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[35651] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2014/11/03 16:25
 《注意》


 この作品はATLUSのペルソナ4シリーズ、およびペルソナ3シリーズを原作とし、主に設定などを改変・追加・再構成した二次創作です。
 筆者に原作を不当に歪めようという意志は毛ほどもございませんが、上記の改変は対象の根底にまで及ぶものもあります。
 小説として書きやすくするため、また破綻させないための苦肉の策ではありますが、原作の忠実な再現を期待する読者の方には、気に障る展開がないとも限りません。お心当たりの方は何卒ご注意下さい。
(一応は原作に沿います。屋台骨を変えるつもりはありません)



[35651] 序章 PERSONA FERREA
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2014/11/03 16:25


 彼は息を呑んだ。
 電車がトンネルに入ってじき、鳴上悠は生まれてこのかた――彼の自意識の許すかぎりの表現において「十七年という果てしもなく永い歳月」――これ以上はないといえるほど驚いた。
 もうかなり前から彼ひとり、貸切状態であった私鉄線の車内、あまつさえ自身の座っているワンボックスの真向かいに、忽然とひとが座っている。窓の外を眺めていたのはものの数秒たらず。荷棚から音もなく降ってきたか、シートの座面から生えてきたのでなければ、自分に気づかれないはずはない。
「ようこそ。…………へ」
 悠はとっさに目をそらした。いやな汗が噴き出してきた。
 目のまえの男、尋常の様子でない。白髪禿頭、薄気味わるい甲高い声、子供のような矮躯をモーニングで装う、このあたりはまだいい。悠の肝を冷やしたのはその異常な、言うなれば悪魔的な容貌だった。原人じみた平べったい頭。巨大な、血走った、見ひらけばまぶたをほとんど隠してしまう、ぎょろっと飛び出た眼球。つるりとして皺ひとつない、血の通っているとも思われない生白い肌。とがった耳。そして鼻! 長い鼻! なにか別の器官であると説明されたほうがまだしも現実的な、非現実的に長い鼻!
 これは車掌かもしれない! 鳩尾に冷たい汗が伝うのを感じながら、悠は大いに錯乱しつつ、東京圏在住者につきものの無智――もしそんなものがあるとすれば――について自らを啓蒙しようと試みた。
 これは車掌かもしれない。片田舎のローカル線ではままあることなのかもしれない。職務の都合上、しろうとにはわからない理由で、この異常なルックスを評価され、大時代的な礼装を制服がわりに、忍者よろしく荷棚やシートに潜伏して善良な乗客をおどかし、自らの職場をベルベットルームだなどと称し、休憩時間にワンカップとあたりめを喫する。なぜ? 切符を切るためでなければなんだろう? 鉄道事業にうとい悠にはそれくらいしか思いつけなかった。
「これはまた」男はちょっと笑って、カップ酒を湯飲みのようにして啜った。「変わったさだめをお持ちのかたがいらしたようだ」
 そしてこっちは――悠は軽いめまいを感じた。
 小男の隣にもうひとりの見知らぬ、こちらは背の高い女が座っている。四月の陽気には甚だふさわない、青い分厚いダブルの外套を首元までかっちり着込んで、秀でた額に汗ひとすじ結ばない。カチューシャでまとめた豊かなブロンド、ほうろうの肌、彫りの深いコーカソイド系の美貌、どうみても日本人のものではない。車内販売員としては隣の小男同様、あまりにも異様すぎるいでたち。
 いや、車内販売員ではないだろう。もしそうならどれほど職務怠慢であるにせよ、いま無心に食べている駅弁を、封を開けないうちに一度は自分に勧めたはず。いまのいままで車内は貸切同然だったし、乗車してからこのかた一度もワゴンを見かけない。そもそも普通列車に車販などない。なかった、少なくともいままでの自分の生活圏では。
「わたくしの名は…………。お初にお目にかかります」小男はイゴールと名乗った。「……おひとつ、いかがです。遠慮なさらず」
 あたりめを勧められるのを控えめに辞退して、悠はいくばくか冷静を取り戻して考えた。
 もちろん、これは車掌なんかではない。
「ここは夢と現実、精神と物質の狭間にある場所。本来はなんらかのかたちで契約を果たされたかたのみが訪れる部屋」あたりめを食いながらイゴールが言った。「あなたには近く、そうした未来が待ち受けているのかもしれませんな」
 罪のない笑いの衝動を抑えかねて、悠は俯いた。口の端の少しく上がるのを感じる。やっぱり車掌かもしれない、それもえらく詩的な。夢と現実! もちろんここはそういう場所にちがいない、イゴールが実に婉曲に、意味深長に表現した彼の職場は。なんとなれば自分はいま夢を見ているのだから。契約? 胸ポケットの乗車券のことを言っているなら当を得ている。ちょっと洒落が利きすぎているけれども。
「どれ、まずはお名前をうかがっておくといたしましょう。ときに」
 イゴールは膝のうえのトレイを持ち上げて、にこやかに悠に示した。どうでもあたりめを食わせたいらしい。
「ほんとうにいりませんかな? けだしお若いかたは遠慮などなさらぬものです」
 悠は名乗った。つまみは固辞した。
「ふーん、ナルカミユウ、いい名ですな」イゴールの言葉にはまんざら社交辞令とも取られない、真率の響きがある。「……どれ、ちょっと拝見」
 イゴールがこちらに身を乗り出してきた。彼の間接の長い、白手袋をつけた手が伸びてきて、悠の胸ポケットの中身を抜いた。ようやく自分の仕事を思い出したのかと思いきや、そこから出てきたのは持ち主のあずかり知らぬ、薄いプラスチックのケースである。手品かとうたがう間にも、イゴールはそれを開けて中身を二枚、三枚と取り出す。トランプかなにか、カードの類らしい。
「お疑いのようですがな、手品ではございませんよ。これは正真正銘あなたの持ちものです」と、イゴールは言った。「タロットカード……しゃれてますな、あなたは。占いを信じなさるくちで?」
 なんとも答えようがなく、悠はだまって首を横に振った。小男はカードをぜんぶ取り出すと、それを目の前へ無造作に放った。
「にもかかわらず、あなたはそのやりかたをご存知だ。ええもちろん人とはそうしたもの、必要のないことがらに拘泥し、見えないものばかり見ようとし、真実を欲しながら虚構に安らう。とは申せ、ご自分を誇りにお思いになって結構ですぞ、お若いかた。若いうちの自惚れがとくに警戒せられるべきではあるにせよ」
 投げ出されたタロットは――夢の世界のできごととして、ことさらそうすべきものでもないのかもしれないが――驚いたことにすべて空中に浮かんでいる。一様に裏を見せて、整然と、悠とイゴールのあいだ、胸の位置で。小男はなおも続けて喋りながら、それを片手でかき混ぜ出した。
「そのお若い身空であなたは、多くのひとの生涯ぬけだしえない、薄く平らかな皮相の世界より、すでにして自由なのです。おまけに遠慮もご存知だ、おおいに誇られて結構! このタロットはいわば、あなたの精神と観念の象徴でございます。もしこの年寄りにささやかな自惚れをお許し願えるのなら、こう言ってしまいましょうかな、あなたはこの部屋にふさわしいと――今は仮のまろうどではございますが」
 悠はようやく返事らしい返事をした。あなたの言っていることがよくわからないと。
「それでかまいません、少なくともいまはまだ」イゴールは鷹揚だった。「さて、せっかくこのようにお誂え向きなシンボルが出てきたのですから、あなたの流儀に反することかもしれませんが、どれ、ひとつこれを使ってあなたの未来を占って進ぜましょう。そう遠くない未来のことを。なに座興でございます……ひょっとしたら有益かも」
 イゴールが指をひとつ鳴らすと、さんざんかき回されて雑然としていたカードが一斉に、号令をかけられたようにぴしっと整列した。蜘蛛の脚を思わせる長い指が、その中のひとつを選り出す。
「ほう、近い未来を示すのは、塔の正位置。どうやら大きな災難をこうむられるご様子。そしてその先の未来を示しますのは――」続いてもう一枚。「――月の正位置。迷いと、謎を示すカード。ウフフじつに興味ぶかい! ご覧なさい、あなたはこれから向かう地にて災いをこうむり、大きな謎を解くことを課せられるようだ」
 まるでよかったですねとでも言わんばかりの口で、イゴールはこの不吉な予言を喜んでいるように見える。先にあれほどひとを持ち上げておきながら、今度はその当の本人の不幸を喜んでいる、この小男の頭の中はいったいどうなっているのだろう。悠はささやかな抗議がわり、眉根を寄せて不快感を表明した。イゴールは気にしたふうもなかったが。
「近く……あなたはなんらかの契約を果たされ、ふたたびこちらにおいでになることでしょう。今度は仮ではなく、正式なお客人として」
宙を漂っていたタロットがひとりでに、元のケースの中に戻っていく。イゴールはそれに蓋をして、どこから取り出したものか金いろの帯で丁重に封をすると、悠の飲みさした緑茶缶の置いてある、窓際のサイドテーブルにそれを置いた。
「今年、あなたの運命は節目にございます。もし先に言った謎の解かれなかったばあい、ともするとあなたの未来は閉ざされてしまうかもしれません……フフフそのような顔をなさる! ご案じなきよう、わたくしの役目はお客人がそうなりませぬよう、手助けをさせていただくことでございます。――そうそう、ご紹介が遅れましたな」
 イゴールが隣のブロンド美女に目配せした。もっとも女は箸を縦横するのに夢中で、彼の合図に気づいた様子はない。今まで余裕綽々であったイゴールの貌にはじめて、このときほんのかすかに困惑らしいものがよぎったのに、悠はなんとはない好感を持った。この二人は悪魔的かもしれないけれど、どうも悪魔ではなさそうだ。悪魔はこんなに抜けてないだろうから。
 マーガレット、と窘められて初めて、女は卒然と箸を置いた。ちょっと赤くなって、慎ましやかに口元を手で隠して、今し口に放り込んだ里芋をゆっくり咀嚼し終わるまで、イゴールが場をつないで「これはマーガレットと申しまして……わたくしと同じ、ここの住人でございます。ええ彼女はですな」などと言い繕っていた。
「お客さまの旅のお供を務めて参ります、マーガレットと申します」マーガレットがようやく口を開いた。そしてイゴールの真似であろうか、駅弁に添えてあったみかんを悠に差し出した。「……おひとつ、いかがです。遠慮なさらず」
「詳しくは追々にいたしましょう、少しおしゃべりが過ぎましたな」マーガレットのみかんはやんわりと取り上げられた。「この次は、この部屋の主と、その客という立場で、もっと実際的な事柄をお話しできましょう。その時までしばしのお別れでございます――その、いちおう確認させていただきますが、ええ、これはお召し上がりに?」
 悠は丁重に辞退した。
「そうでございますか。では、ごきげんよう……」





(すごい夢を見たな)
 車内アナウンスが次の停車駅を告げている。次はいよいよ目的地、終点の八十稲羽。
 にわかに暑さを覚えて、悠は羽織っていたブルゾンをもどかしく脱いだ。すこし暖房が強いようで寝汗をかいてしまったようだ。でもこれで起こされなければ、きっと終点まで眠りこけていただろう。
 塩川で四回目の乗り換えがあって、それからいくつか駅を経て、いつごろ眠ってしまったのだろう。
 長旅の疲れが出たのに違いないが、まったく中央本線を外れてからの景色の代わり映えのなさときたら! 親子ともども東京生まれの東京育ち――神田生まれであった祖父に御免をこうむって「江戸っ子」――の悠には、緑の丘だの田んぼだのビニールハウスだの木製の電柱だのは、おもしろくもない、風情を感じるどころかひたすら眠たいしろものであった。
(悪魔と鈍行で旅、か)
 あるいは彼らは、ひょっとしたら自分が眠っているうちに下車したのかもしれない。この景色にうんざりして。
 悪魔だって同じ悪さをするなら、こんなド田舎より都会のほうがずっと仕事も捗がゆくだろう。まずホテルなどなさそうだし、ともすると旅館か、民宿のたぐいすらないかもしれない。もうすっかり暖かくなったが、悪魔も露天で野宿はさすがにイヤだろう。泊めてやろうにもこっちだって今日から居候の身なのだ。途中で降りて大正解……
「しまった、連絡……!」
 悠は慌ててブルゾンのポケットをまさぐった。これからやっかいになる「居候」先から、着く前に一報いれるようにと言われていたのだ。引っ張り出した携帯のバックパネルには無情にも「着信三件・メール一件」の文字。あのふたり、どうして起こしてくれなかったんだ――悠は舌打ちがてら、思わず夢の中の道連れに悪態をついた。
『駅まで迎えに行く、八十稲羽駅 改札口に16時』
 このメールの送り主は堂島遼太郎。母の疎遠きわまる弟で、彼女いわく「あんたもちっちゃいころ一回だけ会ってる」らしい、初めて会う叔父。今日から一年の間、保護者となる人物。
 いまさらとは思いつつも、悠は忙しく返信を認めた。
『返信遅れました。寝ていました。もう着きます』
 送信ボタンを押すまえに車内アナウンスが入り、電車の速度が落ち始めた。本日はJR東日本をご利用いただきまして、まことにありがとうございした。まもなく終点、八十稲羽、八十稲羽。お出口左側です。編集中の内容は破棄されます。OK。
 悠は返信をあきらめて携帯を閉じた。返信遅れました? 言わずもがなだ。寝ていました? 都合四件の連絡を無視する理由といえばそのくらいだ。もう着きます? 見ていればわかるだろう。左手首のメモヴォクスは三時五十四分を示している。いまごろ駅前に到着しているにちがいない。
 降りる準備を整えながら、悠はこの四時間強にも及ぶ長旅と、これから自分を待っているであろう、未知の生活をぼんやりと想った。なにが起こるか? なにも起こるまい。ただアスファルトが土石に、鉄筋コンクリートが樹木に、無数の街灯やネオンに代わって夜空に星が満ちるだけ。
(テレビドラマじゃあるまいし)
 悠は苦笑した。自分の頭の中にあるのはこういう、使い古された「イナカ」というステレオタイプだ。だけ? ここのことをなにも知らないのにどうしてなにかと比較できるだろう。ここはおれの知らない世界。稲羽市八十稲羽、知らない町。パリやモスクワと選ぶところのない、知らない町。なにが起こるかわからない。なら努めてなにも起こすまい。いつもどおり、周囲と適度に付き合って超然としていよう。一年の我慢、たった一年間。すぐ過ぎる。
 電車はゆっくりとホームへ滑り込み、ちょうど窓の前に駅名表示板が見える辺りで停まった。昭和を感じさせる白いペンキ塗りの、木製の古いタイプ。東稲羽から八十稲羽へ、そのあとはペンキの地ばかりでなにも表記されていない。
 もちろんここが終点だった。だからこの先は空白。悠にはそれがなにかよい暗示のように思われた。ここは人生の休憩所、ここでの一年間はきっとなにも起きず、白い平和だけが待っているのだ。せいぜいのんびりすればいい、ここで「イナカ」を勉強するのもいいかもしれない、こんな機会はたびたびないだろうから。
(左遷された会社員って、自分をこういうふうに慰めたりするのかな……)
 ひとつため息をついて、サイドテーブルの緑茶缶に手を伸ばそうとして、悠は凍りついた。
 彼は息を飲んだ。
 鳴上悠は生まれてこのかた――彼の自意識の許すかぎりの表現において「十七年という果てしもなく永い歳月」――これ以上はないといえるほど驚いた。
 サイドテーブルに置いてある飲みさしの緑茶缶、その隣に、金色の帯で封をしたカードケースが忽然と置かれていたのである。





 駅の待合室には誰も――それこそ駅員すら――いなかった。
 室内は古くこそあれ、寂れた印象はない。木と火種とかすかな煙草の匂い、くず入れの半ばほどを埋めるゴミ、替えられてそれほど経たない蛍光灯、そこにはひとの気配の残滓が漂っている。利用されていないわけではない、たんにこの時間帯に電車を利用する人間が少ないだけだろう。
(いかにも終着駅……って感じ?)
 実際そういう題で二、三の画家に描かせれば、こんな絵ができあがるにちがいない。飴色に光る板張りの壁、そこに貼られる四隅の黄色くなったなにとも知れぬポスター、錆びた画鋲、マホガニー色の古いベンチ、たぶんしまうのを忘れられているのだろう、時代錆の刷かれた黒い立派なガスストーヴ――薪燃料のものに似せてある――が二台。上は梁材むきだしの古民家のような天井、下はゆるやかに波打った手作り感あふれるコンクリート床。完璧である。
(いや、三和土、だな。コンクリートなんて横文字は似合わない。タタキだ、タタキ)
 こういう前世紀の遺物のただ中にあって、たったいま通過してきたぴかぴかの自動改札機と券売機――たぶんつい最近設置された――などはまったく場違いな異物にしか見えない。こんな駅には昔の映画よろしく、定年間近の枯れた駅員が改札バサミをカチカチやりながら待ち構えているのが似合わしい。
(あれだよな、たぶん)
 堂島とおぼしき人物は改札を通る前、すでに視界には入っていた。待合室の入口は開け放たれており、その向こうの寂しい車だまりに、大小ふたつの人影の佇んでいるのが見える。明らかに人待ちの様子だ。悠はブルゾンのジッパーを上げると、重たいボストンバッグを引きずるようにして駅舎を出た。
 異郷の地はすこし寒かった。
「おーい、こっちだ」
 堂島らしい男が女の子を従えて近づいてくる。
 背は悠と同じくらい。歳はたしか四十二、三と聞いていたが、彫りの深いせいか実際よりすこし老けて見える。彼の姉の面影はまったくと言っていいほど見つからない。童顔気味の母と比べれば弟というより兄に見えた。
「おう、写真で見るより男前だな。もうちっと細いかと思ってたが」
 がっしりした精悍な男で、すこしくたびれたような、独特の色気のようなものが日焼けした面に刷かれている。無精髭、くつろげた襟、皺の目立つシャツを腕まくりし、ネクタイは緩みがちでちょっと傾いているのに、そういう態がだらしないどころかむしろ粋に、誂えたようによく似合う。これで銜えタバコが加わればすぐにでも、刑事ドラマかなにかのロケへ出発できそうだ。
「ようこそ八十稲羽へ。お前を預かることになってる、堂島遼太郎だ」やや戸惑いがちに、遼太郎が握手を求めてくる。「ええと、お前のお袋さんの、弟だ。いちおう挨拶しておかなきゃな」
「母がよろしくと」彼の手を握り返しながら、「これから一年間、お世話になります」
「ああ、よろしく。しっかし……でかくなったなあ。驚いた、俺とそんなに変わらんな。前に見たときはお前こんなにちっこくて」遼太郎は笑って、自分の腿のあたりを示した。「覚えてないか。またぜんぜん懐かなくてな、あんまり泣くもんだから姉貴がもう近づくなってなあ。ついこないだのことだとばっかり、思ってたんだがな……」
「覚えてませんけど、小さいころ、その話はよく聞かされました。あんたにはおっかない叔父さんがいるって――言うこと聞かないなら叔父さんのとこに貰ってもらうよ、なんて」
「なに、そんな話になってたのか。なんだひとのこと言いたい放題だな」口ほどにもなく、遼太郎はむしろ嬉しそうにさえ見えた。「俺も同じことすりゃよかったな。なあ菜々子、お前にはおっかない鬼婆みたいな伯母さんがいるんだぞ――ああ娘の菜々子だ。聞いてるだろう」
「ええ」
「ほれ、挨拶しろ」
 最前から遼太郎の背後でこちらを盗み見ていた女の子が、促されておずおず出てくる。年頃からするとちょっと整いすぎた鼻を持つ、眼のぱっちりと大きい、豊頬の、ひどく愛らしい女の子だった。まず完全に母親似だろう、貌の造作たるや父親と伯母なみの隔たりがある。体つきも華奢このうえなく、小学一年ということを考慮しても背が低い。たぶん背の順で「まえならえ」をしたとき、両手を前に出さないでいいくらいに。遼太郎は180センチ前後の偉丈夫だからして、まず父親の遺伝子の影響はかなり薄いと見ていい。
「ほら」
「…………」
 菜々子はまったく困り果てた様子で、なにか口の中でもぐもぐ言ったあと、すぐさま父親の背後に引っ込んでしまった。
「お、なんだよ……ははあ、こいつ照れてんのか」遼太郎は娘に尻を引っぱたかれた。「いてっ、あはは、恥ずかしがることないだろうが」
「よろしくね、菜々子ちゃん」
 菜々子はたちまち茹で上がった。
「人見知りするほうじゃないんだがな……まあ、このくらいにしてやってくれ、続きはうちでやろうや。――そうだ菜々子、悠といっしょにうしろ座るか」遼太郎はふたたび暴力による抗議を受けた。懇願の眼差しも加わった。「いてて……なんだいいだろ? 悠の荷物、となりに置かなきゃな。置いたら乗れないだろ」
「おとおさあん!」
「わあかったわかったよ。悠、車こっちだ――ククなに照れてんだか」
 先導される途中で、父親の腰に磁石みたいにくっついていた菜々子がとつぜん走り出して、白いSUVの助手席へさっと滑り込んでしまった。悠と一緒に乗る気はもちろんないようだ。遼太郎が笑い含みに振り返る。
(印象、悪くしたかな)
 よくよく人見知りする子か、さもなければひどく嫌われたか。悠はちょっと落ち込んだ。
 一人っ子であり、同年代の人間に代えて書籍と静寂を親友として選び、平穏ではあっても少しく孤独に暮らしてきた悠にとって、これから一年間いっしょに生活する空間に同じ「こども」がいるという事実は、いまさっき会ってみてはたと気づいたのではあるが――かなり嬉しいものだったのだ。
「気を悪くせんでくれ」遼太郎が見透かしたようなことを言った。「単純に照れてるだけだ。マセたな、あれも」
「はあ」
「さ、乗った乗った――ああ、それと悠」
「はい」
「シートベルト、しろよ」
 車は駅を出たあと法定速度に則って、右手の青田の縁をなぞるように走り出した。
 田圃はいったい幾反あるだろう、最中に取り残されたようにひと叢、エニシダの黄色い花が見えるほかは、遠く山裾まで達するかと思われるほど広範だった。いちめん澄んだ泥色に覆われている中に、碧玉色の剣山のようなものがぽつぽつ浮いている。あれが秋には稲になる、はずだ、実際に見たことはないが。
ひょっとしたら――悠は窓に寄ってぼんやりと考えた。こういう地方の学校って、カリキュラムに田植えや稲刈りが入っていたりするのだろうか。
(あとで聞いてみよう……あったらかなりイヤだな)
 そう、それと、タスポを借りられるかどうかも。車内は薄く煙草の匂いが染み付いている。遼太郎も吸うのだ、ただ、未成年者の喫煙に難色を示しそうではあるが……。





 駅を発ってしばらく、助手席の菜々子が弱り切った呻きを漏らし始めた。
「お父さん」
「ん?」
「どこもよらない?」
「んん」
「…………」
「なんだよ」
「……トイレいきたい」
「あー……うちまで我慢できないか?」
「できない」
「ふーん……悠」遼太郎がバックミラー越しに後ろを覗いてきた。「スタンド寄るぞ。あとついでだ、なんか買っておくもんあるか」
「いえ、とりあえずは――荷物、もう来てます?」
「おお来てる。そうそう、ありゃいったいなんだ? えらい重かったが」
「本です、ほとんど。全部は持ってこられなかったんですけど」
「ほお、勉強家だな。そういや姉貴もガリ勉だったな、血だな。なんか資格でも取るのか」
 遼太郎にとっては読書イコール勉強イコール資格取得らしい。
「趣味です、ただの。つまり趣味はないってこと」
 助手席の菜々子が後ろを覗き込んできて、わからないというふうにして眉根を寄せた。
「趣味、ないんだ。だから本よむのが趣味。菜々子ちゃんは趣味ある?」
「……ないのに、あるの?」
「そう」
「?」菜々子が小首をかしげた。
「趣味、ある?」
「シュミ、ないよ」
「じゃあ、だれかに趣味はありますかって聞かれたとき、こう言えるね。趣味は読書ですって」
「??」菜々子の首が反対側にかしいだ。
「……なんか禅問答みたいだな」左手のスタンドへハンドルを切りながら、遼太郎が唸った。「で、そのこころは?」
「菜々子ちゃんの従兄弟は暇人ってことです」
「???」
「らっしゃーせー! おらーい!」
 ウィンドウ越しに威勢のよい声が聞こえる。若い店員が駆け寄ってきて、遼太郎の車を誘導し始めた。
「乗ってるか?」遼太郎は車載の灰皿と格闘している。「ええ取れねえな、ガタきやがって……俺は降りるが」
「トイレいく」と、菜々子。
「降ります」
 外はやはり少し寒く、ガソリンの臭いと、それに混じってなにか煮炊きする芳しい香りが漂っていた。スタンドは位置的に商店街の入口にあったが、その境界は立ちならぶ家群の庇間と癒着してひどくあいまいだった。いまこのスタンドが爆発したら、たぶん商店街のほとんどすべてが類焼するに違いないほどに。
「トイレ、ひとりで行けるか?」
「うん」
 菜々子は事務所のほうへ歩きかけてすぐ、戸惑ったように立ち止まった。場所がわからないのだろう。
「奥を左だよ」車を誘導した店員が声をかけた。「左ってわかる? お箸もたないほうね」
「わかるってば」菜々子はムッとして駆けていった。が、やはりわからないようでまごまごしてる。
「左いってェ……違うそっちじゃない、戻って。そうそこ」件の店員が声をはりあげて菜々子を操縦した。「そこ。ここ男女兼用だから。うん、そこだから、だいじょうぶ!」
「満タン頼む、レギュラーでな」と、遼太郎。「あんまり入らんが」
「あ、はい、ありがとうございまーす!――どこかお出かけで?」
「いや、こいつを迎えに行ってただけだ。東京からきょう越してきてな」
「へえ、東京からすか」
「あー、あと灰皿……かたしといてくれ」
 遼太郎はそれだけ言うと、悠を誘うでもなく事務所のほうへ歩いていってしまった。店員は運転席に顔を突っ込んで、おそらく強情な灰皿に苦戦を強いられているのだろう、「あれ、えー、なんだよコレ」などとぶつくさ言いながらごそごそしている。辺りに人気はまばらで、悠に構うものはいない。菜々子も戻ってこない。取り残されたかたちだ。
 ほかにすることもないので、悠は歩道まで歩いて出てみた。目抜き通りから八十稲羽商店街の軒並みがよく見える。昔のガス燈めいて洒落た、クラシックなデザインの街灯が眼を引く。
(なつかしいって感じるのは……どうなんだろう。こういうところに住んだこと、ないはずだけど)
 ぱっと眺めたかぎり、三階建て以上の物件は見当たらない。大通りを挟んで密集しているわりに車道をひろく取ってあるせいか、街にはそれほど強い影が落ちずに済んでいる。あまり流行っていなそうなわりに明るい印象を受ける。が、色合いは乏しい。そのせいか彼方にとおく聳える、方形の赤い看板がやけに目立って眼に飛び込んでくる。鮮やかな赤地に白抜きの文字で「JUNES」――こんなところにも一応ジュネスは来ているらしい。
(うちの周りにこういう趣を好むひと、けっこういそうだ。あの街灯なんかもうアンティークだろう、好きなひとが見つけたら引っこ抜いていきそうだ――それに比べると)
 こんな全体的に褪せた色合いの中で、あの鮮紅色はどこまでも異質である。ある日とつぜん空から降ってきたか、地面から生えてきたかのような、どこまでもここの産という認識を拒む。
(あれを風変わりな天守と割り切れば、この対比もまあ、受け入れがたいというわけでもないか)
 質実で、丈夫で、経年に褪せた、それでも元の品質のよさを彷彿とさせる、古着のような町だった。その辺の路地から割烹着姿のおばさんがうちわ片手に出てきて、古式ゆかしく七輪でサンマなんかを焼きはじめそうな……
「ねえ、きみ、高校生?」
 声に振り向くと、件の店員が踵を引きずって歩いてくるところだった。遼太郎のSUVには赤い給油ノズルが刺さっている。ほかに車もなく、あらかた仕事を終えて退屈したのだろう。
「はい。高二で――灰皿とれました?」
「え? あはは……あー、取んないから中身だけ捨てた」
 店員はあっけらかんとしている。学生風の強く残る口で、年のころはたぶん、二十に届くか届かないか、といったところか。
「東京から来るとさ、なーんもなくてビックリっしょ、ここ」
「東京に住んでたんですか?」
「んやあ、遊び行ったことあるだけ。そう思うもんなのかなってさ」
「とりあえず、東京にないものはいくつか発見しましたよ」
「へえ? なになに」
「叔父と従姉妹、とか」長い鼻の悪魔とか、健啖なブロンド美女とか。「今日はじめて会ったもので」
「へえー……じゃ、いまんとこ新鮮でいいね。でもじき退屈すると思うよ、高校の頃つったら、友達んちいくとか、バイトくらいだから」
「なら、当分は退屈しそうにないかな。バイトしたことないし」ついでに「友達んち」とやらにもほとんど行ったことはないのだが。「なにか買いたいものができたら考えるかも」
「おっ、じゃ、ぜひ考えてもらおう。じつはさ、うちいまバイト募集してんだ」ここまで誘導するのが目的だったのか――悠は内心はたと手を打った。「ひといなくってさー……最近じゃみーんなジュネス行っちまいやんの、ほらあれ、見えるっしょ? 新しくできたデパートなんだけど」
「見えますね」
「今の時間帯だっておれ入れてふたりよ? 六時からなんかひとりだし……ま、あんまひと来ないけどね」
「はあ」
「候補に入れといてよ。学生でも未経験でもぜんっぜんオーケー、仕事も簡単、サルでも片手でできるし。シフトかぶったらおれなんでも教えちゃうから」と言って、店員はポケットからなにか取り出した。「きみ、タバコ吸う?」
「ま、たまに」
「おっ不良高校生! じゃ、ま、取っといてよ」
 店員の差し出したのは「MOEL石油」と表示のある、ライターとポケットティッシュだった。
「いちおう非売品。事務所いきゃ腐るほどあるけどね」
「いただきます……」
 受け取りしな、店員はふいに粗品ごと、悠の手を両手で握って上下に振った。危うく声をあげそうになる。気さくであけっぴろげな彼には似合わしからぬ、それはぞっとするほど冷たい手だった。
「ごめん冷たかった?」手を離すと、店員は笑い含みにそう言った。「外作業やってっとさあ――おっと仕事しないと!」
 菜々子が車の傍に戻っているのを見て、仕事を思い出したらしい。店員は会話を切り上げて押取り刀で給油口まで駆けていった。給油機のデジタルメーターは七リットル足らずで止まっている。たしかに「あんまり入ら」なかったようだ。
「えー……ぜんぜん入ってねーし……!」
 店員が大車輪で窓ガラスを拭き始める。それを菜々子がこわごわ眺めているのを微笑ましく見ているうち――悠は突然、強烈なめまいを覚えてしゃがみ込んだ。先にもらったライターとポケットティッシュが敷石に落ちる。冷たい汗がどっと吹き出てくる。加えて最前から辺りに漂っている夕餉の香りが吐き気を誘発して、彼はたまらず膝をついた。
(立ちくらみ? ふつうじゃない、風邪? こんな急に?)
「だいじょうぶ?」菜々子のものだろう、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。「くるまよい?」
「うん……ちょっと、酔ったかも」などと言っている間にも、今ほどの不調は嘘のように消え去ってしまった。「でももうよくなった。だいじょうぶ」
(今のはなんだ? なにか……病気の兆候じゃなきゃいいけど……)
「ぐあい、わるいよ」菜々子は心配そうにしている。「おいしゃさんいく?」
「ううん、だいじょうぶ、本当に」貰った粗品を拾って膝を払って、悠はあわてて立ち上がった。「たぶんお腹すいたんだ。ほら、いい匂いしない?」
「……ガソリンくさいよ」
「とにかく、だいじょうぶだから――ほら、お父さん来たよ、行こう」
 ちょうど事務所から遼太郎が戻ってくるところだった。とくに急ぐでもなく、怪訝そうにするでもない。今のは見られていないようだ。
「えー、七リットル入りまして九百九十四円になりまーす」
「ん」遼太郎は千円札を手渡して、代わりに貰った明細に眼を落として口角を上げた。「リッター百四十二円かよ……たく、ちっと前は百円きってたってのに。信じられんな」
(百円きってたのって、そうとう前だったはずだけど……)
「ほれ、お前ら――悠、どうした」
「え」
「その汗、なんだ。暑いってこたあるまい」額の汗を見咎められたようだ。遼太郎の声には心配するというより、詰問するような強い色があった。「どっか悪いのか」
「ぐあいわるそうだった」娘も得たりと――有難迷惑にも――証言を始める。「さっきしゃがんでた。くるしそうだった」
「あの、少し疲れが出たみたいです。あんなに長い時間電車に乗ったの、初めてだったもので」
 嘘は言っていない。ここに来るまで、そしてここに来てから、それこそ初めてでないものは体験していないくらいだ。初めての道行き、初めての田舎、初めての出会い。あるいは――悠は自分の思いつきに自分で納得した。もちろんそうだ、疲れが出たのだろう。ブルゾンの胸ポケットに収まったカードケースに手をやって、悠はもういちど胸中で呟いた。疲れただけだ。それは気疲れするはずだ、あんな不可思議な経緯でこんなものを手に入れたからには!
「本当に大丈夫なんだな?」遼太郎の口調は一転、優しげなものに代わった。「預かった初日に熱でも出させたら姉貴になに言われるか……俺はお前の保護者だから、お前の健康には責任があるんだ。具合わるくなったら遠慮なく言えよ、こっちは遠慮されるほうが困るんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
「……行儀よすぎるなァ、クク」悠の返答がおかしかったようで、遼太郎は含み笑いながら機嫌よく運転席に収まった。「しつけが行き届いていてなにより! ほれ乗った乗った、帰ってメシだ――あっ、寿司くえたか?」
「ええ、だいじょうぶです」
 菜々子はまだ心配してくれているようで、先に話していたときのように助手席から後ろを振り返って、気遣うような非難するような視線を送ってきている。どうやら彼女はこの年上の従兄弟を、自分が管理すべき病人として認定したらしい。悠は気分がよかった。とりあえず嫌われてはいないようだ。
「お待たせしました、六円のお返しになりまーす!」店員が釣り銭を持って戻ってきた。「お帰りはどちらから?」
「向こうだ。誘導はいいからな――」全開になったウィンドウから身を乗り出して、遼太郎はおごそかに言った。「ビーズくれ、消臭ビーズ。ぜんぜん足らん」





 この日の夕刻、堂島邸の小さな食卓は「特上鮨花曇膳十貫2179円」三人前と、三人で片付けるにはあきらかに多すぎる惣菜類を迎えて賑わった。新しい住人のために用意されたものだ。
(御馳走なんだ……これ)
 菜々子の様子を見ていればイヤでもわかる。冷蔵庫から取り出してきてからというもの、彼女はこの御馳走を眺めては外装の豪華さや値段の高さを賞揚して止むことがない。寿司はもちろん好物ではあったが、まずトレイやラップで覆われた食べ物じたい、悠の家では母の予期せぬ体調不良の象徴であったのだ。まさか不満を鳴らすことはしないが、かといって菜々子のように無邪気に喜ぶこともできない。
「じゃ、歓迎の一杯といくか」
 ちゃぶ台のうえでお茶とジュースの缶がテンとぶつかりあった。
「ま、遠慮なく食ってくれ、大したもんはないが」
「その、すごい量ですね」
「このくらい食えるだろう、そんだけでかい図体してるんだ」
「はあ」
(おれの歓迎だから、あえて作らなかったのかな。でもどう見てもこの人……作りそうにないよな)
 この見てくれで料理は玄人はだし、というなら相当な粋人だが、目下ただよってくるのは男の色気とタバコの残り香ばかりで、家庭的ななにかは驚くほど希薄である。このあたりの期待を裏切ってくれるかどうか。もしまったく作らないのなら――
「いただきます」
「いただきまーす」菜々子は嬉しげにトレイの蓋を開けにかかった。
「菜々子ちゃん、テープついてる、裏」
「寿司が好きなのはよかった」遼太郎は機嫌よく言った。「メシ考えるのけっこう面倒でな、でもばんたび寿司じゃお前も飽きるだろうし、まあ食いたいもん考えといてくれ。大概はジュネスに売ってるからな」
「ジュネスいいなあ。いきたいな」
「作ったりは?」
「メシか? あー俺は作れん、悪いが」
(でしょうとも)
 となるとここ数年、菜々子はまず惣菜や弁当ばかり食べていたことになる。悠自身はともかくも、この小さな従姉妹にはかなり不憫な話だ。
 すでに遼太郎の妻に不幸があったことを母から聞いている悠には、容易に想像できるのだった。長じた菜々子がスーパーかなにかの惣菜売り場で「プラスチックに覆われた食べ物」を眺めるにつけ、彼がそれを見て不安な記憶を呼び起こすように、彼女もまた母の死から始まった悲喜こもごもを連想するに違いない、トレイに盛られたラップ越しの思い出を!
 憐れむべしいとけなき従姉妹――そして自分はこれからそれを一緒に摘むのだ。
(これじゃあべこべだな。弁当惣菜漬けって、都会のステレオタイプだろう? 田舎なら当然――)
 おふくろの味があってしかるべきだ。悠の胸にこのとき、小さな使命感のようなものが燈った。おふくろがおらず、おやじができないなら、どうしていとこがやっていけないことがある?
「しっかし義兄さんも相変わらず仕事一筋だな。海外勤めだったか」
「今年で六年目です」悠は苦笑した。「カリフォルニアのサンノゼ。五年くらい会ってません」
 父がアメリカで日本料理店をやる、と言って機上のひとになったのが、五年ほど前のことである。どんな奇縁が新橋の板前だった彼を、アメリカ西海岸くんだりに結びつけたのだろう。母はどうせ失敗するからといって急にしまり屋になり、管理栄養士としての給料のほとんどを貯金に費やし、尾羽打ち枯らしてすごすごと帰ってくるであろう夫を、明るく迎える準備を怠らなかった。だのに――
「一年限りとはいえ、親に振り回されてこんなとこ来ちまって……子供も大変だ」
 母の予想に反して、父は異国の地で順調に成功したらしい。出発して一年後に一時帰国したとき、父は上機嫌で商売がうまくいっていること、サンノゼの土地柄の素晴らしいこと、今後は日本料理学校の講師を兼任すること、近いうちに必ずシュワルツェネッガー知事のサインを手に入れてみせることなどを告げ、アメリカへ戻る前日には「誓子さんと悠くんに会えなくて寂しい」と言って男泣きに泣いた。――その後五年ほどの間、ほんのいっときの帰国さえ叶わなかった彼の、単身赴任の寂寥はついに限界を超え、妻を一年間という限定ながらカリフォルニアへ招聘するに至った、というわけだ。
「一年間、実家の八十稲羽で過ごすか、それともカリフォルニアのELD日本語クラスに編入するか。さすがに後者は気後れします」
「親父さんに会えなくて寂しくないか」遼太郎はちらと菜々子のほうを見た。「まあ、もう五年も六年も経つんだ、慣れちまうもんかな……」
「慣れはします。それが当然になるまで、時間はかかりましたけど」
「いっそ戻って来いとは言えなかったのか」
「そうですね……何度か考えたことはあります」
そうと言えば父は検討するだろう、それが無理な話でも。息子のわがままを彼は真摯に受け止めるだろう。父とはそういう人間だった。苦しめるだけなのは眼に見えている。
「でも父も雇われで、ひとりで行っているわけではありませんし、話を聞くかぎり、向こうは楽しいみたいです。子供が折れるしかありません、これも親孝行かなって」
「お前ほんとに十七か?」遼太郎が噴き出した。「二十七の間違いじゃないだろうな。それとも東京の子供はみんなそんなに達観すんのか」
「血ですね、母もよく同じこと言いますよ。あんたほんとに十七かって」
「血ねえ。じゃ義兄さん似かね、お前さんは。俺も姉貴もお前くらいの頃なんざまるで聞き分けのないガキで――これいじょう言ったら姉貴に殺されるな。やめだ」遅ればせながら、遼太郎は寿司のトレイに手をつけた。「ま、うちは俺と菜々子の二人だし、お前みたいのがいてくれると俺も助かる。これからしばらくは家族同士だ、自分ちと思って気楽にやってくれ」
「はい、お世話になります」
「あー、固い固い、気ィ遣いすぎだ。しつけがよすぎるのも考えもんだな」遼太郎は笑って手をひらひら振った。「見ろ、菜々子がビビってるぞ」
 菜々子は小さな口いっぱいに寿司を頬張りながら、赤くなって迷惑そうにうつむいた。どうしてここで話を振るのだと顔に書いてある。
「二、三日の客ならそれでもいいが、一年間いっしょに暮らすんだ、そんなに肩肘張ってちゃおたがい疲れるだけだ。もうちっとくだけないか」
「くだけるといっても……」
「じゃ、姉貴――お袋さんと話すような感じでいい」
「じゃあ」頭の中でいくつか、母との会話をシミュレートしてみたあと、悠は思い切って口を開いた。「叔父さん」
「おう」
「明日から行く学校って、どこにあるの?」
「あした、あさ案内する。こっから歩いて、そうだな、三十分かからん」
「この町に本屋ってあるかな」
「あるぞ、一件、商店街に。今日スタンド寄ったろう、あれの隣だ。品揃えは保障せんが……あーあとジュネスの一階にもあったな、ちっと遠いが」
「おれの部屋は、上?」
「二階あがって左の一番奥だ」
「……どうですか」
「ああ合格だ、今のを除けば」
「よかった。じゃ、よろしく、叔父さん」
「おう、よろしく――ほら食え食え、ぼやぼやしてると菜々子に取られるぞ」
 菜々子が抗議のうなり声を上げたところで、遼太郎の背後のソファの上、彼の上着の辺りから携帯の着信音が鳴った。
「たく……誰だこんなときに」
 遼太郎はにわかに不機嫌になった。「誰だ」などと言うわりに、液晶画面をろくに見もせず応答ボタンを押している。どうもかけてきた相手に見当がついている様子だ。
「はい、堂島」
(仕事かな)
 菜々子は眉根を寄せて、不安げに父親を見つめている。遼太郎は二、三の応答をしたあと立ち上がって、話しながら続き間のダイニングまで移動していった。――携帯を切る前、最後の一言「わかった、すぐ行く」だけが鮮明に聞こえた。この時間にどこかへ行くらしい。
「酒のまなくてアタリかよ……」こころなし悄然として、遼太郎は席へ戻ってきた。「はは、むしろお前が来てなきゃ行かれなかったな」
「じゃ、これから?」
「ああ、仕事でちょっと出てくる。急で悪いがメシは二人で食ってくれ」遼太郎はあわただしく寿司を二、三個くちに放り込んで、お茶で無理に流し込んだ。「…………帰りは……ちょっとわからん。菜々子、あとは頼むぞ」
菜々子は心細げにウンと頷いた。父親が非常の時間に出て行くことへの不安か、きょう初めて会った得体の知れない従兄弟と、二人きりになることへの警戒心か――たぶん両方だろう。
「悠、ひょっとすると――」
 と、言いかけて止めて、遼太郎はふいに窓を注視した。少しく開いたカーテンとサッシのあわいから、ガラスに水滴を刷いているのが見える。
「菜々子、そと雨だ。洗濯物は?」
「いれた」
「そうか。じゃ、行って来る」
「叔父さん、なにか言いかけたみたいだけど」
「ん、そうだったか……あー……度忘れした」
 遼太郎はあまり思い出す努力を見せず、ソファの上着と財布を回収して忙しく部屋を出て行ってしまった。どうも大したことではなかったようだ。
「悠ー!」ややあって、玄関から遼太郎の怒鳴る声が飛んできた。「寿司、冷蔵庫に入れといてくれ!」
(ほんとに大したことなかったな……)
「わかった、いってらっしゃい」
「おう」
 遼太郎が行ってしまうと、会話はそれきり途絶えた。戸外で車のエンジンのかかる音がして、ほどなく遠ざかっていく。叔父を乗せて。先ほどまでこのちゃぶ台にあったはずの小さな団欒まで、あのSUVに引っ張られて行ってしまったような気がする。八畳間を気まずい雰囲気が席巻した。
(参ったな、あんまり免疫のないシチュエーションだ……) 
 齢十七の悠をして身の置きどころに苦慮させるこの状況、十歳下の菜々子にはなおのこと堪えるはずだ。ここはひとつ年長者として、自分が無難な話題を提供しなければならぬとひとり懊悩していると、菜々子が食事を中断してなにかそわそわしているのに気がついた。彼の手元をちらちら見ている。
「あ、リモコン?」
 手元ちかくにあったテレビのリモコンを、菜々子ははにかみながら受け取った。悠は小さな敗北を噛み締めた。
(機械に負けた……)
 ――テレビはちょうど稲羽市の明日の天気予報を伝えている。明日は終日雨、転校にはもってこいの日和だ。
「……お父さんって、いつもこんな時間に呼び出しがあるの?」
 まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい、菜々子はおどろいた様子で悠を打ち眺めた。
「仕事って言ってたけど」
 着信があったときの叔父の反応、電話の受け答え、不安げにこそすれ驚きはしなかった娘の様子から察するに、ああいったことはそれほど珍しいわけではないようだ。彼の仕事はたぶん、ふつうの定時勤務ではない。おそらく前の電話はなにかのトラブルを伝えるもの、となれば、彼の仕事は技師かなにかだろうか。
「お父さんの仕事って?」
「しごと……ジケンのソーサとか。おとうさん、ケージだから。イナバケーサツのジュンサブチョー」
「警察官?」
「うん、ケーサツカン」
(まさか警察とは……それならタスポはダメだろうな)
 今度は悠が驚く番だった。が、言われてみればなるほど、図ったのかどうかはともかくも、彼の見た目はまったく「刑事」のそれである。電気工事士だと言われたほうがよほど驚いたろう。
(刑事の叔父か。ちょっと珍しいな)
 テレビは時事報道に移っている。稲羽市議員秘書、生田目太郎、女性関係、進退問題、妻、演歌歌手、柊みすず、訴訟、慰謝料請求、愛人、局アナ、山野真由美、降板、出演自粛。……欠伸が込み上げてきた。後ろ手についた手のひらからじわじわと溶けていくような、緩慢な眠りの誘惑がまぶたの上をちらついた。
「……ニュースつまんないね」独りごちて、菜々子はチャンネルを変えた。「クイズないかな」
(刑事がこういう時間に呼び出されるのって、どういうケースなんだろう。まさか事務仕事じゃないよな……とすればやっぱり、ジケン? ソーサ?)
 テレビはコマーシャルを流している。明日、ハッピーCHU'sデー、新素材、ヒートコンフォート、20%OFF、対象商品、ポイント三倍、ジュネス、毎日、お客様感謝デー、来て、見て、触れ。……腕時計は六時半過ぎを示していた。まだ休む時間ではないが。
(そういえばスタンドから見えたな、ジュネス。こんなガリアみたいな辺境まで出てきて……売れてるのか?)すでに半ば睡りながら、悠は口角の上がるのを感じた。(ガリアはいいな。来て、見て、勝てなら、カエサルだもんな。ガリア・ヤソイナバ……)
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス!」
 すわなにごとかと、悠は危うく腰を浮かせるところだった。今まで借りてきたネコみたいに大人しかった菜々子が、ジュネスにおなじみのコマーシャルソングに合わせていきなり歌い出したのだ。声を潜めるでもなく、悠を憚るでもなく、元気いっぱいのかわいい声で、振り付け――たぶん自作の――までつけて。
「……たべないの?」
「……うん……食べる」
(たぶん、電車を降りてから今までで、いちばん驚いた……それにしても)
 驚きで目が覚めたのもつかのまで、悠はふたたびとろとろし始めた。
 もはや箸を握るだけ握ってもガリひとかけら摘むのすら億劫だ。もともと空腹ではなかったのに加えて、いままで騙しだまし往なしてきた長旅の疲れがとうとう、ここに来て耳を揃えて返せとばかり、負債請求に乗り出して来ていた。
 とにかく眠い、身体が泥のよう。
(江山路遠し羇離の日よ……我ながら大げさだけど、本当に疲れた。風呂ってどうなってるんだろう? いいか別に、入らなくても)
 菜々子は旺盛な食欲を見せ、すでに割り当てのほとんどを平らげていた。自分のぶんも食べるだろうか、勧めてみようか? おひとついかがです、遠慮なさらず――
(あの女のひと……マーガレット、だったっけ)夢の中の道連れは弁当に夢中だった。みかんのお返しにこれを渡したら、彼女は喜んだろうか。(それにイゴール、長い鼻。タロットカード。今日は驚きの連続……)
 悠はその場でそっと横になった。菜々子は目当てのクイズ番組を探し当てたようで、こちらの動きに気づいたふうはない。起こされたらその時はその時――眠りに落ちながら、冷蔵庫に叔父の寿司を入れるのを忘れていたことを、彼はぼんやりと思い出していた。





「悠」誓子が形ばかり、開いたままの部屋の扉をノックした。「……準備できてんの?」
「半分くらい」
「あんた読むんなら終わってからにしなさいよ」
「そうしてる」悠はページから顔を上げず、振り向きもしなかった。「ぜんぶ持っていけないから中身を厳選してる」
「一年だけでしょ。向こうだって本屋くらい、いやなかったな……ないわ、確か」
「ほらね、口癖だったろ。おじいさんちはなんにもない、車がなければ孤独死確定」
「そこでねえ、あたしゃ高校まで暮らしてたんだよ」誓子が部屋に入ってきて、テーブルの上に茶封筒を放った。「遊ぶところもないし、電車のったって一時間かかるし、あの頃はイヤで堪らなかったわ」
「過疎稲羽?」悠はようやくキケロから顔を上げた。
「そうそう、言ったっけ? カソイナバ! 昔はほんっとよくバカにされたわ、御康とか沖奈とか、わりあい都会のほうの学校のやつらにさ」
「三日後にそこ行くんだけどね、おれ。憂鬱だ」
「あんたイヤなんだ?」
「イヤだよ、正直いえば。そんなド田舎」
「へえ」誓子の声には感心したような響きがあった。「あんたなにも言わないんだもん、喜んでんのかと思ったわ」
「選択肢ないだろ。今から英語猛勉強しろって? 冗談じゃない」
「なあに? あんたアメリカ住みたいとか言ってたじゃない」
「それ三年か、四年くらい前だろ……そりゃ、将来的にはって話。せっかく父親がアメリカにいるんだから」
「へえー、意外だったわ、あんたイヤだったんだ」
「イヤだね」
「ま、いい勉強じゃない? アメリカの予行練習でさ……あんた東京でたことないでしょ」
「出たことはある。北海道いったろ」
「また屁理屈」
「母親似でね」
「あはは、あたしに似てるんならね、ぜったい八十稲羽は肌に合わないよ」誓子は笑いながら部屋を出て行った。「四時に来るからね、運送屋。それまでに片しときなさいよ」
「善処する――母さん」
「あ?」誓子の顔だけが戻ってくる。
「言葉が通じないかもね、そういう意味じゃアメリカの予行練習に――」
 洗濯バサミが飛んできた。
「母さん、サンノゼに着いたら現地人にヤソイナバ語で話しかけてみなよ。きっとネイティブ扱い間違いなし!」 
 足音は廊下を出て、玄関でサンダルをつっかけて、それからなにかガサガサいわせながら玄関を出て行った。ゴミでも出しに行ったのだろうか。
(三十分くらい経ったらまた来るだろうな)
 準備中に話しかけられるのはこれで四回目だった。誓子は寂しいのだ、彼女は二日後に機上のひととなりアメリカへ、そして息子は一日遅れで自分の実家へ。夫との長年の別離が癒される間際に、今度は子供がいなくなってしまう。さすがに十七の身空で、子供と別れる母の心境を理解してあげることは難しかったが、悠には母と別れる子供の寂しさを暖めるので手一杯だった。
(なにか置いてったな)
 テーブルの茶封筒にはマジックで、
 
 莫怨他郷暫離別
 知君到處有逢迎
 
 と書いてある。
(見知らぬ土地へしばし別れゆくことを嘆くな、どこへ行こうと必ずお前を迎えてくれる友人がいる、か)
 母にこういう知識はない、とすれば、これはわざわざ父が息子に伝えるよう、メールかなにかで妻に申し送ったものだろう。
 父親の心遣いこそありがたくも、そのメッセージの内容が息子の心を揺り動かすことはなかった。余計な心配はさせまいと伝えてはいないが、彼の息子は友人を作ることにまったく無関心なのだ。
(友人ねえ……それより金がよかったな。入ってないかな) 
 期待をこめて逆さまにしてみると――出てきたのは紙幣ではなく、なにかのカードだった。
「タロットカード?」
 悠はそれに見覚えがあった。何年か前、母が興味本位で占いの本と一緒に買ってきたものだ。ほどなく飽きっぽい母に見捨てられたそれらは、たいていそうであるように彼女の息子が落掌することになったのだが、
(なくしたと思ってたけど……なんだ、母さん持ってたのか)
 カードは一枚だけ。みすぼらしい旅装の若者が象徴的に、ちょっとデッサンを崩して描かれていて、その下のスクロールに「THE FOOL」の文字が躍っている。――見ず知らずの人間にされたならともかく、悠はこの冗談を暖かく受け止めた。なるほど自分は旅人で、若者で、ついでに彼女にとってはまだ眼を離せない馬鹿者なのだ。
 これといっしょに一万円札が数枚はいってたら文句はないんだけど――ため息まじりの苦笑が、しかしこのとき強烈な違和感によって強張った。
(いや、おかしい、カードなんかじゃなかった)そうと言えば封筒の文言も違う。母は「特別賞与」とだけ殴り書きに書いたはずだった。(違う、ぜんぶ違う、確かに入っていたはず、特別賞与十万円が!)
 玄関で扉の開く音がする。
(母さんか)
 玄関框の撓む悲鳴のような音と、それに続いてミシミシとフローリングの軋む音が――母ではありえない誰かの重い、硬質の足音が、悠の部屋めざしてゆっくり近づいてくるのが聞こえる。それだけではない、なにか途方もなく重い、たぶん長いものを引きずる耳障りな擦過音も。悠は立ち上がりかけた姿勢のまま、部屋の開け放たれた入口を凝視したまま凍りついていた。
「誰……母さん?」
 悠は悲鳴を飲み込んだ。叫ぶ代わりに後ずさって、壁を背にしてその場にへたり込んだ。部屋にのそっと入ってきたのはもちろん母ではなかった。母はこんなに巨大であったことはない、母は悠を生んでからかつてこんな格好はしたことがない。投げつけたキケロ演説集を、闖入者は避けもしなかった。黒い、角ばった、ちょっと長ランめいた装束の下に金属質の肌を隠す、長大な鉢巻をつけた鉄仮面。四メートルほどはあろうかという巨体を屈めて、持ち主の丈と同じくらい長い、凶悪な、ナイフと長巻の合の子のような得物で、部屋のカーペットをずたずたに引き裂きながら――それは壁にへばりつく悠に迫った。
(この包丁で、こいつはなにをする? 決まってる、決まってる! ひとつしかない!)悲鳴を上げようとしても、もはやうめき声ひとつ出てはこなかった。(……母さんは? 母さんが戻ってくる、ここに!)
 震える膝と壁とで懸命に身体を支えて、悠はなんとかこうとか立ち上がった。誓子も天国で母子家庭を営むくらいなら、カリフォルニアで息子の位牌を拝むほうがずっとマシだろう。歯の根の合わないのを無理に食いしばって、忘れかけていた勇気と気力とを振り絞って、あらんかぎりの声で母に危険を知らせようと息を吸い込んだ矢先――鉄仮面は悠のあたまを、その巨大な両の手のひらで挟み込んだ。そうしてぐっと無機質な顔を近づけてくる。このままあたまを握りつぶされるか、それとも食いちぎられるか、恐怖に負けて竦みきった彼の耳に、地の底から響くような、地鳴りのような声が轟いた。

 アレハナレナレハアレナレヨノレアレヨバヘ

 鉄仮面の奥にふたつ、金色の炎が燃え上がった。






[35651] 一章 REM TALEM MINIME COGITO
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/27 23:54


 悠は飛び起きた。誰かの叫び声と、なにかガラスのようなものの割れるけたたましい音とによって。
(……ここ、どこだ)
 そこは見知らぬ部屋である。 
 十秒ほど、悠は自分の置かれている状況を理解できないまま混乱していた。うちのテレビはもっと大きい、液晶のはず。こんな骨董級のブラウン管じゃない。それにうちにちゃぶ台なんかない、和室もない、よって畳もない。知らない……
(場所じゃない! そうだ引っ越したんだ、じゃない、ええと……叔父さんの家だ。テレビ見てて……)
 照明は落ちていたが、室内はその必要のない程度には明るい。そのはずだ、とうに夜は明け切っていて、カーテンの開け放たれた窓から控えめな朝の光が差し入っている。昨夜ここで寝てしまい、結局そのまま夜を明かしたのだ。
 雨落を叩く水滴の音が聞こえる。あいにくの雨天。
(毛布……菜々子ちゃんかな)悠の身体には毛足の長い、青い毛布がかけられていた。(悪いことしたな、これじゃどっちが年上だか)
 ふと、いつからそこにいたものか、続き間のダイニングに立っている菜々子と眼が合った。悠を心配そうに眺めていて、足元には皿かなにかの破片が散らばっている。
「おはよう、菜々子ちゃん」
「おはよう」返事には少しく怯えが滲んでいた。「だいじょうぶ?」
「大丈夫……って?」
「うわーって、おおごえ、あげてたよ」菜々子は冷蔵庫の陰から箒とちり取りを持ってきて、それで床の破片を掃き取りはじめた。「おさらわっちゃった」
「ごめん、驚かせて」
 ほんとうにどっちが年上だか――悠を叩き起こした叫び声はもちろん、彼自身のものに違いない。
「怪我はない?」
「うん」悠が立ち上がって手伝おうとする間にも、菜々子は手早く掃除を済ませてしまった。「ゆめ、みたの?」
「え?」
「こわいゆめみたの?」
「うん……見た、こわい夢」悠はにっと笑った。「菜々子ちゃんが起きろ、起きろって言って、おれを蹴るんだ、何度も」
「ゆすったけど、けってないよ」菜々子もようやく笑った。「あさごはんできてるから、いっしょにたべよ」
 彼女の言葉どおり、ダイニングのテーブルにはもう朝食が用意されていた。皿に載ったトースト、ハムエッグ、インスタントのカップスープ、マーガリンのパッケージ、ハチミツの瓶に、なぜかタクアンの盛られた白磁の漬物入れが添えられている。――これから一年間ともに生活するのだ、堂島家の食い合わせの妙には早く馴染まなければ。
「叔父さんは、お父さんはトイレ?」
「お父さん、かえってきてないよ」箒とちり取りを片付けたあと、菜々子は台に乗って手を洗っていた。「たぶんよるまでかえってこない」
「……まさかこれ、菜々子ちゃんが?」
 菜々子はウンと頷いた。
「あさはパンをやいて……あとメダマやき。よるはかってくるの、お父さんつくれないから」
(きみ、本当に七つ? 十七の間違いじゃないか?)
 なるほど、母や叔父は自分を見てこんな印象を持ったわけだ――それは実際、感心よりも心配の勝るものだった。 
 菜々子は代えの皿を出して、トースターから自分のぶんのトーストを確保して、思い出したように冷蔵庫から牛乳を取ってきて――ひとしきりコマドリみたいにちょこまか動き回ったあと、ようやく自分の席に飛び乗った。この愛すべき従姉妹の身長は、せいぜい悠の腰丈ていど、たぶん百二十センチに満たない。こんな小さな子が不安定な台に乗って、火と油と焼けたフライパンを振り回す? 刑事だろうと奴隷商人だろうと親なら心配にならないものだろうか、こんな妖精みたいなわが子が毎朝、自分に焼印を押し付けたり火あぶりの準備をしたりしかねないというのは。
「菜々子ちゃんはなんというか、凄いね。でも危ないから、明日からはもうよしたほうがいいよ」
「……でもあさはおみせやってない」
「ここに菜々子ちゃんより六十センチくらい背の高い」そして同年代の、「従兄弟がいる。たぶんこのひとなら、台を使わなくてもフライパンを振れるよ。朝は蹴られなくても起きられるし、牛乳とタクアンも食べられるし……たぶん、いっしょに」
 菜々子は要領を得ない顔をしている。
「……その、つまり、明日からはおれが作ろうかってこと。菜々子ちゃんは朝はパンのほうがいいほう?」
「でも、わるいから」
(イゴール! 遠慮を知っているということにかけて、おれはこの子の前では喜んで敗北を認める!)悠はちょっと感動した。世の大人はすべからく刑事となるべし、さもなければ奴隷商人に!(しつけが行き届いているだって? コンタクトを忘れてるのでなきゃ、とんでもない皮肉屋だな、叔父さん)
「悪くなんかないよ。もし悪いなら――あ、食べてもいい?」
「うんいいよ。じゃ、いただきます」
 菜々子は最初にタクアンに手を伸ばした。
「……もしおれが作るのが悪いなら、菜々子ちゃんが作るのも悪いということになる」
「どうして?」
「どうしてだろう、じつはおれにもわからない。でもふたりともわからないなら、悪いわけはない、そうだろう?」
「??」
「悪くないなら、おれが作っても問題ないわけだ。どうかな」
「うーん……わかんない。菜々子、あたまよくないから」
「もちろんそんなことはないよ。屁理屈はやめよう、ごめん」悠はコーンスープをひとくち啜った。「わけを教える。菜々子ちゃんが火を使うのは危ないと思う」
「だいじょうぶだよ、なれてるから」
「慣れてるから、危ないんだ。あのコンロは菜々子ちゃんには背が高すぎる。もし少しでも手が滑ったら、油がかかったら、火花が散ったら、フライパンが落ちてきたら? これからも毎朝こんなにおいしい目玉焼きを食べられるとは限らない、もっと大きなお皿が必要になるかもしれない。お父さんには塩味が利き過ぎるかも」
「???」
「……火傷したら大変だよ、お父さんも悲しむ」
「んー……じゃ、いっしょにつくろ」菜々子はしばらく考え込んだあと、そう提案した。「菜々子、火つかわない。だからほかのことする」
「わかった、じゃ、交渉成立」
「こしょう?」
「ううん、なんでもない――食べよう、もう七時半になる」
 なんだか自分が子どもで、母親になにか要求して、彼女のほうで折れて、あるていど譲歩してくれたような、菜々子との会話にはそんな印象が残った。七歳どころではない、十七歳の自分でさえ、相手に失礼なくこれほど気を回せるだろうか? 昨日は驚きの日だったが、ひと晩あけて終わりというわけでもないらしい。堂島家はさしずめ驚異の館だった――築五十年くらいの。
「きょうからがっこうでしょ?」トーストにハチミツを塗りたくりながら、菜々子が言った。「テンコーするんでしょ?」
「ん? うん、そう」菜々子ちゃんと同じ高校にね。「叔父さんが案内してくれるって言ってたけど」
「とちゅうまでおんなじみちだから、菜々子あんないするね。いっしょにいこ」
(ああ……叔父さんはこれを言おうとしてたのかな)昨夜の叔父の様子を悠は思い出していた。(徹夜のジケン、ソーサ、なにがあったんだろう。年寄りがいなくなった、とか?)
「あと、ちゃん、いいよ」
「え?」
「ちゃん、いいよ。菜々子でいいよ」
「??」
「菜々子ちゃんっていうから……」菜々子は赤くなった。「ちゃん、いいよ、つけなくて」
「あっ……そのちゃん、か。うん、わかった」この歳でもちゃん付けは恥ずかしいらしい。悠は内心苦笑した。「じゃ、菜々子さん」
「いいってば、さんはもっとわるい!」菜々子は笑いながら抗議した。「菜々子でいい!」
「あ、ごめん。食べ終わった皿は、いま洗ってしまうんですか? 菜々子さま」
「さまもダメ! つけなくていい!」
「うん、じゃあつけない」悠は席を立って、あからさまに逃げる素振りを見せながら続けた。「それじゃぼくは上に行って着替えてくるから、少しここで待っていてくれたまえ、菜々子くん」
 誘いどおり、菜々子はふざけて追いかけてきた。叔父に自室を教えてもらっていなかったら尻を叩かれていただろう、彼女は部屋の扉の前まで追跡して来たのだった。





 菜々子のエスコートで、悠は鮫川河川敷、月桂樹の並木に入ったあたりまで案内された。
「あと、この道まっすぐだから」
 彼女の指し示す先は糠雨に煙っておぼろである。が、すでにここへ来るまでに、同じ制服を着た生徒を何人も見つけている。案内の続きは彼らにやってもらえばいい。
「ありがとう。今日は菜々子ちゃんも午前放下?」
「うん、ゴゼンホーカ。ちゃんいいってば」
「ごめん。こういうときお昼はどうしてる?」
「ええと、かってくる」
「そう。よかったら作ろうか。それとも食べに出る?」
「たべに……?」菜々子の大きな眼がぴかっと光った。「ジュネスいきたい! ジュネス!」
「わかった、ジュネスね、ジュネス……」好奇の視線を感じる。周りの高校生のものだ。「行ったことないけど、まあ、菜々子ちゃんのお望みのままに」
「うん。ちゃんいいったら」
「ごめん。じゃ、うち帰ったら、一緒に行こうか」
「うん!」
 菜々子の喜びようはただごとではない。ジュネスはありきたりなショッピングモールで、遊園地のたぐいではないはず。それともここのジュネスにはなにか、屋上にささやかな乗り物があるとか、子どもの喜ぶようなアトラクションがあるのだろうか。
「じゃあ、またあとで、菜々子ちゃん」
「うん、じゃあね――またちゃんっていった」
「じゃあね、菜々子さん!」
 悠は水たまりを蹴散らかして小走りに駆けた。
 振り返ると、菜々子の赤いランドセルがもと来た道を戻っていくのが見える。菜々子ちゃん? 菜々子? いかに七歳の子供とはいえ、というより、七歳の子供だからこそ、悠にとって呼び捨てるのはなにか、小石を呑んだような違和感を覚えるのだった。小さな従姉妹を呼び捨てにするのはためらわれる、それが妹ならまだしも。
(八時か……まあ、間に合うだろう。寄り道しなければ)
 昨晩から振り続けた雨のせいで、鮫川の流れは速い。土手に柵がないばかりか、この河は汀まで降りていけるようにさえなっている。もしあの早瀬に小さな従姉妹が落ちたら――自然の豊富な田舎も考えものだと悠は思った。子供が迷い込んで命に関わるようなものが少なくない。もちろん、東京にそれに似た結果をもたらすなにかが、ないといえば嘘になるが。
(叔父さんが徹夜した原因って、ひょっとしたらそういうのかも知れないな。ひとが行方不明で、きょう鮫川の下流で、なんて――)
 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(あいつ……新聞に載りたいらしい) 
 運転手は馬手にハンドル、弓手にビニール傘を差し、悠にやったように周りの生徒を脅かしながら蛇行しまくっている。もう少し河よりに走れば間違いなく滑落するだろう。
 ややあって、彼はT字路脇の電柱に衝突してくぐもった声を上げた。
「…………」
「せっ、せがれが……!」受難した学生は股間を押さえて苦悶している。「弟のほうが……!」
(まあ、兄は生き残ったわけだ)驚かされた含みもあって、悠は声をかけることなく彼の横を通り過ぎた。(時間がない、お子さんの葬儀には付き合えないな。そっとしておこう……)
 少し歩いて振り返ると、おそらく彼の友人かなにか、後ろから学生が走り寄って来て、さっそく彼の息子の不幸にお悔やみを述べているところだった。
 そうとも、見も知らぬ自分がわざわざ弔問することはないのだ。
(ひとにはあまり関わらないほうがいい。余所事に進んで首を突っ込む必要はない、平和にいこう)
 T字路を左折してほどなく、石垣囲いの坂の向こう、霧雨の紗の中に一対の染井吉野が現れた。これから一年間かようことになる、仮の学舎はその奥に聳えている。
 満開した淡紅色の花を嬲るこの雨は、前途を言祝ぐ催花雨か、それとも先行きの多難を暗示する花散雨だろうか。悠は門碑の前に立ってしばらく、生徒たちの不審の眼を浴びながら校舎を見上げていた。
(どんな高校生活が待っているんだろう。願わくば平穏無事で、波風のない、静かなものでありますように……この三つは田舎ならもちろん、ありふれて珍しくもないんだろうけど)
 悠はため息をついた。この一年間は長そうだ――平穏で、波風のない、静かな時間というものは、たいていゆっくり進むものだから。





 職員室で紹介された担任は諸岡と名乗った。やや猫背で、痩せぎすで、上着の襟に少しくフケを撒いた、顔色の悪い小男である。年のころは四十台後半といったところか。
「お前は二年二組に編入になる。東京の学校と違ってクラスが少ないがね、まあそのぶん眼が行き届くというもんだ――ついてきなさい」
 教室まで案内される途中、諸岡はぽつぽつと八十神高校のことを語った。普通は二クラス、多いときだと三クラスあるが、入学者数が少ないと一クラスになることもあること。校風はいたって緩やかだが、まじめな生徒が多いこと。きょうびは田舎でさえ木造校舎は珍しいこと、等々。
 確かに珍しい。校舎の廊下は全面板張りで、経年を示して艶やかな飴色に光っている。踏み締めるたびにギッギッと鳴るのだ! 前の学校は教室や体育館こそフローリングだったが、それだって隙間のない、鏡のように完全な平面の、ぴっちりした貼り物に過ぎなかった。これは紛れもない本物の板で、ミゾがあって、恐ろしいことにぐいぐい撓む。江戸っ子の心胆を寒からしめるにはじゅうぶん過ぎる。悠より体重のある生徒だってたくさんいるだろう、彼らがちょっと垂直跳びをしたいという誘惑に駆られて、それを実行に移すのに不都合な障害を見つけられなかったとしたら、万一にも階段を使わずに一階へ降りてしまう危険性がないでもないではないか!
 悠の控えめな疑問を、諸岡教諭は笑い飛ばした。
「じゃ、鳴上が第一号になれ。ワシはそんな奴はいまだかつて見たこたないが、見てみたくはある」
「……それは先生の許可を頂いたという解釈でよろしいのでしょうか」
「お前はおもしろい奴だな。ワシの許可なんかいらんから、やってみろ、できやせん。この校舎は生半可な鉄筋コンクリートよりよっぽど丈夫だ」
「その言葉を慰めにしたいと思います。図らずも床に非常口を作ってしまったときは」
 ちょうど二年二組の教室の前についた頃、廊下のスピーカーからおなじみのウェストミンスター・チャイムが鳴り響いた。八時三十分ジャスト、始業の合図だが――室内はわれ関せずとばかり騒然としている。高校生三十人あまりを閉じ込めていれば大抵そうであろうように。諸岡教諭は磨りガラスの窓をちょっと覗いて、「全員そろっとるな、たぶん」と独りごちた。
「あー……入る前に言っとくがね」
「はい」
「驚くなよ」
 なにを、と訊く間もなく、諸岡教諭はいきおいよく教室に入って行く。教室内のガヤガヤがちょっと収まった。
(おお……見てる見てる……)
 彼について入ってきた悠に、たちまち好奇心をむき出した約三十人分の視線が注がれる。もし第三者として見られたならたいそう滑稽な眺めだろう。レーザーポインターの焦点を追ってみな一様に首を傾ける動物園のペンギン、とでも喩えられようか。
 諸岡教諭は壇上に上がると生徒たちに向けて、突然ひとの違ったように、
「静かにしろチャイム鳴っただろうが貴様らーっ!」
 と怒鳴り散らした。――結婚式二次会の騒擾が一転、お斎会場のしめやかさに代わった。
(これは……驚くなって、これのことか?)
「今日から貴様らの担任になる、諸岡だ!」
 生徒一同、みな虐げられた農奴さながら、机に顔を伏して彼と視線を合わせようとしない。事前に教えられていてさえぎょっとしてしまう。ついさっきまで温厚だった彼の面は、いまや別人のように傲岸と不遜とで歪められていた。
「一年のときにワシが受け持った奴らはわかっとるだろうがな、ワシのクラスが初めての奴は、よく覚えておくことだ――ワシはほかの先生のように甘くはないっ!」最前列の生徒が顔をかばう仕草を見せた。唾が飛んできたのだろう。「いいか、春だからって恋愛だ、異性交遊だと浮ついてんじゃないぞ。発情期はイヌやネコだけで十分だ。ワシの目の黒いうちは、貴様らには特に、清く! 正しく! 人間らしい! 学生生活を送ってもらうからな!」
(すっかり静まり返ったな……いや、返ってやりやすいかも)
「あー、それではホームルームを始める前に、不本意ながら転校生を紹介する」
 生徒たちがそろそろと面を上げて、彼らの暴虐なる専制君主とその連れ合いを交互に盗み見た。
「爛れた都会から、辺鄙な地方都市に飛ばされてきた、あわれな奴だ」諸岡教諭がちらと悠を見た。こころなし笑っているようにも見える。「いわば落ち武者だ、わかるな? 女子は間違っても色目など使わんように!」
(とんでもない言われようだ! いっそ使いやすくていい)諸岡教諭の横顔を見つめながら、悠は内心ほくそ笑んだ。(いいフリです先生、その調子)
「では、鳴上悠。簡単に自己紹介しなさい」
「始めまして」
 明るくにこやかに、努めて滑舌よく――悠は静かに息を吸い込んだ。
「爛れた都会から辺鄙な地方都市に飛ばされてきたあわれな、鳴上悠です」
 寂としてしわぶきひとつ聞こえなかった二年二組に、どっと笑いが湧いた。これほど笑いを取りやすい舞台があるだろうか? 諸岡教諭のお膳立ては完璧だった。それを彼が意図したかどうかはともかくとして。
「いわば落ち武者です、わかりますね? でも色目は使っていただいて結構――」
「もういい黙れ! 貴様――」諸岡教諭の額に青筋が浮いた。「――いま後ろから二列目、窓際の女生徒に妖しげな視線を送ったな! 見えてないと思ってるんだろう!」
「どの子です、あの子? 違います先生、おれが見つめてたのはその隣の、ほら、あの角刈りの彼です」
 あちこちで爆笑が起こる。指をさされた男子が笑いながら、やめろというふうにして手を振っている。
「あっ、脈もありそうだ。タイプですよ」
「静かに! 静かにせんかあー!」
 諸岡教諭の必死の威圧によって、教室内はどうにかくすくす笑い程度まで収まった。もっとも少し突いて酸素を送るだけで、またすぐに燃え上がりそうな雰囲気ではあったが。
「いいかね、きっ、貴様」ひとつ咳払いして続けて、「ふざけていられるのも今のうちだぞ。ここは貴様がいままでいた、いかがわしい街とは違う。不届きなマネをすればすぐにわかるんだからな。ワシの目を逃れられると思ってるなら大間違いだ」
「はい、肝に銘じます」
「いいか、いい気になって女子生徒に手を出したり、イタズラしたりしたらどうなるか……停学ていどで済むと思うなよ!」
「……それは先生つまり、男子ならオーケーということで?」
 諸岡教諭の奮闘も甲斐なく、笑いの炎はふたたび燃え上がる。男子生徒の誰かが「教壇コント」と叫ぶのが聞こえた。いかにも、ふたりは臨時結成にしては相性抜群のコンビであった。
「きさっ……貴様はなんだ、そっちか!」
「そっちって、冷たいな先生、なにも知らないフリして」
「一緒にするな――近づくな気持ち悪い!」
「さっき廊下であんなに喜んでたじゃありませんか」
(ちょっとやり過ぎかな……ま、いいか)
 どうやら声を聞きつけて様子を見に来たらしい、廊下側の窓に生徒が数名、鈴なりになって張り付いているのが見える。たぶん一組の人間だろう。二組の生徒のほとんどはもう、誰を憚ることもなく大声で笑い転げている。これだけ大騒ぎしていれば気にもなろうというものだ。
 ややあって、教壇コントは一組担任の乱入でお開きになった。
「諸岡先生、なにか?」
「ああいえ、ちょっと話が……弾みましてね」
「ずいぶん楽しそうで」
「ええ、その、申し訳ない、うるさくしまして」
「すみませんね、うちの諸岡が」
 悠のこのひと言で二組は最高潮に達した。一組の担任まで咎めるのを忘れて笑い出し、諸岡教諭はもはや怒鳴る気力も失せたといったふうに、眉根を抑えて俯いてしまった。顔に書いてあるのが見えるようだ――とんでもないのが来てしまった。
(このあたりで止めにしたいところだけど)
 一組の担任にお引取り願ったところで、折よく教室の真ん中あたりに座っていた女子が挙手して「センセー、転校生の席、ここでいいですかー?」と声を上げた。
「となり空いてるんで」
「あ? そうか。鳴上、貴様の席はあそこだ」やっと厄介払いできるとばかり、諸岡教諭はシッシと手の甲を振った。「さっさと着席しろ。ったく」
「はい。名残は尽きませんが――」
「いいから早く行け!」
(先生すみません)
 心の中で諸岡教諭にあたまを下げつつ、悠はいまほど名乗り出た生徒の隣の席についた。派手な緑色のジャージを羽織った、色の薄いショートヘアの小柄な女子で、ちょっと丸顔気味の可愛らしい面立ちをしている。
「……やるねー転校生くん。笑かしてもらったわあ」待ってましたとばかり、さっそく件の女子が話しかけてきた。「なに、ひょっとして打ち合わせとかしたの?」
「いや」
「ま、モロキンがそんなの協力するわけないか。にしちゃチョーチョーハッシって感じだったけど……ちなみにさ、鳴上くんて……えと、マジでそっちの人?」
「いや、女子もオーケー! 本当に」悠はわざと大きな声で返事をした。周りの生徒が噴き出すのを聞きながら、「つまり両方だいじょうぶなんだ、これはわかって欲しい――」
「そこ! なにをくっちゃべっとる!」諸岡教諭が息を吹き返した。「里中か、新年度早々廊下に立たされたいようだな!」
(標的を変えたな、となれば黙ってないぞ)
「いえ先生、おれが里中さんに話していたんです」悠も相方に負けじと息を吹き返した。「彼女に同性愛についての理解をですね――」
「あーうるさい貴様はもう喋るな!」
「でもこの問題は非常にデリケートかつ真実の――」
「わかった、いい、黙れ、もう口を開くな」諸岡教諭はサジを投げたようだった。とうとうコンビ解散らしい。「……貴様の名は腐ったミカン帳に刻んでおくからな」
「先生、ふつうの紙に書かれては?」
「……次、ひと言でも喋ったら、為にならんぞ、いいな」
(ちょっとどころじゃないな、いくらなんでも悪ノリし過ぎた)
 さすがに少し度が過ぎたようだ。諸岡教諭の呪わしげな視線と、彼以外のほとんどの生徒から放たれる、重たい好奇の視線が身体中に突き刺さる。
 まったくやり過ぎだった。初対面でちょっと笑わせてみなに一目置かれれば、とりあえずはそれでよかったのだ。よかったのだが、それで済ますには諸岡教諭の仕込みとノリはちょっと上等に過ぎた。
「……アイツ、最悪でしょ?」諸岡教諭が黒板に向かったのを見て、里中がふたたび話しかけてきた。「まー、このクラスんなっちゃったのが運の尽き……一年間がんばろ、お隣さん」
「運の尽き? とんでもない」里中のほうへ身を乗り出して、悠は声を絞った。相手が返答に困るような言葉を意識して、「こんな美人の隣になれた。幸先がいい」
「あーそれでは、誰かのせいでかなり遅れたが、出席を取る。折り目正しく返事をするように! 浅田――!」
 ホームルームが始まった。そしてそのあいだ中、悠は左右――たぶん後ろからも――から錐のように突き刺さる視線を、平然と無視し続けることを余儀なくされたのだった。ホームルームが、一時間目が終わればたぶん、あまり人見知りしない連中がこぞって話しかけて来るだろう。
 思えば下手にふるまったものだ。初日にここまでやったせいで、これから彼らを適当にあしらって好印象を持たれるようにしなければならなくなった。
(仕方がない、どのみち近いうちにやらなきゃならなかった。デビュー戦を失敗するよりはずっとマシだ……もっとも)
 隣の里中の前、悠から見て斜め前に座っている黒のロングヘアが、先ほどからしきりに左手の窓を見て横顔を晒すのに、悠は気づかないフリをしていた。何度も天気を気にするふうを見せ、その度ごとにちらちらとこちらを見るのだ。左右はともかく、前からこれほど執拗に突っかかってくるのは彼女だけだった。
(こんな美人なら大歓迎だけど)
 悠は目を閉じた。このほうが見やすいだろう、見たければ見ればいい。――隣の里中が「寝てるとモロキンにどやされるよ」と注進してきた。





 九時五十分前にチャイムが鳴ると、それまで魂の不滅について熱心に講義していた諸岡教諭は、ようよう話を打ち切った。一時間目が終わり、今日はこれで放下のはずだが。
「では、今日のところはこれまで。明日から通常授業が始まるからな、配った時間割をよく確認しておくように」
 壇上から暴君が去るとすぐ、解放奴隷たちはもとの騒々しさを取り戻した。何人かの生徒がさっそく席を立って、彼らの専制君主を翻弄した道化めざして集まってくる。
(その道化のほうじゃ、ご主人さまに謝りに行ったほうがいいかもって悩んでるくらいなのにな……)
「えーと、ナルカミ? くん? さっきのすげーじゃん、モロ泣いてたし」女子Aが笑顔で話しかけてきた。
「つかよくあんなポンポン出てくるね言葉。あたし遠藤ね、よろしく」女子Bがやはり笑顔で話しかけてきた。
「ホモネタ反則だろ! でもモロキン弱点ぽいよな」男子Aがむろん笑顔で話しかけてきた。
「鳴上ってホントに、なに、そっちのケがあんの?」男子Bがもちろん笑顔で話しかけてきた。
「あれは諸岡先生が企画したものだから、おれは台本に沿って喋っただけ」悠は適当に嘘を吐いておいた。
「うえ、モロが? うっそでしょ?」
「あとそっちのケについては、詳しく知りたいならあとで校舎裏に来て。ひとりで、ベルトは外して」
「あははやめろっつの!――なんだかな、東京のやつってみんなこんなに規格外なわけ?」
「花村くん、どうなのそこんとこ」
「え? あー……」寝ぼけた声でいらえたのは、悠の後ろの席に座っていた男子である。「……わり、寝った。あんだっけ?」
(こいつ見覚えが……)
「お前あんだけ大騒ぎだったのに起きないってどんだけ……」
 帰り支度でにぎわう最中、教室のスピーカーから校内放送のチャイムがひっそりと流れた。が、誰も気に留めない。
「ほら、お前の新しい衝立さん」
「ついたて? あれ、前にひといるし。誰?」
『先生方にお知らせします――』
「鳴上悠。よろしく花村」
「え、あー、よろしく……」花村というらしい男子Cはちょっとうろたえていた。「えーと……え? 転校生?」
「ご明察。で、さっそくだけど膝に座ってもいい?」
「おおい! こういうことを真顔で言う奴だから!」男子AとBが笑いながら、悠の肩を親しげに叩いた。「よく言うよなあ、このルックスじゃ損だろ」
『只今より緊急職員会議を行いますので――』
「あとで冗談って言わないと、本気で反応するひと出てくるかもよ」
「冗談? 冗談は苦手なんだ、東京じゃカタブツで通ってた」
『至急職員室までお戻りください』
「どの口で言うんだよコイツ……!」
「おほっ、気をつけな花村ー、鳴上くん狙って――」
『また全校生徒は各自教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
「……あん?」
 教室内のざわざわがにわかに減衰した。
「下校すんなって……なんで?」
「あたしに聞かれてもね」
(なんだろう。職員会議がどうとかって言ってたから、たぶんそれ絡みだろうけど)
「不審者でも入ってきたんじゃねーの? 校内に」
「鋭いね、耳が痛いよ」悠は頬杖をついて呟いた。「おれが職員室に出頭すればいいのかな」
「あはっ、行ってみる? モロキン喜ぶよ」
「いや嫌がるだろ絶対」
「つかさ、モロがあーゆうコント? すると思う?」
「俺も意外だったけどさ、まあ新年度だし、なんかしたほうがいいって思ったんじゃないの? モロキン的に」
「や、ぜってーありえねー……だってモロだし」
「まあ、モロキンだしな」
「諸岡先生って、モロキンってあだ名なのか」
「そ。諸岡金四郎、略してモロキン」男子Aが花村のシャープペンシルを取って、机にきれいな字で「諸岡禁止郎」と記した。「教師としちゃ発禁レベル」
「諸岡十八禁四郎」
「歌舞伎の演目みたいだな」
「んで顔は二十四禁四郎。あいつマジしんどい」
 諸岡教諭はそうとう慕われているようだ。普段から生徒に対してあれだけ愛情たっぷりに接していればさもあろう。ただ、ここまで案内してくれた時の彼はだいぶ様子が違ったのだ。ふつうの、どこにでもいる、おじさん先生という印象だった。
(どちらかを演じているのか? よくわからないひとだ)
「……あれ、なに? サイレン?」
 遠藤と名乗った女子Bが不審げに窓のほうを向いた。確かに遠くパトカーのサイレンが聞こえる。――それはじきに聞き耳を立てなくても聞こえるくらいの音量になった。学校の近く、いや、すぐ前に留まっているのだ。
「なんだろ」
「これじゃね? 帰るなって言ってんの」
 今まで悠と話していた四人の興味は、窓の外のサイレンに移ったようだ。非日常に飢えている健全な学生たちは我先に窓へ殺到し――ものの数分後には三分の二ほどの生徒が、押し合いへし合い教室の窓に鈴なりになっていた。この期に及んで椅子を暖めているのはよほど冷めた生徒か、へそ曲がりか、転校生くらいのものだ。
(叔父さんありがとう、甥の周りは静かになったよ)
 サイレンが鳴り止んでも、生徒たちは飽かず諦めずに窓の外の霧雨を見通そうと頑張っていた。パトカーが、慌しく駆け回る警察官が、彼らに慕われて走り回る不審者がひょっとしたら見えはしないかと。
 悠はいつでも帰れるよう支度を始めた。
 正直、四人が窓際へ行ってくれてほっとしていたが、なんとはなく寂しいという感情も否定できない。こういうとき、彼は自分の生き方を難儀だなと思わないでもなかった。独りの時間を尊重し、読書と思索に耽り、相手に見られないところから手庇を作って人間観察に興じる、こういう孤独な学校生活を送る自身の身体に、冷たい、鉄芯のようなものが通っているのを悠は自覚していた。それは彼の背を正し、律し、教え、たいていは涼しめたが、ときどきはこうして凍えさせるのだ。
「あ、あのさ天城、ちょっと訊きたいことあるんだけど……」
(あの美人はアマギっていうのか)
 先の男子Aがいつの間にか戻ってきていて、例のロングヘアに話しかけていた。なぜか若干および腰で。
「天城んちの旅館にさ、山野アナが泊まってるって、マジ?」
(ヤマノアナ? ヤマノアンナ? 聞いたことないな。口振りからして芸能人かな)
 芸能界に疎い悠にはピンと来ないどころか、そのヤマノナニガシが邦人なのか外人なのかさえわからなかった。もっともひとかどの著名人ならさすがに知れようものだ、きっと全国的ではないにしろ、このあたりではそれなりに有名な手合いなのだろう。同級生の家の旅館に「マジ」で泊まっていると、地元の高校生がそれなりに興奮する程度には。
「そういうの、答えられない」天城はにべもない。
「ああ、そりゃ、そっか、客だもんな……」
 男子Aはそれいじょう話の接穂を見つけられずに退散していった。入れ替わりに隣の里中が席を立って、天城の椅子の背もたれに手を掛けた。
「はーもうなにコレ。いつまでかかんのかなー」
「さあね。不審者が見つかるまで?」
「げ、これ不審者なの?」
「ううんわからない! ちょっと聞こえたから……なんなんだろうね、本当に」
「ホントだよォ……あーあ、放送鳴るまえにソッコー帰ればよかったー」
「……うちも電話こないからいいけど」
「雪子んちまだ忙しいんだ?」
「ツアーのお客さん、来るから。夕方」
「うあー……じゃ、十時コース?」
「たぶん」
「にしてもさ、途切れないよね。去年の秋くらいからいっつもこんな感じじゃん? 年々客ふえてるし」
「うん……ちょっと疲れたかな」
「……ひょっとして春休みナシ、だったりした? こないだ来れなかったし」
「ん……でも、流行らないよりいいよ。お店閉めちゃうとこもあるし――ごめんね、千枝」
「あーいいってェ! あっそだ、そう言えばさ、前に話したやつ――」
 二人は友人同士らしい、それもごく親しい、おそらく長い付き合いの。
(サトナカチエとアマギユキコ。たぶん幼馴染。派手な取り合わせだな、諸岡先生みたいなのがこういうところに言及しないのは意外だ)
 かたや緑地に黄のチェックの入ったジャージ、こなた真っ赤なカーディガンと、わりあいドレスコードに忠実な二年二組の中にあって、このふたりはかなり目立つ態をしていた。見目形の整っているところもこの印象を強めている。
 ふたりの会話を見るともなしに眺めていると、ややあってふたたび校内放送を触れるチャイムが鳴った。
『全校生徒にお知らせします』教室内の騒擾がはたと止んだ。『学区内で事件が発生しました。通学路に警察官が動員されています。各自できるだけ保護者の方と連絡を取り、落ち着いて、速やかに下校してください。警察官の邪魔をせず、寄り道などしないようにしてください。繰り返しお知らせします――』
(ほんとうに叔父さんがいるかもな)
 ジケン。ソーサ。昨晩の件に関係が? お年寄りかなにかが行方不明になる。叔父出動。今朝、河川敷で死体が上がる。そして死体には他殺の痕跡が――悠は妄想を振り払った。関係しているからどうだ? 叔父にあっても自分には関係ない、いま考えるべきはこういう状況下で、従姉妹をジュネスへ連れて行くか行くまいかということだ。彼女の父親が、まして刑事の彼がそれを心配しないはずはない。
(どうしたもんかな……冷蔵庫の中身みておけばよかったな。近くに店とかあるかな。昨日の残りで済ませるのも手だけど)
 教室内は以前にも況して騒がしくなっていた。生徒の誰かが何人か募って、事件を見に行こうなどと言っているのが聞こえる。あんなふうに大っぴらに寄り道するななどと言うのは、悠くらいの学生には行ってみろと言うにも等しかろう。
「鳴上、なあ」男子Aが何人か従えて戻ってきた。「俺たちさ、これから事件っていうか、なんかやってそうなとこちょっと見に行くんだけど、お前も来ない?」
「まーそれは適当に切り上げて、鳴上の歓迎会やってもいいし」と、男子B。
「愛家?」
「愛家」
「愛家か。あ、花村くるか?」
「あーわり、俺パス……」花村は沈んだ様子で、膝の手提げの中身を覗き込んでいる。「あー……バイトあるし……」
「? あっそ。で、どうよ鳴上」
「ぜひ行きたいよ、もし先約がなかったら」悠はため息をついた。できるだけ残念そうに見えるように。「そして間の悪いことに、これから女性と食事の約束がある」
「うえ……マジっすか?」
「言ったろ、どっちも大丈夫って」
「いやそう意味じゃないから」
「で、誰? まさかここのじゃ、ないよな」
「十歳下の従姉妹」周囲の刺すような視線がたちまち弛緩するのがわかる。「いや、小学校も午前放下なんだ、昼ないしさ……おいそんな眼で見ないでくれよ、嘘はついてないだろ?」
「へーへー……ま、鳴上は男一筋だもんな」
「なんだ誘ってるならはっきり言えばいいのに――今日の夜なら空いてるけど」
「いいやめんかそのネタ!」
「ネタ? おれは本気だぞ、九時以降なら――」
「あーわかったわかった……じゃ、歓迎会はまた今度な」
「楽しみにしてるよ、あらゆる意味で」
 男子たちは連れ立って笑いながら教室を出て行った。どうやら心証を損ねずにお引取り願えたようだ。
(菜々子ちゃんと約束がなければ行ったかな、おれは――行ったな、きっと)
 件の鉄芯は冷えたままだ。べつに苦しいわけでも耐えられないわけでもないが、だからといって足りないものを補おうという欲求の起こるのは防ぎようがない。もし彼らに付いて行ったら? きっと思い出ぶかいひとときになったろう。アイヤとやらで楽しいイニシエーションを受け、一日バカ騒ぎして、自分はめでたくスクールカーストを構成する一グループに迎えられる――そんなのは御免こうむる!
 もちろん、自分が行ったとしてもそんなことにはならない。これまでの学校生活を思い出せ、お前はうまくやってきた。今日もまあまあだった。明日からもそうできるはず。
 ではこの寒さはどうしよう? 
(決まってる、家族に癒してもらうのさ、昨日できたばかりの家族に。この寒さは家に持ち帰ればいい)
「あ、帰りひとり?」
 席を立ったところで千枝が声をかけてきた。背後に雪子を従えている。
「よかったら一緒に帰んない? あー、あたし里中千枝ね。隣の席なのは知ってるでしょ?」
「……そうだったかな」
「ちょ、真横にいたし。つか話したし!」
「いや、おかしいな。こんな美人だったはずはないんだけど」
「うはー……言うねこのひと」里中は赤くなった。「で……ど、どう?」
「どこか寄る予定はある?」
「んや、ないよ。女の子とゴハンなんでしょ? 十歳年下の」
「しまった、聞こえてたとは……」さもあろう、聞こえるように言ったのだ。「参ったな、これでデートに誘ったら誠実を疑われる」
「あははー残念でした」
「なら仕方ない、一緒に帰るだけで我慢する」
「じゃ、ヨロシク――でェ、こっちは天城雪子ね」
(松風と、村雨も一緒か)
「あ、初めまして……なんか急でごめんね」
「のぁ、謝んないでよ、あたし失礼なひとみたいじゃん。ちょっと話を聞きたいなーって、それだけだってば」
「それだけ? それだけだったのか……どうも途方もない期待をしてたみたいだ」
「うおーい……どんな期待よ」
「明るいうちは言えない。聞きたい?」
「いーって!――鳴上くんてさ、向こうで変わってるって言われてなかった?」
「変わって、とはよく言われてた」
 雪子が千枝の背後で「むふっ」と笑って、あわてて俯いて口元を覆った。
「ご、ごめんなさい、笑うつもりは」
「あーほら行こ、喋ってるとまた――」
「あ、里中……さん?」
「ん、どったの?」
 三人の会話に割って入って来たのは、先の男子Cこと花村である。なぜか申し訳なさそうに、悄然として、薄っぺらい手提げの中をごそごそやっている。
「帰ったかと思ってた。なによ」
 確かに花村はいちど帰ろうとしていたらしい。彼は教室の後側の入口から戻ってきて、なにか後ろめたい様子で千枝に声をかけてきたのだった。
「あの、これ、スゲー、おもしろかったです」花村はなにか箱状のものを手提げから抜き出した。「技の繰り出しが、その、さすが、本場っつーか……」
「おっ、わかっとるねー花村氏ィ」千枝の眼がとたんに輝きだした。「じゃまたジェット・リー戻ってェ、つぎワンチャイいってみよーか、こないだ少林寺みたよね、あたし的には2とアラハンはちょっとねー、つまんなくはないんだけどさ、ユエ・ハイ目当てでなきゃオススメできないかな、またなんで早回しとかするんかねーホントに、あーあの先生のことね、シーフォー」
「いや、それはいいんだけど――」
「あっ、成龍伝説の話だったよね」千枝の眼はいよいよ輝きを増す。「よかったっしょそれ、それ見ればジャッキー・チェンの代表作はひととおり押さえたことになるから、でもゴージャスが入ってないのは完全に納得いかんけど。まジャッキー・チェンは入門編だけどさ、カンフー映画に入りやすい間口を作るのって実はすっごく大変なんだって思うんだよね。そーそーなんでドラゴン怒りの鉄拳が入ってるんだって、あれラストでコンサンが――」
「申し訳ない、事故なんだ!」
「おおっ、ツウですなあ花村氏!」千枝が花村の肩をびしびし叩く。「コンサン語るなら事故は外せないよね! で、花村はどれ? ヘリ? 時計台? 電飾? あたしは断然ポリストだなー、なんたってあのあと走ってんだからコンサン――なにそれ」
「バイト代はいるまで待ってくれ……!」
 花村は抱えていたなにかを千枝に押し付けた。無残に潰れて、ついでに水に濡れてごわごわになったDVDのボックスを。
「え、ちょ……え? な、なにしてくれてんのアンタ……」
「じゃ!」
「待てコラ! 貸したDVDになにした!」
 逃げ出そうと身を翻した甲斐もなく、花村は千枝の飛矢のようなフロントキックを食らってつんのめった。つんのめってそのまま机に激突し、座っていた女子の白眼に晒された。
「せっ、せがれが……!」花村は股間を押さえて悶絶している。「兄のほうが……!」
(家名断絶……)
「あんたコレ数量限定で――ああーっ! 信じらんないヒビ入ってんじゃん……!」ボックスの中身をひとめ見るなり、千枝は絶望の叫びを上げた。「あたしの成龍伝説があぁ……」
「俺のもヒビいったかも……机のカドが直に……!」
「コレ買うためにどんっだけ沖奈まで通ったと思ってんのよォ……通いまくって電話しまくってダメで……キャンセルいっこ出てやっと買えたのに……高かったのに……コンサン……」
「だ、大丈夫?」
「ああ、天城、心配してくれてんのか……」そうとう痛いのだろう、花村の額には脂汗が滲んでいた。「でもうちの息子、今夜が峠っぽい……ジャ、ジャンプせねば……!」
「いいよ雪子、花村なんかほっといて!」
「でも、その、ああいうところの怪我ってヘタすると命に関わるっていうし」
「関わっていいよ、つか関わらせたいよ。いまヘーキで立ってたら骨盤脱臼さしてるとこだから!」
「マジで悪かったって……買って返すから……ああ……!」
「売ってないの! もう!――行こ、ふたりとも」
 ボロボロになったナントカ伝説をリュックにしまうと、千枝はぷりぷりしながら教室を出て行った。雪子も気遣わしげに花村を振り返りつつそれに従う。
(そうか、朝のあのときだ、ぶつかった弾みに落としたんだな。気の毒に)
「ええと、大丈夫?」
「大丈夫ない、くるしい……!」
 さすがに見兼ねたものか、彼に深刻な痛撃を加えた机の主人が立ち上がって「ちょっと大丈夫? 保健室いく?」などと声をかけている。
「鳴上くーん?」廊下から千枝の声が飛んできた。「行こーよ、そんなのほっといていいから」
(仕方ない、ここにいてもできることはないし、介抱は彼女に任せればいい……そっとしておこう)
「その……お大事に、花村」
 悶え苦しむ「そんなの」を後目に、悠は千枝たちの後を追って廊下に出た。





[35651] 国を去り家を離れて白雲を見る
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/27 23:57



 千枝の怒りはあんがい長続きせず、正面玄関で靴を履き替えるころには、宝物を破壊された恨みなど彼女はきれいさっぱり忘れてしまったように見えた。初対面の人間に愚痴を聞かせるのを避けたか、そもそも根に持たないタイプなのか――いずれにせよ彼女は陽気で話しやすい、好ましい性格の持ち主だった。
「蒸し返すようでなんだけど」同じ痛みを共有できる者同士の義理から、悠はささやかながら花村の弁護を試みた。「さっきのDVDのこと」
「へ? あー、ホントむかつく!」千枝はさっそく再燃した。「貸すんじゃなかったよもう!」
「実は登校するとき、花村と行き会ったんだ」
「あ、そなの?」
「おれ、道がよくわからなくて、あちこちうろうろしてたんだ。それでつい花村の自転車の前に出ちゃって……それを避けようとして、花村、電柱にぶつかった」
「あー……」千枝はなんとなく話の流れを読んだようだ。
「その拍子にさ、転んで、手提げ鞄を下敷きにするのが見えたんだ。――そのせいかどうかはわからないけど、そのDVD、おれのせいかもしれないなって」
 たしょう脚色も加えて、悠は今朝の出来事を語った。千枝の性格上こうと言えばたぶん、以後花村を表立って責めることはすまい。彼もこどもたちの心配をしなくて済むだろう。
「やっちゃったもんはしょーがないけどさあ……あーあ、一学期早々ついてないよホント」
「ごめん」
「や、いいって! 鳴上くんのせいじゃないかもしんないし――雪子どしたの?」
 下駄箱を開けた直後、雪子がちょっと固まったのを、千枝は目ざとく見咎めたようだ。 
「えっ? 別に。なにが?」
「……ははーん、また、ですな」千枝が含みありげに笑った。「で、何十枚?」
「そんなに入ってないよ!」雪子は右手に握っていたなにかをポケットに突っ込んだ。
「あっ、じゃ入ってたのは認めるんだ。やー今日はどちらさまからでございますかなあ」
「千枝おいてくよ」
 ひとりでさっさと靴を履いて、雪子は小走りに正面玄関を出て行った。歩きながらポケットの中身を取り出して一瞥して、また素早く突っ込んだ。あれは、
「ラブレターか」
「さよう、こひぶみでござる」まるでわがことのように、千枝は満面の笑みを浮かべている。「でもマジで通算何十通ってもらってるんだ、雪子。まーぜんぶお断りしちゃうんだけど……すごいっしょ?」
「へえ」
「うぉ、感動うすいな――ひょっとしてあれ、鳴上くんのだったりして?」
「あ、バレた?」
 千枝は外履きを取り落として「うえ……マジっすか?」と驚愕した。
「ホントに?」
「……もし会ったこともない女子の顔と性格を吟味できて、名前がわかって、下駄箱の位置がわかって、ついでに彼女の友達がそれを喜ぶことを知っていたなら――ひょっとしたらしたかも」
「えーっと、嘘?」
「嘘でなくそうか、里中うれしいみたいだし」
「ええ? い、いいよ……っていうか、えと、なんつっていいかわかんないんですけど」
 返答に困って、千枝は視線を泳がせた。それがほどなく、正面玄関の先、戸外のなにかに釘付けになって止まる。
「――なに、アイツ」
 彼女の視線の先には、校門の辺りに佇む雪子と、それに話しかける見知らぬ少年の姿があった。八十神高校の学ランではない、ブレザーにネクタイといういでたちの、まぎれもない他校の生徒である。――千枝は外履きを突っかけるのもそこそこに、雪子たちめざしてすっ飛んでいった。黙って様子を見ようという気はないようだ。
(まるっきり変質者あつかいだな)
 近づいて他人のふりをしながら聞き耳をたてたかぎり、かの勇気あるアウトサイダーの目的は――近づく前からそうであろうとは思われたが――雪子を連れ出すことらしい。彼はひじょうに熱心に彼女を誘うのだが、彼女のほうでは困ってズレたあいづちを打つばかりである。千枝も押っ取り刀で駆けつけたはいいものの、自分の出る幕はないと判断したようで、なにも言わずに雪子の背後に控えていた。
「――だからさ、時間、ないの? 用事は夕方なんだろ」
「うん……」
「じゃ、行けるだろ」
「準備、あるし」
「それってどのくらいかかるの?」
「その時々にもよるよ」
「少しくらいいいだろ?」
「少し……って?」
「一時間くらい」
「いま何時?」
「……十時二十分」
「あなた、誰?」
「え、久保美津雄」
「会ったこと、あったっけ」
「いやないけど」
「きょうツアー来るの、中国の団体さん」
「……いや、そんなのどうでもいいよ」
「わたしは、その、よくないんだけど」
「とにかく、一時間くらいいいだろ」
「その、準備あるし」
「だからそれどのくらいかかるの」
「その時々にもよるよ」
(中国人と日本人が自分の言葉だけで会話したら、こんな感じになるのかな)
 やがて悠のように遠巻きにして、事態を眺めるギャラリーがぽつぽつと現れだしたが、ふたりの話は依然として盛り上がりも盛り下がりもしない。久保という男子はだんだんいらいらしてくるし、雪子のほうではまったく困惑一色、自分が一緒にどこかへ行くか行かないかという事柄について、なぜ初対面の彼がこのような積極性の発露を見せるのか皆目検討がつかぬといったふうで、傍目にはどこまでもかみ合いそうにない会話だった。
 彼はほぼ間違いなく「通算何十通」の最新の凡例となりそうだ。
「あのさ、行くの? 行かないの? どっち!」ついに業を煮やしたようで、久保が傲然と決を迫った。「はっきりしろよ、中国とかどうでもいいよ!」
「い、行かない……」
「……ならいい!」
 久保は腹を立てて走り去ってしまった。
「あのひと、なんの用だったんだろ……」
 デートに誘うために来た男を評して言うに、あまりといえばあまりな台詞である。雪子はついに彼の用件を解さず、かつ彼女のわからない理由で立腹されたためにちょっと膨れていた。
「中国きらいなのかな。よくないよね、そういうの。れっきとしたお客さんなのに」
「いや、国がどうとかってんじゃないと思う」千枝が控えめに訂正を入れた。「あれ、デートのお誘いでしょ、どう見たって」
「え、そうなの……?」
「そうなの……って、あーあ、かわいそーに」
「かわいそうって……かわいそうなのは中国だよ、あとわたしも。どうでもいいだなんて」
「中国から離れなさいっての。――まあけど、あれはないよねー。初対面でいきなり『雪子』って怖すぎ」
「観光客に国籍なんて関係ないよ、差別するのは間違ってると思う」
「だから国はもういいってのに……」
「よう天城、また悩める男子フッたのか?」
 ギャラリーの囲いを割って、花村が自転車を引いてやってきた。どうやら峠は越えたようで、先にあれほど苦しんでいたのが嘘のように快活である。
「見てたぞ、まったく罪作りだな……俺も去年、バッサリ斬られたもんなあ、古傷が疼くっての」
 きっと由々しい人種差別発言があったのだろう。
「別に、そんなことしてないよ」雪子が口を尖らせる。
「え、マジで? じゃあ今度いっしょにどっか出かける?」
「……それはイヤだけど」
「僅かでも期待した俺がバカだったよ……つーかお前ら」露骨に傷ついたフリを見せて、花村は自転車に跨った。「あんま転校生イジメんなよ。鳴上、一年たったら東京帰るらしいし、ここのこと向こうで悪く言われないようにしろよな」
「はなし聞くだけだってば!」
 捨て台詞して、花村の自転車は校門前の坂を下っていった。相変わらず蛇行しながら、周りの生徒を脅かしながら。
「さっきの、他校の生徒みたいだったけど」
「うん、どこの子だろ」
「あれ宇宿商業のブレザーだよね、盾っぽい校章のやつ。東稲羽の」千枝は胡散臭そうな顔をしている。「つか、雪子の名前って向こうまで広まってるんだ……」
「有名人なんだな」
「そんなことないけど……あの、ごめんね、いきなり……」
「いや、すごく参考になった」
「参考って」
「あ、ほら、もう行こ。なんか注目されてるし」
 挑戦者が敗走して騒ぎが収まるかと思いきや、一部始終を見ていた生徒が今ほどの椿事を遅れてやってきたものに説明しているせいで、ギャラリーは減るどころかじわじわ増えてさえいる。三人は人目に押し出されるようにして校門を後にした。
「そういえば」ややあって千枝が思い出したように言った。「さっき言ってた、参考になったって、なにが?」
「いや、手紙かくときは中国ずきをアピールしようかなってね」
「あー……そういう参考ね」
「へえ、中国すきなの?」と、雪子。「誰に出すの?」
「…………」
 千枝が眉根を押さえつつ、口だけで「ね?」と言った。





