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[33841] 【ブラック・ジャック二次】 ×巨人の星「よみがえれ! オズマ」第三話追加
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:e91e7acd
Date: 2013/05/12 05:43
ブラック・ジャック単品、もしくは他作品とのクロスオーバー作品を書いていこうと思っています。

医療の描写などは現実のものと異なる場合が多々あると思われます。
(原作でも鳥人間とか出てくるのであくまでもファンタジーとしてご理解下さい(;・∀・))



[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 まえがき
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:38
このところ、「口裂け女」というものが出没するらしい。
そんな噂を聞いたピノコは、正体を突き止めようと目論むものの、
ブラック・ジャックに制されてしまう。
さて、口裂け女の正体とは一体……?




[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その1
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:38
「ねえねえ、先生!」

前髪を切り揃えた、人形のような女の子が呼びかけた。
診療所だろうか、医薬品や医療器具がそこかしこに並んでいる。
その視線の先には、右半分の髪が白く染まった男がいた。
よく見ると、顔の左半分の皮膚の色が濃くなっている。
その男は、気だるそうに声だけで返事をする。

「なんだ、ピノコ。おやつはさっき食べただろう?」

この男の名を、間黒男(はざま くろお)と言う。
天才的な医療の腕前を持ちながら、様々な経歴により医者の免許を剥奪された後も、
法外な報酬を要求しながら医療行為を続けている。
つまりは、モグリの闇医者というわけだ。

人は、彼のことを「ブラック・ジャック」と呼ぶ。

「先生、近所のこどもに聞いたんだけど、
さいきん、くちさけ女っていうのがでゆらしいのよ。
ピノコがしょうたいを突きとめてやりたいのよさ」

「やめとけやめとけ。そんなのがいるわけないだろう。
大方、子供に夜遊びをさせないために大人が考えたデマさ。
まったく……誰かさんみたいに、要らぬ考えを持つ子供もいるだろうに」

後半はピノコと呼ばれた女の子に聞こえないよう濁して言ったつもりであったが、
残念ながら、彼女の耳にはしっかりと伝わってしまったようだ。

「なによそれ! ピノコがこどもだッていうの!」

顔を真っ赤にして膨れるピノコ。
その様子を見て、ブラック・ジャックは
「まるで、この前食べたフグのようだな」
と思い、吹出しかけてしまった。
しかし、そこで吹き出してしまうと余計に面倒なことになるというのを彼はわかっている。

「別にピノコがそうだ、とは言っていないだろう。
それとも何か? ピノコは、子供だましの『口裂け女』なんてものを信じてしまうような、
かわいらしい子供だったのかな?」

「べ……べつに……ピノコ……くりさけ女なんて……ちんジてないのよさ! おとなやもん!」

そう言って、不機嫌そうに部屋から出ていくピノコ。
「上手くいった。やはり、まだまだ子供だな」
今度こそ聞こえないよう心の中でつぶやくと、ブラック・ジャックは紙巻タバコに火を付けて、ため息と共に紫煙を吐き出した。

「幽霊なんて怖いものか……。本当に怖いのは、人間だ……」


その後、書類の整理を終え、夕食を済ませたブラック・ジャックが部屋に戻り、一息付いていると
だれもいないはずの裏口の方から、物音が聞こえてきた。

「まさか、泥棒でも入ったか? 金目の物なんてありはしないというのに……」

しばらく身を潜めていると、今度は玄関を開けて出て行く音がした。

「やれやれ、一体なんだというのだ。血を見ることにならないといいが」

医療用メスを構えて、彼は裏口の方へと向かった。
数々の修羅場をくぐってきた彼からすれば、ただの物盗りなど相手ではない。
だが、面倒であることには変わりはない。
しかし、その心配は杞憂に終わることとなる。

「ははァ、そういう事か……。やはり、子供だな……」

裏口付近の物置からは、ヘッドライト、ナベのフタ、すりこぎが無くなっていた。
3つの道具で完全武装したピノコを想像して思わず笑みがこぼれたが、
その笑みは消え、すぐに厳しい表情に戻る。

「あれほど、暗くなってから一人で出かけてはいけないと言ってあるのに……。
今日はひとつ、懲らしめてやるとするか」

口の端を歪めて笑う。
これは、彼がよからぬ事を思いついた時のクセである。
今、彼の頭の中はピノコを驚かすことで一杯になっていた。

何やら倉庫をあさっていたかと思うと、やおら立ち上がる。
その手には、古めかしい白衣と、長髪のカツラ、マスク、それに混合ヘリウムガスの缶があった。
それらを風呂敷に包み込むと、彼はピノコの後を追う。
ピノコの行動範囲は把握しているので、どこへ行ったかの見当は付いている。

「せいぜい……」

通学路がいいところだろう、と彼は考えていた。
通学路は、昼間こそ開けていて見通しが良いものの、
夜はその広さが仇となり、街灯の光だけでは道を照らし切ることが出来なくなってしまっている。
役所が怠けているのか、ところどころで街灯が切れかかっていて、より一層寂しさを醸しだしていた。
いかにも何かが出そうな、そんな鬱々とした雰囲気さえ感じられるような……。

「さて、ピノコの足を考えるとこの辺りが適当か……おっと」

そう言って道の端にしゃがみ込む。
黒いコートに黒いズボンを履いた彼の姿は、注意して見なくては見つけることは出来ないだろう。
ちょうど街灯と街灯の間ということもあって、彼は暗闇とほぼ同化していた。
その視線の先に、懐中電灯の明かりが見えた。
明かりの高さとしては手持ち懐中電灯くらいの高さであるが、その明かりは落ち着きなく周辺を照らしだしている。
言うまでもなく、ピノコであろう。
キョロキョロと首を動かすたびに、彼女のヘッドライトも同じ方向を向くのだ。

彼は風呂敷を解くと、古めかしい白衣、長髪のカツラ、マスクを着けた。
傍からみると、まさしく、

「口裂け女……」

とでもいうような風体である。
そう、彼はこの格好でもってピノコを脅かしてやろうという魂胆であるのだ。
もちろん、後でネタばらしはする、という前提であるが……。
ネタばらしをしなくては、近所の子供にピノコが有ること無いこと吹聴してまわる、というのは想像に難くない。
あくまで彼の目的は、彼女への懲罰という名目でのドッキリなのである。
バレてはいけないと思い、彼は白衣の上にコートを纏い、彼女が近づいてくるのを待った。

「よし、そろそろか」

彼は混合ヘリウムガスを取り出すと、それを一杯に吸い込んだ。
一言、二言声を出してみる。
某アヒルキャラクターのような声に思わず笑ってしまうが、笑いを押し込める。
ニコニコ笑っている口裂け女なんて、聞いたことがない。
あとはタイミングを見計らってコートを脱ぎ捨て、彼女を追いかけるだけである。
追いつくか追いつかないか、適当なスピードで……。

さあ飛び出そう。
そう思った瞬間である。
彼の後ろから、軽快な足音が聞こえてきた。
思わず後ろを振り向くと、ランニング中であろうか、駆けてくる人影があった。

まいったな。そう思った彼は、とりあえずその人影をやり過ごすことにする。
幸い、未だに全身黒ずくめのままであった。
こうしてうずくまっていれば気づかずに通りすぎてくれるだろう……。
そこまでの判断は正しかった。しかし、予想外のことというのは、いつも突然に起こるのである。

「キャーッ! くしさけ女なのよーッ!」

ハッとして彼は声の聞こえた方向を見る。
そこには、必死ですりこぎを振るうピノコと、後ずさる人影があった。

「でたのよーッ! ピノコがこらちめてやるンだからーッ!」

迫力に押されたのか、戸惑ったように人影は引き返してくる。

「あのバカ……ただの通行人に、なんてことをッ」

心のなかで呟き、彼は戸惑う人影に近づき、声をかける。

「ダイジョウブデスカ!? ワタシハ、コノコノホゴシャデス。ピノコガタイヘンシツレイナコトヲ……」

そこまで言って、彼は思い出す。
今、彼の肺を満たしているのは、変声用の混合ヘリウムガスであったことを……。

「ワ、ワタシハアヤシイモノデハアリマセン。イシャデス。ホラ、コノトオリ」

そう言いながらコートの前をはだけ、白衣を見せようとする。

「ひ、ひいッ!? へ、変態ーーーッ!!」

その人影の反応は至極当然なものであっただろう。
突然、暗がりから駆け寄ってきた、甲高い声の男が、コートをはだけながら迫ってくる。
その時のブラック・ジャックは、まさに露出狂以外の何者であっただろうか。
恐怖に引きつった表情を浮かべながら、人影はもと来た方へと逃げていった。
彼はその後を追おうとするが、すぐに諦めることになる。

「ハ、ハヤイ……ナンテイウアシノハヤサダ!?」

その人影の足の速さは尋常ではなかった。
まるで短距離アスリートのような……。
肩で息をしながら、人影の去っていった方角を見つめる。
そして、ピノコの事を思い出し、振り返る。
そこには追ってきたピノコの姿があった。

「ピノコ! オマエ、ナンテコトスルンダ! タダノツウコウニンニ……!」

「キャーッ!! また出たのよ……アッチョン……ブリ……ケ……」

がくり、と気を失うピノコ。
カツラは脱げかけ、息も切れ、白衣の上にコートを着てマスクを付け、ヘリウムガスで甲高くなった声。
口裂け女を追ってきたピノコが気を失った理由は、明白であった。
その後、彼は変装道具一式とピノコを風呂敷に包んで帰宅することになる。
早くヘリウムガスを体内から追い出すため、深い呼吸をつきながら……。














[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その2
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:38
ピノコが目を覚ましたのは翌日のことであった。

彼女は口裂け女二人に出会ったことをブラック・ジャックに話すが、
彼はそれを一笑に付した。

「ピノコ。お前が見たっていう口裂け女は、こういう髪型で、こういう服装で、」

ここまで言って、一瞬だけ混合ヘリウムガスを吸い込む。

「コンナコエジャ、ナカッタカナ?」

「そうよ! 先生よくちってるわね……って、あれェ?」

ふう、と一息付いてから答える。

「そう、お前が会ったっていう口裂け女、ありゃ、私だ」

「そうなの……でも、どうちて?」

「お前が私の言いつけを守らずに、一人で夜中に出かけたからな。お仕置きだ」

「でも、でも! もう一人は、たしかに、くちだけ女だったのよ!」

「お前……ありゃ、ただの通行人だろうが。そんな事を言っては、失礼だぞ」

「でも! 本当に口がさけていたのよ! それに足だってすっごく速かったし……」

「そうかい。確かに足は速かったな。あれだけ速いのなら、近所の人に聞けば、住所がわかるだろうか?
一度訪ねていって、謝りたいからな」

「だめよーッ! 今度会ったら、きっと先生たべられちゃう!」

「ばかもの。だったらどうして昨日お前は無事だったんだ? 見つかったら、お前も一緒に謝りにいくんだからな」

ぶつぶつ言うピノコを無視し、彼は知り合いの接骨院に電話をかけだした。

「ああ、先生、私です。……すみません、この辺りに、とても足の速い人……そう、女性です。
もしご存知でしたら……そう、ご存知ない……。そうですか、ありがとうございます」

「あれだけ足の速い人なら、接骨院を訪れることもあると思ったが……。
まあ、個人情報がどうたら、かもしれないしな。おい、ピノコ。お前も、近所の人に会ったら、それとなく聞いておいてくれ。
おっと、口が裂けても、口裂け女を探してる、だなんて言わないようにな?」

「わかったのよさ……でも、本当に口がさけていたのよ……」

「わかったわかった。光の加減でそう見えたんだろう。ほら、朝飯にするぞ」

手早く朝食の支度を済ませる。
彩りも鮮やかな朝食を見て、ピノコの表情が明るくなった。

「先生、きょうの朝ごはんはずいぶんとごうかなのね!」

「ああ、だが、これを食べるには一つだけ条件がいるんだ。出来るかな?」

「できるできる! ピノコ、先生のオムツレのためならなんだってするのよ!」

それを聞いた彼は表情を引き締め、真剣な口調で言った。

「約束してくれ。もう絶対に、夜中に一人で出歩いたりしないな? 前も言っただろう?」

ピノコが息を呑む。目と目が合う。
その目をそらさずに、彼女は言う。

「約束……するのよ……。もう夜中に出かけたりしないの……」

「よし。それともう一つ。私に言うべきことがあるだろう?」

「……ごめんなさい……」

満足そうに彼は頷く。
結局、彼はピノコのことが心配なのだ。
たった一人の助手であり、たった一人の家族。
そのピノコが素直に謝ってくれるだけで、実の所、満足なのである。

「よしよし。それじゃあ食べようか。今日のオムレツには、チーズも入ってるぞ」

「わーい! だから先生、ちゅきなのよーッ。あいしてゆ!」

やれやれ、と苦笑しながらも、彼の口元には紛れも無い笑みが浮かんでいた。



一週間ほど経って……。
ブラック・ジャックが休憩がてらコーヒーを淹れていると、
道路の方からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。
大人のものではない、軽く、細かな足音。
駆けてくるのは、子供だ。それも二人。
一人はピノコだろうが、もう一人は誰だ……?
彼がそう考えているうちに、玄関が開いた。

「先生ー! 先生ー!」

ピノコが、ブラック・ジャックを呼ぶ。
声のトーンからして、別段、事件があったという訳ではないらしい。

「先生ー! いないのー!? お客様よーッ!」

おやおや、子供のお客様とは珍しい。
そう思いながら、ブラック・ジャックは書斎から顔を出した。

「あ、先生! いるなら返事ちてよね!」

「こ、こんにちは」

一人はピノコ。もう一人は……やはり、子供だ。
しかし、見覚えは無い。
頭を丸刈りにし、よく陽に焼けた肌。
いかにも活発という風体の、小学生であろう男の子が、緊張した面持ちで立っていた。

「やあ、こんにちは。何か用かな?」

ブラック・ジャックは、笑顔で迎える。
しかし、彼の面容は子供からすると、いささか恐ろしげであったらしい。
顔を大きく横切る手術痕、そして手術痕を境に、色合いの異なる皮膚。
ブラック・ジャックを見た男の子の表情が、一瞬こわばる。
痕を治せない訳ではない。治そうと思えば、すぐにでも治せる。
しかし、それをしないのは、皮膚を提供してくれた友人への敬意のため。
恥とは思っていない。むしろ、誇りにさえ思っている。
しかし、子供に緊張を強いてしまうのは、事実であった。

「大丈夫よーッ! 先生は、ちゅっごく優しいんやから!」

お顔はちょと怖いけどね、と付け加えてピノコが言う。
顔は余計だ、としかめっ面を浮かべる「ちょと顔の怖い」男。
その様子が面白かったのか、男の子に笑顔が浮かぶ。
しかめっ面を浮かべてはいたが、ブラック・ジャックは

