてやるわ!>>
<<少し“おいた”が過ぎたようね、銀星号とやら! 六波羅に楯突くとどうなるか、麿の膝丸で思い知らせてあげるわ!>>

悠然と言い放った雷蝶、護氏の口上が、周囲の武者衆をも鼓舞した。
数分前まで阿鼻叫喚であった辺りは、別の意味で熱を持っている。
奉刀参拝警備に備え駐屯させていた竜騎兵大隊は既に半壊。火急にて用意させた八騎の零零式竜騎兵甲も、残す処三騎ばかり。
而して、竜騎兵隊らに絶望の色はない。何故なら、此処には大和最強武者である今川雷蝶と、大和を統べる六衛大将領、百戦錬磨の足利護氏が居るのだから――。

<<わかったわかった。ほら、あまり乙女を焦らすものではないぞ。勿体ぶるな。早く武を競おう。願わくば、今宵、力尽きるまで>>

「――――」

護氏と雷蝶が同時に太刀を振りかぶると、極限まで空気が張り詰めてゆく。
刀光剣影の事態。左右に位置する髭切と膝丸は、合わせ鏡のように膝を落とし上段に構えた。
国士無双の髭切。一騎当千の膝丸。其の宝刀が、今、抜かれる――――!

<<――往くぞ、雷蝶ッ!>>

<<――はい、お父様ッ!!>>





















<<あ、お前は邪魔>>

<<――ぐほォォ!?!?>>

<<お、お父様ぁぁぁぁ!!!>>



[35897] 捨玖話 深藍
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/08/27 21:08
深藍



<鎌倉市>

武家造の屋敷に、か細い悲鳴が漏れていた。
生々しくも淫靡な音に、下卑た男共の声が重なる。室内は噎せ返るような獣の臭いと、鉄の匂いが充満している。
床には男の死体と鉄屑が一つ。そして残った女が二人、野盗と思しき男らに囲まれ、凌辱の限りを受けていた。

「ふんっ、初物にしては、中々、具合が、良いじゃないか。 ええっ、おい」

まだ春も知らぬ少女に覆いかぶさり、雄の欲望を満たす獣。
抵抗虚しく、衣服を破かれ為すがままである少女の目は濁りきり、其処に光は無い。
涙が一本の線となって、幼き頬をつたった。
其の絶望に満ち満ちた表情がより一層男の加虐心をくすぐり、つられて腰の動きも早くなる。
彼らの服装は六波羅の其れである。庭先には数打であろう自動二輪モノバイク)が停めてある。
而して――彼らは正規軍では無かった。

カシラ)ァ……よくそんな生娘を犯れますねぇ。俺ぁ、首領殿の趣味が理解できねえよ」

「そうそう、やっぱり女って奴は脂が乗ってるほうが良いってなもんで、さ!」

組み伏せられた少女の傍に、凌辱がもう一つ繰り広げられていた。半裸の野盗数人に囲まれているのは、少女の母と思しき人物である。
穢らしい体液で身を汚され、道具のように粗暴な辱めを受けながら、母は懇願し続ける。あの子だけは、と。
だが、其の声を野獣の群れが聞き入れる筈も無く。結局、凌辱は獣共が満足するまで続く。
救いは無く。慰藉も無く。音程の狂った叫びの二重奏が紡がれてゆき。唯々地獄の刻が流れる。
やがて、最後まで絶望の淵に立ったまま、母子は無残に殺された。

此のような惨劇――政事が乱れに乱れた大和では、特に珍しい事ではなかった。
例えば、或る勢力群に奉公していた人間達が居たとする。そして幕府の内外で吹き荒ぶ権力抗争に敗れ、其の勢力群が滅びたとしよう。
では、奉公先という食い扶持を失った人間はどうなるであろうか。どうするであろうか。
殿が死ぬ時、家来も御供する――そんな武人としての道徳は、戦国時代で失われた。必然、潔く腹を切る者なぞ余程の酔狂のみである。
此のご時世、腕っぷし以外なんの取り柄も無い人間がまっとうな職にありつける筈も無し。而して、何もせぬままでは飢えるのみ。
ではどうするか――答えは単純である。己の腹の代わりに、周囲の町民に刃を向けるようになったのだ。
今迄も、そしてこれからも。武装集団というのは斯うして生まれる。

「にしても、此れで俺達も晴れて六波羅の仲間入りってとこですかね?」

男達は気怠げに軍服を着直してから、足元に転がる三つの死体を蹴りつつそう言った。
此処は六波羅に与しない中流貴族の屋敷である。最低限度の税を納めはするが、貢物の一つも寄越さぬ不届き者――彼らにとって絶好の餌であった。
隊長格である男が、胴体と切り離れている家主の生首を拾い上げ、ずいと掴んでみせる。

「ああ、此処に逆賊の死体がある。こいつらを差し出せば、また大手を振るって通りを歩けるようになるぞ」

一般市民にとって最悪な事が、昨今の情勢に起因する或る風潮であった。
“何故か”減少の一途を辿っている六波羅軍兵力の回復に伴う風潮である。
人は有限である。減ったのなら、新たに増やす必要がある。
故に、此の凌辱であった。
奉公先を失った武装集団という輩は、基本的に以前の地位に戻る事を夢に活動する。
だが、そう易々と復帰する事は出来ない。いや、出来なかったのだ、“今迄”は。

「ま、実際んとこ。逆賊かどうかなんてのは、俺達の知ったこっちゃねえんですけどね」

「ちげえねえ! ヒッヒッヒ!」

今現在、一人でも多くの兵士を欲しい六波羅は、必然各地の武装集団を受け入れたいだろう。
と云うのも、新たに訓練する必要が無い輩は費用対効果が素晴らしく良いのだ。加えて即時性も良い。然も、中には貴重な数打を保有しつつ野に下った者までいる。
だが、何か名目が無ければならなかった。幾ら好き放題出来る六波羅でも、野盗を何の咎も科さずに受け入れる事は――市井の反感という点から――出来ない。
依って町民が最低限納得、或いは反論できない理由――表向きの名目が必要だ。六波羅に迷惑をかけず、逆に六波羅にとって利となる理由であれば尚良し。
其処に真実は要らない。其処に悲劇があろうと知った事ではない。――ひと月程前から斯うした風潮が、急激に大和に蔓延っていた。

「おい」

はたと、気分よく哂いに耽っていた野盗らに水を差す声がした。

「あ?」

ぎょろりと、其処に居た男らの眼が一斉に庭先に向く。
――其処に居たのは、床に転がる少女と大して変わらぬ年端の女であった。

「…………この下種共が」

平均的な女学生に比べて、御世辞にも身長は高いとは言えない。
恐らく近辺にある学び舎の学生服だろうか、其の女は女学生が纏うに一般的な水兵用制服セーラー服)を着ていた。
ひょうと風が吹き、二本の朱い薄手布がたなびく。同時に肩にかからぬ程度まで伸ばされた薄藍の髪が揺れた。
其の前髪に軽く隠れた双眸は然し――憎悪の塊である。燃える様な橙色の眼が、物言わぬ糾弾の信号を周囲に送っていた。

「なんだあ、お前?」

「綾弥一条。……これからテメエらをぶっ殺す人間の名前だ、よく覚えとけ」

「…………」

女は刀を腰に差した屈強な大男らの集団を睨み付けながら、微塵も物怖じせずに、きっぱりとそう言い放った。
余りの事に、一瞬空気が固まる。そして、愈々耐えきれなくなった男の嗤いが漏れ――固まった空気は一瞬で弛緩した。

「――っへへ。こいつは怖え! 恐ろしくて小便ちびっちまうぜ! いや、さっき“おそそ”ん中に出したばっかだったな!」

「いや、すげえすげえ! よくそんだけ吼えたな、嬢ちゃんよ!」

「おいおい、よく見りゃあ……ちいとばかし胸が貧相だが、中々の上珠じゃねえか! 良かったっすね、首領!」

下品な嘲笑を浴びせ、野盗達は再び笑い転げた。
折角意気込んで此の屋敷に乗り込んだというのに、余りに呆気なかったのだ。故に、降って沸いた此の“余興”は彼らの心を躍らせた。
にたにたと、厭らしい顔を張り付けたまま、一人の野盗が女――綾弥一条に近付く。

「薄汚ねえ手で触んじゃ……ねえ!」

男が一条の肩に手をかけた瞬間である。

「いぎ!?」

蛙が潰れたような音と共に、男の身体が軽く浮き、そのままどさりと倒れたのだ。
ややあって男の口から泡が吹かれ、肉体はもんどり打って痙攣を繰り返す。

「――何しやがる、てめえ!」

野盗達は、倒れ伏せた仲間の一人を呆然と眺めた後、我に返って殺気を張った。
行き成り“睾丸蹴り”をかました女に激昂し、彼らは刀を抜いて襲い掛かる。
最初に、一人が右上段から水平切りを仕掛けた。

「はァ!」

一条は膝を曲げ其の斬撃を掻い潜った。
そして、臍下せいか)の丹田から息を吐き、防具の着込まれた腹部ではなく、無防備な顎に肘鉄を見舞う。

「が!?」

逆袈裟。首元に迫った白刃を、上体逸らしスウェー)で躱し、額の人中に正拳突きを一撃。

「ぐひ!?」

唐竹割り――後ろ飛びバックステップ)。一条は又しても軽快な動作で攻撃を避ける。
相してから、“膝を抜いた”踏み込みで、其の小さな体躯からは想像も出来ない威力の正面蹴りを野盗に浴びせた。

「な、んだてめえ……」

大男が三人、子供の如き体躯の女に叩き伏せられたのは、まさに一瞬の出来事であった。
信じがたい光景に、残った野盗らの威勢は忽ち削がれ、知らず知らずに後ずさりしてゆく。
一条はそんな周りの事など気に留める風でもなく、床の死体に目をやった。

「……間に合わなくて、ごめん」

痛ましげな光景だった。服が破かれ、夥しい血で柔肌が塗れている。
限界まで見開かれた眼は、今際に何を映したのか。
血沼に膝を付き、一条は仏の眼を閉じる。

「やるじゃないか、お嬢ちゃん。……だがな、もう終いよ」

……其処に影を落とす人影が、一つ。
首領だった。野盗らの中でも特に筋骨隆々であった首領は、屈んでいた一条を見下ろし、そして――

「――八紘一宇はっこういちう)!」

雄叫びと共に、両腕を広げた。
庭先の自動二輪モノバイク)が首領の呼びかけに反応、分解、集結、結合。

果たして其処に顕れたのは、鎧武者だった。
仄暗い屋敷に俄かに差し込む光、其れに反射して、深緑の甲鉄が鈍く光る。
悪帝の尖兵として、恐らく大和人に最も馴染み深い形状フォルム)
八八式竜騎兵である。最早型落騎成れども、其の巨躯が醸し出す迫力は微塵も衰えていない。

「…………」

何のもたつきもなく、竜騎兵の鞘から刀が抜かれる。
数打は真打に比べて、自動回復能力が極端に低い。而して此の鞘抜き音は、整備が十分に為されていた事への何よりの証明であった。
黙って膝を付いている一条に、生身にとっては斬馬刀の如く長大な刀身が向けられる。

<<恐怖で声も出んか。まあ安心しろ、一息で殺してやる。其れからじっくり愉しませてもらおうか>>

そう言って首領は喉で嗤った。
刃を向けられたままゆるりと立ち上がり、背丈の倍はあろう鉄の巨人を睨み付ける一条。

「絶対的な力で弱者を嬲る、か。さぞ愉快だろうな」

<<っは! 当たり前よ。世は弱肉強食。許より、こいつらは我らに平伏す運命であったのだ>>

「……其れは『悪』の思想だ。『悪』は断じて許さない。そいつがあたしの生き方だ」

忽然たる口調で吐き出された一条の言葉に、首領は挑発の態で言を弄する。

<<ふん、ならどうするというのだ?>>

焼き尽くすような眼光を称えて、一条は其れに答える。




「――こうするんだよ。こい!!」

<<応ッ!!>>

<<――何!?>>

瞬間、藍が飛翔した。
何故、何時、どうやってか。突如巨大な物体が現れたのだ。
前後に長い胴体。畳に刺すようにして自立させている六足の脚。
そして何より特徴的な二対の触覚――其れは鋼鉄の外骨格で拵われた天牛虫カミキリムシ)だった。

世に鬼あれば鬼を断つ。世に悪あれば悪を断つ。――ツルギの理、ここに在り!

