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[35651] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2014/11/03 16:25
 《注意》


 この作品はATLUSのペルソナ4シリーズ、およびペルソナ3シリーズを原作とし、主に設定などを改変・追加・再構成した二次創作です。
 筆者に原作を不当に歪めようという意志は毛ほどもございませんが、上記の改変は対象の根底にまで及ぶものもあります。
 小説として書きやすくするため、また破綻させないための苦肉の策ではありますが、原作の忠実な再現を期待する読者の方には、気に障る展開がないとも限りません。お心当たりの方は何卒ご注意下さい。
(一応は原作に沿います。屋台骨を変えるつもりはありません)



[35651] 序章 PERSONA FERREA
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2014/11/03 16:25


 彼は息を呑んだ。
 電車がトンネルに入ってじき、鳴上悠は生まれてこのかた――彼の自意識の許すかぎりの表現において「十七年という果てしもなく永い歳月」――これ以上はないといえるほど驚いた。
 もうかなり前から彼ひとり、貸切状態であった私鉄線の車内、あまつさえ自身の座っているワンボックスの真向かいに、忽然とひとが座っている。窓の外を眺めていたのはものの数秒たらず。荷棚から音もなく降ってきたか、シートの座面から生えてきたのでなければ、自分に気づかれないはずはない。
「ようこそ。…………へ」
 悠はとっさに目をそらした。いやな汗が噴き出してきた。
 目のまえの男、尋常の様子でない。白髪禿頭、薄気味わるい甲高い声、子供のような矮躯をモーニングで装う、このあたりはまだいい。悠の肝を冷やしたのはその異常な、言うなれば悪魔的な容貌だった。原人じみた平べったい頭。巨大な、血走った、見ひらけばまぶたをほとんど隠してしまう、ぎょろっと飛び出た眼球。つるりとして皺ひとつない、血の通っているとも思われない生白い肌。とがった耳。そして鼻! 長い鼻! なにか別の器官であると説明されたほうがまだしも現実的な、非現実的に長い鼻!
 これは車掌かもしれない! 鳩尾に冷たい汗が伝うのを感じながら、悠は大いに錯乱しつつ、東京圏在住者につきものの無智――もしそんなものがあるとすれば――について自らを啓蒙しようと試みた。
 これは車掌かもしれない。片田舎のローカル線ではままあることなのかもしれない。職務の都合上、しろうとにはわからない理由で、この異常なルックスを評価され、大時代的な礼装を制服がわりに、忍者よろしく荷棚やシートに潜伏して善良な乗客をおどかし、自らの職場をベルベットルームだなどと称し、休憩時間にワンカップとあたりめを喫する。なぜ? 切符を切るためでなければなんだろう? 鉄道事業にうとい悠にはそれくらいしか思いつけなかった。
「これはまた」男はちょっと笑って、カップ酒を湯飲みのようにして啜った。「変わったさだめをお持ちのかたがいらしたようだ」
 そしてこっちは――悠は軽いめまいを感じた。
 小男の隣にもうひとりの見知らぬ、こちらは背の高い女が座っている。四月の陽気には甚だふさわない、青い分厚いダブルの外套を首元までかっちり着込んで、秀でた額に汗ひとすじ結ばない。カチューシャでまとめた豊かなブロンド、ほうろうの肌、彫りの深いコーカソイド系の美貌、どうみても日本人のものではない。車内販売員としては隣の小男同様、あまりにも異様すぎるいでたち。
 いや、車内販売員ではないだろう。もしそうならどれほど職務怠慢であるにせよ、いま無心に食べている駅弁を、封を開けないうちに一度は自分に勧めたはず。いまのいままで車内は貸切同然だったし、乗車してからこのかた一度もワゴンを見かけない。そもそも普通列車に車販などない。なかった、少なくともいままでの自分の生活圏では。
「わたくしの名は…………。お初にお目にかかります」小男はイゴールと名乗った。「……おひとつ、いかがです。遠慮なさらず」
 あたりめを勧められるのを控えめに辞退して、悠はいくばくか冷静を取り戻して考えた。
 もちろん、これは車掌なんかではない。
「ここは夢と現実、精神と物質の狭間にある場所。本来はなんらかのかたちで契約を果たされたかたのみが訪れる部屋」あたりめを食いながらイゴールが言った。「あなたには近く、そうした未来が待ち受けているのかもしれませんな」
 罪のない笑いの衝動を抑えかねて、悠は俯いた。口の端の少しく上がるのを感じる。やっぱり車掌かもしれない、それもえらく詩的な。夢と現実! もちろんここはそういう場所にちがいない、イゴールが実に婉曲に、意味深長に表現した彼の職場は。なんとなれば自分はいま夢を見ているのだから。契約? 胸ポケットの乗車券のことを言っているなら当を得ている。ちょっと洒落が利きすぎているけれども。
「どれ、まずはお名前をうかがっておくといたしましょう。ときに」
 イゴールは膝のうえのトレイを持ち上げて、にこやかに悠に示した。どうでもあたりめを食わせたいらしい。
「ほんとうにいりませんかな? けだしお若いかたは遠慮などなさらぬものです」
 悠は名乗った。つまみは固辞した。
「ふーん、ナルカミユウ、いい名ですな」イゴールの言葉にはまんざら社交辞令とも取られない、真率の響きがある。「……どれ、ちょっと拝見」
 イゴールがこちらに身を乗り出してきた。彼の間接の長い、白手袋をつけた手が伸びてきて、悠の胸ポケットの中身を抜いた。ようやく自分の仕事を思い出したのかと思いきや、そこから出てきたのは持ち主のあずかり知らぬ、薄いプラスチックのケースである。手品かとうたがう間にも、イゴールはそれを開けて中身を二枚、三枚と取り出す。トランプかなにか、カードの類らしい。
「お疑いのようですがな、手品ではございませんよ。これは正真正銘あなたの持ちものです」と、イゴールは言った。「タロットカード……しゃれてますな、あなたは。占いを信じなさるくちで?」
 なんとも答えようがなく、悠はだまって首を横に振った。小男はカードをぜんぶ取り出すと、それを目の前へ無造作に放った。
「にもかかわらず、あなたはそのやりかたをご存知だ。ええもちろん人とはそうしたもの、必要のないことがらに拘泥し、見えないものばかり見ようとし、真実を欲しながら虚構に安らう。とは申せ、ご自分を誇りにお思いになって結構ですぞ、お若いかた。若いうちの自惚れがとくに警戒せられるべきではあるにせよ」
 投げ出されたタロットは――夢の世界のできごととして、ことさらそうすべきものでもないのかもしれないが――驚いたことにすべて空中に浮かんでいる。一様に裏を見せて、整然と、悠とイゴールのあいだ、胸の位置で。小男はなおも続けて喋りながら、それを片手でかき混ぜ出した。
「そのお若い身空であなたは、多くのひとの生涯ぬけだしえない、薄く平らかな皮相の世界より、すでにして自由なのです。おまけに遠慮もご存知だ、おおいに誇られて結構! このタロットはいわば、あなたの精神と観念の象徴でございます。もしこの年寄りにささやかな自惚れをお許し願えるのなら、こう言ってしまいましょうかな、あなたはこの部屋にふさわしいと――今は仮のまろうどではございますが」
 悠はようやく返事らしい返事をした。あなたの言っていることがよくわからないと。
「それでかまいません、少なくともいまはまだ」イゴールは鷹揚だった。「さて、せっかくこのようにお誂え向きなシンボルが出てきたのですから、あなたの流儀に反することかもしれませんが、どれ、ひとつこれを使ってあなたの未来を占って進ぜましょう。そう遠くない未来のことを。なに座興でございます……ひょっとしたら有益かも」
 イゴールが指をひとつ鳴らすと、さんざんかき回されて雑然としていたカードが一斉に、号令をかけられたようにぴしっと整列した。蜘蛛の脚を思わせる長い指が、その中のひとつを選り出す。
「ほう、近い未来を示すのは、塔の正位置。どうやら大きな災難をこうむられるご様子。そしてその先の未来を示しますのは――」続いてもう一枚。「――月の正位置。迷いと、謎を示すカード。ウフフじつに興味ぶかい! ご覧なさい、あなたはこれから向かう地にて災いをこうむり、大きな謎を解くことを課せられるようだ」
 まるでよかったですねとでも言わんばかりの口で、イゴールはこの不吉な予言を喜んでいるように見える。先にあれほどひとを持ち上げておきながら、今度はその当の本人の不幸を喜んでいる、この小男の頭の中はいったいどうなっているのだろう。悠はささやかな抗議がわり、眉根を寄せて不快感を表明した。イゴールは気にしたふうもなかったが。
「近く……あなたはなんらかの契約を果たされ、ふたたびこちらにおいでになることでしょう。今度は仮ではなく、正式なお客人として」
宙を漂っていたタロットがひとりでに、元のケースの中に戻っていく。イゴールはそれに蓋をして、どこから取り出したものか金いろの帯で丁重に封をすると、悠の飲みさした緑茶缶の置いてある、窓際のサイドテーブルにそれを置いた。
「今年、あなたの運命は節目にございます。もし先に言った謎の解かれなかったばあい、ともするとあなたの未来は閉ざされてしまうかもしれません……フフフそのような顔をなさる! ご案じなきよう、わたくしの役目はお客人がそうなりませぬよう、手助けをさせていただくことでございます。――そうそう、ご紹介が遅れましたな」
 イゴールが隣のブロンド美女に目配せした。もっとも女は箸を縦横するのに夢中で、彼の合図に気づいた様子はない。今まで余裕綽々であったイゴールの貌にはじめて、このときほんのかすかに困惑らしいものがよぎったのに、悠はなんとはない好感を持った。この二人は悪魔的かもしれないけれど、どうも悪魔ではなさそうだ。悪魔はこんなに抜けてないだろうから。
 マーガレット、と窘められて初めて、女は卒然と箸を置いた。ちょっと赤くなって、慎ましやかに口元を手で隠して、今し口に放り込んだ里芋をゆっくり咀嚼し終わるまで、イゴールが場をつないで「これはマーガレットと申しまして……わたくしと同じ、ここの住人でございます。ええ彼女はですな」などと言い繕っていた。
「お客さまの旅のお供を務めて参ります、マーガレットと申します」マーガレットがようやく口を開いた。そしてイゴールの真似であろうか、駅弁に添えてあったみかんを悠に差し出した。「……おひとつ、いかがです。遠慮なさらず」
「詳しくは追々にいたしましょう、少しおしゃべりが過ぎましたな」マーガレットのみかんはやんわりと取り上げられた。「この次は、この部屋の主と、その客という立場で、もっと実際的な事柄をお話しできましょう。その時までしばしのお別れでございます――その、いちおう確認させていただきますが、ええ、これはお召し上がりに?」
 悠は丁重に辞退した。
「そうでございますか。では、ごきげんよう……」





(すごい夢を見たな)
 車内アナウンスが次の停車駅を告げている。次はいよいよ目的地、終点の八十稲羽。
 にわかに暑さを覚えて、悠は羽織っていたブルゾンをもどかしく脱いだ。すこし暖房が強いようで寝汗をかいてしまったようだ。でもこれで起こされなければ、きっと終点まで眠りこけていただろう。
 塩川で四回目の乗り換えがあって、それからいくつか駅を経て、いつごろ眠ってしまったのだろう。
 長旅の疲れが出たのに違いないが、まったく中央本線を外れてからの景色の代わり映えのなさときたら! 親子ともども東京生まれの東京育ち――神田生まれであった祖父に御免をこうむって「江戸っ子」――の悠には、緑の丘だの田んぼだのビニールハウスだの木製の電柱だのは、おもしろくもない、風情を感じるどころかひたすら眠たいしろものであった。
(悪魔と鈍行で旅、か)
 あるいは彼らは、ひょっとしたら自分が眠っているうちに下車したのかもしれない。この景色にうんざりして。
 悪魔だって同じ悪さをするなら、こんなド田舎より都会のほうがずっと仕事も捗がゆくだろう。まずホテルなどなさそうだし、ともすると旅館か、民宿のたぐいすらないかもしれない。もうすっかり暖かくなったが、悪魔も露天で野宿はさすがにイヤだろう。泊めてやろうにもこっちだって今日から居候の身なのだ。途中で降りて大正解……
「しまった、連絡……!」
 悠は慌ててブルゾンのポケットをまさぐった。これからやっかいになる「居候」先から、着く前に一報いれるようにと言われていたのだ。引っ張り出した携帯のバックパネルには無情にも「着信三件・メール一件」の文字。あのふたり、どうして起こしてくれなかったんだ――悠は舌打ちがてら、思わず夢の中の道連れに悪態をついた。
『駅まで迎えに行く、八十稲羽駅 改札口に16時』
 このメールの送り主は堂島遼太郎。母の疎遠きわまる弟で、彼女いわく「あんたもちっちゃいころ一回だけ会ってる」らしい、初めて会う叔父。今日から一年の間、保護者となる人物。
 いまさらとは思いつつも、悠は忙しく返信を認めた。
『返信遅れました。寝ていました。もう着きます』
 送信ボタンを押すまえに車内アナウンスが入り、電車の速度が落ち始めた。本日はJR東日本をご利用いただきまして、まことにありがとうございした。まもなく終点、八十稲羽、八十稲羽。お出口左側です。編集中の内容は破棄されます。OK。
 悠は返信をあきらめて携帯を閉じた。返信遅れました? 言わずもがなだ。寝ていました? 都合四件の連絡を無視する理由といえばそのくらいだ。もう着きます? 見ていればわかるだろう。左手首のメモヴォクスは三時五十四分を示している。いまごろ駅前に到着しているにちがいない。
 降りる準備を整えながら、悠はこの四時間強にも及ぶ長旅と、これから自分を待っているであろう、未知の生活をぼんやりと想った。なにが起こるか? なにも起こるまい。ただアスファルトが土石に、鉄筋コンクリートが樹木に、無数の街灯やネオンに代わって夜空に星が満ちるだけ。
(テレビドラマじゃあるまいし)
 悠は苦笑した。自分の頭の中にあるのはこういう、使い古された「イナカ」というステレオタイプだ。だけ? ここのことをなにも知らないのにどうしてなにかと比較できるだろう。ここはおれの知らない世界。稲羽市八十稲羽、知らない町。パリやモスクワと選ぶところのない、知らない町。なにが起こるかわからない。なら努めてなにも起こすまい。いつもどおり、周囲と適度に付き合って超然としていよう。一年の我慢、たった一年間。すぐ過ぎる。
 電車はゆっくりとホームへ滑り込み、ちょうど窓の前に駅名表示板が見える辺りで停まった。昭和を感じさせる白いペンキ塗りの、木製の古いタイプ。東稲羽から八十稲羽へ、そのあとはペンキの地ばかりでなにも表記されていない。
 もちろんここが終点だった。だからこの先は空白。悠にはそれがなにかよい暗示のように思われた。ここは人生の休憩所、ここでの一年間はきっとなにも起きず、白い平和だけが待っているのだ。せいぜいのんびりすればいい、ここで「イナカ」を勉強するのもいいかもしれない、こんな機会はたびたびないだろうから。
(左遷された会社員って、自分をこういうふうに慰めたりするのかな……)
 ひとつため息をついて、サイドテーブルの緑茶缶に手を伸ばそうとして、悠は凍りついた。
 彼は息を飲んだ。
 鳴上悠は生まれてこのかた――彼の自意識の許すかぎりの表現において「十七年という果てしもなく永い歳月」――これ以上はないといえるほど驚いた。
 サイドテーブルに置いてある飲みさしの緑茶缶、その隣に、金色の帯で封をしたカードケースが忽然と置かれていたのである。





 駅の待合室には誰も――それこそ駅員すら――いなかった。
 室内は古くこそあれ、寂れた印象はない。木と火種とかすかな煙草の匂い、くず入れの半ばほどを埋めるゴミ、替えられてそれほど経たない蛍光灯、そこにはひとの気配の残滓が漂っている。利用されていないわけではない、たんにこの時間帯に電車を利用する人間が少ないだけだろう。
(いかにも終着駅……って感じ?)
 実際そういう題で二、三の画家に描かせれば、こんな絵ができあがるにちがいない。飴色に光る板張りの壁、そこに貼られる四隅の黄色くなったなにとも知れぬポスター、錆びた画鋲、マホガニー色の古いベンチ、たぶんしまうのを忘れられているのだろう、時代錆の刷かれた黒い立派なガスストーヴ――薪燃料のものに似せてある――が二台。上は梁材むきだしの古民家のような天井、下はゆるやかに波打った手作り感あふれるコンクリート床。完璧である。
(いや、三和土、だな。コンクリートなんて横文字は似合わない。タタキだ、タタキ)
 こういう前世紀の遺物のただ中にあって、たったいま通過してきたぴかぴかの自動改札機と券売機――たぶんつい最近設置された――などはまったく場違いな異物にしか見えない。こんな駅には昔の映画よろしく、定年間近の枯れた駅員が改札バサミをカチカチやりながら待ち構えているのが似合わしい。
(あれだよな、たぶん)
 堂島とおぼしき人物は改札を通る前、すでに視界には入っていた。待合室の入口は開け放たれており、その向こうの寂しい車だまりに、大小ふたつの人影の佇んでいるのが見える。明らかに人待ちの様子だ。悠はブルゾンのジッパーを上げると、重たいボストンバッグを引きずるようにして駅舎を出た。
 異郷の地はすこし寒かった。
「おーい、こっちだ」
 堂島らしい男が女の子を従えて近づいてくる。
 背は悠と同じくらい。歳はたしか四十二、三と聞いていたが、彫りの深いせいか実際よりすこし老けて見える。彼の姉の面影はまったくと言っていいほど見つからない。童顔気味の母と比べれば弟というより兄に見えた。
「おう、写真で見るより男前だな。もうちっと細いかと思ってたが」
 がっしりした精悍な男で、すこしくたびれたような、独特の色気のようなものが日焼けした面に刷かれている。無精髭、くつろげた襟、皺の目立つシャツを腕まくりし、ネクタイは緩みがちでちょっと傾いているのに、そういう態がだらしないどころかむしろ粋に、誂えたようによく似合う。これで銜えタバコが加わればすぐにでも、刑事ドラマかなにかのロケへ出発できそうだ。
「ようこそ八十稲羽へ。お前を預かることになってる、堂島遼太郎だ」やや戸惑いがちに、遼太郎が握手を求めてくる。「ええと、お前のお袋さんの、弟だ。いちおう挨拶しておかなきゃな」
「母がよろしくと」彼の手を握り返しながら、「これから一年間、お世話になります」
「ああ、よろしく。しっかし……でかくなったなあ。驚いた、俺とそんなに変わらんな。前に見たときはお前こんなにちっこくて」遼太郎は笑って、自分の腿のあたりを示した。「覚えてないか。またぜんぜん懐かなくてな、あんまり泣くもんだから姉貴がもう近づくなってなあ。ついこないだのことだとばっかり、思ってたんだがな……」
「覚えてませんけど、小さいころ、その話はよく聞かされました。あんたにはおっかない叔父さんがいるって――言うこと聞かないなら叔父さんのとこに貰ってもらうよ、なんて」
「なに、そんな話になってたのか。なんだひとのこと言いたい放題だな」口ほどにもなく、遼太郎はむしろ嬉しそうにさえ見えた。「俺も同じことすりゃよかったな。なあ菜々子、お前にはおっかない鬼婆みたいな伯母さんがいるんだぞ――ああ娘の菜々子だ。聞いてるだろう」
「ええ」
「ほれ、挨拶しろ」
 最前から遼太郎の背後でこちらを盗み見ていた女の子が、促されておずおず出てくる。年頃からするとちょっと整いすぎた鼻を持つ、眼のぱっちりと大きい、豊頬の、ひどく愛らしい女の子だった。まず完全に母親似だろう、貌の造作たるや父親と伯母なみの隔たりがある。体つきも華奢このうえなく、小学一年ということを考慮しても背が低い。たぶん背の順で「まえならえ」をしたとき、両手を前に出さないでいいくらいに。遼太郎は180センチ前後の偉丈夫だからして、まず父親の遺伝子の影響はかなり薄いと見ていい。
「ほら」
「…………」
 菜々子はまったく困り果てた様子で、なにか口の中でもぐもぐ言ったあと、すぐさま父親の背後に引っ込んでしまった。
「お、なんだよ……ははあ、こいつ照れてんのか」遼太郎は娘に尻を引っぱたかれた。「いてっ、あはは、恥ずかしがることないだろうが」
「よろしくね、菜々子ちゃん」
 菜々子はたちまち茹で上がった。
「人見知りするほうじゃないんだがな……まあ、このくらいにしてやってくれ、続きはうちでやろうや。――そうだ菜々子、悠といっしょにうしろ座るか」遼太郎はふたたび暴力による抗議を受けた。懇願の眼差しも加わった。「いてて……なんだいいだろ? 悠の荷物、となりに置かなきゃな。置いたら乗れないだろ」
「おとおさあん!」
「わあかったわかったよ。悠、車こっちだ――ククなに照れてんだか」
 先導される途中で、父親の腰に磁石みたいにくっついていた菜々子がとつぜん走り出して、白いSUVの助手席へさっと滑り込んでしまった。悠と一緒に乗る気はもちろんないようだ。遼太郎が笑い含みに振り返る。
(印象、悪くしたかな)
 よくよく人見知りする子か、さもなければひどく嫌われたか。悠はちょっと落ち込んだ。
 一人っ子であり、同年代の人間に代えて書籍と静寂を親友として選び、平穏ではあっても少しく孤独に暮らしてきた悠にとって、これから一年間いっしょに生活する空間に同じ「こども」がいるという事実は、いまさっき会ってみてはたと気づいたのではあるが――かなり嬉しいものだったのだ。
「気を悪くせんでくれ」遼太郎が見透かしたようなことを言った。「単純に照れてるだけだ。マセたな、あれも」
「はあ」
「さ、乗った乗った――ああ、それと悠」
「はい」
「シートベルト、しろよ」
 車は駅を出たあと法定速度に則って、右手の青田の縁をなぞるように走り出した。
 田圃はいったい幾反あるだろう、最中に取り残されたようにひと叢、エニシダの黄色い花が見えるほかは、遠く山裾まで達するかと思われるほど広範だった。いちめん澄んだ泥色に覆われている中に、碧玉色の剣山のようなものがぽつぽつ浮いている。あれが秋には稲になる、はずだ、実際に見たことはないが。
ひょっとしたら――悠は窓に寄ってぼんやりと考えた。こういう地方の学校って、カリキュラムに田植えや稲刈りが入っていたりするのだろうか。
(あとで聞いてみよう……あったらかなりイヤだな)
 そう、それと、タスポを借りられるかどうかも。車内は薄く煙草の匂いが染み付いている。遼太郎も吸うのだ、ただ、未成年者の喫煙に難色を示しそうではあるが……。





 駅を発ってしばらく、助手席の菜々子が弱り切った呻きを漏らし始めた。
「お父さん」
「ん?」
「どこもよらない?」
「んん」
「…………」
「なんだよ」
「……トイレいきたい」
「あー……うちまで我慢できないか?」
「できない」
「ふーん……悠」遼太郎がバックミラー越しに後ろを覗いてきた。「スタンド寄るぞ。あとついでだ、なんか買っておくもんあるか」
「いえ、とりあえずは――荷物、もう来てます?」
「おお来てる。そうそう、ありゃいったいなんだ? えらい重かったが」
「本です、ほとんど。全部は持ってこられなかったんですけど」
「ほお、勉強家だな。そういや姉貴もガリ勉だったな、血だな。なんか資格でも取るのか」
 遼太郎にとっては読書イコール勉強イコール資格取得らしい。
「趣味です、ただの。つまり趣味はないってこと」
 助手席の菜々子が後ろを覗き込んできて、わからないというふうにして眉根を寄せた。
「趣味、ないんだ。だから本よむのが趣味。菜々子ちゃんは趣味ある?」
「……ないのに、あるの?」
「そう」
「?」菜々子が小首をかしげた。
「趣味、ある?」
「シュミ、ないよ」
「じゃあ、だれかに趣味はありますかって聞かれたとき、こう言えるね。趣味は読書ですって」
「??」菜々子の首が反対側にかしいだ。
「……なんか禅問答みたいだな」左手のスタンドへハンドルを切りながら、遼太郎が唸った。「で、そのこころは?」
「菜々子ちゃんの従兄弟は暇人ってことです」
「???」
「らっしゃーせー! おらーい!」
 ウィンドウ越しに威勢のよい声が聞こえる。若い店員が駆け寄ってきて、遼太郎の車を誘導し始めた。
「乗ってるか?」遼太郎は車載の灰皿と格闘している。「ええ取れねえな、ガタきやがって……俺は降りるが」
「トイレいく」と、菜々子。
「降ります」
 外はやはり少し寒く、ガソリンの臭いと、それに混じってなにか煮炊きする芳しい香りが漂っていた。スタンドは位置的に商店街の入口にあったが、その境界は立ちならぶ家群の庇間と癒着してひどくあいまいだった。いまこのスタンドが爆発したら、たぶん商店街のほとんどすべてが類焼するに違いないほどに。
「トイレ、ひとりで行けるか?」
「うん」
 菜々子は事務所のほうへ歩きかけてすぐ、戸惑ったように立ち止まった。場所がわからないのだろう。
「奥を左だよ」車を誘導した店員が声をかけた。「左ってわかる? お箸もたないほうね」
「わかるってば」菜々子はムッとして駆けていった。が、やはりわからないようでまごまごしてる。
「左いってェ……違うそっちじゃない、戻って。そうそこ」件の店員が声をはりあげて菜々子を操縦した。「そこ。ここ男女兼用だから。うん、そこだから、だいじょうぶ!」
「満タン頼む、レギュラーでな」と、遼太郎。「あんまり入らんが」
「あ、はい、ありがとうございまーす!――どこかお出かけで?」
「いや、こいつを迎えに行ってただけだ。東京からきょう越してきてな」
「へえ、東京からすか」
「あー、あと灰皿……かたしといてくれ」
 遼太郎はそれだけ言うと、悠を誘うでもなく事務所のほうへ歩いていってしまった。店員は運転席に顔を突っ込んで、おそらく強情な灰皿に苦戦を強いられているのだろう、「あれ、えー、なんだよコレ」などとぶつくさ言いながらごそごそしている。辺りに人気はまばらで、悠に構うものはいない。菜々子も戻ってこない。取り残されたかたちだ。
 ほかにすることもないので、悠は歩道まで歩いて出てみた。目抜き通りから八十稲羽商店街の軒並みがよく見える。昔のガス燈めいて洒落た、クラシックなデザインの街灯が眼を引く。
(なつかしいって感じるのは……どうなんだろう。こういうところに住んだこと、ないはずだけど)
 ぱっと眺めたかぎり、三階建て以上の物件は見当たらない。大通りを挟んで密集しているわりに車道をひろく取ってあるせいか、街にはそれほど強い影が落ちずに済んでいる。あまり流行っていなそうなわりに明るい印象を受ける。が、色合いは乏しい。そのせいか彼方にとおく聳える、方形の赤い看板がやけに目立って眼に飛び込んでくる。鮮やかな赤地に白抜きの文字で「JUNES」――こんなところにも一応ジュネスは来ているらしい。
(うちの周りにこういう趣を好むひと、けっこういそうだ。あの街灯なんかもうアンティークだろう、好きなひとが見つけたら引っこ抜いていきそうだ――それに比べると)
 こんな全体的に褪せた色合いの中で、あの鮮紅色はどこまでも異質である。ある日とつぜん空から降ってきたか、地面から生えてきたかのような、どこまでもここの産という認識を拒む。
(あれを風変わりな天守と割り切れば、この対比もまあ、受け入れがたいというわけでもないか)
 質実で、丈夫で、経年に褪せた、それでも元の品質のよさを彷彿とさせる、古着のような町だった。その辺の路地から割烹着姿のおばさんがうちわ片手に出てきて、古式ゆかしく七輪でサンマなんかを焼きはじめそうな……
「ねえ、きみ、高校生?」
 声に振り向くと、件の店員が踵を引きずって歩いてくるところだった。遼太郎のSUVには赤い給油ノズルが刺さっている。ほかに車もなく、あらかた仕事を終えて退屈したのだろう。
「はい。高二で――灰皿とれました?」
「え? あはは……あー、取んないから中身だけ捨てた」
 店員はあっけらかんとしている。学生風の強く残る口で、年のころはたぶん、二十に届くか届かないか、といったところか。
「東京から来るとさ、なーんもなくてビックリっしょ、ここ」
「東京に住んでたんですか?」
「んやあ、遊び行ったことあるだけ。そう思うもんなのかなってさ」
「とりあえず、東京にないものはいくつか発見しましたよ」
「へえ? なになに」
「叔父と従姉妹、とか」長い鼻の悪魔とか、健啖なブロンド美女とか。「今日はじめて会ったもので」
「へえー……じゃ、いまんとこ新鮮でいいね。でもじき退屈すると思うよ、高校の頃つったら、友達んちいくとか、バイトくらいだから」
「なら、当分は退屈しそうにないかな。バイトしたことないし」ついでに「友達んち」とやらにもほとんど行ったことはないのだが。「なにか買いたいものができたら考えるかも」
「おっ、じゃ、ぜひ考えてもらおう。じつはさ、うちいまバイト募集してんだ」ここまで誘導するのが目的だったのか――悠は内心はたと手を打った。「ひといなくってさー……最近じゃみーんなジュネス行っちまいやんの、ほらあれ、見えるっしょ? 新しくできたデパートなんだけど」
「見えますね」
「今の時間帯だっておれ入れてふたりよ? 六時からなんかひとりだし……ま、あんまひと来ないけどね」
「はあ」
「候補に入れといてよ。学生でも未経験でもぜんっぜんオーケー、仕事も簡単、サルでも片手でできるし。シフトかぶったらおれなんでも教えちゃうから」と言って、店員はポケットからなにか取り出した。「きみ、タバコ吸う?」
「ま、たまに」
「おっ不良高校生! じゃ、ま、取っといてよ」
 店員の差し出したのは「MOEL石油」と表示のある、ライターとポケットティッシュだった。
「いちおう非売品。事務所いきゃ腐るほどあるけどね」
「いただきます……」
 受け取りしな、店員はふいに粗品ごと、悠の手を両手で握って上下に振った。危うく声をあげそうになる。気さくであけっぴろげな彼には似合わしからぬ、それはぞっとするほど冷たい手だった。
「ごめん冷たかった?」手を離すと、店員は笑い含みにそう言った。「外作業やってっとさあ――おっと仕事しないと!」
 菜々子が車の傍に戻っているのを見て、仕事を思い出したらしい。店員は会話を切り上げて押取り刀で給油口まで駆けていった。給油機のデジタルメーターは七リットル足らずで止まっている。たしかに「あんまり入ら」なかったようだ。
「えー……ぜんぜん入ってねーし……!」
 店員が大車輪で窓ガラスを拭き始める。それを菜々子がこわごわ眺めているのを微笑ましく見ているうち――悠は突然、強烈なめまいを覚えてしゃがみ込んだ。先にもらったライターとポケットティッシュが敷石に落ちる。冷たい汗がどっと吹き出てくる。加えて最前から辺りに漂っている夕餉の香りが吐き気を誘発して、彼はたまらず膝をついた。
(立ちくらみ? ふつうじゃない、風邪? こんな急に?)
「だいじょうぶ?」菜々子のものだろう、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。「くるまよい?」
「うん……ちょっと、酔ったかも」などと言っている間にも、今ほどの不調は嘘のように消え去ってしまった。「でももうよくなった。だいじょうぶ」
(今のはなんだ? なにか……病気の兆候じゃなきゃいいけど……)
「ぐあい、わるいよ」菜々子は心配そうにしている。「おいしゃさんいく?」
「ううん、だいじょうぶ、本当に」貰った粗品を拾って膝を払って、悠はあわてて立ち上がった。「たぶんお腹すいたんだ。ほら、いい匂いしない?」
「……ガソリンくさいよ」
「とにかく、だいじょうぶだから――ほら、お父さん来たよ、行こう」
 ちょうど事務所から遼太郎が戻ってくるところだった。とくに急ぐでもなく、怪訝そうにするでもない。今のは見られていないようだ。
「えー、七リットル入りまして九百九十四円になりまーす」
「ん」遼太郎は千円札を手渡して、代わりに貰った明細に眼を落として口角を上げた。「リッター百四十二円かよ……たく、ちっと前は百円きってたってのに。信じられんな」
(百円きってたのって、そうとう前だったはずだけど……)
「ほれ、お前ら――悠、どうした」
「え」
「その汗、なんだ。暑いってこたあるまい」額の汗を見咎められたようだ。遼太郎の声には心配するというより、詰問するような強い色があった。「どっか悪いのか」
「ぐあいわるそうだった」娘も得たりと――有難迷惑にも――証言を始める。「さっきしゃがんでた。くるしそうだった」
「あの、少し疲れが出たみたいです。あんなに長い時間電車に乗ったの、初めてだったもので」
 嘘は言っていない。ここに来るまで、そしてここに来てから、それこそ初めてでないものは体験していないくらいだ。初めての道行き、初めての田舎、初めての出会い。あるいは――悠は自分の思いつきに自分で納得した。もちろんそうだ、疲れが出たのだろう。ブルゾンの胸ポケットに収まったカードケースに手をやって、悠はもういちど胸中で呟いた。疲れただけだ。それは気疲れするはずだ、あんな不可思議な経緯でこんなものを手に入れたからには!
「本当に大丈夫なんだな?」遼太郎の口調は一転、優しげなものに代わった。「預かった初日に熱でも出させたら姉貴になに言われるか……俺はお前の保護者だから、お前の健康には責任があるんだ。具合わるくなったら遠慮なく言えよ、こっちは遠慮されるほうが困るんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
「……行儀よすぎるなァ、クク」悠の返答がおかしかったようで、遼太郎は含み笑いながら機嫌よく運転席に収まった。「しつけが行き届いていてなにより! ほれ乗った乗った、帰ってメシだ――あっ、寿司くえたか?」
「ええ、だいじょうぶです」
 菜々子はまだ心配してくれているようで、先に話していたときのように助手席から後ろを振り返って、気遣うような非難するような視線を送ってきている。どうやら彼女はこの年上の従兄弟を、自分が管理すべき病人として認定したらしい。悠は気分がよかった。とりあえず嫌われてはいないようだ。
「お待たせしました、六円のお返しになりまーす!」店員が釣り銭を持って戻ってきた。「お帰りはどちらから?」
「向こうだ。誘導はいいからな――」全開になったウィンドウから身を乗り出して、遼太郎はおごそかに言った。「ビーズくれ、消臭ビーズ。ぜんぜん足らん」





 この日の夕刻、堂島邸の小さな食卓は「特上鮨花曇膳十貫2179円」三人前と、三人で片付けるにはあきらかに多すぎる惣菜類を迎えて賑わった。新しい住人のために用意されたものだ。
(御馳走なんだ……これ)
 菜々子の様子を見ていればイヤでもわかる。冷蔵庫から取り出してきてからというもの、彼女はこの御馳走を眺めては外装の豪華さや値段の高さを賞揚して止むことがない。寿司はもちろん好物ではあったが、まずトレイやラップで覆われた食べ物じたい、悠の家では母の予期せぬ体調不良の象徴であったのだ。まさか不満を鳴らすことはしないが、かといって菜々子のように無邪気に喜ぶこともできない。
「じゃ、歓迎の一杯といくか」
 ちゃぶ台のうえでお茶とジュースの缶がテンとぶつかりあった。
「ま、遠慮なく食ってくれ、大したもんはないが」
「その、すごい量ですね」
「このくらい食えるだろう、そんだけでかい図体してるんだ」
「はあ」
(おれの歓迎だから、あえて作らなかったのかな。でもどう見てもこの人……作りそうにないよな)
 この見てくれで料理は玄人はだし、というなら相当な粋人だが、目下ただよってくるのは男の色気とタバコの残り香ばかりで、家庭的ななにかは驚くほど希薄である。このあたりの期待を裏切ってくれるかどうか。もしまったく作らないのなら――
「いただきます」
「いただきまーす」菜々子は嬉しげにトレイの蓋を開けにかかった。
「菜々子ちゃん、テープついてる、裏」
「寿司が好きなのはよかった」遼太郎は機嫌よく言った。「メシ考えるのけっこう面倒でな、でもばんたび寿司じゃお前も飽きるだろうし、まあ食いたいもん考えといてくれ。大概はジュネスに売ってるからな」
「ジュネスいいなあ。いきたいな」
「作ったりは?」
「メシか? あー俺は作れん、悪いが」
(でしょうとも)
 となるとここ数年、菜々子はまず惣菜や弁当ばかり食べていたことになる。悠自身はともかくも、この小さな従姉妹にはかなり不憫な話だ。
 すでに遼太郎の妻に不幸があったことを母から聞いている悠には、容易に想像できるのだった。長じた菜々子がスーパーかなにかの惣菜売り場で「プラスチックに覆われた食べ物」を眺めるにつけ、彼がそれを見て不安な記憶を呼び起こすように、彼女もまた母の死から始まった悲喜こもごもを連想するに違いない、トレイに盛られたラップ越しの思い出を!
 憐れむべしいとけなき従姉妹――そして自分はこれからそれを一緒に摘むのだ。
(これじゃあべこべだな。弁当惣菜漬けって、都会のステレオタイプだろう? 田舎なら当然――)
 おふくろの味があってしかるべきだ。悠の胸にこのとき、小さな使命感のようなものが燈った。おふくろがおらず、おやじができないなら、どうしていとこがやっていけないことがある?
「しっかし義兄さんも相変わらず仕事一筋だな。海外勤めだったか」
「今年で六年目です」悠は苦笑した。「カリフォルニアのサンノゼ。五年くらい会ってません」
 父がアメリカで日本料理店をやる、と言って機上のひとになったのが、五年ほど前のことである。どんな奇縁が新橋の板前だった彼を、アメリカ西海岸くんだりに結びつけたのだろう。母はどうせ失敗するからといって急にしまり屋になり、管理栄養士としての給料のほとんどを貯金に費やし、尾羽打ち枯らしてすごすごと帰ってくるであろう夫を、明るく迎える準備を怠らなかった。だのに――
「一年限りとはいえ、親に振り回されてこんなとこ来ちまって……子供も大変だ」
 母の予想に反して、父は異国の地で順調に成功したらしい。出発して一年後に一時帰国したとき、父は上機嫌で商売がうまくいっていること、サンノゼの土地柄の素晴らしいこと、今後は日本料理学校の講師を兼任すること、近いうちに必ずシュワルツェネッガー知事のサインを手に入れてみせることなどを告げ、アメリカへ戻る前日には「誓子さんと悠くんに会えなくて寂しい」と言って男泣きに泣いた。――その後五年ほどの間、ほんのいっときの帰国さえ叶わなかった彼の、単身赴任の寂寥はついに限界を超え、妻を一年間という限定ながらカリフォルニアへ招聘するに至った、というわけだ。
「一年間、実家の八十稲羽で過ごすか、それともカリフォルニアのELD日本語クラスに編入するか。さすがに後者は気後れします」
「親父さんに会えなくて寂しくないか」遼太郎はちらと菜々子のほうを見た。「まあ、もう五年も六年も経つんだ、慣れちまうもんかな……」
「慣れはします。それが当然になるまで、時間はかかりましたけど」
「いっそ戻って来いとは言えなかったのか」
「そうですね……何度か考えたことはあります」
そうと言えば父は検討するだろう、それが無理な話でも。息子のわがままを彼は真摯に受け止めるだろう。父とはそういう人間だった。苦しめるだけなのは眼に見えている。
「でも父も雇われで、ひとりで行っているわけではありませんし、話を聞くかぎり、向こうは楽しいみたいです。子供が折れるしかありません、これも親孝行かなって」
「お前ほんとに十七か?」遼太郎が噴き出した。「二十七の間違いじゃないだろうな。それとも東京の子供はみんなそんなに達観すんのか」
「血ですね、母もよく同じこと言いますよ。あんたほんとに十七かって」
「血ねえ。じゃ義兄さん似かね、お前さんは。俺も姉貴もお前くらいの頃なんざまるで聞き分けのないガキで――これいじょう言ったら姉貴に殺されるな。やめだ」遅ればせながら、遼太郎は寿司のトレイに手をつけた。「ま、うちは俺と菜々子の二人だし、お前みたいのがいてくれると俺も助かる。これからしばらくは家族同士だ、自分ちと思って気楽にやってくれ」
「はい、お世話になります」
「あー、固い固い、気ィ遣いすぎだ。しつけがよすぎるのも考えもんだな」遼太郎は笑って手をひらひら振った。「見ろ、菜々子がビビってるぞ」
 菜々子は小さな口いっぱいに寿司を頬張りながら、赤くなって迷惑そうにうつむいた。どうしてここで話を振るのだと顔に書いてある。
「二、三日の客ならそれでもいいが、一年間いっしょに暮らすんだ、そんなに肩肘張ってちゃおたがい疲れるだけだ。もうちっとくだけないか」
「くだけるといっても……」
「じゃ、姉貴――お袋さんと話すような感じでいい」
「じゃあ」頭の中でいくつか、母との会話をシミュレートしてみたあと、悠は思い切って口を開いた。「叔父さん」
「おう」
「明日から行く学校って、どこにあるの?」
「あした、あさ案内する。こっから歩いて、そうだな、三十分かからん」
「この町に本屋ってあるかな」
「あるぞ、一件、商店街に。今日スタンド寄ったろう、あれの隣だ。品揃えは保障せんが……あーあとジュネスの一階にもあったな、ちっと遠いが」
「おれの部屋は、上?」
「二階あがって左の一番奥だ」
「……どうですか」
「ああ合格だ、今のを除けば」
「よかった。じゃ、よろしく、叔父さん」
「おう、よろしく――ほら食え食え、ぼやぼやしてると菜々子に取られるぞ」
 菜々子が抗議のうなり声を上げたところで、遼太郎の背後のソファの上、彼の上着の辺りから携帯の着信音が鳴った。
「たく……誰だこんなときに」
 遼太郎はにわかに不機嫌になった。「誰だ」などと言うわりに、液晶画面をろくに見もせず応答ボタンを押している。どうもかけてきた相手に見当がついている様子だ。
「はい、堂島」
(仕事かな)
 菜々子は眉根を寄せて、不安げに父親を見つめている。遼太郎は二、三の応答をしたあと立ち上がって、話しながら続き間のダイニングまで移動していった。――携帯を切る前、最後の一言「わかった、すぐ行く」だけが鮮明に聞こえた。この時間にどこかへ行くらしい。
「酒のまなくてアタリかよ……」こころなし悄然として、遼太郎は席へ戻ってきた。「はは、むしろお前が来てなきゃ行かれなかったな」
「じゃ、これから?」
「ああ、仕事でちょっと出てくる。急で悪いがメシは二人で食ってくれ」遼太郎はあわただしく寿司を二、三個くちに放り込んで、お茶で無理に流し込んだ。「…………帰りは……ちょっとわからん。菜々子、あとは頼むぞ」
菜々子は心細げにウンと頷いた。父親が非常の時間に出て行くことへの不安か、きょう初めて会った得体の知れない従兄弟と、二人きりになることへの警戒心か――たぶん両方だろう。
「悠、ひょっとすると――」
 と、言いかけて止めて、遼太郎はふいに窓を注視した。少しく開いたカーテンとサッシのあわいから、ガラスに水滴を刷いているのが見える。
「菜々子、そと雨だ。洗濯物は?」
「いれた」
「そうか。じゃ、行って来る」
「叔父さん、なにか言いかけたみたいだけど」
「ん、そうだったか……あー……度忘れした」
 遼太郎はあまり思い出す努力を見せず、ソファの上着と財布を回収して忙しく部屋を出て行ってしまった。どうも大したことではなかったようだ。
「悠ー!」ややあって、玄関から遼太郎の怒鳴る声が飛んできた。「寿司、冷蔵庫に入れといてくれ!」
(ほんとに大したことなかったな……)
「わかった、いってらっしゃい」
「おう」
 遼太郎が行ってしまうと、会話はそれきり途絶えた。戸外で車のエンジンのかかる音がして、ほどなく遠ざかっていく。叔父を乗せて。先ほどまでこのちゃぶ台にあったはずの小さな団欒まで、あのSUVに引っ張られて行ってしまったような気がする。八畳間を気まずい雰囲気が席巻した。
(参ったな、あんまり免疫のないシチュエーションだ……) 
 齢十七の悠をして身の置きどころに苦慮させるこの状況、十歳下の菜々子にはなおのこと堪えるはずだ。ここはひとつ年長者として、自分が無難な話題を提供しなければならぬとひとり懊悩していると、菜々子が食事を中断してなにかそわそわしているのに気がついた。彼の手元をちらちら見ている。
「あ、リモコン?」
 手元ちかくにあったテレビのリモコンを、菜々子ははにかみながら受け取った。悠は小さな敗北を噛み締めた。
(機械に負けた……)
 ――テレビはちょうど稲羽市の明日の天気予報を伝えている。明日は終日雨、転校にはもってこいの日和だ。
「……お父さんって、いつもこんな時間に呼び出しがあるの?」
 まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい、菜々子はおどろいた様子で悠を打ち眺めた。
「仕事って言ってたけど」
 着信があったときの叔父の反応、電話の受け答え、不安げにこそすれ驚きはしなかった娘の様子から察するに、ああいったことはそれほど珍しいわけではないようだ。彼の仕事はたぶん、ふつうの定時勤務ではない。おそらく前の電話はなにかのトラブルを伝えるもの、となれば、彼の仕事は技師かなにかだろうか。
「お父さんの仕事って?」
「しごと……ジケンのソーサとか。おとうさん、ケージだから。イナバケーサツのジュンサブチョー」
「警察官?」
「うん、ケーサツカン」
(まさか警察とは……それならタスポはダメだろうな)
 今度は悠が驚く番だった。が、言われてみればなるほど、図ったのかどうかはともかくも、彼の見た目はまったく「刑事」のそれである。電気工事士だと言われたほうがよほど驚いたろう。
(刑事の叔父か。ちょっと珍しいな)
 テレビは時事報道に移っている。稲羽市議員秘書、生田目太郎、女性関係、進退問題、妻、演歌歌手、柊みすず、訴訟、慰謝料請求、愛人、局アナ、山野真由美、降板、出演自粛。……欠伸が込み上げてきた。後ろ手についた手のひらからじわじわと溶けていくような、緩慢な眠りの誘惑がまぶたの上をちらついた。
「……ニュースつまんないね」独りごちて、菜々子はチャンネルを変えた。「クイズないかな」
(刑事がこういう時間に呼び出されるのって、どういうケースなんだろう。まさか事務仕事じゃないよな……とすればやっぱり、ジケン? ソーサ?)
 テレビはコマーシャルを流している。明日、ハッピーCHU'sデー、新素材、ヒートコンフォート、20%OFF、対象商品、ポイント三倍、ジュネス、毎日、お客様感謝デー、来て、見て、触れ。……腕時計は六時半過ぎを示していた。まだ休む時間ではないが。
(そういえばスタンドから見えたな、ジュネス。こんなガリアみたいな辺境まで出てきて……売れてるのか?)すでに半ば睡りながら、悠は口角の上がるのを感じた。(ガリアはいいな。来て、見て、勝てなら、カエサルだもんな。ガリア・ヤソイナバ……)
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス!」
 すわなにごとかと、悠は危うく腰を浮かせるところだった。今まで借りてきたネコみたいに大人しかった菜々子が、ジュネスにおなじみのコマーシャルソングに合わせていきなり歌い出したのだ。声を潜めるでもなく、悠を憚るでもなく、元気いっぱいのかわいい声で、振り付け――たぶん自作の――までつけて。
「……たべないの?」
「……うん……食べる」
(たぶん、電車を降りてから今までで、いちばん驚いた……それにしても)
 驚きで目が覚めたのもつかのまで、悠はふたたびとろとろし始めた。
 もはや箸を握るだけ握ってもガリひとかけら摘むのすら億劫だ。もともと空腹ではなかったのに加えて、いままで騙しだまし往なしてきた長旅の疲れがとうとう、ここに来て耳を揃えて返せとばかり、負債請求に乗り出して来ていた。
 とにかく眠い、身体が泥のよう。
(江山路遠し羇離の日よ……我ながら大げさだけど、本当に疲れた。風呂ってどうなってるんだろう? いいか別に、入らなくても)
 菜々子は旺盛な食欲を見せ、すでに割り当てのほとんどを平らげていた。自分のぶんも食べるだろうか、勧めてみようか? おひとついかがです、遠慮なさらず――
(あの女のひと……マーガレット、だったっけ)夢の中の道連れは弁当に夢中だった。みかんのお返しにこれを渡したら、彼女は喜んだろうか。(それにイゴール、長い鼻。タロットカード。今日は驚きの連続……)
 悠はその場でそっと横になった。菜々子は目当てのクイズ番組を探し当てたようで、こちらの動きに気づいたふうはない。起こされたらその時はその時――眠りに落ちながら、冷蔵庫に叔父の寿司を入れるのを忘れていたことを、彼はぼんやりと思い出していた。





「悠」誓子が形ばかり、開いたままの部屋の扉をノックした。「……準備できてんの?」
「半分くらい」
「あんた読むんなら終わってからにしなさいよ」
「そうしてる」悠はページから顔を上げず、振り向きもしなかった。「ぜんぶ持っていけないから中身を厳選してる」
「一年だけでしょ。向こうだって本屋くらい、いやなかったな……ないわ、確か」
「ほらね、口癖だったろ。おじいさんちはなんにもない、車がなければ孤独死確定」
「そこでねえ、あたしゃ高校まで暮らしてたんだよ」誓子が部屋に入ってきて、テーブルの上に茶封筒を放った。「遊ぶところもないし、電車のったって一時間かかるし、あの頃はイヤで堪らなかったわ」
「過疎稲羽?」悠はようやくキケロから顔を上げた。
「そうそう、言ったっけ? カソイナバ! 昔はほんっとよくバカにされたわ、御康とか沖奈とか、わりあい都会のほうの学校のやつらにさ」
「三日後にそこ行くんだけどね、おれ。憂鬱だ」
「あんたイヤなんだ?」
「イヤだよ、正直いえば。そんなド田舎」
「へえ」誓子の声には感心したような響きがあった。「あんたなにも言わないんだもん、喜んでんのかと思ったわ」
「選択肢ないだろ。今から英語猛勉強しろって? 冗談じゃない」
「なあに? あんたアメリカ住みたいとか言ってたじゃない」
「それ三年か、四年くらい前だろ……そりゃ、将来的にはって話。せっかく父親がアメリカにいるんだから」
「へえー、意外だったわ、あんたイヤだったんだ」
「イヤだね」
「ま、いい勉強じゃない? アメリカの予行練習でさ……あんた東京でたことないでしょ」
「出たことはある。北海道いったろ」
「また屁理屈」
「母親似でね」
「あはは、あたしに似てるんならね、ぜったい八十稲羽は肌に合わないよ」誓子は笑いながら部屋を出て行った。「四時に来るからね、運送屋。それまでに片しときなさいよ」
「善処する――母さん」
「あ?」誓子の顔だけが戻ってくる。
「言葉が通じないかもね、そういう意味じゃアメリカの予行練習に――」
 洗濯バサミが飛んできた。
「母さん、サンノゼに着いたら現地人にヤソイナバ語で話しかけてみなよ。きっとネイティブ扱い間違いなし!」 
 足音は廊下を出て、玄関でサンダルをつっかけて、それからなにかガサガサいわせながら玄関を出て行った。ゴミでも出しに行ったのだろうか。
(三十分くらい経ったらまた来るだろうな)
 準備中に話しかけられるのはこれで四回目だった。誓子は寂しいのだ、彼女は二日後に機上のひととなりアメリカへ、そして息子は一日遅れで自分の実家へ。夫との長年の別離が癒される間際に、今度は子供がいなくなってしまう。さすがに十七の身空で、子供と別れる母の心境を理解してあげることは難しかったが、悠には母と別れる子供の寂しさを暖めるので手一杯だった。
(なにか置いてったな)
 テーブルの茶封筒にはマジックで、
 
 莫怨他郷暫離別
 知君到處有逢迎
 
 と書いてある。
(見知らぬ土地へしばし別れゆくことを嘆くな、どこへ行こうと必ずお前を迎えてくれる友人がいる、か)
 母にこういう知識はない、とすれば、これはわざわざ父が息子に伝えるよう、メールかなにかで妻に申し送ったものだろう。
 父親の心遣いこそありがたくも、そのメッセージの内容が息子の心を揺り動かすことはなかった。余計な心配はさせまいと伝えてはいないが、彼の息子は友人を作ることにまったく無関心なのだ。
(友人ねえ……それより金がよかったな。入ってないかな) 
 期待をこめて逆さまにしてみると――出てきたのは紙幣ではなく、なにかのカードだった。
「タロットカード?」
 悠はそれに見覚えがあった。何年か前、母が興味本位で占いの本と一緒に買ってきたものだ。ほどなく飽きっぽい母に見捨てられたそれらは、たいていそうであるように彼女の息子が落掌することになったのだが、
(なくしたと思ってたけど……なんだ、母さん持ってたのか)
 カードは一枚だけ。みすぼらしい旅装の若者が象徴的に、ちょっとデッサンを崩して描かれていて、その下のスクロールに「THE FOOL」の文字が躍っている。――見ず知らずの人間にされたならともかく、悠はこの冗談を暖かく受け止めた。なるほど自分は旅人で、若者で、ついでに彼女にとってはまだ眼を離せない馬鹿者なのだ。
 これといっしょに一万円札が数枚はいってたら文句はないんだけど――ため息まじりの苦笑が、しかしこのとき強烈な違和感によって強張った。
(いや、おかしい、カードなんかじゃなかった)そうと言えば封筒の文言も違う。母は「特別賞与」とだけ殴り書きに書いたはずだった。(違う、ぜんぶ違う、確かに入っていたはず、特別賞与十万円が!)
 玄関で扉の開く音がする。
(母さんか)
 玄関框の撓む悲鳴のような音と、それに続いてミシミシとフローリングの軋む音が――母ではありえない誰かの重い、硬質の足音が、悠の部屋めざしてゆっくり近づいてくるのが聞こえる。それだけではない、なにか途方もなく重い、たぶん長いものを引きずる耳障りな擦過音も。悠は立ち上がりかけた姿勢のまま、部屋の開け放たれた入口を凝視したまま凍りついていた。
「誰……母さん?」
 悠は悲鳴を飲み込んだ。叫ぶ代わりに後ずさって、壁を背にしてその場にへたり込んだ。部屋にのそっと入ってきたのはもちろん母ではなかった。母はこんなに巨大であったことはない、母は悠を生んでからかつてこんな格好はしたことがない。投げつけたキケロ演説集を、闖入者は避けもしなかった。黒い、角ばった、ちょっと長ランめいた装束の下に金属質の肌を隠す、長大な鉢巻をつけた鉄仮面。四メートルほどはあろうかという巨体を屈めて、持ち主の丈と同じくらい長い、凶悪な、ナイフと長巻の合の子のような得物で、部屋のカーペットをずたずたに引き裂きながら――それは壁にへばりつく悠に迫った。
(この包丁で、こいつはなにをする? 決まってる、決まってる! ひとつしかない!)悲鳴を上げようとしても、もはやうめき声ひとつ出てはこなかった。(……母さんは? 母さんが戻ってくる、ここに!)
 震える膝と壁とで懸命に身体を支えて、悠はなんとかこうとか立ち上がった。誓子も天国で母子家庭を営むくらいなら、カリフォルニアで息子の位牌を拝むほうがずっとマシだろう。歯の根の合わないのを無理に食いしばって、忘れかけていた勇気と気力とを振り絞って、あらんかぎりの声で母に危険を知らせようと息を吸い込んだ矢先――鉄仮面は悠のあたまを、その巨大な両の手のひらで挟み込んだ。そうしてぐっと無機質な顔を近づけてくる。このままあたまを握りつぶされるか、それとも食いちぎられるか、恐怖に負けて竦みきった彼の耳に、地の底から響くような、地鳴りのような声が轟いた。

 アレハナレナレハアレナレヨノレアレヨバヘ

 鉄仮面の奥にふたつ、金色の炎が燃え上がった。






[35651] 一章 REM TALEM MINIME COGITO
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/27 23:54


 悠は飛び起きた。誰かの叫び声と、なにかガラスのようなものの割れるけたたましい音とによって。
(……ここ、どこだ)
 そこは見知らぬ部屋である。 
 十秒ほど、悠は自分の置かれている状況を理解できないまま混乱していた。うちのテレビはもっと大きい、液晶のはず。こんな骨董級のブラウン管じゃない。それにうちにちゃぶ台なんかない、和室もない、よって畳もない。知らない……
(場所じゃない! そうだ引っ越したんだ、じゃない、ええと……叔父さんの家だ。テレビ見てて……)
 照明は落ちていたが、室内はその必要のない程度には明るい。そのはずだ、とうに夜は明け切っていて、カーテンの開け放たれた窓から控えめな朝の光が差し入っている。昨夜ここで寝てしまい、結局そのまま夜を明かしたのだ。
 雨落を叩く水滴の音が聞こえる。あいにくの雨天。
(毛布……菜々子ちゃんかな)悠の身体には毛足の長い、青い毛布がかけられていた。(悪いことしたな、これじゃどっちが年上だか)
 ふと、いつからそこにいたものか、続き間のダイニングに立っている菜々子と眼が合った。悠を心配そうに眺めていて、足元には皿かなにかの破片が散らばっている。
「おはよう、菜々子ちゃん」
「おはよう」返事には少しく怯えが滲んでいた。「だいじょうぶ?」
「大丈夫……って?」
「うわーって、おおごえ、あげてたよ」菜々子は冷蔵庫の陰から箒とちり取りを持ってきて、それで床の破片を掃き取りはじめた。「おさらわっちゃった」
「ごめん、驚かせて」
 ほんとうにどっちが年上だか――悠を叩き起こした叫び声はもちろん、彼自身のものに違いない。
「怪我はない?」
「うん」悠が立ち上がって手伝おうとする間にも、菜々子は手早く掃除を済ませてしまった。「ゆめ、みたの?」
「え?」
「こわいゆめみたの?」
「うん……見た、こわい夢」悠はにっと笑った。「菜々子ちゃんが起きろ、起きろって言って、おれを蹴るんだ、何度も」
「ゆすったけど、けってないよ」菜々子もようやく笑った。「あさごはんできてるから、いっしょにたべよ」
 彼女の言葉どおり、ダイニングのテーブルにはもう朝食が用意されていた。皿に載ったトースト、ハムエッグ、インスタントのカップスープ、マーガリンのパッケージ、ハチミツの瓶に、なぜかタクアンの盛られた白磁の漬物入れが添えられている。――これから一年間ともに生活するのだ、堂島家の食い合わせの妙には早く馴染まなければ。
「叔父さんは、お父さんはトイレ?」
「お父さん、かえってきてないよ」箒とちり取りを片付けたあと、菜々子は台に乗って手を洗っていた。「たぶんよるまでかえってこない」
「……まさかこれ、菜々子ちゃんが?」
 菜々子はウンと頷いた。
「あさはパンをやいて……あとメダマやき。よるはかってくるの、お父さんつくれないから」
(きみ、本当に七つ? 十七の間違いじゃないか?)
 なるほど、母や叔父は自分を見てこんな印象を持ったわけだ――それは実際、感心よりも心配の勝るものだった。 
 菜々子は代えの皿を出して、トースターから自分のぶんのトーストを確保して、思い出したように冷蔵庫から牛乳を取ってきて――ひとしきりコマドリみたいにちょこまか動き回ったあと、ようやく自分の席に飛び乗った。この愛すべき従姉妹の身長は、せいぜい悠の腰丈ていど、たぶん百二十センチに満たない。こんな小さな子が不安定な台に乗って、火と油と焼けたフライパンを振り回す? 刑事だろうと奴隷商人だろうと親なら心配にならないものだろうか、こんな妖精みたいなわが子が毎朝、自分に焼印を押し付けたり火あぶりの準備をしたりしかねないというのは。
「菜々子ちゃんはなんというか、凄いね。でも危ないから、明日からはもうよしたほうがいいよ」
「……でもあさはおみせやってない」
「ここに菜々子ちゃんより六十センチくらい背の高い」そして同年代の、「従兄弟がいる。たぶんこのひとなら、台を使わなくてもフライパンを振れるよ。朝は蹴られなくても起きられるし、牛乳とタクアンも食べられるし……たぶん、いっしょに」
 菜々子は要領を得ない顔をしている。
「……その、つまり、明日からはおれが作ろうかってこと。菜々子ちゃんは朝はパンのほうがいいほう?」
「でも、わるいから」
(イゴール! 遠慮を知っているということにかけて、おれはこの子の前では喜んで敗北を認める!)悠はちょっと感動した。世の大人はすべからく刑事となるべし、さもなければ奴隷商人に!(しつけが行き届いているだって? コンタクトを忘れてるのでなきゃ、とんでもない皮肉屋だな、叔父さん)
「悪くなんかないよ。もし悪いなら――あ、食べてもいい?」
「うんいいよ。じゃ、いただきます」
 菜々子は最初にタクアンに手を伸ばした。
「……もしおれが作るのが悪いなら、菜々子ちゃんが作るのも悪いということになる」
「どうして?」
「どうしてだろう、じつはおれにもわからない。でもふたりともわからないなら、悪いわけはない、そうだろう?」
「??」
「悪くないなら、おれが作っても問題ないわけだ。どうかな」
「うーん……わかんない。菜々子、あたまよくないから」
「もちろんそんなことはないよ。屁理屈はやめよう、ごめん」悠はコーンスープをひとくち啜った。「わけを教える。菜々子ちゃんが火を使うのは危ないと思う」
「だいじょうぶだよ、なれてるから」
「慣れてるから、危ないんだ。あのコンロは菜々子ちゃんには背が高すぎる。もし少しでも手が滑ったら、油がかかったら、火花が散ったら、フライパンが落ちてきたら? これからも毎朝こんなにおいしい目玉焼きを食べられるとは限らない、もっと大きなお皿が必要になるかもしれない。お父さんには塩味が利き過ぎるかも」
「???」
「……火傷したら大変だよ、お父さんも悲しむ」
「んー……じゃ、いっしょにつくろ」菜々子はしばらく考え込んだあと、そう提案した。「菜々子、火つかわない。だからほかのことする」
「わかった、じゃ、交渉成立」
「こしょう?」
「ううん、なんでもない――食べよう、もう七時半になる」
 なんだか自分が子どもで、母親になにか要求して、彼女のほうで折れて、あるていど譲歩してくれたような、菜々子との会話にはそんな印象が残った。七歳どころではない、十七歳の自分でさえ、相手に失礼なくこれほど気を回せるだろうか? 昨日は驚きの日だったが、ひと晩あけて終わりというわけでもないらしい。堂島家はさしずめ驚異の館だった――築五十年くらいの。
「きょうからがっこうでしょ?」トーストにハチミツを塗りたくりながら、菜々子が言った。「テンコーするんでしょ?」
「ん? うん、そう」菜々子ちゃんと同じ高校にね。「叔父さんが案内してくれるって言ってたけど」
「とちゅうまでおんなじみちだから、菜々子あんないするね。いっしょにいこ」
(ああ……叔父さんはこれを言おうとしてたのかな)昨夜の叔父の様子を悠は思い出していた。(徹夜のジケン、ソーサ、なにがあったんだろう。年寄りがいなくなった、とか?)
「あと、ちゃん、いいよ」
「え?」
「ちゃん、いいよ。菜々子でいいよ」
「??」
「菜々子ちゃんっていうから……」菜々子は赤くなった。「ちゃん、いいよ、つけなくて」
「あっ……そのちゃん、か。うん、わかった」この歳でもちゃん付けは恥ずかしいらしい。悠は内心苦笑した。「じゃ、菜々子さん」
「いいってば、さんはもっとわるい!」菜々子は笑いながら抗議した。「菜々子でいい!」
「あ、ごめん。食べ終わった皿は、いま洗ってしまうんですか? 菜々子さま」
「さまもダメ! つけなくていい!」
「うん、じゃあつけない」悠は席を立って、あからさまに逃げる素振りを見せながら続けた。「それじゃぼくは上に行って着替えてくるから、少しここで待っていてくれたまえ、菜々子くん」
 誘いどおり、菜々子はふざけて追いかけてきた。叔父に自室を教えてもらっていなかったら尻を叩かれていただろう、彼女は部屋の扉の前まで追跡して来たのだった。





 菜々子のエスコートで、悠は鮫川河川敷、月桂樹の並木に入ったあたりまで案内された。
「あと、この道まっすぐだから」
 彼女の指し示す先は糠雨に煙っておぼろである。が、すでにここへ来るまでに、同じ制服を着た生徒を何人も見つけている。案内の続きは彼らにやってもらえばいい。
「ありがとう。今日は菜々子ちゃんも午前放下?」
「うん、ゴゼンホーカ。ちゃんいいってば」
「ごめん。こういうときお昼はどうしてる?」
「ええと、かってくる」
「そう。よかったら作ろうか。それとも食べに出る?」
「たべに……?」菜々子の大きな眼がぴかっと光った。「ジュネスいきたい! ジュネス!」
「わかった、ジュネスね、ジュネス……」好奇の視線を感じる。周りの高校生のものだ。「行ったことないけど、まあ、菜々子ちゃんのお望みのままに」
「うん。ちゃんいいったら」
「ごめん。じゃ、うち帰ったら、一緒に行こうか」
「うん!」
 菜々子の喜びようはただごとではない。ジュネスはありきたりなショッピングモールで、遊園地のたぐいではないはず。それともここのジュネスにはなにか、屋上にささやかな乗り物があるとか、子どもの喜ぶようなアトラクションがあるのだろうか。
「じゃあ、またあとで、菜々子ちゃん」
「うん、じゃあね――またちゃんっていった」
「じゃあね、菜々子さん!」
 悠は水たまりを蹴散らかして小走りに駆けた。
 振り返ると、菜々子の赤いランドセルがもと来た道を戻っていくのが見える。菜々子ちゃん? 菜々子? いかに七歳の子供とはいえ、というより、七歳の子供だからこそ、悠にとって呼び捨てるのはなにか、小石を呑んだような違和感を覚えるのだった。小さな従姉妹を呼び捨てにするのはためらわれる、それが妹ならまだしも。
(八時か……まあ、間に合うだろう。寄り道しなければ)
 昨晩から振り続けた雨のせいで、鮫川の流れは速い。土手に柵がないばかりか、この河は汀まで降りていけるようにさえなっている。もしあの早瀬に小さな従姉妹が落ちたら――自然の豊富な田舎も考えものだと悠は思った。子供が迷い込んで命に関わるようなものが少なくない。もちろん、東京にそれに似た結果をもたらすなにかが、ないといえば嘘になるが。
(叔父さんが徹夜した原因って、ひょっとしたらそういうのかも知れないな。ひとが行方不明で、きょう鮫川の下流で、なんて――)
 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(あいつ……新聞に載りたいらしい) 
 運転手は馬手にハンドル、弓手にビニール傘を差し、悠にやったように周りの生徒を脅かしながら蛇行しまくっている。もう少し河よりに走れば間違いなく滑落するだろう。
 ややあって、彼はT字路脇の電柱に衝突してくぐもった声を上げた。
「…………」
「せっ、せがれが……!」受難した学生は股間を押さえて苦悶している。「弟のほうが……!」
(まあ、兄は生き残ったわけだ)驚かされた含みもあって、悠は声をかけることなく彼の横を通り過ぎた。(時間がない、お子さんの葬儀には付き合えないな。そっとしておこう……)
 少し歩いて振り返ると、おそらく彼の友人かなにか、後ろから学生が走り寄って来て、さっそく彼の息子の不幸にお悔やみを述べているところだった。
 そうとも、見も知らぬ自分がわざわざ弔問することはないのだ。
(ひとにはあまり関わらないほうがいい。余所事に進んで首を突っ込む必要はない、平和にいこう)
 T字路を左折してほどなく、石垣囲いの坂の向こう、霧雨の紗の中に一対の染井吉野が現れた。これから一年間かようことになる、仮の学舎はその奥に聳えている。
 満開した淡紅色の花を嬲るこの雨は、前途を言祝ぐ催花雨か、それとも先行きの多難を暗示する花散雨だろうか。悠は門碑の前に立ってしばらく、生徒たちの不審の眼を浴びながら校舎を見上げていた。
(どんな高校生活が待っているんだろう。願わくば平穏無事で、波風のない、静かなものでありますように……この三つは田舎ならもちろん、ありふれて珍しくもないんだろうけど)
 悠はため息をついた。この一年間は長そうだ――平穏で、波風のない、静かな時間というものは、たいていゆっくり進むものだから。





 職員室で紹介された担任は諸岡と名乗った。やや猫背で、痩せぎすで、上着の襟に少しくフケを撒いた、顔色の悪い小男である。年のころは四十台後半といったところか。
「お前は二年二組に編入になる。東京の学校と違ってクラスが少ないがね、まあそのぶん眼が行き届くというもんだ――ついてきなさい」
 教室まで案内される途中、諸岡はぽつぽつと八十神高校のことを語った。普通は二クラス、多いときだと三クラスあるが、入学者数が少ないと一クラスになることもあること。校風はいたって緩やかだが、まじめな生徒が多いこと。きょうびは田舎でさえ木造校舎は珍しいこと、等々。
 確かに珍しい。校舎の廊下は全面板張りで、経年を示して艶やかな飴色に光っている。踏み締めるたびにギッギッと鳴るのだ! 前の学校は教室や体育館こそフローリングだったが、それだって隙間のない、鏡のように完全な平面の、ぴっちりした貼り物に過ぎなかった。これは紛れもない本物の板で、ミゾがあって、恐ろしいことにぐいぐい撓む。江戸っ子の心胆を寒からしめるにはじゅうぶん過ぎる。悠より体重のある生徒だってたくさんいるだろう、彼らがちょっと垂直跳びをしたいという誘惑に駆られて、それを実行に移すのに不都合な障害を見つけられなかったとしたら、万一にも階段を使わずに一階へ降りてしまう危険性がないでもないではないか!
 悠の控えめな疑問を、諸岡教諭は笑い飛ばした。
「じゃ、鳴上が第一号になれ。ワシはそんな奴はいまだかつて見たこたないが、見てみたくはある」
「……それは先生の許可を頂いたという解釈でよろしいのでしょうか」
「お前はおもしろい奴だな。ワシの許可なんかいらんから、やってみろ、できやせん。この校舎は生半可な鉄筋コンクリートよりよっぽど丈夫だ」
「その言葉を慰めにしたいと思います。図らずも床に非常口を作ってしまったときは」
 ちょうど二年二組の教室の前についた頃、廊下のスピーカーからおなじみのウェストミンスター・チャイムが鳴り響いた。八時三十分ジャスト、始業の合図だが――室内はわれ関せずとばかり騒然としている。高校生三十人あまりを閉じ込めていれば大抵そうであろうように。諸岡教諭は磨りガラスの窓をちょっと覗いて、「全員そろっとるな、たぶん」と独りごちた。
「あー……入る前に言っとくがね」
「はい」
「驚くなよ」
 なにを、と訊く間もなく、諸岡教諭はいきおいよく教室に入って行く。教室内のガヤガヤがちょっと収まった。
(おお……見てる見てる……)
 彼について入ってきた悠に、たちまち好奇心をむき出した約三十人分の視線が注がれる。もし第三者として見られたならたいそう滑稽な眺めだろう。レーザーポインターの焦点を追ってみな一様に首を傾ける動物園のペンギン、とでも喩えられようか。
 諸岡教諭は壇上に上がると生徒たちに向けて、突然ひとの違ったように、
「静かにしろチャイム鳴っただろうが貴様らーっ!」
 と怒鳴り散らした。――結婚式二次会の騒擾が一転、お斎会場のしめやかさに代わった。
(これは……驚くなって、これのことか?)
「今日から貴様らの担任になる、諸岡だ!」
 生徒一同、みな虐げられた農奴さながら、机に顔を伏して彼と視線を合わせようとしない。事前に教えられていてさえぎょっとしてしまう。ついさっきまで温厚だった彼の面は、いまや別人のように傲岸と不遜とで歪められていた。
「一年のときにワシが受け持った奴らはわかっとるだろうがな、ワシのクラスが初めての奴は、よく覚えておくことだ――ワシはほかの先生のように甘くはないっ!」最前列の生徒が顔をかばう仕草を見せた。唾が飛んできたのだろう。「いいか、春だからって恋愛だ、異性交遊だと浮ついてんじゃないぞ。発情期はイヌやネコだけで十分だ。ワシの目の黒いうちは、貴様らには特に、清く! 正しく! 人間らしい! 学生生活を送ってもらうからな!」
(すっかり静まり返ったな……いや、返ってやりやすいかも)
「あー、それではホームルームを始める前に、不本意ながら転校生を紹介する」
 生徒たちがそろそろと面を上げて、彼らの暴虐なる専制君主とその連れ合いを交互に盗み見た。
「爛れた都会から、辺鄙な地方都市に飛ばされてきた、あわれな奴だ」諸岡教諭がちらと悠を見た。こころなし笑っているようにも見える。「いわば落ち武者だ、わかるな? 女子は間違っても色目など使わんように!」
(とんでもない言われようだ! いっそ使いやすくていい)諸岡教諭の横顔を見つめながら、悠は内心ほくそ笑んだ。(いいフリです先生、その調子)
「では、鳴上悠。簡単に自己紹介しなさい」
「始めまして」
 明るくにこやかに、努めて滑舌よく――悠は静かに息を吸い込んだ。
「爛れた都会から辺鄙な地方都市に飛ばされてきたあわれな、鳴上悠です」
 寂としてしわぶきひとつ聞こえなかった二年二組に、どっと笑いが湧いた。これほど笑いを取りやすい舞台があるだろうか? 諸岡教諭のお膳立ては完璧だった。それを彼が意図したかどうかはともかくとして。
「いわば落ち武者です、わかりますね? でも色目は使っていただいて結構――」
「もういい黙れ! 貴様――」諸岡教諭の額に青筋が浮いた。「――いま後ろから二列目、窓際の女生徒に妖しげな視線を送ったな! 見えてないと思ってるんだろう!」
「どの子です、あの子? 違います先生、おれが見つめてたのはその隣の、ほら、あの角刈りの彼です」
 あちこちで爆笑が起こる。指をさされた男子が笑いながら、やめろというふうにして手を振っている。
「あっ、脈もありそうだ。タイプですよ」
「静かに! 静かにせんかあー!」
 諸岡教諭の必死の威圧によって、教室内はどうにかくすくす笑い程度まで収まった。もっとも少し突いて酸素を送るだけで、またすぐに燃え上がりそうな雰囲気ではあったが。
「いいかね、きっ、貴様」ひとつ咳払いして続けて、「ふざけていられるのも今のうちだぞ。ここは貴様がいままでいた、いかがわしい街とは違う。不届きなマネをすればすぐにわかるんだからな。ワシの目を逃れられると思ってるなら大間違いだ」
「はい、肝に銘じます」
「いいか、いい気になって女子生徒に手を出したり、イタズラしたりしたらどうなるか……停学ていどで済むと思うなよ!」
「……それは先生つまり、男子ならオーケーということで?」
 諸岡教諭の奮闘も甲斐なく、笑いの炎はふたたび燃え上がる。男子生徒の誰かが「教壇コント」と叫ぶのが聞こえた。いかにも、ふたりは臨時結成にしては相性抜群のコンビであった。
「きさっ……貴様はなんだ、そっちか!」
「そっちって、冷たいな先生、なにも知らないフリして」
「一緒にするな――近づくな気持ち悪い!」
「さっき廊下であんなに喜んでたじゃありませんか」
(ちょっとやり過ぎかな……ま、いいか)
 どうやら声を聞きつけて様子を見に来たらしい、廊下側の窓に生徒が数名、鈴なりになって張り付いているのが見える。たぶん一組の人間だろう。二組の生徒のほとんどはもう、誰を憚ることもなく大声で笑い転げている。これだけ大騒ぎしていれば気にもなろうというものだ。
 ややあって、教壇コントは一組担任の乱入でお開きになった。
「諸岡先生、なにか?」
「ああいえ、ちょっと話が……弾みましてね」
「ずいぶん楽しそうで」
「ええ、その、申し訳ない、うるさくしまして」
「すみませんね、うちの諸岡が」
 悠のこのひと言で二組は最高潮に達した。一組の担任まで咎めるのを忘れて笑い出し、諸岡教諭はもはや怒鳴る気力も失せたといったふうに、眉根を抑えて俯いてしまった。顔に書いてあるのが見えるようだ――とんでもないのが来てしまった。
(このあたりで止めにしたいところだけど)
 一組の担任にお引取り願ったところで、折よく教室の真ん中あたりに座っていた女子が挙手して「センセー、転校生の席、ここでいいですかー?」と声を上げた。
「となり空いてるんで」
「あ? そうか。鳴上、貴様の席はあそこだ」やっと厄介払いできるとばかり、諸岡教諭はシッシと手の甲を振った。「さっさと着席しろ。ったく」
「はい。名残は尽きませんが――」
「いいから早く行け!」
(先生すみません)
 心の中で諸岡教諭にあたまを下げつつ、悠はいまほど名乗り出た生徒の隣の席についた。派手な緑色のジャージを羽織った、色の薄いショートヘアの小柄な女子で、ちょっと丸顔気味の可愛らしい面立ちをしている。
「……やるねー転校生くん。笑かしてもらったわあ」待ってましたとばかり、さっそく件の女子が話しかけてきた。「なに、ひょっとして打ち合わせとかしたの?」
「いや」
「ま、モロキンがそんなの協力するわけないか。にしちゃチョーチョーハッシって感じだったけど……ちなみにさ、鳴上くんて……えと、マジでそっちの人?」
「いや、女子もオーケー! 本当に」悠はわざと大きな声で返事をした。周りの生徒が噴き出すのを聞きながら、「つまり両方だいじょうぶなんだ、これはわかって欲しい――」
「そこ! なにをくっちゃべっとる!」諸岡教諭が息を吹き返した。「里中か、新年度早々廊下に立たされたいようだな!」
(標的を変えたな、となれば黙ってないぞ)
「いえ先生、おれが里中さんに話していたんです」悠も相方に負けじと息を吹き返した。「彼女に同性愛についての理解をですね――」
「あーうるさい貴様はもう喋るな!」
「でもこの問題は非常にデリケートかつ真実の――」
「わかった、いい、黙れ、もう口を開くな」諸岡教諭はサジを投げたようだった。とうとうコンビ解散らしい。「……貴様の名は腐ったミカン帳に刻んでおくからな」
「先生、ふつうの紙に書かれては?」
「……次、ひと言でも喋ったら、為にならんぞ、いいな」
(ちょっとどころじゃないな、いくらなんでも悪ノリし過ぎた)
 さすがに少し度が過ぎたようだ。諸岡教諭の呪わしげな視線と、彼以外のほとんどの生徒から放たれる、重たい好奇の視線が身体中に突き刺さる。
 まったくやり過ぎだった。初対面でちょっと笑わせてみなに一目置かれれば、とりあえずはそれでよかったのだ。よかったのだが、それで済ますには諸岡教諭の仕込みとノリはちょっと上等に過ぎた。
「……アイツ、最悪でしょ?」諸岡教諭が黒板に向かったのを見て、里中がふたたび話しかけてきた。「まー、このクラスんなっちゃったのが運の尽き……一年間がんばろ、お隣さん」
「運の尽き? とんでもない」里中のほうへ身を乗り出して、悠は声を絞った。相手が返答に困るような言葉を意識して、「こんな美人の隣になれた。幸先がいい」
「あーそれでは、誰かのせいでかなり遅れたが、出席を取る。折り目正しく返事をするように! 浅田――!」
 ホームルームが始まった。そしてそのあいだ中、悠は左右――たぶん後ろからも――から錐のように突き刺さる視線を、平然と無視し続けることを余儀なくされたのだった。ホームルームが、一時間目が終わればたぶん、あまり人見知りしない連中がこぞって話しかけて来るだろう。
 思えば下手にふるまったものだ。初日にここまでやったせいで、これから彼らを適当にあしらって好印象を持たれるようにしなければならなくなった。
(仕方がない、どのみち近いうちにやらなきゃならなかった。デビュー戦を失敗するよりはずっとマシだ……もっとも)
 隣の里中の前、悠から見て斜め前に座っている黒のロングヘアが、先ほどからしきりに左手の窓を見て横顔を晒すのに、悠は気づかないフリをしていた。何度も天気を気にするふうを見せ、その度ごとにちらちらとこちらを見るのだ。左右はともかく、前からこれほど執拗に突っかかってくるのは彼女だけだった。
(こんな美人なら大歓迎だけど)
 悠は目を閉じた。このほうが見やすいだろう、見たければ見ればいい。――隣の里中が「寝てるとモロキンにどやされるよ」と注進してきた。





 九時五十分前にチャイムが鳴ると、それまで魂の不滅について熱心に講義していた諸岡教諭は、ようよう話を打ち切った。一時間目が終わり、今日はこれで放下のはずだが。
「では、今日のところはこれまで。明日から通常授業が始まるからな、配った時間割をよく確認しておくように」
 壇上から暴君が去るとすぐ、解放奴隷たちはもとの騒々しさを取り戻した。何人かの生徒がさっそく席を立って、彼らの専制君主を翻弄した道化めざして集まってくる。
(その道化のほうじゃ、ご主人さまに謝りに行ったほうがいいかもって悩んでるくらいなのにな……)
「えーと、ナルカミ? くん? さっきのすげーじゃん、モロ泣いてたし」女子Aが笑顔で話しかけてきた。
「つかよくあんなポンポン出てくるね言葉。あたし遠藤ね、よろしく」女子Bがやはり笑顔で話しかけてきた。
「ホモネタ反則だろ! でもモロキン弱点ぽいよな」男子Aがむろん笑顔で話しかけてきた。
「鳴上ってホントに、なに、そっちのケがあんの?」男子Bがもちろん笑顔で話しかけてきた。
「あれは諸岡先生が企画したものだから、おれは台本に沿って喋っただけ」悠は適当に嘘を吐いておいた。
「うえ、モロが? うっそでしょ?」
「あとそっちのケについては、詳しく知りたいならあとで校舎裏に来て。ひとりで、ベルトは外して」
「あははやめろっつの!――なんだかな、東京のやつってみんなこんなに規格外なわけ?」
「花村くん、どうなのそこんとこ」
「え? あー……」寝ぼけた声でいらえたのは、悠の後ろの席に座っていた男子である。「……わり、寝った。あんだっけ?」
(こいつ見覚えが……)
「お前あんだけ大騒ぎだったのに起きないってどんだけ……」
 帰り支度でにぎわう最中、教室のスピーカーから校内放送のチャイムがひっそりと流れた。が、誰も気に留めない。
「ほら、お前の新しい衝立さん」
「ついたて? あれ、前にひといるし。誰?」
『先生方にお知らせします――』
「鳴上悠。よろしく花村」
「え、あー、よろしく……」花村というらしい男子Cはちょっとうろたえていた。「えーと……え? 転校生?」
「ご明察。で、さっそくだけど膝に座ってもいい?」
「おおい! こういうことを真顔で言う奴だから!」男子AとBが笑いながら、悠の肩を親しげに叩いた。「よく言うよなあ、このルックスじゃ損だろ」
『只今より緊急職員会議を行いますので――』
「あとで冗談って言わないと、本気で反応するひと出てくるかもよ」
「冗談? 冗談は苦手なんだ、東京じゃカタブツで通ってた」
『至急職員室までお戻りください』
「どの口で言うんだよコイツ……!」
「おほっ、気をつけな花村ー、鳴上くん狙って――」
『また全校生徒は各自教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
「……あん?」
 教室内のざわざわがにわかに減衰した。
「下校すんなって……なんで?」
「あたしに聞かれてもね」
(なんだろう。職員会議がどうとかって言ってたから、たぶんそれ絡みだろうけど)
「不審者でも入ってきたんじゃねーの? 校内に」
「鋭いね、耳が痛いよ」悠は頬杖をついて呟いた。「おれが職員室に出頭すればいいのかな」
「あはっ、行ってみる? モロキン喜ぶよ」
「いや嫌がるだろ絶対」
「つかさ、モロがあーゆうコント? すると思う?」
「俺も意外だったけどさ、まあ新年度だし、なんかしたほうがいいって思ったんじゃないの? モロキン的に」
「や、ぜってーありえねー……だってモロだし」
「まあ、モロキンだしな」
「諸岡先生って、モロキンってあだ名なのか」
「そ。諸岡金四郎、略してモロキン」男子Aが花村のシャープペンシルを取って、机にきれいな字で「諸岡禁止郎」と記した。「教師としちゃ発禁レベル」
「諸岡十八禁四郎」
「歌舞伎の演目みたいだな」
「んで顔は二十四禁四郎。あいつマジしんどい」
 諸岡教諭はそうとう慕われているようだ。普段から生徒に対してあれだけ愛情たっぷりに接していればさもあろう。ただ、ここまで案内してくれた時の彼はだいぶ様子が違ったのだ。ふつうの、どこにでもいる、おじさん先生という印象だった。
(どちらかを演じているのか? よくわからないひとだ)
「……あれ、なに? サイレン?」
 遠藤と名乗った女子Bが不審げに窓のほうを向いた。確かに遠くパトカーのサイレンが聞こえる。――それはじきに聞き耳を立てなくても聞こえるくらいの音量になった。学校の近く、いや、すぐ前に留まっているのだ。
「なんだろ」
「これじゃね? 帰るなって言ってんの」
 今まで悠と話していた四人の興味は、窓の外のサイレンに移ったようだ。非日常に飢えている健全な学生たちは我先に窓へ殺到し――ものの数分後には三分の二ほどの生徒が、押し合いへし合い教室の窓に鈴なりになっていた。この期に及んで椅子を暖めているのはよほど冷めた生徒か、へそ曲がりか、転校生くらいのものだ。
(叔父さんありがとう、甥の周りは静かになったよ)
 サイレンが鳴り止んでも、生徒たちは飽かず諦めずに窓の外の霧雨を見通そうと頑張っていた。パトカーが、慌しく駆け回る警察官が、彼らに慕われて走り回る不審者がひょっとしたら見えはしないかと。
 悠はいつでも帰れるよう支度を始めた。
 正直、四人が窓際へ行ってくれてほっとしていたが、なんとはなく寂しいという感情も否定できない。こういうとき、彼は自分の生き方を難儀だなと思わないでもなかった。独りの時間を尊重し、読書と思索に耽り、相手に見られないところから手庇を作って人間観察に興じる、こういう孤独な学校生活を送る自身の身体に、冷たい、鉄芯のようなものが通っているのを悠は自覚していた。それは彼の背を正し、律し、教え、たいていは涼しめたが、ときどきはこうして凍えさせるのだ。
「あ、あのさ天城、ちょっと訊きたいことあるんだけど……」
(あの美人はアマギっていうのか)
 先の男子Aがいつの間にか戻ってきていて、例のロングヘアに話しかけていた。なぜか若干および腰で。
「天城んちの旅館にさ、山野アナが泊まってるって、マジ?」
(ヤマノアナ? ヤマノアンナ? 聞いたことないな。口振りからして芸能人かな)
 芸能界に疎い悠にはピンと来ないどころか、そのヤマノナニガシが邦人なのか外人なのかさえわからなかった。もっともひとかどの著名人ならさすがに知れようものだ、きっと全国的ではないにしろ、このあたりではそれなりに有名な手合いなのだろう。同級生の家の旅館に「マジ」で泊まっていると、地元の高校生がそれなりに興奮する程度には。
「そういうの、答えられない」天城はにべもない。
「ああ、そりゃ、そっか、客だもんな……」
 男子Aはそれいじょう話の接穂を見つけられずに退散していった。入れ替わりに隣の里中が席を立って、天城の椅子の背もたれに手を掛けた。
「はーもうなにコレ。いつまでかかんのかなー」
「さあね。不審者が見つかるまで?」
「げ、これ不審者なの?」
「ううんわからない! ちょっと聞こえたから……なんなんだろうね、本当に」
「ホントだよォ……あーあ、放送鳴るまえにソッコー帰ればよかったー」
「……うちも電話こないからいいけど」
「雪子んちまだ忙しいんだ?」
「ツアーのお客さん、来るから。夕方」
「うあー……じゃ、十時コース?」
「たぶん」
「にしてもさ、途切れないよね。去年の秋くらいからいっつもこんな感じじゃん? 年々客ふえてるし」
「うん……ちょっと疲れたかな」
「……ひょっとして春休みナシ、だったりした? こないだ来れなかったし」
「ん……でも、流行らないよりいいよ。お店閉めちゃうとこもあるし――ごめんね、千枝」
「あーいいってェ! あっそだ、そう言えばさ、前に話したやつ――」
 二人は友人同士らしい、それもごく親しい、おそらく長い付き合いの。
(サトナカチエとアマギユキコ。たぶん幼馴染。派手な取り合わせだな、諸岡先生みたいなのがこういうところに言及しないのは意外だ)
 かたや緑地に黄のチェックの入ったジャージ、こなた真っ赤なカーディガンと、わりあいドレスコードに忠実な二年二組の中にあって、このふたりはかなり目立つ態をしていた。見目形の整っているところもこの印象を強めている。
 ふたりの会話を見るともなしに眺めていると、ややあってふたたび校内放送を触れるチャイムが鳴った。
『全校生徒にお知らせします』教室内の騒擾がはたと止んだ。『学区内で事件が発生しました。通学路に警察官が動員されています。各自できるだけ保護者の方と連絡を取り、落ち着いて、速やかに下校してください。警察官の邪魔をせず、寄り道などしないようにしてください。繰り返しお知らせします――』
(ほんとうに叔父さんがいるかもな)
 ジケン。ソーサ。昨晩の件に関係が? お年寄りかなにかが行方不明になる。叔父出動。今朝、河川敷で死体が上がる。そして死体には他殺の痕跡が――悠は妄想を振り払った。関係しているからどうだ? 叔父にあっても自分には関係ない、いま考えるべきはこういう状況下で、従姉妹をジュネスへ連れて行くか行くまいかということだ。彼女の父親が、まして刑事の彼がそれを心配しないはずはない。
(どうしたもんかな……冷蔵庫の中身みておけばよかったな。近くに店とかあるかな。昨日の残りで済ませるのも手だけど)
 教室内は以前にも況して騒がしくなっていた。生徒の誰かが何人か募って、事件を見に行こうなどと言っているのが聞こえる。あんなふうに大っぴらに寄り道するななどと言うのは、悠くらいの学生には行ってみろと言うにも等しかろう。
「鳴上、なあ」男子Aが何人か従えて戻ってきた。「俺たちさ、これから事件っていうか、なんかやってそうなとこちょっと見に行くんだけど、お前も来ない?」
「まーそれは適当に切り上げて、鳴上の歓迎会やってもいいし」と、男子B。
「愛家?」
「愛家」
「愛家か。あ、花村くるか?」
「あーわり、俺パス……」花村は沈んだ様子で、膝の手提げの中身を覗き込んでいる。「あー……バイトあるし……」
「? あっそ。で、どうよ鳴上」
「ぜひ行きたいよ、もし先約がなかったら」悠はため息をついた。できるだけ残念そうに見えるように。「そして間の悪いことに、これから女性と食事の約束がある」
「うえ……マジっすか?」
「言ったろ、どっちも大丈夫って」
「いやそう意味じゃないから」
「で、誰? まさかここのじゃ、ないよな」
「十歳下の従姉妹」周囲の刺すような視線がたちまち弛緩するのがわかる。「いや、小学校も午前放下なんだ、昼ないしさ……おいそんな眼で見ないでくれよ、嘘はついてないだろ?」
「へーへー……ま、鳴上は男一筋だもんな」
「なんだ誘ってるならはっきり言えばいいのに――今日の夜なら空いてるけど」
「いいやめんかそのネタ!」
「ネタ? おれは本気だぞ、九時以降なら――」
「あーわかったわかった……じゃ、歓迎会はまた今度な」
「楽しみにしてるよ、あらゆる意味で」
 男子たちは連れ立って笑いながら教室を出て行った。どうやら心証を損ねずにお引取り願えたようだ。
(菜々子ちゃんと約束がなければ行ったかな、おれは――行ったな、きっと)
 件の鉄芯は冷えたままだ。べつに苦しいわけでも耐えられないわけでもないが、だからといって足りないものを補おうという欲求の起こるのは防ぎようがない。もし彼らに付いて行ったら? きっと思い出ぶかいひとときになったろう。アイヤとやらで楽しいイニシエーションを受け、一日バカ騒ぎして、自分はめでたくスクールカーストを構成する一グループに迎えられる――そんなのは御免こうむる!
 もちろん、自分が行ったとしてもそんなことにはならない。これまでの学校生活を思い出せ、お前はうまくやってきた。今日もまあまあだった。明日からもそうできるはず。
 ではこの寒さはどうしよう? 
(決まってる、家族に癒してもらうのさ、昨日できたばかりの家族に。この寒さは家に持ち帰ればいい)
「あ、帰りひとり?」
 席を立ったところで千枝が声をかけてきた。背後に雪子を従えている。
「よかったら一緒に帰んない? あー、あたし里中千枝ね。隣の席なのは知ってるでしょ?」
「……そうだったかな」
「ちょ、真横にいたし。つか話したし!」
「いや、おかしいな。こんな美人だったはずはないんだけど」
「うはー……言うねこのひと」里中は赤くなった。「で……ど、どう?」
「どこか寄る予定はある?」
「んや、ないよ。女の子とゴハンなんでしょ? 十歳年下の」
「しまった、聞こえてたとは……」さもあろう、聞こえるように言ったのだ。「参ったな、これでデートに誘ったら誠実を疑われる」
「あははー残念でした」
「なら仕方ない、一緒に帰るだけで我慢する」
「じゃ、ヨロシク――でェ、こっちは天城雪子ね」
(松風と、村雨も一緒か)
「あ、初めまして……なんか急でごめんね」
「のぁ、謝んないでよ、あたし失礼なひとみたいじゃん。ちょっと話を聞きたいなーって、それだけだってば」
「それだけ? それだけだったのか……どうも途方もない期待をしてたみたいだ」
「うおーい……どんな期待よ」
「明るいうちは言えない。聞きたい?」
「いーって!――鳴上くんてさ、向こうで変わってるって言われてなかった?」
「変わって、とはよく言われてた」
 雪子が千枝の背後で「むふっ」と笑って、あわてて俯いて口元を覆った。
「ご、ごめんなさい、笑うつもりは」
「あーほら行こ、喋ってるとまた――」
「あ、里中……さん?」
「ん、どったの?」
 三人の会話に割って入って来たのは、先の男子Cこと花村である。なぜか申し訳なさそうに、悄然として、薄っぺらい手提げの中をごそごそやっている。
「帰ったかと思ってた。なによ」
 確かに花村はいちど帰ろうとしていたらしい。彼は教室の後側の入口から戻ってきて、なにか後ろめたい様子で千枝に声をかけてきたのだった。
「あの、これ、スゲー、おもしろかったです」花村はなにか箱状のものを手提げから抜き出した。「技の繰り出しが、その、さすが、本場っつーか……」
「おっ、わかっとるねー花村氏ィ」千枝の眼がとたんに輝きだした。「じゃまたジェット・リー戻ってェ、つぎワンチャイいってみよーか、こないだ少林寺みたよね、あたし的には2とアラハンはちょっとねー、つまんなくはないんだけどさ、ユエ・ハイ目当てでなきゃオススメできないかな、またなんで早回しとかするんかねーホントに、あーあの先生のことね、シーフォー」
「いや、それはいいんだけど――」
「あっ、成龍伝説の話だったよね」千枝の眼はいよいよ輝きを増す。「よかったっしょそれ、それ見ればジャッキー・チェンの代表作はひととおり押さえたことになるから、でもゴージャスが入ってないのは完全に納得いかんけど。まジャッキー・チェンは入門編だけどさ、カンフー映画に入りやすい間口を作るのって実はすっごく大変なんだって思うんだよね。そーそーなんでドラゴン怒りの鉄拳が入ってるんだって、あれラストでコンサンが――」
「申し訳ない、事故なんだ!」
「おおっ、ツウですなあ花村氏!」千枝が花村の肩をびしびし叩く。「コンサン語るなら事故は外せないよね! で、花村はどれ? ヘリ? 時計台? 電飾? あたしは断然ポリストだなー、なんたってあのあと走ってんだからコンサン――なにそれ」
「バイト代はいるまで待ってくれ……!」
 花村は抱えていたなにかを千枝に押し付けた。無残に潰れて、ついでに水に濡れてごわごわになったDVDのボックスを。
「え、ちょ……え? な、なにしてくれてんのアンタ……」
「じゃ!」
「待てコラ! 貸したDVDになにした!」
 逃げ出そうと身を翻した甲斐もなく、花村は千枝の飛矢のようなフロントキックを食らってつんのめった。つんのめってそのまま机に激突し、座っていた女子の白眼に晒された。
「せっ、せがれが……!」花村は股間を押さえて悶絶している。「兄のほうが……!」
(家名断絶……)
「あんたコレ数量限定で――ああーっ! 信じらんないヒビ入ってんじゃん……!」ボックスの中身をひとめ見るなり、千枝は絶望の叫びを上げた。「あたしの成龍伝説があぁ……」
「俺のもヒビいったかも……机のカドが直に……!」
「コレ買うためにどんっだけ沖奈まで通ったと思ってんのよォ……通いまくって電話しまくってダメで……キャンセルいっこ出てやっと買えたのに……高かったのに……コンサン……」
「だ、大丈夫?」
「ああ、天城、心配してくれてんのか……」そうとう痛いのだろう、花村の額には脂汗が滲んでいた。「でもうちの息子、今夜が峠っぽい……ジャ、ジャンプせねば……!」
「いいよ雪子、花村なんかほっといて!」
「でも、その、ああいうところの怪我ってヘタすると命に関わるっていうし」
「関わっていいよ、つか関わらせたいよ。いまヘーキで立ってたら骨盤脱臼さしてるとこだから!」
「マジで悪かったって……買って返すから……ああ……!」
「売ってないの! もう!――行こ、ふたりとも」
 ボロボロになったナントカ伝説をリュックにしまうと、千枝はぷりぷりしながら教室を出て行った。雪子も気遣わしげに花村を振り返りつつそれに従う。
(そうか、朝のあのときだ、ぶつかった弾みに落としたんだな。気の毒に)
「ええと、大丈夫?」
「大丈夫ない、くるしい……!」
 さすがに見兼ねたものか、彼に深刻な痛撃を加えた机の主人が立ち上がって「ちょっと大丈夫? 保健室いく?」などと声をかけている。
「鳴上くーん?」廊下から千枝の声が飛んできた。「行こーよ、そんなのほっといていいから」
(仕方ない、ここにいてもできることはないし、介抱は彼女に任せればいい……そっとしておこう)
「その……お大事に、花村」
 悶え苦しむ「そんなの」を後目に、悠は千枝たちの後を追って廊下に出た。





[35651] 国を去り家を離れて白雲を見る
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/27 23:57



 千枝の怒りはあんがい長続きせず、正面玄関で靴を履き替えるころには、宝物を破壊された恨みなど彼女はきれいさっぱり忘れてしまったように見えた。初対面の人間に愚痴を聞かせるのを避けたか、そもそも根に持たないタイプなのか――いずれにせよ彼女は陽気で話しやすい、好ましい性格の持ち主だった。
「蒸し返すようでなんだけど」同じ痛みを共有できる者同士の義理から、悠はささやかながら花村の弁護を試みた。「さっきのDVDのこと」
「へ? あー、ホントむかつく!」千枝はさっそく再燃した。「貸すんじゃなかったよもう!」
「実は登校するとき、花村と行き会ったんだ」
「あ、そなの?」
「おれ、道がよくわからなくて、あちこちうろうろしてたんだ。それでつい花村の自転車の前に出ちゃって……それを避けようとして、花村、電柱にぶつかった」
「あー……」千枝はなんとなく話の流れを読んだようだ。
「その拍子にさ、転んで、手提げ鞄を下敷きにするのが見えたんだ。――そのせいかどうかはわからないけど、そのDVD、おれのせいかもしれないなって」
 たしょう脚色も加えて、悠は今朝の出来事を語った。千枝の性格上こうと言えばたぶん、以後花村を表立って責めることはすまい。彼もこどもたちの心配をしなくて済むだろう。
「やっちゃったもんはしょーがないけどさあ……あーあ、一学期早々ついてないよホント」
「ごめん」
「や、いいって! 鳴上くんのせいじゃないかもしんないし――雪子どしたの?」
 下駄箱を開けた直後、雪子がちょっと固まったのを、千枝は目ざとく見咎めたようだ。 
「えっ? 別に。なにが?」
「……ははーん、また、ですな」千枝が含みありげに笑った。「で、何十枚?」
「そんなに入ってないよ!」雪子は右手に握っていたなにかをポケットに突っ込んだ。
「あっ、じゃ入ってたのは認めるんだ。やー今日はどちらさまからでございますかなあ」
「千枝おいてくよ」
 ひとりでさっさと靴を履いて、雪子は小走りに正面玄関を出て行った。歩きながらポケットの中身を取り出して一瞥して、また素早く突っ込んだ。あれは、
「ラブレターか」
「さよう、こひぶみでござる」まるでわがことのように、千枝は満面の笑みを浮かべている。「でもマジで通算何十通ってもらってるんだ、雪子。まーぜんぶお断りしちゃうんだけど……すごいっしょ?」
「へえ」
「うぉ、感動うすいな――ひょっとしてあれ、鳴上くんのだったりして?」
「あ、バレた?」
 千枝は外履きを取り落として「うえ……マジっすか?」と驚愕した。
「ホントに?」
「……もし会ったこともない女子の顔と性格を吟味できて、名前がわかって、下駄箱の位置がわかって、ついでに彼女の友達がそれを喜ぶことを知っていたなら――ひょっとしたらしたかも」
「えーっと、嘘?」
「嘘でなくそうか、里中うれしいみたいだし」
「ええ? い、いいよ……っていうか、えと、なんつっていいかわかんないんですけど」
 返答に困って、千枝は視線を泳がせた。それがほどなく、正面玄関の先、戸外のなにかに釘付けになって止まる。
「――なに、アイツ」
 彼女の視線の先には、校門の辺りに佇む雪子と、それに話しかける見知らぬ少年の姿があった。八十神高校の学ランではない、ブレザーにネクタイといういでたちの、まぎれもない他校の生徒である。――千枝は外履きを突っかけるのもそこそこに、雪子たちめざしてすっ飛んでいった。黙って様子を見ようという気はないようだ。
(まるっきり変質者あつかいだな)
 近づいて他人のふりをしながら聞き耳をたてたかぎり、かの勇気あるアウトサイダーの目的は――近づく前からそうであろうとは思われたが――雪子を連れ出すことらしい。彼はひじょうに熱心に彼女を誘うのだが、彼女のほうでは困ってズレたあいづちを打つばかりである。千枝も押っ取り刀で駆けつけたはいいものの、自分の出る幕はないと判断したようで、なにも言わずに雪子の背後に控えていた。
「――だからさ、時間、ないの? 用事は夕方なんだろ」
「うん……」
「じゃ、行けるだろ」
「準備、あるし」
「それってどのくらいかかるの?」
「その時々にもよるよ」
「少しくらいいいだろ?」
「少し……って?」
「一時間くらい」
「いま何時?」
「……十時二十分」
「あなた、誰?」
「え、久保美津雄」
「会ったこと、あったっけ」
「いやないけど」
「きょうツアー来るの、中国の団体さん」
「……いや、そんなのどうでもいいよ」
「わたしは、その、よくないんだけど」
「とにかく、一時間くらいいいだろ」
「その、準備あるし」
「だからそれどのくらいかかるの」
「その時々にもよるよ」
(中国人と日本人が自分の言葉だけで会話したら、こんな感じになるのかな)
 やがて悠のように遠巻きにして、事態を眺めるギャラリーがぽつぽつと現れだしたが、ふたりの話は依然として盛り上がりも盛り下がりもしない。久保という男子はだんだんいらいらしてくるし、雪子のほうではまったく困惑一色、自分が一緒にどこかへ行くか行かないかという事柄について、なぜ初対面の彼がこのような積極性の発露を見せるのか皆目検討がつかぬといったふうで、傍目にはどこまでもかみ合いそうにない会話だった。
 彼はほぼ間違いなく「通算何十通」の最新の凡例となりそうだ。
「あのさ、行くの? 行かないの? どっち!」ついに業を煮やしたようで、久保が傲然と決を迫った。「はっきりしろよ、中国とかどうでもいいよ!」
「い、行かない……」
「……ならいい!」
 久保は腹を立てて走り去ってしまった。
「あのひと、なんの用だったんだろ……」
 デートに誘うために来た男を評して言うに、あまりといえばあまりな台詞である。雪子はついに彼の用件を解さず、かつ彼女のわからない理由で立腹されたためにちょっと膨れていた。
「中国きらいなのかな。よくないよね、そういうの。れっきとしたお客さんなのに」
「いや、国がどうとかってんじゃないと思う」千枝が控えめに訂正を入れた。「あれ、デートのお誘いでしょ、どう見たって」
「え、そうなの……?」
「そうなの……って、あーあ、かわいそーに」
「かわいそうって……かわいそうなのは中国だよ、あとわたしも。どうでもいいだなんて」
「中国から離れなさいっての。――まあけど、あれはないよねー。初対面でいきなり『雪子』って怖すぎ」
「観光客に国籍なんて関係ないよ、差別するのは間違ってると思う」
「だから国はもういいってのに……」
「よう天城、また悩める男子フッたのか?」
 ギャラリーの囲いを割って、花村が自転車を引いてやってきた。どうやら峠は越えたようで、先にあれほど苦しんでいたのが嘘のように快活である。
「見てたぞ、まったく罪作りだな……俺も去年、バッサリ斬られたもんなあ、古傷が疼くっての」
 きっと由々しい人種差別発言があったのだろう。
「別に、そんなことしてないよ」雪子が口を尖らせる。
「え、マジで? じゃあ今度いっしょにどっか出かける?」
「……それはイヤだけど」
「僅かでも期待した俺がバカだったよ……つーかお前ら」露骨に傷ついたフリを見せて、花村は自転車に跨った。「あんま転校生イジメんなよ。鳴上、一年たったら東京帰るらしいし、ここのこと向こうで悪く言われないようにしろよな」
「はなし聞くだけだってば!」
 捨て台詞して、花村の自転車は校門前の坂を下っていった。相変わらず蛇行しながら、周りの生徒を脅かしながら。
「さっきの、他校の生徒みたいだったけど」
「うん、どこの子だろ」
「あれ宇宿商業のブレザーだよね、盾っぽい校章のやつ。東稲羽の」千枝は胡散臭そうな顔をしている。「つか、雪子の名前って向こうまで広まってるんだ……」
「有名人なんだな」
「そんなことないけど……あの、ごめんね、いきなり……」
「いや、すごく参考になった」
「参考って」
「あ、ほら、もう行こ。なんか注目されてるし」
 挑戦者が敗走して騒ぎが収まるかと思いきや、一部始終を見ていた生徒が今ほどの椿事を遅れてやってきたものに説明しているせいで、ギャラリーは減るどころかじわじわ増えてさえいる。三人は人目に押し出されるようにして校門を後にした。
「そういえば」ややあって千枝が思い出したように言った。「さっき言ってた、参考になったって、なにが?」
「いや、手紙かくときは中国ずきをアピールしようかなってね」
「あー……そういう参考ね」
「へえ、中国すきなの?」と、雪子。「誰に出すの?」
「…………」
 千枝が眉根を押さえつつ、口だけで「ね?」と言った。





「――そうそう、校門でるとき花村が言ってたんだけど」
「一年たったら、ってやつ?」
「そそ。そうなの?」
「ここの親戚に預けられただけだから、一年だけ」
「う、えーと……この先って、訊かないほうが、よかったり?」
「べつに構わないけど」
「や、ほら、なんかトクベツなカテーのジジョーってやつとかだったり、するかもだし……」
「そうそれ」
「いや、軽っ」
「重くないから。両親とも海外に行ってるだけ、母親のほうが一年間限定で」
「ご両親がいっしょに、海外に行ってるの?」
「父親が六年前にカリフォルニアに行ってそれっきり。で、単身赴任はもうイヤだって言うんで、このあいだ母親もあっちへ行った。地理的に一番ちかいのが母方の叔父がいる八十稲羽だった。だからここに来た」
「カリフォルニア……アメリカ」
「あ、アメリカだったよね、そうだよねー……」
「カリフォルニアの、サンノゼってところ」
「おおー……遊び行ったりとか?」
「ないよ、一度も」
「ご両親は向こうでなにを?」
「仕事? 父親は板前。母親は……たぶん観光」
「あ、板前さんなんだ」
「そっか、親の仕事の都合なんだ。もっとシンドい理由なのかと思っちゃった、はは」
「留年もしんどい理由に入る?」
「留ね――留年っ?」千枝が大きな眼を瞠った。「し、したの? 留年」
「十回して、実は二十七歳」
「……え、あー、嘘でしょ?」
「どう思う?」
「どう……と言われましても」
「童顔だよね、鳴上くんって」
「え、そう?」
「うん。これなら十七歳で通るよ、だいじょうぶ」
「いや雪子、冗談だから」
「冗談なの?」
「……面白くなかった?」
「そんなに……ありそうだし」
「…………」
「ね、東京と比べて、ここって、どう?」
 河川敷を外れて住宅地に差し掛かった辺りで、千枝は右手の広大な田園を手で示した。
(馬鹿正直にド田舎だね、とは言えないか)
「どう……と言われましても、だな」
 きのう車窓から見た稲田は、さながら荒涼とした泥の湖のようだったが、車のスピードに暈かされない畔は案外に装飾的だった。金鳳花や土筆の黴のように点綴するのが、セメントの側溝を跨いで悠の足下ちかくまで侵攻してきている。悠が立ち止まると、女子ふたりもそれに付き合って足を止めた。
 雨は朝方に降ったきりで、今はよく晴れている。
(天は長く地は闊くして嶺頭分れ、国を去り家を離れて白雲を見る……だな、おれの場合、まさに)
 田舎をただそれだけで愛好しはしない悠の眼にも、この牧歌的な眺めはなかなか好ましいもののように思われた。誓子はどうだっただろう? 母は概して田舎的なものを疎んじがちであったが、このきれいな自然もその例には漏れなかったのだろうか。
(目の前に田、向こうに山なら、青空と雲のコントラストはさしずめ海と砂浜だ。田園趣味の詩人に霊感を与えるのって、きっとこういう風景なんだろう)
 田舎は静か、という先入観が悠にはあったが、東京とは音の出所が違うだけであまり変わらないようだ。それでもこんな閑かな午前中に道端へ投げ出されてみると、まるで自分自身が音になってしまったような静けさがある。じっと耳を澄ませば頭上の海原から潮騒すら聞こえてきそうではないか。それは豊かな静寂だった。
「ここ、ほんっと、なーんもないでしょ?」
 言葉の内容とは裏腹に、千枝の口調には明らかな誇りがある。きっと彼女は「ここ」などというぞんざいな指示代名詞を使って、なにかしらの難点を示そうとしたのではない。ただ彼女にはありきたりで慣れすぎたために少しく褪せた宝の光が、この得体の知れない東京人に反射してどのように明々と輝くのか見てみたいのだろう。
「そこがいいトコでもあるんだけど、余所のひとに言えるようなモンは全然……」
「……おれ、柴又に住んでたんだ、葛飾区の、新柴又駅の近く」
「へえ、うん」
「とりあえず、柴又にないものは全部あるよ、八十稲羽には」少なくとも柴又には海も山もなかった。
「んーん、うまいこと言うね……なんかはぐらかされたような気がしないでもないけど」この答えに満足したのかしないのか、千枝はちょっと物足りない様子である。「なんかあったかな……あ、八十神山から採れる……なんだっけ、染め物とか焼き物とか、ちょっと有名かな」
「水名羽染ね、ムラサキキャベツ染めなんて言われたりするけど」雪子の注釈が入った。
「そそ、それ」
「あと水名羽縮緬、は、小千谷縮の分派みたいなもんだから、名産じゃないかな。焼き物は城根焼かな、無釉の赤っぽいやつ。でもあんまり有名じゃないかも……うん、ぜんぜん有名じゃない」
「うおー……よく覚えてるね雪子」
「お土産用に仕入れてるから。水名羽染の帯もってるし」
「おっと、そーそー忘れちゃいけない天城屋旅館! ここは普通に自慢の名所! いま雪子が言ったやつぜんぶお土産で売ってるよ」
「アマギヤ……アマギ?」
「そ。さーてェ、雪子の名字はなんでしょう」
「ひょっとして、天城の?」
「うん、うち」
雪子の面に血が昇った。照れているというより、なんとなく恥を感じているような印象である。
「名所なんかじゃないよ、古いだけ」
「隠れ家温泉とかって、雑誌とかにもよく載ってんじゃん。ほら、誰だったか芸能人が毎年きてるとか」
「来たことはあるけど」
「この町でいちばん立派な老舗旅館でね、雪子はそこの次期女将なんだ」
「まだなるって決まったわけじゃ」
(そういえばヤマノナントカが泊まってるらしい旅館とか言ってたっけ。なるほど、それで十時コース、春休みなし、中国人ツアー、なのか)
「雪子んち目当ての観光客とかも来るし、この町それで保ってるよね実際」
「そんなことないけど……」
「ね、ところでさ」千枝がこころもち身を乗り出してきた。「雪子って美人だと思わない?」
「またそういうことを、千枝!」
(つまり、里中にとっての誇りなんだ、天城は)
 また、と言うからには、こういった問いかけはたびたびなされてきたのだろう。先のラブレターの件といい、今ほどの旅館の話といい、千枝は美しい親友を賞揚するとき、自分の宝物を自慢するように誇らしげになるのだった。
「なあによホントのことじゃん。で、どう?」
 少し大げさに注視すると、案の定、雪子は不快気に眉を顰めた。――なるほど自慢したくなるだけのことはある、彼女は容姿端麗だった。純和風の、小細工のない、言ってみれば正眼の美しさだ。
 すらりと長い脚が柳腰を支える、緩くS字を描く均整のとれた体つきに、女子にしてはやや高めの身長は、小柄な千枝と並んでいると余計に際立って見える。それらの戴く顔と言えば、色の白い卵なりの輪郭に、二重瞼の下の切れ長の眼、ふっくらした桜桃の唇、これだけが純和風を少しく乱す、高めのすっきりと通った鼻梁、濃く細くたなびく眉は憂わしげに顰められていて、この希有なパーツの集約した美貌に、いささか歳不相応の艶を与えていた。美の裁定基準は時として無責任である、彼女は悲しげにしていたほうが美しいのだ。
 雪子はついにそっぽを向いてしまった。
(美人は顔を褒めると不機嫌になるって言うけど……)
 彼女も例には漏れないようだ。美しい人間にままあるように、彼女にとって見目の良さに注目されることはおそらく、それ以外の要素を軽視されたように感じられるのだろう。美しさを褒められ飽いている美人の気難しさである。
「思うことは思う、けど」
「けど?」
「どのくらいか、と言われると、ちょっと難しい」
「おっとォ、レベル高すぎた?」
「千枝ェ……」
「正確に吟味するなら、改めてひとりのところを狙うかな」
「……ん? うん」
「いまは隣に同じくらい綺麗な花が咲いてるから、目移りして気が散って判断できない。岸傍の桃李誰が為にか春なるってね」
「はあ、ふーん……はな?」
 もっぱら千枝への礼儀が言わせた言葉だったが、これははからずも雪子を喜ばせたらしい。彼女の愁眉が解けて、頬にかすかな、好意的な笑みの刷かれるのが見えた。このふたりは案外似ているのかもしれない。つまるところ、自分自身が褒められるよりも、親友のそうされるほうがずっと嬉しいのだ。
 何秒か呆けたあと、千枝はようやく意味を悟って赤くなった。
「……つか、口、達者だよね、鳴上くん」
「自分でも損してると思う。嘘つけないから」
「正直なのはいいことだよ、わたしも千枝は、美人だと思うし」
「はあっ? なはーに言ってんだか……」
「おまけに話しやすいし、明るいし」悠も今度は雪子の肩を持った。
「そうそう、友達おおいし、気さくだし、運動神経いいし、器用だし」
「ちょっとあんたらねェ……」
 千枝は真っ赤になって気色ばんだ。褒められ飽いている雪子とは正反対で、こちらは褒められ慣れていない様子。言われていることを額面通りに受け取れない、ということだけが共通している。
(そろそろ寝返っておこうか)
「ところで天城、さっきの手紙は誰から?」
「おおっ、そーそー訊くの忘れてた!」千枝は得たりと元気を取り戻した。
「手紙、って、なんのこと?」たちまち非難がましい視線が飛んで来る。「もらった覚えないけど」
「まーたまたァ、下駄箱に入ってたじゃん――雪子って学校でもすごいモテんのにさ、彼氏ゼロなんだ。おかしくない?」
「ちょ、やめてよいきなり……ぜ、全部ウソだからね、モテるとか、彼氏ゼロとか!」せっかくの親友の賛辞を、雪子はしゃにむに否定してかかった。「あっ違った、えっと違うから、彼氏とかいらっ、いらないし!」
「これだもん、もったいないったら」
「転校生の鳴上には言わないでやって……きっと落ち込むから」
「気にしなさんなって。ささ遠慮はいらぬぞよ、どんどんアタックすべし」
「もう……千枝ェ……!」
 どうやら本当に気分を害したようで、雪子は不快感を露わにしていた。
「あはは、ごーめんごめん……だってせっかくなのにノリ悪いんだもん」
「…………」
「……雪子、怒った?」
「あれ、なんだろ」
 戸惑いがちに立ち止まって、雪子が前方を指し示した。
 住宅の密集する、ちょうど車がすれ違える程度のせまい交差点に、ちょっとした人だかりができている。反射チョッキを着込んだ警察官がふたり、誘導灯と警笛を武器に野次馬をやんわりと威嚇していた。
「あれって……例の、えと、アレかな」
「ひょっとして」
「ひょっとするかも……迂回する?」
「行ってみよ……っていうか、フツーに通り道じゃん。わざわざ回り道することないよ。通ろ通ろ」
 教室ではなんの気もないような態度を取っていても、いざ現場に出くわせば好奇心の沸き上がるのを押さえがたいようで、千枝も雪子も眼を爛々と輝かせている。もっとも悠自身の眼もたぶん、彼女らと選ぶところはないのだろうが。
(よりによって探すつもりのなかった人間が行き会うとは……愛屋組もここに来たのかな)
「ええここから先に用のある方は申し出てください、この先に家があるなどの、理由のある方は申し出てください。この先は通行止めです、通り抜けできません」
 警察官の後ろのほうから、拡声器を介した注意が飛んできた。かなり横柄で押し付けがましい、いかにもいい加減にしろと言わんばかりの声である。きっとこういう口調になるまで何度も同じ文句をがなったのだろう。
(あれ、この声、ひょっとして)
「ええ迂回路を提示してあります、この道を通る場合はそちらをご覧のうえ、回り道をお願いします。ここから先は通行止めです。捜査へのご協力を願います、用のない方は近づかないように!」
 意訳すれば「さっさとどこかへ行け野次馬ども」にでもなろうか。当の野次馬も強かなもので、あからさまに当てつけられても申し訳ていど離れるだけだ。警察が拡声器を下ろせばすぐ、この距離は元に戻るに違いない。
 交差点は一方の道をパトカー二台、カラーコーン数本で拵えたバリケードで塞がれていた。一瞥してふつうの交通整備でないことが窺える。パトカーの向こうのアスファルトをブルーシートで養生してあるのだが、それがなぜか道路脇の家の、屋根の上にまで敷設されているのだ。遠目にはちょっと雨漏りの修理めいて眺められる。その下にはレモン色の防護服とゴム長靴を着けた作業員が数人、ガスマスクのようなものを片手に顔を扇いでいた。服装こそちぐはぐだが、警察官の数はかなり多い。パトカーに遮られた視界からでも、この火星探査員を含めて十二、三人は見えるのである。
「ねえ、あれ」千枝がかすかに、怯えたような声で呟いた。「担架、かな。毛布かかってるやつ」
「どれ」
「あの、ツナギ着てるひとたちの向こっかわ、片っぽだけ見えてる」
(担架はひとを載せるもの、だよな、普通)
 手庇を作る傍らで、野次馬の主な構成員である主婦連の会話が漏れ聞こえてくる。高校生。早退。アンテナ。引っかかる。ぜひ見たかった。警察と消防団。下ろした。怖い。死体。
「今なんて……死体?」
「ええ! もうすぐ救急車が到着します、通行の邪魔になるので道を空けてください! 空けなさい!」
(あ、ひょっとした)
 果たして、拡声器片手に怒気を堪えかねていたのは遼太郎であった。向こうもこちらに気づいたようで、訝しげな顔で小走りに駆けてくる。背の高い、ちょっと怖そうな私服警官が自分たち目がけて走ってくるのを見て――まったく当然の反応だが――千枝と雪子はそろってなかよく怖じ気づいた。
「ちょっ行こ! やばい!」
「戻ったほうが……!」
「おい」
 逃げる間もない。遼太郎はバリケードを跨いで近づいてきた。女子ふたりが絶望の呻きを上げる。彼の声は甥に向けられるものとは思えないほど硬質で、突き放したものだった。
「ここでなにしてる」
「下校中だよ、通りすがりだけど」叔父の神経を逆なでしない程度に、悠はにこやかにいらえた。
「ああ……まあ、そうだろうな」たちまち遼太郎の声からトゲが失せた。「そういや通ったよ、何人も、お前の仲間が」
(で、そのたびにちぎって投げたわけだ)
「ったく、ここは通すなっつってんだろうに……」
「……知り合い?」
「うん、叔父さん」
「コイツの保護者の堂島だ。あー……まあその、仲良くしてやってくれ」
「どうも」
「あ、ども」
「とにかく三人とも、ウロウロしてないでさっさと帰りなさい」
「叔父さん、事件みたいだけど――」
「お前には関係ない、はやく帰れ」
「菜々子ちゃんは、もう?」
 高校の放送では保護者随伴の下校を勧めていた。小学校、なかんずく低学年なら尚更であろう。学校から遼太郎に連絡があってもおかしくないはずだが、彼は目の前で勤務中である。とすれば、彼女はひとりで帰ったのだろうか。
「ああしまった――くっそ!」遼太郎がにわかにキレた。次いで狼狽し始める。「忘れてた、まずい……!」
「いい、いいよ、おれが迎えに行く」
「ああ、すまん、本当に……ったくなにやってんだかな俺ァ」
「こんなことがあったんだから――そう、小学校ってどの辺り?」
「あー、そこまっすぐ行って左みながら――ダメだパト出させる、お前のってけ」
「それはさすがに、いいよその辺の――」
「あの、わたし、案内しますから」雪子が小さく挙手した。「そんなに離れてないし」
「悪いな……いや、ダメだ。お前らみたいな子供を」
「叔父さん、おれも子供」
「そうだった、そうだが」
「二十七歳の、ね」
「……そうだったな」遼太郎の口角がちょっと上がった。「お前らを頼るしかなさそうだ、悪いが、頼まれてくれるか」
「まっかせてください!」と、千枝。「警察への協力は稲羽市民のギムですから!」
「すまん、頼む。あと……あいつのメシ、なんとかなりそうか」
「任せてよ、叔父さんは仕事に専念して」
「悪い、助かる……」
 遼太郎はこころなし肩を落として、バリケードの向こうへ戻っていった。 
「じゃ、案内するね」
(こういう借りを作りたくなかったな。道でも訊けばひとりで見つけられたのに、余計なことを)
 と、悠はこう考えて、次の瞬間にはそれを慌ただしく打ち払った。いつもとは状況が違うのだ、こんなつまらない流儀などいちいち遵守している暇はない。
(ありがたい申し出じゃないか、傲慢な考え方をするな。少なくともこれは最短の道だ、お前のことなんかどうでもいい、今は菜々子ちゃんが最優先だ)
「ごめん、こんなこと頼める義理じゃないけど」
「やや、みなまで申すな、お隣さんの義理ではござらぬか」千枝はにこにこしている。「今日うちらが声かけてよかったじゃん」
(義理、義理か。これからどれくらいの期間で、この二文字の届かないところまで逃げ切れるか……端からこれじゃ先が思いやられる)
 いっそ隣の席がこういう、善良な人間でなかったなら――悠はため息をついた。きっとふたりは悠とは別の意味に受け取ったのではあろうが。
「――足立! おめえはいつまで新米気分だ! 今すぐ本庁かえるか? ああっ?」
 誰かを怒鳴りつける遼太郎の、八つ当たり気味の声が背後から追いかけてきた。





「お父さん、きょうもかえってこないのかな」
 昼前に帰ってきてからというもの、ずっと言葉少なであった菜々子の、自発的に問いかけるようなこういう台詞は珍しかった。悠はトレイ――昨日の残り物が入っていた――を洗う手を休めて、菜々子の向かいに座った。
 腕時計は六時過ぎを示している。
「少なくとも一区切りはついたと思うから、きっと帰ってくるよ」
 あの担架の毛布の中身が、昨夜の緊急出勤と繋がっているのなら、ひょっとしたら。あの事件に異常性がなく、行方不明者の自殺かなにかなら、あるいは。警察の仕事についてなにも知らない、高校生の山勘が偶然にでも当たったなら、たぶん。
「デンワもこない」
「かけてみようか、こっちから」
「だいじなようじがないときは、かけちゃダメって」
「……そう」
 たしょう無理をしてでもジュネスへ行くべきだったかな――悠は少し後悔し始めていた。
 雪子と千枝には小さからぬ借りができてしまった。
 雪子は小学校へ案内する途中で家から呼び出しを受けたが、着くまではと途中で切り上げることはしなかったし、千枝に至ってはこの家まで随伴して、ジュネス行きを断念されたショックで茹でたホウレンソウみたいになっていた菜々子を、ずっと慰め続けてくれていたのだった。これも田舎のひとのよさなのだろうか。
(いや、いくら同じ産でも、叔父さんは許さない)
 午前に会ったときの彼の焦燥はただごとではなかった。もちろん遼太郎は許さないだろう。食事をするというただそれだけの理由で、事件の真っ最中、真っ先に保護すべき幼い娘を、犯人を含むかも知れない不特定多数の人間が集まる大型商店に連れて行くなどということは。
 ――ニュースは時事報道に移っている。
『ではまず、きょう最初のニュース。静かな郊外の町で、不気味な事件です。本日正午ごろ、稲羽市八十稲羽の鮫川付近の民家で、女性の遺体が発見されました』
(ああ、あれだ。じゃ、あの毛布の下はやっぱり死体……)今ごろ千枝は青くなっているのだろうか。
『遺体で見つかったのは、地元テレビ局のアナウンサー、山野真由美さん、二十七歳です』死者の肖像が映し出される。ベリーショートの童顔で、溌剌とした印象の美人だった。『稲羽警察署の調べによりますと、山野さんは今月の八日から事件現場ちかくの旅館に滞在中で、九日の夕方六時ごろ同旅館の従業員に目撃されたのを最後に、行方がわからなくなっていました。なお、山野さんの荷物は部屋に残されたままとなっており――』
(ああ、山野アナ、だったのか。ならこの旅館は天城の……)
「お父さんにあったの、ここ?」
 彼女にはおなじみであろう、画面には鮫川の河川敷が映っていた。
「ん、このもうちょっと先」
「…………」
「元気そうだったよ。野次馬を怒鳴りつけててさ、おれまで追い払われるところだった」
 菜々子がかすかに微笑んだ、ような気がした。
『――遺体は民家の屋根の大型のテレビアンテナに、引っかかったような状態で発見されました』
 なるほど、それで「見たかった」のか。非日常に飢えているということにかけては、主婦連も高校生に劣らないようだ。
『なぜこのような異常な状態になったのかは、現在のところわかっていないということです。死因も今のところ不明で、警察では、事件と事故の両面から捜査を進めることにしています。ただ周辺には、地域特有の濃い霧が出ており、本格的な現場検証は明日となる見込みです』
(事故ってことはないだろうな、とすれば、自殺か他殺……あんなところで自殺?)
「やねのうえでみつかったの? なんか、こわいね」
「わざわざ屋根まで抱えて上がったのかな。こわいっていうより、まぬけだよ」
 少しでも菜々子の恐怖を減じようと、悠は笑いながら続けた。
「きっと犯人は自分のしたことを大きく見せたかったんだ、どうだすごいだろうって、威張り散らしたいんだよ。想像してごらん、すぐ逃げればいいのに、わざわざ可哀想なひとを背中に縛り付けて、大汗かきながら一生懸命屋根に上るんだ。そのおかげでこんな大げさなニュースになって、逃げにくくなってるんだから、とんでもないまぬけだ。ちっともこわくなんかない、まぬけで、ばかなだけだよ」
「……うん」
「そんなばかは、すぐお父さんが捕まえてくれる。牢屋の中できっと悔しがるよ、こんなことしたばっかりにすぐ捕まったってね」
「うん」
 菜々子が少し笑った、ような気がした。
 ――テレビはコマーシャルを流している。おなじみのジュネスのCMが入るとじき、菜々子の眉間のシワはきれいに消えてしまった。
「あっ、ジュネスだ!」
『――ジュネスは毎日がお客様感謝デー、来て、見て、触れてください』
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス!」
 ひとくさりやり終えたあと、菜々子はなにか期待するような貌でじっとこちらを見つめてきた。
「…………」
「…………」
「……エヴリデイ・ヤングライフ、ジュネス」振り付けは省略させてもらった。
「おぼえた? 菜々子ね、いちばんうまいんだよ!」
「……もっと練習しなきゃ、菜々子ちゃんには敵いそうにないな」
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス! ジュネス、行きたかったなあ」
「これからいくらでも行けるよ」
「うん。――ねえ、ちえちゃんって」
「え?」
「おともだち?」
「ううん」悠は首を振って否んだ。「隣の席の子なんだ、それだけ」
「テンコーしたばっかりだから、ともだちいないね」
「うん、まあ、いずれできるよ」そんなものは「テンコー」する前からひとりもいなかったし、今後できるはずもないのだが。「始まったばかりだしね、全部これからだ」
「さみしい?」
「菜々子ちゃんがいるじゃないか。あとお父さんも」
「またちゃんって言った」
「ごめん」
「……菜々子もね」しばらく俯いたあと、菜々子は面を上げてにこっと微笑んだ。「いまはね、ひとりじゃないからね、さみしくない」
 ――その夜、けっきょく遼太郎は帰ってこなかった。





[35651] マヨナカテレビって知ってる?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:00



 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(ここのところ自転車運に見放されてるな、おれ)
 住宅地から河川敷に入る辺り、例の事件現場にほど近い通学路でのことである。悠を轢きかけた黄色いマウンテンバイクはかなりの勢いで、ゴミ集積スペースのコンクリートブロックに衝突、粗忽な主人をはげしく投げ出しながら横転した。
「だ、誰か……ゴッホ……助けて……うえ、くっせ……!」
 一歩まちがえば大事故になりかねないほどの速度だったが、この危険な不注意運転の報いとしてドライバーが支払った罰金は格安といっていいだろう。彼をやさしく受け止めた大型の樹脂製生ゴミ入れは、少なくともアポイントのない不意の入居者を、彼のその嗅覚に訴えるよりも深刻な怪我からは守りおおせたのだから。
 あいにく昨日と違って、路上にほかの学生の姿はない。
(放っといたら窒息するかもしれないな……)
 悠は仕方なく、自分を轢きかけた傷害未遂犯を助けることにした。彼は神の配剤によって絶妙に屈伸したまま、あたまを下にして容器に収まっており、さっきからしきりに自己申告し続けているように、おそらく自力では出られない様子だったので。
「おい、足、掴むぞ。動かすな!」
「ウォ……助けてくれ!」
「そうしてる……じっとしてろ!」
 こうして悠と見知らぬゴミ箱入居者は、そのまま十五分ほどゴミ集積所の中を転げ回りながら、記録されることのない戦いを静かに戦ったのだった。何人か学生の通りすがるのが見えたが、うらめしいことに彼らは物珍しげに眺める以上のことはしてくれそうにない。田舎はいいひとばかり、というのはどうやら、悠のあたまの中にしかない幻想らしい。
 ややあって、悠はゴミ箱から少年を引きずり出すことに成功した。
「ゲッホ! いや……助かったわ、ペッ! マジ感謝、ペッペッ! やっべ服くせえし!」
 こんなところから出てきたのでなければ殴られても仕方のないような、それはすばらしい感謝だった。悠は人助けの喜びに打たれてちょっと震えた。
(おまけに再犯ときた……こいつ、花村だっけ)
「ありがとな、えっと、そうだ、転校生だ。たしか、鳴上悠」
(おまえはディオゲネス? 次からはちゃんとした樽を探せよ)
「あー俺、花村陽介。よろしくな――あっ、ヘッドフォン」
 茶髪の学生はへらっと笑って、今でてきたばかりのゴミ箱にふたたびあたまを突っ込んだ。痩身で丈は悠より少し低いくらい、ちょっと目尻の垂れた優しげな面立ちは、ひとによっては美しいと表現するものもいるだろう。おそらく哲学者ではない、昨日みたときにも感じたが、ちょっと軽薄な印象のつきまとう少年だった。
「あーくっそ、ヒビはいった……!」
「怪我は? そうとうなスピードだったけど」
「へーきへーき……うん、なんともない。ヘッドフォン壊れたけど」
「運がよかった、これに入らないで」陽介の旧居をつま先で突きながら、「そのままコンクリにぶつかってたら、変死体ずきの主婦連はきっと大喜びしただろうな。また警察がこの辺りに戻ってくるところだった」
「あはは……あ、そうそれ、昨日の事件、知ってんだろ」
「女性の死体がアンテナに引っ掛かってた……ってやつ?」
「おお。あれ、なんかの見せしめとかかな? 事故なわけないよな、あんなの」
「故意なら違うし、そうでなきゃ事故だろ。で、さっきのはどっちなんだろうな」
「あー……悪い、なんか自転車、調子わるくてさ」
 転がっていた愛車を引き起こすと、陽介はそれに跨って苦笑いした。
「へへ、実は昨日も轢きかけてたりして」
「……実は昨日も轢かれかけてたりして」
「……え、マジ?」
「DVDだけでよかったな、花村。金で買えないものが潰れなくて」
「ほんっと、マジで、すまん! ごめんなさい! まさかお前だったとは……!」
「……いいよ」悠はようやく機嫌を直した。「怪我がなければべつにさ」
「や、悪いし、なんなら放課後――」言いかけて、陽介はハッと腕時計に目を落とした。「やっべ遅刻!」
 救出に時間がかかり過ぎたらしい、腕時計は八時十五分過ぎを示している。徒歩では確実に遅刻する時間だ。
「後ろ、乗ってくか? ちょっとギコギコいってるけど」
「……じゃあ、頼む」
 命を預けるには人馬とも心許ないけど――悠は陽介の肩を掴んで、後輪のハブの辺りに危うく足を引っかけた。この状態で転倒してもドライバーがクッションになってくれるだろう。
「ワンメーターいくら?」
「あん?」
 自転車は力強く走り出した。おそらく悠たちと同じような境遇なのだろう、河川敷の並木道をひた走る二、三の学生をすいすい抜いていく。
「今日は二十パーセントオフで一万二千円!」
「慰謝料から引いといてくれ!」
「へーへー……」
 その後、陽介の力走のおかげで、ふたりはなんとか遅刻せずに二年二組の教室に辿り着くことができたのだった。――ちょうど遅れて出勤してきた諸岡教諭を、校門前で車輪のサビにしかけるという壮挙を手みやげに。





 六時間目の終業を報せるチャイムが鳴るとすぐ、悠は後ろの陽介に背中を突かれた。
「今朝は悪かったな、ホントに」
「いいよ、気にしてない」
「……どうよ、この町もう慣れた?」
「慣れないよ、通学中に命を狙われるのは」
「あはは悪かったって! しばらく自転車はやめるわ、モロキン殺しかけたし」
「みんなは喜びそうだけど。表彰されるかもな」
「手錠付きでな。で、どう? 東京から直じゃ戸惑うだろ」
「……そうだな、慣れないな、まだ」
「まあ、来たばっかりだしな。ここって、東京に比べりゃなにもないけどさ、逆に『なにもない』がある……っての? 空気とか結構ウマいし」
「あ、それはよくわかる。臭いがないというか……というより、なんとなくいい匂いがするというか」
「だろっ? いやすげーよくわかるそれ!」陽介はたちまち破顔した。「俺もそう思ったもん、最初来たとき」
「じゃあ、花村も?」
「おう。実は俺も、半年くらい前に越してきたんだよ。同郷だぜ一応」
「東京?」
「そ」
 にわかに親近感が湧いてきた。周囲がみな異邦人のようなこの学校では、同じ産というだけでなにか心を許せるような気がしてきてしまう。
「お前どこ住んでた?」
「柴又、新柴又駅の近く」
「あー……わからんわ。俺、三軒茶屋だったから」
「あ、柴又の前はその近くだった。駅の近く」
「マジ! え、三軒茶屋のどこ?」
「三軒茶屋じゃないけど、太子堂。ええと、サンクスとすき屋の近く」
「駅の北口? 南口?」
「北」
「……そこ近くにラーメン屋ない?」
「あ……った、あった」
「セブンも近いだろ」
「近い」
「何年かまえ強盗に遭った?」
「遭った!」
「うおー行ってた行ってたそのへん! ちっとうちから離れてっけど」
「へえ……じゃ、ひょっとしたら会ってたかもしれないんだな」
「だな、何回か顔くらい見てたんじゃねーの? それがこんなド田舎で再会するんだから、わかんねーよなあ」
「三軒茶屋かあ……」
 引っ越したのはそれほど前ではなかったが、まだ父が新橋で働いていた頃に住んでいたところだ。懐かしさはひとしおである。
「懐かしいな、本当に」
「どう、これからどっか行かね? 同郷のよしみってやつで、なんかおごるぜ。今朝のワビも兼ねてさ」
「高くつくぞ、鰻なんかいいな」さすがにこの申し出はちょっと断り難かった。「でなきゃステーキとか」
「おっけー、ステーキね」
「いや冗談だよ、そんな――」
「それがここの名物だったりすんだよ、ビフテキ! どうよこの野暮ったい響き! 俺やすいとこ知ってっからさ」
「にしたって」
「おっと鳴上くん、向こうとド田舎の物価を一緒にしちゃいかんよ。――ま、東京と違ってわりと値段やすいからさ。安くてウマい」
「……じゃ、ごちそうになろうかな。どこ?」
「ジュネスの近く」
「ジュネスって、そんなに離れてないんだよな」たぶんローマからガリアくらいだろう。「歩いて行ける距離?」
「こっから……十分くらい? 歩いて」
 十分。ジュネスから家までを四十分と仮定して総計五十分。現在三時十五分。ジュネスで一時間ほど費やす。ついでに買い物して家に帰れば、夕飯を作るには十分な時間だろう。
(義理も大切さ、少なくとも最初は)われながら言い訳じみてきているのを否定できないが。(好印象を持ってもらわなきゃ。突っ慳貪にしたって得るものはない……)
「お前すぐ行ける? なんなら――」
「あたしにはお詫びとか、そーゆーのないわけ?」急に隣の千枝がぐるっと体を捻って、陽介の机に握り拳をついた。「成龍伝説、やっぱり再生できないんですけどー?」
「う……メシの話になると来るなお前……」
「ド田舎の生まれですから? オジョーヒンなトーキョーの方とは違って!」
「悪かったって、いまオクで探してっから……てか、俺きょう謝ってばっかだな……」
「雪子もどう? いっしょにオゴってもらお」
「ちょ――!」
「いいよ、太っちゃうし」雪子はすこし不機嫌そうだった。「それにうちの手伝いあるから」
「そういや天城って、もう女将修行とかやってんの?」
 この陽介のひと言が、雪子の秀眉に深い縦皺を刻んだ。彼の言葉のなにがそうさせたのか、彼女の態度は目に見えて硬化したように思われた。
「忙しいとき、少し手伝ってるだけ」
 硬い声である。本人もそれを自覚したらしく、慌てて取り繕うように明るく「それじゃ、わたし行くね」と言って、雪子は足早に教室を後にした。
「えーっと、俺、なんかまずいこと言った?」
「雪子さいきん残業つづきなんだ、たぶん」千枝はため息をついた。「どっか誘ってもたいてい行けないし、登校してすぐとか眠そうだし……疲れてるんだと思う」
「残業って……ひっでーな、それ」陽介は本当に憤慨しているようだ。「まだ高校生だろうに、とんでもねー旅館だな。そんなにこき使われてんの? 天城」
「うん……お母さん体調不良とかで、その代わりやってるらしい」
「うあ、朝ドラの世界だな、ひでーもんだ」
(例の事件に関係あるのかな)
 先日の男子Aの話とテレビ報道から察するに、まず雪子の旅館は例の事件からの波及を免れないだろう。あの若さ、あの細腕で旅館の看板を支えながら、来たる警察や報道の詮索の矢面に立たされなければならないとしたら、
(可哀想な話だ、歳は同じでも肩に背負ってる荷の重さは桁違いだな。ああいう家に生まれなかっただけ運がよかったのかも)
「仕方ないか……じゃ、あたしたちも行こ」
「え、マジふたり分おごる流れ……?」
「あたしロースでいいよ」
「譲歩がささやか過ぎんだよ……」
「じゃゴハンなしでもいいや」
「つけるつもりだったのかよ! あーもう……ない袖は振れないからな」
「ケーチ」
「言ってろ。鳴上行けるか? うち寄る必要あんなら――」
「いいよ、行ける」
「そーいえば、花村さ、朝から気になってたんだけど……」千枝はちょっと言いにくそうに切り出した。
「なに」
「花村、なんか臭うんだけど。生ゴミ臭いっていうか、洲臣とかかなり参ってたよ」
「ほら、俺、オジョーヒンなトーキョーの生まれだからさ。な、鳴上」
「おれ、柴又だから。三軒茶屋と一緒にしないで」





「安い店ってここかよ……」
 呪わしげに呟いたのは千枝である。油したたる牛ロースステーキの代わりに焼きそばを宛がわれた彼女は、ありていに言ってかなり不機嫌だった。
 初めて来るジュネス八十稲羽店の屋上、露天のフードコートは時間柄、平日にも拘わらずかなりの賑わいを見せていた。学生の姿も珍しくないどころか、客だけに止まらず、売り子として働いている人間にもかなりの割合で含まれているようだ。店員が気安く知り合いらしい学生に買えだの食ってけだのと声をかける様子は、ちょっと学園祭の出店みたような雰囲気すらある。
(バイトが多い……スタンドのひとが言ってたな、そういえば。みんなここに来るんだっけ)
「ここビフテキなんかないじゃんよ」
「そりゃねーよ、ステーキハウス向こうだもん」
「こんなん肉じゃないよ、こんなん……」千枝は申し訳ていど、焼きそばに混ざった豚バラ肉を割り箸で突いている。「ビフテキたべれるっていうから胃酸でまくりだったのに……あたしいまホント失望してんだけど」
「はいはい自分の胃でも消化しててください。肉好きならミノ食えんだろ」悠の分のトレイを運びながら陽介がぼやいた。「つか、飛び入りで勝手に夢見られてあげくに失望とか、俺どんだけ可哀想なんだよ……」
「はーはー……DVD潰されたあたしは可哀想じゃないと?」
「だから金がないんです。ない袖は振れないんです。だからお前にはおごれないんです、ステーキは!」
「だからって自分ち連れてくることないでしょーが」
「べつに、俺んちってわけじゃねーって」
「……俺んち?」
「あーえと、お前にはまだ言ってなかったよな」千枝と同じ焼きそばとコーラを差し出しながら、「俺の親父、ここの店長なんだ……っつっても、ただの雇われ店長だからな。どっかの誰かさんみたく社長みたいに思ってるやついるけど」
「ああ、そうなんだ」ディオゲネスの父親はウェルキンゲトリクスらしい。「ひょっとしてここ、新しい?」
「できて半年ってとこかな、俺くるちょっと前くらいにオープンしたから。つーかそれ関係で転校してきたんだけど」
「繁盛してるみたいだな。他の階もかなりひといたし」
 平日でこの繁華ぶりなのだ。休日の殷賑は推して知るべし、である。
 おしなべて建造物の背の低い八十稲羽において、ジュネスはもはやランドマークと言ってしまっても過言ではないだろうほどの存在感を放っていた。どこかここではない異郷のモニュメントのようにも見える。まるでここだけ都会の空間を切り取ってきてコラージュしたかのような、あの八十稲羽駅における自動改札のような強烈な異物感があるのだ。
 もっとも、かと言って住民が不快に思っているかと思えば、どうやらそうでもないらしい。なんといっても零細の専門店にはなかなか醸しえない新鮮さがあるし、資本から桁が違うのだから品揃えも便利もサービスもいいのだろう。自分の若いときにこんなものが立っていたなら、などと、母が見たらきっと嘆いたに違いない。
「はは、まあな。嬉しいのか悲しいのか……ま、いいや、食ってくれよ。歓迎の印、兼、慰謝料ってことで」
「じゃ、ありがたく」
「里中のもおごりだぞ」
「うんひっへる」千枝はすでに焼きそばを食い始めていた。
「花村はここでバイトを?」
「え、ああ。言ったっけ?」
「昨日ちらっと聞こえた」
「特別待遇なんでしょ?」
「そーだよ、うらやましいか? 俺だけ時給は最低賃金据え置きだからな。そのくせ仕事の内容だけハードだけど」
「ホントかなァ……」
「それで、ときどき残業する?」
「あー、まあ、することもあっけど。え? これも言った?」
「天城のことで、花村、怒ってたからさ。自分に準えてるのかなって」
「いやまあ……でも天城はレベル違うだろ。自分ち手伝ってんだから金なんて出ないだろうし」
「バイト代くらいの額は出てるっしょ、いくらなんでも」
「お前、そういうことは訊かないんだ」
「訊けるかっつの……焼きそばおかわり」
「……その、お前さ」
「ん?」
「よく放課後カップ麺とか食ってっけど」にわかに心配そうな貌で、「お前んちって、その、ひょっとして晩メシとか、出なかったりする?」
「出るよ」即答もいいところだった。
「あーくそっ……心の底からいらん心配したぞ今……!」
「これはァ、おやつ。だからおかわり」
「なにがだからだよ。自分の指でもむしって食ってろ」
「うわー野蛮。花村ホントに東京出身なの? 鳴上くんはなんかそんな感じだけど」
「おれが?」
「どの辺で判断してんだか……それ以前にお前、東京いったことあんの?」
「……ないけど」
「あ、ないんだ」
「ド田舎人、ですから?」
「鳴上、いま、ちっと不思議に思ったろ」
「そんな――いや、ごめん、少し思った。どうして」
「最初きたとき、俺もさ、無意識に思ってたんだ。冷静に考えりゃそんなことあるわけねーんだけど、こう、決めつけちまってるっつーの? フツー一回くらい行ってるはずだろ、日本の首都なんだから……ってさ」
「……反省する、花村の言うとおりだ。ごめん里中」
「いいってちょっとそんなマジになんないでって! は、花村ほら、おかわり!」
「その科白の前と後はどう考えても繋がらんだろ!」
「そうだ里中、おれ、おごろうか? 昨日のお礼」
「へえっ?」千枝は素っ頓狂な声を上げた。「あ……あたしなんかしたっけ?」
「家までついてきてくれたじゃないか。菜々子ちゃんも喜んでた」
「あ、そういやお前ら、昨日いっしょに帰ったんだっけ」
「まあ、ね。ちょっといろいろあってさ」
「で……いま言ったナナコちゃんって?」
「従姉妹。いまお世話になってる家の子」
「ああ、そういや昨日そんなこと言ってたな。十歳下なんだっけ」
「菜々子ちゃん、ジュネスが大好きなんだって。ほらあれ、エヴリデイ・ヤングライフってやつ、歌いまくってた」
「きっといい子だな、間違いない……」
「こういうとこって子供は好きになるよねー、うちらだって溜まってるわけだし。そりゃ売れるわけだ」
「まあな。こういうデパートの雰囲気ってこの辺じゃほかに味わえないし。こんなとこに建てようなんて考えるからには、ジュネスグループもちゃんと調査してんだよな」
(本当に思い込んでたんだな、おれ)こういう思い込みには特に気をつけているつもりだったが、どこで教えられるか本当にわからないものだ。(こういうショッピングモールがまず、当たり前じゃないんだな、菜々子ちゃんには。多少無理してでも連れてきてあげるべきだったかな……)
「ここ来ればとりあえずなんでも揃ってるもんね。まだできて半年くらいだけど、ここじゃないと揃わないモンとか、あたし半年前どーやって買ってたかときどき忘れかけるもん」
「商店街にあったろ。ねーの?」
「あははないない。前だってそうだったのにさ、今じゃ店とかどんどん潰れちゃって、文房具屋とかもう一軒もないし」
「…………」
「……ごめん」
「別に、ここのせいだけってことないだろ」
(そして繁盛の裏ではこういう事情もある、と)
 少なくとも平日の今日に限って言えば、いまジュネスの店内にいる客はほぼ地元住民と見て間違いないだろう。とすれば、この大きな建屋の中で買い物しているひとたち全てが、半年前は商店街でそうしていたはずなのだ。これだけの客数を吸い上げられて無事なはずはない、「店とかどんどん潰れ」るのも道理である。
 襟にあごを埋めるようにして考え込む、陽介の胸中を埋めるものはなんであろう。親の因果な商売への呪いか、それとも良心の呵責か。――ややあって、彼はふいになにか気づいたように脇見すると、急に席を立った。
「わり、ちょっと」
 陽介はおざなりに断って、そのまま離れた位置にある丸テーブルに歩いて行ってしまった。学生のアルバイトと思しい、エプロン姿の女子がひとり、そこに肩を落として座っているのが見える。
「……花村の友達?」
「んー、友達、じゃあないね」千枝はちょっと首をかしげた。「小西早紀先輩。家は商店街の酒屋さん」
「商店街」ということは、彼女はジュネス・コンクェストの被害者なのだろうか。「なのにバイトしてるんだ、ジュネスで」
「だ……ね、エプロンしてるね。ちょくちょく来てんのに知らなかった」
 陽介と早紀は親しげに話している。
「里中、なにか注文する?」
「えっ? えー……ホントにいいの?」
「お礼しないと菜々子ちゃんに蹴られる」
「んー、じゃあ、ごちになります――菜々子ちゃんそんなことすんの?」
「朝はよく蹴り起こされる」悠は財布から五千円札を取り出して、千枝に手渡した。「好きなもの注文して、遠慮なしで」
「うおー……なんか、お父さんって感じ」
「なんでも千枝の好きなもの食べてきなさい」
「わーいありがとおとーさん……でも、五千円はちょっと多くない?」
「実はそう考えるのを見越してる。使って三百円くらいかな、里中なら」
「あっ、あたしあのヨコヅナハンバーグ千三百円にしよーっと」
「あはは大誤算」この小さな身体にまだそんな重たいものが入るとは!「どうぞ、遠慮なく」
 冗談ではなかったようで、千枝はさっそく洋食のブースへ飛んでいった。カウンター上の写真のひとつ――悠には巨大なたわしにしか見えない――を嬉しげに指さしている。彼女にとっては夕飯まえのおやつに過ぎないらしい。先に貪り食った焼きそばでさえ決して少量というわけではなく、悠のほうでは夕飯を視野に箸を休めがちなくらいだったのだが。
 千枝と入れ替わりに、今ほど話していた早紀を従えて陽介が戻って来た。
「わりーわりー……里中は?」
「あそこ。おやつ注文しに」
「ハンバーグ屋だろあれ……」席に着きしな、陽介は隣の早紀を手で示した。「鳴上、このひと、小西先輩」
「キミが転校生?」
「初めまして、先輩」
「はいどうも、小西先輩です」早紀はエプロンを外して陽介の背後に回ると、彼の肩に手を置いた。「花ちゃん以来じゃない? ハチコーに転校生って」 
 色のうすいソバージュの、秀でた額から流れて肩にかかる、早紀はすらりと背の高い大人びた風貌の女子だった。モデル体型と言っても言い過ぎではないだろう、陽介との対比から見るに身長は百七十ほどもあろうか。スクエアネックの長袖とジーンズにストラップシューズという飾り気のないいでたちだったが、パンツスーツにローヒールのパンプスでも合わせれば、大卒の社会人一年生くらいで通用してしまうかもしれない。
「そーっすね。あんま転校生とか来ないっぽいし」
「あっ、バカにしてんなこんのやろ!」そのまま力いっぱい肩を揉み出す。陽介は嬉しげに笑うだけだったが。「ま、田舎だしね、わたしそこで育ったんだけどねー――やっぱり都会っ子どうしは気が合う?」
「そうですね……登校中ゴミ捨て場でいっしょに転げ回るくらいには」
「へえー……え、どういう意味?」
「いやあ、まあ、いろいろあったっつーか」
「二回くらい命を狙われてるし。おれたち気が合うな、花村」
「……そーね。二回で済めばいいけどな」
「そうそううまくいくと思うなよ」
「そういやお前、焼きそば残ってんじゃん」
「ああ、うん」
「食ってくれよ。あんま強い毒じゃないからさ、ぜんぶ食わないと致死量いかないんだ」
「……参った」
「おれたち気が合うな、鳴上」
「あはは、なに、なんの話? よくわかんないけど……そういえば花ちゃんが男友達つれてるなんて、珍しいよね」
「べ、別にそんなことないよ」
「こいつ友達すくないからさ、仲良くしてやってね」言って、早紀は陽介のあたまをわしわし掻き回した。「やっぱ田舎の子とは話あわない?」
「んなこと――何人か連れて来たことあるし、見てんでしょ先輩!」
「いっつも顔ぶれ違うだろー? だから言ってんの」
「いいこと聞いたな。花村は男友達が少ないと」
「そーだよ、女友達ばっかりだからな」
「うそつけっ、そっちはもっといないでしょ!」早紀は笑って、陽介のあたまを平手で軽く叩いた。「花ちゃんお節介でいいやつだけど、ウザかったらウザいっていいなね?」
「いえそんな……花村は親切で男気のあるすばらしいやつです。花村、女友達、何人か紹介してくれるんだろう?」
「できしだい紹介してやるよ。ま、そんときはお前東京帰ってるだろうけど」
「……小西先輩、花村は不誠実でウザいやつです」
「あははっ、仲良さそうでなにより! 花ちゃんよかったねー気の合う友達ができて」
「せ、先輩……変な心配しないでよ」
「さーて、こっちはもう休憩おわり。やれやれっと」
「あ、先輩……」
 それじゃね、と手を振って、早紀はフードコートを去って行った。ここの担当ではないようだ。陽介は少し腰を浮かせて、名残惜しげにその背中を見送っている。
「はは……ひとのことお節介でウザいとかって、小西先輩のほうがお節介じゃんな?」
「親しそうだったな」
「あのひと、弟いるもんだから、俺のことも割とそんな扱いっていうか……」
「はーん……弟あつかい、不満ってこと?」
「……なにしてんだお前、そんなとこで」
 悠たちの座っている丸テーブルの傍らの植え込みに、千枝の首から上だけが覗いている。本人は隠れているつもりらしい。
「むふーん、わかった、やっぱそういうことねー」千枝は立ち上がって、緑色の番号札を抱きしめて身体をくねらせ始めた。「地元の老舗酒屋の娘と、デパート店長の息子。燃え上がる禁断の恋――的な?」
「バッ……! アホか、そんなんじゃねーよ!」
「おお花ちゃん、あなたはどうして花ちゃんなのー?」
「んのやろ――!」
「おおっ、やるかー? あたしのヨンチュンスタイル見せたる!」
「番号札九番のお客様ー、カウンターまでお越しくださーい」
「あっ、きたきた」千枝の興味はたちまちハンバーグに移った。「はーい、いま行きまーす!」
「あのやろ……」
「あれだけ親しげにしてれば、そりゃ誤解するだろう」
「……俺なんか眼中にねーよ、あのひとは」
「いいひとだ、おれも好きになりそう」
「も、っつったな? そーだよ……でも俺、嫌われてっから」
「? どういう――」
「ハンバーグ到着ー、鳴上くんありがとねー」千枝が戻ってきた。ちょっと縮尺のおかしいハンバーグの皿を携えて。「んーんまそー、ごちになりまーす!」
「うわ、ヨコヅナハンバーグ……それ二人前以上あんだぞ。晩メシまえに食うとかどんだけ……」
「いただきまーす――ふまーい!」
「こいつみたいに生きられたら楽だろな……」陽介はふたたびため息をついた。
「里中には里中の悩みがあるだろう」
「そーだよ、自分だけ悩んでるってポーズすんなっての……すごいうまいよコレ」
「そりゃよござんした……はーあ……」
「そうだ、悩める花村に、イイコト教えたげる」ナイフとフォークの手を休めて、「マヨナカテレビって知ってる?」
「なに、番組? 昼はやってないんだろーな、それ」
「いーから聞けっての――雨の夜の午前零時に、消えてるテレビをひとりで見るんだって。で、画面に映る自分の顔を見つめてると、別の人間がそこに映ってる……ってヤツ」
「あんまり不細工だから自分だとは信じられなかったってオチ?」
「違うって、だって性別ちがうんだもん。で、それに映ってるのが運命の相手なんだってよ」
「はあそうですか……ったくなに言い出すかと思えば……」
「オカルティックというか、都市伝説的というか」
 こういう話はどこにでもあるものだけど――さすがに悠も陽介と同じ感想だった。こういう怪談めいた話は菜々子くらいの子が信じるもので、高校生が大まじめに語るようなものではないのではなかろうか。これも田舎ならでは、なのだろうか?
「なんというか、その、夢があるな」
「お前さ、よくそんな幼稚なネタでいちいち盛り上がれんな」 
「よ、幼稚って言った? 何人も見てるんだってば! 一組の男子なんか山野アナが映ったとか騒いでたし!」
「信じられっかっての、なあ?」
「自分の眼で見てみないと、なんともな」
「うぐぐ東京人めー……だったらさ! ちょうど今晩雨だし、みんなでやってみようよ!」
「それはちょっと……そう、里中はどうだった?」
「え?」
「マヨナカテレビ。誰が映った?」
「……見たことないけど」
「オメ自分も見たことねーのかよ! 久しぶりにアホくさい話を聞いたぞ……」 
「だったら一組の人間に聞いてみれば――!」
「まあまあ! おれは信じてるよ」三分の一くらいは、だけど。「花村の言うこともわからないでもない、見たことないんだから」
「なによォ……悩んでるっぽいから言ったげてんのに……んまいねコレ」
「そうそう、横綱だもんな……」
「そういや、さっき里中が言った、山野アナ? あれってやっぱり殺人なのかね」
「事故じゃなさそうだ」
「事故なわけねーって。わざわざ屋根の上にぶら下げるとか、マトモじゃないよな……つか殺してる時点でマトモじゃないか」
「殺人にしてもかなりおかしいけど、いずれにせよひとりじゃないだろうな、犯人は」
「へえ、そんな異常者が五人も十人もいるって? んならその辺にひとりくらいいたりしてな、ひひひ……」
「そういうの面白がんなっての。幼稚はどっちだよ……とにかく、今晩ちゃんと試してみてよね!」
「冗談じゃ――」
「やらないと教室で花ちゃん呼ばわりの刑だかんね」
「おま、ふっざ――!」
「まあまあ! どうせ起きてるんだろう? いいじゃないか一度くらい――夜中の零時だったっけ?」
「うんそう。とーぜん鳴上くんもやるよね?」
「まあ、ものは試しだ、やるよ」絶対にやらないだろうなと悠は思った。「おれは里中が映るんじゃないかって思ってる」
「う……またこんなこと言い出すしこのひとは!」
「いいシュミしてるよ鳴上……」
「なによ花村までェ……褒めたってなんにも出ないよ。コレちょっと食べる?」
「ノーセンキュー……」
(マヨナカテレビね……菜々子ちゃんは知ってるかな。勧めてみようか)





[35651] ピエルナデボラシーボラ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:03



 フードコートで予想外に時間を食ったために、その後いそいで食品売り場を駆け回り、ジュネスを出て早足で帰途につき、家で菜々子に迎えられた時は六時を回っていた。
(おまけにナベカマの類が仕舞われてると来た!)
 米やら味噌やらがないのは覚悟していたが、これは完全な誤算であった。せめてきのう買い物に行くことができていれば……
(気づいたんだろうけど……ああもう! きょう花村たちに付き合わなければよかったかな)
 居間ではあわれな菜々子が腹を空かしてテレビ鑑賞もそぞろに、今かいまかとこちらをちらちら覗き見ているのだ。昨日はいろいろあって結局なにも作ってやれず、つめたい総菜の残り物でお茶を濁しただけに、今日こそはなにか暖かいものをこしらえてやらねばならぬ!
 仕方なく、おととい来たばかりの家の台所を大車輪で転げ回って調理器具を探し、初めての手料理なんだから少し手の込んだものを作ろうなどと楽観していた自分を呪ったり激励したりしながら――悠がどうにかこうにか食事を用意できたのは、七時二十分過ぎごろであった。
「いいにおい! できた?」
「うん、できた。ごめんね遅くなって」
「菜々子てつだったのに」
「まあ、追々ね」
 鍋がないとわかった時点で、この小さな従姉妹の助力は丁重に辞退している。捜索と料理に貢献するささやかなメリットより、さして広くもない台所で彼女を踏み潰すリスクのほうがはるかに大きい。
「じゃあ、お皿だして。大きいやつ」
「どのくらい?」
「このくらいの腿肉だから、ええとね、自分で取るよ……」
「これなあに? お肉?」
「ピエルナスデポッロアッラシードラ」
「ええっ?」
「ピエルナスデポッロアッラシードラ」
「あははなにそれ! もういっかい!」
「ピエルナスデポッロアッラシードラ」
「ピエルナデボラシーボラ!」
 菜々子はこの長い料理名を気に入ったらしい。料理を居間に運ぶ間、彼女はずっと「ピエルナデボラシーボラ!」と唱え続けていた。
(叔父さん、本当に料理しないんだな……)
 悠は呆れ半分、感心半分のため息をついた。
 わずかな食器類を除いて、調理に関係するものほとんどはぴかぴかに磨かれたうえ、戸棚の一番上に整然と収納されていたのだった。遼太郎の諦めのよさと几帳面さの奇妙な混交である。ただ炊飯器だけ、台所の隅っこの埃まみれのキッチンワゴンの上にぽつんと置いてあったのは、おそらく何度か炊飯を試した名残なのだろう。中をうすく覆うカビが彼の努力の跡を示していた。
(夕飯が済んだら洗おう。朝つかうもんな……)
 ――こうして堂島家滞在二日目の、遅い夕食が始まった。ひょっとしたら料理中に帰ってくるかと思っていたが、依然として遼太郎からはなんの連絡もない。
「たべていい?」
「どうぞ。いただきます」
「いただきます!――どうやってたべるの?」
「かぶりついてもいいんだけど……」たぶん菜々子がやったらソースで服がとんでもないことになる。「ナイフとフォークで切ろう――切ってあげる」
「それ、お味噌汁?」
「ううん、キャベツスープ」母いわく、この世でもっとも簡単でうまい料理。「……というより、肉なしポトフになっちゃった。味噌汁は朝つくるよ」
「ほんと?」菜々子は味噌汁にご執心の様子だった。
「いまはキャベツで我慢して。これだってなかなかいけるから」
「うん。ごはん、ないの?」
「パンがあるよ」米は炊くつもりだったのだが、炊飯器のカビを見たとたんやる気が失せたのだ。「これにはパンが合うよ、きっと」
「ピエルナデボラシーボラ?」
「そうそれ。気に入った?」
「だってへんなんだもん! ピエルナデボラシーボラ!」
「へんなのは名前だけ、たぶん。――はい切り終わった、どうぞ」
「いただきます――おいしい!」
「そう、よかった」
 こんな遅くまでお預けを食っただけあって、菜々子はすばらしい食欲を見せて鶏肉を貪った。貪るかたわらパンを毟りスープを啜り、八面六臂の活躍である。
 悠は自然と口の端の上がるのを感じた。
「……おいしい?」
「うん!」
(母さんもこんな気分だったのかな)
 それは奇妙な感覚だった。まるで小学一年生の自分を見る母に乗り移ったような、小さい頃の自分に、今の自分が話しかけているような。
 疲労も食欲のなさも、まだ胃に残っている毒入り焼きそばの重圧感も気にならない。安心感と達成感に似たなにかが胸を占めるのを感じる、それは誇りや喜びにも似ているのだった。
 思えば、自分で食べるのでない、ひとに食べさせるために作る料理はこれが初めてだった。
 悠は母からなし崩し的にいくつか料理を教わってはいたが、積極的に作ることはまずなかったと言っていい。とりあえずは奇貨居くべしとばかりてきとうに習い覚えたものの、大して熱も入らなかったいわゆる余芸に過ぎず、これが生きる機会を想定したことなどかつてなかった。おまけに東京にいた頃はすぐに出来合いの料理が手に入ったし、自分のためだけに作る料理はコストの面からも利益が薄く、ただ煩瑣でめんどうで、悠にとってはそれに費やされる時間のほうがずっと惜しまれたのだ。
(でも、苦労した報いはちゃんとあったな)
 きっと他人、なかんずく大事な他人に出す料理というものは、それを食べる人間にも況して、料理人にとっては最高の美味なのだ。父が板前をやっている理由の一端はまさしくこれに違いない。――本当にどこで教えられるかわからないものだ! いま父母について得た小さな理解も、ここに越して来なければわからずじまいだったろう。
「おいしいね、すごいね、こんなの作れるんだから」
「あはは……見た目ほど手間はかからないんだけど」無論、虚勢である。
「お父さんのぶんも、ある?」
「もちろん。おかわりもあるよ」
「…………」菜々子はにわかに潮垂れた。「お父さん、かえってこない」
「お父さんから、連絡は?」
「ない。デンワするって、いっつも言ってるのに……」
「……おれがいるから、安心してるのかも」
「んん」
「そうだ、菜々子ちゃん、マヨナカテレビって知ってる?」
「マヨナカ?」
「うん。夜中の零時に――知ってるわけないよな」われながら馬鹿なことを聞いたものだ。小学一年生が深夜帯の都市伝説など知ろうはずもない。「ごめん、なんでもない」
「ええ? なあに? なあに、それ」
「うーん……雨の日の夜中の零時にね、消えてるテレビをひとりで見るんだ、そうすると――」
「それ、こわい?」菜々子はたちまち青くなった。「かいだん?」
「あ、いや! そんなんじゃないよ。それを見ると運命の相手が――帰ってきたみたいだね」 
 カーテンの隙間に車のライトが閃いたかと思うと、低いエンジン音が車庫に収まって、じき途切れた。遼太郎に違いない。
「あっ、かえってきた!」
 ほどなく玄関の引き戸の開く音がして、遼太郎が長身を持てあますようにしてのっそりと入ってきた。だいぶくたびれた様子である。
「ただいま、なにか変わりなかったか」
「ない。かえってくるの、おそい」菜々子が口を尖らせた。
「悪い、仕事が――うお、なんだこりゃ!」
 たぶんそうするだろうと思った通り、遼太郎は食卓を見て瞠目した。
「作ってみたんだ、ナベ探すのすごい大変だったよ」
「作ってみたんだって……おいおい、これをお前が?」
「時間かかったけど。叔父さん食べる?」
「あーいや、すまん、食ってきた。でもこんなのが待ってんなら、なんだ食わなきゃよかったな……これなんだ? クリスマスみたいだな、鶏肉か?」
「ピエルナデボラシーボラ!」と、菜々子。
「……ピエなに?」
「ピエルナデボラシーボラ!」
「まるでわからん。なんなんだ?」
「ピエルナス・デ・ポッロ・ア・ラ・シードラ、メキシコ料理。鶏の林檎酒煮」
「お前そんな高級そうなもん作れるのか、すげえな。親父さんから教わったのか?」
「高級なんかじゃ……それに叔父さんの姉だよ、教えてくれたのは。父さんからは教わったことないんだ」
「へえー……しっかしすげえな、助かるよ」笑って、遼太郎はソファにどっと腰掛けた。「よかったなあ菜々子、これから毎日うまいメキシコ料理くえるぞ」
「うん!」
「あはは、毎日はさすがに……」
「ねえお父さん、メキシコって?」
「メキシコってな、外国だよ、アメリカの……あー、下のほうだ」
「アメリカって、どこにあるの?」
「アメリカってのは……菜々子、テレビつけてくれ、ニュース」
 菜々子は無念そうにリモコンを取った。父親と話がしたかったのだろう。
 ニュースはちょうど時事報道に入ったところだった。
『――次は、霧に煙る町で起きたあの事件の続報です。稲羽市で、アナウンサーの山野真由美さんが、民家の屋根で変死体となって見つかった事件。山野さんは生前、歌手の柊みすずさんの夫で、もと依田慎太郎市議会議員秘書の生田目太郎氏と、愛人関係にあったことがわかっています』
(これが事件に関係……あるかな?)
『警察では背後関係をさらに調べるとともに、関係者への事情聴取を進める方針です。番組では遺体発見者となった地元の学生に、独自にインタビューを行いました』
「……第一発見者のインタビューだァ?」遼太郎がぼやいた。「どこから掴んでんだ、ったく」
 当然ながらVTRに「地元の学生」の姿は映されず、ただスカート――遺体発見者は女性らしい――の膝から足までが画面を占めるだけだ。矢継ぎ早に質問を連発するインタビュアーに対して、ボイスチェンジャーを通した甲高い声は要領を得ない、しどろもどろの受け答えに終始している。
(あれ、この靴、どこかで……)
 ダークレッドの、革のストラップシューズが質問されるたび、困惑を示してつま先を開いたり閉じたりしている。
(そうだ小西先輩だ。同じ靴だ……本人かな)
「悠」
 出しぬけに遼太郎が呼ばわった。
「……え?」
「昨日は、悪かったな」
「ああ、あのくらい」
「助かった、本当に。あの子らにも言っといてくれ」
「うん」
「……手ェ、早えなァ、それにしても、クク」
「なにが?」
「ええ? 初日にふたりもかよ……とんでもねえ色男だな」
「ああ、あれ? ふたりとも美人だと思わない?」
「あれ、かたっぽは旅館の子供だな、確か」
「そう言ってたね」
「びじん?」菜々子が首を傾げた。
「ああ……なんでもないんだよ」遼太郎はひとつ大きな欠伸をした。「菜々子、音おおきくしてくれ……」
 菜々子はふくれ面でリモコンを取った。
「おい悠、メシ作るのに買ったもん、あとで金額おしえろよ、出すから。お前の小遣いでメシ作らせてるなんて、姉貴には口が裂けても言えん」
「うん」 
『――地元の商店街の近くで起きた、悲惨な事件。商店街関係者の多くは、客足がさらに遠のくのではと懸念しています』
「ふん、お前らが騒ぐから余計に客足が遠のくんだろ……」
 その後、犯罪心理学者のコメンテーターとキャスターの小対談に移り、ニュースは犯人の性格や嗜好についての眠たい推理の垂れ流しになった。学者先生の推測によれば、犯行はごく若い複数人の少年たちによる可能性があるということだ。死因不明、という点については言及を避けていたが。
「ガキならどれだけ楽だか……」
 ニュースが中断し、テレビはコマーシャルに移った。
(死因が不明って、どういう状態なんだろう。外傷がないってことかな)
 それらしい傷があれば当然、ニュースでそのように報道するはずであろうから、目に見える外傷は見つからなかったのだろう。
 ふと、きのう事件現場で瞥見した防護服の男たちが思い出された。なんであんなものを? 不審死に立ち会う場合、警察は必ずああいう装備を用意していくのだろうか。もしそうでないなら? 外傷がないから毒の可能性を疑ったのか。疑ったとして、それが周りに影響があるかもなどとただちに考えるものだろうか。
(それとも、一見してそういう危険を感じさせる死体だったか……ダメだな、飛躍し過ぎだ。警察が慎重なだけだろう、あくまで念のためだ。行方不明になってからそんなに経ってないし、もしすぐに死んでたとしても、ここはけっこう涼しいし、それほど腐敗も進まないだろうし……叔父さん消毒してきたんだろうな)
「あっ、ジュネスだ」
『――ジュネスは毎日がお客様感謝デー。来て、見て、触れてください』
「エヴリデイ・ヤングライフ、ジュネス!」お馴染みの菜々子の合唱が入った。「ねえお父さん、こんどみんなでジュネスいきたい」
 遼太郎の答えはない。
「……だめ?」
 ないはずだ、彼はソファにもたれて眠りこけていた。
「あーあ……もー……」
「菜々子ちゃん、ご飯たべちゃおう――叔父さん」
「んお」
「風呂はいって、着替えて。寝るのはそれから」
「んん」
「……叔父さん、携帯ふるえてるよ」
「んっ」遼太郎は瞬く間に覚醒した。「……あん? 着信ねえぞ」
「そりゃないよ、嘘だもん」
「悠……」
「さ、起きて風呂はいって着替えて部屋いって、それからまた寝てよ」
「へいへい」遼太郎は苦笑して、大儀そうに立ち上がった。「こりゃどっちが子供なんだかわからねえな……」
「菜々子ちゃん、お父さんがソファで寝たら、いまみたいに言えばすぐ起きるよ」
「けいたい?」
「携帯が起きればお父さんも起きる」
「はは、二度も同じ手は食わねえよ……」
 遼太郎は欠伸しながらバスルームに入って行った。





 十一時五十五分。
 食事を終えて、残り物を仕舞って皿を洗って、炊飯器を掃除して米を研いでタイマーをセットして、風呂に入って菜々子に挨拶して二階に上がって、自室のソファに座ってセネカに眼を落としながら、明日は残りの鶏肉を切ってトマト煮にでもしようかしら、ジュネス行ってホールトマトかピューレ買って来なきゃ、などと考えつつ――ふと顔を上げたときである。眼に飛び込んできた壁掛け時計は、十一時五十五分を指していた。
 悠はため息をついた。
(……思い出しちゃったな、あれ、マヨナカテレビだっけ)悠は苦笑した。(安直すぎるよな、名前が。昼やってたらマッピルマテレビ?)
 霧雨の屋根を叩くかすかな音が聞こえる。条件はいちおうこれで整ったことになる、本人のやる気を除けば。
(明日なんて言おうかな)
 悠はセネカを投げ出した。まずなにも映るまいが、気の利いた返答は用意しておかなければ。
(里中が映った、でもいいか。いや、もし天城の機嫌がいいようなら、そっちに話題を振ってみるのもいい……いやいや、ここはまだろくに話してない洲臣か瀬戸目にしたほうが。あ、ここはさんざん気を持たせて、結局じぶんが映ってたっていうオチにしようか……いや、これはちょっと花村がやりそうだ。ダメだな)
 こんな益体もないことをつらつら考えているうちに、時針はついに零時を指した。――我ながら情けないことに、悠は少しくぞっとした。
 本当に電源の入っていないテレビに、明かりが灯ったのである。
「……夢?」
 悠は自分の頬を抓ってみた。こんなことをするのも、してみようと思わせるような事態に遭遇するというのも、普段の彼なら一笑に付してしまうような馬鹿げたことだったが――驚いたことに、こういうことをひとはしてしまうらしい。頬は痛みを訴えている。ということは、夢では……
(馬鹿! 夢の中なら抓ったって痛くない、なんてことはないだろう。これは夢だ、いつどこから切り替わったかわからないのが夢なんだから)
 テレビの画面にはレモン色のもやもやしたものが映るだけだった。が、ややあって見ているうちに、それの奥でなにかさかんに動いているのが見えるようになる。ひとのシルエットのようなものが、なにかと揉み合うように激しく波打っている。非常に音質の悪い、雑音のような呻きのような音が折々、そこから薄気味わるく響いている。菜々子が見たら震え上がってトイレに行けなくなるだろうこと請け合いだ。
 こんな不気味このうえないテレビに悠を歩み寄らせたのは、勇気というよりはむしろ、自分にはそれがあると自身に証明しようとする意地のようなものだった。
 画面の中のシルエットはいよいよ激しくのたうち回っている。これはなんだろう? 人? 悠は近づきしな、部屋の真ん中に置いてある小さなテーブルの脚に躓いてちょっとよろけた。よろけて、身体を支えようとテレビの天板に手をかけて、そのとき親指がブラウン管に埋没するのを見て――彼は驚愕のあまり飛び退ってもう一度テーブルにぶつかった。
「…………」
 あまりのことに声も出てこない。悠はしばらく薄ぼんやりとしたテレビ画面を睨まえながら、荒い息を抑えかねて突っ立っていた。
(そりゃ、入るさ、指くらい)悠は懸命に深呼吸した。(これは夢なんだ! そんなわざとらしく驚くことはない……)
 悠はもう一度、今度は恐るおそる、テレビ画面を指で突いてみた。やはり入る、なんの抵抗もなく。ブラウン管のガラス面をどうやってか貫いて、指の先にテレビの中の空間をはっきりと感じる。ちょうど冬のある日、寒い廊下から暖房の効いた室内へ入ったときのような、異質な空気。ブラウン管の入口付近にある第二関節がちりちりする。見た目には立体映像を貫通するようだが、この境界にはかすかに電気の通っているような感触があった。
 中は少なくともテレビのケーシングサイズよりは広い。思い切って腕まで突っ込んで振り回してみると、少し粘るような湿度を感じる。中からテレビを触れるか試してみたが……やはり触れない。これはかなり新鮮な体験だった。向こうのなにもない空間に自分の肘から先だけが浮いているようなもので、突っ込んだ手をテレビ画面から引き出さない限り「こちらがわ」の身体には触れないのだ。
(これ……あたまも入るかな)
 この無謀な冒険心に、悠の良識はさかんに警鐘を鳴らす。中に酸素がないかもしれない。急に電源が落ちて首が切断されるかもしれない。馬鹿なことはよせ! いや、確かにそうだが、これは夢だ。夢ならこれくらいの冒険は許されて然るべきではないか? この奇妙な夢を面白い夢にして、明日気持ちよく目覚めよう。このテレビを通って三軒茶屋のラーメン屋へでも行けたなら、少なくとも明日花村に土産話ができるではないか。
 しばらく逡巡した後、悠はけっきょく冒険心のほうに従った。
(ここまで来たんだ、もう少し見せてくれ、醒めるなよ――)
 このとき、突っ込んだままの手に毛羽だったような、少し温もりを帯びたなにかが触れた、と思う間もなく、抵抗する暇こそあれ、悠はいきなり投げ出されるようにしてテレビの中に引っ張り込まれた。――いや、引っ張り込まれたのではない! 悠は自身の後頭部を鷲掴みにする冷たい、金属質のなにかの感触を震えとともに感じた。
(なにかに押し込まれてる!)
「叔父さん! 叔父さあん! くっそ……!」
 テレビに肩から上を突っ込まれた状態で悠はもがいていた。必死で自身を縛める誰かを攻撃しようとしても、両手も両足もむなしく空を切るだけだ。心臓の凍る思いだった、悠を完全に封じ込めているこの巨大な手は、手首から先だけが独立してそうしているのでなければ、彼自身の後頭部から生えているとしか言いようがないのだ。
 遠くからなにかを引き摺る、重々しい擦過音が近づいてくる。薄黄色い靄のその奥からひょろりとした巨大な何かが歩いてくる。こちらにやってくる。痛いほどの既視感を覚える。これはあの夢の続きだ! この手の持ち主は、今やってくるこの鉄仮面の巨人は……
「アレ・ハ・ナレ・ナレ・ハ・アレ」
 悠は叫びながら全力で暴れた。彼のあたまを押さえつける変質者の、鉄の籠手めいた手首を両手で掴んで、捻ったり体重をかけたり、自身の首も折れよとばかり全身のバネを躍動させて抗った。――甲斐はない。両の掌に血の滲むのを感じる。
「ナレ・ヨ・ノレ・アレ・ヨバヘ」
(捕まる……!)
 鉄仮面がその巨体を折るようにして屈み込み、悠のあたまを握り潰そうとまさに手を伸ばしたとき――ふいに彼を縛める力は亡失し、彼はかねてからそうありたいと切に願っていた以上の勢いでテレビから抜け出ると、先に二度も蹴りをくれたテーブルに強烈な頭突きを見舞ったのだった。






 携帯のアラームが鳴っている。
「…………」
 きのう引き忘れたカーテンの隙間から弱い光が差し込んでいる。雨天だ。夜から降り続いたのだろう。
 悠はテーブルとテレビの間の、粗いカーペットの上で横臥していた。この部屋にこれいじょう狭くて寝心地の悪い空間はちょっと見つかりそうにない。
(我ながら……変なところで寝たもんだ……)
 全身の節々が痛い。別して両腕が痛く、ひどくだるい。全身筋肉痛の様相を呈している。上体を起こすとあたままで痛み出した。最高の寝覚めだ、朝これだけ酷い始まり方をすれば、この一日の終わりまでにはちょっとした帳尻あわせが待っているだろう。
(……こわい夢、見たな)なにかに捕まって、首を斬り落とされかける夢。(くそ、なんなんだろう。昔あんな映画みたっけ?)
 少しずつ恐怖の記憶が蘇って来るにつれ、毛布ひとつ被らずに横になっていたのも災いしてか、寒気がしてきた。ソファまで躄って携帯を掴んで、アラームをリセットする。五時五十分、起きて菜々子に約束の味噌汁を作ってやらなければ。
(その前に着替えておこう、もういちど二階に上がるのはなんだかだるい……)
 悠はのろのろと立ち上がって、寝惚け眼でトレーナーを脱いだ。ソファにそれを放って、ハンガーのワイシャツを取ろうと腕を伸ばして――叫んだ。
「なんだ……これ……」
 悠は目を瞠った。両の掌が乾いた血に染んでいる。にわかに痛みが増したような気がする。そうだ、昨日、なにかに掴み掛かったのだ。あたまを押さえ付けられて……マヨナカテレビ! ブラウン管の中に押し込まれて、なにか宣告されて、処刑されそうになって……
(マヨナカテレビ……夢じゃなかったのか……!)
 菜々子のものと思しい、軽い足音の階下から駆け上がってくるのが聞こえた。





[35651] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:07



 まるで朝からずっと夢を見ているようだ――それもとびきりの悪夢を。放課を報せるチャイムがこれほど待ち遠しく聞かれたことがあっただろうか?
(ぜんぜん授業に集中できなかったな……)
 ノートになにを書いたのかもよく思い出せない。おまけになんと書いてあるのかも判別し難い。肘に敷いている世界史の大学ノートにはミミズののたくったような字が綴られている。両手が笑って力が入らず、それでもまだマシな左手のほうで書いた結果だ。
(メソポタミア。ギルガメシュ。深淵を覗き見た人について、わたしはわが国人に知らしめよう……歴史というより文学の範疇じゃないか、世界史は脱線教師か……!)
 是非ともおおいに知らしめて欲しいものだ。そんなものを覗き見たおかげで、彼は朝からずっと全身が痛くて、驚き悩んで気が揉めて、味噌汁にワカメを入れるのを忘れたのだ。パンもクルンヌ・ビールも喉を通らないし、杉を守る怪物をやっつける元気なんかないし、今は不死の秘密よりもう少し控えめな謎を知りたいのだ。
(花村も里中も顛末を知りたがるだろう。言うべきか――馬鹿、信じるわけがない! 狂人あつかいならまだいい方、あからさまな嘘で気を引こうとしている虚仮だなんて思われるのは御免だ)
「――逆さにぶら下がってたってなんなの? ヤバくない?」
「処刑とかそういうアピール? 怖すぎ……」
「死体見つけたのってさ――」
(処刑だって? やめてくれ……)
 一昨日からの例の事件は、この田舎の善良な高校生たちに程よい刺激を提供し続けている。帰り支度の賑わいを縫って聞こえてくるのは、あのアナウンサー逆さ吊り殺人の話ばかりだ。悠のほうはそれどころではなかったのだが。
(……一本、吸おうかな、どこか人気のないところで)
 疲れと悩みと寝不足のせいか、悠はあまり覚えない類の欲求を感じた。ポケットのシガレットケースには確か三、四本は入っていたはず。――ここで出したらどんな眼で見られるだろう?
「よ、よう」
「なっ……なに?」
 悠はあわてて出しかけたケースをポケットに戻した。後ろの陽介が席を立って、畏まって目の前までやってきたのである。
「あのさ……」
「んん……」
(あの話だろう? くそ、なんて切り返そう……浮かばないな)
「や、その、大したことじゃないんだけど……」
「……そう?」
「実は俺、昨日、テレビで……」
「テ……テレビで?」
「あ、やっぱその……」
「……その?」
「……今度でいいや」
「……そう」
「あはは……」
「……はは」
「…………」
「…………」
 非常に気まずい。どうやら屈託があるのは向こうも同じらしい。――ひょっとして彼も同じような体験をしたのだろうか? 大いにあり得る、そして悠と同じに狂人や虚仮あつかいを恐れている、ということも。
「……花村」悠はポケットのシガレットケースを握りしめた。
「え、おう、なに?」
「その、おれも昨日」
「うん」
「……アレだよ、テレビ」
「おお、テレビ」
「…………」
「……テレビ?」
「実はおれ――」
「花村ー、ウワサ聞いた?」 
 ここで千枝が割り込んで来たおかげで――乃至は、せいで――彼の勇気ある告白は遮られた。
「なに、ウワサ?」
「事件の第一発見者って、小西先輩らしいって」
 心当たりがあったのか、陽介の貌が曇った。
「だから元気なかったのかな……きょう学校きてないっぽいし」
(おれも学校やすめばよかったな……)
「あ、そーそー鳴上くん、おつり返すの忘れてたんだ」
 千枝がスカートのポケットをごそごそやり出した。
「おつり?」
「五千円の。はいコレ」皺くちゃの札がらみに小銭を掴み出す。「ごちになりました」
「ああ……いいよ、とっといて」
「ええ? よくないよ、ほら」
(律儀だな、言われなきゃ忘れてたくらいなのに)
「じゃあ、天城のぶんもそこから出そう。里中、天城さそって代わりにお礼してくれないかな」
「へえ? 自分で誘いなよォ」ちょっと声を潜めて、「狙ってんでしょ? 雪子のこと」
「お前、天城越え狙ってんだ、チャレンジャーだな」陽介はげんなりしている。「天城峠でコケるといてーぞー……大怪我すんなよ」
「天城越え……って言うのか」齢十六、七にして険難踏破に喩えられるとは、本人はどう思っているのだろう。「言い得て妙だな」
「険しいよー、標高ラブレター六十通ぶんくらい?」
「あははとても無理だ、足を踏み出すのも畏れおおい。だから代わりに頼みたいんだ、こういうことをひとにやってもらうのは、ちょっと失礼かもしれないけど」
「うーん、じゃ、わかった。それでも余ったら返すよ――あ、雪子」
 ちょうど雪子が教室に入って来たところを、千枝が呼び止めた。
「雪子、今日ジュネス行かない? 軍資金が入ったぞよ」
「軍資金?――いま、ちょっと大変だから」
「あー……雪子、今日も家の手伝い?」
「んん」
 眼の赤く充血しているのは寝不足によるものだろうか。顔色も悪く、雪子は有体に言ってくたびれ果てているように見えた。二、三日ほど水やりを絶った薔薇のしおたれた眺め、とでも言えようか。いささか不謹慎ではあるが、こういう拉がれた薄倖そうな佇まいがまた、彼女には誂えたようによく似合うのである。 
「ごめんね」
「ううん、いいよ、また今度いこ!」と、千枝が笑った。雪子が薔薇ならこちらはチューリップか。「これは預かっておきまする」
「天城、あんまり遅いとコイツぜんぶ使っちまうぞ」
 陽介は右のすねを蹴られて押し黙った。
「……軍資金って?」
「殿からの頂きものでござる」悠を示して、「お礼だってさ、一昨日の」
「菜々子ちゃん迎えに行くの、案内してもらったからさ」
「ああ……」
「これだけあればヨコヅナハンバーグ二人前いけるね、あっ、ステーキたべれるじゃんこれなら!」
「肉女……」
 陽介は左のすねを蹴られて押し黙った。
「うん、じゃあ、近いうち」
 ひとつあいまいに微笑むと、雪子はこころなし背を丸めてとぼとぼと教室を後にした。
「……なんか天城、今日とっくべつテンション低くね?」
「忙しいんだ、雪子。今に始まったことじゃないけど……」
(叔父さん、事情聴取に行ったりしてるのかな)遼太郎は雪子を知っている様子だった。(それとも単に泊まったことがあるだけ?)
「で、ところでさ」
「ん?」
「昨日の夜……見た?」
「…………」悠は机の寸法を気にしだした。
「…………」陽介は床の木目を数えだした。
「ちょっと、ねえ」
「その……お前はどうだったんだよ」
「見た! 見えたんだって! 女の子!」千枝は興奮した様子だ。「……でも運命のひとが女って、どゆことよ?」
「そりゃお前――」陽介はふたたびすねを蹴られて叫んだ。「――まだなんにも言ってねーだろいってーな!」
「顔に書いてあんだよ……でも誰かまでは分かんなかったけど、明らかに女の子でさァ……」
(こっちは男女の区別もつかなかったよ)掌の傷の痛むような気がする。(目下それどころじゃなかったし、よく覚えてないな)
「髪がね、ふわっとしてて肩くらい、で、ウチの制服で」
「それ……もしかしたら、俺が見たのと同じかも」
 陽介の声にはなにか、焦慮のようなものが透いて見えた。
「俺にはもっと、ぼんやりとしか見えなかったけど」
「え、じゃ花村も結局みえたの? しかも同じ子……運命の相手が同じってこと?」
「知るかよ……」
「ふたりを結びつけるキーパーソン……ってとこじゃないか?」
「は?」
「え?」
「つまり、ふたりが運命の相手同士で、それの仲介役が映ったのかなって」
「んなわきゃねーだろっ!」
「んなわけないでしょっ!」
「あはは息ぴったりじゃないか」こちらに話題を振られたくない一心である。「お似合いだと思うけど」
「バッカ言えよ……いや、里中がどうってわけじゃなくて」陽介は蹴りを警戒しているようだ。「なんていうか……ねーよ、それ」
「ないのはこっちだっつの」
 拍子抜けするほど脈がない。このふたりはそういう気配とは無縁らしい。
「で、お前は?」
 韜晦の甲斐もなく、陽介は当然のように聞いてきた。これでお茶を濁すことができれば、と思ったのだが、失敗のようだ。
「そういえば、木造校舎って珍しいよな」
「珍しいな。で、お前は? 見たんだろ?」
「鳴上くんなんでごまかしてんの」
「里中が映ったから……ちょっと恥ずかしくて」
「へえ……で? ホントは?」
「……天城が映った」
「……鳴上」
「ん?」
「なんで隠す」
「…………」
「なあ里中、俺、ちゃんと喋ったよな? 昨夜のこと」
「うん。あたしもちゃんと喋ったよね? 昨夜のこと」
「……実は」
「うん」
「ごめん、見なかった、零時前に寝たんだ。菜々子ちゃんを寝かせたあと、すぐに」
「ええ? 見るって言ったじゃん……」
「忘れてた。朝おきて、しまったとは思ったんだけど……あとの祭りだ、ごめん」
「…………」
 陽介は黙ってじっと悠を見つめている。先にあれだけ仄めかしたのだ、もちろん彼だけは騙せまい。それでも千枝に素っ破抜かないのは、彼なりにこちらに事情があるのだと気を回してくれたものか。
「じゃ、おれ、帰るよ」
 居たたまれなくなって悠は席を立った。――そもそもなぜこんな居心地の悪い思いをしなければならない? 全部あのマヨナカテレビのせいなのだ。言えるものか、テレビに入っただなどと誰が信じる?
「あ、鳴上くん、またジュネス寄ってかない?」
「行こうぜ、話したいことあるし。ヒマだろ?」
「今日は用事あるし」全身が痛いし、悩んでるし、煙草吸いたいし、「また今度さそって。じゃ」
 残念がるふたりを残して、悠は教室を後にした。きのうあれだけ親密にしたのだから、なにも今日まで彼らへの義理を貫くことはなかろう。
(そうとも、テレビに入れるなんて誰が……入ったなんて)
 悠はふと下駄箱の前で立ち竦んだ。恐怖と好奇心の結晶したような、恐ろしい考えがあたまに巣くおうとしている。
(確かにおれは入った、テレビの中に……入った)
 入った。自分は、テレビに。
 では今は?
 今は入れるのか?