「こういうところが、助かるのだ」

と、内心ピノコに感謝しているのであった。
ごほん、と咳払いを一つしてから、男の子に向き直る。

「さて、私に何か用があるみたいだが、何かね?」

「あ、あのう……人を探しているって、ピノコちゃんから聞いて……」

「ふむ……君が言っているのは、もしかして、足がすごく速い人の事かな?」

ちゃん、と呼ばれて「ピノコちゃんじゃないのよさ! ピノコお姉さんなのよさ!」と駄々をこねるピノコを無視して、
ブラック・ジャックは「口裂け女」の事を思い返していた。

「そう! そうです、奈美お姉さんの事……だと、思います」

「ふむ、奈美、お姉さん、ねえ」

それから、いくつかの事を聞いた。
男の子の名前が、宗太であるという事。
走るのが大好きだという事。
速く走るための走り方を教えてくれた人がいるという事。
その人は奈美という名前である事。
奈美という人は、とんでもなく足が速いという事。

……ここ一年ほど、奈美お姉さんと会っていないという事。

「奈美お姉さんという人が、引っ越していったという事は無いのかね?」

「そんな事ないはずだよ! だって、お姉さんが走る時に着ていた運動着が、干してあるのを、昨日も見たもん!
家に行ったこともあるんだけど……いつも『奈美はいない』って、おばさんに言われるだけなんだ……」

運動着というのはジャージであろうか、トレーニングウェアであろうか。

「そう……か。干してあるのを見た、という事は、君は『奈美お姉さん』の家を、知っているんだね?」

「うん。奈美お姉さんの家はね……」

その家は、思ったよりも近かった。
今からでも、菓子折りを買って訪ねることくらいは出来るだろう。

「わかった。私は用があって、奈美お姉さんの家に行かなくてはいけないんだ。
君のおかげで助かったよ。もし会えたら、君がとても心配していて、ぜひ会いたいと思っていると、伝えておくよ」

きっとだよ、と言って、男の子は帰っていった。
その足には、小学生が履くにしては高そうなスニーカー。
よほど走るのが好きなのだろうか。
たっ、たっ、たっ、と軽快なリズムを立てて男の子は駆けていく。
このリズム、あの時聞いたリズム……『口裂け女』のリズムと、似ているな。
ブラック・ジャックはそう思って、笑みを浮かべた。

「先生! 行くんでちょう? 早くちまちょうよゥ」

「まあ、待て……せっかく美味しいコーヒーを淹れたんだ、酸化させてしまっては勿体ない。……ピノコも飲むか?」

「イヤ! ピノコ、その苦いの、キラいなのよ!」

「そうかそうか。それなら、私が飲み終わるまで、待っていてくれ。ん、なんだ、お前、だいぶ土で汚れてるじゃないか。着替えてこい」

「うン、わかったのよ。先生、のじょいちゃ、ヤーよ!」

やれやれ、と芝居めかして肩をすくませると、ピノコは思いっきりアカンベーをして部屋へ向かった。
さて、「奈美」は果たして「口裂け女」なのだろうか……?
もし人違いなら……その時は、その時だ。
買っていく予定の菓子折りが、おやつの時間を少しだけ豪華に彩るだけなのだから。
少しだけ冷めたコーヒーを流し込み、「奈美」の家へと向かうブラック・ジャックとピノコであった。

もちろん、菓子折りを買うのも忘れずに。













[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その3
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:39
「奈美」の家まで、それほど時間はかからなかった。
全身黒ずくめの男と、小さな女の子。
いかにもアンバランスな取り合わせであったが、
その不釣り合いさが、なぜかしっくりくるものを感じさせていた。

「先生、おちょイわよ! 置いてくわよ!」

「待て、待ってくれ。ピノコ……走るこたァないだろう?」

そもそも、誰かさんが自分の分のお菓子も買ってくれと駄々をこねて……
しかも、そのお菓子を悩みに悩んだから遅くなったわけで……
ぶつぶつ言っているブラック・ジャックを尻目に、ピノコは駆けていく。

わかりやすい、緑色の屋根が特徴の家だった。
宗太に聞いていた通りの表札。
さて、どう声を掛けようかと悩んでいると、ピノコの指がインターフォンに伸びた。
……が、伸びただけで、届きはしなかった。
脇の下に手を回し、ピノコを抱え上げる。

「さて……ピノコ、『奈美お姉さん』が出てきたら、きちんと謝るんだぞ」

「わかってゆのよ! ピノコ、約束は守ゆのよ!」

頷いて、ドアが開くのを待った。……が、人の出てくる様子は無い。
もう一度インターフォンを押してみるが、同じだった。

「……先生、留守なのかちら?」

「いや、違う。人の気配はある……衣擦れの音も、かすかだが」

「じゃあ、なんで出てこないの?」

「さて、な。ウーム、怪しい訪問販売かなにかと思われているのかもしれん」

先生がそんなカッコしてるからよ、とピノコが悪態を付く。
確かに、黒ずくめとも言えるブラック・ジャックの格好は、怪しいか怪しくないかと問われれば、
ほとんどの人間が「怪しい」と答えるような格好であった。
もっとも、本人にその自覚は全くもって無いのだが……。

「あー、もうッ。こうなったらちかたないわ」

シビレを切らしたのか、ピノコがドアを叩き始めた。

「奈美お姉さんーッ。ピノコ、怪しくないのよ! 宗太くんの友達なのよ!
先生もこんな格好だけど、怪しくなんかないのよーッ!」

ドアを叩きながら、ピノコが呼びかける。
よせッ、とブラック・ジャックがピノコをドアから引き剥がす。
すると、ドアの鍵を開ける音が聞こえた。

「何の……ご用でしょう?」

ドアを少しだけ開け、用心深そうに様子を伺う女性。
その口元には、白いマスク。花粉の時期でもないというのに、大きめのマスクが、その女性の口元にあった。

「どうも、こんにちは。私は、間と申します。ブラック・ジャックと呼ばれています。
こっちはピノコ。いや、実はですね……」

話に聞いていた「奈美お姉さん」だろう。「おばさん」にしては、若い。
ブラック・ジャックは、ゆっくりと経緯を話した。

「それにしても、『口裂け女』なんて、失礼なことを……。
ほら、ピノコ、謝るんだ」

「ごめんなさいなのよ……ピノコがわゆかったのよ」

可愛らしい仕草で頭を下げるピノコ。
それをじっと見つめる「奈美お姉さん」。

「いや、しかし申し訳ない。まったく、『口裂け女』なんているはずもないというのに」

はっはっは、と笑い飛ばすブラック・ジャック。
しかし、それを見る「奈美お姉さん」の瞳は、暗く沈んでいた。

「ところで……宗太くんから言伝てなのですが……
ぜひあなたにお会いしたい、と。また一緒に走りたい、と」

寂しがっていましたよ、と付け加える。
それを聞いた「奈美お姉さん」の表情は、やはり、暗いまま。

「そう……ですか。宗太くんが……。
ですが、お伝え下さい。奈美はもういない、と。会うことは出来ない、と……」

不思議そうな視線を向ける、ブラック・ジャックとピノコ。

「……失礼ですが、あなたが『奈美お姉さん』ではないのですか?」

「あの子の知っている『奈美』は、もういません。そうお伝え下さい」

「ですがねェ、私は宗太くんに約束したのですよ、『奈美お姉さんに伝える』と。
せめて『奈美お姉さん』がもういない理由だけでも、教えてもらえませんか?」

「奈美お姉さん」は、俯いたまま答えない。
ブラック・ジャックが困っていると、ピノコが割って入った。

「先生、だめよォ。あんまり困らせちゃ。何か理由があゆのよ。
ほら、マスクしてゆのよ。何かの病気かもしれないのよォ」

ピノコは「病気かもしれない」と言ったが、それは無い、とブラック・ジャックは考えていた。
宗太は、もう一年ほど「奈美お姉さん」には会っていないという。
それほど長引く病気を抱えながら、深夜のランニングはまず無理であろう……。
その考えは、思わぬところから肯定されることとなった。

「病気なんかじゃ……ありません」

絞りだすような声。

「病気なんかじゃありません……病気なんかじゃ……」

呪詛のように、繰り返す。
ただならぬ様子の「奈美お姉さん」に、声をかける。

「ああ、病気ではないでしょうね。少なくとも、深夜に走れるくらいには、健康なはずですからね」

はっ、と顔を上げる「奈美お姉さん」。

「ですが、私はあの子に約束してしまったのです。「奈美お姉さん」に、必ず、伝えると。
せめて、会えない理由だけでも、お聞かせ願えませんか? そうでなくては、私はウソつきになってしまう」

どうしても、とは言いませんがね。そう付け加えた。
しかし、「奈美」の表情は硬いまま。
これは参ったな……そう思い始めたところで、ブラック・ジャックと「奈美」の間に、ピノコが割って入る。

「奈美お姉さん! 先生は、凄い先生なのよォ! きっと悪いようにはちないんだから、
お話してみるといいと思うのよ!」

ぱたぱたと両腕を上下させながら訴えかける。
その姿に、ふと「奈美」の表情が柔らかくなる。
警戒心しか感じられなかった瞳に、優しげな光が灯る。
人のささくれ立った気持ちを落ち着かせ、いとも簡単に笑顔を導き出す。
ピノコはそういった資質に長けていた。
それこそ、ブラック・ジャックがなかなか持ち合わせることの出来なかった、
医者として欠かすことの出来ない要素である。

もちろん、ブラック・ジャックはいわゆる「悪い人間」ではない。
しかし、ピノコのように屈託のない笑顔で人の心に入り込むことが出来るかと言われれば、
それはなかなか難しい相談であろう。
医療の心得こそ乏しいものの、ピノコの存在は、そういった患者や他人とのコンタクト面において
ブラック・ジャックにとって非常に頼もしい存在なのであった。
そう、ピノコはいつも、凍りかけた人の心をいとも簡単に溶かし始める。
本人がそれを意図して行なっているのではないというところも、ブラック・ジャックにとっては好ましいところであった。

「それに、ピノコだってちからになるのよォ! まかちぇて!」

自らの胸を叩くピノコ。
当人としては精一杯の威勢を示したつもりであろうが、
ゆうにピノコよりも頭二つは身長のある「奈美」から見ると、
それは小動物が精一杯体を広げて威嚇している様子にも見えたのだろうか。
思わず、吹き出してしまい、申し訳なさそうな表情で謝る。

「ご、ごめんなさい……」

しかし、ピノコは怒った様子もなく、微笑む。

「アーッ! やっと笑ったのよォ! むっつりしてるより、わらってる方が、なんばいもすてきなのよ!」

なんばいも、すてき。
その言葉を聞いた瞬間、「奈美」の顔が、また、強張る。
しかし、次の瞬間には、笑顔でピノコを見つめる。
その笑顔は、先程思わず笑ってしまった時の笑顔に比べて、硬い。

それを見ていたブラック・ジャックは、「奈美」の抱えている問題について、
何か閃いたような表情を浮かべる。

「ところで……」

「奈美」とピノコ。
二人がブラック・ジャックに視線を移す。

「宗太くんに会えない理由……
そして、あなたが昼間に殆ど外出しない理由を、教えてはいただけませんか?
私は、出来れば、あなた自身から聞きたい」

ブラック・ジャックの瞳が真剣味を帯びる。

「あなたは常人を凌駕する脚力を持っている。
未だなお鍛錬を欠かしていないということも、私にはわかる。
そこにあるランニングシューズ……その乾いていない汚れは、明らかにここ数日についたものだ。
それに、体型も鍛え込まれている。ただの運動好きというには、締まりすぎているほどに。
明らかにアスリートレベルの運動をこなしているとしか思えない。
それなのに全く日焼けしていない。まるで陽の光を浴びるのが嫌だとでも言わんばかりに、真っ白だ。
……まあ、私が思うに、あなたが浴びたくないのは、太陽の光ではないのではないか、と思うのだが……」

ブラック・ジャックの視線を受けて、「奈美」は目を伏せる。
マスクに覆われて確かにはわからないが、戸惑っている様子も伝わって来る。

「……あまり女性を追い詰めるのは私の趣味ではない。
出来れば、こちらから指摘するようなことは、したくないのですが……」

そこまで聞いて、「奈美」は背を向ける。
一瞬、ブラック・ジャックの眉根に皺が寄る。

「玄関ではなんですから、どうぞ、中へ……」

そう告げられ、ブラック・ジャックは手荷物を少し高く上げ、笑ってみせる。

「ところで『奈美』さん、和菓子はお好きですか?
お口にあえば、よろしいのですが」


































[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その4
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:39
水が、沸点に達したということを知らせるために、ヤカンを鳴らす。
茶碗に一度お湯を空けてから、急須に注ぎ直す。
そうすることにより、日本茶に最も適した温度までお湯を冷ますことが出来る。
と同時に、適量を注ぐことも出来る。

ちょっとした生活の工夫を見ながら、ブラック・ジャックは一つのことに気づいた。
茶碗が、二つしか用意されていない。
一つは……大きさからすると、ピノコのものだろう。
ではもう一つは? 男性的な色合いからすると、ブラック・ジャックのために用意されたものであることが伺える。
いや、それよりも、奈美という女性は、礼儀に欠けた人間とは思えない。
そんな人間が、わざわざブラック・ジャックにだけ、お茶を出さないなどということは考えられない。
つまり、奈美は、自分の分のお茶を淹れていないということになる。

「やはり……私の推測通り、のようだな」

小さな、誰にも聞こえないような呟き。
少しして、ブラック・ジャックとピノコの前に、茶碗が並べられた。

「あれ? お姉さんのぶんが、ないのやよォ」

「いえ、私は……」

「ピノコ。人には、色々と事情があるものだ。そうだろう?」

色々と。
その部分だけ、含みを持たせて言う。
ブラック・ジャックと、奈美の視線が合う。
全てを見透かしているかのようなブラック・ジャックの瞳。
奈美は、はっとした様子で俯いた。

「さ、茶が出過ぎてしまいますよ。私はともかく、ピノコにとっては、少しばかり苦くなってしまうのでは?」

冗談めかして言うと、奈美は慌ててお茶を注ぐ。
二つの茶碗の濃さが均一になるように、交互に。
そうして入った深蒸し茶を、ブラック・ジャックとピノコは音を立ててすする。

「ム……これは美味い。茶葉と水……何より、淹れ方が良いのですね、エグ味が全く無い」

「ホントなのよさ! こんなに美味しいお茶、初めてよ!
先生のいれる、黒くてニガいのとは大違い!」

そりゃ、緑茶とコーヒーじゃ味が違って当たり前だからな……。
そう思いながら、ブラック・ジャックは手荷物の紙袋をテーブルの上に乗せる。
趣きのある紙袋には、ピノコの選んだ和菓子……。
色とりどりのどら焼きや金つばが入っていた。

「やはり、緑茶には、和菓子だ。そう思いませんか?
ここの和菓子は、実に美味いのですよ。お茶好きには、こたえられないほどに。
大丈夫です。我々は、驚いたりはしませんよ」