天牛虫が割れ、眩い光に包まれる。
がちり、がちりと、金鉄が重なり合う高音が室内に轟く。
――ややあって其処に顕れたのは、一騎の武者の姿。

威風堂々たる佇まいに、ぶわりと、首領の肌が栗立つ。
破邪の甲鉄と云うべき藍の地金は、一点の曇りも無く。

天を突く頭部の前立て。
地を踏みしだ)く両の脚。
全てを見通す、其の眼光――。

誰が勝ろう。此の甲鉄の堅牢さに。
何が勝ろう。此の甲鉄の見事さに。

――天下無双の輝きは、今、此処に在り。

<<夫の死体を横に細君を嬲りィ、父の死体を横に童女を嬲るかァ! そしてしい)すかァ!! ……赦さん、許さんぞ糞戯けめらァァァ!!>>

金打声――否、剱冑の絶叫が、色となって大気を震わす。
其れだけの事で、八八式竜騎兵の装甲が軋んだような錯覚すらあった。

<<蒙古にも劣らぬ畜生共めェ……。 例え天が見逃そうとも、此の『正宗』! 貴様らの様な害虫の存在、断じて認めぬ! 断じて許さぬ!! 我が刃にて斬り滅ぼしてくれるわ!!>>

甲鉄の美しさとは裏腹に、迦陵頻伽かりょうびんが)とは程々遠い声色が轟く。
極楽浄土の鳥なぞでは無く。地蔵菩薩にこそ似つかわしい声である。

<<……正宗だと?>>

或る単語を聞き止め、首領の血の気が引いた。

<<て、天下第一等、相州五郎入道正宗だというのか……!?>>

相州五郎入道正宗。蝦夷でもなく、代々続く鍛冶打の出身でもなく。唯の市井の身であった人間によって成し遂げられた、神甲である。
傑出し過ぎた作甲故に、歴代の所有者は畏れと共に神宝として奉ったと謂う。依って其の銘が戦場に轟いた事は無い。
後に織田信長の手に渡り、本能寺の変で行方知らずとなったものの、其の威光は終ぞ潰えはせず、半ば伝説となって人々の話題に上り続けた。
天下無比であると謳われた幻の剱冑、正宗。其の剱冑が、何故斯様な場に――首領は余りの驚愕に、刀を振るう事すら忘れてしまう。

「あ、あ、あ、あああぁぁああ!!」

<<……む!?>>

呆けた首領の蝸牛をくすぐったのは、正宗の仕手から発せられた絶叫であった。
まだ刀を振るってもおらぬに、何故の絶叫なのか――最早右も左も分からぬ態で、首領は柄を握り締めるばかりの思いだった。

「正宗七機巧ななつのからくり)が壱――無弦・十征矢むげん・じゅうせいし)!!」

ゆるりと両の腕を前方に突出させ、仰々しい技名を響き渡らせる。
其れと同時に、正宗の“指先”が弾け飛んだ――!

<<ッ!? ――ぐぅ!?>>

苦無クナイ)のように、然し其れとは雲泥の差である速度の攻撃が、竜騎兵の装甲関節部を貫く。
首領が反応して二本を弾き飛ばしたものの、残った数本が腕、足の関節に棘を刺す。

<<カッハァ――!! 吾の指は五臓六腑に染み渡るであろう、蛆虫めが!>>

全身から激痛がひた奔り、堪らず膝を付く首領。
正面の正宗は、さながら毘沙門天の化身が如く。
思わず首領の頬に冷たいものが流れる。断罪頭に連れてゆかれる心持ちである。

<<害虫退治に悪党成敗! 天誅推参天罰覿面因果応報ゥ!! 正しく素早く確実にィ! 我が正宗こそ神罰の運び手である!!>>

「う、ぐ、ああぁあああ!!」

其の絶叫は、次に齎される激痛の合図だった。
正宗は鞘から刃を抜く――戦場でありながら、況や生命の危機に窮していながら、首領は其れに視線を奪われた。
其の刀は神韻縹渺しんいんひょうびょう)を体現する神係りな美しさを称えていたのだ。

<<糞虫なぞさっさと始末するが一番よ! 御堂、一気に決めてしまうがいい!>>

「ぐぅうぅぅ……るぅああぁああ!!」

さながら災厄パンドラ)の箱か。
正宗が手面に掲げた刀の刀身に、突如烏枢沙摩明王アグニ)が宿ったのだ。
室内の室温が一気に上昇、壁紙から焦げ付いた匂いが生じる。
周辺一帯を焼き尽くさんばかりの勢いで、其の焔は周囲の酸素を貪り、暴虐の限りを尽す。

「――朧・焦屍剣おぼろ・しょうしけん)!!」

<<う、ぐ、ぐゥ!?>>

刀を横に、腹で受け止め――

<<DAAAAAIAAAAHHHH!!>>









――綾弥一条は此の世の悪を憎む。

其れは父が残した教えであり、何者にも不可侵たる信条でもあった。
生前、一条の父は『悪』とは何か、略奪とは何か、背信とは何か、奸邪とは何かを、一条に聞かせる事が日課だった。
或る日、何故『悪』を憎むのか、何故『悪』は憎まなければならないのか、一条は父に聞いた。
返ってきたのは、理由なぞ無いという事。『悪』を憎むに理由は非ず。人が生まれつき持つべきサガ)であると、父は一条にとくと教えた。

其の答えを、一条はすんなりと理解した。
余りにも合点がいったのだ。『悪』は『悪』。其れ以上でも、以下でもない。
人が夕陽の海を眺めて綺麗だと思う様に、人が塵を視界に入れて汚いと思う様に。『悪』は憎まれる存在であり、憎むべき存在なのだ。

父を己の手で断罪した時から、一条の『悪』を憎む感情はより大きなものとなって、其の背に一本の柱を通した。
世には『必要悪』という考えもあった。正当防衛だとか、責任の所在は最初に為す者のみであるべきだとか、已むに已まれぬ理由で『悪』を為す事は仕方のない事である、という考えだ。
――違うのだ。“例えどんな理由があろうと”、『悪』を為した者は“鬼”であり、滅ぼされる運命であるし、討たれなければならないのである。

一条とて、世間知らずではない。鎌倉に長年住んでいると、嫌でも目に入る光景がある。
職を失い途方に暮れた者が、日々の生活を送るために悪事に手を染める光景。
子を養うために、街角に並ぶ果物を一つ盗む母親の姿も見た。

『悪』を為さなければならない理由はあると、一条は知っている。

其れでも。
父、一導いちどう)の娘として。一条は『悪』の存在を認めたくないし、認めてはならないと思う。
人々が諦めや達観を以て見逃せば、『悪』は決して滅びないのだ。
『悪』が『悪』として罰せられる――其の真理が霧に隠されてしまうのであれば、人は人としての“正しく在る”事が出来ない世になってしまう。

綾弥一条は『悪』を憎み、否定する。
命に懸けて。神魂に誓って――。

「いっ、つぅ……」

腰抜けたまま逃げようとした残党に一人残らず天誅を下した一条は、装甲を解き、覚束ない足元で室内に戻った。
室内は朱一色、血の匂いが充満している。罪人も善人も、一緒くたになって死体の山を築いていた。

「……」

炭となった両の掌を見る。
呆気ない。其れが生まれて初めて人を殺傷した事への感想だった。
特に哀惜や快感が伴うという事も無い。心肺の機能も平時の其れだった。

<<キハーッハッハッハ! 微塵も気に病む必要は無いぞ御堂。吾らは“人間”を殺した訳ではないのだからな!>>

「……当ったり前だ」

転がっている悪党の死体を視界の隅に入れ、一条は誰知らず呟く。
『悪』を討っただけの事。人が食事をし、睡眠するように。一条は信条に沿って『悪』を罰したのだ――。

「あ?」

はたと、革靴に砂利ついた異物感があった。
足元をみやれば、血にふやけた新聞に皺が寄っていた。
踏んでいた右足をどけて、一条は新聞の一面を眺める。

――足利護氏、死す。
――本日六時、幕府伸次衆により、正三位六衛大将領足利護氏殿下の死去が発表された。

大見出しには、其のような文脈が並んでいた。
六波羅幕府の頂点、足利護氏の死――江の島にて知り合った菊池所長の報告通りである。
何でも、先日の八幡宮参拝の折りに“何か”が起こったらしい。
尤も、八幡宮は立ち入り禁止となっており、其の“何か”を知る事は出来ないようであるが。
加えて言えば、此れは極秘情報であるとの事。新聞では護氏の死因について様々な憶測が飛び交っているようだが、拾い上げて読み込む程には一条の興味をそそらなかった。

<<ほう、害虫の親玉が死んだか。実に目出度き事よ。門松でも出してみんか、御堂>>

「ちっ、喜んでもいられねえって。そのせいで余計、こいつらみたいな馬鹿が増えるだろ」

今頃、町民の家では足利護氏の死を祝う声が挙げられているだろうが、余り楽観視し過ぎるのも早計だろう。
大和に蔓延る『悪』は日に日に勢いを増し、跳梁跋扈の限りを尽している。
窃盗や強盗なぞは可愛いもの。強姦や殺人すらもが、当たり前の様に世に蔓延っているのだ。
そんな中、六波羅という重石がどけられたのである。足利護氏の死は、六波羅幕府、ひいては町民に如何様な影響を及ぼすであろうか。

或いは次期大将領を継ぐ者が六波羅の悪政に待ったの声を上げ、家中も其れに続くか――。
否、其のような事態に成ると信ずるに値する人物が六波羅首脳陣には居るとは言えず。寧ろ六波羅の悪政が激しさを増すのではないかと予測する方が容易である。

またぞろ、暫くは六波羅見回りの手は勢いを弱めるだろう。其れによって、町民らは窮屈な思いをしなくて済むという利点もある。
だが、此の惨状を見れば。今迄暗闇に潜んでいた鼠が、我先にと太陽で照らされた街角に現れるであろう事は明明白白だ。
今後、六波羅の混乱に乗じて、好き放題に悪を為す輩が増える可能性は極めて高い。

<<カッハァ! 蛆虫如き何万匹湧こうが取るに足らん! 其の都度吾らが駆除してやれば良いのだ!>>

「そんなに簡単な話じゃねえと思うけどな……」

足利護氏の死によって、大和は動乱の時を迎えている。
何かが起ころうとしている――綾弥一条は鉢巻きを締め直す思いだった。

「けひっ。大活躍のようですねぇ、嬢」

そんな一条に、はたと、耳打つ声があった。
庭先――何時の間に居たのか、其処には死人の如き存在感の薄い人間が縁側に腰掛け、此方に背を向けつつ佇んでいた。

「テメエは……」

襟を掴んで顔を確認するまでも無い。
其の白髪を見れば一目瞭然。思い当たる節は一つしか無い。

「――雪車町一蔵そりまちいちぞう)

手に持った杖を地に立ててゆったりと立ち上がり、小男――雪車町は此方に向かって身を返す。
一条にとって雪車町の風貌は、一言で言えば不快だった。
沈んだ眼底に、木材に人皮を張り付けたような貌である。骸骨の如し風貌は、見る者に不吉なものを予感させる。
よれよれの黒スーツ、其処から襟を立てて出してある紺色の柄シャツは、堅気の者では無い何よりの証明だ。
鎌倉市一帯を纏める野木山組のやくざ。其れが雪車町一蔵だった。

「ヒヒッ。覚えておいでですかい。いやあ、良い匂いだ。どうやらあたしの贈り物、存分に役立ててるようですね」

雪車町は血色の悪い面様に載せてある口元を上げると、蝉の鳴いたような嗤い声を洩らした。
すんと鼻を嗅ぎ、恍惚の表情を浮かべる様は、死神ですら近づくのは遠慮したいであろう薄気味悪さである。

<<ふん。吾は貴様の所有物であった訳ではないわ! 主との出会いは必然である!>>

「へいへい、左様ですかい。で、どうです、正宗の具合は……って聞くまでもねえですかね」

「何しにきやがった」

「へ、へ! つれないねぇ……ま、良しとしやしょうか」

横に顔を背けて、雪車町はにたりと嗤う。

「ちょいとね。お耳に入れときたい情報が御座いやして」

「情報だぁ?」

「いやね、あたしも偶然知ったんですよ。で、調べてみると……仰天って次第で」

「……」

「アァ、消える……なんてね。いやいや、噺家でもこんなのは思いつかねえって事実がねぇ……」

「……もったいぶってんじゃねえよ。さっさと話しやがれ」

「ヒィッヒッヒ! すいやせんね、コイツは性分みてえなもんでさぁ、ヒヒ!」

「けっ」

またしても陰々と嗤う雪車町に悪態を付く一条。
雪車町は何とも愉快そうな面持ちで、揚揚と口を開く――。

「くへっ、実はねぇ……」









――俺が殺した。
其れが一条の問いに対する、湊斗景明の答えだった。

しだれ雨の円往寺に、悲鳴と糾弾を孕んだ絶叫が響き渡る。

来栖野小夏。蝦夷の娘ら。皇路操。
善人も悪人も区別せず殺したと。己は唯の殺人犯であると。

何の躊躇も無く。
詭弁を弄する事も、取り乱して繕う事も無く。
淡々と“悪鬼”は其の事実を吐露した。

露見した悪鬼の正体に、一条が抱いた想い――其れは怒りだったのかもしれない。若しくは哀しみだったのかも。
兎に角、一条は裏切られた。否、最初から一条が勝手に信じていただけであった。唯の思い込みだった。