 このふたりは証人なのだ――悠は前向きに考えることにした。このふたりに呈示されたのだから、結果もこのふたりが見なければならない、きっとそうなのだ。
(どちらに転ぶにせよ、ひとりで見届けるよりはいいかもしれないじゃないか。入れなければそれでよし、フードコートで馬鹿話して、トマト買って帰ろう。もし入れたら――ええい、そのときは覚悟してもらおう)
 ジュネス八十稲羽店、二階の家電売場で、悠は期せず陽介と千枝に再会していた。
「おっと、結局きてんじゃん鳴上くん」千枝はにこにこしている。
「なに、お前の用事って家電がらみ?」陽介はにこにこしている。
(覚悟しろよふたりとも……)
「うちのテレビ、まだブラウン管でさ。安い液晶ないかなって」嘘ではない。近いうち遼太郎にそれとなく聞いてみようとは思っていたのだ。「電気屋さがしてたんだけど結局なくて……そっちは?」
「ウチもそう! テレビちっちゃくてさ、大きいの買おうかって話してんだ」
「買い換えすげー多いからな今、アナログ放送おわるし」
「うんうん、ここならきっと花村が安くしてくれるし」
「まだ言ってるよコイツ……できねんだってのに」
「あーゆうのがいいなー、でかいやつ」
 千枝の駆け寄ったのは四十六インチの液晶テレビである。
「はー、こんなのでドニー兄貴の大立ち回りが見たい!」千枝はなにかの型よろしくてきぱき動き出した。「ハイッ! ハーイッ! モウイェンガッ!」
「はいはい……てか、お前んちってDVDだっけ? ビデオ」
「うん」
「ブルーレイは?」
「……名前は知ってる」
「プレステ3とかねーんだ」
「うちは2が現役ですけど。つか3とかどこの貴族ですか……」
「DVDだとあんま綺麗に映んねーぞ、でかけりゃでかいほど。今どきのは一定以上の大きさになるとたいていフルHDだから、綺麗なの見たいならついでにブルーレイに乗り換えるのも手かもな。ま、画質の善し悪しなんて感じ方はひとそれぞれだけど」
「フル……え、なんで?」
「花村、家電に詳しいんだ?」
「詳しいっつか、おれここでバイトしてるからさ。ここに回されたとき最低限のこと知っとかないと、なんか聞かれたとき困るし」
「こんなところにもバイト使うのか?」
「まさか。学生のバイトなんか使わねーよ、品出しと売り子だけ。こーいうとこで使われんのは俺。言ったろ? 俺だけ特別待遇だって」
「大変なんだな」
「そのぶん給料もいいんでしょ?」
「最低賃金だっつの。お前信じる気ゼロだろ」
「それより、なんでDVDじゃダメなんよ」
「……ダメなわけじゃねーけど。画素数っつか、解像度が違い過ぎるからボケるんだよ、でかいと。DVDはだいたい三十五万ピクセル、フルHDだと二百万ピクセルくらいで、ブルーレイも映画はだいたい同じ。単純計算で六倍も違う、だからでかいテレビでDVD見ると基本スカスカなわけ。気にしないひとは気にしないし、離れればそうでもねーけど」
「……センセー、よくわかんないんですけど」
「あーっと……つまり……アレだよ、ジャムが全然たりねーんだよ、パンがでかすぎて」
「塗りかた次第っしょ」
「そういう意味じゃなくて……」
「そーいや、ここって店員とかいないの? ガラーンてしてない?」
 千枝の言うとおり、テレビのコーナーには案内の店員が見当たらなかった。ほかに客らしい客もいない、大繁盛のジュネスとはいえ、どこもかしこもというわけではないようだ。
(それは当然か。ダイコンやニンジンとは違うもんな)
「葛西さん倉庫いってんだな……」陽介は静かにため息をついた。「正直、うちでテレビ買うお客とかほとんどいなくてさ、この辺は隣のブースとの兼任がひとりだけ。しかも今は倉庫で一服中、たぶん」
「やる気ない売場だねェ」
「回収しづらいとこにひとなんか回せねーよ、ここはこれが精一杯。ホントに欲しけりゃ客のほうで店員さがすだろ」
「ま、ずっと見てられんのは嬉しいけど……これダメだよ、高すぎ、ありえない」
「これブルーレイレコーダー内蔵型だからな。それ見越せばお得じゃね?」
「うー……なんかオススメないの? 安くてキレイででかいやつ」
「隣のこちらなどいかがでしょうかお客様」陽介の声が一転、セールストーク用のそれに切り替わった。「この春発売されたばかりの最新型で、3D映像もお楽しみ頂けます。専用のキャスター付きテレビ台もセットになっておりまして、お部屋の模様替えの――」
「ちょっ全然安くないじゃん! ゼロいっこ多いだろって!」
「これゼロいっこ減らしたらシャープの社員首つるぞ……てか、まずお前の安いがどんくらいか聞かないと」
「えと、五万円くらい?」
「おま……それテレビ台買って終わりだからな。二十インチちょいの小さいやつならあっかもしれんけど」
「でかいの欲しいの!」
「五万じゃ買えんの!」
「花村のコネで安くしてよォ……そんなら、ここで買うからさ」
「だーからそういうのは無理だっつってんのに……あ、鳴上?」
「ひとりで見てるよ。悩んだら聞くから」
 まずはひとりでやってみなければ――悠はふたりから離れると、テレビを選るふりをしつつ監視カメラの死角を探してコーナーを歩き回った。ひとに見つかる可能性は低そうだが、テレビに手を突っ込む瞬間を録画でもされたらおおごとだ。
(よし、ここなら)
 悠の立ち止まったのはコーナーの一番奥である。そこは死角であるばかりでなく、お誂え向きに六十五インチの大型プラズマテレビが鎮座していた。ちょっと腰を屈めるくらいで簡単に中へ入ってしまえそうだ。
(ここならアレが来ない、っていう保証は、ないんだよな)
 家で試さなかった最大の理由がそれだが、もしあの鉄仮面がところ構わず悠のいるところを嗅ぎつけてやってくるなら……
(あのふたりがいる。彼らに助けを求めればいい、そうさ、その為のふたりだ)
 悠はひとつ深呼吸して、用心ぶかく辺りを眺め回して、誰の目にも留まっていないことを確認したあと、テレビのパネルを指でちょんと突いてみた。――やはり入る。その事実が、悠にはなぜかとても嬉しい。これはちょっと胸の高鳴る展望ではないか? 理由こそわからないけれど、自分はどうやらいつでもテレビに入れるのだ!
 口角の上がるのを感じる。
「花村ー、里中ー、おーい」
(おまえたちの蒔いた種の結実を見せてやる!)
 果たしてふたりは暢気に話しながらやってきた。彼らの驚く顔が目に浮かぶようだ。
「なに、決まった?」
「うお……鳴上くんそれ買うの?」
「げっ六十五インチ! 見てただけだろ?」
「……そうだな、ちょっと小さめだけど、これなら菜々子ちゃんも妥協してくれるかな」
「小さめって……」
「どこのセレブだよ……」
「値段も手頃だし、3D映像も見られるし――」悠はちょっと芝居めいたあと、おもむろにテレビのパネルに手を突っ込んだ。「――腕も入るし」 
 この瞬間のふたりの顔を写真に残せないのが残念だ――切実にそう思わせるくらい、彼らの驚愕は見物であった。
「え、テレビ、ダメだろ、おまっ壊したら……」
「壊す?」悠は突っ込んだ腕をぐるぐる回して見せた。「壊れてないな」
「しっ新機能? それ、え、なんの役に立つの、それ?」
「番組がなくても楽しめるな」
「パナソニックすげー……」
「ってねーよっ!」
「マジでささってんの……?」
「マジだ……ホントにささってる……スゲーよどんなイリュージョンだよ!」陽介は興奮した様子だ。「で、どうなってんだ? タネは?」
「……転校生だから?」
「俺もそーだよっ!」
「じゃ、柴又と三軒茶屋の違いかな」
「柴又すげー……」
 ふたりは食い入るように見つめている。さもあろう、悠でさえ昨晩あんなことがなければ彼ら同様、飛び上がるほど驚き興奮したに違いないのだ。
(中に入ってみようかな、本当に)
 もしこのプラズマテレビの中が昨晩押し込まれた場所とそれほど違わないのなら、空気はあるはず。死にはすまい。
 我ながら軽挙妄動の極みだ――それでも、なによりこのふたりの驚き興奮する様が、この彼のいつにない野放図な好奇心を駆り立ててやまない。いい気分だった。悠にとってはこの降って湧いた非日常への招待よりなにより、この善良なクラスメートたちの面に閃く反応のほうがずっと関心を引いたのである。
(テレビのフレームを支えにしたらたぶん壊れるな……ちょっと辛い体勢だけど)
 もういちど周囲に誰もいないことを確認すると、悠は脚を前後に開いて、少々不自然な前傾姿勢でテレビの中にあたまを突っ込んだ。――店内を飛び交っていたあらゆる音が掻き消えた。慌てたように背中をツンツン突くのは陽介か千枝か、向こうではさぞ大騒ぎしているのだろう。こんな突飛なことを目の前でされたふたりの驚愕ぶりが伝わってくる。
(昨日と同じだ、薄黄色の靄、ちょっと湿気たような空気)
 靄が濃すぎて周囲になにがあるのか全く見えない。大声で叫んでみると、意外にもこだまは返ってこない。この中はかなり広いようだ。
 例の鉄仮面の現れる気配はなかった。思えばあれは二回とも堂島家で現れた、とすれば、アレはひょっとしてあの家に憑いた……
(ばかばかしい……って言えればいいけど、こんなことがあった後じゃなんとも……)
 と、いきなり後ろから引っ張られて、悠はジュネス店内の喧噪に引き戻された。彼を出迎えたふたりといえば周章狼狽、顔面蒼白の態である。
「バッカなにしてんだお前ェ!」
「ひと、来たか?」
「来ねーよ、お前が行っただけだよ!」
「やばいって監視カメラ映るよ!」
「ここは死角になってる」
「お前……お前……」陽介は少し落ち着きを取り戻したようだ。「そうかお前このことを……じゃあ昨晩」
「ご明察」
「なに、なんの話よ!」
「家電の話。――中はかなり広いみたいだ」
「なっ、中ってなに!」
「テレビの向こうの空間」
「くっ、空間ってなに!」
「もう一度はいってみる」
「バカよせって!」
「大丈夫、たぶん」
「たっ、たぶんってなに!」
 ふたりの止めるのを聞かずに、悠はふたたびあたまを突っ込んだ。
(ここって、無人なのかな)
「誰かー! 誰かいないかーっ!」
 ――返事はない。
(地面が見えれば入ってみるんだけどな……なにか落としてみようか)
 悠はポケットからシガレットケースを取り出した。中の一本を抜き出して、下に放ろうとして――止める。あと三本しかないのだし、今後なかなか手に入りそうにないのだからもったいない。
(落とすだけなら吸殻でいいか)ここなら一服しても誰も文句は言うまい。(ライター、あったかな……あれがあったはず、スタンドで貰ったやつ)
 制服のポケットに両手を突っ込んで、ライターを探し当てた瞬間、陽介か千枝か、誰かに背中をどんと押されて、悠はろくに踏み止まることもできずにつんのめった。とっさの手が出ない。腹がテレビのフレームを乗り越える。血の気が引く――
「うわっなに――!」
 さながら海戦の捕虜が両腕を縛られた状態で、甲板から荒れ狂う波濤へと蹴り落とされるように――悠はテレビの中へ落ちた。





 かなり長い時間、身の毛もよだつ自由落下が続いたわりに、着地の衝撃は驚くほどあっけなかった。
(絶対死んだと思ったけど……それよりなにより!)
 こちらのほうがよほど問題だ――海戦の捕虜はひとりだけではなかった。なんと陽介と千枝も落ちてきてしまったのである。
「ふたりとも、大丈夫?」
「いってェ……ケツの財布がダイレクトに……!」 
「もーなんなのォ……!」
「怪我は?」
「ええ? ケツが粉砕した……」
「え、ここどこ、ジュネスのどこ?」
 怪我らしい怪我はないようだ。
「……上でなにがあった。背中を押されたんだけど」
「う、ごめんあたし、ぶつかっちゃって。だってひとが来て……!」
「ほかの客が来て、里中テンパってお前にぶつかって……俺、お前の脚つかんだんだけど……」
「あたしは花村のを……イカドーブン」
「……参ったな」
 三人の捕虜の流れ着いた孤島は、やはり黄色い靄に覆われている。地面は柔らかい、少し硬めのゴム様のなにかでできていた。もしもコンクリートかなにかだったら三人とも無傷では済まなかっただろう。
「ねえ……どこ、ここ」
「ジュネス、じゃ、なさそうだな」
(カンザスでもなさそうだ)
 音らしい音がしない。空気も全然ちがう。昨日きた世界と同じ、違うことと言えば……
(帰れない……ってことか)
「ジュネスじゃないって……じゃ、どこよ!」
「どこって、そりゃお前……テレビの中、だろ」
「中って――」
「うおっ!」
「うあっ、なにっ、なによォ!」
「周り、見てみろって!」
 陽介の指す先にうっすらと、クレーンのアームのようなトラス構造の骨が渡されている。そこからつり下がった大型の照明、撓んだケーブルの束、家庭用では用途の見つかりそうにない巨大なカメラ。よくよく見れば立っている地面もなにかのイラストが描かれている。三人の落ちてきたそこはなんとなく、どこかの室内スタジオのように眺められた。
「でかい声だすなバカァッ!」陽介の腰に猛烈な蹴りが飛んだ。「ビックリすんでしょ!」
「いって……わり、でも、ここってなんなんだろ。スタジオっぽい?」
「すごい霧、じゃない、スモーク……?」
「なんか色ついてっけど……毒ガスじゃねーよな」
「こんな場所、ウチらの町にないよね……?」
「あるわけねーだろ……どうなってんだここ、やたら広そうだけど」
「……どーすんの」千枝の声は微かに震えている。
「……帰るんだよ」陽介の声も微かに震えている。
「そっ、そうだよね、とにかく一回かえってさ……帰って……」
「……どーやって」
「あ、あたしら、そういや、どっから入ってきたの?」
 悠は黙って頭上を指した。
「出口……上ってこと?」
 落ちてからここへ到達するまでにはかなりの時間があった。仮に上に出口があるにせよ、手足で登っていけるような距離ではないだろう。
「……出れそうなトコ、ない? ひょっとして」
「ちょ、そんなワケねーだろ! どどどーゆーことだよ!」
「知らんよあたしに聞かないでよ! やだもう帰る今すぐ帰るー!」
「ふたりとも静かに」
「だからどっからだよっ!」
「あたしに聞くなっつってんだろォ!」
「おい静かに――」
「ヤダもうなにコレェ……ざっけないでよォ……!」
「泣きてーのはこっち――!」
「静かにしろふたりともっ!」
 ふたりともぴたりと押し黙った。
「人工物があるってことは、誰か来たことがあるってことだ」安心したような、なんとなく落胆したような。内心は複雑である。「誰か来たことがあるってことは? 出入口があるってことだ」
「……うん」
「……おお」
(その出入口がまだ開くかどうかはわからないけど)
「ここがもしスタジオなら、とうぜん番組が収録されているはずだ。ここはどこかのビルかもしれない。いずれにせよ、出入口はある――ふたりとも、携帯は通じる?」
「……ダメ」
「俺のも」
「……おれのもだ。これで助けは呼べないことがわかった」繋がったところで呼びようもないが。「なら、この脚で出口を探すしかない」
 ふたりとも絶望的な顔をしている。悠のほうでも一皮むけば似たようなものだったが、
(三人なかよく絶望して泣き叫んで、いったいそれでなにがどうなる! おれがしっかりしなきゃ……)
「さ、ふたりとも立って。歩こう、ここでこうしていてもどうにもならない」
「歩くって、どこへだよ」
「どこから試してもいい、ここ以外ならぜんぶ出口に繋がってる。簡単だろ」言って、悠は非常な苦労をして無理に笑って見せた。「ふたりとも元気だせよ! どうした、いつも底抜けに明るいくせに。あした天城に話すぞ、ふたりとも震え上がって泣き叫んでたって」
「……俺は泣いてねーだろ」陽介はよろよろと立ち上がった。
「わがった……」千枝は洟を啜りながら立ち上がった。
「よし、行こう。なんかワクワクしないか? ふたりとも」なにがワクワクだ! わが言葉ながら呪わしいことこの上ない。「ちょっとSF映画みたいじゃないか」
「お前元気だね……」
「ゾクゾクならする……」
(映画なら最後にはちゃんと帰れるものだけど)
 もしくは、後ろからひとりずつ食い殺されて、最後に生き残った先頭の主役が脱出してエンディング――パニック系ホラーの古典的展開はたいていこんな感じだ。人食いモンスターはいつも後ろからやってくる……
(その人食いモンスターがもし鉄仮面を被ってたら……そうだ、ここはあいつの世界なんだ)
「まずはこっちだ――おれが先頭に立つよ」
 ふたりの頼もしげな視線が、なんとなく後ろめたく感じられた。





「ふたりともストップ」
「え……また?」
「なに、なんなんだよ」
「…………」
「鳴上?」
(やっぱり……なにか後ろからつけてきてる)
 例のスタジオを発って三十分ほど、三人は一列縦隊で足の向くまま、この黄色い霧の立ちこめる世界をさまよい歩いていた。
 もちろん出口は見つかっていない。わかったことと言えば、先のスタジオのように具体的な人工物のある場所は稀でありそうなこと。いくつか扉を開けても、この妙な霧はどこまでも続いていそうなこと。行き止まりが多く、両の脚で踏破できそうな範囲は案外せまそうであること。
(そしてずっと何者かにつけられていること……くらいか)
 最初は気のせいだと思っていたが、何度か故意に急停止してみたところ、この三人以外の誰かの足音が微かに聞こえたのだ。疑ってかからなければ聞こえないような、微かなものだったが。
(ふたりに報せるべきかな)
 陽介も千枝も相変わらず恐怖と不安に拉がれている。
 陽介はまだいい、それらを紛らすために虚勢めいて多弁になっているが、それも自身を奮い立たせるためだ。が、千枝のほうはもはやそんな気力もなく、折々しゃくり上げたり洟を啜ったり弱音を吐いたりしつつ、陽介の制服の裾を掴んでよちよち歩いているという有様だ。
 それでも、悠はこのふたりの道連れをありがたく思っていた。
 怖れ震えるあわれな様子を見れば、彼らのためにも尚のこと冷静に努めなければと、いきおい悠は奮い立たざるを得ない。言ってみればこのふたりが彼のぶんまで怖がってくれているようなものだった。このふたりが恐怖に打ち震えるという重要な仕事に専念してくれるおかげで、彼だけはその悪疫を免れているのである。
 たったひとりこの世界に投げ出されていたらどうなっていただろう? もっとも、悠を落としたのも彼らなのだが。
「おいなんだよ、気持ちわりーな。なんか見つけたのか」
「んん」
(問題はなにかあったときだ、後ろの奴がなにか変わったアプローチを仕掛けてきたとき)具体的には、三人が二人に減ったりする類の。(そのときなにも知らないでいるのはフェアじゃないな)
「おいってば」
「ふたりとも、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
「……へ?」
「なに、実はあなたが好きでしたって?」
「ここから出たら指輪を贈るよ。――花村も、里中も、取り乱さないでくれよ」
「へえ、やけに勿体ぶるじゃん」
「な、なに……?」
「誰かにつけられてる」
 悠は「なにか」とは言わなかった。
「……え?」 
「気のせいじゃ」
「そうあって欲しかったけど、何度か立ち止まって、足音を聞いた。間違いない、おれたちのうしろに誰かいる」
「だっ、誰がいるって……!」
「もーやだァ……!」
「落ち着けって! つけてるってことは、いますぐどうこうしようってわけじゃないってことだ。いや、できないってことだ」
「わかんねーだろそんなこと!」
「じゃあ、説明してくれ。どうして後ろのやつはなにもしない? いや、具体的に言おうか。どうして襲ってこない?」
「…………」
「答えを教えよう。そうできないか、そもそもそうするつもりがないからだ。だから安心して、でも注意しよう」
 もちろん、今はたまたま虫の居所がよいとか、まだ食事の時間には早いとか、三匹ぶんの凝った献立を思案中であるとか、悪いほうにだっていくらでも考えられる。が、その可能性を指摘したところでなんになろう。
「……結局、今までどおり探し回るしかないってことだろ、出口」
「その通り。スリル満点だな、明日は話題に困りそうにない」
「は、花村、あたし、真ん中いっていい?」
「はあっ? お前それ酷すぎだろ! さんざひとのこと盾にしといて!」
「だっでェ……!」
「男の見せ所だな花村、代わってあげたら?」
「お前ひとごとだと思って……!」
「じゃ先頭やる?」
「……ここ出れたらなんか奢れよ里中」
「うん、ありがと……」千枝の盾は陽介から悠に交代した。「……ヨコヅナハンバーグでいい?」
「……もちっとあっさり系で頼むわ」
「フォルサン・エト・ハエク・オーリム・メミニッセ・イウァービト」
 悠はポケットからライターとシガレットケースを取り出した。
「へ?」
「なに、おまじない?」
「格言。いつかこの災厄も楽しく思い返す日が来るだろう。今のおれたちにはぴったりだろ」
 思えば一服つけるのは稲羽に来てからこれが初めてだった。非喫煙者のふたりを憚って横を向いて、悠は銜え煙草に火をつけた。
(もっとも、アエネアスはその後も試練の連続だったんだけど……)
 赤い火種が薄黄色の霧に紛れてかすかに翳る。久しぶりのせいかちょっとクラッと来たが、ささやかな鎮静作用がいまは奇妙にありがたい。
「その日が明日でないなんて誰にわかる? ふたりとも明るく行こう。じき出口も見つかって、今日の一件は笑い話になるよ」
 陽介も千枝も口を半開きにして、悠の右手の二本指の間を凝視している。
「これ、気になる?」
「……お前、タバコ吸うんだ」
「うおー……不良だ……」
「意外?」
「意外っつか……意外だわ」
「うん意外。なんかこう、もっと優等生ぽいって思ってた……」
「ひとを見た目で判断しちゃいけない、これでも東京じゃ札付きの悪党だったんだぜ……」
 リクエストに応えて、悠はいっぱしの不良よろしく悪げに煙草をふかして見せた。こんな茶番でもふたりにはいい気分転換になるだろう。
「えーホントにィ……?」
「うっわ説得力ねーな」
「ホントさ。窃盗、傷害、覚醒剤、十回留年して今じゃ二十七歳の高校十二年生、少年刑務所の常連だ」
「へーえ……で、その少年刑務所ってどんなとこよ」陽介の面にようやく笑顔が戻った。「そんなの柴又にあったっけ?」
「東京にはない、埼玉の川越。運動ばっかりさせられる。そのぶん普通の刑務所よりはメシ多いけど」
「…………」陽介の笑顔が凍り付いた。
「……マジ?」
「フフフ……そうは見えないかもな……」
 ふと、吹き上げた紫煙の先に薄ぼんやりと、そこだけ霧の黄味の強く見える一画が目に留まった。
(なんだろう)
 霧が濃すぎて遠近の区別こそつかないが、明かりの灯っているかのようなそれは、少なくとも悠の眼の高さよりはかなり上に見える。
(今までいろいろ廻ってきたけど、あんな高いところになにかあるのは初めてだ)
「ちょっと俺お前のほうが怖くなってきたんだけど!」
「鳴上くんマジなの? ウソでしょ?」
「鳴上先輩って呼んでくれ。ふたりとも、あれ、見えるか?」
「なあホントのとこどーなんだよって!」
「二十七歳ってさすがに……ないっしょ……ケ、ケームショって……」
「口が滑ったな。知られたくない過去だったんだ、実際いまも胸が張り裂けそうで……行ってみよう」
「お前ニヤニヤしてんじゃねーか! おい待てって!」
「あ待って待ってあたし真ん中! 花村ァ!」
 指摘されて初めて、悠は自分の「ニヤニヤ」しているのに気付いた。
(おれ……喜んでるのか? こんな窮地の只中で?)
 指摘されて初めて、悠は静かな驚きに打たれた。例の彼の身体の中を通るつめたい鉄芯が、いったいいつからどのようにされて今に至るのか、赤熱して輝き始めているのである。家族から慰謝を得るときでさえ、かつてこれほどの熱を遷されたことはなかったというのに。悠はこの熱の輻射を表情に出すまいとして、しかしそれを抑えかねた。彼は背後のふたりに見られないように「ニヤニヤ」した。
 陽介と千枝は熾烈なポジション争いを繰り広げている。
(いまは笑おうじゃないか、素直に。状況が特殊なだけだ、それに都合もいい、この異常な世界でやる気を出してくれるものなら、なんであれ活用するべきだ)
 一時的に芯材が銅に代われば、それは熱くなりもする。いつもとは状況が違うだけ――悠はそのように納得して足を速めた。いまふと見出したこの例外的な暖かみを、世間一般の名付けがちな陳腐で安っぽい俗称で性急に呼ぶことは、彼の中のなにかが許さなかった。曰く、友情!
 ニヤニヤ笑いが次第に減衰していく。





[35651] 死体が載ってた……っぽい
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:27



 三人はつかのま呆然としていた。
『Maison de la neige』
 装飾アルファベットの表記に続いて、その下にメゾン・ド・ラ・ネージュの文字。これが目の前に建っているアパートの名前らしい。その金文字版が表札だとしたら、だが。
「ここ、室内、だよな」
「スタジオあった、よね」
 確かに――三十分強もあてどなく歩き回った印象として、室内にしては広すぎるとは感じていた。が、行き止まりには必ず壁があったし、床は間違いなくどこまでも作り物である。いつの間にか外に出ていたとは思えず、かといってこんな巨大な建造物が室内にあるとも思えない。入ってきた当初からここは常識にかからない場所だと考えていた割に、こういういかにもな異常事態を前にしては、三人とも為す術もなく呆けるばかりだった。
「ここ、入居者とか、あんの?」
「……日当たり悪そうじゃん」
(日当たり……そうだ、ここ、天井がない……)
 ないというより、見えないのだ、霧が濃すぎて。上はどうなっているのだろう。
「とにかく、明かりはこの上だ、行って――」
 言いかけて、悠は言葉後を呑み込んだ。にわかにアパートの上の方から、いくつか壁を隔てたような微かな音が聞こえてきたのだ。立て付けの悪い扉の、蝶番の軋むような音、女性の悲鳴のような音が。
「……みよう、か」
「……今の、なに」
「……風?」
「風なんて吹いてないでしょ、ここ」
「じゃ、なんだよ」
「ひっ……悲鳴っぽかった、かな、なんて」
「悲鳴? はは、里中耳わりーな、悲鳴には聞こえんだろ……悲鳴だって……」
「だ、よね、あはは……」
 陽介も千枝も棒を呑んだように突っ立っている。悠のほうでも同様である。今までこの三人の声以外の音はほぼ聞かれなかったのだ。情けないことに先に奮い立てたか細い勇気も、はやこんな些細なことで押し拉がれんばかりである。
「ふ……ふたりとも」
「おお」
「はい」
「おれは……行ってみるつもりだ、上に。ふたりはどうする」    
「おいやばいって! 別にここ行かなきゃいけないワケじゃねーだろ?」
「よしなよ……なんかヘンだってここ」
「でもほかに手がかりが……ここをパスしたって、ほうぼう探し回ってなにもなかったら、結局もどって来なきゃならない」
「そっち回ってからでもいいだろ、出口みつかるかも知れんし」
「そーだよ、なんかここヤな予感するって」
 おそらく――あまり考えたくなかったが――すでに歩いて行けるところはほぼ周り尽くしている。それはふたりもわかっているはずだった。
「なら」仕方ない、強硬手段しかない。「おれひとりで行ってみる。ふたりは、ここで」
 このふたりが恐怖から翻意してくれることを祈るばかりだ! ひとりでこんなところに入るなどと、悠のほうでもそんな暴勇の持ち合わせはない。
「バッカよせって!」
「なんかあったらどーすんの!」
「なにかあったら、逃げられるだろ、ふたりは」追跡者の腕の中にね。「三人死ぬよりは、ひとり死ぬほうがマシ……」
「しっ、死ぬ?」
「死なんでよ! なに言ってんの!」
 死ぬなどという言葉を使ったのは軽率だったが、効果はあった。あと一押しだ。
「じゃあ、行くよ、ふたりとも。短い間だったけど――」
「おっ俺も行く!」陽介が武者震いも雄々しく名乗りを上げた。「お前ひとりじゃ、心配、だし」
「……里中は?」
 陽介は転んだが――あわれな千枝は真っ青になってがたがた震えている。口には出さずとも顔に書いてあるのが読んで取れる、どっちもイヤに決まってんでしょ! と。
「おい、どーすんだよ。ここで待ってんのか」
「……い、いぐよ、いぎゃいーんでしょ……」
「よかった。正直、ひとりじゃ行けそうにない」
「へっ、さっきと言ってること違うし」
「ああ言えばふたりとも来るだろ、怖がって」
「お前も怖いんだ?」
「当たり前だろ……」
「怖いなら行くなっつの……バッカじゃないの……花村、あたし真ん中……」
「あん? 最後までグズってたんだから当然――わかったわかったって!」千枝が泣き出したのを見て、陽介は慌てて前言を翻した。「はいどーぞ! あーくっそ!」
「花村、食われても天国いけるよ」
「食われねーし、いかねーし。くそ、死んだらお前らの枕元に立ってやっからな……!」
「ノート写させてやるよ」
 三人は戦々恐々の態で、手すりに縋って鉄骨階段を上った。カンカンという甲高い音が喧しく、霧に籠められた静寂を引き裂いて響き渡る。
 明かりは階段の一番上、三階の突き当たりにぼんやりと灯っていた。位置からして部屋の玄関灯かなにかと思しい。
「花村、里中」
「なんだ」
「……なに」
「階段の上り際で止まるから、ふたりともそれに合わせて立ち止まってくれ」
「なんで」
「いいから……もうすぐだ、止まるぞ……」
 三階に着いてすぐ、悠は立ち止まって耳を澄ませた。――疑いようもなく聞こえた、三人以外のなにかが鉄のステップを踏む、カンという音が二回、はっきりと。ふたりがぎょっとして下を向いた。
「誰だ!」
 誰何の声に、しかし反応はない。三人とも息を殺して霧う階下を凝視している。「誰だ!」のあとにはしんとして音ひとつない。唾ひとつ呑み込むのも躊躇われるような、痛いほどの沈黙。
「誰だ、どうしてつけてくる」
 ふたたびの誰何のあと、ややあって――謎の追跡者は足早に階段を上り始めた。
「走れ! 奥だ!」
 叫びざま、悠は三階の奥、例の明かりの見えるところ目指して駆け出した。ふたりとも言われなくてもそうするつもりだったようで、彼の背後にぴったりついて全力で走ってくる。三人ともパニック寸前である。
(鍵かかってませんように!)
 目指す先には玄関灯に照らし出された木目調の扉がひとつ。逃げ込むとしたらそこしかない。――開いた、と、思う間もなく、そこへ陽介と千枝が荒々しく殺到する。悠を押しのけて我先に部屋へ逃げ込みにかかる。
(中にもなにかいるかもしれないのに……!)
 扉を閉める間際、隙間から追跡者のシルエットが見えたような気がした。身長四メートルの巨人でこそなかったが――恐怖はかえっていや増したかのようだ。人間大ほどの、ずんぐりした卵形のそれは、少なくとも人間のシルエットではない。 
「花村手伝え!」
 悠は腰だめに両手でドアノブを握った。
「どーやって!」
 世の玄関扉がたいていそうであるように、これも例に洩れず外開きである。ノブを保持している悠以外に扉を押さえられるものはいない。
「なんか探せ早く!」
「カギねーのかよ!」
「……ない、ついてない!」
「どんだけ欠陥住宅だよ!」
「いいから――!」
 足音が玄関の前まで来て、止まった。次いで外のなにかの力を受けて、ドアノブがガチャガチャ回ろうとする。手の中で暴れるそれを悠は必死に保持する。――まさしくホラー映画の一場面だ。こんなとき次に襲われるのは得てして、こうしてモンスターを防ぎ止めている男ふたりではなく……
「里中!」
「へ」
 千枝といえばフローリングの廊下にへたり込んで凍り付いたまま、さながら恐怖を具現化した彫像かなにかのようである。
「そこ、いると、危ないかもしれない!」
「な、なんでよ……なんもいないでしょ……?」口ほどもなくこわごわ這ってくる。「脅かさんでよ……なによォ……」
 じきにガチャガチャが止まった。それきりなんのアプローチもない。
(これで終わりか……やけに弱いな)
 正直、拍子抜けの感がある。あまり力はないようだ。もっともライオンやクマだって噛んだり引っ掻いたりするほどには、ドアノブをうまく回しはしないだろうが。
「…………」
 諦めてくれたのか、ほどなく扉ひとつ隔てたすぐそこの地面から、ひっそりと足音が離れていった。
「……行ったか」
「行ったな……あ、ドアスコついてんじゃん」陽介が扉の覗き穴に眼を当てた。「……ダメだわ、見えん、霧が濃すぎる」
「鳴上くん、なんかいるの? そっち」
「え? いや、なにか見たわけじゃないんだけど……里中、立てる?」
「ダメっぽい……」
「なにお前、腰抜かしてんの」
「うっさい」
「あはは情けねーな――で、これでひとまず一難去った、か?」
「花村、例の悲鳴みたいな音の件、忘れてる。たぶんここだぞ、出所」
「……じゃ、なんかいるってか、ここに」
「おれはドアかなにかの軋みに聞こえたけど――調べてみよう」
「お前……お前って、マジ行動力あるよな」陽介はげんなりしている。「ちっと休まね? 里中もそうとう参ってるし」
「……そーとー参ってるであります、隊長」千枝もげんなりしている。「ちょっと休みたいであります隊長」
「こんな狭い玄関で? じゃあおれひとりで――」
「お前それ反則! 単独行動すんなって!」
「休もーよー……もーヤダ動くの……」
「奥の部屋、ワンルームかな。玄関小さいし」
 そこは意外に見晴らしが利いた。部屋の中だからなのか、少し霧が薄いのだ。
「もう少し踏み込んで安全を確保できれば、奥で休める。ひょっとしたら出口があるかも」
 玄関から廊下を隔てて見る限りでも、奥の部屋はかなり広いようだ。大きな窓とカーテンに、椅子の置いてあるのが窺える。
「入ってみる」
「おい鳴上……!」
「大丈夫。花村は覗き穴、気にして。ドアノブ掴んでたほうがいいかもしれない」
「気ィ付けろよ」
「もう一生分つけたよ」
 ――果たして室内は広かった。いくぶん薄くなっているとはいえ、部屋の奥が霧でぼやけるくらいだ。
 二十畳ほどのフローリングに、オーディオシステム、キャビネット、液晶テレビ、ベッド、据え付けの本棚に並ぶ本と、ひとの暮らしている跡が見て取れる。――ひとの暮らしていた、ではない。窓際を飾るストレリチアの大鉢は萎れてこそいるが、枯れてはいない。つい最近までここで誰かが生活していたような雰囲気がある。
(もし住んでいたとしたら……ちょっとした異常者だな)
 声を上げずに済んだのは、室内を薄く覆う霧のおかげだろう。部屋の壁という壁にびっしりと、顔の部分を破り去ったポスターが貼ってあるのだ。同じ人物、同じ意匠のもので、破損がひどく和装の女性ということ意外は判別できない。一瞥して歌手かなにかのものに見える。
(まさかファンじゃないだろうし、アンチならそもそもこんなにたくさん貼ったりしないだろう。どういうつもりだ?)
 そして、玄関からも見えた椅子、その上からつり下がった縄と輪っか。これが四方の顔なしポスターと相まって異様な雰囲気を醸し出している。これをインテリアかなにかだと思っているのなら、ここの住人はひとかどのアウトサイダー・アーティストとしてニッチの支持を開拓しうるかもしれない。
(首吊りを模しているだけだ、これは。これじゃちょっと締まるだけですぐ切れる)
 縄の部分はともかくとして、輪っかはスカーフのようなもので間に合わせられている。まさしくインテリア以外の用途を満足しないだろう。物は鮮やかな紅白の絹地に福寿草を鏤めたちょっと高そうな品で、端に小さく「在地願爲連理枝」との金糸の縫い取りがある。
(あとは……一番みたくないベッド……)
 最初部屋に入ってぱっと見渡したときから、イヤな予感はしていたのだ。うっすらと霧に煙る部屋の、奥まった位置に設えられたセミダブルベッド。掛布に乱れたところもない、形も平凡で、棺を模しているというわけでもない。いたって普通である――その上に浮かぶ黒っぽいシミを除けば。
 恐るおそる近づいてみる。
(うう……やめてくれ……これ、ただのシミじゃない!)
 仮に他がそうでも、これだけはインテリアやアートの範疇に収まりそうもない。近くで見るシミは汚らしい黒茶色で、やや歪ながら、ちょうど横向きになって腕を投げ出した人のような形をしている。おまけにその辺りからなにか、有機物の腐敗したような異臭がかすかに漂ってくるのだ。彼我の距離二メートルにしてなけなしの勇気は萎え摧けた。
「鳴上くーん……どおー?」
「なんかあったかー?」
「ああ、あったよ」なんか、なんて言葉で括るにはあまりにも重すぎるものが。「今いく……」
 陽介と千枝は先刻と同じ姿勢のまま待っていた。
「誰か来たか」
「いや、なんも」
「奥、休めそう?」
「……おれは休めない、と思う。おれなら玄関で寝る、ここの住人に招待されたら」
「どゆこと?」
 悠は掻い摘んで部屋の中の状況を説明した。ひとのいた気配のあること、顔なしポスターのこと、首つりチェアのこと――
「それと、もし入るなら、ベッドには近づかないほうがいい」
「……なんで」
「なんかあんの?」
「見たままを話すけど、そのベッド、たぶん……たぶんだと思うけど」
「勿体ぶるなって」
「うんうん」
「あくまでおれの主観で、いや、こんなのは馬鹿げてるけど……」
「続きは来週……ってか?」
「よっ、この話じょうずっ」
「たぶん、なにか生ものが――いや」ここで言葉を濁してどうなる? あとで余計に怖がらせるだけだ。「死体が載ってた……っぽい、シミがある。あと、臭う」
「…………」陽介は青くなった。
「…………」千枝は白くなった。
「その、推測だけど、形からして、たぶん、ひとの」
「……え、いつもの冗談?」
「たぶん、この三人のなかでおれが一番、そうあって欲しいって思ってる。自信ある」
「またまたァ……」
「見に行ってみるといいよ。ここの番してるから」
 陽介も千枝も半信半疑の様子で、お互い譲り合いながら部屋に入っていった。
「……なにここ」
「なんっだコレ……気持ちわり……」
「めちゃめちゃ恨まれてるってこと? これ」
「わざわざ貼るとか、ちっとおかしくね?」
「ね……これ」
「あからさまにマズい配置だよな……」
「これスカーフじゃない?」
「かね」
「…………」
 ふたりの会話が聞こえなくなった。たぶんアレを見ているのだろう。
「ちょっと、行ってよ」
「行きたきゃお前いけよ」
「あんた男でしょ」
「おまえ女だっけ」
「それもか弱いね。――あ、ちょ、マジで行くんだ花村」
「行っても行かなくても文句かよ……うげ……」
「うわ花村ァ……止しなって……」
「あれ、うっわ……」
「バカ! うあ……アンタってば……」
 途切れとぎれの不穏な遣り取りを経たあと、ふたりは神妙に玄関へ戻ってきた。陽介がなにか小さなものを摘んでいる。
「お帰り。それは」
「なんだと思う?」悠の掌にそれを落としながら、「アクセだとは思うけど」
「……カフス、じゃないな。ピアス?」
 たぶんガーネットかなにか、球形の赤い石がマルタ十字をあしらった冠を被っていて、それの周りを金色の土星の輪のようなものが廻るという、古典的なのか未来的なのかよくわからない意匠である。大きさは指先ほど、いずれにせよアクセサリーには違いない。
「これ、どこで?」
「あのベッドの枕元」
「枕元! 勇敢だな花村、後光が差して見える」
「まーな。誰かさんは震えてたけど」
「アンタだって震えてたでしょ……ね、それ見せて」
 千枝はそれを携帯のバックライトで照らして「へー」とか「キレーだね」とか言いながらしばらく矯めつ眇めつしていたが、じき仰け反って、
「これ……血じゃん!」
 あわてて悠の手元に突き返してきた。
「血?」
「そこ、その十字架の上んとこ」
 確かに言われたところに、代赭色の染みのようなもののこびり付いているのが見える。
「血かな、これ」
 鼻に近づけてみても臭いはしない。
(ベッドのシミの一部じゃないだろうな……)
「それさ、遺留品ってやつかな」
「どうだろう。ほかに――」
 と、悠の言いかけたその時、なんの前触れもなくいきなり玄関扉がコンコンと鳴った。悠は慌ててドアノブに齧り付いた。
「……ごめんくださいクマー」
 次いでハイトーンの、のんびりしたような、怯えたような声が訪ないを入れて来る。
(人? なんだ? やけに弱々しいな)
「誰だ!」
「クマクマ。えーとお邪魔しますクマ……」
 ふたたびドアノブがガチャガチャ回る。
「誰だよお前!」
「クマクマー」
「くっ、クマクマってなに! あたしたちになんの用よォ!」
「バカ、煮たり焼いたりする以外の用があんのかよ!」
「花村、覗き穴」
「お、俺がァ?」
「さっきの勇気はどうした!」
「開けるクマー、ここにいるとあぶないクマよ」
「誰のせいだよ! んなこたもうわかってんだよ!」
「……この扉を開けるともっと危なくなるかもしれない。そうならない保証は?」 
「ほしょう? 調味料クマ?」
「いま調味料って言ったァ!」千枝は錯乱しかけている。「生じゃないんだ、料理されるんだ!」
「花村、代われ」
「う、ええー……?」
「おれが見る。早く!」
 声の弱々しさに、というより、その内容の多分に人間的なことが悠を勇気づけた。少し怪しくても言葉が通じるし、いちおう礼儀を心得ているし、調味料などと言っているからには、
(ほとんど間違いなく人間だ、向こうのやつは)
 ここの住人なのか、それとも悠たちと似た境涯にあるのか。ひょっとしたら出口を知っているかも知れない! 恐怖よりも多く希望の見えることを期待して、悠は覗き穴に眼を当てた。
「…………」
「鳴上? おい」
「ねえ、なに見えるの?」
「開ーけーてークーマー」
「……えーと、クマクマ?」悠は扉をノックし返した。「クマクマ、聞こえるか」
「クマクマ。クマクマじゃなくてクマクマ」
「……なに言ってんのコイツ」
「こっちを向いたまま、ゆっくり後ろに下がれ」
「なして?」
「言うとおりにしたら開ける」
「おい!」
「いいから」
 クマクマとやらはあんがい素直に後退った。
(なんだこいつは……でもどこかで見たような……)
 玄関の前に立っていたのは、悠の目の高さくらいもある着ぐるみであった。なにかの動物を子供向けにデフォルメしたような、どこの遊園地にも一体はいそうな、カラフルなやつ。首のないずんぐりした卵形、というより樽型の胴体から短い手足が生えている。部屋に入る間際に見たのはどうもこれらしい。
「下がったクマよ」
「その場でゆっくり回れ」
「……注文おおいクマねー」
 クマクマは言われたとおりにした。 
「回ったクマ」
「こっちに背中を向けて、伏せろ」
 これにはさすがにクマクマもムッときたようで、「なんでそんなことしなきゃいけないクマ!」と短い足でぴこぴこ地団駄を踏みだした。
「じゃ、開けない」
「クマは助けに来たクマよ、ずっと後を追ってたクマ!」着ぐるみが胸を張った、ような気がした。「ま、キミたちだれも気づかなかったみたいだクマけど?」
「後をつけてきてるのは知ってた。ずいぶんご苦労だったな」
「なあ鳴上、なにがいるんだよ」
「キケンそうじゃないの?」
「もうすぐ開けられるから、そのとき見てみるといい――クマクマ」
「クーマ! クマクマじゃないクマ! クマ、クマ!」
「クマ、大変だったろう」
「そりゃもー大変だったクマ! いつ…………が出てくるか気が気じゃなかったクマ!」
(シャドウ? まさか)クマの言葉は天啓のように響いた。(あの巨人のことか?)
「なにが出てくるって?」と、花村。
「んや、聞こえんかった」と、千枝。
「シャドウ、って聞こえたけど」
「シャドウ?」
「かげ?」
「まあ、それはともかく――クマ、それだけ大変な思いをしたんなら、きっと最後までやり遂げたいよな」
「もちろんクマ」
「あと一息だぞ、あとは後ろ向いて伏せれば達成だ。どうして迷う必要がある?」
「……そークマね、キミの言うとおりクマ」
 クマはほがらかに得心して、その場にゴロリと伏せた。言うだけ言ってみれば意外にもあっさり引っかかってしまう。あまりあたまは良くないようである。
「よし、花村あけてくれ。三人で囲む」
「いいのかよ……マジで?」
「少なくとも身体の外側に危険なものはついていない。次は内側だ」
「外側?」
「内側?」
「ほら」
 ――扉の向こうには丸々とした着ぐるみが一体、こちらに足を向けて伏せていた、というより転がっていた。かなり安定が悪いようで、左右にコロコロ落ち着きなく振れている様は、ちょっと壊れた起き上り小法師みたようだ。
「なにコレ……サル、じゃない、クマ?」
「なんなんだこいつ……」
「それはこっちのセリフクマ。キミらこそなんなんだクマ?」なおも転がりながらクマが言った。「ところでちょっと起こして欲しいクマ……立ち上がれんクマァ……!」
「…………」
「……弱そ」
「花村、里中、押さえ付けて」
 悠は着ぐるみの頭部に膝でのし掛かると、そこと胴体を接合するファスナーに手をかけた。
「これを脱がせる」
「な、なにするクマ! やめれー!」
「おとなしくしろ」
「な、鳴上、やめね? コイツどう見ても危なくねーって」
「あたしもそう思う。なんか、拍子抜け? こんなの怖がってたとかわれながらちょっと……」
「たっけてー! ひどいクマー!」クマがあわれっぽい声で泣き出した。涙は流れなかったが。「クマ助けようと思って来たのにあんまりクマァー!」
「なんか……可哀想になってきたんだけど」
「なあ、やめてやろって」
「これは見かけだけで、中になにか潜んでるかもしれない」
「や、疑いすぎだって」
「なんか助けに来たとか言ってるしさ……やめたげよーよ」
(おお、なんという善良なクラスメートたち!)悠は内心、苦笑を禁じ得なかった。(いまこいつの中から這い出てきた怪物に食い殺されても、このふたりだけは天国へ行けるだろうな。ここが異常な世界だってまだわかってないのか? さんざん恐ろしい目に遭っておいて!)
「ふたりとも、それで安心してこれに背中を向けて、そのあとあたまを食いちぎられたり心臓を抜き取られたりしない保証があるのか」
「……ちょっとビョーキ入ってね? それ」
「いくらなんでもそんなこと……ね、クマだっけ、あんたそんなことしないよね」
「するわけないクマ! 起こしてけれー!」
「するつもりでもそう言うだろ」
 陽介も千枝も少しく眉根を寄せて、悠を懐疑的に見下ろしている。この転校生の別の一面を見た――貌にありありとそう書いてある。
(いや……仕方ない、このふたりはあの巨人を知らないんだ、おれより危機感の薄いのは仕方ない)
 悠は密かにため息をついた。
「ひとりでやるよ、手伝いはいい」
「キ、キミたち! どーやってここに来たクマ!」
「プラズマテレビのパネルを通って来たんだ、ありがちだろ。じっとしてろ」
「帰り道がわからないクマ! そうクマ?」
「え?」
「……どうしてそう思う」
「キミたち、ずっとあっち行ったりこっち行ったりしてたクマ。後ろの女の子は泣いてたクマ」
「それで、おまえはそれを知ってる?」
「知ってるクマ。でも――こんなして地面に転がされてたら忘れるかもしれんクマー?」
「本当なのか?」
「クマはウソつかんクマ。ウソついたらムラハチにされてオオカミに食べられるクマ」
「鳴上!」
(……こいつは無力だ、今のところ……今まで)
 見たところ危険そうな器官や道具を持っているわけではない。どこかとぼけていてあまりあたまも回りそうにない。性格も攻撃的というわけではない。正直、悠も言うほどこの着ぐるみに脅威を感じているわけではない。安心材料はそれなりにあったが、だからといってそれがそのままこの着ぐるみの中身を説明するわけではない。
(でもこの着ぐるみの心証を損ねて、もしこいつの知っているかもしれない脱出の糸口を逃すことがあったら、それも困る……)
「鳴上くん」
「……ごめん、クマ、悪かった」悠はたちまち掌を返した。「ちょっと動転してた、でももう冷静になったから」
 優しく言って、クマの手を取って助け起こしてやる。着ぐるみは驚くほど軽い。それこそ中身が入っていないかのように。
「むむむ……まあ、いいクマ」クマは寛大だった。「クマは紳士的なクマクマ、許してあげるクマ」
「改めてなんだけど、さ」と、陽介。「お前、なにもんなの?」
「クマはクマクマ。さっきから言ってるでしょーに」
「そーじゃなくって、えと、あんた名前は?」
「なまえ?」クマは小首を傾げた、というより左側に身体を傾いだ。「なまえなんかないクマ。クマはクマクマ。だからなまえはクマクマ」
「クマっつか、パンダ?」陽介も小首を傾げた。「このでかくて垂れた眼とか、パンダっぽくね?」
「クマクマ。ノーパンダ、イエスクマクマ。あっノーパンとかヘンなこと言わせないでほしいクマ! でもクマパンツはいてないクマー」
「あっそ……」
「……クマ、さっきシャドウがどうとか言ってたけど」
「あっ、忘れてたクマ!」クマは飛び上がった。「ついてくるクマ、はやく戻らないと!」
「なんで」
「いーから来るクマ!」
 今はこの件に関して質問を受け付けるつもりはないようで、クマはそれだけ言ってさっさと歩き出した。
(怪しい……)
「おい鳴上」
「あいつ行っちゃうよ」
「いや、本当について行っていいのかなって、さ」
「つったってほかにどうしようも……」
「大丈夫だって、あいつ弱そうだしさ。もしなんかヘンなことしそうになったらあたしのシャオリンスタイルを――」
「来ないクマー?」クマが立ち止まってちらと振り返った。「後悔するクマ。帰れなくなってももうしらんクマよ」
「鳴上?」
「……わかった、行くよ。じゃあ案内して」言って、悠は後ろのふたりを制止した。「ふたりともちょっとストップ。見失わない程度に離れておこう」
 先導するクマがじゅうぶん離れて、階段を下り始めるのを見届けてから、三人はあらためて歩き始めた。万一に備えて距離を取っておいたほうがよかろう。
(仕方ない、もうなるようになれだ、ルビコン川でも鮫川でも三途の川でもなんでも超えてやる!)悠は腹をくくった。(往こうエアートゥルそして神々に示すのだクォー・デーオールム・オステンター! 采は投げられた……)
 あの着ぐるみが三人をどこへ連れて行く気であるにせよ、もはやこうなっては従容と付き従うよりほかない。出口か、巣穴か、それともまないたの上か、彼の言う「帰る」がここの方言でなにかとんでもない意味を持っていたりしないことを祈るばかりだ。
 ため息が漏れる。
「お前って大胆なんだか慎重なんだかわかんないよな」陽介はちょっと呆れ気味である。「こんなとこじゃそれくらいでもいいのかもしらんけど……」
「あのクマそんなに怪しいかなァ……なんか気になるの?」
「……ふたりとも剛胆だな、頼もしいよ」ひとの気も知らないで!「プラズマテレビの中にいる喋る着ぐるみなんて想像の埒外だ。おれくらい神経が細いと気になって仕方ない」
「あいつ、ここに住んでんのかな」
「なに食べてるんだろ」
「はは、お前気になるのまずそこなんだ」
「うっさい」
(人肉じゃなきゃいいよな)
 ふたりはもういつもの調子を取り戻していた。背後を慕う凶暴なプレデターが実は、ただのふくふくして弱そうな着ぐるみに過ぎないとわかったことで、すっかり警戒心を解いてしまっている。あるいはクマはこれを狙っていたのかもしれないのに。
「……キミたち、どーしてそんなに離れるクマ? また迷子になるクマよ」
「恥ずかしいんだよ。クマがかわいいから」
「うーん……シャイボーイズクマね。あ、アンドガールクマね」
「なあ、お前って、ここに住んでんの?」
「そークマ。ずーっとひとりで住んでるクマ」
「ずっとひとり……ここって、ほかにひとはいないの?」
「そークマ――こっち曲がるクマ、あたまぶつけないように注意クマ」
 この伸ばした手の指先が霞むほどの濃霧も、クマの確乎たる足取りの障害にはならないらしい。これだけでもじゅうぶん怪しむに足りる。快活さを取り戻しつつあるふたりと反比例して、悠の猜疑心は尖るいっぽうであった。





[35651] ペルソナなんぞない
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2013/03/05 00:17


 クマの後を追うことほんの数分にして、悠たちは最初に落ちてきたスタジオのような広間へ戻ってきた。帰りは驚くほどあっけない道のりである。
「うっそ、あたしたちすんごい歩いたよね……」
「実際には大したことなかったのか? まあ、そのへん行ったり来たりしてたけど」
「おまけにほとんどなにも見えないんだから。クマは違うみたいだけど」
「とーちゃくー、クマ」クマの目的地はここだったようだ。「ここは安全クマ。それにしてもあぶないとこだったクマよ、あんなとこウロウロして! クマが間に合わなかったらまた――」
「つか、えーとクマ?」陽介がちょっと険を見せた。「助けに来たんならなんでもっと早く声かけなかったんだよ。ずっとつけてきてたんだろ?」
「え? えーと、えーと」
「あ、そーだよ! なにが追いかけて来てんだろって、みんなメチャクチャ怖がってたんだから!」
「いやメチャクチャ怖がってたのはお前だけ」
「いーやあんたらも怖がってた、絶対!」
「おれたちが怖がるのを見て、ひょっとして楽しんでた?」
「そんなことないクマ! ただ……」
「ただ、なんだよ」
「……こないだひとが来たとき、声かけてみたんだけど、でもそのひと驚いて逃げちゃったクマ」クマは悄然としている。「キミたちも逃げちゃうかもしれないって、思ったクマ、だから」
「ちょっと待った」と、陽介。「こないだひとが……って、俺ら以外にひととか来んのか?」
「さいきん来るようになったクマー……でも団体さんは初めてクマね」
「鳴上」
「……クマ、このあいだ来たひとって、男? 女?」
「たぶん女のひとクマ――キミたちちょっとここで待ってるクマ」
 クマはそう言い置くと、霧の向こうへ歩いて行ってしまった。
「行っちゃった……けど」
「茶でも淹れに行ったんじゃね」
「包丁とりに行ったのかもな」
「ヘンなこと言わんでよ。ね、あたしたち、帰れるのかな」
「これで帰れなきゃどうにも……なあ、鳴上、さっきのピアスって」
「言いたいことはわかる、その可能性はある。けどそれ以前に、どういう経路でここにひとが来たんだろう」
「やっぱテレビから?」
「んん……でも、そんな人間が何人も出てきたら話題になりそうなもんだけど」
「……何人もいる必要はないんじゃない?」千枝が小首を傾げた。「とりあえずひとりいれば。鳴上くんみたいに」
「そうしてツアーよろしく一緒に入るわけか、その鳴上くんみたいに」この場合は漂流だろうか。「クマは団体が初めてだって言ってけど」
「えーと、そうじゃなくてさ、一緒に入るんじゃなくて、その入れるひとだけ入らないでさ、そうじゃないひとだけ入ってもらうっていうか、入れるっていうか……できるよね、たぶん」
 三人の間に冷たい沈黙が訪れた。千枝も言い終わる前に「その」可能性に思い当たったようだ。
「つまり、鳴上みたいなやつがもうひとりいて、そいつが誰かをテレビの中に押し込んでる……ってことか?」
(まさかあの巨人が?)
 おおいにあり得る。じっさいに押し込まれかけたのだから。
(でも、もしそうなら、あいつは外に出られるってことになる。いや、中に入れる、になるのか? ダメだ、情報が曖昧すぎる)
「あのー、そんなマジにならんでね……思いつきだからね……当てにならんからね……」
 三人の黙りがちになったところで、クマがなにか台車に乗った大きなものをゴロゴロ押しながら戻ってきた。
「……テレビ? あれ」
「重かったクマー」
 クマの持ってきた、というより搬送してきたそれは、一瞥したかぎりテレビのようではあった。
 古式ゆかしいなどというレベルをはるかに超越した、まさに博物館級の「電波受像機」といったレトロな外観で、大人が三、四人も入ってしまえるほどの大きさがある。一辺が三メートル弱もある、ほぼ正方形の頑丈そうなフレーム、天板に置かれた長大なV字型アンテナ、そして画面下に表記された冗談のような「SHARP」の文字――シャープがこれほど巨大かつ僅少なニーズをも漏らさない企業だったとは。
「なんつーベタすぎるデザイン……いまどき売ってねーだろこんなの」
「大きさには突っ込まんのね。にしてもなんなのコレ、何インチあんのかな」
「お前もって帰れば? でかいの欲しかったんだろ」
「でかすぎだっつの。座るとこなくなるし」
「いくらなんでも大きすぎる……クマ」
「これで帰れるクマよ、たぶん」
「クマ、これ、どこで手に入れた?」
「んー知らんクマ。もともとここにあった、と、思うクマ、たぶん」
「……歯切れ悪いな」
「まあいいじゃん、今はとにかく帰って――クマ、これどーやって使うんだ?」
「画面から入るクマ」
「……ちょ、入れねーんだけど」
「あたしもだ……」
 どうやら向こうから入れなかった人間は、こちらからも入れないらしい。やはり来たときと同様「ツアー」の必要があるのだ。陽介も千枝もじき気付いたようで、気の済むまでブラウン管をペタペタ触ったあとは、騒ぐでもなく大人しく戻ってきた。
「ヘンクマね。なんで入れんクマ?」
「じゃ鳴上先生、お願いしまーす」
「ささ、センセー、ズバッとやっちゃってください」
 現金なふたりである。
「……あのさ、ふたりとも」
「え?」
「たとえばパリとかローマとかベルリンとか、まあ場所はどこでもいいんだけどさ」
「うん」
「そういう外国の、右も左もわからないようなところで、忽然と添乗員が消えたらさ……ツアー客ってどうするんだろう」
「……鳴上くん?」
「急に興味が湧いてきてさ、ちょっと実験してみようかなって、いまふっと思ったんだ……」
「く、黒い! なに笑ってんの黒いってお前! バカなこと考えてんじゃ……!」
「センセー! 見捨てないでくだせえましー!」
「冗談だよ――じゃあ、クマ、行くよ。助けてくれてありがとう」
「さいならクマ、もう来ちゃダメクマよ」
 こんな科白とは裏腹に、クマはあきらかに名残惜しげに見えた。着ぐるみの上からでもそうとわかるほど寂しそうにしている。
(もちろん、もう来ないよ。このふたりを連れては)
 クマはまず確実にふつうの人間ではない。いっぽうで、どうやら危険ではなく、それどころか協力的ですらある。案内人としてうってつけであるし、この世界からの帰り道も確保できた今、こちらの世界への興味を諦める理由がどこにあるだろうか? もちろん悠は近いうちにまた来るつもりだった。この着ぐるみならあるいは、あの巨人についてなにか知っているかもしれない。
「じゃあ、まずはおれが――」
「あっ、待った鳴上」陽介が割り込んだ。「これ誰かに見られるかもしれないんだよな、向こう側でたとき」
「あ、そうか。客がいるかもしれないのか」
「売場ガラガラだったじゃん、大丈夫でしょ」
「家電売場に繋がってるって保証はねーんだぞ。そもそもジュネスですらないかもしれんし、家電売場でたって葛西さん戻って来てっかもしれんし」
「……じゃ、こうしてみようか」
 昨夜家でやったように、ブラウン管の表面に指でちょっと触れると、果たして微かな波紋が起こった。これでこの画面は指が接触している限り「フリーパス」のはずである。
「この状態で携帯のカメラをこうやって」
 悠は携帯を撮影モードにして、バックパネルのカメラレンズを慎重に画面に当てた。
「おおー……」
「鳴上くんあったまいー」
「うまくいった。ものは使いようだな」
 狙いどおり、携帯の画面にはジュネスの店内が映し出された。おそらく向こう側からカメラのレンズと周辺部が見えてしまうのだろうが、偶然そこを注視されでもしなければまず気付かれまい。とつぜん人間の顔が浮かび上がるよりよほど穏当だろう。
「家電売場だな、ここ。テレビあるし」と、陽介。「はは、葛西さんまだいねーっぽいな。タバコ何メートル吸ってんだあのひと」
「じゃ、まずはおれが向こうへ行って、大丈夫なようなら手を突っ込むから」
「鳴上、妙なこと考えんなよ」
「妙って」
「ほら、さっきツアーがどうとか言ってたじゃん」
「……ただの冗談だよ、さっきのは」悠は不快気に眉を顰めた。「そう言ったろ」
「いや、あれ? えーと悪かった……聞かなかったことにして」
「あー鳴上くん怒らせた」
「うっせ」
 もう一度むこうの様子を確かめたあと、悠はテレビの天板に手をかけて、フレームを跨ぐようにして画面に足を突っ込んだ。向こうのテレビ台を踏まないよう回避しながら、つま先で床面を探す。ちょっと辛い姿勢である。
(これ、里中は難しいかも)
 悠とそう変わらない陽介はともかく、背の低い千枝などは相対的に脚も短いからして、手助けなしに跨ごうとすればかなりの骨だろう。
「……あのさ、ふたりとも」
 画面をくぐる間際、悠は満面の笑顔で切り出した。
「人間って飲まず食わずでどのくらい生きてられるんだろう? 急に興味が湧いてきてさ――」






 玄関の沓脱石にくたびれた革靴が置いてある。脇に脱ぎ散らかされた小さな靴とは対照的な、差し金で測ったような、主人の気質を思わせる脱ぎ方だ。
 遼太郎が帰ってきているのである。
(叔父さん、今日は早いんだ)
 早く仕事が終わったのだろうか。
「ただいま」
 茶の間にはすでに堂島父娘が向かい合って座っていた。昨日の晩の残りをふたりで食べていたようだ。
「おかえいなはい!」なにかむしゃむしゃ遣りながら菜々子が言った。
「菜々子たべてから喋りなさい」遼太郎が缶ビールを振り上げた。「おうお帰り。昨日のこれ食っちまったが、悪かったか?」
「それは叔父さんのだよ、もちろん食べてくれなきゃ」トマトはパスタかなにかに使おう。「六時過ぎか……」
「今日は遅いんだな。どっか行って来たのか」
「んん、まあね」
(ちょっといろいろあってテレビの中にね――なんて言ったらどんな顔するかな、叔父さん。どうせ冗談だと思われるだろうけど)どう話したところで信じまいし、こんな与太話を話し方次第で信じなどするなら、それこそ叔父の精神のために憂慮すべき事態である。(ひょっとしたら晴れて十七歳認定してもらえるかも……いやいや、七歳に格下げされて明日から菜々子ちゃんと同じクラスって可能性もある!)
「なんだニヤニヤして。デートか」
「食品売場の試食コーナーでね」両手のレジ袋を示して、「やっぱりふたり相手は疲れるな。歳かな」
「あははお前いくつだよ! 俺の立つ瀬ねえぞったく」
 遼太郎は機嫌がよさそうだ。酒が入るとこうなるのだろうか。
「メシ買ってきたのか?」
「んん。叔父さん今日は早いね」
「まあな……まあ、毎度まいど残業はたまらねえよ。たまには早く帰してくれや」
「お父さんプリンたべていい?」
「ぜんぶ食べたんなら、いいぞ」
 冷蔵庫の中には高そうなプリンが三つ、缶ビールを従えて鎮座していた。
 東京のアパートのものと比べて、堂島家の冷蔵庫はかなり大きい部類に入ったが、この父娘は豊富な容量をほとんど生かせていない。湿気た調味料、飲料、若干の冷凍食品と間食
が間借りしているほかはがらんとしている。大家は気にならないらしい、よくよく入居者に恵まれないマンションである。
(ま、あれこれ買ってきてもぜんぶ入るんだからいいか)前のアパートでは出し入れのたびに幾何学的考察を強いられたものだ。(父さんいないからってケチり過ぎなんだようちは……)
「菜々子ちゃん、プリン取る?」
「うん」菜々子が駆けてきた。「なにかってきたの? やさい? プリンみっつあるよ。スプーンはこっち」
「いろいろね、あしたあさってのごはん。ヨーグルト買ってきたよ」プリンを手渡しながら、「プリンはあとで貰うから」
「お父さんたべるー?」
「お父さんはあとでいい」と、遼太郎。「悠、買ってきたもんの代金、ちゃんと――」
「請求するよ、二割増しで」
「おお、二割増しでいいぞ」
「冗談だよ、面白くなかった?」棚からパスタパンを引き摺り出しながら、「スープ全部たべた? おれのぶんはいいから」
「たべた!」
「……お前、この調子でちょくちょくメシ作ってくれるつもりなのか?」
 茶の間から遼太郎のちょっと改まった声が飛んできた。
「マズくて食べられないって、菜々子ちゃんが言わない限りは」
「いわないよ、菜々子そんなこと」
「だがそりゃ……あんまり悪い。お前は高校生なんだし、家事やらせたせいで成績おとすようなことがあったら姉貴に顔向けできん」
「叔父さんの姉貴なら、やれることをやれるだけやれって言うよ、息子にはね。おさんどんとして使ってやってくれって言うかも」
「おさんどん。おさんどんってなあに?」
「給食のおばさんみたいなもんだよ」
「初めて聞いたぞ。お前むずかしい言葉しってんだなァ」
「難しくなんか」
「菜々子もおばさんどんできる?」
「なあ悠。メシ作ってくれるのは、正直ありがたい」
 言いながら立ち上がって、遼太郎は話ありげにダイニングまでやって来た。悠は乾麺を握ったまま料理を中断した。 
「その、な……ほんとは、俺がやらにゃならんことだ、そういうのは。保護者として」遼太郎はため息をついた。「だが俺は生来やりつけないし、いや、こんなのはただの言い訳だが……あれがやってたようにはできん。それに実際、なかなか決まった時間の取れん仕事だ、刑事ってのは。特にいまみたいに、事件の真っ最中は」
「うん」 
 遼太郎の言った「あれ」を危うく聞き逃すところだった。この場合つまり、「あれ」とは彼の亡き妻を指すのだろう。
「悠、もしお前にそのつもりがあるなら、頼めるか、メシのこと」遼太郎は菜々子のあたまに手を置いた。「もちろんお前の都合のつく日だけでいい。無理はしないで欲しい、自分のためにこんな、甥をあごで使うような無精は言わん。が、これのためだ」
 なかなか複雑な心境だろう、遼太郎の言葉は切実と逃避の綯い交ぜになったものだ。むろんいまの彼の仕事が料理を勉強するような余裕を許さないのは明白だし、じっさい今までもそうだったのだろう。が、たとえ比率として前者にウエイトの大きい事情だとしても、仮に余暇があったとして彼がただちに努力を始めるかと言えば、
(そんなことはないだろうな、きっと叔父さんはやらない。それよりはほかの、もっと率直で、じかに触れ合えるような範囲で娘と接する手段を探すだろう――でも)
 なにも悠自身、居候の義務からこんなことを始めたわけではないのだ。彼のほうでも好きでやっていることなのだし、たまさか利害が一致しただけの話である。依頼されるつもりもその必要もない。父親になったことのない悠にはむしろ、今までのままでいいと思っていなかっただけでも、遼太郎の「父親としての義務」への姿勢にある程度の理解と感心を抱いたほどだ。
 悠は菜々子の頬をかるく抓んだ。
「あーに?」
「おれも同じ気持ちなんだ、叔父さん。おれも、これのため、なんだ。叔父さんのためじゃない、ってわけじゃないけど」
「昨日今日あったばかりの従姉妹のためってのか」
「窮極的には、やっぱり自分のため、かな。菜々子ちゃんはダシ」
「だし? だしってなあに?」
 しばらく悠をじっと見つめたあと、遼太郎は「お前、本当に十七か?」と呟いた。
「さいきん知り合った親戚が言ってたんだけど、実はおれ二十七歳らしい」
「……ほんとに二十七歳かもな。いや、俺より上って可能性もある」遼太郎は笑って、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。「菜々子、悠がお前をナベでグツグツ煮るって言ってるぞ」
「ええ? そんなことしないよ、ウソだよ」菜々子はたちまち不安げになった。「しないよね?」
「叔父さん内緒に! 菜々子ちゃん逃げちゃうじゃないか」パンを火にかけながら、「そんなことしないよ。ところで菜々子ちゃん、台所でお風呂に入りたくない?」
「はいりたくない」菜々子は父親の腰に齧り付いた。
「あはは、悠きらわれたな。お前ビール飲むか?」
「……叔父さん警官じゃなかったっけ?」
「冗談だよ、面白くなかったか?――おら菜々子」娘を抱え上げながら、遼太郎は茶の間へ戻っていった。「菜々子、あとで風呂はいるか」
「はいる!」
(そういえば、おれも一緒に入ってたっけ、このくらいのころ)
  父のまだ日本にいたころ、なかんずく悠の小さかったころは毎日、こんな感じで父親にへばり付いていたものだった。というより、父が悠を手放さなかったというほうが正しいが。 
 手早くトマトスパゲッティを拵えて、悠も茶の間の団欒に合流した。
「……ものの数分しか経ってねえぞ、もうできたのか」
「反則したから。パスタ半分に折って茹でて、トマトピューレとガーリックチリオリーブオイルで和えて塩胡椒すれば、鳴上家流即席アラビアータのできあがり。五分でできる」
「すげえな……」
「いただきます」
「…………」
 菜々子がカラになったプリンの容器を握って、物欲しげに皿を見つめている。
「……菜々子ちゃん、ちょっと食べる?」
「いいの?」
「いいよ、どうぞ」
「菜々子ハラ壊すぞ」
 父親の注意もどこ吹く風で、菜々子は嬉々としてスパゲッティを食べ出した。ふたりで分けては残り物も足りなかったのだろう。
「すごくおいしい! ちょっとからい!」
「そう? よかった」悠にとってはこの言葉も「食事」のうちだ。「菜々子ちゃん食べるんなら、なにか具いれればよかったかな」
「あー……悠」
「ん、叔父さんも食べる?」
「いや、メシじゃないんだが、ちょっと聞いていいか」
「なに、改まって」
「あのな、まあ、知らんとは思うが」と、歯切れ悪く続ける。「お前の学校にな、三年生で、小西早紀って生徒がいるはずなんだが……なんでもいい、なにか聞いてないか?」
「小西……」
 昨夜のニュース映像と、放課後の遣り取りが思い出される。例のアナウンサー逆さ吊り殺人の、第一発見者だと言われていたが、
(なにか関係が?)
「知らんよな。学年違うし――」
「知ってるよ」遼太郎を遮って、「こう、ソバージュふうの、背の高い、スラッとした三年生、だよね。確か昨日テレビに出てた」
「お前、知り合いなのか」
「昨日知り合った。クラスに親しいやつがいて、その伝で」
「そうか……」
「あの、逆さ吊り事件の第一発見者だったとか」
「ああ、まあな」
「なにかあったの?」
「実は……行方がわからなくなったって、連絡があってな。うちの連中で捜してるんだが、まだ見つからない」遼太郎は重いため息をついた。「……仕事が増えるいっぽうでな。その逆さ吊りの件も収まってねえし、そこにこれだ。明日以降、勤務がかなり不規則になる。今日みたいな定時帰りはほとんどなくなるだろう」
 なるほど、先にあんな話を切り出したのも、あるいはこういう事情が手伝ったのかもしれない。娘に構ってやれなくなることのフォローを甥に頼みたかったのだろう。
「今日は学校に来てなかったみたいだけど」
「ああ、そもそも昨日、家に帰ってないらしい。どうも署から出たあと行方が」と、言ったあと、遼太郎は自嘲気味に嗤って俯いた。「……ちっと酔ったな、部外者のお前にこんなことペラペラ喋っちまって、足立みてえだ」
「仕事の……同僚のひと?」
「本庁から飛ばされてきた気の毒な若造さ。いったい切れるんだか抜けてんだかわからねえ奴でな……ま、まずお前よりは確実に歳下だな、ありゃ」
「本庁?」
「県警本部。ま、立場上、俺みてえな場末の刑事よりゃアタマ一個上だ。それが稲羽署なんかに転属されんだから左遷もいいとこ……」
「?」
「いや、なんでもない――菜々子、そんなに食っちまってよかったのか?」
 急に父親に指摘されて、今まで夢中でフォークを操っていた菜々子がハッと面を上げた。スパゲッティの皿はすでに半ばを尽いている。
「あー……」
 菜々子は痛恨の面持ちで皿を返却してきた。
「ぜんぶ食べる? いいよ」
「でも……」
「お前メシどうするんだ」
「こんなのすぐ作れるから。菜々子ちゃんも気にしなくていいよ、食べて」
 言われて、菜々子は気まずげに、それでもふたたび皿を引き寄せてもそもそ食べ始めた。
 この眺めこそなによりの珍味佳肴と言えよう。見ているだけで満たされる、というのは、じっさい誇張ではない。この愛くるしい従姉妹にふたり分の食事を与え続ければ、本当に悠自身の身をも養えるのではと本気で信じてしまいそうなほどだ。
「よかったなあ菜々子、優しいお兄ちゃんが来て」
 菜々子が食事の手を止めて、ふと面を上げた。
「…………」
「おいしい? 菜々子ちゃん」
「……またちゃんっていった」 
 菜々子はちょっと黙ったあと、気難しげにぽつんと言った。





「諸岡先生」
 諸岡教諭はすぐに反応せず、少し歩いたあと訝しげに振り返った。その面に驚きの過ぎるのが見える。
 いつもの通学路、鮫川河川敷の月桂樹並木に特徴的な後ろ姿を見つけたとき、悠は声をかけるのを少しくためらった。登校初日に非礼を働いているという負い目、というより、悠と同じに登校する生徒たちから悉く無視されているという、その異様さのせいである。誰も挨拶せず、彼のほうでもそれが当たり前のように平然としているのだ。
「おはようございます」
「おはよう」諸岡教諭は少し迷惑そうに見えた。
「……いつもここを通るんですか?」
「いや、ふだん通る道は警察が封鎖してたんだ。またなんかあったんだろう」
「そうですか」
「…………」
「…………」
 あらかじめ切り出す科白を用意してから話しかければよかったものを、あとに続ける言葉を探しあぐねて悠は黙ってしまった。いったい話しかけられてうまく切り返すことにはちょっとした自信を持つ彼なのだが、ひとに話しかけるほうは得手でないのだった。
「その、先生、先日は失礼しました」悠は結局、いちばん単純なやり方を選んだ。「少しやり過ぎました。もっと早く謝るつもりだったんですが」
「べつに構わんよ」諸岡教諭はとくに気にしたふうを見せなかった。「ただ今後はやめてくれ、ワシも困るんだ、ああいうことをされると」
「申し訳ありませんでした」
「お前は変な奴だな」言って、諸岡教諭が笑顔を見せた。「周りを見てみろ、みんなお前を見てる。誤解されるからワシに話しかけんほうがいいぞ」
「されるのは構いませんが」
「せんが?」
「なんというか、したくないもので」
「なにを」
「先生は、その、もし答えたくないなら構わないんですが」ちょっと声を落として、「演じているんですか?」
「演じる?」
「暴君を、です」
 諸岡教諭は答えずに、黙ったまま悠を従えて歩き続けた。
(地雷踏んだ、かな)
「鳴上」
 かなり経ったあと、彼はようやく口を開いた。登校初日に陽介に轢かれかけた交差点の辺りまで、彼は黙りこくってじっと考え込んでいたのだった。
「モロキンはアポステリオリな人格的側面だ、と、言ってもわからんだろうな」
 諸岡教諭の面に苦笑が浮かんだ。我ながらバカなことを――顔にそう書いてある。
「…………」
「いい、忘れろ」
「つまり」
「つまり?」
「諸岡金四郎教諭はアプリオリな人格である、ということでしょうか」
「……というと?」
「演じている、というのはニュアンスが違ったようです」
 諸岡教諭はちょっとおどけたように片眉を上げた。
「モロキンは、諸岡先生の接してきた外界が要求したもうひとつの顔、ということでしょうか」
「人間に顔がふたつもみっつもあるものか」諸岡教諭の面に好意的な笑みが浮かぶ。「本当に変な奴だ、お前は」
「十回留年してますから」
「十回で利くのか? なんにせよ変な高校生だ。なんだ、哲学でも囓ってるのか」
「東京の高校生は留年すると哲学をやるんですよ」
「高校生がアプリオリなんぞとこざかしい、変わった奴だ」
「よく言われます」
「ほれ、もう学校が近い。ワシから離れろ。モテなくなるぞ」
「はい――先生」
「ふん?」
「話しかけてよかったですよ、先生」悠は笑って、諸岡教諭の顔を指さした。「先生の仮面ペルソナの、その下の人格を確認できた。半ばは思ってた通りでした」
「鳴上」
 そのまま追い抜いていこうとすると、諸岡教諭に鋭く呼び止められた。なんとなく聞き捨てならんといった雰囲気である。
「はい」
「人間の人格だの精神だのに仮面ペルソナなんぞない。側面とは言ったが、ワシはそういうつもりで言ったんじゃない」
「はい」
「ワシはぶん殴られたんだ、右の頬っ面を。その傷は痛むが、必要なのさ。腹立たしいが」
「…………」
「チャイム鳴るぞ、もう行け。ワシよりあとに教室に入ったらお前に絡まにゃならん。それは御免だ」
「はい、では」
 悠はかるくあたまを下げて辞去した。
(ぶん殴られた……か)
 まさか直接的な意味ではあるまい。とすれば、悠の推測は当たらずといえども遠からず、といったところか。もっとも推測できたところで、あえて努めて二面性を発揮しようとする彼の、あの奇矯なふるまいに説明をつけるのは難しかったが。
(あれが先生の哲学だとしたらずいぶん変わってる、というより、歪んでる)
 ――校門の門碑の前には陽介が立っていた。
「よっ、おはよ! あんまり遅いから休みかと思ったぜ」
 人待ち顔が悠を見つけて手を上げる。彼を待っていたのだろう、もちろん、昨日のあの話をするために。
「ちょっと先生と話してた」
「へえ、誰」
「あのひと」悠は坂の下を指さした。「諸岡先生」
「うげ、物好き過ぎんだろお前、モロって……」
「もうチャイム鳴るぞ、先いくから」
「あっと、まあ待てってゆっくり行こうぜ、まだ十分ちょいある」と、陽介。「いや昨日はなかなか眠れなかったわ、そんで例のテレビの話だけど――」
「花村、その話は学校おわってからにしよう」陽介を遮って、「誰に聞かれるかわからないし、突っ込まれても話し辛くなる」
「誰も信じねーってこんな話」
「……おれ以外に最低ひとりはいるらしい、例のテレビに入れるやつが、この学校にいるかも知れないんだぞ」
「あー……」
「わかったら駆け足。諸岡先生に絡まれるぞ」
「お前さ、ちなみに昨日マヨナカテレビって――」
「その手には乗らない。学校終わってからゆっくり話せるだろ」
「へーへーわかりましたよ……あーあこれじゃ気になって勉強なんかできねーよ」
「不思議だな、気にならなかったらできるみたいに聞こえる」 





[35651] でも可能性あるだろ?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:34



(叔父さん、今ごろなにしてるんだろう)
 課業六時間目、午後一番の眠気も覚めはじめる時間帯である。細井教諭の白楽天についての講義をなかば聞き流しながら、悠は頬杖をついて朝方のことを思い出していた。
 腕時計は二時半を示している。
 けさ遼太郎が慌ただしく家を出て行ったのは、五時前ごろ、朝まだきの薄暗い時刻である。たまたま眠りの浅かったところに物音を聞いて、用足しがてら階下に降りてみると、ちょうど身支度を調えた彼が立ったままコーヒーを啜っているところだった。
「起きたか、早えな」
「……早いのはお互い様。どうしたの」
「呼び出しがあった。今日帰れるかどうかわからん」遼太郎は飲みさしのコーヒーを流しに捨ててそう言った。「じゃあな、もう行く。菜々子を頼む」
 朝の会話は実にこれだけである。
(ずいぶん急かされてたみたいだったけど、ゆうべ話してた件と関係あるのかな。そういえば諸岡先生も警察がどうとか――)
 ふと、なにかが椅子の背もたれを叩くのを感じて、悠は半身を捻って陽介に向き合った。当の陽介といえば小さく首を振って、たぶんそれで椅子を叩いていたのだろう、右手のシャープペンシルでしきりに悠の背中の辺りを指し示している。
(……付箋?)
 見れば、椅子の背もたれに付箋紙が貼り付けてある。
『あのピアスはヴィヴィアンウェストウッドっていうらしい。お前今持ってる?』
(あのピアス。あのピアスって、あれのことか?)
 例の陽介の戦利品はあのときのまま、ティッシュに包んで堂島家の仏壇の裏に隠してある。とても持ち歩く気にはなれない、いわくつきなのは明らかなのだ。
 付箋に眼を落としている間にまた一枚。
『メシの時大谷のサイフに同じようなのがついてたから聞いた』
(大谷、大谷、誰だっけ……あっ、あのキングサイズか。確かに丸太みたいなウェストだ)
 正面を向こうとするとまたコツコツ遣り出す。
『聞いておどろけ、なんと山野アナがそのブランド愛用してたんだと! 大谷情報。おれもさっきブログ確認済み!』
 思わず後ろを振り向くと、陽介の確信に満ちた眼に迎えられた。左手のスマートフォンを振りふり、口だけで「ブログ、ブログ」と繰り返している。
『ビビッと来たね。これってあたりじゃね?』
(なにを言い出すかと思えば……本気か?)
 可能性はないでもなかろうが、あまりにも短絡的に過ぎる。
『その話は学校終わってからって朝言ったぞ』
『話してないじゃん。書いてるだけ』
(気になって仕方ないんだな。その熱意を少しでも授業に向ければいいのに……)
 たまたま得た大谷情報とやらのせいで推測をたくましくしたあげく、この勇み足を披陳するのを我慢できなくなったらしい。陽介は人の違ったように生き生きとしていた。
『授業に集中。あと少しだろ』
『あと少しならいいだろ。お前どう思う?』
「…………」
『どう思うって。答えるまでおれはお前のイスにメモ貼り続ける』 
 ため息が漏れた。
『山野アナが愛用していて、あのベッドに同じブランドのものがあったから、そうだと言いたい?』  
『ドンピシャだろ?』
『大谷の妹とか姉とかの可能性は?』
『なんで大谷が出てくる』
『その通りだよ。なんで山野アナが出てくる』
『山野アナの愛用してるピアスがあの世界のあの部屋にあったから』
『山野アナの愛用しているブランドのピアスだ。ついでに大谷も、ひょっとしたら彼女の姉妹も愛用してる。山野アナの持ち物とどうしてわかる』
『山野アナは死んでる。あのベッドは死体が載ってた。そこにあった遺留品だぞ』
『山野アナは死んでる、だけあってる。死体が載ってたなんてただの推測で、具体的な根拠なんてない。あのベッドの染みの由来は素人の判断にあまる』悠はここまで書いたあと、平行してノートを写す作業を仕方なく諦めた。『あのピアスは遺留品かもしれないけど、犯人が残した可能性だってある。つけ加えれば、大谷の姉妹でも、そのブランドの愛好者でも誰でもいいけど、そのうちの誰かが最近死んでいないなんて保証もない』
『でも可能性あるだろ?』
『この世のヴィヴィアンウェストウッドファンの全てに備わる可能性だぞ。なにか特定の事情を推察しうるような規模の話じゃない』
『この世は言い過ぎだろ。せいぜい八十稲羽くらいじゃないか』
『あの世界が八十稲羽にだけ繋がっているとは限らない』
『じゃあ全然関係ないってのか?』
『もちろん大いに関係ある。大谷の姉妹と同じくらいには』いいかげん指が疲れてきた。『この話は後にしよう。今は授業に集中!』
 ――やっと後ろから小突かれなくなったと思ったら、今度は隣からにゅっと腕が伸びてきて、悠の手の甲に付箋紙を貼っていった。千枝である。
『なんの話? きのうのでしょ?』
(こっちからも来た……) 
 朝からひと言もこの話題に触れないのでついうっかりしていたが、口止めの必要な人間は隣にもいたのだった。
『家電の話』
『どんだけ家電好きよ! ぜったいウソだ!』
『授業に集中』
『できませーん』
 ため息が漏れた。
『未覚池塘春草夢階前梧葉已秋風』
 隣でくすっと笑う声が聞こえる。
『これ読めないんですけどどういう意味?』
(無視しよう。面白がってるだけだ)
『鳴上くんも読めないんだ』
 また背もたれがコツコツ鳴る。
『お前らなに話してんの? 今日ジュネス行く?』
『花村なんて?』
「…………」
 消しゴムのカスが飛んできた。
『なんだよームシせんでよー』
『ジュネス行こうって言ってる。授業終わってから話そう』
『どうする? 来いよ。今の話も聞きたい。里中にも聞いて。もう一回テレビの中行ったりする? というか行かない?』
(……まだ懲りてないんだなコイツ)
 この不埒な提案は握り潰してポケットに突っ込んだ。
『いまなんて? 鳴上くんはどうする?』
『真面目に授業を受ける』
 千枝は猛然と消しゴムを擦り始めた。
『行かない。里中は?』
『行こうよ。雪子も呼ぶから。来るかわからないけど』
(そういえばきょう見てないな、天城。病欠かな。きのう顔色わるかったけど)
『里中は行くみたい。俺は行かない』
『行かないとか言ってどうせ来るんだろ? 来いって』
『花村なんて? テレビの中はパスね。でもちょっと行ってみたかったりして』
(悪循環だな、なんとか――)
「じゃ、里中っち」
「へ……はいっ」
 いきなり教壇の細井教諭に指名されて、千枝がバネ仕掛けの人形よろしく立ち上がった。あれだけ集中して「メール」を書いていたのだから完全な不意打ちだろう。細井教諭に礼を言うべきか、それとも背中から刺された千枝にお悔やみを言うべきか。
(だから言ったのに……)
「一生懸命ノート取ってるみたいやし、わかるやろ、これ」細井教諭は満面の笑顔である。「これ、読んでみて」
 彼がポインターで示した黒板の隅には、
 
 盍在学堂学
 雖其言不楽
 猶不可不聞

 とある。が、あってしかるべき訓読点がない。
(いきなり白文って、これ東京よりレベル高いぞ。里中読めるのか?)
「えーと、えーと、あれ」
 千枝は苦し紛れに「一生懸命」取っていたノートを捲りだした。どうやら彼女は読めないようだ。が、それがもっぱら彼女自身の怠慢によるものだとしたら、
(ここの生徒はちょっとした白文くらいパッと読んでしまうのか? いや、国語だけじゃない、ひょっとしたら他の教科だって)
 たかだか山奥のド田舎高校だなどと、自分は少々侮っていたのかも――千枝に見せるカンニングペーパーを書き殴りながら、悠は自分自身しらずに暖めていたかもしれない「東京の学校から来た」という驕りを厳しく自戒した。そうとも、床が板きれでできているからといって、その上で勉強している人間の学力が低いなどということにはならないのだ!
「んー、わからへんかなあ、里中っちえらい集中してたみたいやったし、読める思たんやけどなー」
「えーと……え、な、なんぞがくどうにありてまなばざる、そのげんのたのしからずといえども、なおきかざるべからず……?」
「おおっ、凄っ!」
 二組の生徒ほぼ全てが「わかりません」を確信していたであろうだけに、この千枝の回答はちょっとしたどよめきを呼んだ。
 イヤな予感がする。
「里中っちこれ読めたんや、わー先生びっくりした。かなり凄いで、それ」
(しまった……!)
 細井教諭は拍手しながらじっと悠のほうを見ている。いまほど答えを見せたのがバレている、だけではない。
「白文読み下しなんて勉強してへんはずなんやけど、独学してたんや、えっらいわあー」
「え? ええっと」
「……ごめん里中、罠だった」 
 それも勝手に深読みして設置した、手製の地雷である。いまのは明らかに余計な手出しだった。黙ってわからないと言わせればよかったものを、これで千枝に助け船を出したことだけでなく、悠自身授業を聴いていなかったことまで露呈してしまった。
「じゃ、隣の鳴上っち、この意味を答えて」
「……はい」細井教諭に、というより、なかば以上は千枝に向けて、「わざわざ学校に来ていながらどうして勉強しないのだ。たとえおもしろくなくても授業は聞いていなければならない――こんなところでしょうか」
 隣で千枝がそっと呻いた。
「はいありがとう。後ろの花村っちー、聞こえてた? 先生もいっかい言おか」
「あ、いえ、聞こえました……スンマセン」
(見てたんだな、先生。そりゃあれだけ頻繁にやりとりしてれば見えるか……)
 悠、陽介、千枝の三人そろってしゅんとなったところで、六時間目終了のチャイムが鳴った。
「はい、六時間目ようがんばったなーみんな。やっとガッコ終わったで」
 日直が起立と礼を号令し終わるや否や、細井教諭は壇上からまっすぐ千枝の席へ歩いてきた。
「先生、おれが勝手に――」
「ええってええって」立ち上がろうとした悠を遮って、「鳴上っち、東京のガッコって白文読んだりするん?」
「ええ、まあ」
「高二なったばっかりやから、じゃあ高一で勉強したゆうことや、レベル違い過ぎやな」細井教諭はしきりに感心している。「こら真面目に聞く気ならへんのも道理やけど……さっき鳴上っちのゆうたとおりやで、やっぱり授業は聞かなな」
「はい、すみませんでした」
「それにしてもまあ、読ませるつもりあらへんかったから先生ちょっとびっくりしたわ。で、なにをそんなに一生懸命やりとりしてたん」
「や、その、学校おわったら遊び行こーぜ、みたいな?」陽介が慌てて弁解を始めた。「あはは里中机きたねーな、メモしまえってメモ……!」
「付箋紙だらけやな、ん」
「あっ、ちょっ」
 陽介の狼狽ぶりは見物だった。千枝へのメールに見られて困るようなことは書いていなかったが、それを陽介が知る由もない。
「おー……先生、専門は現国やけど、これは知ってるで」千枝の机の付箋紙から一片を取って、「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。鳴上っち、続きをどうぞ」
「未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉已に秋声」
「里中っち、どういう意味かわかる?」
「う、えーと、少年は老いやすくて学が成りがたいから」
「まんまじゃねーか……」
「うっさいな、じゃ花村わかんの?」
「う、えーと、少年は老いやすくて学が成りがたくて」
「アンタも変わんないでしょーが!」
「あはは君らおもろいなー。じゃ鳴上っち」
「若いうちから勉強しておけ、歳を取るのはあっという間だから、少しの時間も疎かにするな。楽しい春の夢の覚めないうちに、冷たい秋風が衰えを運んでくるものだから」
「……身に沁みるお言葉」
「……耳が痛いです」
「鳴上っちって漢文好きなん?」
「好きというか、親の影響で」
「親御さん、先生なの?」
「板前です」
「板前……? ふーん」細井教諭の眉が困惑に顰む。「まあ、これで少なくとも、授業中ちょっかい出し始めたのが鳴上っちやあらへんのはわかったわ」
「俺っす」陽介が小さく挙手した。「鳴上はずっとやめろって言ってたんですけど、俺が無理に……調子に乗りました。スンマセン」
「あ、あたしもスンマセン」
「じゃ、おれもスンマセン」
 ひとしきり笑い転げたあと、細井教諭は「なんや君らおもろいトリオやなあ」と笑い含みに呟いた。このやりとりはかなりウケたようだ。
(トリオだって? やめてくれ、こんなのと一絡げにしないでくれ!)
 悠はふいに刺すような不快を感じた。あまり感じたことのない類の、不思議な、落胆を伴うような不快感である。彼は自分が落下中であることをはたと認識した。
「先生も言わなあかんのかと――」
 と、細井教諭の言いかけたのを、時ならぬ校内放送のチャイムが遮った。教室内のざわめきが一瞬にして静まった。もっぱら先日の例に強く肖ったのだろう、今やこの旋律は不穏と非日常の象徴として聞かれるようになってしまったようだ。
『先生方にお知らせします。只今より緊急職員会議を行いますので、至急職員室までお戻りください』
「え、なんやろな」と、細井教諭が不審気につぶやく。彼に心当たりはないようだ。
『また全校生徒は各自教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
「うっわ、来たよこのパターン」と、陽介。「今度はなんだ、つか、誰だ?」
「誰とか言うなっつの、不謹慎でしょ」と、千枝。「でもホントになんなんだろ」
 またなにかあったらしい。昨夜の叔父の言葉、早朝の慌ただしい出勤、そして今朝の諸岡教諭に通勤路を変えさせた事情が、一筋の糸で繋がったように思われた。
 もちろんなにかあったのだ、それも警察沙汰の、決して軽くない、よくないことが。
(ひょっとしたら、小西先輩がらみの)
「おい鳴上、もちろん行くよな、このあと」
「……なにがもちろんなんだ」
「わかってんだろ」ちらと細井教諭を見て、「このパターンがもしアレなら、また向こうでイロイロあっかも」  
「えー、みんな聞こえたやろ、しばらく教室で待機な!」細井教諭が声を張り上げた。「たぶんHRはあらへん、諸岡先生来ォへんから、各自しずかに指示を待つこと! 帰ったらあかんよ!」
(また菜々子ちゃんを迎えに行かなきゃ……)
「ほならな三人衆」と言って、細井教諭は足早に教室を出て行った。
「なあ、行こうぜ」
「行かない。花村、付箋紙ちゃんと捨てとけよ」
「まあほら、まだなにがあったかわかってないんだしさ……たいしたことなかったら、鳴上くん行く? いちおう雪子呼んでみるけど」
「行かない。今日はジュネスに用はない」
 まるで昨日付き合ったのはあくまで買い物のついでであって、そうでなければお前たちなどと出かけたりしない、とでも言わんばかりの、悠のこの冷たい突っ慳貪な返答に、授業を妨害された憤懣を読んで取ったのだろうか、ふたりともそれ以上の要求は避けておずおずと席に着いた。
(……なんでふたりに対してこんな態度を)
 悠は内心、狼狽の極みにあった。なぜこんな無遠慮な、不機嫌な言葉が口を吐いて出る? どうして自分はいまこれほどの不安定に見舞われている? いったいお前はさっきまであれほど機嫌がよかったではないか。
(ああ、そうか)
 自身が底へ落ちてきたことを、悠は唐突に知らされた。彼にはそれがすぐわかった、そこは馴染み深い、暗くて静かな、いつもの彼の定位置だったので。――そうだ、少なくともいま、自分は手庇を作って遠くを眺めているのではなく、ただ仰いでいるのだ。
 底へ戻ってきて初めて、悠はたったいま自分の落ちてきた高みの眩しさを憶った。
(近づきすぎたんだ、それを指摘されて、反射的に飛び退いたんだ、おれは……おれはこんな、つまらない人間だった?)
 不機嫌の去ったあとは先に感じた落胆ばかりが、ちくちくと執拗に自尊心を突き回す。いや、これは特別なケースなのだ! 共にあんな奇妙な冒険をしてみれば、特別な精神的紐帯が生まれもしようものではないか! いや、お前はたったいま気付いた真実が、お前のきれいに結晶した過去にどれだけ認めがたい亀裂をもたらすか知って、それを援用してみるのを忌避しているだけではないのか? そんなはずはない! そうかもしれない。そうだとしたら?
 なんだか惨めさばかり募って、頬杖をついて慣れない鬱屈を持てあましていると、
『怒ってる? ごめんね』
 千枝の手がそっと伸びてきて、悠の机の隅っこに付箋紙を貼っていった。
(じゃあ、今までのは全部ただの、子供っぽい倨傲に過ぎなかったっていうのか? そんなはずは……)
『自分に怒ってる』
 結局、悠は嬉しかったのだ、彼らと一緒くたに語られることが。
 単なる驕りからか、それとも彼我の妥当な人間的価値の値踏みによるものかは措くとしても、それをとっさに不当だと反発しておきながら、彼は自らその掣肘を憎んだのだった。――では自分はいったい、それを喜んだことに落胆したのか? それともこんな自然な情動すら肯定できなかった、自らの矮小な哲学に対して?
 十分ほどして、校内放送が臨時の全校集会を報せるまで、悠は深い内省の虜と化していた。





 このひとつところに集められた八校生徒たちを、もし天井の辺りから俯瞰することができたなら、きっと贔屓の歌手かなにかのお出ましを今や遅しと待つ、ファンの一団みたように眺められたことだろう。この学校での全校集会が初めての悠にも、この彼らの騒々しさの常ならぬものであることは容易に想像できた。
 彼らは期待と不安に煮え滾っていた。前者ははちきれんばかりで、後者はほんのひとつまみ、前者に深い味わいを与えるための、欠かせない隠し味。
(先生たち、浮き足立ってるみたいだ)
 先日の事件以降、すでにその美味の期待されて久しい、あの非日常という御馳走を全校生徒に炊出してやるために、教師たちは調理と配膳とに大わらわの様子である。喜び勇んで駆けつけた生徒たちとの対比も鮮やかに、彼らは五人来ては二人戻るといったように、なかなか集まり切れないでいた。
献立の内容が想われる不穏さである。
「鳴上くん」
 千枝が後列の人垣を縫って近づいてきた。
「え?」
「雪子これないって。ジュネス」
「そう」
「えーとさっきはその、スンマセンした」
「いいって本当に。スンマセンはこっち」
「で、行かない?」
「行かない」
 千枝はいまだにジュネス行きを勧める腹積もりらしい。
「鳴上、これ、なんだと思う?」
 斜め前に立っていた陽介が後ろ歩きに横に並んだ。
「ライブかな」
「っぽいよな……ってんじゃなくて、内容」
「……あんまり考えたくないけど、花村の考えてることに近いと思う」
「お、やっぱそう思う?」
「花村なに考えてんの? いや、言わんでもわかるけど」
「……けさ五時前くらいに、叔父さんが慌てて家を出て行ったんだ」無人の壇上を見詰めながら続けて、「それと通学するとき、いつもの通勤路を警察が封鎖してたって、諸岡先生が言ってた」
「うぇ、マジ? それってやっぱり……」
「お前の叔父さんって?」
「刑事なんだ、この前の事件にも関わってる」
「うお、なんだ読み当たりじゃん。そっかそっか……」
 続けようとしていた言葉を、悠はさんざん迷ったあげくに呑み込んだ。先の事件と似たようなことがもし起きたとすれば、昨夜の叔父の話は陽介をひどく悩ますだろう。まして今このように好奇心に駆られて、ある意味で喜んでいる場合には特に。
(なにかもっと別の事件であって欲しいけど)
 ややあって、それまで体育館の入口付近に並んでいた教師の列から、祖父江教諭と松枝校長が歩み出てきた。とたんに全校生徒のがやがやが鳴りをひそめる。彼らの眼という眼が、壇上を往くふたりのアイドルに注がれる。
「えー、みなさん静かに」
 と、まずは祖父江教諭の露払いが始まった。言われるまでもなくすでに「みなさん」は静かであったが。
「これより臨時の全校集会を始めます。これから校長先生のお話がありますが、これはみなさんにはたいへん辛い内容になります。お話の途中でも騒いだりせずに、最後まで落ち着いて聞いてください」
 心中、悠は呻いた。さながら心臓に矢の刺さったような気分である。ではこのイヤな予感はほぼ的中だ、これから手ひどい痛撃をこうむるであろう陽介がただ不憫だった。
 壇上で選手交代ののち、松枝校長がマイクを執った。
「んん、なにぶん急な全校集会で、ええ、みなさんも何事かと、不安に思っていることと思います」
 松枝校長は口元からマイクを離して、それからまた寄せた。ため息をついたようだ。
「今日はみなさんに残念なお報せがあります。三年三組の小西早紀さんが、お亡くなりになりました」
 生徒たちのがやがやが一斉に復活した。ちらと陽介の貌を覗うと――こちらは口を半開きにして茫然自失の態である。斜め後ろからなんだか視線を感じるのは、おそらく千枝によるものだろう。
「みなさん静かに、静かに」
 教師の列から諸岡教諭の「静かにしろー!」との援護射撃も加わって、生徒たちはうわべだけは静かになった。
「小西さんは今朝はやく、遺体で発見されたということです。現在警察の方々が捜査を始めていますが、小西さんはなんらかの事件に巻き込まれた可能性が高く、死因など詳細はいまのところ判明しておりません。警官に協力を求められたときは、我が校の生徒として節度ある姿勢で応じてください。また併せて、報道各社などのインタビューには、もし応じる場合は慎重に答えてください。面白半分の推測や軽々しい憶測などは厳に慎み、また不謹慎な質問や、小西さんとその家族を不当に貶めるような詮索には決して乗らずに、もしあまりしつこいようであればしっかり断ったうえで、担任の先生に必ず申し出るようにしてください。学校から警察経由で抗議する準備があります。なお、先生方からはいじめなどの事実はなかったと聞いておりますが、もし心当たりのある生徒は、担任の先生もしくは教頭先生、私にでも構いませんので申し出てください。そして毎日の通学と帰宅、とくに遊びに出かける際は、絶対に危険なところや怪しいところ、不審な人間へは近寄らず、夜遅くまで家を離れることなどないように! 小西さんがお亡くなりになったのはたいへん悲しい出来事ですが、みなさんの身に万々が一にも同じようなことが起きれば、これだけの人間がまた同じように悲しみに暮れます。この一件の詳細がわかるまでは、みなさん一人ひとりがしっかりと防衛意識を持って、自重に努めなければなりません。先生方も今まで以上に生徒たちをよく見守って、生徒たちの発するサインを見逃さないように、また要すれば積極的に相談に乗ってあげるなどしてください。――それでは最後になりますが、天国にいる小西さんのために、一分間の黙祷を捧げましょう」
 ふたたび選手が交代し、祖父江教諭がマイクを取り戻した。松枝校長の項垂れるのを待って、
「黙祷」
 祖父江教諭が低く宣言した。しんとした体育館に、おそらくは早紀の友人のものであろうか、押し殺した嗚咽のような呻きが二、三、微かに聞かれた。





(里中)
 下駄箱の前で千枝の険しい貌をしているのを、悠は見咎めた。早々に教室を出たもので、てっきり先に帰ったとばかり思っていたのだが。
 千枝は悠に気付いても答えず、黙って今まで見詰めていたほうを不快気に顎で示した。女子の数人が寄り集まって声高に、なにごとか話し合っている。
「――死体、山野アナのときとおなじだったんでしょ?」
「前はアンテナだったのが、今回は電柱らしいじゃん。連続殺人ってことだよね、これって」
「死因は正体不明の毒物とか、誰かが言ってた」
 これらはおそらく先日の悠たちのようにして、だれかしら朝の現場に出会した生徒からもたらされた情報であろう。鵜呑みにはできないが、
(正体不明の毒物……またあの火星探査員がいたのかな)
「正体不明って、そりゃちょっとドラマの見過ぎだって」悠は発言した女生徒もろとも一刀両断された。「そういえばさ、例のマヨナカテレビ? 早紀に似てる子が映ったらしーよ。超くるしがってたってェ、怖くない?」
(そういえば昨日、雨が降ってたんだっけ……十二時前に寝たな、見逃した)
「はは、そっちこそ絶対ユメ!」
 睨まえる千枝にとうとう気付かず、女生徒たちは靴を履いて正面玄関を出て行った。
「ったく、ヒトゴトで好き勝手いってるよ……」千枝は義憤に燃えているようだ。「あのひとら小西先輩と同じクラスだよ? 信っじらんない!」
「泣くひともいる。笑うひともいる。距離の問題」下駄箱から靴を取り出しながら、「対岸の火事は大きいほど楽しい、でも隣人は煙が目に入る」
「鳴上くんマジで言ってんの?」
「……悲しみや怒りにも、ある条件下では快楽が伴うそうな。精神が同情や義憤を徳行と見なして、それらを導く情動を惹起したことに満足を覚えるという」
「あ、あたしがそうだっての?」
「心当たりでも?」
「ないよ……つかだれよ、んなこと言ったの」
「デカルト」
「……デカくないよそのひと、小さいよ」
「なら、波の絶えず砕ける岩頭のように、里中」靴を突っかけながら、「小西先輩のことにも、彼女に無関心なひとたちの放言にも、動じないようになろう。好きに言わせておけばいい」
「あ、帰っちゃうの?」
「鳴上はいまは罷らむ菜々子泣くらむ……ってね。夕飯の支度――」
「鳴上!」
 悠を遮った声は、果たして陽介のものである。階段の踊り場から悠と千枝を見下ろしながら、彼は微かに荒い息をついていた。きっと悠を探して駆け回っていたのだろう。
「あせったぜ、お前いないし……」足早に階段を駆け下りながら、「鳴上、話がある」
「花村、おれは行くつもりは――」
「聞けって」語気の荒いわりに、陽介は意外にも冷静に見えた。「お前、昨日、あの夜中のテレビ見たか?」
「あのさ……花村までこんなときになに言ってんの!」千枝はまったく語気の通りである。「ひとが死んでんだよ? あんた親し――!」
「いいから聞けっ!」
 突然、陽介が物凄い剣幕で怒鳴った。冷静に見えたのはうわべだけだったらしい。正面玄関付近にいた生徒たちすべての視線が三人に集中する。
「花村落ち着け」悠はいま履いたばかりの靴を脱いだ。「声を小さく」
「俺は落ち着いてる」
「なら二番目のほうに集中する」内履きを突っかけながら、「場所を変えよう、人目がありすぎる」
「あ、こっち、行こ。遠いほうがいいっしょ」 
 千枝の先導で、三人は一階の一番奥の、無人だった視聴覚室へ舞台を移した。放課後のことで、隣接する部屋はすべて無人である。たしょう大きな声を出しても聞き耳を立てられる障りはないだろう。
(もっとも、聞いたところで理解できないだろうけど)
「じゃあ、どうぞ、続けて」
「……俺、どうしても気になって見たんだよ」陽介は俯いて、パソコンモニタの列居する長机に寄りかかった。「映ってたの、あれ、たぶん小西先輩だと思う」
「はっきり見えたのか」
「いや……でも、前みたとき、里中と同じのが見えたって言っただろ? あのとき俺、ひょっとしたら小西先輩なんじゃないかって思ってたんだ」
「言われてみれば……そうかも、しんないけど」
「だろ? それで、昨日よく見て、確信した。間違いない」
「…………」
「先輩なんか、苦しそうに、もがいてるみたいに見えた。それで……そのまま画面から消えちまった」
「さっきも三年生が似たようなコト言ってた、けど」
「先輩の遺体、最初に死んだ山野アナと似たような状態だったって話だろ?」
「……続けて」
「里中おぼえてるか? お前こないだジュネスで言ってたよな、マヨナカテレビに山野アナが映ったって言ってる生徒がいたって」
「言った、けど」
「俺、思ったんだ、もしかするとさ……山野アナも死ぬ前に、あのマヨナカテレビってのに、映ったんじゃないのかなって」 
「なによそれ……それってまさか、あのテレビに映ったひとは死んじゃう、とかって言いたいわけ?」
「そこまでは言い切らないけどさ。ただ、偶然にしちゃ、なんていうか、引っかかるっていうか……」
(確かに引っかかる。偶然にしては)
「それと、向こうで会ったクマが言ってたろ。なんか……えーっと、なんだっけ、なんか出てくるから危ないとか」
「シャドウ」
「そうシャドウ――あと、里中がちらっと言った、もうひとりの鳴上みたいなやつが、誰かを押し込むとかなんとか」
「思い付きだってば……」
「なんでもいい。それにあの、ポスター貼ってあったあの部屋……事件となんか関係ある感じだったろ。これって、なんかこう……繋がってないか?」
「どうかな」
「もしかしたら、先輩や山野アナが死んだのって、あの世界と関係あるんじゃないか?」
「…………」
「なあ、俺の言ってること、どう思う」
「……まずどうしたいんだ、花村は」
「ああ、もし繋がりあるなら、先輩と山野アナも、あの世界に入ったってことかもしれない。あっちでなにかあったってんなら、あのポスターの部屋があった説明もつく。もしそうなら、先輩に関係する場所だって、探せばあるかもしれない!」
「花村、あんたまさか」
「ああ、俺、もう一度いこうと思う。確かめたいんだ」
「よ、よしなよ……事件のことは警察に任せたほうがいいって」
「警察とかアテにしてていいのかよ! 山野アナの事件だって進展なさそうじゃんか!」陽介はふたたび大きな声を上げた。「第一、テレビに入れるなんて話、まともに取り合うワケねーよ。ぜんぶ俺の見当違いなら、それでもいい。ただ先輩がなんで……死ななきゃなんなかったか、自分でちゃんと知っときたいんだ」
「花村……」
「こんだけ色んなモン見て、気付いちまって、なのに放っとくなんて、できねーよ……」
「……終わった?」
「あとはこれだけだ――鳴上、俺を連れてってくれ、あの世界に」
「ちょっとバカよしなって! あんた――」
「里中ちょっと」手を挙げて割り込みながら、「先にいいかな、話しても」
「あんたさ、なんかあったらどうすんのって! また帰って来れる保証ないんだよ!」
「里中」
 千枝はなおもなにか言いたげにしていたが、結局しぶしぶ悠に譲った。
「花村、さっきパスした、花村の話をどう思うかについて……話しても?」
「ああ、聞かせてくれよ」
 悠はひとつ深呼吸したあと、どのようにして陽介を説得しようかと考えながら、おもむろに口を開いた。
(なんと言ったところで納得しないだろうけど)
「……結論は、最後にするとして、まず、花村の見たマヨナカテレビに映った人間が、小西先輩だったと仮定する」
「仮定じゃない、絶対そうだ」
「それでもいい。で、山野アナもまた確実に映ったとする。そしてふたりとも死んだ」
「ああ」
「だから映った人間は死ぬ?」
「だと思う」
「……おれもさ、教室の連中の話を聞くでもなく聞いたりしたんだけど、マヨナカテレビって、けっこう前から映るらしいな」
「うん、そう。何年か前から、だね」
「いろいろ聞いたよ。有名どころでは、いわく上野樹里が映った、松平健が映った、パフュームの誰だっけ、三人のうちのひとりが映った。ブラッド・ピットなんて言ってる奴もいたな。いま生存している人間だけじゃない、織田信長まで出てきたらしい。豊川悦司扮する、ね」
「…………」
「みんな生きてるな、信長は死んでるけど。それと、山野アナと死んだ状況が似ていたって、それは誰が調べた情報?」
「生徒、だろうな」
「素人が、興味本位で、興奮しつつ、遠巻きに、警察に阻まれながら、好奇心と先入見の色眼鏡越しに収集した、ね。かなり信頼できる情報だな、まあ、これはじきテレビで報道されるだろう。あと」
「……あと?」
「あの世界のあの部屋、花村はさっき、なんか関係ある感じなんて言ってたけど、具体的にどんな点が今回のふたりの死に関係してるって考えられるんだ」
「あのピアス」
「授業中に書いただろう、あれだけじゃ判断らしい判断なんてできない」
「あの異様なポスター、あの首つり椅子、ベッドの死体の跡!」
「声を小さく――花村、なにも繋がらない、ただ異様で目立つだけだ、ふたりとはなんの関係もない」
「シャドウとかいう……危険な奴」
「それはなんだ、花村。なにに対してどんなふうに危険なんだ。おれたちはなにも知らない」もしそうだったならどんなによかっただろう!「人殺しを辞さない危険な奴ならこっちの世界にだって無数にいる」
「お前と同じことのできる奴が――」
「花村、仮にそういうことのできる人間がいたとして、じっさいふたりに対してやったとして、そのシャドウというのが凶悪な殺人鬼であったとして、そいつが彼女らを毒牙にかけたとして、どうして死体がこっちに出てくる。わざわざ犯人が担いで戻ったって言うのか、その凶悪な殺人鬼の目を盗んで」 
 次第に陽介の貌に、いま低い声で話している転校生への、抑えがたい怒りが滲んできた。
 悠は悲しくなった。怒りを向けられていることにではなく、勢い込んでこんな穴だらけの論証をさせるほど性急に行動を要求する、彼のその悲痛な動機に同情を覚えたのである。この悲しみに快楽はついてこなかった。であれば、いま悠はまさしく彼の隣にいて、彼を焼き焦がし責め立てる炎と煙とに巻かれているのだ。
 悠はこの苦痛に喜んで甘んじた。
「話を続けようか。もっぱら親戚の名誉のためにこう言うんだけど……山野アナの事件が起きてから、今日で何日目?」
「……三日だろ」
「すごいな花村、たった三日で、警察の捜査が進展してないなんてわかるんだから。いや、これが六日だろうが二十日だろうが、どうして花村に警察の捜査の進捗状況なんてわかる。警察をアテにしてはいけない? なぜ? 向こうはその訓練を受けていて、それを職業にしているプロだろう。花村やおれは、里中は? わからないなら教えよう、ただの高校生だ」
 花村の歯軋りする音が聞こえる。
「……仮にここまで、花村の言うことがすべて真実であったとする。それで、首尾よく向こうに行って、小西先輩の不幸のあったらしい現場にどうやってかたどり着くための、算段がついたとする。そこへ行ってどうなる? 確かめたい? まだ痕跡が残っているとでも? あったとして、それを見つけて確かめて、花村はどうしようって言うんだ。彼女の遺品に縋って泣こうとでも? 取り合ってくれるワケもない警察に報せようとでも言うのか。どうして先輩が死ななきゃならなかったか? いったいなにか納得できそうな理由が、花村はあるとでも言うのか。ああ、それなら仕方がない、彼女は死んで当然だった――ばかばかしい、ひとの死ななきゃならない理由なんてない、あってはならない、知ったところでどうにもなりはしない」
「鳴上くん、ちょっと――!」
「おまけに言うに事欠いて、ぜんぶ自分の見当違いならそれでもいいだって? それがひとを危険に付き合わせようとする人間の言い草なのか花村。色々なものを見た、気付いた、放っておく? いったいおれたち三人はあの世界を彷徨ったあげく、なにを見てなにに気付いた。ほとんど見てないし、気付いてもいない、ただ常識を覆されて混乱しただけだ。ついでに言えば、花村がそうできないで歯噛みしなきゃいけないような、放っておくなにごとかなんて存在しない。花村のはただの独り相撲だ」
 陽介の面に浮かぶのはもはや怒りではなく、憎しみに近いものだった。悠は黙って睨まれるに任せた。
「花村、おまえを連れて行くことはできない。あと結論がまだだったな――馬鹿げてる」
「じゃあぜんぶ偶然だって言うのかっ!」
「……花村、授業中にも似たようなことを書いたな。無意識にやってるのかもしれないけど、花村は論点をすり替えてる。――花村はいったい、自分の主張したことが正でなければ、あとは全て偶然になるとでも言いたいのか。まるでおれが、すべてが偶然というわけではない、と言えば、花村の主張したことが真実になるとでも言いたげだ。その二択は詭弁だ、間違ってる。おれたちは正誤を議論しているのであって、必然か偶然かなんてひと言も話してない。そして花村の話には正であることを主張するための証明がほとんどない。八十稲羽ではどうかわからないけど、世間一般ではそれを思いつきと言う」
「…………」
「花村、花村はさいきん身の回りで起きた、非日常の匂いのするもの全てを、なかんずくあの世界を、小西先輩の死にむりやり繋げようとしているだけだ」悠は努めて優しく続けた。「小西先輩に関わっていたいんだろう? こうなってしまったあとでも、まだそうすることで関わっていられるようななにかが、自分にできることがなにかあるはずだって、思ってるんだろう? おれは責めない、でも間違ってることは正す、とくに、見過すと危険だとわかっているような暴走は」
「もういい!」
 陽介はひとこと怒鳴ったあと、憤懣やるかたないといった様子で視聴覚室を出て行った。行き先は自宅のベッドか、それともジュネスの二階か。
「行っちゃった、けど」
「……やっとふたりきりになれた?」
「やめてよこんなときに冗談とか……鳴上くん言い過ぎだって、いくらなんでもあれじゃ花村……」
「賛同してテレビの中に入ったほうがよかったかな。おまえは正しいと思う、一緒に行こうって」
「そんなことないけど……どうしよう、どうすんの?」
「靴を履いて、玄関を出て、自分の家の方角に向かって歩き出せばいい」
「だ、だって」千枝の狼狽ぶりたるや、あの世界に迷い込んだときと遜色ないほどだ。「花村どうすんの? 鳴上くん帰っちゃうの?」
「夕飯つくらなきゃ」
「夕飯って……でも、花村は」
「花村は向こうには行けない、ひとりでは」
「そうだけど、だけどさ、放っとけないよ」
「そんなことより、里中、ちょっといい?」
「へ」 
「夕飯の献立で悩んでるんだけど、ちょっと相談に乗ってくれないかな」
 今度は千枝の貌にまで、不穏ないろが見え隠れし始めた。
「あのさ……こんなときになに言ってんの?」
「菜々子ちゃんになったつもりで、ちょっと選んでみて。一、トマト入りミネストローネ。二、トマト入りロールキャベツ。三、トマト入りキッシュ」
「知らんよ、勝手に決めなよ!」
「そう。参ったな、どうしようかな。ものによっては買い物に行かなくちゃな、昨日トマト使っちゃったし」
「はあ……?」
「行くとしたらどこかな、って言っても、ジュネスしか知らないんだよな……」 
 千枝はしばらく「なに言ってんのコイツ」とばかりに眉根を寄せて訝っていたが、ややあってようやく含みに気付いたようで、
「……えーと、たぶん、ロールキャベツがいいと思う。挽肉増量の、コメダワラみたいなやつ」
 やっと笑顔を取り戻してくれた。
「本当に?」
「うん、菜々子ちゃんならきっとそれを選ぶ。自信ある!」
「そうすると……トマト買いに行かなきゃならないわけだ。めんどうだけど仕方ないな」
「仕方ないね、仕方ないよ。もーなによめんどくさいなあ!」
 もちろん、仕方のないことだ。
 相手が陽介か、あるいは千枝でなければ、あそこまで言い募ることはなかっただろう。適当に去なして落ち着かせたうえで帰宅して、トマトの入らない夕飯を菜々子に振る舞ったことだろう。
 先の内省の結果が、振り返ってみた過去が、たとえ従姉妹に二日連続でトマトを食わせることになっても、彼らに対して小細工なしで衝突してみよと示唆するのだった。彼らが特別なのかそうでないのかはもはやどうでもいいことだった。完璧に仕上げてきた学校生活にヒビが入ってもいい、とにかく今だ、いま気付いたのなら、そのときいちばん手近にいた人間から始めなければ!
 そしてその相手はもう決まっていた。





[35651] バカにつける薬
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:36



 ジュネスの二階、家電売場の奥、件のプラズマテレビの坐すその前に、たたずむ異様な態の少年がひとり。
「あっ、いた」
 と、千枝の指さしたのに気付いて、陽介は振り向いて斜に構えた。
「……花村、なにそれ」
(鬼退治にでも行くつもりか?)
 家電売場にいて然るような人間として、陽介は売る側にも買う側にもいささかふさわしからぬ恰好をしていた。馬手にゴルフのドライバー、弓手に荒縄を一巻きという出で立ちで物憂げにたたずむ彼を、いったい葛西さんとやらは見咎めなかったのだろうか? これらを活用する集客なんてものをもし彼が想像したとするなら、ジュネスの地域社会への健全な奉仕のためにも、
(葛西さんは倉庫で百マイルくらい煙草を吸ってるべきだな……巡回の警察に見つかったらなんて説明するつもりだったんだ?)
「お前ら、なにしに」
「バカを止めに来たの!」と、千枝。「なにそのカッコ、それでなにしようっての!」
「鳴上……」
 陽介の貌にも声にも、もはや敵意はなかった。ただ一刻も早くなにかをしようと急くのに、それをできないでいる人間がたいていそうするように、彼は途方に暮れていた。
「最初に家電を買うべきだった、花村」悠はなるたけ友好的に声をかけた。「そのあとにホームセンター。スポーツ用品店は最後にするか、包装してもらったほうがよかった」
「…………」
「……問題はそれで縛ったあとだよな。よそで買えないようにするには効果的だけど、ひょっとすると客の購買意欲を削ぐかもしれない。そのゴルフクラブでどこまでアピールできるか」
「鳴上」陽介はちょっと笑った。「ぜんぶお前の言うとおりだよ。焦ってるだけだ、俺は……もう手遅れなのに」
「ふつうにいらっしゃいませって言えば?」
「そっちじゃねーって!」陽介にようやく笑顔が戻った。「そーいうふうには見えねーだろ普通!」
「警察もそう考えてくれたらいいけどな。ちょっと悪目立ちし過ぎじゃないか」
「そーだよ、客とかフツーに引くって――つか、花村、マジで中はいるつもりなの?」
「……鳴上しだいだ」懇願めいて続けて、「鳴上、それでも、さっきお前に説得されても、納得できないんだ、俺。きっと納得したくないだけだ、でも、完全に納得するにはどうしても引っかかることがあるんだ」
「と言うと」
「あの世界だ――変な言い方になるけど、俺はそれを、きっと自分を納得させないための最後の救いにしてる。そうさ、お前の言うとおりなんだ。先輩のことで後悔して、もうなにしても遅いってのに、俺は、だれも入っていけないところになら、俺たちの常識の通用しないあそこなら、こっちじゃありえないようななにかが、先輩のこと、なにか教えてくれるかもしれないって、きっと思ってるんだ」
「…………」
「へへ、なんか、新興宗教にハマるひとって、こんなカンジなんかな?」陽介の面は悲痛そのものである。「でも、学校でお前に言ったこと蒸し返すワケじゃねーけど……これがぜんぶ偶然だなんて、思えるか? お前」
「ぜんぶ偶然だとは思ってないよ」
「お前の考えを聞かせてくれよ」
「おれの考えか……」悠はちょっと考える素振りを見せた。「……今日の夕飯は挽肉多めのロールキャベツにする予定なんだ。里中の考えではそれが菜々子ちゃん的にベストらしい」
「鳴上くん……」
「おれはロールキャベツにはトマトを入れる派なんだ。栄養あるし、菜々子ちゃんみたいな子供には率先して摂らせたいし、いまは旬だし」
「鳴上――」
「トマトはジュネスで買おうと思ったんけど……よく考えたらあんまり安くないような気がしてさ、どこかもっと安い店ないかなって、考えてる。まずどこから回ろうか。テレビの中なんてどうかな。あんまりひとが行きそうにないし、穴場もありそうだ」
「ちょっ、鳴上くん?」
「クマがひと玉百円より安い店しってるかもしれない」
 果たして、陽介の面に救われたような、安堵したような色が浮かんだ。――千枝の顔面に訪れた変化と対照的ではあったが。
「お前……お前がそういう奴で、なんかよかったよ、鳴上」
「安く買えるならそっちのほうがいいもんな」
「へへ、だよな」
「ちょっとちょっと待って、なに鳴上くんまでバカ言ってんの? 戻って来らんないかもって言ってんじゃん!」
「ロールキャベツは里中イチオシだろ」
「ここの一階で買えっての!」
「里中はここで待っててくれよ、お前にもやってもらいたいことが――」
「花村も来なくていい」
「は?」
「トマト買うだけだ、荷物持ちはいらない。おれひとりで行く」
 果たして、陽介の面に欺かれたような、困惑したような色が浮かんだ。――千枝の顔面に訪れた変化とほぼ同じものである。
「なに言ってんだ、おれも――」
「花村、学校でも言ったとおりだ、連れて行くことはできない」噛んで含めるように続けて、「さっき花村の言ったことはほとんど当て推量の域を出ないけど、いくつかはおれも引っかかってた。だから昨日、テレビの中から戻ってきた時点で、近いうちにまた入っていろいろ調べてみようとは思ってたんだ。それが今日でも不都合はない、だから入る、でもおまえは連れて行けない――危険だから」
「危険って、お前が言ったんだろ? シャドウがなにかよくわからないって」
「花村、里中も聞いて欲しいんだけど……たぶんあの世界に関わることで、まだふたりに話してないことがあるんだ」
「な、なにを?」
「里中、一昨日の深夜にマヨナカテレビを試してみろって言っただろ」
「うん」
「試したんだ……花村は感づいたはずだけど」
「ああ」
「初めてテレビの中に入った。それですぐ、こう、臑丈くらいの長い衣服を纏って、へんな鉄仮面と籠手を着けた巨人に、いきなり殺されかけた。四メートルくらいもある冗談みたいな凶器もってて……あやうく逃れたけど、たぶん、あの世界にそいつがいる。あと、考えたくないけど、おれ、狙われてるかもしれない」
 殺される、という言葉が、どのていど真実味を帯びてふたりの耳に響いたか――陽介も千枝も口を半開きにして硬直している。
「……おれがあの世界で尖ってたわけ、わかってくれた?」
「そんなに危ないなら中はいるなんて絶対ダメでしょ……つか、なんであのとき言わなかったんよ……!」
「言ってふたりが元気いっぱいになるなら、そうしたかもね」
「ならひとりじゃもっとダメだろ! 俺は――」
「ふたりじゃ余計ダメだ、おれに万一のことがあったら、花村は出られなくなるんだぞ」
「そうだけど……お前危なすぎだろ」
「……あれだけ歩き回って会わなかったからには、うちのテレビとここのテレビとでは、たぶん出るところに相当な隔たりがあるんだと思う。ちょっと入るくらいなら大丈夫だろう。例のクマを掴まえて、いろいろ聞いてみる。もしできれば、花村の言うようなことについて調べてみる」
「すぐ出てくるんなら俺も――」
「花村、この天秤に」と言って、悠は右の掌を差し出した。「好奇心の対価として載せられるのは自分の命だけだ。他人の命に責任は持てない」
「責任は自分で持つ、頼む!」
「花村は自力でテレビに出入りできない。中に入った時点で望むと望まざるとに関わらず、花村の安全はおれの責任になるんだ」
「なあ、頼むよ、お前の指示に従うから」
「すぐ戻る。朗報を待って」
「ダメだってばァ!」千枝が声をひっくり返して怒鳴った。「あのさもう……ホント、落ち着こって、あたしら関係ないじゃん。なんかわかったからってどうすんの? 鳴上くんが言ったんだよね、取り合ってくれないのに警察に報せるのかって!」
「里中は気にならない?」
「だから訊いてどうすんのっつってんの!」
「トマトを買うのさ」
「バカ、ほんっとバカ! あんた――!」
「里中!――わかったよ、鳴上」いきり立つ千枝をブロックしながら、「お前に任せるしかなさそうだ、頼む」
「ふたりは誰か来ないか見張っててくれ。そう、葛西さんは?」
「来てから見てない。倉庫で煙草かな」
「もし会ったら言っといて、花村」悠はプラズマテレビのフレームに手をかけた。「煙草吸いたいなら近場にもっといい場所を知ってるってさ」
「あたし知らんからね! もう付き合い切れ――!」
 テレビパネルが千枝の金切声を遮断した。





(よかった、やっぱり向こうとこっちのテレビが繋がったんだ)
 出た先は果たして昨日のスタジオである。クマの用意してくれたこのテレビがあれば、毎度まいどあの恐怖の転落死体験を経ずに済むようだ。
「クマ? クマー、いないかー」
「だ、だれクマ!」
 速やかな応答があってすぐ、樽型の着ぐるみがテレビの横から回り込んでくる。
「あー! 来ちゃダメって言ったクマー!」
 悠の姿を確認するなり、クマは短い脚でぴこぴこ地団駄を踏み出した。が、軽挙を咎め立てるその口ほどにもなく、彼の声には喜びが滲んでいる。
「ここはあぶないとこなんだクマ、早く帰んなさい!」
「こんにちは」
「あ……えーと、ごていねいにどーもです」
「入ってもいい?」
「ダーメ!」
「ダメ? 残念だな、クマに会いに来たのに」
「へ、クマに?」
「そうだよ、せっかく知り合いになったんだし、ちょっと話がしたいなって」
「……クマと、クマ? はなし?」
「そうクマ」
 クマはしばらく考え深げによちよち歩き回っていたが、ほどなく「ちょっとだけよークマ」と嬉しげに近寄ってきた。これほどあっけなく翻意するからには、
(じっさい言うほどには危険じゃない、のかな。それとも単に寂しがり屋なだけ?)
「手を貸すクマ、こっち入るクマ」
「待って、いま脚を――」
 言いかけて、パネルに片脚を潜らせようとした瞬間、悠は背中に息の詰まるほどの衝撃を感じた。――感じた、と思う間もなく、今度は硬いゴム様の床に接吻を余儀なくされる。
 こうなることは予想できたはずなのに――悠は痛恨を噛み締めた。
「だ、大丈夫クマ……?」
 クマが慌てた様子で、折り重なって倒れるふたりに駆け寄る。すなわち、下敷きになった悠と、彼に体当たりしてもろともテレビの中に転がり込んできた陽介とに。
「いってて……な、鳴上、大丈夫か」
(花村!)
 無言で陽介を突き飛ばすなり、悠は立ち上がって猛然と彼に掴み掛かった。
「鳴上待て! おいって!」
「おまえ、おまえは……!」
 情動の赴くままなにかをする、というのは、いったいどれほどぶりになるだろう?
 悠は静かな驚きに打たれていた。このクラスメートのなりふり構わない遣り口が、彼の久しく遺棄されて顧みられなかった火床の、怒りの埋火を掘り起こしたのである。常に他人の中にだけ見出されてきたこの種火は、悠にとっては金鉱よりも珍かな、驚倒すべき発掘物だった。 
「キミたち、ケンカはよくないクマよ……あのうふたりとも、ケンカは」
 クマの控えめな仲裁もむなしく、悠と陽介はしばらく無言で揉み合っていた。かたや力任せにテレビに押し戻そうとし、こなたそうはさせまいと全力で抵抗する。
 お互いついに力尽きて座り込んだのは、たっぷり十分も経った後である。
「……鳴上」
「…………」
「悪かったって」
「心にも、ないことを、言うな」テレビに凭れて息を整えながら、悠はまだ燻っている。「まさかここまで、バカだとは、思わなかった。信じられない」
「なんとでも言えよ……はあ……」
「ええと、キミたち、仲直りするクマよ。雨が降るとお年寄りがたまると言って――」
「うるさい」
「スミマセンクマ……」クマはたちまち悄気返った。
「お前、こないだの……クマ、だっけ」
「え、そうクマー」クマはたちまち甦った。「えーと、キミもクマとはなしに来たクマ?」
「クマ黙って」と、悠が割り込む。「花村、いますぐ戻れ」
「ここまで来といて戻れますかっての」
「ここの危険はさんざん話したぞ、わかってると思ってた」
「わかってるよ」陽介が尻を払って立ち上がった。「悪かった、マジで。でもこうでもしなきゃ俺、絶対に納得できねーんだ。俺自身の眼で確認しなきゃ!」
「その納得が手に入るかどうかもわからないのに、花村はもう対価以上のものを支払ってるかも知れないんだぞ!」
「気前いいだろ」
「バカにつける薬はないよな、命がかかるって言ってるのに……!」
「トマトのついでに探してみたら?」
「なにを」
「バカにつける薬。テレビの中なら売ってんじゃね?」
 皮肉っぽく笑って、陽介は悠に手を差し伸べた。
「薬で治るもんか。花村は重症だ」陽介の手を取って悠も立ち上がった。「末期だ、要手術だ、致命的だ全く――もう一度いうぞ、いますぐ戻れ」
「戻る気はない」
「おまえを置いてジュネスに帰るぞって、脅すこともできる」
「できるだけだろ、お前はそんなことしない」
「もういちど腕力に訴えてもいい」
「第二ラウンド始めっか? 朝まで付き合うぜ」
 悠は深いため息をついた。その様子を見て、陽介は会心の笑みを隠しきれない。
 力ずくが失敗に終わったいま、この上なにを言ったところでもはや彼の翻意は叶わないだろう、短い付き合いとはいえ、悠にもそのくらいのことは理解できていた。無論、それは陽介のほうでも同様に違いない。
(おれがこのあたりで折れるって、こいつは確信してる……)
「……この一件が終わったら手伝えよ」
「え、なにを」
「おまえにつける薬、探すから」悠はとうとう陽介の同行を許した。「トマトなんか後だ。花村のは一刻を争う」
「わかってるって!」と、花村は破顔した。「で、もちろん半額だしてくれんだろ?」
「おまえを殺す毒薬なら全額だしてやるよ。ついでに焼きそばも奢ってやる」
「へえ、死んでも治んねーけど」
「言ってろ――クマ、ちょっと」
「……話してもいいクマ?」
 手招きに応じて、少し離れたところで悄然としていたクマが戻ってくる。
「いいよ、もちろん。ごめん、うるさくして」
「仲直りしたクマ?」
「うん。した」
「わりーな、もう終わったから」
「仲良くしなきゃいかんクマ、ふたりは友達クマ?」
「友達じゃない」
「ええっ、俺ら友達だろ?」
「友達?」
「じゃ、なにダチよ」
「……友達ね」
 普段の彼なら陳腐と一蹴してしまうこの言葉も、陽介の口から出てくると不思議に、ごく単純な虚飾のない単語として聞かれるのだった。彼は友人? この無謀で直情径行気味のクラスメートを、果たして友人と呼んで差し支えないのだろうか。
「あんだけ話して、ここまでお互いの事情わかってて、いっしょに二回もこんなとこ来といて、それでまだアカの他人ってのか? ちっと無理あんぞそれ」
「二回目は無理矢理だろ」
「悪かったって」
「友達クマ?」
「じゃあ、まあ、そういうことで」
「え、歯切れわりーな」
 この程度の交流で「友達」なら、では千枝はどういう扱いになるのだろう。ひょっとしたら彼女も、そうかと問えば肯定的な答えを返してくれるかもしれない。
 いや、彼女だけでは、彼らだけではない。
「友達いるなら、大事にしなきゃクマ」
 思えば八十稲羽に越してくる前、柴又にいた時分、周りにいたクラスメートに対して、こういうことを考えた試しがあっただろうか。
 悠は決して無視されるタイプではなかった。それどころか、彼が孤独な時間を捻出するために編み出した「処世術」の副作用によって、ちょっと顔が売れているとさえ言える存在であった。彼らは実際、悠によく話しかけて来た。これを思い出すのに大した苦労は――それこそ半月程度しか経っていないのだから――必要ない。話しかけて、遊びに誘いさえした。ときに積極的に、彼らが友人に対してたいていそうしていたように。
 もし、いつもやっていたように諧謔と韜晦とで笑わせて去なすのでなく、きょう陽介にしたように真っ向に立って、自分の思うところを有体に述べていたとしたら。なにかの弾みに友情を確認されて、それをとっさに否んだとき、彼らはこう言っただろうか? 俺ら友達だろ、と。
 自分は肯っただろうか?
(いや、きっと拒否しただろう。いまだってそうだ、こいつと里中が特別なんだ)
 もし拒否したのなら、なにが理由だったのだろう。彼らの容貌? 声? 性格? 知性? 嗜好?――すべて違う。いままで擦れ違ってきた数多もの同級生の中に、彼の気に入る人間がひとりとして存在しなかったなどということはあり得ない。
(もちろん違う、不本意だけど、違う。おれはそれを知ってる)
 彼ら一人ひとりをちゃんと弁別して見はしなかったことを、悠は得体の知れない後味の悪さとともに思い出していた。彼は自分の周りに等間隔で座っている同年代の人間たちを、「同級生」という細胞群で構成された、一匹の生物と見なして観察していたのだ。
 あるいは、いまでさえ。
 ではなぜもっとよく見なかったのだろう。
「うらやましいクマ。クマは友達いないから、したくたってケンカもできんクマー」
 クマが後ろを向いて、足下のなにかを蹴るような仕草を始めた。いじけているのをアピールしているようだ。
「うわ、なにげにぼっち宣言とか寂しすぎるだろお前……」
「誰か……アテはないの?」
「あるわけないクマ、この世界にはクマしかいないクマ」
「お前って、どのくらい前からここにいんの」
 この問いはかなりの難問だったようで、クマはそうと言われたなり、電源が落ちたようにして長いあいだ黙ってしまった。
「……クマ?」
「おーい、戻ってこーい」
 ややあって、クマは小さな耳を押さえるようにしてあたまを抱えて「わからない」と宣った。
「わからんって……」
「わからんクマ……ほんとうに、わからんクマ、長いあいだクマ、どのくらい前なのか、数えてたことがあったかどうかも、もう覚えてないクマ」
 なにぶん着ぐるみのことで、彼の面に表情らしいものは認められなかったが、その声音はそれを補って余りある寂しさに満ちている。
「ずっとずーっと、ひとりぼっちクマ。じゃなくていっぴきぼっちクマ」
「あー……お前って、けっこう大変なんだな」
(これが孤独なんだ、本当の)
 おお、いとも笑うべきわが処世術! つまるところ悠の座っていた椅子は、それもかなり座り心地のよい、凝った造りの、おごった綺羅の張られた椅子は、ただ自称によるほかない陳腐な紛い物であったらしい。この世にただひとり、自分しかいない、「孤独」とはこの着ぐるみの座っている椅子のことだった。ほかのどんな粗悪で安っぽいものだって、近くにあれば喜んでそちらに座ったであろうほどの、冷たく硬い氷塊のような椅子。
 クマのあれほどの人恋しさも宜なるかな、である。
「そりゃもー大変クマ! おまけに最近やたらとシャドウが出るし、暴れ回るし、怖くておちおち散歩もできないクマ。肩身せまいクマよ……」 
「ちょっと、待って。クマ、シャドウって?」
 自嘲と内省の時間は唐突に終わりを告げた。なにも陽介の常備薬を求めてわざわざこんなところに来たのではないことを、悠はようやく思い出した。
「お、そうそう! シャドウってなんなんだよ」陽介がクマに詰め寄る。「俺らいろいろ聞きに来たんだよ、そーいうこと」
「シャドウは……うーん、ユーレイ? みたいなものクマ、たぶん」
「ゆ、幽霊?」
「ここの霧が晴れるとたくさん現れるんだけど、さいきんは霧があってもウロウロしてることが多くなったクマ。意地悪で乱暴で残酷で、すごくあぶない奴らクマ、だからはやく帰ったほうがいいって言ったクマ」
「鳴上」
「クマ、そのシャドウって、どんな格好してる?」
「かっこう?」
「ひょっとして、身長四メートルくらいで、裾の長い、こう、脛まである黒い服着て、鉄仮面つけててーー」
「んーシャドウに決まった形はないクマ」と、クマが割り込む。「みんな違う形だから、そういう格好のシャドウもいるかもしれんクマ」
(とりあえず尻尾は掴んだ……のか? いや、弱いな、もっと具体的な存在だと思ってたんだけど)
 始めこそ夢の中の出来事であったとはいえ、二度同じ形を伴って現れ、同じ言葉を発し、同じように命を狙ってきたあの巨人。とうてい幽霊などというあやふやなものには見えないばかりか、悠は未だかつてあれほどの具体に遭遇したことはなかったほどだ。あれがさして特別な理由を持たない、シャドウというカテゴリーに分類されてさえいればみな一様にかくあるというような、その辺りの有象無象と同じであるとは今ひとつ信じられない。
 それともシャドウはそもそもが執念深くて、一度ねらった獲物はどこまでも追跡する性質なのだろうか。
「クマ、シャドウって、特定の誰かをしつこく追いかけたりする、なんて事、あるものかな」
「うーん……シャドウは危なすぎるし、クマそんなに近くまで近づいたことないし、よくわからんクマよ」
その後、さらにいくつかのやりとりがあったが、クマの返答は終始あいまいかつあやふやで、そこはかとない怖れに満ちたものだった。さしずめトラの生態に関してウサギが見解を述べている、といったような内容である。どうやら彼はこの世界の力関係において、ほとんど最底辺といってもいいほどの弱者で、シャドウとやらはその対極にある存在らしい。――なるほど彼はひとりぼっちだった。どれほど孤独を温めたところで、シャドウは話し相手に選びうるような隣人ではないのだ。
 クマの提供してくれた情報は貴重であったとはいえ、それによってかの巨人の姿はより鮮明になるどころか、かえってぼやけてしまったきらいがある。今までの仮説を揺るがすには足りても、新たな仮説を立てるには質、量ともにまるで足りない。
「お前ってなんか、ここ長いって言ってるわりに、あんま知らねーのな」
「以前はこんな殺風景じゃなかったし、もっともっともーっといいトコだったクマ!」クマがぴこぴこ地団駄を踏み出した。「クマずっとひとりだったけど、静かで、いい匂いがして、なんとゆーかもっと明るいトコだったクマ!」
「その、なんでシャドウがうろつくようになったんだろう。なにか心当たりはない?」
「ないクマ、そんなもの」クマは即答した。
「お前が、ほら、なんかしちゃったとか、ねーの?」
「なんにも起きなかったし、しなかったクマ。まいにち平和で、ひとりぼっちだったけど、楽しく暮らしてたクマ」クマの声が次第に潤みがちになってくる。「クマはここに住んでただけ。ただここに住んでただけ、なんにもしないし、初めてシャドウを見たときだって、ちゃんと挨拶して、仲良くしましょうって言ったクマ。でもあいつらはクマをぶって、追い払って、この世界をこんなにしちゃったクマ……」
「…………」
「……そーいえば、キミたち、さっき言ってたクマ。シャドウのことを聞きに来たって」
「うん」
「あー、まあそれも込みでっつー意味で、だけど」
「ひょっとして……キミたち、シャドウをやっつけに来たクマ?」クマの声が一転、期待に明るみ始める。「いやいやそーに違いないクマ! ふたりとも強そうだし、それならきのう入って来たのも説明つくクマ!」
「つかねーよ! 俺ら路に迷ってたの知ってんだろーが! ただ訊きに来ただけだっつの」
「じゃあ、なんでシャドウのことなんか訊くクマー? とゆーか、クマ思うにィ、キミたちたぶんシャドウを知ってるクマ。じゃなきゃこんな興味シンシンにはならないはずクマ。そんでなんで興味シンシンかと言えばァ……それは弱点を知りたいからでェ……つまり、キミたちはシャドウをやっつけたいクマ!」
「やっつけたくねーよっ! たく、ちっとウルっと来たらこれかよ」
「クマ、シャドウかどうかはわからないけど、調べてることがあるんだ、おれたち」
「へ、なにクマ?」
「さっき少し話した、身長四メートルくらいの巨人のことなんだけど……聴いてくれる? おれたちの話」
「ほかにもいろいろあってさ、ちっと長くなるかも知れんけど」
「あっ、こんどはクマが聞く番クマ?」クマは嬉しげにしている。「聞くクマ、いくらでも。長くなったっていいクマ。お話だいすきクマ」
 この「お話だいすきクマ」には真率の響きがあった。まったくこれほどお喋りで賑やかな生き物が、覚えていられないほどの長い年月を沈黙と寂寥のうちに過ごしたというのだから、
(お前ってけっこう大変、なんてレベルじゃないな。ほんとうに可哀想なやつなんだ)
 陽介が「ちっとウルっと来た」のも無理からぬことである。





[35651] シャドウじゃなさそうクマ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:41



「シャドウじゃなさそうクマ」
 話を聞き終えたクマの、第一声がこれである。
「なんか、詳しく聞けば聞くほど……なにもんなんだ、その巨人って」陽介が眉根を寄せた。「シャドウよりやばいんじゃねーの、そいつ」
 最初の夢の話から順を追って説明したのを、いま初めて聞いたもので、陽介もどうやらクマに賛成らしい。
(満場一致だな。あれはやっぱりシャドウじゃなさそうだ)
 まったくのところ、件の巨人、整理すればするほどわけがわからなくなってくる。
「シャドウは向こうに出られないはずだから、シャドウじゃないクマね」
「ほんとうに出られない?」
「シャドウは人間を襲うクマ、少なくともクマの知ってるかぎり、ここに入ってきた人間はみんなシャドウに襲われてるクマ。人間だけ襲うかどうかはわからんけど、もし出られるならこんなトコいないで、人間をさがして一匹のこらず出ていくクマよ」
「……襲われるところを、見たの?」
 クマはちょっと黙ったあと、ぽつんと「無事に帰れたのはキミたちが初めてクマ」と宣った。
「…………」
「こん中だけならまだマシだぜ、クマには悪いけど。で、そのシャドウよりやばい巨人ってどうよ」と、陽介。「夢ん中に入って来たり、ひとをテレビの中に押し込んで殺したり……バケモンだな」
「花村、そいつが先輩を殺したかどうかなんてわからない」
「だってこんな一緒くたにいろいろ起こって、明らかに怪しい奴がいるってのに、ぜんぜん関係ないなんてありえねーだろ!」続けて、悠の口の開こうとするのを遮って、「わかってる。詭弁ってんだろ、シロじゃなきゃクロってのはそりゃおかしいけど……あーっ、言いたいことわかんだろ鳴上」
「言いたいことはわかる」
(わかる。現状、確証がなくたって、この一連の事件をあいつに結びつけてはいけない理由なんて考えられない)
 ただ、不審な点もないではない。こうして思い返すだにあの夜、テレビに押し込まれそうになったとき、かの巨人が悠を殺そうとしてそうできなかったとはどうしても思えない。悠を縛める腕を解いたのは少なくとも、彼自身の努力ではなかった。巨人があの矛で自らそうするにせよ、テレビに落としてシャドウに襲わせるにせよ、これが不可解ではある。
(かといって、なにか他の理由があったなんてとてもじゃないけど……)
 友好を求めるにあれほど理に適わないやりかたもあるまい。おまけに陽介の言を採用するなら、先方は最低でも殺人の前科が二犯、未遂も含めれば三犯の凶悪犯である。であれば、殺すより先にしなければならない、なにか特別な目的があったということなのだろうか。
「なんで先輩とか、山野アナが狙われたんだろうな……無差別なんかな、やっぱり」陽介がぽつんと言った。「山野アナは知らんけど、先輩、そんなことされるようなひとじゃなかった」
(そうだ、なんであのふたりが選ばれたんだろう。なにか共通点が――いや、ふたりじゃない。おれも含まれるかもしれないんだ!)
 この陽介の言葉が、悠にある可能性を突きつけた。手段はさておくとして、あの巨人は「テレビに入る能力を持つ人間」を始末するために現れたのではないか? 山野アナも早紀もひょっとして、悠と同じにテレビの中に入ることができたのでは?
(もしそうだとしたら、そしてあいつがテレビの外に出てこられるなら)あの冷たい巨人の手の感触が甦る。(安全な場所はない、ってことだ。ほかにそんな珍しいことのできる人間が、もういないとしたら、次は……)
「鳴上?」
「それで、キミたちはどーしたいんだクマ? その鉄仮面の巨人をやっつけたいクマ?」
「……やっつけられるものならやっつけたいよ」
 なにしろ命に関わるらしいことなのだ。ここまで知ってしまえばもはや、これをちょっと危険な好奇心などという浮ついた言葉で片付けることはできない。危なそうだからとここで引き返したところで、早晩いきつく先は百舌の速贄である。それがイヤなら、とにかく行動しなければ。
「でも、そうできないまでも、なんとか調べて、止める方法を探したい、と思う」
「できるかどうかわかんねーけど、つか、かなり無理っぽそうだけど、俺も協力する」陽介にあんがい怯えたふうはない。「そいつが先輩を殺したってんならぜったい許せねえ」
「花村――」
「わかってるって。でもひとりよりマシだろ」
「ふたりのほうがマシだな。おれとクマとで」
「おま――!」
「クマ」と、陽介を遮って、「おれはこの世界のこと、ほとんど知らない。だからクマに案内役をやって欲しいって、思ってる。協力してくれないかな」
 少し考えるふうを見せたあと、クマは改まって話し始めた。
「……シャドウは人間を襲うクマ」
「うん」
「この世界に人間が入ってくると、シャドウは活発になるクマ。現にいまもそう、ふたりを探しまわってるやつがいるクマ」
「え、お前、んなことわかんの?」
「匂いと気配でわかるクマ。――いままで人間が入って来たことはあったけど、こんなに頻繁に、みじかい期間でたくさん入ってきたこと、なかったクマ。もしキミの言う、その巨人のせいでそうなってるなら、クマもなんとかしてほしいって思うクマ。シャドウは霧が晴れたとき以外は、それほど暴れ回ったりしなかったし……もしその巨人を止めることでこの世界が静かになるなら」
 と、言って、クマは樽型の身体を折り曲げるようにしてお辞儀をした。
「お願いするのはこっちのほうクマ、そいつを捜し出して、こんなこと止めさせて欲しい。頼めるの、キミたちしかいないクマ!」
「断る理由なんかないよ、もちろん引き受ける」悠はクマの手を取って握手した。「よろしくね、クマ」
「約束、してくれるクマ?」
「約束するクマ」悠は笑顔で肯った。
「あ、ありがとう! よかったクマ!」クマは嬉しげに握手した手を振り回した。「ふたりがいてくれるなら心強いクマ!」
「あ、クマ、コレは数に入らないから」悠は陽介を示して言った。
「なんでだよ! 俺も――」
「理由は外で話しただろ。今回は無理矢理ついてきたから仕方ないけど、きょう解決できないなら花村を員数に入れることはできない」
「来ないクマ?」クマはやや寂しげに陽介を眺めている。「たくさんいたほうが楽しいクマ……キミ、ハナムラクマ?」
「いや行きたいんだって――え、名前? 俺は花村陽介。こっちは」
「こっちのひとは知ってるクマ。えーとナルカミセンセイクマ、たしか」
「先生?」
「こないだキミたち三人でやってきたとき、ヨースケと女の子がそう呼んでたクマ。センセイクマ?」
「……花村、そんなこと言った?」
「や、里中じゃね? 覚えてねーけど。つか呼び捨てなんだ……」
「よく覚えてるな、クマは。おれの名前は鳴上悠、先生なんて呼ばれるほど偉くないよ」
「センセイって、えらいクマ?」
「んん、まあ、そんな感じ」
「ふーん。じゃ、ユーとヨースケ、よろしくクマ!」
 自分で訂正しておきながら、悠はなんとはない居心地の悪さを感じた。自分の名前を気に入っていない彼にとって、この「ユー」呼ばわりはあまり耳よいものではなかった。
(家族にされるんならともかく……やっぱり、なんか違う)
「クマ、ユーじゃなくてナルカミがいいな」悠は控えめに提案してみた。
「ナルカミって、みょうじクマ? なまえじゃないクマ」
「お前、名前とか名字とか知ってんだ」
「え、ヨースケ知らないクマ?」
「知ってるっつの……お前って、そういうのどこで習ったわけ?」
(そうだ。このクマって、いったい何者なんだろう……)
 以前にも調味料だのパンツだの、この世界ではおそらく識り難いたぐいの概念を口に上していた。いや、そうと言えば日本語を喋る時点で奇妙なのだ。長い年月をここで過ごしたと言うが、それより前はどうだったのだろう。そもそもこの着ぐるみの中身は日本人? なにもそうであればおかしい、ということにはならないが……
「ところで、クマって、人間なの?」
「おま……ズバッと訊くのな」
「クマはクマクマ」
(話にならないな)
「……クマ、ちょっとじっとしてて貰える?」
 と言って、悠はクマの背後へ回った。
「なにクマ?」
「うん、いや、ユーじゃなくてさ、ナルカミって呼んで欲しいなあって……」
 ずんぐりした着ぐるみの胴体と頭部をつなぐぐるりを、太いファスナーが廻っているのが見える。何気ないふうを装いつつ引き手を掴むなり、悠はそれを一気呵成に引き回した。たちまちドーム状の頭部がこぼれ落ちる。
 悠と陽介はなかよく叫んで飛び退った。
「な、なんで……!」
「うっそだろ、これ無人なんかよ!」陽介は派手に尻餅をついている。「つかお前やるならやるって言えよっ! ショック死すんだろが!」
「悪い、でもこんなの予想できないだろ!」 
 驚くべきことに、着ぐるみの中には誰も入っていなかった。ほの暗い空洞を恐るおそる覗き込んでみても、小人一匹さえ見つからない。クマ――と言うより、手足の生えた容れ物――といえば慌てた様子で、足下に転がった頭部を手探りに探している。
(いよいよわからなくなってきた……わかったことと言えば、クマが人間じゃないってことくらいだ!)
 多少の恐れを抱きつつ、悠はクマの頭部を胴体へ接合してあげた。
「いきなりなにするクマァー!」クマは例によってぴこぴこ地団駄を踏みだした。
「ごめん、でも、どうしても確認しておきたかったんだ」クマという存在の近しきが、果たしてこちら側か、あちら側か。「もうしないよ、約束する」
「ユーだってあたま取れたら気分わるいクマ? やめて欲しいクマ!」
「うん……そうとう悪いと思う。ごめん」
「お前ってさ、いったいぜんたい何者なんだ?」
「クマはクマクマ」
「って言うと思った。まー……いっか、害はなさそうだし」
「いいんだ花村……」
「で、お互い協力するのはいいとしてだ、具体的にどうすりゃいいんだろ」
「それはクマにもわからんクマ。でも、この前の人間が入り込んだ場所ならわかるクマよ」
「この前って」陽介が勢い込んで尋ねた。「それ、いつだ。昨日か?」
「きのうって、いつクマ?」
「何時間くらい前? ええと時間って、わかる?」
「む、そのくらいわかるクマ。えーと」
 クマは胴体の側面についているポケットをまさぐって、小さな懐中時計を取り出した。
「……うーん、二十時間、も経ってないくらい? クマ、たぶん」
「小西先輩だ、鳴上!」にわかに陽介がいきり立つ。「つか、クマ、お前それわかってて助けに行かなかったのか?」
「もちろん行ったクマ、だから場所がわかるんでしょーが」
「間に合わなかった?」
「うーん……シャドウはふつう、そのあたりをウロウロしてたり、地面の中に潜んでたりするんだけど」
「だけど?」陽介が相づちを打つ。
「人間が入ってきたときだけ、なんとゆーか、ちょっと変わった動きをするクマ」
「というと?」悠が相づちを打つ。
「いきなり現れるクマ、人間のところに。たぶんそういうことなんだと思うクマ」
「……たぶん、思う? 見てないの?」
「見れるほど近づいたらただじゃすまないクマよ!」クマがぴこぴこ地団駄を踏み出す。「でも気配と匂いからコーサツすると、クマ的にはそうとしか考えられないクマ。とくに霧が晴れてるとそういうことになりやすいから、クマが近くにいたとしても間に合わないことがほとんどクマ」
「おい、ちょっと待てよ……じゃあ俺たち、いまもかなり危ないってことか?」
「だーからクマはァ、ここはあぶないってェ、ずっとずーっと言ってるクマァ?」クマがふんぞり返る。「でもここはダイジョーブ! シャドウはここのほかにもいくつか、入りたがらないところがあるクマ」
 この世界は危険だと言いながら、自分と話しに来たという人間をあんがいあっさり招き入れたのは、こういう事情によるらしい。
「でもどのみち、あの時はちょうど霧が晴れてたし、クマが合流できてたとしても、たぶん逃げ切れなかったと思うクマ。キミたちももう少し入ってくるのが遅かったら、きっとダメだったと思うクマ」
「……俺らってひょっとして、かなり運がよかった?」
「その運がまだ尽きていないことを祈ろう。――じゃあクマ、さっき言ってた、人間の入り込んだっていう場所」
「行くクマ?」
「手がかりがあるとしたらそこくらいだろうし、頼める?」
「わかったクマ」
 図らずも学校で話した通り、これで「小西先輩の不幸のあったらしい現場にどうやってかたどり着くための、算段がついた」ようだ。陽介の優しげな面にある種の覚悟が閃く。まんざら命の危険に対してのものだけではあるまい、あのアパートで見たようなものが――あるいはもっと酷いものが――これから行くところにあるかもしれないのだ。早紀とさして縁の深からぬ悠にしても、平然としてはいられない。
「それと、行く前にふたりに渡しておくものがあるクマ」
 と言って、先ほど取り出した時計をしまいがてら、クマは入れ違いに眼鏡のようなものを取り出した。
「はいコレ。かけるクマ、きっと似合うクマ」
「なんだよ、この眼鏡」
「度入り?」
 言われたとおりかけてみると――思わず感嘆の声が漏れる。伸ばした手のうっすらと霞むほどの濃霧が、レンズ越しの視界からたちどころに掻き消えたのである。
「うお、すっげ……」陽介は眼鏡をかけたり外したりしている。「ええ? どういう原理……?」
「この世界を歩くのに役立つクマ」
「クマ、これ、どこで手に入れた?」と、悠。「クマが使うためのものじゃないよな、サイズ的に」
「え? えーと、えーと」
「あ、そーだよ、お前なんでこんなもん持ってんだ」
「……クマが作った、クマ」言いにくそう、というより、クマは恥ずかしがっているように見える。「こないだ、三人が来て、クマと話して、そんで向こうに帰ったあと、思ったクマ。ひょっとして、ひょっとしたらまた、こっちに来てくれるかもしれないって。そのときなにかあげたら、喜んでもらえるかもって、思ったクマ。だから……」
「…………」
「あの女の子のぶんもあるクマ」
「クマの思った通りになったわけだ」悠はにこやかに続けた。「ここでこれいじょう素晴らしいプレゼントって、ちょっと思いつかないよ。素直に嬉しい。だろ、花村」
「え? おお、フツーに嬉しいよ!」陽介は朗らかに続けた。「なんせこれなきゃほとんどなんにも見えねーんだから。ありがとな、クマ」
「どういたしましてクマー!」
「あ、ついでにさ、ちっと訊いて見んだけど――」
 と言って、陽介がなにか気にするようにして辺りを見回し始めた。ほどなく目的のものを見つけたようで、テレビの影にしゃがみ込んでなにか細長いものを拾い上げる。
「花村?」
「あー、あったあった。あのさ」陽介の持って来たのは、先に家電売場で見かけたゴルフクラブだった。「いちおう武器とか、まー雰囲気出しっつか、護身用で持ってきたんだけど……お前、なんかよさそうなの持ってない? 光線銃的なものとか」
「ブキィ? そんなものお取り扱いしてませんクマー」クマはにべもない。「言っとくけど、クマにできるのは道案内だけだから、自分の身は自分で守って欲しいクマ。クマはごらんのとおりのテンダーフレーム、アラゴトはノーセンキューベリマッチクマ」
「うえ……お前、なんかできねーの? 中身ねーんだろ? 人間じゃねーんだろ?」
「中身いっぱい詰まってるクマよ。愛とかー勇気とかー」
「クマ、シャドウって、殴りかかってなんとかなるものなの? そのゴルフクラブとか」愛とか、勇気とか、「役に立つのかな……」
「んーまあダメでしょーね」クマはにべもない。「シャドウはほとんどぜんぶ、人間なんかぜんぜん敵わないほど強いクマ」
「じゃシャドウに遭ったらどーすんだよ!」
「遭わないようにするクマ」
「遭ったらって言ってんの!」
「逃げるクマ」
「逃げられなかったら!」
「覚悟するクマ」
「マジかよ……!」
「準備は万端、善後策も完璧、これで後顧の憂いなし、だな……」悠は明日の夕刊の三面記事に想いをはせた。「花村、帰るならいまのうちだけど」
「い、行くよ。行くって。行かさしていただきますって……!」
「……じゃ、花村がやる気に逸ってるみたいだし、そろそろ移動しよう」
「んじゃ、こっちクマ」クマが先導して歩き出す。「ちょっとだけ離れてついてくるクマ。あんまり近くにいられると鼻が利かなくなっちゃうクマ」
「了解。――そう言えば、花村、それ」
「へ、あ、これ?」
 悠の指し示したのは、陽介の腰から垂れて下がる縄である。
「さっき気付いたんだけど、それ、なに?」
「あー……ダメだったか」陽介の面に苦笑が浮かぶ。「いや、これテレビの中から戻ってくるときの命綱のつもりで、結んできたんだけど、切れちまったみたいだな」
「……切れなかったら問題だったぞ。テレビパネルから伸びた荒縄なんて見逃してくれるの、葛西さんくらいだろう」
「お前の中の葛西さん株ってどんだけ低いのよ……もちろん、そこらへん考えてたよ。向こうの端っこ、里中が持ってるから」
 あわれな千枝はいまごろ、プラズマテレビの前で縄の切れ端を握ったまま立ち竦んでいるのだろうか。いや、もう付き合い切れないなどと言っていたからには、愛想を尽かして帰ったのかもしれない。
「なにしてるクマふたりともー。置いてくクマよー?」
 ふたりとも話がちになって脚を止めたのを、クマが焦れて急かし始めた。
「花村、急ごう」
「おお。――そうだ、鳴上ほら、昨日ここ来たとき」
「え?」
「なんかおまじないっぽいこと言ってたじゃん。なんかねーの? せめてこう、縁起のいいやつ」
「縁起のいいやつ、ねえ……」
 あればこっちが教えて欲しいくらいだ――もっともこんな状況でどれほど勇ましいことを言ったところで、悪質な皮肉にしか聞こえまいが。  
「……クォー・モリトゥーレ・ルイス」悠は陽介を追い抜いて足を速めた。「マイオラークェ・ウイリーブス・アウデス」
「待ってくれよ。で、なんて意味なんだ?」
「死にゆくものよ、いずこへ急ぐ。その力の及ばぬ難事にあえて挑むとは」陽介を振り返って、悠は薄い笑みを浮かべた。「……いまのおれたちにはぴったりだろ」





「なんだよここ……」
 それは件のスタジオを出て二十分も歩いたころ、忽然と視界の端に現れた。
(八十稲羽商店街……?)
 悠自身、商店街を見たのは越してきた日だけであったが、今し通り過ぎたガソリンスタンドのレイアウトには確実に見覚えがある。おまけに遼太郎の言っていた本屋まで見つかったのだから、おそらく間違いないだろう。古いガス灯ふうの街灯。やや色合いに乏しい渋い風情。おしなべて背の低い、棟を一様に鉋でならしたような家々。広い車道。黄昏をうたがう薄闇と、赤黒に明滅する不気味な空を除けば、そこは記憶にあるとおりの八十稲羽商店街であった。
「ここ、商店街だよな、八十稲羽の」と、困惑気に陽介が言った。「そっくりだ、いや、まんまだろこれ。どうなってんだ……」
 ふたりと一匹はつい先ほどまで、建造物はおろか樹木の一本とてないタイルの上を、シャドウに怯えながらこそこそ歩いていたのだ。さながら映画撮影所の屋外セットに迷い込んだような形である。
「もう近いクマ」クマの声に緊張が漲る。「シャドウも近くにいるクマ、ふたりとも大きなこえ出しちゃダメクマよ」
「クマ、いったいどうなってんだ」陽介は声を潜めようとしない。「ここは俺らの世界にある町なんだ。どうしてこんなところに」
「もっと声を小さく、クマ!」クマが大声で注意を促した。「クマにもわからんクマよ、さいきんおかしな場所が増えてるクマ。ここもそうだし、ヨースケたちに初めて会ったあそこもそうクマ」
 クマは続けて、どうやらこの世界は広がっているらしい、と言う。
「ここも以前は、ただ大きな穴が開いてただけの場所だったクマ。それが、人間が入ってきたときに、なんでかわからんけど、こんなものができたみたいなんだクマ」
 穴といえば、悠も先日この世界に入って彷徨った折にいくつか見ている。それと壁とがこの世界において移動を阻む「外郭」のような印象を与えていた。
「おい、鳴上、クマ、ちょっと」
 陽介が歩道へ逸れて、手近な店舗の庇に入ってふたりを手招いている。
「どうした」
「ここ、よく見てみろ」陽介の示したのは店の入口の引戸である。「中みてみようと思ったんだけど……わかるか? これ、開くようになってない」
(……嵌め殺しになってる、というより)
「なんだこれは……」
 嵌め殺し、というより、その引戸は外壁を含めた大きな「一枚板」の一部なのだった。よくよく見れば戸に張られたガラスも、この薄闇を考慮してさえ不自然なほど店内を透かさない。
「鳴上、携帯」
「…………」
 バックライトで照らしても、ガラス戸は黒色を白く反射するだけである。
「……これ、地だ、もともと黒いんだ。中なんてない」
「この店じたい恰好だけの作り物ってことか。にしちゃよく出来過ぎてるけど」
「どしたんだクマ?」元々の町を知らないクマはあっけらかんとしている。「まだ先クマよ」
「うん、ちょっとね」
 その後、いくつかの店舗を手分けして調べてみるも、結果は同じであった。つまりこの町は表面だけが恐ろしく精巧にできたハリボテのようなものらしい。
(こんなものが忽然と、穴をふさいで現れたっていうのか……?)
 人気の全くない、物音ひとつしない、この偽物の町の只中にあって、悠は気味の悪い寒気を覚えていた。見れば陽介も例外ではないらしい。――背中に猛烈なタックルを食らったのも、いま思えばありがたいくらいであった。この不気味きわまる道行きを耐えるに、ひとりよりふたりのほうがはるかにいい。
「終わったクマ? もうすぐそこだから、あんまりウロウロするとあぶないクマ」
(あと、一匹も、か)
「花村いこう。もう見るものはない」
「ああ、本命を除いてな」陽介の面に苦いものが奔る。「これから行くところにはもう、見当がついてる」
「どこ」
「……小西先輩の家、たぶん」クマの立ち止まったのを見て、陽介はため息をついた。「そこだ、コニシ酒店」
「とーちゃく、クマ」
 果たしてクマの指したのは、年季に煙る酒店の看板だった。「春鶯囀」との墨痕も鮮やかな行灯看板がひとつ、薄闇に翳る軒先をぼんやりと照らし出している。この「偽八十稲羽商店街」に入ってから初めて見る明かりだった。その下に乱雑に積まれた空のビールケース、特売か新発売か、いくつかの銘柄がポップ体で書かれた広告、そしてなにより見せかけでない、半分ひらいたままの引戸――
(ここは少なくとも、見せかけだけじゃないな。明らかにほかとは様子が違う)
「先輩、ここで消えたってことなのか? 自分の家で……」
「い、いるクマ、ユー、シャドウがかなり近くにいるクマ……」
「具体的にどの辺りに――」
 言いかけて、悠は言葉後を呑み込んだ。
「いま、音、したよな」陽介は凍り付いている。「誰かいるのか? 中」
「ヨ、ヨースケ、下がるクマ、はやく……!」クマがじりじりと後退る。「そこ、そこにいるクマ、潜んでたんだクマ!」
「いるってなにが――」
「花村!」
 とっさに駆け寄って、陽介の腕をつかんで引き倒すのが精一杯だった。もろとも倒れ込んだふたりの背に、粉砕したガラス戸の破片が盛大に降りかかる。
「あわわ……シャドウクマァ……」
 コニシ酒店から飛び出してきたのは、人間大ほどもある、ほとんど口だけの身体に、黄いろい乱杭歯と布団みたいな舌を備えた怪物であった。
「なっ、なんなんだよあれ……」
(あれがシャドウ……!)
 シャドウは同じ態のものが二匹いた。そのうちの一匹がどうやってか低く浮遊しながら、立ち上がろうとするふたりの許へゆっくり近づいてくる。見知らぬ人間に餌を与えられた野生の犬猫が、警戒心と空腹とを秤にかけながら臆面たらしくそうするように、見えないなにかを迂回するかのように躙り寄ってくる。
「花村、逃げないと――クマ! どうすればいい!」
「どうしようもないクマ、ここまで近づかれたら逃げたってもう……」クマの声に絶望が滲む。「か、覚悟するクマ……!」
「ふっ、ざけんなよ、覚悟しろ、だァ? そんな、潔く、ねーんだよ、俺は」
 どうにかこうにか立ち上がっても、陽介はすでに恐怖に押し拉がれていた。脚も腕も、一縷の望みとばかり相手に向けて構えられたゴルフクラブも、声すら病を疑うほどに戦いている。
「馬鹿! そんなもの役に――!」
「わかんねーだろっ! やっ、やってやる、来い!」
「冷静になれって! クマの話きいてただろ!」
「……鳴上、クマ連れて逃げろ、行けっ」
 いまにも泣き出しそうな顔で、震え上がりながら、陽介はこんなことを言う。
「なにを――!」
「聞いてたよっ! 聞いてたから、こっ、こうしてんじゃねーか……!」
「おまえ……」
「誰かが引きつけなきゃ――早く! 行けってのにっ!」
 そうと言われたところで動きようなどない。この「友人」を捨ておいて逃げる覚悟などというものは、こんな緊急時にとっさに探すものとしては、現状を打開する手だてと同じくらい見つかりそうにない代物である。――逡巡していると早く行けとばかり、陽介の鋭い蹴りが飛んできた。
(わからない、どうすればいい、どこか逃げ道は……!)
 尻餅をついたまま左見右見する。いくつかの小路が目に留まる。悠はしめたとばかり腰を浮かせる。が、このジオラマのような町ではどこへ逃げ込んだところで回り込まれるのがオチだ。それでも殴りかかるよりは……
「花村、とりあえず――!」
 悠はそのとき、自分の胸ポケットからなにか滑り落ちたような感覚を覚えた。足下で硬いもののぶつかる、かつんという音が聞こえる。携帯を落としたと咄嗟に思ったのは、足下にぼんやりした光を感じたからだった。
「……なんでここに」
(おかしい、これは段ボール箱の中にしまったはずだ、持ってきた覚えはない)
 悠の足下に落ちていたのは携帯電話ではなく、金色の帯で封をされたカードケースであった。それが薄い燐光を放っているのである。
 すぐ横で陽介が気を吐いた。持っていたゴルフクラブをバットさながらに振りかぶって、すでに触れる位置にまで近づいていたシャドウにフルスイングを見舞う。
「クマー! 逃げろー!」
 もろに一撃されたシャドウは横ざまに転がった。が、被害らしい被害を蒙った様子もなくふたたび浮き上がる。悪意に満ちた赤子の泣き声、とでも形容できそうな、身の毛もよだつ唸り声を上げながら。どうひいき目に見ても友達を欲しがっているようには見えない。もちろん、いまの一撃を愛情表現の一種と誤解してくれてなどいないことは明らかだった。
「おい逃げろって! お前も早くっ!」
 陽介はひん曲がったゴルフクラブを勇敢に構えて、あくまで立ち向かうつもりであるらしい。彼の必死の勧告もろくろく耳に入らない。なにをどうしようという意図もなく、悠の手は自然とカードケースに伸びる。
 つかんだ、と思った瞬間、悠の足下に暗い、広い影が落ちた。





[35651] 吾、は、汝
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:46



 いま自らが置かれている状況を評して言うに、もし彼自身の知っている語彙の中で少しでも近いものを選ぶとすれば、それは「混乱」になるだろうか。
 それはすぐ横にいたクラスメートの絶叫と、少し離れたところにいた着ぐるみの絶叫と、悠自身の口から迸った絶叫とでさらに強化された。これに感化されたのか、それとも別の理由か、悠達に迫っていたシャドウまで驚いたように飛び退る。
 薄闇に溶ける長衣と鉄仮面とを纏い、その体躯ほどもある矛を杖に持つ巨人が、忽然と、悠に覆い被さるような形で膝をついていたのである。
「吾、は、汝」
 凍り付く悠の頬を巨大な掌が包み込む。いっそ優しいとさえ言える、穏やかな挙差で。
「汝、は、吾」
 先に見た夢のように、磨き込まれた鉄仮面が近づいてくる。近づくほどに混乱はほどけて、どこか隠された根拠に基づく大いなる安心感が胸を占める。
「汝、よ、告れ」
 鉄仮面の双眸、その奥に金色の炎が灯る。この炎がどこのなにから来ているのか、悠にはそれがなぜか当たり前のようにわかる。この炎の種火がどこの火床に由来するものか。
「吾、呼ばへ」
 悠は手を伸ばして、いまや鼻先にまで迫った鉄仮面に軽く触れてみた。熱い。炎の熱さではない、あたかもそのすぐ向こうに血の通った肌があるのではと思わせるほどの、それは温もりに満ちた、
「……仮面ペルソナ
「鳴上……」
 悠の視界、というより、かつて意識したことのなかったより上位の知覚に、ふいに彼自身と巨人の顔とが同時に投影される。――これはまったく、途方に暮れるほどの困惑であった。悠には自分の顔と巨人の顔が同時に見え、しかも同時には見えておらず、おのおの独立して見えている、のである。
(???)
 とりあえず陽介に返事をしなければ、と、彼のほうへ振り向くと、今度は自分の後頭部と陽介が同時に知覚される。
「そいつって、お前の、いっ、言ってた」
「あ、待った、これは――」
 陽介が情けない悲鳴を上げる。知覚されていた悠の後頭部がぐうっと下へ沈み込んで、その向こうにへたり込んだ陽介と、彼を遠巻きにする二匹のシャドウを見下ろすような形になる。おれはいま立ち上がった――しかも、同時に悠は座り込んでいる。右手に硬く頼もしいなにかを握っている感覚がある。しかも、悠の右手は力なく身体の脇に垂れている。
(おれはいま、巨人になってるんだ……いや、おれはこのとおり座ってる。違う! いや、どちらでもあるんだ。なんだって? 馬鹿なことを! なに考えてるんだ? ええ?)
 この支離滅裂が疑いようもなく、しかし確乎とした真実であるというどうしようもない確信! 精神衛生上せめていま眩暈でも覚えられれば少しは楽になろうものを! この初めて出くわした、あまりにも異質に過ぎる概念になんとか説明をつけてみようと、彼は知れきった無駄な努力をしてみた。
「鳴上?」
「だ、大丈夫。ちょっと、待って、把握してる」
 右手をあごに持ってこようとする。頭上でなにかとんでもなく長大なものが持ち上げられる。それを振り仰ごうと上を向いても、悠の視界から陽介は消えない。どうやら巨人のほうがあごを逸らしたらしい。
(落ち着け、落ち着こう、いいんだ、わからなくていい、とりあえずこの場を……そう、こうしよう。とりあえず、どちらかだけ、いや、巨人のほうだけを動かそう、いや、この考え方はじっさい正確じゃない、動こう、よし、やれる)
「大丈夫クマかー、ユー!」
 着ぐるみがぎょっとした様子で後退る。「悠」がクマを見下ろしたのである。陽介を見詰めたままの悠はとりあえず、背中を丸めてアスファルトに突っ伏した。こちらの「統御」は最小限に留めなければ。
 シャドウに視線を転じると、二匹の小さな怪物は弾かれたように飛び退った。そうして惨めったらしい、負け惜しみめいた吠え声を上げ始める。
(あんなに得体の知れない、獰猛そうな怪物に見えたのに……)
 巨人の姿を得てよりのちに見下ろすシャドウの、なんとはかなく矮小に感じられることだろう! 悠はいま自らが、表現しようとしてしえないほどの、強大な生物であることを静かに認知していた。
「花村」悠は亀になったまま面を上げた。「この巨人の、後ろに」
「大丈夫なのかお前、どうした!」
「大丈夫。はやく、クマも。シャドウは、おれが」
 寄り添っていた二匹のシャドウのうち、一匹が乱杭歯を剥いて飛びかかってきた。――なるほど、クマの言い分は間違っていない。最初からこのスピードで襲いかかって来ていたら、悠も陽介も覚悟する時間すら用意できなかったことだろう。それも降って湧いたこの謎の力を得たあとでは、幼児が泣きながらだっこをせがんでくるのと大差なかった。
 振り上げた左腕にシャドウが齧り付く。なにかが腕を挟んだ、くらいの印象である。この巨人の肌を傷つけるには彼の歯も力も脆弱に過ぎる。もはやシャドウに対する恐怖は微塵もなかった。それどころか、必死にガリガリやるのを見ているうち、悠の中にはこの醜い怪物に対する軽蔑と、かすかな憐憫さえ湧いて来るのだった。
「花村、ほら。こいつは、なんにも、できない」自分でも驚いたことに、この科白は笑いを含んでいた。「そのゴルフクラブ、こいつらには、高くついたよな」
「……クマ! こっち、このでかいのの後ろに隠れろ!」
 陽介とクマが後退するのを待って、「悠」はゆっくりと歩き出した。悠を蹴飛ばさないよう迂回して、左腕のシャドウはそのままに、奥に控える片割れを目指して。――もう一匹の襲撃は、彼の相棒ほどの戦果も得られずに終わった。矛の無造作な一閃でシャドウはまっぷたつになり、なにか汚らしい中身をアスファルトにぶちまけて果てたのだった。
「うげ……」
「す、すごいクマ、シャドウがあんなにあっさり……!」
「……花村、少しは、気が晴れた?」
 巨人がUターンして戻ってくる間に、悠はそろそろと立ち上がりかけた。途端に巨人の足が縺れる。ついでに悠も横倒しになりそうになる。花村が慌てて駆け寄って彼を支える。
「おい、やっぱり大丈夫じゃねーだろ」
「いや、ほんとうに大丈夫なんだ、ただ操作が」
「操作? 鳴上、一匹のこってるけど――」
 と、陽介の言うあいだにも、件のシャドウは左腕からむしり取られたあげく、半紙でも千切るみたいにしてあっさり引き裂かれてしまった。
「…………」
「花村わるい、立たせてくれ」
 片方に専念するならともかく、この「巨人」を自分の身体と平行して使うのはそうとう難しいようだ。いままで試みたことのないたぐいの努力、喩えるなら、足で抽象画を描きながら手で写実彫刻を試みるような、まったく別次元のストレスを感じる。
 巨人が目の前に来るのを待って、悠はようやく花村から離れた。
(おまえを誤解してたな)
 自身の身体に専念するとじき、「もうひとつの知覚」はにわかに薄らぎ、それに伴って巨人の姿も霞んでいった。完全に消えてしまう間際、一枚の青い燐光を放つカードがゆっくりと、悠の結ぶ手のひらに落ちてくる。
(最初からあったんだ、おれのすぐ近くに。なくしたわけじゃなかった)
 落掌したのは見覚えのあるタロットカード。みすぼらしい旅装の若者が象徴的に、ちょっとデッサンを崩して描かれていて、その下のスクロールに「THE FOOL」の文字が躍っている。――彼はちょうど間に合ってくれたのだ、幾度も「自分」に恐れられ、誤解されながら。
「さっきのって、お前だよな、やったの……」陽介は呆然としている。「なんだよ、いまのやつ」
「……ペルソナ」
「ペルソナ……って、なに、どういう、てかお前なにしたんだよ!」
「あ、シャドウが」
 クマのそう言って示すほうを見たときには、すでに道路を汚す二匹の死骸は急速に消えつつあった。どういう原理か、シャドウは死ぬと――そもそも生きているのかどうかもわからないが――消えてしまうらしい。
「消えたな。どういう生き物なんだろう……」
「ああ、それもそうだけど、その、ペルソナのこと」
「よくわからない、おれも。ただ」悠は手に入れたカードを陽介の目の前に示した。「さっきの鉄仮面の巨人について、おれ、とんでもない誤解をしてたみたいだ」
「あ、そうなの……えっと、鳴上、なんだ?」
「え?」
「この指。なに?」
 と言って、陽介は目の前のタロットを怪訝そうに指さした。
「指って、いや、タロットカード」
「タロットカード? え?」陽介の眉が困惑に顰む。「……合図? 悪い、わからん、どういう意味?」
「ええと……カードだよ、カード。こういうのをタロットカードっていうんだ」
「こういうの、って……いやホント悪い、わかんねーんだけど。タロットカードは知ってるよ」
(……見えてないのか?)
「いまカードをつまんでるんだけど」
「……この指で?」
「そう、いま、この指で」
「冗談、じゃないよな、いや確認なんだけど」
「もちろん違う。大まじめ」
「……マジで? 見えねんだけど」
「冗談、じゃないよな、確認だけど」
「見えない。大マジで」
「そんなバカな、ほら、こうすれば感じる――」
 件のタロットで陽介の頬を撫でたつもりが、なんの抵抗もなく顔に埋没してしまった。
「どうして……」
「俺もどうして、だよ。たぶんお前以上にさ」陽介は力なく笑った。「ま、いいや。それはともかく、助かったぜ」
「助かったのはいいんだけど……」
「それより、さっきの、ペルソナって言ったよな」とたんに陽介の眼に好奇心が漲る。「なあそれ、俺も出せたりすんのかな……」
「というか、なんでおれにこんな」
「落ち着けヨースケ、センセイが困ってらっしゃるクマ!」
 最前から黙って様子を窺っていたクマが、ようようふたりの許へやってくる。なんだか恭しいような尊大なような、奇妙な態度である。
「……センセイ、だァ?」
「いやはやセンセイはすごいクマねー! クマはまったくもって感動した!」と言って、悠の手を取りながら、「こんなすごい力を隠してたなんて……シャドウが怯えてたのもわかるクマ!」
「隠してたわけじゃ」
「もしかして、この世界に入って来れたのも、センセイの力クマか?」
「あれを力なんて呼べるかわからないけど……そうなる、のか?」
「まあ、俺はできないから、そうなんじゃねーの?」
「ふむー……やっぱりそうクマか! こらすごいクマねー」ひとしきり感心したあと、クマは傍らの陽介の肩をびしびし叩いた。「なっ、ヨースケもそう思うだろ?」
「なに急に俺だけタメ口になってんだ! チョーシ乗んなっ!」陽介が凄んだ。「なんなんだその掌の返しようは!」
「はい……」クマはたちまちしょげ返った。「でもでも、ヨースケはアレ出せなかったし……」
「なんか言ったか」
「メッソウもございませんです」
「たく、オメーだってなんにもしてねーだろ」
「クマはシャドウを探知してくれただろ、案内もそうだ」
「そりゃ、そうだけど……」
「花村だって活躍したじゃないか、さっき」
「……ヨースケ、なんかしたクマ?」
「真っ先にシャドウに立ち向かって、おれとクマに逃げろって、言ってくれただろ」ひん曲がったゴルフクラブを指して、「誰にでもできることじゃない、おまえは凄い、ほんとうに。少なくともさっき、逃げることであたまが一杯だった、おれは……」
 火は黄金を試すというが、先の試金によって暴かれた陽介の裸かな姿は、顧みて悠の眼にいかにも眩しく映った。
 陽介はそもそも初対面のときから、いまひとつ軽薄で軟弱な印象の拭いきれない人間であった。彼に感じるようになった親しみもけっして丁重なものでなく、ただ側にいれば心和む、その陽気で善良な人柄に一定の信頼を置くことができただけに過ぎない。悠が彼を一段下に見ていた、というのは、じっさい否定しようもない事実だった。だのに……
(結局、おれにひとを見る目がなかったのか……いや、ぜんぶ見たつもりになってたんだろうな、きっと)
 この地金の輝きはどうしたことだろう? 捨身の勇気! それは悠自身、かつて自分の中に見出したことのないものだった。たしょう直情径行かつ短慮であるなどと、この輝きに引き比べてはほんとうに小さな短所と言わざるを得ない。彼は友人である、彼が友人である――この想念には悠自身の自尊心をくすぐる、なんとはない誇りがある。
「いや、いま考えりゃ、さっきは逃げなきゃいけなかったんだ。俺のはただの考えなしだって」陽介は照れているようだ。「誰でもできることじゃないっていえば、お前だよ。あのペルソナ? だっけ? あれスゲーじゃん!――あれってちなみに、いまもパッって出せたりすんの?」
「考えなしって言えばおれだって……準備してきたわけじゃない、あのペルソナが間に合ってくれたのはただの偶然なんだ、ほんとうに、ただの偶然」
 ましてその救世主を天敵あつかいしていたのだ。いかに悠自身に由来する力とはいえ、彼はその功績を誇っていい立場になかった。
「花村は逃がそうとした。おれは逃げようとした。この差は大きい」
「謙遜すんなって」
「そのセリフ、熨斗つけて返す」
「え、ノシってなに?」
「ヨースケはものを知らんクマねー。ノシっちゅーのはァ、桂剥きにして干したアワビのことでェ、むかしから敵を打ち伸ばして家産を伸し広めると言われて――」
「知らねーよっ! つかお前の知識どんだけ偏ってんだよ!」
「ええ……常識クマよ……?」
「なにそのちょっと信じられないこのヒトって態度!」
「尊敬するよ花村、ほんとうに」
 笑い含みにこんな言葉が口をついて出てくる。
 我がことながら、自分自身の言葉の、その真率の色に、悠は卒然とあることに気付かされた。――これは苦い自覚だった。思えば自分は、皮肉か諧謔でもないかぎり、そうすることによって相対的に、自らの価値を積極的に落としかねない言動を、いままで無意識に避け続けていたのではなかったか?
 思えば、クラスメートを「尊敬」するのは、これが初めてだったのではないだろうか。同年代の他人に対してこんな考えを抱くのは、実に初めてのことでは? 自分は「同級生」という細胞群で構成された一匹の生物に対して、いままでどんなことを考えていたのだったか。
(……光が強くなった)
 左手に抓んだままのタロットが、とみに輝きを増す。眼を射る燐光の中の、旅装の「悠」がもの言いたげに、彼を見上げているような気がする。――おれは愚か者ザ・フール、ではおまえは何者?
「あーもー大げさ過ぎんだって! それに殴ったってぜんぜん効かなかったんだし、なんかしたことにはならねーって……」
「そークマね」
「なんか聞こえた?」
「クマ耳ちいさいから」
「……お前も同じことしてみろっつんだよ」
「ムリムリ。筋肉ないもん」
 おまえはかつて同年代の他人を、ちゃんと見ようとしたことなんかなかった。尊敬したことなんかなかった。それどころか、おまえはその逆のことさえ考えていたのではなかったか。もし自分という人間を友人に持つものがいたとしたら、それが彼にとってどれほどの光栄であることか! その光栄の安売りなどすまい――おまえはこう考えていたのではなかったか?  
(やめろ! まったくなんて下らない答えが出てきたんだろう、考え過ぎるものじゃない、馬鹿馬鹿し過ぎる! こんなのはただの下手くそな自虐だ、謙遜のし損ないに過ぎない!)
 破り捨ててしまおうか――悠はタロットにそっと両手を宛がった。旅装の「悠」の無言の責めがむしょうに腹立たしかった。なにしろ思い当たることがあり過ぎた。ただこうも直接的に断じなかっただけ、彼一流の諧謔と韜晦とが、それをなにか別のものに擬態していたというだけ。
(いままでの考えを否定しさえすれば、それでおまえはどこかしら前に進んだ気になれるのか? おまえはそれほど愚かだったか! 考えるのをやめろ! 違う、考え続けろ!)
 こんな考えがいま、どれほど彼の胸中を虚しく滑っていくことだろう。悠は悄然として「悠」を破り捨てるのを諦めた。どんな凶悪なシャドウでも、彼をこれほどの恐怖に陥れることはできなかっただろう。背筋の凍る思いだった。どれほど真っ当らしい言説で自身を弁護しようとも、たったいま初めて見出した輝きが、それを隠しようもなく照らし出す。
「へーへー、じゃ次は盾にでもなってもらうか」陽介が悠の肩を叩く。「ま、お前らのおかげで、この先シャドウが出てもなんとかなりそうじゃん!」
「…………」
「おいって、そんなに落ち込むことねーだろ。ほら、おれだってとっさの行動で、次おなじことあったら逃げるかもしれんし」
「ありえるクマ」
「なんか言ったか?」
「センセイ元気ないなーって言ったクマ」
「いや、うん……」
「ほらほら元気だせってセンセイ、頼りにしてっからさ!」
「おまえは凄いよ、花村」悠は深いため息をついた。「先生なんて呼ばないでくれ、そんなんじゃない……」
「いやお前のほうがスゲーじゃん。つか……なんでそんな急にテンション低くなってんの? あれ?」
「ユーのほうがいいクマ?」
「……いや、センセイでいい」
 忌まわしいタロットはひとまず胸ポケットにしまって、悠は気を取り直した。
「悪い、ちょっとイヤなこと思い出してさ。――さ、中に入ろう」
「おう。じゃクマ、次はよろしくな。お前が戦ってくれんだろ?」
「もういっかいヨースケのお手本が見たいクマー」
 曲がったゴルフクラブを押し付け合いながら、陽介とクマが店内に入っていく。クマがことさら注意を発しないところを見ると、どうも中にシャドウはいない様子である。彼らが敷居をくぐるのを待って、悠も店内に足を踏み入れた。
 とたんに、店内の蛍光灯が一斉に灯る。





 八十稲羽商店街の店舗はおしなべてそうなのか、店内はわりあいに広かった。幅のそれほどない代わりに奥行きがある。鰻の寝床というやつだ。
「クマ、シャドウはいないんだよな」
「いないクマ」クマは自信ありげに断じた。「この町にはもう一匹もいないクマ」
「安心はできねーけど、でもまあ、こっちには鳴上センセイがいるし」
「そーそー、センセイがいればシャドウなんかこてんぱんクマ」
 一瞥した限り、店内に取り立てて奇妙なものは見当たらない。右手の壁にずらりと並ぶリーチインタイプの冷蔵庫が、しんとした店内に微かな顫動音を響かせている。色鮮やかな蒸留酒、つまみや菓子類に混じって、ちょっとした酒器のたぐい――雪子の言っていたものだろうか、城根焼との表記がある――まで販売されているのは、零細の専門店ならではなのだろうか。店のいちばん奥にちょこんと設えられたレジカウンターも、あまり窃盗を警戒していない、開けっぴろげな田舎っぽさを悠に想起させる。
「花村、ここに入ったことは?」
「え? ああ、向こうの世界でってことか」
 向こうの世界――もちろんそうとしか言いようがないのだが、おそらく一生涯出ることなどないはずだった世界を形容するのに、ちょっと素朴すぎる言い方ではある。
「なにか気付いたことはない? こう、パッと見た限り」
「どう、だろーな。俺も二回しか来たことなかったし」
「ああ、そうなのか」
 彼にも思い人を訪ねるに、その年頃にふさわしい含羞があったようだ。それとも侵略者たる負い目が躊躇させたものか。
「……言っとくけど、そういうんじゃねーからな」心を読まれたようだ。「ここに来る用事じたい、そもそもねーし。それでなくたってこの辺りにいると白い眼で見られたし」
「そういう思いをしてでも、二回は来たんだな」
「そーだよ……来ましたよ、小西先輩めあてで」陽介はあっさり白状した。「でもこんな感じだったぜ、たぶんほとんど変わってない」
(そういえば……あのアパートも、向こうの世界に実在するんだろうか)
 クマの懸念、この町のディティールの再現度、そして陽介の言葉を考え合わせれば、あの部屋も現実の、向こうの世界のコピーである可能性が高い。もしあれが陽介の言うように、山野アナと関わりのある場所であったなら、
(メゾン・ド・ラ・ネージュ、だったっけ。戻ったら調べてみなきゃな……いっそ叔父さんに訊いてみようか)
「そーいえば、コニシセンパイって、なにクマ?」クマが口を挟んだ。「さっきも言ってたけど、ひとクマ?」
「……なんだっていいだろ」
「たぶんここで消えた、学校の先輩なんだ」悠が注釈を入れた。「おれたちの知り合い」
「……えーと、そのう、ごめんクマ」
「いーって! よし、じゃあ店ん中しらべてみようぜ」
(もしあのアパートで起きたことと似たようななにかが、ここで起きたとすれば――)
 奥へ向かっていくらも経たないうちに、陽介が短く呻いて立ち止まった。棚と棚とのあわいに視線を落として、じっとなにかを見詰めている。
(――こういうものがあるのも、まあ、予想できたことなんだよな)
 立ち竦む陽介の肩越し、明るいウッドペイントの床に、なにか粘性の液体をこぼしたような、いびつな茶色い溜まりのあるのが見える。そして微かに鼻を突く、あの部屋で遭遇したのと同じ、異様な腐敗臭。
「先輩……」
 陽介がその場にしゃがみ込んで、なにか拾い上げた。
「それ、小西先輩の」
「やっぱり、そうなんかな」
 彼の手にあったのは、右足側だけの、女物の革靴だった。ダークレッドのストラップシューズ――間違いない、インタビューを受けたときにも履いていた早紀の靴である。
「先輩、やっぱりここで……」
「花村」
「……遺品に縋って泣くのかって、言ったよな、お前。学校で」
「んん」
「前もって言われてなきゃ、そうできたのにな、ったく」陽介は振り返って、気丈に笑って見せた。「そうだよな、そんなことしに来たワケじゃねーもんな。泣いてる場合じゃない」
「ああ――クマ、ちょっと」
「クマ?」
 物珍しげに冷蔵庫の中を眺めていたクマが、呼ばれて近寄ってくる。
「これ、どう思う」
 床に溜まって広がる「なにか」をクマに示して見せる。先にちらと見るだけ見たきり、クマはあまりこの光景に感心を寄せていない様子だった。
「跡クマね」
「跡?」
「跡クマ。ひとの」
「クマちょっと――」
「おい、跡ってどういう意味だ」陽介が悠を遮る。「お前なんか知ってるのか」
「よくわからんけど、ひとがシャドウに襲われたあとは、いつもこんなものが残ってるクマ」
「なんで死体がないんだ?」
「……死体はある。向こうの、おれたちの世界に」
「誰かが運んでるってのか」
「たぶん違うクマ。一回だけ見たことあるクマけど、こう、ズブズブーって、地面に沈んでいくクマよ」
「沈む……って」
「……なんで?」
「んー……しらんクマ」
 クマは大して気にならないらしく、あっけらかんとしている。いずれにせよなんらかの理由で、どうやらこの世界でシャドウに襲われた人間は、向こうの世界に「帰って」しまうらしい。変わり果てた姿となって。
(変わり果てた姿……あのシミ、この液体、腐敗臭……)
 例の火星探査員、大量のブルーシート、女生徒たちが噂していた「正体不明の毒物」――これらの断片的な情報がみな一様に、犠牲者たちの辿ったなにか不穏な運命を示唆しているように思われる。あの日、遼太郎が事件現場でなにを見たにせよ、それはほぼ間違いなく「変わり果てた姿」であったのだ。
 それこそ、大事な一人娘の安否をいっとき忘れてしまうくらいの。
「クマ、お前、なに持ってんだ」
 なにか見咎めたようで、陽介がクマを差し招いている。
「そこの台の下に」クマが奥のレジカウンターを指す。「落ちてたクマ」
「…………」
 クマからなにか受け取ったなり、悠に見せるでもなく、陽介は卒然とレジへ駆けて行く。
「花村?」
「これ……そうだ、やっぱり」カウンターの上でなにか忙しくしながら、陽介が言った。「鳴上、こっち」
 陽介の示したのは、いくつかの小片が合わさってできた一枚の写真である。細切れになっていたものを陽介が繋いだのだろう。
「前にバイト仲間と、ジュネスで撮った写真だ」
 まだ二度しかジュネスへ行ったことのない悠には、その写真の撮られたのが店内であるということ以外はわからない。服飾系と思しい小売店舗の前で、七人の男女が雑然とひとかたまりになって映っている。
「これ、先輩が?」
「なんでこんなこと……」
 たんなる偶然か、それとも破り捨てた本人が避けたのか、最前列に並んでしゃがむふたりの顔にだけは、裂け目が及んでいなかった。陽介と早紀の笑顔――写真撮影に臨んで用意するような笑顔ではない、なにかとても賑やかで、楽しいひとときをまさに生きている人間の、その一瞬間を切り取ってきたような、幸福な笑顔。
「――それよりさァ、早紀さ、ちょっと話あんのよ」
 悠、陽介、クマの三者とも、ぎょっとして声のしたほうを向く。
 なんの前触れもない、女の声が卒然と、カウンターと反対側の部屋の隅から聞こえてきたのである。
「あたしはね、まあ、いいんだけどさ、ミキのやつがギャーギャー言っててさ」
(誰もいない……なんなんだ? サキって)
「なに? ちょっと、もう時間やばいよ、行かないと」
 最初の声に答えたのは、果たして早紀のものだ。同意を求めて陽介を覗うと――案の定、口を半開きにして驚きを隠せないでいる。
「すぐ済むから。あのさ、早紀って、火曜のシフトドタキャンしたじゃん」
「うん……それはごめんって、ホントにさ」
「いやいーのよ、代わるのは別にさ。ただ、アンタ何回かやってるよね」
 沈黙が流れる。クマが最前から説明を求めるように、悠と陽介とを交互に見遣っている。
「……チーフに言うべきだと思うんだわ、家の事情ならさ」
「言ってるって」
「家の事情じゃないから、チーフに言わないで花村に言うんだ?」
「はあ?」早紀の声にトゲが生える。「なに言ってんの?」
 シフト、チーフ、花村――早紀がジュネスでバイトしていたことを考え合わせれば、どうやらこの会話は彼女とそのバイト仲間とのものであるらしい。いつ、どこで話されて、なによりどうしていま、このように不可思議な方法で「再生」されているのかはわからないが。
「あのさ、早紀さ、花村が早紀のこと好きなの知ってる?」
「……知ってんでしょ、そんなの誰でも」
「あんたはどうなの。好きなの?」女がため息をつく。「……ミキがさ、アンタが何回か休み取ってんの、ジョージツだとか言いふらしてんだわ、カズミとかに。黙らしといたけど」
 ふたたびの沈黙。クマが悠の袖を引く。悠は手振りで黙るよう合図する。
「早紀さ、いま付き合って――」
「なんとも思ってないって。向こうが勝手に熱あげてるだけだから」
 笑い含みの声。陽介にはさぞかし苦痛であろうはずなのに、その顔色の変わることはない。ただ声のするほうをじっと睨んでいる。
「花村、完全に勘違いしてるよ」
「それは向こうの勝手でしょ」
「アンタわかっててあんなに仲良くしてんだ」
「なに? じゃ嫌われるようにしろって言うの?」
「なんでその二択になんのよ。距離を保ちながら親しくって、できるでしょ。小学生じゃないんだから」
「わたしがどうしようとオリエには関係ないでしょ」
「ないね。あたしは彼氏の都合でズル休みとかしないし」
「誰が――」
「アンタさ、勝手に休んで悪いとか、周りのひとに対して思わないの? アンタが利用してる花村とか――」
「向こうが好きで利用されてるだけだって! わたしは関係ない!」
 みたびの沈黙。陽介が項垂れる。クマが焦れて地団駄を踏み出す。
「……マジで言ってんの? 早紀」
「マジよ。いろいろ付き纏ってきてウザいし、花村……」
「センセイ」
「クマちょっと静かに」
「……そのウザい花村にムリ通させて、代わりに誰かが穴埋め入ったりしてんの、どう思ってんの」
「だから謝ってるじゃない。それにムリならみんな言ってるでしょ、それを通すかどうかなんて花村しだいで、わたしは関係ないって言ってるの」
「ああそう……ジョージツのほうがずっとマシだったわ。もういいよ」
「なにその失望したみたいなポーズ。そっちが詮索してきたんじゃない」
「センセイ、そこに」
「いいから――そこ?」
「大した悪女だね、早紀」
「自分は善人のつもりなんだ? もう行くから」
「そこにシャドウが……」
 クマの指さしたのは、先ほどから女の声の聞こえてくる、部屋の隅の暗がりである。そこへ近づこうとして悠はすぐに足を止めた。
「花村、クマ、おれの後ろに」
 胸ポケットのタロットを引き出して構える。悠の睨め付ける間にも、暗がりからゆっくりと人影が吐き出されて来る。
「聞き覚え、あるだろ? 二ヶ月も経ってねーし、お前そうとう落ち込んでたし」
 悠は思わず背後の花村を振り返った。クマも悠と同じような感想を抱いたのだろう、傍らの陽介と、今し暗がりから出てきたばかりの人影を交互に見遣っている。
「ちっとマゾっ気はいってるよな、最後まで立ち聞きしてんだからさァ」
 蛍光灯の下に照らし出されたその人影は、見紛いようもない、陽介そのものだった。





[35651] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:53



「ヨ、ヨースケが、ふたりクマ……?」
「お前、誰だ!」
 陽介が誰何する。少年は冷笑を浮かべながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「誰って、俺は花村陽介だよ」
 テレビの中の世界、シャドウ、ペルソナ、そしてお次はドッペルゲンガーか! 正直、驚き疲れた感がある。この店がもう少し広かったら床の上をのたうち回って叫んだことだろう。
「クマ、さっき言ってたシャドウって」
「……そこの、ヨースケ? クマ」
「バカ言うな、俺が花村陽介だ」
「違う。俺も、だ」シャドウの貌が歪む。「お前みたいなクズが俺だなんて、マジでウゼーけど」
「……なにを」
「そのあと、どうだった? 自分のことウゼーって思ってる女の気を引くの。お前って筋金入りのマゾだよな」
「お前、何者――」
「あーおあいこだよな、お前もウゼーって思ってたんだから! この女、心にもないこと抜かして、俺に取り入ろうとしてんだってなァ」
「ふっ、ざけんなァ!」陽介が爆発した。「お前だれなんだよっ! なんなんだその恰好!」
「ウゼーよなァ……なにもかも。あの商店街も、ジュネスも、このド田舎暮らしも、ダッセェ地元民も、全部……」
「そんなこと思ってない! お前――!」
「花村まて、落ち着けって!」
 前に飛び出した陽介をあわてて引き留める。クマの言うとおり、いま陽介そっくりの姿で話しているこの少年がシャドウだとすれば、もちろん殴りかかってなんとかなる相手ではない。
「……クマ、こういうシャドウもいるの?」
「初めて見るクマ、でも、変クマ」
「なにが」
「あのシャドウ、ヨースケとまったく同じ匂いがする……それに、ここに現れるまでぜんぜん、なんの気配も感じなかったクマ」
 これがシャドウについてクマの言っていた、人間が入ってきたとき特有の「ちょっと変わった動き」なのだろうか。確かにかのシャドウはいきなり現れている。
「シャドウ扱いかよ……ま、仕方ねーか」シャドウは寂しそうな貌をしている。「これって、つまり、シャドウのせいなんだろ? いや、おかげか?」
(シャドウの、せい? おかげ? シャドウであるという自覚がないのか?)
「花村」
 悠がそう呼びかけると、陽介とシャドウの両方からもの問いたげな視線が返ってくる。
「いや、花村じゃない、というか……陽介」悠はシャドウを指さして言った。「そう、陽介。そう呼ぶけど、いいかな」
「いいよ……つか、名前で呼ばれんの初めてだな」
 驚いたことに、シャドウの面に照れくさそうな笑顔が浮かぶ。
(おれが名前で呼んだことのないのを知ってる……)
「おまえは本当に、その、花村陽介、なのか?」
「ああ」
「バカなに言って――!」
「花村たのむ、少しの間でいい、黙っててくれ」
「センセイ!」
「クマも。それで、陽介」
「なんだ?」
「悪いけど、正直に言って、おまえが偽物じゃないという確証が持てない」
「ま、そうなるよな、ふたりいるんだから。――なんか訊いてみる?」
「……じゃあ、里中はいまどうしてる?」
「切れた縄もって……どうしてんだろ。まだ家電売場にいるか、帰っちまったかもな」
「おれが転校した日、最初におまえに話しかけたとき、なんて言ったか覚えてるか」
「自己紹介して、なんだっけ、膝に乗りたいとかなんとか言ってたっけ、たしか。意味わかんなかったけど」
「里中と三人でジュネスに来た時――」
「お前らに焼きそば奢ったよ、ついでに言えばお前のは毒入り。あんときゃ悪かったな、今月あと三千円しかなくてさ……さすがに里中までいちゃステーキ奢れなかった」
「それはまあ、いい、けど」
「俺は三軒茶屋から転校だけど、お前は柴又で、でも元は三軒茶屋の近くに住んでた。オヤが板前で、ナナコちゃんってイトコがいて、タバコ吸ってて、少年院の常連で……天城越え狙ってる」シャドウがにっと笑った。「……まだやる? 意味ねーぜ、こんなの」
(確かに……姿形だけを似せた、なんてものじゃない、こいつは)
 信じがたいが、このシャドウは陽介であるらしい。――少なくとも、内も外も陽介同様の、シャドウであるという自覚のない、シャドウであるようだ。
「どうして、現れたんだ」
「……ずーっといたよ。つったって、わかんねーよな」シャドウが苦笑する。「この偽物の町に入ってからも、テレビの中に入ってからも、いや、お前の気を引こうとして、自転車でわざとスレスレに走って、バカみてーにゴミ箱に突っ込んで、助けてもらったときだって、いたよ」
「嘘だ! お前テキトーなこと言ってんじゃ――!」
「花村っ!」
「センセ――!」
「クマも! 頼む、静かにしてくれ」
(こいつ、シャドウはシャドウでも、話は通じるみたいだ)
 少なくともクマが恐れを交えて語ったようなシャドウではない、ついさっき襲ってきた口の化物などとはまったく異なる部類だ。なにをしに現れたにせよ、話し合いで解決できるかもしれない。
「質問を替える。なにが目的で花村の前に――自分の前に現れた」
「そいつに思い知らせるために」
 シャドウはそう言って、陽介を指さした。悠と話していたときは穏やかだった眼に危険な光が宿る。口元が軽蔑に歪む。陽介と相対したときだけ、彼は別人のような容貌になった。
「そいつがどれだけ汚らしい人間か。テメーだけキレイな外面とりつくろって、いままで俺にどれだけ腐りきったゴミを押し付け続けてきたか、思い知らせるためだ」
「ひとの恰好まねして好き勝手言ってんじゃねーぞ、シャドウ!」
「おお怖え――お前、いつまでそうやってカッコつけてる気だよ。シャドウだァ? お前ほんとうにそんなのが出てきたら、真っ先に鳴上の背中に隠れるつもりなんだろうが!」
 シャドウの面に浮かぶ、嘲りの笑顔が次第に薄れていく。
「前もって鳴上になんて言われてたって、お前が涙なんか流すワケねーぜ、たいして悲しくもねーんだから」笑みに代わって怒気が滲み始める。「小西先輩のことで納得したいからだとか、どの口がほざいてんだよ。お前は単にこの世界にワクワクしてたんだ」
「テメーになにが――」
「昨日のアレ、刺激的だったよなァ。里中がベソかいてんの見て、優越感に浸ってたよなァ。死体の跡、遺留品、喋る着ぐるみ、常識の通用しない異世界! 夜中の二時までお前、どんなこと考えてた? 最高だったよなァ、クソ面白くもねード田舎暮らしにはうんざりしてるし」
「黙れ」
「黙れ? 見りゃわかんだろ、お前が喋ってんだよ」憎々しげに陽介を睨め付けながら、「なにかおもしろいモンがあんじゃないか……お前がここへ来た理由なんて要はそれだけだろ」
「やめろ……」
 シャドウが嵩にかかって喋れば喋るほど、陽介は当初の勢いを失っていく。彼が反論らしい反論をしないので、傍目には図星を当てられて当惑しているようにも見える。
(花村が本当はこんなふうに考えてる……ってこと、なのか?)
「センセイ聞いて――」
「クマちょっと、静かに」
「やめねーよ。さっきのも凄かったよな、ペルソナ! お前つい本音が出ただろ、俺にも出せねーかなって」シャドウがゆっくりとレジのほうへ歩き出す。「鳴上の次はきっと俺だとか思ったりして、笑っちまうよな。ゲームのやり過ぎだっての、恥ずかしいヤツ! あわよくば悲劇のヒーローになれるって思ってたんだよな? 大好きな先輩が死んだって、らしい口実もあるし――」
「違うっ!」にわかに陽介が息を吹き返す。「お前、なんなんだ、誰なんだよ!」
「お前、ほんとうはわかってんだろ」
 シャドウがカウンターの上から写真の欠片をつまみ上げた。彼の面を占めていた憎しみの色が急速に薄れて、ふと弱気そうな、途方に暮れたような悲しみの色が滲む。
「俺はお前だ。ぜんぶ知ってる」
「ふざけんな! お前なんか――!」
 このシャドウの隙を好機と見たか、陽介が気負って一歩踏み出した。
「センセイ、シャドウが――!」
「クマいいかげ――シャドウ?」
「お前なんか知らない、お前なんか俺じゃないっ!」
 シャドウの横顔から感情らしいものが吹き消えた。怒鳴った陽介を一顧だにせずに、彼はそのままこちらに背を向けた。 
「クマ、シャドウって!」
「集まって来るクマ、ここに……」
「なあ、鳴上」
 背を向けたままのシャドウが、思いがけないほど明るい声で呼びかけてくる。
「……なに」
「悠って呼んでいいか?」
 悠は困惑した。先ほどのお返しのつもりなのだろうか、およそこんな場面にはそぐわない要求である。
「いい、けど」
「じゃあ、悠」
 と、言いながら振り返ったシャドウの顔を見て、悠は小さく呻いた。陽介もクマも同様の驚きを感じたに違いない。彼の両目に金色の、炎のような光の灯っているのが見える。
「俺、お前が好きだ」シャドウの口元が弛んだ。「ちっと理屈っぽくて、融通きかねーけど、お前はいいヤツだ、ほんとうに。同じ東京生まれだし、お前なら友達になってくれるかもしれないって、思ってた」
「…………」
「頼む、悠、クマ連れてここから出てってくれ」
「おまえは……花村は?」
「そんなヤツは存在しない」
 悠たちの背後で突然けたたましい音がする。振り返ると果たして、入口側の窓ガラスが割られている。
「そいつは俺のこと、俺じゃないって言った。自分を否定したんだぜ、いないのと一緒だろ」
「センセイ、来る、シャドウクマ!」
 クマの指さす先――いまほど割れた窓から、黒いヘドロ状のなにかが二、三、店内へ侵入して来る。
(くそっ、こんなときに!)
 すわ襲撃かと陽介を壁に押し付ける。悠は慌ててタロットを構えたが、目で追う暇もあればこそ、ヘドロは悠たちではなくシャドウの下へ集まり始めた。
「……花村、クマ、外へ」
「駄目だ! お前は駄目だ、逃がさない!」シャドウが陽介を指さす。「悠とクマは行け、でもお前は駄目だ!」
 悠たちの見守る中で、シャドウの姿が徐々に歪んでいく。肥大していく。集まってきたヘドロが彼の身体に取り込まれていく。――先のものだけではない、ヘドロはいまや窓からも入口からもなだれ込んで来ている。
 まるでシャドウがそれを呼び寄せているかのように。
(入口もダメだ、あのヘドロが……!)
「陽介、陽介! 一体なにをするつもりなんだ!」
「いない人間が、いるのは、不自然だ、だから、いなくする」
 膨れあがったシャドウの下半身が裂けて、そこからもう一対の脚のようなものが迫り出してくる。いや、脚ではない、前に突き出されたそれは巨大な手である。四つんばいになったなにか不気味な生物の身体に、まだかろうじて陽介と判別できる、猿に似た奇形の上半身が生えている――シャドウは人間の形ではない、不気味ななにかを目指して変形しつつあった。
「ドケ、ユウ」 
 陽介のものとも思えない、野太い声が落ちてくる。悠の目の前で棚がひとつ消し飛んだ。シャドウが手で「払い除けた」のである。
(あんなのを食らったら……)
「イケ、ハヤク。クマモ」
 ちらと陽介を見ると、こちらは恐怖に竦んでひと言をも発せない様子。クマのほうでもゴルフクラブを振りかざす気力などとてもなさそうである。
「できない、陽介!」
「ドケ!」
(考えろ! どうすればいい? さっきのペルソナを喚んで、一か八かこいつと組み合うか……!)
「オマエヲキズツケタクネーンダ……イッテクレヨ」 
(ダメだ。まだ早い、まだ言葉は通じる。ここで敵意を見せたらかえってまずいことになるかもしれない。それに――)
「陽介」
 悠は震える足をなんとか一歩、シャドウのほうへ踏み出した。
 現状、使い方のよくわかっていないペルソナなど、喚んだところで分の悪い賭である。まして友人を、向き合うと心に決めた最初の友人を、勇気と好意とを示してくれた尊敬すべき友人を、少なくともその彼となんら変わらない「なにか」を、あの電柱みたいな矛で打ち据えるなどと!
「陽介、ここに入ってくる前におれが言ったこと……覚えてるか」
「サア、ナンダッケ」
「おまえがこの世界に入った時点で、望むと望まざるとに関わらず、おまえの安全はおれの責任になる、って言ったんだ」
「……ドケッテ」
「なあ陽介、おまえが無理に入って来たんじゃないか」悠は笑った。「そのあげくに退けって、ちょっと勝手だ。それにここではおれの指示に従うって――」
 店内を轟音が揺るがす。シャドウが四股を踏むようにして、腕を床に叩き付けたのだ。それを二度、三度と繰り返しながら、シャドウはにわかに呻き始めた。
「陽介、どうした!」
「イッテクレ、タノム! モウイイ、モウイイ!」
 シャドウは「モウイイ」を連呼しながら、長大な脚と腕とを滅茶苦茶に振り回している。棚が吹っ飛び、冷蔵庫はひしゃげ、カウンターに置いてあったレジが宙を舞って小銭の雨が降る。――様子がおかしい。暴れているというより、
(……アレを振り払おうとしてるのか?)
 間断なく浴びせかけられるヘドロから、シャドウは身体を守ろうとしているように見える。
「陽介! この黒いのが邪魔なのか!」
「ウルセエッ!」
 怒号とともに、青桐の葉のような巨大な掌が降ってくる。背後の陽介が一瞬はやく、悠を掻い込んでもろとも身を投げ出す。いままでシャドウの見せていた理性が、徐々に失われつつあるようだった。
「鳴上、ペルソナ!」立ち上がりながら陽介が怒鳴った。「出せねーのか!」
「……まだだ、それはしない」
「なんで! やらなきゃやられんだろーが!」
「とにかく――いや」
(窓がふたつと、入口がひとつ……)
 シャドウは明らかに苦しみ始めていた。よたよたと店の奥まで退いて、あたまを両手で庇って、ときおりなにか振り払うような手振りをしながら、「イッテクレ!」と「マテ、ニガサネエ!」を悲鳴みたいに繰り返している。
(あいつを斬ることはできない。しない。少なくともそれを最後の手段にするなら、現状のベストはこれだ!)
 あの感覚を思い出せ、かつて意識したことのなかったあの感覚を! さながら祈るように、悠は左手のタロットを目の前に掲げた。
「ユウ、ヤメロ!」シャドウが悲しげに叫ぶ。「オマエ、ソレデナニスルツモリダ、オレヲコロスノカヨ!」
 悠の手前数歩の位置に忽然と、黒い長衣に身を包んだ巨人が現れた。同時にあの途方もない、とうてい達成し得ない大仕事を強制され続けるような、うんざりするようなストレスに身を苛まれる。
「やれ鳴上! あんな化物――」
(よし、来てくれた。あとは)
 悠はその場に膝をついて俯いた。「悠」の統御を最低限に落として、代わりに「ペルソナ」の自由を確保する。――ペルソナが歩き回るには店内はかなり窮屈だった。
「鳴上……なにやってんだ」
 陽介の呆気にとられたような言葉が降ってくる。悠はペルソナの巨体と矛とで店の入口を塞いだのである。
(よし、ヘドロの流入がかなり減った。あとはあの窓!)
「陽介、じゃない、花村」悠はそろそろと立ち上がった。「あの窓を塞ぐ。手伝え」
「はあっ? なんで!」
「あのシャドウを助ける」
「バカ言って――!」
「花村、おまえにはあれがなにに見える」
「シャドウだろ」
「おれには……いい、馬鹿にしてくれたっていい、あれは花村にしか見えないんだ」
「お前――違う、ぜんっぜん違う!」陽介の面に裏切られたような、難詰するような色が刷かれる。「なんで信じてんだお前は!」
「わかった、花村はいい。――クマ!」
 クマは部屋の隅っこでがたがた震えている。そちらへ行こうと陽介から離れた途端、それまで唸るのに忙しかったシャドウがいきなり突進してきた。悠ではない、陽介のほうへ。
「シネッ、ツブレロ!」
「待て陽介! 待てっ!」
(ダメだ、花村から離れることはできない!)
 そして悠が戻ってくるとつんのめるようにして急停止し、ふたたび呻きながら「タノムドイテクレー!」とか「テメースリツブシテヤル!」などと叫び始める。
(葛藤してるんだ。花村に危害を加えたくても、おれを巻き込みたくない……)
 なぜ? もちろん、陽介の悠に対する友情がそうさせているに違いない。彼はまさしくシャドウであっても、陽介以外の何者でもなかった。
 皮肉な話である。かつてあれほど内心蔑視し臭がっていた概念が、いまや彼の命を守る最後の盾となっているのだ。彼が心中ひそやかに誇ってきたかばかりの知性と理性とが、いったいいまこの場でなにほどの役に立っているというのだろう。
(いや! きっと役に立ててみせる。ペルソナの力も、陽介の勇気もおれは持ってない、おれにはこれしかない……)
「クマ! 大丈夫か!」
 クマはヒステリックに「だいじょうぶだけどいますぐにでもそうでなくなるクマァー!」と叫んだ。
「クマ、こっちへ来て!」
(どうやって窓を塞ぐ?)
 店内に落ちているもので使えそうなのは、棚材の切れ端くらいである。それさえ窓に打ち付ける道具もなく、そうできたところであのヘドロを防げるかわからない。――ふいに悠のもうひとつの知覚、ペルソナの身体に、盛んになにかが衝突するような衝撃を覚える。視界にヘドロの姿はなく、代わりに先に見たような口の化物と、その仲間らしい形容しがたいシャドウの数匹が映っている。埒があかないと踏んでヘドロが仲間を呼んだものか。
(ペルソナはじゅうぶん持ち堪えるだろう。でも窓はダメだ、なにか方法は……)
 クマがこちらへ駆けてくる途上、なにかを踏んで勢いよく転んだ。瓶である。床に蒸留酒の瓶が幾本か転がっている。
(このヘドロとか化物とかって、火を怖がったりしないか?)
「陽介、聞こえるか!」
「ドゲ……ユウ……!」
「待ってろ、いま助けてやるから!」
「鳴上……」陽介が心底わからないといった口で訊いてくる。「お前、なんであいつをそんなに」
「あれが――」悠はシャドウを指さして怒鳴った。「――花村陽介だからだ! クマ!」
「はいクマ!」クマがびしっと気をつけをする。
「床に転がってる瓶、わかる?」
「わかるクマ、けど」
「あれの中身を、あの窓の周りにありったけぶちまけて。転がってるやつ全部」
「わかったクマ、けど」
「そのあと火をつける。ああ、火はこれを」悠はズボンのポケットからライターを取り出した。「これ使って」
「……これどーやって使うクマ?」
「ええとこうやって――いや、ちょっと待って」
 ライターに続いて、制服のポケットからシガレットケースを取り出す。中に残った二本のうち、一本を忙しく銜えて火を点けて、悠はそれをクマに手渡した。
「これを火種に。さあ」
「わかったクマ、ええと、ええと……こ、この瓶クマ?」
「全部!」
「はいクマ!」
 クマのあたふたと仕事に取りかかるのを後目に、悠はふと思い立って、しまいかけたシガレットケースをふたたび開いた。
 残り一本。
(これが最後の一本)それを銜えて火を点ける。(これを最期の一服にはしない、してたまるか! ぜったいここから無事に出て、なんとしてでも叔父さんのタスポを借りる!)
 辺りに舞う粉塵に紫煙が混じると、なかば割れてしまった蛍光灯の薄明は紗に漉したようにおぼめいた。この舞台効果を待っていたかのように、シャドウはにわかに鎮まり、あらたかな煙草の御利益の甲斐か、悠の重苦しいストレスもいくらか和らいだような気がする。
 幕の引き始める頃合いだ――それが誰の、何の幕であるかはわからないけれども。
「陽介、聞こえるか」
 シャドウは応答とも呻きとも取れない声を漏らした。
「陽介、おまえさっき、こう言ったよな。自分が現れたのは、陽介自身に思い知らせるためだって」
「鳴上……」
「それはさっき言ってたようなことなのか」
「……ソウダ、ソノクズガ!」
「陽介、もういちど花村に向かってクズなんて言ってみろ、ペルソナでぶん殴るぞ!」悠は一歩踏み出して怒鳴った。「花村は、お前はクズじゃない、たった三日つきあっただけのおれにだって、そんな当たり前のことはわかる!」
「タッタミッカデナニイッテヤガル、オマエニハワカラネー。ソイツハドウシヨウモネーヤツダ」
「おまえはクズじゃない、でもおまえが聖人君子だとも言ってない――花村」
 いきなり話を振られた陽介が、きょとんと悠を見る。
「陽介が言ったことはぜんぶ本当か」
「……あれを陽介って言うな」
「ぜんぶ本当か」
「バカ言うな、違う」
「じゃ、ぜんぶ嘘か」
「嘘だ」
「……今日、朝、学校の校門でおれを待ってたよな」
「ああ」
「おまえ、言ったよな。昨日はなかなか眠れなかったって」
「当たり前だろ、あんなことがあったんだ!」
「そうだ。そうして授業中もその話ばかりした。授業が終わって、職員会議の放送があったとき、おまえは新しい事件を予感して、またここに入ろうって言った。――花村」
「…………」
「あの全校集会で校長先生がみんなに言う前に、小西先輩の身になにか起こったこと、おれが知ってたって言ったら、おまえ驚くか」
 陽介の眉が驚愕に顰む。シャドウが彼の動揺を代弁して、「オマエ、ドウシテイワナカッタ!」と言った。
「たとえじきわかってしまうことだって、おまえが可哀想だった。おまえが喜んでたから、楽しそうだったから言えなかった。この降って湧いた非日常を、それに片脚を突っ込んで、他のひとの知り得ない秘密の一端を掴んだ、そのことを楽しんでいたから」
「違う! 俺は――」
「チガワナイ!」シャドウが陽介を遮る。「ソウダ、テメーニトッテタニンノコトナンザ、イツダッテヒマツブシノタネニスギナカッタ!」
「なあ陽介、だけど、そうでない人間がいったいどこにいる」
 もう二、三歩進んで、悠はちょうど陽介とシャドウの中間あたりで止まった。――ふいに焦げ臭い匂いが鼻を突く。クマの努力が功を奏して、窓の下から桟の辺りにかけて炎が踊っていた。建材を焼く黄色い炎が、アルコールの青いそれを征服しつつある。じき店内にも燃え広がるだろう。
 件のヘドロは炎の窓によって防がれている。
「センセイ、火、ついたクマー!」
「ありがとう、助かった!」
「ぜんぜん助かってないクマ! このままじゃここもやばいクマよ!」
「わかってる――花村」漂ってくる白煙を手で扇ぎながら、「この一連の事件を楽しんでたのはおまえだけじゃない。知ってるはずだ、クラス全員が、いや、八十稲羽のほとんどの人間が、あの珍しくて日常からかけ離れたニュースに沸き立ってた」
「ダカラッテ」
「対岸の火事は大きいほど見物だろう。自分の身になんの関係もない事件を秘やかに楽しむ、ささやかな罪を、誰しも持ってるはずだ。誰も知らない秘密を垣間見た、それを探求する権利を手に入れた喜び、それを欲しがらない人間なんかいないだろう。いったいそれが、そんなに非難されるようなことなのか? おまえはその罪を持ってないって言うのか。自分は好奇心のひとかけらもない、学生服を着た枯木だとでも言うのか花村」次いでシャドウに向かって、「それを持っていた自分を、それを欲しがった自分をクズだと罵るのか陽介。自分だけは周りの人間のつまづく地隙に、足を取られることなんかないはずだったとでも? それは自惚れだ、おまえは聖人君子じゃない。クズでないのと同じに」
 シャドウに指を突き付けながらも、悠は心中穏やかではいられない。それは自惚れだ、おまえは聖人君子じゃない――わが口から出たこの何気ない言葉が、これほど苦しい自傷をもたらすとは! さながらシャドウの背後にもう一匹の、悠の恰好をした化物を見る心持ちだった。そらぞらしい理論で装った自尊心の権化、路という路を知ったつもりになりながら道に迷っている、旅装の愚者の姿を。
「ソンナコトヲイイタインジャナイ! コリツスンノガコワクテヒタスラヘラヘラシヤガルクセニ、テメーココロンナカジャドンナコトカンガエテヤガッタ! ヒトノタメダァ? オレハウマクヤッテルダァ? ウンッザリナンダヨ!」
 悠のつま先、ほんの数センチ前の床が派手に陥没した。シャドウが両の拳を叩き付けたのである。
「テメーダケキモチヨクジブンニヨッテ、オレニイママデナニヲナスリツケテキヤガッタカ! オレダケニ、テメーハ、ドンナゴミヲナスリツケテキタカ! テメーニハドンナキレイゴトモネー、テメーニアルノハキタネーヘンケントケイベツダケダッ!」
「偏見、軽蔑」
「俺は、そんなこと、そんなもの」
 偏見と軽蔑。単純で、表面的とさえ思える言葉。悠は胸の奥底になにかが刺さって、抉るように回り、封じられていたものが無慈悲に暴き立てられる激痛を感じた。偏見と軽蔑! こんな素朴で安っぽい、ありふれた鍵が、自分の複雑繊細なはずの錠前にこれほどぴったりと合ってしまうなんて。
 悠は足下の穴を跨いでシャドウに肉薄した。
「花村、陽介、おまえはおれだ……」
「な、鳴上?」
 偏見と軽蔑、つまりはそれだったのだ。悠がいままで周囲に抱き続けてきたのは、悠を支えてきたのはつまるところ、それだった。自己批判を逃れるために、ただそうと判じるにはそぐわない程度に、見てくれを歪められていたというだけに過ぎない。言うなれば優しい偏見、穏やかな軽蔑であった。
(内心でどれだけ反論できたって無駄だ、過去を振り返って見ろ、それが全てを証している。これだ! いつもそれにだけは陥るまいとしていた穴に、おれは住んでたんだ……)
 それは何度も通った、通い慣れた路だった。おれは誠実で論理的な人間だから、その判断は客観的で、偏見と軽蔑によるものでだけはありえない――なんという愚者! それは夜道を行く子供の唱える迷信的なおまじないだった。これを唱えれば追いはぎに遭わない。これを唱えれば野獣に遭わない。百度とおって百度遭遇しても、彼はこの下らぬおまじないの霊験を大前提として、それをほかのなにか別のものであるとして、事実を認めはしなかった。路を替えはしなかった。ほかならぬその高らかな声が、追いはぎと野獣とを呼び寄せていたことに気付きはしなかった!
 シャドウが押されたように後退った。
「……陽介、どうかそれを恥じないでくれ、花村陽介がそれを持っていることを」
「俺はそんな……そんなもの持ってない」
「持ってるさ、だからおれはおまえに惹かれたんだ、きっと」悠は自嘲気味に笑った。「陽介、お前にとってはゴミでも、おれにはそれが全てだったんだ……あんまりいじめるなよ」
「ナニイッテル! オマエハソンナノモッテナイ、オマエハソンナヤツジャナイ!」
「そうだ、お前はもっと――!」
 と、言いかけて、陽介はシャドウをちらと見上げた。シャドウもまた多少の驚きをもって陽介を見下ろす。
「おれも偏見と軽蔑の塊だ。いや、おまえはまだ上等だ、花村」
「チガウ! ソイツハ、オレハクズダ、オマエトハチガウ」
「さっきのこと、忘れてないよな。おれとクマを捨て身で逃がそうとしてくれたよな。花村、おまえはおれと同類、偏見と軽蔑の塊、似たもの同士の友達さ。でも」シャドウに向かって、「陽介、おまえにはおれにない輝きがある、だから尊敬するんだ」
「オマエハトモダチナンカジャナイ」シャドウは悲しげに言った。「オマエミタイナヤツガ、オレナンカノトモダチニナッテクレルワケナイ。ソンナコトハワカッテル」
「花村、おれたち、友達じゃないのか?」
「……俺は」
「あれだけ話して、ここまでお互いの事情わかってて、いっしょに二回もこんなところ来といて、それでまだアカの他人って言うのか?」悠は笑って続けた。「ちょっと無理ないか、それ」
「お前……」
「オマエニ、オマエニソンケイサレルヨウナ、ソンナニンゲンジャナイ、ソノクズハ」
「またクズって言ったな陽介、いくら友達だっておれもしまいにはキレるぞ」
「……センパイノシンダノヲ、ソイツハコウジツニシヤガッタ、クズダ!」
 鍵を見つけた――悠は唐突にそう思った。
「ふざけんな偽物、テメーになにがわかる!」陽介が俄然いきりたつ。「テメーはやっぱり偽物だ、俺なわけない!」
(そうだ、これ、使えないか?)
 悠は先ほどの、自らに同調した陽介を見下ろすシャドウの様子を思い出していた。この自分同士の不毛ないさかいを仲裁する鍵、それは陽介とシャドウ、両者のお互いに対する「共感」なのではないか?
 そもそもシャドウは陽介に「思い知らせるため」に現れたと言う。しかし陽介は思い知ることなく物別れとなり、ためにこのような事態となった。もし、陽介が最初からシャドウの言うことに耳を傾けていたら、シャドウもまた陽介の言い分を理解していたら、どうなっていただろう。そのあとシャドウがどうなるにせよ、両者は争わずに和解できたのではないか?
(花村陽介、悪いけど試すぞ……!)
「花村、おれも気になってたんだ」
「え……なにを」
「おまえ、ほんとうに先輩の死が悲しいのか?」悠は疑わしげに訊いた。「おれは陽介の言うことのほうが信じられる。そのほうがおれを説得しやすいから――」
 こめかみの辺りに火のような一撃を食って、悠は尻餅をついた。殴られた、と認識する暇もなく、怒れるシャドウが陽介へ詰め寄る。
「お前――!」
「待て陽介! 待て、いまのが答えだ!」這って両者の間に割って入る。「陽介、おまえは先輩の死が悲しい、そうじゃないのか!」
「ソイツハカナシンデナイ!」
「悲しんでる! おまえがほんとうに陽介なら、いまおれを殴ったときの花村の気持ちがわかったはずだ!」立ち上がりながら、「陽介、花村がおまえを偽物だと決めつけるように、おまえも花村を偽物あつかいしてる」
「チガウ!」
「花村、小西先輩が好きだったか」
「ああ」
「ウソダ! オマエハアノヒカラセンパイヲミクダシテタ!」
「陽介、小西先輩が好きだったか」
「スキダッタ」ふいにシャドウの目から涙が溢れる。「スキダッタ、ダイスキダッタ、ココニキテハジメテヤサシクシテクレタヒトダッタ!」
 花村が言葉の詰まったように呻いた。
「じゃあ、花村」
 悠は陽介の眼をじっと見詰めた。
「陽介は、小西先輩が好きだったか?」
「……好きだった。好きだったよ」
 シャドウが言葉の詰まったように呻く。
「花村、訊いてもいいか」
「なに」
「見下してたのか、先輩を」
「……さっきのアレ、小西先輩と、水原先輩ってバイトのひとなんだけど、そのひとらの話なんだ。聞いただろ」
「んん」 
 陽介は長いあいだ黙ったあと、ぽつんと「偶然アレを聞いたとき、正直キツかった」と呟いた。
「あんなに仲良くしてくれてたのは、結局、俺に取り入るためだったのかって、マジでヘコんだ」
「センパイハカレシガイタ、オレナンカガンチュウニナカッタ。ダカラ――」
「でも、どんなに疑ってかかっても、先輩はずっといいひとだった。俺にはどうしても先輩が、本心からああいうことを言うひとだなんて思えなかった!」
「オマエハイツモ、ココロノナカジャセンパイニドクヅイテタ。シッテンダロ!」
(まずい、火が……) 
 悠は忙しく煙草を吹かした。内心あせっている。最前から店内はすでに、かろうじて呼吸ができるといった程度にまで火の手が回っている。外壁はほぼ炎に嘗め尽くされて、今し天井へ燃え広がろうとしていた。入口を塞ぐペルソナといえば、この炎の中にあってさえ被害らしい被害を蒙った様子はない。頼もしい限りだが、
(おれが丸焼きなったら元も子も……くそっ、なるようになれだ!)
 悠は腹をくくった。陽介を焼き焦がし責め立てる、この炎と煙とに喜んで甘んじよう――自分はそう決めたではないか。
「そうだよ、いつも思ってた。そうやって気にかけてくれるのは、次の休みを取りやすくするためなんだろうって、俺への好意なんかじゃないんだろうって、思ってた。でもそんなんじゃ説明がつかないほど先輩は優しかった、親切だったよ。それに」陽介がシャドウへ一歩詰め寄った。「なによりあの日、俺が立ち聞きした日から、先輩は俺に休暇を頼まなくなった。知ってんだろ」
「ミズハラセンパイニイワレテヤメタダケダ」
「そうかもしれない。それでも、先輩がずっと優しくしてくれたのは事実だ。俺に頼まなくなってからも優しくしてくれたのは、先輩が優しいひとだったからだ。たとえ好意じゃなくたっていい。俺が、お前が好きだったのはそういう先輩だ。そうだろ?」
「俺は嫌われてた」
 シャドウの眼から金色の光が失せた。声も陽介のそれとなんら変わらない、元の通りに戻っている。
「……嫌われるのは、慣れてんじゃねーか、お前」陽介の眼から涙が溢れた。「八十稲羽の鼻つまみ者、ジュネスの王子、ゼンリョーなチイキジューミンを食い物にする侵略者、だろ? 陽介」
 入口でペルソナを押し退けようと躍起になっていたシャドウの群れが、唐突にその動きを止めた。成功か――内心快哉を叫んだ瞬間、頭上から木材の圧壊する不穏な音とともに、火を纏った化粧板が雨あられと落ちて来た。





「悠!」
 先にシャドウの攻撃から悠を庇ったときと同じに、陽介が飛びかかって来た。覆い被さる彼の身体越しにドスドスと、なにか重たいものの間断なく衝突するのが感じられる。
「花村……大丈夫か!」
「あー、へーきへーき」
「平気っておまえ!」
「なんともねーよ、こんなの」
 大怪我どころの騒ぎではないはずなのが、しかし身体を起こした陽介になにか不調らしい様子はない。おかしい――おかしいと言えば、そのすぐ向こうでクマと一緒にこちらを眺めている、もうひとりの陽介の姿などは……
「……陽介、なのか?」
 シャドウは手を差し伸べながら「どっちも一緒だろ」と笑った。つい先ほどまで目の前にあったシャドウの巨体が、忽然と消えている。
「クマ、それと……あー、花村」シャドウが陽介を指さした。「こっから出よう、店そろそろやべーし。悠、あれ消して、ペルソナ」
「ああ、うん……」 
 まるで憑物の落ちたように、シャドウは穏やかになっていた。つい先ほどまで見られたあれほどの激情の発露が、いまや彼には欠片も見出せない。別人のようである。
(成功、したんだよな……まあいい、それはともかく)
 いまはここから出なければ――ひと暴れさせて入口を広げてから、悠はペルソナを消した。三人と一匹は這々の体で、今し焼け落ちようとするコニシ酒店から脱出する。
「……かなりまずかったな、間一髪だった」
「火、つけるなんて、無茶すぎ、クマ……」
「はあ、結果オーライじゃね……」
 道路の真ん中までよろぼい出たきり、悠たちは誰からともなくその場にへたり込んだ。四者とも程度の差はあれ、身体中ススまみれの散々な態である。
(結果オーライか……でもほんとうに、やばかった)フィルタ手前まで吸いきった煙草を吹き出す。(ああ、タバコ、もう一本残ってたらな。いま吸えたら最高なのに……) 
 店の中でなにかメリメリと音がしたかと思うと、開け放たれた入口と窓から盛大な火の粉が吐き出される。火はようよう屋根にまで燃え広がったようだ。薄闇を押し広げて偽八十稲羽商店街の一角を明々と照らし出すその様は、ひとつの巨大なかがり火のようでもある。
「なあ、お前、ええとシャドウ?」
 路面に思いおもい座り込んで、少し経ったあと、陽介がおもむろに声を上げた。
「シャドウじゃねーよ」シャドウが気怠げに答える。「自分に向かってシャドウもねーもんだ」
「つったって、なんて呼びゃいいんだか……」
「ヨースケ、その、もうひとりのヨースケ? シャドウじゃなくなってるクマ」
「え?」
「は?」
「シャドウじゃなくなってる、クマ」
「もともとシャドウじゃねっつの。そりゃ、なんかよくわからんけど、俺がふたりいるのはシャドウのせいかもしれんけど……」
「クマ、もうちょっと詳しく」
「……さっきまで、少なくとも気配はシャドウのものだったクマ。でもいまはぜんぜん区別がつけられなくなってるクマよ」
「どーいうこった?」
「わからんクマ、こんなの初めてクマ。とゆーかそもそも、シャドウにこんなに近づいたことだってなかったクマ」
「おれはもう驚き疲れた。もういやだ、いまはもうなにも考えたくない」悠はその場で仰向けになった。「ああ……タバコ吸いたい……」
「ま、いっか、俺ももう疲れた! シャドウでもなんでも来いってんだ……」陽介も悠に倣った。「こういうときタバコ吸えたら気分いいんだろうな、雰囲気的に」
「試したことあったろ、むせただけだったけど」シャドウまで路面に横になった。「あー、いい天気だな」
「赤黒いだろ、どこがいいんだよ」
「俺が言わなきゃぜってー言ったくせに――花村」
「あん? つか、名字で呼ばれるとこっちが偽物っぽい――」
「ん」
 シャドウが寝ころんだまま、横たわる陽介の胸になにか置いた。
「持っといて」
「え、これ――」
 と、陽介の聞き返そうとしたときには、すでにシャドウの姿はなかった。
「あれ、え?」
「消えた……?」
「うっそだろ――クマ!」慌てて飛び起きながら、「クマお前見てただろ、シャドウは!」
「消えた、クマ、急に」
「ふっ……ざけんなよシャドウ! おい出て来い、こんな……!」
 陽介がなにか握りしめている。いまほどシャドウが渡したのだろうそれは、片っ方だけのストラップシューズ――店内で見つけた早紀の遺品であった。
「こんなんありかよ……あんだけ好き放題いいやがってっ!」陽介は俯いて泣いていた。「俺にはなんにも、言わせねーで、消えちまうのかよ……!」
「花村……」
 陽介の忍びやかな嗚咽に、木材の粛々と爆ぜる音だけが和する。ふたりと一匹はしばらくそのまま、ものも言わずにただ佇んでいた。
「ヨースケ」ややあってクマが沈黙を破った。「さっきのシャドウ」
「……んだよ」
「考えてたんだけど、あれはたぶん、もともとヨースケの中にいたんだと思うクマ」
「だからとつぜん現れた?」と、悠。「それにあいつ、花村と記憶を共有してた……」
「そうとしか思えないクマ。あのシャドウ、出てきたときも匂いだけはヨースケと同じだった。そんで、なにがどーなったのかよくわからんけど、そのあとは気配まで完全にヨースケと同じになったクマ。クマ思うに……もともとはそれが、あのもうひとりのヨースケ? の、ほんとうの姿クマ。あれもヨースケそのものなんだクマ、きっと」
「へっ、もうひとりの自分の逆襲ってか。マジで映画だな」
「花村、あいつは、陽介は多分、花村に危害を加えたくて現れたんじゃないと思う」
「…………」
「あいつは言ってた、おまえに思い知らせるためだって。言い方は乱暴だけど、おまえに自分のこと……つまり、おまえ自身のこと、理解して欲しかったんじゃないかな」
「……俺の認めたくなかったこと、とか?」
「勘違いするなよ花村、おまえが汚らしいだけのヤツだなんて思ってない。あいつの、陽介の言い分だけを認めれば、おまえはそういうヤツだってことになるけど……」
 陽介はひとつため息をついた後、悠を振り返って「ありがとな、鳴上」と泣きはらした目で笑った。
「俺の、なんてーの、弁護士? みたいなこと、してくれたろ」
「弁護っていうより調停というか、仲裁みたいだったけど――」
 言いかけて、悠はふと、陽介の胸ポケットの薄く光るのに気付いた。炎の照り返しで見えにくくなってはいるが、間違いなく光を放っている。
「もうひとりの自分かァ。ムズいよな、そういうのに向き合うのって。お前がいてくれてよかったよ、俺ひとりじゃぜってーダメだったろうし――あっ」
「花村、その――」
「なあおい、ちょっと待てよ、先輩って」
「え?」
「先輩、ひょっとして、俺と同じ目に遭ったんじゃねーか?」
「……クマ?」
「ありえる、とゆーか、たぶんそうクマ」クマは考え深げにしている。「いきなり人間の近くに出てきて、襲って……いままではそのシャドウはそのままどこかへ行っちゃってたんだけど」
「山野アナも」
「山野アナのことはなんとも――」
「マジでそう思ってる? お前」
「……裏を取ってからだ、そう断じるのは」
 現状、関係なさそうな要素より符合しそうな要素のほうが多い。件のアパートがもし山野アナにゆかりあるものなら、ほぼ同一の事例と見て間違いないだろう。
(それはここを出てからだ、それより――)
「花村、その胸ポケット」陽介の胸を指さしながら、「気付いてたか?」
「え?」
 陽介は指さされた辺りをじろじろ見たあと、「なにを?」と訊いてきた。
「いや、ポケット、光ってる」
「……え、胸? ここ?」
「そう、そこ」
「光ってるって言った?」
「……見えてない?」
「いや、なんも――なに、さっきとおんなじだな。タロットとかなんとか」
 悠は手を伸ばして、陽介の学生服の胸ポケットに指を突っ込んだ。――なにか薄い、カード状のものが入っている。
「あ、またタロット」
「うお……なに、手品?」
 例によってまた見えないのかと思いきや、意外にも悠の引っ張り出したタロットは見えている様子。
(これって、ひょっとして)
 カードにはペンタグラムを捧げ持つ、冠と長衣とで装った若い男が描かれている。その下のスクロールに踊る「THE MAGICIAN」の文字――見覚えがある、悠の持っていたタロットカードの一枚である。
「……花村、ほら」
「え?」
「これ、たぶんおまえの」
「え、でも」
「おまえのポケットから出てきたんだから、おまえのだよ、きっと。おれのはほら」
 言って、自分のタロットを示して見せる。
「……俺のは、マジシャン? 手品師?」
「確か魔術師だったと思う」
「これフールって読むんだよな……え、お前のって、バカってこと?」
「交換しよう」
「いやいいよ、いいって! 放せ……!」
「遠慮するなよ……!」
「いい、手品師でいいですマジで!」
 なかば奪われるようにして、マジシャンのタロットは陽介に落掌された。
「いいな、マジシャン」
「マジシャンってガラじゃねーけど。へー、光ってるなァ……」
 陽介は嬉しげに、手に入れたばかりのタロットをクマに見せびらかしている。もっともクマには見えないようだったが。
(花村も手に入れた、ってことは)
「なあ、これ俺にも貰えたっつーか、とにかく手に入ったんならさ……出せんのかな」陽介も同じことを考えたようだ。「あの、ペルソナ?」
「ヨースケのガラじゃないクマね」
「わりーよく聞こえなかったわ」
「クマも出してみたいって言ったクマー」
「ペルソナの出し方は……口頭でうまく伝わるかどうかわからないけど、あとで教える。いまはとにかくここから出よう。またシャドウが来るかもしれない」
「いま教えてくれりゃあシャドウが来たって……」
「わるいよく聞こえなかった」
「急ぎましょうそうしましょうって言ったんだよ、なあクマ」
「ヨースケそんなこと言ってないクマー」
 クマがそれほど注意を払っていないからには、先に店内へ押し入ろうとしていたシャドウは、少なくともこの近くにはいないのだろう。かといって、この手に入れたばかりでろくろく使い方もわからない力を恃みに、こんなところで肝試しとしゃれ込むつもりはない。
(五時前だ。時間も押してる、家につくころには六時を回ってるだろう……)
 ますます火勢を強めるコニシ酒店を後目に、ふたりと一匹はスタジオへと引き上げて行った。多くの収穫物と、新たになった謎とを抱えて。





