「ねえねえ、先生!」
前髪を切り揃えた、人形のような女の子が呼びかけた。
診療所だろうか、医薬品や医療器具がそこかしこに並んでいる。
その視線の先には、右半分の髪が白く染まった男がいた。
よく見ると、顔の左半分の皮膚の色が濃くなっている。
その男は、気だるそうに声だけで返事をする。
「なんだ、ピノコ。おやつはさっき食べただろう?」
この男の名を、間黒男(はざま くろお)と言う。
天才的な医療の腕前を持ちながら、様々な経歴により医者の免許を剥奪された後も、
法外な報酬を要求しながら医療行為を続けている。
つまりは、モグリの闇医者というわけだ。
人は、彼のことを「ブラック・ジャック」と呼ぶ。
「先生、近所のこどもに聞いたんだけど、
さいきん、くちさけ女っていうのがでゆらしいのよ。
ピノコがしょうたいを突きとめてやりたいのよさ」
「やめとけやめとけ。そんなのがいるわけないだろう。
大方、子供に夜遊びをさせないために大人が考えたデマさ。
まったく……誰かさんみたいに、要らぬ考えを持つ子供もいるだろうに」
後半はピノコと呼ばれた女の子に聞こえないよう濁して言ったつもりであったが、
残念ながら、彼女の耳にはしっかりと伝わってしまったようだ。
「なによそれ! ピノコがこどもだッていうの!」
顔を真っ赤にして膨れるピノコ。
その様子を見て、ブラック・ジャックは
「まるで、この前食べたフグのようだな」
と思い、吹出しかけてしまった。
しかし、そこで吹き出してしまうと余計に面倒なことになるというのを彼はわかっている。
「別にピノコがそうだ、とは言っていないだろう。
それとも何か? ピノコは、子供だましの『口裂け女』なんてものを信じてしまうような、
かわいらしい子供だったのかな?」
「べ……べつに……ピノコ……くりさけ女なんて……ちんジてないのよさ! おとなやもん!」
そう言って、不機嫌そうに部屋から出ていくピノコ。
「上手くいった。やはり、まだまだ子供だな」
今度こそ聞こえないよう心の中でつぶやくと、ブラック・ジャックは紙巻タバコに火を付けて、ため息と共に紫煙を吐き出した。
「幽霊なんて怖いものか……。本当に怖いのは、人間だ……」
その後、書類の整理を終え、夕食を済ませたブラック・ジャックが部屋に戻り、一息付いていると
だれもいないはずの裏口の方から、物音が聞こえてきた。
「まさか、泥棒でも入ったか? 金目の物なんてありはしないというのに……」
しばらく身を潜めていると、今度は玄関を開けて出て行く音がした。
「やれやれ、一体なんだというのだ。血を見ることにならないといいが」
医療用メスを構えて、彼は裏口の方へと向かった。
数々の修羅場をくぐってきた彼からすれば、ただの物盗りなど相手ではない。
だが、面倒であることには変わりはない。
しかし、その心配は杞憂に終わることとなる。
「ははァ、そういう事か……。やはり、子供だな……」
裏口付近の物置からは、ヘッドライト、ナベのフタ、すりこぎが無くなっていた。
3つの道具で完全武装したピノコを想像して思わず笑みがこぼれたが、
その笑みは消え、すぐに厳しい表情に戻る。
「あれほど、暗くなってから一人で出かけてはいけないと言ってあるのに……。
今日はひとつ、懲らしめてやるとするか」
口の端を歪めて笑う。
これは、彼がよからぬ事を思いついた時のクセである。
今、彼の頭の中はピノコを驚かすことで一杯になっていた。
何やら倉庫をあさっていたかと思うと、やおら立ち上がる。
その手には、古めかしい白衣と、長髪のカツラ、マスク、それに混合ヘリウムガスの缶があった。
それらを風呂敷に包み込むと、彼はピノコの後を追う。
ピノコの行動範囲は把握しているので、どこへ行ったかの見当は付いている。
「せいぜい……」
通学路がいいところだろう、と彼は考えていた。
通学路は、昼間こそ開けていて見通しが良いものの、
夜はその広さが仇となり、街灯の光だけでは道を照らし切ることが出来なくなってしまっている。
役所が怠けているのか、ところどころで街灯が切れかかっていて、より一層寂しさを醸しだしていた。
いかにも何かが出そうな、そんな鬱々とした雰囲気さえ感じられるような……。
「さて、ピノコの足を考えるとこの辺りが適当か……おっと」