無理にとは言いませんが、と付け加えて言う。

「……なぜ、私が、お茶好きだと思うのですか?
和菓子をお持ちしたお客様に緑茶、というのはごく普通のことではないでしょうか……?」

「茶渋、ですよ」

ブラック・ジャックは、指を一本立てて続ける。

「見たところその急須はまだ新しいものです。
ですが、注ぎ口に茶渋がかなり付いている。
そういう使い込んだような茶渋が付くには、かなりの回数、茶を淹れなくてはいけないでしょう。
それほど茶を淹れている人が、お茶好きでないというのは考えにくい。
お茶好きなのは家族の誰か、という可能性もありますが、そういったデザインの急須……。
ピンク色の、動物の柄が付いた急須は、多分に若い女性の趣味。
つまり、あなたの急須ではないか、と思ったのですが、いかがでしょう」

「……おっしゃる通りです。よくわかりましたね」

「なに、私も自分でコーヒーを淹れるのが好きですからね。
コーヒーの色素も、なかなか厄介なもので。茶渋も、似たようなものだと思ったのですよ」

「ブラック・ジャックさんには、もう見抜かれているようですが……。
ですが、そちらの、ピノコちゃんを、驚かしてしまわないでしょうか……?」

奈美は、怖がって……いや、怯えていた。
マスクの下を見られることよりも、見られた後、どう思われるか。なんと言われるか。
子供の純粋な視線と感想は、時に残酷であるがゆえに……。

「なに、このピノコは私の助手でしてね。この前は辺りの暗さも手伝って驚いてしまったようですが、
きちんと説明すれば、ちゃんと理解出来る程度には、出来た助手ですよ」

「そうなのよさ! ピノコは驚いたりしないのよ!
このお茶、すっごく美味しいのに、お姉さんと一緒に飲めないのは、嫌なのよ!」

そういうと、小さな茶碗に注がれたお茶を、二息ほどで飲み干す。
あや、なくなっちゃッたのよォ。
そう言って茶碗を覗きこむピノコを見ると、奈美はもう一度ヤカンを火にかける。
そして、食器棚から、急須とお揃いの茶碗を取り出した。

「お湯が沸くまで……少し待っててね、ピノコちゃん。
私の分も沸かすから、さっきより時間はかかっちゃうけど」

顔を見合わせて、ブラック・ジャックとピノコは笑う。
三人で飲むであろうお茶は、二人で飲むお茶よりも、ずっと美味しいはずだから。

★★★★★

ヤカンが、二度目の汽笛を鳴らす。
奈美は手際よく、自身には一杯目の、二人には二杯目の茶を淹れる。
二杯目の茶は緑茶ではなく、香ばしい香りが特徴のほうじ茶であった。
それも、出来合いのほうじ茶ではなく、今まさに焙じ器で焙じたばかりの茶葉を用いた、本式のものである。

「和菓子には緑茶も良いですが……私は、焙じ茶でいただくのも良いと思います」

ブラック・ジャックとピノコの前に並べられた茶碗の中には、琥珀のような美しい色彩の焙じ茶が揺らめいていた。

「ほう、焙じ器ですか。本当にお茶が好きなのですね。
簡易的に和紙で焙じることも出来ますが……やはり、焙じ器だと気分も出ますね」

焙じ茶を一口すする。
鼻孔を鮮烈な香りが通り抜ける。
新たな味覚を受け入れるのに最適な状態へと、口内がリセットされる。
和菓子の甘味をいっぱいに感じ、また焙じ茶で洗い流す。
幸福の連鎖を、ブラック・ジャックとピノコは満喫していた。

「ふむ……良い菓子と、良いお茶の出会いというものには、日本人として感謝しなくてはなりませんな」

「先生……ピノコ、夕ご飯が食べられなくなッても、後悔なんてしないのよ……」

二人と湯気を立てる茶碗を交互に見つめ、奈美はマスクに手を掛ける。
しかし、決心が付かないのか、その手は固まったように動かない。

「さあ、冷めないうちにいただきましょう。淹れたあなたが一番よくわかっているとは思いますが、
このお茶、冷めさせてしまうには惜しい」

苦笑いを浮かべ、一つ大きな息を付くと、奈美はゆっくりとマスクを外した。
その下に隠されていたのは……。

「……医療ミス……ですか」

マスクの下の口元には、引きつれたような手術痕。
手術痕だけでなく、実際に両の口元が吊り上がっていた。
それを無理やり治そうとしたものであろうか、下顎のあたりは不自然に縫い合わされ、
自然と口が半開きになってしまうといった様相である。
それはまさに、『くちさけ女』と呼ぶほか形容しようのない状態であった。

「一体どこで……いや、聞くまい……。
さ、お茶をどうぞ」

微かに震える奈美。
ブラック・ジャックの知る限り、日本国内でここまで適当な術式を行う医者は見たことが無かった。
非合法な病院ならともかく、きちんとした医者ならばこんな適当な手術を行うはずがないと断言出来るほどに、ひどいものであった。

「お姉さん……」

奈美が顔を上げると、そこには涙を瞳いっぱいに溜めたピノコの姿。

「くちさけ、女、だなンて、ひどいこと、いって、ほンとうに、ごめん、なさい……。
ピノコ、ピノコは……ひどい、こと……」

ピノコの頭を撫でると、奈美は優しげな口調で言う。

「いいのよ。泣かないで、ピノコちゃん。
さ、一緒にお菓子を食べましょう」

その慈愛に満ちた表情は、『くちさけ女』などとはかけ離れたものであった。
涙と鼻水を垂らしながらどら焼きを頬張り、喉を詰まらせかけるピノコに、慌てて焙じ茶を差し出す奈美。
それを見て、ブラック・ジャックはハンカチを取り出す。

「ほら、ピノコ。それじゃあ、どら焼きの味なのか鼻水の味なのかわからんだろう」


★その7へ続く

































[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その5
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:39
「美味しい……!」

どら焼きを一口食べた奈美が、誰にともなく呟く。

「そのどら焼きは私のお気に入りでしてね。
甘みが口に残らず、スッと引いていく。
使っている砂糖が特別なのか、他に秘密があるのかは知りませんが。
ま、とにかく、美味いものですよ」

美味しい食べ物には、人の心を解きほぐす効果があるという。
商談は美味いものを食べながらにせよ、という言葉もあるように……。
満腹は等しく人間に幸福感を与え、美味は等しく人間に安らぎを与える。

奈美が和菓子に手を伸ばすたび、ブラック・ジャックも和菓子に手を伸ばす。
奈美が茶碗に手を伸ばすたび、ブラック・ジャックも茶碗に手を伸ばす。
この「仕草を真似る」というのは「ミラーリング」と呼ばれるもので、
相手に安心感や親近感を与えるというものである。
もちろん、相手がそのことに気付いたり、ミラーリングそのものを知っていたりすると効果は無いのかもしれないが……。

ひととき、お茶と和菓子をくさびにした、心地良い時間が流れる。
奈美とブラック・ジャックがお茶を飲み終わるのは、ほぼ同時であった。

「そう言えば……」

ブラック・ジャックは話し出す。
そう。ブラック・ジャックが奈美を訪ねたのは、何もピノコが「くちさけ女」呼ばわりしたことを謝るためだけではない。

「宗太くんのことなのですが……会ってあげるわけにはいきませんかねぇ。
あの子は、その……傷跡を見て、あなたに対する態度を変えるような子供には見えませんが」

そうだろう? と、ピノコに相槌を求める。
当然のように、ピノコは大きく頷く。

「確かに、宗太くんは今の私を見ても、以前と変わらないように接してくれるでしょう。
……だからこそ、私は宗太くんに会いたくないのです。
私にとっての『今の私』は、以前とは違います……。
この顔だけでなく、私はもう以前の私ではないのです。
自分への自信を失い、疲れきった今の私を、あの子に見せたくない。
あの子の中の『奈美お姉さん』を、汚したくない……」

汚したくないんです、私は……汚したく……。
そう呪詛のように呟く奈美。

「ふむ……そうですか……。
ところで、その術痕……何か、大きな病気でも?
いや、違うな……私の知る限り、そんな風に切開する症状は見たことがない。
もし怪我だとしても、緊急治療でそこまでひどい傷跡が残るとは思えない。」

二十年以上前の時代ならともかく。
遠い目をして、言う。

「これは……ええ、病気ではありません。病気なんかじゃ……。
私の責任なのです。でも、するしかなかったんです……」

整形、ですか。
そう訪ねると、黙って頷く奈美。

「しかし、なぜ? 見たところあなたは、そんな大掛かりな整形手術を必要とするほど、
コンプレックスを持つような容貌だったとは思えませんが。
いや、理由なんてものは、人それぞれだというのは、わかっているのですが」

「私だって……特に、コンプレックスは持っていませんでした。
もちろん、もう少し鼻が高かったらな、目が大きかったらな、くらいは思っていましたが。
でも整形手術をしようと思うほど、強く思っていたわけではなかったのです」

「でしたら、なぜ……?
……すみません、性格上、つい突っ込んで聞いてしまうくせがありまして。
不快に思われたら、申し訳ない」

一瞬身を乗り出して訪ねるが、すぐに落ち着いた様子でブラック・ジャックは椅子に深くかけ直す。
奈美は、ブラック・ジャックに答えるというよりも、自分に言い聞かせるような口調で語り出した。

「私は、走るのが好きです。
走るのが好きで好きで、大学へはスポーツ特待生で入りました。
卒業して、実業団に入って、ずっと走り続けました。
そして、やっと世界大会の代表枠として選ばれるだけのタイムを出せたのです。
ですが、選ばれたのは私ではありませんでした。私にタイムで明らかに劣る、二位の子が選ばれたのです。
もちろん、私は会社に問いました。なぜ私ではないのかと。タイムや実績では、私の方が上ではないですか……と。
そう言ったら、会社の人間は、黙って札束を二つ、私に差し出して言ったのです」

『すまないが、我々も商売なのでね。君は辞退したということにしてくれたまえ。
……理由は、君にも、その……わかるだろう?
それで足りないというのであれば、もっと色をつけるから』

一文字に引き結んだ唇を噛む。息を吸い、吐く。

「二位の子は、新聞やテレビにも取り上げられるような子でした。
『美しすぎるマラソンランナー』とか、そんなような文句で。
……私よりも、彼女の方が、宣伝にはなるでしょう。
選考会や、小さな大会でさえ、ファンのような方々が観戦に来ていましたし。
それでも! それでも、私がすべてを賭けてきたスポーツの世界が、そんな外見で評価されるような世界だなんて、
私は思いたくありませんでした。
……でも、結果は残酷ですね。彼女が代表に選ばれたとたん、マスコミが押し寄せたり、
PRに使いたいと申し出る人が、会社に来るようになったのです。
商品も売れるようになりました。結果的に、商売として、会社は正しい選択をしたということになるのです」

「確かに、もはや世界大会は純粋なスポーツの祭典ではなく、利権にまみれたものとなってしまっているきらいもありますからね。
努力して努力して、最後の最後は利権がものをいう……最近も、ありましたなァ」

「代表から漏れて、私は、走りへの情熱が冷めていくのを感じていました。
それがたまらなく怖かったのです。今まですべてを賭けてきたものが、私の中から消えてしまう気がして。
今までの人生を、自分で否定してしまうような気がして……。
ですが、仕方がないじゃありませんか。どんなに努力しても、見た目で代表が選ばれてしまうのだったら、努力の価値を見失ってしまうのは……」

仕方がないじゃありませんか。
もう一度、自分に言い聞かせるように繰り返す。

「そこで、あなたは、『見た目』を変えようと思った。そういうことですか」

「はい、そうです。
見た目が同じレベルならば、タイムの速い方が選ばれる。
ならば、私は、見た目を変えてしまえばいい。そう思ったのです。
もちろん、親には大反対されました。出来ることなら、私だって、整形はしたくなかった。
でも、私にとって、走りというのはそれほど大きなものだったのです。
ですが……」

「ですが?」

「整形をするにも、まずお金でした。一部分の整形なら、会社が寄越したお金でなんとかなったのですが、
テレビに取り上げられるくらい美しく整形するためには、お金が足りませんでした。
少なくとも、日本では……」

日本では。
やはり、という表情でブラック・ジャックは奈美の言葉を聞いていた。
このところ、費用の安い外国で整形手術を行い、取り返しのつかないことになってしまう人間が多いとは聞いていた。
彼女もその一人だということは予想がついていたが、その予想はブラック・ジャックの中で確信となった。

「しかし、日本で施術するとしても、貯金してし切れない金額ではなかったでしょう。
なぜ、もう少し時期を待たなかったのですか?」

「私だって! 出来れば……日本国内で、施術を受けたかったです。
でも、時間が無かったのです。肉体はすぐに衰えてしまいます。
二年ごとにある世界大会に、あと何回挑戦出来るか。あと何年、ベストコンディションを保てるか。
そう考えると、一刻も早く施術を受けたかったのです……。
そして」

「そして、失敗した……」

「そうです。私は、すべてを失ってしまったのです。
……愚かだとは思っています。ですが、私には、それしかなかったのです」

「やりきれませんな……ですが、あなたはまだ、『すべて』を失ってはいない。
『すべて』を失った人間は、夜毎、走り込みを行ったりはしない。
先程も言いましたが、あなたの肉体は、私が見たところ一流選手のそれだ。
それこそが、まだあなたが走りを捨て去っていない証拠ではないですか?」

「そうよ! お姉さんすっごく速かったのよォ!
自転車よりも速く走ってたのよ! すごいのよ!」

ブラック・ジャックは、そんな様子のピノコを見て微笑を浮かべる。
奈美は複雑そうな表情。
それを見ながら、ブラック・ジャックはテーブルに肘を付き、拳の上にアゴを乗せ、問う。

「……ところで、あなたはその施術にいくら掛けたのですか?」

いきなりの質問に戸惑う奈美。
ややあって、思い出したくないものを思い出すかのように、答える。

「多分、三百万円ほど……です。
会社が寄越した二百と、貯金の百が、全部無くなりましたから」

「もしもう一度元の顔に戻れるとしたら、同じ額を払う気はありますか?」

間髪置かずに、問いを続ける。ブラック・ジャックの眼光は、先程までのそれとは全く異なっていた。
唐突な展開に、奈美は息を呑む。
なぜ、この人がそんなことを言うのだろう? とでも言うような、そんな訝しげな視線をブラック・ジャックに向ける。

「フフ、そんな目で見ないでいただきたい。ご覧の通り、私も医者です。
真っ当とは言いがたいですが……腕はあるほうだと、自負してはいますよ」

「えっ……医、者……? お医者さんだったのですか……?
私はてっきり……その……もっと怪しげな職業の方かと……」

「ム……まあ、ピノコに付き合って走ってきましたから、若干埃っぽくなってしまっていることを否定はしませんが、
それでも、この格好は、医者以外には見えないと思うのですが……」

何といっていいのかわからない様子で口ごもる奈美に助け舟を出したのは、もちろんピノコである。

「先生! そんな真っ黒なお医者さん、ピノコは見たことないのよ!
それに、ちこっとお顔もワイルドな感じだし……。
でもそれがかっこいいんだけど、ね! ウフフ」

「そうだろうか……? だが、この傷跡と皮膚は友人の贈り物だ。わざと残しているのだぞ」

「知ってるのよ! そのお話、なんど目だと思ってるのやよ」

「まあ、それはいい。とにかく、私は、医者なのだ」

そういうと、ハンガーに掛けたコートから、メスやハサミなど、医療器具を覗かせる。

「ほら、このとおり。刃渡りも、銃刀法に触れるものではありませんよ」

刃渡りがどうこうという問題ではないのでは……という感想を奈美が抱いたとしても、
誰も責められはしないだろう。それほど多くの刃物が、ブラック・ジャックのコートには隠されていた。