[35651] ノープランってわけだ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 00:56



「あ」
「……これ、里中、だよな」
「じゃあ、ずっと待ってた、ってこと?」 
 例によって、テレビの中を通る前にあちら側の様子を確認したところ、あにはからんや、携帯の液晶に膝を抱えてうずくまる少女の姿が映し出されたのであった。顔を伏せているので、自分の撮影されているのに気付いた様子はない。
「うっわマジかよ……軽く一時間以上経ってんだぞ」
 膝の間に顔を埋めるようにして、右手には陽介の置きみやげを力なく握っている。千枝は微動だにしない。さながら「途方に暮れる人」という題で彫られた石像のよう。
「あ、こないだの女の子クマ。あの子も呼ぶクマ?」
「あのな、俺らこれから向こうへ帰るの」
「……帰っちゃうクマ?」
「うう……んな寂しそうな声だすなって、また来てやっから」
「ほんとクマ?」
「なっ、鳴上」
「安請け合いできないよ、こればかりは」
 クマを喜ばせるような返答ははっきり言って難しい。かの巨人が一連の事件の犯人ではなく、また焦眉の急と思われた命の危険も誤解であった以上、強いてこの世界に入る理由は失われつつあるのだ。そして軽々しく遊びに来るにはこの世界は剣呑に過ぎる。
(少なくとも、花村や里中を連れてくるには)
「え、なんでだよ」
「理由は外で話す。とにかく、これいじょう里中を待たせるのは可哀想だ。行こう」
「あー……じゃあ、クマ、また近いうちに来るからさ」
「ほんとに? ほんとクマ? 約束クマよ」
 約束――そういえば自分は、この着ぐるみとなにか約束したのではなかったか?
(思い出した……やっかいな約束したな、いま思えば……)
 もっともただの口約束である。反故にすれば多少は良心も痛もうが、身の危険に換えられるものではない。
「ああ約束な。じゃあな――鳴上、行けそうか?」
「行ける。先に行って、大丈夫なら手を入れるから」
「了解」
 ――悠がテレビから出てきても、千枝の気付いたふうはなかった。
(寝てるのかな)
「里中どう?」テレビから陽介のあたまが突き出てくる。「足だすぞ、いいか?」
「いいよ。あ、待った、そこ。おれが支える」
「手、鳴上ちょっと、肩かして、手が」
「これ台とか用意できないか――そこ踏むな、踏むなって、そこ壊れる」
「じゃ、せーの、で」
「せーの」
 テレビから出るためにごそごそやっているのに気付いたようで、ようよう陽介が出てくるころには顔を上げて、千枝は呆けたような面持ちでよろよろと立ち上がった。
 目が赤い。
「……ええと、ただいま」
「か……帰っでぎだあ……!」
 顔面のすべての穴からおびただしい体液を噴出させつつ、千枝はわんわんと泣き出してしまった。
「おいおいなにも泣くことねーだろ、どうしたんだよ――」
「ふっ、ざっ、けんなオラァッ!」
 千枝は泣き叫びながら、歩み寄る陽介の脇腹に猛烈な中段蹴りを食らわせた。立て続けに三発も。
「さ、里中ちょっと……!」
「あんたもォ!」
 千枝はなおも泣きつつ、後退る悠の脇腹に腰の入った中段蹴りを食らわせる。立て続けに三発も。
「キドニーが……!」
「浮動肋骨が……!」
「どうしたじゃないよっ! ほんっとバカ! 最悪!」千枝は声をひっくり返して喚いた。「もう信っじらんない! アンタらサイッテー!」
「おい、里中に残れって、言ったの、おまえだよな……!」
「オメーが、そもそもひとりで、ホイホイ入るから……!」
 悶絶しつつ責任をなすり付け合うふたりに、無慈悲な足蹴りが飛んだ。
「ロープ切れちゃうし……ろうしていいが、わがんないし……ひんぱい、ひたんだがらァ……!」
 千枝の涙は見せかけのものではない。小さな子供が恥も外聞もなくがむしゃらにするような、なりふり構わない泣きっぷりであった。悠と陽介がテレビに入ってからいままで、きっと彼女は本気でふたりの身を「ひんぱい」し続けていたのだ。
(……悪いことしたな) 
 無事に出てくるかさえわからない、ふたりのクラスメートを待つ一時間の、どれほど狂おしく心細かったことだろう。まして目撃者は彼女ただひとり、周りに事情を説明することも適わない。思うだに千枝の苦痛に満ちた忍耐が偲ばれようというものだ。
「すっげー、心配したんだからね! あーもう腹立つ!」
 とどめとばかり、もう一発づつスネにお見舞いしたあと、千枝は泣きながら走り去ってしまった。
「いってェ……あの肉食獣……!」
「なんでおれまで……完全にとばっちりだぞ……!」
 仲良く痛がっていると、千枝と入れ替わりに若い店員がひとり、うずくまるふたりを訝しんで近づいてきた。
「陽介くん、どうしたの」
「いえ、なんでもないんす」
「……なんでそんな煤けてんの? 火事に遭ったみたい」
「あはは……あー、ちょっと学校で」
「うっわ、そのカッコでここまで来たんだ? 警察に捕まるよ」
「えーその、気をつけますから――あ、葛西さん向こう、客きてるみたいすけど」
「あ、マジ?」 
 陽介の陽動で、葛西さんは冷蔵庫の森へと消えていった。
「なんで煤けてるかって? 火事に遭ったんだっつの……」
「あれが葛西さん、ね」
「そ、しょっちゅう倉庫でタバコ吸ってんの。サボりの常連」
「葛西さんが煤けてなくてよかった」
「あはは……笑いごとじゃねーか。これで失火とかやらかしたらあのひと物理的にクビだよ」
(そうだ、こっちのコニシ酒店は無事なんだろうな。まさか向こうが燃えたからこっちもなんて……)
 まさかとも思われるが、こちらの世界のものがあちらの世界へ出現する因果関係自体まったくわからないのだから、逆のことが起きていても不思議ではない。
(向こうの世界に人間が入るとコピーが行われる、というなら、おれたち三人が最初に入ったときの説明がつかない。あの人間から出てきたシャドウが関係してるんだろうか? 陽介のときはなにも……いや、陽介は二度、あそこに行ったことがある、新しい舞台は必要なかっただけかもしれない。必要? なにに必要なんだ?)
「……なあ」 
 どちらからともなく黙って、ふたりとも考え事に没頭することしばし、先に沈黙を破ったのは陽介だった。
「なに?」
「悪いことしたな」
「ホントだよ」
「いや、お前じゃなくて、里中」
「……ホントだよ」
(なに考えてるんだと思えば……)
「それにしても、やっぱこのカッコ目立つな」
 一般の高校で着られる学生服の例に漏れず、八校のそれも黒一色である。多少煤けたところで目立ちはしないが、悠も陽介も顔といわず髪といわず汚れ果てていた。葛西さんの「警察に捕まる」発言は誇張であるにしろ、衆目を引くのは避けられまい。
「あとで便所いってカオ洗お……ちったあマシになんだろ」
「んん」
「……なあ、鳴上」
「ん?」
「さっきの、シャドウのことなんだけど」自然と陽介の声は低くなった。「もしさ、あのときお前がいないで、俺ひとりでシャドウを怒らせてたら、さ」
「…………」
「つまり、先輩とかはさ、怒らせて……殺されたってことなんだよな。もうひとりの自分が出てきて、俺がそうなったみたいに、お前はあーだ、お前はこーだとか言われて」
「そうして、こっちに帰ってきた」
「死体になって、な」
 彼の煤まみれの横顔に、なにかある種の決意のようなものが閃く。イヤな予感がする。
「結局、先輩たちをテレビに入れた犯人はわからなかった」
「花村それは――」
「なあ鳴上、俺とお前でその犯人、捕まえられないかな」
(言うと思った! さっきのは枕か。こいつ、これを考えてたんだな……)
「お前がいれば、いや、もしさっきのタロットが使えるなら、俺だってあのペルソナを使える。たとえ犯人が誰かをテレビの中に落としたって、俺たちとクマなら助けられる!」
「……なあ花村、おれたちは高校生だ」
「それも転校生な。なんか漫画みてーだな、ふたりの転校生が――」
「しろうと、なんだ。犯罪捜査の。おれたちは」噛んで含めるように続けて、「警察に任せるべきだ。おれたちじゃ手に負えない、責任を負えない」
「警察が捕まえられんのかよ、ひとをテレビに入れてる殺人犯なんて! お前またテレビにひとが落とされたとき、黙って見てるつもりなのか? 助けられるのに!」
「おれたちにはなんの義務もない。でもいったん手を出せばそれ以降は義務になる。義務にせざるを得なくなる。少なくともおれならそうする」
「そうすりゃいい。するべきだ。できるんだから」
「……お前の義務はなんだ花村。手に負えない、やりかたもわからない、やったこともない、できるかどうかもわからない、果ても見えない、報いもない、命の危険だけはたっぷりあるボランティアか。おまえの言うことに首を突っ込めば、どうしたっておれたちの生活はそっちにウエイトが傾く、絶対に」陽介を睨みながら続けて、「もう一度いうぞ、高校生であるお前の、おれたちの義務はなんだ? それは健康に気をつけて、勉強して、高校を卒業することだ」
「違う、やれることをやれるだけやることだ!」
「…………」
「違うかよ」
(やれることをやれるだけやれ、ね……流行ってるのか?)
 まさかいまここで、母の口癖が陽介の口から出てくるとは――これが母なら甘えて煙に巻いてしまっても構わないが、
「おまえの意志は崇高だと思う」無論、相手は陽介である。「おまえがまんざら、あのペルソナを使ってみたいってだけの理由で、そう言ってるんじゃないってことはよくわかってる」
「お前そんなふうに思ってたのかよ」
「そういう感情がない、なんて言わないよな」
「……ないわけじゃない、認める。でもモチベ維持すんのに必要だろ? そーいうの」
「前向きだな」
「それに約束もある」
「クマとの? 本気で考えてたのか」
「お前、考えてなかったのか?」
「そういう感情がない、なんて言わないよ」悠はため息をついた。「あんなあやふやな口約束に命をかけることなんかできない」
「あいつ、寂しそうにしてた」
「おれも寂しそうにしようか」
「お前、真面目に考えてるのか?」
「花村、真面目に考えてくれよ、おまえの言う犯人捜しや被害者救出の具体的な方法を。それなしにおれを説得できるなんて思うなよ」
「俺は……」たちまち陽介が言い淀む。「俺は、お前とふたりなら、そういうこと考えられるかなって思ってるんだ。お前アタマよさそーだし」
「愚者に向かってよく言う! 手品師ならペテンのひとつにくらいかけて見せたらどうだ」
「お前も愚者なら手品に引っかかれよ。バカなんだろ」
 これだ。もちろんこういう彼だからこそ、自分は友人に選んだのだ! 悠は唇を噛んで笑いたいのを堪えた。陽介はこれでいい、理屈を並べ立てるせせこましい仕事は自分の得手であって、彼の領分ではない。
(おれはやりたいのか、やりたくないのか、結局はこれだ! もう自分で自分の判断を非難して落ち込んだりはしない。具体的な方法だって? バカとペテン師が力を合わせれば、それらしいやり方なんていくらでも思いつくさ)
「つまり、ノープランってわけだ」
「そーですよ、ノープランでノーフューチャーですよ」
「……救助は、テレビの中にひとが入れられてしまったときの救助は、おれたちにしかできないだろう」やってできるものなら、だが。「犯人捜しのほうは保留としても、そっちは試してみてもいいと思う。ただし」
「ただし?」
「おれはともかく、おまえ、大丈夫なのか? バイトとかあるだろう」
「ああ、んなもん人命救助が最優先だろ」
「それはそうだ。おれが言ってるのはアフターケアのこと」
「なんの」
「花村陽介の社会的立場」
「大丈夫だって!」陽介は楽観的だった。「んな毎日まいにち落とされ続けてるってワケじゃねーし、俺だって毎日シフト入ってるワケじゃねーし」
「シフトが入ってる、という理由で救助を拒まれるのが一番こまる」
「ないない。ありえない。約束する」
「……約束はいい。じゃ、とりあえず仮採用ということで」
「おっ、面接成功?」
「ふつう面接官の質問にノープランでノーフューチャーなんて返さないけどな」悠は苦笑した。「……あなたの意気込みはわかりました。でも我が社の仕事はつらいですよ」
「うっす、なんでもやります!」
「勤務時間も不規則です。昼の出勤もあるかもしれません、その場合は問答無用で学校をサボっていただくことになりますが」
「とんでもねーブラック企業だな」陽介は苦笑した。「わかってる。そんなのはどうとでもしてみせる。これは俺たちにしかできないことなんだ、構ってられっかって」
「やってみるしかないな」
「おお、やってみせようじゃねーか。てことで――」
 と言って、陽介は悠に手を差し出した。
「これからよろしくな、鳴上」
「ああ、よろしく、花村」
 手を握ろうとすると、陽介はなにか思いついたように「あっ、待った待った、やりなおし」と手を引っ込めた。
「なに、やりなおし?」
 わざとらしく咳払いなどして、陽介はもう一度手を差し出した。
「これからよろしくな、悠」
「…………」
「悠?」
「……花村、名前はあんまり」
「よ、ろ、し、く、な、悠!」
(よりによってユウ呼ばわり……まあ、いいか)実際、不快感はなかった。(おれは変わったんだ。それをこいつの声で確認し続けるのも悪くない)
「よろしく、花村」
 手を握ろうとすると、陽介は「ああ?」と笑ってまたも手を引っ込める。
「よろしくな、悠。――テイク3だ」
 陽介がみたび手を突き出して、まっすぐ悠の目を見据えてくる。彼もまた変わったのだ。そしてその確認を求めている。鳴上にではなく、悠に。
「……よろしく、陽介」
 陽介の会心の笑顔。そして彼はようやく握手に応じてくれたのだった。





 視界の端にちらとなにか動くのが見えて、悠はとっさに手庇を解いた。
(……誰?)
 河川敷脇の公園の前で彼は立ち止まった。そうして糠雨のさなかにじっと目を凝らす。公園の中に設えられた四阿に和装の女が佇んでいる。これの今ほどぱっと立ち上がったのが、まるで走ってきた自分を見咎めたかのようなタイミングに思われたのだった。
 悠は少しくぞっとした。
(こっちを見てる……んだよな)
 念のために後ろを向いてみる。もちろん誰もいない。すでに六時近い時刻のことで、わざわざ雨の中を好んで歩く人間など見当たらなかった。
 この仕草を見てこちらの懸念に気付いたらしい、件の女が戸惑いがちに片手を上げて合図を送って来る。悠の困惑――微かな恐怖を含む――は深まるばかりである。ここに越してきてから見知った僅かな知り合いの中に、和装の女など存在しなかったはず……
 大いに訝しみながら、それでも悠は公園の中に入った。このまま無視するわけにもいかないし、そうしてはなんとはなし逃げ帰るようで気も引ける。
「えっと、帰り?」
「あっ……天城?」
 声を聞いてようやく、悠はこの和装の女の正体に気付いた。まるで化かされたような心持ちだった。彼は近くで見てさえ、このような妙齢の美女は知らぬとばかり思っていたのだ。
「あ、この恰好? 驚いた? うちのお使いだったから……」
「驚いた……ほんとうに誰かわからなかった。後ろ確認したよ、とっさに」
「見てた」雪子はそう言って笑った。「そりゃ驚くよね、こんなカッコ」
 白梅を配った洗染に映える、赤紫と白のグラデーションが目を引く半幅帯を締め、加えて目もあやな化粧まで施した雪子は、生来の美貌も相まってとうてい高校二年生には見えない。これが薄暗くなり始める時間帯、糠雨の中に忽然と現れるのだから、
「……妖怪かなにかかと思って、一瞬ぞっとしたよ。クラスメートでよかった」
 この感想は雪子を喜ばせたようで、彼女はひとしきり無邪気に笑っていた。
「ふつうの高校生が紬なんか着ないよね。わたしだってコレ、普段着じゃないよ。仕事のとき着るだけ」
 この何気ない「仕事」という科白も、彼女の高校生らしからぬ雰囲気をいっそう際立たせる。
(仕事か。この歳で仕事、してるんだもんな……大変だよな) 
 つい先日に「ああいう家に生まれなかっただけ運がよかった」などと軽々しく考えたことに、悠はいまさらながら小さな罪悪感を感じていた。
 いったい陽介に対しても言えることだが、こと社会的な立場において、悠はどうしても彼らにある種の引け目を感じてしまう。彼らにとっては当たり前の労働をゆえなく免れているという、筋の通らない、それでも脳裏を離れない感情。バイトさえしたことのない悠はともすると、いま目の前で話している少女が自分より五、六も年嵩の、立派な社会人のようにも錯覚されるのだった。
 雪子がベンチに腰を下ろしたので、体面上、悠も少し離れて彼女に倣った。学生服の上を脱いで形ばかり露を払う。ジュネスを出てから降られたので傘の用意もなく、学生服の上も下も水に漬けたみたいになっている。
(明日までに乾くかな、まあ、煤っぽいよりはいくらかマシか……それにしても)
 こうして見れば見るほど、千枝がだれかれ構わず自慢したくなるのがよくわかる。そっと横目に盗み見る雪子の姿は言おうようもなく美しい。止まっていれば絵画のようだし、動けば動いたで映画のワンシーンのようである。まるでこの糠雨も四阿も、当世では珍しい和服姿も撮影のために用意されたもので、どこか悠の見られない位置でカメラが回っているかのような。
「……これ、この帯、このあいだ言ってた水名羽染め」
「え?」 
 雪子が半身を捻って、悠に身につけた帯を示して見せる。折鶴を散らした地に赤紫と白のグラデーションが波打っている様は、言われてみれば確かに、
「……ムラサキキャベツっぽい、かも」
「ぽいよね。実際にキャベツで染めてるわけじゃないけど」
「そういえば、和服着たひとを生で見るのって、生まれて初めてかもしれない」
「そう? 東京って、そういうひといないの?」
「おれは見なかったな……見てもおかしくないところに住んでた、はずなんだけど」
 柴又在住であった自分が初詣の時期にくらい、帝釈天を訪う和装の女性を見かけなかったはずはないのだが、記憶にはまったく残っていないのだ。顧みて我がことながら奇妙な話ではある。
(まあ、初詣って言ったってほとんど外に出なかったんだから、当たり前なのかも)
「へえ……柴又、だったっけ」
「そう、寅さんの柴又」観たことは一度もないが。「新柴又駅の近く」
「きっと都会なんだよね、ここよりずっと……」
 雪子はじっと自分の草履を見下ろしている。なんとなく千代田区クラスの大都会を想像していそうな雰囲気である。
「こういう田舎に転校してくるのって、やっぱり大変だった?」
「大変じゃなかったけど。でも正直、転校はイヤだった……かな」
 実際、それが偽らざる気持ちだった。もっともここへ来て得たもののことを思えば、かしこまって参ぜよと過去の自分を叱ってやりたいくらいだが。
「……そうだよね、都会から来るんだから」
「こういうところって、学校の授業で田植えとか稲刈りとかあるのかなって、悩んだりして……ちなみにあるの?」
「田植え? ないよ、さすがに」雪子は苦笑した。「あ、でも小学校の頃とかあったかな」
「よかった、これでひとつ悩みがなくなった」
「……あの、鳴上くんって、ご両親がアメリカに行ってるって言ってたけど」
「うん。いまごろなにしてるんだか……向こうっていま何時くらいになるんだろう」
「確か十七時間くらい、マイナスなんだよね、時差」
「へえ。天城、詳しいんだ」
「えっと、アメリカってだいたいそのくらいだったと思うんだけど、よくわからないけど……」
「そういうことぜんぜん知らなかったな。自分のオヤがいるのに」
(……ところで天城って、こんなところでなにしてるんだ?)
 まさか映画の撮影ではあるまい。うちのお使いとのことだったが、こんなところで、それもこんな時間に油を売っていていいのだろうか。こんな寂しい公園で人待ちというのもなさそうだし、おそらく彼女の仰せつかったお使いとやらは終えたのだろうが。
(ひょっとして、おれがいるから立つに立てないのかな)
「カリフォルニア州のサンノゼ、だったよね、確か」
 悠の懸念もどうやら杞憂のようである。なんとなく雪子は話したげに見えるのだ。こちらが返答している間に、すでに次に投げかける質問を用意しているような、そんな気配を彼女から感じる。
「そう。なんでもアメリカでいちばん治安のいい都市なんだって……そうじゃないところもあるらしいけど」
「……どんなところなんだろうね、向こうって」
「サンノゼ?」
「うん。あ、鳴上くんは行ったことないんだよね」
「ないけど、いいところみたい。父親の話では」
「へえ……」
(……聞きたそうにしてる)
 雪子の顔にそう大書してあるのが見えるようだ。悠自身も切れぎれの伝聞で大して詳しいわけではないものの、こんな顔を用意されてはなにか話してやらないわけにもゆかない。
「……そう、ハンバーガーとアメフラシがものすごく大きいって言ってたっけ」
「アメフラシって、あの、海にいるアメフラシ?」雪子が瞠目する。「食べるの? アメフラシ」
「もちろん食べない……と思う、たぶん。食べるとは言ってなかったけど」
「アメフラシ……」
「うん。一昨年の夏に、ハーフムーンベイっていう沿岸の町の近くの、ペスカデロっていうビーチに遊びに行ったときに――」
 多少の脚色と真実らしい憶測を交えつつ、悠は父から聞いた「体長百二十センチのアメフラシ」に遭遇したときの話を聞かせた。泳いでいるときにいきなり出会してこっちへ近づいてきたこと、逃げても追い縋ってきたことから、彼はおそらく肉食であろうこと、一緒にいた仲間の誰に話しても信じてもらえなかったこと、等々。
「百二十センチってかなり大きいよね……犬くらい? アメフラシってそんなに大きくなるものなの?」
「さあ、種類によってはそのくらいになるのかもね。誇張したのかもしれないし――そういえば、うちの菜々子ちゃん、覚えてる?」
「え? うん」
「百二十センチってだいたいあのくらい」
 悠がこう言ったとたん、雪子が大口を開けてけたたましく笑い出した。「ひどい! その喩えひどい!」などと言いながら、しかし口ほどにもなく身をよじっている。
(ひとが違ったみたいだ……コレ、ほんとうに天城なのか……?)
 雪子のひとしきり笑い止むまで、悠は心中ひそかに「天城妖怪説」を疑っていた。
「ひどいって……菜々子ちゃんかわいそ……むふっ……」
「……ところで天城、いつもこんな時間までうちの手伝いを?」
 ひとりこんなところに座っていた理由を婉曲に聞いたつもりだったが、雪子は知ってか知らずか「え、うん、もっと遅いこともあるよ」と言うに留まった。
「今日、学校きてなかったけど、かなり忙しいんだ?」
「んん……小西早紀さん、亡くなったんだってね。千枝にメールもらったんだけど」雪子の貌がたちまち曇る。「そういえばこの近くだったよね。ひどいよね、こんな静かなところでそんなことが起きるなんて」
「うん」
「……その、千枝とかとはどう?」
「え?」
「え、と、隣の席だし、なんか一昨日とか、いっしょにジュネス行ってたみたいだし」
(行きましたとも。ジュネスとか、テレビの中とか)
「一昨日も昨日も、今日も行ったな、そういえば。これで天城もいれば言うことなしだったんだけど」クマはたいそう喜んだことだろう。「軍資金、早く来ないとなくなるよ」
「うん……うちが落ち着いたら、ね」
「里中の腹の虫、監視しなきゃ」
「よく食べるから、千枝」雪子にようやく笑顔が戻った。「……千枝ってね、すごく頼りになるの。わたしいつも引っ張ってもらってる」
 なるほど確かに、テレビの中では泣いたり叫んだりとたいそう頼りになったものだ。おまけに陽介も悠も学生服の裾を引っ張ってもらっていた。
「去年も同じクラスでね、一緒にサボって遊んだりしたな」
「へえ……ところで天城、時間、大丈夫?」
「え、あっ」
 腕時計は六時半前を指している。そろそろ彼我の目鼻立ちの判別しがたくなる頃合いである。
「おれはこのまま朝まで話していたいんだけど、ひょっとしたら天城は迷惑かなって」菜々子も背と腹がくっついてしまう。「それとも今日はここに泊まっていく?」
「えっと……今日は遠慮しとく」雪子は笑って腰を上げた。「帰らなきゃ。うちの旅館、わたしがいないとぜんぜんダメだから」
「なら仕方ない。残念だけど」悠も立ち上がった。「おれもそろそろ帰らなきゃ。うちのアメフラシにエサあげないと」
「え、アメフラシ?」
「体長百二十センチの」
 雪子は笑いながら、開きかけていた和傘で悠を打つふりをして、すぐ思いついたように、
「あ、鳴上くん、コレ使う?」
 持っていた古風な和傘を差し出してきた。
「使うって、天城は」
「いいよわたしは」
「いいって言えば、おれのほうがもっといいけど」濡れそぼった身体を示して、「もう傘なんてあってもなくても一緒だからさ」
「……そう」
「……傘よりもその水名羽染めの帯がいいな」
 今度は打つふりでは済まなかった。
「じゃあ、気をつけて」
「うん。鳴上くんも」
「いまその傘で殴られた脚が折れてなきゃね」
 雪子は笑って辞去して、雨の中を十歩も歩いたあと、なにか思い出したように四阿を振り返った。
「なに? やっぱり帯くれる?」
 聞こえたはずだが返事はない。彼女の顔は錆朱の傘布にほとんど隠されていて表情もわからない。ただその唇だけが黄昏の雨の中に仄赤く、もの言いたげに眺められる。
「…………」 
 なんだかうそ寒い、不吉な予感を伴う光景だった。いまなにがしか決意を秘めたようにして立ち竦む彼女に、もう一度言葉をかけたら、霧か煙みたいに忽然と消えてしまうのではと思わせるような。
「……また学校でね」
 ややあってそれだけ言うと、雪子は踵を返して行ってしまった。





[35651] 旅は始まっております
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd
Date: 2012/10/28 01:05


 十一時五十分。
『――今日のニュースにもありました稲羽市ですが、今年も頻繁に濃霧が観測されています』
 悠はソファから立ち上がって、テレビの音量を少し上げた。屋根を叩く雨脚が強く、部屋全体を薄くスノーノイズのような雑音が満たしている。
『――実はこれは、ここ数年で見られるようになった異常気象で、原因はよくわかっていません』
(レパートリー、増やさなきゃな。いまはセネカよりアピキウスだ……)
 読みかけのセネカからブックマークを抜き取って、悠はそれを段ボール箱にしまった。しばらくは読むまい。
 千枝推薦のロールキャベツ――トマトは入らない――は危なげなく菜々子に気に入ってもらえたようだったが、課題は山積みである。悠の知っている僅かな料理でローテーションを組むとすると、半月後にはループしてしまうのだ。大して熱も入らなかったというのは誇張でなく、彼のあたまの中にあるレシピは印象に残っているもの、すなわち極端に手間がかかるか、さもなければ極端に手間のかからない、そういった料理がほとんどなのだった。奇貨居くべしなどと嘯いてみたものの、得てして奇貨というやつは珍しいばかりで使えないものである。
『――周辺にお住まいの方はご注意下さい。今日は稲羽市の事件について時間を延長してお伝えしました』
 いまは腹の足しにもならぬストイシズムはさておいて、なによりレシピの充実が急務である。あのかわいいアメフラシが悠の作る食事に飽きて人間を襲い出す前に、最低でも二月は回せるくらいのレパートリーを用意しなければ!
『――まもなく午前零時です』
「さあ、映るか、映らないか……」
 悠はテレビの電源を落とした。
(ニュースによれば、小西先輩の死亡推定時刻は午前一時ごろ。クマの言っていた時間ともだいたい一致する。そしてマヨナカテレビは零時……もしあれが実況中継だとしたら、里中や陽介の見た小西先輩はたぶん、あのもうひとりの自分に襲われていた姿だったんだろう)
 ほどなく、死んでいるはずのブラウン管が明滅を始めた。初めて見たときと同じ、レモン色の靄がかかった中に、やがてうっすらと人影のような肖像を結ぶ。
「…………」
 影はまったく輪郭だけだ。突起に乏しいつるりとした形。ほとんど動きらしい動きを見せない。
(小西先輩じゃないな、それはわかる)
 これって録画できないんだろうか――少し緊張を解いて余念を案じ始めるや否や、人影が急に動いた。テレビに映っていない腰の下からなにかが持ち上げられて、ぱっと大きな影ができる。髪のような長い纏まりが人影の動きに追従して揺れる。
 悠はぞっとした。改めて眼を凝らす暇もなくテレビは消えてしまった。
「……天城?」
 その人影は今日公園で見たあの姿――十歩の距離を隔てて和傘を目深にして、糠雨の中に思い詰めたように立ち竦んでいた、あの天城雪子のもののように思われたのだった。





 なにか眠気を誘うような律動が、規則正しく身体を突き上げ続けているのを感じる。
「ナルカミユウさま、お目覚めあれ」
 目を開けると――そこは電車の中だった。悠はワンボックスのひとつに腰掛けて、鼻の長い不気味な小男と相対していた。
「…………」
「おはようございます。ナルカミユウさま」
 小男の隣に座るブロンド美女が悠に挨拶する。強烈な既視感を覚える。
「……イゴール、と、マーガレット……?」
「さようでございます」イゴールが右手のタンブラーを軽く上げた。「少し待ちましょうかな?」
「さようでございます」マーガレットが右手の焼き鳥を軽く上げた。「少し待ちますか?」
「……ちょっと、待ってください」
(待て、待てよ、記憶が混乱する……そうだ、おれ、これから叔父さんの家に……)
「先ほどはまったく、我ながら奇妙なことを申しましたな、お目覚めあれだなどと! あなたさまは眠りにつかずしてここへお越しになることなどできないのだからして……うーん、さりとてお休みくださいだなどと申すのも――」
「ちょっと、待って」
(ここ、トンネルの中だ。いまどの辺りだ? そうだ着く前に一報いれなきゃ……あれ?)
「構えてお気になさいませんよう、ナルカミユウさま。主がこのような言い違いをするのも珍しいことではございませんゆえ、以後もなにとぞご寛恕いただきたいのですが、これもひとえに主人として失礼なく客人をもてなす――」
「ちょっと、待って、ください!」
(違う! おれは確かに八十稲羽に着いた!)ようやくあたまがはっきりしてくる。(おれは叔父さんに会ってる。菜々子ちゃんに、スタンドの店員に、諸岡先生に、里中に、天城に、陽介に、小西先輩に)
 イゴールとマーガレットはしゅんとして、おのおの手に持った飲み物なり食べ物なりをちびちびついばみ始めた。
「……あなたは、イゴールさん」
「ただイゴールとお呼び捨てください」小男が顔を上げてにこっと笑った。
「あなたは、マーガレットさん」
「マーガレットとのみお呼びください」美女が顔を上げてにこっと笑った。
「じゃあ、イゴールとマーガレット、これは――!」
 悠は胸ポケットからタロットカードを取り出して、ふたりに突き付けた。
「これはあなたたちの仕業かっ!」
「いいえ」イゴールは笑顔のままだ。「先だっても申し上げました。それは正真正銘あなたのもの。あなたの精神と観念の象徴でございます」
「そんな与太話を信じろとでも? あの、テレビの中に入れるようになったのだって……!」
「ナルカミユウさま、あなただけの、とは申しません、じっさい正確ではございませんもので。しかし別して我々の関与は否定させていただきます。またあえてそのように、手柄を分捕るような失礼なことを主張するつもりは毛頭ございません」
「い、意味がわからない。あなたの言ってることは、ぜんぜん」
 悠は混乱のあまり、あたまを抱えて膝に突っ伏した。
「さて、なにはともあれ――ようこそベルベットルームへ」
「ふたたびお会いできてなによりでございます」
「ちなみに、現実のあなたは御就寝中でございますから、ご案じなきよう。わたくしが夢の中にてお呼び立てしたのでございます」
「ちょっと、いいですか」
「なんなりと」
「……あなたたちは、何者? 何人? ベルベットルームって、なんですか」悠は貸し切り状態の車内を眺め回した。「ベルベット? このシートは化繊の一枚物です、ここは電車の中です。電車! ベルベットでも、ルームでもない!」
「名前はあまり、というより、ほとんど意味はございません、ナルカミユウさま」イゴールがタンブラーの中身を啜った。「みなあなたのあたまの中から、あなたが、あなたなりの規則に則って適当に割り振ったものでございます」
「バカなこと言うな、ふざけてる、名付けた覚えなんかない」
「覚えがないだけでございます。別にベルベットルームでなくともタピスリーチェンバーでもシュロスサンスーシでも構いません。改めてわたくしをヨーシュアとかクリストフォルスとかレイアーティーズとかお呼びくださっても構いませんし、このマーガレットとてお好きなようにラフレシアともデンドロビウムともお呼びなしくださいますよう」
 同意を求めてマーガレットを見ると、彼女はつんとそっぽを向いて「マーガレットとのみお呼びください」と宣った。
「……まあ、マーガレットもイヤとは申しません」
「まだ何人か聞いてません」
「おそらく何人でもないのでしょう。もし誰か知っているとしたら、それはあなただけです。そのあなたがご存じないと仰せなのだから、しこうして我々は何人でもないということになりましょうな」
「……あなたがたは何者なんです。どうしておれをこんな目に?」
「我々が何者かについては……我々がそもそも何者かであるかもわかりませんが、あなたは理解できません。それゆえにあなたがご自身で名前を決めざるを得ないのです。我々の話す言語も、選ぶ言葉も、見た目も、声も、物腰もすべてそう。あなたのあたまの中身にだけ由来しております」
「…………」
「そう難しくお考えにならぬよう! それご覧なさい、電車はすでに走り始めておりますぞ。旅は始まってしまった。始まってしまえば、事前に立てたプランに多少の粗が見つかったからといって、それにいつまでもかかずらうのは野暮というもの!」
「プランなんか立ててないし、おれの旅はこのあいだ終わりました。長かったけどもう着いたんです。降ります」
「もちろんあなたは着きました。始発駅に」ひと串食べ終えたマーガレットが口を挟んだ。「終わったのではなく、やっと始まったのです」
「始まった? いつ?」
「あなたは契約を結ばれた。細かいことを申せば、そのときに始まりました。それゆえにここへご招待申し上げました」
「契約?」悠は鼻で嗤った。「切符のことですか? おれは無賃乗車です、次の駅で降ります」
「あなたの切符はここに」
 イゴールがモーニングの胸ポケットから、裏地の黒い小さな紙片を摘み出した。なんの変哲もない普通列車の乗車券である。
「どれ、改札しておきましょう――マーガレット」
 隣の美女が切符に判子を押して、それを悠に差し出した。
「受け取るとでも?」
「お返しするのです。これももともとあなたのもの、あなたが望んで買い求めたものではないにせよ」
 悠はしばらく穴も開けよとばかり、マーガレットの繊手を睨み付けていた。が、何分経っても彼女の忍耐に変化がないのを見て、ようやくしぶしぶながら切符を受け取った。
「……おれの自由はないんですか」
「あなたはこの旅に乗り気ではなかった、なかばは強制でございました。ご自覚がございましょう、アマギユキコに問われたときも、あなたは正直にそう仰った」
「なんでそれを……」
「しかしあなたはそのときこうも思った。来たくなどなかったが、まさしく来るべきだった、来てよかったと」
(何者なんだこの小男は……まさかほんとうに悪魔っていうんじゃ……!)
「だからして、この旅の先行きをそれほど案じなさることもないのです。楽しい旅になりましょう。無論、楽しいだけの旅にはなりますまいが」
 なにが楽しい旅だ――悠は生まれてこのかた、これ以上はないと思われるほどの長大息を吐いた。
「まあ、どっしりお構えなさいませ。たかが旅でございます、我々も相伴させていただきましょうほどに」
「……それで、じゃあ、おれはなにをすればいいんです。景色を楽しみましょうか」悠は闇一色の窓を覗き込んだ。「素晴らしい景観ですね、いい天気だ」
「ええ、素晴らしい眺めです。かつてあなたが見たことのなかったさまざまな景色が、これからもたくさんあなたを待っておりますよ」
「見たくないものもね。電車とか」知ったふうなことを!「いい思い出がないんです。変なひとに無理矢理スルメを食わされそうになったり」
 イゴールは手を叩きながら笑い出した。この鉄面皮の悪魔にはささやかな皮肉など面当てにもならないようだ。
「そうそう、話を元に戻しますが、あなたはある契約をなさいました。しかしそれはその切符のことではございません」
「へえ、クーリングオフしたいんですが」
「まだ八日経っていませんから、お止めすることはできませんな。しかし」タンブラーの中身を嘗めながら、「わたくしが先にお会いしたとき、あなたにお伝えした占いを覚えておられますか?」
 これから行くところで災難に見舞われて、その謎を解かなければいけない、確かそんなような不快な内容であったはず。
「大凶でしたっけ」
「あなたがクーリングオフなさるなら、確実にそうなりましょうな」
「……どういうことです」
「あなたはある謎を解かなければなりません。契約はその端緒に過ぎません」
「そもそもその契約に心当たりがありません」
「約束、と言い換えたほうがよろしいでしょうか」
(約束……まさか、クマとしたあの口約束のことを言ってるのか!)
「……その口約束でございます」イゴールの口角がちょっと持ち上がる。「ついでに言えば、あなたに守るつもりのなかった約束でございます」
 つまりイゴールの言う謎とは、あの一連の事件の犯人を指すのだろうか? 悠が約束を守らなければ犯人は野放しになり、犠牲者は増え、いつかそのうちのひとりに彼自身が数えられることになる、そう言いたいのだろうか。
「あるいはそれに前後して、あなたの新しいご家族やご傍輩も。それが今し死にゆくあなたの慰めになりますものかどうか」
「……おれの考えてることがわかるんですか、あなたは」
「夢の世界のできごととして、ことさら驚くまでもないこと。そうではありませんかな」
「プライバシーも筒抜けか。楽しい旅になりそうだ」
「保証いたしますよ。旅はなにを措いても、まずはよい道連れ、次によい酒」
「よい食事も」と、マーガレット。「そして好天に恵まれれば言うことはございません」
「じゃあよい道連れさん、難しいことばかり喋ってないで、仲間を楽しませてくださいよ!」悠はなかば自棄になって喚いた。「腹の減ってない未成年の仲間に、なにかおもしろい話をしてください」
「そうですな、ではこんなのはいかがでございましょう――アトクェ・ウビー・ソーリテューディネム・ファキウント」
 身を乗り出してイゴールの胸ぐらを掴もうとした悠の腕を、すんでの所でマーガレットが捕らえた。
「ふざけてるのか……!」
「たとえこの場の誰がそうしていたとしても、あなただけはそうしておりません。そうでございましょう?」
 小男と美女の眼差しに、慈愛と、なにか悲しみのような色の浮かんでいるのに、悠はようやく気付いた。
「ナルカミユウさま、これからあなたがどこへ行くのかを知るためには、まずご自分がいったいどこから来られたのか、確認しておかねばなりますまい」イゴールは諭すように言った。「そして彼は寂しい荒野を造り上げアトクェ・ウビー・ソーリテューディネム・ファキウント……? 」
「……それを平和と呼んだパーケム・アッペルラーント
 マーガレットがようやく悠の腕を解放する。彼は悄然としてシートに沈んだ。
「そのとおり。あなたは荒野から来られた」
「…………」
「あなたは孤独を愛し、河向こうの緑豊かな森を興味深く眺め、羨み、しかし内心では蔑んでいた。自身は蔑みを知らぬものと思い込みながら」イゴールは重々しく続ける。「そして水際に流れ着く枝葉や花を嬉しげに拾っては、それはじき腐るのだと自身に言い聞かせた。あなたはあなたの荒野を平和と呼んだ」
「…………」
「あなたは地質学者でした。ナルカミユウさま」マーガレットが後を継いだ。「あなたはただひとり荒野を逍遥し、地虫を観察し、土質を分析し、石を掘り、ずっと昔のひとの遺した足跡を調べられました」
「ですが、いまは庭師に憧れておられる」ふたたびイゴール。「青々とした草生、小さな花々、葉漏れ日おちる大樹の群。意に沿わない渡河の果てに森へ辿り着いたあなたですが、いまはそれらに囲まれて、あなたの興味はようやく昇華されようとしている」
「庭師……」
「あなたは初めて、あなたの土がなにか育てられることを知ったのです。いまはちょうど大事な花の苗を手に入れて、それを陽の当たる絶好の一角に植えようとしておられる。それを丹精することに心を砕こうとしておられる」
「……知り合って三日の友達だ」
「白頭新の如く、傾蓋故の如し。けだし友情は年輪の多寡などに比せられるものではございません」
「もう骨の髄まで地質学者かもしれない。間に合うかな、いまさら」
「間に合ったのです」マーガレットが微笑んだ。「だから、旅は始まっております。元気を出して」
「出だしは好調でございますよ、ナルカミユウさま。あなたには仲間がおり、助言者があり、なによりそのタロット、あなたのペルソナと呼んだ力もある。ただし」
 イゴールが持っていたタンブラーを窓越しのテーブルに置いた。
「これだけは決してお忘れなきよう。あなたがペルソナの、あなたご自身の呼びかけになんと応えたか」
(声が遠くなる……夢が覚めるのか?)
「さよう。現実のあなたが目覚めようとしているのです。我々の旅の語らいはひとまず終わりといたしましょう」
(待って、いまのはどういう)
「あなたが旅をお続けになる限り、我々は必ずまた見えます。そのときは必ず切符をお持ちくださいませ」
(イゴール! ペルソナって――)
「それでは、ごきげんよう」







《あとがき》


 これで一章は終了になります。
 ひとまずここまで読まれた方はお分かりかと思いますが、この小説、ゲームやアニメの内容と違うところがかなりあります。いくつか例を挙げると、

・シャドウは霧があろうがなかろうが人間を襲う。
・人間から出て来るほうのシャドウは凝り固まった表面的な「悪」ではない。
・ペルソナは自由自在でない(二章ではまた違った使い方も出てきます)。
・ワイルドという概念はない。
・コミュニティや絆などの概念は(ゲーム内で言及されているようなものは)ない。

 などがあります。
 冒頭の前書きにも書いた通り、この小説は原作の設定をかなり改変してあります。
 なぜこんなことを、と思われる方もいらっしゃるとは思いますが、これも冒頭に書いた通り、ひとえにこの書き物を小説として成り立たせるための苦肉の策であります。
 筆者の力のなさの故とも思いなして、なにとぞ笑ってご寛恕くださいませ。



[35651] 二章 NULLUS VALUS HABEO
Name: 些事風◆fe49d9ec ID:32a17845
Date: 2014/11/03 16:26

 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(殺す気か陽介……!)
 彼を轢きかけた黄色いマウンテンバイクは、通学路を行く他の八校生の間をすいすい走った後、いまほどの犯行を誇るかのようにゆっくり戻ってきた。無論、わざとであろう。
「よっ、おはよーさん」
「おはよう」悠はにこりともせず挨拶した。「確かにちょっと早いよな、この世からさよならするには」
「油断してるほうが悪いの。二回じゃ済まねーって言ったろ」
 陽介は自転車を降りて、悠の横に並んで歩き始めた。
「昨日の夜中の、見たろ?」
「んん、見た」
 そのせいでいろいろあって昨夜はなかなか寝付けず、加えて妙な夢まで見たものだから、目下悠は深刻な寝不足状態にあった。家を出てからというもの、足元はさながら雲を踏むようである。
「誰だかいまいちわかんなかったけど、アレに映った以上、放っておけない」
「陽介、あれ、ほんとうに心当たりないか? ひょっとしたらこいつかもしれない、とか」
「いや、ない。俺も夜ずっと考えてたんだけど」陽介が八の字を寄せる。「しかもあれ、途中からなんかブワッて、変なふうにならなかった?」
「なった」
  悠にはそれが傘を差したように見えたのだったが、陽介に同様の感想を抱いたふうはない。
「ま、ここで腕組んでても仕方ない。とにかく放課後、様子見にいこうぜ。クマからなんか聞けるかも知れんし」
「んん……」
  放課後――悩ましいところだ。
 マヨナカテレビに映った時点で、被害者がすでにテレビの中に入れられてしまっているのなら、むろん放課後まで待ってなどいられない。零時から現在までの時間を生き残っているかさえわからないのだ、学校をサボってでも直ちに救出に向かわなければなるまい。いや、そんな状態の人間を放置したまま夜を明かすこと自体、そもそもの目的から外れる行為だ。救助に赴くのならそれが必要とわかった時点で速やかになされなければならない。
 一方で、悠には気になることがあった。
 早紀の場合、二度マヨナカテレビに映っているのだ。一度目ははっきり断定できていたわけではないが、千枝の挙げた特徴が早希のそれと似通っていること、陽介も早希ではないかと疑う程度の情報を引き出せたこと、そしてなにより、山野アナ以降の犠牲者が早紀ひとりであることから、ほぼ間違いはないだろう。とすれば、早希はテレビに入れられてから二度目の映るまで、一日以上の時間を生き延びているということになる。そしてもしシャドウがクマの言うような危険な存在であるなら、彼女は二日目の零時前後に襲われるまで一度もそれに遭遇していないという逆説が成り立つ。
(おれたち三人もあの世界を彷徨っている間、一匹のシャドウにも出会さなかった。向こうのコニシ酒店にいたやつはともかくとして、あの偽八十稲羽商店街へ行くときも、帰りもそうだ。もちろん、それほど長時間だったわけじゃないけど)
 クマはこう言っていた。シャドウは霧が晴れていると暴れる。そしてシャドウがいきなり人間の許に現れる、つまり人間からシャドウが出てくるという現象は、霧が晴れているときに起こりやすいと。
 その霧がいつ晴れるものかわからない、というのは確かにある。しかし選りに選って今晩ということもないのではないか? であれば、わざわざ非常の時刻に疲れた身体を引き摺って出向くこともないのでは……
 悠に夜中ジュネスに忍び込むのを躊躇わせたのは、ひとえにこれらの情報が彼に許した希望的観測――それと疲労に伴う怠惰――にあった。
「放課後なんかあんの?」
「……え?」
「いや、放課後。行けるだろ?」
「んん」
 もっとも、悠は昨晩行動を起こさずに床を取ってしまったことをとうに後悔していた。こうと決めるだけ決めて目を瞑ったまではよかったが、さて静かになってみればどうしても、この決断の妥当性についてあれこれ考え始めてしまうのである。
 結局、彼はゆうべ布団の中で一晩中、雪子かもしれない被害者の失われるかもしれない命と、早希や自分たちの例がもたらした可能性――加えて、深夜の不法侵入の廉で遼太郎に殴り殺されるかもしれないリスクも――とを秤にかけて悶絶せんばかり、朝方まで寝付けずに輾転反則していたのだった。多少危険でも仕切り直して万全の状態で、だなどと自分に言い訳しておいて、あげくにこの不調を招いているのだから、
(始末に負えないよな……今日が勝負の日になるかもしれないのに……)
「また誰か放り込まれたんだとしたら、やっぱマジで犯人、いるんだよな……」
「んん」
(それにしても、眠い、疲れも取れてない、絶不調だ。これじゃいますぐジュネスに行ったところで……)悠はひっそりと失望のため息を吐いた。自分への、である。(バカなことしてるよな、ゆうべ動かなかったのはなんのためだったんだ? 最悪だ。最悪ってわかってて選んでるんだからもうどうしようもない)
「被害者が死ぬ直接の原因は、あの世界のせいかも知れないけどさ」悠の生返事も陽介は意に介さない。「あの世界を凶器として使ってる奴がいるなら、許せないよな……」
(とにかく、うじうじ悩んでいても仕方ない、後悔はそれしかできなくなったときにでもじっくりやればいい。いまはできることを探そう。潰せるところから順繰りに潰していこう、選択肢を絞らなければ。まずは天城の安否を確認。連絡先はたぶん里中が知ってる)とはいえ、この段階ですでに早希の例が生きなくなる可能性もあるが。(なにもタイムリミットまで小西先輩と同じとは限らない。ゆっくり急げってやつだ、可能性と有効性を慎重に計りにかけて……放課後で間に合うのか……昼休みにひとっ走りしようか……あ、きょう土曜だっけ……)
「だからさ、ぜったい俺たちで犯人みつけよーぜ!」
「……え?」
「いや、犯人。捕まえるだろ?」
「んん」
「……お前、話きいてる?」
「放課後だろ、行けるよ、行ける……」
 悠はあくびを噛み殺した。
「眠いの?  お前」
「んん」
「なに、夜更かし?」
「……え?」
「…………」
「保留だよ、保留、犯人逮捕なんて……」
「……悠こっち。そっち行くと中学だから」陽介はそう言って、よたよたと道を逸れて行く悠の袖を引っ張った。「ちなみにさ、昨日うちのテレビでさ、ちょっと試してみたんだけど」
「んん」
「あたま突っ込めたんだよ。お前みたいに」
「……え?」
「で、夜更かししたんだろ、見りゃわかるよ」
「バカなに言ってる!」眠気など一瞬で吹っ飛んでしまった。「突っ込めたって、テレビの中にかっ?」
  陽介はぎょっとして「な、なに、なんか悪かった?」と窺うように言った。
「入れたのか、テレビに」
「入れたけど……そんな驚くことか?」
(いや! ふつうに考えうることなんだ、あのタロットがおれのものと同じであるなら……)
 もしそうなら、あの世界に関連する条件について、陽介はもはや悠と変わるところはないということになる。
(これは傍証になる。たぶん、陽介はペルソナを使える――でも)
 彼が単独でテレビに入れるようになった、というのは、じっさい厄介な事態だった。これで彼の行動――ときに直情的かつ思慮に欠ける――を制限することができなくなってしまったのだ。
(極論すればこれで、おれがどんな態度に出ようと、陽介は思いのままに動けるようになったってことになる)彼は悠にタックルを食らわせる以外の手段を手に入れてしまった。(いくらおれが犯人逮捕や人命救助について慎重論をぶち上げたところで、陽介はこうすべきだと思ったことは是が非でも実行しようとするだろう、たとえひとりでも。少なくとも、そうできるということを自覚するだろう)
 これはある意味で陽介の安全を質に取られたようなものだった。悠が犯人逮捕に消極的であるかぎり、彼の単独行動を取る危険が常に付きまとうのである。
(くそっ、なるほどね、よくできてる。どうでもあの契約ってやつを遂行しなきゃならないって言うんだな)
 遠くイゴールの含み笑う声を聞いたような気のするのは、果たして寝不足のせいだろうか。
「これってやっぱり、あの力を手に入れたからなんかな」平静を装ってこそいるものの、陽介は喜びを隠し切れていない。「あの、ペルソナだっけ」
「だろうな」
「あれってもしかすると、事件を解決するためにさ、俺たちが授かったもんかもしれないよな」
 そもそもの出所は凝り性で飽きっぽい管理栄養士のおばさんなのだが。
「……あれは誰かから授かったなんて性質のものじゃないと思う」
「へえ、なんか心当たりとか?」
「口頭じゃ説明しにくい。しにくいけど、いちど喚んでみればたぶんわかる、と思う」
「するだけしてみてくれよ、理解すっから」
「…………」
 悠は坂の手前で立ち止まって、八高の門碑に枝垂れかかる染井吉野をぼんやり眺めたあと、陽介を振り返らないまま「朝、起きるだろ」と呟いた。
「……え、朝?」
「起きるだろ」
「起きる、けど」
「めざましのアラームを止めるよな」
「あ、俺いっつも携帯だから……いや、うん、止める」
「止めたあとさ、こういうふうに……思うかな」悠はあくび混じりに振り返った。「もの凄く便利でかつてない素晴らしい力を秘めているこの腕は、おれを責め苛む忌まわしいめざましの息の根を止めるために、畏くも父母がわが助けになれよかしと授け下したものなのだ……って」
 陽介はしばらく「なに言ってんだコイツ」とばかりに眉根を寄せていた。
「思わないだろ」
「……まあ、思わねーよな、フツー」
「そんな感じ」
「…………」
「だから言ったんだ。説明しにくいって」
 仮にうまく言葉にできたとしたら、陽介はおそらくよりいっそう困惑するだろう。こればかりは体験するに如くはなさそうだ。
(そうとも、言葉で理解できるはずはないんだ)悠はよたよたと坂を上がり始めた。(理解できるわけない。いまだかつて認識したことのなかったまったく新しいものが、どこまでも異質で、自己に所属するなんて思いも寄らないものが、自分の腕なんか比較にならないほど、当たり前すぎるほど馴染んでいて、ほかのなによりも自分的で、そうあることを意識しようとするのも難しいほど自然で、そうでない可能性を考えてみることすら馬鹿げてると思えるような……このどうしようもない二律背反!)
  それは実際、こうとしか言いようのないものなのだ。すなわち――あれはわたしである、と。
「ま、よくわかんねーけど、要はアレだろ」陽介が悠の横に並ぶ。「習うより慣れろってやつ? 放課後さっそく頼むわ、センセイ」
(ああ、放課後……どうする……このまま行くか……いや、この時間ジュネス開いてないか……)
「けど、テレビに入るのも、ペルソナも、お前が最初にやってのけたんだよな……」陽介はにわかに神妙になった。「まさかとは思うけどさ、お前って、もともとああいうことできたりしたのか?」
「……できてたらたぶん、隠してたと思う、こういう事件が起きても。間違ってもおまえや里中に見せたりはしなかっただろうな」悠は肩を竦めた。「もちろんできなかったよ。気持ちの上ではたぶん、いまのおまえと同じ」
「と、言いますと?」
「感謝三割、不安三割、迷惑四割……ってとこ?」
「……率直な話、迷惑って思ってんの?  お前」
「感謝もしてる、またとない体験だし」
「ふーん……」
 校門を過ぎた辺りで、悠に少し待つように言い置くと、陽介は思案顔を下げて自転車を停めに行った。いかにも含みありげな様子だが、かといって屈託を抱えているようにも見えない。
(わざわざ聞いたからには、迷惑だとは思ってないんだな、あいつ)
 ほどなく戻ってきた彼の面には、おそらく今ほど駐輪場まで持って行ったのであろう案件を、口に出そうか出すまいかと迷う躊躇のような色が見て取れる。
 陽介は小走りに駆け戻って来て、周りにひとのいないことを確認したあと、気後れがちに「あのさ」と切り出した。
「なに」
「さっきお前、なんか迷惑とか言ってたろ?  ペルソナ」
「感謝してるとも言ったよ」
「まあ、それはいいんだけど。迷惑っつーか、さ」
「え?」
「いやその、俺はさ、こう、なんてーの?  お前笑うかもしれんけど」陽介は煮え切らない様子でもじもじしている。「へへ、改まって言うのもなんかハズいんだけどさ……」
「実はあなたが好きでしたって?」
「バカ違う。そーいうんじゃなくて、あのさ、マジな話、選ばれた……って、思わないか?  お前」
「選ばれたって」
「ペルソナにっつか、ペルソナ使いにっつか……さ。俺のことイロイロ見たお前にだからぶっちゃけるんだけど、これって実際、スゲーことじゃん?」
 正直なヤツだ――悠は好意半分、呆れ半分のため息をついた。
「いいぜバカにしてくれたって。でもこれって、俺たちが特別なんだっていう証拠にならないか?」
「……ここは肯定するだけ肯定して、おまえのモチベーションの維持に貢献したほうがいいのかな」
「ちぇ、いいよ笑ってろよ。言うんじゃなかった」陽介はたちまち拗ねた。
「特別な事件に関与できる特権を手に入れた、とは思ってるよ」夢の中でブロンド美女に無理矢理押し付けられたものだが。「おれたちにとって特別なことと、おれたちが特別なこととは、同じようで違うんじゃないかな」
 人間だれしも自分だけは特別であると思い込みがち――顧みて悠は特にそういう傾向が強いのだった――であるが、いくらなんでもこの数奇すぎる運命を、従容と自己の特殊性とやらに帰結させて恬としていられるほど、彼は寝ぼけてはいないつもりだった。
「運命の神に見初められたっていうより、犬の糞を踏んだって感じ?」
「やる気の出るお言葉ですこと……」
「だろ。ひとを励ますのってけっこう得意なんだ」
「よく言うよ……ま、お前はそれでいいんだよな、きっとさ」陽介は苦笑した。「なんかお前ってブレーキって感じだし」
「陽介はブレーキパッドかな」
「磨り減んの俺かよ! つかアクセルなきゃ前に進まねーだろ!」悠を促して、陽介はふたたび歩き始めた。「俺はァ、アクセルとクラッチですよ」
「で、おれはブレーキ?」
「プラス、ハンドルかな――里中もう来てっかな」
 正面玄関に入るとすぐ、陽介は千枝を捜して左見右見し始めた。といって、おのがじし下駄箱に群がる八高生のなかに、折よく彼女の姿が見えるはずもない。
「なにか用事?」
「いや、用事っつか――あ」
 なにか思いついたようで、彼は靴を履き替えがてら、下駄箱の一画を無遠慮に開けて中を覗き込んだ。千枝の使っているところと思しく、近くにいた女子が胡乱げにその様子を眺めている。
「まだ来てないな」
「ひょっとして昨日の件?」
「ひょっとしなくたってそうだよ。悪いことしちまったし」
「……謝る?」
「謝っとこうぜ、なんか泣いてたしさ」
「またなにか奢ろうかな、ハンバーグとか」
「やめて! ぜったい俺も同じだけ要求されっから! 今月マジでやばいんです!」陽介は青くなった。「あいつのDVD代確保するだけでもう破産寸前なんだよ……!」
「あ、買って返すつもりだったのか。里中は売ってないなんて言ってたけど」
「あー、あいつは沖奈の店くらいしか知らんから。ネットで探せばたいていのもんは見つかるぜ、金あればだけど」
「へえ……」
「とにかくだ、なんでも金で解決しようなんてゲスいよ鳴上くん。男は黙ってアタマを下げるのみ」
「ものは言いようだ」
「われに秘策ありってな。これから段取り教えっからさ」陽介は自信ありげにしている。「何を隠そう謝ることにかけちゃあ、ちょっとしたもんなんですよ、俺は」
「こないだ股間おさえて呻いてた人間が言うと重みがあるな」
「これはTPOを選ぶんだよ、ここぞってときにしか使えない奥義なの」
「奥義ねえ……」
 こうして陽介の遠大なる構想のもと、悠は正面玄関から二年二組教室まで上がる途上、彼のかつて試みて許されなかったことのないという「オムニディレクショナル土下座」の方法と注意点――指を骨折したり膝の皿を割ったりする危険を伴うらしい――について重々しい講義を受けたのだった。果たしてこの必殺技みたいな謝罪を千枝が嘉納するかどうか……
(いいさ、こういうのも一興だ)悠はあえて陽介流を採るつもりだった。(なまじ言葉を尽くすより、こういうなりふり構わないやりかたのほうが、里中には通じやすいかもしれない。ちょっとバカっぽいけど、こいつに付き合ってみよう)
 鳴上ならこんなことはしなかっただろう、しかし悠はするのだ――普段の自分なら絶対にしなかったであろうことを、今やさして抵抗もなく肯定することができるというのは、意識してみるとなかなか気分のいいものであった。鳴上にとって自身の価値を減磨しかねないとも思われた「他人の影響を受ける」という事態を、彫琢の一環として易々と受け容れてしまえるこの悠の優越!
 いまの自分を遼太郎が見たらなんと言うだろう? いまこそ彼は安心して悠を十七歳認定するに違いない。鳴上はそれを喜ぶまい、しかし悠はそれを歓迎するだろう。





 教室の引き戸が開いて千枝が姿を現すや、背後で卒然と椅子を蹴る音が響いた。
「悠、リハ通りに」一緒に立ち上がって定位置に付いた悠に、陽介が低く耳打ちした。「飛びすぎて里中に衝突したら元も子もねーからな」
 もっとも気をつけるべきはまさしくそれである。いかにこころ優しい千枝とはいえ、朝の挨拶もそこそこに回転しながら体当たりを敢行する男子ふたりを、懺悔の表れと笑って許してくれるほどの大慈悲など持ち合わせまい。
 彼女は教室に入って来たときからすでに、悠たちふたりを含みありげに見詰めていた。もとより謝罪を求める腹づもりか、顧みて制裁が足りなかったと思い直したか、どうやら向こうのほうでも用事があるらしい。
「来た、よし悠、行け!」陽介が口上を急かす。「止めねーと距離が……!」
「ええと、さとな――」
「雪子、来てない?」
 小走りに駆け寄って来るなり、千枝は急き込んで悠を遮った。短く突っ慳貪な言葉に焦慮が滲む。
 悠は凍り付いた。
「……天城が、なに?」
「雪子、きょう見てない?  学校きてない?」
「いや、まだ見てないけど」困惑げに陽介が言った。「おい悠、段取り……」
「悪い陽介、オムニなんとかは中止」
 今ほど土下座だなんだと騒いでいたのが遠い昔のようだ――悠は悄然と席についた。先に棚上げしていた疲労がどっと肩に伸し掛かってくる。これから千枝がどんなことを口に上すか容易に想像できてしまうのだ。言ってみれば彼女はある意味で、悠の負債を請求しに来たようなものだった。ハンバーグや土下座などでとうてい贖うべくもない、巨大な負債を。
(さあ、ツケが廻って来たぞ。昨夜おまえが怠けて動かなかったツケが!)悠は唇を噛んで俯いた。(あとはもう小西先輩の例を信じるしかない、天城はまだ生きてるとして、一刻も早くあの世界へ行かなければ)
「……鳴上くん?」
「天城は見てない、おれも」
「なに、天城がどうかしたのか」
「ねえ、あれって」千枝は答えずに、声を低く落として続けた。「やっぱホントなの? マヨナカテレビに映ったひとは、向こう側と関係してるってやつ」
 陽介が口を開きかけて、思い直したように悠を見下ろした。話していいものか判断に迷っているのだろう。
「里中おちついて。天城がどうかしたの?」
 悠は軽く往なして話を続けさせることにした。どのみちここで昨日の出来事をつらつら語ってみたところで、千枝が膝を揃えておとなしく聞いているとも思えない。
(それに、里中には知らせないほうがいい情報もある。一度あの世界に入っているとはいっても、ペルソナを持たない里中はこれ以上、あの世界について識るべきじゃない)
「……きのう映ってたの、雪子だと思う」
「マヨナカテレビか?」思いも寄らなかったらしく、陽介は素直に驚いている。「あれが天城……悠?」
「……マヨナカテレビに映ったとき、天城、和服着てた?」
「着てた! 旅館でよく着てたやつ。ピンク色で、花が染め付けてあって、きのうテレビに出てたときも着てた……」
「テレビ?」陽介が首を傾げた。
「NHKのナントカって旅番組、きのう八時からやってたやつ。こないだ撮影来てて――そんなのはどうでもいい!」千枝は苛立たしげに打ち切った。「鳴上くんも見たの? マヨナカテレビで」
「え、マジなの?  つかお前どうして――」
「陽介ちょっと」陽介を遮って、「それと、傘を差したようにも見えたんだけど」
「消えるちょっと前にブワッてなったやつでしょ、あたしもそう思った。だから」
「……ひょっとしたら天城かもしれない、とは思ってたんだ」心外そうしている陽介に弁解して、「ちょうど昨日、帰りがけに天城に会ったんだ。そのとき和服着て、和傘もってたのが印象に残ってて」
「マジかよ……」
「それ見たあと心配になって、メールしたんだけど、返事こなくて、でも番組みたあと九時ごろ電話したときは普通にいて……きょう学校来るって言ってて……言ってたのに」
 話すほどに当初の勢いは失われて、千枝はしまいにしゃがみ込んで「どうしよう」と洟を啜り始めた。近くに座っているクラスメイトの幾人かが、その様子をきな臭そうに眺めている。なんとはなし悠と陽介が泣かせたような構図ができあがってしまっている。
「さ、里中、なあ、とりあえず泣き止んでくれよ、なんか周りの視線が痛えんだけど」
「ねえ、ウソだよね、雪子、向こう側に……入れられたりなんか」
 悠は黙って席を立った。立ち眩みがする。痺れるような倦怠感が頭中に湧き起こって、それが延髄を下ってじわじわと全身に拡がっていくかのよう。
(こんなのは利子の一部に過ぎない!)悠は歯を食いしばった。(おまえはもっとマシな時に動けたんだ。それをみすみす見送ったからには、この程度の体調不良なんて言い訳にならない)
 無論、学校はサボるつもりである。今日の授業を捨てて絶不調を押してでも、いま動かなければ挽回は叶わないだろう。もしまだ間に合うのなら、だが。
「悠?」
「ジュネス行くぞ」
「……ひょっとして向こう行くつもりじゃ」
「ひょっとしなくたってそうだ」
「ちょ、待てって、落ち着けって」
「雪子、やっぱり、向こういるの……?」
「いやまだわかんねーだろ――おい悠、悠!」構わずに行こうとする悠の肩を、陽介が荒っぽく引き止める。「待てってば。まず確認を」
「待てもなにも、おまえも行くんだぞ」悠は陽介の肩を掴み返して、低い声で呟いた。「なんでもするって言ったのは嘘じゃないよな」
「嘘じゃねーし、するけど、やることやってからだろ」と言って、陽介はふと訝しげな色を見せた。「……そういやなんかお前、顔色悪くねーか」
「生まれつきだよ。文句は両親にどうぞ」
「じゃ電話番号教えてくれ。それとちっと時間くれ、十分でいい」悠の返事を待たずに千枝を振り返って、「里中、天城に電話は?」
「うち出る前、雪子んちと携帯に、一回ずつかけたけど、ダメだった」
「……とりあえず今、もう一度かけてみろ」
「でも」
「出っかもしれんだろ、とにかく確認。出ればよし、出なけりゃ……そんときゃ俺と悠でなんとかすっから」
「陽介、時間が――」
「らしくねーな。焦んのは俺とか里中だろ、いつもなら」悠を窘めるためだろう、陽介はことさら陽気に笑っている。「あ、訂正、十中八くらいで里中だわ」
「うっさい」
 ようやく少し冷静を取り戻したか、ジャージの袖で涙を拭って、千枝は気まずげに立ち上がった。
「……雪子、ほんとうに、向こうに入れられたの?」
「わからん。可能性はあっけど、もしそうなってもまだ打つ手はあるんだ、マジで」千枝を安心させるためか、ただの見栄か、陽介の言葉には自信が透いて見える。「だから、とりあえずかけるだけかけてみてくれよ、電話。悠もそんくらい待てるだろ」
「待つのはおれじゃない。天城なんだ」
「天城越え狙ってんなら、ちっと待たせて焦らすのも手かもな」
「こんなときによく冗談が出てくるな」
「そのセリフ、ノシだったっけ? つけて返すぜ。――里中」
「……わかった、してみる、電話」
 出鼻を挫かれた悠は仕方なく、疲労の命ずるままふたたび席についた。そうして携帯を耳に当てて、なにか巨額の懸賞の通知を待つかのように緊張を漲らせる千枝を、じりじりしながら眺めていた。無駄なことを、きみは抽選に漏れたのだ! 雪子がすでに向こうの世界に入れられてしまっているのは明白なのだ。すでにツーアウトの身の上、一刻も早く行動しなければならないというのに、ましてこの無益に費やされる時間を、千枝が望みを絶たれて苦しむ姿を観察するのに使わされるなど業腹この上なかった。
「やっぱりダメ、留守電になる……」ほんのいっとき持ち直した彼女の貌も、たちまち翳ってしまう。「出ないよ……雪子……」
「……里中、いま出ないって言った?」
 微かな希望が胸を突き上げる。
「うん」
「じゃあ、繋がることは繋がったってこと? コール音があったってこと?」
「う、うん……でも出ないよ」
 悠の思考に追いついたらしい、陽介がなにか思い当たったように目を見開いて、無言で同意を求めて来た。
「なに、どうしたの?」
「……里中、最初に向こう行ったとき、悠に言われて携帯通じるか試したの、覚えてるか?」
「え、ああっ!」途端に千枝の貌が希望に明るんだ。「そーだよ! 向こう入ってるなら繋がんないんじゃん!」
「里中声でかいって……!」
「あ、ごめんごめん」
「……天城が携帯を置いて行ったか、入れられる前に奪われるかした可能性のほうが大きいと思う」
 明るみ始めた千枝の貌も、この悠の無慈悲な解釈によってまたもや翳ってしまった。
「おま……上げて落とすとか鬼畜すぎんだろ……」
「そろそろHRだ、諸岡先生が来る前に行くぞ」
「……もうそれしかねーか」と言って、陽介はひとつため息をついた。ようやくその気になったようだ。「くっそ、結局ぶっつけ本番かよ。仕方ねえ、こうなりゃセンセイ、あとは――」
「待って」
 にわかに千枝が手を上げて、陽介の口の辺りを覆うような形を作った。「黙れ」の合図である。そのままなにかに急き立てられるように、空いているほうの手で忙しく携帯を操作し始める。
「えーと、里中さん?」
「そうだよ……そうだ、置いてってるんだ……!」
「里中、なにか心当たりでも?」
 悠の呼びかけにも応えず、千枝は黙って携帯を耳に押し当てた。先のように小柄な身体を緊張に強張らせて、不安と期待のあわいを揺れ動く、曰く言いがたい面持ちで。彼女の顔の皮一枚下で、希望と絶望とが鎬を削るのが目に見えるようである。
「雪子……お願い……!」
「あのう里中さん、どちらにかけておいでで……」陽介が控えめに訊いた。
「本館、天城屋旅館の――あっ、あの、さっ里中ですけど」千枝の声が一オクターブ高くなった。「えと雪子は、雪子さんは……」
「本館?」
「天城……仕事中ってこと?」
「こんな朝早くに、学校やすんで仕事?」
「……ねーな。こないだの事件のときならまだしも」
「里中はこのまま置いて行こう、とにかく――」
「あ、雪子っ?」
 千枝の華やいだ声が上がる。彼女は歓喜し、陽介は瞠目し、しこうして悠は驚愕した。
「里中、天城が出たの?」
 千枝はなおも携帯に話しかけながら、いい加減にウンウンと頷いて見せた。
(そんな……じゃあ、あれはまったくの 別人だったっていうのか?)
 悠の読みが外れた、というだけならわかるが、幼馴染の千枝もまたかなりの確信を持って断じたのだ。まして彼女の場合、判断力の面だけではない、悠には見えなかった着物の色や柄まで当てているからには、精度においても彼の見た映像とは比べものにならなかったはずである。その千枝を欺きうるほど雪子に似た特徴を備えた人間が、選りにも選ってテレビに入れられたとでもいうのだろうか。
 千枝はもっぱら親友の無事を喜ぶのに忙しく、悠と同様の疑問を温めているふうはない。
「よかったー、いたよォ……え? ううん、なんでもないっす、こっちの話」
「あははマジでいたし……ま、よかったじゃん? 慌てて飛び出さんでさ」陽介は得意気にしている。「ブレーキ役がアクセル踏んでもうまく行きっこねーよな、やっぱさ」
「里中ちょっと」
 と、形ばかり断って、悠は会話中の千枝の携帯をひょいと取り上げた。
「ちょ、なに、なにすんの」
「天城?」
『……え、誰? 千枝は?』
 雪子は少しく沈黙したあと、不信げにそう誰何した。携帯を通して聞く彼女の声は低く、無愛想である。いきなり電話の相手が変わったのだから無理もないが、警戒されているようだ。
「あ、おれ、鳴上。昨日はどうも」
『鳴上くんっ?』雪子の声が一オクターブ高くなった。そうとう驚いているらしい。『どう、したの? いま学校?』
「ああ、うん、学校で、もうすぐHR」千枝が携帯を取り返そうと掴みかかって来るのを往なしながら、「驚かせてごめん、ちょっと里中に替わってもらってるんだけど」
「替わってない、ちょっと返してって!」
『……いまの、千枝?』雪子は含み笑っている。『替わってないって聞こえたけど』
「ノイズかな、ちょっと電波悪いみたいだ。里中にはちゃんと了解をもらってるから、五分につきヨコヅナハンバーグひと皿の約束で」
 千枝はたちまち神妙になったが、じき強欲に堕して無言のまま二本指を突き出してきた。
『千枝の携帯って高いんだ』雪子はおかしげに笑っている。『それで、わたしになにか……?』
「え? ええと、天城、今日は仕事?」悠は頭を振って一本指を突きつけた。「学校は……来られない?」
 とっさに千枝の携帯を奪ったまではよかったものの、悠にも雪子の安否確認以上のことをするつもりはなかったので、用事を聞かれて彼はしどろもどろになった。
『んん……ちょっと急な団体さん入っちゃって、土日は付きっ切りかな』近くにいる誰かを憚ってか、ふいに雪子の声が小さくなった。『ほんとうに、こっちの身にもなって欲しいよ』
「……大変なんだ、なんて言うとおざなりに聞こえるかもしれないけど、いまほんとうにそう思ってる、おれ」悠は昨日のことを思い出していた。「バイトもしたことない身からすると、天城って超人だ」
 なおも二本指を主張する千枝の横で、陽介がそっと人差し指を上げた。悠は黙って親指を下に向けた。
『大げさだよ。好きでやってるわけじゃないし、仕方なくだもん』
 と言ったあと、誰かに呼ばれたらしく、雪子はいったん受話器から離れて「はーい!」と返事をした。忙しい最中に抜け出して電話を取っているものと思しい。
『ごめんなさい、もう戻らないと……』
「いやこっちこそ、ごめん。それで、最後にひとつだけ」
『なに?』
「あの……最近、身の回りで変なこととか、起きてない? 不審者を見かけたとか」
 もう少しピントの合った警告をしたいのだが、一連の事件と向こうの世界の関係を知らない雪子には、ほかにどう言ってみようもない。
(天城がこうして無事な以上、マヨナカテレビに映ったのは別人なんだろう、おそらく。それでも)
 悠にはもうひとつ納得がいかない。そもそもは雪子に抱いている「薄幸美人」的な印象に起因するのだろうが、悠は雪子が不幸な目に遭うに違いないという、予感と期待とが相半ばするような、奇妙な感覚をどうしても捨てきれないのだった。それが根拠のあるなしに拘らず注意を発したがるのである。
 携帯のスピーカーから雪子の忍び笑う声が聞こえてくる。
「天城?」
『見かけた……見かけたよ、不審者』雪子は吹き出した。『きのう公園で! わたしの帯が欲しいって言っててね……傘で追い払ったんだけど……!』
「……危ないなあ、そういう手合いはしつこいから、まだどこかで機会を窺ってるかもしれない」妙に静かになった千枝と陽介を不信げに見ながら、「いっそあげてしまうっていうのはどう? 目的を果たせばそいつだって静かになると思うよ」
『帯だけで満足するかな』
「あ、それは絶対にないな。おれはよくわからないけど」
『じゃあ、鳴上くんの叔父さんに相談することにする。警官なんだよね』
「ふと思ったんだけど、その不審者はほんの出来心だったんじゃないかな。まず再犯の危険はないね。おれはよくわからないけど」
『そう? いちおう念には念を――』
 と、言いかけて、雪子はふいに切羽詰まった甲高い声で「すみません、いま行きます!」と叫んだ。また誰かに呼ばれたか、なにか催促されたものか。
「ごめん天城! 悪い、ええと、おれが引き留めたって言って!」
『ううん! いいよ、こっちこそごめん。じゃああの、また学校で』
「天城、気をつけて」
『……不審者にね』
 笑い含みの声を最後に、電話は切れた。
(最後のは真面目に受け取ってもらえなかったな)
「あっ、切っちゃったの?」千枝はさっそく膨れた。「まだあたし話してたのに!」
「ごめん……向こうのほうで切られてさ」携帯を返しながら、「天城、忙しいみたいだ。明日くらいまで仕事らしい」
「あ……そっか」千枝の貌が曇った。「ま、無事が確認できただけでもいーか……」
「つか、家の商売の都合で学校休まされるとか、ブラック過ぎねーか天城んち」わが身に準えたか、陽介は大いに憤慨し始めた。「まるでドレイだろ。これで天城が出席日数とか足りなくなったら、ちっと俺マジで抗議すっかも」
「んん、でも、年に一回くらいだよ、こーいうの」
「年に一回でもありえねーって。学業優先だろフツー」
「抗議するときは声かけて。付き合うよ」悠は大義そうに席についた。「そうか……天城じゃなかったか」
「……なんか残念そうだな、お前」なにか思い当たったのか、陽介はニヤニヤ笑い出した。「ひょっとして天城に入ってて欲しかったとか? カッコよく助け出すために」
「ある意味、ね……」
「やめてよマジで……あー寿命ちぢんだよもー……」
 ――ほどなく予鈴が鳴って、諸岡教諭が教室へ入って来た。HRが始まった。彼の来る前に様子を見に行こうと悠の言っていたのを、どうやら陽介は忘れてしまっているようだった。
(ある意味ね、陽介)悠は疲れた頭を振って、新たに湧き上がってきた問題を考えていた。(そうだ、ある意味において、遭難していたのは天城であったほうがよかった……そうすれば今ごろは汗だくになって、ジュネスの家電売場へ走っていただろう。そうするだけの気力を簡単に捻出できただろう)
 見も知らぬ他人のために自分の時間を捧げ、命の危険を冒すという行為の、どれほど難しく強い克己を必要とすることか! 悠は悩んでいた。雪子の危機にはあれほど過敏に、速やかな行動を急かした彼の精神が、その対象が未知の人間になったとたん鈍麻してしまった。著しくやる気が減退してしまったのである。
 これは一見地味な、しかし厄介な障害だった。ついこのあいだ転校してきたばかりの悠に、当然ながら知人は少ない。もし今後被害者が出て来るとして、それが彼の顔見知りである可能性はかなり低いだろう。であれば、彼は「それ」をできるかできないか、の前に、まず行動に繋げるための動機を練り上げる作業から始めなければならないのだ。無辜の人命が失われようとしている――こんなト書きひとつでは、悠の横着な精神はいまひとつ発奮しないようだった。
(疲れてるせいならいいんだけど……おれって結構、薄情なのかな)
 ふいに背中を突かれて、悠は諸岡教諭の目を盗んで背後を振り返った。陽介が右手に持った定規で、彼の椅子の背もたれをしきりに指している。
(また付箋紙か)
『お前って具合悪い?』
 意図の掴めない質問だったが、悠は素直に『ただの寝不足だけどかなり悪い』と返信した。
『HR終わったらおれ一人でジュネス見に行ってみるから、お前寝てな』
 どうやら忘れていなかったらしい。
『気持ちだけありがたく。でも単独行動は却下』
『誰かが見に行かなきゃならないし、俺なら店開いてなくても入れるし、もし今日助けに行かなきゃならないならお前は少しでも休んでなきゃだろ』おまけでもう一枚。『単独行動するなとかお前が言う?』
『中に入ってクマに確認するだけならまだしも、もし中に誰かいれば、お前絶対一人でも行くだろ』
 この付箋を書いている途中で、悠はふとあることを思い出した。少し気分がよくなった。
(そうだった、おれはこれのために、あの世界に入るんだった。なんだ、そんなに薄情ってわけでもないじゃないか、おれ)
 そもそもの目的が違うのだった。地域社会への奉仕であるとか、警察への協力であるとか、世のため人のためであるとか、そんなことを目的にこの無謀な試みを始めたのではなかったのだということを、悠は思い出した。
 見ず知らずの他人にかける情に薄くてもいい、見ず知らずの他人に情を注ぐ彼のために、自分はハンドルとブレーキを操ればよい。庭師は自分の庭に関心を保てばそれでいいのだ。果樹はやがて枝葉を張り、柵の外に実を落とすだろう。それが自分の、外界との新しい付き合い方なのだ。
 得心した途端、にわかに眠気が兆し始めた。
『中に入って確認だけして、すぐ戻ってくる』
『いてもいなくても、だ』
『いてもいなくてもな。お前はちゃんと寝てろよ。勉強すんなよ』
 思わず笑いの漏れたのが気になったか、隣の千枝がちらとこちらを向いた。悠の机に散らばる付箋紙に気がついたようで、さっそく机の中をごそごそやり始める。
『七分たってたから二皿ですよダンナ』
 天城峠じゃ電話代も高くつくな――悠は苦笑した。
『五分につきだから、二分は切り捨てになるはず』
『二分のぶんはふつうのハンバーグでもいいよ。ステーキでもいいよ』
「…………」
『さっきの電話、なんかいいフンイキだった?』
(いいフンイキ、か。かえって悪いことしたな。天城、怒られてなきゃいいけど……)
『ある意味ね』
 悠はペンを置いて船を漕ぎ始めた。







[35651] あたしも行く
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b9f1ef46
Date: 2013/01/15 10:26


「あたしも行く」 
 と、千枝の言い出すのはもちろん予想通りであったし、じっさい彼女は期待を裏切らなかった。
「なんでさっきから来るな的なフンイキ出してんの? それとなんでそんな早足なの? ちょっと待ってよ」
「コンパスの違いだよ」
 来て欲しくないからだよ――悠は下駄箱に内履きを放り込んだ。
 週最後の課業を終えた生徒たちで、正面玄関はなんとはなし浮き立つような賑わいがある。今日ここから押し出される生徒たち全てが来たる日曜への輝かしい希望で足取りも軽く――などということもなく、そのうちのひとりたる悠の足は重い。
「ねえ、なんで仲間はずれにすんの? 来られちゃまずいワケでもあるの?」
「いや、仲間はずれなんてしてねーけど……だからなんも面白いもんなんかねーんだって」陽介は弱り顔を隠せていない。「こないだ行ったときと同じだし、だいたいお前そういうのフキンシンとか言ってなかったっけ?」
「小西先輩がらみのこと見たいなんて言ってないでしょ」千枝は口を尖らせた。「だいたいあたしが行くのダメならどーして花村はいいの」
「……ほら、俺オトコだし」
「うわ女性差別! 鳴上くんなんとか言ってやってよ」
「がっかりだな。女子だと思ってた」千枝に見られないように陽介を睨みながら、「ほんとうに誰もいないって言ってたんだな、陽子ちゃん」
「何度も何度も言いましたわよ悠子ちゃん、クマは俺らが出てってから誰も入ってないって言ってましたですわよ」
 三人は他の八校生の群に混じって雁行しつつ、濡れそぼる対の染井吉野を潜った。行き先は無論、ジュネスの家電売場である。
 昼あたりから降り頻っていた雨はつい先ほど、八校生の放課に配慮したかのようにぴたりと止んでいた。めいめい手に持った傘は巻かれたままだが、路面は水浸しで、千枝が悠たちに前後して行ったり来たりするたび、彼女の靴から盛大な飛沫が飛び散るのだった。
「今日はよく降るよな。スカート穿いてくればよかった」悠は婉曲な抗議を試みた。
「チョロチョロすんなってお前、水飛んで来てんだけど」陽介は単刀直入に訴えた。
「あーごめん、ぜんぜん気付かなかった。これでいい?」飛んで来る飛沫が増えた。どうやら抗議のつもりだったようだ。
 校門下の坂を下って一度道を折れれば、ジュネスの赤い看板は曇天に隠れもない。これから千枝を伴って行くのがあそこだけなら、なにも問題はなかったのだが。
(陽介のやつ、なんで里中のいる前で言うんだ……来たがるのは目に見えてるじゃないか)
 悠はひっそりとため息をついた。
 ジュネスへ様子を見に行っていた陽介が帰って来たのは、二限目終了のチャイムが鳴ったあとすぐであった。
「クマ、誰も入って来てないって言ってる」
 席に戻って来るなり、悠の机に手をついて、陽介は開口一番、低い声でそう言ったのである。彼の顔にはすでに「なんで?」と大書してあり、それはすぐさま悠の面に複写された。
「……なんで?」
 ふたりはなかよくお互いの顔を読み上げたのだった。
(じゃあ、なぜ映る? どういう経緯で映る?)
 今まで仮にでも立てることのできていた法則は、これで全てご破算となった。振り出しに戻るどころの話ではない、すごろくを売ってる店から探し始めるくらいの後退と言える。
(山野アナより前の、ただ映るだけだったマヨナカテレビに戻ったってことなのか? それとも山野アナも小西先輩も、テレビに入れられていない時点からすでに映っていたのか? だとしたら、その空白を繋ぐものって……なんなんだ?)
 このありがたい土産のおかげで、悠は三限目以降、まるで居眠りに集中できなかった。おまけに六限目の終わってすぐ、陽介はだれ憚ることなく悠に、
「お前すぐ来れる? なんなら俺さきに向こう行ってっからさ」
 などと不用意に宣ったものだから、
「え、向こうって、ふたりともきょう向こう行くの?」
 果たして千枝が腰を浮かせた。陽介は失言を覚って焦ったが、もう手遅れである。ほかならぬ「向こう」へ行ったひとりなのだ、ほかの誰が気に留めなくても、彼女が「向こう」という言葉に隠語の響きを聞きつけないわけがない。
 なんとか煙に巻かねばならぬ。悠はあらゆる手段を用いて濛々たる煙を巻き起こしたが、なにか隠そうとする意図はまったくのところ筒抜けで、千枝はジト目で換気扇を回し続けるだけ。二番手の陽介は彼女の食いつきを信じてカンフー映画の話題を振るも、つい口を滑らせて清朝中国の辮髪を「みつあみハゲ」などと評したせいで彼女の逆鱗に触れ、無影脚とかいう技の実験台にされたあげく自らの制服で床の雑巾がけに精を出した。
 かくして男子勢の姑息な隠蔽はあっさり看破された。のみならず、昨日の悠たちの冒険の顛末を訊きそびれていたとして、彼女はこのタイミングで謝罪込みの詳細を求めて来る。ここでも陽介は下手を打った。簡潔に早希の遺品を見つけた旨のみ悠が説明する合間に、千枝の質問に答えてシャドウやペルソナの存在を、間接的にとはいえ仄めかしてしまったのである。
(そもそも天城の安否を確かめてたとき、テレビに入れられても打つ手はあるなんて言ってたもんな、こいつ)
 先にテレビの中に入った三人中、最大の慎重派であった彼女も、事ここに至ってついに旺盛な好奇心を抑えかねたらしい。
「あたしも行く」 
 と、千枝の言い出すのはもちろん予想通りであったし、じっさい彼女は期待を裏切らなかった。
「鳴上くん、例のブツ、忘れてないよね?」
 千枝は悠たちを追い抜いて、後ろ歩きにそう言った。出し抜かれまいとしているのだろう。ここで走りでもすればまたぞろ中段蹴りを喰らいかねない。
「なに、なんだよ例のブツって」
「それなしにはいられないんだ、里中は」悠は沈痛そうな面持ちになった。「身体に悪いからあんまり大量に摂取しないで欲しいんだけど……」
「ちょっとそこ、誤解を招くような言いかたしない!」
「……それって、白かったり、粉っぽかったり、注射したりするヤツ?」
「注射なんかしないよ。火で炙るんだ」
「里中お前……!」
「ただの肉だっつの! ゴハンおごる約束!」千枝は半ば笑っている。「ハンバーグ! もしくはステーキでも可!」
「あー、例の携帯の使用料ね」
「里中はキャリア変えたほうがいい。五分で千三百円なんて暴利だ」
「あたしが決めたプランじゃありませーん。あと二分のぶん忘れてるよ悠子ちゃん」
「天城越えは金かかるなあセンセイ、御愁傷さん」陽介は無責任にへらへら笑っている。「ま、なんか前に何万もするコンサートのチケット用意して玉砕した奴とかいたらしいし、それ考えりゃまだいいんじゃねーの?」
「そそ、安いもんでしょ? 雪子と仲良くなれるんならさ」
「どうも誤解されてるみたいだけど」悠は首を傾げた。「おれ、天城越え狙ってるなんて言ったっけ?」
「へ、違うの?」この物言いは心外だったらしい、千枝が眉根を寄せた。「なんか電話でいいフンイキだったし、前も手紙かくとか言ってたじゃん」
「手紙って、悠が天城に?」
「ラブレター書くって、転校してきた日に」
「中国語でね」
「え、お前、中国語わかんの?」
「わからないよ」
「……じゃ、書けねーじゃん」
「もちろん。書く気ないんだから」悠は肩を竦めた。「冗談のつもりだったんだけど」
「……鳴上くんって、雪子のこと、実はなんとも思ってなかったり?」
 千枝の面に一瞬、さっと非難するような色が刷かれた。が、陽介の見咎める暇もなく、それは曖昧な笑顔に取って代わった。
「思ってるよ、いろいろ、明るいうちは言えないけど」
「いい、言わんでいいからね」
「もう千三百円はらって天城本人に言ってみようかな」
「叔父さんに通報されんぞお前」
「実は冗談抜きで朝されかけた」
「ちょ、ひとの携帯でなに話してんの……!」
「天城が本命じゃねーとしたら、じゃあ、だれ狙ってんの?」
「里中」
 千枝は後ろ歩きのまま、自分の足に蹴躓いてひっくり返りそうになった。危うく傍らの陽介が彼女の腕を捕らえる。
「はあっ? なに言い出したのこのひと!」千枝はみるみる赤くなった。「狙ってって、あたっ、あたしって!」
「おま……いまサラッとスゲーことを」
「あと陽子ちゃん」
「陽子ちゃ――アホか!」陽介は赤くはならなかった。「俺そーいうシュミねーからな!」
「今はおれにあるかどうかって話だろ」千枝の傘を拾い上げながら、「天城はその次くらいで検討中」
「どういう基準だよ」
「知り合った順」
「あっそ……気の多いこって」
 ジュネスの真向かいの交差点で、三人は赤信号に阻まれて立ち止まった。
 ふと見上げていた信号機に、悠は小さな違和感を覚える。すでに何度か見たはずだったのが、やけに新しいのに今さらながら気付いたのである。この辺りではほかに見られないLED発光のタイプで、おそらくはジュネス進出の余波でこの交差点が拡張されたかして、そのときに換えられたものと思しい。黒地に規則正しく放射状に並んだ赤い粒々は、ほの暗い電球式よりもずっと強く人工を匂わせている。
「なんか浮くな、あの信号」
「信号?」千枝は悠の視線を追って、答えを見付けられずに首を傾げた。「浮くって?」
「新しすぎてさ、そぐわないっていうか」
 異物感があるのだ。それは鄙びた田園に忽然と現れた標識のようだった。飛び地した都会の切れ端を示す目印、たまたま河に落ちてあらぬ方へ流れていった種が、所を得て結んだ珍かな石榴の幾顆。
「ゲオ、できんだってさ、そういや」赤信号を見上げたまま、陽介がぽつんと言った。「あのジュネスの脇んとこ、いまいくつか造ってる店あるじゃん。あれのどれか」
 無論、ジュネスの集客性能を見込んでの展開に違いない。こうして飛び地は拡大して、いつの日か石榴は珍しいものではなくなるのだろう。この地特産の柑橘かなにかをひっそりと枯らしながら。
「ゲオって?」千枝が首を傾げた。「店? 何屋?」
「ビデオレンタルとかゲームとか売ってる……え、お前ゲオ知らんの?」
「……知ってたら訊かないし」
「へー……あ、じゃあサトミタダシとかは?」
「知らないっつの。誰よそれ」千枝は不機嫌になった。「つか田舎者あつかいやめてくれます?」
「ヒットポイントカイフクスルナラ」ふいに陽介が歌い始めた。「キズグスリート、ホーギョクデ」
「ヒンシタイヘンナカマヲタスケル」三小節目からは悠も参加した。「チガエシノタマトハンゴンコー」
「なんか久々に聴いたな、コレ」
「なに、急に、なんで歌い出してんの……?」千枝は困惑している。
「そっか、この辺りないんだ、サトミタダシ」
「あんま探してねーけど、沖菜にもなかったな、確か。でもゲオはあった気が――」
「ねえって、今のなによ、ヘンな歌」
「店ん中でずっと流れてんの、こういうのが。意味わかんねーけど」
「店って?」
「サトミタダシ。ま、知らねーだろうとは思ってたんだ」陽介はニヤニヤしている。「ここいらじゃ訊くやつみんな知らねーって言うし」
「店なの? つか店の名前なの?」
「うん、ドラッグストア」
「……なに考えて名前つけてんの? それひとの名前でしょ?」
「言うと思った。みんなそう言うんだよな」
「社長の名前なんだっけ、確か」
「だったかな。ヘンだけど覚えやすいだろ。けっこう有名だし、東京じゃどこ行ってもあったし」
 千枝は悠のほうをちらちら見ながら「東京のノリってちょっと変わってるよね」と重々しく宣った。彼女の中の東京像に著しい歪みが生じてしまったようだ。
 歩行者信号が青に変わった。
「なあ、ところでお前ってさ」
 歩き出してほどなく、陽介がいくぶん改まった声を出した。
「え、おれ?」
「あー、あのさ、なんか教室でちらっと聞いたりしたんだけどさ」
「うん」
「で、まあ、いい機会かなって、なんか思っちまって……」
「思っちまって?」
 陽介はもじもじし始めた。
「ホントに、答えたくないならぜんぜん、別にいいんだけどさ」
「……朝も思ったけど、おまえって前置き長いよな」
「悪かったな、訊きづらいんだよ」
「単刀直入にどうぞ、気にしないから」
「じゃ訊くけど、お前って、マジでその、そっち系のシュミあんの?」
 どうやら先の話の続きらしい。
「そっちって、どっち?」悠はとぼけて首を傾げた。
「そっちだよ、わかんだろ? えっとほら、あの、ホ……いや、男同士でアレだよ、こう、そういうふうにさ、思ったりするやつ」
 陽介は指示語と代名詞を駆使しつつ、赤面しながら自己検閲に躍起になっていた。彼のあれこれ言葉選びに苦心して顔色を変えるのは見物である。
「つまり、訊きたいのって、男色のこと?」悠はせいぜい深刻そうに見える貌を造った。「おれが同性愛者かって訊きたいのか」
「こ、このさいはっきり訊いときたいん、だけど」
「……そう」
 悠はすぐには応えず、デリケートな問題に踏み込まれて傷ついた少年を演じながら、黙って横断歩道を渡った。じき店舗の入口が見えてくる。彼の言葉を待って陽介――ついでに千枝も――の身を強ばらせるのが、背を向けていてもわかるようだ。
「あ、やっぱいいわ悠、忘れてくれ!」陽介はとうとう音をあげた。「言いたくないならさ、別にいいから……」
「里中も気になる?」悠はジュネスの入口の近くで立ち止まって、ようやく口を開いた。「そういうヤツが身近にいるかもって」
「ええっと……なん、というか、気になると言えばまあ、気になる、かなー、なんて……」
 悠は振り返ってふたりを手招いた。陽介も千枝も不安いっぱいの面持ちで、それでもそろそろと近寄って来る。
「顔、寄せて。あんまり大きな声で言えないから」
 きっとふたりにはわかるまい、それでも自分はこれから恥を打ち明けるのだから――ふたりは言われるまま、顔を伏せて恐るおそる顔を寄せて来た。耳元に爆弾を仕掛けられるとでも言わんばかりの態度である。
「おれってさ、なんかバカげた、冗談めいたことばかり言ってない? いつも」
 この質問は少しく彼らを困惑させたようだった。ふたりとも眉根を寄せて、要領を得ない貌をしている。
「まあ、言ってる、かな」
「バカげたっていうか……まあ、冗談いってるね、しょっちゅう」
「あれって、なんていうか、処世術の一環なんだ。ひとって笑わせれば好感を持ってくれるだろ、だから口を開くときは、そんなことばかり考えてる。こないだ転校してきたときなんてまさにそうだ」
 好感を与え、快いことをしてやれば、周りは好意を持ってくれる。好意を持てばひとは積極的になる一方、その対象を尊重して遠慮するようになる。この尊重と遠慮のラインに築く城壁こそが、なによりも堅固なのだ。孤独という楽土を守るためには社交性の砦が必要不可欠で、学校中にあまねく敷衍されたスクールカーストの桎梏から逃れるために、肝心なのは教室の中の「快い異物」となること――これが悠の処世術であった。
「それで、おれの言ってることって、ウソも多いんだ。要は相手を笑わせれば、ちょっと愉快なヤツだって思わせればいい話だしさ、実際あとのことなんて大して考えちゃいない。さっきの天城の手紙にしたってそうだ、言いっぱなしってやつ」
 顧みるだにまこと下らない、愚かしい処世術であった。なんとなれば彼はついこのあいだまで、周りの少年少女たちを同じ人間だとは思っていなかったのだから。彼らによい餌をやり、住みよい小屋を建ててやり、首輪の鎖を長めにとって優しくしてやるのは、ひとえにやかましく吠えさせず、我が家へ立ち入らせないためだった。
「不誠実だと思う? こういうヤツ」
「え、いや、いいんじゃない? あたしだって冗談言うし、ウソ言うし、ぜんぜんフツーだって」
「誰だってそうじゃね? お前だけじゃねーよ、そういうの」
 いともうるわしき尊重と遠慮! 彼らがもっぱら好意に幻惑されてこう言っているのを、悠はよくわかっていた。そう仕向けている己のやりようを間違っていると理解できた今でも、しかしもはや自身の一属性となってしまった、この軽口を止めることは彼には難しい。せめて今の悠にできるのは、このラインに基礎を打たないこと。煉瓦を積み上げて矢狭間を穿ち、その向こうから彼らを蔑視する――こういう行為を二度と試みないことである。
「そう言ってもらえるとありがたいけど……で、さっき陽介の言ってた、同性愛の件」
「お、おう」
「それもいま話した事情の弊害ってやつ。もちろんウソだ、そんなシュミはない」悠は笑ってふたりから顔を離した。「まさかそんなふうに誤解されるとは思ってなかったけど。でもまあ、これも身から出た錆だよな」
「だよな」一転、陽介は快活になった。「いや俺もマジになんかしてなかったけどさ、井坂とかがさァ」
「へー……花村さっきすごい脂汗かいてたじゃん」
「うっせ」
 ささやかなわだかまりは解け、三人は朗らかにジュネスの入口を潜った。ちょうど悠たちと同じ構成の八校生がひと組、エレベーターを待って喋っているのが見える。テナントスペースのたぐいは二階からで、一階は広告や地域情報の掲示板を廻らしたエレベーターホールになっているのである。
「誤解、解いといたほうがいいぞ、一部にはされてっから」
「へえ。まあ追々ね」
「鳴上くん冗談で言ってんのかマジメに言ってんのか、ときどきわかんないからね」
「里中と話すときだけは全部マジメ」
「ほらまた出た」
「いや本当に。里中にさっきみたいな誤解をされてなくてよかったよ、同性愛だなんて」
「お、里中ねらわれてんぞ」
「うっさいから」
「狙ってるのは里中だけじゃない」
「天城もだろ」
「え? そっちは検討中って言ったろ、狙ってるのは陽子ちゃん」
「……は?」
 ポンと音がして、エレベーターの扉が開いた。怪訝そうに立ち竦むふたりを後目に、悠は前の三人組について中へ入った。
「同性愛なんて誤解も甚だしい。おれ両性愛者だから」陽介と千枝と、ついでに背後の三人の視線を感じながら、悠は会心の笑みを漏らした。「男も女も大丈夫だからさ――乗らないの?」






 陽介の言ったとおり、クマは誰も入っていないと繰り返すばかりだった。
「絶対に? ひとが入ればすぐわかる?」
「すぐにはわからんクマ」何度しつこく質問をされても、クマはいっこうに倦まない。「でもキミたちまた入って来るかもって、クマ今まで何度も匂いを嗅いでたクマ。気配もないし、シャドウだって静かクマよ」
 クマは加えて、自分の鼻や感覚には自信があるが、それ以上に人間の存在を確信させるのはシャドウたちであると述べた。
「シャドウは人間がどこにいるかはわからないけど、人間が入ってきたことは必ず察知するみたいなんだクマ。クマの鼻がたまたま詰まってたって、シャドウたちが騒ぎ始めなきゃ、それは誰も入ってないってことクマ」
「……陽介」
「わかんねーな、こればっかりは」陽介は力なく諸手をあげた。「ま、つまり、誰もいないってことなんだろーな」
「じゃあ、どうして映る……」
「テレビが犯人の、その、殺気? みたいなのを映し出してるとか」
「今まで映ってきた有象無象も?」悠は腕を組んで、熊よろしくその辺りをウロウロ行き来した。「じゃあなぜその犯人限定になる。どうして殺気限定になる。その殺気を仲介する力って? 十二時限定なのは?」
「……わかんね」
 テレビの中で起こったこと、というのなら――なぜテレビの中にこんな世界と法則とがあるのか、ということに目を瞑れば――まだわかる。しかし、その囲いの外からなにがしかの力、例えば犯人の殺気だの意志だのがテレビに働きかけるというなら、犯人以外の人間のそれが反応しないのはおかしい。犯人の特殊性という言葉で片付けようとするなら、彼はなにがしかの力で特定の属性を持つヴィジョンをテレビへ入力することができ、かつそうする意志がある場合か、テレビの側でそれだけを弁別して、なんらかの目的のために出力する意志がある場合に限られる。
 いずれにせよ、最低でもどちらか片方が、もう片方へ働きかけようとする能動的な具体が必要なのだ。
(考えられるとすればふたつ。犯人が自分の狙う人間を故意に、予告のような形で決まった時間にテレビへ『発信』しているか、テレビの側の何者かが彼の特殊な力を、おそらくは犯行を阻止する目的で『傍受』しているか……)
 犯人がターゲットの予告をしているというのはいささか小説的で、現実には非常に考えにくい。なにせデメリットしかないのだ。かといってテレビの世界の側について言えば、目下「能動的な具体」などというものは、
「……どしたクマ、なんかついてるクマ?」
「んん、なんでもないよ」
 このとぼけた着ぐるみくらいである。
(もしくは、ひょっとしたらいちばん可能性が大きいかもしれないけど、今までと同じ、ただ映るだけのマヨナカテレビに戻ってしまったか。もし犯人のものに限らず無作為に『受信』するというのなら、あるいはこれが元々のマヨナカテレビ現象を説明するかもしれないし……)
 授業中に考えていたとき何度もそうしたように、悠は結局この考えに戻って来てしまう。しかしここでエンジンを切ろうとすると決まって、かのイゴールの警告が耳を突くのである。なにかが起こっている。それは進行しつつあって、今この瞬間にも彼の開墾した小さな耕地にヒタヒタと忍び寄っている。――悠はふたたびアクセルを踏み、もう何度も通った路を左見右見しながらイライラと走り始める。
「そーいえば、あの女の子はこないクマ?」
 ふと、クマが思い出したように言った。
「あー、里中かァ」
「来ないよ。残念だけど」
「はやくコレ渡したいクマ」クマの手には例の眼鏡が握られている。「あの子のなまえって、サトナカナニチャンクマ?」
「サトナカニクエっつーんだ、あいつ。肉枝」陽介はしれっとウソをついた。「肉が好きだから肉枝な」
「ニクエチャンクマね」
(里中が聞いたらなんて言うか……もっとも、その機会はまずないだろうけど)
 悠はひっそりと失笑した。
 今日が土曜日であることも手伝ってか、たまたま家電売場がひとで賑わっていたのは幸いであった。これを口実に、見咎められずに入るのは難しいからということで、本日の「テレビの中の世界旅行」は表向き中止ということになっている。
 もっとも、千枝はなかなか諦めようとしなかった。早々と中止宣言するふたりをなんとか翻意させようと、「ちょっと待ってみよっか」とか「今なら行けるじゃんほら早く!」とか「一時間後にもう一回こようよ」などと、遊園地行きを断念しようとする親を口説いてかかるこどもの執念で食い下がって来る。悠も陽介もことさら愚鈍を装って、いかにも「べつに今日じゃなくたっていーし、どうしても入りたいってわけでもねーし」という態度を貫き、千三百円の金と一時間以上の時間をかけてなんとか彼女を追い返すことに成功したのだった。
「つぎ入るときはぜったい声かけてね。仲間はずれダメだかんね!」
 これが千枝の捨て科白である。
「仲間外れか」と、陽介が独りごちた。同じことを考えていたようだ。「なにもしたくてしてるわけじゃねーけどな」
「里中をここに入れちゃいけない。理由はわかってるよな」
「わかってるよ――クマ、いろいろあってさ、里中は連れて来れねんだ。わりーけど」
「ニクエチャン、こないクマ?」
「ああ。つかニクエとか言ってる時点で来られても困るし」陽介は苦笑している。「里中には詳しく話さない。それでいいんだろ」
「教室でここの話をするのも禁止だぞ」
「わかってますって、あの学校のはついうっかりだって……で、悠」
「んん」
「ペルソナ」
「……やるか。もうクマに訊けそうなことはなさそうだし」
「今夜のマヨナカテレビでさ、またなにかわかるかもしれないし、そんときまた考えようぜ」
 と言って、陽介は制服の胸ポケットからタロットカードを取り出した。
「陽介、それ、授業中も机の上に出してただろ」
「え、なんかまずかった? 俺ら以外みえねーし、別に問題ないだろ」
「隠しておいたほうがいい。この一連の事件の犯人にはたぶん、それが見える」
「あ、そうか、テレビの中に入れるんだもんな」
「犯人がおれたちと同じような、こういうタロットを持ってるかどうかはわからないけど、もし持ってるとしたら見られるのはまずい。こっちの素性がバレる」
「つったって、見た目タダのカードだし」
「タダのカードは発光したりしないだろ」悠は財布の中からタロットを取り出した。「ちなみにそれ、制服の胸ポケット越しでも光が漏れるんだ。もっと厚いものに包んで携帯したほうがいい」
「わかったよ、そうする」
 陽介は悠たちから少し離れて、スタジオの中央辺りまで移動したあと、タロットを指に挟んでポーズを取った。なんとなくスポットライトを待っているような雰囲気がある。
「よし準備万端。で、どーやって出すの?」
「それなんだけど、なんというか、口で言って理解してもらえるかどうかいまいち……」
「あのさ、こう、ヒーローものっぽくしたらパッと出てくるとか、ねーかな。ペルソナーって」
 悠はしばらく「なに言ってんだコイツ」とばかりに眉根を寄せていた。
「……おまえの言葉を借りるなら、ねーよ」
「うっわ、バッサリ切り捨てやがった」陽介は苦笑して、より複雑かつ外連味たっぷりのポーズを取った。「ゆうべ夜中の二時まで練習した変身ポーズなんだ、誰がなんと言おうと一度は試すぜ、俺は!」
「そもそも変身なんてしないんだぞ……」
「あーあー聞こえない。ま、いっぺんやらせてやってくれよ」陽介はあくまでウケを狙うつもりらしい。「いくぜ――ペルソナッ!」
 叫びざま陽介は跳び上がって、身体を反らせて回転しつつ、手にしたタロットを天高く突き上げた。――朝方に話していたナントカ土下座に想を得たと思しい、こんな騒々しい「変身ポーズ」を夜中の二時まで練習していて、果たして家族から苦情は来なかったのだろうか。
「気は済んだ?」
 陽介の返事はなかった。それどころか、着地した姿勢のまま身じろぎもしない。あるいはこちらの冷やかな反応を恥じたものか、笑い飛ばしたほうがよかったなと思い直す暇に、クマの喫驚する声が耳を打った。陽介の背中に覆い被さるような恰好で忽然と、身長四メートルほどの巨人が現れたのである。
「ヨ、ヨースケも出せるクマか!」
(まさか本当に出てくるとは……いったいどういう原理なんだ? あれって)
 あんなやりかたでペルソナが出てくるならなんの苦労もない。ひとによって喚び方が違うのだろうか? いずれにせよ、陽介に少しでもわかりやすく説明しようとあれこれ考えていたのは壮大な徒労に終わったようだ。
「陽介! たぶん混乱してると思うけど、落ち着けよ!」
 陽介はなおも声に反応せず、代わりに巨人――陽介のペルソナが勢いよく立ち上がって、自分の身体をしげしげと見回し始めた。
 悠のペルソナとの類似点といえば、仮面を着けていることとその大きさくらいのもので、見てくれにはかなりの違いがある。末広の裾に迷彩柄を配した、白いライダースーツ様のツナギに、上半身から首までを深紅のマフラーが巻き付くといった出で立ちで、その両手に人間を輪切りにでもできそうな巨大な手裏剣を握っている。胸を半ばほども覆い隠すV字の飾りがひときわ目を引いた。
 ミッキーマウスの耳のような張り出しのある、奇妙な黒い仮面が、ついと悠のほうを向く。
(なんというか、ずいぶん派手なんだな、陽介のヤツは)
 胸の巨大なV字は燦然たる金色である。ほとんど黒と鋼色で構成された悠のそれとは対照的だ。
「陽介あんまり動くな! 自分の身体を蹴飛ばすぞ! おい!」
 先と同じに陽介の反応はない。なにかおかしいと思う間にも、しゃがんだままの彼の身体が横倒しになって、力なく床に頽れてしまった。
(意識がないのか? おかしい、おれのときと全然ちがう!)
「センセイ、ヨースケ寝てるクマ!」クマが及び腰で悠の許へ駆けてくる。「聞こえてないクマよ!」
 ひとしきり自分の身体を改めたり手足を振り回したりしていた巨人が、ふいに悠の目の前までのしのしやって来た。初めてシャドウと対峙したときに痛感したような、「操縦」の困難さを微塵も感じさせない、滑らかな動きである。
「陽介?」
 彼はなにか悠に訴えるように、賑やかにがちゃがちゃ動き始めた。ガッツポーズを取ったり、目にも留まらない素早さでシャドウボクシングを始めたり、その場で十メートルほどもジャンプしてみせたり、両手に持った巨大な手裏剣をびゅんびゅん投げて見せたりと、とにかく落ち着きがない。
「陽介あぶない! 動くな! クマ離れて!」悠は慌てて後退りながら怒鳴った。「陽介っ! くそ、聞こえないのか!」
「センセイ、ペルソナ喚ぶクマ! このままだと踏み潰されるクマー!」
(一発くらわしてやろうか!)
 悠は中っ腹になってペルソナを喚んだ。――途端、耳では聞くことのできなかった「声」が、彼のもうひとつの感覚を通してあたまに響き渡る。悠は殴りつけようとして振り上げていた矛を下ろした。その「声」はしきりと悠の名を呼んでいたのだ。
(これ、陽介のペルソナの声なのか? ペルソナでしか聞けないのか?)
『悠! 悠! んだよ聞こえねーのかよ!』
「陽介、聞こえてる!」
『おいって! クマ、お前はどうだ! クマ!』
(ダメだ、おれが喋るんじゃない、ペルソナだ。ペルソナで話さなければ)
 駄々っ子みたいに暴れる巨人から逃げ回りながら、悠は未知の感覚の中からなんとかこうとか、手探りで「こうではないか」くらいのやり方を読んで取った。さしずめ自分の口を動かさずに、鏡写しの自分の口だけを動かすとでも言うような、非常にもどかしい作業である。
『陽介うごくな! 止まれ!』
 陽介のペルソナがぴたりと制止した。
『なんだよ聞こえてんじゃ――』
『黙れぶん殴るぞ!』さすがに忍耐も限界である。『おれたちを殺す気かっ! とにかく落ち着け、動くな、そこに座れ!』
 いかにもしぶしぶといった様子で、目の前の巨人がその場で正座した。
『なあこれスゲーじゃんか!』巨人は座ったままひっきりなしにうごうごしている。『なんかもう、なんつっていーのか、とにかくスゲーよ! じっとしてられねー!』
『じっとしてくれ! おまえのつま先がちょっと引っかかるだけでも命に関わるんだぞ!』
『あ、わりー……へへ、でもさ、なんだよお前こんなことできたのかよ!』
 陽介は異様な興奮状態にあるようだった。
『陽介、とにかく、まずペルソナを引っ込めるんだ』
『ええ? もちっといいだろ、それに引っ込めろったってやり方わかんねーし』
『生身の身体は動かせないのか?』
『生身って』巨人が身体を捻って、横たわる陽介の肉体を振り返る。『あー……あれ?』
『どうなんだ』
『動かすったって、いや、できそうにないけど』
「センセイ、どーしたクマ……?」
 クマは不安げにしている。ペルソナ同士の会話の聞こえない彼には、この悠と巨人の無言の見つめ合いはさぞや不気味に映ることだろう。
「いま陽介と会話してる」
「ひょっとして、テレパシークマ?」
「まあ、そんなところ」なかなか当を得た表現である。「ちょっと静かにしてて、説教してるから」
『とりあえず陽介、なんとかしてペルソナを収める方法を探せ』
『つったってなァ、どうすりゃいーんだかね。それよりもっとイロイロ試してみてーんだけど』
 まるで他人事である。
『……その恰好のまま向こうに戻るつもりなら、急に背が伸びた理由くらい説明できるようにしておけよ』
 悠はつめたく言って、陽介の身体に駆け寄った。クマもペルソナを避けるような形でくっついて来た。
(よかった、息はしてる)
 先にクマの言ったとおり、陽介は眠っているように見えた。おそらく彼を起こせばペルソナは消えるか、少なくとも悠のペルソナと同じような状態になるのだろう。――してみると、ペルソナは本体の意識がなくても自立しうる、ということになるのだろうか。
「わからないことだらけだ」
「なにクマ?」
「ううん、独り言。――おい陽介」彼の身体を乱暴に揺する。「陽介、起きろ!」
 反応はない。
「……ひっぱたいてみるクマ?」
 二、三度、平手で頬を打ってみる。かなり強めにやったつもりだったが反応はない。脇の下を抓っても耳元で大声を上げても同様で、刺激という刺激になんの反応も示さない。陽介はいたって安らかに見える。
(これ、ただ眠ってるんじゃない。なにか変だ)
 ふつう覚醒しないまでも、不快気に唸るなり身体を捻るなりしてもよさそうなものだが、彼は微動だにしないのである。睡眠というより昏睡状態、それもそうとう深いものに陥っているらしい。
「ヨースケ鈍いクマねー」
『陽介』
『なんだ? それよりおい見てくれよ、俺いま浮いてるし!』
 自分の身体に起きている異変などどこ吹く風で、陽介のペルソナは楽しげにその辺りを浮遊している。
(コイツ、誰の身体のことだと……)
『……陽介、このままだとおまえ死ぬぞ』
 巨人が轟音とともに墜落した。
『はあっ? なんで!』
『呼びかけても叩いても起きない。呼吸がどんどん弱くなってる、脈も』悠はわざとらしく陽介の手首を取って、力なく頭を振って見せた。『たぶんペルソナのほうにタマシイが移ったんだ、この身体は死につつある』
『バッ、バカ言ってんなってこの薄情者! なんとかして起こしてくれよ!』
 巨人は両手であたまを抱えながら猛然と腿上げを始めた。
『死にたくないなら考えるんだ。おれにはどうしてみようもない、おまえの問題なんだ』
『お前はどうやってたんだよ! 戻るの!』
『おれの喚んだときはこの身体とペルソナが両立してた、見てただろ? こういうのは初めてだ、可哀想だけど、わからない』
 巨人はがっくりと膝をついて「うう、マジかよ……」と我が身の遠からぬ夭逝を嘆き始めた。人間がそうするのならともかく、奇抜ないでたちのペルソナが妙に人間くさい仕草でそういうことをすると、絶望もなんとはなしコミカルなものに見えてくる。
(ちょっと薬が効きすぎたかな)
 そろそろ本当のことを話そうかと口を開きかけた途端、にわかに巨人の姿が薄れて、悠の目の前で煙のように消えてしまった。
「あらー、消えちゃったクマよ」
「……あらー、だな、ホント」
 陽介が土壇場でペルソナの消し方を編み出したのだろうか――じき横たわる彼の口から呻きが漏れて、寝返りを打つようにして横向きになった。「タマシイ」とやらが身体に戻ったのだろう。
「おはよう陽介」
 彼はすぐに返事をせず、ひどく夜更かしした翌朝に叩き起こされたような様子で、しばらくウンウン唸ったり蠢いたりしていた。意識を失っていたのはほんの十分程度のはずだったのに、時間に比してその寝覚めはかなり悪い。やはりただの睡眠ではないのだ。
「ヨースケ、だいじょうぶクマ?」
「うお……あれ、戻れた?」陽介は大儀そうによたよたと立ち上がった。「あーあたま痺れる……んだよコレ……」
「ちょっと待ったほうがいい?」
「んん、ちっと待って……いや、待たんでもいいわ、よくなってきた」
「だいじょうぶクマ?」
「大丈夫、だと思う。あーのど渇いた」
「それで? 陽介」
「へ、なにが」陽介はきょとんとしている。「あー、おはよう?」
「挨拶じゃない。どうやってペルソナを消した」
「どうやってって、わかんねーよ、とにかく必死で……でも」陽介の表情がふいに明るむ。「あれ、なんつーか、凄かったな。お前あんなことできたんだな」
「おれの知ってるやりかたとかなり違うみたいだけど。とにかく、わからないならもう一度やってみよう、喚ぶ方法と戻す方法をちゃんと確立しておかないと。やれるだろ?」
「おま――いま死にかけたんですけど俺! もうできねーだろあんな危ねーこと!」
「死にはしないだろ、少なくともあの状態で何日も経たない限りは」
「え……だってお前なんか呼吸が止まるとか脈がどうとか」
「ああ、あれ? ウソウソ」 
 と、笑って否む悠に、陽介が猛然と躍りかかった。
「ちょっオメー冗談で済むと思って――!」
「ちょっと待て待てって! そもそもおまえが――!」
「俺がどんだけテンパったかこの――!」
「いったい誰のおかげで戻れたと思って――!」
「マジで本気で死ぬかと思ったんだぞテメ――!」
「おれが言わなきゃ遊んでたんだろうがこの――!」
「キミたち、ケンカはよくないクマよ……あのうふたりとも、ケンカは」
 クマの控えめな仲裁もむなしく、ふたりは掴み合いのケンカを始めた。
「オメーを殺してここに埋めてやる! 完全犯罪だ!」
「それが彼の最期の言葉でしたって墓に彫ってやる!」
 そして掴み合いが殴り合いになるのに、大した時間はかからなかった。






[35651] それ、ウソでしょ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b9f1ef46
Date: 2013/03/05 21:51

(なんだこれ)
 悠は玄関の前で立ち止まった。玄関灯に照らし出された外床の隅に、中身の詰まったビニール袋が置いてある。
(ジュネスの袋だ。食料品?)
 堂島宅にはすでに明かりが灯っている。とうぜん菜々子はいるのだろうし、車庫に車が駐まっているからには、遼太郎も帰宅しているはず。これに気付かないわけはない。
(かといって、近所のお裾分けでもなさそうだ。中身からして)
 中身はプラスチック容器に入った出来合の総菜が四つ。ラベルに「もつ煮」とあり、まだ人肌程度の温みを保っていた。ここに置かれてそれほど経っていないのだ。遼太郎が帰りがけに夕食でも買って来た、その一部が置き忘れられたものだろうか。
 しゃがんで中のひとつを持ち上げた途端、腹の虫が鳴いた。
「腹へったな」
 と、悠は独りごちた。ここ最近ではちょっと覚えのないほどの飢餓感である。もともと大柄なわりに「あんたは燃費がいい。プリウスみたい」と母に言わしめるほど空腹を覚えない質なのが、テレビの中から出てきてからというもの腹が減って仕方がない。
「フードコートでなんか食っていこうぜ、俺もう餓死寸前」
 との陽介の執拗な誘惑に、悠は何度も屈しかけたものだ。それでも小走りに帰宅を急いだのは、ひもじさに耐える小さな従姉妹を思えばこそである。どうも空回りに終わったようだが。
(夕飯買って来てたのか……なんだ、それなら一緒に食ってくればよかった)
 たしょう身勝手な憤りを感じる。今にしてフードコートで冷麺を啜る陽介――それも悠からの借金で!――への恨めしさが募った。彼のバイト代が入った暁には、せめて法外な利子をふんだくってやらねばなるまい。
「ただいま」
 玄関に入るとすぐ、茶の間のほうから「あっ、かえってきた!」と菜々子の叫ぶのが聞こえた。軽やかな足音が近づいてくる。彼女がこの時間まで飢えに苦しんでいなかっただけでもよかったじゃないか――悠はすぐに気を取り直した。
「おかえり!」菜々子が箸を持ったまま玄関へ出てきた。「きょうはおそかったね。ざんぎょう?」
「ただいま。ご飯もう食べてた?」
「うん。かお、どうしたの?」
 菜々子はそう言って、自分の頬骨の辺りを指さした。陽介に殴られた痣を見咎めたようだが、その原因に幼い彼女の思い当たるフシはないようで、とくに心配する気配はない。
「ちょっと転んだんだ」
 菜々子はこの月並みな返事で納得したらしい。それ以上の詮索はせず、上り框で小刻みに身体を揺らしながら「アダッチきてるよ、アダッチ!」としきりに奥の間を指さし始めた。
「アダッチ? お客さん?」
「おっ、僕を呼ぶのは誰だ!」
 と、悠の問いに応えるような形で奥から声が上がって、じきひょろっとした若い男が玄関に出てきた。見知らぬ顔である。
「あー菜々子ちゃんだった――や、初めまして。おっと」男がなにか気付いたように、悠の下げているビニール袋を指さした。「それ君が買ってきたの? 袋」
「いえ、そこの玄関の前に置いてあって」
 男は笑って「堂島さんすいませーん、置き忘れてたみたいです、もつ煮」と奥へ声をかけた。遼太郎の返事は「バーカ」である。
「ほら、上がって上がって。あはは上がってって僕んちじゃないよね」男は笑いながらもつ煮を受け取った。「冷めちゃったな、あっため直そう。君のもあるよ、もつ煮」
「もつにってなあに?」菜々子が訊いた。
「もつを煮るとね、もつ煮になるんだ。すごいでしょ」
「もつにってすごいの?」
「凄いんだよもつ煮。あー菜々子ちゃん知らないのォ?」
 菜々子はそのようなことは知らずともよいのだと膨れた。
(叔父さんの知り合い、かな。賑やかなひとだな)
 悠は玄関に上がって、わいわい言い合うふたりについて茶の間へ入った。遼太郎の知人にしては若いのが気になる。このちょっと稚気の抜けない笑顔の、色の白い優男は、どう見ても三十を超えているようには見えない。四十過ぎの遼太郎との繋がりからすれば、学校の後輩というのも当たるまい。
(じゃあ、仕事の同僚? ということは警官?)
 ないな――悠は苦笑した。男はまったく頼りなげな様子で、刑事どころか交番で椅子を暖めている姿さえ想像できない。年の離れた友人といったところだろう。
「よう、お帰り。遅かったな」
「ただいま。夕飯ごめん」
 遼太郎は茶の間に座ったまま悠を見上げて、なにか気付いたふうに目を細めた。さっそく顔の痣に気付いたのだろうが、彼はそれには触れず、ただ口の端を上げるようにして微笑むに留まった。
「いや、まあ酒の肴にってな、思ったんだが、ちょうどよかった」
 ちゃぶ台の上に広げられた総菜類は、とうてい酒の肴の範疇に収まる量ではない。どうも遼太郎は買いすぎるきらいがあるようだ。
「堂島さん食べます? 冷めたからレンジ借りますけど」
「あー……いやいい、俺がやる。これもあっためるから」遼太郎は傍らのビニール袋から別の容器を取り出した。「悠、お前の分だ、食うだろ? それともなんか作るのか」
「いや、食べる。なんか今日は疲れてさ、買ってくれててよかったよ」われながら現金な物言いだけど。「ほんとに腹と背中がくっつきそう」
「よおし――おい、もつ煮よこせ」
 悠に席を勧めたあと、遼太郎はいそいそとダイニングへ立った。彼の座っていた辺りにビールの空き缶が二、三置いてあるのが見える。すでに一杯きこし召した「機嫌のよい」遼太郎である。
「ここんとこ作って貰ってばかりだからな、たまには俺もなんかしてやんなきゃな」
「うわーささやかだなァ、レンジかけるだけじゃないですか」
「うるせえ」
「菜々子もあっためる」菜々子も父親の足元へ駆けていく。
「菜々子ちゃんじゃ背が届かないよ。椅子ないと」
 男に言われるまま、菜々子がはりきって椅子を引き摺ってきたのが、狭いダイニングのことで父親の脚に衝突した。
「いって――菜々子、お父さんがあっためるから」
「レンジつかいたい!」
「ほらお父さん、譲ってあげなきゃ」男はへらへら笑っている。
「お前は余計なこと言わんでいい。いってえな……」
 悠は頬杖をついて、ダイニングの喧噪をぼんやり眺めていた。かの見知らぬ男は堂島父娘とかなり親しい様子である。ひょっとしたら遼太郎の妻の側の、若い親戚筋なのかもしれない。もしそうなら自分にも多少の縁があるわけで――悠がひとり推測をたくましくしていると、
「悠くんって、なに、堂島さんちのご飯作ってるの?」
 唐突に男が話しかけてきた。
(悠くん……)
「ええ、まあ。居候のならいで」
「へえー、偉いねえ、あー皮肉じゃなくってホントにさ」男はわけ知り顔で唸ってみせた。「自炊、大変だもんね。いや僕もできるだけ作るようにしてるんだけどさァ」
「そうかそうか……こないだはいらん気ィ利かせて悪かったな足立。もう奢らねえから」
「ちょっ、喜んでたんですよ僕! ご馳走は大歓迎ですって! ねー菜々子ちゃん」
「ねーアダッチ」
(あれ、足立ってどこかで)
「ああ、そういや紹介してなかったな」と言って、遼太郎が男の顔を指さした。「これ、足立な」
「モノみたいに言わないでくださいよ――初めまして、足立透です」男は折目正しくお辞儀した。「堂島部長のお世話してます」
「バカ、世話してんのはどっちだ――ほら菜々子、できたからお兄ちゃんのとこ持ってってやれ」
(堂島部長……部下? ということは刑事? あ、足立って叔父さんが言ってた)
 ここで悠はようやく足立の名に思い当たった。それでは彼が、先に遼太郎が左遷されてきたと言っていた「気の毒な若造」なのだろうか。
「初めまして、鳴上悠です。もう叔父さんから聞いてるみたいですけど」
「うん聞いてる聞いてる。高校生とは思えないくらいしっかりしまくってるとか、君の叔父さんにさんざん自慢されたよ」
「ひとこと余計なんだよお前は」遼太郎が透の脚を蹴った。「別に自慢したわけじゃないぞ」
「二十七歳なんだってね。あはは僕と同い年だ」
 菜々子がウェイトレスよろしく、湯気立つパッケージを捧げ持ってきた。蓋にマーボー丼とある。
「どうぞ! これおいしかったよ!」
「どうもありがとう……」
(丼ものって、母さんがつまむのとだいぶ違うぞ。酒のむ時ってふつうこんな重いもの食べないんじゃ)
 悠はちょっと面食らった。鳴上家の食習慣とはどこまでもかけ離れている。あるいは透の食事を兼ねた選択なのかもしれないが、いったい遼太郎はいつもこんなものを肴に酒を呑んでいるのだろうか。
(たぶん食事の時間が不規則なんだろうな、刑事って。きっとメシとかツマミとかの境界線がないんだ。食べたいものを食べたいときに買って来てるって感じだ)
 それにしても健康を損ねかねない量である。そもそも今日は悠が食事を作って待っていたはずで、遼太郎にしてもそのつもりだったはず。今日に限って言えばちょうどよかったものの、ちゃんと作ってあったとしたらどのようにして処理するつもりだったのだろう。
「たべないの?」
「うん食べる。えっと、まだある、んだよね」
 菜々子はウンと頷いたあと近寄ってきて、「でもいまあっためてるのはおいしくなかった」と耳打ちした。
「そっか……ところで、こういうご飯が余った時って、菜々子ちゃんいつもどうしてる?」
「んー、すててる」
「…………」
「わるくなるからすてなきゃダメなんだよ」菜々子は薄い胸を張った。「たべるとビョーキになるんだよ」
「うん、勉強になった……」
 菜々子は機嫌をよくして、いっぱしの母親みたいに「もうこんなにちらかして!」などと言いながら、ちゃぶ台に散乱する空の容器をかいがいしく片付け始めた。彼女のためだけではない、遼太郎のため、ひいては堂島家のためにも、彼らの食料事情には早急の改革が待たれるようだ。
 菜々子がキッチンと茶の間を五、六回も往復する頃には、ちゃぶ台はふたたび元の賑わいを取り戻した。悠以外の三人も食い損ねたもつ煮を前に、おのおの座っていた位置に納まっている。
「悠、ぜんぶ食っていいからな」遼太郎が新しいビールを空けながら言った。「こっちはもうあらかた片付けたんだ、あとはお前の分だ」
「ぜんぶ食えるかな……」
「食えるさ、そんだけでかいんだから」
「そういや悠くんってどのくらいあるの? 堂島さんと同じくらいあるよね」
「身長ですか? 百八十です、四捨五入すると」
「えーいいなァ、僕もあと五センチ欲しかったな……あっ、堂島さん負けてるんじゃないですか?」
「バーカ、俺は百八十一だ」
「四捨五入するとでしょ?」
「菜々子はヒャクニジュウロクセンチ」
「うわ、菜々子ちゃんちっちゃいなァ、踏んづけないようにしなきゃ」
 菜々子は膨れて、透を無礼な愚かものであると非難した。
「ところで悠くん、どう? 八十稲羽のご感想は。東京から来たんじゃビックリでしょ、ここすんごい田舎だし」
「田舎で悪かったな。好き勝手いいやがって」
「いやいや誉め言葉ですよ田舎って。空気はおいしいし、なんたって空気はおいしいし……」
「じゃこんど空気奢ってやるよ」
「あの、足立さん、ちょっといいですか」
「へ、なに?」
「できたらでいいんですが」もちろん是が非でもそうしてもらうつもりだが。「悠くんじゃなくて、鳴上って呼んでもらえると」
「あれ、あーごめん、イヤだった?」
「あまり好きになれなくて。悠くんって、父親がおれのことそう呼ぶんです、それで」
「親父さんの呼び方がイヤなのか?」遼太郎は怪訝そうにしている。
「イヤってわけじゃないんだけど、子供扱いされてるような感じがして――おれの父親、もう五年以上アメリカに行ったきりなんですけど」
「アメリカ。へえ……」透は少し驚くふうを見せた。
「その、父親の中のおれって、五年前から時間が止まってるっていうか、いまだに小さい子供みたいなんです。電話とかで話してもそんな感じで」
 もちろん母が毎年写真を送っているし、単身赴任が始まってからはお互い疎遠にならない程度に電話もかけ続けている。息子の成長ぶりを認知していないはずはないのだが、父の話すやり方は五年前、というより、小学校低学年の頃からいっこうに変わらないのだった。悠くん勉強どう? 悠くんお母さんの言うことちゃんと聞いてる? 悠くん好きそうなお菓子見つけたから、こんど送るからね――高校生の息子と会話するとき、鳴上輔という人間はおおむねこんな感じである。
「だから、悠くんって言われると……なんか、違うんです」
「複雑なんだねえ。じゃ、鳴上くんでいい?」
「はい。そう呼んでもらえれば」
「クン付けがイヤなのか? 学校じゃそう呼ばれることだってあるだろうに」遼太郎はいまひとつ納得がいかない様子だった。
「学校では名前で呼ぶなって言ってる。自分の名前自体あんまり好きじゃないし」
「友達だって気を悪くするだろうし、お前だって不都合だろう。親しくなりゃ名前で呼び合うこともある」
「まあね」
 悠は苦笑した。正論である。現に親しくなったために名前で呼び合う友人がひとりできたのだし――同じ理由から今まで困ることもなかったのだ。
「変わってるよ、お前さんは」遼太郎も苦笑を返した。
「かわってるの?」菜々子が首を傾げた。
「変わってるさ、お兄ちゃんは名前で呼ばれるのがイヤなんだとさ」
「イヤなの?」
「イヤってわけじゃ……もちろん叔父さんはいいよ、菜々子ちゃんだって、そう呼びたいならさ、呼んでも」
「ええー? で、僕はダメなの?」
「……ええと、クン抜きなら」
「あはは冗談だって」透は手をひらひら振って笑った。「君を困らせたりはしないって、鳴上くん」
「どうも、足立さん」
「あ、僕はべつに透でもいいよ、気にしないし。なんならアダッチでもいいよ、菜々子ちゃんみたくさ。ねー菜々子ちゃん」
「ねーアダッチ」
「アダッチねえ。もちっと捻ってもよさそうなもんだが……そういや悠、お前、あだ名とかないのか」
「あ、あだ名?」
 やめてくれ――悠は小学生の頃、陰で「ルナ」などという屈辱的なあだ名で呼ばれていたのを思い出した。
「ないよ、そんなの」
「俺はあったな、なつかしいな」悠に話を振ったのは枕に過ぎなかったようだ。「俺んときは名前で呼ぶのでなきゃ、みんなあだ名だった。名字で呼んだりしたら変な顔されたもんだ。なに気取ってやがるってなァ」
「あだ名って言えばほら、堂島さん。安藤さんって、陰でみんなに『アン』って呼ばれてるんですよ」
「アンだァ?」遼太郎は吹き出した。「あのタコがか、可愛すぎて似合わねえな。安藤だからアンか」
「違います、ハゲてるから。赤ハゲのアン」
 遼太郎は大喜びして「そりゃいい、俺もアンって呼ぶか!」とひとしきり笑っていた。安藤さんとやらはおそらく彼らの同僚で、あまり仲のよくない間柄なのだろう。
 その後、茶の間の会話は二転三転したあげく、遼太郎たちの職場の愚痴へと落ち着いていった。曰く、「本庁さま」や「赤ハゲのアン」の傍若無人ぶりがたいそう目に余ること。「ショカツ」をナメ切っていること。「カトウギ」なる若い婦警を小間使いかなにかと勘違いしていて、彼女にベッドメイクやら酌やらさせようとするのに非常な義憤を感じていること。云々――
「ありゃもう治らねえよ、俺がいた時分からそうだったんだ。ヤツのは杓子定規じゃなくて犯罪幇助だ。あのタコが臨場するだけで検挙率が落ちる」
「おまけに穴あき杓子に目盛りの狂った定規なんですから。ったく盗難自転車でも探してろってんですよ」
「アレをトウハンに押し付けるなんざ傷害の現行犯もんだぜ」
「息してるだけで公務執行妨害ですけどね」
「窃盗も追加だ。ヤツは八十稲羽の酸素を盗んでる」
「合わせ技で五年はブチ込みたいなァ、執行猶予ナシで」
(とんでもない言われようだな)
 彼らの言う「赤ハゲのアン」はそうとう腹に据えかねる人物らしく、ふたりとも酔うほどに興じるほどに糞味噌に罵るのだった。
「あのマルガイの写真でも見せてみろ、え? ひっくり返るぞ」
「あーダメダメ、僕が吐くくらいですもん、安藤さん見たらぜったい心臓止まりますって。あっ、そうしたら警視総監賞もらえるかも」
「おお絶対もらえる。稲羽署総出で推薦してやる。ヤツがくたばりゃ捜査も快適になるな、葬式にはバラの花輪を送ってやる」遼太郎は五本目のビールを空けた。「それにしてもお前もたいがいだぞ足立、そりゃ珍しいロクだったが――」
 遼太郎がふと悠を一瞥して、含みありげに言葉後を呑み込んだ。
「なに?」
「ん? なんだ、どうした」
「……いや、なんでも」
「食ってるか? ああもつ嫌いだったか? お前ビール呑むか、ん?」
「その気になったら警官のいないところで試すよ」悠は笑って去なした。
(ひょっとして今の、例の事件の話?)
 いったい警官たちの会話は類推の利きづらいジャーゴンに満ちていて、しろうとの悠には――まして菜々子には尚のこと――どれもピンとは来なかったのだが、今ほど遼太郎が話題を換えようとしたのはすぐにわかった。それも悠を憚って、である。なぜ? もちろん、甥の耳に入れたくない内容だからだろう。例の事件、それもおそらく早紀の件に関係している可能性がある。
 悠は気のないふりを装いつつ耳をそばだてた。
「キソウの連中だって吐いたらしいじゃないですか。よっぽど図太くなきゃ」
「おい、メシ食ってるやつがいるんだぞ。そのへんにしとけ」
「あ、ごめんね鳴上くん――それにしてもとんでもない殺しですよね、ホント。ビョーキですよ」
「ころし?」菜々子が首を傾げた。
「ああ菜々子ちゃん一緒に片付けしようか!」悠は慌てて立ち上がった。「もうあらかた食べ終わったしさ、容れもの洗っちゃおう」
「子供の前でなんて言い草だ足立。それとお前、部外者の前で余計なことを言うな」透を叱ったあと、遼太郎は取り繕うように酔眼を撓めた。「ああ悠、洗うのはいい、俺があとでぜんぶやるからお前は座ってろ。な?」
「へえ、自分が言い出したクセに」
「黙れ」
 遼太郎の低い一喝に、酔いはいささかも覗えない。「刑事」のスイッチが入ってしまったようだ。
(そううまくはいかないか)
 悠はひっそりとため息をついた。
 例の事件、なかんずく件のアパートについて、機会があれば遼太郎からなにがしか訊けるものと安易に考えていたのだったが、むろん現職の警官が担当している事件についてやすやすと喋るはずもないのである。酔って機嫌のいい彼にしてからがこうなのだ、しらふの時にそんな話を持ち出したらなんと言われるか……
「ねえアダッチ、ころしってなあに?」
「ええっと、コロシっていうのは、イタリアのワインのことでね、ビョーキになったときはこういうお見舞いがね……」
「ビョーキになったときはころしがいいの?」
「えっとね、そう、ネーロ・ダーヴォラが甘口で飲みやすくてね、僕は好きかな……あはは」
 透が無茶苦茶な釈明を始めた矢先、ソファに放ってあった遼太郎の携帯電話が鳴った。
「なんだ、間ァ悪いな……」
 遼太郎は携帯を引っ掴んで、大儀そうにソファに腰掛けた。先に見たように液晶画面を見もせずに電話に出ているからには、相手はやはり仕事関係なのだろうか。
「はい、堂島」
(また呼び出し? でも呑んだんだから行けないよな)
 壁掛け時計を仰ぎながら二、三、応答したあと、遼太郎はふたたび悠を一瞥して、ふいに茶の間を立って玄関まで歩いて行ってしまった。引戸の開く音が聞こえる。大した念の入れようで、彼は「部外者」に聞き耳を立てられないために家の外に出たようだ。
「……仕事の話、でしょうか」
 透は玄関のほうを向いたまま「どうだろうね」と呟いた。
「もしそうなら僕も引っ張ってくはずだけど。でもまあ、仕事の話には違いないな」
「山野アナと、小西早紀の、例の?」
 叔父さんがダメならこっちはどうだろう――悠は懐剣を突き出すようにして訊いた。透にしたところで刑事なのだし、守秘義務に縛られるのは遼太郎と同じだが、彼は見たところそれほど口が重いようでもなさそうだ。酒の勢いに任せてなにか喋ってくれるかもしれない。
「そうだよ。例の怪事件」透にべつだん警戒したふうはない。「なかなか進展ないけどさ、まあ始まったばっかりだし」
「うちの教室でもずっとその話で持ちきりですよ」
「そうだろうね。小西早紀さん、学校同じだったんだもんね、そりゃ気になるよねェ」
「あの山野アナの住んでたアパート、メゾン・ド・ラ・ネージュでしたっけ、あそこに行ったなんて言ってるヤツもいて」
「うわ、御康市まで行ったの? 最近の高校生って行動力あるなァ」
 当たりだ――悠は内心、小さく喝采を上げた。それではやはり山野アナは早紀と同じ運命を辿ったのだ。
「三階の奥、突き当たりの部屋、でしたっけ」
「おいおい……よく知ってるねェ、聞き込みでもしたの?」透が少しく眉根を寄せた。「あんまり感心できることじゃないよ」
「ネームプレートでも見たんでしょう」
「あのアパートには山野姓が三人いたのに?」
「おれも詳しくは……クラスの連中の話を聞いただけですから」
 透は悠の顔をじっと見つめたあと、「それ、ウソでしょ」と言った。
「どうしてです」
「あ、ウソってのは、誰かから聞いたってことについてだよ」
「じゃあ、おれが自分で見に行ったと?」
「うん」
「どうしてです」
「刑事だから、僕」
「…………」
(下手打ったか? 扱いやすそうだと思いきや……)
 軽そうな見てくれに反して、透はなかなか鋭い、いっぱしの刑事であるようだ。悠自身なにか下手なことを言ったつもりも、顔に出したつもりもないのだが。
「そう言われても、本当に聞いただけですよ」
「そう? なら僕の見当違いか」透はあっさりと前言を翻した。「ところで鳴上くん、その顔どうしたの?」
「あ、これですか、ちょっと転んだんです」
「それ、ウソでしょ」
「どうしてです」
「転んでそこにアザ作ろうとしたら、君の鼻なくなってるよ」
「もちろんウソですよ」悠はあっさりと前言を翻した。「誰かに殴られたときにつくウソとしちゃ、定番でしょう」
「定番だね。でも親しい友達に殴られたときまでウソつく必要あるかな」
「……どうして親しい友達なんです」
「目や鼻を狙ってない」透は自分の目鼻を示して言った。「それにさっきあれほど熱いものぱくついてたからには、口の中も切ってないでしょ、その頬骨のとこのアザだけだ。それは君に怪我させたくないヤツがさせた怪我だ、君をやっつけようとして殴ったんじゃない。そういうのって、君を大事に思ってる人間じゃない? 親友とか」
 悠は絶句した。あの殴り合いは表向き陽介の降参という形で終わっていた。鼻血を出した彼が降参を叫んだのである。
(そうだ、あいつはどうして冷麺を食っていた? 当たり前だ、熱いものを口にできなかったんだ、おれが考えなしに殴ったから……)
「相手は拳を痛めたかもね」
「確かに、親友です、このアザをつけたのは」
「おっ、当たった! そうでなきゃ堂島さんがやったと思ってたけど」透は満面の笑みを浮かべた。「じゃ、君の叔父さんも喜んでるんじゃない? 転校数日でそういう友達ができたんだからさ」
「叔父さんが?」
「僕が感づいたくらいだし、たぶんわかってるんじゃないかな」
「さすがですね、刑事って」
「でしょー? ねー菜々子ちゃん」
 返事はない。先ほどからやけに静かだと思っていたら、彼女は箸を握ったまま船を漕いでいた。
「ありゃ、寝ちゃったか」
「そろそろ休ませます。もういい時間だし」
「んん……ところで鳴上くん、さっきの話」
「え?」
「ウソでしょ、ひとに聞いたっていうの」
 悠は苦笑して「ウソです」と白状した。
「そっか、ウソか」
「ボロを出したつもりはなかったんですけど」
「だろうね。僕のもタダのハッタリだし」透は肩を竦めた。「でもね、ウソついてるっぽいっていうのはね、なんとなくわかるよ。そういうのがわかりやすい人間とそうでない人間がいる」
「おれはわかりやすいほう?」
「いや、わかりにくいほう、だから念を入れたんだけどさ。あそこで白状しちゃダメだよ、シラ切り通さないと」
「はあ」
「で、なにが訊きたいの?」
「は?」
「なにか知りたいんじゃない? そうでなきゃ『オレは知ってるぞ』的なアピールしないでしょ」
「降参です」と言って悠は諸手を上げた。「でも実はもう、知りたかったことは聞き出せてるんです」
「ありゃ、僕なんか喋っちゃった? やられたなァ」
「これでおあいこですね」
「堂島さんの言うとおりだな、君ホントに十七歳?」
「あれ、叔父さんは二十七歳って言いませんでした?」
「あはは言うね君、堂島さんが心配するのもよくわかるよ」
「ところで足立さん、さっき」
「ん?」
「なにが訊きたいんだって言いましたけど、訊いたら話してくれるんですか?」
 ここで透が玄関のほうをちらと見て、開きかけていた口を閉じた。悠の不審に思う暇もなく、忽然と遼太郎がダイニングに姿を現す。玄関の引戸の開く音も、足音のひとつさえしなかったのだが。
「堂島さん、署からですか?」
「ああ、まあな」
 遼太郎はソファに腰を下ろして、いくぶん疑わしげにふたりを睥睨した。
「で、お前ら盛り上がってたみたいだが、なんの話だ」
 正直、悠に顔色を変えずにいられた自信はない。それでは遼太郎は話を聞いていたのだ! どこから聞かれていたかはわからないが、おそらくは早々に電話を終えて、そっと玄関に忍び入って、廊下で息を潜めていたのだろう。
「恋愛相談ですよ、鳴上くんの――」
 と言いかけて、透はいかにもなにか気付いたというふうにして、悠を素早く横目で見た。ブラフだ――この若い刑事もなかなか強かなもので、盗み聞きをされた程度ではうろたえる素振りも見せない。悠は一拍遅れたもののなんとか調子を合わせて、首を微かに振って否んで見せた。
「っていうのは冗談で、ちょっと事件の話をしてたんですよ」透はあたまを掻きながら平然と続けた。「ほら、学校とかそういう話で持ちきりらしいし、だよね鳴上くん」
「そうです、持ちきりです」
「ほら堂島さん、こういうの高校生が興味もつのって、仕方ないトコあるでしょ? 同じ学校の生徒が被害に遭ったんだし、まして叔父さんが刑事なんだし、ねえ鳴上くん」
「ですね」
 遼太郎は「そうかよ」と苦笑して、ちゃぶ台に置いていた飲みさしのビールを掴まえた。
「おい悠、コイツに訊いたって大した話は聞けねえぞ」
「え、いやいや、僕も同じ事件担当してますし」
「年季が違う。なんだ俺じゃ役に立たねえってか? そりゃ今は子持ちだが、少なくとも足立よりゃ経験あるぞ」
「えーと堂島さん、なんか勘違いしてません?」
「してねえよ、途中から聞いてたんだ。ごまかそうったってそうはいかん」
 どうやら上手く遼太郎を担げたらしい。おそらく会話の核心部分、アパート云々のくだりは聞かれずに済んだのだろう。悠はひっそりと安堵の息を吐いた。
(それにしても、このふたり、やっぱりふつうの職業じゃないんだな)
「たく、事件のことでも漏らしてんじゃないかって尖ってみりゃあ……」
「あー……ごめん、鳴上くん。最初にオフレコって言ってくれればさァ」
「ほら悠、続けろよ、俺も相談に乗るから」遼太郎はがぜん上機嫌になった。「甥っ子の悩みだ、心して聞かなきゃな」
「いや、いいんだ、もうあらかた話し終わったし、そんな大した内容じゃないし」形ばかり透を睨み付けながら、「それほど参考にもならなかったしさ」
「ええっ? それひどいな、さんざん恥ずかしいコト言わされたのに」透はニヤニヤ笑っている。「鳴上くんかなり下ネタ好きだから、堂島さん気をつけたほうがいいですよ、十七歳とは思えないくらい。ちょっと引くかも」
「おいおい、お前ら子供の前で猥談かよ」
「いや猥談っていうか……足立さん……!」
「いやー最近の高校生ってケシカランですねホント」
「しもねたってなあに?」
 男三人ともぎょっとして声のしたほうを振り向いた。間の悪いことにちょうど菜々子が目覚めたところだった。
「しもねたすきなの?」
「えっと……叔父さん」
「ええ? おい、足立」
「うえ、僕ですかァ?」
「足立さんが言い出したんでしょう」
「ねえ、しもねたって」
「ええっと、シモネタ……シモニタっていうのはね、ネギのブランドのことでね、野菜のネギね」
「しもねたって、ネギなの?」
「そう、そうだよ、なんか凄いおいしいらしくって、鳴上くん目がないんだ、シモニタ……」
「しもねたすきなの?」
「……シモ、ニタは、好きだよ。ニタね。菜々子ちゃん訛ってる」
「しもにた?」
「そう。ニタ」
「しもねたはネギじゃないの?」
「ほら菜々子、もう遅いから、早く風呂はいって寝なさい」見兼ねた遼太郎が強引に介入する。「足立、お前もいい時間だろ、もう帰れ」
「あ、はい――なんか悪いな、片付けとかは」
「俺がやっとくからいい。車カギ開いてるから、自転車わすれんなよ。呑んでんだから乗らないで、引いて歩いてけよ」
「はい、じゃあ、ごちそうさまでした」
 お疲れさん、とひとこと言い置いて、遼太郎はまだ眠くないと娘の渋るのを、無理に風呂場へ引っ立てて行った。声高に「しもねた」の正体を質す菜々子の声が遠ざかっていく。
「……ナイスリアクション。うまくいったね」
「どこがですか。とんでもない誤解ですよ」
「まあまあ、ふたり揃って正座アンド説教よりはマシでしょ」
 透を送って悠も玄関まで出て行った。
「そうだ、堂島さんに聞いたんだけど」
「え?」
「君、読書家らしいね」靴を履きながら続けて、「部屋、鍵かかる? 見られちゃマズい本とかちゃんと隠しといたほうがいいよ。堂島さんガサ入れはいるかもだから」
「見られて困る本なんか置いてませんよ」
「おっ、開き直ったな下ネタ好き!」
 冗談交じりに蹴るのを、透は笑いながら躱した。その拍子に沓脱ぎ石を落ちて転びそうになって、凭れるように玄関の引戸を開けた。さして酔いもしていないとばかり思っていたが、ほどほどに酒は回っているようだ。
「じゃあね、お邪魔しました」
「大丈夫ですか?」
「なーに、ぜんぜん呑んでないし。またね鳴上くん」
 出て行ってほどなく、車のドアを開けてなにかごそごそする音が外から聞こえてくる。遼太郎が自転車を忘れるななどと言っていたからには、折り畳み式のものを載せていて、それを組み立てているのだろう。じき「よし」と透の気を吐く声がして――踵を返した悠の背に、自転車の転倒する派手な音と、投げ出された主人のくぐもった悲鳴が飛んできた。






 寝室から出てくると、ダイニングに腰掛けた遼太郎に声をかけられた。なんとなく話ありげな様子で、手に湯気立つマグを持っている。
「菜々子は? もう寝たか」
「たぶんね。自己申告だけど」
 ささやかな夜会の興奮さめやらぬといった様子で、菜々子はなかなか床につこうとはしなかった。「ころし」がどうだの「しもねた」がどうだのと、彼女は布団の中で大暴れし、ついに悠をして「スマキにして吊し上げるよ!」と恫喝させるほどであった。もっともその効果といえば、彼女の語録に物騒な新語が追加されたくらいであったが。
 あのいささか過剰な反応を見るに、どうも堂島家は来客に恵まれない様子である。まして家主さえ留守がちなのだから、孤独な子供心にあのはしゃぎようも無理からぬというものだ。
 ひょっとしたら自分がこの家に来たときも、彼女は内心あのように欣喜していたのだろうか? 見知らぬ環境がそれをよそよそしく見せかけたに過ぎなかったのだろうか。
「悠、コーヒー飲むか」
 遼太郎が椅子を軋らせて、啜っていたマグを示した。
「ビールはもういいの?」
「呑み過ぎたよ。俺ァほんとうはこっち派だ、酒は弱い」
「コーヒー?」
「おお。ま、こんど本格的に挽いてやるよ。さいきん余裕がなくってあんまりやってねえがなァ」
「じゃ、貰う」
 遼太郎は大儀そうに席を立って、インスタントコーヒーのパッケージを手に取った。ことさらゆっくり動くのはおそらく、酔いの千鳥足を隠すためだろう。
「叔父さん、足立さんってたびたび来るの?」
「……たびたびってほどじゃないが、ま、たまに来るな。でもこれからはちょくちょく来るようになるかもしれん」
「へえ。なんで」
「チョウバで酒盛りする気にはならんのさ、俺も、ヤツも。特にヤツはなァ」
「なにか理由でも?」
「あれももと本庁のデカだ。これだけ言やァわかんだろ」
「ちっともわかんないよ」
「クク、わかるわけねえよな」コーヒーを差し出しながら、「今うちの署には特捜本部が設置されてる。いったい何年ぶりかわからないくらいで、てんやわんやさ」
「うん」
「つまり本庁のデカさまが御来臨あそばしてるわけだ。大ヘマやって左遷されてきたヤツが前の同僚に合わせる顔なんざ、なかなか作れねえやな」
「大ヘマ?」
 遼太郎はふいに押し黙って、ひとつ舌打ちして、「呑み過ぎるもんじゃねえな」と低く呟いた。今のは彼にとって失言だったようだ。
「忘れようか、今の」
「おお、そうしてくれ」
 ふたりはしばらく気まずげにコーヒーを啜っていた。
「……ブラックでよかったか?」
「たまにはね」
「砂糖あったかな。なかったかもしれん、使わねえしなァ」
「知ってる、もう買ってきてあるから。でも菜々子ちゃんは入れないの?」
「これが菜々子のコーヒーだ」と言って、遼太郎はテーブルの上からミロの瓶を取り上げた。「お前が飲んでるヤツは、あの子はスミかなにかだと思ってる」
「あれ苦いし、菜々子ちゃんにはどっちも大して変わらのないかもね」
「お前スミのんだことあるのか」
「小さい頃に少し。菜々子ちゃんにはお勧めしないけど」
「お前あれの前でそんなこと言うなよ。面白がってマネするかもしれん」
「しないしない、コーヒーだって勧めたりしないよ。小さい子には毒だっていうし」
「そうなのか? 俺ァ身体にいいって聞いたが」
「菜々子ちゃんにはミロのほうがいいと思う。少なくとも小さいうちは」
「飲めったって飲まないさ。一度きりで懲りたらしい、スミみたいだってな」
「へえ……そういえば叔父さん」
「ん?」
「家の中では吸わないよね、タバコ。やっぱり菜々子ちゃんのため?」
「んん。あれこそ毒だからな、子供の近くで吸っていいもんじゃないし、お前にも迷惑だろう」
「……迷惑じゃないって言ったら?」
 遼太郎が少し八の字を寄せた。果たして悠の喫煙癖を聞いた彼がどんな反応を示すか――仮に叱られるにせよ、確認するなら機嫌のいい今が最適であろう。悠は腹をくくった。
「どういう意味だ」
「おれもタバコ吸うんだ、実は」
 遼太郎は少なくとも表面上、特に目立った反応は示さなかった。彼はしばらく無言のままコーヒーを啜っていたが、ややあって、
「まあ、立ってないで座れよ」
 と言って、悠に向かいの席を勧めた。
「驚いた?」悠は言われるまま椅子を引いた。
「驚きゃしないさ。きょうびタバコ吸ってる高校生なんざ珍しいもんじゃない」
 なんと言おうか考えているのだろうか、遼太郎は思案げにしていたが、その面に怒りの兆す気配はなかった。ひょっとしたら「ほどほどにしろよ」とでも前置いて、タスポを貸してくれるかもしれない。
「ついでに言うと、今は切らしてる」
「ふん」
「誰かタスポを貸してくれないかなって、考えてもいる」
「ふん」
「……もし誰かが二、三本わけてやるって言ったら、喜んで受け取るな、たぶん」
「だろうな」
「…………」
 沈黙が痛い。窘められるにせよ叱られるにせよ、なにかしら喋るなら返しようもあるのだが。ひょっとして遼太郎は無言のうちに自分を叱っているのだろうか? だとしたらこのやり方はかなり効果的である。
「おふくろさんは知ってるのか」
 ようやく遼太郎が口を開いた。
「いや、知らないと思う」
「隠してたか」
「うん」
「そうか……お前、いつから吸い始めた」
「高校上がって、すぐ、かな。それからたびたび」
 とはいうものの、悠自身、自らに煙草への依存を見出したことはほとんどなかった。一、二ヶ月に一回、なんとなく吸ってみたくなるといった程度である。ストレス発散であるとか、すっきりしたいとか、そういう実際的な効能を求めてのことではない。かといって周りの幾人かがやっていたような、恰好つけというのとも少し違う。それは言ってみれば悪の芽の確認とでも呼べようものだった。彼はたくさんのよい概念が自らに備わっている――と、思い込んでいる――だけでは飽きたらず、それらを得るために捨て去らなければならなかったはずの悪をも実は内包しているのだと、要は自身に証明したかったのである。
 だが今は事情が違う。顧みられなかった「実際的な効能」が、にわかにその魅力を訴え始めている。ペルソナを操るとき、彼は確かにこのささやかな効能に助けられていたのである。
「その、あんまり吸うほうじゃないんだけど」
「俺は中学三年の頃だった」
「え?」
「タバコさ」遼太郎は仏頂面になるどころか、微笑みさえした。「ま、いつの時代も同じだ、カッコつけさ。仲間うちの何人かで、ほれ、川に橋かかってるだろ、通学路の」
「うん」
「あれの下でな、吸ってた。まあマズいしケムいし、また親父はなんでこんなもん好きこのんで吸ってんだって、内心じゃ首かしげてたな。そりゃ仲間うちじゃ『悪くねえな』なんてフカしてたが」
「親父って、おれの」
「じいさんだ。でな、あるとき学校の先生に見つかってな……そりゃ見つかるんだ、いくら橋の下だって十人も集まってスパスパやってりゃ、煙も凄いことになってるのは当たり前の話だ。それで、親父にバレてな」
「んん」
「そこに座れって言われた」遼太郎は悠の席を顎で示した。「親父は俺のとこに座ってた」
「…………」
「いつから吸い始めたって聞かれて、俺は中三だって言った。高二のときだ」
 なるほど、ちょうど遼太郎と悠とで在りし日の再現が行われているのだ。
「親父のやつ、さぞかし怒り狂うと思ったら笑いやがってな、なんて言ったと思う? オレは中一からだとさ」
「……凄いひとだったんだ」
「カラッとしててな、熱しやすく冷めやすいってタチの人間だったが、とにかく短気で、怒るとすぐ手が出やがった。また姉貴は親父似でなァ」
「それ、なんとなくわかる」
「あはは姉貴のヤツ変わってねえか」ひとしきり笑ったあと、遼太郎はにわかに真顔になった。「俺ァ喋るのはあんまり得意じゃない、だから親父の受け売りをそのままお前に申し送る」
「んん」
「悠、タバコはやるな、少なくとも二十歳になるまではやるな。酒はいい、お前の歳から勉強しとくのは悪いことじゃない。でもタバコはダメだ、許さん。いいな」
「……わかった」
 殊勝に悠がこう応えると、遼太郎は少し残念そうに「どうして俺はいいんだって訊かないのか?」と述べた。
「じゃあ……どうして叔父さんはいいの?」
「俺はいいんだよ。お前はダメだが、俺はいいんだ――どうだ、お前のじいさんはこういうヤツだったんだ! アタマにくるだろ」遼太郎は席を立って続けた。「実際、俺も吸ってる、強くは言えん。俺もガキの頃から吸ってたし、悪ガキ相手の商売もしてるから、お前くらいの年頃に身体に悪いとか法律で禁じられてるとか言ったところで、抑止力にならんのはわかってる。かといってお前はガキだからダメってのは、お前からすりゃちっとも説得力がないだろう」
「うん、まあ」
「俺は警官だが、警官として法を守れなんて言うのは、そこいらの高校生にならともかく、叔父が甥っ子に向かってやるようなことじゃない。だからまあ、ちっと気恥ずかしいが、今だけは息子になったつもりで聞いといてくれや」
「うん、わかった。お父さん」
「あははやめろやめろ、こっぱずかしい」
「おやじのほうがいい?」
「風呂はいってくる。もう十時だ、お前も早く寝ろよ」
 と言い残して、遼太郎は逃げるように風呂場へ滑り込んだ。
(ダメか。そうか)
 悠はひとつため息をついて、茶の間のソファに目を放った。遼太郎の上着が投げ出されていて、その胸ポケットから小さな方形の箱があたまを出しているのが見える。
(ダメなら仕方がない)
「悠」
 突然、風呂場の磨りガラスから遼太郎の声が飛んできた。
「な、なに?」
「安心したよ。妙に大人びてやがると思ってたら、ケンカもするタバコも吸う。お前も十七歳なりだ」
「……それを聞いて若返った気分だよ」
 浴室の戸が閉まる音を汐に、悠は茶の間のソファに忍び寄った。タバコはまだ封切られたばかりと見えて、十六本も入っている。これらを全て持ち去ることができれば当分は困らないのだろうが……
 一本か二本か、暫時迷って二本を抜き取ったあと、悠はふと落胆している自分に気付いた。むろん原因はこの窃盗行為ではない、彼を悄然とさせたのは叔父のひと言であった。
(ケンカもする、タバコも吸う、おまけに盗みもだ)悠は無理に笑おうとした。(喜べよ悠、やっと十七歳認定してもらえたんだぞ) 
 なぜであろう? 喜ばしいはずの「十七歳認定」はしかし、悠の自尊心に注射針を打ち込んだような痛みをもたらしたのだった。





[35651] 映像倫理完っ全ムシ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:921255cf
Date: 2013/05/12 23:51


 寝耳に足音を聞いたような気がして、悠は小心たらしくそろそろと身体を起こした。
 寝惚け眼を背後に放つ。なにもいない。そうしているあいだにも、廊下の深く軋る音が遠ざかっていって、次いでそっと蝶番が鳴いた。もちろん部屋の外でのことだ。遼太郎が寝に上がってきたか、それとも用足しに降りた帰りの物音か、ともかくも彼はそれを自分の背後に聞いたように思ったのだった。
(三人の時とひとりの時じゃ、ずいぶん違うんだな、おまえ)
 机の上に投げ出してあったメモヴォクスが、微かな律動音を響かせている。十一時四十八分――危うく寝過ごすところだったらしい。
 悠は寝起きのものうさに、初めてあの世界に入ったときのことを思い出していた。あるいはうたた寝の夢に見ていたのかも知れない。彼は見知らぬ世界で怯えるクラスメイトを励ましながら、背後の足音を雄々しく聞きつけるのである。今ほど袖で拭ったイヤな汗も、確かかいていなかったはずだが。
 悠はひとつ伸びをした。右手に張り付いていたルーズリーフが腕と一緒に持ち上がって、ふたたび机に落ちた。あと数時間は眠気も兆すまい、マヨナカテレビのチェックを終えたあとは、これの清書でもするのがよかろうか。
 皺んだルーズリーフには「ペルソナについて」とある。





 ・ペルソナについて


 ・体長四メートルくらいの人型のなにか。テレビの中にいる時に喚べる? なれる? もうひとりの自分らしい。

 ・悠のものと陽介のものとで見た目や機能は違う。個々人によって違う? 

 ・悠のものは裾の長い、カラーの高い、長ランのような陣羽織のような黒い服を着けている。分厚く硬いごわごわした化学繊維みたいな手触り。白いハチマキ? 冑、仮面、籠手、臑当、鉄靴のような防具あり。ナイフと長巻の合の子みたいな、矛のような長い武器を持っている。鉄っぽいつるつるした金属。なぜ武装している? 肩に菊花紋のような印章があった。なぜ菊花紋?

 ・陽介のものは変なツナギを着ている。赤いマフラー? マント? 胸に金色のV字の飾りがついている。派手。冑と仮面は意匠は違うが着けている。全身が硬いゴムみたいな手触りで、中になにか金属みたいな地が入っているような感じ。直径五十~六十センチくらいもある手裏剣みたいな武器を両手に持っている。なんで手裏剣? 投げたあと軌道を変えたり戻したりできるらしい。陽介は浮いたりできるらしい。

 ・ペルソナの姿はイメージ依存? しかし菊花紋やら矛やらをことさら意識したことはない。陽介のほうでも同様。陽介はなんでこんなダサい恰好なのかと気にしていた。

 ・ペルソナは「出し方」がいくつかある? 悠が最初に経験したのは、悠自身とペルソナが両方とも「目覚めている」状態で、制御がとてつもなく難しい。陽介が自己流で出したのはペルソナだけが目覚めていて、陽介本人は昏睡状態だった。お互いがお互いのやり方を試して、両方とも成功している。まだ「出し方」はあるかも知れない。便宜上前者を「鳴上流」後者を「花村流」とする。 

 ・鳴上流は操作が難しい。一つの脳で二つの身体を同時に動かすような感じ。見るもの聞くもの感じるもの全て二つに増えるので、こんがらがって非常に混乱する。ストレスが酷くうんざりする。片方だけに専念しようにももう片方が足かせになる。両方動かそうものならそろって転ぶのが関の山で、現時点ではせいぜい一緒に歩くくらいが精一杯。とにかく慣れて練習するしかない。ペルソナを消す方法は簡単で、たんに集中を切らせばいい。慣れれば喚ぶのも還すのも即座にできる。

 ・花村流はかなり特殊だった。陽介の言うとおり「ペルソナに変身する」ような感じで、まさに別の生き物になる体験。人間の言葉(言葉?)がわからなかったり、音(音?)が凄くよく聞こえたり、表現しづらいが人間のときと違うようにものが見える(本当に目があって、それで見ている?)フシがある。人間としての五感がペルソナの五感と同じなのかはっきり言ってよくわからない。そもそも人間で言う五感などないのかもしれないし、あったとして五感以上の感覚があるのかもしれない。陽介は浮く時そんなようなことを言っていた。人間のときと変わらず動けるばかりか、その運動能力や反射神経は人間のそれをはるかに凌ぐ。おまけに壮快、痛快、とにかくとてつもなく気分がいい。人間の身体が酷くちっぽけで下らない存在に思えてくる。

 ・ペルソナをシャドウから身を守る為に使う場合、花村流は手軽だが危険を伴う可能性がある。鳴上流にはない著しい多幸感、効力感、全能感があり、冷静でいるのが難しい。力加減が難しい。脳内麻薬が常時垂れ流しになっているといった感じ。感情の振幅も桁外れになる。身体に悪いかもしれない。ペルソナを消した後はどうしてもすぐに起きることができない。強烈な倦怠感と頭の痺れ、鳴上流から免れていたストレスを一括返済させられるような酷い寝覚め。ペルソナから戻る方法はちょっと特殊で、何度かふたりで試した結果、どうもペルソナに「失望」することがスイッチになっているらしい。具体的には人間に戻れなかったときのことをつぶさに考えて「テンパる」必要がある。前述の脳内麻薬のせいでこれも難しいが、戻るだけならとりあえずより手軽な方法が見つかっている。

 ・鳴上流、花村流を問わず、ペルソナは生身の身体からある程度離れると消えてしまうらしい。これは悠と陽介とで距離の違いがあった。詳しく測る必要あり。ただし花村流でこれをやったところ強制的に目覚めてしまい、かつその寝覚めは最低最悪のものになった。陽介いわく「神になる夢から覚めたクソ」。よほどのことがない限り花村流ではしないほうがいいようだ。



 

 ペルソナについて陽介とともにいろいろ調べたことを、思いつくまま箇条書きにしたものである。
(もしひとりで調べようとしてたら、もっとかかってたんだろうな、きっと)
 こんな紙一枚に収まる程度のことを調べ上げるだけでも、客観視の難しい自分ひとりではなかなか捗が行かなかったことだろう。自分と同じような疑問を温めている人間がもうひとりいるというのは、実際かなり助けになるものだった。
 陽介は決して論理的というのではなかったが、悠の思考の隙を埋める直感と、なにごともなあなあにできない彼を去なして、現時点では解決の見込みのなさそうな問題をどんどん保留してしまえる鷹揚さを持っていた。おそらく相性のよい組み合わせなのだろう、これが悠に似たタイプの人間であれば言い合いになるか、ひとつの発見や躓きにかかずらって果てしなく時間を浪費するか、いずれにせよこのルーズリーフはもっと控えめなサイズになっていたに違いない。
 そしてなにより、陽介と同じ方向を向いて、共通の問題を力を合わせて解決するということの、なんという充実感であっただろう。だれの力も借りずに独力で練り上げるという、あの味わうことにさえ一種独特の努力を要する乾物の滋味とはまったく違う、それは舌の上で速やかに融ける乳脂の甘味にも似ているのだった。悠にとってはこれこそが陽介の言うところの「モチベ維持すんのに必要」な要因なのかもしれない。
 十一時五十八分。
 悠は席を立って窓の外を覗った。少し風があるようで、サッシの折々こまかく震えるたびに、音のない春雨が霧吹きで吹き付けるようにして窓ガラスを濡らす。もしこんな夜に外出するはめになったら、傘などさしたところで大して役に立つまい。
(さあ、なにが映るか)
 壁掛け時計の短針が十二時を指した。ほどなく、電源の死んでいるはずのテレビがひとりでに点灯する。
 悠は息を呑んだ。
「そんな――」
 あにはからんや、ブラウン管に映し出されたのは雪子であった。
「こ、ん、ば、ん、はー! きょうはわたしィ、天城雪子がァ――!」
 驚く暇もない。悠は獣じみた瞬発力でテーブルのリモコンに躍りかかった。そのまま狂ったように「音量-」を連打する。マヨナカテレビの吐き出したのは窓ガラスを吹き飛ばしかねないほどの大音量である。
「あん音声さん絞って絞って! 音大きすぎー!」雪子は媚態もあらわにケラケラ笑っている。「やり直し? やり直しですか? はーい!」
(なんなんだコレは……!)
「こーんばーんはー!」
 ふたたび雪子の挨拶。今度はふつうの音量だが、もちろん悠の努力を反映したものではない。電源の落ちているテレビにリモコンは無力である。とうぜん本体のスイッチ類も機能していないのだろう。
(叔父さんにも聞こえたよな、今の。見に来るかな……)
 今し胸を突き破って出てこようとする心臓を押さえつけながら、悠はテレビと部屋の戸とを代わるがわる覗っていた。こういうとき消せないテレビというやつは厄介このうえない。
(まして絵が絵だ、なんだってこんな恰好を)
 まさかこのいでたちも彼女の言うところの「仕事のとき着るだけ」の衣装なのだろうか? テレビの中の雪子は以前に見た和装とは相容れない、薔薇のコサージュを鏤めたピンク色のローブ・デコルテを着けていた。それもディズニーアニメの古典的ヒロインが着ていそうな、大仰なパニエの入ったやつである。
「えっとォ、きょうはわたし、天城雪子がナンパ、逆ナンに挑戦してみたいと思いまーす! ナンパってェ、わたしやったことないんですけど――え? ナンパと逆ナンって違うんですかァ? やあんカンペ出ちゃってます」
(これが天城?)
 手に持ったマイクに口づけして、片眼を瞑って、小指を立てて、雪子は鼻にかかった悩ましい声でまくし立てる。もはや別人の態である。先日の公園で見られた大人びたゆかしさなどは微塵も覗えない。
「題して、やらせナシ! とつげき逆ナン! 雪子姫の白馬の王子サマ探しィ! もチョー本気ィ、ごらんの皆様ァ、今のうちに部屋にカギかけて、ヘッドホン準備してネ? いろんなモノとか声とか出ちゃうかも……!」
 悠は遼太郎の安眠を神に祈り始めた。
「映像倫理完っ全ムシ! モザイクなんて甘い甘い、放送事故大歓迎! 伝説つくっちゃうぞォ!」画面が雪子の股間にズームアップする。彼女は胸の谷間を強調する。「今日は見えないトコまで勝負仕様ハアト、みたいなネ?」
 悠は遼太郎の快眠を悪魔に祈り始めた。
「もーわたし専用のホストクラブをブッ建てるくらいの意気込みでェ、じゃあ、行ってきまあす!」
 手を振りふり駆けてゆく雪子を追って、画面がゆっくりとパンする。フレームの外から現れたのは洋風の、宮殿のような豪壮な建物である。彼女はカメラを置き去りにしたまま、薄黄色い靄の向こう、ちょっと生き物の口めいて開け放たれた、その宮殿の門扉に吸い込まれていった。
 誰もいなくなった画面の右下に「スタジオ騒然! CMの後、雪子姫まさかの×××……!」とのスーパーがフェードイン。恐ろしい余韻とともに画面はゆっくりと暗転していく。
「…………」
 テレビの明かりが落ちた。手から滑り落ちたリモコンが足の甲に当たった。悠は跳び上がって我に返った。
(自失してる場合じゃない、天城だ、天城が映った、確かに!)マヨナカテレビがこれほどはっきり見えたのは初めてである。(これは、どっちだ? 当たりか、外れか……!)
 まずは確認しなければ――反射的に携帯を引っ掴んではみたものの、とうぜん雪子の番号はわからない。とりあえず陽介に連絡しようと番号をコールする。が、こんな時間に電話中なのか、むなしくビジートーンが耳を打つだけである。三度くり返して三度プー音に迎えられた悠は思わず、携帯のスピーカーに向かって「あのバカ!」と毒づいた。
「なにやってる……零時過ぎだぞ、誰に電話なんか」
 誰に? そうだ、もちろん決まってる! マヨナカテレビのあと――まして内容は雪子の痴態である――すぐに陽介と話す必要を思いつくとすれば、それは例の事情を知っている人間くらいだろう。いま彼と話しているのは千枝に違いない。
(里中は天城の番号を知ってる。たぶん先にそっちにかけて、応答がなかったかしたんだろう。あるいは天城の家にかけたか、いや、むしろ先方から連絡があったのかもしれない。里中は天城と付き合いが長いはず)悠は部屋の中を熊よろしくウロウロ歩き回った。(もし天城がいなくなっているとしたら、とうぜん天城の家族は行方を――)
 悠はウロウロをやめて凍り付いた。夕食のときの電話! 遼太郎にかかってきたあの電話、あれの内容は? なぜ叔父は悠を憚って外に出た? あれが雪子失踪を告げるものであったとしたら……
 手の中で開きっぱなしになっていた携帯が卒然と鳴いた。コール音の半ばも終えないうちに悠は受信ボタンを押した。無論、相手は知れきっている。
『ゆ――』
「里中になにを話した」
 だしぬけにこう問われて、陽介はちょっと閉口したようだった。
『え、いや、そう、いま里中から――』
「知ってる」
『えっと、あいつ天城んちに――』
「天城は行方不明、だろ」
『おま、なんで――』
「おれと、おまえは、今すぐジュネスへ行く。ここまではいいか」
『……いいよ、つか、そのつもりで電話したし』
「それで、なにを話した。まさか里中にそのことを――」
『話さん話さん、わかってる。里中にはあした朝イチでジュネスに集まろうって言ってある、三人で』
「それで納得したのか」
『するわけねーよ、朝まで放っとくなんてできるわけねーだろってさんざん言われたし。とりあえずお前に電話するからって言って切ったけど……ところで』陽介の声が低くなった。『もちろん、見たんだよな、アレ』
「んん、見た」
『つまりさ、アレって、天城……ってことなんだよな。つか名乗ってたよな』
「名乗ってた」
『なんなんだありゃ、なんかバラエティ番組っつか、深夜番組みたいなノリっつか……今までのもあんなカンジだったのか?』
「あそこまで派手なら多分、とっくに話題になってるだろう」
『派手っつか、なんかやたらクネクネしてて、天城らしくなかったよな。あ、それとも隠してただけで、もともとああいう性格だったってオチ?』
「里中はなにか言ってなかった?」
『いや、俺らと似たり寄ったり。つかテンパってた』
 であれば、アレは年来の友人にすら見せたことのない裏の顔、ということなのだろうか。
(それにしたって奇妙だ。仮に裏の顔なんてものがあったとしても、よりにもよってどうしてこんなタイミングで? 誘拐されるなんていう異常事態のあとで、どうしてあんな姿をさらけ出そうとする)
 とくに怯えた様子もなく、強制されているようなそぶりも見えなかったばかりか、はしゃいでいるようにさえ感じられたのだ。顔や声の特徴が一致して、自ら名乗っていたとしても、あれが雪子であるなどとはとうてい信じられない。
『……あのさ、悠』
「なに――いや、待った、待て」
 マヨナカテレビを見ていたときに覚えた動悸がふたたび戻ってくる。陽介のどこかしら不穏な声音が、おそらく彼の感づいたのであろう、ある可能性を先んじて悠に教えた。
『ひょっとして受信した? 俺の考えてること』
「した。つまりアレは」
『シャドウなんじゃねーかな……って、思ったんだけど。いや、シャドウだからああなんだとは言えねーけどさ』
 もしアレがシャドウだとしたら――携帯を握る手が汗ばむ。今から全速力で駆けつけたとしても間に合わないかもしれない。それどころか最悪、もう全てが終わっていて、今ごろ雪子はこの町のどこかの、電柱かなにかにぶら下がっているかもしれないのだ。早紀は二度映ったあと、明けた朝に死体となって見つかった。雪子もまた二度映った。
(待て、この結論は早計だ。霧だ、ほんとうに危険なのは、シャドウが出るのは向こうの世界から霧が晴れたときだ、小西先輩のときはそう――)右手の中で携帯が軋む。(――そうだマヨナカテレビ! 思い出せ、たしか映ってたぞ、黄色い霧が! まだだ、小西先輩のときとは状況が違う、まだ希望はある)
 はずである、おそらく。もっともそうなるとあの雪子とは似ても似付かない「雪子姫」の存在について、説明らしい説明はつかなくなるのだが。
「……陽介、この時間でもジュネスには入れるんだな」そのつもりで電話したと言うのだ、アテはあるのだろう。「方法があるんだな? ないなら忍び込むしかなくなる」
『簡単に言うよなァ、お前』陽介のため息が聞こえる。『とりあえず、入れることは入れる、うちにカギあっから。ただ中はいったあともたつくかもしれんけど』
「里中はどうする。番号おしえてくれればおれが話すけど」
『いや、やめたほうがいい。あいつなんかもう、ほとんど聞く耳もたなくなってっからさ。俺が適当に言っとく』
「じゃあそっちは任せる。とにかく言いくるめて、今夜だけでいい、諦めさせるんだ。あんまり時間ないぞ」
『お前は寝てて電話に出なかった。それでいいだろ?』
「終わったらすぐジュネスへ。おれはどこへ行けばいい」
『裏に従業員用の通用口があんだけど、搬入口の脇に――いや、いいや、フツーに入口の前にいてくれ。迎えに行く』
「わかった。急げよ」
『了解。ちっといいもん持ってくから』
 悠が「いいものって?」と言い終える前に、陽介は電話を切ってしまった。これからしなければならないことを円滑にしうるようななにかを、彼が用意できるとはとうてい思われないのだが。
 窓の微かに顫動する音が聞こえる。外は相変わらずの天気である。
(この雨風じゃ傘は使い物にならない。レインコートは……持ってない)そして探す時間もない。(仕方ない、もう一回フロ入るしかないな、服きたまま)
 大急ぎで着替えて部屋を出るさに、悠は思い立って段ボール箱からハンディライトを漁ってきた。夜間の外歩きに使うというより、テレビの中での用心に、である。道中には暗いところもあるかもしれない、こんなものでもないよりはマシであろう。
(大丈夫だ、おれはやれる、陽介のときはひとりだった)
 バッテリーのチェックを兼ねてライトを点けてみる。電気を消した室内を白いスポットが這い回る。今夜、自分は無事に雪子を救出しおおせて、ここへ戻ってくることができるだろうか。
 それともこの無謀な試みの代償を払わされたあげく、遼太郎に甥とその級友ふたりの亡骸を検分するという苦痛を強いるはめになるのだろうか。
(大丈夫だ、今度はふたりだ、必ずうまくいく。陽介とふたりなんだ)
 それも全ては間に合えば、の話ではあるが。





 家を出て五分も経たないうちに、知らない番号から電話がかかってきた。
(陽介、じゃないよな。誰だこんな時間に――)
 いや、ダメだ! 陽介が電話でなにか言ってはいなかったか! 反射的に受信ボタンを押そうとするのを、悠は際どいところで思い留まった。
 この着信はほぼ間違いなく千枝のものだ。もちろん陽介は予告していたとおり「あいつ寝てるみたいで電話に出ない」とでも言ったに違いない。そうと言われて千枝が引き下がるだろうか? それなら自分がかけるから番号を教えろ――彼女の返事はおおかたこんなところだろう。
(くそ、なんてトラップだ……危うく取るところだった)
 が、それは別にいい、無視すればよい話である。
 電話は執拗を極めた。初めは十数秒ほどを五、六度、間隔を開けてコールする程度であったが、それ以降はずっと鳴りっぱなしになった。あまりやかましいのでマナーモードにしたものの、今も携帯はポケットの中で千枝の執念を宿してぶるぶる震えている。携帯を耳に押し当てたままその辺りを行きつ戻りつする、苛立たしげな彼女の姿が目に浮かぶようである。
 が、ここまではいい、無視すればよい話である。
 問題はジュネスの入口の前に「携帯を耳に押し当てたままその辺りを行きつ戻りつする、苛立たしげな」千枝が実際にいたことであった。
(陽介が喋った、わけじゃないな)
 悠はため息をついて、自身と彼女とを隔てる道路に面した、コンクリート塀の暗がりにしゃがみ込んだ。そこからはジュネスの正面に配された街灯の間を行き来する、気を病んだ犬みたいな千枝の姿がよく眺められる。
(いま、こっち見たよな)
 ふと、目深にしたレインコートのフードを透いて、彼女の不穏な双眸がこちらを捉えたような気がする。深夜の町に灯りは乏しい。ジュネスの前にいくつか街灯のあるのを除けば、信号の赤色灯が不気味に点滅しているくらいだ。千枝の位置からこちらの姿は見えないはずだが……
(まいったな、陽介に電話しようにもこれじゃ……)
 カエルよろしく身を屈めたまま、十分も過ぎただろうか。悠は少しく震えを覚えた。とうに全身ずぶ濡れである。
 家を出たときに比べて風は弱くなってきたが、雨は依然として止まない。千枝といえば店の庇に寄ることすら考えつかないようで、いっこうに諦める様子は――もちろん彼女は「獲物」を待ち伏せているのだ――ない。このままでは陽介とはち合わせる危険があるが、携帯が繋がりっぱなしである以上、それを報せるすべもない。
(それにしてもカンがいいな、いや、それだけ必死なのか)ポケットの携帯はいまだにぶんぶん唸っている。(小西先輩が死んだときの陽介と同じだ。自分にできること、すべきことは考慮の外で、自分が関わることだけ考えてる)
 さてどうしたものか、いっそ電話に出てみようかと思案していると、千枝がにわかになにか見つけた様子で、街灯の下から駆け出て行った。脱兎のごとく、というより、獲物を見つけたヒョウの迅さである。
(……で、彼女はうまくご馳走にありつけたってわけだ)
 果たして、街灯の下に戻ってきたのは千枝と、彼女に腕を掴まれて引き摺られんばかりの陽介であった。のど笛に食いつかれて無念をかこつインパラさながらである。
 じきポケットの携帯が静かになった。と、思う間もなくふたたび震え始める。予想通りだ、インパラはガゼルに助けを求める腹積もりらしい。
「……もしもし」
『あー、悪い、ホント。なんか里中が――』街灯の下でヒョウがインパラの携帯を奪うのが見える。『――鳴上くん? いまどこ!』
「サバンナ」
『はあっ? バカ言ってないで早くジュネス来て! ずっと電話ムシしてんの知ってんだからね!』
 こうなってはもう仕方がない。悠は暗がりから出ると、諸手を挙げて降参をアピールしながら横断歩道を渡った。
「悠、悪い」と言って、陽介がレインコートのフードを上げた。
「おまえのせいじゃないだろ」
 街灯の下に晒された彼の顔は少し腫れている。
「……陽介、冷麺、奢りでいいから」
「あ、マジ? 悪いな」
「ちょっと、あたしになにか言うことないの?」千枝が険を見せた。
「二分のぶんはハンバーグ? ステーキ?」
「あのさ、マジでさ、こういうとき冗談やめてって」千枝は怒っているようにも笑っているようにも見える。「ウソついたんでしょ! ウソ! あんたら!」
「ついたよ。悪かった。なんならヨコヅナハンバーグ二人前で――」
「ふざけんなっ!」
 千枝が声をひっくり返して怒鳴った。彼女の最前から小刻みに震えるのは寒さのためではあるまい。かといって怒りというのも違う、彼女は追い詰められているように見えた。
 どうやらヒョウの足音を聞きつけたのは陽介ではなかったらしい。
「悠、俺から話すか?」と、陽介が割り込んだ。「なんか……デジャヴっての? お前に話させとくと余計ひどくなるような気がすんだけど」
「いい、おれから話す――里中、言うことはないかって言うんなら、じゃあ言うけど」
「帰れってんでしょ? 帰らないからね」
「違う。里中が来たとして、なんの役に立つのかって、言いたかったんだ」
 千枝は返答に詰まって沈黙した。
「里中、向こうの世界には命に関わる危険がある。その危険と天秤のつり合いを取るために、反対側の皿に載せるなにかが必要になる。里中はなにを持ってる」
「……鳴上くんは持ってるっての?」
「持ってる。陽介も持ってる。里中は?」
「なんで花村が持ってんの?」
「里中は?」
「なんでって訊いてんの!」
「こっちが先に訊いたんだから、先に答えて。里中は?」
「…………」
「里中は?」
「……雪子、死んじゃうかもしれないんだよ」
「里中は?」
「しつこい! あたしぜったい行くから!」
「里中、その論証は真ん中が欠けてる」悠は静かに指摘した。「天城が死に瀕している。だから里中が助けに行く――この間に入らなきゃいけない文句をさっきから訊いてるんだ。里中はテレビの中に入れられた天城を助けるために、なにができる。なにができるから、里中が助けに行くっていう答えが導き出される。答えて」
「……なにかできる、ぜったい」千枝は泣き出した。「ぜっだい、でぎる、雪子のためなら」
「里中、家に帰って、無事を祈って欲しい。天城と、もしできたらおれたちの」優しく続けて、「天城はおれたちが必ず助け出すから」
 千枝は応えずに、その場にしゃがみ込んで嗚咽を漏らし始めた。ひとしきり涙を流して冷静を取り戻せば、性のよい彼女のことだ、きっと自分の赤心を理解してくれるだろう――などと思っていたのは悠の見当違いもいいところで、ふいに彼女は立ち上がると、
「連れてってくれないなら!」
 ジュネスの入口に寄って、重厚なガラス扉に肘を押し当てた。
「これ、割る。警報ならす。大さわぎして警備のひと呼ぶ」
 あまりの物言いに悠も陽介も呆気にとられて、思わずお互いの顔を見合わせた。まさかこんな破れかぶれの挙に及ぶとは思ってもみなかった。
「どーする? ホントにやるよ」
「ちょっと待ってくれ……里中はいま自分がどれだけ無茶苦茶なこと言ってるか」
「わかってるよ。わかってないのはそっち。どーすんの!」
 こんなふうに言われれば、悠とて引き下がるわけにはいかない。なにより理非を違えているのは向こうなのだ! 彼はありていに言って「アタマ」にきた。
「……それをやったら、天城を助けられなくなるかもしれないんだぞ。少なくともかなり時間をロスする。それが里中の望みなのか」
「あたしだってこんなことしたくない、望んでんのはそっちでしょ!」
「おれの望みは天城を助けることだ。里中は違うのか。里中はいま自分が望んでるその誰にも望まれないバカげた試みで、天城を死に追いやってるんだぞ!」
「意味わかんない! 割るよ、割ってほしいんなら割るからね!」
「いま自分がナイフを宛がってる首がいったい誰のものなのかわかってるのか! 里中は人質の命を助けるために当の人質の命を脅迫材料にしてるんだぞ!」 
「うるさいうるさい!」
「里中は天城が大事なんじゃなくて、天城が大事な自分が大事なのか! 本末転倒だ、離れがたさに病気の愛犬を医者に診せないで死なせるようなもんだ!」
「うっさいバカ! バーカ!」
「バッ……よし、じゃあ、やればいい!」
 この悠の放言に、今まで黙って静観していた陽介が「ちょっ、おま……!」と慌て始めた。
「やればいい。その細腕でどうやってそんな分厚いガラス割るのか見せてくれよ」
「できないと思ってんでしょ、こんなの簡単に割れるんだからね」
「ちょっと待てっておい、ふたりとも!」陽介が割り込んでくる。「落ち着けって。つかマジで思ってたみたいになったな……」
「だから、割ればいい。そうしてそれがどれだけ凄いことか警察に自慢すればいい。おれたちはテレビの中に避難する」
「マジでやるがらね……あんだがやらへるんだがらね……!」千枝はふたたび泣き始めた。
「準備は終わった? ずいぶん時間が――」
 言いかけて、悠はふと言葉後を呑み込んだ。ずっと握っていた携帯がにわかに震え始めたのである。
(誰だ、こんな時間に)
 携帯を開いてみると、液晶画面には「花村 陽介」からの着信とある。
「…………」
「悠、出ねーの? デンワ来てるみたいだけど」携帯を耳に当てながら陽介が言った。「たぶん知り合いだぜ」
「……もしもし」
 着信ボタンを押して応答するなり、返ってきたのは「いじめっ子」との笑い混じりの声だった。
「いじめっ子って……」
『悠、選手交代、あとは俺がやっからさ。今ガラスとか割られちゃ困るんだ』
「ガラスの一枚や十枚がなんだ。天城や里中の無事のほうが重要だろう」
『まあまあ、とりあえずさ、アタマ冷やせって……なんかお前に向かってこういうこと言うのって、けっこう気分いいな』
「あのな、いま大事な――」
「里中、いいよ、お前も来てもさ」陽介は皆まで聞かずに電話を切った。「ただしひとつだけ条件がある。聞けるか」
「……なによ」
「俺たちはいま譲ったろ、ついてきてもいいってさ。だから今度は里中が譲る番だ」
 千枝は用心しいしい、ようやく腕を下ろした。
「里中は一緒に来てもいい。ただし、あのクマのいたスタジオまでだ」
「そんなの意味――!」
「あのスタジオまでだ。それがイヤなら、俺たちはウチに帰る」
「おい陽介――」
「悠は俺の言うこと聞くぜ、どのみちひとりじゃ心許ないんだ。お前があくまで強情はる気なら、今日はウチ帰って寝て、明日……つか、今日になんのか、とにかく夜が明けんの待って、日中に改めて入る。ちょうど日曜だしな」
 千枝は唇を噛んで陽介を睨み始めた。
「陽介、たとえ里中を脅すハッタリだとしても――」悠は陽介に歩み寄って、低い声で囁いた。「そんな言葉遊びに付き合ってる時間はない。いま動かなきゃまずいんだ、里中はもういい、放っといて行こう」
「ほっとけねーって。ここで大暴れされたら元も子もねーんだよ」
「最悪は無視してテレビまで走れば済むことだろう、あの中に入ってさえしまえば誰も追って来られない。カギ持ってるんだろ」
「あのな鳴上くん、そこらのちっちゃい個人商店ならともかく、ここって結構でかいデパートなんですよ」陽介はあきれ顔で悠の肩をびしびし叩いた。「セキュリティバリバリなんですよ。夜間はセンサー生きてて扉とかシャッターとか開くと警報鳴るんですよ。つかその前に赤外線センサーに引っかかりまくるんですよ。そんでそういうのに引っかかると扉関係ロックされてカギ入らなくなるんですよ。マジで」
「……じゃあ、おまえ、どうやって」
「とにかくここで大暴れされて、宿直の警備員に警戒されんのは困るんだ。最悪応援とか呼ばれるかもしれんし――で、里中、どうすんだ」
 千枝は口をへの字に結んで大いに不服の態である。
「……なあ、もう時間もアレだし、ここでまだ時間食うようならさ、マジで帰ろうって思ってんだけど」
「わかった、わかったよ、それでいい」千枝はようやく折れた。「スタジオまででいい……」
「うし。じゃあほら、入口ウラだから、行こうぜおふたりさん」
 陽介はがぜん機嫌よく、ふたりに先立ってさっさと行ってしまった。その背中にありありと優越感の見て取れるのが悠には面白くない。
(なんか、おいしいところ全部もっていかれたような気がする……)
 千枝が悠とすれ違いざまに「いじめっ子」と呟くのを聞いて、その思いはますます強くなるのだった。





 ジュネス裏手の通用口からひそかに侵入した三人は、事務所で家電売場を封鎖しているグリルシャッターのカギを回収後、一階守衛室の向かいの「メンテナンス室」と表記された部屋に身を潜めていた。冷蔵庫を薄くしたような分電盤が部屋のぐるりを埋めているだけの、殺風景な部屋である。
「悠、ライト消せ」陽介が囁いた。
「出てくるか?」
「わからんけど、もうすぐ一時半になる。出てくるかもしれん」
 手持ち無沙汰に点けていたライトを消してしまうと、室内はほぼ真っ暗闇になった。ただ四方の分電盤のランプのいくつか等間隔に並ぶのが、扉に張り付いて格子窓の外を覗う陽介の姿を、輪郭ばかり照らし出している。
 守衛室に詰めている警備員が巡回に出てくるのを、三人はもう二十分近くも待っていた。
「夜間は店中センサーだらけっつったけど、じつは警備員が見回りに出るときだけぜんぶ切ってくんだ、自分が引っかからないために。ホントは守衛室に残ってるもうひとりがブースごとに、必要に応じて生かしたり殺したりすんのが規則なんだけど、過去に操作ミスって何回か誤警報だしてからは誰もやってなくて、黙認されてるってのが実際のトコ。だから警備員が見回りに出たときがチャンスだ、監視カメラに気をつけさえすりゃフツーにあのテレビまで行ける」
 というのが陽介の言である。もっとも彼は、
「ただ、巡回の回数とか時間の規定もあってないようなもんでさ。つまり……正直いつ出てくるかわからん」
 と、つけ加えるのを忘れなかった。電話で「もたつくかもしれん」などと言っていたのはこういう事情を指すらしい。
(小西先輩の死亡推定時刻は夜中の一時ごろ。現在一時半。焦れたってどうしようもないのはわかってるけど……)わかっていてもどうしようもなく焦れる。(ああもう給料泥棒め! なにやってるんだ、早く出てきて仕事しろ!)
 ちらと隣の千枝を覗う。さぞやきもきしていることだろうと思いきや、今の彼女は陽介の持ってきたチョコレートを貪るのに夢中なのだった。外であれほどの狂態を見せた、いったいこれが同じ少女なのだろうか。親友の危機など忘れ去ってしまったかのように見える。
(ここで暴れられるよりはいいけど……ついでにさっきのことも忘れてくれてないかな)
 店の中に入ってからというもの、悠は千枝とひと言も言葉を交わしていない。話しかけてこないからには向こうのほうでも含みがあるのだろう。それを小さなトゲの刺さったように気にするのも、痛さに抜きがたく思う臆病心も、ついこのあいだまでの彼にはなかったものだ。
 思えば下手なことを言ったものだ。千枝の心裡を冷静に推し量ることをせずに、ほんのいっとき冷静を欠いたからといって、以て知りもしない雪子への真情にケチをつけ、あげく逆上して「いじめっ子」に成り果てるとは。なかんずくあれほどやすやすと感情的になってしまったことに、悠は内心慨嘆を禁じ得ない。
(いや、おまえは今ちょっと焦ってるんだから、うまくいかないのは仕方ないんだよ……)
 などと自分に言いわけしてみても、彼の「四角白日を妨げ、七層蒼穹を摩す」自尊心の高きはちっとも納得してくれない。へえ、じゃあおまえはちょっと焦っただけでなにもかもうまくいかなくなるって言うんだな――墓穴は深まる。
 いったい自分はもう少しマシな――もしくは、もっと素晴らしい――人間ではなかったのだろうか。転校してきてからというもの自己評価を下げざるを得ない「試金」が多くて、悠は自分に幻滅すること頻りであった。おお友情、友人! 彼らがそうさせるのだ! 彼らがわが身のほんとうの丈を思い知らせてくれる。それでも彼らの定規の目盛りはうぬぼれ屋の悠にはあんまり小さすぎた。友人というものは快いものばかり用意してくれる、というわけではないらしい。
「おい里中、チョコ。返せ」
「ごめん、食べちゃった。もうないっす」千枝の声はどこか誇らしげである。
「マジかよ……買って返せよ、それ高いんだぞ」
「半分くらいしか入ってなかったよ」
「残り半分ぜんぶ食ったんかよ……」
「これめちゃうま。ゴディバって言った?」
「そ、たしか七百円くらいするやつ」
「うえマジ? これだけで?」
「貰いもんだけど」
「じゃいいじゃん」
「里中、食べる?」
 まずは軽いジャブだ――悠は意を決して、先ほど陽介に恵んでもらったチョコレートを千枝に差し出した。
「おれはいらないから」 
「え、いいの? ありがと」
 千枝の受け答えにことさら意趣を含んだ様子はない。彼女はなんの気兼ねもなくチョコレートを受け取った。最悪無視されるか、よくても憮然とした態度を取られるかと覚悟していたのだったが、
(気にしてないのか……けっこう酷いこと言ったかと思ったんだけど)
 いささか拍子抜けの感がある。悠のジャブはなんの判定も得られなかったどころか、すでに対戦相手も審判もリングにいないのだった。
 包装を破るカサコソした音と、チョコレートの薄板をパキパキ噛む小気味よい音が、薄闇の中にひっそりと響く。陽介がちょっと当て付けがましく「ハラ減ったな」と独りごちた。
「悠、お前なんか持ってない?」
「……いや、そういえば上着の中に入ってたんだけど、着て来なかったな」
「うう……人間ダストシュートにチョコなんか預けるんじゃなかったぜ」
「ほら、返すよチョコ」千枝がチョコレートの小箱を持ち上げた。「味わってね。カラだけど」
「ぜってー買って返せよお前。つか買わす」
「成龍伝説の慰謝料ですう。つかこんなんじゃぜんぜん足りないんですう」
「くっそむかつく……!」
「ねえ鳴上くん、そのカッコ寒くない?」
 と、千枝は気遣わしげに悠の袖をつまんで言った。すっかり慣れてしまっていたが、悠は着衣のままバスタブに浸かったような具合になっている。
「ものすごく寒い。震えが止まらない」悠はわざとらしく震え始めた。「里中が素肌で温めてくれないと凍死する」
「あたまはじゅうぶんあったかいみたいね……」
 やはり千枝の言葉に含みのようなものは覗われない。まして気遣いさえ見せているのだから、彼女は悠ほど先の小事件を気にしてはいないのだ。
 悠は少し救われた思いだった。
「レインコートなかったのか」
 陽介がずっと張り付いていた扉から離れて、悠の隣に腰を下ろした。
「たぶんあると思うけど、ものの在処がよくわからないし、時間もなかったし……」
「お前って、ここ越してきたばっかりなんだよな、そういや」
「驚きだな。ホントに驚きだ、そういえば越してきて一週間も経ってないんだ、おれ」
「……お前も気が休まるときがねーな、マジで」
「そりゃお互いさま」
「あのさ、ふたりとも」
 千枝の身を乗り出す気配があった。彼女はそのまま悠と陽介の前まで這って、そこへ正座したようだった。
「なに?」
 しばしの沈黙のあと、肩を落として背を丸めたような輪郭が、
「ふたりはさ、雪子のこと、助けに来てくれたんだよね」
 と言った。
「そうだよ」と、悠。
「まあな」と、陽介。
「……その、ありがとっていうか、なんか、ありがとうございます」
 千枝はあたまを下げたようだった。
「えっと、ほら、なんでオマエが感謝するんだとか、べつにオマエのためじゃないとか、そういうのはわかってるから。言わんでいいから。ただなんか……言わなきゃっていうか」
「里中からすれば、天城はおれたちよりずっと自分寄りの人間なんだから、そう言いたくなる気持ちはわかるよ」と、悠。
「お前ら仲いいからな。付き合い長いんだろうし、いつも一緒だしさ、保護者気分になっちまうのも無理ねーよ」と、陽介。
「んん……それと、なんか、さっきはごめん。つか、あたしものすごいアホだったかもしんない」
「……こういうときなんて応えたらいいんだろう」悠は陽介に耳打ちした。千枝に聞えよがしにではあるが。
「ほらアレだ、いつものことだからとか言っとけ」陽介は悠に囁き返した。千枝に聞えよがしにではあるが。
「わかってますよ、どーせあたしはアホですよ」
「あー、いや、ツッコミ待ってんですけど」
「アホだよね、あたし。なんもできないのに連れてけとかわめいて泣いて……ワケわかんないこと言って暴れようとして……」
「それだけ天城が大事なんだろうし、心配するからこそ冷静ではいられないんじゃないか」
 愚か者め、あのさまを見ておまえはよくも、軽々しくエゴイズムだなどと断じたものだ――千枝に、というより、悠は二十分前の自分への叱責のつもりで言った。
「里中がアホなら、おれは輪をかけたアホだ。おれずいぶん酷いこと言ったし」
「あー……さっきはなんかあたまワーッてなってたし、なんか小難しいことガーッて言われたのはわかったんだけど、えーと、ぶっちゃけなに言われたかよく覚えてないでござる……」
「……あ、そう」
「ま、いいんじゃね? みんなそーだって」と、陽介がほがらかに訳知り立てする。「お前らだけじゃねーよ、そういうのは。人間だもの……ってやつ?」
「……なんか花村が言うと安っぽい。ケムに巻かれたような気がする」
「誰が言っても安っぽい。安易にまとめようとしてるのがまるわかり」
「え、なにこの流れ。なんで俺こんなダメ出しされまくってんの……」
「今おいしいところだろ」
「おいしくねーし。欲しけりゃやるし」
「ねえ、ふたりとも」
 千枝が膝で躄って近づいてきた。
「ダメもとで訊いてみるんですけど」
 悠と陽介は異口同音に「ダメ」と断じた。
「まだなんも言ってないでしょ」
「天城んとこまでついてきたいってんだろ? ダメだっつの」
「それ以前に、里中はまずテレビの中じたい入るべきじゃない」
「そんな――!」
「里中声でかい……!」陽介が慌てたように身を乗り出した。「忍び込んでんのバレたらお前らはともかく、俺は死刑確定なんだぞ」
「ごめん……でも約束が違う」
「里中、危ないんだ、向こうは。なにもできないことが理解できてるなら、あえて来る理由もないだろう」
「せめて待たせてよ、お願い、あのテレビんとこで待ってるから……!」
「悠、そのくらい譲ってやろう。もうアホなことしないだろうし。つか」陽介の声に呆れが滲む。「お前んなこと言ってたらまた外の二の舞だぜ」
 陽介の言うことももっともである。が、千枝が冷静を欠いた場合、あれほどに無茶なことをしうるとわかってしまった今、悠にはどうしても彼女を連れて行くことに乗り気になれない。
(今度は自分の命もかかるんだ、さっきみたいに考えなしには動かないと思うけど)
「……おとなしく待ってる?」
 千枝は改まった声で「はい。待ってます」と応えた。
「言うこと聞ける?」
「はい。聞けます」
「もう変なことしない?」
「はい。しません。ぜったい」
 仕方ないか――悠は折れた。
「ほらお父さん、チエも反省してるみたいだし」陽介が気味の悪い裏声を出した。
「じゃあ、母さんがいいって言うなら仕方ない」悠は威厳たっぷりに腕を組んだ。
「わーいありがとおとーさん」千枝は笑い混じりに、それでも調子を合わせて言った。「……つか、ふたりって仲いいっていうかさ、急によくなった?」
 悠と陽介は見えないながら、お互いの顔のあるらしい位置を見合わせた。
「そりゃあ、なあ……」
「よくもなるっていうか……」
「ねえ、ぶっちゃけ、向こうの世界でなにがあったの?」
 千枝の問いに応えようと、悠が口を開きかけたそのとき、壁一枚へだてた廊下から重い金属質の音が響いた。陽介がぱっと立ち上がって格子窓の外を覗う。
「来る、見回りだ」と囁いて、陽介はもどかしげに靴を脱ぎ始めた。「ふたりともクツ脱げ、音するから」
 一時四十五分――メンテナンス室の闇に緊張が奔る。悠と千枝は言われたとおり靴を脱いで、陽介のすぐ横に張り付いた。
(大丈夫だ、おれはやれる、陽介のときはひとりだった)ライトを握る手に力が籠もる。(大丈夫だ、今度は三人だ、必ずうまくいく)
「……行くぞ、俺のすぐ後ろに」
 と、意を決したように言って、陽介はやおら扉の内鍵を開けた。





[35651] 命名、ポスギル城
Name: 些事風◆8507efb8 ID:24b9454a
Date: 2013/05/12 23:56



 悠と陽介に加えて、千枝までテレビを潜って来るのを見たクマの、喜びようたるやひとかたならぬものがあった。
「ようこそクマー! いらっしゃいクマ!」
 われこそは人恋しさの権化であるとばかり、着ぐるみは欣喜雀躍はなはだしく、悠の挨拶しようとするのも意に介さずその辺りを転げ回り始めた。そうしてゴロゴロ蛇行しながら千枝の足下めがけて転がっていく。
「あーいいから、わかったから!」陽介の踵がクマを捉えた。「落ち着けって。つかお前じぶんで起き上がれねーんだから転がんなよな」
「うわ、ホントにあん時のクマだ」千枝はうごうごする着ぐるみを感慨深げに眺めている。「やっぱ夢じゃなかったんだ、よね、マジだったんだ」
「夢じゃないクマ、みんな来てくれたクマァー!」
「スゲー嬉しそうに寂しさ滲ませんのやめてくれませんかねクマさん、あとじっとしてて貰っていいですかねクマさん――悠、そっち持って」
「ほらクマ立って、喜びの舞はあとにしてくれよ」
「クマ、脚、脚! ちゃんと立てってオメ……アタマ取るぞアタマ!」
 悠と陽介に助け起こされて、クマはようやく垂直になった。
「いやはやついに三人そろったクマねー……クマはこの日をイチジツセンシューの思いで待ってました!」
「まだ何日も経ってねーだろ」と言う口ほどにもなく、陽介はひとのよさげな笑みを浮かべている。「あー、なんか時間的にさっき別れたばっかみてーなカンジするけど、元気してた?」
「元気だったクマ。でもでも今のクマに比べたらもーオソーシキ級に沈んでたクマね」
「こんばんわ、クマ」
「こんばんわセンセイ! えーとこんばんわってコトは、今は夜クマ?」
「そうだよ。クマは夜を知ってるんだ?」
「とーぜんクマ、クマはものしりなクマクマ」
 夜のあるとも思われないこの世界でなぜ夜を知っているのか、あいかわらずこの着ぐるみは得体が知れない。あるいはこの世界から霧が晴れたとき、頭上に日月星辰のへめぐる夜空が現れるとでも言うのだろうか。それとも以前はここにも昼夜の別があった? 天井を見上げても黄色い霧の凝っているばかりだったが、不自由ながらこの辺りの見晴らしが利くからには、かかる濃霧を透かしてでもこの世界を照らしうる光源が上にはあるのだろう。ひょっとするとそれは悠の世界でいうところの、太陽や月のようなものなのかもしれない。
「ところでクマ、早速なんだけど――」
「おーっとこちらはやっと来てくれたコーイッテン!」クマの興味はたちまち新しい客へと移ってしまった。「お待ちしてましたクマー」
「あはは、こんばんわ。えーと三日ぶり? になんのかな」
 千枝はクマに歩み寄ってドーム状のあたまをポンポン叩いている。
(まあ、いいか、すぐ済むだろう。それより現状把握)
 彼女の気が逸れているうちに、悠は例の眼鏡をポケットから取り出して、目の前に翳して周囲を見渡してみた。隣の陽介もちょっと遅れて悠に倣う。たしょう不便でも千枝の詮索を避けるために、ふたりはテレビの中へ入る前から眼鏡をかけることはしていなかった。
(きのう来たときと同じだ、ここの様子に変わりはない)
 スタジオはもちろん、昨日ふたりで来たときと変わった様子はない。ひょっとするとここに雪子がいるかもしれないなどと万が一の期待を抱いていたのだったが、
(そううまくはいかないよな。いくらここがスタジオっぽいからって)
 ここであの「雪子姫の白馬の王子サマ探し!」が収録されていた、と考えるのは、いささか安易に過ぎたようだ。
「また会ったね、クマくんよろしく」
「うほー! ついにクマにもガールフレンドができるクマね……えーと、サトナカ、サトナカ」
「ん、名前? あたしは里中――」
「あっ、そーそー、ニクエチャンクマ」
「やっべ……」
 と、陽介が小さく声を漏らした。どうやら千枝に新しい名前を奉っていたことを忘れていたらしい。
「え、ニクエチャンってなに? あたし千枝だけど」
「チエチャン? ニクエチャンじゃないクマ?」
「ちがうちがう。つかニクエって……ニクって」千枝の胡乱げな視線が男子ふたりの間を行き来する。
「肉が好きだからニクエチャンクマ?」
「……どっち? ほら手ェ上げる」
 悠と陽介はお互いを指さし合った。
「ちょっと待て、おまえ――!」
「いやいや俺じゃねーだろ!」手を振って否んだあと、陽介は懇願めいて囁いた。「オメーのほうがぜったい被害少ないから……頼むから……!」
「…………」
「花村でしょ、そーいうカゲグチ言ってんの」
「いや、ごめん、おれ」悠は濡れ衣の上にさらに濡れ衣を被った。「里中ってほら、肉、好きだろ、それでつい」
「……へー、鳴上くんってそういうコト言うひとなんだ、隠れて。へー」
 悠は内心、呻かんばかりである。千枝は彼がこう出るだろうと思ったような暴力行為のたぐいには及ばず、意外なことに面を伏せて傷ついた様子を見せたのだった。
「なんですかニクエって。あたしそんなに肉ばっかりたべてませんよ。野菜だってたべてますよ。コメだって好きだし……」
 彼女は怒り出す代わりに拗ねてしまった。
(まずい、冗談で片付いてない! やっぱり陽介に言わせたほうがよかったんだ、おれよりは付き合いの長い陽介ならまだ気安さがあったのに……)
 千枝の繊細な一面を見たような気がする。ちょっと男性的な心安さのある千枝も、ことさら肉を好むなどと揶揄されるのはやはり、世間なみの女性とひとしく羞じらいを感じるのだ。いわんや顔を合わせて数日ていどの、それも親しくしはじめた男子に陰口で言われたと思えば、その恥辱はいかばかりであろう。被害が少ない? とんでもない、怒りの蹴りが飛んでくるよりこの様子のほうがずっと悠を苦しめた。
 陽介め――やはり冷麺の代金は身ぐるみ剥いででも徴収せねばなるまい。
「ごめん、怒ってる?」思いがけず弱気な声が出てくる。
「怒ってませんよ、ぜんぜん」千枝は膨れている。
「いやほら、悠だって悪気があって言ったんじゃないしさ、愛情表現、愛情表現だって」陽介も悠と同様の居心地の悪さを感じているふうだ。
「言ったのセンセイじゃないクマ。ヨースケクマよ」
 と、クマがすっぱ抜くや、インパラはテレビから五歩も離れないうちにヒョウに捕食された。
「やっぱりオマエかこのっ!」飛矢のようなフロントキックが陽介の背中を捉える。「ひとに罪おしつけるとかサイテー!」
「クマてめ空気読めって――ちょっタンマ! 暴力反対!」なんとか転倒せずに済んだものの、陽介はそれきり亀になって防戦一方である。「悠たすけてえ! 親友のピンチだから!」
「陽介、アレやっとけよ、オムニなんとか」悠は冷たく言い放った。
「ムリMPがない! お前見てないで止めろって!」
(喜んでるくせに)
 あえて止め立てする必要もなさそうだ。千枝も言うほど怒ってはいないようで、じゅうぶん手加減しているようだったし、助けろなどと叫んでいる陽介にしてからがどこか嬉しげに見えるのである。
「陽介嬉しそうクマー」クマはうらやましそうにしている。
「クマてめ覚えてろよ……!」
「クマ、ふたりの愛の語らいは放っといて、こっちはこっちでよろしくやろう」と言って、悠は着ぐるみのあたまに手を置いた。「それより今日ここに来た理由なんだけど」
「セ、センセイ、クマセンセイのコト好きだけど」クマがじりじりと後退る。「そーいうシュミはちょっとクマはやいかなって思うの……」
「趣味って……いや、よろしくやろうっていうのはそういう意味じゃなくて」
「鳴上くんに謝ってください、つか主にあたしに謝ってください、奢りでも可です」千枝はスナップの利いた寸止めジャブで愛を訴えている。
「さっき怒ってないって言ったじゃねーか! ちょっやめて当たる当たる!」
「いま怒った――いった!」
 革袋に入った鉄板を木槌で打ったような、コンと硬質の音がしたかと思う間に、千枝が驚いたように拳を引いた。
「いーったァ……え、なに?」
「……いますごい音したけど、里中大丈夫?」
「いや、なんか硬いものに当たったんですけど」千枝は手を振りふり困惑気にしている。「あんた服ん中なに入れてんの? 鉄板?」
「手、大丈夫か? つかお前コレ殴って痛いで済むとか頑丈だな」
 と言って、陽介が懐をゴソゴソやり出した。なにか強引に押し込んだものを無理矢理ひっぱり出すみたいに、彼は腕の半ばほどを服の中に突っ込んでいる。
「いや、いつ出そうかって、迷ってたんだけどさ……あーくっそ、大急ぎで突っ込んだから……」
「ちょっと、なにが出てくんの」と、千枝。
「赤ん坊? 陽子ちゃん難産だな」と、悠。
「おう、ちっと待ってろ、マイサンを見せてやっから」
 しばしの悪戦苦闘ののち、彼が得意げに服の中から引きずり出したのは、鞘がらみの大振りなナイフであった。
(ナイフ……お守りのつもり?)
「それナタ?」と、千枝。
「父親はだれ?」と、悠。
「俺どんだけ器用なんだよ……あとナタじゃねーよ、なんかボウイナイフっていうらしい」陽介は薄くカビを刷いた鞘から刀身を抜き出した。「じゃーん。これカッケーだろ? アルミとか真鍮とかじゃなくて、ホンモノの鋼だぜ、刃もついてる。かなりの値打ちもん」
「ブキクマ……ヨースケ野蛮クマ」クマは忌まわしげにしている。
「うっせ、オトコはみんなこーいうのに憧れんの! ま、お前にゃこーいうロマンはわからんのかね、中身ねーし」
 クマは例によってぴこぴこ地団駄を踏み始めた。
「で、どーよコレ、いけてない?」
 陽介の自慢げに見せびらかすそれは、確かに見たところナイフであった。が、世間一般で認知されているような、ポケットに入るような代物ではない。まさしくナタのような、というより、刃渡り二十センチを優に超えるであろうそれは、もはや小さな「剣」である。
「そんなもんどこで買ったのアンタ」千枝は呆れ顔である。
「それ法律とか大丈夫なのか」
「あれ、なんだよ、もちっと盛り上がってくれよ」ナイフをびゅんびゅん振り回しながら、「うちの親父が昔アメ横で買ったらしくてさ。けど興味本位だったみたいであんま大事にしてなくて、倉庫に放ったらかしにしてあったのを俺が保護してたんだ。で、ついに役に立つときが来たってわけ」
 興味本位もなにも、こんなものをなにかの目的のために吟味して手に取るような父親など、息子のほうでも願い下げであろう。
「……ひょっとして電話で言ってたいいもんって、それ?」
「そ。チョコだと思った? まあ一本しかねーけどさ、お前にも貸してやっから」
「おまえ、まさかそれで」
「おう。効くだろコレなら。刃物だし、強そーだし」
 陽介はあっけらかんとしている。まさか悠の濁した言葉後を理解していないはずはない、であれば彼は自分のナイフがシャドウ退治に有効であると考えているのだ。
(本気かコイツ……)
 まさかあの口の化物のことを忘れたわけではないだろうに――悠は呆れた。いったい彼は勇気の塊なのか、それともただ危機感に欠けるだけなのか、まったく花村陽介という男はなんとも量りがたい。
 クマの言うところの「ほとんどぜんぶ、人間なんかぜんぜん敵わないほど強い」シャドウを相手に、刃渡り二十センチのナイフが届くくらいまで肉薄する勇気を仮に振り絞ったとして、彼はほんとうにそれにふさわしい報いを得ることができると本気で考えているのだろうか。効くかどうかもわからない刃渡り二十センチの武器が相手に届くまえに、直径二十センチの穴を二十個くらい身体に空けられるかもしれないと考えたりはしないのだろうか。
(本題に入る前にあとどれだけ面倒が起こるんだ? 時間がないって言うのにバカなことを……)
「……それ、カッコいいな、ちょっと貸して」
「いいよほら。へへ、お前もやっぱ男だよな――あ、コレかなり重いから。あと刀身に触るとヌルヌルすっかも。錆止めにシリコン塗ってあってさ、拭ってきたんだけどさァ」
 なるほど、陽介から受け取ったナイフは確かに「かなりの値打ちもん」らしい雰囲気がある。おそらくメッキであろうが、金色の峰と十字鍔にアカンサスかなにかの模様がびっしり象嵌されていて、骨らしい生成り色の柄には、誰かの名前と思しいアルファベットの彫り込みがあった。使用感こそないものの時代がかった佇まいのそれは、素人目にも量産品にしては手が込んでいる印象を受ける。なにかの記念モデルか、あるいは誰かが特注したものなのかもしれない。
 陽介の父親がコレに幾ら払ったかわからないが、そのおかげで息子がレンコンみたいになるならお買い得感もクソもあったものではないだろう。
「鞘も」
「ほら。ちっとカビてるけど本革だぜ」
 悠は受け取った鞘にナイフを納めて、それを千枝に手渡した。
「里中、預かってて――クマ、変なことしないから」と言って、悠はクマを手招いた。「いいかげん本題に入ろう。おれたちが来る前に――」
「ちょ、おいおい、ナイフ返せよ。つか急に本題に入んなよ」
(でしょうとも)
 案の定、陽介の抗議が悠を遮る。
「かえせよ里中、大事なもんなんだ」
 千枝は返事をせず、渡されたナイフにじっと目を落としている。
「陽介、こんなものは役に立たない」
「なんで決めつけんだよ、わかんねーだろそんなこと」
「もし役に立つなら」悠はなんとなく既視感を感じた。「もし役に立つなら、なおさら持って行かせるわけにはいかない」
「なんで」
「それを使おうって思うだろ。少なくともそういう選択肢が生まれる。逃げるか、それとも最適な方法で対処するかの二択に、最悪のジョーカーを加えることになる。おれが言おうとしてること、わかるか」
 陽介は少し考えるふうを見せたあと、「つまり、そんなもん振り回すくらいならアレやれってことだろ」と言った。
「そのとおり」
「でも例えば急に間近に出てきたときとか――」
「陽介、そんなレアケースはそうそう訪れない」
 一悶着は避けられまいが、言わずに済ませられることでもない。悠は陽介を遮って大きく息を吸い込んだ。
「なぜっておれたちは万難排してそれを避けるからだし、万一そうした場面に遭遇したところで、ナイフを振り回すなんて選択肢はありえない。あのごつい金属の塊とカードとどっちが軽い。とっさに懐から出すものとして、どっちがよりやりやすい。リスクに見合うだけのパフォーマンスは? どうしてわざわざ戦車から降りてレターオープナーで灰色熊にケンカを売る必要がある。確かにあの剣の赤ちゃんでも鋭ければ灰色熊に刺さるかもしれない、運良くそうできたなら、なんらかのダメージを与えることができるかもしれない。そうしてどうなる? 熊は逃げてくれるか。それとも手が滑ったんだって誤解して、こっちをお願いしますって未開封の手紙を差し出すか。怒り出したらどうする? 腕一本で勘弁してくれたかもしれないのに首を引っこ抜かれたら? この世界にひしめく熊がみんな、おれたちのクマくらい紳士的なやつばかりとは限らない」
 以前こんなふうにまくし立てられたときのように怒り出すか、よくて不機嫌になるのは避けられないと思っていたのが、意外にも陽介は平静を保っている。そればかりか、彼は微かに苦笑を浮かべてさえいた。強がりや負け惜しみの色ではない、ちょっと困ったような笑みである。
「おれたちの目的は天城の救出じゃない、今この世界に入ってる四人全員の生還だ」陽介の余裕を訝りつつ続けて、「天城を助け出せたって、おまえの死体を担いで帰るようじゃ失敗だ。最善の手だけを使ってさえ完遂できるかおぼつかないこの冒険に、どんな小さなリスクだって持ち込むことはできない。陽介、ナイフは里中に預けていくんだ」
「わかったよ、お前に言い合いで勝てるとは思ってないし」と言って、陽介は腰に手を当ててため息をついた。「じゃあ、使わないなら持ってってもいいだろ?」
「手の届くところにあれば使いたくなる。置いていくんだ。荷物にしかならないだろ」
「俺いま譲ったじゃん、そっちもそれくらい譲ってくれよ」
「陽介……」
「ほらほら、ここ入ってちっと時間くってるしさ、ワーワー言ってねーではやいとこクマに話聞こうぜ。本題本題!」
 などと言いながらも、彼はさっそく千枝を口説きにかかるのだった。どうでも息子と離ればなれになるのはイヤらしい。
「里中、渡さないで。掴み掛かって来るようならぶん殴っていいから」と、千枝に言い置いて、悠は改めてクマを手招いた。「ごめん、とにかく本題に入ろう。おれたち以外にここに――」
「あ、ちょっと待ってセンセイ。クマもいつ出そうか迷ってたものがあったクマ――じゃーん」
 陽介のマネであろうか、クマもまた懐からなにかを取り出して皆の注意を引いた。出てきたのはもちろんナイフではなく、
(しまった、すぐに取り上げておくべきだった!)
 例の眼鏡である。千枝に渡すつもりなのだろう。
「ウィズラブフロムクマトゥーチエチャーン! プレゼントフォーユークマ――」
 案の定、喜び勇んで千枝のもとへ持っていこうとするのを、悠が後ろからひょいとつまみ上げる。
「あっ、なにするクマ、返すクマ! それはチエチャンのクマよ!」
「え、あたし? なんかくれるの? ちょうだいよ」
 陽介からの返還要求を生返事とスウェーで去なしていた千枝が、クマの抗議を聞きつけるやさっそく自らの権利を主張し始めた。
「センセイにはもうあげたでしょ! デザイン気に入らなかったんならちゃんと予約してくださいクマ。ウチのブランドは創業からずっとビルドトゥーオーダー、お取り置きはしてませんクマ!」
「ちょっとなんで鳴上くんが取り上げんの。つかプレゼントってなに?」
「チョーおしゃれな眼鏡クマ、それかけるとココの――」
「クマごめん足が滑った」
 着ぐるみの短い脚に窮余の変形小外刈りが決まった。クマはぶざまにひっくり返って甲羅を下にしたウミガメみたいになった。
「ギャース! なにするクマァー!」
「里中ごめん、でも今はダメだ、またあとで」悠の踵がクマのあたまを捉えた。「クマ本当に、マジで、本題に入ろう」
「はい……」
「ま、いいけどさァ」
 食ってかかってくるに違いないと思いきや、千枝は意外なことにあっさり引き下がって、粛々とクレーム対応に戻ってしまった。来たる彼女の抗議をはねのけるために陽介に浴びせかけたような「実弾」を準備していた悠であったが、
(なんだよ、陽介といい里中といい……おれひとり空回りしてるみたいじゃないか)
 こういうあっさりした反応を返されると、なんだか必死になって眼鏡を取り上げたことまで馬鹿らしく思えてくるのだった。ひょっとしてこの四人の中で自分がいちばん余裕がないのだろうか。
「クマ、この世界におれたちより前に誰か入った?」
「入った、とゆーか、入ってるクマ」
 踵が少しめり込んだ。
「……あと、このあいだ陽介と一緒に来たとき行ったみたいな、変わった建物とか、できてたり?」
「できたクマ」
 踵が深くめり込んだ。
「城みたいなやつ?」
「そそ、ものすごくでかいクマ。あのうセンセイクマのあたまが絶賛陥没中……」
「ごめん」悠はようやく足を上げた。「で、それ、どこ?」
「ココから近いクマ、そっちのちっちゃいトンネルの向こう」
 クマは横倒しになったまま、いくつかあるスタジオの出入口のうち、三日前に悠たち三人が帰り道を探して最初に潜ったトンネルを指した。
「そこからまっすぐ歩いて、十分もしないうちに見えてくるクマ」
「……そこにまだひとはいる? わかる?」
「いるクマ」とクマの言うのを聞いて、悠はひとまず胸をなで下ろした。
「入口の近くまで行ったんだけど、シャドウがいたからどーしようもなくて引き返してきたクマ。とりあえず中に誰かいるのは間違いないクマ」
(シャドウ、やっぱりいるんだ)雪子の心配ばかりしている場合ではない。(おれたちにあるのは付焼刃のナイフがふた振りだけ。それも使い方しだいだ、あの陽介のおもちゃを振り回すよりずっといい)
「センセイたちはそのひとを助けに来たクマ?」
「そうだよ、知り合いなんだ。クマに案内を頼みたいんだけど――」
 その時、にわかに陽介の叫びとも呻きともつかない声が耳を打った。顔を上げて見るとなんと、今し彼が股間を押さえて千枝の足下に頽れるところである。
「陽介……ちょっと、里中どうした!」
 呼びかけに応じてこちらを向いた彼女の面に、しかしこれといって釈明するような色は見出せない。無表情である。いっぽうの陽介は悪態をつく余裕もない様子で、ただ股間を押さえて呻吟しつつ、瀕死のエビみたいに力なく地べたをのたうつだけである。彼女に蹴られたのだろうか。
(そりゃぶん殴っていいとは言ったけど……)
「なに、へんなところ触られた? それにしたってちょっとやり過ぎじゃ」
 悠が慌てて駆けつけると、なにを思ったか彼女のほうでも足早に歩み寄ってくる。まるで胸を合わせるみたいにして急接近するや否や――さながらナイフが鞘に収まるような按配で、悠の股間に彼女のヒザが吸い込まれた。
「あっ、センセイ!」と、クマが叫ぶ。悠は叫ぶこともできない。
 エビが一匹ふえた。
「こんなに時間かかるんなら」と言って、千枝は苦悶する悠のポケットをあらため始めた。彼女の声は冷静そのものである。「自分で訊いてればよかった――これだよね、あたしの」
「さっ、里中、待て……!」
 愚者! どうしようもない愚者! おまえは陽介のときからなにも学んでいない! 下から突き上げてくる地獄の激痛と、上から無数に降り注ぐ自責の念とで、いきおい悠はどうかなってしまいそうだった。
「クマくん、コレ、なんなの?」千枝が取り返した眼鏡をクマに示す。「なんか見えるの?」
「あのう、かけるとその、霧を透かしてものが見れるクマ……」
 いったいおまえは、彼女が腹芸のひとつも満足にできない単細胞だとでも思っていたのか! もちろん彼女は演技していたのだ。不思議なほど雪子の安否に言及しなかったのも、妙に落ち着いて見えたのも、すべてはこちらを油断させるため、邪魔なエビを陸に打ち揚げるためだったのだ。
「里中てめ……!」陽介が脂汗をかきながら這い寄ってくる。
「ふたりともごめん。ホントにごめん。もし戻って来れたらなんでもする」と言って、千枝は眼鏡をかけた。
「里中たのむ、思い留まれ、危険なんだ、化物がいる、人間じゃ太刀打ちできない、殺される」悠は痛みに震えながら譫言のように言った。
「……鳴上くん、外でさ、なんつったっけ、雪子のためになにができるって言ったんだっけ」
「里中、後生だから」
「あたしね、雪子のためならなんだってできる」
「できない」
「できる」
「できない!」
「鳴上くんにはわかんないよ」千枝の声に暗い満足が滲む。
「おまえにはできない! おまえのはするかしないかだ! おまえの欲しがってる結果なんかついてこない! どうしてわからないっ!」悠は声をひっくり返して吼えた。もはやヤケである。「誰のためにもならない! なんの意味もない! おまえが死んで天城が助かるんなら今すぐそのナイフで喉を突けバカヤローッ!」  
 陽介の手が千枝の足首を掴む。が、やんわりと蹴り払われる。
「ごめんね花村、鳴上くん。ごめんね、じゃあね」
「クマ、里中を止めて……!」
 と、エビが懇願したところで、目下ウミガメは天地逆である。千枝はそれいじょう自らの釣果を眺めることはせず、持っていたナイフの鞘を払って投げ捨てると、先にクマの示したトンネルへ走り去ってしまった。
(最善の手だけを取る? もう絵空事だ! 考えうる限り最悪のスタートだ!)這って千枝を追おうとしても、両手はその甲斐もないのに股間を離れてくれない。(おれたちは振り出しで躓いた! 里中のせい? 愚者め、おまえのせいだ! この試金の結果を見ろ、おまえのメッキはとうに剥がれてるぞ、鳴上悠!)
 歯噛みする口の中に塩辛いものが流れ込んでくる。悠はぶざまに転がって股間を押さえたまま、痛さと惨めさのあまり涙を流し始めた。






