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[33077] 空を翔る(オリ主転生)
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:50
初めまして、草食うなぎと申します。

皆様の優れた作品を読むうちに妄想が止まらなくなってしまいまして、自分でも書いてみる事にしました。
文章を書く事が初めてですので色々と至らない点は有ろうかと思いますが、よろしくお願いします。

この小説はゼロの使い魔の二次小説です。
オリ主転生もので内政ものを目指しています。
しかしまだ領地がありません
しばらくは子供生活が続きます。

こんな小説でも読んで下さったら嬉しいです。



最後に、この場を提供して下さっている舞様に感謝します。



改訂のお知らせ
※12/6/3 番外2を3-0として三章に移動しました。
        それに伴い一部まとめ方を変更しました。

下記の削除の件について、感想板にも書きましたがこちらにも削除した理由を掲示しておきます。

どうもこの作品を削除させたい人による、いわゆるF5アタックが行われたと判断しました。

叩いている人の設定では私はF5アタックでPVを稼いで方々で自慢しているそうです。その設定に則って、誰が見ても分かりやすい形でPVを増やし、自慢する書き込みをし、削除に追い込むつもりだったのでしょう。
ですのでその前提を崩しました。もし今後またF5アタックしようとしてもPVは激減していますし、私がF5されていることを認めていれば自慢のためにPV増やしているという理屈は付けられなくなります。結果としてF5アタックする意味は無くなるんじゃないかなと思います。
犯人にやる気を無くさせる手段を他に思いつきませんでした。

調べたところ、2chで当作品に対し削除依頼を出すべきだとの煽り行為が頻繁に行われた直後にこのF5行為は行われたようです。

かなりげんなりとする事態ですが、読んで下さる方がいる限りは連載を続けたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。

※12/5/8 一度削除して再UPしました。お手数かけて申し訳ありません。
        一章、二章は四から五話まとめました。
 


※12/2/29 人物紹介改訂
※12/2/29 隷属の首輪の設定を変更しました
※11/11/11 人物紹介改訂
※11/20 要望があったので簡単な人物紹介をここに載せます
※9/11 1-3を改訂しました。不快に思われた方、申し訳ありませんでした。
※7/6修正終わりました。
現在ウォルフ六歳・サラ七歳・クリフォード十一歳・マチルダ十三歳です。よろしくお願いします。
※7/3現在更新を一時停止して主人公の年齢を改定し、二歳半開始→四歳半開始としようと思っています。
今まで読んで下さった方には本当に申し訳ないと思いますが、多くの方から二歳半という年齢に対する批判を頂き、またこのままだと原作期があまりにも遠すぎると言うことで決意しました。
現在プロットの方は訂正が終わり、本文を順次書き換えている所です。
サラの年齢はそのままなのでウォルフとは一歳差となりました。その他は特に変更はせずにそのままです。
こんなに書いてから変更するなんて、と躊躇していましたがより良い作品にしたいと思っての事です。何卒ご理解とご容赦をお願いしたく思います。
※誤字や小さな修正などは随時しています。大きな修正をした時はここで報告します。
※6/2ご指摘を受けて賞金額を一エキューから三十エキューに増額しました。









人物紹介

年齢は原作開始時のものです
現在ウォルフが九歳なので全員七歳引いた年齢となります

ド・モルガン家                           
ウォルフ・ライエ・ド・モルガン 16歳 火                    
 ガンダーラ商会筆頭株主・技術開発部主任・東方開拓団団長 

ニコラス・クロード・ライエ・ド・モルガン 47歳 風             
 男爵 サウスゴータ竜騎士隊勤務 父

エルビラ・アルバレス・ド・モルガン 43歳 火                
 サウスゴータ太守の女官兼護衛としてパートタイム勤務 母 

クリフォード・マイケル・ライエ・ド・モルガン 21歳 風     
 兄

メイド
アンネ 33歳 水                         
 元デ・ラ・クルス伯爵家のメイド 乳母

サラ 17歳 水                         
 ウォルフの幼なじみで乳姉弟で従姉で自称専属メイド・ガンダーラ化粧品社長・サウスゴータ孤児院院長




ガンダーラ商会
タニア・エインズワース 31歳 風               
 会長 元ガリア貴族で元マチルダの護衛官 

マチルダ・オブ・サウスゴータ 23歳 土             
 サウスゴータ名誉商館長 サウスゴータ太守の娘 

ベルナルド 41歳                      
 会長秘書
カルロ 48歳                                
 アルビオン代表・サウスゴータ商館長
フリオ 37歳                                
 以上三人ロマリア出身の平民

ラウラ 22歳
 サラの従姉妹 航空学校鬼教官                               

リナ 21歳                           
 サラの従姉妹 開発部主席開発員

トムジムサム 22歳                       
 工員

スハイツ 37歳                        
 ガリア代表

フークバルト 38歳
 ゲルマニア代表

東方開拓団

クラウディオ  31歳 風
ルシオ 30歳 風
 オルレアン密偵

モレノ 35歳 風
セルジョ 34歳 風
 ロマリア密偵

マーカス 50歳
 大工

ミック 21歳
 技師

ゲオルク 32歳
 測量技師

モーリッツ 30歳
 重機オペレーター

マルセル 35歳 土 
 開拓団団員代表

グレース 20歳 土 
ミレーヌ 18歳 水
 秘書


アルビオンの人々
カール・ヨッセ・ド・ストラビンスキー 75歳 土           
 家庭教師

ジャコモ 65歳                      
 ジャコモ商会長



ガリアの人々
フアン・フランシスコ・デ・ラ・クルス 75歳 火             
  祖父 伯爵・元ガリア王国軍両用艦隊総司令

マリア・アントニア・デ・ラ・クルス 70歳 風
 祖母
 
レアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルス 50歳 風
 伯父 子爵・ガリア王国産業省副大臣

セシリータ・エンカルナ・デ・ラ・クルス 40歳 水
 伯母

ティティアナ・エレオノーラ・デ・ラ・クルス 15歳 水
 従姉妹

パトリシア・セレスティーナ・ソルデビジャ・ド・バラダ 31歳 水
 シャルロットの家庭教師     

ホセ 46歳
 サラの伯父



ゲルマニアの人々
ツェルプストー辺境伯 45歳 火
 ツェルプストー領主

キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー 18歳 火
 友人

マリー・ルイーゼ・フォン・ペルファル 21歳 火
 友人

デトレフ 42歳 土
リア 25歳 水
バルバストル 32歳 風
オイゲン 52歳 水
 ツェルプストー家臣



[33077] 0    プロローグ
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 01:23

 彼は考えていた。
ただずっと、ひたすらに。

 なぜこんな事になっているのか、自分は本当に存在しているのか、そもそも存在とは何か。
繰り返される過去の夢の間、未だ曖昧な意識で必死に世界を認識しようとしていた。

 永遠かと思われたその世界は、しかし突然に終わりを迎えた。

 身体をすり潰されそうなひどい苦しみの後、彼の前に現れた新しい世界はひたすらまぶしい光にあふれ、とても寒かった。

 あの不思議と心を落ち着けるリズミカルな音がもう聞けなくなっていることに気づき、あふれる光の中薄ぼんやりと自分以外の存在が動き回っていることを認識し、自分の身体が火をついたように泣き声をあげていることを自覚するに至って彼は自分が今置かれている状況を理解した。

 ああ、オレは今生まれたんだ、と。


 輪廻転生

 そのような考えが存在していることは理解していた。
それどころか彼は弘法大師空海のファンだったので、友人などには「死んだら兜率天に生まれ変わって大師様と一緒に弥勒の元で修行する!」などと宣言していたものだが、まず本気ではなかった。
しかし今現在こんな現実に直面してまったので、考えを改めざるを得なかった。
「輪廻転生、有ります」と。

 食事・睡眠・排泄を本能に任せ、赤ん坊の頃の有り余る時間の中、転生について考察することは楽しい事だった。

 人が死に、恐らくその体から魂とよばれるものが抜け出る。
存在を人の体に依存しないそれが、どこかで人の受精卵に宿り体と結びつく。
それとも魂がそこにあったから受精するのか。
最早朧気な記憶だが、もし、前世での知り合いに会ったらどんな態度を取ればいいのか。
その場合、輪廻転生を証明することが可能になるのではないか。
その為には前世での記憶を完璧に保っていたいのだが、薄れていってる気がする
世間の赤ん坊は実は皆こんな事を考えていて、成長するに従い真っ白な存在にリセットされるのではないか。
考えることはいくらでもあったが、そのうちに体が成長し、また新しい世界が開かれることになる。

 視力が物体を識別できるまでに成長し、まず驚いたことは両親が明らかに西洋人と思われる風貌をしていた事だ。
おフランスかよ?とも思ったが、何となく魂がそんなに長距離を移動することには懐疑的だったため、日本の中の外国人家庭に転生したのかと推測した。
しかしその後見る事ができた人間がすべて西洋人であり、しかも乳母やメイドさんなどもリアルに存在すること、さらに部屋の調度品などから距離どころか時間も超越し、日本ではなく欧州しかも中世に転生したのではないか、との結論に至ってしまった。
彼は中学校の時”私、マリー・アントワネットの生まれ変わりなの”と主張していた同級生の西原さんを馬鹿にしてしまったことを心の中で謝った。
彼女がマリー・アントワネットの生まれ変わりであるとは今でも信じられないが、今の彼にはそのことを100%否定することは出来なかった。

 ここが中世のヨーロッパであるとして、次の問題はどこの国であるかということなのだが、これが難しかった。
耳が音を聞き分けるようになっているのに、まったく言語を理解することができないのだ。
英語などのメジャーな言語ではないことは確かなので推測するのは諦めて一から言葉を覚えることにした。

 言語とはコミュニケーションだ!ということで、積極的にコミュニケーションの親密化を図る。といっても相手を見つめるぐらいしかできないのだが。

母を見る。黒に近い赤色、という不思議な髪色をしていて、しみ一つ無い肌はどこまでも白く顔立ちはとても整っていて、有り体に言えばすこぶる美人だ。スタイルはとてもいいようでそれは特に食事の時間に実感している。
暫く観察した後、母を見つめてニコッと笑ってみる。
すると元々笑顔だった母がさらに満面の笑みとなって何かを語りかけてくる。心が洗われるような笑顔だ。
コミュニケーションの第一段階がうまくいったのでうれしくなった彼はさらに微笑みながら「あーあー」と言語を発したいことをアピールする。
そんな彼に彼女は自分を指さしながら「ママよ、ママ」と教えてくれる。楽しそうだ。
その優しげな母の様子に心底幸せを感じながらその言葉の意味を理解した彼は、新しい人生で初めての言葉を口にしようとした。

「マ「ほらパパだよー。パパ!」」
「あなたっ何するのよ!。今初めてママって呼んでくれるところだったのにぃ!」
「いやほら、二人きりで世界を作っちゃってちょっと寂しいっていうか、パパって呼んで欲しいっていうか・・・。」

突然に横から母と自分の間に首を突っ込んできた父に幸せな時間をじゃまされた彼は、喧嘩を始めた二人を横目で見ながら『当分パパなんて呼ばないようにしよう』と心に決めていた。
改めて母親に「マーマ」と呼びかけ、「ほ、ほらパパって言ってみようよ!パパだよ、パパ、パパ。」と五月蠅い父親を無視して乳母を指さして名前を教えて欲しいことをアーピルする。
こちらも母に劣らぬ美人さんで、美しい金髪に愛嬌のある垂れ気味の目が印象的である。母よりもさらに若いようで十代にも見え、こちらのスタイルもバツグンなのは食事の時に確認している。

「あら、アンネの名前が知りたいのかしら。アンネよ、アンネ」
「アンニェ」
「そう、アンネよー。ウォルフは賢いわねー」「くっ乳母に先を越されるとは・・」
「マーマ、アンニェ」

母親と乳母を一人ずつ指さしながら確認し、部屋の中にある物を指さしては名前を教わった。
柔軟な赤ん坊の脳は次々にそれらの言葉を覚えて行くので、案外早く言葉を覚えられそうなことを喜んだ彼は、最後に自分を指さし「ウォルフ」と名乗ると満足した様子で眠りについた。

「この子は天才よ、きっと立派なメイジになるわ」
「どうしてパパって呼んでくれないんだろう・・・」




[33077] 第一章 1~5
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 01:22


1-1    初めての冒険



 誕生してから四年と少し経った。

 彼の名前はウォルフ・ライエ・ド・モルガン。漠然とではあるが日本人としての前世の記憶を持つ男である。

 父はニコラス・クロード・ライエ・ド・モルガン三十九歳、アルビオン王国の男爵でサウスゴータ竜騎士隊に所属し領地は持っていない。
母はエルビラ・アルバレス・ド・モルガン三十一歳。兄はクリフォード・マイケル・ライエ・ド・モルガン九歳である。
住居はシティオブサウスゴータのドルセット通り沿いにありメイドは三人、その内の一人が乳母でもあったアンネ二十一歳である。
ここは竜やグリフォンなどの幻獣やエルフや翼人などの亜人が実在し、メイジと呼ばれる魔法使いである貴族が支配するハルケギニアという世界である。
ハルケギニアにはロマリア・ガリア・トリステイン・ゲルマニア・アルビオンなどの国があり、それぞれ王や皇帝、教皇などが治めている。
アルビオンは浮遊大陸で、トリステインの西方の海上三千メイルに浮いている。
メイジが使うのは系統魔法という魔法で、火・風・土・水の四系統と伝説である始祖ブリミルの使用した虚無の系統をあわせて五系統有り、それぞれの特徴に沿った魔法を行使できる。
およそ文化的には中世のヨーロッパに酷似しているが、魔法の存在故に中途半端な便利さがあり、文明の発達はほぼ止まっているように見える。
貴族でない者は平民と呼ばれその地位は著しく低く、その安価な労働力が貴族の暮らしを支えている。

 これまでに分かったことをざっと纏めると以上のようになる。びっくりである。

「輪廻転生すげえ・・・時間や空間どころか世界を越えているよ」

ハルケギニアに関する知識を纏めた手製のノートを読み返していて、あらためてそのあまりの内容に呆れ、思わず呟くと横から声がかかった。ウォルフのすぐ隣で床に寝ころんでお絵かきをしているのはアンネの娘・メイド見習いのサラ五歳である。

「ウォルフ様どうしたの?」
「あ、いや魂と無常観について考えていただけだよ」
「無常?」
「全ての物は消滅してもとどまることなく常に変移しているっていう考えだよ」
「ふーん」

 ウォルフが言葉を覚えようと決意してから三年以上が経過したが、最近では完璧なハルケギニア語を喋れる様になっていて、その話す内容は大人顔負けのことが多い。
しかし、文法などが全く日本語と違うため最初は覚えるのに苦労をし、二歳を過ぎる頃までずっと片言で単語を並べる様な話し方をしていた。
そのため、早くに話し始めて天才かと喜んだ両親もその頃には普通の子供であると認識する様になっていたが、ウォルフが本を読み始めてまたその認識は一変した。
次々に難しい本を読み、この世界の知識を吸収していく様を見てやはり天才だと多くの本を買え与えた。
ウォルフはそれらの内容を分析し、内容ごとに分類、考察をして纏め、ハルケギニア学とでもいうような研究をずっとして日々を過ごしてきた。
下級貴族である彼の両親は多忙なのでウォルフはそれらの研究内容を一歳年上であるサラに話して聞かせることが多かった。
彼が語ることは五歳の女児でしかないサラにはほとんど理解できないことが多いが、ウォルフが日頃彼の父母や兄などには話さないことを自分だけに話してくれることはうれしいことだった。

「もう終わったの?遊ぶ?」
「うん、もういいや。今日はね、町に探検に行きたいんだ」

生まれてからほとんどを屋敷の中で過ごしてきたウォルフは外の世界を見てみたくてしょうがなかった。両親に連れられて街の中央広場までは行ったことはあるがその他はほとんど行ったことがなかった。

「えー、奥様に怒られちゃうよー。それより一緒に本を読もうよー」
「こっそり行ってこっそり帰ってくれば大丈夫だよ。本はまた今度読んであげるからさ、きっと町には楽しいことがたくさんあるとおもうんだ!」

渋るサラを何とか説得し、出かけることに同意させたので急いで支度をする。

「あれ、ウォルフ様マントはしないの?」

この世界の貴族はたとえ四歳でもマントを着用するように躾けられている。

「マントなんか着てたら貴族の子供ってばれちゃうじゃないか。サラもオレのことをウォルフって呼び捨てにしてね」
「平民のふりをするの?うん・・・分かったウォ、ウォルフ・・・」
「OKOK、平民の子供なら町にいても誰も気にしないからね。じゃあ行こう!」

 門の周りに誰もいないことを確認して素早く抜けると二人は手を取り合って駆けだした。

「うぉーっ自由への逃走だー!」
「きゃーっ私悪い子になっちゃったー!」

暫く走って角を曲がって止まり、息を整えた二人は五芒星型の大通りにある繁華街の方角に向かって歩き出した。
町並みはやはり中世のヨーロッパに酷似し、道行く人々はいかにもコーカソイドといった感じの白人だった。
サウスゴータは古くからの交通の要衝でアルビオン有数の都市であり、その活気ある町は初めて見る楽しさにあふれていた。

「うわーあの肉屋豚の頭をそのまま売っているよ。初めて見た」
「あのフネでっかいなあ、どこに行くんだろう」
「あ、竜騎士隊が帰ってきた。父さんいるかなあ」
「ほらサラ見て見て!変な使い魔連れている人がいるよ!」

「分かった、分かったからウォルフさ、ウォルフそんなに手を引っ張らないで。離れちゃうでしょう」

人々が行き交い様々な店がある市場を歩きながら、テンションがあがりっぱなしのウォルフに若干引きながら繋いだ手に力を込める。

「いい?絶対に手を離さないでね?はぐれちゃったらもう会えなそうだもの」
「何でそんなに冷静なんだよ、サラは。あっほらあの八百屋も変な野菜いろいろ売ってる。こんな葉っぱ食べたことないなぁ」
「あらウォルフ知らないの?あれはハシバミ草っていうの、とっても苦いのよ」
「う゛、だって食べたことないもん。」

いろいろ見て回りながらおしゃべりしていると通りの終いまで来てしまった。
それほど歩いたわけではないが四歳の体力では結構疲れたし、日も傾いてきたので帰ることにした。

「じゃあ帰りはこっちの道を通って帰ろう」
「え、違う道通ったら帰れなくなるんじゃない?」
「サウスゴータの地図ならもう頭の中に入っているから大丈夫だよ。平民街を通るけどそんなに遠回りにならないで帰れるよ」

 そんな軽い気持ちで足を踏み入れた、初めて見る平民街は、非道いところだった。
彼らが通って帰ろうとしたのは、地図を見ただけでは分からない、いわゆるスラムと呼ばれる場所だったのだ。
そこはこの世の絶望が全て詰まっているように感じられた。

虚ろな目で道ばたに座り込み、ただ死を待っているかのように見える老婆。
動かない両足を引きずり這いずっている男。
もう動かない赤ん坊に必死に乳房を含ませようとしている母親。
ひどい悪臭と方々から湧いてくる蠅などの虫。
その蠅のわくゴミの山をあさる子供たち。
そこに足を踏み入れた瞬間、ウォルフは身の危険を感じたので、足を竦ませているサラの手を引っ張って元来た道へ引き返した。
帰り道は行きと同じ道を通ったにもかかわらず、もう、楽しむことは出来なかった。

「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・何であんなところがあるの?」グズグズと鼻を鳴らしながらサラが尋ねる。
「・・・ブリミルの呪い、かなぁ」
「何でブリミル様のせいなのよ!ブリミル様の魔法のおかげでみんな安心して暮らせるようになったんでしょう!」
「貴族という特権階級のみが力を持つことによってね。だけど、ブリミルが来る前から人間はここハルケギニアで暮らしていたんだ。そりゃ最初は楽になっただろうけど代わりにもたらされたのは六千年の停滞だ。六千年も文明が進化しないなんて悪夢だよ。みんなが幸せな社会ならそれでもいいけれど、こんな現実は呪いだと言わざるを得ないよ。水は流れていないと腐るんだ」
「じゃあ・・何で貴族様はあの人たちを救ってくれないの?」
「腐っている、か・・・まあ普通、貴族は平民の街なんか行かないからね。多くの人は知らないんだと思うよ」
「ウォルフ様の言うことはむつかしくてよくわかんないよ・・・」
「本当は貴族こそが見つめなくちゃいけない現実、目を逸らしてはいけない事実なんだけどね。今の貴族は貴族の責務を果たそうとしているとは思えないから」
「・・・・・・」
「サラ、オレは約束するよ。いつか、この現実に抗ってみせる。そして事実からは決して目を逸らさない人間になるってことを」
「・・・うん・・」

四歳児が口にしてもあまり様にはならない台詞ではあるが、サラはウォルフを見つめ返しその手を強く握った。





1-2    初めてのお願い



 屋敷の前まで帰ると、門が大きく開け放たれ中で人が走り回っている気配が伝わってきた。

「うわーこれ絶対ばれてるよね?」
「怒られちゃうかなあ」

最早小細工は不可能と覚悟して門から堂々と帰宅すると、そこには鬼がいた。

「ウォルフッ・・どこに行ってたのかしらぁ?」

腕組みをして仁王立ちに立ちふさがり、その手に杖を握りしめ、なぜかチリチリと足元に炎をまとわりつかせたエルビラだった。
思わず漏らしてしまいそうな顔をして硬直してしまったサラをかばい、その前に立ったウォルフは強ばったながらも笑顔を浮かべることに成功した。

「お母様、ウォルフただ今帰宅いたしました。本日は見聞を広めるため港の方に散歩に出かけておりました」

ゴウッと音を立ててエルビラの足元の炎が渦を巻く。

「ウォルフ・・貴方は賢い子供だから分かるわよね?貴方達のような小さな子供だけで街を出歩くのがどんなに危険なことか。貴方達がいないことに気づいた私達がどんなに心配したか。お母さん出入りの商人のミゲルをついうっかり焼き殺しちゃうところだったわ」
「お母様ごめんなさい。お母様が帰ってくる前には戻ってこようとは思っていたのです。帰り道に遠回りしたために遅くなってしまいました」

涙を浮かべた眼で睨まれ、ウォルフは素直に謝った。いったいミゲルはどんな目にあったんだろう。
エルビラは杖を落とし渦巻いていた炎を霧散させると跪いてウォルフを両手にかき抱いた。

「ああっウォルフっ・・貴方が帰ってきてくれたことが何よりです。もうこんな勝手に抜け出したりしてはなりませんよ?お父様に言えばいつでも連れていって下さるのですから」
「ええ、はい、いえあの・・父様には先月から何度か頼んではいるのですが、疲れているとのことでいつも連れていってもらえないのです。屋敷にある本は全部読んでしまったし、魔法はまだ許可が出ないし、外の世界を見てみたいと思ってしまったのです」
「そう・・ニコラがそんなことを・・あの人は今日は宿直だったわね・・・。ちょっとお母さんは隊舎に行ってお父様とお・は・な・し・してきますので貴方達はアンネと先に食事をとっておきなさい」
「「は、はいっ」」
「サラ、ウォルフの相手をするのは大変でしょうけど一緒にいてあげてね?お願いよ」

エルビラはまだ固まっているサラの頭をふわりと撫でてそう言うと杖を拾って出かけていった。
サラはなぜそんなことを言うんだろうと不思議に思ったが、まだ緊張していたため頷くことしかできなかった。


――― 翌日 ―――


「エルに聞いたんだが、お前昨日屋敷を抜け出して町をふらついてきたそうだな?」

 朝食を摂りながら髪の毛を所々焦がしたニコラスが切り出してきた。
昨晩はエルビラに叱られた後、夕食時にアンネがクドクドとずっと叱っていたので大分うんざりしていたウォルフは、ニコラスには色々と言いたいことがあったが取り敢えず「はい」と返事を返すだけに留めておいた。
横では日頃四歳児の弟に勉強で後れを取るという屈辱を味わっている兄のクリフォードが、ざまあみろ、とばかりにニヤニヤしている。

「なぜそんな事をした。そんなことをすれば叱られることぐらいお前なら分かっていただろうに」
「たとえ叱られようと・・・行きたかった、それだけです」
「ウォルフ、家長として命ずる。今後このような勝手なまねはしないように」
「・・・・・・(プイッ)」
「え、ちょっとお前、ここはわかりました、だろ!お前が抜け出す度にエルに燃やされるのは父さんいやだぞ」
「・・・・・・」

あからさまに反抗する息子に狼狽えたニコラスだったが、すぐに落ち着くと話を続けた。

「ん、お前が町に行きたいと言っていたのにそれに応えてあげられなかったことは、悪かったと思っている。しかし父さんも色々忙しいんだ。お前やクリフの我が儘に全て応えてやることはできん」
「別に全ての要求をかなえて欲しいなどとは思っていません。父様が飲みに行ったり博打に行ったり、アンネを口説いたりする時間の極一部を割いて欲しいと思っただけです。あ、でもアンネが困っていますので口説くのはやめて欲しいとも思っています」
「ちょーーーっお前何ぶっちゃけてるんだぁぁ!・・エ、エル、ウォルフは何か誤解しているんだよ、誤解」

エルビラの周りの温度が急激に上がるのを感じながらニコラスは今日も丸焼けかなあ二日連続は辛いなぁなどと考えていた。

「あなた?」
「はいっ」
「後でお・は・な・し・しましょうね?アンネが前に仕えていた所でとても辛い目にあって当家に来ることになった、というのは当然知っていましたよね?同じ様な事をしてどうするのですか!」 
「いやそんな無理矢理にだなんてしようとはしていない・・ええ、はい、後でおはなしですね?はい分かりました。・・はぁ・・・ウォルフ」
「はい」
「結局お前は何がして欲しいんだ?この際だ、全部言ってしまえ」
「はい、まずは魔法を習いたいです。後は蔵書をもっと増やして欲しいです。今あるのは全て読んでしまったので。それで時々は外の世界に連れ出して欲しいです。あとアンネ「アンネのことはもういい」・・」

また余計なことを口走ろうとする息子を制すると、心底疲れ果てた様子で深々と椅子にもたれ、天井を仰いだ。

「お前まだ四歳のくせに魔法なんて生意気すぎるぞ。俺だってまだそんなにできないのに!」
「あークリフ、今は口を出すんじゃない。外に連れ出すのはいいだろう・・父さんも今後は時間ができるだろうしな、後でエルとおはなしするし・・・グスッ。そうだ夏には家族で旅行に行こう、ラグドリアン湖なんかいいかもしれんな父さんの故郷が近くにあるんだ。一度みんなを連れて行きたいと思っていたんだ。・・・蔵書については、今すぐふやすのは難しい。ニコラスプールの実践魔法理論とかもあったと思うんだが、あれも読んでしまったとなると・・あのレベルの本はとても高価になるから家の財政では早々購入できん。エルを通して太守様の蔵書をお借りできるように頼んでみるから、後でどんな本が読みたいのかエルに相談しなさい。後は、魔法か・・・。普通は五歳から十歳くらいで習い始めるものだがお前はまだ四歳。うーん」
「お父様、私は自分が"普通の"四歳児とは異なる事は自覚しています。"普通の"五歳児であるサラとも対等の関係を築けていますし、試してみる分には問題ないのではないでしょうか?・・父様は昼間は仕事のことが多いですし、母様もお城に出仕して家を空けることが多いです。兄様は魔法の練習がありますが、私がその時間していることはサラの相手だけです。私はもっと知識を得たいのです。お願いします、私に魔法を教えて下さい」

そう言うとウォルフは子供用の椅子から降り、深々と頭を下げた。
我が子にそんなに真摯にお願いをされてしまっては、ニコラスとしては受け入れるしかなかった。

「うむ、分かった。しかたない、魔法を習うことを許可しよう。カールには私から伝えておく」
「うおっヤッター!父さんありがとー」
「まったく、許可を出した瞬間父様が父さんになったよ。・・いいな、これからはちゃんと言うこと聞くんだぞ。魔法の練習は危険がつきものなんだ」
「うん、僕がんばるよ!!父さんもおはなしがんばってね!」

それはもういいって言ってんだろがー、と叫びたくなるが、ニコニコとご機嫌な様子を見るとそんな気にもなれなかった。

「とほほ・・・」





1-3    初めての魔法



 魔法である。ファンタジーである。

サラとともに杖を渡されて一週間、そろそろ契約が完了するのではないか、ということで二人は家庭教師であるカールの家を訪ねていた。
カールはここらの貴族の子供達に魔法を教えている老齢の男で、元は王宮にも仕えていたという優秀な男だった。
貴族の家に出向くこともあるが、下級貴族の子供らは複数で一緒に授業を受けるためカールの家に出向くことが多かった。

「ふむ、二人とも杖の契約は完了したようじゃ。よく魔力が通っておる」
「二人とも、先週渡した基本の魔法書は読んできたかな?」
「「はいっ!」」
「よい返事じゃ、ではこれより授業を始める。今日はまず魔力のコントロールにおいて基礎の基礎の基礎、『レビテーション』を教えようと思う」
「「よろしくお願いしますっ!」」
「うむ。まず、魔法とはこれ即ち己の想念を顕現させる力のことじゃ。つまり自分の頭の中で考えたイメージを杖を通して現実の世界に作用させる、という事じゃ。魔法を使用する上で大事なことは、まずそのイメージを実現可能な形でしっかり作る、ということ。次いでルーンを唱え、魔力を身体から杖、そして対象へとしっかり流すということ。最後に対象に作用させる、という意志をしっかり持つこと。解るかな?」
「「はいっ!」」
「まあ、なんとなくでも出来てしまったりもするので、このことをきちんと意識してなかったりするメイジも多いんじゃが、より優れたメイジになろうと思うのならば基礎はしっかりしてないといかんからの、イメージし、魔力を流し、実現する、という手順はきちんと意識して魔法を使いなさい」
「「はいっ!」」
「ではまず『レビテーション』をワシがやって見せよう。『レビテーションは』物を宙に浮かせる魔法じゃ、自分にかけると自分自身も浮かせることが出来るようになる。まず、この石を浮かせてみよう。これがここら辺に浮いている様を頭の中でイメージするんじゃ。そして唱える。《レビテーション》!」

その言葉通り、直径二十サントほどの石が浮き上がりウォルフ達の目の前一メイルあたりで静止した。
ウォルフにとって初めて見る魔法ではなかったが、これからこんなデタラメな力を自分も使えるようになるのかと思うと興奮を抑えきれそうになかった。

「せ、先生、僕もやってみてもいいですか?」
「うむ、ではワシが『ディテクトマジック』で観ているからそこの石にかけてみなさい」
「はい、いきます!・・・《レビテーション》!・・・・む?」

石はぴくりとも動かなかった。

「ぬう、なぜだ?・・・《レビテーション》!」
「《レビテーション》!」
「《レビテーション》!」
「ああ、こりゃこりゃ・・連発すれば成功するという物でもないわ。魔力は通っているし、意志も過剰なほどある。問題なのはイメージじゃな。ちょっとイメージだけ練習していなさい。次はサラ、やってみなさい」
「はい、いきます!・・・《レビテーション》!」

石はふわりと浮きかけ、すぐに落ちてしまった。

「ふむ、スジがいいのぉ。イメージもまずまずじゃし魔力もきれいに流れておる。後は意志じゃな、ちょっと浮き上がったらびっくりして集中を途切らせてしまったの。なに、すぐに出来るようになるじゃろう、続けてやってみなさい」
「はい!」

褒められて頬をうっすらと紅潮させているサラを横目で見つつウォルフは悩んでいた。

(イメージができねぇーっ!!石が浮くってやっぱり有り得ないだろう、どう考えても。物理法則無視してんじゃねえよ!あー、この固定観念をどうにかしなきゃオレ一生魔法を使えるようにならないかも・・・)

どうしても何の脈絡もなく石が宙に浮く、ということがイメージできないのだ。
イメージした瞬間に"有り得ない"と前世の記憶が邪魔をするのである。
前世でも、とあるカルトにはまってしまった知り合いに「騙された思って信じてみて?そしてこのお経を一緒に唱えるの!それだけでいいの!そうすれば絶対に幸せになれるから!!」と、勧誘された事があったが、そんなこと言われたっていきなり信じられないし"騙された"とさえ思えなかったものである。
どう考えてもその胡散臭い理論には騙されたと思うフリすら出来ず、その子と一緒にその胡散臭いお経を唱えてみてもどうにもならなかったのである。
その子が超可愛くて巨乳な女の子だったにもかかわらず、だ。
その子と肩寄せ合ってお経を唱えたときは確かに幸せを感じることが出来た。それは確かだ。
だがそれもその子が壺のカタログを出してきた瞬間に消えた。
黒目がちで綺麗な瞳と思っていたものが、瞳孔が開いていて焦点が定まらない目であることに気づいた瞬間でもある。
つまりウォルフにとって"有り得ない"という観念は強固で生半な事では消し去ることが出来ないものなのだ。
そうこうしているうちに隣ではとうとうサラが『レビテーション』を成功させていた。

「ホラ、ウォルフ様見て見てー!サラ、『レビテーション』出来たよ!」
「お、おぅ、やるなぁ・・・・」

サラが石を浮かしているのを見て、羨望と嫉妬がわきあがってきたことに驚いて目を瞑る。

(はあ、ざまぁねえな・・・何五歳児に嫉妬してるんだよ。落ち着いてイメージし直そう。脈絡がないからイメージが出来ない、つまり、石が浮く理由があればいいんだ。)
(石が地面に落ちているのはなぜだ?重力があるからだ。重力とは何だ?石と地球との間に働く万有引力だ。じゃあ、万有引力とは何だ?質量を持つ全ての物体の間に働く力だ。そう、世界を構成する四つの基本的な相互作用のうちの一つだ。つまりこれに干渉することが出来る力が魔力ならば石は浮くはずだ!)

目を開き眼前の石を睨み付ける。
それだけで石と地球との間の引力を感じ取れる気がしてきた。
そのままその石から出ている引力を遮断するようにイメージを形作る。

「お、お、お、なんかイメージ出来た!いくゼッ・・《レビテーション》!」

フッと軽い音を立てて石は上空遙か高くに飛んでいってしまった。

「あー、そりゃそうかー。重力がなくなりゃ気圧で飛んでっちゃうよな」

小さく呟き、あわてて魔法を解除すると、少しして石が落っこちてきて大きな音を立てて庭にめり込んだ。
その間カールとサラはポカンと口を開けて石の軌跡を見つめているだけだった。
基本的に魔法は呪文と効果が一致しないと発動しない。
ウォルフはレビテーションと唱え石を彼方へととばした。それは魔法としてかなり異質であるといえた。

「ちょ、ちょっと待てウォルフよ、一体どんなイメージを持てば『レビテーション』があんな魔法になるのじゃ!」
「ウォルフ様すごーい」

(うぉぉぉすげぇぇえ浮いたよ、石。重力制御だよ、すげえな魔法。つまり魔法とはグラビトンにすら直接作用する事の出来る力、五つ目の相互作用って事だ。魔力を媒介している、おそらく何らかの素粒子が存在すると想定できるな。ダークマター・ダークエネルギーの一部って事か?よくわからねぇけど元の世界ならノーベル賞物の発見だな!)

初めて魔法を成功させたウォルフは呆然としてしまい、周りの騒ぎも暫し耳に入らなかった。

「こりゃ、聞いておるのかウォルフ。一体何をやったんじゃ、もう一度やってみせい」
「え、あ、すみません。石が浮いている状態をイメージ出来なかったので、石が浮き上がるところをイメージしたらああなりました」
「それに何か違いがあるのか?ふむ、まあいい、もう一度じゃ」
「はい、またちょっとイメージを変えてみます・・・・《レビテーション》!」

今度はまず石から出ているグラビトンの波動を遮断する力をイメージし、魔法を発動させてからそれを絞り込む、という手順を執ってみた。
すると、ある時点を超えたあたりで石は浮き上がり、目の前をふよふよと漂った。

「うーむ、妙に安定しないのう・・・やたらと細かく魔力を制御しておるな。じゃがまあいいじゃろう、ウォルフも『レビテーション』成功じゃ!」
「ふー」

魔法を解除して石を落とすとウォルフは大きく息をついた。額にはうっすらと汗が浮いている。

「ウォルフ様おめでとう!これでいっしょだね!」
「おう、サラに負けてらんないからな、ちょっとがんばっちゃったよ」
「サラのがお姉さんなんだから少しぐらいいいのに・・・」
「だが断る!男の子には男の子の意地ってもンがあるのですよ」
「何で敬語?ふーんだ、次の魔法もサラが先に成功させちゃうもんねー」
「いや、もう掴みはOKだ。次はこんなに苦労しないゼ」

弟子達が喜んでいる様子を目を細めて見ていたカールだったが、ウォルフが汗を浮かべ息を荒くしていることに気付いた。

「おぬしは結構疲れておるのう、まだ四歳じゃしな、やはりあんなに高く石を飛ばすことは負担だったか」
「いえ、飛ばすのは殆ど何の負担も感じなかったのですが、細かく魔力をコントロールして石が浮いている状態にするのがとても大変でした」
「『レビテーション』は普通そんなに細かい制御は必要としないんじゃが・・・まあそれなら魔力の制御になれればそう負担に感じることもなくなろう」
「うーん・・・あっでも今ならもう普通に石が浮いているイメージを作れるかもしれない!やってみてもいいですか?」

"魔力素"の存在を実感として感じる事が出来るようになった、ということはウォルフの世界観が変わったということであり、もう石が宙に浮くことは有り得ないことではないのだ。

「いいじゃろう、やってみなさい」

目を瞑って再び集中する。

(俺のレビテーションが普通と挙動が違うのはなぜだ?普通は重力制御で浮いているわけではないって事だ。魔力素が影響を与えるのはグラビトンだけではないという証左であろう。いわゆる念力のように魔力によって直接持ち上げているのか?よし、重力制御するの魔法を『グラビトン・コントロール』って名付けよう、そして『レビテーション』は魔力によって直接物体を持ち上げる魔法って認識するんだ。)
(そうだ、魔力ならそんなことだって可能なはずだ。この世界の多様な魔法がそれを証明してくれている、ここは魔法がある世界なんだ。よし、魔力によって浮いている石をイメージして・・・)

「いきます・・・《レビテーション》!」
「ふむ」

今度は普通に浮いた。安定もしているし、どう見ても普通のレビテーションである。

「やっと普通に出来たのぉ・・一体何が違ってたんじゃ」
「石が浮くなんて有り得ない、という観念を取り除くことに苦労しました。僕が納得出来る形で浮かそうとしたのが最初の魔法でしたが、それに成功することによってやっと何とかなりました」
「ぬぅ、四歳児のくせに頭が固いのぉ。普通その年頃の子供は大人が言うことをそのまま信じるもんじゃ。なんか気付いたことはあるか?」
「浮き上がらせているのを維持するのは大分楽ですね。ただ、浮き上がらせること自体は最初にやったものの方が魔力を必要としないようです」
「それは、お前の中では別の魔法として認識している、ということか?」
「はい、最初にやったのは『グラビトン・コントロール』と名付けました。下に落ちる力を制御する、という意味です」
「下に落ちる力がなくなれば浮き上がる、ということか。初めて使う魔法がオリジナルの魔法とは・・・いやはや」
「魔法はイメージが大事、だということがよく分かりました。理屈は後からついてくるってところでしょうか。『グラビトン・コントロール』が成功したのはその原理が元々『レビテーション』に含まれていたからではないか、と思えます」
「まあ、魔法が使える、といってもその原理を説明出来るやつなどおらん。魔法で浮いた、でおしまいじゃ。おぬしはかなり理屈っぽいようじゃな。理屈が解らないと使えない、というのではこの先難儀することも多くなるかもしれん。もっと頭を柔軟にして感覚で理解する、ということも重要じゃ。覚えておきなさい」
「はい、今日は身にしみました」
「うむ、迎えが来たようじゃ。今日の授業はこれまでとする」
「「ありがとうございました!!」」

 今日初めて魔法を使い、テンションが高くなっていた二人は迎えに来たアンネに纏わりつき、今日習ったことを自慢した。
アンネは自分も簡単な魔法を使えるし、サラの父親もメイジなので、サラもいずれ魔法を使えるようになるとは思っていたものの、実際に使えるようになったと知り嬉しそうだった。
三人で手を繋いで帰る道中笑いが絶えることはなかった。





1-4    初めての原作キャラ



 魔法を習い始めて一月が経った。

これまでに習った魔法は

・レビテーション
・念力
・ロック
・アンロック
・ライト
・ディテクトマジック

の六つである。それぞれに対してのウォルフによる感想と見解は、というと―

『レビテーション』―重い物でも浮かせて運べるので便利な魔法。最近お手伝いでよく使う。水汲みなんか喜んでやっちゃう。

『念力』―『レビテーション』から重力制御を抜いた感じ。その分精密な操作ができる。サラより先に出来たので思いっきり自慢していたら怒られた。

『ロック』&『アンロック』―かなり苦労した。サラはなぜかすぐに出来たので自慢し返された。けど結局授業時間中に成功しなかったら帰り道で慰めてくれた。サラはええ子や。家で鍵の構造を完璧に覚えてやったら成功したが、他の鍵には通用せず、ただの『念力』だったことが判明。へこむ。悩んだ末、鍵そのものに鍵がかかっている状態と空いている状態の想念が残っていて、その物の記憶といえるものを魔法で読み取って操作する。という仮定により成功させることが出来た。メイジならば誰でも開けられるというのではこの世界の鍵にあまり意味はないと思う。

『ライト』―最初は何を光源にしているんだろうと悩んだが、カールの『ライト』を観察して、魔力素をそのまま光子に変換しているんだ、と気付いたらすぐに成功した。イメージによって波長を変えられることも判明、光の色を変えて遊んでいたらカールにかなり驚かれた。サラはずっと出来ないでいたので「魔力をそのまま光らせる感じでイメージするといいよ」とアドバイスしたら成功していた。「ぁりがとぅ」って言われた。

『ディテクトマジック』―魔力を探知出来るし構造や材質なども解る便利な魔法。『ロック』の経験からかすぐに使うことが出来た。っていうか『ロック』の前に教えるべきだと思う。

 この一ヶ月の生活はほぼ規則正しく、午前中はサラに読み書きや計算を教えながら自分の勉強、午後はサラと一緒に魔法の練習、というものだった。
魔法は一度成功したらいつでも使える、という物でもなく、イメージ次第でどうとでもなってしまう物なので反復練習をしてイメージを固めることが必要なのだ。
その練習は最初はニコラスかエルビラがいる時しか許されなかったが、習熟度を見て子供だけでの練習も許可された。
ウォルフは一度覚えてしまえばすぐに魔法が安定したし、サラは少し不安定だが総じて二人とも非常に上達が早く、周りの人を驚かせた。


――― カール邸中庭 ―――

「さて、今日教える魔法は『ブレイド』と『マジックアロー』じゃ。これらの魔法は攻撃魔法ではあるが使い方によってはとても便利なので覚えておくべきじゃ。」
「まず『ブレイド』じゃが・・《ブレイド》!と、このように魔力によって刃を作りそれによって物を斬る、という魔法じゃ」

茶色く光る刃を出現させ、丸太を切ってみせる。

「どんな物が切れるかは術者の能力によるが、普通の刃物よりはよっぽどよく切れる。ブリミル様はダイヤモンドさえ切って見せたという程じゃ」
「続けて『マジックアロー』も見せておこう。同じように魔力の矢を作り出し、遠方に射かける、という物じゃ・・・《マジックアロー》」

今度は光の矢が飛び、遠くに置かれた丸太に穴が空く。

「これらは魔力光を放つが、その色によって術者の系統を特定することが出来る。ワシの系統は土じゃから魔力光は茶色じゃ。・・・他にはどんな系統があったかな・・ウォルフ」
「はい、火・風・水・土の四系統と虚無の系統です」
「うむ、お前達の系統は何かの、楽しみじゃ。・・では『ブレイド』からやってみなさい・ウォルフ」

一歩前に出て目を瞑り集中を高める。
イメージするのは魔力素を平面に並べること。魔力素を隙間なく並べることをイメージし、形は青竜刀を思い浮かべる。

「いきます・・・《ブレイド》!」

真っ赤に輝く刀が現れた。全く厚みを感じない刃と反った刀身、成功である。
そのまま試し切り用の藁束、丸太、鉄柱を切ってみる。全て何の抵抗も感じさせずに切れてしまった。思わず身震いするほど恐ろしい切れ味である。

「ふぅむ、大分魔法のコツを掴んだのぅ。20サントもある鉄柱を切ってしまうとは・・・お前の属性は火じゃな、では続けて『マジックアロー』を射なさい」
「はい・・・《マジックアロー》!」

今度は底面が三サントほどの円錐型に魔力素を並べるイメージで矢を作り的に向かって打ち出した。
光の矢は的に当たると刺さりはしたが貫通せずに消えてしまった。

「こちらの威力はまだまだじゃな、矢のイメージに改良の余地があるようじゃ、横で練習していなさい・・・ではサラ、お前の番じゃ」
「はい、・・・《ブレイド》!」

サラは水色の『ブレイド』を発生させ、藁束、丸太を切ることが出来たが鉄柱は切れなかった。

「よろしい、なかなかの威力じゃ。お前の属性は水じゃ、では次『マジックアロー』じゃ」
「はい・・・《マジックアロー》!」

マジックアローも丸太を貫通したが、鉄柱には刺さっただけで貫通はしなかった。

「こちらも威力は十分じゃな。二人とも、これらの魔法はとっさの時に身を守ってくれる心強い武器でもある。口語なので発動も早いし、威力も今見た通りじゃ。では、発動の早さ、確実性、威力を意識して練習しなさい」
「「はい!」」

二人に自由に練習をさせ、カールは中庭が見えるテラスに移動し、休憩を取っているとメイドが声をかけてきた。

「旦那様、お客様です。マチルダ・オブ・サウスゴータ様がいらっしゃいました」
「あの子の授業は一昨日したばっかじゃが、なんかあったかの、ここへ通しなさい」
「かしこまりました」

 現れたのは緑色の髪をした細身の少女で、手に大きな荷物を抱えていた。

「先生!こんにちは。ご機嫌よろしゅう。今日は母様がクックベリーパイを焼いたので、持って行けと言うのでまいりました」
「おう、マチルダ様こんにちは、じゃな。焼きたてのクックベリーパイのお裾分けか、それはうれしい、一緒にお茶にしよう。おーい、ヘレンお茶の用意をしてくれ四人前じゃ!先週届いたのがあったろう、あれを出してくれ」
「はい、ご一緒します。あら?先生、あんな小さな子達にも教えてらっしゃるんですか?まだ四歳位じゃないですか」
「ああ、あの子は四歳と・・・五ヶ月くらいじゃったかな、ワシの教え子の最年少記録じゃ」
「そんな・・最近は早期教育とかいって小さい子供に無理矢理魔法を習わせるっていうのが流行っている、とは聞きましたが。・・・まさか先生がそんな事するなんて」
「ああ、無理に幼いうちから魔法を習っても何のメリットもないとはワシも思っているよ。・・じゃが、あれは違うんじゃ」
「違うって何が違うんですか。あんなに小さくて可愛らしい子が怪我でもしちゃったら。先生だって小さい子供はイメージもうまく作れないし、集中力もないって仰っていたじゃないですか」
「だから、あれは違うんじゃって。はあ、実際に見んと分からんか。マチルダ様、ゴーレム生成の復習はしてきましたかな?」
「は?はい。やっております、青銅製のゴーレムを生成した後、強化も掛けることが出来るようになりましたので飛躍的に強度が上がりました。昨日は騎士見習いのジムにブレイドで斬りかかってもらったのですが、傷一つ付けられることはありませんでした」
「ふむ、では中庭に出てゴーレムを作りなさい。あの子に『ブレイド』で斬らせてみよう」
「はあ?私のゴーレムは青銅製で強化も掛かっているんですよ?あんな子供にどうこう出来るものではありません!」

カールの提案に憤然と反抗するマチルダ。十一歳ながらかなりプライドが高いのだ。

「いいから、言われた通りにしなさい。そら、こっちが階段じゃ。おーいウォルフ、今からこのお姉ちゃんがゴーレムを出すから、『ブレイド』で斬りなさい」
「はーい!おねえさん、こんにちは!ウォルフです。よろしくお願いします」
「あ、わたしはサラです。こんにちは、初めまして」

マチルダはカールに半ば無理矢理に連れ出されてしまい、多少ふてくされながら改めて二人に目を向けた。

 よく似た姉弟、それが第一印象である。
目の前に並んで立つ二人は、よく似たダークブラウンの髪でウォルフは耳が出る程度、サラは肩まで伸ばしている。
その顔つきはよく似て可愛らしく、二人で色の違う大きめの瞳が印象的である。
何を期待しているのか、ウォルフはエメラルドのような深緑の瞳を、サラはサファイヤのような水色の瞳をキラキラとさせながらこちらを見つめてくる。

そういえばこんな弟妹が欲しいって思っていたなあ、などと思いだし、ため息をつきながら二人に向き合った。

「マチルダ・オブ・サウスゴータだよ。今日はカール先生に言われたから、しかたなく、お前達の相手をしてあげるよ」
「あぁ、お転婆姫・・・・・イテテッ」

確かにそれは、元気の良すぎるサウスゴータ太守の娘に対して市井の者がつけたあだな、ではあった。しかし本人を前にして口にすることではないのでサラはあわててウォルフを抓りあげた。

「ふぅん・・・私はそんな風に呼ばれてるのかい?みんな何か誤解してるようだねぇ・・・・・《クリエイト・ゴーレム》!!」

マチルダが口の端を無理に吊り上げた"イイ笑顔"でルーンを口にすると、地面から赤銅色に輝くゴーレムが姿を現した。
身長二メイル程、騎士の鎧を形取ったそれは、左手に盾右手に大剣を持ち周囲を威圧するように睥睨した。

「ハッハァーっ!今日のはいい出来だよ!錬成もしっかり出来てるし強化もばっちりかかってる。こいつに傷を付けるなんてトライアングルクラス以上じゃないと不可能なはずさ!」
「確かにいい出来じゃ。今までで一番じゃな。ふむ、サラにもやらせてみるか・・・サラ、『ブレイド』を出してそいつを斬ってみなさい」
「ほぇ?・・・は、はい、わかりました。・・《ブレイド》!」

サラは「うぉー、かっけー」などと興奮しているウォルフの隣でポカンと口を開けてゴーレムを見上げていたので、少々あわててブレイドを作り出した。
そしてカールに目をやり頷くとゴーレムに斬りかかった。

「やあっ!!」

「ふん、まあこんなもんだろうね」

ゴーレムはほとんど動かずに盾でサラの攻撃を受けた。
マチルダの言葉通り盾にはかすり傷すらついていなかった。

「やあっ!!やあっ!!」

続けてサラが何度も斬りかかるが、結果は同じだった。
マチルダは、サラがバランスを崩して転んだりすることがないように気を遣って受けてあげるほど余裕だった。

「よし、それまで。・・・・次はウォルフ、やりなさい」
「はい!」

肩で息をして悔しそうにしているサラと交代すると、目を瞑り集中しブレイドを出した。一メイル半ほどの大剣である。

(薄い・・・何であんなに薄いの?)

その剣の薄さに驚いた。
あんなのではまともに切れないのではないか、とも思ったが、薄くとも濃密な魔力を感じ取ったマチルダは念のためゴーレムに構えを取らせた。
そんなゴーレムにウォルフは正対すると自分も構えを取り、斬りかかった。

「ウォルフ、いきまーす!」

一瞬で終わってしまった。
ウォルフは「燕返し!」などと呟きながら飛びかかって逆袈裟と袈裟に斬りつけただけなのだが、それだけでマチルダのゴーレムはバラバラになってしまったのだ。

「・・・あれ?」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」

マチルダは無残な事になってしまった自分のゴーレムを見つめ黙り込んでしまった。目には涙さえ浮かべている。
サラは心なし嬉しそうではあるが、どうしたらよいか分からずオロオロしている。
カールはいつもとあまり変わらないが、何かを考え込んでしまって黙っている。
ウォルフはこのいたたまれない雰囲気を何とかしたい、とは思うものの何と声を掛けていいのか分からず、マチルダに向け手を伸ばしたり下ろしたりしていた。

「きょ、今日はこんな事になっちゃったけど、絶対もっと強いゴーレムを創れるようになるんだからっ!覚悟しときなさいよ!」
「う、うん・・・」

目尻に涙を浮かべた美少女に睨みつけられ、密かに萌えた四歳児だった。




「なんじゃ?マチルダ様。なにか聞きたくて残ったんじゃろう?」

微妙な雰囲気になってしまったティータイムの後、迎えに来たアンネに連れられて帰る二人を見送ったテラスで切り出した。

「あの子のことに決まってます。何であんな子供の『ブレイド』があんなに凄い威力なんですか?本当にあれは『ブレイド』ですか?」
「ちょっと変わってはいるが、あれは只の『ブレイド』じゃよ」
「そんな、あんな子供がトライアングル以上だって言うんですか?そうじゃなきゃ『ブレイド』があんな威力がある筈ありません!先生だって私のゴーレムはいい出来だって仰ってくれたじゃないですか」
「確かにな。いい出来じゃったよ、お主のゴーレムは。ワシでも『ブレイド』ではあんなに綺麗には切れん・・」
「そんな、土のスクウェアである先生よりも威力があるなんて・・・」
「あの子はまだ魔法は覚え立てじゃ。クラスがどうとかいう前にまだ系統魔法も使ったことはない。精神力だってワシが見るにいいとこラインに届くかどうかというところじゃろう。それでも、年を考えれば可成り破格じゃが」
「そんな・・・それじゃどうして・・・」
「魔法を教えるときに最初に教えたはずじゃ。イメージじゃよ。あの子の魔法はイメージが普通と違うのじゃ」
「イメージ・・・そんな、それだけで?」
「そうじゃ、どうしてあんな風になるのかはワシでもまだ分からん。じゃがこれは言える。あの子の魔法は世界に沿っている、とな」
「・・・天才っていうやつでしょうか?」
「ふん、天才か。そんな安っぽい言葉で理解できるようなモノではないわ。・・・あえて言うなれば異才。あの子は我々とは全く別の世界を見ているようじゃ」
「・・・・・・・」
「まあ、まだ子供だし、どう育つかは分からん。案外二十歳過ぎたらただの人になるかもしれんぞ。あの子も『ロック』を覚えるには二週もかかったし、最初は『レビテーション』も全く出来なかったもんじゃ」

暫く考え込んでいたマチルダだったが、やがて顔を上げると立ち上がった。

「帰るのか?」
「はい、今日は勉強になりました。ありがとうございます」
「うむ、こちらこそありがとうじゃ。お母様によく礼を言っておいてくれ」
「はい、伝えておきます。あと・・・あの子達の授業は来週もラーグの曜日でしょうか?」

マチルダは少しの逡巡の後、カールの目を見つめ尋ねた。

「そうじゃ、来週から二人とも系統魔法に入る。火と水じゃな、今火と水の初心者が他にいないから来週も二人一緒にここで授業じゃ」
「それに私も参加してもよろしいでしょうか?」
「お主もそろそろ別の系統を学んでも良い頃か。いいじゃろう、来なさい」
「はい、ありがとうございます。ではまた来週、御機嫌よう」

 帰り道、マチルダは燃えていた。
ただの『ブレイド』がイメージだけであれだけの威力になるのだ。他の魔法だってイメージ次第で全く違う物になる可能性はある。今日は魔法の奥深さを思い知った気分だ。あの子を観察してそのイメージを盗んでやることが出来れば私の魔法も上達するに違いない。フフフ・・・盗んでやる、盗んでやるぞおおぉぉぉ!」

最後の方は声に出てしまっていたために、周りから可成り注目を浴びていたのだが、マチルダがそれに気付くことはなかった。





1-5    初めての系統魔法



――― 翌週 ―――

 いつものようにウォルフとサラはカールの屋敷の中庭に来ていた。
ただ、いつもと違うのはカールの隣に見たことのある少女が不機嫌そうに立っていることだった。

「あー、今日から系統魔法の課程に入る。本当は火と水とでそれぞれ別々に学ぶもんじゃが、時間枠の問題での、一緒にやってしまうことになった。まあ、片方に説明してる間に片方が練習して、という風にすればそれほど無駄は出んもんじゃ。そしてこちらが今日から一緒に学ぶことになった、マチルダ・オブ・サウスゴータじゃ。マチルダ様は土メイジじゃが今日から火と水も学ぶ。仲良くするように」
「先週会ったわね、マチルダ・オブ・サウスゴータよ。よろしくお願いするわ」
「ウォルフ・ライエ・ド・モルガンです、よろしくお願いします」
「サラです、よろしくお願いします」

よろしくお願いされてしまって思わず返事をしたが、ウォルフとサラはかなり驚いていた。
男爵の息子であるウォルフと平民であるサラが一緒に魔法を学んでいる、ということもここサウスゴータ以外では有り得ないようなことなのに、太守様の娘が一緒に学ぶというのだ。
しかし、当のマチルダは気にしていない風でサラの横に移動して一緒に並んでいる。
まあ、本人がいいならそういうものかと思って、気にしないことにした。

「ワシは土メイジじゃが、火と水もラインスペル程度なら教えることが出来る。お主達も火、水、土とそれぞれ自分の系統を持っている。しかしそれ以外の系統も絶対に使えない、というわけでもない。自分の系統以外では効率が可成り悪くなるから最初は難しいと思うが努力することは悪いことではないと思う」

カールはそう言うと生徒達を見まわした。

「まず、系統魔法についてじゃが、ウォルフ、系統魔法とコモンマジックとの違いは何じゃ?」
「呪文がコモンマジックは口語、系統魔法はルーンになります」
「うむ、まあ、なぜ呪文が変わるのかについては分かっておらん。"ブリミル様がそう決めた"からじゃ。ではまず火から始めよう。これから見せるのは火の魔法の初歩の初歩、『発火』の魔法じゃ。スペルはウル・カーノじゃ・・・《発火!》」

カールの杖の先から音を立てて一メイルくらいの炎が吹き出した。

「と、まあこんな感じじゃの。この魔法も大事なのはイメージじゃ。己の中で燃えさかる炎をイメージしそれを目の前に顕現せしめるのじゃ。それでは、うん、何じゃ?」
「先生!この炎は一体何が燃えているのでしょうか?」

ウォルフである。
それが炎である以上なにかしらの気体と酸素との化合反応であることは解る。
しかしメイジが作り出す炎が何を燃焼させているのか解らないことにはウォルフは正しくイメージすることが出来ない。
だいたいみんな同じ様な炎を出すので何か決まったことがあるのかとも思って、火のメイジであるエルビラにも何度か尋ねたのだが、魔法よ!としか答えてもらえなかった。

(結構明るいし、炎も大きい。炭化水素の不完全燃焼系っぽいけどなぁ。炭化水素って言ったっていっぱいあるし・・・大体炭化水素あそこに作るってのは練金って魔法じゃないのか?練金って土系統だろう。火メイジっていうのがそもそも訳ワカメなんだよ。他の系統はいいよ、固体・液体・気体のそれぞれの相を司る魔法。分かり易いじゃないですか、とてもイメージしやすいです。それに比べて火ってなによ。この世界の可燃物質と酸素の化合で、発熱と発光を伴うものを司る魔法、じゃなんか寂しいじゃないですか。イメージしにくいです。それとも熱を司る魔法、だとでも言うんですか?それだとイメージし易いけど・・・)

また何かいらんことで悩んでいるように見えるような教え子に対し、カールはやさしく、こう答えた。

「術者が心の中で思い浮かべる炎、じゃ」

「それがなんだか聞いているンだぁぁぁぁぁっ!!」

思わず取り乱してしまったウォルフだが、サラに抱きとめられ落ち着いた。いいコいいコされている。あからさまに子供扱いされると恥ずかしくて動けなくなるのだ。

「ふむ、お前も色々と難儀じゃのぅ。とりあえずワシが今出した炎をイメージしてみなさい。では、皆やってみなさい」
「「はい!」」

 発火の魔法に挑戦し始めた二人を横目にウォルフはまだ悩んでいた。

(あまり考えてもしょうがないって事は分かっているんだけど・・・ええい、取り敢えずやってみよう!多分何らかの可燃物質が杖の先から熱を持って放射されているんだよな、きっと、おそらく、メイビー。酸素はどうやら現地調達っぽいな。・・・杖の先で魔力素を高温の可燃物質に変換する・・初めはなんか簡単な・・)

ここでウォルフは魔力素から変換しやすそうな物として、水素を思い浮かべてしまった。
色々考えすぎて訳が分からなくなってしまっていたのかもしれない。
マチルダが小さい炎ながらも《発火》を成功させていて、少なからず焦っていたことも影響したかもしれない。
確かにもっとも構造の簡単な可燃物質ではあるが、この場合、燃焼材として不適切なのは明らかだった。

「うぉあっ」「「きゃあっ」」

ウォルフの初めての『発火』の魔法は成功し、高温に熱せられた水素ガスは杖の先で酸素と反応して燃焼した。
爆音とともに。

「いたたた」
「一体何故ただの発火が爆発するんじゃ。ほら、大丈夫か」

ひっくり返ってしまったウォルフを立ち上がらせながら『ディテクトマジック』で怪我がないか確認する。

「怪我はないようじゃな。しかし普通は魔法を失敗しても何も起こらんもんじゃ。爆発する、なんて聞いたことがないわい」
「あ、いや魔法は成功したみたいです。・・ちょっと勢いが良かっただけで」
「どこがちょっと、よ!今の絶対『発火』じゃないでしょう!」
「いや、『発火』だってば。ちょっと"勢いよく"燃焼しちゃったんだよ」
「だから、あんな『発火』見たことないって言ってんの!」

マチルダはしゃがみこんで固まってしまった状態から再起動すると、ウォルフにくってかかった。
"世界に沿っている"という魔法を観察し、自分も身につけてやろうと意気込んでいたのに、その目論見は最初から躓いてしまった。

「マチルダ様、落ち着きなさい。あーウォルフ、お前はよくイメージを練ってから魔法を使用するようにしなさい。・・『発火』はまた次回にしよう。それぞれよくイメージを作ってきなさい。ウォルフ、練習するときは必ずエルビラに見てもらうんじゃぞ」

とりあえず、またマチルダの前で爆発を起こされるのは御免なので、多少無責任かなとは思ったが綺麗にエルビラに投げてしまった。
きっと来週には爆発せずに出来るようになっていることだろう、きっと。

「では、続けて水の系統魔法を教える、サラの系統じゃな。・・・まずはこれも初歩の初歩コンデンセイション『凝縮』、スペルはイル・ウォータルじゃ・・・《凝縮》!」

カールの杖の周りに靄が掛かったようになると、それが渦を巻きやがて直径十サントほどの水の玉が宙に浮かんだ。
今回は一緒にではなく一人ずつ、サラ・マチルダ・ウォルフの順にやらせた。
サラは自身の系統と言うこともあり、数回目に成功させ二サントほどの水球を浮かべたが、マチルダは集中力を欠き、とうとう成功させることが出来なかった。
そして・・・

「よいか、ウォルフよ、水じゃぞ、水。よくイメージするのじゃ、澄み切って透明な水を。けっして油などをイメージしたりはしないように。・・集中じゃぞ、集中。」
「はぁ、大丈夫ですよ先生。さっきのはたまたまです。今度のはイメージしやすいんで、普通に成功するか全く出来ないか、のどっちかだと思います。・・・いきます・・《凝縮》!」

ウォルフがルーンを唱えた瞬間、辺りは深い霧に包まれそれがそれが渦を巻いて消え去った後、そこに三十サントほどの水球が姿をあらわした。

「ぃよっしゃっ成功!、やっぱ魔法はイメージだなー。何かオレもう水メイジでいいんだけど」
「ちょっと、なんでさっきの失敗したくせに水の魔法は成功するのよ!あんた火メイジでしょう!」
「ウォルフ様、おっきい・・」

「問題ないようじゃの。火メイジなのに水魔法を先に成功させるとはますます訳が分からんがまあ、いいじゃろう。各自練習していなさい。マチルダ様、ちょっとこちらへ」

ウォルフとサラに自由に練習させ、マチルダをテラスに連れ出した。

「マチルダ様、一々ウォルフに突っかかっても意味はない。怒るのではなく、何故そうなったかを考えるのじゃ」
「だって、あいつがあんまりめちゃくちゃだから・・・」
「前にも言ったが、彼の精神力はすでにライン程度はある。自身以外の系統を使えても不思議はないのじゃし、魔法は元々めちゃくちゃじゃ」
「・・・・・考えたら解るようになるのでしょうか?」
「それは知らん。じゃが、彼の魔法を理解しようとすることは、世界を理解しようとすることかもしれん。世界を理解することが出来た人間などおそらくブリミル様だけじゃ。しかし考える事こそ、そこに近づく唯一の方法じゃと思っている」
「・・・・・・・」

ウォルフが理屈で魔法を理解しようとしていることをカールは感じ取っていた。
ハルケギニアでそんなことを考える人間は居なかった。魔法は水などと同じくそこに"在る"もので、何故"在る"かなどということは考えるようなことではなかったからだ。自分の腕を動かすのに、何故動くのかを理解していないと動かせない、などという人間は居ないのだ。
だからウォルフがそんな切り口から魔法を習得していく姿は驚異だったし、時々その威力が非常な物であるのをみて畏怖すらも感じていた。

「まあそんな深く考えんでもいいわい。マチルダ様はお姉さんなんじゃからな、優しくしてあげなきゃいかん」
「お、お姉さん・・・・・・はい、分かりました。これからはなるべく怒鳴ったりしないようにします」
「うむ、よろしい。では戻ろうか」