六波羅の武者や、銀星号にすら立ち向かう正義の英雄。
其の虚像が崩れ去った。

信じたくは無かった。

何故なら、感慨を抱かせぬには、湊斗景明という存在は一条の心を占め過ぎていた。
或いは焦がれていたのかもしれない。
銀星号、六波羅。そんな巨大な『悪』を前に何もできず。
腹いせに町の小悪党を懲らしめる程度の日々に身を窶していた一条にとって、湊斗景明の姿は余りに眩しかったのだ。
戦えば良いのだと。勝てるかどうかではなく、戦わなければならぬと。湊斗景明は一条に一筋の光を差し込ませた。

だが見逃す事は出来ない。
其の葛藤が一条の心の内に蜷局を巻いて、心身を悩ませ鈍らせる。

先刻の野盗らの様に。
『悪』を討つのだ。

妄念を振り払う様に、一条は正義を貫徹する正宗を装甲し、殺意の奔流に身を委ねた。
祖母より手解きを受けた吉野御流合戦礼法を用いて、刀を振り上げる。

戦況は互角だった。
だが、最初から結果は決まっていた。

妖甲が神甲に勝る理由は無いのだ。
正義が邪悪に負ける理由は無いのだ。

死闘の末、勝敗の天秤は正宗に傾いた。
村正の胸部甲鉄に、烏枢沙摩明王アグニ)を纏う切先を捻じ込む。
だが、遅々として刃は奥へと進まない。

知ってしまったから。
湊斗景明が戦う理由を。

『悪』を為さなければならない理由はあると、一条は知っている。
其れでも、父、一導の娘として。一条は『悪』の存在を認めたくないし、認めてはならないと思う。

綾弥一条は『悪』を憎み、否定する。
命に懸けて。神魂に誓って。

躊躇う一条に向けて、湊斗景明の言葉が紡がれる。
――悪は、罪は。赦してはならない。

閻魔を奉る円往寺に、雷鳴が轟く。

今際の父の姿が、一条の脳裏を掠め。
握った柄から、力が抜けてゆく。

綾弥一条は生まれて初めて、直接『悪』を見逃した――。



[35897] 弐捨話 閣議-参
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/08/27 21:29
閣議-参



「そのしぶとさ、おめえの大好きな御器被りみたいだなぁ、雷蝶」

六波羅幕府の最高権力者が集う普陀楽城の天守閣で、気色の良い声を出したのは茶々丸である。
其れに相反して、血色がすこぶる悪い面持ちの雷蝶が、かっと目を見開く。

「だぁれが御器被りか! 大和民嫌いな虫アンケート堂々の第一位に位置する生命体なんかと麿を一緒にしないでちょうだい!」

「おいおい、呂律回ってねえじゃん。あんま無理してっとさぁ、傷がぱかっと開いちゃうよ?」

「ア、ン、タ、の! せいでしょうが!」

此れ幸いにと、からかいに精を出す茶々丸。
不覚にも、してやられるばかりの雷蝶。
犬猿の仲であり、永遠の宿敵でもある二人である。
そんな彼らを、しこたま睨み付ける男が居た。

「黙れ」

獅子吼である。彼は一寸たりとも崩さぬ面持ちのまま、一言のみを告げる。
軍内外に恐れぬ者無し、一目みれば三日三晩は悪夢に苛まれると噂される獅子吼の眼光は今も尚健在である。
而して二人に関しては、怯むどころか、罰の悪そうな顔とすら無縁であった。
こいつが悪いのよ、とでも言いたげな雷蝶はふんと鼻を鳴らす。なおも茶々丸はからからと笑う。
二人の所作に内心激昂するばかりの獅子吼であったが、何とか堪忍袋の緒を結び直すと、次の言葉を紡ぐ。

「貴様ら……くだらん事を喚いている場合か?」

「ほへ?」

「今がどんな状況かわかっているのかと聞いている!」

「たぶん。おじじが死んで、幕府倒壊の危機。……あれ、なんか大変っぽい?」

顎に人差し指を添えて首をかしげる茶々丸。
其の答えに唖然とする獅子吼を横目にやりつつ、茶々丸の言に続く者がいた。

「うむ。なかなかに大変で御座るぞ。ふわっはっはっは!」

袈裟を着込んだ坊主――遊佐童心は、巌のような相貌を破顔させて勢いよく哂いに耽る。

「笑い事ではない! ……おいハエトリシメジにラフレシア。わかっているのなら何か案でも出してみろ。そのために斯うして集まっている」

半ば呆れつつ、そしてもう半分は失望を込めて獅子吼が促す。
此処に居る四人――此れが六波羅幕府の最高権力者達である。
現状、上には誰も居ない。嘗て此の場所で権威を振るい全てを治めると豪語した老獪は、先日八幡宮の傍にある山間で発見された。
物言わぬ骸となって。

「おっけーおっけー任せなさい新右衛門君。あての究極完全なる頭脳で、がけっぷちどころか両足谷底に突っ込んでる六波羅を救う、スーパー天才な案を授けて進ぜよう!」

何処から取り出したのか、茶々丸はハンチング帽を颯爽と被りだした。
相して、『捕獲するので屏風から虎を出せと彼女の先祖に要求した坊主』よろしく、両こめかみに人差し指をやり、うんうんと唸り始める。

「む、む、むむむ。……おっ!」

超異常現象もかくや、彼女の頭部上方に突如豆電球が出現、250ワットの明かりが点く。
瞬間、茶々丸は座布団を蹴り勢いよく立ちあがった。
それから、ずびしっ、と獅子吼を指差す。獅子吼のこめかみに一本の血管が浮き出た。

「こういうのはどうだ? ――名付けて、スーパーサイクロン!」

「……一応聞いておこう。なんだ、それは」

「新しい名前だよ」

座布団に小尻を落として言う茶々丸。

「名前だと?」

「いい機会だしね。ここらで新しい方向性を打ち出してみるのもいいんでないかなーってこと」

「……」

「何事もまずは形からって言うだろー? あ、ゴールドサンダー幕府とかもどうよ。……おいおい、思いの外良いんじゃね、これ」

「悪くないわね!」

「――貴様らの頭が限りなく悪いわッ! ……もう良い。そもそも貴様らに話す舌を持った俺が馬鹿であった」

最早ため息も出尽くしたと、獅子吼は頭を振った。

「ま、ま。意識改革も肝要でござろうが、先ずは目先の要件から片付けましょうぞ」

そしてお決まりの仲裁が入る。
彼らが話すべき事は山程あった。其れこそ富士の山のように。
童心の舵取りによって、開始から手を付けていた議題に戻る。
議題――先日の八幡宮襲撃事件である。

「んー、獅子吼に続いて雷蝶もやられちったかぁ。
……果たして銀星号は、残る四天王をも倒し世に平和を齎す事が出来るのであろうか! ……あ、ちなみにラスボスはいないよ。先に倒されちゃったから」

「死んでないっつーの! というか、あいつが途中で逃げてったのよ! 麿の美々しい武に恐れをなしたんだわ!」

茶々丸の芝居めいた物言いに雷蝶が待ったの声を入れる。
其ればかりか、驚愕の新事実を吐露したのだ。

「…………」

だが雷蝶にとって不幸な事に、其の暴露に驚愕し納得する者は此処にはいなかった。
誰も何も言わない。代わりに一人は鼻で嗤った。そしてもう一人は呆れ、最後の一人は何故か爆笑する始末。

「……な、なによ」

予想だにしない反応に、雷蝶は訝しげに声を漏らす。
果たして返って来たのは、茶々丸のため息だった。

「ねえ雷蝶、よく今のセリフ真顔で言えたね」

伏し目がちで、可哀想な子を見るような眼差しを向ける茶々丸。

「貴様はその戯けた髪に蛆でも飼育しているのか? 脳にまで湧いているとすれば、最早手遅れだ」

相手は心底馬鹿だと再認識したような口調の獅子吼。

「いやいや、雷蝶殿には参り申した! まさか自虐芸を嗜まれておったとは、この童心、寡聞にして知らなんだわ!」

尚も爆笑する童心。

「きぃー! 何が可笑しいのよ! はっきり言ったらどうなの!?」

「いや、言えって言われても、なぁ……?」

苦々しい態で言い淀む茶々丸、其の泳いだ視線の先には――でかでかしく毳毳しい寝台の脚があった。
ゆっくりと視線を上げる。畳を押し潰している鉄製の物体が茶々丸の目に飛び込む。ふかふかの蒲団に、無駄に凝った模様が入っている純白のレースが掛かっていた。
四隅には黄金に輝く柱があり、此れも無駄に凝った装飾付きである。金殿玉楼きんでんぎょくろう)といえば聞こえはいいが、視界にあると常に目が屡々しばしば)するため、日用品には決して適さないだろう。変人を除いて。
そして其の大仰な寝台に仰向けになっている大男。――彼の外見こそ、三人の反応の証左だった。

一言で言えば包帯男ミイラマン)だった。
此処にきて驚愕の事実である。今川雷蝶は妖怪だったのだ。
成る程其れならば彼の怪物じみた強さにも納得がいく。人間でないからこそ彼は最強だったのだ。いや違う。そんな隠された事実は無い。
だが今川雷蝶を知らぬ人間が此の姿を見れば、六波羅を仕切る竜軍中将というよりも、砂漠にある古代遺跡の中で彷徨う事を職務としている何者かにしか見えないだろう。

果たして銀星号は此処まで手傷を負わせた人間を恐れるだろうか。加えて言えば、死闘の末両者痛み分けとなった――そのような報せは、残念ながら届いていない。
尤も、報告がなかった訳では無いが。現場の竜騎兵ら曰く、銀星号は無傷のまま去っていったらしい。

「ま、銀星号相手に生きてるどころか現場の兵士すら守ったんだから、大したもんだよ」

茶々丸が慈愛の眼差しを向けつつ横になっている雷蝶の胸元を叩く。

「痛いわね! あんまりぽんぽん叩くんじゃないわよ!」

獅子の如く吠える雷蝶。
その様をさも鬱陶しそうに見てから、獅子吼が呟いた。

「ふん。逃げた、か」

何処を見る風でもなく続ける。

「大方熱量が切れたのだろうよ。合当理無しに飛翔し、防御壁まで張ってあるのだ。にも拘わらずあれだけ動けるとは無限じみた熱量だが、其れにも限りがあったのだろう。まあ……幸いな事だ」

「うむうむ。いやはや、雷蝶殿は素晴らしい活躍をしてくれたわ。漸く勝機を見付けられたのであるからしてのゥ!」

銀星号の弱点を発見する事は、進駐軍への対応策以上に急務であった。
今迄幾度と無く六波羅軍は銀星号の襲撃に遭ったにも関わらず、為す術もなく蹂躙されたのだ。
また、銀星号の正体も一向に掴めておらず、最近やっと掴んだ情報といえば、ツルギの銘のみ。
其処に漸く差し込んだ光は、四人にとって余りにも眩しく映った――。

「いやー遂にやったね! ……で、どーやって時間切れに持ち込むん?」

筈も無く。結局のところ、大して事態は進展していなかった。

「ふゥふゥ。にっちもさっちも、という事かのゥ」

童心は組んでいた足に肘を置き、顎に手を当てて唸った。

「数打では百機揃えようが勝てぬかもしれんのぅ。また虎の子であった発振砲も効かぬか。
そして勝機である時間切れを狙う前に全滅の憂き目に遭うやもしれぬとあれば……これはもう“投了”かの! ふわっはっはっは!」

膝を打ち、呵呵と嗤う童心。

「笑い事では無いと!」

「いやいや獅子吼殿、もうどうしようも御座らんよ。散々好き勝手をやってきたツケが来たということ。最早腹を括る他あるまいかな?」

而して其の表情には、微塵も諦めという言葉が当て嵌まらなかった。
童心は平凡安泰よりも逆境を好む。其処に自己の破滅があり得るとしても、否、其れでこそ御しがいがあるのだと。
波瀾万丈暴虐武人。其れが童心の信条であり、尊ぶべき生き方であった。