(動けるか?)
 激痛がいくらか和らぐまでに十分も経っただろうか。
「陽介」
 少し離れた位置に転がっている陽介に声をかけてみる。彼にはどうやって立ち上がったものかクマが専属で付き添っており、腰を叩いたり上半身を上げ下げしたりするなどの看護を施しているのである。
「ヨースケがんばるクマ、キズは浅いクマ」
「陽介、立てるか」
「ムリHPがない……」
 クマの懸命な施療の甲斐もなく、症状は悠と似たり寄ったりらしい。
「マジであの女、ブッ殺すわ、マジで」陽介はぶつぶつ呟いている。
「ブッ殺すのはあとだ。それに半分はおれにも権利があるだろ、半殺しで我慢しろ」
「うう……あいつわかんねんだこの痛みが」怒りか苦痛か、陽介の声は震えている。「ゴールドオーブに痛恨の一撃とか冒険の書が消えるレベルだって……!」
「文句言うな、おれのなんかメッキだ」
 悠は生後間もないガゼルみたいに、ぶるぶる震えながらなんとかこうとか立ち上がった。下腹部の痛みは依然として治まってはいない。あらためて恐るおそる股間に手をやってみると――喜ばしいことにちゃんとふたつあった。兄のほうも弟のほうも無事である。
「センセイ、割れてなかったクマか?」クマは心配そうにしている。「クマもわかるクマ、その辛さ苦しさ、やり切れなさ。オトコの宿命クマね……」
「たぶん割れてはいない、と思う。ちょっと表面が剥がれたけど」
(クマもわかるって、男なのか? あいかわらず得体が知れないな、この着ぐるみ) 
 もっともパンツだの胡椒だの夜だのを知っているのだ、いまさら陽介の言うところの「ゴールドオーブ」の存在を知っていたところで怪しむには足りない。
「立つんだ陽介」
「立てません。勃ちません」
「里中を追いかけなきゃ……ブッ殺すんだろ? おまえの子供も浚われたままだぞ」
「……俺の息子たちはここにいる」 
 陽介は生まれたてのインパラよろしく、がたがた震えながらなんとかこうとか立ち上がった。そうして悠に倣ってこどもたちの安否を確認する。
「なんとか無事っぽいけど……お前らにも苦労ばかりかけるなあ」
 陽介は息子たちの受難を労っている。なんといっても金なのだ、それは大事に思いもしようが、悠のはメッキである。先の惨めさ悔しさがふつふつと甦ってきて、悠はやるせなくため息をついた。こんな安物でも蹴られれば痛い、もいで捨てるわけにもいかない。
「センセイ……ヒビクマ?」クマが近寄ってきてそっと囁いた。「クマだれにも言わないクマ、欠けちゃったクマ?」
「いや、だいじょうぶ。心配ありがとう」と言って、悠はクマのあたまに手を置いた。「ところでクマ、さっき言ってた城のことだけど、中のどの辺りにひとがいるかわかりそう?」
「うーん……だいたいの位置はわかるとおもうクマ、たぶん」
「なにか問題でも?」
「問題とゆーか、いまあんまり鼻が利かないクマよ、ひとがいっぱい入って来てるから。クマひとりのときならもービンビン物語クマけど」
「……まあ、とにかく一緒に来て、試してみて。里中を追わなきゃ」
「たく世話の焼けるヤツだよホントに」陽介はこわごわ脚を上げたりしゃがんでみたりしている。
「あー、それと、悠」
「なに」
 陽介はにわかに畏まって、「悪かった、俺のせいだ」とあたまを下げた。
「里中のこと?」
「ああ。やっぱアイツ入れるべきじゃなかったんだ、マジですまん。お前やめたほうがいいって言ってたのに」
「おれだって同意しただろ。それにおれ、里中の様子がおかしいって、テレビに入る前からちょっと思ってたんだ。でも楽観して……」悠は涙の跡を拭って続けた。「なんの警戒もしないで、その結果がこれだ。全部おれのせいだ、おれが寝ぼけてた」
「いや、なんで? お前のせいにはならんだろ」陽介が呆れたように八の字を寄せた。「つか、そんなドーサツとかスイサツとかってレベルで責任どうこう言うとかたまんねーぞ」
「おれは里中の態度に引っかかってた。わかってたんだから回避できたはずなんだ。しなかったんだからおれの責任だ、お前のせいじゃない」
 悠のあくまで言い張るのを見て、ふと陽介の面に苦笑が浮かんだ。先にナイフを置いていけとまくしたてたときに見たような、ちょっと困ったような笑みである。
「……なんだよ、なにがおかしい」
「あのさ悠、ほら、俺のシャドウが出てきたときさ」腰に手をやりながら続けて、「あんときお前、なんか言ってなかったっけ? 自惚れんな、お前は完璧人間じゃねーとかなんとか。あれノシつけて返すぜ」
「…………」
「自惚れんなって、お前は完璧人間じゃねーだろ、お前のせいじゃねーよ。そんで俺のせいでもねーってお前が言うんなら、俺らのせいじゃねーってこった。――クマ」
「へ? なにクマ」
「お前、誰のせいだって思う? 俺らがこんなんなって、里中がひとりで行っちまったの」
 クマはしばらく思案気によちよち歩き回ったあと、「チエチャンのせいじゃないクマ?」と自信なげに言った。
「クマよくわからんけど、ヨースケとセンセイのチンチン蹴ったの、チエチャンクマ」
「な? そーゆーこと」と、陽介が胸を張った。「この場合どう考えたって、いちばん悪いのはアイツだろ。お前のせいじゃねんだよ」
 この物言いは正直なところ、悠の耳にあまり快く響きはしなかった。それはお前の手の及ぶことではなかった、できるはずはなかった、仕方なかったと慰められるより、できたはずのことをできなかったと責められるほうがどれほど彼の自尊心を慰めたことだろう。たとえ彼らの定規の目盛りが信頼に足るとしても、なにもかもそれを援用して万事うまくいってしまうほど、自ら恃むところひとかたならぬ悠の度量衡は単純ではない。
「そうかな」
「そうだって。お前は悪くないの、不可抗力」
 と、言われれば言われるほど、なんだかむしょうに反発心が湧いて出てくる。自分は陽介の言う「ドーサツとかスイサツとか」はじゅうぶんできていたはずだ。不可抗力? 否だ、もちろんそうではない。自分にはそうできるくらいの能力はあった。決して己惚れなどではない、己惚れと言うなら、その能力の及ぶかぎり無謬であると考えることこそが己惚れなのだ。自分は失敗したのだ、それは謙虚に受け止めなければ。
 そうだ、これはひとつの失敗だ――悠は腰ポケット越しにタロットを掴んだ。これはひとつの失敗だ。誰しも失敗はするものだ。いまおれがすべきは、金だと思っていた自分はじつは銅に過ぎなかったと悲嘆に暮れることでも、里中に盲目的に責任転嫁することでもない、挽回を期すことだ。
「悠……お前なんでそんなムッとしてんの?」さだめて破顔するとでも思っていたのだろう、陽介は困惑気にしている。
「べつに」
 そうだ、そもそも試金の結果メッキが少し剥げてたしょう地金を晒したからといって、それがどうだというのだ。金か銅かという二択からしてすでに間違っているのだ。上のほうはメッキした銅かもしれないけど、下のほうは混じりけのない金かもしれないではないか。そうだ! わずか一週間に満たない期間にたまたま見出したこんな小さな試金石など、どだい爪の先を擦るのがせいぜいなのだ。いったいこんな些末な事件のひとつやふたつがわが全存在を証しなどしない! 先に泣いたのだって陽介の言うところの「痛恨の一撃」による痛みのせいに過ぎない。挽回だ、次に同じようなことが起きたとき、そのときこそ挽回するのだ!
 陽介の言葉は悠の中で奇妙な化学反応を起こして、ある種の開き直りを彼にもたらした。
「センセイ、どうしたクマ。まだ痛いクマ? やっぱりヒビクマ?」
「んん……いや! やっぱりおれのも金だよなってさ、思ったんだ」悠は遅ればせながら破顔した。「そうだな、とりあえず、里中には制裁が必要だな」
 責任転嫁と責任追及はまた別の話である。新たなエビが暴力の網にかかる前に、男は股間を蹴られると宇宙が見えるのだということを彼女に理解させる必要がある。
「そーそー、俺たちの性なるゴールドオーブを破壊しようとした肉食暴力ザルはブッ殺されるべきなんです」陽介もまた賛意を示す。
「そのとおりだな――陽介、走れるか」悠はふたつの金塊を労りながら屈伸を始めた。「シャドウ狩りの前にサル狩りだ、あのヒザ蹴りがどれだけ高いものにつくか思い知らせてやる」
「おお。ま、アイツだってなんでもできるとかカッコつけてたけどムチャクチャビビリだし、今ごろ入口でチビッて座り込んでんじゃね?」
 その可能性は十分にある。これまでの経験からいって、道中でシャドウに出会す可能性は低そうだ。もし遭遇するとすればおそらくあのテレビに映った城の中でだろう。あの怖がりで泣き虫な千枝のことだからして、奥へ行ってしまう前になにかとんでもない態をしたシャドウを見でもしてくれれば、
(まだ希望はある。挽回してこそ金を証明できるんだ、里中を回収して、天城も助ける!)
「クマ、あのトンネルを抜けてまっすぐだったっけ」
「そうクマけど、あのう」クマの声が沈んだ。「センセイ、クマ走るの遅いから、ひょっとしたらついて行けないかもしれんクマ……」
「うん、急ぐからたぶんムリだと思う。とりあえず先行してあの城まで行って、里中を探せれば探しておくから」
「わかったクマ」
「できるだけ急いで後から来て」なにはともあれまずは千枝の身柄の確保である。「陽介いくぞ」
「よっしゃ――あっ、ちょっ、痛いですコレ痛い! マジいてえ!」
 陽介は内股でぴょんぴょん跳ねるようにして走り出した。そのすぐ前を走る悠も似たり寄ったりのみっともない走り方だったが。
「なあ悠!」
「なに!」
「アレ、やっとこう、アレ!」
「アレって」
「おまじない、なんか景気いいヤツ! いてて……!」
「そんなこと言ってる場合かおまえ! あつつ……!」
「お願いしますハイ3、2、1、キュー!」
「ファクタ! ノーンウェルバ!」
「おし! で、なんて意味っ?」
「喋ってないで走れ!」






「悠、あれだ」
(ずいぶん大きいな)
 併走していた陽介が前方を示す。スタジオを出て五分も経たないうちに、ふたりは八十神高校の校舎ほどもあろうかという巨大なシルエットを見出した。
 近づくほどに細部が露わになって、それはほどなくマヨナカテレビで見た、例の城とも宮殿ともつかぬ洋風の建築物であると知れる。悠と陽介はその外郭の、煉瓦色の塀に辿りついたところでようやく走るのを止めた。ふたりからそれほど離れていない位置に、おそらくは外門と思しい塀の張り出しが見える。
「でけーな、マジで」陽介は塀に寄って呼吸を整えている。
「前のは商店街をまるまる一区画だぞ、こっちは小さいくらいだ」
 もっとも中身もちゃんとできているというなら、こちらのほうがずっと厄介であろう。それこそ高校の体育館みたいにがらんどうという可能性もないわけではないが。
「アレかな、入口」
「んん……陽介、ここからは」
「わかってる。シャドウに気をつけろ、だろ」
 悠と陽介は示し合わせたようにして、同時にポケットからタロットを抜き出した。
「むしろ気をつけろって、シャドウに言ってやるよ」陽介は不敵に笑っている。
「先方はおまえの優しい心遣いを忘れないだろうよ」悠は忍び歩きに外門へ近づいた。
(開いてる。里中が開けたのか?)
 外門に設えられた蒲鉾型の格子扉は、片方だけが開け放たれていた。中を覗き込んでみると、
「……なにか落ちてる」
 悠は門扉を潜って、床に落ちていた小さななにかを拾い上げた。騎乗した髪の長い女性のロゴと「GODIVA chocolatier」の文字――先に千枝の食べていたチョコレートの包装である。
「アイツ、わざと落としてったんかな」と、陽介。
「かもしれない」
 千枝があんな行動を取ったのはひとえに、自分が救出に赴くことを許されなかったからで、なにも悠と陽介に来てもらっては困るというわけではないのだ。この目印がわざと置かれたものなら、彼女はあるいはそれほど行かないところで、悠と陽介が自分を追いかけてくるのを待っているのかもしれない。
(……あそこだ、テレビに映ってた)
 外門を潜ってすぐのところは、両側を塀で挟まれた内庭のような空間になっている。今ほど通り過ぎた外門から城までのちょうど中ほどの位置に、浅い円形階段が掘り抜かれていて、真ん中から噴水が上がっているのが見える。その向こう、後肢で立ち上がった馬の像の立ち並ぶ先に、雪子の消えた城の内門はあった。マヨナカテレビを撮影したカメラ――もしそんなものがあるとすれば――は位置的に噴水を背にしていたと思しい。
「悠、気付いてっか?」
「なにに」
「あれ」と言って、陽介は黙って上を指さした。
「……イヤでも気付くよ」
 この城がうっすらと見え始めたくらいから、霧のかかるだけだった「天井」がにわかに変貌しているのに、悠は最前から気付いていた。例の偽八十稲羽商店街で見たような、赤い空の明滅するなかに黒い雲が浮いているという、不気味なものにである。
「里中ビビッただろうな。なんなんだこのキモい空は」陽介の口角が不快気に歪む。「なんか見てて不安になってくんだよな」
「これいじょう降らないなら文句なんかないよ」悠は濡れた袖を引っ張ってそう言った。「行くぞ、里中がこの先で待ってるかもしれない」
 ふたりはタロットを構えて警戒しつつ、白い甃で舗装された内庭をそろそろと進んだ。噴水を迂回して内門へ近づく。千枝の目印らしいものは見当たらない。
「おい悠」背後の陽介が声を上げた。
「なに」
「これ、ちっと見てみ」
 振り返ると、彼は馬の立像のひとつに手をかけてこちらを手招いている。
「これっつか、この馬ぜんぶ見て、どう思う」
「ぜんぶ同じだな」
 立像は道を挟んで五体ずつ並んでいたが、十体すべて同じ意匠である。
「なんか感じないか?」
「……なんだろう、なんか違うというか、拙いというか」
「チャチい」
「そうか、安っぽいんだ」
 言われてみれば確かに、馬はどれも一様にディティールに凝ったふうもない、どこかのホームセンターで売っているような安っぽい置物をそのままサイズアップしたみたいな、稚拙な投げやり感があった。まず間違いなく彫って造られたものではない。
 悠はふと思い立って、内庭の道に沿って聳える煉瓦塀に近づいてみた。ブロックの継ぎ目に目を凝らしてみると、
「……やっぱり」
 果たして、塀は煉瓦を積んで造られたものではなく、煉瓦色のなにかに等間隔の切れ目を入れただけの紛い物である。
「煉瓦も偽物だ。ひょっとしてほかも」
「つか、まずこの城がさ……まあ、それっぽいんだけど、わりとでかめの遊園地にあったりしねーか? こんなカンジのナントカ城っつか、ナントカの館みたいな。そういうのを単純にでかくしただけみたいなフンイキない? ここ」
 悠と陽介は少し道を戻って、改めて城のファサードを見上げてみた。
「……な? ぽいんだけど」
「……ぽすぎる?」
「そ、なんかさ、ぽすぎるんだよ、この城」
 城は確かに立派ではあった。が、あまりにも「西洋の城」のステレオタイプに忠実すぎる印象がある。「外国の古いお城」と言われて大抵のひとが即座に思い浮かべるような意匠、てっぺんの尖った小塔、三角旗、蒲鉾型の窓、上端のデコボコした狭間胸壁、壁龕に収まった騎士の像――こんなものが煉瓦色の建屋の周りに、あるバランスに則ってシンメトリックに配されているのだ。個々の造形がよくできているならまだいいものの、先の煉瓦や馬の例を待たずとも、よくよく見ればそれらは遠目にも安っぽい造りをしているのがわかる。
 なるほど陽介の言うとおり、規模を除けばこの城はまったく「遊園地」レベルの代物であった。遠くから見れば本物「ぽい」が、近づけばたちまち稚拙さを露呈する。
「命名、ポスギル城」陽介が呟いた。
「おれたちはポスギル城に挑むふたりの騎士?」
「逃げ出したサルを回収しにきた飼育員だろ?」
(もしくはヒョウをね)
「二時十五分、深夜勤務もいいところだ」悠は腕時計に目を落として言った。「とりあえず早くサルを捜そう、花村飼育員」
 ふたりは内庭を後にして「ポスギル城」の内門へ入った。中は短い隧道になっていて、奥にアーチ状の入口が開いているのが見える。頭上に吊り上げられた城門と落とし格子の下を潜りながら、陽介がこわごわ「悠、あの門、ペルソナでぶっ壊せっかな」と呟いた。両方ともほとんど全て引き上げられているのだが、一瞥して容易に破壊できそうもないことはわかる。城門は分厚い木材を鉄枠で補強した堅固きわまりないもので、落とし格子に到ってはまず間違いなく総鉄製である。もしアレが背後で落ちでもしたら……
「どうだろう。ふたりがかりなら――陽介」悠は陽介を制止して、アーチ状の入口の前で止まった。「おまえ明かり持ってる?」
 隧道の中もいいかげん薄暗いのだが、入口の中はほぼ闇であった。城内すべてがそうであるならライトは貴重である。
「ケータイのフラッシュがライトになる。アプリで」
 と言って、陽介は実際に携帯電話でライトを点けてみせた。さして強くもない光が石造りのアーチを照らし出す。
「あんま強くねーな。ライト持ってくりゃ――」
「陽介まて、そこ、上のところ」悠は陽介を遮って、入口の上の辺りを指で示した。「ここ照らして、もう一回」
 白いスポットがアーチの主梁に戻ってくる。そこには墨痕を模した漢字で「屋城天」とあるのが見て取れる。
「……アマギヤ」
「天城屋って、え、天城んちの旅館だよな」
(このポスギル城は天城に関係あるってことなのか?)
 そうといえば、山野アナのときも早紀のときも、明らかに彼女らに関係する場所がこの世界に現れていた。であれば今回もその例に漏れないのだろうが、
(なんで西洋の城なんだ? なんか純和風って印象だったけど、こういうのが好きなのか?)
 かといってそのディティールのいい加減さが、もうひとつ雪子の嗜好を説明してくれない。もし好きならもう少し凝った造形になりそうなものだ。もっともこのポスギル城のチープさが彼女の好みに合致するという可能性もないではないが。
「いま考えても仕方ない、行こう」
「おう――お前そういやライト持ってたな」
「うん、さっそく役に立ったけど」と言って、悠は腰に差していたハンディライトを抜いた。「陽介、そっちの明かりは点けるな。携帯は温存しといて」
「わかった。そーだよな……必ず照明があるわけじゃねーんだよな」
「入るぞ、タロット準備」
「俺はなるほうで、おまえは呼ぶほう」
「んん、今回はそれでいく」
 件の「鳴上流」は今のところ、それ単独ではとても自衛の手段になりそうもない。最低でもふたりのうちどちらかがあの強力無比な「花村流」を採らなければ。
(さあ、鬼が出るか蛇が出るか……)
 悠は陽介を背後に、「屋城天」を潜ってライトを点けた。途端、三人の絶叫が室内に響き渡る。
「びっ……びっくりした! びっくりした!」
「おま、ふっざ、てめ……!」
「さ、里中っ?」
 部屋に入って最初にライトが照らし出したのは、もしサルかヒョウでないなら、千枝であった。




[35651] あたしは影か
Name: 些事風◆8507efb8 ID:7f716c06
Date: 2013/06/23 11:12


「ふたりとも来たんだ、やっぱり――ちょっとカオ向けないで」千枝が眩しがって、悠のライトを手で覆った。「目印わかった? チョコのカラ落としてきたんだけど」
「…………」
「……鳴上くん? 花村?」
 悠も陽介もとっさの返事が出てこない。安堵の吐息はどうしようもなく震えた。一杯くわされた怒りも股間を蹴られた恨みもたちまち消し飛んで、胸中を占めるのはただこのひと言だけ――よかった!
 きっと陽介も悠と同じようなことを考えているに違いない。こうして無事な千枝の顔を見る段になって初めて、強いて考えようとしなかった最悪のシナリオが次から次へと脳裏に浮かぶのである。いったい外門を潜ったとき、あるいは馬の像を調べているとき、どうして千枝の生首だの手足だのを見つけずに済む保証があったというのだろう。もし夜食中のシャドウにはたと遭遇して、今その手に持ってる布きれと同じ色の服を着た女の子を見なかったかと尋ねるはめに陥っていたら? あの噴水! 仮にあの噴水が勢いよく彼女の血を吹き上げていたとしても、苦情の持ち込み先などどこにもなかったのだ。
(とにかく、よかった、とにかく振り出しに戻れた……!)
 千枝を見つけたらぶつけてやろうと考えていた悪態など、はやあたまの中からきれいに雲散霧消してしまっていた。
「……陽介、左腕。おれは右を掴む」悠はかろうじてそれだけ言った。
「オーライ」
 ふたりは千枝の左右に張り付いて、その両腕をしっかりと掴んだ。活動的な印象からなんとなく筋肉質で硬い触感を想像していたものの、悠のてのひらに掴まったのは小柄な彼女にはいかにも似合わしい、細く柔らかな腕である。
「怒ってるよね、ごめん」彼女は不平のひとつもなく、まったくの無抵抗だった。「殴って。歯が折れるまで殴られたっていい。どこでも蹴って。恨まないから」
 千枝に開き直っている様子は微塵も覗われない、彼女の言葉にはいま口に上した内容の履行をねがう真情よりほか、どんな色も見つけようはなかった。こんなふうに言われればもはや、この紳士的なふたりに彼女をどうこうする気など起こしようがない。せめてこれが拗ねた文句であるとか言いわけがましい弁解であるとかなら、あるいは冗談にこと寄せて二、三発も小突くことができたかもしれないが。
「歯が折れるまでって、マジ? やった!」と言って、陽介は千枝の肩に腕を回して寄りかかった。「おい悠、里中先輩が歯が折れるまで肉おごってくれるってよ! ごちになりやーす!」
「はあっ? ちょ――!」
「やる気が出るなあ、里中先輩ごちそうさんです」悠も陽介に倣って千枝に凭れかかった。「あ、おれ鰻すきなんですけど、そっちでもいいですか先輩」
「鳴上くんまでなに言ってんの!」
「おっ、そうだ俺スゲー高い鰻屋しってる!」陽介が得たりと話を合わせた。「親父に一回つれてってもらってさ、うまいけどメチャクチャ高いの。そこ行こ、高いもん食お、高いの重要」
「ムリだってちょっとあたしお金ないから! 殴ってください蹴ってください! つか重いふたりとも!」
「里中先輩、こんなとこでマゾ願望カミングアウトとかフツーに引くっすよ……」
「そーいうイミじゃないっつの!」千枝は半ば笑っている。
「陽介、鰻重に白焼き追加するかどうかは店いったとき決めよう」
「だな。肝吸いとシメのうな茶もあるし、食えねーかもしれんし」
「あんたら……!」
 千枝が肉体的にも経済的にも押し潰される前に、男子ふたりは彼女の肩から腕を解いた。もちろん両の腕を掴まえ直すのは忘れない。
「とにかく、まずは無事でよかったよ」
「ホントだよ、マジで心配したっつの」
「サイフの心配もしてくださいよ……」
「里中、ここに来るまでシャドウには……変な化物とかは見なかった?」
 と悠が訊いても、千枝は「べつに見なかったけど、シャドウって?」と返すだけである。
「なんかよくわからん化物なんだけど……お前さ、ほんとに運いいぞ、マジで」陽介が鼻息を漏らす。
「運よかったらウナギおごるハメになんかならんでしょ……」
「鰻はともかく」悠はあらためて闇の中へライトを向けた。「ここ、どこなんだ? なんか外とだいぶ様子がちがう」
「ああ、ここね」
 と千枝の何気なく言うや、パパッという微かな音とともに、卒然と部屋の中が明かりに満たされた。反射的に見上げた天井に、古びた梁に沿って黄色っぽい蛍光灯のチラチラ輝いているのが見える。
「おい、今なんで明かりついた?」と、陽介。
「わからない。センサー?」
「センサーなんかついてねーっぽいだろここ……なんだろ、ホテルっぽいっていうか」
「……旅館の、ロビー?」
「そ。ここ、天城屋旅館のロビーなんだ」と、千枝が説明を入れた。「お城ん中にいきなりこんなんあるからちょっとビビッたけど」 
 三人は岩肌を模した乱型タイルの上に立っていた。大きな下駄箱と簀子のあるそこは玄関である。千枝の言葉通り、上がり口の向こうはおおよその古い旅館がかくもあろうかと思われるような、地元の情報ポスターを張り巡らした小体なフロントになっている。
 驚き呆れる男子ふたりと違って、千枝はなんの故があってか平然としたものだ。
「天城屋って、俺まえに行ったときはもっとでかくてキレイだったけど」陽介は昭和の気配漂うロビーを左見右見している。
「改築前の、昔のだもん、ここ。あんた行ったのは新館のほう。この旧館のロビーは取り壊されちゃってさ、もうないんだ」
 なるほど、千枝の「改築前」という言葉が妙にところを得たような部屋ではある。天井の化粧板は経年を示して薄黄色く――たぶん煙草のヤニかなにか――汚れているし、フロントの掲示板だけに留まらず、廊下の壁にまでやたらとポスターが貼ってあるのは、なんだかその下に傷でも隠しているふうである。フロントのすぐ横には「本日休業」の札が立つささやかな物販コーナーがあって、たぶん稲羽市の特産品かなにかと思しい、乾物や菓子や漬け物や、ちょっとしたおもちゃの類が彩りも乏しく小ぢんまりと陳列されている。その反対側は――もし粗大ゴミの仮置場でないのなら、たぶんロビースペースである。古い漫画の詰まった本棚、ガラステーブル、くたびれて変形した籐の椅子四脚と、コイン投入箱に錆の浮いた年代物のマッサージチェアが二台、老いて遠ざけられた使用人が主を待ちあぐねるようなもの悲しさでもってそこに佇んでいた。
(なんというか、うら寂れているっていうか……)
 薄緑色のビニル床にうっすらと轍のような跡のついているのは、何年何十年とスリッパの擦り続けた証左であろう。それはまったくもって改築されるべき要素に充ち満ちた「場末の旅館」の趣である。
「……なんつーか、ボロいのなァ、昔の天城屋って」陽介が妙に感心したような口で言った。「すげー流行ってない感ありまくりじゃね? 今じゃ予約すんのも半年待ちとか言われてるってのに」
「ボロいゆうな。でも確かにね、流行ってなかったな、昔は」千枝の面に微笑が浮かんだ。「いつもあのマッサージチェアんとこでね、雪子を待ってたんだ、あたし。小二んとき」
 千枝はふたりに腕を掴まれたまま、玄関を上がって物販コーナーへ寄った。悠も陽介も引き摺られるような形である。実際、そうはさせまいと踏ん張れば引き摺られたであろうほど、千枝の歩みは力強いものだった。
「里中ちょっと」
「あたし小二のころ、ここに引っ越してきてね、ぜんぜん友達いなかったんだ。だから雪子と友達になったときは嬉しくって、ほとんど毎日ここ来てた」
 千枝の手が悠の腕を掴み返した。
「雪子って、ちっちゃい頃からなんかいろいろ仕込まれてたみたいで、あそぼーってここ来てもね、なかなか出て来れなくてさ。んで粘って待ってると、お土産売ってるお婆ちゃんが近づいてきてね、あんた見ない子だけど、家どこって、訊くの。毎回だよ?」千枝は笑って、ワゴンの中に目を落とした。「でね、やっと雪子が来るとね、決まって待たせたお詫びみたいにこのアメ買ってくれてね、それ食べながらそこのイス座って、ふたりでセーラームーン読んでた」
「おい里中、放せってお前……!」
 陽介が慌てたような声を上げる。彼も悠と同じに腕を掴まれているのだ。
「雪子、今もキレイだけど、会ったころはもう人形みたいですっごいかわいくってさ、かわいくておしとやかで、メチャクチャ性格よくて、あたし見つけるとこう笑って、ちょこちょこ近づいてくんの。チーちゃんチーちゃんって」
「里中、腕を――」
「雪子って、宝物だった。なんか神さまがさ、あたしが生まれたとき持たしてやれなかったなにもかもをさ、やっと準備ができて、それでちょっと遅れたけどって、よこしてくれたみたいな感じ」
「里中」
 と悠の言うのに、千枝はようやく反応して「ごめん、なんか語っちゃった? ウザかった?」と笑った。
「あたしのひとり語りなんてどーでもいいっつの、ねえ? それよりほらっ、はやく雪子たすけに行こ!」
「里中、いったんあのテレビのところまで戻ろう。ここから先へは連れて行けない」
「だいじょうぶだって。あたしならなんとでもなるから」
「ならねんだっつーのに」陽介がちょっと焦れて苛立たしげな声を上げた。「お前がいると足手まといなんだ。さっき言ったシャドウってやつがこの先にいる。俺らはなんとかできるけど」
「あたしじゃできないっての?」
 悠と陽介は異口同音に「できない」と断じた。これで承伏しないのなら仕方ない、ペルソナを見せつけるまでである。
「……じゃあさ、ふたりとも、この手ふりほどいてみてよ」千枝は不敵に笑って、両手に掴んだふたりの腕を上げてみせた。「それできたらあそこまで戻るから」
「だからそれとこれと――」
「陽介、いい、やろう」悠は陽介を遮ってそう言った。「里中、どっちか片方でもそれができたら、諦める?」
 千枝はべつだん気負ったふうもなく「うん」と頷いた。
(大した自信だ! たぶんなにか格闘技でもやってるんだろうけど……)
 これは明らかに千枝の過信である。なんといっても悠や陽介とは体格の差がありすぎるし、ましてふたりがかりである、技がどうこうの問題ではない。彼女の細腕ではせいぜい、どちらか片方の腕にすがりついて振り回されるくらいが相場であろう。
「いつでもいいよ」と、千枝は自信たっぷりである。
「じゃ、一、二の、三――!」
 三、の合図で、悠の背筋に冷たいものが奔った。たちまち悲鳴のひとつも上げながら振り回されるはずの千枝の身体は、しかし微動だにしない。しないはずだ、渾身の力でもって腕を振り上げたのにも拘らず、
(外れない……どころじゃない、なんだこの力は!)
 千枝はことさら力を入れているようには見えない。自然体である。それでいて彼女の手はさながらコンクリート壁にボルト留めした手枷のようだった。いや、手だけではない。身体そのものが根の生えたよう、というより、地面に溶接されたみたいにまったく動かないのだ。どんな修練の結果が鋼鉄の筋力と関節とを彼女にもたらしたにせよ、体重そのものは大きく変えようなどない。仮に彼女のほっそりした身体がすべて鉄だとしても、男子高校生ふたりの力を結集すれば引き倒すことくらいできるはずなのに。
「マジかよぜんぜん歯が立たねーぞ! これ合気道かなにか?」陽介は縛められたサルみたいに、腕を押さえて跳んだり跳ねたりしている。
「合気道で体重が増えてたまるか! くっそ……!」
「ほうらほうら、おふたりあさん、そんなもんですかあ?」千枝はまったく余裕しゃくしゃくである。「あ、これあと一分以内に解けなかったさ、ウナギなしにしよう。そうしよう」
「ざっけんな! ぬおお……!」
「はーい十秒経過ー、ほらふたりとももう諦めなって。あ、五分経ったらあたしウナギ奢ってもらおっかなー」
「そんなバカな、ありえない……!」
「ほらほらもういいでしょ、力の差ってやつを――」
「鳴上くん、花村!」
 悠はぎょっとして声のしたほうを向いた。向いてもう一度「そんなバカな」と呟いた。先ほどまで三人のいた玄関に、クマを従えた千枝が立っていたのである。






「センセイ! ヨースケ! そっちの――!」
「クマ! そいつから離れろ!」と、クマを遮って陽介が怒鳴った。「くっそ、もうシャドウが……え、あれ」
「陽介、里中、眼鏡……」
 うまく言葉が出てこない。もっともこんな助詞を欠いた外国人みたいな科白を待つまでもなく、陽介はもう違和感に気付いているようである。
(バカめ、どうして気がつかなかった)悠は空いているほうの手で自らの腿を打った。(そうだ、ひとめ見てわかったはずだ、この里中は眼鏡を着けてないんだ!)
「じゃあ、こっちの里中って……」
 陽介はいま自分の腕を掴んでいる千枝と、玄関に現れた千枝とを交互に見やって呟いた。両者に違いらしい違いはない、容貌、服装、身体的特徴、すべて寸分たがわず同じである――今ほど登場したほうの着けた眼鏡と、その手に握った大振りのナイフを除けば。
「ヨースケ、そっちがシャドウクマ!」
 クマが叫ぶ。もちろんそのはずだ。なんといってもクマはシャドウと人間の気配を区別できるのだから、もしどちらかがシャドウであるとすれば、万が一にも向こうがそうであるということはない。であれば、
「……シャドウなのか」
 と、悠は自分の右手を掴む「千枝」に訊いた。
 いまさらこんなふうに問うのもバカらしい限りだが、彼は訊かずにはいられない。「人間から出てくるシャドウ」が実際には、その人間本人となんら変わらない中身を持っているということを、陽介の例から彼は識ってはいた。いたはずだったが、先にあれほど打ち解けてじゃれ合っていた彼女が実はそうであると判明してみれば、こんな通り一遍の予備知識などいささかもショックの備えになってはくれない。
 狼狽する悠と陽介を一顧だにせず、千枝のシャドウは静かに「シャドウってなに?」と返すだけである。彼女は最前から玄関の千枝をじっと見下ろしている。
「なんであたしが」無論、千枝の狼狽たるや悠や陽介の比ではない。「なんなのコレ、ワケわかんない――クマくん!」
 クマはナイフの刃を向けられてキャーと諸手を挙げた。
「あ、アレはチエチャンのシャドウクマよ」
「シャドウってなに? はあ? え、ちょっとだれか説明……鳴上くん! 花村!」千枝がヒステリックに叫ぶ。「なにしてんのこっち来てよ! それあたしだって思ってるとか言わないよね!」
「クマくーん」悠と陽介が口を開くまえに、千枝のシャドウがクマを呼んだ。「こっち来て、雪子のとこ案内できるんでしょ? はやく行こ」
 クマは返答に困って「センセイ、どーしたらいいクマァー」と情けない声を出した。クマが言わなかったら悠が訊いていたところだ。
「ちょ……なに言ってんのあんた! あんた雪子になんの用よ! つかなんであたしとおんなじカッコしてんのよ!」
「ふたりとも、ほら、時間ないよ、ちゃっちゃと行こ」
 千枝のシャドウはまるで聞こえていないかのように、平然と千枝を無視した。そうしてフロント横の客間へと続く、薄暗い廊下に男子ふたりを引き摺っていく。悠と陽介がどれだけ抵抗しても無駄である。
「里中、里中! ちょっと待ってくれ!」
「痛て……おい里中、いいからちっと手ェ放せって! どこも行かんから!」
「まてコラァ!」
 黙殺された千枝が憤激して、ナイフを振りかざしながら追い縋ってきた。
「ムシすんな偽物! ふたりを放せ!」
「あー、あのさ」
 と、首だけ振り返ったときにはすでに、千枝のシャドウの目は金色の明るんでいる。
「あんたの相手はさ、あとでするからさ、今はどっかいって」彼女の声はぞっとするほど冷たい。細い眉が不快気に顰められている。「つかなんで戻ってきてんの? いいから消えて。ジャマ。ついてくんな」
「里中、わかる、ハラ立つのはわかる! でも今はとりあえず黙ってろ!」と、陽介が千枝を振り返りながら怒鳴った。ふたたび引き摺られながら、「これがシャドウなんだ! 先輩も山野アナもこれにやられたんだ!」
「シャドウって、なに言ってんの花村?」千枝のシャドウはおかしげに鼻を鳴らすだけだ。「あ、鳴上くん、ちょっとそこのドア開けて」
 彼女が顎で示したのは廊下の突き当たりの非常口である。
「わかった。里中、開けたら手を」
「放すから、花村のも」と言って、千枝のシャドウは照れ笑いを浮かべた。「えっ、ひょっとしてキモかった? ごめんごめん」
「……手を握って欲しいって言おうとしたんだよ」
 悠は非常口の鉄扉に手をかけた。
(これ、陽介のヤツとはちょっと違うケースだ)
 言動と態度からもわかる、陽介のときと同じに、このシャドウもまた自分のそこから出てきた「親」への憤懣があるのは間違いない。が、千枝のシャドウは千枝を罵倒するだとか、復讐を企てるだとか以前に、雪子の救出を優先しようとしているのである。であれば、
(説得しだいだ、説得しだいだけど、里中と和解させることは難しくない)
 雪子を助けるというただそれだけのために、ここへ来るまでのあいだ彼女のしでかしてくれた事々、雪子のためなら何でもできるとまで言わせたその献身が、いま千枝を差し置いて雪子を助けに行こうとするシャドウに共感を呼び起こす可能性はじゅうぶんある。「鍵」はすでに握っている。そして千枝の動揺が大きくなる前にシャドウの性質を説明して、なんとかして呑み込ませることができれば、錠前のほうも準備は整う。
 問題はそのあとだ。もし陽介の例に漏れないのなら、おそらく千枝のシャドウは自身の憤懣の大本を――つまるところ、千枝の許せない千枝を――千枝にぶちまけるだろう。はたして彼女が鍵を挿されて胸中を暴かれる痛みに耐えられるか。彼女がどれだけ自制して、これからシャドウの暴露するかもしれないおのれの「負の側面」を受け止められるか。
 鉄扉の先には本来あるはずの非常階段に代わって、タイル張りの床に緋毛氈を延べた、やたらと天井の高い長廊がひらけていた。なんだかヨーロッパの有名な教会建築にでもままありそうな、壁と穹窿天井に漆喰装飾――おそらくこれもそれっぽく似せてあるだけの――を廻らしたやつである。
(ここは明かりがあるな)
 廊内は明るいとは言えないものの、廊に等間隔で配された高窓から黄色い明かりが射し込んでいるおかげで、床のアーガイル模様が判別できる程度には視界が効いた。この高窓もよく見れば偽物で、外の明かりを取り込んでいるのでなく、ELシートのようにそれ自体が光っているのである。
 廊に入ってほどなく、千枝のシャドウは予告通りふたりを解放した。
「クマくん、こっちでいい?」と、千枝のシャドウが後ろのクマに訊いた。「なんかこっちにいそうな感じするんだけど、あってる?」
「そっちでたぶんあってるクマ、けど」
 千枝のシャドウはそれだけ聞くと、「ふたりとも早く行こ」と言ってずんずん歩き始めた。
(そうしたいのはやまやまだけど)
 シャドウが離れたのを機に、千枝とクマがふたりの許へ駆けてくる。ようやく四人揃ったわけだが、
「アレ、なに、ふたりとも! シャドウってなに!」
 千枝といえば掴みかからんばかりの剣幕である。
「悠どうする。俺が話すか? それともお前?」と言って、陽介は含みありげに声を潜めた。「俺が話すほうがいいような気すっけど」
 明らかにジュネスへ入る前の悶着をふまえた口振りである。少しく気に障ったが、先に同じ提案を断って失敗している立場上、
(ここはおとなしく譲ったほうがいいな。こう言うからには説明する自信があるんだろうし、なんといっても当事者同士だ)
 悠は「じゃあ頼む」と陽介に任せて、クマを手招いた。
「クマ、ちょっと」
「あーセンセイ、やっと合流できたクマ、たいへんだったクマよ」
「おつかれさん。途中でシャドウには遭わなかった?」
「ブキもったおっかない女の子なら遭ったクマ、刺されるトコだったクマ……」
 悠はあぶれたもの同士で話すことにした。クマの話によると、千枝は一度城内に入ったものの、悠たちとの合流を考えて外に出ていたとのことである。彼女のシャドウの言った「なんで戻ってきてんの?」はこれを示すのだろう。
「つまり、里中はおれたちが来る前、さっきのロビーにいちど来てたってこと?」
「ロビーってさっきのイスがあった部屋クマ? そーみたいクマ」
「……里中?」
「んなワケないでしょ! アレがあたしだって言うならなんであんな態度――!」
「だからオメーの中にはオメーが考えてるみたいなオメーだけじゃなくて――!」
「イミわかんない! そもそもなんであたしがもうひとり出てくるんだってハナシでしょ!」
「俺に訊くな! こっちが訊きてーよ! シャドウはそーいうもんなんだってハナシだろ!」
(ダメだこりゃ)
 陽介の「説明」とやらはほどなく口論へと移行していた。もっともこれは彼にというより、あたまに血が昇って聞く耳を持たなくなった千枝側に問題があるのだろう。クマと話しているあいだ漏れ聞こえてきたのはたいてい、千枝の「はあ?」とか「なんで?」とか「なに言ってんのアンタ?」とかいう、攻撃的でとげとげしい罵声に近い受け答えであった。
「里中」
「なにっ!」
 声をかけるなり開口一番に怒鳴られて、悠は気圧されてちょっと黙ってしまった。
 振り向いた彼女の面は真っ赤に上気している。潤んだ目がギラギラ輝いている。明らかに尋常の様子ではない。陽介が彼女に応酬して怒鳴りつけていたのはあるいは、不当な態度に憤ったのではなく、こんな異様な剣幕に恐怖した反動なのではと思われるほどだ。
(狂気じみてる。いったいなにに怒ってるんだ?)
 目の前に突然ドッペルゲンガーが現れればそれは驚きもしようし、そいつに不敵な言葉を投げかけられたなら、あるいは怒りもするかもしれない。が、いくらなんでもこの反応は異常に過ぎる。千枝からこれだけの反応を引き出すどのようなことを、彼女のシャドウがしたというのだろう。実にかのシャドウは冷たく「いいから消えて。ジャマ。ついてくんな」と言い放ったに過ぎないのに。
 悠は言葉を続けるのを止めて、まず彼女の面を無遠慮に見つめた。
「……なに! ちょっと!」
(怒ってるだけじゃないな。いや、怒ってるっていうより)
 これが千枝の精神的な病というのでなければ、彼女はなにかに必死になっているように見える。子供が自らの悪事の露見しそうになるや、訊かれもしないうちに浮き足だってアリバイをわめき立てるような、にわかな必死さ。彼女の肩を怒らせるその向こうに、悠たちが追いつくのを待っているのか、千枝のシャドウが腰に手を当ててこちらを見つめているのが見える。
(……さっきシャドウの言った、なんで戻ってきたって、まさか)悠は唇を噛んだ。(ひょっとしてもう接触してるのか? おれたちより前に、すでに)
「ごめん、なんでもない」と、いい加減に千枝を去なして、悠は傍らのクマに声をかけた。「クマ、さっき言ってた話」
「クマ?」
「里中に刺されそうになったって言ってたけど」ちらと千枝を見て、「その時からもう落ち着きがなかった?」
「そうクマねえ……」クマは千枝の反応が気になる様子だ。「うーん、ちょっとおっかなかったクマよ、なんかツンツンしてて」
 案の定、千枝はクマに食ってかかり始めた。
(じゃあ、やっぱり)
 千枝は自らのシャドウからすでに「先制攻撃」を受けている可能性が高い、ということだ。
 今日はどうしてこれほどまでにうまくいかない? どうしてこうも躓くんだ――思わず舌打ちが漏れる。千枝の錠前はもう泥に漬けられてしまった、鍵穴に泥を詰められてしまった。先に悠の思いえがいた都合のいいシナリオは早くも画餅に帰した。
 いま鍵を挿してどれほど回したところで、錠前の機構が傷つくばかりだ。彼女はもう半ば心を鎖してしまっている。陽介が今ほど試みてすげなく突っぱねられたように、いまさら「もうひとりの自分」の説明など受け付けまい。陽介がそうであったように、彼女はそれを認めることが大前提であるところのものを、躍起になって隠すことだろう。けだし彼女の必死さはかのシャドウに言われたであろうことを認める恐怖、そしていま自分とおなじ姿で現れた「彼女」が、自分のクラスメイトにそれを素っ破抜きはしないか、そして彼らがそれを信じはしないかという恐怖の裏返しなのだろうから。
 これで陽介のときと同じ悪条件、憤激混乱する千枝と、たぶん彼女と同じくらい激しい反応――加えておそらくは害意と暴力をも――を示すであろうシャドウとを説諭しなければならなくなった。まして陽介のシャドウが示してくれたような厚情を期待することはできない状態で、である。
「おい悠、シャドウが」と陽介が言って、考え込む悠の肩を指で突いた。「こっち来いって、手招いてっけど」
 見ると陽介の言うとおり、千枝のシャドウはこちらを呼ぶようにして、手を降ったり跳び上がったりしている。屈託なげに微笑むさまは本体の錯乱ぶりといっそ対照的である。
(まてよ、そうだ、まだ試すことが残ってる)
 突然、悠の脳裡にある考えが閃いた。もし千枝と、彼女から出てきたシャドウが本質的に同じであるなら、彼女にしようとしたことをシャドウに試みても同じ結果が得られるはずではないか?
(試す価値はある。まだやれることはある、腐るな、挽回だ! できるはずだ、おれはひとりのときだってできたんだ。今度はふたり、条件は格段にいいはずだ)
「……陽介、里中を抑えてて」
「ちょ、おい!」
「ぜったい里中をこっちに来させるな。あともし可能ならシャドウのこと、説明しておいて」
 それとタロットの準備も、と捨て科白して、悠は招かれるまま千枝のシャドウに近づいた。背後で千枝の「ちょっと、鳴上くんどこ行くの!」などとわめき散らすのが聞こえる。得体の知れない力を持つシャドウならいざ知らず、生身の女子高生ひとりくらいなら陽介単独でもじゅうぶん抑え込めるだろう。ふたたび彼女がゴールドオーブの破壊を企てなければ、だが。
「遅いよ、花村は?」千枝のシャドウは世間話でもしているふうである。
「まあ、ごらんの通り」悠は背後を示して見せた。「ところで里中」
「なに?」
「里中はその、里中に――いや、まず、ちょっと頼みがあるんだけど」
「お金ならないっすよ」千枝のシャドウは笑って言った。
「里中に金のことなんか言わないよ。鰻屋までは」悠も笑い返して、「そうじゃなくて、あのさ、里中のこと、千枝って呼んでいいかな」
 千枝のシャドウは「えへっ」と笑って盛大に照れ始めた。
「えー、なんというか、こう面と向かって言われるとハズいですなー……なんかハズいって言うのじたいハズいし。つか、えっと、なんでまた?」
 意外にも好感触である。悠はがぜん勢いづいた。
「どうしても。ダメ?」
「いや、いーけどさァ……や、いいよ、べつに、呼ぶがいいよ、どんと来いオラ」
「じゃあ、千枝」
「オス……ぐあ、めっさハズい……!」
「慣れて。それで、千枝は里中にはいつ会った?」
 赤くなってニヤニヤしていた千枝のシャドウが、急に顔色を変えた。
「里中って、アレのこと言ってんでしょ?」悠の肩の向こうをちらと見ながら、「あそこでキーキーわめいてるヤツ」
「いま赤くなってニヤニヤしてもいたね」
 千枝のシャドウは不快気に眉を顰めた。が、否定の言葉はない。「俺はお前だ」と言っていたのは陽介のシャドウだったが、彼女にしても同じらしい。シャドウは自分が何者なのかを、少なくとも言葉の上ではちゃんと理解しているのだ。
「それで、千枝はおれたちに会うより前に、里中に会ってた?」
「どういうこと訊いてるのかはわかるよ」と、千枝のシャドウは寂しげに言った。「でもなんかな、あたしも鳴上くんたちと一緒にこの世界に入って来たんだけどね」
「ごめん、わかってる」
「会ったよ。さっきの旧館のロビーに初めて来たとき、なんかすっごい懐かしくて、雪子のこと考えてるうちに、自分に……自分に話しかけることができた」
 悠の推測は当たっていたようだ。そこで千枝は恐らく陽介のときと同じに、なにか秘めておきたかった内心をシャドウに暴露されたのだろう。
「声きいただけであいつ逃げたけど」
「そう。それで、千枝はどうして自分がこんな……誤解を恐れずに言えば、里中と千枝とに別れてしまったか、理解してる?」
「わかんない。別れたってカンジとも違うけど……シャドウってやつのせい? ひょっとして」
「そう」
「……さっき花村が言ってたけど、そのシャドウって、あたし? ひょっとして」
 憫れみを催したものの、悠はきっぱりと首肯した。
「そっか」思いがけなくも、千枝のシャドウはあっさりと聞き分けた。「あたしは影か、そっかそっか」
 まったく感謝すべきは千枝の性のよさである。千枝本人こそ理性を失ってヒステリックになってしまってはいるが、ふだんの冷静な千枝に相当するであろうこの「もうひとりの千枝」の素直さ好ましさといったら! こっちが本体で向こうがシャドウならどんなによかったことか――こんな益体もないことを考えているうち、悠はふとある可能性に思い当たった。
 本質は同じ、というだけではない、そもそも両者には本体やシャドウという区別自体、存在しないのではないか?
「いや、影じゃないのかもしれない」
「そなの?」
「そうかもしれない……もし千枝がシャドウなら、里中もまたシャドウだ。ふたりが同じ里中千枝ならそういうことになる」
 確かにシャドウは本体にはない力を持っている。あの化物のシャドウを呼び寄せたりもする。そういった面からは弁別されるべきである。しかしだから「影」で、人間ではないということになるのだろうか? そもそもシャドウという名前がいけない。どうしてもネガティブな印象が際立つし、これではどこまでも本体に従属するおまけのように聞こえる。たしか最初にこう呼んだのはクマであったろうか。
(どういうつもりでシャドウなんて名付けたんだろう。そもそもなんで英語?)
「鳴上くーん……?」
「ごめん、ちょっと考えてて……とにかく」悠はひとつ咳払いした。「千枝は里中千枝の影じゃない。シャドウっていうのは便宜上の、ただの用語。気にしないで」
「そうなんだ……つか、影っていったらさ」ふたたび悠の肩の向こうを見ながら、「むしろ向こうのほうが影っぽいよ。見てよあのウザさ、花村マジでかわいそすぎる」
「里中はそう考えるだろうね、きっと」
 ちらと背後を覗うと、果たして陽介と千枝はクマを巻き込んでのつかみ合いになっていた。手足が出るくらいならまだしも、彼女が右手に持っているものを活用しようなどと考え出さないよう祈るばかりだ。
「それが自然だと思う。自分がもうひとり現れるなんてあり得ないことだ、どんなに似てたって、ふつうはそれがもうひとりの自分だなんて考えない。姿形を似せた偽物だって考えるのは普通のことだ」
「そうかな」千枝のシャドウの言葉には否定的な色が滲んでいる。
「でも千枝は違う、だろ? 千枝は里中が、そりゃあどうしようもなくムカついて、ウソつきで、最低なヤツだって思ってはいても、自分と同じだってこと、わかってるはずだ」
「……なんで、ハズ、なの? 鳴上くんになにがわかんの?」千枝の目に金色の光が兆す。
(なにか失言があったか? 慌てるな、挽回)
「陽介がそうだった。陽介も同じだったんだ。このあいだあいつが千枝に縄を押し付けて、おれに体当たりしてテレビに入ったとき」
「ホントに?」
「ホント。陽介のシャ……もうひとりの陽介が出てきて、陽介のことをメチャクチャに罵った。お前はどうしようもないクズで、綺麗ごとばっかり言ってるけど、本当は汚らしいことばかり考えてるって」
 千枝のシャドウは不快気に押し黙っている。悠はこれを図星をつかれた決まりの悪さと解釈した。
「千枝もそう思ってるだろ。違う?」
「別にんなこと考えてないけど。なんでそうなんの?」
「そう? ならいいんだけど」
 ウソだ――悠は心中でほくそ笑んだ。それでいい、開き直られでもしたらかえってやりづらくなる。見栄だろうと虚勢だろうと重要なのは「わたしは彼とは違う」という姿勢である。
「でも陽介の場合は違ったんだ。もうひとりの陽介は確かに本当のことは言ってた。でもひどく一面的で、そいつの言うことを全面的に信じれば、花村陽介はいいところなんかひとつもないひとでなしになってしまうほどだった。陽介のほうでも腹を立てて、おれはそんなんじゃない、ウソをつくな、おまえは偽物だって、頑なになった」
「…………」
「本当に大変だったんだ、なんせお互いがお互いの言うことなんかぜんっぜん聞きゃしないんだから。あいつって分からず屋なところ、あるだろ? おれより付き合い長い千枝ならいくらでも思いつくと思うけど」
「んん、まあねえ」
 千枝のシャドウの面にかすかな笑みが浮かんだ。もちろん、陽介は決して分からず屋なわけでは――もし彼にそんなことを言ったら、鏡に向かって言えと笑われるだろう――ない。二、三日してふたたび訊けば、彼女とてもっと答えに慎重になることだろう。が、こんなふうに前置きすればよほど実態とかけ離れていない限り、実際にはそうでなくともそうと錯覚するものである。それは彼女をして「陽介はそんな体たらくだが、同じケースに遭遇したとき、わたしはもちろん彼よりうまく立ち回るだろう」という、自尊心をくすぐる想念であるから。
「聞く耳を持たないヤツがふたりだ、分かり合えるはずなんかない。あのふたりのあたまの中にいる花村陽介って言ったら両極端で、おまえは悪魔だ、いいやおれは天使だって、終始こんな感じなんだ」
「あー、なんか思い当たるフシが……」
 さだめし今ごろ彼女のあたまの中では、著しい例外の一般化が行われているのだろう。陽介には気の毒な話だが、いましばらくは彼女の中で彼女に都合のよいまぬけを演じてもらうことにする。陽介の例をわかりやすく「悪しき前例」として戯画化・寓話化すれば、彼女はおなじ轍を踏むまいとその事例を意識するはず。
「それで、ここからが重要なんだ、よく聞いてほしい――千枝はたぶんシャドウを、化物を呼ぶことができる」
 千枝のシャドウが眉を顰めた。
「正確には、勝手に集まってくるんだ、化物が」おまえも化物になるのだ、とは言わないほうがいいだろう。「千枝が里中に怒ると」
「……なんで? 化物?」
「陽介のときがそうだった。陽介のときも、小西先輩のときも、山野アナのときも――覚えてる? あのアパート、メゾン・ド・ラ・ネージュ」
「最初この世界に入ってきたとき行った、あそこ?」
「んん。あの部屋のベッドにあったひどい臭いのするシミ。クマに聞いたんだけど、あれは人間が化物に襲われた跡なんだ。あのときはなんとなく言っただけだったけど、あれは本当に死体の跡だったんだ、山野アナの」
 彼女は口を半開きにして悠の言葉を待っている。
「小西先輩の『跡』も、おれたちは見つけた。遺品があったし、状況から考えてほぼ間違いないと思う」
「遺品って……教室で言ってた話?」
「そう。あのとき陽介が仄めかしたかもしれないけど、実際はもっといろんなことがあった。さっき言った化物にも襲われた、陽介はもうひとりの自分を怒らせたから」
 千枝のシャドウの面が色濃い憐憫に翳った。彼女はしばらく黙って悠を見つめたあと、「マジで大変だったんじゃん」と呟いた。
「なんで言ってくんなかったの? あたし思いっきり蹴っちゃったじゃん、何回も。サイテーとか言っちゃったじゃん」
「どうしてかわからない? あのときも、きのうジュネス行ったときも、今日だっておれたちは千枝に入ってきて欲しくなかった。こうなるかもしれないって思ってたから」
「こう……って?」
 悠は黙って千枝と千枝のシャドウを指さした。
「千枝と、里中に別れて、自分同士でいがみ合う事態に。口論で済めばまだいい、けど山野アナや小西先輩や、陽介の例が示すのは仲違いなんかじゃない、自分の殺害なんだ。千枝は里中と話し続ければ、必ず里中を殺してしまう」
「…………」
「自覚があるかもしれないし、今のところはそこまで憎いわけじゃないかもしれない。ひょっとしたら危ういところで、千枝になんとかそれを踏み止まることができるかもしれない。けどシャドウが集まってくればもう終わりだ、シャドウたちはそんなことお構いなしだ。必ず里中は死んで、おれたちの元いた世界の電柱かなにかに、変わり果てた姿で吊されることになる。その両隣をおれと陽介が飾るかもしれない。でもそれを防ぐ方法はある――千枝と里中がお互いを認め合って、和解することだ」
 千枝のシャドウが唇を噛んだ。その「和解」の困難さがわかっているのだろう。
「千枝、里中を見ててどんな気分になる?」
「どんなって言われても……」
「あたまに来る? ぶん殴ってやりたい? いや、もっと根深い感情のはずだ。陽介から出てきたもうひとりの陽介はこんなことを言ってた、おまえはおれに汚いものばかり押し付け続けてきたって。この言い分には一理があると思う。陽介は自分の汚さを認めなかったし、そうであることをいままで考えたことはあったかもしれないけど、少なくともふだん意識に上すことはなかったんだと思う。そりゃふつうは忘れる。そんなことをいつまでも覚えているのは骨だから、無意識に忘れてしまうもんだ。だから陽介の汚さに苦しむのは、それをずっと覚えているもうひとりの陽介だけってことになる」
 ひとがふと折に触れて過去の失敗や罪を思い出すのは、あるいはこのもうひとりの自分――シャドウが自らに語りかけるからなのかもしれない。もっとも悠の場合、自分がなにをしていたのかさえ知らなかったのだが。
「いままでわたしが努力して積んできたレンガを、掠めたり壊したりしかしてこなかったヤツが、わたしを差し置いてこれを築いたんだってふんぞり返ってる。どうしようもなく腹が立つ。不当だ、犯罪だ、おまえこそわたしを騙る偽物だ、わたしこそがわたしなのだ――里中を見てて感じるのって、こんなふうじゃないかな」
 千枝のシャドウは俯いて黙り込んでしまった。
「……わかり難かった? 見当違いだったかな」
「ううん、言いたいことはわかった。えっと、そんなカンジなんだと思う、たぶん」と言って、千枝のシャドウは面を上げた。「ちなみにさ……鳴上くんはどーだったの?」
「え?」
「あたしっつか、シャドウっつか、もうひとりの自分? みたいなの、遭わなかったの?」
「おれは遭わ――いや」今度は悠が俯く番である。「遭った、遭ったよ。たしかに遭った」
 たしかに悠は自分のシャドウに遭っていた、それはまさしく悠の中にいたのだった。彼は口をきわめて悠を罵った。今までの生き方を蔑み、無知のはなはだしきを呪い、悠が後生大事に首にかけて得意になっていたものをこう評した。いわく「偏見」と「軽蔑」であると。
「ホントに?」
「ホントに。遭いたくなかった、遭うだけであれほど苦しいものなんて他にない、里中と千枝を見ていて改めて思う。里中は千枝になにを言われたって辛いだろうし、千枝は里中の顔を見るだけでムカつくだろ」
「…………」
「それでも遭わなきゃいけない、こうしてお互いが目の前に現れたからには。背中合せだった今までとは違う。会って、話し合って、理解し合わなきゃ」悠はため息をついた。「……ほんとうは、里中に言わなきゃいけないことなんだろうって思う。陽介ともうひとりの陽介の話だけど、ふたりにはふたりそれぞれの思い違いがあった。さっきの喩え話じゃないけど、陽介っていう建物は、ふたりで壊しながら組み立ててきたもののはずだ。でも陽介たちはその功罪を峻別して、手元に置くにせよ相手に押し付けるにせよ、功と罪とを一緒にしはしなかった。悪いのはほとんどぜんぶ相手のほうで、自分に非はないみたいな考え方をしていた。たぶん里中と千枝にも多かれ少なかれ、そういう傾向があるんだと思う。それは双方ともに改めなきゃいけないことだ。でも最初に行動を起こさなきゃいけないのは、やっぱり里中のほうだ」
「んん」
「だから、頼むしかない、どうか千枝のほうから歩み寄って欲しいって。里中はもう理性を失ってる、あっちを説得して、千枝と話せるだけの忍耐と理解を用意するのにはかなりの時間がかかる。でもおれたちにはその時間がない」
「雪子」
「そう。クマが言うには、人間からシャドウが、もうひとりの自分が出てくるのは、この世界から霧が晴れたときだって話なんだけど、必ずしもそうじゃないらしい。千枝がこうなってるみたいに、天城も同じようになっているかもしれない。あるいはこの城にいるらしいシャドウに、今ごろは追いかけ回されているかもしれない。千枝、もしどうしても里中に我慢ならないなら、それなら天城のために堪えて欲しい」
「雪子のために」
「天城のために。千枝がさっき言ってただろ、雪子のためならなんだってできるって」
 千枝のシャドウがくすっと笑って、「そんで鳴上くんにオマエなんかできないって怒鳴られたんですけど」と言った。
「……ごめん、おれアホだから、あんまり気にしないで」
「ジュネスの外でだってさー、オマエは雪子じゃなくて雪子が大事な自分が大事なのかーとかってさー、フンマツテントーとかってさー」
 冷や汗が出た。よく覚えてないなどと言っていたのはウソだったようだ。
「ホントにごめん。すいません。許してください」
「よしよし……拙者とてオニではない、条件しだいではゆるしてやらんこともないぞよ」
「なんでもしますから、先輩」悠は半ば笑って言った。
「えーと、じゃあウナギなしとかァ……いいすか?」千枝のシャドウは急に弱気になった。「あのですね……おカネなくてですね」
「ぜんぜん! むしろおれが奢る」
「マジですか! あーよかった、やーホントはお詫びしなきゃなんだけど、今月キッツくてさー……その、蹴っちゃったお詫びはいずれまたってコトで」
 いったい陽介といい彼女といい、シャドウには今月の窮状を訴える性質でもあるのだろうか。
「もちろんそれでいい。それプラス、もし里中と冷静に話し合いができたら」
「へ?」
「こっちから頼むんだから、とうぜん報酬がなきゃ。里中とちゃんと話し合うことができたら、そうだな、金額無制限の奢りとかどう? 十回分」
 それまで笑顔だった千枝のシャドウが、みるみるうちに潮垂れてしまった。
「あたし自信ないよ……やるだけやってみるけど」
「十二回」
「向こうの出方しだいってトコもあるし、あたしだけの問題じゃあ」
「十五回」
「……もうひと声」
「十……八、いや、二十!」
「そうまで言われて断っちゃあ、女がすたる」千枝のシャドウは半ば笑いつつしぶい声を出した。「里中千枝、やらさしていただきやす」
「ただし個々の上限は二千円まで」
「あっ、ずるい! 卑怯!」
 千枝のシャドウがつかみ掛かってきた。本人はじゃれているつもりかもしれないが、悠にとってはヒグマとはいわないまでもツキノワグマに弄ばれるくらいの事件である。
「手加減! 千枝手加減! 腕が折れる!」
「あ、ごめんごめん」
「悠!」
 にわかに背後で陽介の叫ぶのが聞こえる。どうやらこの騒動を悠への攻撃と考えたようで、彼はタロット片手に血相を変えて駆けてきた。
 もちろん、後ろに千枝とクマとを従えて、である。





[35651] シャドウ里中だから、シャドナカ?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:7f716c06
Date: 2013/07/24 00:02


(来たか。正念場だ)
 時間が経って少し落ち着いたのか、それとも陽介の説得が功を奏したのか、千枝は先ほどよりは冷静を取り戻したように見える。悠はポケットに手を突っ込んで、片手でシガレットケースを開いた。これを咥えずに彼女たちを和解させることができればいいのだが……
「シャドウてめ――!」
「陽介まった! 大丈夫だ!」悠は諸手を上げて無事をアピールした。「なにもされてない。ちょっとふざけてただけだから」
「つったってお前ウデ折れるとか」
 陽介は胡乱な目つきで千枝のシャドウを眺めている。彼もまた人とシャドウの性質――両者にはほんの些細な違いしかなく、ましてそれは本質に関わるものではない――を理解しているはずだし、つい先ほどは彼女と戯れさえしていたのだが、彼の視線は千枝に向けるものと同じにはとうてい見えない。今ほど親友の腕をへし折ろうとしていたことに対する激昂を差し引いても、彼の見ているのはやはり千枝ではなくシャドウなのだろう。
(仕方がない、陽介は少なくとも、自分のシャドウに命を狙われた。千枝もまたそうするだろうって思ってる)悠は首を振って否んだ。(でもそうはならない。させない、おまえとおれでだ)
 陽介の右手には千枝から取り返したらしい、例のナイフが握られている。
「取り返したな」
「え? ああ、まあ」
「里中にはもう?」
「説明か? いちおうしたけど」ちらと背後を振り向いて、「……理解してっか微妙だけど」
「いいよ、じゃあ、本番いこう。ちょうどよかった、こっちも準備はできてる」
「本番……って? なんの?」
「これからすぐ説明する――ほら、主役の登場だ、付き添いは退いた退いた」
「主役って……」
 陽介は首を傾げつつ、それでも言われたとおり背後の千枝に場所を譲った。彼女の表情は硬くけわしい。ましてシャドウの前に立ったことでその険はいよいよきつくなるのである。
「あんた――」
「里中ストップ」悠は手のひらを突きだして千枝を遮った。「最初に話しても?」
 千枝はムッとしたものの「どうぞ」と大人しく譲った。
「ありがとう。さて――陽介、里中のセコンドについて」
「セコンドォ……?」
「とりあえず横に立ってて、クマはこっちに来て」
 悠以外の四者それぞれ、これからなにが起きるのかと困惑気に彼を見つめている。
「よし、じゃあ、里中、千枝」
 千枝が不審気に「千枝?」と呟いた。
「だれ、チエって」
「おれの隣にいるひと」千枝のシャドウを示して、「千枝っていう」
「ちょっと、ふざけないでよ」千枝が険悪な声を出した。
「じゃあ、里中のほうを千枝って呼ぼうか」
「勝手に名前で呼ばないで欲しいんだけど」
「うれしいくせに」千枝のシャドウが嘲るように言った。
「ああっ? あんた――!」
「ストップ! 両者とも静かに!」悠はレフェリーよろしく両者のあいだに割って入った。「……千枝、挑発しない」
「ごめんごめん」
 と言って、千枝のシャドウはおもねるようにはにかんだ。 
「まず、ふたりの了解が欲しいんだけど」
「あたしは鳴上くんの言うとおりにするよ、なんでもね」
 先んじて千枝のシャドウが宣言した。これは悠への賛意というより千枝へ向けたもので、「でもあんたは大人しく従ったりしないんだろうけどね」とでも言わんばかりの、針のような挑発まじりの言葉である。
「ありがとう。それで、里中は――」
「いいよ、好きにしたら?」千枝もまた内容を聞かないまま、おそらくはもっぱら対抗心からおざなりに肯んじる。「なに始まるのかわかんないけど」
「ありがとう……じゃあ、ふたりの了解を得られたということで、まず始めに宣言しておく。ふたりだけじゃなくて、陽介もクマもよく聞いて欲しい」と前置いて、悠は大きく息を吸い込んだ。「これより第一回、テレビの中の住人会議を執り行う。議題は里中千枝について」
 陽介と千枝が異口同音に「はあ?」と疑義を表明した。クマは電源が落ちたみたいに無反応である。なにが起きているかわからないのだろう。
「興味深いだろ?――なお、里中と千枝はこの場で話し合った上で、お互いを完全に理解し合わなければならない」
 千枝のシャドウがふたたび唇を噛む。千枝のほうではたちまち頬を紅潮させて、
「ちょっと待ってって、ほっときゃいいじゃんこんなの!」と、千枝のシャドウを指さしてわめいた。「そっちこそついて来んなってハナシだよ。このへんに住んでんでしょ? さっさと帰れよ」
「んだとコラ――!」
「千枝おさえて! ブレイク!」悠はふたたびレフェリーに戻った。
(いちいち反応するな……聞き流すのがそんなに難しいのか?)
 先にあれほど切々と事情を説明して、そのうえ報酬まで約束した手前、もう少し理性的な対応を見せてくれるものと思っていたのだが、どうも千枝のシャドウは彼の話をあまり念頭に置いてくれていない様子である。悠はふいに自身のうちにきな臭い失望の煤煙を嗅ぎつけて、次の瞬間にはあわててそれを振り払った。いくらなんでもこれは結論を急ぎすぎている。
(いや、それだけ自分と向き合うのは難しいってことなんだ、そりゃそうだ、ちょっと言い含めたくらいですぐに認識が改まるはずなんて……)
 今ほどの失望は果たしてシャドウへのものか、それとも自分へのものだったのか――悠はひっそりとため息をついた。
「里中、千枝はどこまでも里中を追うぞ、なんせ目的が一緒だし、里中を憎んでもいる。どういうことを言ってるか、里中はもう千枝から聞いてると思うけど」
 千枝の面に恐怖と焦燥とが過ぎって、すぐにそれはシャドウへの憎悪に塗り変わった。彼女はシャドウが自身の暗部を悠に暴露したとでも思ったのだろう。
「まって、やめてよちょっと……まさかそいつの言うことなんか信じてないよね」
「千枝は信じられないようなことはなにひとつ言わなかったし、千枝が信じて欲しいと思ったことで、おれを欺かなきゃそうできないようなことはなにひとつなかった。千枝は里中と同じで、正直で誠実で信頼できる、ウソをつかない人間だった」
 傍らの千枝のシャドウが小さく「やっぱり十五回でいいよ」と呟いた。
「どうも――里中、千枝はおれに、里中がこんなことを考えてるだとか、こんなヤツだとか、とにかく陰口めいたことはいっさい話さなかった」正確には、あまり話さなかった。「なぜって、それは千枝のことでもあるからだ。里中千枝は自分を貶めてへつらって、他人の同情を買おうとするような人間じゃないし、そんなことを他人に触れまわって空疎な迎合をもらって、それでなにかした気になるような人間でもない。そのくらいは知り合って一週間に満たないおれでもわかる」
 傍らの千枝のシャドウが小さく「上限は千五百円でいいや」と呟いた。持ち上げてみるものである。
「助かる――里中千枝の話を聞くべきなのはおれじゃない、里中と千枝なんだ。だからふたりはお互いの話を聞かなければならない、理解し合わなければならない。もし両者に里中千枝であるという自覚がほんの少しでもあるなら」
「あのさ、ちょっと」と、千枝が割り込んだ。
「なに?」
「……なんでそいつの肩ばっか持つの? あたしのほうが偽物だとかって思ってるの?」
 責めるような、訴えるような口振りで、千枝は心外このうえないといった態度である。今ほど悠の語った「里中千枝」評を、彼女は一方的なシャドウ擁護の弁と聞いたらしい。
「おれは千枝について言及したんじゃないよ、里中千枝について話しただけ。あと里中も千枝も偽物じゃない、ふたりは片割れ同士なんだ」
 千枝は明らかに納得していない様子で、言い返すことこそしなかったものの不満ありげに押し黙った。この様子を見ていたシャドウが小さく、いかにも蔑むように、それも悠に同意を求めるように鼻で嗤うのが聞こえる。
 思わしくない傾向である。これは千枝憎しのジェスチャー以外のなにものでもない。
(よくも悪くも、千枝もやっぱり里中千枝だ)失望に代わって諦念が滲む。(簡単に感情的になる。さっきの根回しがどれほど効いてくれるか……)
 シャドウの忍耐に過度の期待はしないほうがよさそうだ。
「ここに偽物なんかいない、ふたりはふたりとも本物だ。だからしつこく言うけど、両者は完全にお互いを理解し合わなければならない」とひとまず結んで、ひとつ深呼吸したあと、悠はふたたび口を開いた。「これができなかった場合、里中千枝、鳴上悠、花村陽介、クマの四者は死亡する」
 千枝と陽介が不審気に「なに言い出したんだコイツ」とでも言わんばかりの視線を送ってくる。クマは数秒ほど呆けたあと遅ればせながら、口に手をやって自身の驚きを表現した。
「できなかった場合というのはすなわち、話し合いが決裂して、この千枝の許にシャドウの大群が集まってくることを意味する。――里中は陽介から聞いた?」
 千枝はちらと陽介を一瞥したあと、小さく首肯した。
「それは冗談じゃない、ほんとうの話だ。おれたちにそれを止めることはできない。集まって来さえすれば千枝本人でも止められない。つまり、山野アナや小西先輩がそうなってしまったように、おれたちはシャドウに襲われて、たぶんかなり苦しい目に遭って短い人生を終えたあと、新聞に載ったりテレビに出たりしてちょっと有名になる」
「…………」
「加えて天城雪子も死ぬ。天城のほうはおれたちより深刻だ、いまごろもうシャドウに襲われているかもしれない、天城には時間がない。だからこの会議は時間制限付きだ」
「ちょ、お前、死ぬとかなに急に」陽介が割って入って来る。
「ここにシャドウが押し寄せればそうなるだろ」
「ペルソナがあんだろ。俺とお前の」
「おれはペルソナを出さない」
「はあっ?」
 悠はポケットからタロットを取り出して陽介に示したあと、それを足下に放った。
「無意味だからだ。どのみちこれだけ広い場所で四方八方から襲いかかってきたら、ふたりだけじゃ防ぎきれない。恐怖に震える時間を稼ぐのがせいぜいだろう。陽介、おまえもムダな足掻きなんかしないで、タロットを床に置くんだ。神妙にしよう」
「おま――!」
(たのむ陽介、この場は従ってくれ、ポーズでいい!)陽介を睨み付けながらも、心中では拝まんばかりである。(おれが考えなしにこんなこと言い出すだなんておまえは思ってないはずだ!)
 先に彼が千枝にしたらしい「説明」の内容はわからないが、もしペルソナのことを話しているとしたら、彼女はたとえどれほど疑ったにせよ、悠と陽介がシャドウから身を守る術を持っていることを知っている、ということになる。これはうまくない。千枝にも彼女のシャドウにも、自分たちの発言には五人分の命の重みがあるということを自覚してもらわなくてはならない。
 陽介はしばらく承伏しかねるといった様子で黙っていたが、ややあって、
「……死んだら枕元に立つぞ、マジで」
 どうにでもなれとばかりに、手にしていたタロットを投げ捨てた。
「おまえが死ぬときはおれも死んでる。里中も、天城もね。そのときは四人でなかよく諸岡先生のとこでも行こう――さて」
 悠は千枝と、彼女のシャドウを交互に見て、腰からハンディライトを引き抜いた。
「ちょっと余談になるんだけど」と、前置いて、「その昔、古代ギリシャでは会議を執り行う際、発言権を象徴する杖が用意されていたという。司会者がそれを受け渡しして、それを渡されたひとだけが話をすることができた。反対にそれを持っていない他のひとは黙っていなければならなかった。反論や野次で議論が停滞するのを防ぐためのものだったんだけど、これってちょっといい習慣だと思わないか?」
「コダイギリシャってなにクマ?」と、クマが身体を傾いだ。
「古代のギリシャのことだよ――でだ、今回はひとつ古に範を採って、この方法に則した形で進めようと思うんだ。エンシェントグリースルール、カッコいいだろ? ちょっと今ふうにアレンジするけど」
 このふたりをお互い息の続くまま喋らせれば、じき口論を経てシャドウが集まってくる事態となるのは避けられない。彼女たちにちゃんと話し合いをさせるのなら最低限のルールが要る。もっとも、こんな紀元前の流儀が通用するのは参加者がよほど理非をわきまえているか、時間的な制限に縛られていないか、叙事詩の中での場合くらいに限るだろう。古代ギリシャなどという骨董的権威を持ち出したのはひとえに、そうすることで彼女たちがおたがい直接返事をできないようにするという意図よりほかない。
「杖はないから、このライトが代わりだ――里中」
「なに」
「先に千枝から話してもいい? それとも里中から?」
「あたしが先で」
「じゃあ、里中が先行で――これを手に取る前に、しつこいようだけど、理解しておいて欲しい。ふたりが物別れに終わればおれたちは全員死ぬ。長引いても天城が死ぬ」
「…………」
「双方とも、話すときは理性と論理によってのみすること。決して感情的にならないこと。相手が話している最中は真剣に聞くこと。耳を塞いだり挑発したりしないこと。話し終えたら杖はおれに返して。あと特別ルールとして――陽介」
「え、なに、俺?」
「おまえ。陽介は里中が杖を持っているとき、一緒に話すことができる。千枝に杖が回ったときはおれが一緒に話す。つまりこの杖はカップル用ってわけだ」
 陽介はちょっと考えるふうを見せたあと、「わかった」と肯った。この「わかった」が悠の真意を理解したうえでの返事であることを願うばかりだが、おそらく彼は誤るまい。陽介もほんの二、三日前は当事者だったのだから、あのとき悠がやったこと、その発展としていま悠が彼と共同でやろうとしていることを推測するのは難しくないはず。
 千枝の手に「発言権」が渡る。さあ陽介、お手並み拝見だ――と腕を組む間もなく、彼女はライトを受け取ったなり斬り付けるように、
「あんたは偽物」
 とだけ言い放って突き返してきた。ほんの一、二秒のことで、陽介はなんの反応もできないまま呆気に取られていた。
 冷や汗が出る。
(コイツ……おれが今まで長々話したことを聞いてたのか? 言葉の選び方しだいでおれたちは枕を並べて死ぬんだぞ!)
 ちらと怒りが兆すが、もちろん千枝のシャドウのほうはそんなものでは済まない。たちまちその双眸に金色の炎が揺らめき始める。それでもなんとか黙っていてくれたのは持ち前の順法精神からか、悠の懇切な説得のおかげか、あるいはステーキ十五皿の魅力のゆえか――なんにせよ二度目に期待はできまい。
(くそ、里中のヤツ予想以上に頑なだ。ちょっと千枝の肩を持ちすぎたのか?)
 先ほど千枝の見せた、あの裏切りを糾弾するような目つきがにわかに思い出される。少し判断を誤ったのかもしれない、うまくシャドウの歓心を買えたまではよかったものの、それによって千枝が意固地になる可能性にまでは思い及ばなかった。
「もういいの? もうないなら千枝に渡すけど」
「はやくしなよ」
 返事もごく冷たい。そして始末の悪いことに、彼女のシャドウがこの返事を聞いて義憤も露わに「ムカつかない? コイツ」とひそかに耳打ちしてくるのである。
 悠は胸中で呻いた。
 千枝のシャドウはいまや完全に悠を味方と――もちろん、先の説得のおかげによるところが大きいのだろう――認定しているようだ。が、それはどうやら純然たる信頼関係ではない、自らの好悪の情に同調することを当然のように希求する、あの小学生の友情じみた側面をも持つらしい。
(これが里中のウラの面ってわけだ。べつに意外なことじゃない。小学生? 中学でも高校でも大して変わりゃしないだろう、みんなこんなもんさ……)
 などと訳知り立てしてはみるものの、むろん意外であった。悠のあたまの中で理想化の綺羅を着せられた千枝は、たしょう手が早いという短所はあってもさっぱりした気持ちのよい好人物で、こういう陰湿な一面とは無縁に思われていたものだから、その感慨はひとしおである。忘れかけていた「友情の臭み」が思い出されるようだ。
「鳴上くんライト貸して。ちょっとガツンと言ってやるから」
「ごめん、ちょっと待って」
 と、千枝のシャドウに言い置いて、悠は少し離れたところで省電モードに入っていたクマを指で突いた。
「クマ、ちょっといい」
「……へ? クマ、クマ?」話しかけられると思っていなかったらしい、クマはあたふたと再起動を始める。「だ、だいじょうぶクマ、把握してるクマ、えーとえーと、チエチャンがコダイなギリシャで、イニシエのハーンで、ホウオウにソクイして――」
「この近くにシャドウはいる?」千枝が中華皇帝になる前に悠は割り込んだ。「ここに集まってきたりしてる?」
「シャドウクマ? とりあえずこの近くにはいないし、集まって来てもないクマ、けど」
 千枝のシャドウはまだ理性を保っているということだ。少なくとも今はまだ。
「それと、この城にいる人間――おれたち以外の、もともとここにいた人間だけど、そっちはその、どう、かな」
 この「どう」に詳しく言及する勇気がなかなか出ない。が、クマはこともなげに「だいじょうぶクマ、無事クマ」と請け合ってくれた。
「よかった」
「ただ」
「たっ……ただ?」少し目方が減ってるとか?「ただ、なに?」
「うーん……移動してるクマ、移動してるみたいクマ」
「移動」
 出口を探してさまよっているのか、シャドウから逃れるためにそうしているのか、あるいはここで新しく知り合った友達にキッチンへ案内されているところか――なんにせよせめて自らの脚でそうしてくれていることを祈るばかりである。
「ありがとう……なにか動きがあったらすぐ報せて。シャドウと人間と、両方ともだ」
「わかったクマ!」
(タロットは足下にある。すぐ拾える)
 陽介もそれほど遠くに投げたわけではない、もし「その」ときが来ても合図すればすぐペルソナを喚べるだろう。
 悠は剣の刃渡りを覚悟した。
「じゃあ、次は千枝の番だけど――」千枝のシャドウに歩み寄ると、悠はライトを手渡す前に彼女に耳打ちした。「千枝、千枝は陽介とは違う、陽介はもうひとりの陽介の挑発に乗って失敗したけど、千枝はやり遂げられるはずだ」
 シャドウはちらと悠を見て、ウンと小さく頷いた。
「里中の悪口に悪口で応酬しちゃいけない、同じ次元に立っちゃいけない。好機と思うんだ、ここで千枝が冷静を保てば里中を主導できる。相手の無礼に対するもっとも効果的な復讐は礼儀だ、里中はそういう千枝を見て自身の言動を恥じるだろうし、陽介もクマも千枝に対する心証を改めるはず」
「……そうかな」
「がんばろう」
 がんばろう、もし正しく議論を進めるつもりであるなら――千枝のシャドウがライトを受け取った。彼女の言動次第によっては別の頑張りを要求されることになるが。
「まず、あんたはあたしのこと、偽物だって思ってるらしいけど」シャドウが口火を切った。「つか、思おうとしてるみたいだけど」
 千枝は無表情である。
「認めたくないんだよね、さっきあたしが言ったこと」
「もちろん、認めたくないのは里中だけじゃない」と、悠は誰にともなく口を開いた。「おれもそうだ、陽介もそうだった、千枝さえそうだ、どうして里中だけそうでないなんてことがある?」
 千枝のシャドウがちょっと困惑した様子で悠を見た。
「ごめん、割り込んだ? どうぞ続けて」
「いいけど……」彼女は気を取り直して、ふたたび千枝に向かって眦をそびやかした。「もういっかい言ってあげる、今度は逃げないでよね――あんたは雪子を見下してる。蔑んでる。自分を持ち上げるためにあの子を食い物にしてる」
 いったい誰よりも雪子を案ずる千枝に、こんな科白ほど憤ろしく憎たらしく響く言葉もないだろう。かつそれでいてシャドウがこれほどはっきりと断じるからには、おそらく千枝の内心にはこういった感情が渦巻いてもいるのだ。どれほど認めがたいことだろう、たとえ冗談にさえ「まあ、確かにそうかもしれないけど」などと言えるものではない。しかも彼女はそう言わなければならない。
 千枝の面が憤激に歪む。
(耐えろ里中、この一撃だけでいい! 歯を食いしばって堪えろ!)悠はわれ知らず、手のひらが白くなるほど拳を握りしめた。(この一撃だけでいい、そうすればあとはおれが意地でも逸らしてみせる!)
「ざっけんな偽物」千枝が呪わしげに呟いた。
「里中、ルールを守って」悠は胸中であたまを抱えて絶叫した。「反論の機会はこのあとたくさんあるから……」
「あームダムダ、こういうヤツだから」シャドウが嘲り含みに、例によって暗黙の同意を求めてくる。「話すだけムダだったってこと。こんなバカほっといてはやく――」
 悠は無言でシャドウの持っていたライトをふんだくって、怒りに燃える千枝にそれを突きだした。
「はい、つぎは里中の番」
「ちょ――鳴上くん? まだあたし話してるのに」千枝のシャドウは呆気にとられている。
「ペナルティ、挑発と侮辱。強制的に相手の番になるよ」
 静かにそう言ったあと、悠は一変して荒々しく「千枝はさっきおれが言ったことを少しでも聞いてたのか?」と半ば怒鳴りつけるような口調で続けた。
「その前にルールを説明したのを千枝は聞き流してたのか? そのさらに前におれが長々と説明したことは? いったいいつおれが里中にバカって言えって頼んだ、ええっ?」
 シャドウはこのにわかな剣幕にいたく驚いた様子で、あわてて取り繕うように宥めるように「ごめん、でも向こうが先に」と釈明する。
「向こうが先にやればこっちもやっていいのか。千枝は相手をバカにしながらその同じバカに成り下がってるんだぞ。それってもともとバカであるよりよっぽど始末に負えないって思わないか」
 噛み付くようにまくし立てた悠だったが、ここでふたたび声音を変えて、今度は非常にやさしく、
「ごめん、言い過ぎた。でもおれたち全員と天城の命がかかってる、不用意なことは言えないはずだ、そうだろ?」
 と、シャドウにだけ聞こえるように続けた。
 最悪、彼女の怒りを買って言い争いになりかねない際どい物言いだったが、シャドウの面にいまだ反発めいたものの兆す気配はない。予想どおり彼女からの信頼はことのほか篤いようだ。千枝のシャドウはすっかりしょげ返って「んん、ごめん」と殊勝に詫びた。
 こういうところはまったく里中千枝の美点である。一方こうしてきびしく難詰されているシャドウの姿を見て、千枝のほうでは毒気を抜かれたように呆気にとられている。いくらか溜飲も下がったものか、その面に先ほどの憎げな色はない。――せっかく肥らせた信頼をあまりこういうふうに使いたくはなかったが、
(こうなってしまった、仕方ない、剣の刃渡りだ。シャドウの好意を利用するしかない)
 千枝と彼女のシャドウ、どちらの歓心がより重要かといえば、それはもちろんシャドウ側のほうだ。千枝がどれほど精を出して暴れたところでクラスメイトのゴールドオーブがいくつか欠ける程度だが、シャドウのほうはそんなものでは済まない。安全側を採るならシャドウに肩を入れるべきで、たしょう千枝の不興を買ったところで仕方のない話ではある。が、それも話し合いができないくらいに偏ってしまえばそうも言っていられない。
 冷静な話し合いには公平の椅子と中庸の円卓が不可欠である。悠は無条件にシャドウへ味方すると千枝が考えているなら、そうでないことを示さなければ。シャドウから得た信頼を切り売りしてでもシーソーの平衡を保たなければ。
「どうぞ里中――ごめん、うるさくして」
「いや、いいんだけど」
 ライトが千枝の手に渡った。陽介が先ほどからしきりに目配せしてくるのに、悠は微かに頷いて見せた。 
(頼むぞ、おまえもいっときは当事者だった、里中の気持ちはよくわかるはずだ)
 陽介はまかせておけとばかり、脇に垂らしたままの両手の親指を上げた。悠は陽介がちゃんと立ち回ってくれるだろうと踏んでいる。彼は決して舌鋒犀利というわけではないが、千枝を説得するとしたらむしろそのほうがよいくらいかもしれないのだ。 
「あんたなんかあたしじゃない」
 千枝の第一声はこうである。
「あたしはそんなこと思ってない。考えたこともない、あんたになにがわかんの? 雪子は誰よりも大事な友達、小二のころ知り合ってからずっと、親友だった」千枝は両手でライトを握りしめて俯いた。「あの子はあたしの、宝物なの、あたしにないものを、欠けてるたくさんのものを、欲しいって思ってるものぜんぶ、みんな持ってる。フツーそんな子はあたしみたいなヤツの友達になんかならない。でも雪子はずっと付き合ってくれてる……あの子の持ってるものなにもかも、羨ましく思うことはある、けど」
 千枝の面から消え失せていた憎悪が、ふたたび思い出したように滲み出てきた。
「笑っちゃうよね。見下してる? 蔑んでるって? どうすればあたしがそんなことできんの? バッカじゃないの? そういうこと言ってる時点であんたが偽物なことバレバレだっての! あたしは雪子のこと尊敬してる。もしあんたがあたしならわかったんだろうけど、あの子のためなら、死んだっていいって、あたしは思ってる」と言って、千枝は蔑むように続ける。「なんのためにこんなことしてんのかわかんないけど、あんたもやるならやるでさァ、もう少しそれらしく似せるとかしなよ。似てんのカオだけじゃん」
 今度は千枝のシャドウが怒りに震える番だ。彼女の千枝を見る目はまさしく犯罪者を見るそれである。自らが苦心惨憺して築いた「里中千枝」を恥知らずにも剽窃して、その権利を不当に我がものとしているばかりか、真の功労者たる自分を「わたしの偽物」と嘯いてはばからない、憎い詐欺師を見るそれである。
 無力感が募る。
 今にして思えば、千枝のシャドウはただ悠の誠意に打たれただけだったのかもしれない。彼女はやはり悠の説明したことをそれほど理解してくれたわけではないのだ。彼女も陽介の例には漏れなかった。彼女もまた千枝を、言葉のうえではそうせずとも偽物あつかいしている。それもあれほど手を替え品を替えて、事前に警告したにも拘わらず、である。
(いや、ロジックで覆しきれるほど軽い問題じゃないんだ、腐るな! それでもまったく役に立たなかったわけじゃないんだ)と、悠は自らを励ました。(挽回だ、いまは手の内にあるカードを最大限活用することだけ考えよう――それに)
 なんといっても今回はひとりではないのだ。千枝が傲然と話し終えるとすぐ、セコンドの陽介が、
「あー、俺からもいい? 里中」
 締まりのない笑顔を下げて前に出てきた。
「俺も言ってやりたいことあんだけど」
「いいよ――いいんでしょ? 鳴上くん」
(おれはいま喋れないのに……)
 悠は少しためらったものの、仕方なくウンウンと頷いて見せた。
「じゃあ、ちっと言わしてもらうけど――ちなみにその、そっちのシャドウのほうじゃなくて、里中になんだけど」
「は? あたし?」
(よし、ちゃんと伝わってる)悠は安堵の息を吐いた。(そうだ、おれたちの相手は目の前にはいない、横に立ってるんだ)
「や、大したことじゃねーんだけど、その、見下してるとか蔑んでるとかってやつ?」
「んなことしてないっつの。ねえ?」
「そこまでは言わねーけど、でも結構、それっぽい目で見てたりとかしてるぞ、お前。天城のこと」
 千枝はたちまち「はあっ?」と熱り立った。
「あんたテキトーなこと――!」
「まあ待てって! 続きあっから!」陽介はあわてて諸手を上げた。「自分じゃわかんねーんだと思うんだけどさ、周りからは結構フツーに見えるんだ、そういうふうに。洲臣とかも言ってたぜ。里中って天城のこと、ときどきなんか下級生っつか、年下っつか、妹みたいに扱ってるよなー、とかって」
「ハナシにな――!」
「まーまーもうちっとで終わるからさ!」と、ふたたび千枝を遮って、「でもたとえば妹とかってさ、なんかそーいうとこあるじゃん? 見下すっつーか……ムカつくけど、なんだかんだでほっとけないとか、なんか気に入らなくてアラ探しすんだけど、じぶん以外のヤツにそういうことされるとムチャクチャ腹立つとか、こう、離れてるときはいいヤツだよなって思ってても、近くに来て話してたりするとそういうことほとんど忘れてさ、なんかどうでもいい短所ばっかり目についちまうとか」
 喩えにしてはやけに微に入り細を穿つというか、なんとはない実感のこもった言葉である。妹をもつ知り合いにでも聞いたものか、ひょっとすると彼自身、妹を持つのかもしれない。
「あたし妹いないし」
「まあ妹限定ってわけじゃねーけど、親しいヤツってなんか、結構そういうトコねーか? さっきお前、天城は宝物で尊敬してるとか言ったけど、いくらなんでも天城と話してるときとか、一緒に歩いてるときとかまでさ、そういうこと考えてるワケじゃねーだろ? ヤベー宗教の信者と教主サマじゃねーんだし」
 千枝は黙って聞いている。
「……あのさ、ずっと近くにいて、親しくしててさ、長年付き合いのあるヤツらって、んな四六時中相手のこと褒めたり敬ったり愛想よくしたりなんかしないんじゃねーのかな。いいヤツだって思っててもさ」陽介は腰に手を当てて、彼自身もまた感慨深げにそう言った。「むしろそういうことしてるヤツらって、知り合ったばっかりで腹の探り合いしてるとか、なんか理由があってホンネ隠してるみたいなのが大半だったりさ。とにかく、里中と天城みたいにホントに仲良いってのはさ、バカにしながら尊敬するとか、嫌いだけど好きだとか、なんつーか……矛盾? みたいな感情がまぜこぜになってさ、でもぜんぜん悩んだりしないみたいな、そういう関係のことなんじゃねーの?」
 悠の傍らでシャドウが小さく「ちがう」と呟いた。
「里中も天城も完璧人間じゃねーんだからさ、ぜったい短所とかあるだろ――里中は特に」
「うっさい」と、千枝。
「で、そういうのってずっと一緒にいて気がつかないワケねーだろ? それについてコイツはあーだこーだって思ったり、これについてはこっちのほうが上だなとか思ったりするの、悪いことか? 別にフツーのことっつか、むしろしないヤツいるのかってくらいだろ」次いで千枝のシャドウに向かって、「んで、さっきあんた……えーと、シャドウ里中だから、シャドナカ? が、見下すとか蔑むとか言ったけど、べつにそれだけじゃねーだろ? もしそれだけだったらとっくの昔に友達やめてるだろーし」
 千枝のシャドウはルールに則って、話しこそしないものの首を横に振った。陽介の話は納得いかない、ということだろう。
「あー、まあ、そんな単純なハナシじゃねーか――里中、まだ言うことある? ねーなら向こうに渡そうぜ」
「……なんかほとんどあんたが喋ってない?」
 千枝はしばらく不満げにしていたが、結局悠にライトを返した。
(いいパスだ、陽介!)
 なかなかどうして、彼もいっぱしの論客ではないか――悠はなんだか救われたような心持ちになった。同時に、ただひとり必死になって突っ張る必要もないのだと、つい先ほどまで挽回挽回と内心で叫んでいた自分を少しく滑稽に眺めた。
「よし、じゃあ杖も戻ってきたし、今度はこっちの番だ」
 悠からライトを手渡されたあと、シャドウは千枝と陽介とどちらに言い返そうか迷っているようで、しばらく視線を泳がせていた。が、ややあって、
「あたしが言ったのは花村が言ったみたいなことじゃない」
 と陽介に言った。
「さっきソイツは雪子のこと尊敬してるとか言ったけど」そうしてすぐさま千枝に向かって、「そんなのフリだから。そりゃそういうアピールするよね、死んだっていいとか言うだけは言うよね。なんせ雪子がいなくなったら困るのはあんたなんだから」
「千枝は?」
 千枝が怒ってなにかわめき出す前に、悠はそう言って割り込んだ。
「え?」
「千枝は困らない? 困るのは里中だけ?」
「……いや、困るけど。つか鳴上くん、あたし喋ってるんだから」
「ごめん。つい」
「いいけどさ――で、あんたのことだけど」いささか気を削がれた様子で、「もういちど言うけど、あんたは自分を持ち上げるためにあの子を食い物にしてる。どういうことか詳しく話してあげようか?」
 千枝は険しい貌で、それでもなにも言い返さずに沈黙を保った。
「雪子って美人で、色白で、女らしくて、男子なんかいっつもチヤホヤしてる。成績だって学年で五位以内に入るの珍しくないし、ウチは全国的に有名な老舗旅館。そのうえ優しくて、おしとやかで、ひとを疑うことなんか知らない、すごいいい子」
 こんなふうに雪子を誉めあげる間、シャドウの口元は少しく綻びさえしていたのだが、それもじきに憤怒の表情に取って代わった。
「そんな雪子が、ときどき、あんたを卑屈な目で見てくる。あの子が自分の価値なんかちっともわからないで、あんたなんかを頼る。あんたみたいな――あたしみたいな、ブスで、チビで、アタマ悪くて、ウチは平凡でなんの取り柄もなくて虫だらけで、ガサツで陰湿な、こんなあたしみたいなヤツを」
 悠にはまったく、別人について話しているようにしか聞こえない。明らかに度の過ぎた自虐である。ほんとうに自分のことをこんなふうに思っているのだとしたら、彼女こそ「自分の価値なんかちっともわからない」人間であろう。
「なんの価値もない、あたしなんか――あんたなんか。だから、あんたは雪子がそうやって自分を頼ってくる機会を逃さない。そのときだけあんたはあの子の上に立てるんだもんねェ? そのときだけは、あんたはモテて、あたま良くて、家が有名で、性格の良い子以上になれる。なってるって思い込む。雪子はひとりじゃなんにもできないって、思い込む。だからあんたは親身になる、雪子にくっついて離れない。あの子のためだからとか自分に言い聞かせて、自分は雪子の役に立ってるとか言い聞かせて、雪子の手を取るフリをして、アタマに足を乗せる。鳴上くんの言うとおりだよね、あんたは雪子が大事なんじゃない、雪子が大事な自分が大事なんだよ」
 千枝は能面のように無表情である。これは無感動を示すのではないのだろう、おそらくは怒りのあまり口の端を上げることさえできないでいるのだ。
「雪子がいなきゃ、あんたは明日からひとりぼっち。あんたの友達だって、みんな雪子と仲良くしたくて近づいてきたのを、あんたが片っ端から浚ってっただけなんだから。瀬戸目だって、槙原だって、花村だって」シャドウが寂しげに悠を見た。「鳴上くんだって」
 とんでもない誤解である。そもそも悠はほとんど雪子と話したことはない、それこそ例の公園での会話くらいだ。千枝と親しくなったのも陽介とともに、この「テレビの中の世界」を知るに到った経緯からである。
 とっさに否もうと口を開きかけて、しかし悠は果たさずに口を噤んだ。なにを言ったところで聞きはすまい、千枝のシャドウがこんなふうに言うのはおそらく、そうすることによって自らのなかの雪子の価値を高めようとする、先の自虐からも垣間見られた、ある種の崇拝に似た感情のゆえであろうから。
 転校初日に千枝たちと下校した折の会話が思い出される。まさしく雪子は彼女の誇りそのものなのだ。千枝にとっては雪子をあがめ高めることが間接的に、自らを高めることに繋がるのだろう。それは彼女への愛であると同時に、そのいと高き雪子ほどのものをして「千枝ってね、すごく頼りになるの」と言わしめ、礼讃する彼女が「いつも引っ張ってもらってる」千枝の価値を保証するものでもあるのだ。シャドウの「アタマに足を乗せる」発言はかなり乱暴な比喩だが、どうやら意味合いとして間違っているというわけではなさそうである。シャドウが千枝に押し付けている役割を「雪子をあなどるあたし」とするなら、自らに与えているのは「雪子をあがめるあたし」といったところか。
 陽介が先ほどから穴も開けよとばかり睨んでくる。なんか言え、なんとかしろ――彼の念がひしひしと伝わってくる。
 悠は腕時計をちらと盗み見た。
(三時半過ぎ……かなり時間を食ってる)テレビの中に入ってから実に二時間を経ようとしているのだ。(まずいな、ぐずぐずしてられない)
 クマが雪子の無事を保証してくれはしたものの、そういう彼自身、今はあまり鼻が利かないなどと告白しているのだ、それほど当てにはできない。彼が「匂いが四つに分かれて気配が消えたクマ」などと言い出さないうちに、この会議は終わらせなければならない。
「おれが天城越えのガイドを頼むために里中千枝に近づいたかどうかは、またあとで話すとして」と言って、悠は小さく挙手した。「おれからもちょっといい?」
「……向こう? それともあたし?」シャドウが微かに警戒の色を見せる。
「千枝に。訊きたいことがあるんだけど」
「なに」
「食事券十五枚に有効期限つけるの忘れてたんだけど……いつまでにする?」
 陽介と千枝が「なに言い出したんだコイツ」とでも言わんばかりの視線を送ってくる。事情を知っているシャドウでさえ同様である。
「……それ、今する話?」
「今すれば思い出してくれるかなって、思ってさ」
「なにを」
「おれの話」と言って、ひとつため息をついて、悠はふたたび低く詰問するような声を出した。「いま千枝が里中に言ったこと、千枝自身にはまったく当てはまらないのか」
 千枝のシャドウは挑むように「当たり前でしょ」と言い放つ。
「千枝の話を聞いてると、里中はまるで悪魔みたいなヤツだ」
「かもね」
「それで、千枝は天使?」
「……そういうワケじゃ」
「里中の言ってることはみんなデタラメで、里中が怒ってるのは自分の悪行が暴かれてるからで、里中は天城のことを蔑み抜いていて、これっぽっちも好意なんか持ってない? そうして千枝の言うことは全て真実で、あまねく行うことは正義? 天城にはただひたむきな愛だけを感じて、なにひとつ含むところがない? 陽介のいう、ヤベー宗教の信者と教主さまみたいに? 千枝の崇拝するその教主さまが言ったのか? 里中は悪魔で、千枝は天使だって」
 さすがのシャドウの面にもついに反感が漲る。悠は足の裏につめたい刃を感じた。ここが先途である。
「答えて。里中はひとでなしの悪魔で、千枝は親友の安否を憂う天使?」次いで声を潜めて、「千枝、千枝は結局、陽介と同じなのか? おれの話にあれほど快い同意を示してくれた千枝が、今それをすべて忘れ去ったフリをしてる。いったいなにが起こった? おれの用意した報酬がなくたって、千枝は里中の暴言になんか惑わされないはずだ、そうだろう?」
 千枝のシャドウは答えない。ただその面から反感めいたものはすぐさま失せて、代わりになんとなく申し訳なさそうな色が浮かび始める。
(おれの話を思い出したな、やっと)
 シャドウは先の話を理解しはしなかった。が、たとえ理解していなくても思い出して反芻することはできるはずである。悠はここで勝負をつけるつもりだった。これいじょう剣の刃渡りをする時間はない、彼の足裏が裂けるより先に雪子の血が流れることになる。
「どうして里中千枝を取り合うようなことをする。それは千枝と里中のふたりで築いたもののはずだ、ふたりそれぞれに宿る天使と悪魔が壊しながら建てたもののはずだ」
「…………」
「違うかな。おれ、ぜんぜん見当違いなこと言ってるかな」
(開き直るなよ、意地でも虚勢でもなんでもいい、否定しろ!)
「ひとつ訊いていい?」
 ややあってシャドウがぽつんと呟いた。
「なに」
「さっき言ったやつ、鳴上くんは雪子と仲良くなるために、あたしに近づいたとかどうとか」彼女はおずおずと続けた。「違うの?」
「おれ、言わなかったっけ? 天城は検討中だけど、千枝は狙ってるって」悠は苦笑した。「もちろん違う。知ってるはずだ、千枝と陽介との縁はこの世界が取り持ってくれた。天城は関係ない」
 千枝のシャドウの返事はない。彼女はしばらく考え込みながら、自身の中でなにか反芻するように小さく頷いていた。
「千枝?」
「……花村の言ったこと、けっこう合ってるのかもしんないね」
 と言って、シャドウは静かにため息をついた。
「え?」
「認めたくないけど、ムチャクチャ憎たらしいけど、たぶんわかってるんだ、あたし。アイツ、たぶん親しいんだ、すごく」
「アイツって、里中?」
「んん。きっと、いちばん身近にいるヤツなんだ、アレが。だからどうしようもなくムカつく。粗ばっかり探す。なんにも知らないくせに知ったか振りしてるバカにしか見えない。でもどうしようもないよ、カオ合わせればどうしたってそうなるよ。鳴上くんのいうこと、わかるよ。たぶんそうなんだと思うよ、アイツとあたしで、造ってきたんだって」
「そこまで解ってるなら――」
 急に背中を突かれて、悠は言葉後を呑み込んで振り返った。クマである。
「なに、どうした」
「さっき言ってたヒトのことクマ」
 さながら胃に氷が落ちてきたような気分である。悠は胸を押さえて凶報に備えた。
「近くにシャドウが現れたクマ……おなじ匂いの」クマの言葉にも焦慮が滲む。「あとそのヒト、たぶん走ってる。なにかに追われてるみたい」
(最悪だ――時間をかけすぎた! くそっ、あと一歩のところで!)危うく叫び出しそうになる。(ダメだ、これいじょうはもう割けない!)
 タイムオーバーである。
「陽介タロット拾えっ!」怒鳴りながら、悠もまた先に放ったタロットをあたふたと回収する。「会議は終わりだ――里中! 千枝!」
 いきなり怒鳴りつけられて、ふたりはとっさに返事のできないままきょとんとしている。
「もうこれだけだ、これだけしか言わない! 里中千枝は天城の為ならなんでもできるって言った、それはウソか!」
「急にどうしたの?」と、千枝と彼女のシャドウが異口同音に訊いた。
「天城のシャドウが出てきた。ついでに天城はいま追われてる、たぶん別のシャドウに。クマが教えてくれた」
 陽介が「おいヤベーぞ、こんなことしてる場合じゃ!」と慌て始める。
「そうだ、今すぐ助けに行かないと――どうなんだふたりとも! ウソかっ!」
 ふたりはさっとお互いを見合ってから、やはり異口同音に決然と「ウソじゃない」と言った。
「なら頼む! どうしてもお互いを許せないなら、天城の為に! 天城の為にお互いを認めてくれ、お互いのイヤな部分に目を瞑ってくれ! せめてこの争いを保留してくれ! もうこれいじょう話し合ってる時間はない!」
 悠の肺腑の言葉が長廊にこだまする。千枝と彼女のシャドウ、双方とも反応はない。そうと言われたところで「それもそうだね」などと軽々しく片付けられることでもなかろうが、選んでもらわなくてはならない。――彼女らふたりどころかその場にいる五人全員が、今ほどの悠の叫びに縛められたかのように身じろぎもしない。陽介が目だけで「どーすんだ」と訴えかけてくる。
「いい、わかった、じゃあ――」
「鳴上くん」
 卒然と千枝のシャドウが悠を遮った。
「なに」
「一年にして」
「……え?」
「有効期限」シャドウは微かに口の端を上げた。「鳴上くん、一年たったらいなくなるんでしょ? だから一年」
 先ほど話の枕にした食事券のことを言っているのだと見当をつける間に、シャドウは迷いのない足取りで千枝のもとへ歩いて行く。そうして彼女の目の前に立って睨み付ける。千枝もまた無言で応酬する。 
「鳴上くんに頼まれた、だから、あたしから歩み寄ってあげる」ややあって、シャドウが硬い声でそう言った。「あたしはあんたで、あんたは、たぶんあたし。聞き分けて、雪子のために」
 千枝の返事はない。
「ハイって言って。ハイって言わなかったらマジでブッ殺す」
 陽介が怖じけたように二、三歩も後退った。悠からは見えないものの、おそらくシャドウの両の目は金色に燃え盛っているのだろう。
「……わかった。あんたはあたしで、あたしは、たぶんあんた」千枝もまた硬い声で応える。「認める――雪子のために」
 この返事を聞くと、シャドウは悠を振り返って「聞いた?」とでも言いたげな視線を送って――そのまま煙のように忽然と消えてしまった。




[35651] 脱がしてみればはっきりすんだろ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:67df69bb
Date: 2013/10/07 10:58

 床に落ちたライトが戛然と鳴った。それが跳ねて転がって、いびつな半円をえがいて、やがて悠の足下ちかくで止まった。あたかもほんの数秒前までそれを持っていたものが、元の持ち主へ返そうとしたかのように。
(消えた。うまくいった、ともかく、もとの鞘に収めることはできた――はずだ)
 ライトが落ち着いて、それを悠が大儀そうに拾い上げるまで、おのおの口を開くものはなかった。彼らはあくまでルールを守ろうとしたに過ぎない。廊をとよもすこの小さな硬質の音が、「千枝」の最後の発言めいて四人に聞かれたのである。
「消えた……」ややあって、千枝が呆然と口火を切った。「アイツ、どこ行った? 帰ったの?」
「クマ、どう?」
「……だいじょうぶ、気配は完全に消えてる」クマの言葉は確信に満ちている。「シャドウはチエチャンと一緒になったクマ」
(よし、まずはひとり)
 クマのお墨付きを得て、悠はようやく安堵の息を吐いた。とたんに、今まで意識の外に追い出されていた疲労が空腹と喉の渇きとを味方につけて、にわかにその存在を主張し始めるのだった。このさい飢渇は我慢しもしよう、しかし、
(とにかく疲れた……二本あるんだ、一本はいいだろう。移動しながらでも吸おう)
 ささやかな成功報酬として、こちらの欲求を自らに許してもバチはあたるまい。悠はポケットの上からシガレットケースを撫でた。
 千枝はクマの言葉を聞いてもなお腑に落ちない様子である。
「成功だ、シャドウはもういない」と、悠は重ねて請け合った。「里中のなかに帰ったよ」
「なか? あたしの?」
「そう。ふたつに別れていたものがようやくひとつになったってわけだ。よくもうひとりの自分を受け入れた」言いながら、悠の視線は彼女の全身を這い回っている。「スマートには行かなかったけど、とりあえずこれで里中は安心だ」
(……ない。ないぞ、例の光は?)
 千枝の身につけている服のどのポケットにも、それらしい輝きは見られない。例のタロットの光はかなり強いはず、たとえ下着の中に収まっていたとしても目に留まらないはずはないのだが。
「まあいいけど……それより雪子、やばいんでしょ? はやく助けに行かないと」じき悠の凝視に気付いた千枝が言葉後を呑み込んで、困惑気に八の字を寄せた。「……なに、なんかついてる? どうしたの?」
「いや」
「悠、里中のは?」
 と、陽介が訊いてきた。彼も考えることは同じらしい、この「の」はもちろんタロットのことを指すのだろう。
「時間ねーけど、とりあえずなるほうの出し方だけでも教えとこう。戦力になるだろ」
「…………」
「悠?」
「ないんだ。見えない」
「え?」
「……ひとによるのかもしれない、あのタロット。里中は持ってないみたいだ」
「ええ? いや――里中、ちっと服ぬいでみ」
「はあァ?」
 だしぬけに脱衣せよなどと言われた女性のほぼすべてがそうするであろうように、千枝は色めいて眉を聳やかした。
「あんたなに言い――」
「いやマジで、冗談じゃねーんだ。べつに俺らに見せろってんじゃなくて……いや、悠には見せなきゃなのか? とりあえず一枚だけ――」
「待った待った」と言って、悠は親友の思いやりを心ならずも退けた。「里中の言うとおりだ、時間がない。とりあえず先を急ごう」
「つったってお前――」
「クマ先導して。それと可能な限り天城の……この城の奥にいるひとの様子を報せて」ポケットからシガレットケースを取り出しながら、「ふたりとも移動しながら話そう。あのタロットだけど――あ、その前に里中」
「へ?」
「これ、見える?」
 言って、悠は左手に抓んでいたタロットを示して見せた。
「これ……って?」
「いまタロットカードを抓んでる――見えないんだな」
「タロット、カードって、え? 見えないって、いや、どういう……」
「見える? それとも見えない?」
「見えないよ、なんも。つか意味が――」」
「いいんだ。それと里中、移動する前に」
「な、なんですか……なんかもうついていけてないんですけど」
「一度だけ訊く。ついて来る? それともスタジオに戻る?」
 悠は煙草を咥えて火をつけた。
「もうあれこれ言わない。その時間もない。戻るにしてもおれたちが送って行くことはできない。もしついて来るとしても命の保証はしない。答えは簡潔に」
 彼女の目にいかにも威圧的に映るよう、悠はあえて不機嫌たらしく煙を吐いた。なにせ時間がないのだ、またぞろ行く行かないでごね出されては堪らない。
「最大限、里中の身を守るようにはする。それでも保証はしかねる。もし来るなら責任は自分で負うこと。大ケガしても恨まないこと」
 千枝は神妙な面持ちで、それでも「もちろん行くよ」と言った。
「よし。じゃあほら、足を動かそう――クマ、さっき言った人間はまだ走ってる?」
「えーと……いまは止まってる、クマ? たぶん。あ、ちょっと動いてるかもしれないクマ」
「……シャドウは?」
「近くにはいないクマ、たぶん。同じ匂いのシャドウは……あり? 消えちゃったみたいクマ、えーと」
「…………」
 いったいこの着ぐるみの言うことは信用できるのだろうか。先ほどより事態がよくなったように聞こえはするものの、クマの自信なげな口調がどうにも引っかかる。せめてこの「たぶん」がなければまだ安心できるのだが。
「クマ、もう少しはっきりわからないかな」
「うう……ムリクマよ、これが限界クマ」と、クマは苦しげに言った。「みんな外に出てればだいじょうぶクマけど……」
(そうだった、ほかならぬおれたちがクマの邪魔をしてるんだった)
 じっさい彼の鼻がよければよいほど、悠たちの匂いをどうしても拾ってしまうのだろう。なるほど感度はいいのだ、その感度に比例して雑音も増幅されてしまうのは道理である。
「ごめん、できるだけ頑張って――じゃあ全速力!」
「は、はいクマ」
 発破をかけられたクマがよちよち走り始める。彼の短い脚では無理からぬことでもあろうが、はっきり言って遅い。せいぜい悠たちの歩幅で早歩きか小走りていどの速度である。
「クマ、オメもっとスピード出ねーの?」横に並んだ陽介が呆れ声を上げた。
「文句あるなら、ヨースケ、負ぶってくれクマァ……!」
「お前かるそうだけどカタチがなあ……把手でもついてりゃいいんだけど」
 ふと悠の脳裡に、江戸時代の駕籠かきよろしく陽介とふたり、棒で貫いたクマを担いでひた走る自らの姿が浮かんだ。これは案外よい手段かもしれないなどとひとりほくそ笑んでいると、
「鳴上くん、もう怒ってない?」
 控えめな口で千枝がこんなことを言った。先に決断を迫ったときの印象を引き摺っているのだろう。
「いや、ぜんぜん」悠は咥え煙草のまま笑って見せた。「なに?」
「うん、あのさ……」
 なにか含みでもあるのか、千枝は自ら訊いておきながら少しく言い淀んで、けっきょく本意なげに、
「それ、おいしい?」
 などと訊いた。
「タバコ?」
「んん、そう」
「吸ってみる?」と言って、悠は銜え煙草をつまんで吸い口を差し出した。
「いやいいですいいです」
「おい悠、里中のタロットだけど」クマと併走していた陽介が下がってくる。「調べとかんと。シャドウが消えたんならあるはずだろ」
「さっきも言ってたけど、そのタロットってなに?」と、千枝が割り込んできた。どうやら陽介がした説明にタロットのくだりはなかったようだ。「占いのタロットのこと?」
「そう。それがあればペルソナを――陽介が説明したかどうかわからないけど、シャドウから身を守る手段として使えそうな、巨人を喚ぶことができるんだ」
「巨人?」
「そう。体長四メートルくらいあって、なんでか知らないけどお誂え向きに武装してて、少なくとも人間よりよっぽど強い」
「……冗談じゃなくって?」
 千枝は怪訝そうな、おかしそうな、いわく言いがたい面持ちである。
「冗談じゃねーんだ、マジで。なんかこういうことマジメに言ってっとヤバいひとっぽいっつか、マンガみてーな話だけどさ」陽介が自嘲気味に笑った。「山野アナと小西先輩の事件にも関わりあるっぽいんだ、このペルソナ……は、そうでもねーけど、さっきお前のも出てきた、シャドウっての」
「なんか……かなりついていけてないんですけど、鳴上くんたちなんでそんなことできるようになったの?」
 千枝のなにげなく口にした言葉に、いきおい悠は黙らざるを得ない。そうと言えばそうだ、どうやらシャドウとの和解によってそうできるようになるらしい、ということだけはわかっているものの、そもそもなぜその故をもってペルソナを喚べるようになるのか、悠たちはその根本を理解してはいない。
(そしてもちろん、いまそんなことを考えてる時間はない)悠はさっさと諦めた。(そんなのは後だ、もしこの場を切り抜けられれば考える時間なんていくらでも捻出できる)
「転校生だから?」悠の口から出たのはいつもの韜晦である。
「里中が持ってない理由って、それだとか本気で思ってねーよなお前」と、陽介が真に受ける。
「もちろん。だって里中も転校生だ」
「え? なんであたし?」と、千枝。
「あーそういや、小二のとき引っ越してきたとか言ってたっけ」
「……あたし言ったっけ、それ。なんで知ってんの?」
 などと口先だけでは言うものの、千枝自身その情報の出所には見当がついている様子である。
(言わないほうがよかったかな)
「さっきシャドウがさ、里中の……」と、陽介は言い淀んだ。「あのさ、べつに変なこと言ったりはしなかったからさ。天城と友達になったとかなんとか」
 千枝の表情は硬い。彼女からすれば心の中を覗き見されたようなものなのだろう。たちまち疑わしげに「ほかになに聞いた? アイツから」との追求が入る。
「なにってべつに――」
「里中のスリーサイズとか」と、悠が助け船を出した。彼女はこの話題から遠ざけたほうがいいようだ。「いやホントに耳を疑った。あの申告を全面的に信じたら里中はヒョウタンみたいになるところだ」
「それぜったいにウソだから……つかスリーサイズとかペラペラ喋るワケないし」
「あーあとウナギ奢ってくれるっつってたよな! やっべ忘れてた!」陽介も得たりと話を合わせてくれる。「あと肉! 歯が折れるまで食わしてくれるって――里中先輩ごちっす!」
「ごちっす」
「ウソウソぜったいウソだ! あんたらいい加減なこと言って!」
「それよりタロットだよ、タロット、里中の!」陽介が急ハンドルを切った。「シャドウがいなくなったんなら出るはずなんだ、探そうぜ」
「探す必要はないよ、ホントに見えないし」と、煙草の灰を落としながら悠は言った。探したいか探したくないかで言えばもちろん探したくはあるのだが。「そもそもシャドウと和解しさえすれば必ず手に入るってわけじゃないのかもしれない。むしろこんな異常な能力が条件さえ整えば万人に備わるだなんて、虫のいい話だとも思えるし。仮に手に入るとしても適用されるのは男だけで女性はダメだとか、そういう理由だってあり得る。なんせまだわからないことだらけだ」
「とりあえず脱がしてみればはっきりすんだろ」
「オイしれっととんでもないことゆうな。とりあえずってなによ」千枝が口を尖らせた。
「陽介、あのタロット、見詰めても眩しくないからあんまり光ってないように見えるけど、実際はかなり強く光ってるんだ。だからサイフとか厚いものに包めって言ったんだけど――ほら、見えるだろ」
 悠は持っていたタロットをシャツの襟に入れて、その上から上着で覆って見せた。千枝が「センセー見えません」と呟く。
「まあ……見えるな。見えるんだな」
「里中もそんなに厚手のもの着てるわけじゃないし、これならたぶん下着の中に入れてたって光が漏れる。里中を素っ裸にしなくたってわかる」
「チエチャンがスッパダカクマ?」クマが聞き捨てならぬといったふうに振り返る。
「おら走れクマきち!」と、千枝がはりきって鞭を揚げる。「そーいうネタに反応すんな! 駆け足!」
「ひい……クマもう心臓が破裂寸前クマァ……!」
「あははクマお前そんなもん入ってたっけ」
「あんまりクマ……ヨースケは冷血動物クマ……スライムボールクマ……!」
「おい後半なんか聞き捨てならねーんだけど――うお!」
 と、陽介はつんのめってクマと衝突しそうになった。クマが突然なにかに阻まれたように急停止したのである。それほど速度の出ていなかったこともあって衝突は免れたが、
(なんだ、どうした?)
 イヤな予感がする。クマはつま先立ちになって天井を仰いで、忙しなく左見右見している。
「クマ、なにかあった?」
「また走り出した……だけじゃないクマ、追われてるクマ」こういうときに限ってクマの声は確信に満ちる。「追いかけてるヤツがいるクマ! たくさん!」
 四人の間に緊張が奔る。
「やべーぞ悠、こんなチンタラ走ってたんじゃ――!」
「陽介、左腕。おれは右を掴む」
「あ?」
「運ぶぞ、急げ! ナイフは里中に!」
「りょっ了解!」
「里中これ持って」と、千枝にライトを押し付けながら、「クマ案内して――全員全速力!」
 果たして、クマは左右の腕を担がれて荷物よろしく運搬されることになった。ちょうど駕籠かきの棒を進行方向に対して垂直にしたような按配で、
「センセッ、ヨスケッ、揺れっ、揺れが! オエッ!」
 柔軟な回転軸と不規則な運動とが災いして、クマは見えないカクテルシェイカーにぶち込まれたように激しく揺さぶられるのだった。
「我慢しろ! おい真っ直ぐでいいのか!」
 走りながら陽介が怒鳴る。廊は一本道ではない上に、悠たちの背に倍して余るほどの扉が左右にぽつぽつと散見されるのである。この城の中はかなり入り組んでいるらしい、道を選び間違えばタイムロスは計り知れまい。
「そっ、そこっ、扉、左クマ! たぶん!」
「たぶんは言わなくていい!」
「……鳴上くん、ちょっといいかな」
 扉の前で立ち止まるとすぐ、千枝が意を決したように話しかけてきた。なんとなく走っているあいだずっと切り出すタイミングを窺っていたような、そんな気配を彼女から感じる。
「鳴上くんっつか、あの、三人になんだけど」
「なに?」
 悠も陽介もともに、クマを床に放り出して息を整えている。大きさの割に着ぐるみの軽いのはせめてもの救いであったが、やはり荷物ありのマラソンはことのほか堪えるものだ。
「悠あけよう」陽介は千枝の言葉にさして注意を払っていない。「カギなんかかかってねーだろーな……悠、こっち押そう。里中も手ェ貸せよ」
「里中はいいよ。まずふたりでやってみよう――里中どうぞ、続けて」
「んん、さっきのシャドウのことなんだけど」
 悠は陽介と協力して、身の丈を優に超える扉――黒檀様の地にバロック調の唐草を金象嵌した――を押し開いた。
(なんだ、見た目のわりに……)
 存外、重厚な見た目に反して扉はやすやすと開く。これならひとりでもさして苦もなく開けられたであろう、触感からして明らかに中空で、ベニヤ板のように軽いのである。このポスギル城にはいかにもふさわしい出来と言える。
「あのさ、あれはさ、あくまで雪子を助けるためだから」
 悠と陽介は同時に千枝を振り返った。
「……え?」
「ほら、なんか……アイツはあたしだとか言っちゃったけど」千枝は気まずげにもじもじしている。「アレはさ、その、あの場をさ、納めようっていうか、そんなカンジで言った言葉だからさ。誤解しないでほしいなー……とゆうか」
 陽介が不審気に悠を見る。
(と、いうことは)
「なんてゆーか、要はさ、あたしは雪子を助けたいってことなんですよ! なんつーか……そんだけ」
 悠は不審気に陽介を見た。
(コイツ、和解したんじゃねーのか?)
 陽介の顔にはそのように大書してあった。






「ストップ! ストップ!」
 と、クマが卒然とサイレンみたいにがなり始めたのは、城内を縦横して駆けずりまわり、幾度も階段を上がったあと、これまで数え切れないくらい同じ意匠のものを見てきた扉の、その直前でのことだった。
「なに! どした!」
 しめたとばかり、陽介はクマの腕を投げ出してがっくりと毛氈に膝をついた。つい先ほど断末魔めいて叫びつつ階段を駆け上がったばかりの彼のことだ、正直なところは悠とひとしなみに、もう一センチ膝を上げるのさえ厭わしいはず。
「どう、したの、クマ」
「この先、シャドウがいるクマ。たぶんこのすぐ向うがわに」目の前の扉を忌避するように後退りながら、「これいじょう近づくと気付かれるかもしれんクマ」
「この扉の向こうにシャドウがいるってこと?」と、千枝。
「ということは、そのまた向こうに、天城がいるって、ことだ」陽介と同じ恰好で、悠は息を整えながら言った。「追いついたぞ陽介、あともう少し」
「つったってオメ……もう脚あがんねーよ俺……」陽介は限界のようだ。
「クマ、今はどう? 天城の様子」
「えーとユキチャンはァ……」先に千枝から名前を聞いたクマは、ただちに雪子をそのように呼んで憚らなかった。「今は止まってる、たぶん隠れてるクマね。もう近いクマ、たぶん同じ階にいる」
「……ここのほかに、道って、ある?」
「ないクマ」クマはにべもない。
「ないクマか……」
「ないクマ。とゆーか、あるかもしれんけど、ものすごく戻ると思うクマ」
「ぜってームリです、死にます、俺もー走れねーし」
 陽介は床に大の字に寝転がってやけくそ気味に呟いた。そもそもここに辿り着くまでの道程でさえ、クマのいとも精妙きわまるナビゲートのたまもので、幾度か来た道を戻ることがあったのだ。もちろんシャドウとの遭遇を避けるためにそうせざるを得なかった、という局面もあったのだろうが、そのたびに悠も陽介も心底うんざりしたものだった。
(ここまで来て別の道を探すなんてムリだ、肉体的にも精神的にも、時間的にも。ということは)
 雪子の許へ辿り着くには敵中突破しかない、ということである。
(実戦は避けられないか……どうするかな)
 ペルソナを「喚ぶほう」つまり鳴上流が、現時点で防衛力になり難いのは火を見るより明らかだ。仮に喚んだとしても大した役には立つまい、いっしょに走っているうちに双方とも転んでシャドウのえさになるのが関の山であろう。もしかの化物どもをちぎって投げつつ突撃するなら「なるほう」、つまり花村流を採らざるを得ない。が、
(花村流は生身のほうが動けない……)
「ペルソナになって運びゃいーじゃん」などと先日の陽介はあっさり言い切ったものだが、生身の人間はペルソナにとってあまりにも脆すぎるのだ。まして花村流には甚大な効力感と興奮とがつきまとう。そしてその荒ぶる人外の力を使うのはむろん神さびた上古の聖賢などではなく、その対極にあるような煩悩多き一高校生である。力を加減するどころではない、ゴリラに湯葉で鶴を折れと言うようなものだ。いまこの須臾の間に悠と陽介とが大いなる使命感に打たれて精神一到、豁然と寂滅たる明鏡止水の境涯に達し、アパテイアに安らうその大悟心をしてペルソナの一挙手一投足に微妙無辺の蘊奥を通わしむる……というのならともかく、
(ムリだ。前提条件にしてからまずムリだ。とにかくあんな感情の怒濤に揉まれながら人形遊びをするなんて……ムチ打ちや脱臼で済めばまだマシだろう)
 花村流がもたらす凄まじい昂揚の渦中にあって、凡俗弱冠の未熟者――こういう局面でさえ恬然と自らの克己心を恃みにできるほど悠は自信家でない――ふたりがどれだけ自制して理性を保ちうるか、そしてそれを保てなくなったとき、ペルソナの怪力が人間の肉体のはかなきにどのような影響をもたらすか、それは試してみることさえためらわれるのである。まず無傷では済むまい。
 この不利を押して花村流を採るとしても、シャドウが戦意喪失して――そもそもシャドウがそんな生き物みたいな反応を示してくれるかさえわからないのだが――潰走するか、一匹のこらず倒れるかするまで戦闘が続けばまだいい。鬼神のごとき花村流のペルソナを二体も用意できれば、そしてもし扉の向こうにたむろしているであろうシャドウが先日の口の化物みたいなタイプだけであるなら、たとえ生身の身体を守りながらという制約つきにせよ殲滅するのは決して難しくはないだろう。
 問題は、そして一番ありえそうなのは、シャドウがこちらを抗し難しと見て雪子を追いかけ始めるという事態だ。そうなった場合こちらに打つ手はない。花村流を採る以上、ペルソナの移動限界距離を超えて彼らを追撃することはできない。仕切り直して追いかけるにせよ、花村流からのリカバリーにはかなりの時間がかかる。
「クマ、オメーこっからは自分の脚で歩けよ」と、陽介が投げやりな声を上げた。「もー手も足も動かねー、つか今度はオメーが俺らを担いでくれよ」
「ヨースケひよわクマねー、センセイを見るクマ。センセイはまだまだ走れるクマ」
(好き勝手いいやがって……いや、待てよ)悠はちらとクマを見た。(そうだ、この方法があるにはあるな)
「この方法」はわりあいすぐに思いついた。動けないのなら今までクマにそうしてきたように、担いで移動すればいいのだ。なにもペルソナの手によってのみ人体を運搬できるというわけではない。悠も陽介も尋常の体型であるからして、その気になれば人力で抱えて運べないものでもなかろう。だが、
(重いんだろうなァ、コイツ)悠はあおのけになった陽介を後目に、やるせなくため息をついた。(少なくともクマよりはだいぶ重いはずだ、背負って歩くなんて考えただけでイヤになる。でもおれはたぶん陽介よりもっと重いだろうし……)
「ね、鳴上くん」
 千枝がちょんと肩をつついてくる。彼女はそれほど息を乱していない、悠や陽介よりはだいぶ元気が残っていそうである。
「なに?」
「疲れたんなら代わるよ、クマくん担ぐの」ちょっと申し訳なさそうに、「や、今まで言おう言おうって思ってたんだけどさ、なんかタイミングが」
「里中ー、代わってくれえー」陽介がさっそく名乗り出る。「ついでに俺も担いでマジで、お前の肉パワーで」
 陽介は脇腹を蹴られてわざとらしくむせた。
(……人足は揃った、な。揃っちゃったな)悠はふたたびため息をついた。どうやらこの方法しかないようだ。(仕方ない、やろう。迷ってる時間はない)
「里中、それじゃ陽介と代わってもらえる?」
 陽介が横たわったまま「おお心の友よ、お前マジいいヤツ……」と力なく呟いた。
「いいけど、鳴上くんはいいの?」
「鳴上くんはいいの。ただし、担ぐのはクマじゃない。コレだ」
 悠は床の陽介を指して言った。
「え、俺?」
「なんで花村?」
「苦しむ陽介を見てられない――なんて理由じゃないよ、もちろん。陽介にはペルソナになってもらう」
「なんのはいいけど、お前は?」のそのそ起き上がりながら陽介が言った。
「おれもおまえを担ぐ」
「あー……ペルソナで担ぐってのはダメなんだっけ。ちっと試してみね?」
「おれはいいよべつに、そのほうが楽だし。あとでおまえ拾い集めることになりそうだけど」
「ですよねー……」
「五体満足でいたいならその方法はナシだ。で、おれと里中でおまえの身体を運ぶから、おまえはシャドウからおれたちを守るんだ、ペルソナの力で。はいタロット準備」
 ほかの方法を挙げようとしてか、陽介は「でもお前も」と否む様子を見せたものの、
「……それしかねーか。喚ぶほうは使いもんにならねーし、お前のは遠くに攻撃できねーもんな」
 じき得心して、促されるままポケットからタロットを取り出した。
「そういうことだ」
「どういうことだ」と、千枝が割り込んだ。「センセーなんもわかりません。巨人っつかペルソナってなんなんですか? ちょっと見せて欲しいであります」
「……そうか、里中はまだ一度も見てなかったな、ペルソナ」
「見てないよ。そういえばクマくんは? つかクマくんも出したりできるの?」
「クマは出せないけど、もー何度も見たクマ」と、クマ。「出てくるたびにおっかなくて近寄れなかったクマ。何回か踏み潰されそうになったクマ。一回ヨースケに輪切りにされかかったクマ」
 千枝は控えめに「わあ、ペルソナ見たあい」と呟いた。
「ま、催促されなくたって今から見せてやっからさ」と言って、陽介は件の変身ポーズの準備をする。「ビビんなよ里中、つったってビビるだろーけど」
「待った陽介、ヒーローに変身する前に」
「ええ? もうCM終わったんですよ、採石場きちゃったんですよ」
「すぐ終わるから。念のためにクギ刺しておくけど」ポケットからタロットカードを取り出して見せて、「おまえを担ぐのに邪魔だから、おれはペルソナを喚ばない。どうしてもおまえひとりじゃ対処できない場合はともかくとして、基本的にシャドウはおまえひとりで相手してもらうことになる。それとペルソナを喚ばない以上、ペルソナに変身してるおまえと意思の疎通はできなくなる」
「あ、そっか……でも別にいいだろ。なんか困る?」
「困るから今のうちに言っておく。知ってるはずだけど、今からおまえのする変身は冷静を保つことが難しくなる。シャドウの相手をするのに夢中になって、おれたちの護衛をおろそかにしてもらっちゃ困るんだ。おまえのペルソナは浮くことができたよな」
「ああ、できる」
「おれたちから絶対に離れないでくれ、絶対に、絶対にだ。おれの頭上一メートルの位置を保って、周囲を警戒しながら、襲いかかってきそうなヤツだけを攻撃するんだ。おれたちの目的はあくまで天城の救出であってシャドウ狩りじゃないし、どのみちおまえひとりでおれたちみんな無傷のまま狩りつくせるとも思えない。もし扉の向こうに入ってもシャドウが襲ってきそうにないなら、なにもせずに道を急ぐぞ。こっちから火の粉を振りまくようなことはするなよ」
「わかった、護衛最優先な」陽介は苦笑まじりに言った。「んで余計なケンカはふっかけない」
「そう。おれたちの命はひとえにおまえの働きにかかってるってわけだ。おれはまだ死にたくない、里中だってそうだろうし、クマだって天城だってきっとそうだ。おまえはどうか知らないけど」
「あー俺スゲー死にてーんだけど、お前らが死にたくないってんなら仕方ねーなァ……なんてな」陽介はすぐ真顔になった。「わかってるよ。俺がどうだって、お前らの命がかかってんなら無茶なんてしようがねーよ。気をつける」
「頼む。もう合図できなくなるから……じゃあ、おれと里中がおまえを担いで、そこの扉の前に来たら開けてくれ。タイミングは任せる」
「了解」
「里中、ナイフとライト、クマに渡して」
「うん……クマくんこれ持つよりさ、こん中いれとくスペースとかないの?」
 と言って、千枝は着ぐるみの胴をポンポン叩いた。軽い音がする。中身が入ってないのだから当然である。
「ここはポケットじゃないクマ」
 などと言いながら、クマは首回りのファスナーをちょっと開けて、千枝に渡されたものをそこへ突っ込んだ。彼はシャドウ探知機能つきおしゃべり機能つきの自走式トランクである――悠の中でクマの株がすこし上昇した。
「フツーにポケットじゃん……つか、ナイフはあぶないんじゃない? 走ったりしたら刺さるかもだし」
「あ、里中、それ中身はいってねーから」と、陽介。
「は?」
「言葉どおりの意味。クマは中身からっぽなんだ」と、悠。
「……じゃ、なんで歩いたり喋ったりしてんの?」
「テンコーセーだから」と、クマ。「ところでセンセイ、テンコーセーってなにクマ?」
「中身が入ってない着ぐるみのことだよ」適当に去なして、「陽介いけるか?」
 陽介はふたたび変身ポーズを取って「スタンバイ。監督のゴー待ち」と請け合った。
「じゃ、採石場へどうぞ。アクション」悠は見えないカチンコを鳴らした。
「チエチャン離れてたほうがいいクマ」と言って、クマは真っ先に陽介から距離を取った。「ヨースケ悪ふざけ好きだからあぶないクマよ」
「クマ、いまのよく覚えとくわ。期待を裏切っちゃわりーからな」陽介が跳躍に備えて屈み込む。「いくぜ――ペルソナッ!」
 外連味たっぷりのジャンピングポーズを経て、陽介の背後に身長四メートルほどの巨人が忽然と現れる。千枝が悲鳴のひとつもあげるかと内心期待していたのだったが、
「うおっ、すご……!」
 あんがい彼女は冷静である。
「これが、その、ペルソナ?」
「そう。あんまり驚かないな、里中」陽介に駆け寄って身体を支えながら、「里中きて、片方たのむ」
「いやメチャクチャ驚いてますけど……花村どうしたの、寝てんの? グッタリしてるけど」
「誤解を恐れずに簡潔に言うと、タマシイがペルソナに乗り移ってる。だから生身の身体をおれたちで担がなきゃいけない」
「……シャドウぜんぶやっつけるまでココに置いとくとかはナシ?」
「ペルソナは生身からあるていど離れると消えるから――質疑応答はあとだ、ほら」
「了解です……えーと、コレ腕を担げばいいの?」千枝はぎこちなく陽介の腕を取って、それを自らの肩に乗せた。「タマシイって、なんといいますか……なんか驚きすぎて一周してるってカンジ」
「肩に回すまではいい。それで――」
「キャー! ヨースケやめるクマァー!」
(なにやってんだアイツは……)
 声のしたほうを見ると、陽介のペルソナが逃げるクマを追い回して戯れに踏み潰すフリをしている。先の言葉どおりクマの期待に応えているつもりなのだろう。
「アレ、止めたほうがよくない?」と、千枝。
「止めようがないよ。ああなってしまえばおれたちの言葉はまったく通じなくなる。もちろん向こうからもね」
「へえ。なんで?」
「なんでかな――ほら千枝、向こうはいいから」
 と言ってすぐ、千枝が少しく驚いたような貌を見せるのにはたと気付いて、
「あっ、ごめんウソ、じゃない、えっと」
 悠はのちのち顧みて情けなくなるほどの狼狽を見せてしまった。
「や、いいんですよ、マジで。ぜんぜん気にしないっていうか」悠の狼狽が伝染したものか、千枝もにわかに落ち着きを失った。「えーと、つかなんでこんなことでテンパってんのあたしたち」
「ホントごめん、訂正する……」ひとつ咳払いして続けて、「じゃあ、里中、もういっかい腕を担いで」
 千枝は言われたとおり、陽介の右腕を自身の肩に回した。
「回したらそのままで、こいつの腕は保持しなくていいから、こんなふうに」手本を示して見せながら、「左手をこいつの肩に回して支えて」
「こう?」
「そう。で、右手のほうはこの膝のウラにこうやって」
「鳴上くん」
「この状態で立ち上がれば陽介は持ち上がるはず――なに?」
「べつにいいよ、名前で呼んだって」
 このまま聞き流して忘れてくれればよいものを――この微妙な言い誤りをわざわざ蒸し返した千枝を、悠は心中でちょっと恨んだ。
「いいんだ。里中いい? 脚の力で垂直に持ち上げるんだ」
「あたしは気にしないし」
「まあ、ね。準備はいい?」
「あ、いいです」
「じゃ、せーの――」
 悠と千枝とで陽介を抱えていざ立ち上がってみると、
(覚悟はしてたけど身長差が……)
 果たして陽介の身体は大きく右側に傾ぐのだった。
 たちまち千枝の面に「あ、これヤバイかも」とでも言わんばかりの苦渋の色が広がる。無理もない、身長百八十センチ前後の悠に対して、小柄な千枝はせいぜい百五十なかばに届くかといった程度である。相対的に支え手の位置の低い彼女はどうしても陽介の重みを余計に負わざるを得ない。まして「千枝」が見せたような剛力を持ち合わせない、見たままの華奢な彼女のことだ、たとえ半分とはいえ身長百七十センチなかばを超す男子高校生の体重を持ち上げるなどと、理想的な体勢からそうするのでさえ手に余るはず。
「里中だいじょうぶ?」
「え? いやぜんぜん……ぜんぜん重いっす……!」
「一回おろそう」
「いい、だいじょうぶ、それより早く行こ! ぐずぐずしてらんない」
「……わかった、じゃあできるだけ下げるから」
 千枝に配慮して悠はそろそろと腰を落としてみた。腿が震える。重量物を保持するのにもっとも向かない体勢である。今ほど発揮したばかりのジェントルマンシップに早くもヒビが入るのを感じる。
「鳴上くんこそ平気なの?」と、今度は千枝が心配し始めた。彼女の目にはおそらく悠の貌にこそ「あ、これヤバイかも」とでも言わんばかりの色が映るのだろう。
「なんかすごいカオしてるけど」
「え? いやぜんぜん……」
 平気じゃないに決まってる。そもそもここまでクマを運搬してきた疲労もいいかげん鬱積しているのだ。が、このさい文句は言っていられない。
(この重さがおれたちを急かしてくれるって考えよう、じっさいこれで走ったら何分も保ちゃしない! 早く済ませて早くこの重荷を捨てよう、もう思いっきり床に投げ捨てよう!)
 そしてその暁には陽介にも同等の重荷を負ってもらおう――悠と千枝は陽介の抜け殻を抱えて、扉の前でシャドウボクシングに精を出すペルソナの許へ小走りに駆けた。
「花村はやく開けてー! 開けろー! 重いー!」
 千枝が巨人に向かって悲鳴まじりに怒鳴る。それを聞いて、というわけではなかろうが、ふいに陽介のペルソナが悠たちを見下ろして三本指を突き付けてくる。二本、一本と減っていくので、
(カウントダウン?)
 と、悠が見当をつけた瞬間、死者も甦ろうほどの音をたてて巨人が扉を蹴破った。
「バッ……陽介……!」
 どっと冷や汗が吹き出る。もし悠に自由になる腕が残っていたら、彼の胸で太平楽に寝息を立てているこの狼藉者の頬を五、六発もひっぱたいてやったことだろう。
「あわわ……ヤバイクマ……!」
 分解して消し飛んだ扉が広間の中へ――一瞥して二、三十匹ものシャドウがたむろする虎穴の中へ――バラバラと転がり込む。シャドウたちに一匹としてひとらしい態のものはいない。が、ノックを忘れたばかりかいきなり部屋の扉を破壊されるなどすれば、不快に思うことにかけてはシャドウもひとや虎と変わるところはないようだ。
(このバカッ!――まずい、みんなこっちを見てる!)
「センセイ、完全に気付かれちゃったクマ……」
 八十神高校の体育館が余裕で収まってしまいそうな大広間の中には、以前に見た口の化物に加えて、人間の頭部に指がたくさん生えたイソギンチャクのようなの、カンテラを掴んだ首のないカラスのようなの、ぶるぶる震える赤錆びた巨大なサイコロみたいなの、どこか人間めいたパーツを持つ巨大な昆虫みたいなの等々、悪夢に出てきそうなモンスターの目白押しである。それらがみないっせいに闖入者へと目を――それがないものはどうやらそれらしい器官を――向けている。
「ヤバイよ、これ、どっ、どーする……」千枝が怖じけて後退ろうとする。初めてシャドウを見る彼女のショックはことのほか大きいようだ。
「はし……走れ、走れ! 行くぞ里中っ!」
 と千枝を強引に促して、悠はなかばヤケになって走り出した。いまさら部屋を間違えましたで済む話でもなかろう、現にシャドウのうち目ざとい数匹はすでにこちらへ向かってきているのだ。退くにせよ進むにせよ迷っている時間はない。
「待ってけれー! 置いてかないでクマァーッ!」クマが転げんばかりに追いすがってくる。
「クマ急げ! 悪いけど! 待ってられない!」
「鳴上くんごめんもうちょっと遅くしてっ! ついてけないっつか前、前ェー!」
「いいからこのまま走れー!」
 このままでは先走ったシャドウの何匹かと数秒後には衝突してしまう。が、ここで立ち止まれば静観しているシャドウにまで「人間狩り」参加の願書を提出される恐れがある。ここは作戦どおり陽介がうまく防ぎ止めてくれることを祈るばかりだ。
(頼むぞ、仕事しろよ陽介!)
 もちろん心配するまでもなく、陽介のペルソナは悠の言い含めたとおり、シャドウを迎え撃つために彼の頭上に陣取った――と思いきや、そのままあたまを飛び越えて化物の群に突っ込んでいってしまった。このまま生身との距離が一定いじょう離れればペルソナは消えてしまう。
「里中いそげ! アイツおぼえてろよクソ……!」
「花村テメー! ざっけんなコンチクショーッ!」
「ヨースケのアホー! アホ……アホークマー!」 
 三者の心からの声援を糧に、というわけではなかろうが、陽介のペルソナは勇躍飛翔、先行して襲いかかってきたシャドウの幾匹かを造作もなく蹴散らした。
「すっご……」
 千枝が苦しい息の下から賛嘆の声を漏らす。まさに鎧袖一触である。
 花村流ペルソナの強さはそれこそ、先に陽介と調べてみたとき容易に想像はできたのだったが、じっさいに眼で見るのは壮観のひと言に尽きる。彼がバンザイするように両手を振り上げるや否や、巨大な手裏剣が恐ろしい轟音を引いて飛ぶ、誤たずシャドウに殺到する。接敵すれば蹴りの数発も繰り出す。掴んで殴る、引きちぎる。隙をついた二、三匹がしゃにむに打ちかかり噛み付くのも、かのいくさ神を向こうに回しては石像を穿たんと試みる蜂にもひとしい。そしてこのペルソナに触れられてふたたび動き出すものは一匹もいない。
(強い……言うことなんかぜんぜん聞きゃしないけど、やっぱり強い! これなら行ける!)
「里中、扉の前でいったん下ろす! おれが開けるから!」
「もうそろっと限界! ウデあがんない!」
「クマもひい……限界クマァ……!」
 先に入ってきた扉から広間を真っ直ぐに駆け、ようよう反対側の扉に辿りつこうという位置まで、実に悠たちは無人の野を――無人にしては凄まじい騒音に満ちていたが――往くがごとくであった。陽介のペルソナは当面の敵を片付けると足らぬとばかり、部屋の中にいる残りのシャドウたちへ嬉々として襲いかかる。もはや当初の目的は完全に忘れ去っている様子。この件については人間に戻ったら灸を据えてやる必要があるが、
(その前に少しくらい褒めてやってもいいだろう、とにかく、花村流はやっぱり凄い威力だ。シャドウはもう恐れるに足らない。いきなり包囲されるなんて状況に陥らない限り、この方法でじゅうぶん打開できるはず)
 ちらと振り返ると、陽介のペルソナは逃げまどうシャドウの残党を追いかけて、悠たちから急速に離れつつあった。彼がなおも悠たちから距離を取ろうとすれば、じきペルソナの移動限界距離に達してしまうはず。
(このまま全滅させる気なら、扉を開ける前にあいつと合流したほうがいいな)
「里中、ちょっと――」
 と、悠が千枝を見るのと、彼女が突如おとがいを反らせて歯を食いしばるのとは同時であった。
「里中!」
 彼女の面に閃く驚愕、困惑、苦痛といった感情の、刹那の変遷がスローモーションのようにくっきりと目に飛び込んでくる。だしぬけに重くなった陽介に引っ張られる形で、悠は千枝に続いて転倒した。
「あっ、センセイ、チエチャン!」
(なにが起きた、里中!)
 千枝は転んだあと少し遅れて、思い出したように悲鳴を上げ始めた。広間の緋毛氈にうずくまって痙攣する彼女の右の肩口に、黒っぽい歪な三角定規のようなものの突き刺さっているのが見える。見る間にもその根本からじわじわと、ジャケットの緑地を侵して赤黒い斑が広がり始めた。
「チエチャンだいじょうぶクマか、チエチャンが!」
「さ、里中、おい」
 千枝は返事もできない様子。じき彼女の悲鳴は胸の潰れるような苦悶の嗚咽へと変わった。
(攻撃されたのか! どこから――)
 周りを見渡す暇もなく、ふいにドドッという重い音がして、今度はクマが「アイターッス!」と素っ頓狂な声を上げた。
「なんか刺さった! なんか刺さったクマー!」
 着ぐるみの背中に千枝のものよりいくらか小型の、同じような破片が二、三、食い込んでいる。彼が大騒ぎする間にもヒュッと空気を裂いてなにかが飛んでくる。――攻撃ではない、これは、
(シャドウの破片だ! 陽介が倒したヤツの!)
 クマの背中から抜き取ったそれはほどなく、悠の手の中で煙のように消えてしまったのである。はたと千枝を確認したときにはやはり、その肩を破った破片は跡形もない。
「あのバカ……!」
 果たして、陽介のペルソナは巨大なサイコロのようなシャドウを狩り始めていた。黒っぽい金属質の化物に非常な速度で手裏剣が食い込む。バチッと火花が散って数瞬ののち、サイコロは鉄筋が断裂するような音とともに破裂、四散する。これだ――と眥を決する間に、悠の顎すれすれにピュッとなにかが飛んで来た。彼は泡を食ってクマの陰に隠れた。肩や腕に当たるのならまだいい、こんなものが首や胴体の急所に飛んできたら命に関わる。
「クマちょっとこっち来て!」
「ギャース! また刺さったクマー!」
 悠はクマの返事を待たず、強引に彼を戦闘中のペルソナと自分たちとの同一線上に据えた。着ぐるみを盾にした形である。彼は先ほどから大騒ぎしているわりにことさら痛がっている様子もない、仮にケガをしているにせよ血が出ないだけ悠たちよりいくらかマシであろう。その体内に急所となる臓器らしいもののないことも先刻確認済みである。
「クマごめん、ホントにごめん、そのままそこに立って!」
「センセイ、チ、チエチャンだいじょうぶクマか?」
「わからない……わかるもんか」
「ケガしたクマか?」
「さ、里中?」
 痛むか、と訊いても、千枝は傷口の近くを掴んでむせび泣きながら、念仏のように「いっだい、いっだい」を繰り返すだけ。破片の消えたことでかえって出血が促されたものか、血の染みは肩から脇下、背中までじりじりと広がりつつある。放っておいてよい傷でないことだけは確かだろう。
(どうする、どうする? どうって、血が出てるんなら止血しないと!)
「里中、身体おこせる? 手当て、手当てしないと……」
 とは言うものの、悠自身こんな大怪我をした人間の「手当て」などしたことはない。さすがにこの方面の知識に疎いのは彼も世間並の高校生と変わるところはない。傷口は圧迫して出血を抑えなければならない――悠にわかるのは実にこの程度のものだ。
「クマ、こういうケガって、手当てとかしたこと、ない?」
 一縷の望みをかけてお伺いを立ててみる。が、クマは振り返って千枝の血に染んだ肩を見るなり、がたがた震えながら「血がいっぱいクマ……チエチャンが死んじゃうクマ……」などと泣き出さんばかりである。
(ダメだ、クマは役に立たない)となればもう自分でやるしかない。(やりかたも勝手もわからない、けど、放っておくわけにはいかない、仕方ない……!)
 もう見よう見まねでやってみるしかない――以前テレビか映画かなにかで見たままおぼろに残っていた記憶を頼りに、悠は千枝の血染めの上着をもたもたと脱がし、それを止血帯として彼女の傷の緊縛を試みた。慣れない手つきでそうしている間にも、金属の噛み合う音、破裂音とともに飛来する破片は引きも切らない。まさしく戦場である。このさいなにか没頭できる事があるというのはせめてもの救いだった、手隙であったら悲鳴のひとつもあげていたかもしれない。
(これでいいのか? これ、ヘタにやったらあとで腕を切断とかにならないか……?)
 この前にしなければならないことはなかったか? 服の上から緊縛してもいいのか? 圧迫したらかえって血が出てきはしないか? いや、もっと強く縛ったほうがいいのでは? でもそうしたら手指の血流が止まって――疑念は鞭のように、彼の不要領を責めながら同じだけの激しさでもって行動を急かす。彼のわかるはずもない「正しいやりかた」を誤たず選べと。
「セ、センセイ、だいじょうぶクマ? チエチャンだいじょうぶクマ?」
「うるさい! わからない! ちょっ、ちょっと黙っててくれ!」
 千枝の呻吟と血とが悠の手をいっそう戦かせる。指にこびりついた血は果たしてほんとうに彼女のものなのだろうか。まるで傷ついた自分の身体から「タマシイ」だけが抜け出して、それが横たわる自分自身の傷を必死に手当てしているとでもいうような感覚。その治療が適わなければ当然の結果として、それによって招来する不都合にはすべて責任を負わなければならないとでもいうような、重い強迫観念と責任感とが悠のあたまを占める。彼を衝き動かすのは千枝をこそ救わずんばあらじとの使命感ではない、なべて傷つけるは癒さざるべからざれとの義侠心からでもない、いちばん近い言葉で表現するなら恐怖であった。千枝の手当てに失敗すれば自らが不具になるとでも言わんばかりの奇妙な恐怖。この自発的な行動を強制される、というより、強制されているにも拘わらずどこまでも自発的であるという矛盾、なんという不条理!
 なんという友情の不条理! たとえそれを命じるのが喜んで従うべき千枝への友情であるとしても、拝承してどこまでも責任を負わなければならないのはしろうとの悠だというのに。――思い直して千枝の止血帯をきつくしたとたん、くぐもった悲鳴とともに思いっきり蹴られた。この不当な仕打ちもつつしんで承らなければならない。不条理、不条理きわまりない。あのバカ! あのどうしようもないバカのせいでこんな目に遭う! 悠はいきおい自分をこんな苦況に追い込んだ陽介を憎悪せずにはいられない。
(このバカを。この恰好つけの、大法螺吹きの、鳥アタマの近視眼的単細胞を)悠は腹立ち紛れに、千枝のすぐ隣に転がる陽介の身体を力任せに蹴りつけた。(ぶん殴るのはあとだ! とにかく早くこの戦場から逃げないと)
「里中、手当て終わったけど、まだ痛む?」いまだに震える手を千枝の背に置いて、「つらいと思うけど、あと少し、歩こう。ここは危ない、この部屋から出ないと」
 千枝は荒い息の下で「いたい」と呟くだけだった。恨めしげな視線が悠の面に刺さる。今ほど脂汗をかきつつなんとかこうとかやってのけた大仕事が余すことなく報われる、まったく涙が出るほどすばらしい感謝である。いっそ自分の肩に飛んで来てくれたならどれだけよかったことだろう。少なくとも彼女はもっと優しかったに違いないし、ひょっとしたら自分のために泣きさえしてくれたかもしれない。
「歩けそう?」
 千枝は不機嫌たらしく首肯した。彼女の傷は少なくとも歩くのに支障が出るような性質のものではないはず、可哀想だがこのさい痛いのくらいは我慢してもらわなければ。
「よし――クマ、だいじょうぶ?」
「クマの玉のお肌がガサガサクマ……」
 破片を浴び続けたことで彼の体表はかなりささくれ立ってしまっていたが、かといってとくに不調を訴えるでもない。やはりクマは怪我をしているわけではないらしい。
「あとでスキンケアを手伝うから」ペルソナとシャドウの戦いをちらと窺って、「おれが扉を開けてくるから、もう少し里中を守ってて」
 と言って、悠は中腰のまま走って扉に取り付いた。たしか海外の紛争地帯のニュース映像かなにかで、こんな恰好で走る兵士を見たような――ただ眺めるぶんにはへっぴり腰でちょっとみっともないなどと思っていたものの、実際に飛来物の飛び交う「戦場」に放り込まれてみればこうせざるを得ないというのは否応なく実感できる。彼らの苦労もいくばくか理解できようというものだ。
「センセー! 待って、待ってクマー!」
 扉を開け始めた矢先、背後のクマが突然わめき出した。なにごとかと振り返ると、
(……あれ、ペルソナは)
 陽介のペルソナが見当たらない。
 全身の皮膚が粟立つ。つい先ほどまでサイコロを追いかけ回していた巨人が影も形もない。実際おおごとであった、彼はついに移動限界距離を超えて生身から離れてしまったのだ――それもシャドウの幾匹かを残して!
「クマこっち! 里中はしれー!」と怒鳴りながら、悠は一息に扉を開けた。「早く! 陽介はおれがなんとか――!」
「ちがうダメクマー! そこ開けちゃダメクマァー!」
 扉を開けたその向こうには、今ほど通ってきた広間ほどではないにせよ、それなりに広い空間が打ち開けていた。白い大理石様の床に、これまた白い石造りのレリーフがぐるりを取り囲むという、いままで見てきたような部屋とは異なる意匠に満ちている。遙かな高みにかかる格天井から光のおぼろに降りてくるその下には、
「センセイ、奥にシャドウが!」
「ち、畜生……」
 悠は震える脚で一歩、二歩と後退った。部屋の中央、光の降りる一段高くなったそこには、体高四メートルほどもある白馬に騎乗した、全身を甲冑で鎧った巨大な騎士が佇んでいたのである。




[35651] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:67df69bb
Date: 2013/10/14 17:36

 歯の根が合わない。
(どうする、どうする! 決まってる、ひとつしかない!)
 陽介が花村流から回復――それもいちばん時間のかかるデッドライン越え――するまでに十分から二十分は余裕でかかってしまう。彼の助力は当てにできない。
「ぺ、ペルソナ……」
 背後から千枝の怯えた悲鳴が飛んでくる、クマの騒ぎ立てる声も同様に。陽介の片付け損ねたサイコロが、仲間を殺された溜飲をせめて下げようと彼女らへ迫りつつあるのだろうか。
「ペルソナ!」
 悠はポケットからタロットカードを引っ張り出して、震える手でそれを振り回した。ペルソナと怒鳴った。甲斐はない。目の前の騎士が右手に携えた長大な槍をこちらに向けた。彼のかかとについた拍車がガシャッと鳴った。腹を責められた巨馬が低く嘶いて、悠のほうへ並足で向かって来た。
「ペルソナッ!」
 思い出せ、花村流のあの感覚を! 巨馬が速歩に移った。騎士が槍を抱え込んだ。悠は跳躍に備えて低く屈み込んだ。
「来い、ペルソナッ!」
 叫びざま悠は跳び上がって、身体を反らせて回転しつつ、手にしたタロットを天高く突き上げた。――ひどい立ち眩みとともに視界が真っ暗になる。転瞬ののち悠の目に映ったのは、足下で今し頽れようとする自分のつむじであった。
(よし! 次は――)
 と、右手の矛を持ち上げる暇もない、騎士の槍先が面頬を擦って火花を散らす。悠は膝を落として馬の首をすくい上げるように抱え込みながら、突進してきた騎馬へ全力で体当たりした。このまま躱すなり去なすなりすれば悠の身体が馬蹄にかけられてしまう。
「この野郎ォ……!」
 さながら相撲の取り組みかなにかのように、ちょうど横たわる悠の身体の真上でペルソナとシャドウが四つに組む形となった。ペルソナの怪力をもってしてようやく拮抗状態に持ち込めるほどのシャドウ、この騎馬武者は明らかに今までに見てきた化物とはレベルが違う。鉄靴が石床にめり込む。騎士は長物の弊を捨てて腰の剣の鞘を払った。馬が猛り狂って肩口に噛みつこうとする、脚で蹴ってくる。悠はさらに腰を落とすと腹の下に潜り込むようにして、後ろ脚立ちになるくらいに馬の身体を持ち上げて、
「おまえらの相手は後っ!」
 大喝一声、立ち上がった馬の後ろ脚を蹴り払いざまもろとも横合いに倒れ込んだ。投げ出された騎士が派手な音を立てて床に転がる。悠は身体を起こすのももどかしくただちに矛を振り上げると、それを横倒しになってもがく馬の腹に渾身の力を込めて突き下ろした。
(そうだ、おまえらは後! こっちが――)
 馬に突き刺した矛をそのままに、悠は一足飛びで先の大広間に飛び込んだ。その先にはへたり込んで後退る千枝と、逃げる術とてなく置き去りにされた陽介と、その彼の前に益なく立ちふさがるクマと、彼らに襲いかかろうとするサイコロ様のシャドウが二匹。
「こっちが先!」
 悠は陽介の頭上を飛び越えながら、彼の接近に気付いてはや逃げにかかろうとするシャドウのうち一匹をサッカーボールよろしく蹴飛ばし、もう一匹を捕らえると踵を返してふたたび騎士のもとへ舞い戻った。ほんの瞬く間の出来事で、おそらく千枝たちには驚く暇さえなかったことだろう。
(サイコロは片付けた、次はおまえ!)
 騎士はすでに体勢を整えていた。彼は矛を生やしたままぴくりともしない馬に一瞥もくれず、対峙する悠へ挑むように長剣の切っ先を向けた。――またなんと弱々しい、子供じみた、いっそ可愛らしい虚勢に満ちた仕草だろう! このシャドウはいったいおれになにをして欲しくてこんなポーズを取るんだろう、おまえの運命なんてもう決まりきってるのに!
 悠は捕らえていた鉄のサイコロを振りかぶって、思い切り騎士に投げ付けた。彼の反応は速やかである、正眼に構えた剣先を颯と斬り上げれば、ヂリッという鋭い音とともにあわれなシャドウはまっぷたつになる。かの剣は少なくとも、陽介のペルソナが投げる手裏剣よりはよく切れる様子。
 悠は笑った。たぶん人間には聞こえない笑い声を伴って。
「おい、見ろよ、おまえの相棒を。添い寝の相手を欲しがってるぞ」
 敵の剣さばきを恐れるでもなく、矛を取り戻しに行くでもなく、身構えるでもなく、悠はゆっくりと騎士の許へ歩き始めた。
 なにを恐れることがあろう? この全身という全身、髪の毛の頭からつま先の爪の端までを、まったく同じ濃度と速度とで間断なく駆け巡り続ける凄まじい効力感、全能感! なにを恐れることがあろう! いまこの瞬間、悠はかつてなんぴとも達したことのないであろう高みに自らを見出していた。われこそは全世界の全生物をして一抹だに疑うべくもない、神にひとしい存在であるとの強烈な自覚に押し上げられていた。
(これだ、これだ! そうだ、なによりもこれに注意しなければ! 鳴上悠、理性、そう理性だ! 理性を忘れるな!)悠のうちで野放図に肥え太った倨傲が、理性理性と感情的に叫んで止まない。(へえ、おれが理性を忘れる? 笑える、おれがマジで、マジで? 理性を忘れるなんてことが? 陽介じゃあるまいし!)
 騎士が鋭い踏み込みとともに突きを繰り出してくる。悠はそれを余裕ぶって左腕の手甲で打ち払おうとしたが、果たさずに胴――人間でいうあばらの辺り――を切り裂かれた。身につけた厚手の長衣が捲れる。悠は横腹に、おそらくは「痛み」であろうはずのものを感じた。もっともそれは人間でいうところの「怪我」をしたときにもれなくついてくる、という条件のみを満たすばかりのもので、悠はあなどれぬ一撃が自らの身体を抉っていったことに、卒然と言いしれぬ深い感謝と喜びとを感じるのであった。
 それは確かに喜びであった。これから行使する暴力にきらきらしい正当性を付与してくれたことへの感謝、目の前に迫った甘美な復讐の時、たとえしもなく溜飲の下がるであろう遠からぬ未来の展望。愚劣きわまることにこのいやしい矮小な化物がたったいま、あとでどんな災いを蒙るかろくろく考えもせずに自分のしでかしたことを、骨身に徹して思い知りながら八つ裂きになるいとも喜ばしき展望!
 このうえなく心震える展望! 悠のあたまの中はただこのひと言のみで占められた――ブッ殺す!
 騎士が胴を払い抜くまえに、悠は素早く剣身を両の手のひらで挟み込んで猛烈な膝蹴りを繰り出した。長剣を蹴り折ろうとしたのだが、一瞬はやく騎士は柄を手放した。この判断の素早さはシャドウならではなのだろうか、彼はぐずぐずせずにぱっと距離を取ると、先に自ら手放した槍を拾い上げた。が、その穂先はついに悠の投じた長剣を打ち払い得ない。
 投剣は騎士の腿の装甲を貫く。膝をつかないために今しがた手にした槍を杖にしたことがこのシャドウの命運を分けた。荒れ狂う悠の体はすでに空中にあり、その手にはすでに矛の柄が握られており、その刃はすでにして騎士の身体を誤たず捉えていたのである。
 必殺の一撃が騎士の肩口からみぞおちまでを斬り下ろす。黒い血が噴水のようにしぶく。尋常の高校生なら見ただけで気を失わんばかりの凄惨な光景だが、いまの悠は人間ですらない、血を好むいくさ神である。彼は血染めの矛をシャドウの残骸から抜いて、振りかぶってもういちど、渾身の力をこめて斬り下ろした。なにせ八つ裂きにしてやらなければならないのだから、最低八回はこうしてやる必要がある。悠は大いに気を散じつつ畑を耕すようにして、一心にシャドウの骸を切り刻んだ。
 騎士は七回目を待たずして馬もろとも掻き消えてしまった。
(あっ、なんだよ、終わっちまった……)
 悠は悄然と矛を下ろした。
 シャドウだけではない、つい今ほどまで黒い血にぬめっていた矛も、元の金属質の光沢を取り戻している。返り血の滴る長衣の裾も、石床を穢して咲いた大輪の黒い徒花も元の木阿弥、白昼夢のごとし。悠の胸に達成感の去来することはなかった。ただ名残んの興奮の冷めゆこうとするもの悲しさと、祭りのあとを思わせる寂寥と、割り当てに与えられた菓子をはや食い終えてしまった子供の無念とだけが残るのだった。花村流の効力感はそれらを埋め合わせてなどくれないばかりか、さらに焦がれるように次の獲物を探せと彼に命じる。もっと欲しい、今みたいなやつを探せ、おまえだってこんなんじゃぜんぜん足りないだろう、と。
(そうだ、まだいるかもしれない、大広間のほうは? 陽介の残りがまだ二、三匹はいるはず)
 シャドウ逢いたさに、悠は矛を引き摺って大広間へ取って返した。が、足下でわめきながらうごうごする千枝たち――なにか訴えようとしているらしい――を除けば、そこにはなにもいない。さっきのサイコロで最後だったのか、すでに逃げてしまったものか。彼女らに手ひとつ振ることもせずに、彼は大広間を出てレリーフの間を横切って、いちばん最初に目に留まった大扉を蹴破った。なにしろこれだけ大きな城なのだから、まだまだシャドウはいるはずなのだ。
(そうそう、天城! 天城はまだ襲われてるはずだ、きっとシャドウの大群に囲まれてる。はやく助けに行かないと)
 悠は気を取り直して矛を肩に担いだ。






 重い瞼をなんとかこうとか持ち上げて、最初に見えたのは誰かの首筋である。耳の辺りから肩口にかけて薄く、血を拭ったような錆色の斑が刷かれている。
(あたまが……最悪だ、なにが起きた)強烈な頭痛と倦怠感、なにか毒でも盛られたかと思わせるほどの絶不調である。(誰だ、これ。おれ、負ぶわれてる?)
 意識の戻ったときからずっと、ごく間近ではあはあと荒い息が聞こえている。悠が濡れた布団みたいにぐったりと身体を預けているこの肩は、
(陽介だ。陽介がおれを背負ってるのか……)
 それならとくに気を使うこともない、先にあれだけ苦労して担いでやったのだから、そのお返しに今くらいこうして楽をしてもよかろう。悠は怠いのにうんざりして、またすぐ彼の肩に頬を預けた。
「悠? 起きたか?」
 悠を運んでいた車が急停車した。いま身じろぎしたのに気付いたらしい。
「センセイ起きたクマ?」クマがちょんちょんと脇を突く。「起きたクマ? くすぐるクマよ」
「……起きてないよ、まだ寝てる」
 陽介は息を弾ませながら「おら起きたんなら自分で歩けよ、お前マジ重い」と言ってその場にしゃがんだ。
「降りてくれよ、ほら、もう脚ガクガクだし」
「頼むよ、カネ払うから、いまほんとうに辛い……」
「悪い、なんだって?」
「なぶるなよ、聞こえてるくせに。辛いって言ったんだ」
「ああ……わかるよ、それ。でもいいかげん俺も限界なんだ、悪いけど我慢してくれ」
「あと五分だけ。運んでやっただろ、おれと里中で」
「里中が無事ならなァ、ふたりで運んでやれるんだけど」
「……里中、どうかした?」
「え?」
「里中がどうしたって?」
「肩ケガしてる……つか、お前が手当てしたんじゃねーの?」
 悠はたちまち陽介の背から転げ落ちた。
「そうだ、里中は」
「ほら歩けなまけもの」
 千枝の声はすぐ後ろから聞こえた。彼女は悠を見下ろして弱々しく微笑んでいる。脇の下に止血帯を通したせいで肩ごと右腕の上がったのを、さらに傷に障らないよう左腕で組むようにして背を丸めているので、彼女は一見して寒いのを堪えているように眺められる。いや、じっさい出血のせいで寒気がするのかもしれない。
「大丈夫? 痛む? 手指の感覚がないとか、ない?」
「んん、だいじょ――」
「ひょっとして寒い? きっと血が出すぎたんだ、おれのこれ、上着、貸すから」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」と悠を遮って、千枝は無事なほうの手を小さく振った。「寒くないし、鳴上くんの上着ぬれてるし……」
「陽介、里中に一枚かして――」
「あーだいじょうぶだって! 寒くはないですから、たぶん、や、寒くない、むしろ暑い!」
「……ならいいけど、でも、痛むだろ」
「そりゃまあ、痛いことは痛いけど、かなり痛いけど、動かさなきゃまあなんとか」と言って、千枝は気遣わしげに陽介を見た。「あたしより花村のほうが」
「おい」と、陽介がにわかに不機嫌な声を上げた。
「なによ、やっぱ言わなきゃでしょ。花村――」
「ちょっ、オメ――!」
 なにがなにやら話が見えないものの、陽介が卒然と立ち上がって千枝に掴み掛かろうとするのに、悠は四つんばいになって割って入った。
「ちょっと待った。なんだ、ふたりとも、話が見えない。ケンカしてる場合じゃないだろ」陽介の脚を掴みながら、「里中、陽介がどうかしたの?」
「里中オメ言ったら――」
「陽介。里中?」
 千枝は陽介の睨まえるのを気にしつつ「花村、左耳聞こえないって」と打ち明けた。
「たぶん鼓膜破れてるっぽい。耳から血でてたし……」
「だからまだわかんねんだっつーのに」と、陽介は苛立たしげに否んでかかる。「そうなんかなって思っただけで」
「聞こえないって、どうして」
 悠の疑問に応えて、千枝は非情に言いにくそうに、
「鳴上くんの、ペルソナ? がさ、さっき花村の近くで、サイコロみたいなシャドウを蹴ったんだけど、そのときものすごい音したから、たぶんそれだと思う」
 と述べた。
(おれのペルソナ? ペルソナ……そうだ、おれ、変身したんだ。あの騎士が)
 記憶はすぐに戻ってきた。苦い失敗の記憶はさながら遅効性の毒物である。それと知らずに口にしたものを、苦しみのたうち回る段になってようやく解ったとてどう処方してみようがあろう。悠は色を失って愕然となった。そうそう甘い忘却に憩わせてはくれないようだ。
「そうだ、おれは――」
「悠まて! まず、俺なんだ!」と言って、陽介が荒々しく悠の肩を掴んだ。「俺なんだ、俺のせいなんだ、お前もわかってる」
「なんてことを、おまえ――」
「違うんだって――だから言うなっつってんのに!」と、八つ当たりのように千枝を怒鳴りつけながら、「俺がおまえらを放って、シャドウ狩りに夢中になって、里中にケガさせて、あげくにペルソナ消しちまったんだ。お前のせいじゃない、お前はフォローしてくれたんだ。お前のおかげで四人とも無事だ」
「無事じゃない、おまえ耳が――」
「こんなもんで済んでよかったくらいだろ、とにかく、俺らはまだやれる。それがいちばん重要だろ、天城ももう近くだし――だろ? クマ」
 クマは陽介の言葉に応えて「もうすぐそこクマ」と言った。
「もうひとりのユキチャンもいなくなったままクマ。近くにシャドウもいない、助けに行くなら今しかないクマ」
「な? いまはうじうじ悩んでる場合じゃねーの! ほら立てって」
 立てと言われてもその力が湧いてこない。いまだに花村流の後遺症が残っているのではあろうが、気力の面から言っても彼はとうてい立ち直れそうになかった。――なんとこの鳴上悠が、なんの落ち度とてない無辜のひとを、まして人もあろうにあたら親友を一生の不具に落としてしまうとは! 怒って殴りかかって来た時でさえ怪我はさせまいと手心を加えてくれた彼に対して、われながらなんという仕打ちであろう。これまで行為と結果とをすべて自らの中だけで完結していた悠にとって、自分の失敗の報いが他人に、それも大事な他人に降りかかるというのはまったく耐えがたい苦痛であった。
 せめてこれが身も知らぬ他人であればなんとでも言い訳できようものを。状況が悪かった、先に失敗したのは自分ではなかった、ベストは尽くした、被害を最小限に食い止めた――無益である。なにをどう言い繕おうとも友人ふたりの流した血だけが悠の目に鮮やかである。千枝の血の乾いてこびりついた自らの手指に目を落とすにつけ、彼はただひとり無傷で済んだわが身を恥じ、筋の通らない自責の氷雨に衿を合わせて縮こまるのである。友情の不条理、友情の猛毒、まさしく陽介の焼きそばには毒が盛られていた! あれさえ食わなければこんな苦しみもなかった。彼の誘いを断っていたなら、孤独の軒に留まってさえいたなら、そもそもこんな露天に出て行って濡れる心配もなかったのに。悠は晴れの日の日向がどれほど彼の「鉄芯」をぬくめたかをも都合よく忘れ去って、この篠突く雨の冷たさばかりを恨みに思うのだった。
「陽介にも里中にも、ほんとうにごめん、もう言葉もない……」悠は力なくうなだれて、呻くように呟いた。「情けない、さんざんおまえを貶しておいて、おれも同じことしてたんだ。おまけにふたりにケガまで」
 自身の理性が花村流のもたらす激情の奔湍にそう長くは抗し得まい、ということは事前にわかっていたものの、かの騎士との闘いを思い出すだに情けなさは募る。実に悠はわずか数分さえ理性を保ち得なかったのだ。そのさらに数分前、彼は同様の事態に陥っていた親友を腹の中でどのように罵っていたのだったか。
「ちょ、それだけ難しいってコトなんでしょ? 落ち込みすぎだって」と、千枝があわてて慰めにかかる。「それに花村にちらっと聞いたんだけど、なんか鳴上くんたちぜんぜんペルソナ使ったことないらしいじゃん。それであれだけやれたんだからさ、こんなんで済んでよかったんだって! つかあたしのはそもそも鳴上くんのせいじゃないし、むしろ手当てしてくれたんでしょ? あたし蹴っちゃったけど、ごめんけど」
「自分がイヤになる、最低だ、理性理性って、けっきょく口だけだった。ちっともペルソナを使いこなせなかった……おまけに陽介を攻撃するなんて」
「いや使いこなせてたっつの。お前があのボスをやっつけたんだろ?」と、陽介もあわてて慰めにかかる。「なんか騎士みたいなやつ? 俺みてねーんだけど、スゲーじゃんか、大金星だぜ。俺なんかザコ蹴散らしただけだし、つかこの耳のは攻撃じゃなくてただの事故だろうに」
「おれとおまえと、両方の意識がない時間を作ってしまった。その空白の時間にシャドウが襲ってきてたら? 四人とも全滅だった。なにが使いこなせてたもんか……それどころかおまえに一生の障害を……」
「あーもーオメーは……だから言いたくなかったんだよ」うんざりと陽介。
「なんか、ゴメン。マジで言わないほうがよかったかも」困惑気味に千枝。
「さっき言っただろ。ただでさえコイツ余計に背負い込むヤツなのに……なんで信じねーんだよお前は」
「いやなんかそういうイメージなかったとゆうか……ひょっとして鳴上くんて結構めんどくさいひと?」
「センセイ、元気だすクマ。くすぐるクマか?」
「おれの耳を鉛筆かなにかで突いてくれよ……」
「なあ悠、続きはウチ帰ってからにしようぜ、あと一息なんだ、ここでグズグズしてたらまた天城のシャドウが出てくるかもだろ」と言って、陽介は座り込む悠の腕をつかんで引っ張った。「おらしっかりしろよ、いっつも偉そうにしてるくせに、お前らしくねーぞ」
「ヨースケもヨースケらしくないクマ、なんか今日はやたらエラソーね」クマもまた悠の背中をぐいぐい押して、立ち上がるように促す。「センセイ、きっとユキチャン待ってるクマ。こんなとこに何時間も閉じこめられてるんだから、心細いに決まってる。クマもちゃんとひとりで歩くからセンセイも立つクマ」
「ほーら立ってよー鳴上くーん、雪子まってんだからさー」と半ば笑いながら、千枝まで無事なほうの手で悠の腕をつかんだ。「あっ、鳴上くん立ってくんないとまた血が出る。マジ痛い、つかホントに痛い……!」
「里中いい! いいから傷をいたわって!」悠は千枝の手をやんわり振り払って、蹌踉と立ち上がった。「無理しないでくれよ、そのケガがそれいじょう悪化したら今度こそ立ち直れなくなる」
「おっ、これってけっこう脅迫の手段になりそうだったり?」千枝は額に脂汗の滲むのを、無理に笑って冗談めかしている。「ケガした甲斐あったかも」
「バカな。冗談じゃない――陽介おまえも」
 悠は陽介を振り返って「おまえ平気なのか? 片耳が聞こえなくなったんだぞ」などと急き込んで訴えた。加害者を故もなく許してはならぬ、厳罰をもって報いてやらねばならぬとでも言いたげな、難詰するような口調である。陽介は腰に手を当てながらその様子を見て、例の「困ったなァ」とでも言いたげな苦笑を浮かべて、「そりゃまあ、イヤだけどさ、聞こえてたほうがいいけど」と言った。
「でも、ここに入って来た時点でさ、これくらいのことは覚悟してたよ、俺。こんなんで天城が助かるんなら安すぎる買い物だろ。まだ右は聞こえんだし……指とか腕とかなくなるよりずっといいって。大したことじゃねーからさ、お前ももう気にしないでくれよ、マジで」
 この陽介の堂々たる態度に悠はうつむき恥じ入って、彼の靴のつま先をじっと見詰め続けることしかできない。これこそが彼の輝きであった。この過酷な運命を従容と受け入れてふて腐れもしない、彼の勇気はいかにも眩しい。眩しすぎて加害者の悠にはとても直視できるものではない。
「おまえは凄い。おまえのそういうとこ、逆立ちしても真似できない」
「はいはい凄いだろ俺。つかまたオマエハスゴイか」
「でもいまのさ、花村にしちゃカッコよかったよね。花村にしちゃ」と、千枝。「ふだんがなんかアレだから余計に際立つっていうか」
「はいはい恰好いいだろ俺。つかもう行かね? おらクマ、ボサッとしてねーで」照れ隠しなのか、陽介はクマにからみ始めた。「さっさと行こうぜ。悠もう歩けるっぽいし、案内してくれよ」
 クマの返事はない。
「おいクマ。クマ?」
「……クマくん? どしたの?」
 千枝の問いにも応えない。クマはあたまの上に突きだした小さな耳に手を宛がって、聞き耳を立てているふうである。
(なんだ、またトラブル?)
「クマ、なにかあった?」と、悠は恐るおそる訊いた。
「……センセイ、聞こえないクマ?」と、クマは囁くように応えた。「ひとの声がする。誰かいるんですかって、言ってる」
 クマの言い終える前に、千枝がいきなり「雪子ー!」と怒鳴った。傍らの陽介が喫驚して跳び上がった。
「里中オメ――!」
「雪子いるの? こたえてー!」
「くっそ、右までおかしくなったらどーすんだ……クマ、女の声か? 天城以外にひとなんかいねーんだろうけど」
「いまちょっとチエチャンが――」
「雪子ォー! いたた……!」
「里中しずかに、もうちょっと傷をいたわってくれって」千枝を遮って、悠もクマの真似をして耳をそばだてた。「いまのが聞こえたんなら応答があるはずだ。待とう」
(これは……天城か? それとも)
 クマは先ほど「もうひとりのユキチャンもいなくなったままクマ」と言ってはいたが、これはあまり当てにはならない。先の騎士型のシャドウでさえあれほど近くにいたにも拘わらず、直前まで彼は察知しなかったのだ。これから接触しようとしているのが雪子のシャドウである可能性は十分ある。
(いや、それならそれでやりようはある。むしろ先に会えたほうが都合がいい、里中のときみたいに事前に言い含めることだってできる)
 いまは落ち込んでいる場合ではない。そんなのは後だ、後悔はそれしかできなくなったときにでもじっくりやればいいと決めたではないか――悠は衿を正した。彼の頭脳は新しい懸案を得てようやく地団駄を踏むのをやめた。
「クマ、どう?」
「聞こえないクマね。うーん、空耳だった――」
「だれかいるの?」
 と、前方から微かに声のするのを、そのとき悠は確かに耳に聞いた。千枝の面に驚きと喜びとが閃く。クマもまた「いまの聞いたクマ?」とばかり悠を見上げる。が、片耳を失聴している陽介には聞こえなかったようで、自分以外の三人が気色を変えるのに少しく困惑している。
「えーと、なんか聞こえた? ぽい?」
 彼の言葉に応えるようにして、千枝が無言のまま前を指さした。悠たちのいるところから二、三十メートルも離れたT字路の角から、そのときそっと黒いあたまの覗くのが見えたのである。こわごわと様子を窺うように現れた顔は、
(天城だ! 確かに、顔は天城だ、問題は中身だけど)
「雪子!」
 と、千枝が喜びの声を上げるのに反応するものの、雪子は戸惑ったように「千枝? 千枝なの?」とこちらを打ち眺めるのみ。距離から言ってこちらを視認できていないはずはない。もちろん見えるはずだ、「千枝」はそうだった、見えているはずだ――もし彼女がシャドウで、霧を見通すことができるのなら!
(間違いない、あれは天城だ、シャドウじゃない!)
「天城!」と、悠の呼びかける声にも歓喜が滲む。
「いまの、鳴上くん? なんで?」
「おっとォ、花村くんも忘れてもらっちゃ困るよ!」陽介は喜びまじりにおどけて見せた。「よっ天城! 助けに来たぜ!」
「おっとォ、クマも忘れてもらっちゃ困るクマよ!」クマも陽介の真似をしてわめき始めた。
「……いまの、だれ?」角から出てきかけた雪子が、クマの声に驚いてふたたび戻ってしまう。
(怯えてる……シャドウを見たせいか?)
 クマの報告を信じるとすれば、雪子はシャドウに追われていたということである。が、さなきだにこれだけ長い時間ポスギル城にいたのだから、シャドウを見る機会に事欠くことはなかっただろう。しかし、それにつけても彼女が無事なのはよほどの幸運のなせるわざか。あるいは角の陰になっている部分にその代償も隠されているのだろうか。
「あっ、クマオメ警戒させただろーが! ちっと黙ってろ!」
「ユキチャーン初めましてー、あなたのクマクマー!」
「クマちょっと黙って――天城、いまからそっち行くから」
「まって! まって、来ないで」と、雪子は警戒心もあらわに叫んだ。「ひっ、ひとりずつ来て……」
「……わかった。誰がいい? 里中?」
「……鳴上くん、来て」
 意外にも雪子は親友ではなく、いちばん付き合いが薄いはずの悠を指名した。意を決したようにして角から出てきた彼女は、先日公園で見たままの紬姿である。が、
(なんだ、あれ。松明?)
 彼女の手には長さにして二メートルほどもあろうかという松明が握られていた。無論こんなものを持ったままテレビに落とされたなどということはなかろう、ポスギル城の内装を失敬しでもしたのだろうか。
「天城、その松明、どうしたの?」
 と、悠の訊くや否や、彼女は当の松明を槍のように彼へ向けて、「鳴上くん、ほんとうに鳴上くん?」と震える声で問うた。
「どうして見えるの? こんなに霧だらけなのに」
(あ、それを警戒してたのか)
 ひょっとすると彼女はこちらのことを、人間の声を模倣したシャドウかなにかだとでも疑っているのかもしれない。よほど恐ろしい目に遭ったその反動なのか、まさか悠たちが助けに来られるはずはないという考えもあろうが、悠にはむしろこの警戒心が好ましく思われた。なるほどこういう彼女だからこそ、この世界で何時間も無事でいられたのかもしれない。
「霧を見通せるメガネをかけてる……って言っても信じないと思うけど」
 悠は眼鏡を外してみた。もちろん辺りは一面霧で、視界の利くのはせいぜい十メートル程度である。この狭いスペースに閉じこめられた人間に声だけが「おまえが見えるぞ」などと言えば、誰だって不気味に思いもしよう。雪子が訝しむのも当然ではある。
「天城に貸すから、かけてごらん。いまそっちに投げる」
 と言って、悠は雪子のいると思しい辺りに眼鏡を放った。彼女が小さく悲鳴を上げるのが聞こえる。この視界の悪さだからして、投げ付けられたのが眼鏡だろうと手榴弾だろうと雪子には非常な驚きに違いない。――ややあって聞こえてきたのは、硬質の、おそらくは松明を取り落としたのであろう音と、膝から頽れる重い音と、聞くも痛々しげに泣きむせぶ彼女の声である。
「雪子、雪子!」と、千枝がもう辛抱ならぬとばかり、悠に先んじて雪子の元へよたよたと駆けていく。「もうだいじょうぶだから、助けにきたよ!」
 雪子はただ泣くばかりで言葉もない。しばらく彼女の嗚咽と、それを懸命に慰め励ます千枝の声とだけが、物音のひとつとてない長廊の沈黙を小さく揺るがし続けていた。
「ミッションコンプリート」と、ややあって陽介が感慨深げに言った。「大っ成功じゃん、どうよ俺らの力は。やっぱやってできないことじゃなかったんだ」
「おまえも里中も大ケガしてる。大成功じゃないし、まだ折り返しの道もあるし、なにより天城のシャドウが――」などと言っているうちにも笑顔が浮かんでしまう。「――だよな、大はつかないかもしれないけど、成功だ。よくここまで来られたよ、ホントに」
「マジでなァ。クマもありがとな、鼻きかねーのに頑張ってくれたよな」
「んむむ……クマ今回はちょっとジシンソーシツしたかも」クマはこころなし悄然としている。ように見える。「センセイ、ハナ鍛えるにはどーしたらよかとですか?」
「ハナ……ああ、それはもう仕方ないし、実際どうしようもないと思うよ。仮にクマの鼻がこれいじょう良くなったって、それだけおれたちの匂いを余計に拾うんだろうしさ」と、悠はクマを慰めた。「ともかくこうして目的は果たせたんだ、クマはよくやってくれた」
「でもでも、シャドウがどこにいるかわからなかったら――」
「だーいじょうぶだって! ほら、こないだみたいにシャドウに遭ったら終わりってんじゃない、もう俺と悠のペルソナがあんだからさ、ちっとくらいファジーでもぜんぜんいいんだって」
 と、陽介も重ねて慰めるものの、クマはふだんの朗らかさを取り戻さない。なにか思うところがあるのか、なにしろ見た目が着ぐるみなのでしかとはわからないのだが、なんとなく屈託を抱えているようにも見える。
「まだシャドウとかかなりいるんだろうけど、天城と合流できたんだからもう時間の制限なんかねーし、なんとでもなるだろ」陽介はクマの様子をいっこう気に止めず、彼のあたまをポンポン叩きながら余裕綽々である。「俺らのペルソナの前じゃあスライムレベルのザコばっかだし、悠がやったボスだって、里中の話じゃあっという間だったらしいし。なんかもう矢でも鉄砲でも持って来いってカンジ?」
「問題は天城のシャドウだけど」
「むしろお前、なんとかならないかもって思ってんの?」陽介の口調はいっそ嘲るようである。「お前、ぶっつけ本番で二回も成功してんだぞ。今回は俺のペルソナだってある、さっきはそりゃ失敗したかもしれんけど、おかげで次は気ィ付けられるだろ? シャドウの大群が出てこようが天城のシャドウが出てこようが、んなもんもう消化試合だって、楽勝楽勝」
「ヨースケノーテンキクマねー」
「うっせ。こーいうときは楽観していいの!」
「楽観するのはおまえの仕事。悲観するのがおれの仕事」と言って、悠は自嘲気味に笑った。
「お前へこみやすいから向いてないぜ、悲観すんの」
「おまえも浮かれやすいから楽観には向いてないよ」
「だろ? だからちっと交代してみ。お前もたまには楽観しろ」
「楽観ねえ……なあ」
「え?」
「耳、大丈夫か? 痛くないか?」
 たぶんそうしないとよく聞こえないのだろう、陽介は最前から誰かが話し始めると、顔を左側に傾けて少し俯きがちになるのだった。気にするなと言われてもこうした仕草が悠を無言のうちに責めるのである。
 陽介はちょっと不快気に「気にすんなっつったぞ」と言い捨てた。
「気にしてない、心配してるんだ。テレビから出たらすぐ医者つれてくからな、里中も診てもらわなきゃいけないし……」
 ちょうど雪子もようよう泣きやんだようで、さっそく親友の異常な恰好を見咎めたらしく、今度は彼女が大わらわで「はやく病院いかないと!」などと心配をし始めている。幸い血は止まってくれているようではあるが、のちのち膿むなどして痕でも残ろうものなら千枝もさぞ無念であろう。悠自身もまた自らの不手際に責任を感じざるを得ない。
(天城も警察まで送っていかなきゃならないけど……まいったな。血まみれの里中まで一緒に連れていったら余計な詮索は避けられないだろうし、かといって行方不明のはずの天城を病院まで引っ張り回して、警察に見咎められでもしたら厄介だし。怪我人同士でなんだけど、陽介に里中を連れて行ってもらうしかないか)
 テレビから出たら泥のように眠ろうとばかり思っていたのに――悠の見えないマネージャーときたら、彼の都合などお構いなしにどんどんスケジュールを詰め込むのであった。もっとも昨晩みたいに夜中に突然「天城窮地にあり、急行せよ」などとやられないだけマシではあるが。
「おれたちも行こう、行って説明しないと――天城」陽介とクマを促して、悠は声を頼りに雪子たちのいるらしいところへ移動した。「ごめん天城、不便だろうけどメガネ返してくれる?」
 雪子はしゃがみ込む千枝の傍らでなよやかに膝を崩して、泣き濡れた面で悠を見上げていた。愁眉を強いて開いて涙のうちにも微笑もうとする彼女の貌は美しくも婀娜である。悠はこの霧の中から現れた麗人の姿態にしばらく見惚れて、やっぱりこういう幸薄そうな様子が似合うなァ、とか、メガネも似合うなァ、とか、和服はこういう仕草が絵になるなァ、などと間の抜けた感想を抱いていた。
「……鳴上くん?」
「あ、ごめん、見惚れてた」と言っておけば、本当に見惚れていたとは思うまい。「メガネ、いい? 天城のぶんもあればいいんだけど――クマ、予備とかない?」
「ビルドトゥオーダー、ビルドトゥオーダーですクマ、作り置きはございませんクマ」と言って、クマは悠を押しのけて前に出てくる。「ユキチャン初めまして! やー今日はいい日クマねー、ガールフレンドがいっきにふたりもできちゃったクマー」
「はじめまして……あのう、あなたは」雪子は戸惑うばかりで、悠を見上げて「このひと誰?」とでも言わんばかりである。
「クマクマ! ユキチャン付き合ってください!」
「ハナシこじれるからお前ちっと黙ってろ」と、陽介が背後からクマを横倒しにした。「――天城おつかれさん。これクマな。この着ぐるみ」
「やめれー! 起き上がれんクマー!」クマはゴロゴロ転がっている。
「クマ、さん?」
「そう。ここに住んでる気のいいクマで、天城の救出に協力してくれたんだ」陽介の話を引き取って悠が続けた。「ちょっとおしゃべりだけどいいやつだから、怪しいやつじゃないから」
「説得力ないけどね、見た目あやしすぎるし」と、千枝。「でも中身はぜんぜん怪しくないし、悪いやつじゃないよ、ホントに。おもしろいやつ」
(……なんて言ったところで納得しやしないんだろうけど)
 雪子の腑に落ちた様子はない。当たり前の反応である。これほど見た目の怪しいクマだからして、見たまま「こいつ怪しいから」とでも紹介されたほうが彼女とていくらか得心がいったかもしれない。かといってここでもう少し具体的にクマの正体を明かす――彼の首回りのファスナーを引き回したり――などすれば、彼女の疑いを解くどころか頑丈に補強しかねない。悠とて初対面の折は彼の着ぐるみを脱がせにかかったものだが、もし陽介たちがそれを止めなかったとしたら、おそらく言われるままクマに付き従いはしなかっただろう。
(そもそもこのクマって何者なんだろう……)などと考えている時間はもちろんない。(とりあえずは何者でもいい、わかってる範囲だけでもこの着ぐるみはじゅうぶん信用できる。天城もじきそうするようになる)
 いまは怪しさの塊に違いはなかろうとも――雪子には薄気味悪いことではあろうが、いましばらくは「なぜか着ぐるみをつけてる怪しいなれなれしいこども」くらいの印象で我慢してもらわなければ。
 悠はクマを助け起こしながら「天城、メガネ、返してもらってもいい?」と重ねて催促した。
「あっ、ごめんなさい」雪子はあわてて着けていた眼鏡を外して、それを袖で拭って悠に手渡した。「ごめん、涙で汚しちゃった」
「とんでもない。これでこのメガネ洗えなくなったな」
 悠の視界は旧に復した。この眼鏡の便利に慣れると霧だらけの世界は不安このうえない。雪子もこれを手放すのはたいそう心細かろうが、
(天城はこれに慣れないほうがいい、天城のぶんを作らせるわけにはいかないんだから)
 この世界は彼女にはただ一度きりの、悪い夢で終わらせなければならぬ――悠が決意を新たにしていると、そのすぐ横で千枝が「クマくん、雪子の作るのってどれくらいかかりそう?」などと当然のように言い始めた。
「ユキチャンのためなら時間は惜しみません、クマきょうは徹夜で頑張りますクマ!」クマも大いに調子をくれる。「ユキチャンには特別なやつを進呈するクマ。それはもーキュートでグレートでブリリアーントなリミテッドモデル、リョーメンヒキューメンクマ」
「これねーとほとんど見えねーからなァ」陽介は眼鏡を外したりつけたりしている。「ここ建物ん中だからまだマシだけど、外でたらマジでなんも見えないから、天城気ィつけたほうがいいぞ」
「マジ必携のアイテムだよねー……最初ここ入ったときにこれがあったらさ、あんなにビビらんで済んだっつか、むしろ楽しんだかもなのにね」と、千枝。
「いやお前はあってもなくてもぜったい泣いてた」と、陽介。
「あーうっさいちょっとテンパっただけだっつの――雪子もさ、見たくなったら言ってね、あたしのコレ貸すからさ」
 千枝は不自由な片手で眼鏡を外して、それを大事そうに矯めつ眇めつしている。テレビの中から出たあと返せと言ったところで、この様子ではとてもすんなり従うとは思われない。
(かといって、記念に手元に置いておいていいものなのかどうか……隙を見て取り上げるなりしなきゃならないのかな……)
「天城のメガネについては、またあとでゆっくり話そう」無論、そんなものは是が非でも作らせはしないが。「天城、立てる? こんなところに長居は無用だ、移動しよう」
「うん、なんとか……もうなにから訊いていいのかわからないくらいなんだけど」と言いながら、雪子はよろよろと立ち上がった。「鳴上くんたち、どうして、というか、どうやってここに?」
「どうしてもその帯あきらめきれなくてさ、ストーキングしてたんだ――なんて冗談いってる場合じゃないよな」雪子がにこりともしないので、悠は決まりが悪くなって早々に打ち切った。「その前に、天城はここがどこか知ってる?」
 雪子は力なく頭を振った。
「ここ、どこなの? こんな、あんな生き物が……妖怪みたいなのがいて……」
「じゃあ、天城はシャドウを見たんだ。あれはシャドウっていって、ここに住んでる……たぶん住んでる化物」
「んで、ここはシャドウたちの世界ってわけ。俺ら人間の住んでる世界の、裏っ側? ってカンジなんかな」と、陽介。
「フツーならたぶんぜったい行けない場所なんだけどさ、あたしらっつか、鳴上くんはなぜかこっちに来れるんだ、テレビのパネル通って」と、千枝。
「クマはこっちに住んでるけど、シャドウじゃないクマよ。ここ重要クマ。クマは彼女募集中のクレバーでカインドリーなイケメンクマ」と、クマ。
 雪子の腑に落ちた様子はない。どころか、悠たちの話すのを聞くにつれて彼女の眉間の皺はいっそう深まるばかりである。
「天城、とりあえず移動しながら説明するから――その前にひとつだけ」
「え、うん」
「天城、自分と同じ姿形をした人間に、遭った? あるいは見たりした?」
「……え?」
 と、雪子の眉をひそめるのを見るだけでもわかる。彼女は自らのシャドウに遭ってはいない――悠はひとまず安堵の息を吐いた。
「会ってないけど……わたしと同じ姿?」
「いや、いいんだ、安心した――ほらクマ、先導して」と、悠はクマを促した。「みんな行こう。ここはまだ安全じゃない」
 なにしろいつ雪子のシャドウが現れるかわからない。このまま遭遇せずに帰れるなら言うことはないが、
(もしそれが避けられないなら、ここがどういう場所かなんて話はあとだ、それより先に説明しなきゃならないことがある)
 雪子が自身のシャドウと遭って話をしてからでは遅い。それまでに千枝のシャドウに試みたような「予防接種」を、彼女にも受けてもらわなければ。
「いきなり『オマエと同じ顔をしたヤツを見たか』とか言われてかなりホラーかもしれんけど、その説明もおいおいすっからさ」と、陽介は朗らかに続けた。「ちっとネタバレすると、まあそういうヤツがいるにはいるんだけどさ、べつに見たら死ぬとかそういうんじゃねーから。ドッペルナントカじゃねーから」
「いまはやめなって、そーゆうこと言うと余計ブキミでしょ――ほら雪子、いこいこ」千枝が雪子の背中をぐいぐい押し始めた。「帰ろ帰ろ、帰ってお母さん安心させなきゃ。天城屋のみんなも心配してるよ」
「あっ、待って、その前に」
 クマが歩き始めてすぐ、雪子はふいになにか思い出したようで、先にこちらの様子を窺っていたT字路まで戻って行ってしまった。
(なんだ、リュック?)
 雪子がT字路の陰から引っ張り出してきたのは、おそらく登山用と思しい、中身の詰まった大型のリュックサックである。彼女はそれを重たげに抱えて、
「これ、気がついたら横に落ちてたの」
 と言った。
「……え?」
「誰だかわからないんだけど、たぶんわたしのために置いていった、みたいなの」
 雪子以外の四者が一斉に、彼女の示すリュックに視線を集める。悠たちにとっては爆弾発言もいいところである。
(犯人が? どうして? リュックの中身は?)
「天城のためって、なんで?」
「これ、中に入ってたんだけど」と言って、雪子は紬の懐から四つ折にした紙を取り出した。「たぶんわたしに宛てたものだと思うの……見る?」
「見せて」
 悠はそれを奪うようにして受け取った。たちまち陽介と千枝があたまを突き合わせるようにして詰め寄ってくる。彼らにとっても驚愕の新情報であろう、その手紙の書き出しは
『ここから動いてはいけない!』
 である。




[35651] セクハラクマー
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f1eb91d1
Date: 2013/12/01 15:10
 ここから動いてはいけない!
 ここは安全です。しかし外はとても広いため、
 あなたは確実に迷ってしまうことでしょう。
 あなたを助けにここへ来る人にも同様です。
 あなたはここから動いてはいけません。絶対に。
 もし助かりたいのなら!
 こんな見知らぬ場所にひとり置き去りにされて、
 きっと恐ろしく不安でいることでしょう。
 なにがなんだかわからなくてさぞ腹立たしいでしょう。
 まったく身に覚えがない、どうして自分がこんな、
 不当な仕打ちを故もなく受けなければならないのか!
 ここはどこなのか? どういう経緯でこんなことに?
 この手紙の書き手の言う安全とは、
 どんな脅威に対して保証されているものなのか?
 あなたは見当もつかず、命の危険すら感じているはず。
 でも大丈夫、あなたは必ず助かります。そして、
 あなたがいま疑問に思っていることをすべて、
 そのとき助けにきた人が説明してくれるでしょう。
 何日か、あるいは一週間か、
 時間は少しかかるかもしれませんが、
 助けは必ず来ます。
 心を強くもってお待ちなさい。
 助けは必ず来ます。がんばれ!