「あー結局ちょっとしか成功しなかったわー」

テーブルに突っ伏してマチルダが呻る。
魔法の練習を終えた三人はテラスでマチルダが持ってきたお菓子をつまんでいた。

「一サント位の水玉が出来てたじゃん。もうイメージ掴んでいるんだから後は集中すればいいだけなんじゃない?」
「気楽に言うわね、そうよ、水玉よ。あんたは一メイル位の"水球"を出せる様になってんのに私は水玉。イメージなんて掴んでないわよ!空気中の水を集めるって何よ、意味わかんない。空気は空気、水は水、でしょう」
「いや、見えないだけで空気の中に水分が有るんだって。お湯を沸かすと湯気が出るだろ。あれは空気中に溶けようとしている水分だし、雨が続くと空気中の水分が増えてじっとりと感じるだろ。反対に日照りが続けばカラカラに乾燥しちゃう」
「う・・そういわれると確かに・・・」
「そうさ、水は温度と圧力によって氷になったり液体になったり気体になったりする物なんだよ。だから後はその空気中の水分を液体に戻してやるイメージを作るだけさ」
「・・・・・ちょっとやってみる・・・《凝縮》」

杖を取り出しルーンを唱える。すると今までマチルダが『凝縮』を唱えたときには感じられなかった靄が湧き出てやがて十五サント程の水球になった。
マチルダは激変した魔法の効果に思わず息をのんで呆然としてしまった。

「そんな、こんなに簡単に?」
「ほら、出来たじゃん。やっぱり魔法はイメージだね、イメージ」
「・・・・」
「ウォルフ様、私もやってみる、見てて」

横で考え込んでいたサラが声を掛けてきた。マチルダの魔法を見て自分も試したくなったらしい。

「おう、やれやれ。空気の状態の水と液体の状態の水があるって認識するんだ。靄や霧はすっごく細かい液体の水が空気中にたくさん漂っているって状態なんだよ」
「うん、がんばる・・・・《凝縮》!」

サラは五十サント程の水球を作ることが出来た。



「はぁ、結局ウォルフが一番で私がどべか・・・」

両肘を机について頬杖ついている。まだ不満そうだ。

「いいか?年下に抜かれちゃったときは、気にしていないフリをするのが自分に優しくするこつだ」
「四歳児の分際で、なんて生意気なのかしらこの子は」
「・・・その四歳児にちょっと水球の大きさで負けたからってブルーな空気振りまかないで下さい。少しは周りに気を遣えよ、十一歳」
「ぐぅっ・・・・」

思わずまた怒鳴ってしまいそうになったが何とかこらえることが出来た。
ウォルフも四歳児と言われ、つい言い返してしまったがフォローを入れとくことにした。

「そんなに焦ることないじゃん。マチルダ様の年で土と火と水とが出来るなんて、そうはいないだろう?」
「・・・・・・あんたやっぱ四歳児じゃないわ」



[33077] 第一章 6~11
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:32
1-6    初めての気絶



――― 魔法を習い始めて一年が経った ―――

 ウォルフはその後すぐに『発火』の魔法を成功することが出来た。
燃やす物質については取り敢えずイメージしやすかったのでプロパンにする事にした。
イメージ通りの気体を発生させる事が出来るのは『練金』に似ているが可燃性の気体に限定されるわけでもなく、酸素や窒素なども高温なら発生させる事が出来た。
アセチレンと酸素の混合気体も出す事が出来たのだが、温度が高くなりすぎるので危険と判断し日頃は封印する事にして、プロパンと酸素で練習している。
ラインスペルもすぐに成功させ、火のラインメイジであり、それどころか風・土・水の系統魔法も使える、四系統全てを操る希有なメイジとなっていた。
お気に入りの魔法は『練金』で、最近は暇さえあれば様々な物質を『練金』している。
原子や分子、結晶構造などを知ってさえいればどんな物質でも創ることが出来るのだ。
まさに神にでもなった気分で金や白金、タングステンなどを『練金』し、ダイヤモンドの板に六方晶ダイヤモンドで落書きしていたら、カールに金などを『練金』出来ることは他の人間には言わないように注意された。
その時はそんなに神経質にならなくてもいいんじゃないか、とも思ったが、純粋なウラン238を作ってみてそれがあまりも簡単にできることを知り、この魔法の危険性に気付いた。
この知識が普及してウラン235やプルトニウム239をそこら中で好き勝手に作っている社会などには住みたくない。

 サラは水のドットメイジのままである。
しかし、火は使えないものの風・土を使え、ウォルフには及ばない物の優秀な万能型のメイジへと成長していた。
勉強も日々ウォルフの薫陶を受けたせいで読み書きはばっちりだし、計算もすでに数学と呼べる物までこなすようになっていた。
お気に入りの魔法は『フライ』で、時間が出来るとウォルフを誘い公園や町のそばの森などを『フライ』で散歩している。

 マチルダは最近やっとラインメイジになれた。
ウォルフに負けたままではいられない、と猛練習をしてきた成果であり、風以外の魔法を使いこなせるようになった。
ウォルフの『ブレイド』に耐えることの出来るゴーレムは未だ創れていない。
最近は斬られない物を創ることは諦めていて、例え斬られても直ぐに修復できるように素材を土にし、また多少斬られても関係ないように大型化を図っている。
ウォルフにはマチ姉と呼ばれている。
有る程度親しくなった頃「お姉ちゃんと呼べ」と提案(強要?)したのだが、サラが涙ながらに「だめぇ・・・私だってお姉ちゃんって呼んでもらえなかったの・・」と抗議したために現状に落ち着いた。

 三人の仲は良好でウォルフがエルビラの息子だと分かってからは城に呼ばれて遊んだりもしている。
ちなみにウォルフの兄のクリフォードは風のドットメイジになっていて、マチルダはまだ彼とは面識がない。

 勉強したり、遊んだり。そんな、子供らしい日々を過ごしていた。




「気絶したい?」

サラは驚きで目を見開きやがて可哀想な人を見る目でウォルフを見つめた。

「ごめんなさい。サラ、それを治す魔法は知らないの・・」
「いや、そうじゃないから。別に頭がおかしくなった訳じゃないから!」

ウォルフは「でも、水の秘薬ならもしかしたら・・・」などと言いかけるサラを遮って続けた。

「ドラゴンボールを見て育った世代としては、サイヤ人的超回復を一度は試してみなきゃならないって事なんだけど・・・」
「ドラゴン?サイヤ人?」
「ああ、通じないか、つまり・・・」

ウォルフは最近自身の魔力量について悩んでいた。足りないのだ、魔力が。

 『練金』という「魔法の力」を手に入れて以来、日本人としての物づくりの心を刺激されたウォルフは、ここ納屋の二階でちまちまといろんな物を作っていた。
樹脂製の軽いバケツやじょうろ、チタンワイヤで作った洗濯ばさみ、各種温度計や湿度計などの生活向上用品。
定盤やノギス、万力にヤスリといったここで使う基本的な工具。
それだけでなく材料そのものにも目を向け、元々持っていたある程度の石油化学の知識と魔法で得られる知識を駆使して、様々な実験を繰り返すことにより数多くの樹脂のレパ-トリーを得ていた。
そして最近開発に成功したのがFRP・ガラス繊維強化プラスチックである。
この材料の利点はもちろん軽量で、強度が高いということではあるが、それ以上に型を作るという工程が有るため『練金』に比べ寸法精度が高い、と言うことがあげられた。

 『フライ』によって空を飛ぶ魅力を理解した事もあって、ウォルフはグライダーを作りたくてしょうがなくなってしまっていた。
何せここは風の国アルビオン。上空三千メイルに浮かぶ大陸の端近くにあるサウスゴータである。
ひとたび飛び出せば風に乗ってハルケギニアのどこへでも飛んで行けそうなのだ。
問題があるのはその帰りで、風石を積めれば問題ないのであるが家は下級貴族であるためコスト的に厳しい。
『グラビトン・コントロール』ならば楽に高度を稼げそうだが、翼長が長くなるため端の方まで魔法が掛からないので難しい。
そうすると、重力制御を可能な限り効かせた『レビテーション』で、と言うことになるとウォルフの魔力量が現状では心許ないのである。

「えっと、つまり、気絶するまで精神力を使い切って、気絶する前と後で魔法の力が増えるかどうか確かめてみたいって事?」

うんうんと頷くのを見て、やっぱりこの人は可哀想な人なんじゃないかしら、と思い直した。
それを感じ取ったウォルフが「いや、科学だから!実験だから!」などと言いつのるのを無視してしゃがみこみ、目を合わせる。

「いい?精神力を使い切るっていうのはとっても危ないものなの。何日も起きられなくなったり最悪だともう目を覚まさなかったりするらしいの。そんなことウォルフ様はしないで、ね?」

両肩をつかまれ、優しげに首をかしげ微笑みながらそんな事を言われてしまっては、思わず頷きそうになるが、ウォルフは負けるわけにはいかなかった。

「いや、オレが調べたところじゃ魔法の練習をしていて気絶したくらいじゃ、そんなに酷いことになった例はなかったよ。死んだのは戦場で無理をして頑張りすぎたってヤツだけだったよ」
「そんなの知らないわよ!本当に全部調べたかどうかなんて分からないじゃない」
「いや、でも」
「だめ、絶対。どうしてもやるっていうならエルビラ様に言いつけるから。大体そんなことして魔力が増えるわけない!」

声を荒げるサラの腕を外し、その手を握りしめた。

「増えるわけないかどうかは実験して見なくちゃ解らない。人間を真実から遠ざけるのは先入観と偏見だよ。人間の筋肉は一定以上に酷使されて筋繊維が傷つくと元の水準を超えて筋力を出せになるという超回復という性質を持っていることが知られているんだ。このような性質は人間が環境に適応していくために必要な性質で人間がいや生命が進化していく為に本来持っている特性なんだ。つまり人間が進化していく生物である以上そして魔力がそれに必要な物である以上魔力についてだって同様な性質を持つということが推測されるわけでただの思い付きなんかじゃないんだ。つまり何が言いたいかっていうとこれはオレにとって絶対に必要な実験だって事だよ」

滔々と六歳児では反論できないように難しい語彙を使って説明し、さらに、絶対にやるということ、親にばれた場合は隠れて一人でやるということ、正確性と安全性を確保する為にサラに立ち会って欲しいということを告げた。

「ウォルフ様、ずるい・・・」
「ごめんね?でもサラにしか頼めないんだ」

そこまで言われてはサラに選択肢は残っていなかった。
泣いてしまったサラを何とか宥め、『グラビトン・コントロール』で浮かせていたテーブルを下ろす。
慰めながらも魔力を使い切るためにコントロールが難しくその制御に激しく魔力を消費する魔法を選んで実行していたのだ。
そして部屋の梁に巨大なバネ秤をセットする。ウォルフ自作の大きな目盛りの五千リーブルまで計れる精密なやつだ。そこに二十リーブルほどの錘をつり下げた。
この部屋はド・モルガン家の納屋の二階で、ウォルフが占拠して工房として使っている場所であり、今は夕食後、寝る前の時間であり二人ともパジャマを着ていた。

「今から僕は『念力』でこの錘を下げるように力を入れるから、サラはその値を読んでノートに記録して」
「うーんと、ここがひゃくだから・・・・・うん、分かった。・・・・本当に大丈夫なんだよね?」
「大丈夫だって、じゃあ試しにやってみるね?・・・・《念力》!」
「えーっと、二千七百三十・・五くらい、っと、どこに書くのかな?」

サラがノートを開くとそこには一ヶ月分の毎日のデータがすでに書き込まれていた。
その数値は多少の増減はあるが緩やかに増加していて、この一ヶ月でおよそ五十リーブル増えていた。

「こんな前から測ってるんだ・・・」
「うん、この実験方法で信頼できるデータが取れるか確認したかったからね。十分なデータが集められたよ」
「そういうことを言ってんじゃないんだけど」
「そう?じゃあそろそろいい感じに魔力が抜けてきたから本番いくかな。いい?どんな現象が起こったのか逐一記録してね。特に気絶する間際の魔力の変化は詳しくね・・・いくよ・・《念力》!」

再び錘が引っ張られ、先程と同じ位の値を秤が示す。三分ほどはそのままだったが、やがて徐々に減り始めた。

「二六七〇・・ウォルフ様、もういいんじゃない?」
「今集中しているんだから話し掛けないで。ここからが大事なんだから、サラも集中して」
「・・・・二六六〇・・」

時々横目でウォルフの様子を窺うが、かなり苦しそうにしている。
その様子を見ると、サラは今すぐに止めたくなるが何とか堪えて続け、徐々に減る数値を記録し続けた。
そんな状態が暫く続いた後、それは突然起きた。
突然目盛りが上下に激しく振られたと思うと、それは勢いよく上昇を始めた。

「ふ、増えてます。二千七百・・・・ろ、六十・あっ・・・・・」

大きな音を立てて秤が解放された。ガチャガチャと音を立てて揺れ、目盛りは二十リーブル辺りを指していた。
ウォルフの方を向くとソファーに横向きに倒れ込んでいるのが見えた。

「ウォルフ様っ!!」

慌てて近寄ると呼吸を確認する。その胸が緩やかに上下しているのを確認するとホッと息を吐き、震える手で最後の部分を記録した。
そして『レビテーション』でウォルフを浮かせるとそのまま母屋に連れて行った。



 その夜ド・モルガン夫妻はいつものようにリビングで寛いでいた。

「今年の夏もラグドリアン湖に行こうか、去年子供達もまた行きたいって言っていたしな」
「いいわね、でもそれでしたらお父様が去年顔を出さなかった事を怒っていましたわよ」
「あー、去年はトリステイン側をあちこち回っていたら日が無くなっちゃったんだよなぁ。ウォルフが生まれてからまだ一度も行っていないなぁ」
「今年はラ・クルスに行ってからラグドリアン湖を回って帰ってきましょう。リュティスまで行くのは無理だけど、私も子供達にガリアを見せたいの」

ニコラスの話にエルビラは編み物の手を止め答えた。
久しぶりに実家のラ・クルスに帰れるかと思うと、嬉しくなってくる。

「ああ、そうしよう。今年もお養父様に子供達を会わせなかったら僕は燃やされてしまうよ」
「ふふっ結婚を申し込みに行ったときは凄かったものね」
「あー思い出させないでくれー。あの時はマジで死んだと思ったよ」

あそこまですることは無いじゃないか、などとブツブツ言っているニコラスを楽しげに見ていたエルビラだったが、ふと懸念が浮かび、口にした。

「あ、でもやっぱりアンネとサラは連れて行けないわよねぇ・・・どうしましょうか」
「うーん、アンネの両親がまだ城下にいるって言ってたから、一緒に連れて行って二人はアンネの実家に帰せばいいんじゃないかな。それで帰りに合流してラグドリアン湖へ一緒に行けばいいよ。アンネも里帰りだな」
「そうね、兄さん達には黙っていればいいものね」

うんうんと頷きながら楽しい夏の旅行に思いを馳せていると、突然廊下からサラの呼び声が聞こえた。
ほとんど叫び声に近いその声に驚いて、様子を見に行くと、そこには泣いているサラと宙に浮かんだまま気を失っているウォルフがいた。

「「ウォルフっ!!」」

その真っ青な顔色と泣きじゃくるサラの様子に最悪の事態を予想をするが、幸いウォルフの小さな身体はゆっくりと呼吸を繰り返していた。

「あなた、早く『ヒーリング』を!」
「分かってる。ああくそ、どうしてこんな・・《ヒーリング》!」

ウォルフの身体を抱きかかえ、ニコラスの魔法がその身体を包んだことを確認するとエルビラはサラの方を向いた。
サラは泣きじゃくりながらも必死に『ヒーリング』を唱えようとしていたが、成功していなかった。

「サラ、何があったの?説明して」
「ウォっ・・・さまっ・・ヒックまほう・・・」
「エル、ウォルフの身体から魔力が殆ど感じられない。魔力を使いすぎて魔力切れを起こしている感じだ」

サラはまともに話すことが出来なかったが、ニコラスの言葉に何度も頷いた。
エルビラはそれならば大丈夫かと少し安心すると、ふと夕食後ウォルフに渡された手紙のことを思い出した。
明日の朝かサラが来たら読んで、と悪戯っぽく笑っていたウォルフを思い出し、慌てて自室に取りに行った。
戻りながらその手紙を読んでみるとそこには、どうしてこんな事をしたのかということと、サラには無理を言ってしまうかもしれないので怒らないでほしいということが書いてあり、最後に謝罪と、大したことじゃないので心配しないようにとの希望が綴られていた。
ウォルフの元まで戻り、その顔色が少し良くなっていることに安心してサラに語りかけた。

「サラ、ウォルフに脅されたの?」

サラは何度も頭を振っていたが、何とか言葉を絞り出した。

「・・・一人でっ・・隠れてっ・やるって・・言った」

その言葉にエルビラは顔を歪めるとサラを両手で抱きしめた。

「ありがとうね、サラ。ウォルフを一人にしないでくれたんだね。もう、大丈夫だから。きっと直ぐにウォルフは目を覚ますわ」

その言葉にサラはまた激しく泣き出してしまったが、やがて疲れたのかそのまま寝てしまった。
エルビラはその寝顔を暫く優しげに眺めて、様子を見に来ていたアンネに手渡した。







1-7    初めての謹慎



 罰として言い渡されたのは十日間の謹慎だった。

 ウォルフが目が覚めたのは二日後の早朝で、三十時間以上気を失っていたことになる。
目覚めて最初に目に飛び込んだのは何故か同じベッドで寝ているサラの顔であった。
朝の光を受けて輝くその白い肌を暫くぼうと眺めていたが、その頬に涙の跡を見つけて目を逸らした。
サラを起こさないようにそっとベッドを抜け出し、ノートを探すが、見つからない上に杖も無かった。
納屋に探しに行こうかと部屋を抜け出したところでアンネと鉢合わせした。

「あ、おはようアンネ。オレの杖が無いんだけどアンネ知らない?」
「おはようじゃありませんよ・・・」

アンネは近づくとしゃがみこみ、ウォルフを抱きしめた。

「皆さんを心配させて・・・ああ、よくぞ目を覚ましてくださいました」
「あ、ごめんね、心配掛けちゃった?」
「・・・・・・」

アンネはそのまま何も言わず黙って抱きしめていたが、ウォルフは少し居心地が悪かった。

「もう、しないからさ。で、杖なんだけど・・」
「杖ならばエルビラ様が預かっております。暫くは返すつもりはない、とのことでした」
「うえっ、マジ?カール先生の授業とか有るし杖無いと困るんだけど」
「ご自分でエルビラ様にお尋ねになればよろしいかと存じます」

アンネにツンと冷たく言い放たれ困ってしまったが、取り敢えず気を取り直し、納屋にノートを探しに行くことにした。

「うん、後で聞いてみるよ。それと今日ってイングの曜日?」
「オセルの曜日でございます、ウォルフ様」
「あー、一日以上寝ちゃったか。まあ、いいや、じゃあまた後でね」

 ノートは納屋の机の上にあった。急いで開き、中に書かれている数値を確認する。
二七六〇。記された数字に思わずにんまりする。
記録は二七三五から始まり、十二分かけて二六六〇まで下がった後一気に二七六〇まで達し、その直後ゼロになっていた。
二六六〇から二七六〇まではおよそ五秒とのことである。
今すぐ現在の魔力を計ってみたいが、杖が無いので出来ない。
悶々とした気持ちの儘自室に戻ると、起きていたのか飛びかかってきたサラに抱きしめられた。
サラは何も恨みがましいことを言わず、ただ無言で抱きしめてきた。
さしものウォルフもその様に罪悪感にかられ、そのまま黙って抱かれていた。

「もう、あんなことしないでね?」
「うん、おかげでちゃんとデータが取れたからね、もう無理する必要はないかな」
「怖かったんだからね?」
「うん、ごめんね?・・ありがとう」
「じゃあ・・許してあげる」



 朝から色々と大変だったウォルフだが、朝食に行っても大変だった。
父と母に抱きしめられ、叱られ。兄には馬鹿にされ、その全てを甘受した末に言い渡された罰は、謹慎十日間、その内三日間は杖没収というものだった。

「ちょっ・・お母様、十日間って長すぎるんじゃないでしょうか?杖没収ってのもちょっと・・・」
「いいえ、この罰はお父様とも相談して決めました。これでもまだ少ないのではないかと思うぐらいです」
「う、でもほらカール先生の授業とか有るし杖ないと・・・」
「謹慎中です。休みなさい」
「う・・」
「魔法の練習をしていてつい、と言うのならまだしも態とだなんて論外です。もう二度とこのような事はしないようにこの程度の罰は当然です。おまけにサラを脅迫して泣かせるなんて、恥ずかしいとは思わないのですか!」

それを言われるとウォルフもどうしようもなかった。

「わかりました。お父様、お母様、申し訳ありませんでした」
「ん、もうするんじゃないぞ。エル、もういいだろう食事にしよう」

 ちょっと暗い雰囲気になってしまった食事中、ウォルフは杖のない三日間をどう過ごそうかと悩んでいた。
魔法を覚えて以来こんなに長く杖を手にしなかったことはないのだ。
取り敢えず今日は作りかけのグライダーの模型を完成させることにして、明日以降のためにエルビラになんか本を頼んでおくことにした。

「母さん、また本読み終わっちゃったから新しいの頼みたいんだけど。できればその、物語じゃなくて専門の魔法書がいいんだけど」
「あら、"イーヴァルディ千夜一夜"は面白くなかったかしら。」
「いや、全く面白くないって事もないんですが、魔法書が読みたいです」
「そうはいっても貴方はもう火の魔法の専門書も全般的な魔法書も、太守様の蔵書にあるものはほとんど読んでしまったのよ」
「土・風・水の専門書はまだ読んでいないと思うのでそれでいいです」

エルビラは日頃から魔法書ではなく普通の男の子が好むような物語の本を薦めてくるが、現代日本で生まれ育った記憶を持つウォルフにはこの世界の物語は大げさで冗長で眠くなるものが多かった。
それよりはたとえ難解であっても魔法書の方が今そこにあるファンタジーであり楽しかった。

「何でお前そんなに勉強するんだよ!十日位サラと遊んでいればいいじゃないか!」

横からクリフォードが口を挟んできた。
優秀すぎる弟にあっという間に魔法でも抜かれてしまった彼は、何とも言えない焦燥感を感じていて何かとウォルフに当たる事が多い。

「うーん、結構面白いんだけどな、魔法書。結構勘違いしていたり適当な理論とかもあって、案外楽しめるよ。風の魔法書なら解ると思うから、兄さんも一緒に読んでみる?」
「・・・お前が読むような魔法書を俺が解るはずが無いじゃないか」
「うーん大丈夫だと思うんだけどなぁ」

確かにウォルフがここのところ読んでいる魔法書は、魔法学院の最高学年からそれを卒業した人間を対象とした物だったので、八歳のクリフォードには難しすぎた。
しかしウォルフから見るとこの世界の魔法書は、内容の多くを著者の妄想や先入観に囚われた理論の説明に費やされ、無駄に難解になってしまっているだけであった。
ウォルフはいつも魔法の結果とその著者の世界観から魔法の内容を類推し、その本の内容を羊皮紙に纏めているのだが、どんなに分厚い魔法書でも羊皮紙十枚を超えることはなかった。
だから、いつも説明しながら読んで聞かせているサラもかなり難解と言われている魔法書を理解できているので、クリフォードもウォルフの説明付きでなら理解できる筈と思っていた。

「私は火の魔法書以外はよく分かりませんから、他の人に聞いて持ってきます。それでいいですね?」
「はい、お願いします。なるべく実践的な物がいいです」




 朝食後からずっと、午後になってもグライダーの模型を作り続けた。今作っているのは翼の部分のパーツだ。
少し加工しては定盤に乗せ、翼断面を確認する為に作った数十枚の定規を順に合わせて形状を確認する。
ちなみにこの定盤は白金とイリジウムの合金製で精度を出すのにはかなり苦労をした。
模型の材料はフォルーサという高さ二十メイルにもなる大きな草の幹を乾燥させた物で、ちょうど元の世界のバルサ材そっくりの性質を持ち、『練金』で作った物ではなくサラと二人で森に行って伐採してきた物だ。
ウォルフは金属の組織構造の変化などは自由に行えるようになっていたが、まだ木や土などという複雑な構造の物を『練金』することが出来なかった。
完成すれば翼幅一メイル半にもなる大型の模型である。左右で翼の形状が違うなど有ってはならないことなので慎重に加工していた。

「ウォルフ様、マチルダ様がお見えになりました」

午後も遅くなったころ、マチルダが訪ねてきた。ここに来るのは初めてである。

「ふーん、マチ姉ならここでいいか、通して」
「はい「ふん、もう来てるよ。なんだい、ごちゃごちゃしたところだねぇ」」
「マチ姉、いらっしゃい。どうしたの?」

サラの後ろから突然現れたマチルダは腰に腕を当てウォルフを見下ろした。

「どうしたのじゃないだろう、あんたが馬鹿をしたってエルビラに聞いたから様子を見に来たのさ」
「心配してくれたんだ、ありがと」
「べ、別に心配した訳じゃないから・・・それ何作ってるの?」
「グライダーの模型。前に話しただろ、風に乗ってハルケギニアのどこにでも飛んでいけるフネの雛形」

ウォルフは以前マチルダにグライダーのことを帆を横に張ったフネ、と説明していたが、そこにあった部品をどう組み合わせてみてもマチルダの想像していた物にはなりそうもなかった。

「えっと、これがそれかい?こんなんでどこに帆を張るのさ」
「この長いのが帆っていうか翼だよ。これは鳥みたいに空を飛ぶんだ。ほらこんな感じで。この前の羽と後ろの羽とのバランスが大事でさ、この大きい模型を実際に飛ばして色々実験するんだ」

そういうと隣の棚からもっと小さい模型を取り出して飛ばすまねをして見せた。
今作っている模型の前に作った翼長三十サントほどのアルミ製のものだ。

「そんなのが人を乗せて飛ぶようになるのかねぇ、信じられないよ」
「まあ、そうだろうね」

ハルケギニア人に魔法ではない科学技術を理解させることは困難なので、実物を見せるまでは大体こんなもんである。
マチルダが菓子を持ってきてくれたということで、サラにお茶を入れてもらい休憩することになり、暫しいつものように駄弁った。

「はー、しかしあんたも馬鹿だねぇ。気絶するまで魔力使って鍛えるなんて、考えついても普通しないよ」
「本当に、もうやめて欲しいです」
「オレとしては考えついたのに試してみない方が信じられないんだけど」
「あっ、でも前に本で同じ事してるの読んだことあるよ」
「えっマジ?読みたい!なんて本?」
「ええと、たしか"アルグエルスアリの新解釈魔法理論"だったかな?なんか弟子が無理矢理いろんな実験させられているやつ。火のメイジは熱さに強いのか、とかいって両手掴まれて熱いもの食べさせられたりしてた」
「上島かよ・・・それって確かトンでも本って事で禁書判定に引っかかったヤツじゃない?」
「うん、でも認定はされなかったみたいだよ。ぎりぎりセーフだったみたいね」
「うわー、そんなの持ってんだ。なんで母さんそういう面白そうなの持ってきてくれないかなぁ。お願い、貸して?」
「ああ、いいよ。エルビラに渡しとく」

帰るというマチルダを見送りに出た中庭で事件は起きた。
丁度外から帰ってきたクリフォードと鉢合わせしたのだ。

「あ、兄さん丁度良かった、紹介するよ。マチ姉、兄さんのクリフォードだよ。兄さん、こちらオレの友達のマチルダ」
「よろしく、クリフォード」
「ふーん、俺より大きいのにチビのウォルフと友達なんて変なヤツー。小さい子集めて威張ってんのか?友達いないんだろ」

日頃太守の娘ということでちやほやされるのがいやだと言っていたマチルダのために、家名を省いて紹介したのがまずかった。
さらに、なまじマチルダがクリフォードの好みどストライクの美少女だったことも災いした。
日頃ウォルフに対し鬱憤がたまっていたクリフォードは、自分でも制御できない感情の儘に憎まれ口をたたいてしまったのだ。

「《クリエイト・ゴーレム》!」

地面から音を立てて巨大なゴーレムがせり上がり、クリフォードをその手に掴み立ち上がった。
ウォルフとサラが「あ」っと言う間もないほどの早業である。

「はぁーっはっはっ今日のゴーレムはいい出来だよ・・誰が小さい子集めて威張っているってぇ?もう一度大きな声で言ってもらおうじゃないか」
「うわー、えげつな・・・」

クリフォードが何か叫んでいるが、二十メイル超級のゴーレムの更に頭上に掲げられているために何を言っているのかは聞こえない。
見ていると『ブレイド』や『エア・カッター』などでゴーレムを攻撃し始めたが、もちろん全く効いていない。

「ふん、ぬるい攻撃だね。本当にウォルフの兄貴かい?ほら、シェイクだよ!」
「兄さんは普通の人だから、あんまり無茶しないであげて欲しいなぁ」

ゴーレムがクリフォードを持ったまま、腕を激しく上下させた。
最初は悲鳴を上げていたがやがてそれも止み、杖もどこかへと飛んで行ってしまった。

「ホラ、何か言うことがあるんじゃないのかい?」
「ちょ・・調子乗って・・ましたっ・・・すみません・・したぁっ!」

訳が分からないうちに捕まりさんざん揺さぶられ、いい感じにぐったりとしたところをマチルダの前に転がされたクリフォードにはもう逆らう気力は残っていなかった。

「まあ、これからは初対面の相手に喧嘩売るようなことを言わないこったね」
「・・・はい・・」
「兄さん、マチ姉のフルネームってマチルダ・オブ・サウスゴータなんだよ。だまっててごめんね」
「ちょっ、おまっ・・お転婆姫なら、そうって最初から言えよ・・・」

マチルダはもう一度シェイクしようとゴーレムでクリフォードを掴んだが、もう気絶しているのを見ると放置して帰って行った。
この日以降クリフォードは土メイジを大の苦手とするようになってしまった。




 三日後、まだ謹慎中なので屋敷からは出られないが、ようやく杖を返してもらった。

「いいですか、今度態と気絶するまで魔力を使うなんてまねをしたら二度と杖を返しませんよ」
「はい、お母様。しかと肝に銘じます」

杖を返してもらうと、一目散に納屋に飛んでいって秤をセットした。
逸る心を抑え『念力』を唱えると、秤の数値は二七六五を指していた。

「増えてる・・・」

三十リーブルの増加である。
体の成長に伴う基本的な魔力の増加量を除けば、おそらく一%程の増加ではあろうが、ウォルフが期待していた数字よりも遙かに大きかった。
今は無理だが、もしこれを毎日続けることが出来れば望んだ魔力量を手に入れることが出来る。

 マチルダに貸して貰った"アルグエルスアリの新解釈魔法理論"には特に参考になることは書いていなかった。
熱いものを食べさせられたり、熱湯風呂に放り込まれた火メイジのジョンソン君。土に埋めたら魔力が増えるかと一週間土に首まで埋められた土メイジのリヒター君などアルグエルスアリの弟子達には敬意と同情を感じるが、なにしろ数値を取っていないので結論が"増えた気がする"などの曖昧なものでしかないので参考にしようがなかった。まあ、大笑いしながら読んだのであるが。
まあ、それほど期待はしてなかったので気にせず次の実験に取りかかる事にした。
取り敢えず実験のために魔法をバンバン使うことにして、納屋の地下で石材を『練金』しまくった。
ここはここは将来の工房用にとウォルフがこつこつと『練金』してはスペースを広げている場所で、比重の軽い土から比重の思い金属や大理石を『練金』することによって空間を生み出す、という作業をしている。
作った大理石は将来納屋を増築するときに使うつもりである。
『練金』し、ゴーレムを使って等しい大きさに切りそろえる、という単純作業を繰り返しているとメキメキと魔力が減ってきたので、また秤の前に移動した。

 今度の実験の目的は、魔力を使い切る寸前の最後に魔力が上昇する五秒間、そこで魔法を止めたときの状態を調べるということだ。
使い切る前に止めるのだから気絶はしないだろうし、しかしその瞬間魔力が強くなっているわけだからその後はどうなるのか。
目を瞑り集中する。気絶するまでやるわけにはいかない。
サラや両親の顔が脳裏に浮かびほんの少し躊躇するが、それでも未知のことを知りたいという欲求の方が上回った。

「《念力》!」

秤が音を立てる。その秤を睨みつけ、僅かな変化も見逃すまいと集中する。
そのまま何も変化のない時間が暫く経過したが、突然前回と同じように目盛りが急上昇した。

「!!っ」

間髪を入れず、数値が上昇しきる前に『念力』を解くことが出来た。

「ぐあぁ・・・」

前回は何も感じずにそのまま気を失ったのに、今回は魔力を解放すると同時に激しい苦しみが胸から脊髄にかけて走った。
気絶しちゃった方が楽かも、などと考えながら蹲って吐きそうなほどの苦しみを堪えていたが、幸いなことにそれは暫くして霧散した。
しかしその後も体がひどく怠いことには変わりなく、まだ午前中なのに、もうベッドに入って眠ってしまいたかった。

「いやしかし、ここで寝ちゃうと絶対勘違いしてサラが泣く。せめてサラが来るまでは起きていなくちゃ・・・」

何とか椅子に座り、うつらうつらとしているとようやくサラがやってきた。

「ウォルフ様ー、杖返してもらったー?」
「・・・はっ、お、おおサラ、おお、返してもらったぞ!ほら」
「?・・ウォルフ様寝てたの?」
「あ、いやほら杖が帰ってくると思うと夕べ中々寝付けなくてな、それでちょっと・・」
「・・・今朝は普通だったのに」
「まだ興奮してたんだよ。・・・それよりこれ見てよ、これ。今最大魔力計ってみたら二千七百六十五だったんだ!実験前より三十リーブルも増えてたぜ!」
「ふーん、良かったね。でもあんな目にあったのにそれっぽっちじゃ割に合わないんじゃない?」

興奮してしゃべるウォルフに対しあくまでサラは冷静だ。

「何言ってんだよ、一%の増加だぜ!毎日これ出来れば一年後にはどうなっちゃうと思ってんだよ!」
「・・・もうしないって言ったよね?」
「え?あ、はい・・・」

すでに毎日出来るかもしれない可能性を見つけていたので、思わず口走ってしまったが、サラの反応を見てこれ以上この話をするのは無理と判断した。

「うーん、何かやっぱり眠いや。ちょっと寝るから、お昼に起こして?」
「えー、今日は久しぶりに散歩行こうって思ってたのにー」
「ごめん、ちょっと無理。っていうかオレまだ謹慎中だから外へは行けないよ?」

結局昼まで寝てサラに心配されてしまったが、午後も「怠い」と主張してごろごろ過ごした。
結局一日を無駄にしてしまった上に可成り辛い思いをしたウォルフは、今度やるときは絶対に夜寝る前にしよう、と決めていた。



 翌日早朝秤の前、何時になく気合いを入れるウォルフが居た。
これで魔力が増えていれば、気絶しないで超回復ができる方法を手に入れることになる。

「《念力》!」

軽く音を立てたそれは二七九〇を示していた。前日より二十五の増加である。

「やったぜ!これでいける!」

四百リーブルを超えるであろうグライダーを、少なくとも千メイルまで持ち上げるためには最低でもトライアングル以上の魔力が必要である。
おそらく千メイル分の位置エネルギーがあれば、上昇気流を探してそれに乗れるまでの飛行が出来るのではないかとウォルフは考えた。
将来的には風石を積んで上昇することを考えていたが、今までの儘では試験飛行すら行う目処が立っていなかった。
魔力の最大出力とため込む事が出来る精神力が比例している事は確からしいので、これでウォルフがトライアングルになることが出来れば、何とかなりそうである。
その時を想像し、ウォルフは興奮してくるのを止めることが出来なかった。

「見てろよ、オレのグライダーはハルケギニアの空を飛ぶんだ!」




1-8    フライング・ハイキング



「ようし、次は主翼B+1.5、尾翼A0、錘3、風力70から」
「ふー、まだやんの?」

 謹慎九日目、ウォルフ達は完成した模型を使って実験を行っていた。
まず、納屋の中に作った直径三メイル弱の風洞の中央に前方から糸で繋いだ模型を、サラが『レビテーション』で浮かせる。
それにウォルフが魔法で風を起こし『レビテーション』を解除する。
ちょうど模型が風洞の中央で飛ぶように風力を調節し、風洞内にセットされた風力計と糸に付けられた秤の数値を記録する。
そんなことを長さや形状が違う三種類の主翼と二種類の尾翼について僅かずつ角度を変えて計測した。
それが一通り終わったら今度は錘の種類を変えてまた一通り、それが終わったら錘の位置を変えて、またそれが終わったら今度は引っ張る糸の角度を変えて、と言う感じに膨大な数の実験をこなしていった。
ウォルフには結構楽しい時間だったが、サラには辛い日々だった。

「ウォルフ様、休憩しましょうよー。昼からもうずっとやってますよ」
「あー、分かった、もうちょいね。尾翼のAが終わったらにしよう」
「それってまだまだじゃないですか、もういやぁー」



 その後やっと一区切りが付き、休憩を取ることが出来た。
サラがもう納屋はいやだというので中庭にテーブルを出してお茶にした。

「まったく、ウォルフ様は異常です。あんなに細かくやること無いじゃないですか」
「いや、普通だよ。実物作ってからだめだった、じゃしょうがないだろ。作る前に出来ることはやっておくべきだ」
「はー、もういいです。まあ私も今更あれが必要無かったなんて言われたくないです」
「いやいや、ご協力感謝します」
「これが終わったらすぐに出来るの?」
「・・・いや、まだまだだよ。部品の試作とか強度試験とかもしなくちゃならないし、大体あそこじゃ部屋が小さくて作れないからもっと広い場所を確保しなくちゃいけないし」
「え、あそこに入ら無いの?」

目を丸くしてサラが尋ねる。
納屋の部屋は物が多いとはいえ七メイルくらいはあるので、そこに入らないというのは想像していなかったみたいだ。

「今一番イケテるっぽい主翼Bを採用した場合、全幅は十八メイルになるよ。主翼は取り外し式にするけど、それでも十メイル以上の部屋が必要だよ」
「十八メイル・・・そ、そんな大きな物、風石もなくて飛ぶわけ無いんじゃない?」
「模型は飛んでるじゃん。同じだよ」

そうなの?と聞くサラにそうなの、と答え、続ける。

「まあ、半年以上は懸かると思うよ。主翼にフラップは付けないつもりだけど、舵を操作する機構とか一から作らなくちゃならないし、もしかしたらもっと懸かっちゃうかも。まあ、どっちみちまだオレの魔力が足りないし、のんびりやるさ」
「はぁ、大変なんだね。でもそれじゃ今こんなに急いで実験すること無いんじゃ・・」
「別に急いでるつもりはないんだけど・・ま、まあ実験は一気にやっちゃう物なんだよ」

サラは軽く睨まれ慌てて言い繕うウォルフを見て、ふう、と息を吐いた。
模型を見てもグライダーという物がどういう物なのか今一分からないし、そのために行われる実験も退屈だ。空を飛びたいのなら普通のフネの形で良いのじゃないかとも思う。
しかし、グライダーを作るために夢中になっているウォルフを見ることは好きだった。

「あ、そう言えば夏の旅行私たちもガリアに行けることになりました」
「アンネの家から連絡来たんだ。じいさんばあさんに会うの楽しみだな」

初めて会うんです、と言ってはにかむサラ。
元々アンネはエルビラの実家で働いていて、そのままアルビオンに来てしまったので、サラは親戚というものに会ったことがなかった。

「オレもじいさんばあさんに初めて会うんだよなぁ。従姉妹がいるらしいよ」
「私も結構いっぱいいるらしいです。覚えきれるかしら」
「グライダーが完成すれば五、六時間ぐらいで行けるようになると思うから、もっと頻繁に遊びに行けるようになるよ」
「グライダーってそんなに早く飛ぶんですか!?」
「最高で一時間に二百リーグ以上の速度で飛ぶことができるよ。特に行きは早いと思う」
「風竜よりも早いじゃないですか・・」

魔法を使わずに風竜よりも早く飛ぶ。
サラはますますグライダーのことが分からなくなってしまった。




 ようやくウォルフの謹慎が解けた。

「それでは、本日より貴方の謹慎を解きます。これからは自覚ある行動をとるように」
「はい!」

ウォルフは満面の笑みである。
まあ、謹慎十日間はきつかったが、やったかいはあった。
あれから連夜超回復を行い日々魔力を増強していて、大体一日二十五リーブル位、率にして一パーセント弱ではあるが確実に増えている。
だが超回復をした翌日に回復する魔力の量が少なくなるという副作用がある事が分かった。瞬間的に出せる魔力は増えるのだが、通常の半分強位しか回復しないようなのだ。
他にどんな副作用があるのかは分からないので、三日やったら一日は休む、翌日に用がある時はしないという事にしてしばらくは様子を見る事にした。
それと、やたらと腹が減るようになってしまったが、それは成長期と言うことで目立たなかった。

今日は謹慎開け記念にサラと森へ散歩に行く約束をしている。そのため昨夜は超回復を休んだ。
サラはバスケットにお弁当を詰めて持って行くんだと朝から張り切っていた。

「ウォルフ、どっか出かけるのか?」

クリフォードが話し掛けてきた。

「うん、サラと約束しててね。森まで『フライ』で散歩に行くんだ。」
「そ、そうか、・・・その、マチルダ様も一緒に行くのか?」
「何でマチ姉?いや、別に約束してないけど」
「いや、その、もし一緒なら、オレも行きたいって言うか・・・」

ごにょごにょと言いつのるクリフォードに驚くが、これはマチルダと出かけたいと言っていると理解する。

「あー兄さん、マチ姉と一緒に行きたいってんなら誘ってみるけど、どうする?」
「行きたいって言うか、聞いてみるだけ聞いてみて欲しいっていうか・・・・」
「分かった。取りあえずマチ姉を誘ってみるよ」

まだ何かごにょごにょ言っているクリフォードにそう告げると、厨房に向かった。
サラにマチルダも誘うことを告げると微妙な顔をされたが、クリフォードのことを話すと目を丸くして了承した。

「マチ姉のところに行って聞いてくるね。一応お弁当は六人前をお願い」
「わかりました。気をつけて行ってきて下さい」

ウォルフはそのまま飛行禁止区域まで『フライ』で移動し、後は歩いて城まで向かった。

「ごめんください。マチルダ様にお会いしたいのですが」
「ああ、ミセス・モルガンの息子か、ちょっと待っておれ、取り次いでやる」

暫く待っているとマチルダが直接門までやってきた。

「謹慎解けたんだね、ウォルフ。どうしたんだい、こんな朝からやってくるなんて」
「マチ姉、お早う。今日暇?サラと兄さんとで森に『フライ』で散歩に行こうって言ってるんだけどマチ姉も一緒に行かない?」
「なんだい、急に。何時頃出かけるんだい?」
「この後直ぐ、かな?何か森に綺麗な泉があるらしくて、そのそばの草原でお弁当食べるんだってサラが張り切ってた」
「ふうん、まあいいかしらね、一緒に行くよ。支度が済んだらそっちの家に行くから待ってておくれ」

家に戻り支度を済ませて待っていると、程なくしてマチルダが着いた。
クリフォードは何故かやたらと緊張していたが、マチルダを見るとスムースに挨拶をかわした。

「お早うございます、マチルダ様。本日はお日柄も良くこんな良き日にご一緒出来るとは、このクリフォード光栄の極みにございます」
「・・・・この前ちょっとやり過ぎちゃったかしらね。気持ち悪いからもっと普通にしゃべっておくれ」
「えっと・・はい分かりました」

自分で考えて精一杯紳士的な挨拶をしてみたが、気持ち悪いと言われてしまってクリフォードは軽くへこんだ。

「じゃあいこうか、あれ?マチ姉、従者さん一人?」
「ああ、こないだから頼んで減らしてもらったんだ、私ももう十二歳だしね」

私はもういらないって言ったんだけどね、などと言っているのを聞きながら、思春期になったら別の危険が増えてくるんじゃないかなぁ、と思ったが口には出さなかった。

「マチルダ様、ご安心下さい。このクリフォードがいる限り、どんな危険も貴女に近づくことを許しません」
「だから普通にしゃべれって言っただろ!」



 今日行く森はちょっと遠くの森。
サウスゴータの街を出て北に向かい、畑を越え、村を過ぎ目的の森に着いた。
途中元風石の鉱山だったという洞窟などを見物していたら目的地の泉に着く頃には、昼を大分過ぎてしまった。

「あー、やっと着いたー。腹ペコペコだぜ!」
「ああ、確かにここは綺麗だねぇ」
「直ぐにご飯の支度しますねー」
「・・・・・・」

上からウォルフ、マチルダ、サラ、クリフォードの順番である。
クリフォードのテンションが低いのは『フライ』が一番下手で、道中足を引っ張っていたことを自覚しているからだ。この中で唯一の風メイジなのに。
サラはマチルダの従者から荷物を受け取ると二人でてきぱきと支度をしていた。
この従者はタニアという名の元ガリア貴族で、サラとは気が合うのかよく一緒に話をしている。お互い苦労が多いらしい。
マチルダは座り込んで景色を眺め、ウォルフは泉に向かって水切りをしている。

「ウォルフ!せっかく綺麗な泉に石を投げ込むんじゃないよ!」
「えー、ちょっとくらいいいじゃん。あ、兄さんもやんない?これ」
「・・・・・おぅ」

クリフォードは一瞬マチルダの方に目をやったが、ウォルフと一緒に遊び始めた。

「まったく・・」

もう少し文句を言いたいマチルダだったが、あまり仲が良くないと聞いていた兄弟が一緒に遊ぶのを見て黙っていた。

「用意が出来ましたよー」

サラに呼ばれて行くとそこには森の中とは思えない豪華な料理が並んでいた。
『練金』で作ったであろうテーブルに並んだ、灰色をした変な器に入っている色とりどりの料理。スープなどは湯気を上げている。

「ちょっと、なんだいこれ。こんなに持ってきたのかい?」
「はい、ウォルフ様の作ったチタンの食器なら軽いので負担が少ないんですよ」
「なにこれ、金属?金属なの?これ」

マチルダが驚いていると、ウォルフ達もやってきた。

「あー腹減った。うぉっうまそう!」
「ちょっとあんた、なんだいこれ。こんな金属見たこと無いよ!」

ウォルフの鼻先にチタンのスプーンを突きつけて問いただす。

「あぁ、いいだろそれ。チタンっていうんだ。軽くて舐めても味がしないんだぜ」
「そう言う事じゃなくて・・何であんたこんな金属知ってんだい。土メイジのあたしだって見たこと無いのに」
「なんでって・・・知ってたから、かなあ。まあ、いいじゃんご飯食べようよ」
「・・・後で教えなさいよ」

 美しい景色を眺めながらの食事は普段以上においしく感じられ、それぞれに楽しい時間を過ごした。
マチルダは日頃有り得無い主従一緒の食事を楽しみ(従者のタニアは可成り遠慮していたが)、クリフォードはチラチラとマチルダを見てはため息をつき、サラはウォルフの横に座って嬉しそうにし、ウォルフはただひたすら食べまくっていた。

「しかしウォルフ、あんたは良く食べるねえ。あんなにあったのが全部無くなったよ」
「育ち盛りなのです」

けして毎晩気絶しそうなことをしているから、ではないのです・・・と心の中で呟きながら遠くを見つめる。
そんな食べっぷりが嬉しかったのか、サラは鼻唄を歌いながら後片付けをしていた。

「こいつは色が付いているけど、これもチタンっていう『練金』で作った金属だね?」

マチルダが手にしたカップをこつこつと叩いて聞く。
カップは少しだけしゃれた形をしていて綺麗な青色をしていた。

「うん、これは新作なんだ。スープを入れてきたポットもそうだけど壁を二重にしてね?断熱効果を持たせたんだ。ホラ、直接持っても熱くないんだぜ」

この色は二酸化チタンの層を作ってその厚みで色を・・・と嬉々として説明するウォルフを遮って尋ねる。

「そう言うことを聞いているんじゃなくて、何であんたはこんな物を知っているんだい?」
「だからそんなこと言われても・・・結構そこら辺の石ころにも入っているよ?例えば、うーん《ディテクトマジック》」

泉のそばの石に『ディテクトマジック』をかけ、その中から一つを選ぶとマチルダに見せる。

「ほら、このカップの青色は言ってみればチタンが錆びた物なんだ。極僅かだけど同じ物質がこの石にも入っているから『ディテクトマジック』かけてみて?」
「本当かい?信じられないよ。まあ、やってみるけど・・・《ディテクトマジック》」

最初は何も分からなかったが、集中力を高めて精査すると確かに何かが感覚に引っかかった。
それは優れた土メイジのみが分かり得る物で、確かにカップと同じ物がこの石に含まれていることを示していた。

「本当にあった・・・・」
「ね?みんな気付いていないだけなんだよ。オレに言わせればブリミル様が魔法を伝えて六千年も経つのに、こんな身近な石の成分一つ調べていない方が驚きだよ」

そんなことを言われても、何の役に立つわけでもないそこらの石を一々調べるメイジなんて居るわけがない。
それに何の意味があるのか分からない。

"あの子は我々とは全く別の世界を見ている"

突然にかつてのカールの言葉が思い出され、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。




19    初めての闘い



「そう言えばクリフは何か特技はあるのかい?」

 食後のまったりとした時間のなか、何気なくマチルダが聞いた。

「と、特技?」
「そうさ、こんだけ変なのを弟に持ってんだ、兄貴のあんたには何かないのかい?」

クリフォードの顔がゆがむ。

「俺は、別に普通だから・・・」
「ふーん。まあ、そうか。風メイジだってのに『フライ』も一番下手だったものね」
「は、は、そうだね・・・」
「一応は、兄貴なんだから、もうちょっと頑張った方がいいよ」

マチルダは何の気なしに言ったのだが、クリフォードは急に立ち上がってマチルダを睨む。目尻には涙が浮かんでる。

「な、なんだい」
「オレだって頑張ってんだ!何も知らないお前にそんなこと言われたくねーよ!」

そう叫ぶと泉の横を通って森の中へ走っていってしまった。
残された四人に微妙な空気が漂う。

「急に叫んだりして、クリフも変なヤツだね。頑張れって言っただけなのに」
「マチ姉、兄さんはね、"出来すぎた弟"の存在に重圧を感じながらもそれを克服しようと、一所懸命に頑張っているんだよ。兄さんが魔法を本気で練習しだしてまだ一年だし、他人が気軽に馬鹿にしていい事ではないよ」
「クリフォード様が可哀想です」
「いや、今のはマチルダ様が悪いと思います」

ウォルフ、サラ、タニアの順に責められ、マチルダは怯んだ。

「なんだいウォルフ、あんた達仲が悪かったんじゃなかったのかい」
「別に仲なんて悪かった訳じゃないよ、ただ関係が作れていなかっただけだ。兄さんのことは気の毒だなぁって思っているよ。マチ姉、こっちはそろそろ帰り支度してるから兄さん探してきてよ」

「な、なんであたしが・・・」
「「マチルダ様が行くべきだと思います」」




「クリフー!どこ行ったー!・・・もう帰るよー!」

 結局マチルダが森の中に探しに来ていた。
クリフォードが走っていった方に来てみたのだが、中々見つからない。

この辺は木々が茂っている合間合間に草原が点在し、見通しはあまり良くない。

「はあ、やれやれ何であたしがこんな事を・・・」

ブツブツといいながら歩いていくと前方の茂みががさがさと音を立てた。

「はあ、やれやれそんな所にいたのかい。まあ、私もちょっとは悪かったからさ、一緒に帰ろ・・・きゃーっ!」

突然茂みから巨大な亜人が飛び出してきてマチルダをはたき飛ばした。
それは、アルビオン北部の高原地帯に住むという、トロル鬼だった。
獰猛で人間を見れば襲ってくるといわれているが、サウスゴータ周辺でこれまで見られたことはなかった。
身長五メイルにもなるトロル鬼の張り手は一撃で人間を殺しかねない物だったが、とっさに後ろに跳んで避けようとしたおかげでマチルダは一命を取り留めた。

「うぅぅ・・・」

しかし、五メイルも跳ね飛ばされたせいで意識は朦朧とし、杖もどこかへと飛ばされてしまっていた。

もう、だめだ。

途切れがちになる意識の中で、自分を見下ろし目の前に立ちはだかるトロル鬼を見上げてそう思う。
タニアやウォルフならこいつを倒すことも出来るだろうけど今は遠くに離れてしまっている。
きっと彼らがここに来るより早くこいつは私の首を引っこ抜くだろう。
マチルダが絶望の中、目を閉じようとした時その声が響いた。

「《エア・カッター》!」

クリフォードだった。トロル鬼の背後から攻撃し、傷を負わせると大声を上げてその注意を引いた。
その姿は草の中に倒れ伏しているマチルダからも確かに見えた。

「オラぁ、このデカぶつ!このクリフォード様が相手だ!こっちきやがれ《エア・カッター》!」

最初のクリフォードの奇襲にこそ背中を斬られ、悲鳴を上げたトロル鬼だったが、向き直ると片手で『エア・カッター』を叩き消した。
背中の傷はかすり傷でしかないようで、旺盛な敵意を向けてくる。

「うわ、まじかよ!《エア・カッター》!《エア・カッター》!」

必死に『エア・カッター』を連発するが、獰猛なトロル鬼は何でもないことのように、片手で魔法を叩き消した。
そのまま大きく吼えるとクリフォードに向かって突進を始めた。
そのあまりの迫力に呑まれ、クリフォードはその場に硬直してしまう。

「《エア・ハンマー》!」

後二メイル・・・見る見るクリフォードとトロル鬼との距離が縮まり、クリフォードを跳ね飛ばすかと見えた瞬間、トロル鬼の斜め後ろから放たれた魔法がトロル鬼を吹き飛ばした。
マチルダの悲鳴を聞いて、急いで『フライ』で飛んできたウォルフが間に合ったのだ。
サラとタニアも飛んで来てマチルダを介抱しようとしている。

「兄さん、大丈夫?」

呆然とトロル鬼が自分の直ぐ横を吹き飛ばされて行くのを見ていたクリフォードだったが、こんな時に、やけに冷静な弟の声を聞いて思考を取り戻した。
トロル鬼は十メイルも吹き飛ばされてしまった先で顔を押さえて悶えている。

「お、お、今のお前か、き、気をつけろよ、また来るぞ。何かすげえ怒ってるし!」

その言葉通り、二度も背後から攻撃され傷ついたトロル鬼は、大きな叫び声を上げながら両手で地面を叩き怒りを全身で表していた。
この森で一番強いのは自分だとでもいうように地を震わせ怒りを木霊させるのだった。

「うん、あれはオレが始末してくるから、兄さんはマチ姉達の所まで下がって。多分ハグレだと思うけどまだ他にも居るかもしれないから一ヶ所に固まった方がいい」
「お、おう」

あくまでも平静に、まるでその辺の石を拾ってくるとでもいうようなウォルフに、あれ、こんなに緊張しているオレの方が間違っているのかなあ、などと思ってしまう。
しかし、自分の『エア・カッター』が容易く叩き消される様を思い出し、トロル鬼の叫び声に背中を押されるように慌ててマチルダ達の元へ向かった。
マチルダをタニアが膝の上に抱え、サラと二人で『治癒』を掛けていた。
もう少しで合流出来る、という時後ろでウォルフの声が響いた。

「《マジックアロー》!」

クリフォードには普通に話をしたウォルフだったが、実は結構緊張していた。
彼が本当に冷静だったらトロル鬼を吹っ飛ばした時にそのまま止めを刺していただろう。冷静に対応したのは、パニックに陥らない様にと思ってしただけだ。
魔法の力を手に入れたといっても前世を含めて戦った事などないのだ。相手は身の丈五メイルの凶暴な亜人。対峙するだけで足が震えてくる。
ウォルフをいつものように動かし魔法を使わせたのは背後の者達を絶対に守る、という強い思いだった。



「マチ姉、大丈夫?」

 ウォルフがみんなの所へと戻って来た。
タニアとサラがまだ集中して治療をしている。

「ああ、もう大分楽になったよ。・・・あいつはもう死んだのかい?」

そういうマチルダの顔色は大分良くなっており、ウォルフを安心させた。
サラはドットとはいえ優秀な水メイジだし、タニアが水の秘薬を携帯していたので受けた傷は殆ど直っていた。

「うん、『マジックアロー』で胸を貫いたから、もし生きててももう動けないと思うよ」
「ああ、あのえげつないヤツ・・あれをもろに食らったんなら大丈夫か」

ウォルフの放ったのは改良版の『マジックアロー』でウォルフの『ブレイド』をそのまま射るような形に改善したもので、物理的な対象には最強で貫けない物はない、と言う代物だった。
初めてカールの家で放ったときは的を貫通し、さらに固定化の掛かった壁も突き抜け使用人の居る厨房に入ってしたために大騒ぎになったもので、その威力で獰猛なトロル鬼も一撃でしとめることが出来た。
トロル鬼はクリフォードの『エア・カッター』の時のように手で払いのけようとしたのだが、極めて薄いが濃密な魔力で構成された矢はその手を切断しそのまま胸を貫通したのだ。

「マチルダ様、はいこれ」

ようやく立ち上がったマチルダにクリフォードが探してきた杖を渡す。
幸いなことにトロル鬼の一撃を食らっても折れてはいなかった。
マチルダはちょっと恥ずかしそうに下を向いた後受け取った。

「あ、ありがとう。・・・・後、さっきはごめん。それと、助けてくれてありがとう」
「いや、こちらこそ・・そんな、オレなんて・・・・・」

もじもじと下を向きながらチラチラとクリフォードに目をやり礼を言うマチルダと、やはりもじもじと下を向きながら答えるクリフォードに周りは生温い視線を送るが、二人はそれに気付かなかった。




「本当にそれ持って帰るの?」

 泣きそうな声でサラが聞く。

「ああ、もちろん。役所にこれ持ってくと三十エキュー貰えるんだぜ。切り落とす時は吐きそうになったけど、これは見逃せないでしょ」

みんなで分けよう、と言うウォルフに他の四人は声が出ない。
荷物を纏めてさあ帰ろう、という段になってウォルフがトロル鬼の生首を持ってきたのだ。
マチルダとクリフォードはそれを見ると受けた恐怖を思い出したし、タニアとサラもそんなものは見るのもいやだった。

「三十エキューくらいなら、無理して持って帰らなくてもいいんじゃないかい?」
「一ドニエを笑うものは一ドニエに泣くんだ。最近羊皮紙が欲しいっていうと父さんいやそうな顔をするんだよね」
「羊皮紙くらいなら、あたしが分けてあげてもいいんだよ?」
「施しは受けん!・・・・・寄付は別」

結局ウォルフを説得することは出来なかったが、ウォルフも気を遣って黒色のビニール袋を『練金』し、それに入れて持って帰ることにした。

「本当にみんなお金いらないの?独り占めだとなんか気が引けるんだけど・・」

いらない、と口々に言われセレブめ、と呟くが、その意味が分かる人間は居なかった。

帰り道、マチルダは途中までタニアに背負われていたが、もうすぐサウスゴータが見えてくる、という辺りで背中を降り、自分で飛んだ。
一際低い高度で飛ぶクリフォードの横を飛びながら話し掛ける。

「どうも効率が悪いね、魔法のイメージが悪いんじゃないかい?」
「そんなこと言ったって、凄く集中しているんですが」
「そんなふうに、後ろから風で押すばかりだから却ってスピードが上がらないんだよ。目の前にある空気の層を左右に切り分けて自分の後方に押しのけるイメージを持ってみてご覧よ。その上で、後ろから風で押すんだ」
「目の前の空気を左右に押しのけるイメージ?・・・うん、やってみるよ・・・《フライ》!」

一度魔法を切って再び掛けてみる。
するとどうだろう、一度魔法を切った分高度は下がったがスピードがぐんと増した。
それはクリフォードが今までに経験したことがないレベルで、ちょっと怖いほどだった。

「うわわっ、マチルダ様、凄いよ!マチルダ様の言う通りにしただけでこんなに!」
「ほら、凄く良くなったじゃないか。それを自分の下に押しのけることが出来ると高度も簡単に上げられるようになると思うよ。」
「自分の下に・・・うわわ本当だ!」

また、イメージを変えると高さも自由に上げられるようになり、みんなと同じ高さまで来ることが出来た。
クリフォードはこんな簡単なアドバイスでこんなにも魔法の効果を上げさせてくれたマチルダを心から尊敬した。

「マチルダ様ありがとうございます。・・・マチルダ様は凄いです」
「いや、あたしもウォルフに教えてもらっただけだよ?元々あたしは土メイジだからね、風は苦手なんだ」
「なんだってー!」

 ウォルフによれば、『フライ』は風魔法でもありコモンマジックでもある魔法で、重力制御に加えて『念力』それに気圧制御をすることによって完成する魔法とのことである。
気圧制御を『念力』で行えばコモンマジック、『風』で行えば風魔法、というわけである。本来風魔法なのにルーンだけではなくそれを簡略化した口語の呪文があると言われていたが実は魔法としては別のものらしい。
重力制御とかは虚無の魔法に分類出来るのではないかとウォルフは思うが、ハルケギニアのメイジは皆無意識に使っていた。
その事に気付いたのは父ニコラスが「『フライ』を唱えていれば高速で衝突しても比較的被害が少ない」と教えてくれたからである。風の魔力素には慣性を制御する事は出来ないはずなのだ。
ちなみに、『サモン・サーヴァント』も絶対に虚無の系統だと考えている。
マチルダはウォルフの教えを朧気ながらも理解することによって、土メイジでありながらも『フライ』を使う事が出来るようになっていた。

「おい!ウォルフずるいじゃないか!こんな楽に飛ぶ方法知っていたのに、オレには教えないなんて」
「兄さんに教えるような機会がなかったじゃないか。大体オレが教えても兄さん聞かなかったんじゃない?」
「う、確かに・・・で、でもこれからは特別に教わってやるから、教えろよ、いいな!」
「兄さん・・・あんた一体何様なんだー」
「もちろん、お兄様だ!」

兄弟は初めて笑いあった。




1-10    自分の城



 サウスゴータに帰ったウォルフはトロル鬼の首を役所に提出し、三十エキューを得ることが出来た。
この地方でトロル鬼が出ることはほとんど無いので手続きに手間取ったが、マチルダが口添えしたこともあり、タニア名義で問題なく支払われた。
さらにマチルダから結構な量の羊皮紙を貰えたこともあり当面羊皮紙不足は解消された。

 マチルダは両親から暫く街から出ることを禁止されたみたいだが、特に堪えた様子はなく、今まで通りの生活を送っていた。
クリフォードはウォルフに話し掛けることが多くなった。
魔法で悩んだときなどに尋ねることが多い。ウォルフのアドバイスは分からないことも多いのだけど嵌ったときには強力なので、真剣に聞くようになった。
屋敷のそこここで見かけるようになった兄弟が一緒にいる姿を見て、両親はことのほか喜んだ。


 その日上空で模型の飛行試験をしていたウォルフが屋敷に帰ってくると、非番で家にいたニコラスが出迎えた。

「ウォルフ、また実験かい?」
「うん、改良した翼の飛行試験を空で行っていたんだ」
「職場で、最近変な子供が空を飛んでいると連絡があったけど、お前か。しかしそんなのが本当に飛ぶのかね」
「それが飛ぶんだよ、見てて」

そう言うと『フライ』で舞い上がり、少し遠くから水平飛行で勢いを付け、屋敷の近くまで来ると手を離す。
模型はそのまま滑るように空を飛び、やがて屋敷を越えた辺りで先回りしていたウォルフの手の中に収まった。

「結構なめらかに飛ぶでしょ」

戻ってきたウォルフが自慢げに言う。頬が少し赤い。

「はー、確かにあれは"飛んでる"な。竜が滑空しているときに似ている」
「グライダーって滑空するって意味なんだよ」
「そうか、本気で人が乗れるようなのを作るつもりなのか」
「うん、で、お父様、相談なんだけど・・・」

ウォルフがニコラスの顔色を窺いながら切り出す。グライダーを作るための広い作業場を確保しなくてはならない。

「うわっ出たよ"お父様"。あんま無茶なことは勘弁してくれよ?」
「いやいや、そんなことはないですよ?実は、本物を作るに当たって作業するスペースが足りないのです。そこで納屋のスペースをちょっと増やしたいのですが・・・・」
「え、あれで足りないって言うのか?ちょっと物が増えすぎているんじゃないのか?」

最近納屋の部屋の中に巨大な風洞が出現していることは知っていたので、そのせいでスペースが足りないのかと思ったのだ。

「いや、今ある物全て処分してもちょっと足りないのです。もちろん今ある納屋としての機能には全く影響を与えません。空間の有効利用といいますか、なんということでしょう!って感じにスペースを広げ、必要な空間を確保するつもりです」
「今あるところには影響を出さないんだな?確かにお前が新しく作った棚のおかげでとても便利になったと使用人達も言ってた。・・・まあ、いいか。好きにやりなさい」
「ありがとうございます、お父様。必ずや迷惑の掛からないようにいたします」
「まだ"お父様"なのがちょっと怖いな。・・・時にウォルフよ、最近クリフと仲がいいみたいじゃないか」
「うん、中々現状を受け入れることが出来なかったみたいで足掻いていたから心配したけど、自分は自分として受け入れることが出来た見たい。これで正しく自分を認識出来れば、卑屈にならずに成長することが出来るんじゃないかな」
「何でそんなに上から目線なんだ・・・まあいい、なにかあったのか?」
「恋というものはいつだって男の子を成長させる物なのです」
「ほほーう」

親子で目と目を見交わし、にやりとする。
ニコラスはもっと詳しく知りたがったが、本人に聞けと拒否し納屋へと戻った。

「サラ!やったぜ!納屋の増築に父さんの許可が下りた」

 ウォルフに出された課題を解いていたサラは疑わしそうに顔を上げた。

「本当にあんな計画が許可されたんですか?ニコラス様は何を考えているのでしょうか・・」
「ああ、もちろん!今あるところに影響を与えないで、"ちょっと"スペースを増やすって言って許可をもらったぜ」
「・・・・それは本当に許可を得ていると言えるのでしょうか」
「そりゃそうだよ。なんだよ、テンション低いな!いいじゃないか、誰に迷惑掛けるわけでもなし」
「そりゃそうかも知れないけれど、不安なんです。あと、お役所の許可とかも必要なんじゃないですか?」
「サラは不安がりだからなぁ。お役所は大丈夫だ。五階までの建物は許可がいらないらしい。三階以上の建物には固定化を掛けるように指導しているみたいだけどな」