そして獅子吼は、諦めという言葉とは最も縁の遠い男である。

「否。打つ手はある……おい、雷蝶」

獅子吼が不本意そうな口調で雷蝶に声を掛ける。

「何よ」

「貴様、銀星号に勝てるか?」

「麿を誰だと思ってるの、アンタ」

「見え透いた自負は止せ。正直に問いに答えろ」

「――勝てるわ。こんな姿を晒している以上、十中八九とは言わないけれど、ね。あの戦闘で勝機は読めた。次は負けないわ」

「ふん、為らば良し。全くもって遺憾な事だが、此奴個人の戦力が何よりの鍵だ。普陀楽防衛においてな」

そう言うと、獅子吼は後ろで控えさせていた幕僚に視線をやった。
四公方の手元へ、篠川の幕僚から書類が配られていく。

「量で勝てぬのなら、質。六波羅百万騎の精鋭中の精鋭の資料リスト)だ。此処に書いてある全員を公方府より呼び戻し、常時体制で普陀楽周辺を警戒させる」

篠川を顧みれば、物量のみで押せるとも思えず。発振砲も効かぬのなら、他に残された道は此れしか無かった。
書類には、今川雷蝶を中心とした特殊部隊を編成、普陀楽の専守防衛に用立てると記されてある。

「ハァ? アンタ何言ってんのよ? それだと麿の公方府が手薄になるじゃない!」

「阿呆。其れで良いのだ。銀星号の目的を思い出してみろ」

「……武を競う事でしょ。其れがなんだっていうのよ、唯の狂人の戯言じゃない」

「成程成程。奴さんの目的を逆手に取る訳ですな」

「逆手……?」

「銀星号を唯一縛っておる鎖、其れが肝なのよ、雷蝶殿」

得心がいった様子の童心と対照的に、雷蝶は未だ理解に達してはいない。
獅子吼は寝台で眉をしかめている大男を失望の眼差しで眺めた。

「此の軍事再編は敢えて情報を筒抜けにする。其れこそ市井の者共にも知れ渡るようにな。当然銀星号の耳にも入る。
……強者がいない公方府を襲う可能性は低いだろう。奴の正体が倒幕派の犬でも無い限りは」

何時何処から攻めてくるとも判らぬのなら、最初から場所を一箇所に決めてしまえば良いのだ。
馬鹿げた話だが、現状、銀星号に対抗する明確な手段は無い。魔王が襲撃してきた時点で兵力を分散させてある公方府の壊滅は決定すると言っていい。ならば、襲撃自体をされぬようにするしか無い。
尤も銀星号の正体が掴めぬ以上は策が功を奏すとは限らないが、何もしないよりは良いだろう――。獅子吼の案に他の三人が異論を出す事はなかった。

「どちらにせよ、近いうちに普陀楽に軍の主力を集結させる日が来るのだ。其れを数で揃えるか、質で揃えるかの違いでしかない」

「大将領宣下ですな」

「新体制の確立は六波羅の急務だ。何を差し置いても宣下を行わねばなるまい」

「えー我々はー運動男船スポーツマンシップ)に則りー」

「アンタは一生野球やってなさい。あと当て字おかしいわよ。……って違うでしょう! 先ず何より優先すべきはお父様のお葬式でしょうに!」

「葬式だと?」

「ええそうよ。盛大な国葬を執り行うの。大和全土の超宗派の僧侶を呼び集め、朝廷から皇族も出席させないといけないわ!」

「却下だ」

「即答!? 獅子吼、アンタねぇ……!」

「そんな余裕が何処にある? 貴様の辞書には予算という文字が無いのか? いや、そもそも辞書が入っているのかすら怪しい。
然もだ。今、此の状況で。大々的に葬式を行い、六波羅弱体を周囲に知らしめて何の得がある。……ふん、豚の餌にすらならんな」

「お、お、お父様に仕えてる者としてあるまじき暴言ッ! アンタには『忠』ってものがないの!?」

「俺が忠誠を誓ったのは生きていた殿下だ。屍に用は無い。……まあ、せめてもの慰めだ。菊花一輪でも供えてやれば良かろう」

「なんですって!? いい加減にしなさいよ、此の陪臣上がり!」

「なんだ、文句でもあるのか? なら先ずはさっさと其のみっともない傷を治す事だな。唯でさえ醜悪だったというに、もはや視界に入れる事すら困難だ」

「こんのッ!」

「まぁまぁ、御両人。落ち着かれよ」

「これが落ち着いていられますか童心様! お父様にあれだけ目をかけてもらったというのに、恩を仇で返すかのような暴言の数々! もう我慢なりません!」

「お気持ちごもっとも。心気高い雷蝶殿のこと、御父君を想う気持ちは誰よりも深い事でしょうなァ」

「当然です! 大和の平定という偉業を成し遂げたお父様を蔑ろにするなんて、心底馬鹿げてますわ!」

「いやいや、其の孝心は尊ばれて然るべきもの、立派でござる。……ですがのゥ、雷蝶殿。其処を踏まえてでも、此処はひとつ、此の童心めの顔に免じて折れてはくれまいかな?」

「童心様までそんな事をお言いになるのですか!?」

「ま、ま、聞かれよ。いやのゥ、獅子吼殿の意見は暴言に過ぎまするが、一理は有ると思うておりまする。今の六波羅の予算がどれほど窮しているのか、雷蝶殿とて知ってござろう」

「其れはッ……そうですけど」

「無い袖は振れぬのよ。其れでも袖を繕うのであれば、町民に今以上の負担を強いらねばなりますまい。そうなれば……新体制を確立するどころではござらぬ」

「絞りきった雑巾を更に絞れば、雑巾自体が千切れるのは自明だ。そんな事も判らぬのなら、公方職なぞ辞めてしまえ」

「堀越にだって限度ってモンがあんだよねー。銀星号襲撃の損害額凄いよー、もう零が何個あんのか数えんのも面倒くさいっつーの」

「うむうむ、獅子吼殿と茶々丸殿の申す通り、予算の振り分けは軍備再建費と大将領宣下に集中させねばならぬが現状でござる。
加えて申さば、今限られた予算で侘びしく葬るより、余裕の出来た頃に盛大に祀って差し上げるほうが、殿も悦ぶのではないかのぅ……」

「……う」

「無論の事、一時的とはいえ護氏公を蔑ろにするのは儂とて不本意でござる。されども先ずは幕府体制の再編に心血を注ぎ、六波羅の支配を盤石のものとしてから改めて個人の栄誉を称えましょうぞ」

「……ですが」

「貴様が何故其処まで粘るのか……其れを言い当てられる前に身を引け、道化」

「――な、何の事よ!」

「うんうん、此処が潮時ってヤツだ、お猿さん。大徳寺は諦めな」

「うぐ……」

「雷蝶殿」

「……わかり、ましたわ」

「ならぬ堪忍するが堪忍五両思案十両。ご了承、まっことかたじけなく存ずる。いやいや安堵致した、わかってくれたようで何よりでござる!」

「いっつも大変だなー、坊主」

「あぁ、頭が下がる。馬鹿に説いて聴かせる和尚の苦労にな」

議題が逸れたものの、年長者の働きによって事なきを得た。其れは護氏が存命の頃から変わらぬ閣議の風景である。
童心はほうと息を吐き、煎餅の如き両の手を叩き合わせる。

「さてさて、人心地ついたところで、議題を戻しましょうぞ。
最優先事項は、邦氏殿下を大将領の地位に就ける事。各々方、まず此の点に異論はありますまいな?」

「有る筈が無い」

「え、ええ。問題は無いですわ」

「四郎が上様ってかー。なんか変な感じだけど異議なーし」

大将領宣下。此の行事は六波羅にとって綱紀粛正こうきしゅくせい)の意味を持つ。
足利護氏の死去によって、現在の普陀楽は動揺の最中にあるのだ。
篠川壊滅に加えて、今回の八幡宮襲撃である。いくら情報統制に躍起になろうが、人の口に戸は立てられないと云うもの。
幸いな事に市井では噂に過ぎぬようであるが、銀星号なる怪物が六波羅の脅威であるという事実は軍内部で周知の事実であった。
其の事実が、兵の心を蝕み、不安と焦燥に駆り立てているのだ。あの化物は、次は何処を襲うのか、と。

其の動乱を収める方法が、宣下式典である。
華々しい式典を催し、六波羅の権力を再確認させる。式典に軍の主力を集結させ、六波羅の軍事力は微塵も衰えていないと周囲に錯覚させるのだ。
そして四郎邦氏を大将領に据えると共に、既存の体制から脱却を図り、動乱を収める。此の行事によって、六波羅は篠川襲撃、護氏死去で失ったものを全て取り戻す事が出来るのであった。

「大将領宣下を進めるにあたって、朝廷の動きはどうなっているか、和尚」

「いやのゥ、此れがまた暖簾に腕押しというか」

獅子吼の問い掛けに、童心は難渋した声を絞り出した。
四郎邦氏を大将領の地位に就けるには、朝廷の許可が必要である。
実状はともかく、表向きには朝廷が六波羅に政治を委任しているのだ。故に新たな大将領を据えるには、公家衆の首を縦に振らせなければならない。

だが、実の所、朝廷は現状の政治構造を認めていない。
朝廷の望みは、あくまでも皇族による支配である――つまりは失った鎌倉時代の栄光を夢見ているのだ。
故に、六波羅幕府が躓いている今、そう易易と権力を復権させる筈がなかった。

「金でつついてやれば良かろう。其れでも肯と言わぬのならば、俺が一軍を率いて上洛する」

獅子吼の一言に、俄に場がざわめく。
高貴な血が流れていようと、人の欲望に変わりはない。
無論のこと、中には八幡宮の舞殿のような奇人もいるのだろうが、大半は己の権力を高めるという本能に従っているのみ。
ならば、飴と鞭を以て事に当たれば良し――其れが獅子吼の考えだった。
その後、二、三の問答が交わされる。結局、朝廷の許可を得なければ事態は進展しないため、獅子吼の案が採用される事となった。

「では準備の方は其れで良いとして……問題は進駐軍ですな」

国連本部ジュネーブ)の諜報班から連絡があったわね。進駐軍のロビー活動が実を結びそうだって」

「つーことはあれだな。国連決議が出るのは間違いないってことだ」

「――対大和再宣戦。つまりは六波羅への宣戦布告か」

「ライミーが来るんだ。船に砲弾積んで」

「はっ、望むところだ。返り討ちにしてくれる……」

進駐軍のロビー活動、詰まるところ六波羅への悪感情を人民に抱かせるための画策は、戦争集結以来、着々と行われてきた。
六波羅が税を取れば、英国の政治学者らは行き過ぎた悪政だと批判し、反乱を鎮圧すれば、人権派集団が其の様子を殊更誇張して風潮する。
最早欧州人の間では、六波羅幕府は無辜の人々を苦しめる悪の組織と見做されていた。
其れが何を齎すか。戦争の正当化just war )である。英国人は培養された高潔なる心を胸に、躊躇いなく刃を振り下ろすだろう。

「いつ戦端が開かれてもおかしくは無い、ということでござるな。そして護氏公が亡くなった今の機を突いてこないという事は……」

「宣下式典だろーな。一番宣伝効果のある時を狙ってるんだろ」

「間違いあるまい。我々もそのつもりで備えておく必要がある」

そして進駐軍の二つ目の画策は、言うまでもなく大和民への宣伝である。
悪の六波羅の倒す正義の集団として、大英帝国は大和民に認知されなければならない。其れが果たされて初めて、心置きなく露帝との戦に臨めるのだから。
故に、一番印象の残る勝利を納める必要があった。六波羅が新たな門出を迎え、我が世の春を謳歌する直後、叩き潰す――此れ程宣伝効果のある勝ち方は無いだろう。
そうなれば大和民は大英帝国に尊敬と畏敬の念を覚え、反乱する気概など持てる筈が無い。

「さてさて、此れで主だった議題は語り尽くしたかの。いや、随分と肩がこったわ」

開始から既に一時間。諸事諸々を語った折、童心は首を回して肩を揉み始めた。

「まだ終わっておらん。最後に、我々の身の振り方を決めておく必要がある」

「おお、そうであったそうであった! いや、この齢になると、どうにも物忘れが酷くての、ふわっはっは!」

「どの面下げて言っている……まあ良い。混乱平定に諸事の準備、何時までも普陀楽に雁首揃えておく訳にもいかん。が」

獅子吼は周囲を舐めつけるように見る。

「邦氏公を一人残しておけん。よって誰が此処に残るのか、其れを決めておくべきだろう」

うむと頷く童心。茶々丸は我関せずの様子で文明堂の逸品に現を抜かしている。
では、と童心が口を開いた刹那、其処に待ったの手が伸びた。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