「――そうそう、校門でるとき花村が言ってたんだけど」
「一年たったら、ってやつ?」
「そそ。そうなの?」
「ここの親戚に預けられただけだから、一年だけ」
「う、えーと……この先って、訊かないほうが、よかったり?」
「べつに構わないけど」
「や、ほら、なんかトクベツなカテーのジジョーってやつとかだったり、するかもだし……」
「そうそれ」
「いや、軽っ」
「重くないから。両親とも海外に行ってるだけ、母親のほうが一年間限定で」
「ご両親がいっしょに、海外に行ってるの?」
「父親が六年前にカリフォルニアに行ってそれっきり。で、単身赴任はもうイヤだって言うんで、このあいだ母親もあっちへ行った。地理的に一番ちかいのが母方の叔父がいる八十稲羽だった。だからここに来た」
「カリフォルニア……アメリカ」
「あ、アメリカだったよね、そうだよねー……」
「カリフォルニアの、サンノゼってところ」
「おおー……遊び行ったりとか?」
「ないよ、一度も」
「ご両親は向こうでなにを?」
「仕事? 父親は板前。母親は……たぶん観光」
「あ、板前さんなんだ」
「そっか、親の仕事の都合なんだ。もっとシンドい理由なのかと思っちゃった、はは」
「留年もしんどい理由に入る?」
「留ね――留年っ?」千枝が大きな眼を瞠った。「し、したの? 留年」
「十回して、実は二十七歳」
「……え、あー、嘘でしょ?」
「どう思う?」
「どう……と言われましても」
「童顔だよね、鳴上くんって」
「え、そう?」
「うん。これなら十七歳で通るよ、だいじょうぶ」
「いや雪子、冗談だから」
「冗談なの?」
「……面白くなかった?」
「そんなに……ありそうだし」
「…………」
「ね、東京と比べて、ここって、どう?」
 河川敷を外れて住宅地に差し掛かった辺りで、千枝は右手の広大な田園を手で示した。
(馬鹿正直にド田舎だね、とは言えないか)
「どう……と言われましても、だな」
 きのう車窓から見た稲田は、さながら荒涼とした泥の湖のようだったが、車のスピードに暈かされない畔は案外に装飾的だった。金鳳花や土筆の黴のように点綴するのが、セメントの側溝を跨いで悠の足下ちかくまで侵攻してきている。悠が立ち止まると、女子ふたりもそれに付き合って足を止めた。
 雨は朝方に降ったきりで、今はよく晴れている。
(天は長く地は闊くして嶺頭分れ、国を去り家を離れて白雲を見る……だな、おれの場合、まさに)
 田舎をただそれだけで愛好しはしない悠の眼にも、この牧歌的な眺めはなかなか好ましいもののように思われた。誓子はどうだっただろう? 母は概して田舎的なものを疎んじがちであったが、このきれいな自然もその例には漏れなかったのだろうか。
(目の前に田、向こうに山なら、青空と雲のコントラストはさしずめ海と砂浜だ。田園趣味の詩人に霊感を与えるのって、きっとこういう風景なんだろう)
 田舎は静か、という先入観が悠にはあったが、東京とは音の出所が違うだけであまり変わらないようだ。それでもこんな閑かな午前中に道端へ投げ出されてみると、まるで自分自身が音になってしまったような静けさがある。じっと耳を澄ませば頭上の海原から潮騒すら聞こえてきそうではないか。それは豊かな静寂だった。
「ここ、ほんっと、なーんもないでしょ?」
 言葉の内容とは裏腹に、千枝の口調には明らかな誇りがある。きっと彼女は「ここ」などというぞんざいな指示代名詞を使って、なにかしらの難点を示そうとしたのではない。ただ彼女にはありきたりで慣れすぎたために少しく褪せた宝の光が、この得体の知れない東京人に反射してどのように明々と輝くのか見てみたいのだろう。
「そこがいいトコでもあるんだけど、余所のひとに言えるようなモンは全然……」
「……おれ、柴又に住んでたんだ、葛飾区の、新柴又駅の近く」
「へえ、うん」
「とりあえず、柴又にないものは全部あるよ、八十稲羽には」少なくとも柴又には海も山もなかった。
「んーん、うまいこと言うね……なんかはぐらかされたような気がしないでもないけど」この答えに満足したのかしないのか、千枝はちょっと物足りない様子である。「なんかあったかな……あ、八十神山から採れる……なんだっけ、染め物とか焼き物とか、ちょっと有名かな」
「水名羽染ね、ムラサキキャベツ染めなんて言われたりするけど」雪子の注釈が入った。
「そそ、それ」
「あと水名羽縮緬、は、小千谷縮の分派みたいなもんだから、名産じゃないかな。焼き物は城根焼かな、無釉の赤っぽいやつ。でもあんまり有名じゃないかも……うん、ぜんぜん有名じゃない」
「うおー……よく覚えてるね雪子」
「お土産用に仕入れてるから。水名羽染の帯もってるし」
「おっと、そーそー忘れちゃいけない天城屋旅館! ここは普通に自慢の名所! いま雪子が言ったやつぜんぶお土産で売ってるよ」
「アマギヤ……アマギ?」
「そ。さーてェ、雪子の名字はなんでしょう」
「ひょっとして、天城の?」
「うん、うち」
雪子の面に血が昇った。照れているというより、なんとなく恥を感じているような印象である。
「名所なんかじゃないよ、古いだけ」
「隠れ家温泉とかって、雑誌とかにもよく載ってんじゃん。ほら、誰だったか芸能人が毎年きてるとか」
「来たことはあるけど」
「この町でいちばん立派な老舗旅館でね、雪子はそこの次期女将なんだ」
「まだなるって決まったわけじゃ」
(そういえばヤマノナントカが泊まってるらしい旅館とか言ってたっけ。なるほど、それで十時コース、春休みなし、中国人ツアー、なのか)
「雪子んち目当ての観光客とかも来るし、この町それで保ってるよね実際」
「そんなことないけど……」
「ね、ところでさ」千枝がこころもち身を乗り出してきた。「雪子って美人だと思わない?」
「またそういうことを、千枝!」
(つまり、里中にとっての誇りなんだ、天城は)
 また、と言うからには、こういった問いかけはたびたびなされてきたのだろう。先のラブレターの件といい、今ほどの旅館の話といい、千枝は美しい親友を賞揚するとき、自分の宝物を自慢するように誇らしげになるのだった。
「なあによホントのことじゃん。で、どう?」
 少し大げさに注視すると、案の定、雪子は不快気に眉を顰めた。――なるほど自慢したくなるだけのことはある、彼女は容姿端麗だった。純和風の、小細工のない、言ってみれば正眼の美しさだ。
 すらりと長い脚が柳腰を支える、緩くS字を描く均整のとれた体つきに、女子にしてはやや高めの身長は、小柄な千枝と並んでいると余計に際立って見える。それらの戴く顔と言えば、色の白い卵なりの輪郭に、二重瞼の下の切れ長の眼、ふっくらした桜桃の唇、これだけが純和風を少しく乱す、高めのすっきりと通った鼻梁、濃く細くたなびく眉は憂わしげに顰められていて、この希有なパーツの集約した美貌に、いささか歳不相応の艶を与えていた。美の裁定基準は時として無責任である、彼女は悲しげにしていたほうが美しいのだ。
 雪子はついにそっぽを向いてしまった。
(美人は顔を褒めると不機嫌になるって言うけど……)
 彼女も例には漏れないようだ。美しい人間にままあるように、彼女にとって見目の良さに注目されることはおそらく、それ以外の要素を軽視されたように感じられるのだろう。美しさを褒められ飽いている美人の気難しさである。
「思うことは思う、けど」
「けど?」
「どのくらいか、と言われると、ちょっと難しい」
「おっとォ、レベル高すぎた?」
「千枝ェ……」
「正確に吟味するなら、改めてひとりのところを狙うかな」
「……ん? うん」
「いまは隣に同じくらい綺麗な花が咲いてるから、目移りして気が散って判断できない。岸傍の桃李誰が為にか春なるってね」
「はあ、ふーん……はな?」
 もっぱら千枝への礼儀が言わせた言葉だったが、これははからずも雪子を喜ばせたらしい。彼女の愁眉が解けて、頬にかすかな、好意的な笑みの刷かれるのが見えた。このふたりは案外似ているのかもしれない。つまるところ、自分自身が褒められるよりも、親友のそうされるほうがずっと嬉しいのだ。
 何秒か呆けたあと、千枝はようやく意味を悟って赤くなった。
「……つか、口、達者だよね、鳴上くん」
「自分でも損してると思う。嘘つけないから」
「正直なのはいいことだよ、わたしも千枝は、美人だと思うし」
「はあっ? なはーに言ってんだか……」
「おまけに話しやすいし、明るいし」悠も今度は雪子の肩を持った。
「そうそう、友達おおいし、気さくだし、運動神経いいし、器用だし」
「ちょっとあんたらねェ……」
 千枝は真っ赤になって気色ばんだ。褒められ飽いている雪子とは正反対で、こちらは褒められ慣れていない様子。言われていることを額面通りに受け取れない、ということだけが共通している。
(そろそろ寝返っておこうか)
「ところで天城、さっきの手紙は誰から?」
「おおっ、そーそー訊くの忘れてた!」千枝は得たりと元気を取り戻した。
「手紙、って、なんのこと?」たちまち非難がましい視線が飛んで来る。「もらった覚えないけど」
「まーたまたァ、下駄箱に入ってたじゃん――雪子って学校でもすごいモテんのにさ、彼氏ゼロなんだ。おかしくない?」
「ちょ、やめてよいきなり……ぜ、全部ウソだからね、モテるとか、彼氏ゼロとか!」せっかくの親友の賛辞を、雪子はしゃにむに否定してかかった。「あっ違った、えっと違うから、彼氏とかいらっ、いらないし!」
「これだもん、もったいないったら」
「転校生の鳴上には言わないでやって……きっと落ち込むから」
「気にしなさんなって。ささ遠慮はいらぬぞよ、どんどんアタックすべし」
「もう……千枝ェ……!」
 どうやら本当に気分を害したようで、雪子は不快感を露わにしていた。
「あはは、ごーめんごめん……だってせっかくなのにノリ悪いんだもん」
「…………」
「……雪子、怒った?」
「あれ、なんだろ」
 戸惑いがちに立ち止まって、雪子が前方を指し示した。
 住宅の密集する、ちょうど車がすれ違える程度のせまい交差点に、ちょっとした人だかりができている。反射チョッキを着込んだ警察官がふたり、誘導灯と警笛を武器に野次馬をやんわりと威嚇していた。
「あれって……例の、えと、アレかな」
「ひょっとして」
「ひょっとするかも……迂回する?」
「行ってみよ……っていうか、フツーに通り道じゃん。わざわざ回り道することないよ。通ろ通ろ」
 教室ではなんの気もないような態度を取っていても、いざ現場に出くわせば好奇心の沸き上がるのを押さえがたいようで、千枝も雪子も眼を爛々と輝かせている。もっとも悠自身の眼もたぶん、彼女らと選ぶところはないのだろうが。
(よりによって探すつもりのなかった人間が行き会うとは……愛屋組もここに来たのかな)
「ええここから先に用のある方は申し出てください、この先に家があるなどの、理由のある方は申し出てください。この先は通行止めです、通り抜けできません」
 警察官の後ろのほうから、拡声器を介した注意が飛んできた。かなり横柄で押し付けがましい、いかにもいい加減にしろと言わんばかりの声である。きっとこういう口調になるまで何度も同じ文句をがなったのだろう。
(あれ、この声、ひょっとして)
「ええ迂回路を提示してあります、この道を通る場合はそちらをご覧のうえ、回り道をお願いします。ここから先は通行止めです。捜査へのご協力を願います、用のない方は近づかないように!」
 意訳すれば「さっさとどこかへ行け野次馬ども」にでもなろうか。当の野次馬も強かなもので、あからさまに当てつけられても申し訳ていど離れるだけだ。警察が拡声器を下ろせばすぐ、この距離は元に戻るに違いない。
 交差点は一方の道をパトカー二台、カラーコーン数本で拵えたバリケードで塞がれていた。一瞥してふつうの交通整備でないことが窺える。パトカーの向こうのアスファルトをブルーシートで養生してあるのだが、それがなぜか道路脇の家の、屋根の上にまで敷設されているのだ。遠目にはちょっと雨漏りの修理めいて眺められる。その下にはレモン色の防護服とゴム長靴を着けた作業員が数人、ガスマスクのようなものを片手に顔を扇いでいた。服装こそちぐはぐだが、警察官の数はかなり多い。パトカーに遮られた視界からでも、この火星探査員を含めて十二、三人は見えるのである。
「ねえ、あれ」千枝がかすかに、怯えたような声で呟いた。「担架、かな。毛布かかってるやつ」
「どれ」
「あの、ツナギ着てるひとたちの向こっかわ、片っぽだけ見えてる」
(担架はひとを載せるもの、だよな、普通)
 手庇を作る傍らで、野次馬の主な構成員である主婦連の会話が漏れ聞こえてくる。高校生。早退。アンテナ。引っかかる。ぜひ見たかった。警察と消防団。下ろした。怖い。死体。
「今なんて……死体?」
「ええ! もうすぐ救急車が到着します、通行の邪魔になるので道を空けてください! 空けなさい!」
(あ、ひょっとした)
 果たして、拡声器片手に怒気を堪えかねていたのは遼太郎であった。向こうもこちらに気づいたようで、訝しげな顔で小走りに駆けてくる。背の高い、ちょっと怖そうな私服警官が自分たち目がけて走ってくるのを見て――まったく当然の反応だが――千枝と雪子はそろってなかよく怖じ気づいた。
「ちょっ行こ! やばい!」
「戻ったほうが……!」
「おい」
 逃げる間もない。遼太郎はバリケードを跨いで近づいてきた。女子ふたりが絶望の呻きを上げる。彼の声は甥に向けられるものとは思えないほど硬質で、突き放したものだった。
「ここでなにしてる」
「下校中だよ、通りすがりだけど」叔父の神経を逆なでしない程度に、悠はにこやかにいらえた。
「ああ……まあ、そうだろうな」たちまち遼太郎の声からトゲが失せた。「そういや通ったよ、何人も、お前の仲間が」
(で、そのたびにちぎって投げたわけだ)
「ったく、ここは通すなっつってんだろうに……」
「……知り合い?」
「うん、叔父さん」
「コイツの保護者の堂島だ。あー……まあその、仲良くしてやってくれ」
「どうも」
「あ、ども」
「とにかく三人とも、ウロウロしてないでさっさと帰りなさい」
「叔父さん、事件みたいだけど――」
「お前には関係ない、はやく帰れ」
「菜々子ちゃんは、もう?」
 高校の放送では保護者随伴の下校を勧めていた。小学校、なかんずく低学年なら尚更であろう。学校から遼太郎に連絡があってもおかしくないはずだが、彼は目の前で勤務中である。とすれば、彼女はひとりで帰ったのだろうか。
「ああしまった――くっそ!」遼太郎がにわかにキレた。次いで狼狽し始める。「忘れてた、まずい……!」
「いい、いいよ、おれが迎えに行く」
「ああ、すまん、本当に……ったくなにやってんだかな俺ァ」
「こんなことがあったんだから――そう、小学校ってどの辺り?」
「あー、そこまっすぐ行って左みながら――ダメだパト出させる、お前のってけ」
「それはさすがに、いいよその辺の――」
「あの、わたし、案内しますから」雪子が小さく挙手した。「そんなに離れてないし」
「悪いな……いや、ダメだ。お前らみたいな子供を」
「叔父さん、おれも子供」
「そうだった、そうだが」
「二十七歳の、ね」
「……そうだったな」遼太郎の口角がちょっと上がった。「お前らを頼るしかなさそうだ、悪いが、頼まれてくれるか」
「まっかせてください!」と、千枝。「警察への協力は稲羽市民のギムですから!」
「すまん、頼む。あと……あいつのメシ、なんとかなりそうか」
「任せてよ、叔父さんは仕事に専念して」
「悪い、助かる……」
 遼太郎はこころなし肩を落として、バリケードの向こうへ戻っていった。 
「じゃ、案内するね」
(こういう借りを作りたくなかったな。道でも訊けばひとりで見つけられたのに、余計なことを)
 と、悠はこう考えて、次の瞬間にはそれを慌ただしく打ち払った。いつもとは状況が違うのだ、こんなつまらない流儀などいちいち遵守している暇はない。
(ありがたい申し出じゃないか、傲慢な考え方をするな。少なくともこれは最短の道だ、お前のことなんかどうでもいい、今は菜々子ちゃんが最優先だ)
「ごめん、こんなこと頼める義理じゃないけど」
「やや、みなまで申すな、お隣さんの義理ではござらぬか」千枝はにこにこしている。「今日うちらが声かけてよかったじゃん」
(義理、義理か。これからどれくらいの期間で、この二文字の届かないところまで逃げ切れるか……端からこれじゃ先が思いやられる)
 いっそ隣の席がこういう、善良な人間でなかったなら――悠はため息をついた。きっとふたりは悠とは別の意味に受け取ったのではあろうが。
「――足立! おめえはいつまで新米気分だ! 今すぐ本庁かえるか? ああっ?」
 誰かを怒鳴りつける遼太郎の、八つ当たり気味の声が背後から追いかけてきた。





「お父さん、きょうもかえってこないのかな」
 昼前に帰ってきてからというもの、ずっと言葉少なであった菜々子の、自発的に問いかけるようなこういう台詞は珍しかった。悠はトレイ――昨日の残り物が入っていた――を洗う手を休めて、菜々子の向かいに座った。
 腕時計は六時過ぎを示している。
「少なくとも一区切りはついたと思うから、きっと帰ってくるよ」
 あの担架の毛布の中身が、昨夜の緊急出勤と繋がっているのなら、ひょっとしたら。あの事件に異常性がなく、行方不明者の自殺かなにかなら、あるいは。警察の仕事についてなにも知らない、高校生の山勘が偶然にでも当たったなら、たぶん。
「デンワもこない」
「かけてみようか、こっちから」
「だいじなようじがないときは、かけちゃダメって」
「……そう」
 たしょう無理をしてでもジュネスへ行くべきだったかな――悠は少し後悔し始めていた。
 雪子と千枝には小さからぬ借りができてしまった。
 雪子は小学校へ案内する途中で家から呼び出しを受けたが、着くまではと途中で切り上げることはしなかったし、千枝に至ってはこの家まで随伴して、ジュネス行きを断念されたショックで茹でたホウレンソウみたいになっていた菜々子を、ずっと慰め続けてくれていたのだった。これも田舎のひとのよさなのだろうか。
(いや、いくら同じ産でも、叔父さんは許さない)
 午前に会ったときの彼の焦燥はただごとではなかった。もちろん遼太郎は許さないだろう。食事をするというただそれだけの理由で、事件の真っ最中、真っ先に保護すべき幼い娘を、犯人を含むかも知れない不特定多数の人間が集まる大型商店に連れて行くなどということは。
 ――ニュースは時事報道に移っている。
『ではまず、きょう最初のニュース。静かな郊外の町で、不気味な事件です。本日正午ごろ、稲羽市八十稲羽の鮫川付近の民家で、女性の遺体が発見されました』
(ああ、あれだ。じゃ、あの毛布の下はやっぱり死体……)今ごろ千枝は青くなっているのだろうか。
『遺体で見つかったのは、地元テレビ局のアナウンサー、山野真由美さん、二十七歳です』死者の肖像が映し出される。ベリーショートの童顔で、溌剌とした印象の美人だった。『稲羽警察署の調べによりますと、山野さんは今月の八日から事件現場ちかくの旅館に滞在中で、九日の夕方六時ごろ同旅館の従業員に目撃されたのを最後に、行方がわからなくなっていました。なお、山野さんの荷物は部屋に残されたままとなっており――』
(ああ、山野アナ、だったのか。ならこの旅館は天城の……)
「お父さんにあったの、ここ?」
 彼女にはおなじみであろう、画面には鮫川の河川敷が映っていた。
「ん、このもうちょっと先」
「…………」
「元気そうだったよ。野次馬を怒鳴りつけててさ、おれまで追い払われるところだった」
 菜々子がかすかに微笑んだ、ような気がした。
『――遺体は民家の屋根の大型のテレビアンテナに、引っかかったような状態で発見されました』
 なるほど、それで「見たかった」のか。非日常に飢えているということにかけては、主婦連も高校生に劣らないようだ。
『なぜこのような異常な状態になったのかは、現在のところわかっていないということです。死因も今のところ不明で、警察では、事件と事故の両面から捜査を進めることにしています。ただ周辺には、地域特有の濃い霧が出ており、本格的な現場検証は明日となる見込みです』
(事故ってことはないだろうな、とすれば、自殺か他殺……あんなところで自殺?)
「やねのうえでみつかったの? なんか、こわいね」
「わざわざ屋根まで抱えて上がったのかな。こわいっていうより、まぬけだよ」
 少しでも菜々子の恐怖を減じようと、悠は笑いながら続けた。
「きっと犯人は自分のしたことを大きく見せたかったんだ、どうだすごいだろうって、威張り散らしたいんだよ。想像してごらん、すぐ逃げればいいのに、わざわざ可哀想なひとを背中に縛り付けて、大汗かきながら一生懸命屋根に上るんだ。そのおかげでこんな大げさなニュースになって、逃げにくくなってるんだから、とんでもないまぬけだ。ちっともこわくなんかない、まぬけで、ばかなだけだよ」
「……うん」
「そんなばかは、すぐお父さんが捕まえてくれる。牢屋の中できっと悔しがるよ、こんなことしたばっかりにすぐ捕まったってね」
「うん」
 菜々子が少し笑った、ような気がした。
 ――テレビはコマーシャルを流している。おなじみのジュネスのCMが入るとじき、菜々子の眉間のシワはきれいに消えてしまった。
「あっ、ジュネスだ!」
『――ジュネスは毎日がお客様感謝デー、来て、見て、触れてください』
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス!」
 ひとくさりやり終えたあと、菜々子はなにか期待するような貌でじっとこちらを見つめてきた。
「…………」
「…………」
「……エヴリデイ・ヤングライフ、ジュネス」振り付けは省略させてもらった。
「おぼえた? 菜々子ね、いちばんうまいんだよ!」
「……もっと練習しなきゃ、菜々子ちゃんには敵いそうにないな」
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス! ジュネス、行きたかったなあ」
「これからいくらでも行けるよ」
「うん。――ねえ、ちえちゃんって」
「え?」
「おともだち?」
「ううん」悠は首を振って否んだ。「隣の席の子なんだ、それだけ」
「テンコーしたばっかりだから、ともだちいないね」
「うん、まあ、いずれできるよ」そんなものは「テンコー」する前からひとりもいなかったし、今後できるはずもないのだが。「始まったばかりだしね、全部これからだ」
「さみしい?」
「菜々子ちゃんがいるじゃないか。あとお父さんも」
「またちゃんって言った」
「ごめん」
「……菜々子もね」しばらく俯いたあと、菜々子は面を上げてにこっと微笑んだ。「いまはね、ひとりじゃないからね、さみしくない」
 ――その夜、けっきょく遼太郎は帰ってこなかった。





[35651] マヨナカテレビって知ってる?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:00



 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(ここのところ自転車運に見放されてるな、おれ)
 住宅地から河川敷に入る辺り、例の事件現場にほど近い通学路でのことである。悠を轢きかけた黄色いマウンテンバイクはかなりの勢いで、ゴミ集積スペースのコンクリートブロックに衝突、粗忽な主人をはげしく投げ出しながら横転した。
「だ、誰か……ゴッホ……助けて……うえ、くっせ……!」
 一歩まちがえば大事故になりかねないほどの速度だったが、この危険な不注意運転の報いとしてドライバーが支払った罰金は格安といっていいだろう。彼をやさしく受け止めた大型の樹脂製生ゴミ入れは、少なくともアポイントのない不意の入居者を、彼のその嗅覚に訴えるよりも深刻な怪我からは守りおおせたのだから。
 あいにく昨日と違って、路上にほかの学生の姿はない。
(放っといたら窒息するかもしれないな……)
 悠は仕方なく、自分を轢きかけた傷害未遂犯を助けることにした。彼は神の配剤によって絶妙に屈伸したまま、あたまを下にして容器に収まっており、さっきからしきりに自己申告し続けているように、おそらく自力では出られない様子だったので。
「おい、足、掴むぞ。動かすな!」
「ウォ……助けてくれ!」
「そうしてる……じっとしてろ!」
 こうして悠と見知らぬゴミ箱入居者は、そのまま十五分ほどゴミ集積所の中を転げ回りながら、記録されることのない戦いを静かに戦ったのだった。何人か学生の通りすがるのが見えたが、うらめしいことに彼らは物珍しげに眺める以上のことはしてくれそうにない。田舎はいいひとばかり、というのはどうやら、悠のあたまの中にしかない幻想らしい。
 ややあって、悠はゴミ箱から少年を引きずり出すことに成功した。
「ゲッホ! いや……助かったわ、ペッ! マジ感謝、ペッペッ! やっべ服くせえし!」
 こんなところから出てきたのでなければ殴られても仕方のないような、それはすばらしい感謝だった。悠は人助けの喜びに打たれてちょっと震えた。
(おまけに再犯ときた……こいつ、花村だっけ)
「ありがとな、えっと、そうだ、転校生だ。たしか、鳴上悠」
(おまえはディオゲネス? 次からはちゃんとした樽を探せよ)
「あー俺、花村陽介。よろしくな――あっ、ヘッドフォン」
 茶髪の学生はへらっと笑って、今でてきたばかりのゴミ箱にふたたびあたまを突っ込んだ。痩身で丈は悠より少し低いくらい、ちょっと目尻の垂れた優しげな面立ちは、ひとによっては美しいと表現するものもいるだろう。おそらく哲学者ではない、昨日みたときにも感じたが、ちょっと軽薄な印象のつきまとう少年だった。
「あーくっそ、ヒビはいった……!」
「怪我は? そうとうなスピードだったけど」
「へーきへーき……うん、なんともない。ヘッドフォン壊れたけど」
「運がよかった、これに入らないで」陽介の旧居をつま先で突きながら、「そのままコンクリにぶつかってたら、変死体ずきの主婦連はきっと大喜びしただろうな。また警察がこの辺りに戻ってくるところだった」
「あはは……あ、そうそれ、昨日の事件、知ってんだろ」
「女性の死体がアンテナに引っ掛かってた……ってやつ?」
「おお。あれ、なんかの見せしめとかかな? 事故なわけないよな、あんなの」
「故意なら違うし、そうでなきゃ事故だろ。で、さっきのはどっちなんだろうな」
「あー……悪い、なんか自転車、調子わるくてさ」
 転がっていた愛車を引き起こすと、陽介はそれに跨って苦笑いした。
「へへ、実は昨日も轢きかけてたりして」
「……実は昨日も轢かれかけてたりして」
「……え、マジ?」
「DVDだけでよかったな、花村。金で買えないものが潰れなくて」
「ほんっと、マジで、すまん! ごめんなさい! まさかお前だったとは……!」
「……いいよ」悠はようやく機嫌を直した。「怪我がなければべつにさ」
「や、悪いし、なんなら放課後――」言いかけて、陽介はハッと腕時計に目を落とした。「やっべ遅刻!」
 救出に時間がかかり過ぎたらしい、腕時計は八時十五分過ぎを示している。徒歩では確実に遅刻する時間だ。
「後ろ、乗ってくか? ちょっとギコギコいってるけど」
「……じゃあ、頼む」
 命を預けるには人馬とも心許ないけど――悠は陽介の肩を掴んで、後輪のハブの辺りに危うく足を引っかけた。この状態で転倒してもドライバーがクッションになってくれるだろう。
「ワンメーターいくら?」
「あん?」
 自転車は力強く走り出した。おそらく悠たちと同じような境遇なのだろう、河川敷の並木道をひた走る二、三の学生をすいすい抜いていく。
「今日は二十パーセントオフで一万二千円!」
「慰謝料から引いといてくれ!」
「へーへー……」
 その後、陽介の力走のおかげで、ふたりはなんとか遅刻せずに二年二組の教室に辿り着くことができたのだった。――ちょうど遅れて出勤してきた諸岡教諭を、校門前で車輪のサビにしかけるという壮挙を手みやげに。





 六時間目の終業を報せるチャイムが鳴るとすぐ、悠は後ろの陽介に背中を突かれた。
「今朝は悪かったな、ホントに」
「いいよ、気にしてない」
「……どうよ、この町もう慣れた?」
「慣れないよ、通学中に命を狙われるのは」
「あはは悪かったって! しばらく自転車はやめるわ、モロキン殺しかけたし」
「みんなは喜びそうだけど。表彰されるかもな」
「手錠付きでな。で、どう? 東京から直じゃ戸惑うだろ」
「……そうだな、慣れないな、まだ」
「まあ、来たばっかりだしな。ここって、東京に比べりゃなにもないけどさ、逆に『なにもない』がある……っての? 空気とか結構ウマいし」
「あ、それはよくわかる。臭いがないというか……というより、なんとなくいい匂いがするというか」
「だろっ? いやすげーよくわかるそれ!」陽介はたちまち破顔した。「俺もそう思ったもん、最初来たとき」
「じゃあ、花村も?」
「おう。実は俺も、半年くらい前に越してきたんだよ。同郷だぜ一応」
「東京?」
「そ」
 にわかに親近感が湧いてきた。周囲がみな異邦人のようなこの学校では、同じ産というだけでなにか心を許せるような気がしてきてしまう。
「お前どこ住んでた?」
「柴又、新柴又駅の近く」
「あー……わからんわ。俺、三軒茶屋だったから」
「あ、柴又の前はその近くだった。駅の近く」
「マジ! え、三軒茶屋のどこ?」
「三軒茶屋じゃないけど、太子堂。ええと、サンクスとすき屋の近く」
「駅の北口? 南口?」
「北」
「……そこ近くにラーメン屋ない?」
「あ……った、あった」
「セブンも近いだろ」
「近い」
「何年かまえ強盗に遭った?」
「遭った!」
「うおー行ってた行ってたそのへん! ちっとうちから離れてっけど」
「へえ……じゃ、ひょっとしたら会ってたかもしれないんだな」
「だな、何回か顔くらい見てたんじゃねーの? それがこんなド田舎で再会するんだから、わかんねーよなあ」
「三軒茶屋かあ……」
 引っ越したのはそれほど前ではなかったが、まだ父が新橋で働いていた頃に住んでいたところだ。懐かしさはひとしおである。
「懐かしいな、本当に」
「どう、これからどっか行かね? 同郷のよしみってやつで、なんかおごるぜ。今朝のワビも兼ねてさ」
「高くつくぞ、鰻なんかいいな」さすがにこの申し出はちょっと断り難かった。「でなきゃステーキとか」
「おっけー、ステーキね」
「いや冗談だよ、そんな――」
「それがここの名物だったりすんだよ、ビフテキ! どうよこの野暮ったい響き! 俺やすいとこ知ってっからさ」
「にしたって」
「おっと鳴上くん、向こうとド田舎の物価を一緒にしちゃいかんよ。――ま、東京と違ってわりと値段やすいからさ。安くてウマい」
「……じゃ、ごちそうになろうかな。どこ?」
「ジュネスの近く」
「ジュネスって、そんなに離れてないんだよな」たぶんローマからガリアくらいだろう。「歩いて行ける距離?」
「こっから……十分くらい? 歩いて」
 十分。ジュネスから家までを四十分と仮定して総計五十分。現在三時十五分。ジュネスで一時間ほど費やす。ついでに買い物して家に帰れば、夕飯を作るには十分な時間だろう。
(義理も大切さ、少なくとも最初は)われながら言い訳じみてきているのを否定できないが。(好印象を持ってもらわなきゃ。突っ慳貪にしたって得るものはない……)
「お前すぐ行ける? なんなら――」
「あたしにはお詫びとか、そーゆーのないわけ?」急に隣の千枝がぐるっと体を捻って、陽介の机に握り拳をついた。「成龍伝説、やっぱり再生できないんですけどー?」
「う……メシの話になると来るなお前……」
「ド田舎の生まれですから? オジョーヒンなトーキョーの方とは違って!」
「悪かったって、いまオクで探してっから……てか、俺きょう謝ってばっかだな……」
「雪子もどう? いっしょにオゴってもらお」
「ちょ――!」
「いいよ、太っちゃうし」雪子はすこし不機嫌そうだった。「それにうちの手伝いあるから」
「そういや天城って、もう女将修行とかやってんの?」
 この陽介のひと言が、雪子の秀眉に深い縦皺を刻んだ。彼の言葉のなにがそうさせたのか、彼女の態度は目に見えて硬化したように思われた。
「忙しいとき、少し手伝ってるだけ」
 硬い声である。本人もそれを自覚したらしく、慌てて取り繕うように明るく「それじゃ、わたし行くね」と言って、雪子は足早に教室を後にした。
「えーっと、俺、なんかまずいこと言った?」
「雪子さいきん残業つづきなんだ、たぶん」千枝はため息をついた。「どっか誘ってもたいてい行けないし、登校してすぐとか眠そうだし……疲れてるんだと思う」
「残業って……ひっでーな、それ」陽介は本当に憤慨しているようだ。「まだ高校生だろうに、とんでもねー旅館だな。そんなにこき使われてんの? 天城」
「うん……お母さん体調不良とかで、その代わりやってるらしい」
「うあ、朝ドラの世界だな、ひでーもんだ」
(例の事件に関係あるのかな)
 先日の男子Aの話とテレビ報道から察するに、まず雪子の旅館は例の事件からの波及を免れないだろう。あの若さ、あの細腕で旅館の看板を支えながら、来たる警察や報道の詮索の矢面に立たされなければならないとしたら、
(可哀想な話だ、歳は同じでも肩に背負ってる荷の重さは桁違いだな。ああいう家に生まれなかっただけ運がよかったのかも)
「仕方ないか……じゃ、あたしたちも行こ」
「え、マジふたり分おごる流れ……?」
「あたしロースでいいよ」
「譲歩がささやか過ぎんだよ……」
「じゃゴハンなしでもいいや」
「つけるつもりだったのかよ! あーもう……ない袖は振れないからな」
「ケーチ」
「言ってろ。鳴上行けるか? うち寄る必要あんなら――」
「いいよ、行ける」
「そーいえば、花村さ、朝から気になってたんだけど……」千枝はちょっと言いにくそうに切り出した。
「なに」
「花村、なんか臭うんだけど。生ゴミ臭いっていうか、洲臣とかかなり参ってたよ」
「ほら、俺、オジョーヒンなトーキョーの生まれだからさ。な、鳴上」
「おれ、柴又だから。三軒茶屋と一緒にしないで」





「安い店ってここかよ……」
 呪わしげに呟いたのは千枝である。油したたる牛ロースステーキの代わりに焼きそばを宛がわれた彼女は、ありていに言ってかなり不機嫌だった。
 初めて来るジュネス八十稲羽店の屋上、露天のフードコートは時間柄、平日にも拘わらずかなりの賑わいを見せていた。学生の姿も珍しくないどころか、客だけに止まらず、売り子として働いている人間にもかなりの割合で含まれているようだ。店員が気安く知り合いらしい学生に買えだの食ってけだのと声をかける様子は、ちょっと学園祭の出店みたような雰囲気すらある。
(バイトが多い……スタンドのひとが言ってたな、そういえば。みんなここに来るんだっけ)
「ここビフテキなんかないじゃんよ」
「そりゃねーよ、ステーキハウス向こうだもん」
「こんなん肉じゃないよ、こんなん……」千枝は申し訳ていど、焼きそばに混ざった豚バラ肉を割り箸で突いている。「ビフテキたべれるっていうから胃酸でまくりだったのに……あたしいまホント失望してんだけど」
「はいはい自分の胃でも消化しててください。肉好きならミノ食えんだろ」悠の分のトレイを運びながら陽介がぼやいた。「つか、飛び入りで勝手に夢見られてあげくに失望とか、俺どんだけ可哀想なんだよ……」
「はーはー……DVD潰されたあたしは可哀想じゃないと?」
「だから金がないんです。ない袖は振れないんです。だからお前にはおごれないんです、ステーキは!」
「だからって自分ち連れてくることないでしょーが」
「べつに、俺んちってわけじゃねーって」
「……俺んち?」
「あーえと、お前にはまだ言ってなかったよな」千枝と同じ焼きそばとコーラを差し出しながら、「俺の親父、ここの店長なんだ……っつっても、ただの雇われ店長だからな。どっかの誰かさんみたく社長みたいに思ってるやついるけど」
「ああ、そうなんだ」ディオゲネスの父親はウェルキンゲトリクスらしい。「ひょっとしてここ、新しい?」
「できて半年ってとこかな、俺くるちょっと前くらいにオープンしたから。つーかそれ関係で転校してきたんだけど」
「繁盛してるみたいだな。他の階もかなりひといたし」
 平日でこの繁華ぶりなのだ。休日の殷賑は推して知るべし、である。
 おしなべて建造物の背の低い八十稲羽において、ジュネスはもはやランドマークと言ってしまっても過言ではないだろうほどの存在感を放っていた。どこかここではない異郷のモニュメントのようにも見える。まるでここだけ都会の空間を切り取ってきてコラージュしたかのような、あの八十稲羽駅における自動改札のような強烈な異物感があるのだ。
 もっとも、かと言って住民が不快に思っているかと思えば、どうやらそうでもないらしい。なんといっても零細の専門店にはなかなか醸しえない新鮮さがあるし、資本から桁が違うのだから品揃えも便利もサービスもいいのだろう。自分の若いときにこんなものが立っていたなら、などと、母が見たらきっと嘆いたに違いない。
「はは、まあな。嬉しいのか悲しいのか……ま、いいや、食ってくれよ。歓迎の印、兼、慰謝料ってことで」
「じゃ、ありがたく」
「里中のもおごりだぞ」
「うんひっへる」千枝はすでに焼きそばを食い始めていた。
「花村はここでバイトを?」
「え、ああ。言ったっけ?」
「昨日ちらっと聞こえた」
「特別待遇なんでしょ?」
「そーだよ、うらやましいか? 俺だけ時給は最低賃金据え置きだからな。そのくせ仕事の内容だけハードだけど」
「ホントかなァ……」
「それで、ときどき残業する?」
「あー、まあ、することもあっけど。え? これも言った?」
「天城のことで、花村、怒ってたからさ。自分に準えてるのかなって」
「いやまあ……でも天城はレベル違うだろ。自分ち手伝ってんだから金なんて出ないだろうし」
「バイト代くらいの額は出てるっしょ、いくらなんでも」
「お前、そういうことは訊かないんだ」
「訊けるかっつの……焼きそばおかわり」
「……その、お前さ」
「ん?」
「よく放課後カップ麺とか食ってっけど」にわかに心配そうな貌で、「お前んちって、その、ひょっとして晩メシとか、出なかったりする?」
「出るよ」即答もいいところだった。
「あーくそっ……心の底からいらん心配したぞ今……!」
「これはァ、おやつ。だからおかわり」
「なにがだからだよ。自分の指でもむしって食ってろ」
「うわー野蛮。花村ホントに東京出身なの? 鳴上くんはなんかそんな感じだけど」
「おれが?」
「どの辺で判断してんだか……それ以前にお前、東京いったことあんの?」
「……ないけど」
「あ、ないんだ」
「ド田舎人、ですから?」
「鳴上、いま、ちっと不思議に思ったろ」
「そんな――いや、ごめん、少し思った。どうして」
「最初きたとき、俺もさ、無意識に思ってたんだ。冷静に考えりゃそんなことあるわけねーんだけど、こう、決めつけちまってるっつーの? フツー一回くらい行ってるはずだろ、日本の首都なんだから……ってさ」
「……反省する、花村の言うとおりだ。ごめん里中」
「いいってちょっとそんなマジになんないでって! は、花村ほら、おかわり!」
「その科白の前と後はどう考えても繋がらんだろ!」
「そうだ里中、おれ、おごろうか? 昨日のお礼」
「へえっ?」千枝は素っ頓狂な声を上げた。「あ……あたしなんかしたっけ?」
「家までついてきてくれたじゃないか。菜々子ちゃんも喜んでた」
「あ、そういやお前ら、昨日いっしょに帰ったんだっけ」
「まあ、ね。ちょっといろいろあってさ」
「で……いま言ったナナコちゃんって?」
「従姉妹。いまお世話になってる家の子」
「ああ、そういや昨日そんなこと言ってたな。十歳下なんだっけ」
「菜々子ちゃん、ジュネスが大好きなんだって。ほらあれ、エヴリデイ・ヤングライフってやつ、歌いまくってた」
「きっといい子だな、間違いない……」
「こういうとこって子供は好きになるよねー、うちらだって溜まってるわけだし。そりゃ売れるわけだ」
「まあな。こういうデパートの雰囲気ってこの辺じゃほかに味わえないし。こんなとこに建てようなんて考えるからには、ジュネスグループもちゃんと調査してんだよな」
(本当に思い込んでたんだな、おれ)こういう思い込みには特に気をつけているつもりだったが、どこで教えられるか本当にわからないものだ。(こういうショッピングモールがまず、当たり前じゃないんだな、菜々子ちゃんには。多少無理してでも連れてきてあげるべきだったかな……)
「ここ来ればとりあえずなんでも揃ってるもんね。まだできて半年くらいだけど、ここじゃないと揃わないモンとか、あたし半年前どーやって買ってたかときどき忘れかけるもん」
「商店街にあったろ。ねーの?」
「あははないない。前だってそうだったのにさ、今じゃ店とかどんどん潰れちゃって、文房具屋とかもう一軒もないし」
「…………」
「……ごめん」
「別に、ここのせいだけってことないだろ」
(そして繁盛の裏ではこういう事情もある、と)
 少なくとも平日の今日に限って言えば、いまジュネスの店内にいる客はほぼ地元住民と見て間違いないだろう。とすれば、この大きな建屋の中で買い物しているひとたち全てが、半年前は商店街でそうしていたはずなのだ。これだけの客数を吸い上げられて無事なはずはない、「店とかどんどん潰れ」るのも道理である。
 襟にあごを埋めるようにして考え込む、陽介の胸中を埋めるものはなんであろう。親の因果な商売への呪いか、それとも良心の呵責か。――ややあって、彼はふいになにか気づいたように脇見すると、急に席を立った。
「わり、ちょっと」
 陽介はおざなりに断って、そのまま離れた位置にある丸テーブルに歩いて行ってしまった。学生のアルバイトと思しい、エプロン姿の女子がひとり、そこに肩を落として座っているのが見える。
「……花村の友達?」
「んー、友達、じゃあないね」千枝はちょっと首をかしげた。「小西早紀先輩。家は商店街の酒屋さん」
「商店街」ということは、彼女はジュネス・コンクェストの被害者なのだろうか。「なのにバイトしてるんだ、ジュネスで」
「だ……ね、エプロンしてるね。ちょくちょく来てんのに知らなかった」
 陽介と早紀は親しげに話している。
「里中、なにか注文する?」
「えっ? えー……ホントにいいの?」
「お礼しないと菜々子ちゃんに蹴られる」
「んー、じゃあ、ごちになります――菜々子ちゃんそんなことすんの?」
「朝はよく蹴り起こされる」悠は財布から五千円札を取り出して、千枝に手渡した。「好きなもの注文して、遠慮なしで」
「うおー……なんか、お父さんって感じ」
「なんでも千枝の好きなもの食べてきなさい」
「わーいありがとおとーさん……でも、五千円はちょっと多くない?」
「実はそう考えるのを見越してる。使って三百円くらいかな、里中なら」
「あっ、あたしあのヨコヅナハンバーグ千三百円にしよーっと」
「あはは大誤算」この小さな身体にまだそんな重たいものが入るとは!「どうぞ、遠慮なく」
 冗談ではなかったようで、千枝はさっそく洋食のブースへ飛んでいった。カウンター上の写真のひとつ――悠には巨大なたわしにしか見えない――を嬉しげに指さしている。彼女にとっては夕飯まえのおやつに過ぎないらしい。先に貪り食った焼きそばでさえ決して少量というわけではなく、悠のほうでは夕飯を視野に箸を休めがちなくらいだったのだが。
 千枝と入れ替わりに、今ほど話していた早紀を従えて陽介が戻って来た。
「わりーわりー……里中は?」
「あそこ。おやつ注文しに」
「ハンバーグ屋だろあれ……」席に着きしな、陽介は隣の早紀を手で示した。「鳴上、このひと、小西先輩」
「キミが転校生?」
「初めまして、先輩」
「はいどうも、小西先輩です」早紀はエプロンを外して陽介の背後に回ると、彼の肩に手を置いた。「花ちゃん以来じゃない? ハチコーに転校生って」 
 色のうすいソバージュの、秀でた額から流れて肩にかかる、早紀はすらりと背の高い大人びた風貌の女子だった。モデル体型と言っても言い過ぎではないだろう、陽介との対比から見るに身長は百七十ほどもあろうか。スクエアネックの長袖とジーンズにストラップシューズという飾り気のないいでたちだったが、パンツスーツにローヒールのパンプスでも合わせれば、大卒の社会人一年生くらいで通用してしまうかもしれない。
「そーっすね。あんま転校生とか来ないっぽいし」
「あっ、バカにしてんなこんのやろ!」そのまま力いっぱい肩を揉み出す。陽介は嬉しげに笑うだけだったが。「ま、田舎だしね、わたしそこで育ったんだけどねー――やっぱり都会っ子どうしは気が合う?」
「そうですね……登校中ゴミ捨て場でいっしょに転げ回るくらいには」
「へえー……え、どういう意味?」
「いやあ、まあ、いろいろあったっつーか」
「二回くらい命を狙われてるし。おれたち気が合うな、花村」
「……そーね。二回で済めばいいけどな」
「そうそううまくいくと思うなよ」
「そういやお前、焼きそば残ってんじゃん」
「ああ、うん」
「食ってくれよ。あんま強い毒じゃないからさ、ぜんぶ食わないと致死量いかないんだ」
「……参った」
「おれたち気が合うな、鳴上」
「あはは、なに、なんの話? よくわかんないけど……そういえば花ちゃんが男友達つれてるなんて、珍しいよね」
「べ、別にそんなことないよ」
「こいつ友達すくないからさ、仲良くしてやってね」言って、早紀は陽介のあたまをわしわし掻き回した。「やっぱ田舎の子とは話あわない?」
「んなこと――何人か連れて来たことあるし、見てんでしょ先輩!」
「いっつも顔ぶれ違うだろー? だから言ってんの」
「いいこと聞いたな。花村は男友達が少ないと」
「そーだよ、女友達ばっかりだからな」
「うそつけっ、そっちはもっといないでしょ!」早紀は笑って、陽介のあたまを平手で軽く叩いた。「花ちゃんお節介でいいやつだけど、ウザかったらウザいっていいなね?」
「いえそんな……花村は親切で男気のあるすばらしいやつです。花村、女友達、何人か紹介してくれるんだろう?」
「できしだい紹介してやるよ。ま、そんときはお前東京帰ってるだろうけど」
「……小西先輩、花村は不誠実でウザいやつです」
「あははっ、仲良さそうでなにより! 花ちゃんよかったねー気の合う友達ができて」
「せ、先輩……変な心配しないでよ」
「さーて、こっちはもう休憩おわり。やれやれっと」
「あ、先輩……」
 それじゃね、と手を振って、早紀はフードコートを去って行った。ここの担当ではないようだ。陽介は少し腰を浮かせて、名残惜しげにその背中を見送っている。
「はは……ひとのことお節介でウザいとかって、小西先輩のほうがお節介じゃんな?」
「親しそうだったな」
「あのひと、弟いるもんだから、俺のことも割とそんな扱いっていうか……」
「はーん……弟あつかい、不満ってこと?」
「……なにしてんだお前、そんなとこで」
 悠たちの座っている丸テーブルの傍らの植え込みに、千枝の首から上だけが覗いている。本人は隠れているつもりらしい。
「むふーん、わかった、やっぱそういうことねー」千枝は立ち上がって、緑色の番号札を抱きしめて身体をくねらせ始めた。「地元の老舗酒屋の娘と、デパート店長の息子。燃え上がる禁断の恋――的な?」
「バッ……! アホか、そんなんじゃねーよ!」
「おお花ちゃん、あなたはどうして花ちゃんなのー?」
「んのやろ――!」
「おおっ、やるかー? あたしのヨンチュンスタイル見せたる!」
「番号札九番のお客様ー、カウンターまでお越しくださーい」
「あっ、きたきた」千枝の興味はたちまちハンバーグに移った。「はーい、いま行きまーす!」
「あのやろ……」
「あれだけ親しげにしてれば、そりゃ誤解するだろう」
「……俺なんか眼中にねーよ、あのひとは」
「いいひとだ、おれも好きになりそう」
「も、っつったな? そーだよ……でも俺、嫌われてっから」
「? どういう――」
「ハンバーグ到着ー、鳴上くんありがとねー」千枝が戻ってきた。ちょっと縮尺のおかしいハンバーグの皿を携えて。「んーんまそー、ごちになりまーす!」
「うわ、ヨコヅナハンバーグ……それ二人前以上あんだぞ。晩メシまえに食うとかどんだけ……」
「いただきまーす――ふまーい!」
「こいつみたいに生きられたら楽だろな……」陽介はふたたびため息をついた。
「里中には里中の悩みがあるだろう」
「そーだよ、自分だけ悩んでるってポーズすんなっての……すごいうまいよコレ」
「そりゃよござんした……はーあ……」
「そうだ、悩める花村に、イイコト教えたげる」ナイフとフォークの手を休めて、「マヨナカテレビって知ってる?」
「なに、番組? 昼はやってないんだろーな、それ」
「いーから聞けっての――雨の夜の午前零時に、消えてるテレビをひとりで見るんだって。で、画面に映る自分の顔を見つめてると、別の人間がそこに映ってる……ってヤツ」
「あんまり不細工だから自分だとは信じられなかったってオチ?」
「違うって、だって性別ちがうんだもん。で、それに映ってるのが運命の相手なんだってよ」
「はあそうですか……ったくなに言い出すかと思えば……」
「オカルティックというか、都市伝説的というか」
 こういう話はどこにでもあるものだけど――さすがに悠も陽介と同じ感想だった。こういう怪談めいた話は菜々子くらいの子が信じるもので、高校生が大まじめに語るようなものではないのではなかろうか。これも田舎ならでは、なのだろうか?
「なんというか、その、夢があるな」
「お前さ、よくそんな幼稚なネタでいちいち盛り上がれんな」 
「よ、幼稚って言った? 何人も見てるんだってば! 一組の男子なんか山野アナが映ったとか騒いでたし!」
「信じられっかっての、なあ?」
「自分の眼で見てみないと、なんともな」
「うぐぐ東京人めー……だったらさ! ちょうど今晩雨だし、みんなでやってみようよ!」
「それはちょっと……そう、里中はどうだった?」
「え?」
「マヨナカテレビ。誰が映った?」
「……見たことないけど」
「オメ自分も見たことねーのかよ! 久しぶりにアホくさい話を聞いたぞ……」 
「だったら一組の人間に聞いてみれば――!」
「まあまあ! おれは信じてるよ」三分の一くらいは、だけど。「花村の言うこともわからないでもない、見たことないんだから」
「なによォ……悩んでるっぽいから言ったげてんのに……んまいねコレ」
「そうそう、横綱だもんな……」
「そういや、さっき里中が言った、山野アナ? あれってやっぱり殺人なのかね」
「事故じゃなさそうだ」
「事故なわけねーって。わざわざ屋根の上にぶら下げるとか、マトモじゃないよな……つか殺してる時点でマトモじゃないか」
「殺人にしてもかなりおかしいけど、いずれにせよひとりじゃないだろうな、犯人は」
「へえ、そんな異常者が五人も十人もいるって? んならその辺にひとりくらいいたりしてな、ひひひ……」
「そういうの面白がんなっての。幼稚はどっちだよ……とにかく、今晩ちゃんと試してみてよね!」
「冗談じゃ――」
「やらないと教室で花ちゃん呼ばわりの刑だかんね」
「おま、ふっざ――!」
「まあまあ! どうせ起きてるんだろう? いいじゃないか一度くらい――夜中の零時だったっけ?」
「うんそう。とーぜん鳴上くんもやるよね?」
「まあ、ものは試しだ、やるよ」絶対にやらないだろうなと悠は思った。「おれは里中が映るんじゃないかって思ってる」
「う……またこんなこと言い出すしこのひとは!」
「いいシュミしてるよ鳴上……」
「なによ花村までェ……褒めたってなんにも出ないよ。コレちょっと食べる?」
「ノーセンキュー……」
(マヨナカテレビね……菜々子ちゃんは知ってるかな。勧めてみようか)





[35651] ピエルナデボラシーボラ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:03



 フードコートで予想外に時間を食ったために、その後いそいで食品売り場を駆け回り、ジュネスを出て早足で帰途につき、家で菜々子に迎えられた時は六時を回っていた。
(おまけにナベカマの類が仕舞われてると来た!)
 米やら味噌やらがないのは覚悟していたが、これは完全な誤算であった。せめてきのう買い物に行くことができていれば……
(気づいたんだろうけど……ああもう! きょう花村たちに付き合わなければよかったかな)
 居間ではあわれな菜々子が腹を空かしてテレビ鑑賞もそぞろに、今かいまかとこちらをちらちら覗き見ているのだ。昨日はいろいろあって結局なにも作ってやれず、つめたい総菜の残り物でお茶を濁しただけに、今日こそはなにか暖かいものをこしらえてやらねばならぬ!
 仕方なく、おととい来たばかりの家の台所を大車輪で転げ回って調理器具を探し、初めての手料理なんだから少し手の込んだものを作ろうなどと楽観していた自分を呪ったり激励したりしながら――悠がどうにかこうにか食事を用意できたのは、七時二十分過ぎごろであった。
「いいにおい! できた?」
「うん、できた。ごめんね遅くなって」
「菜々子てつだったのに」
「まあ、追々ね」
 鍋がないとわかった時点で、この小さな従姉妹の助力は丁重に辞退している。捜索と料理に貢献するささやかなメリットより、さして広くもない台所で彼女を踏み潰すリスクのほうがはるかに大きい。
「じゃあ、お皿だして。大きいやつ」
「どのくらい?」
「このくらいの腿肉だから、ええとね、自分で取るよ……」
「これなあに? お肉?」
「ピエルナスデポッロアッラシードラ」
「ええっ?」
「ピエルナスデポッロアッラシードラ」
「あははなにそれ! もういっかい!」
「ピエルナスデポッロアッラシードラ」
「ピエルナデボラシーボラ!」
 菜々子はこの長い料理名を気に入ったらしい。料理を居間に運ぶ間、彼女はずっと「ピエルナデボラシーボラ!」と唱え続けていた。
(叔父さん、本当に料理しないんだな……)
 悠は呆れ半分、感心半分のため息をついた。
 わずかな食器類を除いて、調理に関係するものほとんどはぴかぴかに磨かれたうえ、戸棚の一番上に整然と収納されていたのだった。遼太郎の諦めのよさと几帳面さの奇妙な混交である。ただ炊飯器だけ、台所の隅っこの埃まみれのキッチンワゴンの上にぽつんと置いてあったのは、おそらく何度か炊飯を試した名残なのだろう。中をうすく覆うカビが彼の努力の跡を示していた。
(夕飯が済んだら洗おう。朝つかうもんな……)
 ――こうして堂島家滞在二日目の、遅い夕食が始まった。ひょっとしたら料理中に帰ってくるかと思っていたが、依然として遼太郎からはなんの連絡もない。
「たべていい?」
「どうぞ。いただきます」
「いただきます!――どうやってたべるの?」
「かぶりついてもいいんだけど……」たぶん菜々子がやったらソースで服がとんでもないことになる。「ナイフとフォークで切ろう――切ってあげる」
「それ、お味噌汁?」
「ううん、キャベツスープ」母いわく、この世でもっとも簡単でうまい料理。「……というより、肉なしポトフになっちゃった。味噌汁は朝つくるよ」
「ほんと?」菜々子は味噌汁にご執心の様子だった。
「いまはキャベツで我慢して。これだってなかなかいけるから」
「うん。ごはん、ないの?」
「パンがあるよ」米は炊くつもりだったのだが、炊飯器のカビを見たとたんやる気が失せたのだ。「これにはパンが合うよ、きっと」
「ピエルナデボラシーボラ?」
「そうそれ。気に入った?」
「だってへんなんだもん! ピエルナデボラシーボラ!」
「へんなのは名前だけ、たぶん。――はい切り終わった、どうぞ」
「いただきます――おいしい!」
「そう、よかった」
 こんな遅くまでお預けを食っただけあって、菜々子はすばらしい食欲を見せて鶏肉を貪った。貪るかたわらパンを毟りスープを啜り、八面六臂の活躍である。
 悠は自然と口の端の上がるのを感じた。
「……おいしい?」
「うん!」
(母さんもこんな気分だったのかな)
 それは奇妙な感覚だった。まるで小学一年生の自分を見る母に乗り移ったような、小さい頃の自分に、今の自分が話しかけているような。
 疲労も食欲のなさも、まだ胃に残っている毒入り焼きそばの重圧感も気にならない。安心感と達成感に似たなにかが胸を占めるのを感じる、それは誇りや喜びにも似ているのだった。
 思えば、自分で食べるのでない、ひとに食べさせるために作る料理はこれが初めてだった。
 悠は母からなし崩し的にいくつか料理を教わってはいたが、積極的に作ることはまずなかったと言っていい。とりあえずは奇貨居くべしとばかりてきとうに習い覚えたものの、大して熱も入らなかったいわゆる余芸に過ぎず、これが生きる機会を想定したことなどかつてなかった。おまけに東京にいた頃はすぐに出来合いの料理が手に入ったし、自分のためだけに作る料理はコストの面からも利益が薄く、ただ煩瑣でめんどうで、悠にとってはそれに費やされる時間のほうがずっと惜しまれたのだ。
(でも、苦労した報いはちゃんとあったな)
 きっと他人、なかんずく大事な他人に出す料理というものは、それを食べる人間にも況して、料理人にとっては最高の美味なのだ。父が板前をやっている理由の一端はまさしくこれに違いない。――本当にどこで教えられるかわからないものだ! いま父母について得た小さな理解も、ここに越して来なければわからずじまいだったろう。
「おいしいね、すごいね、こんなの作れるんだから」
「あはは……見た目ほど手間はかからないんだけど」無論、虚勢である。
「お父さんのぶんも、ある?」
「もちろん。おかわりもあるよ」
「…………」菜々子はにわかに潮垂れた。「お父さん、かえってこない」
「お父さんから、連絡は?」
「ない。デンワするって、いっつも言ってるのに……」
「……おれがいるから、安心してるのかも」
「んん」
「そうだ、菜々子ちゃん、マヨナカテレビって知ってる?」
「マヨナカ?」
「うん。夜中の零時に――知ってるわけないよな」われながら馬鹿なことを聞いたものだ。小学一年生が深夜帯の都市伝説など知ろうはずもない。「ごめん、なんでもない」
「ええ? なあに? なあに、それ」
「うーん……雨の日の夜中の零時にね、消えてるテレビをひとりで見るんだ、そうすると――」
「それ、こわい?」菜々子はたちまち青くなった。「かいだん?」
「あ、いや! そんなんじゃないよ。それを見ると運命の相手が――帰ってきたみたいだね」 
 カーテンの隙間に車のライトが閃いたかと思うと、低いエンジン音が車庫に収まって、じき途切れた。遼太郎に違いない。
「あっ、かえってきた!」
 ほどなく玄関の引き戸の開く音がして、遼太郎が長身を持てあますようにしてのっそりと入ってきた。だいぶくたびれた様子である。
「ただいま、なにか変わりなかったか」
「ない。かえってくるの、おそい」菜々子が口を尖らせた。
「悪い、仕事が――うお、なんだこりゃ!」
 たぶんそうするだろうと思った通り、遼太郎は食卓を見て瞠目した。
「作ってみたんだ、ナベ探すのすごい大変だったよ」
「作ってみたんだって……おいおい、これをお前が?」
「時間かかったけど。叔父さん食べる?」
「あーいや、すまん、食ってきた。でもこんなのが待ってんなら、なんだ食わなきゃよかったな……これなんだ? クリスマスみたいだな、鶏肉か?」
「ピエルナデボラシーボラ!」と、菜々子。
「……ピエなに?」
「ピエルナデボラシーボラ!」
「まるでわからん。なんなんだ?」
「ピエルナス・デ・ポッロ・ア・ラ・シードラ、メキシコ料理。鶏の林檎酒煮」
「お前そんな高級そうなもん作れるのか、すげえな。親父さんから教わったのか?」
「高級なんかじゃ……それに叔父さんの姉だよ、教えてくれたのは。父さんからは教わったことないんだ」
「へえー……しっかしすげえな、助かるよ」笑って、遼太郎はソファにどっと腰掛けた。「よかったなあ菜々子、これから毎日うまいメキシコ料理くえるぞ」
「うん!」
「あはは、毎日はさすがに……」
「ねえお父さん、メキシコって?」
「メキシコってな、外国だよ、アメリカの……あー、下のほうだ」
「アメリカって、どこにあるの?」
「アメリカってのは……菜々子、テレビつけてくれ、ニュース」
 菜々子は無念そうにリモコンを取った。父親と話がしたかったのだろう。
 ニュースはちょうど時事報道に入ったところだった。
『――次は、霧に煙る町で起きたあの事件の続報です。稲羽市で、アナウンサーの山野真由美さんが、民家の屋根で変死体となって見つかった事件。山野さんは生前、歌手の柊みすずさんの夫で、もと依田慎太郎市議会議員秘書の生田目太郎氏と、愛人関係にあったことがわかっています』
(これが事件に関係……あるかな?)
『警察では背後関係をさらに調べるとともに、関係者への事情聴取を進める方針です。番組では遺体発見者となった地元の学生に、独自にインタビューを行いました』
「……第一発見者のインタビューだァ?」遼太郎がぼやいた。「どこから掴んでんだ、ったく」
 当然ながらVTRに「地元の学生」の姿は映されず、ただスカート――遺体発見者は女性らしい――の膝から足までが画面を占めるだけだ。矢継ぎ早に質問を連発するインタビュアーに対して、ボイスチェンジャーを通した甲高い声は要領を得ない、しどろもどろの受け答えに終始している。
(あれ、この靴、どこかで……)
 ダークレッドの、革のストラップシューズが質問されるたび、困惑を示してつま先を開いたり閉じたりしている。
(そうだ小西先輩だ。同じ靴だ……本人かな)
「悠」
 出しぬけに遼太郎が呼ばわった。
「……え?」
「昨日は、悪かったな」
「ああ、あのくらい」
「助かった、本当に。あの子らにも言っといてくれ」
「うん」
「……手ェ、早えなァ、それにしても、クク」
「なにが?」
「ええ? 初日にふたりもかよ……とんでもねえ色男だな」
「ああ、あれ? ふたりとも美人だと思わない?」
「あれ、かたっぽは旅館の子供だな、確か」
「そう言ってたね」
「びじん?」菜々子が首を傾げた。
「ああ……なんでもないんだよ」遼太郎はひとつ大きな欠伸をした。「菜々子、音おおきくしてくれ……」
 菜々子はふくれ面でリモコンを取った。
「おい悠、メシ作るのに買ったもん、あとで金額おしえろよ、出すから。お前の小遣いでメシ作らせてるなんて、姉貴には口が裂けても言えん」
「うん」 
『――地元の商店街の近くで起きた、悲惨な事件。商店街関係者の多くは、客足がさらに遠のくのではと懸念しています』
「ふん、お前らが騒ぐから余計に客足が遠のくんだろ……」
 その後、犯罪心理学者のコメンテーターとキャスターの小対談に移り、ニュースは犯人の性格や嗜好についての眠たい推理の垂れ流しになった。学者先生の推測によれば、犯行はごく若い複数人の少年たちによる可能性があるということだ。死因不明、という点については言及を避けていたが。
「ガキならどれだけ楽だか……」
 ニュースが中断し、テレビはコマーシャルに移った。
(死因が不明って、どういう状態なんだろう。外傷がないってことかな)
 それらしい傷があれば当然、ニュースでそのように報道するはずであろうから、目に見える外傷は見つからなかったのだろう。
 ふと、きのう事件現場で瞥見した防護服の男たちが思い出された。なんであんなものを? 不審死に立ち会う場合、警察は必ずああいう装備を用意していくのだろうか。もしそうでないなら? 外傷がないから毒の可能性を疑ったのか。疑ったとして、それが周りに影響があるかもなどとただちに考えるものだろうか。
(それとも、一見してそういう危険を感じさせる死体だったか……ダメだな、飛躍し過ぎだ。警察が慎重なだけだろう、あくまで念のためだ。行方不明になってからそんなに経ってないし、もしすぐに死んでたとしても、ここはけっこう涼しいし、それほど腐敗も進まないだろうし……叔父さん消毒してきたんだろうな)
「あっ、ジュネスだ」
『――ジュネスは毎日がお客様感謝デー。来て、見て、触れてください』
「エヴリデイ・ヤングライフ、ジュネス!」お馴染みの菜々子の合唱が入った。「ねえお父さん、こんどみんなでジュネスいきたい」
 遼太郎の答えはない。
「……だめ?」
 ないはずだ、彼はソファにもたれて眠りこけていた。
「あーあ……もー……」
「菜々子ちゃん、ご飯たべちゃおう――叔父さん」
「んお」
「風呂はいって、着替えて。寝るのはそれから」
「んん」
「……叔父さん、携帯ふるえてるよ」
「んっ」遼太郎は瞬く間に覚醒した。「……あん? 着信ねえぞ」
「そりゃないよ、嘘だもん」
「悠……」
「さ、起きて風呂はいって着替えて部屋いって、それからまた寝てよ」
「へいへい」遼太郎は苦笑して、大儀そうに立ち上がった。「こりゃどっちが子供なんだかわからねえな……」
「菜々子ちゃん、お父さんがソファで寝たら、いまみたいに言えばすぐ起きるよ」
「けいたい?」
「携帯が起きればお父さんも起きる」
「はは、二度も同じ手は食わねえよ……」
 遼太郎は欠伸しながらバスルームに入って行った。





 十一時五十五分。
 食事を終えて、残り物を仕舞って皿を洗って、炊飯器を掃除して米を研いでタイマーをセットして、風呂に入って菜々子に挨拶して二階に上がって、自室のソファに座ってセネカに眼を落としながら、明日は残りの鶏肉を切ってトマト煮にでもしようかしら、ジュネス行ってホールトマトかピューレ買って来なきゃ、などと考えつつ――ふと顔を上げたときである。眼に飛び込んできた壁掛け時計は、十一時五十五分を指していた。
 悠はため息をついた。
(……思い出しちゃったな、あれ、マヨナカテレビだっけ)悠は苦笑した。(安直すぎるよな、名前が。昼やってたらマッピルマテレビ?)
 霧雨の屋根を叩くかすかな音が聞こえる。条件はいちおうこれで整ったことになる、本人のやる気を除けば。
(明日なんて言おうかな)
 悠はセネカを投げ出した。まずなにも映るまいが、気の利いた返答は用意しておかなければ。
(里中が映った、でもいいか。いや、もし天城の機嫌がいいようなら、そっちに話題を振ってみるのもいい……いやいや、ここはまだろくに話してない洲臣か瀬戸目にしたほうが。あ、ここはさんざん気を持たせて、結局じぶんが映ってたっていうオチにしようか……いや、これはちょっと花村がやりそうだ。ダメだな)
 こんな益体もないことをつらつら考えているうちに、時針はついに零時を指した。――我ながら情けないことに、悠は少しくぞっとした。
 本当に電源の入っていないテレビに、明かりが灯ったのである。
「……夢?」
 悠は自分の頬を抓ってみた。こんなことをするのも、してみようと思わせるような事態に遭遇するというのも、普段の彼なら一笑に付してしまうような馬鹿げたことだったが――驚いたことに、こういうことをひとはしてしまうらしい。頬は痛みを訴えている。ということは、夢では……
(馬鹿! 夢の中なら抓ったって痛くない、なんてことはないだろう。これは夢だ、いつどこから切り替わったかわからないのが夢なんだから)
 テレビの画面にはレモン色のもやもやしたものが映るだけだった。が、ややあって見ているうちに、それの奥でなにかさかんに動いているのが見えるようになる。ひとのシルエットのようなものが、なにかと揉み合うように激しく波打っている。非常に音質の悪い、雑音のような呻きのような音が折々、そこから薄気味わるく響いている。菜々子が見たら震え上がってトイレに行けなくなるだろうこと請け合いだ。
 こんな不気味このうえないテレビに悠を歩み寄らせたのは、勇気というよりはむしろ、自分にはそれがあると自身に証明しようとする意地のようなものだった。
 画面の中のシルエットはいよいよ激しくのたうち回っている。これはなんだろう? 人? 悠は近づきしな、部屋の真ん中に置いてある小さなテーブルの脚に躓いてちょっとよろけた。よろけて、身体を支えようとテレビの天板に手をかけて、そのとき親指がブラウン管に埋没するのを見て――彼は驚愕のあまり飛び退ってもう一度テーブルにぶつかった。
「…………」
 あまりのことに声も出てこない。悠はしばらく薄ぼんやりとしたテレビ画面を睨まえながら、荒い息を抑えかねて突っ立っていた。
(そりゃ、入るさ、指くらい)悠は懸命に深呼吸した。(これは夢なんだ! そんなわざとらしく驚くことはない……)
 悠はもう一度、今度は恐るおそる、テレビ画面を指で突いてみた。やはり入る、なんの抵抗もなく。ブラウン管のガラス面をどうやってか貫いて、指の先にテレビの中の空間をはっきりと感じる。ちょうど冬のある日、寒い廊下から暖房の効いた室内へ入ったときのような、異質な空気。ブラウン管の入口付近にある第二関節がちりちりする。見た目には立体映像を貫通するようだが、この境界にはかすかに電気の通っているような感触があった。
 中は少なくともテレビのケーシングサイズよりは広い。思い切って腕まで突っ込んで振り回してみると、少し粘るような湿度を感じる。中からテレビを触れるか試してみたが……やはり触れない。これはかなり新鮮な体験だった。向こうのなにもない空間に自分の肘から先だけが浮いているようなもので、突っ込んだ手をテレビ画面から引き出さない限り「こちらがわ」の身体には触れないのだ。
(これ……あたまも入るかな)
 この無謀な冒険心に、悠の良識はさかんに警鐘を鳴らす。中に酸素がないかもしれない。急に電源が落ちて首が切断されるかもしれない。馬鹿なことはよせ! いや、確かにそうだが、これは夢だ。夢ならこれくらいの冒険は許されて然るべきではないか? この奇妙な夢を面白い夢にして、明日気持ちよく目覚めよう。このテレビを通って三軒茶屋のラーメン屋へでも行けたなら、少なくとも明日花村に土産話ができるではないか。
 しばらく逡巡した後、悠はけっきょく冒険心のほうに従った。
(ここまで来たんだ、もう少し見せてくれ、醒めるなよ――)
 このとき、突っ込んだままの手に毛羽だったような、少し温もりを帯びたなにかが触れた、と思う間もなく、抵抗する暇こそあれ、悠はいきなり投げ出されるようにしてテレビの中に引っ張り込まれた。――いや、引っ張り込まれたのではない! 悠は自身の後頭部を鷲掴みにする冷たい、金属質のなにかの感触を震えとともに感じた。
(なにかに押し込まれてる!)
「叔父さん! 叔父さあん! くっそ……!」
 テレビに肩から上を突っ込まれた状態で悠はもがいていた。必死で自身を縛める誰かを攻撃しようとしても、両手も両足もむなしく空を切るだけだ。心臓の凍る思いだった、悠を完全に封じ込めているこの巨大な手は、手首から先だけが独立してそうしているのでなければ、彼自身の後頭部から生えているとしか言いようがないのだ。
 遠くからなにかを引き摺る、重々しい擦過音が近づいてくる。薄黄色い靄のその奥からひょろりとした巨大な何かが歩いてくる。こちらにやってくる。痛いほどの既視感を覚える。これはあの夢の続きだ! この手の持ち主は、今やってくるこの鉄仮面の巨人は……
「アレ・ハ・ナレ・ナレ・ハ・アレ」
 悠は叫びながら全力で暴れた。彼のあたまを押さえつける変質者の、鉄の籠手めいた手首を両手で掴んで、捻ったり体重をかけたり、自身の首も折れよとばかり全身のバネを躍動させて抗った。――甲斐はない。両の掌に血の滲むのを感じる。
「ナレ・ヨ・ノレ・アレ・ヨバヘ」
(捕まる……!)
 鉄仮面がその巨体を折るようにして屈み込み、悠のあたまを握り潰そうとまさに手を伸ばしたとき――ふいに彼を縛める力は亡失し、彼はかねてからそうありたいと切に願っていた以上の勢いでテレビから抜け出ると、先に二度も蹴りをくれたテーブルに強烈な頭突きを見舞ったのだった。






 携帯のアラームが鳴っている。
「…………」
 きのう引き忘れたカーテンの隙間から弱い光が差し込んでいる。雨天だ。夜から降り続いたのだろう。
 悠はテーブルとテレビの間の、粗いカーペットの上で横臥していた。この部屋にこれいじょう狭くて寝心地の悪い空間はちょっと見つかりそうにない。
(我ながら……変なところで寝たもんだ……)
 全身の節々が痛い。別して両腕が痛く、ひどくだるい。全身筋肉痛の様相を呈している。上体を起こすとあたままで痛み出した。最高の寝覚めだ、朝これだけ酷い始まり方をすれば、この一日の終わりまでにはちょっとした帳尻あわせが待っているだろう。
(……こわい夢、見たな)なにかに捕まって、首を斬り落とされかける夢。(くそ、なんなんだろう。昔あんな映画みたっけ?)
 少しずつ恐怖の記憶が蘇って来るにつれ、毛布ひとつ被らずに横になっていたのも災いしてか、寒気がしてきた。ソファまで躄って携帯を掴んで、アラームをリセットする。五時五十分、起きて菜々子に約束の味噌汁を作ってやらなければ。
(その前に着替えておこう、もういちど二階に上がるのはなんだかだるい……)
 悠はのろのろと立ち上がって、寝惚け眼でトレーナーを脱いだ。ソファにそれを放って、ハンガーのワイシャツを取ろうと腕を伸ばして――叫んだ。
「なんだ……これ……」
 悠は目を瞠った。両の掌が乾いた血に染んでいる。にわかに痛みが増したような気がする。そうだ、昨日、なにかに掴み掛かったのだ。あたまを押さえ付けられて……マヨナカテレビ! ブラウン管の中に押し込まれて、なにか宣告されて、処刑されそうになって……
(マヨナカテレビ……夢じゃなかったのか……!)
 菜々子のものと思しい、軽い足音の階下から駆け上がってくるのが聞こえた。





[35651] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:07



 まるで朝からずっと夢を見ているようだ――それもとびきりの悪夢を。放課を報せるチャイムがこれほど待ち遠しく聞かれたことがあっただろうか?
(ぜんぜん授業に集中できなかったな……)
 ノートになにを書いたのかもよく思い出せない。おまけになんと書いてあるのかも判別し難い。肘に敷いている世界史の大学ノートにはミミズののたくったような字が綴られている。両手が笑って力が入らず、それでもまだマシな左手のほうで書いた結果だ。
(メソポタミア。ギルガメシュ。深淵を覗き見た人について、わたしはわが国人に知らしめよう……歴史というより文学の範疇じゃないか、世界史は脱線教師か……!)
 是非ともおおいに知らしめて欲しいものだ。そんなものを覗き見たおかげで、彼は朝からずっと全身が痛くて、驚き悩んで気が揉めて、味噌汁にワカメを入れるのを忘れたのだ。パンもクルンヌ・ビールも喉を通らないし、杉を守る怪物をやっつける元気なんかないし、今は不死の秘密よりもう少し控えめな謎を知りたいのだ。
(花村も里中も顛末を知りたがるだろう。言うべきか――馬鹿、信じるわけがない! 狂人あつかいならまだいい方、あからさまな嘘で気を引こうとしている虚仮だなんて思われるのは御免だ)
「――逆さにぶら下がってたってなんなの? ヤバくない?」
「処刑とかそういうアピール? 怖すぎ……」
「死体見つけたのってさ――」
(処刑だって? やめてくれ……)
 一昨日からの例の事件は、この田舎の善良な高校生たちに程よい刺激を提供し続けている。帰り支度の賑わいを縫って聞こえてくるのは、あのアナウンサー逆さ吊り殺人の話ばかりだ。悠のほうはそれどころではなかったのだが。
(……一本、吸おうかな、どこか人気のないところで)
 疲れと悩みと寝不足のせいか、悠はあまり覚えない類の欲求を感じた。ポケットのシガレットケースには確か三、四本は入っていたはず。――ここで出したらどんな眼で見られるだろう?
「よ、よう」
「なっ……なに?」
 悠はあわてて出しかけたケースをポケットに戻した。後ろの陽介が席を立って、畏まって目の前までやってきたのである。
「あのさ……」
「んん……」
(あの話だろう? くそ、なんて切り返そう……浮かばないな)
「や、その、大したことじゃないんだけど……」
「……そう?」
「実は俺、昨日、テレビで……」
「テ……テレビで?」
「あ、やっぱその……」
「……その?」
「……今度でいいや」
「……そう」
「あはは……」
「……はは」
「…………」
「…………」
 非常に気まずい。どうやら屈託があるのは向こうも同じらしい。――ひょっとして彼も同じような体験をしたのだろうか? 大いにあり得る、そして悠と同じに狂人や虚仮あつかいを恐れている、ということも。
「……花村」悠はポケットのシガレットケースを握りしめた。
「え、おう、なに?」
「その、おれも昨日」
「うん」
「……アレだよ、テレビ」
「おお、テレビ」
「…………」
「……テレビ?」
「実はおれ――」
「花村ー、ウワサ聞いた?」 
 ここで千枝が割り込んで来たおかげで――乃至は、せいで――彼の勇気ある告白は遮られた。
「なに、ウワサ?」
「事件の第一発見者って、小西先輩らしいって」
 心当たりがあったのか、陽介の貌が曇った。
「だから元気なかったのかな……きょう学校きてないっぽいし」
(おれも学校やすめばよかったな……)
「あ、そーそー鳴上くん、おつり返すの忘れてたんだ」
 千枝がスカートのポケットをごそごそやり出した。
「おつり?」
「五千円の。はいコレ」皺くちゃの札がらみに小銭を掴み出す。「ごちになりました」
「ああ……いいよ、とっといて」
「ええ? よくないよ、ほら」
(律儀だな、言われなきゃ忘れてたくらいなのに)
「じゃあ、天城のぶんもそこから出そう。里中、天城さそって代わりにお礼してくれないかな」
「へえ? 自分で誘いなよォ」ちょっと声を潜めて、「狙ってんでしょ? 雪子のこと」
「お前、天城越え狙ってんだ、チャレンジャーだな」陽介はげんなりしている。「天城峠でコケるといてーぞー……大怪我すんなよ」
「天城越え……って言うのか」齢十六、七にして険難踏破に喩えられるとは、本人はどう思っているのだろう。「言い得て妙だな」
「険しいよー、標高ラブレター六十通ぶんくらい?」
「あははとても無理だ、足を踏み出すのも畏れおおい。だから代わりに頼みたいんだ、こういうことをひとにやってもらうのは、ちょっと失礼かもしれないけど」
「うーん、じゃ、わかった。それでも余ったら返すよ――あ、雪子」
 ちょうど雪子が教室に入って来たところを、千枝が呼び止めた。
「雪子、今日ジュネス行かない? 軍資金が入ったぞよ」
「軍資金?――いま、ちょっと大変だから」
「あー……雪子、今日も家の手伝い?」
「んん」
 眼の赤く充血しているのは寝不足によるものだろうか。顔色も悪く、雪子は有体に言ってくたびれ果てているように見えた。二、三日ほど水やりを絶った薔薇のしおたれた眺め、とでも言えようか。いささか不謹慎ではあるが、こういう拉がれた薄倖そうな佇まいがまた、彼女には誂えたようによく似合うのである。 
「ごめんね」
「ううん、いいよ、また今度いこ!」と、千枝が笑った。雪子が薔薇ならこちらはチューリップか。「これは預かっておきまする」
「天城、あんまり遅いとコイツぜんぶ使っちまうぞ」
 陽介は右のすねを蹴られて押し黙った。
「……軍資金って?」
「殿からの頂きものでござる」悠を示して、「お礼だってさ、一昨日の」
「菜々子ちゃん迎えに行くの、案内してもらったからさ」
「ああ……」
「これだけあればヨコヅナハンバーグ二人前いけるね、あっ、ステーキたべれるじゃんこれなら!」
「肉女……」
 陽介は左のすねを蹴られて押し黙った。
「うん、じゃあ、近いうち」
 ひとつあいまいに微笑むと、雪子はこころなし背を丸めてとぼとぼと教室を後にした。
「……なんか天城、今日とっくべつテンション低くね?」
「忙しいんだ、雪子。今に始まったことじゃないけど……」
(叔父さん、事情聴取に行ったりしてるのかな)遼太郎は雪子を知っている様子だった。(それとも単に泊まったことがあるだけ?)
「で、ところでさ」
「ん?」
「昨日の夜……見た?」
「…………」悠は机の寸法を気にしだした。
「…………」陽介は床の木目を数えだした。
「ちょっと、ねえ」
「その……お前はどうだったんだよ」
「見た! 見えたんだって! 女の子!」千枝は興奮した様子だ。「……でも運命のひとが女って、どゆことよ?」
「そりゃお前――」陽介はふたたびすねを蹴られて叫んだ。「――まだなんにも言ってねーだろいってーな!」
「顔に書いてあんだよ……でも誰かまでは分かんなかったけど、明らかに女の子でさァ……」
(こっちは男女の区別もつかなかったよ)掌の傷の痛むような気がする。(目下それどころじゃなかったし、よく覚えてないな)
「髪がね、ふわっとしてて肩くらい、で、ウチの制服で」
「それ……もしかしたら、俺が見たのと同じかも」
 陽介の声にはなにか、焦慮のようなものが透いて見えた。
「俺にはもっと、ぼんやりとしか見えなかったけど」
「え、じゃ花村も結局みえたの? しかも同じ子……運命の相手が同じってこと?」
「知るかよ……」
「ふたりを結びつけるキーパーソン……ってとこじゃないか?」
「は?」
「え?」
「つまり、ふたりが運命の相手同士で、それの仲介役が映ったのかなって」
「んなわきゃねーだろっ!」
「んなわけないでしょっ!」
「あはは息ぴったりじゃないか」こちらに話題を振られたくない一心である。「お似合いだと思うけど」
「バッカ言えよ……いや、里中がどうってわけじゃなくて」陽介は蹴りを警戒しているようだ。「なんていうか……ねーよ、それ」
「ないのはこっちだっつの」
 拍子抜けするほど脈がない。このふたりはそういう気配とは無縁らしい。
「で、お前は?」
 韜晦の甲斐もなく、陽介は当然のように聞いてきた。これでお茶を濁すことができれば、と思ったのだが、失敗のようだ。
「そういえば、木造校舎って珍しいよな」
「珍しいな。で、お前は? 見たんだろ?」
「鳴上くんなんでごまかしてんの」
「里中が映ったから……ちょっと恥ずかしくて」
「へえ……で? ホントは?」
「……天城が映った」
「……鳴上」
「ん?」
「なんで隠す」
「…………」
「なあ里中、俺、ちゃんと喋ったよな? 昨夜のこと」
「うん。あたしもちゃんと喋ったよね? 昨夜のこと」
「……実は」
「うん」
「ごめん、見なかった、零時前に寝たんだ。菜々子ちゃんを寝かせたあと、すぐに」
「ええ? 見るって言ったじゃん……」
「忘れてた。朝おきて、しまったとは思ったんだけど……あとの祭りだ、ごめん」
「…………」
 陽介は黙ってじっと悠を見つめている。先にあれだけ仄めかしたのだ、もちろん彼だけは騙せまい。それでも千枝に素っ破抜かないのは、彼なりにこちらに事情があるのだと気を回してくれたものか。
「じゃ、おれ、帰るよ」
 居たたまれなくなって悠は席を立った。――そもそもなぜこんな居心地の悪い思いをしなければならない? 全部あのマヨナカテレビのせいなのだ。言えるものか、テレビに入っただなどと誰が信じる?
「あ、鳴上くん、またジュネス寄ってかない?」
「行こうぜ、話したいことあるし。ヒマだろ?」
「今日は用事あるし」全身が痛いし、悩んでるし、煙草吸いたいし、「また今度さそって。じゃ」
 残念がるふたりを残して、悠は教室を後にした。きのうあれだけ親密にしたのだから、なにも今日まで彼らへの義理を貫くことはなかろう。
(そうとも、テレビに入れるなんて誰が……入ったなんて)
 悠はふと下駄箱の前で立ち竦んだ。恐怖と好奇心の結晶したような、恐ろしい考えがあたまに巣くおうとしている。
(確かにおれは入った、テレビの中に……入った)
 入った。自分は、テレビに。
 では今は?
 今は入れるのか?





 このふたりは証人なのだ――悠は前向きに考えることにした。このふたりに呈示されたのだから、結果もこのふたりが見なければならない、きっとそうなのだ。
(どちらに転ぶにせよ、ひとりで見届けるよりはいいかもしれないじゃないか。入れなければそれでよし、フードコートで馬鹿話して、トマト買って帰ろう。もし入れたら――ええい、そのときは覚悟してもらおう)
 ジュネス八十稲羽店、二階の家電売場で、悠は期せず陽介と千枝に再会していた。
「おっと、結局きてんじゃん鳴上くん」千枝はにこにこしている。
「なに、お前の用事って家電がらみ?」陽介はにこにこしている。
(覚悟しろよふたりとも……)
「うちのテレビ、まだブラウン管でさ。安い液晶ないかなって」嘘ではない。近いうち遼太郎にそれとなく聞いてみようとは思っていたのだ。「電気屋さがしてたんだけど結局なくて……そっちは?」
「ウチもそう! テレビちっちゃくてさ、大きいの買おうかって話してんだ」
「買い換えすげー多いからな今、アナログ放送おわるし」
「うんうん、ここならきっと花村が安くしてくれるし」
「まだ言ってるよコイツ……できねんだってのに」
「あーゆうのがいいなー、でかいやつ」
 千枝の駆け寄ったのは四十六インチの液晶テレビである。
「はー、こんなのでドニー兄貴の大立ち回りが見たい!」千枝はなにかの型よろしくてきぱき動き出した。「ハイッ! ハーイッ! モウイェンガッ!」
「はいはい……てか、お前んちってDVDだっけ? ビデオ」
「うん」
「ブルーレイは?」
「……名前は知ってる」
「プレステ3とかねーんだ」
「うちは2が現役ですけど。つか3とかどこの貴族ですか……」
「DVDだとあんま綺麗に映んねーぞ、でかけりゃでかいほど。今どきのは一定以上の大きさになるとたいていフルHDだから、綺麗なの見たいならついでにブルーレイに乗り換えるのも手かもな。ま、画質の善し悪しなんて感じ方はひとそれぞれだけど」
「フル……え、なんで?」
「花村、家電に詳しいんだ?」
「詳しいっつか、おれここでバイトしてるからさ。ここに回されたとき最低限のこと知っとかないと、なんか聞かれたとき困るし」
「こんなところにもバイト使うのか?」
「まさか。学生のバイトなんか使わねーよ、品出しと売り子だけ。こーいうとこで使われんのは俺。言ったろ? 俺だけ特別待遇だって」
「大変なんだな」
「そのぶん給料もいいんでしょ?」
「最低賃金だっつの。お前信じる気ゼロだろ」
「それより、なんでDVDじゃダメなんよ」
「……ダメなわけじゃねーけど。画素数っつか、解像度が違い過ぎるからボケるんだよ、でかいと。DVDはだいたい三十五万ピクセル、フルHDだと二百万ピクセルくらいで、ブルーレイも映画はだいたい同じ。単純計算で六倍も違う、だからでかいテレビでDVD見ると基本スカスカなわけ。気にしないひとは気にしないし、離れればそうでもねーけど」
「……センセー、よくわかんないんですけど」
「あーっと……つまり……アレだよ、ジャムが全然たりねーんだよ、パンがでかすぎて」
「塗りかた次第っしょ」
「そういう意味じゃなくて……」
「そーいや、ここって店員とかいないの? ガラーンてしてない?」
 千枝の言うとおり、テレビのコーナーには案内の店員が見当たらなかった。ほかに客らしい客もいない、大繁盛のジュネスとはいえ、どこもかしこもというわけではないようだ。
(それは当然か。ダイコンやニンジンとは違うもんな)
「葛西さん倉庫いってんだな……」陽介は静かにため息をついた。「正直、うちでテレビ買うお客とかほとんどいなくてさ、この辺は隣のブースとの兼任がひとりだけ。しかも今は倉庫で一服中、たぶん」
「やる気ない売場だねェ」
「回収しづらいとこにひとなんか回せねーよ、ここはこれが精一杯。ホントに欲しけりゃ客のほうで店員さがすだろ」
「ま、ずっと見てられんのは嬉しいけど……これダメだよ、高すぎ、ありえない」
「これブルーレイレコーダー内蔵型だからな。それ見越せばお得じゃね?」
「うー……なんかオススメないの? 安くてキレイででかいやつ」
「隣のこちらなどいかがでしょうかお客様」陽介の声が一転、セールストーク用のそれに切り替わった。「この春発売されたばかりの最新型で、3D映像もお楽しみ頂けます。専用のキャスター付きテレビ台もセットになっておりまして、お部屋の模様替えの――」
「ちょっ全然安くないじゃん! ゼロいっこ多いだろって!」
「これゼロいっこ減らしたらシャープの社員首つるぞ……てか、まずお前の安いがどんくらいか聞かないと」
「えと、五万円くらい?」
「おま……それテレビ台買って終わりだからな。二十インチちょいの小さいやつならあっかもしれんけど」
「でかいの欲しいの!」
「五万じゃ買えんの!」
「花村のコネで安くしてよォ……そんなら、ここで買うからさ」
「だーからそういうのは無理だっつってんのに……あ、鳴上?」
「ひとりで見てるよ。悩んだら聞くから」
 まずはひとりでやってみなければ――悠はふたりから離れると、テレビを選るふりをしつつ監視カメラの死角を探してコーナーを歩き回った。ひとに見つかる可能性は低そうだが、テレビに手を突っ込む瞬間を録画でもされたらおおごとだ。
(よし、ここなら)
 悠の立ち止まったのはコーナーの一番奥である。そこは死角であるばかりでなく、お誂え向きに六十五インチの大型プラズマテレビが鎮座していた。ちょっと腰を屈めるくらいで簡単に中へ入ってしまえそうだ。
(ここならアレが来ない、っていう保証は、ないんだよな)
 家で試さなかった最大の理由がそれだが、もしあの鉄仮面がところ構わず悠のいるところを嗅ぎつけてやってくるなら……
(あのふたりがいる。彼らに助けを求めればいい、そうさ、その為のふたりだ)
 悠はひとつ深呼吸して、用心ぶかく辺りを眺め回して、誰の目にも留まっていないことを確認したあと、テレビのパネルを指でちょんと突いてみた。――やはり入る。その事実が、悠にはなぜかとても嬉しい。これはちょっと胸の高鳴る展望ではないか? 理由こそわからないけれど、自分はどうやらいつでもテレビに入れるのだ!
 口角の上がるのを感じる。
「花村ー、里中ー、おーい」
(おまえたちの蒔いた種の結実を見せてやる!)
 果たしてふたりは暢気に話しながらやってきた。彼らの驚く顔が目に浮かぶようだ。
「なに、決まった?」
「うお……鳴上くんそれ買うの?」
「げっ六十五インチ! 見てただけだろ?」
「……そうだな、ちょっと小さめだけど、これなら菜々子ちゃんも妥協してくれるかな」
「小さめって……」
「どこのセレブだよ……」
「値段も手頃だし、3D映像も見られるし――」悠はちょっと芝居めいたあと、おもむろにテレビのパネルに手を突っ込んだ。「――腕も入るし」 
 この瞬間のふたりの顔を写真に残せないのが残念だ――切実にそう思わせるくらい、彼らの驚愕は見物であった。
「え、テレビ、ダメだろ、おまっ壊したら……」
「壊す?」悠は突っ込んだ腕をぐるぐる回して見せた。「壊れてないな」
「しっ新機能? それ、え、なんの役に立つの、それ?」
「番組がなくても楽しめるな」
「パナソニックすげー……」
「ってねーよっ!」
「マジでささってんの……?」
「マジだ……ホントにささってる……スゲーよどんなイリュージョンだよ!」陽介は興奮した様子だ。「で、どうなってんだ? タネは?」
「……転校生だから?」
「俺もそーだよっ!」
「じゃ、柴又と三軒茶屋の違いかな」
「柴又すげー……」
 ふたりは食い入るように見つめている。さもあろう、悠でさえ昨晩あんなことがなければ彼ら同様、飛び上がるほど驚き興奮したに違いないのだ。
(中に入ってみようかな、本当に)
 もしこのプラズマテレビの中が昨晩押し込まれた場所とそれほど違わないのなら、空気はあるはず。死にはすまい。
 我ながら軽挙妄動の極みだ――それでも、なによりこのふたりの驚き興奮する様が、この彼のいつにない野放図な好奇心を駆り立ててやまない。いい気分だった。悠にとってはこの降って湧いた非日常への招待よりなにより、この善良なクラスメートたちの面に閃く反応のほうがずっと関心を引いたのである。
(テレビのフレームを支えにしたらたぶん壊れるな……ちょっと辛い体勢だけど)
 もういちど周囲に誰もいないことを確認すると、悠は脚を前後に開いて、少々不自然な前傾姿勢でテレビの中にあたまを突っ込んだ。――店内を飛び交っていたあらゆる音が掻き消えた。慌てたように背中をツンツン突くのは陽介か千枝か、向こうではさぞ大騒ぎしているのだろう。こんな突飛なことを目の前でされたふたりの驚愕ぶりが伝わってくる。
(昨日と同じだ、薄黄色の靄、ちょっと湿気たような空気)
 靄が濃すぎて周囲になにがあるのか全く見えない。大声で叫んでみると、意外にもこだまは返ってこない。この中はかなり広いようだ。
 例の鉄仮面の現れる気配はなかった。思えばあれは二回とも堂島家で現れた、とすれば、アレはひょっとしてあの家に憑いた……
(ばかばかしい……って言えればいいけど、こんなことがあった後じゃなんとも……)
 と、いきなり後ろから引っ張られて、悠はジュネス店内の喧噪に引き戻された。彼を出迎えたふたりといえば周章狼狽、顔面蒼白の態である。
「バッカなにしてんだお前ェ!」
「ひと、来たか?」
「来ねーよ、お前が行っただけだよ!」
「やばいって監視カメラ映るよ!」
「ここは死角になってる」
「お前……お前……」陽介は少し落ち着きを取り戻したようだ。「そうかお前このことを……じゃあ昨晩」
「ご明察」
「なに、なんの話よ!」
「家電の話。――中はかなり広いみたいだ」
「なっ、中ってなに!」
「テレビの向こうの空間」
「くっ、空間ってなに!」
「もう一度はいってみる」
「バカよせって!」
「大丈夫、たぶん」
「たっ、たぶんってなに!」
 ふたりの止めるのを聞かずに、悠はふたたびあたまを突っ込んだ。
(ここって、無人なのかな)
「誰かー! 誰かいないかーっ!」
 ――返事はない。
(地面が見えれば入ってみるんだけどな……なにか落としてみようか)
 悠はポケットからシガレットケースを取り出した。中の一本を抜き出して、下に放ろうとして――止める。あと三本しかないのだし、今後なかなか手に入りそうにないのだからもったいない。
(落とすだけなら吸殻でいいか)ここなら一服しても誰も文句は言うまい。(ライター、あったかな……あれがあったはず、スタンドで貰ったやつ)
 制服のポケットに両手を突っ込んで、ライターを探し当てた瞬間、陽介か千枝か、誰かに背中をどんと押されて、悠はろくに踏み止まることもできずにつんのめった。とっさの手が出ない。腹がテレビのフレームを乗り越える。血の気が引く――
「うわっなに――!」
 さながら海戦の捕虜が両腕を縛られた状態で、甲板から荒れ狂う波濤へと蹴り落とされるように――悠はテレビの中へ落ちた。





 かなり長い時間、身の毛もよだつ自由落下が続いたわりに、着地の衝撃は驚くほどあっけなかった。
(絶対死んだと思ったけど……それよりなにより!)
 こちらのほうがよほど問題だ――海戦の捕虜はひとりだけではなかった。なんと陽介と千枝も落ちてきてしまったのである。
「ふたりとも、大丈夫?」
「いってェ……ケツの財布がダイレクトに……!」 
「もーなんなのォ……!」
「怪我は?」
「ええ? ケツが粉砕した……」
「え、ここどこ、ジュネスのどこ?」
 怪我らしい怪我はないようだ。
「……上でなにがあった。背中を押されたんだけど」
「う、ごめんあたし、ぶつかっちゃって。だってひとが来て……!」
「ほかの客が来て、里中テンパってお前にぶつかって……俺、お前の脚つかんだんだけど……」
「あたしは花村のを……イカドーブン」
「……参ったな」
 三人の捕虜の流れ着いた孤島は、やはり黄色い靄に覆われている。地面は柔らかい、少し硬めのゴム様のなにかでできていた。もしもコンクリートかなにかだったら三人とも無傷では済まなかっただろう。
「ねえ……どこ、ここ」
「ジュネス、じゃ、なさそうだな」
(カンザスでもなさそうだ)
 音らしい音がしない。空気も全然ちがう。昨日きた世界と同じ、違うことと言えば……
(帰れない……ってことか)
「ジュネスじゃないって……じゃ、どこよ!」
「どこって、そりゃお前……テレビの中、だろ」
「中って――」
「うおっ!」
「うあっ、なにっ、なによォ!」
「周り、見てみろって!」
 陽介の指す先にうっすらと、クレーンのアームのようなトラス構造の骨が渡されている。そこからつり下がった大型の照明、撓んだケーブルの束、家庭用では用途の見つかりそうにない巨大なカメラ。よくよく見れば立っている地面もなにかのイラストが描かれている。三人の落ちてきたそこはなんとなく、どこかの室内スタジオのように眺められた。
「でかい声だすなバカァッ!」陽介の腰に猛烈な蹴りが飛んだ。「ビックリすんでしょ!」
「いって……わり、でも、ここってなんなんだろ。スタジオっぽい?」
「すごい霧、じゃない、スモーク……?」
「なんか色ついてっけど……毒ガスじゃねーよな」
「こんな場所、ウチらの町にないよね……?」
「あるわけねーだろ……どうなってんだここ、やたら広そうだけど」
「……どーすんの」千枝の声は微かに震えている。
「……帰るんだよ」陽介の声も微かに震えている。
「そっ、そうだよね、とにかく一回かえってさ……帰って……」
「……どーやって」
「あ、あたしら、そういや、どっから入ってきたの?」
 悠は黙って頭上を指した。
「出口……上ってこと?」
 落ちてからここへ到達するまでにはかなりの時間があった。仮に上に出口があるにせよ、手足で登っていけるような距離ではないだろう。
「……出れそうなトコ、ない? ひょっとして」
「ちょ、そんなワケねーだろ! どどどーゆーことだよ!」
「知らんよあたしに聞かないでよ! やだもう帰る今すぐ帰るー!」
「ふたりとも静かに」
「だからどっからだよっ!」
「あたしに聞くなっつってんだろォ!」
「おい静かに――」
「ヤダもうなにコレェ……ざっけないでよォ……!」
「泣きてーのはこっち――!」
「静かにしろふたりともっ!」
 ふたりともぴたりと押し黙った。
「人工物があるってことは、誰か来たことがあるってことだ」安心したような、なんとなく落胆したような。内心は複雑である。「誰か来たことがあるってことは? 出入口があるってことだ」
「……うん」
「……おお」
(その出入口がまだ開くかどうかはわからないけど)
「ここがもしスタジオなら、とうぜん番組が収録されているはずだ。ここはどこかのビルかもしれない。いずれにせよ、出入口はある――ふたりとも、携帯は通じる?」
「……ダメ」
「俺のも」
「……おれのもだ。これで助けは呼べないことがわかった」繋がったところで呼びようもないが。「なら、この脚で出口を探すしかない」
 ふたりとも絶望的な顔をしている。悠のほうでも一皮むけば似たようなものだったが、
(三人なかよく絶望して泣き叫んで、いったいそれでなにがどうなる! おれがしっかりしなきゃ……)
「さ、ふたりとも立って。歩こう、ここでこうしていてもどうにもならない」
「歩くって、どこへだよ」
「どこから試してもいい、ここ以外ならぜんぶ出口に繋がってる。簡単だろ」言って、悠は非常な苦労をして無理に笑って見せた。「ふたりとも元気だせよ! どうした、いつも底抜けに明るいくせに。あした天城に話すぞ、ふたりとも震え上がって泣き叫んでたって」
「……俺は泣いてねーだろ」陽介はよろよろと立ち上がった。
「わがった……」千枝は洟を啜りながら立ち上がった。
「よし、行こう。なんかワクワクしないか? ふたりとも」なにがワクワクだ! わが言葉ながら呪わしいことこの上ない。「ちょっとSF映画みたいじゃないか」
「お前元気だね……」
「ゾクゾクならする……」
(映画なら最後にはちゃんと帰れるものだけど)
 もしくは、後ろからひとりずつ食い殺されて、最後に生き残った先頭の主役が脱出してエンディング――パニック系ホラーの古典的展開はたいていこんな感じだ。人食いモンスターはいつも後ろからやってくる……
(その人食いモンスターがもし鉄仮面を被ってたら……そうだ、ここはあいつの世界なんだ)
「まずはこっちだ――おれが先頭に立つよ」
 ふたりの頼もしげな視線が、なんとなく後ろめたく感じられた。