ウォルフ様が脳天気すぎるんです、と膨れるサラを尻目に完成までの日程を考える。
途中で予定を変更してグライダーの格納庫も併設する事にしたのでそれまでに作った大理石の石材はみんな不要になってしまったが、まあ、いつか必要になるかもと思ってそのまま取っておくことにしてある。
今回増築するのは贅沢にもオールチタン製にすることにした。
どんな住み心地になるかは分からないが、それはそれ、作ってみることに意味がある。
実はウォルフにとっては石材を作るよりもチタンを作る方が楽、ということがあり、どうせならかつて無いものを、という風に盛り上がってしまったのだ。
納屋の周りにチタンの柱を建て、納屋の上に三階と四階に相当する部分を作る、というのが今回の計画だ。
どう考えても"ちょっと"スペースを増やすというレベルの工事ではない。
できあがれば、縦二十メイル、横八メイルのスペースが二層という広大な物で、全体の外観を舟形にしたために屋根の部分ではさらに縦二十メイル幅二メイルも広がっている。まさにノアの方舟っといった風情である。
とにかく柱もチタンなら壁もチタン、床もチタンで天井もチタンという前世の世界なら絶対に頭が悪いと思われる仕様で、しかも全部純チタンではなく64チタンと呼ばれる合金である。

もう全部設計をすませ、あと外装用材を少し作れば組み立てられる、というところまで出来ているのでいつ取りかかってもいいが、チタン材を『練金』で繋ぐのが多分ウォルフにしかできないので、十分に魔力をためておく必要がある。
ということで、建てるのは三日後のダエグの曜日にすることにした。
その日はニコラスもエルビラも仕事なので、途中で邪魔をされる心配がない。建ててしまえばこちらの勝ちだ。

「よし、三日後のダエグの曜日に建てよう!後でマチ姉にも手伝って貰いたいからお願いしてみよう」

 結論から言えば手伝って貰えることになった。
カールの授業が終わった後、マチルダの目を見つめながら上目遣いで"お願い"したら一発でOKだった。
マチルダが案外可愛い物に弱いことを知っていたので狙ってみたのだが、サラには悪辣と言われた。
マチルダだけでもかなりの戦力だが、カールも午後から見に来る、といっていたので取りあえず一日で建つ目処は立った。
更に家に帰ってクリフォードにマチルダが手伝いに来ることを伝え、「兄さんもマチ姉と一緒に手伝ってくれないかな」と頼むともちろん一発OKだった。

 決行前日・オセルの曜日

 下準備を進め、柱を建てるための穴を掘った。
『練金』を使い納屋の周りに十ヶ所。慎重に垂直を取り、それぞれの寸法を測りながらである。
四メイルと少し掘ったところでアルビオンの岩盤に当たり、更に掘り進めて深さは五メイルに達した。
全てを掘り終わると大人にばれないよう、それぞれに石でふたをしてごまかしておいた。

 決行当日・ダエグの曜日

 いよいよ当日である。ウォルフは朝から可成り興奮していたが、何とか抑えて両親を見送った。
門を閉めてしまえばこっちの物である。

 まず、中庭の地面に穴を開け地下から柱を取り出す。四十サント程の太さのH型の断面をしたもので屋根までの長さの物が四本、四階の床までの長さの物が六本である。
それをそれぞれ昨日掘った穴に差し込み、次は梁を用意する。
これは最長で四十メイルにもなるので、いくつかの部材を現場で接着しながら仮組みする。
ここらで納屋の上に巨大な構造物が組み上がっていくのを見て不安になったメイド達が話を聞きに来た。納屋の半分は使用人用の家屋になっているのだ。
納屋には何も手を付けないから心配しないように諭し、作業を続ける。

 一番大本の骨格に当たる部分を仮組みし、垂直や水平を確認する。
微調整をしてきちんと全ての柱で水平・垂直が出たら柱の根本に練ったセメントを流し込み固定し、仮組みした部分を接着していく。
そこからはひたすら地下から部材を運び出しては組んで接着する、という作業で、ウォルフはほぼずっと『練金』で接着作業をしていた。
柱と梁を全てくみ終わったら外装に取りかかる。
外装は酸化被膜で赤く発色させていて、この辺はエルビラの好みを勘案しておいた。
外装が終わった頃ようやく昼になった。全て予め加工済みだったとはいえ予想以上の早さである。
もう、外から見ると殆ど出来ているように見えるので、屋敷の外には見物人が集まりだしていた。
突然住宅街の空中に真っ赤な船が出現したのだから当然である。

「うっああああ・・・疲れたぁぁ」
「ほらしっかりしなよ、クリフあんた一番働いてないんだから」
「うわぁ、マチルダ様非道いです。不肖クリフォード必死にやっておりましたのに」
「まあ、兄さんも今日一日で大分レビテーションうまくなったんじゃない?」
「何でこの野郎はこう、しれっとした顔してやがるんだろう・・・」

 簡単な昼食を摂りながらだべる。
誰がどう見ても一番働いていたのはウォルフで、マチルダ、サラ、クリフォードと続いていた。
この辺は魔法の関係でしょうがなかった。
サラも疲れているからかアンネに支度をまかせ一緒に食べている。

「うーん、しかし出来上がってくると嬉しいねぇ。後どれくらいで出来るんだい?」

出来上がりつつある建物を見上げ、マチルダは楽しそうだ。
これだけ大きな物を作りあげる、という作業はかなり楽しい物だ。

「えーっと、もう赤いのは全部張り終わったよね。次は屋根を張って、断熱材と内壁を張って、床を張って窓を付ければおしまい」
「・・・張ってばかりだね。なんだいまだまだ結構あるじゃないか」
「でも、気を遣う必要があるのはあと屋根くらいだからもう大分気が楽だよ」
「あれ、でも階段がないね、どうなっているんだい?」
「これはメイジ用の建物なので必要ないのです・・」
「うそだよ、ウォルフ様忘れてたんだよ。昨日、あっとか言ってたもの」
「・・・・後で付ければいいじゃん」

色々と喋りながらの昼食を終え、軽く昼寝もして、作業を再開しようとしているとカールがやってきた。

「おい、子供ら。もうこんなに出来たのか。外で可成り話題になっとるぞ」
「あ、先生こんにちは。はい、まあ予定通りです。丁度半分って所でしょうか」
「ふーむ、こんなにでかい物じゃったとは、良くニコラスが許したのう」
「・・ええ、まあ。・・先生はこれを『練金』でくっつけられますか?マチ姉は無理だったので」
「ふむ、これがマチルダが言っとったチタンという金属か。どれ『練金』!」

ウォルフが差し出した二つのチタン片は一つになって固まった。
さすがに土のスクウェアともなれば未知の物質でも変形くらいはお手の物らしい。

「やった!じゃあ先生もオレと一緒に建材を接着する作業をお願いします」
「まあ、二時間くらいしか出来んが手伝ってやるわい」

 カールが来たことで大分スピードアップがなされたが、クリフォードがいよいよ限界近くなっていた。
もう魔法は使わず、地下の建材を地上に手でも持って来るという作業を一人でしている。

 屋根と床にはチタンハニカム構造材をサンドイッチして強化した物を使用し、カールと二人だと効率よく張ることが出来た。
断熱材にはポリスチレンのフォーム材をぐるりと全ての壁や床、天井に入れ、その後内壁、床と張っていった。
この辺りの作業は、クリフォードとサラが地下から部材を出し、サラが設計図と工程書を確認し、マチルダが現場まで運ぶという流れで行われた。
床まで全て張り終わり、全員で格納庫用の巨大な扉をセットしたところで、カールが帰り、ここでマチルダとクリフォードがギブアップした。
この扉は高さ三メイル半で横幅が二十メイルもある巨大な物で、床と同じチタンハニカム材をチタンパイプのフレームに組み込んである。
開くときは外に向かって倒れて開き、そのまま四階の床として使えるようになっている。
今回一番苦労した部分で、回転軸の反対側にタングステン製の錘を付けて開くときにバランスを取ったり、横に長いので五ヶ所で支えるようにしたり、その軸用にローラーベアリングを開発したり色々と大変だったものだ。
この扉を四階の両側に付けたので、両方を開け放すと相当な開放感を感じることが出来るようになっている。
一枚につき三つの部品に分かれて取り付けたそれをウォルフが一人で接着し、窓をはめて漸く一応の完成を見た。窓は殆どが二枚ガラスのはめ殺しの丸窓で、開閉出来るのは四階の一部だけにした。

「で、出来た・・・・」
「やりましたね・・・」

最後の窓をはめ、床に倒れ込む。何とか日が沈む前に終えることが出来た。
ウォルフもさすがに疲れていたし、サラはもう魔力切れ寸前だ。
しかし、両親が帰ってくる前に中庭の穴を塞がなくてはならない。
きしむ体に鞭を打ち立ち上がると出来たばかりの格納庫の扉を開け外に出た。後ろからこわごわとサラが着いてくる。

「こんな先っぽに乗ってもびくともしませんね」
「そりゃあね。一応五千リーブル位までは耐えられるように作ってある」
 
数値は概算だったが子供が二人乗ったくらいではどうにかなるはずはなかった。
端まで来て下をのぞくと、中庭のベンチでマチルダとクリフォードが何かしゃべっていた。

「何かあの二人、いい感じじゃない?ここで下に降りていったら、オレ邪魔者かなぁ」
「あら、ふふふ。まあ、あまり気を回さない方がいいですよ。マチルダ様!クリフォード様!完成しましたー!」
「うわ・・・取りあえず下の穴塞いでくるからここで待ってて。みんなでここでお茶しよう」

そう言って『フライ』で下に降りると何故かワタワタとしているマチルダ達にも伝えると穴を手早く塞ぎ、メイドにお茶を貰ってきた。

「あれ、まだ上に行っていないんだ」
「あたしもクリフももう魔力が殆ど無いからね、あんなとこまで行けないよ」
「んじゃ、オレが送るよ・・《レビテーション》!」

四階の、扉の外になっている部分でちょうど今、夕日が綺麗に見えている場所に移動して座る。
大きめのグラスに氷とレモンを入れ、砂糖をたっぷり入れたお茶を注ぐ。

「えー、それじゃあ皆さん!今日はお疲れ様でした!おかげさまでこうして立派な建物が建ちました!乾杯!」
「「「乾杯!」」」

「くー、よく冷えてておいしいねぇ!これは」
「はー、風が気持ちいいです・・・」

思い思いに寛ぐ。疲れた体に甘く冷たいお茶がおいしい。
ウォルフが少し前に放射冷却を利用した無電源の冷蔵庫を作っていたので氷が何時でも使えるのだ。
もう夏が近いが、夕方の風は涼しかった。

「いやしかし、本当に良く一日で出来た物だよこんなの」
「まあ、結構前から準備してたからね。今日は組み立てるだけってとこまでやっておいたわけだから」
「もう全部終わったのかい?」
「いやほら、まず階段付けないと。今三階と四階の間は穴が空いているだけだし、下から上がってくるのも付けるつもり」
「ウォルフ様はこんなに凄いのを作れるのに詰めが甘いと思います」
「ぐはっ・・でも致命的なミスはしたこと無いでしょ・・」
「まあ、でもこれは凄いよ。グライダーってのも楽しみにしてるよ」
「今日手伝ってくれたメンバーにはもれなくグライダー試乗の権利がプレゼントされます」

そんなことを話していると下からニコラスの呼び声が聞こえてきた。

「うわ、やっぱ怒っているっぽいなぁ」
「何で怒ってんだよ。お前、父さんの許可を取ったんじゃないのかよ」
「取ったよ?納屋が狭いから"ちょっと"スペースを広げたいって言って許しをもらった」
「「うわ・・・」」
「まあ、下に行って説明しよう。だめならおとなしく怒られればいいだけだし」
「まさに確信犯ですね」

全員に『レビテーション』を掛け、ニコラスの元に向かった。

「ウォルフ、なんだあれは。私はあんな物を作る許可を出した覚えはないぞ」
「お父様、納屋の上の利用されていない無駄なスペースを有効活用したのです。なんということでしょうあの狭かった納屋がこんなに広く、って感じです」
「広すぎだ!有効活用ってレベルじゃないだろう!届け出とかもしなくちゃならないかも知れないし、大体あれ危なくないのか!」
「こちらが関係法規の写しです。ここサウスゴータでは高さ二十メイル以下、五層以下の建物に関し、届け出は必要ないことになっています。強度に関しては十分な物を確保しています」

そう言ってウォルフは懐に入れていた羊皮紙を広げて示す。
関係法規の写しから建物の構造、チタン材の強度試験結果までそろっていた。

「・・・・計画通り、と言う訳か・・・」
「はい、お父様が好きにやれ、と仰って下さったので予定通りの物が建てる事が出来ました。ありがとうございます」

にっこり笑って言うウォルフに絶句する。何か悔しいが、よく考えれば話を通されていなかったので腹立ちはしたものの確かに何か問題があるというわけではなかった。

「どうしても必要だったのか?」
「はい、グライダーの制作場所、完成後の保管場所、発着に便利な形を考慮した結果、このような形が最善であると結論しました」
「そうか、あれだけの物をお前達だけで建てたのか?」
「ここにいるサラ、マチルダ様、兄さんとで建てました。あと途中で少しカール先生が手伝ってくれました」

 子供達だけであれだけの大きさの物を一日で建てたとなると、その異常さが目立ってしまう恐れがあるが、土のスクウェアであるカールが関わっていたとなるとその恐れが大分減る。
ニコラスは同僚にはカールが主に作ったと説明しようと決めた。
子供達には今更なので隠さずその懸念を伝え、周囲に話すときはカールが手伝ってくれたことを必ず話すように言い含めた。
後にカールの元に建築依頼が多数来て困る事になるのだが、そんな事はニコラスの知った事ではなかった。

 ついにウォルフは"自分の城"を持つことになった。
空中に浮かぶその城を彼は"方舟"と呼ぶことにした。




1-11    ガリア行



 夏休みに入り明日からガリアへ向かう、という日ウォルフはまだ方舟の改修を行っていた。

「ウォルフ様、またこっちに来ているけど支度は終わったの?」
「おう、ばっちりだぞ。支度って言っても着替えと洗面道具位だからな、トランクに詰めて寝室においてある」

新しく制作した換気扇を取り付けながらウォルフが答えた。
方舟が完成してから一ヶ月とちょっと、殆どずっとその改良に費やしてきた。
まず全体を詳しく『ディテクトマジック』で調べながら、接着の甘いところをやり直していく。
これはカールがやったところに特に多いのだが、表面だけ綺麗で内側はっくっついていない、というところがあったのだ。チタンは表面が酸化物で覆われているので接着面のそれを綺麗に取り除かないとしっかりとは接着出来ないのだが、カールがやった所には不十分な箇所があった。
一つ一つそう言うところを直していき、断熱材を入れ忘れている所などに詰め直したりするだけで一週間くらいかかった。
納屋の出入り口の外に方舟用の螺旋階段を設け、それを屋上までつなげる。四階部分に出入り口を作り、内部にも三階から四階へと続く階段を設置。
前後の舳先に避雷針を設置、更に避雷針同士を金線で繋ぎ建物全体をカバーする。しっかりと絶縁した金線をそこから地上まで繋ぎ接地した。建物自身が避雷針みたいなものではあるのだが。
エルビラの使い魔であるフェニックスのピコタン(エルビラ命名)が眺めの良いこの場所を気に入って日中はここにいるようになった。トリステインでは伝説の不死鳥とか言われているフェニックスだが、普段はただの鳥にしか見えない。
屋上には排水溝を設け、四階に雨水タンクを設置。そこから地上の元から納屋に併設してあった雨水タンクまでパイプで繋ぎ発電機を設置した。
発電機は何度も試作を繰り返し、ネオジム磁石と金線で作成、これの開発でだけで二週間掛かった。
無駄に大型だしまだまだ改良の余地だらけなのであるが、取りあえずは良しとし、鉛蓄電池に繋ぎ電気の利用が可能となった。
なまじチタンなんかで作ったために気密性が高すぎて、二十四時間換気にする必要があると判断したため、その動力を確保するためだけの作業だった。
そしてその発電機を改良小型化してモーターとして使用した換気扇がようやく完成したのであった。

「良し、完成!」
「あ、やっと出来たんだ。でも空気が澱まないようにするだけなら穴を開けるだけで良かったんじゃない?」
「ふ、ふ、ふ。そう思うのが素人の浅はかさよ。こいつは冬は暖かく、夏は涼しい風を供給する冷暖房設備も兼ねているのだ!」

まだ冬期の熱源については検討中であったが、そのためのスペースは確保してあり、夏期についても吸気側にもファンを設け断熱材にくるまれた吸気ダクトを延々と地上まで下ろし、さらに地下二十メイルまで通して地下の冷気を取り入れることにしてあった。

「ふーん、じゃあやっとこっち使えるの?」

ウォルフが熱く語ってもサラの感興をそそることはなく、普通に尋ねられた。
元々なにを説明しても実物を見せるまでは通じないことが多く、モーターの概念をいくら説明しても全く理解されず回して見せて初めて驚く、といった感じの事が多かった。
なので説明するのは半ば諦めて吸気用の送風口にサラを移動させる。

「ほら、こっちに来てみなよ。こっちはさっきからスイッチを入れておいたからもう結構涼しい空気が出てるよ」
「わぁ・・・・」

吸気口が方舟内の方々に空いているために風量は極僅かではあったが、確かに涼しく新鮮な空気がそこから出ていた。
そういえばこんなに金属にくるまれている建物なのに、いつもそんなに熱くなっていないことに今さらながら気がついた。

「過ごしやすいように作っているんだ。・・・」
「当たり前だよ。オレは軟弱な現代人だからね。快適のための手間は惜しまないものさ」

軟弱なことが蔑まれる風潮のあるハルケギニアで、何の衒いもなく自身をそうだと断言するウォルフに眉を顰めるが、昨年の旅行で始終馬車の乗り心地について文句を言っていたことを思い出し確かにそうなのかも知れないと納得する。

「せっかくこんな立派なの建てたのに全然使わないで何してるのかと思ったら・・・まあ、凄いは凄いかなあ」
「おうよ!まあ、これでやっと旅行明けには引っ越せるなあ。」
「まあ、それより今は旅行だよ!終わったんなら忘れ物がないかチェックしてあげるから、いこ!」

 ウォルフを引っぱって寝室まで来るとウォルフの前でチェックを始め、その量の少なさに驚いた。
着替えがシャツとパンツが三枚ずつに上着とズボンが二組、正装用とパジャマが一セットずつ。それに洗面道具とタオルである。
ウォルフのサイズが小さいこともあって、小さめのトランクはまだまだスペースが空いていた。

「全然着替えとか入ってないじゃないですか!半月以上も出かけているんですよ?何ですかこれ下着三枚って、一週間パンツ一枚ですか!」
「・・・順番に洗濯して着れば十分だよ。足りなかったらガリアで買うのも楽しいと思うよ?」
「・・・洗面器とかも入ってないし、・・・ホラ、鏡だって入ってない」
「そんなの誰か持ってるだろ。借りればいいし、なけりゃ『練金』で作ればいい」
「使用人の私よりご主人様の方が荷物が少ないのは変だと思うの・・・」
「そんなの気にする事じゃないし、女性の方が荷物は多い物だよ」
「・・・・・」

ウォルフは結局そのままトランクを閉めてとっとと馬車に積んでしまった。

 そして翌日。まずは港町ロサイスに向かう。
ド・モルガン一家とアンネ親子計六人で馬車に乗り込み、使用人が御者を務めるド・モルガン家所有の馬車でロサイスまで移動し、そこからフネに乗り換える。
御者を務めた使用人は一人馬車でサウスゴータに戻れば夏休みに入ることになる。
ロサイスはアルビオン屈指の軍港であり、トリステインやガリア方面に多数の航路が出ている港町だ。
ウォルフはここに来るのは三回目だが改めてその鉄塔型の桟橋を見上げ、効率の悪そうなフネの形に嘆息した。

「いやあ、あのフネってヤツはいつ見てもデタラメな姿をしているよね」
「何がデタラメなんだ。風石で浮き上がり、帆で風を受けて航行する。実に理に適った姿じゃないか。」
「うーん、まあアレじゃスピードが出せないでしょ。風石の消費が多すぎると思うんだ」
「いや、たしかに風上に向かうのは困難だが、風に乗ったときは風竜もかくやというスピードが出るモンなんだぞ」

これ以上言ってもニコラスを説得することは無理だと思っているので、いつか分からせてやる、と心に決めて今は黙った。
桟橋に着き荷物を下ろし、予約していたフネの船室にはいると漸く一息付けた。空を飛んできたピコタンもマストに止まり羽を休めている。
ここからはラ・ロシェールまでは直ぐで、夜間飛行を楽しむ事になる。



 ラ・ロシェールからガリアへと向かう馬車でサラはウォルフと一緒に座席から外に出て、御者の直ぐ後ろに座っていた。
何か新しい物を見かける度にウォルフは馬車から『フライ』で飛び降りて見に行ってしまうので、そのたびにサラは後を追いかけ馬車からはぐれないよう注意し連れ帰る、ということを繰り返していた。
今は地層が露出した崖で石をいくつもの瓶に詰めているウォルフをせかしていた。

「ホラ、ウォルフ様急がないと。馬車があんなに先まで行ってしまいました」
「うん、分かった分かった。今行くよ」
「ほら、早く!」

仕方なく切り上げ、二人で『フライ』を使い馬車に追いつく。

「はー、やっと追いついた」
「もうちょっと大丈夫だったんじゃない?あそこの地層は面白いんだよ、もしかしたら伝説の大隆起の跡かも知れないよ」
「そんなこと解るわけ無いじゃないですか・・・」
「いやいや、ホラこれ見てよ。風石から魔力が抜けるとこんな感じの石になるんだ。これがあんなに古い地層に入ってたってことは・・・面白いことが解るかも知れない」
「もう、いいですから馬車から離れないで下さい・・・」

目を輝かせるウォルフに釘を刺し、早く着かないかと願うサラであった。


やがて馬車は国境を越え。途中一泊しようやく目的地であるラ・クルス伯爵領の町ヤカに着いた。
アルビオンとは全く違う温暖な気候、良く整備された道、開放的な、どこか明るい雰囲気の漂う町だった。

「ここが、お母さんの生まれ育った町なんだね」
「そうよ、ほらあそこに見える大きな建物が教会よ。その奥に見えているお城でおじいさま達が待っているわ」

久しぶりに帰ってきた故郷にエルビラは楽しそうにしている。
クリフォードとウォルフも楽しそうにあちこち指さしてはエルビラに尋ねたりしていたが、その横でニコラスだけが一人緊張した面持ちだった。

「ニコラ、緊張してるの?」
「あーいや、ちょっとだけな?親父さんとは会う度にアレだから・・・」
「うふふ、きっともう大丈夫よ。前回もクリフに会わせたらただの爺馬鹿になっていたじゃない」
「それでも結構燃やされたからね。あの炎の壁を思い出すと自然に体が緊張しちゃうんだよ・・・」

「お父様、エルビラただ今帰りました」
「うむ、よくぞ帰った。もうアルビオンに帰りたくないというのなら、そのままこちらで暮らしても良いぞ」
「お義父様、お久しぶりにございます、ニコラスです。ご無沙汰しており、申し訳ありませんでした」
「なんだ、ニコラスお前もいたのか。《フレイム・ボール 》」
「《エア・シールド》お義父様もお元気そうで何よりです、《エア・カッター》」
「「あなた!!」」

城に着き場内に入るなり迎えに来たラ・クルス一家との対面だったわけだが、いきなり始まった戦闘にはさすがのウォルフも驚いた。
いきなり攻撃を仕掛けてきたのはエルビラの祖父フアン・フランシスコで、エルビラの髪を少し明るくしたような髪色と堂々たる体躯を誇る老人で、エルビラ達には久しぶりに会うというのに全く老いを感じさせなかった。
戦闘はそれぞれの妻が静止させたのだが、二人はまだ笑いながらにらみ合っていた。
ちなみに、アンネとサラは途中で降ろしたのでここにはいなかった。

「全く貴方達は・・・ああ、驚かせちゃったわね、気にしないでちょうだい。貴方がウォルフね、私がおばあちゃんよ、初めまして」
「あ、はい!お爺さま、お婆さま、ウォルフです。初めてお目に掛かり嬉しいです」

ペコリとお辞儀する。
こちらはフアンとは対照的に柔和な笑顔が印象的な老婦人で、ウォルフの髪色を更に濃くしたような髪をしていた。

「あらあらしっかりしてること・・・よろしくね?クリフも大きくなったわね、こんにちは」
「はい、お爺さま、お婆さま、お久しぶりにございます」
「ああ、うむ、ウォルフ、ワシが当主のフアン・フランシスコ・デ・ラ・クルス伯爵だ。お前の祖父に当たる。・・・紹介しよう今のがお前の祖母のマリア・アントニア・デ・ラ・クルス。そこのが息子のレアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルス今は子爵を名乗っておるがお前の伯父だ。そしてその妻セシリータ・エンカルナ・デ・ラ・クルスと娘ティティアナ・エレオノーラ・デ・ラ・クルス四歳だ。ティティアナは従姉妹になるな。クリフもティティアナは初めてだろう、可愛がってやってくれ」

少しばつの悪そうなフアンに紹介を受けて、それぞれと挨拶を交わし、最後に小さいティティアナの前に出ると話し掛けた。

「初めましてティティアナ。僕はウォルフ。ウォルフ・ライエ・ド・モルガン。よろしくね?」

ティティアナは母セシリータのドレスに隠れてしまっていたが、そっと顔をのぞかせるとスカートをつまんでお辞儀した。


 その後城内に移動し、サロンでお茶を飲みながら話をしていたが、ふとウォルフが杖を腰に差しているのに気付いてフアンが話し掛けてきた。

「何だウォルフお前もう魔法を使っているのか」
「はい、週に一回ですが魔法の先生の所に通わせてもらっています」
「まだ五歳だろう、少し早すぎる気もするが・・・お前ほどしっかりしていれば大丈夫なものかな。どんな感じだ?」
「はい、たしかにまだ魔力・・・精神力が足りないのが目下の課題で、成長するのを待っている感じです」

うむうむそうだろう、と頷くフアンを横目で見ながらクリフォードは、最近のもうトライアングルになってるんじゃないのか?と思わせる魔法を連発するウォルフを知っているため、絶対にニュアンスが正しく伝わっていないと思っていた。

「まあ、精神力というのは魔法を使っていると増える物だ。ワシも若い頃は良く気絶するまでつかったものだよ。・・・よし、後でクリフと一緒に魔法を見てやろう。何、遠慮は要らん、ワシも火のスクウェアだ。そこらの魔法教師に劣るものではない」
「「はい、よろしくお願いします」」


 夕食前 ― クリフォードとウォルフは城の中庭に連れ出されていた。

「遠慮は要らん、それぞれ得意な魔法を全力で放つが良い!まずはクリフからきなさい!」
「はい!・・・・・《エア・カッター》!」
「ふむ・・・十歳にしては中々のスピードと威力だ。ただ、詠唱が遅いな。攻撃系の魔法はスピードが命だ。練習で改善出来る物なのだから精進しなさい。では次、ウォルフ」

軽くクリフォードの魔法を火でたたき落とすとアドバイスを与え、続いてウォルフを促す。
ウォルフはクリフォードよりも五メイルほども後ろに下がると杖を構えた。

「ではお爺様、いきます《フレイム・ボール》!」
「ぬお!・・・・」

完全に油断していたフアンは咄嗟に魔法を使うことが出来ず、かろうじて身を反らして躱した。
それでも速さと熱量を兼ね備えたウォルフの『フレイム・ボール』を躱しきる事は出来ず、髪や腕は焦げてしまっていた。
ウォルフの魔法は、ドーナツ型をした光の玉が自身回転しながら真ん中の穴から炎を吹き出しつつ高速で飛来するという物で、フアンが躱したそれは後ろの壁に当たって爆発し大きな穴を空けていた。

「・・・・・なんだ?今のは!」
「『フレイム・ボール』です。高圧を掛けて質量を収束し、ドーナツ型にしてその場で回転させることにより燃焼が促進されつつ高速で飛ぶように工夫しました」
「・・・・・」

呆然と穴を眺めていると、穴の空いた建物では大騒ぎとなっており、こわごわと中から覗いてきた家臣と目が合った。

「ああ、すまん。ちょっと魔法の練習をしていてな、怪我人はおらんか?おらんのなら仕事に戻りなさい、そこはこちらで直しておく」
「お爺様、私が直してきましょうか?」
「なに、『練金』も使えるのか?」
「はい、最近一番使っている魔法です。あの程度ならすぐに直せます」

そう言うと『フライ』飛んでいき、『練金』で穴を塞ぎ戻ってきた。

「火に風に土も使えるだと?」
「それらは皆ラインスペルまで使えます。水はまだドットスペルだけです。《ヒーリング》」

見る見る腕の火傷が治っていくのを見ながらフアンはまだ信じられない思いだった。
五歳を半年ばかり過ぎただけの子供が、スクウェアメイジである自分が躱しきれないような魔法を放ち、さらに四系統全て使えるという。
そのあまりの異常性にかける言葉に迷った。

「あー、威力とスピードは十分だな、詠唱も問題ない。よほどブリミル様に祝福されているようだ。自分で工夫も行っているようだし、確かに今は精神力が増えるのを待つしかないのか」
「ありがとうございます。お爺様に認めていただき光栄です」



 夕食時、フアンが難しい顔をして黙っていたので妙な雰囲気になってはいたが、やがてフアンが口を開いた。

「エルビラ、お前は知っていたのか?ウォルフの魔法を」
「ええ、もちろんです。火の系統については私も教えていますし、風はニコラスに、その他はカール・ヨッセ・ド・ストラビンスキーという土のスクウェアの方に教えていただいております」
「ふむ、それで?」
「それで、とは?何のことでしょう」
「だから、ウォルフをどう育てるつもりなのかを聞いておる!この子ほどの才能があるならば、どのような地位にも就く事が出来るようになる。お前やあのオルレアン公の幼い頃よりも明らかに勝っているほどだ。週一などと言わずもっと優秀な家庭教師を付けるべきだし、なんなら魔法研究が盛んなガリアへと留学させても良い」

目を剥いてフアンが主張する。彼は週に一回しか魔法を習っていないというのがエルビラ達の経済状況のせいだと思いこんでしまっていた。
そんなフアンを見て一呼吸置いてからエルビラが口を開く。

「別に、何も」
「なにも、だと?」

ギリッと音がしそうな程フアンの拳が握られる。

「ええ、ウォルフが望むのならばお父様が仰ったようなこともよろしいかとは思いますが、今はこの子が必要だという物を揃えるようにしています」

ニコラスは聞きながら、先日ウォルフに羊皮紙をねだられた時渋った事を思い出し、エルビラにばれないことを願った。

「まだ五歳でしかない我が子に全ての判断をゆだねるというのか、親として怠慢ではないのか?その資質を見極め、相応しい道を選ばせる、というのは親の義務だぞ」
「ウォルフの事を私のような凡庸な女が量ろうとすることの方がよほど愚かしい事と思います」
「はっ!凡庸!十代でスクウェアに目覚め、オルレアン公と並び称されたほどのお前が凡庸ならば世の女は全て凡庸であろう」
「・・・・確かに魔法の才に於いてならば私は他に秀でていると言えましょう。しかしそれ以外においては私は夫を愛し、子を愛する平凡な女でしかありません」
「ならば平凡な女なりに子のために考え、行動するがいい。考えることを全く放棄するなど論外だ!」
「誰が何も考えていないなどと言いましたか?考え抜いた上で何もしない、そのつらさを、己が何も出来ないつらさをお父様は理解出来ないようですね」
「ワシが、何を分からんと言うんだ?」

チリチリと親娘の間の温度か上がっていく。
このままだと不測の事態が起きかねないと感じウォルフは間に入った。

「あー、お爺様、ありがとうございます。そのような高い評価をいただけて正直嬉しいです。しかし私は私を愛してくれる両親の元で育つ事が出来る事に最も喜びを感じています。将来のことを考えても今の環境に何の不満もございません。何分まだ若年である事もありますし、今はのんびりと親子共々見守っていただきたく思います」

若干険悪になってしまった親娘の間の緊張が少し解ける。

「ふむ、将来か。お前はどのように考えておるのだ?」
「まだ具体的には考えていませんが・・・ゲルマニアにでも渡って商売でもしようかなと思っています」
「「商売だと!?」」

フアンだけでなくニコラスも声をそろえて驚いた。
他の者達も目を丸くしている。

「ちょっちょっちょっと待て、商売って貴族やめるつもりなのか?」とニコラス。
「男爵家の次男です。貴族やめても不思議はないでしょう」ウォルフが返す。
「魔法が必要ないじゃないか!」フアンが声を荒げる。
「物を作ったり測定するのにあると便利です」
「・・・・・・」

フアンは大きく息を吐き出すと、椅子にもたれた。
あると便利だと?始祖ブリミルがもたらしたこのハルケギニアを支配する大いなる力を、この子供は、靴を履くのに椅子を見つけた時のように言うのだ。
もう一度大きく息を吐き、天井を見つめ、それからウォルフに目をやる。
そうだ、子供だ。自分の持つ力の意味や大きさをまるで理解していない子供。あまりにも卓越した魔法の才や大人びた口ぶりに惑わされていたがこの子はまだ五歳の幼児なのだ。

「あると便利か・・・・ウォルフ、お前は自分の持つ力の大きさを良く理解していないようだ。エルビラ」
「はい?」
「今後は毎年この子をここに寄越しなさい、費用はワシが持つ。魔法という物がどういう物なのか、貴族がそれを持つことにどんな意味があるのか、教えるに相応しい教師をワシが用意しよう」
「短期留学ということですね?ウォルフ、どうですか?」
「はい、お爺様の厚意を喜んで受けたいと思います」
「うむ、期間は一ヶ月くらいでいいかな、エルビラ達の夏休みの前にウォルフとクリフがここに来て、エルビラ達と一緒に帰る、と言う形がいいな。来るときは竜騎士を迎えに寄越そう」
「ありがとうございます」

 結局エルビラ達も毎年ガリアまで帰省することが決定されてしまった。
ウォルフはかねてよりガリアの魔法道具についての知識を得たいと思っていたのでそのことをお願いしておいた。
さらにラ・クルスの蔵書の閲覧の許可と街への外出の許可を得ることに成功した。



[33077] 第一章 番外1,3
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:34

番外1   兄として



 俺くらい弟で苦労した兄はいないんじゃないかなって今なら思える。

 弟が出来ると聞いたのは四歳の誕生日から少し経った頃だった。
母さんのお腹がどんどん大きくなっていくのを見て、弟が出来たら一緒い遊ぼうとか、優しくしてあげようとか、お兄ちゃんなんだから面倒を見てあげなきゃとか考えながらワクワクして生まれてくるのを待ってたんだ。
生まれてきた赤ちゃんは小っちゃくて皺くちゃで、こんなのが本当に人間になるのか不安だったけど、喜んでいる父さんや母さんを見てそんな事は言えなかった。
暫くしたら普通に赤ちゃんって感じになって安心したけれど、最初は本当に心配したんだ。
ふわふわの栗色の髪に大きなエメラルド色の目、首が据わったら抱かせて貰ったけど、目が合うとニコッと笑う本当に可愛い弟だった。
オレは兄としてこの弟を守ってやらなくちゃならないんだって心から思った。
何時だってオレが抱き上げると喜んだし、ずっと仲良くやっていけるんだって信じていた。

 ウォルフが話し始めたのは普通の子供よりも遅い位だったと思う。父さんと母さんは喜んでたけれど俺は凄く大変になった。
一緒にいるとやたらと色々聞いてくるのだ。あれは何?何で?何度聞かれたことだろう。
とても話し始めたばかりの乳児が聞くようじゃないことまで色々聞いてきて、あげく字を教えて欲しいと自分から言ってきた。
まあ、可愛いので主にオレとアンネで本を読みながら字を指で追って文字を教えた。
するとウォルフは文字をすぐに覚え、自分で本を読むようになって、このあたりからもうオレの手には負えないようになる。
どんどん難しい本を読むようになり、知らない単語がある度に聞いてきて、オレやアンネが答えられないようになると父さんや母さんに聞いていた。
聞かれた事に答えられない時、ウォルフは一瞬気まずそうな顔をして目を逸らすんだ。
それがいやで俺はウォルフを避けるようになった。幼児に気を使われる屈辱を想像してみてくれ。
あの、残念そうな目!目!目!・・・何度夢に見た事だろう、ニコニコと楽しそうなウォルフが"あっ、まずい事聞いちゃった"って顔になる瞬間。そしてがっかりしてるくせにそれを表に出さない様にしようとする気遣い。
ウォルフに悪気がないのは分かる。でも、こんなお兄ちゃんなんてウォルフはいらないんじゃないかって言う自己嫌悪を消す事は出来なかった。
父さんが"ハルケギニア大広辞苑"を買ってきてくれてから自分で調べるようになったので良かったが、そうでなければ今頃ノイローゼになっていたに違いない。
その頃からオレはカール先生のところに魔法を習いに行く様になったので、あまりウォルフとは顔を合わせないで日々を過ごせるようになった。ウォルフはずっと一人で色々と勉強している様だったが、俺はなるべく関わらない様にしてたんだ。

 そのささやかな平和はウォルフが魔法を習い始めて直ぐに消えた。
四歳半で魔法を習い始めたら一ヶ月位でラインメイジになっていた。
こんなナマモノの話を誰か聞いた事がありますか?俺はないです。

「兄さんは性格が真っ直ぐだから思いこみが激しすぎるんだよ。もっと客観的な視点を持てばうまく魔法を使えるようになると思うよ」

俺が魔法を失敗したのを見てウォルフが言う。この時四歳児です、こいつ。
イラッとする。

「自分以外の系統?きちんと魔法の事を把握すれば兄さんも直ぐに使えるようになるよ」

重ねて言いますが、四歳児です、こいつ。
イライラッ。

 あっという間に俺より魔法がうまくなっちゃったウォルフは俺が魔法を使ってるのを見かけるとアドバイスを言ってきて、あいつは親切のつもりだったんだろうけど俺は「ウルセー」としか答えなかった。
それからはもう、口をきく度にウォルフに当たるようになっちゃって、自分でも止められなかった。
俺はウォルフに酷い事を言う度に俺は悪くないと自分に言い聞かせていたけど、あいつはちょっと困ったような、悲しそうな顔をするだけで文句は何も言わなかった。
そんな状態がずっと続いていい加減自分の事が嫌になった頃マチルダ様と出会ったんだ。
マチルダ様は妖精かと一瞬思っちゃったほど綺麗なのに魔法は凄かった。
俺と二歳しか離れていないのにトライアングルかと思うほど大きなゴーレムを操れるんだ。

「ふん、ぬるい攻撃だね。本当にウォルフの兄貴かい?」

マチルダ様の言葉が胸に突き刺さる。
ウォルフの兄貴って言わないで欲しい。兄貴らしい事は何もしてないんだから。

「一応は、兄貴なんだから、もうちょっと頑張った方がいいよ」

頑張っています。
ていうかいくら頑張ったって相手はウォルフなんだぜ?
俺なんかとは最初から出来が違うんだよ。俺だってカール先生の教室じゃ優秀な方なのに。
ずっと兄貴になんて生まれたくなかったって思っていたよ。

 でも気付いた。トロル鬼をやっつけてあいつが帰ってきた時、その手が少し震えていたんだ。
それを見て、あんなに凄いやつなのに俺みたいに怖がる事もあるって知って、少しだけ楽になった気がしたんだ。

 あいつだって俺みたいなやつの弟になんて生まれて来たくはなかったろうに、文句なんて何も言わない。
多分ウォルフはそれを文句を言うような事じゃないって知っているんだ。だって文句を言ったって仕様がないから。
俺は文句ばかりだ。ウォルフが俺より凄いのは誰の所為でもないのに。

 俺はド・モルガン家にウォルフより先に生まれた普通の子供で、ウォルフは多分凄いやつ。いや、五歳児が一人でトロル鬼倒すなんて聞いた事も無いからもの凄いやつなんだ。
兄貴なのにあいつに負けているのがいやだったけど、絶対にそれはオレの所為じゃないと思う。

 ハイキングの帰り、マチルダ様に『フライ』のアドバイスをしてもらったらいきなりうまく飛べる様になった。
マチルダ様も凄いんだって思ったけど、マチルダ様もウォルフに教えてもらったとの事だ。
あいつの魔法はあいつにしか使えない凄い変なものかと思っていたけど、実は誰にでも使えるものらしい。
もしかして今までウォルフが色々俺に言ってきた事をちゃんと聞いてれば、もっと魔法がうまくなっていたという事か?
何か今まで拘って来た事が全部くだらない事に思えてきてしまった。

 ハイキングに行く前は偉そうな事を言ったけど、俺は今のままじゃマチルダ様を守る事なんて出来やしない。
ウォルフに聞けば強くなれるならウォルフに聞こう。
弟にそんな事を聞けるかって思っていたけど、ウォルフはウォルフ、俺は俺なんだから関係ない。あいつの方が凄いんだったらあいつに聞くべきだ。
そしてもっと強くなって今度は俺も一緒に戦うんだ。
マチルダ様の事を守るって誓ったんだから。
あいつがどんなに凄くたって、俺はあいつの兄貴なんだから。




番外3   マチルダ・覚醒




 その日もカール邸の中庭にウォルフとサラとマチルダの三人の姿があった。
もう授業は終わったのでカールは家の中に引っ込んでいたが、サラがマチルダに相手をしてもらいたいと希望しそのまま残っていたのだ。

「ふーん、サラ、あたしのゴーレムとまた戦いたいって言うのかい?」
「はい。威力が上がったので試してみたいんです。ウォルフ様相手だと通じないから他の人でもやってみたくて」
「・・・あたしのゴーレム位だと丁度良いって事かい?舐められたもんだね、いいよ相手をしてやるよ」

笑顔を浮かべてはいるが、こめかみはひくついている。沸点は低い。

「あ、いえそう言うわけではなくて、ちょっと他の人でも試したいだけで・・・」
「御託は良いよ、魔法で語ろうじゃないか!《クリエイト・ゴーレム》!」

音を立てて地面から巨大なゴーレムが立ち上がる。土で出来たそのゴーレムはそれでも手加減をしているのか十メイルほどの大きさだった。
対するサラは少し後ろに下がって杖を構える。その目には自信が見えた。

「さあ、とっととかかっておいで。あたしが捕まえるまでに腕の一本でも切り落とすことが出来たらサラの勝ちにしてやるよ!」
「じゃあ、行きます!《マジックアロー》!」

サラは杖を大きく振りかぶり、斬りかかる様に斜めに振り下ろした。するととても薄い魔力の塊が杖の軌跡のまま大きな三日月状に現れ、その勢いのままゴーレムに向かって真っ直ぐに飛んでいった。

「あっ!」

それはまるで水色の大きな猛禽がゴーレムに体当たりをしたかの様に見えたが、その大きな矢はそのままゴーレムを突き抜け虚空へと消えていった。
動きを止めたマチルダのゴーレムは胸のところで二つに切り裂かれ、斜めに滑る様に上半身が崩れ落ちると続けて下半身も土へと還った。
呆然と自分のゴーレムのなれの果てを見るマチルダと、嬉しそうにウォルフの方を見るサラ。
あまりに対照的な二人を前にウォルフは掛ける言葉に迷った。

「サラ!今のはウォルフの『マジックアロー』だろ。何であんたが使えんだい!」
「えー?ずっとマチルダ様も一緒に練習してたじゃないですか。先週出来る様になったんですよ」

えっへんとばかりに胸を張る。その顔は誇らしげだ。
サラは先週ついにウォルフの言う魔力素という物を感覚で理解し、魔力素を意識した魔法を使える様になった。
感覚を理解してしまえばこんな事かとあっけなく思ってしまうような当たり前のことで、それまで理解出来なかったことが不思議なほどだった。
自分の中に溜まっていた魔力素が杖の先から流れ出て周囲の魔力素に干渉し、それらが周囲の物質に干渉して魔法を発動する。
その一連の流れを感じることが出来る様になり、魔力の運用がとてもうまくできる様になった。
勿論サラはまだドットメイジなのでいきなり大魔法を連発とかは出来ないが、ドットスペルやコモンスペルならば今までとは段違いにうまく使える様になったのだ。

「そんな・・・あれがサラにも出来るなんて・・・それに、ウォルフには通じないって、ウォルフはあれを防げるのかい?防ぐ方法があるって言うのかい?」
「当たり前じゃないか。『ブレイド』や『マジックアロー』がそんな無敵の魔法な訳はないだろう。当然対抗策はあるよ」
「じゃあ、じゃあ何であたしがあんたの『ブレイド』に耐えるゴーレム作るのに必死になっていたのに、それを教えてくれなかったんだい!」

ちょっとマチルダは涙目になっている。ずっと意地悪をされていた気になってしまっているのだ。

「マチ姉にもずっと『ブレイド』の作り方を教えてたろ?まずはそれが出来ないとその対抗策だって出来ないんだよ」
「でも、でもそう言う方法があるって教えてくれても良いじゃないか。あたしはずっと無駄なことを・・・」
「無駄な事なんて無いから。マチ姉がずっと色々試して工夫してきたことは全部身になっているから大丈夫だよ。オレ達の歳で教えられた事を覚えるだけじゃなくて、自分で考えるって言うのはとても大事なことなんだ」
「・・・オレ達の歳って、あんたとは七つも違うじゃないか」
「それでもだよ。色々工夫してるのを見るのは楽しかったしね。ゴーレムを巨大化させてきた時はかなりうけたよ。マチ姉の性格っぽいなあって」
「やっぱり面白がってたじゃないか。・・・そうかい、ウォルフの『ブレイド』が出来なきゃだめなのかい」

がっくりと落ち込んでいる。
ウォルフが言う対抗策とは物質の表面を魔力素でコーティングして魔力素の通常物質への関与を防ぐ、と言う物であったがウォルフの『ブレイド』が出来なければ出来る様になるはずもないという物だった。
そんなこととは知らずにやってきた努力がマチルダにはどうしても無駄だった様に思えてしまうのだ。

「まあ、いきなり世界観を変える様な物だからね、難しいんだろうとは思っているよ。サラが出来たのはサラの方が若いから考えが柔軟だってことだろう」
「・・・・人のことを年寄りみたいに言わないでおくれ。あたしだってまだまだ若いんだよ!」

若いも何もまだ十二歳でしかないのだが。
しかしサラとのその六歳の差が固定観念の差となって現れたのだろう。これまでは魔法とは精神力で行使する物という常識がウォルフと同じように『ブレイド』を扱うことを阻んでいた。
だが、実は今まさにマチルダの中で世界の在りようが変わったと言える。
ウォルフは特別であるという考えがどうしても抜けなかったのだが、サラが同じ魔法を使うことでその壁が崩れたのだ。

「今ならマチ姉も出来るんじゃない?俺が言ってる事がオレだけに当てはまる事じゃないって分かったろう」
「そうかな、あたしにも出来るかな」
「出来るさ!前からずっと言ってるだろ?魔力素ってオレが言ってる小さな粒を平面に並べるんだ。マチ姉の場合は土だよ」
「う、うん、やってみるよ。サラに出来てあたしに出来ないって理屈はないだろうからね」
「そうですよ!出来ちゃえばなんだこんな事かって感じですから」

 マチルダは目を瞑り集中する。これまでにウォルフが言ってきたことを思い出しイメージを作っていく。
心を真っ白にして自分の中から無数の粒が杖を通りあのウォルフの『ブレイド』と同じように極薄く集まる様子を思い浮かべる。その魔力光は茶色、マチルダの系統である土の色だ。

「《ブレイド》!」

この世界の魔法とは正しく望めば叶うものである。
マチルダが魔力素を薄く隙間無く並べることをイメージした『ブレイド』はそのイメージ通りの姿で杖から現れた。

「薄い・・・」

 呆然と自分の『ブレイド』の刃を見る。本当に薄く、横にしたら厚みは見えない。
そんなマチルダの前に鋼鉄の鎧騎士が現れた。ウォルフが試し切り用に作ったゴーレムである。
魔力素でコーティングはしていないが、クロムモリブデン鋼で作られたそれは硬化と固定化も掛けられ通常の『ブレイド』では刃が立たないであろう代物だった。
マチルダは無言でそのゴーレムと相対すると、軽く『ブレイド』を振ってその手甲を斬り落とした。
ガチャンと音を立てゴーレムの手首が地面に落ちるとマチルダの口が"にやあー"っと弧を描いた。

「ふ、ふ、ふ、なんだい、こんな事だったのかい。ひゃっはーっ!!」

マチルダは奇声を上げるとウォルフのゴーレムに襲いかかり瞬く間にバラバラにしてしまった。

「ウォルフ、もっと」

満面の笑みでこちらに振り向いたマチルダが要求する。

「マ、マチルダ様なんか怖いです!瞳孔が全開になってますよ?」

サラがウォルフの後ろに隠れながら言う。なんか本気で怖がっているみたいだ。

「怖くない。ねえ、ウォルフ、もっと斬らせておくれよ」
「はい!マチ姉、ただ今!」

両手をだらりと下げ、その手に『ブレイド』を纏わせた杖を握り満面の笑みでこちらに一歩ずつ近づいてくる。
ウォルフの生存本能もアラームをけたたましく鳴らして警告してくるので慌てて十体ほどゴーレムを生成し、自身はサラとともにマチルダと距離を取った。

「ああ、さすがはウォルフのゴーレムだよ、こんな固そうな鉄見たこと無いよ」

うっとりとした流し目で自分を取り囲むゴーレム達を見まわす。

「どいつもこいつもカチンコチンに堅くしてるんだろう?ああ、ゾクゾクするよ」

杖を持ったまま両手で自分の体を抱きしめてため息を吐き、両腿を擦り合わせて十二歳とは思えない妖艶な表情を見せる。

「こいつ等がバラバラになる所を想像するとね!ひぃやーっ!!」

またも奇声を上げると端から順にゴーレムを分解していく。ゴーレムの首を刎ね、両腕を切り落とし、胴を両断し、邪魔になった下半身を蹴飛ばす。
そのまま次のゴーレムに襲いかかり今度は頭から股まで両断、その次は袈裟に斬った後両腿を切断・・・。
それらの行為を高らかに笑い声を上げながら満面の笑顔でやるのだ。本気で怖い。
それは騒ぎに驚いて飛び出てきたカールが『レビテーション』でマチルダの杖を取り上げるまで続いた。

「あ、あれっ?あたしどうしてたのかしら?」
「「「・・・・・・」」」

「マチルダに刃物」サウスゴータに新たな格言がこの日誕生した。



[33077] 第一章 12~15,番外4
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 01:30


1-12    ガリアでの日々



――― 夜も更けて ―――

 サロンにはド・モルガン夫妻とエルビラの兄レアンドロが残って酒を飲んでいた。

「ああ、全くかわらないなあ、エルビラもニコラスも」
「そんなことありませんわ、あなたの可愛い妹も結構年を取りましたのよ」
「そんなこと関係ないよ、相変わらずあの父上に真っ向から向かっていけるんだからね。僕には無理だ」
「義兄上も思い切って魔法をぶっ放してやればいいんですよ。義父上は肉体言語派ですからね俺は出会って五分でそう悟りました。遠慮は無用です」
「僕は子供の頃に父と妹がその言語で語り合っているのを見て僕には無理だと悟っちゃったんだよ」
「ははは・・・」

何かが間にあるかのような会話。他愛もないことを話しながら、心ここに在らずといった風情だったレアンドロだったが、やがて暫くの沈黙の後口を開いた。

「あの子達は、今、どうしているのかな?」
「どなたのことでしょう」

エルビラが冷たく返す。

「決まっているだろう!アンネと・・・・サラのことだよ」

暫しの沈黙が場を支配する。
やがてそれを破ったのはエルビラだった。

「二人とも元気にしています。サラは六歳になりました。ウォルフとよく似た髪色をしていて、一緒にいると姉弟に間違われます」
「・・・今、どこに?」
「・・・・ヤカのアンネの実家に帰省しています」

また沈黙が場を覆い、目を閉じたまま額の前で手を組んだレアンドロが告白する。

「あの頃の僕は追い詰められていたんだ。君たちのことがあってから父上も荒れていたし、アンネの優しさを都合のいいように勘違いしてしまったんだ」
「そんなことは関係ないでしょう、アンネはまだ十五才でした。そんな、子供に・・・」
「本当に・・・・・申し訳なかったと思うよ」
「はあ・・・・今更言ってもしょうがないことですね、もう終わったことです」

「・・・・・・二人に会わせてくれないか?」
「何のために?お兄様の自己満足のためになら、お断りします」
「あの時泣いていたアンネに、僕は何も言えなかった。今度こそ会って謝罪がしたいんだ」
「必要ありません。・・・彼女は彼女の人生を生きています。今更お兄様の形だけの謝罪に意味はありません」
「なっ・・・・僕は心から謝りたいんだ!」
「十五の娘を無理矢理犯して!妊娠したらばれないよう異国へ放り出して!アンネは私の所に着いたとき死にかけていたんですよ?謝りたい?それこそ意味がないですね」
「う・・・・あの頃はほんとに、中々子供が出来なくて妻ともぎくしゃくしていたし、それを父上に毎日チクチク言われてどうかしていたんだ」
「謝罪ってそんなことをアンネに言うつもりなんですか?今更?」
「・・・・・・」

暫くの間、頭を抱え黙り込んでしまったレアンドロを見下ろしていたが、軽くため息を吐くとニコラスを振り返り、促した。

「あなた、もう部屋に帰りましょう」
「あ、ああ、お休み、レアンドロ」
「・・・お兄様、私はラ・クルス家がサラの存在を認め、ラ・クルス伯爵家としてアンネに謝罪する、ということでない限り謝罪とやらを受けさせるつもりはありません。・・・・それでは、お休みなさいませ、お兄様」

そう言うとニコラスを伴い自分たちにあてがわれた部屋へと帰っていった。
後には頭を抱えたままのレアンドロが一人残されるだけだった。



 それから一週間ウォルフはヤカでの日々を楽しんでいた。

 午前中は従姉妹のティティアナと遊び、午後はヤカの街に出かけたりフアンに魔法を見てもらったりして過ごし、夜はラ・クルス家の蔵書を読んだ。
家族そろって川に泳ぎに行ったり、演劇を見に行ったりもしたし、近隣にいるエルビラの友人に会いに行ったりもした。

「ウォルフ兄様出かけるの?」
「ああ、ティティちょっと街まで行ってくるよ」
「ティティも行きたい!」
「ごめんティティ今日はちょっと人と会うんだ、また今度ね」

駄々を捏ねるティティを何とか宥め、出かける事が出来た。
今日の目的は『練金』で作った宝石を売ることである。
色々と作りたい物や、研究したいことはあるのだが、何せ先立つものがない。羊皮紙に事欠くこともあるという現状を改善するために手っ取り早く現金を得ようというわけだ。
サウスゴータではアシがつく恐れがあるのでやるつもりはなかったが、ここヤカなら多少騒がれても噂がサウスゴータまで届くことはないだろう。
男爵の息子が高価な宝石を売っているなどと噂されるのは好ましくない。
五歳児が店に行っても相手にされない可能性が高いので、アンネとその兄のホセに付き添いを頼んでいた。

「ウォルフ様いらっしゃいませ。すぐに出かけますか?休憩してから行かれますか?」

きゅう、と抱きついてきたサラをあやしながら答える。

「すぐに出かける。ホセ、今日はよろしく頼む、サラは今日は留守番だ」
「もう行っちゃうの?」
「うん、サラ帰ってきてからね」

アンネとホセを連れ、宝石を扱っている店に向かう。
ホセには『練金』で作った剣を持たせているので従者と護衛を連れた貴族の少年といった感じだ。
アンネは本物のメイドだし、ホセはあまり喋らないのでちょうどいい。

「いらっしゃいませ、小さな貴族様。本日はどのようなご用でしょうか」

宝石店に入るとカウンターの中から店員が声を掛けてきた。
店内はそこそこの広さでガラスのカウンターの中には宝石が飾ってある。大した物は並べられていないので、高価な物は後ろの部屋から出してくるのだろう。
奥のテーブル席では若いカップルが並べられた宝石を前に商談中だ。

「ちょっと現金が必要になってね、宝石を売りに来たんだ」
「買い取りをご希望ですね、こちらへどうぞ」

奥のテーブル席に案内されてなかなかつくりの良いソファーに座る。隣とは会話が聞こえないくらいの距離だ。
ウォルフは手袋をはめ、懐からダイヤモンドを取り出した。
取り出したのは三サント程もある大粒のダイヤで、遠目で見てもその大きさ、輝きから数万エキュークラスの逸品に見えた。

「こ、これは・・・少し詳しく鑑定させていただけますか?」
「ええ、もちろん。」

店員は、ライトの魔法具を付け、目にルーペをあてて、詳しく内部を観察する。
ひとしきり呻ると杖を取り出し、『ディテクトマジック』を掛ける。
更に呻るとウォルフ達を置いて、隣のテーブルに行ってしまった。
隣のカップルを接客していた店員を連れて戻ってくると、その店員も鑑定するという。
店長だというその店員は念入りにウォルフのダイヤを鑑定し、やがて元いた店員に頷くと自分はカップルの元に戻っていった。

「申し訳ありませんでした、お客様。わたくしの裁量出来る額を超える品ですので店長の許可を得ました」
「ふーん、で、評価はどんなもん?」
「・・・これほどの逸品はわたくし、初めて拝見させていただきました。色、透明度、重さ、研磨、全てが超一流です。特にこの様に美しい光を発するカットは初めてみました。失礼ですが、これはどちらで・・・?」

頬をやや上気させながら、ウォルフを窺うように熱っぽい視線を送ってくる。
これは本当のことは言わない方がいいと判断し、適当に答える事にした。

「うーん、僕もあまり詳しくは分からないんだけど、最近東方との交易に成功したらしくて、これはその時に入手した物らしいんだ」
「ううむ、そうですか、東方ですか・・・ううむ」

店員は悩んでいた。
十万エキューでも右から左へと売れそうな品物だが、もし今後もこのレベルの宝石が東方から入ってくるとなると相場も変わっていくだろうから、あまり高く買うのは危険とも言える。
しかし、今後も入ってくるのならそのルートは是非押さえておきたいので、あまり安く買いたたくのは上策ではないだろう。

「今すぐこの場で、と言うことならば当店では四万エキューをお出ししましょう。しかし今後もお取引を続けていただけるのならば、もう二万出す用意はあります」

四万エキュー。あまりの金額にウォルフ達三人はピキッと音を立てそうな程に固まってしまった。しかも身元を明らかにすればもっと出すという。
千エキューもあれば家が建つ世界である。
宝石店に入るのは今回が初めてであったし、相場も全く調べてなかったので何となく百エキュー位になるといいなー、などと軽く考えていたのだ。
『練金』で簡単にできてしまうダイヤモンドを高く売るためにウォルフは結構頑張った。
うろ覚えだったブリリアンカットを再現するため、ダイヤの屈折率と反射率を測定しそれを元に計算して図面に書き起こし、上部三十三面下部二十五面の形状と角度を決定した。
それを元に治具を作り、六方晶ダイヤモンドの微粉末を使って正確な角度で研磨出来る装置を作った。
材料となるダイヤモンドを全く不純物なく『練金』し、おおよその形にはなっているそれを丁寧に時間を掛けて正確な形に研磨した。
魔法でしか作り得ない品質と、魔法では作り得ない形状を持った一粒なのであるが、どうやら今回頑張りすぎたようだった。

「そ、そうですか。もしかしたら今後も入手出来るかも知れないけど、分からないので最初の値段で結構です」

なるべく動揺を出さないようにそう答えると店員は落胆した様子で承諾した。

「では、四万エキューでお引き取りさせていただきます。支払いはギルドの手形でよろしいでしょうか?現金でとなると少々用意に時間をいただきますが」
「ああ、構わないよ。出来たら手形は五枚くらいに分けてもらえる?一度に換金したら重そうだ」
「かしこまりました。では、手形を用意して参ります。少々お待ち下さい」

用意された手形はギルドに行けば何時でも換金して貰える小切手のような物で期限はなかった。この世界の商人ギルドは銀行の機能も持っているのだ。
偽造防止に魔法の掛けられた手形を確認し、ようやく取引は完了となった。

「では、ご確認いただけましたら失礼してこちらに『所有の印』を押させていただき、取引を完了させていただきます」
「『所有の印』?」
「はい、通常盗難防止のために宝石にかける魔法です。かけた本人以外が上書きをすると跡が残ってしまいますので盗品と判断出来ます」
「これにはまだ誰もかけていないから盗品じゃないって事か」
「はい、失礼ながら『所有の印』が押されていないので驚きました。これだけの品に『所有の印』を押していないで盗まれた場合、盗まれた方が悪いというのがこの業界の常識ですので・・」
「へー、知らなかったなあ。確認は終わったのでどうぞやってください」
「では、失礼して・・《所有の印》!・・・これで取引は完了です、ありがとうございました」

 それから暫く出されたお茶を飲みながらの世間話となった。やはり東方の貿易路が気になるようだ。

「うーん、まあまた手には入ったらここに売りに来るよ」
「ぜひ、そうお願いします。すぐに話が通るように店員には徹底しておきますので。よろしければお客様のお名前をお教え下さい」
「ガンダーラって呼んでくれ」

ウォルフは取りあえず偽名を名乗っておいたが、この業界では名を隠して取引することは普通にあることなので店員も気にした風はなかった。

「では、ミスタ・ガンダーラ、御用向きの際は是非また当店をご利用下さいますよう」
「うん、色々と勉強になったよ、ありがとう」

 早速ギルドへと行って手形を一枚換金し、アンネの実家へと戻った。
サラと色々話をし勉強を見てあげたが、いきなり大金を手に入れてしまったウォルフは少し上の空になっていて変な顔をされた。

「ウォルフ、どこ行ってたんだよ。お前がいないからティティの相手を一人でずっとやってたんだぞ」
「うーんと、金策。別にいいじゃん、ティティも兄さんに懐いてるんだし」
「オレはロリじゃねえ。あんなに小さい子の相手は気を使うんだよ!お前のが年が近いんだからお前が相手しろよ」
「そんな事言ってると将来子供が出来たときに苦労するよ?子供の世話をしなかった男性程奥さんに逃げられる率が高いって統計結果が出てた。マチ姉は世話好きだけど、子供の相手を全くしない旦那は嫌いだと思う」
「マ、マ、マチルダ様は関係ないだろう!いいよ、わかったよ!もう言わねーよ!」

「ウォルフ、何を読んでおるのだ?」
「あ、お爺様、"バルベルデの実用・風魔法"です」
「バルベルデというと、あれか、五十を過ぎてスクウェアになったと話題になった学者か」
「はい、遅咲きのメイジらしい実践的な研究がとても参考になります」
「ふむ、しかし彼はスクウェアとしては最低レベルであったと聞いている。それよりはワシはまだ読んでないが、先頃出版されたオルレアン公の著書のほうが勉強になるのではないか?」
「"風魔法総論"ですね?あれはエッセイというか、日記というか・・・彼が感覚で得た物を感覚で書いているので本人以外には全く参考にならない本だと思います」
「そ、そうか。常人には理解出来ない高度な内容の名著だと評判だったんだが・・・」
「オルレアン公は実務者であって研究者ではないのでしょう。オルレアン公をバルベルデ卿に研究させたらすばらしい論文が出来ると思います」
「バルベルデはとうに亡くなっておるよ。それほど気に入ったか」
「はい!特にここの所の、彼が『遍在』を成功させるに至った"分割思考"の研究のくだりなどは今すぐ試してみたいです」
「それ程気に入ったのなら持って帰るが良い。ここにあるよりも役に立つことだろう」
「ありがとうございます!」

「ウォルフ兄様ー、またおはなししてー」

ダイヤを売って大金を得たが、それ以外はいつもと変わらないヤカの一日だった。










1-13    ラグドリアン湖の休日



――― 翌日 ―――

 いよいよ明日ド・モルガン一家が出発するという朝、食卓は緊迫感に包まれていた。
クリフォード・ウォルフ・ティティアナの三人は席を外させられていてここにはいない。
レアンドロは小さくなって俯いていてその妻セシリータは声を殺して泣き続けている。重苦しい雰囲気が辺りを支配する中フアンが口を開く。

「エルビラ、レアンドロから聞いた。以前この城に勤めていたメイドをこやつが妊ませ捨てたと言うが、確かか?」
「お兄様がそう言うのならば、そうなのでしょう」
「お前はそれを知りながら当主であるワシに黙っていた。なぜだ?」
「私はもうラ・クルスの人間ではありませんので、そのような義務を負いません」
「お前はラ・クルスの嫡男に財産目当ての女が取り入ろうとしてもワシに知らせるつもりはないというのか!その娘が真実レアンドロの娘ならば妾腹とはいえ、法的に相続権が発生するんだぞ!」

アンネがメイジであることも良くなかった。悪意を持った貴族がアンネを養子にし、サラをラ・クルスの長女であるとして相続を主張する、と言うことも考えられないことではないのだ。
政争が盛んなガリアにおいて、そのような隙を作ることは厳に慎まねばならないことだった。