そう言って道の端にしゃがみ込む。
黒いコートに黒いズボンを履いた彼の姿は、注意して見なくては見つけることは出来ないだろう。
ちょうど街灯と街灯の間ということもあって、彼は暗闇とほぼ同化していた。
その視線の先に、懐中電灯の明かりが見えた。
明かりの高さとしては手持ち懐中電灯くらいの高さであるが、その明かりは落ち着きなく周辺を照らしだしている。
言うまでもなく、ピノコであろう。
キョロキョロと首を動かすたびに、彼女のヘッドライトも同じ方向を向くのだ。
彼は風呂敷を解くと、古めかしい白衣、長髪のカツラ、マスクを着けた。
傍からみると、まさしく、
「口裂け女……」
とでもいうような風体である。
そう、彼はこの格好でもってピノコを脅かしてやろうという魂胆であるのだ。
もちろん、後でネタばらしはする、という前提であるが……。
ネタばらしをしなくては、近所の子供にピノコが有ること無いこと吹聴してまわる、というのは想像に難くない。
あくまで彼の目的は、彼女への懲罰という名目でのドッキリなのである。
バレてはいけないと思い、彼は白衣の上にコートを纏い、彼女が近づいてくるのを待った。
「よし、そろそろか」
彼は混合ヘリウムガスを取り出すと、それを一杯に吸い込んだ。
一言、二言声を出してみる。
某アヒルキャラクターのような声に思わず笑ってしまうが、笑いを押し込める。
ニコニコ笑っている口裂け女なんて、聞いたことがない。
あとはタイミングを見計らってコートを脱ぎ捨て、彼女を追いかけるだけである。
追いつくか追いつかないか、適当なスピードで……。
さあ飛び出そう。
そう思った瞬間である。
彼の後ろから、軽快な足音が聞こえてきた。
思わず後ろを振り向くと、ランニング中であろうか、駆けてくる人影があった。
まいったな。そう思った彼は、とりあえずその人影をやり過ごすことにする。
幸い、未だに全身黒ずくめのままであった。
こうしてうずくまっていれば気づかずに通りすぎてくれるだろう……。
そこまでの判断は正しかった。しかし、予想外のことというのは、いつも突然に起こるのである。
「キャーッ! くしさけ女なのよーッ!」
ハッとして彼は声の聞こえた方向を見る。
そこには、必死ですりこぎを振るうピノコと、後ずさる人影があった。
「でたのよーッ! ピノコがこらちめてやるンだからーッ!」
迫力に押されたのか、戸惑ったように人影は引き返してくる。
「あのバカ……ただの通行人に、なんてことをッ」
心のなかで呟き、彼は戸惑う人影に近づき、声をかける。
「ダイジョウブデスカ!? ワタシハ、コノコノホゴシャデス。ピノコガタイヘンシツレイナコトヲ……」
そこまで言って、彼は思い出す。
今、彼の肺を満たしているのは、変声用の混合ヘリウムガスであったことを……。
「ワ、ワタシハアヤシイモノデハアリマセン。イシャデス。ホラ、コノトオリ」
そう言いながらコートの前をはだけ、白衣を見せようとする。
「ひ、ひいッ!? へ、変態ーーーッ!!」
その人影の反応は至極当然なものであっただろう。
突然、暗がりから駆け寄ってきた、甲高い声の男が、コートをはだけながら迫ってくる。
その時のブラック・ジャックは、まさに露出狂以外の何者であっただろうか。
恐怖に引きつった表情を浮かべながら、人影はもと来た方へと逃げていった。
彼はその後を追おうとするが、すぐに諦めることになる。
「ハ、ハヤイ……ナンテイウアシノハヤサダ!?」
その人影の足の速さは尋常ではなかった。
まるで短距離アスリートのような……。
肩で息をしながら、人影の去っていった方角を見つめる。
そして、ピノコの事を思い出し、振り返る。
そこには追ってきたピノコの姿があった。
「ピノコ! オマエ、ナンテコトスルンダ! タダノツウコウニンニ……!」
「キャーッ!! また出たのよ……アッチョン……ブリ……ケ……」
がくり、と気を失うピノコ。
カツラは脱げかけ、息も切れ、白衣の上にコートを着てマスクを付け、ヘリウムガスで甲高くなった声。
口裂け女を追ってきたピノコが気を失った理由は、明白であった。
その後、彼は変装道具一式とピノコを風呂敷に包んで帰宅することになる。
早くヘリウムガスを体内から追い出すため、深い呼吸をつきながら……。