 手紙は手書きではない、ごくありふれたA4用紙にプリンターで印刷されたものである。少なくとも見た目上、その文章以外にはどんな特徴も見出せない。
(これ、素手で触ったりしないほうがよかったのかな。でもどのみち天城も触ってるし……)
「……天城、リュックって、なにが入ってるの?」
 雪子はリュックの中をごそごそ漁りながら、「水とか、食べ物とか、ウェットティッシュとか、もうホントいろいろ」と言った。むろん手紙にある「何日か、あるいは一週間か」の間のために用意されたものなのだろう。
(まず、犯人がこれを用意したとする。そう仮定する。――なぜ?)
 まったく「なぜ?」だらけである。手紙の内容といい、この世界で生存するために用意されたのだろう諸々の物品といい、犯人がその前提としてしようとしていることとなにからなにまで繋がらない。相手を確実な死地に――それも惨たらしく速やかな死の待つ――蹴落としておきながら、当の彼に懇切な慰藉と激励とを送り、救助を保証し、あまつさえ生存のための物資を用意するなどと。
(できるだけ長く苦しめるため? いや、シャドウに遭った時点でほぼ終わりなんだぞ、自分で観察できるわけでもなし、そんなことのために食料だのなんだの自腹まで切って、あんなバカでかいリュックに目一杯つめこんだりするか?)
 ではなにか。見せかけの希望に縋らせて、より絶望を大きくさせるため? いや、絶望させるだとか恐怖させるだとかいう目的であれば、そもそもリュックいっぱいの物資など必要ない、この手紙の内容と反対のことを書けばそれで済む。ここは化物がうじゃうじゃいる。せいぜい逃げ回ればいい。恐怖して苦しむがいい。おまえはぜったい助からない。一週間待ったって助けなんか来ない。諦めるんだな。――このほうがよほど堪える。 
「これ、犯人が置いてったんじゃないよね、まさか」と、悠の右肩に頭突きをくれるような恰好で千枝が呟いた。「犯人ならわざわざこんなことするイミないよね」
「じゃ、犯人でも俺たちでもない誰かってことか?」と、悠の左頬に耳をくっつけるような恰好で陽介が呟いた。「クマ、ここって他に住人なんかいねーんだろ?」
「クマの知ってる限り、そんなヒトいないはずクマ」クマは手紙を見たがって悠の目の前をウロチョロしている。「センセイなんて書いてあるクマ? 見えんクマ」
「他にもケットとか携帯用コンロとか、食器とかも」悠の首のすぐ後ろで雪子の声がリュックの中身を列挙する。「ねえ千枝、いま言った犯人って? 誰のこと?」
 この世界に入れてさえしまえば生身の人間など一日か二日ていどで殺されてしまう、犯人もすでに二度おなじことをしているのだからよく承知しているはず。仮に被害者にありもしない希望を持たせようとするとして、暑くも寒くもない、いたって清潔なこの世界で、食料や水だけならまだしもウェットティッシュだのケットだの携帯用コンロだのといった物品まで用意するだろうか? 明らかに数日の生存を前提とした、それも生活の質を考慮したラインアップだ。加えてそれらを詰め込んだリュックの大きさを考え合わせれば、この救援物資は総額にして一万や二万で収まるようなものではないだろう。
(不自然すぎる、どう考えても犯人が用意したものとは思えない)
「……みんな、歩こう。歩きながら考えよう。クマ」
 ふたたびクマを促して、悠たちは件の手紙に群がるような形のまま、のろのろと来た道を戻り始めた。悠の歩みにぴったり合わせてバンズもくっついてくるので、彼は依然として前後左右サンドイッチ状態である。
「雪子、誘拐されたんだよ? ひょっとしてわかってなかった?」と、千枝。
「わかんないよ、気がついたらここで、なんか凄く朦朧としてて」と、雪子。
「え、どうやって連れてこられたかとかぜんぜんわかんねーの?」と、陽介。
「ユキチャンカドワカされたクマか? なんかされてないクマ?」クマの言葉にはなにか期待のようなものが滲んでいる。
(こいつら……わざとやってるな)
 悠をギューギュー押し固めながら四人のぺちゃくちゃ喋る合間に、背後で雪子のそっと忍び笑う声が聞こえた。もちろんわざとやっているのであろう、一分、二分と経っても彼らはそしらぬ気でとぼけるつもりらしく、いっこう包囲を解こうとはしない。考え事のないときであればいくらでも喜んで付き合うのだが、
(気が散るなァ……)
「で、おれは投降するか死ぬかするまでこのアレシアから出られないってわけだ」手紙に目を落としたまま悠は呻いた。「クマ、もっと早く歩けるはずだぞ、知ってるんだからな」
「クマちょっと疲れちゃって、センセイまた運んでほしいクマ」と、クマ。
「あはは、なんか流れでさァ……つかツッコミ入るの遅すぎ!」と、千枝。
「えっとごめんなさい、なんかやらなきゃいけないのかなって」と、雪子。
「天城ノリいいじゃん、なんかそーいうイメージなかったけど」と、陽介。
「ふざけてないで、みんな一列になって、天城を真ん中に。急ごう」横並びに歩けば他はともかく、視界の利かない雪子には少しく不安でもあろう。「おれとくっつきたいなら事前に予定を確認して、ちゃんと服ぬいで」
「センセイクマこれイッチョーラなん――」
「ああほら出発! さっさと歩く!」
「はい……」クマはたちまちしょげ返った。
「あっ、鳴上くん怒ったクマ」と、千枝が雑ぜ返す。「鳴上くん発言がシモいクマー、セクハラクマー」
「セクハラクマー」と、背後で雪子が呟く。
「セクハラクマー!」クマはたちまち甦った。「センセイセクハラってなにクマァ? クマこどもだからわからんクマ、おせーてクマァ?」
「ほら悠おこらせるとこえークマよ、さっさと行こうクマ」陽介までクマ語を話し始めた。「俺がクマの後ろに並ぶから。悠は一番うしろでいいクマ?」
「……いいクマ」
 と、悠の仏頂面して言うのをさも面白げに、彼以外の四人がどっと笑う。首尾よく雪子を救出しおおせた安堵と達成感がそうさせるのだろうか、陽介も千枝も一転、常に勝る陽気さで、加えて雪子もそのおとなしやかな風貌とは裏腹に、このふたりのふざけてさんざめくのにむしろ喜んで同調するのだった。彼女にしても一身の助かった安堵があるのに違いはなかろうが、少しく意外の感がある。悠もまた陽介の言葉どおり、彼女には「なんかそーいうイメージなかった」のである。
(ちょっと緊張感に欠けるけど……仕方ないか)悠はしぶしぶ仏頂面を解いた。(多少は大目にみよう。きっとさんざん恐ろしい目に遭ったんだろうし、天城にはこういう慰めも必要なんだ、きっと)
 サンドイッチはほどなく分解して、一行はクマを先頭に一列縦隊を作った。件のリュックは「こーゆう重たいものは男子が持つべきだと思いまーす」との千枝の提案で、雪子の腕から陽介の背へと移動している。
(あれは犯人が用意したものじゃない、それは確実だ……と、思う)悠はふたたび手紙に目を落とした。(ということは、この手紙を書いたのは陽介の言う、犯人でもおれたちでもない誰かってことになる、けど)
 それもこちら側の住人ではない、ちゃんと店舗でリュックその他の物資を購入することのできる人間である。そのうえテレビの世界に出入りが可能で、クマやシャドウの探知を逃れおおせ、悠たちが救助に赴くであろうことを隠密裏に把握し、その旨に励ましの言葉を添えて書き置きをプリントアウトし、巨大なリュックサックを背にどうやってか犠牲者の許へ速やかにたどり着き……しかし単独で救助する力までは持たない、人間である。考えれば考えるほど眉間の皺が深くなる。こんなことのできる人間が果たして存在しうるのだろうか? したとして救助のためにここまでしておきながら、その仕事を引き継ぐはずの悠たちとなぜ連絡を取ろうとしないのか。彼は姿を見られたくないのだろうか。
 不可解な点はまだある。仮にこの手紙をしたためたのが犯人ではなく、ちょっと融通の利かない神通力と旺盛な道義心をもつリッチでシャイな忍者であったとして、彼はなぜこともあろうにここから動くな、ここは安全だなどと書いたのだろう。欺くつもりならなんとでも書けようが、じっさいここは危険きわまりないのだし、迷う迷わない以前にじっとしていたら命に関わるのである。すぐ救助が来るという前提であればまだしも、「何日か、あるいは一週間か、時間は少しかかるかもしれませんが」とあるからには、かの忍者は雪子を何日か放置することになるかもしれない、ということを理解していたのは間違いないのだし、リュックサックの中身は実にそのための物資であろう。その辺りの山でハイキング中に遭難したというのならこの指導も妥当かもしれないが、雪子の連れ込まれたのは飢えたワニやピラニアでひしめく淵である。かの忍者自身、それらを避けながら雪子の許を目指したに違いないはずなのに、かかる死の淵に胸まで浸かった状態の彼女に何日も動かず待てなどと言うのは、そのためにここまで労を執った彼自身の目的といかにも合致しない。
(なんでこうもちぐはぐなんだ……助けるつもりがあるのか? いや、殺すつもりもか?)
 悠は懊悩した。この手紙を書いた人間はいずれにせよ雪子を殺すか助けるかしたかったはず、しかしどちらを想定するにしろ「彼」が自分の求める結果のために辿った過程に明らかな矛盾があるのだ。もっとも――それが犯人であっても忍者であっても、あと一日も放っておけば雪子はおそらく死んでいただろう。あんな松明一本でそうそうシャドウの襲撃を防ぎ得たとは思えないし、悠の倒した例の騎士にでも出会せばそれで終わりである。いずれにせよ雪子は危ういところではあったのだ。
(じゃあ、この手紙の送り主は犯人ってことになる? いや、そんなのはただの結果論だ、とてもそうとは……)
「そういやさ、天城」と、前を歩く陽介が肩越しに振り返った。「ちっと訊きたいことあんだけど。つか、ヘンなこと訊くんだけど」
「え、なに?」
「大したことじゃねーんだけど……あのさ、天城んちにある服にさ、昔の西洋のお姫さまが着るみたいな、こんな裾が広がったドレスとか、あったりする?」
 雪子が口を開く前に千枝が「あっ、そうだよ!」と声を上げた。
「雪子あれなんなの? なんかプリンセスゥーってカンジの服きて、とつげき逆ナンーとかって」
「……え? なに? どういう意味?」
 雪子はまったく「なに言い出したのこの子」とでも言いたげな口調である。べつだん隠しごとが露見しそうになった狼狽を隠しているというふうもない、ただ困惑気にするばかりで、彼女に心当たりのありそうな様子はない。
「プリンセス……とつげき逆なに?」
「逆ナン」と、陽介が引き継ぐ。「とつげき逆ナーン、雪子姫の白馬の王子サマ探しィ、チョー本気ィ、とか」
「なになに? 逆ナンってなにクマ?」クマが振り返って後ろ歩きになる。
「あ、ちょっと似てるのがムカつく」千枝はニヤニヤしている。「雪子なんかすごいノリノリで今みたいなこと言ってたんだけど」
「映像倫理完全ムシィー、放送事故大歓迎ー、伝説つくっちゃうぞォー」陽介はクネクネしながらすっかり悪ノリに浸っている。「ヘンな声でちゃうーとかって、こんなカッコして、こんな、こんな」
 千枝は「うわーうざー!」とケラケラ笑って、じき傷の痛みに顔をしかめて「あいったい、いったい」と沈んだ。いっぽう当の雪子はなにか凄まじい誤解をゆえなく受けているといった様子で、「知らないよなにそれ! そんなこと言ったことない!」としゃにむに否んでかかる。
(気が散るなァ……)一列縦隊は早くも崩壊し始めていた。(こいつら、ここがどこか忘れてるのか? その辺りの山へハイキングに来たんじゃないんだぞ……)
「逆ナンって、お、王子サマ? わたしがいつそんなこと……!」
「逆ナンってなに? ヨースケ逆ナンって」クマは諦めない。
「センセイに聞きな」と、陽介は悠に押し付けた。「――だよな。つか、じゃあそういう服とか持ってないんだな」
「持ってないよそんなの! それよりなんなのその……伝説って……へんな声ェ?」
「見えないトコまで勝負仕様なんだよね」痛げに瞼を痙攣させつつも、千枝はいたって愉快そうにしている。いまは痛いよりも面白いほうが優先するらしい。「ポストクラブとかブッ建てちゃうんだよね」
「あれが天城じゃないってことはまあ、わかってたんだけどさ。じゃあやっぱりアレって……」
「センセイ、逆ナンってなにクマ?」
「……逆ナンっていうのは」と、悠は険悪な声を上げた。「前を歩いてるひとがお喋りしてぐずぐずしてると、最後尾のひとがかんかんになって怒り出すことをいうんだ」
 クマ以下四名はただちに向き直って粛々と前進を始めた。ただ千枝だけが未だにクマ語を改めないで「鳴上くんコワイクマ」などと雪子に囁いている。






「ここ、何階なんだろな、そういや」
 ややあって、陽介が誰にともなくそう訊いた。ちょうど先にクマの腕を抱えて駆け上がった螺旋階段に差し掛かったところである。走りながらいちいち数えている余裕はなかったのでしかとは解りかねるものの、たしか通算で五、六度も上ったであろうか。
 一行は一列縦隊を維持しながら階段を下り始めた。
「雪子それで下りれる?」千枝は和装の足下の心許なさを気にしている。「下カーペットだし、ゲタ滑らない? 脱いだほうがよくない?」
「んん、だいじょうぶ」雪子は褄を両手で持ち上げて、恐るおそるといった態である。「さっき一回おりたから」
「五階くらいか? 外から見た限りじゃ確かそんくらいだったよな、高さ的にここらが最上階なんかな」
「クマ、最短距離よりもシャドウを警戒して。遭わずに済むなら回避しよう」と、悠は手紙に目を落としたまま言った。「あとみんなごめん、ちょっと断っておくけど、いま少し考え事してるから、しばらく話しかけないでもらえると助かる」
「なに考えてんのお前、さっきから」と陽介が訊いたのは、話しかけるなと言って二秒も経たぬうちである。「その手紙? なんか考えることとかあんなら、ひとりで唸ってねーでみんなで考えようぜ。えーとアレ、第二回テレビの中の住人会議?」
「花村くん前みて、足下あぶない」と、雪子。「……いま言ったテレビの中の住人って?」
「わり天城、なに? もっかい」
「テレビの中の住人会議ってなに?」
「その前」
「あぶないから足下みてって言ったの」
「あー……おい悠」
「考えが纏まったら話す。煮詰める前に下ごしらえがいる」悠は顔を上げもしない。
「なんか気になるトコとかあるの?」千枝が悠の横に並んであたまを突っ込んで来た。「ね、コレってさ、あたしらのほかにさ、被害者を助けようとしてるひとがいるってコトなんだよね」
(話しかけるなっつってんのに……)悠のムッとするのも千枝は気付かない。
「コレ大人なんかね。ひょっとしてあたしらみたいにさ、高校生だったりしてね」
「…………」
「あ、実はタテ読みだったりとか? こ、こ、あ、あ、あ、もってんなワケないか、あはは」
「…………」
「階段おりながら見るのあぶなくない?」
「んん」
「……やっぱクマくんみたいなのかな、コレ書いたの」
「クマ……?」
 悠はなにか引っかかりを感じて顔を上げた。
「や、だって、いるトコわかったからさ、雪子んトコまで来れたんだし……お、怒るトコですか? ここ」
 悠が黙ったまま凝視するのを、彼を怒らせたものと勘違いしたようで、千枝はたちまち縮こまって「ごめんって、うるさかった?」と窺うように言った。
「クマ?」
「匂いとか辿って来たんかなーって、思っただけで……鳴上くん?」
(クマ、クマみたい――そうか!)思わずアッと声が出かける。(クマだ、クマなんだ、でもクマじゃない……!)
 おお里中千枝、わがミューズ! 彼女の言葉はさながら女神の霊感であった。悠はふたたび手紙に目を落として、穴も開けよとばかり文面を睨まえた。クマみたい――自分たちはひょっとして、マヨナカテレビを映して殺人を未然に防ぎ止めようとする、テレビ側の「能動的な具体」と邂逅したのではないか?
「うおーい、鳴上くーん?」
「千枝うるさい。じゃないごめん、里中うるさい」
「いやいいけど……つかあやまるのそこですか」
「クマ、ちょっといい?」
 と、悠が呼びかけるなり、クマは階段の中途で危なげに「なにクマっ?」と振り返った。ボールを持って近づいてきた主人に嬉々として尻尾を振る子犬のようである。
「クマ立ち止まらないで、危ないから下りながら聞いて――ほらみんなも」と、促しながら続けて、「あのさ、おれが陽介と一緒にこっちへ入ってきたとき……二回目の、里中が来なかったとき」
「えーと、センセイとヨースケがケンカしたときクマ?」
「へえ、ケンカしたの? なんで?」
「そのときクマさ」ミューズを黙殺しながら、「あのスタジオのほかにもシャドウの入れないところがいくつかあるなんて……言ってたよな、たしか」
「あるクマ」と、クマは当然のように請け合った。陽介はすっかり忘れていた様子で、「マジ? そんなんあんの?」と素朴な驚きを見せる。
「そういうところってこの城の中にもある? わかる?」
 悠は急き込んで尋ねた。クマの答えは「あるかもしれんクマ」である。
「じっさいに行ってみないとわからんけど、あってもおか――」
「天城! この城で最初に気がついたとき」クマを遮りながら今度は雪子に向かって、「その場所から動いたよね、シャドウに遭ったのはそのあと? それともその場で?」
「え? えっと」
「応えてはやく」
 と、急かされた雪子はしどろもどろに、「んん、動いたあと、だけど」と言った。
「動くなって書いてあったんだけど、どうしても気になっちゃって、不安で……あの、よくなかった? よね」
 決まった――悠は思わず会心の笑みを浮かべた。
「笑ってるよこのヒト」無視された千枝は少しく膨れている。
「なに、もう下ごしらえ終わったっぽい?」陽介は苦笑している。「もうナベ火にかけてんぞ、はやく煮るぞ」
「ヨースケ、ヨースケ、ちょっと」クマがなにごとか注意を発している。
(この手紙の送り主は犯人じゃない、間違いなく忍者だ)
 彼は犯人が放置した雪子を保護して、シャドウの入れない「聖域」まで運んだのだ。そこから出る危険をあえて「確実に迷ってしまう」からとしか説明せず、シャドウの脅威に言及していないのはいささか片手落ちのようにも思われるが、あるいはそうすることによっていたずらに恐怖心を煽ったり、かえって好奇心を刺激された雪子が外の様子を見に行ったりするなどの事態を避けようとしたのかもしれない。
「鳴上くん、どうしたの?」と、雪子。「なにか気付いたの?」
「んん、ナベは必要ない」悠はぞんざいに返す。
「ヨースケ、あそこってあんなに狭かったクマ?」クマが不審げな声を上げる。「あとあんなトビラなかったはずクマけど」
 この外にはシャドウというバケモノがわんさかいます、君を見つけたらすぐ捕まえて食べてしまうことでしょう――なるほど、もし彼がただ真実をこそ伝えばやとこんな文言を追加しでもしていたら、果たして雪子はこの見えざる書き手の誠意を信じることができただろうか? 否であろう、それを見たことのない一般人の耳に入れるには、シャドウだのテレビの世界だのはあまりにもオカルティックに過ぎる。たちまち疑念を生ずるか、真偽を確かめたがるか、いずれにせよ彼女は彼の思惑から外れようとしただろう。まさしく彼はそんなことを書かなくてよかったのだ。
(山野アナや小西先輩にも同じものが? 思い出せ悠、あの現場の近くにリュックサックは――)悠は手紙から顔を上げて、千枝のつむじに目を据えた。(いや、なくても不思議じゃないんだ、あのふたりも天城みたいに移動したあと襲われたのなら……待てよ、そのとき忍者は誰の助けを当てにしたんだ?)
 一行は階段を下りきったあと、さほど歩かずに停止した。先頭のクマと陽介が立ち止まったのである。
「コレってもっと下のほうにあったヤツだろ、非常口」と、困惑げな陽介の声。「里中の……シャドナカに引っ張られてたときの。つかここって明らかに別んとこだよな」
「シャドナカゆうな」と、千枝。「でもそうだよね……そもそもあたしら道まちがえてないよね、フツーにきた道もどってきただけだし。なんで?」
「シャドナカってなに?」と、雪子。「ねえあの、そろそろだれかここのこととか説明してくれると……さっき移動しながら説明するって言ったから待ってたんだけど」
「あー、だよな、そっちもあったよな――おい悠」
「ナベはいらない。あとは盛りつけ」
「お前ちょっと、いい加減にしろって」陽介は最後尾までつかつかやってくると、悠の手から手紙をふんだくった。「コレに没頭すんのもいいけどちっとは周りも気にしろよ。天城が説明して欲しいって」
「あ……悪い、わかったところまでなら。その手紙はたぶん」
「そっちじゃない。ここのこととか説明してやらんと、天城もいいかげん気味悪いだろ。俺とかしてもいいけどお前するって言ってたし、シャドウの――」
「センセイ」
 と、クマが陽介を遮って悠を呼んだ。着ぐるみは「非常口」と表記のある緑色の誘導灯の下で、今ほど下りてきた階段を見上げながら聞き耳を立てている。
(非常口……?)
 見覚えがあるような――悠はようやく周囲を観察する必要を思い出した。
 いかにも、その誘導灯、というより、着ぐるみの背後に見え隠れする暗緑色の扉には間違いなく見覚えがある。天城屋旧館のロビーから例の長廊へ移動するとき、千枝のシャドウに乞われて開けたものと同じであった。べつに同じ意匠のものがここにあったからおかしいというわけではないが、
「陽介ちょっと待った。クマも」
(おかしい。この階段を上る前に扉なんか開けてないし、そもそもここはもっと広かったはず。あのバカでかい廊下は?)
 この城にある階段は今まで見てきた限り、どれも大人が七、八人も並んで上り下りできるほど大型のものばかりで、高校の校舎に設けられているような按配で直接廊下に接しているのが常であった。いま下りてきた螺旋階段にしてもそのはずだったのが、上り口に開けているはずの長廊の代わりに、あるのは緑色の誘導灯がぼんやりと光る、階段室の入口を思わせる狭い行き止まりだけ。短い矩形の隧道のようになったその先に見覚えのある鉄扉はあった。それがなんであれ前時代的な装飾抜きではありえないポスギル城の内装に慣れた目に、シンプルな扉や誘導灯はかえって異質に映る。
「なんで非常口がここに?」
「お前マジでいまさらだぞ」と、陽介は呆れた。
「鳴上くんいまさら過ぎる」と、千枝も呆れた。
「ねえ、クマさんがなにか」と、雪子。「クマさんどうしたの? 道まちがえたの?」
「クマ、そうなの?」
 クマは応えずに、小刻みに震えながら螺旋階段の吹き抜けを指さした。と、まるで彼がそうするのを待っていたかのように、階段の高みからなにか大勢のひとが塊になって駆け下りてくるような、雑然とした物音が微かに聞こえてくる。樋を切った真鍮様の丸手摺りがビリビリ震動するのが見える。クマはようやく口を開いて、
「シャドウが来るクマ」
 呆然と呟いた。彼以外の四人全員が目を剥いた。
「シャ――おい悠!」と叫んで、陽介はすぐさまタロットを取り出した。「ペルソナ! やるぞ!」
「ダメクマ、ものすごい数クマ!」クマがあわてて陽介の袖を引っ張る。「この城のシャドウのほとんどが集まってきてるみたい、いくらヨースケとセンセイのペルソナでも……」
 クマは女子ふたりを心配そうに見ている。仮にシャドウを倒し続けることはできたとしても、彼女たちが無事では済まないと言いたいのだろう。千枝と陽介の血の記憶はいまだ生々しい、彼らを庇って破片を浴び続けたクマにしてもそれは同様なのだ。今度はふたりだけでは済むまい、血に酔って暴れ狂う二体のペルソナの足下にあっては、悠たち四人の生存はおろか、あとに残る亡骸が人型を保っているかどうかさえおぼつかない。クマの着ぐるみもまたお化け屋敷でしか使ってもらえないようなありさまになることだろう。
 場所が悪すぎる――一端は引き出したタロットをふたたびポケットに突っ込んで、悠は非常扉のノブに飛びついた。
「クマの言うとおりだ、みんな逃げるぞ!」
「つったってその先に別のがいたら――!」
「ここは狭すぎる!」と、陽介を遮って、「やるにしたってもう少し広い場所に出なきゃダメだ!」
 悠たちのいる螺旋階段の上り口は、もともとあった長大な廊下へのアクセスが消失したおかげで井戸の底のようになっていた。面積にしてじつに八十神高校の教室一室ぶんほどのスペースしかない。こんなところで壁を背に千枝たちを庇いながら陣を張るなどすれば、先のサイコロみたいなのが数匹来るだけで生身の身体は危うくなる。非常口への狭い隧道に彼女らを押し込めて蓋をすれば当面は安全だろうが、当の非常口側からシャドウが現れたときに手の打ちようがなくなる。明らかに地の利がない、おまけに防衛を担当するのは数分だに理性を保ち得ない狂戦士たちなのだ。わがことながら彼らがひとつところに腰を据えて守勢一心に努めようなどとはどうしても思われない。
 非常扉は先に開けたものとは比較にならないくらい重い。まさか施錠されているのでは、と悠は蒼白になったが、どうやらそうではない、壁に足をかけて渾身の力を込めれば扉は僅かに動いた。どうも向こう側が負圧になっているような手応えがある。
「ひとりじゃムリだ、陽介手伝え――ふたりも! 里中、天城!」呼ばれた三人が押っ取り刀で鉄扉のノブに集結する。「せーので引くぞ、せーの――!」
 一瞬の拮抗ののち扉は勢いよく開いた。悠たち四人はその余勢を駆ってもろとも背後へ倒れ込んだ。とたんにこちら側の空気が扉のむこう側へどっと殺到して、いま開けたばかりの鉄扉がゆるゆると閉まろうとする。
「おいここ、さっきの旧館だぞ!」と、陽介。
「扉、扉! また閉まっちゃう!」と、千枝。
「ふたりともどいて! 重いー!」と、雪子。
「三人とも早くどけ! 苦しい!」と、悠。
 縺れる四人を置いてクマが間一髪、閉まりかけていた非常扉のノブを掴んだ。着ぐるみの向こうには陽介の言うとおり、ポスターを張り巡らした薄暗い天城屋の廊下が見え隠れしている。
「いつのまにそんなに下りたんだよ俺ら!」
「ヨースケはやく! シャドウがすぐそこまで来てるクマ!」
 とクマの指さす先、悠たちの背後に、よりにもよって例のサイコロ様のシャドウが一匹、先行して降ってくるのが見える。泡を食って立ち上がろうとする陽介たち三人に踏まれ蹴られしながら、悠はポケットからふたたびタロットを抜き出した。――雪子が悲鳴を上げる。悠たち四人とシャドウとの間に巨人が立ちふさがったのである。
「いまのうちに! はやく行け、クマも!」小型のシャドウの一、二匹であれば、よたよた歩きの鳴上流ペルソナでもなんとかなるだろう。「おれが最後に!」
「バカ言ってんなっ! お前ひとり残して――!」
「ちゃんと行くから! 扉おさえててくれ!」悠は尻餅をついたまま振り返ると、陽介を遮って怒鳴った。が、後半の「扉おさえててくれ!」は半ば笑い混じりである。「おれがひとりで残って扉を閉めるって? 誰がそんな映画みたいなマネするもんか!」
 さあ来い! 悠はペルソナの視界に映る黒っぽいサイコロへ、威嚇するようにして矛の切っ先を向けた。隧道は狭く長物を振り回すようなスペースはない。向かってくるようなら突きを入れるしかないが――などと身構えていると、件のサイコロはペルソナが武器を持ち上げたとたん、まるで「とんでもない、争うつもりなんかないんですよ」とでも言わんばかり、一目散に逃げ去ってしまった。
(あいつ、そういえば上の大広間でも……)
 ふと先の騎士型のシャドウとの闘いが思い出される。陽介たちを救おうと大広間へ飛び込んだとき、かのサイコロどもは悠のペルソナの姿を見るなり獲物そっちのけで逃げにかかっていた。そうといえば陽介のペルソナがシャドウ狩りに精を出していたときも、最後まで残っていたのは彼らである。おそらくほかのシャドウが陽介に食ってかかる間、累を避けて逃げ回っていたのだろう、どうもシャドウの中では臆病な部類に入るようだ。
(シャドウは動物みたいに、種類ごとに習性があったりするのか? 火を避けるのもなんだかそんな印象があるし)
 どうやら得体の知れない、人知の及ぶべくもないエイリアンというわけでもないらしい。あるいは悪夢的な外貌がその脅威を実際以上に見せかけているのかもしれない。もちろん人間の力の抗し得ない存在であることにかけてはライオンやクマと変わるところはないが、いかにもライオンやクマには習性があり、弱点があるのだ。シャドウにしてもその可能性はじゅうぶんある。
 悠はなおも警戒しつつ、ペルソナと自分の身体を交互に後退らせながら、陽介たちの待つ非常口を潜った。その間にも小型のシャドウの襲来が散発的にあったものの、来るのはすべて例のサイコロで、凶器を振り上げたペルソナとはち合わせるや否や「あ、部屋を間違えました」とばかりさっさと退散するのであった。
「いいぞ陽介、閉めろ!」
 悠とペルソナが通るのを見届けてすぐ、突っ支えをしていた陽介が扉を閉めた。どうやら本当に、それもかなり強力な負圧になっていたようで、重い鉄扉は閉まり際に陽介を突き飛ばして、ついでに彼を「うおっ!」と跳び上がらせるほどの凄まじい音を響かせた。これならいかにシャドウが尋常でない力を持つとはいえ、扉そのものを破壊しでもしないかぎりそうそう突破されることはないはず。
「くっそ鼓膜ふるえたぞ……右まで破れたらどーすんだ」
 閉まって五秒も数えないうちに、扉がふたたびズドンと鳴る。悠と陽介の恐怖の視線が集中する。もちろんシャドウが向う側からぶち破ろうとしているのだろう、衝突音はそれから間断なく続いた。なんだかホラー映画のワンシーンのような、既視感を覚える光景である。
「……なんか前にもこんなことあったよな、たしか」と、陽介。
「あのアパートだろ?」
 頑丈な鉄扉は派手な音こそたてるもののじゅうぶん持ち堪えている。どうもただむやみにぶつかってくるばかりで、人間のようにノブを回して引くといったような知恵も持ち合わせないらしい。悠と陽介はお互いを見合って安堵の笑みを浮かべた。無事に虎口を脱したようだ。
「で、里中は腰ぬかして泣いてたんだよな、たしか」と、陽介。
「チビってなかった?」
「あはは……そうそうチビッてたチビッてた」陽介の笑いに疲労が滲む。「あー、そういや里中たちは? つかここなんか――」
「鳴上くん、花村! はやく!」
 と陽介を遮って、ロビーのほうから千枝がよたよたと駆け込んできた。背後を指さして「ここ火事! 火ィついてる!」などと切迫した声を上げる。
「はあっ? 火ィ? なんで?」と、陽介。
「なんでも!」と、千枝。「いまは理由なんてどーでもいいでしょっつか早く出ないと焼け死ぬっつの!」
 ひょっとするとシャドウたちはこれを察知して避難しようとしていたのかもしれない。ドンドンと非常扉を叩き続ける音がにわかに、なんだか必死に助けを求めているようにも聞こえてくる。むろん助けるつもりなどない、もうじきエンディングクレジットだし、続編の製作予定もないのだ。主人公たちを脅かした化物どもはここらで一斉退場してもらう。
「なんか焦げ臭いなとは思ってたんだけど、火事ですかハイそーですか」陽介はげんなりしている。「そりゃ納得……つか火事率たけーな俺ら、火事オチ? 爆発オチよりゃマシだけど」
「一難去って一難去って一難去って……まだ親戚が来るのか」悠もげんなりしている。「次の握手会は先着何名って決めとこう。整理券用意しよう。というかもうイチナンは出入禁止だ」
「んなコト言ってる場合っ?」千枝が眉を逆立てる。「向こう煙すごいからね! ほら全速力!」
「天城は?」
「クマくんと一緒にもう外でてる!」
 ――千枝の言質はものの数秒で覆った。騒然と白煙立ちこめるロビーに転がり込んだ三人は、あにはからんやマッサージチェアの傍らに立ち竦む雪子と、彼女の袖を引っ張って必死に避難を勧めるクマとを見出したのだった。
「なにやってんの雪子!」
 よほど慌てたものか、千枝は雪子の許へ駆けつけるなり両手で掴み掛かってしまい、すぐさま「いっだー!」と床に頽れてしまった。
「なにやってんだ里中!」煙に咽せながら陽介が怒鳴った。「天城もクマも! 死にてーのかお前ら!」
「ユキチャンが動かないクマ! おかしくなっちゃったクマ!」と、クマが怒鳴り返す。「ユキチャンここ出ないとあぶないクマ、黒こげクマー!」
「陽介、里中を――天城、天城! 早くここから出ないと!」
 雪子は悠を振り向きもしない。咽せて咳き込みながら、かといって慌てるでもなく、彼女は忘我の境といった様子で、
「なんでここ……なんでうちが、うちが」
 などとぶつぶつ呟いている。
「天城……?」
「さっきからずっとこんなカンジクマ……」
「なあ後にしてくれよ、今はそんな――ああもういい!」悠ははや匙を投げた。比喩なしの焦眉の急なのだ、あれこれ言って聞かせている時間はない。「里中、立てる?」
 千枝は立ち上がって、歯を食いしばって無言で頷いた。彼女にまで回す腕はない、痛くても自分で歩いてもらわなければ。
「陽介、左腕。おれは右を掴む。引きずり出すぞ!」
「またそれかよくっそ、どいつもこいつも……!」陽介が雪子の左腕を乱暴に掴む。「早く出るぞ! 上なんかミシミシいってるし!」
 彼の言うとおり、最前から天井と言わず壁と言わず、周囲からは木材の爆ぜて軋めく不穏な音が引きも切らない。室内には煙のただようばかりで炎が見えないのは、火が出てそれほど経っていないのか、あるいは出火元が外であるのか――こんな無人の世界で不審火? あるいはシャドウが放火した? しかし彼らは火を嫌うはず……
(考えてる場合かバカっ! ぐずぐずしてたら天井が落ちてくる!)悠は呆々然たる雪子の右腕を掴んだ。(コニシ酒店みたいに小さな店舗ならともかく、こんな巨大な城の天井が降って来たらいくらペルソナでも……)
 みなを庇い得まい。かの鬼神の怪力もいかでか抗せんや、けだし巌石鶏卵を圧するのたやすさで潰されてしまうに違いない。いわんや悠たち生身の人間においてをや、クマもまたお化け屋敷のリクルートを探すどころではない、跡形もなく潰れて焼かれて、果ては一介の缶詰入り珍味として好事家の賞翫を待つ身となろう。
「イヤクマー! 黒こげイヤクマー!」クマがあわれっぽい声で泣き出した。涙は流れなかったが。「クマまだ誰ともオツキアイしてないクマァー!」
「誰だってイヤだよっ!」悠も缶詰は御免であった。「陽介いくぞ! 全員全速力!」
 雪子が少しく抵抗する色を見せたものの構ってはいられない、悠と陽介は文字通り彼女を引き摺って玄関を下りた。そこには幸か不幸か、先に通ったときにあったはずの隧道は見当たらず、代わりに温泉旅館の玄関にはいかにも似合わしい、磨りガラスを嵌めた古びた組子の格子戸があるだけ。この奥に広がるのは城の内庭か、それとも逃げ道を塞ぐ総鉄製の落とし格子か。もしペルソナの力でそれを破壊できなかったとしたら……
 千枝が引戸をカラリと開け放った。安堵の息が漏れる、どうやら杞憂に終わったようだ。城を包んでいるのだろう炎にあかあかと照らし出された馬の立像、贋物の煉瓦塀、円形階段に噴水――すべて見覚えがある、出た先は間違いなく城の内庭である。なぜ内門が根こそぎ消えてしまったのかはわからないものの、とにかく無事に外へ出ることができたらしい。
 悠たちは煙に押し出されるようにして、内庭の半ば辺りまで一散に駆けた。助かった、今度こそ虎口を脱した! まったく頭上に広がる重々しい赤黒い空が、快晴の青空ほどにも清々しく感じられるようだ。
「今度こそ終わりだろーな……」とやけくそ気味に呟くと、陽介は雪子の腕を投げ出して、やれやれとばかり円形階段に腰を下ろした。「あーくっそ疲れた、リュック重てーし、ハラへったし、のど渇いたし、いま何時だよ……」
(あとはスタジオまでゆっくり歩いても十分程度……)悠も彼に倣って雪子を解放した。(終わった、とにかく終わった、ポスギル城陥落! よくやったぞ陽介)
 ふと今ほど逃れてきたポスギル城を振り返ると、いつの間にそうなっていたものか、先に見た「ぽすぎる」ファサードは唐破風もゆかしい日本家屋のそれへと変じている。というより、日本家屋の上に城が生えたような按配になっていた。この和洋合体した奇妙な建造物が赤い空を突き上げて囂々と燃えているのである。
「なんだありゃ……来たときと変わってんじゃん」陽介は呆然と燃える城を打ち眺めている。「つか、あの下のやつって」
「天城屋だ、ここ、昔の」と、千枝が呟いた。「上のほうはアレだけど」
 彼女の言葉どおり、破風の下に掛かった古色蒼然たる木の看板には「屋城天」とある。玄関口を征服しつつある炎にちらちら舐められて燻っていたそれが、乾いた音を立てて甃の上に落ちた。と、今まで死灰のように黙然としていた雪子がなにを思ったか、その音を聞くや否や一転再燃、弾かれたようにして炎上する天城屋へと駆け出した。
「天城! おい――!」
 とっさに伸ばした手があやうく彼女の手首を捕らえる。引き留められた雪子と言えばさながら狂女の態で、
「放して! 消さなきゃ! 消さないと!」
 おぼとれる緑の黒髪も物凄く叫ぶ、日和下駄を蹴飛ばして暴れる、悠に打ち掛かってしゃにむに逃れようとする。彼の腕に噛み付かんばかりの取り乱しようである。このにわかな狂態に悠の手こずるのを見て、陽介たちが泡を食って駆けつけてきた。
「なにがどーした天城! なに、お前なんかしたの?」陽介はうんざりした様子で、それでも張り切って雪子を取り押さえにかかった。「つかもうマジでちっとは休ませてくれよお前ら……」
「雪子、あれは本物じゃないんだって! ニセモノなんだって!」千枝は親友の癇癪に恐々としながら、雪子に負けじと叫び返している。「ここはあたしらの世界じゃないの! 夢の中みたいなもんなの!――雪子どうしちゃったの?」
 彼女の声が届いているのかどうか、雪子の叫びにはほどなく涙が交じり始めた。もはや恥も外聞もない、彼女は悠たちに縛められながら力なくもがいて、あさましくも痛ましく泣き叫ぶ。不明瞭な言葉の端々に「ちがう」とか「ウソだ」などといった短い慨嘆の文句が聞き取られる。
「……ユキチャンって、いつもこうクマ?」先ほどまでのむやみな狎昵はすっかり鳴りをひそめて、クマはなにか恐ろしいひとでも見るかのようである。「ちょっとおっかないコクマねえ、急に笑ったり泣いたりして」
「いつもはこうじゃないんだよ、いまはちょっと取り乱してるだけで」
 などとは言うものの、悠も内心ではしきりに首を傾げていた。それは旧居の焼亡を目の当たりにしたのだから、心に迫るものなきにしもあらずとは理解できるものの、この反応はいくらなんでも過剰である。さだめて雪子独特の事情でもあるのだろうが、燃え盛る天城屋とポスギル城とのなにが彼女をこれほどまでに錯乱させるのか、悉皆よそびとの彼には見当もつかなかった。わかることと言えばどうやら雪子はいま正気を失っていて、ひとりで歩くことはおろか立っていることさえできそうにない、ということだけである。
「陽介、とりあえず移動しよう、手間だけどスタジオまで引っ張ってくぞ。どのみちここじゃどうしてやることもできない」悠は内心の辟易を苦労して押し隠した。「さあもう一仕事……これが終われば日曜日だ、ちゃっちゃと片付けよう」
「雪子どうしたんだろ、なんでこんなんなっちゃってんのかな……」今度は千枝まで泣きそうになっている。「ねえ雪子ォ、あんたどうしちゃったの? つか聞いてるの?」
 雪子の反応はない。いまや嗚咽と呻吟とを漏らすばかりのその麗貌は悲嘆に歪み、涙と洟とに塗れてまったくあわれこのうえないありさまである。
「これテレビから出たらさ、カウンセリングとか受けさせたほうがいいんかなァ」陽介は気の毒げに雪子の様子を覗っている。「これってなんかアレっぽくねーか? アレ……なんだっけ、ナントカショーガイゴナントカってやつ、でてこねーけど。誘拐されたりシャドウとかに遭ったりしたせいなんかな」
「心的外傷後ストレス障害クマね、ピーティーエスディー」クマがしれっとのたまう。
「お前ってなんでそんなに知識偏ってんの……」
「たぶん警察でそういう配慮もしてくれるだろう」こんな状態の雪子を警察まで引っ張っていくのは骨だし、情においても忍びないのだが。「しばらくしても落ち着かないなら、もうおれたちの手には余るよ。いまはできるだけ――」
「ゲストの皆様ァ!」
 悠はゾッとして言葉を呑み込んだ。スピーカーを通したかん高い声に続いて、キーンというハウリング音がポスギル城の内庭を圧して轟く。悠たち五人は戦々として逃れてきたばかりのポスギル城を振り返った。今まで苦悶の涙にあえいでいた雪子でさえ、この声を聞くなり瞠目して黙ってしまっている。
「んもう登場したばっかりなのにィ」なまめいた声は城の入口――天城屋の玄関から聞こえてくる。「もう帰っちゃうんですかァ? 冗談ばっかり」
「イチナンの総元締めが来ちまったぞ……」陽介が呟いて、胸ポケットからタロットをそっと抜き出した。「つかやっぱりシャドウだったんだな、アレ」
 おどろき身構える悠たちの前に現れたのは、先にマヨナカテレビであられもない嬌態を晒していた雪子――胸ぐりの深いデコルテ姿に、マイクと可搬型スピーカーとを携えた雪子のシャドウである。
「なんで、あれ、わたし……?」
 と、傍らの雪子が微かに漏らすのを聞いた途端、悠は雷に打たれたように愕然となった。そうだ、自分はなにか重大なことを忘れていはしなかったか?
(しまった……予防接種……!)
 彼は手紙に夢中になるあまり、雪子にシャドウの説明をするのをすっかり忘れていたのだった。




[35651] アギィーッ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:6773adaa
Date: 2014/01/31 21:58


「天城、天城よく聞いてくれよ、これから大事なこと言うから!」矢庭に雪子へ飛びかかると、悠は思い余って彼女の顔を両手で挟んだ。「おれの眼を見て、耳を傾けて、ぜったいウソは言わない、信じてくれなきゃ困るっ!」
 と、齧りつくようにして言い募る、眦を決してはたと見据える。雪子は押し倒されんばかりになって「なに、なに、なんなのォ?」などと動転も甚だしい。眼を白黒させながら、それでも悠の言葉にいちおう反応するようになったのは、あるいは自らの声――シャドウの声を耳にした驚愕がショック療法のような効能を示したものか。少なくとも彼女は正気を取り戻してはいる様子。
「よく聞いてくれよ――いまあそこに現れたのは、もうひとりの天城なんだ」
 そして正気を取り戻したからこそ、こんな言葉をすぐさま鵜呑みにするわけもないのだった。雪子は秀眉を寄せて「なに言いだしたのこのひと」とでも言わんばかりである。
「……え? あの、ごめん意味が」洟をすすり上げながら、「あそこって、現れたって、意味がわからない、んだけど」
「あ、いや、天城には見えないと思うけど、いま逃げてきたポス……天城屋から天城のシャドウが出て……ええとシャドウっていうのは――!」
「王子サマー! 雪子はここですよォー!」
 スピーカーを介したシャドウの声が、ポスギル城に反響して悠の言葉に覆い被さった。雪子の猜疑に満ちた眼がこの声の主を探して彼の肩むこうをさまよう。振り返るとちょうど、はや竈の焚口のようになりはてた天城屋の玄関から、雪子のシャドウがクラゲのようなスカートを揺らしながら歩み出て来るところだった。
 火だるまになっていて然るべきなのが、そこはシャドウのシャドウたるゆえんでもあろう、その身を包む古体なデコルテに火のひらひとつ帯びた様子はない。天にも閊えよと燃えるポスギル城を背負い、炎に嬲られ乱れる黒髪は輝かんばかり。マイクの擬せられた花唇の艶なる、影になずむ白磁の麗貌も窈然として雅やかに、ほっそりした姿態を楚々と歩ませるさまは美々しくも気高い、火裏の蓮華が化身もかくやあらんといった風情。
「いまの……さっきのもそうだけど、あれってわたしの――」
「そう、いや違う」雪子に向き直って、「天城おれの眼を見て! 集中! 声は気にしない!」
「だれに話しかけてるんですかァもう妬けちゃあう」
 衣擦れの音が悠の背後へと近づいてくる。万事休すか、いっそ雪子を引っ張ってスタジオまで走るかなどと自棄になりかけていると、
「天城ストップ! ちょっと待った」
 陽介が悠を庇うように、というより、雪子のシャドウから悠たちを隠すようにして前に出てきた。「天城」と言われて雪子が訝しげに彼を見たが、もちろん陽介は彼女に話しかけたのではない。
「なんですか? 王子サマ」雪子のシャドウは素直に停止して、持っていた可搬型スピーカーの音量を絞った。「雪子にご用ですかァ?」
「王子サマって、え、俺のこと? 王子サマとか呼ばれたの初めてだったりして……あー、陰でジュネスの王子とか言われたことあっけど」陽介は困惑まじりに、それでも愛想よく笑いながら続けた。「わり、あのさ、ちっと待っててくんねーかな、いま取り込み中でさ」
「花村くんなに言ってるの、天城って」
 と、雪子の訝しげに問うのに、陽介は振り返ってあいまいに笑いかけがてら、悠に鋭い視線を送って「なんとかしろ悠、シャドウ!」などと呟いた。
(こいつ、時間稼ぎを……?)
 城の外に出たことで雪子の視界を遮る霧はいっそう濃くなっているはずだった。彼我の距離から言ってシャドウ側からはともかく、雪子には声こそ聴かれていてもまだシャドウの姿は見えていないはず。早晩その存在を目の当たりにしてしまうのは避けられなくても、せめて通り一遍でも悠が説明を終えるまでは、彼女がシャドウの、つまり自分自身のドッペルゲンガーの姿を見て錯乱することがないようにと、陽介は気を回したのだろう。この様子を見ていた千枝もまたクマを従えて、われらも合力せんとばかり悠と雪子の前へ躍り出てくる。
「うわっ雪子なにそのカッコ! つかどこに売ってんのそんなの」千枝はいささかわざとらしい、ことさら驚いたような様子でシャドウにからみ始めた。「ひょっとしてジュネス? コスプレ用品まで売ってるってちょっと品揃えよすぎじゃない花村?」
「ねーよ! うちはドンキかっつの……あーお前ドンキ知らねーよな、どーせ」
「しらねーよ。あ、雪子は知ってる? ドンキって」
「ヨースケ、チエチャン、こっちはシャド――」クマのあたまに千枝のヒジがめり込んだ。「――ドンキってなに? なぐるクマ?」
 こんな急場凌ぎの寸劇で稼げる時間などわずかだろう。それでも試みるだけは試みなければ――悠は雪子の顔を両手で挟んだまま、せめて少しでもシャドウから距離を取ろうと彼女をぐいぐい押しながら、
「天城きいてくれ、さっきも言ったけど、信じられないのは百も承知だけど、ウソは言わない。さっきの声の持ち主、天城と同じ声の持ち主、いま陽介と里中が話してるのは、もうひとりの天城なんだ」
 持てるすべての力をただ「誠心誠意」の四文字に傾けて、悠は雪子に覆い被さるようにして打ち明けた。
「……は?」もっとも雪子にはセの字すら伝わっていない様子。「もうひとりのわたし……って、え? どういう」
「わかるよ、わかる、その気持ちはわかりすぎるほどわかる! 困惑するのはもっともなんだ、陽介も里中もそうだった、信じられないのはあたりまえなんだ!」雪子が円形階段を踏み外しかけて悲鳴を上げるのも意に介さず、悠はなおも押しまくって言い募る。「でもこの世界のことを考えてくれ、この世界! ここは異常だ、おれたちのいた世界とはまったく異質で、常識なんかいっさい通用しない! そう天城も見たあのバケモノ、あんな生き物がおれたちの世界に? もちろんいやしない、ここは別世界、いや異世界なんだ! ここではおれたちの――!」
「鳴上くんわかったからちょっと放して、わかったから!」などと口だけでは言うものの、雪子は明らかにわかっていない口調である。「わかったから……ね? ちゃんと話きくから」
「あ、ごめん、放すよ、放す」悠はようやく雪子を解放した。「わかってもらえた? ここはつまり、そういう世界なんだ、人間の精神……とか心みたいなのが、その、形になって表面に出てくるというか」
 雪子は応えずに懐からハンカチを取り出して、しばらく無言のまま涙と洟とに塗れた顔を拭っていた。が、まったく眼は口程にものを言うとはよく言ったもので、指のあわいから隠れ見える彼女の眼の、悠を見るになんと濃厚な疑わしさを秘めていることだろう。もちろん彼女は少しもわかっていないのである。
(天城は正しい……)
 悠は彼女の視線から逃れるように、うつむいて目を瞑った。宜なるかな、雪子は正しい! いまさらこんな性急で雑なやりかたで躍起になって、この不可逆的失点を必死に取り返そうとしているおのれの醜さ馬鹿らしさを思えば、彼は瞑して歎ぜずにはいられない。もちろん雪子は正しい。いきなりこんなことを耳に入れられて、いったい誰がハイそうですねなどと信じるというのだろう。
「ほらっ、さっき、階段おりる前にさ、陽介も言ってただろ?」それでも黙ってなりゆきに任せることはできない。悠は顔を上げた。「天城のドッペルゲンガーみたいなヤツがここにいるって」
「ドッペルゲンガー……って、外国の、妖怪みたいな、あれ?」
「そうそれ、妖怪――じゃない、違う、陽介のはあくまで喩え! 妖怪とは違う」
「要は、さっき鳴上くんの言ってた、シャドウがいるってことなんでしょう?」雪子は納得しかけている、それもあまりよくない方向で。「ここに住んでる化物が、そっちに」
「違うんだよ、シャドウじゃ……いやシャドウなんだけど、シャドウには種類があって……」
 おお汝愚者よ――悠は急に泣き出したいような気持ちに襲われた。もはや罵り飽きた、そのための語彙も尽き果てた、今こそおまえに対する幻滅は極まった! 陽介たちが彼を恃んで時間稼ぎをしてくれているこんな状況になければ、悠は挽回する気力を奮い起こすことすら諦めて雪子の足許に泣き伏していたかもしれない。
 これは陽介が先にそう言って慰めたような、ともすれば不可抗力とも解釈できた今までの失敗とは次元が違う。この全き辛酸には不可抗力をもって自らを責めるときにしばしば支払われる、あのささやかな報酬、パセティックで自己陶酔的な、ほろ苦い甘味など少しも備わらない。悠は確かにあの手紙を受け取るまでは、雪子へシャドウの説明をせねばならぬと決心していたのである。そしてそれに充てる時間はじゅうぶんあった。にもかかわらず彼はそれを無為にも、貴重な時間を費やしてまでする必要もない思索で費消してしまった。汝愚者よ! 愚かな上にもバカである。
(うちに帰ったら辞書を引こう……おれにふさわしい、もうちょっと破滅的で凝った罵倒語がたぶん見つかるだろう)あくまで家に帰ったら、である。(鳴上悠、エポケー! 仕切り直せ! いまはバカのひと言で十分だ、自分のバカさ加減をつぶさに分析してる時間はないんだ! それよりなんとかして天城に説明しないと――)
 こんなふうに克己のひとり相撲をとっていても、畢竟それで雪子たちがどうなるわけでもない。彼が打開策を講じかねて煩悶している暇もなく、背後から「あっ、天城まてって!」などと陽介の制止する声が聞こえた。彼のせっかくの時間稼ぎも水泡に帰したようだ、その恃むところの友人はなにほどの成果も上げられなかったのだから。
 恐るおそる振り返ると、果たして足取りも優雅にこちらへやってくるシャドウと、それを追い抜きながらさかんに制止を呼びかける陽介たちとが見える。悠は窮余のあまり、先に親友に勧められた「楽観」とやらを試みてみた。雪子はおとなびていてしっかりしている。陽介や千枝とはさだめて人間の成長の度合いも違うことだろう、もちろんそれは彼女自身のシャドウにも言えることだ。あんがい雪子は自分のシャドウとうまく談判しおおせるかもしれない。いや、そもそも陽介と千枝の例に漏れないと考えるのが間違いだ、ひょっとするとふたりはお互い顔を合わせてもいがみ合わずに、時節の挨拶を交わす程度で済むかもしれないではないか!――彼のせっせと膨らませたこの小さな期待も、おそらくは雪子の姿を認めたのだろう、彼女のシャドウが嫌悪もあらわにその麗貌を歪めるのを見るや否やはかなく弾けて消えた。
「悪い悠、ダメだった。なんかぜんぜんハナシ通じないっつか……」陽介が駆け寄ってきて低く訊いた。「で、そっちはどう、成果は?」
「おれは楽観の才能もないらしい」悠は悄然として呟いた。
「ダメだったってこと?」と言って、千枝は雪子を隠すようにして悠の横に並んだ。「――雪子、鳴上くんの言うこと理解できた?」
「……アレは、シャドウなんでしょ? 要するに」雪子が恐るおそる自分のシャドウを指さす。「なんなのアレ……なんかすごい恰好してるけど」
「なんだわかってんじゃん――ほらクマきち、こっち! はやく!」
「なんでクマだけ王子サマじゃないクマ……?」
 ぶつぶつ言いながらクマが千枝の横に並んだ。ちょうど雪子と彼女のシャドウを隔てるようにして、悠たち四人が堵を作ったような恰好である。
「天城あれは――」悠たちの目の前、五歩ていどの位置でシャドウは立ち止まった。タイムオーバーである。「――天城、これだけは理解してくれ、あの天城は化物じゃない、妖怪でもない、天城自身なんだ」
 肩越しに雪子へ強く言い置くと、悠はひとりシャドウの目の前へ歩み出た。ついに恐れていたシャドウとの遭遇を果たし、かつ「彼女」がじき雪子にとってはなんとしても認めがたいであろう、耳に痛い話を切り出すのが目に見えている今、この上なにをどう言って聞かせたところで彼女はシャドウの本質を理解しなどしないだろう。雪子の錠前はほどなく泥に漬けられようとしている、もはや彼女自身へのアプローチに望みはないと言っていい。けっきょく千枝の例と似たようなケースになってしまった。が、
(里中と同じケースならまだやりようはある、天城がダメなら天城のシャドウだ)
 少なくともシャドウには雪子がいま見せているような動揺の色は覗われない。陽介や千枝のときと同じで、シャドウは常に「驚かす側」なのだ。もちろんこのまま放置して雪子と会話させれば牙のひとつも見せるのだろうが、悠が先制して話しかければきっと「普段の雪子」が返事をしてくれるはず。
「やあ」
 と、悠はシャドウに笑いかけた。笑いかけながら内心、いくらなんでも「やあ」は不自然すぎたと唇を嚙んだものの、意外にも彼女はいたってにこやかに、
「やっと迎えに来てくれたんですね、王子サマ」
 などと応えた。
「あはは……王子サマか。また不審者からずいぶんと出世したな、おれ」
「もちろんあれは冗談ですもん。あなたは王子サマだ、か、らァ、傘とか帯なんかあげるのは失礼なんです」シャドウが一歩詰め寄ってきた。「王子サマにはもーっといいもの、深夜帯じゃないとあげられないものをあげちゃいます!」
「そりゃ、楽しみ」悠は思わず目を逸らしかけた。「ええと、ところで、天城はお姫さまだからこんな、きらびやかな恰好を?」
「そうです! コレ番組用に特注したやつなんですけど、キレイでしょ? 似合いますかァ?」
 と艶然とほほえんで、雪子のシャドウはスカートの両裾を取ってちょっと持ち上げて見せた。
 間近で見る彼女はいよいよ美しい。転校初日に帰路を共にしたとき、千枝の冗談に付き合って悠がじろじろ見るのに不快感を表明していたことからも察せられるとおり、雪子はいったいおとなしめな質で、とてもではないが男に対してあからさまな媚態をつくるようなことは間違ってもしそうにない――親しい人間にはするのかもしれないが――のだが、いざこんなふう「しそうにない」を実現されてみるとその威力はなまなかのものではない。平素より女色なにするものぞ、あに蛾眉皓歯のわれを征すべけんやなどと高をくくっている悠にしてからが動悸を禁じ得ないのである。が、
(ドンキっていうより、トイザらス?)
 霧に紛れては絹の光沢とも見られたデコルテはしかし、彼女の魅力を引き立たせるどころか減殺しかねないしろもので、改めて近くで見てみるとなんともペタッとした厚みのない、ビニールのような安っぽさが目立った。一瞥してどこにも縫製の跡が見られないのは、ひょっとすると糊かなにかでくっつけられているのかもしれない。身体のそこここに鏤められたコサージュも遠目には薔薇のように見えたが、その実態は手芸初心者が練習用に作ったみたいな、形も大きさも不揃いの至ってつたないものである。
「うん、まあ、似合うよ、似合う」
 雪子のシャドウにそれらを恥じる様子はないばかりか、なんとはなし誇らしげですらあった。こんな「おもちゃ」をまるで正装のように着こなす姿は、モデルの不釣り合いに容姿端麗なのも手伝っていっそグロテスクである。いかにも、彼女はポスギル城の姫君であるらしい。
「で、あのさ、ちょっとお姫さまに話があるんだけど」
 悠の言葉は中途から、シャドウの傍らに置いてあるスピーカーによって大きく増幅されて響いた。彼女がマイクを悠の口許に差し向けたのである。
「あっ、こちらの王子サマ、わりと積極的です」あらぬほうを向いて、今度は自分の口にマイクを引き戻して、「これだと逆になりませんねー……でもドキドキしてきたかも、出方を見てみたいと思います!」
 見えない誰かに話しかけるようにして、雪子のシャドウは実況中継でもしているふうである。陽介の「なんかぜんぜんハナシ通じない」と言うのはこれを指すのだろう、先にもゲストがどうだのと言っていたが、どうやらこれは先にマヨナカテレビで見た「雪子姫の白馬の王子サマ探し!」の続きであるらしい。
(出方を見る……ってことは、要はおれがナンパしてるって体裁になってるんだな、コレ)
 これは彼にとって不名誉きわまりないことだったが、まがりなりにもシャドウが受身になってくれたのは都合がよい。そうだ、ナンパにこと寄せて説得すればよいのだ! 悠は世のナンパ男が獲物を見つけたときにかくも繕おうかと思われる笑顔で、
「天城のこと、雪子って、呼んでもいいかな」
 これまでのセオリー通り、雪子と彼女のシャドウを呼び分けるところから始めた。――少しく顔に血の昇ってくるのを意識せずにはいられない、もちろんこの科白もシャドウの持つマイクによって聞かざるあたわざるの大音量で拡声されている。背後の四人にもじつに明瞭に聞かれたことだろう。
「鳴上くんちょっと、なに――」
 案の定、聞き捨てならぬとばかり後ろで雪子の声が上がったものの、これは陽介と千枝とによって速やかに止められた。事情を知るふたりに加えてクマもいるのだ、彼女の抗議はこのさい彼ら三人に任せて無視してしまう。いっぽう、ひそひそ言い合う陽介たちを大して気にするふうもなく、雪子のシャドウは後ろを向いて小さくガッツポーズをとって、
「脈アリです! もーいきなり大本命攻略寸前? でもコレ尺的にどーなんでしょうか、そのぶんカラミ増しでOK? それともちょっと冷たくしてみたりして……」
 あいかわらずの実況スタイルである。
(やりづらいな……そもそもマヨナカテレビのときもそうだったけど、コレ、明らかに普通の天城じゃない)期待していた「普段の雪子」はどうも留守らしい。(どうしてこんな話し方を? ふつうに喋れないのか?)
「で、天城、どう?」
「あっダメダメ、こんなトコで失速してたら数字とれない、伝説つくるんだから――はい王子サマ!」雪子はようよう振り返った。「えっとなんでしたっけ、なんでしょうか!」
「雪子って、呼んでも、いい? ダメなら――」
「いいですいいです! でもその代わりィ」いたずらっぽく微笑んで、雪子のシャドウはついと詰め寄ってきた。「わたしも王子サマのこと、悠くんって、呼びます。いいですかァ?」
「……いい、よ、もちろん、うん」
「じゃあ」と前置くと、彼女はふいに息がかかるくらいまで近づいてきて、心持ち下から覗き込むようにして、尻上がりの甘えた声で、
「ユーウくんっ」
 などと呼ばわった。
(コイツ……!)
 悠はあわてて数歩下がった。こんなあからさまな、しかし耳朶を嚙むような蠱惑的な媚態に、免疫のない彼は不意を打たれたのも手伝ってみるみる赤くなった。おおやめてくれ! 悠は心中で反り返って身もだえした。ここで顔を背けてしまえば狼狽を気取られる、といって、なんとか歴戦のナンパ師を演じ続けようと試みても頬の紅潮するのは止めようがない。
 動悸がする。イヤな汗が背筋を伝う。この数瞬間、悠の精神を鎧う論理の甲冑は消し飛んでいる。雪子のシャドウはたったひと言で彼を武装解除してしまったのである。
「ユーウくん、ユキコって呼んでくれないんですかァ?」
「え、あの……ユキコ……」
「悠くんかーわいい!」雪子のシャドウはケラケラ笑いながら、ふたたび後ろを向いて実況を再開する。「意外や意外、カレの素ってけっこうウブみたいです、ちょっとイメージと違ったかも!」
 背後で陽介の失笑するのが聞こえる。あとでぜったいブッ殺してやる、彼は鰻屋で流動食を食うことになるだろう――悠は歯ぎしりして拳を握りしめた。
(畜生……なんなんだコイツは、卑怯だ! どうしてふつうに話さない!)
 激しい論難や敵意、不意の暴力にならあるいは雄々しく立ち向かいもしよう、そのための力を自身のうちに見出しもしよう。しかしこのあまりにも特殊な威力に対して悠にどのような備えがあっただろう。これは彼がかつて経験したことのない類の戦いであった。ましてこの赤面もののやりとりをハイボリュームで陽介たちに提供し続けなければならないなどと、いったいこんな凄惨な拷問を受けるに値するどのような罪を自分は犯したと言うのだろう。
 いや、拷問で終わればまだいい、この躱しかたのわからない攻撃を二度、三度と食らい続ければ、冤罪を主張するどころではない、いつ目を覆わんばかりの醜態を晒すか知れたものではないのだ。友人たちの耳目に晒される中で、それもひとの生き死にに関わる重大な局面で、たかだか女子一人のつまらぬ媚ごときに、この鳴上悠ともあろうものが菜々子みたいに真っ赤になってもぐもぐ言いながら縮こまる? それは彼にとってはなによりも恐ろしい、自尊心の危機である。
(コイツ、ほんとうに天城のシャドウなのか? いくらなんでもあんまり天城と違いすぎる!)
 こんな窮境に追い込まれた腹立ち紛れに、悠は思わずそもそもの根本から疑って見ないではいられなかった。実に陽介と千枝と、前二件の例はシャドウと本人との相違をまったくと言っていいほど示さなかった。特に後者などはのちに千枝本人が現れるまで、悠も陽介もシャドウであるなどとは露も疑わなかったくらいだ。しかるにこの悩ましい、チャラチャラした、雪子本人とは似ても似付かない軽薄なコスプレ女は――
(バカなことを……これは天城だ、確かに! 現実から目を逸らすな!)悠は自分の腿を強く抓った。(コイツは公園での一件を知ってた。天城を見て顔色を変えた。これは天城のシャドウだ)
 奇矯な言動をさえ除けば彼女の反応は確かにシャドウのものであるし、もしまったく違う存在であるならクマが黙ってはいまい。おそらくは個々人の性質にもよるのであって、こういう類の感情や性格などが際立って表出するような人間もいるのだろう。もしくは雪子が二重人格であるか、あるいはふだんの落ち着いた態度を鋼鉄の意志で演じ切っているか……
「意外、か。かもね、誰の前でもこうってわけじゃないし」
 悠は彼女から目をそらすと、せめて赤面するのを利用して少しくはにかんで見せた。黙るな、踏み込んで攻めよ! とにかく口を開くことだ、赤くなるのはもう仕方ない、いまはこちらから打って出てそれ以上の影響を食い止めなければ。
「イメージと違って幻滅されたかな。雪子はおれみたいに内気なのは眼中になかったかな……あー、かなりショックかも」
 背後で揉み合うような気配がする。陽介たちの言い合う声、というより、彼らに言い含められてなお承伏しない雪子の苛立たしげな声が、徐々に悠の耳裏を打つようになってきていた。クラスメイトが彼女にとっての「自分の偽物」を自らの名前で呼び、本物あつかいしてなれなれしくしているのだ、心中穏やかでないのはかつての陽介や千枝と同様であろう。先のような癇癪を起こして大声など上げないよう、うまく陽介たちが去なしてくれればよいのだが。
「ぜんっぜん! そんなことないです、むしろ好み、ストライクゾーン!」雪子のシャドウは急に慌てだした。「マジメそうでステキです、ホントに、わたしクールなひとって実はあんまり好きじゃなくって」
「フォローありがと、でもいいんだ、顔みれば脈なさそうなのわかるしさ……」悠はあえて引いてみた。「ま、釣り合うワケないよな。わかってはいたんだ、うぬぼれだ」
「ええっ? そんな、ウソじゃないですよ!」シャドウが素早く背後を振り返って「編集点! 編集点!」と手刀で切るような仕草をした。
「や、いいんだって、大丈夫、恥かくのは慣れてる。くそ、顔が熱い、あははなんかおれバカみたいだ」彼女にはどうやら押すより引くほうが効果があるようだ。「転校早々こんな美人とお近づきになれるなんてそんな大それたユメ、見るだけで満足しなきゃ」
「ホントに、ホントに王子サマだって、ずっと思ってたんです! 王子サマ候補は何人かいたけど悠くんが大本命、やっと現れた、このひとなんだって、このひとが――!」
「ずっとって言ったって一週間も経ってないし……ホントに、こっちこそいいんだ、ぜんぜん。なんかそんなふうに言ってもらえるとかえって恐縮するよ、フォローありがとう、雪子っていいヤツだよなァ」
 形勢逆転! ザマを見ろ――などとほくそ笑むのもそこそこにしておかなければ。そろそろ掌を返す頃合いであろう。いま少し彼女の歓心を得る必要がありそうだが、先の公園での一件のお陰か、振り出しからことのほか好意的なのはまったく救いであった。この調子なら例の説明を切り出すまでにそう長くはかかるまい。
「これ以降もさ、べつにヘンに付き合いづらくなったりとかしないし、あー、その、もしよければだけど、おれたちって友達からとか――」
「ちがう!」
 突然、雪子のシャドウが悠を遮って怒鳴った。この科白は拡声されていない、彼女は初めてマイクを下ろしていた。 
「鳴上くんが転校してきたときから、わたし、ずっと見てたの。鳴上くん、気付いてなかったと、思うけど」
 彼女の様子がにわかに変じている。いまや彼女の面輪を占めていた媚を含んだ笑みはことごとく失せて、代わって過日の雪子に見られたような幸薄げな憂愁の色が、その細面を匂やかに満たしているのである。
(……これ、天城だ。雪子じゃない!)
 ついに本当の天城が出てきた――と、心中で快哉を叫ぶのもつかの間、今度は悠の背後から、
「なに言ってるの! ウソだ! いい加減なこと言わないでっ!」ついに堪忍袋の緒も切れたとばかり、雪子の怒声が飛んできた。「鳴上くんもなんなの? どうしてそんな――!」
(ああくそっ、これからってときに……陽介なにやってる!)
 ちらと背後を振り返ると、意外にも陽介たちは劣勢であった。三対一なら苦もなく封じ込められるだろうとばかり思っていたのが、クマはすでにして床に転がされており、千枝も片腕では思うようにいかないようで、雪子の細腕にさえ抗し得ずに振り回されている。なかんずく陽介には明らかに手加減しているふうがあった。怒りに燃えてしゃにむに押しのけようとする雪子を、ふたりとも本気で抑え込もうとはなかなかできないでいるのだ。
「ホントに? や、ちょっと信じられないけど」ともあれ、現在の悠の仕事はナンパである。「あー、嬉しい、マジで、なんだ、じゃあおれたち普通に友――」
「鳴上くん、じゃなくて、悠くん!」
 と、悠を遮って、雪子のシャドウが急に悠の両肩を掴んだ。そのまま万力のような力で締め上げながらひと言、
「好きです」
 と言った。背後で雪子が叫んだ。その際になにかしたのか、次いで陽介のくぐもった呻きが聞こえた。悠といえばシャドウの告白と凝視と怪力とに縛められて、ひと言だに発し得ずに突っ立っている。
「雪子は王子サマのものです、だから、王子サマ、お願い、雪子をここから連れ出してください!」雪子のシャドウは熱っぽく続ける。瞳が潤む。悠は肩の肉をむしり取られんばかりである。「もうここにはいられない、もう一日だっていたくない、なにもかももううんっざり! 悠くんなら――!」
「雪子いたい! 肩! ちぎれる!」
「あっ、ごめん、ごめんなさい!」雪子のシャドウは慌てて悠を解放した。が、なおも興奮した様子で詰め寄る。言い募る。「でも悠くんならわかるでしょう? 東京から来た悠くんなら、こんなド田舎イヤでしょ? こんな――!」
「わかった、待って、わかった! 雪子の言いたいことはわかった、わかったから」
 さて容易ならざる事態となった――ともかくも落ち着かせようと、悠は先に雪子のしたように形ばかりの「わかった」を連発した。なんにせよ拒絶して壁をつくることだけはできない、このあと彼女に理解してもらわねばならないこともあるのだ。が、
(まさか愛の告白とは……参った、おまけにここから連れ出せだって?)雪子のシャドウの言う「ここ」とは無論、このテレビの中の世界のことではあるまい。(とんでもなく脱線されたぞ、ここからどうやって本題に繋げる?)
 話の内容が内容である、彼女の歓心惜しさにいつまでも迎合していれば、本題を切り出すタイミングなど永遠にやっては来ないだろう。当座はどのようにでも言い繕って賛意を示しつつ、なんとかして彼女を宥めなければ、などと作り笑いの裏でやきもきしていると、
「どいて!」
 突然、悠は背後から横殴りに突き飛ばされた。
「ごめん雪子そっち行ったー!」
 との千枝の警告はあまりにも遅きに過ぎる。しまった、確認しておくべきだった! 地べたを転がってはたと上体を起こしたときにはもう手遅れである。怒りと恥とで真っ赤になった雪子が、そのときちょうど平手を振りかぶって、自身のシャドウを打ち据えようとするところだった。
「天――!」
 硬いものが肉を打つ重い音が鳴った。平手打ちのような鋭い音ではない、雪子は平手で張るのではなしに掌を打ち下ろすようにして、シャドウの横面を袈裟懸けに殴ったのである。
「デタラメ言わないで化物っ!」打たれてたたらを踏むシャドウに返す刀でもう一撃。「あなたなんなの……なんでわたしの顔を? おまけにこんな、こんなバカみたいな――!」
 三発目を見舞った雪子が苦痛の呻きを上げて、打った手を押さえて驚いたように後退った。おそらく雪子のシャドウがそのシャドウたるの力を発揮したのだろう、鼻孔から血の細く伝うのも痛々しげに、彼女は殴られた跡の赤く残る面をおもむろに上げた。うってかわって感情の色のことごとく消え去ったそこには、果たして燃え立つ金色の双眸が据わっている。
(なんてことを……なんてことを!)悠の努力はまたたく間に御破算となった。(全部ムダにしやがった……おれの苦労を、全部、あの三人! ひとひとり捕まえておくのがそんなに難しいのかあのバカども!)
 口惜しさと湧き上がる憤怒とで彼は叫ばんばかりである。いったい三人もの人間が雁首そろえておきながら、かよわい女子高生ひとり満足に足止めしておけぬとは! 揃いもそろってなんという役立たずども! おれが大汗かいて懊悩してる後ろで欠伸して笑っていたんだろうに、こんな簡単な仕事もろくろくしおおせないのか! 泡を食って駆けつけて来た陽介たちは労いの言葉の代わりに、悠の呪いの視線に迎えられることとなった。
「悠わりい、マジですまん!」
「ごめん、急に雪子が――!」
「いい、いいっ! いいから早く天城を遠ざけろ!」
 喉までせり上がっていた罵声こそかろうじて飲み下したものの、その語調はどうしても怒りで上擦った。雷をこうむった陽介たちは首を竦めて雪子を取り押さえにかかる。彼らも彼らなりに一生懸命やったのではあろうが、不名誉なナンパの真似事までして大汗大恥かいて、さてようやく説得というところまでこぎ着けたものをこれほどあっさりと台無しにされたのだ、笑って許したくてもなかなかそうできるものではない。
「センセイ、この――」
「なんだよっ!」
 八つ当たりの一喝に、クマもまたひとたまりもなく竦み上がってしまう。――鳴上悠、バカもたいがいにしろ! 仲間割れしてどうする! 悠はあたまを抱えて唸りながら、荒い息で忙しく深呼吸を繰り返す。怒りは燃え尽きるイーラエ・デーフラグラーント! 怒りは燃え尽きるイーラエ・デーフラグラーント! 怒りを制するは最大の敵への勝利なりイーラム・クィー・ウィンキト、ホステム・スペラート・マークシムム! 肚のなかで狂奔する怒りを全身全霊で抑え込もうと内心七転八倒、彼はそのまま破裂しかねない勢いである。
「セ、センセイ……?」
「ごめんよ、ああクマ、なに? 用件は短く、ああクソッ! イーラエ――」
「センセイ、シャドウが」
 クマの囁きは少なくとも、怒りの過剰摂取で消化不良を起こしていた悠にはすばらしい胃薬として機能した。ついでに血圧降下、不整脈、瞳孔拡大、および若干の振戦をともなった。
「……シャ、シャドウがなに?」
「シャドウが集まってくるクマ」クマは呆けたように言った。「あちこちから、たくさん」
 胃がギリギリと痛む。この薬は明らかに効きすぎである。ついに最悪の事態が到来した、雪子のシャドウの怒りがそのしきい値を超えたのだ。
「陽介タロット準備!」雪子と揉み合う陽介たちに怒鳴って、「シャドウの大群が来るぞ――雪子!」
 悠は雪子のシャドウに駆け寄ると、その細い両肩を荒々しく掴んだ。むろん彼女は微動だにしない。悠は鉄骨に留まったハエみたいなものである。
「雪子、聞いてくれ、王子サマの言葉だ、もちろん聞いてくれるだろ?」
 雪子のシャドウは無言で、やんわりと悠の手を振り払った。そのままなにを言うでもなく踵を返して、優雅な足取りで熱風さかまく天城屋の玄関前まで戻ると、甃のうえに横たわっていた「屋城天」の看板を拾い上げた。
「悠! マジでシャドウ来んのかっ?」陽介は千枝たち三人を煉瓦塀の一画へと誘導している。「おいクマこっち! 里中と天城も、ここに固まれ、しゃがんでろ! くっそマジで来んのかよォ……!」
「待った、四人ともそっちじゃない、こっち!」
「なんでだよ、壁際じゃねーと――!」
「つべこべ言うな早く来いっ!」悠はキレた。
 雪子のシャドウが折り返してふたたびこちらへやってくる。その面にはすでに元の媚笑が湛えられている。文字通り振り出しに戻ってしまった。
(いや、振り出しよりずっと悪い。雪子はもうとっくにキレてる)
「なあ悠、こんな道の真ん中でどーすんだって」四人が悠のすぐ後ろに到着した。「ここじゃどう考えたって不利だろ」
「鳴上くんアレなに! さっきの――」
「雪子、じゃない、天城、黙れ」悠は指を突きつけながら低い声で、「おれが喋っていいって言うまで黙れ。口を開くな」
 冷然と雪子をはねつけた。彼女の感情からすれば仕方のない話ではあっても、彼の努力をぶち壊した張本人である。
「だま――」
「黙れって言ったぞ天城、つぎ口を開いたら」
 ぶん殴るぞ、と言いかけて、悠は言葉後を呑み込んだ。彼女の鼻孔から赤いものが一筋、ツーと伝うのに気付いたのである。
(鼻血?)
「……鳴上くん?」
「キスするぞ。里中も、クマもだ、時間がないから黙れ。あともうちょっと離れて、噴水の向こうまで。駆け足」
「じぶんが来いって言ったんじゃん……」などと千枝が口を尖らせたものの、悠の瞋恚の視線を受けてひとたまりもなく「あっウソウソ、なんでもないです……」と縮こまった。
「えーと、駆け足?」
「駆け足――陽介、聞け」雪子とクマを促してこそこそと去っていく千枝を後目に、「このあとのことだ。質問も返事もなし」
 雪子のシャドウが近づいてくる。
「もしおまえと同じケースなら、このあと飛んでくるのはシャドウじゃない、少なくとも最初は黒いヘドロみたいなヤツだ、たぶん。いや、あれもシャドウではあるんだろうけど」ちらちらとシャドウを窺いながら、「そいつが雪子……天城のシャドウに取り付こうとするはず、まずはそれを食い止める。おまえはヘドロからシャドウを守るんだ。もしくは、怪物のシャドウのほうが来るなら、それから皆を守る」
「両方来たら」と、陽介が質問した。
「両方守る」
「そりゃオメ言うだけなら……!」
「忘れるなよ、これはなるべくしてなったんじゃないぞ、最善策をしくじったせいで採らざるを得なくなった下策なんだ」誰かさんたちのせいでね!「コレ失敗したら百パーセント全員死ぬからな。もう次はないぞ。やれるな」
 陽介は唇を嚙んで、それでもうなだれるようにして深く頷いた。悠は大きく鼻息を吐いた。
「……頼む。おれも喚ぶほうを出す、どれだけ役に立つかはわからないけど」悠はポケットからシガレットケースを抜き出すと、中に残った最後の一本を口に咥えた。「盾くらいにはなるだろう」
「やってみっけど……」
「行け、時間だ――やあ雪子」
 いまや目の前まで来た雪子のシャドウに、悠は向き直ってふたたび笑顔を作った。以後おそらく陽介のときと同様に、シャドウは雪子を疎んずるだけでなく本格的に命を狙い始めるだろう。さだめて外野もうるさくなるだろう。窮地には違いないが、
(それでもまだ話は通じる。それも陽介のときと同じに、天城もまたおれに一定以上の好意を持ってる、はず。おそらくおれ個人を攻撃することは避けるだろう)
 まして年来の親友である千枝に危害を加えるなど決してしようとはすまい、彼女が雪子にぴったりくっついていれば当面は安全のはずだ。陽介のほうは……過日の人種差別発言を根に持ってさえいなければ、たぶん仮になにかされるにせよそれほど手ひどくはされまい。
「悠くんタバコ吸うんだァ、わあワイルド!」
 少し離れた位置に置き去りにされた可搬型スピーカーから、雪子のシャドウの声が飛んできた。彼女は弓手に持っていたスピーカーの代わりに、先ほど拾った大きな看板を腋に挟んでいる。ぶ厚い木製のものでかなりの重量のあるはずなのが、彼女には発泡スチロールのようなものなのだろう、身体を傾ぐこともしていない。
 その両の眼こそ金色に輝いているものの、雪子のシャドウはにこにこと機嫌よさそうである。
「わたしタバコはぜんぜん大丈夫なんです、小さいころから周りがみんな吸ってたし、ケムいからやめてーなんていいませんから!」
「そう? そりゃよかった、ならつきあい始めても禁煙しなくて済むってわけだ」悠は大きく譲歩した。彼女の歓心を得るだけではない、こちらの安全を保証する「好意の盾」をもより大きくしておかなければ。「でも雪子にそうしろって言われたら、すぐにやめられる自信あるけどね、おれ」
「ホントに? ホントですか? わたしの言うこと、聞いてくれますか?」
「もちろん」
「ぜったい? ウソつかない?」
「誓う」悠は片手を上げておどけてみせた。「でもおればっかりそうしててもなァ……雪子のほうはどう? 雪子はおれの――」
「じゃあ、悠くん、王子サマ、わたしをここから連れ出して。一緒に出て行きましょう」雪子の眼の輝きが増した。
「まあ、別にそうしたっていいけど、こないだ着いたばっかりだし、もうちょっと――」
「わたしすぐパスポート取ります。悠くんは持ってるよね? チケットも買います、ふたりぶん、貯金下ろせば買えるから、成田発サンノゼ行き、エコノミーだけど、調べてあるんです」
「ええと……いやさ、行くのはいいけど、ほら、退学の手続きとかもあるし、お互い家族に言っておかなきゃいけないし」
「手続きなんかどうでもいい! ぜんぶ捨てて行くの、来週日曜のフライトでいいでしょ? 土曜のほうがいいならそっちにする、悠くんの好きなほうで。あ、悠くんのご両親に電話しておいたほうがいいよね、あとで番号教えてくださいね」
 とっさに言うことを聞くなどと言ったのは軽率だったかもしれない。雪子のシャドウが文字どおり目を輝かせて躙り寄ってくるぶん、悠は踏み止まることもできずに仰け反ってジリジリと後退した。まずい流れだ、完全に圧倒されている。
「待って雪子、ちょっと待って、おれもパスポートは持ってないんだけど……それはともかく、おれの話も少しは聞いて――」
「えっ? むしろ好都合! じゃあ一緒に申請しに行きましょう!」
「鳴上くん、ちょっと、わたしにも話をさせて、わたしにも!」
 背後で雪子の怒ったような、切羽詰まったような声が上がった。シャドウに寄り切られたせいで彼女らとの距離がだいぶ詰まってしまっていた。
「千枝はなして! あなた、シャドウ! 理由を言って、目的があるんでしょう! なんの恨みがあってこんなことを!」
 肩越しに背後を覗うと、腕の関節を捻られて奇妙に前屈しながらわめく雪子と、彼女を片腕一本で器用に縛める千枝とが見えた。先の悠の怒りに感化されたのだろう、千枝はもはや親友を抑えつけるのに躊躇しなくなった様子である。
「雪子だまってってお願いだから! 鳴上くんに任せようってば!」それでも彼女は引き摺られ気味である。「花村ちょっと手伝って、手伝えコラァ!」
「こっちはそれどころじゃねんだよっ! 畜生、頼む、うまく行けよ……」陽介はタロットを両手で掴んで願掛けでもしているふうである。「もう失敗できねえ、花村陽介、キレるな、冷静になれ」
「ヨースケもう来るクマ、はやくペルソナ出さないと!」
 クマがぴこぴこ地団駄を踏む。外門の方角でガシャンという金属質の騒音が響く。招かれざる客が呼び鈴がわりに、扉を押し倒して訪ないを入れたのである。黒いヘドロ状のシャドウがあるものは這い、あるものは飛びつつ雪子のシャドウの許へと集まってくる。
「ヨースケ!」
「くっそ、やるしかねえ!」陽介が跳躍に備えて屈み込んだ。「悠あとは任せた――ペルソナーッ!」
 彼の背後に身長四メートルほどの巨人が忽然と現れた。現れるや否やその手に持った対の手裏剣を、外門のほう目がけて猛然と投げ付ける。巨人は周囲を忙しく見渡しながら浮き上がって、千枝たちの頭上三メートルほどの位置に陣取った。
「わたし飛行機はじめてなんです、時差ボケとか大丈夫かなァ」あるいは陽介のペルソナを見て驚いてくれるかとも思ったが、雪子のシャドウはちらと見上げただけで大した反応は見せなかった。「向こうのこといろいろ調べたんです、時差が十七時間もあるんだよね、着いてすぐ悠くんのところに行くのは失礼でしょ? 二、三日はホテルに泊まるつもり、サンタナロウのホテル・バレンシア」
「黙って! 黙れー!」雪子の叫喚は血を吐かんばかりである。「わたしそんなの考えたことない、知らない! 信じないで!」
「初日はゆっくりして、サンタナロウを見て回って、ストレイツ・レストランでご飯たべて、ウェストフィールド・ヴァレーフェアにも」
 悠は反射的に雪子のシャドウの前から飛び退いた。陽介の倒し損ねたヘドロがいくつか、彼女の足許に飛び込んできたのである。
(やっぱりひとりじゃ防ぎきれないのか……)
 陽介は苦戦している。無理もない、狭い入口と窓だけ塞げばよかったコニシ酒店とは防衛の難易度がまるで違うのだ。悠たちのいる内庭は左右に塀こそあるものの上はがら空きで、四方八方から寄せ手が引きも切らないのである。シャドウの許まで到達するヘドロは徐々に、確実に増えてきていた。
 ヘドロは雪子のシャドウの足許に、というより、ポスギル城を包む大火に照らされて落ちた大きな影に、吸い込まれるように集まっては消えていく。見ているぶんにはそこに池でも掘ってあるかのようである。陽介のときと少し様相は違うものの、どのみちその導かれる事態に変わりなどあるまい。悠はポケットからライターを取り出して、銜え煙草に火をつけた。最後の一本、できうる限り温存しておきたかったが、どうやらその余裕もなさそうだ。
「そう、一通りサンノゼを見終わったらサンタクララに移動して……あ、スタンフォード大学のメモリアルチャーチも見たいな、教会ってわたし好きなんです、あの雰囲気。それで、ゆくゆくはサンフランシスコ!」
 悠は胸ポケット越しにタロットを掴んだ。背後に巨大な存在感が現れるのと同時に、ふだんの倍の仕事を押し付けられた脳がストレス過多で悲鳴を上げ始める。悠のペルソナがゆっくりと立ち上がって、その手に持った長大な矛を持ち上げて、ハエ叩きよろしく飛び回るヘドロの駆除を始めるのを見ても、やはり雪子のシャドウの反応は薄い。それは興奮の極みにあるらしき雪子も同様であった。
「雪子、ちょっと黙って。少しはおれにも喋らせてくれよ」と言って、悠はそっと背後を窺った。「こっちの予定も聞いてもらわなきゃ」
(少しコイツを黙らせないと……天城がどうにかなってしまう) 
 雪子はもはや意味のある言葉を発しなくなっていた。ただ小さい子どもみたいにワーワー叫んで、躍起になってシャドウの科白を潰そうとするだけである。
 彼女があまりにも気の毒だった。おそらく今までの例から察するに、シャドウは本当のこと、実際に雪子自身が考えていることを話しているのだろう。「彼ら」は常にその元から出てきた人間にとって、とくに耳に痛い話を喜んで――おそらくほんとうはシャドウ自身にとってさえ辛いはず――暴露するきらいがあるのだから。きっと雪子は観光案内の手引きかなにかでも見ながら、心中ひそかに叶う見込みの薄い旅行計画でも立てて、その空想を日々の繁忙の慰めにでもしていたのだろう。が、よりにもよってそのきっかけとなったに違いない悠の目の前でそれをつぶさに開陳されるなどと、まったく雪子にとっては顔から火が出る思いに違いないのだ。まして悠は彼女の伴侶役という設定である。
「ふたりで行くんだからふたりで計画を立てるべきだ。それとも雪子は、おれの言うことなんかどうでもいい? 自分の都合だけ?」
「あ、ごめんなさい、気が早かったよね。まずはサンノゼだよね」試みに引いてみたものの甲斐はない、彼女に悠の話を聞く気はどうもないらしい。「ウィンチェスター・ミステリーハウスにも行ってみたいし、あ、聖ジョセフ大聖堂って悠くん知ってる? サンノゼの地名の元になった――」
 雪子の絶叫に千枝の悲鳴が重なった。が、今度は間に合った、拳を振り上げて突進してくる雪子を、悠は振り返りざまタックルを食わせるようにして押し止めた。千枝は怪我をしたほうの肩口を押さえて地べたに蹲っている。あるいは業を煮やすあまり雪子が狙って打ったものか。
「よくもそんなデタラメをっ!」
「天城おちつけ! 殴りかかってなんとかなるんならとっくにそうしてる!」
「……デタラメェ?」
 雪子のシャドウが初めて、雪子自身に声をかけた。先に学校で千枝の携帯電話を奪ったときに聞いたような、低く無愛想な声である。
「あなたが考えてたことでしょ。夜中、ベッドの中で、ニヤニヤ笑いながら」
彼女の足許に落ちた影が不気味に波打ち始めた。炎の揺らめきによるものではない、影はその下でなにか蠢きでもしているかのようである。
『陽介、ヘドロが飛んでくる、もう少しなんとかなるだろ! 思いっきり暴れていいんだぞ!』
 と、悠は陽介のペルソナに発破をかけてみた。彼の応えは『うっせーバカ! 見りゃわかんだろ全力でやってるっつーの!』ある。
『ひとりじゃムリだ畜生、防ぎ切れねーよ! 里中の出させろ里中のっ!』
『それこそムリだ! とにかく――ああもう頑張れ! なんとかしろ!』
『おま――!』
「あなたになにがわかるの、わたしのことが、あなたみたいな化物に!」と、雪子が歯を剥く。「なにが目的? 殴って欲しいんならこっちに来なさい、来い!」
「わかるよ、もちろん、だって」シャドウの眼が三日月形に撓む。「わたし、あなただもの。見ればわかるでしょ」
「違う、わたしあんなこと考えてない! あなたなんかわたしじゃない!」雪子は悠をもぎ放そうと大暴れしている。「放して、触らないで! 馴れなれしいっ!」
「天城……!」
 雪子のシャドウがふたたび無表情になった。が、薄気味悪いことに声だけが元の媚を含んだ調子に戻って、
「さーて、王子サマ探し後編に移るまえにィ……ちょっと番組の裏方さんにインタビューしてみたいと思いまあす!」などと実況を再開し始めた。「まずはこおんなでっかい焚き火を用意してくれた大道具さんに挨拶しておきましょう! ほら大道具さん映って映って!」
 彼女は見えないカメラを誘導して、揉み合う悠たちの許へやって来た。マイクを向けられたのは雪子である、シャドウの言う「大道具さん」とは彼女を指すらしい。
「大道具さんっていつも和服なんですかァ? 火ィつけるのたいへんだったでしょう、袖を焦がしちゃったって聞いたんですけどォ」
 いったい、これを聞いた雪子の反応は異様だった。彼女は電池が切れたみたいにぴたりと暴れるのをやめて、中途半端な姿勢のまま凍りついた。口を半開きにして、眼をかっと見開いて、自らのシャドウを穴も開けよとばかり凝視する。こころなし震えているようにも見られる。
「天城、天城?」
「マッチ一箱まるまる使ったんですってね、こんな長いやつ、寒い中ご苦労さまでした!」シャドウの口許には悪意に満ちた笑みが浮かんでいる。「痴呆症のおばあさんもきっと喜んでますよ! 仕事熱心な大道具さんに盛大な拍手ーパチパチー!」
 雪子は呆々然たる様子で、それでも右手でシャドウの背後を指さして「あれをやったのは、あなたでしょ」と呟いた。
「わたしは中にいた。千枝だって、クマさんだって、見てる、わたしじゃない。違う」
「笑ってたじゃない、あなた」シャドウは吐き捨てるように言った。背後で燃える天城屋を示しながら、「クマさんに訊いて見ればいい、あなた確かに笑ってた。こうしたかったんだよねェ、もうひとりのわ、た、し」
「違う」
「残念だったよねェ、あのときこんなふうにならなくて」
 雪子の反応を見るに、どうやらいま話している事柄こそが彼女にとってのほんとうの「なんとしても認めがたいであろう、耳に痛い話」であるらしい。彼女の言う「あのとき」がいつを指すのか悠には見当もつかないが、雪子のシャドウが言及しているのはどうやら、その背後で燃える天城屋についてだけ、というわけではない様子。
「わたしは中にいた!」
「そうそう、あなたそう言ってた!」いまこそシャドウの面は凄まじい軽蔑と憤怒とに満ちた。「わたしウチのなかにいました。外でおばあちゃんが、ゴミを燃やしてましたって、あなた言った!」
「やめて!」雪子は耳を塞いでその場に蹲ってしまった。
「雪子、雪子まった、協力する!」悠はあわてて仲裁に入った。「言い合っても解決しない、双方に言い分があるだろう! おれが――」
 雪子のシャドウがちらと目配せするなり、とつぜん悠の足許から小さな火柱が上がって、睫毛を焦がさんばかりにして彼に迫った。市販の花火より少し強力といった程度のものであったが、悠を驚かすには十分である。彼はペルソナもろとも地べたに尻餅をついた。
「やめて? 見てわからないの? あなたが話してるの! あなたが――!」
「うるさいうるさい!」雪子が面を上げて絶叫した。「あなたなんかわたしじゃない! 化物っ!」
「天城!」
 シャドウはぴたりと押し黙った。その手からマイクと天城屋の看板とが落ちて、彼女の足許の甃を戛然と打った。そこに落ちた影は最前からすでに、雪子のシャドウの輪郭を大きく逸脱し始めていた。
「千枝」
 と、雪子のシャドウが呟いた。いつの間に来ていたものか、歯を食いしばって前屈みになった千枝が、悠たちのすぐ後ろに立っていたのである。
「千枝、ケガ、だいじょうぶ?」
「雪子……」
「千枝、待っててね、すぐ終わるから」シャドウの面に打って変わって、穏やかな笑みが広がった。「終わったらいっしょに、病院行こうね――」
 雪子のシャドウが天を仰いだ。その喉から「アギィーッ!」という、とても人間のものとは思われない、耳をつんざく凄まじい怪鳥音が轟いた。悠たちの喫驚して耳を塞ぐ間に地鳴りがして、ただポスギル城の炎の照らすばかりだった内庭が突如として、目も眩まんばかりの黄色に染まった。シャドウの口からほとばしった声に呼応するようにして、城の外郭という外郭から爆音とともに炎の壁が立ち上がったのである。
 顔を上げたときにはすでに雪子のシャドウの姿はない。ただ床に広がった大きな歪な影だけが主人の身体もなしに、墨汁を湛えた小さな池のように広がっている。
「シャドウ、どこいった?」千枝が呆然と呟いた。「消えた? 終わったってコト? つかあの火なに?」
(消えた……いや、それより!)
「クマ」
 悠がなにを訊きたいのかもうわかっているのだろう、クマは悠の目配せを受けて「来るクマ」とだけ呟いた。終わったのではない、どころか、まさにいまちょうど始まったのである。
「ただ」
「……ただ、なに?」
「このお城の周りにたくさん集まってきてるんだけど、なんかこう、勢いがないとゆーか、あんまり入りたがってないみたいクマ」クマはあちこち見回している。「これ、いまボーンてなったやつのせいかも……」
 どうやら今ほど一斉に現れた炎の壁が、シャドウの侵入を防いでくれているらしい。もっとも上はがら空きである、先のコニシ酒店のときのように完全にシャットアウトするところまではいくまいが。
『陽介』
『なに! おい化物のほうが入ってきてっぞ! コレ――』
『やることは同じだ、皆を守れ!』彼を忙しく遮って、『それはともかく、ニュースがある。いいのと悪いのと、どっちから聞きたい』
『ああ? じゃいいニュース――オラァッ!』
 上から降ってきた口の化物の数匹を、陽介の手裏剣が唸りを上げて迎え撃つ。悠もまたペルソナを立ち上がらせて、不自由ながらその手に持った矛を構えさせた。あんな小物でさえ悠たち生身の人間には致命的である、陽介の討ち漏らしの数匹なりともせめて防いで戦わなければ。
『いま城の敷地の周りに火がついたろ? それがシャドウの入ってくるのを防いでるみたいだ。数じたいは減ると思う』
『そりゃいい! で、悪いほうは――』
 と、陽介のペルソナがちらと悠のペルソナを見下ろしたとき、先ほどまで雪子のシャドウの立っていた辺りから突然、轟音とともに巨大な火柱が立った。千枝たちの悲鳴が上がる。彼女らと火柱との間に悠のペルソナがいたのはせめてもの僥倖であったが、
(今度はなんだ、まだ厄介ごとが来るのか……!)
 火柱はポスギル城の屋根ほどにも上昇したあと、なにかの形を取ってそのまま赤い空を飛行し始めた。上空で例の怪鳥音が二度、三度と響き渡る。
「なに、アレ。鳥?」と、千枝。「つか、あの鳥……でかくない?」
 千枝の言う「鳥」が羽ばたきながら宙に留まって、妙に人間くさい仕草でこちらを向いた。悠は息を呑んだ。その鳥には長い頭髪が生えていたのである。
(あれ、まさか……)
 鳥は千枝の言うとおり巨大だった。目測でも四、五メートルはあるだろうその巨躯の頂く顔は、不気味に単純化されてはいるものの見覚えがある。
『悠、アレか? 悪いのって』陽介のペルソナが鳥を振り仰ぐ。『……あれって、シャドウの大ボス?』
「アギィーッ! オウジサマァー! クビヲアラッテマッテロヨ!」
 空に留まっていた怪鳥――雪子のシャドウがひと声鳴いて、悠たちの許へと急降下してきた。




[35651] かかってこい、あたしが相手だ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:011439ca
Date: 2014/03/04 21:58


 それは翼開長にして優に十メートルを超えるであろう、悪夢の中から出てきた怪鳥だった。
 全身を覆う鮮紅色の羽毛に、浮かび上がるハート形の白い胸毛、猛禽を思わせる発達した太い下肢、禍々しい鉤爪に反して、首はツルのようにひょろりと長い。そこだけはかろうじて人らしい輪郭を保っている頭部の、その半ばほどを占める大きな両の眼に、しかし人間が備えていて然るような瞼はない。鳥類というより爬虫類を思わせる見開かれたままの、そのまんまるな眼が悠たちを見下ろして金色の光を放っている。鼻はない。口は横に大きく裂けて、悠のあたまをひと飲みにできてしまいそうなほど。
 むろん一瞥して明らかに人間の顔ではなかった。しかもそれでいて怖気をふるうことに、怪鳥の面はいまだ雪子の特長を有していた。
 千枝と、遅れて雪子との悲鳴が上がる。さもあろう、こんなモンスターが長い黒髪を振り乱して、耳障りなガラガラ声で叫びつつ、獲物を見つけたミサゴみたいにして降ってきたのだから。悠もまたペルソナを喚んでいなかったら一緒になかよくしゃがみこんで、彼女らのソプラノデュオに渾身のカウンターテナーを提供したに違いない。彼は膝をついてうなだれると、ペルソナのほうへ意識を集中して――ペルソナへ「逃げ込んで」と言ったほうが正しい――かの怪鳥を受け止めるようにして手を広げさせた。この人型ストレス発生器にも数少ない利点があるようだ。彼の統御を最優先しているかぎり、生身のほうの感覚はかなり鈍麻してしまうらしい。
 いっとう目立つからだろうか、それとも雪子の命を狙うのにもっとも邪魔だと判断したものか、怪鳥はまっすぐ悠のペルソナへと襲いかかってきた。とにかくいったん受け止めて地面に抑えつけて、説得はそれからでもできる――などと考えていたのは少し見通しが甘かった。重力加速を加味した彼女の膂力は悠のペルソナのそれをたやすく圧倒、矛と肩とを掴まれた彼はふんばることもできずに押し倒されてしまったのである。これがせめて花村流であればなにかしら抵抗のしようもあったのかもしれないが、
(強い、あの騎士型のシャドウもこいつとはまるで比較にならない、ダメだ!)
 さすがに陽介をして「シャドウの大ボス」と言わしめる貫禄である。悠のペルソナは怪鳥に踏み潰される形で、派手に甃を砕いて地べたにめり込んだ。砕片の二、三、勢いよく飛散するのが生身の悠の側頭を打つ。その衝撃でコロリと横倒しになるのを自覚しながら、彼はなんとかしてペルソナを立ち上がらせようと抵抗を試みた。こめかみの上あたりになんとなく痺れたような、ぼんやりとした痛みを感じる。いや、痛みは生身のほうだけではない、悠は初めて「ペルソナの痛み」をも感じていた。
「コレ、ペルソナッテイウンデショ。サッキハナムラクンガイッテタ、ボディーガードミタイナヤツ」怪鳥が暴れるペルソナの肩から鉤爪を引き抜いて、鋭利なそれで彼の顔を文字どおり鷲掴みにした。「ドンナカオシテルノ? チョーブサイクダッタリシテー!」
 怪鳥は大きな口をパクパクさせながら、かん高い、嗽をするみたいな声で喋っている。その調子だけはかつての媚態混じりのふざけたものである。悠は早々に矛を諦めて、代わりに自由になった片腕でペルソナの仮面をはぎ取ろうとする怪鳥の脚を捉えさせた。幸いペルソナの痛みは花村流のときに感じたものとはまったく異質で、激情と狂躁とを招くような兆しもなく、ジワッとして至極にぶい、生身の感じるものと比べてだいぶこらえやすい性質のものである。少なくとも短期的には行動に支障を及ぼすようなものではない。
「ギャッ、キモイ、サワンナイデ!」怪鳥はペルソナの腕を蹴り払ってパッと飛び退いた。
「ちょ、鳴上くん血ィ――!」
「いい、里中、天城から離れるな、アレから距離を取れ! 天城も行け!」駆け寄ろうとする千枝を寝転がったまま制して、「危ない、アイツなにするかわからない、近づくな!」
 と悠が言うのを、構わずに雪子が駆け寄って来て、彼のこめかみに押し付けるようにしてなにか宛がった。たぶんハンカチかなにかだろう。
「天城いいから、里中のとこ行って!」
「よくない! そんなもの吸ってる場合っ?」秀眉を吊り上げて悠を遮って、雪子は少し離れたところであたまを抱えて震えていたクマを呼んだ。「鳴上くんこれ押さえてて――クマさんこっち、鳴上くんお願い!」
「天城どこへ――天城! おい!」
 雪子は応えずに立ち上がって紬の褄を取ると、先ほど怪鳥の飛び出てきた「影だまり」まで駆けて行って、その傍らに落ちていた天城屋の看板を拾い上げた。いったいどういうつもりなのだろう、あんなものに構っている状況でないことくらいわかりそうなものなのに!
「里中まて! あぶない、大丈夫! なんとかするから動くな!」
 この様子を見ていた千枝がとっさに彼女を追いかけようとするのを、悠はあわてて制止した。そうしている間にも寝転がっていたペルソナが矛を杖にすばやく立ち上がって、走って折り返してくる雪子と、いつ彼女に飛びかかるかもしれない怪鳥との間にその巨体を割り込ませる。もしもう少し余裕があったらそのあたりの小石のひとつも拾わせて、この非常時にこんなバカげた挙に出た雪子の背中に投げ付けてやったかもしれない。
「センセイ、だいじょうぶクマ? 血、血が」クマがよちよち近づいて来て、雪子の貼り付けていったハンカチに申し訳ていど手を添えた。
「血くらい出る」陽介も、千枝も。なにせ着ぐるみではないのだ。「大丈夫。それよりクマどう? シャドウ、まだ来そう?」
「ダメクマ……ヨースケのときと同じ、たぶん、あのでっかいトリがいなくならないと」
 際限なしに集まり続けるというわけか――重たげに看板を抱えて息せき切って戻ってきた雪子を、悠は開口一番「このバカ!」と罵った。
「そんなもの拾ってる場合かっ? 死にたいのか天城は!」怒りは燃え尽きる? 当面はくすぶり続けるに違いない。火種にも薪にもこと欠かない上に、このバカ女がガソリンまで買って来るのだから!「さっき里中がどうしようとしたか見た? 見えてないんだろう、天城を追いかけようとしたんだ! あの世に行ってから振り返っても遅いんだぞ!」
「だって……ごめん、でも」
 バカと言われてちょっと眉を逆立てたものの、雪子はけっきょく抗弁を諦めて押し黙った。煤けた看板を胸に抱えて、不満げに。
「とにかくそれ捨てて、はやく里中のとこ行く。クマも――」
「ヤだ」
 おお、この女は今なんと言った? 悠は耳を疑った。ニヤニヤ笑いながら炭火にガソリンを注ぎかける雪子の姿が目に浮かんだ。
「いまヤだって聞こ――」
『悠、そっち大丈夫なのか! ええくっそウゼー! 殺すぞコラァ!』ふいに陽介の問いかけが悠を遮った。その言葉には多分に不穏なものが入り交じっている。『おいヤベーのかっ? なんとか言えテメー!』
(くそっ、あっちもあっちで余裕はないのか……)
 陽介はいまだポジションを守ってこそいるものの、どうやらいつそれを放棄してもおかしくない様子。まったく反撃してこないヘドロと違って、今度の相手は小物主体ながら打ちもし噛み付きもする化物である。彼らていどが相手ならペルソナにとって身体的なダメージなど無視できる、問題はいま彼が陥りつつある躁状態だ。先の大広間での戦闘をつぶさに顧みるまでもない、あのとき陽介は終始圧倒的優勢で、シャドウの攻撃など利いた様子がなかったにも拘わらず理性を失っていた。攻撃されるということ自体、ないし彼自身シャドウの殺戮を続けること自体がすでに興奮の種となるのだろう。
『大丈夫だ、こっちはいい! どうしてもダメなら呼ぶ!』悠はペルソナを雪子の近くに寄せた。『それより陽介、キレるなよ、里中の血を忘れるな!』
『言われなくたって……ああクソッ、お前ら離れすぎなんだよ! もっとこっち寄れよ!』
『そうしたいけどあの大ボスも一緒に来るんだぞ!』目下、生身の陽介は自発的な行動がいっさい取れない。万一のことを考えればかの怪鳥からはできうる限り離しておきたいところだ。『エサになりたくなきゃ少しくらい我慢してくれ!』
「オウジサマ、ソイツカラハナレテクダサイネー、グシャットヤルカラチガツイチャイマスヨー」
 怪鳥がひと声鳴いてふたたび飛び上がった。今度の標的はおそらくペルソナではない、「グシャットヤル」のはむろん雪子に対してであろう。悠は立ち上がりざま彼女を地べたに引き倒した。千枝を呼ぶべきか? いや、雪子と同じ姿を保っていた時分であればいざ知らず、「キレた後」のシャドウをそこまで信頼できるだろうか? あの化物なら友情とか愛情とかを胃袋と結びつけて考えないとも限らない。
「ねえ鳴上くん!」と、千枝が飛翔する怪鳥を指さして怒鳴った。「いまあいつオウジサマって、さっきも――!」
「里中くるな! 動くな! 喋るな気が散る!」
「スグスミマスカラネ、オワッタラパスポートシンセイシニイキマショウネエ!」
 空中で十分に距離を取った怪鳥がその身を翻して、今度は低空で突っ込んでくる。
「まてっ! 待たないと――!」
 もはや止むなし、とペルソナに矛を持ち上げさせたまではいいものの、悠はどうしても逡巡してしまう。あの雪子の鼻血、あれは果たして偶然だったのだろうか。もし偶然でなかったら、もしシャドウへの危害が雪子自身にまでも及ぶとしたら、もちろんかの怪鳥を斬ったり殴ったりするなど論外である。
(くそっ、どうすりゃいい! 攻撃するにはリスクが大きすぎる、力も向こうが上だ、鳴上流で抑え込めるのか)ペルソナが矛を放り捨てた。悠はなんとかして彼を組み付かせるつもりである。(せめて陽介が手隙なら……!)
「マタナイトナーニイ?」
「キスするぞ!」
 滑空してきた怪鳥に体当たりするようにしてペルソナが跳躍した。彼女はにわかに急上昇してそれを躱そうとする。危うく片手が硬い角質に覆われた怪鳥の足首を捕まえる。彼女の身体が大きく傾ぐ。さすがにかの巨人ほどの重量は支えかねたか、怪鳥はそのまま強引に数メートルも飛んだものの、けっきょくペルソナともつれ合いながらふたたび地面を穿った。が、今度は悠の側がマウントポジションである。
「落ち着け! 話を聞け!」
「ギャアーッ! ヤメテエ! ハナセー!」
 怪鳥は地面にひっくりかえったセミみたいに滅茶苦茶に暴れ始めた。その身体の構造上、ペルソナを突き飛ばしうるような腕を持たないにも拘わらず、背筋と脚と翼を羽ばたかせる力だけで彼を放り出しかねない勢いである。巨大な翼が地面を打つ、猛然と埃を舞い上げる、風圧で悠も雪子も千枝もなぎ倒される。重量のないわりに空気抵抗に富むクマなどはひとたまりもなく、「たっけてー!」などとタンブルウィードよろしく転がっていってしまった。
「オウジサマ、オウジサマァー! タスケテエ!」
「助けようとしてるんだ! 頼む、落ち着いて!」
 悠の言葉が通じたものか、怪鳥はなおもしばらく暴れたあと、バッテリーの弱ったおもちゃみたいに徐々に静かになっていく。そうして哀願するような口調で「ワタシノオウジサマア! コイツガイジメルンデスウ!」などとわめき始めた。
「いじめやしない! よし、落ち着いた? 落ち着いたなら――」
『悠! 悠おい!』と、ふいに陽介が呼ばわった。『こっち向け、新手! 新手!』
『なんだ今いそがしい!』悠はにべもなく突っぱねた。『そっちでなんとかしてくれ、こっちは丁度――』
『聞けバカッ! 天城の影からなんか出てきてる! デカイの!』
 ちょうどすぐ近くにいたクマがそれに気付いて、「たっけてー!」と一目散にこちらへ駆け戻ってきた。地べたに伏せていた千枝も同様に。なんという絶望的な眺め――先に雪子が看板を拾いに近くまで行った「影だまり」から、見覚えのある甲冑を着けた巨大な騎士がひとり、今し池から上がってくるようにしてその上半身を覗かせたところだった。
(まずい! 小物を捌くだけで手一杯なのに、このうえ陽介にアイツの相手が――)できるわけがない。悠は蒼白になった。影から現れたのは一体だけではなかった。(二体! ムリだ、おれがやるしか……!)
 いっそ花村流に切り替えるか、とも考えたが、これは本末を転倒する可能性のほうが高い。先方はおそらく上で遭った騎士と同様にかなり手強いはず、勝てたとしてもとうてい無傷では済むまい。かの二者を倒したのちまで理性を保っていられる自信など悠にはない。現状のままで対処するよりほかない。それも怪鳥から離れて、彼女がふたたび暴れ始める前に、二体とも速やかに、倒すのである。
 悠は胸いっぱいに煙草の煙を吸い込んだ。迷っている時間はない。
『陽介、一撃だけ! あの斧もったほうに手裏剣なげろ!』悠のペルソナが弾かれたように怪鳥から離れた。地面に放ってあった矛を拾い上げながら、『返事はいい、今すぐに、ぜったいやれ!』
 陽介の反応を待たずに、悠はペルソナを二体の騎士めがけて駆けさせた。おそらく陽介の攻撃は打ち払われるだろう、しかしその隙をついてなんとか片方を倒すことができれば、一対一に持ち込むことができればまだ勝機はある。――陽介のペルソナがすぐさま手裏剣を投げた、同時に二投、彼は当座を凌ぐより新手の脅威のほうを優先したようだが、その報いとして小型のシャドウたちに集られることになった。舌打ちが漏れる。こうならないように最小限の加勢を乞うたというのに!
「キャーオウジサマー! ソンナヤツブチコロシチャエー!」
 怪鳥が起き上がった。時間がない。斧騎士が――今ほど怪鳥の言ったオウジサマとは彼らを指すらしい――手裏剣の片方を打ち払った。その死角から殺到したもう片方はしかし、隣にいた剣を持ったほうにむなしく叩き落とされる。この間に彼我の差にして十歩の距離まで近づけたのは思惑どおり。ペルソナの手からうなりを上げて矛が飛ぶ。これも際どくではあれ斧によって弾かれる。長衣の頸当ての半ばほどを鋭い長剣の一撃が斬り欠いてゆく。悠は打って出てきた剣騎士をあやうくやり過ごし、完全に体勢を崩した斧騎士の、その懐の位置まで踏み込んで、今し彼に必殺の一撃を見舞おうとしていた。
『悠! 天城たちが――どけクソども!』陽介の切迫した声。おそらくシャドウに纏わりつかれているのだろう。『放せオラァ! 悠ー!』
 ペルソナの拳が斧騎士の胸当てを貫くのを、悠はもうひとつの視界にはっきりと捉えた。同時に剣の切っ先が自らの身体を経て、これまた斧騎士の胸に吸い込まれるのをも。相棒の命もなんのその、剣騎士は仲間にとどめをさすのを承知で、もろとも悠のペルソナを背後から刺したのである。
 心臓のあたりにチカッとした痛みが点った。
「みんな走れ、陽介のとこ!」
 間に合うはずもない、千枝たちは苦もなく怪鳥に回り込まれてしまった。雄々しく前に出て彼女らを庇おうとしたクマが、怪鳥の鉤爪に弾かれて「たっけてー!」とふたたび転がっていった。早くペルソナを、と急いてみても甲斐はない。ペルソナが胸から突き出た剣の、その切っ先を折り取るより早く、背後の騎士は油断なく足払いをしかけてきた。転倒した彼に膝で乗って、縫い止めるようにして剣の柄に体重をかけて、騎士は全力で好敵手の動きを封じ込めにかかる。花村流であれば、花村流ならあるいは! 悠は焦燥のあまり一か八かの危険な賭に出ようとする。
(まだだ、まだアレがある、好意の盾が!)悠は慣れない楽観を試みる。ペルソナが長剣の端を掴む。が、無常にも騎士のかかとがそれを踏みつける。(大丈夫、里中がいる、雪子は絶対に手出しできない! 花村流は最後の――)
 悠は思わず声を上げた。亀になって懸命に首をもたげる彼の眼に、千枝を突き飛ばしてひとりあらぬほうへ駆けていく雪子の姿が映ったのである。いったいこうも見込みが外れるとは! 彼女はおそらく怪鳥が自分だけを狙っていることに気付いて、親友に累の及ばぬようそうして庇ったつもりなのだろう。が、事情を知るものにとってこれほどの悪手はない。
 もはや止むなし。悠はペルソナの抵抗をやめさせて立ち上がった。花村流に切り替えるためである。
「雪子!」千枝がすぐさま立ち上がって追い縋ろうとする。「バカーッ! あんたなにやってんのォー!」
「千枝あぶない、こないで! 鳴上くんのとこ――!」
 と、駆けながら振り返って怒鳴る雪子に、赤い巨体が猛然と覆い被さった。木の看板が床に落ちてガラゴロと鳴る。万事休す――その巨大な鉤爪が彼女の胴を捕らえて、今にも空中へ拉し去るかという瞬間、
「ギャアーッ! イタイ、イタイー!」
 断末魔もかくあろうかというほどの凄まじい、怪鳥の絶叫が内庭にこだました。その胸から鮮血がしぶいて、純白の和毛の半ばを赤く染める。彼女は仰け反って叫びながらいそいそと後退する。
 忽然と現れた巨人の、さらなる痛撃を恐れるようにして。
「雪子に触るなバケモノッ!」いま振り下ろしたばかりの薙刀のような武器を構え直して、巨人は威勢よく啖呵を切った。「かかってこい、あたしが相手だ!」





 悠は開いた口が塞がらなかった。
(あれって、まさか、里中のペルソナ? なのか?)
 今ほど現れた巨人はおおむね悠たちのペルソナと同等のサイズである。身体のラインのはっきりと出る――鍛え上げられ引き締まった見事な様子だが、それは確かに女性のものだ――黄色いウェットスーツのようなものを着、臑丈の編み上げブーツと装甲した手袋をつけ、甲冑の草摺みたいなものを腰に廻らすという異容。ただ悠や陽介のペルソナと違って仮面をつけておらず、その代わりに腰まで伸びた真っ黒な、ちょっと怪鳥の頭部に生えているものにも似た豊かな髪が、顔を含むあたま全体をまったく覆ってしまっている。
 そのあわいから鋭い光を放つ金色の双眸――かの女巨人がペルソナか、それともシャドウなのか、いずれにせよそれは千枝に属するものに違いない。実に巨人は彼女とまったく同じ声で喋ったのである。
「雪子だいじょうぶ? ケガない?」
 巨人が尻餅をつく雪子へのしのしと歩み寄る。当の雪子はさもあろうまったく混乱した様子で、かの巨人を頼るもならず、かといって避けるも忍びないといったふうに、ただ驚きに目を瞠って後退りながら、彼女から一定の距離を保ち続けるだけである。
「ちょ、雪子ってば、なんで逃げ――」言葉の途中で巨人が素早く振り返って、反撃を試みる怪鳥の足を浅く切り払った。「――それで奇襲したつもりっ? 待ってな、いまハネぜんぶひん剥いてヤキトリにしてやるから!」
「千枝まて! ストップ! 攻撃するなー!」
 薙刀を振りかぶった巨人がその動きを止めて、「なんでよォ」と首だけで悠を振り返った。彼女がペルソナであるにせよシャドウであるにせよ、とりあえず今でも言葉は通じるようだ。
「千枝?」と、雪子が訝った。「鳴上くん、いま千枝って、それにあの声って」
「天城うるさい――千枝! とりあえずいったん武器を下ろして!」
「つかそれより鳴上くんケガ、血ィすごいってば!」と言って、巨人は立ち竦む千枝を見下ろしてひらひらと手を振った。「えーと、あんた……あんた、サトナカ? ちょっと鳴上くん診て。そんで引っ込んでて」
「千枝、そいつは敵じゃないんだ!」
 悠は役立たずのペルソナを消して自由を確保すると、巨人と怪鳥との間に大急ぎで割って入った。そうして苦悶する怪鳥の様子をこわごわ覗う。彼女は今やすっかり打ち拉がれた様子で、最前からその長い首をゆるゆる振り回しながら「イタアイ、イタアイ」と悲しげに呟いていた。が、出血そのものはとうに止まっているらしい、どうやら彼女は無事である。
(とりあえず大事なさそうだ、ひとまず。それにしても)負傷したのは彼女だけではないことを悠は思い出した。(痛いのは向こうだけじゃないな……くそ、ペルソナ消したのは失敗だった)
 もちろんペルソナを消したせいだろう、側頭の傷が思い出したように痛み始めていた。先ほどまで感じていたペルソナの痛みを差し引いても元など取れないほどである。かの巨人が「血ィすごいってば!」などと言っていたからには、きっと出血もひどいはず。
「攻撃するな! あの鳥を傷つけちゃいけない、絶対に!」
 もちろん今はこんなかすり傷に感けている場合ではない。悠は巨人に強く言い置いて、次いで怪鳥に向かって手を広げて「雪子そのまま! 傷に障るからじっとして! 落ち着いて!」と怒鳴った。レフェリー再開である。
「いま、雪子って」と、千枝が訝る。「鳴上くん、なんで雪子って? アレって――」
「里中うるさい――千枝、いまはおれを信じて! 言うことを聞いてくれ!」
「だからどーして……つか、あれ? ところでなんで鳴上くんそんなちっちゃいの? あんた、サトナカも、雪子も」巨人がにわかになにか気付いたふうにして、さかんに辺りをキョロキョロ見回し始めた。「げ、なにこのカッコ。これなによ、ヤリ? ナギナタ? なんでこんなん持ってんのあたし」
「あんたがデカくなったんでしょ!」と、千枝が指を突きつけながら怒鳴った。「つかいきなり出てきといて――!」
「あーうっさい」
 巨人が薙刀の石突きで千枝を小突いた。それはあくまでペルソナサイズの「小突き」であったので、当の千枝はひとたまりもなく突き倒されて悲鳴を上げた。
「チエッ! チエニナニヲスル!」
 これを見ていた怪鳥が一転、にわかに色をなして立ち上がった。斬られた足を庇ってびっこを曳きながら、彼女は千枝のシャドウに向かってよたよたと近づいて来る。
「雪子まって、待った――里中、だいじょうぶ?」
 千枝ははや起き上がっていて、巨人に向かって「なにすんだコノヤロー!」などと食ってかかっている。どうやら肩の傷を痛めずに済んだようだ。
「キーキーわめいてないで下がってなって」と、巨人がしっしと手を振った。「あんたなんにもできないんだから」
 先に見たものよりだいぶ和らいでこそいるものの、彼女が千枝に対して抱いていた意趣はいまだ健在であるらしい。かつての陽介や目の前の雪子のシャドウがそうなったような、怪物じみた姿ではない、どちらかと言えばずっとペルソナ寄りの姿をとって現れてこそいるものの、自立して動いているいじょう彼女はペルソナではないのだろう。なんにせよ、千枝のシャドウが戻って来てくれたおかげで九死に一生を得たのは確かである。彼女なら悠の言うことをよく聞いてくれるし、かの騎士型のシャドウともじゅうぶん渡り合えるだろう。
「雪子、里中は無事だから、落ち着いて! 大丈夫だから」怪鳥が立ち止まるのを確認してから、「千枝、鳥のほうはいいから、あっちの鎧つけたヤツ――」
 さっそくペルソナの仕返しを依頼しようと、悠がそう言って騎士型のシャドウを指さした途端、とつぜん獅子の哮るような恐ろしい声が辺りに轟いた。彼は呆気にとられて自らの指の先を呆然と眺めた。それを合図に騎士が消し飛んで、燃える天城屋へ猛然と吹っ飛んでいったのである。
(しまった……あいつ、キレたのか!)
 この獣のような声の出所は陽介のペルソナである。彼はついに持ち場を離れて、その辺りを縦横無尽に浮遊しながら大暴れし始めていた。それも先ほどまでとは明らかに様子が違う。ペルソナは両手の手裏剣を投げ終えてなおも腕を振った。そのたびごとに仮面の奥から「ガルッ!」というくぐもった咆哮が――ペルソナの声ではない、生身の悠の耳に聞こえるちゃんとした音として――上がって、同時に人間サイズのシャドウさえ木の葉のように吹き散らかしてしまうほどの突風が起るのである。ちょうど近くにいたクマがその煽りを食って、またしても「たっけてー!」と吹き飛ばされた。吹き飛んで跳ねて転がって、彼ははるばる悠の足許まで帰ってきた。
「……クマおかえり」
「ああセンセイ……クマ死んじゃったクマ? ここ天国?」
「いや、まだ地獄」
「なんか花村のペルソナ超あらぶってるけど、アレほっといていいの? 花村あぶなくない?」と言って、千枝のシャドウが薙刀を構え直した。数匹のシャドウが陽介のペルソナを迂回して流れてきたのである。「花村仕事しろー! こっち来てるよー!」
 彼の周囲に集まってくるシャドウはものみな壁や床に叩き付けられて無惨に潰れるか、さもなければ自分のもと来た道を戻って吹っ飛んでいく。もはや陽介のペルソナに触れられるものは一体とてない。彼の赤いマントの猛風に嬲られて天を衝くさまは正しく、怒り荒ぶる風神の顕現さながらであった。
 しかし一方で、その八面六臂の戦いぶりとは裏腹に、彼は明らかに注意散漫になりつつある。先の大広間での戦いのとおり、もはや陽介は悠たちも自らの身体をも意に介さなくなっていた。シャドウが自分を避けて悠たちのほうへ飛んでいっても追撃しようとせず、先ほどからとみに発せられる突風も当たるを幸いといったふうで、自分の生身の身体を避けているようには見えない。
 確かに千枝のシャドウの言うとおりだ。あの風が人間を巻き込んだらただでは済まないだろう。
「千枝、向こうはいい、ここにいてシャドウから皆を守って。ただしあの鳥は絶対に傷つけないこと」
「なんでって。つかさっき鳴上くん、アイツのこと雪子って言った?」
「だって雪子だから」
 と言い置いて、悠はふたたびペルソナを喚んだ。途端にぐうっとめまいがする。ふいに脱力感に襲われて、彼は堪えきれずにその場に膝をついてしまった。最初に喚んだときとなにか違う、いま背後に現れた巨人からなにか吸い上げられているような――と言うより、ペルソナ側の自分が人間側の自分からなにかを吸い取っているような――得体の知れない気味の悪さを感じる。
『陽介おちつけ! 陽介!』とりあえず今は陽介だ。『なにやってる、自分の身体が潰れるぞ!』
 と、呼ばわってみるものの返事がない。聞こえていないはずはない、おそらく無視しているのだろう。
「鳴上くんどういうこと? アレが雪子って」千枝が近づいてきて、しゃがみ込む悠の肩を掴んで揺すった。「ひょっとしてさっきの、ヘンなドレス着てたシャドウって……アイツなの?」
 こわごわ訊いてくる。なにをいまさら、と内心で毒づきはしたが、むろん彼女は知らないはずだった。悠は彼女のシャドウが混乱するのを恐れて、ヘドロがもたらすシャドウの怪物化について説明していなかったのだから。
 それには取り合わずになおも陽介を呼び続けること五、六度、ようやく彼は応答して
『うっせーんだよ黙ってろ!』
 などと怒鳴り返してきた。
『そっちはそっちで仕事しとけ! ほっとけバカ!』
『バッ……話を聞けおまえっ!』なんて言い草だ! 悠は思わずカッとなった。『自分の身体がどうなってるか見てみろ! 元の位置に戻れ! その風を止めろ!』
『へへへ……俺ァ完っ全にキレたぞこのクソども……!』
『里中の血を忘れたのか! このままだとおまえも危ないんだぞ、自分の足許を――』
『オメーも吹っ飛ばされてーのか! 黙ってろブッ殺すぞ!』
(あのバカ……ダメだ、売り言葉に買い言葉じゃ火に油を注ぐだけだ、なにか気を逸らすような手は……)
『……陽介、おい、そういえばさっき』と、悠は努めて冷静を装ってふたたび声をかけた。『悪いほうのニュースを伝え忘れてたけど』
 彼の返事はない。代わりにその手から手裏剣が飛んで、泥人形みたいなシャドウの数体を輪切りにした。それじたい意志を持っているかのように立体的に、流線を描いて飛んで、一対の手裏剣は陽介のペルソナを守るようにして周囲のシャドウを切り裂いて回る。初めてペルソナを出したときには少し軌道を変えるくらいのものだったのが、彼はこの短時間でペルソナの扱いにかなり習熟した様子。
『天城から特に注意してくれって言われてるからさ、報せておくんだけど』
 ボッという空気を叩く爆音が二度、陽介のペルソナの腕の動きに合わせて鳴った。なんとかして手裏剣の猛追を逃れたシャドウも、ついにはこの烈風に打ちのめされる。先ほどまで水場の猛獣に群がるピラニアにも見えたシャドウの群は、しかしいまやバスの池に放された観賞用熱帯魚も同然で、荒れ狂う彼に触れるどころか恐れるように遠巻きにしてさえいる。陽介のペルソナは人型の要塞と化していた。
『いま天城すっぱだかになってるから、ぜったいこっち向くなよ。それだけ』
 要塞が轟音とともに墜落した。彼は戻ってきた手裏剣を両方とも掴み損なってその腹で受けてしまったのである。
『はあっ? オメなに言って……え、どこ、マジなの?』
 ミッキーマウスの耳みたいな張り出しのついたペルソナの面が、こちらを向いてしきりになにか探すみたいにキョロキョロしている。これで気を逸らせればと言うだけ言ってはみたものの、こうまでうまくいくとは思わなかった。彼の助平心は荒れ狂う闘争心をすらたやすく征服してしまうらしい。
『ほら陽介、シャドウきてる。はやく手裏剣なげろ』
『ちょ、フツーに服きてんだけど――つか悠、里中!』陽介のペルソナがぎょっとしたようにこちらを指さした。『止めろ、里中が!』
 しまった――顔を上げたときにはすでに、千枝は怪鳥に向かって駆け出したところだった。
『おまえはシャドウを! こっちはなんとかする!』
「天城うごくな!」と、走り出そうとした雪子を制して、悠はすぐさまペルソナを追いかけさせた。千枝を追い抜いて間に割って入ろうとしたのが、にわかに怪鳥が長い首をもたげて、
「アギッ!」
 とひと声鳴いた途端、突然ペルソナの視界が緋色に眩んだ。悠の側からは自身のペルソナが猛火に包まれて、ひるむようにして二、三歩も後退るのが見えた。
(今の、雪子がやったのか?)
 炎はじき鎮火したものの相当な高温だったようで、陽炎のようなゆらめきが巨人の全身から立ち上っている。長衣の端が燻って煙を上げている。ペルソナの肌のそこここに滲みるような痛みを感じる。熱い。なまなかな火などものともしなかった鋼鉄の身体に火傷を負わせるとは、
(尋常の炎じゃない、こんなのを何発も食らったら……)
 いかに頑丈きわまりないペルソナとはいえ、焼けるか融けるかしてしまうだろう。千枝もこれを見ていたく驚いた様子で、ペルソナから顔を庇うように片腕をかざして――おそらく余熱の放射から――呆気にとられている。
 その背中を怪鳥の巨大な翼がばっさりと覆った。雪子の悲鳴が上がる。飛びかかろうとしたペルソナがふたたび例の火焔を食らう。打つ手なし――悠は火傷の痛みを堪えながら歯噛みした。いまは好意の盾に期待するしかない。
「雪子やめて! あんた雪子なんでしょ!」と、怪鳥の翼の間から千枝の声が上がった。「あの火ィやめて、あれ鳴上くんのなんだよ、焼いたらダメだっての!」
 怪鳥が少し翼を開いて、その長い首を垂れて「チエ、ケガナイ? ヤケドシナカッタ?」と優しく言った。
「アブナイカラココニイテネ、スグオワルカラ」
「待ってって、やめてってば!」
 みたび悠のペルソナが炎に包まれる。身につけた長衣のあらかたは炭化し、防具が真っ赤に焼けて輝き始める。激痛に脂汗が滲む。このまま向かっていって矛で斬り付けることもできなければ、掴み掛かったところで蹴倒されるのは目に見えているし、そもそもこの状態で千枝に近づきなどすれば輻射熱だけで彼女を焼き殺してしまう。ではいったん退くか? いや、ここで退けば次の標的は雪子に違いない。進退きわまった悠のペルソナがついに膝をつくと、
「鳴上くんペルソナ下げて、あたしがやる!」
 千枝のシャドウがそう言って、薙刀を腋に手挟んで前に出た。陽介は正気を取り戻してシャドウ防衛に戻っている、いましばらくは単独でもなんとかなるだろう。ここは彼女に期待するよりほかなさそうだ。
「千枝、あの鳥に、怪我させるな」悠は甃に突っ伏して呻いた。堪えやすいはずのペルソナの痛みもこうまで嵩めばいよいよ耐えがたい。「なんとかして組み伏せて、動きを封じるんだ、ぜったいに斬り付けたりするな」
「……雪子だからだってんでしょ?」千枝のシャドウの口にはいまだ一抹の疑わしさが残る。「やるだけやってみるけど」
 悠のペルソナが退くのを待って、彼女は怪鳥と対峙した。が、じきなにかに気付いてあらぬほうへ薙刀の刃を向ける。その切っ先の向こうにはいつのまに天城屋から戻ってきたものか、さして弱ったふうもなくこちらへやってくる、長剣を引っ提げた巨大な騎士が一体。
(畜生……アイツ死んでなかったのか!)歯軋りする悠の代わって、ペルソナが拳で床を打った。(ダメだ、まだ動けない、もう少し)
「鳴上くん、だいじょうぶ? どこか悪いの?」
 雪子が近づいてきて、悠の背に手を置いて心配そうに言った。事情を知らない彼女からすればもちろん、四つんばいになって地べたに突っ伏して、真っ青な顔に脂汗を滲ませつつがたがた震える知り合いを、それは心配しないではいられまい。
「大丈夫……もう少し時間が経てば、もう少し」
 もう少し時間が経てば! 悠は震える息で煙草の煙を吸った。最前からペルソナ側の痛みが徐々に引きつつあるのを感じる。その身体から黒煙の燻るのとは別に、うっすらとした蒸気のようなものが上がり始めている。それと同時に、先ほど体験したペルソナに「なにか吸い上げられているような」奇妙な脱力感がふたたび戻ってきていて、それは痛みが治まるのと反比例するように少しずつ強くなるのだった。
 この相関が示すのはおそらく、ペルソナの傷が癒えつつあり、それに伴って悠は消耗しつつあるということなのだろう。「もうひとりの自分」というのは伊達ではないのだ。さながら人体における生体恒常機能が損傷した細胞を補完するようにして、人間側がペルソナ側の失われたなにかを補って修復を試みているもののように悠には思われた。最初に覚えた脱力感はたぶん、胸部を刺された傷を癒す過程で生じたものなのだろう。いま少し時間が経てば悠はどうなるにせよ、ペルソナはいちおう動けるようになるはず。
「鳴上くん、こっちはやっちゃっていいんだよね」
「頼む、かなり手強いから気をつけて、それと雪子にも」おそらくかの怪鳥は千枝のシャドウを味方とは見做すまい。「あの炎、そうそう何度も受けられない」
「まっかしときなさい!」
 と、千枝のシャドウが気炎を上げるのと、怪鳥が例の炎を発するのとは同時だった。焦げた髪の毛のにおいが鼻を突く。火柱に呑まれるより一瞬はやく横飛びに飛んで、千枝のシャドウは髪の端を焼かれるだけで済んだ。が、着地の隙を狙って騎士が突進してくる。悠はじりじりしながらペルソナの回復を待っている。不意を突かれて薙刀を打ち払われ、あわや腹を突かれるというところを、しかし彼女は剣の持ち手に器用に蹴りをくれて阻止する。そのまま攻防一転、その足で踏みつけるようにして下段蹴り、ふたたび突いてくる剣の腹を左手で払いざま、踏み込みも鋭く矢のような中段蹴り、あおのけにひっくり返ろうとする騎士に追撃の逆袈裟を見舞うという猛烈なコンビネーションをたたき込む。
「あれ、千枝、なんだね」と、雪子が呆けたように言った。「そうなんでしょ? 動きが千枝そのまんまだもん」
(強い……陽介のとはまた違った強さだ)悠はただ頷いて、やはり呆然と千枝のシャドウを眺めていた。(里中の技術なり知識なりが影響してるのか? 里中って実はかなり強い?)
 半ばほどから切り裂かれた騎士の手甲が、血の飛沫を引いて悠の足許ちかくまで飛んできた。クマが驚いてキャーと飛び上がる。千枝のシャドウの動きはなにがしか武術の様式に則ったような、いかにも洗練された華麗なものだ。むろん悠では逆立ちしても真似できそうにない。目下、彼のペルソナはお呼びでないらしい。
「すごいクマねえ、チエチャンのペルソナ」クマもまた呆然としている。「ひょっとしてクマって、みんなの中でいちばん役立たずだったりして……」
「そんなこと」と否みかけて、悠は卒然とクマを見上げた。「……クマ、いまペルソナって言った?」
「言ったクマ。センセイクマもあれ出せるように――」
「ペルソナ? シャドウじゃなくて?」
「ペルソナクマ、センセイたちのと似たよーなカンジ。でもちょっとばかしシャドウっぽいかも」
 千枝のペルソナ――シャドウではないらしい――の悲鳴が上がる。彼女も二度目は免れ得なかったようで、怪鳥の発した猛火に包まれて飛び退ったところを、先ほどの怨讐とばかり容赦なく騎士が責め立てる。のけぞり気味に防戦すること二、三合、剣と薙刀とが噛み合ううちに、千枝のペルソナが短く叫んで尻餅をついた。長剣が草摺の間隙を縫って、彼女の膝頭をななめに切り割ったのである。
 そらお呼びだ! 悠のペルソナがすかさず矛を投げ付けて、それを追いかけるようにして走り出した。千枝のペルソナを足で踏んづけて、さあ年貢の納めどきと剣を突き下ろそうとしていた騎士が、あわててそれを胸の高さに持ち上げた。が、とっさには受けかねたと見える。彼は防ぎ損なった矛に肩を剔られて、もろとも数メートルも吹っ飛んでいった。
「ありがと!」千枝のペルソナが立ち上がって、跛を曳いて薙刀を構えた。「助かった、やばかった、くっそいったい……!」
「今ので五回チャラね」悠はボソッと呟いた。
「ごめん鳴上くんいまなんつった?」
 千枝のペルソナがパッとこちらを向いた。とんでもない地獄耳だなと思う間に、怪鳥の眼が怪しく光るのが見える。アレが来る――悠のペルソナが千枝のペルソナを突き飛ばした。例の「アギッ!」が悠のペルソナを直撃する。
「あっ、鳴上くん!」
 軽口が仇となった。まずい。怪鳥の炎を食らうのはこれで四度目、回復も間に合わない。真っ黒焦げになった巨人が頽れ、ついに地べたに倒れ伏した。ペルソナはもはや局部的に痛みを発しなくなってさえいる。防具に覆われていない関節部がそれで、おそらく完全に焼けてしまったのだろう。四肢がまったく動かないのである。
 もしペルソナが、と悠はふいに思った。もしペルソナが完全に死んでしまったら、おれはどうなるんだろう? 激甚な脱力感とともに、彼の背筋を冷たい死の恐怖が登ってくる。
「ウフフ……デッカイボディーガードサンタチハモウスグタイジョウシマスカラ」と、怪鳥が言った。「マッテテネーユークン。チエモ、コレオワッタラフタリトモビョウインイカナキャダネー」
「鳴上くん、もう怪我させるなとか言ってらんない!」千枝のペルソナが悠のペルソナを庇って立ちはだかった。「やるしかない! やらなきゃこっちがやばいって!」
(やるって、なにを? 雪子を、あの天城のシャドウを)
 殺せと言うのか。そうしたらどうなるだろう。悠がペルソナを、もうひとりの自分とやらを失ったときと同様に、雪子はどうなるのだろう? 悠の身体は自身のペルソナを生かすために、等しく受難を耐え忍ぶようにしてその失われたるを補填し、そのために体力を消耗し続けている。雪子のシャドウが鼻血を出したとき、雪子もまた出血していた。しかし先に千枝のペルソナによって受けた傷はどういうわけか反映されていない。であれば、あくまで鎮圧するために必要最小限の武力を用いるというのであれば……
(バカな、反映される可能性がある時点で選択肢にはなり得ない!)
 無論、断じて否であろう。現状、反映したりしなかったりするというのなら、もちろんそんな博打を打つわけにはいかない。まして殺すまではいかないにせよ、彼女が静かになるまでなますに斬り刻んで、血刀をちらつかせて、そのうえでいったいなにを要求せよと? 二度と現れるな? 話し合いに応じろ? おまえはもうひとりの雪子なのだからお互いに理解し合え? そんな暴行と恫喝を交えた「説得」で、いったいどこの誰が仰せの通りと得心するというのだろう。そんなことをすれば雪子のシャドウは完全に心を鎖してしまうに違いない。
「ダメだ! 千枝さがれ、千枝まで倒れたらぜんぶ終わる!」と言って、悠は立ち上がって怪鳥に向かって怒鳴った。「雪子やめろ! 頼む、そのふたりを攻撃しないでくれ! 敵じゃないんだ!」
「ダーメ」怪鳥はにべもない。「コノボディーガードサンタチ、ワタシヲキッタリナグッタリシタモン。ゼーッタイ、ユ、ル、サ、ナ、イ」
「雪子、お願いだ! なんでも言うことを聞く!」悠は跪いて両手を広げて、全面的降伏をアピールした。「おれのこと好きなんだろ? 好きなひとがこうして恥も外聞もなく頼んでる! 一度だけでいい、言うことを聞いてくれ!」
「ダ、メ、ヨ。ソレトコレトハベーツ」と言って、怪鳥はケラケラ笑い出した。「ユークン、イマケッコウオモシロイケド、チョットカッコワルイカモ! フツーオレノコトスキナンダロートカイウ? ダサー!」
『悠やばいのか! なんかやられてるみたいに見えんだけど!』と、陽介の声。『つか、さっきから気になってたんだけど、そのもう一体のやつって里中の? ひょっとして』
『大丈夫、そっちはそっちに専念してくれ!』陽介が救援に来たときこそが皆の最後である。『そうだよ、里中も出せたんだ。こっちはふたりでなんとかしてみせる』
 もしそうできるのなら。ようよう騎士が立ち上がって、悠の矛を杖にふたたびこちらへやってきた。その動きは元のときより確実に鈍ってはいるものの、それは千枝のペルソナとて同様である。悠自身のペルソナは消してさえしまえばこれいじょう攻撃されることはない。が、もちろんそれで助かるのは彼ひとりだけだ。千枝のペルソナひとりでは、まして負傷した彼女ひとりでは、怪鳥と騎士とを相手に二対一で勝ちを拾えるとは思えない。そして彼女が敗れれば雪子は消し炭になる。どうしても悠のペルソナの助力が要る。
(花村流に賭けるしかない)
 花村流を採ったところでこの満身創痍をどうにかできる保証はない。それでももはや取り得る選択肢がない。悠は歯を食いしばって立ち上がった。膝が笑う。自分の身体が冗談のように重い。目が回る。傍らの雪子が慌てて支えようとする。なにも飛び上がる必要はないのだ! 要は花村流に切り替わりさえすれば――
 怪鳥がかん高い鳴声を上げた。しまったと身を竦めたが、意外にも例の炎を伴うふうはない。彼女は純粋に慌てたのだった。わが腕に囲っていた千枝が翼の間を押しのけて、悠のペルソナの前まで走り出たのである。





[35651] クソクラエ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:e296928f
Date: 2014/04/16 20:30


「チエッ!」
「こうすれば、あんたは火を出さない。でしょ?」
 千枝はぎりぎり、自らが焼けずに済むくらいまで悠のペルソナに近づくと、怪鳥を振り返ってそう言った。
「チエアブナイ! アブナイカラコッチキテ!」
「近づかないで雪子! 近づいたら」彼女は半歩さがって、背後で燻る悠のペルソナを肩越しに見た。「それに飛び込むよ。マジだからね」
「ナニイッテルノ、アブナイ! ハナレテ! ヤケドシチャウ!」
 怪鳥はまったく落ち着きを失った様子。千枝に駆け寄ろうとして止めたり、長い首を振ったり翼をバタバタさせたりと忙しない。さながらネコの足許に落ちた雛を見る親鳥のよう。
「チエオネガイダカラ、コッチキテ……」
「行ったらまたあの火だすんでしょ。やだっつの」
 と否んで、結果的に並んで立つことになった自身のペルソナを、千枝はちらと見上げた。ペルソナもまた最前から黙したまま、珍しいものでも見るようにして彼女を見下ろしている。
「あんた……じゃあ、チエ」と、千枝がペルソナを指さした。「いいよ、あたしサトナカで。あっちお願い、あの騎士っぽいやつ。こっちはあたしがなんとかする」
 千枝のペルソナはなおもじっと彼女を見詰めていたが、結局なにも言わずに跛を曳いて、戻ってくる騎士を迎え撃つために悠のペルソナから離れて行った。
「ごめん天城、肩かして」今だ、今こそ行動しなければ! 悠は言うだけ言って返事を待たずに、雪子の細い肩に体重を預けた。「頼む、里中のところまで連れて行って――クマもごめん、こっちきて支えて」
「……わかった、けど」
「大丈夫、里中の近くにいれば」
 焼かれることはあるまい。彼は慌てふためく怪鳥を見て確信を覚えていた。怒りに燃えてシャドウに取り込まれて、醜い化物に変身してしまっても、彼女はついにどこまでも雪子であった! であれば、この内庭において最も安全なのは千枝の隣であろう。悠は雪子とクマに支えられながら、アイギスの盾めざしてよたよたと歩き出した。
(いいぞ里中、よくやった!)今や事態は膠着した。これこそ悠が作ろうとしてそうできないでいた状態である。(ここが先途だ、なんとしてもここから話し合いへ持っていかなきゃ)
 今をおいてシャドウを説諭する機会はふたたび巡っては来まい、そしてそれを成功させるには第三者たる悠の仲介と、なによりもう一方の当事者たる雪子の存在が不可欠だ。今こそ彼女らを和解させなければ。
「雪子、こんなことやめて。あのバケモノ呼んだのあんたなんでしょ?」
「チエ、コッチキテハナソウ? ソコアツイデショ?」
「あんたの近くでみんなが焼けるの見てるほうがよっぽど熱いっつの!」と、千枝は怒鳴った。「なんでこんなことすんの? や、ちょっとハナシする前にあのバケモノどっかやって、花村たいへんなんだから。早く!」
「チエ……チエ……」
 悠たちは燃え燻るペルソナを大きく迂回して――彼を消してしまったら怪鳥は強引にでも千枝を捕らえようとするかもしれない――千枝の許を目指した。かなり距離を取っても横たわる巨人から発せられる熱の輻射は壁のように彼らに迫る。熱い。辺りはまさしく焦熱地獄で、それはむろん千枝の立っているところも同様だった。
「里中、ちょっと」雪子とともに熱さに喘ぎながら、悠はようよう千枝の許へ辿り着いた。「もうちょっと離れよう、焼け死ぬ」
「だめ、それじゃ脅しになんない」眦を決する彼女の面に玉の汗が光る。「ガマンして、男でしょ」
 悠は仕方なく、同意を得ないままクマをペルソナ側に置いて衝立とした。
「……センセイ、なんか背中がチリチリするクマけど」
「里中、あの化物のシャドウは」クマを黙殺しながら、「雪子が呼んでるんじゃないんだ。あれは誰にも止めようがない」
 と言って、悠はすでにフィルタ手前まで吸い切ってしまっていた煙草を、クマのあたま越しに横たわるペルソナへ投げてみた。たちまち煙を上げ始める。ここにそう長くは立っていられまい――特にクマは。
「じゃどうすればいいの」
「いまからそれを――」
「チエ、コッチキテ、オネガイ」怪鳥が長い首を伏せるようにして、そろそろと二、三歩もこちらへ近づいた。「モウスコシダケソバニイテ、コレガサイゴダカラ。ネ?」
「雪子、それいじょう近づいたらホントに」
「コレガオワッタラ、モウチカヅカナイカラ、モウメイワクカケナイカラ」
「……迷惑って」
「スグオワルカラ。チエ、アトモウスコシ、コレガサイゴ、サイゴダカラ、イマダケハイッショニイテ」と、怪鳥は哀願するような口調で続ける。「ソシタラモウタヨラナイ、モウウンザリサセナイ、モウアナタノオモニニナラナイ」
「うんざりって……なに言ってんの? 重荷?」
「ワタシ、イツモチエニヒッパッテモラッテタカラ」
 千枝の面に驚愕の色が広がった。いつも引っ張ってもらってる――先に公園で聞いた雪子の言葉だ。
「なに言って――」
「ヒトリジャナンニモデキナイ、オニモツダカラ、ワタシ」
「なに言ってんのなに言ってんの重荷はあたしのほうじゃん! 引っ張ってもらってたのあたしのほうじゃん!」と怒鳴って、千枝が一歩前に出た。「なに言ってんのバカじゃないのっ? あんたそんなふうに――!」
「ワタシ、バカヨ。バカデ、クラクテ、オクビョウデ、コウドウリョクナクテ、コマルトイツモジーットシテ、チエガタスケテクレルノマッテル」
 悠たちから少し離れたところでかん高い喊声が上がって、立て続けに二、三、錚然と刃の噛み合う物音が響いた。千枝のペルソナと騎士型のシャドウがふたたび干戈を交えたのである。
「ヤサシイチエ……チッチャイコロトモダチニナッタッテダケデ、オサナナジミッテダケデ、ドコマデモヨクシテクレル。ヤサシイチエ。ワタシ、ソンナカチナイノニ」
 千枝はまったく驚きに目を瞠って、怪鳥と雪子とを忙しなく見遣って「どういうことなの? マジなの?」とでも言わんばかり。いっぽう雪子の面は苦しげだった。千枝をまともに見られない様子で、長い首を振って吐露を続ける怪鳥を、彼女はただ辛そうに見詰めている。
「ワタシ、ナンノカチモナイノニ――ネエ、モウヒトリノワ、タ、シ」一転、怪鳥の口調に揶揄が滲む。「ワタシハ、アナタハタテナンダカラ。ソレモモウトックノムカシニヨウズミニナッテル」
(……タテ? タテってなんだ?)
 雪子はひと言の反論もなく唇を嚙んだまま、怪鳥の言葉に耳を傾けている。両脇に力なく垂れた拳がゆるく握られている。「タテ」と言われたとき、彼女は明らかにその気配を変えていた。不当な中傷に黙って耐えているといったふうはない。むしろ脱力して、観念した様子で、悠には審判の席で判決主文を読み聞かせられる罪人のようにも見られるのだった。先に怪鳥の口に上した「タテ」がなんであるにせよ、それはおそらく彼女の根幹を揺るがしかねない、「耳に痛い話」などという言葉では片付けきれない重大な言葉だったのだろう。雪子と彼女のシャドウに共通の、その核心に迫るターム。
 これは鍵か? いや、たとえそうでなくても、少なくともその呼び水にはなるはず!
(いいぞ、その調子で話せ……天城がんばれよ!)
 悠は雪子の首に預けていた腕を解くと、それを背に回して彼女の肩を掴んで、萎え摧けようとする足を懸命に踏ん張った。いまや倒れそうなのは雪子のほうだ、今度はこちらが支えなければ。
「アナタガウマレテ、ココニキテ、オカアサンガアソコニ」怪鳥が翼で燃える天城屋を示す。「ウケイレラレタトキ、アナタノカチハナクナッタノ。アナタニツケラレタナマエモモウムイミ。アトハオマケ。カザリ。ドウグ。ヤスクコキツカエルドレイ。ソウデショ? モウヒトリノワタシ」
 雪子が蚊の鳴くような声で「奴隷」と呟いた。
「ドウヤッテツカワレテ、ドウヤッテホシュウシテ、スリキレルマデツカッタラドウイウフウニシテショブンスルカ、ゼーンブキメラレテル、アナタハアマギヤノビヒン。フルクナッタラポイ。ウラニワニアナヲホッテ、ソコデモヤサレル……マッチヒトハコマルマルツカッテネエ!」
「…………」
「シカタナインダモンネー? ワ、タ、シ。アナタニハナーンニモナインダカラ。ナニモカモゼーンブフマンデモ、ナニカイッタリヤッタリスルユウキナンカナイ。ソノチカラモナイ。デテイキタクタッテ、イクアテモナイ、ナニヨリ、ソウシタラドンナニヒドイクロウガマッテルカ! ネエ、オカアサンミタイニ」
 雪子はひと言も応えない。
「ナニモカモイヤ。デモナニカイウノハコワイシ、クロウモシタクナイカラ、ダカラジットダマッテ、シカタナインダ、ウンメイナンダッテ、ナガサレルダケ。デモ」
 雪子が小さく呻いた。
「コレダケツライメニアッテキタンダモノ、キット、イツカダレカガサッソウトアラワレテ、ワタシヲスクッテクレル……ヨル、フトンノナカデコンナコトカンガエルヨウニナッタノッテ、イツカラダッタッケ。ネエ、ワタシ?」
 雪子の返事はない。
(……天城、どうした、反論しないのか?)
 いつ口を挟むべきかと、悠は最前からジリジリしていた。依然として雪子になにかしら言い返そうとするような気配はない。眉ひとつ動かさないで、ただ悲しげに、諦めたようにして突っ立っているだけ。先にシャドウがなまめいた態度を取っていたときはあれほど怒りに燃えていた彼女が、今それよりよほど酷いことを言われているであろうにも拘わらず、陽介や千枝がかつてそうしたような、たとえ虚勢でもうわべだけでも、否定したり激したりといった挙に出ないのである。
 おとなしくて話のわかるやつだ、などと安堵するどころではなかった。もしこの話が雪子の根幹を揺るがすとしたら、どこかに彼女の「鍵」が埋没しているのだとしたら、彼女には耐えがたい苦痛に違いなくとも「揺るがすところ」までは話してもらわなければならない。鍵は入ったあと回って、中身を暴くものなのだから、その上で話し合うのでなければ相互理解もなにもあったものではないだろう。妙なところで割って入ってそれ以上の話を引き出せなくなるのはなんとしても避けたいところだ。が、いま怪鳥が憎々しげに語った話の中にそれがあったのかなかったのか、雪子の反応からそれを読み取ることが悠にはできないのだった。
 このまま話を続けさせてよいのだろうか。いままでのは前座のようなもので、雪子はこれからいよいよ揺らぐのか? それともいまほど怪鳥が評したように、彼女は胸中に鍵の刺さる苦痛を「ジットダマッテ、シカタナインダ、ウンメイナンダ」と耐えていて、その段階は今し密やかに過ぎ去りつつあるのか? このまま怪鳥が黙るまで好き勝手に喋らせて、そのあとさて雪子の言い分はとようやく水を向けたとき、彼女はとうに心を鎖してしまっているのでは? 陽介や千枝のように感情的にならない、レスポンスがないというのは、それはそれで別種の不都合があるのだった。
「イツカキットハクバノオウジサマガアラワレテ、アルヒウチニアガリコンデキテ、オカアサンニガツントイッテクレル。コノコニナンノツミガアル、イマスグユキコヲジユウニシロ! ソノアトワタシノテヲトッテ、ツレサッテクレル。ワタシヲタスケテクレル――」怪鳥が歯を食いしばって怨嗟の呻きを上げた。「ナーンテネエ? オエー! クッソミタイナオンナ! チエニハサイナンヨ、ホントニ。アナタミタイニジメジメシタカンチガイオンナガ、チイサイコロカラズットツキマトッテ、ウデヲツカンデアシヲヒッパッテ、ジブンノテモトニヒキトメツヅケテキタ!」
「テメーふっざけんなコラァーッ!」と、千枝がとうとう堪忍袋の緒を切った。「あんた……あんた雪子じゃない、やっぱり雪子なんかじゃない! バケモノ! あんた――!」
「里中やめろ!」悠は慌てて千枝の肩を掴んだ。ここで話が終わってしまっては元も子もない。「あれは雪子だ、雪子だから天城にあんなことを言うんだ! 里中だって同じだったんだからわかるだろう! 里中は千枝に、自分のシャドウにどんなこと言われたか忘れたのか!」
「でもあんなのあんまり、バカげてる、メチャクチャ、ぜんっぜん正しくない、正反対、間違ってる!」
 千枝は歯軋りして親友のために憤慨している。その眼に浮かぶのは悔し涙であろうか。彼女にとって雪子を痛罵されるのは畢竟、自らの誇りを足蹴にされるのに等しいのだ。
「里中もう少しだけ黙って、まだ雪子には話してもら――」
「黙ってられるかっての!」引き留める悠の手を振り払って、千枝はまた一歩怪鳥に近づいた。「雪子、あんた、あんたがホントに雪子だってんなら、いいよ、そういうことにしといてあげる。ただこれだけは言っとく――あんたが考えてることは百パーセントまちがってる!」
 雪子がふいにあらぬほうを向いて、小さく「千枝」と呟いた。彼女の視線の先には苦戦しつつあるのか、左脚を庇いながらじわじわと後退する千枝のペルソナと、悠のペルソナの武器を得て二刀流を振るう騎士とが見える。先の投矛によってその動きはだいぶ鈍くなってはいるものの、それは膝を痛めた千枝のペルソナ側のほうがより顕著なようで、ありていに言って彼女の旗色は悪い。陽介にもういちど無理を言うべきか――悠は小さく舌打ちをした。
「ウン、チエナラソウイッテクレルヨネ、ワカッテル。デモチガウノ」
「ちがくない」
「チガウノヨ、ワタシ」
「ちがくない!」
「ワタシ、ソイツハ」怪鳥が雪子を翼で指した。「アナタガオモッテクレテルヨウナニンゲンジャナイノ」
「ちがくないんだっつの! 小さい頃からずっとつきまとって、腕をつかんで足を引っ張って、あんたを自分の手元に引き留め続けたのはあたしなの!」
「チエ、アリガト、デモ――」
「あたしね、雪子、あんたのことが羨ましかった」
 と、怪鳥に言うと、今度は雪子を振り返って、
「あんたのことがずっと妬ましかった、あたし」
 千枝は泣き笑いのような貌でそう言った。
 言われた当の雪子は怪訝そうに、なにを言い出したんだとばかりに秀眉を寄せている。怪鳥が彼女の胸中を代弁するように「チエ、ナニイッテルノ?」と訊いた。
「ワタシノタメニソンナコトイワナクテイイノ。チエハソンナコトデキルコジャ――」
「あんたがキレイなのが羨ましかった! スタイルいいのが羨ましかった! 男子にチヤホヤされるのが妬ましかった! あんたに嫉妬してたの、あたしは!」
 怪鳥は絶句した。
「あんたがアタマいいのが妬ましかった! あんたにわかるわけない、あんたは、雪子はそんなこと考えもしない子だから!」と怒鳴り終えると、千枝はうなだれてさめざめと泣き始めた。「あんで、あんであんだばっがりモデで、ウヂが有名なの? なんで、そんなにせいがぐいいの? あんでそんなにやざじいの? あたし、そんらの、ひとづもない、チビで、ブスで、バガで、ガサツで、なんも取り柄なんがないもん、なんにもない、あたじ、あんにももっでないもん!」
 怪鳥も雪子も、ついでに悠もクマも絶句してひと言もない。千枝は右腕で涙と洟とを乱暴にぬぐった。
「あんたがいなきゃ、あんたが照らしてくんなきゃ、だれもあたしがいることなんか気付かない、だからあたしはあんたのそばから離れないの! あんたが頼ってくれたときだけ、あたしは無価値な自分を忘れられた! あんたが縮こまって縋ってくれるだけで、それだけであたしは有頂天になれた! あんたはぜんぶ持ってる、なんの価値もないのはあんたじゃない、あたしなの! あたしなんだよコンチクショーッ!」
 重い金属音とともに千枝のペルソナの薙刀が飛んできて、クマのとなり十センチほどのところを抉って突き立った。あわやまっぷたつになるところだった彼は立ったまま激しく痙攣している。
(まずい、千枝!)
 千枝のペルソナがついにその武器を失ったのだ。が、それを汐に後退るのをやめて、彼女は腰を落として両腕を脇に引きつけると、なにかの拳法らしい構えを取った。そうして右手を突きだして余裕を見せつけるように、シャドウを挑発するように指先で差し招いて見せる。
「それでも……あんたのこと好きなの、尊敬してるの、雪子」
 雪子と怪鳥が異口同音に「千枝」と呟いた。
 シャドウの長剣が千枝のペルソナの胸元に迫る。
「サトナカチエ!」
 と、千枝のペルソナが怒鳴った。窮地に立たされたものの声ではない、勇ましく熱っぽい声。彼女の腕が上下に交差したかと思うと、シャドウの身体ごと突き込んできた長剣が澄んだ音をたてて三つに折れ飛んだ。悠の矛を持ち上げる暇も、そうしようと考える暇さえなかっただろう、彼は次の瞬間には肘をひとつ、頭突きをひとつ、ついでに蹴りをふたつ食って、柄だけになった剣を放り出して猛然と吹っ飛んでいく。
「サトナカチエ、たしかに聞いたよ!」
 言い終わるか否かに、長い黒髪が覆うばかりだった千枝のペルソナの頭部が、フルフェイスのヘルメットのようなものですっぽりと覆われてしまった。頭頂部が角のように大きく突き出た、特徴的なそのヘルメットのバイザー越しに、爛々たる金色の耀いが透けて出る。
「雪子、ええと、なんかトリっぽくなったほうの雪子!」と言って、千枝のペルソナが怪鳥を指さした。「いまの聞いたでしょ? さっきあんたが言ったこと、そのまま返すよ。あんたは、天城雪子は、あたしの大、大、大っ親友はねェ、あんたが思ってるみたいな人間じゃあないんだっ!」
 と、こう鮮やかに啖呵を切られて、しかし怪鳥もさもありなんなどと黙ってはいない。
「チエ、アリガト、ウレシイ、デモジブンヲソンナフウニオトシテ、ムリシテワタシヲモチアゲナイデ」彼女の言葉にやさしい嘲りが滲む。「ヤッパリ、チエハチエダネ、ジブンノイイトコロミンナ、ヒトニワケアタエテ、フリマイテ、ジブンハジブンノカチナンカチットモワカッテナイ。モドカシイクライケンキョ。イツモソウ、ダカライツデモニンキモノ、ミンナニスカレル。ワタシモソウヨ、ワタシモアナタガスキ、ソンケイシテル、ダカラワカッテモラワナキャイケナイ。コレイジョウアナタヲダマシテ、メイワクカケツヅケルノハツライノ!」
「あんたって……なんでそんな真反対なこと考えれんのっ? 言ってることがメッチャクチャだって!」千枝が声をひっくり返してわめいた。「マジでバカなんじゃないの! いやバカじゃないけど! バカじゃないってこと理解できないってとこがバカ!」
「バカダモン、ワタシ。バカデ、カゲウスクテ、ムキリョクデ、ミジメダモン。ソレヲワカラナイチエハバカジャナイケド、イイコダケド、ショウジキイウトチョットガンコ!」
「ガンコはどっちだっつの! あんたがバカならなんであんなに成績いいの! あんたが影うすいとか言う? 学校上の憧れの的のくせに! あんたが無気力なら天城屋なんてとうに潰れてるよ! ガンコなのはあんたのほう、少しは周り見ろっての!」
「アマギヤ、アマギヤ!」最前から翳りを見せ始めていた怪鳥の眼が、この千枝の喝破によってふたたび輝き始めた。「ウフフ……ワタシガムキリョクナラ? チエ、カンチガイシテル。ワタシガムキリョクダカラ、アマギヤハツブレナカッタノヨ。アナタガ――」
 と言って、立ち竦む雪子を睨めつけるその眼、その面。憎悪に歪むあまりに、残った人間の面影さえもれなく吹き消してしまった、怪鳥の顔はまさしく「化物」のそれである。彼女は蛇が威嚇するみたいにもたげた首を振りふり、こちらへ二、三歩も近づいた。悠の掌の下で雪子の二の腕が震えている。次にどんなことを言われるのか、彼女はわかっているのだろう。
「――アナタガオクビョウデ、タイダデ、ヒキョウダカラ、イマノアマギヤガアルノ。ゼーンブアナタノセイ。ソウシテ、イマダッテイヤデイヤデタマラナイクセニ、マイニチヤリタクモナイコトニセイダシテル。ジブンデタテタジブンノオハカヲ、マイニチイッショウケンメイソウジシテル」
 雪子はふたたび貝になった。
「ジョウキョウガンネンソウギョウ、サンビャクネンイジョウマエカラツヅク、ユイショアルシニセ……」
 ふいに千枝のペルソナがくぐもった呻きを上げて、左の鎖骨の辺りを押さえてうつむいた。見ると手指の間から短剣の柄が生えている。彼女が怪鳥の言葉に気を取られている隙をついて投擲されたのだろう。
(あの死に損ない……!)
 むろん例のシャドウの仕業だった。悠の矛を杖に、彼はもう一振り、同じものを今にも振りかぶろうとしている。あるいはフィクションであればこの執拗な闘争心を天晴れなと褒めてやりもしようが、現実はさにあらず。彼には悠も千枝のペルソナも痛い目に遭わされ通しで、こうまでしつこく食い下がられては募るのは腹立たしさばかりである。
「……ここ頼んだ。あいつブッ殺してくる」
 まして今ほど刃物を投げ付けられた千枝のペルソナにはひとしおであろう。彼女は誰にともなくぽつんと言うと、存外しっかりした足取りでシャドウの迎撃に向かった。
「トクガワヨシムネトオナイドシ、アマギヤリョカン、デントウアルマチノホコリ――ウワー、ウッザー!」怪鳥が足許に唾を吐いた。「ンナモンシッタコッチャナイノヨ! ワタシニナンノカンケイガアルノ? タマタマオヤガソコニウマレタッテダケデ、ナンデワタシマデマキコマレナキャナンナイノ?」
 雪子がハッと息を呑んだ。このまま言わせておくつもりか? 言い返してやれ、なんとか言ってやれ! 悠はうながすように彼女の肩を掴む手に力を込めた。
「クソクラエヨ! アマギヤモオカアサンモ、カサイサンモツジサンモ、バカナジュウギョウインモオウサマキドリノキャクモヤカマシイシュザイモハジシラズナシンコウクミアイノレンチュウモミンナミンナクソックラエー! シネ! ミンナヤケシネッ!」
「なんてことを!」
 怪鳥の呪詛に満ちた言葉に、雪子はとうとうはっきりした反応を見せた。ついに来たか、と悠は内心で腰を浮かせたが、
「クソクラエ――コレガアナタノホンネ、ソウヨネ、モウヒトリノワタシ。ソウデナキャホウカナンテシナイモンネエ? ナンテコトヲッテイッタ? ソレ、アナタガイッテイイセリフダトデモオモッテンノ?」
 それに続く抗弁はない。こうと言われた雪子はもはや貝にさえなれず、声を押し殺して顔を覆って、肩を震わせて泣き始めてしまった。
 雪子はついに折れてしまった。
(……こうなる前になんとかして弁護してやるべきだったんだろうか)
 打ち拉がれて丸くなって、嗚咽を漏らす彼女の華奢な肩を、せめて慰めともなれよかしとばかりクマが懸命に撫でさする。失敗だ、自分は見誤ったのだ。食いしばった歯の隙間から呻きが漏れた。
 口を出す好機がなかった、弁護すべきひと言の反駁さえ雪子からなかったと釈明すれば、それは決して間違いではなかろう。が、実際のところ悠に容喙をためらわせた要因は別にあった。雪子一人の事情だけではない、彼女の家族と家業の事情――それも傍で聞くかぎりどうやらかなり重い――が、彼をして一高校生に過ぎぬわが舌鋒に、けだしこれは負うに負いきれぬのではと、要は怖じ気づかせたのである。愚かな上にも臆病者であるとは――瞑目して内省の虜へと堕ちようとする悠の耳を、そのとき千枝のペルソナの苛立たしげな声が打った。
(アイツ……まだ生きてたのか)
 しぶといことに件のシャドウはいまだ倒れていなかった。馬手に悠の矛、弓手にいつ拾ったものか天城屋の看板を盾がわりに構えて、隙あらば飛びかかろうとする千枝のペルソナを必死に牽制している。もっとも、その動きはもはや現れたばかりの時に見せた精彩をすっかり欠いていた。手負いの調教師が死にもの狂いで鞭を振るって、牙を剥き涎を垂らす獅子をからくも寄せ付けずに済んでいるといった様子。今まで悠と千枝のペルソナによって受けた数々の傷が、ようやく彼を死地に誘おうとしていた。早晩かの雌獅子のえさとなるのは避けられないだろう、このぶんなら悠や陽介の加勢は必要あるまい。
 反省はあとだ――悠はひとつ舌打ちをして自省自戒の泥沼から身を翻した。そうとも、先に千枝をして「めんどくさい」と呆れさせたばかりではないか! 今はそんなことをしている場合ではない、他人の心配をしている時でもない。次の策は? 雪子の体重を懸命に支えながら、彼はなんとかして現状を覆す方法を考えている。今からでも遅くはない、一矢つがえるべきか? どうやって? 矢は今しがた折れてしまったというのに。なにか彼女のために言ってやりたくても矢の一筋さえなければ、できるのはせいぜいこけおどかしの、魔除けの弦打くらいだ。どれほど巧みに鳴らしたところでいもしない架空の妖怪ならいざしらず、この本物は逃げ去ってなどくれない……
(バカめ、やらないうちに結論づけてどうする!)悠はクマに言い含めて、雪子の身柄を彼に預けた。(せめてそれだけでもするんだ。屁理屈でもなんでもいい、口を開け、声を上げろ、このまま黙ってたら終わりだ! 喋るのと考えるのとはお前の仕事じゃないか、鳴上悠!)
 もうなんでもいい、とにかく話しかけてこちらのペースに引き込むのだ! なかば自棄糞で悠が口を開こうとすると、
「ユークン、オウジサマ」
 にわかに怪鳥がその口調を変えて、先制して彼に話しかけてきた。
「な、なに?」
「ワタシ、キレイ?」
 と、こう問われて、悠はちょっと言葉に詰まった。即答しづらい質問である。これが人間の雪子のことであれば論を俟たないが、かの怪鳥の面を美しいと評する人間などおそらくこの世界にはいまい。しかしもし彼女が元よりそれを承知のうえで言っているとしたら、ここで安易に「キレイだ」などと迎合してしまうのは危険かもしれない。
「……好みだよ、おれにはね」悠はさりげなく論点をずらした。
「キレイ? キレイジャナイ? ユークンハドウオモウ?」
 どうやらイエスかノーかを聞きたいらしい。彼はふたたび返事に窮したが、否むよりはと結局「綺麗だと思う」と控えめに述べた。
「……ヨカッタ、ナラ、ツレテッテクレルヨネ」
「連れてくって……」
「ワタシ、ウルサクシナイシ、モンクモイワナイシ、アナタノイウコトナンデモキク。ナンニモデキナイケド、ワタシ、キレイナノダケハタブン、ユイイツノトリエダカラ。ソレデモツレテッテクレル?」
「唯一だなんてあんまり自虐しすぎだ、里中が気を悪くするぞ。おれだって――」
「ユイイツノ、トリエナノ」怪鳥は悠の言葉など耳に入っていない様子。「ミンナイッテクレルノ。キレイダネッテ、ビジンダネッテ。カワイイカラツキアッテクダサイ、ヒトメボレデスッテ、ラブレターナンカモイッパイモラッタノ。ワタシ、キレイデショ? ビジンデショウ?」
 怪鳥の大きな目が潤んだかと思うと、たちまち滂沱と涙を流し始めた。
「ウフフ……コンナ、ダレニニタカモワカラナイカオ!」
 先ほどの決意が嘘のよう。悠は先刻と同様に、返事もできないまま押し黙ってしまった。彼の耳にはあまりにも重い言葉。彼にだけではない、千枝もクマも最前から押し黙って固唾を呑んで、呆然と怪鳥の言葉に耳を傾けることしかできない。雪子がなおも泣きながら耳を塞いで、額ずくようにしてクマの足許に突っ伏した。俗世塵界のならいにうとい一高校生たる悠にも、今の科白が単に家族に似ないわが顔を恥じるなどという意味合いでないことくらいはおぼろげに掴めるのだった。いったいこの鉛のような言葉にどのようにして返事をすることができる? こういった話題に対しては悠のあたまも舌も悉皆無力だった。魔除けの弦打どころではない、こんな弓はいまだかつて触ったことさえない、彼の今まで読んできた本の中にこういったことへの対処法は書いていなかったのだ。
「デモ、イイデショ? ユークンニハカンケイナイモン」なおも涙を流しながら、口だけは平然と続ける。「オウジサマ、ツレテッテクレルデショ? ワタシギョウギヨクシテマスカラ」
「連れてくって……その、サンノゼに?」と、悠は言わでものことを訊いた。
「ドコデモ」怪鳥は即答した。「ドコデモイイ。ココジャナケレバドコデモイイ。ココハイヤ、イヤダ。アツイ、クルシイ、イキモデキナイ、モウウンザリ! イチビョウダッテコンナトコロ――」
「まだわたしを縛るの? まだ苦しみ足りないの?」
 と、雪子が俯いたまま涙声で呟いたのに、怪鳥は機敏に反応した。その長い首がぐっと持ち上がって彼女を睨め下ろす。
「シバル? シバルウ……?」怪鳥の顔がぶるぶる震えだした。「ワタシヲシバリツケタノハアナタジャナイ! アナタノ――オマエノセイダッ!」
 雪子が泣き濡れた顔をはたと上げた。
「オマエガワタシヲトジコメタノ! アソコニ、アノシロニ! オマエハジブンヒトリニゲタサニ、ワタシヲトジコメテ、カギヲカケテ、ヒヲツケタ!」
 怪鳥の剣幕たるや火を吹かんばかり。
「アツカッタ。クルシカッタ。シチネンカン、ワタシハズットアノホノオトケムリノナカニイタ! デモ――」怪鳥の顔が悠を向いた。「――ソレモモウオワリ。ヤット、ヤットオウジサマガキテクレタ! シカモトウキョウシュッシンデ、セガタカクテ、ケッコウハンサムデ、ナンタッテリョウシンガカイガイニイル! ホントニウンメイヲカンジル……ネエ、オウジサマ!」
(そりゃ、そうだよな)悠はありていに言って、この言葉を聞いてひどくがっかりした。(そりゃそうだ、会って何日も経ってないし、ろくすっぽ話もしないんだぞ。好きですって、そんな、だれも真に受けやしないって……)
 無論、真に受けていたからこその落胆だった。雪子の愛したのはもちろん悠ではなかった。彼女のお気に召したのは都会から来た、背が高くて、見目醜からぬ、なにより「遠く」へ行く恰好の伝となりうる、アメリカ在住の両親を持つ転校生であるというに過ぎなかった。もしこの好条件を呈示できたならおそらく、雪子は陽介であっても同様の好意を寄せたに違いない。彼女の架空の伴侶は鳴上悠でなくてもよかった、要は誰でもよかったのである。
「ワタシハココヲデテイク、ユークントイッショニネ。デモソノマエニフクシュウスル。コンドハオマエノバン、オマエハココデ――!」
 と、言葉の途中でふいに、怪鳥が驚いたようにギャッと声を上げた。悠の不審に思う間もなく彼女は大急ぎで飛び上がって、なにを思ったかその時にはだいぶ悠たちに近づきつつあった、千枝のペルソナへ猛然と殺到する。すわ奇襲か! うつぶせていた悠のペルソナが立ち上がる。が、
「雪子、なんで」
 千枝がぽつんと困惑の声を漏らした。怪鳥は千枝のペルソナではなく、彼女を追い払うようにしてじりじり押していた騎士型のシャドウに掴み掛かったのである。さすがに味方が襲いかかってくるとは思いもしなかっただろう、シャドウは自分めがけて降ってくる巨体を避けることもできず、文字どおり胴を鷲掴みにされて宙へと拉し去られた。それほど飛ばないうちに怪鳥の凶悪な鉤爪が、もがく彼の頭部をあっさりとむしり取る。
 悠のペルソナの矛と天城屋の看板とが、シャドウの腕から落ちて甃を打った。
(どうして、なんでアイツを消した?)
 なぜいまこの時に突然、思い出したようにして味方を葬り去るのか。彼がいなくなれば自身の立場が悪くなることくらい先刻承知のはずなのに。この不可解な行動の解を探して悠たち全員の視線が怪鳥に集まる。彼女はシャドウの亡骸を放ると、旋回して千枝のペルソナのいる辺りに降り立った。
(……天城、なにを見てる?)
 悠はふと視線を切って、地べたに座り込む雪子を注視した。全員ではない、彼女だけは怪鳥を見ていない、その視線は今しがた空から降ってきた天城屋の看板へと注がれている。
(看板……)
「雪子、ひょっとして助けてくれ――」
 思いがけぬ救援に警戒を解いたものか、千枝のペルソナはそう言って怪鳥へ歩み寄った。が、科白の終わらないうちに慌てて横に飛んだ。例の炎が間一髪、彼女の立っていたところを焼いたのである。
「ちょっ、あつかい違いすぎじゃんかバカヤロー! あたしも里中千枝なんだっつーの!」
「チエハモットチッチャイ!」依然として怪鳥は千枝のペルソナを敵と見なしている様子。
「ちっちゃくねーよそっちがでかいんだよ!」千枝が抗議の声を上げる。
 ひょっとして雪子は――悠は目を見開いたまま忙しく考え始めた。雪子は、怪鳥はあの看板を守ろうとしたのではないか? その故にあれを盾に使おうとしたシャドウを排除したのでは?
 そうだ、先にポスギル城から逃れてきたとき雪子が半狂乱になって「消さなきゃ」と言っていたのは、あの看板についてだったのでは? 命の危険も顧慮せずにそれを拾いに行って、悠の捨てろと言うのを否んで「ヤだ」と反発していたのはその証左になろう。そうと言えば彼女のシャドウもまた、変身する前にあの看板を拾って、ポスギル城を焼く猛火から遠ざけていた……
(看板……天城屋? 天城屋が鍵なのか?)
 それを象徴するがゆえの、あの看板への執着なのではないか? 怪鳥にどのように罵られてもじっと貝を決め込んだ雪子が、天城屋に関してだけは決然と非難の声を上げていたのは、まさしくその故では?
(確かに、雪子は天城屋のことをメチャクチャに貶してた、けど)
 いかにも、雪子の胸中にはそういった感情も存在するのだろう、そうでなくては怪鳥が、雪子のシャドウがあれほどまでに言い募ったりはしない。しかし少なくとも天城屋について、かの怪鳥はおそらく一面についてだけしか語ってはいない。ほかならぬ彼女自身と、彼女の言う「モウヒトリノワタシ」たる雪子の行動が一致してそれを証している。わが一身の弁護をさえ顧みなかった雪子をしてひと言、そのために「なんてことを!」と抗議させた、同じ感情を彼女のシャドウもおそらく胸に秘めている。怪鳥の言うところの「クソクラエ!」を雪子も共有しているのと同じに、まさしく雪子のシャドウもまた「なんてことを!」を共有している――鍵は天城屋だったのだ!
 ではどうする?
「雪子もうやめよう。雪子らしくないよ、自虐すんのはともかく、天城屋のことあんなに悪く言うなんて」と、千枝のペルソナが説得を始めた。「毎日いそがしくて辛そうだってことは、あたしもわかってたよ、ここ最近はとくにね。でもあんた今まで愚痴なんてひとことも言わなかったじゃん」
「そうだよ、天城屋はわたしがいなきゃダメだからって、わたしが支えるんだっていつも言ってたじゃん」と、千枝も同じ声でペルソナに続く。「ほら、高校はいったばっかのときだっけ? さいきん仕事が面白くなってきたとか、性に合ってるかもしれないとか言ってたの、あたし覚えてるよ」
「ゼンブウソ、ウソヨ。ソウデモイワナキャアンマリミジメダッタ」怪鳥はかぶりを振った。「ジッサイハソノギャク、アノトキハサイテイダッタ、オモイダセルカギリデイチバンツライジキダッタ」
(これだ。お前もほんとうは天城屋が大事なんだろう、なんて言ったところで)おそらくいかさまその通りなどと得心したりはしないだろう。(こんなふうに躍起になって否定し続けるだろう、たぶん。陽介も里中もそうだったんだから)
 先のシャドウへの攻撃について追求してもおそらく、その理由を正直に話したりはすまい。この「不可解な同士討ち」のみをもって怪鳥に天城屋への愛惜を気付かせるにはいささかインパクトに欠けるきらいがある。馬鹿正直に「鍵」を見せた結果――実際、千枝たちは今ほどそれに類することをしたのだが――警戒されてしまう恐れもあった。錠を開けられまいとするのは本人もシャドウも変わりはないのだから、うかつに「天城屋」の名前を出したあげく過剰に反応されるようになるのも困る。
(雪子はわかってないんじゃない、ただほんのいっとき忘れているだけなんだ。それを自分自身にも天城にも言い逃れできないくらい、はっきりと示すには……)
 悠は少し離れたところでシャドウ狩りに精を出す、陽介のペルソナをちらと見た。やはり試すしかあるまい。彼のときと同じに。
「チエ、ドイテ。ケガサセナイデワキニドイテモラウコトモデキルンダヨ」雪子の前に立ちふさがる千枝たちへ、怪鳥はそう言って静かに警告した。「デモデキレバアラッポイコトハシタクナイノ」
「おっしゃ、やってみ。あ、つかみ合いのケンカとかすんのって小六んとき以来だっけ?」と、千枝の代わりに彼女のペルソナが応える。「そーそー、久しぶりにアレやる? チーサオ。あんた羽だからやりづらいだろうけど」
「……ソッチノボディーガードサンニハヨウシャシナイ」
「うっわ、サトナカ聞いた?」と、千枝のペルソナ。「あたしどこまでもサトナカチエあつかいされないっぽいんだけど」
「あんたデカイし、カオ隠れてるし」と、千枝。「つかサトナカって言われるとあたしのほうがニセモノっぽいんだけど」
「あたしニセモノじゃないし」
「あたしだってホンモノだし」
「じゃあアレだ、あたしチエであんたはチビね。はい決まった」
「あんた背ェ低いの気にしてんの知ってんでしょ。蹴んぞコラ」
 かたや相手を見下ろし、かたや相手を見上げて、ふたりの千枝は以前に抱き合っていたわだかまりなど嘘のように、ちょっと悪友同士がするようにして和やかに会話している。少しく遅れはしたものの、いまや彼女らは無事和解を果たしたのだ。そして、
(今度は天城の番だ……天城雪子、悪いけど試すぞ!)
 悠は自身のペルソナを介して、陽介のペルソナに『おい、いま話せる?』と話しかけた。
『……なに!』
『余裕ある?』
 陽介はしばらく黙ったあと『作れば』と短く応えた。目下、彼はシャドウ駆除に忙しいらしい。
『是が非でも作って』
『……用件言え用件』陽介はうるさげにしている。『集中、してっから、短く!』
『陽介、まず、いま出しまくってるその風って、その位置からおれを吹っ飛ばしたりとかってできる?』
 陽介は感情を抑えた声で『試してやろーか』と言った。
『できるのかできないのか』
『楽勝』
『よし。で、用件だけど……あのシャドウの大ボスの近く、城側のとこ、床に看板が落ちてるの、おまえ見えるか』
『見えねーよ』
『あるんだ。それをおまえの風であそこまで』
 悠の人差し指が燃える天城屋のある一隅を示した。そこには大穴が開いている。先に陽介のペルソナが「ガルッ!」で、シャドウを吹っ飛ばしたときにできたものだった。
『あそこに開いてる穴まで飛ばせるか?』
 陽介のペルソナが遅ればせながら、両腕を縦横するさなかに悠の示した辺りをちらちらと盗み見た。
『カンバンって、あの天城屋のやつ? さっきシャドウが持ってた』
『そう』
『平べったいよな、結構でかかったし』
『地面に伏せてある。飛ばしにくいかもしれない。やれそうか?』
『……できねーこともねーと思うけど。それよりなに、あん中に入れろってこと? カンバンを』
『最悪、あの辺りまで飛ばせればそれでいい。火の勢いの強いところなら』
『なんで』
『なんでも』
『なんでもってなんで。カンバン燃えね? つかそんなことしてる場合なのかお前、さっきなんかかなり――』
『いいから。必要なことなんだ』と、悠はうるさげに遮った。『おれの合図を待って、あの看板を天城屋まで吹っ飛ばす。できれば中に入れる。いいな』
『わかったけど。やるけど……』
『頼む』
 要は先ほどの「天城屋の看板の危機」を再現しようというのである。しかも程度においてはよほど甚だしい。あの看板がそれほど大事なのであれば、怪鳥はそれこそ真っ先に、なにを置いても救い出しに飛んでいくに違いない。皆の前で、なかんずく雪子の目の前で、なんぴとにもそれ以外の理由を挙げて自らの行動の説明などできないくらいに、天城屋への愛惜の念に命じられるまま、先のシャドウを速やかに排除したとき以上の性急さでもって、彼女は飛び出していくはず……
(たぶん。いや、少なくともかなりの動揺を見せるはずだ、眉ひとつ動かさないなんてことには絶対ならない!)
 重要なのは怪鳥自身がその動揺を、さらにはその動揺を呼び起こした原因を自らのうちに「発見」すること、そしてなにより彼女のそういう様子が雪子に共感を呼び起こすことなのだ。いちど切り込みが入りさえすればこちらのもの、そこからどのようにでも広げて行ける自信が悠にはあった。
 彼は雪子の傍らにしゃがんで、千枝たちと問答――退け退かぬの押し問答のかたわら、雪子への嘲罵と擁護が入り交じる――する怪鳥の様子を覗った。例の看板は彼女から見て右手の、やや後ろ寄りのところに落ちている。位置関係からいってこのまま陽介のペルソナが看板を吹っ飛ばした場合、彼女の背後を通過して飛んでいくことになりそうである。ひょっとすると怪鳥は気付かないかもしれない。
(せめてもう二、三歩、後ろに退がってくれれば……)
 それとなく千枝たちに頼んでみようか。あるいは千枝のペルソナは悠の「ペルソナの声」を聞き分けはしないのだろうか? 試しに『千枝、聞こえる?』とやってはみたものの、彼女の返事の代わりに返ってきたのは、
『俺は聞こえっけど』
 との陽介の声である。
『……返事しなくていい。シャドウに集中して』
『してるし』
 どうやらじかに話すしかなさそうだ。かといって単刀直入に「雪子を五メートルくらいバックさせて」などと依頼しても、おそらく彼女らは理由を質さないまま従いなどすまい。誘導する必要がある――悠がひとりあくせくしていると、
「ユキチャンを焼くならまずクマを焼くクマー!」と、ふいにクマが千枝たちの前へよちよちと駆け出して行った。「もー堪忍袋の緒がブチ切れたクマよ……そこのトリのユキチャン、ちょっとそこに座んなさい!」
 クマは最前から雪子を慰めるのに忙しくしていた。先ほどからたけなわになっていた彼女への痛罵を聞くに聞きかねたのだろう、着ぐるみには表情こそなかったが、その声には初めて見せる強い怒りが滲んでいる。
「トリのユキチャン、キミはずーっとユキチャンの悪口ばっかり言ってるけど、それはぜんぶキミ自身にもカンケーあることじゃないクマっ?」クマはぴこぴこ地団駄を踏んで憤怒を表明する。「それをなんだねキミはじぶんはぜんぜんカンケーなーいみたいな態度して言いたいことだけ言って! ユキチャンがあんまりかわいそうクマ! トリのユキチャンも泣きなさいクマー!」
「おおっ、クマきちよく言った!」と、千枝もがぜん勢いづく。「そーだよ、天城屋があーだとか雪子がどーだとかってあんたギャーギャーゆうけど、それってそもそもあんたもやってきたことじゃん!」
 千枝とクマとが一致団結、怪鳥を指弾してずんずん距離を詰めると、
「チガウ、チガウノ、ワタシジャナイ、ワタシハソンナコトシタクナカッタ!」
 などと彼女は釈明こそすれ、その脚は一歩、二歩と押されるようにして後退るのだった。
『陽介おい!』悠はがぜん勢いづいた。すでに看板は怪鳥の視界に入っているはず。『今だ今、やれ!』
『……え、あ、いいの?』陽介はぼんやりしている。
『早くしろバカッ!』
『バカってオメ――!』
『いいから早くしてくれ頼む!』
「それ、どーしてこっちの雪子はそう思ってなかったってわかるわけ?」と、千枝のペルソナも続く。「同じだよ、こっちもそっちも。ふたりとも雪子なんだから」
「……アナタニソンナコトイワレルスジアイナイ」
「あるよ。あたしはあんたの親友だもん」
 怪鳥の返事は言葉ではなかった。千枝のペルソナの上半身が突如として発火する。近くにいる生身の千枝を慮ったのだろう、その火力は悠のペルソナを焼いたそれと比べてだいぶ抑えられてはいたが、千枝のペルソナに苦悶の声を上げさせるには十分である。
「もっと来な、それで終わり?」彼女はこの炎を避ける素振りさえ見せず、仁王立ちのまま焼かれるに任せていた。「雪子、それ、好きなだけやりなよ。ぜんぶ受け止めたげるから」
「コンナモノデスムト――!」
 陽介の「ガルッ!」が来たのはこのタイミングだった。獅子の咆哮に次いで空気の爆発する音が内庭をとよもす。天城屋の看板を狙って放たれたのであろう突風は、しかし看板はおろか、近くにいた怪鳥をも転倒させるほどの猛烈なものだった。
(あ、あのバカ……!)
 悠の胸中は陽介への呪いで満たされた。が、これは言ってしまえばただの八つ当たりである。彼のいるところから二十メートルほども離れた位置にある、空気抵抗に乏しい、重い木の看板を舞い上がらせるほどの圧力を発揮するとすれば、それは確かにあれほどの大風にはなるはずなのだ。が、その「はず」を読み誤ったせいで、
「……ナニモシテコナイナラホットイテアゲヨウトオモッテタケド」怪鳥は自身の足許にあった看板が消し飛んでいったことに気付いていない。「アナタモモヤサレタイノネ。マッテナサイ、ツギハアナタノバンヨ!」 
『陽介おまえなんてことを!』
『はあっ? なんで怒ってんだよドンピシャだろ!』陽介はさもあろう、心外このうえないといった様子。『カンバン穴ん中はいったし! 言われたとおりやっただろーが!』
 いかにも、看板は針の孔を通すようにして炎の中に消えていった。まったく素晴らしいコントロールである。せめて天城屋の外に落ちてくれていたならあるいは怪鳥にそれを見せることもできたものを、これで万が一にもその可能性はなくなった。
『くそっ、もういい! おまえに頼んだのが間違いだった! そっちでシャドウとよろしくやってろ!』
『ちょ、オメマジで吹っ飛ばすぞ! マジだぞ、オメーも天城屋にぶち込んで――!』
 しまった、と思ったときにはもう遅い。悠の伸ばした手は彼女の後ろ髪の先を撫でるに留まった。追いかけようと駆け出してすぐ、彼は自分の右脚に左脚を引っ掛けて転倒した。出したままにしていたペルソナが枷になったのである。
「天城まてっ! 天城ー!」
 雪子ははや千枝たちの横を走り抜けて、彼女らに不審がる暇も与えず、「なんぴとにもそれ以外の理由を挙げて自らの行動の説明などできないくらいに、天城屋への愛惜の念に命じられるまま」猛火に揺らめく天城屋へと駆けて行く。
 彼女は看板が天城屋の中へ飛び込むのを見ていたのだった。





[35651] あなたは、わたしだね
Name: 些事風◆8507efb8 ID:981b69f7
Date: 2014/06/15 15:36



(これじゃ菜々子ちゃんと競走しても勝てるかどうか)
 悠は重い脚を持ち上げて懸命に走った。いったい鉛の手袋と長靴とを着けたらかくもなろうか、傍から見ればさぞかしみっともないよたよた走りだろう。
 すでにペルソナは消してある。が、「彼」を修復するために消費した体力は相当なものだったようで、とにかく冗談のように力が入らない。というより、どれだけ力を込めても思うように身体が動いてくれない。にも拘わらず汗は流れる。無闇に動悸がする。高熱に浮かされたようにくらくらする。つらい、くるしい、あたまが痛い、最低最悪の気分。
(いっそこの辺りで倒れ込んで、あとのことぜんぶ里中たちに任せてしまえたらどんなにか……)
 よかったことだろう。もちろんそんなことはできなかった。雪子の身が案じられるというだけではない、彼女が自ら炎の中に飛び込もうとしている、その原因を作ったのは他ならぬ悠なのだ! 彼は雪子を救わんがためにその腕を掴もうとして、じっさいは首を扼したに過ぎなかった。このまま彼女を死地に赴くに任せたとしたら、まったく自分がそこへ蹴込んだも同然ではないか――この内心の責難が鞭と拍車とをもって疲馬の脚の止まるのを許さない。
 雪子に遅れること数秒、千枝たちの脇を通るさに、彼女のペルソナがふたたび発火炎上した。走り去る雪子を呼び止めようと彼女がそちらへ向いたのを、怪鳥が好機と見て攻撃したのであろう。
「ドコミテルノ? ゼンブウケトメルンジャナカッタノオ?」怪鳥は薄く笑っている。雪子が火の中へ駆け込もうとどうしようと彼女はなんとも思わないらしい。「ソンナニアイツガキニナルノ? ジショウチエサン」
「ちょっ、タンマ、待った、受け止めんの保留! つか自称じゃないっつの!」千枝のペルソナがあわてて身構えた。
「あーもーチエここ任せた!」千枝も悠に少し遅れて、左腕を抱え込むようにして走り出す。「鳴上くん、なに、雪子どうしたのっ?」
「しくじったんだよ!」と、言ったところでわかるはずもないが。
 背後で千枝のペルソナの制止の声が上がった。が、それは叶わなかったようで、次いでボンという爆発音と、後ろ髪を焦がさんばかりの熱放射が悠たちの背中を追いかけてくる。千枝がペルソナから離れたのを見て、ついに怪鳥が本気を出し始めたのだ。
「雪子アンタいいかげんにしろよ……!」と、千枝のペルソナが剣呑な声を上げる。「あたしがなにされても黙ってるとかって思ってんの?」
「ヌルカッタ? モウスコシアツクナサイマスカア?」怪鳥の返答は挑発的である。
「言ってな。ちょっとマジで痛いメ見てもらうわ」
「ああくそっ……里中ちょっと待って!」このまま放っておいたら血を見るかもしれない。悠は千枝を呼び止めると仕方なく立ち止まって、彼女のペルソナを振り返って怒鳴った。「千枝! 雪子を攻撃するな! ケガさせたらまずいんだよ堪えてくれ!」
「うっさい鳴上くんは黙ってて!」
「千枝たのむよもう……大声ださせないでくれェ……!」
「もー許さん、一発なぐる、ぜったい殴る!」
(ダメだ、完全にあたまに血が昇ってる……)なんだか妙に既視感を覚える光景。(ダメだ、ホントに、おれも限界だ、ここであれこれ言ってる余裕はもうないぞ)
 仕方がない、なるようになれだ――悠は出し抜けに怪鳥に向かって「雪子きけ!」と叫んだ。
「雪子、天城屋の看板はっ?」と、斬り付けるように続けて、「どこにいった? さっきは雪子のすぐ近くにあったぞ、どこいった? ないぞ、どこにも!」
 彼女の足許のあたりを指で示す。怪鳥は暫時きょとんとしたあと、じき長い首をぶんぶん振って自分の周囲を狂ったように見回し始めた。無論あの看板を探しているのだ。殴らずにはおかぬと息巻いていた千枝のペルソナも、彼女のこのにわかな狂態を見て「なに、どしたの雪子、なに探してんの」などとひとまずは矛を納めた様子。
(天城を止めなきゃならない、そうして雪子と和解もさせなきゃならない。両方いっぺんにやるとしたらもうこれしかない!)
 怪鳥を動かすしかないのだ、彼女も一緒に天城屋へ連れて行くしか! この決断が最悪のカオスを生むであろうことは容易に想像できる。光明はないでもない、今し燃えようとする天城屋の象徴を膝の前に、雪子と怪鳥――雪子のシャドウは悠の仲介を得て寸刻なりとも話しあう時間を得られるかもしれないのだ。鍵はすでに握っている、この灼熱のチェックインはまんざら自暴自棄のやぶれかぶれというわけでもない。
 しかしそもそも火災の真っ只中、いつ焼け落ちるかもわからないあんな木造建築に飛び込んで、果たして会話などできようものなのだろうか。できたとしても両者はもはや和解を望まないかもしれない。なにせ雪子側は終始いわれ通しで涙まで流していたのだ、内心はかの怪鳥への怨み骨髄に徹する思いだろう。今の悠にそれをどれだけ和らげてやることができるか。いや、話し合いに持っていく以前に火に巻かれる雪子を見て、怪鳥は「モウスコシアツクナサイマスカア?」などといらぬ気を回しさえするかもしれない。いやいやそれ以前に、
(天城だけじゃない、おれだって生きて返って来られないかもしれない、死ぬかもしれない……)
 なにをいまさら、もう遅い! 悠はふたたび駆け出した。駆けながら上着を脱いで、それを小脇に抱えて一散に雪子のあとを追う。髪はあらかた乾いてしまっているものの、着衣はいまだ雨水を留めてじっとりと湿っている。あたまから被っていれば少しの間なら火を防いでくれるかもしれない。
「里中来るな、火傷じゃ済まないんだ!」
 と、追い縋ってきた千枝を一喝してみても、
「ぜったい行く! 死んでも行く!」
 もちろん彼女は易々と承伏などしない。
「考えがあるんだ、里中には外で待っててもらう、大事な役目だ、協力して」雪子が天城屋の一隅に開いた、半ば焼け崩れた穴へと飛び込んで行った。ぐずぐずしていては彼女が火だるまになってしまう。「返事はいいよ。もちろん協力してくれるんだろ? 千枝!」
 千枝はこうと言われて、虚を突かれたようにその速度を落とした。
「……わかった、けど、気ィつけて!」
 なおも惰性で駆けつつ彼女の言うのを背後に聞きながら、悠も雪子に遅れて天城屋の中へと転がり込む。もちろん彼に端から考えなどない、千枝に求めた「協力」はただのブラフである。協力はもうじゅうぶん、今までどれほど悠のやろうとしたことに彼女は資してくれただろう。妨害もないではなかったが、それを差し引いても千枝はすでに十二分の協力を惜しまなかった。このうえ丸焼けになる危険に引っ張り込むことなどどうしてできよう。
(さあ、ここが正念場だぞ、鳴上悠!)
 飛び込んだ先はロビーと客室とをつなぐ廊下と思しい。背後に穴が開いているおかげか、そこは彼がこうであろうと覚悟してきたほどの息苦しさはなかった。が、すでに余すところなく炎に呑まれた板壁と言わず天井と言わず、四方から発せられる強烈な放射熱には喉も焼けんばかりだ。今さっき飛び込んだばかりの雪子の姿も濛々たる煙に遮られては影さえ見つからない。悠は咳き込みながら唯一、いまだ炎に侵されていないビニル床に伏せた。シャツ越しの腹に風呂の湯ほどの熱を感じる。難燃素材のようでなんとか燃えずに済んでいるようだったが、それも壁に近い部分は波打って刻々と融けつつある。じき燃え始めるか、いや、床に火がまわる前におそらく天井が崩落するだろう。
(この一晩は最悪だった、失敗に始まって失敗を積み重ねて、いま失敗で終わろうとしてる)奥に入ってしまったものか、伏せってみても雪子の姿は覗えない。(成功なんかじゃないんだ陽介、無事に天城と合流できたのは、うまくいったのはたんに運が良かっただけ、おれのほうじゃ失敗続きだった……でも)
 ここで挽回できれば、最後に清算できてしまえば少なくとも、これまでの失敗に意味が生まれる。苦いばかりだった毒は薬へと変じる。ここで雪子救出という当初の目的だにせめて貫徹せずして、どうして陽介と千枝との流した血に報いえよう――悠は伏せたまま上着であたまと目鼻とを覆った。 
火は黄金を試すイグニス・プロバト・アウルム苦難は勇者を試すミセリアエ・フォルテム・プロバント」悠は地べたに這いつくばってぶつぶつ呟いた。「やれるはずだ、おまえが混じり気のない金なら、銅でないなら証明できるはずだ……」
 できなければ死ぬのだ。焼け死ぬがいい、下らないおまえにはなんともふさわしい最期ではないか! それがイヤなら今こそこの決死の試練をもって真の試金に臨むのだ。雪子を救い出し、シャドウと和解させ、もってわが自尊心をも救い出すのだ。こここそわれとわが身とを精錬する火床、この炎はその為に用意されたものなのだ!
「天城どこだ! 返事しろ天城ー!」
 と、どこへという当てもなく必死に這いながら呼ばわること数度、にわかに誰かの咳き込む声がしたのは悠の脚側、つまり真後ろであった。声はごく近い、彼女はそれほど離れてはいない。
「天城か! まず――」寝返りをうつ芋虫みたいにして体位を変えながら、「――こっち来て! 看板は陽介と千枝なら安全に探せるから!」
「どうして」自分を追ってきたのだ、と言いたかったのだろうが、雪子の返答はほとんど言葉にならない。咳の絶え間に苦しげな喘鳴が混じる。
「いいからこっちへ! おれもそっちに行く、合流するんだ、それから探すんだ!」
「こないで危ないから! あともう少し」ふいに雪子の苦しげな呻きが上がった。「あった……ウウ、あった……」
「天城どうした! 大丈夫か!」
「はやく出て鳴上くん! もうここ――」
 ふいに屋根と梁との破砕する騒音が雪子の言葉に覆い被さった。音の出所は悠のほど近く、ほとんど真上と言ってもいい。ついに天井が落ちたか! と、驚いて見上げる暇もなく、大量の火の粉と焼けた木材が彼の頭へと降ってくる。
 悠は悲鳴を上げながら亀になった。
「鳴上くんどうしたの! 鳴上くん!」
 返事などできようはずもない。亀になった彼のその背に、脚に、あたまに幾度となく、過日の千枝の中段蹴りにも相当しようかという衝撃が襲う。いや、いかに千枝がその仁慈を忘れて悠を二十回くらい蹴りたいという病的な衝動に襲われたとしても、その合間に彼の衿や袖に火の粉を流し込むなどという残虐行為にまではまさか及ぶまい。悠は焼き芋よろしく燃える薪に埋められて、たいていの生の芋が同様の災難に見舞われたときおそらくそうするであろうように絶叫しつつ大暴れした。首筋に、手首に、足首に、肌の露出した部分に沁み透るような激痛が走る。濃密な煙が速やかに目鼻を侵す。息ができない。服がシューシューと音を立てて乾いていく。大出力のハロゲンヒーターをじかに抱擁しているかのような恐ろしい放射熱。ペルソナを出さねばと考えることもできないほどの、先に「もうひとりの自分の死」を思ったときなど比較にならないほどの恐怖が、狂的な後悔が彼の胸中を満たす。先のたいそうな決意もどこへやら、悠の脳裡はただこのひと言のみで占められた――こんなとこ来るんじゃなかった!
(死ぬ、死ぬ! 死にたくない!)
 まさに恐慌に陥る寸前、出し抜けに悠を蒸し焼きにしていた焚き火が突き崩された。生焼けの芋を掘り起こしたのは、
「ゴメンナサイ、ダイジョウブ? ヤケドシタ? ゴメンナサイ……!」
 怪鳥であった。周囲に残っている焼け木材を鉤爪でちょいちょいと蹴って空間を作ると、彼女は翼を広げて悠を炎と煙から守るように囲い込んだ。その隙間からひょろりと長い首が入ってきて、彼を心配そうに眺め回す。
「た、助かった、ありがと、死ぬかと……」
「ゴメンネ、ゴメンナサイ」
 どうやら天井が落ちてきたのは火災の影響ではなく、彼女がむりやり天城屋へ突っ込んできたその結果らしい。金や銅どころではない、悠はあやうくわが身の喩えてふさわしきは芋なりと証明してしまうところだった。が、
(これで役者はそろった……なんとか、舞台は、整った)
 いまこそ決着をつける時、打身火傷の痛みなど無視せよ、芋ならいざしらず、金は火傷などしないのだ! 悠は先の後悔を都合よく忘れ去って、この大いなる使命感を杖に雄々しく立ち上がった――その脚はいまだ震えてはいたが。
「鳴上くん、ウウ、返事……!」
 雪子は苦しい息の下でなおも悠を呼んでいる。とにかく無事を報せなければと、彼は怪鳥の翼をこじ開けながら「おれは大丈夫だから!」とだけ怒鳴った。
「だいじょうぶ? ケガしたの?」
「してない」大いにしている。「いいからはやくこっちへ! 自分の心配を――!」
 と悠が言い募るのを、怪鳥が翼で抑えるようにして遮って、
「オマエ、アノカンバンヲドコヘヤッタ!」
 先に千枝のペルソナに見せたような揶揄まじりの余裕など欠片もない、切羽詰まった調子で詰問した。彼女は雪子が看板を持ち去ったと考えているらしい。
「そこにいるの? あなた、そこに?」と、雪子の驚いたような声。
「ドコヘヤッタ、イエ! ソレダケハワタサナイ! ソレ――」
「受け取ってェ!」
 と、雪子の叫び声が上がって、すぐさま煙の向こうから大きい、平べったいものが飛んできた。それは悠の目の先でいちど弾んで、計ったかのように足許まで転がって来て、くすんだ「屋城天」の金文字を上にして止まった。
 悠と怪鳥とはそろって言葉を失った。その半ばを黒く焼損した看板のそこここに、いびつな赤黒い手形がいくつもついているのである。看板は焼け燻っている、それを無理に素手で触った雪子の血の手形であった。
「天城――!」
「雪子!」と、姿の見えぬ雪子が怒鳴った。「雪子、それ、お願い! 持っていって!」
 悠はわれ知らず両の拳を握りしめた。この場に「雪子」と呼ばれて然るべき人物はふたりしかいない、ということは言うまでもなく、雪子は今まさに怪鳥を称するにわが名をもってしたのである。自分に向かって呼びかけたのである。いっぽう、雪子と呼ばれた怪鳥はこの煙の中で支障がないのか、ただでさえまんまるの目を思い切り見開いて、雪子の声の飛んでくる辺りをはたと見据えた。
「雪子、ごめんね」雪子の声が咳き込みながら続ける。「ぜんぶあなたの、言うとおり。そうだった。いつも自分に、言い聞かせてきたことだったのに、わたし、忘れたふりしてた。ごめんなさい……あなたは、わたしだね」
 怪鳥はひと言も応えない。悠もまた彼がそうできる限りにおいて目を見開いた。
「フフ、なんてことを、だって、わたしだけは、言えないよね。ここが」雪子の声に嗚咽が混じる。「こうなって欲しいって、わたし、ずっと思ってたんだから」
 怪鳥が小さく呻いた。
「雪子、その看板、お願いね。貞享元年から受け継がれた、たいせつな看板、わたしが燃やしちゃった看板、徳川吉宗と同い年の看板、ぜったいお母さんに届けてね。きっと喜ぶから」
 怪鳥の返事はない。悠もまた口を噤んで、雪子の吐露に耳を傾けていた。彼女は陽介や千枝とは人間の成長の度合いが違うはず――などと先に楽観したのは、ある意味で当たっていたらしい。
 彼女はシャドウを怨んでなどいなかった。怪鳥の恣な放言の数々に雪子は怒り拗ねるどころか、むしろ相手の眼に映った己が姿を必死に見極めようとしていたのだった。いったいこれがどれほど難しく辛いことであるか、同じ経験をもっと拙くこなした悠にはよくわかるのだ。常人なら百人が百人、その痛みを思うさえ耐え得ずに逃げ出すか鎮痛剤の処方を懇願するかするものを、彼女は医者の助けも借りずにわが胸に刺さった鍵を自ら掴んで引き回し、暴き、歯を食いしばって己が心臓を掴み出して見せたのである。いとも強き女! こと雪子に関しては第三者の仲介など必要なかったようだ。
 しかし役立たずとなったわが身をいまは嘆くまい――悠は雪子への讃歎の念に打たれていた。
「あの日からずっと、閉じ込められてたって、苦しんでたって、言ってたよね。ほんとにごめん。わたし、わかってたのに、開けてあげられなかった、ごめんなさい……」洟を啜る音が聞こえる。「でも、これだけは言うよ、わたしも一緒にいたの。わたしもあなたの隣で、一緒に泣いてたの! あなたの苦しむ声を、ずっと聞いてたのよ、雪子!」
「あなたにも聞こえてたでしょう? わたしの」と、ここまで言って、雪子は最後まで続けられずにすすり泣き始めた。
 怪鳥の口から微かな声が漏れる。「ユキコ」と、彼女は確かにそう呟いた。ついにお互いがお互いを天城雪子と認め合った、これがその瞬間であった。ここまで来てなお両者の和解を阻むものがいったいどこにあろう! 場の空気があるので沈痛な面持ちを崩しはしないものの、悠は内心躍り上がりたい気分である。
「……でもそれももう、みんな終わり」
 ややあって、建材の焼け爆ぜるメキメキという音に混じって、煙の向こうからか細い声が飛んできた。
(終わり?)
「オワリ?」
 悠と怪鳥とは揃ってなかよく訝った。その弱々しさとは裏腹に、雪子の声にはなにか投げやりな、不穏な決意のようなものが滲んでいる。
「もっと早く、こうすべきだった」彼女の声は微かに震えている。「罪を償うべきだった。死ぬべきだった。七年間ためらい続けて、けっきょく自分を、苦しめ続けてきたんだから。もっと早くあなたを、解放してあげなきゃいけなかった……」
 訂正、撤回! 雪子は強くなどなかった! 悠は蒼白になった。それはあれほどにも勇敢にわが胸をかき開きもしよう、痛みを恐れずすべてを認めもしよう、なにせ彼女はそのあともれなくついてくるはずの忍耐を放棄して、自ら命を絶つつもりだったのだ。
「待った! 天城まて早まるな! どっ、どうしてそうなる!」悠は焦るあまり少しく吃った。「バカなこと考えるなよ、落ち着け!」
「鳴上くん、ごめんね、こんなことに付き合わせて」雪子の声が少し遠ざかったような気がする。「雪子、へんなこと言ってたでしょ? あれぜんぶホントなの。気持ちわるい女……バカみたい」
「気持ち悪くなんかない、バカじゃないし変でもない、天城止まれ、動かないで、話しよう、なあ、その上でどうしても――」
「雪子、天城屋を押し付けるみたいで、気が引けるけど、お願いね。だいじょうぶだよね、あなたもわたしなんだから」
 怪鳥は戸惑ったように力なく翼を振って、アーだのウーだの呻くだけである。
「雪子おい、なにやってる止めろよ! 黙って見てるつもりなのか! 天城が死ぬって言ってるんだぞっ!」
 と、悠が目を剥いて叱咤しても、怪鳥は煙の向こうを見詰めて悄然とするだけ。いかにも、よくも悪くも彼女は雪子なのだった。雪子が「七年間ためらい続け」たことを、どうしてもうひとりの彼女もまたそうしていなかったはずがあろう。彼女はもうひとりの自分の自殺を悲しみながらも諦めつつあるのだ。
(ど、どうすりゃいい、なにかないか……ああ里中! せめて里中がいれば!)ついてくるなと言ったのは悠本人である。(いまからでも呼ぶか、間に合うか?)
「鳴上くん、千枝にありがとって、言っておいて。それとケガさせてごめんって、花村くんにもごめんって。それだけ」
 雪子はいますぐにでも炎に身を投じかねない。ダメだ、間に合わない! ペルソナを喚ぶか? 喚んでどうする? 仮にペルソナの制止が間に合ったとしても、おそらく雪子の死因が全身火傷から全身打撲に変わるだけだ。なんとかしなければならないのだ――悠ただひとりで!
「じゃあね、さよなら」
「まて、ゆっ、雪子!」と、悠は叫んだ。その声はなかば裏返っていた。「雪子、話がちがう!」
 先のように怖じ気づいて黙っていれば一生後悔する。なにか言うのだ、なにか、なんでもいい、矢がないなら弦を打て、支離滅裂でも荒唐無稽でもいい、なにか口に上せ! 悠は煙に分け入るようにして歩み寄った。おそらくは雪子が今しその身を焼こうとしているところへ。
「ここから連れ出せって言ったのは雪子のほうじゃないかっ!」悠は煙を避けてしゃがんで、いま出せる限りの声を振り絞って非難の声を上げた。「雪子は王子さまのものですって、一緒に出て行きましょうって確かに言ってたぞ! 忘れたなんて言わせない、言質とったんだ、ぜったい連れて出るぞ!」
 雪子の返事はない。
「あれだけ行こう行こうってひとをせっついておいて、いざそうしようってときにじゃあねさよならァ? あんまり勝手すぎる! 雪子はおれの言うことなんかどうでもいい? 自分の都合だけなのか!」
 雪子は黙ったままである。
「どこ行くつもりなんだ雪子、そっちはどこに続いてるんだ。や、いいよ、どこだっていいって言ってたもんな、じゃあついてくよ、もちろん、ふたりで行くんだから付き合うよ。連れ出すのはやめだ、やめやめ」ああ、ああ、おまえはいったいなにを言ってるんだ――悠は雪子に先んじて自殺したい気分になってきた。「搭乗口はそっち? パスポートは要らないよな、ならすぐにでも行ける、天国でも地獄でもサンフランシスコでもよろこんでお供するよ、手に手を取って着の身着のまま、たとえ火の中水の中。好きなところへ行けよ雪子、行きゃあいい、でもぜったいひとりじゃ行かせないぞ、意地でもついて行くからな!」
 煙の向こうからはなんの声も聞こえてこない。返答のない代わりにわが身を焼かれる苦悶の呻きもまたない。彼女はそうすることでどんな感想を抱いたにせよ、確かに悠の言葉に耳を傾けている、こちらへ注意を向けている。彼はひとしきり怒鳴り終えたあと少し息を継いで、
「……雪子、さっき、七年間ためらいつづけたって言ってたよね」
 ふたたび、今度は静かに語りかけた。雪子の返事はない。
「どうして七年間もためらうことができたか考えてくれ。七年間、自殺を考える雪子を引き留め続けたものがあったはずじゃないのか。それはただ死ぬのが怖かったから、臆病だったからってだけ? 雪子、天城雪子が閉じ込められてたっていう」
 ふと怪鳥の様子が気になって、悠は背後を振り返ってみた。彼女が神妙に聞いてくれていればきっと雪子の傾聴にも期待できよう――と、一瞥する彼の眼が驚愕に見開かれる。いったいいつの間に入ってきたのか、怪鳥のかたわらに忽然と千枝が立っているのである。彼女は悠をじっと見詰めながら、左手の人差し指を口許に擬して、右手でちょこちょこと払うような仕草をした。「静かに。いいから話をつづけて」とでも言いたいのだろうか。
「この城は……この城はほんとうに、ただ熱くて苦しいばかりの牢獄だった?」悠は一拍遅れでなんとか話を繋いだ。彼女はなにかしようとしているらしい。「そこには安らぎも満足感も、たった一度の笑い声さえなかった? もしこうなってしまうまえに、おれがこの城を前にしてひと言、ここは炎と涙ばかりのクソクラエな牢獄だってバカにしたとしたら、雪子はこう言っておれを非難したんじゃないか? なんてことを、って」
 さて千枝はなにをする気であろう。悠はふたたび背後を一瞥した。一瞥して先に倍して仰天した。怪鳥になにごとか言い含めていた千枝が突然、すでにほど近くまで侵食してきていた炎の壁へひょいと踏み込んだのだ。まさか雪子が逝くなら自分もと早まったか――などと声を上げることもできずに凍り付いていた彼だったが、
(あれ、燃えない……)
 炎に呑み込まれても千枝の身体は炎上しない。どころか、なんの支障もないように見える。無論そのはずだった。この千枝は痛めたはずの左腕を自由に使っている。止血帯に使ったはずのジャケットをブラウスの上に着込んでいる。眼鏡を着けていないその両の目は、炎の橙色にも負けず明るい金色に輝いている。彼女は千枝ではない、千枝のシャドウだった。
「雪子、この城が好きなんだろ? いや、少なくとも、好きになりたいんだろ?」果たして千枝のシャドウは炎と煙との中へと消えた。その行き先は推して知るべし、悠はそれまで雪子の注意を引きつけることを期待されているのだろう。「あの城の造作、あれって、雪子が好きなデザインなんじゃないか? どうでもいいものを、嫌いなだけのものをあんなふうに飾ったりするかな。雪子、天城屋が好きなんだろ?」
「……好きなものに、火をつけたりなんか、しないよ」と、煙の向こうから初めて応えが返ってきた。
「火をつけて初めて気付いたんだ、好きだったことに」よし、いいぞ、その調子!「雪子、陳腐で月並みな言葉だけど、そういうのって、失ってみて初めて、自分がどれだけそれを大事に思ってたかって、わかるんじゃないかな」
「…………」
「雪子、雪子を苦しめ続けたのはもちろん、ただそれを自分の手で焼いてしまったっていう、罪の意識だけってわけじゃないはずだ。里中に何度も聞いたよ、いつも旅館で遅くまで働いてるって。同級生は学校おわったらみんな遊びに行く話ばかりしてるのに、自分は学校休まされて休日まで潰されて、夜の十時まで残業させられるなんて、酷いよな。クソクラエって、そりゃ言いたくもなるよ。陽介もメチャクチャ怒ってたんだ、天城屋はブラックでとんでもない旅館だって。まるで奴隷あつかいだ、雪子があんまり可哀想だって。雪子の出席日数が足りなくなったら本気で直談判しに行くってアイツ息巻いてて……」
 背後の怪鳥が雪子の心中を代弁するかのように、小さく「ハナムラクンガ」と呟いた。
「陽介もジュネスで働いてるから、自分の境遇になぞらえることができるんだと思う。雪子、雪子は――」
 ふいに雪子の短い悲鳴と、それに続いて千枝のシャドウの「おっしゃあー! 雪子ゲットォー!」と気を吐く声とが聞こえた。これで一安心、もう雪子は安全だ。悠は長大息してその場に力なく座り込んだ。もはやこうなってはどれだけ彼女が暴れようとも、千枝のシャドウの膂力に抗しうるはずはなかった。悠と陽介とが全力でそうしてさえ微動だにしなかった鋼鉄の女である。
(千枝、よくやってくれた、助かった……!)
「千枝、なんで、だっ、だいじょうぶなの?」と、雪子の驚き呆れる声。
「そりゃこっちのセリフ……って言ってるヒマないか。雪子ほら、こっから連れ出すよ」と、千枝のシャドウの声。
「……千枝、わたし」
「雪子、さっきの聞いてたよ。死ぬべきだったとか、七年間ためらってたとか、なんかいろいろ」
 怪鳥が「チエ」と呟いた。
「あたし、ずっとあんたと一緒にいて、そんなのぜんぜん気付かなかった。うちらってもうつきあい十年くらいになるのにねえ」と、千枝のシャドウは明るく続ける。「あたし自分のコトばっかでさー、アホだからさー……ごめんね、気付いてやれんで」
 雪子が「千枝」と呟いた。
「あんたがさ、どーしても死にたいんなら、ここ出たあとさ、あたしが殴り殺してあげる」
「…………」
「そんでね、そのあとね、あたしも死ぬよ」彼女の声が潤む。「あたし、ひとりじゃぜんぜんダメ、雪子いないと、ぜんぜん、だからこんな、バカなことやめてよ、ねえ、雪子」
 かたや一週間前に転校してきたばかりの新参者、こなた年来の幼なじみ。同じ説得でも言葉も内容も重みがまるで違うのだろう。彼女らは悠が聞き取れないくらいの小声でなおも二、三、短く話し合ったあと、あっけなくも彼の目の前を通り過ぎて粛々と天城屋を出て行ってしまった。千枝のシャドウが雪子を「お姫さまだっこ」して、である。
(どっちが王子さまだよ……)
 なんだか声をかけるのもためらわれる雰囲気で、彼はただ黙って見送るよりほかなかった。正直、おいしいところを全部かっ攫われたような気がしないでもない。あれほどの一大決心も、蒸し焼き刑も、精出して説得に声を張り上げたのもその実、あまり雪子救出に資するところはなかったらしい。落胆もないではないが、
(失敗するよりはどれほどいいか知れない、とにかくこれで目的は達したんだ、よかったじゃないか悠)いまはなにより彼女が無事助かったことをこそ喜ぶべきだろう。悠はすっかり脱力して首を垂れた。(もう金でも芋でもどっちでもいいじゃないか、芋だって上等さ、金は食えないんだぞ……)
「悠くん」
 ふと、頭上から雪子の声が降ってきた。座り込む彼の目のさき数歩のところに、例の安っぽいデコルテを身に纏った雪子のシャドウが立っている。
「やあ、天城」
 悠は地べたに胡座をかいたまま彼女を見上げた。
「天城、よくもうひとりの自分を受け入れた。えらい」
 雪子のシャドウは悲しげに微笑んで、「ケガ、だいじょうぶ?」と訊いた。
「……外で雨に降られてなきゃ、焼け死んでたかも」と生乾きの袖を指さして、悠は力なく笑った。「陽介も里中も大ケガしてるし、まあ、おれだってどこか痛めて、仲間にならなきゃさ」
「ごめんなさい、悠くんにも、みんなにも、巻き込んじゃって。わたし――」
「帯くれたら許す。あ、もっと下に着けてるやつでもいい」
 雪子のシャドウは笑って、悠の膝を蹴るような仕草をした。
「……わたしもね、雨に降られてよかったって、思う。あの日」
「え?」
「そうでなきゃ悠くん、来てくれなかったでしょ?」彼女は例の公園での一件を言っているのだった。「あのときね、もう天気にも見放されたって、ぜんぜんいいことないなって、落ち込んで、ちょっと泣いてた。ひとりになりたいときとか、よく行くんだ、あそこ」
「今後はぜったいひとりになれないスポットになる。あのへんは悪質なストーカーがよく出るんだ、おれはよくわからないけど――」
 言いながら立ち上がろうとして、悠は果たさずに両手をついてしまった。天地がひっくり返ったかのような眩暈がする。先ほどまで意識の外へ追い出していた絶望的な疲労が、全身の傷の痛みが、乗物酔いのような気分の悪さと冷や汗とが声を揃えて「帰去来かえりなんいざ」を斉唱する。
「だいじょうぶ……じゃないよね、肩貸すから」
「いい、大丈夫」
「ぜんぜんだいじょうぶに見えないよ、もう喋らないで、とりあえず――」
「ホントに、話してたほうが……少し楽だから」言葉以外のものも出てきそうだけど。「それより天城、まだ話の途中だったけど」
「え?」
「天城、聞いて、さっきの続きだ」
 と言ったあと、悠は吐き気を紛らすためにしばらく深呼吸を繰り返していた。ふと先ほどより息苦しくないのに気付いて、顔を上げて辺りを見渡してみると、なんとあれほどに荒れ狂っていた炎がいつの間にかその勢いを失っている。燃え始めた時間から言っても建物の規模から言っても、この火は衰えるどころかますます燃え広がってしかるべきなのに、周囲にはもう彼を脅かすほどの炎も煙も見られなかった。ただ悠たちを遠巻きにして未だしぶとく建材の端々に留まっている小さな炎の、その合間あいまに黒々と炭化した地肌の覗いているのが散見されるだけである。
(下火になってる……これ、天城が?)雪子のシャドウになにかしたような気配はなかったが、(まあ、いいさ、少なくともこれで喋ってるうちに逃げ道を塞がれる心配だけはなくなった)
「天城は七年間、苦しんだ」と、悠はようやく口を開いた。「罪の意識と、愛したいものを憎んでしまう、背反、ストレス、習慣化した、常態化した労働への、反発、自己放棄を、滅私を強制されているような、理不尽、同級生への羨望、未来の希望の欠如、まだ、たぶんもっと色々あると思う、おれは天城のこと、ほとんど知らない、家のことも、家族のことも。いま言ったことだって、合ってるかどうかわからない。でもとにかく、天城を苦しめる要因はいろいろあった」
「…………」
「天城、天城は七年間、変わろうとしたんだ、そのためにいろいろな苦痛を蒙ったにせよ。それは罪の意識から来る以上に、天城屋を好きだったことに気付いたから、好きになろうとしたからだ。天城は天城屋のために、天城屋に合わせて形を変えようとした。そうじゃない? もしそうなら、天城、天城雪子の七年間は決して墓みがきなんかじゃなかった」
 雪子のシャドウは黙って悠を見下ろしている。
「天城は七年間、試した、天城屋に振り向いてもらえるように。それで、結局うまくいかなかったんだ。でも、そうするための才能がなかったとか、ぜんぜん努力が足りなかったとか、自分が悪かっただけだとか、もしそういうふうに考えてるんだったら、自殺を考え続けた原因がそういうところにあったんなら、正直ちょっと短絡的だと思う」雪子のシャドウが少しくムッとするのを、悠は笑って去なした。「七年間、がんばったんじゃないか、もうじゅうぶんだよ。七年間がんばって、実を結ばなかったんなら、それはきっと種を蒔いた場所がそもそも適さなかったんだ。そういう要因を農婦の努力不足に帰するのは間違ってる。すべての畑が果樹を育てるわけじゃない、なにを蒔いたってイバラしか生えない土地もある。そんなところで葡萄を探したって手が傷つくだけだ、葡萄酒の代わりに自分の血を舐めるだけだ。それなら、そろそろ種を蒔く場所を変える頃合いじゃない? 別の方法を試すときじゃないかな」
「……別の、方法って」
「ひとつは、逆に天城屋を天城に合わせること。もうひとつは、天城屋を諦めること、いや、天城のほうから振ってやること」額の汗を袖で拭いながら続けて、「天城、今度は天城のほうが要求する番だと思う。もし天城屋の看板を焼いてしまった罪の意識がそれを妨げるなら、考え方を変えなきゃ。そのつぐないを完遂するために、まず天城屋側に譲ってもらう必要があるんだから。百万円返済するために、まずは二十万円の元手が必要なんだって要求しなきゃ。まいにち働くのが難しいなら、たとえば週三日にしてもらうとか」
「はあ……」
「でもおれ個人としては、もうそんなものはとっくの昔に全額弁済してしまっていて、実は少なくない額が手元にありさえする状態なんだって、思ってる。天城は自由だし、仮にいっとき罪を得た人間であったんだとしても、今はとうに刑期を終えてるんだ。それなら大手を振って天城屋の暖簾を潜って、穏やかに対等に、好きな条件を呈示すべきだ。高校生活に専念したいならもちろん当然の権利としてそれを突きつけるべきだ。もし天城屋がノーって言うんなら、もうそんなやつはさっさと振るんだ。七年間ねばってやったのに、それでもハイって言わないようなヤツの気なんか引くことはない、手ひどく振ってしまえばいい。天城、振るのは得意中の得意だろ?」
「……でもわたし、行くとこなんか」
「天城は天城屋を見限るんであって、天城の家から出て行くわけじゃないだろ。ふつうの高校生がみんなそうしてるみたいに、ふつうにウチと学校を往復する、ふつうの生活を始めるんだ。それをダメだって言うんなら、もし働かないなら出て行けなんて言うんなら」悠は自分で話しながら自分の科白に憤り始めた。「おれと陽介が黙っちゃあいない。いや、たぶんおれたちよりさきに里中が暴れ始めるぞ。天城には頼れる友人がいるんだ、こんなになってまで天城を助けに来る、いい男がさ」
 最前から悠の話にじっと耳を傾ける、雪子のシャドウはいわく言いがたい面持ちである。どこか困ったような微笑、感謝と迷惑とが綯い交ぜになった表情、相手の機嫌を損ねずに引き下がってもらえるような、穏当な応えを探している気配――悠は心の赴くままにペラペラ喋っていた己をにわかに恥じた。
 もちろん、彼女にはそんな単純な話ではないのだろう。第三者には自明の理に思われても、当事者にはどうしてみようもない数々の事情がある。腫瘍があるなら切除すればよいなどとはどんな愚か者でも言えるのだ。皮肉を裂き血を流して歯を食いしばるのは畢竟、得意になって無料の忠言をたれ流す、自分のような人間でだけはないのだから。
「……ごめん、こんなのただの無責任な放言だ、事情を知らない人間だけしか、口にできない、こんなの」悠はたちまちしょげ返った。「でも天城、もうここまで来たら呑んでかからなきゃ。これいじょう天城ばかり自分を押し殺し続けるなんてあっちゃいけない」
 雪子のシャドウはウンと頷いた。
「天城、力になるよ。って言ったって、なにができるわけでもないけど……ほら、おれだって耳はついてる。話を聞くくらいならさ、おれや陽介や、もちろん里中だって――」
 つと言葉後を呑み込んで、悠は呆気にとられた。雪子のシャドウの身につけていたデコルテがいつの間にか、雪子の着ているものとまったく同じ、石竹色の和服へと変わっている。実にまばたきひとつする間の出来事である。
「……こっちのほうが似合う?」
 とはにかんで、雪子のシャドウが両の袖をパタパタと振って見せた。刹那の間に変わったのは彼女の服装だけではない、悠たちの周りに残っていた炎はいまや完全に鎮火している、おそらくは天城屋とポスギル城とを包んでいたものも含めて。雪子のシャドウの変貌と時を同じくした、というのはおそらく偶然ではあるまい、彼女のなにか、内的なよくないものをあの炎は象徴していた……とでもいうことになるのだろうか。
「これ、仕事のときしか着ないんだけど、じつを言うとちょっと気に入ってたりして」ちょっと恥を打ち明けるような調子で彼女は続ける。「洋服のほうが動きやすいし、好きだけど。着慣れてるからなのかな」
「おれは……どっちかというと……」
「さっきのほうがよかった?」
「なにも着てないのがいちばんいいけ――」悠は肩口をひっぱたかれてひっくり返った。「ウソウソ! ウソ、やっぱり裸より下着、下着は譲れない!」
(戻ったんだ。これでようやく、完全に)
 彼女はいまこそ天城雪子その人に戻ったのだ。悠はひっくり返ったままその場に大の字になって、しばらく雪子のシャドウと一緒に笑っていた。
(陽介、里中、クマ、見てくれ)と、悠は心の中で呟いた。(いろいろ犠牲を強いはしたけど、おれだってやれるだけのことをやれるだけはやったぞ!)
 彼は八十稲羽へ引っ越してきてより、初めて自らを誇らしく思った。まして幻滅に継ぐ幻滅のさなかのこの金星である。雪子の救出こそ千枝のシャドウに横取りされはしたものの、雪子のシャドウを雪子自身に回帰せしめた功は自らに誇ってもよかろう。これまでの失敗に引き比べてイーブンと言えるかどうかは微妙だけど、今だけは自分自身におまけしてやろうじゃないか――悠はわが自尊心の快復に安堵しかつ喜んだ。
「……ね、千枝たちが心配してるみたい。悠くん聞こえないと思うけど」
 と、ややあって雪子のシャドウがぽつんと言った。
「そろそろ戻ろ、悠くん」
「んん。天城、それ」
 と言って、悠は傍らに投げ出されたままになっていた天城屋の看板を指した。
「持って帰るんだろ? だいぶ焼けたみたいだけど、まだ修復――」
 彼の言い終える前に看板はとつぜん発火炎上し、たちまち炭の板へと変じてしまった。
「あ、天城……いいの?」
「いいの」暫時金色の光を放った瞳が、もとの潤いのある黒へと戻る。「もうあの看板は、ないの。ないから、こうなったの。こうなってよかったの、きっと」
「……そう」
 あとのことを考えればこれでよかったのかもしれない。仮にあのスタジオまで持ち帰ったとして、こちらのものをテレビの向う側に通せるとは限らないし、通せたら通せたでそれは厄介な話にもなろう。なかば焼けこげた巨大な看板を抱えてショッピングモールをうろつく、現在行方不明で警察の捜索対象たる女子高生、そしてめいめい大ケガして散々な態でその後ろをよろぼい歩く、不審きわまりない同級生たち――まずい、新たな懸念が浮上してきた。
(参ったぞ、この中から差し引けるのって看板だけじゃないか)この恰好のままジュネスへ戻ったら警官が何人飛びかかってくるか知れたものではない。(なんとかしなくっちゃな……考えるのめんどうだな……)
「悠くん立てる?」
「あ、うん、立てる」
 と、反射的に応えはしたものの、実際はいっそ笑えてしまうほどまったく四肢に力が入らない。ウンウン唸りながら寝返りをうつ真似をしているうちに、今度は眩暈と吐き気までぶり返してくる。
「悠くん?」
「……ウソ、ダメっぽい。立てない」
「だいじょうぶ? ケガ? ぐあい悪い?」
「ちょっと疲れただけ、だと思う。天城わるい、肩かしてもらえると」
「……わかった。ちょっとそのまま仰向けになってて」
 雪子のシャドウはそう言って、横たわる悠の傍らにしゃがみ込むと、彼の背中と膝裏とに腕を回してひょいと持ち上げた。先に千枝のシャドウがしていたような「お姫さまだっこ」の形である。
「ちょっ、ちょっと待って、天城いい、下ろして!」まさかこの状態で皆のところへ行く気では――悠は蒼白になった。「いいから! 自分で歩くから!」
「悠くん立てないって言ったでしょ?」雪子のシャドウは満面の笑みを浮かべている。「だいじょうぶだから。悠くんぜんぜん軽いよ、片手でも持てそう」
「待ってって――天城おこるぞ、いい加減にしないと」
 いい加減にするつもりはさらさらないようで、彼女は悠を抱え上げたまま踵を返して歩き出した。天城屋に大きく開いた穴を潜って、内庭で待つ陽介たちの許へ。
「やめろ! やめてくれって! なあ頼むよ、ちょっ……なんでこんなことするんだ! おれに怨みでもあるのか!」
「あるよォ、怨み」雪子のシャドウはにこにこしている。
「あってもなくてもいいから、ああもう、みんな見るだろ、早く……!」
「雪子って呼んでくれないんだもん」
「はあっ?」
 悠が必死になってその細腕の中でもがいても、雪子のシャドウは「おーよしよし、いーこいーこ」などとふざけて歯牙にもかけない。たとえ万全の状態にあってさえ彼女の鋼鉄の腕からは逃れ得まいに、まして精も根も尽き果てたいまの悠に尚のことそれができようはずもない。
(どっちがお姫さまだよ……!)
 果たして、あわれなガゼルはニシキヘビに絡め取られたまま晒し刑の辱めを受けたのだった。せめて陽介だけは気を失ったままであれかしと願っても、すでにシャドウどもが去って時間が経つのか、彼ははや花村流から回復している。ふたりの千枝の傍らで地べたに脚を投げ出して、陽介はその満面にニヤニヤ笑いを貼り付けて悠を迎えた。もちろん千枝たちもニヤニヤ笑っている。雪子が口を覆って目を背けているのはきっとニヤニヤ笑いを隠すためだ。もし表情が作れたならその隣に立っているクマも絶対ニヤニヤ笑っているに違いない。ようやく修復し終えたと思っていたものを――悠はふたたび自尊心に亀裂が入るのを感じた。