「アンネはそのような者ではありません。取り入ろうとしたのではなく、ただ強姦されたのです。身重の体で放り出され、過酷な長旅の末私の所にたどり着いたときには死にかけていました。私にはラ・クルスが殺そうとしたのではないかとさえ思えましたので、黙って匿うことにしました」
「・・・・その女をここへ連れてこい。ワシが直接会って見極めてやろう」
「お断りします」
「なぜだ!その為にヤカまで連れてきたのではないのか!」
「違います。一緒に来たのはアンネ達を家族に会わせるためと、ラグドリアン湖に一緒に遊びに行くためです。お兄様にアンネと会うための条件は話してあります、お父様もお聞きになりましたか?」
「聞いた。ワシに、平民のメイドに、謝りに行けとでも言うのか?」
「別にラ・クルスの当主ならば誰でも構いませんが」

エルビラの言葉を聞いた瞬間、フアンは立ち上がり俯いたままのレアンドロを指さして怒鳴った。

「こんな馬鹿に、今、当主の座を任せられるわけが無いだろう!!」
「でしたら放っておいて下さい。ラ・クルスの当主でもない馬鹿の謝罪だけを受けても意味はないのです」

なんかもうレアンドロは泣き出しちゃっているが、エルビラは構わず続ける。

「責任を果たさないというのならば黙っていて下さい。アンネもサラもド・モルガン家の者として幸せに暮らしています」

フアンはその言葉に暫くエルビラを睨んでいたが、やがて踵を返すと部屋を出て行ってしまった。
エルビラは軽くため息を吐くと泣いているレアンドロを眺めた。

思えば良く泣く兄だった。今まで様々な場面で泣いていた兄を思い出し、しかたなく慰める言葉をかけた。

「お兄様、もう気にしないで下さい。彼女達の為にお兄様が出来ることは何もないのです。」
「で、でも、僕は父親なのに・・・」
「・・・私はお父様が理由を付けてアンネ達親娘を幽閉してしまうことを恐れています。ですから、気軽に会わせるわけにはいかないのです」
「そ、そんな・・・・」

そんなことを微塵も考えなかったらしい兄に改めてため息を吐くと、何も言葉を発しない義姉セシリータにも慰めの言葉をかけ、ニコラスを促して席を立った。


 居室に戻る廊下で交わされた会話

「なあ、お義兄さんって、何歳だったっけ」
「三十九よ」
「・・・・・」 


 一方、席を外させられた子供達三人は街へと出かけてきていた。
ティティアナにねだられて仕方なく願い出てみたのだが、案外すんなりと許可が下りてしまい驚いたくらいであった。
バザールを巡ったり甘味処で休憩したりと、ヤカでの最後の一日を小さい従姉妹とともに楽しんだ。

 夜が明けて翌日、別れの場面は混沌としていた。
ニコラスがアンネ達を迎えに行くために、先に出発していたのが救いだったくらいだ。
フアンとエルビラは睨み合ったまま一言も言葉を交わさないし、レアンドロ夫妻はどんよりと暗い。
ティティアナは行くなと泣くし、唯一まともな祖母のマリアがウォルフ達に声をかけた。

「エルビラ、あなたはもうラ・クルスの人間ではないと言いましたが、あなたは死ぬまでこの私とフアンの娘です。それだけは忘れないで、時々帰ってきて下さい」
「はい、お母様。今回は騒がしくなってしまい申し訳ありませんでした」

「クリフ、あなたがニコラスとエルビラの長男なのです。ちゃんと両親を助け、弟の面倒を見なくてはなりませんよ。また来て下さいね?」
「はい、お婆さまもお元気で」

「ウォルフ、フアンが色々言っていましたけれど、子供の頃は色々なことに興味を持って試してみるのも大事なことです。おそれず、試してみなさい。また会えるのを楽しみにしています」
「はい、お婆さま、また来ます」

子供達を馬車に乗せ、最後にエルビラが乗り込む瞬間、フアンが口を開いた。

「また、来年だな」

エルビラは目だけで応えると馬車を出発させた。

 途中ニコラスとアンネ親子と合流し、馬車は一路北東のオルレアン公領を目指す。
サラは合流してから終始ご機嫌で、ウォルフの世話をあれこれと焼きながら嬉しそうにしていた。
考えてみればウォルフが生まれて以来、同じ屋根の下で寝なかったことが今回初めてなのだ。
ウォルフが大量の金貨を積み込んだ上におみやげをいくつも買ったので馬車は大分重くなってしまい、ゆっくりとした速度でガリア国内を移動した。
せっかくだからと彼方此方観光しつつ、それでもヤカを出て三日目の昼過ぎにはオルレアン公領のラグドリアン湖畔に着いた。

 ここで三泊程遊んだ後サウスゴータへと帰る予定だが、ウォルフは今回こそ水の精霊を見つけようと張り切っていた。
前回はまだ全然魔法がうまく使えていなかったが、今ならかなり発見出来る可能性が高いのではないかと思っている。
ウォルフの推測では人間が炭素をベースにした生命体ならば、精霊は魔力素を元にした生命体であると言え、魔力素が自意識を持つ程大量に、濃密に集まっている存在が精霊なのだと推測していた。
どんな存在なのか、それを是非観察したいのだ。

「う゛あーっやっと着いたー」

宿に着くなりベッドに倒れ込みうつぶせになってひとしきり呻る。
横を見るとクリフォードも全く同じ行動を取っていた。

「馬車三日間はやっぱきっついなー」
「たしかに。なんか昼なのにもう寝ちゃいそうだよ・・」
「うんうん、このベッド寝心地いいな」

今回一行が泊まるのは貴族用のそこそこ良いホテルだった。泊まる日数が少ないし、たまには良いだろうということでニコラスが奮発したのだ。
全室ラグドリアン湖に面しており眺めが良く、自家用の桟橋まであるのだ。
そこに3ベッドルームのコネクティングルームを予約していた。

「あー、ウォルフ様もクリフォード様も支度してない!すぐに泳ぎに行くって言ったでしょう!」
「サラ、馬車みたいな狭い場所に長時間動かないでいた時は、じっくりと体をほぐしてから運動した方が良いんだよ」
「ウォルフ様しょっちゅうあちこち飛んで行ってたじゃない。十分ほぐれてるよ」
「今暫し!今暫しこのベッドの安らぎを・・・」
「いいからさっさと着替える!」
「わー、わかったわかった」

すでに水着に着替えた準備万全のサラに、パンツを半分ズリ降ろされ諦めて着替える。ちなみにクリフォードはサラが来た段階で着替え始めていた。
ホテルの前の浜辺に出て準備運動をしていると大人達も遅れてやってきた。
エルビラもアンネもスタイルは抜群なので、二人の水着美女に挟まれニコラスの目尻は下がりっぱなしである。
水着は腿の半ばまであるようなクラシックなスタイルであったがそれが彼女らの魅力を減じることはなかった。
湖水浴をしている他の客からもチラチラと視線が送られ、アンネはちょっと恥ずかしそうにしていた。

「ウォルフ様、なにしてんの?」

 ピコピコと何かを一所懸命踏んでいるウォルフにサラが尋ねる。

「ふっふっふ、ウォルフ様開発のレジャー用品第一弾!"水竜くん"だ!」

ビニールの接着は大変だったし、吸気口や足踏みポンプなどの開発にも案外時間が掛かった。
完成型は頭にあるのに、最適な素材を選定するだけでも結構多変なのだ。
しかし、苦労した甲斐があって完成した物は中々の出来で、子供が二人乗ってもびくともせずに水に浮き、更に紐を付けて引っ張ることも可能という代物だった。
やがて膨らんだそれを頭上に掲げて湖に突進する。
サラも最初は興味なさげにしていたが、やがて夢中になって上ったり落ちたりして遊んだ。

「じゃあサラ、しっかりヒレに掴まって。オレがフライで引っ張るから」
「うん!よし、いーよ」
「行くぜ!『フライ』!」
「きゃーっ!!!」

水面すれすれを結構なスピードで飛ぶ。"水竜くん"は『強化』してあるからかなり丈夫だ。
波で結構バウンドしていてその度に落ちそうになるが、サラは必死にしがみついていた。
サラが何か叫んでいるので止まってみたらなんか怒っていた。少し飛ばしすぎたようだ。
ゆっくり岸に戻って今度はウォルフも乗ってみたかったが、サラもクリフォードもそんなに早くは飛べないのでニコラスに頼むことにした。

「父さん、今度はオレと兄さんで乗るから父さん引っ張って!」
「おう!まかせとけ!かっ飛ばしてやるぜ」
「と、父さんそんなに頑張らなくても良いからね?」
「今のウォルフのスピード見てたら燃えてきた!風メイジの意地を見せちゃる!」

すでに大分まわりの子供達の視線が痛くなっているが、今は無視して"水竜くん"にクリフォードと二人で乗る。

「いくぜ!これが風のトライアングルの『フライ』だ!《フライ》!」
「「うおおおおおおおおおぉぉ」」

「うりゃあ!旋回!」
「「うおおおおおおおおおぉぉ」」

「これが!俺の!全力全開!」
「「うおおおおおおおおおぉぉ」」

多分時速で百リーグ位は出ていた。
旋回までは楽しかったが、後はもう必死にしがみついているだけになってしまった。
何とか耐えきって岸まで戻ってくると、ニコラスはこちらをずっと見ていた子供達に囲まれた。

「おじさん!ぼくものせて?」
「ぼくもぼくも!」
「あたしもー」
「うわー、何じゃあー」

子供達は我先にとニコラスにまとわりついてくる。

「あー分かった、分かったから順番に、な?」

ニコラスは二十人程いた子供を全員乗せるまで、ひたすら『フライ』を唱え続けることになった。

「あれ親からお金取ったら結構儲かりそうだなあ」
「あら、こんなところで商売ですか?ウォルフ」
「商売の種ってのはどんなとこに落ちているか分からないもんなんだよ、母さん」


 サラとクリフォードは良い感じにぐったりして休憩してるし、エルビラとアンネはおしゃべりに夢中だ。
ちょっと一人暇になってしまったので、ウォルフはラグドリアン湖の水を『ディテクトマジック』で精査してみることにした。
すると驚愕の事実が判明した。
ここの水の水分子内の電子の一部が、魔力子に置き換わっている。
こんなことが『ディテクトマジック』でぱっと分かったわけではないが、受ける違和感を検証していくとそういうことであろうと結論した。
こんな水を飲んでも大丈夫なのかと不安になるが、ここらの人は六千年も飲んでるわけだから問題ないのだろうと思うことにした。
これは通常の魔力素などの在り方とは全く異なる物で、通常はただ単にそこらに在るだけだし、何らかの意志を受けていてもせいぜい原子と原子の間や物質の外側にへばりついている位だ。
例外は魔法金属と呼ばれるオリハルコンやミスリルで、これらの金属は元は普通の白金や銀なのだが、これも原子の内部の電子軌道に魔力子が存在していることが分かっている。
これだけ膨大な水が魔法的にはミスリルなどと同等なのだ。そりゃ精霊も生まれそうである。
いきなり水の精霊の秘密に近づけてしまった感があるが、もっと調査が必要だろう。
それと、やはり水の精霊自身を調べてみたい。
ここの水のように通常の物質の一部が置き換わった物で構成されているのか、それともやはり魔力素だけで構成されているのか。
そんなことを考えながら手早く『練金』で小瓶を二十個ほど作る。コルクの蓋付きだ。

「サラ!サラ、手伝ってくれ!湖の水を採取に行くぞ!」
「ふえ?・・・・は、はい!」

小瓶を詰めた袋を担ぐと『フライ』で飛び立つ。
サラに手伝わせながら、人の居ない入り江、湖から河となって流れ出る地点、森が迫る岬、と水を採取していく。表層と深い場所の二ヶ所ずつだ。
一つ一つコルクに場所を記入しながら移動していき、そして最後に湖の最も深いと思われる場所に来た。
サラに二人とも『レビテーション』をかけて貰い、紐を付けて錘を巻いた瓶を沈め、やはり紐を付けたコルクの蓋を抜いて瓶を引き上げる。
引き上げるときの力で簡易的に蓋がされるように紐に取り付けてあるので、ほぼ表層の水と混ざることはない。
ここはかなり深いようで、深さ百メイル地点、二百メイル地点と採取していき、三百メイル地点に取りかかったときにそれは現れた。

「何をしている。単なるものよ」

気がつくと二人の前方の湖面にうねうねとうごめく水球が出現していた。
思わず呆然と見つめてしまう。まさに未知との遭遇である。

「お前達が先程から私の一部を汲んでいたのは知っている。もう一度聞く。何をしている。単なるものよ」
「み、水を汲んでおります、・・・精霊・・様」

何とか返答する。水球は喋るときだけ人間の頭のように変化した。
ウォルフは精霊が発する濃密な魔力の気配に圧倒されていたし、サラはただひたすら硬直していた。

「何のために我のいる場所へ近づく。我はそのようなことを許した覚えはない」
「えーっと、すみません調べるためです。先程魔法を使いまして、この湖の水が普通の水とは違うことに気付きました。それでどのように違うのかをあちこちの水を採取して調べようと思ったのです」
「ここは我の住まう地、他と違うは当然。調べてどうするるのだ、単なるものよ」
「知ることが出来ます。私はこの世界がどのように生まれ、存在しているのかを知りたいと考えてきました」
「お前達は生まれては死に、ほんの短い時しかこの世界にいることはない。知れることなど僅かであろう」
「私が知ったことは私の子供に伝えることが出来ます。あなたが長い時を一人で生きているというのなら、我々は大勢で生きていると言えます。水の一滴一滴が僅かでも多くが集まればこのラグドリアン湖のようになるように、例え僅かでも知りたいと思うのです。精霊様、お願いがあります」
「なんだ、申してみよ」
「精霊様を魔法で"見る"事を許して欲しいのです。精霊様がどのように"在る"存在なのかを知りたいのです」
「愚かな・・・単なるものの分際で我を量ろうというのか。よい、できるものならばやってみるが良い」

精霊が不穏なことを言いサラが掴む腕に力が加わるが気にせず魔法をかけた。

「ありがとうございます!では早速・・・《ディテクトマジック》!」

 それは膨大な魔力の固まりで、その存在の初めから永久にも近い時をこのラグドリアン湖で過ごしてきたものだった。もしウォルフが"精霊とはどんな存在なのか"などということを直接魔法で知ろうとしていたら、その情報量に正気を保てず気が触れていたかも知れない。
しかし、今は原子の構造を知ろうと極狭い範囲に極めて精細な魔法をかけたので、無事に調べることが出来た。
その結果解ったことは水の精霊は魔力素だけで出来て、さらにそれが通常の物質の様な形態を取っている、ということだった。
陽子も中性子も電子も全て通常物質と同じようにあり、それら全てが魔力素が変化したもので水分子を形成していた。
なぜそれが自意識を持つ様になっているのかは分からなかったが、それを考える入り口には立てた様な気がした。

「うおー!すっごいですね!精霊様、ありがとうございます」
「?・・・何ともないのか?」
「はい!おかげさまで多くのことを"知る"事が出来ました」
「・・・・・・」
「水の精霊様は純粋な魔力で構成されています。我々のように通常の元素を体にしている生命体とは根本的に違うと言えますね。形態としてはただ液体と言うことではなく水(H2O)の形になっています。土や風、火の精霊は一体どのようになっているのでしょうか、知りたいです」
「・・・お前のような単なるものもいるのか」

これまでに水の精霊に魔法をかけてきた人間は攻撃してくる者か、その力を手に入れようと近づいてくる者しかいなかった。
ウォルフのようにただ知識を得ようと近づいてくる人間は、精霊の長い時間の中でも初めてだった。

「本当にありがとうございました。そろそろ親が心配していると思うんで帰ります。よろしいですか?」
「・・・ちょっと待て、これを・・」

水精霊から水が飛び、まだ空だった二つの瓶を満たした。

「ここの底の水と我の一部だ、持って帰るが良い」
「えっ水精霊の一部って水の秘薬のことじゃないですか!いいんですか?」
「代わりにお前の体を流れる水を水面に落とすがいい。我はお前を覚えるとしよう」
「うわー本当ですか、はい、ただいま」

急いで瓶の蓋を閉めると『練金』でナイフの先を作り指の腹を切った。
血は玉を作りやがて湖面に滴った。

「これで我はお前を覚えた。単なるものよ、我はお前の呼びかけに応えることにしよう」
「ありがとうございます。それと私の名前はウォルフです。一緒に覚えてくれたら嬉しいです」
「我にはそのような概念はない・・・・"ウォルフ"よ・・・・これでいいのか」
「はい!また会いに来ます。今日はこれで失礼します」
「我ももう戻るとしよう・・・・・"ウォルフ"よ」

そういうと水の精霊は湖面に消えて行き、後には静かな湖水が残るだけだった。

「いやー水の精霊に会えるなんてラッキーだったね、サラ。ってうわあっ《レビテーション》!」

 ずっと『レビテーション』をかけたままだったサラが急に緊張が解けたため一緒に魔法が解けてしまったのだ。
慌ててサラを抱き止め顔をのぞき込むと泣きそうな顔をしている。

「ふえー怖かったあああ」
「別に知性がある相手なんだし、ずっと人間と共存してきた存在なんだからいきなり子供相手に攻撃してこないと思うんだけど」
「そういうことを言っているんじゃありません!なんでウォルフ様は水の精霊なんかと普通にしゃべれるんですか?」
「知性のある相手に敬意を払うのは当然のことだよ。相手のことをよく知らないからと言って恐れたり逆に攻撃したりするのは野蛮なことだ」

湖の上を『フライ』で移動しているとサラは文句を言ってくるが、ここはまだラグドリアン湖の上なんだからあんまり失礼になることを口走らないように、と注意するとまた怖くなったのか黙った。
元いた湖岸まで戻ると、案の定エルビラとアンネが怒っていた。
ニコラスはその横に疲労困憊で死んだように倒れ込んでいる。
ちなみにこの日以降ニコラスがどうしてもいやがったため"水竜くん"が湖に出ることはなかった。

「ウォールフッ!勝手にいなくなるんじゃない!」
「すみません、お母様。湖の水を色々採取していたら水の精霊に出会ってしまい、すぐには帰って来られなかったのです」
「み、水の精霊ですって?」

エルビラ達の顔色が変わる。水の精霊はその強大な力でここハルケギニアでは敬われてもいるが同時に恐れられてもいるのだ。
しかしウォルフにとっては『ディテクトマジック』をかけさせてくれた上に水の秘薬をくれた、気前の良い精霊だった。

「はい、ずいぶんと気の良い精霊でした」
「気の良いって・・・無事だったんですね?」
「全然大丈夫ですって、ほら、帰り際に水の秘薬までくれました。気前が良いでしょ」

ウォルフは近所のおじさんにお菓子でも貰ったかの様に言う。
水の精霊が気が良いなどと中々信じがたいエルビラであったが、確かにそこには小瓶いっぱいに水の秘薬が入っていた。

「はあ、無事だったのならもう良いです。宿に戻りましょう」




1-14    帰還



 ラグドリアン湖での楽しい休暇も終わり、アルビオンへ立つ日になった。

 ウォルフが二十近くある湖の水が入った瓶を全部持って帰ると言ったためニコラスと喧嘩になったが、より小さい瓶に移し替えることでお互い妥協した。
全ての荷物を纏め、桟橋から船に乗る。ここから対岸のトリステインまでは優雅な船旅だ。
対岸に着いて馬車を仕立て直し、ラグドリアン湖に別れを告げる。
ウォルフが「バイバイ、またね精霊様」と告げると湖面が震えて応えたような気がした。
ここからは昨年と同じ旅程で、ラ・ロシェールからロサイス、そしてサウスゴータへの道だ。
ラ・ロシェールまででの途中で一泊、さらに船中で一泊そしていよいよサウスゴータのド・モルガン邸に到着した。
出発から実に二十日あまりが経っていた。


「いやー、やっぱり我が家が一番落ち着くなあ」
「あらあなた、そんなことを言うんでしたら、もう出かけるのはやめにしますか?」
「いやいや、出かけたからこそ、そう思うんだって」

出迎えた使用人達に荷物を降ろさせながらみんな上機嫌だった。
ウォルフは自分で荷物を方舟に運び込むために仕分けをして降ろしていた。
出かける時は一番少ない荷物だったのに、ヤカで購入した魔法道具、フアンに譲ってもらったりヤカの書店で購入した書籍類、八千エキューの金貨、ラグドリアン湖の水、途中で拾った石、道々で購入した珍しいおみやげ、といつの間にか一番の大荷物になってしまっていたのだ。
それらをサラと手分けして『レビテーション』で浮かせ、方舟へと向かった。

「暑っ!」

 方舟に入った第一声がこれだった。旅行前に作っておいた換気システムは快調に作動しなかったみたいである。
温度計を見ると三十度を超えていて、早急な改良が必要だった。
バッテリーをチェックしてみたが放電しきっているみたいでもうダメになっていた。
過充電になって電解液を電気分解してたらいやだと思ってバッテリーだけは屋上に専用の部屋を作って隔離していたが、そんな心配は必要ないほどだ。
これではダイオードと抵抗だけの簡単な充電器がうまくいったのかも分からない。

「ウォルフ様、冷房、ダメだったの?」
「発電機がうまく動かなかったみたいだな、明日直すよ」
「今日はもう疲れたからね。お風呂入りに行こう!」
「おう!母さんもう沸かしているかなぁ」

取りあえず荷物を棚に入れて雨水タンクだけはチェックし、空になっていることを確認すると二人で母屋に向かい、中庭の風呂の前まで来るとちょうどエルビラが魔法で風呂を焚いているところだった。

「母さん、もうお風呂入れる?」
「ええ、もう沸くわ。入る?」
「うん、サラ行こ」

 この風呂もウォルフが今年になってから作ったもので家族の評判がすこぶる良いものだった。
直径二メイル程の大きめの五右衛門風呂で、チタン製なので肌当たりが柔らかく、熱伝導率の悪さから底を熱しても縁までは熱くならないため寄りかかって入れるのだ。
いつもは昼間の内にアンネとサラが水を張っておき、外から帰ってきたエルビラが家に入る前に魔法で沸かすのだが、これがエルビラの良いストレス解消になっているようだった。
城で何かあったときは高笑いしながら釜に炎を打ち込んでるエルビラが見られ、そのようなときは風呂の湯を冷ますのに苦労する。
逆に風呂が用意してなくて風呂釜の扉が閉まっていたりすると不機嫌になるくらいである。

「お客さん、かゆい所はございませんかー?」
「ふわぁ・・・きもちいいでーす」

ウォルフはサラの髪の毛を洗ってあげていた。サラはどうも洗うのが下手なので最近では二人で入るときはウォルフが洗うことにしている。
ここで使っているシャンプーもウォルフ製で、オリーブオイルから作り重曹を加えている。これにクエン酸のリンスで仕上げる事によってツヤツヤでさらさらとした髪になり、最近ド・モルガンの女達の髪が評判になってきていた。

「あらサラ、洗ってもらっているの?いいわね」
「えへへ・・」

さてシャンプーを流そう、という時エルビラが入ってきた。
二人の横を通るとしゃがみこみザバーっとかけ湯をしている。ウォルフのおかげでド・モルガン家では完全に日本式の入浴スタイルになっていた。

「母さんも洗ってあげようかー?オレ結構うまいんだよ」
「あら、いいの?嬉しいわー」

洗面器にリンスを張りサラの頭を突っ込んで仕上げながら声をかける。
エルビラは自分の体を洗っていたが、ウォルフが流し終わったタイミングで手を伸ばして抱きしめた。

「ウォルフはホントに良い子ねぇ可愛いわー」
「わー母さん、待ってすべるこける!」
「体はもう洗い終わったの?」
「まだだけど」
「じゃあ一緒に洗ってあげるわ。サラもこっち来なさい」

 その後三人で洗ったり洗われたりした後仲良く浴槽につかった。
胸から上を湯の上に出して頬を上気させているエルビラを眺め前世だったら生唾もんだよなと思う。
サラはともかくエルビラはウエストはキュッと細いのに胸と腰はバーンとしてて手足はスラリと長く小顔の絶世の美女で、そんなのと全裸混浴しているのである。
それなのにウォルフは心から寛いでいる。
ウォルフはこの事を幼児の被保護者としての本能が、保護者とのより親密な関係に安心しているのではないかと考察していた。
確かにエルビラともアンネともいつも一緒に風呂に入っているのでその裸は見慣れていて自分の裸と大差ないくらいだし、まだ性欲など欠片もない年齢であるのは確かだ。
しかしそんなことは関係ないくらい一緒にいると安心するのだ。
ウォルフの人格を形成しているものが前世の人格だけではなく、現世での肉体の影響を強く受けている証拠といえる。
まあ、エルビラもアンネも全く恥ずかしがらないので萌えない、という事も言えるが。

「商人になりたいって言うのは本気なの?ニコラが嘆いていたわ」
「・・・貴族をやめるかは別だけど、商売はするよ。サラを代表にして商会を作るつもり」
「ふえっ?わたし?」
「そう、やめたいってわけじゃないのね?」
「うん、だけど・・・」
「何かあるの?」

珍しくウォルフが言い淀む。しばし躊躇した後続けた。

「オレは、貴族として王家に忠誠を誓うことが出来ないような気がするんだよね」
「・・・忠誠を誓えない?」
「うん、忠誠も誓わず貴族でいるわけにはいかないだろ?」
「・・・ガリアなら良いのですか?」
「同じだよ。せめてゲルマニアのように利害関係で結ばれた主従関係なら良いんだけど」

エルビラにはその違いがよく分からなかったが、ウォルフにとっては全く違う国家体制だった。
アルビオンではブリミルの血筋の事もあり文字通りの主従関係と言えたが、ゲルマニアの皇帝は所詮諸侯の代表に過ぎないと言え、上司ではあっても己の全てをかけて忠誠を誓うような主君ではないように思える。
ブリミルの魔法は確かに凄いけど、己の全てを懸けて忠誠を誓えるかというと、ウォルフはそれは無理としか答えられないと思った。メンタリティーは依然として前世のものを引きずっているのだ。

「そんなに違うものでしょうか。ゲルマニアでいいのならアルビオンやガリアでも良いのでは?」
「違うね。ゲルマニアでは利さえ与えればオレのような者が臣下になっても問題ないだろうけど、アルビオンやガリアではそうはいかないよ」
「あなたのどこに問題があるというのです!あなたは私達の自慢の息子なのですよ?」
「ごめんね、母さん。だけど、オレは王家のために命をかける気にはなれない。貴族の責務を果たさない者は貴族でいるべきではないと思うんだ」
「それで、商人ですか・・・」
「特別、商人をやりたいというわけではないんだけど、やりたいことをやるための生活の基盤というか・・・」
「やりたいこと?」
「・・・冒険に行きたい。ハルケギニアはもとより、サハラから聖地、果てはロバ・アル・カリイエさらにその先まで。行ったことのない世界、誰も見たことのない世界を見たい、知りたいんだ」
「・・・それがあなたのやりたい事、ですか」
「うん。今はその為の力を蓄えている、と考えている。そして貴族であることは・・・」
「その為には必要なことではない、ですか」

ふーと大きく息を吐いて湯から上がり、湯船に腰掛ける。色白の体は全身がピンクに染まっていた。
ウォルフも続いて立ち上がり、腰掛けようとしてエルビラに抱き上げられた。

「あなたにやりたいことがあるのなら、それでいいのです」
「・・・・・」

ウォルフはエルビラの胸に埋もれて窒息しかけていた。


 その夜寝室で本を読んでいたウォルフをニコラスが訪ねていた。

「じゃあ、本当に俺が男爵だってのは関係ないんだな?」
「だから関係ないっていってんじゃないか。どっちかって言うと良かったくらいだよ、公爵家の長男とかだったらマジごめんなさいって感じだろ?」
「公爵家の長男だったとしても貴族やめるかも知れないってのか・・・」
「あんまり意味はないんだよ、オレにとって」
「意味ないって・・・」

事もなげに言うウォルフに絶句する。
自分の息子が普通とは違うと思ってはいたものの、ここまで感性が隔絶しているとは想像も出来なかった。

「でもほら、俺が公爵様とかだったらお前のやりたいこととやらも楽に出来るじゃないか」
「それだけの地位には見合った責任があるだろ?オレはそんなのには縛られたくないし、そもそも不労所得なんてこの世で最も価値のない収入だ」
「不労所得?相続財産のことか?」
「そう、何も労せずに、対価を払わずに得た収入のことだ。そんなものの量を自慢する人は多いけどそんなのにどう対応したらいいのかさえも分からないね。お父さんから先祖代々の領土をたくさん貰いましたって言われても、ふーん、良かったね、としか言えないよ。」
「でも領土はそれを手に入れてから経営することによって責任を果たしていくものじゃないか」
「それは新しく入手した人もおなじだよ。持っているものに対する責任であって収入の対価ではない。相続によって固定化された社会には活力が無くなるんだよ。オレはそんなのに価値はないって言っているんだ」
「爵位に意味など無いというのか・・・」
「父さんが母さんのために努力して爵位を得たことは知っているし、尊敬もしている。母さんも誇りに思っているのに自分で卑下しないで欲しい。オレが意味ないと言っているのは相続した財産の大小だよ」
「・・・・・」
「オレはオレの人生を生きるつもりだよ。大変かも知れないけどそれに必要な全ては父さんと母さんから貰えたと思っている。だから父さんも父さんの人生を生きればいいと思う。"俺は君を守るために生まれて来たんだ"だっけ?母さんの口説き文句」
「わー!何言うんだ、お前!・・・」

どこのライオンハートだよ、と続けようとするウォルフを遮り、あらためてウォルフを眺める。
本当に訳の分からない子供だと思う。
生まれたときは普通の赤ん坊のようだったと記憶している。それが手の掛からない賢い赤ん坊になり、やがて喋り始めると手に負えなくなった。
まあ、賢い、賢すぎる。無理矢理文字を教えさせると家中の本を読み漁り、家人を捕まえては質問攻めにする。
一歳の頃から年上のサラを妹扱いして面倒をよく見るようになり、読み書きや計算などサラの教育は全てウォルフが行っている。
魔法を覚えれば天才級でいきなりラインメイジになり、トライアングルになるのも間もないと思われる。教師であるカールも理解出来ない魔法理論で魔法を行使しているという。
それでいて天狗になるようなこともなく本人は淡々としたもので、ウォルフのことを避けていた兄ともいつの間にか仲良くなっていた。
この子がどのような大人になるのか、ニコラスは想像が出来なかった。

「はあ、分かったよ。お前はお前の生き方しかできないというんだな」
「うん、無理。・・・本当はね、子供のうちは普通の子供の振りをしようかなって思ったこともあったんだよ」

ウォルフが少し悲しそうな顔で言う。ニコラスは我が子のそんな表情を初めて見た気がした。

「最初はみんなオレみたいに生まれてくるのかと思ったんだけど、サラとか兄さんとか見てたら違うらしいって分かってきて」
「あ、ああ、確かにお前はほんのちょっと普通の赤ん坊とは違っていたな」
「演技すべきかなって考えたんだ。父さんや母さんに嫌われないように、十二歳位までは普通っぽくね、ちょっと変わった子供って言われる位には隠せるかなって考えたんだけど、無理だった」
「演技ってお前・・・」
「そんな演技をしながら十年以上も過ごすことを考えたら気持ち悪くて吐きそうになっちゃったよ」

ニコラスは絶句した。ブリミル様に愛され、唯我独尊そのものといった感じであるウォルフの、想像もしなかった孤独。
確かに、こんな子供を許容出来る親ばかりではないかも知れないと思い当たり戦慄する。この子はもっと幼い頃からその事実と向き合っていたのだ。

「そんなことは考えなくて良い。俺達家族がいる、お前は一人じゃないんだ」
「うん・・・ありがとう。・・・オレはオレがこんな風に生まれたことには意味があるって信じている。だからオレの心に従って生きようって決めたんだ。出世に血道を上げるのも、大貴族に婿入りするのも他人の評価を気にしながら生きることだろうから、オレにはそんな生き方は出来ないんだ」
「ふー・・・確かにそんなウォルフは想像も出来ないかな。・・・でも、これは覚えておいて欲しいんだが、お前の考え方はハルケギニアでは危険すぎると思う。よそでは公言しないで欲しい」
「ブリミル様の作ったこの世界が、そのままに続くことがブリミル教の正義だからね。他ではこんな事言えないよ」
「うん、分かっているなら良いんだ・・・」

まだ五歳でしかない息子に、もうしてあげられる事が殆ど無くなってしまったことに気付いて少し寂しかった。
自分の力不足かと嘆いてみたが、そうではなかった。ウォルフはもう精神的には大人なのだろう。
ならば自分の出来ることは離れて見守り、時にアドバイスを送ることぐらいだ。

「少し寂しいけどな、俺も子離れするよ。お前もお前のすることには自分で責任を取るつもりで、あー、でも未成年の内は結局こっちにツケが回ってくるんだから、大人しめにな」
「ははっ・・・まあ、迷惑が掛からないようにすることを第一に考えるよ」

よろしく頼むよ、と伝えるとニコラスは部屋を出て行った。





1-15    一年



 翌日、とりあえずバッテリーの電解液と電極を『練金』でリフレッシュして換気扇を回す。
雨水発電はどうも発電量が全然足りなそうなので他の方法を探す事にした。
いくつも考えた中で一番ウォルフ自身が楽そうなのはエルビラの火力を使った蒸気タービン発電だった。まあすぐには出来ないだろうが風呂場の隣にスペースを確保し、こつこつと作っていくことにする。ニコラスには新型の給湯装置だと説明し許可を得た。実際に貯湯槽も作るつもりではある。
あんな天然でハイカロリーな熱源が身近にいるのである。使わない手はない。
蒸気タービンが出来るのはずっと先だろうから当面の対策として四階の雨水タンクを拡大し、地下にも雨水タンクを作った。毎晩魔法で下から上へと水を移動させようという発想だ。
降水量の少なさを補って発電機がうまく作動するのかを知りたかったし、水の魔法はまだ不得意なので扱いに慣れたかった。
充電の管理についてはボルテージレギュレータを開発する事にしてリレーで行う方式やトランジスタの研究にも手をつけた。

 空調システムの改良にはガリアで買ってきた品が役に立った。
魔法温度計―ガリアでは一般的な温度計で、土石を動力に組み込んだ魔法人形が温度を指し示すというものである。
買ってきたこれを二体使用し、外気温と内気温に応じて地下からと外気からとに吸気口を切り替えるシステムを作った。
回転式のシャッターを魔法人形に操作させ、外気温が十五度以下ならば地下経由の空気それ以上は外気、という第一のシャッターを設置する。それに加えて内気温が二十五度以上ならば地下空気、それ以下ならば第一シャッター経由の空気という第二のシャッターを設置し、冬暖かく夏は涼しい地下の空気を利用することによって常に室内が快適な温度になるようにした。
排気を第一シャッター経由の吸気と熱交換をさせているので、これに冬期は暖房を組み合わせれば完璧である。
運転を開始してみると今の時期だと昼間は地下空気を頻繁に使用して冷却し、夜になると外気との換気で常に新鮮な空気が室内を緩やかに流れ方舟内は実に快適な空間になった。
将来的には電子制御にしたいが、今はこれで満足である。




「いやあ、ここは涼しいねぇ。うちにも作ろうかな」

最近ウォルフの方舟が涼しいのでよく来るようになったマチルダが少し離れた机で作業をしているウォルフに話し掛けた。自分はソファーでお菓子を食べながらである。
発電システムは快調に動作する様になり、何度か過充電や過放電でバッテリーをだめにしたが今では大分コツを掴んでいた。

「作ってみると良いんじゃない?地下の冷たい空気を利用するだけだし、ポイントは送風と温度管理だね」
「温度管理はウォルフみたいに魔法温度計を買ってくるとして、送風はどうしたもんかね」
「城にある水車から直接動力を取り出して送風機を回したら?結構うまくいくと思うよ」
「うーん、あんまり大掛かりなのはお父様が許してくれないだろう」

マチルダもウォルフにモーターの原理を説明されて作ってみたけれどもかろうじて回る、という程度の物しか作れなかった。
そうすると風石を直接励起させて風を送るというくらいしか考えつかないが、ちょうど良いくらいの風を送る魔法道具を作る自信はなかった。

「うーん、中々難しいね、あたしもガリア旅行に連れていってもらって魔法道具探してこようかな」
「うん、あそこは魔法道具は発展していてこっちにはない物がたくさん有るから楽しかったよ。リュティスとかに行ったらもっと凄いんだろうなぁ」
「今度あたしも頼んでみるよ。お父様は太守だから街を離れられないんだろうなぁ・・」

マチルダとそんな会話を交わしながらもウォルフはずっとグライダーの設計をしていた。
ここのところずっとそんな感じで分割思考の練習にちょうど良いと考え、なるべく二つのことを同時に処理しようとしていた。
マチルダも別段気にすることもなく相手をし、いつも暫く涼むと帰って行った。

 今ウォルフが設計しているのは主翼で先端の後部に舵を持つため、それを操作する仕組みが構造を複雑にしていた。飛行機としては最も簡単な構造のグライダーとはいえクリアすべき課題は多い。
リンクを作り、ワイヤかロッドを通して操作する予定である。
図面上でそれらの部品を主翼内に配置し、きちんと機能するか確認し、いよいよ試作にはいる。
まずは翼の骨となる桁を作る。本当はカーボンで作りたかったが、まだエポキシ樹脂がどうにも作れないのでクロムモリブデン鋼の極薄肉厚角パイプで作った。超超ジュラルミンやチタンも検討したが販売することを考え手に入りやすい材料をベースにすることにした。
まず大体の形に『練金』して強度を検査し、十分な強度がある事を確認すると圧延するために作った装置に通し、設計図通りの口径に成形する。ちなみに装置はゴーレムによる手動である。
ここまでですでに数日が経過しているがウォルフにとっては順調なうちで、次のフォルーサ材を接着して大まかな翼の形を作り、図面を元に削りだしていく作業に入る。
まず翼の根本から先端に向けての形を大きな定規を当てながら確定、そこに基準線を描く。
翼断面の形を上下から写した定規を基準線に当てながら慎重に削る。定規は根本から先端までその位置に合わせた形状に合わせて百枚程も作ってあり、精密に形状を再現出来るようにしていた。
形が完成したら舵の部分を切り抜いて表面に樹脂を塗り正式な型とする。
これを元に石膏で雌型を作り、いよいよFRPの工程にはいる。
上下それぞれの雌型に離型剤を塗り、その上からガラス繊維を積層して樹脂を浸透させていく。繊維に残る空気はローラーを使って押し出し、型に密着させた。
樹脂が固まったら型から外してバリを取り、表面を綺麗にならす。ここの工程はガラス繊維がチクチク刺さるのでサラは逃げ出して手伝ってくれなくなった。
忘れずに舵の部分の部品や翼の根本や舵の部分を補強するリブも作っておく。
桁にリブを固定し、上下の外皮と舵を付ける部分の部品を接着して外面を塗装し漸く一枚の翼が完成した。実に三ヶ月も経っていた。

「こんだけ懸かって漸く翼一枚ですか」
「そう言うなよ、サラ。泣きたくなるじゃないか」

サラにこの凄さが分かって貰えないのが悲しい。
ガラス繊維の製造方法だって研究を重ねたし、樹脂にしたって天然樹脂である琥珀からコーパル、ダンマルにミルラにオリバナム、ザンギデドラコ、更には亜麻仁油などの不飽和脂肪酸を含む油など手に入る物は全て手に入れて研究を重ねた成果だ。
結局採用したのは恐らくはポリエステルであろう物である。エステル結合と不飽和結合を持っているし、過酸化ベンゾイルを加えたら重合したので多分間違いない。
ちなみに風防はアクリル樹脂で作るつもりである。『練金』でメタクリル酸メチルのモノマーを作り、重合させたものでポリエステルに比べれば作るのは楽だった。
ウォルフが丹誠を込めて作った翼は既存のハルケギニア産材料で作るのに比べ圧倒的に軽量で高剛性に仕上がっているし、そのシェイプの美しさは芸術品級だと思っている。
魔法が無かったら何も出来なかっただろうとは思うが、これだけ頑張ったのだから褒めて貰いたいと思うのは人情ではないだろうか。
もちろん、『硬化』という魔法があるのでこんなに頑張って強度を保ったまま軽量化しなくても良かったのではないか、ということに最近気がついた事はサラには内緒だ。

「だって、こんなの『練金』でささっと作っちゃうんじゃだめなんですか?」
「コレは『練金』じゃ出来ないよ。似たようなのは出来るかもしれないけど、それだと将来的にコストを下げられないし。今は試行錯誤しながら、材料も治具も作りながらだから時間が掛かっているけど、その内早くできるようになるんだ。あと、こんなのって言わないで」
「あ、ごめんなさい。そんなに何台も作るつもりなの?」
「商売するって言ってたろ?こいつはきっと売れるぜ。貴族用の高級趣味用品だな」

 全体の形がおよそ完成したのはさらに四ヶ月後、もう季節は春という頃でウォルフは六歳になっていた。
姿を現したのは全長八メイルと少しで取り外せる翼を持ち、全幅十七メイル重量七百リーブルの堂々とした機体である。
全体を滑らかに白で塗装し、滑らかな曲面で作られたアクリル製の風防も装備し何時でも飛び立てるかのように見えたが、問題を抱えていた。

「ぐわー!もうだめだー!オレはだめなんだー!」
「あっウォルフ様!」

機体が組み上がってからここ一ヶ月程本体には手を付けず、工房で部品を加工していたウォルフだったが、突然叫ぶと飛び出して『フライ』で遙か上空に飛んで行ってしまった。
サラは最近ウォルフが行き詰まっていたのを知っていたので放っておくことにして、お茶の用意をしに下へ降りていった。もともと最近トライアングルになったウォルフが全力で飛んだらサラには追いつけない。
三十分くらいしてウォルフがすっきりとした表情で戻ってきた。

「やあ、サラ。お茶を頼めるかい?」
「はい、ただ今。どうしたの?妙にさっぱりしてるよ?」
「いや、久々に火の魔法を全力でぶっぱなしてきた。風呂を沸かす母さんの気持ちが分かったよ」
「あぁ、時々忘れそうになるけどウォルフ様も火のメイジだったんだよね」
「うん、それで決めたんだ。サラ、オレはいったんグライダーを離れる!」
「え?せっかくここまで作ったのにやめちゃうの?」

 ウォルフをここの所ずっと悩ませていたのは操舵の機構であった。
現物合わせで一つずつ部品を加工していったのだがやはり精度が今ひとつで、何種類か作ったが最初はうまく動いても暫くテストしていると動きが渋くなったりがたが出たりした。
そのままでも飛べないことはないと思ったが、ウォルフが求めているのは販売することが出来るクオリティーである。
試作機が出来たら直ぐに注文を取って販売すれば、ウォルフのグライダーも目立たなくて良いかなと思っているのだ。すぐに壊れるなどと悪評が立つことは許されない。
何とかしようと粘っていたのだが、このままではどうにもならないと判断し抜本的な解決を図ることにしたのだ。

「やめはしない。今は戦略的撤退だな、オレは旋盤を作る!」
「旋盤?」
「そうマザーマシーン、鉄を削って機械を生み出すための機械だよ」
「そんなのがあるなら最初から作ればいいのに」

今やっている方法で出来ないなら、きちんと手順を踏んで一から作ればいいのだ。
旋盤を作るとなると、必要な物が多くて大変だが、いずれは作らなくちゃならないと思っていた事だ。
何かサラは違う物を想像しているみたいだが。

「まあ、作るのは多分グライダーより大分大変だからな。でも作ってみせるさ」
「え?それも何ヶ月もかかるの?」
「・・・下手したら年だな」
「・・ウォルフ様さ、結構大変なの好きだよね、何か嬉しそう。M?」
「断固言わせてもらうが、楽なのが好きだし、Mでは無い。誰も作っていてくれないから仕方なくオレが作るんだ。ここ片付けるから手伝ってくれ」
「はーい」

 とりあえず今までやっていたグライダー関係の物は全て中止して、旋盤の制作に全力をかけることにした。旋盤さえあれば蒸気タービンだってさくっと出来るはずである。
まずは旋盤の多くのギアを制作するために必須なロータリーテーブルと材料を固定するチャックを作る。
ロータリーテーブルとは目盛りの付いているつまみを回すとウォームギアによりその分テーブルが少し回るという物で、円周を精密に分割する為には必須の物だ。
今回作る物のウォームギアのギア比は90:1、つまみを一回転させたらテーブルが四度回転する仕様だ。ウォームギアは苦労したが、ジグを使って刃物を作り何とか正確な物を作ることが出来た。
手作業でタップとダイスを一種類作り、それで作ったネジを利用してロータリーテーブルに材料を固定、割出盤とチャックも製作。
精密に製図をし、丁寧にけがいて慎重に削り出す。根気のいる仕事だった。
格納庫の扉のローラーベアリングやモーターを作るときに使った手回しの簡易旋盤に新しく開発したモータを搭載して部品製作に使用する。
電力を確保するためバッテリーを大量に製作し地下に設置した。さらに水を介さないで直接発電する念力発電機も設置して毎晩寝る前に魔力切れ寸前まで発電した。
新しく開発したモータは磁石の代わりに電磁石を使用した物で、トルクを稼げる上に将来交流にしてインバータ制御した場合でもそのまま使える。
さらに往復台と横送り台を製作し、簡易旋盤に取り付ける。ここまですると旋盤の形に見えてくる。
これにロータリーテーブルを設置し、ギアを量産する体制になったのでいよいよ旋盤本体の設計に入った。


「ウォルフ、そろそろ支度しなさい。お爺様が待っているわよ」
「うーん、今いいとこなんだけど、やっぱり行かなきゃだめ?」
「当たり前でしょう、去年あんだけ大見得切っておいて何を言っているんですか。もうクリフは支度終わったみたいですよ」

トライアングルになって暫くは色々と新しい魔法を覚えるのに夢中になったが、最近ではそれも一段落してしまい今は旋盤を作りたい。
目標だった魔力量にはもう到達したのでそれからは魔力の超回復も大分さぼり気味で、今では発電のためだけにやっている様なものだ。その分の意欲を旋盤制作につぎ込んでいた。
それなのにあっという間にまた夏になり、もうガリアへと行く日となってしまいちょっとテンションは低めだ。
しかもラ・クルス領から竜騎士を迎えに寄越してくれるという話だったのが、アルビオンの飛行許可が下りなかったらしく馬車で来てくれと言うのだからさらにテンションは下がる。
しかし仕方がないのでメイドに手伝ってもらって支度を始める。結局あれから換金していない手形の残りも忘れずに荷物にいれた。
今回一緒に行くのはヨセフという三十くらいの使用人でニコラスがここに住み始めた頃から働いている。最近ウォルフが使用人全員に杖の契約をさせてみたら唯一成功してメイジとなったので選ばれた。
ヨセフは初めて行くガリアに少しわくわくしているようだ。

「ヨセフ、本当に子供は大丈夫なの?」
「はい、妻も母もいますから心配は要らないです」
「何歳なんだっけ?」
「十二歳の息子と、七歳になる娘です。下の子はサラと同い年です」

 ウォルフは考える。近いうちに旋盤が完成するとして、今までのように何でも全部ウォルフがやる、というのはよろしくない。っていうかやってられない。
サラも一所懸命にやってはくれるのだがまだ小さいし機械の操作は危うい感じだ。
十二歳なら今から教え込めばすぐに物になるのではなかろうか。

「上の子はもう働いているの?読み書きは出来る?手先は器用なほう?」
「え・・・えっと、読み書きはおかげさまで習わせてやることが出来ています。手先は器用な方だと思います。働くのはまだ家の手伝いをするくらいです」
「うん、いいね。ガリアから帰ったらなんだけどさ、オレの所に手伝いに来る気はないか聞いてみてくれない?取りあえず見習い期間中で月に十エキュー出すよ」
「ええっ・・そんな、まだ子供ですよ?」
「オレの作る機械の操作をさせたいんだ。十二だったら十分だよ、十五じゃ遅いかもって感じだから」
「は、はあ・・しかしエルビラ様やニコラス様に尋ねなくてもよろしいんですか?」
「これはオレがオレの責任で、オレの金で雇用するんだ。一々聞かなくても大丈夫だよ」
「分かりました、それじゃあ帰ったら聞いてみます」
「うん、よろしく頼むよ。下の子も連れてきたらサラに計算とか教えさせるから来させると良いよ」

はあ、と曖昧にヨセフは答える。七歳の子に七歳の子を教えさせると言ってもピンと来ないのである。
しかしサラはただの七歳ではなく、ウォルフが三年程も手塩にかけて教え込んできた早期教育の成果である。
今や因数分解や連立方程式を解いているので算数を一から教えるなど簡単なはずであった。
そういえばサラがいないのだが、朝に寂しそうな顔をして会いに来たので自分がいない間一人で寂しかろうと大量のドリルを渡してやったら何故か怒ってその後顔を見ていない。


 荷造りを終え、中庭に出るともう馬車が用意されていた。ロサイスまではエルビラが送ってくれるらしい。
いざ乗り込もうとするとマチルダが見送りに来た。

「ウォルフ!クリフ!もう行くのかい?」
「あ、マチ姉見送りに来てくれたんだ。」
「マチルダ様、わざわざありがとうございます」
「これ作ってきたからお昼に食べて」

そういって弁当を差し出す。ウォルフは普通に受け取っていたがクリフォードはかなり緊張して受け取った。
マチルダは今十三歳。ここ一年でずいぶんと綺麗になり、クリフォードは会う度に緊張してしまうのだ。

「あたしもリュティスに行く途中でヤカによるから、その時また会おう」
「うん、お爺様に言ってあるから暫く滞在しても良いと思うよ」
「まあ、そんなにのんびりとはしていられないけどよろしく頼むよ。・・・じゃあ、気をつけていっておいで」
「マチ姉も気をつけてね」
「マチルダ様、行って参ります」
「サラもな!良い子にしてるんだぞ!」

 最後に方舟の柱の陰で見送っているサラに大声で声をかけて手を振ると馬車に乗り込む。サラはすぐに中庭まで出てきた。
馬車が動き出し門をくぐる。中庭で手を振るマチルダとサラに手を振り返すと馬車は街道へ向けて走り始めた。
昨年と同じ行程でヤカへと向かう。途中ロサイスではエルビラが二人を中々離してくれなかったりしたが後は問題なくヤカまで着いた。
ヨセフは城で一泊して乗ってきた馬車でアルビオンへ向け帰る事になっていたのでそのまま馬車で城に入った。
一年ぶりの城である。懐かしい気持ちとこれから起こる事への期待感が否が応でもわき起こってくるのだった。




番外4   火の魔法



――― ちょっと時間を遡って、ラグドリアン湖から帰ってきてから暫く経ったある日の事 ―――





 ずっと工房に籠もりっきりでグライダーの制作をしていたので、ウォルフは気分転換に魔法の実験をしようと思い立った。
丁度エルビラも非番で家にいるし、頼めば多分手伝ってくれるだろう。

「母さん母さん、今暇?暇ならちょっと実験に協力して欲しいんだけど」
「何ですか、いきなり・・・実験?」

編み物をしていたエルビラは首をかしげていきなり部屋に入ってきた息子を見つめる。
ウォルフはそんな様子に構わず座っているエルビラの足元まで来てスカートを掴み、期待を込めた目で見上げる。こうするとエルビラはなかなか断れない。

「まあ、良いですけど、何の実験ですか?」
「ありがとう。火の魔法の実験なんだ。火の魔法がどういう魔法か仮説を立てたから検証したいんだ」
「火の魔法とは炎を司る魔法です。それ以外にはないでしょう」
「まあ、いいじゃんもう少し詳しく知りたいんだよ」

そのままエルビラを中庭に引っ張っていった。

 中庭に来るとウォルフは地下から出した大理石を『練金』し直し、一辺が一メイルほどの鉄の立方体を作った。重さは一万七千リーブル位はあるだろうか。
それをエルビラに炎で炙ってもらった。炎が当たっているところが溶け出すまで炙り、溶け出したら移動して四方から満遍なく熱を加える。
やがて全体が赤熱し、側にいるだけでジリジリと焦がされる感じがしてきた。
全体がオレンジ色に輝きだしたその鉄の塊に向かってウォルフはルーンを唱えた。

「《クリエイト・ファイヤーゴーレム》!」

それは『クリエイト・ゴーレム』とほぼ同じルーンだったが、働きかける魔力が土ではなく火というものだった。
勿論そんな魔法を使った者はいないし、ウォルフが自分でルーンを組み合わせて詠んだだけのもので、とうてい作用するとは思えない物だった。
しかし、そんなルーンに応え鉄の塊は変形を始め、人形を取る。
そのゴーレムが火の魔法で動いている事に気付いたのだろうか、エルビラは呆然としている。その目の前でゴーレムはウォルフの意志通りに様々なポーズを取った。

「ウウウウォルフ、あのゴーレムは火の魔法で動いているように思えるのですが」
「うん、オレの理論は正しそうだよ」
「理論って何ですか理論って!理論で魔法は働きませんよ!」
「母さんはそうなのかも知れないけど、動いてるじゃん、アレ」

 エルビラは暫くファイヤーゴーレムを見ていたが、何故か『ファイヤー・ボール』で攻撃し始めた。
普通、鋼鉄のゴーレムならばエルビラの『ファイヤー・ボール』に堪えられるのはせいぜい二発位だが、ウォルフのファイヤーゴーレムは何発食らおうがその輝きを増すだけだった。

「そんな、私の炎が効かないなんて・・・」
「やっぱり液体になってもオレの制御下から外れる気配はないな」

普通ゴーレムが溶けるほどに熱されると魔法の制御を離れてしまうものだが、ファイヤーゴーレムは温度が上がるほどにその動きに鋭さを増すようだった。
試しにバック転をさせてみると簡単にできた。重さ一万七千リーブルで温度が数千度、その上身軽に動くゴーレムの誕生である。
五メイル離れていてもジリジリと熱気が来る位である。人間などは触れただけで燃え上がってしまうだろうし、その戦闘能力はゴーレムとして世界最強と言っていいだろう。



 ウォルフが魔法を習い始めてからずっと考えていた事がある。火の魔法とはいったい何だ、と言う事である。

土の魔法は固体に作用する魔法。
水の魔法は液体に作用する魔法。
風の魔法は気体に作用する魔法。

では、火は?


 ヒントは水の精霊にもらった。
太古の昔から存在するという精霊がいつから存在しているのかを考えていた時に、その考えはウォルフの脳裏に浮かんだ。

"最初の精霊は何だったのか?"



 ウォルフは前世の記憶から惑星の生成過程を知っていたので、この星もかつて表面温度数千度の火の星だった事を確信していた。
そんな全ての生命が活動する事を許されないような環境でも存在出来る精霊が一つだけある。火の精霊だ。
水の精霊の一部である水の秘薬は温度を上げていくと蒸発し、元に戻る事はなかった。高温に弱いのだ。水の精霊以外の精霊に会ったことは無いが魔力素で言うなら火以外は高温になるとその効果が消える。
ウォルフの理論では最も小さな存在として魔力子があり、それらが集まって火・土・水・風の魔力素になり、それらが更に自我を持つ程に集まったものが精霊と言われる存在である。本質的に精霊と魔力素は同じ物である。
原始の惑星で、灼熱の星で、魔力素が、精霊が存在出来たとしたらそれは"火"以外には有り得ない。おそらくこの星はかつて火の魔力に溢れていたのだ。
土、水、風の魔力素や精霊が何時どのように現れたのかは分からない。
しかし、火の魔力素がこの星が冷えるのに従って土、水、風の魔力素に変化したと仮定すると、火は根源的にはそれらの特性を持っているのではないか、と考えこの実験を思いついたのだ。

 実験は成功した。
火の魔法でも固体の鉄をゴーレムにする事が出来たし、それが液体になっても制御を続ける事が出来た。元々熱した気体は操作出来るので、物質の三相全てを操る事が出来る事が分かったのだ。ただし高温下限定だが。
これで火の魔法とは高温下において全ての物質に作用する魔法であると言う事が出来る。常温下では高温の気体を発生させ操る事が出来るだけになってしまっているが、温度さえ上がれば火の魔法は万能の魔法といえるものだったのである。
ウォルフは嬉々としてエルビラに説明するが、彼女の反応はあまりパッとしなかった。

「でも、まずは温度を上げなくちゃならないのですよね?」
「そうだね、いきなりあのゴーレムは出せないな」
「だとすると一体どういう利点があるのでしょうか」
「うーん、ほら、火山で溶岩流が迫ってきてピンチ!って時にゴーレム作って止められるよ!」
「それは一生の内、何回位ある場面なのでしょうか・・・」
「・・・・・」
「確かに相手の土の壁を溶かしてそれをゴーレムにするとかは出来そうですが、そこまでしたら直接攻撃したほうが早そうです」
「・・・・何に使えるかなんて、そんなに重要な事じゃないのさ!知識を得て、それを積み重ねる事が大事なんだ!」

エルビラには不評だったがウォルフは嬉しかった。ずっと謎だった事が解けたのである。
自分の系統がどのような系統なのかを知る事が出来て、魔法をもっとうまく扱える様になる気がした。



[33077] 第一章 16~20
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:34

1-16    手合わせ




「「お爺様、お婆さま、皆様方お久しぶりにございます」」
「うむ、遠路よく来た。どうだ、二人とも魔法は上達したか?」
「僕はちょっとですが色々工夫するようになりました」
「精神力が多少増えましたので、それに伴い使える魔法が増えました」

 クリフォード、ウォルフの順に答える。ウォルフは多少とは言うが、火だけではなく風もトライアングルスペルを使える様になっていて、さらに分割思考の訓練の成果で魔法を三つまで同時使用をすることが出来るようになっていた。
分割思考に関しては風のメイジが覚えると『遍在』を創り出すことが出来るようになると思われるので、クリフォードにも教えていたがまだ出来るようにはなっていなかった。

「この滞在が有意義な物になるようにワシも優秀な教師を揃えておいた。明日会わせるから存分に学ぶが良い」
「「はい!ありがとうございます」」

一年ぶりのヤカの城であるが、どこも変わってはいない様だった。魔法を習うのは明日からと言うことなのでその日はティティアナと遊んで過ごした。

 そして翌日― クリフォードとウォルフは昨年魔法を使った中庭とは別のもっと広い裏庭へと連れて行かれた。
そこにいたのは五十台と三十台と見られる男性メイジが二人と十代か二十代と思われる女性メイジが一人だった。

「紹介しよう。今回お前達の教師を務める者達だ。左から順にモイセス、土のスクウェアだ」

軽く会釈をするのを見て紹介を続ける。

「そしてサムエル、風のトライアングルだ。最後がパトリシア水のスクウェアだ。皆優秀なメイジだから何か聞きたいことがあったらどんどん質問するが良い」
「はい!あの、サムエル先生は『遍在』を使えますか?」

ウォルフが手を挙げ質問すると、サムエルが口の横に長く伸びたひげをしごきながら答えた。

「おや、『遍在』を知っているのかい、勉強熱心な子供だね。残念ながらあれはスクウェアスペルだからね、トライアングルの僕には使えないんだ」
「そうですか・・・昨年お爺様にいただいた本にスクウェアでなくても『遍在』が使える可能性について記してあった物ですから聞いてみたのですが」
「ふむ、何という本にそんなことが書いてあったのですか?」
「"バルベルデの実用・風魔法"です」
「ああ、あの本は変な理屈を捏ねすぎて、実用という割には理解しにくいという評判の本です。あまり一つの本を鵜呑みにしないことですな」

やはり髭をしごきながら答えるサムエルに、ウォルフはこいつに教わることは何もないんじゃないかと感じた。

「あの、えっとパトリシア先生は独身ですか?」

つづいてクリフォードがもじもじと切り出した。クリフォード十一歳、綺麗なお姉さんが好きらしい。

「ええ、そうよ。クリフォードもいい人がいたら紹介して下さいね」
「いえ、そのあの・・はい」

にっこりと笑いかけられてデレデレになるクリフォード。マチルダのことは良いのか。
そんなクリフォードを横目で見ながらウォルフが話を進める。ウォルフはここ三日魔力の使い切りをしていなかったので魔法を使いたくてうずうずしていた。

「それでお爺様、今日はこれからどんなことをするのですか?」
「うむ、今日は顔見せなので全員に来てもらったが、明日からはワシを含めた四人で一人ずつ一対一で教えることにする。ワシ等は隔日になるな」
「はい、分かりました。じゃあ私は今日は誰と?出来れば苦手な水魔法を教わりたいのですが」
「あ、お前ずるいぞ!俺もパトリシア先生が良い!」

ウォルフは今まで水魔法をカールとニコラスという水メイジ以外からしか教わったことはなかったので、一度本職に教わりたいと思っていた。クリフォードのせいで微妙な雰囲気になってしまったが。

「ウォルフ、お前はちと特殊だからな、今日はお前のことを他の者達にも見せねばならん。まずはワシと手合わせだ」
「分かりました。じゃあ、兄さんは好きなだけパトリシア先生に教わると良いよ」
「お、おう」

 裏庭の中央に進み出たフアンと十五メイル程離れて対峙する。
他の教師は二人から十メイル程離れて立っていたが、クリフォードだけは二十メイル以上離れた場所に移動した。

「あー、三人ともクリフの辺りまで下がってくれ。それとウォルフ!まわりの壁は鋼鉄で作り直してあるし強化もしっかり掛けてある。遠慮はいらん!思い切って掛かってこい!」
「はい!いきます・・・《フレイム・ボール》!」

 痛いし疲れるしで戦闘訓練はあまり好きではなかったが、そうも言ってられないので軽く攻撃してみる。まあ、魔法を思いっきり撃つのはちょっとトリガーハッピーになって気持ちいいのだが。
『フレイム・ボール』は昨年も使ったヤツだが去年よりもより小さくて速く、威力も増している。

「ぬう!《炎壁》!ふんっ!来ると分かっていればいかに速くとも対処は出来るわ!《ファイヤーボール》!」

炎の壁を斜めに張り、ウォルフの攻撃をはねのけると巨大な『ファイヤー・ボール』で即座に反撃してきた。

「《フライ》!」

 さすがはスクウェアと言える攻撃を『フライ』で躱すとそのまま空中にとどまった。
普通のメイジは魔法を同時に使えないので『フライ』で飛んでる間は攻撃が出来ない。フアンもそれを知っているのでウォルフを降ろさぬよう次々に攻撃を仕掛ける。
それは端から見て孫に対する魔法にはとても見えないすさまじい物だった。

「おい、ちょっとあれ大丈夫なのか?」
「いや、確かに最初の攻撃は六歳とは思えない物だったけどアレじゃいずれ・・・・」
「止めた方が良いんじゃないですか?・・・あれ一個でも当たればあんな小さい子大怪我じゃすみませんよ」

 鬼気迫る様子で魔法を連発するフアンとそれを上空で躱し続けるウォルフを見ながらこそこそと教師達が相談するが、その二人の間に割って入る度胸のある者はいなかった。
せっかくの訓練だからと暫く躱すことに専念していたウォルフであったが、そろそろ反撃することにした。ウォルフは飛びながら攻撃が出来るのだし、そして何よりも今は魔力が漲っていた。
一向に降りてこようとしないウォルフを訝しがってフアンが一瞬攻撃を途切れさせた隙に、ウォルフは攻撃スペルを唱えた。

「躱してね?・・《フレイム・バルカン》!」

空中に浮かぶウォルフのまわりに小さな炎の輪が十以上も浮かび、それらが次々にフアンに向かって飛んでいく。
ウォルフオリジナルの『フレイム・ボール』改良型で一秒間に十以上の炎の輪を連射し続けられるという代物であった。

「《炎壁》!ぬおおおおおおお!」

フアンはしゃがみ込んで投影面積を減らし、小さい分強度を上げた『炎壁』を斜めにしてひたすら耐える。
その壁から覗く目は隙を見て反撃をしようとウォルフを狙っており、ウォルフからの攻撃が全部自分から二メイル程の地面に集中して着弾していることも、その地面が赤熱していることも気付かなかった。

「《ウォーター・ドラゴン》!」

炎の攻撃を続けながらウォルフが呪文により竜の形をした水が高速でフアンに襲いかかる。
これも『水の鞭』を改良したオリジナル魔法で十分な体積を持った水を高速で送ることに適していた。
そしてその竜はフアンの『炎壁』に当たると蒸気を発しながら進路を逸らされ、フアンの後方、赤熱した地面の真ん中に激突した。

「ぐあっ!!」

瞬間、地面が爆発しフアンは前方に大きく吹き飛ばされた。水蒸気爆発である。
フアンは杖も吹き飛んでしまったし、気絶しているようだ。

「《ウォーター・ドラゴン》」

同じ魔法を今度はフアンの体を冷やすためにぶつける。かなり火傷をしてしまっているみたいだし、早く冷やすことが必要だ。
そのまま水浸しのフアンの元に降りると『ヒーリング』をかける。

「パトリシア先生!治療をお願いします!」
「は・・はい!」

 呆然としていた三人が慌てて走り寄ってくる。
治療を三人に任せるとウォルフは水の秘薬を取りに部屋へ帰った。昨年精霊に貰ったのが少し研究に使っただけで残っていたので持ってきていた。
その後ろ姿を眺めながら三人はなおも今見たことが信じられない気持ちだった。
たしかに天才児だとは聞いていた。あのオルレアン公を凌ぐ才能だとも。
しかしそんなことはちょっと才能のある孫を持った祖父ならば、誰もが言うようなことなのだ。いちいち本気で聞いていられなかった。
高名な火のスクウェアメイジであるフアン・フランシスコ・デ・ラ・クルスが一蹴されたのだ、もし模擬戦をしたとしても自分たちが戦って勝てるとも思えなかった。

「パトリシア先生!これを使って下さい」
「これは、水の秘薬。よくこんなに・・・大丈夫よ、これを少し使えばこんな怪我はすぐ治るわ」
「お願いします」

 パトリシアは受け取った水の秘薬を少量フアンの口に含ませると再び『ヒーリング』を唱える。
ウォルフにとっては初めて見る水のスクウェアの治療なので興味津々に見ていたが、その目の前でフアンの火傷や打撲、擦過傷などが見る見る消えていった。
暫くするとうめき声を上げフアンが目を覚ました。