雷蝶は寝台に固定された身体を存分に揺らして、懸命に異議を唱えだす。

「……なんだ、包帯男」

「な、何を言い出すかと思えば……! 麿が此処に残るって、さっき決定したばっかでしょうが!」

「其れは、銀星号対策の事か」

「ええそうよ! ……まあ、麿の美々しさを理解出来ていないのは減点だけれど、麿の武を頼りにしてる点のみで言えば、中々わかってるじゃない。なんて思ってたのにどういう事よ!」

「調子に乗るな戯け。俺が認めてやったのは貴様の兵士としての能力だ。貴様の政治能力を買う阿呆が何処にいる」

「こっ、こっ、この……!」

「更に言えば、貴様は手負いも手負いであろうが。幾ら膝丸とて、其の傷を三日そこらで治す事は出来まい。その間、どうやって邦氏公の面倒を見るというのだ」

真打の中でも極一握りの珠玉は、治癒能力においても他を隔絶するのが常である。
多分に洩れず、源氏の至宝である膝丸もまた、奇跡じみた回復を仕手に齎す。全身の打撲、骨折は言うに及ばず、仮に腕が千切れたとしても、糸で繋ぎあわせておけば次第に完治するだろう。
だが、其れでは政務を行う事は不可能だった。

「ぐ……。でも、麿は邦氏にとっての叔父、一番近い肉親なのよ! 麿が傍で政務を見てやる方が、あの子にとっても良いに決まってるじゃない!」

「そお?」

「茶々丸、アンタは黙ってなさい!」

「むゥ。獅子吼殿は雷蝶殿では不服だと?」

「当たり前だ。此の有様では、自分の政務すら満足に出来んだろう」

「左様でござるか。……では誰が残るべきとお考えで?」

「和尚で良かろう。俺は引き続き篠川の立て直しに全力を注がねばならん。そして茶々丸は論外だ」

「そうそう、アイツは論外だからね」

「ほゥほゥ、儂でござるか。茶々丸殿は如何に」

「べつにいんじゃね。古河はあんまガタついてないみたいだし、坊主が帰んなくても大丈夫っしょ」

「ふむ、そうでござるか。困ったのぅ。某は雷蝶殿を推挙しようかとも思うておりましたが、やはり其の御身体では難儀よなァ。また四公方の半数が儂を推さるるとあれば、首を横に振る訳にも……」

「ど、童心様……?」

「なに、御心配めされるな。雷蝶殿は何に気兼ねする必要もなく、治療に専念なさるとよろしい。面倒事はすべて此の童心坊めがやっておく故。ふわっはっはっは!」

「う、ぐ、ぐ」

扇子を出して嗤いながら顔を扇ぐ童心を、雷蝶は悔恨の情を以て眺める事しか出来なかった。
結果、雷蝶、童心が普陀楽に残り、獅子吼と茶々丸は篠川と堀越に戻る。
そして邦氏の政務援助を担当するのは童心であり、雷蝶は治療に専念、銀星号襲撃に備えるという事で決まった。

「ではこれにて閣議は終了という事でよろしいかな、御三方」

ぱちりと扇子を閉じ、童心は三人に終了を促す。

「承知した」

「お疲れっしたー」

「…………ええ」

雷蝶の無念を想わせる声を合図に、閣議の幕は閉じた。



[35897] 弐捨壱話 薄鴇
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/10/03 12:40
薄鴇



<普陀楽 本丸>

落葉の季節である。
松風が蕭々しょうしょう)と鳴り、通りを歩いていた雄飛の左肌が俄に栗立った。
太陽が今にも昇り終える時刻だというのに、開け放しの廊下は何時にも況して肌寒い。
其れは冷えきった外気が廊下に吹き荒んでいるのが主な原因だろうが、精神的な要因も候補に挙げられるだろう。
というのも、普陀楽の城内は何処か陰鬱とした雰囲気が蔓延しており、詰めている兵の様子も芳しく無かったのである。
普陀楽の人間達は心此処にあらずといった態で呆けているか、目を無駄に血走らせているのが大半であった。
常であれば戦気満ち満ちている筈の彼らが何故これ程までに動揺しているのか――理由を推し量るまでも無い。
彼らは只々不安なのだ。絶対強者であったのは昔日の事。足利護氏の死によって、六波羅の矜恃は連袂して消え去ってしまった。
此の先、何かが起こるかもしれない――雄飛は六波羅幕府最大権力者の死によって激動する世情を脳裏に想像しながら、鍛錬の場へと歩みを進めていた。

「うぐっ」

突如頭部前面部に衝撃、鈍い音が頭骨に響き、遅れてつんと鼻先が痺れる。

<<気を付けよ。どうにも危なっかしくてならぬな>>

連れ立って歩く訳にもいかず、鍛錬のため一足先に本丸を出ていた鬼丸から金打声が届く。
今は姿が見えぬ鬼丸の叱責を受け、雄飛ははたと我に返った。考え事をしていたためだろう、周囲への注意を払う事を忘れ、顔をしたたかに襖へぶつけてしまったようである。
幸いにして鼻血は出ていないようだが、何ともやりきれない心持ちだ。微かな苛立ちと多量の慙愧ざんき)を胸に、軽く顔を撫でながら、雄飛は門前の区切り襖に手を掛けた。

此処は廊下の一廓毎に襖――壱枚毎に趣向の凝らした)がしたためられている――で区切られ、鴬張りの上には踏み心地の良い畳が敷き詰められていた。
等間隔に置かれた角行灯に、糊の効いた白襖。左の格子戸からは鎌倉の遠景が見渡せる。
夜になるとさぞかし綺麗な光景を戸奥に映すのであろうが、初日を除いて、生憎と雄飛は夜景を眺めた事がなかったし、大して興味もなかった。

憮然としたまま、足を次の区画へと歩み入れる。必然、其処も同様の造りであった。唯一違うのは、手前一室の襖が開け放たれていた事ぐらいであろう。
尤も雄飛は他人の部屋を気にする趣味なぞ無かったため、首を伸ばしてちらと覗く事もせず何の気無しに前へと歩く――事は出来なかった。
脳の下した命令とは裏腹に、何故か身体は右に進んだのだ。否、両足が浮いている事から右に飛んだ、という方が表現としては適切だろうか。

「っ!?」

夏の風物詩よろしく飛び出したのは果たして――謎の腕であった。其の手の感触を首元で感知してから漸く、心臓を鷲掴みされたような心持ちが心中にひた巡る。
襟が締り、声を発する事も出来ぬまま、雄飛は開け放たれていた室内に引きずり込まれてゆく。
急速に雄飛の視界が狭まった。咫尺しせき) を弁ぜぬ闇である。遮光布を引いてあるのか、室内は墨を塗ったようであった。
唯一の明かりも、襖を閉じる無慈悲な音を最後に露と消える。

(落ち着けッ)

突然の事態に脳が異常負荷を訴える。然し、雄飛は其の要求を意思で持って押さえつけ、何とか冷静になろうと努めた。
混乱し喚く事に何の意味も無い事は、既に何度か経た体験を元に自戒していた。即座、問題解決を図る。
先ず思い立ったのが声を出す事であるが、結果は不可だった。呻き声一つしか出せないのだ。
後ろ首絞めチョークスリーパー)の要領で左腕を首に回され、上げた肘で此方の下顎を完全に押さえつけられている。此れでは口を開く事すら無理であろう。
暗闇には己一つの息づかいしか感じられない。光源が無い事も含めて、此の体勢では下手人の姿は全く窺い知る事が出来ないが、相当の手練のようだ。

「Freeze! Don't move!」

頭の後ろで発せられた恫喝は聞こえ覚えの無い言葉だった。
恐らく英語だろうが、雄飛の中では外来語の種類は其れ一つしか思い当たらないため確証は無い。だが、何れにせよ此の下手人は異人である。
一度鎮圧した脳が再び反旗を翻す。普陀楽に異人が潜入し要人誘拐を実行するなど、考えも及ばぬ異常事態だった。
兎に角脱出しなければ――雄飛は半ば破れかぶれで、自由に動かせた右腕を振り上げ、肘打ちを狙う。

「Fuck it! Don't make a show of yourself!」

が、敢え無く受け止められてしまった。再度後頭部に響く怒声が反撃となって耳を穿つ。
此れ程思い切った行動を起こした相手、何らかの組織に与する者か個人かは判らないが、相当の準備をしてきた筈だろう。
ならば抵抗は無駄、諦めるしか無い――などと早期帰結に至る程雄飛の往生際が良くあろう筈もなし。
既に鬼丸は此方に向かって来ている。ならばすべき事は其れまでの時間を稼ぐ事。
雄飛は後部の抑制を促す声には耳を貸さず、次は両腕で肘打ちを繰り出す――。

「Wow…what a good looking arse! I'll give you a really hot time…」

前に、鳥肌がぞくりと立ち上がった。

「な、何をっ!?」

掌で擦られている感触。尻部から強烈かつ猛烈な嫌悪感がこみ上げ、思わず音程の外れた声が口から漏れでた。
じたばたと身体を必死に動かす。冗談では無い、此れでは一思いに殴られる方がよほど救われるというものだ。
そんな趣味を持つ人間なぞ、何処ぞの禿坊主で十分である。

「お嬢様。悪巫山戯もその辺にしておきませんと、某国の同姓愛撲滅委員会から要らぬ誤解を受ける羽目になりますぞ。というか、アンタ仮にも女でしょうに」

予想だにせぬ下手人の行動により愈々錯乱しかけた雄飛の脳を停止させたのは、聞き覚えのある声であった。
かちりという音と共に、天井から吊り上げてある電灯型の行灯から暖かな明かりが広がる。

It's too terrible words. まあひどい言い草)仮も何も、此の感触が何よりの証明とは思いませんこと、雄飛さん?」

耳元で囁かれたのも、何時かに聞いた事のある声であった。
すると、ずしりと、両肩に人骨大の物体が二つ、押し当てられた。
相して首元がふいに緩む。拘束が解けたのを見て雄飛は其の場から脱出した。
振り返り、下手人の正体を明らかにする。

「……香奈枝さん? なんで此処に?」

見知った姿に、心中に安堵が広がり思わず溜息をつくも、代わりに純粋な疑問が想い浮かぶ。
桜色の長髪が印象に残る女性――大鳥香奈枝は昔日とは異なった服装をしていた。
素朴な印象を受ける、白地の袴である。かといって貧相という訳でもない。
香奈枝の服装は一般的な役人を思わせた。恐らく、そう見えるように敢えて選んだのだろう。
普陀楽において特に顕著であるように、服装は身分を表すものだ。
髪を後ろで括り丸眼鏡をかけている事からも明らかのように、彼女達は役人に扮して普陀楽に潜入しているようである。
其れは何故なのか。香奈枝の姿を普陀楽で見る事になるなぞ、想像の範疇から逸脱して余りあった。

「――――な」

雄飛の問いには答えず、香奈枝は何故か唇を震わせながら、驚愕の態で口元を抑えていた。
たまぎった其の表情は、信じられない物を見た時にみせる其れである。

「ば、ばあや! 此れは一体どういうことかしら!?」

香奈枝は仰々しく声を荒らげ、鞠躬如きつきゅうじょ)と横に従えていた老婆に質疑を投げ掛ける。

「何が、で御座いますか、猥褻罪直後のお嬢様」

「雄飛さんの反応に決まってるでしょう! そんな……真逆具合でも悪いのでは……主に下半身の具合が」

「雄飛様、時に御身体の調子はどうですかな」

「はぁ、至って健康です」

「だ、そうですが? 脳味噌桃漬けのお嬢様」

「そんな筈ありませんわ!」

「はて、そう思う根拠は? 年中発情期のお嬢様」

「論より証拠です! 一見は百聞に如かずです! わたくしのお色気の術を受けた雄飛さんの顔を御覧なさい!」

「全く全然1ミリ足りとも動揺しておりませんな。というかどちらかと言えば不快そうで御座います」

「そ、れ、よ! もし此の年頃の男子がこんな桃色体験をしたら『うえっへっへ。此れで一ヶ月はオカズに困らねえぜ、うえっへっへ!』と涎を止め処なく垂らしまくりながら狂喜乱舞するのが常だというのに!」