「これで私が医者だということはわかっていただけたと思いますが……。
もう一度聞きますが、もしもう一度元の顔に戻れるとしたら、同じ額を払う気はありますか?」

「それは……この顔を治していただけるのでしたら、同じ額とは言わず、それ以上でもお支払い致します。
ですが、今すぐにというわけには……」

「もちろん今すぐにとは言いません。何年かけても、支払ってくれさえすればいい」

「それに、もう一つ気がかりが……。
私は、何度かこの顔を治そうと施術を受けたのですが、どの医者も手を挙げて降参してしまいました。
なんでも、神経そのものが切れてしまっていて、修復出来ないとか、なんとか……」

「私の腕をもってすれば、大丈夫だとは思うのですが……。
まあ、一つお見せしましょう。良ければ、野菜を一つ、いただけませんか?」

突然のブラック・ジャックの要望に、戸惑いながらも大根を野菜室から取り出す奈美。
ブラック・ジャックは、大根を放り上げると、メスを一閃させた。
二つになってテーブルの上に落下するダイコン。
それを手に取り、断面を押し付けると……。

「えっ……!? 今、確かに、ダイコンは切れたはずなのに……?」

次の瞬間、ダイコンの断面は、緩やかに接合されていた。
完全に元通りというわけではないが、一度切断された物体が、接着剤もなにも使わずに接合されるというのは、
奈美にとって完全に理解の範疇を超える出来事であった。
全く潰れずに切断された細胞は、短時間であれば押し付けるだけで、またくっついてしまう。
これは、触れただけで紙を断つほどに鋭いメスの切れ味と、一流の居合術にも匹敵するブラック・ジャックのメス捌きあっての技である。

ブラック・ジャックは、もう一度ダイコンを二つにすると、今度は針と糸を取り出した。
残像すら見えるほどの速度で、ダイコンとダイコンを縫い合わせていく。
ブラック・ジャック独自の結索術は、もはや匠の技といっても過言ではないほどの美しささえ、醸しだすほどであった。

「如何でしょう? 今お見せ出来るのは、このようなつまらないものだけですが……」

つまらないとは言うものの、ブラック・ジャックは自らの技術、そして素晴らしい道具に誇りを持っていた。
特にメスは、大金を払って変わり者の鍛冶屋に鍛えてもらった逸品である。
(払った大金を、メスを鍛えるための炎を燃やす燃料としてくべてしまうほどの変人であった)

ブラック・ジャックの技を目の当たりにした奈美は、ぽかんと口を開け、
次に、感嘆の声とともに瞳を輝かせた。

「凄い技術をお持ちなのですね……! あなたなら、もしかして本当に……」

「本当もなにも、私なら出来ると、言っているではないですか。
もし……万が一失敗した時は、お代はいただきませんよ」

「あ、ええ、失礼しました……。ぜひ、お願いしたいと思います。
それで、いつ頃でしたら大丈夫ですか……?」

「しばらくは大きな予定もないのでね……今日から一週間ほどでしたら、いつでも構わない。
心の準備が出来たら、こちらに電話を寄越して下さい」

手持ちのメモ帳を破いて、11ケタの番号を記す。
それを受け取りながら、奈美は意を決したように言った。

「出来れば……いえ、ぜひ、元の顔に戻すのではなく、
美しく、映えるような顔に変えていただきたいのです」

代表選考で、絶対に負けないような、テレビ映えする、顔に。
それを聞いたブラック・ジャックは、複雑そうな表情を浮かべた。

「まあ、どんな顔にするか、というのについては、施術前に話し合いましょう。
まだ結論を出すには、時期尚早ですから。それでは、我々はそろそろおいとまします。
よく考えて、自分の心と向きあって下さい」

そう言って、奈美の家を後にするブラック・ジャックとピノコ。
自室に戻った奈美は、しまい込んでいた姿見を取り出し、
しばらくその前に立ちすくんでいた。
その目に映るものは、果たして……。



つづく

























[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その6
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:40
ブラック・ジャックが奈美を訪ねてから、数日が経ったある日の昼下がり。

「先生、奈美お姉さんからのお電話、こないわねぇ」

「そうだなァ。やはり顔を変えるというのは、誰でも躊躇うものだろう。
私としては、あまり生まれ持った顔を変えるということに賛成は出来ないのだがな」

だが、粗悪な整形手術によって表情を失ってしまった人を、
自分の考えにそぐわないからといって、放っておくことも出来ないブラック・ジャックなのである。

「彼女も悩んでいるのだろう……悩んでいる時点で、元の顔に未練があるのだ、と自分で気づいてくれればいいのだが」

と、その時、ブラック・ジャックの携帯電話から、着信を知らせるメロディが鳴る。
昔に大流行した、原子力でもって動く少年ロボットを主人公としたアニメーションの主題歌だ。
ブラック・ジャックは、特にそのアニメーションを気に入っていたわけではないのだが、
ピノコが大のお気に入りで、半ば強制的に着信音を設定させられたものである。

「〽ラララほーちーのかーなたー」

「うるさいぞ、ピノコ。電話に出るんだから、静かにしていてくれ。
……はい、ブラック・ジャック。ああ、奈美さんですか。ちょうどあなたの話をしていたところでしたよ。
ええ、それでは。はい……」

通話を終えると、ブラック・ジャックは大きくため息をついた。

「先生、奈美お姉さんからでちょ? なんて言ってたの?」

「フーッ。『元の顔に未練はありません』だとさ。
当日、もう一度話してはみるが。ああ、手術は明日だ。
私の見立てだと、元の顔は、十分に見られるほどには整っている顔だったと思うんだがなぁ。
よほど、代表に選ばれなかったのがショックだったのだろうか?
まあ、確かに、世の報道機関というのは、何につけても見た目ばかり取り上げたがるものではあるが」

「そう……。宗太くん、がっかりしちゃうのよさ……」

「まあ、まずはもう一度会ってからだ。
電話口だけで、これから顔をどうこうするというのは、決められないからな」

「そうよね……。先生、なんとか考えなおさちてよ」

「うーむ……だが、私に人の人生をどうこう言う権利は無いからな。
ただ、その場の勢いだったり、捨て鉢になって顔を変えようとするのであれば、止めようとは思うのだがなぁ。
やれやれ。ピノコ、私は少し昼寝するぞ。陽が落ちる前には起こしてくれ」

「はーい。じゃあ、ピノコはそれまで遊んでくるのよ」

そう言うと、ピノコは元気よく外へ駆け出していった。
その姿を見届けると、ブラック・ジャックはまどろみの中へと落ちていくのであった。
そして、肌寒さがブラックジャックを襲うころ、彼はやっと目を覚ました。

「む……今、何時だ……? っ、もう5時を回っているじゃないか。
ピノコは一体どうしたんだ……?」

身を起こし、辺りを見回す。が、気配は無い。

「全く……もう日が落ちかけてるっていうのに、どこまで遊びに行ったのだか」

冷たい水で顔を洗い、口をゆすぐ。
首の骨をポキポキと鳴らしながら玄関へ向かうと、軽快な足音が聞こえてきた。
それを聞いたブラック・ジャックは、扉の影へと隠れる。

「おちょくなっちゃったのよ。先生まだ寝てるのかしら?
でもまだ真っ暗にはなってないし、セーフなのよね」

「アウトだ」

玄関を開けて入って来たピノコの後ろから声を掛ける。
ピノコは、心臓が飛び出るのではないかと思うくらい跳ね上がった。

「キャーッ! せ、先生……」

「どこまで行ってたんだ? この時期は、早く帰ってこないとダメだと言っただろう」

「ごめんなさいなのよ……。つい……」

「で、どこまで行ってたんだ? こんなに暗くまで遊んでたんだ。
ずっと外で遊んでたってこともないだろう」

「あの……宗太くんのとこ、いってたのよ」

「宗太くんの所にか? まだ『奈美お姉さん』には会えるわけじゃないぞ」

「うん、ピノコ、奈美お姉さんのお顔、知りたいと思って。
先生も、もし元の顔に治すことになったら、写真ないと困るでしょ?
それで、宗太くんに、写真借りてきたのよ」

ピノコは、ポケットから小さなアルバムを取り出した。
何枚かの写真が挟まれているが、ほとんどは宗太くんの写真だった。
その中の一枚に、ブラック・ジャックは目を留めた。

「ん……陸上か何かの大会か?」

優勝カップを手にして、満面の笑顔で写っている宗太くん。
その横で、彼の肩に手を添えているのは……。

「これが、『奈美お姉さん』の顔、か……」

そこに写っていたのは、特別美しいというわけではないが、
かといって醜いなどとは誰も思わないであろう、素朴な女性の姿があった。
取り立てて珍しい顔でもなかったのだが、ブラック・ジャックはその写真から目を離せずにいた。

「ふーむ……。そうか。これが……」

難しい、というよりは複雑そうな表情で唸る。

「先生! どうしたの? じっと見つめたりなんかしちゃって……。
も、もしかして、一目惚れ……?
ダメなのよ! 先生の奥さんはピノコなのよ! うわきはゆるちゃないのよ!」

「いや、そうではない……そうではないんだ。
ただ……いや、なんでもない。さあ、そろそろ夕飯の支度を始めるぞ。
今日はボンカレーとサラダを買ってあるからな。米を炊けば終わり、だ。
手術前に、万が一にでもケガをするわけにはいかないからな」

そう言ってアルバムをピノコに戻し、米びつへと向かう。
ピノコはわかっていた。こういう様子のブラック・ジャックは、
問い詰めても何も答えてくれないということを。
それはピノコに対する意地悪などではなく、誰にも話したくないことなのだ、ということを。

「じゃあ、ボンカレーはピノコが作るのよ! ピノコ、カレーはとくいなのよね」

「ああ、頼むよ……。(ボンカレーは、どう作っても、美味いからな)」

ピノコに聞こえないよう呟き、米を研ぐ。
寒くなってくるにつれ、水道水の冷たさは身を切るようだ。
それで米を研ぐのは楽しい仕事ではなかったが、軽快なリズムを奏でるこの作業が、
ブラック・ジャックは嫌いではなかった。
五拍子、七拍子、九拍子。
拍子を細かく変えながら、糠と汚れを落としていく。
何度か研ぎと洗いを繰り返し、水の色が変わらなくなったら……。

「さ、研げたぞ。うむ、何度見ても研ぎたての米の白さは格別だな」

「そうねえ。さっきまで黄色っぽかったお米が、真っ白になゆのねえ」

「いや、真っ白になる、というのは間違いだな。この米は、元々、真っ白なのだ。
ただ単に、私は余分なものを落としただけに過ぎないよ。
そしてこれを良い炊飯器で炊く。すると、米の味を全て引き出すことが出来るのだ。
かまどで炊くのが本式とは聞くが……この銅釜炊飯器も、なかなかのものだぞ」

「お米って美味しいものねえ。でも、それを引き出してあげるのって、難しいのねえ」

「そうだな。炊き上がった米に味を付けてやるというのもいいが……美味い白米は、やはり格別だ」

顔を見合わせて、二人は笑う。
米が炊き上がるまでの、ちょっとしたひととき……。
テレビ番組を見ながら、他愛のない言葉を交わす。
と、ブラック・ジャックは急に立ち上がった。

「どうちたの? 先生……?」

「そうだ……米は最初から美味いわけではない……。人の手によって、本当の美味さが引き出されるのだ……」

ブラック・ジャックは携帯電話を取り出すと、とある電話番号に掛け出した。

「ピノコ。さっきのアルバム、貸してくれ。ああ、米が炊き上がったら、しゃもじで空気と混ぜておいてくれよ」

自室に戻ったブラック・ジャックが食卓に戻って来たのは、三十分ほどが過ぎてからだった。

「良し。これなら、なんとかなるかもしれん。さあ、食事にするか。
明日は手術だからな。しっかり食べて、早めに寝ることにしよう」

ブラック・ジャックはカレーを二杯半も平らげた。
半分呆れた様子のピノコであったが、自分の作った(といっても、温めただけであるが)料理を、
たらふく食べてくれていることは嬉しかったようで、
催促もしていないのに食後のお茶が出てきたものである。

その夜、ブラック・ジャックは夢を観た。
とても昔の、楽しい夢と、悲しい夢を。

そして、奈美が生まれ変わる、その日がやって来た。

★★★★★

「よろしく……お願いします」

「ああ、任せて欲しい。だが、奈美さん、あなたは本当に新しい顔、自分の知らない顔を望むのですか?」

「だって……昔の顔では、私は美しくなれない……。私は、代表に選ばれない……。
それならば、いっそ、新しい自分になりたい……」

「そうですか。ところで、新しい自分といっても、どんな顔になりたいというのですか?
一言で美しいといっても、美しさは人の数だけ存在するものだ。
万人に美しいと褒めそやされる顔など、存在しませんよ」

「わかっています。ですが、多数の人が美しいというような顔のつくりはあります。
目は大きく、ぱっちりとして、鼻筋はすっと通り、唇は愛らしく……。
例えば、アイドルの、○○さんのように……」

「なるほど。あくまでも最大公約数から求められる美しさを望みますか。
……わかりました。イメージとしては、○○。それに、私の腕前やあなたの元々の顔の作りを考慮したもの。
それで、構いませんね?」

「はい。それで、お代なのですが……」

「いつでも構いませんよ。別に金に困っているわけじゃないものですから。
もちろん、万が一失敗した場合、お代はいただきませんからご心配なく。
ああ、それと、一つだけ約束していただけませんか?」

「約束、ですか?」

「手術の痕が完全に塞がるまで、包帯を絶対に取らないでいただきたい。
もちろん、清潔に保つため、ずっと包帯をしたままというのは難しいでしょう。
週に二回ほど、ここまで来ていただければ、消毒などを私が行います。
その際も、絶対に目を開けないでいただきたい。
くれぐれも、自分で包帯を取らないでいただきたい。よろしいですか?」

「……わかりました。先生にお任せすると決めたのです。先生に従います」

「よろしい。あなたが私を信頼してくれている限り、私もあなたを信頼しましょう。
それでは、手術を始めるとしましょうか。ピノコ! 麻酔の用意だ」

助手の格好に着替えたピノコが、手術道具や麻酔一式を運んでくる。
さすがに緊張した様子の奈美であったが、ブラック・ジャックは一言、声を掛ける。

「少しの間、眠るだけです。目覚めた時、あなたは生まれ変わっているのですよ。
さ、まずはこの鎮静剤を飲んで下さい。ああ、手荷物は預かりますから、こちらのカゴに」

財布や時計などを預け、数種類の錠剤を嚥下する。
落ち着いてきた様子の奈美を手術台に乗せ、全身麻酔を施す。
麻酔が効いてくるのを確認しつつ、ブラック・ジャックは奈美の荷物を手術室の外に出す。
と、その時、鞄の縁から財布が滑り落ちてしまった。
開いて落ちてしまった財布に手を伸ばすと、そこには……。

