白い蜥蜴があたしに群がって来た。
イヤ イヤ
あたしの弐号機を貪り喰らって行く。
イヤ イヤ イヤ
ママがあたしを助けようとしてくれているのが分かる。
イタイ イタイ イタイヨ
でも、弐号機にあたしを助ける力は残っていなかった。
タスケテ タスケテ
喰われる苦痛に気が狂い、咀嚼される痛みで正気に戻される。
タスケテ タスケテヨ ダレカ
その苦痛の中で、誰かがあたしを呼んでいるのが分かった。
タスケテ タスケテヨ シンジ
痛みに声を出す事も出来ない。
シヌノハイヤ シヌノハイヤ コロサナイデ
生きたいと言う気持ちが、あたしの体を突き動かした。
コロシテヤル コロシテヤル コロシテヤル
猛りで痛みを誤魔化し、殺意を糧にして敵に手を伸ばす。
しかしそんな最後の抵抗は、無数の槍に吹き飛ばされた。
視界は黒く塗りつぶされ、音もあたしから遠ざかって行った。喰われる感覚も他人事のように感じなくなって行き、やがて何も感じる事が出来なくなる。
意識が闇に呑まれる瞬間に……
あたしは死ぬんだなと……
他人事の様に思った。
ただ……。
誰かがあたしを必死に呼んでいた。
けれど、それに応えられない事が
……酷く
……酷く悲しかった。
でも、寂しくは無かった。
今度はママが一緒だったから。
どれくらいの時間が経ったのだろう? すごく幸せで……すごく嫌な夢を見た。
その時、何の前触れも無くあたしを包む闇が薄れた。
かすれた視界に映ったのは、あたしの最も近くに居た男の子の泣き顔だった。
口の中に広がっているのは、今ではすっかり慣れてしまった血の味だ。
……LCL。
シンジが口移しで、あたしに無理やり嚥下させていた。
状況が呑みこめず、とにかくバカシンジを殴ろうとしたが、あたしの体はピクリとも動かなかった。
体が全く言う事を聞かない事に、あたしの意識は混乱した。しかしあたしの体は、その混乱を表現する事を一切許さなかった。
……時間が経てば嫌でも混乱は収まる。
冷静になったあたしは、今が如何言った状況なのか知りたかった。しかし体が全く動かない現状に、無力感ばかりが圧し掛かって来る。
(今……今 如何なっているのか知りたい!!)
あたしの心が悲鳴を上げる。すると頭の中に欲しい情報が流れ込んで来た。
(何故!?)
そう思えば“原因はシンジに無理やり飲まされたLCLだ”と、すぐに頭の中に浮かんだ。
(細かい事は良い!! とにかく今は状況を知ることよ!!)
すると先ほどの続きが流れ込んで来た。かなりの量の情報があったが、それを落ち着いて咀嚼して行く。
(そ そんな!! 嘘よ!!)
今生きている人間は、あたしと隣で蹲っているシンジだけだったのだ。
……サード・インパクト。
あたし達は世界を守る事が出来なかった。
その事実は、あたしを絶望の淵に追いやるのに十分だった。衝動的に死にたいとも思ったが、死ぬにもそれを実行する手段が無かった。何せあたしの意志では、指先一つ動かす事が出来ないのだから。
また時間があたしを冷静にしてくれた。
隣に居るシンジが話しかけて来るようだが、あたしの鈍った聴覚では碌に聞きとる事は出来なかった。聞き返したり「もっと大きな声で喋りなさいよ!!」と、言ってやりたかったが、相変わらずあたしの体は意思と分断されたかのように動かなかった。
でも、急ぐ事は無いのかもしれない。あたしの体が回復すれば、話をする事は出来るのだから。
それに、もう焦る必要もない。もうこの世界には、あたしとシンジしかいないから……あたしからシンジを盗る人は居ないのだから。
何度LCLを咀嚼させられただろう? 頭に流れ込んだ知識は、昔エヴァに乗るのに無駄と断じ切り捨てた物ばかりだった。
身動き一つ取れないあたしにとって、シンジに呑まされるLCLが唯一の楽しみとなっていた。
しかしそれはあたしにとって、かなりキツイ事実もふくまれていた。それはLCLを飲まされた直後は、五感がわずかに回復すると言う事だった。何か見えると思ったら、いつもシンジの顔が目の前にあるのだ。更に唇を重ねている感触まで感じるのだ。これは正直かなり恥ずかしい。……不思議と嫌ではないが。
そんな時間を過ごす内に、あたしは“シンジの事を知りたい”と強く思う様になった。
以前のあたしなら、そんな考えを持つ事自体プライドが許さなかっただろう。だけど全てを失ったあたしにとって、あれほど縋っていたプライドは残っていなかった。その事に心の中で自嘲する。
そしてあたしは、LCLからシンジの情報を集め始めた。時にLCLを通して、シンジ自身からも情報を取得する事が出来た。
あたしは全ての情報を集め一気に咀嚼する事で、まるで走馬灯のようにシンジの半生を擬似体験する事を思いついた。ただ、より身近に、よりリアルに、より深くシンジを理解する為の、ちょっとした思い付きだったのだけど……。この事を大いに後悔する羽目になるとは思わなかった。