[35651] とくに言動が十八禁
Name: 些事風◆8507efb8 ID:a0847952
Date: 2014/07/26 21:59



「悠子ちゃん到着ー……ってなんかすごい絵だねコレ」と、千枝。
「心配したけどまあ、思ったよりかなり無事っぽいし」と、千枝のシャドウ。
「中でなにがあったのかあとで教えろよ、悠子ちゃん」と、陽介。
「やだァ……センセイユキチャンとナニしてたクマか」と、クマ。
(好き放題いいやがって……)
 こうして皆の前に引き出されては暴れるのもみっともない。といって助けを求めるのはなお憚られるし、そうしたところで彼らを余計に喜ばせるだけだろう。悠としてはもうふて腐れて腕を組んで、せめて「わたしはこの状態を不快に思っています。いささかも甘んずるところはありません」とアピールするよりほかなかった。
「みんな、ごめんなさい。迷惑かけて」
 と、悠を腕に抱えたまま雪子のシャドウが言った。そうして彼女が近づくにつれ漸を追って笑顔を消した雪子の、その憂いに落ち着いた面へ、
「あなたにも。雪子」
 至極おだやかに声をかける。
 雪子はこころもち眉を寄せて唇をつぼめて、泣く前兆とも笑う前兆ともつかない面持ちで、もうひとりの自分を黙って見詰めている。千枝たちに処置してもらったものか、右手にハンカチかなにかの厚くいびつに巻かれてあるのが見るも痛々しい。彼女の天城屋への愛を試した証跡が、その下にはあるはずだった。
「聞こえてた、確かに」と、雪子のシャドウは続ける。「あなたの泣き声が、天城屋を呪う声が。お母さんをなじる声が」
「…………」
「……わたしが天城屋を呪うのを、叱る声が。お母さんを、天城屋を許そうって、悪いところばかり見ちゃダメだって、励ます声が。雪子」
 雪子の口許がわななく。が、言葉は発せられない。
「雪子、わたし、天城屋が好きだよね? きらいだけど、好きだよね? わたし、矛盾したこと言ってる?」
 雪子は俯いてかぶりを振った。
「雪子、わたしたち、孤独だって、だれも助けてくれないって、思ってた。たとえ千枝だって、わたしを救い出してはくれないって」
「……うん」
「きっとね、そのとおりなんだよ。いつかだれかが助けてくれるって、どこかへ連れ出してくれるって、ただ膝を抱えてうなだれてるだけじゃ、だれも気付いてくれるはずなんてなかったんだよ。わたしたちが困ってること、わたしたち、だれにも打ち明けなかった。ただ縮こまって、呻いてれば、いつかきっとだれかがそれを見咎めて、あわれんで、救いの手を差し伸べてくれるはずだって、ユメ見てたんだ」
「…………」
「だからまず最初に、わたしがあなたを救わなきゃ」雪子のシャドウがほほえんだ。「あなたがわたしを救わなきゃ。ね? そうして、立って、声を上げなきゃ」
 雪子はウンと頷いた。
「その声を待ってる耳がとりあえず」と、雪子のシャドウの胸に収まったまま悠が割り込んだ。「ここにふたつと、そっちに四つ……じゃない、六つある」
「あー、俺あと十七個くらい心当たりあんだけど」と、陽介。
「悪いけど奇数なのはぜったいツッコまんからね」と、千枝。
「六つって、花村とあたしら? クマくんのは?」と、千枝のシャドウ。
「ガーン! しどい! クマも入れてくんろー!」クマがぴこぴこ地団駄を踏み出した。
「……訂正、八つある」
「だって。雪子」と、雪子のシャドウ。「ねえ、わたしたち、ひとりぼっちじゃないよ。友達がこれだけいるんだもん」
「友達……なんてこった、ただの友達って思われてたなんて……」
 雪子が「むふっ」と笑って、いまさらながら「ところで鳴上くんって、なんでこんなことになっちゃったの?」と訊いた。もちろん「お姫さまだっこ」のことを言っているのだ。
「いろいろあったんだよ、あのあと。――ところで天城」悠は険悪な声を出した。「そろそろ下ろしてやってくれない? もしこれいじょう鳴上くんを晒しものにしないでやろうって思うんなら」
「あっ、ごめんなさい。ごめん、ちょっとやりすぎだったよね……」
 と言って、雪子のシャドウが彼を下ろすために腰を屈めようとすると、陽介が「はんたーい。悠はこのままのほうがいいと思うひとーハーイ」などと挙手してふざけ始めた。あんのじょう千枝たちもまたそれに和して「ハーイハーイ」と諸手を上げる。
「あとで覚えてろよおまえら……ホントに覚えてろよ……」
「だってさーもー、うおーアマギーって雪子たすけに入ってったのにさー」と、千枝。
「逆に雪子にお姫さまだっこされて出てくるとかさー……ごめんけどこれコントだって。ここ笑うトコだって」と、千枝のシャドウ。
「わりーけど今のお前おもしろい。あ、写メとっていい? 待ち受けにすっから」と、陽介。
「お姫さまだっこってなにクマ? あ、いまセンセイがされてるヤツクマね、うぷぷーセンセイかわいいクマー」と、クマ。
「……天城いいから、下ろして。あいつらは無視」
 陽介たちから冗談交じりのブーイングが飛ぶ。今度は雪子のシャドウも素直に従って、悠の身体を甃の上に横たえた。そうしていったん立ち上がりかけたあと、なにか思い出したように懐からハンカチを引っ張り出して、彼の額から頬の辺りを労るように拭い始めた。先にこめかみの辺りを切ったときから流れるに任せて、なかば固まってしまった血を、である。
「そういやお前……そうだ、なんでそんな血まみれでボロボロなんだよ。つか」この様子を見ていた陽介がにわかに、なにか気付いたようにしてその声の調子を変えた。「……ひょっとして俺、なんかしたのか、ペルソナになってたとき」
 今ほどへらへら笑っていたのが嘘のように、彼の面を勃然と自責の色が占める。悠は慌てて上体を起こして「してないしてない!」と手を振って否んだ。陽介の言う「なんか」とはつまり、先に悠がペルソナの扱いを誤って彼にケガをさせたような、そういう類のことを指すのだろう。
「なに言い出すかと思えば……おまえだってぜんぜん見てなかったわけじゃないだろう」
「俺がシャドウに掛かりっきりだったこと知ってんだろ。正直に言えよ、里中たちに訊いてもわかんだぞ」
「訊けよ、そうすればわかる。これは」
 ふと、雪子のシャドウが悠の顔を拭く手を止めた。彼の負った傷のほとんどは彼女との「話し合い」の過程でついたものであるからして、その由来を正直に口にすればどうしたところで雪子のシャドウは気に病まずにはいまい。悠は続きを言いさして、ちらと千枝の血に染まった肩を眺めて、ちょっと考えたあと、
「これは……里中と、お前と、肩を並べるためにつけた傷だ」
 と言った。まことに前後を転倒した奇妙な論理ではあるが、怪我をする前ならいざ知らず、傷ついた今となっては実際これがもっとも当を得た表現だった。
 世に傷は勲章などと言うが、今の彼にとってはじつに納得のゆく比喩で、誇るべき親友たちと同じくらいの赫奕たるを胸に飾ってみて初めて、悠はようやく自己を恥じずに彼らと肩を並べられたのである。いまや傷ついた友人たちに囲まれてひとり無傷で笑っているおのれの姿などは思いも寄らない。そのかみローマ人が自らの戦傷を誇示して顕職の名誉を乞うたように、それなくして悠は自分自身から、さらに言えば陽介たちから名誉と称讃とを求めることはできないのだ。
 当然ながら陽介は親友の屈折した肚裡を理解しはせず、訝って「肩って、なんで?」と首を傾げた。
「クマごめん、そこのリュック持ってきて。なにか飲みものない?」と、クマを手招きながら、陽介にもわかりやすいように改めて言い直す。「おれだけ無傷なんてカッコ悪すぎる、なんかひとりだけ逃げ回ってたみたいだ」
「はあっ? おま――」
「でも今ならこのとおり、MVPだって狙える、だろ?」
「お前なあ……いや、お前って……」
 怒っているのか呆れているのか、陽介はしばらく悠を見下ろしてなにごとかぶつぶつ呟いていた。が、ややあって「バーカ」と結んだあとは一転して機嫌もよく、彼は悠の向かいに大儀そうに腰を下ろした。
「で? ホントんとこどーなの里中」
「花村のせいじゃないって、だれのせいでもないよ」千枝のシャドウは明るく言った。「鳴上くんのも、あんたのも、チエのもさ」
「あたしさっきの風で転んで手ェすりむいたよ」千枝が物欲しげに手を突き出す。「慰謝料は愛屋の肉丼でいいよ。ふつう盛りでいいよ」
「ごめん。どう考えてもわたしのせい」雪子は申し訳なさそうにしている。「肉丼はわたし奢るから、花村くんはいいから」
「いいっていいって、花村のおカネでたべるからおいしいんじゃん――ほら、あたしらも座ろ、雪子」
「擦り傷くらい肉パワーで治せよ」陽介がボソッと呟く。
「なんか言った? つかモロ聞こえてるけどね」恐るべきは千枝のシャドウの地獄耳である。「あたしいまチョー耳いいから気をつけたほうがいいよ。肉パワーとか言わんほうがいいよ」
「大盛りのほうがいいだろって言ったんですよ……」
 ふたりの千枝もまた雪子の手を引いて、縮こまる陽介の隣に腰を下ろした。最後にクマがリュックサックを引き摺ってやってきて、悠の隣に収まる。ここに於てついに、この世界の人間のすべてがこころ平らかに会したのであった。おのおの疲労の大小、負傷の多寡こそあれ、だれひとり欠けることなく、無事に。
 悠はふと思い立って左腕に目を落とした。メモヴォクスの短針は六時と七時の間を指していた。
(午前六時二十五分……向こうの世界ではとうに夜が明けてるだろう)
「センセイ、のみものクマ、水クマ」
「あ、ありがと」
 クマに手渡された二リットル入りのペットボトルは、陽介が飲みでもしたかすでに半ばほどまで減っている。悠はそれを一息に呷って飲み干した。口の中に水を含んだ途端、どれだけ自分が乾ききっていたか思い知らされる。まるで喉のあたりにカラカラに渇いたスポンジが詰まっているみたいに、飲む端から胃に落ちずして消えていくかのよう。
「センセイまだあるクマ、茶色いやつ。これイエモンって読むクマ?」
「飲み物はとりあえず……それより、なんか食べるもの欲しいな」クマからリュックサックを奪い取って中身をかき回す。「……みんなもハラ減らない? せっかくここまで担いで来たんだ、遠慮なくもらおう」
「それ、だいじょうぶなのかな、食べちゃったりして」と、雪子が遠慮がちに言った。「わたしも水だけちょっともらったりしたんだけど……その、犯人? というか、わたしを浚ったっていうひとが置いていったのかもしれないんだよね、それって」
「毒とか入って……はないか、さすがに」千枝は思案げにしている。「でも雪子の言うとおりじゃん? なんかこう、ヤバくない? それ」
「そうそう、そういえば言ってなかったけど」
 悠がリュックサックの底から選り出したのは氷砂糖の袋である。ふだんなら喜んで口に入れるようなものではないのだが、今はその蝋石のかけらのような砂糖塊が異様なほど好ましく見える。疲れているからなのだろうか。
「このリュックサックを用意したのは犯人じゃない。いちおう根拠もある――ほら、どうぞ」
 と、リュックサックを千枝に押し付けて、悠は氷砂糖をうまそうにボリボリやり始めた。いまの彼の舌には天上の美味さながらといったところ。
「悠くんって甘党なんだ」と、雪子のシャドウが言った。悠の血のこびり付いたハンカチを懐にしまいながら、「それより、いま言った、犯人じゃないって」
「え? うん――あ、雪子も食べる?」
 思い立って悠が氷砂糖を勧めるのを、彼女はちらと笑って控えめに辞退した。代わりに陽介の腕が伸びてきて袋からひとつかみ持ち去っていく。
「根拠って言ってたけど、それって?」
「あくまで推測なんだけど……いや、それはここを出てからゆっくり話す。とにかく、そのリュックの中身は安全だ、と思う」とだけ言うと、悠は顔を背けて大あくびをした。「それよりなんか……ちょっと眠くなってきたかも。横になりたい」
 ともかくも一息ついて緊張がほぐれたせいか、無事この一件を収めることのできた安堵のゆえか、ここにきて身体がにわかに休息を求め始めていた。あたまがそうすまいと踏ん張っても、首から下が先に眠り始めているような感覚。下半身が徐々に融け出して床に広がっていくかのような錯覚を覚える。
 無理もない話だ。夜中の零時から今現在まで、本来なら床に入って眠っているはずの六時間を、非日常的なストレスの数々に晒されながら走りかつ怒鳴り続けてきたのである。疲労困憊の極みにあるのは悠だけではない、けだしこの場にいる全員が――クマはケロリとしているが――起きて話していることさえ不思議なくらいに疲れ切っているはずなのだ。
 さてこれからどうすべきか。みな尾羽うち枯らしたさんざんな態だし、時刻も時刻である、このままジュネスへ直帰するのが危険であることは言うまでもない。とりあえずは開店時間になるまで休憩と仮眠とで時間を費やすのが吉であろうが、ここでそうしていてはいつシャドウがやってくるとも限らない。と言って、いまや半ば融け出した尻を無理に引きはがしてスタジオまで伸すのはいかにも億劫であるし――悠がウトウトしながらボリボリやっていると、ずっと黙っていたクマがそれを見咎めたのか、
「センセイ、ひざまくらするクマ?」
 と言って、床に投げ出した自身の短い脚を示した。とても悠のあたまが収まるスペースなどなさそうだが。
「遠慮はいらんクマ。クマなんにもしてないし……このくらいのことはしたいクマよ」
「なんにもって……」お調子者の彼には珍しい、やけに謙遜した物言いである。「クマがなんにもしてなかったら、おれたち今ごろ天国でこうしてるよ」
「そーそー。お前あんなに苦労して道案内してくれたじゃん、それってお前にしかできないことなんだぜ」と、陽介が引き取る。「なんか天城に追いついたときもちっとヘコんでたけど、もちっと自信もてって。お前がいなきゃそもそもこの城だってどこにあんだかわかんなかったんだしさァ」
「クマの鼻は必須だ。おれたちのペルソナははっきり言って扱いづらいし、いろんな制限もある。そういつまでも使い続けられるものじゃないらしいんだ」
 実際、この事実は今回の「遠征」で得られた重要な収穫のひとつだった。生身の人間に比してペルソナがいかに強力ではあれ、その拠って立つところのものは同一なのだという、当たり前と言えばあまりにも当たり前な事実。ペルソナを行使し維持し続けるための巨大な代償はほかでもない、悠たち自身の身体から捻出されるのである。原付がスポーツカーとその小さな燃料タンクを共有させられるようなものだった。
「いくらあれが強力だって、クマがシャドウを感知して避けてくれなきゃ、じき使えなくなる」そしてスポーツカーのエンジンが止まったとき、おそらくは原付のそれもまた止まるのだろう。「おれたちが少しくらいシャドウを追い払えたってそれだけじゃ意味がない、ここぞというときまで力を温存するためには、どうしてもクマの力が必要なんだ。クマはおれたちの守り神だ」
 こんなふうに陽介と悠とが褒めかつ慰めても、どうやらクマは屈託を解かない。ただ頑なに「ひざまくら、するクマ?」と訊いてくる。これが人間であれば表情のひとつも読み取れるのだが、
(これ着ぐるみだしな……わからないな、なにかもっと別の悩みでもあるのかな)
「守護神の膝を枕にするなんてそんな畏れ多い」いずれ折を見て彼と腹を割って話さねばなるまいが、いまは煙に巻いておくしかない。「ありがと、気持ちだけもらっておくよ。それにどうせなら女子にやって欲しいし」
 悠は千枝たちのほうを露骨に見ながら「誰かいないかなあ、ケガして疲れ切ってるかわいそうな男を癒してくれる親切なレディは」などと聞えよがしに言った。
「心当たりある?」千枝はリュックサックを漁りながら顔を上げもしない。
「うんごめんない」千枝のシャドウも同様である。
「おい里中、シャドナカ、肉は入ってねーぞ多分」と、陽介がからかった。
「肉とか探してないっつの」
「シャドナカゆうなっつの」
「じゃ、ペルソナカ?」
「花村ー、ヒザ枕したげる。あんた枕ね」千枝のシャドウが立ち上がった。
「ちょっ、待った待ったシャドナカさんじゃないペルソ――痛い痛いギブギブ!」
 彼女に膝でのし掛かられて、陽介は痛いとは言いながらあんがい嬉しげにしている。その様子を笑って眺めていると、
「悠くん、わたししようか?」
 出し抜けに雪子のシャドウがこんなことを言い出した。悠がぎょっとして「なにを?」と訊くと、果たして彼女は「膝枕」と返す。
「疲れてるんでしょ? いいよわたしなら」
 彼女は両の脚を投げ出して、ちょっと衽のはだけたのを整えたあと、自らの腿をポンポンと示した。笑って断られて終わるはずの冗談だったのだが、
(まさかOKが出るとは……)
 思ってもみなかった展開で、悠は腹の中で狼狽した。それならありがとうご厚意に甘えて、などと軽薄なことはまさかにできない。しかし断るにはあんまり惜しい申し出だし、ここで慌てて遠慮しなどするのは据え膳食わぬはなんとやらというやつで、なんだか意気地のないようで恰好もつかない。あくまで冗談として通し切るつもりならむしろ受けて立って、平然と感想のひとつも述べるほうがよいのではないか? いやしかし先方が単に冗談を冗談で返しただけなのだとしたら……
 ふと周りを見渡すと、うらめしいことに全員が悠を注視している。こんなことで逡巡しているのを悟られてはいかにも恥ずかしい。悠はとりあえずもうひとりの当事者に「いいの? 天城」とお伺いを立ててみた。彼女がならぬと言えばそれで収まりもしよう。
「あの、なんかこんなこと言ってるけど、いい、のかな」
「わたしに訊かないでよォ……」雪子は困り果てて赤くなった。「知らないよ、好きにしたら?」
「それなら」ままよ――悠は腹を決めた。「ええと、お言葉に甘えて……」
「どうぞどうぞ、遠慮なく」雪子のシャドウになにかしら不快そうな色はない。ほんとうに膝を提供してくれるつもりらしい。
「センセイはユキチャンのほうがいいクマね……クマには興味ないクマね……」クマが萎れる。
「そこは断れよーナンパものー」千枝のシャドウが冗談交じりのブーイングを飛ばす。
「鳴上くんエローい」千枝もそれに和する。
「鳴上くんサイテー」陽介が気味の悪い裏声を上げる。
「うるさい言ってろ」これも成功報酬のうちだ。悠は内心うきうきしながら雪子のシャドウに躙り寄って、「じゃあ、あの、失礼します」
 彼女の腿にあたまを宛がった。はずだったが、彼の後頭部を迎えたのは胸中でかくもあろうかと夢想した乙女の柔肌ではなく、
「いってェ……!」
 石である。目から火花が出た。彼は床の甃に頭突きしたのだった。冗談のつもりで脚を引きでもしたかと慌てて雪子のシャドウを振り仰ぐと、
(あれ、いない……)
 そこに彼女の姿はない。千枝が呆然と「消えた」と呟く。
 辺りを見渡しても雪子はひとりしか見つからない。みなの視線が悠の頭上の辺りをさまよっている。雪子のシャドウは全員の見ている前で忽然と消えたのだろう、すでに経験のある陽介や千枝にしてからが驚きを隠せないほどだ。まして雪子の困惑と狼狽とは彼らの比ではない、陽介の例に洩れず、彼女は血相を変えて立ち上がって、
「なんで……どうして! ウソ、ウソだ、待って、鳴上くんあの子どこ行ったの!」
 などと大慌てに慌て始めた。
「天城おちついて、天城のシャドウは――」
「おっ、落ち着け? わたしが消えたのに、落ち着けっ?」雪子はなにをバカなことをとでも言わんばかりである。「落ち着いてられない、探さないと!」
 既視感を覚える光景だった。ふと陽介と目が合う。過日の彼を苛んだ喪失感が、今度は雪子の胸を焼いているのだろう。
「天城、消えてねーよ、どこにもいってねーって」同病相憐むの感情か、陽介が慰めるように、ことさら明るい口調で切り出した。「ちゃんといるじゃん。なに、見えてねーの?」
「どこ。どこに!」
 陽介は黙って雪子を指さした。
「つきあってられない」憤然と一蹴して、彼女は悠に食ってかかる。「ねえあの子どこに行ったの? お願い探して、まだあの子に言わなきゃいけないことが――!」
「天城おちついて、大丈夫、ちゃんと伝えられるから。いるから」
「どこに」
「ここに」悠は陽介に倣った。「陽介の言うとおり。それが全てだ」
「そんな……」
 雪子は力なく呟いて、その場にへたり込んでしまった。
「天城雪子はさ、ここにいる、だろ?」陽介は考え深げに腕を組んでいる。「どこにも行ったことなんかない、今までも、今も、一度だって離れたことなんかない。鏡を見りゃあいつでも会える」
「…………」
「……って、自分に言い聞かせてさ、俺はムリヤリ納得した。そうするしかねーんだ」
 雪子がおもむろに陽介を振り返った。その眉根に深い皺が寄る。
「じゃあ、花村くんも?」
「陽介は第一号なんだ、シャドウと和解した、ね」悠が引き取って代弁する。「陽介のシャドウも天城のと同じで、みんなの見てる前で、ふっと消えた。さよならのひとつもなしに、突然」
 雪子も陽介も言葉はない。
「……そのあとさ、もう大変だったんだ」悠は一転、笑って陽介を指さした。「コイツ大泣きしてさあ――なあクマ」
「ちょっ、おま――!」
「そークマねー、どこいったんだよーとか、おれも話したいことあるんだーとか言って、ヨースケったらオイオイ泣いてたクマ」
 クマはあたまを蹴られて派手にひっくり返った。
「ギャース! なんばすっとクマァー!」
「クマてめチョーシのんな! つかオメーは――!」陽介が真っ赤になって詰め寄ってくる。「ひとがしんみり回想してっときに……そもそもそういう流れじゃなかっただろーが!」
「おれとしては」陽介を去なしながら雪子を見て、「天城が泣くところも見てみたくはあるんだけど……これはさ、べつに悲しむようなことじゃないと思うんだ」
 悠は笑って言った。そうすればあるいは雪子も愁眉を開くかと期待したのだったが、彼女は「だって悲しいもん」と唇を尖らせて、非難の視線を返すだけである。
「悲しいよ、悲しくないわけない、やっとわかりあえたのに」と言って、ちらと陽介を見ながら、「わたしはわかる、花村くんの気持ち。わらいごとにするなんてひどい」
「……ごめん。ふたりとも、笑ったのは謝る。悲しむようなことじゃないっていうのは、訂正する」いらぬ小細工だったらしい。悠はため息を漏らした。「でも喜ぶべきなんだ。喜ばなきゃ。だって雪子が泣きながら、悲しみながら天城の許へ戻ったなんて思う? 喜ばなきゃ……」
 ほかならぬ悠自身、雪子のシャドウが挨拶のひとつもなしに消えてしまったというのは、じっさい寂しくも悲しいものだった。なんといっても彼の接した「天城雪子」とはむしろ、雪子よりも彼女のほうであったのだから。彼は雪子ならぬ彼女から天城雪子の来し方を聞き、彼は彼なりの天城雪子への真情をもって雪子ならぬ彼女にぶつかった。わずかな間ではあったが悠に語り、また悠の話に耳を傾け、最後には心安く「悠くん」と呼んで親しげにしてくれたもうひとりの雪子の存在は、彼にはやはりどうしても惜しまれた。が、ここは彼女のためを思えばこそ悲しむべきではないし、彼女が今ほど回帰した雪子自身をもまた悲しませるべきではない。彼女らはこうなることで喜ばなければならないはずだ。
 そして悠もまたそうすべきであるはず。
「天城のシャドウは……雪子はさ、やっと天城と同じ眼で見て、同じ口で話せるようになったんだ」あとひょっとしたら、同じ膝を同級生の枕として提供できるようにも。「雪子は、天城雪子になってもいいんだって、ようやく思えたんだ。だから姿を消したんだ、きっと。今までそうできなかったのは、お互いがお互いを自分じゃないって思ってたからだ。そっちのほうがよっぽど悲しいことだ」
「それじゃあ」と、出し抜けに千枝が声を上げた。自身のシャドウを悲しげに見ながら、「あんたも……あんたも消えちゃうの?」
「消えるんじゃねーって――おらクマ立て」クマを助け起こしながら陽介が言った。「むしろ消えてたんだ。お前から、シャドナカが」
「あくまでシャドナカかい」千枝のシャドウはもはや訂正しなかった。「なんか消えるとか消えないとかいまいちピンと来ないけど――雪子」
「え?」
「鳴上くんの言うとおりだよ、たぶん」と言って、彼女は千枝を横目で見た。「なんか仮に、いまあたしがその、消えたとして? チエが泣いたり怒ったりしてるの、もしあたしが見れたとしたらさ」
「したら?」と、雪子。
「……なんか、ちょっとバカっぽいって思うかも」
「バカっぽいってなによ!」千枝が熱り立った。「あんたひとの気も知らないで!」
「だってなんか、ヘンだもん。ここにいるのに、そこにいないってワーワーゆうの」
「ど、どーいうイミよ」
「あんたはあたしで、あたしはあんた、なんでしょ? たぶんじゃなくってさ」千枝のシャドウはリュックを引き寄せて、再び中を漁り始めた。「雪子だってそーだったんでしょ? なら見えなくなったって消えてはないじゃん。伝えたいことあるならさ、どんだけ小さい声で喋ったって聞こえるよ。耳ふさいだって聞こえる。カオ見たいなら花村が言ったみたいに、鏡みればいいんだよ」
「んなこと言ったって」千枝は困り顔である。「アンタは消えるほうだからいいけど、消えられるほうの身にもなってよォ……」
「とっくになってるっつーのに。あたしはあんただってさっきから――おっ」
 千枝のシャドウがなにか気付いたふうにして、リュックのサイドポケットから平たいパッケージを引っ張り出した。
「……あったじゃあん、ビーフジャーキー」ほくほく顔で包装を破りながら、「チエ、あんたもたべる?」
「たべるけど……とっといてよ、いまはそんな気分じゃ」
「あっ、そうだそうだ、あたしぜんぶ食べてもいいんだ。あたしはあんたなんだから」
「ちょっ、待った待った!」千枝の憂鬱はたちまち食欲に征服された。「じゃああたしがぜんぶ食べてもいいってことじゃん!」
「そうそう。そーゆうこと」
 と、言い終えた瞬間、千枝のシャドウもまた雪子のシャドウのように、なんの前触れもなしに消えてしまった。ビーフジャーキーが床に散乱した。千枝が「あっ」となにか言いかけたが、その先は言葉にならない。彼女の俯いたあとはただ重苦しい沈黙だけが訪れた。
 言おうようのない哀愁が悠の胸中を満たす。つい先ほどまで笑ったり泣いたりしていた人間が、少なくともその人間と見分けのつかない生き物が、まるでフィルムを切り取って巧妙に継いだ古い映画の特撮のように、あまりにも唐突に不自然に消失してしまうこの無常! 過日の陽介のシャドウがそうであったように、雪子のシャドウも、そして今や千枝のシャドウも、切り捨てられたひとひらのフィルム片として、もう二度とアーク灯を浴びることはないのだろう。もう二度と「彼女ら」に会うことはないのだ。
「チエチャン」
 と、クマが気遣わしげに呼んでも、千枝はしばらく返事をせず、ただ下を向いてズルズルと洟を啜っていた。が、ほどなく真っ赤な目を上げて、
「ちょっと得したよね、うん。これでぜんぶあたしのもんだ」
 ジャーキーを拾い集めながら気丈にこう言った。取り乱す気配はない、彼女は自らの喪失と獲得とに耐えたのである。
「千枝、だいじょうぶ?」と、雪子が呟いた。
「んん、だいじょぶ。悲しいは悲しいけど」と言って、千枝は悠を見た。「……鳴上くんの言うとおりだよね。というか、正直ぜんぜん言うとおりじゃないけど、言うとおりにしなきゃ、なんだよね」
「言うとおり、って」
「喜ばなきゃってこと。アイツの――いや、あたしか、あたしがさっき言ったとおり、ここで泣いたりしたら変人じゃん」
「…………」
「鏡の中のじぶんがさ、じぶんに向かって話しかけてくれないって、騒ぐようなもんなんだ、きっと」ズッと鼻を鳴らして、千枝は続ける。「こっちから話しかければ同じことなのにさ。そうだよ、悲しむようなことじゃないんだよ……」
「それさ、実は俺もおんなじこと考えて、やってみたんだけど」と、陽介が口を挟んだ。
「え? どーだった?」
「いや、なんか、超バカっぽかった」
「……やっぱ鳴上くんって間違ってる?」
「間違ってる間違ってる。さっき悲しむようなことじゃないとか言ったときは八回くらい殴るって誓ったし」
 氷砂糖のかけらが飛んできた。悠はそっと呻いた。
「喜ぶべきってのは、そりゃそうできるようになってからゆっくりやりゃいいと思うぜ、俺は」と言って、雪子を見ながら陽介は笑った。「天城もさ、あのシャドウにいきなり消えられりゃあ、動転すんのは当たり前なんだよ。悲しいのも当たり前なんだ、だから泣いたって慌てたって別にいいだろ。天城が泣きたいなら、天城のシャドウだって泣きたいってこった。だろ?」
 雪子はウンと頷いた。
「……で、天城さ、泣かね?」
「え?」
「里中でもいいや、ちょっとさ、ここらで一発だれか泣いとこうぜ。泣いたの俺だけだとカッコつかねーしさァ、なっ? ほら、サンハイ」
 ようやく雪子と千枝とに笑顔が戻ってきた。それは薄くではあれ、後に悲しみの尾を曳かない穏やかな笑みである。これは悠が先ほど彼女らに与えようとして失敗したものだったのだが、
(コイツがうまくやってくれたってわけだ)この真夜中の冒険に論功行賞があるとすれば、功一等は間違いなく陽介であろう。(また見せ場を持ってかれたな……ま、いいか)
「それでどっちか泣き終わったら、次はおれの処刑だろ? 覚悟はできてる」悠はその場に大の字になった。「八回殴ろうが二十回蹴ろうがもう好きにしてくれ。おれは夢の中で天城に膝枕してもらいながら昇天する」
「あっ! そーそー思い出したクマー!」と、クマがとつぜん大声を上げた。「チエチャン、クマチエチャンにひとこと言っとかなきゃいけないことがあったんだクマ!」
「なんだ急に」と、陽介。
「なによクマきち」千枝はきょとんとしている。
「チエチャン、チンチン蹴っちゃダメクマ」
 不意打ちもいいところだった。重苦しい沈黙が戻って来る。さてこれを見逃す手はあるまい――苦労して上体を起こすと、果たして千枝はみるみる真っ赤になるところだった。
「は……はあっ?」
「チンチン蹴っちゃダメクマ」クマはなおも言い募る。「チエチャン、ここに来るときセンセイとヨースケのチンチン蹴ったクマ? ふたりとものたうち回ってもだえ苦しんでたクマ。オトコはねえチエチャン、チンチン蹴られると死んじゃうこともあるんだクマ! もんのすごく痛いクマよ、チエチャンはそりゃあつい――」
「クマストップ」陽介の制止が入った。「やめとけ。これ以上は死体蹴りだぜ、武士の情けだ」
 千枝はいっそあわれを催すほど赤面している。雪子がその様子を後目に見て、追い打ちをかけるように「蹴ったの?」などと訊き始める。
「けっ、蹴ったって、ええ? ど、どこをよ!」
「どこって、その……ほら、そこっ」雪子は指示代名詞でお茶を濁した。「それより! わたし前に学校で言ったじゃない、男のひとのそういうところって下手すると命に関わるって。冗談で蹴っていい場所じゃあ」
「じょ、冗じゃっ、冗談じゃないっちゅにょ!」
「千枝いま嚙んだァ!」雪子の声が一オクターブ上がった。彼女は先の公園のときのようにけたたましく笑い出した。「あははちゅにょって! ちゅにょってなに!」
「チンチン蹴っちゃダメクマ?」クマはあくまで追求の手を緩めない。
「あーうっさいうっさいわかりましたよ!」千枝は赤いのを通り越して赤黒くなりつつある。「ごめんなさいすみませんもうしません! はいこれでいいでしょっ!」
「なにをもうしないクマ? しっかりはっきり言葉にしなさい、クマは怒ってますクマー」
「こ、このアホグマ……!」
「チンチン蹴っちゃダメクマァ」陽介はどうやら武士の情けを忘れたらしい。
「チンチン蹴っちゃダメクマァ」もちろん悠もそんなものは持ち合わせない。
「おい悠、股間ガードしとけよ。ハンターが来るぞ」
「ここは物騒な世界だな、冗談じゃないっちゅにょ」
 悠と陽介は脇腹を蹴られて叫んだ。
「雪子もうっさい! いつまで笑ってんのあんたはっ!」
「だって、じょっ、冗談じゃないっちゅにょ……!」
 雪子に笑い止む気配は一向なさそうだ。じき堪忍袋の緒を切った千枝とのつかみ合いになったが、さしもの拳法つかいも片腕を封じられてはハンディキャップが大きく、雪子はよく親友の髪ひっぱり攻撃に抗し得ている。じきそこへクマが仲裁に割って入ったことで騒動はうたた混迷を極めた。しばらくは三人でなかよくやっていることだろう。
 悠は蹴られた脇腹をさすりながら、同じような恰好で傍らに寝転がる陽介を横目に見た。
「な、陽介」
「あん?」
「……おれってさ、金か、銅か、どっちかな」
 藪から棒の問いに陽介は訝って、「はあ? どーいうイミよ」と眉を顰めた。
「それとも芋かな」
「芋ォ? なんで芋……?」
 彼はさして考えるふうもなく、「金だよお前は」と言った。
「金だ金、十八金。とくに言動が十八禁」
「十八金か!」純金ではないのだ。それでも金は金だ。「そうか、十八金か……」
「で、なんでんなこと訊くのお前」
「さあね」悠は仰向けになって手枕を作った。ふたたび大あくびが出る。「ああダメだ、眠い、もう起き上がれない……」
「ここで寝たらマズくね? シャドウが来たら――」
「お前がなんとかしてくれるんだろ……たのむ三十分だけ……」
「へいへい。ま、今まで建物の外で襲われたことはなかったし、ちっとくらいは大丈夫だろ、たぶん」と言って、陽介は横たわったままひとつ長大息した。「……どうよセンセイ、ぜんぶ終わってみて。天城救出隊の隊長としてひと言」
「隊長はお前だろ」
「俺は参謀だから。隊長はお前。はい三、二、一、キュー」
(隊長ねえ)
 悠は寝転がったまま目を瞑って、深夜から続いたこの大冒険を振り返ってみようとした。が、すでに半ばいじょう眠りかけたあたまは思うように回らない。ジュネスの外での騒擾。千枝の妨害。彼女のシャドウとの遭遇、千枝たちの言い争い。初めての実戦。親友の負傷。そして雪子たち――もはやディテールはドロドロに溶け出して前後の区別もつかない。読み取れるのはもはや最後の実感だけだった。こうして無事にしおおせるまでまさかやり遂げられようとは思いもよらなかった、この大仕事を成功裏に終えたビビッドな実感。
「アークタ、レース、エスト……!」
 終わったぞ――悠は両の握り拳を赤い空へ突き上げて、それを大声で表現した。





「菜々子ちゃんはなにがいい?」
「オレンジジュース、ある?」
「オレンジ、えっとね、ファンタがあるよ」
「タンサンだからファンタのめない」
「あーそっかー……紅茶は? ミルクティー。甘いよ」
「それがいい!」
「おれも同じのでいいよー」と、悠は両手でメガホンを作った。「あ、待った、無糖がいい。無糖たのむ」
「オメーは自分で買え。カネ持ってんだろーが」陽介は辛辣である。「おごんのは菜々子ちゃんだけ!」
「菜々子だけー!」菜々子がにこにこしながら陽介の真似をする。
 べつに喉が渇いたわけではなかったので、菜々子にひとつ手を振ったあとは買いに立つでもなく、悠はそのままベンチに収まっていた。
 彼の背後には御康駅の駅舎が建っている。悠たちが電車を降りたときより駅前に人足はようやく増え、目の前の小体なロータリーにも人待ち様に横付けされた車両がいくつか散見され始めていた。折々に出入りするタクシーがそれを迷惑げに睨め付けている。ベンチのすぐ隣に立っている「駐車禁止」の標識はほとんど顧みられない様子。
 悠は左腕のメモヴォクスに目を落とした。十時三十分――そろそろ合流できないと予約の時間に遅れてしまうかもしれない。
 ロータリーを挟んだ駅の対面には、こんな日曜日の昼前にはちょっと賑わいそうな、小ぎれいな駅前通りが開けている。実際それなりに繁盛してはいるのだろう、クッキーみたいなこげ茶色の、チェック柄のタイルで舗装されたアーケードに、見られる限りの範囲でシャッターを下ろした店舗はひとつもない。道行く人々の中には悠たちと同じような年代の人間も多い。あるいは八校の人間も紛れ込んでいるかもしれない。
(あ、ジュネス見っけ)
 駅前通りのすぐ入口にあるスターバックスの頭越しに、距離を違えてイオンモールと、おなじみのジュネスの看板が眺められた。菜々子が見たら狂喜乱舞まちがいなしだ。八十稲羽駅から電車に乗って三十分ほども揺られれば、ジュネス八十稲羽店だけでは支えられない需要を満たしうるこのような商店街に来られるのである。もっとも陽介の談では店舗の規模と種類、なかんずく若向けのそれにおいては、ここよりもう二、三十分も先の沖奈には及ばぬということだが。
「ほいよ」
 ベンチに戻って来るなり、陽介は悠の目の前に缶ジュースを突きだした。
「え、くれるの?」
「ちっと飲んでみ。感想きかして」
 缶には「リボンシトロン」とあって、デフォルメされた少女と犬のキャラクターが描かれている。初めて見る銘柄だ。
「聞いたことないな。リボンシトロン?」
「それなにあじ?」と、菜々子。
「俺も初めて見んだけどさ。なんか怪しくね? 名前」陽介は自分用に買ってきたコーヒーを啜っている。「なんか見た目は子供っぽいけど……ドクターペッパーに通じるイミのわかんなさがあるっつーか」
「ドクターペッパーって?」と、悠。
「それなにあじ?」と、ふたたび菜々子。
「ドクペ味。ドクターペッパーってのは、まあ、いつか自販機で見つけたら飲んでみ、オススメだから。それより今はリボンシトロンだ」
「おれは毒味役か……これサイダーって書いてあるけど」
 蓋を開けて中身を少し含んでみる。味は酸っぱくないレモンスカッシュといったところだ。缶の意匠といい子供向けにでも作られたものなのだろうか。
「おいしい?」と、菜々子。
「うん、いける。まんまサイダーっていうか、子供用レモンスカッシュって感じ」
「あ、そう。なんか興ざめだな」陽介はつまらなそうにしている。「スゲーまずかったら面白かったのに。百二十円ソンした」
「…………」
「ちょっとのんでいい?」
「ん、菜々子ちゃん炭酸のめないってさっき」
 と、悠が言いさすと、菜々子はちょっと不機嫌そうに眉を顰めた。
「ええと、大丈夫?」
「だいじょうぶ」悠の差し出した缶を受け取って、「ちょっとならだいじょうぶ。のんでみる」
 菜々子は恐るおそるリボンシトロンを賞味し始めた。
(おれ、なんか癇に障るようなこと言った?)
「なあ悠、ところでそれって」
「え?」
 呼ばれて振り向くと、陽介はなぜか照れたような微妙な笑みを浮かべている。
「……なに、なんだよ」
「ひょっとして気に入ってんの? 安もんだけど」
 と言って、彼は悠の羽織っているカットジャケットの袖を摘んだ。それは一週間前のあの大冒険のあと、それまで着ていた上着に代えて陽介から買い与えられたものだった。
「いや、たまたま」もちろん気に入っている。彼から授与された勲章のようなものだ。「いちばん目近にあったから着てきただけ」
「あっそ……」陽介は苦笑してコーヒーを呷った。
 時間で言えばちょうど一週間前のいまくらいであろうか。休憩後の仮眠から醒めた悠たちが、さてジュネスへ戻るにはどうしたらよいかと寝ぼけたあたまを傾げ始めたのは。
 行きはよいよい帰りはなんとやら、というやつである。おのおの小さな傷はリュックサックに備え付けてあったファーストエイドキットで治療ができた。血痕も拭くことはできた。汚れた顔もくたびれた髪も煤けた服も、それらしく繕うことはまずできた。が、なにしろ問題になったのは千枝と悠の服だった。かたや血まみれ、こなた焼け焦げだらけ、まさか着たまま怪しまれずに済むはずはなし、といって脱いだあとの替えもなし。さしもよろずに気のつく忍者のリュックといえども、服だけは入っていなかったのだ。
「俺がまずひとりで出てって、お前らの服テキトーに見繕ってくるから」
 と、解決案を示したのは陽介である。とうぜん悠たちは眉を顰める。というのも、誰も財布を持ってきていないことはすでに確認済みであったので。しかし彼は胸を張って、
「俺って店長の息子だからさ、ツケが利くんだよ。ジュネスの王子の数少ない特権のひとつだよな」
 などと言い出す。いくら店長の息子でもそんなことが許されるのかと悠たちも訝ったものだったが、ともあれ彼はジュネスへ戻って三十分もしないうちに、悠の上下ひとそろいと千枝の上着――止血帯を隠すためのブカブカのパーカー――を購って戻ってきたのである。まったくもって花村陽介という男は得難い友人であった。もし「天城救出隊」に彼がいなかったら、警察に補導されずに家へ辿り着くことはおろか、そもそも夜中にジュネスへ忍び込むことすら適わなかったのだから。
(ほんとうに得難い友人だ、こいつは)
 のちにわかったことだったが、このとき陽介は尻と大腿に七カ所もの傷を隠していた。暗い色のジーンズを穿いていたせいで誰も気がつかなかったのである。露見したときは出血こそほとんど止まっていたものの、とくに脚の傷のうち一カ所は決して浅いものではなく、靴を脱がせてみればあんのじょう靴下も靴の中も流れ落ちてきた血で染まっていた。大したことはないと平気な顔をしてはいたが、内心は歯噛みして堪えていたに違いない。一時的に彼のペルソナが理性を失って大暴れしたとき、やはりその代償は彼自身に降り注いでいたのだった。
「タンサンシューシューするね」菜々子は意外に気に入った様子。「リボンシロトンおいしい!」
(シロトン……)
「お、菜々子ちゃん炭酸へいきになった? じゃあこれで大人だ」と、陽介。
「タンサンのめたらオトナなの?」
「うん大人。あ、菜々子ちゃんのお父さんってビール飲む? というか、ビールってわかる?」
「わかるよ、ビール。ビールお父さんのむよ。ゴホンのめるよ」
「そっかあ……ほら、ビールって炭酸はいってるじゃん? シュワシュワいってるじゃん?」
 菜々子はウンと頷いた。
「炭酸は大人の飲み物だからさ、だからビールにも入ってるってわけ。だから菜々子ちゃんは大人」
 菜々子はこの無茶苦茶な論理に大いに得心して、誇らしげに「リボンシロトン」を打ち眺めている。
「菜々子これのむから、こっちあげるね」
 もはや用はないとばかり、彼女は陽介から貰ったミルクティーを惜しげもなく悠に差し出した。菜々子の中ではすでに牛乳入りの甘い紅茶など「こどもののみもの」に格下げされているのだろう。
「陽介、間に合うかな、時間」ミルクティーを押し頂きながら、悠はふたたび腕時計を一瞥した。「予約って十一時なんだろ? いま三十八分だけど」
「そろっと電車も来んだろ、もう着くはずだから」と言うだけは言いながら、陽介の面はだんだん曇り始める。「……着くはずなんだけど、ヤベーな、乗ってっかなァ。病院込んでて遅くなってるとかって可能性も」
「電話してみたら?」
「電車きても降りて来なかったらしてみっけど……あーあいつら遅れんなら連絡しろよなァったく」
 などと陽介がぼやいているうちにも、御康駅のホームへ電車が滑り込んでくる。あれに乗っていればいいけど――悠は菜々子にベンチを勧めて、貰ったミルクティーの封を開けた。もし時間に遅れたばあい千枝と雪子のぶんはキャンセルできるのだろうか。もし折詰にでもしてもらえるなら遼太郎へ恰好の土産にもなろうが、
(ムリだよな、さすがに。なんたって県内で一番の有名店だもんな……)
 ふと、例の紬を着た雪子が、しずしずと高級鰻屋ののれんを潜る光景が目に浮かぶ。さだめし彼女なら行く先がどのような高級店でも絵になることだろう。
「……天城、和服きてくるかな」
 と、悠はひとりごちた。
 もっとも仮に着てきたとしても、それはおそらくあの因縁の紬でだけはあるまい。彼女はほかならぬそれを着て誘拐され、異世界へ連れ込まれ、未知の怪物に追いかけ回されたあげく、煤の薄く染み付いたのもそのままに、ただひとり警察へと出頭したのだから。雪子にとっては苦痛とトラウマの象徴とでも言えようものだ。
「わたしはひとりでだいじょうぶだから、鳴上くんはふたりを病院に連れてってあげて」
 去る一週間前、そう言って悠の同行を強いて断ったのは当の雪子であった。おそらく一緒についてくれば事情聴取は避けられない。まさか本当のことを言うわけにはいかない、といって、真相を隠したまま警察相手にそうそう辻褄の合う供述ができるとも思われない。ボロが出ればいらぬ疑いをかけられないとも限らない、よって来るべきではない……
「わたしは警察のひとに声をかけられしだい、気がついたらこのあたりにいましたって言うつもりだから。なにを聞かれても『覚えてない』で通しきるしかないと思うの。ひょっとしたら捜査の妨害になっちゃうかもだけど……」
 お説ごもっとも、確かに彼女の言うとおり。悠はそれ以上どう引き留めてみようもなく、内心おおいに彼女を案じながらその華奢な肩を見送ったのだった。その後は警察の聴取なりカウンセリングかなにかのケアなり色々あったのだろう、学校へは来ていない。陽介経由で千枝から彼女の様子を知らされてはいたが、あの日以来いちども会ってはいないのである。
 雪子はきょう千枝の傷の抜糸につきあったあと、一緒にここへ来ることになっていた。
「お、来たんじゃね?」
 陽介がベンチを離れて駅舎を覗き込んだ。じき千枝のものと思しい「おー、出迎えごくろー!」などと言う声が聞こえる。
「ごくろーじゃねーよ、もう時間おしてっぞ。予約は十一時!」
「うぇ、十二時じゃなかったっけェ? お昼ゴハンでしょ?」
「おま……俺メールまでしたっつーのに。十二時枠なんか四日前に電話しても空いてなかったし」
「ほら、やっぱり十一時だった」と、雪子の声。「お茶のんでたら確実に遅刻してたね」
 陽介に伴われて千枝と雪子が駅舎から出てきた。ふたりとも悠と菜々子を見つけて小さく手を振る。肝心の雪子は和服ではなく、臙脂色のワンピースに同色の羅のスカーフといったいでたち。
(まあ、似合ってるんだしいいか)悠はかすかに落胆した。(べつに和服マニアってわけでもなし……でもあの紬もよかったよな……)
「おーっす鳴上くーん、とォ、菜々子ちゃーん!」千枝が小走りに駆けてくる。「ひさしぶりー! 元気してた?」
「ひさしぶりー!」と、菜々子の返事もじつに屈託ない。「ちえちゃんと……ゆきちゃん!」
「ひさしぶり、菜々子ちゃん。と、鳴上くんも」と、雪子も微笑む。
「ひさしぶり。じゃあとりあえず」悠はベンチを立ってミルクティーを呷った。「行こう、鰻屋。もう時間ないし」
「はいはいあたしのせいあたしのせい」千枝はわざとらしく膨れている。
「だな。里中のせい」と、陽介。
「ホント千枝のせい」と、雪子。
「ちえちゃんのせい」菜々子はおそらくわからないまま同調している。
「菜々子ちゃん以外うっさい」
「ほら陽介、案内」と、陽介を促して歩き出しながら、「里中どうだった? 抜糸」
 悠は彼女の傷の容態を訊いてみた。彼自身も処置に関わった傷なのだ、この一週間というもの片時も忘れたことはなかった。
「まだあんまり動かすなって言われたけど、もうぜんぜん」千枝はあっけらかんとしている。「縫ったり抜糸したりよりさ、最初の上着はずされるときのほうが痛かったくらい。くっついてたし」
「やっぱり強く縛りすぎた? 医者はなにか言ってなかった?」
「いやべつに……あーもーなんで落ち込むのォ? 鳴上くんのせいじゃないじゃん!」
「べつに落ち込んでない――おい陽介、道、どっち」
「こっちこっち」陽介が代わりに先頭に立った。携帯になにごとか打ち込みながら、「仮に百歩譲って悠に責任があんだとしてもさ、今日のでチャラだろ?」
「そーそー! 今日の高級ウナギであたしの傷は完治する予定ですから」
「ホントによかったの? わたしいちおうお金もってきたから」雪子は申し訳なさそうにしている。
「菜々子ももってきたよ。センエンあるよ」菜々子はまだ缶ジュースを舐めている。
「いいんだ。里中の快気祝い兼……まあ、反省会? とにかく、今日はおれがぜんぶ奢るから」
(反省会、兼、決起集会になるか。それとも)悠は千枝と雪子のポケットをちらと見た。(それともこれにて解散となるか……)
 ふいに懐の中の携帯が鳴き始めた。電話ではない、取り出した携帯のバックパネルには「メール受信」とある。
『今日言うんだろ? タロットとペルソナのこと』
 メールは陽介からのものだ。彼はそしらぬふうで振り向きもしない。もちろん、千枝たちのポケットのことを言っているのだった。テレビの中から出る以前にすでに燐光を放ち始めていた、おそらくはその中にタロットカードが入っているのであろう、彼女らのポケットについて。
 背後の女性陣は最前からなかば冗談まじりに、悠の気前のよさをあれこれと褒めそやしている。悠は彼女らから離れて陽介の背後に近づくと、
「どうかな」
 と、彼にだけ聞こえるよう小声で呟いた。



[35651] コードレスサイクロンユキコ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:ea2b06de
Date: 2014/09/13 19:52


 それは御康駅から徒歩で十分ほどの、目抜き通りと大衆性とから一本外れた、いかにも「ちょっと高いもの出しそうな」店の立ち並ぶ界隈にあった。
 二階部分にはめ込まれた、櫛の歯のような連子窓が土蔵を思わせる、さして大きくもない切妻である。木造の部分は百年くらい醤油で煮込めばかくもなろうかという赤墨色で、下見板を履いた真壁から道路に向かって深めの土廂が突き出るという古風な構え。あるいは旧家を改装したものか、それとも店主によほどのこだわりがあったか、素人目にも一瞥して「あっ、老舗」と思わせるほどの堂々たる偉容である。
(高校生が日曜日の昼に示し合わせてメシ食いに来る……なんてとこじゃないよな、まず間違いなく)
 廂下に設えられた青竹の縁台に、いまのところ順番待ちの人間は見られない。時刻は十時五十七分、開店直前という時間帯で、その前に一列横隊で突っ立っているのは高校生が四人と小学生がひとりだけであった。
『鰻 篁』
 藍色の暖簾には白抜きでこうあって、右端に縦書きで小さく『創業昭和九年』と書いてある。千枝がボソッと「右側の読めないんですけど」と呟いた。
「左のはウナギだよね、たぶん。雪子よめる?」
「上がタケで、下がオウだから……なんだろ、わたしもわかんない」
「菜々子もわかんない」菜々子にとっては字というよりもはや絵であろう。「キュウしかよめない」
「悠、お前、なんて書いてあるかわかる?」
 と、陽介がにこにこしながら訊いてきた。どうも顔つきから察するに彼は知っているらしい。やっかいなことにこの質問に乗る形で、女性陣の視線が悠の面に集まる。
「なに、なんだよ、なんでみんなこっち見るんだ」
「いやあ、なんか鳴上くん読めそうだし」と、千枝。「で、あれってなんて書いてあるの?」
「……いや、読めないけど」
 千枝と雪子の面にちらと「ああ、読めないんだ」とでも言いたげな色が刷かれる。なんでおれなら読めることになるんだ――悠は少しくムッとした。
「おれもキュウなら読めるよ、すごいだろ。なあ菜々子ちゃん」
 と、冗談めかして菜々子に助けを求めても、彼女は無慈悲にそっぽを向いている。
「……ソウギョウとショウワも読めるよ。左のはウナギだよ。それは読める」
「まあまあセンセイ、読めねーのは当たり前なんだから。こんなの習ってねーんだし」陽介は余裕綽々である。「つかこういう高そうな店って、なんでこんな読みにくい名前つけんだろーな。高級感とか出すため? フリガナ振っとけっての」
「花村くんは読めるの?」と、雪子が訊くと、彼は待ってましたとばかり「読める読める。それナカムラって読むらしい」などと訳知り顔で応えた。
「ナカムラって……いや読まんでしょ、ナカムラなんて」千枝は端から疑っている。
「ホントホント、マジで。俺もネットで調べたとき驚いたもん、これ一文字で名字になんのかよって」
「あれいっこでナカムラってよむの?」菜々子は驚きに目を瞠っている。「どこがナカで、どこからムラなの?」
「ウナギのナカムラって、なんかスーパーの特売みたいな響き」と、雪子。
「値段も特売並みだったらよかったんだけど……ところでさ、みんな」
 全員の視線が悠の横顔に集中する。
「……入らないの? もう十一時になってるけど」
 などと言う彼自身、廂の前から一歩も動く気配はない。みなもお互いをキョロキョロ見遣るだけでやはり動かない。そこは世間見ずの学生のことで、こんな格式高そうな暖簾をくぐるのに誰もが気後れしているのである。
「いや、別に先はいってもいいよ、ぜんぜん」と、陽介が悠を促す。
「いやあ、陽介の名前で予約したんだからさ」
「花村で予約したんですけどって言やあいいだろ」
「だっておまえ入ったことあるんだろ。適任だろ」
「なんで入ったことあるから適任なんだよ――ほら、里中でもいいって」
「へ? ちょっ、あたし巻き込まないでよ!」話を振られた千枝があわてて後退った。「あたしはいいよ、いいです、あたしいちばん背ェ低いし」
「身長カンケーねーだろ、それに一番ちいさいの菜々子ちゃんだし。あ、つかこういう老舗っぽい店ってやっぱり――」
「そうそう! 菜々子ちゃんウナギって初めて?」雪子は菜々子を抱き込んで安全圏に逃げ込む腹らしい。「わたしもこういうお店で食べたことないんだ。楽しみだねえ」
「うんはじめて。ゆきちゃんそれさっきもゆってた」しかし頼った先はいかんせん幼すぎた。「おみせ、はいらないの? まだやってないの?」
「ええっと……」
「天城ゴー、老舗対決」陽介が一歩後退った。
「雪子応援してるよっ」千枝も一歩後退った。
「ヤだよムリだって!」雪子は五歩後退って歩道に乗り上げた。「老舗なんて関係ないでしょ! わたしこんなとこ入ったことないもん!」
「あ、そうなんだ。なんか意外」
 彼女にはまったくこういう店こそ似合わしいように思われたのだが、雪子はムッとして「なんでわたしなら意外なの?」とでも言いたげである。
「ほら、天城屋に泊まった客が逆に招待してきたりとかって、ないの?」
「ないわけじゃないけど、忙しくて行けないもん」と、彼女は形のよい唇を尖らす。「こんなちゃんとしたとこでご飯たべたことなんかないよ。そもそも外で食べることだって滅多にないし、いつも板場のまかないばっかりだし……」
「……そう、なんだ」
「ウナギだって最後に食べたのいつだったか覚えてないし……このあいだお夜食にレンジでチンするうな茶漬け食べたけど……でもレトルトのうな茶漬けもけっこう」
「まあ、うん、わかった」と、雪子のぶつぶつ言うのを去なしながら、「もう時間過ぎてるし……じゃあいいよ、おれが行くから」
 仕方なしに悠が名乗り出ると、今度は陽介がさも心外そうに「え、いやいや、そんなふうに言うならいいって」などと言い始めた。
「俺が行くよ。一回はいってんだからさ、お前は――」
「待った待った。あーもーしかたない、あたしが行けばいいんでしょっ」と陽介を遮って、ついに千枝まで立候補を表明する。「オトコどもはうしろに引っ込んでなさい。あたしが行くよ」
「あっ、わたしこの流れ知ってる!」雪子がなんのゆえか俄然目を輝かせ始めた。「これってアレでしょ? これってつぎに『じゃあわたしがやるよ』って言ったひとにみんなでどうぞどうぞって――」
「ええと、失礼ですけど」
 と、笑い含みの声とともに、いきなり店の引戸がカラリと開いた。そこから暖簾をくぐって出てきたのは四十がらみの、紺色の銘仙を着けた女性である。
「十一時にご予約の、花村さまでしょうか」
 どうやら店員と思しい。店前で四人がワーワー言い合っていたのを聞いていたらしく、彼女はさもおかしげに微笑みながらこう質した。高校生たちは恥と当惑とに打ちのめされてしどろもどろになる。ただひとり小学生だけがどこ吹く風で、ウドの大木どもを背に元気よく、
「こんにちは!」
 気をつけの姿勢で挨拶をした。
「はいこんにちはー、いらっしゃあい」たちまち店員の目尻が下がる。「ご予約は五名さまで承っておりましたけど……お父さんかお母さんはいないのかなァ?」
「五人です! お父さんはいるけどお母さんはいないです!」
「すいません、五人です、これで全員です!」悠がいち早く我を取り戻して菜々子の前に出た。「引率はあの、いないんですけど、大人がいないのはまずかったでしょうか。お金ならあるんですけど……」
「あ、いえっ、そんなことはないですよ。大丈夫ですよ」
 こういった店のローカルルールが未成年の客に社会人の同伴を求めるかもしれない、ということに考えが及ばなかったのは今更ながら盲点であったが、とりあえず支払い能力さえあれば客として扱ってはもらえるようだ。それでもこの店員の反応からも明らかなとおり、このような店に高校生と小学生とだけで乗り込むというのはやはり珍事であるらしい。
「ご案内しますから、どうぞ」
「はい、あの、うるさくしてすみません」
「いいええ」と朗らかに否んで、店員はもの珍しげに悠たちを眺め回した。「ええと、みなさん高校生?」
「はい、四人は。こっちだけ小学生です」
「一年生です!」菜々子はやたらと声を張っている。
「はあい、元気だねー。じゃあ小学校はいったばっかりだねー」
「ここのあのおみせの字って、どこがナカで、どこからムラなんですか!」
「え? どこがナカ?」
「菜々子ほら!」と、悠は小声で従姉妹を窘めた。「お店のひと困ってるから――いいんですいいんです、聞き流してください」
「ああ、店の名前ね? ええっとねえ、ナカムラじゃなくってね」
 店員がくぐりかけた暖簾を示して見せて、菜々子に「これタカムラって読むの」と教えた。
「読めないよねェ? でも老舗だからこういう字ってわけじゃあないんですよ」ちらと陽介を見て苦笑しながら、「さ、お席に案内しますから、みなさん入ってくださいね」
 彼女は客を先導して店に入る。その後ろを菜々子が機嫌よく追いかける。陽介の面につごう三人分の視線が突き刺さる。
「……だってさ、ナカムラ陽介くん」彼を後目に悠も暖簾をくぐった。
「さき行くよナカムラ、カッコ笑い」千枝もまた悠に従う。
「どうぞどうぞまでやりたかったね」と、陽介の肩を叩いて、雪子も千枝の背中を追った。「来ないの? ナカムラくん」
「…………」
 そしてしんがりの陽介がすごすごと入店して、後ろ手に引戸を閉めた。





「なんといいますか……フンイキありますなー」
 座敷席の奥まった一画に案内されたあと、雪子の隣に腰を落ち着けた千枝の、第一声がこれだった。
 その渋い外観にふさわしい、篁の内装は至って趣ある落ち着いたものだ。枯色の竹と赤墨色の木肌と、アクセントに漆喰壁の白が折々入り交じるといった暗めの色調。これに合わせたか照明も意図的に抑えてあるようで、店内を薄ぼんやりと照らすのは細竹と和紙とでできた提灯型照明がいくつかだけ。店名にちなむのであろう――篁とは竹林の意ということだ――竹製の調度が多く見られる。悠たちを挟み込む座敷席の間仕切りにも太い割竹をつらねたものが使われていた。
「ざぶとんも時代劇っぽいし。なんかでっかいナベ敷きみたいだけど」
「これワロウダっていうんだよ」雪子が説明を入れる。「ここのは柔らかいし、中にクッション入ってるけど、ぜんぶ藁編みのやつって硬いんだよ。正座なんかできないくらい」
「へえー……あれ、そういえば菜々子ちゃんは? まだ入口んとこ? ナカムラ見える?」
「それもうやめてやろうよ……花村くんかわいそうだよ……」陽介はすっかりしおたれている。
「菜々子ちゃんまだ見てるよ、生け簀」陽介の代わりに雪子が通路に身を乗り出した。「さっきの店員さんとなにか話してる」
 この店の入口には鰻の生け簀が設えられていて、希望者はそこから取り出された活き鰻が捌かれ調理されるところまでを、厨室のガラス越しに見物できるようになっていた。こういったショー要素も高級店ならではのバリューのひとつなのだろう。もっとも陽介いわく、捌くところから見始めると供されるまでに一時間弱ほどの待ち時間があるとのことだったので、悠たちはあまり待たずに済む予約のほうを選んだのだったが。
(ウナギの解体ショーなんて菜々子ちゃんには見せられないしな……いや、あんがい喜ぶかもだけど……)
 菜々子と先の店員の笑い声が聞こえる。いまのところ店内は貸し切り同然で、悠たち以外の客はいない。陽介いわく「食べログでぶっちぎりの一位」の有名店ということだったが、その内実は閑散としたものだ。あるいはこれから混み始めるのだろうか? こういった店の客入りを駅前のファーストフード店と同等に考えるのがもともと間違ってるのか、それとも有名イコール繁盛という考え方がそもそも短絡的というに過ぎないのか……
 手持ち無沙汰に品書きを検めていた千枝が、ややあって「うへっ」と素頓狂な声を上げた。
「マジすかコレ……ちょっ、雪子みてみ」
 と、傍らの雪子をつつく。彼女もまた千枝の指すページを一瞥してサッと顔色を変える。声にこそ出さないものの、その麗貌に「マジすかコレ」と大書してあるのが見えるようだ。
「……ヤバくない? これ払えなくて土下座コースじゃない?」
「……きょう注文したのって、なんだっけ」
「鰻重中串、五人前」陽介はニヤニヤしている。「たっけーだろー、マジで」
「三千四百六十円、かける五っすか……!」
「一万七千三百円っすか……!」
 千枝と雪子はお互いの顔を見合って青くなった。
「あたし千五百円くらいかと思ってた。カルチャーショック」
「わたし多めに持ってきたつもりだったんだけど足りてない……ウナギってこんなに高いものなの?」
「あーいや、俺もそんな行ったことあるわけじゃないからさ、わからんけど」ちらと悠を一瞥して、陽介は湯呑みを取った。「でも絶対うまいから。それに今日は俺らのサイフじゃねーだろ? 鳴上先輩がおごってくれるってんだからさ」
「そりゃうまいでしょーよ。うまくなかったら暴れるし。にしたってゴハンに一万七千円って……」
「いくらなんでも……鳴上くん、ホントにいいの? わたし半分くらい出すよ」
「いいんだって、今日はぜんぶ奢る。奢らせてもらう」と言って、悠は財布から一万円札を五枚ほど抜き出して見せた。「ほらごらんの通り、足りなきゃまだ注文してもいいよ。遠慮なんかいらないからさ」
 おそらくは冗談で言ったに違いない、過日の陽介の「スゲー高い鰻屋」発言を電話で蒸し返したのは悠であった。
 どのみち千枝と雪子がペルソナ能力を有すると思われる以上、近いうちに話し合いの席を設けなければならなかったのではあるし、あんな一命を賭した大冒険の慰労会をジュネスのフードコートでささやかに、というのもなんだか味気ない。見栄っ張りの悠としては友人たちの骨折りに対して、それなりの格式と味とを用意したかったのだ。
 ちょうどよいことに先立つものもあった。悠は現在ちょっとした金持ちなのである。といってもべつだん貯金に腐心する質というわけでもなし、鳴上家の小遣いが並の家より潤沢だったというわけでも――むしろ悠は浪費家の部類だし、鳴上誓子はそこらの父兄よりはるかに吝嗇である――ない。たんに母親からの餞別が手つかずで残っていたというに過ぎない。
 吝い家に育ってかつ、限られた小遣いを書籍につぎ込んできた悠のこと、外食費など努めてつましくやりくりしてきたことにかけてはもちろん人後に落ちない。ここで食事代に一万七千円もの金をポンと出すのはなるほど、彼としても非常に勇気のいることではある。が、いっぽうでこれほどの大枚を同級生の前で「ふん」とばかりに投げて見せるというのは、思うだに自尊心を擽らずにはおかぬ壮挙であった。なに、そもそもが天から降ってきたような金のこと。同じく天に投げ返すのなら、自分にしか価値のわからない本などをこそこそ買うよりも、いっそ景気よくばらまいておおいに友人たちの歓心を買うのがよいのだ! 以後もたびたびこうして気前のよいところを見せてやれば、けだし「ふとっぱらではなしのわかる鳴上くん」の株も順調に上がっていくことだろう。
 これで奢られるほうが菜々子みたいに「わーいやったーありがとー!」と雀躍してくれればもう言うことはないのだが、
(……あんまり嬉しそうじゃないんだよなァ、このふたり)
 千枝も雪子も道々でこそ冗談めかして笑っていたものの、実際はどうにも悪がって素直に喜んでくれてはいない様子。まして値段を見てからはなんだか盗んだものでも食わされるみたいな雰囲気さえある。陽介が無邪気に喜んでくれているのはせめてもの救いだったが、ままならぬものだ。
「ええと、白焼きとか追加する?」
「いいよいいよ! もうじゅうぶんだから」雪子はいっそ迷惑そうである。「そんなに食べられないし……わたし小串のほうでもよかったかも」
「つか白焼き高っ! これタレもゴハンもついてないんでしょ?」千枝はいまだに品書きとにらめっこしている。「なんで値段ほとんど変わんないの? 白いタレとか塗るの?」
「注文してみりゃいーじゃん、遠慮すんなっつってんだしさ」陽介だけはどこまでも朗らかだ。「ま、とりあえず鰻重かたづけて、それでも食えるようなら考えようぜ」
「そうそう――ほら、来たよ。遠慮なしに食って」
 四人が席に着いて十分も経ったころか、先の店員とはべつの、悠たちとそれほど変わらないくらいの若い女が、芳しい醤油ダレの香りを伴って座敷席にやってきた。塗りの重箱と椀とが載った盆を二つテーブルに並べて、みなにお茶のおかわりを質し、彼女はその間ちらちらと雪子のほうを見ている。
「……知り合い?」
 女が座敷席を離れてから訊いてみると、雪子はちょっと困ったような面持ちで「知らない、と思うんだけど」などといまひとつ煮え切らない様子である。
「心当たりあるの?」
「うーん……ないというかあるというか……」
「?」
 先の若い店員が残りの三人前を持って戻って来た。今度は盗み見こそしなかったものの、厨室へ帰るさに生け簀のほうへ寄り道して、菜々子と話していた先の年配の店員に二、三、短くなにごとか告げた。おそらくは雪子のことと思しい。
「ひょっとして芸能人とかって思ってたり?」と、陽介。「天城ってなんかこういうとこだと妙に映えるしさ。いや誉め言葉だけど」
「あーそれありえる。外でもふたりで歩いてるときとかチョー声かけられるもん」千枝は例によって誇らしげである。「キミらどこの子ーとかいま時間あるーとか写メ取らせてーとかって、ぜんっぶ雪子目当てでさー」
「チョーじゃない、そんなに何回もなかったでしょ。千枝誇張しすぎ」雪子は例によって不快げである。
「まーたまた雪子ってばケンソンしちゃってー」
「ケンソンとかそういうこと言ってるんじゃない」
「だあってホントのことじゃあん」千枝は得意満面である。「そうそう雪子ってさあ、高一んとき沖奈でファッション誌のスカウトに声かけられたんだよ。百年にひとりのビボーだとか、えーとピンファン? とかなんとかって画家の絵から抜け出してきたみたいとかって」
「千枝やめて」
「まあまあ――花村には話したっけ? 断りながら早足で逃げたんだけどものすんごいしつこいの、読モでいいからーとかって。んで女子トイレ逃げ込んだら選手交代して女のスカウトが入って来てさあ」
「千枝いいかげんに――」
「雪子やんないっつってんのにおカネの話とかし出すんだから」もうちょっとで終わるから、と雪子に断って、「あたしも一緒にいたんだけどね。フォルモーサって雑誌、聞いたことない? フツーに本屋とかで――」
「千枝ってば!」
「あ、ごめんごめん……ちなみに雪子ってそんときの名刺まだもってる? あたし持ってるよ、花村みる?」
 雪子の眉が「ハ」から「ル」へと移行した。危険信号である。
「そういうこと言うのやめてっていつも――!」
「まあまあ! もうウナギ来たんだからいいかげん食おうよ、ほらっ」あわてて悠が間に割って入る。陽介に目配せする。「ふたりともこの匂い嗅いでよく我慢してられるよな、おれなんか江戸っ子だからもう矢も楯もたまらない」
「あーそういやお前ウナギ好きとかって言ってたっけ。また渋い好みでございますこと」打てば響くような陽介の即応。「で、なんで江戸っ子だからウナギなの? 俺も江戸っ子だけどウナギそんなでもねーよ。好きではあるけど」
「江戸っ子はソバとウナギが好きなもんなんだ。ちなみに三代つづけて東京生まれじゃないと江戸っ子じゃないよ、どこかで違えてるんじゃない?」
「んな決まりごと初めて聞いたよ……つか、じゃあ俺江戸っ子じゃねーわ、親父東京だけどじいさんチリ人だし」
 千枝が目を剥いて「えうっそ! マジなのっ?」と仰天する。まったく善良な少女である。
「ああ道理で! なんか初対面のときからこう、メスティソっぽい印象あったから」
「あはは……だろ? メスティソね……メスティソ……?」陽介の眉が「ル」の字になった。「そういやさ、菜々子ちゃん来てねーじゃん、まだ見てんの? あの生け簀ってそんなに見るとこあったっけ?」
 こんなふうに陽介とふたりで精一杯騒ぎ立てても、雪子はなかなか機嫌を直さなかった。思えば転校初日にもこんなやりとりがあったが、彼女はそれが悪気のない称讃であったとしても、自らの際立った容色について――かつてのシャドウの言からも明らかなとおり、彼女は自分でもそれをよく理解している――言及されるのを本当に嫌うのだ。それも先に悠がそれで片付けようとした「典型的な美人の気難しさ」であるとか、少女的でうぶな含羞であるとか、そういった理由に帰してしまえるほどどうやら単純な問題ではない……
(シャドウがなにか言ってたもんな。誰に似たかもわからない、なんて……)
 雪子にこのたぐいの話題を振るのは厳に慎まなければ――悠は肝に銘じた。
「ふたりとも呼んでくれない? ウナギ来たぞって」
 彼の求めに応じて千枝が「菜々子ちゃーん、ウナギ来たよー」と声を上げると、雪子はようやくしぶしぶながら矛を下ろして、
「菜々子ちゃーん、はやく来ないと千枝がぜんぶ食べちゃうよー」
 と彼女に続いた。鞘に収める気まではなかったようだ。
「はあっ? だれがんなこと――食べないよー菜々子ちゃーん、いまのはうそー」
「あっ、おい里中それ菜々子ちゃんの分だって! バッカ食うなって!」陽介が得たりと空騒ぎし始める。
「里中もう自分の食べたろ! 足りないなら注文するから落ち着いて!」悠も合の手を入れる。
「千枝それお椀! それ食べられないんだよ! お盆も囓っちゃダメ!」雪子は大いに復讐を楽しんでいる。
「あたしにヘンなキャラ付けすんなオマエらー!」
 この大騒ぎを聞きつけてようやく、菜々子が血相を変えて「ダメー!」と駆け戻って来た。
「ちえちゃんたべちゃったの? 菜々子のぶんは?」
「たべてないたべてない! こいつらが勝手に……わーん菜々子ちゃんあたしいじめられてるんだよォー」
 と、千枝はテーブルに突っ伏して嘘泣きを始めた。彼女よりいっそう善良な菜々子はたちまち欺かれて、いじめたものは名乗りでなければならぬと大いに悲憤する。――証言の一致を得て犯人は陽介ということになった。
「ちょっ、再審を要求します、上告します! つかオメーらも共犯だろーが!」
「はいはい訴えは棄却します。ほらみんな食おう食おう、いただきまーす」
 けっきょく判決は覆らず、陽介は保釈のために肝吸いの供出を余儀なくされたのだった。
「いただきまーす……ってコレなんでウナギとゴハンに分かれてんの?」千枝は首を傾げている。
「ウナギが載ってたら鰻丼。これは重箱に入ってるから鰻重」と、悠が説明を入れる。「でもほら、タレも別でついてるから、ご飯に載せてコレかければ鰻丼になるよ」
「ふまっ! なにコレ超うまいんですけど……フナギうま……!」
「そうだろうそうだろう、ふまいだろう」悠は自分が料理して出したかのように胸を張った。「あとこれ、この粉山椒をかけたまえ。これで風味アップ」
「これなあに? おすいもの?」菜々子は椀の中身をきな臭そうに見詰めている。「ムシみたいなのはいってる……」
「それ肝吸いって言うんだよ」と、雪子が説明を入れる。
「キモスイってなあに?」
「えっとね、キモが入ってるの。この沈んでるのがキモ」
「キモってなあに?」
「ええっとね、肝臓? 腎臓? なに臓だったっけ……」
「カンゾウって?」
「とにかく内臓のどこか。菜々子ちゃん内臓ってわかる?」
「ナイゾウ……」菜々子が顔色を変えた。「このしろいの、ナイゾウ?」
「そう、これ内蔵。ウナギの」
 先ほど菜々子によって接収された肝吸いはただちに陽介の許へ返還された。倍になって。
「あー、菜々子ちゃん、中身たべなくていいからさ、汁だけでも飲みなよ。俺もそうしてるしさ、おいしいよ」
 と、陽介が勧めても、菜々子はそのようなものは断じて口にせぬと頑なに拒絶する。つごう三人分の視線が雪子の面に突き刺さる。
「天城、子供に内臓とか言ったらさァ……」と、陽介。
「せめてこう、もう少しぼかしようが……」と、悠。
「雪子ってそーゆうトコ無神経だよね……」と、千枝。
「…………」
 雪子は無言のまま、いきなり千枝のお茶に粉山椒を投入するという暴挙に出た。
「ギャー! なにすんのあんたァーッ!」
「自家製ドクターペッパーだよ。千枝すきでしょ? これで風味アップ」雪子はにこにこしている。
「んのやろ……!」
 千枝が忙しなく卓上を見回し始めた。反撃用の調味料かなにかを探しているようだったが、備え付けの柚胡椒と七味唐辛子とはすでに雪子の手のうちにある。彼女自身の湯呑みもいたずらされないよう、いつのまにか陽介の側に押しやられていた。一見衝動的に見えてなかなか計画的な犯行である。
「ほら飲みなよォ、千枝のために作ったんだから。おいしいよォ」雪子は七味唐辛子の蓋を開けた。「あ、ついでにもうひと味足す? スペシャルブレンドいっちゃう?」
「あんたコレぜったい飲ます。ぜんぶ飲ます!」と、千枝は湯呑みを振りかざして雪子へ迫る。
「まあまあ! つか里中お前なに、ドクペ好きってマジなの?」あわてて陽介が間に割って入る。悠に目配せする。「あんなクッソまずいもんよく飲めるなあ。お前ちょっと味覚おかしくね?」
「はあっ? ドクペ超おいしいじゃんなに言ってんの!」たちまち千枝がその矛先を変える。「味覚おかしいのどっちだっつの!」
「おいちょっと待ておまえ、駅でおれに勧めてたよな、ドクターペッパー」悠の眉が「ル」の字になる。「おまえの言うクソまずいもん飲ませるつもりだったのか」
「ちょっ、オメ援護しろよ空気よめねーな……!」
「千枝たちはほっといて一緒にご飯たべよ、菜々子ちゃん」
 雪子はわれ関せずとばかりに鰻をぱくつき始めた。またしても菜々子を抱き込んで安全圏に逃げ込む腹らしい。
「菜々子はリボンシロトンすき」
「そっかあ……ウナギおいしいねー。このひとたちうるさいねー」
「ねー!」
 悠、陽介、千枝の眉が「逆ハ」の字になった。是非もなし――三人の視線が交錯する。
「……天城のど渇かね?」
 と、呟いたときにはすでに、陽介は雪子の湯呑みを捕らえている。コンマ一秒の差で彼女の手がむなしく空を切る。この刹那の攻防の隙をついて千枝の貫手が飛ぶ。雪子がはたと自分の盆を見たときにはもう、そこにあった小さな瓢箪形の容器は奪い去られている。中身は柚胡椒である。雪子の面に焦りの色が浮かぶ。が、口いっぱいに鰻と飯とを詰め込んでいるので、彼女は抗議の声を上げられない。
「悠、天城は喉カラカラだ!」
「鳴上くん、カタキとって!」
 悠の手元にふたりの分捕り品が集まった。彼は膝立ちになって雄々しく瓢箪の蓋を開け放った。雪子は口を手で覆って、その中のものを必死に咀嚼しながら「んんー!」と唸った。やめろと言いたいのだろう。
「天城まってろよ、いま特級謹製のリボンシトロンを――!」
「あのう、すみませんけど」
 高校生四人はひとたまりもなく凍り付いた。先の年配の店員が大振りの角皿を両手に、いつの間にか悠たちの座る座敷席の横に立っている。
「薬味で遊ばないでくださいね、ほかのお客さんも使いますからね」
「あっ、はい、すみません、あの……」
 悠はそろそろと座り直すと、熱湯のただ中に放り込まれた氷みたいになった。
「それと、盛り上がってるとこに水さすようでねえ、申しわけないんですけど」と、彼女は真実申し訳なさそうな口で続ける。「いまはいいんですけど、もうじきほかのお客さんもいらっしゃいますから、もう少しだけ静かにしてもらえると……」
 悠以外の三人もまたソルトプレートの上に投げ出されたナメクジみたいになって、なにかよくわからない謝罪らしい文句をめいめいの口の中で呟いた。さだめて店員には「場所をわきまえない騒々しいバカ高校生ども」とでも思われたに違いない。まったくいい面の皮である。
「うるさくしてすみません……外でも言いましたけど……ホントにすみませんでした」今や熱湯の中の氷は消え入らんばかり。
「いいええ! ごめんねえ、日曜日なんだからはしゃぎたいよねえ」店員は悠の謝罪を一笑に付して、持っていた角皿をテーブルに置いた。「それでね、これ、お持ちしたんですけど」
 皿の上には丸々一匹を背開きにした白焼きが載っている。もちろん注文した覚えはない。
「え、これって」
「白焼き大串。店からのサービスです、おいしいから食べてみて。白いタレはついてませんけど」店員は愛想よく笑って、雪子のほうへ向き直った。「――あの、天城屋さんの、雪ちゃんですよね?」
「あ……はいっ!」
 こう問われると、雪子はにわかに態度を改めて、座ったまま折目正しくお辞儀した。
「たびたび寄して貰ってます、高村の家内ですけれども」店員の丁重な態度に親しみが交じる。
「はいあの、お久しぶりです、その節はご利用いただきまして、ありがとうございました」
 と、雪子は再度あたまを下げた。なるほど、彼女の心当たりが「ないというかあるというか」というのはこれのことなのだろう。つまり雪子のほうでは覚えていないが、先方では天城屋旅館関係者としての自分を見知っているのではと、おそらくは経験則から彼女は見当をつけたのだ。
(有名人は大変だよな……)
 ひとめ見たなら容易に忘れられそうもない、百人が百人すれ違えば振り返らざるべからざる「百年にひとりのビボー」のこと、こんなふうに自分のほうでは忘れてしまった人間から「しばらくぶりです」と声をかけられるのもあるいは二度や三度の話ではなかろう。かつての、そしてこれからリピーターとなるかもしれない客に「あんただれ?」とはまさかに返せまい。「知らない、と思うんだけど」向こうはどうやら知っているらしい。やむを得ない。そこで「あの、お久しぶりです、その節は」となるわけである。
「ふた月ぶりくらいですけど」と言って、店員もお辞儀を返した。「さっき見たとき、あれーって思ったんですけど、うちの子が絶対そうだって。雪ちゃんやっと来てくれたァ」
「ええ、あの、たまたまここで食べようってことになって、ご迷惑とは思ったんですけど」
「なにをまたァ! ほんとうに待ってたんですよ。今日はゆっくりしていってね――お友達のみなさんも」
 雪子以外の四人はやはり座ったまま、店員と白焼きとに向かってペコペコあたまを下げた。この白焼きはおそらく雪子の来店に対するサービスであろうから、悠はついでに彼女へもあたまを下げておいた。
「ありがとうございます。すみませんこんな高いものごちそうになっちゃって」
「いいのいいの、どうぞ食べて! それで雪ちゃん、ちょっと気になってたんだけど……」
 店員の視線が雪子の盆の辺りをさまよっている。とたんに隣の千枝が小さな声で「あ、えーっと」などと慌てたように呟いた。が、
「手、どうしたの? 怪我? 前みたときは着けてなかったから」
 さてここまで言及されてしまえば止めようもない。気まずげな視線が雪子の、肉色のゴム手袋を着けた右手に集中する。
(ここでそれに触れるか……まあ、さっきからもう気にしないで振り回してたもんな)
 彼女の右手についてはあらかじめ千枝より「気になってもぜったい触れないでね」とクギを刺されていたのである。じっさい雪子も気にしている様子で、この店に来るまでは努めて人目につかないよう、左手で覆って前に後ろに隠していたのだったが。
「はい、ちょっとうちの仕事で火傷しちゃったんで」
 と、彼女は力のない苦笑を浮かべた。いかにも、その手袋の下には火傷が隠されている。第三度の熱傷、全治に五ヶ月ほどを要し、治癒後も創面に痕が残ると宣言されたという、年ごろの少女にはあまりにも過酷な大火傷が。
 悠とて火傷ならいくつも受けはした。が、その大きさ重さはとうてい比べるべくも――受傷後二、三日は湯船へ入るたびに気合いを炸裂させて、茶の間の菜々子を飛び上がらせたものだったが――なし、なによりほとんど衣服に隠れてしまうのだから、とても彼女の受難と並べられるようなものではない。自身のシャドウとの和解につながる、その負傷は最も重要なきっかけであったにせよ、彼女の支払った代償はまことに大きかった。
 店員はなおも二、三、親しげに言葉をかけたあと、「お大事にね」と言って厨室へ引き返していった。ややあって入口の引戸の開く音がして、それを出迎える若い女の声がした。先の店員の言う「うちの子」のものである。
「家族経営なんだ、ここ」
 悠はぽつんと言った。が、その後に続ける言葉がどうしても浮かんでこなかったので、この気まずい沈黙が続くよりはと雪子を窺って、
「……右手、どう? 大丈夫?」
 と訊いた。千枝の眉が「ル」の字になった。
「うん、なんとか。ちょっと深いけど、皮膚移植とかしなくてもだいじょうぶって言われたし……たぶん千枝から聞いてるんだとは思うけど」
 雪子もさすがに、自分の不自然な右手に誰も言及しない理由について、おおよその見当はつけていた様子。
「わたしの右手のことは訊くなって、言われた? みんな」
 悠と陽介はウンと頷いた。菜々子も一拍遅れてウンと頷いた。千枝がウーと唸った。
「……千枝、聞かれないほうがよっぽど不安になるよ。余計な気まわしすぎ」
「余計って、あんたすごい気にしてたみたいだったからそうしたんじゃん」
「まあまあ。でも天城も余計はないよ、里中もの凄く心配してたんだから」と、悠。
「そーそー。でも里中もちっと過剰だけどな。俺病院に見舞い行くのもダメって言われたし」と、陽介。
「え? 見舞いって、天城入院してたの?」
 雪子はちらと笑って「ちょっとね」と言った。
「手のこともあったし、検査入院。それより、花村くんはだいじょうぶなの?」
「へ? なにが?」
「耳。左側が聞こえなかったんでしょ? わたしそっちのほうが心配だったよ」
「あー……耳ね……」
 悠と千枝の視線が陽介の面に突き刺さる。
「それはさ、まあ、なんとかなったからさ……」
「なんとかなったじゃないよ」と、千枝が口を尖らせる。「ちょっとカッコいいかもーとか思ったじぶんがバカみたいだよホント」
「なんとかなったじゃねーよ」と、悠も口を尖らせた。「さんっざんひとに気ィ揉ませやがって。おれがどれだけ落ち込んだと思ってんだ」
「鼓膜は再生するの知らないのが悪いんだって思いまーす……」陽介は小さくなってぶつぶつ呟いている。「つか、そのハナシもう何度もしたじゃん、いいかげん忘れてくれって……」
 あらためて陽介が医者から聞いた話によると、人間の鼓膜は損傷の程度にもよるものの、一、二ヶ月ほどで再生してしまうということである。つけ加えると彼は小学生の頃にも一度、左耳の鼓膜を破損したことがあったらしい。後日それを教室で聞かされた悠が憤激したのは言うまでもない。なぜあのとき言わなかったのだと彼が詰め寄ると、
「いや、なんかタイミング逃がしたっつか、あとお前が落ち込んでるのって、なんかめんどくさいはめんどくさいんだけどさ、横で見てるとけっこう面白くて……」
 いみじくもこう宣ったのだった。ホームルームがあと一分遅く始まっていたら陽介は窒息死していただろう。
「へえ、鼓膜って再生するんだ。わたし知らなかった」
「しかも花村二回目だって言うし」
「お望みならここで右側も破ってやるよ」
「あーわり、ぜんぜん聞こえねーわ。なに言ってんのお前ら」陽介は右耳を塞いですっかり開き直っている。
「まあまあ。でも治るんならよかった、わたしのせいみたいなもんだし」と言って、雪子は店員の置いていった角皿を陽介へ押しやった。「ほら、ケガの話はおしまい! 食べよ食べよ、花村くんどうぞ」
「いや、俺まだ鰻重のこってるからさ、あとでもらうからさ」
「あ、そっか……菜々子ちゃんほら、白焼きおいしそうだよ。わさび醤油つくってあげるね」
 菜々子は口いっぱいにむしゃむしゃ遣りながら、自分はまだ鰻重を食っているからそっちまで手は回らぬと言った。
「つか、雪子もうたべたの? お重カラなんですけど」千枝は雪子の重箱を覗き込んであきれ顔である。「あんた早すぎ……ひょっとして嚙まないで吸い込んでたりとかする? あたしまだ半分いってないし」
「おれはまだ三分の一ってとこだけど」悠は眉をひそめた。「天城ホント早いな。仕事柄こうなったりするの? 身体によくないんじゃ」
「マジで食うのはえーな天城」陽介はニヤニヤしている。「そういやさっき誰かがこんなに食えないとか、小串でもよかったとか言ってたけど、あれって幻聴?」
「シャドウだよシャドウ、きっとシャドウが言ったんだ」悠もニヤニヤしている。
「吸引力の変わらないただひとりの若女将……コードレスサイクロンユキコ」千枝はゲラゲラ笑い始めた。
「…………」
 雪子は陽介の許から角皿を引き戻して「これはわたしひとりで食べる」と主張し始めた。
「みんなは鰻重がんばってね。皮くらいはとっといてあげるから――いただきまーす!」
「いやいや食うから、残しといてくれって!」と、陽介。
「おれはなにもひどいこと言ってないだろ!」と、悠。
「電源切って、誰かダイソンの電源切って!」と、千枝。
「ダイソンってなあに? ねえダイソンって」菜々子は口からボロボロ飯を落としながら四人に尋ねて回る。
 五分後、店側から悠たちへ本日二度目のクレームが届けられた。





[35651] 自称特別捜査隊カッコ笑い
Name: 些事風◆8507efb8 ID:4c7ae296
Date: 2014/09/24 19:31



 悠と陽介が「テレビの中の世界」に纏わる顛末をすべて話し終えるまで、三、四十分もかかっただろうか。店員は三度もお茶のおかわりを質しに来た。
 ひょっとすると「食べ終わったのなら早く会計してください」との婉曲な抗議だったのかもしれない。悠の心配も杞憂だったようで、店内はすでに満席である。おそらくは店の外に順番待ちの人間もいることだろう。悠たち四人はともすれば周りを憚って、おのおの顔をテーブルの上に突き出してよからぬ謀議をこらすといったふうになるのだった。
 雪子はもちろんのこと、これまでにおおよその話を聞かされていた千枝もまた湯呑みを撫でながら、彼らが交互に語るのに黙って聞き入っていた。彼女らにはよほど不可思議な話に違いない、その顔色は容易にころころ変わった。
「鳴上くんは、じゃあ、自分のシャドウには遭ってないの?」
 悠たちの話が終わったあと、開口一番でこう訊いたのは雪子である。この質問をぶつけるのを待っていたようなタイミングだった。
「いや、でもさ、あたしも聞いてて気になってたんだけど」と、千枝が口を挟む。「鳴上くんて遭ったんでしょ? シャドウに。前にそう言ってたよね」
「おれは遭ってないんだ、ホントに。なんでかわからないけど」
「あれ? 確かに遭ったって……あたし覚えてるんだけどなァ。ものすごく遭いたくなかったとかなんとかって」
「おれそんなこと――あ、いや待って、言ったかも」悠は内心ではたと手を打った。「心当たりある。確か言ったような気がする、たぶん」
 たしか千枝のシャドウに訊かれて、彼女の共感を得るための隠喩としてそう言った覚えがある。が、千枝には間違いなく話していない。してみると、シャドウの見聞きした事柄は結局、本人の記憶に帰せられる、ということになるのだろうか。
(じゃあ、なんだ、二度と会えないってわけじゃないのか……)
 これは嬉しい発見だった。「彼ら」と築いた信頼関係は決して無にはなっていないのだ。
「悠お前、なに笑ってんの?」と、陽介が怪訝そうに呟いた。
「嬉しいから笑ってるんだよ」湯呑みで笑みを隠しながら、「とにかく、実際は遭ってないんだ、少なくとも面と向かっては。どうしておれだけ最初から使えたのかは、正直よくわからない」
 もちろん悠にはよくわかっている。夢のイゴールとマーガレットの仕業であることは――彼らは否認するものの――論を俟たないのだが、彼はそれを皆に話していなかった。どうせ余計な混乱の種になるだけなのだろうし、
「鳴上くんだけ特別ってわけ? えーいいなあ」
 などと千枝が言うのも聞いていてなかなか気分のいいものだ。おれだけは特別――それでいいではないか。
「ひとそれぞれってだけだと思うよ。条件によっては陽介だっておれみたいになったかもしれないし、その逆もまたしかり」悠はいちおう謙遜しておいた。「とにかく、おれたちの話は終わったから、次は天城の番だけど――陽介、菜々子ちゃんは」
 陽介は通路に身を乗り出して「まだ見てる。つか話してる」と言った。
 菜々子は食事を終えるとじきに、ふたたび例の生け簀に舞い戻っていた。その頃には増えつつあった客足の中に級友がいるのを見つけた彼女は、自分によくわからない話ばかりしようとする四人を見限って「かなちゃん」と意気投合。現在はともに生け簀のところにしゃがみ込んで、鰻の生態について無闇な議論を戦わせているのである。
「まだ来ないだろ。それに来てもワケわからんだろ、テレビの中とかなんとか言われたってさ」
「菜々子ちゃんがわからなくても、その話の断片がうちの叔父さんの耳に入って、万が一なにか理解されでもしたらおれが殺される」
「お前だけだろ。ならいいじゃん」
「ならいいじゃん」と、千枝。
「ならいいじゃん」と、雪子。
「ならよくねーんだよ」と、悠。「それより天城、警察でさんざん聞かれたとは思うんだけど」
「……捕まったときのこと、だよね。犯人に」
「うん。思い出せる?」
 雪子は俯いて残念そうに「ほとんど覚えてないの」と言った。
「あの世界で気がついたとき、なんかすごく朦朧としてて、記憶が……でも、あのあと少し思い出したことがあるの」
「というと」
「チャイム。玄関の」雪子の声は微かに震えている。「チャイムが鳴ったの。わたし、うちにいて、たぶん玄関に出て行って、それで」
「……それ、警察には?」
「言った。これだけでもあるていど犯人像を絞れるからって、励ましてくれたけど」
「じゃあ、堂々と天城んちに入ってきたってことなのか? その犯人って――」
「犯人のことは警察に任せよう。少なくともこっちの世界では」
 悠にこう遮られると、陽介はいかにも不服そうに「まずそっちをなんとかしねーと犠牲者じたいなくならねーんだぞ」と声を高くした。彼の目的はやはり被害者救出というより、どこまでも犯人の捕縛にあるのだろう。さらに言えば、捕縛したそのあとに。
「陽介、声を小さく」
「元を断たなきゃだろ。俺ら永遠に助けに行き続けることになんだぞ、犯人が飽きるまで根比べするつもりなのかお前」
「腕が鳴るだろ」
「マジメな話してんだけど」
「……もしうちの叔父さんが犯人の捜索をやめて、盗難自転車でも探し始めたら、あるいはね」悠はひとつため息をついた。「しろうとには荷が勝ちすぎるんだ。分業だよ、こっちの難事件はこっちのプロの仕事だろ」
「警察がアテになんのかよ! なにが起きてるかもわかってねーのに――悪い、お前の叔父さんの悪口じゃねーんだけど」
「菜々子ちゃんがいたらおまえ今ごろ血まみれだな」
「でも実際そうだろ? テレビの中に入れるんじゃ尻尾の掴みようがない。まず殺人犯あつかいされねーんだ。それでどうやって捕まえられるってんだよ」
「犯人だってテレビの中に入れてしまうまでは、世間一般の犯罪者と条件は同じだ。いまの天城の話でたとえるなら」雪子をちらと窺いながら、「犯人は玄関まで入ってきて、天城になにかしたはずだろ。それから天城の身体をどうやってか運んで、首尾よくテレビの中へ入れるまでには多くのリスクがあったはず。先方でそれを最小限に抑えようとしていたって、これからも必ず発生する。それはおれたちには嗅ぎ分けられないかもしれない。でも猫が嗅ぎ分けられないからって、犬もそうできないって考えるのは短絡的すぎる」
「そりゃそうだけどさ……」
 陽介はこの辺りで追求を止めたものの、もう少し先へ進めば悠とて黙らざるを得なくなる事実に直面する。仮に遼太郎犬が困難な追跡の果てに犯人の腕に食らいついたとしても、それの成したことどもを立証できなければ、じき放してしまわなくてはならないのだ。犯人は当然とぼけるであろうし、彼が突然なにかの拍子に人間の正義と誠実とに目覚めたとしても事態は変わらない。いや刑事さん、このさいぜんぶ話しちまうんですけど、おれは被害者をテレビの中に突き落としてシャドウに殺させてたんですよ――もし犯人が正直にこう言ったら、遼太郎はどうするだろう。よし自白しやがったなと躍り上がる? 悠は高校生のみそらで叔父を精神病院にぶち込んで、母からの仕送りを頼りに姪を養わなければならない? いずれにせよ絶対にそんなことにはならないだろう。陽介の言うとおり、犯人は決して殺人犯あつかいされ得ない。
 ただ、ひとつだけその道がないでもなかった。警察関係者にテレビの中の世界を見せることだ。悠たち自称特別捜査隊の面々がツアーを企画して、非常に柔軟でものわかりのよい本物の特別捜査隊の警官たちをはりきってご招待。しゃべる着ぐるみと協力して向こうの世界のことを「いでまことのことをぞ教えまつらむ」と説明して差し上げたら、あるいは彼らも「あな世にあやしきこともありにけりな」とその目から大量の鱗を落としてくれるかもしれない。
(バカな! 絶対にやっちゃいけないことだ。こんなことをするくらいなら犯人を放置して、彼が飽きるまで殺人を黙認するほうがまだマシだ)
 もちろんこれは考えうる限りでの最たる悪手であった。彼らは高校生コンダクターに引率されてゾロゾロとテレビの中へ入ったあと、やがて向こうからゾロゾロとやってくる自分たちのシャドウとはち合わせるだろう。もしふつうの怪物シャドウどもが彼らの歓迎のための、生肉食べ放題パーティーを思いついていなかったとしたら、だが。
「考える方向を変えよう。おれたちは向こうの世界のプロだろ?」と、悠は明るく切り出した。「おれたちの仕事は向こうの世界にあって……いますべきなのは、そのために必要な人材と、道具についての話だ」
 千枝と雪子が揃って眉をひそめた。陽介は一転、俄然と気負い立った。
「里中、天城、もったいぶって大仰な前置きをしてもいいけど、とりあえずは簡潔に説明する。その前に――」
「ふたりはペルソナを使える。俺らみたいに」
 悠を遮って、陽介がいきなり核心部分をすっぱ抜いた。
「陽――!」
「おれと悠が出したみたいな巨人を、ふたりとも出せるんだ。マジメな話だ」
(このバカ……!)
 千枝と雪子は五秒ほど呆けたあと「え? ウソ」と異口同音に呟いた。
「マジッすか? つかマジでペルソナってなんなんですかっ?」
「わたしも知りたい! ていうか使えるって、なんでわかるの? ほんとうに使えるの?」
「やっぱりウソとか言ったら全力で蹴るよ。ホントに使えるの? アレ」
 ふたりの面に閃くのは困惑ばかりではない。驚愕と歓喜と期待と、ついでにそれを裏切られはすまいかという非難の色も見られる。前もって陽介に確認しておくべきだったか――悠は小さく舌打ちした。
 まさか自身と新しい友人とだけに許されたかの特権を、陽介がこうも積極的に他者へ分け与えようとするとは! 彼はむしろそれを勿体つけて、表向きは渋るそぶりさえみせるのではと悠は考えていたのだった。なんとなれば陽介はこの一週間というもの、千枝にペルソナのことをあれこれ訊かれても生返事でやり過ごしていて、そのつどひそかに悠の意向を質すということを怠らなかったのだから。いったい彼は雪子の同席を待ちでもしていたのだろうか。
 いずれにせよこうなっては「いまのは冗談だから」などと弁解したところで、ふたりはもはや聞く耳など持つまい。そして陽介もただちにそれを否定するはず。悠のほうでタロットカードを渡すまいとしてもおそらくは無駄だろう。陽介にも千枝たちのタロットの光が見えている以上、それを悠がやったみたいにしてポケットから抜き出すこともできるのだろうから。
(くそ、なんのためにあの日ふたりにタロットを与えずにおいたんだ……詰めが甘すぎた)
 これで彼女らにペルソナを与えることを、少なくともそれが容易に得られるものであるということを、ほとんど前提として話さずにはいられなくなってしまった。おそらくふたりはこの燦爛たる報酬にすっかり目が眩んで、悠のこれから持ち出す「危険なボランティア」を大した覚悟もないまま、むしろ多く喜びをもって引き受けようとするだろう。
「……陽介、順序が逆だろ。というか割り込むなよおまえ」
「なんでだよ。なんかマズいこと言ったか俺」
「そんなこと言えば絶対やるって言うだろ、考えなしに」
「え? やる?」
 もういい、と不機嫌に結んで、悠は対面の女子ふたりを「ふたりともこっち寄って」と招いた。気は進まないが彼がやらなければ陽介がやると言い出しかねない。そして彼にその重責を負わせるわけにはいかない。
「ペルソナがなんなのかについては、実際に出してみればわかる。というより、口頭では説明できない」
「なあ、ちなみに俺も見えてるってことはさ」と、陽介が悠の肩をつつく。彼の言う「見えてる」とはむろん、例の燐光を指すのだろう。「ひょっとして俺でも取り出せんのかな。タロット」
「かもしれないけど、おれがやる」
「……役得?」
「そう、役得」
 悠は千枝に動くなと言いつけると、テーブルに身を乗り出して腕を伸ばして、彼女のジャケットの腰ポケットに手を突っ込んだ。
「わっ、なにちょっと、なにすんのなにすんの」
「なにかしてほしい? 里中って大胆だな」
 やはりある。指先に当たったその薄い何かをつまんで、悠はポケットから手を引き抜いた。果たしてそこから出てきたのはトランプ大のカードである。
「おお……手品?」千枝は呆けている。「つか、それなに? 光ってるけど」
「タロットカード。里中のものだ」
 カードには二頭立ての戦車を駆って槍を振り上げる、古代ギリシャの重装歩兵のような戦士が描かれている。頭上に星を頂き、今し馬首を返そうと手綱をぐいと引っ張る躍動的な勇姿の、その下に踊るスクロールには「THE CHARIOT」とある。
(チャリオット……恰好いいな……)
 やはりその意匠は誓子の買ったタロットカードのそれに準拠している。とすると、もし陽介が取り出したとしたらどうなったのだろう。まったく別の意匠になる? そもそも陽介がタロットカードを所有していなかったとしたら? 花札でも出てくるのだろうか。
 代わりに自分の「THE FOOL」を渡そうかとちょっと迷ったものの、けっきょく悠はチャリオットのカードを千枝に返還した。のちほど駄目もとで交換を持ちかけてみるのもいいだろう。
「えーと、これマジで貰っちゃっていいの? あとで返せとか言わない?」
「どうぞ。それはおれのじゃなくて里中のだから――次は天城だけど」
 雪子は最前から悠と千枝のやりとりを怪訝そうに眺めている。彼女にはまだ見えないのだから当然である。
「天城、いま里中がタロットカード持ってんだけど、見えねーだろ」と、陽介が笑って言った。
「タロットカード?」
「うん。ほらほら、見えない?」
 千枝はいまほど手に入れたタロットを雪子の目の前でひらひらさせている。
「見えないけど」
「おおー……雪子マジで見えないんだ。コレあんときのあたしと同じってこと?」
「……なんか、騙そうとしてる? わたしのこと」
「最初は誰だってそう思うよ」と言って、悠は雪子を手招いた。「じゃあ天城、ちょっとこっち寄って。こっちに乗り出して」
 雪子は言われたとおり、両手をテーブルについて悠の側へ身を乗り出した。彼女の着ている服に外見上ポケットはついていないのだが、タロットの在処を示すのであろう燐光は左胸のすぐ下から発せられている。おそらくは内側に隠しポケットかなにかがついているものと思しい。
「天城、その服って、胸の辺りに隠しポケットとかついてる?」
 と、質してみると、あんのじょう彼女は「え、ついてるけど、なんでわかるの?」と首を傾げた。
(これ、どうしたもんかな……)
「天城、その服って、脱げる?」
「なん……脱ぐゥ?」あんのじょう彼女は眉を「ル」の字にした。「これワンピースだし、ムリだよ……ていうかどうして?」
「鳴上くん、あたしやってみようか? もうあたしにも見えるし」と、横から千枝が提案した。「この青く光ってるトコにあるんでしょ? タロット」
「いや、おれがやる、里中にやらせるわけにはいかない」
 と、努めて平静を装いつつも、悠は腹の底でおおいに迷っていた。
(なにもいますぐしなきゃいけないってわけじゃないんだよな……)
 日を改めて穏当な位置にポケットのついている服を着てきてもらうこともできる。このような公衆の真っ只中で、女子の服の中に手を突っ込むおのれの姿などは想像するだに恐ろしくもあるし、さだめて陽介や千枝の白眼にも晒されよう。しかしこのまたとない機を逃がすのはあまりにも惜しいのでは……
 悠はけっきょく「天城のタロットはまた後日にしよう」と引き下がった。彼のあたまの中で展開された「天城のワンピースに手を突っ込むおれ」の絵面は、彼の自尊心の高楼を揺るがすにはじゅうぶんすぎるほど犯罪的だった。さなきだにいやしくも警官を叔父に持つ身として、それはまったくもって心に許すべからざるの妄想である。それに、
(都合もいいんだ。考えてみればそうだ、天城はこっちに引き込んでしかるような人間じゃないんだ。里中はともかくとしても)
「……要は、わたしの服にここしかポケットがついてないから、取れないってこと? タロットを」雪子は思案げにしている。「そのタロットって、ポケットに入ってるものなの? どうして?」
「おれにもわからない。なんでタロットカードなのかも、それでどうしてペルソナが喚べるのかも」
「わたしじゃ取れないの? というか、どうしてこの服なの?」
「カードを持ってる人間にしか見えないし、さわれない。服じたいは関係ないみたいだ。天城が別の服を着てきても、たぶんそのどれかのポケットが光ってる――ええと、ポケットが光るんだ、タロットが入ってると」
「……光ってるの? わたしのここ?」雪子は自身の胸のあたりを検め始めた。
「だからさ、あたしがやるって」と、千枝が食い下がる。「あたしもたいがいハズいけど、男子がやるよりいいでしょ?」
「わたしはべつにいいけど、どっちでも」
 つごう三人分の視線が雪子の面に突き刺さった。
「……いいって?」
「ポケットからタロット? 取り出すんでしょ? どうぞ。いいよわたしは」
「いや、よくねーだろ絵的に……」陽介は呆れている。「だってそれワンピースならさ、衿んとこからか、さもなきゃスカートからってことになるだろ。ヤベーだろいくらなんでも」
「花村エロス」千枝がボソッと呟いた。
「なんでエロスだよっ! すんなって言ってんの俺だろーが!」
「べつにこの下なにも着けてないってわけじゃないし、そのタロットって、もし手に入るなら早く欲しいし」
「天城って大胆だな……まあ、タロットのことはとりあえず置いといてよ」悠は腹の中であたまを抱えて叫んだ。「あと里中、天城のタロットはおれが取るまでそのままにしておいて」
「だからなんでってば」
「なんでも。その理由もこれから話す」
 と言って、悠はすっかりぬるくなったお茶を呷った。
「じゃあ、さっき言った向こうの世界とおれたちの仕事について、そろそろ本題に入ろう――まず陽介」
「はい隊長!」
「……隊長って、天城救出隊はもう解散しただろ」
「違う違う。えーとアレだよ、この一連の事件の犯人を取っ捕まえるための、特別捜査隊のさ」陽介は皆を見回しながら、「四人に増えたんだからさ、もう結成してもいんじゃね? そーいうの」
(もう数に入れてるのか……というかコイツ、ひょっとしてこのために人数が欲しかったなんて言うんじゃないだろうな)先の特権の大安売りはこのためなのでは――悠はひそかに呆れた。(クラブ活動じゃないんだぞ。命がかかるんだぞ。それをあんなエサで釣るような真似で……)
「特別捜査隊って、じゃあ、ここは特別捜査本部?」千枝も乗り気である。「トクベツソーサホンブ……いい響きですなー。ジケンは会議室でおきてるんじゃなーい、だったっけ?」
「テナント料たかすぎだよここ」と苦笑しながら、雪子もまた乗り気である様子。「でも、なんかいいね、特別捜査隊」
「うちの叔父さんいわく、特捜本部はもう稲羽署に設置されてるって話だけど。というか犯人の捜索は警察に――」
「お、リアル警察情報? まあいいじゃん自称なんだからさ、自称自称。自称特別捜査本部」
「自称特別捜査隊カッコ笑い、みたいな?」
「で、鳴上くんはその隊長?」
 陽介たちはすっかりその気になって盛り上がっている。千枝も雪子もまるでその可否を云々いうことさえしないうちから、すでに彼らの言う「自称特別捜査隊」の一員であるかのようだ。
 彼女らがこんなふうにして、あの異世界に関わり続ける特権を固持したがるであろうというのは、容易に想像できたことだった。立場が逆であったなら悠や陽介さえそうしたことだろう。それは「前人未踏の異世界」というだけで、じゅうぶんすぎるほど少年たちを魅せるのである。ましてその世界において、わが力よりなる巨人をもって怪物どもを打ち平らげ、あらゆる大人たちの力の全的に及ばぬ犠牲者の命を救い出し、自身とその多からぬ友人と、なにより決して自分たちを理解し得ないであろう「特権なき元の世界の人々」すべてに、自らの能力と功業とを誇ることができる。わたしたちしか知らない世界、わたしたちしか使えない力、わたしたちしかできない仕事、選ばれたわたしたち――おお、いったい誰がこれほどの権利を手放そうというのか!
 少女たちの目は輝いていた。
「……おれが隊長でいいの? みんな。陽介のほうが適任だと思うけど」
「俺は参謀だって。つかなんで俺が適任だよ」陽介がしかめ面を見せた。
「楽観的だから。参謀はおれ向きだと思う、悲観的だから」
「でも花村が隊長って、なんかなあ」と、千枝。
「鳴上くんが参謀って、なんかなあ」と、雪子。
「なんかなあってなんだよ。あ、ちなみに女子隊員は全員お茶くみだから」
 陽介のセクシズム発言に女性陣のブーイングが上がる。
「まあまあ。じゃあ、いいよおれが隊長で」千枝たちを宥めながら、悠は不敵に笑った。「ただし、みんな後悔するなよ」
「俺が隊長になったほうが後悔するっつの――で、さっきなんか言いかけた?」
「そう、陽介、ちょっとおまえのタロット貸して」
 陽介はそうと言われて、怪訝そうに「タロットって、なんで?」と応えた。
「いいから、隊長命令だぞ。それと里中も」
「あたし貰ったばっかりなんですけど……」
 陽介と千枝はそれぞれ、自分のタロットカードを悠の湯呑みの横に置いた。彼はそれらをジャケットの懐に収めながら、
「よし。じゃあノリよくいこう。捜査隊らしく隊長からみんなに指令を出すぞ」
 と言った。隊員三人はわざとらしく背筋を逸らして胸を張って、隊長の言葉を待った。
「隊員諸君、傾聴。隊長から最初で最後の指令である」悠は威厳たっぷりに腕を組んだ。「各員、向こうの世界のことはすべて忘れること。二度とこの事件に関わらないこと。そして今まで見聞きしてきたことは絶対に口外しないこと。隊長から以上」
 四人の間に白けた雰囲気が満ちた。
「……え? 冗談?」と、千枝がぽつんと漏らした。
「冗談じゃないよ。タロットは返さない」
 雪子はさすがに座ったままだったが、欺かれてタロットカードを接収されたふたりといえば勢いよく立ち上がって、
「イミわかんねーよ! つか返せよお前のもんじゃねーんだぞ!」
「なんでんなコト鳴上くんが決めんのっ? あんたナニサマよ!」
 むべなるかな、大いに憤り始めた。
「だから後悔するなって言ったのに……おれなんかを隊長にするからこういうことになる」
「そういう問題じゃ――あ、なに冗談なの? オメ質わるすぎだって」
「冗談じゃないって。少なくとも今のままなら冗談じゃない。絶対に返さない」
「……いや、どういうことだって。お前ちっともったいぶりすぎ」陽介はあきれ顔で腰を下ろした。「言いたいことあんならさっさと言えよ」
「じゃあ、参謀どのの要請もあったことだから、本題の本題に入ろう」悠は苦笑して、懐から先ほど奪ったタロットカードを取り出した。「里中隊員、席につきたまえ」
「それ返してってば」
「里中のこのあとの返答いかんによっては」
 千枝は雪子に促されてしぶしぶ腰を下ろした。
「じゃあまず、この自称特別捜査隊? の目的だけど、山野アナの変死から続く一連の事件の解決と、被害者の救出ってことでいいのかな。みんな異存はない?」
 三人は黙って頷いた。ついでに陽介はしつこく「犯人を捕まえるってのも入れろよ」とつけ加えた。
「よし。じゃあ――陽介、試用期間は終わりだぞ。明確に約束してもらう」
「え?」
「わがブラック企業に就職したんだろ、キミは」悠は笑って続ける。「以後は本採用になる。もうどんな言い訳もできないぞ、たとえどれだけバイトのシフトが詰まってたって、その必要があればぜんぶサボってもらう。――里中も」
「へ?」
 千枝はきょとんとして、いまひとつ状況を掴めていない様子。
「里中、もしこの自称特別捜査隊に入隊して、その設立目的に準ずるっていうんなら、そのために必要なタロットカードはもちろん返す。ただし、以後の生活のすべてのウェイトはこの活動に傾くってことを、是が非でも承知してもらう。必要があれば学校もサボってもらう」
「うぇ……ええ……?」
「早朝だろうと夜中だろうと、ハラ減ってても眠くても、疲れてようが病気だろうが、その必要があれば問答無用でテレビの中に入って、シャドウどもを向こうに回して、命を的にしてもらう。そのために必要なペルソナの扱いの訓練も、捜査隊の話し合いも、場合によっては犯人の捜索も、ぜんぶ最優先事項になる。勉強する時間も趣味に回す時間も、遊ぶ時間も眠る時間も、すべて捧げてもらう。文句はいっさい受け付けない。なぜか? ひとの命がかかるからだ。おれたちはひとの命を背負う。重い労苦と責任とを背負う。それを家族にも友達にも口外できない、悟られてもいけない。そして報酬はスリルと生傷と、場合によってはあの世行きの片道切符が一枚だけ」
「…………」
「割に合う? 里中」
 こんなふうに明け透けに並べ立てられると、千枝はみるみる怖じけたようになっていった。本来ならペルソナという報酬を見せないままこのきつい条件を――かなり誇張してはあるが――呈示して、それでも可なりと決意した場合のみ「じつは里中はおれたちみたいに」と続けるつもりだったのだ。それでもいい、荷物持ちでも使い走りでもなんでもする、自らの責任においてわたしはわたしのできうるかぎりを無報酬で行う! 悠の欲しかったのはこんな言葉だった。が、
「……もちろん、やるよ。あったりまえでしょ。やらいでか!」
 千枝はにわかに発奮した様子だったが、その視線はしばしば悠の持つタロットに注がれるのだった。これではどれだけの覚悟を決めてこう言っているかわからないのだ。
「里中、ひょっとしてこのカード欲しさに言ってない?」と、訊いたところで無駄であろうが。
「んなワケないでしょ。鳴上くん疑ってんの?」千枝は心外そうにしている。「それにどっちみち、それって向こうの世界であれこれするのに要るんでしょ? あたしが欲しくないとか言い出すほうがマズいんじゃないの?」
(もちろんその通りだ)
 少なくとも短期的には――悠はしばらく黙り込んだあと、ふたたび「里中、実は」と切り出した。
「ヘンな話だけど、聞いて。もし里中がこんなの欲しくない、もうあの世界はこりごりだって言い始めたとしたら」
「たら?」
「説得するつもりだった、どうかこのカードを取ってくれって。世のため人のため、被害者のため、おれたちのために、ひとつ勇気を出してこの仕事を助けて欲しいって」
 千枝の面にたちまち笑顔が戻った。
「里中、来るなら本当に覚悟してほしいんだ。このタロットカードを、ペルソナを使ってみたいってだけの軽い気持ちで来るなら、来ないほうがいい……なんて言いやしない。少なくとも里中の心が醒めたり折れたりするまでは、おれたちも助かるんだから。重要なのはそのあとだ。里中、いつか里中が自分の覚悟と現実とのギャップを思い知らされて、こんなとこ来るんじゃなかった、自分はこんな無益なことにどれだけの時間を浪費したんだろうって、後悔する日が来るかもしれないってことが一番の問題なんだ。なぜって、それは必ずおれたちにも伝染するから」
「…………」
「里中――陽介も聞いてくれ。この仕事は誰に話して聞かせるわけにもいかないから、いっさい報われない。これは純然たるボランティアだ。そしておれたちには一応、世のため人のために殺人を未然に防いで、犯人に裁きを受けさせるっていう動機があるけど、実際、これはおれたち自身にとってそれほど切実に感じられるものじゃないはずだ。こんなのはお題目だ。だからおれたちのやる気を支えるのは、けっきょくはおれたちの、お互いのやる気だけだ。おれたちはお互いを杖にして歩くんだ、お互いをお互いの支えにするんだ。だから一本でもそれが折れれば、いつか必ずみんな転ぶ」
 ふたりは黙って悠の言葉に耳を傾けている。
「ふたりとも、おれたちは兵士とか戦士とか、そういう命を張るたぐいの仕事なんかしたことはないし、その訓練を受けたこともない。その適正もたぶんない。陽介は初めてシャドウに遭遇したときのこと、覚えてるか」
 陽介は唸るように「んん」と言った。
「おれたちは逃げるにせよ立ち向かうにせよ、お互いの存在がなきゃどちらも選択できなかった。もしひとりだったらきっと混乱して竦んで、震えて、その場に座り込んでた。おれたちはただの高校生だから、おれたちは弱いから、おれたち単独じゃ立ってられない、そういう仕事に従事するならおれたちには、自分の身体を支えるのに三本目の、あるいは四本目の足が要る。仲間が要る。隣に誰かが、助けたり助けられたりする誰かのいることが必要なんだ。できればひとりでも多く。そしてなにより結束が、いちど肩を組んだ相手のいなくならない保証が、少なくともやる気を失って去ってしまわない保証が必要になるんだ。――里中、保証できる?」
 千枝は二つ返事で「ぜえったい保証する!」と気を吐いた。
「もーめり込むくらい肩くむよ。あんたらが逃げようとしたってぜったい放さんから。肩の肉とかむしりとるから」
 悠はひとつ頷いた。ひとまずはこの言葉を信じるしかあるまい。それに千枝は少なくともその性格上、一度は負うた荷を負い切れぬというただそれだけの理由で、悠たちに押し付けて逃げ去ってしまえるほど卑怯になれるとは思われないし、実のところそうできるほどの度胸を持ち合わせもしない。こんな仕事の仲間に誘ってしかるべき人間として、彼女の持つ誠実さと小心さとのバランスはあんがい適しているのかもしれない。
 そしてなにより、十分な余暇を有するであろう、ということも。
「じゃあ、里中隊員には返すとして――陽介はどうだ」
 陽介はこうと問われてむしろ嘲るように「お前こそ初めてシャドウに遭ったときのこと覚えてねーの?」と言った。
「俺はすごい、んじゃあなかったっけ? 誰かさんは二回くらいんなこと言ってたけど」
「……もちろん冗談だよ、わかってる」
「約束もなにも、最初っからシフトのことなんか眼中にねーんだよ俺は。生活のウェイトがどうとか、んなのは当たり前のハナシだっつの。誰になに言われたって俺はやる、ひとりでもやる、俺だってお前の言う適正とかねーかもしれんけど、俺にはお前にない動機があるんだ。テレビの中に入れられた人間は全員助けて、犯人は捜し出してぜってーにブッ殺す」
「捕まえる」
「捕まえてブッ殺す……死なねー程度に」
「よく言った。じゃあ、これは隊員諸君に返そう」
 悠は陽介と千枝にタロットカードを返却した。
「あれ、これ違くない? なんかさっきと絵が違うんですけど……」千枝は返されたタロットを矯めつ眇めつしている。「これ花村のでしょ……フォールって読むの? つかこの絵ってひとりひとり違うの?」
「……悠?」
「あれ、間違えたかな」どうやら失敗のようだ。悠は改めてチャリオットのカードを彼女に手渡した。「花村ほら、里中が持ってるのお前のだってさ。そっち返せよ」
「里中、それ悠のだから。俺のはマジシャン」自分のカードを示しながら、「悠のはフール。訳すとバカ」
「……なんで鳴上くんがバカ? どっちかっていうと」
「うっせーな、いいんだよ俺はマジシャンなんだから。それより悠、さっきから天城が蚊帳の外でちっとかわいそうなんだけど」
 陽介に話を振られると、雪子はわざとらしくテーブルにのの字など書きながら「いいんだよ、わたしなんか空気みたいなもんだから」などといじけ始めた。
「あーあ、雪子いじけちゃったよ」
「いじけてないよォー……」雪子は頬杖をついてそっぽを向いている。「いいよいいよ、三人でたのしく話してたらいいんだよォ。おかまいなくゥ」
「天城ってなんか、意外にノリいいんだな、マジで」と、陽介は感心した様子である。「悠ほら、四本目の足が折れちまうぞ。勧誘勧誘」
「じゃあ、天城だけ無視するわけにもいかないから、面接だけはしとこうか」
 雪子はたちまち身を起こして「はいっ」と背筋を伸ばした。
「天城、今まで話したことは聞いてたと思うけど」
「うん。ばっちり」
「じゃあ二度は繰り返さない」そして言いたくはないが、どうやら口にせずにおけることでもないらしい。「さっき里中に要求したもろもろの事情を考え合わせると、天城は自称特別捜査隊には入れられない」
 四人の間にふたたび白けた雰囲気が満ちた。






「え?」
「天城、天城がそういう服を着てきてくれて、むしろよかったんだ。天城にタロットは渡せない」
「どうしてっ!」
 と、雪子はもの凄い剣幕で立ち上がった。通路を挟んだテーブル席の客がなにごとかとこちらを窺っている。
「天城、座って」
「ヤだ。どうして? 理由を言って」
 間髪入れずにこう言い募る。無事な左の拳を握りしめる。その麗貌は怒りに彩られている。とうぜん自らに帰せられてしかるべき巨大な権利を、不当に奪われたものの憤怒が漲っている。さだめて彼女の目にはクラスメイトならぬ、不実で恥知らずな強奪者が映っているのだろう。
「天城、その理由を一番よく知ってるのはおれじゃないよ。天城は聞く相手を間違ってる」
「なにを――!」
 ここで陽介と千枝とがめいめいの相方に取り付いて、周りにひとがいるんだから落ち着くようにと両者を宥め始めた。
「悠お前さァ、もうちっとコトバ選べって」と言って、陽介はちょっと怒りさえ見せた。「つか正直なんで天城をのけ者にすんだかわかんねーけど、理由があるならちゃんと言えよ。聞く相手まちがってるとか言わんでさァ」
「そうだよ。鳴上くんってときどきひとの気持ち考えないでもの言うよね」
 千枝もまた陽介と同じに、雪子の入隊を疑わなかったのだろう。そして彼らに悠の味方をするつもりはないらしい。自称特別捜査隊は結成後まもなく隊長が孤立するという危機に見舞われた。
「天城、じゃあ、それほどよく知らないおれから説明するけど」
「それほど? なにも知らないくせに」と、雪子が呪わしげに呟いた。
「……天城、それとも雪子って呼んだほうがいい?」今度は悠が機嫌を損ねる番である。「シャドウの記憶はまだ鮮明に残ってるはずだ。おれとあの燃える旅館でなにを話したか、雪子はもう忘れたのか」
 雪子の返事はない。
「雪子、あのときおれのした話がまったくの見当違いだったって言うんなら」むろんそんなことはあり得ないが、「それならおれを解任して、新しく隊長になって、この仕事を引き継げばいい。あのとき黙って聞いてくれてありがとうって言うよ。でももしそうでないなら、雪子はこんな危険なだけのボランティア以前に、打ち込むべきもっと大事な仕事が、考えなきゃならない大事なことがあるはずだって、わかりそうなもんじゃないか」
「…………」
「……なあ天城、もしこの捜査隊に参加したとしたら、天城の生活は間違いなく破綻するよ」悠は真実、誠意を込めてこう言った。「それは天城が一番よくわかってるはずだ。さっきおれが里中に要求したようなものを支払う力が、いまの天城にはないはずだ」
 雪子は悄然と腰を下ろした。
 目下、彼女には捜査隊の活動に割きうる余暇が絶対的に足りないはずだった。世の女の羨まずにはいないだろう数々の宝を持つ雪子も、こと自分の自由になる時間という財産に限って言えば、この年ごろとしては異例なほど貧しい部類である。その万年手元不如意の貧女が悠たちのような閑暇大尽と同じ額を支払おうと張り切ったところで、結局は「わたし多めに持ってきたつもりだったんだけど足りてない」などと嘆息せしめることになるのは明白であった。そして雪子が払えるだけのわずかな月賦ではローンは組めない。組んだとしても彼女はふだんほとんど顔を見せない、肝心なときにあてにならない、員数外の人間とせざるを得まい。あるいは旅館での疲労を、あるいはテレビの世界での疲労をそれぞれの職場間に持ち込んだあげく、倒れでもしないとも限らないのだ。
「うちのお母さん、仕事に復帰したの。だから少しは楽になるから」雪子はそれでも食い下がる。「少しだけ、少しだけみんなより及ばないとは思う。でもぜったい失望させない。わたしにもやらせて。お願い、お願いします!」
 と、悠に向かって手を合わせる。問題は雪子側の環境にあるのであって、べつに彼の腹ひとつというわけではないというのに。
「天城、意地悪してるわけじゃないんだよ……おれを拝んだってなんにも」
「なんかハナシ見えないんだけど、なんで雪子はダメなの?」千枝は聞くだけは聞いてやろうといった態度である。「雪子だけ仲間外れにするイミがわかんないんですけど」
「おれはヒマ。陽介もヒマ。里中もヒマ。天城は?」
「あたしべつにヒマじゃないし」
「俺もべつにヒマじゃねんだぞ」陽介も口を挟む。「こう見えてけっこう忙しいんだぞ。ただでさえ色々やらされるっつーのになんでバイトのシフト割とかめんどくせーこと――」
「ヒマって言うのはやることがないっていう意味じゃなくて」と、陽介をうるさげに遮って、「生活に支障の出ない範囲で、ある目的のために他から融通できる時間があるってこと。陽介はバイトしなくたって小遣いが減るだけで、普通に暮らしていくことはできるだろ? 里中だって……里中がふだんなにしてるかわからないけど」
「あたし? あたしはDVD見たり……トーロ練ったりとかしてるかな」
「そのトロを練らなくたって普通に食べていけるだろ。いや、そのトロは食べられなくなるかもしれないけど」
「トーロは食べ物じゃないよ。トーロっていうのは――」
「とにかく! 天城はふたりとは条件がぜんぜん違うんだ。天城は実家の旅館経営に深く関わってる。生活に関わってるんだ。高校生にそんなもの背負わせるなんて、しょうじき個人的には向っ腹も立つけど、天城のうちには天城のうちの都合がある。今までそれを免れなかったからには、天城屋旅館には天城の自由を束縛するだけの、なにか切実な理由がきっとあるんだろう。それはもうどうしようもないことだ、おれを拝んだって変えてやりようがないよ。そうしてあげたいけど」
 雪子はなおも手を合わせたままである。
「雪子かわいそうだよ。いいじゃんヒマなくてもさあ」と、千枝が唇を尖らす。
「かわいそうだから、天城のわずかな休憩時間を奪って、代わりに走ったりケガしたりしろって言うのか里中は」
「休憩時間を奪うなんて言ってないでしょ」
 話のわからんヤツだ――悠はだんだんイライラしてきた。
「それはあくまで喩え。仲間外れはかわいそうって里中は言うけど、そういう状態の天城を捜査隊へ無理に引き入れれば、結局はもっとかわいそうなことになるんだぞ」
「鳴上くん、どっちもかわいそうなら」雪子がおずおずと口を開いた。「どっちのかわいそうを選ぶかくらい、わたしにさせて欲しいよ。それはわたしが決めることだと思う」
「おれも天城の意志を尊重する。そうして旅館と捜査隊を行き来して、神経をすり減らして、ある日シャドウに包囲された踏ん張りどころでいきなり泣き出されでもしない限りは」可哀想とは思いつつも、悠は心を鬼にする。「そういうリスクを背負い続けるなら、それはもう天城だけの問題じゃなくなる。おれたちに共通の、自称特別捜査隊みんなに関わる問題になる。おれはそこの隊長としてそれを看過できない。天城だけの問題でないなら、天城だけに決めさせるわけにはいかない」
 このように無慈悲に言い放たれると、雪子はすっかり力を落として俯いてしまった。その様子を見ていた陽介があわれを催したか、いかにも悠を嘲るようにして、
「天城も里中もさ、コイツと言い合っても勝ち目なんかねーぞ」
 などと言い始めた。悠はムッとして彼を睨んだ。
「なんかおれが不正な手段で、天城の訴えを退けてるみたいに聞こえるんだけど」
「天城、べつに来たっていいよ」
「陽介!」
 陽介は悠を無視して、あっさりと彼女の入隊を了承してしまった。
「つか、むしろ来て欲しい。戦力はひとりでも多いほうがいいもんな」
「……おれがいまなにを言いたがってるか、おまえ当てられるか」
「ホントに言いたかったことを言ってくれてありがとう大好き?」
「おまえが隊長になるべきだったって言いたかったんだ」陽介を睨め付けながら、「おれは投票し直してもいいよ。天城も里中も隊長の決定には不満みたいだし」
「なんで、も、だよ。俺は別に不満じゃねーよ、基本的にはお前に賛成。やっぱお前が隊長でよかった」
「じゃあ、隊長に忠実な参謀どの、さっき天城に来てもいいなんて言ったことについてなにか釈明は?」
 陽介はしばらく腕を組んでテーブルを見つめたあと、「ちっと、いくつか聞きたいんだけどさ」と呟いた。
「天城は特別捜査隊の活動に必要な時間を用意できないから、入れてやれない……って、お前は言いたいんだよな」
「ヘンだな。ちゃんと伝わってる」
「……そもそもオメーはなんで、俺とか里中とかならちゃんと用意できるって考えてんだ」
 と、不思議そうに訊かれて、悠ははたと答えに窮した。
「確かに天城よりはヒマだろーけど、それで足りるってなんでわかる」
「わかりはしない。もちろんわからないよ」
「なら、俺らだって足りないかもしれねーんだよな」
「……可能性はある」
「じゃあ、俺らも捜査隊に入れないってことになるんじゃねーの?」
「それは詭弁だ陽介、負担の大小を言ってるんだおれは」
「だろ。だから俺らが大きく負担して、天城が小さく負担する。なんでこれじゃダメなんだ」陽介の面はしごく真面目である。「お前の言う負担ってのは営業のノルマみたいに、個人個人に振り分けられなきゃダメなもんなのか? 俺らもう仲間じゃん。天城隊員が用意できないぶんは、ほかの隊員で埋めれば済むこったろ」
「公平でなくなるし、ペルソナの練度や経験に差が出てくる。肝心なときにあてにならないかもしれない。もし夜中の出動に天城が来られなかったら? 役に立たないなら天城だって、せっかく余暇を割いて捜査隊の活動に協力する意味がない」
「公平でなくてもいいし、ペルソナの色々に差が出てもいいし、肝心なときあてにならなくてもいいじゃん別に。来られないなら三人で行って、次に期待しようぜ。それでいいだろ」
 陽介はサラリと返した。悠は絶句した。
「それじゃおまえ、規律もなにもあったもんじゃ……」
「それだよ」と言って、陽介は悠を指さした。「なんかさァ……さっきから聞いてると、お前の作ろうとしてる捜査隊ってなんつーか、軍隊みたいに感じんだよ。適正審査があって、入団テストがあって、入ったら一ヶ月はブートキャンプでセンパーファイみたいなさ」
「……入団の儀式も追加しようか」
「必要がありゃ問答無用で来いとか、自由時間はぜんぶ捧げろとか、文句はいっさい受け付けないとか……もう明らかにムチャだろそんなの。俺たちは兵士でも戦士でもない、その適正もないただの弱い高校生だとか言っといて、そいつらを集めて作ろうとしてるのがけっきょく軍隊って、お前ちっと矛盾してねーか」
 悠はぐうの音も出なかった。千枝と雪子が「おおー」と感嘆の声を上げて、小さく拍手などし始める。まさか陽介にこれほどズバリと説き伏せられるとは……
「もちろん軍隊なんかじゃない。そんなもの作るつもりはない」悠はなんとか反撃を試みる。「でもひとの命がかかるんだ、それくらいの覚悟は必要だ」
「覚悟ね――天城、覚悟ある?」
 雪子は少しきょとんとしたあと、勢い込んで自分の覚悟の確固たることをさかんに表明した。隣の千枝も大わらわで親友の後押しをして、いまや雪子の覚悟は溢れかえっていて自分はそれに溺れそうでさえあるのだと熱弁を振るう。
「だってさ。これで解決じゃん」
(コイツ……!)
 いまや悠は完全に三人の向こうに回って、しかも徐々に追い詰められつつあった。陽介の言うのはつまるところただの根性論に過ぎないのだが、千枝も雪子もやすやすと丸め込まれてしまっている。
「天城も里中も口車に乗るな」と、悠は釘を刺した。「行動の伴わない覚悟は覚悟じゃない。天城の覚悟は強固でも、それに見合うだけの行動が伴い得ないことはわかってるんだ。どれだけ熱心に返済を保証したってその目処もつかない、担保もないじゃあ金は出せない」
「なんでおカネのハナシになるんよ」千枝が眉をひそめる。
「だから比喩なんだって――!」
「悠、悠の言いたいことはわかるんだって」まあまあと陽介が割って入る。「お前ってつまり、アレなんだよ、ゼロか百かってカンジなんだ」
「どういう意味だよ」
「天城が三十しか用意できなさそうだからダメだってんだろ。百に達しないから、だからゼロとして切り捨てる」
「天城はその三十で引き算や割り算をしないとも限らないんだぞ」
「いまのが比喩?」
「……そうだけど」
「だってよ里中――でだ、お前は百だけを採用しようとするわけだけど、その百って実際はいねーんだろ? 俺も里中も用意できるとは限らねーんだからさ」
 悠は用心しいしい頷いた。
「ついでに言やあ、そもそも数字を用意できる人間じたい、この四人しかいねーわけだ。なのに隊長はひとの命がかかるから超覚悟しろって言う。あるものぜんぶ捧げろとか言う」
「それは言葉のあやで……」
「いやいいんだよ、そうしようぜ。俺も賛成っつったろ」と陽介は言って、ひとつ手を打った。「つまり、俺らは持ち寄れるだけを持ち寄る。やれることをやれるだけやるんだ。だから百に満たないのは切り捨てなんてことはしてられねー。天城が三十しか用意できなくても、それも利用する」
「だから天城は仕事が!」
「悠、さっきのお前のセリフ、ノシつけて返すぜ――ひとの命がかかるんだ、それくらいの覚悟は必要だ!」
 悠はふたたび絶句した。
「だろ? 天城」
 雪子はコクコクと頷いた。その面は安堵と喜びに満ちている。隣の千枝も同様である。
「……なあ悠、実際、お前のゼロか百か論で言ったらさ」陽介は一転、打ち沈んだ調子で続ける。「俺らには選択肢なんかふたつしかないと思うんだ。全員でやるか、さもなきゃ全員あのテレビの世界のこと忘れてさ、なるようになれって、放っとくしかないんじゃないかって」
「…………」
「悠、天城は子供じゃないっつか、むしろこの中じゃたぶん一番オトナだぜ。自分でムリだと思ったら控えるだけのフンベツはあるって。もしそうでなくても、天城がどこまでも突っ走って潰れるような人間でもさ、もう利用できるものはなんでも利用しねーと。やるならやるで、徹底すべきだって俺は思う」
 悠は不機嫌ぶって腕を組んで、窓のほうを向きながら陽介の話を聞いていた。ほかならぬ彼に説き諭されるというこの状況、悠にとっては非常に面白くないものだったが、その主張には一理がある。
(確かに一理だけはある)
 そして一理があるというだけで動かしてよいのは、思うに陽介や千枝のような「ヒマな人間」だけだ。先の燃える天城屋旅館において悠はそれこそ、舌の赴くままに一理と言わず二理も三理も並べ立てたはずではなかったか? ここでやすやすと陽介の説諭に頷いてやるわけにはいかなかった。雪子はすでに理で動かせるほど身軽ではないのである。
「ひとつ言っとく」ややあって、悠は窓を見たまま呟いた。「全員忘れるっていう選択肢はない。みんながもうたくさんって言って去っても、おれだけはやるつもりだった」
「ひとりじゃ立つこともできねーって言ってたのにか?」
「這ってでもね」
「悠、俺もそうだけど、天城だってそう思ってるかもしれない。酌んでやれよ」
「おれにもおまえや天城にはない動機があるんだ。おれにはおまえと里中をあの世界に引き摺り込んだ責任がある」
 悠はようやく視線を戻して、向かいの千枝をじっと見詰めた。
「……ちょ、そんなに見ないでよお、恥ずかしいじゃあん」と、冗談めかしても、彼女は居心地悪そうにしている。「えーと、でも引き摺り込んだってちょっと違くない? つかむしろ落としたのあたしだし」
「比喩。さっき里中のポケットからタロットカードを抜き出しただろ。陽介のもおれが抜き出したんだ」
「へえ……まあ、そりゃそっか。ほかいないもんね」
「そうなんだ。それで、そうしない限り、ふたりはこっちと向こうを行き来できなかった。一週間前、テレビの中から出てくる時、あのブラウン管に触ってもらっただろ?」
「うん」
「里中は通れなかった。でも実はそのときもう、里中も天城もポケットが光ってたんだ」
「え、そなの?」
 千枝も雪子もテレビを通過できなかった。もしや、と思っていた懸念はそのとき的中した。あのタロットカードはポケットの中に収まっている限り、その効力を発揮しはしないのである。そうある限り、彼らはふつうの、一般人となんら変わりはしないのだ。
 そしてつまり、悠はそうと知らずに、すでに陽介を普通でなくしてしまっていたのだった。
「里中聞いて。仮に里中がいまこの場で、もうたくさんだ、二度とあんな危険な世界に入れるかって言って、この席を立ったとする。おれがどれだけ引き留めても聞き入れることはしないで、怒って家へ帰ったとする。どうなるか。おれは予言する。里中はたとえここでどんなことを口にしていたとしても、必ずまたあの世界に入りたくなる。陽介も、もし天城もタロットを、向こうの世界へのパスポートを手に入れていたとしたら、そうなる。それくらい、ああいう非日常の世界は魅力的だ。危険で、命がかかるってことさえ、魅力のひとつだ」
 千枝はいまひとつ要領を得ない様子。
「あの世界に縛られるんだ、好奇心を。呪われると言ってもいい。そんなのはおれだけだってみんな言うかもしれないけど、現にタロットを取り上げたとき、ふたりは目を剥いて怒った。天城もタロットを渡せないって言われて、ひどく怒った。こうしてあの世界に関わる権利を巡っていろいろ紛糾した以上、多かれ少なかれそういう感情はみんなにあるんだ。だから里中、天城のタロットカードは絶対に抜き出しちゃいけないって、おれは言うんだ。それは親友を呪詛にかけるってことだ。この呪詛は悪質で、かけるほうもかけられるほうも祝福としか思えなくて、その害悪がほとんど認知されない。でもそれはほんとうに、かかった人間を破滅させかねない呪いなんだ」
「だから、お前がやるっての?」と、陽介が口を挟んだ。
「もうひとりやってしまってたし、さっきふたりめにもやった。それに隊長に任命されたんなら適任だろ」悠はひとつため息をついた。「だから、おれはどうにかしてこの事件を収めて、おれたちがテレビに触ってももう向こうの世界に行けないようにしなきゃいけない。おれが呪詛にかけたひとが、おれの知らないうちにテレビの向こうに入って、やがてどこかの電柱の上に吊り下げられたりしないように、すべてを元に戻さなきゃいけない責任がある。動機がある――里中、しつこいようだけど、あとで天城に懇願されたとしても絶対にタロットを渡すなよ。居丈高に聞こえると思うけど、これは、マジで、守ってもらう。もし自称特別捜査隊の隊長に、隊員に命令する権限があるとするなら、そう命令する」
 千枝はこんなふうに威圧されると、「わかりましたけど、そこまで言うんならしませんけど」とすっかり縮こまった。
「頼む。要は動機なんだ。カッコつけるわけじゃないけど、おれにはいま話したような責任があるから、そのために生活に支障が出るとしてもこの仕事を続けるつもりだ。たとえおれが天城並みに忙しくても、そうしなきゃいけないからそうするつもりだ――天城」
 と、呼ばれて雪子が面を上げた。
「このあいだ知ったばかりの向こうの世界に、天城は強力な動機なんか持たないはずだ。それともなにか忽せにできない動機が、天城にはある? ペルソナを使ってみたいとか、向こうの世界を冒険してみたいとか、世のため人のためとかなんてぼんやりしたものじゃない、これから先ちゃんと天城を支え続けてくれるような、筋金の入った堅固な動機が」
 四人の座る座敷席はみたび白けた雰囲気に満ちた。雪子は黙したままだった。
「……それでいいんだ。天城は天城屋旅館に纏わる動機だけで手一杯のはずなんだ、こっちはおれたちに任せて、天城は天城の戦いを戦って欲しい」悠はようやく腕組みを解いた。「ごめん、偉そうなことばっかり言って。すっかり長くなったけど、そろそろお開きにしよう。会計は済ませとくから」
 悠が請求書を取って立ち上がろうとすると、矢庭に雪子が手を挙げて「待って、わたしにもある!」などと言い始めた。
「あるって、なにが」
「動機。座って、まだ終わってない」
「天城もう――」
「座って。いいから座って」
 雪子は頑なに言い張る。悠、と横から陽介も口を添える。
「エラソーなこと長々話したんだから、次はお前が聞く番だろ。ほら」
 と言われては、さて彼にも自覚はある。などかはと無下にもしかねる。悠はしぶしぶ元の位置に収まった。
「じゃあ、聞くだけは聞く。どうぞ」
「わたしにも動機はある。鳴上くんにも花村くんにもない動機が」
「それは?」
「命を狙われた」
 悠はもう少しで舌打ちを漏らすところだった。
「……だから?」
「わたし、そんなことされる覚えなんかない。でも……もし自分が殺したいほど誰かに恨まれてるなら、知らなきゃいけないと思う」
「知ってどうなる。これは陽介にも言ったことだけど、いったいなにか納得できそうな理由を天城は思いつけるのか」と、悠は苛立たしげに続ける。「ああ、それなら仕方ない、わたしは殺されて当然だった――バカげた話だ。そんなこと知ってどうなるって言うんだ」
「なるよ。知らなきゃ、納得しない理由にならない」
「……納得、しない理由?」
「納得しない理由。もちろん鳴上くんの言うとおりだよ、どんな理由があったって、あんなことひとに対してしていいわけない、納得するわけない。でもどんなに切実な理由があったって、バカバカしい、勝手な理由があったって、それがわからないうちは待ってあげなきゃ。いちおうは聞いてあげなきゃ」
「聞いてどうするんだ」
「ぶっとばす。死なない程度に」雪子は不敵な笑みを浮かべた。「どんな理由があったってぶん殴ってやる。でも理由によっては、少しは加減してあげなきゃいけないかもでしょ?」
 悠は唖然として二の句を継げなかった。なぜか陽介と千枝がこの不穏な宣言を聞いて「おおー」と小さく拍手をする。
「天城よく言った。マジで惚れそう」
「雪子よく言った。マジで惚れそう」
「天城は復讐のために、あの世界に入ろうって言うのか」
「鳴上くん、わたしも喩えてみるけど、犯人は高いもの食べたんだよ。すっごく高いもの」店の品書きをゴム手袋の指でつつきながら、「そうして、お金はらわないで逃げてるの。踏み倒して、追いかけて来られないだろうって、笑ってるの。わたしはぜったい許さない。ぜったいこの手で捕まえて、耳揃えて全額支払わせる。びた一文だって負けてあげない。そしてそれを代わりの誰かにやってもらうことなんてできないの。なぜって、食い逃げされたのはほかの誰でもない、わたしだから!」
 雪子は昂然と言い放った。それは確かに動機であった。まず確実に陽介と千枝とには動機として聞こえただろう。そして悪いことに、どうやら悠にも。これは命を狙われて生き延びた被害者だけが主張しうる、いかにも強力な動機だった。
「悠、天城も動機持ってるってさ」陽介はすっかり勝ち誇っている。「お前さっき動機があればいいって言ってたよなー?」
「動機があればいいなんて言ってない」
「鳴上くんメメしーい。オトコらしくなーい」千枝もすっかり勝ち誇っている。「もう決まったようなもんじゃん。いいかげん諦めなってェ! ここはドリョーを見せるトコぞよ」
 動機だなんだなどと言い出したのは間違いだったか――悠はやるせなく鼻息を吐いた。
「……天城」
「はい」
「次はもっと際どいところにポケットのついてる服、着てきて」理と動機とは揃ってしまった。もうなるようになれ、である。「天城、苦しい戦いになるぞ。おれがさっき言ったようなリスクも背負い続けることになるんだ。覚悟はできてるんだろうな」
「もちろん、鳴上くんが力になってくれるんでしょ?」雪子は「なに言ってるの?」とでも言わんばかりである。「力になるよって、言ってたよね、あの燃える旅館で。言質とってるからね、ぜったい力になってもらうからね――悠くん」
「…………」
 悠の完敗である。彼は力なく請求書を取った。まったくこの会食は高くついたものだ。この事件の犯人もいつしか雪子の瞋拳を前にして、こんなふうに考えるのだろうか。
「悠くん、返事がないよォ?」雪子はニヤニヤしている。
「じゃあ話も終わったし、お開きにしようか……」悠は無視した。
「そうだな、ごっそさんでした悠くん」と、陽介。
「だね。このあとみんなでお茶でも飲み行く? 悠くん」と、千枝。
「……悠くんって言うのやめろ」と呻いて、悠は重い腰を上げた。「まだ話さなきゃいけないことがあったけど、それはまた今度にしよう。ちょっと長くなりすぎた」
「お前まだなんか話すことあったの? よくもまあ次から次へと……」陽介はわざとらしくうんざりしてみせた。「まあよく喋るよオメーは。江戸っ子ってみんなそうなの?」
「チリ人のクォーターにはわかんねーよ」靴を履きながら続けて、「みんなのケガのことっていうか、それを防ぐ道具についてさ。向こうでシャドウと戦うとき、破片とかいろいろ飛んで来ただろ? そういうのを防ぐ、なんていうか、防弾チョッキみたいなのをどこかで調達できないかなって、相談したかったんだけど……」
 そんなものがおいそれと見つかるはずもないけど――なかば諦め気味で漏らした言葉だったが、先に靴を掃き終えて菜々子を呼びに行こうとしていた千枝がひとこと、
「あるよ。そういう店」
 振り返ってしれっとこう宣ったのには、悠も驚かずにはいられなかった。






[35651] ッス
Name: 些事風◆fe49d9ec ID:25dc5972
Date: 2014/11/03 16:29



 メシなんかジュネスのフードコートでささやかに済ませりゃよかったんだ――悠は早くも後悔し始めていた。あんなところで散財している余裕などなかったというのに……
「悠ほら、これ」
 御康から八十稲羽へ戻る電車の中で、彼は自分のなにげなく口にした「防弾チョッキ」とやらがいったい、どれだけ高価なものであるかを初めて知ったのである。陽介の差し出したスマートフォンの液晶画面には、『防犯グッズ バレットプルーフ』なる店のホームページが載っていた。
「防弾チョッキってこういうのだろ? ほら」と、陽介が商品情報をタッチして示して見せる。「ちっと驚きだけど、通販でもフツー買えるんだな。つか誰が使うんだこんなもん」
 防弾チョッキが防犯グッズにカテゴライズされるというのも驚きだが、それらの値段から受けたものに比べればなんでもないことだ。
(ぜ、ぜんぜん足りない……!)
 目の玉が飛び出るとはこのことである。底を見ても五万を下らぬ。上を見れば六桁に達する。悠の財力ではあり金はたいてもふたり分に届かない、といったところ。無知な彼はひとりあたま二万前後でこと足りるだろうと手前勝手に考えていたのだった。
「これから行くトコってアレだろ、里中。だいだら」
「そーそー。なんかヘンなものいっぱい売ってるって話の」千枝は菜々子とあっち向いてホイに興じている。「カンダハルがなんかそういうの見かけたとか言ってたんだ。ヨロイとかオノとかバクダンとか――じゃんけんポンッ」
「あっちむいてホイ!」菜々子が気を吐いた。
(カンダハル……爆弾……?)
「ぐあっ、また負けた! くっそー菜々子ちゃん強すぎ!」
「菜々子ジャンケンつよいんだ。でもお父さんジャンケンよわいからオソダシする」
「そっかあ……じゃあほら、雪子、ウデ出して」
「だからなんで? 意味わかんないよ、なんでわたしなの?」
 この他愛のない遊技にはなぜか、負けたほうが雪子にしっぺいを食らわすという謎のルールが設けられているらしく、彼女は最前からピシピシ打たれながら抗議の声を上げ続けていた。
「俺も店前とか通るくらいで中は入ったことなかったけど……どういう店だよヨロイとかオノって」陽介は携帯を仕舞って吊革に寄りかかった。「しかもなんでんな店が八十稲羽の商店街にあんだよ。客なんかつくのか?」
「ナイフも売ってれば常連になるんじゃないか、おまえ」
 いっそその辺りのホームセンターから集められる材料で自作してしまうか、とも考えたが、それを装着して長いあいだ動き回ることが想定される以上、素人仕事というのはいかにも心許ない。そもそも店に売っている鉄板やら合板やらを継ぎ接ぎしたところで、重量を度外視するにしても戦場における防具として機能するかどうかもわからない。
 いや、思うにそんなものが相応に機能するならおそらく防弾チョッキメーカーなどは成り立たないのだ。高いコストにはやはりそれなりの理由があって、悠たちは現在、余儀なくそれらが求められているのである。
(とすれば、しなきゃならないのはただひとつ……)
 一行は八十稲羽駅に到着後、その足で商店街へと直行した。そのあいだ中、悠は皆から少し遅れてとぼとぼ歩きながら「しなきゃならないの」を大いに試みていた。
 金――どこから探してくればいい?
「じゃんけんポンッ!」
「あいこでしょ!」
「うぐっ、六連敗だもー!」千枝は牛みたいにモーモー叫んで悔しがっている。「もーなあんで負けんのォ? 菜々子ちゃんなんかコツとかあるの?」
「ちえちゃんかちたがってるからダメ。だからまけるの」菜々子の面は大涅槃を得た高僧さながらである。「こころをミズみたいにするの。ムになるの。ムッ!」
「お、オス、タメになります……つかさいきんの小学生ってスゴいですね。ムですかそーですか」千枝は小学一年生相手にすっかり恐れ入った様子。「考えるな、感じろ! ってヤツですねシーフォー。はいじゃあ雪子、こっち来てー」
「ちょっとまだ説明してもらってないってば……なんで千枝たちの勝負の結果がわたしに……!」
 しきりにルール改正が叫ばれた甲斐もあってか、雪子に食わせられるしっぺいはこの時すでに廃止されていた。代替として提案されたデコピンがただちに可決採用されてはいたが。
「受けてみよ必殺のワンインチデコピン……ほあっちょ!」
「イターッ!」
 雪子はのけぞって叫んだ。
(こいつらから取るっていうのは、ナシだ。ムだ)
 皆から集金する、という考えを、悠は早くから捨てていた。陽介も千枝も「今月はキツい」のだし、かといって来月ならユルくなるのかと言えばそういうわけでもなかろう。彼らの月々の小遣いと言えばせいぜい多くて一万ほどだろうし、慈悲を捨てて陽介のバイト代を残らず接収したところで、とうてい目標の額に達するとは思われない。
「痕ついてる? 血とか出てない?」雪子は痛がって額を撫でている。
「あー超でてるよ。もーわっさわさ出てる」千枝はニヤニヤしている。
「……ちょっと千枝こっちきて、ねえこっち。ちょっといいからほら」
「やだぜったいやだって。ちょっ、やだっつのこっちくんなギャー!」
 雪子の凄惨な復讐が始まった。
 陽介たちふたりと違って彼女はそれなりの貯金を有するようだったが、むろんこれを当てにするなどはもってのほかだ。仮に彼女が喜んでそれに応じるとしても、それは足りぬであろう捜査隊の活動の穴埋めを金銭によって強いるようなものである。またそうして徴収した金で購ったなにものをも、陽介や千枝が自らに許して身に纏うとは思われなかった。自らのポケットから一銭も出さないまま、苦労人の同級生にそれほど高価なものを唯々諾々と「買ってもらう」などとは、いかにお調子者のふたりとはいえさすがに立つ瀬がなかろうというもの。
 いや、たとえ彼らが許しても悠の自尊心はそれを許さないだろう。彼は自称特別捜査隊の隊長として、ただひとり自らの力だけで才覚しなければならないのだ!
「ここだここ。とーちゃくー」
 皆を先導していた千枝が立ち止まったのは、以前に遼太郎から教えられていた書店の、その右隣に建つ小体な店舗の前であった。
(……ここ、なに屋?)
 一見してなにを商っているのかさっぱりわからない店である。廂にリベットと鉄錆とで装飾された『だいだら.』との看板がかかっているだけで、千枝のもたらした物騒な情報を裏付ける物品はどこにも見られない。磨りガラスに遮られては店内の様子も覗えない。店名の「だいだら」というのがなにかの専門用語で、それを知るひとならピンと来るのだろうか。
『貴金属・時計買取、高額査定。詳しくは店主まで』
『部品製作・加工ご相談下さい。新型MC・CNC工作機械完備』
『モニュメント・オブジェ・看板等の設計製作いたします。お気軽にご相談下さい』
『貴方だけの輝き……オーダーメイドジュエリー承ります』
『稲羽の伝統工芸品・城根焼取り扱ってます。製作教室予約受付中』
『検索! 当店ブログ→ダイダロス巽のArt de l'homme』
 入口の戸にこんな筆書きのポスターがペタペタ貼ってある。とりあえず甲冑鍛造と爆弾製作を請け負う旨のものは見当たらなかった。
「防弾チョッキなんか売ってんのか、ここ」と、陽介が悠の胸中を代弁した。「明らかに小売店っぽくねーぞ。店ってより工房ってカンジ? ポスター見る限り」
「売ってるって言ってたんだってば、カンダハルが」と、千枝が口を尖らす。「聞いたの二ヶ月くらい前だけど。バクダン売ってたとかって超よろこんでたもん」
「里中、カンダハルって――」
「わたしここの店主さん知ってる。たしかタツミさんっていって……すごいコワモテのひと」雪子は菜々子をちらと見た。「うーん、菜々子ちゃん見たらちょっと怯えちゃうかも……」
「コワモテってなあに?」と、菜々子。
「顔がコワいんだ、ここのお店のひと。あと声もちょっとコワいかな。喋りかたもコワかった気が……ていうかもうおおむね見た目ぜんぶコワいかな……」
「カンダハルってなあに?」
「え? ええと……千枝、カンダハルって誰?」
「あれ、雪子しらなかったっけ? カンダハルって――」
「まあ三人ともさ、ここでゴチャゴチャ言ってたって始まんねーし」と、陽介が千枝を遮った。「とにかく入ってナカ見てみようぜ。どんなんなってるか俺ちっと興味わいてきた」
「…………」
 陽介は悠に膝裏を蹴られて尻餅をついた。
「うおっ! ちょ、なにすんだお前!」
「足が滑った」
 陽介の言うとおり、とりあえず中に入ってみなければ始まるまい。悠は彼の抗議を無視して「だいだら」の入口の引戸を開けた。中に入る前に素早く左腕のメモヴォクスを外して、それを裾で拭ってポケットに突っ込む。
(父さん、信じてるよ! これは安物じゃないんだろ?)
 店に張られたポスターの中に『時計買取、高額査定』の字を見つけた時点で、悠は腕時計を売ろうと決めていた。
 それなりに愛着はあったが背に腹は代えられない。目下、彼の持ち物の中で金に換えられそうなものはほかになかったのである。その時計はアメリカの父から高校入学のお祝いに送られてきたもので、一緒に郵送されてきたメッセージカードによれば、
『MEMOVOXという時計です。お父さん奮発しました。安物じゃないよ。いいものだから大事にしてね』
 とのことであった。ひょっとしたら中古でも十万くらいにはなってくれるかもしれない。のちに売却されたことを知れば彼もさぞ悲しもうが、そうしなければ怪死を遂げた愛息の形見として仏壇を飾ることになるかもしれないのだ。このほうがどれほどかマシであろう。
 店内は先に見たコニシ酒店のように、幅こそそれほどでもないものの奥行きのある、いわゆる鰻の寝床状である。薄暗い黄色い照明がいくつか、天井に掛け渡された鉄骨梁――満遍なく錆を刷いているからには、おそらくは装飾として追設されたものと思しい――からぶら下がっていて、四方の壁に掛け巡らされたハンガーを不気味に照らし出している。そこに掛かっているものが絵画や掛け軸であるなら雰囲気も出ようが、
「ヨロイ、あるね」
「斧もあんぞ……」
 後ろについて入ってきた陽介たちが店内を見回して、恐るおそるといったふうに感想を漏らした。外の明かりに慣れた目には判然としないが、おそらくはそこここに置かれた棚にも鎧や斧の兄弟親戚が詰まっているのだろう。あるいはじき爆弾も見つかるかもしれない。火気厳禁のポスターは要らないのだろうか。
 入口周辺にレジは見当たらなかった。どうやら店の奥にあるらしい。
「……天城は?」
「菜々子ちゃんと外で待ってるってさ」と、千枝。「ここには入れないほうがいいだろって」
 英断である。雪子はただ「おおむね見た目ぜんぶコワい」ここの店主を見せまいとしたのだろうが、ここで菜々子にアレはなんだコレはなんだと質問攻めにされても答えられそうにない。もし答えてやってそれが遼太郎にリークしでもしたら、悠は鎧を求めてもう一度ここへ来なければならなくなる。
「ふたりはそのへん見てて」
「お前は?」と、陽介が訊いた。その手には鉄製の籠手が嵌められている。「な、これどうよ、よくね? サイズでかすぎだけど。これなら破片とか飛んできても防げねーかな。こう、カキンって」
「おほっ、太極剣あったよ太極剣! これはなにげに血が騒ぎますなー……」千枝は棚から中国ふうの長剣を引っ張り出してきた。「重っ、つか高っ、二万以上するよコレ。でも欲しいなー、あーでも剣のトーロとか知らないしなー」
(大喜びだなこのふたり……)
「おれはちょっと、防弾チョッキのこと訊いてくるから」
 時計を売るところはこのふたりに見られないほうがよかろう。陽介たちに待つよう言い置いて、悠は店の奥へ入っていった。ほどなく棚の陰から現れたレジカウンターには、
(留守か?)
 誰もいない。もちろん、誰かいれば入口を開けたときなにかしら反応しようものだ。どうしよう、しばらく待ってみるか、奥へ声をかけてみようか――と、少しくその辺りをウロウロしていると、
「客か?」
 じきカウンターの奥の暖簾を潜って、この店の主人と思しい男がのっそりと出てきた。雪子もひとが悪い、「おおむね見た目ぜんぶコワい」だなどとよくも言ったものだ――悠は危うく飛び上がるところだった。
(ヤ……ヤクザ……?)
 その男は「おおむね」どころではない、全身あますところなくコワかったのである。
 身長はまず百九十を下るまい。彫りの深い、「いま奥でちょっと二、三人刺して来ました」とでも言わんばかりの三白眼は、悠の目の高さよりだいぶ高い位置にあった。プロレスラーも裸足で逃げ出す筋骨隆々たる体躯。色黒の肌を覆うTシャツの、肩口からチラリと垣間見える入れ墨。凶暴そうな顔に交差して走るふたつの大きな疵は、大いにその物騒な由来が偲ばれるというもの。つるりと禿げ上がったあたまの、鬢から鼻の下にかけて渡された山賊みたいな髭はどうだ! 彼が生まれてこのかた鏡を見たことがないというのでなければ、まさか他人に好印象を持ってもらおうとして生やしたものではあるまい。見てくれだけで判断するなら彼が「その筋」の人間であることに疑いようなどなかった。
「なんの用でえ」
 これで声がボーイソプラノだったらまた別種の恐ろしさを醸し得たろうが、あいにくこの男のしゃがれ声は宗家正統派一子相伝の部類である。悠は気圧されてちょっと黙ってしまった。が、
(こういう手合いは怖がって下手に出ちゃダメだ、舐められる……)
 ましてこれからこの追い剥ぎじみた大男を相手に、時計の値段交渉をしなければならないかもしれないのだ。言いなりになってはならぬ――彼は両の拳を握りしめて自らを叱咤した。
「トイレ借りに来たように見える?」
 あえてぶっきらぼうに返してみる。あるいは男が機嫌を損ねるかとも思ったものの、彼はこれといって気にしたふうもない。こういう受け答えに慣れているのだろうか。
「確認だけど、おじさんはこの店のオーナー?」
「トイレの掃除夫に見えたかい」
「プロのね。表のポスターに高額査定って書いてあったから、持ってきたんだけど」
「時計?」
「うん」
 店主は「見せてみろ」とばかりに無言で手を出した。この革手袋みたいな手に時計を載せたら最後、「こいつに免じて命だけは助けてやらあ、安い買い物だったなあ。帰んな」とでも言い放たれそうだ。しかし拒否すれば「そんなら仕方ねえ、サイフとタマも頂こうかい」などと蛮刀片手にカウンターから飛び出して来ないとも限らない……
(ビビり過ぎだ鳴上悠! 曲がりなりにもこんな平和な田舎に店を構えるような人間だぞ、そこまで非常識なことをするはずはない!)
 たぶん――悠は先ほどポケットに放り込んだ時計を取り出した。
「…………」
「……どう?」
「……まあ、待っときな」
 彼は時計を受け取ったなり、大して価値のないもののように胡散臭げにじろじろ眺め回していたが、じき椅子に座って覆い被さるようにしてそれを検め始めた。じっくり時間をかけながらその合間に顔を上げて、折々悠のほうをチラチラ窺うのが不気味なことこの上ない。かの時計が非常な値打ちものであるとわかって、「さてこのガキを殺して裏庭に埋めるにゃあどうしたらよかろう」などと案じているふうでもある。
(いったい何分かかるんだろう……)
 悠はふと時間を気にして、ポケットから携帯電話を取り出した。現在午後二時を少し過ぎたところ。遼太郎はまだまだ帰っては来まいが、そろそろ夕飯の買い物へ行かなければ……
「四十万」
 にわかに店主がそう呟いた。悠は危うく飛び上がるところだった。
「……四十、万?」
「四十万だ」
(そ、そんなに高いものだったのか!)
 思わず喉が鳴る。
 中古で四十万なら輔はいったい、この時計をいくらで購ったのだろう。送られてきたときは箱や付属品の類こそなかったものの、キズひとつない新品同様の状態だったのだから、まさか四十万より安かったと言うことはなかろう。これが吝嗇家の妻に知れたら彼こそここで鎧を誂えねばなるまい。鳴上輔の親バカここに極まれり、である。
 しかしなんにせよ渡りに船とはこのことだ。四十万円もの高値で売れるなら問題は解決したも同然、それだけあれば防弾チョッキ四人分など余裕でまかなえてしまう。おつりでもう一回あの鰻屋へ繰り出して大盤ぶるまいしてもいいし、入口で待っている陽介たちにそれこそ籠手でも剣でもナイフでもなんでも買ってやれる。いやいやそんなものより手の出なかったあの本この本もこの機会に――
(待て、待て鳴上悠っ! 落ち着け、それは早計に過ぎる!)
 あたまの中に次々と花開く物欲の薔薇を、悠はあわてて理性のブラッシュカッターで刈って廻った。こんないかにも「強盗でござい」とでも言わんばかりの曲者が果たして、馬鹿正直に適正な値段など呈示するだろうか? 本当はあの時計はもっともっと高価で、この男は「これくらい出しておきゃあこのガキも文句はあるめえ」などと高を括っているのかも知れないではないか!
 悠はたちまち猜疑心の――さらに言えば欲望の――虜になった。
「なんでえ。不満か」
「……百万以下では売るなって言われてる」
 とっさにこんな言葉が口をついて出てくる。言い過ぎか? いや、こんな手合いにはこのくらい言ってやったほうがいいのだ! 悠はあふれ出る手汗を躍起になって拭う。
「百万だあ……? 帰んな」
 店主は「なにをこのバカな小僧め」とでも言わんばかりである。よし、そちらがそう出るなら……
「邪魔したね。帰るよ」
 手を出して返せと手招く。果たして店主の面にかすかな動揺が走る。
「まあ、待ちな」
(そら見ろ! やっぱり安く買い叩くつもりだったんだこのハゲ!)悠は内心でほくそ笑んだ。(このおれがやすやすと騙されるとでも? そこらの高校生と一緒にするなよ……!)
「じゅうぶん待ったよ。ほら、返してよ」
「……ものを知らねえやつだ。百万っつったらおめえ、定価と大して変わらねえじゃねえか。ほれここ、見てみろ」と言って、店主が悠の時計を示す。「わかってんだろうが、風防にでっけえキズが入ってる。他にもガワに小せえキズはあるがな、まずこれがいっとうマイナスだぜ」
 悠は内心で呻いた。その疵は一週間前、燃える天城屋旅館において蒙ったものである。まあ見えるんだしいいか、などと楽観していたのだが、こんなふうにして巡り巡って来るとは思わなかった。
(それにしても……元は百万以上もするのか、あれ。そんなもの手首に巻き付けてたなんてな)
「そう。それで?」と、悠はあえて強気に出た。「いくらなら買うのか金額を出してもらわなきゃ。もし上乗せする気があるんなら」
「四十五万」
「おれはものを知らないかもしれないけど」鼻で嗤って続けて、「おじさんは交渉を知らないなあ……ほら、返して」
「じゃあ五十万出そう。イヤなら持ってけ」店主はカウンターの上に時計を置いた。「ヨソを当たってみな、どうせここへ戻ってくることにならあ」
「じゃあね。トイレ借りにならそのうち寄るよ」
 と言って時計を取った悠の手に、ガバッと店主のそれが覆い被さる。
「……六十万。これが上限だ、これ以上は採算が取れねえ」
「九十万」
 店主の目が驚愕に見開かれる。
「お、おめえよくもそんな……!」
「ねえおじさん、こっちだってこのまま帰ったんじゃあ親父に対して面目が立たねえんだよ。百万との差額をどう言い訳したらいい?」
 目の前の大男の影響であろうか、悠はこの怪しい値段交渉にすっかり嵌ってしまっていた。こういう場所でこういう男を相手に、精一杯の低い声で父親のことを「親父」だなどと呼んでみせるというのは、それはそれである種の快感を伴うものである。面と向かって輔を「親父」と呼びなどしたら彼はたぶん泣き出すだろうが、
(どのみち売ったことが露見すれば父さんは泣くんだ……せめて安売りだけは絶対にしない!)
「この時計はさあ、おじさん、うちの親父が高校入学の祝いにってことで、はりきってよこしてくれたもんなんだよ」もはや気分は極道の息子である。「ちっと入り用でね、悪いけど売るぜって言ったときァ、そりゃあ親父もいい顔はしなかったさ。でも売るからには二束三文にできねえってのァ、わかってもらえると思うんだけどねえ」
「親不孝もんが……んなのァそっちの都合だろうがい」
「こっちの都合さ。だからこっちの都合で値段も決める。売る店も決める。どうすんだい親孝行のおじさん」
「……てえしたクソ度胸だぜ、こんなボロ時計に九十万の大枚を叩けってかい。おめえもおめえのオヤジもよくよくものを知らねえ」
「で、おじさんは交渉を勉強中ってわけだ――手ェ、放してくんない? 次からは授業料とるぜ」
「七十万だ、これで承伏しねえならもう止めねえ!」と言って、店主は苦渋も露わに手を引っ込めた。「その代わり、ヨソで突っぱねられてすごすご戻ってきたってもう買取にゃあ応じねえ」
「…………」
「トイレも貸さねえ。ヨソの高額査定とやらがどれだけしょっぺえか、そっちこそ勉強してくりゃあいいや」
 このあたりが手の打ちどころか――悠は静かに鼻息を吐いた。
「七十八万、一括、交渉成立。いい買い物したねおじさん」
「…………」
 店主は苦虫を噛み潰したみたいな顔をしている。悠のほくほく顔とは対照的である。少し強引な取引だったかも知れないが、不服なら交渉を打ち切ることだってできたはず。利益を見込めるからこそ彼もここまで食い下がったに違いないのだ。同情するのは筋違いというもの。
(今は自分を褒めてやるところだろう? ほぼ倍額の値上げ交渉、初めてにしちゃ快挙じゃないか! それもこんな怪物相手にさ)
 悠の時計はあらためて怪物の手に渡った。
「おめえ、高校生かい」と、店主が低い声で訊いた。
「そうだよ。高二」
「おめえみてえなクソガキァ初めてだぜ。涼しいツラしてこんなもん持ち込んで、目上の人間によくもまあペラペラと大層なクチを……」
「へえ、目上だったの? あとでよく言って聞かせとくよ」
 店主の恨み言も悠にとっては称讃の類である。今日はいい日だ――彼は勝利の余韻に浸った。
「……ところでおめえ、見ねえツラだな」
 余韻も長くは続かなかった。
「そう? 気のせいだろ」
「いいや、俺ァいちど見た人間の顔ァ忘れねえ。おめえはただの一度も見たこたねえ、ここらのもんじゃあねえはずだ、よそもんだろう」
「…………」
「どうなんだ」
 ここで否んでのちにボロが出て、この男の「一味」に尾行されたあげく堂島家の住所がバレるなどという事態になるのはまずい。悠は内心の動揺を押し隠して「よそもんだからなんだよ」と突っ張った。
「そうかい。で、おめえ、どっから来た」
「……サンノゼ」
「サンノゼェ……?」店主の眉根に皺が寄る。恐ろしさは三割増しになった。「で、名前は」
「なんで?」
「言えねえってのかい」
「諸岡」
「下の名前は」
「訊いてどうするんだよ。陽介だけど」すまぬ陽介――ふたたび両の手に汗が滲んできた。「つぎは口座番号でも訊く気かよ。カネは現金で払ってもらうぞ」
「……そうだったな。いや、つまんねえこと訊いたな」と言って、店主はカウンターの下から一枚の用紙を取り出した。「どのみちここに書いてもらうんだ、訊くのも迂遠な話だった」
(コ、コイツ……!)
 彼が悠に呈示したのは、こういった中古品売買の際に取り交わされるには至極ありふれた売買証明書である。二枚綴りのその用紙には住所氏名年齢生年月日電話番号と、ついでに未成年においては保護者氏名とを記載する欄が設けられていた。住所? 電話番号? 保護者氏名? 遼太郎の名を書いてあとで電話されでもしたらどうなるだろう? この大男の手を煩わせることなく悠は裏庭の肥やしとなるに違いない。
(なんでこういうとこだけ普通の店と変わらないんだ! くそ、どうする……)
「ほら、どうしたい。おっとすまねえ、ボールペンがなきゃあ書けねえよなあ」
 悠がなにかしら後ろ暗いものを抱えているらしいということに、どうやら店主は気付いている様子。その態度は先に手玉に取られた鬱憤を晴らすかのようで実に楽しげである。
「…………」
「……ほら、名前の次は住所だ、モロオカくん。住所を書くんだ、いま住んでるとこのことだぜ。電話番号は携帯不可だぜ。それとモロオカくんは未成年なんだからよ、保護者の名前も要るぜ」
 遼太郎のことはさて措くとしても、まさか言われるままそんなことを書いてよこすわけにはいかない。この男が先にやり込められた腹いせにどんな嫌がらせをしてくるか知れたものではないのだ。家には菜々子もいる。彼が子供の誘拐を趣味に持っていても不思議とは思われない。
「……おじさん、あのさ」と、悠は控えめに打ち明けた。「時計売るのはちょっと見合わせようかと思う」
「おいおい、てめえで交渉成立っつったんだろうがい、いまさらだぜ。それよりなんで住所が書けねえんだい」
「理由なんてあるもんか、書きたくないからだ」もはや開き直るしかない!「これを書けなきゃ売買は成立しないはずだ。ほらっ、返してくれよ! やっぱり親父の――」
「鳴上くーん、ここマジすごいって」
 悠はカウンターに寄りかかって崩れ落ちそうになる膝を懸命に支えた。
「なんかもー宝の山だって。今月もうちょっと――」
 果たして棚の陰から顔を出したのは千枝である。彼女はこれまた中国ふうの槍を抱えてことに上機嫌であったが、カウンターの中に収まった店主の姿をひとめ見るなり一転、血相を変えて「ちょおっ!」と後退った。
「あ、えーと、あのっ、すいませんホント、戻してきますから……」
「あーいいんだいいんだお嬢ちゃん、この店にあるもんは全部さわっていいんだ。なんなら外に持ってって振り回すかい」と、店主は愛想よく続ける。「それより、ちっと訊きてえんだけどな、お嬢ちゃんいまこの兄ちゃんのこと、なんて呼んだ?」
(里中やめろ! 頼む!)悠は必死に念を送る。目を見開いて凝視する。(気付けこのバカ! おまえ言ったらあとでどうなるか……!)
「へ? 鳴上くんです、けど。このひと鳴上くんです」
 千枝の顔には「圏外」と大書してあった。
「……へえ、いい名前じゃねえか、ナルカミくん」
「え? へへっ、でしょー? ってあたしの名前じゃないっつの」千枝はにこにこ笑っている。「ところでえーと……鳴上くん、なんで睨んでんの?」
「…………」
「よしよしナルカミね……ナルカミ? どっかで聞いたような聞かねえような……」店主の顔が怖さ三割増しになる。「ああお嬢ちゃん、ついでにカレシの下の名前も教えてくんねえ」
「カレ――あははカレシじゃないです違います。あたしカノジョじゃないです」
「婚約者だよ。結婚したらナルカミじゃなくなるから」と、悠は低い声で言った。「いいからおじさん、早く返せよ、警察呼ぶぞ。その顔じゃ困るだろ」
「だあれが婚約者だっつの」千枝が脇腹を狙って槍でツンツン突いてくる。「ウソです違いますから。ただの友達ですから」
「おじさんホントに警察呼ぶぞ。フェアじゃないから教えとくけど、叔父が刑事なんだ。おじさんみたいなヤツを追いかけるのが仕事のね」
「へえ、ならオバさんは検事でアニキは鑑識で、ジイさんは警視総監ってわけだ」店主は端から信じていない。「まあ落ち着きな。そんなにとんがるめえよ、婚約者にアイソ尽かされるぜ。どうも顔色が優れねえようだがよォ、さっきの威勢はどうしたいナルカミくんよ」
「婚約者の前だから自制してやってるんだろ。いいかげんにしないと――」
「悠ー、ここマジでスゲーって」
 悠は灰になった。
「おいヤベーって悠、ここ宝の山だって。あーくっそ今月もうちっと――」
 果たして棚の陰から顔を出したのは陽介である。彼は千枝と同じような手順を経て「ちょおっ!」と後退った。
「あっ、すんませんマジですんませんホント、戻して来ますから!」
「いいっていいって。オジさん無粋なこたァ言わねえよ、オトコならみんなそういうのに憧れるってもんだぜ少年。それ、抜いてみたかい」
 と、店主に笑いかけられると、陽介はすっかり警戒心を解いて、持ってきた刀の鞘を払って「えへへ……ッスよねえ」などとへらへら笑い始めるのだった。
「そうかいそうかい、ナルカミユウくんてのかい」
「……返せよ」
「交渉成立って言ったろうがい。まあ今日のところはよ、お近づきのしるしってえことで、こんなものァよしにしとこうや」店主は売買証明書をふたつに裂いた。「オレとナルカミユウくんの仲だ、口約束でも仁義は通るさ。言い値もちゃあんと耳そろえて出すぜ。信用ならねえってのかい」
(なるわけねーだろ! 鏡みたことないのか?)
 悠は心の中で毒づいた。
 しかし時計を返してもらえないのならもう、金を受け取って早々に引き上げて、こんなところには二度と近づかないようにするしかなさそうだ。
 この男が本気でなにかしてくるようなら、それこそ刑事たる叔父に相談すればよい話である。なにしろ額が額であるからして、この一件、裏庭の肥やしは冗談にせよたしょう強引な詮索は免れまいが、なにも法に触れることをしているわけではないのだ。遊ぶ金が欲しかった、こんな高額なものとは思わなかった――この一点張りでどうとでもなる。
(そう、天城がこの店主の名前を知ってたな、確か)
 こちらの素性を押さえられはしたが、こちらもまた先方を知らないわけではない。まして小体ながら堂々とこのような店まで構えている。冷静になって考えてみればこの男が正業に就いていようがそうでなかろうが、善良な一市民に対してそうそう大っぴらに狼藉を働くことなどできないはず。見た目に騙されてはならぬ、この男はそれほどの脅威にはなり得ない……
 悠は静かに鼻息を吐いた。
「じゃあ、いいよ、おじさんの言うとおりでいい」
「よおし。じゃあよ、また近いうちに寄りな」
 店主はニヤニヤ笑いながらこう言い放った。
「え……だっていま、耳そろえて出すって」
「おいおいナルカミくんはものを知らねえなあ。これから真贋を調べにゃならねえんだぜ、ニセモンだったらどうすんでえ。そりゃ時間もかからあな」
「って言ったって、じゃあ、いつ来れば」
「近いうちさ」
「近いうちって!」
「近いうちは近いうちだ。遠くねえ日だ」
「…………!」
 やられた――顔から血の気の引くのを感じる。それはそうだ、渡すのならもちろん金と引き替えでなければならなかったのだ! 持ち逃げされたらどうする? 売買のやりとりを聞いていない陽介たちは証人たり得ない。知らぬ存ぜぬそんなものはこの店にないと突っぱねられれば、いったい売買証明も交わしていない悠にどうしてみようがあろう。
 彼はすっかり打ちのめされてしまった。かたや世間見ずの高校生、こなた百戦錬磨のヤクザ。この戦い、もとより役者が違い過ぎたのかもしれない。自分はアエネアスに挑むラウススに過ぎなかったのでは……
「さ、用は済んだかいナルカミくんよ。そっちのふたりもゆっくり見てってくんな。できれば買ってくんな」
「……ふたりとも、帰ろう。天城たちを待たせてる」
 もはやこの山賊の頭目じみた怪人を信じて、彼の言う「近いうち」にふたたび訪ないを入れてみるしかない。悠は陽介たちを促して悄然と踵を返した。
「悠、ここの店主さんとなんかあったのか?」
 と、陽介が耳打ちしてくる。もちろんあったとも、友人の裏切りがね! 説明するのも忌々しいので悠は無視して済ませた。
「でも見た目はアレだけどさ、ここの店主さん、なんか意外といいひとそうじゃん?」と、千枝も顔を寄せてくる。「鳴上くんもブッキラボーだよ、よくないよそうゆうの。敬語つかおうよ敬語ォ。むこう年上なんだからさあ」
「…………」
 千枝は悠に脇腹をつつかれて飛び上がった。
「おふっ! ちょ、なにすんの!」
「手が滑った」
「今日はいろいろ滑るんだな、お前」陽介が呆れたように言った。
(まったくだ、滑り通しだよくそっ)
「ふたりとも、そのおもちゃ、買わないんだったらさっさと戻して来いよ」今日は厄日だ――悠はふて腐れた。「買うんだったら離れて歩けよ。他人のフリするから」
「なんでお前そんなスネてんの」
「鳴上くんなんかカンジわるー」
「そこがよくて婚約したんだろダーリン」
「婚約してにゃ……してないっつの」槍の石突きが飛んできた。
「で? けっきょく防弾チョッキは買えなかったんだな」
 陽介の言葉は質問というより確認の色が強かった。もともとそれほど真面目に受け取ってはいなかったのだろう。
「ま、さすがにあんなたっけーもんホイホイ買えねーよな。ムリムリ。べつの方法考えようぜ」
「……そうだな、いくらなんでもな」
 ため息をつくのに忙しい悠を置いて、陽介と千枝は持っていた「おもちゃ」を戻しに店内へ散って行った。
(最初からあの男の言うまま、四十万で手を打ってればよかったんだろうか)
 いや、どだいこんなヤクザな店に持ち込んだのがまずかったのだ。きょう食事に出かけた御康でだって探せば買取店のひとつもあったろうに。ちゃんとしたカタギの、ちゃんとした値を付けてくれる店が。父になんと言って詫びればいい? このまま知らぬ顔をされたらもう泣き寝入りするしかないではないか……
「あ、ここにいた!」
 猫背になってため息を連発する悠の背に、カウンターの向こうから店主のものではない、若い男の声が飛んできた。
「向こう電気つけっぱだって。あとアマゾン来てっぞ」
「今日だったか。受け取ったか?」と、店主が暖簾を振り返る。
「受け取ってねえよ、玄関で待ってる。呼鈴いつ直すんだよ、配達のひとマジで困ってたっつの」
「おお、ちっと行ってくらあ。すぐ来っからここいてくれ」
 暖簾を潜って現れたのは、悠とそれほど変わらないであろう年ごろの、上背のあるがっしりとした少年だった。薄墨色のツナギの上半身を脱いで両袖を腰に縛り付けた、ちょっと一服中の工員といったいでたちである。
(あのヤクザハゲの子供かな。どうもそれっぽいな)
 まさか悠の言う「ヤクザハゲ」氏と同等とはいかぬにせよ、その少年は彼に似た色濃い不品行と暴力との匂いを纏っていた。
 悠の立っている位置からでもそれはわかる。黒いタンクトップの肩から伸びる、逞しい二の腕に刻まれた髑髏のタトゥー。高い鼻と耳とを穿って飾る銀色のピアス。あたまに巻かれたタオルに見え隠れする、真っ白に脱色された短髪。こめかみの傷痕。白目の勝ったやぶにらみ気味の鋭い目。低い声、野卑な口調。この悪魔の館の跡取りと言われればさもあろうとも思えるような、いかにもふさわしい誂えたような不良少年。
「おいカンジ、お客さんだぜ、挨拶しとけよ」
 店主がカウンターを去りしなに、思い出したように悠を示してそう言った。
「いいお客さまだ。粗相のねえようにな」
(なあにがいいお客さまだ! カモの間違いだろこのヤクザハゲ……!)
 背負ってきたネギとナベを奪われてダシまで取られた悠のこと、この店主の科白は皮肉っぽい勝利宣言にしか聞こえない。恨めしげに彼の背を見送る彼に、件の少年があごを突き出すようにして、
「ッス」
 と、朴訥な、会釈らしい仕草をした。





 なにか眠気を誘うような律動が、規則正しく身体を突き上げ続けているのを感じる。
「ナルカミユウさま、お目覚めあれ」
 目を開けると――そこは電車の中だった。悠はワンボックスのひとつに腰掛けて、鼻の長い不気味な小男と相対していた。
「…………」
「おはようございます。ナルカミユウさま」
 小男の隣に座るブロンド美女が悠に挨拶する。
「あれ、ここって……」
「お久しぶりでございます」
「お久しゅうございますな」
(そう、そうだ、ベルベットルームだ、ここは!)急速に記憶が蘇ってくる。(ええと確か、この鼻の長いのが)
「……あなたは、イゴール」
「はい」と言って、小男は持っていたタンブラーを軽く持ち上げた。「覚えやすい名前でございましょう? それゆえに付けられたとも申せましょうが」
「で、あなたが」
「覚えておいででございますか?」話を振られた女がにこっと笑って、持っていた塗りの重箱を軽く持ち上げた。「大ヒント。花言葉は『秘めたる愛』でございます」
「クリサンセマムさん」
 女――マーガレットの笑顔が固まった。
「まあまあ、自己紹介は先に終えているのですから、このくらいにしておきましょうか」イゴールは含み笑いながら続ける。「なにはともあれ、ようこそベルベットルームへ」
「ふたたびお会いできて、なにより、でございます」マーガレットは奥歯にものの挟まったような口調である。「まだはっきりとはお目覚めでないご様子ですが」
「いえ、目なら完全に醒めてますよ、クリサンセマムさん」
 ふと思いついて身を乗り出すと、悠はイゴールの持っていたタンブラーをひょいと奪った。小男のまぶたのない、まんまるの目に微かな驚きが閃く。
「おや」
 終始ものしり顔で澄ましきっているふたりの、微笑の張りついたその顔の色を変えてやれたのはなんとも小気味がよい。ひとまずはこれでささやかながら、先にさんざん驚かされたことへの復讐は済んだことにしてやろう。
(これ、なんだろう)
 奪ったタンブラーの中身はウィスキーかなにかと思しい。このまま突き返すのもなんなので、悠はその琥珀色の液体を氷ごと一息に飲み干した。
(……うまい)
 彼にウィスキーを喫した経験はなかったが、その液体は心中ひそかにこうであろうかと想像していたとおりの美味である。
「どうでございますか、お味は」と、イゴールが訊いてくる。
「いいですね。なかなか」氷をボリボリ嚙み砕きながら、「意外とおれって、いけるクチなのかもしれない」
「フフフ……早熟なあなたにはあんがいお似合いやもしれませんな。しかし」イゴールの蜘蛛の足のような指が伸びてきて、タンブラーをやんわりと取り上げた。「お飲みになるのは夢の中だけにとどめておかれますよう」
「へえ、どうして」
「それはご存じのこと。あなたは未成年であるからして、現実の世界では法に触れましょうほどに」
「うちの叔父は未成年の飲酒に寛容なんです」
「……そのう、これは個人的なお願いでもございます。夢の世界と現実の世界ではけだし、ものの味もいささか違って感ぜられるやもしれませんぞ」
「イゴールがそう言うんなら、じゃあ、止めておきます」機会があったら是非とも試してみなければ。「それで、けっこう久しぶりですけど、またなにか用ですか」
「これはつれないことを仰る。我々は旅の仲間ですぞ」と言って、イゴールは窓際のサイドテーブルに置いてあったボトルからおかわりを注いだ。
「まだ名前も覚えて頂いていない間柄ではありますが」と言って、マーガレットは膝の上で重箱をふたつに分けて割り箸を割った。
 彼女の食べようとしているのは鰻重である。それも箱の意匠も中身も寸分違わぬ、かの篁で餐した中串と同じものであった。
「マーガレット、それって……」
「これはたいそうおいしいのでございましょう?」マーガレットは喜色満面である。「楽しみでございます――いただきまーす」
「その節はとみにお楽しみだったようで、なによりでございますな」イゴールはウィスキーをひとくち啜った。「ちょっと今までのあなたにはないことだったのではございませんかな?」
「そんなことはないけど」
 と言って、悠はなんの気なく窓の外に目を向けた。外は相変わらずの闇一色。籠もった律動音がこの電車のトンネルにいることを教えていたが、どうもベルベットルームにいる限り外へ出ることはないらしい。
 窓にはただ悠たち三人の姿のみ映っていた。が、じきそれらに混じってなにか小さく、どこかに寄り集まって騒ぐひとの集まりのようなものが見えてくる。それは目を凝らすうちにもどんどん大きくなっていって、ついには窓の向こう数メートルほどの位置にまで近づいてきた。
 もはや目鼻立ちも判別できる距離である。男がふたりに、女がふたり、窓の向こうで卓を囲んで座っている。
(なんだ、あれ、まさか……)
 まさかもまさかである。それは篁の奥座敷に座ってさざめき笑う、悠以下「自称特別捜査隊」四人の姿であった。
「……よい景色でございましょう? この旅の醍醐味ですぞ。いや実にすばらしい」
 イゴールの賞揚も耳に入ってこない。いきなり窓を透かして映画が始まったことを驚く余裕もない、悠は身じろぎひとつできずにいた。窓の向こうの四人のうちの、あのいちばん背の高い少年……
 あれはいったい誰だ?
「あれはあなたです。ナルカミユウさま」マーガレットが見透かしたように言った。「まああのように楽しげに……もしこの次にまた機会がありましたら、わたくしもぜひご相伴させて頂きたいもの」
(ウソだ、あれはおれじゃない、おれはあんなに……)
 大口を開けて下品に笑ったりしない。あんな馬鹿みたいに大仰な身振りはしないし、あのように口を尖らせて不満げに話そうとはしない。気味悪くニヤニヤしたりしない。不審者みたいにキョロキョロしない。子供みたいにそっぽを向いたり俯いたりなんかしない。おお、おれはかつてあんなことはしなかった、したことなんかない、冗談にさえ!
「面白おかしく変えてるんだろう! 悪趣味にもほどがあるぞあんたたち!」
 悠の剣幕と瞋眼とに、しかしイゴールとマーガレットは訝りも驚きもせず、ただ静かに慈愛の視線を返すだけである。
「いいえ、あれはあなたのふだんの姿です」と、イゴール。
「違うおれは、笑ったかもしれないけど、あんなふうに笑いはしなかった! 確かに!」
「あんなふうに笑っておられました」と、マーガレット。「あなたのお友達も、あのあなたを、ずっとご覧でしたよ」
「ウソだ、そんなバカな……」
「そらご覧なさい、まだまだ続きがございますぞ」
 高潔に、賢明に、理性的に。常にそうあることは確かにできまい。それでも今までの人生、あたう限りそのように振る舞ってきたつもりだった悠にとって、別して友人たちの前ではなおいっそうそのように努めてきたはずの彼にとって、窓の向こうに代わるがわる映し出される映像は立ち直れなくなるほど衝撃的なものだった。が、目を背けたくても彼はそうできない。鰻屋の次はあの燃える天城屋旅館だ。窓の向こうの悠は雪子のシャドウに「お姫さまだっこ」されて、みなの笑いものになっていた。
「…………」
 遡ってポスギル城内。悠は手紙に目を落としたまま螺旋階段を降りている。無表情に一抹の不機嫌を刷いた、性格の悪そうなイヤな顔で、彼はにこやかに話しかける千枝を無視していた。場面が変わる。大の男が女子みたいに内股になって床にへたり込んで、陽介と千枝とクマとになにごとか励まされている。この映像にはみな一様に音がなかったが、この男の情けないなよなよした醜態といったら、泣き言を漏らすのが聞こえてきそうなほど。
 悠は自分の喉から変な呻き声が出るのを聞いた。
「絶景かな絶景かな、春の眺めはなんとやら……」馬鹿にしているのか感心しているのか、イゴールはさも面白げにそう言って続ける。「値万両、万々両、ではございませんか。これだから旅はいい」
 少年がふたり、人型のイラストの描かれた床に転がっている。一様に股間を押さえて、苦しげに、片方などは顔を歪めて泣きさえしている。泣く少年が少女へと代わった。千枝がジュネスの入口のガラス戸に肘を押し当てて、もう片方の腕で目を擦っている。しゃくり上げている。彼女に向かって指を突きつけて、目をギラギラさせて、怒りに燃えて口をパクパクさせているあの少年……
 あの少年は誰だ?
 自分でも情けないとは思っても、悠は涙の溢れるのを堪えることができなかった。彼は窓の向こうの千枝と同じに袖で涙を拭った。
 映画はたぶんこれがラストだろう。もっとも見たくなかったもの――少年がふたり、殴り合いの喧嘩をしている。いや、殴り合いではない、背の高い方が一方的に殴りかかっているだけで、背の低いほうは必死でそれを去なして、ただ防御に徹するのである。彼の面、陽介の面に満ちたあの忍耐と焦燥との色、友人を打ってしまったことへの隠れもない後悔の色。
 彼の相手は誰だ?
(おれだ。あのチンピラはおれなんだ……)
 いったい陽介に殴りかかる悠の、なんと醜い顔をしていることだろう。ただただ一撃されたことへの仕返しに、怒りに我を忘れて歯を剥いて、溜飲を下げてやろうとだけ考えている、向こう見ずで単純で思慮のない、愚かなガキの顔。それは悠の考える自分自身と対極にあらねばならないはずの男の顔であった。
「あなたは以前、このように考えたことがございましたな――自分の捨てられて顧みられなかった火床に、怒りの埋火を見出したのは大いなる驚きであると」
 イゴールの問いかけに、悠はひとつ洟を啜って、黙って頷いた。窓の向こうの映画は終わっていた。
「……もはやあなたにもおわかりのはずですな。もちろんそんなことはなかった。あなたは怒りのひと、感情のひとです。あなたはあなたのお母上に対しても人並みに怒りました。あなたの周りにいるひとたちに対しても、ちゃんと怒りを覚えておられました。あなたは実際、よく怒りましたとも。ただ遠くにいたから、近くに寄せ付けなかったから、なにより省みなかったから、彼らもあなたご自身も、ナルカミユウの怒りの面を見ずに済んだだけのこと。セネカを繙いてみても、屈原を援用してみても、あなたはついにあなたの蔑んでいた人々と変わりはしなかった」
「…………」
「挙世みな濁り、われ独り清めり。衆人みな酔い、われ独り醒めたり」マーガレットが箸を置いて、歌うようにそう言った。「汨としてわれ将に及ばざらんとするがごとく、年歳のわれと与にせざるを恐る」
「朝には岡の木蘭をとり、夕には州の宿莽をとる」イゴールが引き取る。「歳月が水の流れのように自らを待たないことを恐れて、朝な夕なに時を惜しんで、高潔に、賢明に、理性的にあれかしと努める――ほんとうのあなたとはいささか隔たりがございましたな」
「これを見せるために、おれを呼びつけたのか、あんたたちは」と、悠は口の中で呟いた。「やっぱり悪趣味だ。あんたたちは悪魔だ、やっぱりそうだった」
「これは手厳しい。つれないことを仰せだ」
 と、言ったきり、イゴールもマーガレットもしばらく無言で、めいめいの食べ物なり飲み物なりに集中していた。
「……おれは怒りっぽくてへこみやすくて感情的で、思慮が浅くて、性格の悪い卑しいバカだ。よくわかりました」
 ややあって、悠がなかば捨て鉢になってこう漏らすと、イゴールはようやく顔を上げてにこっと笑った。
「ねえ、ナルカミユウさま。ですがいったい、そうでない人間がどこにいるというのです」
「けだしひとはみな、あなたのように考えます」マーガレットがふたたび箸を置いた。「そうして、そんなあなたを好ましく思うお友達もおられるのです。先の団欒の光景をお忘れでございますか?」
「あなたは決して感情的ではありませんし、お若いかたとしては思慮もじゅうぶん深くていらっしゃる。欠点を指摘されれば認めるにやぶさかでもない。あなたはあるいはバカかもしれませんが、愚かではない。愚か者にこの部屋へ入る資格は与えられません」と、イゴール。「ただ、あなたの考えるようなあなたではなかったというだけのこと。先ほどこの窓の向こうに映ったあなたは、いわばあなたのシャドウであるとも申せましょう。あなたは自らのシャドウを受け入れることによって、あなたのペルソナと呼ぶ力を手に入れられた。そうではございませんでしたかな?」
「いちど遭えばそれで終わりってわけじゃあ、ないんですね」
「そのとおり」イゴールは得たりと頷いた。「あなたは遭い続けて、見詰め続けるのです、理解し続けるのです。あなたの生きている限り、その道に終わりなどございません」
「あなたのペルソナと呼んだ力は、黄金でできたトロフィーではございません。名誉を証すメダルではございません」マーガレットが引き取る。「手にしさえすればもう苦労はおしまいで、決して失われず、それから先は好き勝手に使えるといったような終身の特権ではございません――だからこそ、その力は貴いのよ」
「……あなたたちを悪魔だって言ったことは、謝ります」
 と言って、悠はふたりに軽くあたまを下げて見せた。
「なんの、あるいはほんとうに悪魔やもしれませんぞ。それ、この鼻などはいかにも悪魔然としてはおりませんかな?」
 イゴールは自らの長い鼻を指さしておどけて見せた。
「まったくでございます。主の鼻といったらウフフ……もうこの世のものとはウフフ……」
 マーガレットはイゴールに睨まれてそっぽを向いた。
「とりあえず、お礼を言ったほうがいいんでしょうね」悠はため息をついた。「いいものを見せてくれて、ありがとうございました。正直、ちっとも嬉しくはなかったけど……」
 イゴールとマーガレットは異口同音に「どういたしまして」と言った。
「ペルソナを使い続けるために必要なことだったんなら、もう仕方ないですし……そう、こっちの話になりますけど、ペルソナ使いもずいぶん増えたんです。子供っぽいって笑われるかもしれないけど、捜査隊なんかも結成したりして」
「いったい誰がそれを笑えましょう。すばらしいことではございませんか」と、マーガレット。「あなたがたはお互いをお互いの杖にするのと同様に、お互いの鏡ともなるのです。有意義なことですよ」
「ありがとう」実際に結成したのはおれじゃないけど。「イゴールの言ってた謎にも、ひょっとしたら遠くないうちに手が届くかもしれない」
「ほう、謎に、でございますか」イゴールはなぜか怪訝そうな顔である。「なるほど……しかし、ペルソナ使いが増えたからといって、そのゆえに手が届くかどうかというのは、はてさて、わたくしにはしかとは解りかねますが」
「だって、人数がいれば戦力になるでしょう? 謎を解くための」
「おや、あなたの言う謎とは、解くために戦力が要るのですか?」
 悠とイゴール、両者の眉根に皺が寄った。おかしい。なにかが食い違っている。
「え? いや……違うんですか? イゴールが言ったんですよ、謎とはこの一連の事件の犯人のことだって」
「いいええ」イゴールはさも愉快げである。「わたくしはそのようなことを申し上げてはございませんよ。よく思い返してごらんなさい」
(いや確かに……あれ、声が)
「ああナルカミユウさま、お名残惜しゅうございますが、どうやらお時間のようですな」イゴールが持っていたタンブラーを窓越しのテーブルに置いた。「現実のあなたが目覚めようとしているのです。我々の旅の語らいはひとまず終わりといたしましょう」
(ちょっと待ってください、それじゃあ謎って)
「あなたが旅をお続けになる限り」イゴールは明らかに面白がって笑っていた。「フフフ……我々は必ずまた見えます。そのときは必ず切符をお持ちくださいませ」
(やっぱりあんたは悪魔だ! じゃあいったい――)
「それでは、ごきげんよう」







《あとがき》


 これで本編二章は終了になります。
 予想以上に長くなりましたが、二章にはこれから先に繋げていくための「気付き」を一通り出しておかなければならなかったというのもありましたし、ふたり同時攻略というのも手伝ってどうしても短くできませんでした。三章はこれより短くなります。なるはずです。おそらくきっと。
 ちなみにいちばん最初の脳内プロットでは、実はこの二章の内容も一章のうちに含まれていました。寒気がします。



[35651] oneirus_0d01
Name: 些事風◆8507efb8 ID:2703359e
Date: 2014/12/14 18:47

 このオネイロス編はペルソナQ記念の断章で、
 本編と「あまり」関係のない独立した中編です。
 各章の終わりくらいに挿入される予定です。





 そこで気がついてから、あるひとつの結論に達するまでに、彼はたっぷり三十分ほどの時間を要した。
 落とされた。
 なにをどう考えても結局この考えに戻って来る。堂々めぐりを繰り返すたび焦燥は募る。焦燥はじき恐怖を伴い始める。恐怖は刻々といや増す。彼は怖いのがイヤで別のことを考えようとして果たさず、あくせくと恐怖の虫にえさをやっていた。なぜこんなことに? 不思議なことにこう自問してみても、その経緯も、自分がいつ学生服に着替えたのかさえ、まったく思い出せない。
 目下、悠はただひとり、見たこともないどこかの建物の中にいた。
 いや、建物というよりなんとなくトンネルの中にいるような、地下深くに埋められているような、重苦しい感じがする。窓のたぐいのいっさい見当たらないのがそういう印象を懐かせるのだろうが、どこか坑道のようなところに自分はいるのではないかと悠は推量していた。
 彼の前後には幅、高さともに七、八メートルもあろうかという、ひろびろとした隧道が開けている。床と壁とに隙間なくびっしりと、表面を粗く均した積石を廻らしてあるのと、天井の尖頭アーチみたいになっているのが、ぼうっとした灯りの中に認められる。壁に等間隔に穿たれた壁龕に大量の、火のついた太い蝋燭が備え付けられているおかげで、視界は存外良好であった。代償としてこの古代の堂めいた、不気味な雰囲気もまたついて回るのではあるが。
 仄揺れる無数の蝋燭の灯りに照らされる、という視覚効果を抜きにしても、この組積造の隧道は非常に古いもののように見られる。経年の染みと埃とに彩られた、それこそ千年を人目に触れず閲したとでも言えようほどの、眺めているとなんとなく不安になってくるような。そう、じっと見詰めていると染みが無数の、ひとの顔に見えてくるような……
 地下墓所――悠の脳裡に最悪のイメージが浮かぶ。
 そこが堂であれ墓であれ、隧道は残念なことにどうやら巨大である。行けども行けども曲がり角や勾配や浅い階段を経るだけで、どこかへ辿り着く気配はない。部屋のひとつさえ見当たらない。そして悠はそれを納得ゆくまで試みるより先に、べつのもっと深刻な障害を先に見つけてしまっていた。
 シャドウがいたのだ。
 いくつあるのか数えるのを止めて、少し経ったあとの、十数個目くらいにはなるはずのある曲がり角を折れたところで、悠は阻まれたように立ち竦んだ。それはとつぜん目に飛び込んできた。四匹――悠はただちに後ろ歩きで取って返して、角の壁に張りついた。荒い息を吐いた。あの個体は見覚えがあった。お面みたいな単純な顔の、五、六本も腕の生えた、汚泥の塊のようなやつ。小型だがはしっこくて恐れ知らずで、巨大なペルソナにもどんどん突っ掛かってくる……
 つまりここはテレビの中の世界なのだ! しかしテレビのパネルを潜った覚えはない。ではなぜこんなことに、と心の裡に問うまでもなく、先の雪子の体験談が無慈悲な現実を示していた。すなわち、
「おれ、落とされたんだ。犯人に……」
 あるいは夢ではないかと腿を抓ってみる。以前にも同じことをしたものだが、無論これは愚かな試みだった。夢の中で夢の夢たるを立証する手段のない以上、現実として捉えるよりほかないのだ。
 そうだ、現実を見ろ! 悠は壁に背を預けて、両手に爪を立てて握りしめて、その震えるのを抑えようと懸命に深呼吸を繰り返した。隣で陽介たちが一騒ぎしてくれればたやすく湧いてくるはずの勇気も、いまは在庫が払底しているようでなかなか集まって来ない。しかし悠長に入荷を待ってもいられない。
堪え忍べテトラティ・デーわが心よクラディエー! これよりもっと危ない橋だっておまえは渡ってきたはずだ……」
 あんな雑魚の四匹くらいがなんだ。おれはひとりでもやれる――悠は意を決して懐のタロットカードを抜き出した。
 犯人が彼のペルソナ能力を知って、その上でテレビの中に落としたかどうかはわからない。しかし知らずに無作為に選んだのがよりによって悠だったというよりは、犯行を邪魔だてし始めた生意気な「敵」を排除しようとした――どのようにして悠がそうであると知り得たのかは不明だが――と考えたほうがより辻褄は合うだろう。あるいはいつか自分も、と考えたことがないではなかったが、それは意外にもかなり早かったようだ。
(おれのシャドウは来ない、はずだ、たぶん)悠は少なくともこの世界において、自らのシャドウに襲われる心配だけはないはずだった。(問題はいま見たような怪物のほうだ。四匹……鳴上流でやれない数じゃない)
 件の曲がり角に躙り寄ってそっと通路を窺ってみる。いる。なにかに群がるようにしてひとつところに集まったまま、四匹ともときどき身震いするくらいでどこかへ行こうとする気配はない。戦わずに引き返すか? いや、引き返して新手と遭遇して、さてそいつらとやり合おうというときに背後から襲撃されても困る。見つけたなら、そしてそれが可能ならただちに排除しなければならない。彼我の距離からいって角に隠れたままペルソナを使うことはできない。奴らの目にこの身体を晒す危険を冒すのは避けられない。生身のほうが襲われる前に、すばやく四匹を倒さなければ……
「クマ、頼むよ、早く見つけてくれよ……!」
 と、悠は願掛けのように囁いた。唯一の希望はクマだ。彼ならすでに悠が、少なくともだれか「人間」がこの世界に入って来てしまったことを察知しているはず。陽介たちも悠が行方不明になったことを知っているか、ほどなく知ることになるだろう。両者が情報交換すれば必ず悠の現在の苦況に思い当たって、救出に駆けつけてくれるに違いない。悠はその間シャドウどもを避けつつ、倒しつつ、生き延びなければならない。
 彼は忍び足で曲がり角を出た。ペルソナが生身の身体から離れられる限界距離はせいぜい五十メートル程度、近づきすぎても離れすぎてもいけない。背後に巨大な存在感が出現した。全ての感覚がふたつになって、脳味噌を荒縄で締め上げているかのようなストレスが湧き上がってくる。
(くそっ、気付かれた!)
 それまでみな後ろを向いて――あのお面が顔だとしたらだが――いた四匹が、ペルソナの現れるや否や同時にこちらを向いた。どうもなにか特別な感覚でペルソナの存在を察知できるらしい。奇襲は失敗だ。
(囲まれたら終わりだ、先に仕掛けなければ!)
 ペルソナが悠を追い抜いて、矛を振り上げて猛然と突進する。先方もそれを座視してはいない。塊になって突っ込んでくるシャドウどもの姿が、見晴らしのいいペルソナの視界に映った。横ざまの片手打ちが先駆けの一匹を斬り倒す。その余勢を駆って二匹目を鷲掴みにする。それを握り潰すと同時に、ペルソナは三匹目の体当たりを食ってあおのけに転倒した。この隙を突いて四匹目が飛び上がって、巨人の顔めがけて降ってくる。
 悠は安堵の息を吐いた。生身の悠に向かって来さえしなければ、小型シャドウの攻撃などいくら食らったところで恐れるに足らない。四匹目はペルソナの強烈な頭突きを食らって天井まで吹っ飛んだ。そうして地面にぐしゃっと落ちたきり、二度とは動かなかった。残るはあと一匹――
「あれ……」
 次はおまえだ、とばかり、ペルソナが立ち上がってふたたび矛を構える暇に、シャドウの生き残りは恐れをなしたか一目散に逃げて行ってしまった。――終わってみればいかにもあっけない。案ずるよりなんとやら、というやつだ。いかに悠ひとりの、それも不安定な鳴上流ペルソナとはいえ、やはり小物の四匹や五匹などは相手にもならないのだ。彼は忘れかけていた自信を思い出して少しく気をよくした。
「相手が悪かったな。おれをどうこうしたいならこの百倍は連れて来なきゃな」
 勝ち誇った勝利宣言が隧道にこだまする。これはさすがにちょっと小物っぽかっただろうか? ここは勝者の余裕と反省とを滲ませて「獅子は兎を撃つに全力を用う。手加減はできないのだ、悪く思うな」とでも言うべきだったかもしれない。つぎ同じことがあったときのためにちゃんと考えておかなければ――
 ふと、悠は床のある一点に目を留めた。
(なんだ? なにか……)
 ペルソナを消して駆け寄ってみると、果たしてなにか落ちている。そうといえば、そのあたりは先のシャドウどもが群がっていたところではなかっただろうか。ブロックと蝋燭以外のものを見るのはここへ落とされてから初めてのことだった。
「……ワッペン?」
 拾い上げたそれには曲がった安全ピンがぶら下がっている。厚手の円い、少しく光沢のあるウールシルク様の布でできた、ワッペンというよりはバッジの類である。外周を廻る赤地の帯に、
『GEKKOUKAN PRIVATE HIGH SCHOOL Since 1982』
 とあって、それの囲む黄色いふちの内側の、白黒の市松模様の中をぐるりと、
『MELIUS EST PAR CONCORS QUAM PERFECTOR UNUS』
 こんな文字が刺繍してある。
(ゲッコウカン、私立、高校?)
 どうもどこかの学校の校章らしい。あるいは過去にここでシャドウの餌食となった、不運な学生の遺品であろうか。
(ゲッコーカン、聞いたことないな。なんか醤油とか造ってそうな……)壁に寄って蝋燭の明かりに照らして見る。(内側のはモットー? 醤油造りの秘訣……じゃあないよな)
「メリウス・エスト・パ――」
「動かないで」
 突然、女の声が悠の呟きを遮った。動くなもなにも、彼は驚きに打たれて身じろぎもできない。
「そのままっ」
「……動くと、具体的に、どうなる?」
 悠は壁を向いたまま、辛うじてこう質してみた。女の返答は「動くと、具体的には、矢が刺さるかも」である。
「矢……って」
「いま弓矢で狙ってる。動かないで!」
 と、女の声が繰り返した。次いでパタパタと足音が近づいて来て、悠の背後十メートルくらいの位置で止まる。
「ゆっくり、こっちを向いて」
 彼は言われたとおりにした。さて視界の外から現れたのは、
(なんというか、場違いな……)
 美少女である。と評せば、まず百人中九十五人は賛意を示すだろう。余ったへそ曲がりの五人でさえ、彼女が悠とそれほど変わらない年ごろであろう、ということには異論を差し挟むまい。こんなところには場違いな若く美しい女が、場所にも持ち主にもまったくそぐわない、ちょっと機械仕掛けのようにも見える禍々しい弓を引き絞ってそこに立っていた。
 癖毛ぎみの茶色いミディアムヘアが揺れる。こころもち斜にした色白の細面に、大きな、目尻のやや上がったアーモンド型の目が悠を睨んで光っている。細くとがった鼻梁の下の、色の淡い花唇が小さく、
「ショウカンキなしでペルソナを……」
 と、忌々しげに呟いた。悠は目を疑うのを中断してただちに耳のほうへ取りかかった。
「ちょっと待って、いま、ペルソナって言った?」
 少女は答えない。彼女は矢を番えたまま悠を軸にして、値踏みするようにジロジロと彼を観察し始めた。
(この子いったい……でも確かにペルソナって、言ったよな)
 もういちど同じように質してみても応答はない。業を煮やして近づこうとすると「ホントに射るよ!」と威嚇される。仕方ないのでせめてもの抗議がわり、悠も彼女に倣って露骨にジロジロをやり返した。目が合うと明確な敵意を籠めて睨み付けてくる。どう考えても間違いなくこの少女とは初対面である。だのに、見知らぬはずの自分に対して彼女はなぜこのように刺々しい態度を取るのだろう。
(ナントカなしにペルソナを、って言ってたな。じゃあ、おれがペルソナを出すところを見てたんだ、この子……)
 いったい、少女はいろいろな意味で派手な恰好をしていた。こげ茶色のローファー、黒いソックス、このあたりはべつに普通であるが、同色のミニスカートあたりからその範疇を逸脱し始める。脇に矢筒がぶら下がっているのだ。魅惑的なアウトラインをタイトに包む、ピンクのニットカーディガンの上には黒い胸当て。その半ばを覆う赤い巨大なリボンタイ。左腕にはこれまた赤い腕章と籠手。衿の開いたシャツののど元に垣間見える、白いハート形のチョーカー。そして半身にして構えられた弓――その少女は奇妙なコスプレ感に満ちあふれていた。なまじ容色のすぐれているのが余計にその奇態ぶりを際立たせている。
 この女ロビン・フッドの服飾センスについてこのさい言及はすまい。おそらく彼女は学生、それも悠と同じ高校生くらいだろう。そして世にも珍らかなことに彼と同じく、かのペルソナの存在を認知している……
(……待てよ、こいつって)
 まさか――悠は自分のひらめきに戦慄した。
(ペルソナを知っている人間が、ペルソナを使える人間に会ったとしたら、驚くなり喜ぶなり事情を質すなりするはずだ。でもこの子は? この子はそのどれもしないばかりか、敵意も露わに忌々しげなひと言を漏らした。それきり呼びかけにも答えようとしないで、おれを弓矢で恫喝しながら用心深く様子を覗ってる……まるで敵に対してするように)
 ひょっとしてこの少女は犯人か、少なくともその仲間なのではないか?
(世間には年少の犯罪者だってごまんといるんだ、その中には人殺しだって。若さも見てくれも反証の材料にはならない! 思い出せ、ニュースでは犯人が複数人の年少者である可能性を指摘していた。この世界の事情を考慮にいれない推測には違いないけど、おれも似たようなことを考えてたはずだ。全員ではないにせよ、犯人たちの中にはこいつみたいな子供がいるんだ。だから警戒されにくい、だから素早く誘拐することができる……)
 少女がにわかに弓を下ろして、たぶんずっと痒いのを我慢していたのだろう、大急ぎであたまを掻いたあと、すぐまた大急ぎで悠に向けて矢を番え直した。見ているぶんにはなんともあどけない仕草である。こんな愛らしい少女が人殺しの一味であるなどとにわかには信じがたいが。
(もし、こいつが犯人に落とされたのでないなら、このテレビの中の世界へ自由に出入りできるなら、おれと同じようなペルソナ能力を、テレビを潜るためのパスを持っているはず)
 そしてこの少女はまず間違いなく「落とされた人間」ではない。その言動と悠に対する態度とからでも明らかであるし、彼に向けられたかの禍々しい弓矢もまたそれを証明している。彼女の手にあるのはどう見てもスポーツで使われるような代物ではない。ふつうの女学生にこんな物騒なものを所有する正当な理由などあるはずもなし、あったとしてよりによってそれを持って――かつ、矢筒と防具とを着けて――いるときを犯人が狙った、などということがありえるとは思われない。
 では無辜の被害者ではないとして、それを救援に来た忍者側の人間である可能性は? これはゼロどころかマイナスと言ってもいい。当の被害者たる悠に手を差し伸べるどころか、武器を向けて恫喝している時点でゼロである。それに件の忍者であるなら雪子に与えたようなリュックサック――と、せめてあるていど友好的な態度――のひとつも携行しているはずだ。
 つまり、この少女は正当ではない理由によってその人殺し道具を所有し、そのためにそれを用意したところのテレビの中の世界へ、自らの意志で入ってきたのである。弓矢はシャドウどもに対する自衛の一手段としてか、いま悠にしているように『落とされた人間』を恫喝――あるいは始末――するためか、その両方のために持ち出されたのだろう。そして彼女はペルソナを知っているだけではない、まず確実にその力を有している。
 獲物をどうこうしてやろうと思ってか、それとも誰かに命じられてか、彼女はこの世界に入ってきた。しかし彼女の餌食になるはずの少年はなんと、彼女のよく知る侮れぬ力を持っていた! 忌々しい、しかし油断はならぬ――こんなところだろう。してみると、犯人が悠を落としたのはただの偶然で、彼を自らの妨害者たる「自称特別捜査隊」のひとりと承知でそうしたのではない、ということになるのだろうか。
 いずれにせよ、悠はこの土壇場で犯人の正体か、少なくともそれに繋がる重要な糸口を掴んだらしい――同時に自らの玉の緒を掴まれてもいたが。
「……それ、制服だよね、なんでステッチ出てるの? なんか裏返して着てるみたい。どこの学校? 初めて見るけど」
 ようやく少女がジロジロをやめて、しかし弓矢はなおも構えたまま、呟くようにしてそう言った。探りを入れているつもりなのだろうが、よりによってこのド派手リボンつきミニスカピンク女に服装についてとやかく言われるとは思わなかった。おおかたこちらのことを心中で「ステッチ出太郎」とでもあだ名づけしているのだろう。このミニスカピンクめ――悠の愛校心は燃え上がった。
「ゲッコーカン私立高校。醸造科で醤油造ってる」
 と、悠は無愛想に答えた。八十神高校とその学生服――彼女の言及したとおり装飾ステッチの映える、少しく特徴的なデザインではある――を先方が知らないのは少しく意外だったが、そうであれば本当のことは言わないほうがいいに決まっている。
「ゲッコーカンって……それ、なに、騙してるつもり?」ミニスカピンクの面に嘲りのような色が浮かんだ。「てか、月光館学園って普通科だし、醸造科なんてないし、そんな仮縫い中みたいな制服じゃないし」
(仮縫い中……)
「ゲッコーカン高校を知ってるのか、あんた」
「月光館、学園。私立月光館学園、よおく知ってるわよ。なんたってわたしそこの生徒だし」
(ゲッコウカン学園、犯人の一味が在籍する学校……ここから出られたら調べてみなければ)
 ちょっと水を向ければたやすく自らの正体を明かし始める。どうやらこのミニスカピンク、それほど手強い相手というわけでもないらしい。人殺しに関わっているというわりには見た目どおりの、ただ容姿の整っているというばかりの、そのへんの女子高生とそう変わりはなさそうな印象だ。いや、こういう人間こそ得てして悪の道に走るのだろう。悪党がみな慎重かつ狡猾であるとは限らない。
「なあ、それってどこに――」
「動かないで!」
 悠が話しかけながら数歩も歩み寄ったとたん、ミニスカピンクはパッと飛び退ってふたたび先の警告を発した。鏃は悠の胸の辺りを捉えたままだ。前言撤回、話すほうはともかくとして、こちらのほうはちょっと場馴れている感さえある。射られずにペルソナで無力化できる距離まで近づくのは難しいようだ。が、
「動かないで、はもうわかったよ。それで、じゃあおれはいつまでこうしてればいい。それともなにか別に用でも?」
 と、悠は静かに訊いた。どうも先方に積極的に危害を加える意図はないようだ。もし射殺すつもりなら話しかける前にそうしているだろうし、悠長に着ている制服をあれこれ難じたりなどしないだろう。おそらく弓矢を向けるのはペルソナ能力の牽制を意図しているのであって、ミニスカピンクはなにか目的があって彼に話しかけたのだ。
「用がないなら行くけど」
「あんた、いつ、どうやって、ここに入ってきた?」
 と、ようやくミニスカピンクが訊いた。その面から敵意がいくぶん薄らいで、代わってなにか縋るような色が見え始める。
「……いま、なんて?」と、悠はふたたび耳を疑った。
「どうやってここに来たのかって、訊いてるの」
「どの口が言うんだおい……どうやって、ここに、入ってきただってェ? まさか知らないなんて言うんじゃないだろうなあんた!」悠は困惑した――と同時に怒った。「へえっ、知らない? 知らないならじゃあ教えてやる、あんたのお仲間のおかげでここへ来たんだおれは! このテレビの中の世界にっ!」
「お仲間って……テレビの中の世界ィ?」今度はミニスカピンクが困惑する番である。「なによそれ、てかなんでテレビが出てくんのよ。ここはタルタロスでしょ」
「タルタロスって……なんだ、それ。タルタロス?」
「ここのこと。――知ってるくせに、よりによってあんたたちがそれを訊く? 知らないはずないでしょ」
(あんたたち? 知らないはずがない? ってことはこいつ……おれが自分たちの悪事を妨害してる人間だって知ってるのか?)悠はつかのま怒りを収めて、ふたたび困惑し始めた。(じゃあこいつ、なんでおれがペルソナ能力を持ってることを知らなかったんだ? いや、さっき知ったあと見当をつけたのか? ナントカなしでとか言ってたな、そっちのほうを驚いてたのか……?)
「まあ、あんたたちはそうは呼んでなかったんだっけ。どうでもいいけど」と言って、ミニスカピンクはフンと鼻で嗤った。「お仲間のおかげってことは、じゃあ先輩たちにケンカふっかけて、負けたんだ、あんた。とりあえずご愁傷さまって言っとく」
「……先輩、たち? 先輩?」
「なによ、初めて聞いたみたいなフリして」
 先輩たち――悠は勃然としてふたたび怒りに駆られた。ということはひょっとすると主犯格でさえ、彼女とそれほど歳の離れているわけではないのかもしれないのだ! いったい彼らは人殺しを課外活動かなにかとでも思っているのか? では山野アナも早紀も、あたら若い命と将来とをまさか遊び半分に奪われたとでもいうのだろうか。
 あわれな陽介。こんなやつらの手慰みに思いびとを殺されたのだと知ったら、彼はいったいなんと言って世を呪うことだろう。恐るべし月光館学園、卑しきかな痴愚の学舎。背徳の巷、邪智の港、悪の巣窟にとぐろを巻くひとの皮をかぶったけだものども!
 ケンカをふっかけて負けた? いいや、自称特別捜査隊はまだ負けてなどいない!
「タルタロスねえ……冥府タルタロスか、なるほど」いかにも、彼女らが面白半分にひとを落としている先は冥府あの世だ。悠は精一杯の嘲りをこめて鼻で嗤い返した。「うまいこと言ってるつもりなんだろうな、おまえら」
「知らないわよ。言いだしたのわたしじゃないし」
「下っ端ってわけだ。まあ、そうだろうとは思ってたけど、それで? 冥府の使いがおれになんの用なんだ。聞くだけは聞いてやる」
「だからどうやってここに来たのかって訊いてるでしょ」
「……あのさ、よし、じゃあさ、あんたが歩いてたとするだろ。どこかの道を歩いてたとする」眦がピクピク痙攣する。「いきなり誰かに背後から刺されて、病院に担ぎ込まれて、なんとか一命を取り留めたとしよう。そこへある女がベッドの枕元へやってきて、実はおまえを刺したのは自分で、しかも四人目なんだって告白したあとさ、こう訊いたら、あんたいったいどう思う? おまえ、どうやってここに来たんだって」
「わからないならそう言いなよ。ごちゃごちゃ言ってないで」
「こっ……!」
「わかるの? わからないの? どっち?」
 悠はしばらく歯ぎしりして黙っていたが、結局「わかってたらさっさと帰ってる。誰がこんなところにいるもんか」と吐き捨てるように言った。
「……そう」
 ザマを見ろ、とでも言うかと思われたミニスカピンクは、しかしにわかに顔を曇らせると黙り込んでしまった。俯いた面に失望が見え隠れする。
「なんだよ、あんまり嬉しそうじゃないな」
「わたしも、だし……」
 驚いたことに、彼女はため息まじりにこう宣ったのである。悠はみたび困惑した。
「あんたが? どうやってここに来たか、わからない?」
「んん」
「なんで」
「……わかってたらさっさとなんとかしてるわよ。誰がこんなとこいるもんですか」
「…………」
(こいつ、ひょっとして、こいつの言う先輩たちに『始末』されたんじゃないか……?)
 ありえない話でもなかろう。偏見、迷執、讒誣、欺瞞、不寛容――かの伏魔殿に通学する快楽殺人者どもなら、このくらいの美徳はもれなく備えていようというものだ。きっとこのミニスカピンクの「先輩」たちはその持ち前の美徳を大いに発揮して、やれ言動が気に入らないとか、態度が悪いとか、服装が派手でスカートが短いとか、そういった下らない理由を論ったあげく、恥知らずにも悠に続く「五人目」に自分たちの仲間を選出するという妄挙に出たのだろう。この世界に落として放っておけば手も汚れないし、自分たちの悪行を誰に口外されることもない。まことにお手軽な口封じと言える。
「ああ、見捨てられたんだな」同情心は湧いてこなかった。因果応報、ザマを見ろ、というやつだ。「とりあえずご愁傷さまって言っとく」
「見捨てられてなんかないっ!」と、ミニスカピンクが爆発した。「ちゃんと探してくれてる、ぜったい! 時間はかかるかもしれないけど、きっと助けに来てくれる……」
(こっちこそそうだ。クマと陽介たちが必ず助けに来てくれる……あともう少ししたら、たぶん)
 ふたりはしばらく無言で睨み合っていたが、じきミニスカピンクのほうが視線を外して、気を落ち着けるようにして静かに息を吐いたあと、
「ねえ、提案があるんだけど」
 と言った。意外にもその面と声音に敵意の色は薄い。
「聞く気、ある?」
「……おれも誰かに提案をもちかけるときは、今度から弓矢を構えた上でそうするよ。そうすりゃ断るやつなんかいないだろう」
「一時、休戦しよう」ミニスカピンクは気まずげに弓矢を下ろした。「っていうか、こんな状況で争ってなんかいられないでしょ? お互い。いまはひとまず協力すべきだと思うんだけど」
「勝手な言い草だ。そっちから始めておいて困ったら休戦しよう? そもそも誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ。よくもそんなことが言えたもんだ」
「……なんか、あんたたちみたいなのを盗人たけだけしいって言うのよね。自業自得ってコトバ知ってる?」
「自業自得だって!」この女にだけは言われたくない科白である。「まず辞書ひいて記憶違いを訂正してから訊けよ、自業自得だって? 自分たちの悪事を妨害された報復に邪魔者を陥れて『自業自得だろ?』ときたか。まったく恐れ入るね。あっぱれな悪党っぷりだ」
「はあ? 悪事ィ? 悪事を妨害って――ああ、どうせまた選ばれた者だとか力がなくなるとか、メッチャクチャなこと言い出すんでしょ? あんたたちストレガってやっぱりどこかおかしい」
 ストレガ。たぶん彼らは邪魔者たる悠たち「自称特別捜査隊」にそういうルビを振って悦に浸っているのだろう。タルタロスの次はストレガ! いったい彼らはなんでも横文字にすればおしゃれだとでも思っているのだろうか。
「おかしいヤツにおかしいって言われるのは名誉なことだ。あんたとこの名誉を共有する準備もあるよ、うれしいだろ」悠は憤然とミニスカピンクへ詰め寄った。「それで、じゃあおれたちストレガはあんたたちをなんて呼べばいい? ヒトゴロシガ?」
「なに、それ。ヒトゴロシ……?」
「それともその腕章に書いてあるのがそう?」彼女の左腕の腕章には見える範囲で「S・E」とある。「なんて名乗ろうが勝手だけど、マーダラーのMはとうぜん入ってるんだろうな」
「さっきからなに言ってんの? マーダラーって」
「人殺しって意味だ。おまえらはもうふたり殺してる、お似合いだろ」
「あれは……じゃあ、やっぱり……」ミニスカピンクの顔がたちまち悲しみに翳った。「でも、だって、仕方なかったとしか言いようがない! わたしに責任なんかないって言ったら、それはきっとウソになるけど、じゃあほかにどうしようがあったって言うの? あんたはあの場にいなかったから……」
 おや、と、悠は胸中で訝った。意外な反応である。
(これは……そんなに単純な話ってわけでもないのか?)
 どうやらこのミニスカピンク、前二件の殺人を悔いているらしい。どころか、どうも彼女は直接手を下していないか、あるいは命じられて仕方なくそうしたような、そんな気配さえある。言葉も態度ももちろん、それらしく繕おうと思えばそうできないものでもないが、この吐露はともすると彼女がこの世界に落とされるに至った経緯と無関係ではないのかもしれない。
(こいつは最初から殺人に反対だったか、少なくとも乗り気ではなかったんじゃないか?)
 彼女はそういった態度を「先輩たち」に危ぶまれて、そのゆえに始末されたのでは? 悠の中の敵愾心は少しく鳴りをひそめた。だから無罪放免というわけではないが、もしそうなら情状酌量の余地くらいは残してやってもいいだろう。
「……ひとつ訊きたい。イエスかノーかで答えて」
 ややあって、悠はぽつんと切り出した。
「え?」
「イエスかノーかだ、ほかの能書きはいい」
 と前置いて、悠はどんな嘘も見逃すまいと見据えながら「あんたはふたりを直接、その手にかけたのか」と静かに訊いた。
「…………」
「正直に。返答如何で提案を呑むかどうか決める」
「……それ、意味あるの? わたしがなんて言ったって、あんたは信じたいように信じるだけでしょ」
「イエスか、ノーか」
「ノー」ミニスカピンクは即答した。「ウソはつけない。ついたってつかなくたって結果が変わらないんなら、つかない」
「ノーか」
「じっさいはノーどころじゃない、あのふたりは――!」
「能書きはいいって言った」悠はぴしゃりと遮った。「あんたの言いたいことはだいたいわかる。おれはあんたがそうと考えてるよりは、ずっと知ってる人間だ」
「……ホントにィ?」
「おれは確かに現場に居合わせてはいないけど、あんたのいまの境遇と言葉と態度から、おおよその事情は推察できる」悠はこころもち胸を張った。「わかった、提案を受け入れる。救助が来るまでは協力しよう」
「それは、よかったけど」ふとミニスカピンクが言い淀んだ。「……ところであんた、チドリって子、知ってる?」
「誰? チドリ?」
「あ、知らないんだ……いや、いい」と、彼女は早々に打ち切って続ける。「先に言っとくけど、助けが来たら、あんたはたぶん捕まる。酷いことはされないと思うけど、あんたの仲間のところへは帰れなくなる、と思う。あんたたちがあと何人いるかしらないけど」
「こっちも先に言っとく。おれの仲間が救助に来たら、あんたのほうこそ捕まる」捕まえたあとどうするかはそのとき考えよう。「ふたりを手にかけてないのが本当なら、酷いことはしない……と思う。たぶん」
「わかった、それでいい」
「よし。じゃあしばらくは、お互いの遺恨を忘れよう」
「うん。で、さ……」
 ミニスカピンクが居心地悪そうにもじもじし始めた。
「なに?」
「えっと、なんていうの? 名前」ちらと指をさしながら、「ほら、呼びようがないし。まだ聞いてなかったよね」
「名前」
「名前。こっちで勝手につけていいって言うなら好きに呼ぶけど。ステッチ出太郎とか?」
「じゃあおれもミニスカピンクって呼ぶけど」
「……あだ名はやめよう。名前、名前おしえて」
「諸岡」と、悠はとっさに偽名を名乗った。「諸岡、陽介」
「鳥海」と名乗り返すと、ミニスカピンクはぎこちなく手を差し出した。「ええっと……うん、鳥海です」
「鳥海、じゃあ、短い間だとは思うけど」
 悠はその手を軽く握って、申し訳ていど上下に振った。
「一時休戦、ってことで。よろしく諸岡」
 握手が終わると鳥海はすぐさま手を引っ込めた。