「うーむ、何だ?耳鳴りが非道いわい」
「あ、耳もですね?《ヒーリング》」
「お、おお、治まった」

 一頻り首を振っていたフアンが周りを見回す。
最初事態が分からなかったみたいだが、すぐに思い出すと顔を歪めた。

「むう、ワシともあろう者が孫に後れを取るとは・・・ウォルフ!最後の魔法は何じゃ、何故爆発した」
「えーと、あれは火の魔法を連発することで地面を高温に熱してそこに大量の水をぶつけたのです。その水が爆発するように一気に蒸発したのであんな風になりました。それで、大丈夫ですか?お爺様」
「ふん、水のスクウェアメイジがおるんだ多少の怪我なら心配いらんわい。しかし最初から嵌められていたとは・・・水の蒸発だけであんな爆発になるのか・・・」

ブツブツと呟いているフアンにパトリシアが告げる。

「いえ、ウォルフ様が水の秘薬を持ってこられなかったら、こんなに早くは治りませんでした」
「ん?水の秘薬だと?ウォルフどこから持ってきた」
「昨年ラグドリアン湖に行った折りに水の精霊がくれました。今まであまり使うことはなかったけど念のため持ってきて良かったです」
「「くれた?!」」

フアンとパトリシアがハモった。
水の秘薬はとても高価で、水の精霊との交渉役のいるトリステインならまだしも、ここガリアでは中々手に入りにくかった。

「水の精霊は滅多に人前には現れないで、唯一の例外がトリステインの交渉役だけです。人の心など簡単に狂わしてしまう恐ろしい存在と聞いていますが、くれたとはどういう事なのでしょうか」
「そうだ、ワシも水の精霊が一個人と取引をしたなど初耳だ。どういうことだ、詳しく話せ」
「いえ、取引とかじゃなくって、ただくれただけです。ラグドリアン湖の水が普通の水とは違うのに気付いたので、採取して調べてたら湖から出てきて、それならこれやるって湖の一番深いところの水と一緒にくれたんです」
「そんな話聞いたことない・・・」
「ワシもだ」
「でも気の良い精霊でしたよ?よく考えたら人間から精霊に提供出来る物なんてほとんど無いはずなのに、いつもトリステインは水の秘薬をもらっているわけですから、本当は気前の良い精霊なんだと思いますね」
「「・・・・・・」」

「まあ、秘薬のことは良い。とにかくあの爆発は狙ってやったのだな?」
「はい、お爺様の防ぎ方を見て出来るかな、と。弾幕でお爺様を釘付けにして、そちらに注意を向けさせて不意を突きました」
「うむ、見事に食らったわ。それとお主二つ以上の魔法を同時行使出来るな、なぜだ?」
「昨年お爺様にいただいた"バルベルデの実用・風魔法"にそのヒントが書いてありましたので、自分で更に研究して実践しました」
「ぬう、あれにそんなことが書いてあったのか」

 余談だがこの数年後ガリアでバルベルデの名声が飛躍的に上がった。
おかげでウォルフの持っている本やマチルダにおみやげとして買って帰った本はバルベルデオリジナルの初版本だったので、ものすごいお宝アイテムとなった。

 ともかくそんな感じの荒れた初顔合わせだったのだがここで問題が生じた。
土のモイセスと風のサムエルが教師を降りると言い出したのだ。

「なんだと?ワシの孫には教えることが出来んと、そう言うのか?」

しゅわーっとフアンのまわりの温度が上がり、その体から先程あびた水が水蒸気になって立ち上る。

「い、いえ、そういうわけではありません。お孫さんはあまりにも優秀なため非才な我らが教えられるようなことは何もないでしょうと、こう申しているのです」
「その通り!私めも一目でこれは物が違うと思った次第でございますよ」

何か最初の態度とはあまりにも違う態度だが、彼らは本当にウォルフを教えたくなかったのだ。
彼らのような高位のメイジは総じてプライドが高い。六歳児にのされるかも知れない仕事など絶対にやりたくない事であった。
彼らはウォルフの攻撃を受けた地面がぐらぐらと煮立つのを見ていたし、高速で飛行しながら魔法を放つウォルフの攻撃を躱す見込みもなかった。あれでは竜騎士を相手にするような物ではないか。

「貴様等の紹介所にはずいぶんと金を払っておるんだが、それはどうしてくれるんだ?」
「いえ、それはその、紹介所と相談していただくと言うことで・・・」

私たちも、その、リュティスから来てるわけですし・・・などと言葉を濁す二人をフアンは見限った。
こんなカスどもに孫を教えさせるわけにはいかん、ということで新しい教師を捜すことに決めた。

「ふん、まあ金のことは今は良い、紹介所に苦情を入れることにするわ。その代わり帰る前にワシと手合わせをしてもらおうか。土と風のメイジの戦い方も孫達に見せておきたいでな」
「いや、しかしラ・クルス様も今戦ったばかりでお疲れでしょうし・・・」
「かまわん。そんな心配をしてくれるのなら二人同時でも良いぞ、その方が早く終わろう」
「二人一緒、ですか・・」

チラチラと二人で視線を交差させる。尻込みしていたのが挑発されてその気になってきたようだ。

「まあ、確かにその方が早く終わりそうですな。いいでしょう、二人でお相手しましょう」
「おう、優秀なメイジということで雇ったんだからな、少しはそれらしいところを見せてくれ」

すぐにでも始めてしまいそうな雰囲気になったので、ウォルフ達は急いでその場を離れる。

「ではお先に失礼して・・・《エア・カッター》!」
「私も・・・《クリエイト・ゴーレム》!」
「ふん、《ファイヤー・ボール》ウォルフ!風魔法の欠点は何だ?」

『ファイヤー・ボール』で攻撃をはたき落としながらフアンが聞く。体の周りに炎の玉を十ヶ程も浮かべ、それで順次近づく魔法を迎撃している。
サムエルとモイセスは様々な魔法でフアンを攻撃するが、全て『ファイヤー・ボール』で落とされ、鋼鉄製のゴーレムも炎の弾を三つくらい浴びると腕が溶けて落ちた。

「物理的質量の小ささでしょうか。鋭くはあれど軽い攻撃ですので、物理的強度の高い防御を抜くことは困難ですし、『エア・シールド』の強度はそれ程高いとは言えません」
「うむ、その通りだ!《ファイヤー・ボール》!だから風メイジとの戦い方は決まっておる《ファイヤー・ボール》!圧倒的な物量で、押し切るのだ!《ファイヤー・ボール》!」

ぬんっ、と気合いを入れると二十ヶ程浮かべた炎の玉を次々にサムエルに撃ち込む。

「うわあっ《エア・シールド》!ぐうう、うわあああああ」

暫くは堪えていたが、耐えきれずに炎に包まれ吹き飛ばされた。
あわててパトリシアが治療に向かう。

「ふん、次だ・・・クリフ!土魔法の欠点は?」
「ええと、スピードの遅さと、攻撃のバリエーションの少なさ、でしょうか」
「そうだ!そして《ファイヤー・ボール》一番厄介なのはこの『ゴーレム』だが、こんなものには構わず本人を攻撃するのが一番だ《フレイム・ボール》!」
「うわああああああ」

迫ってくるゴーレムに一撃を食らわせ転倒させると、その横を歳に似合わぬ素早さで駆け抜けモイセスに攻撃を仕掛けた。
モイセスは『土の壁』の陰に隠れていたわけだが『フレイム・ボール』の連射を受けて『土の壁』は溶融、直後に火達磨にされてしまった。
結局力押しだよなあ、と思いながらウォルフはモイセスの治療に向かう。本気になったフアンの戦い方は圧倒的な魔力をそのまま叩き付ける様な攻撃で、ウォルフには手加減をしていたのがよく分かった。
結構良い感じに焦げている二人に水の秘薬を使って治療を施そうとしたのだが、フアンに止められてしまった。

「こやつらにそんなモンを使ってやる必要はない!優秀なメイジ、らしいからな自分で治すだろう」
「でも、この辺とか秘薬がないと綺麗にはならないと思うのですが・・・」
「いらんと言うとろうが」

結局フアンが許すことはなかったが、ウォルフは隠れてちょこっと秘薬を使い、一番ひどいところだけは治しておいた。
二人は歩けるまでに回復するとウォルフのことを話すことを禁じられた上で城から放り出された。二人とも言われなくても六歳児から逃げ出したなどと人に言うつもりはなかったし、誰かに話しても信じてもらえるとは思えなかった。

 その夜家族全員が集まっての夕食時、教師二人に逃げられたというのにフアンの機嫌は良く、楽しそうにグラスを空けていた。
このハルケギニアでは魔法の素養が高いと言う事には大きな意味がある。ウォルフの様な孫が出来た事は貴族として何よりも喜ばしい事だった。

「いやしかしウォルフには恐れ入ったわ、まさかこのワシが六歳の孫にのされようとは!はっはっはっ」
「本当なのかい?僕にはとても信じられないよ」

伯父のレアンドロがウォルフとフアンを見比べながらウォルフに尋ねる。

「はい、でもお爺様は攻撃を手加減して下さっていたようですし、そこに私の奇襲が決まった、っていう感じです」
「その奇襲が決まるっていうのが信じられないんだよ・・・」
「わっはっはっレアンドロ、ウォルフをお前の常識で見てはいかん。ワシを吹き飛ばしたのは水魔法だぞ、そんな火メイジ聞いたこと無いわ」

水が爆発するなんて誰が思う、と一頻り楽しそうにしていたフアンであったがふと、真顔になって言った。

「ふむ、しかし困ったな。二人も教師に逃げられてしまっては明日からの授業をどうするべきか・・・ウォルフに火の魔法を教えることはあまり無さそうだからパトリシアに任せて、ワシはずっとクリフと一対一か?」

ええっ!?と青ざめるクリフォードには気付かずに続ける。

「ふむ、それも何だから明日リュティスに新しい教師を探しに行くか。ウォルフ、何か希望はあるか?」
「どんな教師がいいかって事ですか?それなら、うーん、『遍在』を使える人が良いです」
「とすると風のスクウェアか。うーむ、探しては見るが・・・クリフは何かあるか?」

綺麗なお姉さんが良いです。とはまさか言えず、特に無いと答えておいた。

「ウォルフ兄様、お爺様と喧嘩したの?」
「喧嘩じゃないよ、ティティ。手合わせをしてもらったんだ」
「手合わせ?お爺様と手合わせをしたのに泣いてないの?」
「お爺様は優しいからね、手加減してくれたんだ」
「ふーん、ティティも手合わせしたい!」
「結構痛かったりするよ?ティティにはまだ早いかな」
「だからお父様いつも泣いているんだ・・・」

レアンドロはまた泣きそうになったが、何とか堪えることが出来た。




1-17    オルレアン公シャルル



 翌日ガリアの首都リュティスの街に難しい顔をして歩くフアンがいた。

 朝一で風竜を駆り、千リーグもの距離を飛びここリュティスまでやってきていた。レベルの低い家庭教師なら地方でも手配可能だが、高位のメイジを雇うのなら首都が一番なのだ。
まず家庭教師の紹介所に行くとウォルフから逃げ出した教師達、モイセスとサムエルについて苦情を言い、怒鳴りつけ、燃やしかけ、新しい教師の派遣を迫った。
特にモイセスは魔法道具に詳しいと言うこともあって高額の支度金を払っているので、早急に代わりを用意してもらわないと納得出来ない。
しかし、フアンの出す条件が厳しいこともあって返事は芳しくなく、取りあえず探すようにだけ言い付けて自分は王城へ挨拶に向かった。

 浮かない気分の儘ヴェルサルテイル宮殿にて王や宰相に謁見をすませ、風竜の元へ戻ろうとするフアンに声をかける人物がいた。

「やあこれは珍しい、ラ・クルス伯爵ではありませんか」

さわやかな笑顔で話し掛けてくるこの人物こそガリアの王子オルレアン公シャルルであった。
王太子であるジョゼフに比べ圧倒的な魔法の才を有し、明るくさわやかな人柄と高潔で公正な人格で人々の尊敬を集め、ジョゼフをさしおいて次期王に目されている程の人物だ。
フアンはシャルルが子供の頃家庭教師をしていたこともあって、彼が才能だけの人ではなく、大変な努力家であることを知っていた。

「これはオルレアン公、お久しぶりにございます」
「や、堅いですね先生。昔のようにシャルルとお呼び下さい。どうかしたのですか?難しい顔をしておられましたが」
「あー、シャルル様。いや全く私事でして、孫の魔法の事でちょっと困っていただけです」
「お孫さんというと、確かうちのシャルロットと同い年ではありませんでしたか?まだ魔法で困る年齢でもないと思うのですが・・」
「いえ、その孫ではなくてアルビオンに行ったエルビラの息子達が帰ってきておりましてな、そっちのことです」
「ほう、あのエルビラ殿の息子さんですか、それは優秀そうに思えますが、何か問題でも?」
「ふーっ・・・・兄の方は何も問題はないのです。もう少しでラインになれそうなのですが年相応に優秀と言いましょうか、十一歳として普通の魔法を使います」
「では問題があるのは下の子のほうですか。いくつなんです?」
「六歳です。この年ですでに火のトライアングルでして、昨日は私ものされました」
「ええっ?」

シャルルは目を丸くして絶句した。天才児と呼ばれた自分でさえトライアングルになったのは九歳の時である。六歳でそのようになれるかなど想像も出来ないし、何よりラ・クルス伯爵をのしたというのが信じられなかった。
今戦ってみて負けるとは思えないが、子供の頃はスクウェアになった後も結局敵わなかった相手なのだ。

「エルビラの所は貧乏ですから、こちらで優秀な教師を用意してやろうと思いましてな。三人程集めたのですが、私がのされるのを見て二人が怖じ気づいて逃げまして、代わりを探しているところです」
「ど、どの程度の教師を揃えたのですか?」
「土のスクウェアと風のトライアングルです。残ったのは水のスクウェアですが、ウォルフが、ああ、その弟のことですが、『遍在』を使える教師を希望していまして中々見つかりません」
「『遍在』ですか・・・六歳児が・・・」

どうも話を聞く程に正気を疑いたくなってくるが、ラ・クルス伯爵は至ってまじめのようである。
普通に考えれば六歳児が『遍在』を習いたがっていることも異常なら、それを聞いてかなえてやろうと走り回る祖父も異常である。
六歳と言えば娘のシャルロットと一つしか違わない。まだまだ無邪気で可愛い盛りの娘と一つしか違わない様な子供が『遍在』だなどと冗談としか思えなかった。
考え込んでいると視線を感じ、ふと目を上げるとラ・クルス伯爵がのぞき込んでいた。

「な、なにか?」
「そういえば・・・シャルル様はいつ頃自領にお帰りになりますか?」
「来週の予定ですが、それが・・・」
「シャルロット様もそろそろ同い年の友人がいた方がよろしいのではないでしょうか、うちのティティアナはとても優しい子でいい友人になれることと思いますよ。ちょっと遠回りになりますが、お帰りになる途中で数日我が領にお寄りになってはいかがでしょうか、領を挙げて歓迎いたします」
「しかし、そんな急に言われても・・・」
「来週のことです、まだ日にちがあります。何、すぐ近所ですし竜籠なら大して変わりませんよ。是非、奥様とも相談して頂いてお返事下さい。・・・ついでにちょっとで構いませんのでうちのウォルフのことを見ていただけると嬉しいのですが」
「はあ・・・」

ゴリゴリと押してくるフアンに若干引き気味になりながらも、シャルルは悪い話ではないと考えていた。
確かにシャルロットには友達がいた方が良いだろうし、ラ・クルス伯爵の孫娘ならば申し分ない。娘のエルビラも竹を割ったような気持ちの良い性格をしていた。
最近は自領に引っ込んであまり王宮には来なくなったが、依然としてガリア西部で影響力の強いラ・クルス伯爵である。彼の一族と親交を深め、それを対外的にアピールすることはメリットが多かった。
それに自分自身がすでにその天才児に興味を持っていた。自分は兄を超えるために必死に努力をして魔法を磨いた物だが、その彼は一体何を考えているのだろうか。
周りから天才児ともてはやされて天狗になっているのだろうか、それとも自分と同じように、そんな中でもなにか劣等感に押しつぶされそうになっていたりするのか。

「良いでしょう、先生。来週ユルの曜日に家族共々竜籠で向かいます。二三日お世話になりますのでよろしくお願いします」
「おお!それは重畳。全力で歓迎しますので、お気を付けてお越し下さい」

満面の笑みで握手をされる。教師を確保出来たことがよほど嬉しいのだろう。
大国ガリアの王子である自分をただの家庭教師扱いする恩師に苦笑を漏らしてしまうが、追従ばかりの宮殿にいる身としてはいっそ心地よい。

「ふふ、私もウォルフ君に会えるのを楽しみにしていますから、よろしくお伝え下さい」



 その頃ウォルフ達は水魔法を習っていた。今日と明日はフアンが居ないのでパトリシアが一人で二人を教え、今は人体内の水の流れについて講義をしている。サラとともにカールの授業を受けてきたウォルフには既知のことであったがクリフォードにとっては初めてのことなので大人しく一緒に聞いていた。

「・・・このように、血液は人間の体の中を絶え間なく流れているのです。例えば、腕に流れる血液を完全に止めてしまうとあっという間に腕は腐って死んでしまいます。人間が生きている、ということは水が流れているということなのです。分かりましたかぁ?」
「はい!先生」
「あら?ウォルフにはちょっと退屈だったかしら?」

元気に返事をしたクリフォードに対して眠そうにしていたウォルフを見とがめる。

「あー、はい。ここら辺はカール先生に習ったことがあるので・・・」
「あら、じゃあこの後『ヒーリング』を教えようと思っていたんだけど、やったことある?」
「はい、ちょっと前に習いました」
「じゃあやってもらおうかしら。『ヒーリング』は人間の持っている自然の治癒力に働きかける魔法よ。体内の水に働きかけて治癒を促すの」

そういってナイフを取り出すと自分の手のひらを薄く切り、ウォルフに治すように促す。パトリシアは痛覚をコントロールしているので痛がるそぶりはない。
ウォルフはこういった綺麗な傷を治すのは得意だった。火傷や擦過傷などの広範な傷だと皮膚が再生するイメージがまだ掴みにくいので少し手間取るが、この傷のように切り離された組織を繋ぐだけのような場合は簡単に治すことが出来るのだ。

「はーい、治しますよー《ヒーリング》」

パトリシアの手を取り傷を両側から押して傷口を閉じると呪文を唱え、傷を癒す。
血液が体外に流れ出ないように制御しながら血液の流れを良くして再生に必要な物質を送り込み、傷ついた細胞を修復していく。最後に再生した細胞を周りの細胞に馴らして治療完了である。

「あら、綺麗に治すわねー。これなら合格よ、へたくそだったら自分でやり直そうと思っていたけど、これなら必要ないわ」
「ありがとうございます」
「じゃあ次、クリフね?同じようにやってみて」
「はい!」

また同じように傷を付けてクリフォードの前に手を差し出すが、クリフォードがいくら呪文を唱えても治る気配はなかった。

「治らないわね?なんでこんな簡単なことが出来ないのかしら・・・」
「先生、兄さんは風メイジなんだから、水の扱いを教えなかったら治る道理はないと思うのですが・・・」
「あら?そういえばクリフは水魔法習うの初めてだったわね。ウォルフが簡単に治すから先生勘違いしちゃったわ」

そういうと自分で傷を治し、『凝縮』から教えるのだった。



 翌日の夕食時、一昨日よりも更に機嫌の良いフアンがウォルフに切り出した。

「ウォルフよ、喜べ。オルレアン公がお前を教えるために我が領へ寄って下さることになったぞ」
「ぶっ!・・・オルレアン公ってガリアの王族じゃないですか!」

王族も王族、王位継承権こそ第二位だが、多くの貴族や国民が次王へと期待している人物である。

「本当でございますか父上!本当なら受け入れる準備が色々と必要になりますが」
「もちろん本当だ。来週のユルの曜日に御家族揃って竜籠でお越しになる。レアンドロ、お前を歓迎の責任者に任ずる。必要な物、人員の手配は任せた、しっかりやれよ」
「ら、来週ですか・・・かしこまりました。直ちに準備に入ります」

そう言うとレアンドロは食事途中にもかかわらず出て行ってしまった。

「ふん、せっかちなヤツよ。それにしてもウォルフよお前でも驚くこともあるんだな。ワッハッハッ何を驚くことがある、お前が望んだ『遍在』が使えるメイジだぞ!喜べ!ワッハッハッ」
「いや、私なんかを教えにガリアの王族が来るなんて聞いたら驚きますって。『遍在』が使えるからって何でいきなりそんな大物に」
「まあ、それだけが目的じゃないがな。オルレアン公の息女、シャルロット様というのだがティティアナと同い年でな、友達にどうかと誘ってみたんだ」
「ああ、それなら・・いや・・・うーん」
「ティティの友達?」

急に自分の名前が出たのでティティアナが口を挟む。

「ああ、シャルロット様と言うんだ。同い年だからな、仲良くするんだぞ」
「うん!やさしい子だといいな・・」
「心配いらん、シャルロット様は大変お心の優しい子だと評判だ。あとウォルフ、オルレアン公はお前にも興味を持たれたようだ。しっかりと応対するのだぞ」
「興味って・・なんて伝わっているんですか?」
「ん?六歳にしてスクウェアの爺を倒す、期待の孫だと自慢しといたわ」

ワッハッハッと楽しげに笑うフアンに対し、どんどん大きくなる事態に戸惑ったウォルフは苦笑いを浮かべるしかできなかった。



 それからの一週間は魔法漬けになった。シャルル様に無様なところは見せられん、ということでウォルフはフアンに徹底的に鍛えられた。

 さすがに最初から本気のフアンは付け入る隙を見せず、圧倒的な魔力量で押してくる。
力押しのフアンに対してウォルフが技術で対抗する、という構図でいつも時間切れまで魔法を撃ち合った。
なるべく隠し技は使わないようにしていたので、使ったのは『マグネシウム・ブレッド』というオリジナル魔法だけだったが、何とか対等に渡り合い、フアンの攻撃を凌ぎきった。
この魔法は追い詰められたときに目くらましに使った。土の魔法『ブレッド』の変形で、マグネシウムの粉末と酸化剤を大きめの弾丸の形に固めて打ち出す魔法である。
ほっといても燃え出す代物ではあるが、ご丁寧にもフアンが炎の玉で迎撃してくれたのでその瞬間に激しい閃光を放ちフアンの視界を奪ってくれたのである。
フアンは祖父の意地として一度はウォルフを燃やしたいらしくムキになっていたが、一番追い詰めたときに『マグネシウム・ブレッド』で逃げられてしまい、燃やしそびれて悔しそうにしていた。非道い祖父である。
時折覗きに来るレアンドロや家臣等は、本当に六歳児がフアンと対等に渡り合っているのを見て目を丸くして驚いていた。
魔力量は明らかにフアンの方が多い事は見ていても分かるので、それでも飄々として撃ち合っているウォルフに涙を流して感動する者もいる程であった。
家臣の間でのウォルフの人気は鰻登りで、元々エルビラの息子と言うことで丁寧な扱いではあったのだが、今や貴人に対するような対応である。

 クリフォードはほぼずっとパトリシアにマンツーマンで個人授業をしてもらっていて、とても幸せであった。
いまや『凝縮』から『ヒーリング』、『水の鞭』まで使えるようになり、風から水へとクラスチェンジ出来ちゃうかな、などと考えていた。

「明日は何の授業かなあ・・・また杖の振り方教えてくれるかなあ・・・」

パトリシアの柔らかい体に後ろから抱きかかえられて杖の振り方を教えられたときのことを回想するクリフォード。
オルレアン公が来たらフアンの猛特訓が全て自分に向けられることに、まだ彼は気付いていなかった。




1-18    最強の風



 ユルの曜日ラ・クルス領ヤカの街はお祭り騒ぎになった。

 街道にはガリア王家の旗とラ・クルス家の旗にオルレアン公家の旗が並び、楽団が街を練り歩いて音楽を演奏した。
城の倉を開け小麦とワインを配り、直営農場の牛を丸焼きにして振るまったので、人々は街の広場に繰り出し飲んで唄い踊った。
やがてオルレアン公家の竜籠が見えると祭りは最高潮に達し、人々は小旗を振り祝砲が大空に鳴り響く。
それを城から眺めていたウォルフだったが、彼は感心していた。

「レアンドロ伯父さん結構やるじゃん、これ以上なく歓迎の雰囲気が出ているよ」
「だからウォルフ、なんでお前は俺たちの伯父上にまでそんな上から目線で物が言えるんだ」

ウォルフは独り言のつもりだったが、横からクリフォードの突っこみが入った。

「だってほら、レアンドラ伯父さんってちょっと頼りないムードがあるじゃん。こんなに実務能力が高いなんて初めて知ったよ」
「まあ、確かに良い雰囲気だけどね」
「あのオルレアン公家の旗をこの短期間にあれだけ揃えるだけでも相当大変だろうし、倉を開放する決断力、そしてこれだけの組織をスムースに動かす統率力。どれを取っても大変な物だよ。ラ・クルス伯爵家は当面安泰だね」
「ふーん」

クリフォードにはよく分からないようであったが、周りで聞いていた家臣達はうんうんと頷いていた。
自分が尊敬する人物に主君を褒められることは嬉しいことである。
そうなのだ、自分たちの主君になる人はちょっと情けないだけで、決して無能なわけではないのだ。

 そうこうしているうちにヤカの町の上空をゆっくりと飛んできた竜籠が城に降り、籠が開いて中から青髪の美丈夫が出てきた。オルレアン公シャルルである。
わあっと家臣の間から大きな歓声が上がる中、妻とその娘も続けて出てくる。どちらもやはり青い髪だ。

「やあ先生、誘いを受けて参りました。温かい歓迎に感謝します」
「ヤカの街へようこそ!シャルル様。どうか寛いで楽しい時をお過ごし下さい」

暫くそれぞれ挨拶が続き、漸くウォルフとクリフォードが呼ばれた。

「シャルル様、こちらが話しておりましたエルビラの息子達で兄がクリフォード、そして弟がウォルフです」
「初めまして、シャルル様。クリフォード・マイケル・ライエ・ド・モルガンです」
「初めまして、ウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。よろしくお願いします」
「やあ、初めまして。僕はシャルルだよ。ここにいる間はただのシャルルで過ごそうと思うんだ」

緊張の中何とか初顔合わせをすませたのであった。



「はー、シャルル様すてきだったわねー・・・あんな近くで初めて拝見したわ」
「拝見って、パティ先生シャルル様は物じゃないんだから」
「ふーんパティ先生はああいうのが良いんだ・・・」

 夕食までの短い間をウォルフとクリフ、パトリシアの三人でお茶をしていた。
この後はパーティーで近隣から貴族が集まってきている。今日ここに来るのがほぼラ・クルス派と考えて良い勢力である。
ちなみにフアンはパーティーに参加する貴族に対して、シャルルの負担を減らすためパーティー以外での面会を求めたりしないように言い渡していた。自分は孫の面倒を見させようとして呼んだ割には良い態度である。

「パーティーでアタックして愛人狙っちゃえば?パティ先生結構いけてるし、目はあると思うよ」
「えー、私なんかが、そんな・・・」
「お前、先生に碌でもないこと吹き込んでんじゃねーよ!」

パトリシアは頬に両手を当てて、いやンいやンと体をくねらせているが結構その気がありそうだ。
ほんわーっとピンクの靄が掛かった様子のパトリシアにクリフォードは気が気じゃないようである。

「あー、やっと見つけたー。リフ兄、ウォル兄こんなとこにいたんだ」

そこにティティアナが現れ、声を掛けた。青い色の髪の毛をした小柄な少女を後ろに連れている。

「おうティティ、あれ、シャルロット様かい?もう友達になったの?」
「うん、シャルロットより私の方が三ヶ月お姉さんなんだよ。ほらシャルロット、挨拶」
「う、うん。シャルロット・エレーヌ・オルレアン、五歳でちっ・・・・」
「あ、噛んだ」
「噛んだな」
「・・・・」

涙目でこちらを上目遣いに見る幼女。まさに萌えではあるが、今は泣き出さないようにフォローが必要であろう。

「やあ、シャルロット様。あらためましてだけどオレはウォルフ、六歳だよ。そっちが兄のクリフォード十一歳、よろしくね?」
「・・・うん」

泣き出さずにはすんだようだ。舌は大丈夫?と尋ねるとチロッと出して見せた。赤くはなっているが出血はしていなかった。

「ウォル兄達何の話をしていたの?」
「パティ先生がシャルル様の愛人になれる可能性について検討しておりました」
「ちょちょっとウォルフ、君何言い出してんのよ!そんなこと話してなんかいないからね?」

いきなりシャルルの娘の前で暴露され、全力で否定するパトリシアだったが、シャルロットの目は彼女の頬が赤く染まっているのを見逃さなかった。
パトリシアの前に進み出てキッと睨みつける。

「な、何?・・・」
「愛人、ダメ、絶対」

五歳児に心底軽蔑した目で睨みつけられ、がっくりと両手をついて倒れ込んでしまうパトリシアだった。
さすがにそんなパトリシアを哀れに思ったウォルフがフォローする。

「あの、シャルロット様、パティ先生もそんな、本気で愛人になりたいって言ってたわけじゃないんだよ。女の子が物語の中の王子様と結ばれたいっていうような淡い思いだったわけだから、そんなに怒らないであげてくれるかな」

目を見つめて、わかる?と尋ねるとこくりと頷いてパトリシアの方に向き直り「許す」とだけ言った。
そしてまたウォルフに向き直り、「シャルロット」と言う。

「え?何のこと?」
「シャルロットって呼んで?」
「ああ・・・分かったよ、シャルロット。・・・これでいい?」
「うん、私もウォルフって呼ぶね!」

ニコッと人懐こく笑ってくる。王族と言ってもシャルロットは人懐こい普通の子供だったのですぐに仲良くなれた。
パーティーではウォルフは食べまくった。ガリアに来てからは魔力を使い切ったりはしていないのでそんなに食べなくても大丈夫そうな物だが、もう習慣になってしまっているので食欲の赴くまま料理を平らげた。
そのウォルフの横ではシャルロットが勝るとも劣らぬ勢いで皿を積んでいた。なぜか大食いな彼女は日頃外で食べるときは幾分セーブしているのだが、今日は横にウォルフがいるためついつい張り合うように食べてしまっていた。

「やあ、僕のお姫様。そんなに食べちゃってお腹は大丈夫かい?」
「あ、父様。うん、まだ平気」

 シャルルに話し掛けられ辺りを見回すと、自分の周りに積み重ねられた皿と唖然としてこちらを見つめる大人達が目に入った。
ちょっと食べ過ぎたかな?とも思ったが、横を見るとウォルフの周りにも同じくらいの皿が積み上がっていたので安心した。

「うちのお姫様もよく食べるけど、君も相当食べるね、ウォルフ」
「育ち盛りなのですよ」

ねえ、とシャルロットに同意を求めると彼女も恥ずかしそうに頷いた。

「どんどん食べてはその分大きくなるって言うのかい?その分じゃ君たちは相当大きくなりそうだね」
「よしシャルロット、お父様の許しが出たぞ、二人で身長二メイル体重四百リーブルの巨漢を目指そう!」
「うぇ?わたし、そんなに大きくなっちゃうの?」

思わずシャルロットのフォークが止まる。体重四百リーブルはいやみたいだ。
身長二メイルの自分を想像してみる。想像の中で頭身はそのままなのでなんだか凄いことになってしまう。

「はっはっは、シャルロット、気をつけないと本当にそんなに大きくなっちゃうぞ?」
「ご、ごちそうさま!」

慌ててフォークを置くシャルロットを見て辺りは明るい笑い声に包まれた。
シャルルはちょっと所在なげにしているシャルロットを抱き上げ、ウォルフに向き直る。

「君は中々面白い子だね、ウォルフ。シャルロットと仲良くしてくれて嬉しいよ」
「シャルロットは素直で可愛い子ですね」
「そりゃそうだろう、僕のお姫様だからね」

そこから暫くシャルルの娘自慢が始まるのだが、ウォルフは大人しく聞いておいた。
シャルルによるとシャルロットほど美しく可憐で清純な存在はハルケギニアにはいないらしく、シャルロットの存在を感じるだけで彼の心は癒されるそうだ。シャルロットはちょっと恥ずかしそうにしている。

「ところでウォルフ、君は『遍在』の使える教師を希望してたそうだが、それはどういう理由からだね?君くらいの年ならば焦ってスクウェアスペルを学ぶ必要はないと思うのだが」
「"バルベルデの実用・風魔法"という本があります。そこに『遍在』についての詳しい考察が載っていたので興味を持ったのです。仰る通り私はまだ幼いですので今はまだ興味の向くままに学ぼうと思っていまして、両親や祖父にもその方針を支持していただいています」
「そ、そうか。そうだよな、君くらいの年で色々なことに興味を持つことは良い事だな、うん。」
「はい、私は火のメイジですし、すぐに『遍在』が使えるようになれるとは思いませんが、見てみたかったのです。そのせいでシャルル様にはご迷惑をおかけしたようで、申し訳ございませんでした」
「いや、君が気にするような事じゃないよ。そうか、うん、明日『遍在』を見せてあげよう。自慢じゃないが僕程の使い手は中々いないからね、楽しみにしておいてくれ」
「はい!ありがとうございます」
「父様、シャルロットも見たい!」
「シャルロットも見たこと無かったかな?いいよいいよ、おいで?」
「うん!」



「さあ、ウォルフ。これから『遍在』を見せる訳なんだけど・・・」

 翌朝いつもの裏庭に集まったウォルフ達だったが、シャルルは苦笑いして周囲を見回した。
周囲にはラ・クルス家の者は元より、その家臣など見物人が数十人も取り囲んでいて、裏庭を見渡せる窓にはメイドが鈴なりとなり、皆固唾を呑んで見守っていた。

「いや、なんか重ね重ねすみません・・・・」
「ああ、だから君は気にしなくていいって。僕も王家の者だからね、見られるのが商売みたいなもんだ」
「みんな王族の方を初めて近くで見たみたいなんで、舞い上がってるんですよ」
「ははは、君はあまり変わらないみたいだね」
「私はアルビオンの者ですから」
「まあ、それだけじゃないと思うけど。じゃあそろそろやろうか。シャルロット!もっと近くにおいで」

ティティアナと一緒にラ・クルス家に混じって見ていたシャルロットを呼び寄せ、ウォルフと並ばせた。
シャルロットは大勢に注目されてしまい恥ずかしそうで、ウォルフの服の端をキュッと握った。

「あの、シャルル様『ディテクトマジック』を掛けてもよろしいでしょうか?『遍在』の生成過程を特に詳しく観察したいのです」
「ああ、好きにしなさい。・・・いいかい?これが最強の風魔法と言われる『遍在』だ・・・《遍在》!」

ウォルフが『ディテクトマジック』を掛けるのを確認し、呪文を唱えるとシャルルが分離するように見え、服装から何から全く同じシャルルが二人並んだ。
観客達からはどよめきが響き、シャルロットは目を丸くして二人になった父親を見つめた。

「父様が二人・・・」
「「吃驚したかい?シャルロット」」

シャルルが二人、シャルロットに近づくと片方が抱き上げ、もう片方が顔をのぞき込みその頬を指で突ついた。
目を見開いたままのシャルロットはしきりに首を振って両方の父親を見比べた。

「どうだいウォルフ、何か分かったかい?」
「はい、シャルロットを抱き上げている方がご本人ですね?これは・・・『遍在』の維持に魔力は必要ないみたいですが、魔力的な繋がりは感じます。二人が全く同じ、と言うわけではないのですね」

ウォルフが『ディテクトマジック』で見た『遍在』は精霊のような魔法生命体に近い物だった。
水の精霊のように、陽子と中性子とで構成される原子核まで普通の物質と同じ構造というわけには行かなかったが、無数の風の魔力素を中心においた分子のような物で構成されており、すでに物質としての質量まで有していることが分かった。
通常魔力素は質量を持たないが、気体から固体へと相変化するように質量が無い状態から質量を有する状態へと変化しているのだ。

「そこまで分かるのか。この状態で何か魔法を使って見せようか?」
「是非!お願いします。出来れば同じ魔法をそれぞれ別々にやってその後同時にやってみて欲しいです」
「ああ、いいよ。えーっと何をやろうかな・・・」
「あ、今的を作りますから、そちらに何か攻撃魔法でもぶつけて下さい」

そう言うとウォルフは呪文を唱え、少し離れた場所に三体のゴーレムを出した。
土で出来たそれはトロル鬼を模していて、五メイルもある体の大きさからその作り、大声を上げながら威嚇してくる様など本物そっくりであった。
その迫力に思わず女子は悲鳴を上げ、メイジである家臣は杖を抜いて構える程であった。

「やあ、あれが的か!なるほどやる気が出てくるな」

トロル鬼のゴーレムはうろうろとそこらを歩き回り、両手で地面を叩き付けてはこちらを威嚇して吼えた。
シャルルは怯えてしがみつくシャルロットの頭を撫でながらゴーレムに向き直り杖を構えた。

「《ウィンディ・アイシクル》!」

空気中の水分がキラキラと凍り付いたかと思うとそれが幾十もの矢となりゴーレムの体を貫いた。
ぼろぼろと崩れ落ちるゴーレムに観衆からはどよめきに似た歓声が起こる」
更に次は『遍在』で、その次は二人同時にと注文通りに魔法を放ち、全てのゴーレムを土塊に戻した。

 今度こそウォルフは感動した。
ウォルフの理論では、系統魔法はまず自分の体内に魔力素とウォルフが呼ぶ魔法の元となる粒子を取り入れ自分の制御下に置き、自分の意志を伝える媒体、魔力(=精神力)と呼ばれる状態でため込む。
そしてその魔力を杖を通して放出し、それを核にして周囲の魔力素に関与する、というものである。
それがこの『遍在』は体や杖だけではなく"ため込んだ魔力"まで周囲の魔力素を使って作ってしまっているのだ。
つまりバケツに水を汲んでその水を使っているのが、その汲んだ水でバケツを作りまたそっちでも周囲の水を汲んで使える、と言うイメージだ。
本体の魔力が『遍在』を出したときにごっそりと減ってしまっていて、『遍在』も減った段階でのコピーみたいなので、周囲に魔力素がある限り無眼に使える、と言うわけではないみたいだが大いなる可能性を感じさせる魔法である。

「感動しました。魔法の威力・スピードとも全くの互角ですね。少なくとも魔法を行使する上では『遍在』は本人と全く同じ存在と言っても良いでしょう」
「全く同じじゃないのかな?少なくとも僕には違いが感じられないんだが」
「思考は全て本人の方で行っていますね。『遍在』にあるのは得た情報を本体に送る機能と反射機能だけです」
「そ、そうなのかな、僕にはそうは感じられないんだが」
「綺麗に分割思考をしていますので間違いないです。本人の制御を全く離れ完全に自立した『遍在』を作れますか?」
「いや、そんなのは『遍在』じゃないな」
「『遍在』で『遍在』を出せますか?」
「試したことはあるけど出来なかった」
「遍在を出せるのは六人までですか?」
「えっ!よく分かるね」
「消費した魔力量から類推しました。ありがとうございます、知りたいことはこれでほぼ全て知ることが出来ました」

そう言うとウォルフは深々と礼をした。本当に感謝していたし、自分なんかのためにこんな見せ物になってくれたシャルルの人の良さに驚いてもいた。
そんなウォルフの様子をじっと見ていたシャルルがやがて口を開いた。

「もういいのかい?さっきのゴーレムもそうだけど君は本当に六歳には思えないね。魔法研究所に捕まった幻獣の気分になったよ」
「あ、いえ、申し訳ありません。つい興奮して不躾な態度になってしまいました」
「ははは、冗談だよ。それでどんなことが分かったんだい?」

そう問われてウォルフは自分の考えを説明した。しかしそれはシャルルの理解を得ることはできなかったようだ。
元々魔力素という考えが無く、全て自分の精神力で現象を起こしていると思っているハルケギニアの人間であるため、仕方ないとも言える。

「うーん、聞いたことのない理論だね。間違っているとも言えないけど・・・ その理論なら君も『遍在』を出せるのかい?」
「いえ、必要な精神力が私には足りないので無理だと思います」
「試してご覧よ、今度は僕が『ディテクトマジック』で見ていてあげよう」

そう言うと腕の中のシャルロットを『遍在』に渡す。
父から父へと手渡されシャルロットはかなり戸惑っていたが何とか大人しくしていた。まだ双方を見比べている。

「分かりました。では、気合いを入れてやってみましょう・・・遍く在る風よ、我に集いて容をなせ!《遍在》!」

ウォルフのすぐ隣に『遍在』が現れ周囲がまた大きくどよめくが、その『遍在』はすぐに消えてしまった。
ああーっという落胆の声に包まれるが、ウォルフ本人はさほどがっかりした様子はなかった。

「やっぱり出来ませんでしたね。精神力を相当持って行かれました。もし出来たとしてもこんなに消費してはメリットが少ないです」
「いや、もうちょっとだったじゃないか!火のトライアングルが『遍在』を出せるとしたら凄いことだよ!もう一回やってみないかい?すぐに出来るようになりそうだ」
「すみません、シャルル様。もう精神力が殆ど無くなってしまったので出来ません」
「そうか、いや残念だ。本当にもう少しだったんだが・・・」

本気で悔しがっている様子のシャルルをいい人なんだろうな、とは思ったが、そんなんで王族としてやっていけるのか少し心配にもなった。
最後にシャルルの『遍在』を消すところを観察させて貰って講義は終了し、広場は拍手に包まれた。


 その日の午後は皆で川に出かけて遊び、翌朝オルレアン一行は自領へ帰っていった。

 帰りの竜籠の中でシャルルは考える。あの少年は何故あんなに朗らかなのか。
あの幼さであれほどの魔法の才を持ちながらどこか突き放したような態度。
伯爵によると魔法のことを"有ると便利"とまで言ったという。
自分は違った。同じように天才と言われながらも兄に勝つために力を欲し、遮二無二魔法の練習を繰り返した。
手に入れた力をどうしようなどと考えたこともなかった。
『遍在』にしても今使う必要がないからと特に急いで習得する気はないみたいである。自分が新しく使えそうな魔法を見つけたときは、それこそ倒れるまでひたすら杖を振ったものなのに。
そう言えば兄もあれはど優秀な頭脳を持ちながらそれに執着する風もなく、淡々としていた。その姿が何故かウォルフと重なる。
持って生まれた才能か努力の成果か、力を得ることは出来た。しかし今、自分はブリミル様の祝福を受けているんだという自信がガラガラと音を立てて崩れていく様な気がした。

 ふーっと息を吐き座席にもたれる。妻はさっきから気遣って話し掛けては来ない。

「父様、どうしたの?具合、悪いの?」
「ああ、シャルロット心配要らないよ。ちょっと考え事をしていただけさ。彼は何であんなに自由なんだろうってね」
「??」

また一人考え込む。

 どうして僕はこんなに自由じゃないんだろう。
いっそ彼を憎んでしまいたいとすら思う。大国ガリアの王子に生まれた僕が、何故こんな思いをしなくてはならないんだ。


 もしこれでこのまま兄さんがガリアの王に選ばれたら、僕の人生は一体何だったと言うんだ。




1-19    水中・・・



 その週はその後特に何もなく、ウォルフはパトリシアに水魔法を習って、クリフォードは地獄の猛特訓をして過ごした。
途中風のトライアングルのメイジが教師としてリュティスからやってきたが、ウォルフに簡単にのされてしまいすぐに帰っていった。
フアンももう諦め気味で、もう一度紹介所に怒鳴り込んだきり放置していた。

「う゛あーっっ疲れたー・・・・いたたたた」
「ほら兄さん、オレの練習台なんだから動かないで」
「そうは言っても、もっと優しく脱がしてくれよ、火傷が服に擦れるんだよ!」
「やさしくしてね、なんて男に言われたって嬉しくねえ!大人しくやられちまえ、《ヒーリング》」
「いたたたた」

手加減はしているようだがフアンの特訓であちこちに火傷を負ったクリフォードをウォルフが治すのが日課になっていた。
火傷を治すには軽度のものなら体内の水を流して表皮の細胞を修復するくらいで良いのだが、重度の物になると真皮まで再生しなくてはならないので大変なのだがクリフォードのおかげで大分なれてきた。もっとひどい皮膚全層や筋肉組織にまで達する火傷を治してみたいとちょっと思っているのはクリフォードには内緒だ。

「はいおしまい、焦げた服とかは自分で片付けときなよ」
「うわー、この全身の疲れも取ってくれー」
「それ魔法で治しちゃうと筋肉が超回復しなくなるからダメ。折角訓練受けたのに意味無くなっちゃうよ」
「なんだよ超回復って」
「負荷を受けた筋肉が受ける前以上に回復しようとする現象のこと」
「じゃあ、魔法で超回復してくれー、お前だけ毎日パティ先生でずるいぞー」

 何時までもぐだぐだしているクリフォードを放っておいて風呂に向かう。
ここの客人用の風呂はサウナ風呂で、地下で熱した石の上に香草を何重にも敷き、その上から水を掛けて蒸気を発生させて浴室に満たす物だった。
浴室と水風呂を何度か往復し、その合間に垢を擦り落とすのだが、何故か半裸のメイドさんがやってくれるのがちょっと恥ずかしかった。
去年家族で入ってた時はそんなことはなかったので子供向けのサービスかも知れないが、もしこれがなかったらクリフォードは今頃逃げ出していただろう。
脱衣所に入ろうとしたところで反対側から来たパトリシアと鉢合わせした。

「あれ?先生も風呂?」
「こっちのお風呂入ったこと無いから試してみようと思って。一緒に入ろ?」
「うん、サウナ式だからね、入り方教えてあげるよ」

 一緒に浴室に入り、汗を流す。メイドが垢擦りに来ても悠然としてさせているパトリシアは、もしかしたらいいとこのお嬢さんなのかも知れない。あらためて見てみると薄い水色の髪にどこまでも白く美しい肌、柔らかな美貌に品のある所作は伯爵家の家庭教師をやる様な家柄には見えなかった。

「あーっ、気持ちいいわねーこれ。嫌なことが全部吹っ飛んで行くみたいだわー・・・明日も来ようかしら」
「パティ先生脳天気そうなのに、嫌なこと有るんだ」
「脳天気とは何よ、失礼ね。大人の女には色々とあるのよ」
「ふーん、何で先生なんてやってんの?」
「あら、私が先生やってちゃいけないって言うの?」
「いけないとは言わないけど、パティ先生やる気無いじゃん。授業も俺が言うまま教えてるだけだし、授業計画とか作ったこと無いだろ?メイジとしては凄く優秀なんだから何で向かない仕事しているのかなって思ってたんだ」
「やる気無いって、そりゃ、無いけど、そんなはっきり言わなくたって。あなたオブラートって知ってる?」
「あはは、認めてるし。親の決めた結婚が嫌で逃げてきたって感じ?」
「うっ・・・あなた本当に顔と違ってかわいげがないわね。そんな可愛くない子はこうしてやる!」

素早く手を伸ばしてウォルフを捕まえると小脇に抱え、頭をぐりぐりとなで回した。

「ほーら、こうすればウォルフも良い子、良い子」
「ちょっ先生っここサウナ・・汗っ・・汗臭っ」

一度体を流したとはいえサウナである。裸で抱きしめられればニュルニュルと汗ですべるし、成熟した女の体臭がガツンとウォルフの後頭部を刺激した。

「うふふふ、こんないい女に抱きしめられて臭いとは失礼ねー。お子ちゃまにはまだ女のフェロモンが理解出来ないのかしら。良い子、良い子」

暫くウォルフは抵抗していたのだがやがてぐったりと動かなくなった。何せサウナの中である。
パトリシアは漸く満足してウォルフを抱きかかえたまま水風呂に移動した。

「ぷはー、生き返る」
「女はね、多少秘密があった方が魅力的なのよ。・・・私はね、どんなに金持ちだろうと五十過ぎのおっさんの後添えになる気なんて無いの」
「別に逃げたのが悪いなんて言ってないだろ。授業内容が悪いって言っただけで」
「まだちょっと可愛くないのかしら?・・・クリフだって水魔法使えるようになったじゃない、授業だって悪くないわよ」

手をわきわきとさせながら近づいてくるパトリシアから距離を取って逃げた。

「・・・授業中に出来るようになったこと無かっただろ。どんだけオレが補習させられたと思ってんだ」
「え?ちょっとそれ本当?」

頷くウォルフを見て本気でショックを受けている。実は自分ではうまいと思っていたらしい。
もう上がろうとしたウォルフの足を掴んで水風呂に引き戻す。

「うわっぷ!・・・何すんだよ、危ないなあもう」

丁度片足を掛けて上がろうとした時に反対の足を引っ張られたウォルフは見事に水中に落っこちてしまい、立ち上がると抗議した。

「ね、ね、どの辺が良くないって思うの?私としては結構分かってもらっていると思ってたんだけど」
「基本的に全部。魔法にだって原因があって過程があって結果があるのに、パティ先生は結果しか掲示しない。オレはもう自分の理論を持っているからそこから推測していくことも出来るけど、普通の子供には無理だろう。ただ魔法を見せるだけなら大道芸と一緒だよ」
「全部ってそんな、原因って何よ魔法ってのはイメージが大事なのよ!」
「イメージ出来たことが全て魔法で実現する訳じゃないだろう。イメージと世界とを合わせることが必要なんだ。あなたやお爺様はそれが最初から感覚で出来たんだろうけど、そんなに世界に愛されている人ばかりじゃないよ。どういうイメージを持っていて何故出来ないのかを把握するのが教師の仕事なんだ」

 こうして考えてみるとカールは相当優秀な教師だと思う。いつも『ディテクトマジック』を掛けて魔力の流れを把握し、どんなイメージで魔法を使うのかを把握しようとしていた。
パトリシアは全くそんなことをしようとはしなかったし、この間来た風のメイジなんかは酷かった。
「グッと構えて、ガッと睨んで、バッと呪文を唱えるのです。さすればその威力あたかもスクウェアの如し、これグガバの法則なり」とか言ってくるもんだからつい手加減を忘れて叩きのめしてしまった。

「な、何よ、どうせあなたも最初から出来たんでしょ!」

パトリシアはウォルフの指摘を受け入れることが出来ないで何かもう涙目になっちゃっているが、ウォルフはここまで来たら全部言っちゃおうと決めた。

「オレは最初は苦労したけどね。『ロック』なんて覚えるのに二週間も掛かったし。でもそれは今関係ないだろ、先生が自分が出来たことを他のみんなも出来て当然と思っていることが問題なんだ」
「そ、そんなこと思ってなんか・・・・」
「ふぅ・・・考えたことさえなかったって感じかな?それに、平気で兄さんに何が解らないのかしら?とか聞くだろ?あれは最悪だよ。それを把握して分かるように教えるのがあなたの仕事だってのに、相手に聞いてどうすんだよ。何が解らないのか自分で分かってたらすぐに出来るよ」

教師要らないだろう、と続けるウォルフを前についに涙が零れる。
全裸で水の中で叱られながら、必死に涙をぬぐうパトリシアを見ているとさすがにウォルフも気の毒に思ってくる。何でこの二十一歳の美女はこんなところで六歳児に説教食らっているのか。

「とにかく、腰掛けのつもりだろうと無かろうとここが終わってもまだ教師を続けるつもりなら、『ディテクトマジック』を掛けて、魔力の流れを把握して、生徒がどんなイメージで魔法を使うのかは把握するべきだ」
「『ディテクトマジック』っかければっ、分かるように、なるっの?」

水中全裸説教という単語が頭に浮かんでしまいこっちも泣きたくなる。

「少なくとも、どの時点で魔法が成功しなかったのか分かるようにはなるでしょう。見てるだけじゃ分からないはずです」
「うん、今度から、やる」
「さあ、もう上がりましょう。いくら夏とはいえ風邪ひいちゃいますよ」

パトリシアの頭を撫でてあげて一緒に風呂から上がった。

 体を拭いて脱衣所で着替えていると背後から呼びかけられた。
振り向くとパトリシアはまだ着替えておらず、腰に両手をあて、足を踏ん張り仁王立ちしてウォルフを見下ろしていた。勝ち気そうな鼻がツンと上を向いている。

「ウォルフ、私決めたわ!立派な教師になるの。あなたを見返してやるんだから!」
「そ、そう。でもこの身長差でそんな立ち方すると色々と見えちゃってますよ?」
「・・・・・キャッ!」

急に恥ずかしくなって後ろを向いたパトリシアにウォルフも背を向け「まあ、期待してます」と、声を掛けた。

 脱衣所から出ると壁にもたれて歩くクリフォードがいた。
脱衣所から揃って出てきた二人に目を丸くしている。
パトリシアは恥ずかしそうに顔を逸らすとあっという間に走り去ってしまった。

「何なんだよ!お前パティ先生に何したんだよ!」

水中全裸説教、とは言えなかった。



 
 その夜クリフォードは厳しく追及した。

「だから、授業の仕方についてちょっと意見してパティ先生がそれでやる気を出しただけだよ」
「それで何であんなに恥ずかしそうにしてたんだよ、意味わかんねーじゃねーか」
「ああ、あれはオレの眼前でマッパで仁王立ちになって、色々見えちゃったから恥ずかしがってただけだよ」
「ちょっ・・・お前何うらやま・・ゲフンゲフン・・・」

慌てて漏れた本音をごまかすクリフォードだったがウォルフの目は冷たかった。

「兄さん」
「何だ、弟よ」
「兄さんって今十一歳だよね」
「何を今更」
「ちょっと早くない?」
「何が?」
「女の人に興味を持つのが」
「な、な、な、お前、なーにを言っちゃってんだぁー」

何か妙な訛りで叫ぶクリフォードだった。
「俺は先生を心配して」とか「そもそもお前が上から目線で」とか言い募るのを無視して告げる。

「直接パティ先生に聞けばいいじゃん。明日も風呂に来るようなこと言ってたし」
「え・・・・・」

 とたんにそわそわと落ち着きの無くなるクリフォード。色々と丸わかりな男である。
現在、性欲からは全く切り離された存在であるウォルフは、男ってこんなに頭の悪そうな生き物だったかな、と呆れていた。



 翌日、朝食を取り終わったウォルフの元にパトリシアが訪ねてきて紙の束を手渡した。ガリアでは紙が生産されている。

「ねえ、ウォルフ。クリフの授業計画ってのを作ってみたんだけど、見てくれない?」
「うん、いいよ。本当にやる気になったんだ」

いきなり一晩でえらい変わり様のパトリシアに多少面食らいながら受け取る。
見ると結構緻密に計画が立てられていて、彼女が時間を掛けて計画を立てたことが分かった。

「ふーん、結構考えてるね。これはこっちの後に教えた方が良いと思うね」
「ふんふん・・・」

パトリシアの前で軽く添削してみると、聞く気があるみたいなので続ける。

「ここの練習時間は反復が大事だからもっと時間を取るべきだよ、兄さんの場合だとこの倍くらいだな」
「そうなんだ。当然『ディテクトマジック』はずっと掛けているのよねぇ」
「もちろん。それを元にアドバイスをしてあげるんだから。後ここの杖の振り方練習は要らないな」
「うんうん、えっ?なんで要らないのよ。振り方は大事よ?」

クリフォードが一番楽しみにしている時間は無慈悲にもばさっさりと削られてしまった。
何故か杖の振り方に拘りを持って指導する教師は多く、その流儀も人それぞれでいろんな拘りがあるのだが、ウォルフが観察した結果振り方で魔法に差は出なかった。
カールに確認すると、魔法が伝えられて以来ずっと研究されているテーマではあるのだが、未だ結論は出ていないし、カールから見ても振り方で差はないそうである。

「振り方で魔法に差なんて出ないよ。・・・六千年もいろんな人がいろんな振り方を、入れ替わり立ち替わり主張しているんだからそろそろ気づきなよ。今、流行っている振り方なんて二千年前にも流行っていたやつだよ?」
「ええ?本当に違うような気がするのよ?私の先生も大事だって言っていたし」
「だから、気のせいだって。どうしても差があるって言うのならそれを示すデータを出してくれ」
「データって何よ、そんなの無いわよ・・・」

パトリシアはショックを受けているようだが、ここハルケギニアでは科学の考え方がないためにこのようなことが本当に多い。
科学とは先入観と偏見を廃して観察し、推論を立て実験により論証するものだが、そもそもこの世界は先入観と偏見に満ちていた。
先入観と偏見、そして推論だけがそれぞれ独り歩きしているようなこの世界で、正しい知識というものは中々蓄積しなかった。

 パトリシアの先入観を取り除き、教えるときに注意する点を指摘し、心構えからクリフォードの魔法の傾向まで覚えさせる。
本来ウォルフのための時間なのだが、完全にパトリシアのための授業になってしまっていた。

「はあ、人に教えるって随分大変なのね、自分で魔法使う方が楽だわ」
「当たり前だよ。教育ってのは技術だから積み重ねる事が大事なんだ。目の前で魔法使ってはいおしまい、なんて教育とは言えないよ」
「むー、分かってるわよ、だから今勉強してるんじゃない」
「かなり泥縄だけどね。そんなに勉強する気があるなら、これあげる」

そう言ってどさどさと羊皮紙の束をパトリシアの膝の上に置く。

「これまで兄さんに教えた水魔法の補習と、その習得状況についてのレポート。それを読んで現状での問題点と今後の方針を明日までに纏めておいて」
「これ、こんなに・・・」

パラパラとそれを見てみると、これまで自分が教えたつもりでいた魔法がどのような過程を経て使えるようになったのか詳しく記されている。
また、風の魔法を使用したときとの魔力との比較など、かなり詳しい考察がしてあった。クリフォードの水の魔力は風の半分程度の出力しかないらしい。
その内容の濃さに、昨夜一所懸命に考えた授業計画が随分貧弱な物に思えてしまう。
羊皮紙を掴んだ手を握りしめ下唇をキュッと噛む。

「やるわよ、やってやるわよ、明日までね?」
「うん、がんばってね?オレは今日は自分の研究で森に行くから」

そう言うとウォルフはパトリシアを残し、最近時間が出来ると行っている森へ地質調査に出かけた。

 ヤカに来る途中で変わった地層を発見して以来ハルケギニアの地質に興味を持っていたので、時間が出来ると森に来て露頭を探し、地質を調査しているのだ。
森に限らず領内の至る所を調べた結果分かったことは今のところ以下の四つ。

・ここら辺の地質は古い
・火成岩ではなく堆積岩で地質的に安定している
・しかし割と最近大きな地殻変動があった
・新しい地層に火山灰の堆積が見られるのでどこかに火山があると思われる

 割と最近と言っても数万から数十万年前だが、恐らくこれが大隆起と言われるアルビオン大陸を浮き上がらせたという地殻変動なのだろうと推測する。
恐らくはホットスポットであろう火竜山脈が近くにあるのに、今のところ火山灰以外ではその影響は見あたらない。
いつかは火竜山脈に行って調べてみたいとは思うが、日帰りは無理なのでちょっと難しい。
残念なのは昨年発見した風石の痕跡がある地層がおそらくここらではかなり地下深くになってしまっていて、調べる術がないことだ。
『練金』で穴を掘って直接調べることも考えたが、此処にいる間、しかも授業の合間だけではとても出来そうになかった。

「うーん、もう出来ることはあまりないなあ・・・・」

今日調べたことを纏めながら一人呟く。
結局今日も新しい発見はなく、今までの調査結果を補完する事しか出来無かったので肩を落として城に帰った。



 ウォルフが森に出かけた後、パトリシアは城の中庭に面したベランダにあるテーブルでウォルフに出された宿題に取り組んでいた。自分にあてがわれた部屋の机は化粧道具などで散らかっていたので、広いテーブルのある此処でしているのだ。
テーブルの上にはウォルフのレポートが広がり、今はメイドに用意してもらったお茶を飲みながらクリフォードの魔法の問題点について纏めているところだ。

「おや、パトリシア先生こんなところで調べ物ですか?」

たまたま通りかかったレアンドロが声を掛ける。

「いえ、今後の授業の方針をちょっと纏めておりましただけですのよ、ホホホホ」
「へえー、ちょっとこれ良いですか?」

そう断りテーブルの上の資料を手に取り、その資料の詳しさに驚いた。
たしかパトリシア先生は来てからまだ十日程しか経っていないはず、それなのにもうこんなに生徒の特性を見極めているのか、と。

「パトリシア先生、凄いですね、こんなに生徒の事を考えて授業に臨む教師に初めてお会いしました。失礼ながら初めは適当そうな女性だな、などと思っていまして自分の不明を恥じ入るばかりです」
「・・・ホ・ホホホ」
「うーん、確かにこのレポートのように一人一人の特性に応じて授業を進めていけば、魔法を覚えるのも早そうだ!」
「・・・・・」
「これは是非うちのティティアナに魔法を教えるのも先生にお願いしたいものですな」
「あ、あの・・・」
「ん?」

何故か気まずそうな様子のパトリシアに気付き、怪訝に思う。ちょっと興奮気味ではあったが、特におかしな事は言っていないはずだ。

「実は・・・そのレポートは、私が書いた物じゃなくて、ウォルフがクリフを指導した時につけていた記録なんです」
「はあ?ウォルフ?」
「はい、私はウォルフに言われてそれを参考にした授業計画を今作っているだけなんです」
「・・・・・」

言われて絶句するが、まあウォルフならそう言うこともあるだろうかと思い直す。そう言えば適当な女性とか言ってしまった。

「あーまあ彼は特殊ですからな、先生も苦労していそうだ。お察しいたします」
「いえいえ、彼には色々ずばずば言ってもらって・・・」
「それは怖そうだ・・・・ははは」
「ええ、本当に・・・・」

レアンドロは気まずそうに去っていったがパトリシアは気にしない事にして続きに取りかかった。気にしたら負けだ。
いざ自分で指導することを考えると魔法の理論について自分でもあやふやに理解していたところがかなりあり、それをいちいち本で調べるため中々進まない。
時には本を読み込んでしまい気付くと時間が経っていたことも多かった。
それは夜になって自室に帰ってからも続き、風呂に入るのも忘れる程だった。

「見てなさいよウォルフ、今度は文句をつけさせないわ!」



 その夜、サウナ風呂に長時間入りすぎて気を失ったクリフォードがメイドによって発見された。








1-20    商い事始め



 翌朝、ウォルフはいつものベランダで椅子に腰掛けてパトリシアのレポートを読んでいた。
傍らにはパトリシアが腰に手を当てて仁王立ちしていた。

「どうかしら?出来は」

読み終えたウォルフにパトリシアが尋ねる。ツンと上を向いた鼻が、少し、緊張していた。
レポートをテーブルの上に置き、パトリシアにニコッと微笑んで答える。

「素晴らしい、よく勉強したね。パティ先生が書いたとは思えないくらいだよ」
「な、何よ、本当に私が書いたのよ?昨夜結構かかったんだから!」
「うん、分かってるよ。ほら、こことかここなんて先生あんまり良く理解していない風だっただろ?そう言うところまでちゃんと勉強し直しているみたいだから」
「・・・本当に人のことよく見てるのね」

パトリシアは恥ずかしそうに頬を赤らめ口を尖らせてはいるが、ウォルフに認められて嬉しそうである。

「今日は兄さん倒れて寝ているから、明日からこの通り授業すると良いよ」
「あら、クリフどうしたの?フアン様の授業がそんなに酷かったの?」

倒れていると聞いて眉をひそめる。もしウォルフにやっているような授業をクリフォードにもやっているとしたら大事になっているかも知れない。

「いや、そんな事じゃないよ、昨日先生風呂に来なかっただろ。兄さん一緒に入るのを期待してずっと風呂で待ってたみたいで、のぼせただけだから」
「何それ、そんなこと聞くと私入りにくいじゃない。ませた子ね」
「あはは、兄さんももうそんな年頃なんだねぇ」
「・・・ウォルフも、ませてはいるけど、そういうのはないの?」
「オレはまだ母さんやメイドのアンネといつも一緒に入っているしなあ。兄さん、母さんと入るのは恥ずかしがるんだ」
「まあ、あなたまだ六歳だしねぇ、そうか、クリフはお年頃か・・・」

ちなみにクリフォードは倒れたせいで祖母に当面サウナ禁止を言い渡されてしまい、落ち込んでいた。今日だって寝て起きたら元気になったのに祖母に一日寝ている様に言われている。
ウォルフも一緒にサウナ禁止にされてしまったのだが、どちらかというと本館の大浴場の方が好きだったので気にしていなかった。

「まあ、兄さんサウナ禁止にされちゃったから気にしないで一人で入ってよ。さあ、授業しよう!今日は『フェイス・チェンジ』見せてほしいな」
「はいはい、私は所詮大道芸人ですからね、存分にお楽しみ下さい」
「はは、拗ねないでよ、先生。立派な教師になるんだろ?」
「ふん、どうせあんたの指導方法なんて全く分からないわよ」

立派な教師への道を歩き始めた?パトリシアとその指導教官(六歳)は揃って裏庭へと歩いた。



 その週はその後、特に何もなく過ごした。クリフォードはパトリシアの授業に戻って幸せに過ごしたし、ウォルフもフアンやパトリシアの授業を受けたり、パトリシアの相談に乗ったり地質調査に出かけたりして充実した日々を過ごした。
特にフアン相手の模擬戦はだんだんと慣れ押し返すことも多くなった分余裕が出て、守備の意識を高めた訓練を積むことが出来て有意義だった。
どんなに高い魔力の『ファイヤーボール』の攻撃でも、その中核にある術者の意志を受けた魔力を破壊すれば防げるので、なるべく出力を絞った鋭い魔法でピンポイントに迎撃する事を心がけて練習した。
そんな魔法漬けの日々を過ごす中、ガリアの首都リュティスに向かう途中のマチルダが訪ねてくる日になった。

「今日、マチ姉着くってね。・・・兄さん緊張してるの?」
「なな何で俺が緊張するんだよ。楽しみなだけだよ」
「そう?なんか浮気がばれそうなダメ亭主みたいになってるよ?」
「・・・お前絶対にマチルダ様に余計なこと言うんじゃないぞ」