「自分の過去全てを捨てることなど、出来るはずも無い、か……。
よし、もう一度消毒だ。ピノコも、もう一度消毒しておけ」

「わかったのよさ! ……先生、本当に、奈美お姉さんの、顔……」

「まあ、黙って見ているのだ。それよりも、麻酔が効いてきたみたいだぞ。
早く次の薬を用意するのだ」

手慣れた様子で麻酔を進めるブラック・ジャック。
ピノコも、それなりに経験をつんで、助手の真似事なら楽々こなすようになっている。

「よし……筋弛緩剤、投与。人工呼吸、開始。
うむ。問題無いな。それでは、術式、開始」

手術は長時間に及んだ。
特に口周りの引き攣れた神経の縫合には苦労させられたが、
ブラック・ジャックの超人的な腕前により、神経は元通り繋がれることとなった。
そして麻酔が切れるころ……。

「先生。ほんとうにこれで良かったの?」

「ああ。私は、医者だからな……。患者を『治療』することしか、出来んよ」

包帯がグルグルと巻かれた奈美。
手を握ると、微力ではあるが、握り返してくる。
これなら、麻酔から覚めるのももうすぐだろう。
ブラック・ジャックは、コーヒーを淹れることにした。
例によって、ピノコは「黒くてニガイの」を飲もうとはしなかったが、
ミルクと砂糖によって「茶色くてアマイの」にしてしまえば、別であった。

「ピノコ。出来たぞ」

「先生! ニガイのはダメよ!」

「わかっている。砂糖は四個、ミルクは半分……だったな?」

もはやコーヒーというかコーヒー風清涼飲料と化したそれを、一口すする。
あまりの甘さに、眉が寄る。こんなものを常飲していたら、ただちに健康に被害が出るかもしれん。
だが、ピノコは、それを美味そうに飲むのである。
つかの間のコーヒーブレイクを終え、手術室に戻ると、ちょうど奈美が目を開けるところであった。

「お目覚めですか。奈美さん。気分は?」

「まだ……フワフワしている感じです。手術は……」

「問題ありませんよ。あとは傷が塞がるのを待つだけです。
ところで、約束を、お忘れではないでしょうね?」

「大丈夫です。先生……ありがとうございます」

「ナニ……医者に出来ることを、しただけですから」

「この包帯を取って……新しい私に会える日を、楽しみにしています」

「ええ。楽しみにしていて下さい。多分……今月の半ばごろには、取れると思います。
熱を持つといけませんから……入浴は、なるべく控えて下さい。
あと、これは痛み止めや化膿止めです。忘れませんよう」

何種類かの薬を手にして、奈美は帰っていった。

「さて……と。ピノコには話しておこうかな。
実は、な……」

ブラック・ジャックの話を聞いて、ピノコはまず驚き、
次に感心した様子だった。

「へえ……たしかに、そういう考え方も、あるのよさ……。でも、」

「皆まで言うな。確かに、もしかしたらダメかもしれん。
だが、奈美の財布の中、な。そこに、写真があったんだよ。
だから、大丈夫だとは、思うんだが……」

「うん、きっと大丈夫よね! さすが先生なのよ!」

「何回かは、奈美が消毒に来ると思うが……うかつなことを、言うんじゃないぞ」

「大丈夫! ピノコだって、奈美お姉さんには、笑って欲しいのよ!」

次に奈美が訪れてくるのは、三日後。
それまでに、診察室の鏡や姿見を、片付けておこうと考えている、ブラック・ジャックなのであった。











[33841] 走る口裂け女(ブラック・ジャック二次創作)中編完結 その7(終)
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:c33ed141
Date: 2013/05/12 05:40
そして、その後……。
奈美は三日に一度のペースで、傷跡を消毒するために、ブラック・ジャックの診療所兼自宅を訪れていた。
寒い季節とはいえ、やはり洗顔出来ないというのは辛いのであろう。
包帯を取り、湯気を上げるおしぼりで顔を拭かれる時、奈美は実に幸せそうな表情を浮かべる。
包帯を取る際には、絶対に目を開けないよう言っているので、ピノコに拭かれるがままではあるが。
そして、みるみるうちに、奈美の手術跡は塞がっていった。

「ふむ。さすが若いだけある。回復力が違うな。
これなら思ったより早く包帯を取っても良さそうだな。
次回、包帯を取りましょう。あなたは生まれ変わるのです」

「先生! ……ありがとうございます。お代は、絶対に、どれだけかかっても払います!」

「まあ、そんなに気負うものでもありませんよ……。ところで、包帯を取る際に、
化粧をさせていただいても、よろしいですか? 私からのお祝いです。
知り合いのスタイリストを呼んで、あなたを美しく飾って差し上げたい」

「何から何まで、本当に、ありがとうございます。
ですが、そこまでしていただかなくても……」

「いえ、これは私からの贈り物ということで。
写真家も呼んで、新しい人生の門出を、祝いましょう。
費用は私が出しますから、遠慮なさらず」

「そう、ですか……。
そこまで言われるのでしたら、お受け致します。
先生、何度も申しますが、ありがとうございます」

「それでは、三日後にまたお会いしましょう。お大事に」

三日後。そうと決まれば、急がなくては。
ブラック・ジャックは、携帯電話を手に取ると、電話を掛け出した。

「ああ、私だが。例の……。うむ、それだよ。
三日後に決まったから、そう、私の家で、だ。
……大丈夫か? それじゃあ、よろしく頼むよ」

「先生。どう?」

「ああ、なんとか都合がついた。あとは、ピノコ、わかってるな?」

少し考えて、合点がいった様子のピノコ。
まかちぇて! と胸を張り、玄関を開けて駆けていった。

「あとは、本人の問題だ……本人の、な。
こればかりはどうにもならん……」

そう。やれることは、やった。
後は、その日を待つだけだ。
一仕事終えた体のブラック・ジャックであったが、
奈美のこと以外にも他にもやるべき仕事は、色々とある。
使い慣れた椅子に腰を下ろし、ペンを走らせる。
ドイツ語で書かれたそれの内容をうかがい知ることは、出来ない。

そして時は流れ、三日後……。

★★★★★

「さて……これから包帯を外します。
包帯を外した後も、しばらくは目を閉じていて下さい。
洗顔や、化粧などは私の呼んだスタイリスト件メイキャップアーティストにお任せするので、指示に従って下さい」

「お初にお目にかかる。須帯 梨栖人(すたい りすと)だ。
ブラック・ジャック先生の紹介で馳せ参じた。本日はお任せ願いたい。」

須帯 梨栖人と名乗るスタイリストは、いかにもスタイリスト然とした、細身の衣装に身を包んでいる。
なぜかその口調はケレン味を感じさせるものであったが、不思議と、人を安心させるような声色でもあった。

「それでは……」

包帯を外していく。
傷跡も塞がり、整形手術をしたとはまずわからないくらいにまで回復した。

「うむ。経過は良好ですよ。もう包帯をする必要はありませんな。
それでは、お話した通り、お願いします」

失礼致す、と一言おいて、奈美の顔を撫ぜていく須帯。
傷跡とおぼしき、うっすらとした痕に触れ、呟く。

「ほう……さすがは、先生。
細胞の方向にそってメスを入れることにより、傷跡を目立たなくさせ、回復を早める、この手腕。
いささかも、衰えてはおられぬようだ」

「なに、まだ衰えるほど歳を取った覚えはありませんよ」

「これならば、化粧のノリも問題無さそうだな。若さとは、まこと羨ましいものだ。
二度と手に入らぬものである故、余計に」

まったくだ、と笑い合う二人の男。
言葉を交わしながらも、須帯の手は目まぐるしく動いている。

「そら、ここに少し墨を引くだけで……どうであろう?」

「これは驚いた……。たった一本の線が、ここまで顔の印象を変えてしまうとは」

熟練の手さばきに感嘆の声を上げる。
道具を取り替えては、新たな色を重ねていく。
ぼかし、かすませ、乗せる。
化粧については素人であるブラック・ジャックにも、その技量のほどが見て取れるほどに、
須帯の技術は際立ったものであった。
途中、何度かアイメイクのため目を開けてもらってはいたが、
姿が何かに映り込むことの無いよう、須帯は細心の注意を払った。

「さ、化粧はこれで終わりだ。次は衣装だが……このようなもので、いかが?」

そう言うと、須帯はトランクケースから衣装を取り出した。
肌身を晒すことに抵抗があるであろう奈美を気遣い、簡単に着られるアンダーウェアも用意してある。
綺羅びやかではあるが、嫌味を感じさせないその衣装。
大胆に入ったスリットが、脚の美しさを引き立たせる。

「スタイルが良いと先生に聞いていた故……脚を見せていく方向の衣装を持ってきたのだが、
成功だったようだな。よし、よし。お似合いではないか」

奈美は未だ目を閉じているため、その衣装を目にしてはいないが、
褒められたことが嬉しいのだろう、戸惑いつつも須帯に礼を述べる。

「あとは、髪型だけだ。
当代の流行と、要望の通りアイドルの要素を取り入れ、
それに……いや、何でもない」

なにか言いたそうなブラック・ジャックの視線に気付き、言葉を濁す須帯。
整髪料とヘアアイロンで、髪にボリュームを与えていく。
先ほどまでは化粧と衣装に負けていた奈美の髪の毛が、それらに負けないほどの艶やかさを備えるまで、
わずか十五分ほどの出来事であった。

「ふう……よし、完成だ。どうであろうか? 先生。
私としては、なかなか上出来だと思う次第であるのだが」

ブラック・ジャックは、しばし奈美に見とれてしまった。
その表情は、ただ単に美しいものに感心している、というよりは
なにか思慕の念を思わせるような、そんな表情だった。

「先生……?」

もう一度声を掛ける須帯。
その様子に気付いたブラック・ジャックは、平静を装って、言葉を返す。

「上出来も上出来、予想以上だよ。素晴らしいね。
費用は、君の口座へ振り込む。かかった費用を教えてくれ」

「いや、私は、今回無償で引き受けると電話で言ったではないか。
先生への恩を考えれば、この程度のことは……」

「む、そうか……。無理にとは言わんが……。
だが、君にも生活があるだろう?」

須帯は、芝居がかった仕草で首を振って言う。

「いえ、自分で言うのも何なのだが、
先生の治療を受けて以来、仕事に本気になれたと言うか……。
そうやって本気で取り組んでいたら、どんどん仕事が舞い込んでくるようになり申して。
今のところ、生活に困窮するようなことはありませぬ故、心配ご無用」

「そうか。ならば、礼だけでも。須帯さん、ありがとう」

「『……その言葉が聞きたかった!』どうだろう? 似ていただろうか」

ブラック・ジャックの口調を真似て、須帯が言う。
彼は以前スタイリスト生命に関わるほどの大怪我をブラック・ジャックに治してもらったことがあるのだった。
が、それはまた別の話……。

「知るものか……っと、それよりも、奈美さんだ。
ピノコ! 姿見がそっちの部屋にあるだろう、持って来てくれ」

ガラガラと大きな音を立てて、ピノコが姿見を運んでくる。
そして、奈美の前にそれを置いた。

「さて。奈美さん。あなたは生まれ変わりました。
これからあなたは、生まれ変わった自分と対面するわけです。
その準備が出来たら、ゆっくりと目を開いてください」

「うわぁ……お姉さん、すごく綺麗なのよ……。
先生! 須帯さんって、すごいのよさ……」

「ああ。彼はその人の持っている美しさを引き出す達人だからな。
本人の気付いていない美しさまでも、彼は引き出してしまう」

「面と向かって言われると、恥ずかしいものだな」

そして、奈美はまぶたを開け……。
何度か瞬きをして、姿見に映った自分といよいよ対面する。

「こ、これが、私……」

息を呑む。
大きく、黒目がちで、愛らしい印象を持たせる瞳。
巧妙に陰影が施され、鼻筋は通りすぎず、小ぶりに整えられている。
唇のグロスは流行を取り入れつつ、肌の色に合うように調合された特別なものだ。
姿見に映っていたのは、奈美が思い描いた美しさを十分にたたえた、
まさに「新しい、美しい自分」であった。

「どうですか? 奈美さん。
お気に召しましたかな?」

「先生、ほ、本当に……何とお礼を……」

涙さえ滲ませて奈美が言う。
だが、ブラック・ジャックはかぶりを振って、

「いや、私は、何もしていないのだ。
全ては、そこの須帯さんの手によるもの。
私は、あなたを美しくなど、していないのだ」

「ですが、先生が顔かたちを変えてくださらなければ、
私は、このように美しくは……」

「ですから、私は、別にあなたの顔を変えてなど、いないのだ」

「せ、先生、それは、どういう……?」

ブラック・ジャックの一言に、動揺する奈美。
顔を変えてなどいない。これは一体、どういうことなのか。
姿見に映るのは、今までとは全く違う姿に変身した奈美であるというのに。

「私は、粗悪な整形手術によって傷ついたあなたの顔を『治療』しただけ。
医者として、それ以上のことはしていない。治療とは、元に戻すことだ。
……黙っていて、悪かったとは思う。写真を宗太くんに借りて、その通りに治したのだ。
その上であなたを美しくしたのは、須帯の手腕によるもの。
化粧……髪型……衣装……。それらにより、あなたは美しく変身した。
ただそれだけのことだ。化粧を取り、髪を洗い、普段着に着替えれば……元の『奈美お姉さん』というわけだ」

「先生、それでは、私は美しくなどなっていないのでは……」

「いや、あなたは美しい」

割って入る須帯。
その表情には、紛れも無い真剣さが溢れている。

「女性というものは、誰でも美しいものだ。
だが、その美しさは、引き出されなければ、埋もれたままだ。
何枚か写真を拝見したのだが……。
思うに、あなたは今まで化粧というものを、ほとんどしていなかったのではないだろうか?」

「は、はい……。走ることに精一杯で、おめかしなんてものは、全然……」

「やはり、そうか。……いや、それが悪いことだとは言っておらぬ。
むしろ、化粧をして来なかったことにより、同年代の者よりも肌ツヤが良い。
運動による代謝の活性化もあるのだろう、実年齢よりも肌年齢が下回っている。だが」

一つ呼吸をおいて、須帯は語り出す。

「化粧とは、美しさを引き出すものだ。
と、同時に、他人にどう見られたいかを映す、心の鏡だ。
あなたは、自分がアスリートである、という意識がありすぎた故に、
『美しくなるための化粧など、私には不要。アスリートならば、スポーツだけで勝負すべき』
というレッテルを、自分に貼り付けてしまっていたのではないか……?」

「わかり……ません。ただ、お化粧をしても、私は美しくなんてなれない。
……そう思っていたことはあるのかも、しれません」

「そうか。……自分に自信の持てない女性の陥りがちなパターンだな。
だが、今の自分を姿見で見て、どう思うか? 私は、とても美しいと思うぞ。
自らの職業の誇りにかけて、そう思う。
いや、今の貴女を見て美しくないなどと言う輩は、もはや存在そのものが罪である、と言っても過言ではあるまい」