シンジは、父・碇ゲンドウと母・碇ユイの間に生を受けた。
両親が多忙だった所為で多少寂しい思いをしていたが、裕福だったし母の愛情や父の不器用な愛情を受け、すくすくと成長して行った。
しかし、そんな幸せな生活も母・碇ユイが後のエヴァンゲリオン初号機に取り込まれる事で、終わりを迎える。
目も前でエヴァに母親が取り込まれる光景は、幼いシンジにとってトラウマになるに十分すぎる光景だった。以後水に強い恐怖心を感じるようになり、まともに風呂にも入れない状態になってしまった。
そんな状態のシンジを放置し、父・碇ゲンドウは妻のサルベージ出来る可能性に縋ってしまう。しかしそのサルベージも失敗し、シンジは伯父夫婦の家に預けられる事になる。父・碇ゲンドウは法外な養育費を振り込んでいたが、厄介なトラウマを抱えたシンジを疎むようになり、一年と持たずにシンジを放置する様になる。
この状況で子供を虐げている噂が立つと、伯父夫婦はシンジを“妻殺しの男の息子”と断じ、そんな子供を無理やり預からされていると仄めかした。そうなれば、シンジが家・近所・学校から孤立するのは当然と言えるだろう。
近くに住んでいた老教師が生活をフォローしなければ、シンジは死んでいたかもしれない。いや、きっと死んでいただろう。
シンジが老教師を先生と言って慕うようになり、老教師もシンジを気に入り世話を焼く様になった。そして5歳になる頃には、老教師の家に入り浸る様になる。気晴らしにと老教師に勧められ、チェロを始めたのもこの時だった。
老教師はシンジに向き合い、トラウマの克服や生活面のサポートに尽力した。その甲斐あってか、数年で(流石に泳げはしない物の)普通に生活するのに問題ない状態にまで回復した。
しかしこれが、ただでさえ上手く行っていない伯父夫婦との関係に止めを刺す結果となる。庭に勉強部屋と言う名の物置を作り、シンジにそこで寝泊まりする事を強要して家から追い出したのだ。……正直この伯父夫婦には殺意を覚える。
やがてシンジは14歳になり、父・碇ゲンドウから運命の手紙を受け取る事になる。
親子とは思えない会話から半ば無理やりエヴァに乗せられ、左腕を折られる痛みと右目を貫かれる痛みを味あわされる。訓練どころか覚悟する暇さえもらえず、そんな目に遭わされたシンジに、あたしは同情を禁じ得なかった。同じ体験をしたエヴァのパイロットとして、その異常さと痛みは誰よりも理解出来ると思う。
ミサトは保護者として、必死にシンジと向かい合おうとしていた。最初は父親に複雑な感情を持つ者として、傷の舐め合いの様な家族ごっこだったのかもしれない。そこにあたしも加わり、必死に本物の家族としてやって行こうとしていた。
加持さんはシンジに、昔の自分と弟を重ねていた。自分の様に“後悔する事が無い様に”と助言をしていたが、それが結果としてシンジを戦場に縛り付け、サード・インパクトにつながったのは悲劇としか言えないだろう。あたしにとって、それは悲しい事実だった。
鈴原達との出会いも、あたしにとっては衝撃だった。仲の良い姿しか知らなかったあたしには、初対面で校舎裏に呼び出されて殴られたなど信じられなかった。更に戦場にノコノコ出て来て邪魔をされ、命の危険に晒されたのに許してしまうシンジも、あたしには信じられなかった。
そしてファーストとの関係は、あたしにとって胸が痛い物だった。最初は父・碇ゲンドウと仲良くしているファーストへの嫉妬から始まった。しかし、自分以上に何もないファーストに“如何にかしてあげたい”と言う気持ちから“如何にも出来ない”と言う無力感が生まれた。その無力感は無意識の内に、強い仲間意識へと変わり、やがて慕情へと変化して行った。だから自身の命を軽視するファーストに、本気で涙する事が出来たのだ。ファーストも自身を見てくれるシンジに気付けたのだろう。
そして問題のあたしだ。第一印象はとことん悪かったのは仕方が無いだろう。それが変わり始めたのは、タンデムで弐号機に乗った時だろう。初の実戦に緊張し虚勢を張っているを、生意気にも見抜かれていた。次の分裂使徒の時には、あたしが寝言で「ママ……どうして死んじゃったの……?」と言ったのを聞かれていた。母親を早くに失った者同士と言う事で、ファースト以上の共感と仲間意識を持っていた。あたしの弱さも垣間見たシンジは、優しくしてくれていた。でもあたしは、その優しさに気付けず反発してしまった。