 ふと思い立って、悠は先に拾ったバッジをポケットから取り出した。
(ゲッコウカン学園、ってことは)
「鳥海」
 と呼びかけると、少し前を歩いていた少女が怪訝そうな顔で振り返る。
「これって、ひょっとして鳥海の?」
「……え? あっ、あれ」
 件のバッジを示すと案の定、彼女は立ち止まって慌てた様子で自らの身体を検め始めた。やはり落とし主は鳥海らしい。
「わたしのだそれ。いつ外れたんだろ……あ、さっき拾ってたのって、これ?」
「そう」鳥海にバッジを手渡しながら続けて、「その内側のって、スクールモットー?」
 と、搦め手から探りを入れてみる。目下いっときの協力関係にある鳥海だが、いつ隙を見てどこかへ行ってしまわないとも限らない。いまのうちに引き出せるだけ情報を引き出しておきたいところだ。
「え? なに、スクールモットーって」
「スクールモットーっていうのは、なんていうか……標語みたいなもの? 学校固有の。大学とかはけっこう設定してたりするもんだけど」
「……かな。じゃない? 読めないけど」
「ゲッコウカン学園って、ミッションスクール?」
「ミッションスクールって、なに?」
「キリスト教系の学校。ラテン語だったから」
「ラテン語……?」
「キリスト教圏、というか、主にカトリックの伝統的公用語。ちょっとコヘレトの引用っぽかったし、ゲッコウカン学園って――」
「ちょっ、ストップ待った」鳥海が手のひらを突き出して胸を張った。「つぎヨコモジが出てきたらスネを蹴ります」
「…………」
「……その、なんだろ、キリスト教とかそういう、アヤシイのとは関係ないと思うよ。フツーの……フツーじゃないけど、なんか……フツーの学校だよ」
 やけに歯切れの悪い物言いである。
「あ、小中高一貫だから、かなり大きいかな。ていうか」鳥海は思い出したように目を瞠った。「諸岡ってほんとに月光館学園しらないの?」
「知らない。それってどこにある?」
 いい流れである。話を振ってみたのもこれが知りたかったからなのだが、どうやら向こうから進んで話してくれそうだ。アジトの所在地さえ押さえてしまえば、あるいは元の世界での動きようもあるというもの。
「どこにあるって……いや、ポートアイランドに建ってるでしょ、デーンって」
 なぜか鳥海は不審げである。
「ポートアイランド、って?」
「辰巳ポートアイランド、も、知らないわけ?」彼女の眉根の皺が深くなる。「なんか勘違いしてない? 港区に住んでるなら知らないワケないと思うんだけど」
「タツミ……港区……港区ゥ?」
「港区巌戸台」
「ええと、その港区巌戸台って、つまりその、なに県?」
「……それ、本気で言ってる?」鳥海は不審もいよいよ極まったといった面持ちである。「この国の首都だよ、東京都」
「とっ、東京都ォッ?」悠は驚愕のあまり喚いた。「ちょっと待て、いま東京って言ったか!」
「言ったけど。なんかそんなに驚かれることじたい驚きなんだけど……」
 思ってもみなかった場所だ。テレビの中の世界が八十稲羽にだけ繋がっているという保証はない、と考えるだけは考えていたものの、まさかそんなところから入ってきているとは……
「えーと、ちなみにこの国が日本って知ったら驚く?」
(それじゃあ、こいつら、どうやって稲羽市に住む犠牲者をこっちに落としたんだ?)
 悠は壁を向いて俯いて、両手を腰にやって「考え中」のポーズを取った。
「ちょっと。諸岡ってば」
 奇妙である。もし稲羽市へ獲物を探しに来ているというのなら、犯人たちはそのたびテレビの中の世界――彼らの言うところのタルタロス――を潜っているということになる。
 一般の交通機関でそうしている、というのは非常に考えにくいだろう。鳥海の「先輩たち」ということであれば、犯人はほぼ高校生と見て間違いない。その手元不如意かつ学業も無視できない身分の彼らが、稲羽ほどの遠くへ毎度まいど時間と金とを費やしてやってくるというのはいかにもおかしいし、そもそも稲羽でなければならない説明もつかない。無作為に選んだのがたまたま稲羽であったのだとしても、そこを「狩場」にし続ける理由にはなるまい。一カ所に狙いを絞っていれば足のつく危険は高くなっていくのだから、二人目以降は別のところで探しそうなものだ。
「ねえってば。ていうかあんたたちストレガってそもそもどこに住んでるの?」
 かといって、あらかじめ稲羽市在住の、山野アナから悠までの犠牲者四人をターゲットにしていた、というのもありそうにない話だ。よりによってそんなに遠くに住む、これといって共通点もない四人に面識があり、かつこの四者に前述の代償を支払ってでも全うしたいほどの殺意を抱く、東京都港区巌戸台在住の高校生――こんな人間が存在するとはとても思われない。女性陣の事情はさておき、なにより悠自身に思い当たるフシなどまったくないのだから。
「諸岡? 諸岡ー? もしもーし……」
 彼らはほぼ間違いなく犠牲者を無差別に選んでいる。女性の比率の大きいのが気になると言えば気になるが、犯人にそうさせるような嗜好があるにせよ、べつに地元の巌戸台で探しようのないこともあるまい。電車に乗って遠出するにしたって二十三区のどこでもよいはずである。テレビの中に入って迷い、たまたま見つけた出口が稲羽へ通じていた、とでも考えるほうががまだしも無理はない。
「こら諸岡ムシするな。返事しなさい」
「うるさい」
 もちろん、無理はないというのはあくまで比較的というに過ぎない。テレビの中ルートもじゅうぶんすぎるほどに無理の目白押しだ。いちど入ったら最後、どこに出るかもわからない、出てくることさえ叶わないこの世界に一か八かでエイヤと飛び込んで、そうそう都合よく稲羽へ通じる出口など見つけられようものなのだろうか。仮に見つけることができたとしても、それだけで稲羽を「狩場」とする理由にはなるまい。あえて「べつに誰であってもいい人」を探すためだけに、この世界を往復するたびシャドウどもに襲われるという巨大なリスクを乗り越えて、彼らは稲羽くんだりまではるばるやって来るというのか? そして誰の目にも明らかな「よそ者」が、見知らぬ土地で見知らぬひとを、どこにあるかもわからない、それも人払い済みのテレビまでおびき寄せて、言葉巧みに隙を誘って千載一遇好機到来、さあ覚悟せよと背後へ忍び寄る……?
 ありえない。
「ちょっ、諸岡ってば!」
 そもそも犯人たちがテレビの中へ入っているのなら、クマがそれを感知しないはずはないのだ。が、彼はそれらしいことを言うでもなし、会ったばかりのときも団体は悠たちが初めてだなどと――
「諸岡バカこっち向けこのっ!」鳥海がいきなり掴み掛かってきて、悠の肩をガクガクと揺すぶった。「考えごとしてるばあいじゃないっての前みなさい!」
「ちょ、なにする!」
「前! シャドウ!」
 ぎょっと鳥海が指すほうを見ると、なんと先に追い払ったタイプと同様のシャドウが奥の曲がり角から一体、例のお面みたいな顔をそろりと覗かせている。あるいは先に逃げ去った個体であろうか、悠が見つけてくれるのを待っていたかのような機で、それは角からゆるゆると這い出て来た。一体――ではない、全部で三体。
「くそっ、鳥海さがれ!」と言って悠が前に出ると、
「そっちこそ下がって!」鳥海も負けじと隣に並ぶ。
「この距離ならやれる、小物三体くらいならペルソナはいらない」
 腰の矢筒から一矢を抜き取りながら、彼女は口の端を上げて自信を覗かせた。
「ペルソナ喚ぶのは消耗する、はずでしょ? あんたのも」
「にしたって、そんな原始的な武器で三体も――」
「まあ見てなさい」
 と言って、鳥海が左腕の腕章に手をやった。プチッと小さな音がして、次いで携帯電話のバイブレーションのような、ブーンという微かな震動音が鳴り始める。
「なにを……」
「わたしの近くから離れないで、ぜったい」
「シャドウが来たらその限りじゃないぞ!」
「あいつらは近づけない」
「はあ? なんで」
 それきり悠には取り合わず、彼女は手に持っていた禍々しい弓に矢を番えて、シャドウに向けて引き絞った。
(原始的、ではないか、少なくとも見た目は。なんかランボーが持ってそうな……)
 その弓は半ば以上が金属製の、ちょっと蜘蛛の脚のようにも見える幾何学的な形のもので、弓弭に当たる部分に滑車がひとつずつ設けられていた。そこに張られた弦は一本ではない。弓の真ん中あたりからなにか見慣れない棒のようなものが伸びているのは、狙いを付けるためのものなのだろうか。
「当たって……!」
 第一矢はよく狙ったうえで放たれた。バンと弦の空気を打つ音がした直後、先頭にいた一匹が狂ったようにのたうち始める。曲がった矢柄がくねるシャドウの身体から突き出ているのが見える。当たった――と悠の思う暇に、ふたたび響く弦打の音。
(こいつ、ちゃんと狙ってるのか?)
 仲間の射撃された瞬間から、シャドウたちの動きは一転して機敏になった。が、勢いづいて跳ね始めた二匹目も射手の腕前か幸運によるものか、見事な偏差射撃を食って床に転がる。あと一匹。
(外した!)
 三射目がむなしく空を切って突き当たりの壁を穿つ。鳥海の舌打ちと、矢筒から次の矢を抜くスパッという音が同時に聞こえる。言わぬことではない! 悠はただちにポケットからタロットを取り出した。巨人が現れるや否や悠の頭上を飛び越えて、ふたりとシャドウとのあいだに立ちはだかる。彼我の距離からいって四発目は間に合わない――
「あれ……」
 と、思われたのだが、シャドウはなぜかペルソナの攻撃圏内へ入るだいぶ前に急停止してしまった。巨人を恐れているのなら後ろへ退こうものだが、シャドウはなにか見えない壁があるみたいにして、悠たちから一定の距離を保ってただ右往左往するのである。
「言ったでしょ? こいつらは近づけないって」
 鳥海が四発目を射る前に、悠のペルソナの矛がシャドウをまっぷたつに切り裂いた。
「ショウカンキなしですぐ喚べるのって、ほんとズルいなあ」と、鳥海は妙に感心したように言った。射損ねた矢を仕舞いながら、「諸岡、矢、回収するの手伝って」
 悠を手招いてシャドウの死体のほうへ歩いていく。最後まで苦しみのたうっていた一匹目がようやく静かになる。ふたりがそこへ行くころには跡形もなく消えて、ただ刺さっていた矢だけが床に残った。
「鳥海、さっきの」
「え? あーやっちゃったあ」拾い上げた矢の先端を見て、鳥海はため息をついた。「ポイント潰れた……」
「どうしてシャドウが近づいてこないって、わかった」悠の拾ったほうも鏃が曲がってしまっている。「なんか阻まれたみたいになってたけど」
「これのおかげ。いま忌避剤を散布してます」鳥海が左腕の腕章をつついてそう言った。「あ、スイッチ切っとかなきゃ」
「忌避剤?」
「忌避剤」
「って……え、虫とか獣とか遠ざける、あれ?」
「そ。ムシとかケモノとか遠ざけるアレ」
「じゃあ、なに、タンスに入れる樟脳とか、そういうのでシャドウを追い払えるって?」
「これは銀だけどね、銀イオン。たいていのシャドウは銀がキライなんだ。まあ、あんたたちは知らないのか」
 シャドウがそんな黴菌みたいな性質を持つというのも驚きだが、それを一高校生に過ぎぬ彼女が知っているというのはなお驚きである。
「……なら、この矢も銀?」
「これはパラジウム」潰れた鏃を示しながら、「銀は武器としてはあんまり使えないんだって。鉄とかよりはマシらしいけど」
「パラジウムゥ?」
「たあっかいんだから、その矢。だから返してね」
(忌避剤、銀イオン、パラジウム……)
 まさか適当に試したら効いたなどという話ではあるまい。とても高校生数人が精出して収集できるような類の情報とは思われないし、これらを購入するにしたってその辺りのホームセンターで売っているようなものではないだろう。特注したか手作りか、とはいえパラジウムなどいったい何屋で買えるというのか。確か銀歯の材料になるというのは聞いたことがあるが……
(じゃあやっぱり、主犯格は大人なのか? それもなんだか三人や四人なんて規模のものじゃなさそうな……)
 しかし少なくともこれで、仮に彼らが頻繁にテレビの中の世界に入っていたとして、じゅうぶんに危険を回避しうる手段を持っている、ということだけはわかった。悠たち自称特別捜査隊がそうと感じるほどには、彼らはこの世界に脅威を抱いてはいない。それほどのリスクではないのだ。知識においても準備においても、彼らには一日の長があるということを認めざるを得まい。
「ストレガってやっぱそういうのぜんぜん知らないんだね」鳥海は外した三本目を拾いに曲がり角へ向かった。「まあ、お手軽ペルソナがあるからべつにいいのか、そんなのなくても」
「鳥海、さっき言ってたショウカンキってなに?」これは金でできているのだろうか。「最初あったときも、さっきも、ショウカンキなしでペルソナがどうとか言ってたけど」
 どうも鳥海の口振りから察するに、それはなにかペルソナを喚ぶ助けになる道具と思しい。本当に金でできているなら手の出しようもないが、
(もしおれに用意できて応用の利くものなら、ペルソナももっと別の使い方ができるようになるかもしれない。こいつ、この世界についておれたちの知らない情報をずいぶん持ってる……)
 可能なかぎり聞き出すべきであろう。犯人たちの力を盗んで、それによって犯人たちを追い詰めるのである。思うに彼らはこのやたらと口の軽い年少の仲間を、もっと早く始末すべきであったのだ。それが遅れたおかげで自分たちの対抗勢力へ鍵の開いた金庫をプレゼントすることになったのだから。
 いや、説得しだいではこの金庫ごと自称特別捜査隊へ持っていくことも不可能ではないかもしれない。おそらくはもともと犯行に気乗りしてはいなかったのだろう鳥海のこと、自分が見捨てられたのだと理解すれば、いまだ保っているらしい「先輩たち」への信頼もようやく瓦解しようというものだ。
「今度はこっちが訊く番でしょ?」壁に突き刺さった矢に手をかけて、鳥海が悠を振り返った。「あんたたちってどうしてショウカンキなしでペルソナ出せるの?」
「鳥海は出せないのか」悠は彼女を追いかけながら、「こっちにとってはそのほうが不思議だけど」
「出せることは出せる、っていうか、出てくるらしいんだけどね、話では。でもホントに気が昂ったときとか、命の危険が迫ったときとか、そういうときにパッと出てくるくらいなんだって」
「鳥海はそういう……ペルソナとかシャドウとかの話をどこで聞いたんだ?」
「それズルい。先に訊いたのわたしでしょ――あーっ、ポイント壁の中はいっちゃったよもー」
「どうしてって言われてもなァ、体質だよ体質。なんとなく……鳥海?」
 鳥海がふと固まったのを訝って、悠は声をかけながら歩み寄った。彼女はなにか気付いたふうにして曲がり角の向こうをじっと見詰めていたのだが、じき血相を変えて、
「諸岡走って! やばい!」
 こう怒鳴ると、引き抜こうとしていた矢を諦めていきなりこちらへ駆け戻ってきた。悠の腕を引っ掴んでそのまま連れて行こうとする。が、
「鳥海止まれ! まずい!」
 今度は悠が彼女の腕を掴む番である。背後側の曲がり角からそのときちょうど、ペルソナほども丈のある筋骨隆々の、顔のないプロレスラーみたいなシャドウが出てきたのだった。それも一体や二体の話ではない、十体、二十体……この場でプロレス団体を創設して興業を打てそうなほどの数である。血の気の引く光景。
「挟まれた……」
 と、鳥海が呟く。まさか、と彼女の逃げてきたほうを見ると、案の定シャドウの大群が角からその姿を見せたところだった。こちらは小型ばかりであるものの、先の汚泥みたいなのに加えておなじみのサイコロと、以前に見た首なしカラスまでいる。
 悠と鳥海はどこへ逃げ込む当てもなく、最寄りの壁に張りついた。
「鳥海、忌避剤」
「もう撒いてる、けど」
「……けど?」
「ああいう中型は」と、レスラーたちを見て、「とくに人間型には、しばらくは有効でも対処されることが多いの。なんか妙にあたまいいから」
「あれで中型? 対処って?」
「扇いだり、吹いたり? とにかく、そう長い時間このままでいられるとは思えない」
「じゃあ、どっちみちやらなきゃならないわけだ」
 忌避剤が効いているうちならまだしも、それをどうにかされてしまえば鳴上流ではとても防ぎ切れまい。花村流を採るしかないが……
「鳥海、あんたのペルソナがどこまでやれるかわからないけど」悠はふたたびタロットを取り出した。「せめて少しの間、あの小物の大群を抑えておくことはできない?」
 プロレス団体のほうは身体こそ大きいものの、ポスギル城で遭遇した騎士型のように装甲されているわけではない。武器のたぐいを持つでもない。花村流ペルソナなら複数相手でも善戦できる可能性は高い。そのあいだ生身の身体を小物どものおやつにされなければ、だが。
「できるだけ具体的に教えて。鳥海のペルソナはどんなことができる」
「どんなことって、まあ、このくらいの数ならたぶんひとりでも……」
 鳥海はしれっとこう宣った。
「……え?」
「たぶん、ひとりでだいじょうぶ。諸岡がバックアップしてくれるなら」
「ひとりでって、あの小物全部を?」
「むこうのマッチョも含めてぜんぶ」呆気にとられる悠に、鳥海はちらと笑って見せた。「あ、驚いてる? 諸岡のペルソナって便利だけど、ちょっとヘナチョコだもんね」
「ヘナチョコ……」
「小物相手に転がされてるんだもん。ストレガのペルソナもピンキリってことか」
 鳥海が腰に着けていた矢筒を少しずらした。そこから現れたのは白い大腿だけではない。脚になにか帯状のものを巻いている、ということには最前から気付いていたものの、矢筒の陰に隠れていたのはなんと拳銃である。白いレッグホルスターに収まった自動拳銃が、スカートの下で黒っぽい銃把を覗かせていた。
「拳銃……あんたたち、そんなものまで……」
「これがあんたの訊きたがってたショウカンキなんだけどね」
 彼女は拳銃ではなく、その横のポケットにいくつか挿してある、銀色の瓶のようなものをふたつ取り出した。うち一方の蓋を開けて中身をいくつか掌に落とす。
(薬?)
 なにかのカプセルと思しい。それを口に含もうとしてふとやめて、鳥海はちょっと改まった様子で悠を見つめた。
「諸岡くん。お願いがあります」
「え? あ、はい。なんなりと」
「今からペルソナを喚ぶんだけど、代わりにわたしは二十分くらい、完っ全に意識を失います。なにされても起きません。忌避剤があるからそう簡単にシャドウが近づいてくることはないと思うけど、もし来るようならペルソナで援護してください」
「はい、まあ、善処する、けど」
「あとわたしの傍から離れないこと。それと……なんかヘンなことしようとか思わないこと。ペルソナで見てるからね」
「……善処するけど」
「それと最後に」
 と言って、鳥海は右手で弄んでいたカプセルを口に含んで、もうひとつの瓶の中身でそれを飲み下した。すぐさま腿のホルスターから件の拳銃が引き抜かれる。
「今の、まさか自決用の青酸カリとか言わないよな……」
 こいつはこの拳銃でなにを始めるつもりだろう――悠はちょっと不安になってきた。
「ちがう。塩酸メチルフェニデートっていう薬」
「毒じゃないならいいけど……なんだ、それ。青酸カリの親戚?」
「元に戻るために必要なの。詳しくは訊かないで、わたしもよくわかんないから」
 プロレスラーたちがお互いを見合ってなにごとか思案げに唸り始めた。それに反応して、反対側に集結した小物のほうもにわかに騒がしくなる。
「なにかしようとしてる……先制しなきゃ」鳥海はいちど深呼吸して、「諸岡、わたしの後ろに立って」
 と低い声で言うと、持っている拳銃の遊底を慣れた手つきで引いた。前に向けて撃つのか、それとも天井に向けるのか、このショウカンキなる拳銃が補助具であるなら、あるいは銃口からペルソナが飛び出したりするのだろうか。それとも撃ったところから生えて来る?
(たぶん銃から出てくるんだろう。どういう原理かわからないけど、いまの青酸カリもどきとなにか関係あるのかな。銃なら弾が要るわけで、そうすると回数制限とかありそうな……)
 こんなふうに悠が独り合点を決め込んでいると、鳥海はなにを血迷ったか拳銃を前後逆に握って、その銃口を自らの額に押し当てた。
「待て待てちょっと待った!」さすがにこの使い方には思い及ばなかった。「落ち着け! それでなにするつもりだちゃんと説明――!」
「いいから後ろにっ! 早くしてシャドウが来る!」
 鳥海が怒鳴る。確かに彼女の言うとおりらしい。先ほど「扇いだり、吹いたり」と言っていたのは冗談ではなかったようで、レスラーたちが示し合わせたようにして一斉に、その大きな両の手で悠たちを扇ぎ始めたのである。
 髪の毛が軽くなびくほどの風が起こる。風下へ流れてきた忌避剤を嫌ってか、小物の集団が悠たちから少しずつ離れていく。そのぶんだけレスラーたちは躙り寄ってくる。スタジアムのウェーブよろしく、バンザイとスクワットを繰り返しながら、筋肉の壁がゆっくりと近づいてくる……
「言ったでしょ? こうなるの。あくまで一時しのぎなの、これは!」鳥海が左腕の腕章を示す。「もう忌避剤はアテにならない、早くしてってば!」
 彼らに捕まったらたぶん、胴上げやビールかけ程度では済まされまい。悠はしぶしぶ言われたとおりにした。
「なあ、せめてどういう使い方をするかぐらい――」
「見てればわかる」鳥海はにべもない。
「いやだってそれ絶対そういう使いかたするもんじゃないだろ!」
「諸岡聞いて! 今から、気を失うから、支えて」緊張しているのか、鳥海の声は硬い。「いい? 後ろから、わたしの身体を、捕まえるの。床にあたまぶつけないように。撃ったら倒れるから」
「いま撃ったらって言ったか! やっぱりそれ――!」
「うるさい! いい? いくよっ?」
「よくない! ちょ――」
 バシッと音がした瞬間、鳥海の身体は完全に脱力して、重力に引かれるまま膝から崩れ落ちた。
(これが鳥海たちのペルソナの喚びかたなのか? なんて乱暴な……)
 手から落ちた拳銃がカツンと床を打つ。支えるどころか一歩踏み出すのがせいぜいで、悠がとっさのうちにできたのは彼女の背中に膝蹴りを食らわすことくらいである。それでも床にあたまを打ち付ける前に、なんとか二の腕を捕らえることはできた。
 鳥海はまずもって生きてはいる。額に風穴が空いているわけでもない、火傷のたぐいも見られない。悠の腕の中で身じろぎひとつせず安らかに寝息を立てている。いまほどかなり強めに蹴られたのに、痛みを感じているふうは微塵もない。おそらく花村流と似たような昏睡状態に陥っているのだろう。
「おい鳥海、ちゃんと起きてくれるんだろうな。このまま死にでもしたら――」
 悠は言葉後を呑み込んで、彼女の上体を抱き寄せたままふと顔を上げた。いつのまにか辺りが静かになっている。めいめい騒がしくしていたシャドウたちがピタリと動きを止めて、そののち悠たちを恐れるようにしていっせいに後退った。
 頭上で太く重々しい、鎖の擦れ合うような音が聞こえた。見上げると黒い、裂けてボロボロになった長衣の裾が悠たちを覆うように広がっている。それはゆっくりとふたりの前に降り立つと、その両の手に持った古風な回転式拳銃をシャドウたちに向けて、ユラユラと酩酊したひとのように身体を揺らし始めた。
(これが鳥海のペルソナ……?)
 悠は一瞥して驚くというより、とっさに恐怖を感じた。サイズこそ悠のペルソナより少し大きい程度だが、その見てくれは今までに見たどんなペルソナからもかけ離れた不気味このうえないものだ。裾の破れたよれよれの、ちょっとキリスト教の祭服のような長衣を着け、その上から両肩にかけて長大な、船舶用のアンカーチェーンさながらの太い鎖を襷にしている。
 悠たちのペルソナが一様にそうであるように、鳥海のペルソナもまた顔を隠していた。が、それは仮面やヘルメットの類によってではない。その頭部を覆うのは赤黒い血染みのようなもののべっとりとこびり付いた、汚らしい袋だ。土嚢に使われるジュート織りのものに似た、荒目の袋。絞首刑や銃殺刑に際して受刑者にかぶせられるような……
 鳥海のペルソナがおもむろにこちらを振り返った。首だけを百八十度まわして、である。全身の皮膚が粟立つ。袋に一カ所、鉤裂きのような裂け目が空いていて、そこから赤茶に混濁した虚ろな目が悠を見下ろしている。
(なんなんだこの……薄気味悪いヤツは。本当にペルソナなのか、これ)
 血も凍るような、というのはこういう視線を喩えて言うのだろう。悠は鳥海を床に横たえて立ち上がると、彼女のペルソナから少し離れて自身のペルソナを喚んだ。鳥海と意志の疎通を図るため、というのもあるが、この死神じみた巨人の近くに無防備で立っているのはどうにも恐ろしかった。
『鳥海?』
 返事はない。が、呼びかけに反応するようにして、鳥海のペルソナは前へ向き直った。シャドウたちのほうへ向けられたままになっていた拳銃の、その銃口が突如火を吹く。――轟音とともに射線に立っていたレスラーの十余匹が消し飛ぶ。
 耳鳴りがする。まるで戦車砲である。悠はただ耳を塞いで呆気にとられるしかない。続けて二発、三発と銃声が隧道を揺るがす。レスラーたちはたちまちその半数を亡い者にされてしまった。が、彼らも黙って射的の的にはなっていない。
 風で忌避剤があらかた流れてしまったか、彼らは復讐に燃えて、かどうかはわからないが、なにを憚ることなく残る戦力で総攻撃をしかけてきた。悠のペルソナが鳥海のペルソナの横に並んだ。
(小物はまだ動かない、もうしばらくは放っておける。いまはこいつらから生身の身体を守らなければ!)
『鳥海、防ぐぞ。こいつらを通すな!』
 曲者ばら来たらば来たれ、とばかり、悠のペルソナが張り切って矛を脇に引きつけるその横で、鳥海のペルソナが身体を小刻みに揺り始めた。襷に掛けていた鎖がゴロゴロと鳴って解けて、まるで意志を持っているかのように床にわだかまる。ああこれは武器の類であったのか、と悠の得心する間に、それは蛇のように這い、鎌首をもたげて、主人の許へ殺到するレスラーたちに向けて突然、弾かれたように飛びかかった。
 悠はペルソナに矛を構えさせたきり、目の前の地獄絵図を呆然と眺めているほかなかった。彼がひとりわがペルソナとその矛とを駆使して戦ったなら、なにほど苦戦したかもしれない相手である。数である。隣に陽介たちがいてさえさほどの余裕を生みはしなかっただろう。それらが、かの死神ペルソナの手にかかっては単なる血肉の詰まった脆い皮袋に過ぎないとは! 鎖はレスラーたちを滅茶苦茶に打ち据え、叩き潰し、たちまちなんだかよくわからない肉餅と血だまりとに変貌させるだけでは留まらず、この広々とした隧道に壁を床を天井をあまねく打ち鳴らしてひしめいた。
『鳥海やめろ! もういいやりすぎだ、でかいのはみんな死んでる!』
 音がふっと止んだ。鎖が力を失ったようにして床にゴトゴトと落ち、ゴロリゴロリと耳障りな擦過音をたてて主人の肩へ戻っていく。なるほど、鳥海があれほど気楽に請け合うわけだ。はっきり言って彼女のペルソナは悠や陽介のそれとは比べるべくもないほど強力である。
 いったい犯人たちのペルソナはみなこれほどの力を持つのだろうか? 生来の資質に依存するのなら諦めるしかないが、もしショウカンキの使用がこの絶大な力をもたらすのなら、
(ぜひ手に入れたいところだ、ことによっては鳥海から取り上げてでも)悠は床に転がった拳銃をちらと見た。(これはとんでもない力だ、切り札になる。鳥海が起きたら試しに借りてみなきゃ……)
 さて次は小物のほうだが――あわれな彼らは鳥海のペルソナが自分たちへ向き直っただけで、先を争って逃げ出してしまった。あんなものを見せつけられれば当然の帰結ではあるが、このうえ立ち向かおうなどと考えるものは一匹もいない様子である。
『まさに鎧袖一触だな、鳥海。おれの出番なんか――』
「シ、バ、ブー」
 悠はぎょっとして鳥海のペルソナを見上げた。確かにいま、悠の耳に聞こえる声で、鳥海のペルソナがはっきりとなにごとか喋った。それと同時に小物シャドウたちがピタリと動きを止めた。宙に浮いているものは床に落ち、床を這うものはクタッとその場に伸びてしまった。
「ム、ド」
 もはや驚きの声も上げられない。この次の言葉を合図に、地べたに転がったシャドウたちがいっせいに腐り始めたのである。
(なんだ……これ、鳥海がやってるのか?)
 それはまったく「腐っていく」としか言いようのない光景であった。小刻みに震えるシャドウたちの、そのめいめいの肌がにわかに変色して、グズグズに崩れて得体の知れない液汁を流し始める。全身を水腫に覆われる。身体から無数の剥片を落とし始める。もしシャドウに命があるとすれば、だが、彼らは生きながら腐っていった。
 どの個体の上げたものか、小さな、悲痛な鳴き声が聞こえる。それもじき絶えて、半ば液状化した死体もかき消え、隧道内には薄ら寒い静寂が訪れた。あまりにあっけない、しかも不気味な決着。
 悠は初めて、少しだけ、シャドウに同情した。
『鳥海、いくらなんでも今のはやり過ぎじゃないか』と、責めるのも筋違いではあるのだが、彼はせめてひとこと言わずにはいられなかった。『いや、逃がすのが危険だってのはわかるけど……』
 鳥海のペルソナは無言である。が、ふと用ありげに悠のペルソナに向き合うと、
『それにしても、まあ、こっちはもう驚きっぱなしだよ。ずいぶんいろんなことが――』
 これといって気負った動作もなく、ごく自然に銃を持ち上げて、いきなり発砲した。右肺に鈍痛が点る。仰向けに倒れ込んだ巨人の腹、脚へ一発ずつ、容赦のない追い打ちが加えられる。
『おい、待て! なにをする!』
 件の鎖が解け始めた。まずい、あれを食らったら――悠は挽肉にされる直前でペルソナを消した。一瞬前まで巨人の横たわっていた床を極太の鎖が打ち砕いた。
(こいつ、裏切りやがった!)
 鳥海が裏切った――おお鳴上悠、驚いたふりなどするな! 今にして思えばじゅうぶん考えられることだったのだ! 悠の前ではどのように取り繕っていても畢竟、彼女はやはり殺人犯の仲間であった。騙し欺くなどお手の物、すべては素早くペルソナを喚べる悠に隙を作らせるための芝居だったのだろう。
 絶体絶命の危地である。
(どうすればいい。もういちどペルソナを喚んで、鳥海を、殺すか。それとも)悠はふたたび床に転がった拳銃を一瞥した。(一か八か試してみるか。鳥海から薬を奪ってる時間はない、それなしでどうなるかわからないけど……)
 いかに自らを陥れた憎い敵とはいえ、ペルソナの矛で彼女を斬り殺す、というのは悠にはどうしても躊躇われた。その覚悟を用意する時間とてない。彼は鳥海の言う「ショウカンキ」に全てを託して、すぐ近くに落ちている拳銃に飛びかかった。が、
「シ、バ、ブー」
 ふたたび鳥海のペルソナの不気味な声。彼は引っ掴んだばかりの拳銃を取り落として、重力と慣性とに従って横倒しになった。側頭を床に打ち付ける。その拍子に胸ポケットからなにかが抜け落ちる。
 悠の目の前に転がってきたのは眼鏡である。クマの作ってくれた、この世界で視界を得るために不可欠なはずのもの……
(なんだ、やばい、まずい、なにをされた!)
 しかし眼鏡などにかかずらっている場合ではなかった。身体がほとんど動かない。全身から感覚という感覚が消え失せて、身体の下に敷いて一晩を明かしてしまった腕のように、ただぬるい痺れだけを感じる。かつてない恐怖が足許から上ってきて、麻痺した全身にジワジワと広がっていく。つぎは例の鎖でグシャグシャにされるか、それとも生きたまま腐るか、いずれにせよ待っているのは死である。
 悠は震えた。震えながら必死に動かない首を動かして、鳥海のペルソナを見上げようとした。
 目が合った。
「やめろ、たのむ」
 と、微かな声で命を乞うのに、鳥海のペルソナはちらと首を傾げるような仕草を見せたあと、持っていた回転式拳銃をゆっくりと頭上に振り上げて、
「だめ」
 身の毛もよだつ、笑い含みのひと言とともに、それを悠の顔に打ち下ろした。





 三章を期待していた方には申し訳もありません。年明け頑張ります……



[35651] 三章 QUID EST VIRILITAS?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b702ab77
Date: 2015/03/01 16:16



 へんな夢を見た。
(なんて夢だ。なんで里中が……)
 それは千枝に追いかけられる夢だった。夢の中で悠は薄暗いトンネルのようなところをひた走っていた。背後でゴロリゴロリと鎖を引き摺るような音がする。駆けながら肩越しに振り向いてみると、なんと千枝がすぐ後ろを走っている。こちらに向かってタルタルステーキを食わせろとか醤油を切らしてるとか叫びながら、ぴったりくっついて追いかけてくる。その手には拳銃が握られている。そうして追いかけられる悠は悠で彼女のことはそこそこに、少し前にスイッチを入れたはずの洗濯機に洗剤を入れ忘れたかもしれぬ、黴菌が繁殖するかもしれぬと焦燥に駆られているのである。
 自分はいったい、洗濯機を目指して走っていたのだろうか。
(醤油か……里中って和風好きなのかな)
 夢の中ではただただ焦っていたような気がする。が、こうして布団の中で思い返してみると、湧いてくるのは千枝へのなんとはない親愛の情だけだった。バカらしい妄想であるが、ひょっとすると千枝はいま和風タルタルステーキが食べたいのかもしれない。そうして自分はその願望を受信したのかもしれない。洗濯機については……きのう洗濯機のスイッチを入れたのは菜々子だからして、彼女が洗剤を入れ忘れでもしたのだろうか。
「なにバカなこと考えてんだおれは、朝っぱらから……」
 悠は布団から出て携帯電話のアラーム予約を切った。鳴るよりだいぶ前に起きてしまったが、妙に目が冴えている。先の奇態な夢のおかげか寝覚めもことによい。千枝にタルタルステーキを饗するのは無理でも、せめて早めに下に降りて菜々子にポテトパンケーキでも焼いてやろう。
「里中、だったよな、確か」
 悠は学生服に着替えながら、あれは雪子だったかもしれぬとぼんやり考えていた。





 鮫川河川敷に出てほどなく、悠は前を行くまばらな学生服たちの中に雪子の背中を見つけた。
 赤いカーディガンを縦に割って隠す腰丈の緑髪、スラリと長い脚線、ほっそりとしてかつ女性的なメリハリのあるまろやかな輪郭。家業の影響であろうか、その背筋は通学路をそぞろ歩くときでさえ、旗竿を入れたように格好よく伸びていた。まったく彼女は後ろ姿だけでも十分に衆目を奪う。
(みんなアレが気になってるんだろうな……)
 彼女の麗姿を盗み見るのはひとり悠だけではない。周りにいる四、五人の男子生徒――いずれも三年生と思しい――も同志である。彼らの視線を辿ることはできなかったが、そのいくらかは間違いなく雪子の左手へと注がれているはず。彼女の繊手を覆う肉色のゴム手袋へと。
 天城にはどれほどショックだったろう――雪子に声をかけることはせずに、一定の距離を保ってその背を眺めながら、悠は物思いに耽った。
 ふつうの女子にさえ十分すぎるほど酷な怪我なのに、家業の都合上、雪子はそれを客に見せ続けなければならない。和服にゴム手袋というミスマッチが人目を引かないわけもなし、手袋が取れたら取れたで、今度はその下の瘢痕が好奇の視線を引き続けよう。あるいは原因を質す人間も出てくるだろう、雪子はそのたびに適当な話をでっちあげて、そのたびに自らの醜い右手を見つめて、そのたびにむごい現実を確認し続けるのだ。
 いまだに彼女に対して「薄倖美人」的な印象を抱き、かつそれを日毎に強めつつある悠ではあったが、その来し方の片鱗を知り友誼を交わすに至ったいまとなっては、この手の予感だの期待だのというものは的中してもちっともうれしくなかった。他人事ながら募るのは無念ばかりである。
 知り合ったばかりの友人に過ぎぬ悠にしてからがこれほど口惜しいのだ。まして彼女の母親は、天城屋の関係者たちはどれほど深くこの瑕瑾を憾んだことだろう。こんな災難に遭った人間の美醜を云々言うのはちょっと慎みに欠けるかもしれないが、しかしよりにもよってあたら瑰麗な玉によくも無惨なひびの入ったものよと、いやしくも木石でないなら慨歎するのがひとの情というもの。いっそ彼女が十人並みの容姿であればこれほどの無常は感ぜしめぬものを……
 雪子の尻を眺めながらひっそりと嘆息していると、
「五分経過……対象はまだ気付かないであります。ドンカンであります」
 突然、背後で千枝の声がした。
「了解。対象は天城のシリに夢中である模様。引き続き監視を続行せよ」
 返事はむろん陽介のものだ。振り向くといつの間に忍び寄ったものやら、背中に陽介と千枝がくっついていた。
「おーす鳴上くん」と、千枝が手を上げる。「で? 熱心に雪子のこと観察してナニ考えてたんですかー?」
「よっ、おはよ悠」と、陽介が手を上げる。「朝っぱらからシカン中? ちょっと署までご同行願えますか」
「鳴上くんコーシューのメンゼンだよー、ジチョーしろよー」
「鳴上くんやだーエローいサイテー。セクシャルプレデター」
(朝っぱらからご挨拶だなこいつら……)
 悠はなにか言い返してやろうと口を開きかけたものの、じき思い直した。
 いったい、彼らと気の赴くままに喋っているとどうにも言動が下品になりがちであった。べつに聖人君子を気取るわけではないが、むしろ彼らへ一定の礼を尽くすという意味でも、以後は少し態度と言葉遣いとを改めたほうがよさそうである。いつまでもイゴールとマーガレットに新たな笑いのタネを提供し続ける、というのも面白くない話ではあるし……
「やあ、陽介、里中。おはよう!」
 と、悠はほがらかに挨拶を返した。変質者あつかいはなかったことにした。
「おれは天城の左手を見ていたんだよ。あの火傷が気になってね」
 陽介と千枝はいわく言いがたい面持ちで、お互いの顔をちらちら見合っている。
「あ、そうですか、左手ですか……」
「ヤケド、うん、気になるよね……」
「どうだい、ふたりとも、よく眠れた?」
「いやまあ、眠れたけど」
「鳴上くんは起きてる?」
「もちろん。今日は寝覚めがよくってさ……そうそう、夢に里中が出てきたんだ。きっとそのせいだな」
 星よ散れ後光も差せ、とばかりに、悠は会心の微笑を作る。陽介がボソッと「コイツまだ寝てんじゃねーの?」と呟いた。
「……そうだ、ところで」悠は聞かなかったことにした。「陽介も里中も、今日の放課後、予定はあるかな」
「放課後? べつにないよ」と、千枝。
「おっ、向こう行くのか?」と、陽介。
「うん。里中も天城も例のアレが気になってるだろうし、もし都合がつくなら、おれと陽介で使い方を教えようかなってさ」
 教えるなら早いほうがよかろう。花村流などは出せさえすればあとは理性の問題くらいだが、鳴上流のほうを自在に使いこなそうとするなら、おそらく継続的な訓練は欠かせないものとなる。陽介より比較的長けているはずの悠でさえ、現状はいっしょに歩くのが精々というありさまである。鳴上流をそれなりの戦力とするならポスギル城でやったように、生身の統御を最低限にして「亀」になる必要があるが、それでは花村流と選ぶところがない。将来的には鳴上流の特色を生かして相互独立したうえで、逃げながらペルソナで自らの身体を守れるくらいにはならなければ。
「どう、里中は行けそう?」
「あーちょっと待って、そういうハナシするなら」
 千枝が前を歩く雪子を大声で呼び止めた。見返り美人の面に喜色が浮かぶ。
「おはようみんな!」と、雪子が駆け寄ってきた。「三人そろってどうしたの? いっしょに登校?」
「ちがうちがう、けど鳴上くんがさァ」千枝はニヤニヤしている、「雪子のことガン見してハアハアしてたからさァ」
「犯行に及ぶ前に俺と里中で説得してたってわけ」と、陽介が引き取る。「おい悠、叔父さんの立場も考えてやれよ」
「へえー、ハアハアしてたの?」雪子にはなにか感心したふうがある。
「うん超ハアハアしてた。もーなにしでかすかわかんなかったし」と、千枝。
「雪子たん雪子たんとかブツブツ言ってるからかなりキモかった」と、陽介。
(言ってくれるじゃねーかこのバカども……)
 ダメだ、自戒せよ鳴上悠! 反射的に開きかけた口を、悠はふたたび引き結んだ。軽口を叩きたがる自らの性をよく律した。言い返してはならぬ、涼しく流すのだ。おまえは本来もっと賢明なはず。軽薄な言動は慎め、賢者の口は重いのだ……
「……そう、天城は放課後って、時間ある? いま例のアレについて話しててさ」
 と、彼はさわやかに聞き流した。変質者あつかいはなかったことにした。
「もし来られるなら、使いかたとか教えておこうかなって。早いほうがいいだろう?」
「え、あ、うん、あるかな、今日は。えっと、行こうかな……」
 雪子はなんとなく所在なげに、助けを求めるようにして千枝と陽介とをチラチラ見ている。
「うんうん来なよ雪子、いこいこ……」
「おっしゃ、これで戦力倍増じゃん、倍増倍増……」
 ふたりの返事も尻すぼみである。
「倍増どころじゃないさ。おれたちが力を合わせれば、二足す二は四なんてもんじゃない、お互いを乗算し合える」と、このくらい景気のいいことを言っておいたほうがよかろう。「じゃあ決まりだな。放課後、ジュネスで待ち合わせよう。それとも四人なかよく連れだって行くかい?」
 悠の笑顔がよほど輝いて見えるのか、三人は眩しげに眉をひそめて、めいめい控えめな賛意を表明するに留まる。
「ほら三人とも、遅刻するぞ。脚を動かして!」
 颯爽と歩き出す悠に少し遅れて、陽介たち三人は目配せし合いながらのろのろ歩き始めた。
「ああ、そういえば今日って日直だったっけ。転校してから初めてだなおれ。里中よろしくね」
 千枝の返事はない。代わりに陽介が口を開いて、
「悠、お前さ、なんかあった?」
 と、気遣わしげに訊いた。
「なんかって?」
「いや、だってお前、今日ちょっとヘンじゃん?」
(ヘンときた……)
 さすがに違和感は拭えない様子である。これはもう仕方がない、今までが放埒に過ぎたのだから。しかしいつまでも古い「鳴上悠」を引き摺ってもらっていては困る。ここはたしょう強引な手を使ってでも印象刷新を図るべし――悠はとっておきの微笑みを用意すると、流れるように振り向いて、
「おいおい冗談きついぜ、これがおれの自然体さ」
 斜角四十五度を意識してこう言い放った。コントラポストを強調したポーズも忘れない。われながら渾身の出来である。
 雪子が吹き出した。





 背中になにか硬いものが当たるのを感じる。
(こっちからも来た……)
 肩越しにちらと振り返ってみると、陽介が手に持った定規で悠の椅子の背もたれを指している。そこには付箋紙が貼ってある。が、ノートの余白に貼るようなサイズではない。どこで見つけてきたのやら、それは葉書大ほどもある巨大なものであった。
 悠は千枝への返信を中断して、前を向いたまま、後ろ手にすばやく背後の付箋紙を剥ぎ取った。
(コレまわすのが流行ってるのか? こっちは次レッドカードだってのに……)
 すでに一度、壇上の中山教諭に手紙を回しているところを見られているのである。彼なりに用心していても教壇の上は見晴らしが利くらしく、千枝へ五度目の返信をしたあとすぐ、
「鳴上クン、答案はあとで集めるから手元に置いといてネ」
 こんな皮肉が飛んできた。複素数の解説を生涯賃金と貯蓄の講釈にすり替えるような脱線教師だが、その鋭い眼光はよく生徒の悪戯を見通すのであった。
(くそ、なんでおれが……!)
 周囲の視線が痛い。そもそも最初に「チョー眠いっすね。六限に数学ってサイアクのとどめだよね」などと書いてよこしたのは千枝の側で、彼はこの文通に興じるどころか何度も「授業に集中せよ」とか「あとで話せるだろ」とか書いて懸命に自粛を促していたというのに。褒められこそすれ注意される謂われなどない。
『もう書いて来ないように!』
 悠は殴り書きに最終通告を認めた。
『(つД`)ゴメンヨワーン 』
 この挑発的な返信はどうだ。隣を窺うと果たして、千枝は反省の色などいっこう見せず、机に目を落としてにこにこしている。どころか早くも次を書き始めている始末。
『そういえば鳴上くんってあのときのケガどうなった? けっこうヒドかったんだよね』
『か・い・て・く・る・な』
『(-ε-)』
『もう一回見つかってるんだぞ! おれが!』
『おいおいジョーダンきついぜ、それが鳴上くんの自然体さ(キリッ』
(この野郎……)
 無論、朝の一件を踏まえた上でこんなことを書いてよこすのだろう。悠はいきおい赤面せざるを得ない。
 雪子には笑われ千枝には指をさされ、陽介には「ウソくさくてブキミ」とまで評されたアレは、思い返せばいささか性急に過ぎた感はあった。一朝一夕に印象を変えるのは無理がある、というこんな当たり前のことを悟るために、悠は陽介たち三人に恰好のネタを提供してしまったのだった。性邪悪な彼らは千枝のいまほどしたように、あの朝の一件からなにかにつけて「おいおい冗談きついぜ」と「これがおれの自然体さ」およびこれらの変形・短縮形を駆使して悠の繊細な心を苛むのである。
 椅子の背もたれに巨大付箋紙が貼り付けられたのはこのときだった。悠はそれを千枝への呪詛を書き綴った付箋紙の上に広げた。
『ジュネス着いたらまずフードコート寄って、軽くなにか食ってから行ったほうが自然体だと思う人ー』
 文章にはまだ続きがある。引き裂いて捨てるのはすべて読んでからでもよかろう。
『これは回覧です。悠から里中へ、里中から天城へ回して、下の名前のところにレ点を入れた上で戻して下さい。返答はフリースペースへどうぞ』
「…………」
 悠は「自然体だ」のところを消しゴムで消して「いい」に訂正した。これが未訂正のまま回覧されれば、女子ふたりがフリースペースとやらにいろいろ書いてくるのは目に見えている。
『別にいいよ U』
 短くこう記して、下の名前のところにチェックを入れて、陽介からの回覧を四つに畳んで千枝の机に放る。書きかけだった呪いの付箋紙は丸めてポケットに突っ込んだ。
『しばらく痕が残るかもって言われたけど、ほとんど服で隠れるから問題なし。続きは授業が終わった後!』
 中山教諭の目を盗んでこれも彼女の机の端に貼る。千枝は先の回覧と悠の返信とを前に、熱心にシャープペンシルを縦横させ始めた。傍目には真面目に授業を受けているように見えなくもない。
『言ってなかったけど、うちケガのことでいっしょにいた生徒の名前教えろとかって親にすごい怒られたんだ。教えてないけど』
 陽介がやったようにして雪子へ回覧を回したあと、千枝はこんな返事を認めてきた。思わず注意するのを忘れて呻く。どうやら彼女もまた例の一件ののち、家族から叱責を受けていたらしい。あの大怪我では無理もあるまいが。
 先の雪子救出に際してこうむった各々の負傷は、表向きには「悠の歓迎会で屋外闇鍋パーティー中にコンロのガスボンベが爆発した」ため、ということになっていた。
 少々苦しいがこれなら深夜に家を空けた釈明にもなろう。つまり陽介はその爆発音によって失聴し、悠はその爆炎と飛散物とで負傷――彼はそのとき上半身裸だったという設定である――し、千枝は驚いてひっくり返った拍子に落ちていたガラス片で肩を切った、という、いまどきディズニーやピクサーでもなかなかお目にかかれないようなシチュエーションである。
 これを遼太郎へ「いやあこんなことがあってさあ」などと冗談混じりに説明したのは、そうすればひょっとしたら笑い話として納めてくれるかもしれない、と期待したからだったのだが、見事に裏目に出てしまった。彼はそれを黙って聞き終えたあと、甥の怪我を乱暴に検めて、真顔でひとつため息を吐いて、
「お前、こういうバカをするタイプには見えなかったがな……」
 さも苦々しげにこう呟いたのだった。
「俺も学生のころはバカのひとつやふたつはやったから、お前にするななんて言うつもりはない。今しかできないことだ、夜中にウチ抜け出してちっと騒ぐくらい、あるていど節度を保ってやってくれりゃあ別に咎めはせん。お前の歓迎会ってんなら、保護者としちゃ喜んでもいいところだ。だがお前――」ここで彼の眉がつり上がる。「――それは屋外で、素っ裸になってやるようなことか、悠」
 悠は控えめに、下は履いていたのだと弁明した。
「バカ野郎、履いてなかったらぶん殴ってるとこだ。ったく、今日びにゃ珍しいくらいしっかりしてると思ってたが……」叔父の言葉後には失望が滲んでいた。「お前は不可抗力だって腹ん中でふて腐れてるかもしれんがな、事故ってケガ人が出たからには一緒になって浮かれてたお前にも責任は降りかかって来るんだぞ。危ねえかもとか、やめたほうがよさそうだとか、もう少し考えは回らなかったのか。どんなふうにしてナベやってたんだか知らねえが、そんだけひでえケガ人が何人も出てるんだ、行儀よく囲んでたわけじゃあねえんだろう。普通の状態じゃなかったはずだ、違うか」
「……ごめん」
「バカすんなとは言わん。だがいいか、ケガするような大バカだけは別だ。子供じゃねえんだ、その歳ならケガするような危ねえことは見て考えればわかるはずだぞ。もう起きちまったことだから、これ以上ごたごた言うのァよすが……とにかく、前にもいちど言ったことがあったが、俺にはお前のおふくろさんからお前を預かった責任がある。覚えてるな」
「んん」
「お前を不当に損なうもんからお前を保護する責任がある。たとえそれがお前自身からのものであってもだ。もしこの次また今回みたいなことをしでかしたら、俺は保護者としてそれなりの対応を考えなくちゃならなくなる。わかるな」
「わかります」
「門限を決めたりとかなァ、あんまりそういうことはしたくねえがなァ……お前だってつまらんだろうにバカなことを……姉貴にも報せておかなきゃなァ……」遼太郎はふたたびため息をついた。「それで、お前もお前だが、友達の怪我のほうはどうなんだ。お前にとっちゃ笑いごとなのかもしれんが、片耳が聞こえなくなるなんてのァとんでもないことなんだぞ」
 遼太郎もまた当時の悠と同じに、人間の鼓膜が再生するものであるということを知らなかったのだった。そのときの悠はウンともハイとも言えずに、自責の念に押し潰されて縮こまっていた。
「謝っとけよ。お前が企画したんじゃないんだろうが、お前の歓迎会で事故ったんだ、そのせいで敬遠されるようになったらイヤだろ。俺もどっか日を選んで詫びに行ってくるから、その同級生の名前と住所、あとで教えろよ」
「はい……」
「以後気をつけるように。休みが取れしだいもういっぺん病院連れてくからな――じゃ、行ってよし」
 子供らしくない――つまり大人らしいと解釈できる――という評価を心中誇らしく思っていた悠にとって、叔父の失望のため息はなによりも堪えるものだった。彼は遼太郎と、父の後ろで世界の終わりみたいな顔をしている菜々子とを残して、逃げるように二階の自室へ駆け込んだ。おおなんとこのおれが、そこらの刹那的で向こう見ずで考えなしの子供と一緒くたにされている! 悠の自尊心は悲鳴を上げたものだ。
 しかし本当は違うのだ、これらはみなあなたがたの仕事を代わって行ったその報いなのだと、大声で真実を打ち明けるわけにもいかなかった。悠としてはただもう黙って俯いて、しでかしてもいない「バカ」を咎められるに甘んじるしかなかった。本来なら警察官たる叔父が受くべきであったとさえ言えるその傷と栄誉、悠たちが年少の身を異世界の戦いに投じてついに勝ち取ったかの勲章は、悲しいかな、こちらの世界においては糞土をなすりつけてでも隠さなければならない性質のものであった。
 千枝も、あるいは陽介もひょっとしたら、悠と同じような苦杯を舐めたのかもしれない。この大杯に満ちた苦汁を、彼らはこれからも味わい続けることになるのかもしれない。周囲に彼らがしていることへの理解を求められない以上、かならず誤解に甘んじなければならない局面は出てくるはずなのだから。
(こないだみたいな夜中の出動が平日だったらどうなるかな。もうそのまま登校するか、ケガしてたりしたらサボるしかないんだろうな……)
 しかもそれを防ぐための防具調達もうまくいかないとくる。イヤなこと思い出したな――悠はひっそりとため息をついた。頬杖をついて、右斜め前の雪子の後ろ姿をぼんやりと眺めた。例の回覧は千枝から受け取ったきりで、後ろへ返す気配はない。彼女は机に覆い被さるようにしてせっせとなにごとか書いている。いまは勉強する時間であって、もちろん雪子は親友のおふざけにかかずらうつもりなどないのだ。
 彼女を見習おう、億劫でもノートを取らなければ、と身体を起こしたところで、千枝がまたぞろ机の端に付箋紙を貼り付けていった。
『ちょっと鳴上くんにお願いがあるんですけど』
 もうなにを言っても無駄だろう。おそらく彼女自身が注意されるまでこれは続くのだ。悠は受け取るだけ受け取ったあとは取り合わずに、雪子に倣って授業に集中した。
『ムシしちゃイヤーン』
「…………」
 消しゴムのカスが飛んできた。悠は眉ひとつ動かさなかった。
『先生に注意されて怒ってる? ごめん』
 ちらと隣を一瞥すると、千枝は心配そうに眉をひそめている。彼女にはよく怒りを疑われるが、そんなに不機嫌が顔に出ているのだろうか。
(いや、出てたな、出たただろう。イゴールに見せつけられたばかりだ)
『怒ってないよ。授業が終わったらいくらでもつきあうから。天城を見習って!』
『今日うちら日直でしょ? 放課後モロキンに学級日誌届けるの、お願いしてもいい?』
(……こいつに操られてるな、おれ)
『もう回して来ないならいい。このあともう一回でも来たら問答無用で断る』
 これが最後になりますように、と願をかけて、千枝の机の端に手を伸ばして付箋紙を貼ろうとすると、
「ハイ鳴上クン現行犯逮捕」
 ずっと背中を見せていた中山教諭が突然ふり返って、持っていたチョークで悠を指した。早くも願が叶ったようだ。
(ち、畜生……!)
 レッドカードである。できれば元凶たる千枝に躍りかかってその細首を締め上げたかったが、実際にそんなことができるはずもなし、悠は垂首して「はい、恐れ入ります……」とやるかたなく冤に服すしかなかった。彼女が声を出さずに「ごめん!」と口を動かすのが視界の端にちらと映ったが、無論そんなことで溜飲が下がるはずもない。
「さっきからご執心だけど、里中サンにラブレター?」
 中山教諭のこの意地の悪いひと言をしおに、教室中の好奇の視線が悠たちに集中する。その注視を肌身に感じる。隣を窺うと案の定、千枝は唇を嚙んでオドオドと居心地悪げにしている。
「婚姻届です」
 中山教諭を含む教室中がどっと笑いに沸いた。手応えありだ。さて当の伴侶といえば、弁解するように周りを見たり悠を睨め付けたりしながら、腰を浮かせて赤くなったり青くなったりしている。報いを受けるがいい里中千枝、おれの忠告を聞かないからこうなるのだ――悠は心中でほくそ笑んだ。
「先生おれ婿に入るんで、来週から名字里中になります。里中悠です」
「その歳でケッコンなんて早まったわネー里中サン」中山教諭はたいそう愉快げである。「カレ、稼ぎはあるノ? 無職じゃお先まっくらヨ、愛じゃお腹はふくれないのヨ」
「ちがいますんなコトしませんっ! コイ……鳴上くんが勝手に……!」
「落ち着いてよダーリン」悠は欣然として火に油を注いだ。
「ダッ……!」
 背後で陽介の笑い声がする。雪子もまた身体を捻って後ろを向いて、親友が顔色をコロコロ変えるさまを見てケラケラ笑っている。教室中で笑っていないのはただ千枝だけで、彼女は殺人光線でも発射しそうなもの凄い目つきで悠を睨んでいる。
「仲いいわネー……でも里中サン、レンアイとケッコンは別物だからネ、いっしょくたにしちゃだめヨ」
「だからしませんってレンアイもケッコンもォ! このひとがみんな――!」
「ハイみんな黒板みてー、これテストに出すわヨ」
 中山教諭は千枝の訴えを無視して背を向けると、黒板の余白に平行する二本の直線と、両線に垂直に接する一本の矢印とを描いた。直線にはそれぞれ「恋愛」と「結婚」とあって、矢印のところには「1au」と書いてある。どうやら距離を示すらしい。
「いい? よく誤解されてるけど、このふたつは同一線上には存在しないノ。レンアイとケッコンはそっくりだけどぜーんぜん別の道で、もんのすごく隔たりがあって、どこまで行っても交差しないノ」
「先生」と、背後の陽介が声を上げた。「その恋愛と結婚のあいだのとこの、イチエーユーのエーユーってなんですか?」
「アストロノミカル・ユニット、地球と太陽のあいだの距離を一と定義した単位ヨ。メートルに直すと一千四百九十五億九千七百八十七万とんで七百メートル、天文学的よネ……」中山教諭の目は1auの彼方を見通すようである。「それくらいかけ離れた存在ってことヨ。似てるからきっと同じようなものに違いないって考えるのはネ、ナメコに似てるからって味噌汁にコレラタケを入れるようなものナノ。食べたらふたりにひとりが死んじゃう猛毒なんだって……あら、ケッコンよりだいぶマシだワ……」
 いったい結婚に苦い思い出でもあるのだろうか、中山教諭は瞳孔を全開にして熱心に語っている。
「レンアイは文学だけどケッコンは数学ヨ。厳密な数理と公式で成り立ってるノ。エックスに愛のささやきを代入したって解は出ないノ。必要なのは数字ヨ数字、具体的に言うと単位が円の数字。お金って大事ヨみんな、大人になればわかるワ。鳴上クンと里中サンの二の轍は踏まないようにネ!」
 教室内がすっかり静かになったところで、終業を告げるチャイムが鳴った。中山教諭はついに千枝の抗議には耳を貸さず、どころか蓄えの乏しい時期に安易に「製作」してしまうことの経済的恐怖について彼女へ一方的に説いたあと、「いいことしたナ」と足取りも軽く教室を出て行ってしまった。
(とんでもない教師だな……)
「中山ヤベーな、目とかちょっとイッてるもんな」と、背後の陽介が感慨深げに感想を漏らした。「……で、ところでお前らって、マジでケッコンとかすんの?」
「するわけねーだろ!」千枝の怒声が飛ぶ。消しゴムが飛ぶ。悠に指を突きつけながら、「コイツがいきなり言い出しただけだっつの! あたしカンケーないし!」
 彼女はすっかりお冠である。頬のひとつも赤らめるかな、と内心期待しないでもなかったのだが、それらしい兆候は露も見られない。悠はひっそりと落胆した。
「こりゃ婚約解消か」
 定規が飛んできた。どうやらポーズでなしにかなり怒っている様子だ。
「千枝、諸岡先生きちゃうよ、はやくノートとって黒板消さないと」と、雪子が千枝の机に椅子を寄せてきた。言葉とは裏腹に彼女の目は半月型に撓んでいる。「さっきもらったこの回覧って、千枝に渡せばいいの? それとも花村くん?」
 彼女の差し出した四つ折の回覧を千枝がふんだくった。その上になにか書き殴って、非難の視線とともに悠へ突き出した。
『ぜったい持ってってもらう』
「日誌くらい持ってくのは構わないけどさァ」悠は回覧を受け取りながら、「授業中はもう少しちゃんとしようよ里中……先生に注意されたのおれだぞ。それも二回も」
「それは、ごめんなさいけど……すみませんけど……」
 今までの剣幕もどこへやら、千枝はたちまち潮垂れてしまった。
「でもなにもあんなこと言うことないじゃん……みんな見てるじゃん……」
「おれは何度もやめてくれって書いたよ。聞かないからこうなるんだ」
「いろいろ言われるじゃん、冗談ってわかっててもさァ、バカにされるじゃん。なんであんなこと言うの……」
「二、三日もすればみんな忘れるよ。こういう好奇の視線って」辺りを見渡すと果たして、何人かのクラスメイトと目が合う。「ちょうどいま里中がしてるみたいな反応を欲しがるから、騒いだりしないで超然としてたほうがいいよ。そうすりゃすぐ――」
 受け取った回覧をなんとなく広げてみて、悠はつと言葉後を呑み込んだ。
(なんだこりゃ)
 雪だるまである。付箋紙には黒いロングヘアの雪だるまがフリースペースいっぱいに、コミカルな樹氷と雪原とを背景にして描かれていた。そのイラストの上にはたぶん陽介の提案への賛意を示すのだろう、「Yeah!!」という吹き出しがついている。かなり気を入れて描かれたものらしい。
(ああ、これを描いてたのか天城……)
 この雪だるまが描かれる前に記されたと思しい、千枝の「そのほうが自然体だと思う ち」という噴飯もののコメントにも、悠が最初に書いたコメントにも、周りに装飾線やら花やら蝶やらウサギやらがごちゃごちゃと描かれている。雪子はべつに勉強に精を出していたわけではなかったようだ。
 顔を上げると果たして、彼女は褒められるのを待っている犬みたいにソワソワしていた。
「うおっ、なんだこれ……描いたの里中?」
 と、陽介が後ろから覗き込んでくる。雪子が控えめに自らを指さして作者たるをアピールしているのに、彼は気付いたふうもない。
「天城だよ、これ」たまらず悠が補足する。
「マジ? あっ、雪子だから雪だるまね、あー……」
 陽介の口から賛辞が出てこないのを不満に思ったか、雪子の面はだんだん曇っていく。
「えっと、天城これって、じゃあなんか食ってくの賛成ってことでいいのか?」
 雪子は沈んだ様子でウンと頷いた。
「……天城、絵、うまいね」
 陽介、気の回らぬやつ! 遅ればせながら悠のフォローを経てようやく、彼女はわが意を得たりというふうにして微笑むのだった。
「ほら里中、天城が描いたって。雪子だるま」
 千枝もまたこの絵を見れば世辞のひとつもひねり出すだろう、と思ったのだが、悠が付箋紙を示して見せても彼女はそっぽうを向いて取り合わない。鬱々として机の角を見つめたまま「あたしに振らないでよ」とでも言いたげである。どうやら先の不満を引き摺っているらしい。
「里中、まだ怒ってる?」
「怒ってない」
 斬り付けるような、突き放すような応えが返ってきた。彼と目を合わせもしない。千枝はふて腐れている、というより、どこか悲しんでいるようにも見える。悠とカップリングされたのがそれほど不快だったとでも言いたいのだろうか。
(なんだこいつ、最初にふざけかかって来たのはそっちじゃないか)顔にこそ出さなかったものの、悠はこの突っ慳貪な返事に小さな怒りを覚えた。(迷惑こうむったのはこっちなんだぞ。なんで被害者のおれがこんな態度とられなきゃならないんだ)
 いったい誰のせいでこんなことになったと思っているのだろう。それは悠の側にももう少し穏当な抗議の仕方があったかもしれないが、そもそもが自らの招いたことではないか。よし、不快なら不快で大いに結構、気の済むまでそうしていればいい、だれが機嫌など取ってやるものか……
「あ、そう。安心した」
 と、悠は短く言った。が、むしろこの平板な返事が彼と千枝との間に生まれたわだかまりを露わにしたようで、それに気付いたらしい雪子の面に緊張の色が刷かれる。
「ほら千枝見てよ、うまく書けたと思うんだけど」と、彼女はあわてて笑顔を取り繕った。「それに自然体って書いてあったの、ちょっと笑っちゃった。でもそりゃ鳴上くんも不機嫌になるよ。わたしたちからかいすぎたもん」
 親友の取りなしにも応じるつもりはないようで、千枝は気の乗らないふうに「はあ」とか「へえ」とか呟くに留まる。もはや彼女のほうでも不和を隠すつもりはない様子。この開き直った態度がまたいちいち悠の癇に障る。自分だけならまだしも仲裁に入ろうする雪子をも無下にするとはどうしたことだろう。ここは溝が深まるのを承知でひとこと釘を刺しておくべきか――悠が口を開こうとすると、背後の陽介が先んじて、
「里中なに、なんかやたらキゲン悪そうだなお前」
 と、いきなり身も蓋もないことを言い出した。後半は笑い含みで、千枝に意趣のある悠でさえひやりとする物言いである。
(こいつ、空気読めないのか?)
 案の定、千枝はいっそう眉間の皺を深くして「だからなに」などと冷然たるものだ。彼女の隣で雪子が「やめてよなに言い出すの」とでも言いたげな、困り切った貌をしている。
「や、ちょうどよかったなってさ」
 この荒んだ空気の察せられぬはずもなかろうに、陽介はどこまでも鷹揚である。彼は知らぬげに机の脇に吊った手提げの中から箱状のものを取り出して、
「これ出すなら今だろ――感謝しろよ悠!」
 それを悠の机の上にドンと置いた。全面白色の地に精緻なエンボス加工の施された、広辞苑ほども厚みのあるしろものである。
 表には金箔押しで『成龍伝説』と大書されていた。
「え、ちょっ……!」
 千枝の反応は速やかだった。今までの悲憤の色はどこへやら、彼女の面はただちに驚愕と歓喜とに二分される。蹴立てられた椅子がガタンと鳴る。
「ちょっとちょっと待ってこれ、いやっ、ええ? ウッソでしょお?」
「オクで探してるって言ったろ? どーよコレ、見りゃわかんだろーけどお前の持ってた通常版じゃねーからな」陽介は腕組みして得意満面である。「ジャッキー・チェン直筆サイン入り自伝同梱の檄レアプレミアム版、百本限定! マジで感謝しろよ里中」
「うおお……こんなことがあっていいんすか……!」
「千枝、これ、すごいの?」と、雪子が素朴な疑問を漏らす。
「すごいなんてもんじゃないよあたし通常版だって予約できなかったってのに――ああビニール破りたくないでも開けないと中身みれないくっそー……」などと言うわりに、千枝の手は忙しなく包装を引きむしっている。「マ、マジだ、サインある、コンサンのサイン入りアイアムジャッキーチェンだ。うへえ指紋つけられん神棚に飾る……!」
「なんか中に本人の直筆でラクガキとか説明とか書いてあるって話だけど」陽介も中身が気になるらしい。「モノによって違うんだろ? マジで書いてあんの?」
「……ちょっ書いてある! うわなんて書いてあるかぜんぜんわかんないけど書いてある! あ、あたし中国語勉強するわ!」
 二、三分前とはまるで別人のようで、千枝は全身で喜びを表現している。あっけないものである。
「陽介、あれってそんなに凄いの?」と、悠も雪子に倣った。
「ま、里中の反応を見てご想像くださいってとこ?」陽介は苦笑している。「いやーマジでクッソ高かったわ。バイト代ぜんぶ消し飛んだっつーの……」
「でもアンタ、どーやって手に入れたのこんなの」千枝はいまだに信じられないといった様子。「限定版なんて一瞬で消えたハズなのに」
「ダメもとでヤフオク見回ってたらあったからさ、速攻ポチッた。つかむしろ通常版のほうがぜんぜん見つからねんだっつの。これしかなかったってのがまあ、ホントのトコなんだけど」
「ヤフオクってなに?」と、悠。
「ヤフーオークション。インターネットにある有名なオークションサイトのひとつ」
「オークションって、インターネットで?」悠にはまずインターネットなるものが今ひとつよくわからないのだが。「オークションって金持ちがやるイメージあるけど、そんなものに参加できるの?」
「できるよ。べつに金持ちじゃなくたってフツーに買えるモンとか出してるし」
 防弾チョッキはまずそちらを当たってみるべきだったのでは――悠はあらためて過日の痛恨を噛み締めた。
 いや、オークションサイトでなくても安い店を探すなりなんなり、インターネットの知識のある陽介ならもっと色々なことができたかもしれない。省みれば彼と、いや、彼らともう少し話してみるべきだったのだ。急ぎすぎたのがそもそもの間違いだったのだ。朝の一件もしかり、急いてはことをし損じる、とは使い古された言葉だが……
「……悠?」
「いや、凄いなってさ。おれもやってみようかな」
「おっ、やるなら教えるぜ、いいサイトとかもついでにさ」と言って、陽介は改めて千枝に向き直った。「で、えーと、ちっと遅くなったけどさ、DVD壊しちまって悪かったな……ってコトですよ。それ超たけーから大事にしろよ」
「神さま、仏さま、陽介さま……」千枝は両手を擦り合わせて彼を拝んでいる。
「ほめ称えよ、畏れあがめよ、塚を築いて神として祀れ」陽介はふんぞり返っている。
「鳴上くん、もしインターネットやるなら」と、雪子が小さく手を挙げた。「うちノートパソコン余ってるから、よかったら使う? ちょっと古いけどぜんぜん使えるやつ」
「あ、そうか、インターネットってパソコン要るんだった」それはそうだ、インターネットと言えばパソコンだ。「使ったことないな、パソコンって。説明書とかもある?」
 雪子は秀眉を寄せて「パソコンに説明書ってあったっけ……」などと首を傾げている。
「え、ないの?」
「なかったと思う。たしかなかった」
「……じゃあ、初めて使うときどうしたの」
「んー、なんとなく?」
「花村、ねえ、ここんとこさ」と、千枝が呆けたような声を上げた。「ブルーレイカッコ本編ディスクって書いてあるんだけど……つかコレどこにもDVDって書いてないんだけど……」
「うっ……ちょ、マジか!」陽介は血相を変えて広辞苑を検め始めた。「ウッソだろそんなはずは……いやいやブルーレイとDVD同梱なんだって……絶対そうだって……」
「あとインターネット回線も契約しないとだけど」と、雪子。「鳴上くんのうちって引いてる? 回線」
「あ、そうか、回線も契約もしなきゃいけないのか」それはそうだ、インターネットを使うなら回線だ。「たぶん引いてないと思う。で、回線ってどこから引いてくるの?」
「……NTT? かな」
「NTTって……インターネットって電話みたいなものなの?」
「そうそう。電話線みたいなケーブル」
「じゃあNTTに電話すれば引いてくれるんだ」
「うん、そう、かな?」
「うっわマジかよコレェ! ブルーレイ専用かよォ!」陽介の悲痛な叫びが上がる。「あのヤロそんなことひと言も……ぜったい星ひとつだちくしょ……!」
「鬼! 悪魔! 花村ァ!」千枝の悲痛な叫びが上がる。「見れないじゃんかバカー! ブルーレイのキカイも買えバカー!」
「わかったから貸すから! プレステ3貸すから! それで見れっから!」
 ――ホームルームを報せる予鈴をしおに、教室内の喧噪はようよう鎮まっていった。陽介と雪子もめいめいの席へ収まった。あと五分もすれば現れるはずの、彼らの担任を憚ってのことだ。
 プレミアム版『成龍伝説』効果もあって、千枝の機嫌はとりあえず持ち直したらしい。悠の側ではいまだに埋火の燻っているような状態だが、わざわざ掘り起こすようなバカな真似はこのさいすまい。ここはこちらが大人になって歩み寄るべきだろう。
「里中、日誌、持ってくよ。貸して」
 と、彼は隣に身を乗り出してにこやかに話しかけた。ところが、
「いいよ、もう」
 返ってきたのは相も変わらぬふて腐れた、悪意の滲む言葉である。今までその面に浮かんでいた微笑はたちまち失せてしまった。彼女はもはや歯牙にもかけぬといったふうで、こちらを見ることもしない。陽介と話していたときとはこれまた別人のよう。
「いいって、いや、持ってくからさ」
「…………」
「里中」
 返事はない。今度は無視である。
 悠はこの仕打ちに自分でも驚くほどのショックを受けた。自分とのあいだにこんな理不尽な沈黙の壁を作った千枝の悪意に衝撃を受けた。間の悪いことにあたりはすっかり静かになっている。いまほど許しを請うようにして下手に出た悠と、その彼を冷然とはねつけた千枝とのやりとりは間違いなく周囲に聞かれたことだろう。もちろん陽介にも、雪子にも。
 かつて味わったことのない類の恥と屈辱とが悠を苛む。薪と燃料とを得た火床に、おなじみの炎が逆巻き踊る。
「おい里中」と、悠は低い声で言った。「答えろよ。いったいなにがよくて、なにがもうなのか、さっぱり見当がつかないんだけど」
 本来なら向こうが平身低頭して詫びるのが筋であるところを、被害者たるこちらがわざわざ歩み寄ってやったのだ。しかるにこの態度はいったいどうしたことだ? 理非を違えているのは間違いなく千枝のほうだ。それでいながらこのバカ女は反省しないばかりか意固地になって陰湿な受け答えに終始するのだ。見損なった、まさかこんなやつだとは思わなかった。ここまでされて怒らないならそいつはもうただの意気地なしだ!
 もう許さぬ――悠はついに怒りの箍を外した。
「持っていけって言い出したのはそっちで、念を押したのもそっちだろ。自分の言葉に責任を持てよ。おい」
「…………」
「だんまりか。都合が悪くなると黙るのか、ひとつ発見だ。話しちゃいけないときは会話を強要するのに、話さなきゃいけないときは貝を決め込むと」
 雪子と、周りの数人がなにごとかと悠のほうを向いた。陽介もおそらく彼の背中を見ているのだろう。構うものか、言わなければならないことを言うのに誰を憚ることがあろう。
「勉強不足だった。おれもこれからは里中流を見習わなくっちゃ。ええと話しかけられたら無視で、相手が黙ってるときは嫌がらせを続けるんだっけ。どう? うまく言ってる?」
 雪子がやめてくれとでも言いたげに、懇願するような目で悠を見つめている。千枝は前を向いて俯いたまま微動だにしない。ひと言をも発しない代わりに、いちど洟をズッと啜る音が聞こえる。彼女は最前からしきりに目をしばたたかせている。
「ああ、返事がないんじゃそれもわからないよな。バカらしい、やめた。里中流は里中ひとりでやって――」
 千枝がいきなり椅子を蹴って立ち上がった。と同時に、机の中から引っ張り出した冊子を悠の机の上に思いっきり叩き付けた。この音で教室中の視線がふたたび、悠と千枝とに集中した。
「じゃあ、もっで……もっ……」
 持っていけ、と言いたかったのだろうが、彼女は果たさずに嗚咽を漏らし始めた。しゃくり上げて顔を両腕で覆って、みなの視線から逃げるように教室を駆け出ていってしまった。
(卑怯な遣り口だ。泣いて逃げれば自動的におれが悪者になるんだから)悠は冷たく千枝の背中を見送った。(あんなのはただの打算だ。おれが動揺して自責の念に駆られるとでも思ってるのか、下らない!)
 千枝の涙も怒りの炎を鎮める役には立たない。どころかそれによって悠は胸中にいっそうの黒煙を生ずるのだった。
「鳴上くん、千枝……」と、雪子が弱々しい声で言った。追いかけて謝って来いとでも言いたいのだろうか。
「そっとしておこう」
 あんなバカほっとけ、と吐き捨てそうになったが、それは辛うじて堪えた。悠は苦労して平静を装った。ここで感情的になっては向こうの思うつぼだ。そこは泣いた女の強さで、おそらくいま教室中に悠の肩を持とうとする人間は少ないはず。向こうにどれだけ非があったとしても批判などはもってのほかだ。なにを言っても彼女を利するだけだろう。
 彼は周囲を睥睨して好奇の視線を封じると、先ほど机上に投げ付けられた学級日誌を取って、なにか気になる文章でも見つけたふうにして中身を眺め始めた。むろん中身など一切あたまに入って来ない。澄ましているように振る舞うのがやっとで、悠の内心は千枝への失望と怒りと、それらを抑えつけようとする理性とのせめぎ合いで破裂せんばかりである。けさ枕上に感じた彼女への親愛の情などはいまや跡形もなかった。
 教室内は異様な静けさに満ちた。周囲でなにかひそひそやる声らしいものが微かに聞こえる。きっといまほどの悶着についてあれこれ囁き交わしているのだろう。雪子は、陽介はどう思っているのだろうかと、悠はふと思った。ふたりとも悠が悪いと考えているのだろうか。こういうときに限って付箋紙は来ない。陽介、気の回らぬやつ! 励ますにせよ窘めるにせよ、いま一報くれたならどれほどか慰めになろうものを。
『今日はジュネス行くの中止にしよう』
 悠はけっきょく自分からこんな付箋紙を用意して、後ろ手に自分の椅子の背もたれに貼った。そうして定規が背中をつつくのを待った。このようにして陽介を頼みにしながら、いっぽうでなりゆきから彼らのような「友人」を作ってしまった自らの不明を、彼はこのときふと嘆じたくなった。自分はいったいそのせいでどれほど弱くなってしまったことか!
 省みて友人は確かにいいものだった。が、そのおかげで彼らの歓心を得るためにどれほどわが身を窶し心を砕くようになってしまったことだろう。彼らの拒絶や悪意がこれほどにも耐えがたく胸に突き刺さるとは。彼らの言動が、考えていることがこれほどにも気にかかるようになってしまったとは! おお幸いなる孤独ベアータ・ソーリテュードー唯一の幸福よソーラ・ベアーティテュードー! 孤独の軒に留まってさえいたならこんな思いなどせずに済んだろうに。
 ほどなく諸岡教諭が教室へ入ってきた。HRが始まった。先にすれ違いでもしたのだろうか、彼は挨拶もそこそこに、さっそく千枝の無規律と稚愚とをあげつらい始めた。きょうびは小学生だって廊下を走ったりしないものを、ましてそれを注意されて無視するとは言語道断、小学生以下の所行である。人間は歳月によって成長するのではない、それはただひとえに教育と環境とにかかっているのだということの好例であろう。馬齢を重ねるということばがあるが、人間として生きた時間を持たない人間は人間ではない、馬、それも並の馬ほどの力もなければ従順でもない、病気の悍馬である。ここは教室であって馬小屋ではないし、自分は調教師でも獣医でもない、人間用の教師であるからしてお前たちは……
 付箋紙の返事はまだ来ない。





[35651] ええお控えなすって
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b702ab77
Date: 2015/05/17 00:33

 悠は一種異様な感慨をもってその引戸に手をかけた。職員室へ来るのはこれで二度目だったが、最初にここに来てからこのかた、まるで一年も経ったみたいな気がする。
(いろいろあったもんな。いや、いろいろは現在進行中か……)
「失礼します」
 職員室に入ってすぐ、悠とちょうど入れ違いに出て行こうとしていた細井教諭とはち合わせた。
「おっ、鳴上っち。諸岡先生?」
「はい、これ」
 と、悠は学級日誌を持ち上げて見せた。
「日誌かァ、諸岡先生タバコ行ってはったかも……」と、細井教諭は室内を振り返って、「……あ、戻ってはる。あそこな」
 部屋の一隅を手で示して見せる。諸岡教諭は机を肘置きにして足を組んで、男子生徒の誰かと話をしているところだった。彼に遮られてか、先方はどうやら悠の訪問に気付いていない。
(誰だろう。見たことあるような……二組のやつかな)
「きょうはいつものふたりはおらへんのやな」
 廊下にあたまを突き出して辺りを窺うと、細井教諭はいかにも珍しげにそう言った。彼の言う「いつものふたり」とはもちろん、陽介と千枝のことであろう。彼は悠たちがおのおのひとりでいるときでさえ、一緒くたにしてトリオと呼ぶことがあった。
「ええ、まあ」
 結局、陽介からの返信はなかった。
 それこそが返事、つまりはそういうことだ。よし、それなら彼らに付き合うこともない、今日はひとりで帰るべし! 悠はHRが終わって放課になると真っ先に席を立って、彼を呼び止める陽介へ一顧をもくれず、足早に教室を出たのであった。
 いまごろ彼はなにをしているのやら。雪子とふたりで首尾よく千枝を探し当てて、彼女を慰めがてら悠の悪口でも言っているのだろうか。結構、大いにやるがいい! 近くに悠がいてはできないことだ、彼らの都合も考えてやらねばなるまい。言わせておけばいい、彼らと同じレベルへ降りていくことなどない、自分はいと賢明なるピリッポスとアウグストゥスとの忍耐に倣って、ひとりおのれを高く保っていればよいのだ……
「ここまではついて来えへんか、さすがに。今日はなんや天城っちもくっついてたみたいやったけど」細井教諭は話ありげに、引戸のレールの上から動こうとしない。「もうトリオやのうてカルテットやな。まあ君らは派手だから目立つんやわ、ほんまに」
「天城は、そうですね、あの容姿は目立ちますよ」実際、彼女といっしょにいると悠たちまでじろじろ見られるくらいだ。「陽介もよく騒ぐし、里中も……」
「あははいちばん目立っとんのは鳴上っちやで! なんや気付いてへんかったの?」と、細井教諭は愉快げに笑った。「みんな鳴上っちのこと見とるで。まあ転校生が珍しいっちゅうのもあるんやろうけど」
「おれを? まさか」
「ほんまほんま。最初はなんや大人びてるゆうか、あんまり喋らへん印象あったから驚いたけど、あれやな、マシンガントークゆうやつ?」
「マシンガン……」
「声もよう通るし、背ェの高いせいやろか、身振り手振りもちょっと目ェ引くし。まあ廊下でも教室でも目立つこと目立つこと」
 夢の中でイゴールに見せつけられた、あの自らの騒々しい醜態がありありと思い出された。もう人前で余計なことは喋らないようにしよう、泰然自若としていよう……などと反省したところで自分はきっと繰り返すのだろう。いまから大人しくしようとしたところで朝の二の舞だ、これが周りの人間の見たままの「悠」なのだ。いまはこの評に甘んじるよりほかない――悠は諦めのため息を作り笑いでごまかした。
「悪目立ちちゅうわけやないけどなあ。ところで鳴上っちって、転校してから二週間くらい経つんやろか。もうガッコ慣れた? さっそくラブレターとか来たんやないか色男ォ」
「いえ、おれなんか……」婚姻届なら突き返されましたよ。「あの先生、すいません、日誌、渡さなきゃいけないので」
「あ、ごめんな。ほならな、また明日」
 と手を振って、細井教諭は職員室をあとにした。彼を形ばかり見送ってから、さて諸岡教諭はと振り返る暇もなく、
「里中サンとうまくいってル?」
 悠は背後から声をかけられた。今度は中山教諭である。
「え、いや、あの」
 あわてて向き直る。あまり触れられたくない話題であったので、悠は出し抜けにこうと訊かれて言葉に詰まった。いったい、千枝の顔を思い浮かべるだけで名状しがたい感情が湧き上がってくるのである。いまや憎悪でこそなくなったものの、それはどうやら愛情とはかけ離れた、少なくとも快いものではない。
「教師の立場からは応援できないケド、個人的にはちょっと興味あるワ。野次馬根性?」
 よくもまあ自分で言ってのけるもんだ――悠は呆れるのを作り笑いでごまかした。
「えっと、いまはちょっと、危機、でしょうか、はは」
「アラ、なにかあったノ? あのあと」
 中山教諭の瞳孔が広がった。きっと心配して言っているのではないのだろう。
「いえ……あ、そうだ、授業中のあれですけど、あれは里中が始めたことですから。おれはやめろってずっと書いてたんです、誤解です」
「あれって、手紙回してたやつのコト?」
「そうです」
「里中サンから始めたっていうのは知ってるわヨ。見てたから」
「ああそうなん――ちょ、知ってておれを注意したんですかっ」
 中山教諭は平然と頷いた。悠をつっついたほうが面白そうだったから、というのがその理由だという。とんでもない教師である。
「で? なにかあったノ? ちょっと先生に教えてみなさいヨ」
「野次馬根性ですか? 先生お得意の」悠はため息をついた。「知りませんよ。授業が終わったあと急に怒り出して、拗ねてふて腐れて。八つ当たり食ってさんざんでした」
 そのあと彼女を泣かせたことについては言及を避けた。歩み寄った悠の誠意を悪質な沈黙でもって無下にし、それを糾弾されるや尻尾を巻いて逃げたのは千枝である。悠に非などあろうはずもないが、女子を泣かせたという一事のみをもって大犯罪のようにあげつらう輩もいるのだ。中山教諭がそうでないとも限らない。
「ふーん……あのあと怒ったっていうなら、里中サンひょっとしたら傷ついてたのかもネ。アレ」
「傷ついたのはこっちのほうですよ。いい迷惑ですよホントに。ああもうなんでこんな目に遭わなきゃなんないんだろ……あのあとから気が滅入って滅入って……」
 中山教諭はぶつくさこぼす悠をさも興味深げに眺めていたが、ややあって含み笑いながら、
「青春ネー、もっと悩みなサイ! キミは見てておもしろいワ!」と言って、伸び上がって彼の肩をびしびし叩いた。「今しか味わえないのヨ、それ。珍味ヨ、お金じゃ買えないのヨ。ゆっくり噛み締めなサイ!」
「……珍味っていうのは珍しいから珍味なんです。うまいからじゃないです」
「ちゃんと里中サンに謝るのヨ色男。フフフ……」
 中山教諭は悠の肩を拳でひとつ小突いて、機嫌よく職員室から出て行った。もっと悩め、見てて面白いとは教師の科白とも思えぬ。そもそも彼女が最初に千枝を注意していればこんなことにはならなかったのだ。悠にはちっとも面白くなかった。
(中山なんかに愚痴るんじゃなかった。へんな先生ばっかりだ)中山教諭を見送ったあと、悠は期待を込めて諸岡教諭のデスクに歩み寄った。(でも諸岡先生は違う、たぶん。ここではきっとモロキンじゃないはずだ)
 悠が教師ふたりと問答しているあいだに、先ほどの生徒は用事を終えて退室してしまったらしい。諸岡教諭はひとり猫背になって机に向かって、なにか書き物をしている。
「先生」
 と、悠がその背中に呼びかけると、
「んん」
 相づちとも唸り声ともつかない声が上がった。彼は机に目を落としたままである。
「……先生?」
 二度目でようやく顔を上げる。諸岡教諭はちらと悠を顧みた。顧みてちょっと驚いたようにして目を瞠って、しかしなにごともなかったふうに机に向き直ると、
友よアミチェなんのために来たのだアド・クィド・ヴェニスティ
 おそらく悠に聞こえるように言うつもりはなかったのだろうが、微かな声でそう呟いた。今度は彼が目を瞠る番である。
先生ラビ、あなたを銀貨三十枚で売りに」
 諸岡教諭がぎょっとして悠を振り向いた。驚きの表情はすぐさま笑顔に取って代わった。
「おい、ワシは自分をそれほど高く見積もっちゃいないが」回転椅子を軋らせて脚を組んで、彼は悠に正対した。「きょうび銀貨三十枚なんざ大した額じゃあるまい。いくらなんでも安すぎだ」
「開始価格ですから。高額の入札を待ちましょう」
「へえ、オークションなのか。で、どこなんだ、サザビーズ? クリスティーズ?」
「ヤフオクです」
 諸岡教諭は手を叩いて大笑いし始めた。周りの教師たちがなにごとかと彼のほうを向く。ひょっとしたらこのように笑う諸岡教諭というのは珍しいものなのかもしれない。
「はあ、そりゃ出品者の慧眼だ。まあヤフオクなら買い手がつくかもしれん」
「冷凍車を手配しますよ。鮮度が気になりますし」
「言いやがる!」
 諸岡教諭はなおも含み笑いながら、「変な奴だお前は」と呟いた。「変な奴」とは以前にも言われたことだが、彼がこの呼称に揶揄や非難を含めるどころか、なんとはない感心さえ滲ませているのは口調からも明白である。悠は担任の言う「変な奴」を手前勝手に「高校生とは思えないほど抜きん出た奴」くらいに意訳して、ひっそりと誇りに満たされた。
「日誌か、どれ」
 と、諸岡教諭が手を差し出した。悠から学級日誌を受け取って、彼は気のないふうにページをめくり始めた。なかなか顔を上げようとしない。ひょっとすると諸岡教諭の中ではもう用事は済んでいて、悠はすでにいないものとして扱われているのかもしれない。
 悠は話の接ぎ穂を探して、担任のデスクを眺め回した。が、辞書類とファイルがいくつかと、教育関係の書籍が不揃いな背を並べているのを除けば、そこは憎らしいくらい整然としている。まさかつまらないことは言えまい、今ほど彼に与えたよい印象を裏切るような平凡なことは……
「謙虚ですね」
 と、ややあって悠は呟いた。諸岡教諭が「ふん」と目を上げた。
「なにがさ」
 悠は黙ってデスクの一角を指さした。そこには本の陰になかば隠れて、小さな写真立てが飾ってある。机上においていくばくかでも主人のパーソナリティを感じさせる、それはほとんど唯一のものと言っていい。中に写真はなく、代わりに薄く黄ばんだ手書きの、元はメモ用紙かなにかと思しい紙片が入っている。


 stultissimus sum virorum,
 et sapientia hominum non est mecum.

 proverbs 30-2


 紙にはこうあった。ひょっとすると諸岡教諭自身が書いたものなのかもしれない。
「読めるのか」と、諸岡教諭が言った。問いではなく確認ほどの口調である。
「あれなら読めます」
「ふーん……」
 そのあとに続く称讃の言葉はない。悠はひっそりと落胆した。
「先生はキリスト教徒なんですか?」
 と問うたのも、ただ会話を繋げるために心当たりの話題を振ってみたというに過ぎなかったのだが、
「そういう鳴上は?」
 諸岡教諭は被せるようにして問い返してくる。意外な反応。
「両親が……おれは違いますけど、その影響で」
「それを読める?」と、写真立てを示す。
「はい、まあ」
「へえー……親御さんがねえ」諸岡教諭は日誌をデスクに置いて、感心したふうに腕を組んでいる。「ちょっと珍しいな」
「ええ、おれも自分の親以外のキリスト教徒って、ほとんど会ったことありませんし」
「違う。お前くらいの歳で親の影響を強く受けていて、しかもそれをあんまり嫌がってないっていうのが珍しい」
「……はあ」
「たいていは子供のほうで遠ざけるもんだ。もっと幼いか、あるいはもっと歳が行ってれば珍しくもないが」
 はて、自分は褒められているのだろうか、貶されているのだろうか――ハイともイイエとも言いようがないので、悠はけっきょく先の質問を繰り返して、
「それで、先生は?」
 と、ふたたび問うた。もし違うなら先のような受け答えはすまいが、と言って、別にそうであったとして他人に知られて障りになるようなこととも思えない。なにか諸岡教諭独特の事情があるのだろうか。
 彼はデスクの引出しを開けて、中から小さななにかを取り出した。
「あんまり信心深いほうじゃないが」
 悠の目の前に突き出されたのは、細い鎖を通した銀色の十字架である。横木に「ECCE EGO」と彫ってあるほかに、これといった装飾の類は見られない。さして価値があるふうでもない、味も素っ気もないしろものだ。
「うわ、意外だな。先生がキリスト教徒とは」と、悠は少々おおげさに驚いて見せた。「と来れば、机にありそうなもんですけど。聖書とか、イエス・キリストの置物とか」
「そういうのは飾っておくようなもんじゃない」と、十字架をしまいながら諸岡教諭が言った。「偶像崇拝だなんだって古めかしいことを言うつもりはないが、目の前にあることで見えなくなるものはある。べつに隠してあれば見えるようになるってわけでもないが」
「神さまとか、ですか?」
 と、なにげなく悠の言ったのを、諸岡教諭は少しく神妙に見上げると、
「鳴上は神を信じてるのか」
 と訊いた。
「神さまですか」
 いい流れだ。普段であればともかく、いまの彼になら試みに愚痴のひとつも漏らして、それになんと答えるか聞いてみたくもある。彼なら中山教諭よりよほどためになることを言ってくれそうだ。
「信じられるわけないですよ。もし神さまがいたら、世の中から争いごとなんかなくなるし、人間の悩み苦しみもきれいさっぱり消え失せるでしょう」と言って、悠はアーアとため息をついて見せた。「おれだってもっと晴れやかな気分で放課後を過ごせてるだろうし……」
「なんだどうした、なにかあったのか」とでも声をかけてくれることを期待していたのだったが、諸岡教諭は生徒の愚痴になにか別種の感興を覚えたようで、
「へえ、神がいるとそんなことが起きるのか」
 にこにこしながらこんなことを言う。妙なところに食いつくものだと悠は訝った。
「だって、そうでしょう?」
「どうして」
「どうして、と言われても……神さまって、そういうものでしょう。人間を助けて、救ってくれる存在でしょう」
「そうなのか」
「キリスト教って、そういうの多いじゃないですか。お助け下さい、お救い下さいって」
「神は大抵のばあい言われるほうだ」
 いったい諸岡教諭の眼差したるや、砂場でまろぶ幼児を見るそれと選ぶところはない。その慈愛においても、その幼稚を笑う程度においても。
「神ってものは無条件で人間を助けたがると、鳴上はそう思ってるんだな」
「違うんですか」悠は憮然として言った。
「さあ。とんでもない勘違いかもしれんし、鳴上の言うとおりかもしれん。でもそうだとしたら、じゃあいったいこの世はバラ色になるのかね」
 諸岡教諭は椅子を軋らせて、先の男子生徒と話しているときそうしていたように、肘を机に置いて脚を組んだ。
「ならないんですか?」
「さて……助けるとか、救うとかっていうのは、どういうことを言うんだろうな。それによって助けられるほうの印象もぜんぜん違ったものになる」
「というと」
「その人の障害を除いて、その欲しいものを与えて、その心から悩みを取り去ってやれば、助けたとか救ったとかいうことになるのかな。子どもを駄目にするのは簡単だ、なんでも欲しがるものを与えればいい、なんてゲーテは言ったもんだが、神から見たらワシらもそんな感じなのかもしれんぞ」
「はあ……」
「ワシらはアメ玉を欲しがって地団駄ふむ子どもというわけだ。それも虫歯と歯医者との恐ろしさを知らん、な」諸岡教諭は鼻息を吐いた。「神は全知全能だ、ということだ、もしいるなら。ついでに言やあ極めつけのパターナリストだ。なんせもう二千年がとこも子どもらの言い分に耳を貸さん。神はワシらを救うにあたってワシらの知らない、もっと的確な別のやりかたを知っていて、それをワシらの思惑に拘わらず問答無用で実践している、ということにでもなるんだろう。業腹だが」
「…………」
「お前が里中とケンカして悩んでるのも、その一環なのかもな」
(知ってたのか……!)
 不意打ちもいいところである。いったい誰が報せたものか、ひょっとすると先客の男子から得た情報かもしれない。
「これが神さまのはからいだと?」
「かもね」
「へえ。神さまはおれをこんな理不尽な目に遭わせて、それでいったいなにをさせたいんでしょうね」諸岡教諭は意外と迷信ぶかい人間なのかもしれない――悠は少しく失望した。「パターナリストってヒマ人って意味でしたっけ? やっぱりキリスト教はよくわかりません」
「ワシにもわからん。誰にわかろう、神がなにを考えてるかなんて」諸岡教諭はフンと鼻で嗤った。「ただ、鳴上流の考えかたを採用するなら、少なくともいい結果に結びつけるためになされたことなんだろうよ」
「……じゃあ、このあと、おれはどうすべきだと思います、先生は」
 諸岡教諭はさして考えるふうも見せず、「いい結果に結びつけるためには、里中を追いかけてってぶん殴るんじゃあダメだろうな」と当たり前のことを述べた。
「神もさすがにそこまでへそ曲がりじゃああるまい。と来れば、選択肢はおのずと絞られるんじゃないか」
「謝ってこいと? おれはこれでも自分の行動には批判的なつもりですけど、今回は百パーセント向こうが悪い。被害者が加害者に腰を屈めてあたまを下げるのが正しいとでも言うんですか」
 悠は話しながらようよう昂っていった。女の子を泣かせたのは悪いことだから、謝って許してもらうがいい――けっきょくは諸岡教諭もこんな下らない、誰にでもできる月並みな助言でお茶を濁そうとするのか。事情を聞きもしないでよくもこんな無責任なことが言えたものだ! 中山教諭といい彼といい、いったい大人はみなこうなのか?
「正しいか正しくないかは神に判断させろ。なんせ全知全能だ、間違えまい。任しときゃあいい」諸岡教諭はあくまで鷹揚に構えている。「鳴上が考えるべきなのは、鳴上のほうから関係修復に動き出すことで得られるメリットについてだ。お前がそうせんでも困らんなら、時間が解決するだろう。そうしないと困る喫緊の問題があるんならさっさと謝ってしまえ」
「……先生の話を聞いてると、まるで神さまがほんとうにいるみたいに思えてきますよ」
「神なんかいないって、そう思っておいたほうがいい。そうすりゃ本当にいたとき驚くだけで済む。いると端から信じ込んでるといなかったときがっかりするぞ」悠の皮肉に気を悪くした様子もなく、諸岡教諭は笑顔で続ける。「もし謝るんなら早いほうがいいな。傷みたいなもんで放置しておくと膿むぞ。あとへ回せば回すほど痛いし、痕も残る」
「轢き逃げされて大ケガしてる男にも、先生は同じように言うんでしょうね。自分を轢いた女のところへびっこ引いていって、歩道を歩いていてすいませんでした、赤信号で突っ込んできたあなたを避けられなかったわたしが悪いんですって、あたまを下げろと」
「……鳴上はずいぶん怒ってるんだなァ」諸岡教諭はいたく感心した様子。
「怒ってなんか――!」もちろん怒っている。「いや、怒ってます。あたまに来てます。ここに来れば少しは冷えるかと思ったけど、とんだ思い違いでした。見込み違いでした。おれがバカだった」
 諸岡教諭は腕を組んで背もたれに寄りかかって、なんと言おうか考えているのか、悠が落ち着くのを待っているのか、しばらく思案げに唸っていたが、ややあって、
「怒りとは苦痛を仕返しすることへの欲望だ、と言ったのは……」
 独りごちるようにして呟いた。
「誰だったかな」
「……アリストテレス」
「そうだったかな。じゃあ、まあ大アリストテレスの言を採用するとしてだ」諸岡教諭は悠を見上げながら、「鳴上は轢き逃げされた仕返しに、里中を轢き殺してやりたいって思ってるのか」
 と、静かに訊いた。悠は応えあぐねて黙ってしまった。
「違うか」
 いっそ勢いにまかせて「違わない」と言ってしまおうか――とっさにこう考えた彼だったが、その口は主人の心にもない命令になんとしても従わなかった。いかにもそうではない。いかに千枝に痛い目を見せられたからといって、同じ目に遭わせてやろうなどとは露も考えたことはない。彼女への憤懣があるのは事実だが、悠はこのとき初めて、自分がそれに託けて本当はなにを怒っているのか、自らに対してあえて暈かしていたことにはたと気付かされた。
「違うならさ、なあ、許してやったらどうだ。男らしくさ」
「帰ります」
 これいじょう彼と話すべきではない、話していれば余計なことまで吐露してしまいそうだ。悠はひとこと捨て科白して憤然と踵を返した。諸岡教諭が機嫌を損ねようがどうしようが知ったことではない、なにを言われようが振り返るまい。
「あっ、おい……」
 決然と歩き出した彼だったが、諸岡教諭にはいかにもふさわしからぬこの戸惑ったような声に、思わず脚を止めてしまった。
「なんです」
「……いや」
 しかし呼び止めたわりに、彼にこれといって用事のあるわけでもないらしい。悠はちょっと毒気を抜かれて、きまりも悪く振り返ると、
「あの、では……」
 と、締まらないながらふたたび辞去を告げた。
「んん、まあ、気をつけて帰れよ」
「はい」
「また明日な……」
 諸岡教諭は悠が訪ないを入れる前そうしていたように机に向かって、また書き物を始めた。その声音にも猫背にも、なんとはない寂しさが漂っているように思われたのは、悠の思い過ごしであったのだろうか。
さようならウァレー先生ラビ
 と、もうひとこと声をかけて、悠は職員室を後にした。
「クェシエルント・メ・クィ・アンテ・ノン――」
 部屋を出るさに追いかけてきた言葉は、悠に理解されるかどうかはともかくとしても、今度は聞かせるつもりで呟かれたものに違いなかった。悠は担任の意外な一面を見たように思い、また半ばは徒労に終わったようにも感ぜられたこの相談に、少なくとも諸岡教諭の慰問という意味はあったのだと、少しは気を取り直しもするのだった。あいかわらずの憤懣こそ胸から去らなかったが……



 わたしを尋ねなかったものたちが、わたしを求めたクァエシエールント・メー・クィー・アンテ・ノーン・インテルロガーバント
 わたしを求めなかったものたちが、わたしを探し当てたインウェネールント・クィー・ノーン・クァエシエールント・メー
 ほらここにいる。わたしはここだとディークシー エッケ・エゴー エッケ・エゴー
 わたしはわたしの名を呼び求めなかったものたちに言ったアド・ゲンテム・クァエ・ノーン・インウォカーバト・ノーメン・メウム



 いかにも、彼は寂しかったのだろう。悠の訪問が嬉しかったのだろう。男らしくだって? 悠は腹立ちまぎれに無理に嗤って見せた。そういう自分こそこんな女々しい、回りくどい謝意の表明など止すがいい。このおれのように男らしく孤独に耐えてみせるがいいのだ!
 このおれのように!






 ここ最近、放課のあと家へ直帰することはほとんどなかったと言っていい。
 悠が陽介を、ないしはそれに加えて千枝とを伴わずに、八十神高校の正面玄関を出ることもまたなかった。彼らは毎日判で押したようにジュネスへ繰り出した。店内をそぞろ歩き、フードコートに落ち着いたあとは飽かず四方山話――五方山話、とでも表現するのがより正確ではあろう――に花を咲かせ、たいていは夕方四時半前後をしおに、名残を惜しみつつ解散した。一度などは七時ちかくまで居座ったあげく、菜々子をしてフグさながらに変貌せしめたこともあった。
 彼らが悠なしでもこの習慣を守ろうとする可能性は高い。きっと陽介は雪子と千枝といっしょだ。フードコートのあのいつものテーブルでふんぞり返って、彼らは四時半ごろまで精出して悠を腐すのであろう。彼がフグになったからといって三人はそれを止めはすまい。おお不実者たちよ、気の済むまでやるがいい!
 こういうわけで、悠はジュネスへ行くことはできなかった。といって、こんなやるせない憂憤を自分の部屋に持ち帰るというのはいかにも面白くない。彼のつま先はほかにどこへというあてもなく、八十稲羽商店街を指して動いた。一時間もうろうろしていれば少しは気も晴れるだろう……
「おっ!」
 ちょうど因縁の「だいだら.」の前を通りがかるところであった。
 悠は両手をポケットに突っ込んで陰気に俯いて、店先の磨りガラスを恨めしげに眺めながら、このような魔窟で大事な時計を売ろうなどと考えた自らの浅慮を歎いていたところである。キリストでもアリストテレスでも誰でもいい、願わくばあの時計をわが手首に戻したまえ! ヤクザハゲは呪われてあれ! そしてこの店はもう地震とか落雷とかで跡形もなく潰れたまえ!
 声に出せばあるいは霊験もあるかもしれぬ――彼が口を開きかけた瞬間、睨めつけていたガラス戸がカラリと開いた。遮るものがなくなったので、悠の怨みの視線は当然のなりゆきとして、そのすぐ向こうにいたヤクザハゲ氏の面に注いだのであった。
 ヤクザハゲ氏――だいだらのオーナーが驚愕の面持ちで呻きを漏らしたのはこのときである。
「あ、あの、こんに――」
 と、慌てて挨拶する隙に、この凶賊の手が悠の手首を掴んだ。彼は抵抗する暇もなく竜の巣へと引き摺り込まれた。
「ちょっ、なにを――!」
「いいから! 静かにしねえ、悪いようにはしねえから!」
 そのまま問答無用で店の奥へ引っ張り込まれる。さながらベンチバイスに挟み込まれたようなもので、振り解こうと思うさえ叶わぬ恐るべき握力である。
 血の気が引く。恐ろしいことになってしまった。この男は悠から腕時計を奪ったばかりか、彼が司直に訴えかねないと踏んで始末しようと画策したのだ! 悪いようにはしない? ありがたくもその一片の良心らしきものが彼をして、犠牲者を無用に苦しめないための必殺の一撃を案じさせたのだとして、いったいそれが悠にとってなんの慰めになろうというのか。
「おっ、おじさん、落ち着け、早まるなよ! 刑事が親戚ってのはウソじゃな――!」
「すまねえ、このとおりっ!」
 悠はレジの前まで引っ立てられたあと、すぐさま解放された。のみならずヤクザハゲは腰を九十度に折り曲げて、悠の目の前に禿頭のてっぺんを突き出した。
(な、なんだ、なにが起きた?)
「許してくれよ、俺ァまた盗品だとばっかり」
「なに、なんの話だよ……」悠は恐るおそる訊いた。
「これだよ、これ」と言って、ヤクザハゲはポケットから件の時計を取り出した。「俺としたことがナルカミと聞いてピンと来ねえたァ、いかに現役から退いたにせえ面目もクソもあったもんじゃねえや」
「ちょっと、待って、なんの話だよ」悠はふたたび訊いた。
「でもあんたもいけねえ。いやあんたのオヤジさん……あーいや、ご当代さんとお呼びしたほうがいいな。ご当代さんはあんたにこれのことを説明なさらなかったようだが、いくらなんでもこれを――」
「ちょっと、待って、くれって!」悠はようやく少し落ち着きを取り戻した。「なんの、話? いきなり引っ張り込まれてぜんぜん話が見えない。順を追って説明してくれよ。盗品って?」
「それについちゃあこっちが誤解するのも無理ァねえってこと、わかってもらえるだろ?」
「わかってもらえないよ。なんで?」
「ああそりゃそうだ、わかんねえはずだ。あんた……なんて呼ぶのァ失礼か。坊ちゃん」ヤクザハゲは悠の時計を示しながら、「この時計、いくらするか知らねえだろう」
(坊ちゃん……?)
「百万くらい、じゃないの?」
 ヤクザハゲは深いため息を吐いた。
「……坊ちゃん、時計のことぜんぜん知らねえだろう」
 彼の口調には侮るような、憫れむような色がある。そんなことを知っていていったいなにになるというのだ――悠はムッとして「知らないよそんなの」と呟いた。
「まあ、そんなこたァ最初ここに来たときからわかってァいたんだ。だから盗んだモンだって思ったんだが……坊ちゃん、この時計、携帯と同じポケットに入れてたな」
 指摘されてもまったく記憶にない。悠にとってはどうでもいいことだったが、ヤクザハゲの言葉にはうっすらと非難の色が滲んでいた。どうもしてはいけない類のことだったらしい。
「覚えてねえかい。気にしてねえってのもまあ、素人の証拠だぜ。これは機械式だから電子機器に近づけちゃなんねえんだ。着信でも来てみな、一発でタイジしちまう」
「……タイジってなに?」
「テンプまわりが磁力を帯びて時計の精度が狂っちまうんだ。最近のァそれでもいろいろ対策してあるけどなァ、ビンテージだのアンティークだのってなると最悪もう全部バラして――」
「いい、わかった、もういい――」待てよ、この大男はなにか重要なことを言ってはいなかったか?「――じゃない! そうだ、それ、いくらするか知らないとかなんとか言ってたけど」
「気になるかい。気になるだろうよ」
「いくらするの?」
 ヤクザハゲは得意げに鼻を鳴らしてみせた。
「まあわかってりゃあなァ、百万で定価と変わらねえなんて言われて黙ってなんかいねえだろうしなァ……坊ちゃん、これ、そもそもなんていう時計かも知らねえだろう」
「おじさんの知らねえだろうはもう聞き飽きた。メモヴォクスだろ」
「ひとくちにメモヴォクスっつったっていろいろあるんだぜ。これァな、ジャガールクルトってえ老舗マニュファクチュールのモンでな」と、ヤクザハゲはさも嬉しげに説明を始める。「ルクルトっつったら懐中時計の昔から名の知れたメーカーだ、時計ずきを唸らせる硬派なブランドさ。そりゃブレゲだパテックだヴァシュロンだって大御所の横に並べられちゃあ――」
「おじさん蘊蓄はいいから。値段」
「ああそうかい。これァ2008年に発売されたメモヴォクス・ポラリス復刻モデル……あーメモヴォクス・ポラリスってのァ1965年に出たダイバーズウォッチの名機でね、当時としちゃあ――」
「ね、だ、ん!」
「坊ちゃんせっかちだな。ええ2008年に発売されたメモヴォクス・トリビュート・トゥ・ポラリスは限定七百六十五本、定価百八十万円なり、と」
「百、八十万……」悠が売ろうとした額の約2.5倍である。
「だがな、それァ同時期に発売された1968年モデル復刻のほうなんだ。坊ちゃんがご当代さんに頂いたこの時計はさっき言った65年モデルで……ほれ、ここんとこ、Pt950って打刻してあるの、見えるかい」
「うん」
「意味がわかるかい」
「わからない」
「だろうさ。わかってりゃあ――」
「おじさんしつこいぞ。はやく値段」
 ヤクザハゲは寂しそうに巨体を縮こまらせた。
「……Pt950ってのァな、これが純度九十五パーセントのプラチナでできてるってえことなんだ」
「へえ」
「へえ、だけかい」ヤクザハゲは不満そうにしている。「まあいいや。これァな、世界限定で百六十五本だけ作られた特別版、お値段は……」
「……お値段は?」
「定価で四百三十万円なり、だ」
「よん……」悠は絶句した。
「どうだい、少しァ驚きやがれ果報モン!」
 開いた口が塞がらない、とはこのことである。輔は果たして正気だったのか? 父がそんな金を持っていたというのも驚くべきことだが、それをたかだか息子への入学祝いごときに費やして、それを万が一にも妻に知られたとしたら、もはや冗談にさえどんな惨劇を招来するか想像することもできない。四百三十万円――高校二年生にとっては1auとさして隔たりがあるとも思われない天文学的数字である。それだけあったらいったいなにができる? 小さな家くらい買えてしまうのではないか……
「偽物、じゃ、ないの?」
「ニセモノじゃあねえよ。開けてみりゃわかる」と、ヤクザハゲは請け合った。「風防のキズもな、実ァそんなに大したこたねえんだ。これァ復刻元に忠実でプラスチック製だからよ、サファイアとかだったらちっとめんどくせえことにもなったけど」
「サファイア……?」あの時計の中に宝石が詰まっていたとしても不思議ではない。「もうなにがなんだか、めまいがしてきた……」
「サファイアってのァ」
「もういい! 説明はもういいよ」
(それより……そうだ、なんでこいつ、今になってこんなことを?)
 四百三十万円ショックはこのさい置くとして、不可解なのはこの男の掌を反したような態度だ。先にかの時計を捨て値で――悠が七十八万円で売ると言ったとき、彼は渋面の下でほくそ笑んでいたのだろうが――買い叩いておきながら、いまこのようにして本当の価値を明かすその真意とは? そうといえば彼は冒頭で悠にあたまを下げて謝罪していた。さきほどから彼のことを「坊ちゃん」と呼び、輔を「ご当代さん」だなどと呼んでいる。悠とその父をなにか特別の地位ある者として認識しているようなふしがある。たしかに架空の極道の子を演じはしたが……
(さっきナルカミと聞いてピンと来たとか来ないとか言ってたな)
「百万以下で売るなって言われた、なんてのァ坊ちゃんの狂言だろう。ご当代さんがこれを買ったんだとしたら、まさかそんなことァ言わねえはずだ。時計ってのァ状態にもよるが中古でも――」
「おじさん、ちょっといい?」と、悠はヤクザハゲを遮って訊いた。「さっきから言ってるその、坊ちゃんとかご当代さんとかって、なに?」
 彼の質問に、ヤクザハゲはなんとも言えない微笑を返した。
「坊ちゃん安心しねえ。渡世の仁義さ、俺ァよそに漏らしたりァしねえよ」
「……なにを?」
「いまでこそこんな場末で趣味の店をやっちゃあいるが、かつてァいっぱしの渡世モンだったんだ。坊ちゃんもそれを警戒したんだろうに」
(なに言ってんだコイツ……トセイモン?)
「意味がわからないんだけど」
「まあまあ、いや、坊ちゃんがあくまでそう言い張らなきゃならねえ事情ってのァ、こちとらわかっちゃあいるつもりだ」ヤクザハゲはどうどうと両手を掲げて見せる。「だがな、ちっと不用心じゃねえかい。昨日のガキ、じゃねえ、ご同輩は坊ちゃんの名前を知ってたみてえだが」
「意味が、わからない、んだけど!」
「サンノゼのナルカミっつったらまあ、明治の昔から知る人ぞ知るってえ伝説の大任侠だ。おいそれとそのへんの有象無象が知ってるはずァねえけどよ、俺みてえにその道に明るい人間が聞きゃあピンと来ちまうぜ」
 サンノゼのナルカミ。どうも口調から察するに、アメリカ西海岸在住の陽気な日本人シェフのことではなさそうである。
「おじさん、なんか、ものすごい誤解があるみたいなんだけど!」
「坊ちゃん、まあ、悪いようにはしねえよ。信じてくんな!」ヤクザハゲはその凶相に善意らしきものを漲らせた。「ついてァこんなこと頼むのァちょいとこっぱずかしいんだがよ、ご当代さんの、ええと何代目になるんだか不勉強で知らねえんだが、ナルカミユウゾウさんのサインとか、頂けねえもんかな。坊ちゃんから頼んでみてくんねえかい」
「ごっ、誤解だってば! サンノゼっていうのはカリフォルニアの一都市のことで!」
「カリフォルニア? あはは面白えこと言うぜ。こんな時計を子供の入学祝いにポンと投げてよこす大器量が、カリフォルニアのサラリーマンだってえのかい? 笑わせらあ」
「親バカなんだうちの親父は! いやバカなんだ!」
「そういう坊ちゃんからして明らかに普通じゃねえ。その若え身空であんだけ肝が据わってて、慌てて偽名つかっといて、おまけに本名は伝統のユウの字ときた。いまさら知らぬ存ぜぬたァちょいと白々しいやな。まあ安心してくれや、俺ァ知られても大丈夫な人間だ! あんたがたの命をつけ狙っちゃあいねえ」
「ちがう誤解なんだおれはヤクザじゃない! ふつうの高校生なんだってば!」
 背中にじっとりとイヤな汗が浮いてきた。妙な誤解をされるだけならまだしも、この男が明治以来の大侠客の裔を紹介したさに、悠を「事務所」へ連行するなどという事態になっては目も当てられない。
「あ、そうかそうか、身元がバレたってえことをご当代さんに知られちゃあまずいんだな。こりゃ気が回らなかった。そんならサインは諦めるしかねえか」ヤクザハゲは訳知り顔でウンウンと頷いている。「いや、坊ちゃんはうまくやってたぜ、俺にァ見抜かれちまったがよ。たださっきも言ったけどな、本名を触れ回るのァあんまり褒められたことじゃあねえな」
「誤解なんだってば……!」
「……それともなにかい、ひょっとしてもういるのかい、この町に」
 ヤクザハゲは声を潜めて、しかし若干うれしげにこう囁いた。
「な、なにが?」
「つまり、知られちゃあマズい奴ら、だよ。ああいやっ! 俺ァなに言ってんだいるに決まってらあな! それでなけりゃあご当代さんから頂いた大事な時計を金にしようなんて考えねえだろう。そんなら俺もひとはだ脱ごうってもんよ!」
「え?」
「ハコなし付属品なし使用感あり。定価四百三十万そっくりァむろん渡せねえが、そういう事情があるなら大いにイロつけさせてもらおうじゃあねえか。俺ァ義侠心だけが取り柄でね」
「いろ?」
「とりあえず今、ズクで百万。そのあとはおいおい入り用のときにってことでどうだい。なんなら言ってくれりゃあなんでも揃えるぜ。そんじょそこらじゃ売ってねえモンをよ」
「ずく?」
「札束な。おっと高校生は知らねえでいい言葉ってかい?」
(札束……百万……揃える……)
 このとんでもない誤解、ひょっとして解かないほうがいいのでは――悠のあたまは凄まじい勢いで回転し始めた。この誤解に乗ずればヤクザハゲの信用と、大金と、ひょっとすると向こうの世界で身を守るために必要な、諸々の道具の調達手段とをいちどきに手に入れることができるかもしれないのだ。少なくともこれで金の問題はほぼ解決する……
「……おじさん」
 と、悠は今までとは打って変わって低い、落ち着いた声で言った。気分はふたたび極道の息子である。
「誤解なんだよ。おれはヤクザじゃない」
「おっとまだ言うかい。それほど信用しちゃ――」
「おれはヤクザじゃない――そういうことになってるんだ。理由はまあ、だいたいわかってもらってるみてえだけど」
 ヤクザハゲは得たりと頷いた。
「おじさんに腕つかまれたときァ、しょうじき心臓が凍ったよ」まんざらウソでもないのだが。「おれもこれでおしまいかってね。銃は置いてきちまったし、おじさんと殴り合って勝てるたァ思えねえし」
「あんたがたみてえなマブの任侠にァ敬意を払わにゃな。いってえ俺も古いタチのヤクザでね、そのへんのチンピラならともかく、まさかサンノゼのナルカミをどうこうしようなんて思わねえさ」
「親父に知られたら半殺しだ。誰にも喋らねえでくれるよな、おじさん」
「坊ちゃんがそうしてほしいってんならしねえよ。ただ」ヤクザハゲの岩壁のような面がふと緩む。「ミーハーなようだが、俺ァぜひともこの目でいっぺん、ユウゾウ親分さんのお顔を拝んでみたくてよ。遠くからでいいんだがよォ、ひとつ頼まれてくれねえかな坊ちゃん」
「おっ親父は……ここにはいないよ、もちろん!」冷や汗が出た。「いたら自分の時計売ったりなんかするもんか。親父はいまアメリカにいるんだ」
「おっと、旅かけていなさるんかい! アメリカのどちらに?」
「カリフォルニアのサン……フランシスコ。こ、これ以上は言えねえ」
「そうかい、そりゃ残念だな。で、いつお戻りなさる?」
「そっ……言えない。おじさんは知らなくていいことだろ?」悠はあえて警戒心を見せた。「それとも知らないと困る事情でもあるのかよ」
「いやいや、そんなこたねえが……」
 このまま質疑応答を続けているとボロが出そうなので、悠はせいぜい深刻そうに「おじさん、もしちゃんと買い取ってくれるつもりがあるんなら、悪いけど急ぎで百万ほしいんだ」などと急き込んで訴えてみた。
「親父がいりゃあこんなこと頼まなくても済むんだけど」
「おお悪い、じゃあ早速」
 ヤクザハゲがカウンターの中へ入ろうとしたところで、背後から店の入口の開く音がした。こんな店に寄りつく客もあるのだ。
「おっとお客さんかい――おおいカンジ! ちっと来てくれ!」と、ヤクザハゲはカウンター奥の暖簾に向かって怒鳴ったあと、悠に手振りでそちらを示してみせた。「いま甥っ子に案内させるから、いっしょに奥へ入ってくんな。俺もおっつけ行こうからよ」
(息子じゃなくて甥っ子だったか)
 カンジ、というのはきのう見た不良のことだろう。果たして「なんだァ?」とのんびり暖簾を潜ってきたのは、例のツナギ姿の大柄な少年である。
「カンジ、この坊ちゃん、じゃねえ、このひとを工房へ案内してくんな」
 叔父にこう言いつけられたのが意外だったらしく、少年は「おや」とでも言いたげに目を瞠ってみせた。
「おう。いいの?」
「いいんだ。俺もすぐ行く――おっと、自己紹介がまだだったな」
 入口へ向かいかけたヤクザハゲが回れ右をして、その柱のような腕を突き出して握手を求めてくる。
「この店、だいだらぼっちのオーナー、ダイダロス巽だ。よろしくご贔屓に!」
「……鳴上悠です」
 あのだいだらの後の点は「ぼっち」と読ませるのか。無理があるんじゃないのか――などと考えているのはおくびにも出さず、悠は目の前のベンチバイスに手を挟んだ。






 長身の少年は巽完二と名乗った。そして名乗りがてら、おじの本名は良一というのだと悠に教えた。
「似合わねえっしょ? ゴンゾウとかイワゴロウとかって顔っスよね、あれ」
 にこにこしながらおじの容貌をからかう。彼は悠よりひとつ歳下ということだ。暖簾の先の靴脱ぎから住家へ上がってすぐ、彼は悠の首のあたりを指さして「先輩っスね。オレ一年っスから」と言ったのだった。八十神高校の制服の詰襟にはみな一様に、学年を示すラペルピンがついているのである。
「八十神高校?」
「八校っスよ。あ、三年に見えました? デケーから」
 いったい高校三年生にさえ、彼のようないかにも不良然としたいでたちの生徒はそういまい。悠を凌ぐ長身とあいまってそのみてくれはかなり威圧的である。にも拘わらず、この巽完二という少年は見た目の印象を大きく裏切る、いたって穏和かつなかなかに礼儀正しい人間なのだった。
「むぎ茶しかねえな……湯わかしてるヒマに来そうだし……すんませんむぎ茶でいいスか? 冷たいんスけど」
 完二は暖簾を潜ったその足で叔父に言われた工房へ向かうことはせず、台所と思しい部屋へ悠を伴うと、冷蔵庫の中を漁りながら思案げにこう言うのである。
「え、いいよいいよ、お構いなく」
「じゃむぎ茶で」
 完二は巨大なコップになみなみとむぎ茶を注いで、わざわざそれを盆に載せて悠に勧めた。悠としては恐れ入って押し頂いて、飲みたくもない大量のむぎ茶を無理して胃に流し込まざるを得なかった。
「なんかおかしあったかな……せんべいとかあったよな……勝手わかんねえな……」
 冷蔵庫の探索が不首尾に終わると、彼の捜索の手はその辺りの戸棚へと伸びた。お盆サイズの煎餅かなにかでも探して来かねない気配だ。
「いいよいいよ! それよりええと工房? 案内してくれないかな。オーナーもじき来るだろうしさ」
「じゃあ……こっちっス」彼は持っていたレコード盤みたいなどら焼きをしまい直した。
 悠は完二の先導で、ちょうど店舗の暖簾の真向かいにある裏口から、小体な庭のような空き地へ出た。面積にして五坪ほどの草地の左右を、目隠しの羅漢槙が壁のように挟み込んでいて、それが奥に建っているコンクリートでできた方形の小屋へと連結している。少し小さいようにも思われたが、ダイダロスの言っていた工房とはこれのことなのだろう。
(なんだこれ……)
 庭へ踏み入っていくらも行かないうちに、悠の視線は右手側に釘付けになった。彼の心の声を聞きつけたのか、完二が「よくできてるっしょ? コレ」と振り向いて、悠の凝視していた高さ二メートルほどの立像を指さした。
 空き地の右手に、美術の教科書に載っていたほぼそのままの、ミケランジェロのダビデ像が佇立しているである。
「本物よりだいぶ小せえし、パース修正してるし、大理石じゃなくてサスだけど。でも」完二の指はダビデ像の股間を指していた。「いくらなんでもアレはねえっスよね。作ったのはいいけどこんなの表に飾れねえっつの」
 完二いわく、それは彼のおじことダイダロス巽の作であるという。
 もっとも悠をしてその心に「なんだこれ……」と言わしめたのは、ヤクザの庭にルネサンスの精華を見出したからではない。まったくダビデ像は驚くほど精巧だった。どうやらオリジナルに忠実なポーズを取っているらしいのだが、その股間だけが大いに様相を異にしているのである。悠のおぼろげな記憶と照らし合わせても明らかに巨大で、そればかりか天を指して隆々と屹立しているのだった。
 いかにも、こんなものが店前に立っていたら猥褻物陳列のかどで警察が飛んでくるだろう。「だいだら.」がどのような購買層へのアピールを狙っているかについて、取り返しのつかない誤解を周囲に与えかねない。
「たまにこういうワケわかんねえモン作るんスよ、あのおっさん」奥の小屋へ歩き出しながら、完二は悠を振り返って苦笑してみせた。「オリジナルは小さくて貧相だ。まるで臆病風に吹かれたみてえに縮こまってる。男らしくねえって。なに考えてんだか……」
 などと口では言ういっぽう、どうも彼におじを貶すつもりはないようで、ダビデ像を振り返る面には感心と、なんとはない自慢の色があった。なるほど、ごく一部を除いてはしろうと目にさえ、オリジナルへの敬意と傾倒とが垣間見える出来ではある。きっと完二の自慢したいのはダビデ像ではないのだろう。
「ここ、靴のまま入れるんで」
 意外なことに、小屋の鉄扉の向こうには工作台のひとつさえあるでもなく、がらんとした空間が広がっているだけだった。
 かといって殺風景というわけでもない。室内は白い石目調の壁紙で覆われ、向かって正面と右手の壁際には、いくつか等間隔で大理石様の台座が設えられている。どうやらなにかを展示するためのもののようで、室内用のほかにライティング専用の照明が台座ごとにひとつずつ、天井に穿たれた穴から落ち着いた光線を投げかけている。
 ほかはすべて空であるのに、正面の台座のひとつにだけ、灰色の布のようなものに覆われたなにかが置かれていた。
「ここって、展示室?」
 悠の問いかけに完二は応えない。彼は数秒ほど灰色の布を見つめていたが、じき興味を失ったようにして左の壁際へ向かった。
「こっちっスよ。ここは物置っス」
「あ、うん」
「ほらここ、入口のほうから見ると陰になってて見えねえんスけど……」
 入口から見て左手側に台座のない理由がわかった。完二が案内したそこには、照明の加減によって巧妙に隠された地下への階段があったのである。
「これ……ひょっとして、この先が工房? 地下室なのか」
「そっスよ。ワクワクするっしょ?」完二はにこにこしている。「ここの床もフロアマットはぐればハッチがあるんスよ。下の工房ともののやりとりとかできる」
「とんでもないな……」
「オジさんがここにヒト通すなんて、あんまりねえことなんスけどね」
 完二はそう言うと、ふと階段の途中で立ち止まって、半身になって悠を振り返った。
「ところで、オジさんの、ダチにゃあ見えねえスけど、先輩って……?」
 もの問いたげに見上げてくる。当の悠でさえこの成り行きを不思議に思っているくらいだから、わがおじをして格別の配慮をさせるこの「先輩」の素性を完二が怪しむのも無理からぬ話である。
 といって、まさか腰を割って「ええお控えなすって。手前生国はサンノゼ姓はナルカミ名はユウ」云々とぶちあげるわけにもいかない。悠が大任侠の裔だなどという誤解は、ダイダロスの脳内でのみ完結している妄想だからこそ成り立つもの。悠の乏しい知識ではその誤解を助長してやれるようなウソひとつさえ、生半にはひねり出せないのだ。ダイダロスに対してそうすべきであるのと同様に、その甥っ子にもこのさい余計なことは言えまい。
「いや、別に、たんに客ってだけでさ……あっそうそう、さっきのアレ」
 どう説明してみようもないので、悠は先に見た灰色の布へと話を転じた。階段から伸び上がって台座のほうへ視線を投げながら、
「ひとつだけなにか置いてあったよね。布で覆ってあったけど、あれはなに? 今度はピエタとか?」
 と訊いてみる。完二はいかにも気のないふうで「あれはただの端材っス」と応えた。
「さっき見たと思うんスけど、いま改装中なんスよ、そこ」と、完二は天井を指さして見せる。「もともとはマジで物置だったんスけど、あのおっさん急にディスプレイ用の部屋つくるとか言い出して、見切り発車で工事はじめちまったもんだからとにかくモノ置くスペースがないんス。で、とりあえずあそこに仮置きしてるってだけで」
「ああ、そうなんだ……」
「そうそう、工房はいってからもそうスけど、あんまりそのへんのモン触らねえほうがいいっスよ先輩。オジさんマジでキレるから」
 笑っていてさえ恐ろしいあの男が「マジでキレ」たりしたら、もう菜々子などはショック死しかねない形相となるに違いない。かのダイダロスの容貌を運命づけたサタン的遺伝子を受け継がずに済んだことは、この目の前の気のいい少年にとって幸運であったと言うほかはない。彼は神のパターナリズムに感謝してキリスト教徒になってもいいくらいである。
「あのおじさんがキレたらすごいだろうな」
「ま、滅多にキレねえスけどね。キレてるみてえに見えても本人は笑ってるつもり、なんてこともしょっちゅうだし――こっからちっと急っスから、足もと気ィつけて」
 階段を一度折れるとじきに、裸電球に照らされた扉が現れた。その上の銘板には出来過ぎたことにこう彫ってあるのだった。
『LABYRINTHOS』





[35651] キュアムーミンだっけ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b702ab77
Date: 2015/10/18 13:01



 そこは工房というより、ちょっと工場の趣があった。広さはもはや地上階の「ディスプレイ用の部屋」の比ではない。おそらくは住家や店の敷地に跨っていることだろう。
(ミノタウロスはいないな……まあ、じき来るんだろうけど)
 悠は入ってすぐのところに立ったまま、天上の両端に設けられたランウェイを移動する小型のクレーンを見上げていた。そこからぶら下がった箱状のコントローラーを完二が握っている。彼とクレーン、主従いっしょになってゆっくりと部屋の隅へ歩いていく姿は、ちょっとリードを保持する飼い主と犬のようにも眺められた。
「やべえやべえ。オジさんに見っかったらまたギャーギャー言われるトコだった。すんませんね」
 悠はここへ来てすぐ、完二に「あぶねえからここいて下さい、ちっとホイストかたしてくるんで」と言い含められていたのである。もっとも彼が危惧するほど「犬」ははしゃいだりしなかったのだが、操作次第ではひとに巻き付けたり締め上げたりできるのかもしれない。なにせ飼い主はあのダイダロスなのだ。
「ぜんぜん構わないけど……すごいな、クレーンとか使えるんだ」と、悠は素直に驚きを表明した。「ああいうのって免許とかいるもんだと思ってた」
「免許ォ、は、どうなんスかねえ、ホントはいんのかもしれねえけど」完二はどこ吹く風といった様子。「とりあえず使うのァ誰だってできますよ、あんなの」
 と言って、今ほど隅に追いやったクレーンをあごで指す。なるほど、あの犬くらいならあるいは悠でもなんとか手なずけられるかもしれない。が、
「じゃあ、この周りのやつは……?」
 相手がライオンやトラではもはや挑む気さえ起きない。ざっと眺め回した先には、悠の知識ではなにとも判じかねる大型の「きかい」が設置してあった。もの言わぬ鉄の大型獣はぜんぶで四匹。緑色に塗装された床におごそかに鎮座ましまし、凶器を満載したスチールワゴンやらガスボンベやら石のドーナツやら糸ノコの化物やらを引き従えて、無言のうちに彼を威圧している。いまこそ生贄に送り込まれたアテナイ人たちの心細さが偲ばれようというもの。
 機械はいずれもひと一人が腰を屈めて中に入れるくらいの大きさで、実際に窓がついているものもあった。ひょっとすると中には椅子が設けられていて、間仕切りを隔てて反対側に聴悔師が座っているのかもしれない。もしくは正面のパネルを操作すると中の椅子に向けてマスタードガスが発射される? この方面に別してうとい悠では、それらが小型の告解室なのかガス室なのか即座には判断しかねるのだった。
「ああ、アレはさすがにムリっス」と完二が笑って否むのを見て、悠はからくも自尊心を保ち得た。「シーエヌシー使いこなせる高校生とかなかなかいねえっスよ。マニュアルな旋盤とかフライス盤なら使えっけど、マシニングセンタはプログラミングだのキャドキャムだのの知識いるし……ま、オジさんとオジさんの知り合い専用ってカンジっスね、あっちは」
「……ああ、へえ、そうなんだ」はて、彼は歳下のはずではなかったか?「なんか、工房って聞いてたからさ、こういうメカみたいなのがあるのって、ちょっと意外だったというか……」
 言いながら、悠はあらためて周囲を見渡してみた。その顔に似合わずダイダロスは几帳面な質のようで、広々とした地下室はいたって整然としている。先に完二がこぼしていた「とにかくモノ置くスペースがない」ような様子はまったく見受けられない。大小とりまぜて使い方もわからぬ機械や工具のたぐいが散見されるわりに、それらを使って造られた製品らしきものがほとんど見当たらないので、なんとなくモデルルームめいた人気の希薄な雰囲気すらあるのだ。こことはべつに倉庫のような建物があるのだろうか。
「工房っていうより、工場? ここで店の商品とか作ったりしてるの?」
「いやァ、あのヨロイだとかヤリだとかはあんまり……ここは使ってねえんじゃねえかな。たぶんあっちメインっス」
 と言って、完二は部屋の奥の扉を指さした。この地下室にはまだ続きがあるらしい。
「ここはまあ工場っつーか、工房の一部ではあるんスけど、部品作ったり機械だけ貸したり、ちっとデケーもん作ったりするトコかな。ちなみに向かいのあのシャッターは搬出入口で、あっから外でられるんスよ」
「へえ……え、じゃあ、いま降りてきたそれらしい階段って」
「フンイキないっしょ、シャッターから入って来たって……てのがオジさんの言い分スけど」
「それはまあ、わかるような……」
「スよねえ。あ、向こうも見ます? メカメカしいのはここだけっスよ、奥のほうはもっといろんなモンあるし、まあメカっぽいのもあっけど小せえし」
 完二はいよいよ愛想もよく、はや悠の返事も待たずに「奥のほう」へと歩き出している。つまるところこの工房を案内したいのだろう、彼はちょっと宝物を自慢したがる子どものようにも見えた。
「あ、いやいいよ、もうじきおじさんも来るだろうしさ」なんだか自分がバカみたいに思えてくるし。「それにしても、巽はすごいんだな。さっきも言ったけど」
 完二のきれいに剃り上げられた眉がちらと上がった。
「なにがスか?」
「いや、なんか、ずいぶん色んなこと知ってるみたいだしさ。ええと、この工房? 機械とかおれにはもうさっぱりだけど、かなり詳しいみたいだし」
 完二のきれいに剃り上げられた眉がにわかに顰められた。その面に漲っていた愛想がみるみる薄まって、彼はありていに言って悲しそうな顔になった。このように褒めればはにかみもするかと思いきや、予想外の反応である。
「べつにそんなの、大したことじゃねっス」
「そう? おれはその歳でクレーン使える人間って初めて見たな」そもそもクレーンを使う人間じたい見るのは初めてだけど。「この周りの……ええと、ティーエヌティーだっけ、こんなもの見たことも聞いたこともなかったし。でも巽は知識を持ってる」
「シーエヌシーっス。知識あるったってそれほど詳しいワケじゃねんスよ、使えるワケでもねえし」
 完二の面にはじき笑顔が戻ってきたが、それは多分に自嘲の混じる苦いものである。謙遜しているふうはない。
「でもマニュアルのは使えるって言ってたじゃないか」
「あんなのァ小学生だって使えますよ。スゲーのはオジさんたちなんスよ、マジで。オレなんか……」
 完二はその長身を撓めて鬱々としている。こんな不良然としたいでたちさえしていなければ、まるで「なやめる少年」という題で彫られた彫像のよう。
(なんか……上でも思ったけど、ずいぶん見た目とギャップのあるやつなんだなァ)
 巽完二という少年はまったく、その姿形こそ暴力的かつ典型的な「不良」なのだった。その口調も仕草も洗練からはかけ離れた、かなり粗野な部類に入るだろう。彼のスタイルははっきり言って反社会的との誹りを免れ得まいし、おそらくそれは自らも認めるところのはずである。
 そのごつごつした巌のような外殻の内包する中身の、しかしなんと感じやすく柔らかであることか! こうして憂鬱に顔を曇らせている様子、落ち込みやすそうなところなどはいっそ他人とは思えないほどである。悠はなんと返していいものか困るいっぽうで、たとえその内容に逕庭こそあれ、同年代の人間が目の前で数時間前のわれと等しく思い悩むさまに、気の毒ながらも小さからぬ慰藉を見出すのだった。おおなんじ相憐れむべし、アテナイの同胞よ! いったい「なやめる少年」というのはどこにでもいるものらしい。
「おいおいイヤミな後輩だなァ、おれの立つ瀬がないよ」と、悠は親身に声をかけた。「巽の言う『そんなの』をひとつ上のおれはまったく知らないんだからさ」
「知ってたってなんのイミがあるんスか。大したモン作れるワケでもねえし……」
「巽には大したモンでなくたって、おれには大したモンかもしれない。巽以外の多くのひとにとってもね。ついでに言えば、巽のおじさんが巽みたいに考えてないってどうして言える?」なんだか弟ができたみたいに感じて、悠はひとしお親身になった。「巽がおじさんをスゲーって思うのと、おれが巽をスゲーって思うのとに、違いらしい違いなんてないよ。そう思ってないのは当人だけだ」
 さして親しくもない、ついさっき知り合ったばかりの先輩がこのように言い募るのに、完二は少しく驚いた様子だった。が、じきその言葉に慰めを得ると、彼は彫りのふかい面に羞じらい含みの感謝の色を浮かべて――などということにはならず、
「……先輩、オジさんからなんか聞いたんスか?」
 打って変わって猜疑の色を濃くする。
(おや、なんだか裏がありそうな……)
 どうやらいま完二の抱えている悩みは、あるていど具体的な形を持つらしい。悠は疑問よりも多く好奇心から「なんかって、なにを?」と質問で返した。
「おじさんから巽のことはなにも聞いてないよ。そもそも直前まで紹介してもらってもない。さっき『甥っ子に案内させる』なんて言われるまで、てっきりおじさんの子どもだと思ってたくらいだし……で、なんのことなの?」
「……いや、なんでもねっス」
 じき悠が事情を知っていそうにないことを悟ったようで、完二は傍目にもわかりやすく後悔の色を見せた。こういう様子からも彼の正直なたちが垣間見えるようだ。
「気になるけど、訊いて欲しくなさそうだから訊かないでおこう」言外に詮索する気はない、と伝えるつもりで、悠はにやっと笑って見せた。「そうそう、話は変わるけど、さっき上でもの置くスペースがないなんて言ってたけど――」
 ふと、完二が顔を上げて悠の背後へ目を放った。なにごとかと振り返る間にも、重い足音が上から降りてきて、じき工房の扉が開いた。上枠を潜るようにしてのっそりと入ってきたのは、
「いやあすまねえ、すっかり待たせちまって」
 ミノタウロスでなければダイダロスである。
「どうでえ坊ちゃん、この工房はよォ。ちょっとしたモンだろうがい」
 と悠に挨拶がてら、ダイダロスは左手に提げていたビニール袋から親指の先ほどの小瓶を摘み出して、
「ほれ完二、パウダー。頼んでたヤツ来たぜ」
 それを甥に向かって示して見せた。
(パウダーって、なんの?)
 パウダーというからには、あの小瓶の中身は粉なのだろうか。彼が持っているだけでもう悠の脳内には末端価格だの禁断症状だのダルクだのといった不穏な言葉が浮かんでくる。それをいったいどのような必要に駆られて完二が「頼んでた」というのだろう……ややもすれば目の色を変えて息を荒らげはすまいかと、悠は後輩の顔色を恐るおそる窺っていたが、
「オジさん、オレうち帰っから」
 彼の懸念に反して完二の返事はそっけない。
「え、おい、おめえパウダー」となおもダイダロスが言うのを、
「そのへん置いといて」
 いいかげんに去なして、すれ違いざま悠に「ッス」と会釈すると、完二はおじと入れ違いに工房からそそくさと出て行ってしまう。
「……なあんだってんだ完二のヤロウ。しょぼくれちまって」
 呆然と甥の背を見送ったあと、ダイダロスはぽつんと呟いた。
「いや、なんか、まわりの機械の話してたら急にふさぎ込んでさ……どうしたんだろう」
 悠は訊かれない先からこう弁解した。完二に訊かないでおこうと言った手前、先の会話をこまごま報告してダイダロスの心当たりを引き出すというのもなんとなく憚られる。ここはなにか訊かれる前にこちらから先制して追求を避けておいたほうがよかろう。
「巽って、いつもああなの?」
 と、悠はせいぜい不思議そうに尋ねた。
「いやァ、んなこたねえはずだがな。まあ見た目に寄らねえ繊細なとこァあっけどよォ……俺みてえによォ……」
(同意してほしいのかな……)
「ところでおじさん、そのパウダーって、なんのパウダー?」悠は無慈悲に聞き流した。「ひょっとしてその、手が後ろに回るたぐいのパウダーとかじゃあ、ねえよな……」
「手が後ろに――あははコレがヤクだってかい、笑えねえ冗談だ!」
「おじさん笑ってる」
「へえ、こりゃ一本とられたな」ダイダロスは苦笑しながら、「俺ァあとにもさきにもまっとうな稼業しかしたこたねえよ。こいつァダイヤモンドだ。クスリじゃねえ」
「ダイヤモンドって、宝石の?」そういう名前のついた犯罪的粉末という可能性も捨てきれないが。「そんなもの買えるの? っていうか、そんな硬いものを粉になんかできるの? ダイヤって世界でいちばん硬いんだろ」
「基本的にァ硬えモンほど簡単に砕けるんだぜ坊ちゃん。まあ例外はねえでもねえけど……なんだきょうびの学校じゃそういうことァ教えねえのかい」
 彼に悠を小馬鹿にしているふうはない。単純に不思議そうにしている。硬いものほど簡単に砕ける――ダイダロスの口から聞いたというのは引っかかるが、ちょっと含蓄に富んだ言葉ではないか?
「それにダイヤは高えったって、こういうのァみんな合成だ。値が張るのァ天然モンさ。しかも宝石質でピッカピカの、それこそ指輪の台座に載るようなやつだぜ。いってえ石ァみんなそうだ。鉱物的特製だけを求めるんならまあ、そんなにァしねえのさ。これなら一万もしねえよ」
「へえー……で、なにに使うの、そんなもの」
「こりゃ研磨剤だ。坊ちゃんの言うとおり、ダイヤは世界最硬だろ? まあ厳密に言やあ違うんだが……とにかく硬えは硬えわけだ。そのコナでゴシゴシ擦ればよ、ダイヤより柔らかいモンはよく磨けるってえ寸法よ」
 ダイヤモンドの研磨材。悠がふだん立ち入るような店には間違いなく売ってなさそうなしろものだ――それこそ防弾チョッキと同じくらいに。
「巽がそれでなにを磨くか気になるところだけど」と言って、悠はそっと右手を差し出した。「もちろんこっちァそれどころじゃねえ。おじさん、カネ、もう持ってきた?」
「ほら」ダイダロスは持っていたビニール袋をそのまま悠に差し出した。「カンジに見られんのもうまくねえと思ってよ。とりあえず百万だ」
 受け取ったビニール袋の中には量感のある、茶色い紙で包まれた長方形のなにかが入っている。
(これが百万円の札束……)
 袋の中にあたまを突っ込むような形で、悠はしばらくその頼もしい塊を見つめていた。涎でも垂らしそうな貌をしていたのだろうか、ダイダロスが「坊ちゃん、中身はウチ帰ってから検めなよ」と小さい声で彼を窘めた。
「え? ああ、うん、そうする」
「どうでえ、当座はそれで足りるかい」
「もちろん。助かった。これがぜんぶ自分のために使えりゃ言うことァねえんだけど……」悠はせいぜい深刻そうな表情を作った。「ところでおじさん、さっき上でさ」
「ん?」
「そんじょそこらじゃ売ってねえモンを、なんでも揃えてくれる、なんて言ってたよね」
「おお、言ったぜ」ダイダロスの口の端が上がる。
「それなら」
 と言って、悠は受け取ったばかりの袋を突き返すと、困惑顔のダイダロスへ含みのある笑みを見せた。
「貰ったばっかりだけど返す。こいつを使ってくれ。用意して欲しいモンがある。それと」
「それと?」
「……タバコ、売ってくれない?」






 茶の間へ戻ってくるとすぐ、もの問いたげな菜々子の面に迎えられた。彼女はスプーンを休めてじっと悠を見つめている。彼が夕食を中座して玄関まで出て、電話で両親と話しているあいだ中、ずっとそうしていたような気配がある。
「おいしくない?」
 悠は席につくと笑って言った。
 むろん答えはわかりきっている。彼の手になる晩餐の鶏肉入りフーゼレークはすでに、大絶賛をもって従姉妹に容れられていた。こうと問われてまさかまずいとは言うまい。
「おいしくなくないよ! フーレゼーク」
 と言って、菜々子はこれが証拠だとでもいうふうにして握っていたスプーンのあたまをしゃぶった。期待どおりの反応だ。
 いやしくも板前の息子である。そのレパートリーこそ後塵を拝すといえども、齢十七の若輩ながら包丁において生半の主婦のそれには決して引けを取るまじ、との自負はあった。従姉妹が毎度まいどスプーンを食わんばかりにしてわが手料理を貪るのを見るにつけ、悠の自信はひっそりとかついや増しに膨れあがるのだったが、
(味のよしあしって、いまひとつわかってないみたいなんだよな、この子。子どもなんだから仕方ないのかもしれないけど……)
 どうも菜々子は「ナベからよそわれた手づくりの温かいなにか」でさえあるならその質はさておき、おおむね天上の食い物として平らげてしまえるようなのだ。たとえそれが市販のガーリックバター付きパリジャンを添えた、キャベツとベーコンとコンソメキューブででっち上げたあやしい時短スープであっても、レシピ本と首っ引きで精だしてこしらえた自家製ナンとチキンティッカマサラとベッジャルフレージーとに優るとも劣らぬ満足を得られるのである。電子レンジに由来しない、コンロ上のナベやフライパンから運ばれた湯気立つ膳が食卓に上されれば、彼女はもうそれだけで欣喜雀躍、吸い込むようにしてそれらを食った。
 家庭料理が好きなのだ。いったいこういう性質は従姉妹の間柄ながら、悠に強く血のつながりを感じさせた。彼もまたひとの手にかからぬ出来合の料理は、それがどれほどの美味であっても味気なく感じられるのである。以前はささやかな食卓の満足よりなにより、読書と思索との時間をこそ惜しんだものだったが……
「かなりうまくいったと思うんだ。自分でも」と、悠は自画自賛した。
「菜々子もうまくいったとおもう」菜々子もしかつめらしく同意する。
「うまいね。われながら!」
「うん! チョウうまい!」
「そう超うまい……いいこと言うよね……ホント店で出せるよコレ……」
「菜々子いいことゆった……チョウおみせでだせるね……チョウね……」
 悠が改めて食事に取りかかると、菜々子もまた思い出したようにスプーンを縦横し始める。思えば以前はこれがなかった。それは読書などを優先しもするはずだ、以前の悠の膳には「主菜」が欠けていたのだ。自分の作ったものをうまそうに平らげる愛すべき大食らい――これなくしてはもはや「フーレゼーク」も「ベッチャリフレンチ」も「ピエルナなんとか」もまこと味気ない、萎びたサラダのひと皿に等しい……
 ふと、菜々子が皿から顔を上げて、なにか聞きつけたふうにして茶の間のテレビのほうを向いた。おなじみのジュネスのコマーシャルではないようだが。
(そういやあのテレビ、いつ買い換えるんだろうな。というより買い換えるつもりあるのかな)
 件のテレビ、昨今ではもはや珍しい箱のようなブラウン管で、パソコンやラジオの類のない堂島家においてはほぼ唯一の情報伝達媒体である。いまだに引退を許されないのだが、どうやらそういつまでも第一線に留めておくことはできそうにない。しばしば画面がモノトーンになったりする不憫な老兵なのだ。
 菜々子は目を細めて茶の間を凝視している。二十一型の「老兵」は現代の若者と比べていささか小柄で、隣接するダイニングルームからは見えづらい。まして悠の位置からでは角度が悪くて音声しか聞こえなかった。内容はどうやらニュースのようで、さいきん巷で人気の「千伊奈なんとか」なるアイドル歌手が、昨日突然の無期限引退を宣した、そのことを繰り返すものらしい。カメラのシャッター音が引きも切らぬ中、記者の声がその真意を繰り返し質すのだが、返ってくるのはほんの二、三シラブルの、無愛想な女の生返事だけである。
 たしか十代の、悠とそれほど変わらない年ごろであったと思ったが。
(やめようがやめまいが知ったことじゃないけど。心底どうでもいいな)悠はひっそりと鼻で嗤った。(アイドル! くだらない虚業だ。ま、一刻も早くやめればそれだけ後悔も小さいだろう。いかがわしいファンどもは大泣きするんだろうけど、すぐ代わりを見つけるさ)
「……菜々子、りせちゃんみたいなアイドルになりたいんだ。なれるかな」
 菜々子がテレビのほうを見たままボソッと呟いた。悠はぎょっとして幼い従姉妹を見つめた。
「菜々子ちゃん、あんなのになりたいの?」
 さすがにこの科白に含まれる毒と非難とには、幼い菜々子も感づいたらしい。彼女はちょっと驚いたようにして悠に向き直った。
「いや、ほらっ、菜々子ちゃんこないだ、プリキュアになりたいって言ってたじゃないか」と、悠はあわてて弁解する。「プリキュアのほうがアイドルより強いし有名だし、かっこいいよ。菜々子ちゃんはヒビキちゃんみたいになるんだろ?」
 菜々子は毎週日曜あさ八時三十分に放映している「スイートプリキュア」をことのほか愛好していた。面白いので悠もぜひ見なければならぬと勧められてからこちら、彼も従姉妹の横に膝をそろえてかしこまって、このストレートとストライクと場外ホームランしか出ない野球みたいな女児向け極彩色アニメを視聴しているのである。もっともそのプリミティブかつドラスティックな内容にかたや目を輝かせ、こなた目を伏せという違いはあったが。
「りせちゃんもおんなじカミガタしてる」
「まあ、髪型はね。でもその、りせちゃんはキュアメロディに変身できないよ」
 こう諭されると、菜々子は難しげな貌でフーゼレークをかき混ぜながら、自分はおそらくプリキュアにはなれぬとその苦衷を縷々述べ始めるのだった。自分は小さすぎる上にミラクルベルティエも持ってない、ハミィもいない、なにより一緒に変身してくれる「カナデちゃん」がいない――
「ミラクルベルティエならジュネスに売ってるよ、きっと」
「あれはホンモノじゃないよ」
 ハミィならペットショップに売ってるよ、と言わなくてよかった――悠は幼い従姉妹が意外に現実的であるのにちょっと驚いた。それともいまどきは小学一年生ともなれば、みなこれくらいには達観するのだろうか? 自分が小学一年生の時分はNHKのアニメを見て本気で忍者になろうと決意したものだったが……
「ミラクルベルティエもハミィも、そりゃ同じものはあのふたりが持ってるから無理だろうけど、似たようなちゃんとしたやつがきっと見つかるよ……色は違うかもしれないけど」
 菜々子は沈んだままウンと頷いた。
「そういえばほら、きのう出てきてたよね、謎のプリキュアが。ええとキュアムーミンだっけ」
「キュアミューズ」
「そうそれ。あっちはふたり組じゃなかったよ。ってことはさ、ひとりでも変身できるミラクルベルティエが別にあるってことだ」
 菜々子は冷静に「ヘンシンにはキュアモジューレをつかうんだよ」と訂正した。
「それに、プリキュアはアニメだから」
「え?」
「アニメのなかのオハナシだから、菜々子たぶんなれないよ。プリキュア」
「ああ、そっか、そうかな……」
 どうやら菜々子を子供あつかいしすぎていたようだ。ここまで達観しているのならもはや欺きようもあるまい。が、
「でもさ、ヒビキちゃんはピアノ弾けるけど、りせちゃんは弾けないよ」
 と切り出したのには、菜々子もさすがに幻想だと一蹴しかねたようである。先に聞いたところによれば、彼女が「カナデちゃん」より「ヒビキちゃん」のほうを好むのは、その性格や見た目からではなく「ピアノが弾けるから」なのだという。
「たしかにプリキュアにはなれないかもしれないけど、ヒビキちゃんみたいにはなれる。だろ?」
「でも菜々子、ピアノひけない……」
「本物のミラクルベルティエは売ってなくても、ピアノなら売ってる。ピアノがあればすぐ弾けるようになる」
「そうなの?」
「そうだよ。お父さんにお願いしてみようよ、買ってほしいってさ。ね?」
 娘が性風俗まがいのイコンに憧れるのを阻止できるなら、遼太郎とてピアノのひとつやふたつ喜んで買い与えるに違いないのだ。ものになろうとなるまいと情操教育の一環にもなる。これで娘にアカデミックな趣味が備われば父として鼻も高かろう。いいことずくめではないか!
「よし決まり! じゃあほら、ゴハン食べよう!」これは是非とも叔父に勧めなければ――悠は自分の思いつきにすっかり気をよくした。「冷めちゃうよ、フーゼレーク」
 菜々子は朗らかに頷くと、さっそく「フーレゼーク」のおかわりを要求した。






 夕食もその過半を終えたころ、家族との電話のあと菜々子がもの問いたげにしていたのを、悠はぼんやりと思い出した。
「そういえば菜々子ちゃん、なんかおれに言いかけたっけ? さっき」
「え?」
「ほら、ゴハン食べ始めたばっかりのとき、電話がきて、それでおれが戻ってきたとき」
 菜々子はなんとも掴みどころのない、呆けたような面を悠に向けた。意味がわからなかったものかと言い直そうとすると、
「お父さん?」
 と問い返してきた。
「え?」
「お父さんから? デンワ、さっき」
「いや、うちの両親から――ああ、おれのお父さんからかってこと? そう、お父さんから。と、お母さんから」
 菜々子はいっけん気のないふうで、その場ではフウンと相づちを打つに留まった。が、目下悠は夕飯の残りを片付けるので忙しくしていて、どうやら進んで「デンワ」の内容に言及してくれる気がないらしいと見当をつけたようで、
「なんてゆってたの?」
 じき焦れて訊いてきた。
「あ、電話? ごめん、ええとね……向こうはイナカでなんにもないんだって、言ってたな」
「むこうって?」
「アメリカの、カリフォルニアの、サンノゼってところ」
 菜々子は口を半開きにして微動だにしない。ここへ越してきて一ヶ月に満たぬ悠にも、これが彼女の「なに言ってるかわからないけど聞き流そう」と考えているときのジェスチュアらしいということは理解していた。
「わかんないよね。外国の遠いところなんだけど」
「アメリカはメキシコのうえ」
「そう! へえ、よく知ってるね。おれのお父さんとお母さんがそこに住んでるんだ。お母さんはこないだ行ったばかりなんだけど、初めてのアメリカだからさ、はりきって観光とかしたいわけ。でも見るものがあんまりなくてつまらないんだって」
「…………」
「観光って、わかる?」
「わかんない」
「……菜々子ちゃんもさ、このへんにジュネスなかったらさ、つまんないだろ? そんな感じ。おれのお母さんもつまんないんだって」
 この喩えには得心がいったようで、菜々子は眉根を寄せて誓子の境涯にいたく同情した様子である。
 かのポスギル城で雪子のシャドウがつらつら並べ立てていたのは、あれはサンノゼの名所であったのだろうか。それらを見て回った上での言かどうかはわからないが、誓子は電話口においてサンノゼの印象を「イナカ」のひと言で切って捨てたのだった。
「なんかちょっと買い物いこうにも店なんか近くにないから車いるし、見所ったって二、三日もあれば回れちゃうし……まあ住むにはいいとこなんじゃない? こういうイナカって。やっぱシスコだねシスコ。こんどシスコ行ってくるわ。シスコってネットの会社のほうじゃくてサンフランのほう」
 ナルカミユウゾウ親分に会ったらよろしく――悠は適当に相づちを打って去なした。
「あとは特にこれといって……元気にやってるかーとか、八十稲羽はどうーとか、学校うまくいってるかーとか……それぐらいかな」
 悠のぽつぽつ言うのを聞きながら、菜々子はタクアンをパリパリやって考え深げにしている。
 実のところ、両親との会話はほとんど「それぐらい」以外の話で費やされていた。電話をかけてきたのは父母の側であったが、彼らが息子の消息を知りたがるのを早々に去なして、これ幸いと例の千枝との一件について感想と見解とを要求したのは悠である。われながら小僧じみたことをしているという自覚があったればこそ、それは小学一年生相手にさえ漏らすのは憚られたのだが。
(まったく、大人ってやつはなんで……)
 いったい、彼らの「感想と見解」が息子を喜ばせることはなかった。誓子は言下に「あんたが悪い」と決めつけ、輔もまた彼の妻よりは中立を守ったものの、
「現場を見たわけじゃないからなんとも言えないけど、こういうのはさあ謝ったもん勝ちだと思うんだお父さん。いさぎよく謝れば男も上がるしさ、ほんとに向こうが悪いことしたんならさ、そういう悠くんを見てきっと自分を恥ずかしく思うよ。ほらお父さん前にも言ってたじゃない? 敵が飢えていたなら食べさせて、渇いていたなら飲ませなさい。そうすることであなたは彼のあたまの上に燃えさかる炭火を――」
 と、こうである。キリスト教はもうたくさんだ――悠はいいかげんに相づちを打って電話を切ったのだった。
(筋の通らない謝罪は相手をつけ上がらせるだけだ。なんでこんな簡単なことがわからないんだろう)悠は憤懣まじりの鼻息を吐いた。(おれがあたまを下げなんかしたらどうなる? きっと里中はおれを侮ってますます言うことを聞かなくなるぞ。今でさえ注意なんかろくすっぽ聞きゃしないんだから……)
 安易な道は選ぶまじ、これは里中のためでもあるのだ――菜々子に倣ってタクアンをボリボリやりながら、灰中に埋もれかかった怒りの熾火をつつき回していると、
「いいなあ」
 ややあって菜々子がぽつんと呟いた。悠は薄暗い妄想をやめてふと顔を上げた。
「え、なにが?」
「デンワ」
「…………」
 頬に血の昇るのを感じる。彼はとっさになんと応えていいかわからず、俯きがちに漬け物をほおばる従姉妹の、その黒目の勝った円い目から慌てて視線を逸らした。――図体だけでかくなったガキめ! おまえはこんな小さな子に何度いらぬ気を遣わせるつもりだ?
 今にして気付いてももう遅い。先の菜々子の「お父さん?」はおそらく言葉どおりの、電話が遼太郎からのものかどうかを質す言葉だったのだろう。彼女は悠の勘違いを聞き流してくれたのだ。
「……お父さん、忙しいんだよ」
 とは口にしている悠自身にも苦しい科白である。そんなことは菜々子にもわかりきったことではあろうが、彼女はただ黙ってウンと呟いた。
「うちの父親なんかさ、おじさんに比べればずっとヒマなんだろうし、母親なんか半分以上――」悠は自分の腿を思いっきりつねった。「母親なんかどうでもいい! でも刑事のお父さんってカッコいいよホント。うちの父親はゴハンつくるのが仕事なんだけどさ、とてもひとに自慢できるようなもんじゃ……」
 菜々子が面を上げて、驚いたように「お父さん、ゴハンつくるの?」と訊いた。
「え? うん、そうなんだ。あんまりカッコいい仕事じゃないよ、給食のおばさんみたいなもんだよ。性格も叔父さんとはぜんぜん違ってなんかなよなよってしてるし、けっこう泣くし、ホント」
 菜々子はふたたび俯いて「菜々子もお父さんはおばさんどんがよかった」と呟いた。悠はやるかたなく墓穴を掘る手を止めた。
「ごめん……寂しいよね、おじさんも少しは連絡くらいくれればいいのに」
「ううん。菜々子なれてるから」
「……そう」
 ――しばし気まずい沈黙を過ごした後、ふたりはどちらからともなく夕食の後片付けを始めた。まったく菜々子に聞こえないようにため息をつくのも一苦労だ。主菜が成功でもこんな苦いデザートを食わせたとあっては夕食も台無しであろう。このうえ彼女に面倒なことはさせられまいと、
「菜々子ちゃんお風呂はいってきな。おれ洗っとくから」
 悠は菜々子の運んできた食器をやんわり奪った。といって、彼女も可なりとやすやす肯ったりはしない。
「菜々子ふくよ、おさら」
「まあまあ、おれが拭いとくからさ」
「じゃあたなにいれる」
「ああ残念……今日はおれ棚に皿を入れなきゃいけない日なんだ」
 菜々子はおかしげに「なあに、それえ」と笑った。
「棚に皿を入れないと熱が出て寝込んじゃうんだ。もう大変」悠はスポンジを揉みもみ、無理に笑顔を取り繕った。「珍しい病気でさ、お父さんが帰ってきたら訊いてみるといいよ。ちなみにお父さんはトイレのスリッパを揃えないと手足が震えるんだけど、ひょっとして知らなかった?」
「へえー!」
 感心しているのか、それともこんな与太話を滑稽に感じたか、ともかくも幼い従姉妹にようやく笑顔が戻ってきたのには、悠も少しは慰められる思いである。その面には折に触れて彼女の見せることがある、歳不相応な、母が幼い子を見るかのような慈愛の眼差しが光っている。
「お父さん、アメリカにいるんだもんね」
 と、出しぬけに菜々子が言った。悠は話の脈絡の掴めないまま「え、うん」と生返事を返す。
「じゃあ、菜々子のほうがいいね」
「え?」
「菜々子のお父さんは、おそいけど、ウチにかえってくるから、お父さんよりはいいね」
(……きみ、本当に七つ?)
 悠は二の句が継げなかった。
 彼女はときどき七歳児とは思えぬ細やかな配慮を見せることがあったが、こんなふうに傷心を押し隠して、しかもその原因となった人間をかえって慰めるなどは初めてである。けだしこれに胸を打たれないなら人非人の誹りをば免れぬというもの。
「そうだ、菜々子ちゃん、お父さんに電話してみようか。こっちから!」
 悠はこの感動の恩返しがしたい一心で、勢い込んで菜々子にこう言った。
「何時ごろ帰ってくるんだって、早く帰ってこいってさ」
「でもお父さん、だいじなようがないときはかけちゃダメだって」
「前にも言ってたね。でも、おれは言われてないよ」
「菜々子、ゆったよ?」菜々子は不思議そうな貌をしている。
「菜々子ちゃんからは聞いた。でもおじさんはそれを知らない。だろ?」悠は慌ただしく手を拭いて、ポケットから携帯を取り出した。「菜々子ちゃんがお父さんに、悠に言ったぞーって告げ口しなきゃ、大丈夫なわけだ。どう?」
 菜々子からゴーサインが出るのに長い時間はかからなかった。悠はさっそく遼太郎の番号をコールした。
「……ピアノのことも訊いてみよう。案外いいぞって言うかもよ」
 呼び出し音を幾たびか経て、おなじみの低い声が自らの名字を告げた。彼はそれが誰からの電話か知っていても、常に「はい、堂島」と告げるのを忘れないのである。
 遼太郎は甥から来意を聞き終えるや否や開口一番、
「すまん。仕事中は大事な用があるとき以外は電話せんでくれ」
 とのみ述べると電話を切った。
 彼は娘と甥が布団に収まったあともずっと「仕事中」であった。






 教室の真ん中で千枝が泣いている。床に膝をついて顔を覆って、身をよじって嘆いている。
 そこは二年二組の教室らしい。机も椅子もすべて撤去されている。幾年も生徒の靴底で研磨され続けた、古くて艶やかな飴色の板床に、漫画じみた涙の水たまりができている。その真ん中に千枝が跪いているのである。
 彼女がどうして泣いているのか、ということがすでに、悠にはなぜか自明である。彼女は自分のしでかしたことを、悠への仕打ちを悔いて慟哭しているのである。
(里中もういいんだ、やめてくれよ! ぜんぶおれが悪かったんだから……)
 と彼が最前から言うのも、千枝にはいっこう聞こえていない様子。
 悠は彼女の改悛に感動している。その慚悔の情を大いに憫れみ、ひとに許しを与える歓喜に打ち震えている。千枝の口から不明瞭にも漏れる、尽きせぬ謝罪の言葉が彼をいよいよ有頂天にさせる。走っていって肩を叩いて慰めてやりたいのだが、なぜか身体はいっさい動かない。なので悠はただ彼女の慰めになれかしとひたむきに、持てる知識と語彙とを総動員してその性のすばらしさと好ましさ、そして自らの至らなさと愚かしさとを論って飽かない。
「里中には聞こえなくても構わない。だろ?」
 突然、耳のすぐ後で声がする。誰かが悠の背後で耳打ちをしているような。
「許すのは気分がいいな」
 このひと言で今までのよい気分はたちどころに消し飛んでしまう。背後の声に気を取られている隙に、千枝は忽然とその姿を消している。残っているのは涙の水たまりだけ。
「許せたらよかったのに」
 千枝に抱いていた不快な感情がふつふつと甦ってくる。いや、違う、これは千枝に抱いていたものではない。
(おれの声だ、これ)
「なんで許してやれないんだろ。おれって、小さい。男らしくないよ」
(そんなことはない!)
「憎い……許してやれない……」
 内容とは裏腹に、悠の耳朶を打つ言葉には嘲りの色が濃い。いかにも――悠は半ば開きなおって認めた。
 いかにも、これは千枝に抱いていたものではなかった!
(シャドウなのか……おまえ、シャドウなんだろう)
「鳴上くんメメしーい、オトコらしくなーい」
 悠はぎょっとして竦んだ。千枝のからかうような声だ。
「臆病風に吹かれたみてえに縮こまってる。男らしくねえって」
 完二のおかしげな声。
「許してやれんか、男らしくさ」
 諸岡教諭の優しい声。
(先生、許せます。もちろん、おれは許せます!)
「おい」
 そして悠自身の憎々しげな、恫喝するような声。






 へんな夢を見た。
 それがために、おなじみの鮫川河川敷へ出てくるまでの間、悠はほぼなにも言葉を発し得なかった。陰気に「おはよう」と言ったきり無言で味噌汁を煮沸し、トマトとブロッコリーとグレープフルーツとを青じそドレッシングの海に沈め、フレンチトーストを焦がしがてら学生服の膝に大量の牛乳をこぼしていっこう意に介さぬ、この年嵩の従兄弟の狂態を見るに見かねたのであろう。菜々子の気遣いたるや昨夜のそれにもまさるほどであった。
「どうしたの? だいじょうぶっ?」
「まあ」
「マアじゃないよ、だいじょうぶないよ! きょう休む?」
「いや」
「菜々子デンワするよ、ガッコウ」
「いい」
「よくないよ、きょうおかしいよ!」
「うん」
 玄関を出るとすでに、外床の縁を雨の飛沫が黒々と侵していた。ゆうべから降り始めた雨は止む気配もない。ポーチの庇の雨どいから蛇口をひねったみたいにして水が流れている。が、その事実と傘をさす必要性とを、悠のハングアップ寸前の脳みそはどうしても連結しない。
「まって! ちょっとまって! カサささなきゃダメー!」
 沛然たる中へ構わず出て行く彼に、菜々子は必死で追い縋って傘をさしかけた。そしてその乏しい語彙と金切り声でもって悠の正常でないこと、父を呼ぶので家で安静にしていなければならないことをわめき立てたが、奮闘むなしくその甲斐のないことを悟ると、
「菜々子もういくからね! つらかったらデンワしなきゃダメだよ! お父さんにいっとくからね!」
 従兄弟の首と肩の間になんとか傘を安置して、とぼとぼ歩き去る彼を心細げに見送ったのだった。傘をさすというよりあたまに被せたような恰好である。
 菜々子にはまったく悪いことをしたが、今日はなんとしても学校へ行かなければならぬ。悠にはなんとしてもしなければならないことがあった。
「謝ろう……」
 彼はようよう、それだけ独りごちた。とにかくそうしなければ。
 いまだに千枝への含みはある。きっと今後のためにもなるまい。それでも自身の憎しみが実は誰に向けられていたかを理解する段になっては、もはや理非の那辺にあらんやとふて腐れている場合ではなかった。
 あの夢の中の声はあるいは、今の悠のそれであったのだろうか。省みれば千枝はただ怒りを仮託されていたに過ぎなかった。彼女を許してやれない自らの矮小たるをこそ、彼は「轢き殺してやりた」かったのである。その年ごろとしては異例なほどに理性と自制心とを備えるはずの、諸岡教諭をして変な奴よと感嘆させしむ「高校生とは思えないほど抜きん出た奴」たる「おれ」が、なんとあんな些細な一件をすら笑って許してやれない!
 いっそう腹立たしいのは、もはや謝罪するのが必須で、唯一の道なのだと理解できた今でさえ、悠はなお加害者に垂首屈膝するの汚辱をなんとしても潔しとはできぬ、ということである。彼の中では依然としてその非を正されねばならないのは千枝であり、彼自身はどこまでも被害者であった。あわれ千枝を許せぬがために傷つく悠の自尊心は、それを癒さんがために彼女を許せばやはり損なわれるのだった。
 矛盾に引き裂かれそうになった経験は過去にないでもなかったが、それは少なくとももう少し高尚な問題によってであったはず。しかるにこの子どもじみた、それこそ菜々子くらいの子どもが案じて然るような、こんな幼稚な「ちえのわ」を解けずに煩悶させられるとは……
「謝ろう」
 悠は繰り返した。
 とにかくそうするのだ。さだめて指も痛かろうが、さしあたって「ちえのわ」は引きちぎればよい。とにかくこんな女々しさ極まる、小学生の女児の「だってあたしわるくないもん!」的な態度は自分にはまったくふさわしくないし、そのせいで悩んでいるように見られるなど考えただけでゾッとする。わが自尊心よせいぜい叫べ、千枝はせいぜいつけ上がるがいい! とにかくどこをどれだけ切り刻まれようとも、自らの轢殺刑だけはなにがなんでも回避せねばならなかった。それは冤罪であったのだと自らに証明し、彼は釈放されなければならない。この判決にはもれなく千枝の免罪をも含んでしまうが、心臓に一撃くらうよりはあたまを一撃されたほうがまだマシだ。
(せめて男らしく耐えよう。そうだ、父さんの言うとおり、里中だってこっちがあたまを下げれば恥じ入るかもしれないじゃないか)などと楽観してみても、脳裡に浮かぶのは彼女の勝ち誇った、得意げな顔だけである。(まあそうなるよな、アイツなら。いや、そうなったらそうなっただ、冷静に受け止めて涼しい顔をしてるんだ。そのあとで里中のあたまの上に炭火を積む夢でも見りゃあいい……)
 折からの雨で鮫川の水かさが増しているらしく、土手のほうから低くドーという音が聞こえている。傘越しに二、三のクラスメイトの挨拶するのが聞こえる。が、いまの彼には傘布を打って撥ねる雨滴と変わるところはない。悠はようやくあたまで傘を支えているいまの自分の姿の滑稽さに思い及んで、股間のあたりで揺れていた傘の柄を取った。かくなすべしと決めれば少しは気力も湧いてくるものである。
 当日のことで昨日はたしょう不機嫌だった。しかし一晩たてば寛容な「鳴上くん」はもはやなんとも思っていない。笑ってあたまを下げるなどいくらでもできる――さしあたってはこれで通すしかない。しかし思うだに昨日の態度はまずかった。いや、千枝を泣かせたのは仕方ないにしても、その後の陽介へ不機嫌を露骨にしてしまったのは頂けない。あれをどう糊塗するかだが……
(そうだ、昨日はだいだらに行ってたんだ! あれを口実にすればいい。おれは放課後いそいでたんだ……取引の約束があって……)
 こんなふうにクラスメイトの挨拶を黙殺しながら、できるだけ自尊心を損ねずに済むプランをいそがしく練っていると、
「おはよーっす!」
 明るい挨拶とともに突然、複数人に体当たりを食ったような猛烈な衝撃が悠の背中を襲った。体当たりされたというより飛びかかられたと言ったほうが正しい。
「うおっ!」と危うくつんのめる彼の両肩を、掴んで保持するものがふたり。
「油断してんなー悠。で、今日は誰をつけ狙ってんの?」
「おはよーす鳴上くーん。今日はいい天気だねーホント」
 陽介と千枝である。おのおの傘を片手に、もう一方の手で悠の肩を掴んでにこにこしている。
「ちょっ、なに――」
「おはよーっす!」
 不意打ちから立ち直るまえに第二波が襲来した。これは肩胛骨の間のあたりを狙ったより鋭いもので、彼の息を詰まらせるには十分な一撃であった。
「ウフフ決まった……ここ数年来でいちばんの頭突きだった……」
 声の主はなんと雪子である。肩にかかる手がひとつ増えた。悠はいつかポスギル城でやられたように、三人に三方からギューギュー押し込められる形になった。
(な、なんだっ? なにが起きた? これどういう状況?)
「今日こそは行くんだろジュネス。もう里中と天城が連れてけ連れてけってうっさくてさー」と、陽介。
「あ、ええと」
「なんか変身ポーズ? 花村に考えてこいとか言われたんだけど、マジでいるんですかァ?」千枝はイヤそうにしている。
「まあ、あれば」
「なるほうに要るんだよね。よぶほうはどうなの? わたしいちおうふたつ考えてきたけど」雪子は意外に乗り気であるらしい。
「いや、そっちはべつに……」
 これはどうしたことだろう。自分は夢を見ているのか? 昨日の一件を踏まえれば彼らがこのような態度に出るはずはないのに――悠は生返事を繰り返しながら、まったく困惑の極みにあった。陽介ら三人は彼が訝しむのなど知らぬげにワイワイ話し合っている。べつだん悠に含みを見せるでもなく、じつに明朗に話しかけてくる。
(なんか、よくわからないけど……助かった?)
 困惑が徐々に収まるにつれ、代わって大いなる安堵が彼の心を満たした。けさ布団を這い出てからというもの、どれほど重いストレスに身を苛まれていたかを改めて思い知らされる。なんだかわけがわからないが、先日の一件はうやむやになってしまったらしい。
(……ああ、そうか、そういうことか)
 校門前の坂を上り始めるころには、この三人の妙な態度にもおおよその見当がついた。おそらく先の喧嘩を引きずるのは四人の今後のためにならぬと踏んで、かつ当事者双方の顔が立つよう、件の一件をなかったことにしようというのだろう。少なくともその判断を悠に委ねるつもりなのだ。
(これが三人の落し所ってわけか。陽介の入れ知恵かな?)
 彼らは明るかった。それこそこんな大雨の朝には不自然なくらいに。この克己的快活さにはそれとなく悠に、
「ことを荒立てるなよ。我々の意を酌んで穏便に済ませるのが吉だぞ」
 とでも示唆しているふうがあった。
 ここまでお膳立てされてなお「それで昨日の件だけど」などとはまさか言うまい。むしろよくぞ気を遣ってくれたと発案者にキスの雨を降らせたいくらいだ。いまや彼の手汗まみれの「ちえのわ」は退けられた。千枝にあたまを下げて冤罪をこうむる苦痛に比べれば、先日のささいな仕打ちをなかったことにするなどなんでもない。
 いや、それどころか、陽介ないし雪子が事前に悠へ電話するなどせず、ただ「察してもらおう」とのみしていることからして、これはこちらに落ち度はなかったと暗に認めているようなものではないか? げんに彼は「決める側」であり、つまり「許す側」なのだ……
「あのさ、陽介、昨日はなんか悪かったな」
 悠は意を決すると、校門を過ぎたあたりを見計らってすれすれの話題を振ってみた。これは三人の「提案」への婉曲な「返事」のつもりである。
「放課後ちょっと急いでてさ、実はまただいだらに行ってたんだ。ちょっと取引の約束があって」
 陽介は「悪かった」と言われたときに微かな狼狽を見せたものの、そのあとの話には大いに安心した様子であった。彼にしても例の一件をなかったことにするために、あのときの悠の態度にもっともらしい説明をつけたかったのだろう。たとえそれが真実でないと解りきっていたとしても。
「うっわ、取引ってなに? ひょっとしてこういう系の……」陽介は自分の腕に注射するような仕草をした。
「バカちがう。こういう系の……」悠は自分の手の甲に鼻を近づけると、片側を塞いでズッと吸って見せた。
「どっちもやばい系でしょ! つかなんか手慣れてるっぽいしこのひと!」千枝は最前から必死に見えるほど明るく振る舞っている。
「取引って、なんの?」雪子は同じ明るいにしても、わりあい冷静な部類だ。
「ま、それはのちほど。ここじゃひとが多くて言えない」
 四人はめいめい正面玄関の庇に入って、傘の滴を払った。驚いたことに登校する生徒の中には、傘もなしに鞄を雨よけにして走って来るものもある。傘のひとつやふたつ用意できないでもなかろうに、彼らは当然の帰結としてすっかり濡れ鼠の態で、級友の二、三がそんなありさまを見て称讃まじりの罵声を浴びせかけていた。
(悪いことしたな、本当に……)
 改めて先の菜々子のことが脳裡に浮かぶ。顧みても彼女が悠を追いかけるあいだ、自分のぶんの傘をさしていたかどうか思い出せないのである。もしずぶ濡れになってまでそうしていたのならまったくあたまの上がらぬことだ。どうせ今日はジュネスに寄るのだろうし、帰りがけに彼女の気に入りそうな菓子のひとつも買って帰らねばなるまい。
「……そういえばさ、ちょっと話は変わるけど」悠は靴を脱ぎながら、ふとだいだらで会った少年のことを思い出した。「みんな、巽完二ってやつ、知ってる? 一年の」
「タツミカンジくんって、きのう行っただいだらの巽さんの、甥っ子だよね」
 彼の問いに真っ先に応えたのは雪子である。
「天城、知ってるんだ?」
「うん。完二くん、実家が染物屋さんなの。巽屋っていう……」
 雪子は下駄箱を開けるなり、なにか見つけたふうにしてちょっと動きを止めた。
「これはこひぶみでござろうな」千枝はウンウンと頷いている。
「天城先輩すげー、動じねー」陽介はわざとらしく驚いている。
「千枝と花村くんうるさい――鳴上くん会ったの? 完二くんに」
「え? んん……ちょっと話したくらいなんだけど」ラブレターには触れないでおこう。「なんかもの凄く目立つやつだったからさ、知ってるかなって」
「聞いたことねーな。つか一年は顔も名前もあんまりわからん」と、陽介。
「目立つって、どんなカッコしてるの?」と、千枝。
「髪の毛真っ白に脱色してて、眉毛剃ってて、耳と鼻にピアスしてて、二の腕にタトゥーがある。こめかみにキズもあったな」
 千枝が「うへえ」と呻いた。
「いまどきいんのかよ、んなコッテコテの希少種」陽介もあきれた様子。「なんか辞典の挿絵に載ってそうだな。不良って項目にさ」
「いや、それが見た目に反してなんか凄く礼儀正しくてさ。優しげで、人懐っこいんだ」
「想像不能」
 陽介と千枝は異口同音にこう言って吹き出すと、おたがいの間の悪さをさも嬉しげに気味悪がり始めた。
 その声にHRの予鈴が被さった。ふと見回せば、あれほどざわめいていた正面玄関はすでに閑散としている。いつもよりだいぶ遅い登校になってしまっていたらしい。悠はとっさに左手首を持ち上げたが、そこに愛用の時計はない。苦笑が漏れる。そうだ、あの時計は数百万円で売れてしまったのだった……
(あれの値段を聞いたらこの三人、どんな顔するかな)
「八時二十五分だよ、急ごう」雪子の号令一下、四人は急ぎ足で階段へと向かう。「ちょっと遅くなったね。はやく行かないと諸岡先生に捕まっちゃう」
 もし教室へ着く前に諸岡教諭とはち合わせたら――悠は想像してみた。彼は四人を呼び止めて咎めるだろうか? いや、おそらくそうはすまい。黙って行かせるだろう。陽介たちだけならいざ知らず、自分がいるのだから……
「悠、今日はマジで行くんだろ? ジュネス」と、陽介が肩越しに振り返った。「それともまただいだら行くのか?」
「いや、今日は行くよ、向こうに。みんなはどう? 天城は都合つきそう?」
「行ける! きょうはペルソナマスターする!」雪子は意気軒昂たるものだ。
 四人は階段を上り始めたあたりから、なんとなく二列縦隊になっていた。前列が陽介と雪子で、後列が悠と千枝である。ほどなく前列組が一段飛ばしで駆け上がり始めたのを見て、後列組もそれに倣おうとしたのが、足を踏み外しでもしたか千枝が「おわっ!」と倒れてしまった。
「里中、大丈夫?」
 どうやら彼女に怪我をした様子はない。それでも悠が心配して階段を下りて来ると、
「あ、だっ大丈夫、大丈夫でしゅ、です」
 千枝はなんの故か、傍目にも明らかに落ち着きを失った。そのまま彼に目配せするでもなく、逃げるように階段を駆け上がって行ってしまう。
 悠はつかのま彼女を追いかけるのを忘れて、階段の中途で突っ立っていた。
(……あれ、ひょっとして)
「悠いそげよー!」
 上から陽介の声が降ってきた。






[35651] おれ、弱くなった
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b702ab77
Date: 2015/11/20 10:00



 三日前。
 テレビの中の世界において、里中千枝と天城雪子は初めて、自らの意志によってペルソナを喚んだ。そして悠と陽介とクマと、三者の厳重な立ち会いの下「なるほう」も試し、多少の騒動はあったもののこれを無事に成し遂げた。
 悠は心中、ひそかに胸をなで下ろしたものだ。なにしろあのタロットからどのような機序を経て巨人が出てくるかさっぱりわからないのだから。ふたりが女性だからという理由でペルソナを喚べない、などということもじゅうぶん考えられたし、最悪の場合「ペルソナー!」と叫んだとたんに上半身が爆発するとか、塩の柱になるとか、巨人が一ダースくらい出てくるとか、そういうことがあってもおかしくはなかったのである。
 とまれかくまれ、こうして千枝と雪子は晴れてペルソナつかいとなった。本当の意味での仲間が増えたことを、そして件の事件解決に資する貴重な戦力が倍に増えたことを、悠と陽介――と、ついでにクマ――がどれほど喜んだことか! しかしそれさえ当事者たちを襲った狂喜には比ぶべくもない。スタジオでの「お披露目」が終わったふたりはまったく興奮の渦中にあり、それを悠たちと分かち合おうと躍起になるのだった。
「そうだお祝いしようよ! ね、そうしよっ、いま帰るのとか不可だから!」と、千枝。
「わたしおかし買ってくるよ、あと飲み物とかも! もちろんおごるから!」と、雪子。
「ちょっとふたり先に帰ったらあとでペルソナスパーリングの刑だかんね!」
「クマさんちゃんと見張っててね! このふたり逃がしたらむしるからね!」
 女子ふたりは悠たちにきびしく解散を禁じると、ふたりして嵐のようにジュネスへ舞い戻っていった。
「向こうがわ確認しないで出てったなあのふたり……見つかったらどうするんだ」悠はあきれた。
「まあ気持ちはよくわかっけど。だれだって喜ぶって、こんなの手に入ったらさ」陽介は自分のタロットカードをひらひらさせて言った。
「さっきむしるって言ってたクマ? ユキちゃんったらけっこうボーリョク的?」クマはまんざらでもなさそうである。
 千枝と雪子の「ペルソナ能力発現祝賀会」は、実に午後七時ごろまで続いた。菜々子は例によってフグへと変じたものだが、これを責める材を女子ふたりの強引さにばかり求めるわけにはいくまい。彼ら四人と一匹はめいめい床に足を投げ出すと、熱に浮かされたようにペルソナとこの異世界と、件の事件とについて議論した。その足許に散乱した飲食物をつまむ暇もあらばこそ、急かされるようにして話し合った。
 その充実感よ! 過日に陽介と自分たちのペルソナを調べたとき以上の、満ち足りたひととき。悠にとってはまったくの未知の快楽。かつてこれほどまでに惜しまれ、かつ速やかに過ぎていく時間などというものが、いったい自分の人生にあっただろうか? しかも彼は喜ばしいことに、惜しみこそすれその過ぎては必ず戻ることを疑い得なかったのである。悠以外の四者もまたその口調と態度とから、彼とひとしい心境にあるのだということがはっきりとわかったので。
 とまれかくまれ、こうして四人と一匹は熱心に話し合った。そしてようよう息も切れ、おのがじし時間を気にし始めたころ、四人はお互いのあいだに新しい、ある特別な認識が生まれたことを自覚しあうのだった。
「ペルソナつかい」という輝かしいタイトルを持つものとしての認識。選ばれた人間としての堅固な認識である。この人跡未踏の異世界における難事件を解決する使命と、そのための力を授かったのだという強烈な認識。世にあっては仰ぎ見ることもできないような権能ある人々が、なんとこのことに関しては自分たちの足の爪のひとかけらにさえ及ばぬのだという、誇らかな認識が。
 思えばこれは、陽介をしてペルソナ能力を手にした後に「俺たちが特別なんだっていう証拠にならないか?」などと言わしめた、そしてかの鰻屋においては千枝と雪子の胸にも去来したところの、あの心情と同じ性質のものであろう。それはあらためて三者を歓喜のうちに捉え、今度こそは悠の通人ぶった、よろず斜めに見がちな心をも漏らさなかったのである。
 これは四人という、それなりに纏まった人数が揃ったことも影響しているのだろう。千枝と雪子、ふたりの新しいペルソナを目の当たりにし、それらについてみなと語り合うに至ってついに、いままで胸中の隅っこにどうしても退かせずにあった「艫舵なき船の大洋に乗り出せしがごとく」とでも言うような、難業を前にしてしょうじき途方に暮れているといったような感じは消え失せ、
「難しいことだけどみんながいるし、協力し合えばきっとうまくいくさ!」
 くらいの前向きな展望が、代わってその座を占めるようになったのである。もはや彼の「ペルソナ号」はふたり乗りのカヌーではなかった。その船体こそ小さくとも、エンジンと屋根と船員とを得て、最近ちょっと調子が悪いがそれなりに機能するGPSを備え、不安を上回る期待と喜びとを喫水線ぎりぎりまで満載していた。艤装はすでに終わった。今こそ沖へと乗り出すときである。
 彼ら「ペルソナつかい」たちはこの日より以後、教室内で席が近いのも手伝って、状況がそれを許すかぎり磁石のようにいっしょになるのを好んだ。細井教諭にもからかわれたように、以前から悠と陽介と千枝とはくっつきがちではあったが、加えていっとう派手な雪子が正式にその仲間となったのだ。このビビッドな四人が教室のど真ん中にあって、ある日を境に忽然と一塊になるなど、二年二組においてはさぞ目立ったに違いない。
 もともとほかのクラスメイトとあまり接点を持たなかった悠と雪子はともかく、友人が多くありていに言って「クラスの人気者」とでも言えよう存在であった陽介と千枝は、その打って変わったような付き合いの悪さを早くも周囲から茶化された。さいきん四人でばかりつるんでいるな、などと言われたとき、そのとき彼らの面に過ぎったすまなそうな微笑は、しかしどこか誇らしげではなかったか? この「ペルソナつかいの紐帯」には、周りから不審がられれば不審がられるほど小気味よく思われるような、ちょっと秘密結社的な重く静かな芳香があったのである。
 とまれかくまれ、こうして悠たちはなかよし四人組となった。
 そしてなってみていよいよ、千枝が自分に対してどうやら抱いているらしい、なにか含みのようなものを、悠は感じ取らずにはおかなくなったのである。



 三日前の祝賀会において、悠は「ペルソナ部活動論」なるものを陽介たちに提案していた。べつに大した内容ではなく、要約すると、
「可能なかぎり毎日、学生が放課後を部活動に充てるような要領でペルソナの訓練をしましょう。そのためにバイトなどは邪魔になるので、架空の部活動をやるという名目のもと最小限にするか、いっそすっぱり辞めてしまいましょう」
 といったようなものである。花村流はともかくとしても、鳴上流のほうは継続して訓練しなければ使いものにならないのだ。その未熟なために苦戦を強いられた悠のこと、説得の言葉には自然と熱が込もった。
 陽介だけは慎重な態度を維持したものの、千枝と雪子とクマはこれに満腔の賛意を示す。彼女らにしてみれば一刻もはやく悠と陽介に追いつかねば、という気負いもあったであろうし、手に入れたばかりの未知の力を試したいという好奇心もまたしかりである。クマなどはほとんど毎日、だれかが会いに来てくれるようになるかもしれないのだから、この三者が陽介の両腕を引っ捕らえて、むりやり賛成の手を挙げさせたのも無理からぬことであった。
「いやっ、俺も賛成っちゃ賛成なんだけどさ」陽介は拘束されながらこう言ったものだ。「でもさすがにバイトやめろってのはちっと困るっつーか……ほら、俺もいいかげんキビしいもんがあっけど、天城とかはなおさらだろ? すっぱりやめる以前に、最小限にだってしてもらえねんじゃねーの? ペルソナ部活にするとか天城ソッコーで幽霊部員化まったなしじゃん」
 この場はクマのスピアリングタックルと雪子のエルボードロップでうやむやにされたのだが、陽介の予言は翌日、早くも現実のものとなった。雪子が放課後すぐ帰宅するようになったのである。
「わたし、きょうあすあさってはダメっぽい。ペルソナ」
 雪子は通学路で悠を捕まえると唐突に、「おはよう」のひと言もなくこう切り出した。つまり水曜、木曜に加えて祝日の金曜も全滅、ということである。
「土曜日ひょっとしたらだいじょうぶかもしれないから、そのとき行きたいけど。だいじょうぶかな」
「たぶん、大丈夫だと、思うけど」悠は気圧されぎみに、それでもなんとか労りの言葉をひねり出した。「いつも大変だな天城……まだだいぶ忙しいんだ? 旅館」
「んん……わたしなしでももうちょっとなんとかなるはずなのに、なんでこうなるんだろう……」
 さすがに「辞めさせてくれ」とは言わないまでも、彼女はおそらく天城屋に「もう少し休みが欲しい」とでも訴えたのだろう。そしてそれが容れられなかったのに違いない。
「ムカつくよ。平日はともかくだけど、わたし今週は金土日とも休みだったんだよ?」雪子はゴム手袋の左手を小刻みに振って、憤懣やるかたないといった様子。「でもきのう帰ったらぜんぶつぶされてた。相談もなし」
「潰されたって、よくあるの? そういうこと」悠は彼女をなだめるために、ことさら憤慨したふうを装った。「なんだよそれ。それじゃあ予定なんか立てようがないじゃないか、なに考えてるんだ」
「ホントだよ……ごめん、いきなり。朝からこんなこと聞かせちゃって」雪子は悲しげに笑って言った。「わかってるんだ。きっと月火と突発でお休みもらったせいだと思うんだけど、でもきのうはあんまり腹が立って――」
 いったい、これほど愚痴めいたことを口にする雪子というのも珍しい。よほどペルソナの訓練を楽しみにしていたものと思しく、彼女はひどく悔しげであった。悠としては控えめに天城屋を非難して、もって彼女を慰めてやるくらいしかできない。
(あわれ天城雪子……)
 かわいそうなことだが、しかしこれは想定のうちである。ことに雪子が自分たちと同じようには行動できまい、というのは悠も早くから指摘していたのだし、あらかじめわかっていたことだ。これは仕方がない。
 問題は千枝が教室でこれを知らされるや否や、
「あ、えーっと、あたしも今日はちょっと用事あるかな、うん」
 取って付けたようにこう述べたことである。それはときには用事のあることもあろうが、彼女は三日間、ほとんど同じ科白でもってジュネス行きを糊塗したのだ。つい先日に悠の提案をあれほどの熱意でもって肯定した彼女が。それまではいつも時間がありあまっていて、ほとんど必ず悠と陽介にくっついていっしょにジュネスでダベっていたヒマ人が、である。
(珍しい。里中が用事ねえ、なんだろう)
 最初こそ首を傾げるくらいだったものの、さて、そのあとの千枝の様子がなんとなくおかしい。
 そもそも前日から気には留めていたのだが、彼女は授業中に手紙を回して来なくなっていた。悠が休み時間に次の課目の準備などしていると、たまさか眼が合ってあわててそっぽうを向かれて、以後は横面になんとなく視線を感じるような気がする。不審に思って注意して観察してみると、いかにも千枝は「なんとなくおかしい」のだ。
 四人で集まっているときこそ、彼女は快活そのものである。隔意を感じるどころかむしろその逆で、この頃はなににつけても悠の側に肩を入れるような向きさえある。しかしいったんバラバラになればとたんに挙動不審を呈する。教室を出入りするときは素早く悠の席を確認する。彼の周りにひとが少なかったりすると、教室に入るのを止めてパッと踵を返してしまう。廊下を歩くときはなんだか無闇にキョロキョロして、まるでだれか探しでもしているふうである。いちどだけすれ違った折には、彼女はにわかになにか思い出したようにして早足になったものだ。おまけに今まではあれほど悠と陽介とばかりくっついていたのが、四人でいるとき以外は急に雪子にべったりになった。四人でかたまって喋っているときなど、雪子が小用で離れたりするとさりげなくついて行ってしまう……
(違う、たぶん用事があるわけじゃない。天城が同行しないから断ってるんだ)
 三回目、つまり今朝のことだが、同じような断りを電話で聞く段になって、悠は確信する。なぜそんなことを? 最近の千枝の不可解な挙動に加えてこれを考え合わせると、彼の胸裡にはどうしても否定しえぬ、ある疑いが浮上してくるのだった。すなわち、
(おれとふたりきりになるのを避けてる……?)
 千枝もひたすら悠を忌避するというのではなく、どうやら彼がひとりでいるとき、もしくは周りにあまりひとがいないとき、そして雪子を伴っていないときを避けるようなのだ。陽介を伴う場合でもジュネス行きを断るのはよくわからないが、万一なにかの拍子に彼がいなくなったとき、周りにクマくらいしか残らないからかもしれない。
 いずれにせよ、悠がある一定の条件のもとで、千枝に避けられているのはほぼ確実と思われた。顧みれば月曜のあの一件からこちら、彼女とは面と向かって一対一で話した記憶がない。いや、一度だけあるにはあった。その次の日の朝、教室へ移動中に彼女が階段を踏み外したとき……
(あれ、気のせいじゃなかったのか?)
 千枝が階段の踊り場で見せた、あのにわかな狼狽。いかにもあれは「ひょっとしてまだしこりが残ってるんだろうか」くらいの不安を悠に抱かせはした。しかしその後の「ペルソナ能力発現祝賀会」における四者の連帯結束には、間違いなくあれしきの小皺など跡形もなく均してしまえるアイロンの熱さがあったはず。実際、千枝は周りに悠以外の人間がそれなりに居さえすれば親切そのものなのだ。
 しかし友誼を求めているのなら自分を避けるはずはない。悠に親しく接するのは対外的なポーズに過ぎず、本当は心の底で憎んでいるのか? ただ認めたくはないが、どうやらこれだけははっきりと言えるらしい――例の一件はまだ終わっていなかったのだ!
 本日は金曜日、昭和の日。千枝に電話をして、ジュネス行きを断られたのが午前八時半ごろ。陽介から電話がきて、ジュネス行きを生返事で断ったのがそのすぐあと。外は雨。心は悩みでいっぱい。せっかくの祝日なのにどこかへ行く気もはや失せた。悠は自室のソファに座ってあたまを抱えてしまった。
 なんと気がついてみれば、投棄されたはずの「ちえのわ」はより複雑になって、いつの間にか手元に戻って来ているではないか! いまにして彼は三日前の雨の朝、あの三人のうちの誰かが余計な気を回したことを怨みに思わざるを得ない。あんなのはただの問題の先送りに過ぎなかった。いや、先送るどころかよりいっそうこじらせたのだ。あのときほんの一瞬の苦痛に耐えさえすれば、それはもちろんお互いの関係は今とたしょう変わったにせよ、千枝とのいさかいは一応の解決を見たはずなのに!
 すでに謝罪する機を逸してしまった。千枝との関係は傷ついたあといびつに癒着して、のちの処置が悪かったものだから黴菌が入り込んだ。悠は感染症に苦しんだ。誰かが言ってはいなかったか? 傷は放置すれば膿むと。はやく手当てせねばならぬと……
(くそっ、過ぎたことは過ぎたことだろう、女々しいぞ鳴上悠!)ようよう顔を持ち上げると、テレビのブラウン管の中から陰気な、しょぼくれた少年がこちらを見つめている。(今日楽しみを作さざれば当に何れの時をか待つべき! 何ぞ能く愁い怫鬱として当に復た来茲を待つべけんや! おまえはせっかくの休みを一日中そうやってメソメソして費やすつもりなのか? さっさと立ち直れ、なにか気分転換のタネを探すんだ……!)
 悠はソファを立って、しまう場所がないためにいまだ積みっぱなしになっている段ボール箱のうちのひとつに寄ると、中から適当な本を一冊選り出した。なにかいまの気分を払拭してくれるような、自分を叱咤してくれるような言葉が要る。それも早急に。
「自省録。マルクス・アウレリウス……」
 いつ挟んだものか、文庫本の天から白いブックマークの端が覗いている。それの挟んであるページを開いてみる。


 波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。
 岩は立っている、その周囲に水のうねりは静かに安らう。
「なんて私は運が悪いんだろう。こんな目にあうとは!」
 否、その反対だ。むしろ、
「なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、
 私はなお悲しみもせず、現在に押し潰されもせず、
 未来を恐れもしていない」である――


 なんておれは運が悪いんだろうオー・メー・イーンフェーリーケムこんな目にあうとはクィ・ホク・アッキデーリト! 悠は持っていた本を段ボール箱にぶち込んだ。まったく心に響かない! 目下彼はこんなことに出会って悲しみもしてるし、現在に押し潰されそうだし、おおいに未来を恐れもしているのだから!
 悠はその日、鬱々として自室に閉じこもったまま、段ボール箱の中の本を取り出してみては投げ込むという孤独な競技に憂身をやつしていた。心配した堂島父娘が部屋の戸を叩いたのは夕方のことである。






 彼女は好意を示す。しかも彼女は隔意を示す――この矛盾についてはもう考えないことにする。そもそも矛盾について考えることじたい徒労である。
 ではこの矛と盾、千枝の手にあるのがいずれであると規定するのがよいか、と言えば、それはより安全側、つまり隔意を持たれているとするほうであろう。これまでの経緯からしても、彼女が現在もなお悠に一定の反感を持ち続けている、と考えることは、そうでないと判断するよりは筋が通っているように思われる。
 いま悠がすべきなのは、理想を言えばやはり謝罪だ。千枝がいま現在どのような意趣を彼に対して持っているにせよ、その根本は疑いようもなくあの「悪夢の六限目数学」に求められるはずだし、実際それの終わっていなかったことはもはや明白なのだから。謝罪することによってなにかが起きるだろう、それは場合によっては悠と千枝の関係をいまより悪くするかもしれないが、それとて解決のひとつのかたちである。少なくとも悠は以後、懊悩して文庫本のカバーをめちゃくちゃにしたりせずに済むし、悪くなった関係を繕うための準備にだって晴れて取りかかれるのだ。
 しかし、これはとうの昔に時宜を逸している。難易度の面からいっても悠にはほとんど選択不可能であった。
 自尊心云々の話ではない。どころか、この六日間という時間はひとを冷静にさせ、かつ記憶の細部をあいまいにし、部分的には改造さえしてしまうにはじゅうぶん過ぎるほどの長さで、悠は自分をあれほどの暗い激情に駆り立てたものがなんだったのか、いまとなっては不思議なほど思い出せないのである。
 あらためて例の一件を振り返ってみても、彼の心に鮮明なのは授業を邪魔され恥をかかされた自身の憤懣などではなく、いっそ可愛らしいとさえ思える千枝の児戯である。底意地の悪い方法でやり返されて、みなの笑いものにされた彼女が、きっと感じたに違いない羞恥である。それを訴えても容れられず、ついには衆人環視のただ中で面罵された、そのとき流したあの涙の苦痛である。もちろん千枝が悠を不当に難じ、無体な態度を取ったという記憶はあるにはあったが、思い返すだになぜあれしきのことを流してやれなかったのか、悠は怒りどころか恥ずかしさと自己嫌悪でいっぱいになるのだった。あんなものがなんだというのだろう、それより自らが千枝に向かって「おい」と恫喝したことのほうが何十倍もひどい仕打ちではないか!
 いまや悠の中で被害者と加害者とは逆転していた。千枝は「ひょっとしたら好意から戯れかかったのを過度にはねつけられ、そればかりか不当に辱められたあわれなひと」であり、悠が自らに与えた地位は「思い込みが激しく共感能力に欠ける、短気で狭量で執念ぶかい詭弁家」という散々なものである。いまの彼に謝罪をためらわせるのは、来たる自尊心への痛撃などではなく、ひとえに千枝への猛烈な申し訳のなさであった。彼女を許してやれず、そういう自らをも許せず、行動をためらって安易な道に走った悠は、とうとう許しを乞う立場へと、しかもそれを容易になし得ぬ底辺へと落ちてきてしまったらしい。
 謝罪は困難である。特効薬は用意できない。ではどうするか? 現実的なのは彼女の隔意などそしらぬ気に、とりあえずは愛想よく親切に接すること。そして千枝が悠を避けて一歩退いたら、いっそう鈍感を装って一歩詰める。なにか言われてもできるだけ粘って離れない。そうしていれば彼女はおそらく、隔意の原因そのものを忘れるか、もしくはそれをはっきりと表明するか、いずれかの挙に出るだろう。具体的にどのようなことをしてくるかわからないが、そのときどきに応じて対症療法的に投薬するしかない。最悪の場合、特効薬そのものが求められるかもしれないが。
 しかしこれも簡単ではなさそうだった。妙な話だが、悠はこのためにむしろ、自身の中で被害者と加害者とが逆転してしまったことを惜しんだ。例の一件の翌日、陽介たち三人が飛びかかってくるまでわが胸裡を焼いていた二律背反は苦しいものでこそあったが、少なくもそこから脱せねばと彼を律して、強く行動をうながす原動力にはなったのだ。それに彼の性格上「おれは本当は悪くないけど、それが正しいからあえて冤罪を蒙るのだ」として自尊心の高きをあえて屈曲するなどは、じっさいに行われていればおそらく、それに伴う多大な苦痛のあとには、殉教者めいた快楽が付き従ったに違いない。自分が一歩譲ってやっているのだ、と考えることはすでに、彼には一種の報酬であった。
 いまはそれもない。悠がこれから関係改善のために働きかけるのは、彼の心情からすれば過去にひどい仕打ちをしてしまったひとで、しかもそれを表向きなかったことにしてくれた善人である。もしすげない態度を取られたら? 辛辣な言葉が飛んできたら? 千枝が先にそうしたように、あの残酷きわまる沈黙の壁を築いたら? 悠はそのとき別次元の痛みに耐えなければならない。それは殉教者の背に加えられる法悦の鞭ではなく、犯罪者を打ち据える刑罰のそれだ。しかもそうされるのが当然なのだという、全裸で大の字になるような心理的無防備のうちに行われる打擲なのだ。かかる極刑に処されたらどうなることだろう? 彼は自失し言葉を失って、果ては息子と夫を殺され国をも滅ぼされたあのトロイアの王妃のように、悲嘆のあまり犬にでも変じてしまうかもしれない。
 悠の自尊心はなによりこれを恐れた。ことは慎重になされねばならぬ、よってこれはあくまで努力目標とする。状況がそれを許さないかぎりは、
(せめてこれいじょう余計なことはしないで、現状維持に努めよう……)
 夕食後、悠が机上でひねり出した結論はこのようなものだった。
 これで終わり。これでひとまず結論は出た、もう思い悩む必要はない――悠は机から立ってひとつ長大息した。あとは明日から行動あるのみだ。なるようにしかならないのだ、ウジウジするのもいい加減にせよ。せめて上っ面だけでも男らしく振る舞うがいい。
 壁掛け時計を見上げる。時刻は午後十一時四十分過ぎ。二階へ上がる前に確認したときは確か九時半ごろであったから、部屋へ入ってすぐ机に着くなり沈思黙考、なんと二時間にも及んだことになる。たいした対策も立てられなかったわりに時間を使ったものだ。
(おれ、弱くなった、ホントに)自嘲の笑みに口角が持ち上がる。(おまえ、ここに来る前はこんなじゃなかっただろう? あの鉄の男はどこに行ったんだ?)
 もちろん決まっている、そんな男は最初からどこにもいなかったのだ。うぬぼれ屋の悠のこと、その強度を試す機会さえなければいくらでも自分を粉飾して飽かなかったことだろう。ついこの間までは自らの体幹に鉄芯が通っているなどと信じていたものだが、まったく大それた妄想である。他のすべてのひとと同じく、それもただの神経繊維の束に過ぎなかったのだ。ひとと違うところといえば、どうやらいっそう柔弱で感じやすくて脆いくらいのものか。
(そうだ、ダイヤモンドがいいな、それも合成のやつ。硬いだけですぐ砕ける、鉄じゃなくてダイヤの芯だ、それならおまえの高いだけのプライドも満足だろう? ダイヤモンド。ただむやみに光って金持ちにありがたがられるだけで、指輪にする以外のなんの役にも立たない。いや、研磨剤になるんだっけ? こりゃいい、ちょっと削り取ってこんど巽に分けてやろうか……)
 そういえばあいつもいかにも落ち込みやすそうな、繊細な印象があったな――ふと、悲しみに酔うひとはかくもあろうかと考えて、窓に寄ってもの憂げにカーテンを開けてみると、
「なんだこれ……霧……?」
 思いがけず窓の向こうは一面の霧であった。夜闇が質量を得たような異様な世界。腕を伸ばせば指先も霞もうかという濃霧が、家の前の街路灯に薄黄色く纏わりついているのが見える。不気味さよりも多く神秘を、そしてどこか既視感を感じさせる眺めだ。
(ああ、さっきニュースで言ってたっけ、夜から霧が出るんだった。初めて見るな……)
 この不思議な光景を前にしては、塞いだ心も少しく慰められる思いである。悠は窓を開けると天板に両手をついて突っ張って、身を乗り出してしばらく外の様子を眺めていた。そう言えば夕食のとき、遼太郎が「さいきん霧が多いな」などとこぼしていたような気がする。そのあと退屈した菜々子がチャンネルを変えて、大好きなジュネスのコマーシャルに当たって、それをしおにゴールデンウィークにどこか行こうという話になったのだ。半分うわのそらだったのでどことは覚えていないが、彼女は歌いながらしきりにジュネスを推していた。予定を訊かれたのは記憶しているので、たぶん悠もいっしょに行こうという話に――
 ふいに背後でザーという物音がしたのに、悠は物思いに沈んでいたのも手伝って「うおっ!」と飛び上がった。振り返るとテレビの電源がひとりでに入って、断続的に砂嵐とホワイトノイズとを出力している。
(あれ、リモコン踏んだ? 故障?)
 慌ててあたりを見回してみる。が、リモコンはソファの上に転がっている。身体が当たったかしたわけではない。それを操作して電源を落としてみようとするが、しかし反応はない。テレビ本体の主電源ボタンを押してみても同様である。
(……これ、ひょっとして、マヨナカテレビ?)
 ふたたび時計を見上げる。折しも時刻は午前零時。そうしている間にもテレビははたと静かになった。まるで今ほどの悠の思いつきを肯定するかのような間で。
(マヨナカテレビが映るのは雨のときだけじゃないのか? まあ霧も水分には違いないけど……あれ、待てよ……)
 マヨナカテレビ。テレビの中の世界。悠は窓へ取って返して、眼下の街路灯を見つめる。
(黄色い。確かあれ、白色灯だったはずだ。霧に色がついてるんだ、この霧は黄色い……)
 既視感を覚えるはずだ。このレモン色の濃霧、これと同じようなものを、自分はどこかで見たことがなかったか?