「左様で? なんかもう色々と駄目なお嬢様」

「当たり前ですっ。……雄飛さん、やっぱり何処か具合が悪いのでしょう? 主に下半身が」

「いえ、至って健康です」

「ほら見なさいっ」

「何がだよ。……ごほん、お嬢様。殿方の趣味趣向は千差万別であると、此のさよ、耳を酸っぱくして申し上げておりましたな?」

「耳酸っぱくしてどうすんだよ」

「ごほん、えふん。此れは失礼。兎に角そう言う事で御座います。つまり――」

「つまり?」

「――雄飛様はヒンヌー教の敬虐な教徒なので御座います」

「…………そ、そんな」

「でかいと垂れるんだよ、と雄飛様が申しております」

「うっ」

「無駄にスペース取りやがって暑苦しいんだよ、と雄飛様が申しております」

「ううっ」

「どうせあれもでけえんだろ、と雄飛様が」

「もうお止めになって!!」

「言ってません」

何故か特殊な宗教に属する人間だと断言されてしまったが、息もつかせぬ二人の掛合に骨抜かれていた雄飛には、誤解を払う余力は残っていなかった。
そんな内心を知ってか知らずか、香奈枝はがっくりと項垂れ、畳に手をつく。

「こ、こんな馬鹿な事があるのかしら……」

「其れがあるんですよお嬢様。つい先日、あの御方も入信してしまったようですし」

「そうですわね……。ヒンヌー教恐るべし、ですわ……」

香奈枝は天井を仰ぎ、自身の無力を嘆いているようであった。
そうしてから溜息を一つ零して立ち上がる。どうやら彼女は乙に澄ましている雄飛を見とめて、油紙に火のついたようだった漫才の幕を閉じたようだ。

「久方ぶりですわね、雄飛さん。お元気そうで何よりです」

軽く首を傾けて、彼女は再会の言葉を紡いだ。横の従者も其れに倣う。
香奈枝の振る舞いを目の当たりにして、雄飛の背骨に氷解が滑り落ちた。
大鳥香奈枝はあの日と同じく、慈愛の眼差しを此方に向けていたのである。
何も変わらない。其の表情も、其の口調も、其の視線も、慈しみに満ちている。
彼女の態度に雄飛の皮膚が毛羽立ち、ぐらりと視界が傾く。
彼女の態度は平仄ひょうそく)に合わなかった。彼女の態度は道理から外れていた。

びゅうと三冬の風が吹き、格子窓が軋んだ音を立てる。
其れに動かされるように、雄飛の鼓動が早くなった。
鈴を張ったようだった妹とは対照的な香奈枝の双眸。其れは、真っ直ぐ雄飛の瞳へ向けられている。
嫌な汗が頬をつたう。ちりちりと焼け付くような感覚が首元にあった。

「……あ、の」

言い出さずにはいられなかった。
名状し難い何かに突き動かされるように、否、此の状況に耐える事が出来ずになのか、雄飛は口を動かしてしまった。
心の何処かで、やめろ、と叫んだ気がしたが、猛烈な速度で肥大化してゆく欲求が慟哭を覆い隠す。

「はい?」

高熱の際の如く、全身が身震いする。
香奈枝の無垢な眼差しが、雄飛には堪らない。
どんな刃にも勝る鋭さを以って身を切り裂く、そんな思いである。
香奈枝の振る舞いは何も変わらない。糾弾を込めた怨嗟を吐き出すどころか、詰る素振りさえ見せないのだ。
であればこそ、雄飛の精神の均衡は崩壊する。

「おれ――」

唇がわななく。声が震える。
――駄目だ、其れだけは言ってはならない。
そんな心の静止を振り切るように、声帯が喉を震わそうとする。

<<……“雄飛”>>

崖に瀕していた雄飛に救いの手を差し伸べたのは、鬼丸だった。
仕手の体験する事象を把握している鬼丸は、此の場に居なくとも全て見通していたのだろう。
金打声に乗せられた言葉は一言のみだったが、其れだけで鬼丸の言わんとする事は痛いほど伝わってくる。
肺から気管支へと送り込まれていた空気は声帯を通らずに、すんで)の所で引き返していく。

「……いえ、何でもないです」

雄飛は目を伏せほぞ)を噛む。
窮地に一生を得る事は出来たが、代償は猛烈な自己嫌悪だった。

「そうですか」

水火の苦しみに恥じ入るばかりだった。
千切れる程唇を噛みしめる。一体何がどう変わるというのか。
事実は事実として存在するのだ。其処を捻じ曲げる事は神以外には不可能だろう。
何も変わりはしない。もし吐き出しかけた言葉を聞いたのなら、香奈枝は何と答えただろうか。
彼女の事は深く知らないが、恐らく赦免を与えただろう。或いは慰めの言葉をかけてくるかもしれない。
ぞっとする話である。其れは何の問題解決にもならないどころか、自己を畜生へと堕としめる魔性の儀式である。

「花枝は」

彼女は死んだのだ。
懴悔は自身の心を慰めるだけに過ぎない。

「あの子は幸せでしたか?」

表情を変えず、視線も外さずに、香奈枝は雄飛に問うた。

「……」

雄飛は押し黙り、吐息一つも返せなかった。
彼女は幸せだったのか、否、そんな訳が無い。
今も尚、雄飛の目蓋にはあの地獄絵図が焼き付いている。
あのような最後を迎えた人間が幸せである筈が、無い。

「なら、あの子は笑っていましたか?」

二つ目の問いを受けて、雄飛は初めて会った時の表情と、婚礼の儀を終えてテラスで魅せたあの表情を思い浮かべる。
確かにあの人は笑っていた。だが――。

「……はい」

だから何だと言うのか。
彼女は死んだのだ。其れだけが事実であり、他の要素は何の慰藉にもならない。
其れでも有ると仮定するのなら、仇を討つ事だけだ。

「そうですか。良かった」

端無くも香奈枝は相好そうごう) を崩した。
再び三冬の風が吹く。格子窓が軋んだ音を立てる。其れは楽譜で謂うFine フィーネ)の役割を果たしていた。

「そうそう、わたくしが何故こんな真似をしたのか、説明して差し上げないといけませんわね」

香奈枝は思い立ったように両手をぽんと叩いた。
内省に気を取られていた雄飛もまた、今頃になって正気に返る。
態々眼鏡を用意し髪型を変え、こうして秘密裏に接触を図ってきた以上、大鳥香奈枝は六波羅の人間では無い事は明らかだった。
幾ら足利護氏の死によって動揺の渦中にあるといっても、部外者が普陀楽内に潜入し、あまつさえ本丸に辿り着く事は容易では無い。
雄飛は普陀楽に来た日を思い起こす。あの厳重さからいって、普陀楽の門を潜るのは個人ではまず不可能だ。
ならば、大鳥香奈枝は組織に属し、何らかの目的を与えられたと観るのが妥当だろう。
本丸に潜入し誘拐する、斯様な危険を犯してまで接触を周囲に悟られたくない程の目的とは――?
ごくりと、雄飛は喉を鳴らす。

「其れは一重に雄飛さんへの愛に依るもの――女はいつだって、殿方の傍に居たいものなのです」

雄飛は飲んでいた唾を床に吐き戻そうか迷ったが、結局止めておく事にした。
俄に胸を膨らませた期待の答えは、紅葉を散らした香奈枝の艶姿あですがた)のみだった。

「欲情的に体をくねくねさせても逆効果ですぞ。其れとあまり時間が御座いません。雄飛様の監視が開く隙はもってあと数分かと」

「まあ、折角こうして会えたというのに、女の幸せはままならないものですわね」

「其れも此れも誰かさんが最初に巫山戯なければ良かったのですが」

「ほんと、さよには困ったものですわ」

「こいつ皮肉通じねえよ、とさよは若干引いております」

「で、本題です」

やにわに腕を組み、香奈枝は左手の人差し指を掲げる。
雄飛は再び喉を鳴らした。今度は素直に飲み干した。

「実はわたくし達、銀星号を追っております」

「――――え?」

空間が消失したような感覚だった。思わず絶句する。
待ち兼ねた香奈枝の言葉は、雄飛を驚愕させるには十分だった。

「何故、ですか?」

復讐と責務Revenge and duty )

間髪入れず返って来た答えは、何の躊躇も逡巡も無く。
香奈枝は口弁に笑みを漂わせた。其の表情は悲哀に満ち、何故か歓喜に溢れているようにも思えた。

「其れでですね、何か銀星号の足取りがないかと、此処、普陀楽に潜入しました」

てん)として恥じない様子で香奈枝は説明を続ける。
彼女の目的は寝耳に水この上なかったが、何時までも呆けている訳にもいかない。
取り敢えず其の情報を頭の隅に追いやり、雄飛は香奈枝の話に集中する。

「そして見つけました。数枚の書類を。
其の紙切れにはこう書かれていました。――鬼丸国綱における堀越監査、異常無し。
何でも鬼丸国綱に“異常”が起きたとか。其れも独りでに動きだした、なんて摩訶不思議な事が。
……勘、でしょうか、何かが引っかかりましたの。異常といえば銀星号ですし。で、当の本人に話を聞いてみようと」

そう言って眉を顰める香奈枝とは対照的に、雄飛の内心は蒼天の霹靂だった。
足下から鳥が立つ。確かに――今迄疑問に思わなかったのが嘘のように怪しい話だ。
堀越に監査の手を入れるらしいという事や、雄飛自身、些事に気を取られまいと努めていた事もあるが、やはり違和感は拭えない。

「まあ、六波羅と銀星号の関与――この前又聞きした情報とも一致しておりましたので。あ、一応オフレコですぞ」

そして永倉さよの独白によって、更に其の違和感は色濃くなった。

「雄飛さんへの用事とは、ずばり鬼丸国綱の事です」

「鬼丸の、ですか?」

「ええ。ちょっとツルギに聞いてみて下さる?」

<<……済まぬが前にも述べたように、あの時の事は思い出せぬのだ。急いていた事もあるだろう、気がつけば御堂の元へと駆け出していた。
……強いて言えば、何かが送り込まれたような感覚がしたやもしれぬが、此れも夢現のようなものだ>>

話を聞いていたようであった鬼丸は、戸惑うような間を数秒挟んで、金打声を雄飛に届けた。
其れを其の侭、目の前の二人に伝える。

「怪しいわね」

「怪しいですな」

二人は顔を合わせ、異口同音に声を出した。

「分かりました。其れではわたくし達は此れから普陀楽を脱出し、堀越に向かいます」

「善は急げ。ぱっぱと行って参ります」

香奈枝の言説は予想した通りだった。
雄飛の心臓は早鐘を打ったように早まる。
枯渇した砂漠の大地に一滴の雫が滲んだのだ。
雄飛は半ば反射的に身を乗り出す。

「なら、おれも!」

指を咥えて見ているだけなど御免被るのだ。
あんな想いは二度としたくない、という気持ちもある。
妹を見殺しにしておいて厚顔極まるが、香奈枝の身を案じる気持ちもあった。
だが、最も雄飛の身体を突き動かすのは其れ等ではない。
悪を討つ――。
雄飛にとって、ある種本能のようなものだった。
立ち止まらない魚のように。滝を昇る魚のように。
雄飛もまた、悪を討たなければならない。そうしなくては生きられない。

「いえ、雄飛さんは連れていけません」

香奈枝は頭を振り、雄飛の要求を一刀両断する。
而して、雄飛は怯まなかった。

「弱いのは分かってます、足手纏いだって事も! 其れでも、おれは銀星号を討たないと――」

隆車りゅうしゃ)に向かうが如きである事は、雄飛は身を持って知っている。
だが、どす黒い、強迫観念のような固まりが、躰の中でとぐろを巻いているのだ。
理性という名の漂白剤も、体内の芳香族化合物コールタール)を染め上げる事は不可能だった。

「えっと、どう言えば良いのでしょう……」

而して雄飛の裂帛も、香奈枝の首を縦に振らせるには至らない。
彼女は判断に迷う挙措で横の従者に視線を投げかける。

「潜入捜査。極秘任務。インポッシブルで御座います」

老婆の手際の良い助け舟に、香奈枝は宜しきを得た。

「そうそう、其れです。あと、雄飛さんは大鳥を継いだのでしょう? いくら特殊変人さよでも、大鳥家当主を連れ出すのは困難ですし」

「変な呼称を付けるのはやめて頂きとう存じますが、ま、その通りですな」

相して彼女は、論理的思考を雄飛に促してきたのである。こう言われてはにべもない。
何か反論の余地がないか、雄飛は懸命に脳を働かせたが、粗を探そうとする度に、躰は白く染め上がってゆく。
己の身分を鑑みれば、堀越に着くどころか、普陀楽を出ようとした瞬間に捕縛されるのが関の山だろう。
そうなっては銀星号の正体は掴むという目的を遂げられない、二人の足手纏いというより足を引っ張りかねない。
折角上手くいく可能性があるかもしれない調査に累を及ぼすのでは本末転倒だ。
蜘蛛の糸を手放す。思考の末結論を得た雄飛は、呻き声を出して項垂れる事しか出来なかった。