「ふたりともストップ」
「え……また?」
「なに、なんなんだよ」
「…………」
「鳴上?」
(やっぱり……なにか後ろからつけてきてる)
 例のスタジオを発って三十分ほど、三人は一列縦隊で足の向くまま、この黄色い霧の立ちこめる世界をさまよい歩いていた。
 もちろん出口は見つかっていない。わかったことと言えば、先のスタジオのように具体的な人工物のある場所は稀でありそうなこと。いくつか扉を開けても、この妙な霧はどこまでも続いていそうなこと。行き止まりが多く、両の脚で踏破できそうな範囲は案外せまそうであること。
(そしてずっと何者かにつけられていること……くらいか)
 最初は気のせいだと思っていたが、何度か故意に急停止してみたところ、この三人以外の誰かの足音が微かに聞こえたのだ。疑ってかからなければ聞こえないような、微かなものだったが。
(ふたりに報せるべきかな)
 陽介も千枝も相変わらず恐怖と不安に拉がれている。
 陽介はまだいい、それらを紛らすために虚勢めいて多弁になっているが、それも自身を奮い立たせるためだ。が、千枝のほうはもはやそんな気力もなく、折々しゃくり上げたり洟を啜ったり弱音を吐いたりしつつ、陽介の制服の裾を掴んでよちよち歩いているという有様だ。
 それでも、悠はこのふたりの道連れをありがたく思っていた。
 怖れ震えるあわれな様子を見れば、彼らのためにも尚のこと冷静に努めなければと、いきおい悠は奮い立たざるを得ない。言ってみればこのふたりが彼のぶんまで怖がってくれているようなものだった。このふたりが恐怖に打ち震えるという重要な仕事に専念してくれるおかげで、彼だけはその悪疫を免れているのである。
 たったひとりこの世界に投げ出されていたらどうなっていただろう? もっとも、悠を落としたのも彼らなのだが。
「おいなんだよ、気持ちわりーな。なんか見つけたのか」
「んん」
(問題はなにかあったときだ、後ろの奴がなにか変わったアプローチを仕掛けてきたとき)具体的には、三人が二人に減ったりする類の。(そのときなにも知らないでいるのはフェアじゃないな)
「おいってば」
「ふたりとも、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
「……へ?」
「なに、実はあなたが好きでしたって?」
「ここから出たら指輪を贈るよ。――花村も、里中も、取り乱さないでくれよ」
「へえ、やけに勿体ぶるじゃん」
「な、なに……?」
「誰かにつけられてる」
 悠は「なにか」とは言わなかった。
「……え?」 
「気のせいじゃ」
「そうあって欲しかったけど、何度か立ち止まって、足音を聞いた。間違いない、おれたちのうしろに誰かいる」
「だっ、誰がいるって……!」
「もーやだァ……!」
「落ち着けって! つけてるってことは、いますぐどうこうしようってわけじゃないってことだ。いや、できないってことだ」
「わかんねーだろそんなこと!」
「じゃあ、説明してくれ。どうして後ろのやつはなにもしない? いや、具体的に言おうか。どうして襲ってこない?」
「…………」
「答えを教えよう。そうできないか、そもそもそうするつもりがないからだ。だから安心して、でも注意しよう」
 もちろん、今はたまたま虫の居所がよいとか、まだ食事の時間には早いとか、三匹ぶんの凝った献立を思案中であるとか、悪いほうにだっていくらでも考えられる。が、その可能性を指摘したところでなんになろう。
「……結局、今までどおり探し回るしかないってことだろ、出口」
「その通り。スリル満点だな、明日は話題に困りそうにない」
「は、花村、あたし、真ん中いっていい?」
「はあっ? お前それ酷すぎだろ! さんざひとのこと盾にしといて!」
「だっでェ……!」
「男の見せ所だな花村、代わってあげたら?」
「お前ひとごとだと思って……!」
「じゃ先頭やる?」
「……ここ出れたらなんか奢れよ里中」
「うん、ありがと……」千枝の盾は陽介から悠に交代した。「……ヨコヅナハンバーグでいい?」
「……もちっとあっさり系で頼むわ」
「フォルサン・エト・ハエク・オーリム・メミニッセ・イウァービト」
 悠はポケットからライターとシガレットケースを取り出した。
「へ?」
「なに、おまじない?」
「格言。いつかこの災厄も楽しく思い返す日が来るだろう。今のおれたちにはぴったりだろ」
 思えば一服つけるのは稲羽に来てからこれが初めてだった。非喫煙者のふたりを憚って横を向いて、悠は銜え煙草に火をつけた。
(もっとも、アエネアスはその後も試練の連続だったんだけど……)
 赤い火種が薄黄色の霧に紛れてかすかに翳る。久しぶりのせいかちょっとクラッと来たが、ささやかな鎮静作用がいまは奇妙にありがたい。
「その日が明日でないなんて誰にわかる? ふたりとも明るく行こう。じき出口も見つかって、今日の一件は笑い話になるよ」
 陽介も千枝も口を半開きにして、悠の右手の二本指の間を凝視している。
「これ、気になる?」
「……お前、タバコ吸うんだ」
「うおー……不良だ……」
「意外?」
「意外っつか……意外だわ」
「うん意外。なんかこう、もっと優等生ぽいって思ってた……」
「ひとを見た目で判断しちゃいけない、これでも東京じゃ札付きの悪党だったんだぜ……」
 リクエストに応えて、悠はいっぱしの不良よろしく悪げに煙草をふかして見せた。こんな茶番でもふたりにはいい気分転換になるだろう。
「えーホントにィ……?」
「うっわ説得力ねーな」
「ホントさ。窃盗、傷害、覚醒剤、十回留年して今じゃ二十七歳の高校十二年生、少年刑務所の常連だ」
「へーえ……で、その少年刑務所ってどんなとこよ」陽介の面にようやく笑顔が戻った。「そんなの柴又にあったっけ?」
「東京にはない、埼玉の川越。運動ばっかりさせられる。そのぶん普通の刑務所よりはメシ多いけど」
「…………」陽介の笑顔が凍り付いた。
「……マジ?」
「フフフ……そうは見えないかもな……」
 ふと、吹き上げた紫煙の先に薄ぼんやりと、そこだけ霧の黄味の強く見える一画が目に留まった。
(なんだろう)
 霧が濃すぎて遠近の区別こそつかないが、明かりの灯っているかのようなそれは、少なくとも悠の眼の高さよりはかなり上に見える。
(今までいろいろ廻ってきたけど、あんな高いところになにかあるのは初めてだ)
「ちょっと俺お前のほうが怖くなってきたんだけど!」
「鳴上くんマジなの? ウソでしょ?」
「鳴上先輩って呼んでくれ。ふたりとも、あれ、見えるか?」
「なあホントのとこどーなんだよって!」
「二十七歳ってさすがに……ないっしょ……ケ、ケームショって……」
「口が滑ったな。知られたくない過去だったんだ、実際いまも胸が張り裂けそうで……行ってみよう」
「お前ニヤニヤしてんじゃねーか! おい待てって!」
「あ待って待ってあたし真ん中! 花村ァ!」
 指摘されて初めて、悠は自分の「ニヤニヤ」しているのに気付いた。
(おれ……喜んでるのか? こんな窮地の只中で?)
 指摘されて初めて、悠は静かな驚きに打たれた。例の彼の身体の中を通るつめたい鉄芯が、いったいいつからどのようにされて今に至るのか、赤熱して輝き始めているのである。家族から慰謝を得るときでさえ、かつてこれほどの熱を遷されたことはなかったというのに。悠はこの熱の輻射を表情に出すまいとして、しかしそれを抑えかねた。彼は背後のふたりに見られないように「ニヤニヤ」した。
 陽介と千枝は熾烈なポジション争いを繰り広げている。
(いまは笑おうじゃないか、素直に。状況が特殊なだけだ、それに都合もいい、この異常な世界でやる気を出してくれるものなら、なんであれ活用するべきだ)
 一時的に芯材が銅に代われば、それは熱くなりもする。いつもとは状況が違うだけ――悠はそのように納得して足を速めた。いまふと見出したこの例外的な暖かみを、世間一般の名付けがちな陳腐で安っぽい俗称で性急に呼ぶことは、彼の中のなにかが許さなかった。曰く、友情!
 ニヤニヤ笑いが次第に減衰していく。





[35651] 死体が載ってた……っぽい
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:27



 三人はつかのま呆然としていた。
『Maison de la neige』
 装飾アルファベットの表記に続いて、その下にメゾン・ド・ラ・ネージュの文字。これが目の前に建っているアパートの名前らしい。その金文字版が表札だとしたら、だが。
「ここ、室内、だよな」
「スタジオあった、よね」
 確かに――三十分強もあてどなく歩き回った印象として、室内にしては広すぎるとは感じていた。が、行き止まりには必ず壁があったし、床は間違いなくどこまでも作り物である。いつの間にか外に出ていたとは思えず、かといってこんな巨大な建造物が室内にあるとも思えない。入ってきた当初からここは常識にかからない場所だと考えていた割に、こういういかにもな異常事態を前にしては、三人とも為す術もなく呆けるばかりだった。
「ここ、入居者とか、あんの?」
「……日当たり悪そうじゃん」
(日当たり……そうだ、ここ、天井がない……)
 ないというより、見えないのだ、霧が濃すぎて。上はどうなっているのだろう。
「とにかく、明かりはこの上だ、行って――」
 言いかけて、悠は言葉後を呑み込んだ。にわかにアパートの上の方から、いくつか壁を隔てたような微かな音が聞こえてきたのだ。立て付けの悪い扉の、蝶番の軋むような音、女性の悲鳴のような音が。
「……みよう、か」
「……今の、なに」
「……風?」
「風なんて吹いてないでしょ、ここ」
「じゃ、なんだよ」
「ひっ……悲鳴っぽかった、かな、なんて」
「悲鳴? はは、里中耳わりーな、悲鳴には聞こえんだろ……悲鳴だって……」
「だ、よね、あはは……」
 陽介も千枝も棒を呑んだように突っ立っている。悠のほうでも同様である。今までこの三人の声以外の音はほぼ聞かれなかったのだ。情けないことに先に奮い立てたか細い勇気も、はやこんな些細なことで押し拉がれんばかりである。
「ふ……ふたりとも」
「おお」
「はい」
「おれは……行ってみるつもりだ、上に。ふたりはどうする」    
「おいやばいって! 別にここ行かなきゃいけないワケじゃねーだろ?」
「よしなよ……なんかヘンだってここ」
「でもほかに手がかりが……ここをパスしたって、ほうぼう探し回ってなにもなかったら、結局もどって来なきゃならない」
「そっち回ってからでもいいだろ、出口みつかるかも知れんし」
「そーだよ、なんかここヤな予感するって」
 おそらく――あまり考えたくなかったが――すでに歩いて行けるところはほぼ周り尽くしている。それはふたりもわかっているはずだった。
「なら」仕方ない、強硬手段しかない。「おれひとりで行ってみる。ふたりは、ここで」
 このふたりが恐怖から翻意してくれることを祈るばかりだ! ひとりでこんなところに入るなどと、悠のほうでもそんな暴勇の持ち合わせはない。
「バッカよせって!」
「なんかあったらどーすんの!」
「なにかあったら、逃げられるだろ、ふたりは」追跡者の腕の中にね。「三人死ぬよりは、ひとり死ぬほうがマシ……」
「しっ、死ぬ?」
「死なんでよ! なに言ってんの!」
 死ぬなどという言葉を使ったのは軽率だったが、効果はあった。あと一押しだ。
「じゃあ、行くよ、ふたりとも。短い間だったけど――」
「おっ俺も行く!」陽介が武者震いも雄々しく名乗りを上げた。「お前ひとりじゃ、心配、だし」
「……里中は?」
 陽介は転んだが――あわれな千枝は真っ青になってがたがた震えている。口には出さずとも顔に書いてあるのが読んで取れる、どっちもイヤに決まってんでしょ! と。
「おい、どーすんだよ。ここで待ってんのか」
「……い、いぐよ、いぎゃいーんでしょ……」
「よかった。正直、ひとりじゃ行けそうにない」
「へっ、さっきと言ってること違うし」
「ああ言えばふたりとも来るだろ、怖がって」
「お前も怖いんだ?」
「当たり前だろ……」
「怖いなら行くなっつの……バッカじゃないの……花村、あたし真ん中……」
「あん? 最後までグズってたんだから当然――わかったわかったって!」千枝が泣き出したのを見て、陽介は慌てて前言を翻した。「はいどーぞ! あーくっそ!」
「花村、食われても天国いけるよ」
「食われねーし、いかねーし。くそ、死んだらお前らの枕元に立ってやっからな……!」
「ノート写させてやるよ」
 三人は戦々恐々の態で、手すりに縋って鉄骨階段を上った。カンカンという甲高い音が喧しく、霧に籠められた静寂を引き裂いて響き渡る。
 明かりは階段の一番上、三階の突き当たりにぼんやりと灯っていた。位置からして部屋の玄関灯かなにかと思しい。
「花村、里中」
「なんだ」
「……なに」
「階段の上り際で止まるから、ふたりともそれに合わせて立ち止まってくれ」
「なんで」
「いいから……もうすぐだ、止まるぞ……」
 三階に着いてすぐ、悠は立ち止まって耳を澄ませた。――疑いようもなく聞こえた、三人以外のなにかが鉄のステップを踏む、カンという音が二回、はっきりと。ふたりがぎょっとして下を向いた。
「誰だ!」
 誰何の声に、しかし反応はない。三人とも息を殺して霧う階下を凝視している。「誰だ!」のあとにはしんとして音ひとつない。唾ひとつ呑み込むのも躊躇われるような、痛いほどの沈黙。
「誰だ、どうしてつけてくる」
 ふたたびの誰何のあと、ややあって――謎の追跡者は足早に階段を上り始めた。
「走れ! 奥だ!」
 叫びざま、悠は三階の奥、例の明かりの見えるところ目指して駆け出した。ふたりとも言われなくてもそうするつもりだったようで、彼の背後にぴったりついて全力で走ってくる。三人ともパニック寸前である。
(鍵かかってませんように!)
 目指す先には玄関灯に照らし出された木目調の扉がひとつ。逃げ込むとしたらそこしかない。――開いた、と、思う間もなく、そこへ陽介と千枝が荒々しく殺到する。悠を押しのけて我先に部屋へ逃げ込みにかかる。
(中にもなにかいるかもしれないのに……!)
 扉を閉める間際、隙間から追跡者のシルエットが見えたような気がした。身長四メートルの巨人でこそなかったが――恐怖はかえっていや増したかのようだ。人間大ほどの、ずんぐりした卵形のそれは、少なくとも人間のシルエットではない。 
「花村手伝え!」
 悠は腰だめに両手でドアノブを握った。
「どーやって!」
 世の玄関扉がたいていそうであるように、これも例に洩れず外開きである。ノブを保持している悠以外に扉を押さえられるものはいない。
「なんか探せ早く!」
「カギねーのかよ!」
「……ない、ついてない!」
「どんだけ欠陥住宅だよ!」
「いいから――!」
 足音が玄関の前まで来て、止まった。次いで外のなにかの力を受けて、ドアノブがガチャガチャ回ろうとする。手の中で暴れるそれを悠は必死に保持する。――まさしくホラー映画の一場面だ。こんなとき次に襲われるのは得てして、こうしてモンスターを防ぎ止めている男ふたりではなく……
「里中!」
「へ」
 千枝といえばフローリングの廊下にへたり込んで凍り付いたまま、さながら恐怖を具現化した彫像かなにかのようである。
「そこ、いると、危ないかもしれない!」
「な、なんでよ……なんもいないでしょ……?」口ほどもなくこわごわ這ってくる。「脅かさんでよ……なによォ……」
 じきにガチャガチャが止まった。それきりなんのアプローチもない。
(これで終わりか……やけに弱いな)
 正直、拍子抜けの感がある。あまり力はないようだ。もっともライオンやクマだって噛んだり引っ掻いたりするほどには、ドアノブをうまく回しはしないだろうが。
「…………」
 諦めてくれたのか、ほどなく扉ひとつ隔てたすぐそこの地面から、ひっそりと足音が離れていった。
「……行ったか」
「行ったな……あ、ドアスコついてんじゃん」陽介が扉の覗き穴に眼を当てた。「……ダメだわ、見えん、霧が濃すぎる」
「鳴上くん、なんかいるの? そっち」
「え? いや、なにか見たわけじゃないんだけど……里中、立てる?」
「ダメっぽい……」
「なにお前、腰抜かしてんの」
「うっさい」
「あはは情けねーな――で、これでひとまず一難去った、か?」
「花村、例の悲鳴みたいな音の件、忘れてる。たぶんここだぞ、出所」
「……じゃ、なんかいるってか、ここに」
「おれはドアかなにかの軋みに聞こえたけど――調べてみよう」
「お前……お前って、マジ行動力あるよな」陽介はげんなりしている。「ちっと休まね? 里中もそうとう参ってるし」
「……そーとー参ってるであります、隊長」千枝もげんなりしている。「ちょっと休みたいであります隊長」
「こんな狭い玄関で? じゃあおれひとりで――」
「お前それ反則! 単独行動すんなって!」
「休もーよー……もーヤダ動くの……」
「奥の部屋、ワンルームかな。玄関小さいし」
 そこは意外に見晴らしが利いた。部屋の中だからなのか、少し霧が薄いのだ。
「もう少し踏み込んで安全を確保できれば、奥で休める。ひょっとしたら出口があるかも」
 玄関から廊下を隔てて見る限りでも、奥の部屋はかなり広いようだ。大きな窓とカーテンに、椅子の置いてあるのが窺える。
「入ってみる」
「おい鳴上……!」
「大丈夫。花村は覗き穴、気にして。ドアノブ掴んでたほうがいいかもしれない」
「気ィ付けろよ」
「もう一生分つけたよ」
 ――果たして室内は広かった。いくぶん薄くなっているとはいえ、部屋の奥が霧でぼやけるくらいだ。
 二十畳ほどのフローリングに、オーディオシステム、キャビネット、液晶テレビ、ベッド、据え付けの本棚に並ぶ本と、ひとの暮らしている跡が見て取れる。――ひとの暮らしていた、ではない。窓際を飾るストレリチアの大鉢は萎れてこそいるが、枯れてはいない。つい最近までここで誰かが生活していたような雰囲気がある。
(もし住んでいたとしたら……ちょっとした異常者だな)
 声を上げずに済んだのは、室内を薄く覆う霧のおかげだろう。部屋の壁という壁にびっしりと、顔の部分を破り去ったポスターが貼ってあるのだ。同じ人物、同じ意匠のもので、破損がひどく和装の女性ということ意外は判別できない。一瞥して歌手かなにかのものに見える。
(まさかファンじゃないだろうし、アンチならそもそもこんなにたくさん貼ったりしないだろう。どういうつもりだ?)
 そして、玄関からも見えた椅子、その上からつり下がった縄と輪っか。これが四方の顔なしポスターと相まって異様な雰囲気を醸し出している。これをインテリアかなにかだと思っているのなら、ここの住人はひとかどのアウトサイダー・アーティストとしてニッチの支持を開拓しうるかもしれない。
(首吊りを模しているだけだ、これは。これじゃちょっと締まるだけですぐ切れる)
 縄の部分はともかくとして、輪っかはスカーフのようなもので間に合わせられている。まさしくインテリア以外の用途を満足しないだろう。物は鮮やかな紅白の絹地に福寿草を鏤めたちょっと高そうな品で、端に小さく「在地願爲連理枝」との金糸の縫い取りがある。
(あとは……一番みたくないベッド……)
 最初部屋に入ってぱっと見渡したときから、イヤな予感はしていたのだ。うっすらと霧に煙る部屋の、奥まった位置に設えられたセミダブルベッド。掛布に乱れたところもない、形も平凡で、棺を模しているというわけでもない。いたって普通である――その上に浮かぶ黒っぽいシミを除けば。
 恐るおそる近づいてみる。
(うう……やめてくれ……これ、ただのシミじゃない!)
 仮に他がそうでも、これだけはインテリアやアートの範疇に収まりそうもない。近くで見るシミは汚らしい黒茶色で、やや歪ながら、ちょうど横向きになって腕を投げ出した人のような形をしている。おまけにその辺りからなにか、有機物の腐敗したような異臭がかすかに漂ってくるのだ。彼我の距離二メートルにしてなけなしの勇気は萎え摧けた。
「鳴上くーん……どおー?」
「なんかあったかー?」
「ああ、あったよ」なんか、なんて言葉で括るにはあまりにも重すぎるものが。「今いく……」
 陽介と千枝は先刻と同じ姿勢のまま待っていた。
「誰か来たか」
「いや、なんも」
「奥、休めそう?」
「……おれは休めない、と思う。おれなら玄関で寝る、ここの住人に招待されたら」
「どゆこと?」
 悠は掻い摘んで部屋の中の状況を説明した。ひとのいた気配のあること、顔なしポスターのこと、首つりチェアのこと――
「それと、もし入るなら、ベッドには近づかないほうがいい」
「……なんで」
「なんかあんの?」
「見たままを話すけど、そのベッド、たぶん……たぶんだと思うけど」
「勿体ぶるなって」
「うんうん」
「あくまでおれの主観で、いや、こんなのは馬鹿げてるけど……」
「続きは来週……ってか?」
「よっ、この話じょうずっ」
「たぶん、なにか生ものが――いや」ここで言葉を濁してどうなる? あとで余計に怖がらせるだけだ。「死体が載ってた……っぽい、シミがある。あと、臭う」
「…………」陽介は青くなった。
「…………」千枝は白くなった。
「その、推測だけど、形からして、たぶん、ひとの」
「……え、いつもの冗談?」
「たぶん、この三人のなかでおれが一番、そうあって欲しいって思ってる。自信ある」
「またまたァ……」
「見に行ってみるといいよ。ここの番してるから」
 陽介も千枝も半信半疑の様子で、お互い譲り合いながら部屋に入っていった。
「……なにここ」
「なんっだコレ……気持ちわり……」
「めちゃめちゃ恨まれてるってこと? これ」
「わざわざ貼るとか、ちっとおかしくね?」
「ね……これ」
「あからさまにマズい配置だよな……」
「これスカーフじゃない?」
「かね」
「…………」
 ふたりの会話が聞こえなくなった。たぶんアレを見ているのだろう。
「ちょっと、行ってよ」
「行きたきゃお前いけよ」
「あんた男でしょ」
「おまえ女だっけ」
「それもか弱いね。――あ、ちょ、マジで行くんだ花村」
「行っても行かなくても文句かよ……うげ……」
「うわ花村ァ……止しなって……」
「あれ、うっわ……」
「バカ! うあ……アンタってば……」
 途切れとぎれの不穏な遣り取りを経たあと、ふたりは神妙に玄関へ戻ってきた。陽介がなにか小さなものを摘んでいる。
「お帰り。それは」
「なんだと思う?」悠の掌にそれを落としながら、「アクセだとは思うけど」
「……カフス、じゃないな。ピアス?」
 たぶんガーネットかなにか、球形の赤い石がマルタ十字をあしらった冠を被っていて、それの周りを金色の土星の輪のようなものが廻るという、古典的なのか未来的なのかよくわからない意匠である。大きさは指先ほど、いずれにせよアクセサリーには違いない。
「これ、どこで?」
「あのベッドの枕元」
「枕元! 勇敢だな花村、後光が差して見える」
「まーな。誰かさんは震えてたけど」
「アンタだって震えてたでしょ……ね、それ見せて」
 千枝はそれを携帯のバックライトで照らして「へー」とか「キレーだね」とか言いながらしばらく矯めつ眇めつしていたが、じき仰け反って、
「これ……血じゃん!」
 あわてて悠の手元に突き返してきた。
「血?」
「そこ、その十字架の上んとこ」
 確かに言われたところに、代赭色の染みのようなもののこびり付いているのが見える。
「血かな、これ」
 鼻に近づけてみても臭いはしない。
(ベッドのシミの一部じゃないだろうな……)
「それさ、遺留品ってやつかな」
「どうだろう。ほかに――」
 と、悠の言いかけたその時、なんの前触れもなくいきなり玄関扉がコンコンと鳴った。悠は慌ててドアノブに齧り付いた。
「……ごめんくださいクマー」
 次いでハイトーンの、のんびりしたような、怯えたような声が訪ないを入れて来る。
(人? なんだ? やけに弱々しいな)
「誰だ!」
「クマクマ。えーとお邪魔しますクマ……」
 ふたたびドアノブがガチャガチャ回る。
「誰だよお前!」
「クマクマー」
「くっ、クマクマってなに! あたしたちになんの用よォ!」
「バカ、煮たり焼いたりする以外の用があんのかよ!」
「花村、覗き穴」
「お、俺がァ?」
「さっきの勇気はどうした!」
「開けるクマー、ここにいるとあぶないクマよ」
「誰のせいだよ! んなこたもうわかってんだよ!」
「……この扉を開けるともっと危なくなるかもしれない。そうならない保証は?」 
「ほしょう? 調味料クマ?」
「いま調味料って言ったァ!」千枝は錯乱しかけている。「生じゃないんだ、料理されるんだ!」
「花村、代われ」
「う、ええー……?」
「おれが見る。早く!」
 声の弱々しさに、というより、その内容の多分に人間的なことが悠を勇気づけた。少し怪しくても言葉が通じるし、いちおう礼儀を心得ているし、調味料などと言っているからには、
(ほとんど間違いなく人間だ、向こうのやつは)
 ここの住人なのか、それとも悠たちと似た境涯にあるのか。ひょっとしたら出口を知っているかも知れない! 恐怖よりも多く希望の見えることを期待して、悠は覗き穴に眼を当てた。
「…………」
「鳴上? おい」
「ねえ、なに見えるの?」
「開ーけーてークーマー」
「……えーと、クマクマ?」悠は扉をノックし返した。「クマクマ、聞こえるか」
「クマクマ。クマクマじゃなくてクマクマ」
「……なに言ってんのコイツ」
「こっちを向いたまま、ゆっくり後ろに下がれ」
「なして?」
「言うとおりにしたら開ける」
「おい!」
「いいから」
 クマクマとやらはあんがい素直に後退った。
(なんだこいつは……でもどこかで見たような……)
 玄関の前に立っていたのは、悠の目の高さくらいもある着ぐるみであった。なにかの動物を子供向けにデフォルメしたような、どこの遊園地にも一体はいそうな、カラフルなやつ。首のないずんぐりした卵形、というより樽型の胴体から短い手足が生えている。部屋に入る間際に見たのはどうもこれらしい。
「下がったクマよ」
「その場でゆっくり回れ」
「……注文おおいクマねー」
 クマクマは言われたとおりにした。 
「回ったクマ」
「こっちに背中を向けて、伏せろ」
 これにはさすがにクマクマもムッときたようで、「なんでそんなことしなきゃいけないクマ!」と短い足でぴこぴこ地団駄を踏みだした。
「じゃ、開けない」
「クマは助けに来たクマよ、ずっと後を追ってたクマ!」着ぐるみが胸を張った、ような気がした。「ま、キミたちだれも気づかなかったみたいだクマけど?」
「後をつけてきてるのは知ってた。ずいぶんご苦労だったな」
「なあ鳴上、なにがいるんだよ」
「キケンそうじゃないの?」
「もうすぐ開けられるから、そのとき見てみるといい――クマクマ」
「クーマ! クマクマじゃないクマ! クマ、クマ!」
「クマ、大変だったろう」
「そりゃもー大変だったクマ! いつ…………が出てくるか気が気じゃなかったクマ!」
(シャドウ? まさか)クマの言葉は天啓のように響いた。(あの巨人のことか?)
「なにが出てくるって?」と、花村。
「んや、聞こえんかった」と、千枝。
「シャドウ、って聞こえたけど」
「シャドウ?」
「かげ?」
「まあ、それはともかく――クマ、それだけ大変な思いをしたんなら、きっと最後までやり遂げたいよな」
「もちろんクマ」
「あと一息だぞ、あとは後ろ向いて伏せれば達成だ。どうして迷う必要がある?」
「……そークマね、キミの言うとおりクマ」
 クマはほがらかに得心して、その場にゴロリと伏せた。言うだけ言ってみれば意外にもあっさり引っかかってしまう。あまりあたまは良くないようである。
「よし、花村あけてくれ。三人で囲む」
「いいのかよ……マジで?」
「少なくとも身体の外側に危険なものはついていない。次は内側だ」
「外側?」
「内側?」
「ほら」
 ――扉の向こうには丸々とした着ぐるみが一体、こちらに足を向けて伏せていた、というより転がっていた。かなり安定が悪いようで、左右にコロコロ落ち着きなく振れている様は、ちょっと壊れた起き上り小法師みたようだ。
「なにコレ……サル、じゃない、クマ?」
「なんなんだこいつ……」
「それはこっちのセリフクマ。キミらこそなんなんだクマ?」なおも転がりながらクマが言った。「ところでちょっと起こして欲しいクマ……立ち上がれんクマァ……!」
「…………」
「……弱そ」
「花村、里中、押さえ付けて」
 悠は着ぐるみの頭部に膝でのし掛かると、そこと胴体を接合するファスナーに手をかけた。
「これを脱がせる」
「な、なにするクマ! やめれー!」
「おとなしくしろ」
「な、鳴上、やめね? コイツどう見ても危なくねーって」
「あたしもそう思う。なんか、拍子抜け? こんなの怖がってたとかわれながらちょっと……」
「たっけてー! ひどいクマー!」クマがあわれっぽい声で泣き出した。涙は流れなかったが。「クマ助けようと思って来たのにあんまりクマァー!」
「なんか……可哀想になってきたんだけど」
「なあ、やめてやろって」
「これは見かけだけで、中になにか潜んでるかもしれない」
「や、疑いすぎだって」
「なんか助けに来たとか言ってるしさ……やめたげよーよ」
(おお、なんという善良なクラスメートたち!)悠は内心、苦笑を禁じ得なかった。(いまこいつの中から這い出てきた怪物に食い殺されても、このふたりだけは天国へ行けるだろうな。ここが異常な世界だってまだわかってないのか? さんざん恐ろしい目に遭っておいて!)
「ふたりとも、それで安心してこれに背中を向けて、そのあとあたまを食いちぎられたり心臓を抜き取られたりしない保証があるのか」
「……ちょっとビョーキ入ってね? それ」
「いくらなんでもそんなこと……ね、クマだっけ、あんたそんなことしないよね」
「するわけないクマ! 起こしてけれー!」
「するつもりでもそう言うだろ」
 陽介も千枝も少しく眉根を寄せて、悠を懐疑的に見下ろしている。この転校生の別の一面を見た――貌にありありとそう書いてある。
(いや……仕方ない、このふたりはあの巨人を知らないんだ、おれより危機感の薄いのは仕方ない)
 悠は密かにため息をついた。
「ひとりでやるよ、手伝いはいい」
「キ、キミたち! どーやってここに来たクマ!」
「プラズマテレビのパネルを通って来たんだ、ありがちだろ。じっとしてろ」
「帰り道がわからないクマ! そうクマ?」
「え?」
「……どうしてそう思う」
「キミたち、ずっとあっち行ったりこっち行ったりしてたクマ。後ろの女の子は泣いてたクマ」
「それで、おまえはそれを知ってる?」
「知ってるクマ。でも――こんなして地面に転がされてたら忘れるかもしれんクマー?」
「本当なのか?」
「クマはウソつかんクマ。ウソついたらムラハチにされてオオカミに食べられるクマ」
「鳴上!」
(……こいつは無力だ、今のところ……今まで)
 見たところ危険そうな器官や道具を持っているわけではない。どこかとぼけていてあまりあたまも回りそうにない。性格も攻撃的というわけではない。正直、悠も言うほどこの着ぐるみに脅威を感じているわけではない。安心材料はそれなりにあったが、だからといってそれがそのままこの着ぐるみの中身を説明するわけではない。
(でもこの着ぐるみの心証を損ねて、もしこいつの知っているかもしれない脱出の糸口を逃すことがあったら、それも困る……)
「鳴上くん」
「……ごめん、クマ、悪かった」悠はたちまち掌を返した。「ちょっと動転してた、でももう冷静になったから」
 優しく言って、クマの手を取って助け起こしてやる。着ぐるみは驚くほど軽い。それこそ中身が入っていないかのように。
「むむむ……まあ、いいクマ」クマは寛大だった。「クマは紳士的なクマクマ、許してあげるクマ」
「改めてなんだけど、さ」と、陽介。「お前、なにもんなの?」
「クマはクマクマ。さっきから言ってるでしょーに」
「そーじゃなくって、えと、あんた名前は?」
「なまえ?」クマは小首を傾げた、というより左側に身体を傾いだ。「なまえなんかないクマ。クマはクマクマ。だからなまえはクマクマ」
「クマっつか、パンダ?」陽介も小首を傾げた。「このでかくて垂れた眼とか、パンダっぽくね?」
「クマクマ。ノーパンダ、イエスクマクマ。あっノーパンとかヘンなこと言わせないでほしいクマ! でもクマパンツはいてないクマー」
「あっそ……」
「……クマ、さっきシャドウがどうとか言ってたけど」
「あっ、忘れてたクマ!」クマは飛び上がった。「ついてくるクマ、はやく戻らないと!」
「なんで」
「いーから来るクマ!」
 今はこの件に関して質問を受け付けるつもりはないようで、クマはそれだけ言ってさっさと歩き出した。
(怪しい……)
「おい鳴上」
「あいつ行っちゃうよ」
「いや、本当について行っていいのかなって、さ」
「つったってほかにどうしようも……」
「大丈夫だって、あいつ弱そうだしさ。もしなんかヘンなことしそうになったらあたしのシャオリンスタイルを――」
「来ないクマー?」クマが立ち止まってちらと振り返った。「後悔するクマ。帰れなくなってももうしらんクマよ」
「鳴上?」
「……わかった、行くよ。じゃあ案内して」言って、悠は後ろのふたりを制止した。「ふたりともちょっとストップ。見失わない程度に離れておこう」
 先導するクマがじゅうぶん離れて、階段を下り始めるのを見届けてから、三人はあらためて歩き始めた。万一に備えて距離を取っておいたほうがよかろう。
(仕方ない、もうなるようになれだ、ルビコン川でも鮫川でも三途の川でもなんでも超えてやる!)悠は腹をくくった。(往こうエアートゥルそして神々に示すのだクォー・デーオールム・オステンター! 采は投げられた……)
 あの着ぐるみが三人をどこへ連れて行く気であるにせよ、もはやこうなっては従容と付き従うよりほかない。出口か、巣穴か、それともまないたの上か、彼の言う「帰る」がここの方言でなにかとんでもない意味を持っていたりしないことを祈るばかりだ。
 ため息が漏れる。
「お前って大胆なんだか慎重なんだかわかんないよな」陽介はちょっと呆れ気味である。「こんなとこじゃそれくらいでもいいのかもしらんけど……」
「あのクマそんなに怪しいかなァ……なんか気になるの?」
「……ふたりとも剛胆だな、頼もしいよ」ひとの気も知らないで!「プラズマテレビの中にいる喋る着ぐるみなんて想像の埒外だ。おれくらい神経が細いと気になって仕方ない」
「あいつ、ここに住んでんのかな」
「なに食べてるんだろ」
「はは、お前気になるのまずそこなんだ」
「うっさい」
(人肉じゃなきゃいいよな)
 ふたりはもういつもの調子を取り戻していた。背後を慕う凶暴なプレデターが実は、ただのふくふくして弱そうな着ぐるみに過ぎないとわかったことで、すっかり警戒心を解いてしまっている。あるいはクマはこれを狙っていたのかもしれないのに。
「……キミたち、どーしてそんなに離れるクマ? また迷子になるクマよ」
「恥ずかしいんだよ。クマがかわいいから」
「うーん……シャイボーイズクマね。あ、アンドガールクマね」
「なあ、お前って、ここに住んでんの?」
「そークマ。ずーっとひとりで住んでるクマ」
「ずっとひとり……ここって、ほかにひとはいないの?」
「そークマ――こっち曲がるクマ、あたまぶつけないように注意クマ」
 この伸ばした手の指先が霞むほどの濃霧も、クマの確乎たる足取りの障害にはならないらしい。これだけでもじゅうぶん怪しむに足りる。快活さを取り戻しつつあるふたりと反比例して、悠の猜疑心は尖るいっぽうであった。





[35651] ペルソナなんぞない
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2013/03/05 00:17


 クマの後を追うことほんの数分にして、悠たちは最初に落ちてきたスタジオのような広間へ戻ってきた。帰りは驚くほどあっけない道のりである。
「うっそ、あたしたちすんごい歩いたよね……」
「実際には大したことなかったのか? まあ、そのへん行ったり来たりしてたけど」
「おまけにほとんどなにも見えないんだから。クマは違うみたいだけど」
「とーちゃくー、クマ」クマの目的地はここだったようだ。「ここは安全クマ。それにしてもあぶないとこだったクマよ、あんなとこウロウロして! クマが間に合わなかったらまた――」
「つか、えーとクマ?」陽介がちょっと険を見せた。「助けに来たんならなんでもっと早く声かけなかったんだよ。ずっとつけてきてたんだろ?」
「え? えーと、えーと」
「あ、そーだよ! なにが追いかけて来てんだろって、みんなメチャクチャ怖がってたんだから!」
「いやメチャクチャ怖がってたのはお前だけ」
「いーやあんたらも怖がってた、絶対!」
「おれたちが怖がるのを見て、ひょっとして楽しんでた?」
「そんなことないクマ! ただ……」
「ただ、なんだよ」
「……こないだひとが来たとき、声かけてみたんだけど、でもそのひと驚いて逃げちゃったクマ」クマは悄然としている。「キミたちも逃げちゃうかもしれないって、思ったクマ、だから」
「ちょっと待った」と、陽介。「こないだひとが……って、俺ら以外にひととか来んのか?」
「さいきん来るようになったクマー……でも団体さんは初めてクマね」
「鳴上」
「……クマ、このあいだ来たひとって、男? 女?」
「たぶん女のひとクマ――キミたちちょっとここで待ってるクマ」
 クマはそう言い置くと、霧の向こうへ歩いて行ってしまった。
「行っちゃった……けど」
「茶でも淹れに行ったんじゃね」
「包丁とりに行ったのかもな」
「ヘンなこと言わんでよ。ね、あたしたち、帰れるのかな」
「これで帰れなきゃどうにも……なあ、鳴上、さっきのピアスって」
「言いたいことはわかる、その可能性はある。けどそれ以前に、どういう経路でここにひとが来たんだろう」
「やっぱテレビから?」
「んん……でも、そんな人間が何人も出てきたら話題になりそうなもんだけど」
「……何人もいる必要はないんじゃない?」千枝が小首を傾げた。「とりあえずひとりいれば。鳴上くんみたいに」
「そうしてツアーよろしく一緒に入るわけか、その鳴上くんみたいに」この場合は漂流だろうか。「クマは団体が初めてだって言ってけど」
「えーと、そうじゃなくてさ、一緒に入るんじゃなくて、その入れるひとだけ入らないでさ、そうじゃないひとだけ入ってもらうっていうか、入れるっていうか……できるよね、たぶん」
 三人の間に冷たい沈黙が訪れた。千枝も言い終わる前に「その」可能性に思い当たったようだ。
「つまり、鳴上みたいなやつがもうひとりいて、そいつが誰かをテレビの中に押し込んでる……ってことか?」
(まさかあの巨人が?)
 おおいにあり得る。じっさいに押し込まれかけたのだから。
(でも、もしそうなら、あいつは外に出られるってことになる。いや、中に入れる、になるのか? ダメだ、情報が曖昧すぎる)
「あのー、そんなマジにならんでね……思いつきだからね……当てにならんからね……」
 三人の黙りがちになったところで、クマがなにか台車に乗った大きなものをゴロゴロ押しながら戻ってきた。
「……テレビ? あれ」
「重かったクマー」
 クマの持ってきた、というより搬送してきたそれは、一瞥したかぎりテレビのようではあった。
 古式ゆかしいなどというレベルをはるかに超越した、まさに博物館級の「電波受像機」といったレトロな外観で、大人が三、四人も入ってしまえるほどの大きさがある。一辺が三メートル弱もある、ほぼ正方形の頑丈そうなフレーム、天板に置かれた長大なV字型アンテナ、そして画面下に表記された冗談のような「SHARP」の文字――シャープがこれほど巨大かつ僅少なニーズをも漏らさない企業だったとは。
「なんつーベタすぎるデザイン……いまどき売ってねーだろこんなの」
「大きさには突っ込まんのね。にしてもなんなのコレ、何インチあんのかな」
「お前もって帰れば? でかいの欲しかったんだろ」
「でかすぎだっつの。座るとこなくなるし」
「いくらなんでも大きすぎる……クマ」
「これで帰れるクマよ、たぶん」
「クマ、これ、どこで手に入れた?」
「んー知らんクマ。もともとここにあった、と、思うクマ、たぶん」
「……歯切れ悪いな」
「まあいいじゃん、今はとにかく帰って――クマ、これどーやって使うんだ?」
「画面から入るクマ」
「……ちょ、入れねーんだけど」
「あたしもだ……」
 どうやら向こうから入れなかった人間は、こちらからも入れないらしい。やはり来たときと同様「ツアー」の必要があるのだ。陽介も千枝もじき気付いたようで、気の済むまでブラウン管をペタペタ触ったあとは、騒ぐでもなく大人しく戻ってきた。
「ヘンクマね。なんで入れんクマ?」
「じゃ鳴上先生、お願いしまーす」
「ささ、センセー、ズバッとやっちゃってください」
 現金なふたりである。
「……あのさ、ふたりとも」
「え?」
「たとえばパリとかローマとかベルリンとか、まあ場所はどこでもいいんだけどさ」
「うん」
「そういう外国の、右も左もわからないようなところで、忽然と添乗員が消えたらさ……ツアー客ってどうするんだろう」
「……鳴上くん?」
「急に興味が湧いてきてさ、ちょっと実験してみようかなって、いまふっと思ったんだ……」
「く、黒い! なに笑ってんの黒いってお前! バカなこと考えてんじゃ……!」
「センセー! 見捨てないでくだせえましー!」
「冗談だよ――じゃあ、クマ、行くよ。助けてくれてありがとう」
「さいならクマ、もう来ちゃダメクマよ」
 こんな科白とは裏腹に、クマはあきらかに名残惜しげに見えた。着ぐるみの上からでもそうとわかるほど寂しそうにしている。
(もちろん、もう来ないよ。このふたりを連れては)
 クマはまず確実にふつうの人間ではない。いっぽうで、どうやら危険ではなく、それどころか協力的ですらある。案内人としてうってつけであるし、この世界からの帰り道も確保できた今、こちらの世界への興味を諦める理由がどこにあるだろうか? もちろん悠は近いうちにまた来るつもりだった。この着ぐるみならあるいは、あの巨人についてなにか知っているかもしれない。
「じゃあ、まずはおれが――」
「あっ、待った鳴上」陽介が割り込んだ。「これ誰かに見られるかもしれないんだよな、向こう側でたとき」
「あ、そうか。客がいるかもしれないのか」
「売場ガラガラだったじゃん、大丈夫でしょ」
「家電売場に繋がってるって保証はねーんだぞ。そもそもジュネスですらないかもしれんし、家電売場でたって葛西さん戻って来てっかもしれんし」
「……じゃ、こうしてみようか」
 昨夜家でやったように、ブラウン管の表面に指でちょっと触れると、果たして微かな波紋が起こった。これでこの画面は指が接触している限り「フリーパス」のはずである。
「この状態で携帯のカメラをこうやって」
 悠は携帯を撮影モードにして、バックパネルのカメラレンズを慎重に画面に当てた。
「おおー……」
「鳴上くんあったまいー」
「うまくいった。ものは使いようだな」
 狙いどおり、携帯の画面にはジュネスの店内が映し出された。おそらく向こう側からカメラのレンズと周辺部が見えてしまうのだろうが、偶然そこを注視されでもしなければまず気付かれまい。とつぜん人間の顔が浮かび上がるよりよほど穏当だろう。
「家電売場だな、ここ。テレビあるし」と、陽介。「はは、葛西さんまだいねーっぽいな。タバコ何メートル吸ってんだあのひと」
「じゃ、まずはおれが向こうへ行って、大丈夫なようなら手を突っ込むから」
「鳴上、妙なこと考えんなよ」
「妙って」
「ほら、さっきツアーがどうとか言ってたじゃん」
「……ただの冗談だよ、さっきのは」悠は不快気に眉を顰めた。「そう言ったろ」
「いや、あれ? えーと悪かった……聞かなかったことにして」
「あー鳴上くん怒らせた」
「うっせ」
 もう一度むこうの様子を確かめたあと、悠はテレビの天板に手をかけて、フレームを跨ぐようにして画面に足を突っ込んだ。向こうのテレビ台を踏まないよう回避しながら、つま先で床面を探す。ちょっと辛い姿勢である。
(これ、里中は難しいかも)
 悠とそう変わらない陽介はともかく、背の低い千枝などは相対的に脚も短いからして、手助けなしに跨ごうとすればかなりの骨だろう。
「……あのさ、ふたりとも」
 画面をくぐる間際、悠は満面の笑顔で切り出した。
「人間って飲まず食わずでどのくらい生きてられるんだろう? 急に興味が湧いてきてさ――」






 玄関の沓脱石にくたびれた革靴が置いてある。脇に脱ぎ散らかされた小さな靴とは対照的な、差し金で測ったような、主人の気質を思わせる脱ぎ方だ。
 遼太郎が帰ってきているのである。
(叔父さん、今日は早いんだ)
 早く仕事が終わったのだろうか。
「ただいま」
 茶の間にはすでに堂島父娘が向かい合って座っていた。昨日の晩の残りをふたりで食べていたようだ。
「おかえいなはい!」なにかむしゃむしゃ遣りながら菜々子が言った。
「菜々子たべてから喋りなさい」遼太郎が缶ビールを振り上げた。「おうお帰り。昨日のこれ食っちまったが、悪かったか?」
「それは叔父さんのだよ、もちろん食べてくれなきゃ」トマトはパスタかなにかに使おう。「六時過ぎか……」
「今日は遅いんだな。どっか行って来たのか」
「んん、まあね」
(ちょっといろいろあってテレビの中にね――なんて言ったらどんな顔するかな、叔父さん。どうせ冗談だと思われるだろうけど)どう話したところで信じまいし、こんな与太話を話し方次第で信じなどするなら、それこそ叔父の精神のために憂慮すべき事態である。(ひょっとしたら晴れて十七歳認定してもらえるかも……いやいや、七歳に格下げされて明日から菜々子ちゃんと同じクラスって可能性もある!)
「なんだニヤニヤして。デートか」
「食品売場の試食コーナーでね」両手のレジ袋を示して、「やっぱりふたり相手は疲れるな。歳かな」
「あははお前いくつだよ! 俺の立つ瀬ねえぞったく」
 遼太郎は機嫌がよさそうだ。酒が入るとこうなるのだろうか。
「メシ買ってきたのか?」
「んん。叔父さん今日は早いね」
「まあな……まあ、毎度まいど残業はたまらねえよ。たまには早く帰してくれや」
「お父さんプリンたべていい?」
「ぜんぶ食べたんなら、いいぞ」
 冷蔵庫の中には高そうなプリンが三つ、缶ビールを従えて鎮座していた。
 東京のアパートのものと比べて、堂島家の冷蔵庫はかなり大きい部類に入ったが、この父娘は豊富な容量をほとんど生かせていない。湿気た調味料、飲料、若干の冷凍食品と間食
が間借りしているほかはがらんとしている。大家は気にならないらしい、よくよく入居者に恵まれないマンションである。
(ま、あれこれ買ってきてもぜんぶ入るんだからいいか)前のアパートでは出し入れのたびに幾何学的考察を強いられたものだ。(父さんいないからってケチり過ぎなんだようちは……)
「菜々子ちゃん、プリン取る?」
「うん」菜々子が駆けてきた。「なにかってきたの? やさい? プリンみっつあるよ。スプーンはこっち」
「いろいろね、あしたあさってのごはん。ヨーグルト買ってきたよ」プリンを手渡しながら、「プリンはあとで貰うから」
「お父さんたべるー?」
「お父さんはあとでいい」と、遼太郎。「悠、買ってきたもんの代金、ちゃんと――」
「請求するよ、二割増しで」
「おお、二割増しでいいぞ」
「冗談だよ、面白くなかった?」棚からパスタパンを引き摺り出しながら、「スープ全部たべた? おれのぶんはいいから」
「たべた!」
「……お前、この調子でちょくちょくメシ作ってくれるつもりなのか?」
 茶の間から遼太郎のちょっと改まった声が飛んできた。
「マズくて食べられないって、菜々子ちゃんが言わない限りは」
「いわないよ、菜々子そんなこと」
「だがそりゃ……あんまり悪い。お前は高校生なんだし、家事やらせたせいで成績おとすようなことがあったら姉貴に顔向けできん」
「叔父さんの姉貴なら、やれることをやれるだけやれって言うよ、息子にはね。おさんどんとして使ってやってくれって言うかも」
「おさんどん。おさんどんってなあに?」
「給食のおばさんみたいなもんだよ」
「初めて聞いたぞ。お前むずかしい言葉しってんだなァ」
「難しくなんか」
「菜々子もおばさんどんできる?」
「なあ悠。メシ作ってくれるのは、正直ありがたい」
 言いながら立ち上がって、遼太郎は話ありげにダイニングまでやって来た。悠は乾麺を握ったまま料理を中断した。 
「その、な……ほんとは、俺がやらにゃならんことだ、そういうのは。保護者として」遼太郎はため息をついた。「だが俺は生来やりつけないし、いや、こんなのはただの言い訳だが……あれがやってたようにはできん。それに実際、なかなか決まった時間の取れん仕事だ、刑事ってのは。特にいまみたいに、事件の真っ最中は」
「うん」 
 遼太郎の言った「あれ」を危うく聞き逃すところだった。この場合つまり、「あれ」とは彼の亡き妻を指すのだろう。
「悠、もしお前にそのつもりがあるなら、頼めるか、メシのこと」遼太郎は菜々子のあたまに手を置いた。「もちろんお前の都合のつく日だけでいい。無理はしないで欲しい、自分のためにこんな、甥をあごで使うような無精は言わん。が、これのためだ」
 なかなか複雑な心境だろう、遼太郎の言葉は切実と逃避の綯い交ぜになったものだ。むろんいまの彼の仕事が料理を勉強するような余裕を許さないのは明白だし、じっさい今までもそうだったのだろう。が、たとえ比率として前者にウエイトの大きい事情だとしても、仮に余暇があったとして彼がただちに努力を始めるかと言えば、
(そんなことはないだろうな、きっと叔父さんはやらない。それよりはほかの、もっと率直で、じかに触れ合えるような範囲で娘と接する手段を探すだろう――でも)
 なにも悠自身、居候の義務からこんなことを始めたわけではないのだ。彼のほうでも好きでやっていることなのだし、たまさか利害が一致しただけの話である。依頼されるつもりもその必要もない。父親になったことのない悠にはむしろ、今までのままでいいと思っていなかっただけでも、遼太郎の「父親としての義務」への姿勢にある程度の理解と感心を抱いたほどだ。
 悠は菜々子の頬をかるく抓んだ。
「あーに?」
「おれも同じ気持ちなんだ、叔父さん。おれも、これのため、なんだ。叔父さんのためじゃない、ってわけじゃないけど」
「昨日今日あったばかりの従姉妹のためってのか」
「窮極的には、やっぱり自分のため、かな。菜々子ちゃんはダシ」
「だし? だしってなあに?」
 しばらく悠をじっと見つめたあと、遼太郎は「お前、本当に十七か?」と呟いた。
「さいきん知り合った親戚が言ってたんだけど、実はおれ二十七歳らしい」
「……ほんとに二十七歳かもな。いや、俺より上って可能性もある」遼太郎は笑って、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。「菜々子、悠がお前をナベでグツグツ煮るって言ってるぞ」
「ええ? そんなことしないよ、ウソだよ」菜々子はたちまち不安げになった。「しないよね?」
「叔父さん内緒に! 菜々子ちゃん逃げちゃうじゃないか」パンを火にかけながら、「そんなことしないよ。ところで菜々子ちゃん、台所でお風呂に入りたくない?」
「はいりたくない」菜々子は父親の腰に齧り付いた。
「あはは、悠きらわれたな。お前ビール飲むか?」
「……叔父さん警官じゃなかったっけ?」
「冗談だよ、面白くなかったか?――おら菜々子」娘を抱え上げながら、遼太郎は茶の間へ戻っていった。「菜々子、あとで風呂はいるか」
「はいる!」
(そういえば、おれも一緒に入ってたっけ、このくらいのころ)
  父のまだ日本にいたころ、なかんずく悠の小さかったころは毎日、こんな感じで父親にへばり付いていたものだった。というより、父が悠を手放さなかったというほうが正しいが。 
 手早くトマトスパゲッティを拵えて、悠も茶の間の団欒に合流した。
「……ものの数分しか経ってねえぞ、もうできたのか」
「反則したから。パスタ半分に折って茹でて、トマトピューレとガーリックチリオリーブオイルで和えて塩胡椒すれば、鳴上家流即席アラビアータのできあがり。五分でできる」
「すげえな……」
「いただきます」
「…………」
 菜々子がカラになったプリンの容器を握って、物欲しげに皿を見つめている。
「……菜々子ちゃん、ちょっと食べる?」
「いいの?」
「いいよ、どうぞ」
「菜々子ハラ壊すぞ」
 父親の注意もどこ吹く風で、菜々子は嬉々としてスパゲッティを食べ出した。ふたりで分けては残り物も足りなかったのだろう。
「すごくおいしい! ちょっとからい!」
「そう? よかった」悠にとってはこの言葉も「食事」のうちだ。「菜々子ちゃん食べるんなら、なにか具いれればよかったかな」
「あー……悠」
「ん、叔父さんも食べる?」
「いや、メシじゃないんだが、ちょっと聞いていいか」
「なに、改まって」
「あのな、まあ、知らんとは思うが」と、歯切れ悪く続ける。「お前の学校にな、三年生で、小西早紀って生徒がいるはずなんだが……なんでもいい、なにか聞いてないか?」
「小西……」
 昨夜のニュース映像と、放課後の遣り取りが思い出される。例のアナウンサー逆さ吊り殺人の、第一発見者だと言われていたが、
(なにか関係が?)
「知らんよな。学年違うし――」
「知ってるよ」遼太郎を遮って、「こう、ソバージュふうの、背の高い、スラッとした三年生、だよね。確か昨日テレビに出てた」
「お前、知り合いなのか」
「昨日知り合った。クラスに親しいやつがいて、その伝で」
「そうか……」
「あの、逆さ吊り事件の第一発見者だったとか」
「ああ、まあな」
「なにかあったの?」
「実は……行方がわからなくなったって、連絡があってな。うちの連中で捜してるんだが、まだ見つからない」遼太郎は重いため息をついた。「……仕事が増えるいっぽうでな。その逆さ吊りの件も収まってねえし、そこにこれだ。明日以降、勤務がかなり不規則になる。今日みたいな定時帰りはほとんどなくなるだろう」
 なるほど、先にあんな話を切り出したのも、あるいはこういう事情が手伝ったのかもしれない。娘に構ってやれなくなることのフォローを甥に頼みたかったのだろう。
「今日は学校に来てなかったみたいだけど」
「ああ、そもそも昨日、家に帰ってないらしい。どうも署から出たあと行方が」と、言ったあと、遼太郎は自嘲気味に嗤って俯いた。「……ちっと酔ったな、部外者のお前にこんなことペラペラ喋っちまって、足立みてえだ」
「仕事の……同僚のひと?」
「本庁から飛ばされてきた気の毒な若造さ。いったい切れるんだか抜けてんだかわからねえ奴でな……ま、まずお前よりは確実に歳下だな、ありゃ」
「本庁?」
「県警本部。ま、立場上、俺みてえな場末の刑事よりゃアタマ一個上だ。それが稲羽署なんかに転属されんだから左遷もいいとこ……」
「?」
「いや、なんでもない――菜々子、そんなに食っちまってよかったのか?」
 急に父親に指摘されて、今まで夢中でフォークを操っていた菜々子がハッと面を上げた。スパゲッティの皿はすでに半ばを尽いている。
「あー……」
 菜々子は痛恨の面持ちで皿を返却してきた。
「ぜんぶ食べる? いいよ」
「でも……」
「お前メシどうするんだ」
「こんなのすぐ作れるから。菜々子ちゃんも気にしなくていいよ、食べて」
 言われて、菜々子は気まずげに、それでもふたたび皿を引き寄せてもそもそ食べ始めた。
 この眺めこそなによりの珍味佳肴と言えよう。見ているだけで満たされる、というのは、じっさい誇張ではない。この愛くるしい従姉妹にふたり分の食事を与え続ければ、本当に悠自身の身をも養えるのではと本気で信じてしまいそうなほどだ。
「よかったなあ菜々子、優しいお兄ちゃんが来て」
 菜々子が食事の手を止めて、ふと面を上げた。
「…………」
「おいしい? 菜々子ちゃん」
「……またちゃんっていった」 
 菜々子はちょっと黙ったあと、気難しげにぽつんと言った。





「諸岡先生」
 諸岡教諭はすぐに反応せず、少し歩いたあと訝しげに振り返った。その面に驚きの過ぎるのが見える。
 いつもの通学路、鮫川河川敷の月桂樹並木に特徴的な後ろ姿を見つけたとき、悠は声をかけるのを少しくためらった。登校初日に非礼を働いているという負い目、というより、悠と同じに登校する生徒たちから悉く無視されているという、その異様さのせいである。誰も挨拶せず、彼のほうでもそれが当たり前のように平然としているのだ。
「おはようございます」
「おはよう」諸岡教諭は少し迷惑そうに見えた。
「……いつもここを通るんですか?」
「いや、ふだん通る道は警察が封鎖してたんだ。またなんかあったんだろう」
「そうですか」
「…………」
「…………」
 あらかじめ切り出す科白を用意してから話しかければよかったものを、あとに続ける言葉を探しあぐねて悠は黙ってしまった。いったい話しかけられてうまく切り返すことにはちょっとした自信を持つ彼なのだが、ひとに話しかけるほうは得手でないのだった。
「その、先生、先日は失礼しました」悠は結局、いちばん単純なやり方を選んだ。「少しやり過ぎました。もっと早く謝るつもりだったんですが」
「べつに構わんよ」諸岡教諭はとくに気にしたふうを見せなかった。「ただ今後はやめてくれ、ワシも困るんだ、ああいうことをされると」
「申し訳ありませんでした」
「お前は変な奴だな」言って、諸岡教諭が笑顔を見せた。「周りを見てみろ、みんなお前を見てる。誤解されるからワシに話しかけんほうがいいぞ」
「されるのは構いませんが」
「せんが?」
「なんというか、したくないもので」
「なにを」
「先生は、その、もし答えたくないなら構わないんですが」ちょっと声を落として、「演じているんですか?」
「演じる?」
「暴君を、です」
 諸岡教諭は答えずに、黙ったまま悠を従えて歩き続けた。
(地雷踏んだ、かな)
「鳴上」
 かなり経ったあと、彼はようやく口を開いた。登校初日に陽介に轢かれかけた交差点の辺りまで、彼は黙りこくってじっと考え込んでいたのだった。
「モロキンはアポステリオリな人格的側面だ、と、言ってもわからんだろうな」
 諸岡教諭の面に苦笑が浮かんだ。我ながらバカなことを――顔にそう書いてある。
「…………」
「いい、忘れろ」
「つまり」
「つまり?」
「諸岡金四郎教諭はアプリオリな人格である、ということでしょうか」
「……というと?」
「演じている、というのはニュアンスが違ったようです」
 諸岡教諭はちょっとおどけたように片眉を上げた。
「モロキンは、諸岡先生の接してきた外界が要求したもうひとつの顔、ということでしょうか」
「人間に顔がふたつもみっつもあるものか」諸岡教諭の面に好意的な笑みが浮かぶ。「本当に変な奴だ、お前は」
「十回留年してますから」
「十回で利くのか? なんにせよ変な高校生だ。なんだ、哲学でも囓ってるのか」
「東京の高校生は留年すると哲学をやるんですよ」
「高校生がアプリオリなんぞとこざかしい、変わった奴だ」
「よく言われます」
「ほれ、もう学校が近い。ワシから離れろ。モテなくなるぞ」
「はい――先生」
「ふん?」
「話しかけてよかったですよ、先生」悠は笑って、諸岡教諭の顔を指さした。「先生の仮面ペルソナの、その下の人格を確認できた。半ばは思ってた通りでした」
「鳴上」
 そのまま追い抜いていこうとすると、諸岡教諭に鋭く呼び止められた。なんとなく聞き捨てならんといった雰囲気である。
「はい」
「人間の人格だの精神だのに仮面ペルソナなんぞない。側面とは言ったが、ワシはそういうつもりで言ったんじゃない」
「はい」
「ワシはぶん殴られたんだ、右の頬っ面を。その傷は痛むが、必要なのさ。腹立たしいが」
「…………」
「チャイム鳴るぞ、もう行け。ワシよりあとに教室に入ったらお前に絡まにゃならん。それは御免だ」
「はい、では」
 悠はかるくあたまを下げて辞去した。
(ぶん殴られた……か)
 まさか直接的な意味ではあるまい。とすれば、悠の推測は当たらずといえども遠からず、といったところか。もっとも推測できたところで、あえて努めて二面性を発揮しようとする彼の、あの奇矯なふるまいに説明をつけるのは難しかったが。
(あれが先生の哲学だとしたらずいぶん変わってる、というより、歪んでる)
 ――校門の門碑の前には陽介が立っていた。
「よっ、おはよ! あんまり遅いから休みかと思ったぜ」
 人待ち顔が悠を見つけて手を上げる。彼を待っていたのだろう、もちろん、昨日のあの話をするために。
「ちょっと先生と話してた」
「へえ、誰」
「あのひと」悠は坂の下を指さした。「諸岡先生」
「うげ、物好き過ぎんだろお前、モロって……」
「もうチャイム鳴るぞ、先いくから」
「あっと、まあ待てってゆっくり行こうぜ、まだ十分ちょいある」と、陽介。「いや昨日はなかなか眠れなかったわ、そんで例のテレビの話だけど――」
「花村、その話は学校おわってからにしよう」陽介を遮って、「誰に聞かれるかわからないし、突っ込まれても話し辛くなる」
「誰も信じねーってこんな話」
「……おれ以外に最低ひとりはいるらしい、例のテレビに入れるやつが、この学校にいるかも知れないんだぞ」
「あー……」
「わかったら駆け足。諸岡先生に絡まれるぞ」
「お前さ、ちなみに昨日マヨナカテレビって――」
「その手には乗らない。学校終わってからゆっくり話せるだろ」
「へーへーわかりましたよ……あーあこれじゃ気になって勉強なんかできねーよ」
「不思議だな、気にならなかったらできるみたいに聞こえる」 





[35651] でも可能性あるだろ?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:34



(叔父さん、今ごろなにしてるんだろう)
 課業六時間目、午後一番の眠気も覚めはじめる時間帯である。細井教諭の白楽天についての講義をなかば聞き流しながら、悠は頬杖をついて朝方のことを思い出していた。
 腕時計は二時半を示している。
 けさ遼太郎が慌ただしく家を出て行ったのは、五時前ごろ、朝まだきの薄暗い時刻である。たまたま眠りの浅かったところに物音を聞いて、用足しがてら階下に降りてみると、ちょうど身支度を調えた彼が立ったままコーヒーを啜っているところだった。
「起きたか、早えな」
「……早いのはお互い様。どうしたの」
「呼び出しがあった。今日帰れるかどうかわからん」遼太郎は飲みさしのコーヒーを流しに捨ててそう言った。「じゃあな、もう行く。菜々子を頼む」
 朝の会話は実にこれだけである。
(ずいぶん急かされてたみたいだったけど、ゆうべ話してた件と関係あるのかな。そういえば諸岡先生も警察がどうとか――)
 ふと、なにかが椅子の背もたれを叩くのを感じて、悠は半身を捻って陽介に向き合った。当の陽介といえば小さく首を振って、たぶんそれで椅子を叩いていたのだろう、右手のシャープペンシルでしきりに悠の背中の辺りを指し示している。
(……付箋?)
 見れば、椅子の背もたれに付箋紙が貼り付けてある。
『あのピアスはヴィヴィアンウェストウッドっていうらしい。お前今持ってる?』
(あのピアス。あのピアスって、あれのことか?)
 例の陽介の戦利品はあのときのまま、ティッシュに包んで堂島家の仏壇の裏に隠してある。とても持ち歩く気にはなれない、いわくつきなのは明らかなのだ。
 付箋に眼を落としている間にまた一枚。
『メシの時大谷のサイフに同じようなのがついてたから聞いた』
(大谷、大谷、誰だっけ……あっ、あのキングサイズか。確かに丸太みたいなウェストだ)
 正面を向こうとするとまたコツコツ遣り出す。
『聞いておどろけ、なんと山野アナがそのブランド愛用してたんだと! 大谷情報。おれもさっきブログ確認済み!』
 思わず後ろを振り向くと、陽介の確信に満ちた眼に迎えられた。左手のスマートフォンを振りふり、口だけで「ブログ、ブログ」と繰り返している。
『ビビッと来たね。これってあたりじゃね?』
(なにを言い出すかと思えば……本気か?)
 可能性はないでもなかろうが、あまりにも短絡的に過ぎる。
『その話は学校終わってからって朝言ったぞ』
『話してないじゃん。書いてるだけ』
(気になって仕方ないんだな。その熱意を少しでも授業に向ければいいのに……)
 たまたま得た大谷情報とやらのせいで推測をたくましくしたあげく、この勇み足を披陳するのを我慢できなくなったらしい。陽介は人の違ったように生き生きとしていた。
『授業に集中。あと少しだろ』
『あと少しならいいだろ。お前どう思う?』
「…………」
『どう思うって。答えるまでおれはお前のイスにメモ貼り続ける』 
 ため息が漏れた。
『山野アナが愛用していて、あのベッドに同じブランドのものがあったから、そうだと言いたい?』  
『ドンピシャだろ?』
『大谷の妹とか姉とかの可能性は?』
『なんで大谷が出てくる』
『その通りだよ。なんで山野アナが出てくる』
『山野アナの愛用してるピアスがあの世界のあの部屋にあったから』
『山野アナの愛用しているブランドのピアスだ。ついでに大谷も、ひょっとしたら彼女の姉妹も愛用してる。山野アナの持ち物とどうしてわかる』
『山野アナは死んでる。あのベッドは死体が載ってた。そこにあった遺留品だぞ』
『山野アナは死んでる、だけあってる。死体が載ってたなんてただの推測で、具体的な根拠なんてない。あのベッドの染みの由来は素人の判断にあまる』悠はここまで書いたあと、平行してノートを写す作業を仕方なく諦めた。『あのピアスは遺留品かもしれないけど、犯人が残した可能性だってある。つけ加えれば、大谷の姉妹でも、そのブランドの愛好者でも誰でもいいけど、そのうちの誰かが最近死んでいないなんて保証もない』
『でも可能性あるだろ?』
『この世のヴィヴィアンウェストウッドファンの全てに備わる可能性だぞ。なにか特定の事情を推察しうるような規模の話じゃない』
『この世は言い過ぎだろ。せいぜい八十稲羽くらいじゃないか』
『あの世界が八十稲羽にだけ繋がっているとは限らない』
『じゃあ全然関係ないってのか?』
『もちろん大いに関係ある。大谷の姉妹と同じくらいには』いいかげん指が疲れてきた。『この話は後にしよう。今は授業に集中!』
 ――やっと後ろから小突かれなくなったと思ったら、今度は隣からにゅっと腕が伸びてきて、悠の手の甲に付箋紙を貼っていった。千枝である。
『なんの話? きのうのでしょ?』
(こっちからも来た……) 
 朝からひと言もこの話題に触れないのでついうっかりしていたが、口止めの必要な人間は隣にもいたのだった。
『家電の話』
『どんだけ家電好きよ! ぜったいウソだ!』
『授業に集中』
『できませーん』
 ため息が漏れた。
『未覚池塘春草夢階前梧葉已秋風』
 隣でくすっと笑う声が聞こえる。
『これ読めないんですけどどういう意味?』
(無視しよう。面白がってるだけだ)
『鳴上くんも読めないんだ』
 また背もたれがコツコツ鳴る。
『お前らなに話してんの? 今日ジュネス行く?』
『花村なんて?』
「…………」
 消しゴムのカスが飛んできた。
『なんだよームシせんでよー』
『ジュネス行こうって言ってる。授業終わってから話そう』
『どうする? 来いよ。今の話も聞きたい。里中にも聞いて。もう一回テレビの中行ったりする? というか行かない?』
(……まだ懲りてないんだなコイツ)
 この不埒な提案は握り潰してポケットに突っ込んだ。
『いまなんて? 鳴上くんはどうする?』
『真面目に授業を受ける』
 千枝は猛然と消しゴムを擦り始めた。
『行かない。里中は?』
『行こうよ。雪子も呼ぶから。来るかわからないけど』
(そういえばきょう見てないな、天城。病欠かな。きのう顔色わるかったけど)
『里中は行くみたい。俺は行かない』
『行かないとか言ってどうせ来るんだろ? 来いって』
『花村なんて? テレビの中はパスね。でもちょっと行ってみたかったりして』
(悪循環だな、なんとか――)
「じゃ、里中っち」
「へ……はいっ」
 いきなり教壇の細井教諭に指名されて、千枝がバネ仕掛けの人形よろしく立ち上がった。あれだけ集中して「メール」を書いていたのだから完全な不意打ちだろう。細井教諭に礼を言うべきか、それとも背中から刺された千枝にお悔やみを言うべきか。
(だから言ったのに……)
「一生懸命ノート取ってるみたいやし、わかるやろ、これ」細井教諭は満面の笑顔である。「これ、読んでみて」
 彼がポインターで示した黒板の隅には、
 
 盍在学堂学
 雖其言不楽
 猶不可不聞

 とある。が、あってしかるべき訓読点がない。
(いきなり白文って、これ東京よりレベル高いぞ。里中読めるのか?)
「えーと、えーと、あれ」
 千枝は苦し紛れに「一生懸命」取っていたノートを捲りだした。どうやら彼女は読めないようだ。が、それがもっぱら彼女自身の怠慢によるものだとしたら、
(ここの生徒はちょっとした白文くらいパッと読んでしまうのか? いや、国語だけじゃない、ひょっとしたら他の教科だって)
 たかだか山奥のド田舎高校だなどと、自分は少々侮っていたのかも――千枝に見せるカンニングペーパーを書き殴りながら、悠は自分自身しらずに暖めていたかもしれない「東京の学校から来た」という驕りを厳しく自戒した。そうとも、床が板きれでできているからといって、その上で勉強している人間の学力が低いなどということにはならないのだ!
「んー、わからへんかなあ、里中っちえらい集中してたみたいやったし、読める思たんやけどなー」
「えーと……え、な、なんぞがくどうにありてまなばざる、そのげんのたのしからずといえども、なおきかざるべからず……?」
「おおっ、凄っ!」
 二組の生徒ほぼ全てが「わかりません」を確信していたであろうだけに、この千枝の回答はちょっとしたどよめきを呼んだ。
 イヤな予感がする。
「里中っちこれ読めたんや、わー先生びっくりした。かなり凄いで、それ」
(しまった……!)
 細井教諭は拍手しながらじっと悠のほうを見ている。いまほど答えを見せたのがバレている、だけではない。
「白文読み下しなんて勉強してへんはずなんやけど、独学してたんや、えっらいわあー」
「え? ええっと」
「……ごめん里中、罠だった」 
 それも勝手に深読みして設置した、手製の地雷である。いまのは明らかに余計な手出しだった。黙ってわからないと言わせればよかったものを、これで千枝に助け船を出したことだけでなく、悠自身授業を聴いていなかったことまで露呈してしまった。
「じゃ、隣の鳴上っち、この意味を答えて」
「……はい」細井教諭に、というより、なかば以上は千枝に向けて、「わざわざ学校に来ていながらどうして勉強しないのだ。たとえおもしろくなくても授業は聞いていなければならない――こんなところでしょうか」
 隣で千枝がそっと呻いた。
「はいありがとう。後ろの花村っちー、聞こえてた? 先生もいっかい言おか」
「あ、いえ、聞こえました……スンマセン」
(見てたんだな、先生。そりゃあれだけ頻繁にやりとりしてれば見えるか……)
 悠、陽介、千枝の三人そろってしゅんとなったところで、六時間目終了のチャイムが鳴った。
「はい、六時間目ようがんばったなーみんな。やっとガッコ終わったで」
 日直が起立と礼を号令し終わるや否や、細井教諭は壇上からまっすぐ千枝の席へ歩いてきた。
「先生、おれが勝手に――」
「ええってええって」立ち上がろうとした悠を遮って、「鳴上っち、東京のガッコって白文読んだりするん?」
「ええ、まあ」
「高二なったばっかりやから、じゃあ高一で勉強したゆうことや、レベル違い過ぎやな」細井教諭はしきりに感心している。「こら真面目に聞く気ならへんのも道理やけど……さっき鳴上っちのゆうたとおりやで、やっぱり授業は聞かなな」
「はい、すみませんでした」
「それにしてもまあ、読ませるつもりあらへんかったから先生ちょっとびっくりしたわ。で、なにをそんなに一生懸命やりとりしてたん」
「や、その、学校おわったら遊び行こーぜ、みたいな?」陽介が慌てて弁解を始めた。「あはは里中机きたねーな、メモしまえってメモ……!」
「付箋紙だらけやな、ん」
「あっ、ちょっ」
 陽介の狼狽ぶりは見物だった。千枝へのメールに見られて困るようなことは書いていなかったが、それを陽介が知る由もない。
「おー……先生、専門は現国やけど、これは知ってるで」千枝の机の付箋紙から一片を取って、「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。鳴上っち、続きをどうぞ」
「未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉已に秋声」
「里中っち、どういう意味かわかる?」
「う、えーと、少年は老いやすくて学が成りがたいから」
「まんまじゃねーか……」
「うっさいな、じゃ花村わかんの?」
「う、えーと、少年は老いやすくて学が成りがたくて」
「アンタも変わんないでしょーが!」
「あはは君らおもろいなー。じゃ鳴上っち」
「若いうちから勉強しておけ、歳を取るのはあっという間だから、少しの時間も疎かにするな。楽しい春の夢の覚めないうちに、冷たい秋風が衰えを運んでくるものだから」
「……身に沁みるお言葉」
「……耳が痛いです」
「鳴上っちって漢文好きなん?」
「好きというか、親の影響で」
「親御さん、先生なの?」
「板前です」
「板前……? ふーん」細井教諭の眉が困惑に顰む。「まあ、これで少なくとも、授業中ちょっかい出し始めたのが鳴上っちやあらへんのはわかったわ」
「俺っす」陽介が小さく挙手した。「鳴上はずっとやめろって言ってたんですけど、俺が無理に……調子に乗りました。スンマセン」
「あ、あたしもスンマセン」
「じゃ、おれもスンマセン」
 ひとしきり笑い転げたあと、細井教諭は「なんや君らおもろいトリオやなあ」と笑い含みに呟いた。このやりとりはかなりウケたようだ。
(トリオだって? やめてくれ、こんなのと一絡げにしないでくれ!)
 悠はふいに刺すような不快を感じた。あまり感じたことのない類の、不思議な、落胆を伴うような不快感である。彼は自分が落下中であることをはたと認識した。
「先生も言わなあかんのかと――」
 と、細井教諭の言いかけたのを、時ならぬ校内放送のチャイムが遮った。教室内のざわめきが一瞬にして静まった。もっぱら先日の例に強く肖ったのだろう、今やこの旋律は不穏と非日常の象徴として聞かれるようになってしまったようだ。
『先生方にお知らせします。只今より緊急職員会議を行いますので、至急職員室までお戻りください』
「え、なんやろな」と、細井教諭が不審気につぶやく。彼に心当たりはないようだ。
『また全校生徒は各自教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
「うっわ、来たよこのパターン」と、陽介。「今度はなんだ、つか、誰だ?」
「誰とか言うなっつの、不謹慎でしょ」と、千枝。「でもホントになんなんだろ」
 またなにかあったらしい。昨夜の叔父の言葉、早朝の慌ただしい出勤、そして今朝の諸岡教諭に通勤路を変えさせた事情が、一筋の糸で繋がったように思われた。
 もちろんなにかあったのだ、それも警察沙汰の、決して軽くない、よくないことが。
(ひょっとしたら、小西先輩がらみの)
「おい鳴上、もちろん行くよな、このあと」
「……なにがもちろんなんだ」
「わかってんだろ」ちらと細井教諭を見て、「このパターンがもしアレなら、また向こうでイロイロあっかも」  
「えー、みんな聞こえたやろ、しばらく教室で待機な!」細井教諭が声を張り上げた。「たぶんHRはあらへん、諸岡先生来ォへんから、各自しずかに指示を待つこと! 帰ったらあかんよ!」
(また菜々子ちゃんを迎えに行かなきゃ……)
「ほならな三人衆」と言って、細井教諭は足早に教室を出て行った。
「なあ、行こうぜ」
「行かない。花村、付箋紙ちゃんと捨てとけよ」
「まあほら、まだなにがあったかわかってないんだしさ……たいしたことなかったら、鳴上くん行く? いちおう雪子呼んでみるけど」
「行かない。今日はジュネスに用はない」
 まるで昨日付き合ったのはあくまで買い物のついでであって、そうでなければお前たちなどと出かけたりしない、とでも言わんばかりの、悠のこの冷たい突っ慳貪な返答に、授業を妨害された憤懣を読んで取ったのだろうか、ふたりともそれ以上の要求は避けておずおずと席に着いた。
(……なんでふたりに対してこんな態度を)
 悠は内心、狼狽の極みにあった。なぜこんな無遠慮な、不機嫌な言葉が口を吐いて出る? どうして自分はいまこれほどの不安定に見舞われている? いったいお前はさっきまであれほど機嫌がよかったではないか。
(ああ、そうか)
 自身が底へ落ちてきたことを、悠は唐突に知らされた。彼にはそれがすぐわかった、そこは馴染み深い、暗くて静かな、いつもの彼の定位置だったので。――そうだ、少なくともいま、自分は手庇を作って遠くを眺めているのではなく、ただ仰いでいるのだ。
 底へ戻ってきて初めて、悠はたったいま自分の落ちてきた高みの眩しさを憶った。
(近づきすぎたんだ、それを指摘されて、反射的に飛び退いたんだ、おれは……おれはこんな、つまらない人間だった?)
 不機嫌の去ったあとは先に感じた落胆ばかりが、ちくちくと執拗に自尊心を突き回す。いや、これは特別なケースなのだ! 共にあんな奇妙な冒険をしてみれば、特別な精神的紐帯が生まれもしようものではないか! いや、お前はたったいま気付いた真実が、お前のきれいに結晶した過去にどれだけ認めがたい亀裂をもたらすか知って、それを援用してみるのを忌避しているだけではないのか? そんなはずはない! そうかもしれない。そうだとしたら?
 なんだか惨めさばかり募って、頬杖をついて慣れない鬱屈を持てあましていると、
『怒ってる? ごめんね』
 千枝の手がそっと伸びてきて、悠の机の隅っこに付箋紙を貼っていった。
(じゃあ、今までのは全部ただの、子供っぽい倨傲に過ぎなかったっていうのか? そんなはずは……)
『自分に怒ってる』
 結局、悠は嬉しかったのだ、彼らと一緒くたに語られることが。
 単なる驕りからか、それとも彼我の妥当な人間的価値の値踏みによるものかは措くとしても、それをとっさに不当だと反発しておきながら、彼は自らその掣肘を憎んだのだった。――では自分はいったい、それを喜んだことに落胆したのか? それともこんな自然な情動すら肯定できなかった、自らの矮小な哲学に対して?
 十分ほどして、校内放送が臨時の全校集会を報せるまで、悠は深い内省の虜と化していた。





 このひとつところに集められた八校生徒たちを、もし天井の辺りから俯瞰することができたなら、きっと贔屓の歌手かなにかのお出ましを今や遅しと待つ、ファンの一団みたように眺められたことだろう。この学校での全校集会が初めての悠にも、この彼らの騒々しさの常ならぬものであることは容易に想像できた。
 彼らは期待と不安に煮え滾っていた。前者ははちきれんばかりで、後者はほんのひとつまみ、前者に深い味わいを与えるための、欠かせない隠し味。
(先生たち、浮き足立ってるみたいだ)
 先日の事件以降、すでにその美味の期待されて久しい、あの非日常という御馳走を全校生徒に炊出してやるために、教師たちは調理と配膳とに大わらわの様子である。喜び勇んで駆けつけた生徒たちとの対比も鮮やかに、彼らは五人来ては二人戻るといったように、なかなか集まり切れないでいた。
献立の内容が想われる不穏さである。
「鳴上くん」
 千枝が後列の人垣を縫って近づいてきた。
「え?」
「雪子これないって。ジュネス」
「そう」
「えーとさっきはその、スンマセンした」
「いいって本当に。スンマセンはこっち」
「で、行かない?」
「行かない」
 千枝はいまだにジュネス行きを勧める腹積もりらしい。
「鳴上、これ、なんだと思う?」
 斜め前に立っていた陽介が後ろ歩きに横に並んだ。
「ライブかな」
「っぽいよな……ってんじゃなくて、内容」
「……あんまり考えたくないけど、花村の考えてることに近いと思う」
「お、やっぱそう思う?」
「花村なに考えてんの? いや、言わんでもわかるけど」
「……けさ五時前くらいに、叔父さんが慌てて家を出て行ったんだ」無人の壇上を見詰めながら続けて、「それと通学するとき、いつもの通勤路を警察が封鎖してたって、諸岡先生が言ってた」
「うぇ、マジ? それってやっぱり……」
「お前の叔父さんって?」
「刑事なんだ、この前の事件にも関わってる」
「うお、なんだ読み当たりじゃん。そっかそっか……」
 続けようとしていた言葉を、悠はさんざん迷ったあげくに呑み込んだ。先の事件と似たようなことがもし起きたとすれば、昨夜の叔父の話は陽介をひどく悩ますだろう。まして今このように好奇心に駆られて、ある意味で喜んでいる場合には特に。
(なにかもっと別の事件であって欲しいけど)
 ややあって、それまで体育館の入口付近に並んでいた教師の列から、祖父江教諭と松枝校長が歩み出てきた。とたんに全校生徒のがやがやが鳴りをひそめる。彼らの眼という眼が、壇上を往くふたりのアイドルに注がれる。
「えー、みなさん静かに」
 と、まずは祖父江教諭の露払いが始まった。言われるまでもなくすでに「みなさん」は静かであったが。
「これより臨時の全校集会を始めます。これから校長先生のお話がありますが、これはみなさんにはたいへん辛い内容になります。お話の途中でも騒いだりせずに、最後まで落ち着いて聞いてください」
 心中、悠は呻いた。さながら心臓に矢の刺さったような気分である。ではこのイヤな予感はほぼ的中だ、これから手ひどい痛撃をこうむるであろう陽介がただ不憫だった。
 壇上で選手交代ののち、松枝校長がマイクを執った。
「んん、なにぶん急な全校集会で、ええ、みなさんも何事かと、不安に思っていることと思います」
 松枝校長は口元からマイクを離して、それからまた寄せた。ため息をついたようだ。
「今日はみなさんに残念なお報せがあります。三年三組の小西早紀さんが、お亡くなりになりました」
 生徒たちのがやがやが一斉に復活した。ちらと陽介の貌を覗うと――こちらは口を半開きにして茫然自失の態である。斜め後ろからなんだか視線を感じるのは、おそらく千枝によるものだろう。
「みなさん静かに、静かに」
 教師の列から諸岡教諭の「静かにしろー!」との援護射撃も加わって、生徒たちはうわべだけは静かになった。
「小西さんは今朝はやく、遺体で発見されたということです。現在警察の方々が捜査を始めていますが、小西さんはなんらかの事件に巻き込まれた可能性が高く、死因など詳細はいまのところ判明しておりません。警官に協力を求められたときは、我が校の生徒として節度ある姿勢で応じてください。また併せて、報道各社などのインタビューには、もし応じる場合は慎重に答えてください。面白半分の推測や軽々しい憶測などは厳に慎み、また不謹慎な質問や、小西さんとその家族を不当に貶めるような詮索には決して乗らずに、もしあまりしつこいようであればしっかり断ったうえで、担任の先生に必ず申し出るようにしてください。学校から警察経由で抗議する準備があります。なお、先生方からはいじめなどの事実はなかったと聞いておりますが、もし心当たりのある生徒は、担任の先生もしくは教頭先生、私にでも構いませんので申し出てください。そして毎日の通学と帰宅、とくに遊びに出かける際は、絶対に危険なところや怪しいところ、不審な人間へは近寄らず、夜遅くまで家を離れることなどないように! 小西さんがお亡くなりになったのはたいへん悲しい出来事ですが、みなさんの身に万々が一にも同じようなことが起きれば、これだけの人間がまた同じように悲しみに暮れます。この一件の詳細がわかるまでは、みなさん一人ひとりがしっかりと防衛意識を持って、自重に努めなければなりません。先生方も今まで以上に生徒たちをよく見守って、生徒たちの発するサインを見逃さないように、また要すれば積極的に相談に乗ってあげるなどしてください。――それでは最後になりますが、天国にいる小西さんのために、一分間の黙祷を捧げましょう」
 ふたたび選手が交代し、祖父江教諭がマイクを取り戻した。松枝校長の項垂れるのを待って、
「黙祷」
 祖父江教諭が低く宣言した。しんとした体育館に、おそらくは早紀の友人のものであろうか、押し殺した嗚咽のような呻きが二、三、微かに聞かれた。





(里中)
 下駄箱の前で千枝の険しい貌をしているのを、悠は見咎めた。早々に教室を出たもので、てっきり先に帰ったとばかり思っていたのだが。
 千枝は悠に気付いても答えず、黙って今まで見詰めていたほうを不快気に顎で示した。女子の数人が寄り集まって声高に、なにごとか話し合っている。
「――死体、山野アナのときとおなじだったんでしょ?」
「前はアンテナだったのが、今回は電柱らしいじゃん。連続殺人ってことだよね、これって」
「死因は正体不明の毒物とか、誰かが言ってた」
 これらはおそらく先日の悠たちのようにして、だれかしら朝の現場に出会した生徒からもたらされた情報であろう。鵜呑みにはできないが、
(正体不明の毒物……またあの火星探査員がいたのかな)
「正体不明って、そりゃちょっとドラマの見過ぎだって」悠は発言した女生徒もろとも一刀両断された。「そういえばさ、例のマヨナカテレビ? 早紀に似てる子が映ったらしーよ。超くるしがってたってェ、怖くない?」
(そういえば昨日、雨が降ってたんだっけ……十二時前に寝たな、見逃した)
「はは、そっちこそ絶対ユメ!」
 睨まえる千枝にとうとう気付かず、女生徒たちは靴を履いて正面玄関を出て行った。
「ったく、ヒトゴトで好き勝手いってるよ……」千枝は義憤に燃えているようだ。「あのひとら小西先輩と同じクラスだよ? 信っじらんない!」
「泣くひともいる。笑うひともいる。距離の問題」下駄箱から靴を取り出しながら、「対岸の火事は大きいほど楽しい、でも隣人は煙が目に入る」
「鳴上くんマジで言ってんの?」
「……悲しみや怒りにも、ある条件下では快楽が伴うそうな。精神が同情や義憤を徳行と見なして、それらを導く情動を惹起したことに満足を覚えるという」
「あ、あたしがそうだっての?」
「心当たりでも?」
「ないよ……つかだれよ、んなこと言ったの」
「デカルト」
「……デカくないよそのひと、小さいよ」
「なら、波の絶えず砕ける岩頭のように、里中」靴を突っかけながら、「小西先輩のことにも、彼女に無関心なひとたちの放言にも、動じないようになろう。好きに言わせておけばいい」
「あ、帰っちゃうの?」
「鳴上はいまは罷らむ菜々子泣くらむ……ってね。夕飯の支度――」
「鳴上!」
 悠を遮った声は、果たして陽介のものである。階段の踊り場から悠と千枝を見下ろしながら、彼は微かに荒い息をついていた。きっと悠を探して駆け回っていたのだろう。
「あせったぜ、お前いないし……」足早に階段を駆け下りながら、「鳴上、話がある」
「花村、おれは行くつもりは――」
「聞けって」語気の荒いわりに、陽介は意外にも冷静に見えた。「お前、昨日、あの夜中のテレビ見たか?」
「あのさ……花村までこんなときになに言ってんの!」千枝はまったく語気の通りである。「ひとが死んでんだよ? あんた親し――!」
「いいから聞けっ!」
 突然、陽介が物凄い剣幕で怒鳴った。冷静に見えたのはうわべだけだったらしい。正面玄関付近にいた生徒たちすべての視線が三人に集中する。
「花村落ち着け」悠はいま履いたばかりの靴を脱いだ。「声を小さく」
「俺は落ち着いてる」
「なら二番目のほうに集中する」内履きを突っかけながら、「場所を変えよう、人目がありすぎる」
「あ、こっち、行こ。遠いほうがいいっしょ」 
 千枝の先導で、三人は一階の一番奥の、無人だった視聴覚室へ舞台を移した。放課後のことで、隣接する部屋はすべて無人である。たしょう大きな声を出しても聞き耳を立てられる障りはないだろう。
(もっとも、聞いたところで理解できないだろうけど)
「じゃあ、どうぞ、続けて」
「……俺、どうしても気になって見たんだよ」陽介は俯いて、パソコンモニタの列居する長机に寄りかかった。「映ってたの、あれ、たぶん小西先輩だと思う」
「はっきり見えたのか」
「いや……でも、前みたとき、里中と同じのが見えたって言っただろ? あのとき俺、ひょっとしたら小西先輩なんじゃないかって思ってたんだ」
「言われてみれば……そうかも、しんないけど」
「だろ? それで、昨日よく見て、確信した。間違いない」
「…………」
「先輩なんか、苦しそうに、もがいてるみたいに見えた。それで……そのまま画面から消えちまった」
「さっきも三年生が似たようなコト言ってた、けど」
「先輩の遺体、最初に死んだ山野アナと似たような状態だったって話だろ?」
「……続けて」
「里中おぼえてるか? お前こないだジュネスで言ってたよな、マヨナカテレビに山野アナが映ったって言ってる生徒がいたって」
「言った、けど」
「俺、思ったんだ、もしかするとさ……山野アナも死ぬ前に、あのマヨナカテレビってのに、映ったんじゃないのかなって」 
「なによそれ……それってまさか、あのテレビに映ったひとは死んじゃう、とかって言いたいわけ?」
「そこまでは言い切らないけどさ。ただ、偶然にしちゃ、なんていうか、引っかかるっていうか……」
(確かに引っかかる。偶然にしては)
「それと、向こうで会ったクマが言ってたろ。なんか……えーっと、なんだっけ、なんか出てくるから危ないとか」
「シャドウ」
「そうシャドウ――あと、里中がちらっと言った、もうひとりの鳴上みたいなやつが、誰かを押し込むとかなんとか」
「思い付きだってば……」
「なんでもいい。それにあの、ポスター貼ってあったあの部屋……事件となんか関係ある感じだったろ。これって、なんかこう……繋がってないか?」
「どうかな」
「もしかしたら、先輩や山野アナが死んだのって、あの世界と関係あるんじゃないか?」
「…………」
「なあ、俺の言ってること、どう思う」
「……まずどうしたいんだ、花村は」
「ああ、もし繋がりあるなら、先輩と山野アナも、あの世界に入ったってことかもしれない。あっちでなにかあったってんなら、あのポスターの部屋があった説明もつく。もしそうなら、先輩に関係する場所だって、探せばあるかもしれない!」
「花村、あんたまさか」
「ああ、俺、もう一度いこうと思う。確かめたいんだ」
「よ、よしなよ……事件のことは警察に任せたほうがいいって」
「警察とかアテにしてていいのかよ! 山野アナの事件だって進展なさそうじゃんか!」陽介はふたたび大きな声を上げた。「第一、テレビに入れるなんて話、まともに取り合うワケねーよ。ぜんぶ俺の見当違いなら、それでもいい。ただ先輩がなんで……死ななきゃなんなかったか、自分でちゃんと知っときたいんだ」
「花村……」
「こんだけ色んなモン見て、気付いちまって、なのに放っとくなんて、できねーよ……」
「……終わった?」
「あとはこれだけだ――鳴上、俺を連れてってくれ、あの世界に」
「ちょっとバカよしなって! あんた――」
「里中ちょっと」手を挙げて割り込みながら、「先にいいかな、話しても」
「あんたさ、なんかあったらどうすんのって! また帰って来れる保証ないんだよ!」
「里中」
 千枝はなおもなにか言いたげにしていたが、結局しぶしぶ悠に譲った。
「花村、さっきパスした、花村の話をどう思うかについて……話しても?」
「ああ、聞かせてくれよ」
 悠はひとつ深呼吸したあと、どのようにして陽介を説得しようかと考えながら、おもむろに口を開いた。
(なんと言ったところで納得しないだろうけど)
「……結論は、最後にするとして、まず、花村の見たマヨナカテレビに映った人間が、小西先輩だったと仮定する」
「仮定じゃない、絶対そうだ」
「それでもいい。で、山野アナもまた確実に映ったとする。そしてふたりとも死んだ」
「ああ」
「だから映った人間は死ぬ?」
「だと思う」
「……おれもさ、教室の連中の話を聞くでもなく聞いたりしたんだけど、マヨナカテレビって、けっこう前から映るらしいな」
「うん、そう。何年か前から、だね」
「いろいろ聞いたよ。有名どころでは、いわく上野樹里が映った、松平健が映った、パフュームの誰だっけ、三人のうちのひとりが映った。ブラッド・ピットなんて言ってる奴もいたな。いま生存している人間だけじゃない、織田信長まで出てきたらしい。豊川悦司扮する、ね」
「…………」
「みんな生きてるな、信長は死んでるけど。それと、山野アナと死んだ状況が似ていたって、それは誰が調べた情報?」
「生徒、だろうな」
「素人が、興味本位で、興奮しつつ、遠巻きに、警察に阻まれながら、好奇心と先入見の色眼鏡越しに収集した、ね。かなり信頼できる情報だな、まあ、これはじきテレビで報道されるだろう。あと」
「……あと?」
「あの世界のあの部屋、花村はさっき、なんか関係ある感じなんて言ってたけど、具体的にどんな点が今回のふたりの死に関係してるって考えられるんだ」
「あのピアス」
「授業中に書いただろう、あれだけじゃ判断らしい判断なんてできない」
「あの異様なポスター、あの首つり椅子、ベッドの死体の跡!」
「声を小さく――花村、なにも繋がらない、ただ異様で目立つだけだ、ふたりとはなんの関係もない」
「シャドウとかいう……危険な奴」
「それはなんだ、花村。なにに対してどんなふうに危険なんだ。おれたちはなにも知らない」もしそうだったならどんなによかっただろう!「人殺しを辞さない危険な奴ならこっちの世界にだって無数にいる」
「お前と同じことのできる奴が――」
「花村、仮にそういうことのできる人間がいたとして、じっさいふたりに対してやったとして、そのシャドウというのが凶悪な殺人鬼であったとして、そいつが彼女らを毒牙にかけたとして、どうして死体がこっちに出てくる。わざわざ犯人が担いで戻ったって言うのか、その凶悪な殺人鬼の目を盗んで」 
 次第に陽介の貌に、いま低い声で話している転校生への、抑えがたい怒りが滲んできた。
 悠は悲しくなった。怒りを向けられていることにではなく、勢い込んでこんな穴だらけの論証をさせるほど性急に行動を要求する、彼のその悲痛な動機に同情を覚えたのである。この悲しみに快楽はついてこなかった。であれば、いま悠はまさしく彼の隣にいて、彼を焼き焦がし責め立てる炎と煙とに巻かれているのだ。
 悠はこの苦痛に喜んで甘んじた。
「話を続けようか。もっぱら親戚の名誉のためにこう言うんだけど……山野アナの事件が起きてから、今日で何日目?」
「……三日だろ」
「すごいな花村、たった三日で、警察の捜査が進展してないなんてわかるんだから。いや、これが六日だろうが二十日だろうが、どうして花村に警察の捜査の進捗状況なんてわかる。警察をアテにしてはいけない? なぜ? 向こうはその訓練を受けていて、それを職業にしているプロだろう。花村やおれは、里中は? わからないなら教えよう、ただの高校生だ」
 花村の歯軋りする音が聞こえる。
「……仮にここまで、花村の言うことがすべて真実であったとする。それで、首尾よく向こうに行って、小西先輩の不幸のあったらしい現場にどうやってかたどり着くための、算段がついたとする。そこへ行ってどうなる? 確かめたい? まだ痕跡が残っているとでも? あったとして、それを見つけて確かめて、花村はどうしようって言うんだ。彼女の遺品に縋って泣こうとでも? 取り合ってくれるワケもない警察に報せようとでも言うのか。どうして先輩が死ななきゃならなかったか? いったいなにか納得できそうな理由が、花村はあるとでも言うのか。ああ、それなら仕方がない、彼女は死んで当然だった――ばかばかしい、ひとの死ななきゃならない理由なんてない、あってはならない、知ったところでどうにもなりはしない」
「鳴上くん、ちょっと――!」
「おまけに言うに事欠いて、ぜんぶ自分の見当違いならそれでもいいだって? それがひとを危険に付き合わせようとする人間の言い草なのか花村。色々なものを見た、気付いた、放っておく? いったいおれたち三人はあの世界を彷徨ったあげく、なにを見てなにに気付いた。ほとんど見てないし、気付いてもいない、ただ常識を覆されて混乱しただけだ。ついでに言えば、花村がそうできないで歯噛みしなきゃいけないような、放っておくなにごとかなんて存在しない。花村のはただの独り相撲だ」
 陽介の面に浮かぶのはもはや怒りではなく、憎しみに近いものだった。悠は黙って睨まれるに任せた。
「花村、おまえを連れて行くことはできない。あと結論がまだだったな――馬鹿げてる」
「じゃあぜんぶ偶然だって言うのかっ!」
「……花村、授業中にも似たようなことを書いたな。無意識にやってるのかもしれないけど、花村は論点をすり替えてる。――花村はいったい、自分の主張したことが正でなければ、あとは全て偶然になるとでも言いたいのか。まるでおれが、すべてが偶然というわけではない、と言えば、花村の主張したことが真実になるとでも言いたげだ。その二択は詭弁だ、間違ってる。おれたちは正誤を議論しているのであって、必然か偶然かなんてひと言も話してない。そして花村の話には正であることを主張するための証明がほとんどない。八十稲羽ではどうかわからないけど、世間一般ではそれを思いつきと言う」
「…………」
「花村、花村はさいきん身の回りで起きた、非日常の匂いのするもの全てを、なかんずくあの世界を、小西先輩の死にむりやり繋げようとしているだけだ」悠は努めて優しく続けた。「小西先輩に関わっていたいんだろう? こうなってしまったあとでも、まだそうすることで関わっていられるようななにかが、自分にできることがなにかあるはずだって、思ってるんだろう? おれは責めない、でも間違ってることは正す、とくに、見過すと危険だとわかっているような暴走は」
「もういい!」
 陽介はひとこと怒鳴ったあと、憤懣やるかたないといった様子で視聴覚室を出て行った。行き先は自宅のベッドか、それともジュネスの二階か。
「行っちゃった、けど」
「……やっとふたりきりになれた?」
「やめてよこんなときに冗談とか……鳴上くん言い過ぎだって、いくらなんでもあれじゃ花村……」
「賛同してテレビの中に入ったほうがよかったかな。おまえは正しいと思う、一緒に行こうって」
「そんなことないけど……どうしよう、どうすんの?」
「靴を履いて、玄関を出て、自分の家の方角に向かって歩き出せばいい」
「だ、だって」千枝の狼狽ぶりたるや、あの世界に迷い込んだときと遜色ないほどだ。「花村どうすんの? 鳴上くん帰っちゃうの?」
「夕飯つくらなきゃ」
「夕飯って……でも、花村は」
「花村は向こうには行けない、ひとりでは」
「そうだけど、だけどさ、放っとけないよ」
「そんなことより、里中、ちょっといい?」
「へ」 
「夕飯の献立で悩んでるんだけど、ちょっと相談に乗ってくれないかな」
 今度は千枝の貌にまで、不穏ないろが見え隠れし始めた。
「あのさ……こんなときになに言ってんの?」
「菜々子ちゃんになったつもりで、ちょっと選んでみて。一、トマト入りミネストローネ。二、トマト入りロールキャベツ。三、トマト入りキッシュ」
「知らんよ、勝手に決めなよ!」
「そう。参ったな、どうしようかな。ものによっては買い物に行かなくちゃな、昨日トマト使っちゃったし」
「はあ……?」
「行くとしたらどこかな、って言っても、ジュネスしか知らないんだよな……」 
 千枝はしばらく「なに言ってんのコイツ」とばかりに眉根を寄せて訝っていたが、ややあってようやく含みに気付いたようで、
「……えーと、たぶん、ロールキャベツがいいと思う。挽肉増量の、コメダワラみたいなやつ」
 やっと笑顔を取り戻してくれた。
「本当に?」
「うん、菜々子ちゃんならきっとそれを選ぶ。自信ある!」
「そうすると……トマト買いに行かなきゃならないわけだ。めんどうだけど仕方ないな」
「仕方ないね、仕方ないよ。もーなによめんどくさいなあ!」
 もちろん、仕方のないことだ。
 相手が陽介か、あるいは千枝でなければ、あそこまで言い募ることはなかっただろう。適当に去なして落ち着かせたうえで帰宅して、トマトの入らない夕飯を菜々子に振る舞ったことだろう。
 先の内省の結果が、振り返ってみた過去が、たとえ従姉妹に二日連続でトマトを食わせることになっても、彼らに対して小細工なしで衝突してみよと示唆するのだった。彼らが特別なのかそうでないのかはもはやどうでもいいことだった。完璧に仕上げてきた学校生活にヒビが入ってもいい、とにかく今だ、いま気付いたのなら、そのときいちばん手近にいた人間から始めなければ!
 そしてその相手はもう決まっていた。