言われて、姿見に映る自分を、もう一度眺めてみる。
自分が思い描いていた、美しい自分。まさにそれが映っているのであった。

「はい、未だに……信じられません。
私のなりたかった私、そのものです。
顔そのものは、以前と変わっていないだなんて……。
先生、本当に、顔かたちは変わっていないのですか?」

「ああ。元の顔かたちを変えてしまうというのは、私の信念には反している。
なるべく元の通りに、『治した』つもりですよ。
その美しさは、あなたが、元々持ち合わせていたものだ。
それに気づきさえすれば、自信にも繋げられる。
米の美味さも、人の美しさも、引き出すには、手間が要るということです」

「米?」

不思議そうな表情。
それはそうだろう。いきなり「米」なんていう単語が飛び出てきたのだから……。
疑問に思われるのも、仕方のないことである。

「いや……こちらの話です。それよりも、どうでしょう?
これなら、『奈美お姉さん』として、宗太くんに会えますね?」

「宗太、くん……。
でも、何も言わずに会わなくなった私を、どう思っているかと思うと……」

「会いたくもない人の家を、何度も訪ねはしないでしょう。
それに、私は宗太くんから頼まれてもいたのです。
『とても心配していて、ぜひ会いたいと思っている』と伝えて欲しい、と。
な、そうだろう?」

そう言うと、診察室の扉が開く。
ピノコに連れられて、少年が入って来た。

「宗太、くん……!」

少年は美しく着飾った奈美を見て、頬を朱く染める。
瞬きの回数が、微笑ましいほどに、多い。
まともに見られないのか、ちらちらと奈美の顔を見ては、視線を落とす。

「なーに照れてんのよーッ。会いたかったんでちょ!」

宗太の後ろに回ったピノコが、その背中を押す。
思わず、たたらを踏んでしまう宗太。それを受け止めたのは……。

「大丈夫? 宗太くん。……今まで会えなくて、ごめんね……」

「うん、大丈夫。お姉さん……」

鼻をすすって、宗太は言う。
ずっと言いたかった、ただひとつのことを。

「また僕に、走りを教えてくれる?」

真っ直ぐな瞳は、ただ少しの邪気も孕んではいなかった。
そう。かつて宗太が奈美に向けていた視線と、今の美しく変身した奈美に向けられる視線に、
違いなど何一つ無かった。
その時、奈美は理解した。
この少年にとって、顔かたちなど、問題ではなかったのだ。
奈美が奈美であることだけが大事だったのだということを。

「……! もちろんよ……!」

言いながら、宗太を抱きしめる奈美。

「宗太くん……わたし、キレイ?」

「うん、すごく綺麗だよ!」

そこまで聞くと、奈美の瞳に涙が滲み、一筋の軌跡を描く。

「こ、これでも……?」

涙で濡れた頬を拭うと、化粧の一部も一緒に拭われてしまった。
宗太は、少しだけ化粧の滲んだ奈美の顔を見て、変わらない笑顔で言った。

「うん! すっごく、綺麗だよ!」

その様子を見て須帯は、満足そうな様子で、

「当然だろう。元々美しいものを私がさらに引き出したのであるからな。
だが、奈美さん。泣いてしまうと、私の芸術が、流れてしまう……」

それを見ていたブラック・ジャックは、不敵な笑みを浮かべながら、

「おや? 須帯さん。感極まった女性の涙が、美しくないとでも?」

「いや……それこそは、最も美しい瞬間ではあるが……むむむ」

「はは、冗談ですよ。さ、奈美さん。ここに美しさのプロがいるんだ。
ぜひ、美しさを引き出す化粧やスタイリングのコツを聞いておいたほうが良いと思いますが」

それを聞いて、ぜひとも教えて欲しいという様子の奈美。
美しさを語らせたら一晩では足りない男、須帯。
その講習は長い間続き……一段落するころには、日はとっぷりと暮れていた。

「二人とも、そろそろいい時間ではないですか?
これだけ暗くなっては、宗太くんを送っていかなくてはならないし」

診察室に戻ると、始めこそ一生懸命に聞いていたピノコはとっくに夢の世界へ旅立ち、
宗太もその様子に釣られてか、ベッドですやすやと寝息を立てていた。

「ああ、先生。もうそんな時間か。
大丈夫。基本は教え終わった。あとは慣れと、日々の研鑽だな。
素材が良いと、教えがいもあるというものだ」

奈美は、頭を下げて礼を言う。

「ところで、奈美さん……」

ブラック・ジャックは、神妙な面持ちで口を開いた。

「私はあなたの依頼に答えられなかったのです。手術は、失敗だ。
……だから、代金は、いりません」

「えっ……? 先生は、こんなにも私を美しく治してくれたではありませんか」

奈美は驚いた様子で言う。無理もない。彼女にとって最高の結果をもたらしてくれたのは、
間違いなくブラック・ジャックなのだから。

「ですが、当初あなたは、『顔かたちを変えて欲しい。未練など無い』と言っていた。
それを無視し、元通りの顔に治したのは、私の独断だ。
結果がどうであれ、私は、あなたの依頼を無視した。それに変わりはない。
だから、代金は取れないのですよ」

「ですが、それでは……」

「あなたは言っていた。『未練など無い』と。
だが、あなたの荷物を運び出す際、財布が滑り落ちてしまった。
覗くつもりはなかったのですが……。
そこにあったのは……持ち主ならおわかりでしょう。
あなた自身の写真でした。未練など無いのならば、なぜ持ってなどいたのだろう。
そう考えると、私に、あなたの顔を変えてしまうということは、出来ませんでした」

「……」

なにか言いたそうな表情を浮かべてはいるが、押し黙ってしまう。

「それに、私にとって最初の依頼人は宗太くんだ。
宗太くんに『奈美お姉さんに、伝える』と約束した建前、
『奈美お姉さん』を消し去ってしまうようなことは、契約違反だとも思いましたのでね。
だから、元々、私に、あなたの顔そのものを変えてしまうということは、出来ないことだったのです。
それなのにあなたの顔を変えるという手術を受けてしまった……。
こんなウソツキのヤブ医者に、金など払う必要は、無いのですよ」

どうしても、と言うのであれば。
そう付け加えて、ブラック・ジャックは言葉を続ける。

「あなたを美しくしたのは、須帯さんだ。
金を払わなくては気が済まない、というのであれば、彼に払うといい。
まあ、彼も、せいぜい今日の夕飯代くらいしか要求しないだろうが」

「おいおい、先生。私はそのようなこと、言わぬぞ。
……奈美さんが今日の夕飯に付き合ってくれれば、代金などは要らん要らん」

「それはダメだ。須帯さん、あんた今までどれだけその手口で女性を誘ったんだ?」

「さて、な。花は、育てたら愛でるのが道理というものであろう?
育てっぱなしでは、面白くも、なんともないではないか」

「と、こういう男ですが……奈美さん。どうしますか?」

肩をすくめて、オーバーアクションで訪ねる。
奈美は困った様子で、

「はい、須帯さんにはお世話になりましたから、それくらいは構いませんが……。
でも、先生、ほんとうに……?」

「ああ、この先生は、代金を取らないこともしょっちゅうあるらしいんだ。
かくいう私の時も、要求されたのは、たったの千円だったよ。
さ、行こうか、奈美さん。私は喋り過ぎて空腹なのだ」

ちらり、と奈美はブラック・ジャックの様子を伺う。
ブラック・ジャックは、一つウインクをしてみせる。

「ああ、だが、まだ夕飯には早いんじゃないですかねぇ。
でも、もう日が落ちていますねぇ。こんな暗い中を、子供一人で帰らせるのは、ちょっと危なくはないですかねぇ」

言いながら、眠っている二人を揺さぶる。
寝ぼけ眼を擦りながら身を起こす宗太。
ピノコは……起きない。

「ピノコを放っておくわけには行かないし……。
誰か、宗太くんを送って行ってはくれないものですかねぇ」

我ながら白々しいと思いつつ、ブラック・ジャックは奈美に視線を送る。
その様子に気付いた奈美は、

「私でよければ……いえ、私が、宗太くんを送って行きます。
須帯さん、夕ご飯は、その後でも……?」

「ああ、私は、構いやしない。
そこな少年を、送り届けてやるのだな」

「ありがとうございます。それでは、後ほど……」

頭を下げ礼を述べると、奈美は宗太を連れ、宗太の家へと向かった。
奈美が律儀にも戻ってきたのは、一時間後のことだった。
その時既に、須帯はブラック・ジャックの家を後にしていたのだった。

「先生、須帯さんは、どこへ……?」

「ああ、なんでも急ぎの仕事が入ったとかで、帰って行きましたよ。
あれで以外と忙しい男らしいのでね」

「そう、ですか。もう少し、お化粧の話を伺いたいとも思っていたのですが」

「ま、それはいつでも出来ると思いますよ。
あなたが呼べば、多分飛んでくるでしょうから。
さっきも、『なぜ、こんな時に限って、急な仕事が……』と、
ブツクサ言いながら帰って行きましたから」

二人して小さく笑い合う。

「ところで、奈美さん。私は、その顔に魔法を掛けた。
今までよりも、走るのが早くなる魔法を、ね。
美しさも大事だが、今度は、ぐうの音も出ないほどのタイムを叩きだしてやるといい」

「先生はいつから魔法つかいになったのォ? ピノコ、しらないやよ!」

「ん、少し前からだな。……というのは冗談だが、奈美さんのタイムが上がるのは確かだ。
それには確固たる理由があるが……フフ、それは秘密にしておきましょう」

「いえ、先生は、確かに魔法使いです……。
私の人生に、魔法を掛けて下さいました……!」

「何度も言いますが、私は、ただ単に『治療』しただけですよ。
あとはあなた次第だ。期待していますよ」

「はい、頑張ります……! ところで、何かお礼をさせてください……。
そうでなくては、私の気が……」

やはり、どういう理屈であれ、無償のままというのは居心地が悪いのだろう。
奈美の申し出に、ブラック・ジャックは答えた。

「そうですね。では、宗太くんに、走りを教えてあげて下さい。
……あとは、たまにでも、あの美味いお茶を飲ませてもらえれば十分です」

「本当に、それだけで……?」

「ええ。それで、十分ですよ」

目と目が合う。
ブラック・ジャックの強い意思を感じ取ったのか、
それ以上奈美は何も言わなかった。
家路に付く奈美を見送り、ブラック・ジャックは自室でお茶を飲み始めた。

「うーむ。やはり、あのお茶にはかなわないな。難しいものだ」

「先生、あの『魔法』って、なんなのよさ?」

ブラック・ジャックが、でまかせを言うとは考えていないピノコである。
先程から、「魔法」が気になって仕方のない様子なのであった。

「なに、簡単なことだ。
奈美さんは、生まれつき鼻孔が狭い造りになっている人だったのだよ。
それが手術の失敗により、ますます狭まってしまっていた。
私は、それもついでに治しておいたのだ。ランナーに取って鼻の詰まりは天敵だと思ったのでな。
今まで、奈美さんは自分の鼻孔が狭いなどとは、知りもしなかっただろう。
それが広がったのだ。呼吸が楽になり、タイムも上がるだろう。
それが、魔法の正体だよ。言っただろう? 私は、『治療』しただけだ、と」

「なーるほどォ……やっぱり、先生はすごいのよォ」

「いや……まあ、そういうことに、しておくか」

「うん、すごいすごい! でも……お電話のことは、言わなかったのね? どうちて?」

「お電話、か……」

ブラック・ジャックは、電話を掛けた相手を思い出す。
須帯や、洋服を取り扱う業者に明るい知り合い、そして……。

「奈美お姉さんのお母さんに電話をかけたのをだまっていたのは、どうちてなのォ?」

「まあ……その事を伝えずに、奈美を納得させられたのであるから、言う必要は無いだろう?
あまり自分の知らぬところで自分のことを詮索されて、いい気分になる人間はいないからな」

ブラック・ジャックは、奈美の母親にも電話を掛けていた。
奈美がトレーニングしていた時間……。以前、「口裂け女」に変装したブラック・ジャックとピノコが、奈美と出会った時間。
その時間をずらせば、奈美以外の人間が電話に出るであろうことは、想像に難くなかった。
トレーニングというものは、規則正しく行われなくてはならないものである。
奈美ほどのアスリートが、いつもいつも違う時間にトレーニングをしているということは、考えにくかった。

自らが医者であり、娘を治療しようとしていること。
娘は、顔かたちの有りように悩み、顔を変えてしまおうとしていること。
自分としては、なるべく元の顔かたちのままに留めておきたいと考えている、ということ。
ここまで明かせば、奈美の母親から話を聞き出すことは朝飯前である。
ブラック・ジャックの聞きたいことは一つだった。

「奈美さんは、本当に自分の顔に未練がないのだろうか?」

もしかしたら、先天的な疾患によって、顔かたちが普通の人のそれと異なってしまっていたのかもしれない。
度重なる整形手術によって変わり果てた治療前の奈美の顔から、それを推し量るのは難しかった。
だとしたら、本当に未練がないのかもしれない。それなら、そこだけ治療すれば良いだけのこと。
何も、顔かたちを全て作り直すことはない。
そういう風にも、ブラック・ジャックは考えていた。
だが、ブラック・ジャックがそのことを聞いても、奈美は、
「昔の写真は捨てました。もう覚えてさえいません」
の一点張りであった。

だが、奈美の母親に聞いてみると、疾患などによって顔かたちが異貌となってしまっていた、といったことは無いとの答えが返って来た。
それどころか、彫りこそ浅いものの、日本人らしい良い顔をしていた、という。
そして……。

「奈美が、自分の顔に未練など無いなんて、嘘です。
あの子は、毎日、昔の写真を見ています。先生、どうか……」

そこまで聞けば、十分だった。

「医者は……人のために在るべきなのだ。
患者のためなら隠し事の一つくらい、するさ」

「ちょうねぇ。でも、ピノコには、隠し事なんて、ダメなのよ」

「そうだな。ピノコに隠し通せるものなんて、隠し味くらいのものだ。
昨日のチャーハンには、お前の嫌いな野菜も入っていたんだが、美味そうに食べていたな」

「えーッ! 先生、ヒドいのよーッ!」

「ひどいわけあるか。美味しく作ってくれてありがとう、だろ。そこは」

「むー……そう言われると確かに美味しかったのよ……でも……」

ぶつぶつ言いながら部屋を後にするピノコ。
ブラック・ジャックは窓の外を眺めながら、奈美の事を思い出す。
正直なところ、治療代をタダにする気は無かったのだ……当初は。
だが、ピノコが持ってきた奈美の写真。
そこに写っていた「奈美お姉さん」の顔に……。
亡き母親の面影を感じてしまった。

だから、元の顔のままにしておきたくて、無理やりな理屈をこね上げたり……。
母の面影のある人を美しく着飾らせて、美しさに気付かせたり……。
そんな理由、誰にも言えるはずが、ないじゃないか。
財布の中から、亡き母の写真を取り出し、眺め、また、しまい込む。