「ですけれど、どうかご安心なさって。何か分かればお伝えします」

「ま、ぶっちゃけ伝達方法が無いかもしれませんが。だからこそこうやって直に話しておいたのですし」

「公方府内部に潜入するのは難しいでしょうし、時間制限もありますから、中々骨が折れるとは思いますけれど……」

「時は無情ですな。あ、もうそろそろお暇しないとヤバげですぞお嬢様」

「あら、もうそんな時間なのかしら? 楽しい時はあっという間に過ぎてしまいますこと」

堀越に銀星号が居るかもしれない。
だが其れでも、結局は元の鞘である。
事態は進展したのだろう。而して雄飛が行動を起こす事は無かった。
巨悪は今も跳梁している。時は無情に流れるのみ。

「其れでは雄飛さん、御機嫌よう。またお顔を見る事が出来て嬉しかったですわ」

「ばっばばーい、で御座います」

敷居の乾いた摩擦音が、雄飛の頭頂部を俄に擽る。
天井から吊り上げられた行灯が、憎相たる姿身を畳に写していた。



[35897] 弐捨弐話 冀望
Name: チキン南蛮◆3d31f480 ID:cdca965c
Date: 2013/10/03 12:37
冀望



木枯らしが木の葉を吹き散らした。一面に広がっている草原が、風に圧されるようにしてたなびいている。
太陽は今まさに隆盛を誇っており、数日前の鬱憤を晴らすかのようだった。
六波羅新陰流道場の横合い、一面平野となっている此の場所で、雄飛は珠になっていた額の汗を拭った。

相してから、荒い息を落ち着かせるため深呼吸を繰り返す。
乾燥した空気から酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出す。其の作業を幾度も繰り返していく。
大島から相模湾を介して送り込まれてくる海風の匂いは雄飛にとって馴染み深いものだった。
周囲の環境は北極から熱帯雨林地域程も差異があるが、位置的にはあの頃とそう変わらないのだ。

そんな風に考えてしまってから、雄飛は軽く内観に囚われてしまっているのに気付いた。
慕情や情景というのは、些細な事で想起させられるものである。特に其れが輝かしく、暖かで、何より二度と戻らない光景であるのならば尚更。
だが、そういった想いは時として毒であった。飲んだ事はないが酒と同じようなものだろう、と雄飛は思う。闘志や意志を昂らせるため、少量ならば有益でも、多すぎると途端に害を齎すものだ。
過剰な思慕は追想となり、瞬く間に頭を怒りで染め上げてしまう。感情の制御が必要だ、何時も鬼丸に言われているように。雄飛は心身を鎮める事に努めた。

「ふう」

冷えた風が頬を撫でる。もう一度息を吐き出す。
雄飛は躰を脱力させ、右腕を前に差し出した。視線を手にやって、じっと見つめ続ける。
集中である。此の鍛錬において最も傾注すべきなのは極限まで精神を一点化させる事であり、其れ以外に必要なものは無い。
周囲を無視する。鳥の鳴声も、空気の冷たさも、風の感触も、意識から取り除く。
何も感じない。何も感じてはならない。意識を右腕の先にだけ集中させる。

先ずは柄から鍔。此処は問題ない。
紫の常組糸を巻き付けている棒を思い描く。漆塗りの金属を想起する。掌の感触、重み、硬さ、全て思い出し、完璧に再現する。
焦ってはならない。ゆっくりと確実に想像する。創造する――。
はたと、腕頭骨筋に負荷がかかった。等速手根骨筋が軽く伸びる。

(よし……)

柄は完成した。本番は此処からである。
鍔の先、金着せの松風がはばき)に差し込んであるなかご)を感知し、其れに続いてある刀身を形作っていく作業に入る。
分厚く、重厚感のある刀身。其れが鎌倉時代後期に打たれた鬼丸の太刀であった。

軽く息を吸い込み、集中する。改めて周囲の諸々を頭の隅に追いやり、鎌倉時代後期の刀――むね)が太くなかご)から峰が反ってある太刀を、雄飛は想像し形作っていく。
此の作業は外見だけでは成し得ない。張子の虎ではなく、本物の牙を持たせるのだ。
武士の魂を宿さねばならない。純然たる凶器として、鉄に鍛冶師の業を帯びさせなければならない。

「ぐっ」

雄飛の脳に刺すような痛みが疾走った。其れからうっすらと、握った柄の先から刀身が浮かび上がっていく。残像の如く朧げだが、太刀の形状ははっきりと現れている。
此処からが正念場である。一縷足りとも気を抜いてはならない。もし張り詰めた気を緩めでもすれば、忽ち刀身の幻が消えるばかりか、脳に深刻な損傷を齎すかもしれない。

「……くっ、うぅ」

こめかみ辺りから血管が浮き出るのを感じる。刀身を投影せんと命令するたび、脳への負荷は増していくばかりである。
刀身の輪郭が滲み出ていくにつれて、神経の糸が限界まで張り詰められていくような感触があった。

<<そう、そうだ。体を脱とし、心を吾と連結させるよう意識せよ。肝要なのは脳のみ。全身全霊で刀を想像し、幻影を手に宿すのだ>>

今意識するのは頭骨内の痛みではなく、柄先から伸びる物体のみ。
地金を、刃紋を、鍛えを。想像し、其処に存在していると己を“騙す”。
刀身の波を一つ漏らさず。岩すらも切り裂く鋭さを宿す。

「…………。で、きた」

震える右手で、太陽の陽光に幻を翳す。
燦々と輝く日輪と刀身の地肌が重なり合い、梨子地肌の細かなにえ)が、眩く煌めいた。
雄飛は思わず生唾を飲み込む。握った太刀はずしりと重く、とても片手で扱いきれるようなものではない。
刀身の見事さに見惚れていると、鎌倉時代に時代逆行したような錯覚が襲った。でありながら、得も知れぬ現実感が同居している。

<<――良し。見事也。太刀、久国。此処に相成った>>

素志を貫く其の存在感が右手越しに伝わってくる。
そも、刀の歴史を紐解いていけば、鉄製の刀剣類が生産され始めたとされる頃は、刀剣は“刺す”か“突く”ための武器であり、“斬る”という手段には用いられなかった。
其の要因には当時の鍛造技術が拙かったためだと思われる。其の頃の刀剣は刃物ではなく、飽く迄も鉄製の尖った塊であったためだ。
縄文時代の石剣から始まり、弥生時代の銅剣、そして鉄剣と進化していった刀剣であるが、平安時代、鎌倉時代になって漸く、“刀”は“刀”として誕生した。
諸刃を捨てて鎬を付ける。鉄を繰り返し鍛え、衝撃への抵抗力を増す。そんな時代の鍛冶師らの試行錯誤の末生まれた刀の刀身は、時勢が望んだ武器の姿、其の鏡写しであった。
鎌倉時代の刀は、所謂「太刀」に分類される物が一般的である。其れは平安時代後期から戦に騎馬が用いられるようになったためであった。
個人戦による馬上決戦を中心とした刀の用法を考えると、攻撃距離リーチ)が長く、丈夫なものが好ましい。また地上から馬首へ斬撃を与える事を考えると、刀身は反っている方が良いとされた。
刀の長大化――其の風潮は劔冑鍛冶においても同様であった。当時の鍛造技術発達によって劔冑の堅牢さに拍車が掛かったため、出来得る限り威力のある刀が望まれたのである。
また、鎌倉時代は剣術は無いと言って良い程であり、其の頃は剣術の祖、鬼一法眼に代表される「京八流」が興ったばかりであった。
よって個人が戦場で培うしかなかった仕手の技術よりも劔冑の能力、ひいては単純に刀の威力が慮れた故に、鎌倉時代の劔冑の刀も押し並べて太刀なのだった。
其の流れは「関東七流」が世に現われ剣術道場が各地に開かれた時代、つまりは剣戟舞踏ブレイドアーツ)が大衆化した室町時代まで続く。
なお、鎌倉時代初期は腰反りと謂うなかご)から腰元のあたりで強く反る刀身であったが、次第に刀身全体を反らせてある輪反りへと移行していった。
また、鎌倉時代後期の刀は初期に比べて刀身の重ねが厚く、身幅が広いという特徴がある。

雄飛は其の鎌倉時代特有の造りをした太刀を両手に持ち替え、軽く振り下ろしてみた後、地面に突き刺した。
太刀のみの装甲――其れが今現在行っている鍛錬を端的に表す言葉である。
この部分転送とも云える技は、実の処、格段に難易度が高いらしい。
完全に使いこなすには修練と才能が必須であり、歴戦の強者でも一歩間違えば忽ち脳死と成りうるとか。
でありながら、雄飛は一足も二足も飛んで、況してや危険を冒してまで斯様な高等技術を習得しているが――当然ながら理由がある。

<<次だ>>

「ぎっ、ぐっ」

其れは鬼丸の陰義――原子掌握――を理解する足がけとなるのが此の太刀転送であるからだった。
創造、変質、強化、再生。多岐にわたる原子操作は、呪句を詠唱すればどうにかなるものではない。
他の陰義も仕手による理解が肝要であるらしいが、鬼丸は仕手が占める割合が特に大きいのだ。
成ればこそ、鬼丸の能力を十全に発揮するには、仕手たる雄飛の修練が必須なのである。
詰まるところ、剣術と同じようなもの。子供でも刀を振り下ろすことは出来る。だが真に其の刀の切れ味を発露させたいのなら、達人になるしかないのであった。

<<二本目も基本は同じだ。久国と勝手が違うところは長さ。必然重量も軽くなる故、努々其の点を忘れるな>>

「……う、あが」

毒舌に尽くしがたい感触に脳を苛まれながらも、雄飛は二本目の太刀転送を終わらせる。
地面に突き刺してある久国と対になる刀が、陽光に煌めいた。
其れを見とめて、雄飛は得も知れず雄叫びを上げそうになった。此処まで辿り着いたのは、今日が初めてだったのだ。

<<太刀、有国。顕現也>>

達成感が契機となったのか、ふっと、一気に全身が脱力した。
雄飛は久国の横に有国を突き刺して、堪らず膝に両手をやる。

「はあっ、はあっ」

精神をすり減らす作業というものは、想像以上に心身がやつれるものだ。
肉体運動ならば体内から警報アラーム)が出るため分かりやすいが、頭だけの酷使ではそうもいかない。
気づかぬ内に疲労は蓄積していた。

<<少し休むか?>>

見透かしたように、横に居る鬼丸がそう促す。
甘い誘惑に全身が歓喜した。

「次っ」

其れを無視するために雄飛は声を張り上げる。
虚勢というのは案外馬鹿にならない。少しだけ活力が戻る。
鬼丸は此方の顔を眺めてから感慨深く頷いたようだった。最も外観は何の動作も無かったが。

<<うむ、そうか。然らば次は合体だ>>

「……次は?」

<<合体である>>

成程、合体か――雄飛は得心がいった振りをしてみた。
地面の太刀を其々片手で引き抜き、思うがままにやってみる。

<<ぶつけてもどうにもならぬ>>

而して想像通り、返って来たのは鈍い音だけだった。
やはり虚勢は虚勢でしか無いかもしれない。

「いや、合体って言われても」

<<水と水とを溶け合わせるように夢想せよ。此れが出来れば、正真正銘、最大威力の陰義を放つ前提が出来上がる>>

最大威力の陰義――?
其の言葉を聞き止めて、思わず雄飛の身が引き締まった。
欲するのは力だ。其れを実現するために、日々鍛錬に身を置いている。
是が非でも其の陰義を使いこなしたい、否、そうしなくてはならないと、雄飛の心が訴える。

「――――」

全身を脱力させ、極限まで集中。
ふいに脳裏によぎる銀。あの魔王を殺傷せしめる技を、力を――。

<<……だからぶつけてもどうにもならぬぞ>>



結局、幾度となく試行錯誤を重ねてみたが、出来上がったのは不出来な体鳴楽器カスタネット)でしかなかった。

<<少し休憩を取る。肩の力を抜いておけ>>

「いや、まだ……」

<<思い詰めていれば成功するという訳ではない。時には気分転換も必要ぞ>>

そう言って、鬼丸は雄飛の肩に軽く前足を掛けた。
すとんと腰が落ちる。言葉で否定しようとも体は正直という事か。
草原に座り込み、雄飛は軽く項垂れた。鬼丸は右脇に移動する。

「なんで何でもかんでも上手くいかないんだよ……」

緑の絨毯を眺めながら、雄飛はぽつりと呟いた。
自分の不甲斐なさに嫌気がさす、其の言葉がぴったりの心境だった。目の前の光景は爽やか極まれりだが、生憎と心は癒されない。

<<……そうであるな、何か話してみよ。気分転換にな>>

穏やかな調子の金打声が耳朶に触れる。
ぼうっと草木を眺めながら、雄飛は鬼丸に話題を振った。

(……銀星号が堀越に居るって話、どう思う?)