[35651] バカにつける薬
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:36



 ジュネスの二階、家電売場の奥、件のプラズマテレビの坐すその前に、たたずむ異様な態の少年がひとり。
「あっ、いた」
 と、千枝の指さしたのに気付いて、陽介は振り向いて斜に構えた。
「……花村、なにそれ」
(鬼退治にでも行くつもりか?)
 家電売場にいて然るような人間として、陽介は売る側にも買う側にもいささかふさわしからぬ恰好をしていた。馬手にゴルフのドライバー、弓手に荒縄を一巻きという出で立ちで物憂げにたたずむ彼を、いったい葛西さんとやらは見咎めなかったのだろうか? これらを活用する集客なんてものをもし彼が想像したとするなら、ジュネスの地域社会への健全な奉仕のためにも、
(葛西さんは倉庫で百マイルくらい煙草を吸ってるべきだな……巡回の警察に見つかったらなんて説明するつもりだったんだ?)
「お前ら、なにしに」
「バカを止めに来たの!」と、千枝。「なにそのカッコ、それでなにしようっての!」
「鳴上……」
 陽介の貌にも声にも、もはや敵意はなかった。ただ一刻も早くなにかをしようと急くのに、それをできないでいる人間がたいていそうするように、彼は途方に暮れていた。
「最初に家電を買うべきだった、花村」悠はなるたけ友好的に声をかけた。「そのあとにホームセンター。スポーツ用品店は最後にするか、包装してもらったほうがよかった」
「…………」
「……問題はそれで縛ったあとだよな。よそで買えないようにするには効果的だけど、ひょっとすると客の購買意欲を削ぐかもしれない。そのゴルフクラブでどこまでアピールできるか」
「鳴上」陽介はちょっと笑った。「ぜんぶお前の言うとおりだよ。焦ってるだけだ、俺は……もう手遅れなのに」
「ふつうにいらっしゃいませって言えば?」
「そっちじゃねーって!」陽介にようやく笑顔が戻った。「そーいうふうには見えねーだろ普通!」
「警察もそう考えてくれたらいいけどな。ちょっと悪目立ちし過ぎじゃないか」
「そーだよ、客とかフツーに引くって――つか、花村、マジで中はいるつもりなの?」
「……鳴上しだいだ」懇願めいて続けて、「鳴上、それでも、さっきお前に説得されても、納得できないんだ、俺。きっと納得したくないだけだ、でも、完全に納得するにはどうしても引っかかることがあるんだ」
「と言うと」
「あの世界だ――変な言い方になるけど、俺はそれを、きっと自分を納得させないための最後の救いにしてる。そうさ、お前の言うとおりなんだ。先輩のことで後悔して、もうなにしても遅いってのに、俺は、だれも入っていけないところになら、俺たちの常識の通用しないあそこなら、こっちじゃありえないようななにかが、先輩のこと、なにか教えてくれるかもしれないって、きっと思ってるんだ」
「…………」
「へへ、なんか、新興宗教にハマるひとって、こんなカンジなんかな?」陽介の面は悲痛そのものである。「でも、学校でお前に言ったこと蒸し返すワケじゃねーけど……これがぜんぶ偶然だなんて、思えるか? お前」
「ぜんぶ偶然だとは思ってないよ」
「お前の考えを聞かせてくれよ」
「おれの考えか……」悠はちょっと考える素振りを見せた。「……今日の夕飯は挽肉多めのロールキャベツにする予定なんだ。里中の考えではそれが菜々子ちゃん的にベストらしい」
「鳴上くん……」
「おれはロールキャベツにはトマトを入れる派なんだ。栄養あるし、菜々子ちゃんみたいな子供には率先して摂らせたいし、いまは旬だし」
「鳴上――」
「トマトはジュネスで買おうと思ったんけど……よく考えたらあんまり安くないような気がしてさ、どこかもっと安い店ないかなって、考えてる。まずどこから回ろうか。テレビの中なんてどうかな。あんまりひとが行きそうにないし、穴場もありそうだ」
「ちょっ、鳴上くん?」
「クマがひと玉百円より安い店しってるかもしれない」
 果たして、陽介の面に救われたような、安堵したような色が浮かんだ。――千枝の顔面に訪れた変化と対照的ではあったが。
「お前……お前がそういう奴で、なんかよかったよ、鳴上」
「安く買えるならそっちのほうがいいもんな」
「へへ、だよな」
「ちょっとちょっと待って、なに鳴上くんまでバカ言ってんの? 戻って来らんないかもって言ってんじゃん!」
「ロールキャベツは里中イチオシだろ」
「ここの一階で買えっての!」
「里中はここで待っててくれよ、お前にもやってもらいたいことが――」
「花村も来なくていい」
「は?」
「トマト買うだけだ、荷物持ちはいらない。おれひとりで行く」
 果たして、陽介の面に欺かれたような、困惑したような色が浮かんだ。――千枝の顔面に訪れた変化とほぼ同じものである。
「なに言ってんだ、おれも――」
「花村、学校でも言ったとおりだ、連れて行くことはできない」噛んで含めるように続けて、「さっき花村の言ったことはほとんど当て推量の域を出ないけど、いくつかはおれも引っかかってた。だから昨日、テレビの中から戻ってきた時点で、近いうちにまた入っていろいろ調べてみようとは思ってたんだ。それが今日でも不都合はない、だから入る、でもおまえは連れて行けない――危険だから」
「危険って、お前が言ったんだろ? シャドウがなにかよくわからないって」
「花村、里中も聞いて欲しいんだけど……たぶんあの世界に関わることで、まだふたりに話してないことがあるんだ」
「な、なにを?」
「里中、一昨日の深夜にマヨナカテレビを試してみろって言っただろ」
「うん」
「試したんだ……花村は感づいたはずだけど」
「ああ」
「初めてテレビの中に入った。それですぐ、こう、臑丈くらいの長い衣服を纏って、へんな鉄仮面と籠手を着けた巨人に、いきなり殺されかけた。四メートルくらいもある冗談みたいな凶器もってて……あやうく逃れたけど、たぶん、あの世界にそいつがいる。あと、考えたくないけど、おれ、狙われてるかもしれない」
 殺される、という言葉が、どのていど真実味を帯びてふたりの耳に響いたか――陽介も千枝も口を半開きにして硬直している。
「……おれがあの世界で尖ってたわけ、わかってくれた?」
「そんなに危ないなら中はいるなんて絶対ダメでしょ……つか、なんであのとき言わなかったんよ……!」
「言ってふたりが元気いっぱいになるなら、そうしたかもね」
「ならひとりじゃもっとダメだろ! 俺は――」
「ふたりじゃ余計ダメだ、おれに万一のことがあったら、花村は出られなくなるんだぞ」
「そうだけど……お前危なすぎだろ」
「……あれだけ歩き回って会わなかったからには、うちのテレビとここのテレビとでは、たぶん出るところに相当な隔たりがあるんだと思う。ちょっと入るくらいなら大丈夫だろう。例のクマを掴まえて、いろいろ聞いてみる。もしできれば、花村の言うようなことについて調べてみる」
「すぐ出てくるんなら俺も――」
「花村、この天秤に」と言って、悠は右の掌を差し出した。「好奇心の対価として載せられるのは自分の命だけだ。他人の命に責任は持てない」
「責任は自分で持つ、頼む!」
「花村は自力でテレビに出入りできない。中に入った時点で望むと望まざるとに関わらず、花村の安全はおれの責任になるんだ」
「なあ、頼むよ、お前の指示に従うから」
「すぐ戻る。朗報を待って」
「ダメだってばァ!」千枝が声をひっくり返して怒鳴った。「あのさもう……ホント、落ち着こって、あたしら関係ないじゃん。なんかわかったからってどうすんの? 鳴上くんが言ったんだよね、取り合ってくれないのに警察に報せるのかって!」
「里中は気にならない?」
「だから訊いてどうすんのっつってんの!」
「トマトを買うのさ」
「バカ、ほんっとバカ! あんた――!」
「里中!――わかったよ、鳴上」いきり立つ千枝をブロックしながら、「お前に任せるしかなさそうだ、頼む」
「ふたりは誰か来ないか見張っててくれ。そう、葛西さんは?」
「来てから見てない。倉庫で煙草かな」
「もし会ったら言っといて、花村」悠はプラズマテレビのフレームに手をかけた。「煙草吸いたいなら近場にもっといい場所を知ってるってさ」
「あたし知らんからね! もう付き合い切れ――!」
 テレビパネルが千枝の金切声を遮断した。





(よかった、やっぱり向こうとこっちのテレビが繋がったんだ)
 出た先は果たして昨日のスタジオである。クマの用意してくれたこのテレビがあれば、毎度まいどあの恐怖の転落死体験を経ずに済むようだ。
「クマ? クマー、いないかー」
「だ、だれクマ!」
 速やかな応答があってすぐ、樽型の着ぐるみがテレビの横から回り込んでくる。
「あー! 来ちゃダメって言ったクマー!」
 悠の姿を確認するなり、クマは短い脚でぴこぴこ地団駄を踏み出した。が、軽挙を咎め立てるその口ほどにもなく、彼の声には喜びが滲んでいる。
「ここはあぶないとこなんだクマ、早く帰んなさい!」
「こんにちは」
「あ……えーと、ごていねいにどーもです」
「入ってもいい?」
「ダーメ!」
「ダメ? 残念だな、クマに会いに来たのに」
「へ、クマに?」
「そうだよ、せっかく知り合いになったんだし、ちょっと話がしたいなって」
「……クマと、クマ? はなし?」
「そうクマ」
 クマはしばらく考え深げによちよち歩き回っていたが、ほどなく「ちょっとだけよークマ」と嬉しげに近寄ってきた。これほどあっけなく翻意するからには、
(じっさい言うほどには危険じゃない、のかな。それとも単に寂しがり屋なだけ?)
「手を貸すクマ、こっち入るクマ」
「待って、いま脚を――」
 言いかけて、パネルに片脚を潜らせようとした瞬間、悠は背中に息の詰まるほどの衝撃を感じた。――感じた、と思う間もなく、今度は硬いゴム様の床に接吻を余儀なくされる。
 こうなることは予想できたはずなのに――悠は痛恨を噛み締めた。
「だ、大丈夫クマ……?」
 クマが慌てた様子で、折り重なって倒れるふたりに駆け寄る。すなわち、下敷きになった悠と、彼に体当たりしてもろともテレビの中に転がり込んできた陽介とに。
「いってて……な、鳴上、大丈夫か」
(花村!)
 無言で陽介を突き飛ばすなり、悠は立ち上がって猛然と彼に掴み掛かった。
「鳴上待て! おいって!」
「おまえ、おまえは……!」
 情動の赴くままなにかをする、というのは、いったいどれほどぶりになるだろう?
 悠は静かな驚きに打たれていた。このクラスメートのなりふり構わない遣り口が、彼の久しく遺棄されて顧みられなかった火床の、怒りの埋火を掘り起こしたのである。常に他人の中にだけ見出されてきたこの種火は、悠にとっては金鉱よりも珍かな、驚倒すべき発掘物だった。 
「キミたち、ケンカはよくないクマよ……あのうふたりとも、ケンカは」
 クマの控えめな仲裁もむなしく、悠と陽介はしばらく無言で揉み合っていた。かたや力任せにテレビに押し戻そうとし、こなたそうはさせまいと全力で抵抗する。
 お互いついに力尽きて座り込んだのは、たっぷり十分も経った後である。
「……鳴上」
「…………」
「悪かったって」
「心にも、ないことを、言うな」テレビに凭れて息を整えながら、悠はまだ燻っている。「まさかここまで、バカだとは、思わなかった。信じられない」
「なんとでも言えよ……はあ……」
「ええと、キミたち、仲直りするクマよ。雨が降るとお年寄りがたまると言って――」
「うるさい」
「スミマセンクマ……」クマはたちまち悄気返った。
「お前、こないだの……クマ、だっけ」
「え、そうクマー」クマはたちまち甦った。「えーと、キミもクマとはなしに来たクマ?」
「クマ黙って」と、悠が割り込む。「花村、いますぐ戻れ」
「ここまで来といて戻れますかっての」
「ここの危険はさんざん話したぞ、わかってると思ってた」
「わかってるよ」陽介が尻を払って立ち上がった。「悪かった、マジで。でもこうでもしなきゃ俺、絶対に納得できねーんだ。俺自身の眼で確認しなきゃ!」
「その納得が手に入るかどうかもわからないのに、花村はもう対価以上のものを支払ってるかも知れないんだぞ!」
「気前いいだろ」
「バカにつける薬はないよな、命がかかるって言ってるのに……!」
「トマトのついでに探してみたら?」
「なにを」
「バカにつける薬。テレビの中なら売ってんじゃね?」
 皮肉っぽく笑って、陽介は悠に手を差し伸べた。
「薬で治るもんか。花村は重症だ」陽介の手を取って悠も立ち上がった。「末期だ、要手術だ、致命的だ全く――もう一度いうぞ、いますぐ戻れ」
「戻る気はない」
「おまえを置いてジュネスに帰るぞって、脅すこともできる」
「できるだけだろ、お前はそんなことしない」
「もういちど腕力に訴えてもいい」
「第二ラウンド始めっか? 朝まで付き合うぜ」
 悠は深いため息をついた。その様子を見て、陽介は会心の笑みを隠しきれない。
 力ずくが失敗に終わったいま、この上なにを言ったところでもはや彼の翻意は叶わないだろう、短い付き合いとはいえ、悠にもそのくらいのことは理解できていた。無論、それは陽介のほうでも同様に違いない。
(おれがこのあたりで折れるって、こいつは確信してる……)
「……この一件が終わったら手伝えよ」
「え、なにを」
「おまえにつける薬、探すから」悠はとうとう陽介の同行を許した。「トマトなんか後だ。花村のは一刻を争う」
「わかってるって!」と、花村は破顔した。「で、もちろん半額だしてくれんだろ?」
「おまえを殺す毒薬なら全額だしてやるよ。ついでに焼きそばも奢ってやる」
「へえ、死んでも治んねーけど」
「言ってろ――クマ、ちょっと」
「……話してもいいクマ?」
 手招きに応じて、少し離れたところで悄然としていたクマが戻ってくる。
「いいよ、もちろん。ごめん、うるさくして」
「仲直りしたクマ?」
「うん。した」
「わりーな、もう終わったから」
「仲良くしなきゃいかんクマ、ふたりは友達クマ?」
「友達じゃない」
「ええっ、俺ら友達だろ?」
「友達?」
「じゃ、なにダチよ」
「……友達ね」
 普段の彼なら陳腐と一蹴してしまうこの言葉も、陽介の口から出てくると不思議に、ごく単純な虚飾のない単語として聞かれるのだった。彼は友人? この無謀で直情径行気味のクラスメートを、果たして友人と呼んで差し支えないのだろうか。
「あんだけ話して、ここまでお互いの事情わかってて、いっしょに二回もこんなとこ来といて、それでまだアカの他人ってのか? ちっと無理あんぞそれ」
「二回目は無理矢理だろ」
「悪かったって」
「友達クマ?」
「じゃあ、まあ、そういうことで」
「え、歯切れわりーな」
 この程度の交流で「友達」なら、では千枝はどういう扱いになるのだろう。ひょっとしたら彼女も、そうかと問えば肯定的な答えを返してくれるかもしれない。
 いや、彼女だけでは、彼らだけではない。
「友達いるなら、大事にしなきゃクマ」
 思えば八十稲羽に越してくる前、柴又にいた時分、周りにいたクラスメートに対して、こういうことを考えた試しがあっただろうか。
 悠は決して無視されるタイプではなかった。それどころか、彼が孤独な時間を捻出するために編み出した「処世術」の副作用によって、ちょっと顔が売れているとさえ言える存在であった。彼らは実際、悠によく話しかけて来た。これを思い出すのに大した苦労は――それこそ半月程度しか経っていないのだから――必要ない。話しかけて、遊びに誘いさえした。ときに積極的に、彼らが友人に対してたいていそうしていたように。
 もし、いつもやっていたように諧謔と韜晦とで笑わせて去なすのでなく、きょう陽介にしたように真っ向に立って、自分の思うところを有体に述べていたとしたら。なにかの弾みに友情を確認されて、それをとっさに否んだとき、彼らはこう言っただろうか? 俺ら友達だろ、と。
 自分は肯っただろうか?
(いや、きっと拒否しただろう。いまだってそうだ、こいつと里中が特別なんだ)
 もし拒否したのなら、なにが理由だったのだろう。彼らの容貌? 声? 性格? 知性? 嗜好?――すべて違う。いままで擦れ違ってきた数多もの同級生の中に、彼の気に入る人間がひとりとして存在しなかったなどということはあり得ない。
(もちろん違う、不本意だけど、違う。おれはそれを知ってる)
 彼ら一人ひとりをちゃんと弁別して見はしなかったことを、悠は得体の知れない後味の悪さとともに思い出していた。彼は自分の周りに等間隔で座っている同年代の人間たちを、「同級生」という細胞群で構成された、一匹の生物と見なして観察していたのだ。
 あるいは、いまでさえ。
 ではなぜもっとよく見なかったのだろう。
「うらやましいクマ。クマは友達いないから、したくたってケンカもできんクマー」
 クマが後ろを向いて、足下のなにかを蹴るような仕草を始めた。いじけているのをアピールしているようだ。
「うわ、なにげにぼっち宣言とか寂しすぎるだろお前……」
「誰か……アテはないの?」
「あるわけないクマ、この世界にはクマしかいないクマ」
「お前って、どのくらい前からここにいんの」
 この問いはかなりの難問だったようで、クマはそうと言われたなり、電源が落ちたようにして長いあいだ黙ってしまった。
「……クマ?」
「おーい、戻ってこーい」
 ややあって、クマは小さな耳を押さえるようにしてあたまを抱えて「わからない」と宣った。
「わからんって……」
「わからんクマ……ほんとうに、わからんクマ、長いあいだクマ、どのくらい前なのか、数えてたことがあったかどうかも、もう覚えてないクマ」
 なにぶん着ぐるみのことで、彼の面に表情らしいものは認められなかったが、その声音はそれを補って余りある寂しさに満ちている。
「ずっとずーっと、ひとりぼっちクマ。じゃなくていっぴきぼっちクマ」
「あー……お前って、けっこう大変なんだな」
(これが孤独なんだ、本当の)
 おお、いとも笑うべきわが処世術! つまるところ悠の座っていた椅子は、それもかなり座り心地のよい、凝った造りの、おごった綺羅の張られた椅子は、ただ自称によるほかない陳腐な紛い物であったらしい。この世にただひとり、自分しかいない、「孤独」とはこの着ぐるみの座っている椅子のことだった。ほかのどんな粗悪で安っぽいものだって、近くにあれば喜んでそちらに座ったであろうほどの、冷たく硬い氷塊のような椅子。
 クマのあれほどの人恋しさも宜なるかな、である。
「そりゃもー大変クマ! おまけに最近やたらとシャドウが出るし、暴れ回るし、怖くておちおち散歩もできないクマ。肩身せまいクマよ……」 
「ちょっと、待って。クマ、シャドウって?」
 自嘲と内省の時間は唐突に終わりを告げた。なにも陽介の常備薬を求めてわざわざこんなところに来たのではないことを、悠はようやく思い出した。
「お、そうそう! シャドウってなんなんだよ」陽介がクマに詰め寄る。「俺らいろいろ聞きに来たんだよ、そーいうこと」
「シャドウは……うーん、ユーレイ? みたいなものクマ、たぶん」
「ゆ、幽霊?」
「ここの霧が晴れるとたくさん現れるんだけど、さいきんは霧があってもウロウロしてることが多くなったクマ。意地悪で乱暴で残酷で、すごくあぶない奴らクマ、だからはやく帰ったほうがいいって言ったクマ」
「鳴上」
「クマ、そのシャドウって、どんな格好してる?」
「かっこう?」
「ひょっとして、身長四メートルくらいで、裾の長い、こう、脛まである黒い服着て、鉄仮面つけててーー」
「んーシャドウに決まった形はないクマ」と、クマが割り込む。「みんな違う形だから、そういう格好のシャドウもいるかもしれんクマ」
(とりあえず尻尾は掴んだ……のか? いや、弱いな、もっと具体的な存在だと思ってたんだけど)
 始めこそ夢の中の出来事であったとはいえ、二度同じ形を伴って現れ、同じ言葉を発し、同じように命を狙ってきたあの巨人。とうてい幽霊などというあやふやなものには見えないばかりか、悠は未だかつてあれほどの具体に遭遇したことはなかったほどだ。あれがさして特別な理由を持たない、シャドウというカテゴリーに分類されてさえいればみな一様にかくあるというような、その辺りの有象無象と同じであるとは今ひとつ信じられない。
 それともシャドウはそもそもが執念深くて、一度ねらった獲物はどこまでも追跡する性質なのだろうか。
「クマ、シャドウって、特定の誰かをしつこく追いかけたりする、なんて事、あるものかな」
「うーん……シャドウは危なすぎるし、クマそんなに近くまで近づいたことないし、よくわからんクマよ」
その後、さらにいくつかのやりとりがあったが、クマの返答は終始あいまいかつあやふやで、そこはかとない怖れに満ちたものだった。さしずめトラの生態に関してウサギが見解を述べている、といったような内容である。どうやら彼はこの世界の力関係において、ほとんど最底辺といってもいいほどの弱者で、シャドウとやらはその対極にある存在らしい。――なるほど彼はひとりぼっちだった。どれほど孤独を温めたところで、シャドウは話し相手に選びうるような隣人ではないのだ。
 クマの提供してくれた情報は貴重であったとはいえ、それによってかの巨人の姿はより鮮明になるどころか、かえってぼやけてしまったきらいがある。今までの仮説を揺るがすには足りても、新たな仮説を立てるには質、量ともにまるで足りない。
「お前ってなんか、ここ長いって言ってるわりに、あんま知らねーのな」
「以前はこんな殺風景じゃなかったし、もっともっともーっといいトコだったクマ!」クマがぴこぴこ地団駄を踏み出した。「クマずっとひとりだったけど、静かで、いい匂いがして、なんとゆーかもっと明るいトコだったクマ!」
「その、なんでシャドウがうろつくようになったんだろう。なにか心当たりはない?」
「ないクマ、そんなもの」クマは即答した。
「お前が、ほら、なんかしちゃったとか、ねーの?」
「なんにも起きなかったし、しなかったクマ。まいにち平和で、ひとりぼっちだったけど、楽しく暮らしてたクマ」クマの声が次第に潤みがちになってくる。「クマはここに住んでただけ。ただここに住んでただけ、なんにもしないし、初めてシャドウを見たときだって、ちゃんと挨拶して、仲良くしましょうって言ったクマ。でもあいつらはクマをぶって、追い払って、この世界をこんなにしちゃったクマ……」
「…………」
「……そーいえば、キミたち、さっき言ってたクマ。シャドウのことを聞きに来たって」
「うん」
「あー、まあそれも込みでっつー意味で、だけど」
「ひょっとして……キミたち、シャドウをやっつけに来たクマ?」クマの声が一転、期待に明るみ始める。「いやいやそーに違いないクマ! ふたりとも強そうだし、それならきのう入って来たのも説明つくクマ!」
「つかねーよ! 俺ら路に迷ってたの知ってんだろーが! ただ訊きに来ただけだっつの」
「じゃあ、なんでシャドウのことなんか訊くクマー? とゆーか、クマ思うにィ、キミたちたぶんシャドウを知ってるクマ。じゃなきゃこんな興味シンシンにはならないはずクマ。そんでなんで興味シンシンかと言えばァ……それは弱点を知りたいからでェ……つまり、キミたちはシャドウをやっつけたいクマ!」
「やっつけたくねーよっ! たく、ちっとウルっと来たらこれかよ」
「クマ、シャドウかどうかはわからないけど、調べてることがあるんだ、おれたち」
「へ、なにクマ?」
「さっき少し話した、身長四メートルくらいの巨人のことなんだけど……聴いてくれる? おれたちの話」
「ほかにもいろいろあってさ、ちっと長くなるかも知れんけど」
「あっ、こんどはクマが聞く番クマ?」クマは嬉しげにしている。「聞くクマ、いくらでも。長くなったっていいクマ。お話だいすきクマ」
 この「お話だいすきクマ」には真率の響きがあった。まったくこれほどお喋りで賑やかな生き物が、覚えていられないほどの長い年月を沈黙と寂寥のうちに過ごしたというのだから、
(お前ってけっこう大変、なんてレベルじゃないな。ほんとうに可哀想なやつなんだ)
 陽介が「ちっとウルっと来た」のも無理からぬことである。





[35651] シャドウじゃなさそうクマ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:41



「シャドウじゃなさそうクマ」
 話を聞き終えたクマの、第一声がこれである。
「なんか、詳しく聞けば聞くほど……なにもんなんだ、その巨人って」陽介が眉根を寄せた。「シャドウよりやばいんじゃねーの、そいつ」
 最初の夢の話から順を追って説明したのを、いま初めて聞いたもので、陽介もどうやらクマに賛成らしい。
(満場一致だな。あれはやっぱりシャドウじゃなさそうだ)
 まったくのところ、件の巨人、整理すればするほどわけがわからなくなってくる。
「シャドウは向こうに出られないはずだから、シャドウじゃないクマね」
「ほんとうに出られない?」
「シャドウは人間を襲うクマ、少なくともクマの知ってるかぎり、ここに入ってきた人間はみんなシャドウに襲われてるクマ。人間だけ襲うかどうかはわからんけど、もし出られるならこんなトコいないで、人間をさがして一匹のこらず出ていくクマよ」
「……襲われるところを、見たの?」
 クマはちょっと黙ったあと、ぽつんと「無事に帰れたのはキミたちが初めてクマ」と宣った。
「…………」
「こん中だけならまだマシだぜ、クマには悪いけど。で、そのシャドウよりやばい巨人ってどうよ」と、陽介。「夢ん中に入って来たり、ひとをテレビの中に押し込んで殺したり……バケモンだな」
「花村、そいつが先輩を殺したかどうかなんてわからない」
「だってこんな一緒くたにいろいろ起こって、明らかに怪しい奴がいるってのに、ぜんぜん関係ないなんてありえねーだろ!」続けて、悠の口の開こうとするのを遮って、「わかってる。詭弁ってんだろ、シロじゃなきゃクロってのはそりゃおかしいけど……あーっ、言いたいことわかんだろ鳴上」
「言いたいことはわかる」
(わかる。現状、確証がなくたって、この一連の事件をあいつに結びつけてはいけない理由なんて考えられない)
 ただ、不審な点もないではない。こうして思い返すだにあの夜、テレビに押し込まれそうになったとき、かの巨人が悠を殺そうとしてそうできなかったとはどうしても思えない。悠を縛める腕を解いたのは少なくとも、彼自身の努力ではなかった。巨人があの矛で自らそうするにせよ、テレビに落としてシャドウに襲わせるにせよ、これが不可解ではある。
(かといって、なにか他の理由があったなんてとてもじゃないけど……)
 友好を求めるにあれほど理に適わないやりかたもあるまい。おまけに陽介の言を採用するなら、先方は最低でも殺人の前科が二犯、未遂も含めれば三犯の凶悪犯である。であれば、殺すより先にしなければならない、なにか特別な目的があったということなのだろうか。
「なんで先輩とか、山野アナが狙われたんだろうな……無差別なんかな、やっぱり」陽介がぽつんと言った。「山野アナは知らんけど、先輩、そんなことされるようなひとじゃなかった」
(そうだ、なんであのふたりが選ばれたんだろう。なにか共通点が――いや、ふたりじゃない。おれも含まれるかもしれないんだ!)
 この陽介の言葉が、悠にある可能性を突きつけた。手段はさておくとして、あの巨人は「テレビに入る能力を持つ人間」を始末するために現れたのではないか? 山野アナも早紀もひょっとして、悠と同じにテレビの中に入ることができたのでは?
(もしそうだとしたら、そしてあいつがテレビの外に出てこられるなら)あの冷たい巨人の手の感触が甦る。(安全な場所はない、ってことだ。ほかにそんな珍しいことのできる人間が、もういないとしたら、次は……)
「鳴上?」
「それで、キミたちはどーしたいんだクマ? その鉄仮面の巨人をやっつけたいクマ?」
「……やっつけられるものならやっつけたいよ」
 なにしろ命に関わるらしいことなのだ。ここまで知ってしまえばもはや、これをちょっと危険な好奇心などという浮ついた言葉で片付けることはできない。危なそうだからとここで引き返したところで、早晩いきつく先は百舌の速贄である。それがイヤなら、とにかく行動しなければ。
「でも、そうできないまでも、なんとか調べて、止める方法を探したい、と思う」
「できるかどうかわかんねーけど、つか、かなり無理っぽそうだけど、俺も協力する」陽介にあんがい怯えたふうはない。「そいつが先輩を殺したってんならぜったい許せねえ」
「花村――」
「わかってるって。でもひとりよりマシだろ」
「ふたりのほうがマシだな。おれとクマとで」
「おま――!」
「クマ」と、陽介を遮って、「おれはこの世界のこと、ほとんど知らない。だからクマに案内役をやって欲しいって、思ってる。協力してくれないかな」
 少し考えるふうを見せたあと、クマは改まって話し始めた。
「……シャドウは人間を襲うクマ」
「うん」
「この世界に人間が入ってくると、シャドウは活発になるクマ。現にいまもそう、ふたりを探しまわってるやつがいるクマ」
「え、お前、んなことわかんの?」
「匂いと気配でわかるクマ。――いままで人間が入って来たことはあったけど、こんなに頻繁に、みじかい期間でたくさん入ってきたこと、なかったクマ。もしキミの言う、その巨人のせいでそうなってるなら、クマもなんとかしてほしいって思うクマ。シャドウは霧が晴れたとき以外は、それほど暴れ回ったりしなかったし……もしその巨人を止めることでこの世界が静かになるなら」
 と、言って、クマは樽型の身体を折り曲げるようにしてお辞儀をした。
「お願いするのはこっちのほうクマ、そいつを捜し出して、こんなこと止めさせて欲しい。頼めるの、キミたちしかいないクマ!」
「断る理由なんかないよ、もちろん引き受ける」悠はクマの手を取って握手した。「よろしくね、クマ」
「約束、してくれるクマ?」
「約束するクマ」悠は笑顔で肯った。
「あ、ありがとう! よかったクマ!」クマは嬉しげに握手した手を振り回した。「ふたりがいてくれるなら心強いクマ!」
「あ、クマ、コレは数に入らないから」悠は陽介を示して言った。
「なんでだよ! 俺も――」
「理由は外で話しただろ。今回は無理矢理ついてきたから仕方ないけど、きょう解決できないなら花村を員数に入れることはできない」
「来ないクマ?」クマはやや寂しげに陽介を眺めている。「たくさんいたほうが楽しいクマ……キミ、ハナムラクマ?」
「いや行きたいんだって――え、名前? 俺は花村陽介。こっちは」
「こっちのひとは知ってるクマ。えーとナルカミセンセイクマ、たしか」
「先生?」
「こないだキミたち三人でやってきたとき、ヨースケと女の子がそう呼んでたクマ。センセイクマ?」
「……花村、そんなこと言った?」
「や、里中じゃね? 覚えてねーけど。つか呼び捨てなんだ……」
「よく覚えてるな、クマは。おれの名前は鳴上悠、先生なんて呼ばれるほど偉くないよ」
「センセイって、えらいクマ?」
「んん、まあ、そんな感じ」
「ふーん。じゃ、ユーとヨースケ、よろしくクマ!」
 自分で訂正しておきながら、悠はなんとはない居心地の悪さを感じた。自分の名前を気に入っていない彼にとって、この「ユー」呼ばわりはあまり耳よいものではなかった。
(家族にされるんならともかく……やっぱり、なんか違う)
「クマ、ユーじゃなくてナルカミがいいな」悠は控えめに提案してみた。
「ナルカミって、みょうじクマ? なまえじゃないクマ」
「お前、名前とか名字とか知ってんだ」
「え、ヨースケ知らないクマ?」
「知ってるっつの……お前って、そういうのどこで習ったわけ?」
(そうだ。このクマって、いったい何者なんだろう……)
 以前にも調味料だのパンツだの、この世界ではおそらく識り難いたぐいの概念を口に上していた。いや、そうと言えば日本語を喋る時点で奇妙なのだ。長い年月をここで過ごしたと言うが、それより前はどうだったのだろう。そもそもこの着ぐるみの中身は日本人? なにもそうであればおかしい、ということにはならないが……
「ところで、クマって、人間なの?」
「おま……ズバッと訊くのな」
「クマはクマクマ」
(話にならないな)
「……クマ、ちょっとじっとしてて貰える?」
 と言って、悠はクマの背後へ回った。
「なにクマ?」
「うん、いや、ユーじゃなくてさ、ナルカミって呼んで欲しいなあって……」
 ずんぐりした着ぐるみの胴体と頭部をつなぐぐるりを、太いファスナーが廻っているのが見える。何気ないふうを装いつつ引き手を掴むなり、悠はそれを一気呵成に引き回した。たちまちドーム状の頭部がこぼれ落ちる。
 悠と陽介はなかよく叫んで飛び退った。
「な、なんで……!」
「うっそだろ、これ無人なんかよ!」陽介は派手に尻餅をついている。「つかお前やるならやるって言えよっ! ショック死すんだろが!」
「悪い、でもこんなの予想できないだろ!」 
 驚くべきことに、着ぐるみの中には誰も入っていなかった。ほの暗い空洞を恐るおそる覗き込んでみても、小人一匹さえ見つからない。クマ――と言うより、手足の生えた容れ物――といえば慌てた様子で、足下に転がった頭部を手探りに探している。
(いよいよわからなくなってきた……わかったことと言えば、クマが人間じゃないってことくらいだ!)
 多少の恐れを抱きつつ、悠はクマの頭部を胴体へ接合してあげた。
「いきなりなにするクマァー!」クマは例によってぴこぴこ地団駄を踏みだした。
「ごめん、でも、どうしても確認しておきたかったんだ」クマという存在の近しきが、果たしてこちら側か、あちら側か。「もうしないよ、約束する」
「ユーだってあたま取れたら気分わるいクマ? やめて欲しいクマ!」
「うん……そうとう悪いと思う。ごめん」
「お前ってさ、いったいぜんたい何者なんだ?」
「クマはクマクマ」
「って言うと思った。まー……いっか、害はなさそうだし」
「いいんだ花村……」
「で、お互い協力するのはいいとしてだ、具体的にどうすりゃいいんだろ」
「それはクマにもわからんクマ。でも、この前の人間が入り込んだ場所ならわかるクマよ」
「この前って」陽介が勢い込んで尋ねた。「それ、いつだ。昨日か?」
「きのうって、いつクマ?」
「何時間くらい前? ええと時間って、わかる?」
「む、そのくらいわかるクマ。えーと」
 クマは胴体の側面についているポケットをまさぐって、小さな懐中時計を取り出した。
「……うーん、二十時間、も経ってないくらい? クマ、たぶん」
「小西先輩だ、鳴上!」にわかに陽介がいきり立つ。「つか、クマ、お前それわかってて助けに行かなかったのか?」
「もちろん行ったクマ、だから場所がわかるんでしょーが」
「間に合わなかった?」
「うーん……シャドウはふつう、そのあたりをウロウロしてたり、地面の中に潜んでたりするんだけど」
「だけど?」陽介が相づちを打つ。
「人間が入ってきたときだけ、なんとゆーか、ちょっと変わった動きをするクマ」
「というと?」悠が相づちを打つ。
「いきなり現れるクマ、人間のところに。たぶんそういうことなんだと思うクマ」
「……たぶん、思う? 見てないの?」
「見れるほど近づいたらただじゃすまないクマよ!」クマがぴこぴこ地団駄を踏み出す。「でも気配と匂いからコーサツすると、クマ的にはそうとしか考えられないクマ。とくに霧が晴れてるとそういうことになりやすいから、クマが近くにいたとしても間に合わないことがほとんどクマ」
「おい、ちょっと待てよ……じゃあ俺たち、いまもかなり危ないってことか?」
「だーからクマはァ、ここはあぶないってェ、ずっとずーっと言ってるクマァ?」クマがふんぞり返る。「でもここはダイジョーブ! シャドウはここのほかにもいくつか、入りたがらないところがあるクマ」
 この世界は危険だと言いながら、自分と話しに来たという人間をあんがいあっさり招き入れたのは、こういう事情によるらしい。
「でもどのみち、あの時はちょうど霧が晴れてたし、クマが合流できてたとしても、たぶん逃げ切れなかったと思うクマ。キミたちももう少し入ってくるのが遅かったら、きっとダメだったと思うクマ」
「……俺らってひょっとして、かなり運がよかった?」
「その運がまだ尽きていないことを祈ろう。――じゃあクマ、さっき言ってた、人間の入り込んだっていう場所」
「行くクマ?」
「手がかりがあるとしたらそこくらいだろうし、頼める?」
「わかったクマ」
 図らずも学校で話した通り、これで「小西先輩の不幸のあったらしい現場にどうやってかたどり着くための、算段がついた」ようだ。陽介の優しげな面にある種の覚悟が閃く。まんざら命の危険に対してのものだけではあるまい、あのアパートで見たようなものが――あるいはもっと酷いものが――これから行くところにあるかもしれないのだ。早紀とさして縁の深からぬ悠にしても、平然としてはいられない。
「それと、行く前にふたりに渡しておくものがあるクマ」
 と言って、先ほど取り出した時計をしまいがてら、クマは入れ違いに眼鏡のようなものを取り出した。
「はいコレ。かけるクマ、きっと似合うクマ」
「なんだよ、この眼鏡」
「度入り?」
 言われたとおりかけてみると――思わず感嘆の声が漏れる。伸ばした手のうっすらと霞むほどの濃霧が、レンズ越しの視界からたちどころに掻き消えたのである。
「うお、すっげ……」陽介は眼鏡をかけたり外したりしている。「ええ? どういう原理……?」
「この世界を歩くのに役立つクマ」
「クマ、これ、どこで手に入れた?」と、悠。「クマが使うためのものじゃないよな、サイズ的に」
「え? えーと、えーと」
「あ、そーだよ、お前なんでこんなもん持ってんだ」
「……クマが作った、クマ」言いにくそう、というより、クマは恥ずかしがっているように見える。「こないだ、三人が来て、クマと話して、そんで向こうに帰ったあと、思ったクマ。ひょっとして、ひょっとしたらまた、こっちに来てくれるかもしれないって。そのときなにかあげたら、喜んでもらえるかもって、思ったクマ。だから……」
「…………」
「あの女の子のぶんもあるクマ」
「クマの思った通りになったわけだ」悠はにこやかに続けた。「ここでこれいじょう素晴らしいプレゼントって、ちょっと思いつかないよ。素直に嬉しい。だろ、花村」
「え? おお、フツーに嬉しいよ!」陽介は朗らかに続けた。「なんせこれなきゃほとんどなんにも見えねーんだから。ありがとな、クマ」
「どういたしましてクマー!」
「あ、ついでにさ、ちっと訊いて見んだけど――」
 と言って、陽介がなにか気にするようにして辺りを見回し始めた。ほどなく目的のものを見つけたようで、テレビの影にしゃがみ込んでなにか細長いものを拾い上げる。
「花村?」
「あー、あったあった。あのさ」陽介の持って来たのは、先に家電売場で見かけたゴルフクラブだった。「いちおう武器とか、まー雰囲気出しっつか、護身用で持ってきたんだけど……お前、なんかよさそうなの持ってない? 光線銃的なものとか」
「ブキィ? そんなものお取り扱いしてませんクマー」クマはにべもない。「言っとくけど、クマにできるのは道案内だけだから、自分の身は自分で守って欲しいクマ。クマはごらんのとおりのテンダーフレーム、アラゴトはノーセンキューベリマッチクマ」
「うえ……お前、なんかできねーの? 中身ねーんだろ? 人間じゃねーんだろ?」
「中身いっぱい詰まってるクマよ。愛とかー勇気とかー」
「クマ、シャドウって、殴りかかってなんとかなるものなの? そのゴルフクラブとか」愛とか、勇気とか、「役に立つのかな……」
「んーまあダメでしょーね」クマはにべもない。「シャドウはほとんどぜんぶ、人間なんかぜんぜん敵わないほど強いクマ」
「じゃシャドウに遭ったらどーすんだよ!」
「遭わないようにするクマ」
「遭ったらって言ってんの!」
「逃げるクマ」
「逃げられなかったら!」
「覚悟するクマ」
「マジかよ……!」
「準備は万端、善後策も完璧、これで後顧の憂いなし、だな……」悠は明日の夕刊の三面記事に想いをはせた。「花村、帰るならいまのうちだけど」
「い、行くよ。行くって。行かさしていただきますって……!」
「……じゃ、花村がやる気に逸ってるみたいだし、そろそろ移動しよう」
「んじゃ、こっちクマ」クマが先導して歩き出す。「ちょっとだけ離れてついてくるクマ。あんまり近くにいられると鼻が利かなくなっちゃうクマ」
「了解。――そう言えば、花村、それ」
「へ、あ、これ?」
 悠の指し示したのは、陽介の腰から垂れて下がる縄である。
「さっき気付いたんだけど、それ、なに?」
「あー……ダメだったか」陽介の面に苦笑が浮かぶ。「いや、これテレビの中から戻ってくるときの命綱のつもりで、結んできたんだけど、切れちまったみたいだな」
「……切れなかったら問題だったぞ。テレビパネルから伸びた荒縄なんて見逃してくれるの、葛西さんくらいだろう」
「お前の中の葛西さん株ってどんだけ低いのよ……もちろん、そこらへん考えてたよ。向こうの端っこ、里中が持ってるから」
 あわれな千枝はいまごろ、プラズマテレビの前で縄の切れ端を握ったまま立ち竦んでいるのだろうか。いや、もう付き合い切れないなどと言っていたからには、愛想を尽かして帰ったのかもしれない。
「なにしてるクマふたりともー。置いてくクマよー?」
 ふたりとも話がちになって脚を止めたのを、クマが焦れて急かし始めた。
「花村、急ごう」
「おお。――そうだ、鳴上ほら、昨日ここ来たとき」
「え?」
「なんかおまじないっぽいこと言ってたじゃん。なんかねーの? せめてこう、縁起のいいやつ」
「縁起のいいやつ、ねえ……」
 あればこっちが教えて欲しいくらいだ――もっともこんな状況でどれほど勇ましいことを言ったところで、悪質な皮肉にしか聞こえまいが。  
「……クォー・モリトゥーレ・ルイス」悠は陽介を追い抜いて足を速めた。「マイオラークェ・ウイリーブス・アウデス」
「待ってくれよ。で、なんて意味なんだ?」
「死にゆくものよ、いずこへ急ぐ。その力の及ばぬ難事にあえて挑むとは」陽介を振り返って、悠は薄い笑みを浮かべた。「……いまのおれたちにはぴったりだろ」





「なんだよここ……」
 それは件のスタジオを出て二十分も歩いたころ、忽然と視界の端に現れた。
(八十稲羽商店街……?)
 悠自身、商店街を見たのは越してきた日だけであったが、今し通り過ぎたガソリンスタンドのレイアウトには確実に見覚えがある。おまけに遼太郎の言っていた本屋まで見つかったのだから、おそらく間違いないだろう。古いガス灯ふうの街灯。やや色合いに乏しい渋い風情。おしなべて背の低い、棟を一様に鉋でならしたような家々。広い車道。黄昏をうたがう薄闇と、赤黒に明滅する不気味な空を除けば、そこは記憶にあるとおりの八十稲羽商店街であった。
「ここ、商店街だよな、八十稲羽の」と、困惑気に陽介が言った。「そっくりだ、いや、まんまだろこれ。どうなってんだ……」
 ふたりと一匹はつい先ほどまで、建造物はおろか樹木の一本とてないタイルの上を、シャドウに怯えながらこそこそ歩いていたのだ。さながら映画撮影所の屋外セットに迷い込んだような形である。
「もう近いクマ」クマの声に緊張が漲る。「シャドウも近くにいるクマ、ふたりとも大きなこえ出しちゃダメクマよ」
「クマ、いったいどうなってんだ」陽介は声を潜めようとしない。「ここは俺らの世界にある町なんだ。どうしてこんなところに」
「もっと声を小さく、クマ!」クマが大声で注意を促した。「クマにもわからんクマよ、さいきんおかしな場所が増えてるクマ。ここもそうだし、ヨースケたちに初めて会ったあそこもそうクマ」
 クマは続けて、どうやらこの世界は広がっているらしい、と言う。
「ここも以前は、ただ大きな穴が開いてただけの場所だったクマ。それが、人間が入ってきたときに、なんでかわからんけど、こんなものができたみたいなんだクマ」
 穴といえば、悠も先日この世界に入って彷徨った折にいくつか見ている。それと壁とがこの世界において移動を阻む「外郭」のような印象を与えていた。
「おい、鳴上、クマ、ちょっと」
 陽介が歩道へ逸れて、手近な店舗の庇に入ってふたりを手招いている。
「どうした」
「ここ、よく見てみろ」陽介の示したのは店の入口の引戸である。「中みてみようと思ったんだけど……わかるか? これ、開くようになってない」
(……嵌め殺しになってる、というより)
「なんだこれは……」
 嵌め殺し、というより、その引戸は外壁を含めた大きな「一枚板」の一部なのだった。よくよく見れば戸に張られたガラスも、この薄闇を考慮してさえ不自然なほど店内を透かさない。
「鳴上、携帯」
「…………」
 バックライトで照らしても、ガラス戸は黒色を白く反射するだけである。
「……これ、地だ、もともと黒いんだ。中なんてない」
「この店じたい恰好だけの作り物ってことか。にしちゃよく出来過ぎてるけど」
「どしたんだクマ?」元々の町を知らないクマはあっけらかんとしている。「まだ先クマよ」
「うん、ちょっとね」
 その後、いくつかの店舗を手分けして調べてみるも、結果は同じであった。つまりこの町は表面だけが恐ろしく精巧にできたハリボテのようなものらしい。
(こんなものが忽然と、穴をふさいで現れたっていうのか……?)
 人気の全くない、物音ひとつしない、この偽物の町の只中にあって、悠は気味の悪い寒気を覚えていた。見れば陽介も例外ではないらしい。――背中に猛烈なタックルを食らったのも、いま思えばありがたいくらいであった。この不気味きわまる道行きを耐えるに、ひとりよりふたりのほうがはるかにいい。
「終わったクマ? もうすぐそこだから、あんまりウロウロするとあぶないクマ」
(あと、一匹も、か)
「花村いこう。もう見るものはない」
「ああ、本命を除いてな」陽介の面に苦いものが奔る。「これから行くところにはもう、見当がついてる」
「どこ」
「……小西先輩の家、たぶん」クマの立ち止まったのを見て、陽介はため息をついた。「そこだ、コニシ酒店」
「とーちゃく、クマ」
 果たしてクマの指したのは、年季に煙る酒店の看板だった。「春鶯囀」との墨痕も鮮やかな行灯看板がひとつ、薄闇に翳る軒先をぼんやりと照らし出している。この「偽八十稲羽商店街」に入ってから初めて見る明かりだった。その下に乱雑に積まれた空のビールケース、特売か新発売か、いくつかの銘柄がポップ体で書かれた広告、そしてなにより見せかけでない、半分ひらいたままの引戸――
(ここは少なくとも、見せかけだけじゃないな。明らかにほかとは様子が違う)
「先輩、ここで消えたってことなのか? 自分の家で……」
「い、いるクマ、ユー、シャドウがかなり近くにいるクマ……」
「具体的にどの辺りに――」
 言いかけて、悠は言葉後を呑み込んだ。
「いま、音、したよな」陽介は凍り付いている。「誰かいるのか? 中」
「ヨ、ヨースケ、下がるクマ、はやく……!」クマがじりじりと後退る。「そこ、そこにいるクマ、潜んでたんだクマ!」
「いるってなにが――」
「花村!」
 とっさに駆け寄って、陽介の腕をつかんで引き倒すのが精一杯だった。もろとも倒れ込んだふたりの背に、粉砕したガラス戸の破片が盛大に降りかかる。
「あわわ……シャドウクマァ……」
 コニシ酒店から飛び出してきたのは、人間大ほどもある、ほとんど口だけの身体に、黄いろい乱杭歯と布団みたいな舌を備えた怪物であった。
「なっ、なんなんだよあれ……」
(あれがシャドウ……!)
 シャドウは同じ態のものが二匹いた。そのうちの一匹がどうやってか低く浮遊しながら、立ち上がろうとするふたりの許へゆっくり近づいてくる。見知らぬ人間に餌を与えられた野生の犬猫が、警戒心と空腹とを秤にかけながら臆面たらしくそうするように、見えないなにかを迂回するかのように躙り寄ってくる。
「花村、逃げないと――クマ! どうすればいい!」
「どうしようもないクマ、ここまで近づかれたら逃げたってもう……」クマの声に絶望が滲む。「か、覚悟するクマ……!」
「ふっ、ざけんなよ、覚悟しろ、だァ? そんな、潔く、ねーんだよ、俺は」
 どうにかこうにか立ち上がっても、陽介はすでに恐怖に押し拉がれていた。脚も腕も、一縷の望みとばかり相手に向けて構えられたゴルフクラブも、声すら病を疑うほどに戦いている。
「馬鹿! そんなもの役に――!」
「わかんねーだろっ! やっ、やってやる、来い!」
「冷静になれって! クマの話きいてただろ!」
「……鳴上、クマ連れて逃げろ、行けっ」
 いまにも泣き出しそうな顔で、震え上がりながら、陽介はこんなことを言う。
「なにを――!」
「聞いてたよっ! 聞いてたから、こっ、こうしてんじゃねーか……!」
「おまえ……」
「誰かが引きつけなきゃ――早く! 行けってのにっ!」
 そうと言われたところで動きようなどない。この「友人」を捨ておいて逃げる覚悟などというものは、こんな緊急時にとっさに探すものとしては、現状を打開する手だてと同じくらい見つかりそうにない代物である。――逡巡していると早く行けとばかり、陽介の鋭い蹴りが飛んできた。
(わからない、どうすればいい、どこか逃げ道は……!)
 尻餅をついたまま左見右見する。いくつかの小路が目に留まる。悠はしめたとばかり腰を浮かせる。が、このジオラマのような町ではどこへ逃げ込んだところで回り込まれるのがオチだ。それでも殴りかかるよりは……
「花村、とりあえず――!」
 悠はそのとき、自分の胸ポケットからなにか滑り落ちたような感覚を覚えた。足下で硬いもののぶつかる、かつんという音が聞こえる。携帯を落としたと咄嗟に思ったのは、足下にぼんやりした光を感じたからだった。
「……なんでここに」
(おかしい、これは段ボール箱の中にしまったはずだ、持ってきた覚えはない)
 悠の足下に落ちていたのは携帯電話ではなく、金色の帯で封をされたカードケースであった。それが薄い燐光を放っているのである。
 すぐ横で陽介が気を吐いた。持っていたゴルフクラブをバットさながらに振りかぶって、すでに触れる位置にまで近づいていたシャドウにフルスイングを見舞う。
「クマー! 逃げろー!」
 もろに一撃されたシャドウは横ざまに転がった。が、被害らしい被害を蒙った様子もなくふたたび浮き上がる。悪意に満ちた赤子の泣き声、とでも形容できそうな、身の毛もよだつ唸り声を上げながら。どうひいき目に見ても友達を欲しがっているようには見えない。もちろん、いまの一撃を愛情表現の一種と誤解してくれてなどいないことは明らかだった。
「おい逃げろって! お前も早くっ!」
 陽介はひん曲がったゴルフクラブを勇敢に構えて、あくまで立ち向かうつもりであるらしい。彼の必死の勧告もろくろく耳に入らない。なにをどうしようという意図もなく、悠の手は自然とカードケースに伸びる。
 つかんだ、と思った瞬間、悠の足下に暗い、広い影が落ちた。





[35651] 吾、は、汝
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:46



 いま自らが置かれている状況を評して言うに、もし彼自身の知っている語彙の中で少しでも近いものを選ぶとすれば、それは「混乱」になるだろうか。
 それはすぐ横にいたクラスメートの絶叫と、少し離れたところにいた着ぐるみの絶叫と、悠自身の口から迸った絶叫とでさらに強化された。これに感化されたのか、それとも別の理由か、悠達に迫っていたシャドウまで驚いたように飛び退る。
 薄闇に溶ける長衣と鉄仮面とを纏い、その体躯ほどもある矛を杖に持つ巨人が、忽然と、悠に覆い被さるような形で膝をついていたのである。
「吾、は、汝」
 凍り付く悠の頬を巨大な掌が包み込む。いっそ優しいとさえ言える、穏やかな挙差で。
「汝、は、吾」
 先に見た夢のように、磨き込まれた鉄仮面が近づいてくる。近づくほどに混乱はほどけて、どこか隠された根拠に基づく大いなる安心感が胸を占める。
「汝、よ、告れ」
 鉄仮面の双眸、その奥に金色の炎が灯る。この炎がどこのなにから来ているのか、悠にはそれがなぜか当たり前のようにわかる。この炎の種火がどこの火床に由来するものか。
「吾、呼ばへ」
 悠は手を伸ばして、いまや鼻先にまで迫った鉄仮面に軽く触れてみた。熱い。炎の熱さではない、あたかもそのすぐ向こうに血の通った肌があるのではと思わせるほどの、それは温もりに満ちた、
「……仮面ペルソナ
「鳴上……」
 悠の視界、というより、かつて意識したことのなかったより上位の知覚に、ふいに彼自身と巨人の顔とが同時に投影される。――これはまったく、途方に暮れるほどの困惑であった。悠には自分の顔と巨人の顔が同時に見え、しかも同時には見えておらず、おのおの独立して見えている、のである。
(???)
 とりあえず陽介に返事をしなければ、と、彼のほうへ振り向くと、今度は自分の後頭部と陽介が同時に知覚される。
「そいつって、お前の、いっ、言ってた」
「あ、待った、これは――」
 陽介が情けない悲鳴を上げる。知覚されていた悠の後頭部がぐうっと下へ沈み込んで、その向こうにへたり込んだ陽介と、彼を遠巻きにする二匹のシャドウを見下ろすような形になる。おれはいま立ち上がった――しかも、同時に悠は座り込んでいる。右手に硬く頼もしいなにかを握っている感覚がある。しかも、悠の右手は力なく身体の脇に垂れている。
(おれはいま、巨人になってるんだ……いや、おれはこのとおり座ってる。違う! いや、どちらでもあるんだ。なんだって? 馬鹿なことを! なに考えてるんだ? ええ?)
 この支離滅裂が疑いようもなく、しかし確乎とした真実であるというどうしようもない確信! 精神衛生上せめていま眩暈でも覚えられれば少しは楽になろうものを! この初めて出くわした、あまりにも異質に過ぎる概念になんとか説明をつけてみようと、彼は知れきった無駄な努力をしてみた。
「鳴上?」
「だ、大丈夫。ちょっと、待って、把握してる」
 右手をあごに持ってこようとする。頭上でなにかとんでもなく長大なものが持ち上げられる。それを振り仰ごうと上を向いても、悠の視界から陽介は消えない。どうやら巨人のほうがあごを逸らしたらしい。
(落ち着け、落ち着こう、いいんだ、わからなくていい、とりあえずこの場を……そう、こうしよう。とりあえず、どちらかだけ、いや、巨人のほうだけを動かそう、いや、この考え方はじっさい正確じゃない、動こう、よし、やれる)
「大丈夫クマかー、ユー!」
 着ぐるみがぎょっとした様子で後退る。「悠」がクマを見下ろしたのである。陽介を見詰めたままの悠はとりあえず、背中を丸めてアスファルトに突っ伏した。こちらの「統御」は最小限に留めなければ。
 シャドウに視線を転じると、二匹の小さな怪物は弾かれたように飛び退った。そうして惨めったらしい、負け惜しみめいた吠え声を上げ始める。
(あんなに得体の知れない、獰猛そうな怪物に見えたのに……)
 巨人の姿を得てよりのちに見下ろすシャドウの、なんとはかなく矮小に感じられることだろう! 悠はいま自らが、表現しようとしてしえないほどの、強大な生物であることを静かに認知していた。
「花村」悠は亀になったまま面を上げた。「この巨人の、後ろに」
「大丈夫なのかお前、どうした!」
「大丈夫。はやく、クマも。シャドウは、おれが」
 寄り添っていた二匹のシャドウのうち、一匹が乱杭歯を剥いて飛びかかってきた。――なるほど、クマの言い分は間違っていない。最初からこのスピードで襲いかかって来ていたら、悠も陽介も覚悟する時間すら用意できなかったことだろう。それも降って湧いたこの謎の力を得たあとでは、幼児が泣きながらだっこをせがんでくるのと大差なかった。
 振り上げた左腕にシャドウが齧り付く。なにかが腕を挟んだ、くらいの印象である。この巨人の肌を傷つけるには彼の歯も力も脆弱に過ぎる。もはやシャドウに対する恐怖は微塵もなかった。それどころか、必死にガリガリやるのを見ているうち、悠の中にはこの醜い怪物に対する軽蔑と、かすかな憐憫さえ湧いて来るのだった。
「花村、ほら。こいつは、なんにも、できない」自分でも驚いたことに、この科白は笑いを含んでいた。「そのゴルフクラブ、こいつらには、高くついたよな」
「……クマ! こっち、このでかいのの後ろに隠れろ!」
 陽介とクマが後退するのを待って、「悠」はゆっくりと歩き出した。悠を蹴飛ばさないよう迂回して、左腕のシャドウはそのままに、奥に控える片割れを目指して。――もう一匹の襲撃は、彼の相棒ほどの戦果も得られずに終わった。矛の無造作な一閃でシャドウはまっぷたつになり、なにか汚らしい中身をアスファルトにぶちまけて果てたのだった。
「うげ……」
「す、すごいクマ、シャドウがあんなにあっさり……!」
「……花村、少しは、気が晴れた?」
 巨人がUターンして戻ってくる間に、悠はそろそろと立ち上がりかけた。途端に巨人の足が縺れる。ついでに悠も横倒しになりそうになる。花村が慌てて駆け寄って彼を支える。
「おい、やっぱり大丈夫じゃねーだろ」
「いや、ほんとうに大丈夫なんだ、ただ操作が」
「操作? 鳴上、一匹のこってるけど――」
 と、陽介の言うあいだにも、件のシャドウは左腕からむしり取られたあげく、半紙でも千切るみたいにしてあっさり引き裂かれてしまった。
「…………」
「花村わるい、立たせてくれ」
 片方に専念するならともかく、この「巨人」を自分の身体と平行して使うのはそうとう難しいようだ。いままで試みたことのないたぐいの努力、喩えるなら、足で抽象画を描きながら手で写実彫刻を試みるような、まったく別次元のストレスを感じる。
 巨人が目の前に来るのを待って、悠はようやく花村から離れた。
(おまえを誤解してたな)
 自身の身体に専念するとじき、「もうひとつの知覚」はにわかに薄らぎ、それに伴って巨人の姿も霞んでいった。完全に消えてしまう間際、一枚の青い燐光を放つカードがゆっくりと、悠の結ぶ手のひらに落ちてくる。
(最初からあったんだ、おれのすぐ近くに。なくしたわけじゃなかった)
 落掌したのは見覚えのあるタロットカード。みすぼらしい旅装の若者が象徴的に、ちょっとデッサンを崩して描かれていて、その下のスクロールに「THE FOOL」の文字が躍っている。――彼はちょうど間に合ってくれたのだ、幾度も「自分」に恐れられ、誤解されながら。
「さっきのって、お前だよな、やったの……」陽介は呆然としている。「なんだよ、いまのやつ」
「……ペルソナ」
「ペルソナ……って、なに、どういう、てかお前なにしたんだよ!」
「あ、シャドウが」
 クマのそう言って示すほうを見たときには、すでに道路を汚す二匹の死骸は急速に消えつつあった。どういう原理か、シャドウは死ぬと――そもそも生きているのかどうかもわからないが――消えてしまうらしい。
「消えたな。どういう生き物なんだろう……」
「ああ、それもそうだけど、その、ペルソナのこと」
「よくわからない、おれも。ただ」悠は手に入れたカードを陽介の目の前に示した。「さっきの鉄仮面の巨人について、おれ、とんでもない誤解をしてたみたいだ」
「あ、そうなの……えっと、鳴上、なんだ?」
「え?」
「この指。なに?」
 と言って、陽介は目の前のタロットを怪訝そうに指さした。
「指って、いや、タロットカード」
「タロットカード? え?」陽介の眉が困惑に顰む。「……合図? 悪い、わからん、どういう意味?」
「ええと……カードだよ、カード。こういうのをタロットカードっていうんだ」
「こういうの、って……いやホント悪い、わかんねーんだけど。タロットカードは知ってるよ」
(……見えてないのか?)
「いまカードをつまんでるんだけど」
「……この指で?」
「そう、いま、この指で」
「冗談、じゃないよな、いや確認なんだけど」
「もちろん違う。大まじめ」
「……マジで? 見えねんだけど」
「冗談、じゃないよな、確認だけど」
「見えない。大マジで」
「そんなバカな、ほら、こうすれば感じる――」
 件のタロットで陽介の頬を撫でたつもりが、なんの抵抗もなく顔に埋没してしまった。
「どうして……」
「俺もどうして、だよ。たぶんお前以上にさ」陽介は力なく笑った。「ま、いいや。それはともかく、助かったぜ」
「助かったのはいいんだけど……」
「それより、さっきの、ペルソナって言ったよな」とたんに陽介の眼に好奇心が漲る。「なあそれ、俺も出せたりすんのかな……」
「というか、なんでおれにこんな」
「落ち着けヨースケ、センセイが困ってらっしゃるクマ!」
 最前から黙って様子を窺っていたクマが、ようようふたりの許へやってくる。なんだか恭しいような尊大なような、奇妙な態度である。
「……センセイ、だァ?」
「いやはやセンセイはすごいクマねー! クマはまったくもって感動した!」と言って、悠の手を取りながら、「こんなすごい力を隠してたなんて……シャドウが怯えてたのもわかるクマ!」
「隠してたわけじゃ」
「もしかして、この世界に入って来れたのも、センセイの力クマか?」
「あれを力なんて呼べるかわからないけど……そうなる、のか?」
「まあ、俺はできないから、そうなんじゃねーの?」
「ふむー……やっぱりそうクマか! こらすごいクマねー」ひとしきり感心したあと、クマは傍らの陽介の肩をびしびし叩いた。「なっ、ヨースケもそう思うだろ?」
「なに急に俺だけタメ口になってんだ! チョーシ乗んなっ!」陽介が凄んだ。「なんなんだその掌の返しようは!」
「はい……」クマはたちまちしょげ返った。「でもでも、ヨースケはアレ出せなかったし……」
「なんか言ったか」
「メッソウもございませんです」
「たく、オメーだってなんにもしてねーだろ」
「クマはシャドウを探知してくれただろ、案内もそうだ」
「そりゃ、そうだけど……」
「花村だって活躍したじゃないか、さっき」
「……ヨースケ、なんかしたクマ?」
「真っ先にシャドウに立ち向かって、おれとクマに逃げろって、言ってくれただろ」ひん曲がったゴルフクラブを指して、「誰にでもできることじゃない、おまえは凄い、ほんとうに。少なくともさっき、逃げることであたまが一杯だった、おれは……」
 火は黄金を試すというが、先の試金によって暴かれた陽介の裸かな姿は、顧みて悠の眼にいかにも眩しく映った。
 陽介はそもそも初対面のときから、いまひとつ軽薄で軟弱な印象の拭いきれない人間であった。彼に感じるようになった親しみもけっして丁重なものでなく、ただ側にいれば心和む、その陽気で善良な人柄に一定の信頼を置くことができただけに過ぎない。悠が彼を一段下に見ていた、というのは、じっさい否定しようもない事実だった。だのに……
(結局、おれにひとを見る目がなかったのか……いや、ぜんぶ見たつもりになってたんだろうな、きっと)
 この地金の輝きはどうしたことだろう? 捨身の勇気! それは悠自身、かつて自分の中に見出したことのないものだった。たしょう直情径行かつ短慮であるなどと、この輝きに引き比べてはほんとうに小さな短所と言わざるを得ない。彼は友人である、彼が友人である――この想念には悠自身の自尊心をくすぐる、なんとはない誇りがある。
「いや、いま考えりゃ、さっきは逃げなきゃいけなかったんだ。俺のはただの考えなしだって」陽介は照れているようだ。「誰でもできることじゃないっていえば、お前だよ。あのペルソナ? だっけ? あれスゲーじゃん!――あれってちなみに、いまもパッって出せたりすんの?」
「考えなしって言えばおれだって……準備してきたわけじゃない、あのペルソナが間に合ってくれたのはただの偶然なんだ、ほんとうに、ただの偶然」
 ましてその救世主を天敵あつかいしていたのだ。いかに悠自身に由来する力とはいえ、彼はその功績を誇っていい立場になかった。
「花村は逃がそうとした。おれは逃げようとした。この差は大きい」
「謙遜すんなって」
「そのセリフ、熨斗つけて返す」
「え、ノシってなに?」
「ヨースケはものを知らんクマねー。ノシっちゅーのはァ、桂剥きにして干したアワビのことでェ、むかしから敵を打ち伸ばして家産を伸し広めると言われて――」
「知らねーよっ! つかお前の知識どんだけ偏ってんだよ!」
「ええ……常識クマよ……?」
「なにそのちょっと信じられないこのヒトって態度!」
「尊敬するよ花村、ほんとうに」
 笑い含みにこんな言葉が口をついて出てくる。
 我がことながら、自分自身の言葉の、その真率の色に、悠は卒然とあることに気付かされた。――これは苦い自覚だった。思えば自分は、皮肉か諧謔でもないかぎり、そうすることによって相対的に、自らの価値を積極的に落としかねない言動を、いままで無意識に避け続けていたのではなかったか?
 思えば、クラスメートを「尊敬」するのは、これが初めてだったのではないだろうか。同年代の他人に対してこんな考えを抱くのは、実に初めてのことでは? 自分は「同級生」という細胞群で構成された一匹の生物に対して、いままでどんなことを考えていたのだったか。
(……光が強くなった)
 左手に抓んだままのタロットが、とみに輝きを増す。眼を射る燐光の中の、旅装の「悠」がもの言いたげに、彼を見上げているような気がする。――おれは愚か者ザ・フール、ではおまえは何者?
「あーもー大げさ過ぎんだって! それに殴ったってぜんぜん効かなかったんだし、なんかしたことにはならねーって……」
「そークマね」
「なんか聞こえた?」
「クマ耳ちいさいから」
「……お前も同じことしてみろっつんだよ」
「ムリムリ。筋肉ないもん」
 おまえはかつて同年代の他人を、ちゃんと見ようとしたことなんかなかった。尊敬したことなんかなかった。それどころか、おまえはその逆のことさえ考えていたのではなかったか。もし自分という人間を友人に持つものがいたとしたら、それが彼にとってどれほどの光栄であることか! その光栄の安売りなどすまい――おまえはこう考えていたのではなかったか?  
(やめろ! まったくなんて下らない答えが出てきたんだろう、考え過ぎるものじゃない、馬鹿馬鹿し過ぎる! こんなのはただの下手くそな自虐だ、謙遜のし損ないに過ぎない!)
 破り捨ててしまおうか――悠はタロットにそっと両手を宛がった。旅装の「悠」の無言の責めがむしょうに腹立たしかった。なにしろ思い当たることがあり過ぎた。ただこうも直接的に断じなかっただけ、彼一流の諧謔と韜晦とが、それをなにか別のものに擬態していたというだけ。
(いままでの考えを否定しさえすれば、それでおまえはどこかしら前に進んだ気になれるのか? おまえはそれほど愚かだったか! 考えるのをやめろ! 違う、考え続けろ!)
 こんな考えがいま、どれほど彼の胸中を虚しく滑っていくことだろう。悠は悄然として「悠」を破り捨てるのを諦めた。どんな凶悪なシャドウでも、彼をこれほどの恐怖に陥れることはできなかっただろう。背筋の凍る思いだった。どれほど真っ当らしい言説で自身を弁護しようとも、たったいま初めて見出した輝きが、それを隠しようもなく照らし出す。
「へーへー、じゃ次は盾にでもなってもらうか」陽介が悠の肩を叩く。「ま、お前らのおかげで、この先シャドウが出てもなんとかなりそうじゃん!」
「…………」
「おいって、そんなに落ち込むことねーだろ。ほら、おれだってとっさの行動で、次おなじことあったら逃げるかもしれんし」
「ありえるクマ」
「なんか言ったか?」
「センセイ元気ないなーって言ったクマ」
「いや、うん……」
「ほらほら元気だせってセンセイ、頼りにしてっからさ!」
「おまえは凄いよ、花村」悠は深いため息をついた。「先生なんて呼ばないでくれ、そんなんじゃない……」
「いやお前のほうがスゲーじゃん。つか……なんでそんな急にテンション低くなってんの? あれ?」
「ユーのほうがいいクマ?」
「……いや、センセイでいい」
 忌まわしいタロットはひとまず胸ポケットにしまって、悠は気を取り直した。
「悪い、ちょっとイヤなこと思い出してさ。――さ、中に入ろう」
「おう。じゃクマ、次はよろしくな。お前が戦ってくれんだろ?」
「もういっかいヨースケのお手本が見たいクマー」
 曲がったゴルフクラブを押し付け合いながら、陽介とクマが店内に入っていく。クマがことさら注意を発しないところを見ると、どうも中にシャドウはいない様子である。彼らが敷居をくぐるのを待って、悠も店内に足を踏み入れた。
 とたんに、店内の蛍光灯が一斉に灯る。





 八十稲羽商店街の店舗はおしなべてそうなのか、店内はわりあいに広かった。幅のそれほどない代わりに奥行きがある。鰻の寝床というやつだ。
「クマ、シャドウはいないんだよな」
「いないクマ」クマは自信ありげに断じた。「この町にはもう一匹もいないクマ」
「安心はできねーけど、でもまあ、こっちには鳴上センセイがいるし」
「そーそー、センセイがいればシャドウなんかこてんぱんクマ」
 一瞥した限り、店内に取り立てて奇妙なものは見当たらない。右手の壁にずらりと並ぶリーチインタイプの冷蔵庫が、しんとした店内に微かな顫動音を響かせている。色鮮やかな蒸留酒、つまみや菓子類に混じって、ちょっとした酒器のたぐい――雪子の言っていたものだろうか、城根焼との表記がある――まで販売されているのは、零細の専門店ならではなのだろうか。店のいちばん奥にちょこんと設えられたレジカウンターも、あまり窃盗を警戒していない、開けっぴろげな田舎っぽさを悠に想起させる。
「花村、ここに入ったことは?」
「え? ああ、向こうの世界でってことか」
 向こうの世界――もちろんそうとしか言いようがないのだが、おそらく一生涯出ることなどないはずだった世界を形容するのに、ちょっと素朴すぎる言い方ではある。
「なにか気付いたことはない? こう、パッと見た限り」
「どう、だろーな。俺も二回しか来たことなかったし」
「ああ、そうなのか」
 彼にも思い人を訪ねるに、その年頃にふさわしい含羞があったようだ。それとも侵略者たる負い目が躊躇させたものか。
「……言っとくけど、そういうんじゃねーからな」心を読まれたようだ。「ここに来る用事じたい、そもそもねーし。それでなくたってこの辺りにいると白い眼で見られたし」
「そういう思いをしてでも、二回は来たんだな」
「そーだよ……来ましたよ、小西先輩めあてで」陽介はあっさり白状した。「でもこんな感じだったぜ、たぶんほとんど変わってない」
(そういえば……あのアパートも、向こうの世界に実在するんだろうか)
 クマの懸念、この町のディティールの再現度、そして陽介の言葉を考え合わせれば、あの部屋も現実の、向こうの世界のコピーである可能性が高い。もしあれが陽介の言うように、山野アナと関わりのある場所であったなら、
(メゾン・ド・ラ・ネージュ、だったっけ。戻ったら調べてみなきゃな……いっそ叔父さんに訊いてみようか)
「そーいえば、コニシセンパイって、なにクマ?」クマが口を挟んだ。「さっきも言ってたけど、ひとクマ?」
「……なんだっていいだろ」
「たぶんここで消えた、学校の先輩なんだ」悠が注釈を入れた。「おれたちの知り合い」
「……えーと、そのう、ごめんクマ」
「いーって! よし、じゃあ店ん中しらべてみようぜ」
(もしあのアパートで起きたことと似たようななにかが、ここで起きたとすれば――)
 奥へ向かっていくらも経たないうちに、陽介が短く呻いて立ち止まった。棚と棚とのあわいに視線を落として、じっとなにかを見詰めている。
(――こういうものがあるのも、まあ、予想できたことなんだよな)
 立ち竦む陽介の肩越し、明るいウッドペイントの床に、なにか粘性の液体をこぼしたような、いびつな茶色い溜まりのあるのが見える。そして微かに鼻を突く、あの部屋で遭遇したのと同じ、異様な腐敗臭。
「先輩……」
 陽介がその場にしゃがみ込んで、なにか拾い上げた。
「それ、小西先輩の」
「やっぱり、そうなんかな」
 彼の手にあったのは、右足側だけの、女物の革靴だった。ダークレッドのストラップシューズ――間違いない、インタビューを受けたときにも履いていた早紀の靴である。
「先輩、やっぱりここで……」
「花村」
「……遺品に縋って泣くのかって、言ったよな、お前。学校で」
「んん」
「前もって言われてなきゃ、そうできたのにな、ったく」陽介は振り返って、気丈に笑って見せた。「そうだよな、そんなことしに来たワケじゃねーもんな。泣いてる場合じゃない」
「ああ――クマ、ちょっと」
「クマ?」
 物珍しげに冷蔵庫の中を眺めていたクマが、呼ばれて近寄ってくる。
「これ、どう思う」
 床に溜まって広がる「なにか」をクマに示して見せる。先にちらと見るだけ見たきり、クマはあまりこの光景に感心を寄せていない様子だった。
「跡クマね」
「跡?」
「跡クマ。ひとの」
「クマちょっと――」
「おい、跡ってどういう意味だ」陽介が悠を遮る。「お前なんか知ってるのか」
「よくわからんけど、ひとがシャドウに襲われたあとは、いつもこんなものが残ってるクマ」
「なんで死体がないんだ?」
「……死体はある。向こうの、おれたちの世界に」
「誰かが運んでるってのか」
「たぶん違うクマ。一回だけ見たことあるクマけど、こう、ズブズブーって、地面に沈んでいくクマよ」
「沈む……って」
「……なんで?」
「んー……しらんクマ」
 クマは大して気にならないらしく、あっけらかんとしている。いずれにせよなんらかの理由で、どうやらこの世界でシャドウに襲われた人間は、向こうの世界に「帰って」しまうらしい。変わり果てた姿となって。
(変わり果てた姿……あのシミ、この液体、腐敗臭……)
 例の火星探査員、大量のブルーシート、女生徒たちが噂していた「正体不明の毒物」――これらの断片的な情報がみな一様に、犠牲者たちの辿ったなにか不穏な運命を示唆しているように思われる。あの日、遼太郎が事件現場でなにを見たにせよ、それはほぼ間違いなく「変わり果てた姿」であったのだ。
 それこそ、大事な一人娘の安否をいっとき忘れてしまうくらいの。
「クマ、お前、なに持ってんだ」
 なにか見咎めたようで、陽介がクマを差し招いている。
「そこの台の下に」クマが奥のレジカウンターを指す。「落ちてたクマ」
「…………」
 クマからなにか受け取ったなり、悠に見せるでもなく、陽介は卒然とレジへ駆けて行く。
「花村?」
「これ……そうだ、やっぱり」カウンターの上でなにか忙しくしながら、陽介が言った。「鳴上、こっち」
 陽介の示したのは、いくつかの小片が合わさってできた一枚の写真である。細切れになっていたものを陽介が繋いだのだろう。
「前にバイト仲間と、ジュネスで撮った写真だ」
 まだ二度しかジュネスへ行ったことのない悠には、その写真の撮られたのが店内であるということ以外はわからない。服飾系と思しい小売店舗の前で、七人の男女が雑然とひとかたまりになって映っている。
「これ、先輩が?」
「なんでこんなこと……」
 たんなる偶然か、それとも破り捨てた本人が避けたのか、最前列に並んでしゃがむふたりの顔にだけは、裂け目が及んでいなかった。陽介と早紀の笑顔――写真撮影に臨んで用意するような笑顔ではない、なにかとても賑やかで、楽しいひとときをまさに生きている人間の、その一瞬間を切り取ってきたような、幸福な笑顔。
「――それよりさァ、早紀さ、ちょっと話あんのよ」
 悠、陽介、クマの三者とも、ぎょっとして声のしたほうを向く。
 なんの前触れもない、女の声が卒然と、カウンターと反対側の部屋の隅から聞こえてきたのである。
「あたしはね、まあ、いいんだけどさ、ミキのやつがギャーギャー言っててさ」
(誰もいない……なんなんだ? サキって)
「なに? ちょっと、もう時間やばいよ、行かないと」
 最初の声に答えたのは、果たして早紀のものだ。同意を求めて陽介を覗うと――案の定、口を半開きにして驚きを隠せないでいる。
「すぐ済むから。あのさ、早紀って、火曜のシフトドタキャンしたじゃん」
「うん……それはごめんって、ホントにさ」
「いやいーのよ、代わるのは別にさ。ただ、アンタ何回かやってるよね」
 沈黙が流れる。クマが最前から説明を求めるように、悠と陽介とを交互に見遣っている。
「……チーフに言うべきだと思うんだわ、家の事情ならさ」
「言ってるって」
「家の事情じゃないから、チーフに言わないで花村に言うんだ?」
「はあ?」早紀の声にトゲが生える。「なに言ってんの?」
 シフト、チーフ、花村――早紀がジュネスでバイトしていたことを考え合わせれば、どうやらこの会話は彼女とそのバイト仲間とのものであるらしい。いつ、どこで話されて、なによりどうしていま、このように不可思議な方法で「再生」されているのかはわからないが。
「あのさ、早紀さ、花村が早紀のこと好きなの知ってる?」
「……知ってんでしょ、そんなの誰でも」
「あんたはどうなの。好きなの?」女がため息をつく。「……ミキがさ、アンタが何回か休み取ってんの、ジョージツだとか言いふらしてんだわ、カズミとかに。黙らしといたけど」
 ふたたびの沈黙。クマが悠の袖を引く。悠は手振りで黙るよう合図する。
「早紀さ、いま付き合って――」
「なんとも思ってないって。向こうが勝手に熱あげてるだけだから」
 笑い含みの声。陽介にはさぞかし苦痛であろうはずなのに、その顔色の変わることはない。ただ声のするほうをじっと睨んでいる。
「花村、完全に勘違いしてるよ」
「それは向こうの勝手でしょ」
「アンタわかっててあんなに仲良くしてんだ」
「なに? じゃ嫌われるようにしろって言うの?」
「なんでその二択になんのよ。距離を保ちながら親しくって、できるでしょ。小学生じゃないんだから」
「わたしがどうしようとオリエには関係ないでしょ」
「ないね。あたしは彼氏の都合でズル休みとかしないし」
「誰が――」
「アンタさ、勝手に休んで悪いとか、周りのひとに対して思わないの? アンタが利用してる花村とか――」
「向こうが好きで利用されてるだけだって! わたしは関係ない!」
 みたびの沈黙。陽介が項垂れる。クマが焦れて地団駄を踏み出す。
「……マジで言ってんの? 早紀」
「マジよ。いろいろ付き纏ってきてウザいし、花村……」
「センセイ」
「クマちょっと静かに」
「……そのウザい花村にムリ通させて、代わりに誰かが穴埋め入ったりしてんの、どう思ってんの」
「だから謝ってるじゃない。それにムリならみんな言ってるでしょ、それを通すかどうかなんて花村しだいで、わたしは関係ないって言ってるの」
「ああそう……ジョージツのほうがずっとマシだったわ。もういいよ」
「なにその失望したみたいなポーズ。そっちが詮索してきたんじゃない」
「センセイ、そこに」
「いいから――そこ?」
「大した悪女だね、早紀」
「自分は善人のつもりなんだ? もう行くから」
「そこにシャドウが……」
 クマの指さしたのは、先ほどから女の声の聞こえてくる、部屋の隅の暗がりである。そこへ近づこうとして悠はすぐに足を止めた。
「花村、クマ、おれの後ろに」
 胸ポケットのタロットを引き出して構える。悠の睨め付ける間にも、暗がりからゆっくりと人影が吐き出されて来る。
「聞き覚え、あるだろ? 二ヶ月も経ってねーし、お前そうとう落ち込んでたし」
 悠は思わず背後の花村を振り返った。クマも悠と同じような感想を抱いたのだろう、傍らの陽介と、今し暗がりから出てきたばかりの人影を交互に見遣っている。
「ちっとマゾっ気はいってるよな、最後まで立ち聞きしてんだからさァ」
 蛍光灯の下に照らし出されたその人影は、見紛いようもない、陽介そのものだった。





[35651] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:53



「ヨ、ヨースケが、ふたりクマ……?」
「お前、誰だ!」
 陽介が誰何する。少年は冷笑を浮かべながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「誰って、俺は花村陽介だよ」
 テレビの中の世界、シャドウ、ペルソナ、そしてお次はドッペルゲンガーか! 正直、驚き疲れた感がある。この店がもう少し広かったら床の上をのたうち回って叫んだことだろう。
「クマ、さっき言ってたシャドウって」
「……そこの、ヨースケ? クマ」
「バカ言うな、俺が花村陽介だ」
「違う。俺も、だ」シャドウの貌が歪む。「お前みたいなクズが俺だなんて、マジでウゼーけど」
「……なにを」
「そのあと、どうだった? 自分のことウゼーって思ってる女の気を引くの。お前って筋金入りのマゾだよな」
「お前、何者――」
「あーおあいこだよな、お前もウゼーって思ってたんだから! この女、心にもないこと抜かして、俺に取り入ろうとしてんだってなァ」
「ふっ、ざけんなァ!」陽介が爆発した。「お前だれなんだよっ! なんなんだその恰好!」
「ウゼーよなァ……なにもかも。あの商店街も、ジュネスも、このド田舎暮らしも、ダッセェ地元民も、全部……」
「そんなこと思ってない! お前――!」
「花村まて、落ち着けって!」
 前に飛び出した陽介をあわてて引き留める。クマの言うとおり、いま陽介そっくりの姿で話しているこの少年がシャドウだとすれば、もちろん殴りかかってなんとかなる相手ではない。
「……クマ、こういうシャドウもいるの?」
「初めて見るクマ、でも、変クマ」
「なにが」
「あのシャドウ、ヨースケとまったく同じ匂いがする……それに、ここに現れるまでぜんぜん、なんの気配も感じなかったクマ」
 これがシャドウについてクマの言っていた、人間が入ってきたとき特有の「ちょっと変わった動き」なのだろうか。確かにかのシャドウはいきなり現れている。
「シャドウ扱いかよ……ま、仕方ねーか」シャドウは寂しそうな貌をしている。「これって、つまり、シャドウのせいなんだろ? いや、おかげか?」
(シャドウの、せい? おかげ? シャドウであるという自覚がないのか?)
「花村」
 悠がそう呼びかけると、陽介とシャドウの両方からもの問いたげな視線が返ってくる。
「いや、花村じゃない、というか……陽介」悠はシャドウを指さして言った。「そう、陽介。そう呼ぶけど、いいかな」
「いいよ……つか、名前で呼ばれんの初めてだな」
 驚いたことに、シャドウの面に照れくさそうな笑顔が浮かぶ。
(おれが名前で呼んだことのないのを知ってる……)
「おまえは本当に、その、花村陽介、なのか?」
「ああ」
「バカなに言って――!」
「花村たのむ、少しの間でいい、黙っててくれ」
「センセイ!」
「クマも。それで、陽介」
「なんだ?」
「悪いけど、正直に言って、おまえが偽物じゃないという確証が持てない」
「ま、そうなるよな、ふたりいるんだから。――なんか訊いてみる?」
「……じゃあ、里中はいまどうしてる?」
「切れた縄もって……どうしてんだろ。まだ家電売場にいるか、帰っちまったかもな」
「おれが転校した日、最初におまえに話しかけたとき、なんて言ったか覚えてるか」
「自己紹介して、なんだっけ、膝に乗りたいとかなんとか言ってたっけ、たしか。意味わかんなかったけど」
「里中と三人でジュネスに来た時――」
「お前らに焼きそば奢ったよ、ついでに言えばお前のは毒入り。あんときゃ悪かったな、今月あと三千円しかなくてさ……さすがに里中までいちゃステーキ奢れなかった」
「それはまあ、いい、けど」
「俺は三軒茶屋から転校だけど、お前は柴又で、でも元は三軒茶屋の近くに住んでた。オヤが板前で、ナナコちゃんってイトコがいて、タバコ吸ってて、少年院の常連で……天城越え狙ってる」シャドウがにっと笑った。「……まだやる? 意味ねーぜ、こんなの」
(確かに……姿形だけを似せた、なんてものじゃない、こいつは)
 信じがたいが、このシャドウは陽介であるらしい。――少なくとも、内も外も陽介同様の、シャドウであるという自覚のない、シャドウであるようだ。
「どうして、現れたんだ」
「……ずーっといたよ。つったって、わかんねーよな」シャドウが苦笑する。「この偽物の町に入ってからも、テレビの中に入ってからも、いや、お前の気を引こうとして、自転車でわざとスレスレに走って、バカみてーにゴミ箱に突っ込んで、助けてもらったときだって、いたよ」
「嘘だ! お前テキトーなこと言ってんじゃ――!」
「花村っ!」
「センセ――!」
「クマも! 頼む、静かにしてくれ」
(こいつ、シャドウはシャドウでも、話は通じるみたいだ)
 少なくともクマが恐れを交えて語ったようなシャドウではない、ついさっき襲ってきた口の化物などとはまったく異なる部類だ。なにをしに現れたにせよ、話し合いで解決できるかもしれない。
「質問を替える。なにが目的で花村の前に――自分の前に現れた」
「そいつに思い知らせるために」
 シャドウはそう言って、陽介を指さした。悠と話していたときは穏やかだった眼に危険な光が宿る。口元が軽蔑に歪む。陽介と相対したときだけ、彼は別人のような容貌になった。
「そいつがどれだけ汚らしい人間か。テメーだけキレイな外面とりつくろって、いままで俺にどれだけ腐りきったゴミを押し付け続けてきたか、思い知らせるためだ」
「ひとの恰好まねして好き勝手言ってんじゃねーぞ、シャドウ!」
「おお怖え――お前、いつまでそうやってカッコつけてる気だよ。シャドウだァ? お前ほんとうにそんなのが出てきたら、真っ先に鳴上の背中に隠れるつもりなんだろうが!」
 シャドウの面に浮かぶ、嘲りの笑顔が次第に薄れていく。
「前もって鳴上になんて言われてたって、お前が涙なんか流すワケねーぜ、たいして悲しくもねーんだから」笑みに代わって怒気が滲み始める。「小西先輩のことで納得したいからだとか、どの口がほざいてんだよ。お前は単にこの世界にワクワクしてたんだ」
「テメーになにが――」
「昨日のアレ、刺激的だったよなァ。里中がベソかいてんの見て、優越感に浸ってたよなァ。死体の跡、遺留品、喋る着ぐるみ、常識の通用しない異世界! 夜中の二時までお前、どんなこと考えてた? 最高だったよなァ、クソ面白くもねード田舎暮らしにはうんざりしてるし」
「黙れ」
「黙れ? 見りゃわかんだろ、お前が喋ってんだよ」憎々しげに陽介を睨め付けながら、「なにかおもしろいモンがあんじゃないか……お前がここへ来た理由なんて要はそれだけだろ」
「やめろ……」
 シャドウが嵩にかかって喋れば喋るほど、陽介は当初の勢いを失っていく。彼が反論らしい反論をしないので、傍目には図星を当てられて当惑しているようにも見える。
(花村が本当はこんなふうに考えてる……ってこと、なのか?)
「センセイ聞いて――」
「クマちょっと、静かに」
「やめねーよ。さっきのも凄かったよな、ペルソナ! お前つい本音が出ただろ、俺にも出せねーかなって」シャドウがゆっくりとレジのほうへ歩き出す。「鳴上の次はきっと俺だとか思ったりして、笑っちまうよな。ゲームのやり過ぎだっての、恥ずかしいヤツ! あわよくば悲劇のヒーローになれるって思ってたんだよな? 大好きな先輩が死んだって、らしい口実もあるし――」
「違うっ!」にわかに陽介が息を吹き返す。「お前、なんなんだ、誰なんだよ!」
「お前、ほんとうはわかってんだろ」
 シャドウがカウンターの上から写真の欠片をつまみ上げた。彼の面を占めていた憎しみの色が急速に薄れて、ふと弱気そうな、途方に暮れたような悲しみの色が滲む。
「俺はお前だ。ぜんぶ知ってる」
「ふざけんな! お前なんか――!」
 このシャドウの隙を好機と見たか、陽介が気負って一歩踏み出した。
「センセイ、シャドウが――!」
「クマいいかげ――シャドウ?」
「お前なんか知らない、お前なんか俺じゃないっ!」
 シャドウの横顔から感情らしいものが吹き消えた。怒鳴った陽介を一顧だにせずに、彼はそのままこちらに背を向けた。 
「クマ、シャドウって!」
「集まって来るクマ、ここに……」
「なあ、鳴上」
 背を向けたままのシャドウが、思いがけないほど明るい声で呼びかけてくる。
「……なに」
「悠って呼んでいいか?」
 悠は困惑した。先ほどのお返しのつもりなのだろうか、およそこんな場面にはそぐわない要求である。
「いい、けど」
「じゃあ、悠」
 と、言いながら振り返ったシャドウの顔を見て、悠は小さく呻いた。陽介もクマも同様の驚きを感じたに違いない。彼の両目に金色の、炎のような光の灯っているのが見える。
「俺、お前が好きだ」シャドウの口元が弛んだ。「ちっと理屈っぽくて、融通きかねーけど、お前はいいヤツだ、ほんとうに。同じ東京生まれだし、お前なら友達になってくれるかもしれないって、思ってた」
「…………」
「頼む、悠、クマ連れてここから出てってくれ」
「おまえは……花村は?」
「そんなヤツは存在しない」
 悠たちの背後で突然けたたましい音がする。振り返ると果たして、入口側の窓ガラスが割られている。
「そいつは俺のこと、俺じゃないって言った。自分を否定したんだぜ、いないのと一緒だろ」
「センセイ、来る、シャドウクマ!」
 クマの指さす先――いまほど割れた窓から、黒いヘドロ状のなにかが二、三、店内へ侵入して来る。
(くそっ、こんなときに!)
 すわ襲撃かと陽介を壁に押し付ける。悠は慌ててタロットを構えたが、目で追う暇もあればこそ、ヘドロは悠たちではなくシャドウの下へ集まり始めた。
「……花村、クマ、外へ」
「駄目だ! お前は駄目だ、逃がさない!」シャドウが陽介を指さす。「悠とクマは行け、でもお前は駄目だ!」
 悠たちの見守る中で、シャドウの姿が徐々に歪んでいく。肥大していく。集まってきたヘドロが彼の身体に取り込まれていく。――先のものだけではない、ヘドロはいまや窓からも入口からもなだれ込んで来ている。
 まるでシャドウがそれを呼び寄せているかのように。
(入口もダメだ、あのヘドロが……!)
「陽介、陽介! 一体なにをするつもりなんだ!」
「いない人間が、いるのは、不自然だ、だから、いなくする」
 膨れあがったシャドウの下半身が裂けて、そこからもう一対の脚のようなものが迫り出してくる。いや、脚ではない、前に突き出されたそれは巨大な手である。四つんばいになったなにか不気味な生物の身体に、まだかろうじて陽介と判別できる、猿に似た奇形の上半身が生えている――シャドウは人間の形ではない、不気味ななにかを目指して変形しつつあった。
「ドケ、ユウ」 
 陽介のものとも思えない、野太い声が落ちてくる。悠の目の前で棚がひとつ消し飛んだ。シャドウが手で「払い除けた」のである。
(あんなのを食らったら……)
「イケ、ハヤク。クマモ」
 ちらと陽介を見ると、こちらは恐怖に竦んでひと言をも発せない様子。クマのほうでもゴルフクラブを振りかざす気力などとてもなさそうである。
「できない、陽介!」
「ドケ!」
(考えろ! どうすればいい? さっきのペルソナを喚んで、一か八かこいつと組み合うか……!)
「オマエヲキズツケタクネーンダ……イッテクレヨ」 
(ダメだ。まだ早い、まだ言葉は通じる。ここで敵意を見せたらかえってまずいことになるかもしれない。それに――)
「陽介」
 悠は震える足をなんとか一歩、シャドウのほうへ踏み出した。
 現状、使い方のよくわかっていないペルソナなど、喚んだところで分の悪い賭である。まして友人を、向き合うと心に決めた最初の友人を、勇気と好意とを示してくれた尊敬すべき友人を、少なくともその彼となんら変わらない「なにか」を、あの電柱みたいな矛で打ち据えるなどと!
「陽介、ここに入ってくる前におれが言ったこと……覚えてるか」
「サア、ナンダッケ」
「おまえがこの世界に入った時点で、望むと望まざるとに関わらず、おまえの安全はおれの責任になる、って言ったんだ」
「……ドケッテ」
「なあ陽介、おまえが無理に入って来たんじゃないか」悠は笑った。「そのあげくに退けって、ちょっと勝手だ。それにここではおれの指示に従うって――」
 店内を轟音が揺るがす。シャドウが四股を踏むようにして、腕を床に叩き付けたのだ。それを二度、三度と繰り返しながら、シャドウはにわかに呻き始めた。
「陽介、どうした!」
「イッテクレ、タノム! モウイイ、モウイイ!」
 シャドウは「モウイイ」を連呼しながら、長大な脚と腕とを滅茶苦茶に振り回している。棚が吹っ飛び、冷蔵庫はひしゃげ、カウンターに置いてあったレジが宙を舞って小銭の雨が降る。――様子がおかしい。暴れているというより、
(……アレを振り払おうとしてるのか?)
 間断なく浴びせかけられるヘドロから、シャドウは身体を守ろうとしているように見える。
「陽介! この黒いのが邪魔なのか!」
「ウルセエッ!」
 怒号とともに、青桐の葉のような巨大な掌が降ってくる。背後の陽介が一瞬はやく、悠を掻い込んでもろとも身を投げ出す。いままでシャドウの見せていた理性が、徐々に失われつつあるようだった。
「鳴上、ペルソナ!」立ち上がりながら陽介が怒鳴った。「出せねーのか!」
「……まだだ、それはしない」
「なんで! やらなきゃやられんだろーが!」
「とにかく――いや」
(窓がふたつと、入口がひとつ……)
 シャドウは明らかに苦しみ始めていた。よたよたと店の奥まで退いて、あたまを両手で庇って、ときおりなにか振り払うような手振りをしながら、「イッテクレ!」と「マテ、ニガサネエ!」を悲鳴みたいに繰り返している。
(あいつを斬ることはできない。しない。少なくともそれを最後の手段にするなら、現状のベストはこれだ!)
 あの感覚を思い出せ、かつて意識したことのなかったあの感覚を! さながら祈るように、悠は左手のタロットを目の前に掲げた。
「ユウ、ヤメロ!」シャドウが悲しげに叫ぶ。「オマエ、ソレデナニスルツモリダ、オレヲコロスノカヨ!」
 悠の手前数歩の位置に忽然と、黒い長衣に身を包んだ巨人が現れた。同時にあの途方もない、とうてい達成し得ない大仕事を強制され続けるような、うんざりするようなストレスに身を苛まれる。
「やれ鳴上! あんな化物――」
(よし、来てくれた。あとは)
 悠はその場に膝をついて俯いた。「悠」の統御を最低限に落として、代わりに「ペルソナ」の自由を確保する。――ペルソナが歩き回るには店内はかなり窮屈だった。
「鳴上……なにやってんだ」
 陽介の呆気にとられたような言葉が降ってくる。悠はペルソナの巨体と矛とで店の入口を塞いだのである。
(よし、ヘドロの流入がかなり減った。あとはあの窓!)
「陽介、じゃない、花村」悠はそろそろと立ち上がった。「あの窓を塞ぐ。手伝え」
「はあっ? なんで!」
「あのシャドウを助ける」
「バカ言って――!」
「花村、おまえにはあれがなにに見える」
「シャドウだろ」
「おれには……いい、馬鹿にしてくれたっていい、あれは花村にしか見えないんだ」
「お前――違う、ぜんっぜん違う!」陽介の面に裏切られたような、難詰するような色が刷かれる。「なんで信じてんだお前は!」
「わかった、花村はいい。――クマ!」
 クマは部屋の隅っこでがたがた震えている。そちらへ行こうと陽介から離れた途端、それまで唸るのに忙しかったシャドウがいきなり突進してきた。悠ではない、陽介のほうへ。
「シネッ、ツブレロ!」
「待て陽介! 待てっ!」
(ダメだ、花村から離れることはできない!)
 そして悠が戻ってくるとつんのめるようにして急停止し、ふたたび呻きながら「タノムドイテクレー!」とか「テメースリツブシテヤル!」などと叫び始める。
(葛藤してるんだ。花村に危害を加えたくても、おれを巻き込みたくない……)
 なぜ? もちろん、陽介の悠に対する友情がそうさせているに違いない。彼はまさしくシャドウであっても、陽介以外の何者でもなかった。
 皮肉な話である。かつてあれほど内心蔑視し臭がっていた概念が、いまや彼の命を守る最後の盾となっているのだ。彼が心中ひそやかに誇ってきたかばかりの知性と理性とが、いったいいまこの場でなにほどの役に立っているというのだろう。
(いや! きっと役に立ててみせる。ペルソナの力も、陽介の勇気もおれは持ってない、おれにはこれしかない……)
「クマ! 大丈夫か!」
 クマはヒステリックに「だいじょうぶだけどいますぐにでもそうでなくなるクマァー!」と叫んだ。
「クマ、こっちへ来て!」
(どうやって窓を塞ぐ?)
 店内に落ちているもので使えそうなのは、棚材の切れ端くらいである。それさえ窓に打ち付ける道具もなく、そうできたところであのヘドロを防げるかわからない。――ふいに悠のもうひとつの知覚、ペルソナの身体に、盛んになにかが衝突するような衝撃を覚える。視界にヘドロの姿はなく、代わりに先に見たような口の化物と、その仲間らしい形容しがたいシャドウの数匹が映っている。埒があかないと踏んでヘドロが仲間を呼んだものか。
(ペルソナはじゅうぶん持ち堪えるだろう。でも窓はダメだ、なにか方法は……)
 クマがこちらへ駆けてくる途上、なにかを踏んで勢いよく転んだ。瓶である。床に蒸留酒の瓶が幾本か転がっている。
(このヘドロとか化物とかって、火を怖がったりしないか?)
「陽介、聞こえるか!」
「ドゲ……ユウ……!」
「待ってろ、いま助けてやるから!」
「鳴上……」陽介が心底わからないといった口で訊いてくる。「お前、なんであいつをそんなに」
「あれが――」悠はシャドウを指さして怒鳴った。「――花村陽介だからだ! クマ!」
「はいクマ!」クマがびしっと気をつけをする。
「床に転がってる瓶、わかる?」
「わかるクマ、けど」
「あれの中身を、あの窓の周りにありったけぶちまけて。転がってるやつ全部」
「わかったクマ、けど」
「そのあと火をつける。ああ、火はこれを」悠はズボンのポケットからライターを取り出した。「これ使って」
「……これどーやって使うクマ?」
「ええとこうやって――いや、ちょっと待って」
 ライターに続いて、制服のポケットからシガレットケースを取り出す。中に残った二本のうち、一本を忙しく銜えて火を点けて、悠はそれをクマに手渡した。
「これを火種に。さあ」
「わかったクマ、ええと、ええと……こ、この瓶クマ?」
「全部!」
「はいクマ!」
 クマのあたふたと仕事に取りかかるのを後目に、悠はふと思い立って、しまいかけたシガレットケースをふたたび開いた。
 残り一本。
(これが最後の一本)それを銜えて火を点ける。(これを最期の一服にはしない、してたまるか! ぜったいここから無事に出て、なんとしてでも叔父さんのタスポを借りる!)
 辺りに舞う粉塵に紫煙が混じると、なかば割れてしまった蛍光灯の薄明は紗に漉したようにおぼめいた。この舞台効果を待っていたかのように、シャドウはにわかに鎮まり、あらたかな煙草の御利益の甲斐か、悠の重苦しいストレスもいくらか和らいだような気がする。
 幕の引き始める頃合いだ――それが誰の、何の幕であるかはわからないけれども。
「陽介、聞こえるか」
 シャドウは応答とも呻きとも取れない声を漏らした。
「陽介、おまえさっき、こう言ったよな。自分が現れたのは、陽介自身に思い知らせるためだって」
「鳴上……」
「それはさっき言ってたようなことなのか」
「……ソウダ、ソノクズガ!」
「陽介、もういちど花村に向かってクズなんて言ってみろ、ペルソナでぶん殴るぞ!」悠は一歩踏み出して怒鳴った。「花村は、お前はクズじゃない、たった三日つきあっただけのおれにだって、そんな当たり前のことはわかる!」
「タッタミッカデナニイッテヤガル、オマエニハワカラネー。ソイツハドウシヨウモネーヤツダ」
「おまえはクズじゃない、でもおまえが聖人君子だとも言ってない――花村」
 いきなり話を振られた陽介が、きょとんと悠を見る。
「陽介が言ったことはぜんぶ本当か」
「……あれを陽介って言うな」
「ぜんぶ本当か」
「バカ言うな、違う」
「じゃ、ぜんぶ嘘か」
「嘘だ」
「……今日、朝、学校の校門でおれを待ってたよな」
「ああ」
「おまえ、言ったよな。昨日はなかなか眠れなかったって」
「当たり前だろ、あんなことがあったんだ!」
「そうだ。そうして授業中もその話ばかりした。授業が終わって、職員会議の放送があったとき、おまえは新しい事件を予感して、またここに入ろうって言った。――花村」
「…………」
「あの全校集会で校長先生がみんなに言う前に、小西先輩の身になにか起こったこと、おれが知ってたって言ったら、おまえ驚くか」
 陽介の眉が驚愕に顰む。シャドウが彼の動揺を代弁して、「オマエ、ドウシテイワナカッタ!」と言った。
「たとえじきわかってしまうことだって、おまえが可哀想だった。おまえが喜んでたから、楽しそうだったから言えなかった。この降って湧いた非日常を、それに片脚を突っ込んで、他のひとの知り得ない秘密の一端を掴んだ、そのことを楽しんでいたから」
「違う! 俺は――」
「チガワナイ!」シャドウが陽介を遮る。「ソウダ、テメーニトッテタニンノコトナンザ、イツダッテヒマツブシノタネニスギナカッタ!」
「なあ陽介、だけど、そうでない人間がいったいどこにいる」
 もう二、三歩進んで、悠はちょうど陽介とシャドウの中間あたりで止まった。――ふいに焦げ臭い匂いが鼻を突く。クマの努力が功を奏して、窓の下から桟の辺りにかけて炎が踊っていた。建材を焼く黄色い炎が、アルコールの青いそれを征服しつつある。じき店内にも燃え広がるだろう。
 件のヘドロは炎の窓によって防がれている。
「センセイ、火、ついたクマー!」
「ありがとう、助かった!」
「ぜんぜん助かってないクマ! このままじゃここもやばいクマよ!」
「わかってる――花村」漂ってくる白煙を手で扇ぎながら、「この一連の事件を楽しんでたのはおまえだけじゃない。知ってるはずだ、クラス全員が、いや、八十稲羽のほとんどの人間が、あの珍しくて日常からかけ離れたニュースに沸き立ってた」
「ダカラッテ」
「対岸の火事は大きいほど見物だろう。自分の身になんの関係もない事件を秘やかに楽しむ、ささやかな罪を、誰しも持ってるはずだ。誰も知らない秘密を垣間見た、それを探求する権利を手に入れた喜び、それを欲しがらない人間なんかいないだろう。いったいそれが、そんなに非難されるようなことなのか? おまえはその罪を持ってないって言うのか。自分は好奇心のひとかけらもない、学生服を着た枯木だとでも言うのか花村」次いでシャドウに向かって、「それを持っていた自分を、それを欲しがった自分をクズだと罵るのか陽介。自分だけは周りの人間のつまづく地隙に、足を取られることなんかないはずだったとでも? それは自惚れだ、おまえは聖人君子じゃない。クズでないのと同じに」
 シャドウに指を突き付けながらも、悠は心中穏やかではいられない。それは自惚れだ、おまえは聖人君子じゃない――わが口から出たこの何気ない言葉が、これほど苦しい自傷をもたらすとは! さながらシャドウの背後にもう一匹の、悠の恰好をした化物を見る心持ちだった。そらぞらしい理論で装った自尊心の権化、路という路を知ったつもりになりながら道に迷っている、旅装の愚者の姿を。
「ソンナコトヲイイタインジャナイ! コリツスンノガコワクテヒタスラヘラヘラシヤガルクセニ、テメーココロンナカジャドンナコトカンガエテヤガッタ! ヒトノタメダァ? オレハウマクヤッテルダァ? ウンッザリナンダヨ!」
 悠のつま先、ほんの数センチ前の床が派手に陥没した。シャドウが両の拳を叩き付けたのである。
「テメーダケキモチヨクジブンニヨッテ、オレニイママデナニヲナスリツケテキヤガッタカ! オレダケニ、テメーハ、ドンナゴミヲナスリツケテキタカ! テメーニハドンナキレイゴトモネー、テメーニアルノハキタネーヘンケントケイベツダケダッ!」
「偏見、軽蔑」
「俺は、そんなこと、そんなもの」
 偏見と軽蔑。単純で、表面的とさえ思える言葉。悠は胸の奥底になにかが刺さって、抉るように回り、封じられていたものが無慈悲に暴き立てられる激痛を感じた。偏見と軽蔑! こんな素朴で安っぽい、ありふれた鍵が、自分の複雑繊細なはずの錠前にこれほどぴったりと合ってしまうなんて。
 悠は足下の穴を跨いでシャドウに肉薄した。
「花村、陽介、おまえはおれだ……」
「な、鳴上?」
 偏見と軽蔑、つまりはそれだったのだ。悠がいままで周囲に抱き続けてきたのは、悠を支えてきたのはつまるところ、それだった。自己批判を逃れるために、ただそうと判じるにはそぐわない程度に、見てくれを歪められていたというだけに過ぎない。言うなれば優しい偏見、穏やかな軽蔑であった。
(内心でどれだけ反論できたって無駄だ、過去を振り返って見ろ、それが全てを証している。これだ! いつもそれにだけは陥るまいとしていた穴に、おれは住んでたんだ……)
 それは何度も通った、通い慣れた路だった。おれは誠実で論理的な人間だから、その判断は客観的で、偏見と軽蔑によるものでだけはありえない――なんという愚者! それは夜道を行く子供の唱える迷信的なおまじないだった。これを唱えれば追いはぎに遭わない。これを唱えれば野獣に遭わない。百度とおって百度遭遇しても、彼はこの下らぬおまじないの霊験を大前提として、それをほかのなにか別のものであるとして、事実を認めはしなかった。路を替えはしなかった。ほかならぬその高らかな声が、追いはぎと野獣とを呼び寄せていたことに気付きはしなかった!
 シャドウが押されたように後退った。
「……陽介、どうかそれを恥じないでくれ、花村陽介がそれを持っていることを」
「俺はそんな……そんなもの持ってない」
「持ってるさ、だからおれはおまえに惹かれたんだ、きっと」悠は自嘲気味に笑った。「陽介、お前にとってはゴミでも、おれにはそれが全てだったんだ……あんまりいじめるなよ」
「ナニイッテル! オマエハソンナノモッテナイ、オマエハソンナヤツジャナイ!」
「そうだ、お前はもっと――!」
 と、言いかけて、陽介はシャドウをちらと見上げた。シャドウもまた多少の驚きをもって陽介を見下ろす。
「おれも偏見と軽蔑の塊だ。いや、おまえはまだ上等だ、花村」
「チガウ! ソイツハ、オレハクズダ、オマエトハチガウ」
「さっきのこと、忘れてないよな。おれとクマを捨て身で逃がそうとしてくれたよな。花村、おまえはおれと同類、偏見と軽蔑の塊、似たもの同士の友達さ。でも」シャドウに向かって、「陽介、おまえにはおれにない輝きがある、だから尊敬するんだ」
「オマエハトモダチナンカジャナイ」シャドウは悲しげに言った。「オマエミタイナヤツガ、オレナンカノトモダチニナッテクレルワケナイ。ソンナコトハワカッテル」
「花村、おれたち、友達じゃないのか?」
「……俺は」
「あれだけ話して、ここまでお互いの事情わかってて、いっしょに二回もこんなところ来といて、それでまだアカの他人って言うのか?」悠は笑って続けた。「ちょっと無理ないか、それ」
「お前……」
「オマエニ、オマエニソンケイサレルヨウナ、ソンナニンゲンジャナイ、ソノクズハ」
「またクズって言ったな陽介、いくら友達だっておれもしまいにはキレるぞ」
「……センパイノシンダノヲ、ソイツハコウジツニシヤガッタ、クズダ!」
 鍵を見つけた――悠は唐突にそう思った。
「ふざけんな偽物、テメーになにがわかる!」陽介が俄然いきりたつ。「テメーはやっぱり偽物だ、俺なわけない!」
(そうだ、これ、使えないか?)
 悠は先ほどの、自らに同調した陽介を見下ろすシャドウの様子を思い出していた。この自分同士の不毛ないさかいを仲裁する鍵、それは陽介とシャドウ、両者のお互いに対する「共感」なのではないか?
 そもそもシャドウは陽介に「思い知らせるため」に現れたと言う。しかし陽介は思い知ることなく物別れとなり、ためにこのような事態となった。もし、陽介が最初からシャドウの言うことに耳を傾けていたら、シャドウもまた陽介の言い分を理解していたら、どうなっていただろう。そのあとシャドウがどうなるにせよ、両者は争わずに和解できたのではないか?
(花村陽介、悪いけど試すぞ……!)
「花村、おれも気になってたんだ」
「え……なにを」
「おまえ、ほんとうに先輩の死が悲しいのか?」悠は疑わしげに訊いた。「おれは陽介の言うことのほうが信じられる。そのほうがおれを説得しやすいから――」
 こめかみの辺りに火のような一撃を食って、悠は尻餅をついた。殴られた、と認識する暇もなく、怒れるシャドウが陽介へ詰め寄る。
「お前――!」
「待て陽介! 待て、いまのが答えだ!」這って両者の間に割って入る。「陽介、おまえは先輩の死が悲しい、そうじゃないのか!」
「ソイツハカナシンデナイ!」
「悲しんでる! おまえがほんとうに陽介なら、いまおれを殴ったときの花村の気持ちがわかったはずだ!」立ち上がりながら、「陽介、花村がおまえを偽物だと決めつけるように、おまえも花村を偽物あつかいしてる」
「チガウ!」
「花村、小西先輩が好きだったか」
「ああ」
「ウソダ! オマエハアノヒカラセンパイヲミクダシテタ!」
「陽介、小西先輩が好きだったか」
「スキダッタ」ふいにシャドウの目から涙が溢れる。「スキダッタ、ダイスキダッタ、ココニキテハジメテヤサシクシテクレタヒトダッタ!」
 花村が言葉の詰まったように呻いた。
「じゃあ、花村」
 悠は陽介の眼をじっと見詰めた。
「陽介は、小西先輩が好きだったか?」
「……好きだった。好きだったよ」
 シャドウが言葉の詰まったように呻く。
「花村、訊いてもいいか」
「なに」
「見下してたのか、先輩を」
「……さっきのアレ、小西先輩と、水原先輩ってバイトのひとなんだけど、そのひとらの話なんだ。聞いただろ」
「んん」 
 陽介は長いあいだ黙ったあと、ぽつんと「偶然アレを聞いたとき、正直キツかった」と呟いた。
「あんなに仲良くしてくれてたのは、結局、俺に取り入るためだったのかって、マジでヘコんだ」
「センパイハカレシガイタ、オレナンカガンチュウニナカッタ。ダカラ――」
「でも、どんなに疑ってかかっても、先輩はずっといいひとだった。俺にはどうしても先輩が、本心からああいうことを言うひとだなんて思えなかった!」
「オマエハイツモ、ココロノナカジャセンパイニドクヅイテタ。シッテンダロ!」
(まずい、火が……) 
 悠は忙しく煙草を吹かした。内心あせっている。最前から店内はすでに、かろうじて呼吸ができるといった程度にまで火の手が回っている。外壁はほぼ炎に嘗め尽くされて、今し天井へ燃え広がろうとしていた。入口を塞ぐペルソナといえば、この炎の中にあってさえ被害らしい被害を蒙った様子はない。頼もしい限りだが、
(おれが丸焼きなったら元も子も……くそっ、なるようになれだ!)
 悠は腹をくくった。陽介を焼き焦がし責め立てる、この炎と煙とに喜んで甘んじよう――自分はそう決めたではないか。
「そうだよ、いつも思ってた。そうやって気にかけてくれるのは、次の休みを取りやすくするためなんだろうって、俺への好意なんかじゃないんだろうって、思ってた。でもそんなんじゃ説明がつかないほど先輩は優しかった、親切だったよ。それに」陽介がシャドウへ一歩詰め寄った。「なによりあの日、俺が立ち聞きした日から、先輩は俺に休暇を頼まなくなった。知ってんだろ」
「ミズハラセンパイニイワレテヤメタダケダ」
「そうかもしれない。それでも、先輩がずっと優しくしてくれたのは事実だ。俺に頼まなくなってからも優しくしてくれたのは、先輩が優しいひとだったからだ。たとえ好意じゃなくたっていい。俺が、お前が好きだったのはそういう先輩だ。そうだろ?」
「俺は嫌われてた」
 シャドウの眼から金色の光が失せた。声も陽介のそれとなんら変わらない、元の通りに戻っている。
「……嫌われるのは、慣れてんじゃねーか、お前」陽介の眼から涙が溢れた。「八十稲羽の鼻つまみ者、ジュネスの王子、ゼンリョーなチイキジューミンを食い物にする侵略者、だろ? 陽介」
 入口でペルソナを押し退けようと躍起になっていたシャドウの群れが、唐突にその動きを止めた。成功か――内心快哉を叫んだ瞬間、頭上から木材の圧壊する不穏な音とともに、火を纏った化粧板が雨あられと落ちて来た。