……そして霧島マナ。シンジにとって初恋の人。ナルシストな彼女は、自分の感情を素直に口にするタイプだった。素直じゃないあたしと違って、シンジにその好意をストレートにぶつけた。しかし結果は最悪と言って良かった。彼女は元々スパイとして、シンジを籠絡する為に近づいていたのだ。更に過酷なトライデントの操縦で、内臓を痛め長く生きられなかったし、苦楽を共にした仲間を見捨てる事も出来なかった。シンジはそれを知った上で受け入れようとしたが、最後には仲間と共にN2爆雷で消え去ってしまった。
しかし悲劇は終わる事は無かった。使徒に三号機を乗っ取られ、自らの意思に反し親友をその手にかけた。それでも帰って来たシンジは、あたし達を守る為にエヴァに取り込まれた。
兄として導いてくれた加持さんの死。
壊れてしまったあたし。
目の前で死んだファースト。そして、目の前で崩れて行くたくさんのファーストに似た何か。
壊れかけた自分を支えてくれた友を、今度は自らの意思でその手にかけた。
心を閉ざした自分を助ける為に、ミサトが死んだ。
そして愚図愚図している内に、あたしを助ける事は出来なかった。
シンジの心は壊れ、人類補完計画と言う名のサード・インパクトが起こった。
全てがLCLに溶けて行く中で、あたしと一つになりたいという気持ちと、一つになりたくないと言う意思の板挟みにされる。
それでもあたし達は誘惑を断ち切り、LCLの海から帰って来れたのは本当に良かった。あたしは完全な人の細胞の一つになり果てるのは、ごめんだからだ。
最初は冷静で居られたが、最後の方はあまりの事態に何も考えられなくなっていた。何時の間にか、追体験から事実認識に変わっていた。もしそのまま追体験を続けて居たら、あたしの脆弱な心は壊れていただろう。
(シンジはあたしより、もっと辛い目にあって来たんだ)
それがあたしの素直な感想だった。
(次はあたしがシンジを助けてあげないと……)
そう思っても、あたしはシンジを抱きしめてあげる事も声をかけるてあげる事も出来なかった。つくづく動かない体が疎ましい。
それと……、シンジとあたしがLCLに溶け一つになりかけた時、互いに傷つけあい拒絶し合う事によりATフィールドを維持した。その方法が、あたしが“罵り突き飛ばし”で、シンジが“あたしの首を絞める”と言うのは複雑だった。もっと別の方法は無かったのだろうか?
それから少し経った時、あたしは嬉しい発見をした。LCLを摂取した直後ではないのに、目がわずかに見えるのだ。それは五感が回復し始めている事を指していた。
(……もうすぐシンジを抱きしめてあげられるかもしれない)
そんな希望をあたしは持つ事が出来た。
しかしあたしの希望が叶うより、シンジが耐えられなくなる方が先だった。
シンジはあたしの首を手で締め始めたのだ。だが、手には全く力が入っておらず本気でない事は明らかだ。そしてその顔は、懇願の色を帯びていた。
……今ならシンジが何を考えているか良く分かる。拒絶でも敵意でも良いから、あたしに反応してほしかったのか ……あるいは、あたしの首を絞める事がLCLの海からの脱出した時の様に、現状を好転させる鍵となると思ったのかもしれない。
(今どうにかしないと、あたしのシンジが壊れてしまう)
何かしようにも、あたしの体は言う事を聞いてくれなかった。
(ふざけるな!! あたしは惣流・アスカ・ラングレーだ!!)
あたしは動かない体を、意思の力だけで強引に動かそうとする。やがて体が反応し、強烈な嘔吐感に襲われたが無視した。
キモチワルイ キモチワルイ タスケテ
心の悲鳴を無理やり押しのけ、体に残っている力を全て使い手を動かすと、あたしはシンジの頬を優しくなでる事が出来た。手を動かすので精一杯で、上手く微笑く事が出来たのかは分からない。
シンジが歓喜の涙を浮かべ、あたしの体の上で泣き始めた。……あたしはやったのだ。あたしは満足感と達成感に満たされていたが、先程から感じる嘔吐感は耐えがたい物になっていた。
(うぅ……気持悪いから、シンジに背中を摩ってもらおう)
そう思い口を開いたのを、あたしは後悔する事となる。
「キモチワルイ……」
そこであたしの口は止まってしまった。続きの“から背中をさすって”が言えなかったのだ。そしてあたしは自分の状態を理解する。そう、“体に残った命を使い果たしてしまった”のだ。体が動いてくれたのは、まさに蝋燭の灯が消える瞬間だった。
チガウ チガウノ アタシガイイタカッタノハ
結果としてあたしは、シンジに希望を与えた上でそれを奪ったのだ。それはただ絶望を与えるより、はるかに残酷な事だろう。
チガウ チガウ チガウ チガウ
シンジの顔が絶望に染まり、あたしから離れて行ってしまった。
イカナイデ オイテイカナイデ
ヒトリハイヤ シヌノハイヤ
アタシヲミテ アタシヲユルシテ
アタシヲ…… アタシヲ……
(あたしを一人にしないで!!)
……あたしの心の悲鳴は、シンジに最後まで届く事は無かった。
届かないなら……、せめてあたしの魂だけでも一緒に……。