 あれほどの霧も翌朝までには嘘のように消え去っていた。そののち雲ひとつなく晴れ渡ったのは、ここ何日かずっと雨ふりだった、その帳尻合わせであろうか。
 悠は住宅街を抜けてすぐの田園沿いの小道を、ちらほら見え始めた八校生に混じって歩いていた。前屈みになって道のはたの砂利を蹴りながら、きょう千枝に会ったとき最初にかける言葉などをつらつら考えていると、ふと早足で自分を追い抜こうとする人間のあるのに気付く。
「鳴上くんおはよ!」
「あ……おはよう、天城」
 横合いから覗き込んできたのは雪子である。
 先日と打って変わって、彼女はことに機嫌がよさそうであった。なにせ今度はちゃんと朝の挨拶があったし、「きのう霧すごかったね」だの「もうじき中間テストだね」だの「近所の染物屋さんであのタロットを入れる袋を買ってみたんだ。これこれ」だのと妙に饒舌で、その面から微笑みの絶えることがなかった。
「どう、今日は行けそう? 大丈夫?」と話の合間に尋ねれば、
「うん、ほとんど大丈夫だと思う! 今日こそはペルソナ行ける。あんまり日を開けると喚びかた忘れちゃうからね」
 彼女はよくぞ訊いてくれましたとばかりに、こう述べて笑う。雪子は幸薄げにしおたれている姿こそ美しい、などと内心ひそかに思っていたものだが、こうして朝日の下でにこにこしていると生来の麗貌もいや増しに輝いて、太陽の女神が化身したかのような神々しささえあるではないか。周囲の八校生男子どもにはきっと後光が差して見えたことだろう。この女神を傍らに伴って、彼らの羨望の眼差しにちくちく刺されながら歩くというのはなかなか気分のいいものである。
 雪子は上機嫌だった。彼女の様子には今日の「お休み」について、なにか天城屋から確約を取り付けたふうがあったので、悠も今日こそは行けるものとすっかり安心していた――放課後までは。
 課業後のHRが終わるとほどなく、雪子は席を立って廊下へ出て行った。このとき悠はむしろ隣の千枝の動向を気にしていて、いっしょに席を立って着いて行きはすまいかとチラチラ様子を窺っていたのだが、さて、気付けば小用かと思われた雪子が、五分経ち十分経ちしても帰ってこない。教室に残っている生徒も漸を追ってまばらになっていく。
「ねえ、雪子どうしたんだろ。出たきりだよね」
 これを気にしたようで、千枝が廊下のほうを向いて呟いた。たまたま陽介が話しかけたおかげか、彼女は席を立つことはしていなかったのだが、このひと言を機に腰を浮かすような気配を見せる。
「あ、おれ、ちょっと見てくるよ」
 彼女に避けられていることはすでにわかっている。相手の意図が見えていればこそ、それを実際の行動に移されるのはなんとなく辛い。できる限り避けたい。悠はなかば反射的に立ち上がると、千枝が自分から逃げ出す前に教室を出たのだった。
 ああ情けない、おまえは里中の道化だ。ご主人さまが小指一本動かしただけでおまえはてんてこ舞いだ――などと内心で自らの女々しさについて悪態を吐く暇に、悠は手洗場の流しの縁に寄りかかって、携帯電話を耳に当ててうつむく雪子を見つけた。
(ああ、ダメになったんだな、たぶん。顔に書いてある……)
 その横顔に深く陰が落ちたように見えるのは、手洗場の窓を背にしているからというだけではあるまい。ぽつぽつと低い声で電話に向かって話しながら、彼女は塑像のように無表情を保っている。感情をいっさい面に表さない、というのが非常な不機嫌を意味するということを、悠は自らの経験からよく知っている。電話の相手もその伝える内容も、雪子の様子からは容易に推察された。
「……はい……わかってます、はい。はい」彼女の返事はまったく「わかっていなさ」に満ちている。「はい……思ってません。いえ思ってません」
 悠が近づいてくるのに気いたようで、雪子はふと彼のほうを向いて、声を出さずに口だけで「最低」と言った。
「わかりましたからもう切ります。すぐ帰らなきゃいけないので」
 と、それだけ言い放って乱暴に電話を切る。たぶん話の途中だったのをむりやり打ち切ったのだろう。
「なら最初からそう言ってよォ……!」
 うつむき拉がれたまま、雪子はヒステリックに呻いた。肺腑から絞り出したような声である。なんと言葉をかけていいかわからず、しかし黙っているよりはと、悠は言わでものことを訊いた。
「行けなくなった?」
「ごらんのとおりっ!」
 見ればわかるでしょ、とでも言いたげな、突き放した捨て鉢な科白が返ってくる。
「……ごめん。わたし、当たってる」が、ほどなく恥じたような言葉があとに続いた。「鳴上くんが八つ当たりされる筋合いなんかないのに。ごめんなさい、ほんとに」
「いや、おれも八つ当たりならちょっとしたもんなんだ。母親にプロ認定されたことあるし」悠はあえて陽気にいらえた。「天城のはまだまだ、基本がなってない、アマチュアだな。それに言われたほうじゃ喜んでるくらいなんだから、天城は代金を請求してもいいくらいだ」
 雪子は唇を嚙むような仕草をしたあと「喜んでたの?」と訊いた。
「実はそっちのほうもプロ級」顔を近づけて囁く。「で、もう少しやってみない? あと二、三言は罵ってほしい、もっと攻撃的なやつ。報酬ははずむから」
「……それはまたこんど、ね」雪子はようやくちらと微笑んだ。「今日はもう帰らなきゃいけないから」
「なんだお預けか。最近いいことないな」
「お互いにね――鳴上くん」
「おっ、気が変わった?」
「そうじゃなくて」雪子は苦笑しながら、「ほんとに、ごめん。情けないよ。わたし、こうなることわかってたのに……」
 彼女の言う「こうなること」とは無論、旅館の仕事に忙殺されて自称特別捜査隊の活動を疎かにしてしまう事態を指すのだろう。
「鳴上くんだってわかってて、だから止めてくれたのに。自分がイヤになる」
「止めたけど、そのあと考え直したじゃないか。あれは陽介が正しい」悠は二年二組教室を指さして笑った。「あいつたまに正しくなるから余計に始末に負えないんだ。いつも間違ってりゃあいいのに」
「花村くんはたぶん、わたしがかわいそうだから、あんなふうに言ってくれたんだと思う。わたしきっと、みんなの足を引っ張る……」雪子は一転、泣きそうな顔になる。「ペルソナ、三人で行ってね。もうわたし待たなくていいから、行けるときになんとかがんばるから。事件解決を第一に考えてね」
 先日の「ペルソナ能力発現祝賀会」以降、悠たちがテレビの中の世界へ入っていないのを、彼女はどうも自分を憚ってのことと思っていたようだ。実際はもれなく千枝までいなくなってしまうので、けっきょく気乗りしないまま悠と陽介とふたり、ジュネスのフードコートでなんとなく暇を潰していた、というだけなのだが。
「事件解決を第一に考えることと、天城を待たないこととが、なんでイコールで結ばれるかよくわからないけど」と、そしらぬ気に悠。「天城を待つのは伊達や酔狂じゃない、そうすることが必要だからだ。そうする必要のあることは誰に止められたってするし、そうでなきゃ誰に勧められたってしないよ。自称特別捜査隊に入隊した以上、隊長の計画には従ってもらわなきゃ」
 嘘も方便である。このへんは柔軟に考えるべきだ、重要なのは雪子が受け入れやすいかどうかである。
「そう言ってくれるのはうれしいけど」
「おれにもそれなりの構想みたいなものがあってさ、そのためにペルソナ能力に格差を作るのはできる限り避けたいんだ」
 ということにしておこう。理想的にはそうありたいわけだし、げんに悠は過日の鰻屋でその旨を主張している。
「こないだはペルソナ訓練を部活化しようなんてことを言いはしたけど、あれは要は訓練する時間をつくるために、架空の理由をでっち上げたほうが都合がいいってくらいの意味であって、バイト制限しろっていうのはあくまで付帯的なもの、努力目標に過ぎない。陽介だって言ってただろ? 天城は難しいものがあるってさ。それはもうとっくに想定済みだから、いまさらこんなことで気に病まれるとかえってこっちが恐縮するよ」
「でもみんなに悪いもん。千枝だってあんなに行きたがってたのに……」
「里中はここ最近、用事つづきですぐ帰ってるよ」おれを避けてね。「もし天城が毎日行けたとしても、けっきょくは里中がブレーキになったわけだ。そのほかの日だっておれや陽介がそうなる可能性はじゅうぶんある。こんなのは団体行動につきものの欠点で、べつに天城に特有の事情ってわけじゃない」
「でも、比重としてはわたしがいちばんだよ。ほかのみんなとは比較にならないくらい、お荷物なの」雪子の面に自嘲の笑みが浮かぶ。「やっぱり行けるときに三人で行ってほしい。わたしを待ってたら誰も入れなくなっちゃう」
 理詰めは難しいか――悠はひっそりとため息をついた。このばあい雪子自身が問題点をわかりすぎるほどわかっているのだから、論理的な説得は困難であろう。であれば、感情に訴えるしかない。
「……ひどいな。おれたちを見捨てるの?」
 と、悠が低い声で言ったのに、雪子は弾かれたようにして顔を上げた。
「なに言ってるの違うよ、むしろわたしが足手まといになるから、だから……」
「だから見捨てろって? なあ天城」悠は彼女のほうへ一歩近づきながら、「天城はもう『四本目の足』なんだ。ちょっと挫いたからって斬り落とすことなんかできない、そのとき流れる血は天城のだけじゃないからだ。ふつうは右足を傷めたら、それをいたわって安静にするもんだろう? そのあいだ左足だけ勝手にそのあたりをウロウロしたりなんかしない。走るときも座るときも、いっしょだ。そうだろ?」
「……うん」
「それは、それらが協同してひとつのものを構成しているから、チームだからだ。おれたちはチームで、ひとつのものだから、たとえ三本の足が自由に動いたって、傷めたもう一本のほうを引きずったり斬り落としたりはしない」
「うん」
「いまは捻挫が治って、自由に動かせるようになるのをゆっくり待つときだよ。一本目も二本目も三本目もそれを望んでる」悠はちょっと気恥ずかしくなって、雪子から一歩はなれた。「……こないだも言ったけど、ペルソナはさ、少なくともなるほうだけなら、訓練らしい訓練はいらないんだ。当分はそっちを使わざるを得ないから、だからひとり欠けた状態でムリに向こうへ行って、あくせく訓練する必要なんかないんだ。だから気にしないで」
 いまそのように勧めるだけでさえあれほどの悲嘆を見せるのだ。雪子の言うとおり三人だけでテレビの中に通い続けるなどすれば、仲間外れの彼女の意欲はどこまでも落ちていくことだろう。いまや彼ら四人にとってテレビの中の世界と、ペルソナを喚ぶタロットカードとはかけがえのない価値あるものとなったが、それとて四人と一匹の堅い結義のあればこそだ。孤立し続ける雪子にはいつか、その財産も光を失って見えるときが来るかもしれない。
 そのとき彼女が「やっぱりわたしにはムリだったみたい」と嘆いて、隊長にタロットを返却することになったとしたら? たとえ悠とのことがなくても千枝は激しく動揺するはず。彼女が親友に続く可能性ははっきり言って高い。しこうして、杖を二本失った悠たちふたりは派手に転ぶだろう。
 方便には真実も含まれていたようだ。悠たち三人のペルソナ習熟が少しくらい遅れるのは構わない、雪子の参加はやはり待つべきなのだ。雪子にとってのベストはそもそも自称特別捜査隊に加わらないことだった。しかし加わったのなら、可能なかぎりその活動から漏らすべきではない。
「……みんなが向こうに行かないと、クマさん寂しいだろうね」
 ややあって、雪子は薄く笑ってこう言った。毎日入ってくるものと思っていた悠たちが火曜日以降まったく顔を見せないのだから、あの寂しがり屋のクマの孤愁と憂憤たるやなまなかのものではあるまい。
「クマは何年も何十年もひとりであそこにいたんだ。一週間かそこらくらいなんとも思わないよ」もしクマが聞いていたら地団駄ふんで否定したことだろう。「それに、会わない期間が長ければ、それだけ会えたときの喜びも増す。もっと焦らしてやってもいいくらいだ」
「クマさんって、そんなに長く生きてるの?」雪子は目を丸くして驚いている。「それに、ひとりだったの? そういえばあの世界って、ほかにクマさんみたいなひとっていないの?」
「ヘタすると何百年、何千年って単位かもね。本人も覚えてないって言ってたし。そのあいだ見たのはシャドウと、ほんの少しの人間だけだったって」
「少しの人間……」
 雪子はそう呟くと、尻を預けていた流しの縁から勢いよく離れた。その面にはもう笑みは浮かんでいない。
「そのひとたちはみんな、亡くなったんだよね」
「そう。例外はいまのところ、おれと陽介と里中と、天城だけだ」悠も真剣な表情を作る。「そしてこれからは死者こそが例外になる。おれたち四人がそうする。被害者は全員助けて、犯人は捕まえて、死なない程度にブッ殺す」
「そのあとわたしがぶん殴る」
「……このぶんだと、犯人は記念すべき最初の例外になるかな?」
「カバン、取ってくる。わたし行くよ」雪子は発奮したようだ。「うちに帰って、仕事かたづけて、お休みもらって、はやく向こうに行かなきゃ」
「天城、ムリだけはしないこと」悠はあえて釘を刺した。「事件のこととか、おれたちのこととかを考えてくれるなら、そのためになにより、体調を維持して健康に留意して。向こうの世界の危険だけを言うんじゃない、おれたちはこっちの世界でも怪しまれないようにしなきゃいけない」
 雪子はおどけて「はい、了解しました。隊長」と悠に向かって敬礼してみせた。
「よし。では行って任務を遂行したまえ。天城隊員」
 悠は笑って答礼を返した。






「ええっとォ、あたし今日はちょっと用事あるかもなんだ、こんどはウチでさ」
 三人で雪子を見送った後、千枝は早々と訊かれもしないうちからこう弁明した。
(来たな……)
 予想どおりの口上だ。いつもなら「あ、そうなんだ」で済ますところだが、この言葉の裏の意味を理解したいまとなっては、やすやすと看過するわけにはいかない。悠はあらかじめ用意していた「空気よめない鳴上くん」を装うと、
「え、用事ってどんな?」
 いかにも不思議そうに訊いた。
「へっ? いや、あー、たいした用事じゃにゃい、ないらしいんですけど……」
 千枝は訊かれると思っていなかったのだろう、慌てた様子である。思った通りだ、本当は用事などないのだ。
「大した用事じゃないならいいじゃないか。行こうよ」
「やーそうなんだけど、なんか付き合え付き合えってうっさくてさー、困ってんだけどさー……」
「お前ってなんか、さいきんそんなんばっかだな」ここで陽介から思わぬ掩護射撃。「てっきり天城んちの手伝いでも行ってんのかと思えば、そんなことねーって言ってるし」
「ええ? あたし旅館の手伝いなんかできないよォ、そんなスキルないし」千枝は笑顔を繕っている。「あ、でもジュネスでバイトくらいはできそうかなー。花村さいきんバイトあんまり行ってないけど、クビにでもなったの?」
(話題をすり替えた……)
「減らしたんだよ。完全になくすのはムリだけど……親父が許さんし、カネねーし……」陽介は不服そうに悠を一瞥しながら、「で? お前きょうも行けねーのか? その用事ってそんなに大事なモンなのか? あんまりブランク空くとペルソナの使いかた忘れっぞ」
「そのことだけど」と、悠は割り込んだ。「最近ちょっと考えててさ、天城が合流できるまで、しばらく向こうの世界には入らないようにしようと思うんだ。クマにはかわいそうだけど」
 こう言えば陽介も千枝もその理由をいろいろ質してくるものと思っていたのだが、ふたりは存外聞き分けがよかった。
「天城とペルソナのいろいろに差がつかないようにってんだろ」と、陽介。
「雪子だけ仲間はずれはかわいそうだもんね。あたしはいいよ」と、千枝。こころなし彼女の面が明るくなったような気がする。
「天城を待つのは構わんけど、ペルソナ使わなきゃべつにいいんじゃねーの? 入っても」
「それについてはあとで話そう。で、だ」悠は勇を鼓して千枝に向き直った。「里中、今日、なんとかジュネス行けないか? 天城のことでちょっと話したいこともあるし」
 さあせいぜい渋れ、なんとしても食い下がってやる――悠は丹田に力を漲らせて拒絶の言葉を待ち受ける。が、
「え、いいよ、行こうよ」
 千枝は拍子抜けするほどあっさり肯ってしまった。
「オメさっき用事があるとかなんとか言ってたのなんだったワケ……?」陽介が呆れる。
「あーあれは……まあどうせどーでもいい用事だって、きょうはいいよ、うん」千枝は悪びれた様子もない。「おーしひっさしぶりにハンバーグ食べれるぞーわーい。これはヨコヅナいっちゃうかー?」
「に――」陽介は千枝にすねを蹴られて飛び上がった。「――ちょっ、なんか言ったか俺いまっ! いってーなクッソ!」
「ぜったいニクって言おうとしたいま。バカにしようとした」
(やけにすんなり承諾したな。でもこれで少なくとも、里中は天城がいなくてもジュネスに来る、ということはわかった)
 つまり今までは、やはりテレビの中の世界へ行くのを――つまり向こうで悠とふたりきりになるかもしれない事態を――を避けていた、ということになる。あのほかにどこにも行き場のないスタジオで、陽介やクマがいなくなることなどまずあり得ないのだが、もしそうなったとき完全に逃げ場がなくなるということを不安に思っているのかもしれない。
「よし、決まり。じゃあ行こうか」とりあえずは一歩前進。つぎは愛想よく、親切に接すること。「……里中、ハンバーグ奢ろうか?」






[35651] 中東かっ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:bea68ca4
Date: 2016/03/02 00:50



 千枝を伴ってジュネスへ来るのは、かれこれ一週間ぶりくらいになろうか。
 フードコートの露台に卓席を埋める人は少なくない。そこは土曜日ということだろう、そろそろ午後も深まり始めようかという時間にあって、辺りにはいまだ昼どきの賑わいの残響のようなものが揺曳している。割合としては学生のほうが少ないくらいだ。
 悠と千枝はここまでの道中、陽介の司会を交えて侃諤の言い合いを続けていた。
 議題は「どっちが奢るか」である。のちに陽介をして「んなことでなんでそこまで意地張ってんのかマジでわからん」と呆れさせたほどの、実にささいな内容だ。発端は先に教室で悠が「ハンバーグ奢ろうか?」と言ったのに対して、千枝が、
「いやっ、むしろあたしおごるよホント。なんかおごってもらってばっかだし」
 などと返したことによる。
「え? いや……いいよ、いいんだ」おや、とは思いながらも、悠は譲らずに言い張った。「実はさいきんちょっと臨時収入があってさ、いま懐があったかいんだ。ぜんぜん気にしなくていいから」
「いやあ、だってさ、こないだだってたっかいウナギごちになったじゃん? おんなじものはちょっとアレですけど、ジュネスで売ってるのくらいぜんぜん平気ですから。あたしおごるよ」
「だって里中、ついこないだ今月キツいなんて言ってたじゃないか」
「いやまあ、そんないっぱい持ってるワケじゃないですけど……」
「里中からウナギ代なんか徴収したら、陽介と天城はおろか菜々子ちゃんにまでそうしなきゃならなくなる。それにほら、里中わすれてるかもしれないけど、向こうの世界で約束した食事券十五枚も手つかずで残ってるんだからさ」
「あっ、やばいそうそう! 預かってる五千円のおつりまだ持ってるんだあたし!」千枝は歩きながら自分の身体をあたふたと検め始めた。「返すよ。使ってないから――ちょーっと待ってー、あれーどこいった出てこーい……」
 彼女は借りをきれいさっぱり清算したいのだ――悠は唸った。気に入らない人間にいつまでも負い目を作っておきたくないのだろう。ここで借りを踏み倒して以て溜飲を下げる、などという挙に及ばないのは、いかにも千枝の善良なところである。
「それは里中と天城にやったものだから。おれのじゃないよ」
 受け取れない理由が増えたようだ。この牝馬は馬銜と手綱とを「あなたに借りたものだから」などと言って返却しようとしている。よしとして外せばどこへ走り去るか知れたものではない。断じて返してもらうわけにはいかない。
「里中いらないならさ、それで天城に奢ってあげなよ。里中にはおれが奢る。それで八方丸く収まるってわけだ」
「とりあえず二千円あった! はいどぞ」
 千枝は聞かずに、財布から千円札を二枚抜き出して悠に押し付けようとする。
「いやいいんだって」悠は彼女の二千円攻撃を右に左に躱す。
「よくないんだって」
「よくなくないって」
「こういうの、うるわしき譲り合いって言うんだっけ?」陽介がさも面白げに口を挟んだ。「ちなみに俺のは入ってねーの? 俺はいつでも歓迎なんですけど」
「そんなのあたしも歓迎だっての……いやちがう鳴上くんのは歓迎じゃないってあーもーそーゆう意味じゃなくて!」
 ほら本音が漏れた――悠はひっそりと落ち込んだ。
 以後も悠と千枝とはお互いにあくまで譲らず、しかしジュネスの赤い看板は刻々と近づいてくる。道々おかしげにその様子をひやかしていた陽介も、フードコートに着くころにはすっかり辟易した様子で、
「あーもうやめやめ! よしわかったこうしろ。お前らなんでもいいからおんなじモン頼め。そんで奢り合え。それで解決だろ。はいこの話は終わり」
 ふたりの間に割って入って話を打ち切りにかかる。奢るか奢られるかの二者択一を争ってなかば意地になっていたふたりに、このささやかな機転はちょうどよい落し所でもあったので、双方ともひとまずは彼の妥協案に同意することとなった。
「俺ならいつでも歓迎だってのに……」
 陽介は呆れてこうこぼすと、悠たちふたりを残して飲み物を買いに行ってしまった。そして予期していたことだが、千枝もまたぷいと悠から離れていってしまう。向かう先はおなじみのハンバーグ屋だ。
(……まだまだ、こんなので沈んでたんじゃ話にならないぞ)
 彼女の拒絶が痛い。そうと知らずにされるのと知ってされるのとでは、やはり心を刺すに段違いのものがある。いや、めり込むとでも言おうか。よくよく嫌われたものだ。
 ふと、背後から襟元をつつかれて、悠は千枝の背中から視線を外した。
「鳴上くんこんちわ」
 振り返ると、そこには見知らぬ八校生女子が立っている。すぐ後ろに連れらしい小柄な女子を伴って、マイクを向けるような恰好で右手のソフトクリームを悠に差し向けている。
(いや、なんとなく見たことあるような気が……クラスメイトだ、たぶん。ひょっとすると話したことも……)
「……ええっと」
「神田です、神田春美っ」少女は三つ編みを揺らしてガクッとよろけた。「まー覚えてないか、あんま話してないし――ところで鳴上くんこれ食ってみ?」
 彼女はこう言って、手に持っている緑色のソフトクリームを「タダだから。マジおすすめだから。苦情は受け付けないから」とにこやかに悠に勧める。
「え、これ、なに? なにソフト?」
「なたまめソフト。うまいよ、あたし食べたことないけど」春美の連れの女子がけだるげに笑っていらえた。「ルミはひとくち舐めて吐いてた。青虫ソフトとかなんとか」
「吐いてねーし。被験者にげたら先輩のせいですよ」
「うんほかにアテあっから」
(青虫……被験者……?)
「ちょっと、話が見えないんだけど」
「新商品カッコ候補の味見。まあどーぞどーぞ。遠慮すんな」
「いやおれソフトは――ていうか神田って」悠は内心ではたと手を打った。「ああ思い出した、女子Aだ! 転校初日に話しかけてきた!」
「本人の目の前でそーゆーことゆうかオマエ」科白とは裏腹に春美はにこにこしている。「女子Aとか酷っ! じゃあマチはBかい!」
「Bって……ええと佐藤だっけ」
「ブー」
「ごめん鈴木だ」
「遠藤だっつの! マチに言ってやろー」
「鳴上、ムリに食わんでいいよ。それジョークアイテムだから」春美の先輩が口を挟んだ。「しっかしまあ、またでっかいのが入ってきたよなー……あたし間近で見るの初めてだ、話題の転校生」
「ウチの組の目玉っすよ。あー拝観料二千円もらいます慈善じゃないんで」春美は悠を親指で指しながら、「ま、先輩からすりゃだれでも巨人でしょ。鳴上くんも花村も」
「うっせ」
「おー、カンダハルじゃん」
 ここで注文を終えた千枝が戻ってきた。緑色の番号札をチャラチャラ手で弄びながら、
「水原先輩も。こんちはっす」
 彼女は春美の先輩に向かって軽くあたまを下げる。
「おまカンダハルゆうな」と、春美は悠をちらちら見ながら口を尖らせた。
「中東かっ」水原と呼ばれた先輩が千枝のあたまを平手で軽く打った。「おっす千枝。なに頼んだの?」
「これハンバーグです――鳴上くんもおんなじでよかったよね?」
 と、千枝にさりげなく訊かれて、悠はとっさに「え、うん」と応えたものの、失言だったと気付いたのはその直後である。見よ、千枝は番号札を二枚もっている!
「じゃ、はいコレ。あたしのおごり」
 やられた――案の定、彼女は二枚のうち片方を悠に差し出した。おお鳴上悠、学習しないやつ! 千枝の善良な質が必ずしも単純さに結びつきはしないということを、おまえは以前にあれほど思い知ったはずではなかったか!
「里中これはない! このやり方は……!」
 悠はあわてて両手を挙げて「おれは受け取らないぞ」ポーズをとった。が、もう遅い。彼女は代金を支払ってしまっている。
「フェアじゃない、ひどいぞ!」
「チーズハンバーグ。鳴上くんチーズたべれた?」千枝は聞く耳を持たない。
「値段は……七百五十円」悠はハンバーグ屋のパネルを一瞥して、慌ただしく財布を取り出した。「ほら千円、受け取って」
「あーあたし小銭ないです」
「千円、受け取って。釣りはあとでいい」
「いいってば」
「だまし討ちだぞこれは。里中もわかってる。いいからはやく取って」
「いやですうー」
「ふざけるなよ。ちっとも面白くない」
「うおっ、なになに、なにが始まった? 審判すっか?」
 悠と千枝と、両者の穏やかならぬ空気を感じ取ったか、春美がことさら冗談めかしてふたりを宥めようとする。が、
「神田ちょっと静かに」
「カンダハルうっさい」
 双方とも見向きもしない。取り付く島もない。あわれ彼女は「あ、さいですか……」と引っ込んでしまう。時すでに遅し。ふたりは今し刀の鞘を払ったところである。
「つか鳴上くんがおごるのよくてさ、なんであたしがおごるのダメなの? おかしくない?」
「おれも里中も陽介の提案に従ったはずだろ。不服ならどうしてそのとき言わなかったんだ」
 彼女はルールを破った。筋だけは通さなければならぬ。正しい手続きに基づく行動に対してでなければどうして譲歩のしようがあろう――千枝の機嫌を取らなければ、と思うだけは思っても、悠はここでどうしても一歩退くことができない。
「そんなの鳴上くんと花村がそうすんなって言ったからじゃん」
「だから従ったと? 結局は提案を受け入れてるんじゃないか」
「あーそう、いらないならじゃああたし食べるよ。さきに訊いとけばよかったね。ごめんね」
「当て付けがましい。おれはいるともいらないとも言ってない、代金を払うと言ってるんだ」
「だからいいってば。五千円のおつりもあるし、これはお返しなんだって。あたしおごるって言ってるじゃん」
「言ったのは金を払ってからだ。里中は誰か殴りたいって思ったとき、殴ってから改めて殴るぞって言うのか」
 まずい。こんな硬い声で、大上段の論理で、逃げ道を断ったあと急所を狙うようなやりかたで返事をするのはまずい! よし次だ、次は穏やかに返す。あるいはちょっとした冗談を交えて……
「……そんなにやだ? あたしにおごられんの」
「論点のすり替えだ。誰もそんな話はしてない」
 この馬鹿! 渋面を作るその薄皮一枚下で、悠は大汗をかいている。抑えろ、せめて少しでいいから黙れ、彼女を逃がせと自らに詰め寄っても、彼は「メチャクチャなことを言ってくる向こうが悪い」として取り合わない。ルールを破ったのは千枝で、支離滅裂な論理で突っ掛かってくるのもまた千枝だ。おれは仕方なく身を守っているだけ――
「ケンカすんなオラァー」
 彼の言葉に応酬しようとした千枝の機先を、そのとき水原のけだるげな声が制した。とくに声を荒らげているわけでもないのだが、低い、苛立ち混じりの、逆らいがたい不穏な色を帯びている。
 後輩ふたりはこのひと言に射竦められて、ピタリと押し黙った。
「……わけわかんないんだけど、鳴上は千枝におごられんのイヤなの?」
「いえ……イヤとかじゃなくて」暫時気を呑まれたものの、悠はすぐさま立ち直って弁明した。「あの、最初は、どっちが奢るかって話をしてはいたんですけど、いろいろあって今日は見合わせようってことになってたんです、お互いに。それを」
「ああ、それを千枝が不意打ちでおごったってわけね」
 千枝は不服げにしている。が、いったいどのような力関係においてか、彼女はこの先輩に逆らえない様子で、水原の視線を避けて黙って俯いているのだった。
「でもなんかマズいの? いいじゃん別に」水原の矛先が悠を向いた。「おごってもらいな。チーズ食えないの?」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
 彼女のすぐ後ろで春美が小さく、しかし必死になって首を振ったり手を振ったりしているのが見える。おそらくは「言うとおりにしろ」のジェスチュアであろう。のちのち為にならぬぞとでも言いたげである。
「じゃあいいじゃん。ありがたくおごってもらえホラ」
 この不思議な迫力のある先輩にこう言って迫られると、さしもの悠もつい「いやまあ、べつに構わないんですけど」などと折れてしまいそうだ。が、
「いえ。今日はやめようってお互いに決めてたんで」
 初心貫徹、というよりはむしろ、こんな背の低い女子にいっときでも圧倒されたことへの反発から、彼は胸を張ってこう言った。そうとも、いかに上級生とはいえ、こんなチビは自分のような人間が怖れて然るような存在ではない。
「あっそ」と、水原は意外にもあっさり引き下がった。「じゃ千枝、それふたつともよこしな、番号札」
「……へっ?」千枝はことの意外ななりゆきに驚いている。「え、これすか?」
「ホラ代金。釣りはいらんから」水原は財布から千円札を二枚取り出した。「それはあたしとルミで食う。あんたらは新しく頼みな。ちゃんと話し合ってね」
「て言ったって……え、なんで、すか?」
「拝観料。ホラはやく取って。そんでそれよこす」
 水原は傍で見ていて羨むほどの強制力を発揮して、二千円と千枝の番号札をさっさと交換してしまう。あの強情な千枝が号令一下、粛々と命に従うなどよほどの力関係が背景にあるものと思しい。悠が千円札を突きつけたときと比べてなんという違いだろう。
 じき該当の番号を呼ばれたようで、水原から札を渡された春美がハンバーグ屋のブースへと向かった。
「すいません先輩、こんなことになるとは」
 悠は形ばかり水原にあたまを下げた。もちろんこれは彼女が勝手に始めたことであって、悠に謝る筋合いなどないのだが、その原因となった千枝との諍いには彼も関与している。先輩への礼儀もあることだし、彼はいちおう立て替えを申し出てみた。
「おれ、払いますよ、二千円」
「……それ、冗談? ひょっとしてマジで言ってる?」
 水原の反応は意外なものだ。その面には怪訝そうな、ちょっと驚いたような色が浮かんでいる。まがりなりにも敬意を払っての提案を「冗談だろ?」とは聞き捨てならぬ。悠はムッとして「ひょっとしなくてもマジですけど」と水原を見下ろした。
「おれと里中の問題で先輩に自腹を切らせるのは適切でないし、失礼でしょう。冗談に聞こえたとしたら心外です」
「千枝の身になって考えてみ。あんたがここで立て替えたりしたら結果的にあんたが千枝の後始末をしたことになるんだぞ。千枝があんたにおごりたくてしたことが反対にあんたにカネ出さすことになんの。この意味わかるか」
「……え?」
 早口にまくし立てられて、言われたほうはその内容の吟味に追われて返事ができない。
「あんまりでっかくねーな鳴上。ロンテンのスリカエだ、とかマジで言うヤツ初めて見たぞあたし。話すときはもちっと相手のこと考えな」
 あまりと言えばあまりに言い草に、悠はまたしても即答できない。
「お……おれが、相手のことを、考えてない?」
「考えてないって、言ってんじゃないの」水原は噛んで含めるようにゆっくりと、「もう少し考えろって、言ってんの。足りないの」
 悠は呆れてみたび言葉を忘れた。よくこそ、知りもしないことをこれほどにもあからさまに言ってのけた! いったいおれほど他人のことに気を回す人間がどこにいる? よしいいだろう、このチビのバカ女は泣くまで論撃する。いや論殺してやる――などと怒りに燃え立ったのもほんのいっときである。
 科白の内容とは裏腹に、彼女に非難するふうは少しもなかった。機嫌を損ねた様子もあなどった様子もない。冷笑的な人間のよくするような、無関心を装った蔑みの色もない。水原のいっけん興味薄げなけだるい態度、なんの感情の発露をも反映しないその面には、悠の吹き上げた炎で火をつけられるような可燃物はなにも見つからない。
「……あんたにとってはさ、防御でしかなくてもさ、相手にはじゅうぶん攻撃になることもあるんだよ。言い返された千枝を見てて、それはあんたもわかったんじゃない?」
「そ……はい……」
「やりかた変えなきゃダメ」
 悠の火床はたちまち湿気ってしまった。といってここで「いやはや仰せのとおり。お見それしました」と膝を屈するほど彼も殊勝ではない。濡れた杉葉も焚き付けては激しく燻るように、彼の自尊心は燃え上がりこそせずともしぶとく煙を上げた。このチビの言葉を受け入れるのはまあよしとしても、なにか最後にひとことふたことつけ加えて存在感を示しておかねば……
「いや、確かに、配慮を欠いたことを認めるにやぶさ――」
「あ、花ちゃんちょっと」
 悠の懸命に上げた煙はしかし、水原に認知されることはなかった。彼はもう彼女の眼中になかった。いままで話していたより一オクターブも高いその声は、ちょうど注文を終えて戻ってきた陽介にかけられたものである。
「あれ、珍し――」
「ちょっとこっち」
「え、ちょ」
 陽介は水原に袖口を捉えられて回れ右すると、ともどもいま来た道を戻って行ってしまう。入れ替わりに悠たちの言い合いを遠巻きに眺めていた春美が、ハンバーグの載ったトレイを両手にそそくさと戻ってきた。
「なんなんだあのひとは……」
 なんだか野良犬に嚙まれたような心持ちである。肩透かしを食った悠はせめて不快げに眉根を寄せて、言外に千枝と春美の同意を引きだそうとするが、
「鳴上くんチョー命しらず」
「鳴上くんあかんって。滅ぼされるよ」
 ふたりといえば彼の暴勇をたしなめるような口振りだ。
「滅ぼされるって、なんだよそれ」
「水原先輩おこるとこえーんだよォー、いいひとだけど」と、春美。「あのひとたぶん八校でいっちばん怖れられてっから」
「そーそー、せすじがこおる。いいひとだけど」と、千枝。「前にべつの先輩が水原先輩のこと『よく切れる棍棒』ってゆってた」
「怒ったらなんだっていうんだ。言いたいだけ言って逃げて」悠はいまだに細く煙を上げている。「ひとが善意で立て替えようって言ってるのに、失礼なヤツだ」
「こりゃ花村こなかったら戦争だったな」春美は呆れている。
「ああ望むところだ……って言いたいけど、ごめん。そのときは先にふたりを逃がさなきゃな」急に決まりが悪くなって、悠は春美にあたまを下げた。「なんか余計な気つかわせたみたいでごめんカンダハル。先輩の悪口は聞いてて気持ちいいもんじゃないよな」
「そんなんべつに気にせんよ……つかカンダハルゆわんでよ……」
「ああ、それと、そう、里中」
 名前を呼ばれて、千枝が身を強ばらせるのがわかる。
「……その、おれが悪かった」
 謝罪の言葉はわりあいすんなり出てきた。これは第三者たる春美がいてくれたおかげだろう。千枝とふたりきりならこうもうまくはいくまい。
「黙って奢ってもらえばよかったんだ。いや、奢ってもらうべきだった」
 てっきりなにか強く言われると身構えていたところを思いがけず謝罪されて、千枝は驚いたようだった。が、
「いやいやいやっ、悪いのあたしでしょどう考えても。不意打ちしたんだから」
 ここで「うんそうだね。今度から気をつけてね」などとは言わないのが彼女のよいところである。
「悪いのはァ、あたしのほう。鳴上くんはァ、正しいほう。オライ?」
「いや、里中の言ったとおりなんだ。里中にはおれに奢り返して、借りを返す権利がある。借りたままは気持ち悪いだろ……」特におれのは。「さっき殴る殴らないで喩えたけど、それを言うならおれは殴ったんだから、殴られても文句は言えなかったんだ」
 フェアでないのはお互いさまだった。千枝と本当に和解したいのなら有利な立場に固執せずに、まず彼女を同じ土俵の上に立たせなければならなかったのだ。千枝がイヤなヤツに早く借りを返したいと願ったのなら、まずそれを快諾するところから始めずしてどうしてその「イヤなヤツ」を卒業できよう。そうとも、自分に手綱を付けて引っ立てようとする人間の言うことに、いったいどこの誰が真摯に耳を傾けるというのか。
「いやおごるおごらんは殴るとかとぜんぜん違うでしょってば!」
「借りができるって点では同じだろ。フェアじゃないのはおれだ」
「だーからあたしが鳴上くんに黙って注文したのがいけなかったんだっつーのに!」
「それには原因があった。さっき里中がおれに説明したとおりだ。おれが悪かった」
「なん――あーもーああ言えばこう言う! 鳴上くんてなんでそうガンコなのっ?」
「ガン――どうして人身攻撃になるんだ! 論点を逸らすのは里中の悪い癖だぞ!」
「もーケンカすんなオラァー!」春美は呆れ半分、愉快半分といった面持ち。「つかこれなに? あんたらの持ちネタ? おもしろすぎなんですけど」
「カンダハルうっさい」と、千枝。
「カンダハル黙ってて」と、悠。
「中東かっ」
 背後から陽介の声がした。と同時にあたまを軽く叩かれた。振り返ると果たして、ストローの刺さった紙コップを手に陽介が立っている。が、一緒にいたはずの水原の姿が見えない。
「カンダハル、水原先輩さき行くから追いかけて来いって」彼は春美の持つトレイを指さしながら、「それはなんか里中と俺にくれるっつってた」
「カンダハルゆうなっつの――ほら千枝」と、春美は千枝にトレイを押し付けながら、「でもよかった。あたしこんなに食えねーし」
「あとソフトくれるとかなんとか」
「それはあたしもう食ったよさっき。溶け出してたから……つか先輩のアテって花村かい……」
「製品化するとか聞いたけど。なたまめソフトっつった?」
「なたまめ歯磨き粉入りソフトな。ジョークだよジョーク。いやけっこういけたけど」
「先輩んなもん食わせるつもりだったんかよ……」
(そんなもの食わせるつもりだったのか……)
 長居するつもりはなかったようで、春美は悠の肩を軽く叩いて「じゃあ、あたし行くよ。鳴上くんケンカすんなよ」と三人をあとに歩き出したが、ほどなく振り返って、
「鳴上くん、水原先輩ほんとは気にしてんだよ、鳴上くんにあれこれ言ったの。だからあたし迎えにこないんだ」
 と、弁解するように言った。
「許してやってくんね?」
「許すもなにも……おれはもうなんとも……」
「じゃ、鳴上くんチョー謝ってたって言っとく」
 春美はそれだけ言って、悠がなにか返事をする前にパッと駆けて行ってしまった。
「……あれがカンダハルね。斧とか爆弾とかが好きな」
「カンダハル武器オタだから」と、千枝。「アンドミリオタ。カンダハルってここでバイトしてたんだっけ? 花村」
「してる。水原先輩の子分だし――ところでお前らなんかあったのか? さっきからワーワー言ってたみたいだけど」
 陽介がこう訊くと、千枝は気まずげに悠を一瞥して、それでも先の言い合いを続けることはせずに「まあちょっとね」と笑った。
「でももう済んだから……あー、あたし席とってくるよ、うん。鳴上くんなんか頼んできたら?」
 彼女はそれだけ言って、悠がなにか返事をする前にそそくさと離れて行ってしまった。それも近場に空きがないでもないのに、わざわざ遠い席を選んで、である。
「なんかあった?」と、陽介。
「なんかあったよ」と、悠。
 陽介はそれ以上の詮索はせずに、苦笑まじりのため息をつくだけだった。
「……悠、あれが水原先輩な」
 ややあって、彼は悠のほうを見ずに呟いた。
「え、うん」
 なんだか悠にも既知のひとについて話すような口振りだ。彼はしばらく眉根を寄せて、あの通り魔のような女を過去に見はしなかったかと記憶を浚ってみたが、思い当たるふしはない。そもそも転校してきてからできた知己じたい少数だし、まして上級生との交流などまずなかったと断言できる。行きずりの人間だったにしても、陽介からことさら注意を引くような話を聞いた覚えもない……
 この悠の困惑した様子に気付いたらしく、陽介は「覚えてねーか」と明るく切り出した。
「ほら、向こうの世界の、コニシ酒店で、俺のシャドウが出てくる前にさ、小西先輩の声が……」
 すぐに思い当たった。あの酒屋で聞いた声だけのやりとり、あのとき早紀と話していた相手のことだ。そういえばあのあと陽介が相手の声が誰それだと言っていたような気もする。
「あの相手の声が、水原先輩なのか」
「そ。水原織恵さん。小西先輩の、親友で、ここのバイト連中の、影の大ボス」普段の彼に似合わしからず、陽介は訥々と話す。「へへ、さっき向こうにさ、連れてかれて、俺、先輩になんて言われたと思う?」
「さあ……ソフトがどうとか?」
「シフト減らしたの、小西先輩がさ、いなくなったので、落ち込んでるからだろって。バイトはいいからしばらく休まなきゃ、ダメだって」
「…………」
「俺、薄情なんかな」陽介の声が微かに震える。「俺、水原先輩に言われるまで、小西先輩のこと、ぜんぜん思い出さなかった。いままで不思議なくらい、忘れてた。あの靴だって俺、部屋の机に置いてて、毎日みてるはずなのに……」
 彼はすっかり打ちのめされた様子だった。この情の塊のような男が薄情などとは、当人の口から出たのでさえ承伏しかねる評だ。いやしくも彼の親友としてそうでない証拠など何十個でも用意できるのだが、
「悠、里中には言うなよ」
 悠が憤然とそれを法廷へ提出する前に、陽介はそう言って彼に釘を刺すと、千枝の待つ円卓へととぼとぼ歩き始めた。
 その丸められた背はいかにも重荷を負ったふうがある。彼の思いびとの亡霊の重きを。陽介の肩にのし掛かってこちらを振り返る、早紀の姿を悠は見たような気がした。
 三人で座って話し始めるころにはもう、陽介の面に影らしいものは見られなかった。もちろん、幽霊は日中は隠れているものと相場が決まっている。






 ふと、視界の端に誰かの姿が収まって、それが立ち止まった。それきり動かない。なんとなくこちらを向いているような気がする。
 焦点を合わせてみると、相手はなんと透である。悠が気付く前からそうしていたのだろう、彼はこころもち顎を突き出して、こちらに小さく手を振っていた。
 悠は話を中断して彼に会釈した。
 透はいつか堂島家で見たのとまったく同じ、なで肩ぎみの濃紺の背広に、皺んだワイシャツとくすんだ赤のネクタイといういでたちで、寝癖の位置までそっくりそのままだった。夜の堂島邸ではそんなくたびれた様子も、ひと仕事終えた若いサラリーマンのような活気が透いて見えたものだが、昼日中においてはただ頼りなげな印象ばかりを強めている。
 それまで「かわいそうな雪子への今後の配慮とそれに伴うテレビ内移動自粛のお知らせ」を聞いていた陽介と千枝が、悠の視線を追って後ろを振り返った。
「やー、こんちわ」
 透の挨拶を受けて、陽介と千枝は身体を捻ったまま、わけがわからないなりに無理な姿勢であたまを下げる。そうして視線だけで「だれ?」と悠に誰何する。ふたりの面には動揺と警戒の色が刷かれている。
「そのひとは足立さん。稲羽署の刑事なんだ」
 一転、動揺と警戒とに代わって、彼らの面には称讃と羨望の色が閃いた。刑事の知り合いを同級生に紹介するというのは気分がいいものだ。高校生の身空でなかなかできることではないだろう。
「悠がいつもお世話になってます。稲羽警察署の足立透です。よろしくね」透が冗談めかして気取った声を出す。
「うちの叔父さんの同僚のひとでさ――こんにちは、珍しいところで会いますね」ふたりに説明しながら、悠は透に気安く声をかけた。「パトロールですか? ここって危険ですもんね」
「露天商品サンプルの毒味検食も兼ねてる」透はにやっと笑って、緑色の番号札を指でつまんで見せる。「市民のみなさんの口に入るものだからね、僕の一命をなげうってでも安全を確認しとかなきゃ」
「その忠勤を知ったら叔父さんきっと感動して抱きしめに来ますよ。おれ電話しましょうか」
「先に救急車呼んでね」と返して、透は悠の隣の席に腰かけた。「いやあ、お昼たべてなくてさあ……あ、お邪魔だったかな?」
「ふたりはどうかわかりませんけど。訊いてみましょうか?」
 悠が透に軽口を叩くたびに、陽介と千枝と、ふたりの称讃の色の少しずつ濃くなるのは見ものだったが、同時になんだか不当に疎外されているといったふうに、彼らは居心地悪げにしている。このくらいにしておいたほうがよさそうだ。
「足立さん。同級生の花村陽介と、里中千枝です」悠はふたりを簡単に紹介した。「大歓迎だって言ってますよ」
「う、なんかごめんね、ええと花村くんと、里中さん。鳴上くんの姿が見えたからつい、さ」
 陽介と千枝はめいめい控えめに「自分たちは気にせずに悠と話してほしい」といったようなことをもぐもぐ呟いた。いつも元気いっぱいのふたりにはちょっと珍しい態度だ。
「なんか萎縮させちゃったな……あ、ところで里中さんてひょっとして、鳴上くんのカノジョ?」
 つい反射的に「婚約者です」といつもの調子で答えたあと、悠は内心でしまったと臍を噛んだ。失言だった。この話題はかの「悪夢の六限目数学」を想起させはしないだろうか。
「ちがいますちがいますコレ鳴上くんの持ちネタで……だあれが婚約者だっつのもー!」
 幸い、千枝に気分を害した様子はない。先のだいだらでやったように照れかつ明るく否定するに留まる。
「いや、こないださァ、鳴上くんから恋愛相談受けちゃってさ」透は陽介と千枝にあることないこと言いふらしている。「てっきり里中さんがそうなのかなあって思っちゃって」
 透をこの手の話題から遠ざけなければ。たとえ表面上はどのように取り繕っていても、悠とカップリングされるなど千枝にとっては不快な話のはずなのだ。
「それはこっちの陽介のことです。おれ両方いけるんで――そう、それより足立さん」
「なに……いまサラッと凄いこと言わなかった?」
「言うのはこれからです」陽介と千枝に一瞥を送りながら、「ちょうどよかった。足立さんこないだ、ウチで例の殺人事件について話したとき、知りたいことなんでも話してくれるみたいなこと、言ってましたよね」
 悠はとっさに思い出して、先日うやむやになっていた件の事件についての話をすっぱ抜いた。
 陽介たちは素直に驚いている。ふたりの前でいきなりこんなことをぶち上げたのはちょっと早計だったかもしれないが、彼らだって関係者には違いないのだ。透との密議に彼らを参加させれば、さきほどから感じているはずの疎外感もいくらか和らぐだろう。
「なんでも話す、とは言ってないよ」
 陽介と千枝と、部外者の立ち会う席上で、ともすれば職務上の機密を漏洩したと取られかねない物言いをされても、透は平静そのものだ。慌てもせずごまかしもせず、言われたことについて否定もしない。そしてこんな態度は悠が内心「透ならあるいはこうするのでは」と当りを付けていたものにかなり近かった。
「つまり、なにか話してはくれるってことですね」
「おい悠っ」
 鋭く窘める声は陽介のものである。いくら知り合い同士のやりとりとはいえ、刑事相手にこんなことを勢い込んで質す危うさは、彼にも理解できるのだろう。
 陽介を安心させるためか、透はおおげさに残念がって「あれ、花村くんは知りたくないのォ?」と眉をひそめて見せた。
「いま学校じゃ例の事件の話でもちきりだって、鳴上くんから聞いてたんだけどなァ」
 いったい透に悪気はないはずだ。事情を知らないのだから罪もないのだが、その例の事件の犠牲者に想いを寄せていた人間に聞かせるに、この言葉はいささか辛辣に過ぎたことだろう。ましてつい先ほど自らの「薄情」を悲しんだ陽介に、である。
「あれ……ええっと、ごめん。僕なんか気に障ること言った、かな」
 陽介は傍目にも明らかなほど態度を硬化させた。透の謝罪にも返事をしない。彼はこころもち俯いて、透のネクタイの結び目のあたりをしばらく凝視していたが、
「いやっ、なんでもないっす」
 じき陽介は吹っ切るように、いっそ不自然な快活さで答えた。もちろんこれを不審に思わない透ではあるまい。先の言葉が陽介にとって大いに「なんでもなくない」ということが、彼にもじゅうぶん理解できたはずだ。
(そうだ、これ、利用できないか?)
 悠のあたまの中に閃くものがあった。これは目の前の刑事からいろいろと聞き出すための、隠れ蓑にできるかもしれない。
「足立さん、実は」
 と悠が意を決して口火を切ると、さすがに陽介はその続きの内容を警戒して、無言で睨んで来るのだった。もちろん彼は――ついでに千枝も――絶対に、進んで透に自らの事情を話しはしないだろう。そして向かいに座っている親友にも同じことを暗に要求するだろう。
「おれが例の事件について知りたがってること、もう足立さんは知ってますよね」
「知ってるね」
「どうしてだと思います」
 透は口許に慈愛まじりの笑みを浮かべて「興味本位じゃないね、君なら」と言った。
「ただの好奇心で刑事にカマかけたりはしないでしょ?」
 この科白の前半の「君なら」に悠は小さな幸福を覚えたものだが、さて問題は後半部分である。
 これはもちろん、事件を調べる理由として悠がそれなりのものを設定している、と透が考えているということだ。加えて、だからこそ捜査情報をこっそり耳打ちしてもよいのだ、という含みをも匂わせている。
 つまり悠が理由を訊かれて「いや、学校で話題になってるから気になっちゃって」などと答えた場合、透はともすると前言を翻すかもしれないのだ。まさか本当のことを言うわけにはいかない。といって、手ごわい彼相手に急ごしらえの「それなりのもの」を差し出して、そうやすやすと欺きおおせる自信など悠にはない。生半な嘘などたちまち看破されるだろう。
 まったく、先の透と陽介のやりとりは時宜に適っていたと言える。やはり陽介の持つ事情を隠れ蓑にすべきだ。透の眼鏡に適うかどうかはともかくとしても、それは少なくとも陽介個人にとっては強力な動機で、かつ嘘ではない。悠としても親友の怒りを買うのは避けたかったが、もし買わざるをえないならせめて得な買い物をしたかった。
 長々と話せば邪魔が入る。悠は陽介の掣肘を避けて、
「被害者は親しい人間だったんです」
 と、あえて不鮮明に述べた。
「……誰と?」
「足立さんはもう知ってます」
 これで十分だろう。陽介の刺すような視線が痛いが、透にも悠たちのおおよその事情は推察できたはず。より正確に言えば、悠たちの「自分たちについてそんなふうに誤認していて欲しい」事情が。
 屋台の注文番号を告げる声に透が反応した。彼は「ちょっとごめんね」と断ると、料理を取りに席を立って行った。
「陽介いいたいことはわかる」
 と、悠は食ってかかられる前から断った。彼としてはここで怒れる陽介を宥めつつ、勝手にプライベートを開陳した理由を縷々説明すべきだろうが、どのように言って聞かせたところで「そっか。なら仕方ないよ」ということにはなるまいし、そんな時間もない。透はすぐに戻ってくるだろう。
「わかってねーよ、オメなんでわざわざ――!」
 悠はすばやく陽介に顔を寄せると、低い声で「おまえはおれを知ってる!」と遮った。
「おれが軽々しくああいうことを口にするヤツじゃないってことをおまえは知ってる。そうするに値する理由なしにああいうことをするヤツじゃないってことをおまえは知ってる。だろっ? 陽介」
 と早口にまくし立てる。まったく彼らの仲ではこれで十分だった。悠のぼそぼそと忙しなく話している中途から、陽介の怒りはたちまち装ったものへと変じていった。それは見ていてよくわかった。この方面の彼の演技は千枝の足許にも及ばないくらいで、陽介は悠の信頼を求める声に、怒りで偽装した喜びでもって応じたのだった。
「まあ、理由があるなら」
「ある。信じろ。でも不機嫌なふりはしてろ」
「へいへい……」
 陽介の面輪にかすかな笑みの亀裂が見えた。そしてそのすぐ向こうに千枝の、なんとはなし物欲しそうに悠たちふたりを見ている顔も。
 悠はそっと嘆息した。見よ、陽介は皆まで言わずともこれほどの理解を示してくれるというのに、百言を費やしてさえ千枝の理解を得るのは困難なのだ! 今のような状況でもし千枝に同じようなことを言ったとしたら、彼女はなんと答えることだろう。「はあ? 知らないっつのそんなの」くらいのところか……
 ほどなくして、どんぶりの載ったトレイを両手に透が戻ってきた。
「中断してごめん――で、さっきの続きだけど」透は席に着くなり、割り箸を割りつつさっそく切り出した。「被害者が親しかったって、それ、あとのほう、だよね」
「小西早紀先輩のことです。陽介の恋人でした」
 陽介の当惑の視線を、透は私事をあばかれるものの抗議のそれと誤解してくれただろうか。彼はカツ丼を頬張るのを止めて「おや」とばかりに眉を上げると、
「小西さんにはべつに彼氏がいたはずだけど」
 こころもち身を乗り出してくる。しまった――背中にイヤな汗が伝う。勇み足だった! そういえばいつだったか、陽介がそんなようなことを言っていた気もする。
「クラマさんってひと、ですよね。どっかの大学生」
 悠がぼろを出すすんでのところで、女神の救いの手が伸びた。彼の窮状を察したかのような機で千枝が口を挟んだのである。
「あたしもウワサくらいしか聞いてないんですけど、小西先輩とクラマさんて、けっこう前からうまくいってなかったらしいです。なんか先輩おカネ取られてたとか」
 陽介は知らなかったようだ。彼の千枝を見る目は驚きに見開かれている。
「……お金とってたってのは、初めて聞いたな。もし本当だとしたら」陽介ほどではないにせよ、透も驚いた様子。「うーん、やっぱり餅は餅屋かァ……あ、ごめん続けて」
「あ、はい。で、その、花村と親しかったってゆうやつ、たぶんこっちが本命だったんだって、思います」
「花村くんのほうを本気に思ってたってこと? ご家族がたはなにも言ってなかったな。小西さんは内緒にしてたのかな」
 透にこれといって詰問するような調子はないのだが、嘘のつけない千枝はしどろもどろになって「あい」と妙な返事をした。
「なにか心当たりとか、ない?」
「いえ、なんも、とくにないでしゅ……ないです……」
 透の目がかすかに窄められたような気がする。まずい。千枝に疑いを持ち始めたのかもしれない。
「小西先輩は言えなかったはずですよ」今度は悠が助け船を出す番だ。「それは足立さんも多分わかってます」
 それはこれこれこうなんです、と言うより、こんなふうに誘導して透自身に答えを見つけさせたほうがいい。このほうがいくらか安全だし、勘違いしてなにか新しい情報を吐き出してくれるかもしれない。
「え、いやいや、あんまり買い被らないでよォ」
 などと謙遜したのもつかの間、透はなにか気付いたふうにしてちらと陽介を見た。その一瞬、ふたりのあいだに無言の応答があったようだ。
「ああ……まあ、そうか、そうだよね」
「そういう話も出て来たんすね。聞き込みとかで」
 陽介の口調はごく事務的で、嘆く調子はない。そういう話、というのはつまり、八十稲羽におけるジュネス・陽介と、商店街小売店・早紀との間にわだかまる数々の事情、ほどの意味合いであろう。
「まあ、ね。つまり、花村くんの手前でアレだけど、ここの店長のお子さん、だからってことか」
 あいにく透の口から新しい情報は引き出せなかった。が、これは説得力のある理由には違いない。もし本当に陽介と早紀が恋仲であったとしても、おそらくふたりは立場上、お互いを慮ってそれを秘したであろうから。
「そういうことです」
「そういうことか。で、その動機が鳴上くんまで動かしてると?」
 透はふたたびカツ丼に取りかかり始めた。このままなし崩しにできるかも、と思ったが、敵もさるものだ。
 ここからが勝負である。
「いまはそれだけじゃないし、動くのもおれだけじゃないですよ。こっちの里中と、ほかに天城雪子っていうのもいます」
 悠のこのなにげなく言い放たれた言葉に、陽介と千枝は見事に反応した。ふたりはぎょっとした様子で悠を打ち見た。最大の秘密を公然と暴露された人間がかくもなろうか、といったふうな、百点満点のすばらしい驚きぶりだ。ふたりのこの驚愕するさまを見て、もって悠たちの全貌が露わになったと透が思ってくれたならよいのだが。
「……天城雪子さんも、君らの仲間なの?」
「そうです」
 さすがに驚いたようで、彼は悠から視線を外してちょっと考えるふうを見せた。
 実際はちょっとどころではないはずだ。この一連の事件における唯一の生存者、最重要参考人たる雪子が、復学一週間後すでに悠たちに抱き込まれていると言うのである。
 彼女の受難は新聞やニュースではいっさい報道されていなかった。表向きは旅館の仕事中に倒れて、そのまま短期入院していたということになっている。天城屋旅館側の箝口令も徹底されていたらしく、今まで雪子と前二件の殺人事件とを関連づけるような噂など聞いたことはなかった。彼女と悠たちがどのような接触を経て今のようになったか、透にしかとは量りかねることだろう。
「君らの仲間ってことは、天城雪子さんに事件のことを聞いたの?」
「まさか。きっと警察に口止めされてるんでしょうし」そうだと言えば雪子が責を問われかねない。「天城は協力者で、友達です。ただの友達じゃ不満ですけど」
「じゃあ君らはどういうツテで、天城雪子さんが一連の事件に巻き込まれたってことを知ったの?」
「あ、じゃあ天城の誘拐はやっぱり、この一連の事件と関連してるんですね?」悠は空とぼけて見せた。「そうかなとは思ってたんですよ。教えてくれてありがとうございます」
「言うねえ、コイツ」透の口許に愉快げな笑みが浮かんだ。「質問の答えがまだだよ」
「マヨナカテレビを見たんですよ」
 陽介と千枝はただひたすら不安げに、伏しがちな目で悠を見たり透を見たりとオロオロしている。「マヨナカテレビを見た」とはもちろんきわどい物言いだ。悠たちにとっては核心中の核心だが、しかし透には冗談にしか聞こえないはず。
「マヨナカテレビ……?」透は訝しげにこそしたものの、じき冗談とわかったようだ。「ああ……そうかなとは思ってたよ。教えてくれてありがとう」
「いつでもどうぞ」
「君らは犯人を捕まえたいの?」
 これ以上この場でディテールを追求することは避けるつもりらしい。透は唐突に、三人にこうとだけ訊いた。その面から笑みは吹き消えている。
「足立さんはどうしておれたちに、事件についての詳細を聞き出そうとするんでしょうか」
「犯人を捕まえるためだよ」
 もちろんそうです。そしておれたちも――透は言わずとも理解したようだ。
「……じゃ、質問を変える。君らが犯人のしっぽを掴むことができるか、さらに捕まえられるかどうかは置くとして」透の目がこころもち細められる。「じゃあ捕まえたあと、犯人をどうするつもり?」
 どうするつもり? もちろん、こうするのだ。
「決まってるでしょ」と、悠はわざとらしくならない程度に不機嫌を装ってみせた。「小西先輩にしたことを、天城にしかけたことを、そいつにお返ししてやるんですよ」
 透の面に小さな驚きの過ぎるのがわかった。おそらくは失望をも含む驚きだ。想定済みではあってもこの反応は悠には無念だった。
「……具体的に、どうしたいの? まさか殺すつもりとか言わないよね」
「まさか。殺しはしませんよ。死なない程度にブッ殺すだけです」
 このいかにも怒れる高校生らしい、短絡的で直情的で幼稚な吐露を、透は心中どのような想いで聞いただろう。彼も今度は失望を隠さなかった。
「証拠もないのにどうやって……いや、仮に証拠があったとしても、そんなことしたら傷害罪に問われるし、逮捕拘束は現行犯でなきゃ警官にしかできないよ」
「じゃあ黙って見てろって言うんですか」陽介流のあからさまな論点回避だ。「それでも刑事ですか? ひとがふたり死んでるんですよ! うちひとりは陽介の恋人だった。三人目の天城はあやうく殺されるところだった。おれは諦めるつもりはありません」
「もちろん諦めることはないよ。ただ暴力はダメだって話さ。君の叔父さんだって困るよ、だろ?」
 透のこの子どもを宥めるような口調! 彼は今こそ、悠がどの程度の人間か判断するに至ったことだろう。彼の中で悠の立ち位置は決まった。おれは自分を大人と勘違いしてるだけの賢しらなガキ――それでいい。怪しまれない目的を用意するというのが第一だが、透個人の感心を得るより、刑事としての透の歓心を買わねばならない。ここで彼に「結局のところこいつはガキだ」と思われることは、結果的に悠たちを利するはずだ。
 あとはこの子どもっぽい「目的」が透の眼鏡に適うかどうかだが……
「……足立さん、ちょっと訊いていいですか」
「なに? 言っとくけど私人逮捕なんてまず――」
「このあいだの夜の話です」悠は透を遮って、「足立さんはどうしておれに、捜査情報を教える素振りを見せたんですか。興味本位じゃないでしょう、足立さんなら」
「酔った勢いかもね」
「見返りに、おれにしてほしいことがあるんじゃないですか? いや、今はおれたちに」
 先に透が漏らした「やっぱり餅は餅屋かァ」という言葉は、思うに彼の本音だろう。おそらくは学生への聞き込みがあまり捗ってないか、限界があるのだ。
「おれたちなら、八十神高校の学生全員に聞き込みができます。刑事がやるよりも警戒されずに、細かく分け入って。それはさっきの里中の情報でわかってもらえたと思います」
「まだ裏を取ってない。ホントかどうかわからない」
「そうです。だから、そうできる足立さんがおれたちには必要です。ひょっとしたら、足立さんにもおれたちが」
 警察の力の及びにくいところに一定の結束力ある組織を持ち、小才がきき、そのへんの高校生よりは利口で、もっぱら友情から事件を解決したがっていて、そしてなによりこれが重要だが、扱いやすく利用できそうな子ども――悠は自分の印象操作にそれなりの自信があった。
 透はすぐには返事をしなかった。彼が無言でカツ丼を食っている間、高校生三人は叱られた子どものようにしてその終わるのを待っていた。
「なにもかも教えられるわけじゃないってことは、わかってもらえると思ってる」
 食事を終えた透の第一声がこれである。
「もちろんです」悠は笑みを隠そうとしてそれに失敗した。「足立さんが教えても差し支えないと判断したことだけで結構です」
「僕も強制はしないし、実際できない。僕がやって欲しいと言ったことで、君たちにできそうなことを、無理のない範囲でやってくれるだけでいい」透の口許がようやく綻ぶ。「正式に署に報告するものじゃないから、もちろんこの協力のことは秘密にしてもらわないと困る――君の叔父さんには特に」
「お互いに気をつけましょう」
「お互いにね。捜査協力の報償も、少なくとも正式には出せない」
「いいですよそんなの。情報が報償です」
「ま、そう言わずにさ。お金とは限らないよ」と言って、透は悠以外のふたりにも顔を向けた。「花村くんと里中さんも」
 陽介と千枝は授業中に不意打ちの指名を食ったようにして「はいっ」と背筋を伸ばした。
「捜査に協力してくれる? それができなくても、いま聞いたことを口外しないでくれる?」
「もちろんっす、協力します」と、陽介。「仮に悠と里中が止めるって言ったって、俺はします」
「言わんっつのそんなこと」と、千枝。「あたしもします協力。えっと、なんもできないかもしんないですけど……」
「じゃあ三人ともオーケーということで。助かるよ、学生さんってどうも身構えちゃってさァ、声かけようとすると逃げる子とかいるし、いちど追いかけたら先生に怒られたりして……」
「そっちは任せてください、やってみますよ――では」悠は立ち上がって透に握手を求めた。「足立さんを我々自称特別捜査隊の特別顧問として招聘します」
「おおー、けっこう本格的」透は握手を受けながら、「自称? そこは謙虚なんだね」
「自称じゃないほうは足立さんたちに取られたんで。今からでも交換します?」
「そうしたくなってきたよ。うーん、いっそのことこっちと一緒のほうが捗りそうな気がしてきたな……ウチはアンのバカがジャマするからなァ……」
「あの赤ハゲですか。ところで足立顧問」
「ん?」
「せっかくこうして集まってるんですし、さっそくですけど、この一連の事件についていろいろ教えてもらえませんか?」
 透は腕時計を瞥見して「いいよ」と快諾した。
 どうやら彼は自分の提供した情報を、目の前の高校生たちが有効に活用できるとは考えていない様子である。そうでなければもう少し慎重になるはずだ、と思わせるほど、透の説明は詳細かつ具体的であった。印象操作が功を奏したか――悠は内心でほくそ笑んだ。ガキだと誤解されたままそれに甘んじなければならないのは少々不満だが……
 午後六時を告げる防災無線を汐に、透は話を中断した。暮色の迫る空にグリーンスリーブスの音がうら悲しく響き、周囲の山々に反響して調子外れなカノンとなる。それに促されたか、周囲の客の二、三も席を立ち始めた。
「六時になっちゃったな、戻らないと」と、透が空を仰いで呟く。
(まずい、大遅刻だ……)
 つい彼の話に聞き入って過してしまったが、悠にしても早々に帰宅して菜々子に夕飯を作ってやらなければならなかった。もう今ごろは完全にフグと化していることだろう。
「じゃ、そろそろ行くよ僕。ほらほら君らももう帰りな。ウチのひと心配してるよ」
「ええ、まあ。でも実はちょっとひとを待ってるんです、おれたち」悠はすばやく陽介と千枝に目配せする。「陽介、カンダハルから連絡はまだ?」
 陽介は一拍遅れで「いや、さっきのが最後」とうまく意を酌んでくれた。早く帰らなければならないが、その前にここはぜひ透抜きで少し話し合っておきたいところだ。
「ちっとメールしてみるわ」
「何時間待たせるんだって言っといて――もうちょっと待って来なかったら、おれたちももう帰ります」と、悠は遠回しに透を追い払いにかかった。「今日は本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします、足立顧問!」
「マジで心強いっす足立顧問!」と、陽介。
「頼りにしてますコモン!」千枝も調子をくれる。
 透もまんざらでない様子で、照れて笑いながらようよう腰を浮かせたが、ふいになにか思い出したようにして「あ、そうそう」とふたたび腰を下ろしてしまった。
「最後に……これもいちおう話しとこう。留意しといてもらいたいことがあったんだ」
 高校生三人は早く話を終わらせるために、めいめい真剣に聞くふりを見せた。
「ガイシャはいずれも身につけてたものを一部なくしてるんだ。一人目はピアスの片方で、二人目は靴の片方を」
 悠は透の口を見つめて凍り付いていた。
「犯人が故意に持ち去ったのかもしれないけど、もし被害者が襲われるなり監禁されるなりしたとき落としていたんだとしたら、それは犯行現場を特定する決定打になりうる。一気に解決に動き出すかもしれないほど重要な物証なんだ」
 陽介も透の口を見つめて石化していた。
「いま交通課も駆り出して探してるとこでさ。捜索範囲が広すぎるから難儀しててねェ、あの旅館の回りなんてもう山だし……」透はひとつため息を吐くと、やっと腰を上げて辞去を告げた。「ま、君たちに探してくれとまでは言わないけど、覚えておいて。万が一だれかが拾ったなんてこともありうるからさ――じゃあね!」
 千枝が「あい」と間抜けな返事をした。






[35651] バカおやじだよ俺ァ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:bea68ca4
Date: 2016/05/15 16:02



(どうしよう、コレ)
 居間の襖のあわいから侵入する明かりで、仏前はほの明るかった。電灯を点けないのは「わるいこと」をしているからである。
(どのみちもうここには置いておけない)
 悠の手のひらの上には、ティッシュに半ば埋もれた、小さなピアスの片方が載っている。今ほど仏壇の裏から取り出したものだ。こびりついた死者の血の薄気味悪さに、今まで部屋へ持っていくのをためらっていたが、もはやそれどころではなくなってしまった。万が一にも遼太郎に見つかったらどうなることか!
 自分たちは図らずも重要な証拠を隠していた――しかり。透の言っていたとおり、ピアスも靴もその主人の殺害された現場に置き去られたものだからして、これは間違っていない。悠たちは犯行現場の第一発見者であり、かつ自身そうであることに確信を抱いていたにも拘わらず、現場保存を怠って重要な物証を無断で持ち去ってしまった。これがどんな罪に当たるかしかとはわからないが、きっと警察のほうで彼らにぴったりの「ナントカザイ」を見繕ってくれることだろう。
 とは言え、それもその犯行現場が捜査関係者にも入ってこれる場所であればの話である。今ごろは陽介をも悩ませているであろうこれらの遺品は、この世界から全く隔絶されたところにあったものだ。言わば火星に落ちていたのを拾ったようなもので、悠に罪の意識はなかった。誰も火星になど行けないし、まさか犯行のロケーションに使われたなどとも思わないし、悠たちがそこへ行けるとも思わないのだから、見つかりさえしなければどうということはないのだ。
 しかし悠もただの民間人というわけではない。過日の陽介と千枝とにそうしたように、彼に火星行きの往復便を手配することは決して不可能ではなかった。警官を犯行現場へ案内することは理論上可能なのだが、悠は端からこの選択肢を排除してかかっていた。というより、ほとんど念頭になかったと言っていい。
 警察関係者をテレビの中へ連れて来るということ――この非現実性の甚だしきは、先の「ペルソナ能力発現祝賀会」において、ペルソナつかいたち四者のとくに好んで挙げた議題であった。
 いわく、それはあまりにも危険に過ぎる。入ってきた人間たちとそのシャドウとを和解させるさえ手に余るものを、まして彼らが呼び寄せた怪物シャドウの大群を捌きながらそうするなどどだい無理な話だ。いや、そもそもこちらの話を信じてもらうことからして難題ではないか。ではひとりずつ無理矢理ひっぱってきては? 失敗したらどうする? それは犯人のしていることとなにが違う? 怪我人や死人が出たときの責任は誰が負う? 仮に成功したとして、その次は? 何度それを繰り返さなければならない? 自分たちがそれにずっと関わることのできる保証は? もし警察の捜査体制に組み込まれたとしたら、学校はどうなる? 我々の生活は? 四者は斧を振りかぶった薪割り人に薪材を差し出すように、叩き割って火を付けるためにどしどし提案した。彼らの異様な熱の由来は実にそれであった。
 なぜ四者がこの話題を好んだか? 彼らが大喜びでお互いに証明し合うその非現実性、不可能性こそは、わが手の内にある至宝を独り占めにする正当性を補強し、その価値を保証するものだったからである。もちろん、宝の宝たるはそのものの有する価値とおなじくらいに、その希少性に拠るのが常なので。
 彼らにとってテレビの中の異世界とそれに纏わる事々とは、各々のたなごころに大事に握りしめているところの大粒の貴石であった。誰かにちょっと分けてやろうと思えば、それを割り砕かずにはそうできない性質のものであった。たまさかそれを手にした幸運な人間と、その喜びを分かち合うことはもちろんしよう。この宝石を所有するものにその値うちを教え、あるいは教えられ、もってお互いの価値観を共有することこそはこのうえない喜びなのだから。しかしそうでなければ誰がこの宝を分けてなどやるものか――四人のいずれもこの本音の片鱗をすら口に上しはしなかった。しかもそれでいて、お互いの顔に大書してあるその文言を、正確に読み取らないものはなかった。
 もとより悠にこの「全き悪手」を検討するつもりなど毛頭なかった。そして今やほかの三人もである。このとき「警察に真実を教える」という選択肢は四者の無言の合意によって、完全に抹殺されたのであった。おお、まして遼太郎に教えるなどと!
(叔父さんには心配かけられない、でしょ? 叔母さん)悠は正座して仏前にかしこまった。(これ、今まで隠してくれてありがとう。今日からおれの部屋で保管するからさ)
 その金地に薄明かりを反射して、仏壇は暗い鬱金色に輝いている。本尊の一段下に並んでいる五つの位牌のうち、いちばん左が叔母のものということだ。そのかみ富者の住家に金屏風などが設えられたのは、決して成金趣味の類ではなく、蝋燭や行灯の貧弱な照明を反射増幅するためのものであったのだと、なにかの本に書いてあったのを悠は思い出した。なるほど、目を窄めれば叔母の戒名もなんとか読めそうな気がする。
 初めて得る叔母の個人情報が戒名であることに、悠はふと滑稽を覚えた。彼は彼女の名前も顔も知らない。誓子も遼太郎もあえて教えることはしなかったし、この家には写真の一枚はおろか、その存在した痕跡さえ巧妙に消されていたのである。とうぜん仏壇にも遺影の類はいっさい飾られていなかった。
 菜々子が亡母を思い出して泣くからだ、というのが以前に聞いた遼太郎の言だが、なんだか奇妙な話である。そもそも仏壇などというものは故人をより長く記憶に留めるための装置ではないか?
「なにしてるの? ごはんたべないの?」
 背後の襖がサッと開いて、トイレに行っていた菜々子が顔を出した。午後七時を目前に空腹も極まったであろう彼女である。
「ちょっとお参りしてたんだ」悠は顔だけで振り向いた。「カレー温まった? もう食べれる?」
「みてくる!」
「見るだけだよ、袋さわったら熱いんだよ!」
 菜々子はキッチンへすっ飛んでいった。作り置きのカレーが冷凍庫になかったら、彼女は今ごろ悠の腿に食らいついていたに違いない。
 悠はピアスをティッシュごとポケットに突っ込んで立ち上がった。これが犯行現場を証明することは向後絶対にあるまい。が、例えば遺体発見現場の近くにあったということにすれば、少なくとも現在その捜索に充てられた無駄な人員をほかの仕事に回すことができる。間接的に警察の捜査に寄与できるだろう。
 問題はどうやって透に渡すかだが……現時点では悠にも陽介にも千枝にも妙案はない。彼らは透との悩ましい会見ののちに短い会合を持っていたが、三者ともただ青い顔を晒すだけだったのだ。彼らは負わされた土産の重さにウンウン唸りながら帰途についたのである。
 茶の間に戻るとじき、おなじみのエンジン音が玄関のほうから聞こえた。次いで菜々子の「お父さんかえってきたー!」との歓喜の声も。
(カレー、一パック追加だ)
 なんにせよ急いではならない。陽介たちと時間をかけて話し合えばきっといい案が浮かぶはずだ。ひとりだけで考えて行動するとろくなことにならないのは実証済みである。
「菜々子シャツ伸びるって。お父さん歩けないだろほらっ、離れなさい」娘に纏わり付かれながら遼太郎が茶の間に入ってきた。「よお、ただいま――菜々子ほらやめろって、やめないとくすぐるぞ、くすぐるからな、いいのかっ?」
 菜々子はエヘヘと挑発的に笑うだけで、いっこう父の恫喝に怯む様子はない。しこうして彼女は冷蔵庫の前でのたうち回って金切り声を上げることになった。
「おかえり叔父さん」
「おう。今日はなんだ?」ひとしきり娘をくすぐってから、遼太郎は大儀そうに立ち上がった。「ああハラへったよ。今日は昼メシ食えなくってなァ」
 そういえば透も同じようなことを言っていた。ふたりは組になって働いているのだろうか。
「ごめん、今日はおれも遅くなっちゃってさ、作り置きのカレーで我慢して――ほらこんなとこで寝転がってるのは誰だ!」悠は菜々子をくすぐって冷蔵庫の前から退かしながら、「こないだの残り今あっためるから。おれたちもまだ食ってないんだ」
「そんなら願ったり叶ったりだ、俺ァカレーは大好きだ」
 冷凍庫のストックから追加分を取り出して、湯煎の終わったものと交換で鍋に入れる。飯はけさ炊いたものの残りだ。せめてサラダのひと皿くらい出してやりたいが、件の証拠隠滅疑惑に動転してすっかり買い物を忘れてしまった。冷蔵庫は目下ほぼカラである。
「……悠、もいっこ追加で注文できるか」遼太郎は鍋の中をもの足りなげに覗き込んでいる。「大盛りがいい。もうないか?」
「まだあるよ。もう一個追加ね」
 遼太郎は結局、三つ目を自分で温めてようやく満腹した。



「四日と五日、だな」
 と、遼太郎がだれにともなく呟いた。その面に娘と甥の視線が集まった。
「ゴールデンウィークさ。四日と五日なら、まあ、休み取れそうだな」
 ゆうべの話の続きらしい。菜々子が満面の喜色で「ほんとっ?」と腰を浮かせたが、それもつかのまである。
「……ほんと?」
 遼太郎は心外そうに「なんだよ、疑ってるのか?」と唇を尖らせる。
「冬休みんときァ、ありゃ突発も突発で……あんなことァ十年に一回あるかないかだ」
「なつやすみもダメだった」と、娘も口を尖らせる。「ウミいけなかった。いつもダメになる……」
「海はダメだったけどプールは行ったろ。まあ今回は大丈夫だから――あー、ジュネス、行きたいんだったか?」
 菜々子の面には「どうせまたダメだ」と書いてある。どうも遼太郎の言う「十年に一回」はわりあい頻繁に起きるようだ。
「おい機嫌なおせって……そうだ、近所じゃなくたっていいぞ」遼太郎は娘のご機嫌取りに忙しい。「車で遠出してもいい。年明けてからどこも行ってなかったからな」
「ほんと? りょこう? いきたい!」
 菜々子はバネ仕掛けよろしく飛び上がった。効果覿面である。今ほどその小さな顔を占めていた憂愁の色は、すでに歓喜に塗り変わっている。そのまま出かけて行きかねない勢いである。
「旅行か、一泊したいってことか?」
「イッパクする! イッパクってなあに?」
「お泊まりするんだって、旅館とかホテルにさ。よかったね!」
 悠が口を挟んだ。菜々子はもう矢も楯もたまらぬといったふうである。
「しかし旅行……泊まりがけか、こりゃ完全に出遅れちまってるな。今ごろァもうどこも満員だろう。これから空き部屋さがして見つかるかどうか……」
 遼太郎が他人ごとのように言った。この科白のあとの菜々子の落胆はいっそ正視に堪えないほどである。バカおやじ――これにはさすがに悠も心中非難を禁じ得ない。
「叔父さん……」
「ああいやっ、見つかる、ぜったい見つかるから! こういうのは探しゃああるもんなんだ、大丈夫だ!」
 失言を悟ってももう遅い。菜々子はもはや聞いていない。座り込んで膝を抱えて顔を伏せて、彼女はすっかりぺしゃんこになってしまった。父をそのあわれなありさまでもって「そら見たことか。どうせこうなるに決まっていたのだ」とでも指弾しているかのようだ。期待で膨らみきっていただけに針で刺されたあとの落差たるや激甚である。
「おい嘘じゃないって。あー、よし、じゃあ今すぐ探す。見つかるまでお父さん寝ないぞ、どうだっ?」
 菜々子はちらと顔を上げて、すぐまた伏せた。
「ちょっと待ってろよ……その前にどこ行くかだが」と悩むふうを見せたが、遼太郎はほどなく指を鳴らした。「与差だ、与差にしよう。与差周辺の宿泊施設を探す。悠てつだってくれ、携帯つかえ」
「ヨサって、どこ? なんて字かくの?」悠は言われたとおり携帯を取り出した。「聞いたことないけど、ここから遠いの?」
「与えるに差別の差だ。県内で、こっからそうだな、高速つかえば車で二時間かからんだろう。たしか下道で二時間くらいだったから」
「ヨサ?」菜々子がまた顔を上げた。
「観光地としちゃわりあい開けてるとこだ。温泉があってな、ちっと離れるとなんかイスラム教の古い寺院だとか、でっかい鉱物の博物館とかあったな」遼太郎は携帯を操作しながら、半ばうわの空である。「赤ん坊のころ菜々子も行ってるんだぞ、お父さんとお母さんと菜々子で……覚えてないだろうが……」
「……お母さん、いったの?」
 遼太郎は娘の質問には答えず、忙しなく電話機の辺りを指さしながら「悠っ、名前と電話番号リストアップ、紙とボールペン」と命じた。
「与差周辺で検索ヒットするならどこでもいい、見つけた順に片っ端から書け。総当たりでかけるから――ああもしもし、わたし堂島といいますが」
 指示もそこそこにさっそく通話を始める。職業柄であろうか、こうなると遼太郎は果敢そのものだ。
 どうやら彼の言うとおり、ゴールデンウィークの宿泊を手配するにこの時期は遅かったようで、電話する端から断られるのは見ていてよくわかるのだが、遼太郎は休まずめげず諦めない。悠からするとかなり厚かましいように思われることも平気で言う。彼は断られても「はあそうですかわかりました」とはいかないのである。
「そちらの近場でどこか空いてそうなところに心当たりはありませんか。ふーん、そうですか、まあこの時期ですからねえ。じゃあキャンセルが出しだい連絡を下さい。電話番号は――」
 と、こうだ。電話の合間に「宿が取れたあとキャンセルが出たらどうするの?」と悠が訊くと、彼はニヤッと笑って「俺ァ知らない番号は取らない」などと平然たるものである。
 十五分ほども同じようなやりとりを経たころ、ようやく遼太郎の声が弾んだ。悠も菜々子もさてはと顔を上げた。
「大部屋がいい。大部屋のほうで頼みます」
 遼太郎の言うとおり探せばあるものである。彼は笑顔で話しながら、甥と娘に向かって拳を突き出して見せた。悠も同じように返すと、菜々子もまた従兄弟を真似して同じようにする。その面にもはや憂いの色はない。
「ちなみにそれは、何階の部屋ですか……そうですか。いや、ええと、三人です。ああ構いません、それで。そう一泊」
 三人。どうやら自分も数に入っているらしい、と思う暇に、つと遼太郎が「あっ、ちょっと待った、すいません」と言って携帯を手で覆った。
「悠、お前どうする? つい三人って言っちまったが。お前たしか予定なかったんだよな」
 と訊いてくる。ちらと陽介たちの顔が脳裡を過ぎったものの、連休ともなれば雪子の合流はいっそう望み薄であろうし、隣の菜々子の刺すような「予定などないはずである。来るべきである。来なければならぬ」とでも言わんばかりの熱視線も否みがたい。
「行くよ、もちろん。おれだけ留守番させるつもり?」
 悠は快くうけがった。菜々子はふたたび拳を突き出した。遼太郎はほどなく予約を終えたが、なんのゆえか使い終わった携帯に目を落として、含みありげに微笑んでいる。さては自分の参加が嬉しいのかなと悠が自惚れていると、
「妙な偶然だぜ。いま予約したこの紅楓苑ってとこ」遼太郎は悠のメモを示して言った。「電話してて思い出したが、うちのと菜々子と三人で泊まったのと同じとこだった。部屋は違うが」
「へえ、それは……」
「お母さん、とまったの? そこ」菜々子は大きな目をまんまるに見開いて驚いている。
「そうだ、菜々子もだぞ。もうあれから五年かそこら経つんだなァ……またでかくなったなァ、お前さんはよ」
 遼太郎は感慨無量といったふうで、娘をしげしげと眺めている。こういう彼はちょっと珍しい。
「菜々子でかくないよ。でかくなりたい」菜々子は不満げである。
「でかくなるさ。いまに」
「叔母さんって、背、高かったの?」
 と悠の訊いたのに、遼太郎はちょっと驚いたような視線を返した。
「いや、見たことないんだ、おれ。うちにも写真とかなかったし」ちょうどいい機会だ、訊いてしまえ。「まず名前も知らないしさ……」
「ドウジマチサトってゆうんだよ」と、菜々子。
「タッパは女にしちゃあるほうだった。だから菜々子もじき背は伸びる」遼太郎はひとつ鼻息を吐いた。「で、五日だが、昼はどうする? 午前中に出て、高速のサービスエリアでなんか食うか。それとも食ってからうち出るか?」
 いっけん乗り気でゴールデンウィークの予定を案じているように見えるが、叔父が故意に話題を逸らしたのに気付かない悠ではない。彼は隣の仏間の、あの戒名だけがならぶ鬱金色の仏壇を思った。遼太郎が妻の思い出のよすがをこの家から排除するのは、おそらく娘を慮ってではないのだろう。菜々子はダシに過ぎない、きっと彼自身がつらいからそうするのだ。
「向こう着いたらさっそく見て回るんだよね。じゃあ早いほうがいいよ、ここで食ってたら遅くなる」無論、叔父への憐憫はおくびにも出さない。
「菜々子おべんとうもっていきたい!」菜々子が挙手する。
「弁当? 車ん中で食うってことか? でも俺ァ作れんし、菜々子もひとりで弁当ってのァまだ無理だろう」遼太郎と目が合った。「……けどまあ、大丈夫か。今年は心強い味方がいたんだったな。なっ?」
 彼は大仰な仕草で甥の肩をびしばし叩いた。菜々子もまた父親の真似をして、悠の空いているほうの肩を両手でぴしぴし叩く。
「なー?」
「もちろん喜んで拝命するよ」悠は従姉妹を捕らえて髪の毛をメチャクチャにしながら、「献立はなにがいい? そうだ菜々子すり潰してハンバーグにしよう。叔父さんいいよね」
「だめ! じゃなくてハンバーグたべたい!」菜々子は大喜びで賛成する。「フツウのハンバーグがいい! あかいハンバーグ!」
「ああ菜々子なんかちっこくて食うとこないからダメさ」
 菜々子はこの暴言に制裁を加えるべく、悠の手から飛び出して父親へ向かって突撃していった。彼女を待っていたのは凄惨なくすぐり刑である。
(チサト叔母さん、か……)
 悠は刑の執行をぼんやりと眺めながら、まだ見ぬ叔母を思った。両親が彼女の葬儀のために出掛けていったのは、あれは二年ほど前のことであったろうか。
 悠はそのとき留守番だった。平日のことで学校もあったし、これといって関心を引くでもなかったので、右から左へ聞き流した覚えがある。誓子もまたこういうときの常で、是非にとは勧めなかった。いったい彼女は自分の親兄弟や郷里に纏わることがらに、夫と息子をなるべく関わらせないようにしているふしがあったので。
 誓子は実家と疎遠だった、と言えば、それは表現としてかなり穏当かつ過小だろう。実際ははっきり嫌忌していたと言っても過言ではなかった。彼女が「カソイナバ」の田舎風情や不便を貶すというのは、鳴上家の団欒における光景として珍しいものではなかった。彼女は嘲るのでなければあまり自分の若いころのことを話したがらなかったし、悠の覚えている限りでも帰郷したことなど二、三度あるかないかで、しかも前述の葬儀をその中に含むのである。むろんいずれも息子を伴うことはせず、従って悠は物心ついてからこの歳になるまで、母の実家というものを見たことがなかった。まず叔父の遼太郎にしてからが、幼い悠への脅し文句における文脈にしか登場しなかったのだ。
 あるいは人間的に、あるいは坊主憎けりゃの精神で、誓子が叔母を快く思っていなかったかどうか、それはわからないが、いずれにせよ彼女が息子に弟嫁の名前を強いて教えなかった要因は、そんな事情に根ざしているのだろう。
(母さんと叔父さんって、仲わるかったのかな……)
 まさか犬猿の仲というなら息子を預けたりはしないだろうが、少なくとも縁遠かったことは確実である。こんど電話が来たときそれとなく母に訊いてみるがよかろう。そりゃ喜んで話しはしないんだろうけど――悠はひっそりとため息を吐いた。まったく母とその親類の不仲を疑うのも、東京のアパートのリビングでソファに寝ころんでする分には気楽だったが、叔父と従姉妹の存在を知ったいまとなってはなんとも心苦しいものだ。まして彼らと同じ屋根の下で生活する身となってはなおさらである。
 ふと静かになったのに気付いて顔を上げると、堂島父娘が怪訝そうに悠を見ている。
「やっぱり予定あったか? 友達かなんかと」と、遼太郎。「いいんだぞ無理しなくても。なにも遠慮してこう言うんじゃない。お前は学校転入したばっかりなんだから、友達づきあいのほうが優先なんだからな」
「いや、予定はないよ。違うちがう」悠は笑ってごまかした。「ハンバーグは明日にしようかなってさ。せっかく弁当作るんならちょっと変わったもの入れようかなって、考えててたんだ」
「そんならいいが……でも連休なんだ、友達から声がかかるなりしたんじゃないか? いるんだろう、親しいののひとりやふたりが。花村とかさ」
ひやりとした。ことさら話して聞かせた覚えもなし、なぜ遼太郎が陽介との交友を知っているのか。こんなささいな情報でも彼のような人種の手に、こちらの与り知らぬ方法によって握られているというのは不安である。
「叔父さん、あいつ知ってるの? なんで?」
「おととい菓子折もって挨拶に行ってきたんだ。ほれ、あの夜中の事故の件で」
 ここはひとまず胸をなで下ろすところだろう。そういえば以前叱責されたときにそんなことを言っていた。
「行ったらちょうどウチにいてな。ちっと話したんだが、ぜんぶ自分の責任で、お前はなんにも悪くないって、血相変えてなんべんも言ってたぞ」
「……そう」
「それとほら、もうひとり女子がいたろ? 里中っていう」
 お次は千枝か! そしてその次は雪子で、とどめにクマまで出てきたら――というのはさすがにあり得ないが、悠は顔色を変えずにいられない。
「いたね、里中……」
「花村さんちで住所おしえてもらってな、ついでっつっちゃあなんだが、そっちにも挨拶に行ってきたさ」遼太郎は甥の顔を見てニヤニヤ笑っている。「で、その子もウチにいてな、それがまたおんなじこと言うんだよ! 目ェこんな見開いてな、悪いのはぜんぶ自分だ、お前はなんにも悪くないって」
「…………」
「ほら、こないだ菜々子にウナギ食わしてくれたとき一緒に行ったっていうの、そのふたりだったか? いい友達じゃねえか」
 菜々子が勢い込んで「ウナギたべたのちえちゃんとゆきちゃんと、もうひとりのひとのなまえわすれた」と父に答えた。
「そうだったなァ……ん、なにちゃんとなにちゃん?」
「あっ、菜々子ちゃんこんどお父さんに頼んでみようよ、ウナギ食べに行こうってさ!」悠はあわてて割り込んだ。「そういえば菜々子ちゃんってなにが好きなの? 叔父さんは? 弁当のリクエストあったら言ってよ」
 べつにあえて隠し立てするようなことでもないのだが、できれば事件の当事者たる「ゆきちゃん」と親交のあることを知られるのは避けたい。話しながら菜々子に黙るよう必死で念を送っていると、彼女はそれに気付いたようにして悠を見て、ちらと不満げに眉を顰めた。
(おれ、なんか癇に障るようなこと言った?)
「……好きなもんっていやあ、カレーかな、俺は」
 遼太郎はいわく言いがたい、妙な表情を浮かべている。かえって怪しまれたかもしれない。
「カレーってさっき食ったばっかりじゃない。それに弁当箱に入らないよ」
「ま、とくに食えないものァない」
「ほかになんかない? 好きなもの」
「なんでもいいよ。なんでも好きだ。喜んで食うさ」
 この鷹揚さはおそらく装ったものだ。考えるのが面倒なようで、遼太郎は非協力的である。
「なんでもいいっていうのがいちばん困る」
「主婦みてえなこと言うなァお前」遼太郎は笑って、傍らの娘に水を向けた。「ほら菜々子はどうだ? お兄ちゃんに好きなもの言ってみな、作ってくれるってよ」
 菜々子は悩む様子もなく言下に「コロッケとミートボールがいい!」と宣言した。
「コロッケとミートボールね。ほかには?」
「……ハンバーグたべたい!」
 こちらは協力的だがバラエティーも七歳児水準である。肉とイモだらけの弁当というのも味気ない、自分で考えるしかないようだ。
「ハンバーグは明日ね……じゃあ、ちょっと変わったコロッケ作ろう。ファラフェルっていうの」
「ファラヘル?」と、菜々子。
「なんだそりゃ」と、遼太郎
「イスラエル料理。ヒヨコマメのコロッケ。コロッケだけど食感が肉団子っぽい。あとクミン入ってるからカレーっぽい風味もある。どう、完璧じゃない?」
「イスラエルって……お前また変わったモン作るんだなァ」遼太郎は驚き半分、呆れ半分といった様子。「材料なんかここらで手に入るのか?」
「たいして手間のかかるもんじゃないよ。材料もジュネスの輸入食品売場で確認済み」
「ファラヘルってチョウうまい?」と、菜々子。
「ファラフェルね。超うまいよ」
「チョウかよ……あんまりへんな言葉教えてくれるなよ」と苦笑して、遼太郎はソファに凭れかかった。「……それで、お前うまく逸らしたつもりみたいだが」
「え?」
 心臓が跳ねた。やはり先ほどのは不自然だったか? 遼太郎相手にあれは稚拙な小細工だったらしい。
「なに、逸らしたって……」
「あの里中って子のこと、好きなのか?」
 まただしぬけにとんでもないことを言い出したものだ。悠はつい意表を突かれて、いつもの調子を忘れて「はあっ?」と過剰に反応してしまった。
「ちょっ、なにがどうなったらそんな話になんのっ?」
「たしかあの子、お前が転校初日にいっしょにいた子だろ。こないだ足立としてた恋愛相談ってのァあの子のことだと踏んだが、どうだ?」
 あのバカ刑事め――今日は透に冷や汗をかかされ通しである。
「どうだって……どうもこうもないよ見当違いにもほどがある!」
 相手はほかでもない、こういう反応をこそ欲しがっているのだが、焦った悠は言い終わるまで気が付かない。ますます叔父を喜ばせる始末である。
「照れんでいい」
「照れてないって。なに叔父さんそういう話すきなの?」
「おい菜々子、お兄ちゃんカノジョできたらしいぞ」
「できてない! 怒るぞ叔父さん」
「そうだな、まだだったな。片思いか?」
「カノジョってなあに?」と菜々子が訊いた。
「ヘブライ語でバカおやじって意味だよ」悠はむっつりと答える。
「あははバカおやじときたか! 違いねえ!」遼太郎が大笑いし始める。
 悠は頬の熱くなるのを自覚せざるを得なかった。別してこの手の話題は苦手である。不得手である。普段の彼ならこういう話が出て来る前に、あるいは出てきた時点で、あえて自ら踏み込むことで冗談にしてしまうのだが、今回は勝手が違った。叔父の詮索を警戒していなければ「籍は向こうに入れたよ」とでも言って去なせたものを、出だしで躓いてしまった。
「姉貴にも報せなきゃなァ、こっち来てさっそく手ェ出し始めたってさ」遼太郎はあくまで甥をからかうつもりだ。「よし祝杯あげるか悠。お前ビール呑むか?」
「おれ風呂はいってくるから。食器洗っといてね。ビールは菜々子が呑むよ、炭酸すきらしいから」
 悠はいかにも辟易したふうを装うと、ご満悦の叔父を袖にして風呂場へと退散した。いや、あれでよかったのだ。事件への関与を疑われるよりはよほどマシではないか? うぶな甥っ子だと思わせておけばいいのだ……
(里中のことはいい。あと何日もないんだ、弁当のメニュー考えないと……くそっ)
 せっかく今まで忘れていたのに、遼太郎の的外れな勘繰りのおかげで、またぞろ脳裡に千枝の顔がちらつき始めた。こうなってしまえば強いて弁当の献立を案じてみても甲斐はない、考えまいとすればするほど彼女の姿は鮮明になる。悠のあたまの中では千枝がテーブルに着いて、タヒニソースをかけたファラフェルをぱくぱく食い始めていた。
 風呂から上がって部屋に戻って、布団の中に入って目を閉じてラストオーダーを告げても、彼女はとうとう彼のあたまの中から退席しなかった。それは実に晩の夢にまで及ぶのだった。夢の中で千枝は悠のこしらえたイスラエル料理のフルコースを「ふまいねコレ。でもあたし和風のほうがすきだな」などとこぼしつつペロリと平らげるのだが、代金を請求される段になると「そんなにするとは思わなかった。カルチャーショック」と財布を振りながらごね始め、しまいには「鳴上くんってなんでそんなガンコなのっ? オトコらしくない!」と憤激。腹立ち紛れにレストランの入口の窓ガラスをヒジ鉄で粉砕し、勘定を支払わずに出て行ってしまうのである。






 結果から言うと、悠が授業中に「汁気の多いものは避けよう」とか「野菜が足りない」とか「あえて菜々子ちゃんの嫌いなものも入れて、この機会に克服させようか」などと思案して決めかけていた献立も、食材といっしょに買ってきた新品のお重も、そのために用意したところの役には立たずに終わった。
 遼太郎のいわゆる「十年に一回」がまた起きたのである。旅行二日前、ゴールデンウィーク前夜のことだ。
 悠は食後の多くをそうして過ごすように、その晩も居間のちゃぶ台に菜々子とふたりで収まっていた。このごろはとみに家主の不在が多いので、夕食のあとから就寝までの時間はたいてい、自室へ上がるのでなければテレビの前にふたりきりである。悠自身にはあまりテレビ番組を視聴する習慣はなかったが、動物ものやクイズものの大好きな菜々子につきあって視ることはしたし、興が乗ればトランプを持ち出してきて、彼女のババぬき全敗記録を更新しもした。そのサイズと質量とに目を付けて、従姉妹を筋トレのウェイトに活用することもたびたびである。
 あいにくその日はこれという番組もなく、悠と菜々子は見るともなしにニュース映像を眺めていた。
(またコイツか……)
 彼を嘆息させたのは、例のアイドルなにがしの活動休止に関するものである。よほど世間を騒がせているようで、この類の報道はここ最近、朝夕ともなくコンスタントに続いていた。あまり頻繁に耳目にするので、悠はこの知りたくもない「千伊奈りせ」についておおまかな来歴を覚えてしまったほどである。
(事件でもなんでもないだろ下らない、勝手に引退させとけよ。ほかに報道することはないのか?)
 うんざりして従姉妹に聞こえないようブツブツこぼしていると、時ならぬ電話のコール音が彼らを驚かした。菜々子などは喫驚するあまり声を上げて飛び上がった。
 堂島家の固定電話がその役目を思い出すというのは、実はかなり珍しい。悠の知るかぎり、今まで隣近所や親戚などからかかってきたことはなく、現状はほぼ遼太郎から娘への一方向専用回線と化しているのである。そして悠がここへ来てからというもの、彼がそれを利用するというのは稀だった。受話器を取った菜々子の様子を見るに、どうもその稀が来たようだが。
 小さな耳に受話器を当てて小声で「ウン」を連発する彼女が、みるみるうちに萎れていく。イヤな予感がする。この時期にこれほど彼女をへこませる話題があるとすれば、悠に心当たりはひとつしかない。
(まさか……マジかよ叔父さん、ダメになったのか?)
 締めくくりに「ウン。かわる」と呟いて、菜々子は悠の許へ受話器を持ってきた。
「かわってって」
「お父さん、だよね」
「んん。お休み、とれなくなったって……」
 菜々子はそれだけ言って悠に受話器を押し付けると、とぼとぼと自室へ引っ込んでいってしまった。最悪の事態。
「……叔父さん、おれだけど」
『お前か』
 遼太郎は電話口でひとつため息をついた。
「聞いたよ。マジなの?」悠の口調にはどうしても非難の色が滲んでしまう。「なんとかならない……からダメになったんだろうけど、でも」
『わかってる、俺もさんざん考えたんだが……悪い、じつは若いのが体こわしたっつっててな』遼太郎の声も沈んでいる。『よりによってこんなときに……いや、こんなときだから都合よく壊れるんだろうが……まあ、邪推しても仕方ねえ。とにかく、俺が代わりに出るしかなさそうだ』
「それ、足立さんじゃないよね。体こわしたっていうの」もしそうなら文句のひとつも言ってやらねば。
『足立? いや違う、あいつァ壊して壊れるような生きモンじゃない――そうだよ、お前はもともと壊れてるって話だ』どうやら近くに透がいるらしい。『宿はもうキャンセルしといた。お前には悪いことしたな、せっかく探してくれたってのに、急にこんなことになっちまって。弁当だってお前、用意してたんだろ?』
「それはいいけど、菜々子ちゃんが……」
『あいつ、近くにいるか?』
「寝間に行っちゃったよ。落ち込んでる」
『ああ……くそ、まいったよ、まったくこれで何度目だ? 約束やぶってばっかりだ』
「菜々子ちゃん、楽しみにしてたよ、旅行。その話ばっかりしてた」
『バカおやじだよ俺ァ。お前の言うとおりだ』遼太郎は自虐的に笑った。『すまんが、気にしてやってくれんか、頼む。あと今日は遅くなるか、ひょっとしたら帰れんかもしれん。そのつもりでいてくれ』
「わかった。菜々子ちゃんのことは……まあ、なんとかしてみる」
『助かる、本当に。はは、そういやこないだもこんな調子で、お前に尻ぬぐいさせちまったっけなァ』
「え、こないだって?」
『ほれ、登校初日にお前、事件現場の近くに来て、菜々子を迎えに行ってくれたろ? お前のカノジョもいっしょだったな』
「ああ……いやカノジョじゃないってば」
『お前を預かってなきゃあ、今ごろどうなってたかわからんよ、うちは。お前にももちろんだが、お前のお袋さんにも礼を言わなきゃなァ』
 つい先日、母とその親類の不仲について考えていたことを、悠はこのときふと思い出した。昔の彼らは互いに礼を言い合うような仲だったのだろうか?
「叔父さん、あのさ」
『ん? なんだ』
「今する話じゃないかもしれないんだけど……変なこと訊くけど、うちの母さんと叔父さんってさ、仲、よかった?」
 とっさに現在形を避けたのは、その上で否定されることをなんとなく恐れたからだった。一人息子を預けるくらいには信用しているにせよ、誓子は悠が長じてからというもの、間違いなく彼とは疎遠であったはずなのだ。あまりよい返事は聞けそうにない。
 果たして遼太郎の答えは『まあ、よくはなかったな』である。つまり、悪かったのだ。
『どこもそんなもんだろう。ふたつしか違わん、しかも男女のきょうだいだ。いがみ合うこともあるさ』
「……そう」予想していても悠は落胆した。
『それでも俺なんかいいほうだったぞ。親父とのほうがよっぽど険悪だったよ、姉貴は。葬式にも来なかったくらいだもんな』
「えっ、行ってないの? 葬式」
 これには驚いた。というのも、誓子は父親の葬儀へ出席したはずだったのである。あれは中学生になって初めての、夏休みの初日のことで、玄関を出しなに「喪服が暑い」としきりにこぼしていたのを、悠はよく覚えていた。
『ああ、お前知らなかったのか』
「いや、行ったんだよ、母さん、葬式に。それって四年前くらいだよね」
『ああ。行ったって、どういうことだ』
「そのままの意味。喪服着てさ、行きたくないけどお祖父さんの葬式行ってくるって言って、うち出てったんだ。で、次の日に帰ってきた」
 受話器から遼太郎の唸り声が聞こえてきた。
『……話さんほうがよかったな、こりゃ。姉貴にゃ言ってくれるなよ』
「言わない言わない、もちろん。で、なにかあったの? 昔」
『なにがあったってわけじゃないが……お前は聞いたかどうかわからんが、うちァおふくろが早くに死んでな、家事は姉貴がほとんど全部ひとりでやってたんだ。いや、やらされてたっつったほうが正しいのかな、少なくとも姉貴にとっちゃ』
 初耳である。悠は受話器を耳に当てたまま身を乗り出した。
「それ初めて聞いた」
『んん、それがイヤでたまらなかったんだろう、姉貴は。親父も親父でそりゃ女の――』遼太郎がにわかに言葉を呑み込んだ。『――悠わるい、切るぞ。菜々子のこと頼むな』
「ああ、うん、任せて……」
 言い終わらないうちに電話は切れてしまった。向こうでなにかあったらしい。
(肝心なところを聞けずじまいだったな)
 しかし姉の昔話について、遼太郎はそれほど語るに慎重ではないようだった。いずれ折を見て訊く機会もあるだろう。とりあえずは菜々子をどうにかしなければならないが――けっきょくその晩、悠の努力の実ることはなかった。彼女は寝間に畳んで積んである布団の中に上半身をすっかり埋没させて、従兄弟のなだめすかす言葉にも足と尻のジェスチュアだけで応じたのである。いかにも、菜々子の悲憤は七歳児水準の語彙ではとうてい表現できないほどのものだった。






 遼太郎が先日、ゴールデンウィークの予定について「友達から声がかかるなりしたんじゃないか?」と言っていたが、そういえば陽介たちはどうするつもりだったのだろう――悠は起床後、一階へ下りる階段の途中でふと立ち止まって、あらためて連休中にすることのなくなってしまったわが身の上を思った。
 堂島父娘と旅行へ行く予定を、悠は誰にも話していなかった。話そうと思うことは思ったものの、訊かれもしないうちに先んじて予定のあることを告げるというのは、なんだか「とうぜん君たちはその日おれをどこかに誘おうと思っていたに違いないよね」とでも言うみたいで、自意識過剰のようで恰好がつかない。まず陽介たちならこの連休を恰好の機会として、間違いなく向こうの世界へ行こうと思い立つ――雪子が参加できるかどうかは置くとして――だろうから、それを提案されたときにでも告げればよいと考えていたのである。
 しかしついにその提案はなかった。悠のほうでもここ最近はいろいろ考え込むことが――遼太郎流に言えば「カノジョ」のこととか――多かったので、気が付けば「そういえばゴールデンウィークどこか行ったりするの?」くらいに軽い話題を振ってみるとか、そういったこともせずにここまで過してしまったのだった。まったく悠の「対友人マニュアル」の内容たるや、著者をして忸怩たらしむる貧弱さである。
(電話のひとつもくれればいいのに……いや、ほかの友達と遊ぶ用事でもあるのかな……あいつら、せっかくの機会なんだぞ、あんなにやるやるって息巻いといてなんだよそれ……)
 などと内心で身勝手な愚痴をこぼすのも惨めな話だ。いっそこちらから連絡してみようか? いや、断られたらそれこそ惨めではないか! 仕方ない、連休はマニュアルの改訂にでも充てようか……
「あ、おはよ……」
 ダイニングへ下りてきた悠を、菜々子の尻すぼまりの挨拶が迎えた。彼女の座っている居間のちゃぶ台の上には、空の皿とハチミツの瓶が置いてある。テレビを見ながら今ほど遅めの朝食を終えたところ、といったところか。
「おはよう。ごめん、なんか作ればよかった」とは言え、冷蔵庫はほぼカラなのだが。「菜々子ちゃん休みなのに早いね。今日はどこか行くの?」
 菜々子はウウンと否んだ。つまり従兄弟と同じ境遇ということだ。
(なら今日は買い物がてら、菜々子ちゃんとジュネスかな)
 ゆうべの旅行中止ショックが尾を引いているらしく、彼女はどことなく沈んだ様子である。さすがに悠ひとりで旅行へ連れて行ってやることはできないが、大好きなジュネスへ誘えば少しは憂さも晴れるだろう。
「そっか。じゃあ菜々子ちゃん――」
 今日はおれとジュネス行こうか、と言おうとするのを、そのとき玄関のチャイムが遮った。悠と菜々子は思わずお互いの顔を見合った。宅配や訪問販売の来そうな時間でもなし、ふたりともこんな時間の訪客に心当たりはない。
「誰だろうね……おれ出るよ」
「菜々子もでる」菜々子が立ち上がってくっついてきた。
 玄関の磨りガラスの向こうには小柄な人影が立っている。はて物売りの類には見えないが、と引戸の鍵を開けてみると、その向こうに立っていたのは、
「おー、よかった、いるじゃん」
 なんと千枝である。
「里中……」
「里中です。おはよーございます」
「……え? なんで?」
 悠のあたまの中は「なんで?」でみっしりと埋まった。玄関から顔を出して辺りを見回してみても、彼女のほかには誰もいない。ひとりで来たのだ。
(なんで? なんでだ? 全部おれの勘違いだったのか? いや、そんなことはあり得ない!)
 ではなぜ? 彼女は自分を避けていたはずだ。別してふたりきりになることをあれほど忌避していたはずなのに、なぜひとりでこんなところへ乗り込んで来る? そうまでして果たさねばならぬいったいどのような重大な用事が、千枝をしてその脚を狼の巣へ向かわしめたというのか。
 彼の「なんで?」を、なぜ家がわかったのかという疑問と受け取ったようで、千枝は「ほら、雪子と一回来たことあったじゃん? まあちょっと迷ったけど」と答えた。
「あ、菜々子ちゃんもおはよー、元気ィ?」
「おはよ、ちえちゃん。げんきだよ」背後の菜々子がちらと笑って挨拶した。言うほど元気には見えないが。
「そっかァ……えー、ところで突然ですが、鳴上くん今日ってヒマすか?」
 いまこそ困惑は極まった。わざわざ訪ねてきて「今日ヒマか?」などと訊くというのが、相手を連れ出したいという意志の発露を意味することくらいは、彼の薄いマニュアル本にも載っているのだ。千枝は悠を連れ出したいのである。つまり今日ふたりでどこかへ出掛けないかと誘いに来たということであって――これは夢想だにせぬ人生の一大事である。
「いや、ヒマ、というか、まあ、予定はない、と言えば、おおむね間違いでは、ないけど」悠はしどろもどろになった。
「ちなみに花村は『ヒマじゃなくても強制連行』って言ってた。雪子も『来ないと鳴上くんのシャーペンの芯ぜんぶ4Hにすり替える』ってさ」
「あ、そう、そっちね……」悠はそっと胸をなで下ろした。「はは……なにシャーペンの芯って……」
 同時に落胆した。なんのことはない、千枝は彼を特別捜査隊の活動へ誘いに来たに過ぎないのである。もちろんそうに決まってる、なにを寝惚けている鳴上悠! 千枝が自分を「デート」に誘うなどということが本当にあり得るとでも?
「もちろん行くよね? 行かないとノートの字メチャクチャ薄くなるよ。あたしも鳴上くんの消しゴム消滅するまで擦るよ」
「あはは……あー、ちょっと待ってもらえる?」
 悠は背後の菜々子をちらと顧みた。黒目がちの大きな目がなにごとかと見返してくる。
(ということは、行き先はジュネスだ、けど……参った)
 千枝もまた微妙なタイミングに来てくれたものだ。これで菜々子をジュネスへ連れて行くことが難しくなってしまった。
 雪子の言伝があるということは、予想に反して彼女はゴールデンウィークに休みを貰えたということだ。であれば陽介たちは決してこの機を逃しはすまい。ヒマじゃなくても強制連行、とは決して冗談ばかりではないのだろう。ジュネスへ行けば向こうの世界へ入ることになるのは確実だった。
 が、それも菜々子を伴わなければの話である。悠はその場合、失意にひしがれる幼い従姉妹を、食事の用意もなく家に置き去ることになってしまう。
「菜々子るすばんしてるよ」
 悠がなにか口に上す前に、菜々子がこう言ってにこっと笑った。例の歳不相応な気遣いを発揮して、従兄弟が自分の処遇について悩んでいることを察したらしい、彼女は自ら身を引いたのである。この健気な申し出に目頭を押さえる暇もなく、
「あっ、菜々子ちゃんもいっしょに行く? 行こうよ!」
 千枝の言葉がまたしても悠を困惑させる。彼は菜々子と異口同音に「いいの?」と述べた。
 けっして社交辞令で言っているのでないことは、彼女の様子からも明らかだ。おかしい。千枝たちが悠の自由と学習の利便とを妨げてまでジュネスへ来いと言っているのは、ひとえに「テレビの中の世界に行きたいから」ではないのか? 菜々子を連れて行けばその叶わないことがわからぬ千枝ではあるまいに。それとも今日のお誘いはただ親睦を深めようというだけのもので、それ以外の意図はない? まさか! 陽介はいざ知らず、ここのところずっと仕事の都合で向こうの世界へ行けずに鬱屈していた雪子が、ようやく廻ってきたこの機会を逃そうとはとても思われない。
「だってほら、いや、おれはむしろそのほうがいいというか、そうでないと困るくらいなんだけど……」悠は千枝に顔を近づけて小声になった。「でも、いいの? わかるよね、なにが言いたいか」
「ええっとォ……うん、まあ、でも」千枝は妙に煮え切らない。「だってその、鳴上くんも困るっていま言ったじゃん? 菜々子ちゃんも行きたいよねー?」
 菜々子は口をへの字に結んでぶんぶん首を振って、自分は見たいテレビがあるから今日はどこにも行かなくてよいのだ、という主旨の内容をつたなく説明して、大いに従兄弟を感激させた。彼女は悠が自分への遠慮からためらっているのだと考えて、下手くそな嘘を吐いているのだ。
(許せ天城……)
 こんなあわれ極まる姿を見せられては、もはや雪子たちの思惑など考慮の外である。べつに今日以外に機会がないと決まったわけでもなし、どのみち菜々子をひとりで留守番させるわけにはいかないのだから、今日のところは「テレビの中の世界」は諦めてもらうしかあるまい。
「え、テレビって今日なにかあったっけ? 初めて聞いたけど」悠は空とぼけてみせた。
「あるよ……おひるにあるよ……」菜々子は苦しげである。
「じゃあ、おれも今日はうちでそれ見ようかな。きっと面白いんだろうし」悠は千枝に目配せしながら、「里中ごめん、わるいけど、今日はおれジュネスには行けなくなったから」
「ジュネス? ジュネスいくのっ?」菜々子は寝耳に水といった様子。
「そーだよー、今日はみんなでジュネスでゴハンたべて遊ぼーって思ってたんだけど」と、千枝。「でも鳴上くんと菜々子ちゃん来ないならイミないなー、しかたないから今日はやめにしよっか。花村たちには解散ってメールしようかなー」
「ジュネスいきたい! テレビはこんどにする!」菜々子はたちまち翻意した。
「え、いいの? おれテレビ見たいなーって思ってたんだけど」悠はいっそう空とぼけた。「菜々子ちゃんうちでテレビ見ようよ、そうしよう、ね?」
「そんなのみたくない! ジュネスいく!」菜々子は地団駄踏み始めた。
「鳴上くんっ」千枝が笑って軽く蹴ってきた。「おし、じゃあ菜々子ちゃん、すぐ行ける?」
 菜々子は「パンかたづけてくる!」とだけ言うと、矢のように家へ駆け戻って行った。彼女の不自然なほどに老成した精神も、ジュネスの魔力の前には抗し得ぬらしい。
「菜々子ちゃんってチョーいいこだよねえ、いいこすぎる……」千枝は感に堪えないといったふうである。
「いつもはこの中に入ってる」悠は自分の眼を指さした。「じゃあ、おれも準備してくるから」
 菜々子を追いかけて家に戻ろうとすると、その背を千枝が「あ、ちょっと」と呼び止めた。
「なに?」
 悠が振り返っても彼女はしばらく無言だった。彼と目を合わせたかと思えば伏せ、なにか言いかけたと思えばアーだのウーだの唸るという挙動不審を呈していたが、結局、
「えっと……なんでのな……なんでもないでしゅ……」
 と、もぐもぐ呟いて赤くなった。どう見ても「なんでもある」ことは明らかである。
「どうし――」
「いけるよ、菜々子いけるよ!」
 ここで菜々子が押っ取り刀で戻って来たために、悠は詮索の機を逸した。彼は改めて財布を取りに自室へ向かったが、ふと二階へ上がる階段の途中で立ち止まった。先の千枝の異様な態度、「なんでもある」そのあることについて、忽然とある霊感のようなものが働いたのである。
 ポケットの中で「ちえのわ」が鳴ったような気がする。彼女が先になにがしか言いかけた言葉、その内容は例の「悪夢の六限目数学」に纏わることだったのではないか?






[35651] ここがしもねた?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:e221cf27
Date: 2016/08/16 15:11



 ともあれ、千枝がひとりで自分を誘いに来たという事実は、悠を大いに悩ませるのだった。
 もちろんジュネスへの道中はふたりきりではない。菜々子をも伴うものである。が、千枝が彼女の存在をあてにしていたと考えるのは、いくらなんでも邪推に過ぎる。それに、この人選も顧みていかにも不自然なのだ。悠を訪ねるとしたらまず陽介が自らもって任じるはずではないか? いや、このごろではクラス内でも呆れられつつあるなかよし四人組のことだ、そのうちのひとりを誘うのなら、残りの三人全員で来るのがもっとも自然ななりゆきというものだろう。
 それをあえてしなかったということは、おそらく自ら名乗りを上げて、その上で他者の同行を制した人間がいたのだ。千枝がそれだ。つまり、彼女には単独で悠と会わなければならないような、ある種のデリケートな事情があって、それが先にその口を噤ませたのに違いない。
 ではその事情とは? 誰が首を傾げても悠にだけは心当たりがある。これだと指をさして断じうるものではないが、あの「悪夢の六限目数学」に関係しているであろうことはほぼ確実だ。問題はそのためになにをしにひとりでやって来たのか、そのことなのだが……
 千枝はジュネスへの道中、しごく陽気であった。以前にもそうしていたように、歩きながら菜々子と他愛のない児戯に打ち興じ、折に触れては彼女の愛らしさ、性のよさを口を極めて誉めあげて、自分もこのような妹が欲しいものだと悠の果報を羨むのである。
「菜々子ちゃんは妹じゃないよ、従姉妹。おれ一人っ子だもん」
 悠は以前に立てた対策に基づいて、明るく感じよく答えた。腹中なにを含んでいるにせよ、彼女はとりあえず機嫌がよさそうだ。ひとまずこれを維持しなければ。
「あそっか。でもなんかきょうだいっぽいよね――菜々子ちゃんもイトコってよりお兄ちゃんだよねー、鳴上くんのこと」
 菜々子はにこにこしながら、悠はイトコというより「おばさんどん」であって、彼のこしらえる嘉肴を自分はいつも楽しみにしているのだ、と言って千枝を困惑させた。
「そっかァ……へえ……おばさんどん……?」
「おさんどんのこと」と、悠が説明を入れる。「菜々子ちゃんはおばさんどんって言う」
「そのオサンドンがまずわかんないんですけど――てか、お兄ちゃん菜々子ちゃんにゴハンつくってくれたりとかするんだ? なにつくってくれるの? カレーとか?」
 菜々子は目を輝かせて、わけてもここ最近はフーレゼークの佳味に軍配を上げたいところだが、しかし自分としては過日に餐したピエロマシーボラの味が忘れられぬ、と言って千枝をよりいっそう困惑させた。
「そっ……かァ……うーんお姉ちゃんわかんないや……えっとなにフレーク? ピエロなに……?」
「フーレゼークじゃなくてフーゼレーク、ハンガリー料理、なんかスープみたいなシチューみたいなやつ」と、悠が説明を入れる。「ピエロなんとかはピエルナスデポッロアッラシードラっていって鶏肉の――」
「つぎヨコモジが出てきたらスネ蹴る、マジ蹴る」千枝が大仰な仕草で下段蹴りのシャドーを始める。
「……そうそう、今日の夕飯はカーシャヴァーニシュケスにしようかなって」
 彼女は悠のスネを狙って二十メートルほども追いかけてきた。むろん戯れであろう、その面には最前からずっと心安げな、親しみのこもった笑みが浮かんでいる。
どんな狂気がおまえを捕らえたのかクァエ・テー・デーメンティア・ケーピト? 見よ鳴上悠、この笑顔を!)彼はこの降って湧いた明るい判断材料に大喜びした。(おまえの被害妄想ときたらほんとうに始末に負えない。これがおまえを忌み嫌うものの顔だと言うのか?)
 千枝が自分を忌避していたなどとは、とんでもない勘違いだった。自分の思い過ごしに過ぎなかったのだ。いまや彼女の好意に疑いはない……と、これで確信できればよかったのだが、
「菜々子ちゃーん、お兄ちゃんがバカにするー」と、千枝が悠を指さして菜々子に助けを求めた。「あたしいじめられてるんだよォー、なんとか言ってやってよコイツにー」
 菜々子は短いコンパスで懸命に追いすがりながら、それが事実ならくすぐり刑を科さずにはおかぬと従兄弟の許へ突撃していく。彼女を待っていたのは逆襲と返り討ちである。
(さっきからなんか、あんまりこっち見ないんだよな……)
 いとこ同士骨肉相食むの死闘を、千枝はおかしげに眺めている。その視線の先に果たして悠はいるのだろうか? 
 彼女は堂島家を発ってからというもの、悠と話すときだけは終始うつむきがちで、顔を上げても目を合わせなかった。よく喋るには喋ってもほとんどは菜々子へのもので、悠はむしろ菜々子との会話の枕にされているような按配なのだ。なんだか本当は話しかけたくないのだが、礼儀上無視するわけにもいかないので形ばかりそうしている、とでもいうような……
めくらが色について判断するなカエクス・ノーン・ユーディカート・デー・コローレ! 今までのが気のせいであるはずないだろう! 本当になんとも思ってないならこんな不自然な態度は取らないはずだ。完全な悪意ではないにせよ、里中はやっぱりなにかおれに意趣を持ってる……さっきはきっとそれを言いかけたんだ……)
 こんな彼女の様子に気付くと、いまほどあれだけ浮かれ上がっていた気分もたちまち萎びてしまうのだった。そうだ、テレビの向こうへ行けなくなることを承知で菜々子を誘ったのも、やはり悠とふたりきりの道中などごめんだと思い直したからなのかもしれない。
 これも身から出た錆か――悠はひっそりとため息をついた。






 案の定、陽介たちが悠を呼んだのは親睦を深めるためなどではなかった。
 それは雪子の顔に大書してあった。ジュネスはフードコートの露天で陽介とともに飲み物を啜っていた彼女は、三人の姿を見つけるや否や眉をひそめて、その切れ長の目を瞠って、悠と千枝との面をすばやく見回したのである。
(ええっ? 連れて来ちゃったの?)
 とでも言わんばかりだ。
「よーおはよ悠、菜々子ちゃんもいらっしゃい!」
「おはよ鳴上くん、菜々子ちゃんも」
 陽介と雪子が席を立って三人を迎える。いずれも表面上、本日の予定を御破算にされたことへの不満は窺えない。
「おはようゆきちゃん、と、えっと……」
 菜々子は陽介へ返事をしようとして果たさず、困って無言で悠を見上げた。先に陽介の「なまえわすれた」と言っていたのは彼女である。
「こいつは陽介でいいよ、ヨースケ」
 と、悠は勝手に請け合った。
 親友への気安さが言わせたとっさの冗談だったのだが、これは案外いい提案かもしれないと彼は思い直した。陽介が抱いているであろう悠への友情に鑑みれば――うぬぼれと言わば言え!――きっと、その縁者から親しく接せられることだって満更ではないはずだ。
 ふと、自分の家族がこぞって陽介を名前で呼び捨てにするさまを想像して、悠はちょっと気をよくした。それはまるできょうだいのようではないか?
「ヨースケくん?」
「ううん、クンはいらない。ヨースケ」
 少なくとも彼の人物なら、これを侮りとは受け取るまい。が、いっぽうの菜々子は宜なるかな、弱り切って悠と陽介とを交互に見遣っている。
「でもわるいから……」
 彼女は本当に困っている様子である。罪悪感が胸を刺す。自分は自己満足のために幼い従姉妹をダシにしようとしているのでは? 悠があわてて前言撤回しようとすると、それに先んじて陽介が、
「いいよいいよ、ぜんっぜん! クンはいらない!」
 と追認した。菜々子への配慮がそうさせたか、あるいはあんがい図星を指したのかもしれない。
「むしろクンづけよりそっちのほうがいいくらいだからさ。いいよヨースケで。ヨースケって呼んでよ」
「うんうん、花村にクンはいらないよね。つける必要なーし」と、千枝の茶々が入る。
「……菜々子ちゃん、このひとのこともちゃんはいらないからさ」陽介が千枝を指さす。「ニクエって呼び捨てでいいから」
 スネを狙って飛んだ千枝の下段蹴りを、陽介はすばやく足を引いて事もなげに去なした。この攻撃のあるのを予測していたと思しい。
「そういつもいつも食らってばっかと思うなよテメー……」陽介が見よう見まねで拳法らしい構えを取る。
「ほかのトコ蹴ってほしいってことですかそーですか……」千枝は食らったらただでは済みそうもないコンビネーションのシャドーを始めた。
「菜々子ちゃん、菜々子ちゃんが呼びやすいほうでいいよ」と、雪子が助け船を出した。「ほら座ろ座ろ、このひとたちはほっとこ。となり座る? ここおいでここ」
「ウン、すわる」
 菜々子が雪子の隣に納まると、それを汐に陽介たちも対峙するのをやめて、各々の席に落ち着いた。ふと、なんだか示し合わせたようにして、彼らの視線が立ったままの悠の面に注がれる。うち二名のものになんとはない非難の色を感じるのは、彼の旺盛な被害妄想のなせるわざなのだろうか。
(で? どうすんの? 今日)
 とでも言わんばかりだ。おれのせいなのか? 悠は陽介と雪子の白眼を避けつつ菜々子の隣に腰かけた。
「いきなり呼びに来るから驚いた。前もって言ってくれればよかったのに」
「最優先事項になるって誰かさんが言ってたから、連休中なんかとうぜん予定あけてると思ってたけど」陽介はむしろ不思議そうである。「つかむしろお前、なんかべつの用事とか入れてたのか? ひょっとして」
「実は入れてた。けどもう入ってない。明日から家族旅行の予定だったんだけど、うちの叔父さんが仕事はいっちゃって、行けなくなってさ――ね、菜々子ちゃん」
 菜々子がウンと頷いて、控えめにその胸中の無念を述べる。結びの言葉はしかし「お父さんオシゴトだからしかたないよ」と父への理解を示すものだ。
「若いヤツがゴールデンウィーク休みたさに仮病つかいやがってさ」と、悠は事情通ぶって決めつけた。「で、うちの叔父さんにお鉢が回ってきたってわけ。仕方ないは仕方ないけど」
「お前の叔父さんって、いま忙しいの?」陽介の言葉には含みがある。
「忙しいよ、昨日から帰ってきてないし」
「マジかよ……そこまで忙しいのか。じゃあなんか手がかりとかあったってことなんかな」
「なにも今に始まったことじゃない。例の事件以後はわりとあるんだ、うち帰ってこないで署で寝泊まりするっていうの。叔父さんがそんなだからさ、おれには菜々子ちゃんしか頼る親戚がいないってわけ」
 彼女を連れて来ざるを得なかったわけを婉曲に伝えたつもりだったが、陽介に理解したふうはない。どころか、少しく怪訝そうにしてさえいる。
「もともと今日はさ、中止になった旅行の代わりってわけじゃないけど」悠は話題を変えた。「菜々子ちゃんといっしょにここへ来ようとは思ってたんだ。そしたらその矢先に里中が来てさァ」
「ああ……まあ、俺はいいんだけどさ、その、行けなくても」陽介は千枝と雪子の顔を見回して苦笑した。「でもせっかくのゴールデンウィークだってのに、こんなショボイ店が旅行の代わりなんて、なんか菜々子ちゃんかわいそうだな」
「だってほかないじゃん。じゃあだいだらでも行く?」
 と、千枝が口を尖らせる。誘った手前、彼女もたしょう咎めるものがあるらしい。
「なんでこことあそこの二択だよ――菜々子ちゃんごめんね」陽介はむしろ悠に言って聞かせるようにして、「菜々子ちゃん来るのわかってたら、またこないだの御康とか行ってもよかったね。悠がまたウナギおごってくれただろうし」
「菜々子ジュネスすきだよ。ウナギよりジュネスのほうがいい!」
 ウナギごときに比してジュネスのどれほど優れているかということを、菜々子はその乏しい語彙と表現とを総動員して高校生たちに訴えた。こればかりは彼女一流の気遣いの範疇ではあるまい。菜々子のジュネス愛たるや筋金入りである。
「ジュネスにご執心だから、うちの菜々子ちゃんは」と、悠が補足を入れた。「CM流れると絶対マネして歌うし」
「お前マジでうらやましいよ……俺もこんな妹ほしいよ……」陽介は感無量といった様子。
「旅行とどっちがよかった? ひょっとしてジュネスのほうがよかったり?」
 と千枝が訊くと、しかしさしものジュネス信者もゆうべの一件を思い出したか、「りょこういきたかった」と意気消沈するのだった。
「おべんとうもたべたかった。ハラヘルもたべたかった」
「へえ、お弁当、菜々子ちゃん作れるの?」と、雪子が話題を逸らした。「ハラヘルってなあに? おかし? なんかお腹すきそうだねそれ」
「それファラフェルのこと。おかしじゃなくて」悠が補足を入れる。「イスラエル料理でヒヨコマメの――」
「菜々子ちゃーん、あたしの代わりにお兄ちゃんにしっぺしてー」千枝が両手をメガホンにして茶々を入れた。「ヨコモジやめろお兄ちゃーん、和食つくれニホンジーン」
「もちろん作れるよ和食、板前の息子なめてもらっちゃ困るぜ」千枝にはとくに愛想よくしなければ。
「へえ、お兄ちゃん料理とかできんだ。たしかに器用そうなカンジあっけどさ」陽介はニヤニヤしている。「つかイスラエルって言った? お兄ちゃんイスラエルってどこにあんの?」
「中東かっ」千枝が隣の陽介のあたまを平手で叩いた。
「なんで俺だよ、お兄ちゃん叩けよ。もしくはカンダハル」
「あれ、イスラエルって中東だよね? どーだったっけお兄ちゃん」千枝もニヤニヤしている。
「お兄ちゃん料理できるんだ? すごいねえお兄ちゃん」雪子もニヤニヤしている。
(こいつら……)
「お兄ちゃんなんでもつくれるんだよ。ミソシルもお母さんとおんなじあじだってお父さんゆってた」
 陽介たちが悠をからかうのに、菜々子まで満面の笑みで便乗し始めた。
「すげーじゃんお兄ちゃん、女子かたなしじゃね? こん中じゃ」と、陽介。「あ、でも天城はなんか作れそうなフンイキあっけど」
「おいなんであたし除外した」と、千枝。「いやあたし料理できるって! チョーうまいよ。たぶん」
「その『たぶん』がすべてを物語ってるよね」と、雪子。「千枝が料理するなんて聞いたことないなァーわたしィー。つきあい長いのにおかしいなァー」
「料理オンチのあんたに言われたくないっつの。中学んとき調理実習であんたが作った味噌汁なんて、中庭の花壇に捨てたら花とかぜんぶ枯れて砂漠化してたし」千枝の反撃。「そだっ、菜々子ちゃんこんどお弁当つくってあげよっか? お兄ちゃんほどじゃないけどあたしも作れるよ。たぶん」
「菜々子ちゃん、そのときはまずわたしに連絡してねえ」雪子はにこにこしながら菜々子のあたまを撫でている。「あぶないから保健所もってかなきゃ。わたし千枝の作った卵焼きでお腹こわしたことあるんだよ」
「卵焼きじゃなくてオムレツですうー、ちなみにあんたのはただの食べすぎですうー!」
「そうそう思い出したァ! グリーンオムレツだったよねたしか! ホウレンソウ入れる前にもう緑色だったんだよね!」
「菜々子ちゃん、このひとらがご飯つくっても食べちゃダメだからね」と、陽介がテーブルに身を乗り出して言った。「お母さんと悠のご飯だけ食べな。命に関わるから」
「お母さんいないよ。ジコでしんだ」
 ことさら悲しむでもない、菜々子のこのなにげない言葉に、陽介へ食ってかかろうとしていた千枝と雪子がそろって凍り付く。襲われかけていた陽介もまた同様である。
 重苦しい沈黙が座を占める。
(ああそうか、そりゃ知らないよな。だからへんな顔してたのか……)
 おそらく陽介は――そして雪子も――堂島家に菜々子を預けてしかるべき保護者たる、母親がいるものとばかり考えていたのだ。彼からすれば悠は、いくらでもそれを防ぎ得たであろうに、あえて幼い従姉妹を同伴して今日の予定を台なしにした恣意的な人間と映っていたのだろう。
「ちょっ、花村……!」
「いやっ、だってさっき味噌汁がどうとかって……!」
 陽介はしばらく千枝とひそひそ問答していたが、じき弁解の余地はないと悟ったようで、申し訳なさげに菜々子に向き直ると「ごめん、知らなかった」とあたまを下げた。
「無神経なこと言った。ほんとにごめん……」
 十も年上の男が首を垂れて許しを乞うのに、菜々子は仰天した様子である。大あわてで「菜々子へいきだよ! お母さんいないけどお父さんいるし!」と笑顔でまくし立てる。
「お兄ちゃんもいるし、ジュネスこれたし、きょうはすごいたのしいよ!」
「そっか……ごめん」
 陽介は形ばかり笑顔を取り繕っている。こんな小さな子どもが自分を慰めようとしている、ということに思い及んでは、この情の塊のような男は救われるどころかよりいっそう拉がれるのである。ここは自分が助け船を出さねばなるまい――悠は菜々子に耳打ちをするような恰好で、
「菜々子ちゃん、陽介にジュースおごってって、言ってごらん」
 と、陽介に聞えよがしに言った。
「ええ?」
「今ならぜったい喜んでおごってくれるから。ほら、ヨースケジュース飲みたいーって、ほら」
 菜々子は遠慮しいしい、従兄弟に言われたとおりにした。陽介の目に感謝の色が広がった。
「おっ、いいよいいよ! なにがいい?」
「じゃあ、リボンシロトンがいい」
「リボンシロトンねー……シロトン? あれ売ってたかなここ」陽介は腰を浮かせて、ふと思いついたように菜々子を見た。「菜々子ちゃん、ジュースだけでいいの?」
 言われた彼女は困ったような嬉しいような顔で、先にそうしたように判断を求めて悠の顔を見上げる。
「なにか食べたい? なら遠慮しなくていいよ」と、悠は請け合った。「いーっちばん高いヤツ注文していいよ。あいつチョウ金持ちだから」
「いいよいいよ……じゃあ菜々子ちゃんいっしょに行こうか」陽介は改めて席を立った。「それとあとでお兄ちゃん殴っていい?」
 菜々子もまた大喜びで席を立って、そのときは自分もヨースケを手伝うと調子を合わせる。
「おおし、悠覚悟しとけよ――で、菜々子ちゃんなに食べたい?」
「菜々子たこやきがいい!」彼女の要求はしごくつましい。
「陽介おれはやきそばね。朝メシ食ってなくてさァ」と、悠も便乗した。
「陽介ステーキおごってー、フィレ三百グラムのミディアムウェルでライス大盛りおねがーい」と、千枝も便乗した。
「陽介わたし自転車ほしい!」と、雪子が挙手する。「フルカーボンのロードバイク。三十万円くらいするやつ。あとヘルメットも持ってないからそれも」
「菜々子ちゃん以外ふざけんな」陽介の面に感謝の笑みが広がる。「とくに天城はちょっとマジでふざけんな」
 吝嗇をなじる三者のブーイングを背に、彼は菜々子を伴ってファストフードのブースへ向かった。
「……小さいのにえらいね」と、彼らの背を見送りながら雪子が呟く。
「ホント。意外とうちらのほうがガキんちょだったりして」と、千枝も同意する。
「まだいっしょに暮らしてそんなに経ってないけど、しょっちゅう驚かされるよ、うちの菜々子ちゃんには」悠は誇りに満たされた。「なんていうか、老成してるんだ。気の配りかたとか、理解のしかたとか、そういうのがもう七歳のレベルを遙かに超越してる。十七歳でもああはいかない」
「自慢の妹……ってかんじ?」雪子はちょっとからかうような口調である。
「菜々子ちゃんは――」
 先に千枝にそうしたように、妹ではなく従姉妹だ、と訂正しようとして、悠ははたと口を噤んだ。
 彼の視線の先には自販機の前に立つ陽介と、その傍らで商品を選っている菜々子とがいる。もともとそれほど人見知りする質でもないが、彼女は実に屈託なげに見える。先ほどまでは名前も覚えていなかった相手に、しかしいまはよく懐いている様子だった。初めて見るものの目にふたりはきょうだいのように映るかもしれない。
 悠はややあって口を開いて「誰だって自慢したくもなるよ、あんな妹がいればさ」と言った。うぬぼれと言わば言え! あれほどのきょうだいを持ってそれを誇りに思わない人間がどこにいる? いかにも、鳴上悠にとって彼らは自慢のきょうだいである。
「うらやましいよ、わたし一人っ子だから」と、雪子は寂しげに笑った。「きょうだいもそうだけど、いとこもいないし……帰りに浚って行ってもいい? 菜々子ちゃん」
「雪子、菜々子ちゃんのお父さん刑事だからね、あんたもそーとー覚悟いるよ」千枝が椅子を鳴らして立ち上がった。「よしっ、あたしも菜々子ちゃんになんかおごってあげよっと」
「え、いいよいいよ! 気持ちはうれしいけど」と、悠は慌てて制止する。「陽介のもあとでおれが立て替えるつもりだしさ、いいよ」
「あたしがおごりたいんですよ」
「いや、だって里中あんまり――」
 この馬鹿、いいかげん学習しろ! また繰り返すつもりかおまえは! 悠は言葉後を呑み込むと、テーブルの下で自分の腿を思いっきりつねった。またぞろ奢る奢らないの言い合いを始めて、今度は誰を呆れさせるつもりなのだ!
「あんまり?」
「いや、なんでもない、うん、ありがと」と、悠は辛うじて笑って糊塗した。「そう、あんまり高いものは止してよって、こと、ホント」
「だいじょぶだって、そんな持ってないからあたし」
「わたしのぶんもお願いね千枝」と、雪子。「五千円ぶんくらいおごってあげてね」
「あんたのはちゃんと徴収するからね」と捨て科白して、千枝もまた陽介たちの許へ向かった。雪子が親友に同調することなく席に留まったのはおそらく、それを悠があまり喜んでいないのを悟ったからだろう。
「菜々子ちゃん太っちゃうよ、あんなに奢られたら。昼飯もあるのに」
 悠はいかにも困ったふうを装ってこう言った。あるいは自分だけ菜々子になにか奢らないのを、雪子が不義理に思いはしないかと気を回したのだが、彼女の返事はない。なんとなく心ここにあらずといった様子で、遠目に菜々子たちを眺めたままである。
「……そう、天城、ちょっといい?」
「え?」
 雪子の目が戻ってきた。
「天城に報せておくことがあった。実は昨日さ、稲羽署の足立さんっていう刑事とここでいっしょになったんだけど」
「ん、だいじょうぶ、それ。捜査情報の交換って話だよね」雪子は陽介の背へちらと目を遣りながら、「さっき待ってるあいだ花村くんが話してくれたから」
「あ、そう……いちおう、謝っておこうかなって思って。天城の名前だしちゃったし」
「いいよいいよォ、どんどん使ってよ。なんにも請求しないし」
「最初はみんなそう言うんだ。次はぜったいハンコ持ってこいって言うね」
「拇印でもいいよ」
 おたがいに一笑を得て、ふたりきりのテーブルに和やかな雰囲気が訪れた。が、笑いの収まったあとは両者ともなにを言うでもなく、会話は途切れる。悠は沈黙の気まずさから逃れるために、遠目に菜々子たちを眺めて、「わたしはこの穏やかな沈黙によって満ち足りています。気まずさなど毛ほども感じていません」とでもいうふうにして、なんとも思っていないのに眼を細めるなどしてその場を取り繕っていた。
 雪子と話す話題がないのではない。むしろある。おたがい顔を合わせれば真っ先に考えるような、その筆頭格があるくらいなのだが、悠の場合はそれを意識しすぎてかえって口を噤むのだった。たとえ肉が欲しくてそうするのであっても、肉屋ののれんを潜ってただ肉が欲しいとだけ言う人間は、彼の自意識においては野暮の評価を免れ得ぬ。理想としてはまず野菜や果物の話などもすべきなのだ。
 悠がキュウリとメロンの相違についての深遠な哲学的考察に耽っていると、彼の視線の先で和気藹々としていた菜々子たちが、なにを思ったかふとフードコートから離れて店舗の中へ入ってしまった。行きしなにこちらへ向かって手を振る三人に、雪子が手を振り返しながら呆けたように「中はいっちゃった」と呟く。
「おかしでも買いに行ったのかな……」
「かな……」
 逃げ道を断たれたようだ。やむを得ぬ。悠はキュウリとメロンを叩き割って豚バラ肉を取り出した。



「……天城、最近、旅館はどう? 忙しい?」
 と水を向ければ、愚痴や苦労話のひとつふたつ、喜んで話すだろうと思われたのだが、意外にも雪子は「え? うん、まあ」などと気乗りしない様子。それどころか菜々子たちがいなくなったとたん、彼女は少しく落ち着きをなくして、それとなく周囲を見回すなどし始める。
(気まずいのかな……気まずいんだな……まいったな)
 悠にしても非常に気まずい。最有力の話題をあっさり去なされてしまったばかりか、逃避の対象たる菜々子もおかしを求めて消えてしまった。なお悪いことに、彼が雪子と相席しているテーブルの回りにはふた組ほど、いつのまに来たものかカップルらしき男女が座っているのだった。五人で話している間にフードコートにもいくらか客足が増えてきたようだが、その数も一絡げに背景としてしまうには少ない。ましていちおう字義の上では三組目に該当する悠のこと、彼らを無視しようにもどうしても意識してしまう。
 こんなシチュエーションへの対策は当然、彼の「対友人マニュアル」には目次さえ載っていなかった。仕方ない、とりあえずなにか注文しに席を立つか? 馬鹿な! こんな不自然な沈黙のあとにいきなりそんなことをしてみろ、彼は話すことがなくて逃げたのだと雪子に誤解されるではないか!
(くそ、なんでこういうときにどっか行くんだよあいつら! 菜々子も菜々子だ、ひどいぞ、食べ物に釣られるなんて……)
 おおかた千枝あたりが「おかし買ったげる」とでも誘ったに違いないが、それに唯々諾々と従って兄を窮地に追いやるとはなにごとであろう。帰宅したらきっと彼女の柿の種にわさび味を混入する重罰を科さずにはおかぬ……
「あの、さ」
 にわかに雪子が口を開いた。悠は菜々子の不実を呪うのを中断して「え? はいっ」と背筋を伸ばした。先に菜々子たちの去っていった店舗の出入口をなおも窺いながら、彼女はテーブルの下からそっと、ゴム手袋に覆われた左手を持ち上げて、
「このさ、ケガのことなんだけど」
 と切り出す。なんだか尋常ならざる気配である。以前に「皮膚移植はしなくてもいい」などと言っていたが、やはり必要になった、とでもいうのだろうか。
「火傷? ぐあい悪いの? ひょっとして」
「ううん、ヤケドじゃないんだけど――」
 雪子はじきなにか見咎めたように口を噤んで、すぐさま左手をテーブルの下に引っ込めてしまう。その視線を追うまでもない、菜々子たちが戻ってきたのだ。買い物に行ったにしては早すぎるようだが。
(なにか隠しておきたい相談事があったんだな。たぶん、里中に)
 先刻からなんだか様子がおかしかったのはおそらく、それを持ち出す機会を窺っていたためだ。しかし火傷した手を示して「ヤケドじゃないんだけど」とはいったいなにを意味するのだろう。
「ごめん、またこんど話す」雪子は諦め顔で呟いた。
「ひと言では言えないような話?」
「うん、まあ、そんなとこ」
「ちなみにそれ、陽介にはもう話した? ならあとでこっそり訊いておくけど」
 ひょっとすると悠と千枝を待つ間、すでに陽介へ話してあるのかもしれないと考えたのだが、雪子はとんでもないとばかりに手を振って否む。
「言ってない言ってない。言えないよ、花村くんってちょっと口かるそうだし……」
 この評は少しく悠を驚かせた。彼の中の花村陽介とは――多少の理想化は自覚しているにせよ――他人の秘密に接しては、腕を切り落とされても口を割らぬような硬骨漢だったので。
 彼は確かに見てくれだけなら軽薄のきらいもある。それは悠自身、初対面のときに受けた印象でもあったが、雪子だってもはや顔を合わせるだけという仲ではないのだ。まんざら彼と話したことのないでもなかろうに、それにしてはまたずいぶんと皮相的に判じるではないか? それともこう言うことで間接的に「でもあなたは違う。だから話すのだ」とでも匂わせて、もって悠の機嫌を取りたかったというに過ぎないのだろうか。
「へえ? おれだって信用できるかどうか」天城はちょっと見る目ないかも――悠はひそかに機嫌を損ねた。
「できるできる、するする。っていうより、鳴上くんには報せておかなきゃ、いけないことかなって」
 なにゆえ雪子の怪我の具合を悠が関知していなければならぬのか。それは知りたいか知りたくないかで言えば大いに知りたくはあるが、悠がその理由を質そうとしたところで、菜々子たち三人が賑々しくテーブルへ帰ってきた。フードコートに戻ってからなにか注文していたと思しい。
「なに、なんの話してた?」陽介の面には軽薄そうな笑みが浮かんでいる。
「新婚旅行どこに行こうかって話」
 雪子が笑って、なにか大きめのお守り袋のようなものを悠に投げ付けた。綸子かなにかの地を透いて青白く輝くそれは、先に彼女が近所の染物屋で買ったと言っていた、例のタロットカード入れである。
「……天城、言い忘れてたけど、これちょっと薄すぎる。光が漏れてるだろ? 服の下からもちょっと透けて見えてたけど」
 悠は袋を返却しがてら、自身の財布からタロットを取り出して見せた。
「ほら、こんなふうに、財布とかもっと厚いものに挟まないと」
「その光が犯人に見えるかもしれない……ってのがこいつの言い分なんだけどさ」と、陽介が補足を入れる。「俺的にはそんな気にするほどのことじゃねーと思うんだけど」
「この光って、犯人にも見えるの?」と、雪子。「犯人もタロットを持ってるの? ペルソナも?」
「それってまだわかんないんでしょ? どーでもいいじゃん。それよりゴハンゴハン!」
 千枝が早くしまえとばかりに手を振る。その視線は他のペルソナつかいたち三人を射竦めながら、必死に菜々子の存在を示している。この話題を避けろと注意しているのだ。すでに菜々子は最前から、雪子の示すタロットカード入れを不思議そうに見つめているのである。
「それより鳴上くんなんかたべるっ? あたしおごるし!」
「あ、いや、ごめん……じゃなくて、いいよ。おれハラ減ってないし」
「えーウソだあ。鳴上くんさっき朝たべてないってゆってたじゃん」
「……朝食ってないっていうのと、いまハラ減ってないっていうのは、必ずしも矛盾しない」
「あいかわらず理屈っぽいのねお前――あ、そうだ菜々子ちゃん、お兄ちゃんってなにが好きなの?」と陽介が訊いたのは、多分に菜々子の気を逸らすためだろう。「つか好きなものってあるの? コイツ」
(いまのはまずかったな……気をつけないと……)
 千枝と陽介とに救われたかたちだ。いつもなら率先してこういったことに気を回すはずの自分がこれではいけない。菜々子が理解力や洞察力の点において老成しているとは、誰が言いだしたことだったのか? 隣で猛省する従兄弟をよそに、問われた菜々子は思案げにしていたが、ほどなくパッと顔を輝かせると、
「お兄ちゃんしもねたがすきだよ!」
 と大音声で叫んだ。どっとイヤな汗が噴き出した。余計まずくなった。悠以外の高校生三人の面は果たして、ガイ・フォークスの仮面じみたいわくありげな笑みに彩られた。
「へえー、下ネタすきなんですかーそうですかー」と、千枝。
「それ菜々子ちゃんに言っちゃうんだねえフーン」と、雪子。
「鳴上先輩にはかなわねっすわ。マジパねえっす」と、陽介。
「あのさ菜々子は間違えて覚えてるだけだから。おれが好きなのはシモニタ――」ネギだと言ったところで下手くそな嘘だと思われるのがオチだ!「じゃなくてシモッ……シモネッタ・カッターネオ・ヴェスプッチっていう十五世紀の女性で美人でボッティチェッリのヴィーナスの誕生のモデルになったひとで」
「鳴上くんなんでそんな早口になってんですかァー?」千枝はニヤニヤしている。
「鳴上くん汗すごいしカオ真っ赤だけどどうしたの?」雪子もニヤニヤしている。
「マジでウソ臭いんだけどそれごまかしてるつもり?」陽介など言うにおよばず。
「はは……ていうか常識で考えてっておれが菜々子にそんなことホントに言うとでも思ってんのかおまえら」
「お兄ちゃんしもねたすきってゆった」菜々子が大まじめに太鼓判を捺す。
「あはは菜々子うるさいよ……!」悠は従姉妹の頬をわし掴みにした。
「オニイチョンシュモネトシュキットユット」彼女は諦めない。
 彼を陰惨な晒し刑から救ったのは、注文の番号を告げる声である。千枝がそれに反応して「お、あたし持ってくるよ」と席を立った。
「雪子もなんか頼んだら?」
「うん――鳴上くんもなにか頼む?」雪子もまた席を立ちながら、「言ってくれれば注文してくるよ。でもブフッ……下ネタは売ってないかなァー……」
 怒れる悠の投げつけた五円玉を、雪子はキャアキャア大喜びしながらヒラリと躱した。彼の反応を面白がるのは千枝にしても同じである。彼女らはふたりして屋台の側へ逃れつつ、なにごとかひそひそ囁き合っては黄色い声を上げて笑いさざめくのだった。
(畜生……ぜったいおれのこと話してるぞ……!)
 などと顔を赤くすればするほど彼女らは喜ぶのだ。鳴上悠、冷静になれ! こういう場合はなんであれ発端となった事件自体はなにほどのことでもない。周囲の人間の興味を引くのは常に、そしてまったく事件のその後の当事者の反応なのだ! おまえが涼しい顔をしていれば、たとえおまえが憶えていて欲しいと願ってさえ、彼女らはさっさと忘れ去るのである……
 悠はそっと深呼吸すると「おれもなんか頼んでこようかな」と、辛くもうわべだけ平静を装って言った。
「お前なに言ってこうなったんだか知らねーけど、あのふたりしばらく言い続けるぞ」陽介は苦笑している。「にしても下ネタねー……なに、お前マジで好きなの? ひょっとして」
「……そういえばおまえ、やけに早かったな、戻ってくるの」悠は強引に話題を変えた。
「トイレいってたんだ」菜々子が代わりに答えた。「ちえちゃんもいってた」
「俺はつきそい」と、陽介。
「なんでおまえがつきそう必要あるんだよ」
「気ィ回してやったんじゃん。で、なんか進展あった? それとも天城峠で滑落死?」
「菜々子こいつ殴っていいよ。ぶっとばして」
 と、悠は従姉妹に命じた。こんな余計な気を回されたばかりにどれほど気まずい思いをしたことか。
「おっとォ、菜々子ちゃんは俺の言うこと聞くぜ――菜々子ちゃん助けて! 悠がいじめる! そいつくすぐって!」
「ヨースケいじめちゃダメ!」
 あにはからんや、菜々子は悠の命を黙殺したばかりか、その彼に向かって嬉々として襲いかかってきた。
「うわっ、この裏切りもの!」
「残念だったなあお兄ちゃん。菜々子ちゃんはたこ焼きとメロンソーダフロートとたけのこの山でもう買収済みなんだよ。合掌」
「このヤロッ! 後悔するぞ菜々子、おれに逆らうとは!」
 しかし卑劣な不意打ちも体格の壁を超えるには及ばず。先制攻撃の利を失った菜々子は一転、金切り声を上げつつのたうち回るだけの機械へと変ずる。
「あーっ、お兄ちゃん菜々子ちゃんいじめてる!」千枝がトレイ両手に早足で戻ってくる。「ひどーいお兄ちゃんサイテー、ジドーギャクターイ、ネグレクトー」
「鳴上くん注文してきたよ、わたしのおごり」雪子も緑色の番号札を振りふり彼女に続く。「下ネタ大盛り。すきでしょ?」
「……覚悟しろよ天城、次は天城の番だからな」
 ようよう菜々子を解放した悠が席を立つだけで、雪子はキャアと脱兎のごとく逃れ去る。そうして露天席の境界に設えられた植え込みを挟んで彼を窺って、その麗貌に満面のニヤニヤ笑いを貼り付けるのだった。いかにも「追いかけてこい。つかまえてみろ」とでも言わんばかりだ。
「警察呼ぶよー、おじさん呼ぶよー鳴上くんの」
「…………」
 こんな挑発に乗る悠ではない。彼は無言で雪子の座っていた椅子を持ち上げて席に戻って、それを自分の椅子に重ねてなにごともなかったように腰を下ろした。
「あっ、ひどーい、椅子かえしてよォー」雪子がにこにこしながら戻ってくる。
「下ネタ大盛り、楽しみだな。下ネタは青のりが決め手なんだ」悠は無視する。
「ねえほら菜々子ちゃん、お兄ちゃんがイジワルするんだよ。おねがいなんとかして、やっつけて!」
 さて雪子にはどのような報酬を約束されたものか、菜々子は懇願されるや否やまたしても従兄弟へ不意打ちを敢行する。が、同じ手を二度食うほど悠もぼんやりしていない。奇襲はすんでのところで防がれ、しこうして彼女はふたたび捕囚と責苦の窮境へと舞い戻った。
「学習しないヤツだよ菜々子……!」
「あははヨースケたすけてー! ちえちゃんたすけてェー!」
 向かいで椅子を蹴る音がする。陽介と千枝が同時に席を立ったのである。
「菜々子ちゃんの頼みだ、悠わりいな!」
「悠わりいな!」
 ふたり揃って見せつけるようにして両の手指をうごめかしながら、陽介と千枝はそろそろとテーブルを迂回してくる。無論、このあからさまな示威行為の意図するところはひとつ。菜々子を援ずるための越境侵略にあるのは明らかだった。
「ちょっ、おい――!」
 果たして悠は後背を襲われて二正面作戦を強いられ……るどころではない。見よ、その隙に乗じて忍び寄った第三の勢力が、今し彼の無防備な横腹を衝かんとするところを!
「ウフフ悠わりいな!」
 雪子である。彼女らの救援で菜々子も大いに士気を回復、悠は完全に包囲される。
「テメッこの……や、やめっ! バカ冗談じゃ――!」
「里中オメ左! 俺が右おさえっから!」
「うへへ鳴上くうん、ここすかあ? ここが凝ってるんすかあ?」
「ほら菜々子ちゃん、お兄ちゃんここが好きだってここ。わたし右やるから菜々子ちゃんは左ね」
「ここがしもねた?」
「やめろってウオォーッ!」
 そして包囲のあとには蹂躙が待っている。悠は四人がかりのくすぐり刑を受けて椅子をガタゴト鳴らしながらのたうった。






 短くまとめると、
「そもそも中間テストなどというものは日々の授業をまじめに受けてきたかどうかの確認に過ぎずこれのためだけにあわてて参考書を引っかき回すような輩はたとえ高得点を取ったところで有名無実であり智力への反映などないし自分はそういうその場しのぎで長期的展望のない愚か者をきびしく見張っているのだからして各人次の期末テストへの取り組みについてはくれぐれも手段と目的をはき違えることのないように」
 ほどの内容の演説をひとくさり終えて、諸岡教諭がチャイムと共に退室すると、二年二組教室には朝ぼらけのような平和が訪れた。
 ついに夜が明けたのである。つまり、心を悩ますテスト期間が終わったのである。
「終わったー……つがれだ……」
 隣の千枝は放心している。
「終わったー……いろいろ……」
 背後の陽介も同様らしい。周囲でさざ波のように聞かれるのも、こんな気の抜けた安堵の声ばかりだ。
「鳴上くんどーだったー? 燃えつきた?」
「下着は焼け残った……ってとこ?」
 悠にしても転校後はじめてのものだし、またいろいろあってお世辞にも準備万端とは言いがたい状態で迎えてしまったので、今回の中間テストに臨んでは不安や緊張もないではなかった。しかし終わってみれば「まあこんなもんか」くらいの印象である。千枝をはばかって控えめに申告したものの、正直に言えば下着はおろか上着の袖が少し焦げたといった程度だろうか。
「俺たぶん全身炭化してる。赤不可避。マジで死んだかもしれん」陽介が席を立って悠の傍らに来た。「つかさァ、向こうの世界がらみのいろいろがあんのにテストとかさァ、はっきり言って捨てるっきゃねーだろっての。初めっから勝ち目なんかねーし」
「陽介声でかい」
「誰も聞いてねって。でかくもなるって」
「まあそうだよね……あたしらハンデ大きいよねえ、へこむわー」口ほどにもなく千枝は救われた様子である。「そだ、雪子はどーだった? あっ、アレなににした? 文中の『それ』が指す単語ってやつ」
 最前から上体を捻って後ろを向いて、こちらに聞き耳を立てていた雪子が、主人に呼ばれた犬のように喜色を露わにする。彼女もまた席を立って千枝の机の隣に納まれば、教室の真ん中にはこのごろ名物になりつつあるとも聞く、おなじみのなかよし四人組の一丁上がりである。
「んっ? それって?」
「えー、問七? だっけ?」
「問七の文中……悲しげな後ろ姿? にした」
「ちょ、あたし机の上の餅にしたんですけど」千枝は呆然たるものだ。
「下着は焼け残っててほしいなあ。個人的に」悠はニヤニヤしている。
「いや里中も炭化コースだろ。つか炭化しろ」陽介も愉快そうである。
「うっさいあんたひとりでスミになってろっての。赤はなにがなんでも回避する、祈るっ」
「ここんとこ祈ってばっかだね千枝。テスト前も祈ってたよね……勉強見るって言ってるのに」雪子は呆れ顔である。
「あたしにもプライドがあんだっつの。雪子きびしいし」
「へえ、おれも見てもらえばよかったなー」と、悠。
「へえ、じゃ俺も見てもらやよかったなー」と、陽介。
 雪子は両手を差し出しておごそかに「一時間五千円になります」と宣った。男子は料金制らしい。
「高! せめて友達価格とかねーのかよ!」陽介の抗議。
「友達じゃなかったら消費税もとってるよ」艶然と雪子。
「それより花村ー、プレステ3待ってんですけどー」千枝まで手を差し出す。「いつ貸してくれんのー? 成龍伝説みれないんですけどー」
「あーいや……いま新作買ったばっかなんで……エルシャダイやってるんで……」
(このバカ、ゲームやってたのかよ……)
 案の定、自称特別捜査隊の活動以前の問題だったようだ。彼は自ら火中に躍り込んだも同然である。
「知らんし。うちドラクエ8とペルソラ4現役だし。ジコナギ全ステ99つくったし」
「お、カンダハル」
 と、陽介が言うのと同時に、悠はいきなり両肩を誰かに掴まれた。
「ちゅ――じゃないカンダハルゆうな」声の主は春美である。「テスト終わって早々にゲームの話とかそーとー余裕あんなーオメーら」
 振り返って見ると、春美はひとりではなかった。なんとなく恐るおそるといったふうな女子がひとり、その後ろに控えている。千枝ほどの小柄な身体に濃茶のベリーショートを戴いた、ちょっと華奢な少年が女装したような雰囲気のある少女である。彼女は確か女子B……
「カンダハルと……鈴木、だっけ」
「よし鳴上くんぜってーまちがえると思った」春美は悠の肩を揉みながら、「これは遠藤です。遠藤環。通称タマチン」
 タマチンと呼ばれた女子が「バカじゃないのっ?」と血相を変えて春美に掴み掛かった。もっとも当の春美はヘラヘラ笑って意に介さない。
「タマチンは禁句だろって……」千枝は呆れている。「マキはどーだった? テスト。ちなみに花村は炭化」
 タマチン改めマキと呼ばれた環は、春美の衿をしぼり上げながら「うまくいった、と思うんだけど」と笑ったあと、
「でも、天城さんにはたぶん、勝てない、かな?」
 雪子へ水を向けた。自ら話題を振っておきながら、それはなんだか遠慮ぎみな、腫れ物にさわるような言葉である。皮肉や嫉妬のたぐいではないようだが。
(へえ、天城さんって呼ばれてるんだ、天城)
 雪子が千枝以外の女子に呼びかけられる、というのは、悠の耳にはちょっとした珍事だった。
 常日頃のべつに聞き耳を立てているというわけではないが、彼女の席は悠の斜め前隣である。この近さでいまさら珍しく聞こえるのだから、普段よほど話しかけられることが少ないか、あってもごく事務的なやりとりに留まっていたのだろう。雪子が千枝以外の友人といっしょにいるところを見たことがない、というのも傍証になろうか、彼女は友人を作ることに甚だ不熱心らしい。
「そんなことないよ、そこそこ」
「天城さん、五位以上からなかなか下りてきてくれないから、わたしぜんぜん手ェ届かないんだよねー……」
「たまたまだって」
 雪子の返答はごく平板である。決して礼を欠くというわけではないものの、さりとて次の話の接穂を用意するというのでもない。彼女の性格を知る悠からすると、傍で聞いていて壁を感じる言葉だ。そうといえば、去る初登校の日のホームルームのあと、山野アナの所在を訊いてきた男子に対して、きわめて冷淡な返事をしていたことが思い出される。そして彼らもまたちょうど今ほどの環のように、雪子に話しかけるにあたって妙に及び腰であったことも。
「そういや天城さんってさ、二年のとき三学期末の学年一位とってたよね」春美が環のあとを継いだ。「後光がすごすぎっすよ、もう眩しくて目ェあげらんないっすよ……!」
「おおげさっ」雪子はにこにこ笑っている。
 こんな口数の少なさにも懸隔を感じてしまう。猫をかぶっているとでも言えばいいのだろうか。いかにも、彼女はその深窓の佳人然とした見た目とは裏腹に、騒がしくてユーモアがあって、もっと人なつっこい質のはずなのだ。
 その雪子がまたどうして、千枝以外の友人を作ろうとせず、自ら周囲を遠ざけるようなことをするのだろう? 悠はゲーム談義を始めた面々からちょっと身を引いて、ひそかに彼女の様子を窺っていた。
「ドラクエ8って何年前のゲームだっつの。千枝ものもちいいなー」と、春美。「またなんか貸そっか? プレステ2もあっから」
「あーいいです。カンダハルの持ってるのキモくてグロくておっかないのばっかだし」と、千枝。「あのクソゲーなんてったっけ、なんとかヒル」
「サイレントヒル3はクソゲーじゃねえ」
「ルミはクソゲーコレクターだから。それに静岡はひと選ぶしィ……やっぱバイオには勝てないしィ?」環の口調は挑発的である。「そうそう4が今度ピーエス3で出るんだよね。わたしはぜったい買う」
「バイオ4とかホラーじゃねえし、タダのゾンビシューターだし。あーゾンビもう出てないんだっけ?」春美の口調も挑発的である。
「バイオも静岡もいける俺に隙はなかった。まーカンダハルがクソゲー好きなのは認めっけど」と、陽介。「こないだ借りたのなんつったっけ? なんとかソウル。初見殺しと即死トラップだらけだし敵強すぎるし攻略させる気ねーだろあれ。おまけに死んだら経験と金ぜんぶなくしてHP半減とか作ったヤツあたまおかしい」
「デモンズはクソゲーじゃねえ」と、春美。「花村がヘッタクソなだけ」
「デモンズはクソゲーじゃない」と、環。「花村がヌルゲーマーなだけ」
「ヌルゲーマーはエルシャダイとか買わねーし」と、陽介。「カンダハルと遠藤がマゾゲーマーなだけだから」
「なにデモンズって? あたしやったことない?」と、千枝。
「里中アクション駄目な時点でムリゲーじゃね? ちなみにプレステ3だからお前できない」
 彼らがなにについてこんなに熱心に話しているのか、悠にはほとんどわからない。それは視線の先の雪子にしてもどうやら同じらしい。ただ、彼女の面には悠のそれにおそらくは浮かんでいないはずの、ある色が垣間見られるのだった。
 どことなく寂しげな、憂わしげな面持ちで、その目だけがキョロキョロと千枝たちを見回している。折々顔を伏せるのはきっと、目が合って話を振られても答える術を持たないからだ。しかもそれでいて伏せたままにしないのは、思うにきっと話しかけて欲しいからなのだろう。
 かねがねスクールカーストというものを唾棄すべき囚獄として一匹狼を気取ってきた悠も、こんな光景はまま見たことがある。それはカーストにおける力のあるグループにいない、あるいは孤立した人間が、自分より上位のグループの輝かしい団居へ向ける、あの実に卑屈な顔であった。雪子は仲間に入れて欲しいのである。
 いったいその汀立った容姿だけを見ても、彼女が教室内において非常にユニークな存在であることは論を俟たない。それは雪子のほうでも理解しているはずだ。ちょっと微笑んだならどんなグループだって三顧の礼を尽くして迎え入れるだろうに、彼女はそうしないどころかむしろ遠ざける。にもかかわらず、自分の遠ざけた人間に近づきたがっている……
 熱心に見つめられるのに気付いたか、ふと雪子と目が合った。その面からたちまち憂愁の色の吹き消えるのがわかった。彼女は今ほどの打ち沈んだ様子もどこへやら、いかにもおかしげに「なに話してるんだろうね? さっぱりわかんない」とでもいうふうにして、悠にだけ見えるように小さく肩を竦めてみせた。
 その目。見知らぬ異郷にたまさか同胞を見出したような、不安を癒された喜びを湛える目。慰めを手に入れたものの安堵の目。おお、天城はおれを同類と思っているのだ! こんなときたいていの場合、彼がとっさに感じてきたような「おれをおまえと一緒にするな!」という反発は、しかしその胸に生じることはなかった。ひとを遠ざけながらかつ近づきたく思う――この手の矛盾に、鳴上悠、おまえは覚えがなかったか?
 誰かがおまえに指摘しはしなかったか? 孤独を愛しながら団欒を羨み、荒地を平和と呼んだ矛盾を。雑木衆俗に伍しては陽も当たらぬと嘯きながら、選んだ孤独の軒下がついに日陰であったことを、かつて寂しさがおまえをして鉄だと思わしめたものに降ろした冷たい霜を、もう忘れたのか? 悠は「同類」へ向けて彼女がしたように、肩を竦めて微笑んでみせた。
(きっと天城の対友人マニュアルもペラペラなんだろうな……)
 などと考えるのは、雪子には相済まぬことだが大いに悠を慰めるのだった。
「――天城さんちは聞こえなかった? あの音」
 呼ばれた雪子が視線を切って、「えっ?」と春美のほうを向いた。
「ごめんなさい、聞いてなかった」
「ボーソーゾクの話」千枝が補足を入れる。「ほら、さいきんまた来るようになったじゃん? ウォンウォンうっさいやつ。あれ新しいヤツなんかな」
「うちなんか道路沿いだからスゲーよ。窓ガラス割れるっつの」と、陽介。「そういや前のヤツって集団で事故ったんだっけ? 急にぱったり来なくなったんだよな」
「そうそれっ。で、その前の暴走族なんだけど」環は妙にソワソワしている。
「ヤクザにつぶされたってウワサは聞いた」春美が割り込む。「なんか銃声みたいな音が聞こえたって証言もあってさァ……でもショージキろくに訓練できない日本のヤクザが中国とか東南アジア製の拳銃で走ってるバイク狙い撃てるかってゆうとまずムリなハナシで拳銃ってシロートが撃つと十メートル先の――」
「ルミうっさい」
 ゲームの話はいつの間にか終わっていたようだ。もっともゾンビだの死ぬだの話していたのと同じくらいには続きも物騒だったが。
「知らなかった。うち聞こえないのかな」雪子は素直に驚いている。
「まーあんたんち山だしね……あ、そーだ」千枝が手を打った。「天城屋に騒音被害でればケーサツ動いてくれんじゃない?」
「ちょっと聞いてってちょっと」環が割り込む。「でね、その花村の言った前の暴走族つぶしたっての、実はヤクザじゃないんだって。しかもひとりでやったとゆう! その当時中学生で、いまは高校生で、なんとウチの一年にいる……らしい。見たことないけどね!」
「なんか去年までそーとー凄かったってヤツが一年にいる、ってのはたまに聞くな。それなの?」陽介はきな臭げにしている。「中学んときに伝説つくったとかウチの店員が言ってたけど」
「葛西さんだろ、その店員って」悠もなんとか会話に混じろうとする。
「そ。仕事しねんだあのひと……そうそう、ホントかどうか知らんけど見たことあるって言ってたな。身長二メートル以上で顔中ピアスだらけの体中タトゥーだらけでアタマ真っ白で……」
 このいささか現実味に欠ける「伝説の中学生」像は女性陣に「そんなコッテコテの不良いるかっつの」と一笑に付されたが、悠は思うところあって机の木目を見つめていた。いくつか記憶に引っかかる特徴がある。だいぶ誇張されているようだが、それは過日にだいだらで会った巽完二のことではないのか?
 顔を上げると果たして、雪子だけは笑っていない。その細面が悠の心当たりを肯定するかのように小さく頤を引いた。






[35651] 腕時計でしょうね
Name: 些事風◆8507efb8 ID:86ffc5c7
Date: 2016/11/15 13:03



『少年X』
 という墨書のキャプションがでかでかとテレビ画面を占める。尻のX字はひときわ大きく、血を模しているようで目に痛いほどの朱だ。
『年々増え続ける異常な少年犯罪。物質的な豊かさを追い求める裏で肥大する、現代社会特有の病巣。少年たちを蝕み、駆り立てるものとは、いったいなんなのか――』
 バリトンのナレーションが番組の主旨らしきものを、抑揚を抑えた声でおどろおどろしく述べる。続いて番組内容のダイジェストであろう、パトカーのサイレンと警察官の怒号、それらが向けられる犯罪者の少年のものと思しき、ヘリウムガスを吸ったようなかん高い罵声が、モザイクだらけの画面からたれ流される。
 ちゃぶ台の前に正座してかしこまっていた菜々子が「へんなこえー」とおもしろがって言った。彼女はボイスチェンジャーを介したいわゆるドナルドダック声が好きで、ニュース映像で流れるようなものでも聞けば笑って喜ぶのである。
「なあにが増え続けるだ好き勝手いいやがって。少年犯罪も異常犯罪も年々減ってんだよ……てめえらが番組のネタ探しておもしろがって取り上げっから増えたみてえに感じるんだろうが……」
 こちらはその背後でソファに凭れて苦り切った様子の、父親の感想だ。彼は犯罪ものや警察ものの番組を視るとき、その誤解や虚構に言及するのを常としている。そうして文句を言ったりあざ笑ったり、たまに偉そうに褒めたりする。遼太郎独特の番組の楽しみかたと言えよう。
(なんか昔こういうのあったよな、ナントカエックス……あの赤いバッテンとかそのまんまだよな……)
 コーヒーとミロの載った盆を両手に、彼の甥もちゃぶ台へ収まった。
 とくにこの手の番組を好むというのではない。普段ならチャンネルを変えるか二階へ上がってしまうか、さもなければ菜々子を使ってウェイトリフティングを始めるかといったくらいに興を引かない内容である。が、これに巽完二が出るというなら見逃すわけにはいかないだろう。
 この少年犯罪の特番が本日、五月十三日午後八時に放映されるということは、つとにクラス内で、というより校内で知られていたらしい。悠に教えたのは環だが、雪子はすでに認知していたという。
「叔父さんコーヒー、菜々子ミロ」
「菜々子のもコーヒー」と言って菜々子はミロを取った。
「菜々子のはこども用コーヒー。こども用」悠は断じた。「叔父さん置くよ、ここ」
「おお悪い。じゃあおとな用コーヒーを飲むかな……」
 などと遼太郎まで娘に当て付けると、彼女のほうではわが舌の成長を試したくなったようで、そっちを飲ませろとしきりにごね始めるのだった。かつてはひと啜りして「これは墨である」とてコーヒーの名誉を毀損した菜々子である。
 少年X第一号は完二ではなかった。万引きの常習犯――少年犯罪のカテゴリーにおいてはオードブル、いやアミューズグールといったところか。完二なら見てくれの貫禄だけでもメインディッシュの栄を期待できるだろうが。
(暴走族八人をひとりで撃退。全員を転倒させたあと脚の骨を叩き折って、バイクのエンジンに穴を空けて回った……)
 というのが環から聞いた「伝説」の概要である。単独でいったいどうやってそれほどのことをしおおせたのか、一介の高校生の想像には余る。しかし手段を確保できたとして、あの繊細そうな少年がそれを実行に移せるものなのか? それは外見だけで判断するならいかにもやりそうではあるし、悠にしても彼と話したのは二十分たらずのことで、それをもって巽完二の人格を完全に把握した、などという放言はもちろんできないのだが……
 どうやら堂島家におけるコーヒーの汚名返上はならぬようで、菜々子は父親へカップを突き返しながら「にがい。まずい」と無慈悲な裁定を下した。
「スミみたいか? だから飲めないって言ったろ。菜々子はそっちのコーヒー飲めよ、こども用の」と、遼太郎。
「こっちのコーヒーのほうがいい。そっちはチョウまずいコーヒー」菜々子が口を尖らす。
「お父さんにはチョウうまいんだよ。菜々子のはチョウ甘い、甘くて飲めない」
 さてはメインディッシュか、と悠に目を瞠らせたのは、ボクサーくずれの覆面傷害犯(かつて父も働いていた新橋の夜陰に二十余名もの人を襲った怪人)、引きこもりの少女誘拐監禁犯(九年間も監禁された被害者は誘拐当時菜々子と同い年だった!)に続く、四人目の少年Xであった。この少年の仮名「Y・N」こそ完二のイニシャルとまったく違うし、終始顔にモザイクをかけられているためにしかと判別できるわけでもないが、そのなしたことどもは環の語った内容とほぼ一致する。
 ふと、遼太郎が画面を見つめたまま、
「ったく、このバカどもはなんにでも噛み付かなきゃ気がすまねえのかァ?」
 と、先に輪をかけてうんざりした調子でぼやいた。
 彼の言う「噛み付く」とは警察に対してのものらしい。というのも、四人目の少年Xは少し変わった文脈で紹介されていたのである。彼はただの少年犯罪者としてではなく、たび重なる住民の騒音被害の訴えにおざなりな対応を示し、手をこまねき続けた警察の怠慢に呆れて一念発起、ついに独力で暴走族を排除した「若き無法の侠客」として描かれていたのだった。
 一般人が携帯電話かなにかで隠し撮りしたと思しい映像には、多数の住人を背にして立つ少年X――大勢の顔を隠すために、画面は上半分まるまるモザイクである――と、それに相対する三人の警察官とが映っている。少年Xは怒りを押し殺した様子で、なぜこんなことをしたか、なぜ自首したか、なぜ警察官をここに呼びつけたか、などを滔々と語る。警察側は明らかに弱り切った様子で、いっぽうの少年X側たるや住人の声援を得て大いに意気を上げる。
(……タトゥーがある。髪も脱色してる。中学のときからこんなだったのか?)
 少年Xがひとり前に進み出たのを機に、地域住民ごと彼を覆い隠していたモザイクが晴れた。見知ったものならもはやこれで判別可能だろう。これ以前の少年Xたちへのプライバシー保護が最低限であったように、この四人目もまた目鼻を隠す程度のモザイクしか与えられていない。そうでなくてさえ完二はいかにも特定しやすい、いささか個性的すぎる態をしているのだ。
『てめえらクソポリどもがハナクソほじるだけでなんにもしねえからオレが出張ったんだろうがっ! ハナシ行ってから半年以上たってんだぞこの税金泥棒っ!』
 怒れる地域住民の手前、警察官たちは反論の気配とてなく、ドスの利いたドナルドダックの大喝をよく忍従して聞いている。曲がりなりにも法を犯した人間に非を責められているのだ、ましてこのように衆人環視のただ中でそうされてはなおのこと、かの三人もよほど立つ瀬がなかろう。悠には完二らしき少年の見事な啖呵よりも、この同僚の晒し刑を見る遼太郎の無念こそが思われた。
「……これ、ひょっとしてうちの近所かな。なんか見たことある気がする」
 と水を向けてみると、あんのじょう遼太郎は「近所も近所だ、コイツもよく知ってる」と吐き捨てるように答える。ではやはりこの四人目は完二なのだ。
「お父さん、しりあいなの?」と、菜々子が振り向いた。
「うーん、まあ、仕事の知り合いだな。常連客さ」遼太郎はテレビを見つめたまま苦笑する。「巽完二、この時分は中三だった。稲羽界隈じゃピカイチの問題児でな、ケンカしちゃあうちの世話になって、ひところはよく話したもんだが……まあ、こんな番組に出ちまうようなことをしでかしたのさ」
「叔父さんって、刑事、なんだよね」悠は恐るおそる訊いた。「そんな、刑事か関与するようなヤバいことしてたの?」
「ああ刑事ったって、うちァケイジセイアンだ。ガキんちょどもァまあよく見るのさ」遼太郎は笑って言った。「つっても、さすがにこの暴走族のバカどもを半殺しにしたのァもうセイアンの職掌じゃねえ、立派な傷害事件だが」
「ケイジセイアンって?」
「刑事課と生活安全課がくっついて刑事生安。稲羽署みてえな小所帯じゃままあることだ」
「へえ……」
 そのセイアン改め生活安全課とやらも、事情に暗い悠には字面どおり「生活の安全を守る課」くらいの理解しかできない。叔父の口振りから察するに、それはどうやら刑事課と比してわりあい軽い犯罪を取り扱う部署であり、少年犯罪もまたその範疇であるようだ。この手のドキュメンタリーなど遼太郎からしてみれば、自分の仕事をネタにされているようなものなのだろう。しかもそこに警察に対する非難すら織り込まれているとあっては、彼でなくても文句のひとつやふたつ、こぼしたくもなろうというものだ。
 やがて少年Xは五人目に移った。さすがの完二もメインディッシュの栄誉はこちらに譲らねばなるまい、今度はとうとう殺人である。が、遼太郎はもはやテレビ画面を見ていない。腕を組んで思案気にしている。
「悠、お前、俺がさっき言ってたヤツ、巽完二って、見たことあるか」
 ややあって、彼はぽつぽつとこんなことを口にした。先の話の続きらしい。
 叔父が「会ったこと」ではなく「見たこと」と訊いたのに、悠はなんとなく完二とそれを取り巻く人間との、なにがしか微妙な距離を感じた。おそらく遼太郎を含む稲羽の多くの人々にとって、完二は「会う」人物ではなく「見る」人物なのだ。あの容姿ならさもあろうが。
「ねえか。ねえよな」
「実を言うと、会って、話したこともあるんだ、完二」と、悠は打ち明けた。「すごくいいヤツだったよ、礼儀正しくて人なつっこくて、優しげで。あんなに見た目と中身のギャップあるヤツ初めて見た」
 てっきり否まれるとばかり思っていたに違いない、遼太郎はこうと言われると目を瞠って「アイツとお前に接点があるとはとても思えんなあ」と驚いた様子である。
「なんだよ知り合いだったのか。いったいどこで会ったんだ」
「店で」どこのどんな店であるかは言わないほうがいいだろう。「向こうから声かけてきてさ、先輩ッスねって」
「アイツがかァ?」
「んん、ほら、おれ転校生だし、珍しかったんじゃない?」
「へえー……アイツがねえ……」
 遼太郎の面に安堵したような、嬉しいような色の過ぎるのを悠は見逃さなかった。彼を少し誤解していたようだ。
「……完二のヤツ、実家が染物屋でな。商店街行きゃすぐ見つかる店だ。巽屋っつってな」
「行ったことないけど、話には聞いた」雪子が以前おなじことを言っていた。
「女手ひとつで切り盛りしてるんだが、店のひとはいい人間だ。なんどか話したが、いいひとだよ、完二の母親にしちゃあちっとトシいってるがな。まァどっかの誰かさんたァ大違いさ」
「……どっかの誰かさんって?」
「ええ? こっちのハナシだよ」遼太郎は含み笑いながら、「完二もな、そういうひとの息子ってのがいかにも頷ける、いいヤツなんだ。お前の言うとおりさ、気持ちのいいヤツだ。俺にゃあ悪態ついてばっかだが、いいヤツだ。お前、知ってるか? 完二があの暴走族のバカどもを半殺しにした理由」
 悠は番組の内容を思い出して「地域住人のため、じゃないの?」と訊いた。
「そうだ。だがありゃたぶん言わされたことだ。ホントの理由はな、母親が騒音で寝不足になったからなんだ」遼太郎はマグカップを口に擬した。「……完二にとっちゃそれで充分だった。ヤツァそうとだけ言って、あの八人をブッ殺さねえで脚一本だけで済ましたのァ、そうしなきゃあいつらの母親が悲しむからだって、タンカ切りやがった。走ってるバイクごと素っ転ばしといて脚一本もなにもねえもんだが」
「…………」
「巽さんはな……完二のおふくろさんはな、息子のしでかしたことのおかげで四方八方にアタマ下げにゃならなかった。賠償金もずいぶん取られたろう」
「賠償金、って、おかしくない?」悠は完二の義侠心にすっかり打たれてしまった。「そもそもその暴走族のバカが悪いんだろ? なのに……いや、犯罪ってことはわかるけど、その、情状酌量? とかってなかったの?」
「あった。そのバカどもも改めてしょっ引かれた。だが完二も完二で反省しなかった。たとえその現場に百度立ち返ったって、同じようにしてやるって言い切った。で、鑑別所行って、試験観察のあとホカンになった。なんとか少年院は回避できた」
「ホカン、って?」
「保護観察処分。それが明けたのがつい先月の話だ」
 悠自身、以前に陽介たちの驚く顔が見たくて「自分は少年刑務所にいた」などと冗談を言ったことがある。もちろん、そんなところには行ったこともなければ見たこともない。どこかで聞きかじったことをさも真実らしく吹聴してみたというに過ぎない。ホゴカンサツショブン、とはたまにニュースかなにかで聞く程度の、不吉な響きのお題目である。それがどの程度それを申し送られた人間の人生に影を落とすか、悠にしかとはわからなかった。いずれにせよ不名誉な処分であるというのには違いないだろう。
 いったい警察の常連というだけでも、優等生として生きてきた彼にとって、巽完二なる人間は想像を絶する世界の住人であった。これほどまでに生きる世界の隔絶した、それも同年代の人間と接したことはまったく初めての経験である。しかも彼のあたまの中に住まう「巽完二」とは、そんな別の惑星のような世界とは縁もゆかりもない、ちょっと見てくれがいかついだけの心やさしい少年なのだ。
 理不尽――悠の出した結論はいかにも、いまほど見ていたテレビ番組が暗に伝えるところと同じものである。巽完二とは「ひとたびことに及んでは行動をためらわぬ心やさしき義人」であり、怠惰で理不尽な社会に押し潰されたあわれむべき被害者なのだ!
 特番「少年X」はデザートの麻薬密売人を紹介したのち、彼らが言うには近い将来に訪れるであろうところの、不穏な未来への警鐘をひとしきり鳴らして終わった。シェフにはたいそう礼を欠くことだが、悠も遼太郎もメインディッシュ前にはすでにフォークを置いていた。おたがい考え込むふうである。そしてその内容もおそらくさして逕庭のあるものではないはずだった。
 コマーシャルを挟んでプティフールよろしく、ミニサイズのウェザーニュースが始まる。菜々子がそれを見てあくび混じりに「あした、アメだって。下にお天気でてる」と言った。
「センタクもの中だね」
「んん……菜々子もう寝なさい。十時だぞ」遼太郎が思い出したように時計を見上げた。
「コップあらう」
 歳のわりに夜型の菜々子はまだ起きていたい様子だったが、父親は有無を言わさず「お父さんが洗うから寝なさい。ほら行った行った、歯ァ磨けよ」と茶の間から追い出しにかかった。が、戻ってきた彼は食器を回収するでもなく、ふたたび元のソファに腰かけて足を組んで、とても中身が残っているとは思えない自らのカップを手に取る。
 悠にはそれが、甥の質問に答える準備がある、という意思表示のように思われた。おそらくは遼太郎のほうでも同じく、甥が自分と同じようなことを考えていると察していたのだろう。
 叔父がそのつもりならと、悠は口を開いた。
「……ひどいと思わない? 巽がかわいそうだ」
「法によらない自警行為には法による報いがある」
 答えは間髪を入れない。甥が言いそうなことをあらかじめわかっていて、そのために用意していたものをすかさず出した、とでもいうような素早さである。悠はムッとした。その杓子定規の内容も断定的な口調も、こちらの行動を予測していて、かつそれを的中させたというのも気にくわない。
「完二のやったのァ自警行為だ」遼太郎は続ける。「つまり私刑だ、リンチだ。ただの暴行なんだ。どれほど筋の通ったことに見えても、実態はそうだ。アイツはよくケンカで警察の世話になったと言ったが、内訳はな、相手の態度が気に食わなかったとか、肩が当たったガンつけられたなんてガキのいきがりじゃあねえ。弱いものいじめだのカツアゲだの、そういうのを見たり聞いたりして、それがどうでも許せなくて相手をぶん殴ったんだ。でもそりゃ傍から見ればな、ただ道で行き会った人間にいきなり襲いかかるのと大して変わりゃしねえ」
「なんだよそれ……」
 甥が不満と不機嫌とを隠さないのを見ると、遼太郎は「完二のヤツァそれがよくわかってた」と言って苦笑した。
「わかった上でやるんだ。悠は確信犯って言葉、知ってるか」
「犯罪だとわかってて犯す犯罪のことでしょ」
「違う。そりゃ故意犯ってんだ。世間じゃそんなふうに思ってる心得違いが多いが、ぜんぜん違う、ある意味じゃもっと始末に負えねえ性質のもんだ。確信犯ってのァな、それが法でなしに、てめえの良心と正義とにおいて、犯罪ではないと確信して犯す犯罪のことだ。ほれ、中東のイスラム原理主義過激派の連中が自爆テロ起こしたなんて、たまにテレビでやってるだろ。あれがそうだ。完二もその類だ」
 だってさ、カンダハル――完二を自爆テロ犯と同列に語られて、悠はいよいよ機嫌を損ねた。
「ヤツはてめえの行いが法に背くことを百も承知で、それでも暴走族を野放しにして、母親を苦しめ続けるのァ正義に悖ることなんだと確信して、てめえが傷害犯になるのと引き替えに、騒音の元を排除したんだ。なにもかもわかった上でそうするから逃げも隠れもしねえ、言い訳もしねえ。向こうの何人かから示談の提案もあったが、それも突っぱねた。最後まで主義主張を曲げねえで、裁判所や鑑別所の心証をどうこうしようとも考えなかった。あれの弁護士はさぞ困ったろうよ」
「そういう危険なテロリストを、少年院送りにしなかったんだ? 叔父さんは」
 甥が嘲りの色を隠さないのに気付かない遼太郎でもなかろうが、その面は静かだった。彼はごく穏やかに「警官にそういうことを決める権利はない」と述べた。
「確信犯のついでに教えとくが、テロリズムってのァ政治的主張を背景とした実力行使のことを言うんだ。あのバカどもを病院送りにしたあと犯行声明でも出して、そいつらを排除しなきゃならねえ旨の政治的信条でも一席ぶたなきゃ、完二はテロリストの仲間にゃ入れてもらえんな」彼は笑って続ける。「あべこべのようだがな、少年院送りにならずに済んだのァ、完二がお前の言う『危険なテロリスト』だったからってのが大きい。たしかに原因として、警察の不面目もあるにはある。犯罪者と言やあ、あのバカどもも立派な犯罪者だ。だがケンカの常習犯がバイク乗った八人を派手に転かしたうえ丁寧に脚一本ずつへし折るなんてしちまえば、まず少年院行きは避けられねえ。悠、そうならなかったのはどうしてだと思う」
「確信犯、だったから?」
「弱者のためだったからだ」遼太郎はちょっと熱っぽく言った。「完二は短気で粗暴なガキだが、その暴力を振るう理由が常に、徹底して他者の、それも弱者の苦しみに由来したからだ。アイツには強い利他的な信念と、そのために法を犯して刑罰に甘んじる覚悟とがあった。そりゃふてくされちゃあいたが、判決に際しちゃひと言の弁明もなかったよ。アイツはちっとばかり向くべき方向が間違ってるってだけで、真っ直ぐだ。歪みがない。複雑で強引な矯正は必要ない。監察官はアイツをじゅうぶん精査した上で、最終的には少年院に送らなくても更正可能だと判断した。もちろん、俺たちも口添えした」
「…………」
「中三のガキがああいう判断と覚悟の上で法を犯したってのはなァ、警官が言うのもなんだがまったく凄い。アイツは困ったヤツには違いないが、大したヤツだ――」
 おそらく、と悠は思った。ごく個人として、遼太郎は弱者のために立った完二を称讃したいのだ。しかし公人として、そのために用いた手段をまったく看過できない。少なくとも彼の将来を憂えるという意味において遼太郎は自分と同じなのだと、悠は心中にくすぶる憤懣を宥めた。そうとも、叔父さんは完二を心配しているのだ……
「――それがぜんぶ自分ひとりでしおおせたことならな」
 叔父の付け足しに警戒心が鎌首をもたげる。彼はまだなにか言うつもりなのだろうか。
「なにか疑いでもあるの?」
 と悠が訊くと、遼太郎はソファのアームレストに肘をついて「お前ならまあ、わからんが」と前置いた。
「完二はな……そんな知恵のまわるヤツじゃねえんだ。一本気と言やあ聞こえはいいが、短気で直情的で思慮も浅い。さっきの番組、完二が警官に向かってあれこれ言ってる動画、見たろ?」
「うん」
「あれァ計算された演出だ。誰かが事前に筋書きを作って、住人を集めて、警察がやりこめられるところを狙って動画を撮って、ネットに流しやがったんだ」
「…………」
「そもそもの犯行自体、完二ひとりの仕業じゃねえはずだ。現場は辺りに人家のない、見晴らしのいい道路でな、お前もたぶん見たことあるんじゃねえかな。規模を除きゃあほとんど農道と言っても差し支えないとこだ。バイクずきにゃウケのよさそうなワインディングが所々にあるし、ことに夜は交通量も少ない。だから暴走族なんかが目をつけるんだが、それでも公道には違いねえ、車も通る。あいつはあくまで自分ひとりでやったって言い張ったし、実況見分でもそれらしい説明をしやがったが、八人の暴走族だけを狙って転倒させるなんてのァ、実際はとてもひとりでできることじゃない。あいつは手製の罠を使ったんだが、最低でももうひとり、事前にそいつらの来ることを確認して、完二に罠の準備をさせた人間がいたはずだ。いや、罠以前に、完二は何ヶ月かかけてきっかり二十回分、同じところで暴走族のガキどもとバイクのナンバーを撮影してるんだ。ヤツらの自己弁護を封殺するためにな」
 いかにも犯罪にふさわしい、叔父の話は暗い犯行計画と陰謀とを匂わせるものだ。それは悠のあたまの中の素朴で英雄的な、勇気と腕力とで悪党を叩きのめした義人たる巽完二像をいくらか傷つけた。
「暗視装置つきのハイスピードカメラが要る。もちろん罠を作る資材も要る。バイクのエンジンに穴を開けられるだけのドリルも、それらを運ぶ手段、たぶん車もだ。非行ぎみの中学三年生にこんなものが揃えられると思うか? この私刑を計画して、必要なものを揃えたヤツがいたんだ。共犯がいたんだ」
 遼太郎はそうと言ってから少し置いて、低く「その共犯ってのもな、証拠はねえが、実ァ見当はついてる」と呟いた。今しその甥の心中に忽然とある人物の姿が浮かんだと知ったら、彼はいったいなんと言って詰問するだろう!
(それ、ダイダロスじゃないか……?)
 ほかに完二の協力者たりうる人間を知らない、というのもあるが、あの非の打ちどころしかない犯罪者的外貌を度外視するにしても、「バイクのエンジンに穴を開けられるだけのドリル」などはいかにもあの工房ラビュリントスに転がっていそうなシロモノだ。
「……悠お前、商店街にある、だいだらって店、知ってるか」
 胃に氷が落ちてきたような気分である。ではやはりそうなのだ。表情を変えずに済んだのはあらかじめ見当を付けていたおかげだろう。
「見たことはある、けど、入ったことはない。なんかオノとかバクダンとか売ってるって、クラスのやつが言ってたっけ」
「爆弾ン? 確かか?」遼太郎の眉が吊り上がった。
「いやもちろんレプリカだけど」冷や汗が出る。「そういうのが好きなやつがいてさ、カンダハルって言うんだけど……武器オタでミリオタでゲームオタの女子で……」
 遼太郎はしばらく悠をじっと見つめた後、「あそこには近づくなよ」と厳命した。
「売ってるモンも褒められたもんじゃねえが、店主はありゃ完全に」自らの頬を指で斜めになぞりながら、「コレもんだ、カタギじゃねえ。完二の親戚なんだが、俺ァ完二を手伝ったか利用したかしたのは、ソイツじゃねえかと踏んでる。なにしでかすかわからねえ人間だ、関わるなよ」
「コレもんって、ヤクザなの? その店主」と、悠はあえて質してみた。「なんか過去に事件を起こしたとか、そういうことがあったの?」
 初対面のときこそそういった印象に充ち満ちていたダイダロスではあるが、その見た目はさておくとしても、こと話してみた限りにおいて、どうもかのヤクザハゲ氏は叔父の言う「なにしでかすかわからねえ人間」のようには思われなかった。もし傷害やら誘拐やらの前科があるというのなら確認しておかなければ、と思ったのだが、叔父の答えは「見りゃわかる。ありゃコレもんだ」とふたたび頬をなぞるだけである。
「お前も見りゃわかる。見さえすりゃ疑いなんざ起きねえよアレは」
(そりゃ見た目だけなら否定できないけど……否定しようがないけど……)
「とにかく、あの店には近づくなよ。いいな?」遼太郎はソファから立ち上がると念を押した。「友達にもよく言っとけよ、花村と里中にも。この上また別件で誘拐だの殺人だのあっちゃ困る」
「心配ないって。もともとなに売ってるかもわからなかったし、近づきたいとも思わないし」時計を百万円以上で売ったし、防弾チョッキとか用意してもらってるし、「ただあいつらバカだから、行くなって言ったらかえって行きたがるだろうなあ……あははほんとバカでさあいつらって……」
「気ィ付けてくれりゃあいいよ――よしカップよこせ。洗うから」
 と、言いながら悠の返事を待たずに、遼太郎は悠と菜々子のカップを回収してキッチンへ持ち去った。
 安堵の息が漏れた。完二と会った「店」の詳細をもし話していたらと思うと冷や汗が出る。向後だいだらへは少なくとも、正面から入ることは可能な限り避けたほうがよさそうである。地下のシャッターから出入りできると完二が言っていたから、そちら側の入口を訊いておかなければ。店に入るところを見られたら終わりだ。
(明日さっそく寄ってみよう。注文がどうなったか訊いておかなきゃいけないし……ああそうだ、タバコどうしよう……)
 また隙を見て叔父さんからくすねるしかないか――ちらとキッチンを覗った悠と、折しも彼を振り返った遼太郎との目が示し合わせたようにぶつかる。まるでこちらの考えていたことを傍受されたような機だ。悠はあわてて視線を逸らした。
「なんだよォ……なに悪いこと考えてた?」叔父の言葉は笑い含みである。
「いやっ、別に。なに? なんか話しかけようとしてた?」
「ああ、そういやさ、お前のほかにももうひとり、心当たりがあったなあって思ってな」
「……心当たりって、なんの話?」
「子どものくせに手の込んだ犯罪を犯しかねないヤツがさ」遼太郎はカップを拭きながら、「さいきん知り合ったのでお前みたいのがひとりいてなあ……まあったく小賢しいったら」
「仕事の関係?」
「まあ、そうだな、仕事の関係だ……ククク」
 おそらくは「セイアン」のほうの話だろう。おおかた彼の「常連客」のうちのひとりであろうが、いったい叔父の目に自分は犯罪者予備軍とでも映っているのか? まったく心外である。どこの世にこれほど順法精神に富んだ高校生がいるというのだ……などと冗談めかして叔父に抗議してみたところ、
「未成年者喫煙禁止法に違反してるだろお前! あはは五十万円以下の罰金もんだぞ、なんだ俺に払ってくれるのか?」
 悠は大笑いにやり返されてしまった。それを言うなら未成年者へことごとに飲酒を勧める自分はどうなのだ……とはさすがに言わずにおいたが、
「……悠お前、あれからタバコ、吸ってねえだろうな」
 すでに墓穴は堀りすぎるほど掘っていたようだ。すっかり笑みを吹き消した叔父へ、悠は内心の動揺を隠しつつ「吸ってない吸ってない! そもそもここらじゃ誰も売ってくれないし、吸いようがないし!」と懸命に否んだ。
 ウソは言っていない。というのも、ダイダロスは大の嫌煙家であったので。






 放送前から話題になっていただけあって、二年二組教室における特番「少年X」の俎上に載せられること、実に頻々たるものであった。けだし二年生の話柄にこれほど好まれたのだ、完二と同級である階下の一年生たちなど、よほどの喧噪でもって先輩の足許を突き上げたことだろう。当の完二のいる教室を除けば、であろうが。
「巽くんってちょっとカッコいいよねェ……天城さんってたしか、巽くんと知り合い、じゃなかったっけ?」
 と雪子に声をかけたのは――例によっておずおずとではあるが――環だった。
 朝のHR前である。悠たちは先日と同じように春美と環のコンビを迎えて、さっそく例の特番について盛り上がっていた。ちなみに、件の伝説の人物とは八十神高校一年三組の「巽完二」なる生徒である、という情報は誰から広まったものか、登校したときにはすでに周知の事実となっていた。
「昔の話。誰から聞いたの?」例によって雪子の言葉はそっけない。
「え、うん……オヤ、とか?」例によって環は撃退される。
「マチそーとー趣味わりーな」例によって春美が助け船よろしく後に続く。「みんな引いてるし。あのタトゥーしてピアスしたアタマまっしろなデカブツでしょ? ホラーかよ」
「ちーがうって! わたしけさ見たんだって。ぜんぜんちがくてカッコよかったんだって」
「全然ちがくてなんでソイツだってわかったんだ? なんか話したとか?」と、陽介。
「いや、見ただけ……うんまあ、おおむねテレビといっしょだったけど。タトゥーもピアスもあったし、背ェ高かったし髪の毛まっしろだったし、あとなんかデコの横っちょにでっかいキズとかあったな……」
「強化されてね?」陽介の呆れ声。
「なんとかヒルにそーゆう敵いたような気が……あたし鉄パイプでアレしたけど」千枝はなにかこじ開けるような仕草をしている。
 悠は例によって話し合いの輪から一歩退いて、団欒の縁の暗がりで息を潜める雪子の沈黙を観察していた。この茸は日向に向かって伸びたがるのに、今日も日陰に生えている。
 かなり不謹慎な話だが、オドオドしている彼女というのはまた独特の趣あって美しい。にこにこしているときの太陽的な貴石的な美ではない、それはもっと陰質の、生きていて湿っぽくて、触ったときの感触が想像できそうな暗がりの美である。自ずから悪趣味とは思っても、悠はこちらの美しさのほうが好みであった。
 あいかわらず彼女は悠たち以外に冷淡で、あいかわらず自らの冷淡によって凍えていた。矛盾している。これが茸なら性質として割り切ることもできようが、雪子は然らず、むしろ人間族の中ではものわかりのよいほうのはずなのに。悠はこっそり様子を窺いながら、さっそくふたりきりになったときにでもこの単純な矛盾を指摘して、もって彼女の悩みを解消してやろうかと、しょうじき思わないでもなかった。
 しかし、もしそうしたらどうなるだろう。もし悠が「みんなと仲よくしたいならああいう態度はよくないよ。おれたちにするようにして、ほかのひととも接しなきゃさ」とでも言ったら、雪子はどうするだろう。彼女はかつてそうしたように、あの感謝と迷惑とが綯い交ぜになったような表情を、その麗貌に浮かべるのではなかろうか。
 おそらくはいま悠の目の当たりにしている、一見して矛盾に見えるものもまた、幸薄き雪子の人生によく恵まれた「第三者には自明の理に思われ」る問題のひとつなのだ。単純な矛盾? ここ最近まであれほど苦しめられていた千枝との諍いについて、もし誰かが悠に「そんなの簡単だろ。おまえが悪かったら謝ればいいし、むこうが悪かったら謝らせればいい。なにを悩む?」とでも言っていたら、果たして彼は仰せの通りと従っていただろうか? むろん否だ。まさしくそんな単純な問題ではないのだ――たとえ周りからどのように見えたにせよ!
 きっと雪子が持て余しているのもまた、左右に引っ張るか上下に引っ張るかすれば外れるような、つらなる単純なふたつの鉤などではない。「ちえのわ」なのだ。ポケットの中に同じ性質のものを有する段になって、悠はよりいっそう彼女の苦悩が、少なくともその複雑な輪郭が見えてくるような気がするのだった。
 さて目の保養ばかりしてもいられない。これが助け船になればと悠は雪子に向かって、
「鈴木と巽ならあんがい似合ってると思わない? デコボココンビって感じで」
 と話を振ってみたが、彼女がなにか言う前に春美が「鈴木じゃねえ遠藤だっつの!」と突っ込んできた。突っ込まれついでに肩を揉まれて、すっかりうやむやにされてしまった。彼女はいったい、やたらと触ってくる人間である。
「そういやマチってさ、いままで会ったことなかったの? その巽完二に」春美は悠の肩を揉みながら、「商店街いんだからなんか接点あっただろーに。もしあたしなら一回みたらぜってー忘れねーよあんなクリーチャー」
「接点なんかないない、ウチ離れてるし。あってもたぶんおっかなくて声かけられない」と、環は手を振って否む。「……んだけど、でも実はなんかわたし、ちっちゃいころはけっこう、遊んだりしたらしい。オヤ情報。ぜんぜん記憶ないけど」
「おっかないのにカッコいいとか言ってんのかよ……つか、天城さんもそのクチじゃない?」春美が雪子に話を振った。「記憶にない? いま言ったみたいなクリーチャーと遊んだとか、鉄パイプでアレしたとか」
 笑いを取ろうとしたのだろうが、雪子はクリーチャーだの鉄パイプだのにはいっさい触れずに、小首を傾げて「どうだったかな。よく憶えてないよ」と述べるに留まる。はたして本当に憶えていないのか、それとも話すのがイヤで糊塗しているのか? 先ほど「昔の話」と言っていたからには、その頃の記憶がある程度あるわけで、いや、そもそも現在の完二のことからして彼女は知っているようなふしが――
(……商店街いんだから?)
 ふと、先ほどの春美の言葉に引っかかりを覚えて、悠は背後の彼女を振り返った。
「カンダハル、さっき商店街がどうとかって、言った? 鈴木のこと」
 今度は全員の突っ込みが入った。
「いやわかってる大丈夫、今のはウケを狙った!」悠は皆に小突き回されながら嘯く。
「つかもう鈴木でいいよ。鈴木に改名しろよ遠藤」と、陽介。
「スズキタマキってゴロいいじゃん。そうしなよ」千枝も調子をくれる。
「マチ泣くなよ――マチんちは惣菜大学って店やってんの」春美が環を指さしながら、「お惣菜売ってる店で、品ぞろえはムセッソー」
「泣いてないし――てか鳴上くんなんで鈴木なの?」環が春美の脇腹に突きを入れながら、「遠藤と鈴木ってぜんぜんちがうじゃんよ」
「あそこって遠藤んちだったのか」陽介は知らなかったようだ。「惣菜大学って俺メンチとかしか買ったことないわ。ほか怪しすぎて」
「必殺技みたいな料理ばっかだもんねあそこ」と、千枝。「んで、なんでマキが鈴木なの? 簡単に説明してねヨコモジとか使わんで」
 惣菜大学なら悠も知っている。商店街にあるやたらとメニューの豊富な総菜屋で、何度か行って夕飯のお菜を求めたことも――菜々子には悠がこしらえたという触れ込みで饗している――あった。
 あるいは環が八十稲羽商店街の人間であるということが、雪子の態度になにか関係しているのだろうか。先日の男子もそうであったのか? もっとも彼女は相手が商店街関係者であろうとなかろうと愛想のいいわけではないのだが、その態度は春美へのそれと環へのそれとで、なにがしか微妙な違いがあるように悠には思われるのだった。すなわち、前者に対してはピョンと跳び退るだけだが、後者に対してはトンと突き放すといったような。
「いや顔が似ててさ、東京で付き合ってたカノジョに。鈴木っていう」
 なかば上の空でこう言ったあとは、大騒ぎし始めた周囲を適当にあしらいながら、悠は物思いに耽っていた。
 商店街――過日、あの炎上する天城屋旅館の前で、雪子のシャドウが「クソクラエ」と罵ったものの中に、なにかの「組合」という言葉の混じっていたのが記憶に引っかかっている。この「組合」と「商店街」とはなかなか親和する概念ではないか? 雪子の「クソクラエ」の向こうに立つ数多の人影の一画を、もし商店街関係者が占めているのだとしたら……
 商店街と言えばだいだらもその一部だ。ちょうど寄る用事もあったことだし、それとなくダイダロスに訊いてみるのもよかろう。なにか知っているかもしれない。
 今日はひとりで帰ろうと悠は決めた。






 土曜の放課後という開放感も手伝ってか、
「なんで一緒に行くの駄目なんだよ理由を示せ理由を。四百字詰め原稿用紙二十枚以内で」
「べつになんか買ってとか言わんし。え、買ってくんないの? ケチー、バカー、アホー」
「じゃあお店に入らなきゃいい? ダメ? えーなんでェ? ケチー、バカー、つぶ貝ー」
 などなど、陽介たちの同伴要請は執拗をきわめた。もしだいだらに行くなら四人でなければならぬと言うのである。
「ひょっとして天城、きょう仕事休みだった? それなら延期するけど」
 もし雪子が放課後自由に動けるのならもちろん、だいだら行きなどよりペルソナ訓練のほうが優先されなければならない。だから悠はこう言ったのだが、彼女はにこにこしながら「今日はばっちり仕事はいってるよ」と否むのである。
「鳴上くんのハクジョウさに驚いただけ。あーあ鳴上くん見損なったァー」
「ホント薄情、偽りの友情、やるせない俺の感情」陽介が即興のラップを始める。
「鳴上くんマジつぶ貝」千枝の言うことはもうよくわからない。
(なんだよつぶ貝って……天城仕事ならべつにいいだろ……)
 ことほどさように、なかよし四人組のうちのひとりが単独行動するにあたっては、「今日はちょっとひとりで帰りたいから」などというあいまいな説明では了解してもらえないのである。なにか切実な理由が必要なのだ――陽介たち三人はおごそかに告げた。それなら千枝が先日「ちょっと用事あるから」のひと言で帰っていたのはどういうことだと悠が指摘すると、またぞろ貝だの蟹だのと言って三者が非難の雨を降らす。
「じゃあ……東京の鈴木に電話するから。これでいいだろ? ちょっと性的な話題もあるし三人には聞かれたくない」
 こちらは切実さに加えて誠実さにも欠けたようで、悠は校門下の坂を下りるあいだ中、さまざまな腹足類・回虫類・扁形動物その他の下等生物に喩えて罵られた。おのがじし手を振って別れるころには三者の一方的な合意によって、彼はユムシであるとの結論に甘んじなければならなかった。
(なんだよユムシって……)
 ようやく解放されたユムシはひとり傘を片手に、八十稲羽商店街を指して歩いた――もしユムシに脚があるものなら。
 ゆうべ菜々子の言っていたとおり、午後に入ってからはずっと小雨が降っている。それでなくても人足繁きジュネスから遠ざかっているので、行く先はおおむね閑散としている。件の惣菜大学の前を通り過ぎるさに、つと中を覗うと、傘布の向こうに中年の男がこちらに背を向けて、せっせとなにか揚げているのが見えた。これが鈴木家の家業というのなら、年ごろから言って環の父親かと思われるが。
(メンチカツ、ビフテキ、つぼ焼、コッテギ、エスカベッシュ、ベックオッファ、オーギョーチー……)
 店前に掲示してある大判の品書きを後目に見る。まこと無節操きわまりないグローバルなメニューで、初めて来たときは本当にぜんぶ作れるのかと怪しんだものだが、とりあえず事前に予約しておけばトトリムクとウトペネッツは可と確認済みである。後者は菜々子には名前以外はなはだウケなかったが……
 もしあの店が潰れていたらと、悠はしばらく歩いた後ふと考えた。環は悠のように親の仕事の都合で引っ越すかして、ひょっとしたら八校にいなかったかもしれない。
 もちろん彼のように、引っ越したことがよい転機になる可能性もある。しかし当のよい転機を迎えてのち、晴れてよい居所を得た悠には、その「よい居所」の住人である環がそこから出て行って、どこか見知らぬ場所で幸せを掴むという未来がどうしても想像できない。あの八校の木造校舎によくなじむ、田舎の小さな総菜屋の娘は、この「よい居所」で武器オタゲームオタの友人とコンビを組んで、地元の旅館の看板娘と仲よくなりたくてやきもきしているのがいかにもふさわしい。
 おたがい父親には感謝しなければならないだろう。限定的なニーズしか満たせないこの小さな商店街において、思うに惣菜屋というのはジュネス・コンクェストをうまく躱しうる数少ない業種であったのだ。ジュネスのような百貨店と棲み分けのできる特別な専門店を除けば、生き残るのはごく近傍の住民の要求を満たすに足るだけの生活必需品店と、飲食物を商う店くらいが関の山である。
(惣菜大学もある意味、特別な専門店の範疇に入るのかな……)
 特別な専門店――だいだらのような手合いは惣菜大学の異常性も及ぶまじき、その筆頭格と言えよう。あんな店がそうそうあってたまるものではない。
 珍しいことに「あんな店」の前には数人の人だかりがあった。と言っても、ひとかたまりになっているのではなく、少し離れたところで一対の男女がなにごとか言い合っていて、それを四、五人が遠巻きにしている、といったふうである。
(喧嘩?)
 雨宿りでもしていたのだろうか、だいだらの軒下でその様子を眺めていたひとりが、ちらと悠を見た。目が合ったのを汐に彼もそちらへ寄って、
「あれ、どうしたの? 喧嘩?」
 と、挨拶がわりに声をかけてみる。
 瞥見したところ、相手は中学生くらいである。たしょう読み違ったにせよこちらより年上にはとても見えない。雰囲気からとっさに男だと見当をつけたが、もしそうなら小柄な部類だろう。ビニールのポンチョを着けた上からでもわかる華奢な体格と、これにいかにもふさわしい小作りの女性的な面立ちが、その性別をにわかには判じがたくさせている。つい先ほどまで考えていたせいもあってか、悠はこの先客から少し環に似た印象を受けた。
「ついさっき始まったみたいです。ぼくも出てきたばかりで」
 と答えて、先客は被っているキャスケットの鍔をちょっと持ち上げてみせた。高いキーの持ち主が声を張って低音を出しているような、ちょっと役者の舞台発声じみた響きのある、妙な話し方である。これもあいまって少年――自称してぼくと言うからには男だろう――の帽子を持ち上げる仕草はかなり気取ったものに映った。
「ここのお客さんですか?」
「まあ、そうなるのかな」
 と肯んじてしまったが、ここは否むべきだったろう。悠はあわてて「いや、時計売ったことがあるってくらいだけど」とつけ加えた。この店に関わりがあるということはできるだけ知られないほうがいい。
「ここでなにか買ったことはない。ホント」
「時計……」
 少年はだいだらの戸口に貼られたポスターを見上げてから、続けて「腕時計でしょうね」と呟いた。この科白には「もちろん腕時計でしょうね?」という確認のほかに、「どうせ腕時計でしょうね」とでもいうふうな、かすかな失望が含まれていた。
「そう、腕時計」
 鸚鵡返しに答えたあと、腕時計でなければいったいナニ時計があるというのだと、悠はしばらく訝かっていた。中古売買の盛んな時計といえば腕時計くらいしか思いつかないが、世の中には壁掛け時計やめざまし時計の大きな中古市場がいくつもあって、そこではこの少年のような腕時計ヘイターが血眼になって良品を渉猟しているのだろうか。
 折も折、店前の喧嘩がやや盛り上がってきたのを機に、悠は先客の少年と並んでそちらを眺めることになった。
 最初から見ていたわけではない、ということを考慮に入れても、この男女の言い合いは明らかに男側を非とすべきものだ。彼は一見して異様な興奮状態にあった。それが嵩にかかって無茶苦茶に舌鋒を振るうので、女のほうではただもうわけがわからぬといったふうに、弱々しく去なしてなんとか彼から逃れようとするのだが、それを男が許さずに傘で右へ左へ遮って、なお飽かずに喋りまくるのである。
「――関係なくねえんだよ。お前みたいなのが世の中のバカな男をもっとバカにするんだろうが!」
「ホントに、もういいですから」
「よくねえんだよ。お前が決めることじゃねえんだよ。なにしにこんなとこ引っ越してきてんだよ、フーゾクでも行くのか? ここにはそんなもんねえぞ」
「わかりましたから、ちょっとどいてって……」
「なあ、心を入れ替えてバイトでもしたらどうだって。お前働いたことなんてないんだろ? ヘッタクソな歌うたってればいくらでもカネ稼げたもんな!」
「ホントに……」 
 女はあわれにもすっかり怯えた様子である。じき逃亡の不可を悟ると、彼女は周りの多からぬ見物客に目を放って、必死で無言の助けを求め始めた。
 つと悠と目が合った。
(……まだ子どもだ、というか、おれと同じくらいじゃないか?)
 それはどうやら相手の男の方でも同じらしい。傘を振り回しているときに見えた横顔は、やはり高校生くらいの至って若いものだ。痴話喧嘩にしてはどうも辻褄の合わない応酬だが、ここで見て見ぬ振りをするというのも男らしくない。両者とも自分と同年代くらいである、というのにも励まされて、助けに出て行く機を窺っていると、
「千伊奈りせですね、あれ」
 先客の少年がぽつんと呟いた。悠は虚を突かれて彼を振り向いた。
「千伊奈りせって……あの?」
「あの、千伊奈りせです。アイドルの」と、少年。
「なんでここに」
「母方の実家がここなんですよ、彼女」少年はさして興味もなさそうに続ける。「活動休止のニュース、テレビで見ませんでしたか?」
「見たけど……いや大して詳しいわけじゃないけど……」
「ずいぶん慌ただしい話ですけど、昨日こちらに着いたみたいですよ。これから目撃情報が拡散していって、じきこのあたりに『りせちー』のファンが押し寄せるかもしれませんね」
 少年の言葉には、別して「りせちー」の下りには明らかな冷笑が滲んでいた。もっともこれが一般的な世人の反応というものだろう。
 悠にしてもその範疇から漏れるつもりはない。まったく「お前みたいなのが世の中のバカな男をもっとバカにする」とはよく言ったものだ。男側の狂気はむろん大いに問題あるものだが、かの「りせちー」とやらがいま市井にあってこのように面罵されているのは、そもそもがいかがわしい虚業に専念して一向に恥じなかった、そのツケというものだろう。ある意味では自業自得と言える。
 しかし――悠はだいだらの看板をちらと見上げた。
(でも、そうだ、巽ならどうする? 巽がもしこの場に居合わせたとしたら)
 千伊奈りせの助けを求める目が、ふたたび悠のそれを捉えた。彼の脳裡に黄金の輝いを背負って拳を振り上げる、白髪の英雄の雄姿が浮かぶ。もし完二がこの場に居合わせたとしたら、自分が誰をどう思っているかなどとウジウジ考えたりするだろうか? いや、彼なら決してそんなことはしない。ただ「目の前に虐げられた弱者が存在する」というそれだけを充分な理由に、真っ先に突撃していくに違いない。もちろん、自分も彼のように雄々しく男らしくあらねばならぬ。この腕時計ぎらいの少年のように「気に入らないヤツは助けない」といったような卑怯な態度はゆめ取るまじ――
 ふたたび意を決して庇から出た悠だったが、結局のところ出遅れた。逡巡している間に先んじて別のところから男女に歩み寄るものがあった。黒い傘をさした小柄な、長い髪を無造作に襟足で束ねた、ちょっと眠たげな目をした八校生女子……
 悠は急停止してとっさに目を逸らした。見覚えがある。
(アイツだ、先輩だ……!)彼はこそこそとだいだらの軒下まで後退った。(水原先輩だ! くそ、こっちに気付くなよ……)
「先を越されましたね」
 先客の少年がこう言って、笑い含みに悠を迎えた。いい面の皮である。
 仲裁に入った織恵がなにを話しているのか、悠のいる位置からではよくわからなかった。聞こえるのは男の「なんだお前」とか「お前に聞いてない」とか「関係ねえだろ」などなどの、上擦った攻撃的な罵声だけである。あの手の狂人に理性的な話し合いなど通用しないだろう。思うに完二が殴りつけた連中もこのような手合いだったに違いない。彼は話し合いの不可を悟ったからこそ、つかつかと歩み寄るや仮借なき正義の一撃を――
「こっちに関係ねえならてめえにも関係ねえだろうがっ! あるってんなら今すぐ説明してみろオラァッ!」
 悠は隣の少年とそろってなかよく「ひゃっ」と飛び上がった。織恵が突然キレたのである。
「大きな声ださないで下さい……!」少年がムッとして悠を非難した。「ビックリするでしょ――それはそうと、流れが変わりましたね」
(いやぜったい向こうの声に驚いただろコイツ……それにしても)
 いまだに動悸が収まらない。かの特番で見た完二の啖呵もこれには及ぶまい。あの小さな身体から発せられたとはとても思えない、それは奇怪なほどに凄まじい声量の、しかも恐ろしくドスの利いた喝破であった。織恵は爆発する前と後とで悪夢のような変貌を遂げていた。助けられた当の千伊奈りせなどは完全に引いてしまっていて、織恵と男から数歩も距離を置いている。
「聞こえてんだろ説明しろ。待ってんだよ。見てわかんだろ」
「……あの」
「あの、なに? 続けろホラ――黙ってんじゃねえよ関係あるからあんだけギャーギャー騒いでたんだろ説明しろっつってんだよっ!」
「すいません」
「謝れって聞こえたのかてめえ」
「…………」
「謝れって聞こえたのかっ!」
「ちがいます」
「じゃあ説明しろ」
 ふだんの眠たげな目はカッと見開かれて、さながら中性子線でも放っているかのよう。先ほどまであれだけ意気軒昂であった男はもはや見る影もなく、織恵の剣幕の前にひとたまりもなく屈してしまった。見たところ男のほうが小柄な彼女に比して二十センチほども身丈で勝っているのだが、その彼が大人に恫喝された小学生めいて縮こまっているのである。
「……あんた、名前は?」
「…………」
「名前ェーッ!」
「久保ですっ、久保美津雄です」
(むごい……)
 久保美津雄と名乗った男は今や完全に圧倒されて、恐怖に竦み上がっていた。以前に春美が「おこるとこえーんだよォー」だの「滅ぼされる」だのと言っていたのも今なら理解できる。これならいきなり殴りかかられるのと大した違いはないのではないか。
 織恵は離れたところで戦々恐々としていた千伊奈りせに「もういいよ、行って大丈夫」と声をかけると、
「美津雄ちょっとこっち来い。ハナシあっから」
 と低く言って、最寄りの路地へ入って行ってしまった。打ち砕かれた美津雄といえば逃げることも思いつかない様子で、自身に命令した支配者の言うままに、すごすごとその背に付き従う。あの路地の奥で千枝の言うところの「よく切れる棍棒」がいったい、あわれな男を前にどれほどの激烈な破壊力を発揮するのか……悠の想像には余ったし実際したくもなかった。
 美津雄が刑場へと消えていくのを見終えた後、隣の少年はつまらなそうに「おもしろい見せ物でしたね」と感想を述べた。
「では、お先に失礼します」
 彼はキャスケットにポンチョのフードを被せながら、「ほら、行ってしまいますよ、お目当てのりせちーが」と捨て科白して軒下から走り去っていった。お目当てとは聞き捨てならぬ。彼は悠が義侠心からそうしたのではなく、相手が千伊奈りせだから助けようとしたのだと誤解したらしい。
(真逆だ、真逆! おれは助けたくない相手だからこそ自戒して助けようとしたんだ、おまえと一緒にするな!)
 去っていく少年の背をひとしきり睨め付ける。さて視線を転ずると、果たして彼の言い捨てていったとおり、千伊奈りせは傘を斜めにして未だに元いた場所に突っ立っていた。最前からこちらを見ていたようだったが、悠が向き直るのを見るとパッと踵を返して、あたまひとつ下げるでもなく商店街の奥へと去って行く。悠が彼女を助けようとして動いたのは見ていたはずなのに。
(あいつもおれのことをファンかなにかと勘違いしてるんだろうな……ファンなら自分のことを助けようとして当然だと思ってる。いかにもああいう人種らしい考えかただよな……)
 折々こちらを振り返るのも気にくわない。跡をつけて来はしないか、とでも思っているのだろうか? 自意識過剰きわまりない、誰がおまえの跡などつけたりするものか! 悠はぷりぷりしながらだいだらの入口の引戸を開けた。千伊奈りせといい先の少年といい、まったくもって腹立たしい連中である。






 引戸のすぐ裏側にダイダロスが立っていた。悠を出迎えた形である。
「おお、坊ちゃんいらっしゃい」
 彼の不審気に顰められていた眉が緩んだ。どちらも恐ろしさにかけては変わるところはなかったが。
「なんかあったのかい、表が騒がしかったみてえだが」
「うん、ちょっとした喧嘩。バカ男がバカ女に突っ掛かってた」悠はふと気になって尋ねた。「あのさ……おじさん、おれが来る前にさ、中学生くらいの小柄な男子なんて、来たりしなかった?」
 ダイダロスの答えは「来たぜ。ありゃ坊ちゃんのお友達か?」である。
「男だか女だかわからねえ、妙に大人ぶったモヤシだったな。いや、坊ちゃんの知り合いを悪く言うつもりァねえが」
「違うちがう。あんなの知り合いじゃない。おれもさっき表で会ったばっかりなんだ」
 ではやはりあの少年も「一見さん」だったのだ。してみると、彼も春美のような武器オタだったのだろうか。いや、時計がどうとか言っていたからには、彼も悠のように時計を売りに来たのか? これを質そうとする前にダイダロスのほうから、
「時計のルビーを分けてくれ、なあんて言いやがってな。まあ妙な客もあったもんだ」
 と言ってきた。サファイアのお次はルビーだ。とどめはきっとダイヤモンドに違いない。いったい時計というものは宝石でできているのだろうか。
「時計のルビーって、なに?」
「おっ、それ訊くかい?」ダイダロスの面が輝く。光というものも出所によっては邪悪である。「時計のルビーってのァムーブメントの天芯だの歯車だのの軸やホゾを受け止める石のことでここにァ燧よろしく強力な摩擦抵抗がかかるもんだから硬度の高えルビーだのサファイアだのってえコランダムが使われるんだがルビーってのァつまり赤い――」
 ルビーは時計の部品――悠は適当に聞き流した。
「ふーん……それって妙なことなの?」
「うーん、妙っつったらまあ、妙だな」
 まあ入んな、と悠を促して、ダイダロスは奥のカウンターへ入っていった。店内に悠以外の客はいないようだ。
「あのモヤシの欲しがったのァ、サイズからいって懐中時計のモンだった。うちァいちおう懐中の修理もやっちゃあいるが、あいにくそのサイズはなくてな。よっぽど年季の入った腕時計ずきだってバラして中身いじくってみようたァなかなか思わねえのに、ましてやアンティークが基本の懐中ときたもんだ。まあてえした趣味だと褒めてやりてえが、あの若さでそんなもんに血道をあげてるんだとしたら妙も妙、妙ちきりんの一等賞だぜ……しかもダイヤモンドがありゃそっちが欲しいなんぞとほざきやがる……」
「……宝石のダイヤモンド?」そらお出ましだ。時計がウン百万円もするのも頷けるというものだ――悠は呆れた。
「おお宝石のダイヤさ。ルビーだのサファイアだのってェコランダムもじゅうぶん硬えんだがダイヤモンドはなんてったって世界一の硬度でいっとう高級品の受け石なんかはまあ見てくれの豪華さもウケたんだろうがダイヤモンドを使うことがあって昔のアメリカ製の――」
 時計は金持ちの道楽――悠は適当に聞き流した。
「ふーん……ところで、巽は今日は?」
「完二かい? 今日はまだ見てねえな、じき来るんじゃねえかな。なんか用かい」
「いや、特には。そう、あれ、どうなってる? 注文したやつ」
「まだ来ねえが……それで思い出したが、坊ちゃんタバコ、吸ってねえだろうな。ええ?」
 遼太郎のお次はダイダロスか。その顔の違法性をつい過信して、煙草くらいすぐ用意してくれるだろうと思ったのが間違いだった。なにせ、
「こないだも言ったがな、タバコはヤクと変わんねえんだ。違うのァろくすっぽ法で規制されてねえってことくらいよ。いくら坊ちゃんでも吸ってんの見かけたらゲンコだぜ、マジで」
 こうである。先日に売ってくれと持ちかけたときなどは一時間ちかく説教を食らったものだ。
「法で規制されないってことは、規制されるほど危険じゃないってことだろ……」
 と細く煙を上げてみても、
「道理のわからねえことを言うもんじゃあねえ、大麻を法で規制しねえ国なんざ掃いて捨てるほどあらあ。法律なんざアテになんねんだ」ダイダロスは恐ろしい顔をいっそう恐ろしくする。「そもそも坊ちゃんはハタチにせえなってねえじゃねえか。未成年者喫煙禁止法に違反だ、五十万円以下の罰金もんだぜ。なんでえ俺に払ってくれるってえのかい?」
 いま自分が法律はアテにならないって言ったんじゃないか……とはさすがに言わずにおいた。悠は過日そうしたようにおとなしく白旗を挙げた。このまま説教コースに突入しなければいいがと恐々としていると、入口のほうで来店を告げる声がする。客だ、とダイダロスがそちらのほうを向いた。
 ここにいるのを誰かに見られてはまずい。狭い町のことだ、どんな人間の口から巡り廻って叔父の耳に入らないという保証もない。悠は慌ててダイダロスに「おじさん、奥の工房、見せてもらってもいいかな」と訊いた。
「こないだは説教食ってぜんぜん見られなかったしさ」
「そりゃ構わねえけど」ダイダロスはカウンターを出ながら、「ただ危ねえ機械もあっから、あんまりヘンなもんいじったりしねえでくれよな」
 悠は感謝もそこそこに奥ののれんを潜って、素早く向かいの庭へ逃れた。例の卑猥なダビデ像が雨に打たれながら彼を迎えた。
 ここへ来る前、あの腕時計ぎらいの少年に、店の客であることを話してしまったのが思い出される。年齢から言っても遼太郎の職業から言っても、間接的にさえ接点があるとは思われないが、今後はよりいっそうの注意が必要だろう。
(シャッターの入口、訊いとかなきゃな。いや、いま中から入って確認してくればいいか。あと天城のことと……あの事件について仄めかしてみてもいいな……)
 展示室――完二の言うところでは物置――の入口に鍵はかかっていない。その中も以前に見たのと変わりはないようだ。悠は中に入って鉄扉を閉めて、あたまの雨滴を手で払った。壁のスイッチ群のうち、室内灯がどれかわからないので、四つとも全て押す。フロアと一緒に周囲の展示用台座がすべて明かりで照らされた。
(そうだ、あれ、端材だとかって言ってたっけ)
 悠の目は自然と、そこだけ使用されている入口正面の台座に吸い寄せられた。以前に見たのと同じく、灰色の布で覆われたなにかが載っている。近くに寄って観察してみると、それは一抱えほどの大きさと厚みとがあって、どうやら複雑な形をしているらしいことがわかった。おそらく中身はなにか、この展示室に展示してしかるような作品だ。どうにも完二の言っていた「端材」のようには思われない。
(中身、なんなんだろう……)
 隠したいのならこんなところには置かないはずだ、しかし見せたいなら布などで覆わないわけで――しばらく台座の前を行きつ戻りつしていた悠だったが、ようやく意を決して布に手をかけた。べつに持ち去ったり破壊したりするのでなし、布も見たところ遮光用のものではない。この下のものに光が当たっても問題はないはずだ、そのついでに悠がそれを見たとしても……
 彼は下のものの突起に引っかからないように、慎重に布を取り去った。





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