「悠!」
 先にシャドウの攻撃から悠を庇ったときと同じに、陽介が飛びかかって来た。覆い被さる彼の身体越しにドスドスと、なにか重たいものの間断なく衝突するのが感じられる。
「花村……大丈夫か!」
「あー、へーきへーき」
「平気っておまえ!」
「なんともねーよ、こんなの」
 大怪我どころの騒ぎではないはずなのが、しかし身体を起こした陽介になにか不調らしい様子はない。おかしい――おかしいと言えば、そのすぐ向こうでクマと一緒にこちらを眺めている、もうひとりの陽介の姿などは……
「……陽介、なのか?」
 シャドウは手を差し伸べながら「どっちも一緒だろ」と笑った。つい先ほどまで目の前にあったシャドウの巨体が、忽然と消えている。
「クマ、それと……あー、花村」シャドウが陽介を指さした。「こっから出よう、店そろそろやべーし。悠、あれ消して、ペルソナ」
「ああ、うん……」 
 まるで憑物の落ちたように、シャドウは穏やかになっていた。つい先ほどまで見られたあれほどの激情の発露が、いまや彼には欠片も見出せない。別人のようである。
(成功、したんだよな……まあいい、それはともかく)
 いまはここから出なければ――ひと暴れさせて入口を広げてから、悠はペルソナを消した。三人と一匹は這々の体で、今し焼け落ちようとするコニシ酒店から脱出する。
「……かなりまずかったな、間一髪だった」
「火、つけるなんて、無茶すぎ、クマ……」
「はあ、結果オーライじゃね……」
 道路の真ん中までよろぼい出たきり、悠たちは誰からともなくその場にへたり込んだ。四者とも程度の差はあれ、身体中ススまみれの散々な態である。
(結果オーライか……でもほんとうに、やばかった)フィルタ手前まで吸いきった煙草を吹き出す。(ああ、タバコ、もう一本残ってたらな。いま吸えたら最高なのに……) 
 店の中でなにかメリメリと音がしたかと思うと、開け放たれた入口と窓から盛大な火の粉が吐き出される。火はようよう屋根にまで燃え広がったようだ。薄闇を押し広げて偽八十稲羽商店街の一角を明々と照らし出すその様は、ひとつの巨大なかがり火のようでもある。
「なあ、お前、ええとシャドウ?」
 路面に思いおもい座り込んで、少し経ったあと、陽介がおもむろに声を上げた。
「シャドウじゃねーよ」シャドウが気怠げに答える。「自分に向かってシャドウもねーもんだ」
「つったって、なんて呼びゃいいんだか……」
「ヨースケ、その、もうひとりのヨースケ? シャドウじゃなくなってるクマ」
「え?」
「は?」
「シャドウじゃなくなってる、クマ」
「もともとシャドウじゃねっつの。そりゃ、なんかよくわからんけど、俺がふたりいるのはシャドウのせいかもしれんけど……」
「クマ、もうちょっと詳しく」
「……さっきまで、少なくとも気配はシャドウのものだったクマ。でもいまはぜんぜん区別がつけられなくなってるクマよ」
「どーいうこった?」
「わからんクマ、こんなの初めてクマ。とゆーかそもそも、シャドウにこんなに近づいたことだってなかったクマ」
「おれはもう驚き疲れた。もういやだ、いまはもうなにも考えたくない」悠はその場で仰向けになった。「ああ……タバコ吸いたい……」
「ま、いっか、俺ももう疲れた! シャドウでもなんでも来いってんだ……」陽介も悠に倣った。「こういうときタバコ吸えたら気分いいんだろうな、雰囲気的に」
「試したことあったろ、むせただけだったけど」シャドウまで路面に横になった。「あー、いい天気だな」
「赤黒いだろ、どこがいいんだよ」
「俺が言わなきゃぜってー言ったくせに――花村」
「あん? つか、名字で呼ばれるとこっちが偽物っぽい――」
「ん」
 シャドウが寝ころんだまま、横たわる陽介の胸になにか置いた。
「持っといて」
「え、これ――」
 と、陽介の聞き返そうとしたときには、すでにシャドウの姿はなかった。
「あれ、え?」
「消えた……?」
「うっそだろ――クマ!」慌てて飛び起きながら、「クマお前見てただろ、シャドウは!」
「消えた、クマ、急に」
「ふっ……ざけんなよシャドウ! おい出て来い、こんな……!」
 陽介がなにか握りしめている。いまほどシャドウが渡したのだろうそれは、片っ方だけのストラップシューズ――店内で見つけた早紀の遺品であった。
「こんなんありかよ……あんだけ好き放題いいやがってっ!」陽介は俯いて泣いていた。「俺にはなんにも、言わせねーで、消えちまうのかよ……!」
「花村……」
 陽介の忍びやかな嗚咽に、木材の粛々と爆ぜる音だけが和する。ふたりと一匹はしばらくそのまま、ものも言わずにただ佇んでいた。
「ヨースケ」ややあってクマが沈黙を破った。「さっきのシャドウ」
「……んだよ」
「考えてたんだけど、あれはたぶん、もともとヨースケの中にいたんだと思うクマ」
「だからとつぜん現れた?」と、悠。「それにあいつ、花村と記憶を共有してた……」
「そうとしか思えないクマ。あのシャドウ、出てきたときも匂いだけはヨースケと同じだった。そんで、なにがどーなったのかよくわからんけど、そのあとは気配まで完全にヨースケと同じになったクマ。クマ思うに……もともとはそれが、あのもうひとりのヨースケ? の、ほんとうの姿クマ。あれもヨースケそのものなんだクマ、きっと」
「へっ、もうひとりの自分の逆襲ってか。マジで映画だな」
「花村、あいつは、陽介は多分、花村に危害を加えたくて現れたんじゃないと思う」
「…………」
「あいつは言ってた、おまえに思い知らせるためだって。言い方は乱暴だけど、おまえに自分のこと……つまり、おまえ自身のこと、理解して欲しかったんじゃないかな」
「……俺の認めたくなかったこと、とか?」
「勘違いするなよ花村、おまえが汚らしいだけのヤツだなんて思ってない。あいつの、陽介の言い分だけを認めれば、おまえはそういうヤツだってことになるけど……」
 陽介はひとつため息をついた後、悠を振り返って「ありがとな、鳴上」と泣きはらした目で笑った。
「俺の、なんてーの、弁護士? みたいなこと、してくれたろ」
「弁護っていうより調停というか、仲裁みたいだったけど――」
 言いかけて、悠はふと、陽介の胸ポケットの薄く光るのに気付いた。炎の照り返しで見えにくくなってはいるが、間違いなく光を放っている。
「もうひとりの自分かァ。ムズいよな、そういうのに向き合うのって。お前がいてくれてよかったよ、俺ひとりじゃぜってーダメだったろうし――あっ」
「花村、その――」
「なあおい、ちょっと待てよ、先輩って」
「え?」
「先輩、ひょっとして、俺と同じ目に遭ったんじゃねーか?」
「……クマ?」
「ありえる、とゆーか、たぶんそうクマ」クマは考え深げにしている。「いきなり人間の近くに出てきて、襲って……いままではそのシャドウはそのままどこかへ行っちゃってたんだけど」
「山野アナも」
「山野アナのことはなんとも――」
「マジでそう思ってる? お前」
「……裏を取ってからだ、そう断じるのは」
 現状、関係なさそうな要素より符合しそうな要素のほうが多い。件のアパートがもし山野アナにゆかりあるものなら、ほぼ同一の事例と見て間違いないだろう。
(それはここを出てからだ、それより――)
「花村、その胸ポケット」陽介の胸を指さしながら、「気付いてたか?」
「え?」
 陽介は指さされた辺りをじろじろ見たあと、「なにを?」と訊いてきた。
「いや、ポケット、光ってる」
「……え、胸? ここ?」
「そう、そこ」
「光ってるって言った?」
「……見えてない?」
「いや、なんも――なに、さっきとおんなじだな。タロットとかなんとか」
 悠は手を伸ばして、陽介の学生服の胸ポケットに指を突っ込んだ。――なにか薄い、カード状のものが入っている。
「あ、またタロット」
「うお……なに、手品?」
 例によってまた見えないのかと思いきや、意外にも悠の引っ張り出したタロットは見えている様子。
(これって、ひょっとして)
 カードにはペンタグラムを捧げ持つ、冠と長衣とで装った若い男が描かれている。その下のスクロールに踊る「THE MAGICIAN」の文字――見覚えがある、悠の持っていたタロットカードの一枚である。
「……花村、ほら」
「え?」
「これ、たぶんおまえの」
「え、でも」
「おまえのポケットから出てきたんだから、おまえのだよ、きっと。おれのはほら」
 言って、自分のタロットを示して見せる。
「……俺のは、マジシャン? 手品師?」
「確か魔術師だったと思う」
「これフールって読むんだよな……え、お前のって、バカってこと?」
「交換しよう」
「いやいいよ、いいって! 放せ……!」
「遠慮するなよ……!」
「いい、手品師でいいですマジで!」
 なかば奪われるようにして、マジシャンのタロットは陽介に落掌された。
「いいな、マジシャン」
「マジシャンってガラじゃねーけど。へー、光ってるなァ……」
 陽介は嬉しげに、手に入れたばかりのタロットをクマに見せびらかしている。もっともクマには見えないようだったが。
(花村も手に入れた、ってことは)
「なあ、これ俺にも貰えたっつーか、とにかく手に入ったんならさ……出せんのかな」陽介も同じことを考えたようだ。「あの、ペルソナ?」
「ヨースケのガラじゃないクマね」
「わりーよく聞こえなかったわ」
「クマも出してみたいって言ったクマー」
「ペルソナの出し方は……口頭でうまく伝わるかどうかわからないけど、あとで教える。いまはとにかくここから出よう。またシャドウが来るかもしれない」
「いま教えてくれりゃあシャドウが来たって……」
「わるいよく聞こえなかった」
「急ぎましょうそうしましょうって言ったんだよ、なあクマ」
「ヨースケそんなこと言ってないクマー」
 クマがそれほど注意を払っていないからには、先に店内へ押し入ろうとしていたシャドウは、少なくともこの近くにはいないのだろう。かといって、この手に入れたばかりでろくろく使い方もわからない力を恃みに、こんなところで肝試しとしゃれ込むつもりはない。
(五時前だ。時間も押してる、家につくころには六時を回ってるだろう……)
 ますます火勢を強めるコニシ酒店を後目に、ふたりと一匹はスタジオへと引き上げて行った。多くの収穫物と、新たになった謎とを抱えて。





[35651] ノープランってわけだ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:56



「あ」
「……これ、里中、だよな」
「じゃあ、ずっと待ってた、ってこと?」 
 例によって、テレビの中を通る前にあちら側の様子を確認したところ、あにはからんや、携帯の液晶に膝を抱えてうずくまる少女の姿が映し出されたのであった。顔を伏せているので、自分の撮影されているのに気付いた様子はない。
「うっわマジかよ……軽く一時間以上経ってんだぞ」
 膝の間に顔を埋めるようにして、右手には陽介の置きみやげを力なく握っている。千枝は微動だにしない。さながら「途方に暮れる人」という題で彫られた石像のよう。
「あ、こないだの女の子クマ。あの子も呼ぶクマ?」
「あのな、俺らこれから向こうへ帰るの」
「……帰っちゃうクマ?」
「うう……んな寂しそうな声だすなって、また来てやっから」
「ほんとクマ?」
「なっ、鳴上」
「安請け合いできないよ、こればかりは」
 クマを喜ばせるような返答ははっきり言って難しい。かの巨人が一連の事件の犯人ではなく、また焦眉の急と思われた命の危険も誤解であった以上、強いてこの世界に入る理由は失われつつあるのだ。そして軽々しく遊びに来るにはこの世界は剣呑に過ぎる。
(少なくとも、花村や里中を連れてくるには)
「え、なんでだよ」
「理由は外で話す。とにかく、これいじょう里中を待たせるのは可哀想だ。行こう」
「あー……じゃあ、クマ、また近いうちに来るからさ」
「ほんとに? ほんとクマ? 約束クマよ」
 約束――そういえば自分は、この着ぐるみとなにか約束したのではなかったか?
(思い出した……やっかいな約束したな、いま思えば……)
 もっともただの口約束である。反故にすれば多少は良心も痛もうが、身の危険に換えられるものではない。
「ああ約束な。じゃあな――鳴上、行けそうか?」
「行ける。先に行って、大丈夫なら手を入れるから」
「了解」
 ――悠がテレビから出てきても、千枝の気付いたふうはなかった。
(寝てるのかな)
「里中どう?」テレビから陽介のあたまが突き出てくる。「足だすぞ、いいか?」
「いいよ。あ、待った、そこ。おれが支える」
「手、鳴上ちょっと、肩かして、手が」
「これ台とか用意できないか――そこ踏むな、踏むなって、そこ壊れる」
「じゃ、せーの、で」
「せーの」
 テレビから出るためにごそごそやっているのに気付いたようで、ようよう陽介が出てくるころには顔を上げて、千枝は呆けたような面持ちでよろよろと立ち上がった。
 目が赤い。
「……ええと、ただいま」
「か……帰っでぎだあ……!」
 顔面のすべての穴からおびただしい体液を噴出させつつ、千枝はわんわんと泣き出してしまった。
「おいおいなにも泣くことねーだろ、どうしたんだよ――」
「ふっ、ざっ、けんなオラァッ!」
 千枝は泣き叫びながら、歩み寄る陽介の脇腹に猛烈な中段蹴りを食らわせた。立て続けに三発も。
「さ、里中ちょっと……!」
「あんたもォ!」
 千枝はなおも泣きつつ、後退る悠の脇腹に腰の入った中段蹴りを食らわせる。立て続けに三発も。
「キドニーが……!」
「浮動肋骨が……!」
「どうしたじゃないよっ! ほんっとバカ! 最悪!」千枝は声をひっくり返して喚いた。「もう信っじらんない! アンタらサイッテー!」
「おい、里中に残れって、言ったの、おまえだよな……!」
「オメーが、そもそもひとりで、ホイホイ入るから……!」
 悶絶しつつ責任をなすり付け合うふたりに、無慈悲な足蹴りが飛んだ。
「ロープ切れちゃうし……ろうしていいが、わがんないし……ひんぱい、ひたんだがらァ……!」
 千枝の涙は見せかけのものではない。小さな子供が恥も外聞もなくがむしゃらにするような、なりふり構わない泣きっぷりであった。悠と陽介がテレビに入ってからいままで、きっと彼女は本気でふたりの身を「ひんぱい」し続けていたのだ。
(……悪いことしたな) 
 無事に出てくるかさえわからない、ふたりのクラスメートを待つ一時間の、どれほど狂おしく心細かったことだろう。まして目撃者は彼女ただひとり、周りに事情を説明することも適わない。思うだに千枝の苦痛に満ちた忍耐が偲ばれようというものだ。
「すっげー、心配したんだからね! あーもう腹立つ!」
 とどめとばかり、もう一発づつスネにお見舞いしたあと、千枝は泣きながら走り去ってしまった。
「いってェ……あの肉食獣……!」
「なんでおれまで……完全にとばっちりだぞ……!」
 仲良く痛がっていると、千枝と入れ替わりに若い店員がひとり、うずくまるふたりを訝しんで近づいてきた。
「陽介くん、どうしたの」
「いえ、なんでもないんす」
「……なんでそんな煤けてんの? 火事に遭ったみたい」
「あはは……あー、ちょっと学校で」
「うっわ、そのカッコでここまで来たんだ? 警察に捕まるよ」
「えーその、気をつけますから――あ、葛西さん向こう、客きてるみたいすけど」
「あ、マジ?」 
 陽介の陽動で、葛西さんは冷蔵庫の森へと消えていった。
「なんで煤けてるかって? 火事に遭ったんだっつの……」
「あれが葛西さん、ね」
「そ、しょっちゅう倉庫でタバコ吸ってんの。サボりの常連」
「葛西さんが煤けてなくてよかった」
「あはは……笑いごとじゃねーか。これで失火とかやらかしたらあのひと物理的にクビだよ」
(そうだ、こっちのコニシ酒店は無事なんだろうな。まさか向こうが燃えたからこっちもなんて……)
 まさかとも思われるが、こちらの世界のものがあちらの世界へ出現する因果関係自体まったくわからないのだから、逆のことが起きていても不思議ではない。
(向こうの世界に人間が入るとコピーが行われる、というなら、おれたち三人が最初に入ったときの説明がつかない。あの人間から出てきたシャドウが関係してるんだろうか? 陽介のときはなにも……いや、陽介は二度、あそこに行ったことがある、新しい舞台は必要なかっただけかもしれない。必要? なにに必要なんだ?)
「……なあ」 
 どちらからともなく黙って、ふたりとも考え事に没頭することしばし、先に沈黙を破ったのは陽介だった。
「なに?」
「悪いことしたな」
「ホントだよ」
「いや、お前じゃなくて、里中」
「……ホントだよ」
(なに考えてるんだと思えば……)
「それにしても、やっぱこのカッコ目立つな」
 一般の高校で着られる学生服の例に漏れず、八校のそれも黒一色である。多少煤けたところで目立ちはしないが、悠も陽介も顔といわず髪といわず汚れ果てていた。葛西さんの「警察に捕まる」発言は誇張であるにしろ、衆目を引くのは避けられまい。
「あとで便所いってカオ洗お……ちったあマシになんだろ」
「んん」
「……なあ、鳴上」
「ん?」
「さっきの、シャドウのことなんだけど」自然と陽介の声は低くなった。「もしさ、あのときお前がいないで、俺ひとりでシャドウを怒らせてたら、さ」
「…………」
「つまり、先輩とかはさ、怒らせて……殺されたってことなんだよな。もうひとりの自分が出てきて、俺がそうなったみたいに、お前はあーだ、お前はこーだとか言われて」
「そうして、こっちに帰ってきた」
「死体になって、な」
 彼の煤まみれの横顔に、なにかある種の決意のようなものが閃く。イヤな予感がする。
「結局、先輩たちをテレビに入れた犯人はわからなかった」
「花村それは――」
「なあ鳴上、俺とお前でその犯人、捕まえられないかな」
(言うと思った! さっきのは枕か。こいつ、これを考えてたんだな……)
「お前がいれば、いや、もしさっきのタロットが使えるなら、俺だってあのペルソナを使える。たとえ犯人が誰かをテレビの中に落としたって、俺たちとクマなら助けられる!」
「……なあ花村、おれたちは高校生だ」
「それも転校生な。なんか漫画みてーだな、ふたりの転校生が――」
「しろうと、なんだ。犯罪捜査の。おれたちは」噛んで含めるように続けて、「警察に任せるべきだ。おれたちじゃ手に負えない、責任を負えない」
「警察が捕まえられんのかよ、ひとをテレビに入れてる殺人犯なんて! お前またテレビにひとが落とされたとき、黙って見てるつもりなのか? 助けられるのに!」
「おれたちにはなんの義務もない。でもいったん手を出せばそれ以降は義務になる。義務にせざるを得なくなる。少なくともおれならそうする」
「そうすりゃいい。するべきだ。できるんだから」
「……お前の義務はなんだ花村。手に負えない、やりかたもわからない、やったこともない、できるかどうかもわからない、果ても見えない、報いもない、命の危険だけはたっぷりあるボランティアか。おまえの言うことに首を突っ込めば、どうしたっておれたちの生活はそっちにウエイトが傾く、絶対に」陽介を睨みながら続けて、「もう一度いうぞ、高校生であるお前の、おれたちの義務はなんだ? それは健康に気をつけて、勉強して、高校を卒業することだ」
「違う、やれることをやれるだけやることだ!」
「…………」
「違うかよ」
(やれることをやれるだけやれ、ね……流行ってるのか?)
 まさかいまここで、母の口癖が陽介の口から出てくるとは――これが母なら甘えて煙に巻いてしまっても構わないが、
「おまえの意志は崇高だと思う」無論、相手は陽介である。「おまえがまんざら、あのペルソナを使ってみたいってだけの理由で、そう言ってるんじゃないってことはよくわかってる」
「お前そんなふうに思ってたのかよ」
「そういう感情がない、なんて言わないよな」
「……ないわけじゃない、認める。でもモチベ維持すんのに必要だろ? そーいうの」
「前向きだな」
「それに約束もある」
「クマとの? 本気で考えてたのか」
「お前、考えてなかったのか?」
「そういう感情がない、なんて言わないよ」悠はため息をついた。「あんなあやふやな口約束に命をかけることなんかできない」
「あいつ、寂しそうにしてた」
「おれも寂しそうにしようか」
「お前、真面目に考えてるのか?」
「花村、真面目に考えてくれよ、おまえの言う犯人捜しや被害者救出の具体的な方法を。それなしにおれを説得できるなんて思うなよ」
「俺は……」たちまち陽介が言い淀む。「俺は、お前とふたりなら、そういうこと考えられるかなって思ってるんだ。お前アタマよさそーだし」
「愚者に向かってよく言う! 手品師ならペテンのひとつにくらいかけて見せたらどうだ」
「お前も愚者なら手品に引っかかれよ。バカなんだろ」
 これだ。もちろんこういう彼だからこそ、自分は友人に選んだのだ! 悠は唇を噛んで笑いたいのを堪えた。陽介はこれでいい、理屈を並べ立てるせせこましい仕事は自分の得手であって、彼の領分ではない。
(おれはやりたいのか、やりたくないのか、結局はこれだ! もう自分で自分の判断を非難して落ち込んだりはしない。具体的な方法だって? バカとペテン師が力を合わせれば、それらしいやり方なんていくらでも思いつくさ)
「つまり、ノープランってわけだ」
「そーですよ、ノープランでノーフューチャーですよ」
「……救助は、テレビの中にひとが入れられてしまったときの救助は、おれたちにしかできないだろう」やってできるものなら、だが。「犯人捜しのほうは保留としても、そっちは試してみてもいいと思う。ただし」
「ただし?」
「おれはともかく、おまえ、大丈夫なのか? バイトとかあるだろう」
「ああ、んなもん人命救助が最優先だろ」
「それはそうだ。おれが言ってるのはアフターケアのこと」
「なんの」
「花村陽介の社会的立場」
「大丈夫だって!」陽介は楽観的だった。「んな毎日まいにち落とされ続けてるってワケじゃねーし、俺だって毎日シフト入ってるワケじゃねーし」
「シフトが入ってる、という理由で救助を拒まれるのが一番こまる」
「ないない。ありえない。約束する」
「……約束はいい。じゃ、とりあえず仮採用ということで」
「おっ、面接成功?」
「ふつう面接官の質問にノープランでノーフューチャーなんて返さないけどな」悠は苦笑した。「……あなたの意気込みはわかりました。でも我が社の仕事はつらいですよ」
「うっす、なんでもやります!」
「勤務時間も不規則です。昼の出勤もあるかもしれません、その場合は問答無用で学校をサボっていただくことになりますが」
「とんでもねーブラック企業だな」陽介は苦笑した。「わかってる。そんなのはどうとでもしてみせる。これは俺たちにしかできないことなんだ、構ってられっかって」
「やってみるしかないな」
「おお、やってみせようじゃねーか。てことで――」
 と言って、陽介は悠に手を差し出した。
「これからよろしくな、鳴上」
「ああ、よろしく、花村」
 手を握ろうとすると、陽介はなにか思いついたように「あっ、待った待った、やりなおし」と手を引っ込めた。
「なに、やりなおし?」
 わざとらしく咳払いなどして、陽介はもう一度手を差し出した。
「これからよろしくな、悠」
「…………」
「悠?」
「……花村、名前はあんまり」
「よ、ろ、し、く、な、悠!」
(よりによってユウ呼ばわり……まあ、いいか)実際、不快感はなかった。(おれは変わったんだ。それをこいつの声で確認し続けるのも悪くない)
「よろしく、花村」
 手を握ろうとすると、陽介は「ああ?」と笑ってまたも手を引っ込める。
「よろしくな、悠。――テイク3だ」
 陽介がみたび手を突き出して、まっすぐ悠の目を見据えてくる。彼もまた変わったのだ。そしてその確認を求めている。鳴上にではなく、悠に。
「……よろしく、陽介」
 陽介の会心の笑顔。そして彼はようやく握手に応じてくれたのだった。





 視界の端にちらとなにか動くのが見えて、悠はとっさに手庇を解いた。
(……誰?)
 河川敷脇の公園の前で彼は立ち止まった。そうして糠雨のさなかにじっと目を凝らす。公園の中に設えられた四阿に和装の女が佇んでいる。これの今ほどぱっと立ち上がったのが、まるで走ってきた自分を見咎めたかのようなタイミングに思われたのだった。
 悠は少しくぞっとした。
(こっちを見てる……んだよな)
 念のために後ろを向いてみる。もちろん誰もいない。すでに六時近い時刻のことで、わざわざ雨の中を好んで歩く人間など見当たらなかった。
 この仕草を見てこちらの懸念に気付いたらしい、件の女が戸惑いがちに片手を上げて合図を送って来る。悠の困惑――微かな恐怖を含む――は深まるばかりである。ここに越してきてから見知った僅かな知り合いの中に、和装の女など存在しなかったはず……
 大いに訝しみながら、それでも悠は公園の中に入った。このまま無視するわけにもいかないし、そうしてはなんとはなし逃げ帰るようで気も引ける。
「えっと、帰り?」
「あっ……天城?」
 声を聞いてようやく、悠はこの和装の女の正体に気付いた。まるで化かされたような心持ちだった。彼は近くで見てさえ、このような妙齢の美女は知らぬとばかり思っていたのだ。
「あ、この恰好? 驚いた? うちのお使いだったから……」
「驚いた……ほんとうに誰かわからなかった。後ろ確認したよ、とっさに」
「見てた」雪子はそう言って笑った。「そりゃ驚くよね、こんなカッコ」
 白梅を配った洗染に映える、赤紫と白のグラデーションが目を引く半幅帯を締め、加えて目もあやな化粧まで施した雪子は、生来の美貌も相まってとうてい高校二年生には見えない。これが薄暗くなり始める時間帯、糠雨の中に忽然と現れるのだから、
「……妖怪かなにかかと思って、一瞬ぞっとしたよ。クラスメートでよかった」
 この感想は雪子を喜ばせたようで、彼女はひとしきり無邪気に笑っていた。
「ふつうの高校生が紬なんか着ないよね。わたしだってコレ、普段着じゃないよ。仕事のとき着るだけ」
 この何気ない「仕事」という科白も、彼女の高校生らしからぬ雰囲気をいっそう際立たせる。
(仕事か。この歳で仕事、してるんだもんな……大変だよな) 
 つい先日に「ああいう家に生まれなかっただけ運がよかった」などと軽々しく考えたことに、悠はいまさらながら小さな罪悪感を感じていた。
 いったい陽介に対しても言えることだが、こと社会的な立場において、悠はどうしても彼らにある種の引け目を感じてしまう。彼らにとっては当たり前の労働をゆえなく免れているという、筋の通らない、それでも脳裏を離れない感情。バイトさえしたことのない悠はともすると、いま目の前で話している少女が自分より五、六も年嵩の、立派な社会人のようにも錯覚されるのだった。
 雪子がベンチに腰を下ろしたので、体面上、悠も少し離れて彼女に倣った。学生服の上を脱いで形ばかり露を払う。ジュネスを出てから降られたので傘の用意もなく、学生服の上も下も水に漬けたみたいになっている。
(明日までに乾くかな、まあ、煤っぽいよりはいくらかマシか……それにしても)
 こうして見れば見るほど、千枝がだれかれ構わず自慢したくなるのがよくわかる。そっと横目に盗み見る雪子の姿は言おうようもなく美しい。止まっていれば絵画のようだし、動けば動いたで映画のワンシーンのようである。まるでこの糠雨も四阿も、当世では珍しい和服姿も撮影のために用意されたもので、どこか悠の見られない位置でカメラが回っているかのような。
「……これ、この帯、このあいだ言ってた水名羽染め」
「え?」 
 雪子が半身を捻って、悠に身につけた帯を示して見せる。折鶴を散らした地に赤紫と白のグラデーションが波打っている様は、言われてみれば確かに、
「……ムラサキキャベツっぽい、かも」
「ぽいよね。実際にキャベツで染めてるわけじゃないけど」
「そういえば、和服着たひとを生で見るのって、生まれて初めてかもしれない」
「そう? 東京って、そういうひといないの?」
「おれは見なかったな……見てもおかしくないところに住んでた、はずなんだけど」
 柴又在住であった自分が初詣の時期にくらい、帝釈天を訪う和装の女性を見かけなかったはずはないのだが、記憶にはまったく残っていないのだ。顧みて我がことながら奇妙な話ではある。
(まあ、初詣って言ったってほとんど外に出なかったんだから、当たり前なのかも)
「へえ……柴又、だったっけ」
「そう、寅さんの柴又」観たことは一度もないが。「新柴又駅の近く」
「きっと都会なんだよね、ここよりずっと……」
 雪子はじっと自分の草履を見下ろしている。なんとなく千代田区クラスの大都会を想像していそうな雰囲気である。
「こういう田舎に転校してくるのって、やっぱり大変だった?」
「大変じゃなかったけど。でも正直、転校はイヤだった……かな」
 実際、それが偽らざる気持ちだった。もっともここへ来て得たもののことを思えば、かしこまって参ぜよと過去の自分を叱ってやりたいくらいだが。
「……そうだよね、都会から来るんだから」
「こういうところって、学校の授業で田植えとか稲刈りとかあるのかなって、悩んだりして……ちなみにあるの?」
「田植え? ないよ、さすがに」雪子は苦笑した。「あ、でも小学校の頃とかあったかな」
「よかった、これでひとつ悩みがなくなった」
「……あの、鳴上くんって、ご両親がアメリカに行ってるって言ってたけど」
「うん。いまごろなにしてるんだか……向こうっていま何時くらいになるんだろう」
「確か十七時間くらい、マイナスなんだよね、時差」
「へえ。天城、詳しいんだ」
「えっと、アメリカってだいたいそのくらいだったと思うんだけど、よくわからないけど……」
「そういうことぜんぜん知らなかったな。自分のオヤがいるのに」
(……ところで天城って、こんなところでなにしてるんだ?)
 まさか映画の撮影ではあるまい。うちのお使いとのことだったが、こんなところで、それもこんな時間に油を売っていていいのだろうか。こんな寂しい公園で人待ちというのもなさそうだし、おそらく彼女の仰せつかったお使いとやらは終えたのだろうが。
(ひょっとして、おれがいるから立つに立てないのかな)
「カリフォルニア州のサンノゼ、だったよね、確か」
 悠の懸念もどうやら杞憂のようである。なんとなく雪子は話したげに見えるのだ。こちらが返答している間に、すでに次に投げかける質問を用意しているような、そんな気配を彼女から感じる。
「そう。なんでもアメリカでいちばん治安のいい都市なんだって……そうじゃないところもあるらしいけど」
「……どんなところなんだろうね、向こうって」
「サンノゼ?」
「うん。あ、鳴上くんは行ったことないんだよね」
「ないけど、いいところみたい。父親の話では」
「へえ……」
(……聞きたそうにしてる)
 雪子の顔にそう大書してあるのが見えるようだ。悠自身も切れぎれの伝聞で大して詳しいわけではないものの、こんな顔を用意されてはなにか話してやらないわけにもゆかない。
「……そう、ハンバーガーとアメフラシがものすごく大きいって言ってたっけ」
「アメフラシって、あの、海にいるアメフラシ?」雪子が瞠目する。「食べるの? アメフラシ」
「もちろん食べない……と思う、たぶん。食べるとは言ってなかったけど」
「アメフラシ……」
「うん。一昨年の夏に、ハーフムーンベイっていう沿岸の町の近くの、ペスカデロっていうビーチに遊びに行ったときに――」
 多少の脚色と真実らしい憶測を交えつつ、悠は父から聞いた「体長百二十センチのアメフラシ」に遭遇したときの話を聞かせた。泳いでいるときにいきなり出会してこっちへ近づいてきたこと、逃げても追い縋ってきたことから、彼はおそらく肉食であろうこと、一緒にいた仲間の誰に話しても信じてもらえなかったこと、等々。
「百二十センチってかなり大きいよね……犬くらい? アメフラシってそんなに大きくなるものなの?」
「さあ、種類によってはそのくらいになるのかもね。誇張したのかもしれないし――そういえば、うちの菜々子ちゃん、覚えてる?」
「え? うん」
「百二十センチってだいたいあのくらい」
 悠がこう言ったとたん、雪子が大口を開けてけたたましく笑い出した。「ひどい! その喩えひどい!」などと言いながら、しかし口ほどにもなく身をよじっている。
(ひとが違ったみたいだ……コレ、ほんとうに天城なのか……?)
 雪子のひとしきり笑い止むまで、悠は心中ひそかに「天城妖怪説」を疑っていた。
「ひどいって……菜々子ちゃんかわいそ……むふっ……」
「……ところで天城、いつもこんな時間までうちの手伝いを?」
 ひとりこんなところに座っていた理由を婉曲に聞いたつもりだったが、雪子は知ってか知らずか「え、うん、もっと遅いこともあるよ」と言うに留まった。
「今日、学校きてなかったけど、かなり忙しいんだ?」
「んん……小西早紀さん、亡くなったんだってね。千枝にメールもらったんだけど」雪子の貌がたちまち曇る。「そういえばこの近くだったよね。ひどいよね、こんな静かなところでそんなことが起きるなんて」
「うん」
「……その、千枝とかとはどう?」
「え?」
「え、と、隣の席だし、なんか一昨日とか、いっしょにジュネス行ってたみたいだし」
(行きましたとも。ジュネスとか、テレビの中とか)
「一昨日も昨日も、今日も行ったな、そういえば。これで天城もいれば言うことなしだったんだけど」クマはたいそう喜んだことだろう。「軍資金、早く来ないとなくなるよ」
「うん……うちが落ち着いたら、ね」
「里中の腹の虫、監視しなきゃ」
「よく食べるから、千枝」雪子にようやく笑顔が戻った。「……千枝ってね、すごく頼りになるの。わたしいつも引っ張ってもらってる」
 なるほど確かに、テレビの中では泣いたり叫んだりとたいそう頼りになったものだ。おまけに陽介も悠も学生服の裾を引っ張ってもらっていた。
「去年も同じクラスでね、一緒にサボって遊んだりしたな」
「へえ……ところで天城、時間、大丈夫?」
「え、あっ」
 腕時計は六時半前を指している。そろそろ彼我の目鼻立ちの判別しがたくなる頃合いである。
「おれはこのまま朝まで話していたいんだけど、ひょっとしたら天城は迷惑かなって」菜々子も背と腹がくっついてしまう。「それとも今日はここに泊まっていく?」
「えっと……今日は遠慮しとく」雪子は笑って腰を上げた。「帰らなきゃ。うちの旅館、わたしがいないとぜんぜんダメだから」
「なら仕方ない。残念だけど」悠も立ち上がった。「おれもそろそろ帰らなきゃ。うちのアメフラシにエサあげないと」
「え、アメフラシ?」
「体長百二十センチの」
 雪子は笑いながら、開きかけていた和傘で悠を打つふりをして、すぐ思いついたように、
「あ、鳴上くん、コレ使う?」
 持っていた古風な和傘を差し出してきた。
「使うって、天城は」
「いいよわたしは」
「いいって言えば、おれのほうがもっといいけど」濡れそぼった身体を示して、「もう傘なんてあってもなくても一緒だからさ」
「……そう」
「……傘よりもその水名羽染めの帯がいいな」
 今度は打つふりでは済まなかった。
「じゃあ、気をつけて」
「うん。鳴上くんも」
「いまその傘で殴られた脚が折れてなきゃね」
 雪子は笑って辞去して、雨の中を十歩も歩いたあと、なにか思い出したように四阿を振り返った。
「なに? やっぱり帯くれる?」
 聞こえたはずだが返事はない。彼女の顔は錆朱の傘布にほとんど隠されていて表情もわからない。ただその唇だけが黄昏の雨の中に仄赤く、もの言いたげに眺められる。
「…………」 
 なんだかうそ寒い、不吉な予感を伴う光景だった。いまなにがしか決意を秘めたようにして立ち竦む彼女に、もう一度言葉をかけたら、霧か煙みたいに忽然と消えてしまうのではと思わせるような。
「……また学校でね」
 ややあってそれだけ言うと、雪子は踵を返して行ってしまった。





[35651] 旅は始まっております
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 01:05


 十一時五十分。
『――今日のニュースにもありました稲羽市ですが、今年も頻繁に濃霧が観測されています』
 悠はソファから立ち上がって、テレビの音量を少し上げた。屋根を叩く雨脚が強く、部屋全体を薄くスノーノイズのような雑音が満たしている。
『――実はこれは、ここ数年で見られるようになった異常気象で、原因はよくわかっていません』
(レパートリー、増やさなきゃな。いまはセネカよりアピキウスだ……)
 読みかけのセネカからブックマークを抜き取って、悠はそれを段ボール箱にしまった。しばらくは読むまい。
 千枝推薦のロールキャベツ――トマトは入らない――は危なげなく菜々子に気に入ってもらえたようだったが、課題は山積みである。悠の知っている僅かな料理でローテーションを組むとすると、半月後にはループしてしまうのだ。大して熱も入らなかったというのは誇張でなく、彼のあたまの中にあるレシピは印象に残っているもの、すなわち極端に手間がかかるか、さもなければ極端に手間のかからない、そういった料理がほとんどなのだった。奇貨居くべしなどと嘯いてみたものの、得てして奇貨というやつは珍しいばかりで使えないものである。
『――周辺にお住まいの方はご注意下さい。今日は稲羽市の事件について時間を延長してお伝えしました』
 いまは腹の足しにもならぬストイシズムはさておいて、なによりレシピの充実が急務である。あのかわいいアメフラシが悠の作る食事に飽きて人間を襲い出す前に、最低でも二月は回せるくらいのレパートリーを用意しなければ!
『――まもなく午前零時です』
「さあ、映るか、映らないか……」
 悠はテレビの電源を落とした。
(ニュースによれば、小西先輩の死亡推定時刻は午前一時ごろ。クマの言っていた時間ともだいたい一致する。そしてマヨナカテレビは零時……もしあれが実況中継だとしたら、里中や陽介の見た小西先輩はたぶん、あのもうひとりの自分に襲われていた姿だったんだろう)
 ほどなく、死んでいるはずのブラウン管が明滅を始めた。初めて見たときと同じ、レモン色の靄がかかった中に、やがてうっすらと人影のような肖像を結ぶ。
「…………」
 影はまったく輪郭だけだ。突起に乏しいつるりとした形。ほとんど動きらしい動きを見せない。
(小西先輩じゃないな、それはわかる)
 これって録画できないんだろうか――少し緊張を解いて余念を案じ始めるや否や、人影が急に動いた。テレビに映っていない腰の下からなにかが持ち上げられて、ぱっと大きな影ができる。髪のような長い纏まりが人影の動きに追従して揺れる。
 悠はぞっとした。改めて眼を凝らす暇もなくテレビは消えてしまった。
「……天城?」
 その人影は今日公園で見たあの姿――十歩の距離を隔てて和傘を目深にして、糠雨の中に思い詰めたように立ち竦んでいた、あの天城雪子のもののように思われたのだった。





 なにか眠気を誘うような律動が、規則正しく身体を突き上げ続けているのを感じる。
「ナルカミユウさま、お目覚めあれ」
 目を開けると――そこは電車の中だった。悠はワンボックスのひとつに腰掛けて、鼻の長い不気味な小男と相対していた。
「…………」
「おはようございます。ナルカミユウさま」
 小男の隣に座るブロンド美女が悠に挨拶する。強烈な既視感を覚える。
「……イゴール、と、マーガレット……?」
「さようでございます」イゴールが右手のタンブラーを軽く上げた。「少し待ちましょうかな?」
「さようでございます」マーガレットが右手の焼き鳥を軽く上げた。「少し待ちますか?」
「……ちょっと、待ってください」
(待て、待てよ、記憶が混乱する……そうだ、おれ、これから叔父さんの家に……)
「先ほどはまったく、我ながら奇妙なことを申しましたな、お目覚めあれだなどと! あなたさまは眠りにつかずしてここへお越しになることなどできないのだからして……うーん、さりとてお休みくださいだなどと申すのも――」
「ちょっと、待って」
(ここ、トンネルの中だ。いまどの辺りだ? そうだ着く前に一報いれなきゃ……あれ?)
「構えてお気になさいませんよう、ナルカミユウさま。主がこのような言い違いをするのも珍しいことではございませんゆえ、以後もなにとぞご寛恕いただきたいのですが、これもひとえに主人として失礼なく客人をもてなす――」
「ちょっと、待って、ください!」
(違う! おれは確かに八十稲羽に着いた!)ようやくあたまがはっきりしてくる。(おれは叔父さんに会ってる。菜々子ちゃんに、スタンドの店員に、諸岡先生に、里中に、天城に、陽介に、小西先輩に)
 イゴールとマーガレットはしゅんとして、おのおの手に持った飲み物なり食べ物なりをちびちびついばみ始めた。
「……あなたは、イゴールさん」
「ただイゴールとお呼び捨てください」小男が顔を上げてにこっと笑った。
「あなたは、マーガレットさん」
「マーガレットとのみお呼びください」美女が顔を上げてにこっと笑った。
「じゃあ、イゴールとマーガレット、これは――!」
 悠は胸ポケットからタロットカードを取り出して、ふたりに突き付けた。
「これはあなたたちの仕業かっ!」
「いいえ」イゴールは笑顔のままだ。「先だっても申し上げました。それは正真正銘あなたのもの。あなたの精神と観念の象徴でございます」
「そんな与太話を信じろとでも? あの、テレビの中に入れるようになったのだって……!」
「ナルカミユウさま、あなただけの、とは申しません、じっさい正確ではございませんもので。しかし別して我々の関与は否定させていただきます。またあえてそのように、手柄を分捕るような失礼なことを主張するつもりは毛頭ございません」
「い、意味がわからない。あなたの言ってることは、ぜんぜん」
 悠は混乱のあまり、あたまを抱えて膝に突っ伏した。
「さて、なにはともあれ――ようこそベルベットルームへ」
「ふたたびお会いできてなによりでございます」
「ちなみに、現実のあなたは御就寝中でございますから、ご案じなきよう。わたくしが夢の中にてお呼び立てしたのでございます」
「ちょっと、いいですか」
「なんなりと」
「……あなたたちは、何者? 何人? ベルベットルームって、なんですか」悠は貸し切り状態の車内を眺め回した。「ベルベット? このシートは化繊の一枚物です、ここは電車の中です。電車! ベルベットでも、ルームでもない!」
「名前はあまり、というより、ほとんど意味はございません、ナルカミユウさま」イゴールがタンブラーの中身を啜った。「みなあなたのあたまの中から、あなたが、あなたなりの規則に則って適当に割り振ったものでございます」
「バカなこと言うな、ふざけてる、名付けた覚えなんかない」
「覚えがないだけでございます。別にベルベットルームでなくともタピスリーチェンバーでもシュロスサンスーシでも構いません。改めてわたくしをヨーシュアとかクリストフォルスとかレイアーティーズとかお呼びくださっても構いませんし、このマーガレットとてお好きなようにラフレシアともデンドロビウムともお呼びなしくださいますよう」
 同意を求めてマーガレットを見ると、彼女はつんとそっぽを向いて「マーガレットとのみお呼びください」と宣った。
「……まあ、マーガレットもイヤとは申しません」
「まだ何人か聞いてません」
「おそらく何人でもないのでしょう。もし誰か知っているとしたら、それはあなただけです。そのあなたがご存じないと仰せなのだから、しこうして我々は何人でもないということになりましょうな」
「……あなたがたは何者なんです。どうしておれをこんな目に?」
「我々が何者かについては……我々がそもそも何者かであるかもわかりませんが、あなたは理解できません。それゆえにあなたがご自身で名前を決めざるを得ないのです。我々の話す言語も、選ぶ言葉も、見た目も、声も、物腰もすべてそう。あなたのあたまの中身にだけ由来しております」
「…………」
「そう難しくお考えにならぬよう! それご覧なさい、電車はすでに走り始めておりますぞ。旅は始まってしまった。始まってしまえば、事前に立てたプランに多少の粗が見つかったからといって、それにいつまでもかかずらうのは野暮というもの!」
「プランなんか立ててないし、おれの旅はこのあいだ終わりました。長かったけどもう着いたんです。降ります」
「もちろんあなたは着きました。始発駅に」ひと串食べ終えたマーガレットが口を挟んだ。「終わったのではなく、やっと始まったのです」
「始まった? いつ?」
「あなたは契約を結ばれた。細かいことを申せば、そのときに始まりました。それゆえにここへご招待申し上げました」
「契約?」悠は鼻で嗤った。「切符のことですか? おれは無賃乗車です、次の駅で降ります」
「あなたの切符はここに」
 イゴールがモーニングの胸ポケットから、裏地の黒い小さな紙片を摘み出した。なんの変哲もない普通列車の乗車券である。
「どれ、改札しておきましょう――マーガレット」
 隣の美女が切符に判子を押して、それを悠に差し出した。
「受け取るとでも?」
「お返しするのです。これももともとあなたのもの、あなたが望んで買い求めたものではないにせよ」
 悠はしばらく穴も開けよとばかり、マーガレットの繊手を睨み付けていた。が、何分経っても彼女の忍耐に変化がないのを見て、ようやくしぶしぶながら切符を受け取った。
「……おれの自由はないんですか」
「あなたはこの旅に乗り気ではなかった、なかばは強制でございました。ご自覚がございましょう、アマギユキコに問われたときも、あなたは正直にそう仰った」
「なんでそれを……」
「しかしあなたはそのときこうも思った。来たくなどなかったが、まさしく来るべきだった、来てよかったと」
(何者なんだこの小男は……まさかほんとうに悪魔っていうんじゃ……!)
「だからして、この旅の先行きをそれほど案じなさることもないのです。楽しい旅になりましょう。無論、楽しいだけの旅にはなりますまいが」
 なにが楽しい旅だ――悠は生まれてこのかた、これ以上はないと思われるほどの長大息を吐いた。
「まあ、どっしりお構えなさいませ。たかが旅でございます、我々も相伴させていただきましょうほどに」
「……それで、じゃあ、おれはなにをすればいいんです。景色を楽しみましょうか」悠は闇一色の窓を覗き込んだ。「素晴らしい景観ですね、いい天気だ」
「ええ、素晴らしい眺めです。かつてあなたが見たことのなかったさまざまな景色が、これからもたくさんあなたを待っておりますよ」
「見たくないものもね。電車とか」知ったふうなことを!「いい思い出がないんです。変なひとに無理矢理スルメを食わされそうになったり」
 イゴールは手を叩きながら笑い出した。この鉄面皮の悪魔にはささやかな皮肉など面当てにもならないようだ。
「そうそう、話を元に戻しますが、あなたはある契約をなさいました。しかしそれはその切符のことではございません」
「へえ、クーリングオフしたいんですが」
「まだ八日経っていませんから、お止めすることはできませんな。しかし」タンブラーの中身を嘗めながら、「わたくしが先にお会いしたとき、あなたにお伝えした占いを覚えておられますか?」
 これから行くところで災難に見舞われて、その謎を解かなければいけない、確かそんなような不快な内容であったはず。
「大凶でしたっけ」
「あなたがクーリングオフなさるなら、確実にそうなりましょうな」
「……どういうことです」
「あなたはある謎を解かなければなりません。契約はその端緒に過ぎません」
「そもそもその契約に心当たりがありません」
「約束、と言い換えたほうがよろしいでしょうか」
(約束……まさか、クマとしたあの口約束のことを言ってるのか!)
「……その口約束でございます」イゴールの口角がちょっと持ち上がる。「ついでに言えば、あなたに守るつもりのなかった約束でございます」
 つまりイゴールの言う謎とは、あの一連の事件の犯人を指すのだろうか? 悠が約束を守らなければ犯人は野放しになり、犠牲者は増え、いつかそのうちのひとりに彼自身が数えられることになる、そう言いたいのだろうか。
「あるいはそれに前後して、あなたの新しいご家族やご傍輩も。それが今し死にゆくあなたの慰めになりますものかどうか」
「……おれの考えてることがわかるんですか、あなたは」
「夢の世界のできごととして、ことさら驚くまでもないこと。そうではありませんかな」
「プライバシーも筒抜けか。楽しい旅になりそうだ」
「保証いたしますよ。旅はなにを措いても、まずはよい道連れ、次によい酒」
「よい食事も」と、マーガレット。「そして好天に恵まれれば言うことはございません」
「じゃあよい道連れさん、難しいことばかり喋ってないで、仲間を楽しませてくださいよ!」悠はなかば自棄になって喚いた。「腹の減ってない未成年の仲間に、なにかおもしろい話をしてください」
「そうですな、ではこんなのはいかがでございましょう――アトクェ・ウビー・ソーリテューディネム・ファキウント」
 身を乗り出してイゴールの胸ぐらを掴もうとした悠の腕を、すんでの所でマーガレットが捕らえた。
「ふざけてるのか……!」
「たとえこの場の誰がそうしていたとしても、あなただけはそうしておりません。そうでございましょう?」
 小男と美女の眼差しに、慈愛と、なにか悲しみのような色の浮かんでいるのに、悠はようやく気付いた。
「ナルカミユウさま、これからあなたがどこへ行くのかを知るためには、まずご自分がいったいどこから来られたのか、確認しておかねばなりますまい」イゴールは諭すように言った。「そして彼は寂しい荒野を造り上げアトクェ・ウビー・ソーリテューディネム・ファキウント……? 」
「……それを平和と呼んだパーケム・アッペルラーント
 マーガレットがようやく悠の腕を解放する。彼は悄然としてシートに沈んだ。
「そのとおり。あなたは荒野から来られた」
「…………」
「あなたは孤独を愛し、河向こうの緑豊かな森を興味深く眺め、羨み、しかし内心では蔑んでいた。自身は蔑みを知らぬものと思い込みながら」イゴールは重々しく続ける。「そして水際に流れ着く枝葉や花を嬉しげに拾っては、それはじき腐るのだと自身に言い聞かせた。あなたはあなたの荒野を平和と呼んだ」
「…………」
「あなたは地質学者でした。ナルカミユウさま」マーガレットが後を継いだ。「あなたはただひとり荒野を逍遥し、地虫を観察し、土質を分析し、石を掘り、ずっと昔のひとの遺した足跡を調べられました」
「ですが、いまは庭師に憧れておられる」ふたたびイゴール。「青々とした草生、小さな花々、葉漏れ日おちる大樹の群。意に沿わない渡河の果てに森へ辿り着いたあなたですが、いまはそれらに囲まれて、あなたの興味はようやく昇華されようとしている」
「庭師……」
「あなたは初めて、あなたの土がなにか育てられることを知ったのです。いまはちょうど大事な花の苗を手に入れて、それを陽の当たる絶好の一角に植えようとしておられる。それを丹精することに心を砕こうとしておられる」
「……知り合って三日の友達だ」
「白頭新の如く、傾蓋故の如し。けだし友情は年輪の多寡などに比せられるものではございません」
「もう骨の髄まで地質学者かもしれない。間に合うかな、いまさら」
「間に合ったのです」マーガレットが微笑んだ。「だから、旅は始まっております。元気を出して」
「出だしは好調でございますよ、ナルカミユウさま。あなたには仲間がおり、助言者があり、なによりそのタロット、あなたのペルソナと呼んだ力もある。ただし」
 イゴールが持っていたタンブラーを窓越しのテーブルに置いた。
「これだけは決してお忘れなきよう。あなたがペルソナの、あなたご自身の呼びかけになんと応えたか」
(声が遠くなる……夢が覚めるのか?)
「さよう。現実のあなたが目覚めようとしているのです。我々の旅の語らいはひとまず終わりといたしましょう」
(待って、いまのはどういう)
「あなたが旅をお続けになる限り、我々は必ずまた見えます。そのときは必ず切符をお持ちくださいませ」
(イゴール! ペルソナって――)
「それでは、ごきげんよう」







《あとがき》


 これで一章は終了になります。
 ひとまずここまで読まれた方はお分かりかと思いますが、この小説、ゲームやアニメの内容と違うところがかなりあります。いくつか例を挙げると、

・シャドウは霧があろうがなかろうが人間を襲う。
・人間から出て来るほうのシャドウは凝り固まった表面的な「悪」ではない。
・ペルソナは自由自在でない(二章ではまた違った使い方も出てきます)。
・ワイルドという概念はない。
・コミュニティや絆などの概念は(ゲーム内で言及されているようなものは)ない。

 などがあります。
 冒頭の前書きにも書いた通り、この小説は原作の設定をかなり改変してあります。
 なぜこんなことを、と思われる方もいらっしゃるとは思いますが、これも冒頭に書いた通り、ひとえにこの書き物を小説として成り立たせるための苦肉の策であります。
 筆者の力のなさの故とも思いなして、なにとぞ笑ってご寛恕くださいませ。



[35651] 二章 NULLUS VALUS HABEO
Name: 些事風◆fe49d9ec ID:32a17845
Date: 2014/11/03 16:26

 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(殺す気か陽介……!)
 彼を轢きかけた黄色いマウンテンバイクは、通学路を行く他の八校生の間をすいすい走った後、いまほどの犯行を誇るかのようにゆっくり戻ってきた。無論、わざとであろう。
「よっ、おはよーさん」
「おはよう」悠はにこりともせず挨拶した。「確かにちょっと早いよな、この世からさよならするには」
「油断してるほうが悪いの。二回じゃ済まねーって言ったろ」
 陽介は自転車を降りて、悠の横に並んで歩き始めた。
「昨日の夜中の、見たろ?」
「んん、見た」
 そのせいでいろいろあって昨夜はなかなか寝付けず、加えて妙な夢まで見たものだから、目下悠は深刻な寝不足状態にあった。家を出てからというもの、足元はさながら雲を踏むようである。
「誰だかいまいちわかんなかったけど、アレに映った以上、放っておけない」
「陽介、あれ、ほんとうに心当たりないか? ひょっとしたらこいつかもしれない、とか」
「いや、ない。俺も夜ずっと考えてたんだけど」陽介が八の字を寄せる。「しかもあれ、途中からなんかブワッて、変なふうにならなかった?」
「なった」
  悠にはそれが傘を差したように見えたのだったが、陽介に同様の感想を抱いたふうはない。
「ま、ここで腕組んでても仕方ない。とにかく放課後、様子見にいこうぜ。クマからなんか聞けるかも知れんし」
「んん……」
  放課後――悩ましいところだ。
 マヨナカテレビに映った時点で、被害者がすでにテレビの中に入れられてしまっているのなら、むろん放課後まで待ってなどいられない。零時から現在までの時間を生き残っているかさえわからないのだ、学校をサボってでも直ちに救出に向かわなければなるまい。いや、そんな状態の人間を放置したまま夜を明かすこと自体、そもそもの目的から外れる行為だ。救助に赴くのならそれが必要とわかった時点で速やかになされなければならない。
 一方で、悠には気になることがあった。
 早紀の場合、二度マヨナカテレビに映っているのだ。一度目ははっきり断定できていたわけではないが、千枝の挙げた特徴が早希のそれと似通っていること、陽介も早希ではないかと疑う程度の情報を引き出せたこと、そしてなにより、山野アナ以降の犠牲者が早紀ひとりであることから、ほぼ間違いはないだろう。とすれば、早希はテレビに入れられてから二度目の映るまで、一日以上の時間を生き延びているということになる。そしてもしシャドウがクマの言うような危険な存在であるなら、彼女は二日目の零時前後に襲われるまで一度もそれに遭遇していないという逆説が成り立つ。
(おれたち三人もあの世界を彷徨っている間、一匹のシャドウにも出会さなかった。向こうのコニシ酒店にいたやつはともかくとして、あの偽八十稲羽商店街へ行くときも、帰りもそうだ。もちろん、それほど長時間だったわけじゃないけど)
 クマはこう言っていた。シャドウは霧が晴れていると暴れる。そしてシャドウがいきなり人間の許に現れる、つまり人間からシャドウが出てくるという現象は、霧が晴れているときに起こりやすいと。
 その霧がいつ晴れるものかわからない、というのは確かにある。しかし選りに選って今晩ということもないのではないか? であれば、わざわざ非常の時刻に疲れた身体を引き摺って出向くこともないのでは……
 悠に夜中ジュネスに忍び込むのを躊躇わせたのは、ひとえにこれらの情報が彼に許した希望的観測――それと疲労に伴う怠惰――にあった。
「放課後なんかあんの?」
「……え?」
「いや、放課後。行けるだろ?」
「んん」
 もっとも、悠は昨晩行動を起こさずに床を取ってしまったことをとうに後悔していた。こうと決めるだけ決めて目を瞑ったまではよかったが、さて静かになってみればどうしても、この決断の妥当性についてあれこれ考え始めてしまうのである。
 結局、彼はゆうべ布団の中で一晩中、雪子かもしれない被害者の失われるかもしれない命と、早希や自分たちの例がもたらした可能性――加えて、深夜の不法侵入の廉で遼太郎に殴り殺されるかもしれないリスクも――とを秤にかけて悶絶せんばかり、朝方まで寝付けずに輾転反則していたのだった。多少危険でも仕切り直して万全の状態で、だなどと自分に言い訳しておいて、あげくにこの不調を招いているのだから、
(始末に負えないよな……今日が勝負の日になるかもしれないのに……)
「また誰か放り込まれたんだとしたら、やっぱマジで犯人、いるんだよな……」
「んん」
(それにしても、眠い、疲れも取れてない、絶不調だ。これじゃいますぐジュネスに行ったところで……)悠はひっそりと失望のため息を吐いた。自分への、である。(バカなことしてるよな、ゆうべ動かなかったのはなんのためだったんだ? 最悪だ。最悪ってわかってて選んでるんだからもうどうしようもない)
「被害者が死ぬ直接の原因は、あの世界のせいかも知れないけどさ」悠の生返事も陽介は意に介さない。「あの世界を凶器として使ってる奴がいるなら、許せないよな……」
(とにかく、うじうじ悩んでいても仕方ない、後悔はそれしかできなくなったときにでもじっくりやればいい。いまはできることを探そう。潰せるところから順繰りに潰していこう、選択肢を絞らなければ。まずは天城の安否を確認。連絡先はたぶん里中が知ってる)とはいえ、この段階ですでに早希の例が生きなくなる可能性もあるが。(なにもタイムリミットまで小西先輩と同じとは限らない。ゆっくり急げってやつだ、可能性と有効性を慎重に計りにかけて……放課後で間に合うのか……昼休みにひとっ走りしようか……あ、きょう土曜だっけ……)
「だからさ、ぜったい俺たちで犯人みつけよーぜ!」
「……え?」
「いや、犯人。捕まえるだろ?」
「んん」
「……お前、話きいてる?」
「放課後だろ、行けるよ、行ける……」
 悠はあくびを噛み殺した。
「眠いの?  お前」
「んん」
「なに、夜更かし?」
「……え?」
「…………」
「保留だよ、保留、犯人逮捕なんて……」
「……悠こっち。そっち行くと中学だから」陽介はそう言って、よたよたと道を逸れて行く悠の袖を引っ張った。「ちなみにさ、昨日うちのテレビでさ、ちょっと試してみたんだけど」
「んん」
「あたま突っ込めたんだよ。お前みたいに」
「……え?」
「で、夜更かししたんだろ、見りゃわかるよ」
「バカなに言ってる!」眠気など一瞬で吹っ飛んでしまった。「突っ込めたって、テレビの中にかっ?」
  陽介はぎょっとして「な、なに、なんか悪かった?」と窺うように言った。
「入れたのか、テレビに」
「入れたけど……そんな驚くことか?」
(いや! ふつうに考えうることなんだ、あのタロットがおれのものと同じであるなら……)
 もしそうなら、あの世界に関連する条件について、陽介はもはや悠と変わるところはないということになる。
(これは傍証になる。たぶん、陽介はペルソナを使える――でも)
 彼が単独でテレビに入れるようになった、というのは、じっさい厄介な事態だった。これで彼の行動――ときに直情的かつ思慮に欠ける――を制限することができなくなってしまったのだ。
(極論すればこれで、おれがどんな態度に出ようと、陽介は思いのままに動けるようになったってことになる)彼は悠にタックルを食らわせる以外の手段を手に入れてしまった。(いくらおれが犯人逮捕や人命救助について慎重論をぶち上げたところで、陽介はこうすべきだと思ったことは是が非でも実行しようとするだろう、たとえひとりでも。少なくとも、そうできるということを自覚するだろう)
 これはある意味で陽介の安全を質に取られたようなものだった。悠が犯人逮捕に消極的であるかぎり、彼の単独行動を取る危険が常に付きまとうのである。
(くそっ、なるほどね、よくできてる。どうでもあの契約ってやつを遂行しなきゃならないって言うんだな)
 遠くイゴールの含み笑う声を聞いたような気のするのは、果たして寝不足のせいだろうか。
「これってやっぱり、あの力を手に入れたからなんかな」平静を装ってこそいるものの、陽介は喜びを隠し切れていない。「あの、ペルソナだっけ」
「だろうな」
「あれってもしかすると、事件を解決するためにさ、俺たちが授かったもんかもしれないよな」
 そもそもの出所は凝り性で飽きっぽい管理栄養士のおばさんなのだが。
「……あれは誰かから授かったなんて性質のものじゃないと思う」
「へえ、なんか心当たりとか?」
「口頭じゃ説明しにくい。しにくいけど、いちど喚んでみればたぶんわかる、と思う」
「するだけしてみてくれよ、理解すっから」
「…………」
 悠は坂の手前で立ち止まって、八高の門碑に枝垂れかかる染井吉野をぼんやり眺めたあと、陽介を振り返らないまま「朝、起きるだろ」と呟いた。
「……え、朝?」
「起きるだろ」
「起きる、けど」
「めざましのアラームを止めるよな」
「あ、俺いっつも携帯だから……いや、うん、止める」
「止めたあとさ、こういうふうに……思うかな」悠はあくび混じりに振り返った。「もの凄く便利でかつてない素晴らしい力を秘めているこの腕は、おれを責め苛む忌まわしいめざましの息の根を止めるために、畏くも父母がわが助けになれよかしと授け下したものなのだ……って」
 陽介はしばらく「なに言ってんだコイツ」とばかりに眉根を寄せていた。
「思わないだろ」
「……まあ、思わねーよな、フツー」
「そんな感じ」
「…………」
「だから言ったんだ。説明しにくいって」
 仮にうまく言葉にできたとしたら、陽介はおそらくよりいっそう困惑するだろう。こればかりは体験するに如くはなさそうだ。
(そうとも、言葉で理解できるはずはないんだ)悠はよたよたと坂を上がり始めた。(理解できるわけない。いまだかつて認識したことのなかったまったく新しいものが、どこまでも異質で、自己に所属するなんて思いも寄らないものが、自分の腕なんか比較にならないほど、当たり前すぎるほど馴染んでいて、ほかのなによりも自分的で、そうあることを意識しようとするのも難しいほど自然で、そうでない可能性を考えてみることすら馬鹿げてると思えるような……このどうしようもない二律背反!)
  それは実際、こうとしか言いようのないものなのだ。すなわち――あれはわたしである、と。
「ま、よくわかんねーけど、要はアレだろ」陽介が悠の横に並ぶ。「習うより慣れろってやつ? 放課後さっそく頼むわ、センセイ」
(ああ、放課後……どうする……このまま行くか……いや、この時間ジュネス開いてないか……)
「けど、テレビに入るのも、ペルソナも、お前が最初にやってのけたんだよな……」陽介はにわかに神妙になった。「まさかとは思うけどさ、お前って、もともとああいうことできたりしたのか?」
「……できてたらたぶん、隠してたと思う、こういう事件が起きても。間違ってもおまえや里中に見せたりはしなかっただろうな」悠は肩を竦めた。「もちろんできなかったよ。気持ちの上ではたぶん、いまのおまえと同じ」
「と、言いますと?」
「感謝三割、不安三割、迷惑四割……ってとこ?」
「……率直な話、迷惑って思ってんの?  お前」
「感謝もしてる、またとない体験だし」
「ふーん……」
 校門を過ぎた辺りで、悠に少し待つように言い置くと、陽介は思案顔を下げて自転車を停めに行った。いかにも含みありげな様子だが、かといって屈託を抱えているようにも見えない。
(わざわざ聞いたからには、迷惑だとは思ってないんだな、あいつ)
 ほどなく戻ってきた彼の面には、おそらく今ほど駐輪場まで持って行ったのであろう案件を、口に出そうか出すまいかと迷う躊躇のような色が見て取れる。
 陽介は小走りに駆け戻って来て、周りにひとのいないことを確認したあと、気後れがちに「あのさ」と切り出した。
「なに」
「さっきお前、なんか迷惑とか言ってたろ?  ペルソナ」
「感謝してるとも言ったよ」
「まあ、それはいいんだけど。迷惑っつーか、さ」
「え?」
「いやその、俺はさ、こう、なんてーの?  お前笑うかもしれんけど」陽介は煮え切らない様子でもじもじしている。「へへ、改まって言うのもなんかハズいんだけどさ……」
「実はあなたが好きでしたって?」
「バカ違う。そーいうんじゃなくて、あのさ、マジな話、選ばれた……って、思わないか?  お前」
「選ばれたって」
「ペルソナにっつか、ペルソナ使いにっつか……さ。俺のことイロイロ見たお前にだからぶっちゃけるんだけど、これって実際、スゲーことじゃん?」
 正直なヤツだ――悠は好意半分、呆れ半分のため息をついた。
「いいぜバカにしてくれたって。でもこれって、俺たちが特別なんだっていう証拠にならないか?」
「……ここは肯定するだけ肯定して、おまえのモチベーションの維持に貢献したほうがいいのかな」
「ちぇ、いいよ笑ってろよ。言うんじゃなかった」陽介はたちまち拗ねた。
「特別な事件に関与できる特権を手に入れた、とは思ってるよ」夢の中でブロンド美女に無理矢理押し付けられたものだが。「おれたちにとって特別なことと、おれたちが特別なこととは、同じようで違うんじゃないかな」
 人間だれしも自分だけは特別であると思い込みがち――顧みて悠は特にそういう傾向が強いのだった――であるが、いくらなんでもこの数奇すぎる運命を、従容と自己の特殊性とやらに帰結させて恬としていられるほど、彼は寝ぼけてはいないつもりだった。
「運命の神に見初められたっていうより、犬の糞を踏んだって感じ?」
「やる気の出るお言葉ですこと……」
「だろ。ひとを励ますのってけっこう得意なんだ」
「よく言うよ……ま、お前はそれでいいんだよな、きっとさ」陽介は苦笑した。「なんかお前ってブレーキって感じだし」
「陽介はブレーキパッドかな」
「磨り減んの俺かよ! つかアクセルなきゃ前に進まねーだろ!」悠を促して、陽介はふたたび歩き始めた。「俺はァ、アクセルとクラッチですよ」
「で、おれはブレーキ?」
「プラス、ハンドルかな――里中もう来てっかな」
 正面玄関に入るとすぐ、陽介は千枝を捜して左見右見し始めた。といって、おのがじし下駄箱に群がる八高生のなかに、折よく彼女の姿が見えるはずもない。
「なにか用事?」
「いや、用事っつか――あ」
 なにか思いついたようで、彼は靴を履き替えがてら、下駄箱の一画を無遠慮に開けて中を覗き込んだ。千枝の使っているところと思しく、近くにいた女子が胡乱げにその様子を眺めている。
「まだ来てないな」
「ひょっとして昨日の件?」
「ひょっとしなくたってそうだよ。悪いことしちまったし」
「……謝る?」
「謝っとこうぜ、なんか泣いてたしさ」
「またなにか奢ろうかな、ハンバーグとか」
「やめて! ぜったい俺も同じだけ要求されっから! 今月マジでやばいんです!」陽介は青くなった。「あいつのDVD代確保するだけでもう破産寸前なんだよ……!」
「あ、買って返すつもりだったのか。里中は売ってないなんて言ってたけど」
「あー、あいつは沖奈の店くらいしか知らんから。ネットで探せばたいていのもんは見つかるぜ、金あればだけど」
「へえ……」
「とにかくだ、なんでも金で解決しようなんてゲスいよ鳴上くん。男は黙ってアタマを下げるのみ」
「ものは言いようだ」
「われに秘策ありってな。これから段取り教えっからさ」陽介は自信ありげにしている。「何を隠そう謝ることにかけちゃあ、ちょっとしたもんなんですよ、俺は」
「こないだ股間おさえて呻いてた人間が言うと重みがあるな」
「これはTPOを選ぶんだよ、ここぞってときにしか使えない奥義なの」
「奥義ねえ……」
 こうして陽介の遠大なる構想のもと、悠は正面玄関から二年二組教室まで上がる途上、彼のかつて試みて許されなかったことのないという「オムニディレクショナル土下座」の方法と注意点――指を骨折したり膝の皿を割ったりする危険を伴うらしい――について重々しい講義を受けたのだった。果たしてこの必殺技みたいな謝罪を千枝が嘉納するかどうか……
(いいさ、こういうのも一興だ)悠はあえて陽介流を採るつもりだった。(なまじ言葉を尽くすより、こういうなりふり構わないやりかたのほうが、里中には通じやすいかもしれない。ちょっとバカっぽいけど、こいつに付き合ってみよう)
 鳴上ならこんなことはしなかっただろう、しかし悠はするのだ――普段の自分なら絶対にしなかったであろうことを、今やさして抵抗もなく肯定することができるというのは、意識してみるとなかなか気分のいいものであった。鳴上にとって自身の価値を減磨しかねないとも思われた「他人の影響を受ける」という事態を、彫琢の一環として易々と受け容れてしまえるこの悠の優越!
 いまの自分を遼太郎が見たらなんと言うだろう? いまこそ彼は安心して悠を十七歳認定するに違いない。鳴上はそれを喜ぶまい、しかし悠はそれを歓迎するだろう。





 教室の引き戸が開いて千枝が姿を現すや、背後で卒然と椅子を蹴る音が響いた。
「悠、リハ通りに」一緒に立ち上がって定位置に付いた悠に、陽介が低く耳打ちした。「飛びすぎて里中に衝突したら元も子もねーからな」
 もっとも気をつけるべきはまさしくそれである。いかにこころ優しい千枝とはいえ、朝の挨拶もそこそこに回転しながら体当たりを敢行する男子ふたりを、懺悔の表れと笑って許してくれるほどの大慈悲など持ち合わせまい。
 彼女は教室に入って来たときからすでに、悠たちふたりを含みありげに見詰めていた。もとより謝罪を求める腹づもりか、顧みて制裁が足りなかったと思い直したか、どうやら向こうのほうでも用事があるらしい。
「来た、よし悠、行け!」陽介が口上を急かす。「止めねーと距離が……!」
「ええと、さとな――」
「雪子、来てない?」
 小走りに駆け寄って来るなり、千枝は急き込んで悠を遮った。短く突っ慳貪な言葉に焦慮が滲む。
 悠は凍り付いた。
「……天城が、なに?」
「雪子、きょう見てない?  学校きてない?」
「いや、まだ見てないけど」困惑げに陽介が言った。「おい悠、段取り……」
「悪い陽介、オムニなんとかは中止」
 今ほど土下座だなんだと騒いでいたのが遠い昔のようだ――悠は悄然と席についた。先に棚上げしていた疲労がどっと肩に伸し掛かってくる。これから千枝がどんなことを口に上すか容易に想像できてしまうのだ。言ってみれば彼女はある意味で、悠の負債を請求しに来たようなものだった。ハンバーグや土下座などでとうてい贖うべくもない、巨大な負債を。
(さあ、ツケが廻って来たぞ。昨夜おまえが怠けて動かなかったツケが!)悠は唇を噛んで俯いた。(あとはもう小西先輩の例を信じるしかない、天城はまだ生きてるとして、一刻も早くあの世界へ行かなければ)
「……鳴上くん?」
「天城は見てない、おれも」
「なに、天城がどうかしたのか」
「ねえ、あれって」千枝は答えずに、声を低く落として続けた。「やっぱホントなの? マヨナカテレビに映ったひとは、向こう側と関係してるってやつ」
 陽介が口を開きかけて、思い直したように悠を見下ろした。話していいものか判断に迷っているのだろう。
「里中おちついて。天城がどうかしたの?」
 悠は軽く往なして話を続けさせることにした。どのみちここで昨日の出来事をつらつら語ってみたところで、千枝が膝を揃えておとなしく聞いているとも思えない。
(それに、里中には知らせないほうがいい情報もある。一度あの世界に入っているとはいっても、ペルソナを持たない里中はこれ以上、あの世界について識るべきじゃない)
「……きのう映ってたの、雪子だと思う」
「マヨナカテレビか?」思いも寄らなかったらしく、陽介は素直に驚いている。「あれが天城……悠?」
「……マヨナカテレビに映ったとき、天城、和服着てた?」
「着てた! 旅館でよく着てたやつ。ピンク色で、花が染め付けてあって、きのうテレビに出てたときも着てた……」
「テレビ?」陽介が首を傾げた。
「NHKのナントカって旅番組、きのう八時からやってたやつ。こないだ撮影来てて――そんなのはどうでもいい!」千枝は苛立たしげに打ち切った。「鳴上くんも見たの? マヨナカテレビで」
「え、マジなの?  つかお前どうして――」
「陽介ちょっと」陽介を遮って、「それと、傘を差したようにも見えたんだけど」
「消えるちょっと前にブワッてなったやつでしょ、あたしもそう思った。だから」
「……ひょっとしたら天城かもしれない、とは思ってたんだ」心外そうしている陽介に弁解して、「ちょうど昨日、帰りがけに天城に会ったんだ。そのとき和服着て、和傘もってたのが印象に残ってて」
「マジかよ……」
「それ見たあと心配になって、メールしたんだけど、返事こなくて、でも番組みたあと九時ごろ電話したときは普通にいて……きょう学校来るって言ってて……言ってたのに」
 話すほどに当初の勢いは失われて、千枝はしまいにしゃがみ込んで「どうしよう」と洟を啜り始めた。近くに座っているクラスメイトの幾人かが、その様子をきな臭そうに眺めている。なんとはなし悠と陽介が泣かせたような構図ができあがってしまっている。
「さ、里中、なあ、とりあえず泣き止んでくれよ、なんか周りの視線が痛えんだけど」
「ねえ、ウソだよね、雪子、向こう側に……入れられたりなんか」
 悠は黙って席を立った。立ち眩みがする。痺れるような倦怠感が頭中に湧き起こって、それが延髄を下ってじわじわと全身に拡がっていくかのよう。
(こんなのは利子の一部に過ぎない!)悠は歯を食いしばった。(おまえはもっとマシな時に動けたんだ。それをみすみす見送ったからには、この程度の体調不良なんて言い訳にならない)
 無論、学校はサボるつもりである。今日の授業を捨てて絶不調を押してでも、いま動かなければ挽回は叶わないだろう。もしまだ間に合うのなら、だが。
「悠?」
「ジュネス行くぞ」
「……ひょっとして向こう行くつもりじゃ」
「ひょっとしなくたってそうだ」
「ちょ、待てって、落ち着けって」
「雪子、やっぱり、向こういるの……?」
「いやまだわかんねーだろ――おい悠、悠!」構わずに行こうとする悠の肩を、陽介が荒っぽく引き止める。「待てってば。まず確認を」
「待てもなにも、おまえも行くんだぞ」悠は陽介の肩を掴み返して、低い声で呟いた。「なんでもするって言ったのは嘘じゃないよな」
「嘘じゃねーし、するけど、やることやってからだろ」と言って、陽介はふと訝しげな色を見せた。「……そういやなんかお前、顔色悪くねーか」
「生まれつきだよ。文句は両親にどうぞ」
「じゃ電話番号教えてくれ。それとちっと時間くれ、十分でいい」悠の返事を待たずに千枝を振り返って、「里中、天城に電話は?」
「うち出る前、雪子んちと携帯に、一回ずつかけたけど、ダメだった」
「……とりあえず今、もう一度かけてみろ」
「でも」
「出っかもしれんだろ、とにかく確認。出ればよし、出なけりゃ……そんときゃ俺と悠でなんとかすっから」
「陽介、時間が――」
「らしくねーな。焦んのは俺とか里中だろ、いつもなら」悠を窘めるためだろう、陽介はことさら陽気に笑っている。「あ、訂正、十中八くらいで里中だわ」
「うっさい」
 ようやく少し冷静を取り戻したか、ジャージの袖で涙を拭って、千枝は気まずげに立ち上がった。
「……雪子、ほんとうに、向こうに入れられたの?」
「わからん。可能性はあっけど、もしそうなってもまだ打つ手はあるんだ、マジで」千枝を安心させるためか、ただの見栄か、陽介の言葉には自信が透いて見える。「だから、とりあえずかけるだけかけてみてくれよ、電話。悠もそんくらい待てるだろ」
「待つのはおれじゃない。天城なんだ」
「天城越え狙ってんなら、ちっと待たせて焦らすのも手かもな」
「こんなときによく冗談が出てくるな」
「そのセリフ、ノシだったっけ? つけて返すぜ。――里中」
「……わかった、してみる、電話」
 出鼻を挫かれた悠は仕方なく、疲労の命ずるままふたたび席についた。そうして携帯を耳に当てて、なにか巨額の懸賞の通知を待つかのように緊張を漲らせる千枝を、じりじりしながら眺めていた。無駄なことを、きみは抽選に漏れたのだ! 雪子がすでに向こうの世界に入れられてしまっているのは明白なのだ。すでにツーアウトの身の上、一刻も早く行動しなければならないというのに、ましてこの無益に費やされる時間を、千枝が望みを絶たれて苦しむ姿を観察するのに使わされるなど業腹この上なかった。
「やっぱりダメ、留守電になる……」ほんのいっとき持ち直した彼女の貌も、たちまち翳ってしまう。「出ないよ……雪子……」
「……里中、いま出ないって言った?」
 微かな希望が胸を突き上げる。
「うん」
「じゃあ、繋がることは繋がったってこと? コール音があったってこと?」
「う、うん……でも出ないよ」
 悠の思考に追いついたらしい、陽介がなにか思い当たったように目を見開いて、無言で同意を求めて来た。
「なに、どうしたの?」
「……里中、最初に向こう行ったとき、悠に言われて携帯通じるか試したの、覚えてるか?」
「え、ああっ!」途端に千枝の貌が希望に明るんだ。「そーだよ! 向こう入ってるなら繋がんないんじゃん!」
「里中声でかいって……!」
「あ、ごめんごめん」
「……天城が携帯を置いて行ったか、入れられる前に奪われるかした可能性のほうが大きいと思う」
 明るみ始めた千枝の貌も、この悠の無慈悲な解釈によってまたもや翳ってしまった。
「おま……上げて落とすとか鬼畜すぎんだろ……」
「そろそろHRだ、諸岡先生が来る前に行くぞ」
「……もうそれしかねーか」と言って、陽介はひとつため息をついた。ようやくその気になったようだ。「くっそ、結局ぶっつけ本番かよ。仕方ねえ、こうなりゃセンセイ、あとは――」
「待って」
 にわかに千枝が手を上げて、陽介の口の辺りを覆うような形を作った。「黙れ」の合図である。そのままなにかに急き立てられるように、空いているほうの手で忙しく携帯を操作し始める。
「えーと、里中さん?」
「そうだよ……そうだ、置いてってるんだ……!」
「里中、なにか心当たりでも?」
 悠の呼びかけにも応えず、千枝は黙って携帯を耳に押し当てた。先のように小柄な身体を緊張に強張らせて、不安と期待のあわいを揺れ動く、曰く言いがたい面持ちで。彼女の顔の皮一枚下で、希望と絶望とが鎬を削るのが目に見えるようである。
「雪子……お願い……!」
「あのう里中さん、どちらにかけておいでで……」陽介が控えめに訊いた。
「本館、天城屋旅館の――あっ、あの、さっ里中ですけど」千枝の声が一オクターブ高くなった。「えと雪子は、雪子さんは……」
「本館?」
「天城……仕事中ってこと?」
「こんな朝早くに、学校やすんで仕事?」
「……ねーな。こないだの事件のときならまだしも」
「里中はこのまま置いて行こう、とにかく――」
「あ、雪子っ?」
 千枝の華やいだ声が上がる。彼女は歓喜し、陽介は瞠目し、しこうして悠は驚愕した。
「里中、天城が出たの?」
 千枝はなおも携帯に話しかけながら、いい加減にウンウンと頷いて見せた。
(そんな……じゃあ、あれはまったくの 別人だったっていうのか?)
 悠の読みが外れた、というだけならわかるが、幼馴染の千枝もまたかなりの確信を持って断じたのだ。まして彼女の場合、判断力の面だけではない、悠には見えなかった着物の色や柄まで当てているからには、精度においても彼の見た映像とは比べものにならなかったはずである。その千枝を欺きうるほど雪子に似た特徴を備えた人間が、選りにも選ってテレビに入れられたとでもいうのだろうか。
 千枝はもっぱら親友の無事を喜ぶのに忙しく、悠と同様の疑問を温めているふうはない。
「よかったー、いたよォ……え? ううん、なんでもないっす、こっちの話」
「あははマジでいたし……ま、よかったじゃん? 慌てて飛び出さんでさ」陽介は得意気にしている。「ブレーキ役がアクセル踏んでもうまく行きっこねーよな、やっぱさ」
「里中ちょっと」
 と、形ばかり断って、悠は会話中の千枝の携帯をひょいと取り上げた。
「ちょ、なに、なにすんの」
「天城?」
『……え、誰? 千枝は?』
 雪子は少しく沈黙したあと、不信げにそう誰何した。携帯を通して聞く彼女の声は低く、無愛想である。いきなり電話の相手が変わったのだから無理もないが、警戒されているようだ。
「あ、おれ、鳴上。昨日はどうも」
『鳴上くんっ?』雪子の声が一オクターブ高くなった。そうとう驚いているらしい。『どう、したの? いま学校?』
「ああ、うん、学校で、もうすぐHR」千枝が携帯を取り返そうと掴みかかって来るのを往なしながら、「驚かせてごめん、ちょっと里中に替わってもらってるんだけど」
「替わってない、ちょっと返してって!」
『……いまの、千枝?』雪子は含み笑っている。『替わってないって聞こえたけど』
「ノイズかな、ちょっと電波悪いみたいだ。里中にはちゃんと了解をもらってるから、五分につきヨコヅナハンバーグひと皿の約束で」
 千枝はたちまち神妙になったが、じき強欲に堕して無言のまま二本指を突き出してきた。
『千枝の携帯って高いんだ』雪子はおかしげに笑っている。『それで、わたしになにか……?』
「え? ええと、天城、今日は仕事?」悠は頭を振って一本指を突きつけた。「学校は……来られない?」
 とっさに千枝の携帯を奪ったまではよかったものの、悠にも雪子の安否確認以上のことをするつもりはなかったので、用事を聞かれて彼はしどろもどろになった。
『んん……ちょっと急な団体さん入っちゃって、土日は付きっ切りかな』近くにいる誰かを憚ってか、ふいに雪子の声が小さくなった。『ほんとうに、こっちの身にもなって欲しいよ』
「……大変なんだ、なんて言うとおざなりに聞こえるかもしれないけど、いまほんとうにそう思ってる、おれ」悠は昨日のことを思い出していた。「バイトもしたことない身からすると、天城って超人だ」
 なおも二本指を主張する千枝の横で、陽介がそっと人差し指を上げた。悠は黙って親指を下に向けた。
『大げさだよ。好きでやってるわけじゃないし、仕方なくだもん』
 と言ったあと、誰かに呼ばれたらしく、雪子はいったん受話器から離れて「はーい!」と返事をした。忙しい最中に抜け出して電話を取っているものと思しい。
『ごめんなさい、もう戻らないと……』
「いやこっちこそ、ごめん。それで、最後にひとつだけ」
『なに?』
「あの……最近、身の回りで変なこととか、起きてない? 不審者を見かけたとか」
 もう少しピントの合った警告をしたいのだが、一連の事件と向こうの世界の関係を知らない雪子には、ほかにどう言ってみようもない。
(天城がこうして無事な以上、マヨナカテレビに映ったのは別人なんだろう、おそらく。それでも)
 悠にはもうひとつ納得がいかない。そもそもは雪子に抱いている「薄幸美人」的な印象に起因するのだろうが、悠は雪子が不幸な目に遭うに違いないという、予感と期待とが相半ばするような、奇妙な感覚をどうしても捨てきれないのだった。それが根拠のあるなしに拘らず注意を発したがるのである。
 携帯のスピーカーから雪子の忍び笑う声が聞こえてくる。
「天城?」
『見かけた……見かけたよ、不審者』雪子は吹き出した。『きのう公園で! わたしの帯が欲しいって言っててね……傘で追い払ったんだけど……!』
「……危ないなあ、そういう手合いはしつこいから、まだどこかで機会を窺ってるかもしれない」妙に静かになった千枝と陽介を不信げに見ながら、「いっそあげてしまうっていうのはどう? 目的を果たせばそいつだって静かになると思うよ」
『帯だけで満足するかな』
「あ、それは絶対にないな。おれはよくわからないけど」
『じゃあ、鳴上くんの叔父さんに相談することにする。警官なんだよね』
「ふと思ったんだけど、その不審者はほんの出来心だったんじゃないかな。まず再犯の危険はないね。おれはよくわからないけど」
『そう? いちおう念には念を――』
 と、言いかけて、雪子はふいに切羽詰まった甲高い声で「すみません、いま行きます!」と叫んだ。また誰かに呼ばれたか、なにか催促されたものか。
「ごめん天城! 悪い、ええと、おれが引き留めたって言って!」
『ううん! いいよ、こっちこそごめん。じゃああの、また学校で』
「天城、気をつけて」
『……不審者にね』
 笑い含みの声を最後に、電話は切れた。
(最後のは真面目に受け取ってもらえなかったな)
「あっ、切っちゃったの?」千枝はさっそく膨れた。「まだあたし話してたのに!」
「ごめん……向こうのほうで切られてさ」携帯を返しながら、「天城、忙しいみたいだ。明日くらいまで仕事らしい」
「あ……そっか」千枝の貌が曇った。「ま、無事が確認できただけでもいーか……」
「つか、家の商売の都合で学校休まされるとか、ブラック過ぎねーか天城んち」わが身に準えたか、陽介は大いに憤慨し始めた。「まるでドレイだろ。これで天城が出席日数とか足りなくなったら、ちっと俺マジで抗議すっかも」
「んん、でも、年に一回くらいだよ、こーいうの」
「年に一回でもありえねーって。学業優先だろフツー」
「抗議するときは声かけて。付き合うよ」悠は大義そうに席についた。「そうか……天城じゃなかったか」
「……なんか残念そうだな、お前」なにか思い当たったのか、陽介はニヤニヤ笑い出した。「ひょっとして天城に入ってて欲しかったとか? カッコよく助け出すために」
「ある意味、ね……」
「やめてよマジで……あー寿命ちぢんだよもー……」
 ――ほどなく予鈴が鳴って、諸岡教諭が教室へ入って来た。HRが始まった。彼の来る前に様子を見に行こうと悠の言っていたのを、どうやら陽介は忘れてしまっているようだった。
(ある意味ね、陽介)悠は疲れた頭を振って、新たに湧き上がってきた問題を考えていた。(そうだ、ある意味において、遭難していたのは天城であったほうがよかった……そうすれば今ごろは汗だくになって、ジュネスの家電売場へ走っていただろう。そうするだけの気力を簡単に捻出できただろう)
 見も知らぬ他人のために自分の時間を捧げ、命の危険を冒すという行為の、どれほど難しく強い克己を必要とすることか! 悠は悩んでいた。雪子の危機にはあれほど過敏に、速やかな行動を急かした彼の精神が、その対象が未知の人間になったとたん鈍麻してしまった。著しくやる気が減退してしまったのである。
 これは一見地味な、しかし厄介な障害だった。ついこのあいだ転校してきたばかりの悠に、当然ながら知人は少ない。もし今後被害者が出て来るとして、それが彼の顔見知りである可能性はかなり低いだろう。であれば、彼は「それ」をできるかできないか、の前に、まず行動に繋げるための動機を練り上げる作業から始めなければならないのだ。無辜の人命が失われようとしている――こんなト書きひとつでは、悠の横着な精神はいまひとつ発奮しないようだった。
(疲れてるせいならいいんだけど……おれって結構、薄情なのかな)
 ふいに背中を突かれて、悠は諸岡教諭の目を盗んで背後を振り返った。陽介が右手に持った定規で、彼の椅子の背もたれをしきりに指している。
(また付箋紙か)
『お前って具合悪い?』
 意図の掴めない質問だったが、悠は素直に『ただの寝不足だけどかなり悪い』と返信した。
『HR終わったらおれ一人でジュネス見に行ってみるから、お前寝てな』
 どうやら忘れていなかったらしい。
『気持ちだけありがたく。でも単独行動は却下』
『誰かが見に行かなきゃならないし、俺なら店開いてなくても入れるし、もし今日助けに行かなきゃならないならお前は少しでも休んでなきゃだろ』おまけでもう一枚。『単独行動するなとかお前が言う?』
『中に入ってクマに確認するだけならまだしも、もし中に誰かいれば、お前絶対一人でも行くだろ』
 この付箋を書いている途中で、悠はふとあることを思い出した。少し気分がよくなった。
(そうだった、おれはこれのために、あの世界に入るんだった。なんだ、そんなに薄情ってわけでもないじゃないか、おれ)
 そもそもの目的が違うのだった。地域社会への奉仕であるとか、警察への協力であるとか、世のため人のためであるとか、そんなことを目的にこの無謀な試みを始めたのではなかったのだということを、悠は思い出した。
 見ず知らずの他人にかける情に薄くてもいい、見ず知らずの他人に情を注ぐ彼のために、自分はハンドルとブレーキを操ればよい。庭師は自分の庭に関心を保てばそれでいいのだ。果樹はやがて枝葉を張り、柵の外に実を落とすだろう。それが自分の、外界との新しい付き合い方なのだ。
 得心した途端、にわかに眠気が兆し始めた。
『中に入って確認だけして、すぐ戻ってくる』
『いてもいなくても、だ』
『いてもいなくてもな。お前はちゃんと寝てろよ。勉強すんなよ』
 思わず笑いの漏れたのが気になったか、隣の千枝がちらとこちらを向いた。悠の机に散らばる付箋紙に気がついたようで、さっそく机の中をごそごそやり始める。
『七分たってたから二皿ですよダンナ』
 天城峠じゃ電話代も高くつくな――悠は苦笑した。
『五分につきだから、二分は切り捨てになるはず』
『二分のぶんはふつうのハンバーグでもいいよ。ステーキでもいいよ』
「…………」
『さっきの電話、なんかいいフンイキだった?』
(いいフンイキ、か。かえって悪いことしたな。天城、怒られてなきゃいいけど……)
『ある意味ね』
 悠はペンを置いて船を漕ぎ始めた。







[35651] あたしも行く
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b9f1ef46
Date: 2013/01/15 10:26