 サウスゴータ夫人とその娘マチルダ、それに随員およそ二十名はその日の午後になって到着した。
簡単な歓迎をした後、子供達だけいつものベランダで集まった。

「ほらティティ、この人が話していたマチ姉だよ。とても優しいからいっぱいお話ししてもらうと良いよ」
「はい、ティティアナ、エレオノーラ、デ・ラ・クルスです!よろしくお願いします」
「ああ、もうちゃんと名前が言えるんだねえ。ティティって呼んでいいかい?マチルダ・オブ・サウスゴータだよ。ウォルフみたいにマチ姉って読んでくれると嬉しいな」
「はい!マチ姉」

 ティティアナとの顔合わせもすまし、四人で話をして過ごす。
クリフォードは始め挙動不審だったがマチルダが笑いかけただけで調子を取り戻してべらべらとしゃべり出した。
そんなに喋るクリフォードを始めて見たティティアナは目を丸くして驚いていたが、やがて話題はマチルダの旅行の事になった。
マチルダの話ではマチルダは来るときにラグドリアン湖を経由してきていて、帰りはリュティスから直接アルビオンまでフネで帰るそうである。

「かー、セレブめ、一体いくらかかるんだー」
「うーん、良くわかんないけど、お母様がリュティスで服を買う気満々なんで、帰りの馬車をそんなに増やすくらいならってつもりみたい」
「馬車を増やす程服を買うって発想がオレにはねーよ。まあ折角フネをチャーターするんなら、リュティスでしか売ってないような物をたくさん仕入れてサウスゴータで商人に卸すといいよ。うまく価格差のある物を仕入れられればチャーター代が出るかもよ?」
「ふーん、面白そうだねえ、でもそんなに都合良い物があるのかねえ」
「余っているところで安く仕入れて、不足しているところで高く売る。商売の基本だね。まあまずは相場を知るところから始めてみなよ、結構アルビオンとは違くて面白いよ」
「どんなもんかね、明日街で見てみるから案内しておくれよ」
「まかせといて、もうこの街オレの庭だから」


 翌日ウォルフ達は三人で街へ繰り出した。ティティアナはお留守番である。

「うん、たしかにサウスゴータとは物の値段が違うみたいだね」
「この飴なんて半額くらいじゃないか、これいっぱい買って帰ったらいいんじゃね?」
「兄さん、こういう単価が安い割にかさばる物はいくら買って帰っても利益は少ないよ。フネのスペースは限られているんだから」
「じゃあこっちの白菜は?激安だぜ」
「生もの禁止、ってかさばるし安いじゃないか!しかも重いし」
「あはは、クリフ馬鹿だね。ちゃんと買って帰ることを考えなよ」

そんな風に街を見て歩いているとマチルダが宝石店を発見した。

「あ、宝石店だってさ、ウォルフ。宝石ならかさばらないし高いし丁度良いねえ」
「いやいや、そんな値段があって無いような物に素人が手を出しちゃいけません」

そこは去年ウォルフがダイアを売った店だったのでなるべく入りたくなかった。
しかし、マチルダにはそんな気持ちは通じず、ぐいぐいと腕を引っ張っていく。

「まあ、あたしも土メイジだしさ、勉強になるからちょっと覗いてみようよ」
「女の子と宝石店なんかに入るとろくな事にならないって中の人が言ってました」
「良いからさっさと入る!」

ウォルフは精一杯抵抗したのだが結局マチルダに引きずり込まれてしまった。
店内に入ってきたこちらを振り返った店員がウォルフに気付いたようなので片目を閉じ口に人差し指を当て黙っているようにサインを送る。
店員も心得たもので普通の客として対応した。

「いらっしゃいませ、小さな貴族様方。本日はどのような物をご入り用で?」
「いや、あたし達、アルビオンから来たんだけど、今日はただの冷やかしで・・・」
「ほう、アルビオンですか、それは遠いところからよくぞいらしてくださいました。当店は冷やかし大歓迎でございます。ごゆっくりとご覧下さい」

ちらりとウォルフに目をやるが、ウォルフは素知らぬ顔をしてそっぽを向いた。
丁寧な応対をされ、マチルダは上機嫌で宝石を眺めた。あれが綺麗とか、あれならこっちの方が良いとか、店員に色々説明されながら棚を見て回る。
儲かっているのか、昨年よりも展示している棚が増えていた。

「わあ、これ小さいけど凄く綺麗・・・」

マチルダの目を引いたのはオレンジ色の小さいオパールを付けたネックレスだった。

「ねえクリフ、ちょっとこれ買ってくれない?」
「マチルダ様、俺にそんな金があるわけ無いでしょ」

なんだい甲斐性がないねえ、とぼやくがその顔は笑っていた。

「お客様お目が高い。こちらは東方産のオパールでして、ちょっとサイズが小さいために価格は低めですが、これほど綺麗な遊色を発しているのは滅多に見られない珍しい物です」
「うん、あたしもこんなの初めて見たよ。これが見られただけでも今日ここに来た甲斐があるってもんさ」
「どうでしょう、お客様。実はお客様は当店開店以来、丁度三十万人目のお客様でして、よろしかったら記念にこちらをプレゼントさせていただきますが」
「えーっ!プレゼントって、これくれるって言うのかい?!」
「はい、十万人、二十万人目のお客様にもプレゼントさせて頂いたのですが、当店がこちらで商売させて頂いてる感謝の気持ちをお客様に還元するというところです」
「で、でも、あたしアルビオンの貴族なのに」
「白の国アルビオン、確かに遠い国です。でも関係有りません。お客様がアルビオンにお帰りになって、当店のことを周りの方に自慢して頂く事がお代代わりなのです」

そういうとガラスケースの中からネックレスを取り出すと呪文を唱えて『所有の印』を消し、マチルダの前に置いた。マチルダの目は釘付けだ。
後ろに控えていた女性店員がカウンターから出てきてマチルダの後ろに回り、ネックレスをマチルダの首に掛ける。
そしてカウンターの下から鏡を取り出してマチルダを映した。

「ああ、良くお似合いになっていますよ。お客様の綺麗な緑色の髪とオレンジのオパールがお互いを引き立て合って良く映えます」

なんかもうマチルダは夢見心地であるが、喜ぶマチルダの後ろでウォルフは壁に手を突き頭を抱えた。搦め手から責められているようだ。
これで無視したらウォルフの素性を探し出されてしまいそうなので、一応何かあった時のために持ってきていたダイヤやルビーをまたここに売りに来ることにして頻りに送ってくるアイコンタクトに応えておいた。
まあ、マチルダもとても喜んでいるので感謝しておくことにする。


 首に掛けて帰るのは怖いとマチルダが言うので入れ物に収め、それを抱えて帰路につく。
マチルダは元よりクリフォードまで上機嫌だ。

「いやあ、ガリアっていい国だねぇ!客にこんなのプレゼントしてくれて良く商売やっていけるもんだよ」
「マチルダ様は幸運の持ち主なんだなあ、売ったらいくらになるんだろ」
「ふん、絶対に売らないよ。あたしの宝物にするんだ」

暫くはネックレスの話題で盛り上がったがやがてまた商売の話に戻った。

「宝石や美術品なんかは値段が分からないから手を出すべきではないんだ。やっぱり魔法道具か香辛料か・・・」
「あ、あたしも香辛料の安さには驚いた!アルビオンじゃたっかいのにこっちじゃ半額以下でしょう。元の値段もそこそこだしあれ買って帰ったらいいかもしれないけど・・・」
「どうしたの?」
「あたしの小遣いじゃそんなに買っては帰れないかなって思ってさ」
「うーん、それについては・・・ちょっと二人で先に城に帰ってて」

そういうとウォルフは来た道を引き返しどこかへと消えていく。
二人は訳が分からないながらも城に帰り、親たちにネックレスを自慢した。
みんな騙されたのではと心配したが、何も書いてないし名前も聞かれなかったと知り、そんなプレゼントなど初めて聞いたと驚いた。
やがて戻ってきたウォルフも交え夕食を取った後、マチルダはウォルフに呼び出された。

「用ってなんだい?ウォルフ」
「さっきの話の続き。仕入れの資金について」
「ああ、あれ。でもどうしようもないだろう。あたしの小遣いが余ったら何かちょっと買って帰ってみるよ」
「どうにかしてみました。ここに五千エキュー有ります。これをマチ姉に投資しようと思うんですがいかがでしょうか」

そう言い、机の上にかかっていた布を取るとそこには黄金に輝く金貨が山となっていた。
あれから街に帰ったウォルフは、アンネの兄のホセにつきあって貰いギルドに行ってまた手形を換金してきていた。
そこで得た八千エキューのうち五千エキューをマチルダの商売の練習に使ってみる気になっていた。
マチルダは頭が良いし、物の本質を見抜くのがうまいので商売をやったら成功するんじゃないかと前から考えていたのだ。

「ちょっとあんたこれどうしたんだい」
「まあ、オレも去年からちょっと秘密の稼ぎがあってね。犯罪をした訳じゃないから安心して良いよ」
「秘密の稼ぎって・・・こんなに一杯。これ使ってあんたの代理で仕入れをしろっていうのかい?」
「違うよ、投資って言ったろ?これを預けるからマチ姉はこれで自由に商売をしてみろって事さ。儲けが出たら儲けはオレと折半、全部擦っちゃったら別に返さなくても良いって種類の金だよ」
「返さなくてもいいって、これ全部?」
「そう、無くなっちゃった場合はね。オレはマチ姉ならお金を増やせると信頼して預ける、マチ姉は信頼に応えて増やして返す、そういう取引。OK?」
「あ、あたしがこれ持ち逃げしちゃったらどうすんだい?あんたも困るだろう?」
「サウスゴータの一人娘がこんな端金でそんな事する訳が無いじゃないか。マチ姉にそんな事されるのならそれはオレが悪いって事なんだよ。それにこれは練習用だからあんまり堅くならないで良いよ」
「練習用って五千エキューがかい・・・・」
「そう練習。その代わりどんぶり勘定はダメだからね。マチ姉は投資家であるオレに説明責任があるんだから全部帳簿をつけること。何をいくらで仕入れたのか、必要な資材は何でそれを揃えるのにいくら払ったか、仕入れで使った交通費なんかも全部項目ごとに全て記すように。全部擦っても良いけど、その内容は一エキュー、一ドニエに至るまでオレに説明出来るようにしておくこと」

そう言って金貨をトランクに詰めマチルダに差し出した。
マチルダは暫く迷っていたがやがて手を挙げトランクを受け取る。それはずしっと重かった。

「あんたはあたしがこのお金を増やせるって信じているんだね?」
「うん、ガリアと結構価格差があるし、一番ネックの輸送費もサウスゴータのフネに便乗出来るなら大分安くなるだろうから、失敗する確率は低いと思う」
「面白そうじゃないか、やってやるよ。ウォルフをせいぜい驚かしてやるよ」

そう言うマチルダの目は十三歳とは思えないギラギラとした輝きを放っていた。



[33077] 第一章 21~25
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 01:32


1-21    再会



 マチルダ達一行がヤカの城について驚いた人間が二人いた。
マチルダの従者タニア・エインズワースとウォルフ達の教師パトリシア・セレスティーナ・ソルデビジャ・ド・バラダである。

「タニア、いなくなっちゃったと思ったらアルビオンなんかに行ってたの?」
「あんたこそド・バラダのお嬢さんがこんなところで何してんのよ?もう結婚したもんだと思っていたわ」

 ヤカに着いた夜パトリシアの部屋で顔を合わせる。二人はリュティスの魔法学院で同級生だった。
学科の成績は悪いが圧倒的に優秀な実技のパトリシアと、実技ではパトリシアに一歩譲るが学科は常に学年トップのタニア。二人はまさにライバルといえる関係だった。

「私は父さんがあんな事になっちゃったからね、普通に国外で就職です。今の職場結構条件が良いのよ」
「ふーん、私は今ちょっとあれよ、家出中?じゃなくて、教師目指して鋭意修行中よ」
「教師!あんたが!あんた人に魔法なんて教えられるの?」
「お、教えられるに決まってるじゃない、スクウェアよ、私は」
「いや、自分が魔法使うのは得意だったけどさ。あんたメリッサに"あなた何で系統魔法が使えないの?"とか真顔で聞いてたじゃない。あの子一晩泣いてたわよ?」
「う、あれは悪かったと思っているわよ。しかたないじゃない、信じられなかったんだから」
「だから教師やるって事はあの子みたいな子も相手にしなくちゃならないんでしょ?信じられないで済ます気?」
「今は違うわよ!最近はウォルフにも褒められてるんだから!」
「あ、ウォルフに教えてるんだ。あの子なら魔法見せるだけでどんどん覚えていきそうね」
「・・・・・・」

 およそ三年ぶりに顔を合わせた二人であったが、さすがは学生時代の旧友ですぐに以前と同じ調子で喋り始めた。
しかし、その旧友が語る昔の自分を今のパトリシアは恥ずかしいと感じる。
ウォルフの説教を受けた後では以前の自分がいかに何も考えてなかったかが分かるのだ。

「たしかにウォルフには魔法を見せてるだけよ。あの子のことは私には分からないわ。でもクリフには違う!クリフが何を分かって何を分からないのか把握しながら、習熟度に合わせた教え方をちゃんとしているわ!」

 ぐいと胸を張って言うパトリシアにタニアは驚く。以前の彼女なら他人が何を考えているかなどに頓着するような性格ではなかったのだ。
ウォルフの事も分からないと言った。"有り得ない""信じられない""~に決まってる"とはいつも言っていたが"分からない"と彼女が言っているのを初めて聞いた気がする。
確かに以前の彼女とは違うようだった。

「ふーん、親元を離れて少しは苦労したって所かしら?」
「ま、まあね。あなたも苦労したみたいじゃない?」

目と目を見交わすとお互いに笑みがこぼれた。タニアが持ってきたワインを開ける。楽しい夜になった。



 マチルダ達は三泊ほどしてリュティスへ旅立っていった。滞在中一緒にあちこちに出かけ、良く懐いたティティは寂しがって泣いた。マチルダはキャラに似合わず子供にやさしいので良く慕われる。
パトリシアも少し寂しそうにしていたが、何も言わなかった。

 それから一週間ほどして漸くド・モルガン夫妻(+サラ&アンネ)がヤカにやって来る日になった。
その日ウォルフは時折『フライ』で上空に上がっては『遠見』の魔法で街道を見張っていた。
何度目かの飛行中、街道のずっと遠い場所で岩陰から馬車が出てくるのを見つける。そしてその馬車の御者の後ろの席に座っているのがサラである事を確認すると一目散に飛んでいった。
そして馬車のそばまで来ると速度を落として馬車の上を併走して飛ぶ。三週間ぶりに見るサラはぽーっと景色を眺めていて、こういう時のサラは本当に何も考えてない事が多い。
生まれてからずっとサラの成長を見守ってきた。ちょっと思いこみは激しいが、とても優しく良い子に育っていると思う。
サラが嫁に行くときは絶対にオレ泣くなあ、などと完全に父親のような感慨を抱きながら高度を下げ、サラの隣にそっと座る。サラは横を見ていて気付かない。

「良い子にしてた?サラ」

 声を掛けるとサラはびくっと反応し、即座に振り向いた。
ウォルフはその視線の鋭さにたじろいで思わず後ろに下がるが、すぐにサラに捕まって抱きしめられた。
すんすんと鼻を鳴らしながらぐりぐりと頭をこすりつけてくる。

「あー、寂しかった?」

そんなサラを持て余し、頭を撫でながら尋ねるといきなりカプッと首筋を噛まれた。

「いたたた!サラ、痛い痛い!」
「・・・・・」

すぐにサラは離してくれたが直ぐにまた頭をぐりぐりとしてくる。
なんだか子犬みたいになっちゃったな、と困惑はしたがくすぐったさを我慢して好きにさせておいた。

「お、なんだウォルフ迎えに来たのか」

騒ぎを聞きつけたニコラスが馬車の中から顔を出しサラに抱きつかれているウォルフに声を掛ける。

「あ、父さん久しぶり。今、中に行くよ」

 そう言ってサラごと『レビテーション』を掛けると馬車の中に入った。
両親とアンネに挨拶をして、暫く話をする。ヨセフも無事にサウスゴータに帰ったらしい、ちょっと心配だったので良かった。やがて馬車はヤカの町中に入りアンネの実家の前で停車した。
サラとアンネを降ろし城へ向かう。サラは少し寂しそうだったが最後に笑顔を見せてくれた。
両親に会ったときクリフォードは少し涙ぐんでいた。ウォルフは気付かなかったが地味にホームシックになっていたらしい。
まあ、十一歳の男の子が三週間も両親と離れていればそんなものかと思う。
その日は久しぶりに家族で一緒にサウナ風呂に入った。



 翌日、ウォルフは宝石屋へ行くために街へと向かった。帰りにサラに会ってくるつもりである。

「いらっしゃいませ、ガンダーラ様。お待ちしておりました」

店に入ると店長が即座に応対し、間違えずにウォルフの偽名を呼んだ。本当に待っていたようで少しホッと安堵した雰囲気が出ている。

「ああ、ちょっと遅くなっちゃったかな?このあいだはありがとう。マチ姉がとても喜んでいたよ」
「いえいえ、とんでもございません。実は昨年お譲りいただいたダイヤモンドに良い値がつきまして、ささやかな利益還元をというところでして・・・」
「あー、やっぱり三十万人って言うのは適当かー」
「ははは、まあ、喜んでいただけたのなら重畳至極、と言う事で・・・ところで本日はどのようなご用件で?」

今にも揉み手をしそうな勢いで尋ねてくる。ていうか実際にしている。
彼にとってウォルフはとても大きな儲けをもたらす取引相手なのだ。

「この間のより大分小さいんだけどね?いくつか手に入ったからまた持ってきたんだ」

そう言って懐からダイヤを取り出す。美しい輝きに彩られたそれは全部で六つあった。
これらは去年のダイヤを作る時に一緒に作ったのだが、どうしても欲しい高価な魔法具などがあった場合に備えて一応今年も持ってきていた。
魔法により生成された純粋な炭素の結晶を正確に五十八面体にカットした物である。特筆すべきはその六つの大きさ、重さが全く同じ点であった。
早速店長はルーペと杖を取り出すと鑑定にはいる。その表情は真剣その物だ。

「うーむ、いずれも不純物ゼロの完璧なガンダーラカット。パーフェクトですな」
「ガンダーラカット?」
「ああ、これは失礼しました。実はこの輝きを生み出すカットをガンダーラカットと呼んでおりまして、最近では宝石商組合の方でもカット出来るようになりました」

そう言って棚にある指輪を一つ取り出して見せる。そこにはダイヤが着いていて、確かに同じカットをしていた。
少し色がついていてウォルフのダイヤ程美しくはないが、それでも他のダイヤよりは数段美しい輝きを放っていた。

「ダイヤというのはカットが大変な為高価になってしまい今まではそれほど人気がなかったのですが、このカットにして以来人気が急上昇中でございます」
「ふーん、そんなに違うんだ」
「特にこの指輪のように下から光が入るようにセットした物が人気が出ております」
「ああ、これはこのカットに一番相応しいセットだね」
「ご存じでしたか」

その指輪は六本の立て爪でダイヤを持ち上げるように支える、いわゆるティファニーセッティングをしていた。
ウォルフはそんなことは知らなかったが、その構造からそのセッティングだと全ての光が前面から抜けるので最も美しく見せるだろう事は分かった。結構ハルケギニアでも工夫する人は工夫しているんだな、と考えながらさらに懐からルビーとサファイヤを取り出す。

「えーっと、こっちも鑑定して欲しいんだけど、これで最後。当面手にはいる事はないってわかったから最後だと思って値段をつけて欲しいんだ」
「ぬ、これは・・・最後ですか・・・・むう」

 ウォルフが懐から新たに宝石を取り出して目を輝かせたものが、最後と聞き落胆する。しかしテーブルの上のルビーを手に取り絶句する。
そのルビーとサファイヤは見た事がないくらいの鮮やかな赤と青をしていて、光を当てると六条の星状に光を返す。
その透明感、色、光、全てが店長がこれまで見た事がないレベルの物が揃っていた。
これもウォルフが『練金』で生成した宝石で酸化アルミニウムの結晶である。不純物として入れる金属イオンの量を調整して色を出し、六条の光も二酸化チタンの針状結晶を三方向に入れる事によって出していて、エルビラの結婚指輪であるスタールビーを研究して作った。
カットも全く同じ大きさ・形の楕円形に正確に磨いているのでまるで双子のように見える、これもまた天然を超える人工物と言って良かった。

「本当にもう最後なのでしょうか?もう手に入らないのでしょうか?」
「いや、将来的に絶対にというわけじゃないけど、当面全くない事は確定と思ってくれ」

 元々あまりにも簡単にお金が手に入ってしまうために自粛しようと思っていたのだ。
今回も来るつもりはあまりなかったのだが、マチルダにプレゼントされたのを恩に感じたし、あまり詮索されたくもなかったので比較的小粒の物を少量なら良いかと判断したのだ。
ダイヤも四つ分でやっと前回のと同じ重さだし、ルビーも前回の半分くらいの大きさだ。これで継続的な商売が出来ないとなれば買いたたかれるだろうけど、それで良いと思っていた。
店長は暫く悩んだり調べ物をしたりしていたのだが、やがて値段を決めたようでウォルフに向き直った。

「それでは、お値段なんですけれども、合計で十万エキューでいかがでしょうか」
「っ・・・・・・」

思わず吹き出しかけた。あれからウォルフも勉強して宝石の世界では重さが倍になったら価格は四倍になる物だと知った。
その計算方法ならダイヤは一個二千五百エキューで計一万五千エキュー、ルビーとサファイヤは種類が違うから分からないがそれでも合計で一万エキューを超える事はないと思った。
つまり全部で二万五千エキューの品物を、買いたたかれる覚悟で来ているのに四倍の値段をつけられてしまったのである。

「・・・・内訳は?」
「・・・・分かりました、ダイヤで六万、ルビーとサファイヤも三万ずつ、合計十二万エキューでどうでしょうか」

・・・増えてるし。
ウォルフは知らなかったがガンダーラカットの登場以来ガリアのダイヤモンド相場は過熱気味で、連日トリステインやゲルマニアからもバイヤーが押しかけていた。
そのためあまり質の良くない原石でもガンダーラカットに加工され高額で取引されてはいるが、やはり市場はより高品質の品物を望んでいた。
そこに真性のガンダーラダイヤモンドである。しかもセット。貴族はセットで揃えるのをことのほか好む。
これをバイヤーのオークションに出せば相当な値段になるのは分かりきっていたし、ルビーやサファイヤもいくらでも買い手はつくと判断していた。

 結局ウォルフはその値段で引き取って貰い、今度は手形を六枚に分けて支払いを受けた。
ウォルフの前世ではダイアモンドなど研磨剤としか認識してなかったのであまりの金額に引いてしまい、なるべく宝石を『練金』しないようにしようと決めた。
いくら何でも高すぎる。手の中の手形が貧しい平民から搾取した成果かと思えてきてしまう。
去年も同じような気持ちになりはしたが、正直お金を手に入れた喜びも大きかったのであまり気にはならなかった。それが今年は気になるのは二度目だからか、去年のお金をまだ使い切っていないからか。
しかし、まあ悪い貴族を騙して巻き上げてやったと思うことにして考えることをやめた。どうせこんなものに大金を払う貴族はろくな事に使わないだろうから。


 帰り道は少し落ち込んでいたが、サラの所に着く頃にはいつもの調子になっていた。今回のことは前世の常識で物事を判断するととんでもない結果になる場合があるという事と、魔法と科学が融合した場合の優位性をウォルフに教えたが、元々長く悩む男ではない。

 ホセの家に着き、サラと二人きりになって分かれてからのことを報告し合う。

「ドリルはもう終わった?」
「うん、全部。」
「おーやるなあ、帰ったら見てやるよ」
「持ってきたよ?全部」
「持ってきた?重かったろうに・・・」

アンネにはさんざん重いから置いて行けと言われたのだが、サラは頑として譲らなかった。
旅行中も、もう終わってしまったドリルを開いては計算し直したりしていた。
ウォルフがパラパラと確認しているのを不安げに覗き込んでいたが、出来を褒められるとやっとはにかんで笑顔を見せた。

「ウォルフ様これからどうするの?」
「遍在も見せてもらったし、魔法道具が作れるっていうメイジは逃げちゃったけど、お爺様が詫びにって魔法道具作成の書籍を一杯くれたんでもうガリアにいる必要はないなあ。早く帰って旋盤の続きを作りたいよ」
「えー、ラグドリアン湖には行こうよ」
「ああ、そうだな精霊様にも挨拶しなくちゃな、とにかく今週はもう魔法の練習は適当にして色々必要物資を買い集めるか。サラも付き合う?」
「勿論!ウォルフ様専属メイドですよ?当たり前です」
「メイドは見習いだろう」

ウォルフはサラに帰ったら寺子屋のような物を始めるつもりだと明かした。将来サラを代表とした商会を作るときの中核となる人材を育て始めるのだ。
当然サラにも教師を務めてもらうつもりであることを告げる。

「えー、教師って私まだ七歳ですよ?」
「それがどうした、オレは六歳だ。松蔭吉田寅次郎は十一歳で王様に講義をしたそうだ。子供相手なんだから余裕で出来る」
「ショーインって誰ですか、知りませんよ、そんな人」
「立志尚特異、志を立てるためには人と異なることを恐れてはならないって教えた東方の偉人だよ、兎に角やるから。紙とか一杯買って帰るから手伝ってね?」
「うわ、ウォルフ様影響されすぎてませんか?人と違いすぎます」
「オレが人と違うのは最初からだ。もうサラだって相当他人と違ってきているぜ」
「私は普通の女の子です!だいたいウォルフ様が私をそんな風にしたんでしょう!」
「いいじゃないか、七歳で教師でも。初めてはみんな怖いもんだよ。一緒にしよう?」
「・・・しょうがないから手伝ってあげますよ」
「よし!じゃあ、そうと決まりゃがんがん子供集めて・・・」
「あくまで、しょうがなくですよ!あんまり大掛かりにしないで下さい!」
「えー」
「えーじゃないです」


 残りの滞在日数はずっと時間が出来るとサラと一緒に街に買い物に出かけて過ごした。
時には近隣の街まで出かけ、ヤカに無かった物を探し、買ったのは主に魔法道具、秘薬の原料、書籍、紙などである。
帰る時はもう一台自分の荷物用に馬車をチャーターするつもりになっていたので遠慮無く買えた。去年の分の手形の残り二万四千エキューも換金したので持って帰るつもりでいる。

 それとつい勢いでアンネの実家の隣の家も買ってしまった。来る度に狭さが気になっていたのだ。
何せアンネの両親がいて、ホセの夫婦がいて、その子供が七人もいるのだ。それが狭い平民用の家に住んでいて、そこにさらにアンネとサラが世話になっているのだ。
総計十三人の家族というのは壮絶で、サラは楽しいと言っていたがウォルフなどは軽くカルチャーショックを受けてしまったくらいだ。
取り敢えず隣の家を買って、『練金』で簡単な補修をして、間の壁を消して二つの家を繋げた。ホセに鍵を渡し、貸してやるから好きに住めと伝えた。
買った物資を城に持って帰るのも面倒なので一部屋はウォルフ用の一時保管所としているが、全くもって気分はプチ成金という感じだ。

 しかしホセはいたく感激したようで娘を二人連れて行って欲しいと頼まれた。サラからウォルフの事業計画を聞いていたのでそれの役に立てて欲しいとの事である。
何だか人買いな気もするが今後信頼出来る人間はいくらでも欲しいので了承し、連れていくことになった。
ホセはウォルフが大金持ちであることを知っているので安心なのだろう。
ホセの子供は八人姉弟で、娘が七人続いた後最後に男の子が一人だ。一番上はもう働きに出ていてここにはいなく、次女のラウラ十二歳と三女のリナ十一歳がウォルフに仕えることになった。
二人とも少し暗めの金髪をした少女で、下町の子らしい気っぷの良さを持っていた。
これで十三人いたのが九人になって更に家の広さは二倍以上になるのだからゆとりが生まれるはずである。これ以上子供が生まれなければ。
ラウラとリナの荷物もウォルフが揃えた。何せ二人ともろくに物を持っていないので一から揃える必要があった。
初めは遠慮していたのだが、ウォルフが自分の従者になったからには恥ずかしい格好はさせられないと伝えると、バンバン新しい服を買い始めた。
生まれて初めて思いっきり買い物をして恍惚としているのを見るのは面白かったのでよしとする。

 ラウラとリナを連れて帰ると両親に告げると案の定もめる事となった。
ニコラスはそんな責任の取れないことはするなと言い、エルビラは彼女たちの年齢が親から離れるには低すぎるのではと心配した。
ホセから持ちかけられた話であること、二人一緒なので心強いのではないかということ、当面は給金の心配はないことを説明し、追加の馬車代とラグドリアン湖での二人の滞在費、アルビオンへのフネ代として百エキューを渡してさらに足りなかったら請求するように頼むとニコラスも黙った。
何でこんな大金を持っているのかと問い詰められたが色々と作ったものをホセに協力して貰って売った、とだけ言っておいた。
兎に角二人が自分の意志で退職するまではウォルフが面倒を見るし、年頃になったらちゃんと嫁ぎ先を探すと言うことで何とか了承してもらった。

 忙しく色々と動いていると、あっという間にまたヤカを離れる日が来たのだった。





1-22    正義



「ウォルフには謝らんといかんな、今回は竜騎士を送れないわ、教師には逃げられるわ、ワシは良いとこが何もなかったわ」
「とんでもないです、お爺様。オルレアン公を連れてきたときは本当に驚きました。それに魔法道具の書籍もたくさん頂いて・・・ありがとうございました」

  ガリアから帰る当日、馬車の前で昨年とは違い和やかに別れを惜しんでいた。パトリシアは昨日リュティスへと旅立ってしまったのでここにはいない。
今年はアンネ親子の話題が出なかったので穏やかな雰囲気でいることが出来た。

「為になったのなら良かったが・・・そのオルレアン公もお前には驚いていたわ。来年にはワシを相手にせぬかも知れんな」
「お爺様の期待を裏切らぬよう、努力いたします」
「うむ、お前なら誰も上ったことの無いような高みへと行くことが出来ると信じておる。精進せいよ」
「はい」

自慢の孫を見つめ眼を細める。その表情はフアンを知る人ならば誰しもが驚くような軟らかいものだった。

「クリフ、お前もこの一月で大分上達したな。お前の魔法も十一歳とは思えないレベルだ」
「ありがとうございます」
「ワシの訓練をやり通したんだ、お前程きつい思いを経験したことのある子供はそうはおらん。苦しいときはこの経験を思い出せ」
「とても、良い経験を積ませていただきました」

きつすぎだよ!と突っこみを入れたくなるのをぐっと堪えて殊勝に答えておく。
そんないい雰囲気の中別れをすませ、さあ出発、と言うところでレアンドロが口を開いた。

「父上!ちょっとよろしいですか?」
「何だ、レアンドロこんな時に」
「アンネとサラのことです。やはり僕は二人に会いたいのです。ラ・クルス家として彼女に謝罪する許可を下さい」

その瞬間フアンのこめかみにぶっとい血管が浮かび上がり、顔がサッと赤く染まる。
((ちょっ伯父さん空気嫁!!))ウォルフとクリフォードの頭の中に全く同じ突っこみが浮かんだ。

「そのことは、去年答えておろうが。どういう了見だ?こんな時に持ち出すとは」

その眼光はまさに人も殺せそうな程で、よく見るとレアンドロの膝はぷるぷると震えていた。
誰も何も言えず息を呑んで見守り、ティティアナは怯えてしまい母のスカートに抱きついている。
しかし、レアンドロは更に一歩前へ出て続けた。

「こ、こ、ここに、ラ・クルス家として正式に彼女に謝罪する旨をしたためた書類を用意しました。あとはこれに父上のサインと花押をいただければ、後は私が名代として謝罪に行きますので、父上を煩わせる事はいたしません。お願い申し上げます」

そう言って頭を下げ両手で用意してきた書類を差し出す。その書類も震えていた。
フアンはゆっくりと腕を上げ、書類に手を掛ける。その瞬間書類が音を立てて燃え上がった。

「!!ちっ父上ッ!!」
「読めんな。読めもしない書類を用意するとはなんたる無能。下がれ」
「お願いです!!父上!お願いでございます!!」
「下がれと言っておる!!」

そう言って睨め付けると出口を杖で指す。
レアンドロは暫く何かを言おうと口を動かしていたが、やがてがっくりと頭を下げその場から出て行った。その手には燃えかすを握りしめたままだった。
残された面々に沈痛な空気が漂う。最早さっきまでの和やかな雰囲気は欠片もなかった。

「・・・場もわきまえず、己の我が儘を声高に言い立てる。あんな無能がラ・クルスの嫡男とはな」
「・・・そうでしょうか?」

不機嫌MAXのまま溢すフアンにウォルフが異を唱える。

「なんだ?お前は違うとでも言うのか?通る見込みがない物をこんな時に出してくる、これが無能でなくて何なんだ!」
「確かに有能な人なら無駄なことはしないでしょう。しかし無駄なことをしない人が正しい人、であるとは限りません」
「ふん、言葉遊びか?無駄なことをするヤツが正しいとも限らんわ」

 こんな状態のフアンに反抗する人間など今までいたことはない。
エルビラでさえフアンが激昂したときは何も言わず黙っているのが常だった。

「お爺様は燃えさかる王城へ王を助けるために戻る騎士を無能と呼びますか?すでに百万の軍勢に囲まれているからと言って早々に甲を脱ぐ騎士が正しい人でしょうか」
「ぬぅ・・・お前は、あれを救国の騎士だとでも言うのか?子供の頃から何かあるとめそめそと泣いてばかりいたあれを!」
「あくまで喩えです。レアンドロ伯父さんは彼が正しいと思ったことをしようとしているだけです。オルレアン公歓迎の采配は見事でした。彼は乱世の姦雄には成れないだろうけど治世の能臣であると思います。決して無能ではありません。そして何より心に正義ある人を、その結果だけを見て無能と誹ることは貴族として正しいこととは思えません」
「ワシが、正しくないというのか?・・・・ワシが王を守る騎士を無能と呼び甲を脱ぐ者を褒め称えると・・・」

目を見開きウォルフを睨みつける。それに対しウォルフは何とニコッと笑いかけた。

「お爺様にもお爺様の正義があるのでしょう。そして伯父さんにも伯父さんの正義があって彼はそれに従っただけです。彼は確かに過ちを犯した人ですが、それを知り己の正義に従って正そうとしています。そして私はそういう人が好きなのです」
「・・・・・」
「レアンドロ伯父さんの望みを聞くか聞かないかはラ・クルス当主であるお爺様の判断で決めるのは当然と思います。しかし無能と誹るのはやめるべきだと思います」
「・・・・・」

 フアンは踵を返すとそのまま何も言わずその場を後にした。
またもどんよりと重苦しい雰囲気に包まれてしまったが、ウォルフは努めて明るく振る舞い残った人に別れを告げると馬車に乗り込んだ。
そのまま馬車は走り出し、街へと向かった。アンネの実家に先に来て荷物を積み込んでいた馬車と合流するとそのまま二台で連なって街道へ出てラグドリアン湖へと急いだ。
ヤカの街から初めて出るラウラとリナの二人は物珍しげに外を眺めはしゃいでいて、親と別れた寂しさを感じさせなかった。
ウォルフは取り敢えず前の馬車に乗っているが、後で後ろのアンネ達の様子を見に行くつもりでいる。

「しかし、お前良くあの状態のお爺様に向かってあんな事が言えるよな。俺なんかもうチビリそうだったぜ」
「まったく、俺もエルもいざという場合のために杖を握りしめてたよ」
「だってレアンドロ伯父さんちょっと可哀想だったじゃないか。まあ、伯父さんが悪いんだけどね。お爺様の機嫌の良い時を狙ってたんだろうけど、もう少し空気読むべきだったね」
「うーんそうだな、なまじ機嫌が良かっただけに水を差されて激怒って感じだったな、あれは」
「まあ、いつか彼の熱意がお爺様に伝わることを期待しましょう」
「・・・・やっぱり上から目線だ」

昨年より一台当たりの荷物が少ないため馬車は快調に街道を進んだ。



 一方その夜、ヤカの城でレアンドロは自室の寝室に引きこもって酒をあおっていた。
昨年以来妻のセシリータには寝室を別にされてしまい、もう独り寝にも慣れてしまっていた。
かつて二人で過ごした部屋を睨みつけてグラスをあおる。
その眼には涙が浮かんでいた。
空になったグラスにワインを注ごうとして、その手を止められた。

「もう、およしになったら?ちょっと飲みすぎのようですよ?」
「・・・セシー」

いつの間にか部屋に入ってきていたセシリータだった。
ネグリジェにガウンを羽織っただけ、という出で立ちの彼女は優しく微笑むとふわりとレアンドロの隣に腰を下ろした。空のグラスを自分の前に移動させ、ワインを注ぐとそれを飲んだ。

「どうしてここに?」
「あら、妻が夫の元に来るのはいけない?」
「いや、そうじゃなくて・・・・ほら君は僕のことを・・・・軽蔑しているだろう?」
「そうですわね・・・確かにあんな事を聞いたら軽蔑しましたし、とても悲しかったですわ」
「すまない・・・本当に君にも申し訳無いことをしたと思っているよ」
「私よりももっとあやまらなくてはならない人が居るんでしょう?」
「そうだ・・・でもあれが唯一の方法だと思ったんだが、もう、どうしようもないのか・・・・」

そう言ってレアンドロは頭を抱え込む。彼にはフアンを説得する方策など何も無いように思えた。
セシリータはそんな夫の様子を黙ってみていたが、やがて軽くため息を漏らすと口を開いた。

「明日もう一度願い出てみてはいかがですか?聞いて下さるかも知れませんよ?」
「フッ・・・君も見ただろう?今度こそ燃やされてしまうよ」
「あら、燃やされるのが怖いから諦めてしまうのですか?ウォルフさんの言っていたのとは随分違いますわね」
「?・・ウォルフが何と?」
「王を助けるため燃えさかる王城に飛び込む勇者に喩えていましたわ。心に正義を持ちそれに従う信念の人、と」
「ええ?僕はそんな立派な者じゃないよ!」
「ふふ、そうですわね、お養父様も絶句していましたわ」
「父さんにもそれを言ったんだ・・・」
「ええ、自分が正しいと信じることをする人だと、そして彼はそんな人が好きだとも」
「・・・・・」
「それを聞いて私もそんな風に生きてみたいと思ったのです。あなたの妻として、私が正しいと思うことをしようと」

そう言ってグラスを飲み干すと懐から小瓶を取り出しレアンドロの前に置いた。

「これは?」
「水の秘薬です。ウォルフさんが別れ際に下さいました。何故彼がこれをくれたのかは知りませんが、私も水のトライアングルです、命ある限り直して差し上げますから安心して燃やされてらっしゃい」
「君は・・・・」

セシリータに向き直り涙のこぼれる眼で見つめる。

「しょうがないでしょう。私はあなたの妻で、あなたはティティの父なのです。あなたが間違ったのならばそれを正すのが私の役目なのです」
「うん、ごめん、本当にごめん」

涙を指で拭ってくれるセシリータをそのまま抱きしめる。
セシリータはそのままレアンドロの胸に納まった。

「明日の朝、お養父様にお願いするのです。許して下さるまで何度でも」
「うん、君がいてくれるなら僕にはそれが出来る」

この夜から十ヶ月の後、ラ・クルス家に待望の第二子が生まれるのだが、それはまだ先の話である。



 翌朝ここの所遅れがちな執務をこなす為執務室に籠もっていたフアンの元へ突入したレアンドロは、予想通り盛大に燃やされた。
文字通り火達磨になってドアからたたき出されたのだが、ドアが閉まる寸前「書類とやらを持ってこい、読むだけは読んでやる」というフアンの声が確かに聞こえた。
何とかセシリータに火傷を治して貰い、書類を提出すると今度は「ラ・クルスの嫡男が一々ビクビクするな!」と怒鳴られまた火達磨となって叩き出された。

 夕刻自室でセシリータに治療をしてもらっていると窓からくしゃくしゃに丸められた紙くずが投げ込まれた。
レアンドロが手に取り開いてみると、果たしてそこにはフアンのサインと花押が押してあった。
セシリータを抱きしめ涙を流して喜んでいたのだが、アンネ達がまだガリアにいることを思い出し、急いで支度をしてラグドリアン湖へド・モルガン家を追いかけることにした。
急に宿など取れないと思われたが、丁度キャンセルが出たとのことなので、ティティアナも連れ家族三人で出かけることになった。
朝を待って馬車を仕立て、突然の旅行に喜ぶティティアナと少し表情の硬いセシリータを乗せ旅路を急いだ。



 一方のド・モルガン家は快調に街道を進み、去年より一日早くラグドリアン湖へと着いた。
途中ラウラとリナが寂しそうにしていたが、ラグドリアン湖に着いて水着に着替えたらホームシックなど吹っ飛んだみたいで元気にはしゃいでいた。
宿は昨年と同じところで部屋も同じだった。急に部屋が取れなかったのでラウラとリナ、サラとアンネでベッドを一つずつ使ってもらうことになったが皆あの狭い家で過ごしていたので気にしていなかった。

 大人達は思い思いに湖岸で寛ぎ、子供達は湖で遊ぶ。今年は水竜くんを持ってきていないのでニコラスものんびりと寛ぐことが出来た。
子供が増えたのでビーチボールでバレ-を楽しみ、ボールを落とした人は罰として『レビテーション』で持ち上げ湖に放り込んだ。サラはいやがったものだが、ラウラとリナは喜んでしまい罰にはならなかったが。
最後には大人達も参加し、『練金』でネットまで作って四対四の本格的なビーチバレーをしたりして、一日を楽しく過ごした。

 さんざん昼間遊んだので夕食を食べるとみんなさっさと眠ってしまったが、ウォルフは一人起きていて、窓からそっと抜け出すと湖へ『フライ』で飛び出した。
人目につかない入り江まで移動すると着地し、水の精霊を呼ぼうとナイフを出したが、指に傷を付ける前に湖面から精霊が現れた。

「やはりお前か、"ウォルフ"よ。お前がここに来ているのは感じていた」
「やあ、精霊様。顔を見せに来たよ」
「あれから月が十二回交差した。"ウォルフ"よ何の用だ?」
「・・・えーと、ここまで来たからついでに顔を見せに来ただけなんだけど・・・」
「・・・・・何か我に望むことがあるのではないのか?」
「いや別に。この間は色々ありがとうね。おかげで謎が一杯解明出来たし、水の秘薬でお爺様の怪我を治すことが出来たよ」
「お前は本当におかしなヤツだ"ウォルフ"よ。単なるものは我にして欲しいことがあるから呼び出すものだ」
「あ、そうだ、色々研究した成果があるんだった。見て貰えるかな?ちょっと待ってて」

杖を取り出し『練金』でバケツを作る。次に『凝縮』で水の玉をその上に作り出し、空中に静止させた。その上から更に『練金』を唱え、周囲にある魔力子を相変化させて質量とマイナスの電荷を与え、それを空中の水にぶつけることによって水分子中の電子とを入れ替えていく。こんな事が出来るのは『遍在』を分析したおかげで、魔力そのものが術者の意志に応え質量を有する事が出来るというのは大きな発見だった。
普通の『練金』に比べると成功率が低いが、入れ替えに成功した水分子は何故か魔力子が多いほど下に溜まっていくので続けていると下部分の濃度が濃くなる。最後に一番下の部分だけをバケツに取り、その他の部分は地面に落とす。

「ほら、これで大体湖の底の水とほぼ同じのが出来たと思うんだけどどうかな?」
「・・・その水を湖に注いでみよ」

言われた通り湖にバケツの水を注ぐ。
一瞬その周辺が薄青く光ったがすぐに元の暗い水となった。

「確かにこれは我が一部、この湖の深淵に沈む水。これを単なるものが創れるというのか、今目の前で見ても信じられん」
「色々試してみてここまでは出来る様になったんだ。ミスリルとかも割と簡単に作れるようになったよ。精霊様のおかげだね」
「お前は何をしようというのだ、"ウォルフ"よ」
「前に言ったろ?知りたいんだよ。もしかしたら魔力とは生命の起源に密接に関わっているのかも知れない。精霊も人間も生命全ては本質的に同じなのかもと思うと、知りたくてたまらなくなるんだよ」

 このハルケギニアに溢れている魔力、そしてどんな小さな原生生物からも感じられる魔力の存在。
ウォルフは昨年水の精霊に会ってから生命の起源における魔力の影響についてずっと考えていた。進化論にしたって魔力の存在が前提に有れば簡単に理解出来るだろうと思う。
宇宙の片隅の或る惑星で魔力素が集まって原始的な自意識を獲得する。或る者はそのまま大きくなって精霊となり、或る者は周囲に影響し、有機物を己の体として進化を始めた。
生命とは魔力のことだという推測はウォルフの心を捕らえて放さなかった。

「我と単なるものが同じだというのか。面白いことを言う」
「本質的にね?生命とは何だって考えると一緒かもしれないって気がするんだ。何で生命が、精霊が存在するのかって考えるとね」

水の精霊は生命を司る精霊だとも言われている。だとすると有機物にとりついて進化した魔力素とは水の魔力素なのかも知れない。水の魔力素から進化した生命が、何故火や土や風の系統魔法も使えるのか。謎はまだまだ沢山有って、ウォルフは楽しくなってくる。

「本当に知りたいことが沢山有って大変だよ。また何か聞きたいことが出来たら来るから、よろしくね?」
「我にはお前の言うことは分からぬ。だが我はお前を面白いと思う"ウォルフ"よ。我はもう戻る、これを持っていくといい」

精霊がそう言うと精霊の体から水が飛び出し、空となっていたバケツを満たした。

「うわ、こんなに。えーと、ありがとうございます?」
「我は太古よりただここに在るもの。その我に何故在るかなどと問うた者はお前が初めてだ。我も考えてみる事にする。また来るが良い"ウォルフ"よ、小さな賢者よ」

そう言い残し精霊は湖へと沈んでいった。
後に残ったウォルフは取り敢えず瓶を十個ほど作り大量にもらった水の秘薬を分けて詰め持って帰った。いつかこの秘薬も作れるようになるのかしらと考えながら。

 翌朝起こしに来たアンネが大量の秘薬を見つけ、精霊に会いに行っていたのがばれたのだが何も言われなかった。
ニコラスなどはこれを売れば一財産だと興奮していたが、研究用に貰った物だからダメだというと落胆していた。元々ニコラスの物でもないだろうに。
換金しきれない手形がまだ十二万エキューもあるのだ、ウォルフが売る必要はなかった。

 そしてラグドリアン湖について三日目の夕刻、エルビラの元を兄レアンドロが訪れた。




1-23    謝罪



「これが、ラ・クルス家の正式な謝罪状だ。僕のやったこととそれに対する謝罪が記してあり、ラ・クルスの花押も押してある。アンネに渡して欲しい」

 夕刻突然現れた兄はホテルのロビーでそう切り出すとその謝罪状を手渡してきた。
なんでも隣のホテルに宿泊し、セシリータとティティアナも来ているという。
エルビラは内容を確認し驚きにため息を吐いた。

「良くあの父が許しましたね、これでは白紙委任状みたいではありませんか」
「ははっ、こっぴどく燃やされたよ。セシリータが治してくれなければ今頃まだベッドの上さ」
「お義姉さんが治してくれたのですか」
「ああ、後ウォルフが水の秘薬をくれたらしくてね、そのおかげもあるな。彼には後でお礼を言わないと」
「・・・分かりました。アンネに渡してきます。彼女が望んだら連れてきますので、お兄様はここでお待ち下さい」

 暫くロビーで待っているとエルビラが一人で戻ってきた。アンネは会ってはくれないのかと落胆したが、人目の無い個室で会いたいとのこと。
そう言えばロビーではいきなり子供達に会ってしまう可能性もある。
そのままエルビラについて行き、示された部屋の前で深呼吸をしてノックする。中から女性の返事がして扉を開いた。

 そこにいたのは美しい金髪を頭の後ろで纏め、少し緊張した面持ちで立つ一人の美女だった。見覚えのある垂れ気味の目に薄い唇、間違いなくアンネだが少し印象が柔らかくなったように思える。
八年の歳月は少女を大人の女性へと変えていた。

「ア、アンネ、僕だよ、レアンドロだ」
「はい、お久しぶりにございます」

 鈴の鳴るような声で返事が返ってくる。そういえばあの頃この声で朝起こされるのがとても好きだった。
思い出す。朝起きて会う笑顔、励ましてくれた声、慰めてくれた手、全て自分が壊した物だ。
グッと喉に何かがつかえて声が出ない。
でも言わなくてはならない。アンネに、一言を。

「・・済まな、かった・・・」

 絞り出すように謝罪の言葉を口にすると、そのまま這い蹲りアンネに向けて頭を床に擦りつけた。目からは涙が溢れている。
謝罪の言葉を繰り返しながら土下座を続けるレアンドロを前にアンネも困っていた。

 確かに当時は憎んだし、このまま自分は死ぬんだろうと思ったりもした物だが、今はサラと幸せに暮らしている。
レアンドロのことは忘れたい過去でしか無く、サラの父親であるという点でのみ会う気になったのだ。
ここで関係をちゃんとしておけば、もうヤカに行ってもこそこそとする必要はなく、サラも堂々とウォルフに会いに行けるだろう。
サラの未来を広げるために過去を克服しようとしているのであるが、今足元で泣いている男をどうすればいいものか。正直鬱陶しい。

 エルビラを見るが無表情にレアンドロを見下ろしていて何も言ってはくれない。やはりここは自分が何とかしなければならないのか。
ふーっと大きく息を吐いて覚悟を決める。もう自分はあの時の無力な少女ではないのだ。

「立って下さい、レアンドロ様。今更そのように謝られても困ります」
「あ・・あ・・・」
「相変わらず良くお泣きになるのですね。でも知ってました?あなたはいつも自分のことを可哀想だと思った時に泣いているんですよ?」
「な・・ちがっ・・」
「お父様に怒られて可哀想、妹より魔法が出来なくて可哀想。お父様にばれないように、手をつけたメイドを捨てなくちゃならないなんて可哀想。いつもいつもご自分のために泣いていました」
「・・・・・」
「誠意を見せるためにこんな所まで来たのに、私にこんな事言われて可哀想ですか?まだ泣きますか?」
「僕は、君に憎まれるのは、当然、だと・・・」
「思い上がらないで下さい。私はあなたのことなど何とも思っていません」

 大きく息を吐き、レアンドロを見つめる。
レアンドロは必死に涙を止めようとしているが、うまくいかなかった。

「一つだけ、レアンドロ様に感謝していることがあります。それは、赤ちゃんを堕ろさせなかったことです。自分でそうさせるのが怖かっただけかも知れません、アルビオンに向かう途中で野垂れ死ねばいいと思ったのかも知れません」
「ぼ、僕はそんなことは・・・」
「でも、おかげで私はサラと出会うことが出来ました。ド・モルガンの皆様と出会うことが出来ました。そのことだけは感謝しています」
「・・・・・・」
「賑やかで、明るく、温かい家庭。男の子達はちょっと元気が良すぎますが、いつも笑い声の絶えない家。そんな中に私とサラはいて幸せに暮らしています。謝罪は受け取りました、貴方達がサラに手を出さないというのなら、もうそれで良いです」
「僕は、サラに、僕の娘に会えるのだろうか・・・?」
「今夜サラにあなたがしたことを全て話そうと思います」

 レアンドロの表情が凍り付く。七歳の娘に話すような事では無い、という自覚はあるようだ。

「その上でどうしたいかはサラに決めさせます。サラが会いたくないと言った時は二度と私たち親子の前に姿を見せないで下さい。今話せるのはこんなところです。今日はもうお引きとり下さい」
「・・・・・」

 レアンドロは暫くエルビラとアンネを見比べて何か言いたげにしていたが、何も言うべき言葉がないことを知り、がっくりと肩を落とし部屋を出て行った。
アンネは大きく息を吐いてソファーに座り込むと魂が抜けたように呆然と宙を見つめた。
そんなアンネの隣に座り肩を抱いて語りかける。

「よく頑張ったわ、アンネ。あなたは強くなった。何も出来なかったあなたはもう、いない」

 エルビラはアンネがまだ時々魘されているのをサラから聞いて知っていた。心と体に刻みつけられた恐怖は八年の歳月を経ても残っている。
その恐怖を克服するには、レアンドロと対峙し過去の自分と決別する事が必要だと思っていたのだ。

「ふふ、恐怖も、憎しみも、過去の物に出来たみたいです。あんな小さい人なんですよ、あの人。いつもオドオドしてて、こっちの言う事にビクビクして。今なら口だけで泣かせられそうです」
「あら、私は昔から口だけで泣かせてたけど。ふふ、でもそうよ、私たちは強いのよ。私たちは母親なんですからね!」

今ならアンネにも分かる。あの時恐怖で身を竦ませるだけでなく、レアンドロを殴るなりフアンのことを口にするなりしていれば身を守れたはずだ。
身を守れなかったのは自分の弱さ。何時までも弱いままでいるわけにはいかない、サラにこんな思いをさせないためにも。

「さあ、食事に行きましょう、子供達が待っています。」
「はい」



 
 食事が終わり、部屋に戻ろうとするサラをアンネが呼び止め、ロビーに誘った。何故かウォルフも一緒だ。
食事の時から何か考えている風だったのに気付いていたので二人とも大人しく座り、アンネの言葉を待った。

「サラ、そしてウォルフ様これから大事な事を話します。心を落ち着かせて最後まで聞いて下さい」
「はい」

アンネは胸に手を当て、深呼吸をしてから続ける。

「先程レアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルス様がいらっしゃいました。サラの・・・父親です」

サラが息を呑む。ラ・クルス家が自分の出生に関わっているのでは、とは思っていたが、レアンドロと言えば次期当主ではないか。

「サラ、私は十三の時、今のラウラの一つ上ですね、その春からラ・クルス家にメイドとして入って、レアンドロ様の担当として働いておりました。レアンドロ様は気が弱いというか、大変お優しい方で、とても良くしていただいたのを覚えています」

そう言って言葉を切る。言葉を選んでいるようだ。

「だけど二年後、今から八年前のあの夜、御館様に叱られた彼は、とても荒れていて人が変わったようでした。突然私に向かってお前も自分の事を馬鹿にしているんだろうと怒鳴りつけ、押し倒し、そのまま無理矢理・・・」

 アンネの手はきつく握りしめられ、少し震えているようにも見える。

「私の妊娠が分かると彼はとても狼狽し、父にばれたら殺される、母にばれたら嫌われる、妻にばれたら離婚されると、まあ、パニックになっちゃってました。それで、私がラ・クルス領にいたらまずいと思ったみたいです」
「そして私に幾許かの路銀と手紙を渡してアルビオンにいるエルビラ様の元へ行くように命じたのです。私はラ・クルス領から外に出た事など有りませんでしたが、他に頼るところもないのでその命に従ったのです」
「長時間の移動で途中雨にうたれた事もあってサウスゴータに着いた時は体調を崩してしまい、お腹の子も危ないと言われたのですが、エルビラ様が必死に看病して下さり、水メイジにも見せて下さったので母子ともに生き存える事が出来たのです」
「そうして生まれたのが、サラ、あなたです。あなたは間違いなく私とレアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルスの血を引いています」

サラの目からは涙が零れていた。母の過酷な過去が辛いのだ。

「ウォルフ様、サラにあなたから見たレアンドロ様の事を話して下さいませんか?」
「ああ、いいけど・・・うーん一言で言うなら弱い人だね。優しいんだけれども、その優しさも弱さから来ていて自分にも優しいのが欠点だね」
「なんかダメダメな人って感じなんですが」
「ああ、全く無能って訳じゃないよ。事務処理能力はかなり優秀みたいだし、自信さえ持てばラ・クルス領位ならうまく統治出来ると思う」
「もっと大きいところだとダメなんですか?」
「もっと大きくなると人に任せる事も多くなるからね。お爺様みたいな人が居てその下で采配を振るうとかだったら向いてるんだけど、彼自身が当主だと部下次第でどうとでもなっちゃうかな、彼優しいし」
「うーん、政治能力はそこそこ、人としてはダメダメですか・・・」

サラは何だか残念な感じだ。父親の事をやっと知れたと思ったら、金持ちだけどレイプ犯のダメダメ人間だったのだ、仕方ないだろう。

「もう少し自分に厳しく出来れば、あの弱さも武器に出来るんだけど。あ、でもここに来たって事は厳しく出来たのかな?」
「どういうこと?」
「オレ達がラ・クルスを発つ時はお爺様が認めていなかったからな、アンネ、ラ・クルスの謝罪文は持ってきたの?」
「はい、領主様の署名入りでした」
「ふーん、じゃあちょっとはマシになってるかな?それを持ってきたって事はお爺様と散々ぶつかって何度も燃やされたと思うんだ。その程度には自分に厳しくできるようになったっていう証拠だな」
「じゃあ、ダメダメからは脱却しかかっていると・・・」
「まあ、そうかな?去年はダメダメだったけど。正しい事をしたいっていう思いはあるんだよ、弱いからなかなか出来ないだけで。サラに会いに来るのに七年もかかったのは彼の弱さのせいだし、たとえ七年経っていても謝罪に来たのは彼の良心がさせたことだよ」
「うーん、お母さん、お母さんはその人の事を憎んでいるの?」
「いいえ。昔は憎んだわね。このまま死んだら呪い殺そうと思ってたわ。今はそんな感情はないけど」

そう言い切るアンネの顔は何の気負いも感じさせずさっぱりとした物だった。
しかしサラには分からない。どうして殺されそうになった相手を憎まずにいられるのか。

「何で?何で憎まないでいられるの?そんなに酷い事をした人なんでしょう?それなのに何の罰も受けないで幸せに暮らしているんでしょう?」
「あなたよ、サラ。あなたがいたから憎しみなんて消えちゃったの。あなたの笑顔はどんな時も私を最高に幸せにしてくれる。あなた達と楽しく暮らしているのにあんな人のことを憎んでいたら時間がもったいないでしょう」

そっと手を握り娘に諭すように語りかける。その顔はとても幸せそうな笑顔だった。その笑顔にサラも頬を染めて応える。

「んー、お母さんが良いなら、私もいいや。あんまりその人の事考えないようにする」
「いやいやサラ、せっかく父親が名乗り出てきたんだ。ここはニャーンって甘えて見せてだな、父親からいかに効率よく金を引き出すかっていうのも娘として必須の技能だぞ」
「やですよ、何で私がそんな真似しなきゃならないんですか。お金なんてウォルフ様がたくさん持っているじゃないですか」
「ええ?あれってオレの金じゃなかったっけ?」
「ウォルフ様と私は主従なんだから一心同体なんです!ウォルフ様の物は私の物、私の物は私の物、です!」
「お前はどこのジャイアンだー!」

笑いながら、やいやい言い合う子供達を見てアンネも一緒に笑う。大丈夫だ、レアンドロが現れてもこの子達は何も変わらない。

「でね、サラ。そのレアンドロさんが明日あなたに会いたがっているんだけど、どうする?」
「うーん、どうしよう。あーでもそのダメダメっぷりを見てみたい気もする」
「別に良いんじゃない?会ってみれば。普通のおっさんだよ」
「あはは、おっさんなんだ。うん、いいよお母さん、そのダメダメおっさんに会ってみる」
「分かったわ、伝えとく。本人にダメダメとか言っちゃダメよ?一応偉い貴族様なんだから」


 サラは結局ラ・クルス家の非嫡出子として認知されることになった。対外的には公表しないと言うことではあるが、サラはサラ・デ・ラ・クルスと名乗る権利とマントを纏う権利を手に入れた。最も本人にはそんな権利を行使する気はなく、今まで通りウォルフのメイドを続けるつもりだ。
ラ・クルスからは養育費として毎年五百エキューが支払われることになったがアンネが受け取りたがらなかったのでエルビラが管理し、サラの将来のために貯蓄する事にした。

 翌日湖で遊んでいる時にレアンドロ一家も来て一緒に遊ぶ事になった。
ティティアナはウォルフ達と一緒に遊び、アンネはセシリータと何かを話し、サラはレアンドロと会った。
レアンドロはサラに父と呼んで欲しいみたいだったが、サラはレアンドロ様としか呼ばなかった。
セシリータはアンネに謝罪し、アンネはそれを必要のない事と断った。
サラはレアンドロとは二言三言しか話さずにウォルフ達に合流、ティティアナと顔を合わせた。

「ティティ、ほらこの人はサラ、君のお姉ちゃんだよ」
「よろしく、ティティ」
「お姉ちゃんって、お姉ちゃん?」
「そうだよ、レアンドロ伯父さんの娘だよ」
「私、お姉ちゃんいたんだぁ・・・あれ?お父様また泣いてる、ダメだなあ」
「「プッ・・・・」」

 ティティアナは初めて知る事実に呆然とするが、優しく笑いかけてくるサラにすぐに懐くようになった。
思わず吹き出したサラだがホセの家で小さい子の相手には慣れていたので、初めて接する妹に戸惑わずに可愛がる事が出来た。
今日初めて会った姉妹はウォルフ達と一緒に湖で泳いだり砂で遊んだりと、楽しい一日を過ごした。





1-24    決裂



 さらに翌日、ド・モルガン一家とラ・クルス一家はオルレアン公の招待で彼の屋敷で開催されるパーティーに参加する為馬車でその屋敷へと向かった。サラ達平民組は留守番である。

 ラグドリアン湖畔に建つその屋敷は荘厳でオルレアン公の権力を感じさせた。
馬車が車寄せに着くと衛士が勢揃いして迎え、下級貴族であるニコラスなどは居心地が悪そうな程だった。

「やあ、エルビラ殿、久しぶりだねお互い結婚してから初めてじゃないかな」
「これはオルレアン公様、ご機嫌麗しゅう・・・」

エルビラが優雅に挨拶を返す。

「堅苦しい挨拶はなしで行こう、僕の事も昔みたいにシャルルと呼んでくれ、こちらが君の御主人かい?」
「ご挨拶が遅れました、オルレアン公様。エルビラの夫でニコラス・クロード・ライエ・ド・モルガンと申します。アルビオンで男爵を頂戴いたしております」
「あはは、堅苦しいのは無しだと言ったろう、気楽にしてくれ、ニコラス」
「は、はあ」
「レアンドロ達にも先日は世話になったからな、今日は楽しんでいってくれ」

オルレアン公は不自然な程上機嫌で次々に訪れる訪問客の相手をしていた。様々な話題に花を咲かせ、料理を勧め共にグラスを傾ける。時折ウォルフの方に視線を送り何かを考えているようだったがそれを他人に気取られる事はなかった。
ウォルフは時折自分に向けられる視線に気付いてはいたが、どう対応して良いのか分からずシャルロットやティティアナの相手をして過ごしていた。

「やあ、ウォルフ楽しんでいるかい?」
「これはシャルル様。私のような者までご招待いただきありがとうございます」
「どうだい?この屋敷は」
「素晴らしいですね。景色を楽しむための屋敷といった感があります。特にここのベランダから見る夕景は最高なのではないのでしょうか」
「ははは、そうなんだよ、もうじき見られるけどラグドリアン湖に沈む夕日はこの屋敷の自慢でね。ここに建てたのは先々代の・・・」

やはり何か言葉が軽い。突然話し掛けてきたシャルルは少しアルコールで頬を紅潮させ、ウォルフが聞いてもいないような事をぺらぺらとしゃべり始め一人で納得してうんうんと頷いている。
まあ王子なんてやってれば色々とストレスが溜まる物なのだろうと思い直し、適当に相槌を打っておいた。

「・・・時にウォルフ、ラ・クルス伯爵から聞いたんだが、君はラグドリアン湖の精霊を呼び出す事が出来るというのは本当かい?」
 
急にシャルルの声のトーンが下がり、ウォルフの背中にざわっと悪寒が走る。

「・・・お爺様は勘違いをしたのではないのでしょうか。確かに水の精霊に会った事はありますが、呼び出した事はございません」
「おや?そうかい?君は精霊から大量の秘薬を貰う程だと聞いたんだが」
「私が湖にいる時に向こうから出てきて、帰り際に勝手にくれたのです。精霊にとっては水の秘薬など大した物ではないように思えました」
「ふむ、しかしそうだとしても聞いた事のない話なのには違いないな。水の秘薬は精霊の体の一部だと言うし、大した物でない筈はないだろう。僕には君が精霊に愛されているように思えるよ。どうだい?今ここで精霊を呼び出してみてくれないか?」
「今、ここで、ですか?」

パーティー会場を見回す。急に開いたのだろう、それほど参加者は多くないが、それでもこんな中で精霊を呼び出せばガリア中の話題になる事は間違いない。

「そうだ、今、ここでだよ。水の精霊との交渉は長年トリステインが独占してきた。彼らはその権益に胡座をかき不当な高額で水の秘薬を流通させている。ガリアでも水の精霊を呼び出せる事を示せたら、彼らも考えを改め水の秘薬の価格も下がるだろう」
「この、大勢のパーティー中に、ですか・・・」
「もちろん!証人は多い方が良いだろう?貧しい病人が救われ、ガリアの国威も上がる。どうだい、やってみてくれないか?」

ガリアの国威じゃなくて自分の名声だろう、と言いたくなる。新たにラグドリアン湖の精霊の祝福を受けたガリアの王子、なんてのはトリステイン併合の名目に出来そうな程のインパクトだ。ただでさえ高い国内での人気が跳ね上がる事は間違いない。
要請の形を取っているがシャルルとウォルフの身分の違いを考えればこれは命令だ。もしここで水の精霊を呼び出してしまえば、なんだかんだと理由を付けられてガリアに幽閉されてしまう可能性すら有り、少なくとも今までのような自由な身分ではいられなくなる。それどころかジョゼフ王子やトリステインからの暗殺の対象になるかも知れない。