さあ。そろそろ、夕飯にしようか。
今日はピノコが手腕を振るうとのことだが……。
いかな魔法使いといえども、ピノコの料理を美味しくするのは難しい。
出来るのは、あらかじめ自分に魔法を掛けておくということだけだった。
胃腸薬という、魔法を。

「先生ーッ! できたのよさーッ!」

ああ、今日もカレーか。いくら好きでもこう毎日では……。
む、この香りは……。ピノコ……またカレーに唐辛子を突っ込んだな……?
隠し味のつもりか、嫌いな野菜の報復か、はたまた、ピーマンと間違えでもしたのだろうか?
やれやれ。随分と辛い魔法も、あったものだ。
「辛くて食べられない」と泣くピノコの姿が目に浮かぶ。
レトルトは、まだ残っていただろうか。
激辛カレーを全て平らげるのは、私の役目なのだろうか。
そんな事を考えながら、ゆっくりと階段を降りていった。
古い階段は、今日も変わらず軋んだ音を立てる。

(終) 







[33841] よみがえれ! オズマ 第一話 大リーグボールvs見えないスイング
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:e91e7acd
Date: 2013/05/12 05:59
 二人の男の間を、乾いた風が通り抜けていく。
 一人は、小柄ながら獅子のような眼差しでもう一人を睨みつけている。その男が深々と被った帽子には「G」の文字が誇らしげに輝いていた。
 もう一人は、黒曜石のような肉体を誇る偉丈夫。握りしめているのは、よく磨きこまれ鈍い光沢を放つ木製のバット。握る手に一層力を込めると、筋肉が隆起する音を立ててでもいるかのように膨れ上がっていく。
 視線が交錯し、小柄な方の男が黒人の男に向かって吠えた。
「行くぞオズマ! これが俺の生み出した、大リーグボール3号だ!!」
 高々と振り上げられた腕が、地面すれすれを舐めるかのような軌道を描く。その遠心力が最大になった瞬間、男の指がボールを力強く押し出した。
 その球はまさに打ちごろの速度でもってオズマと呼ばれた男の元へ飛んでいく。特に何の変哲もない――ただのキャッチボールと見まごうくらい力を感じられないそのボールを、強振で打ち砕いた――はずだった。
 確かに捉えたはずだった。しかしその球はバットに捉えられるその刹那、まるで生きてでもいるかのようにふわりと浮き上がり、そのまま後方のフェンスへぶつかって落ちた。
「手元で変化する球か? いや、しかしホシ・ヒュウマが『大リーグボール』と名付けたまでの球が、ただの変化球であるはずがない……」
 オズマは、以前自らが試練の果てに身につけた『見えないスイング』で打ちとった大リーグボール1号、そして自らをスランプに貶めた大リーグボール2号の恐ろしさを思い返していた。構えたバット目掛けて飛んでくるという奇想天外な1号、そして消える魔球である2号。その二つを超えるはずの魔球が、ただの変化球であるはずがないと。
 転がっているボールを拾い上げ、微かに付着した土を服の端で拭うとそれを『ホシ・ヒュウマ』と呼んだ男へ放る。ホシ・ヒュウマはそれを無言で受け取ると、足元の土を馴らして投球モーションに入った。オズマは既にそれを待ち受ける姿勢である。
 そして、先程と同様まさに打ちごろの速度、高さでもって大リーグボール3号は飛来する。オズマは構えたバットを……振らない。バットを振る代わりに、手元での変化を凝視する。数々の球をスタンドに放り込んできたオズマの動体視力はまさに超人的であった。微かな変化やブレも見逃さない自信はあった。しかし、大リーグボール3号は『全く』変化していなかった。
「まさか、大リーグボール3号ではない球を混ぜてきたのか。いや、ホシ・ヒュウマはそんな事をする男ではない。だとしたら、なぜ今の球は変化しなかったのだ……?」
 再びボールを拾い上げ、投げ返すまでの間に考えを巡らせる。捉えたはずの球が、変化してバットを避けた。捉えようとしなかった二球目は、変化しなかった。
「大リーグボール1号は『バットに当てる魔球』だった……。だとしたら、3号は『バットを避ける魔球』ではないだろうか? 変化は違えど、相手によって変化する可変式の魔球である可能性は否めない……。それならば、1号を打ち砕いた俺の『見えないスイング』であれば何か変化のヒントを掴めるかもしれぬ」
 放られたボールを受け取ったホシ・ヒュウマの目が見開かれた。その目に写っていたのは、以前自らを打ち砕いた『見えないスイング』の予備動作だった。
 筋肉を可動域限界まで引き絞り、テークバックにより極限まで高められた力を爆発させる。通常の選手であれば振り遅れるほどの大振りであるため、まさに『見えない』程のスピードでなくては成り立たないオズマ必殺の打法である。そのスイングスピードは時速200kmを超えると言われていた。これは飛ばしをウリにしている一流プロゴルファーのヘッドスピードと並ぶ、もしくはそれ以上の数値である。しなりの少ないバットでこれを行えるのは世界広しとはいえオズマだけであった。
 極限のスイングスピードと、極限の遠心力。この二つの超パワーを受けたボールは、多少芯を外れたとしても簡単に観客席へと飛び込んでいく。
 ホシ・ヒュウマは、内心戦慄していた。実のところ『大リーグボール3号』は『極限まで軽い球』である。その軽さは、相手バットの起こす風圧により浮かび上がったり沈んだりしてしまうほどであった(羽毛を打とうとしても触れることさえ出来ないのと同じ原理である)。
 しかし、目の前の打者のスイングもまさに『極限のスピード』であった。通常の理屈では説明出来ないことが起こるかもしれない。もしかしたら、ボールがバットを避ける前に打たれてしまうかもしれない。真空か何かが巻き起こって、ボールが吸い込まれてしまうかもしれない。
 だが、それならばそれで仕方ないとも思っていた。以前、自らの大リーグ1号は『見えないスイング』によって打ち砕かれている。それと同じ攻略法で破られるのであれば、自分が進化していなかったということなのだから。
 大きく息を吸い込み、腕を振り上げる。勝負だ、見えないスイングよ! 三たび、ホシ・ヒュウマの指から白球は放たれた……!

全く同じ軌道を描いて、大リーグボール3号が襲い来る。オズマはボールの縫い目さえも見えようかというくらいまで集中力を高め、十分にボールを引き込み、そして――。
「Muooohhhh!!」
 いつバットを振り切ったのか、それすらも分からないほど高速のスイング。しかしボールはオズマの後方でフェンスにぶつかって落ちた。オズマは振り切った体勢のまま……ホシ・ヒュウマは投げ切った姿勢のまま……両者は共に、そこだけ時間が停まってしまったかのように動かない。
 先に動いたのはオズマだった。がくりとその場にうずくまると、荒く息を付く。そして、ほぼ同時にホシ・ヒュウマも崩折れた。
「あ、当てられた……」
 四白眼にもなろうかというくらい目を見開き、震えながら呟く。当てられた、当てられた……と。
 オズマのスイングはクリーンヒットこそしなかったもののボールの端に触れていた。その為微かにボールは浮き上がり、ファールとなっていたのだ。
 ボールとバットの邂逅はほんの僅か、髪の毛が撫ぜたほどの接触であったが、超人とも言える二人のプロ野球選手はその事の重要さを誰よりもよく理解していた。
「フ、フフ……触れた、確かに触れたぞ、ホシ・ヒュウマよ……」
 うずくまりながらも不敵な笑いを浮かべるオズマ。触れさせない魔球に、触れた。触れることが出来るなら「見えないスイング」の速度を更に上げていけばいつかは打ち破れる。その事を確信した上でのオズマの笑いだった。
 だが、オズマは気付いていなかった。二球、三球と同じボールを使用するうちに、ボールへと僅かに土が付着し『何よりも軽い』魔球は、僅かながらの重量を獲得してしまっていたのである。それが果たして当てられた原因なのかはわからないが、完璧な大リーグボール3号でなかったことは事実である。
 ホシ・ヒュウマも、この時点ではその事に気付いていなかった。彼がその事に気付くのは、もう少し後のことになる

 オズマは、ボールをホシ・ヒュウマへと投げ返し、四度目の構えを取る。何かの間違いであってくれ。ホシ・ヒュウマはそう思いながら、大リーグボール3号の投球体勢に入った。
 しかし、不安定な精神状態で投げきれるほど大リーグボール3号は簡単な球ではなかった。リリース時に無駄な力が指に入ってしまい、不要な回転がかかる。ただの棒球と化した大リーグボール3号だったものは、力なくオズマの元へと飛んでいく。
 再び、見えないスイング――。快音が無人の広場に響く。
 しかし、ボールはスタンドへと入ることは無かった。ライナー性の打球はフェンスを直撃し、落ちる。確かにヒット性の当たりではあったが、通常の『見えないスイング』であれば楽々ホームランに出来るような棒球であった。はずなのに。
 ホシ・ヒュウマは理解していた。今のは投げ損ねだと。普段のオズマであれば問答無用でスタンドへ運べる……下手をしたら場外へと持っていかれてもおかしくないような球だった。
 オズマは理解していた。今のは投げ損ねだと。普段の自分であれば場外弾でもおかしくなかった。それなのに、打ち損ねた。背中に鈍い痛みが走っていることに、今気付く。
「オズマ……そのスイング……どうかしたのか? 『見える……』ぞ!?」
「ホシ・ヒュウマこそ、今の球はなんだ。投げ損ねなど、許さんぞ! 俺が打ちたいのは、大リーグボール3号だけだ」
 視線と視線が火花を散らす。互いに満身創痍……と、その時。
「待てぃ! この勝負、ワシが預かる!」
 二人が驚いて声のする方を向くと、そこには青いユニホームに身を包み、仁王立ちした壮年の男が立っていた。
「と……父ちゃん!?」
「ボス!? なぜ、ここに!?」
 父ちゃん、ボスと呼ばれた男はにやりと笑みを浮かべると、腕組みをして答えた。
「オズマが来日するという情報を聞いてな。と、なるとだ。オズマのすることくらい予想がつくわい。なにせオズマを野球の奴隷として鍛え上げたのは他でもないワシなのだからな」
 星 一徹――。野球に人生を懸けた男。
 ホシ・ヒュウマ(星 飛雄馬)の父親であり、オズマのコーチを務めたこともある男だ。二人にとっての野球の師とも言える男の、鶴の一声。お互い本調子ではなくなったと理解した飛雄馬とオズマは、この場では勝負が付かないということも同時に理解した。
「フフ、それでよい、それでよい。それよりもだ。オズマよ、先程のスイングは何だ? 見えないスイングどころか、子供でも見えるようなスイングだったではないか。アメリカに帰ってほっとしたのか? そんな事では大リーグボールは打ち破れんぞ」
「ボス……いえ、何でもありません。日本に着いたばかりで時差ボケしているのかもしれません」
「たわけ! 言い訳をするようならば初めから勝負などするでない! 勝負は体調を整えてからにするのだな……」
 何か言いたげな表情のオズマであったが、飛雄馬・一徹共にその意思をうかがい知ることは出来なかった。一つ大きく息を付くと、オズマは口を開く。
「ホシ・ヒュウマ。勝負は一度預けるぞ。本来なら明日にでもすぐ勝負といきたい所だが、残念ながら今の俺には時間が無い。またいずれ……という形になるが、それまでに誰かに打たれなど、するなよ」
「ああ、もちろんだ。もちろんオズマ、お前にも打たせなどしない……!」
 がっちりと握手を交わす二人の男。二人の目には再戦を誓う炎が燃え盛っていた。

 そして、その夜――。
――もしもし、飛雄馬か? ワシじゃ、父じゃ。
――父ちゃん? こんな時間に何だい。今の俺達は敵同士なんだぜ。
――もちろん、敵じゃ。だが、ちと気になることがあってな……。
――オズマのことで?
――お主も気付いておったか。オズマは、言い訳などするような男ではない……そうであろう?
――うん、そうだ。それにオズマが時差なんかで『見えないスイング』が出来なくなるとも思えない。
――あれほどの男に限ってそれは無かろうな。ふむ……。

 夜は更けていく。球場を後にしたオズマの鈍痛は、それから三日が過ぎて日本を後にする時分になっても、晴れなかった。



[33841] よみがえれ! オズマ 第二話 墜ちる英雄
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:e91e7acd
Date: 2013/05/12 05:41
 特徴的な逆U字型のアーチがひときわ目立つ町並みを見下ろしながら、四本目のバドワイザーを飲み干す。
 セントルイス・シティホテルの最上階、そこにオズマは居た。オズマは決して酒に強い方では無かったが、この夜は飲んでも飲んでもアルコールが彼の精神を満たすことはなかった。
 それは脳裏に焼き付く大リーグボール3号のせいでもあったが、それよりもオズマは消えない背中の疼痛に苛立っていた。
 ちょうど四ヶ月ほど前……オズマはベトナムで兵士として戦っていた。その事で「黒人の魂を売った」と幼馴染に批判されたりもしたが、その事に関して彼はアメリカ人としての義務を果たしただけだという思いを強く抱いていた。むしろ黒人だからこそどの白人よりもアメリカ人らしく戦おうという気持ちがあったのかもしれない。
 戦ったことは後悔していない。むしろ誇りにさえ思う。それほど彼の戦果は華々しかった。しかし戦いは彼の身体に消えない呪いのような傷を刻みつけていった。
 とある作戦中、オズマの所属する部隊はゲリラの奇襲を受けた。何かが飛んでくる気配。それを感じられたのは彼が天才バッターだったからなのかもしれない。手投げ弾――爆弾だ、と理解したその次の瞬間、彼は覆いかぶさるようにして友人の肉体を黒曜石の肉体で守っていた。診断では軽傷と判断されたが、なぜか軽傷にも関わらず負傷兵として帰還を許され、日本を中継して帰ることになったのである。先日の大リーグボール3号との対決はその時のことなのであった。
 医師はスーパースターであるオズマに伝えることが出来なかった――彼のケガは軽傷に見えて、もはや治療不可能なレベルの損傷であることを。
 背骨にまで達した爆弾の破片を取り除くことは脊髄を傷つけることと同義であり、それはすなわちセントルイス・カージナルスの英雄であり戦場の英雄であるオズマの損失と同義であった。
 戦争が英雄を殺した――そうなればタダでさえ国民の理解を得ているとは言えないベトナム戦争を行なっているアメリカ政府へ、さらなる民意の逆風が吹き付けることは間違いなかった。
 アメリカ軍はオズマに対して真実を伏せるという結論を出した。いつ爆発するかわからない爆弾のような傷を抱えたオズマは、こうして軍隊から球界へと返されることになった……。真実はトップシークレットとされていたが、医師も人の子、知り合いであるカージナルスのOBに酒の席でそれとなく愚痴をこぼしたとかこぼさなかったとか……。
 