「あたしも行く」 
 と、千枝の言い出すのはもちろん予想通りであったし、じっさい彼女は期待を裏切らなかった。
「なんでさっきから来るな的なフンイキ出してんの? それとなんでそんな早足なの? ちょっと待ってよ」
「コンパスの違いだよ」
 来て欲しくないからだよ――悠は下駄箱に内履きを放り込んだ。
 週最後の課業を終えた生徒たちで、正面玄関はなんとはなし浮き立つような賑わいがある。今日ここから押し出される生徒たち全てが来たる日曜への輝かしい希望で足取りも軽く――などということもなく、そのうちのひとりたる悠の足は重い。
「ねえ、なんで仲間はずれにすんの? 来られちゃまずいワケでもあるの?」
「いや、仲間はずれなんてしてねーけど……だからなんも面白いもんなんかねーんだって」陽介は弱り顔を隠せていない。「こないだ行ったときと同じだし、だいたいお前そういうのフキンシンとか言ってなかったっけ?」
「小西先輩がらみのこと見たいなんて言ってないでしょ」千枝は口を尖らせた。「だいたいあたしが行くのダメならどーして花村はいいの」
「……ほら、俺オトコだし」
「うわ女性差別! 鳴上くんなんとか言ってやってよ」
「がっかりだな。女子だと思ってた」千枝に見られないように陽介を睨みながら、「ほんとうに誰もいないって言ってたんだな、陽子ちゃん」
「何度も何度も言いましたわよ悠子ちゃん、クマは俺らが出てってから誰も入ってないって言ってましたですわよ」
 三人は他の八校生の群に混じって雁行しつつ、濡れそぼる対の染井吉野を潜った。行き先は無論、ジュネスの家電売場である。
 昼あたりから降り頻っていた雨はつい先ほど、八校生の放課に配慮したかのようにぴたりと止んでいた。めいめい手に持った傘は巻かれたままだが、路面は水浸しで、千枝が悠たちに前後して行ったり来たりするたび、彼女の靴から盛大な飛沫が飛び散るのだった。
「今日はよく降るよな。スカート穿いてくればよかった」悠は婉曲な抗議を試みた。
「チョロチョロすんなってお前、水飛んで来てんだけど」陽介は単刀直入に訴えた。
「あーごめん、ぜんぜん気付かなかった。これでいい?」飛んで来る飛沫が増えた。どうやら抗議のつもりだったようだ。
 校門下の坂を下って一度道を折れれば、ジュネスの赤い看板は曇天に隠れもない。これから千枝を伴って行くのがあそこだけなら、なにも問題はなかったのだが。
(陽介のやつ、なんで里中のいる前で言うんだ……来たがるのは目に見えてるじゃないか)
 悠はひっそりとため息をついた。
 ジュネスへ様子を見に行っていた陽介が帰って来たのは、二限目終了のチャイムが鳴ったあとすぐであった。
「クマ、誰も入って来てないって言ってる」
 席に戻って来るなり、悠の机に手をついて、陽介は開口一番、低い声でそう言ったのである。彼の顔にはすでに「なんで?」と大書してあり、それはすぐさま悠の面に複写された。
「……なんで?」
 ふたりはなかよくお互いの顔を読み上げたのだった。
(じゃあ、なぜ映る? どういう経緯で映る?)
 今まで仮にでも立てることのできていた法則は、これで全てご破算となった。振り出しに戻るどころの話ではない、すごろくを売ってる店から探し始めるくらいの後退と言える。
(山野アナより前の、ただ映るだけだったマヨナカテレビに戻ったってことなのか? それとも山野アナも小西先輩も、テレビに入れられていない時点からすでに映っていたのか? だとしたら、その空白を繋ぐものって……なんなんだ?)
 このありがたい土産のおかげで、悠は三限目以降、まるで居眠りに集中できなかった。おまけに六限目の終わってすぐ、陽介はだれ憚ることなく悠に、
「お前すぐ来れる? なんなら俺さきに向こう行ってっからさ」
 などと不用意に宣ったものだから、
「え、向こうって、ふたりともきょう向こう行くの?」
 果たして千枝が腰を浮かせた。陽介は失言を覚って焦ったが、もう手遅れである。ほかならぬ「向こう」へ行ったひとりなのだ、ほかの誰が気に留めなくても、彼女が「向こう」という言葉に隠語の響きを聞きつけないわけがない。
 なんとか煙に巻かねばならぬ。悠はあらゆる手段を用いて濛々たる煙を巻き起こしたが、なにか隠そうとする意図はまったくのところ筒抜けで、千枝はジト目で換気扇を回し続けるだけ。二番手の陽介は彼女の食いつきを信じてカンフー映画の話題を振るも、つい口を滑らせて清朝中国の辮髪を「みつあみハゲ」などと評したせいで彼女の逆鱗に触れ、無影脚とかいう技の実験台にされたあげく自らの制服で床の雑巾がけに精を出した。
 かくして男子勢の姑息な隠蔽はあっさり看破された。のみならず、昨日の悠たちの冒険の顛末を訊きそびれていたとして、彼女はこのタイミングで謝罪込みの詳細を求めて来る。ここでも陽介は下手を打った。簡潔に早希の遺品を見つけた旨のみ悠が説明する合間に、千枝の質問に答えてシャドウやペルソナの存在を、間接的にとはいえ仄めかしてしまったのである。
(そもそも天城の安否を確かめてたとき、テレビに入れられても打つ手はあるなんて言ってたもんな、こいつ)
 先にテレビの中に入った三人中、最大の慎重派であった彼女も、事ここに至ってついに旺盛な好奇心を抑えかねたらしい。
「あたしも行く」 
 と、千枝の言い出すのはもちろん予想通りであったし、じっさい彼女は期待を裏切らなかった。
「鳴上くん、例のブツ、忘れてないよね?」
 千枝は悠たちを追い抜いて、後ろ歩きにそう言った。出し抜かれまいとしているのだろう。ここで走りでもすればまたぞろ中段蹴りを喰らいかねない。
「なに、なんだよ例のブツって」
「それなしにはいられないんだ、里中は」悠は沈痛そうな面持ちになった。「身体に悪いからあんまり大量に摂取しないで欲しいんだけど……」
「ちょっとそこ、誤解を招くような言いかたしない!」
「……それって、白かったり、粉っぽかったり、注射したりするヤツ?」
「注射なんかしないよ。火で炙るんだ」
「里中お前……!」
「ただの肉だっつの! ゴハンおごる約束!」千枝は半ば笑っている。「ハンバーグ! もしくはステーキでも可!」
「あー、例の携帯の使用料ね」
「里中はキャリア変えたほうがいい。五分で千三百円なんて暴利だ」
「あたしが決めたプランじゃありませーん。あと二分のぶん忘れてるよ悠子ちゃん」
「天城越えは金かかるなあセンセイ、御愁傷さん」陽介は無責任にへらへら笑っている。「ま、なんか前に何万もするコンサートのチケット用意して玉砕した奴とかいたらしいし、それ考えりゃまだいいんじゃねーの?」
「そそ、安いもんでしょ? 雪子と仲良くなれるんならさ」
「どうも誤解されてるみたいだけど」悠は首を傾げた。「おれ、天城越え狙ってるなんて言ったっけ?」
「へ、違うの?」この物言いは心外だったらしい、千枝が眉根を寄せた。「なんか電話でいいフンイキだったし、前も手紙かくとか言ってたじゃん」
「手紙って、悠が天城に?」
「ラブレター書くって、転校してきた日に」
「中国語でね」
「え、お前、中国語わかんの?」
「わからないよ」
「……じゃ、書けねーじゃん」
「もちろん。書く気ないんだから」悠は肩を竦めた。「冗談のつもりだったんだけど」
「……鳴上くんって、雪子のこと、実はなんとも思ってなかったり?」
 千枝の面に一瞬、さっと非難するような色が刷かれた。が、陽介の見咎める暇もなく、それは曖昧な笑顔に取って代わった。
「思ってるよ、いろいろ、明るいうちは言えないけど」
「いい、言わんでいいからね」
「もう千三百円はらって天城本人に言ってみようかな」
「叔父さんに通報されんぞお前」
「実は冗談抜きで朝されかけた」
「ちょ、ひとの携帯でなに話してんの……!」
「天城が本命じゃねーとしたら、じゃあ、だれ狙ってんの?」
「里中」
 千枝は後ろ歩きのまま、自分の足に蹴躓いてひっくり返りそうになった。危うく傍らの陽介が彼女の腕を捕らえる。
「はあっ? なに言い出したのこのひと!」千枝はみるみる赤くなった。「狙ってって、あたっ、あたしって!」
「おま……いまサラッとスゲーことを」
「あと陽子ちゃん」
「陽子ちゃ――アホか!」陽介は赤くはならなかった。「俺そーいうシュミねーからな!」
「今はおれにあるかどうかって話だろ」千枝の傘を拾い上げながら、「天城はその次くらいで検討中」
「どういう基準だよ」
「知り合った順」
「あっそ……気の多いこって」
 ジュネスの真向かいの交差点で、三人は赤信号に阻まれて立ち止まった。
 ふと見上げていた信号機に、悠は小さな違和感を覚える。すでに何度か見たはずだったのが、やけに新しいのに今さらながら気付いたのである。この辺りではほかに見られないLED発光のタイプで、おそらくはジュネス進出の余波でこの交差点が拡張されたかして、そのときに換えられたものと思しい。黒地に規則正しく放射状に並んだ赤い粒々は、ほの暗い電球式よりもずっと強く人工を匂わせている。
「なんか浮くな、あの信号」
「信号?」千枝は悠の視線を追って、答えを見付けられずに首を傾げた。「浮くって?」
「新しすぎてさ、そぐわないっていうか」
 異物感があるのだ。それは鄙びた田園に忽然と現れた標識のようだった。飛び地した都会の切れ端を示す目印、たまたま河に落ちてあらぬ方へ流れていった種が、所を得て結んだ珍かな石榴の幾顆。
「ゲオ、できんだってさ、そういや」赤信号を見上げたまま、陽介がぽつんと言った。「あのジュネスの脇んとこ、いまいくつか造ってる店あるじゃん。あれのどれか」
 無論、ジュネスの集客性能を見込んでの展開に違いない。こうして飛び地は拡大して、いつの日か石榴は珍しいものではなくなるのだろう。この地特産の柑橘かなにかをひっそりと枯らしながら。
「ゲオって?」千枝が首を傾げた。「店? 何屋?」
「ビデオレンタルとかゲームとか売ってる……え、お前ゲオ知らんの?」
「……知ってたら訊かないし」
「へー……あ、じゃあサトミタダシとかは?」
「知らないっつの。誰よそれ」千枝は不機嫌になった。「つか田舎者あつかいやめてくれます?」
「ヒットポイントカイフクスルナラ」ふいに陽介が歌い始めた。「キズグスリート、ホーギョクデ」
「ヒンシタイヘンナカマヲタスケル」三小節目からは悠も参加した。「チガエシノタマトハンゴンコー」
「なんか久々に聴いたな、コレ」
「なに、急に、なんで歌い出してんの……?」千枝は困惑している。
「そっか、この辺りないんだ、サトミタダシ」
「あんま探してねーけど、沖菜にもなかったな、確か。でもゲオはあった気が――」
「ねえって、今のなによ、ヘンな歌」
「店ん中でずっと流れてんの、こういうのが。意味わかんねーけど」
「店って?」
「サトミタダシ。ま、知らねーだろうとは思ってたんだ」陽介はニヤニヤしている。「ここいらじゃ訊くやつみんな知らねーって言うし」
「店なの? つか店の名前なの?」
「うん、ドラッグストア」
「……なに考えて名前つけてんの? それひとの名前でしょ?」
「言うと思った。みんなそう言うんだよな」
「社長の名前なんだっけ、確か」
「だったかな。ヘンだけど覚えやすいだろ。けっこう有名だし、東京じゃどこ行ってもあったし」
 千枝は悠のほうをちらちら見ながら「東京のノリってちょっと変わってるよね」と重々しく宣った。彼女の中の東京像に著しい歪みが生じてしまったようだ。
 歩行者信号が青に変わった。
「なあ、ところでお前ってさ」
 歩き出してほどなく、陽介がいくぶん改まった声を出した。
「え、おれ?」
「あー、あのさ、なんか教室でちらっと聞いたりしたんだけどさ」
「うん」
「で、まあ、いい機会かなって、なんか思っちまって……」
「思っちまって?」
 陽介はもじもじし始めた。
「ホントに、答えたくないならぜんぜん、別にいいんだけどさ」
「……朝も思ったけど、おまえって前置き長いよな」
「悪かったな、訊きづらいんだよ」
「単刀直入にどうぞ、気にしないから」
「じゃ訊くけど、お前って、マジでその、そっち系のシュミあんの?」
 どうやら先の話の続きらしい。
「そっちって、どっち?」悠はとぼけて首を傾げた。
「そっちだよ、わかんだろ? えっとほら、あの、ホ……いや、男同士でアレだよ、こう、そういうふうにさ、思ったりするやつ」
 陽介は指示語と代名詞を駆使しつつ、赤面しながら自己検閲に躍起になっていた。彼のあれこれ言葉選びに苦心して顔色を変えるのは見物である。
「つまり、訊きたいのって、男色のこと?」悠はせいぜい深刻そうに見える貌を造った。「おれが同性愛者かって訊きたいのか」
「こ、このさいはっきり訊いときたいん、だけど」
「……そう」
 悠はすぐには応えず、デリケートな問題に踏み込まれて傷ついた少年を演じながら、黙って横断歩道を渡った。じき店舗の入口が見えてくる。彼の言葉を待って陽介――ついでに千枝も――の身を強ばらせるのが、背を向けていてもわかるようだ。
「あ、やっぱいいわ悠、忘れてくれ!」陽介はとうとう音をあげた。「言いたくないならさ、別にいいから……」
「里中も気になる?」悠はジュネスの入口の近くで立ち止まって、ようやく口を開いた。「そういうヤツが身近にいるかもって」
「ええっと……なん、というか、気になると言えばまあ、気になる、かなー、なんて……」
 悠は振り返ってふたりを手招いた。陽介も千枝も不安いっぱいの面持ちで、それでもそろそろと近寄って来る。
「顔、寄せて。あんまり大きな声で言えないから」
 きっとふたりにはわかるまい、それでも自分はこれから恥を打ち明けるのだから――ふたりは言われるまま、顔を伏せて恐るおそる顔を寄せて来た。耳元に爆弾を仕掛けられるとでも言わんばかりの態度である。
「おれってさ、なんかバカげた、冗談めいたことばかり言ってない? いつも」
 この質問は少しく彼らを困惑させたようだった。ふたりとも眉根を寄せて、要領を得ない貌をしている。
「まあ、言ってる、かな」
「バカげたっていうか……まあ、冗談いってるね、しょっちゅう」
「あれって、なんていうか、処世術の一環なんだ。ひとって笑わせれば好感を持ってくれるだろ、だから口を開くときは、そんなことばかり考えてる。こないだ転校してきたときなんてまさにそうだ」
 好感を与え、快いことをしてやれば、周りは好意を持ってくれる。好意を持てばひとは積極的になる一方、その対象を尊重して遠慮するようになる。この尊重と遠慮のラインに築く城壁こそが、なによりも堅固なのだ。孤独という楽土を守るためには社交性の砦が必要不可欠で、学校中にあまねく敷衍されたスクールカーストの桎梏から逃れるために、肝心なのは教室の中の「快い異物」となること――これが悠の処世術であった。
「それで、おれの言ってることって、ウソも多いんだ。要は相手を笑わせれば、ちょっと愉快なヤツだって思わせればいい話だしさ、実際あとのことなんて大して考えちゃいない。さっきの天城の手紙にしたってそうだ、言いっぱなしってやつ」
 顧みるだにまこと下らない、愚かしい処世術であった。なんとなれば彼はついこのあいだまで、周りの少年少女たちを同じ人間だとは思っていなかったのだから。彼らによい餌をやり、住みよい小屋を建ててやり、首輪の鎖を長めにとって優しくしてやるのは、ひとえにやかましく吠えさせず、我が家へ立ち入らせないためだった。
「不誠実だと思う? こういうヤツ」
「え、いや、いいんじゃない? あたしだって冗談言うし、ウソ言うし、ぜんぜんフツーだって」
「誰だってそうじゃね? お前だけじゃねーよ、そういうの」
 いともうるわしき尊重と遠慮! 彼らがもっぱら好意に幻惑されてこう言っているのを、悠はよくわかっていた。そう仕向けている己のやりようを間違っていると理解できた今でも、しかしもはや自身の一属性となってしまった、この軽口を止めることは彼には難しい。せめて今の悠にできるのは、このラインに基礎を打たないこと。煉瓦を積み上げて矢狭間を穿ち、その向こうから彼らを蔑視する――こういう行為を二度と試みないことである。
「そう言ってもらえるとありがたいけど……で、さっき陽介の言ってた、同性愛の件」
「お、おう」
「それもいま話した事情の弊害ってやつ。もちろんウソだ、そんなシュミはない」悠は笑ってふたりから顔を離した。「まさかそんなふうに誤解されるとは思ってなかったけど。でもまあ、これも身から出た錆だよな」
「だよな」一転、陽介は快活になった。「いや俺もマジになんかしてなかったけどさ、井坂とかがさァ」
「へー……花村さっきすごい脂汗かいてたじゃん」
「うっせ」
 ささやかなわだかまりは解け、三人は朗らかにジュネスの入口を潜った。ちょうど悠たちと同じ構成の八校生がひと組、エレベーターを待って喋っているのが見える。テナントスペースのたぐいは二階からで、一階は広告や地域情報の掲示板を廻らしたエレベーターホールになっているのである。
「誤解、解いといたほうがいいぞ、一部にはされてっから」
「へえ。まあ追々ね」
「鳴上くん冗談で言ってんのかマジメに言ってんのか、ときどきわかんないからね」
「里中と話すときだけは全部マジメ」
「ほらまた出た」
「いや本当に。里中にさっきみたいな誤解をされてなくてよかったよ、同性愛だなんて」
「お、里中ねらわれてんぞ」
「うっさいから」
「狙ってるのは里中だけじゃない」
「天城もだろ」
「え? そっちは検討中って言ったろ、狙ってるのは陽子ちゃん」
「……は?」
 ポンと音がして、エレベーターの扉が開いた。怪訝そうに立ち竦むふたりを後目に、悠は前の三人組について中へ入った。
「同性愛なんて誤解も甚だしい。おれ両性愛者だから」陽介と千枝と、ついでに背後の三人の視線を感じながら、悠は会心の笑みを漏らした。「男も女も大丈夫だからさ――乗らないの?」






 陽介の言ったとおり、クマは誰も入っていないと繰り返すばかりだった。
「絶対に? ひとが入ればすぐわかる?」
「すぐにはわからんクマ」何度しつこく質問をされても、クマはいっこうに倦まない。「でもキミたちまた入って来るかもって、クマ今まで何度も匂いを嗅いでたクマ。気配もないし、シャドウだって静かクマよ」
 クマは加えて、自分の鼻や感覚には自信があるが、それ以上に人間の存在を確信させるのはシャドウたちであると述べた。
「シャドウは人間がどこにいるかはわからないけど、人間が入ってきたことは必ず察知するみたいなんだクマ。クマの鼻がたまたま詰まってたって、シャドウたちが騒ぎ始めなきゃ、それは誰も入ってないってことクマ」
「……陽介」
「わかんねーな、こればっかりは」陽介は力なく諸手をあげた。「ま、つまり、誰もいないってことなんだろーな」
「じゃあ、どうして映る……」
「テレビが犯人の、その、殺気? みたいなのを映し出してるとか」
「今まで映ってきた有象無象も?」悠は腕を組んで、熊よろしくその辺りをウロウロ行き来した。「じゃあなぜその犯人限定になる。どうして殺気限定になる。その殺気を仲介する力って? 十二時限定なのは?」
「……わかんね」
 テレビの中で起こったこと、というのなら――なぜテレビの中にこんな世界と法則とがあるのか、ということに目を瞑れば――まだわかる。しかし、その囲いの外からなにがしかの力、例えば犯人の殺気だの意志だのがテレビに働きかけるというなら、犯人以外の人間のそれが反応しないのはおかしい。犯人の特殊性という言葉で片付けようとするなら、彼はなにがしかの力で特定の属性を持つヴィジョンをテレビへ入力することができ、かつそうする意志がある場合か、テレビの側でそれだけを弁別して、なんらかの目的のために出力する意志がある場合に限られる。
 いずれにせよ、最低でもどちらか片方が、もう片方へ働きかけようとする能動的な具体が必要なのだ。
(考えられるとすればふたつ。犯人が自分の狙う人間を故意に、予告のような形で決まった時間にテレビへ『発信』しているか、テレビの側の何者かが彼の特殊な力を、おそらくは犯行を阻止する目的で『傍受』しているか……)
 犯人がターゲットの予告をしているというのはいささか小説的で、現実には非常に考えにくい。なにせデメリットしかないのだ。かといってテレビの世界の側について言えば、目下「能動的な具体」などというものは、
「……どしたクマ、なんかついてるクマ?」
「んん、なんでもないよ」
 このとぼけた着ぐるみくらいである。
(もしくは、ひょっとしたらいちばん可能性が大きいかもしれないけど、今までと同じ、ただ映るだけのマヨナカテレビに戻ってしまったか。もし犯人のものに限らず無作為に『受信』するというのなら、あるいはこれが元々のマヨナカテレビ現象を説明するかもしれないし……)
 授業中に考えていたとき何度もそうしたように、悠は結局この考えに戻って来てしまう。しかしここでエンジンを切ろうとすると決まって、かのイゴールの警告が耳を突くのである。なにかが起こっている。それは進行しつつあって、今この瞬間にも彼の開墾した小さな耕地にヒタヒタと忍び寄っている。――悠はふたたびアクセルを踏み、もう何度も通った路を左見右見しながらイライラと走り始める。
「そーいえば、あの女の子はこないクマ?」
 ふと、クマが思い出したように言った。
「あー、里中かァ」
「来ないよ。残念だけど」
「はやくコレ渡したいクマ」クマの手には例の眼鏡が握られている。「あの子のなまえって、サトナカナニチャンクマ?」
「サトナカニクエっつーんだ、あいつ。肉枝」陽介はしれっとウソをついた。「肉が好きだから肉枝な」
「ニクエチャンクマね」
(里中が聞いたらなんて言うか……もっとも、その機会はまずないだろうけど)
 悠はひっそりと失笑した。
 今日が土曜日であることも手伝ってか、たまたま家電売場がひとで賑わっていたのは幸いであった。これを口実に、見咎められずに入るのは難しいからということで、本日の「テレビの中の世界旅行」は表向き中止ということになっている。
 もっとも、千枝はなかなか諦めようとしなかった。早々と中止宣言するふたりをなんとか翻意させようと、「ちょっと待ってみよっか」とか「今なら行けるじゃんほら早く!」とか「一時間後にもう一回こようよ」などと、遊園地行きを断念しようとする親を口説いてかかるこどもの執念で食い下がって来る。悠も陽介もことさら愚鈍を装って、いかにも「べつに今日じゃなくたっていーし、どうしても入りたいってわけでもねーし」という態度を貫き、千三百円の金と一時間以上の時間をかけてなんとか彼女を追い返すことに成功したのだった。
「つぎ入るときはぜったい声かけてね。仲間はずれダメだかんね!」
 これが千枝の捨て科白である。
「仲間外れか」と、陽介が独りごちた。同じことを考えていたようだ。「なにもしたくてしてるわけじゃねーけどな」
「里中をここに入れちゃいけない。理由はわかってるよな」
「わかってるよ――クマ、いろいろあってさ、里中は連れて来れねんだ。わりーけど」
「ニクエチャン、こないクマ?」
「ああ。つかニクエとか言ってる時点で来られても困るし」陽介は苦笑している。「里中には詳しく話さない。それでいいんだろ」
「教室でここの話をするのも禁止だぞ」
「わかってますって、あの学校のはついうっかりだって……で、悠」
「んん」
「ペルソナ」
「……やるか。もうクマに訊けそうなことはなさそうだし」
「今夜のマヨナカテレビでさ、またなにかわかるかもしれないし、そんときまた考えようぜ」
 と言って、陽介は制服の胸ポケットからタロットカードを取り出した。
「陽介、それ、授業中も机の上に出してただろ」
「え、なんかまずかった? 俺ら以外みえねーし、別に問題ないだろ」
「隠しておいたほうがいい。この一連の事件の犯人にはたぶん、それが見える」
「あ、そうか、テレビの中に入れるんだもんな」
「犯人がおれたちと同じような、こういうタロットを持ってるかどうかはわからないけど、もし持ってるとしたら見られるのはまずい。こっちの素性がバレる」
「つったって、見た目タダのカードだし」
「タダのカードは発光したりしないだろ」悠は財布の中からタロットを取り出した。「ちなみにそれ、制服の胸ポケット越しでも光が漏れるんだ。もっと厚いものに包んで携帯したほうがいい」
「わかったよ、そうする」
 陽介は悠たちから少し離れて、スタジオの中央辺りまで移動したあと、タロットを指に挟んでポーズを取った。なんとなくスポットライトを待っているような雰囲気がある。
「よし準備万端。で、どーやって出すの?」
「それなんだけど、なんというか、口で言って理解してもらえるかどうかいまいち……」
「あのさ、こう、ヒーローものっぽくしたらパッと出てくるとか、ねーかな。ペルソナーって」
 悠はしばらく「なに言ってんだコイツ」とばかりに眉根を寄せていた。
「……おまえの言葉を借りるなら、ねーよ」
「うっわ、バッサリ切り捨てやがった」陽介は苦笑して、より複雑かつ外連味たっぷりのポーズを取った。「ゆうべ夜中の二時まで練習した変身ポーズなんだ、誰がなんと言おうと一度は試すぜ、俺は!」
「そもそも変身なんてしないんだぞ……」
「あーあー聞こえない。ま、いっぺんやらせてやってくれよ」陽介はあくまでウケを狙うつもりらしい。「いくぜ――ペルソナッ!」
 叫びざま陽介は跳び上がって、身体を反らせて回転しつつ、手にしたタロットを天高く突き上げた。――朝方に話していたナントカ土下座に想を得たと思しい、こんな騒々しい「変身ポーズ」を夜中の二時まで練習していて、果たして家族から苦情は来なかったのだろうか。
「気は済んだ?」
 陽介の返事はなかった。それどころか、着地した姿勢のまま身じろぎもしない。あるいはこちらの冷やかな反応を恥じたものか、笑い飛ばしたほうがよかったなと思い直す暇に、クマの喫驚する声が耳を打った。陽介の背中に覆い被さるような恰好で忽然と、身長四メートルほどの巨人が現れたのである。
「ヨ、ヨースケも出せるクマか!」
(まさか本当に出てくるとは……いったいどういう原理なんだ? あれって)
 あんなやりかたでペルソナが出てくるならなんの苦労もない。ひとによって喚び方が違うのだろうか? いずれにせよ、陽介に少しでもわかりやすく説明しようとあれこれ考えていたのは壮大な徒労に終わったようだ。
「陽介! たぶん混乱してると思うけど、落ち着けよ!」
 陽介はなおも声に反応せず、代わりに巨人――陽介のペルソナが勢いよく立ち上がって、自分の身体をしげしげと見回し始めた。
 悠のペルソナとの類似点といえば、仮面を着けていることとその大きさくらいのもので、見てくれにはかなりの違いがある。末広の裾に迷彩柄を配した、白いライダースーツ様のツナギに、上半身から首までを深紅のマフラーが巻き付くといった出で立ちで、その両手に人間を輪切りにでもできそうな巨大な手裏剣を握っている。胸を半ばほども覆い隠すV字の飾りがひときわ目を引いた。
 ミッキーマウスの耳のような張り出しのある、奇妙な黒い仮面が、ついと悠のほうを向く。
(なんというか、ずいぶん派手なんだな、陽介のヤツは)
 胸の巨大なV字は燦然たる金色である。ほとんど黒と鋼色で構成された悠のそれとは対照的だ。
「陽介あんまり動くな! 自分の身体を蹴飛ばすぞ! おい!」
 先と同じに陽介の反応はない。なにかおかしいと思う間にも、しゃがんだままの彼の身体が横倒しになって、力なく床に頽れてしまった。
(意識がないのか? おかしい、おれのときと全然ちがう!)
「センセイ、ヨースケ寝てるクマ!」クマが及び腰で悠の許へ駆けてくる。「聞こえてないクマよ!」
 ひとしきり自分の身体を改めたり手足を振り回したりしていた巨人が、ふいに悠の目の前までのしのしやって来た。初めてシャドウと対峙したときに痛感したような、「操縦」の困難さを微塵も感じさせない、滑らかな動きである。
「陽介?」
 彼はなにか悠に訴えるように、賑やかにがちゃがちゃ動き始めた。ガッツポーズを取ったり、目にも留まらない素早さでシャドウボクシングを始めたり、その場で十メートルほどもジャンプしてみせたり、両手に持った巨大な手裏剣をびゅんびゅん投げて見せたりと、とにかく落ち着きがない。
「陽介あぶない! 動くな! クマ離れて!」悠は慌てて後退りながら怒鳴った。「陽介っ! くそ、聞こえないのか!」
「センセイ、ペルソナ喚ぶクマ! このままだと踏み潰されるクマー!」
(一発くらわしてやろうか!)
 悠は中っ腹になってペルソナを喚んだ。――途端、耳では聞くことのできなかった「声」が、彼のもうひとつの感覚を通してあたまに響き渡る。悠は殴りつけようとして振り上げていた矛を下ろした。その「声」はしきりと悠の名を呼んでいたのだ。
(これ、陽介のペルソナの声なのか? ペルソナでしか聞けないのか?)
『悠! 悠! んだよ聞こえねーのかよ!』
「陽介、聞こえてる!」
『おいって! クマ、お前はどうだ! クマ!』
(ダメだ、おれが喋るんじゃない、ペルソナだ。ペルソナで話さなければ)
 駄々っ子みたいに暴れる巨人から逃げ回りながら、悠は未知の感覚の中からなんとかこうとか、手探りで「こうではないか」くらいのやり方を読んで取った。さしずめ自分の口を動かさずに、鏡写しの自分の口だけを動かすとでも言うような、非常にもどかしい作業である。
『陽介うごくな! 止まれ!』
 陽介のペルソナがぴたりと制止した。
『なんだよ聞こえてんじゃ――』
『黙れぶん殴るぞ!』さすがに忍耐も限界である。『おれたちを殺す気かっ! とにかく落ち着け、動くな、そこに座れ!』
 いかにもしぶしぶといった様子で、目の前の巨人がその場で正座した。
『なあこれスゲーじゃんか!』巨人は座ったままひっきりなしにうごうごしている。『なんかもう、なんつっていーのか、とにかくスゲーよ! じっとしてられねー!』
『じっとしてくれ! おまえのつま先がちょっと引っかかるだけでも命に関わるんだぞ!』
『あ、わりー……へへ、でもさ、なんだよお前こんなことできたのかよ!』
 陽介は異様な興奮状態にあるようだった。
『陽介、とにかく、まずペルソナを引っ込めるんだ』
『ええ? もちっといいだろ、それに引っ込めろったってやり方わかんねーし』
『生身の身体は動かせないのか?』
『生身って』巨人が身体を捻って、横たわる陽介の肉体を振り返る。『あー……あれ?』
『どうなんだ』
『動かすったって、いや、できそうにないけど』
「センセイ、どーしたクマ……?」
 クマは不安げにしている。ペルソナ同士の会話の聞こえない彼には、この悠と巨人の無言の見つめ合いはさぞや不気味に映ることだろう。
「いま陽介と会話してる」
「ひょっとして、テレパシークマ?」
「まあ、そんなところ」なかなか当を得た表現である。「ちょっと静かにしてて、説教してるから」
『とりあえず陽介、なんとかしてペルソナを収める方法を探せ』
『つったってなァ、どうすりゃいーんだかね。それよりもっとイロイロ試してみてーんだけど』
 まるで他人事である。
『……その恰好のまま向こうに戻るつもりなら、急に背が伸びた理由くらい説明できるようにしておけよ』
 悠はつめたく言って、陽介の身体に駆け寄った。クマもペルソナを避けるような形でくっついて来た。
(よかった、息はしてる)
 先にクマの言ったとおり、陽介は眠っているように見えた。おそらく彼を起こせばペルソナは消えるか、少なくとも悠のペルソナと同じような状態になるのだろう。――してみると、ペルソナは本体の意識がなくても自立しうる、ということになるのだろうか。
「わからないことだらけだ」
「なにクマ?」
「ううん、独り言。――おい陽介」彼の身体を乱暴に揺する。「陽介、起きろ!」
 反応はない。
「……ひっぱたいてみるクマ?」
 二、三度、平手で頬を打ってみる。かなり強めにやったつもりだったが反応はない。脇の下を抓っても耳元で大声を上げても同様で、刺激という刺激になんの反応も示さない。陽介はいたって安らかに見える。
(これ、ただ眠ってるんじゃない。なにか変だ)
 ふつう覚醒しないまでも、不快気に唸るなり身体を捻るなりしてもよさそうなものだが、彼は微動だにしないのである。睡眠というより昏睡状態、それもそうとう深いものに陥っているらしい。
「ヨースケ鈍いクマねー」
『陽介』
『なんだ? それよりおい見てくれよ、俺いま浮いてるし!』
 自分の身体に起きている異変などどこ吹く風で、陽介のペルソナは楽しげにその辺りを浮遊している。
(コイツ、誰の身体のことだと……)
『……陽介、このままだとおまえ死ぬぞ』
 巨人が轟音とともに墜落した。
『はあっ? なんで!』
『呼びかけても叩いても起きない。呼吸がどんどん弱くなってる、脈も』悠はわざとらしく陽介の手首を取って、力なく頭を振って見せた。『たぶんペルソナのほうにタマシイが移ったんだ、この身体は死につつある』
『バッ、バカ言ってんなってこの薄情者! なんとかして起こしてくれよ!』
 巨人は両手であたまを抱えながら猛然と腿上げを始めた。
『死にたくないなら考えるんだ。おれにはどうしてみようもない、おまえの問題なんだ』
『お前はどうやってたんだよ! 戻るの!』
『おれの喚んだときはこの身体とペルソナが両立してた、見てただろ? こういうのは初めてだ、可哀想だけど、わからない』
 巨人はがっくりと膝をついて「うう、マジかよ……」と我が身の遠からぬ夭逝を嘆き始めた。人間がそうするのならともかく、奇抜ないでたちのペルソナが妙に人間くさい仕草でそういうことをすると、絶望もなんとはなしコミカルなものに見えてくる。
(ちょっと薬が効きすぎたかな)
 そろそろ本当のことを話そうかと口を開きかけた途端、にわかに巨人の姿が薄れて、悠の目の前で煙のように消えてしまった。
「あらー、消えちゃったクマよ」
「……あらー、だな、ホント」
 陽介が土壇場でペルソナの消し方を編み出したのだろうか――じき横たわる彼の口から呻きが漏れて、寝返りを打つようにして横向きになった。「タマシイ」とやらが身体に戻ったのだろう。
「おはよう陽介」
 彼はすぐに返事をせず、ひどく夜更かしした翌朝に叩き起こされたような様子で、しばらくウンウン唸ったり蠢いたりしていた。意識を失っていたのはほんの十分程度のはずだったのに、時間に比してその寝覚めはかなり悪い。やはりただの睡眠ではないのだ。
「ヨースケ、だいじょうぶクマ?」
「うお……あれ、戻れた?」陽介は大儀そうによたよたと立ち上がった。「あーあたま痺れる……んだよコレ……」
「ちょっと待ったほうがいい?」
「んん、ちっと待って……いや、待たんでもいいわ、よくなってきた」
「だいじょうぶクマ?」
「大丈夫、だと思う。あーのど渇いた」
「それで? 陽介」
「へ、なにが」陽介はきょとんとしている。「あー、おはよう?」
「挨拶じゃない。どうやってペルソナを消した」
「どうやってって、わかんねーよ、とにかく必死で……でも」陽介の表情がふいに明るむ。「あれ、なんつーか、凄かったな。お前あんなことできたんだな」
「おれの知ってるやりかたとかなり違うみたいだけど。とにかく、わからないならもう一度やってみよう、喚ぶ方法と戻す方法をちゃんと確立しておかないと。やれるだろ?」
「おま――いま死にかけたんですけど俺! もうできねーだろあんな危ねーこと!」
「死にはしないだろ、少なくともあの状態で何日も経たない限りは」
「え……だってお前なんか呼吸が止まるとか脈がどうとか」
「ああ、あれ? ウソウソ」 
 と、笑って否む悠に、陽介が猛然と躍りかかった。
「ちょっオメー冗談で済むと思って――!」
「ちょっと待て待てって! そもそもおまえが――!」
「俺がどんだけテンパったかこの――!」
「いったい誰のおかげで戻れたと思って――!」
「マジで本気で死ぬかと思ったんだぞテメ――!」
「おれが言わなきゃ遊んでたんだろうがこの――!」
「キミたち、ケンカはよくないクマよ……あのうふたりとも、ケンカは」
 クマの控えめな仲裁もむなしく、ふたりは掴み合いのケンカを始めた。
「オメーを殺してここに埋めてやる! 完全犯罪だ!」
「それが彼の最期の言葉でしたって墓に彫ってやる!」
 そして掴み合いが殴り合いになるのに、大した時間はかからなかった。






[35651] それ、ウソでしょ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b9f1ef46
Date: 2013/03/05 21:51

(なんだこれ)
 悠は玄関の前で立ち止まった。玄関灯に照らし出された外床の隅に、中身の詰まったビニール袋が置いてある。
(ジュネスの袋だ。食料品?)
 堂島宅にはすでに明かりが灯っている。とうぜん菜々子はいるのだろうし、車庫に車が駐まっているからには、遼太郎も帰宅しているはず。これに気付かないわけはない。
(かといって、近所のお裾分けでもなさそうだ。中身からして)
 中身はプラスチック容器に入った出来合の総菜が四つ。ラベルに「もつ煮」とあり、まだ人肌程度の温みを保っていた。ここに置かれてそれほど経っていないのだ。遼太郎が帰りがけに夕食でも買って来た、その一部が置き忘れられたものだろうか。
 しゃがんで中のひとつを持ち上げた途端、腹の虫が鳴いた。
「腹へったな」
 と、悠は独りごちた。ここ最近ではちょっと覚えのないほどの飢餓感である。もともと大柄なわりに「あんたは燃費がいい。プリウスみたい」と母に言わしめるほど空腹を覚えない質なのが、テレビの中から出てきてからというもの腹が減って仕方がない。
「フードコートでなんか食っていこうぜ、俺もう餓死寸前」
 との陽介の執拗な誘惑に、悠は何度も屈しかけたものだ。それでも小走りに帰宅を急いだのは、ひもじさに耐える小さな従姉妹を思えばこそである。どうも空回りに終わったようだが。
(夕飯買って来てたのか……なんだ、それなら一緒に食ってくればよかった)
 たしょう身勝手な憤りを感じる。今にしてフードコートで冷麺を啜る陽介――それも悠からの借金で!――への恨めしさが募った。彼のバイト代が入った暁には、せめて法外な利子をふんだくってやらねばなるまい。
「ただいま」
 玄関に入るとすぐ、茶の間のほうから「あっ、かえってきた!」と菜々子の叫ぶのが聞こえた。軽やかな足音が近づいてくる。彼女がこの時間まで飢えに苦しんでいなかっただけでもよかったじゃないか――悠はすぐに気を取り直した。
「おかえり!」菜々子が箸を持ったまま玄関へ出てきた。「きょうはおそかったね。ざんぎょう?」
「ただいま。ご飯もう食べてた?」
「うん。かお、どうしたの?」
 菜々子はそう言って、自分の頬骨の辺りを指さした。陽介に殴られた痣を見咎めたようだが、その原因に幼い彼女の思い当たるフシはないようで、とくに心配する気配はない。
「ちょっと転んだんだ」
 菜々子はこの月並みな返事で納得したらしい。それ以上の詮索はせず、上り框で小刻みに身体を揺らしながら「アダッチきてるよ、アダッチ!」としきりに奥の間を指さし始めた。
「アダッチ? お客さん?」
「おっ、僕を呼ぶのは誰だ!」
 と、悠の問いに応えるような形で奥から声が上がって、じきひょろっとした若い男が玄関に出てきた。見知らぬ顔である。
「あー菜々子ちゃんだった――や、初めまして。おっと」男がなにか気付いたように、悠の下げているビニール袋を指さした。「それ君が買ってきたの? 袋」
「いえ、そこの玄関の前に置いてあって」
 男は笑って「堂島さんすいませーん、置き忘れてたみたいです、もつ煮」と奥へ声をかけた。遼太郎の返事は「バーカ」である。
「ほら、上がって上がって。あはは上がってって僕んちじゃないよね」男は笑いながらもつ煮を受け取った。「冷めちゃったな、あっため直そう。君のもあるよ、もつ煮」
「もつにってなあに?」菜々子が訊いた。
「もつを煮るとね、もつ煮になるんだ。すごいでしょ」
「もつにってすごいの?」
「凄いんだよもつ煮。あー菜々子ちゃん知らないのォ?」
 菜々子はそのようなことは知らずともよいのだと膨れた。
(叔父さんの知り合い、かな。賑やかなひとだな)
 悠は玄関に上がって、わいわい言い合うふたりについて茶の間へ入った。遼太郎の知人にしては若いのが気になる。このちょっと稚気の抜けない笑顔の、色の白い優男は、どう見ても三十を超えているようには見えない。四十過ぎの遼太郎との繋がりからすれば、学校の後輩というのも当たるまい。
(じゃあ、仕事の同僚? ということは警官?)
 ないな――悠は苦笑した。男はまったく頼りなげな様子で、刑事どころか交番で椅子を暖めている姿さえ想像できない。年の離れた友人といったところだろう。
「よう、お帰り。遅かったな」
「ただいま。夕飯ごめん」
 遼太郎は茶の間に座ったまま悠を見上げて、なにか気付いたふうに目を細めた。さっそく顔の痣に気付いたのだろうが、彼はそれには触れず、ただ口の端を上げるようにして微笑むに留まった。
「いや、まあ酒の肴にってな、思ったんだが、ちょうどよかった」
 ちゃぶ台の上に広げられた総菜類は、とうてい酒の肴の範疇に収まる量ではない。どうも遼太郎は買いすぎるきらいがあるようだ。
「堂島さん食べます? 冷めたからレンジ借りますけど」
「あー……いやいい、俺がやる。これもあっためるから」遼太郎は傍らのビニール袋から別の容器を取り出した。「悠、お前の分だ、食うだろ? それともなんか作るのか」
「いや、食べる。なんか今日は疲れてさ、買ってくれててよかったよ」われながら現金な物言いだけど。「ほんとに腹と背中がくっつきそう」
「よおし――おい、もつ煮よこせ」
 悠に席を勧めたあと、遼太郎はいそいそとダイニングへ立った。彼の座っていた辺りにビールの空き缶が二、三置いてあるのが見える。すでに一杯きこし召した「機嫌のよい」遼太郎である。
「ここんとこ作って貰ってばかりだからな、たまには俺もなんかしてやんなきゃな」
「うわーささやかだなァ、レンジかけるだけじゃないですか」
「うるせえ」
「菜々子もあっためる」菜々子も父親の足元へ駆けていく。
「菜々子ちゃんじゃ背が届かないよ。椅子ないと」
 男に言われるまま、菜々子がはりきって椅子を引き摺ってきたのが、狭いダイニングのことで父親の脚に衝突した。
「いって――菜々子、お父さんがあっためるから」
「レンジつかいたい!」
「ほらお父さん、譲ってあげなきゃ」男はへらへら笑っている。
「お前は余計なこと言わんでいい。いってえな……」
 悠は頬杖をついて、ダイニングの喧噪をぼんやり眺めていた。かの見知らぬ男は堂島父娘とかなり親しい様子である。ひょっとしたら遼太郎の妻の側の、若い親戚筋なのかもしれない。もしそうなら自分にも多少の縁があるわけで――悠がひとり推測をたくましくしていると、
「悠くんって、なに、堂島さんちのご飯作ってるの?」
 唐突に男が話しかけてきた。
(悠くん……)
「ええ、まあ。居候のならいで」
「へえー、偉いねえ、あー皮肉じゃなくってホントにさ」男はわけ知り顔で唸ってみせた。「自炊、大変だもんね。いや僕もできるだけ作るようにしてるんだけどさァ」
「そうかそうか……こないだはいらん気ィ利かせて悪かったな足立。もう奢らねえから」
「ちょっ、喜んでたんですよ僕! ご馳走は大歓迎ですって! ねー菜々子ちゃん」
「ねーアダッチ」
(あれ、足立ってどこかで)
「ああ、そういや紹介してなかったな」と言って、遼太郎が男の顔を指さした。「これ、足立な」
「モノみたいに言わないでくださいよ――初めまして、足立透です」男は折目正しくお辞儀した。「堂島部長のお世話してます」
「バカ、世話してんのはどっちだ――ほら菜々子、できたからお兄ちゃんのとこ持ってってやれ」
(堂島部長……部下? ということは刑事? あ、足立って叔父さんが言ってた)
 ここで悠はようやく足立の名に思い当たった。それでは彼が、先に遼太郎が左遷されてきたと言っていた「気の毒な若造」なのだろうか。
「初めまして、鳴上悠です。もう叔父さんから聞いてるみたいですけど」
「うん聞いてる聞いてる。高校生とは思えないくらいしっかりしまくってるとか、君の叔父さんにさんざん自慢されたよ」
「ひとこと余計なんだよお前は」遼太郎が透の脚を蹴った。「別に自慢したわけじゃないぞ」
「二十七歳なんだってね。あはは僕と同い年だ」
 菜々子がウェイトレスよろしく、湯気立つパッケージを捧げ持ってきた。蓋にマーボー丼とある。
「どうぞ! これおいしかったよ!」
「どうもありがとう……」
(丼ものって、母さんがつまむのとだいぶ違うぞ。酒のむ時ってふつうこんな重いもの食べないんじゃ)
 悠はちょっと面食らった。鳴上家の食習慣とはどこまでもかけ離れている。あるいは透の食事を兼ねた選択なのかもしれないが、いったい遼太郎はいつもこんなものを肴に酒を呑んでいるのだろうか。
(たぶん食事の時間が不規則なんだろうな、刑事って。きっとメシとかツマミとかの境界線がないんだ。食べたいものを食べたいときに買って来てるって感じだ)
 それにしても健康を損ねかねない量である。そもそも今日は悠が食事を作って待っていたはずで、遼太郎にしてもそのつもりだったはず。今日に限って言えばちょうどよかったものの、ちゃんと作ってあったとしたらどのようにして処理するつもりだったのだろう。
「たべないの?」
「うん食べる。えっと、まだある、んだよね」
 菜々子はウンと頷いたあと近寄ってきて、「でもいまあっためてるのはおいしくなかった」と耳打ちした。
「そっか……ところで、こういうご飯が余った時って、菜々子ちゃんいつもどうしてる?」
「んー、すててる」
「…………」
「わるくなるからすてなきゃダメなんだよ」菜々子は薄い胸を張った。「たべるとビョーキになるんだよ」
「うん、勉強になった……」
 菜々子は機嫌をよくして、いっぱしの母親みたいに「もうこんなにちらかして!」などと言いながら、ちゃぶ台に散乱する空の容器をかいがいしく片付け始めた。彼女のためだけではない、遼太郎のため、ひいては堂島家のためにも、彼らの食料事情には早急の改革が待たれるようだ。
 菜々子がキッチンと茶の間を五、六回も往復する頃には、ちゃぶ台はふたたび元の賑わいを取り戻した。悠以外の三人も食い損ねたもつ煮を前に、おのおの座っていた位置に納まっている。
「悠、ぜんぶ食っていいからな」遼太郎が新しいビールを空けながら言った。「こっちはもうあらかた片付けたんだ、あとはお前の分だ」
「ぜんぶ食えるかな……」
「食えるさ、そんだけでかいんだから」
「そういや悠くんってどのくらいあるの? 堂島さんと同じくらいあるよね」
「身長ですか? 百八十です、四捨五入すると」
「えーいいなァ、僕もあと五センチ欲しかったな……あっ、堂島さん負けてるんじゃないですか?」
「バーカ、俺は百八十一だ」
「四捨五入するとでしょ?」
「菜々子はヒャクニジュウロクセンチ」
「うわ、菜々子ちゃんちっちゃいなァ、踏んづけないようにしなきゃ」
 菜々子は膨れて、透を無礼な愚かものであると非難した。
「ところで悠くん、どう? 八十稲羽のご感想は。東京から来たんじゃビックリでしょ、ここすんごい田舎だし」
「田舎で悪かったな。好き勝手いいやがって」
「いやいや誉め言葉ですよ田舎って。空気はおいしいし、なんたって空気はおいしいし……」
「じゃこんど空気奢ってやるよ」
「あの、足立さん、ちょっといいですか」
「へ、なに?」
「できたらでいいんですが」もちろん是が非でもそうしてもらうつもりだが。「悠くんじゃなくて、鳴上って呼んでもらえると」
「あれ、あーごめん、イヤだった?」
「あまり好きになれなくて。悠くんって、父親がおれのことそう呼ぶんです、それで」
「親父さんの呼び方がイヤなのか?」遼太郎は怪訝そうにしている。
「イヤってわけじゃないんだけど、子供扱いされてるような感じがして――おれの父親、もう五年以上アメリカに行ったきりなんですけど」
「アメリカ。へえ……」透は少し驚くふうを見せた。
「その、父親の中のおれって、五年前から時間が止まってるっていうか、いまだに小さい子供みたいなんです。電話とかで話してもそんな感じで」
 もちろん母が毎年写真を送っているし、単身赴任が始まってからはお互い疎遠にならない程度に電話もかけ続けている。息子の成長ぶりを認知していないはずはないのだが、父の話すやり方は五年前、というより、小学校低学年の頃からいっこうに変わらないのだった。悠くん勉強どう? 悠くんお母さんの言うことちゃんと聞いてる? 悠くん好きそうなお菓子見つけたから、こんど送るからね――高校生の息子と会話するとき、鳴上輔という人間はおおむねこんな感じである。
「だから、悠くんって言われると……なんか、違うんです」
「複雑なんだねえ。じゃ、鳴上くんでいい?」
「はい。そう呼んでもらえれば」
「クン付けがイヤなのか? 学校じゃそう呼ばれることだってあるだろうに」遼太郎はいまひとつ納得がいかない様子だった。
「学校では名前で呼ぶなって言ってる。自分の名前自体あんまり好きじゃないし」
「友達だって気を悪くするだろうし、お前だって不都合だろう。親しくなりゃ名前で呼び合うこともある」
「まあね」
 悠は苦笑した。正論である。現に親しくなったために名前で呼び合う友人がひとりできたのだし――同じ理由から今まで困ることもなかったのだ。
「変わってるよ、お前さんは」遼太郎も苦笑を返した。
「かわってるの?」菜々子が首を傾げた。
「変わってるさ、お兄ちゃんは名前で呼ばれるのがイヤなんだとさ」
「イヤなの?」
「イヤってわけじゃ……もちろん叔父さんはいいよ、菜々子ちゃんだって、そう呼びたいならさ、呼んでも」
「ええー? で、僕はダメなの?」
「……ええと、クン抜きなら」
「あはは冗談だって」透は手をひらひら振って笑った。「君を困らせたりはしないって、鳴上くん」
「どうも、足立さん」
「あ、僕はべつに透でもいいよ、気にしないし。なんならアダッチでもいいよ、菜々子ちゃんみたくさ。ねー菜々子ちゃん」
「ねーアダッチ」
「アダッチねえ。もちっと捻ってもよさそうなもんだが……そういや悠、お前、あだ名とかないのか」
「あ、あだ名?」
 やめてくれ――悠は小学生の頃、陰で「ルナ」などという屈辱的なあだ名で呼ばれていたのを思い出した。
「ないよ、そんなの」
「俺はあったな、なつかしいな」悠に話を振ったのは枕に過ぎなかったようだ。「俺んときは名前で呼ぶのでなきゃ、みんなあだ名だった。名字で呼んだりしたら変な顔されたもんだ。なに気取ってやがるってなァ」
「あだ名って言えばほら、堂島さん。安藤さんって、陰でみんなに『アン』って呼ばれてるんですよ」
「アンだァ?」遼太郎は吹き出した。「あのタコがか、可愛すぎて似合わねえな。安藤だからアンか」
「違います、ハゲてるから。赤ハゲのアン」
 遼太郎は大喜びして「そりゃいい、俺もアンって呼ぶか!」とひとしきり笑っていた。安藤さんとやらはおそらく彼らの同僚で、あまり仲のよくない間柄なのだろう。
 その後、茶の間の会話は二転三転したあげく、遼太郎たちの職場の愚痴へと落ち着いていった。曰く、「本庁さま」や「赤ハゲのアン」の傍若無人ぶりがたいそう目に余ること。「ショカツ」をナメ切っていること。「カトウギ」なる若い婦警を小間使いかなにかと勘違いしていて、彼女にベッドメイクやら酌やらさせようとするのに非常な義憤を感じていること。云々――
「ありゃもう治らねえよ、俺がいた時分からそうだったんだ。ヤツのは杓子定規じゃなくて犯罪幇助だ。あのタコが臨場するだけで検挙率が落ちる」
「おまけに穴あき杓子に目盛りの狂った定規なんですから。ったく盗難自転車でも探してろってんですよ」
「アレをトウハンに押し付けるなんざ傷害の現行犯もんだぜ」
「息してるだけで公務執行妨害ですけどね」
「窃盗も追加だ。ヤツは八十稲羽の酸素を盗んでる」
「合わせ技で五年はブチ込みたいなァ、執行猶予ナシで」
(とんでもない言われようだな)
 彼らの言う「赤ハゲのアン」はそうとう腹に据えかねる人物らしく、ふたりとも酔うほどに興じるほどに糞味噌に罵るのだった。
「あのマルガイの写真でも見せてみろ、え? ひっくり返るぞ」
「あーダメダメ、僕が吐くくらいですもん、安藤さん見たらぜったい心臓止まりますって。あっ、そうしたら警視総監賞もらえるかも」
「おお絶対もらえる。稲羽署総出で推薦してやる。ヤツがくたばりゃ捜査も快適になるな、葬式にはバラの花輪を送ってやる」遼太郎は五本目のビールを空けた。「それにしてもお前もたいがいだぞ足立、そりゃ珍しいロクだったが――」
 遼太郎がふと悠を一瞥して、含みありげに言葉後を呑み込んだ。
「なに?」
「ん? なんだ、どうした」
「……いや、なんでも」
「食ってるか? ああもつ嫌いだったか? お前ビール呑むか、ん?」
「その気になったら警官のいないところで試すよ」悠は笑って去なした。
(ひょっとして今の、例の事件の話?)
 いったい警官たちの会話は類推の利きづらいジャーゴンに満ちていて、しろうとの悠には――まして菜々子には尚のこと――どれもピンとは来なかったのだが、今ほど遼太郎が話題を換えようとしたのはすぐにわかった。それも悠を憚って、である。なぜ? もちろん、甥の耳に入れたくない内容だからだろう。例の事件、それもおそらく早紀の件に関係している可能性がある。
 悠は気のないふりを装いつつ耳をそばだてた。
「キソウの連中だって吐いたらしいじゃないですか。よっぽど図太くなきゃ」
「おい、メシ食ってるやつがいるんだぞ。そのへんにしとけ」
「あ、ごめんね鳴上くん――それにしてもとんでもない殺しですよね、ホント。ビョーキですよ」
「ころし?」菜々子が首を傾げた。
「ああ菜々子ちゃん一緒に片付けしようか!」悠は慌てて立ち上がった。「もうあらかた食べ終わったしさ、容れもの洗っちゃおう」
「子供の前でなんて言い草だ足立。それとお前、部外者の前で余計なことを言うな」透を叱ったあと、遼太郎は取り繕うように酔眼を撓めた。「ああ悠、洗うのはいい、俺があとでぜんぶやるからお前は座ってろ。な?」
「へえ、自分が言い出したクセに」
「黙れ」
 遼太郎の低い一喝に、酔いはいささかも覗えない。「刑事」のスイッチが入ってしまったようだ。
(そううまくはいかないか)
 悠はひっそりとため息をついた。
 例の事件、なかんずく件のアパートについて、機会があれば遼太郎からなにがしか訊けるものと安易に考えていたのだったが、むろん現職の警官が担当している事件についてやすやすと喋るはずもないのである。酔って機嫌のいい彼にしてからがこうなのだ、しらふの時にそんな話を持ち出したらなんと言われるか……
「ねえアダッチ、ころしってなあに?」
「ええっと、コロシっていうのは、イタリアのワインのことでね、ビョーキになったときはこういうお見舞いがね……」
「ビョーキになったときはころしがいいの?」
「えっとね、そう、ネーロ・ダーヴォラが甘口で飲みやすくてね、僕は好きかな……あはは」
 透が無茶苦茶な釈明を始めた矢先、ソファに放ってあった遼太郎の携帯電話が鳴った。
「なんだ、間ァ悪いな……」
 遼太郎は携帯を引っ掴んで、大儀そうにソファに腰掛けた。先に見たように液晶画面を見もせずに電話に出ているからには、相手はやはり仕事関係なのだろうか。
「はい、堂島」
(また呼び出し? でも呑んだんだから行けないよな)
 壁掛け時計を仰ぎながら二、三、応答したあと、遼太郎はふたたび悠を一瞥して、ふいに茶の間を立って玄関まで歩いて行ってしまった。引戸の開く音が聞こえる。大した念の入れようで、彼は「部外者」に聞き耳を立てられないために家の外に出たようだ。
「……仕事の話、でしょうか」
 透は玄関のほうを向いたまま「どうだろうね」と呟いた。
「もしそうなら僕も引っ張ってくはずだけど。でもまあ、仕事の話には違いないな」
「山野アナと、小西早紀の、例の?」
 叔父さんがダメならこっちはどうだろう――悠は懐剣を突き出すようにして訊いた。透にしたところで刑事なのだし、守秘義務に縛られるのは遼太郎と同じだが、彼は見たところそれほど口が重いようでもなさそうだ。酒の勢いに任せてなにか喋ってくれるかもしれない。
「そうだよ。例の怪事件」透にべつだん警戒したふうはない。「なかなか進展ないけどさ、まあ始まったばっかりだし」
「うちの教室でもずっとその話で持ちきりですよ」
「そうだろうね。小西早紀さん、学校同じだったんだもんね、そりゃ気になるよねェ」
「あの山野アナの住んでたアパート、メゾン・ド・ラ・ネージュでしたっけ、あそこに行ったなんて言ってるヤツもいて」
「うわ、御康市まで行ったの? 最近の高校生って行動力あるなァ」
 当たりだ――悠は内心、小さく喝采を上げた。それではやはり山野アナは早紀と同じ運命を辿ったのだ。
「三階の奥、突き当たりの部屋、でしたっけ」
「おいおい……よく知ってるねェ、聞き込みでもしたの?」透が少しく眉根を寄せた。「あんまり感心できることじゃないよ」
「ネームプレートでも見たんでしょう」
「あのアパートには山野姓が三人いたのに?」
「おれも詳しくは……クラスの連中の話を聞いただけですから」
 透は悠の顔をじっと見つめたあと、「それ、ウソでしょ」と言った。
「どうしてです」
「あ、ウソってのは、誰かから聞いたってことについてだよ」
「じゃあ、おれが自分で見に行ったと?」
「うん」
「どうしてです」
「刑事だから、僕」
「…………」
(下手打ったか? 扱いやすそうだと思いきや……)
 軽そうな見てくれに反して、透はなかなか鋭い、いっぱしの刑事であるようだ。悠自身なにか下手なことを言ったつもりも、顔に出したつもりもないのだが。
「そう言われても、本当に聞いただけですよ」
「そう? なら僕の見当違いか」透はあっさりと前言を翻した。「ところで鳴上くん、その顔どうしたの?」
「あ、これですか、ちょっと転んだんです」
「それ、ウソでしょ」
「どうしてです」
「転んでそこにアザ作ろうとしたら、君の鼻なくなってるよ」
「もちろんウソですよ」悠はあっさりと前言を翻した。「誰かに殴られたときにつくウソとしちゃ、定番でしょう」
「定番だね。でも親しい友達に殴られたときまでウソつく必要あるかな」
「……どうして親しい友達なんです」
「目や鼻を狙ってない」透は自分の目鼻を示して言った。「それにさっきあれほど熱いものぱくついてたからには、口の中も切ってないでしょ、その頬骨のとこのアザだけだ。それは君に怪我させたくないヤツがさせた怪我だ、君をやっつけようとして殴ったんじゃない。そういうのって、君を大事に思ってる人間じゃない? 親友とか」
 悠は絶句した。あの殴り合いは表向き陽介の降参という形で終わっていた。鼻血を出した彼が降参を叫んだのである。
(そうだ、あいつはどうして冷麺を食っていた? 当たり前だ、熱いものを口にできなかったんだ、おれが考えなしに殴ったから……)
「相手は拳を痛めたかもね」
「確かに、親友です、このアザをつけたのは」
「おっ、当たった! そうでなきゃ堂島さんがやったと思ってたけど」透は満面の笑みを浮かべた。「じゃ、君の叔父さんも喜んでるんじゃない? 転校数日でそういう友達ができたんだからさ」
「叔父さんが?」
「僕が感づいたくらいだし、たぶんわかってるんじゃないかな」
「さすがですね、刑事って」
「でしょー? ねー菜々子ちゃん」
 返事はない。先ほどからやけに静かだと思っていたら、彼女は箸を握ったまま船を漕いでいた。
「ありゃ、寝ちゃったか」
「そろそろ休ませます。もういい時間だし」
「んん……ところで鳴上くん、さっきの話」
「え?」
「ウソでしょ、ひとに聞いたっていうの」
 悠は苦笑して「ウソです」と白状した。
「そっか、ウソか」
「ボロを出したつもりはなかったんですけど」
「だろうね。僕のもタダのハッタリだし」透は肩を竦めた。「でもね、ウソついてるっぽいっていうのはね、なんとなくわかるよ。そういうのがわかりやすい人間とそうでない人間がいる」
「おれはわかりやすいほう?」
「いや、わかりにくいほう、だから念を入れたんだけどさ。あそこで白状しちゃダメだよ、シラ切り通さないと」
「はあ」
「で、なにが訊きたいの?」
「は?」
「なにか知りたいんじゃない? そうでなきゃ『オレは知ってるぞ』的なアピールしないでしょ」
「降参です」と言って悠は諸手を上げた。「でも実はもう、知りたかったことは聞き出せてるんです」
「ありゃ、僕なんか喋っちゃった? やられたなァ」
「これでおあいこですね」
「堂島さんの言うとおりだな、君ホントに十七歳?」
「あれ、叔父さんは二十七歳って言いませんでした?」
「あはは言うね君、堂島さんが心配するのもよくわかるよ」
「ところで足立さん、さっき」
「ん?」
「なにが訊きたいんだって言いましたけど、訊いたら話してくれるんですか?」
 ここで透が玄関のほうをちらと見て、開きかけていた口を閉じた。悠の不審に思う暇もなく、忽然と遼太郎がダイニングに姿を現す。玄関の引戸の開く音も、足音のひとつさえしなかったのだが。
「堂島さん、署からですか?」
「ああ、まあな」
 遼太郎はソファに腰を下ろして、いくぶん疑わしげにふたりを睥睨した。
「で、お前ら盛り上がってたみたいだが、なんの話だ」
 正直、悠に顔色を変えずにいられた自信はない。それでは遼太郎は話を聞いていたのだ! どこから聞かれていたかはわからないが、おそらくは早々に電話を終えて、そっと玄関に忍び入って、廊下で息を潜めていたのだろう。
「恋愛相談ですよ、鳴上くんの――」
 と言いかけて、透はいかにもなにか気付いたというふうにして、悠を素早く横目で見た。ブラフだ――この若い刑事もなかなか強かなもので、盗み聞きをされた程度ではうろたえる素振りも見せない。悠は一拍遅れたもののなんとか調子を合わせて、首を微かに振って否んで見せた。
「っていうのは冗談で、ちょっと事件の話をしてたんですよ」透はあたまを掻きながら平然と続けた。「ほら、学校とかそういう話で持ちきりらしいし、だよね鳴上くん」
「そうです、持ちきりです」
「ほら堂島さん、こういうの高校生が興味もつのって、仕方ないトコあるでしょ? 同じ学校の生徒が被害に遭ったんだし、まして叔父さんが刑事なんだし、ねえ鳴上くん」
「ですね」
 遼太郎は「そうかよ」と苦笑して、ちゃぶ台に置いていた飲みさしのビールを掴まえた。
「おい悠、コイツに訊いたって大した話は聞けねえぞ」
「え、いやいや、僕も同じ事件担当してますし」
「年季が違う。なんだ俺じゃ役に立たねえってか? そりゃ今は子持ちだが、少なくとも足立よりゃ経験あるぞ」
「えーと堂島さん、なんか勘違いしてません?」
「してねえよ、途中から聞いてたんだ。ごまかそうったってそうはいかん」
 どうやら上手く遼太郎を担げたらしい。おそらく会話の核心部分、アパート云々のくだりは聞かれずに済んだのだろう。悠はひっそりと安堵の息を吐いた。
(それにしても、このふたり、やっぱりふつうの職業じゃないんだな)
「たく、事件のことでも漏らしてんじゃないかって尖ってみりゃあ……」
「あー……ごめん、鳴上くん。最初にオフレコって言ってくれればさァ」
「ほら悠、続けろよ、俺も相談に乗るから」遼太郎はがぜん上機嫌になった。「甥っ子の悩みだ、心して聞かなきゃな」
「いや、いいんだ、もうあらかた話し終わったし、そんな大した内容じゃないし」形ばかり透を睨み付けながら、「それほど参考にもならなかったしさ」
「ええっ? それひどいな、さんざん恥ずかしいコト言わされたのに」透はニヤニヤ笑っている。「鳴上くんかなり下ネタ好きだから、堂島さん気をつけたほうがいいですよ、十七歳とは思えないくらい。ちょっと引くかも」
「おいおい、お前ら子供の前で猥談かよ」
「いや猥談っていうか……足立さん……!」
「いやー最近の高校生ってケシカランですねホント」
「しもねたってなあに?」
 男三人ともぎょっとして声のしたほうを振り向いた。間の悪いことにちょうど菜々子が目覚めたところだった。
「しもねたすきなの?」
「えっと……叔父さん」
「ええ? おい、足立」
「うえ、僕ですかァ?」
「足立さんが言い出したんでしょう」
「ねえ、しもねたって」
「ええっと、シモネタ……シモニタっていうのはね、ネギのブランドのことでね、野菜のネギね」
「しもねたって、ネギなの?」
「そう、そうだよ、なんか凄いおいしいらしくって、鳴上くん目がないんだ、シモニタ……」
「しもねたすきなの?」
「……シモ、ニタは、好きだよ。ニタね。菜々子ちゃん訛ってる」
「しもにた?」
「そう。ニタ」
「しもねたはネギじゃないの?」
「ほら菜々子、もう遅いから、早く風呂はいって寝なさい」見兼ねた遼太郎が強引に介入する。「足立、お前もいい時間だろ、もう帰れ」
「あ、はい――なんか悪いな、片付けとかは」
「俺がやっとくからいい。車カギ開いてるから、自転車わすれんなよ。呑んでんだから乗らないで、引いて歩いてけよ」
「はい、じゃあ、ごちそうさまでした」
 お疲れさん、とひとこと言い置いて、遼太郎はまだ眠くないと娘の渋るのを、無理に風呂場へ引っ立てて行った。声高に「しもねた」の正体を質す菜々子の声が遠ざかっていく。
「……ナイスリアクション。うまくいったね」
「どこがですか。とんでもない誤解ですよ」
「まあまあ、ふたり揃って正座アンド説教よりはマシでしょ」
 透を送って悠も玄関まで出て行った。
「そうだ、堂島さんに聞いたんだけど」
「え?」
「君、読書家らしいね」靴を履きながら続けて、「部屋、鍵かかる? 見られちゃマズい本とかちゃんと隠しといたほうがいいよ。堂島さんガサ入れはいるかもだから」
「見られて困る本なんか置いてませんよ」
「おっ、開き直ったな下ネタ好き!」
 冗談交じりに蹴るのを、透は笑いながら躱した。その拍子に沓脱ぎ石を落ちて転びそうになって、凭れるように玄関の引戸を開けた。さして酔いもしていないとばかり思っていたが、ほどほどに酒は回っているようだ。
「じゃあね、お邪魔しました」
「大丈夫ですか?」
「なーに、ぜんぜん呑んでないし。またね鳴上くん」
 出て行ってほどなく、車のドアを開けてなにかごそごそする音が外から聞こえてくる。遼太郎が自転車を忘れるななどと言っていたからには、折り畳み式のものを載せていて、それを組み立てているのだろう。じき「よし」と透の気を吐く声がして――踵を返した悠の背に、自転車の転倒する派手な音と、投げ出された主人のくぐもった悲鳴が飛んできた。






 寝室から出てくると、ダイニングに腰掛けた遼太郎に声をかけられた。なんとなく話ありげな様子で、手に湯気立つマグを持っている。
「菜々子は? もう寝たか」
「たぶんね。自己申告だけど」
 ささやかな夜会の興奮さめやらぬといった様子で、菜々子はなかなか床につこうとはしなかった。「ころし」がどうだの「しもねた」がどうだのと、彼女は布団の中で大暴れし、ついに悠をして「スマキにして吊し上げるよ!」と恫喝させるほどであった。もっともその効果といえば、彼女の語録に物騒な新語が追加されたくらいであったが。
 あのいささか過剰な反応を見るに、どうも堂島家は来客に恵まれない様子である。まして家主さえ留守がちなのだから、孤独な子供心にあのはしゃぎようも無理からぬというものだ。
 ひょっとしたら自分がこの家に来たときも、彼女は内心あのように欣喜していたのだろうか? 見知らぬ環境がそれをよそよそしく見せかけたに過ぎなかったのだろうか。
「悠、コーヒー飲むか」
 遼太郎が椅子を軋らせて、啜っていたマグを示した。
「ビールはもういいの?」
「呑み過ぎたよ。俺ァほんとうはこっち派だ、酒は弱い」
「コーヒー?」
「おお。ま、こんど本格的に挽いてやるよ。さいきん余裕がなくってあんまりやってねえがなァ」
「じゃ、貰う」
 遼太郎は大儀そうに席を立って、インスタントコーヒーのパッケージを手に取った。ことさらゆっくり動くのはおそらく、酔いの千鳥足を隠すためだろう。
「叔父さん、足立さんってたびたび来るの?」
「……たびたびってほどじゃないが、ま、たまに来るな。でもこれからはちょくちょく来るようになるかもしれん」
「へえ。なんで」
「チョウバで酒盛りする気にはならんのさ、俺も、ヤツも。特にヤツはなァ」
「なにか理由でも?」
「あれももと本庁のデカだ。これだけ言やァわかんだろ」
「ちっともわかんないよ」
「クク、わかるわけねえよな」コーヒーを差し出しながら、「今うちの署には特捜本部が設置されてる。いったい何年ぶりかわからないくらいで、てんやわんやさ」
「うん」
「つまり本庁のデカさまが御来臨あそばしてるわけだ。大ヘマやって左遷されてきたヤツが前の同僚に合わせる顔なんざ、なかなか作れねえやな」
「大ヘマ?」
 遼太郎はふいに押し黙って、ひとつ舌打ちして、「呑み過ぎるもんじゃねえな」と低く呟いた。今のは彼にとって失言だったようだ。
「忘れようか、今の」
「おお、そうしてくれ」
 ふたりはしばらく気まずげにコーヒーを啜っていた。
「……ブラックでよかったか?」
「たまにはね」
「砂糖あったかな。なかったかもしれん、使わねえしなァ」
「知ってる、もう買ってきてあるから。でも菜々子ちゃんは入れないの?」
「これが菜々子のコーヒーだ」と言って、遼太郎はテーブルの上からミロの瓶を取り上げた。「お前が飲んでるヤツは、あの子はスミかなにかだと思ってる」
「あれ苦いし、菜々子ちゃんにはどっちも大して変わらのないかもね」
「お前スミのんだことあるのか」
「小さい頃に少し。菜々子ちゃんにはお勧めしないけど」
「お前あれの前でそんなこと言うなよ。面白がってマネするかもしれん」
「しないしない、コーヒーだって勧めたりしないよ。小さい子には毒だっていうし」
「そうなのか? 俺ァ身体にいいって聞いたが」
「菜々子ちゃんにはミロのほうがいいと思う。少なくとも小さいうちは」
「飲めったって飲まないさ。一度きりで懲りたらしい、スミみたいだってな」
「へえ……そういえば叔父さん」
「ん?」
「家の中では吸わないよね、タバコ。やっぱり菜々子ちゃんのため?」
「んん。あれこそ毒だからな、子供の近くで吸っていいもんじゃないし、お前にも迷惑だろう」
「……迷惑じゃないって言ったら?」
 遼太郎が少し八の字を寄せた。果たして悠の喫煙癖を聞いた彼がどんな反応を示すか――仮に叱られるにせよ、確認するなら機嫌のいい今が最適であろう。悠は腹をくくった。
「どういう意味だ」
「おれもタバコ吸うんだ、実は」
 遼太郎は少なくとも表面上、特に目立った反応は示さなかった。彼はしばらく無言のままコーヒーを啜っていたが、ややあって、
「まあ、立ってないで座れよ」
 と言って、悠に向かいの席を勧めた。
「驚いた?」悠は言われるまま椅子を引いた。
「驚きゃしないさ。きょうびタバコ吸ってる高校生なんざ珍しいもんじゃない」
 なんと言おうか考えているのだろうか、遼太郎は思案げにしていたが、その面に怒りの兆す気配はなかった。ひょっとしたら「ほどほどにしろよ」とでも前置いて、タスポを貸してくれるかもしれない。
「ついでに言うと、今は切らしてる」
「ふん」
「誰かタスポを貸してくれないかなって、考えてもいる」
「ふん」
「……もし誰かが二、三本わけてやるって言ったら、喜んで受け取るな、たぶん」
「だろうな」
「…………」
 沈黙が痛い。窘められるにせよ叱られるにせよ、なにかしら喋るなら返しようもあるのだが。ひょっとして遼太郎は無言のうちに自分を叱っているのだろうか? だとしたらこのやり方はかなり効果的である。
「おふくろさんは知ってるのか」
 ようやく遼太郎が口を開いた。
「いや、知らないと思う」
「隠してたか」
「うん」
「そうか……お前、いつから吸い始めた」
「高校上がって、すぐ、かな。それからたびたび」
 とはいうものの、悠自身、自らに煙草への依存を見出したことはほとんどなかった。一、二ヶ月に一回、なんとなく吸ってみたくなるといった程度である。ストレス発散であるとか、すっきりしたいとか、そういう実際的な効能を求めてのことではない。かといって周りの幾人かがやっていたような、恰好つけというのとも少し違う。それは言ってみれば悪の芽の確認とでも呼べようものだった。彼はたくさんのよい概念が自らに備わっている――と、思い込んでいる――だけでは飽きたらず、それらを得るために捨て去らなければならなかったはずの悪をも実は内包しているのだと、要は自身に証明したかったのである。
 だが今は事情が違う。顧みられなかった「実際的な効能」が、にわかにその魅力を訴え始めている。ペルソナを操るとき、彼は確かにこのささやかな効能に助けられていたのである。
「その、あんまり吸うほうじゃないんだけど」
「俺は中学三年の頃だった」
「え?」
「タバコさ」遼太郎は仏頂面になるどころか、微笑みさえした。「ま、いつの時代も同じだ、カッコつけさ。仲間うちの何人かで、ほれ、川に橋かかってるだろ、通学路の」
「うん」
「あれの下でな、吸ってた。まあマズいしケムいし、また親父はなんでこんなもん好きこのんで吸ってんだって、内心じゃ首かしげてたな。そりゃ仲間うちじゃ『悪くねえな』なんてフカしてたが」
「親父って、おれの」
「じいさんだ。でな、あるとき学校の先生に見つかってな……そりゃ見つかるんだ、いくら橋の下だって十人も集まってスパスパやってりゃ、煙も凄いことになってるのは当たり前の話だ。それで、親父にバレてな」
「んん」
「そこに座れって言われた」遼太郎は悠の席を顎で示した。「親父は俺のとこに座ってた」
「…………」
「いつから吸い始めたって聞かれて、俺は中三だって言った。高二のときだ」
 なるほど、ちょうど遼太郎と悠とで在りし日の再現が行われているのだ。
「親父のやつ、さぞかし怒り狂うと思ったら笑いやがってな、なんて言ったと思う? オレは中一からだとさ」
「……凄いひとだったんだ」
「カラッとしててな、熱しやすく冷めやすいってタチの人間だったが、とにかく短気で、怒るとすぐ手が出やがった。また姉貴は親父似でなァ」
「それ、なんとなくわかる」
「あはは姉貴のヤツ変わってねえか」ひとしきり笑ったあと、遼太郎はにわかに真顔になった。「俺ァ喋るのはあんまり得意じゃない、だから親父の受け売りをそのままお前に申し送る」
「んん」
「悠、タバコはやるな、少なくとも二十歳になるまではやるな。酒はいい、お前の歳から勉強しとくのは悪いことじゃない。でもタバコはダメだ、許さん。いいな」
「……わかった」
 殊勝に悠がこう応えると、遼太郎は少し残念そうに「どうして俺はいいんだって訊かないのか?」と述べた。
「じゃあ……どうして叔父さんはいいの?」
「俺はいいんだよ。お前はダメだが、俺はいいんだ――どうだ、お前のじいさんはこういうヤツだったんだ! アタマにくるだろ」遼太郎は席を立って続けた。「実際、俺も吸ってる、強くは言えん。俺もガキの頃から吸ってたし、悪ガキ相手の商売もしてるから、お前くらいの年頃に身体に悪いとか法律で禁じられてるとか言ったところで、抑止力にならんのはわかってる。かといってお前はガキだからダメってのは、お前からすりゃちっとも説得力がないだろう」
「うん、まあ」
「俺は警官だが、警官として法を守れなんて言うのは、そこいらの高校生にならともかく、叔父が甥っ子に向かってやるようなことじゃない。だからまあ、ちっと気恥ずかしいが、今だけは息子になったつもりで聞いといてくれや」
「うん、わかった。お父さん」
「あははやめろやめろ、こっぱずかしい」
「おやじのほうがいい?」
「風呂はいってくる。もう十時だ、お前も早く寝ろよ」
 と言い残して、遼太郎は逃げるように風呂場へ滑り込んだ。
(ダメか。そうか)
 悠はひとつため息をついて、茶の間のソファに目を放った。遼太郎の上着が投げ出されていて、その胸ポケットから小さな方形の箱があたまを出しているのが見える。
(ダメなら仕方がない)
「悠」
 突然、風呂場の磨りガラスから遼太郎の声が飛んできた。
「な、なに?」
「安心したよ。妙に大人びてやがると思ってたら、ケンカもするタバコも吸う。お前も十七歳なりだ」
「……それを聞いて若返った気分だよ」
 浴室の戸が閉まる音を汐に、悠は茶の間のソファに忍び寄った。タバコはまだ封切られたばかりと見えて、十六本も入っている。これらを全て持ち去ることができれば当分は困らないのだろうが……
 一本か二本か、暫時迷って二本を抜き取ったあと、悠はふと落胆している自分に気付いた。むろん原因はこの窃盗行為ではない、彼を悄然とさせたのは叔父のひと言であった。
(ケンカもする、タバコも吸う、おまけに盗みもだ)悠は無理に笑おうとした。(喜べよ悠、やっと十七歳認定してもらえたんだぞ) 
 なぜであろう? 喜ばしいはずの「十七歳認定」はしかし、悠の自尊心に注射針を打ち込んだような痛みをもたらしたのだった。





[35651] 映像倫理完っ全ムシ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:921255cf
Date: 2013/05/12 23:51


 寝耳に足音を聞いたような気がして、悠は小心たらしくそろそろと身体を起こした。
 寝惚け眼を背後に放つ。なにもいない。そうしているあいだにも、廊下の深く軋る音が遠ざかっていって、次いでそっと蝶番が鳴いた。もちろん部屋の外でのことだ。遼太郎が寝に上がってきたか、それとも用足しに降りた帰りの物音か、ともかくも彼はそれを自分の背後に聞いたように思ったのだった。
(三人の時とひとりの時じゃ、ずいぶん違うんだな、おまえ)
 机の上に投げ出してあったメモヴォクスが、微かな律動音を響かせている。十一時四十八分――危うく寝過ごすところだったらしい。
 悠は寝起きのものうさに、初めてあの世界に入ったときのことを思い出していた。あるいはうたた寝の夢に見ていたのかも知れない。彼は見知らぬ世界で怯えるクラスメイトを励ましながら、背後の足音を雄々しく聞きつけるのである。今ほど袖で拭ったイヤな汗も、確かかいていなかったはずだが。
 悠はひとつ伸びをした。右手に張り付いていたルーズリーフが腕と一緒に持ち上がって、ふたたび机に落ちた。あと数時間は眠気も兆すまい、マヨナカテレビのチェックを終えたあとは、これの清書でもするのがよかろうか。
 皺んだルーズリーフには「ペルソナについて」とある。





 ・ペルソナについて


 ・体長四メートルくらいの人型のなにか。テレビの中にいる時に喚べる? なれる? もうひとりの自分らしい。

 ・悠のものと陽介のものとで見た目や機能は違う。個々人によって違う? 

 ・悠のものは裾の長い、カラーの高い、長ランのような陣羽織のような黒い服を着けている。分厚く硬いごわごわした化学繊維みたいな手触り。白いハチマキ? 冑、仮面、籠手、臑当、鉄靴のような防具あり。ナイフと長巻の合の子みたいな、矛のような長い武器を持っている。鉄っぽいつるつるした金属。なぜ武装している? 肩に菊花紋のような印章があった。なぜ菊花紋?

 ・陽介のものは変なツナギを着ている。赤いマフラー? マント? 胸に金色のV字の飾りがついている。派手。冑と仮面は意匠は違うが着けている。全身が硬いゴムみたいな手触りで、中になにか金属みたいな地が入っているような感じ。直径五十~六十センチくらいもある手裏剣みたいな武器を両手に持っている。なんで手裏剣? 投げたあと軌道を変えたり戻したりできるらしい。陽介は浮いたりできるらしい。

 ・ペルソナの姿はイメージ依存? しかし菊花紋やら矛やらをことさら意識したことはない。陽介のほうでも同様。陽介はなんでこんなダサい恰好なのかと気にしていた。

 ・ペルソナは「出し方」がいくつかある? 悠が最初に経験したのは、悠自身とペルソナが両方とも「目覚めている」状態で、制御がとてつもなく難しい。陽介が自己流で出したのはペルソナだけが目覚めていて、陽介本人は昏睡状態だった。お互いがお互いのやり方を試して、両方とも成功している。まだ「出し方」はあるかも知れない。便宜上前者を「鳴上流」後者を「花村流」とする。 

 ・鳴上流は操作が難しい。一つの脳で二つの身体を同時に動かすような感じ。見るもの聞くもの感じるもの全て二つに増えるので、こんがらがって非常に混乱する。ストレスが酷くうんざりする。片方だけに専念しようにももう片方が足かせになる。両方動かそうものならそろって転ぶのが関の山で、現時点ではせいぜい一緒に歩くくらいが精一杯。とにかく慣れて練習するしかない。ペルソナを消す方法は簡単で、たんに集中を切らせばいい。慣れれば喚ぶのも還すのも即座にできる。

 ・花村流はかなり特殊だった。陽介の言うとおり「ペルソナに変身する」ような感じで、まさに別の生き物になる体験。人間の言葉(言葉?)がわからなかったり、音(音?)が凄くよく聞こえたり、表現しづらいが人間のときと違うようにものが見える(本当に目があって、それで見ている?)フシがある。人間としての五感がペルソナの五感と同じなのかはっきり言ってよくわからない。そもそも人間で言う五感などないのかもしれないし、あったとして五感以上の感覚があるのかもしれない。陽介は浮く時そんなようなことを言っていた。人間のときと変わらず動けるばかりか、その運動能力や反射神経は人間のそれをはるかに凌ぐ。おまけに壮快、痛快、とにかくとてつもなく気分がいい。人間の身体が酷くちっぽけで下らない存在に思えてくる。

 ・ペルソナをシャドウから身を守る為に使う場合、花村流は手軽だが危険を伴う可能性がある。鳴上流にはない著しい多幸感、効力感、全能感があり、冷静でいるのが難しい。力加減が難しい。脳内麻薬が常時垂れ流しになっているといった感じ。感情の振幅も桁外れになる。身体に悪いかもしれない。ペルソナを消した後はどうしてもすぐに起きることができない。強烈な倦怠感と頭の痺れ、鳴上流から免れていたストレスを一括返済させられるような酷い寝覚め。ペルソナから戻る方法はちょっと特殊で、何度かふたりで試した結果、どうもペルソナに「失望」することがスイッチになっているらしい。具体的には人間に戻れなかったときのことをつぶさに考えて「テンパる」必要がある。前述の脳内麻薬のせいでこれも難しいが、戻るだけならとりあえずより手軽な方法が見つかっている。

 ・鳴上流、花村流を問わず、ペルソナは生身の身体からある程度離れると消えてしまうらしい。これは悠と陽介とで距離の違いがあった。詳しく測る必要あり。ただし花村流でこれをやったところ強制的に目覚めてしまい、かつその寝覚めは最低最悪のものになった。陽介いわく「神になる夢から覚めたクソ」。よほどのことがない限り花村流ではしないほうがいいようだ。



 

 ペルソナについて陽介とともにいろいろ調べたことを、思いつくまま箇条書きにしたものである。
(もしひとりで調べようとしてたら、もっとかかってたんだろうな、きっと)
 こんな紙一枚に収まる程度のことを調べ上げるだけでも、客観視の難しい自分ひとりではなかなか捗が行かなかったことだろう。自分と同じような疑問を温めている人間がもうひとりいるというのは、実際かなり助けになるものだった。
 陽介は決して論理的というのではなかったが、悠の思考の隙を埋める直感と、なにごともなあなあにできない彼を去なして、現時点では解決の見込みのなさそうな問題をどんどん保留してしまえる鷹揚さを持っていた。おそらく相性のよい組み合わせなのだろう、これが悠に似たタイプの人間であれば言い合いになるか、ひとつの発見や躓きにかかずらって果てしなく時間を浪費するか、いずれにせよこのルーズリーフはもっと控えめなサイズになっていたに違いない。
 そしてなにより、陽介と同じ方向を向いて、共通の問題を力を合わせて解決するということの、なんという充実感であっただろう。だれの力も借りずに独力で練り上げるという、あの味わうことにさえ一種独特の努力を要する乾物の滋味とはまったく違う、それは舌の上で速やかに融ける乳脂の甘味にも似ているのだった。悠にとってはこれこそが陽介の言うところの「モチベ維持すんのに必要」な要因なのかもしれない。
 十一時五十八分。
 悠は席を立って窓の外を覗った。少し風があるようで、サッシの折々こまかく震えるたびに、音のない春雨が霧吹きで吹き付けるようにして窓ガラスを濡らす。もしこんな夜に外出するはめになったら、傘などさしたところで大して役に立つまい。
(さあ、なにが映るか)
 壁掛け時計の短針が十二時を指した。ほどなく、電源の死んでいるはずのテレビがひとりでに点灯する。
 悠は息を呑んだ。
「そんな――」
 あにはからんや、ブラウン管に映し出されたのは雪子であった。
「こ、ん、ば、ん、はー! きょうはわたしィ、天城雪子がァ――!」
 驚く暇もない。悠は獣じみた瞬発力でテーブルのリモコンに躍りかかった。そのまま狂ったように「音量-」を連打する。マヨナカテレビの吐き出したのは窓ガラスを吹き飛ばしかねないほどの大音量である。
「あん音声さん絞って絞って! 音大きすぎー!」雪子は媚態もあらわにケラケラ笑っている。「やり直し? やり直しですか? はーい!」
(なんなんだコレは……!)
「こーんばーんはー!」
 ふたたび雪子の挨拶。今度はふつうの音量だが、もちろん悠の努力を反映したものではない。電源の落ちているテレビにリモコンは無力である。とうぜん本体のスイッチ類も機能していないのだろう。
(叔父さんにも聞こえたよな、今の。見に来るかな……)
 今し胸を突き破って出てこようとする心臓を押さえつけながら、悠はテレビと部屋の戸とを代わるがわる覗っていた。こういうとき消せないテレビというやつは厄介このうえない。
(まして絵が絵だ、なんだってこんな恰好を)
 まさかこのいでたちも彼女の言うところの「仕事のとき着るだけ」の衣装なのだろうか? テレビの中の雪子は以前に見た和装とは相容れない、薔薇のコサージュを鏤めたピンク色のローブ・デコルテを着けていた。それもディズニーアニメの古典的ヒロインが着ていそうな、大仰なパニエの入ったやつである。
「えっとォ、きょうはわたし、天城雪子がナンパ、逆ナンに挑戦してみたいと思いまーす! ナンパってェ、わたしやったことないんですけど――え? ナンパと逆ナンって違うんですかァ? やあんカンペ出ちゃってます」
(これが天城?)
 手に持ったマイクに口づけして、片眼を瞑って、小指を立てて、雪子は鼻にかかった悩ましい声でまくし立てる。もはや別人の態である。先日の公園で見られた大人びたゆかしさなどは微塵も覗えない。
「題して、やらせナシ! とつげき逆ナン! 雪子姫の白馬の王子サマ探しィ! もチョー本気ィ、ごらんの皆様ァ、今のうちに部屋にカギかけて、ヘッドホン準備してネ? いろんなモノとか声とか出ちゃうかも……!」
 悠は遼太郎の安眠を神に祈り始めた。
「映像倫理完っ全ムシ! モザイクなんて甘い甘い、放送事故大歓迎! 伝説つくっちゃうぞォ!」画面が雪子の股間にズームアップする。彼女は胸の谷間を強調する。「今日は見えないトコまで勝負仕様ハアト、みたいなネ?」
 悠は遼太郎の快眠を悪魔に祈り始めた。
「もーわたし専用のホストクラブをブッ建てるくらいの意気込みでェ、じゃあ、行ってきまあす!」
 手を振りふり駆けてゆく雪子を追って、画面がゆっくりとパンする。フレームの外から現れたのは洋風の、宮殿のような豪壮な建物である。彼女はカメラを置き去りにしたまま、薄黄色い靄の向こう、ちょっと生き物の口めいて開け放たれた、その宮殿の門扉に吸い込まれていった。
 誰もいなくなった画面の右下に「スタジオ騒然! CMの後、雪子姫まさかの×××……!」とのスーパーがフェードイン。恐ろしい余韻とともに画面はゆっくりと暗転していく。
「…………」
 テレビの明かりが落ちた。手から滑り落ちたリモコンが足の甲に当たった。悠は跳び上がって我に返った。
(自失してる場合じゃない、天城だ、天城が映った、確かに!)マヨナカテレビがこれほどはっきり見えたのは初めてである。(これは、どっちだ? 当たりか、外れか……!)
 まずは確認しなければ――反射的に携帯を引っ掴んではみたものの、とうぜん雪子の番号はわからない。とりあえず陽介に連絡しようと番号をコールする。が、こんな時間に電話中なのか、むなしくビジートーンが耳を打つだけである。三度くり返して三度プー音に迎えられた悠は思わず、携帯のスピーカーに向かって「あのバカ!」と毒づいた。
「なにやってる……零時過ぎだぞ、誰に電話なんか」
 誰に? そうだ、もちろん決まってる! マヨナカテレビのあと――まして内容は雪子の痴態である――すぐに陽介と話す必要を思いつくとすれば、それは例の事情を知っている人間くらいだろう。いま彼と話しているのは千枝に違いない。
(里中は天城の番号を知ってる。たぶん先にそっちにかけて、応答がなかったかしたんだろう。あるいは天城の家にかけたか、いや、むしろ先方から連絡があったのかもしれない。里中は天城と付き合いが長いはず)悠は部屋の中を熊よろしくウロウロ歩き回った。(もし天城がいなくなっているとしたら、とうぜん天城の家族は行方を――)
 悠はウロウロをやめて凍り付いた。夕食のときの電話! 遼太郎にかかってきたあの電話、あれの内容は? なぜ叔父は悠を憚って外に出た? あれが雪子失踪を告げるものであったとしたら……
 手の中で開きっぱなしになっていた携帯が卒然と鳴いた。コール音の半ばも終えないうちに悠は受信ボタンを押した。無論、相手は知れきっている。
『ゆ――』
「里中になにを話した」
 だしぬけにこう問われて、陽介はちょっと閉口したようだった。
『え、いや、そう、いま里中から――』
「知ってる」
『えっと、あいつ天城んちに――』
「天城は行方不明、だろ」
『おま、なんで――』
「おれと、おまえは、今すぐジュネスへ行く。ここまではいいか」
『……いいよ、つか、そのつもりで電話したし』
「それで、なにを話した。まさか里中にそのことを――」
『話さん話さん、わかってる。里中にはあした朝イチでジュネスに集まろうって言ってある、三人で』
「それで納得したのか」
『するわけねーよ、朝まで放っとくなんてできるわけねーだろってさんざん言われたし。とりあえずお前に電話するからって言って切ったけど……ところで』陽介の声が低くなった。『もちろん、見たんだよな、アレ』
「んん、見た」
『つまりさ、アレって、天城……ってことなんだよな。つか名乗ってたよな』
「名乗ってた」
『なんなんだありゃ、なんかバラエティ番組っつか、深夜番組みたいなノリっつか……今までのもあんなカンジだったのか?』
「あそこまで派手なら多分、とっくに話題になってるだろう」
『派手っつか、なんかやたらクネクネしてて、天城らしくなかったよな。あ、それとも隠してただけで、もともとああいう性格だったってオチ?』
「里中はなにか言ってなかった?」
『いや、俺らと似たり寄ったり。つかテンパってた』
 であれば、アレは年来の友人にすら見せたことのない裏の顔、ということなのだろうか。
(それにしたって奇妙だ。仮に裏の顔なんてものがあったとしても、よりにもよってどうしてこんなタイミングで? 誘拐されるなんていう異常事態のあとで、どうしてあんな姿をさらけ出そうとする)
 とくに怯えた様子もなく、強制されているようなそぶりも見えなかったばかりか、はしゃいでいるようにさえ感じられたのだ。顔や声の特徴が一致して、自ら名乗っていたとしても、あれが雪子であるなどとはとうてい信じられない。
『……あのさ、悠』
「なに――いや、待った、待て」
 マヨナカテレビを見ていたときに覚えた動悸がふたたび戻ってくる。陽介のどこかしら不穏な声音が、おそらく彼の感づいたのであろう、ある可能性を先んじて悠に教えた。
『ひょっとして受信した? 俺の考えてること』
「した。つまりアレは」
『シャドウなんじゃねーかな……って、思ったんだけど。いや、シャドウだからああなんだとは言えねーけどさ』
 もしアレがシャドウだとしたら――携帯を握る手が汗ばむ。今から全速力で駆けつけたとしても間に合わないかもしれない。それどころか最悪、もう全てが終わっていて、今ごろ雪子はこの町のどこかの、電柱かなにかにぶら下がっているかもしれないのだ。早紀は二度映ったあと、明けた朝に死体となって見つかった。雪子もまた二度映った。
(待て、この結論は早計だ。霧だ、ほんとうに危険なのは、シャドウが出るのは向こうの世界から霧が晴れたときだ、小西先輩のときはそう――)右手の中で携帯が軋む。(――そうだマヨナカテレビ! 思い出せ、たしか映ってたぞ、黄色い霧が! まだだ、小西先輩のときとは状況が違う、まだ希望はある)
 はずである、おそらく。もっともそうなるとあの雪子とは似ても似付かない「雪子姫」の存在について、説明らしい説明はつかなくなるのだが。
「……陽介、この時間でもジュネスには入れるんだな」そのつもりで電話したと言うのだ、アテはあるのだろう。「方法があるんだな? ないなら忍び込むしかなくなる」
『簡単に言うよなァ、お前』陽介のため息が聞こえる。『とりあえず、入れることは入れる、うちにカギあっから。ただ中はいったあともたつくかもしれんけど』
「里中はどうする。番号おしえてくれればおれが話すけど」
『いや、やめたほうがいい。あいつなんかもう、ほとんど聞く耳もたなくなってっからさ。俺が適当に言っとく』
「じゃあそっちは任せる。とにかく言いくるめて、今夜だけでいい、諦めさせるんだ。あんまり時間ないぞ」
『お前は寝てて電話に出なかった。それでいいだろ?』
「終わったらすぐジュネスへ。おれはどこへ行けばいい」
『裏に従業員用の通用口があんだけど、搬入口の脇に――いや、いいや、フツーに入口の前にいてくれ。迎えに行く』
「わかった。急げよ」
『了解。ちっといいもん持ってくから』
 悠が「いいものって?」と言い終える前に、陽介は電話を切ってしまった。これからしなければならないことを円滑にしうるようななにかを、彼が用意できるとはとうてい思われないのだが。
 窓の微かに顫動する音が聞こえる。外は相変わらずの天気である。
(この雨風じゃ傘は使い物にならない。レインコートは……持ってない)そして探す時間もない。(仕方ない、もう一回フロ入るしかないな、服きたまま)
 大急ぎで着替えて部屋を出るさに、悠は思い立って段ボール箱からハンディライトを漁ってきた。夜間の外歩きに使うというより、テレビの中での用心に、である。道中には暗いところもあるかもしれない、こんなものでもないよりはマシであろう。
(大丈夫だ、おれはやれる、陽介のときはひとりだった)
 バッテリーのチェックを兼ねてライトを点けてみる。電気を消した室内を白いスポットが這い回る。今夜、自分は無事に雪子を救出しおおせて、ここへ戻ってくることができるだろうか。
 それともこの無謀な試みの代償を払わされたあげく、遼太郎に甥とその級友ふたりの亡骸を検分するという苦痛を強いるはめになるのだろうか。
(大丈夫だ、今度はふたりだ、必ずうまくいく。陽介とふたりなんだ)
 それも全ては間に合えば、の話ではあるが。





 家を出て五分も経たないうちに、知らない番号から電話がかかってきた。
(陽介、じゃないよな。誰だこんな時間に――)
 いや、ダメだ! 陽介が電話でなにか言ってはいなかったか! 反射的に受信ボタンを押そうとするのを、悠は際どいところで思い留まった。
 この着信はほぼ間違いなく千枝のものだ。もちろん陽介は予告していたとおり「あいつ寝てるみたいで電話に出ない」とでも言ったに違いない。そうと言われて千枝が引き下がるだろうか? それなら自分がかけるから番号を教えろ――彼女の返事はおおかたこんなところだろう。
(くそ、なんてトラップだ……危うく取るところだった)
 が、それは別にいい、無視すればよい話である。
 電話は執拗を極めた。初めは十数秒ほどを五、六度、間隔を開けてコールする程度であったが、それ以降はずっと鳴りっぱなしになった。あまりやかましいのでマナーモードにしたものの、今も携帯はポケットの中で千枝の執念を宿してぶるぶる震えている。携帯を耳に押し当てたままその辺りを行きつ戻りつする、苛立たしげな彼女の姿が目に浮かぶようである。
 が、ここまではいい、無視すればよい話である。
 問題はジュネスの入口の前に「携帯を耳に押し当てたままその辺りを行きつ戻りつする、苛立たしげな」千枝が実際にいたことであった。
(陽介が喋った、わけじゃないな)
 悠はため息をついて、自身と彼女とを隔てる道路に面した、コンクリート塀の暗がりにしゃがみ込んだ。そこからはジュネスの正面に配された街灯の間を行き来する、気を病んだ犬みたいな千枝の姿がよく眺められる。
(いま、こっち見たよな)
 ふと、目深にしたレインコートのフードを透いて、彼女の不穏な双眸がこちらを捉えたような気がする。深夜の町に灯りは乏しい。ジュネスの前にいくつか街灯のあるのを除けば、信号の赤色灯が不気味に点滅しているくらいだ。千枝の位置からこちらの姿は見えないはずだが……
(まいったな、陽介に電話しようにもこれじゃ……)
 カエルよろしく身を屈めたまま、十分も過ぎただろうか。悠は少しく震えを覚えた。とうに全身ずぶ濡れである。
 家を出たときに比べて風は弱くなってきたが、雨は依然として止まない。千枝といえば店の庇に寄ることすら考えつかないようで、いっこうに諦める様子は――もちろん彼女は「獲物」を待ち伏せているのだ――ない。このままでは陽介とはち合わせる危険があるが、携帯が繋がりっぱなしである以上、それを報せるすべもない。
(それにしてもカンがいいな、いや、それだけ必死なのか)ポケットの携帯はいまだにぶんぶん唸っている。(小西先輩が死んだときの陽介と同じだ。自分にできること、すべきことは考慮の外で、自分が関わることだけ考えてる)
 さてどうしたものか、いっそ電話に出てみようかと思案していると、千枝がにわかになにか見つけた様子で、街灯の下から駆け出て行った。脱兎のごとく、というより、獲物を見つけたヒョウの迅さである。
(……で、彼女はうまくご馳走にありつけたってわけだ)
 果たして、街灯の下に戻ってきたのは千枝と、彼女に腕を掴まれて引き摺られんばかりの陽介であった。のど笛に食いつかれて無念をかこつインパラさながらである。
 じきポケットの携帯が静かになった。と、思う間もなくふたたび震え始める。予想通りだ、インパラはガゼルに助けを求める腹積もりらしい。
「……もしもし」
『あー、悪い、ホント。なんか里中が――』街灯の下でヒョウがインパラの携帯を奪うのが見える。『――鳴上くん? いまどこ!』
「サバンナ」
『はあっ? バカ言ってないで早くジュネス来て! ずっと電話ムシしてんの知ってんだからね!』
 こうなってはもう仕方がない。悠は暗がりから出ると、諸手を挙げて降参をアピールしながら横断歩道を渡った。
「悠、悪い」と言って、陽介がレインコートのフードを上げた。
「おまえのせいじゃないだろ」
 街灯の下に晒された彼の顔は少し腫れている。
「……陽介、冷麺、奢りでいいから」
「あ、マジ? 悪いな」
「ちょっと、あたしになにか言うことないの?」千枝が険を見せた。
「二分のぶんはハンバーグ? ステーキ?」
「あのさ、マジでさ、こういうとき冗談やめてって」千枝は怒っているようにも笑っているようにも見える。「ウソついたんでしょ! ウソ! あんたら!」
「ついたよ。悪かった。なんならヨコヅナハンバーグ二人前で――」
「ふざけんなっ!」
 千枝が声をひっくり返して怒鳴った。彼女の最前から小刻みに震えるのは寒さのためではあるまい。かといって怒りというのも違う、彼女は追い詰められているように見えた。
 どうやらヒョウの足音を聞きつけたのは陽介ではなかったらしい。
「悠、俺から話すか?」と、陽介が割り込んだ。「なんか……デジャヴっての? お前に話させとくと余計ひどくなるような気がすんだけど」
「いい、おれから話す――里中、言うことはないかって言うんなら、じゃあ言うけど」
「帰れってんでしょ? 帰らないからね」
「違う。里中が来たとして、なんの役に立つのかって、言いたかったんだ」
 千枝は返答に詰まって沈黙した。
「里中、向こうの世界には命に関わる危険がある。その危険と天秤のつり合いを取るために、反対側の皿に載せるなにかが必要になる。里中はなにを持ってる」
「……鳴上くんは持ってるっての?」
「持ってる。陽介も持ってる。里中は?」
「なんで花村が持ってんの?」
「里中は?」
「なんでって訊いてんの!」
「こっちが先に訊いたんだから、先に答えて。里中は?」
「…………」
「里中は?」
「……雪子、死んじゃうかもしれないんだよ」
「里中は?」
「しつこい! あたしぜったい行くから!」
「里中、その論証は真ん中が欠けてる」悠は静かに指摘した。「天城が死に瀕している。だから里中が助けに行く――この間に入らなきゃいけない文句をさっきから訊いてるんだ。里中はテレビの中に入れられた天城を助けるために、なにができる。なにができるから、里中が助けに行くっていう答えが導き出される。答えて」
「……なにかできる、ぜったい」千枝は泣き出した。「ぜっだい、でぎる、雪子のためなら」
「里中、家に帰って、無事を祈って欲しい。天城と、もしできたらおれたちの」優しく続けて、「天城はおれたちが必ず助け出すから」
 千枝は応えずに、その場にしゃがみ込んで嗚咽を漏らし始めた。ひとしきり涙を流して冷静を取り戻せば、性のよい彼女のことだ、きっと自分の赤心を理解してくれるだろう――などと思っていたのは悠の見当違いもいいところで、ふいに彼女は立ち上がると、
「連れてってくれないなら!」
 ジュネスの入口に寄って、重厚なガラス扉に肘を押し当てた。
「これ、割る。警報ならす。大さわぎして警備のひと呼ぶ」
 あまりの物言いに悠も陽介も呆気にとられて、思わずお互いの顔を見合わせた。まさかこんな破れかぶれの挙に及ぶとは思ってもみなかった。
「どーする? ホントにやるよ」
「ちょっと待ってくれ……里中はいま自分がどれだけ無茶苦茶なこと言ってるか」
「わかってるよ。わかってないのはそっち。どーすんの!」
 こんなふうに言われれば、悠とて引き下がるわけにはいかない。なにより理非を違えているのは向こうなのだ! 彼はありていに言って「アタマ」にきた。
「……それをやったら、天城を助けられなくなるかもしれないんだぞ。少なくともかなり時間をロスする。それが里中の望みなのか」
「あたしだってこんなことしたくない、望んでんのはそっちでしょ!」
「おれの望みは天城を助けることだ。里中は違うのか。里中はいま自分が望んでるその誰にも望まれないバカげた試みで、天城を死に追いやってるんだぞ!」
「意味わかんない! 割るよ、割ってほしいんなら割るからね!」
「いま自分がナイフを宛がってる首がいったい誰のものなのかわかってるのか! 里中は人質の命を助けるために当の人質の命を脅迫材料にしてるんだぞ!」 
「うるさいうるさい!」
「里中は天城が大事なんじゃなくて、天城が大事な自分が大事なのか! 本末転倒だ、離れがたさに病気の愛犬を医者に診せないで死なせるようなもんだ!」
「うっさいバカ! バーカ!」
「バッ……よし、じゃあ、やればいい!」
 この悠の放言に、今まで黙って静観していた陽介が「ちょっ、おま……!」と慌て始めた。
「やればいい。その細腕でどうやってそんな分厚いガラス割るのか見せてくれよ」
「できないと思ってんでしょ、こんなの簡単に割れるんだからね」
「ちょっと待てっておい、ふたりとも!」陽介が割り込んでくる。「落ち着けって。つかマジで思ってたみたいになったな……」
「だから、割ればいい。そうしてそれがどれだけ凄いことか警察に自慢すればいい。おれたちはテレビの中に避難する」
「マジでやるがらね……あんだがやらへるんだがらね……!」千枝はふたたび泣き始めた。
「準備は終わった? ずいぶん時間が――」
 言いかけて、悠はふと言葉後を呑み込んだ。ずっと握っていた携帯がにわかに震え始めたのである。
(誰だ、こんな時間に)
 携帯を開いてみると、液晶画面には「花村 陽介」からの着信とある。
「…………」
「悠、出ねーの? デンワ来てるみたいだけど」携帯を耳に当てながら陽介が言った。「たぶん知り合いだぜ」
「……もしもし」
 着信ボタンを押して応答するなり、返ってきたのは「いじめっ子」との笑い混じりの声だった。
「いじめっ子って……」
『悠、選手交代、あとは俺がやっからさ。今ガラスとか割られちゃ困るんだ』
「ガラスの一枚や十枚がなんだ。天城や里中の無事のほうが重要だろう」
『まあまあ、とりあえずさ、アタマ冷やせって……なんかお前に向かってこういうこと言うのって、けっこう気分いいな』
「あのな、いま大事な――」
「里中、いいよ、お前も来てもさ」陽介は皆まで聞かずに電話を切った。「ただしひとつだけ条件がある。聞けるか」
「……なによ」
「俺たちはいま譲ったろ、ついてきてもいいってさ。だから今度は里中が譲る番だ」
 千枝は用心しいしい、ようやく腕を下ろした。
「里中は一緒に来てもいい。ただし、あのクマのいたスタジオまでだ」
「そんなの意味――!」
「あのスタジオまでだ。それがイヤなら、俺たちはウチに帰る」
「おい陽介――」
「悠は俺の言うこと聞くぜ、どのみちひとりじゃ心許ないんだ。お前があくまで強情はる気なら、今日はウチ帰って寝て、明日……つか、今日になんのか、とにかく夜が明けんの待って、日中に改めて入る。ちょうど日曜だしな」
 千枝は唇を噛んで陽介を睨み始めた。
「陽介、たとえ里中を脅すハッタリだとしても――」悠は陽介に歩み寄って、低い声で囁いた。「そんな言葉遊びに付き合ってる時間はない。いま動かなきゃまずいんだ、里中はもういい、放っといて行こう」
「ほっとけねーって。ここで大暴れされたら元も子もねーんだよ」
「最悪は無視してテレビまで走れば済むことだろう、あの中に入ってさえしまえば誰も追って来られない。カギ持ってるんだろ」
「あのな鳴上くん、そこらのちっちゃい個人商店ならともかく、ここって結構でかいデパートなんですよ」陽介はあきれ顔で悠の肩をびしびし叩いた。「セキュリティバリバリなんですよ。夜間はセンサー生きてて扉とかシャッターとか開くと警報鳴るんですよ。つかその前に赤外線センサーに引っかかりまくるんですよ。そんでそういうのに引っかかると扉関係ロックされてカギ入らなくなるんですよ。マジで」
「……じゃあ、おまえ、どうやって」
「とにかくここで大暴れされて、宿直の警備員に警戒されんのは困るんだ。最悪応援とか呼ばれるかもしれんし――で、里中、どうすんだ」
 千枝は口をへの字に結んで大いに不服の態である。
「……なあ、もう時間もアレだし、ここでまだ時間食うようならさ、マジで帰ろうって思ってんだけど」
「わかった、わかったよ、それでいい」千枝はようやく折れた。「スタジオまででいい……」
「うし。じゃあほら、入口ウラだから、行こうぜおふたりさん」
 陽介はがぜん機嫌よく、ふたりに先立ってさっさと行ってしまった。その背中にありありと優越感の見て取れるのが悠には面白くない。
(なんか、おいしいところ全部もっていかれたような気がする……)
 千枝が悠とすれ違いざまに「いじめっ子」と呟くのを聞いて、その思いはますます強くなるのだった。