 まだ六歳の子供だからと気楽に王族に恩を受けたのだが、こんな高い礼を払わされるとは思わなかった。
助けを求め両親の方を見るが、何故か二人ともシャルルの家臣に囲まれて談笑していてこちらに気付く様子はなく、自分で何とかするしかないようだ。
人が良さそうと思っていたシャルルの違う一面を見せられて、王家というものの持つ闇に触れた気がした。

「・・・お断りします。出来るかどうかも分からないし、申し訳ないのですが、水の精霊を見せ物のようにする事には協力出来ません」
「何故だい?多くの貧しい人が救われるんだよ?人間はお互いに助け合って生きる物だ。僕だって君に『遍在』を見せただろう」
「そのことについては感謝しています。しかし私一人の事ではなく水の精霊という相手がいることですから」
「水の精霊と言ってもちょっと先住の魔法が使えるだけだろう、そんなに気を使わなくても良いんじゃないかな」
「水の精霊は知性を持ち、我々と対話が出来ます。普通の人間にするような気遣いは最低限するべきです。更に彼の存在が強大な力を有しているならば徒に刺激するのは避けるべきだと思います」
「必要な事なんだ!水の精霊が強大な力を持っているというのなら尚更従わせるべきだろう!」

「父様、ウォルフ嫌がっている。無理矢理は良くない」

声を荒げるシャルルをそれまで黙って聞いていたシャルロットが諫める。シャルルがシャルロットの願いを聞かなかった事はない。

「黙ってなさい、シャルロット。今は大事な話をしているんだ。どうだろうウォルフ、トリステインの交渉役は自らの血を湖に垂らして精霊を呼び出すという。君がそこまでやってくれたら一万エキューを払おう」

シャルルが声を荒げているので周囲に増えてきた人々からその金額に驚きの声が上がる。
シャルロットは父親が顔も向けずに拒絶した事が信じられなかったし、お金でウォルフを説得しようとした事にも愕然とした。
そんな周囲の様子を確認しながらウォルフはシャルルを真っ直ぐに見据え、返事をした。

「申し訳ありませんが、重ねてお断りします。水の精霊を従わせるという考えは間違っています。彼の存在はそのようなものではありませし、私の血は金貨のために流すものではありません」
「・・・僕がこんなに頼んでいるんだよ?それでも・・・」

「シャルル様。どうして私の息子の血を流させるような話になっているのかしら?」

能面のように無表情になったシャルルが更に言い募ろうとするのを遮り、エルビラが割って入る。ニコラスもすぐに隣に来た。
エルビラは微笑んではいるが明らかに殺気をまき散らしており、それを見た周囲の人はエルビラ・アルバレス・デ・ラ・クルスの伝説を鮮やかに思い出し後ずさった。

「・・・やあ、エルビラ。何、大したことじゃないよ、ちょっとウォルフにラグドリアン湖の精霊を呼び出して貰おうと思ったんだが、断られちゃってね」
「あなたが要請し、ウォルフが断ったのならそこで話は終わったはずでは?」
「彼は中々強情だよね。君ももう少し社会というものを教えた方が良い。高々男爵の息子が僕の依頼を断るなんて想像すらした事がないよ」
「・・・ご忠告ありがとうございます。シャルル様も新しい経験を積めて良かったのではありませんか?」
「こんな子供に蔑ろにされるのが良かった?・・・ははは相変わらず君は冗談が下手だね。笑えないよ」

なんでこんなにシャルルが暴走しているのかウォルフには分からないが兎に角尋常な事ではない。
招待客も呆然としているし、シャルルの部下達も狼狽えている。シャルロットは泣いているしティティアナも泣きそうだ。ここは多少強引にでもこの場から去るべきだ。

「母さん、もういいよ帰ろう。シャルル様は大分お酒を過ごしてらっしゃるようだ」

シャルルの部下に目配せをしてエルビラを引き下がらせる。が、案の定まだ絡んでくる。

「なんだと、僕は酒なんてまだそんなに飲んでないぞ!」 
「酔っている方は皆そう言うのです。シャルロットが泣いているのに気がつかないなんて酔っている証拠でしょう」
「な・・・」

慌ててシャルロットを探すと確かに泣いていて、夫人に抱かれて退出するところだった。シャルルがそちらに気を取られている隙にド・モルガン家は退出する事に成功した。
シャルルはすぐに気付いて呼び止めようとしたのだが、大量に出てきた家臣達に強引に奥へ連れさられてしまった。




「何なんだよ、シャルル様、お前一体何やったんだよ!」
「何なんだろね、全く。とんだ見込み違いだよ」

ホテルへと帰る馬車の中、クリフォードが詰め寄った。

「何なんだろねじゃないだろ!お前がなんかやったからシャルル様があんな風になったんだろ!」
「ちょっとクリフは黙って。ウォルフ、見込み違いって?」
「三週間前魔法を教えて貰った時はもっと人の良さそうな坊ちゃんって感じだったんだけど、今日会ったら全然違っていて吃驚しちゃったよ。あれは・・・野心なんだろうなあ」
「野心、ですか」

ウォルフが窓の外を見ながら呟くように言った言葉をエルビラが繰り返した。しかし、あのシャルルに野心というのがしっくりと来ない。

「そう、野心。お爺様にオレが水の精霊から秘薬を貰った事を聞いたみたいで、精霊を呼び出させようとしてきたんだ。うまく周りの人を言いくるめてラグドリアン湖の精霊の祝福を受けたガリアの王子とでも言わせようとしたんだろうね」
「ああ、それは人気が出そうだな・・・」
「うん、それでオレの事を強引にでも配下にしちゃえばトリステインの併合だって出来そうだろ?その利に惹かれる人は多いだろうからすんなりと王様になれそうだ」
「・・・・・」

エルビラ達はシャルルがウォルフを従えてトリステインに攻め込む姿を思い浮かべた。自分たちの息子がガリアによるトリステイン侵略の旗頭にされるなどぞっとしない光景だ。

「でも何で焦ってそんな事しなくちゃならないのか分からないんだよなぁ。今だって長男より大分有利なんだろ?」
「ええ、そうね。第一王子のジョゼフ様は魔法が出来ないという噂で、貴族達の支持が集まっていないらしいわ」
「まあ、よっぽど兄貴と仲が悪いのかも知れないけど、シャルル様は王様には向かなそうだね」
「今日の事だけでそう判断する事はないだろう、魔法は凄いらしいし、日頃はとても高潔な人格だと人気だ」
「高潔ね。・・・精霊呼べば一万エキュー出すとか言ってきたよ?」
「・・・子供相手に出しすぎだよなあ」
「まあ、今日居た人は簡単に金を出す人だと思うだろうね。オレに仕事をさせるにしても、オレにメリットがないんだよ?酷い依頼だよ。王様なんてみんなの利益の代表なんだから、他人がどんなものを求めているか分かる事は一番必要な能力だよ」
「恩賞か」
「うん、名誉が欲しい人には名誉を、領地が欲しい人には領地、金には金。王様の仕事で一番大事な事だね。彼も努力はしてるみたいだけど、それが分からない上に謀略の才能もないなら王様なんてやらない方が良いって」
「お前・・・シャルル様にまで上から目線・・・だったらどんな報酬だったらやったって言うんだ」
「リスクが大きすぎるから通常の報酬でやることはないよ。やるとしたら・・・兄さん辺りを誘拐して腕の一本も送ってきたらやるしかないかな。あの人だとそこまではしなそうだけど」
「うげえ・・・嫌なこと想像させるなよ・・・」
「・・・・・・」

皆一様に黙り込んでしまい暫く沈黙が続く中、エルビラが口を開いた。

「さあ、それでどうしましょう?オルレアン公領で領主様に敵対的態度を取ってしまったわけですが」
「うーん確かにこの後もちょっかい出してくる可能性はあるなあ」
「まあ、ホテルに帰ってから考えよう」

そう言うとウォルフはちらっと御者の方に目を向ける。今やここは敵地のまっただ中と考えてもいいかもしれない。いくら用心をしてもしすぎと言うことはないだろう。
ホテルに帰り、あまりに早い帰還を訝しがるアンネ達を制してニコラスとエルビラ、ウォルフの三人で客室に籠もり今後の方針を話し合う。

「えーと、オレは朝を待たないでここを出ようと思っているんだけど・・・」
「でも怪しまれないか?ここのフロントはどうせオルレアン公に通じているだろう。なんか罪をでっち上げられて捕まったりしないかな」
「まあ、やるなら捕まえてから罪をでっち上げるだろうね。そこまではしないと思うけど」
「ウォルフ、さっきも言っていましたけど何でしないと思うのですか?」
「あの人いい人でいたいって想いは強いみたいだし、正しいと思うことをやろうとしているんじゃないかな。今回の事もオレが受けるデメリットの事なんて考えてないで気楽にやって貰えると思ってたんじゃないかな?それで断られて切れた、と」
「そんな単純な話なのか?えらい迷惑な人だな」
「今日の最後のほう思い出してよ。あれ、思い通りにならないで駄々を捏ねる子供だろう」
「・・・・じゃあ、出て行く必要はないんじゃない?」
「それでも、オレがいると余計な事を考えちゃうかも知れないから。確かにガリアにとってメリットはあるんだ、精霊を呼び出す事には。・・・みんなでいきなり逃げると反射的に捕まえに来ちゃうかも知れないから、逃げるのはオレとサラとアンネの三人、馬車は対岸で一台用意。父さん達は予定通りここで優雅に休暇を過ごして堂々と帰る、いい?」
「それなら私も行った方が・・」

自分だけ帰るというウォルフにエルビラが心配して一緒に帰りたいと言う。しかしウォルフはそれを断った。

「母さんはシャルル様の抑止力として残った方が良いよ。大人が必要だからアンネと多分サラは置いてくって言っても納得しないから連れていく。連絡はピコタンで。ラウラとリナを頼みます」
「分かった、その方針でいこう。お前の事だから心配要らないと思うが、気をつけるんだぞ」
「うん、勝利条件は全員が何事もなくアルビオンに帰る事。オレが逃げても父さん達が人質にされたりしたら意味がないからね。父さん達も無駄に戦闘したりするなよ?」
「こっちは大丈夫だろう・・・大丈夫だよね?エル、いきなり攻撃したりしないよね?」
「・・・・私が先制攻撃を仕掛けて、その隙にみんなで逃げるというのは?」
「「絶対にやらないで!!」」

ニコラスは了承したが、エルビラはなお不安そうであった。逃げるだけというのが性に合わないのだ。

 夕食後、全員を集めてこれまでの経過と今後の方針を説明する。皆一様に不安そうだがウォルフが気楽そうにシャルルが駄々を捏ねただけと説明すると幾分雰囲気が和らいだ。
ラウラとリナも不安そうだったが、十エキューずつ渡して、もし万が一何かあったらこれでヤカに帰るように言うと嬉しそうにしていた。現金なものだ。
早朝まだ暗い内に出発する事にして、今夜は早めに寝る事となった。




 ウォルフ達が去った城内は暫く騒然としていたが、冷静になったシャルルが戻ってきてようやく落ち着いたかに見えた。
しかしシャルルから遠い場所、会場の其処此処で声を潜めて様々な噂が飛び交った。

「・・・先程のはどういう事なのですかな、あなたは近くにいたんでしょう?」
「何やらどこぞの子供がラグドリアン湖の精霊を呼び出せるなどと吹聴したのを、オルレアン公が信じてしまったみたいで呼び出させようとしたんですよ」
「ははは、そんな馬鹿な事を信じるわけはないでしょう」
「いやいや、それが信じているようでして・・・」
「なんと?ではまさか本当にその子が?」
「いやいやいや、その子も相当困ってしまって必死に断っていましてな、それなのにオルレアン公がごり押しするものだから、見ていて気の毒になりましたよ」
「ああ、そういうのは大人が分かってあげないと・・・」


「私もそばで聞いていたのですが、その子というのがあの"業火"のエルビラの息子らしいですよ」
「"業火"といえばラ・クルスの・・・オルレアン公はラ・クルスに恥でもかかせるつもりでそんな事を?」
「まだ六、七歳でしたよ?どちらかと言えばやらせる方が恥でしょう」
「ううむ、一体何故そんな事を・・・」


「しかしつい最近ラ・クルスに滞在なされたのではなかったですかな、オルレアン公は」
「その時に何か確執が・・・」
「私はラ・クルスのパーティーに最後までいましたが、とても楽しげに過ごしていらしたぞ」
「貴殿はまだ若い。このガリアで、楽しそうにしていた、など何の意味もない」


「ではシャルル様が支持を求めたのにラ・クルス伯爵が断ったと?」
「あの方は堅物だからこの時期に一方の王子に荷担するとも思えんが。それを分からぬシャルル様でもあるまい」


「何とかエルビラ殿に杖を抜かせようとしていらした」
「そうそう!彼女の旦那の事も高々男爵と罵ってましたぞ」
「まさか!シャルル様がそんな事を仰るはずがない!適当な事を言うと身を滅ぼしますぞ」
「落ち着きたまえ、声が高いですぞ。・・・男爵云々は私も聞きました。私も男爵ですからな、耳を疑いましたよ」
「そんな・・・」


「今シャルル様と話しているのはラ・クルスの嫡男ではありませんか?」
「ああ、中央政府にも入れず、伯爵がもういい年なのに領地の経営もまかせて貰えないという・・・」
「そう言えば・・・昔ラ・クルスでは廃嫡してエルビラ殿に継がせるのでは、と噂になっておりましたな。彼女がアルビオンに行ってしまって消えましたが」
「もしや、その話がまた・・・まさか、それで嫡男がシャルル様と組んで伯爵を排しようと?」
「シャルル様も自分を支持しない伯爵よりも、自分が据えた嫡男の方が都合が良い・・・」
「まさか、そんな、シャルル様ですぞ!シャルル様がそんな事をするはずが・・・・」
「しかしそれが一番しっくり来る話ですな。暫く姿を見せなかったエルビラ殿が何故、今ガリアに現れたか、という事だ」



 会場に戻ったシャルルは激しく後悔していた。
ガリアの王族としてラグドリアン湖の精霊を呼び出し、衆人の前で跪かせる。とても魅力的な案をウォルフに持ちかけたのだが、あの子供が断って全てが台無しになった。
ついかっとなってエルビラにもあたってしまったし、醜態を晒してしまった。
彼らが泊まっているホテルの支配人からの連絡でウォルフが夜中に湖に一人で出かけ大量の水の秘薬を持ち帰っていることは把握していた。その情報はウォルフが水の精霊を呼び出せるだろう事を確信させるには十分だった。
呼び出しが成功しなかった場合のリスクはあると思ったが、その時は笑い話にしてしまえばいい話だ。誰にとっても試してみるだけの価値のあることだと思っていたのにまさか断られるとは。
ガリアの王子たる自分からの依頼という名誉を断る人間がいるなど考えもしていなかったのが原因だが忌々しい事だ。

 こんな筈ではなかったと思いながら何とか挽回しようと会場に戻って見れば、酷い噂が飛び交っている。こんな時は自分の良い耳が疎ましい。
せっかくのラ・クルス伯爵との友誼が台無しになってしまう話が聞こえてきて、あわててレアンドロの元に行き友好関係をアピールしようとすれば、噂は更に酷い方向へと独り歩きしていく。
こんな事なら家臣達の言う通りあのまま引っ込んでしまえば良かった。
耐えられなくなったシャルルは酒を煽り、酔った振りをしてその場から逃げ出した。全て酒の所為となってくれる事を期待して・・・。




「くそっ!くそっ!くそっ!ふざけやがって・・・・精霊を呼べるだと?呼べばいいじゃないか!僕のために!力があるなら使えば良いんだ!」

 会場から逃げ帰ったシャルルは家臣達を振り切って一人書斎に閉じこもった。

「何なんだ、あの子供は!全てを見透かしたような目をしやがって!ああ、そうさ!僕は兄さんに勝ってガリアの王になるんだ。その為ならなんだってやってやるさ!ガリアを正しく導き一つにまとめることが出来るのは僕しかいないんだ」

あの目を知っている。あれは父が兄さんの魔法を見る時にいつもしていた目だ。あれは落胆。何故この僕がそんな目で見られなくちゃならないんだ。

「僕は兄さんに勝つんだ!勝たなきゃいけないんだ!みんなヘラヘラしやがって!僕は兄さんのスペアじゃない!僕こそがガリアの王だ!・・・・・・」

 嫉妬、羨望、焦燥、憎悪、恐怖、様々な感情が衝動の儘にシャルルの口から吐き出されいく。
それは最早シャルルでも何を言っているのか分からない、言葉の形をなさないものであったが、叫んでいると心が落ち着いてきた。
やがてシャルルは大きく深呼吸すると書斎から出て行った。

書斎からつながる書庫に"イーヴァルディの勇者"を読もうとシャルロットが入り込んでいた事には最後まで気がつかなかった。







1-25    アルビオンへ



 翌朝、ラグドリアン湖にはお誂え向きに霧が出ていた。
まだ太陽が昇るどころか殆ど薄暗い時間だが、対岸の馬車屋は早朝から営業しているというのでこの時間に出ればちょうど良いだろう。なんでもラ・ロシェールまでは通常は途中で一泊の旅程だが、早朝に出発すればぎりぎりロサイス行きの夜便に間に合うので急ぎの人用に開けているという事である。

 昨夜レアンドロが訪ねてきてその後のパーティーの様子を教えてくれたのだが、そこで流れていた噂を聞いてエルビラは顔を顰めた。
フアンがレアンドロの廃嫡を図るなど冗談じゃない。更にレアンドロがシャルルと結託してフアンの排除を試みるなど冗談にしても有り得ない話だ。
シャルルが後悔していて、謝っていたとは聞いたがエルビラもウォルフと一緒に一刻も早く帰りたくなった。

 今ウォルフは『練金』で作ったボートに自分の荷物を積んでいる。
逃げるのに邪魔だから捨てて行けと諫めたのだが、それほどの事態ではないと譲らなかった。

「じゃあ、お先。母さんくれぐれも自重して。ラウラ・リナ父さん達の指示には絶対に従ってね」
「気をつけてね、ウォルフ。何があるか分からないわ」
「うん、絶対にアンネとサラは守るから。それにいざとなったら投降するよ、命懸ける程の事じゃないし」
「ああ、それでいい。父さん達ももう一泊したら帰るから」

見送る人に笑顔で応え、対岸目指して船を出した。
サラとアンネが水を動かし船を進ませ、それにウォルフが帆に風を送って速度を増やす。
朝靄の中するするとボートは進んでいき、直ぐにその姿は見えなくなった。



 残った方は遊ぶような気分ではなかったのだが、周りの貴族の目もあるし昨日までと同じように湖で過ごした。
しかし子供達に限っては最初は大人しかったもののすぐに元気よく遊び始め、特にクリフォードは同年代の女の子二人と一緒ではしゃいでいた。

 そんな家族連れで賑わう湖岸に突然騎馬の一団が現れた。
さすがに砂浜までは入ってこなかったがゆっくりとその外側を誰かを捜すように移動している。
周囲のざわめきにエルビラ達も直ぐに気付き、その一団の中にシャルルの姿を確認すると緊張を高めた。
シャルルも直ぐに気付いたようで、馬を下りると家来に預け一人でこちらに歩いてきた。

「やあ、エルビラ殿、昨日はどうやら失礼をしたみたいだね。謝りに来たよ」

爽やかな笑顔で言うその人はいつものシャルルであった。
エルビラも幾分緊張を緩め、答える。

「いいえ、大分お酒を過ごしていらしたようですし、気にしていませんわ」
「いや、本当に申し訳なかった。暫く酒は控えるつもりだよ」

エルビラは黙ってお辞儀で返した。
この会見は周囲で多くの貴族が見ており、また噂として広まる事だろう。

「ド・モルガン男爵、君にも失礼な事を言ったようだ。酔ってたとはいえ恥ずかしい事をした、許して欲しい」
「何の事ですかな?私も昨日は飲み過ぎていたようです。とんと覚えておりません」
「ははは、それでは酔っぱらい同士だったと言う事で容赦して貰う事にしよう」
 
にこやかに、二人の間には何の障りもないように会話をする。周囲の貴族達の中には本当に昨日の事がただの酔った上での出来事だったのかと思うものもいるほどだ。

「それでウォルフにも謝罪をしたいんだが、彼は湖かい?よほど精霊と仲が良いのかな」

湖で泳ぐ子供達を眺めシャルルが尋ねる。エルビラはその目がそれまでとは違う光を放つのを感じ、悪寒を走らせた。

「酔った上での事です、ウォルフも気にしていませんし、お気遣いなさいませぬよう」
「いやいや、そういうわけにもいかないよ。これは僕の良心の問題だ。あれ、クリフはいるのに見あたらないなあ・・・」
「・・・ああ、ウォルフは用がありまして、先に帰りました」
「帰った?アルビオンに?君たちが此処にいるのに、彼だけが帰ったというのかい?」

シャルルの目つきが鋭くなる。
ウォルフ達がまだ此処にいると家臣に聞いて、謝意を表すところを他の貴族にも見せるつもりで来ただけだ。ウォルフに何かをしようとしてきたわけではない。それでも、シャルルは感情がざわめくのを止める事が出来なかった。

「ええ、前から言っていたのです、なんでも世話になっている先生の誕生日で友達と約束があると。私たちも今日帰ろうかと思ったのですが、クリフが駄々を捏ねまして」
「はは、それじゃあ謝れないなあ。・・・いや、残念だ。君たちから伝えておいてくれ」

絞り出すように言い、顔の下半分だけで笑顔を作る。そんなシャルルの様子を見てエルビラ達はウォルフを先に帰した事は正しかったと判断した。
何故だかは分からないが、ウォルフの存在がシャルルの心を乱すようである。

 シャルルはそれから二言三言エルビラ達と言葉を交わして屋敷に戻った。周りの貴族の目からはとても和やかだったように映った事だろう。
しかし、帰り道でのシャルルの表情は厳しく、家臣が何を話し掛けても碌に返事をせずにずっと考え込んでいるようであった。

「そうだよ・・・兄さんはいつも僕の一つ先の手を打つんだ・・・・」

シャルルの独り言は誰の耳にも届かなかった。



 その頃ウォルフ達は順調に街道を進んでいた。
対岸までは一時間もかからずに行けたし、馬車屋は話通りすでに営業していたので一番早いという馬車を頼んだ。

「ハイヤーッ!かっ飛ばしていくぜっ!しっかり掴まっていて下せえ、この"疾風"のセヴラン、何人たりともオラの前は走らせねえ!」

平民のくせに何故か二つ名を持つ御者が操る馬車は勢いよく走り出し、あっと言うまにラグドリアン湖から遠ざかった。
セヴランの馬車は最悪の乗り心地であったが、ウォルフがかつて経験したことのないスピードで街道を進み、予定通りラ・ロシェールでロサイス行きのフネに乗り込む事が出来た。
 セヴランの馬車のせいですっかり疲れた三人は航海中ぐったりと船室で寝ていたが、アルビオン大陸が近づくとウォルフは甲板に出て雲の中から姿を現し朝の光を浴びる空中大陸を見つめていた。
その姿は荘厳で神懸かって見え、ウォルフがハルケギニアに来て一番好きな景色であった。

「ウォルフ様大丈夫?」
「ああ、サラ。見ろよアルビオン大陸だよ。・・・やっぱり良いよなあ、いつかカメラも作りたいなあ」
「?シャルル様の事を考えてたんじゃないの?」
「え?シャルル様?何で?」

シャルルの所為で逃げてきたというのに、残ったエルビラ達がどうなったかも分からないのに、ウォルフはあまり気にしていない様子である。

「何でって、心配じゃないの?」
「そりゃ心配だけど、シャルル様だってそんな根っからの悪人って訳じゃないだろうし、多分大丈夫だよ。オレ今こんなとこにいるからどうせ何も出来ないし。松井やイチローも言っていたけど、自分が関与出来ることと出来ないことを分けて考えて、関与できないことについては思い悩むべきではないってさ」
「知りませんよそんな人・・・それでも心配しちゃうのが人間じゃないですか」
「逃げるのを決める時に十分シミュレーションはした。一番怖いのは人質を取られることだけど、子供三人くらいなら父さんが守れるだろ。アレでも優秀な風メイジだからね。それに加えて母さんがいるんだよ?シャルル様が前線に出るとも思えないし、心配なのは衝突が起きないかどうかであって安全についてはあんまり心配してないなあ」
「・・・エルビラ様ってそんなに凄いの?」
「とりあえずオレだったらあんなのとはやりたくないね。オレ達の爺様もスクウェアとして相当優秀だけど、母さんには手も足も出ないんじゃないかな?アセチレンの炎だって「それ、いいわね」の一言で真似して出していたし、それにあの圧倒的な魔力。シャルル様が何を考えているのかは分からないけど、あんな歩く戦術兵器みたいなのと正面からぶつかるのを選ぶ程馬鹿じゃないと思うよ」

エルビラの特徴はフアンを凌ぐ圧倒的な魔力を基にした熱量である。アセチレンの炎も操るし、更にその有り余る魔力を直接エネルギーに変換する事も出来るので、本気になったらどこまで温度を上げることが出来るのかウォルフには分からない。
優秀なスクウェアメイジであるフアンとウォルフが渡り合えるのは、従来の炎を操るフアンに対して魔力を効率的に運用しているからなんとかなるのであって、あんな危険な炎をあんな膨大な魔力で使われてしまったらウォルフ程度の魔力の火の魔法では対抗出来ない。

「アセチレンってウォルフ様が危ないからって使わなくなったヤツ?」
「そうそれ。父さん燃やす時とか風呂焚きの時は普通の火を使ってるけどね。オレ達が逃げてきたのだってシャルル様のためって事もある。うっかり母さんと衝突しちゃったらとても大変な事になるよ」
「で、でもシャルル様だって凄いメイジなんでしょう」
「王族自ら襲ってくる事はないと思うけどなあ。でもそしたらどうやって母さんを倒すつもりなんだろう。ちょっと見てみたい位だな。風なんて当てたらますます温度上がるし、あの炎。簡単に地面とか溶けるよ?」

台風と火山、どっちが強いのかはウォルフには分からないが、ウォルフの知っている風魔法でエルビラを倒すのは至難の事のように思えた。
ウォルフの研究では風魔法には欠点があって、高温に熱せられた気体は風魔法の制御下から外れるのだ。水や土も同じで高温下では火こそが唯一の魔力なのであって、『炎の壁』が防壁として機能する理由でもある。
大きな魔法でエルビラの膨大な魔力ごと吹き飛ばせればいいが、そうでないのなら『エア・シールド』ではエルビラの炎を止めきれないだろうし、遍在を出したところで各個撃破されて終わるだろう。勝機があるとすれば速度で上回りエルビラの隙を突くことか。
人質に取るつもりなら隠密行動にしたいだろうけど、エルビラがいる限り絶対にそんなことにはならない。必ず大騒ぎになる。向こうもそれは分かっているだろうから仕掛けてくる確率は低いと踏んでいるのだ。

「まあ、どうせ心配してもオレ達には何も出来ないし、そろそろ出航前に母さんの所に行ったピコタンが戻ってくるからそれを待とう」

ウォルフがそう言ってから程なくしてエルビラの使い魔であるフェニックスのピコタンが戻ってきた。
暫く上空を旋回していたが、ウォルフの姿を認めると降りてきてウォルフの目の前の柵に止まった。

「クルルッ」
「やあ、お帰りピコタン、お疲れ様」

ピコタンの首に掛かっている手紙を受け取る。エルビラと視界を共有しているかも知れないのでサラを抱き寄せて手を振っておいた。

「クルルッ」
「えーと・・・・ああ、大丈夫だったみたいだね。シャルル様来たけど何もしないで帰って行ったって」

サラが、ほーっと息を吐いた。

「シャルル様に一体何したのかって書いてあるけど、オレが聞きたいよ」
「ウォルフ様が偉そうにしているところ聞かれちゃったんじゃないの?」
「そんなんであんなになっちゃうの?大丈夫かよ、シャルル」
「ほらそういうところだよ、きっと」

そうこうしているうちにもうロサイスの上空だ。鉄塔型の桟橋が近づいてくる。
急な帰郷だったので家人の迎えもなく、また馬車を仕立ててサウスゴータへと向かった。今度の馬車はゆっくりと街道を進んだ。

 その後も何もなくサウスゴータのド・モルガン邸に着き、ピコタンをエルビラの元に戻すと荷物を降ろし旅の疲れを癒した。
何も問題のない旅でサラなどは拍子抜けする程だったが、まだエルビラ達が帰ってきていないので晴れやかな気持ちにはなれなかった。




――― 翌日 ―――

 ウォルフはサラを伴ってマチルダの下を訪れていた。

「マチ姉!久しぶり!」
「ああ、久しぶりだね、どうしたんだい?ウォルフ、サラ。予定では明後日あたりに帰ってくるんじゃなかったのかい?」

 ウォルフは笑顔で気楽そうな様子だが、サラは若干堅くなっていた。

「うん、母さん達はまだ帰ってきてないんだけどね、オレとサラだけちょっと訳ありで先に帰ってきたんだ」
「訳ありってあんた達だけで?いったいどうしたんだい」
「それが・・・」

サラが話を引き取って説明する。アンネと一緒に三人で帰ってきた事、ウォルフが何かをやってオルレアン公に絡まれた事、これ以上オルレアン公を刺激しないために先に帰ってきた事、などを順序立てて話した。
マチルダは話が進むにつれ驚きで目を丸くしていた。ガリアの王族を怒らせるとは一体何をやったのだ、この子は。

「オ、オルレアン公ってあれだろ?ガリアの王族だろ?この前魔法を教えて貰ったって自慢していたじゃないか」
「うん、とても親切で人が良すぎるんじゃないかって思ってたんだけど」
「一体何をしたんだい?身に覚えはあるんだろ?」
「うーん、パーティーでラグドリアン湖の精霊を呼び出して欲しいって言われて断った」
「は?」

なんだその難癖は。ラグドリアン湖の精霊を呼び出す事が出来るのはトリステインだけだというのはハルケギニアの常識である。
そんな事を要求されるなんてその以前に怒りを買っているとしか思えない、とそこまで考えてふと相手が色々と常識からは外れているウォルフである事に気付いた。

「もしかして、だけどあんた本当に呼べるのかい?そういえば去年水の秘薬を貰ったとか言ってたねえ」
「呼んだ事はないけど多分呼べる。今年も行ったら会いに来たし、精霊様に名前覚えて貰ったし。オレ精霊様とは結構話が合うんだよ。ただ、シャルル様はそのことは知らない筈なんだ」
「はー、あんた常識知らずとは思っていたけど・・・」

マチルダは絶句している。恐らくシャルルというのは野心家で、ウォルフを利用しようとしたのだろうと思った。

「そんなのが相手なら逃げてきて良かったじゃないか。きっと利用するだけ利用しといて用が済んだらポイッて捨てられるよ」
「うん、そうだね。まあもうその話は良いよ。マチ姉、仕入れはちゃんと出来た?」

マチルダの中でシャルルが極悪人になってしまっている事に気付きはしたが、放っておいて話題を変えた。
今回ここに来た目的である商売の話である。

「ああ、バッチリだよ!五千エキュー全部使い切ってやったさ。今タニアを呼んでいるから、来たら説明するよ」
「ん?何でタニア?」
「ああ、彼女なかなか計算に強いし相場に詳しくてね。ホラ、元はガリア人だろ?どういうものが便利かとか彼女に仕入れを手伝って貰ったんだ」
「へー、意外な特技だな」
「リュティスの魔法学院じゃ座学は主席だったらしいよ。何でウチなんかで護衛なんてやってるんだろ」
「一度貴族から落ちると色々大変みたいだからなあ・・・」

ド・モルガン家も元はトリステインの貴族だったが一度爵位を失っている。その辺の苦労話をよくニコラスに聞かされていたので能力と地位とが比例する物ではないと言うことは分かる。

 やがてタニアが資料を持ってきて、四人で連れ立って輸入してきたものが置いてある部屋へ向かった。
マチルダはガリアから三日前に帰ってきていたのだが、まだ何も売ってはおらず全て揃っていた。
そこには香辛料の大樽や様々な魔法道具が並んでいた。

「おお、結構あるな」
「まあ、まだフネには積めたんだけどね、お金が先に無くなっちゃったのさ。船主がこれ以上積むなら割増料金取るって言うしこれで良いかと思って」
「へえー結構色々買えたんだなあ・・・あれ?香辛料五種類だけ?」

現物とリストを見比べていたウォルフが疑問の声を上げた。たしかマチルダはたくさんの種類を買いたいと言っていた気がする。

「ああ、タニアのアドバイスでね、たくさんの種類を集めるよりも価格差が大きくてアルビオンでの人気が高いものに集中して仕入れをした方が利益が大きいって言うから」
「なるほど。しかも纏めて買うから仕入れ価格は更に下がるという訳か」
「そうそう、面白いんだよ、五リーブル仕入れるのと五百リーブルとじゃ全然値段が違うんだ」

マチルダはすっかり商売の面白さに引き込まれているみたいで頬が紅潮している。
仕入れてきた物をアルビオンの相場価格で捌けるとすると相当な利益になる。

「だけどちょっと問題があってね、お父様がサウスゴータの名前で商売するのは許さないって言うんだ」
「まあ、こんだけあるとねえ。いよいよ商会を作るか。名前はサラ商事で良いかな」
「何で私の名前なんですか!そんなの恥ずかしいです!」とサラ。
「えー、あたしの名前も入れておくれよ」こちらはマチルダ。
「じゃあ、マチサラ商事ですか?」タニアが答える。
「なんだよその街金みたいな名前は・・・・名前は後回しだな。タニアも一緒にやんない?ガツンと儲ければ男爵領くらいは買えるようになるかもよ?」
「ここまで乗りかかった船ですからねえ・・・ふふふ、面白そうですし、良いですよ参加しましょう」
「うん、よろしく。商会長はサラとして、タニアは会長秘書だな」
「やっぱり私は会長なんですか・・・」

サラがどんよりと落ち込んでいる。七歳で商会の会長をやれと言われたらプレッシャーがあるのだろう。

「実際に人と会ったりするのはタニアにやって貰うから、事務処理と、後は名前だけだから大丈夫だよ」
「その事務処理だって不安です。私まだ七歳なんですよ?教師だってやれって言ってたじゃないですか」
「サラが五人ぐらいいたら楽なんだけどな・・・大丈夫、サラには出来る!オレが何のため色々教え込んだと思っているんだ」
「えっと・・・・あ、愛情?」
「・・・ボケが出る位ならまだ余裕はあるな、じゃあよろしく」

 結局一応サラが会長と言う事で商会が発足する事になった。ただ、サラはまだ納得していないようでこそこそとタニアを口説いている。何とか代わって貰いたいらしい。
今のところ名前もなく人数も少ない商会ではある。しかし、いよいよウォルフのハルケギニアの外まで行きたいと言う夢を叶える第一歩を踏み出す事になるのであった。



[33077] 第一章 26~32
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 01:34


1-26    立ち上げ会



 ウォルフ達から遅れる事三日、エルビラ達も無事サウスゴータに帰ってきた。
オルレアン公の動向が心配されたが敵対するような事はなく、逆にお詫びとしてウォルフにおみやげを渡されるほどであった。

「おーい、ウォルフ、アンネ、サラ今帰ったぞー」
「あー、おかえりなさい。無事で何より」

馬車が門内に入るなり大声で叫ぶニコラスにウォルフが答える。既にみんな勢揃いして待っていて、どの顔も嬉しそうだ。
口々に再会を喜び合うと馬車の荷物を下ろし始め、屋敷のメイドや使用人も総出で手伝いに来た。大丈夫だと言われてもウォルフの話を聞いて不安になっていたのだ。
ウォルフは荷物を降ろして所在なげにしているラウラとリナを案内して納屋へと向かった。
二人はウォルフの方舟を見て驚いているが軽く無視して納屋の二階へと向かう。

「ほら、ここが君たち二人がこれから住む部屋だよ」
「「ふおおお・・・・」」

二人にあてがわれたのはかつてウォルフが研究室として使っていた納屋の二階で、昨日半日がかりでウォルフが片付けて改装したのだ。
結構な広さの部屋には既にベッドやカーテン、ドレッサーまで入れられ、直ぐに住める状態になっており、中庭に面した窓を持つため風通しが良く明るい光に満ちていた。
二人で一緒の部屋だが、そもそもこれまで狭い家に暮らしてきた二人には一人用のベッドがそれぞれに用意されているだけでも驚きの贅沢さであって、全く不満はなかった。

「「あたしのベッドー!!」」

奇声を上げながら二人がそれぞれのベッドへ突進する。早速割り振りが決まったようである。
二人に部屋の使い方を簡単に説明し、鍵を渡す。一人に一つだ。

「合い鍵は母さんが持っているから、無くして部屋に入れない時は言ってね?大体こんな所だけど、何か分からない事ある?」
「ウ、ウォルフ様、あたし達こんな所に住んで良いんですか?」「ですか?」
「君たちの部屋だって言っただろ、大丈夫、報酬の分はちゃんと働いて貰うから」
「ええっ!やっぱりあたし達、夜の慰みものに?」「慰みもの!」
「・・・君たちにはまだ早いだろう、って言うかオレ六歳だよ?」
「でもニコラス様がいるし、クリフォード様だってそろそろ・・」「そろそろです!」

ちなみに前がラウラで後ろがリナである。妙に息の合った姉妹だ。

「これははっきりとしておくけど、ラウラとリナはオレに雇われたんだから。ド・モルガン家ではなくウォルフ・ライエ・ド・モルガン個人の使用人な訳だから、無条件で他の人の言う事を聞いたらダメだよ?」
「ニコラス様やクリフォード様の慰みものにはならなくて良いんですか?」「ですか?」
「もし万が一そんな事を言ってきたら鼻で笑って良いよ。目一杯軽蔑した目で見てね。その後でオレかサラか母さんに言えばそのゴミは処分してあげるから」
「「ふおおおお」」

人間として当たり前だと思う事にここまで驚かれると、平民が貴族の屋敷に勤めるという事に対してどのような考えを持っているのか分かってしまい、悲しくなる。まあ、彼女たちは叔母であるアンネが貴族のところでどんな目にあったのかを知っているわけだし、仕方がないのかも知れないが。
ウォルフにとってファンタジーの魅力溢れるハルケギニアも、そこに住む平民にとっては基本的人権も、生存権すらも保証されない過酷な世界なのだ。

「とにかく、オレは報酬を払い君たちは労働で払う。ビジネスとしてあくまで対等な関係な訳だから不当と思う事には従う義務はないから。君たちの貞操は君たちのものなのだから大事にしなさい」

こんな言葉がここハルケギニアでどれだけ軽い言葉であるか、分かりながらもつい口にしてしまう。
平民にとって仕事というものは貴族に恵んで貰う物だという認識を少しでも改めたい。
その仕事に対して敬意が払われない限り人は自分の仕事に対して誇りを持てない。
人が自分の仕事に誇りを持った時、どんな仕事をする事が出来るのかをウォルフは知っている。
そんな仕事をする人を少しでも増やしたいと思う。

 兎に角二人を納得させて荷物を片付けるように言い、部屋を後にした。



 翌日の昼、ウォルフ達は主に平民が使う料理屋に集まりテーブルを囲んでいた。
店内は多少騒がしいものの、テーブルごとに区切られていることもあり話は普通に出来た。
ウォルフ達はマントを外していて、集まったのはウォルフ、サラ、マチルダ、タニア、ラウラ、リナの六人である。
ラウラとリナは太守の娘とその護衛を紹介され、さらに一緒のテーブルに着いてしまって恐縮頻りであった。

「えー、ではこれより我々の商会の立ち上げ記念集会を始めます。今日の議題は商会の目的をはっきりとさせ、今後の方針を決める事と、名前をそろそろ決めたいという事です」
「商会の目的なんて金儲けじゃないのかい?」
「一般的にはそうかも知れないけど、それじゃあ、つまらないだろ。オレはオレの野望をこの商会で実現したいんだ」

マチルダとタニアが怪訝な顔をする。ウォルフが野望というのがしっくりと来ない。

「オレの野望は世界周航をしたいという事だ。その為に必要な資金や物資の調達、長距離・長期間の航行に耐えるフネの開発、必要な人材の育成などをこの商会を通して行っていきたいと考えている」
「世界周航ってどういう事?」
「このハルケギニアを出て、サハラを越え、遙か東方ロバ・アル・カリイエや更にその先まで行って帰って来るって事だよ。そして外の世界の人達と交易を行う会社にしたいんだ」

ウォルフが熱く語る。その目は何時になく熱が入っていた。

「あんたそんな大それた事を考えていたのかい・・・あのグライダーとかいうので行くつもり?」
「いや、あれはそんなに荷物積めないし、違うよ。あれで実現した技術を応用してもっと大きなフネを造るんだ」
「たしかにあれは人が乗るところは小さいけど、結構大きいよ?どの位のを作るつもりだい」
「グライダーは二人乗りだけど、新しく作るのは少なくとも二、三十人は乗れる位にはしたい。知らない世界を見てみたいという人は一緒に行こう!そうでない人も商会を大きくするのを手伝って欲しい」

そういわれてもすぐに返事を出来る者はいない。
サラは知っていたしラウラとリナには拒否権がないので残るはマチルダとタニアだが、二人ともちょっとしたお小遣い稼ぎのつもりでいたのだ。そんな大事になるとは思っていなかった。

「い、いつ頃出発するんだい?」
「まずは商会を大きくしなくちゃならないから・・・十年以内には行きたいなあ」
「なんだい結構先の話だね」
「そりゃそうだよ。どんだけクリアしなきゃならないハードルがあると思ってんだ」
「異端審問には引っかからないでしょうか?ハルケギニアから出たいとか言ったら誤解されると思うのですが」
「聖地の視察が出来るから大丈夫じゃない?聖地に行けと言うのはブリミル様の教えな訳だし。出たいって言っても帰ってくることが前提だから」
「でも、その聖地にはエルフが居るんだろう?危ないんじゃないのかい?」
「いきなり突っ込んでいったりはしないで、ちゃんとエルフとも交渉をしながら行くつもりだよ。それにもし攻撃をされてもそれに耐えてすぐに逃げ出せる位のフネは開発するつもりだ」
「うーん、それなら大丈夫かねえ・・・」
「問題はないとすると・・・面白そうかな?いいですよ、私も行ってみましょうか、ロバ・アル・カリイエの先というところへ」

 タニアが同意をする。彼女は軽い身の上なので気軽に決める事が出来るのだ。
それに対してサウスゴータ太守の娘であるマチルダはそんな簡単に返事をするわけにはいかなかった。

「タニアもオーケーしたんだし、この商会の目的が世界周航っていうのはいいよ、あたしも協力するさ。でもあたしが行くかどうかはまだ決められないよ」
「それでいいよ、マチ姉。別に今決める事じゃないし、この先どうなるかなんて分からないしね。ただ、目的ははっきりと決めておきたかったんだ」
「ああ、目標があった方が楽しいだろうさ。ただ商売するんじゃなくて、その方が張り合いが出るってもんだろう」
「おお、ありがとう。当分はただ商売するだけになるだろうけどね。この商会はハルケギニアでのオレの居場所にしたいから、しっかりとした組織に育てたい」

 ただ行くだけならばもっと早い時期にでも行けるであろうが、行ったからには交易をしたいし、何があるか分からないのである程度の武装も必要だろう。
ハルケギニアの外に行くのだ、どんな幻獣や亜人がいるかは分からない。サハラには十倍の戦力で当たらなければ勝てないと言われているエルフがいるし、最低限身を守る術を備える必要がある。
ウォルフは自身がまだ幼児なので、焦らずじっくりと準備をする事にしていた。

 そんな事を話していると料理が運ばれてきた。今日は立ち上げパーティーなのでこの店にしては豪華な料理を頼んである。

「それでは、世界周航社(仮)の発足を祝いまして・・・乾杯!」「「「乾杯!!」」」

ウォルフが音頭をとって乾杯をする。タニア以外は水のグラスであったが皆楽しそうにグラスをぶつけ合った。
料理を食べながら様々な事を話し合う。世界周航には何が必要か、どんな品物を扱うべきか、社屋はどうすのか、話題は尽きる事がなかった。
タニアが意外とゲルマニア事情に詳しく、ゲルマニアとガリア・アルビオン間での貿易でも利益が出そうなことが分かり、だんだんと商会の方針が決まってくる。
ラウラとリナはあまり意見を言わず料理を食べることに夢中になっていたが、意見を求められれば素直に思ったことを答えていた。
そしてやがて話題は現在保留中の商会の名前についてどうするかに移った。

「だから、名前から付けるのはうまくいかなかったんだからさ、全然違うのにすればいいんだよ」
「たとえばどんな?」
「あたしはサザンスター商会がいいと思う。アルビオン大陸の南の空に燦然と輝く星・・・ロマンチックじゃないか」
「やだよそんな頭の悪そうなの。大体ハルケギニアを相手に商売するつもりなんだからサザンは無いと思うんだ」
「う、アルビオンの南でもハルケギニアの中じゃ北西の方か・・・むむむ」
「めんどくさいから世界周航社でいいんじゃね?」
「世界周航って言葉の意味を一々説明するのがいや」
「うーん・・・」

なかなか意見が纏まらない中サラが発言する。

「ガンダーラ商会っていうのはどうでしょう」
「ガンダーラ?何の名前だい?聞いた事がないけど」
「ウォルフ様が時々歌ってくれる歌に出てくるんです。とてもすてきな歌で、私もその歌を聴くとガンダーラに行ってみたくなるんです」
「あー、サラ、それは・・・」

ウォルフはガリアでガンダーラと名乗ってしまっているので、ここで商会の名前をそれにしたくはなかったが、そうここで言うことも憚られた。 

「ウォルフ?どんなとこなんだい?ガンダーラってのは」
「えーっと、サハラとロバ・アル・カリイエの間にあるかも知れない古代王国。その国の事を歌ったロバ・アル・カリイエの歌があって、それを聴いてオレも東へ行ってみたくなったんだよ」

本当は前世の世界での古代王国と日本の懐メロなのだが、本当の事を言っても通じないだろうから適当に答えておいた。もしかしたらこっちの世界にも似た所があるかも知れないし。
ウォルフはなるべく他の名前にしたいのだが、興味を引かれたのかマチルダはなおも聞いてくる。

「へぇー、それは是非聞いてみたいね。ちょっと歌っておくれよ」
「えー?いまここで?」

ウォルフは嫌がったのだが、他の全員が聞きたいというので断りきれない。
しかたなく、元の歌をハルケギニア語に訳したものを歌い始めた。
切なく、どこか懐かしいメロディーにのせてウォルフが詩を紡ぎ出すと、賑やかだった店が次第に静かになり皆ウォルフの歌に聴き入っているようであった。
初めて聞く詩、初めて聞くメロディー、しかしその曲はハルケギニア人の心の琴線に触れたようだった。
そんな観客の様子に、ウォルフは風の魔法に目覚めて以来歌う事が大の得意になっていたので皆が聞き入ってくれているのが気持ちよく、つい調子に乗って二番まで歌いきった。
歌が終わりウォルフがペコリとお辞儀をすると、店内の客達は割れんばかりの拍手で応じた。皆口々に感想を言い合いウォルフを褒めていて、ラウラやリナは元よりマチルダとタニアまで拍手している。
そんな中、いきなりの拍手の雨に戸惑っているウォルフの前に一人の男が進み出た。

「素晴らしい!少年、握手をしてくれ!」
「は、はあ」

ミュージシャンなのだろうか、床に楽器ケースを置いたその青年は顔を紅潮させウォルフに握手を迫った。

「今の曲はいったい何なんだ、君が作ったのか、教えてくれ頼む!」
「えーっと、オレが作ったんじゃなくてロバ・アル・カリイエの歌って言われている曲です」
「そうか、ロバ・アル・カリイエか!初めて聞いたよ、素晴らしい!あれがロバ・アル・カリイエの歌か・・・ガンダーラ・・・」

その青年はウォルフの手を握りしめたままガンダーラへと旅立ってしまったみたいだったが、すぐに帰ってくるとウォルフになおも迫った。

「是非!もう一度歌ってくれないか?今店に入ってきたところで最初の方は聞いていなかったんだ」
「えー、でもあんまり騒ぐと店に迷惑・・・」
「あそこで店長が○出しているから大丈夫だ!ちょっと待て伴奏をするから」

そういうと楽器ケースを開きギターを取り出す。軽く音をみてウォルフの横に立った。
ウォルフはこの世界に来てヴァイオリンを見た事はあったがギターを見るのは初めてであった。

「お、ギターだ。こんなのあるんだ」
「ん?この楽器を知っているのかね、珍しい。えーっと、Emからでよかったかな?」
「あーもうっ、はい、そうだねEm、Am、D、A7ってかんじ。あとFM7も入るかな?」

ふんふんと男は肯きギターから軽く音を出している。ウォルフはまた押し切られてしまったようだ。

 結局青年の伴奏に合わせてまた二番まできっちり歌ってしまった。
青年の技術は確かで、初めて聞いた曲にきっちりと伴奏を付けサビの部分ではハモって来るほどで、ウォルフも気持ちよく歌えた。

「ありがとう少年よ。良かったら名前を教えてくれ、俺の名はジョニー、仲間からはジョニー・ビーと呼ばれている」
「オレはウォルフ、ウォルフ・ライエ。良い演奏だったよ」

客達の拍手の中二人で握手を交わした。
近い将来、流離いのミュージシャン・ジョニー・ビーによってこのガンダーラという曲がハルケギニア中で流行る事になるのだが、それはまだ少し先の話である。





「はー、しかし凄い騒ぎだったね」

 ジョニー・ビーが去った後、まだ興奮冷めやらぬ中マチルダが呟く。

「確かに良い曲ですものね、商会のテーマソングですね」
「え?それだとガンダーラで決まりって事?」
「決まりだろう、何言ってんだい」
「「決まりです」」「です」

ウォルフが軽く抗議をするが決まってしまったようだ。

 ここに未来の総合商社・ガンダーラ商会が誕生した。
今はまだ構成員六名の小さな組織ではあるが、確かにその第一歩を踏み出したのだった。




1-27    商会設立-1



 商会は立ち上げたもののウォルフ達にはやる事が山積みになっていた。
用地の選定にギルドへの登録、取引ルートの開拓から従業員の確保、さらには専門的な技術者の育成など。
それに加えてウォルフは旋盤の開発と、先のことを考えるのが嫌になるほどであった。
とりあえず技術者の養成や寺子屋をやるには社屋が必要なので、購入してしまうつもりで用地を探す事にした。

「やっぱりそれなりの広さが欲しいから潰れた商家とかで良い物件があると良いんだけど」
「それですとこの物件などはどうでございますでしょうか?」
「うーん、ちょっと路地が細すぎるな。大通りに面して無くても良いから大型の馬車がそのまま入れるような作りが良い」
「それですと、こちらか・・・こちらなんていかがでしょうか」

不動産屋が掲示した物件情報を詳しく見る。ウォルフは元よりマチルダとタニアも真剣だ。
ちなみにサラは家でラウラとリナ、それにヨセフの子供達に計算を教えていてここにはいない。

「こっちは三千エキューで、こっちが・・九千エキュー?ちょっとこれは高すぎるんじゃない?もうちょっとでお城が買えますよ」
「でも条件には一番合ってるね。郊外のお城と街中の物件とを一緒に考えることはないんじゃない?」
「ウォルフ、あんたいくらまで出せんだい?」
「この位なら出せるけど、後の事を考えたら抑えておくにこしたことはないね」

買うかどうかはさておき一番条件に合っていると言うことでその物件を不動産屋に案内されて見に行くことになった。
物件は大通りであるバーナード通りから一歩入ったところにあって、ちょっと古びてはいたが図面通りの広さを持ちウォルフが出した条件を全て満たしていた。
通りに面して門を兼ねた三階建ての建物。中庭があり、中庭を囲むように倉庫と住居用の建物が建っている。全ての建物は統一されたイメージで建っており、見た目は古くさいがしっかりしていて熟練の土メイジが建てた物と思われた。
その立地、地形、建物全てにウォルフは満足だったのでタニアにOKのサインを出す。

「とても良い物件ですわね、ジョルダンさん。とても気に入りましたわ」
「それはよかった、ミス・エインズワース。気に入った方に購入していただくのが一番ですからな」
「ただ・・・こちらの床とか、ドアなどはかなり痛んでいるようですが、これらはそちらで修理してから引き渡していただけるのですよね?」
「いえ、そういうものも含めてこの価格でお願いしております」
「あちらの屋根や水道なども痛んでいるようですし、我々が使用出来るようにリフォームするには二千エキュー程はかかってしまいそうです。その分お値段の方は何とかならないでしょうか」
「・・・八千五百。商売を始める時は色々やりたくなってしまいたくなるものですが、最初はそんなに体裁を気にしなくても良いものですよ」
「でも、使い始めてから床が抜けたりしたら手間だし余計お金がかかってしまいますでしょう・・・七千二百」
「床は『固定化』を掛ければまだまだ大丈夫ですよ・・・八千二百。これ以上は無理です」

タニアとジョルダンとの視線が交錯する。端から見ている者には決して分からない情報がやりとりされた。
まだいける・・・
タニアはジョルダンの瞳から正確に情報を読み取った。そして、大げさに息を吐くとやれやれというように首を振りウォルフの方に向き直る。

「ウォルフ、ここも良い物件だけど他の所も見てみない?西ブルンドネル街にもニコルっていう紹介屋がいるらしいから」

ジョンソンやニコルは不動産屋と言っても専業でやっているわけではなく、ギルドから紹介を受け本業の傍ら不動産の斡旋を行っていた。
そしてこの仕事をしているのはサウスゴータではこの二人だけだった。

「・・・ミス・エインズワース、ニコルは私ほどのコネを持ってはいませんので紹介出来る物件もさほど多くはありません」
「それでも掘り出し物があるかも知れませんし、行くだけ行ってみますよ」

ニッコリと笑う。地獄の悪魔でさえも魅了出来そうな笑顔だ。

「分かりました。・・・七千八百。あくまで今決めていただけるなら、と言うことでの価格です」
「七千五百。今決めろと言うのならこの位にはしていただかないと」

二人は暫し睨み合っていたがジョルダンの方が先に目を逸らした。

「負けましたよ、ミス・エインズワース。エキュー金貨で七千五百、その価格で手を打ちましょう」
「こちらの事情をご理解いただいて嬉しいですわ」

大きく息を吐き出し、諦めたように首を振りながら右手を差し出した。
タニアはニッコリと笑いながらその手を握り返す。千五百エキューの値切りに成功したのだ。
実は七千五百エキューではジョルダンの取り分はほとんど無い。それでもこの価格に応じたのは、ここの所の不況のせいで物件の成約件数が激減しているためだ。あまりに長期間成約が無いことで信用を落とすことは防ぎたい。そんな、ジョルダンの思惑を見抜いたかのような絶妙なタニアの値切りであった。
ウォルフはその交渉の間中何も言わず黙って傍観していた。マチルダからガリアでタニアが値切りまくっていた様子を聞いて任せてみたのだが、正解だった。その気迫、呼吸、とてもウォルフに真似出来るものではなく、大阪のおばちゃんくらいしかタニアには対抗できないのではないかと思われた。
ギルドで土地建物の購入手続きとギルドへの登録を済ませ、代金七千五百エキューと加盟料を支払い名実ともにガンダーラ商会が発足した。




 その後も建物の改修・掃除、物資の搬入、従業員の雇用とこなしていき、一週間後には商会としての体裁が整った。

 新しく雇用したのはロマリア出身の平民達、ベルナルド、カルロ、フリオの二十代から三十代の三人で、商会に勤めた経験がある上に面接で一番やる気があったので採用した。
詳しく話を聞くと酷い不況の所為で勤めていたロマリアの商会が潰れたため、職に困って教会に大金を払い国外での就労を斡旋して貰ったのだが、紹介状を持ってサウスゴータの教会を訪れたらそんな話は知らんと門前払いされてしまい途方に暮れていたという。
ロマリアに帰りたくてもそんな金はないし、ここ数日は城壁の外で三家族身を寄せ合って寝ていたらしい。
教会が斡旋詐欺を行うロマリアも凄いと思うが、この話を聞いてそのまま追い返すサウスゴータの教会もたいがい腐っていると思わざるを得ない。

 直ぐに家族達を呼び商会の建物に住まわせ、子供達が三歳から十歳まで計十人いたのでこの子達も寺子屋で教えることになった。
ヨセフの子供達・トムとメイの姉妹に比べあまりまっとうには教育を受けていないので、小さい子達はラウラとリナとトムに教えさせ、そのラウラ達をサラやタニアが教える、と言うシステムで寺子屋もスタートした。
今のところ読み書き算数と言ったところだが、いずれは物理や化学の基礎なども教えていこうと思っている。
それと週に一度だがウォルフが直接授業することになった。まだ内容は決めていなかったが、彼らが将来誇りを持って仕事を出来るような授業にしたいと考えていた。

 商会長は結局タニアが務めることになり、サラは胸を撫で下ろしていた。商会長ともなれば色々と人と会う必要があり、七歳ではいくら何でも無理があった。
最初はその無理を通そうとしていたのだが、タニアがサウスゴータ家を辞し、マチルダの従者をやめて商会に専念すると言うことでウォルフはこれを歓迎し、商会長を任せることにしたのだ。
会長に就任することが決まってから打ち明けてくれたのだが、タニアは元はガリアの結構良いとこの伯爵令嬢だったのが父親が政争に巻き込まれて爵位を失ったそうだ。祖母を頼ってアルビオンに渡り職を求めたのだが中々思う様には行かず、希望の職種では無かったがしかたなくマチルダの護衛官になったらしい。
本当はもっと自分の事務処理能力を生かした仕事に就きたいと考えていて、ゲルマニアに渡ることなども含め休日ごとに色々と調べていたそうだ。

 商売の方は取り敢えずは貿易業と言うことで、ガリアやゲルマニアとの貿易を始める事にした。将来的には飛行機による高速輸送を考えているが、当面は通常の両用船と水上船による輸送で地味に始めるつもりだ。
タニアがリサーチしたところによれば、ハルケギニア西側における国際間の物流は殆どトリステインの商人を経由していてそこを省くだけでも大分コストを下げられそうなのだ。
ガリアとアルビオンの物価に差が結構あるとは思っていたが、分かってみれば結構簡単な理由だ。トリステインの商人と取引のあるところはなかなかそこを外すことは難しいみたいだが、ウォルフ達には彼らに気兼ねする必要はない。
今回仕入れた香辛料等は小分けして彼方此方の商人に卸しているが相当な利益を上げている。輸送費が掛からなかったので当たり前と言えば当たり前なのだが、それを抜きにしても価格差は大きく、直接貿易した方が有利なのは明らかだった。
これならばフネをチャーターしても十分に利益は上がると見込み、新たな商品の仕入れを行うため配船業者と交渉しようとして思わぬ障害にぶつかった。

「フネを貸せない?」
「申し訳ないのですが、ウチの方で用意出来るのはトリステインまでの貨物船ということになりまして、ガリアやゲルマニア行きにつきましては貴族様専用とすることにいたしました」

 タニアが今来ているのはロサイスの配船業者で、ガンダーラ商会の様な小さな商会は賃貸料と保険料を支払いフネを借りて貿易するのが一般的で、今日はその契約に来たのだ。
一週間前に来た時は問題なく貸すようなことを言っていたのに今日になっていきなり手の平を返してきた。

「どういう事なのでしょうか、今日は契約のためにわざわざサウスゴータからやってきたのですが」
「本当に申し訳ない、組合の方で急に決まってしまったことでしてな、こちらは足代と言うことでお納め下さい」

そう言って頭を下げ、いくらかの金が入っているだろう袋を差し出す。本当にフネを貸す気は無いみたいだ。
多少なりとも足代などを出してくるのはこちらがマチルダとつながっているのを知っているからで、そうでなければ門前払いされていただろう。

「組合で、と言うことは他所に言っても同じ、と言うことですか・・・」

相手は揉み手をしながら愛想笑いをしている。
おそらくはトリステイン商人の横槍であろうが、こちらは新参者でしかないのでそれを収めさせる材料を持ってはいなかった。
ここの所の不況で潰れずに残った業者は皆結束しているのでどこかを狙って崩すというのも難しそうに思え、出直すしかないと判断した。
叩き返してやりたかったが、金の入った袋を手に取り立ち上がる。辛酸をなめたメイジは辛いのだ。

「それでは、今日の所は引き上げます。こんな事をしてもアルビオン人の利益にはなりません、貴方達が考え直してくれることを期待します」

アルビオン、に力を入れて捨て台詞を残した。
貴族と、それもサウスゴータの跡継ぎ娘とつながっているだろう相手にトリステインのために働いているように言われることはかなり嫌なことなのだろう、相手の顔がゆがむ。
それを見て少しだけ気を良くしてタニアはサウスゴータへと戻った。ウォルフやマチルダと相談しなくてはならない。




「うーん、困ったね、フネがないんじゃしょうがないじゃないか。何とかならないのかい?ウォルフ」
「この不況でフネなんてずっと桟橋に繋いであるじゃねーか。貸せばいいのに、馬鹿じゃねーの?」
「まあ、トリステインの商人には凄く嫌なことだったんでしょうね。でもどうしましょう、トリステイン経由だと貿易なんてしても全然うまみがありませんよ」
「あそこは組合がしっかりしているからなあ、みんな仲良くみんな幸せ。でも、不況になっても潰れるところが少ないって事はそれだけ暴利をむさぼっているって事だな」

 三人で顔をつきあわせてため息を吐く。
トリステイン商人が嫌がるだろうとは思ったが、アルビオンの商人がその意を汲んでおおっぴらに動くとまでは予想していなかった。

「本拠地をヤカに移して向こうで手配するって言う手はどうだい?」
「うーん、あの辺の地域は海運と陸運が中心ですから、都合良く両用船の配船業者がいるかどうか・・・」
「確かにロサイスやラ・ロシェール程はいなさそうだね」
「まあ、貸してくれないなら買うって手があるだろ。タニア、フネっていくら位?」
「え?買うって言っても中古でも三万から五万エキューはしますよ?それに加えて船員と護衛も雇わないといけないし風石は高価です。係留しておく港の代金やメンテナンス費用だってかかりますし、我々の様な零細が借金して購入しても支払いが大変なので、利子のことを考えるとちょっと・・・」

社屋を購入する時に予算を運転資金を含めて二万エキューと言われていた。既に一万エキュー近く使っているのでフネの購入など夢のまた夢だ。

「うーん、でもしょうがないだろ?ちまちまトリステイン経由で貿易したって配船業者とトリステイン商人が儲けるだけだろう。最初からそんなに大きい規模で商売するつもりはなかったけど仕方ない。向こうが売ってきた喧嘩だ、買ってやろうじゃないか」
「お金無いんだから喧嘩にもならないでしょう。借金したって貸し手が儲かるだけだし・・・何か夢が無くなってきますね」
「別に借金なんかしねーよ。金を用意すれば良いんだろう」
「え?あんた当てがあるのかい?」
「現金はないけど、ヤカのギルドの手形がある。後で渡すから、タニア換金してきてくれる?」

今回のガリア旅行で宝石を売って得た分も手を付けることになった。まあ、手形のまま眠らせている位だし特に使う予定もない金なので問題ないだろう。

「そんなのがあるのかい、いくら分?」
「十二万エキュー分あるんだけど、ついでだから全部換金してきてよ」
「・・・・・・一体何をやってそんなに儲けたのか知りたいんだけど」
「えーっと、安全保障上の問題で秘密だな。心配しなくても、もうこれ以上は出てこないぜ」

実際問題としてマチルダあたりに原子について教えたら放射性物質も作れてしまいそうなので教えたくなかった。
魔法を覚え初めの頃ダイヤモンドを作るところは見られているが、なるべく思いだして欲しくはない。
普通はメイジの作る宝石は直ぐにばれて高くは売れないらしいので、マチルダにもそう思ったままでいて欲しかった。
マチルダが核爆弾を作るとは思わないが、十年、二十年後にこの『練金』の知識がどう使われるなんて分かったものじゃないのだ。
だから詳しい事情は聞かないで欲しいのだが、マチルダは納得しない。

「これから一緒に商売やるってのに、最初からそんな秘密を持ってるやつと一緒にやってられるかい!」
「ごめん・・・でも百万、二百万人の人の命が関わってくることなんだ」
「・・・急に話が大きくなるね。ますますどんなことだか想像も付かないよ」
「あまり気にしないでくれると嬉しいよ。とにかく金はあって、フネは買える。それでいいだろ」
「いや、無理。信用出来ない」

マチルダは面白く無さそうに口を尖らせ、ツーンと横を向いてしまう。
全くとりつく島がない。もう一方のタニアは十二万エキューの方が気になるようで、「それだけあったらあれよね、会長室の内装ももっと良いのにしてもいいわよね、あ、ガリアで遠話の魔法具も買いたいわね・・・」等とブツブツと呟いている。こっちはまあ大丈夫だろう。
ウォルフは仕方なく覚悟を決める。ここでマチルダに抜けられるのは痛すぎる。最後の一線だけは守ろうと決意してマチルダの目を見つめた。

「どうだい、言う気になったのかい?」

マチルダもウォルフの目を真っ直ぐに見つめてくる。その凛とした様子にウォルフは、やっぱりマチ姉って凄い美人だなあと関係ないことを思いつつ口を開いた。

「絶対に秘密にしてくれる?」
「あたりまえだろ!あんたあたしをなんだと思ってるのさ!」
「何をしたのかは教えるけど、どうやったのかは教えることが出来ない。それでもいい?」
「・・・いいよ、話してみな」