 三日後の試合から、オズマは打って打って打ちまくった。甘いボールはHR、悪くても長打に出来る「見えないスイング」そして戦場の英雄という名誉を引っさげて、カージナルスの連勝に貢献する日々を送る。だんだんと強くなる疼痛、いやもはや鈍痛に耐えながら彼はバットを振り続けた。英雄であるために。誇りのために。自分から黒人の魂が消えていないことを証明するために……。
 気付いてはいた。それほどの痛み。鈍痛を通り越し、激痛というほかないほどの痛み。自らの身体に異変が起きていることに気付かないはずなどなかったのだ。それでもオズマは出場を辞めなかった。誰にもバレないように、常に不敵な笑みを浮かべながら打ちまくった。
 彼は英雄でなくてはならなかった。自らの誇りと、黒人の魂のために。「見えないスイング」のたびに奏でられるバットの風切り音は「俺は、黒人の魂を失ってなどいない!」というオズマの叫び声のようでもあった。
 根強い人種差別の残るアメリカ社会、オズマはその社会に打ち込まれた楔のような存在だった。白人が、アジア系が、そして黒人が、彼の一打一打に熱狂する。カージナルスに勝利を呼び込む黒い旋風……試合に勝った翌日の一面はいつも彼になった。オズマ! オズマ! 彼の受ける称賛は彼のものでもあり、すべての黒人のものでもあった。彼はその時確かに、アメリカに住む黒人の象徴となっていた。
 そして、しばらく経ったある日のこと。カージナルス対パイレーツの試合中、ついに爆弾はオズマへ牙を剥くことになる。
 ピッチャーが振りかぶって第一球を投げる。オズマの豪打にプレッシャーを感じているのか、球はミットと逆方向の外角へと大きく外れていった。
 オズマは微動だにしない。人並み外れた動体視力と集中力を持つ彼にとって、大きく外れたボールなどは振ることの方が稀なほどだ。襲い来る激痛の中、一段と強くバットを握り締めると、筋肉が一層膨れ上がる。キャッチャーはもう一度内角を要求する。汗だくのピッチャーは首を横に振るが、ミットは内角から動こうとしない。
 ピッチャーは考えていた。このキャッチャーは公言してはばからないようなレイシストで、黒人に対して逃げるようなボールを投げるということは彼の誇りに傷が付くのと彼の中では同義なのだろうと。これ以上サインに首を振っても仕方がない、とサインに頷く。要求は内角高めへのストレート。汗を拭うと、握りを確かめる。
 そして少しの間を置いて彼の左足が上がり……ボールが放たれる! 構えたミットに向かって一直線に突き進んでいく。待ってましたとばかりに背中が見えるほど大きなテークバックを取るオズマ。インハイのストレートを捉えたかと誰もが思ったその時、オズマのスイングが止まる。いや、正確にはテークバックの姿勢のまま硬直してしまっていた。限界まで酷使されたオズマの肉体がついに悲鳴を上げる。神経が痛みに耐えられなくなったのだった。痛みで筋肉が麻痺し、スイングすることが出来ない。
 不幸はもうひとつあった。汗を拭ったピッチャーは、ロージンバッグを付けずにボールを投げてしまった。汗で滑ったその球は内角へ変化する回転を伴ってオズマを襲った。
 内角へのストレートがさらに内角へ変化すれば、待ち構えている運命はデッドボールしかない。背中を向けたオズマの、爆弾の破片が埋まっているその場所へとボールは吸い込まれていった……。
 味わったことの無い感覚がオズマの脳内を駆け巡る。眼球の奥で火花が走り、全身が凍えるような熱さに恐怖さえ覚えた。常軌を逸した衝撃に、彼の神経は回路のシャットダウンを命じた。昏倒するオズマ。その時、爆弾の破片はついに彼の脊髄へと達してしまったのであった。彼が目を覚ますのは、意識を失ってから一週間も後の事となる……。

 目覚めたオズマは、自分がどこにいるのかが一瞬わからなかった。鼻につく薬品の臭いと真っ白な壁で、自分が病院にいることに気付く。一週間前……彼にとってはほんのすこし前に味わった激痛は、今は無い。横を見ると、母親と幼馴染のジェニーが寄り添うように眠っていた。
 二人の足元には毛布が落ちていた。その毛布をかけ直してやろうとベッドから降りようとしたその時、オズマの巨躯が転がり落ちる。血の気が引いた。確かに痛みはあった。しかしそれは上半身に限ってのこと。彼の下半身は、ベッドから転落したにも関わらず……なんの痛みも感じていなかったのだ。
 驚いて飛び起きた二人は、オズマが目を覚ました事に喜び……そして、驚いた。ベッドから転げ落ちたオズマは、自らの太腿を平手で叩きながら雄叫びを上げていた。
「おい……おい! どうした、俺の足! どうした、俺の身体……! なぜだ、なぜ、何も感じないんだ、うっ、おおおおお!!」
 オズマの損傷はあまりにも深かった。脊髄にまで達した破片は彼の神経を傷付け、結果として彼の鍛えあげられた下半身は何も感じず、どこも動かせない彫刻のようになってしまっていた。
 母親とジェニーは医師から「半身不随の可能性がある」と伝えられてはいたが、オズマはあまりにも突然の出来事に混乱するしかなかった。目の前の英雄は目覚めてすぐに絶望を味わったのだと理解した二人は、オズマの肩を抱くしかなかった。だが皮肉にも、無言の涙は何よりもはっきりとオズマに絶望的な現実を伝えていた。
 しかし、絶望の先には更なる絶望があることをこれからオズマは知ることになる。爆弾の破片は、彼の身体機能だけでなくその生命さえも奪いとろうとしているのであった……。

つづく
 



[33841] よみがえれ! オズマ 第三話 すくいの主は?
Name: 森谷 七樹◆696f4567 ID:e91e7acd
Date: 2013/05/12 05:49
 寝たきりになってしまった老人が急速に衰えていくように、動けなくなったオズマは目に見えてやつれ始めた。
 口を利くことさえも稀になり、日がな一日窓の外を眺めて過ごすその姿からは、英雄と持て囃された栄光の日々の欠片さえも感じることが出来なかった。
 下半身不随。爆弾の破片が神経を傷つけてしまったか、圧迫してしまっているかどちらか、の結果である。しかも運の悪いことに、爆弾の破片は一つだけではなかった。心臓の影になるような位置……大きな血管のすぐそばに潜り込むような位置に、もう一つ。出血していないのが不思議なような場所に、もう一つの牙が潜んでいたのであった。取り除くには手術が必要であるが、少しでも傷が付けば大量出血、そして死。非常に難度の高い手術である。こなせる人間は病院内に誰一人として存在しなかった。
 それを聞いてもオズマは人ごとのように「そうか」と呟くだけ。手術をしなくても、いつ、なにかの弾みで破片がもう少しだけ食い込むようなことがあれば、生命が危ういというのに。野球人生の終わりと共に、オズマという英雄も死んでしまったかのようにも見えた。

 病室内のラジオから野球中継が流れ始めた。セントルイス・シティの病院なので、中継はもちろんオズマの所属していたカージナルスの試合である。
『スティーブ・カールトン、第四球を投げました! ストライク! バッターアウト! 今日も「Lefty」の球は走っています。さて、このところ貧打に喘ぐカージナルス打線はエースの好投に応えることが出来るでしょうか? あぁ、それにしてもアームストロング・オズマの突然の退団が堪えます……』
 それを聞いたオズマは拳を握りしめ、ラジオに向かって振り上げ……深い息をつくと同時に、拳を降ろす。何も感じない、左足の上に。
 握りしめた拳を、ゆっくりと開く。度重なる素振りでマメが出来、それを潰して創りあげた分厚い手のひら。二度とバットを握り、打席に立つことはないのかと思い目を閉じると、今まで野球に尽くしてきた人生が脳裏をよぎった。貧困、成功、そして日本で出会った投手との対決、勝利、敗北、別れ、戦場、負傷。それら全てを覆い隠すように、一本一本の指を閉じていく。閉じ終えた時、拳は少しだけ濡れていた。
 ラジオの音を絞ると、頭から布団を被る。何も考えられなかった。オズマにとって全ての栄光は過去のものであり、これからの未来には一条の光さえも射しこんではいなかった。暗闇の中、意識を落とす。浅い眠りから覚めた時、試合は終わっていた。相手チームの選手がヒーローインタビューを受ける様子から、オズマはカージナルスの敗北を悟った。スコアは1-0。エースの好投が報われることはなかった。

 来る医者来る医者、全てがサジを投げた。リハビリをすれば多少は回復するかもしれない。だが、リハビリをするためには心臓の影にある破片を取り除かなくては危険すぎる。その手術が出来る人間もいないし、オズマは元通りにならないようなリハビリなど受ける気にはなれなかった。
 日に日にやつれていくオズマを見かねて、母親や幼馴染が何かと世話を焼こうとするが、オズマにはそれさえも鬱陶しかった。わざと突き放すようなことを言ったこともある。しかしオズマがどれだけ荒れていても二人は憐憫の思いで接してくる。それを受け入れられない自分にも苛立ち、段々とオズマの表情は険しくなっていった。
 そしてオズマ入院してから一月後のこと。曇りがかった灰色の空の下、病室を一人の医者が訪れていた……。

「やあ、はじめまして。あなたがアームストロング・オズマかね?」
 その医者はあまりにも異様だった。黒尽くめのコートに、顔面を横切る大きな傷。その傷を境にして黄色の肌と黒色の肌が分かれている。
「なんだ、お前は。お前も医者なのか?」
「そうだ。私は医者だ。治せるかどうか、お前さんを診に来た」
 異様な面体の男は、こともあろうに誰もがサジを投げた病状のオズマに対して「治せるかどうか診に来た」とのたまった。一体この男は何者なのか? 訝しげな視線を向けられた黒ずくめの男は、そういう奇異の視線には慣れているとでも言わんばかりに自己紹介を始めるのであった。
「私の名前はハザマ・クロオ。人にはブラックジャックと呼ばれている。どう呼ぶかはお前さん次第だがね」
「ブラック・ジャックだと……? それは過去に白人が奴隷を殴るのに使った棍棒の名だな。気に食わん。名前からすると日本人のようだが、なぜそんな渾名で呼ばれている?」
「フフフ……いや、そういった意味でのブラック・ジャックではないのだ。私の『クロオ』という名前は、Black Manという意味でね。そういう意味でのブラックなのだ。ジャックは……トランプのジャックだとでも思ってくれたまえ」
「そうか。だが、黒人でもないお前がBlack Manというのは……」
 そう言うと、オズマはブラック・ジャックに足先からじっくりと観察するような目を向け、肩をすくめる。
「いや、確かに十分過ぎるほど『黒い』な。オーケー、ブラックマン。聞かせてくれ。俺を治すというのは、どういうことだ? 俺は、普通の生活が送れるというレベルの治療であれば、受ける気は無い。俺にとって栄光は野球、そして黒人の誇りだけだ。それを取り戻せないのであれば、このまま死んでも構わない。野球の出来ない俺など、もはやただの抜け殻にすぎん」
 眼光鋭く、オズマは決意を口にした。しかし、その鋭さは薄すぎて折れる寸前の刃物の鋭さ。以前のような力強い肉厚の短刀のような鋭さではなかった。
「さて、元通りに動くかどうかはわからん。何しろ私はまだ診察すらしていないのだからな。だが、一応レントゲン写真は見せてもらった。心臓の影に潜む破片を取り除けるかどうかは、五分五分といったところだな。下半身の方は、いかな私でも何とも言えん。ただ一つ言えるのは、手術をしなければお前さんが回復する確率はゼロ、ということだな。安静にしていれば長生き出来るかもしれんし、何もしないというのも手だぞ」
「命などはどうでもいい。問題は、この身体が元通り動くようになるかどうかだ。他の医者は全員が不可能だと言った。だが、お前は『わからん』と言う。教えてくれ。元通りになる可能性は、あるのか?」
 段々とオズマの瞳が光を帯びてくる。だが、ブラック・ジャックはそれを煽るようなことはせず、むしろ冷たい口調で話を続けていく。
「あるには、ある。しかし、本当に元通り動くようになるかどうかは、運。正直5%あるかどうかだと思う。そして何よりもお前さんの『死んだほうがマシ』だと思えるくらいのリハビリに耐える精神力があるかどうかだ。それだっていつ回復するか、いや果たして回復するのかさえ、わからん。とある人に頼まれてここまでやって来たが、ここまで重症だとは思わなかった……だが、確率はゼロではない、とだけ言っておこう」
 上着を脱ぎながらブラック・ジャックは答える。白いシャツから少しだけ透けて見えるブラック・ジャックの肉体は、医者にしては随分と鍛えられたものだった。そして、顔面と同様にところどころ肌の色が違うようだった。どういった経緯でそうなったのか、オズマは思考を巡らせたが、数秒の後にそれは意味が無い事だと気付き、考えるのをやめた。
「頼まれた? いったい、誰にだ? 俺の病状を知っている人間は、そう多くはないはずだがな」
 オズマは、退団する際にその理由をただ『健康上の理由』とだけ発表した。戦争による負傷からの退団となれば、世論が戦争に対して吹き付けることは必至。それを嫌った政府がカージナルスを通して圧力をかけてきていたのだった。カージナルスは金を積まれても首を縦に振らなかったが、全てがどうでもよくなっていたオズマは『勝手にしてくれ』と了承し、退団発表さえも行わなかった。政府からオズマにはそれなりの金が渡されたが、オズマはそれをチームへの違約金だとばかりに全額カージナルスへ寄付してしまった。そういう理由から、オズマの病状を知っているのはカージナルスの首脳陣、そしてオズマにごく親しい人だけのはずであったのだが……。
「私にお前さんの診察を頼んできたのは、お前さんが以前所属していた中日ドラゴンズ打撃コーチである、星 一徹氏だよ」
「……ボスが? なぜ!?」
 思わぬところで出てきた思わぬ名前に驚くオズマ。なぜ、遠く離れた地にいるはずの恩師ホシ・イッテツが自分が重症だということを知っていて……なおかつ、医者まで寄越すとはどういうことなのだろう。ボスの見込んだ医者であれば、この男は素晴らしい医者なのだろうか。
「まあ、色々あってね。それはおいおい話していこうと思うが……ところで、診察くらいはさせてくれる気になったかな? 今の状態のレントゲンを撮りたいのだがね」
 少し考えて、首を縦に振る。ボスの寄越した男が、治る確率はあると言った。オズマはホシ・イッテツを誰よりも信頼していた。自分に『野球の奴隷になれ』と言い放ち、その言葉通りに野球の奴隷へと仕立てあげた。オズマは奴隷となった。だがそれは、誰の強制でもない自分の意志で。野球に全てを捧げる覚悟が出来たのは、ホシ・イッテツと出会ったからだと言っても過言では無かった。それまでのオズマは、確かに素晴らしいバッターであったがどこか冷めていて、野球の機械と呼ばれていたほどだった。
「さて、レントゲン室へ行こうか。私と星一徹氏との関係も教えるよ」
 車椅子に乗りながらオズマはこれからのことを考えていた。命は惜しくない。それは本当だった。だが、希望を持って手術を受けて、やはり動かない、と再び絶望するのだけは怖かった。それを悟られないように拳を握りしめたが、一月前と較べても明らかに握力が落ちているという事実は、オズマの不安を一層掻き立てるのであった。

つづく


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