 ジュネス裏手の通用口からひそかに侵入した三人は、事務所で家電売場を封鎖しているグリルシャッターのカギを回収後、一階守衛室の向かいの「メンテナンス室」と表記された部屋に身を潜めていた。冷蔵庫を薄くしたような分電盤が部屋のぐるりを埋めているだけの、殺風景な部屋である。
「悠、ライト消せ」陽介が囁いた。
「出てくるか?」
「わからんけど、もうすぐ一時半になる。出てくるかもしれん」
 手持ち無沙汰に点けていたライトを消してしまうと、室内はほぼ真っ暗闇になった。ただ四方の分電盤のランプのいくつか等間隔に並ぶのが、扉に張り付いて格子窓の外を覗う陽介の姿を、輪郭ばかり照らし出している。
 守衛室に詰めている警備員が巡回に出てくるのを、三人はもう二十分近くも待っていた。
「夜間は店中センサーだらけっつったけど、じつは警備員が見回りに出るときだけぜんぶ切ってくんだ、自分が引っかからないために。ホントは守衛室に残ってるもうひとりがブースごとに、必要に応じて生かしたり殺したりすんのが規則なんだけど、過去に操作ミスって何回か誤警報だしてからは誰もやってなくて、黙認されてるってのが実際のトコ。だから警備員が見回りに出たときがチャンスだ、監視カメラに気をつけさえすりゃフツーにあのテレビまで行ける」
 というのが陽介の言である。もっとも彼は、
「ただ、巡回の回数とか時間の規定もあってないようなもんでさ。つまり……正直いつ出てくるかわからん」
 と、つけ加えるのを忘れなかった。電話で「もたつくかもしれん」などと言っていたのはこういう事情を指すらしい。
(小西先輩の死亡推定時刻は夜中の一時ごろ。現在一時半。焦れたってどうしようもないのはわかってるけど……)わかっていてもどうしようもなく焦れる。(ああもう給料泥棒め! なにやってるんだ、早く出てきて仕事しろ!)
 ちらと隣の千枝を覗う。さぞやきもきしていることだろうと思いきや、今の彼女は陽介の持ってきたチョコレートを貪るのに夢中なのだった。外であれほどの狂態を見せた、いったいこれが同じ少女なのだろうか。親友の危機など忘れ去ってしまったかのように見える。
(ここで暴れられるよりはいいけど……ついでにさっきのことも忘れてくれてないかな)
 店の中に入ってからというもの、悠は千枝とひと言も言葉を交わしていない。話しかけてこないからには向こうのほうでも含みがあるのだろう。それを小さなトゲの刺さったように気にするのも、痛さに抜きがたく思う臆病心も、ついこのあいだまでの彼にはなかったものだ。
 思えば下手なことを言ったものだ。千枝の心裡を冷静に推し量ることをせずに、ほんのいっとき冷静を欠いたからといって、以て知りもしない雪子への真情にケチをつけ、あげく逆上して「いじめっ子」に成り果てるとは。なかんずくあれほどやすやすと感情的になってしまったことに、悠は内心慨嘆を禁じ得ない。
(いや、おまえは今ちょっと焦ってるんだから、うまくいかないのは仕方ないんだよ……)
 などと自分に言いわけしてみても、彼の「四角白日を妨げ、七層蒼穹を摩す」自尊心の高きはちっとも納得してくれない。へえ、じゃあおまえはちょっと焦っただけでなにもかもうまくいかなくなるって言うんだな――墓穴は深まる。
 いったい自分はもう少しマシな――もしくは、もっと素晴らしい――人間ではなかったのだろうか。転校してきてからというもの自己評価を下げざるを得ない「試金」が多くて、悠は自分に幻滅すること頻りであった。おお友情、友人! 彼らがそうさせるのだ! 彼らがわが身のほんとうの丈を思い知らせてくれる。それでも彼らの定規の目盛りはうぬぼれ屋の悠にはあんまり小さすぎた。友人というものは快いものばかり用意してくれる、というわけではないらしい。
「おい里中、チョコ。返せ」
「ごめん、食べちゃった。もうないっす」千枝の声はどこか誇らしげである。
「マジかよ……買って返せよ、それ高いんだぞ」
「半分くらいしか入ってなかったよ」
「残り半分ぜんぶ食ったんかよ……」
「これめちゃうま。ゴディバって言った?」
「そ、たしか七百円くらいするやつ」
「うえマジ? これだけで?」
「貰いもんだけど」
「じゃいいじゃん」
「里中、食べる?」
 まずは軽いジャブだ――悠は意を決して、先ほど陽介に恵んでもらったチョコレートを千枝に差し出した。
「おれはいらないから」 
「え、いいの? ありがと」
 千枝の受け答えにことさら意趣を含んだ様子はない。彼女はなんの気兼ねもなくチョコレートを受け取った。最悪無視されるか、よくても憮然とした態度を取られるかと覚悟していたのだったが、
(気にしてないのか……けっこう酷いこと言ったかと思ったんだけど)
 いささか拍子抜けの感がある。悠のジャブはなんの判定も得られなかったどころか、すでに対戦相手も審判もリングにいないのだった。
 包装を破るカサコソした音と、チョコレートの薄板をパキパキ噛む小気味よい音が、薄闇の中にひっそりと響く。陽介がちょっと当て付けがましく「ハラ減ったな」と独りごちた。
「悠、お前なんか持ってない?」
「……いや、そういえば上着の中に入ってたんだけど、着て来なかったな」
「うう……人間ダストシュートにチョコなんか預けるんじゃなかったぜ」
「ほら、返すよチョコ」千枝がチョコレートの小箱を持ち上げた。「味わってね。カラだけど」
「ぜってー買って返せよお前。つか買わす」
「成龍伝説の慰謝料ですう。つかこんなんじゃぜんぜん足りないんですう」
「くっそむかつく……!」
「ねえ鳴上くん、そのカッコ寒くない?」
 と、千枝は気遣わしげに悠の袖をつまんで言った。すっかり慣れてしまっていたが、悠は着衣のままバスタブに浸かったような具合になっている。
「ものすごく寒い。震えが止まらない」悠はわざとらしく震え始めた。「里中が素肌で温めてくれないと凍死する」
「あたまはじゅうぶんあったかいみたいね……」
 やはり千枝の言葉に含みのようなものは覗われない。まして気遣いさえ見せているのだから、彼女は悠ほど先の小事件を気にしてはいないのだ。
 悠は少し救われた思いだった。
「レインコートなかったのか」
 陽介がずっと張り付いていた扉から離れて、悠の隣に腰を下ろした。
「たぶんあると思うけど、ものの在処がよくわからないし、時間もなかったし……」
「お前って、ここ越してきたばっかりなんだよな、そういや」
「驚きだな。ホントに驚きだ、そういえば越してきて一週間も経ってないんだ、おれ」
「……お前も気が休まるときがねーな、マジで」
「そりゃお互いさま」
「あのさ、ふたりとも」
 千枝の身を乗り出す気配があった。彼女はそのまま悠と陽介の前まで這って、そこへ正座したようだった。
「なに?」
 しばしの沈黙のあと、肩を落として背を丸めたような輪郭が、
「ふたりはさ、雪子のこと、助けに来てくれたんだよね」
 と言った。
「そうだよ」と、悠。
「まあな」と、陽介。
「……その、ありがとっていうか、なんか、ありがとうございます」
 千枝はあたまを下げたようだった。
「えっと、ほら、なんでオマエが感謝するんだとか、べつにオマエのためじゃないとか、そういうのはわかってるから。言わんでいいから。ただなんか……言わなきゃっていうか」
「里中からすれば、天城はおれたちよりずっと自分寄りの人間なんだから、そう言いたくなる気持ちはわかるよ」と、悠。
「お前ら仲いいからな。付き合い長いんだろうし、いつも一緒だしさ、保護者気分になっちまうのも無理ねーよ」と、陽介。
「んん……それと、なんか、さっきはごめん。つか、あたしものすごいアホだったかもしんない」
「……こういうときなんて応えたらいいんだろう」悠は陽介に耳打ちした。千枝に聞えよがしにではあるが。
「ほらアレだ、いつものことだからとか言っとけ」陽介は悠に囁き返した。千枝に聞えよがしにではあるが。
「わかってますよ、どーせあたしはアホですよ」
「あー、いや、ツッコミ待ってんですけど」
「アホだよね、あたし。なんもできないのに連れてけとかわめいて泣いて……ワケわかんないこと言って暴れようとして……」
「それだけ天城が大事なんだろうし、心配するからこそ冷静ではいられないんじゃないか」
 愚か者め、あのさまを見ておまえはよくも、軽々しくエゴイズムだなどと断じたものだ――千枝に、というより、悠は二十分前の自分への叱責のつもりで言った。
「里中がアホなら、おれは輪をかけたアホだ。おれずいぶん酷いこと言ったし」
「あー……さっきはなんかあたまワーッてなってたし、なんか小難しいことガーッて言われたのはわかったんだけど、えーと、ぶっちゃけなに言われたかよく覚えてないでござる……」
「……あ、そう」
「ま、いいんじゃね? みんなそーだって」と、陽介がほがらかに訳知り立てする。「お前らだけじゃねーよ、そういうのは。人間だもの……ってやつ?」
「……なんか花村が言うと安っぽい。ケムに巻かれたような気がする」
「誰が言っても安っぽい。安易にまとめようとしてるのがまるわかり」
「え、なにこの流れ。なんで俺こんなダメ出しされまくってんの……」
「今おいしいところだろ」
「おいしくねーし。欲しけりゃやるし」
「ねえ、ふたりとも」
 千枝が膝で躄って近づいてきた。
「ダメもとで訊いてみるんですけど」
 悠と陽介は異口同音に「ダメ」と断じた。
「まだなんも言ってないでしょ」
「天城んとこまでついてきたいってんだろ? ダメだっつの」
「それ以前に、里中はまずテレビの中じたい入るべきじゃない」
「そんな――!」
「里中声でかい……!」陽介が慌てたように身を乗り出した。「忍び込んでんのバレたらお前らはともかく、俺は死刑確定なんだぞ」
「ごめん……でも約束が違う」
「里中、危ないんだ、向こうは。なにもできないことが理解できてるなら、あえて来る理由もないだろう」
「せめて待たせてよ、お願い、あのテレビんとこで待ってるから……!」
「悠、そのくらい譲ってやろう。もうアホなことしないだろうし。つか」陽介の声に呆れが滲む。「お前んなこと言ってたらまた外の二の舞だぜ」
 陽介の言うことももっともである。が、千枝が冷静を欠いた場合、あれほどに無茶なことをしうるとわかってしまった今、悠にはどうしても彼女を連れて行くことに乗り気になれない。
(今度は自分の命もかかるんだ、さっきみたいに考えなしには動かないと思うけど)
「……おとなしく待ってる?」
 千枝は改まった声で「はい。待ってます」と応えた。
「言うこと聞ける?」
「はい。聞けます」
「もう変なことしない?」
「はい。しません。ぜったい」
 仕方ないか――悠は折れた。
「ほらお父さん、チエも反省してるみたいだし」陽介が気味の悪い裏声を出した。
「じゃあ、母さんがいいって言うなら仕方ない」悠は威厳たっぷりに腕を組んだ。
「わーいありがとおとーさん」千枝は笑い混じりに、それでも調子を合わせて言った。「……つか、ふたりって仲いいっていうかさ、急によくなった?」
 悠と陽介は見えないながら、お互いの顔のあるらしい位置を見合わせた。
「そりゃあ、なあ……」
「よくもなるっていうか……」
「ねえ、ぶっちゃけ、向こうの世界でなにがあったの?」
 千枝の問いに応えようと、悠が口を開きかけたそのとき、壁一枚へだてた廊下から重い金属質の音が響いた。陽介がぱっと立ち上がって格子窓の外を覗う。
「来る、見回りだ」と囁いて、陽介はもどかしげに靴を脱ぎ始めた。「ふたりともクツ脱げ、音するから」
 一時四十五分――メンテナンス室の闇に緊張が奔る。悠と千枝は言われたとおり靴を脱いで、陽介のすぐ横に張り付いた。
(大丈夫だ、おれはやれる、陽介のときはひとりだった)ライトを握る手に力が籠もる。(大丈夫だ、今度は三人だ、必ずうまくいく)
「……行くぞ、俺のすぐ後ろに」
 と、意を決したように言って、陽介はやおら扉の内鍵を開けた。





[35651] 命名、ポスギル城
Name: 些事風◆8507efb8 ID:24b9454a
Date: 2013/05/12 23:56



 悠と陽介に加えて、千枝までテレビを潜って来るのを見たクマの、喜びようたるやひとかたならぬものがあった。
「ようこそクマー! いらっしゃいクマ!」
 われこそは人恋しさの権化であるとばかり、着ぐるみは欣喜雀躍はなはだしく、悠の挨拶しようとするのも意に介さずその辺りを転げ回り始めた。そうしてゴロゴロ蛇行しながら千枝の足下めがけて転がっていく。
「あーいいから、わかったから!」陽介の踵がクマを捉えた。「落ち着けって。つかお前じぶんで起き上がれねーんだから転がんなよな」
「うわ、ホントにあん時のクマだ」千枝はうごうごする着ぐるみを感慨深げに眺めている。「やっぱ夢じゃなかったんだ、よね、マジだったんだ」
「夢じゃないクマ、みんな来てくれたクマァー!」
「スゲー嬉しそうに寂しさ滲ませんのやめてくれませんかねクマさん、あとじっとしてて貰っていいですかねクマさん――悠、そっち持って」
「ほらクマ立って、喜びの舞はあとにしてくれよ」
「クマ、脚、脚! ちゃんと立てってオメ……アタマ取るぞアタマ!」
 悠と陽介に助け起こされて、クマはようやく垂直になった。
「いやはやついに三人そろったクマねー……クマはこの日をイチジツセンシューの思いで待ってました!」
「まだ何日も経ってねーだろ」と言う口ほどにもなく、陽介はひとのよさげな笑みを浮かべている。「あー、なんか時間的にさっき別れたばっかみてーなカンジするけど、元気してた?」
「元気だったクマ。でもでも今のクマに比べたらもーオソーシキ級に沈んでたクマね」
「こんばんわ、クマ」
「こんばんわセンセイ! えーとこんばんわってコトは、今は夜クマ?」
「そうだよ。クマは夜を知ってるんだ?」
「とーぜんクマ、クマはものしりなクマクマ」
 夜のあるとも思われないこの世界でなぜ夜を知っているのか、あいかわらずこの着ぐるみは得体が知れない。あるいはこの世界から霧が晴れたとき、頭上に日月星辰のへめぐる夜空が現れるとでも言うのだろうか。それとも以前はここにも昼夜の別があった? 天井を見上げても黄色い霧の凝っているばかりだったが、不自由ながらこの辺りの見晴らしが利くからには、かかる濃霧を透かしてでもこの世界を照らしうる光源が上にはあるのだろう。ひょっとするとそれは悠の世界でいうところの、太陽や月のようなものなのかもしれない。
「ところでクマ、早速なんだけど――」
「おーっとこちらはやっと来てくれたコーイッテン!」クマの興味はたちまち新しい客へと移ってしまった。「お待ちしてましたクマー」
「あはは、こんばんわ。えーと三日ぶり? になんのかな」
 千枝はクマに歩み寄ってドーム状のあたまをポンポン叩いている。
(まあ、いいか、すぐ済むだろう。それより現状把握)
 彼女の気が逸れているうちに、悠は例の眼鏡をポケットから取り出して、目の前に翳して周囲を見渡してみた。隣の陽介もちょっと遅れて悠に倣う。たしょう不便でも千枝の詮索を避けるために、ふたりはテレビの中へ入る前から眼鏡をかけることはしていなかった。
(きのう来たときと同じだ、ここの様子に変わりはない)
 スタジオはもちろん、昨日ふたりで来たときと変わった様子はない。ひょっとするとここに雪子がいるかもしれないなどと万が一の期待を抱いていたのだったが、
(そううまくはいかないよな。いくらここがスタジオっぽいからって)
 ここであの「雪子姫の白馬の王子サマ探し!」が収録されていた、と考えるのは、いささか安易に過ぎたようだ。
「また会ったね、クマくんよろしく」
「うほー! ついにクマにもガールフレンドができるクマね……えーと、サトナカ、サトナカ」
「ん、名前? あたしは里中――」
「あっ、そーそー、ニクエチャンクマ」
「やっべ……」
 と、陽介が小さく声を漏らした。どうやら千枝に新しい名前を奉っていたことを忘れていたらしい。
「え、ニクエチャンってなに? あたし千枝だけど」
「チエチャン? ニクエチャンじゃないクマ?」
「ちがうちがう。つかニクエって……ニクって」千枝の胡乱げな視線が男子ふたりの間を行き来する。
「肉が好きだからニクエチャンクマ?」
「……どっち? ほら手ェ上げる」
 悠と陽介はお互いを指さし合った。
「ちょっと待て、おまえ――!」
「いやいや俺じゃねーだろ!」手を振って否んだあと、陽介は懇願めいて囁いた。「オメーのほうがぜったい被害少ないから……頼むから……!」
「…………」
「花村でしょ、そーいうカゲグチ言ってんの」
「いや、ごめん、おれ」悠は濡れ衣の上にさらに濡れ衣を被った。「里中ってほら、肉、好きだろ、それでつい」
「……へー、鳴上くんってそういうコト言うひとなんだ、隠れて。へー」
 悠は内心、呻かんばかりである。千枝は彼がこう出るだろうと思ったような暴力行為のたぐいには及ばず、意外なことに面を伏せて傷ついた様子を見せたのだった。
「なんですかニクエって。あたしそんなに肉ばっかりたべてませんよ。野菜だってたべてますよ。コメだって好きだし……」
 彼女は怒り出す代わりに拗ねてしまった。
(まずい、冗談で片付いてない! やっぱり陽介に言わせたほうがよかったんだ、おれよりは付き合いの長い陽介ならまだ気安さがあったのに……)
 千枝の繊細な一面を見たような気がする。ちょっと男性的な心安さのある千枝も、ことさら肉を好むなどと揶揄されるのはやはり、世間なみの女性とひとしく羞じらいを感じるのだ。いわんや顔を合わせて数日ていどの、それも親しくしはじめた男子に陰口で言われたと思えば、その恥辱はいかばかりであろう。被害が少ない? とんでもない、怒りの蹴りが飛んでくるよりこの様子のほうがずっと悠を苦しめた。
 陽介め――やはり冷麺の代金は身ぐるみ剥いででも徴収せねばなるまい。
「ごめん、怒ってる?」思いがけず弱気な声が出てくる。
「怒ってませんよ、ぜんぜん」千枝は膨れている。
「いやほら、悠だって悪気があって言ったんじゃないしさ、愛情表現、愛情表現だって」陽介も悠と同様の居心地の悪さを感じているふうだ。
「言ったのセンセイじゃないクマ。ヨースケクマよ」
 と、クマがすっぱ抜くや、インパラはテレビから五歩も離れないうちにヒョウに捕食された。
「やっぱりオマエかこのっ!」飛矢のようなフロントキックが陽介の背中を捉える。「ひとに罪おしつけるとかサイテー!」
「クマてめ空気読めって――ちょっタンマ! 暴力反対!」なんとか転倒せずに済んだものの、陽介はそれきり亀になって防戦一方である。「悠たすけてえ! 親友のピンチだから!」
「陽介、アレやっとけよ、オムニなんとか」悠は冷たく言い放った。
「ムリMPがない! お前見てないで止めろって!」
(喜んでるくせに)
 あえて止め立てする必要もなさそうだ。千枝も言うほど怒ってはいないようで、じゅうぶん手加減しているようだったし、助けろなどと叫んでいる陽介にしてからがどこか嬉しげに見えるのである。
「陽介嬉しそうクマー」クマはうらやましそうにしている。
「クマてめ覚えてろよ……!」
「クマ、ふたりの愛の語らいは放っといて、こっちはこっちでよろしくやろう」と言って、悠は着ぐるみのあたまに手を置いた。「それより今日ここに来た理由なんだけど」
「セ、センセイ、クマセンセイのコト好きだけど」クマがじりじりと後退る。「そーいうシュミはちょっとクマはやいかなって思うの……」
「趣味って……いや、よろしくやろうっていうのはそういう意味じゃなくて」
「鳴上くんに謝ってください、つか主にあたしに謝ってください、奢りでも可です」千枝はスナップの利いた寸止めジャブで愛を訴えている。
「さっき怒ってないって言ったじゃねーか! ちょっやめて当たる当たる!」
「いま怒った――いった!」
 革袋に入った鉄板を木槌で打ったような、コンと硬質の音がしたかと思う間に、千枝が驚いたように拳を引いた。
「いーったァ……え、なに?」
「……いますごい音したけど、里中大丈夫?」
「いや、なんか硬いものに当たったんですけど」千枝は手を振りふり困惑気にしている。「あんた服ん中なに入れてんの? 鉄板?」
「手、大丈夫か? つかお前コレ殴って痛いで済むとか頑丈だな」
 と言って、陽介が懐をゴソゴソやり出した。なにか強引に押し込んだものを無理矢理ひっぱり出すみたいに、彼は腕の半ばほどを服の中に突っ込んでいる。
「いや、いつ出そうかって、迷ってたんだけどさ……あーくっそ、大急ぎで突っ込んだから……」
「ちょっと、なにが出てくんの」と、千枝。
「赤ん坊? 陽子ちゃん難産だな」と、悠。
「おう、ちっと待ってろ、マイサンを見せてやっから」
 しばしの悪戦苦闘ののち、彼が得意げに服の中から引きずり出したのは、鞘がらみの大振りなナイフであった。
(ナイフ……お守りのつもり?)
「それナタ?」と、千枝。
「父親はだれ?」と、悠。
「俺どんだけ器用なんだよ……あとナタじゃねーよ、なんかボウイナイフっていうらしい」陽介は薄くカビを刷いた鞘から刀身を抜き出した。「じゃーん。これカッケーだろ? アルミとか真鍮とかじゃなくて、ホンモノの鋼だぜ、刃もついてる。かなりの値打ちもん」
「ブキクマ……ヨースケ野蛮クマ」クマは忌まわしげにしている。
「うっせ、オトコはみんなこーいうのに憧れんの! ま、お前にゃこーいうロマンはわからんのかね、中身ねーし」
 クマは例によってぴこぴこ地団駄を踏み始めた。
「で、どーよコレ、いけてない?」
 陽介の自慢げに見せびらかすそれは、確かに見たところナイフであった。が、世間一般で認知されているような、ポケットに入るような代物ではない。まさしくナタのような、というより、刃渡り二十センチを優に超えるであろうそれは、もはや小さな「剣」である。
「そんなもんどこで買ったのアンタ」千枝は呆れ顔である。
「それ法律とか大丈夫なのか」
「あれ、なんだよ、もちっと盛り上がってくれよ」ナイフをびゅんびゅん振り回しながら、「うちの親父が昔アメ横で買ったらしくてさ。けど興味本位だったみたいであんま大事にしてなくて、倉庫に放ったらかしにしてあったのを俺が保護してたんだ。で、ついに役に立つときが来たってわけ」
 興味本位もなにも、こんなものをなにかの目的のために吟味して手に取るような父親など、息子のほうでも願い下げであろう。
「……ひょっとして電話で言ってたいいもんって、それ?」
「そ。チョコだと思った? まあ一本しかねーけどさ、お前にも貸してやっから」
「おまえ、まさかそれで」
「おう。効くだろコレなら。刃物だし、強そーだし」
 陽介はあっけらかんとしている。まさか悠の濁した言葉後を理解していないはずはない、であれば彼は自分のナイフがシャドウ退治に有効であると考えているのだ。
(本気かコイツ……)
 まさかあの口の化物のことを忘れたわけではないだろうに――悠は呆れた。いったい彼は勇気の塊なのか、それともただ危機感に欠けるだけなのか、まったく花村陽介という男はなんとも量りがたい。
 クマの言うところの「ほとんどぜんぶ、人間なんかぜんぜん敵わないほど強い」シャドウを相手に、刃渡り二十センチのナイフが届くくらいまで肉薄する勇気を仮に振り絞ったとして、彼はほんとうにそれにふさわしい報いを得ることができると本気で考えているのだろうか。効くかどうかもわからない刃渡り二十センチの武器が相手に届くまえに、直径二十センチの穴を二十個くらい身体に空けられるかもしれないと考えたりはしないのだろうか。
(本題に入る前にあとどれだけ面倒が起こるんだ? 時間がないって言うのにバカなことを……)
「……それ、カッコいいな、ちょっと貸して」
「いいよほら。へへ、お前もやっぱ男だよな――あ、コレかなり重いから。あと刀身に触るとヌルヌルすっかも。錆止めにシリコン塗ってあってさ、拭ってきたんだけどさァ」
 なるほど、陽介から受け取ったナイフは確かに「かなりの値打ちもん」らしい雰囲気がある。おそらくメッキであろうが、金色の峰と十字鍔にアカンサスかなにかの模様がびっしり象嵌されていて、骨らしい生成り色の柄には、誰かの名前と思しいアルファベットの彫り込みがあった。使用感こそないものの時代がかった佇まいのそれは、素人目にも量産品にしては手が込んでいる印象を受ける。なにかの記念モデルか、あるいは誰かが特注したものなのかもしれない。
 陽介の父親がコレに幾ら払ったかわからないが、そのおかげで息子がレンコンみたいになるならお買い得感もクソもあったものではないだろう。
「鞘も」
「ほら。ちっとカビてるけど本革だぜ」
 悠は受け取った鞘にナイフを納めて、それを千枝に手渡した。
「里中、預かってて――クマ、変なことしないから」と言って、悠はクマを手招いた。「いいかげん本題に入ろう。おれたちが来る前に――」
「ちょ、おいおい、ナイフ返せよ。つか急に本題に入んなよ」
(でしょうとも)
 案の定、陽介の抗議が悠を遮る。
「かえせよ里中、大事なもんなんだ」
 千枝は返事をせず、渡されたナイフにじっと目を落としている。
「陽介、こんなものは役に立たない」
「なんで決めつけんだよ、わかんねーだろそんなこと」
「もし役に立つなら」悠はなんとなく既視感を感じた。「もし役に立つなら、なおさら持って行かせるわけにはいかない」
「なんで」
「それを使おうって思うだろ。少なくともそういう選択肢が生まれる。逃げるか、それとも最適な方法で対処するかの二択に、最悪のジョーカーを加えることになる。おれが言おうとしてること、わかるか」
 陽介は少し考えるふうを見せたあと、「つまり、そんなもん振り回すくらいならアレやれってことだろ」と言った。
「そのとおり」
「でも例えば急に間近に出てきたときとか――」
「陽介、そんなレアケースはそうそう訪れない」
 一悶着は避けられまいが、言わずに済ませられることでもない。悠は陽介を遮って大きく息を吸い込んだ。
「なぜっておれたちは万難排してそれを避けるからだし、万一そうした場面に遭遇したところで、ナイフを振り回すなんて選択肢はありえない。あのごつい金属の塊とカードとどっちが軽い。とっさに懐から出すものとして、どっちがよりやりやすい。リスクに見合うだけのパフォーマンスは? どうしてわざわざ戦車から降りてレターオープナーで灰色熊にケンカを売る必要がある。確かにあの剣の赤ちゃんでも鋭ければ灰色熊に刺さるかもしれない、運良くそうできたなら、なんらかのダメージを与えることができるかもしれない。そうしてどうなる? 熊は逃げてくれるか。それとも手が滑ったんだって誤解して、こっちをお願いしますって未開封の手紙を差し出すか。怒り出したらどうする? 腕一本で勘弁してくれたかもしれないのに首を引っこ抜かれたら? この世界にひしめく熊がみんな、おれたちのクマくらい紳士的なやつばかりとは限らない」
 以前こんなふうにまくし立てられたときのように怒り出すか、よくて不機嫌になるのは避けられないと思っていたのが、意外にも陽介は平静を保っている。そればかりか、彼は微かに苦笑を浮かべてさえいた。強がりや負け惜しみの色ではない、ちょっと困ったような笑みである。
「おれたちの目的は天城の救出じゃない、今この世界に入ってる四人全員の生還だ」陽介の余裕を訝りつつ続けて、「天城を助け出せたって、おまえの死体を担いで帰るようじゃ失敗だ。最善の手だけを使ってさえ完遂できるかおぼつかないこの冒険に、どんな小さなリスクだって持ち込むことはできない。陽介、ナイフは里中に預けていくんだ」
「わかったよ、お前に言い合いで勝てるとは思ってないし」と言って、陽介は腰に手を当ててため息をついた。「じゃあ、使わないなら持ってってもいいだろ?」
「手の届くところにあれば使いたくなる。置いていくんだ。荷物にしかならないだろ」
「俺いま譲ったじゃん、そっちもそれくらい譲ってくれよ」
「陽介……」
「ほらほら、ここ入ってちっと時間くってるしさ、ワーワー言ってねーではやいとこクマに話聞こうぜ。本題本題!」
 などと言いながらも、彼はさっそく千枝を口説きにかかるのだった。どうでも息子と離ればなれになるのはイヤらしい。
「里中、渡さないで。掴み掛かって来るようならぶん殴っていいから」と、千枝に言い置いて、悠は改めてクマを手招いた。「ごめん、とにかく本題に入ろう。おれたち以外にここに――」
「あ、ちょっと待ってセンセイ。クマもいつ出そうか迷ってたものがあったクマ――じゃーん」
 陽介のマネであろうか、クマもまた懐からなにかを取り出して皆の注意を引いた。出てきたのはもちろんナイフではなく、
(しまった、すぐに取り上げておくべきだった!)
 例の眼鏡である。千枝に渡すつもりなのだろう。
「ウィズラブフロムクマトゥーチエチャーン! プレゼントフォーユークマ――」
 案の定、喜び勇んで千枝のもとへ持っていこうとするのを、悠が後ろからひょいとつまみ上げる。
「あっ、なにするクマ、返すクマ! それはチエチャンのクマよ!」
「え、あたし? なんかくれるの? ちょうだいよ」
 陽介からの返還要求を生返事とスウェーで去なしていた千枝が、クマの抗議を聞きつけるやさっそく自らの権利を主張し始めた。
「センセイにはもうあげたでしょ! デザイン気に入らなかったんならちゃんと予約してくださいクマ。ウチのブランドは創業からずっとビルドトゥーオーダー、お取り置きはしてませんクマ!」
「ちょっとなんで鳴上くんが取り上げんの。つかプレゼントってなに?」
「チョーおしゃれな眼鏡クマ、それかけるとココの――」
「クマごめん足が滑った」
 着ぐるみの短い脚に窮余の変形小外刈りが決まった。クマはぶざまにひっくり返って甲羅を下にしたウミガメみたいになった。
「ギャース! なにするクマァー!」
「里中ごめん、でも今はダメだ、またあとで」悠の踵がクマのあたまを捉えた。「クマ本当に、マジで、本題に入ろう」
「はい……」
「ま、いいけどさァ」
 食ってかかってくるに違いないと思いきや、千枝は意外なことにあっさり引き下がって、粛々とクレーム対応に戻ってしまった。来たる彼女の抗議をはねのけるために陽介に浴びせかけたような「実弾」を準備していた悠であったが、
(なんだよ、陽介といい里中といい……おれひとり空回りしてるみたいじゃないか)
 こういうあっさりした反応を返されると、なんだか必死になって眼鏡を取り上げたことまで馬鹿らしく思えてくるのだった。ひょっとしてこの四人の中で自分がいちばん余裕がないのだろうか。
「クマ、この世界におれたちより前に誰か入った?」
「入った、とゆーか、入ってるクマ」
 踵が少しめり込んだ。
「……あと、このあいだ陽介と一緒に来たとき行ったみたいな、変わった建物とか、できてたり?」
「できたクマ」
 踵が深くめり込んだ。
「城みたいなやつ?」
「そそ、ものすごくでかいクマ。あのうセンセイクマのあたまが絶賛陥没中……」
「ごめん」悠はようやく足を上げた。「で、それ、どこ?」
「ココから近いクマ、そっちのちっちゃいトンネルの向こう」
 クマは横倒しになったまま、いくつかあるスタジオの出入口のうち、三日前に悠たち三人が帰り道を探して最初に潜ったトンネルを指した。
「そこからまっすぐ歩いて、十分もしないうちに見えてくるクマ」
「……そこにまだひとはいる? わかる?」
「いるクマ」とクマの言うのを聞いて、悠はひとまず胸をなで下ろした。
「入口の近くまで行ったんだけど、シャドウがいたからどーしようもなくて引き返してきたクマ。とりあえず中に誰かいるのは間違いないクマ」
(シャドウ、やっぱりいるんだ)雪子の心配ばかりしている場合ではない。(おれたちにあるのは付焼刃のナイフがふた振りだけ。それも使い方しだいだ、あの陽介のおもちゃを振り回すよりずっといい)
「センセイたちはそのひとを助けに来たクマ?」
「そうだよ、知り合いなんだ。クマに案内を頼みたいんだけど――」
 その時、にわかに陽介の叫びとも呻きともつかない声が耳を打った。顔を上げて見るとなんと、今し彼が股間を押さえて千枝の足下に頽れるところである。
「陽介……ちょっと、里中どうした!」
 呼びかけに応じてこちらを向いた彼女の面に、しかしこれといって釈明するような色は見出せない。無表情である。いっぽうの陽介は悪態をつく余裕もない様子で、ただ股間を押さえて呻吟しつつ、瀕死のエビみたいに力なく地べたをのたうつだけである。彼女に蹴られたのだろうか。
(そりゃぶん殴っていいとは言ったけど……)
「なに、へんなところ触られた? それにしたってちょっとやり過ぎじゃ」
 悠が慌てて駆けつけると、なにを思ったか彼女のほうでも足早に歩み寄ってくる。まるで胸を合わせるみたいにして急接近するや否や――さながらナイフが鞘に収まるような按配で、悠の股間に彼女のヒザが吸い込まれた。
「あっ、センセイ!」と、クマが叫ぶ。悠は叫ぶこともできない。
 エビが一匹ふえた。
「こんなに時間かかるんなら」と言って、千枝は苦悶する悠のポケットをあらため始めた。彼女の声は冷静そのものである。「自分で訊いてればよかった――これだよね、あたしの」
「さっ、里中、待て……!」
 愚者! どうしようもない愚者! おまえは陽介のときからなにも学んでいない! 下から突き上げてくる地獄の激痛と、上から無数に降り注ぐ自責の念とで、いきおい悠はどうかなってしまいそうだった。
「クマくん、コレ、なんなの?」千枝が取り返した眼鏡をクマに示す。「なんか見えるの?」
「あのう、かけるとその、霧を透かしてものが見れるクマ……」
 いったいおまえは、彼女が腹芸のひとつも満足にできない単細胞だとでも思っていたのか! もちろん彼女は演技していたのだ。不思議なほど雪子の安否に言及しなかったのも、妙に落ち着いて見えたのも、すべてはこちらを油断させるため、邪魔なエビを陸に打ち揚げるためだったのだ。
「里中てめ……!」陽介が脂汗をかきながら這い寄ってくる。
「ふたりともごめん。ホントにごめん。もし戻って来れたらなんでもする」と言って、千枝は眼鏡をかけた。
「里中たのむ、思い留まれ、危険なんだ、化物がいる、人間じゃ太刀打ちできない、殺される」悠は痛みに震えながら譫言のように言った。
「……鳴上くん、外でさ、なんつったっけ、雪子のためになにができるって言ったんだっけ」
「里中、後生だから」
「あたしね、雪子のためならなんだってできる」
「できない」
「できる」
「できない!」
「鳴上くんにはわかんないよ」千枝の声に暗い満足が滲む。
「おまえにはできない! おまえのはするかしないかだ! おまえの欲しがってる結果なんかついてこない! どうしてわからないっ!」悠は声をひっくり返して吼えた。もはやヤケである。「誰のためにもならない! なんの意味もない! おまえが死んで天城が助かるんなら今すぐそのナイフで喉を突けバカヤローッ!」  
 陽介の手が千枝の足首を掴む。が、やんわりと蹴り払われる。
「ごめんね花村、鳴上くん。ごめんね、じゃあね」
「クマ、里中を止めて……!」
 と、エビが懇願したところで、目下ウミガメは天地逆である。千枝はそれいじょう自らの釣果を眺めることはせず、持っていたナイフの鞘を払って投げ捨てると、先にクマの示したトンネルへ走り去ってしまった。
(最善の手だけを取る? もう絵空事だ! 考えうる限り最悪のスタートだ!)這って千枝を追おうとしても、両手はその甲斐もないのに股間を離れてくれない。(おれたちは振り出しで躓いた! 里中のせい? 愚者め、おまえのせいだ! この試金の結果を見ろ、おまえのメッキはとうに剥がれてるぞ、鳴上悠!)
 歯噛みする口の中に塩辛いものが流れ込んでくる。悠はぶざまに転がって股間を押さえたまま、痛さと惨めさのあまり涙を流し始めた。






(動けるか?)
 激痛がいくらか和らぐまでに十分も経っただろうか。
「陽介」
 少し離れた位置に転がっている陽介に声をかけてみる。彼にはどうやって立ち上がったものかクマが専属で付き添っており、腰を叩いたり上半身を上げ下げしたりするなどの看護を施しているのである。
「ヨースケがんばるクマ、キズは浅いクマ」
「陽介、立てるか」
「ムリHPがない……」
 クマの懸命な施療の甲斐もなく、症状は悠と似たり寄ったりらしい。
「マジであの女、ブッ殺すわ、マジで」陽介はぶつぶつ呟いている。
「ブッ殺すのはあとだ。それに半分はおれにも権利があるだろ、半殺しで我慢しろ」
「うう……あいつわかんねんだこの痛みが」怒りか苦痛か、陽介の声は震えている。「ゴールドオーブに痛恨の一撃とか冒険の書が消えるレベルだって……!」
「文句言うな、おれのなんかメッキだ」
 悠は生後間もないガゼルみたいに、ぶるぶる震えながらなんとかこうとか立ち上がった。下腹部の痛みは依然として治まってはいない。あらためて恐るおそる股間に手をやってみると――喜ばしいことにちゃんとふたつあった。兄のほうも弟のほうも無事である。
「センセイ、割れてなかったクマか?」クマは心配そうにしている。「クマもわかるクマ、その辛さ苦しさ、やり切れなさ。オトコの宿命クマね……」
「たぶん割れてはいない、と思う。ちょっと表面が剥がれたけど」
(クマもわかるって、男なのか? あいかわらず得体が知れないな、この着ぐるみ) 
 もっともパンツだの胡椒だの夜だのを知っているのだ、いまさら陽介の言うところの「ゴールドオーブ」の存在を知っていたところで怪しむには足りない。
「立つんだ陽介」
「立てません。勃ちません」
「里中を追いかけなきゃ……ブッ殺すんだろ? おまえの子供も浚われたままだぞ」
「……俺の息子たちはここにいる」 
 陽介は生まれたてのインパラよろしく、がたがた震えながらなんとかこうとか立ち上がった。そうして悠に倣ってこどもたちの安否を確認する。
「なんとか無事っぽいけど……お前らにも苦労ばかりかけるなあ」
 陽介は息子たちの受難を労っている。なんといっても金なのだ、それは大事に思いもしようが、悠のはメッキである。先の惨めさ悔しさがふつふつと甦ってきて、悠はやるせなくため息をついた。こんな安物でも蹴られれば痛い、もいで捨てるわけにもいかない。
「センセイ……ヒビクマ?」クマが近寄ってきてそっと囁いた。「クマだれにも言わないクマ、欠けちゃったクマ?」
「いや、だいじょうぶ。心配ありがとう」と言って、悠はクマのあたまに手を置いた。「ところでクマ、さっき言ってた城のことだけど、中のどの辺りにひとがいるかわかりそう?」
「うーん……だいたいの位置はわかるとおもうクマ、たぶん」
「なにか問題でも?」
「問題とゆーか、いまあんまり鼻が利かないクマよ、ひとがいっぱい入って来てるから。クマひとりのときならもービンビン物語クマけど」
「……まあ、とにかく一緒に来て、試してみて。里中を追わなきゃ」
「たく世話の焼けるヤツだよホントに」陽介はこわごわ脚を上げたりしゃがんでみたりしている。
「あー、それと、悠」
「なに」
 陽介はにわかに畏まって、「悪かった、俺のせいだ」とあたまを下げた。
「里中のこと?」
「ああ。やっぱアイツ入れるべきじゃなかったんだ、マジですまん。お前やめたほうがいいって言ってたのに」
「おれだって同意しただろ。それにおれ、里中の様子がおかしいって、テレビに入る前からちょっと思ってたんだ。でも楽観して……」悠は涙の跡を拭って続けた。「なんの警戒もしないで、その結果がこれだ。全部おれのせいだ、おれが寝ぼけてた」
「いや、なんで? お前のせいにはならんだろ」陽介が呆れたように八の字を寄せた。「つか、そんなドーサツとかスイサツとかってレベルで責任どうこう言うとかたまんねーぞ」
「おれは里中の態度に引っかかってた。わかってたんだから回避できたはずなんだ。しなかったんだからおれの責任だ、お前のせいじゃない」
 悠のあくまで言い張るのを見て、ふと陽介の面に苦笑が浮かんだ。先にナイフを置いていけとまくしたてたときに見たような、ちょっと困ったような笑みである。
「……なんだよ、なにがおかしい」
「あのさ悠、ほら、俺のシャドウが出てきたときさ」腰に手をやりながら続けて、「あんときお前、なんか言ってなかったっけ? 自惚れんな、お前は完璧人間じゃねーとかなんとか。あれノシつけて返すぜ」
「…………」
「自惚れんなって、お前は完璧人間じゃねーだろ、お前のせいじゃねーよ。そんで俺のせいでもねーってお前が言うんなら、俺らのせいじゃねーってこった。――クマ」
「へ? なにクマ」
「お前、誰のせいだって思う? 俺らがこんなんなって、里中がひとりで行っちまったの」
 クマはしばらく思案気によちよち歩き回ったあと、「チエチャンのせいじゃないクマ?」と自信なげに言った。
「クマよくわからんけど、ヨースケとセンセイのチンチン蹴ったの、チエチャンクマ」
「な? そーゆーこと」と、陽介が胸を張った。「この場合どう考えたって、いちばん悪いのはアイツだろ。お前のせいじゃねんだよ」
 この物言いは正直なところ、悠の耳にあまり快く響きはしなかった。それはお前の手の及ぶことではなかった、できるはずはなかった、仕方なかったと慰められるより、できたはずのことをできなかったと責められるほうがどれほど彼の自尊心を慰めたことだろう。たとえ彼らの定規の目盛りが信頼に足るとしても、なにもかもそれを援用して万事うまくいってしまうほど、自ら恃むところひとかたならぬ悠の度量衡は単純ではない。
「そうかな」
「そうだって。お前は悪くないの、不可抗力」
 と、言われれば言われるほど、なんだかむしょうに反発心が湧いて出てくる。自分は陽介の言う「ドーサツとかスイサツとか」はじゅうぶんできていたはずだ。不可抗力? 否だ、もちろんそうではない。自分にはそうできるくらいの能力はあった。決して己惚れなどではない、己惚れと言うなら、その能力の及ぶかぎり無謬であると考えることこそが己惚れなのだ。自分は失敗したのだ、それは謙虚に受け止めなければ。
 そうだ、これはひとつの失敗だ――悠は腰ポケット越しにタロットを掴んだ。これはひとつの失敗だ。誰しも失敗はするものだ。いまおれがすべきは、金だと思っていた自分はじつは銅に過ぎなかったと悲嘆に暮れることでも、里中に盲目的に責任転嫁することでもない、挽回を期すことだ。
「悠……お前なんでそんなムッとしてんの?」さだめて破顔するとでも思っていたのだろう、陽介は困惑気にしている。
「べつに」
 そうだ、そもそも試金の結果メッキが少し剥げてたしょう地金を晒したからといって、それがどうだというのだ。金か銅かという二択からしてすでに間違っているのだ。上のほうはメッキした銅かもしれないけど、下のほうは混じりけのない金かもしれないではないか。そうだ! わずか一週間に満たない期間にたまたま見出したこんな小さな試金石など、どだい爪の先を擦るのがせいぜいなのだ。いったいこんな些末な事件のひとつやふたつがわが全存在を証しなどしない! 先に泣いたのだって陽介の言うところの「痛恨の一撃」による痛みのせいに過ぎない。挽回だ、次に同じようなことが起きたとき、そのときこそ挽回するのだ!
 陽介の言葉は悠の中で奇妙な化学反応を起こして、ある種の開き直りを彼にもたらした。
「センセイ、どうしたクマ。まだ痛いクマ? やっぱりヒビクマ?」
「んん……いや! やっぱりおれのも金だよなってさ、思ったんだ」悠は遅ればせながら破顔した。「そうだな、とりあえず、里中には制裁が必要だな」
 責任転嫁と責任追及はまた別の話である。新たなエビが暴力の網にかかる前に、男は股間を蹴られると宇宙が見えるのだということを彼女に理解させる必要がある。
「そーそー、俺たちの性なるゴールドオーブを破壊しようとした肉食暴力ザルはブッ殺されるべきなんです」陽介もまた賛意を示す。
「そのとおりだな――陽介、走れるか」悠はふたつの金塊を労りながら屈伸を始めた。「シャドウ狩りの前にサル狩りだ、あのヒザ蹴りがどれだけ高いものにつくか思い知らせてやる」
「おお。ま、アイツだってなんでもできるとかカッコつけてたけどムチャクチャビビリだし、今ごろ入口でチビッて座り込んでんじゃね?」
 その可能性は十分にある。これまでの経験からいって、道中でシャドウに出会す可能性は低そうだ。もし遭遇するとすればおそらくあのテレビに映った城の中でだろう。あの怖がりで泣き虫な千枝のことだからして、奥へ行ってしまう前になにかとんでもない態をしたシャドウを見でもしてくれれば、
(まだ希望はある。挽回してこそ金を証明できるんだ、里中を回収して、天城も助ける!)
「クマ、あのトンネルを抜けてまっすぐだったっけ」
「そうクマけど、あのう」クマの声が沈んだ。「センセイ、クマ走るの遅いから、ひょっとしたらついて行けないかもしれんクマ……」
「うん、急ぐからたぶんムリだと思う。とりあえず先行してあの城まで行って、里中を探せれば探しておくから」
「わかったクマ」
「できるだけ急いで後から来て」なにはともあれまずは千枝の身柄の確保である。「陽介いくぞ」
「よっしゃ――あっ、ちょっ、痛いですコレ痛い! マジいてえ!」
 陽介は内股でぴょんぴょん跳ねるようにして走り出した。そのすぐ前を走る悠も似たり寄ったりのみっともない走り方だったが。
「なあ悠!」
「なに!」
「アレ、やっとこう、アレ!」
「アレって」
「おまじない、なんか景気いいヤツ! いてて……!」
「そんなこと言ってる場合かおまえ! あつつ……!」
「お願いしますハイ3、2、1、キュー!」
「ファクタ! ノーンウェルバ!」
「おし! で、なんて意味っ?」
「喋ってないで走れ!」






「悠、あれだ」
(ずいぶん大きいな)
 併走していた陽介が前方を示す。スタジオを出て五分も経たないうちに、ふたりは八十神高校の校舎ほどもあろうかという巨大なシルエットを見出した。
 近づくほどに細部が露わになって、それはほどなくマヨナカテレビで見た、例の城とも宮殿ともつかぬ洋風の建築物であると知れる。悠と陽介はその外郭の、煉瓦色の塀に辿りついたところでようやく走るのを止めた。ふたりからそれほど離れていない位置に、おそらくは外門と思しい塀の張り出しが見える。
「でけーな、マジで」陽介は塀に寄って呼吸を整えている。
「前のは商店街をまるまる一区画だぞ、こっちは小さいくらいだ」
 もっとも中身もちゃんとできているというなら、こちらのほうがずっと厄介であろう。それこそ高校の体育館みたいにがらんどうという可能性もないわけではないが。
「アレかな、入口」
「んん……陽介、ここからは」
「わかってる。シャドウに気をつけろ、だろ」
 悠と陽介は示し合わせたようにして、同時にポケットからタロットを抜き出した。
「むしろ気をつけろって、シャドウに言ってやるよ」陽介は不敵に笑っている。
「先方はおまえの優しい心遣いを忘れないだろうよ」悠は忍び歩きに外門へ近づいた。
(開いてる。里中が開けたのか?)
 外門に設えられた蒲鉾型の格子扉は、片方だけが開け放たれていた。中を覗き込んでみると、
「……なにか落ちてる」
 悠は門扉を潜って、床に落ちていた小さななにかを拾い上げた。騎乗した髪の長い女性のロゴと「GODIVA chocolatier」の文字――先に千枝の食べていたチョコレートの包装である。
「アイツ、わざと落としてったんかな」と、陽介。
「かもしれない」
 千枝があんな行動を取ったのはひとえに、自分が救出に赴くことを許されなかったからで、なにも悠と陽介に来てもらっては困るというわけではないのだ。この目印がわざと置かれたものなら、彼女はあるいはそれほど行かないところで、悠と陽介が自分を追いかけてくるのを待っているのかもしれない。
(……あそこだ、テレビに映ってた)
 外門を潜ってすぐのところは、両側を塀で挟まれた内庭のような空間になっている。今ほど通り過ぎた外門から城までのちょうど中ほどの位置に、浅い円形階段が掘り抜かれていて、真ん中から噴水が上がっているのが見える。その向こう、後肢で立ち上がった馬の像の立ち並ぶ先に、雪子の消えた城の内門はあった。マヨナカテレビを撮影したカメラ――もしそんなものがあるとすれば――は位置的に噴水を背にしていたと思しい。
「悠、気付いてっか?」
「なにに」
「あれ」と言って、陽介は黙って上を指さした。
「……イヤでも気付くよ」
 この城がうっすらと見え始めたくらいから、霧のかかるだけだった「天井」がにわかに変貌しているのに、悠は最前から気付いていた。例の偽八十稲羽商店街で見たような、赤い空の明滅するなかに黒い雲が浮いているという、不気味なものにである。
「里中ビビッただろうな。なんなんだこのキモい空は」陽介の口角が不快気に歪む。「なんか見てて不安になってくんだよな」
「これいじょう降らないなら文句なんかないよ」悠は濡れた袖を引っ張ってそう言った。「行くぞ、里中がこの先で待ってるかもしれない」
 ふたりはタロットを構えて警戒しつつ、白い甃で舗装された内庭をそろそろと進んだ。噴水を迂回して内門へ近づく。千枝の目印らしいものは見当たらない。
「おい悠」背後の陽介が声を上げた。
「なに」
「これ、ちっと見てみ」
 振り返ると、彼は馬の立像のひとつに手をかけてこちらを手招いている。
「これっつか、この馬ぜんぶ見て、どう思う」
「ぜんぶ同じだな」
 立像は道を挟んで五体ずつ並んでいたが、十体すべて同じ意匠である。
「なんか感じないか?」
「……なんだろう、なんか違うというか、拙いというか」
「チャチい」
「そうか、安っぽいんだ」
 言われてみれば確かに、馬はどれも一様にディティールに凝ったふうもない、どこかのホームセンターで売っているような安っぽい置物をそのままサイズアップしたみたいな、稚拙な投げやり感があった。まず間違いなく彫って造られたものではない。
 悠はふと思い立って、内庭の道に沿って聳える煉瓦塀に近づいてみた。ブロックの継ぎ目に目を凝らしてみると、
「……やっぱり」
 果たして、塀は煉瓦を積んで造られたものではなく、煉瓦色のなにかに等間隔の切れ目を入れただけの紛い物である。
「煉瓦も偽物だ。ひょっとしてほかも」
「つか、まずこの城がさ……まあ、それっぽいんだけど、わりとでかめの遊園地にあったりしねーか? こんなカンジのナントカ城っつか、ナントカの館みたいな。そういうのを単純にでかくしただけみたいなフンイキない? ここ」
 悠と陽介は少し道を戻って、改めて城のファサードを見上げてみた。
「……な? ぽいんだけど」
「……ぽすぎる?」
「そ、なんかさ、ぽすぎるんだよ、この城」
 城は確かに立派ではあった。が、あまりにも「西洋の城」のステレオタイプに忠実すぎる印象がある。「外国の古いお城」と言われて大抵のひとが即座に思い浮かべるような意匠、てっぺんの尖った小塔、三角旗、蒲鉾型の窓、上端のデコボコした狭間胸壁、壁龕に収まった騎士の像――こんなものが煉瓦色の建屋の周りに、あるバランスに則ってシンメトリックに配されているのだ。個々の造形がよくできているならまだいいものの、先の煉瓦や馬の例を待たずとも、よくよく見ればそれらは遠目にも安っぽい造りをしているのがわかる。
 なるほど陽介の言うとおり、規模を除けばこの城はまったく「遊園地」レベルの代物であった。遠くから見れば本物「ぽい」が、近づけばたちまち稚拙さを露呈する。
「命名、ポスギル城」陽介が呟いた。
「おれたちはポスギル城に挑むふたりの騎士?」
「逃げ出したサルを回収しにきた飼育員だろ?」
(もしくはヒョウをね)
「二時十五分、深夜勤務もいいところだ」悠は腕時計に目を落として言った。「とりあえず早くサルを捜そう、花村飼育員」
 ふたりは内庭を後にして「ポスギル城」の内門へ入った。中は短い隧道になっていて、奥にアーチ状の入口が開いているのが見える。頭上に吊り上げられた城門と落とし格子の下を潜りながら、陽介がこわごわ「悠、あの門、ペルソナでぶっ壊せっかな」と呟いた。両方ともほとんど全て引き上げられているのだが、一瞥して容易に破壊できそうもないことはわかる。城門は分厚い木材を鉄枠で補強した堅固きわまりないもので、落とし格子に到ってはまず間違いなく総鉄製である。もしアレが背後で落ちでもしたら……
「どうだろう。ふたりがかりなら――陽介」悠は陽介を制止して、アーチ状の入口の前で止まった。「おまえ明かり持ってる?」
 隧道の中もいいかげん薄暗いのだが、入口の中はほぼ闇であった。城内すべてがそうであるならライトは貴重である。
「ケータイのフラッシュがライトになる。アプリで」
 と言って、陽介は実際に携帯電話でライトを点けてみせた。さして強くもない光が石造りのアーチを照らし出す。
「あんま強くねーな。ライト持ってくりゃ――」
「陽介まて、そこ、上のところ」悠は陽介を遮って、入口の上の辺りを指で示した。「ここ照らして、もう一回」
 白いスポットがアーチの主梁に戻ってくる。そこには墨痕を模した漢字で「屋城天」とあるのが見て取れる。
「……アマギヤ」
「天城屋って、え、天城んちの旅館だよな」
(このポスギル城は天城に関係あるってことなのか?)
 そうといえば、山野アナのときも早紀のときも、明らかに彼女らに関係する場所がこの世界に現れていた。であれば今回もその例に漏れないのだろうが、
(なんで西洋の城なんだ? なんか純和風って印象だったけど、こういうのが好きなのか?)
 かといってそのディティールのいい加減さが、もうひとつ雪子の嗜好を説明してくれない。もし好きならもう少し凝った造形になりそうなものだ。もっともこのポスギル城のチープさが彼女の好みに合致するという可能性もないではないが。
「いま考えても仕方ない、行こう」
「おう――お前そういやライト持ってたな」
「うん、さっそく役に立ったけど」と言って、悠は腰に差していたハンディライトを抜いた。「陽介、そっちの明かりは点けるな。携帯は温存しといて」
「わかった。そーだよな……必ず照明があるわけじゃねーんだよな」
「入るぞ、タロット準備」
「俺はなるほうで、おまえは呼ぶほう」
「んん、今回はそれでいく」
 件の「鳴上流」は今のところ、それ単独ではとても自衛の手段になりそうもない。最低でもふたりのうちどちらかがあの強力無比な「花村流」を採らなければ。
(さあ、鬼が出るか蛇が出るか……)
 悠は陽介を背後に、「屋城天」を潜ってライトを点けた。途端、三人の絶叫が室内に響き渡る。
「びっ……びっくりした! びっくりした!」
「おま、ふっざ、てめ……!」
「さ、里中っ?」
 部屋に入って最初にライトが照らし出したのは、もしサルかヒョウでないなら、千枝であった。




[35651] あたしは影か
Name: 些事風◆8507efb8 ID:7f716c06
Date: 2013/06/23 11:12


「ふたりとも来たんだ、やっぱり――ちょっとカオ向けないで」千枝が眩しがって、悠のライトを手で覆った。「目印わかった? チョコのカラ落としてきたんだけど」
「…………」
「……鳴上くん? 花村?」
 悠も陽介もとっさの返事が出てこない。安堵の吐息はどうしようもなく震えた。一杯くわされた怒りも股間を蹴られた恨みもたちまち消し飛んで、胸中を占めるのはただこのひと言だけ――よかった!
 きっと陽介も悠と同じようなことを考えているに違いない。こうして無事な千枝の顔を見る段になって初めて、強いて考えようとしなかった最悪のシナリオが次から次へと脳裏に浮かぶのである。いったい外門を潜ったとき、あるいは馬の像を調べているとき、どうして千枝の生首だの手足だのを見つけずに済む保証があったというのだろう。もし夜食中のシャドウにはたと遭遇して、今その手に持ってる布きれと同じ色の服を着た女の子を見なかったかと尋ねるはめに陥っていたら? あの噴水! 仮にあの噴水が勢いよく彼女の血を吹き上げていたとしても、苦情の持ち込み先などどこにもなかったのだ。
(とにかく、よかった、とにかく振り出しに戻れた……!)
 千枝を見つけたらぶつけてやろうと考えていた悪態など、はやあたまの中からきれいに雲散霧消してしまっていた。
「……陽介、左腕。おれは右を掴む」悠はかろうじてそれだけ言った。
「オーライ」
 ふたりは千枝の左右に張り付いて、その両腕をしっかりと掴んだ。活動的な印象からなんとなく筋肉質で硬い触感を想像していたものの、悠のてのひらに掴まったのは小柄な彼女にはいかにも似合わしい、細く柔らかな腕である。
「怒ってるよね、ごめん」彼女は不平のひとつもなく、まったくの無抵抗だった。「殴って。歯が折れるまで殴られたっていい。どこでも蹴って。恨まないから」
 千枝に開き直っている様子は微塵も覗われない、彼女の言葉にはいま口に上した内容の履行をねがう真情よりほか、どんな色も見つけようはなかった。こんなふうに言われればもはや、この紳士的なふたりに彼女をどうこうする気など起こしようがない。せめてこれが拗ねた文句であるとか言いわけがましい弁解であるとかなら、あるいは冗談にこと寄せて二、三発も小突くことができたかもしれないが。
「歯が折れるまでって、マジ? やった!」と言って、陽介は千枝の肩に腕を回して寄りかかった。「おい悠、里中先輩が歯が折れるまで肉おごってくれるってよ! ごちになりやーす!」
「はあっ? ちょ――!」
「やる気が出るなあ、里中先輩ごちそうさんです」悠も陽介に倣って千枝に凭れかかった。「あ、おれ鰻すきなんですけど、そっちでもいいですか先輩」
「鳴上くんまでなに言ってんの!」
「おっ、そうだ俺スゲー高い鰻屋しってる!」陽介が得たりと話を合わせた。「親父に一回つれてってもらってさ、うまいけどメチャクチャ高いの。そこ行こ、高いもん食お、高いの重要」
「ムリだってちょっとあたしお金ないから! 殴ってください蹴ってください! つか重いふたりとも!」
「里中先輩、こんなとこでマゾ願望カミングアウトとかフツーに引くっすよ……」
「そーいうイミじゃないっつの!」千枝は半ば笑っている。
「陽介、鰻重に白焼き追加するかどうかは店いったとき決めよう」
「だな。肝吸いとシメのうな茶もあるし、食えねーかもしれんし」
「あんたら……!」
 千枝が肉体的にも経済的にも押し潰される前に、男子ふたりは彼女の肩から腕を解いた。もちろん両の腕を掴まえ直すのは忘れない。
「とにかく、まずは無事でよかったよ」
「ホントだよ、マジで心配したっつの」
「サイフの心配もしてくださいよ……」
「里中、ここに来るまでシャドウには……変な化物とかは見なかった?」
 と悠が訊いても、千枝は「べつに見なかったけど、シャドウって?」と返すだけである。
「なんかよくわからん化物なんだけど……お前さ、ほんとに運いいぞ、マジで」陽介が鼻息を漏らす。
「運よかったらウナギおごるハメになんかならんでしょ……」
「鰻はともかく」悠はあらためて闇の中へライトを向けた。「ここ、どこなんだ? なんか外とだいぶ様子がちがう」
「ああ、ここね」
 と千枝の何気なく言うや、パパッという微かな音とともに、卒然と部屋の中が明かりに満たされた。反射的に見上げた天井に、古びた梁に沿って黄色っぽい蛍光灯のチラチラ輝いているのが見える。
「おい、今なんで明かりついた?」と、陽介。
「わからない。センサー?」
「センサーなんかついてねーっぽいだろここ……なんだろ、ホテルっぽいっていうか」
「……旅館の、ロビー?」
「そ。ここ、天城屋旅館のロビーなんだ」と、千枝が説明を入れた。「お城ん中にいきなりこんなんあるからちょっとビビッたけど」 
 三人は岩肌を模した乱型タイルの上に立っていた。大きな下駄箱と簀子のあるそこは玄関である。千枝の言葉通り、上がり口の向こうはおおよその古い旅館がかくもあろうかと思われるような、地元の情報ポスターを張り巡らした小体なフロントになっている。
 驚き呆れる男子ふたりと違って、千枝はなんの故があってか平然としたものだ。
「天城屋って、俺まえに行ったときはもっとでかくてキレイだったけど」陽介は昭和の気配漂うロビーを左見右見している。
「改築前の、昔のだもん、ここ。あんた行ったのは新館のほう。この旧館のロビーは取り壊されちゃってさ、もうないんだ」
 なるほど、千枝の「改築前」という言葉が妙にところを得たような部屋ではある。天井の化粧板は経年を示して薄黄色く――たぶん煙草のヤニかなにか――汚れているし、フロントの掲示板だけに留まらず、廊下の壁にまでやたらとポスターが貼ってあるのは、なんだかその下に傷でも隠しているふうである。フロントのすぐ横には「本日休業」の札が立つささやかな物販コーナーがあって、たぶん稲羽市の特産品かなにかと思しい、乾物や菓子や漬け物や、ちょっとしたおもちゃの類が彩りも乏しく小ぢんまりと陳列されている。その反対側は――もし粗大ゴミの仮置場でないのなら、たぶんロビースペースである。古い漫画の詰まった本棚、ガラステーブル、くたびれて変形した籐の椅子四脚と、コイン投入箱に錆の浮いた年代物のマッサージチェアが二台、老いて遠ざけられた使用人が主を待ちあぐねるようなもの悲しさでもってそこに佇んでいた。
(なんというか、うら寂れているっていうか……)
 薄緑色のビニル床にうっすらと轍のような跡のついているのは、何年何十年とスリッパの擦り続けた証左であろう。それはまったくもって改築されるべき要素に充ち満ちた「場末の旅館」の趣である。
「……なんつーか、ボロいのなァ、昔の天城屋って」陽介が妙に感心したような口で言った。「すげー流行ってない感ありまくりじゃね? 今じゃ予約すんのも半年待ちとか言われてるってのに」
「ボロいゆうな。でも確かにね、流行ってなかったな、昔は」千枝の面に微笑が浮かんだ。「いつもあのマッサージチェアんとこでね、雪子を待ってたんだ、あたし。小二んとき」
 千枝はふたりに腕を掴まれたまま、玄関を上がって物販コーナーへ寄った。悠も陽介も引き摺られるような形である。実際、そうはさせまいと踏ん張れば引き摺られたであろうほど、千枝の歩みは力強いものだった。
「里中ちょっと」
「あたし小二のころ、ここに引っ越してきてね、ぜんぜん友達いなかったんだ。だから雪子と友達になったときは嬉しくって、ほとんど毎日ここ来てた」
 千枝の手が悠の腕を掴み返した。
「雪子って、ちっちゃい頃からなんかいろいろ仕込まれてたみたいで、あそぼーってここ来てもね、なかなか出て来れなくてさ。んで粘って待ってると、お土産売ってるお婆ちゃんが近づいてきてね、あんた見ない子だけど、家どこって、訊くの。毎回だよ?」千枝は笑って、ワゴンの中に目を落とした。「でね、やっと雪子が来るとね、決まって待たせたお詫びみたいにこのアメ買ってくれてね、それ食べながらそこのイス座って、ふたりでセーラームーン読んでた」
「おい里中、放せってお前……!」
 陽介が慌てたような声を上げる。彼も悠と同じに腕を掴まれているのだ。
「雪子、今もキレイだけど、会ったころはもう人形みたいですっごいかわいくってさ、かわいくておしとやかで、メチャクチャ性格よくて、あたし見つけるとこう笑って、ちょこちょこ近づいてくんの。チーちゃんチーちゃんって」
「里中、腕を――」
「雪子って、宝物だった。なんか神さまがさ、あたしが生まれたとき持たしてやれなかったなにもかもをさ、やっと準備ができて、それでちょっと遅れたけどって、よこしてくれたみたいな感じ」
「里中」
 と悠の言うのに、千枝はようやく反応して「ごめん、なんか語っちゃった? ウザかった?」と笑った。
「あたしのひとり語りなんてどーでもいいっつの、ねえ? それよりほらっ、はやく雪子たすけに行こ!」
「里中、いったんあのテレビのところまで戻ろう。ここから先へは連れて行けない」
「だいじょうぶだって。あたしならなんとでもなるから」
「ならねんだっつーのに」陽介がちょっと焦れて苛立たしげな声を上げた。「お前がいると足手まといなんだ。さっき言ったシャドウってやつがこの先にいる。俺らはなんとかできるけど」
「あたしじゃできないっての?」
 悠と陽介は異口同音に「できない」と断じた。これで承伏しないのなら仕方ない、ペルソナを見せつけるまでである。
「……じゃあさ、ふたりとも、この手ふりほどいてみてよ」千枝は不敵に笑って、両手に掴んだふたりの腕を上げてみせた。「それできたらあそこまで戻るから」
「だからそれとこれと――」
「陽介、いい、やろう」悠は陽介を遮ってそう言った。「里中、どっちか片方でもそれができたら、諦める?」
 千枝はべつだん気負ったふうもなく「うん」と頷いた。
(大した自信だ! たぶんなにか格闘技でもやってるんだろうけど……)
 これは明らかに千枝の過信である。なんといっても悠や陽介とは体格の差がありすぎるし、ましてふたりがかりである、技がどうこうの問題ではない。彼女の細腕ではせいぜい、どちらか片方の腕にすがりついて振り回されるくらいが相場であろう。
「いつでもいいよ」と、千枝は自信たっぷりである。
「じゃ、一、二の、三――!」
 三、の合図で、悠の背筋に冷たいものが奔った。たちまち悲鳴のひとつも上げながら振り回されるはずの千枝の身体は、しかし微動だにしない。しないはずだ、渾身の力でもって腕を振り上げたのにも拘らず、
(外れない……どころじゃない、なんだこの力は!)
 千枝はことさら力を入れているようには見えない。自然体である。それでいて彼女の手はさながらコンクリート壁にボルト留めした手枷のようだった。いや、手だけではない。身体そのものが根の生えたよう、というより、地面に溶接されたみたいにまったく動かないのだ。どんな修練の結果が鋼鉄の筋力と関節とを彼女にもたらしたにせよ、体重そのものは大きく変えようなどない。仮に彼女のほっそりした身体がすべて鉄だとしても、男子高校生ふたりの力を結集すれば引き倒すことくらいできるはずなのに。
「マジかよぜんぜん歯が立たねーぞ! これ合気道かなにか?」陽介は縛められたサルみたいに、腕を押さえて跳んだり跳ねたりしている。
「合気道で体重が増えてたまるか! くっそ……!」
「ほうらほうら、おふたりあさん、そんなもんですかあ?」千枝はまったく余裕しゃくしゃくである。「あ、これあと一分以内に解けなかったさ、ウナギなしにしよう。そうしよう」
「ざっけんな! ぬおお……!」
「はーい十秒経過ー、ほらふたりとももう諦めなって。あ、五分経ったらあたしウナギ奢ってもらおっかなー」
「そんなバカな、ありえない……!」
「ほらほらもういいでしょ、力の差ってやつを――」
「鳴上くん、花村!」
 悠はぎょっとして声のしたほうを向いた。向いてもう一度「そんなバカな」と呟いた。先ほどまで三人のいた玄関に、クマを従えた千枝が立っていたのである。






「センセイ! ヨースケ! そっちの――!」
「クマ! そいつから離れろ!」と、クマを遮って陽介が怒鳴った。「くっそ、もうシャドウが……え、あれ」
「陽介、里中、眼鏡……」
 うまく言葉が出てこない。もっともこんな助詞を欠いた外国人みたいな科白を待つまでもなく、陽介はもう違和感に気付いているようである。
(バカめ、どうして気がつかなかった)悠は空いているほうの手で自らの腿を打った。(そうだ、ひとめ見てわかったはずだ、この里中は眼鏡を着けてないんだ!)
「じゃあ、こっちの里中って……」
 陽介はいま自分の腕を掴んでいる千枝と、玄関に現れた千枝とを交互に見やって呟いた。両者に違いらしい違いはない、容貌、服装、身体的特徴、すべて寸分たがわず同じである――今ほど登場したほうの着けた眼鏡と、その手に握った大振りのナイフを除けば。
「ヨースケ、そっちがシャドウクマ!」
 クマが叫ぶ。もちろんそのはずだ。なんといってもクマはシャドウと人間の気配を区別できるのだから、もしどちらかがシャドウであるとすれば、万が一にも向こうがそうであるということはない。であれば、
「……シャドウなのか」
 と、悠は自分の右手を掴む「千枝」に訊いた。
 いまさらこんなふうに問うのもバカらしい限りだが、彼は訊かずにはいられない。「人間から出てくるシャドウ」が実際には、その人間本人となんら変わらない中身を持っているということを、陽介の例から彼は識ってはいた。いたはずだったが、先にあれほど打ち解けてじゃれ合っていた彼女が実はそうであると判明してみれば、こんな通り一遍の予備知識などいささかもショックの備えになってはくれない。
 狼狽する悠と陽介を一顧だにせず、千枝のシャドウは静かに「シャドウってなに?」と返すだけである。彼女は最前から玄関の千枝をじっと見下ろしている。
「なんであたしが」無論、千枝の狼狽たるや悠や陽介の比ではない。「なんなのコレ、ワケわかんない――クマくん!」
 クマはナイフの刃を向けられてキャーと諸手を挙げた。
「あ、アレはチエチャンのシャドウクマよ」
「シャドウってなに? はあ? え、ちょっとだれか説明……鳴上くん! 花村!」千枝がヒステリックに叫ぶ。「なにしてんのこっち来てよ! それあたしだって思ってるとか言わないよね!」
「クマくーん」悠と陽介が口を開くまえに、千枝のシャドウがクマを呼んだ。「こっち来て、雪子のとこ案内できるんでしょ? はやく行こ」
 クマは返答に困って「センセイ、どーしたらいいクマァー」と情けない声を出した。クマが言わなかったら悠が訊いていたところだ。
「ちょ……なに言ってんのあんた! あんた雪子になんの用よ! つかなんであたしとおんなじカッコしてんのよ!」
「ふたりとも、ほら、時間ないよ、ちゃっちゃと行こ」
 千枝のシャドウはまるで聞こえていないかのように、平然と千枝を無視した。そうしてフロント横の客間へと続く、薄暗い廊下に男子ふたりを引き摺っていく。悠と陽介がどれだけ抵抗しても無駄である。
「里中、里中! ちょっと待ってくれ!」
「痛て……おい里中、いいからちっと手ェ放せって! どこも行かんから!」
「まてコラァ!」
 黙殺された千枝が憤激して、ナイフを振りかざしながら追い縋ってきた。
「ムシすんな偽物! ふたりを放せ!」
「あー、あのさ」
 と、首だけ振り返ったときにはすでに、千枝のシャドウの目は金色の明るんでいる。
「あんたの相手はさ、あとでするからさ、今はどっかいって」彼女の声はぞっとするほど冷たい。細い眉が不快気に顰められている。「つかなんで戻ってきてんの? いいから消えて。ジャマ。ついてくんな」
「里中、わかる、ハラ立つのはわかる! でも今はとりあえず黙ってろ!」と、陽介が千枝を振り返りながら怒鳴った。ふたたび引き摺られながら、「これがシャドウなんだ! 先輩も山野アナもこれにやられたんだ!」
「シャドウって、なに言ってんの花村?」千枝のシャドウはおかしげに鼻を鳴らすだけだ。「あ、鳴上くん、ちょっとそこのドア開けて」
 彼女が顎で示したのは廊下の突き当たりの非常口である。
「わかった。里中、開けたら手を」
「放すから、花村のも」と言って、千枝のシャドウは照れ笑いを浮かべた。「えっ、ひょっとしてキモかった? ごめんごめん」
「……手を握って欲しいって言おうとしたんだよ」
 悠は非常口の鉄扉に手をかけた。
(これ、陽介のヤツとはちょっと違うケースだ)
 言動と態度からもわかる、陽介のときと同じに、このシャドウもまた自分のそこから出てきた「親」への憤懣があるのは間違いない。が、千枝のシャドウは千枝を罵倒するだとか、復讐を企てるだとか以前に、雪子の救出を優先しようとしているのである。であれば、
(説得しだいだ、説得しだいだけど、里中と和解させることは難しくない)
 雪子を助けるというただそれだけのために、ここへ来るまでのあいだ彼女のしでかしてくれた事々、雪子のためなら何でもできるとまで言わせたその献身が、いま千枝を差し置いて雪子を助けに行こうとするシャドウに共感を呼び起こす可能性はじゅうぶんある。「鍵」はすでに握っている。そして千枝の動揺が大きくなる前にシャドウの性質を説明して、なんとかして呑み込ませることができれば、錠前のほうも準備は整う。
 問題はそのあとだ。もし陽介の例に漏れないのなら、おそらく千枝のシャドウは自身の憤懣の大本を――つまるところ、千枝の許せない千枝を――千枝にぶちまけるだろう。はたして彼女が鍵を挿されて胸中を暴かれる痛みに耐えられるか。彼女がどれだけ自制して、これからシャドウの暴露するかもしれないおのれの「負の側面」を受け止められるか。
 鉄扉の先には本来あるはずの非常階段に代わって、タイル張りの床に緋毛氈を延べた、やたらと天井の高い長廊がひらけていた。なんだかヨーロッパの有名な教会建築にでもままありそうな、壁と穹窿天井に漆喰装飾――おそらくこれもそれっぽく似せてあるだけの――を廻らしたやつである。
(ここは明かりがあるな)
 廊内は明るいとは言えないものの、廊に等間隔で配された高窓から黄色い明かりが射し込んでいるおかげで、床のアーガイル模様が判別できる程度には視界が効いた。この高窓もよく見れば偽物で、外の明かりを取り込んでいるのでなく、ELシートのようにそれ自体が光っているのである。
 廊に入ってほどなく、千枝のシャドウは予告通りふたりを解放した。
「クマくん、こっちでいい?」と、千枝のシャドウが後ろのクマに訊いた。「なんかこっちにいそうな感じするんだけど、あってる?」
「そっちでたぶんあってるクマ、けど」
 千枝のシャドウはそれだけ聞くと、「ふたりとも早く行こ」と言ってずんずん歩き始めた。
(そうしたいのはやまやまだけど)
 シャドウが離れたのを機に、千枝とクマがふたりの許へ駆けてくる。ようやく四人揃ったわけだが、
「アレ、なに、ふたりとも! シャドウってなに!」
 千枝といえば掴みかからんばかりの剣幕である。
「悠どうする。俺が話すか? それともお前?」と言って、陽介は含みありげに声を潜めた。「俺が話すほうがいいような気すっけど」
 明らかにジュネスへ入る前の悶着をふまえた口振りである。少しく気に障ったが、先に同じ提案を断って失敗している立場上、
(ここはおとなしく譲ったほうがいいな。こう言うからには説明する自信があるんだろうし、なんといっても当事者同士だ)
 悠は「じゃあ頼む」と陽介に任せて、クマを手招いた。
「クマ、ちょっと」
「あーセンセイ、やっと合流できたクマ、たいへんだったクマよ」
「おつかれさん。途中でシャドウには遭わなかった?」
「ブキもったおっかない女の子なら遭ったクマ、刺されるトコだったクマ……」
 悠はあぶれたもの同士で話すことにした。クマの話によると、千枝は一度城内に入ったものの、悠たちとの合流を考えて外に出ていたとのことである。彼女のシャドウの言った「なんで戻ってきてんの?」はこれを示すのだろう。
「つまり、里中はおれたちが来る前、さっきのロビーにいちど来てたってこと?」
「ロビーってさっきのイスがあった部屋クマ? そーみたいクマ」
「……里中?」
「んなワケないでしょ! アレがあたしだって言うならなんであんな態度――!」
「だからオメーの中にはオメーが考えてるみたいなオメーだけじゃなくて――!」
「イミわかんない! そもそもなんであたしがもうひとり出てくるんだってハナシでしょ!」
「俺に訊くな! こっちが訊きてーよ! シャドウはそーいうもんなんだってハナシだろ!」
(ダメだこりゃ)
 陽介の「説明」とやらはほどなく口論へと移行していた。もっともこれは彼にというより、あたまに血が昇って聞く耳を持たなくなった千枝側に問題があるのだろう。クマと話しているあいだ漏れ聞こえてきたのはたいてい、千枝の「はあ?」とか「なんで?」とか「なに言ってんのアンタ?」とかいう、攻撃的でとげとげしい罵声に近い受け答えであった。
「里中」
「なにっ!」
 声をかけるなり開口一番に怒鳴られて、悠は気圧されてちょっと黙ってしまった。
 振り向いた彼女の面は真っ赤に上気している。潤んだ目がギラギラ輝いている。明らかに尋常の様子ではない。陽介が彼女に応酬して怒鳴りつけていたのはあるいは、不当な態度に憤ったのではなく、こんな異様な剣幕に恐怖した反動なのではと思われるほどだ。
(狂気じみてる。いったいなにに怒ってるんだ?)
 目の前に突然ドッペルゲンガーが現れればそれは驚きもしようし、そいつに不敵な言葉を投げかけられたなら、あるいは怒りもするかもしれない。が、いくらなんでもこの反応は異常に過ぎる。千枝からこれだけの反応を引き出すどのようなことを、彼女のシャドウがしたというのだろう。実にかのシャドウは冷たく「いいから消えて。ジャマ。ついてくんな」と言い放ったに過ぎないのに。
 悠は言葉を続けるのを止めて、まず彼女の面を無遠慮に見つめた。
「……なに! ちょっと!」
(怒ってるだけじゃないな。いや、怒ってるっていうより)
 これが千枝の精神的な病というのでなければ、彼女はなにかに必死になっているように見える。子供が自らの悪事の露見しそうになるや、訊かれもしないうちに浮き足だってアリバイをわめき立てるような、にわかな必死さ。彼女の肩を怒らせるその向こうに、悠たちが追いつくのを待っているのか、千枝のシャドウが腰に手を当ててこちらを見つめているのが見える。
(……さっきシャドウの言った、なんで戻ってきたって、まさか)悠は唇を噛んだ。(ひょっとしてもう接触してるのか? おれたちより前に、すでに)
「ごめん、なんでもない」と、いい加減に千枝を去なして、悠は傍らのクマに声をかけた。「クマ、さっき言ってた話」
「クマ?」
「里中に刺されそうになったって言ってたけど」ちらと千枝を見て、「その時からもう落ち着きがなかった?」
「そうクマねえ……」クマは千枝の反応が気になる様子だ。「うーん、ちょっとおっかなかったクマよ、なんかツンツンしてて」
 案の定、千枝はクマに食ってかかり始めた。
(じゃあ、やっぱり)
 千枝は自らのシャドウからすでに「先制攻撃」を受けている可能性が高い、ということだ。
 今日はどうしてこれほどまでにうまくいかない? どうしてこうも躓くんだ――思わず舌打ちが漏れる。千枝の錠前はもう泥に漬けられてしまった、鍵穴に泥を詰められてしまった。先に悠の思いえがいた都合のいいシナリオは早くも画餅に帰した。
 いま鍵を挿してどれほど回したところで、錠前の機構が傷つくばかりだ。彼女はもう半ば心を鎖してしまっている。陽介が今ほど試みてすげなく突っぱねられたように、いまさら「もうひとりの自分」の説明など受け付けまい。陽介がそうであったように、彼女はそれを認めることが大前提であるところのものを、躍起になって隠すことだろう。けだし彼女の必死さはかのシャドウに言われたであろうことを認める恐怖、そしていま自分とおなじ姿で現れた「彼女」が、自分のクラスメイトにそれを素っ破抜きはしないか、そして彼らがそれを信じはしないかという恐怖の裏返しなのだろうから。
 これで陽介のときと同じ悪条件、憤激混乱する千枝と、たぶん彼女と同じくらい激しい反応――加えておそらくは害意と暴力をも――を示すであろうシャドウとを説諭しなければならなくなった。まして陽介のシャドウが示してくれたような厚情を期待することはできない状態で、である。
「おい悠、シャドウが」と陽介が言って、考え込む悠の肩を指で突いた。「こっち来いって、手招いてっけど」
 見ると陽介の言うとおり、千枝のシャドウはこちらを呼ぶようにして、手を降ったり跳び上がったりしている。屈託なげに微笑むさまは本体の錯乱ぶりといっそ対照的である。
(まてよ、そうだ、まだ試すことが残ってる)
 突然、悠の脳裡にある考えが閃いた。もし千枝と、彼女から出てきたシャドウが本質的に同じであるなら、彼女にしようとしたことをシャドウに試みても同じ結果が得られるはずではないか?
(試す価値はある。まだやれることはある、腐るな、挽回だ! できるはずだ、おれはひとりのときだってできたんだ。今度はふたり、条件は格段にいいはずだ)
「……陽介、里中を抑えてて」
「ちょ、おい!」
「ぜったい里中をこっちに来させるな。あともし可能ならシャドウのこと、説明しておいて」
 それとタロットの準備も、と捨て科白して、悠は招かれるまま千枝のシャドウに近づいた。背後で千枝の「ちょっと、鳴上くんどこ行くの!」などとわめき散らすのが聞こえる。得体の知れない力を持つシャドウならいざ知らず、生身の女子高生ひとりくらいなら陽介単独でもじゅうぶん抑え込めるだろう。ふたたび彼女がゴールドオーブの破壊を企てなければ、だが。
「遅いよ、花村は?」千枝のシャドウは世間話でもしているふうである。
「まあ、ごらんの通り」悠は背後を示して見せた。「ところで里中」
「なに?」
「里中はその、里中に――いや、まず、ちょっと頼みがあるんだけど」
「お金ならないっすよ」千枝のシャドウは笑って言った。
「里中に金のことなんか言わないよ。鰻屋までは」悠も笑い返して、「そうじゃなくて、あのさ、里中のこと、千枝って呼んでいいかな」
 千枝のシャドウは「えへっ」と笑って盛大に照れ始めた。
「えー、なんというか、こう面と向かって言われるとハズいですなー……なんかハズいって言うのじたいハズいし。つか、えっと、なんでまた?」
 意外にも好感触である。悠はがぜん勢いづいた。
「どうしても。ダメ?」
「いや、いーけどさァ……や、いいよ、べつに、呼ぶがいいよ、どんと来いオラ」
「じゃあ、千枝」
「オス……ぐあ、めっさハズい……!」
「慣れて。それで、千枝は里中にはいつ会った?」
 赤くなってニヤニヤしていた千枝のシャドウが、急に顔色を変えた。
「里中って、アレのこと言ってんでしょ?」悠の肩の向こうをちらと見ながら、「あそこでキーキーわめいてるヤツ」
「いま赤くなってニヤニヤしてもいたね」
 千枝のシャドウは不快気に眉を顰めた。が、否定の言葉はない。「俺はお前だ」と言っていたのは陽介のシャドウだったが、彼女にしても同じらしい。シャドウは自分が何者なのかを、少なくとも言葉の上ではちゃんと理解しているのだ。
「それで、千枝はおれたちに会うより前に、里中に会ってた?」
「どういうこと訊いてるのかはわかるよ」と、千枝のシャドウは寂しげに言った。「でもなんかな、あたしも鳴上くんたちと一緒にこの世界に入って来たんだけどね」
「ごめん、わかってる」
「会ったよ。さっきの旧館のロビーに初めて来たとき、なんかすっごい懐かしくて、雪子のこと考えてるうちに、自分に……自分に話しかけることができた」
 悠の推測は当たっていたようだ。そこで千枝は恐らく陽介のときと同じに、なにか秘めておきたかった内心をシャドウに暴露されたのだろう。
「声きいただけであいつ逃げたけど」
「そう。それで、千枝はどうして自分がこんな……誤解を恐れずに言えば、里中と千枝とに別れてしまったか、理解してる?」
「わかんない。別れたってカンジとも違うけど……シャドウってやつのせい? ひょっとして」
「そう」
「……さっき花村が言ってたけど、そのシャドウって、あたし? ひょっとして」
 憫れみを催したものの、悠はきっぱりと首肯した。
「そっか」思いがけなくも、千枝のシャドウはあっさりと聞き分けた。「あたしは影か、そっかそっか」
 まったく感謝すべきは千枝の性のよさである。千枝本人こそ理性を失ってヒステリックになってしまってはいるが、ふだんの冷静な千枝に相当するであろうこの「もうひとりの千枝」の素直さ好ましさといったら! こっちが本体で向こうがシャドウならどんなによかったことか――こんな益体もないことを考えているうち、悠はふとある可能性に思い当たった。
 本質は同じ、というだけではない、そもそも両者には本体やシャドウという区別自体、存在しないのではないか?
「いや、影じゃないのかもしれない」
「そなの?」
「そうかもしれない……もし千枝がシャドウなら、里中もまたシャドウだ。ふたりが同じ里中千枝ならそういうことになる」
 確かにシャドウは本体にはない力を持っている。あの化物のシャドウを呼び寄せたりもする。そういった面からは弁別されるべきである。しかしだから「影」で、人間ではないということになるのだろうか? そもそもシャドウという名前がいけない。どうしてもネガティブな印象が際立つし、これではどこまでも本体に従属するおまけのように聞こえる。たしか最初にこう呼んだのはクマであったろうか。
(どういうつもりでシャドウなんて名付けたんだろう。そもそもなんで英語?)
「鳴上くーん……?」
「ごめん、ちょっと考えてて……とにかく」悠はひとつ咳払いした。「千枝は里中千枝の影じゃない。シャドウっていうのは便宜上の、ただの用語。気にしないで」
「そうなんだ……つか、影っていったらさ」ふたたび悠の肩の向こうを見ながら、「むしろ向こうのほうが影っぽいよ。見てよあのウザさ、花村マジでかわいそすぎる」
「里中はそう考えるだろうね、きっと」
 ちらと背後を覗うと、果たして陽介と千枝はクマを巻き込んでのつかみ合いになっていた。手足が出るくらいならまだしも、彼女が右手に持っているものを活用しようなどと考え出さないよう祈るばかりだ。
「それが自然だと思う。自分がもうひとり現れるなんてあり得ないことだ、どんなに似てたって、ふつうはそれがもうひとりの自分だなんて考えない。姿形を似せた偽物だって考えるのは普通のことだ」
「そうかな」千枝のシャドウの言葉には否定的な色が滲んでいる。
「でも千枝は違う、だろ? 千枝は里中が、そりゃあどうしようもなくムカついて、ウソつきで、最低なヤツだって思ってはいても、自分と同じだってこと、わかってるはずだ」
「……なんで、ハズ、なの? 鳴上くんになにがわかんの?」千枝の目に金色の光が兆す。
(なにか失言があったか? 慌てるな、挽回)
「陽介がそうだった。陽介も同じだったんだ。このあいだあいつが千枝に縄を押し付けて、おれに体当たりしてテレビに入ったとき」
「ホントに?」
「ホント。陽介のシャ……もうひとりの陽介が出てきて、陽介のことをメチャクチャに罵った。お前はどうしようもないクズで、綺麗ごとばっかり言ってるけど、本当は汚らしいことばかり考えてるって」
 千枝のシャドウは不快気に押し黙っている。悠はこれを図星をつかれた決まりの悪さと解釈した。
「千枝もそう思ってるだろ。違う?」
「別にんなこと考えてないけど。なんでそうなんの?」
「そう? ならいいんだけど」
 ウソだ――悠は心中でほくそ笑んだ。それでいい、開き直られでもしたらかえってやりづらくなる。見栄だろうと虚勢だろうと重要なのは「わたしは彼とは違う」という姿勢である。
「でも陽介の場合は違ったんだ。もうひとりの陽介は確かに本当のことは言ってた。でもひどく一面的で、そいつの言うことを全面的に信じれば、花村陽介はいいところなんかひとつもないひとでなしになってしまうほどだった。陽介のほうでも腹を立てて、おれはそんなんじゃない、ウソをつくな、おまえは偽物だって、頑なになった」
「…………」
「本当に大変だったんだ、なんせお互いがお互いの言うことなんかぜんっぜん聞きゃしないんだから。あいつって分からず屋なところ、あるだろ? おれより付き合い長い千枝ならいくらでも思いつくと思うけど」
「んん、まあねえ」
 千枝のシャドウの面にかすかな笑みが浮かんだ。もちろん、陽介は決して分からず屋なわけでは――もし彼にそんなことを言ったら、鏡に向かって言えと笑われるだろう――ない。二、三日してふたたび訊けば、彼女とてもっと答えに慎重になることだろう。が、こんなふうに前置きすればよほど実態とかけ離れていない限り、実際にはそうでなくともそうと錯覚するものである。それは彼女をして「陽介はそんな体たらくだが、同じケースに遭遇したとき、わたしはもちろん彼よりうまく立ち回るだろう」という、自尊心をくすぐる想念であるから。
「聞く耳を持たないヤツがふたりだ、分かり合えるはずなんかない。あのふたりのあたまの中にいる花村陽介って言ったら両極端で、おまえは悪魔だ、いいやおれは天使だって、終始こんな感じなんだ」
「あー、なんか思い当たるフシが……」
 さだめし今ごろ彼女のあたまの中では、著しい例外の一般化が行われているのだろう。陽介には気の毒な話だが、いましばらくは彼女の中で彼女に都合のよいまぬけを演じてもらうことにする。陽介の例をわかりやすく「悪しき前例」として戯画化・寓話化すれば、彼女はおなじ轍を踏むまいとその事例を意識するはず。
「それで、ここからが重要なんだ、よく聞いてほしい――千枝はたぶんシャドウを、化物を呼ぶことができる」
 千枝のシャドウが眉を顰めた。
「正確には、勝手に集まってくるんだ、化物が」おまえも化物になるのだ、とは言わないほうがいいだろう。「千枝が里中に怒ると」
「……なんで? 化物?」
「陽介のときがそうだった。陽介のときも、小西先輩のときも、山野アナのときも――覚えてる? あのアパート、メゾン・ド・ラ・ネージュ」
「最初この世界に入ってきたとき行った、あそこ?」
「んん。あの部屋のベッドにあったひどい臭いのするシミ。クマに聞いたんだけど、あれは人間が化物に襲われた跡なんだ。あのときはなんとなく言っただけだったけど、あれは本当に死体の跡だったんだ、山野アナの」
 彼女は口を半開きにして悠の言葉を待っている。
「小西先輩の『跡』も、おれたちは見つけた。遺品があったし、状況から考えてほぼ間違いないと思う」
「遺品って……教室で言ってた話?」
「そう。あのとき陽介が仄めかしたかもしれないけど、実際はもっといろんなことがあった。さっき言った化物にも襲われた、陽介はもうひとりの自分を怒らせたから」
 千枝のシャドウの面が色濃い憐憫に翳った。彼女はしばらく黙って悠を見つめたあと、「マジで大変だったんじゃん」と呟いた。
「なんで言ってくんなかったの? あたし思いっきり蹴っちゃったじゃん、何回も。サイテーとか言っちゃったじゃん」
「どうしてかわからない? あのときも、きのうジュネス行ったときも、今日だっておれたちは千枝に入ってきて欲しくなかった。こうなるかもしれないって思ってたから」
「こう……って?」
 悠は黙って千枝と千枝のシャドウを指さした。
「千枝と、里中に別れて、自分同士でいがみ合う事態に。口論で済めばまだいい、けど山野アナや小西先輩や、陽介の例が示すのは仲違いなんかじゃない、自分の殺害なんだ。千枝は里中と話し続ければ、必ず里中を殺してしまう」
「…………」
「自覚があるかもしれないし、今のところはそこまで憎いわけじゃないかもしれない。ひょっとしたら危ういところで、千枝になんとかそれを踏み止まることができるかもしれない。けどシャドウが集まってくればもう終わりだ、シャドウたちはそんなことお構いなしだ。必ず里中は死んで、おれたちの元いた世界の電柱かなにかに、変わり果てた姿で吊されることになる。その両隣をおれと陽介が飾るかもしれない。でもそれを防ぐ方法はある――千枝と里中がお互いを認め合って、和解することだ」
 千枝のシャドウが唇を噛んだ。その「和解」の困難さがわかっているのだろう。
「千枝、里中を見ててどんな気分になる?」
「どんなって言われても……」
「あたまに来る? ぶん殴ってやりたい? いや、もっと根深い感情のはずだ。陽介から出てきたもうひとりの陽介はこんなことを言ってた、おまえはおれに汚いものばかり押し付け続けてきたって。この言い分には一理があると思う。陽介は自分の汚さを認めなかったし、そうであることをいままで考えたことはあったかもしれないけど、少なくともふだん意識に上すことはなかったんだと思う。そりゃふつうは忘れる。そんなことをいつまでも覚えているのは骨だから、無意識に忘れてしまうもんだ。だから陽介の汚さに苦しむのは、それをずっと覚えているもうひとりの陽介だけってことになる」
 ひとがふと折に触れて過去の失敗や罪を思い出すのは、あるいはこのもうひとりの自分――シャドウが自らに語りかけるからなのかもしれない。もっとも悠の場合、自分がなにをしていたのかさえ知らなかったのだが。
「いままでわたしが努力して積んできたレンガを、掠めたり壊したりしかしてこなかったヤツが、わたしを差し置いてこれを築いたんだってふんぞり返ってる。どうしようもなく腹が立つ。不当だ、犯罪だ、おまえこそわたしを騙る偽物だ、わたしこそがわたしなのだ――里中を見てて感じるのって、こんなふうじゃないかな」
 千枝のシャドウは俯いて黙り込んでしまった。
「……わかり難かった? 見当違いだったかな」
「ううん、言いたいことはわかった。えっと、そんなカンジなんだと思う、たぶん」と言って、千枝のシャドウは面を上げた。「ちなみにさ……鳴上くんはどーだったの?」
「え?」
「あたしっつか、シャドウっつか、もうひとりの自分? みたいなの、遭わなかったの?」
「おれは遭わ――いや」今度は悠が俯く番である。「遭った、遭ったよ。たしかに遭った」
 たしかに悠は自分のシャドウに遭っていた、それはまさしく悠の中にいたのだった。彼は口をきわめて悠を罵った。今までの生き方を蔑み、無知のはなはだしきを呪い、悠が後生大事に首にかけて得意になっていたものをこう評した。いわく「偏見」と「軽蔑」であると。
「ホントに?」
「ホントに。遭いたくなかった、遭うだけであれほど苦しいものなんて他にない、里中と千枝を見ていて改めて思う。里中は千枝になにを言われたって辛いだろうし、千枝は里中の顔を見るだけでムカつくだろ」
「…………」
「それでも遭わなきゃいけない、こうしてお互いが目の前に現れたからには。背中合せだった今までとは違う。会って、話し合って、理解し合わなきゃ」悠はため息をついた。「……ほんとうは、里中に言わなきゃいけないことなんだろうって思う。陽介ともうひとりの陽介の話だけど、ふたりにはふたりそれぞれの思い違いがあった。さっきの喩え話じゃないけど、陽介っていう建物は、ふたりで壊しながら組み立ててきたもののはずだ。でも陽介たちはその功罪を峻別して、手元に置くにせよ相手に押し付けるにせよ、功と罪とを一緒にしはしなかった。悪いのはほとんどぜんぶ相手のほうで、自分に非はないみたいな考え方をしていた。たぶん里中と千枝にも多かれ少なかれ、そういう傾向があるんだと思う。それは双方ともに改めなきゃいけないことだ。でも最初に行動を起こさなきゃいけないのは、やっぱり里中のほうだ」
「んん」
「だから、頼むしかない、どうか千枝のほうから歩み寄って欲しいって。里中はもう理性を失ってる、あっちを説得して、千枝と話せるだけの忍耐と理解を用意するのにはかなりの時間がかかる。でもおれたちにはその時間がない」
「雪子」
「そう。クマが言うには、人間からシャドウが、もうひとりの自分が出てくるのは、この世界から霧が晴れたときだって話なんだけど、必ずしもそうじゃないらしい。千枝がこうなってるみたいに、天城も同じようになっているかもしれない。あるいはこの城にいるらしいシャドウに、今ごろは追いかけ回されているかもしれない。千枝、もしどうしても里中に我慢ならないなら、それなら天城のために堪えて欲しい」
「雪子のために」
「天城のために。千枝がさっき言ってただろ、雪子のためならなんだってできるって」
 千枝のシャドウがくすっと笑って、「そんで鳴上くんにオマエなんかできないって怒鳴られたんですけど」と言った。
「……ごめん、おれアホだから、あんまり気にしないで」
「ジュネスの外でだってさー、オマエは雪子じゃなくて雪子が大事な自分が大事なのかーとかってさー、フンマツテントーとかってさー」
 冷や汗が出た。よく覚えてないなどと言っていたのはウソだったようだ。
「ホントにごめん。すいません。許してください」
「よしよし……拙者とてオニではない、条件しだいではゆるしてやらんこともないぞよ」
「なんでもしますから、先輩」悠は半ば笑って言った。
「えーと、じゃあウナギなしとかァ……いいすか?」千枝のシャドウは急に弱気になった。「あのですね……おカネなくてですね」
「ぜんぜん! むしろおれが奢る」
「マジですか! あーよかった、やーホントはお詫びしなきゃなんだけど、今月キッツくてさー……その、蹴っちゃったお詫びはいずれまたってコトで」
 いったい陽介といい彼女といい、シャドウには今月の窮状を訴える性質でもあるのだろうか。
「もちろんそれでいい。それプラス、もし里中と冷静に話し合いができたら」
「へ?」
「こっちから頼むんだから、とうぜん報酬がなきゃ。里中とちゃんと話し合うことができたら、そうだな、金額無制限の奢りとかどう? 十回分」
 それまで笑顔だった千枝のシャドウが、みるみるうちに潮垂れてしまった。
「あたし自信ないよ……やるだけやってみるけど」
「十二回」
「向こうの出方しだいってトコもあるし、あたしだけの問題じゃあ」
「十五回」
「……もうひと声」
「十……八、いや、二十!」
「そうまで言われて断っちゃあ、女がすたる」千枝のシャドウは半ば笑いつつしぶい声を出した。「里中千枝、やらさしていただきやす」
「ただし個々の上限は二千円まで」
「あっ、ずるい! 卑怯!」
 千枝のシャドウがつかみ掛かってきた。本人はじゃれているつもりかもしれないが、悠にとってはヒグマとはいわないまでもツキノワグマに弄ばれるくらいの事件である。
「手加減! 千枝手加減! 腕が折れる!」
「あ、ごめんごめん」
「悠!」
 にわかに背後で陽介の叫ぶのが聞こえる。どうやらこの騒動を悠への攻撃と考えたようで、彼はタロット片手に血相を変えて駆けてきた。
 もちろん、後ろに千枝とクマとを従えて、である。





[35651] シャドウ里中だから、シャドナカ?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:7f716c06
Date: 2013/07/24 00:02