木枯らしが草原を吹き散らした。
誰が監視しているかもわからないため思念で送った言葉――名称、俗称。
揺れたのは眼前に広がる草木だけではなかった。

<<可能性はあるやもしれぬな。元より、吾は他とは違う製法で打った劔冑、故に自律行動を取れたとしても不思議ではないと捨て置いておったが……>>

(……やっぱり堀越に行こう)

<<無策に突撃する者は勇敢ではなく愚かである。確証が無い以上、此処を離れても仕方があるまい>>

(でも――)

<<普陀楽上空の警備網が強化されておる。飛び出したところで直ぐ様捕縛されるだけであろう。今はあの女の報せを待つ他あるまい>>

「くそっ」

昨日、大鳥香奈枝の訪問があってから、幾度となく自問して、そして帰結した答え、現状維持。結局は其処に収まる。
何も出来ない現実を直視するのが耐えられず、雄飛は無意識に地面の草を毟った。

<<むう、何の骨休みにもなっておらぬな。一先ず此の話題は置いておけ>>

「……」

<<他の話だ。何かあるだろう。答えられる範囲であれば話してやる故、今の内に疑問を解消しておくと良い>>

「なら、鬼丸が劔冑に成った理由は?」

<<範囲外であるな>>

「なんであの時おれを助けた? なんで場所を知っていた?」

<<さてな>>

「……他とは違う製法って?」

<<黙秘権を発動する>>

「……っは、なんだよ、そりゃ」

何時もの調子の鬼丸に、雄飛はふいに笑みをこぼした。
鬼丸が意図したのかは定かではないが、幾分か心が落ち着いたのは事実だった。

<<他に質問はあるか?>>

「……ああ、そういえば」

<<良し。聞いてみろ。取り留めの無い話でも構わぬ>>

久方ぶりに、雄飛は何の気なしな話をしてみる気分になっていた。
毟ったまま握りしめていた右手を開いて、折角だからと、鬼丸の言葉に甘えてみる。

「鬼丸の言葉遣いって、なんか変だよな?」



<<――――な、に?>>

鎌倉や冬草青く松緑――。
はらりと、青草が風に乗った。

「いや、自分でもなんでこんなふうに感じてるのか疑問なんだけど、なんか最初から違和感があったんだよな。しっくりこねえっていうか」

季節風によって流れてゆく草に視線を追わせて、北西の方を眺めながら言う。

<<…………>>

何か様子がおかしい。
そう感じてちらと右に振り返ると、鬼丸は固まっていた。
比喩ではなく、本当に凝固しているようだった。

「鬼丸?」

<<休憩は終いである>>

「……ん?」

<<鍛錬に戻るぞ。もう十二分に気分は転換したであろう。休みを存分に謳歌したであろう。早く立て、今日中に太刀転送を完全に習得してもらわねばな。そら早くしろ>>

「……あ、ああ、わかった」







さて、此の状況を何と表現すれば良いのか。
青天の霹靂か。干天の慈雨か。

「よく来てくれた」

「はっ。大鳥雄飛、参上仕りました」

蛇のような視線が印象的な侍女らに誘われた雄飛は、ある人物に拝謁する運びとなった。
膝を付き、獅子吼に仕込まれた形式張った挨拶――皮肉にも足利護氏に相対した時と同じ姿勢である――を交わしてから、雄飛は面を上げる。
端正な顔立ちに、あどけなさが色濃く残っている顔。孫に衣装というが、どうにも煌びやかな金の羽織が浮いている印象である。

「うん……」

視線を畳に載せたまま、相貌に愁眉を映している少年。彼こそが、六波羅幕府最高権力者の足利護氏、其の孫である人物、時王丸改め四郎邦氏であった。
覇王たる出で立ちの祖父とは対照的に、彼は所在無さげに手を弄っている。
ちなみに、此の部屋――恐らく四郎の自室だろう――には、他に誰もいない。其れは四郎が侍女の制止を振り切り、人払いに躍起になったからであった。

だが、間違いなく四方の部屋越しには奉公衆が控えている筈である。
流石に鬼丸を連れてくる事は不可能だったため生身では感知出来ないが、間違いなく熱源探知で逐一動向を伺っている事だろう。不審な動きをすれば、直ぐ様奉公衆が突入してくるのは間違いない。
斯様な重警護であるが、雄飛からすれば、此の対応は些か温いのではないかとすら思いもする。何故ならば、足利護氏亡き後の六波羅幕府にとって四郎は最重要人物であり、彼の死は六波羅の終焉にすら繋がりかねないからである。
形ばかりとはいえ、四郎との密会を許可されたのは何故なのか――曲りなりとも身分を信用されているのか、否。大方、此の至近距離を雄飛が詰める前に制する事が出来ると踏んでいるのだろう。
襖越しに、あの夜間天眼鏡ナイトビジョン)が蠢いたような想像が過る。
まあ何方にせよ、雄飛は四郎をどうにかするつもりは毛頭無いため、無用の警護ではあるが。現状、四郎の死が大和の死と同義である事ぐらいは、雄飛も理解出来ている。

「…………」

「…………」

どうにも落ち着かない様相の四郎。
両者黙ったまま一分が経過したところで、雄飛は噤んでいた口を開かずにはいられなくなった。

「あの」

態々此方を指名して呼びつけた以上、いくら幼い主君とて、世間話に花を咲かせるつもりはあるまい。何か用向きがある筈だ。

「……っ。いや、その、だな……」

雄飛は俄かに眉をしかめる。
四郎は慌てふためいた様子で、どう話を切り出していいのか悩んでいるようであった。

「そっ、そうだ、先ずは挨拶から始めよう。――余は四郎邦氏である」

「大鳥雄飛です」

襟元を正して名乗る四郎に、雄飛もまた返礼する。

「…………」

「…………」

会話は十秒足らずで終了した。
それからこっきり三分が経過したところで、雄飛はまた水を向けてみる。

「あの」

「はっ!? あ、ああ、そうだな。今日こうして呼び立てたのは……その、桜子どののことだ」

「桜子殿の」

思いがけない名前に、思わず反復する。

「単刀直入に申す。……雄飛、桜子どのに無体な真似をするのはやめてほしい」

「…………」

「不躾に言ったのは詫びる。でも、どうか聞き入れてほしい」

普陀楽に着いてから何度か、死人に鞭打つような行為をした。其の所業を四郎は咎めているのだろう。
やめろと言われて素直にやめるのであれば最初から行動に移したりなぞしない。だが……。
桜子は、雄飛の予想以上に何も話さなかった。
故に、実際のところ、雄飛も無益な行いかもしれないと思っていたところであった。

「恥を捨てて申し上げますが、願わくば御意を承りたく存じます」

深々と頭を下げる。
結果要求を飲むしかないにしろ、桜子と四郎の関係――其れは知っておくべきだろう。
何故四郎が桜子を案じるのか。両者の立場は提灯と釣鐘に等しいというのに。
岡部の残党たる桜子と、六波羅の長たる四郎。立場を鑑みれば両者に接点なぞ有りそうもないが――と考えてみて、雄飛は内心で自嘲した。

「理由、理由か……」

雄飛の申し入れを聞き止めて、四郎は視線を泳がせた。
言葉に詰まっている様子である。またしても沈黙の帳が降りる。

「桜子どのは……可憐だ」

相して漸く吐き出された答えは、雄飛にとって思慮の外に他ならなかった。

「は?」

「芍薬で、牡丹で、百合の花……」

ぼうっと、熱を帯びた眼差しで虚空を望む四郎の表情は、誰がどう見ても“恋煩い”という言葉を連想させる。

「あの人の辛い顔を見るのは忍びない……」

色恋に疎い雄飛ですら、四郎の様子で全てを察する事が出来る程に。

「つまり、好きって事ですか」

理由が理由だけに、雄飛はかみしも)を脱いだ。

「――う。いや、それは……、うん、その通りだ」

「……分かりました。今後桜子殿に詰問のような真似はしないと約束します」

「ありがとう」

四郎は満足げに頷いた。
此方に拒否権は無く。また今後を見越した上で、六波羅次期棟梁の四郎と良い関係が生まれるのであれば、余りある利点がある。
壱も弐もなかった。

「花を」

沈黙の後、何とも言えない面持ちのままで、四郎は独りごちた。

「花を送ったんだ。昨日、桜子どのに。そうしたら、あの人は……」

かと思えば、林檎のように赤面する。
年相応の喜怒哀楽を見せてから、四郎は遙々と口を開く。

「ねえ、雄飛」

「はい」

「何故桜子どのに会いに行ったのか聞かせてもらいたい」

四郎は目を伏せたままだ。
桜子に焦がれている以上、其の疑問は当然だろう。もしかすると何か勘違いをしているかもしれない。
要らぬ誤解を生まないためにも、そして何より天の与うるを取るために、雄飛は躊躇無く答える事にした。

「後学のためです」

「後学?」

「はい。おれは今の六波羅が嫌いです。作り直せるなら作り直したいと思うくらいに」

「――――」

辺幅を飾らず胸襟きょうきん)を開いた雄飛を前に、四郎は目を見開く。
俄かに四方の襖がざわついたような錯覚もあるが、此の状況は“機”だ。其れも千載一遇と言っていい程の。
逃すわけにはいかなかった。

「桜子殿にお話を伺ったのも其れが理由です」

“読み”が正しければ、此の選択は間違っていない筈。
彼――四郎邦氏の様子を鑑みるに、前代のような思想を持ち合わせていないのは明らかだ。
そして、四郎は岡部の残党に心を移している。ならば。

「やっぱり、そうだったのか。……お祖父様が言っていたとおりだ」

必然、こうなる。
つまりは、雄飛の目的と四郎の目的は合致する。
四郎は何処か得心がいった様子で頷いた。

「聞けば、雄飛は市井の出だそうだけれど」

「はい」

「町のみんなも、六波羅が嫌いなんだろうね」

「ええ」

鎌倉は大和で最も栄えている町だ。
其れですら、糊口を凌ぐ生活だった。

「そうか……」

一歩鎌倉の外に出れば、爪に火を灯し日々を送る人々ばかりだろう。
六波羅だけが悪い訳ではあるまい。情勢というものがある。
だが、其の一言で割り切れる程、町民の苦労は軽くはない。

「……先ほども申したように、僕はもう二度と桜子どのの顔を曇らせたくない。――それで思った。このまま、飾りとして担がれているだけじゃ駄目だって」

何かを決心したような面持ち。四郎は口調の端々に熱を持たせて続ける。
かなえ)の軽重を問う雄飛の賭けは、どうやら功を奏したらしい。

「邪な理由だけどね。でも、もうあんな顔は見たくない……だから、教えてほしいんだ。雄飛が何を見て、何を聞いて育ったのか。僕は……知らないといけないと思う」

「……」

雄飛は大和に微かな明かりが灯ったのを感じた。
岡部桜子と四郎邦氏の出会いは、大和にとって前途洋洋の可能性を秘めている。
少なくとも、今四郎に訪れている変化は行幸だろう。大和の人々にとっても、雄飛にとっても。

<<栴檀は双葉ゆり芳し、か。思えばあの子もそうであった>>

雄飛を通して様子を伺っていたであろう鬼丸の感心したような独り言。
足利護氏の死。其の混乱の渦中に、一筋の灯りが宿っている。
どうすれば良いのか、何が最善なのか、其の悩みを払拭する可能性を、四郎邦氏は秘めていた。

「何故、おれに?」

「え?」

雄飛は最後に、残った疑問を解消する。

「失礼ですが、初対面の人間に話す内容じゃない」

「……そうだね。僕も不思議なんだ。強いて言うなら、似た境遇なのに違う振る舞いが、僕には眩しく映ったのかもしれない」

其の言葉で確信する。
四郎の味方は――いない。彼は孤独なのだろう。だからこそ、半ば初対面の雄飛に関心を持ち、此処まで踏み込んできた。

「これから先、僕一人じゃ何もわからないし、たぶん何も出来ない。だから、雄飛。……出来れば僕に力を貸して欲しい」

春秋に富む少年、四郎の無垢な眼差しに。
雄飛は普陀楽に来て初めて、曙光を見出した。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.20832180976868