(来たか。正念場だ)
 時間が経って少し落ち着いたのか、それとも陽介の説得が功を奏したのか、千枝は先ほどよりは冷静を取り戻したように見える。悠はポケットに手を突っ込んで、片手でシガレットケースを開いた。これを咥えずに彼女たちを和解させることができればいいのだが……
「シャドウてめ――!」
「陽介まった! 大丈夫だ!」悠は諸手を上げて無事をアピールした。「なにもされてない。ちょっとふざけてただけだから」
「つったってお前ウデ折れるとか」
 陽介は胡乱な目つきで千枝のシャドウを眺めている。彼もまた人とシャドウの性質――両者にはほんの些細な違いしかなく、ましてそれは本質に関わるものではない――を理解しているはずだし、つい先ほどは彼女と戯れさえしていたのだが、彼の視線は千枝に向けるものと同じにはとうてい見えない。今ほど親友の腕をへし折ろうとしていたことに対する激昂を差し引いても、彼の見ているのはやはり千枝ではなくシャドウなのだろう。
(仕方がない、陽介は少なくとも、自分のシャドウに命を狙われた。千枝もまたそうするだろうって思ってる)悠は首を振って否んだ。(でもそうはならない。させない、おまえとおれでだ)
 陽介の右手には千枝から取り返したらしい、例のナイフが握られている。
「取り返したな」
「え? ああ、まあ」
「里中にはもう?」
「説明か? いちおうしたけど」ちらと背後を振り向いて、「……理解してっか微妙だけど」
「いいよ、じゃあ、本番いこう。ちょうどよかった、こっちも準備はできてる」
「本番……って? なんの?」
「これからすぐ説明する――ほら、主役の登場だ、付き添いは退いた退いた」
「主役って……」
 陽介は首を傾げつつ、それでも言われたとおり背後の千枝に場所を譲った。彼女の表情は硬くけわしい。ましてシャドウの前に立ったことでその険はいよいよきつくなるのである。
「あんた――」
「里中ストップ」悠は手のひらを突きだして千枝を遮った。「最初に話しても?」
 千枝はムッとしたものの「どうぞ」と大人しく譲った。
「ありがとう。さて――陽介、里中のセコンドについて」
「セコンドォ……?」
「とりあえず横に立ってて、クマはこっちに来て」
 悠以外の四者それぞれ、これからなにが起きるのかと困惑気に彼を見つめている。
「よし、じゃあ、里中、千枝」
 千枝が不審気に「千枝?」と呟いた。
「だれ、チエって」
「おれの隣にいるひと」千枝のシャドウを示して、「千枝っていう」
「ちょっと、ふざけないでよ」千枝が険悪な声を出した。
「じゃあ、里中のほうを千枝って呼ぼうか」
「勝手に名前で呼ばないで欲しいんだけど」
「うれしいくせに」千枝のシャドウが嘲るように言った。
「ああっ? あんた――!」
「ストップ! 両者とも静かに!」悠はレフェリーよろしく両者のあいだに割って入った。「……千枝、挑発しない」
「ごめんごめん」
 と言って、千枝のシャドウはおもねるようにはにかんだ。 
「まず、ふたりの了解が欲しいんだけど」
「あたしは鳴上くんの言うとおりにするよ、なんでもね」
 先んじて千枝のシャドウが宣言した。これは悠への賛意というより千枝へ向けたもので、「でもあんたは大人しく従ったりしないんだろうけどね」とでも言わんばかりの、針のような挑発まじりの言葉である。
「ありがとう。それで、里中は――」
「いいよ、好きにしたら?」千枝もまた内容を聞かないまま、おそらくはもっぱら対抗心からおざなりに肯んじる。「なに始まるのかわかんないけど」
「ありがとう……じゃあ、ふたりの了解を得られたということで、まず始めに宣言しておく。ふたりだけじゃなくて、陽介もクマもよく聞いて欲しい」と前置いて、悠は大きく息を吸い込んだ。「これより第一回、テレビの中の住人会議を執り行う。議題は里中千枝について」
 陽介と千枝が異口同音に「はあ?」と疑義を表明した。クマは電源が落ちたみたいに無反応である。なにが起きているかわからないのだろう。
「興味深いだろ?――なお、里中と千枝はこの場で話し合った上で、お互いを完全に理解し合わなければならない」
 千枝のシャドウがふたたび唇を噛む。千枝のほうではたちまち頬を紅潮させて、
「ちょっと待ってって、ほっときゃいいじゃんこんなの!」と、千枝のシャドウを指さしてわめいた。「そっちこそついて来んなってハナシだよ。このへんに住んでんでしょ? さっさと帰れよ」
「んだとコラ――!」
「千枝おさえて! ブレイク!」悠はふたたびレフェリーに戻った。
(いちいち反応するな……聞き流すのがそんなに難しいのか?)
 先にあれほど切々と事情を説明して、そのうえ報酬まで約束した手前、もう少し理性的な対応を見せてくれるものと思っていたのだが、どうも千枝のシャドウは彼の話をあまり念頭に置いてくれていない様子である。悠はふいに自身のうちにきな臭い失望の煤煙を嗅ぎつけて、次の瞬間にはあわててそれを振り払った。いくらなんでもこれは結論を急ぎすぎている。
(いや、それだけ自分と向き合うのは難しいってことなんだ、そりゃそうだ、ちょっと言い含めたくらいですぐに認識が改まるはずなんて……)
 今ほどの失望は果たしてシャドウへのものか、それとも自分へのものだったのか――悠はひっそりとため息をついた。
「里中、千枝はどこまでも里中を追うぞ、なんせ目的が一緒だし、里中を憎んでもいる。どういうことを言ってるか、里中はもう千枝から聞いてると思うけど」
 千枝の面に恐怖と焦燥とが過ぎって、すぐにそれはシャドウへの憎悪に塗り変わった。彼女はシャドウが自身の暗部を悠に暴露したとでも思ったのだろう。
「まって、やめてよちょっと……まさかそいつの言うことなんか信じてないよね」
「千枝は信じられないようなことはなにひとつ言わなかったし、千枝が信じて欲しいと思ったことで、おれを欺かなきゃそうできないようなことはなにひとつなかった。千枝は里中と同じで、正直で誠実で信頼できる、ウソをつかない人間だった」
 傍らの千枝のシャドウが小さく「やっぱり十五回でいいよ」と呟いた。
「どうも――里中、千枝はおれに、里中がこんなことを考えてるだとか、こんなヤツだとか、とにかく陰口めいたことはいっさい話さなかった」正確には、あまり話さなかった。「なぜって、それは千枝のことでもあるからだ。里中千枝は自分を貶めてへつらって、他人の同情を買おうとするような人間じゃないし、そんなことを他人に触れまわって空疎な迎合をもらって、それでなにかした気になるような人間でもない。そのくらいは知り合って一週間に満たないおれでもわかる」
 傍らの千枝のシャドウが小さく「上限は千五百円でいいや」と呟いた。持ち上げてみるものである。
「助かる――里中千枝の話を聞くべきなのはおれじゃない、里中と千枝なんだ。だからふたりはお互いの話を聞かなければならない、理解し合わなければならない。もし両者に里中千枝であるという自覚がほんの少しでもあるなら」
「あのさ、ちょっと」と、千枝が割り込んだ。
「なに?」
「……なんでそいつの肩ばっか持つの? あたしのほうが偽物だとかって思ってるの?」
 責めるような、訴えるような口振りで、千枝は心外このうえないといった態度である。今ほど悠の語った「里中千枝」評を、彼女は一方的なシャドウ擁護の弁と聞いたらしい。
「おれは千枝について言及したんじゃないよ、里中千枝について話しただけ。あと里中も千枝も偽物じゃない、ふたりは片割れ同士なんだ」
 千枝は明らかに納得していない様子で、言い返すことこそしなかったものの不満ありげに押し黙った。この様子を見ていたシャドウが小さく、いかにも蔑むように、それも悠に同意を求めるように鼻で嗤うのが聞こえる。
 思わしくない傾向である。これは千枝憎しのジェスチャー以外のなにものでもない。
(よくも悪くも、千枝もやっぱり里中千枝だ)失望に代わって諦念が滲む。(簡単に感情的になる。さっきの根回しがどれほど効いてくれるか……)
 シャドウの忍耐に過度の期待はしないほうがよさそうだ。
「ここに偽物なんかいない、ふたりはふたりとも本物だ。だからしつこく言うけど、両者は完全にお互いを理解し合わなければならない」とひとまず結んで、ひとつ深呼吸したあと、悠はふたたび口を開いた。「これができなかった場合、里中千枝、鳴上悠、花村陽介、クマの四者は死亡する」
 千枝と陽介が不審気に「なに言い出したんだコイツ」とでも言わんばかりの視線を送ってくる。クマは数秒ほど呆けたあと遅ればせながら、口に手をやって自身の驚きを表現した。
「できなかった場合というのはすなわち、話し合いが決裂して、この千枝の許にシャドウの大群が集まってくることを意味する。――里中は陽介から聞いた?」
 千枝はちらと陽介を一瞥したあと、小さく首肯した。
「それは冗談じゃない、ほんとうの話だ。おれたちにそれを止めることはできない。集まって来さえすれば千枝本人でも止められない。つまり、山野アナや小西先輩がそうなってしまったように、おれたちはシャドウに襲われて、たぶんかなり苦しい目に遭って短い人生を終えたあと、新聞に載ったりテレビに出たりしてちょっと有名になる」
「…………」
「加えて天城雪子も死ぬ。天城のほうはおれたちより深刻だ、いまごろもうシャドウに襲われているかもしれない、天城には時間がない。だからこの会議は時間制限付きだ」
「ちょ、お前、死ぬとかなに急に」陽介が割って入って来る。
「ここにシャドウが押し寄せればそうなるだろ」
「ペルソナがあんだろ。俺とお前の」
「おれはペルソナを出さない」
「はあっ?」
 悠はポケットからタロットを取り出して陽介に示したあと、それを足下に放った。
「無意味だからだ。どのみちこれだけ広い場所で四方八方から襲いかかってきたら、ふたりだけじゃ防ぎきれない。恐怖に震える時間を稼ぐのがせいぜいだろう。陽介、おまえもムダな足掻きなんかしないで、タロットを床に置くんだ。神妙にしよう」
「おま――!」
(たのむ陽介、この場は従ってくれ、ポーズでいい!)陽介を睨み付けながらも、心中では拝まんばかりである。(おれが考えなしにこんなこと言い出すだなんておまえは思ってないはずだ!)
 先に彼が千枝にしたらしい「説明」の内容はわからないが、もしペルソナのことを話しているとしたら、彼女はたとえどれほど疑ったにせよ、悠と陽介がシャドウから身を守る術を持っていることを知っている、ということになる。これはうまくない。千枝にも彼女のシャドウにも、自分たちの発言には五人分の命の重みがあるということを自覚してもらわなくてはならない。
 陽介はしばらく承伏しかねるといった様子で黙っていたが、ややあって、
「……死んだら枕元に立つぞ、マジで」
 どうにでもなれとばかりに、手にしていたタロットを投げ捨てた。
「おまえが死ぬときはおれも死んでる。里中も、天城もね。そのときは四人でなかよく諸岡先生のとこでも行こう――さて」
 悠は千枝と、彼女のシャドウを交互に見て、腰からハンディライトを引き抜いた。
「ちょっと余談になるんだけど」と、前置いて、「その昔、古代ギリシャでは会議を執り行う際、発言権を象徴する杖が用意されていたという。司会者がそれを受け渡しして、それを渡されたひとだけが話をすることができた。反対にそれを持っていない他のひとは黙っていなければならなかった。反論や野次で議論が停滞するのを防ぐためのものだったんだけど、これってちょっといい習慣だと思わないか?」
「コダイギリシャってなにクマ?」と、クマが身体を傾いだ。
「古代のギリシャのことだよ――でだ、今回はひとつ古に範を採って、この方法に則した形で進めようと思うんだ。エンシェントグリースルール、カッコいいだろ? ちょっと今ふうにアレンジするけど」
 このふたりをお互い息の続くまま喋らせれば、じき口論を経てシャドウが集まってくる事態となるのは避けられない。彼女たちにちゃんと話し合いをさせるのなら最低限のルールが要る。もっとも、こんな紀元前の流儀が通用するのは参加者がよほど理非をわきまえているか、時間的な制限に縛られていないか、叙事詩の中での場合くらいに限るだろう。古代ギリシャなどという骨董的権威を持ち出したのはひとえに、そうすることで彼女たちがおたがい直接返事をできないようにするという意図よりほかない。
「杖はないから、このライトが代わりだ――里中」
「なに」
「先に千枝から話してもいい? それとも里中から?」
「あたしが先で」
「じゃあ、里中が先行で――これを手に取る前に、しつこいようだけど、理解しておいて欲しい。ふたりが物別れに終わればおれたちは全員死ぬ。長引いても天城が死ぬ」
「…………」
「双方とも、話すときは理性と論理によってのみすること。決して感情的にならないこと。相手が話している最中は真剣に聞くこと。耳を塞いだり挑発したりしないこと。話し終えたら杖はおれに返して。あと特別ルールとして――陽介」
「え、なに、俺?」
「おまえ。陽介は里中が杖を持っているとき、一緒に話すことができる。千枝に杖が回ったときはおれが一緒に話す。つまりこの杖はカップル用ってわけだ」
 陽介はちょっと考えるふうを見せたあと、「わかった」と肯った。この「わかった」が悠の真意を理解したうえでの返事であることを願うばかりだが、おそらく彼は誤るまい。陽介もほんの二、三日前は当事者だったのだから、あのとき悠がやったこと、その発展としていま悠が彼と共同でやろうとしていることを推測するのは難しくないはず。
 千枝の手に「発言権」が渡る。さあ陽介、お手並み拝見だ――と腕を組む間もなく、彼女はライトを受け取ったなり斬り付けるように、
「あんたは偽物」
 とだけ言い放って突き返してきた。ほんの一、二秒のことで、陽介はなんの反応もできないまま呆気に取られていた。
 冷や汗が出る。
(コイツ……おれが今まで長々話したことを聞いてたのか? 言葉の選び方しだいでおれたちは枕を並べて死ぬんだぞ!)
 ちらと怒りが兆すが、もちろん千枝のシャドウのほうはそんなものでは済まない。たちまちその双眸に金色の炎が揺らめき始める。それでもなんとか黙っていてくれたのは持ち前の順法精神からか、悠の懇切な説得のおかげか、あるいはステーキ十五皿の魅力のゆえか――なんにせよ二度目に期待はできまい。
(くそ、里中のヤツ予想以上に頑なだ。ちょっと千枝の肩を持ちすぎたのか?)
 先ほど千枝の見せた、あの裏切りを糾弾するような目つきがにわかに思い出される。少し判断を誤ったのかもしれない、うまくシャドウの歓心を買えたまではよかったものの、それによって千枝が意固地になる可能性にまでは思い及ばなかった。
「もういいの? もうないなら千枝に渡すけど」
「はやくしなよ」
 返事もごく冷たい。そして始末の悪いことに、彼女のシャドウがこの返事を聞いて義憤も露わに「ムカつかない? コイツ」とひそかに耳打ちしてくるのである。
 悠は胸中で呻いた。
 千枝のシャドウはいまや完全に悠を味方と――もちろん、先の説得のおかげによるところが大きいのだろう――認定しているようだ。が、それはどうやら純然たる信頼関係ではない、自らの好悪の情に同調することを当然のように希求する、あの小学生の友情じみた側面をも持つらしい。
(これが里中のウラの面ってわけだ。べつに意外なことじゃない。小学生? 中学でも高校でも大して変わりゃしないだろう、みんなこんなもんさ……)
 などと訳知り立てしてはみるものの、むろん意外であった。悠のあたまの中で理想化の綺羅を着せられた千枝は、たしょう手が早いという短所はあってもさっぱりした気持ちのよい好人物で、こういう陰湿な一面とは無縁に思われていたものだから、その感慨はひとしおである。忘れかけていた「友情の臭み」が思い出されるようだ。
「鳴上くんライト貸して。ちょっとガツンと言ってやるから」
「ごめん、ちょっと待って」
 と、千枝のシャドウに言い置いて、悠は少し離れたところで省電モードに入っていたクマを指で突いた。
「クマ、ちょっといい」
「……へ? クマ、クマ?」話しかけられると思っていなかったらしい、クマはあたふたと再起動を始める。「だ、だいじょうぶクマ、把握してるクマ、えーとえーと、チエチャンがコダイなギリシャで、イニシエのハーンで、ホウオウにソクイして――」
「この近くにシャドウはいる?」千枝が中華皇帝になる前に悠は割り込んだ。「ここに集まってきたりしてる?」
「シャドウクマ? とりあえずこの近くにはいないし、集まって来てもないクマ、けど」
 千枝のシャドウはまだ理性を保っているということだ。少なくとも今はまだ。
「それと、この城にいる人間――おれたち以外の、もともとここにいた人間だけど、そっちはその、どう、かな」
 この「どう」に詳しく言及する勇気がなかなか出ない。が、クマはこともなげに「だいじょうぶクマ、無事クマ」と請け合ってくれた。
「よかった」
「ただ」
「たっ……ただ?」少し目方が減ってるとか?「ただ、なに?」
「うーん……移動してるクマ、移動してるみたいクマ」
「移動」
 出口を探してさまよっているのか、シャドウから逃れるためにそうしているのか、あるいはここで新しく知り合った友達にキッチンへ案内されているところか――なんにせよせめて自らの脚でそうしてくれていることを祈るばかりである。
「ありがとう……なにか動きがあったらすぐ報せて。シャドウと人間と、両方ともだ」
「わかったクマ!」
(タロットは足下にある。すぐ拾える)
 陽介もそれほど遠くに投げたわけではない、もし「その」ときが来ても合図すればすぐペルソナを喚べるだろう。
 悠は剣の刃渡りを覚悟した。
「じゃあ、次は千枝の番だけど――」千枝のシャドウに歩み寄ると、悠はライトを手渡す前に彼女に耳打ちした。「千枝、千枝は陽介とは違う、陽介はもうひとりの陽介の挑発に乗って失敗したけど、千枝はやり遂げられるはずだ」
 シャドウはちらと悠を見て、ウンと小さく頷いた。
「里中の悪口に悪口で応酬しちゃいけない、同じ次元に立っちゃいけない。好機と思うんだ、ここで千枝が冷静を保てば里中を主導できる。相手の無礼に対するもっとも効果的な復讐は礼儀だ、里中はそういう千枝を見て自身の言動を恥じるだろうし、陽介もクマも千枝に対する心証を改めるはず」
「……そうかな」
「がんばろう」
 がんばろう、もし正しく議論を進めるつもりであるなら――千枝のシャドウがライトを受け取った。彼女の言動次第によっては別の頑張りを要求されることになるが。
「まず、あんたはあたしのこと、偽物だって思ってるらしいけど」シャドウが口火を切った。「つか、思おうとしてるみたいだけど」
 千枝は無表情である。
「認めたくないんだよね、さっきあたしが言ったこと」
「もちろん、認めたくないのは里中だけじゃない」と、悠は誰にともなく口を開いた。「おれもそうだ、陽介もそうだった、千枝さえそうだ、どうして里中だけそうでないなんてことがある?」
 千枝のシャドウがちょっと困惑した様子で悠を見た。
「ごめん、割り込んだ? どうぞ続けて」
「いいけど……」彼女は気を取り直して、ふたたび千枝に向かって眦をそびやかした。「もういっかい言ってあげる、今度は逃げないでよね――あんたは雪子を見下してる。蔑んでる。自分を持ち上げるためにあの子を食い物にしてる」
 いったい誰よりも雪子を案ずる千枝に、こんな科白ほど憤ろしく憎たらしく響く言葉もないだろう。かつそれでいてシャドウがこれほどはっきりと断じるからには、おそらく千枝の内心にはこういった感情が渦巻いてもいるのだ。どれほど認めがたいことだろう、たとえ冗談にさえ「まあ、確かにそうかもしれないけど」などと言えるものではない。しかも彼女はそう言わなければならない。
 千枝の面が憤激に歪む。
(耐えろ里中、この一撃だけでいい! 歯を食いしばって堪えろ!)悠はわれ知らず、手のひらが白くなるほど拳を握りしめた。(この一撃だけでいい、そうすればあとはおれが意地でも逸らしてみせる!)
「ざっけんな偽物」千枝が呪わしげに呟いた。
「里中、ルールを守って」悠は胸中であたまを抱えて絶叫した。「反論の機会はこのあとたくさんあるから……」
「あームダムダ、こういうヤツだから」シャドウが嘲り含みに、例によって暗黙の同意を求めてくる。「話すだけムダだったってこと。こんなバカほっといてはやく――」
 悠は無言でシャドウの持っていたライトをふんだくって、怒りに燃える千枝にそれを突きだした。
「はい、つぎは里中の番」
「ちょ――鳴上くん? まだあたし話してるのに」千枝のシャドウは呆気にとられている。
「ペナルティ、挑発と侮辱。強制的に相手の番になるよ」
 静かにそう言ったあと、悠は一変して荒々しく「千枝はさっきおれが言ったことを少しでも聞いてたのか?」と半ば怒鳴りつけるような口調で続けた。
「その前にルールを説明したのを千枝は聞き流してたのか? そのさらに前におれが長々と説明したことは? いったいいつおれが里中にバカって言えって頼んだ、ええっ?」
 シャドウはこのにわかな剣幕にいたく驚いた様子で、あわてて取り繕うように宥めるように「ごめん、でも向こうが先に」と釈明する。
「向こうが先にやればこっちもやっていいのか。千枝は相手をバカにしながらその同じバカに成り下がってるんだぞ。それってもともとバカであるよりよっぽど始末に負えないって思わないか」
 噛み付くようにまくし立てた悠だったが、ここでふたたび声音を変えて、今度は非常にやさしく、
「ごめん、言い過ぎた。でもおれたち全員と天城の命がかかってる、不用意なことは言えないはずだ、そうだろ?」
 と、シャドウにだけ聞こえるように続けた。
 最悪、彼女の怒りを買って言い争いになりかねない際どい物言いだったが、シャドウの面にいまだ反発めいたものの兆す気配はない。予想どおり彼女からの信頼はことのほか篤いようだ。千枝のシャドウはすっかりしょげ返って「んん、ごめん」と殊勝に詫びた。
 こういうところはまったく里中千枝の美点である。一方こうしてきびしく難詰されているシャドウの姿を見て、千枝のほうでは毒気を抜かれたように呆気にとられている。いくらか溜飲も下がったものか、その面に先ほどの憎げな色はない。――せっかく肥らせた信頼をあまりこういうふうに使いたくはなかったが、
(こうなってしまった、仕方ない、剣の刃渡りだ。シャドウの好意を利用するしかない)
 千枝と彼女のシャドウ、どちらの歓心がより重要かといえば、それはもちろんシャドウ側のほうだ。千枝がどれほど精を出して暴れたところでクラスメイトのゴールドオーブがいくつか欠ける程度だが、シャドウのほうはそんなものでは済まない。安全側を採るならシャドウに肩を入れるべきで、たしょう千枝の不興を買ったところで仕方のない話ではある。が、それも話し合いができないくらいに偏ってしまえばそうも言っていられない。
 冷静な話し合いには公平の椅子と中庸の円卓が不可欠である。悠は無条件にシャドウへ味方すると千枝が考えているなら、そうでないことを示さなければ。シャドウから得た信頼を切り売りしてでもシーソーの平衡を保たなければ。
「どうぞ里中――ごめん、うるさくして」
「いや、いいんだけど」
 ライトが千枝の手に渡った。陽介が先ほどからしきりに目配せしてくるのに、悠は微かに頷いて見せた。 
(頼むぞ、おまえもいっときは当事者だった、里中の気持ちはよくわかるはずだ)
 陽介はまかせておけとばかり、脇に垂らしたままの両手の親指を上げた。悠は陽介がちゃんと立ち回ってくれるだろうと踏んでいる。彼は決して舌鋒犀利というわけではないが、千枝を説得するとしたらむしろそのほうがよいくらいかもしれないのだ。 
「あんたなんかあたしじゃない」
 千枝の第一声はこうである。
「あたしはそんなこと思ってない。考えたこともない、あんたになにがわかんの? 雪子は誰よりも大事な友達、小二のころ知り合ってからずっと、親友だった」千枝は両手でライトを握りしめて俯いた。「あの子はあたしの、宝物なの、あたしにないものを、欠けてるたくさんのものを、欲しいって思ってるものぜんぶ、みんな持ってる。フツーそんな子はあたしみたいなヤツの友達になんかならない。でも雪子はずっと付き合ってくれてる……あの子の持ってるものなにもかも、羨ましく思うことはある、けど」
 千枝の面から消え失せていた憎悪が、ふたたび思い出したように滲み出てきた。
「笑っちゃうよね。見下してる? 蔑んでるって? どうすればあたしがそんなことできんの? バッカじゃないの? そういうこと言ってる時点であんたが偽物なことバレバレだっての! あたしは雪子のこと尊敬してる。もしあんたがあたしならわかったんだろうけど、あの子のためなら、死んだっていいって、あたしは思ってる」と言って、千枝は蔑むように続ける。「なんのためにこんなことしてんのかわかんないけど、あんたもやるならやるでさァ、もう少しそれらしく似せるとかしなよ。似てんのカオだけじゃん」
 今度は千枝のシャドウが怒りに震える番だ。彼女の千枝を見る目はまさしく犯罪者を見るそれである。自らが苦心惨憺して築いた「里中千枝」を恥知らずにも剽窃して、その権利を不当に我がものとしているばかりか、真の功労者たる自分を「わたしの偽物」と嘯いてはばからない、憎い詐欺師を見るそれである。
 無力感が募る。
 今にして思えば、千枝のシャドウはただ悠の誠意に打たれただけだったのかもしれない。彼女はやはり悠の説明したことをそれほど理解してくれたわけではないのだ。彼女も陽介の例には漏れなかった。彼女もまた千枝を、言葉のうえではそうせずとも偽物あつかいしている。それもあれほど手を替え品を替えて、事前に警告したにも拘わらず、である。
(いや、ロジックで覆しきれるほど軽い問題じゃないんだ、腐るな! それでもまったく役に立たなかったわけじゃないんだ)と、悠は自らを励ました。(挽回だ、いまは手の内にあるカードを最大限活用することだけ考えよう――それに)
 なんといっても今回はひとりではないのだ。千枝が傲然と話し終えるとすぐ、セコンドの陽介が、
「あー、俺からもいい? 里中」
 締まりのない笑顔を下げて前に出てきた。
「俺も言ってやりたいことあんだけど」
「いいよ――いいんでしょ? 鳴上くん」
(おれはいま喋れないのに……)
 悠は少しためらったものの、仕方なくウンウンと頷いて見せた。
「じゃあ、ちっと言わしてもらうけど――ちなみにその、そっちのシャドウのほうじゃなくて、里中になんだけど」
「は? あたし?」
(よし、ちゃんと伝わってる)悠は安堵の息を吐いた。(そうだ、おれたちの相手は目の前にはいない、横に立ってるんだ)
「や、大したことじゃねーんだけど、その、見下してるとか蔑んでるとかってやつ?」
「んなことしてないっつの。ねえ?」
「そこまでは言わねーけど、でも結構、それっぽい目で見てたりとかしてるぞ、お前。天城のこと」
 千枝はたちまち「はあっ?」と熱り立った。
「あんたテキトーなこと――!」
「まあ待てって! 続きあっから!」陽介はあわてて諸手を上げた。「自分じゃわかんねーんだと思うんだけどさ、周りからは結構フツーに見えるんだ、そういうふうに。洲臣とかも言ってたぜ。里中って天城のこと、ときどきなんか下級生っつか、年下っつか、妹みたいに扱ってるよなー、とかって」
「ハナシにな――!」
「まーまーもうちっとで終わるからさ!」と、ふたたび千枝を遮って、「でもたとえば妹とかってさ、なんかそーいうとこあるじゃん? 見下すっつーか……ムカつくけど、なんだかんだでほっとけないとか、なんか気に入らなくてアラ探しすんだけど、じぶん以外のヤツにそういうことされるとムチャクチャ腹立つとか、こう、離れてるときはいいヤツだよなって思ってても、近くに来て話してたりするとそういうことほとんど忘れてさ、なんかどうでもいい短所ばっかり目についちまうとか」
 喩えにしてはやけに微に入り細を穿つというか、なんとはない実感のこもった言葉である。妹をもつ知り合いにでも聞いたものか、ひょっとすると彼自身、妹を持つのかもしれない。
「あたし妹いないし」
「まあ妹限定ってわけじゃねーけど、親しいヤツってなんか、結構そういうトコねーか? さっきお前、天城は宝物で尊敬してるとか言ったけど、いくらなんでも天城と話してるときとか、一緒に歩いてるときとかまでさ、そういうこと考えてるワケじゃねーだろ? ヤベー宗教の信者と教主サマじゃねーんだし」
 千枝は黙って聞いている。
「……あのさ、ずっと近くにいて、親しくしててさ、長年付き合いのあるヤツらって、んな四六時中相手のこと褒めたり敬ったり愛想よくしたりなんかしないんじゃねーのかな。いいヤツだって思っててもさ」陽介は腰に手を当てて、彼自身もまた感慨深げにそう言った。「むしろそういうことしてるヤツらって、知り合ったばっかりで腹の探り合いしてるとか、なんか理由があってホンネ隠してるみたいなのが大半だったりさ。とにかく、里中と天城みたいにホントに仲良いってのはさ、バカにしながら尊敬するとか、嫌いだけど好きだとか、なんつーか……矛盾? みたいな感情がまぜこぜになってさ、でもぜんぜん悩んだりしないみたいな、そういう関係のことなんじゃねーの?」
 悠の傍らでシャドウが小さく「ちがう」と呟いた。
「里中も天城も完璧人間じゃねーんだからさ、ぜったい短所とかあるだろ――里中は特に」
「うっさい」と、千枝。
「で、そういうのってずっと一緒にいて気がつかないワケねーだろ? それについてコイツはあーだこーだって思ったり、これについてはこっちのほうが上だなとか思ったりするの、悪いことか? 別にフツーのことっつか、むしろしないヤツいるのかってくらいだろ」次いで千枝のシャドウに向かって、「んで、さっきあんた……えーと、シャドウ里中だから、シャドナカ? が、見下すとか蔑むとか言ったけど、べつにそれだけじゃねーだろ? もしそれだけだったらとっくの昔に友達やめてるだろーし」
 千枝のシャドウはルールに則って、話しこそしないものの首を横に振った。陽介の話は納得いかない、ということだろう。
「あー、まあ、そんな単純なハナシじゃねーか――里中、まだ言うことある? ねーなら向こうに渡そうぜ」
「……なんかほとんどあんたが喋ってない?」
 千枝はしばらく不満げにしていたが、結局悠にライトを返した。
(いいパスだ、陽介!)
 なかなかどうして、彼もいっぱしの論客ではないか――悠はなんだか救われたような心持ちになった。同時に、ただひとり必死になって突っ張る必要もないのだと、つい先ほどまで挽回挽回と内心で叫んでいた自分を少しく滑稽に眺めた。
「よし、じゃあ杖も戻ってきたし、今度はこっちの番だ」
 悠からライトを手渡されたあと、シャドウは千枝と陽介とどちらに言い返そうか迷っているようで、しばらく視線を泳がせていた。が、ややあって、
「あたしが言ったのは花村が言ったみたいなことじゃない」
 と陽介に言った。
「さっきソイツは雪子のこと尊敬してるとか言ったけど」そうしてすぐさま千枝に向かって、「そんなのフリだから。そりゃそういうアピールするよね、死んだっていいとか言うだけは言うよね。なんせ雪子がいなくなったら困るのはあんたなんだから」
「千枝は?」
 千枝が怒ってなにかわめき出す前に、悠はそう言って割り込んだ。
「え?」
「千枝は困らない? 困るのは里中だけ?」
「……いや、困るけど。つか鳴上くん、あたし喋ってるんだから」
「ごめん。つい」
「いいけどさ――で、あんたのことだけど」いささか気を削がれた様子で、「もういちど言うけど、あんたは自分を持ち上げるためにあの子を食い物にしてる。どういうことか詳しく話してあげようか?」
 千枝は険しい貌で、それでもなにも言い返さずに沈黙を保った。
「雪子って美人で、色白で、女らしくて、男子なんかいっつもチヤホヤしてる。成績だって学年で五位以内に入るの珍しくないし、ウチは全国的に有名な老舗旅館。そのうえ優しくて、おしとやかで、ひとを疑うことなんか知らない、すごいいい子」
 こんなふうに雪子を誉めあげる間、シャドウの口元は少しく綻びさえしていたのだが、それもじきに憤怒の表情に取って代わった。
「そんな雪子が、ときどき、あんたを卑屈な目で見てくる。あの子が自分の価値なんかちっともわからないで、あんたなんかを頼る。あんたみたいな――あたしみたいな、ブスで、チビで、アタマ悪くて、ウチは平凡でなんの取り柄もなくて虫だらけで、ガサツで陰湿な、こんなあたしみたいなヤツを」
 悠にはまったく、別人について話しているようにしか聞こえない。明らかに度の過ぎた自虐である。ほんとうに自分のことをこんなふうに思っているのだとしたら、彼女こそ「自分の価値なんかちっともわからない」人間であろう。
「なんの価値もない、あたしなんか――あんたなんか。だから、あんたは雪子がそうやって自分を頼ってくる機会を逃さない。そのときだけあんたはあの子の上に立てるんだもんねェ? そのときだけは、あんたはモテて、あたま良くて、家が有名で、性格の良い子以上になれる。なってるって思い込む。雪子はひとりじゃなんにもできないって、思い込む。だからあんたは親身になる、雪子にくっついて離れない。あの子のためだからとか自分に言い聞かせて、自分は雪子の役に立ってるとか言い聞かせて、雪子の手を取るフリをして、アタマに足を乗せる。鳴上くんの言うとおりだよね、あんたは雪子が大事なんじゃない、雪子が大事な自分が大事なんだよ」
 千枝は能面のように無表情である。これは無感動を示すのではないのだろう、おそらくは怒りのあまり口の端を上げることさえできないでいるのだ。
「雪子がいなきゃ、あんたは明日からひとりぼっち。あんたの友達だって、みんな雪子と仲良くしたくて近づいてきたのを、あんたが片っ端から浚ってっただけなんだから。瀬戸目だって、槙原だって、花村だって」シャドウが寂しげに悠を見た。「鳴上くんだって」
 とんでもない誤解である。そもそも悠はほとんど雪子と話したことはない、それこそ例の公園での会話くらいだ。千枝と親しくなったのも陽介とともに、この「テレビの中の世界」を知るに到った経緯からである。
 とっさに否もうと口を開きかけて、しかし悠は果たさずに口を噤んだ。なにを言ったところで聞きはすまい、千枝のシャドウがこんなふうに言うのはおそらく、そうすることによって自らのなかの雪子の価値を高めようとする、先の自虐からも垣間見られた、ある種の崇拝に似た感情のゆえであろうから。
 転校初日に千枝たちと下校した折の会話が思い出される。まさしく雪子は彼女の誇りそのものなのだ。千枝にとっては雪子をあがめ高めることが間接的に、自らを高めることに繋がるのだろう。それは彼女への愛であると同時に、そのいと高き雪子ほどのものをして「千枝ってね、すごく頼りになるの」と言わしめ、礼讃する彼女が「いつも引っ張ってもらってる」千枝の価値を保証するものでもあるのだ。シャドウの「アタマに足を乗せる」発言はかなり乱暴な比喩だが、どうやら意味合いとして間違っているというわけではなさそうである。シャドウが千枝に押し付けている役割を「雪子をあなどるあたし」とするなら、自らに与えているのは「雪子をあがめるあたし」といったところか。
 陽介が先ほどから穴も開けよとばかり睨んでくる。なんか言え、なんとかしろ――彼の念がひしひしと伝わってくる。
 悠は腕時計をちらと盗み見た。
(三時半過ぎ……かなり時間を食ってる)テレビの中に入ってから実に二時間を経ようとしているのだ。(まずいな、ぐずぐずしてられない)
 クマが雪子の無事を保証してくれはしたものの、そういう彼自身、今はあまり鼻が利かないなどと告白しているのだ、それほど当てにはできない。彼が「匂いが四つに分かれて気配が消えたクマ」などと言い出さないうちに、この会議は終わらせなければならない。
「おれが天城越えのガイドを頼むために里中千枝に近づいたかどうかは、またあとで話すとして」と言って、悠は小さく挙手した。「おれからもちょっといい?」
「……向こう? それともあたし?」シャドウが微かに警戒の色を見せる。
「千枝に。訊きたいことがあるんだけど」
「なに」
「食事券十五枚に有効期限つけるの忘れてたんだけど……いつまでにする?」
 陽介と千枝が「なに言い出したんだコイツ」とでも言わんばかりの視線を送ってくる。事情を知っているシャドウでさえ同様である。
「……それ、今する話?」
「今すれば思い出してくれるかなって、思ってさ」
「なにを」
「おれの話」と言って、ひとつため息をついて、悠はふたたび低く詰問するような声を出した。「いま千枝が里中に言ったこと、千枝自身にはまったく当てはまらないのか」
 千枝のシャドウは挑むように「当たり前でしょ」と言い放つ。
「千枝の話を聞いてると、里中はまるで悪魔みたいなヤツだ」
「かもね」
「それで、千枝は天使?」
「……そういうワケじゃ」
「里中の言ってることはみんなデタラメで、里中が怒ってるのは自分の悪行が暴かれてるからで、里中は天城のことを蔑み抜いていて、これっぽっちも好意なんか持ってない? そうして千枝の言うことは全て真実で、あまねく行うことは正義? 天城にはただひたむきな愛だけを感じて、なにひとつ含むところがない? 陽介のいう、ヤベー宗教の信者と教主さまみたいに? 千枝の崇拝するその教主さまが言ったのか? 里中は悪魔で、千枝は天使だって」
 さすがのシャドウの面にもついに反感が漲る。悠は足の裏につめたい刃を感じた。ここが先途である。
「答えて。里中はひとでなしの悪魔で、千枝は親友の安否を憂う天使?」次いで声を潜めて、「千枝、千枝は結局、陽介と同じなのか? おれの話にあれほど快い同意を示してくれた千枝が、今それをすべて忘れ去ったフリをしてる。いったいなにが起こった? おれの用意した報酬がなくたって、千枝は里中の暴言になんか惑わされないはずだ、そうだろう?」
 千枝のシャドウは答えない。ただその面から反感めいたものはすぐさま失せて、代わりになんとなく申し訳なさそうな色が浮かび始める。
(おれの話を思い出したな、やっと)
 シャドウは先の話を理解しはしなかった。が、たとえ理解していなくても思い出して反芻することはできるはずである。悠はここで勝負をつけるつもりだった。これいじょう剣の刃渡りをする時間はない、彼の足裏が裂けるより先に雪子の血が流れることになる。
「どうして里中千枝を取り合うようなことをする。それは千枝と里中のふたりで築いたもののはずだ、ふたりそれぞれに宿る天使と悪魔が壊しながら建てたもののはずだ」
「…………」
「違うかな。おれ、ぜんぜん見当違いなこと言ってるかな」
(開き直るなよ、意地でも虚勢でもなんでもいい、否定しろ!)
「ひとつ訊いていい?」
 ややあってシャドウがぽつんと呟いた。
「なに」
「さっき言ったやつ、鳴上くんは雪子と仲良くなるために、あたしに近づいたとかどうとか」彼女はおずおずと続けた。「違うの?」
「おれ、言わなかったっけ? 天城は検討中だけど、千枝は狙ってるって」悠は苦笑した。「もちろん違う。知ってるはずだ、千枝と陽介との縁はこの世界が取り持ってくれた。天城は関係ない」
 千枝のシャドウの返事はない。彼女はしばらく考え込みながら、自身の中でなにか反芻するように小さく頷いていた。
「千枝?」
「……花村の言ったこと、けっこう合ってるのかもしんないね」
 と言って、シャドウは静かにため息をついた。
「え?」
「認めたくないけど、ムチャクチャ憎たらしいけど、たぶんわかってるんだ、あたし。アイツ、たぶん親しいんだ、すごく」
「アイツって、里中?」
「んん。きっと、いちばん身近にいるヤツなんだ、アレが。だからどうしようもなくムカつく。粗ばっかり探す。なんにも知らないくせに知ったか振りしてるバカにしか見えない。でもどうしようもないよ、カオ合わせればどうしたってそうなるよ。鳴上くんのいうこと、わかるよ。たぶんそうなんだと思うよ、アイツとあたしで、造ってきたんだって」
「そこまで解ってるなら――」
 急に背中を突かれて、悠は言葉後を呑み込んで振り返った。クマである。
「なに、どうした」
「さっき言ってたヒトのことクマ」
 さながら胃に氷が落ちてきたような気分である。悠は胸を押さえて凶報に備えた。
「近くにシャドウが現れたクマ……おなじ匂いの」クマの言葉にも焦慮が滲む。「あとそのヒト、たぶん走ってる。なにかに追われてるみたい」
(最悪だ――時間をかけすぎた! くそっ、あと一歩のところで!)危うく叫び出しそうになる。(ダメだ、これいじょうはもう割けない!)
 タイムオーバーである。
「陽介タロット拾えっ!」怒鳴りながら、悠もまた先に放ったタロットをあたふたと回収する。「会議は終わりだ――里中! 千枝!」
 いきなり怒鳴りつけられて、ふたりはとっさに返事のできないままきょとんとしている。
「もうこれだけだ、これだけしか言わない! 里中千枝は天城の為ならなんでもできるって言った、それはウソか!」
「急にどうしたの?」と、千枝と彼女のシャドウが異口同音に訊いた。
「天城のシャドウが出てきた。ついでに天城はいま追われてる、たぶん別のシャドウに。クマが教えてくれた」
 陽介が「おいヤベーぞ、こんなことしてる場合じゃ!」と慌て始める。
「そうだ、今すぐ助けに行かないと――どうなんだふたりとも! ウソかっ!」
 ふたりはさっとお互いを見合ってから、やはり異口同音に決然と「ウソじゃない」と言った。
「なら頼む! どうしてもお互いを許せないなら、天城の為に! 天城の為にお互いを認めてくれ、お互いのイヤな部分に目を瞑ってくれ! せめてこの争いを保留してくれ! もうこれいじょう話し合ってる時間はない!」
 悠の肺腑の言葉が長廊にこだまする。千枝と彼女のシャドウ、双方とも反応はない。そうと言われたところで「それもそうだね」などと軽々しく片付けられることでもなかろうが、選んでもらわなくてはならない。――彼女らふたりどころかその場にいる五人全員が、今ほどの悠の叫びに縛められたかのように身じろぎもしない。陽介が目だけで「どーすんだ」と訴えかけてくる。
「いい、わかった、じゃあ――」
「鳴上くん」
 卒然と千枝のシャドウが悠を遮った。
「なに」
「一年にして」
「……え?」
「有効期限」シャドウは微かに口の端を上げた。「鳴上くん、一年たったらいなくなるんでしょ? だから一年」
 先ほど話の枕にした食事券のことを言っているのだと見当をつける間に、シャドウは迷いのない足取りで千枝のもとへ歩いて行く。そうして彼女の目の前に立って睨み付ける。千枝もまた無言で応酬する。 
「鳴上くんに頼まれた、だから、あたしから歩み寄ってあげる」ややあって、シャドウが硬い声でそう言った。「あたしはあんたで、あんたは、たぶんあたし。聞き分けて、雪子のために」
 千枝の返事はない。
「ハイって言って。ハイって言わなかったらマジでブッ殺す」
 陽介が怖じけたように二、三歩も後退った。悠からは見えないものの、おそらくシャドウの両の目は金色に燃え盛っているのだろう。
「……わかった。あんたはあたしで、あたしは、たぶんあんた」千枝もまた硬い声で応える。「認める――雪子のために」
 この返事を聞くと、シャドウは悠を振り返って「聞いた?」とでも言いたげな視線を送って――そのまま煙のように忽然と消えてしまった。




[35651] 脱がしてみればはっきりすんだろ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:67df69bb
Date: 2013/10/07 10:58

 床に落ちたライトが戛然と鳴った。それが跳ねて転がって、いびつな半円をえがいて、やがて悠の足下ちかくで止まった。あたかもほんの数秒前までそれを持っていたものが、元の持ち主へ返そうとしたかのように。
(消えた。うまくいった、ともかく、もとの鞘に収めることはできた――はずだ)
 ライトが落ち着いて、それを悠が大儀そうに拾い上げるまで、おのおの口を開くものはなかった。彼らはあくまでルールを守ろうとしたに過ぎない。廊をとよもすこの小さな硬質の音が、「千枝」の最後の発言めいて四人に聞かれたのである。
「消えた……」ややあって、千枝が呆然と口火を切った。「アイツ、どこ行った? 帰ったの?」
「クマ、どう?」
「……だいじょうぶ、気配は完全に消えてる」クマの言葉は確信に満ちている。「シャドウはチエチャンと一緒になったクマ」
(よし、まずはひとり)
 クマのお墨付きを得て、悠はようやく安堵の息を吐いた。とたんに、今まで意識の外に追い出されていた疲労が空腹と喉の渇きとを味方につけて、にわかにその存在を主張し始めるのだった。このさい飢渇は我慢しもしよう、しかし、
(とにかく疲れた……二本あるんだ、一本はいいだろう。移動しながらでも吸おう)
 ささやかな成功報酬として、こちらの欲求を自らに許してもバチはあたるまい。悠はポケットの上からシガレットケースを撫でた。
 千枝はクマの言葉を聞いてもなお腑に落ちない様子である。
「成功だ、シャドウはもういない」と、悠は重ねて請け合った。「里中のなかに帰ったよ」
「なか? あたしの?」
「そう。ふたつに別れていたものがようやくひとつになったってわけだ。よくもうひとりの自分を受け入れた」言いながら、悠の視線は彼女の全身を這い回っている。「スマートには行かなかったけど、とりあえずこれで里中は安心だ」
(……ない。ないぞ、例の光は?)
 千枝の身につけている服のどのポケットにも、それらしい輝きは見られない。例のタロットの光はかなり強いはず、たとえ下着の中に収まっていたとしても目に留まらないはずはないのだが。
「まあいいけど……それより雪子、やばいんでしょ? はやく助けに行かないと」じき悠の凝視に気付いた千枝が言葉後を呑み込んで、困惑気に八の字を寄せた。「……なに、なんかついてる? どうしたの?」
「いや」
「悠、里中のは?」
 と、陽介が訊いてきた。彼も考えることは同じらしい、この「の」はもちろんタロットのことを指すのだろう。
「時間ねーけど、とりあえずなるほうの出し方だけでも教えとこう。戦力になるだろ」
「…………」
「悠?」
「ないんだ。見えない」
「え?」
「……ひとによるのかもしれない、あのタロット。里中は持ってないみたいだ」
「ええ? いや――里中、ちっと服ぬいでみ」
「はあァ?」
 だしぬけに脱衣せよなどと言われた女性のほぼすべてがそうするであろうように、千枝は色めいて眉を聳やかした。
「あんたなに言い――」
「いやマジで、冗談じゃねーんだ。べつに俺らに見せろってんじゃなくて……いや、悠には見せなきゃなのか? とりあえず一枚だけ――」
「待った待った」と言って、悠は親友の思いやりを心ならずも退けた。「里中の言うとおりだ、時間がない。とりあえず先を急ごう」
「つったってお前――」
「クマ先導して。それと可能な限り天城の……この城の奥にいるひとの様子を報せて」ポケットからシガレットケースを取り出しながら、「ふたりとも移動しながら話そう。あのタロットだけど――あ、その前に里中」
「へ?」
「これ、見える?」
 言って、悠は左手に抓んでいたタロットを示して見せた。
「これ……って?」
「いまタロットカードを抓んでる――見えないんだな」
「タロット、カードって、え? 見えないって、いや、どういう……」
「見える? それとも見えない?」
「見えないよ、なんも。つか意味が――」」
「いいんだ。それと里中、移動する前に」
「な、なんですか……なんかもうついていけてないんですけど」
「一度だけ訊く。ついて来る? それともスタジオに戻る?」
 悠は煙草を咥えて火をつけた。
「もうあれこれ言わない。その時間もない。戻るにしてもおれたちが送って行くことはできない。もしついて来るとしても命の保証はしない。答えは簡潔に」
 彼女の目にいかにも威圧的に映るよう、悠はあえて不機嫌たらしく煙を吐いた。なにせ時間がないのだ、またぞろ行く行かないでごね出されては堪らない。
「最大限、里中の身を守るようにはする。それでも保証はしかねる。もし来るなら責任は自分で負うこと。大ケガしても恨まないこと」
 千枝は神妙な面持ちで、それでも「もちろん行くよ」と言った。
「よし。じゃあほら、足を動かそう――クマ、さっき言った人間はまだ走ってる?」
「えーと……いまは止まってる、クマ? たぶん。あ、ちょっと動いてるかもしれないクマ」
「……シャドウは?」
「近くにはいないクマ、たぶん。同じ匂いのシャドウは……あり? 消えちゃったみたいクマ、えーと」
「…………」
 いったいこの着ぐるみの言うことは信用できるのだろうか。先ほどより事態がよくなったように聞こえはするものの、クマの自信なげな口調がどうにも引っかかる。せめてこの「たぶん」がなければまだ安心できるのだが。
「クマ、もう少しはっきりわからないかな」
「うう……ムリクマよ、これが限界クマ」と、クマは苦しげに言った。「みんな外に出てればだいじょうぶクマけど……」
(そうだった、ほかならぬおれたちがクマの邪魔をしてるんだった)
 じっさい彼の鼻がよければよいほど、悠たちの匂いをどうしても拾ってしまうのだろう。なるほど感度はいいのだ、その感度に比例して雑音も増幅されてしまうのは道理である。
「ごめん、できるだけ頑張って――じゃあ全速力!」
「は、はいクマ」
 発破をかけられたクマがよちよち走り始める。彼の短い脚では無理からぬことでもあろうが、はっきり言って遅い。せいぜい悠たちの歩幅で早歩きか小走りていどの速度である。
「クマ、オメもっとスピード出ねーの?」横に並んだ陽介が呆れ声を上げた。
「文句あるなら、ヨースケ、負ぶってくれクマァ……!」
「お前かるそうだけどカタチがなあ……把手でもついてりゃいいんだけど」
 ふと悠の脳裡に、江戸時代の駕籠かきよろしく陽介とふたり、棒で貫いたクマを担いでひた走る自らの姿が浮かんだ。これは案外よい手段かもしれないなどとひとりほくそ笑んでいると、
「鳴上くん、もう怒ってない?」
 控えめな口で千枝がこんなことを言った。先に決断を迫ったときの印象を引き摺っているのだろう。
「いや、ぜんぜん」悠は咥え煙草のまま笑って見せた。「なに?」
「うん、あのさ……」
 なにか含みでもあるのか、千枝は自ら訊いておきながら少しく言い淀んで、けっきょく本意なげに、
「それ、おいしい?」
 などと訊いた。
「タバコ?」
「んん、そう」
「吸ってみる?」と言って、悠は銜え煙草をつまんで吸い口を差し出した。
「いやいいですいいです」
「おい悠、里中のタロットだけど」クマと併走していた陽介が下がってくる。「調べとかんと。シャドウが消えたんならあるはずだろ」
「さっきも言ってたけど、そのタロットってなに?」と、千枝が割り込んできた。どうやら陽介がした説明にタロットのくだりはなかったようだ。「占いのタロットのこと?」
「そう。それがあればペルソナを――陽介が説明したかどうかわからないけど、シャドウから身を守る手段として使えそうな、巨人を喚ぶことができるんだ」
「巨人?」
「そう。体長四メートルくらいあって、なんでか知らないけどお誂え向きに武装してて、少なくとも人間よりよっぽど強い」
「……冗談じゃなくって?」
 千枝は怪訝そうな、おかしそうな、いわく言いがたい面持ちである。
「冗談じゃねーんだ、マジで。なんかこういうことマジメに言ってっとヤバいひとっぽいっつか、マンガみてーな話だけどさ」陽介が自嘲気味に笑った。「山野アナと小西先輩の事件にも関わりあるっぽいんだ、このペルソナ……は、そうでもねーけど、さっきお前のも出てきた、シャドウっての」
「なんか……かなりついていけてないんですけど、鳴上くんたちなんでそんなことできるようになったの?」
 千枝のなにげなく口にした言葉に、いきおい悠は黙らざるを得ない。そうと言えばそうだ、どうやらシャドウとの和解によってそうできるようになるらしい、ということだけはわかっているものの、そもそもなぜその故をもってペルソナを喚べるようになるのか、悠たちはその根本を理解してはいない。
(そしてもちろん、いまそんなことを考えてる時間はない)悠はさっさと諦めた。(そんなのは後だ、もしこの場を切り抜けられれば考える時間なんていくらでも捻出できる)
「転校生だから?」悠の口から出たのはいつもの韜晦である。
「里中が持ってない理由って、それだとか本気で思ってねーよなお前」と、陽介が真に受ける。
「もちろん。だって里中も転校生だ」
「え? なんであたし?」と、千枝。
「あーそういや、小二のとき引っ越してきたとか言ってたっけ」
「……あたし言ったっけ、それ。なんで知ってんの?」
 などと口先だけでは言うものの、千枝自身その情報の出所には見当がついている様子である。
(言わないほうがよかったかな)
「さっきシャドウがさ、里中の……」と、陽介は言い淀んだ。「あのさ、べつに変なこと言ったりはしなかったからさ。天城と友達になったとかなんとか」
 千枝の表情は硬い。彼女からすれば心の中を覗き見されたようなものなのだろう。たちまち疑わしげに「ほかになに聞いた? アイツから」との追求が入る。
「なにってべつに――」
「里中のスリーサイズとか」と、悠が助け船を出した。彼女はこの話題から遠ざけたほうがいいようだ。「いやホントに耳を疑った。あの申告を全面的に信じたら里中はヒョウタンみたいになるところだ」
「それぜったいにウソだから……つかスリーサイズとかペラペラ喋るワケないし」
「あーあとウナギ奢ってくれるっつってたよな! やっべ忘れてた!」陽介も得たりと話を合わせてくれる。「あと肉! 歯が折れるまで食わしてくれるって――里中先輩ごちっす!」
「ごちっす」
「ウソウソぜったいウソだ! あんたらいい加減なこと言って!」
「それよりタロットだよ、タロット、里中の!」陽介が急ハンドルを切った。「シャドウがいなくなったんなら出るはずなんだ、探そうぜ」
「探す必要はないよ、ホントに見えないし」と、煙草の灰を落としながら悠は言った。探したいか探したくないかで言えばもちろん探したくはあるのだが。「そもそもシャドウと和解しさえすれば必ず手に入るってわけじゃないのかもしれない。むしろこんな異常な能力が条件さえ整えば万人に備わるだなんて、虫のいい話だとも思えるし。仮に手に入るとしても適用されるのは男だけで女性はダメだとか、そういう理由だってあり得る。なんせまだわからないことだらけだ」
「とりあえず脱がしてみればはっきりすんだろ」
「オイしれっととんでもないことゆうな。とりあえずってなによ」千枝が口を尖らせた。
「陽介、あのタロット、見詰めても眩しくないからあんまり光ってないように見えるけど、実際はかなり強く光ってるんだ。だからサイフとか厚いものに包めって言ったんだけど――ほら、見えるだろ」
 悠は持っていたタロットをシャツの襟に入れて、その上から上着で覆って見せた。千枝が「センセー見えません」と呟く。
「まあ……見えるな。見えるんだな」
「里中もそんなに厚手のもの着てるわけじゃないし、これならたぶん下着の中に入れてたって光が漏れる。里中を素っ裸にしなくたってわかる」
「チエチャンがスッパダカクマ?」クマが聞き捨てならぬといったふうに振り返る。
「おら走れクマきち!」と、千枝がはりきって鞭を揚げる。「そーいうネタに反応すんな! 駆け足!」
「ひい……クマもう心臓が破裂寸前クマァ……!」
「あははクマお前そんなもん入ってたっけ」
「あんまりクマ……ヨースケは冷血動物クマ……スライムボールクマ……!」
「おい後半なんか聞き捨てならねーんだけど――うお!」
 と、陽介はつんのめってクマと衝突しそうになった。クマが突然なにかに阻まれたように急停止したのである。それほど速度の出ていなかったこともあって衝突は免れたが、
(なんだ、どうした?)
 イヤな予感がする。クマはつま先立ちになって天井を仰いで、忙しなく左見右見している。
「クマ、なにかあった?」
「また走り出した……だけじゃないクマ、追われてるクマ」こういうときに限ってクマの声は確信に満ちる。「追いかけてるヤツがいるクマ! たくさん!」
 四人の間に緊張が奔る。
「やべーぞ悠、こんなチンタラ走ってたんじゃ――!」
「陽介、左腕。おれは右を掴む」
「あ?」
「運ぶぞ、急げ! ナイフは里中に!」
「りょっ了解!」
「里中これ持って」と、千枝にライトを押し付けながら、「クマ案内して――全員全速力!」
 果たして、クマは左右の腕を担がれて荷物よろしく運搬されることになった。ちょうど駕籠かきの棒を進行方向に対して垂直にしたような按配で、
「センセッ、ヨスケッ、揺れっ、揺れが! オエッ!」
 柔軟な回転軸と不規則な運動とが災いして、クマは見えないカクテルシェイカーにぶち込まれたように激しく揺さぶられるのだった。
「我慢しろ! おい真っ直ぐでいいのか!」
 走りながら陽介が怒鳴る。廊は一本道ではない上に、悠たちの背に倍して余るほどの扉が左右にぽつぽつと散見されるのである。この城の中はかなり入り組んでいるらしい、道を選び間違えばタイムロスは計り知れまい。
「そっ、そこっ、扉、左クマ! たぶん!」
「たぶんは言わなくていい!」
「……鳴上くん、ちょっといいかな」
 扉の前で立ち止まるとすぐ、千枝が意を決したように話しかけてきた。なんとなく走っているあいだずっと切り出すタイミングを窺っていたような、そんな気配を彼女から感じる。
「鳴上くんっつか、あの、三人になんだけど」
「なに?」
 悠も陽介もともに、クマを床に放り出して息を整えている。大きさの割に着ぐるみの軽いのはせめてもの救いであったが、やはり荷物ありのマラソンはことのほか堪えるものだ。
「悠あけよう」陽介は千枝の言葉にさして注意を払っていない。「カギなんかかかってねーだろーな……悠、こっち押そう。里中も手ェ貸せよ」
「里中はいいよ。まずふたりでやってみよう――里中どうぞ、続けて」
「んん、さっきのシャドウのことなんだけど」
 悠は陽介と協力して、身の丈を優に超える扉――黒檀様の地にバロック調の唐草を金象嵌した――を押し開いた。
(なんだ、見た目のわりに……)
 存外、重厚な見た目に反して扉はやすやすと開く。これならひとりでもさして苦もなく開けられたであろう、触感からして明らかに中空で、ベニヤ板のように軽いのである。このポスギル城にはいかにもふさわしい出来と言える。
「あのさ、あれはさ、あくまで雪子を助けるためだから」
 悠と陽介は同時に千枝を振り返った。
「……え?」
「ほら、なんか……アイツはあたしだとか言っちゃったけど」千枝は気まずげにもじもじしている。「アレはさ、その、あの場をさ、納めようっていうか、そんなカンジで言った言葉だからさ。誤解しないでほしいなー……とゆうか」
 陽介が不審気に悠を見る。
(と、いうことは)
「なんてゆーか、要はさ、あたしは雪子を助けたいってことなんですよ! なんつーか……そんだけ」
 悠は不審気に陽介を見た。
(コイツ、和解したんじゃねーのか?)
 陽介の顔にはそのように大書してあった。






「ストップ! ストップ!」
 と、クマが卒然とサイレンみたいにがなり始めたのは、城内を縦横して駆けずりまわり、幾度も階段を上がったあと、これまで数え切れないくらい同じ意匠のものを見てきた扉の、その直前でのことだった。
「なに! どした!」
 しめたとばかり、陽介はクマの腕を投げ出してがっくりと毛氈に膝をついた。つい先ほど断末魔めいて叫びつつ階段を駆け上がったばかりの彼のことだ、正直なところは悠とひとしなみに、もう一センチ膝を上げるのさえ厭わしいはず。
「どう、したの、クマ」
「この先、シャドウがいるクマ。たぶんこのすぐ向うがわに」目の前の扉を忌避するように後退りながら、「これいじょう近づくと気付かれるかもしれんクマ」
「この扉の向こうにシャドウがいるってこと?」と、千枝。
「ということは、そのまた向こうに、天城がいるって、ことだ」陽介と同じ恰好で、悠は息を整えながら言った。「追いついたぞ陽介、あともう少し」
「つったってオメ……もう脚あがんねーよ俺……」陽介は限界のようだ。
「クマ、今はどう? 天城の様子」
「えーとユキチャンはァ……」先に千枝から名前を聞いたクマは、ただちに雪子をそのように呼んで憚らなかった。「今は止まってる、たぶん隠れてるクマね。もう近いクマ、たぶん同じ階にいる」
「……ここのほかに、道って、ある?」
「ないクマ」クマはにべもない。
「ないクマか……」
「ないクマ。とゆーか、あるかもしれんけど、ものすごく戻ると思うクマ」
「ぜってームリです、死にます、俺もー走れねーし」
 陽介は床に大の字に寝転がってやけくそ気味に呟いた。そもそもここに辿り着くまでの道程でさえ、クマのいとも精妙きわまるナビゲートのたまもので、幾度か来た道を戻ることがあったのだ。もちろんシャドウとの遭遇を避けるためにそうせざるを得なかった、という局面もあったのだろうが、そのたびに悠も陽介も心底うんざりしたものだった。
(ここまで来て別の道を探すなんてムリだ、肉体的にも精神的にも、時間的にも。ということは)
 雪子の許へ辿り着くには敵中突破しかない、ということである。
(実戦は避けられないか……どうするかな)
 ペルソナを「喚ぶほう」つまり鳴上流が、現時点で防衛力になり難いのは火を見るより明らかだ。仮に喚んだとしても大した役には立つまい、いっしょに走っているうちに双方とも転んでシャドウのえさになるのが関の山であろう。もしかの化物どもをちぎって投げつつ突撃するなら「なるほう」、つまり花村流を採らざるを得ない。が、
(花村流は生身のほうが動けない……)
「ペルソナになって運びゃいーじゃん」などと先日の陽介はあっさり言い切ったものだが、生身の人間はペルソナにとってあまりにも脆すぎるのだ。まして花村流には甚大な効力感と興奮とがつきまとう。そしてその荒ぶる人外の力を使うのはむろん神さびた上古の聖賢などではなく、その対極にあるような煩悩多き一高校生である。力を加減するどころではない、ゴリラに湯葉で鶴を折れと言うようなものだ。いまこの須臾の間に悠と陽介とが大いなる使命感に打たれて精神一到、豁然と寂滅たる明鏡止水の境涯に達し、アパテイアに安らうその大悟心をしてペルソナの一挙手一投足に微妙無辺の蘊奥を通わしむる……というのならともかく、
(ムリだ。前提条件にしてからまずムリだ。とにかくあんな感情の怒濤に揉まれながら人形遊びをするなんて……ムチ打ちや脱臼で済めばまだマシだろう)
 花村流がもたらす凄まじい昂揚の渦中にあって、凡俗弱冠の未熟者――こういう局面でさえ恬然と自らの克己心を恃みにできるほど悠は自信家でない――ふたりがどれだけ自制して理性を保ちうるか、そしてそれを保てなくなったとき、ペルソナの怪力が人間の肉体のはかなきにどのような影響をもたらすか、それは試してみることさえためらわれるのである。まず無傷では済むまい。
 この不利を押して花村流を採るとしても、シャドウが戦意喪失して――そもそもシャドウがそんな生き物みたいな反応を示してくれるかさえわからないのだが――潰走するか、一匹のこらず倒れるかするまで戦闘が続けばまだいい。鬼神のごとき花村流のペルソナを二体も用意できれば、そしてもし扉の向こうにたむろしているであろうシャドウが先日の口の化物みたいなタイプだけであるなら、たとえ生身の身体を守りながらという制約つきにせよ殲滅するのは決して難しくはないだろう。
 問題は、そして一番ありえそうなのは、シャドウがこちらを抗し難しと見て雪子を追いかけ始めるという事態だ。そうなった場合こちらに打つ手はない。花村流を採る以上、ペルソナの移動限界距離を超えて彼らを追撃することはできない。仕切り直して追いかけるにせよ、花村流からのリカバリーにはかなりの時間がかかる。
「クマ、オメーこっからは自分の脚で歩けよ」と、陽介が投げやりな声を上げた。「もー手も足も動かねー、つか今度はオメーが俺らを担いでくれよ」
「ヨースケひよわクマねー、センセイを見るクマ。センセイはまだまだ走れるクマ」
(好き勝手いいやがって……いや、待てよ)悠はちらとクマを見た。(そうだ、この方法があるにはあるな)
「この方法」はわりあいすぐに思いついた。動けないのなら今までクマにそうしてきたように、担いで移動すればいいのだ。なにもペルソナの手によってのみ人体を運搬できるというわけではない。悠も陽介も尋常の体型であるからして、その気になれば人力で抱えて運べないものでもなかろう。だが、
(重いんだろうなァ、コイツ)悠はあおのけになった陽介を後目に、やるせなくため息をついた。(少なくともクマよりはだいぶ重いはずだ、背負って歩くなんて考えただけでイヤになる。でもおれはたぶん陽介よりもっと重いだろうし……)
「ね、鳴上くん」
 千枝がちょんと肩をつついてくる。彼女はそれほど息を乱していない、悠や陽介よりはだいぶ元気が残っていそうである。
「なに?」
「疲れたんなら代わるよ、クマくん担ぐの」ちょっと申し訳なさそうに、「や、今まで言おう言おうって思ってたんだけどさ、なんかタイミングが」
「里中ー、代わってくれえー」陽介がさっそく名乗り出る。「ついでに俺も担いでマジで、お前の肉パワーで」
 陽介は脇腹を蹴られてわざとらしくむせた。
(……人足は揃った、な。揃っちゃったな)悠はふたたびため息をついた。どうやらこの方法しかないようだ。(仕方ない、やろう。迷ってる時間はない)
「里中、それじゃ陽介と代わってもらえる?」
 陽介が横たわったまま「おお心の友よ、お前マジいいヤツ……」と力なく呟いた。
「いいけど、鳴上くんはいいの?」
「鳴上くんはいいの。ただし、担ぐのはクマじゃない。コレだ」
 悠は床の陽介を指して言った。
「え、俺?」
「なんで花村?」
「苦しむ陽介を見てられない――なんて理由じゃないよ、もちろん。陽介にはペルソナになってもらう」
「なんのはいいけど、お前は?」のそのそ起き上がりながら陽介が言った。
「おれもおまえを担ぐ」
「あー……ペルソナで担ぐってのはダメなんだっけ。ちっと試してみね?」
「おれはいいよべつに、そのほうが楽だし。あとでおまえ拾い集めることになりそうだけど」
「ですよねー……」
「五体満足でいたいならその方法はナシだ。で、おれと里中でおまえの身体を運ぶから、おまえはシャドウからおれたちを守るんだ、ペルソナの力で。はいタロット準備」
 ほかの方法を挙げようとしてか、陽介は「でもお前も」と否む様子を見せたものの、
「……それしかねーか。喚ぶほうは使いもんにならねーし、お前のは遠くに攻撃できねーもんな」
 じき得心して、促されるままポケットからタロットを取り出した。
「そういうことだ」
「どういうことだ」と、千枝が割り込んだ。「センセーなんもわかりません。巨人っつかペルソナってなんなんですか? ちょっと見せて欲しいであります」
「……そうか、里中はまだ一度も見てなかったな、ペルソナ」
「見てないよ。そういえばクマくんは? つかクマくんも出したりできるの?」
「クマは出せないけど、もー何度も見たクマ」と、クマ。「出てくるたびにおっかなくて近寄れなかったクマ。何回か踏み潰されそうになったクマ。一回ヨースケに輪切りにされかかったクマ」
 千枝は控えめに「わあ、ペルソナ見たあい」と呟いた。
「ま、催促されなくたって今から見せてやっからさ」と言って、陽介は件の変身ポーズの準備をする。「ビビんなよ里中、つったってビビるだろーけど」
「待った陽介、ヒーローに変身する前に」
「ええ? もうCM終わったんですよ、採石場きちゃったんですよ」
「すぐ終わるから。念のためにクギ刺しておくけど」ポケットからタロットカードを取り出して見せて、「おまえを担ぐのに邪魔だから、おれはペルソナを喚ばない。どうしてもおまえひとりじゃ対処できない場合はともかくとして、基本的にシャドウはおまえひとりで相手してもらうことになる。それとペルソナを喚ばない以上、ペルソナに変身してるおまえと意思の疎通はできなくなる」
「あ、そっか……でも別にいいだろ。なんか困る?」
「困るから今のうちに言っておく。知ってるはずだけど、今からおまえのする変身は冷静を保つことが難しくなる。シャドウの相手をするのに夢中になって、おれたちの護衛をおろそかにしてもらっちゃ困るんだ。おまえのペルソナは浮くことができたよな」
「ああ、できる」
「おれたちから絶対に離れないでくれ、絶対に、絶対にだ。おれの頭上一メートルの位置を保って、周囲を警戒しながら、襲いかかってきそうなヤツだけを攻撃するんだ。おれたちの目的はあくまで天城の救出であってシャドウ狩りじゃないし、どのみちおまえひとりでおれたちみんな無傷のまま狩りつくせるとも思えない。もし扉の向こうに入ってもシャドウが襲ってきそうにないなら、なにもせずに道を急ぐぞ。こっちから火の粉を振りまくようなことはするなよ」
「わかった、護衛最優先な」陽介は苦笑まじりに言った。「んで余計なケンカはふっかけない」
「そう。おれたちの命はひとえにおまえの働きにかかってるってわけだ。おれはまだ死にたくない、里中だってそうだろうし、クマだって天城だってきっとそうだ。おまえはどうか知らないけど」
「あー俺スゲー死にてーんだけど、お前らが死にたくないってんなら仕方ねーなァ……なんてな」陽介はすぐ真顔になった。「わかってるよ。俺がどうだって、お前らの命がかかってんなら無茶なんてしようがねーよ。気をつける」
「頼む。もう合図できなくなるから……じゃあ、おれと里中がおまえを担いで、そこの扉の前に来たら開けてくれ。タイミングは任せる」
「了解」
「里中、ナイフとライト、クマに渡して」
「うん……クマくんこれ持つよりさ、こん中いれとくスペースとかないの?」
 と言って、千枝は着ぐるみの胴をポンポン叩いた。軽い音がする。中身が入ってないのだから当然である。
「ここはポケットじゃないクマ」
 などと言いながら、クマは首回りのファスナーをちょっと開けて、千枝に渡されたものをそこへ突っ込んだ。彼はシャドウ探知機能つきおしゃべり機能つきの自走式トランクである――悠の中でクマの株がすこし上昇した。
「フツーにポケットじゃん……つか、ナイフはあぶないんじゃない? 走ったりしたら刺さるかもだし」
「あ、里中、それ中身はいってねーから」と、陽介。
「は?」
「言葉どおりの意味。クマは中身からっぽなんだ」と、悠。
「……じゃ、なんで歩いたり喋ったりしてんの?」
「テンコーセーだから」と、クマ。「ところでセンセイ、テンコーセーってなにクマ?」
「中身が入ってない着ぐるみのことだよ」適当に去なして、「陽介いけるか?」
 陽介はふたたび変身ポーズを取って「スタンバイ。監督のゴー待ち」と請け合った。
「じゃ、採石場へどうぞ。アクション」悠は見えないカチンコを鳴らした。
「チエチャン離れてたほうがいいクマ」と言って、クマは真っ先に陽介から距離を取った。「ヨースケ悪ふざけ好きだからあぶないクマよ」
「クマ、いまのよく覚えとくわ。期待を裏切っちゃわりーからな」陽介が跳躍に備えて屈み込む。「いくぜ――ペルソナッ!」
 外連味たっぷりのジャンピングポーズを経て、陽介の背後に身長四メートルほどの巨人が忽然と現れる。千枝が悲鳴のひとつもあげるかと内心期待していたのだったが、
「うおっ、すご……!」
 あんがい彼女は冷静である。
「これが、その、ペルソナ?」
「そう。あんまり驚かないな、里中」陽介に駆け寄って身体を支えながら、「里中きて、片方たのむ」
「いやメチャクチャ驚いてますけど……花村どうしたの、寝てんの? グッタリしてるけど」
「誤解を恐れずに簡潔に言うと、タマシイがペルソナに乗り移ってる。だから生身の身体をおれたちで担がなきゃいけない」
「……シャドウぜんぶやっつけるまでココに置いとくとかはナシ?」
「ペルソナは生身からあるていど離れると消えるから――質疑応答はあとだ、ほら」
「了解です……えーと、コレ腕を担げばいいの?」千枝はぎこちなく陽介の腕を取って、それを自らの肩に乗せた。「タマシイって、なんといいますか……なんか驚きすぎて一周してるってカンジ」
「肩に回すまではいい。それで――」
「キャー! ヨースケやめるクマァー!」
(なにやってんだアイツは……)
 声のしたほうを見ると、陽介のペルソナが逃げるクマを追い回して戯れに踏み潰すフリをしている。先の言葉どおりクマの期待に応えているつもりなのだろう。
「アレ、止めたほうがよくない?」と、千枝。
「止めようがないよ。ああなってしまえばおれたちの言葉はまったく通じなくなる。もちろん向こうからもね」
「へえ。なんで?」
「なんでかな――ほら千枝、向こうはいいから」
 と言ってすぐ、千枝が少しく驚いたような貌を見せるのにはたと気付いて、
「あっ、ごめんウソ、じゃない、えっと」
 悠はのちのち顧みて情けなくなるほどの狼狽を見せてしまった。
「や、いいんですよ、マジで。ぜんぜん気にしないっていうか」悠の狼狽が伝染したものか、千枝もにわかに落ち着きを失った。「えーと、つかなんでこんなことでテンパってんのあたしたち」
「ホントごめん、訂正する……」ひとつ咳払いして続けて、「じゃあ、里中、もういっかい腕を担いで」
 千枝は言われたとおり、陽介の右腕を自身の肩に回した。
「回したらそのままで、こいつの腕は保持しなくていいから、こんなふうに」手本を示して見せながら、「左手をこいつの肩に回して支えて」
「こう?」
「そう。で、右手のほうはこの膝のウラにこうやって」
「鳴上くん」
「この状態で立ち上がれば陽介は持ち上がるはず――なに?」
「べつにいいよ、名前で呼んだって」
 このまま聞き流して忘れてくれればよいものを――この微妙な言い誤りをわざわざ蒸し返した千枝を、悠は心中でちょっと恨んだ。
「いいんだ。里中いい? 脚の力で垂直に持ち上げるんだ」
「あたしは気にしないし」
「まあ、ね。準備はいい?」
「あ、いいです」
「じゃ、せーの――」
 悠と千枝とで陽介を抱えていざ立ち上がってみると、
(覚悟はしてたけど身長差が……)
 果たして陽介の身体は大きく右側に傾ぐのだった。
 たちまち千枝の面に「あ、これヤバイかも」とでも言わんばかりの苦渋の色が広がる。無理もない、身長百八十センチ前後の悠に対して、小柄な千枝はせいぜい百五十なかばに届くかといった程度である。相対的に支え手の位置の低い彼女はどうしても陽介の重みを余計に負わざるを得ない。まして「千枝」が見せたような剛力を持ち合わせない、見たままの華奢な彼女のことだ、たとえ半分とはいえ身長百七十センチなかばを超す男子高校生の体重を持ち上げるなどと、理想的な体勢からそうするのでさえ手に余るはず。
「里中だいじょうぶ?」
「え? いやぜんぜん……ぜんぜん重いっす……!」
「一回おろそう」
「いい、だいじょうぶ、それより早く行こ! ぐずぐずしてらんない」
「……わかった、じゃあできるだけ下げるから」
 千枝に配慮して悠はそろそろと腰を落としてみた。腿が震える。重量物を保持するのにもっとも向かない体勢である。今ほど発揮したばかりのジェントルマンシップに早くもヒビが入るのを感じる。
「鳴上くんこそ平気なの?」と、今度は千枝が心配し始めた。彼女の目にはおそらく悠の貌にこそ「あ、これヤバイかも」とでも言わんばかりの色が映るのだろう。
「なんかすごいカオしてるけど」
「え? いやぜんぜん……」
 平気じゃないに決まってる。そもそもここまでクマを運搬してきた疲労もいいかげん鬱積しているのだ。が、このさい文句は言っていられない。
(この重さがおれたちを急かしてくれるって考えよう、じっさいこれで走ったら何分も保ちゃしない! 早く済ませて早くこの重荷を捨てよう、もう思いっきり床に投げ捨てよう!)
 そしてその暁には陽介にも同等の重荷を負ってもらおう――悠と千枝は陽介の抜け殻を抱えて、扉の前でシャドウボクシングに精を出すペルソナの許へ小走りに駆けた。
「花村はやく開けてー! 開けろー! 重いー!」
 千枝が巨人に向かって悲鳴まじりに怒鳴る。それを聞いて、というわけではなかろうが、ふいに陽介のペルソナが悠たちを見下ろして三本指を突き付けてくる。二本、一本と減っていくので、
(カウントダウン?)
 と、悠が見当をつけた瞬間、死者も甦ろうほどの音をたてて巨人が扉を蹴破った。
「バッ……陽介……!」
 どっと冷や汗が吹き出る。もし悠に自由になる腕が残っていたら、彼の胸で太平楽に寝息を立てているこの狼藉者の頬を五、六発もひっぱたいてやったことだろう。
「あわわ……ヤバイクマ……!」
 分解して消し飛んだ扉が広間の中へ――一瞥して二、三十匹ものシャドウがたむろする虎穴の中へ――バラバラと転がり込む。シャドウたちに一匹としてひとらしい態のものはいない。が、ノックを忘れたばかりかいきなり部屋の扉を破壊されるなどすれば、不快に思うことにかけてはシャドウもひとや虎と変わるところはないようだ。
(このバカッ!――まずい、みんなこっちを見てる!)
「センセイ、完全に気付かれちゃったクマ……」
 八十神高校の体育館が余裕で収まってしまいそうな大広間の中には、以前に見た口の化物に加えて、人間の頭部に指がたくさん生えたイソギンチャクのようなの、カンテラを掴んだ首のないカラスのようなの、ぶるぶる震える赤錆びた巨大なサイコロみたいなの、どこか人間めいたパーツを持つ巨大な昆虫みたいなの等々、悪夢に出てきそうなモンスターの目白押しである。それらがみないっせいに闖入者へと目を――それがないものはどうやらそれらしい器官を――向けている。
「ヤバイよ、これ、どっ、どーする……」千枝が怖じけて後退ろうとする。初めてシャドウを見る彼女のショックはことのほか大きいようだ。
「はし……走れ、走れ! 行くぞ里中っ!」
 と千枝を強引に促して、悠はなかばヤケになって走り出した。いまさら部屋を間違えましたで済む話でもなかろう、現にシャドウのうち目ざとい数匹はすでにこちらへ向かってきているのだ。退くにせよ進むにせよ迷っている時間はない。
「待ってけれー! 置いてかないでクマァーッ!」クマが転げんばかりに追いすがってくる。
「クマ急げ! 悪いけど! 待ってられない!」
「鳴上くんごめんもうちょっと遅くしてっ! ついてけないっつか前、前ェー!」
「いいからこのまま走れー!」
 このままでは先走ったシャドウの何匹かと数秒後には衝突してしまう。が、ここで立ち止まれば静観しているシャドウにまで「人間狩り」参加の願書を提出される恐れがある。ここは作戦どおり陽介がうまく防ぎ止めてくれることを祈るばかりだ。
(頼むぞ、仕事しろよ陽介!)
 もちろん心配するまでもなく、陽介のペルソナは悠の言い含めたとおり、シャドウを迎え撃つために彼の頭上に陣取った――と思いきや、そのままあたまを飛び越えて化物の群に突っ込んでいってしまった。このまま生身との距離が一定いじょう離れればペルソナは消えてしまう。
「里中いそげ! アイツおぼえてろよクソ……!」
「花村テメー! ざっけんなコンチクショーッ!」
「ヨースケのアホー! アホ……アホークマー!」 
 三者の心からの声援を糧に、というわけではなかろうが、陽介のペルソナは勇躍飛翔、先行して襲いかかってきたシャドウの幾匹かを造作もなく蹴散らした。
「すっご……」
 千枝が苦しい息の下から賛嘆の声を漏らす。まさに鎧袖一触である。
 花村流ペルソナの強さはそれこそ、先に陽介と調べてみたとき容易に想像はできたのだったが、じっさいに眼で見るのは壮観のひと言に尽きる。彼がバンザイするように両手を振り上げるや否や、巨大な手裏剣が恐ろしい轟音を引いて飛ぶ、誤たずシャドウに殺到する。接敵すれば蹴りの数発も繰り出す。掴んで殴る、引きちぎる。隙をついた二、三匹がしゃにむに打ちかかり噛み付くのも、かのいくさ神を向こうに回しては石像を穿たんと試みる蜂にもひとしい。そしてこのペルソナに触れられてふたたび動き出すものは一匹もいない。
(強い……言うことなんかぜんぜん聞きゃしないけど、やっぱり強い! これなら行ける!)
「里中、扉の前でいったん下ろす! おれが開けるから!」
「もうそろっと限界! ウデあがんない!」
「クマもひい……限界クマァ……!」
 先に入ってきた扉から広間を真っ直ぐに駆け、ようよう反対側の扉に辿りつこうという位置まで、実に悠たちは無人の野を――無人にしては凄まじい騒音に満ちていたが――往くがごとくであった。陽介のペルソナは当面の敵を片付けると足らぬとばかり、部屋の中にいる残りのシャドウたちへ嬉々として襲いかかる。もはや当初の目的は完全に忘れ去っている様子。この件については人間に戻ったら灸を据えてやる必要があるが、
(その前に少しくらい褒めてやってもいいだろう、とにかく、花村流はやっぱり凄い威力だ。シャドウはもう恐れるに足らない。いきなり包囲されるなんて状況に陥らない限り、この方法でじゅうぶん打開できるはず)
 ちらと振り返ると、陽介のペルソナは逃げまどうシャドウの残党を追いかけて、悠たちから急速に離れつつあった。彼がなおも悠たちから距離を取ろうとすれば、じきペルソナの移動限界距離に達してしまうはず。
(このまま全滅させる気なら、扉を開ける前にあいつと合流したほうがいいな)
「里中、ちょっと――」
 と、悠が千枝を見るのと、彼女が突如おとがいを反らせて歯を食いしばるのとは同時であった。
「里中!」
 彼女の面に閃く驚愕、困惑、苦痛といった感情の、刹那の変遷がスローモーションのようにくっきりと目に飛び込んでくる。だしぬけに重くなった陽介に引っ張られる形で、悠は千枝に続いて転倒した。
「あっ、センセイ、チエチャン!」
(なにが起きた、里中!)
 千枝は転んだあと少し遅れて、思い出したように悲鳴を上げ始めた。広間の緋毛氈にうずくまって痙攣する彼女の右の肩口に、黒っぽい歪な三角定規のようなものの突き刺さっているのが見える。見る間にもその根本からじわじわと、ジャケットの緑地を侵して赤黒い斑が広がり始めた。
「チエチャンだいじょうぶクマか、チエチャンが!」
「さ、里中、おい」
 千枝は返事もできない様子。じき彼女の悲鳴は胸の潰れるような苦悶の嗚咽へと変わった。
(攻撃されたのか! どこから――)
 周りを見渡す暇もなく、ふいにドドッという重い音がして、今度はクマが「アイターッス!」と素っ頓狂な声を上げた。
「なんか刺さった! なんか刺さったクマー!」
 着ぐるみの背中に千枝のものよりいくらか小型の、同じような破片が二、三、食い込んでいる。彼が大騒ぎする間にもヒュッと空気を裂いてなにかが飛んでくる。――攻撃ではない、これは、
(シャドウの破片だ! 陽介が倒したヤツの!)
 クマの背中から抜き取ったそれはほどなく、悠の手の中で煙のように消えてしまったのである。はたと千枝を確認したときにはやはり、その肩を破った破片は跡形もない。
「あのバカ……!」
 果たして、陽介のペルソナは巨大なサイコロのようなシャドウを狩り始めていた。黒っぽい金属質の化物に非常な速度で手裏剣が食い込む。バチッと火花が散って数瞬ののち、サイコロは鉄筋が断裂するような音とともに破裂、四散する。これだ――と眥を決する間に、悠の顎すれすれにピュッとなにかが飛んで来た。彼は泡を食ってクマの陰に隠れた。肩や腕に当たるのならまだいい、こんなものが首や胴体の急所に飛んできたら命に関わる。
「クマちょっとこっち来て!」
「ギャース! また刺さったクマー!」
 悠はクマの返事を待たず、強引に彼を戦闘中のペルソナと自分たちとの同一線上に据えた。着ぐるみを盾にした形である。彼は先ほどから大騒ぎしているわりにことさら痛がっている様子もない、仮にケガをしているにせよ血が出ないだけ悠たちよりいくらかマシであろう。その体内に急所となる臓器らしいもののないことも先刻確認済みである。
「クマごめん、ホントにごめん、そのままそこに立って!」
「センセイ、チ、チエチャンだいじょうぶクマか?」
「わからない……わかるもんか」
「ケガしたクマか?」
「さ、里中?」
 痛むか、と訊いても、千枝は傷口の近くを掴んでむせび泣きながら、念仏のように「いっだい、いっだい」を繰り返すだけ。破片の消えたことでかえって出血が促されたものか、血の染みは肩から脇下、背中までじりじりと広がりつつある。放っておいてよい傷でないことだけは確かだろう。
(どうする、どうする? どうって、血が出てるんなら止血しないと!)
「里中、身体おこせる? 手当て、手当てしないと……」
 とは言うものの、悠自身こんな大怪我をした人間の「手当て」などしたことはない。さすがにこの方面の知識に疎いのは彼も世間並の高校生と変わるところはない。傷口は圧迫して出血を抑えなければならない――悠にわかるのは実にこの程度のものだ。
「クマ、こういうケガって、手当てとかしたこと、ない?」
 一縷の望みをかけてお伺いを立ててみる。が、クマは振り返って千枝の血に染んだ肩を見るなり、がたがた震えながら「血がいっぱいクマ……チエチャンが死んじゃうクマ……」などと泣き出さんばかりである。
(ダメだ、クマは役に立たない)となればもう自分でやるしかない。(やりかたも勝手もわからない、けど、放っておくわけにはいかない、仕方ない……!)
 もう見よう見まねでやってみるしかない――以前テレビか映画かなにかで見たままおぼろに残っていた記憶を頼りに、悠は千枝の血染めの上着をもたもたと脱がし、それを止血帯として彼女の傷の緊縛を試みた。慣れない手つきでそうしている間にも、金属の噛み合う音、破裂音とともに飛来する破片は引きも切らない。まさしく戦場である。このさいなにか没頭できる事があるというのはせめてもの救いだった、手隙であったら悲鳴のひとつもあげていたかもしれない。
(これでいいのか? これ、ヘタにやったらあとで腕を切断とかにならないか……?)
 この前にしなければならないことはなかったか? 服の上から緊縛してもいいのか? 圧迫したらかえって血が出てきはしないか? いや、もっと強く縛ったほうがいいのでは? でもそうしたら手指の血流が止まって――疑念は鞭のように、彼の不要領を責めながら同じだけの激しさでもって行動を急かす。彼のわかるはずもない「正しいやりかた」を誤たず選べと。
「セ、センセイ、だいじょうぶクマ? チエチャンだいじょうぶクマ?」
「うるさい! わからない! ちょっ、ちょっと黙っててくれ!」
 千枝の呻吟と血とが悠の手をいっそう戦かせる。指にこびりついた血は果たしてほんとうに彼女のものなのだろうか。まるで傷ついた自分の身体から「タマシイ」だけが抜け出して、それが横たわる自分自身の傷を必死に手当てしているとでもいうような感覚。その治療が適わなければ当然の結果として、それによって招来する不都合にはすべて責任を負わなければならないとでもいうような、重い強迫観念と責任感とが悠のあたまを占める。彼を衝き動かすのは千枝をこそ救わずんばあらじとの使命感ではない、なべて傷つけるは癒さざるべからざれとの義侠心からでもない、いちばん近い言葉で表現するなら恐怖であった。千枝の手当てに失敗すれば自らが不具になるとでも言わんばかりの奇妙な恐怖。この自発的な行動を強制される、というより、強制されているにも拘わらずどこまでも自発的であるという矛盾、なんという不条理!
 なんという友情の不条理! たとえそれを命じるのが喜んで従うべき千枝への友情であるとしても、拝承してどこまでも責任を負わなければならないのはしろうとの悠だというのに。――思い直して千枝の止血帯をきつくしたとたん、くぐもった悲鳴とともに思いっきり蹴られた。この不当な仕打ちもつつしんで承らなければならない。不条理、不条理きわまりない。あのバカ! あのどうしようもないバカのせいでこんな目に遭う! 悠はいきおい自分をこんな苦況に追い込んだ陽介を憎悪せずにはいられない。
(このバカを。この恰好つけの、大法螺吹きの、鳥アタマの近視眼的単細胞を)悠は腹立ち紛れに、千枝のすぐ隣に転がる陽介の身体を力任せに蹴りつけた。(ぶん殴るのはあとだ! とにかく早くこの戦場から逃げないと)
「里中、手当て終わったけど、まだ痛む?」いまだに震える手を千枝の背に置いて、「つらいと思うけど、あと少し、歩こう。ここは危ない、この部屋から出ないと」
 千枝は荒い息の下で「いたい」と呟くだけだった。恨めしげな視線が悠の面に刺さる。今ほど脂汗をかきつつなんとかこうとかやってのけた大仕事が余すことなく報われる、まったく涙が出るほどすばらしい感謝である。いっそ自分の肩に飛んで来てくれたならどれだけよかったことだろう。少なくとも彼女はもっと優しかったに違いないし、ひょっとしたら自分のために泣きさえしてくれたかもしれない。
「歩けそう?」
 千枝は不機嫌たらしく首肯した。彼女の傷は少なくとも歩くのに支障が出るような性質のものではないはず、可哀想だがこのさい痛いのくらいは我慢してもらわなければ。
「よし――クマ、だいじょうぶ?」
「クマの玉のお肌がガサガサクマ……」
 破片を浴び続けたことで彼の体表はかなりささくれ立ってしまっていたが、かといってとくに不調を訴えるでもない。やはりクマは怪我をしているわけではないらしい。
「あとでスキンケアを手伝うから」ペルソナとシャドウの戦いをちらと窺って、「おれが扉を開けてくるから、もう少し里中を守ってて」
 と言って、悠は中腰のまま走って扉に取り付いた。たしか海外の紛争地帯のニュース映像かなにかで、こんな恰好で走る兵士を見たような――ただ眺めるぶんにはへっぴり腰でちょっとみっともないなどと思っていたものの、実際に飛来物の飛び交う「戦場」に放り込まれてみればこうせざるを得ないというのは否応なく実感できる。彼らの苦労もいくばくか理解できようというものだ。
「センセー! 待って、待ってクマー!」
 扉を開け始めた矢先、背後のクマが突然わめき出した。なにごとかと振り返ると、
(……あれ、ペルソナは)
 陽介のペルソナが見当たらない。
 全身の皮膚が粟立つ。つい先ほどまでサイコロを追いかけ回していた巨人が影も形もない。実際おおごとであった、彼はついに移動限界距離を超えて生身から離れてしまったのだ――それもシャドウの幾匹かを残して!
「クマこっち! 里中はしれー!」と怒鳴りながら、悠は一息に扉を開けた。「早く! 陽介はおれがなんとか――!」
「ちがうダメクマー! そこ開けちゃダメクマァー!」
 扉を開けたその向こうには、今ほど通ってきた広間ほどではないにせよ、それなりに広い空間が打ち開けていた。白い大理石様の床に、これまた白い石造りのレリーフがぐるりを取り囲むという、いままで見てきたような部屋とは異なる意匠に満ちている。遙かな高みにかかる格天井から光のおぼろに降りてくるその下には、
「センセイ、奥にシャドウが!」
「ち、畜生……」
 悠は震える脚で一歩、二歩と後退った。部屋の中央、光の降りる一段高くなったそこには、体高四メートルほどもある白馬に騎乗した、全身を甲冑で鎧った巨大な騎士が佇んでいたのである。




[35651] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:67df69bb
Date: 2013/10/14 17:36

 歯の根が合わない。
(どうする、どうする! 決まってる、ひとつしかない!)
 陽介が花村流から回復――それもいちばん時間のかかるデッドライン越え――するまでに十分から二十分は余裕でかかってしまう。彼の助力は当てにできない。
「ぺ、ペルソナ……」
 背後から千枝の怯えた悲鳴が飛んでくる、クマの騒ぎ立てる声も同様に。陽介の片付け損ねたサイコロが、仲間を殺された溜飲をせめて下げようと彼女らへ迫りつつあるのだろうか。
「ペルソナ!」
 悠はポケットからタロットカードを引っ張り出して、震える手でそれを振り回した。ペルソナと怒鳴った。甲斐はない。目の前の騎士が右手に携えた長大な槍をこちらに向けた。彼のかかとについた拍車がガシャッと鳴った。腹を責められた巨馬が低く嘶いて、悠のほうへ並足で向かって来た。
「ペルソナッ!」
 思い出せ、花村流のあの感覚を! 巨馬が速歩に移った。騎士が槍を抱え込んだ。悠は跳躍に備えて低く屈み込んだ。
「来い、ペルソナッ!」
 叫びざま悠は跳び上がって、身体を反らせて回転しつつ、手にしたタロットを天高く突き上げた。――ひどい立ち眩みとともに視界が真っ暗になる。転瞬ののち悠の目に映ったのは、足下で今し頽れようとする自分のつむじであった。
(よし! 次は――)
 と、右手の矛を持ち上げる暇もない、騎士の槍先が面頬を擦って火花を散らす。悠は膝を落として馬の首をすくい上げるように抱え込みながら、突進してきた騎馬へ全力で体当たりした。このまま躱すなり去なすなりすれば悠の身体が馬蹄にかけられてしまう。
「この野郎ォ……!」
 さながら相撲の取り組みかなにかのように、ちょうど横たわる悠の身体の真上でペルソナとシャドウが四つに組む形となった。ペルソナの怪力をもってしてようやく拮抗状態に持ち込めるほどのシャドウ、この騎馬武者は明らかに今までに見てきた化物とはレベルが違う。鉄靴が石床にめり込む。騎士は長物の弊を捨てて腰の剣の鞘を払った。馬が猛り狂って肩口に噛みつこうとする、脚で蹴ってくる。悠はさらに腰を落とすと腹の下に潜り込むようにして、後ろ脚立ちになるくらいに馬の身体を持ち上げて、
「おまえらの相手は後っ!」
 大喝一声、立ち上がった馬の後ろ脚を蹴り払いざまもろとも横合いに倒れ込んだ。投げ出された騎士が派手な音を立てて床に転がる。悠は身体を起こすのももどかしくただちに矛を振り上げると、それを横倒しになってもがく馬の腹に渾身の力を込めて突き下ろした。
(そうだ、おまえらは後! こっちが――)
 馬に突き刺した矛をそのままに、悠は一足飛びで先の大広間に飛び込んだ。その先にはへたり込んで後退る千枝と、逃げる術とてなく置き去りにされた陽介と、その彼の前に益なく立ちふさがるクマと、彼らに襲いかかろうとするサイコロ様のシャドウが二匹。
「こっちが先!」
 悠は陽介の頭上を飛び越えながら、彼の接近に気付いてはや逃げにかかろうとするシャドウのうち一匹をサッカーボールよろしく蹴飛ばし、もう一匹を捕らえると踵を返してふたたび騎士のもとへ舞い戻った。ほんの瞬く間の出来事で、おそらく千枝たちには驚く暇さえなかったことだろう。
(サイコロは片付けた、次はおまえ!)
 騎士はすでに体勢を整えていた。彼は矛を生やしたままぴくりともしない馬に一瞥もくれず、対峙する悠へ挑むように長剣の切っ先を向けた。――またなんと弱々しい、子供じみた、いっそ可愛らしい虚勢に満ちた仕草だろう! このシャドウはいったいおれになにをして欲しくてこんなポーズを取るんだろう、おまえの運命なんてもう決まりきってるのに!
 悠は捕らえていた鉄のサイコロを振りかぶって、思い切り騎士に投げ付けた。彼の反応は速やかである、正眼に構えた剣先を颯と斬り上げれば、ヂリッという鋭い音とともにあわれなシャドウはまっぷたつになる。かの剣は少なくとも、陽介のペルソナが投げる手裏剣よりはよく切れる様子。
 悠は笑った。たぶん人間には聞こえない笑い声を伴って。
「おい、見ろよ、おまえの相棒を。添い寝の相手を欲しがってるぞ」
 敵の剣さばきを恐れるでもなく、矛を取り戻しに行くでもなく、身構えるでもなく、悠はゆっくりと騎士の許へ歩き始めた。
 なにを恐れることがあろう? この全身という全身、髪の毛の頭からつま先の爪の端までを、まったく同じ濃度と速度とで間断なく駆け巡り続ける凄まじい効力感、全能感! なにを恐れることがあろう! いまこの瞬間、悠はかつてなんぴとも達したことのないであろう高みに自らを見出していた。われこそは全世界の全生物をして一抹だに疑うべくもない、神にひとしい存在であるとの強烈な自覚に押し上げられていた。
(これだ、これだ! そうだ、なによりもこれに注意しなければ! 鳴上悠、理性、そう理性だ! 理性を忘れるな!)悠のうちで野放図に肥え太った倨傲が、理性理性と感情的に叫んで止まない。(へえ、おれが理性を忘れる? 笑える、おれがマジで、マジで? 理性を忘れるなんてことが? 陽介じゃあるまいし!)
 騎士が鋭い踏み込みとともに突きを繰り出してくる。悠はそれを余裕ぶって左腕の手甲で打ち払おうとしたが、果たさずに胴――人間でいうあばらの辺り――を切り裂かれた。身につけた厚手の長衣が捲れる。悠は横腹に、おそらくは「痛み」であろうはずのものを感じた。もっともそれは人間でいうところの「怪我」をしたときにもれなくついてくる、という条件のみを満たすばかりのもので、悠はあなどれぬ一撃が自らの身体を抉っていったことに、卒然と言いしれぬ深い感謝と喜びとを感じるのであった。
 それは確かに喜びであった。これから行使する暴力にきらきらしい正当性を付与してくれたことへの感謝、目の前に迫った甘美な復讐の時、たとえしもなく溜飲の下がるであろう遠からぬ未来の展望。愚劣きわまることにこのいやしい矮小な化物がたったいま、あとでどんな災いを蒙るかろくろく考えもせずに自分のしでかしたことを、骨身に徹して思い知りながら八つ裂きになるいとも喜ばしき展望!
 このうえなく心震える展望! 悠のあたまの中はただこのひと言のみで占められた――ブッ殺す!
 騎士が胴を払い抜くまえに、悠は素早く剣身を両の手のひらで挟み込んで猛烈な膝蹴りを繰り出した。長剣を蹴り折ろうとしたのだが、一瞬はやく騎士は柄を手放した。この判断の素早さはシャドウならではなのだろうか、彼はぐずぐずせずにぱっと距離を取ると、先に自ら手放した槍を拾い上げた。が、その穂先はついに悠の投じた長剣を打ち払い得ない。
 投剣は騎士の腿の装甲を貫く。膝をつかないために今しがた手にした槍を杖にしたことがこのシャドウの命運を分けた。荒れ狂う悠の体はすでに空中にあり、その手にはすでに矛の柄が握られており、その刃はすでにして騎士の身体を誤たず捉えていたのである。
 必殺の一撃が騎士の肩口からみぞおちまでを斬り下ろす。黒い血が噴水のようにしぶく。尋常の高校生なら見ただけで気を失わんばかりの凄惨な光景だが、いまの悠は人間ですらない、血を好むいくさ神である。彼は血染めの矛をシャドウの残骸から抜いて、振りかぶってもういちど、渾身の力をこめて斬り下ろした。なにせ八つ裂きにしてやらなければならないのだから、最低八回はこうしてやる必要がある。悠は大いに気を散じつつ畑を耕すようにして、一心にシャドウの骸を切り刻んだ。
 騎士は七回目を待たずして馬もろとも掻き消えてしまった。
(あっ、なんだよ、終わっちまった……)
 悠は悄然と矛を下ろした。
 シャドウだけではない、つい今ほどまで黒い血にぬめっていた矛も、元の金属質の光沢を取り戻している。返り血の滴る長衣の裾も、石床を穢して咲いた大輪の黒い徒花も元の木阿弥、白昼夢のごとし。悠の胸に達成感の去来することはなかった。ただ名残んの興奮の冷めゆこうとするもの悲しさと、祭りのあとを思わせる寂寥と、割り当てに与えられた菓子をはや食い終えてしまった子供の無念とだけが残るのだった。花村流の効力感はそれらを埋め合わせてなどくれないばかりか、さらに焦がれるように次の獲物を探せと彼に命じる。もっと欲しい、今みたいなやつを探せ、おまえだってこんなんじゃぜんぜん足りないだろう、と。
(そうだ、まだいるかもしれない、大広間のほうは? 陽介の残りがまだ二、三匹はいるはず)
 シャドウ逢いたさに、悠は矛を引き摺って大広間へ取って返した。が、足下でわめきながらうごうごする千枝たち――なにか訴えようとしているらしい――を除けば、そこにはなにもいない。さっきのサイコロで最後だったのか、すでに逃げてしまったものか。彼女らに手ひとつ振ることもせずに、彼は大広間を出てレリーフの間を横切って、いちばん最初に目に留まった大扉を蹴破った。なにしろこれだけ大きな城なのだから、まだまだシャドウはいるはずなのだ。
(そうそう、天城! 天城はまだ襲われてるはずだ、きっとシャドウの大群に囲まれてる。はやく助けに行かないと)
 悠は気を取り直して矛を肩に担いだ。






 重い瞼をなんとかこうとか持ち上げて、最初に見えたのは誰かの首筋である。耳の辺りから肩口にかけて薄く、血を拭ったような錆色の斑が刷かれている。
(あたまが……最悪だ、なにが起きた)強烈な頭痛と倦怠感、なにか毒でも盛られたかと思わせるほどの絶不調である。(誰だ、これ。おれ、負ぶわれてる?)
 意識の戻ったときからずっと、ごく間近ではあはあと荒い息が聞こえている。悠が濡れた布団みたいにぐったりと身体を預けているこの肩は、
(陽介だ。陽介がおれを背負ってるのか……)
 それならとくに気を使うこともない、先にあれだけ苦労して担いでやったのだから、そのお返しに今くらいこうして楽をしてもよかろう。悠は怠いのにうんざりして、またすぐ彼の肩に頬を預けた。
「悠? 起きたか?」
 悠を運んでいた車が急停車した。いま身じろぎしたのに気付いたらしい。
「センセイ起きたクマ?」クマがちょんちょんと脇を突く。「起きたクマ? くすぐるクマよ」
「……起きてないよ、まだ寝てる」
 陽介は息を弾ませながら「おら起きたんなら自分で歩けよ、お前マジ重い」と言ってその場にしゃがんだ。
「降りてくれよ、ほら、もう脚ガクガクだし」
「頼むよ、カネ払うから、いまほんとうに辛い……」
「悪い、なんだって?」
「なぶるなよ、聞こえてるくせに。辛いって言ったんだ」
「ああ……わかるよ、それ。でもいいかげん俺も限界なんだ、悪いけど我慢してくれ」
「あと五分だけ。運んでやっただろ、おれと里中で」
「里中が無事ならなァ、ふたりで運んでやれるんだけど」
「……里中、どうかした?」
「え?」
「里中がどうしたって?」
「肩ケガしてる……つか、お前が手当てしたんじゃねーの?」
 悠はたちまち陽介の背から転げ落ちた。
「そうだ、里中は」
「ほら歩けなまけもの」
 千枝の声はすぐ後ろから聞こえた。彼女は悠を見下ろして弱々しく微笑んでいる。脇の下に止血帯を通したせいで肩ごと右腕の上がったのを、さらに傷に障らないよう左腕で組むようにして背を丸めているので、彼女は一見して寒いのを堪えているように眺められる。いや、じっさい出血のせいで寒気がするのかもしれない。
「大丈夫? 痛む? 手指の感覚がないとか、ない?」
「んん、だいじょ――」
「ひょっとして寒い? きっと血が出すぎたんだ、おれのこれ、上着、貸すから」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」と悠を遮って、千枝は無事なほうの手を小さく振った。「寒くないし、鳴上くんの上着ぬれてるし……」
「陽介、里中に一枚かして――」
「あーだいじょうぶだって! 寒くはないですから、たぶん、や、寒くない、むしろ暑い!」
「……ならいいけど、でも、痛むだろ」
「そりゃまあ、痛いことは痛いけど、かなり痛いけど、動かさなきゃまあなんとか」と言って、千枝は気遣わしげに陽介を見た。「あたしより花村のほうが」
「おい」と、陽介がにわかに不機嫌な声を上げた。
「なによ、やっぱ言わなきゃでしょ。花村――」
「ちょっ、オメ――!」
 なにがなにやら話が見えないものの、陽介が卒然と立ち上がって千枝に掴み掛かろうとするのに、悠は四つんばいになって割って入った。
「ちょっと待った。なんだ、ふたりとも、話が見えない。ケンカしてる場合じゃないだろ」