ウォルフは杖を取り出し、机の上のペーパーウェイトをダイヤモンドに『練金』し、マチルダに手渡した。

「これを、売った」
「ちょっと、あんたこれダイヤモンドじゃないか!こんなもん作れ・・・あれ?前にも作っていたかい?」
「うん、まあ」

マチルダが慌てて『ディテクトマジック』を唱え、ダイヤを精査する。

「不純物が、無い・・・」
「それを加工してヤカで売ったって訳。納得した?」
「・・・命がかかってるってのは?」
「ちょっと特殊な『練金』だから。間違うと在るだけで毒をまき散らして何万人も死ぬような物質が出来ちゃう可能性があるんだ。オレももう使わないつもり」
「教えられないって言うのはそういうことかい。じゃあ本当に危ないことや、悪いことをした訳じゃないんだね?」
「ああ、それはない。全然。オレとしても予想外に高く売れて吃驚したんだ」
「・・・じゃあ、その『練金』のやりかたは聞かないでおいてやるよ」

フンと鼻を鳴らしてマチルダが答える。
タニアもダイアモンドを食い入るように見つめていたのだが、ウォルフが何も言うつもりはないことを感じとったので何も聞かなかった。

「じゃあ、私明日にでもヤカに向かいます。この後手形を取りに行ってもいい?」
「うん、ついでだからベルナルドとフリオを連れていってまた色々仕入れてきなよ。向こうでフネ買って船員募集しても良いし」
「そうね、ロサイスで軽く当たってみて相場を見て決めましょう」
「それがいいね、ラ・クルスの伯父さんに紹介状を書くよ。護衛や船員を雇うのに口をきいて貰おう」
「ん?当主のお爺さんの方じゃないのかい?」
「そういった細かい事務は伯父さんの方が得意みたい。じゃあ、俺は家に帰って紹介状を書くよ。タニアは後で取りに来て」

翌日、あっという間に旅支度を調えたタニアはベルナルドとフリオを連れてヤカに旅立っていった。




1-28    商会設立-2



 商会の立ち上げに平行して旋盤の開発も再開した。
旅行前にどこまでやっていたのか思い出しながら工房を点検する。旋盤関係は納屋の地下室で開発していた。

「いったん中断すると色々と面倒だなあ・・・」

誰もいない地下室で独りごちる。一ヶ月も間が空くと頭の中に入っていたデータなどが全部怪しくなっているので、記録を見ながら構想を練り直す。
旋盤に必要な物は、まずは加工物を保持するチャック。
そしてそれを回転させるモータと適正な回転数・トルクを提供する減速機。
回転させた材料を削るためのバイト(刃)と高剛性な刃物台。
そのバイトを正しい位置に合わせるための完全に平行と直角が出ていてスムースに動く送り装置。
それに加えて螺子を作るために必要な自動送り装置と全てを支える高剛性な本体。
さらには製作する品や加工に合わせた様々なアタッチメント。
ざっとこれだけは必要で、しかもどれもハルケギニアでは有り得ない精度を要求する物だった。
旅行前に大まかなところは設計してあったので一つ一つの部品を設計する。魔法で何が出来て何が出来ないのかを考えながらの孤独な作業だ。
他にも必要な様々なアタッチメントや精度を出すための測定器を製作することを考えると気が遠くなるが、誰もやってはくれないので一つ一つこなしていくしかなかった。

 自作の製図板の上に乗っているのは今回からガリア産の大きな紙になった。
ガリア産の紙は羊皮紙に比べて安いのが利点であるが、数年経つとボロボロになってしまうと言う欠点があるために公用書などには使用されていない。
『固定化』の魔法を掛ければ大丈夫なのだがそうすると割高になってしまって、結局普及は進んでいなかった。
ウォルフが見てみると原因は紙が酸性になっているためで、製紙する時の薬品のせいで時が経つと腐食してしまうのだ。
そこで買ってきた紙を纏めてアルカリ溶液につけて中和した上で乾燥させてみたら、十分長持ちしそうな紙になったため使用している。

「うおー!!やったるぞー!絶対に作ってやる!」

 ウォルフはその大きな紙に合わせた製図板の前に立ち、気合いを入れると精一杯背伸びをしながら一人作業を進めた。



「あれ、君はサウスゴータ夫人の一行にいたかな?」
「はい、覚えていただいて光栄ですわ。今はそこを辞しましてウォルフに雇われてそこの商会長をしています、タニア・エインズワースと申します」

 一方のタニアはヤカの城でウォルフの伯父レアンドロと対面していた。
門番にウォルフの紹介だと伝え手紙を見せるとスムースに会うことが出来た。

「はあ、本当にウォルフは商売を始めたのか・・・レアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルス子爵です、よろしく。どれどれ」

手渡された手紙を読む。それはウォルフがしようとしている商売の説明とその為の助力を求める物だった。
その商売とはアルビオンとガリアとゲルマニアで直接貿易を行うと言う物で、そのガリアでのハブとしてラ・クルス領を考えているとのことだ。
貿易を盛んにする事により得られる利益と、領地の発展について詳しく分析されていて、それはラ・クルスにとっても魅力的な物だった。
ガリアとゲルマニアは政治的、軍事的に対立することが多かった歴史のせいで交易が盛んではなく、直接の貿易は陸路で直接細々と、後はトリステインやクルデンホルフ大公国などを経由することでなんとか続いているという有様だった。
ハルケギニアで商人といえば都市間の交易を主にする遠隔地商人と都市内での商売しかしない小売り商人の二種類に分類されるが、ガリアやゲルマニアで遠隔地商人と言えばそれぞれの国内の都市間での、精々トリステインまでの交易を行う商人を指すのであって、国境を越えて貿易を行うような者はあまりいないのだ。
大国間の緩衝地帯になっていると言う事が、歴史以外に何も取り柄がないと言われるトリステインのような小国が生き残っている理由とも言える。しかしそこを抜いて貿易をするのなら確かに利益は上がるだろう。
トリステイン商人達は怒るだろうが、アルビオン人がやるのであればこちらには関係のないことだ。
更に詳しく読んでいく。ゲルマニアの分はデータが少し古いのもあるが各国の物価、輸送コスト、人件費などの検証、ガリアに輸入したいゲルマニアの商品、逆にガリアから輸出したい商品など詳しく考察されていた。
レアンドロが見る限りかなり優秀なレポートであるが、何よりも優れているのはラ・クルスにとってどのような利益があるのかを第一に考えて書かれている点だ。
これを読んだ人間が取る行動は一つしかなかった。

「ふう、これを読んだら協力をしないわけにはいかないな。どうせ僕が大したことをする訳じゃないし」
「ありがとうございます。ウォルフも喜びます」
「ええと、やることは・・・フネの購入と船員の雇用か、こっちでフネを買うつもりなの?」
「はい、残念ですがトリステイン商人の妨害に遭っていまして、アルビオンでは適正な価格では購入出来無さそうでした」

タニアが悔しそうに言う。ロサイスでは最初は愛想良くても名乗ったとたん冷たくされ、トリステイン商人の圧力はかなりしっかり掛けられているようだった。
今回ここまで商売を大きくするつもりになったのは十二万エキューという巨額投資もあるが、アルビオンを中心に行う経営に不安が出たというのもある。
将来築いていこうとしていた貿易ネットワークを既成事実として先に作ってしまい、トリステイン商人に対抗していこうというのだ。

「そんな商売をやるならこれからも色々と妨害はしてくるだろうね。彼らの既得権益を奪う事になるのだから」
「はい、ある程度はしょうがない物として諦めています。しかしアルビオンが発展する為には新しい貿易ルートの開拓は必須というのが我々の考えです」
「まあ頑張って。ロサイスというと、モード大公か。ちゃんと話を通しておくと良いよ。トリステイン商人だけならまだしもアルビオンの貴族を敵に回したら目もあてられない」
「はい。サウスゴータを通して話を持ちかけています。一応こちらの事業計画を提出していて、まだ返事待ちではありますが、代官の方からは良い感触を得てはいます」
「うん、それでいい。ここには大きな港が無いから、明後日の午後ウチの領のプローナって言う港町から商人を呼んで紹介するからまた来てくれ。ヤカの商人ギルドにもその時に紹介しよう」
「はい、ありがとうございます、明後日また伺わせていただきます」

さすがは伯爵家、たとえ遠く離れた町からでも商人などは呼びつける物らしい。
改めて礼を言い城を出る。ちょっと頼りなさそうではあるが、人の良さそうな相手でここの所トリステイン商人の所為でいらついていた心が少し落ち着いた。



 ヤカに来てもタニアは忙しく働いた。市場の調査から街道、水運の調査などヤカからプローナまでベルナルドとフリオも使い、調べまくった。
その結果タニアもウォルフの考えに賛成しガリアでのガンダーラ商会の商館をヤカに持つことにした。
海から遠いという欠点はあるが、国境が近いくせに流通が殆どガリア国内に限定されていて競合商人がいないことも新規参入するにはメリットだ。
国境が近いせいで川に船の通行を妨げるような橋が架けられていないためプローナまでとはいえ大きな船がこんな内陸まで入ってこられるし、プローナからヤカまでの水運は多くの業者が競合し低価格で請け負っているので安心だ。
何よりヤカから先は街道が整備されて陸運が発達しており、ガリアの旺盛な需要を持つ消費市場を背景にヤカの通りには商館が軒を連ねていて、商品を捌くのに不安がなかった。

 レアンドロと約束した時刻が迫り城へ向かう。
通された部屋にはレアンドロが少し困った顔をして待っていて、その横には何故か不機嫌そうなラ・クルス家当主、フアン・フランシスコ・デ・ラ・クルスが座っていた。

「や、やあタニア、時間通りだね。紹介するよ、僕の父のフアン・フランシスコ・デ・ラ・クルスだよ」
「よろしくお願いします、タニア・エインズワースと申します。アルビオンでウォルフに雇われました」

挨拶をするがフアンは何も言わずこちらを睨みつけてくる。
タニアは元ガリア貴族なので、ガリアで怒らせてはいけない貴族リストの上位に常にランクインするフアンのことを良く知っていたが、直接睨みつけられると生きた心地がしない。

「貴様がウォルフに商売などを唆したのか?」

しかも沈黙の末に掛けられた言葉がこれだった。何か誤解をしているらしい。

「いえ、とんでもないです。私はサウスゴータで太守の娘さんの護衛官をしていたのですが、その縁で知り合い、ウォルフから誘われました。しがない没落貴族を続けるよりも楽しいかと思い参加しました」
「没落貴族・・・アルビオンか?」
「いえ、ガリアです。三年ほど前に父が爵位を失いまして、祖母の居るアルビオンに流れてました」
「三年前。そうかあの事件の・・・」
「はい、護衛官の仕事を長く続けるつもりも元々ありませんでしたし、ウォルフに誘われて良かったと今はやりがいを感じております」

フアンを見つめニッコリと笑う。何としても誤解は解かなくては。
しかしフアンはいささかも表情を変えずこちらを睨みつけてくるだけだ。

「フン・・・フネを買うとか言っていたな。ウォルフはもうそんな金を用意出来るのか、それとも借金か?」
「ここのギルド発行の手形を十二万エキュー分渡されています。どうやってそれを手に入れたのかは安全保障上の問題とかで教えられていません」
「うわー、そんなに用意してきたんだ、凄いなあ」

お金のことなので話すかどうかは一瞬悩んだが、睨みつけてくるフアンを前にあっさりと打ち明けてしまった。一応『練金』の事は秘密にしてある。渾身の笑顔も効かなかったしこれ以上怒らせたら本気でピンチだ。

「十二万エキュー・・・こっちに来ていてもただ遊んでいた訳じゃないと言うことか」
「父上の訓練は遊びって感覚とはかけ離れていると思うのですが・・・」
「運転資金等も含まれていますし、全てフネの購入に充てるわけではありません。当面の目標はフネの購入と人員の確保それにガリアでの拠点をここヤカに作ることです」
「うーん、かなり本格的だなあ」

またフアンが黙る。レアンドロが空気だが、彼なりに場を和ませようと必死だった。
暫く何か考えていたフアンだったが顔を上げると後ろに控えていた執事になにやらサインを出す。
恭しくお辞儀をして出て行った執事がワゴンを押して戻ってきた時、その上に乗っていたのは大量のエキュー金貨だった。

「ちまちま商売していてもしょうがないだろう、これを投資してやるからガツンと儲けてみろ」
「えっ?と、投資ですか・・・」

いきなり大金を積まれて面食らってしまう。しかし確かにこれだけの金があれば購入するフネを増やし一気に商売を広げることが出来る。
ヤカのような大きな街で商館を構えているような所は大抵が遠隔地商人であり、小売りをしてはいても卸しも兼ねている。そのような所と取引する場合その取引の規模が価格に直結する。リスクは増えるが商売の規模を広げれば利益を得られやすくもなるのだ。
ゲルマニアの拠点整備も一気に出来るので在庫した時や天候などのリスクを大分減らせるだろう。
新しい商売をするに当たって妨害も受けるだろうが、大量の物資を積み上げればこちらになびく商人も出てきやすいはずだ。

「ウォルフに伝えよ。十年でにこの十万エキューを倍にして返してみよ、とな。それが出来るのならウォルフのすることを認めるてやるが、出来なかったらガリアに来て今ウチで余っている子爵位を継げと」
「おお、あそこの領地をウォルフに継がせるつもりですか。少し難しい土地ですが、彼ならば栄えさせてくれそうですなあ」

暢気にレアンドロが相槌をうつが、そんな息子をフアンがぽかりと殴る。

「何暢気なことを言っておるんだ!お前が将来継ぐはずの領地が減るんだぞ。お前はそんな風に執着心がないからダメなんだ」
「あ、いやしかし彼がラ・クルスに来てくれるならそれは良いことでしょうし・・・」
「お前にも命じる。今後領地の経営をまかせるからあの子爵領からの分以上に収入を増やせ。期限はやはり十年だ。ワシは軍の方に専念する」
「ち、父上・・・」

初めて領地の経営をまかせると言われレアンドロは嬉しさで泣きそうになる。
そんな親子のやりとりを無視してタニアは冷静に計算をしていた。十年で倍と言うことは半年複利として年七パーセント位。何の担保も取らず出してくれるにしては破格だ。
しかも金を出すだけ出して口は出さないみたいだ。あえて言えばウォルフが担保だが、男爵家の次男坊を子爵にしてくれるって言うんだからリスクなんて何もない。
そこまで判断してタニアの腹も決まった。

「分かりました、ウォルフには必ず伝えます」
「ふん・・・そう言えば、何でウォルフは来ていないんだ?」

割と何でも自分でやりたがるフアンはこんな大きな取引に本人が出てこないのを不思議がった。

「何か家で旋盤とか言う機械を作っていますね。この先加工貿易をするためには必須だとか言ってました。商会の方にはあまり顔を出さずに大事なこと以外は私に一任しています」
「商売をやりたいとか言ってた割にはそれ程やる気があるわけでもないのか」
「ええと、やる気がない訳じゃなくて、本人は商売するのはもっと先だと思っていたらしくて先にやるべき事が多いと言っています」
「相変わらず何を考えているのか分からんやつだ。フネを買ったら一度こちらに顔を出すように伝えてくれ、オルレアン公の事で聞きたい事がある」

将来を聞かれて商売と答えたくせに、実際に始めてみれば人任せで自分はおもちゃを作っているという。
ウォルフが商売を始めたと聞いてカッとなったが、取り敢えず本人が貴族をやめたわけではないので様子を見ることにした。
フアンの用事が済んだと見たのでレアンドロが執事に合図を送り商人達を呼ぶ。随分と待った事だろう。
商人達が入ってきたのを見てフアンが腰を上げる。本当にもう用はないらしい。

「おいお前達、この娘がヤカで新しい商売を始めるらしい。便宜を図ってやってくれ。詳しくはレアンドロが説明する」
「「ははっ!」」

そう言い残してフアンは出て行ったが、領主直々の依頼である。商人達は皆平伏しそうな勢いで頭を下げた。

長時間待たされて、通されてみればなにやら若い娘とワゴンの上には大量の金貨。マントは着けていないが目の前の娘は御落胤か何かと勘ぐりたくなる状況だ。
呼ばれたのはヤカの商人ギルドの幹部数名とプローナの商人達で、皆一様にどんな話が出てくるのか不安そうにしている。
そこへレアンドロが一から今回呼び出した意図とガリア-アルビオン-ゲルマニアの三角形で貿易を行うその意義と利点とを説明していく。
ウォルフの手紙の内容に沿った物ではあったが、レアンドロがきちんと理解している事にタニアは感心した。
直ぐに商人達も話に引き込まれ、タニアも混ざっての説明が終わった頃には皆新たな利益の匂いに目をランランと輝かせていた。
何しろ基本的にはトリステインの商人の利益を抜いて流通コストを下げるだけの話だ。分かり易い事この上ないし、プローナの商人などは取引のあるトリステイン商人達の傲慢さにほとほと嫌気がさしてもいたのだ。

「なかなか夢のあるお話しですな、我々が直接貿易しにくいゲルマニアとの取引をアルビオンの方がやってくれるのならこちらとしても願ったりですな・・・ふむ」

そう言ってギルドの長は思案する。目はワゴンの上の金貨を見つめたままだ。

「こちらの金貨は伯爵様がこちらに投資したと思って良いのですかな?」
「いえ、これは利子を付けて返却する約束ですので、貸付金となります」
「ふむ、貸付金では利子の支払いが負担になりますな・・・」

そう言ってまた思案をし、今度は幹部達とぼそぼそとなにやら相談している。
タニアとしてはロサイスで痛い目を見ているので、この地の商人とは絶対にうまくやっていきたいと思っている。質問にはなるべく丁寧に答えようと彼らの反応を待った。

「ゲルマニアではどこを拠点にするつもりなのですかな?沿岸の町ではぽつぽつとアルビオンと直接貿易をしておるようですが」
「あの辺の沿岸部は人口も少ないし中央から遠すぎます。湿地も多く交通が不便ですので、多少内陸にはなりますがツェルプストー領のボルクリンゲンを第一の候補に考えています」
「ボルクリンゲン?そこも小さい町ではありませんか?ツェルプストーならもっと大きな町もあるでしょう」
「確かに今は小さな町ですが、主要街道が二本も通っていますし水運も発達していて海から遡る事が出来ます。周囲には大きな町がいくつかあるので潜在的な需要は高く、何より最近ここの郊外に最新技術による大型の製鉄所が作られたとの事です」
「なるほど、鉄ですか・・・」

"ゲルマニアの鉄"彼の国の商品で一番人気のものだ。
ゲルマニアでは他のハルケギニア諸国に先んじて鉄鋼の量産に成功しており、大量の鉄が生産されていて価格が恐ろしく安い。
その重さ故輸送費がかかるのがネックだが、その最新の製鉄所から直接船でプローナまで運んでこられるのなら驚きの価格が実現出来そうだ。

「よろしい。十分に先を見据えた商売が出来そうだ。我々も十万エキューほど投資をしましょう、それで財務も安定するでしょう」
「ええっ!」

さすがにタニアも驚く。最初は五千エキューだったのに雪だるま式に話が大きくなっていく。
フアンの十万エキューはウォルフ個人の借金になる予定なので商会の財務には関係ないのだが、今のタニアにはそこまで頭が回らなかった。

「何、驚かなくても結構です。ここのところヤカは景気が良くなってましてな、何か新しい産業でも興そうかと有望な投資先を探していた所なんですよ。こういう話は誰かに真似されてしまう前に大規模に展開してシェアを確定するのが有利です、資本は多い方が良いでしょう。それとまだ発足したばかりとの事ですので人員についても斡旋しましょう」
「そうですとも、我々プローナ商人としてもフネに関しては出来る限り協力します」
「おお、これは前途が明るいですなあ」

そう言えばウォルフが余裕があったら株式という物を売ってこいと言っていた事を思い出す。あれはこういう場面で出す物ではなかったか?
盛り上がるレアンドロと商人達を尻目にのろのろと鞄から株式関連の書類を取り出す。何部かに纏めてあるそれをギルド長達に差し出した。

「我々では投資を頂いた方にこの様な株式という物を発行しようと思っています。所有する株数に応じて議決権を有するという仕組みですね」

商人達は渡された資料をパラパラと読んでいく。

「むう、株主の主な仕事は経営陣を決定する事と経営内容のチェックか。なるほど、このように制度化してしまえばより資金を集めやすそうだな。これなら貴族様も投資をしやすくなる」
「この配当というのを決めるのは経営陣がする事なのか?」
「はい、内部留保をどの位にするかと言う事は経営判断になりますので、それで余剰と判断された中から行う事になります」
「なるほど、溜め込んで新規事業に進出しても良いわけだな?」
「そうですが、今まで株主に説明していない事業に進出する際には株主の合意を得る必要があります」
「何?全ての財産と売り上げを公表するですと?そんなことしたら・・・」

レアンドロの方に目線を走らせ"脱税出来ないじゃないか"という言葉を飲み込む。まさか領主の一族の前でそんな事を口にするわけにはいかない。
タニアが一々商人達の疑問に答えているとレアンドロが関係ない事を聞いてきた。

「ちょっと、この紙は何なのですか?触った事のない手触りなのですが」
「え?その紙ですか?」

価格が安いとはいえ紙はラ・クルス領の重要な産業の一つである。レアンドロに言われて商人達も確かにこれは、などと感触を確かめている。

「それは長期間保存してもボロボロにならない紙、らしいです。ウォルフがガリアの紙を加工して作ってました」
「「なんだってー!?」」

紙の保存性の向上は製紙業にとって最重要のテーマだ。今のところ固定化に勝る物無しと言う事になってしまっているが、もしもっと低コストで出来る方法があれば飛躍的に紙の売り上げは伸びるだろう。
慌てて杖を取り出し『ディテクトマジック』をかける。確かに何も魔法はかかっていない。

「ちょっとこの紙貰えるだろうか、研究に回したい」
「ええ、どうぞ。でも作り方を教えるのは無理だと思いますよ?ウォルフが商品にしようとか言っていましたし」
「ああ、ありがとう。・・・でもウォルフから委託を受けて我々が製造するってのは出来るかな?どうせ彼忙しいんでしょ?」
「ええ、確かに。でもそう言う事はウォルフと直接交渉して下さい」
「ちょっとすみません、先程から話に出ております、ウォルフというのは何者ですかな?」
「ああ、まだ話してなかったか。彼らの商会のオーナーで僕の甥っ子です」
「あなた様の甥っ子と言う事は、もしやエルビラ様の・・・・」
「息子です」

商人達が急に笑顔になり顔を見合わせる。
彼らは皆覚えていた。正義を愛し罪を憎んだ少女の事を。貴族平民の隔てなく罪を犯した者を断罪する炎の事を。
たった一人で当時ヤカの街を裏から支配しようとしていたマフィアに挑み、その尽くを燃やし尽くしてしまった少女はここヤカではブリミルよりも平民に人気があった。

「そうですか、あのエルビラ様のご子息様がオーナーですか。それはもう、成功が約束されているようなものですなあ」
「どうですか、エルビラ様はお元気にお過ごしでおられますでしょうか」
「え、ええ、先日お会いした時はとても上機嫌でいらしたけど」
「おお!それは重畳!ああ、また来ていただけたら嬉しいですなあ。いつでも我々は待っていますとお伝え下さい」
「え、ええ」

商人達の勢いにタニアは押される。エルビラの事は知っていたが、ここまで平民に人気があるとは思わなかった。
これならばヤカでの営業は何も問題が無さそうである。いっそこちらを本部にしたい位だ。

「それでは、株式に納得していただけたら投資していただくという事で、ご検討下さい」
「それならば、もう結論は出ておるよ。確かにこれは多くの投資家から資金を集めるのに有効なシステムだ、我々も出資させていただく」
「ありがとうございます。必ずやヤカに利益をもたらすようにすると約束いたします」

ニッコリと笑顔でタニアがさしだした手をギルド長ががっしりと握り返す。これでまた資本が増えたわけだ。

「それではギルドの建物に移動しましょうか、色々と手続きがあります。貿易商として登録して口座を開いて貰わなくてはなりませんし、この金貨も預けていただいた方が良いでしょう」

そう言って商人達は腰を上げる。どの顔もギラギラとした笑顔になっていた。

「それでは、子爵様これで失礼いたします。本日はとても良いお話しをご紹介いただき誠にありがとうございました」
「ああ、ウチの親戚が関わっている事だしラ・クルスにとっても利益になる話だと思うからね、よろしく頼むよ」
「「ははっ!」」

タニアと商人達は十年来の親友のように親しげに連れ立って城を後にし、ギルドに移動して必要な手続きを行なう事にした。
そう言えばろくに自己紹介もしていなかったので、ガンダーラー商会のタニア・エインズワースと名乗ると一瞬商人達の目が鋭くなった。
そしてそれはタニアがウォルフから預かった手形を出す事で更に鋭さを増した。

「エインズワース殿、失礼ですが・・・こちらは、どこで?」
「な、なにか問題でも?ウォルフから換金するように預かったのですが」
「なるほど、ウォルフ様から・・・エルビラ様の息子様がこの手形を持っていた、と・・・ガンダーラ商会ですか」
「ええ、それが何か?」

タニアは気が気じゃなかった。ウォルフは宝石の取引に偽名を使ったと言っていたが何か全部ばれている気がする。

「いえいえ、何も問題はございません。オーナーのウォルフ様はまだ六歳位なのでしょうか」
「え?どうしてそれを・・・確かにその通りですが・・・」
「ああ、気にはしないで頂きたい、我々ヤカの商人がウォルフ様と取引できることをとても喜んでいるだけですから」
「はあ・・・」

実際に商人達は嬉しそうで、次々に作業を進めていく。
ギルドへの登録、口座の開設、利用方法と注意事項の説明、さらには商館の土地建物の斡旋とやる事はいくらでもあった。
途中でプローナの商人は翌日の約束をして帰っていったが、ヤカでのガンダーラ商会の社屋が決まる頃にはもう夜になっていた。



 その夜、ヤカの城では久しぶりにレアンドロが父フアンに呼ばれ、共に酒を飲んでいた。
機嫌が良いのか、悪いのか、今一微妙な表情のフアンに対し、レアンドロは少し緊張気味だった。

「しかし、父上がウォルフに十万エキューも出したのには驚きましたよ。ウォルフが商売することには反対なさっていると思っていましたから、意外でした」
「ふん、あれはエルビラの息子だからな。やめろと言ってやめる玉ではあるまい。まあ、十万エキューで雇ったと思えば安い物よ」

ふっと笑みを溢し、満足そうにグラスを傾ける。どうやら十年で倍にして返す事など出来っこないと思っているようである。

「まあ、もし彼が十年後に二十万エキューを揃えることが出来たとしても、ウチとしては利子が儲かるだけなので損は無いですしね」
「返せたら・・・か」
「まあ普通の子供には無理だろうけど、彼なら何か出来そうな気がするなあ」
「・・・・・」

反応がない事にふと気がついてフアンを見ると、その眉間には深い縦皺が刻まれていた。レアンドロはしまったと後悔するが後の祭りである。

「あれほどの魔法の才を、商人などにして良いものか!損は無いなどと馬鹿げた事を申すな!」
「は、申し訳ありません」
「レアンドロ。もしもの場合はティティアナとウォルフとを娶せる。このラ・クルスを継げる立場になれると知ればウォルフも商売だなどと言わなくなるだろう」
「は・・・」

レアンドロはウォルフが伯爵位に執着するような事は無いのではないかと思ったが、もちろんそんな火に油を注ぐような事は口にしなかった。
それにしても、もうティティアナに結婚の話が出るとは。貴族だから仕方がないとは言え、ティティアナはまだ五歳の可愛い盛りである。ウォルフが婿になる事に不満はないが、やはり寂しい気がするのであった。



 ギルドではタニア達が辞した後も幹部が残り今後の方針について話し合っていた。
ガンダーラ商会への出資を城に行った幹部だけで決めてしまったので、現場にいなかった者達へ説明が必要だった。

「いくらエルビラ様のご子息でも無担保で十万エキューも貸すとは馬鹿げているのでは?」
「貸したわけではない。出資したのだ。この事業が成功すればヤカに大きな未来が開ける事になる」
「しかし、そんなにうまくいきますか?私も以前直接ゲルマニアと貿易しようと試みた事があるが、さんざんな目に遭いましたよ」
「あなたは沿岸部で荷を捌こうとしたから失敗したんでしょう。倉庫も無しに碌に商人が居ない町で商品が捌けるまで船を留めておくだけなんてやり方じゃ利益が出なくて当然ですよ」
「そんな一つの商会だけに十万エキューも投資するとは不公平ではありませんか?私の所だって投資して貰いたい物です」
「どうぞいつでも仰って下さい。ギルドは魅力的な事業案には投資する事を厭いません。今回の投資により貿易ルートが拓ければ全組合員の利益になる話だと思っています」

やはり独断で十万エキューもの出資を決めてきたギルド長達には当初厳しい意見がぶつけられた。さすがに十万エキューはヤカのギルドにとっても大金であるのだ。
しかし一つ一つの質問に答えていくに連れ皆この事業の意義を理解するようになっていった。

「なる程、ハブとなる港にしっかりとした拠点を持つ事によってコストを下げるつもりか」
「そう、商品を売れる所を捜して転々と港を移動しなくても良いし、捌けるまで港に船を浮かべておくだけ、なんて事にはならないから船の運用率がぐんと上がる。まずは太いパイプを三国間に通す事が大事だ」
「そのための自前の倉庫をゲルマニアやアルビオンに持つという考えは今まで無かったな。国内では倉庫を互いに貸したりしているくせにゲルマニア人に倉庫を借りるなんて考えもしなかった。しかし、税金はどうなる?拠点が二箇所になったら倍取られるのではないか?」
「相手国での納税証明が有ればその分は控除されるだろう。ギルドに加盟していれば割高な港湾施設一時利用金も払わなくて良くなるし、とんとん位には収まりそうだ」
「不安なのは商売の経験がないと言う事だが、それは人員を我々からも出すわけだし、フォローしていけば何とでもなるだろう。どうしてもあちらに経営の才能が無さそうな時は経営権の譲渡を持ちかけたり、最悪買収する事を考えればいい」
「乗っ取りか。まあそこまで考えなくてもこの株式の説明によれば、一定数の株式を保持していればこちら側の取締役を送り込めるようだから、そんなに酷い経営にはならないはずだな」

異論は出たが、長い話し合いを経てヤカ商人ギルドは全会一致でガンダーラ商会に協力していく事を決定した。




 翌日、タニアはフリオを連れギルドが仕立てた船で川を下りプローナへと向かった。
ベルナルドはヤカに残り、昨日購入した商館の改装を指揮している。ギルドが率先して協力してくれるのでどんどん話が進んでいくのだ。
その商館は船着き場と大通りどちらにも面していて、ギルド一押し物件だけあって最高の立地で、事業が始まった暁には大いに繁盛するだろうと思われた。
プローナへと向かう船の中、タニアはギルド長から五人の男達を紹介された。

「この男達はギルド所属の商人達から推薦された優秀な使用人達でしてな、皆真面目で義理堅く確実に仕事をこなし先も読める、若いが将来性のある商人の卵達です。譲るのは惜しいですが事業にお使い下さい」
「あの、紹介いただいて嬉しいのですが、みなさん了解はなさっているのでしょうか。無理矢理引き抜くのは避けたいのですが」

男達は顔を見合わせ、一人が代表してタニアに答えた。その目は力強く、軽い興奮を伴った確固たる意志を感じさせた。

「皆、喜んでガンダーラ商会で働きたいと思っています。確かに最初申しつけられた時は捨てられたのかとも感じましたが、事業の内容を伺いその将来性を理解して微力ながら力を尽くしたいと思っています」
「では、よろしくお願いします。まだ始めたばかりの商会ですが、優秀な人材は何よりも得がたい物と理解しています。皆が誇りを持って働けるような商会にする事を約束します」
「誇り、ですか」
「はい。我々の社是です。我々は様々な商品を安価に提供し、人々の暮らしを豊かにする。人と物、その二つの交流によりハルケギニアに平和と繁栄を築く。その事に誇りを持って己の仕事に従事すべし、というものです」
「随分大きな話ですな、正直そこまで大きな事を考えた事はありませんでした」
「勿論、能力に見合った給金は支払います。しかしお金だけでは人は豊かになれないというのがオーナーの考えなのです」
「・・・ますますガンダーラ商会で働くのが楽しみになってきましたよ」

実際彼らは有能なようで、プローナに着くと自分たちでさっさと仕事を割り振り働き出した。タニアについてフネの購入に立ち会うのが一人、船員と護衛の面接に二人ずつと言った具合で、面接をする四人は案内のプローナの商人についてさっさと面接会場へ行ってしまった。
プローナの港は中規模な川の港で、日頃はそれ程多くの船があるわけではないが今日は多くの船が狭い港にひしめき合っていた。
昨日先に帰ったプローナ商人が近隣の港に使いを出し、売りに出ている船を片っ端から集めさせたのだ。
中型の水上輸送船が十隻、やはり中型の空水両用輸送船が五隻買われるのを今かと待っていた。

「結構あるわねー!」
「一応、海洋性の幻獣に襲われにくい大きさを持った船だけを集めさせました」
「全部は買えないわね、リストはある?」
「はい、こちらに」

どさっと紙の束を渡される。一隻ずつ詳しい仕様や製造年などの情報、現状と価格が記されていた。
それをタニアとフリオそれに新しく雇ったスハイツの三人で手分けして全ての船をチェックする。書類に書かれているような事のチェックは二人にまかせ、タニアは風の魔法を使って全ての船の漏水の音や船体の軋みなどを調べた。船の状態は様々で今すぐ使えそうなもの、軽く修理すれば使えそうなもの、修理するのは大分大変そうなものとがあった。
全ての中から両用船を三隻、水上船を五隻選び、価格交渉に入る。両用船で一隻、水上船で二隻軽く修理が必要なものがあったので値引きのしどころだ。

「こちらの八隻を購入したいと考えています。それで価格なんですが、まさかここに書いてある通りなんて恐ろしい事は言いませんよねえ?」
「ええ、ええ、勿論ですとも!大体ここに書いてあるのはちょっと前の価格でして、今は在庫が多くなっていますからな」

書いてある価格を合計すると二十万エキューにも達するものだった。出せないわけでは無いが、仕入れの事などを考えると苦しくなってしまう。

「そうですよね、コレやコレなんかは甲板を張り替えなきゃならないみたいですし、他にも手が入って無いところがあるからその分も考えていただかないと・・・」
「全くですな、本来は直してからお目に掛けるべきですが昨日の今日で時間が無かったのです」
「あと、纏め買いをするわけですからその分も少し引いてくれると次にも纏めて買いたくなりますね」
「・・・出来る限りは値引きます」

タニアの値切りはスハイツが止めるまで続き、結局十四万エキューまで価格は下がった。

「ごめんなさい、値切りに入るとトコトンやるまで止まらなくなっちゃうの」
「まあ、あれくらいなら大丈夫でしょうが、長く付き合う相手です、無理はさせないようにしましょう」

プローナの商人が離れた時にこっそりと言葉を交わす上司と部下だった。

 フネの売買契約を結び、修理の依頼を出す。修理は河口近くにある港で行うそうである。
プローナにも倉庫と船員の住居をかねて商館を持つ事にしていたので案内された建物に行ってみるが、港から少し離れている。離れていると言っても二百メイル位ではあるが、間の空き地に建物を建ててしまった方が便利そうである。

「こちらですと広さは十分ですが、ちょっと港から離れていますね、間の空き地は売りに出ていないのですか?」
「最近この港も手狭になっていましてな、我々の方で投資をして拡張をする事になりました。ここは新港の目の前になります」

そう言って図面を広げる。港の規模は倍近くになっていたし、ここは港の目の前の一等地になっていた。

「前々から話は出ておりましたが少し前までの不況で止まっていたのです。最近は景気も良くなりましたし、ガンダーラ商会の参入を機に我々も攻めに転じましょうと言うところですな」
「それは心強いですね。それで工事はどの位かかりますか?」
「もう調査などは全て終わっておりますので、二ヶ月と言うところです。その間は面倒を掛けますがいかがでしょうか」
「二ヶ月より前にここは稼働を始めると思いますが、その程度なら問題ないですね。良いでしょう、ここに決めます」
「ありがとうございます。お互いに良い取引になりましたな」
「それで値段なんですけど・・・」
「・・・・・」

彼は再び大幅な譲歩をしなくて無らなかった。
ちょっとまた値切りすぎたかしらと反省したタニアは港から少し離れたところに船員用の宿舎を購入して、こちらは値切らなかった。

 船員の面接も何とか終わり、船員と護衛とで合わせて百五十人程を雇うことになった。
かなりの数いた住居のない船員も購入した宿舎に全員収まりそうとのことだが、修理に出している船が直って戻ってくるともう少し雇用しなくてはならず、住居が足りなくなる恐れがあった。

「まあ、船乗りなんて船が家みたいなものよねえ」
「いやいや、普通陸にも家がありますよ」
「うーん、まあ、今はこんなもんで我慢してもらうつもりよ。利益が出たらぼちぼち福利厚生にも回していくわ」
「はい、従業員達にもそのように伝えておきます。これからの予定はどうなさいますか?」
「まず船員達には組織と命令系統を作る。そして彼らを使って船と住居と倉庫を使えるようにする。それが終わったら取り敢えず訓練にガリア近海の輸送業務をいくつか受けてきてやらせる」
「はい、訓練には一月位で良いでしょうか」
「そうね。私は一度アルビオンへ帰るわ。もし直ぐに出せそうなフネがあったら船員を見繕って後を追わせて頂戴。空船じゃ馬鹿だから物資を満載してね」
「それなりに習熟度は高いみたいですから一、二隻位なら直ぐに出せます。荷が揃い次第出港させます」
「フリオを置いていくから彼を乗せればいいわ。私はロサイスの倉庫を何とか抑えるつもり。それとスハイツ、あなたをヤカとプローナの責任者に任命するわ、自分の判断で采配して頂戴」

スハイツは少し一緒に仕事をしただけでも分かる"できる"男だった。
豊富な知識に的確な判断と先を見る能力。彼ならば安心して仕事を任せられそうだ。

「私の様な今日雇ったばかりのものにそんな権限を与えてもよろしいのですか?」
「大丈夫よ、どうせ皆似た様なもんだし。もし、あなた達が裏切ったりしたらエルビラ様に追っ手になって頂くから安心して良いわ」
「それは・・・絶対に裏切ったりはしないと誓いましょう」

タニアとしては冗談で言ったのだが、それを聞いていた全員の背筋が伸びていた。





1-29    商会設立-3



 タニア達はまたラ・ロシェールまで戻り、そこからロサイスへとフネで向かった。そのフネの中でタニアはこれまでに使った金を計算していた。
ウォルフに人件費は一年分をプールして置く様に言われているのでそれを入れると既に二十万エキューを越え、残額は十万少々くらいだった。
マチルダが仕入れた分を売った金は勘定に入れていないのでそれを入れればもう少し増えるだろうが、この金でロサイスの倉庫を購入し、ゲルマニアの拠点を整備し、アルビオン・ガリア・ゲルマニアそれぞれで仕入れをしなくてはならない。

「商会長、そろそろロサイスに着きますのでご準備下さい」

別室にいたベルナルドが呼びに来た。
窓から外を見るとロサイスの鉄塔形の桟橋がちらりと見え、慌てて広げていた荷物を片付ける。
とりあえずロサイスの倉庫の予算は五千エキューまでに決めたが、ここはいつトリステイン商人の妨害があるか分からないので賃貸ではなくしっかりとした物件を購入しなくてはならない。
場合によっては予算を超える可能性もあるので、乏しくなってきた資金にため息を吐いた。

「ちょっとフネを買いすぎたかしらね、仕入れをしたら素寒貧になりそうよ」
「確かに当面は自転車操業になりそうですなあ。株主への説明は商会長のお仕事ですのでよろしくお願いします」
「あ、あんた何自分は関係ないみたいな顔してるのよ!一緒に買い付けに行った仲間でしょう」
「いえいえ、自分はプローナには行っておりませんので」
「裏切り者ー!」

ウォルフは結構ストレートにものを言ってくるので現状を説明しに行くのがちょっと億劫になる。何しろ口約束ではあるがウォルフ名義で勝手に借金をして来て、それをほぼ使ってきてしまったのだ。普通に考えてかなりゴメンって言う感じだ。
しかし、確かにそれは自分の仕事なので覚悟を決めフネを下りた。
ロサイスで倉庫を購入するために不動産屋をあたってみたが、トリステイン商人の圧力はそこまではかかっていないらしく、予算内で倉庫を購入する事が出来た。
ベルナルドをロサイスに残して手続きやその後の手入れなどをやらせ、タニアは一路サウスゴータへと向かった。


 その頃サウスゴータの商館にはマチルダに呼び出されてウォルフが来ていた。
アルビオン内を回って輸出出来そうなものを探しに行っていたマチルダがサンプルを持ち帰ったので相談に乗って欲しいと言うのだ。

「マチ姉、そう言うことは一々俺に相談しなくて自分の判断でやって良いんだよ?」
「そりゃそうなんだけど、中々何を輸出すりゃいいのか分からないんだよ」

製図作業を中断させられてウォルフは少し不機嫌になって言うが、マチルダも困っていたのだ。
アルビオンをぐるっと回ってその地方の特産品などを見て回ったのだが、物価が高いため当初考えていたよりガリアやゲルマニアに輸出して利益が上がりそうなものは少なかった。
実際にトリステインに輸出しているのも羊毛と高原地帯で取れる苔などの秘薬の原料などしかなく、アルビオンはかなりの輸入超過に陥っていた。
そんな中で色々探して見つけてきたものをウォルフにも評価してもらいたかった。

「まずは定番、羊毛か」
「うんこっちが刈り取った毛を水で洗っただけのやつで、こっちが薬品で洗ったやつ。最近はこっちが主流らしくてトリステインに輸出するのは殆ど薬品で洗っているって言ってた。あたしもこっちの方が綺麗で良いと思うんだけど、職人は水で洗ったやつの方が良いっていうんだ」
「ああ、なるほど脱脂してあるかしていないかか。で、他のは?」

毛だけのものは三袋で、後はみんな毛糸や生地になっている。

「もう一つの袋はメリノって村の羊毛なんだけど、妙に柔らかくてふわふわしてるんだ。面白いから持って帰ってきた。変わった羊がいるって噂だったから行ってみたけど凄い田舎だったよ」
「領主は誰?流通してるの?」

ウォルフがふわふわの羊毛に触りながら尋ねる。目が輝いてきている。

「えっと、王家直轄領だった。なんか凄い田舎で不便だから何代か続けて領主が破産したらしくて、以来ずっと王家が所有しているって。仲買人も入らない様な所だよ、村のある山から下った所の小さな町に少し売りに行っているってさ。眺めが良くてのんびりした良い所だったよ」
「ふーん、いいな。オレも行ってみたいな。・・・OK、これは高級品になりそうだな」
「なんだい、あんた家に籠もっている方が好きなのかと思っていたよ」
「いや、行ったことの無いところは全部行きたい。今のところそんな暇無いけど。毛はこれで全部?」
「うん、後は毛糸と製品なんだけど、生地は国内でしか売れないって言っていた。輸出は毛糸の生成がほとんどだってさ」

アルビオン国内で生産している毛糸や生地は殆ど生成か黒か紺色だった。トリステインが羊毛や生成の毛糸を輸入して国内で様々な色に染色し、ガリアやゲルマニアにも輸出していた。
アルビオンで暮らしていると地味な服に慣れてしまって気付かないが、ガリアやトリステインを旅すると色彩豊かな服飾に目を奪われる。
貴族が着る服がパーティーでもないのにカラフルなのだ。マチルダの母がフネをチャーターするほど服を買ってしまったのも分かる気がする。

「色を染めているトリステインを飛ばすんだから、染めてからじゃないと売れないね。簡単にはいかないもんだ」
「染色自体はしている所もあるんだから、マチ姉がガリアから買って帰ってきた生地とか糸を持っていって聞いてみればいいと思うよ。どれくらいの技術がアルビオンにあるか分からないんだし、話はそれからだな」
「うん、羊毛関係の職人ギルドは今のアルビオンの商人ギルドにかなり不満があるらしくて、結構話を聞いて貰えそうだったよ」
「そう言う所と詳しく話をするべきだね」

実際の所トリステイン商人の締め付けが厳しいので押さえつけられているところもあるようだった。
アルビオンの羊毛産業にとって売り先がトリステインしかないと言うことが不利になっているのだ。

「あとこっちの水で洗っただけの羊毛は糸にしたのを買ってきて。技術が必要なはずだから多少値段が高くなるのはしょうがない」
「あ、確かに割高だったよ。あんたよく知ってるねえ」
「バージンウールって言って脂を抜いていないから水に強いんだよ。染色が出来る様になったらこれを産地でセーターにまで加工して高級品として売ろう。当然デザインはおしゃれにして」

そのセーターを実際に編むことになるであろうアルビオンの田舎町のおばちゃんに、ガリアやゲルマニアで売れそうなデザインを求めても無理だ。タニアやマチルダあたりがリサーチしなくてはならない。
あとはメリノウールは繊維が細く高級品になりそうなのでブランドに育てるということにして、まずはメリノ村で羊を増やさせる事にした。
羊毛の輸出はどれもまだ時間がかかりそうで、いきなり輸出事業の中核が抜けた感じになってしまった。
秘薬の材料の類は問題なく輸出出来そうだが何分流通量が少ないし、まだ出来たばかりの商会なので確保できる量も限られていた。
他のものはどれもパッとしないものばかりだった。
優れたものではウィンザーチェアという軽くて丈夫な木製の家具があったのだが、貴族が求める重厚さが無いので輸出しても高い値段はつけられず、利益は上がらなそうだった。
ウイスキーが出てきた時は行けるかと思ったのだが舐めてみるときつく、寝かし方が足りなかった。

「うわ、きっついなあ。これ何年寝かしてるの?」
「蒸留所の人も寝かさないと飲めたもんじゃないって言ってたけどこれで三年。一番長いやつだってさ」
「まじかよ。最低八年、標準的には十二年は寝かさないと高く売れないよ」
「じゃあ、これも保留にすると輸出するものが全然無いじゃないか」

結局今すぐ輸出出来る品というと苔数種類に高地の植物の根や皮や実など、流通量の少ないものばかりで思わず頭を抱えてしまう。このままでは毎回ほぼ空船をガリアやゲルマニアに送るはめになる。
アルビオンは空中大陸などという特異な気候の為、全ての生活必需品を国内でまかなうことが出来ず足りない分を輸入に頼っている。
造船業が結構盛んなのと王家が独占し風石を主な産物とする鉱業、それに最近では風竜の繁殖に成功し定期的にそれを輸出する事で何とか破綻しないでやっているが、貿易の不均衡さは年々広がっていて生活の苦しい庶民や貴族達の不満は増すばかりだ。
特に今回の様に不況になると、まず造船業から受注が止まり、風石の需要も急落してしまうので直ぐに経済状況が深刻化してしまう。
トリステインからの商船を狙って襲っている風賊の中にアルビオン貴族が出資しているものもいると噂になる程だ。
今回これほど輸出する物がないという事実に直面すると、そんなこの国を取り巻く現実が思い出されテンションが低くなる。

「羊毛だってそれ程の産業じゃないものなあ・・・これじゃトリステインに行くフネは空で運行しているのも多そうだな」
「ああ、聞いた所によるとそんな感じらしいよ・・・じゃあ、これで最後だよ」

げっそりとした顔でマチルダが麻の袋を取り出す。中からパラパラと黒い粉が零れた。
袋を開くと中から黒い塊を取り出す。石炭みたいだが光沢が無く、少し軽い感じだ。

「なんかコークスとか言って石炭を蒸し焼きにしたものらしいよ。炭坑は民間でも開発して良いらしくて、ゲルマニアの元商人が北の方の村に住み着いて作ってるんだ。ゲルマニアに持って行けば絶対売れるって向こうから売り込んできたんだけど」
「おおっ!こんなの作っている人いるんだ!ゲルマニア人?」
「う、うん、そうだよ。その人が言うにはゲルマニアで鉄を作るのに必要なんだけど、ゲルマニアは炭坑が少ないらしくて最近値段が上がってるんだって。それでチャンスだと思って全財産を処分してアルビオンで炭坑で採掘権を買ってこれを作り始めたらしいんだ。だけど、いざ売ろうとしたらダータルネス周辺の商人がこれのこと知らなくて、買って貰えないで困っているらしいよ」
「買うちゃる買うちゃる!いいじゃん、コークスで行こう!」

上機嫌でウォルフは言うが、マチルダはコークスというものがよく分からなかった。
ウォルフは念のために杖を取り出し『ディテクトマジック』で調べるが、まちがいなくほぼ炭素の塊だった。

「そんなにいいのかい?これが。いったん蒸し焼きにしちゃったら石炭より性能が悪いんじゃないのかい?」
「蒸し焼きにすることで高温で燃焼しにくくするタールや鉄の品質を下げる硫黄とかの不純物を取り除くことが出来るんだよ。製鉄には必須のものだ」
「じゃあ、あの人の言ってたのはホントだったんだ。今ある在庫を全部で一万エキューで良いってさ。ゲルマニアに持って行けば五万エキューにはなるって言っていたけど」
「そりゃ買わないと。よっぽど困っているんだな、可哀想に」
「じゃあ、買っても良いかな?ゲルマニアの相場が分からないんだけど」
「確かタニアの資料に書いてあったよ。まあ、一万エキュー分位ならいいんじゃない?コークスを作る技術を持っている人をゲルマニアに帰したくないし、初回は言い値でも」
「よし!そうと決まればさっさと行って買ってくるか!」

そういうとマチルダはさっさと立ち上がり、今すぐ出かけるつもりなのか大きな荷物を取り出した。

「あれ、マチ姉随分荷物大きいね。どうしたの、それ」
「ああ、言い忘れてた。今日家に帰ったら父上に言われたんだけど、大公様に呼ばれてね。帰りにロンディニウムで会ってくるから、ドレス持って行くんだ」
「ガンダーラ商会として呼ばれているの?だったらタニアも一緒に行った方が良いんじゃない?」
「あたしだけでいいってさ。仕事で一々商人なんかに会いたくないって方なんだよね。心配しなくてもあたしがちゃんと話ししてくるから」
「うん、よろしく頼む。でも、仕事で商人に会いたくないってちょっと心配だな。どんな人なの?」
「うーん、なんて言うかちょっと浮世離れしたお方なんだよ。利益、とか言ってもピンと来ない、みたいな」
「ピンと来ないって・・・あの事業計画書、結構気合い入れて書いたのに・・・アルビオンの利益になるのに・・・」

現在ロサイスの商人との関係がこじれてしまっているが、これ以上悪化させない為にロサイスを管轄するモード大公に事業の説明をするつもりだった。
ロサイスは軍港なので港湾施設の管理は軍が行っている。その監督者であるモード大公に話を通しておけば、最悪ギルドと全く交渉が取れなくなっても港湾施設は使用できる。
あわよくば仲介を頼んだり出来るかな、などと考えていたのがどうも先行きが読めない。

「そんなに心配しなくても大丈夫さ。なんて言うかフワッとした方なんだよ。こっちが凄く困ってますって言えば何とかしてあげようって思っちゃう方だから」
「ロサイスのギルドが困ってますって言えば助けてあげちゃうんじゃないの?」
「ああ、それは大丈夫。さっきも言ったけど一介の商人がそうそう会える方じゃないから」

一抹の不安を残し、マチルダは出かけていった。


 ウォルフがそのまま商館に残って従業員の家族達とこちらでの暮らしなどについて話をしていると丁度そこにタニアが帰ってきた。

「ああ、ウォルフこっちにいた。マチルダ様は?」

どうやらド・モルガン邸に寄ってから来たらしい。馬を飛ばしてきたのか汗をかき、顔は土埃に汚れている。

「さっきまた出かけちゃったよ。話があるなら待ってるから風呂に入ってくれば?」
「そんなの後で良いわよ。それより色々話があるのよ!」

そう言うとカルロの妻が渡してくれた濡れタオルで顔を拭き、そのまま首筋から脇の下まで拭う。ぷはーっ生き返るぅ、などと言っているその姿は喫茶店でのおやじサラリーマンと言った風情だ。
さっぱりとした顔でウォルフに向き直るとタニアはガリアでのことを報告する。フアンの十万エキュー、ヤカのギルドの十万エキュー、ヤカとプローナの商館のこと、買ったフネのことなど全て話し終えるのには大分時間がかかった。

「人の未来を担保にして勝手に金を借りないで欲しいんだけど・・・」
「それは悪いとは思ったけど、ラ・クルス伯爵が直々に迫ってくるのよ?私に断れるわけが無いじゃない。それに返せなくてもガリアで子爵になるだけなんだから出世じゃない」
「ガリアで叙爵なんてしたくねーよ。もし金を返せなかったら世界の果てまで逃げてやる」
「ええ?それだと私の立場がヤバいんですけど・・・」
「返せない借金なんて貸す方が悪いんだから良いんだよ、踏み倒しても。まあ、それが嫌だって言うならしっかりと稼いでオレに配当を払って下さい」
「・・・分かったわよ、稼げば良いんでしょ稼げば!」
「じゃあ、まあそれは良いとして、資本が二十万エキューも増えたからついフネを買いまくっちゃって風石買って仕入れをしたら素寒貧になっちゃう(ハート)ってどういうこと?」
「そ、それはそのまんまなんだけど、大丈夫よ!最初の荷を売ればその利益で余裕が出来るからまた仕入れが出来るわ」
「何その最初から自転車操業宣言。運転資金って知ってる?売った相手が期日が先の手形で払ってきたらどうするの?フネが事故を起こしたら?役人が賄賂を要求してきたら?金が必要になる場面なんていくらでもあると思うんだけど、どうするつもり?いきなり潰れるの?馬鹿なの?」
「う・・・ちょっと調子に乗っちゃったのよ。ここで勝負をして、一気にシェアを握っちゃえば後々楽になるかと思って。これは勝負なのよ、勝負。一世一代の。・・・・・次からは気をつけるわ」

ウォルフとしては、死ぬの?まで続けて言いたかったが我慢しておいた。まあ実際は借金はウォルフ名義だし商会自体は無借金の超健全経営なのでいきなり潰れるわけはないが、運転資金が無いために事業が滞る様なことは避けるべきだ。
しかし渡した金を借金で三倍にして全て使ってくるとはタニアはずいぶんと男前である。商売人というよりはギャンブラーなのだろうか。
一応人件費として別枠で三万五千エキューほど取ってあるというので、もしもの場合は不本意ながらそちらに手を付けざるを得ないとしても運転資金は早急に確保したい。

「じゃあタニアは責任を持ってガリアからフネが来たら荷を積んでゲルマニアに行って下さい」
「えーと、最初からそのつもりだったけど、責任って?」
「ゲルマニアに行ったらツェルプストーでもギルドでも他の貴族でも良いからゲルマニア人に十万エキュー出資させること」
「ええっ!?いきなりそれは難しいんじゃ・・・」
「ヤカのギルドの親書を預かっているんだろ?それをうまく使えば引き出せると思うよ。ガンダーラ商会がアルビオンの商会であることはともかくとしても、ガリアとは対等でいたいと思うはずだから」

ガンダーラ商会の強みは財務の透明性だ。株主には全て公開するつもりだし監査も受け入れると言っているので出資しやすいはずだ。
鉄の販売ルートを確保していることを示せば、自分たちが新たにそれを開拓するよりも出資してしまった方が有利であることは分かるだろう。
ハルケギニアには外資とかいう考えもまだないのでゲルマニア人がアルビオンの企業に出資する事に何の規制もない。

「うーん、今の儘だとアルビオンとガリアの商会を貿易に関わる三国で所有する商会にするって事ね?それなら出来るかも」
「我々にゲルマニアの資本が入っているって事は向こうの政府からの干渉に対して防波堤になる、と言うねらいもある。ウチの目的はお互いに儲けてお互いに発展しましょうって事で相手から絞れるだけ利益を絞ろうって訳じゃないんだから出資した方が得だろう」
「分かった。その線で交渉してみるわ。確かに結構いけそうな気がしてきたわ」
「逆に説明されても分からない様なのしかいなかったら場所を変えちゃって良いから。商売ってのは結局人とするものだから深い関係になる相手は選んだ方が良い」
「うーん、でもボルクリンゲンいいのよねー・・・まあその辺は私の交渉次第って事ね。よし!ゲルマニアに持って行く荷は何?ここにあるの?」

最初は自信なさげだったタニアが気合いを入れる。組織は動き出すまでが一番大変なのだ。

「コークス。今マチ姉が買いに行っている。北部のダータルネス近くの村らしいから、フネが来たらそれで取りに行った方が行った方が早いと思う」
「近くの村ってどこよ。後コークスって何?」
「えーっと、あ、あった。リンブルーだって、炭坑らしいから行けば分かるんじゃない?コークスは石炭由来の燃料で製鉄の材料だよ」
「分かった、私はロサイスでフネを待つわ。マチルダ様にそう連絡入れておいて。あ、これ頼まれていた遠話の魔法具買ってきた。三組しか買えなかったけど」
「おお、サンキュ。これこれ、商売するなら情報が一番大事だよな」

遠話の魔法具は距離無制限のトランシーバーといったもので、二つ一組の通話機通しでどれだけ離れていても通話が出来るというものだ。
一つ千エキューととても高価なのが難点だがそれだけの価値があるとウォルフ達は考え、今回ガリアで買えるだけ買ってきたのだ。
ウォルフはサウスゴータの商館内にガーゴイルを使った中継局を作り、これを携帯電話のようにして利用するつもりでいた。
外観は人形の形をしており、これと話しをしている人はかなり痛い人に見えるので直ぐに変えるつもりだが。

 タニアはもうここでの用事は終わったので書類を置くと遠話の魔法具を一つ手にしてさっさとロサイスに戻っていった。
一人残ったウォルフはいきなり大きくなってしまった商売にため息を吐く。
ちょっと商売の練習をしながら徐々に組織を大きくしていけばいいと考えていたのがいきなり大きな国際企業になってしまった。株式だって小口の出資を募るために導入したのに、十万エキューも出資されてしまった。
雇用ももっと増やさなくちゃならないだろうし、責任は大きくなるばかりだ。

「ま、なる様になるか」

もう動き出しちゃった事なので悩んでも仕方がないことだ。そう考えて自分は旋盤の制作に戻っていった。





1-30    商会設立-4 妖精



 一方こちらはカルロを連れリンブルーに向かうマチルダ。もう馬車の馬を何度も換え夜が近くなったのでこの日はダータルネスで一泊することにした。
カルロは寡黙な男なので気を使わなくて良いのだが、もう少しうち解けてみようと夕食時に色々と話を振ってみた。

「貴方達三人さ、ずっと一緒なの?」
「はい」
「えーと、一緒の商会で働いていたって言ってたわね、ずっと?」
「はい」
「アルビオンに来ることにしたのはどうしてなの?」
「フリオが」
「フリオが来ようって言ったの?」
「はい」
「来てみてどうだった?」
「今は、良かったと」
「ロマリアってどんな所?」
「お金があれば良い所」
「帰りたい?」
「いいえ」
「子供は可愛い?」
「はい」

結局うち解けることが出来たかどうかはマチルダには分からなかった。


 翌日リンブルー近くにある炭坑を探し当て、事務所を訪ねると目の下に隈を作った男が出迎えた。

「いらっしゃいませ、お嬢さん。いったい何のご用ですかな」
「あれ?覚えてないかな、先週会ったんだけど、コークスを買いに来たんだ」
「!!」

男は飛びかからんばかりの勢いでマチルダに近づくと、さあさあと手を取って中に招き入れソファーに座らせた。

「よくいらっしゃいました。当商会のコークスは火付きもよく嫌な臭いがない上に高温で良く燃え、炉を傷めません。多少石炭に比べると高価ですがその価値はございます、少量からでもお取引いたしておりますが、いかほどご入り用でしょうか」

相当な数の人間と会っているのか本当にマチルダのことを覚えていないらしい。燃料としてのコークスの利点をつらつらと説明してくる。
たしかにダータルネスのレストランでチラッと会って少し話を聞き、サンプルを押しつけられただけではあるのだが。

「ふう・・・自己紹介からいくかね。あたしはサウスゴータの貿易商、ガンダーラ商会アルビオン担当のマチルダ。後にいるのは商館員のカルロ。今日はゲルマニアへ輸出する商品としてコークスの購入を検討しに来ました」
「!!・・・・お、お待ちしておりました・・・」

男は床に跪くと感極まった様にマチルダの手を握り頭を下げた。聞くと運転資金が底を突き、そろそろやばかったらしい。輸出が出来ず今は石炭の代替として細々と売ってはいたが、まだ夏を過ぎたばかりで暖房需要もなく給料の支払いすら滞っているとのことだ。
男の名前はジャコモといい、ゲルマニア南西部の鉱山の町で商人をやっていたのだが、昨今のコークス市場の高騰を受けてアルビオンで炭坑開発を行うために職人を引き連れて渡航してきたとの事だ。

「いやもうそんなわけでマチルダ様の姿が天使様かの様に見えました。誰もまだ炭坑に手を着けてない地方という事でここに来たのですが、大変な目に遭いました」
「まあ、これからは販売までのルートを考えてから行動するこったね」
「はい、まさかこの地方の商人が誰も見向きもしないとは考えてもおりませんで。もそっと東部の方に行けばゲルマニアと通商している商人もいるらしいので何とかなりそうだったんですが、旅費にも事欠く有様で・・・もう安くても良いかと思ってアルビオンの軍ならばと交渉してみたのですが、軍で使用する分は軍で生産しているからと断られ、ゲルマニアの商人時代の知り合いは皆南部の人間ばかりなのでこんな所まで来てくれようとはしませんでしたし、まさに八方塞がりというやつですな」
「あんた、そんな事まで言うと買い叩かれちゃうんじゃないのかい?」
「いえいえ、こんな所まで来ていただいたと言うことはコークスの価値をお知りになっていると言うこと。品質には自信を持っています、長い目で見れば心配なんてしなくても大丈夫でしょう」
「ふーん、大した自信だね。じゃあその自慢のコークスを見せてもらおうかい」

そのまま外に出て説明を受ける。コークスは野外に山の様に積み上げられていておよそ八百万リーブル、フネで運んでも十回位はかかりそうな量である。麻袋に詰めて出荷してくれるそうでその作業用のゴーレムまでいた。
倉庫には麻袋が山積みになっているし、コークス炉を見てもぴかぴか、広い資材置き場にフネの係留まで出来る様になっていて、とてもこの会社がお金がない様には見えない。
最初は景気よく設備を揃えていったのだろう。そういえば昨夜ウォルフからの手紙にタニアが似た様なことをしたと書いてあった。
その後も色々と説明を受けて見て回ったが、マチルダにはコークスの品質など分からない。しかし量と値段に納得し、一万エキューで在庫分を買い取ることを伝えた。

「おい!おめえら!こちらのマチルダ様が在庫のコークスを全て買い取って下さった!今日は給料が払えるからさっさと帰るんじゃねえぞ!分かったか!分かったらさっさとコークスを焼け!在庫が無くなっちまったぞ!うわははは」
「・・・実はずいぶんとワイルドなんだね」

ジャコモが振り返って従業員達に向かって叫んだ。みんな仕事の手を止め、心配そうに遠巻きにしてこちらの様子を窺っていたのだ。
「いやっほー!」「うおおおお」「三ヶ月分だぜ!たこ社長!」みんななにやら叫びながら手に持ったタオルを振り回している。相当に嬉しそうだ。

「たこ社長?」マチルダが聞きとがめた。あらためてジャコモを見る。目は丸い、ドングリ眼だ。怒っているのかうっすらと顔が赤くなってきている。髪は・・・なるほど。

「・・・最初の頃は敬意を持ってくれていたんですが、給料が支払えない様になってからは・・・クッ」
「ま、まあしょうがないじゃない。今まで残ってくれただけでも良しとしなくちゃ」
「で、でもたこなンて言わなくたって・・・」

頭の先まで赤くして目を剥いて訴えてくるが、マチルダは吹き出すのを堪えるのが大変だった。
事務所に戻って契約書を交わし、内容を確認して支払う。サウスゴータのギルドの手形で九千エキュー、金貨で千エキューである。
全部手形にしたかったのだが、ウォルフが相手は困っていそうだから現金も持って行けと言うので重いけど持ってきたのだ。

「ありがとうございます。リンブルーではこちらの手形は換金出来ませんからダータルネスまで行かなくてはなりませんでした。千エキューあれば首を長くして待っている従業員達に直ぐ給料を支払ってやれます」
「これから長い付き合いになりそうだからね、よろしく頼むよ」
「こちらこそよろしくお願いします」

お互いに満面の笑顔で握手を交わす。これぞWin-Winの関係といった所だった。


 マチルダはその帰路カルロをサウスゴータへと先に帰し、自身はロンディニウム郊外にあるモード大公の別邸へと向かった。

「やあ、マチルダ久しぶりだね。ますますお母さんに似てくるなあ」
「ご無沙汰申し上げております、大公様」

通された部屋で待っているとすぐにモード大公本人が現れた。通される途中も思ったのだが、大公家の規模にしては使用人が少ない。
ほんの少しの違和感を感じながら挨拶をした。そんなマチルダの様子を気にする事はなく大公は屈託無く話をしてくる。そのまま一向に今日呼び出した案件については触れず、マチルダの子供時代の話などをしていた。

「とにかくだね、あれはプレゼントのお礼だったかな?まだ小さな君が僕の頬にキスをしてくれた時、絶対に僕も娘を作るんだって誓ったものさ」
「ホホホ、もったいないお言葉でございます」
「あんなに小さかったのに、もうこんなに大きくなったんだなあ・・・学院には来年行くの?」
「あの、父はそうしろと言うのですが、今は商会を始めましてちょっと忙しいので再来年にしようかと思っています」
「ああ、そうだ、商会。ロサイスの代官が何か言ってきてたんだよね」

そう言うと大公は思い出したように机にまわり書類を取り出した。その封を今開け中身を読み始めた。

「うーん。マチルダがロサイスとサウスゴータで友達と商売を始めたんだよね。何で僕が関係するのかな?」
「あの、我々はアルビオンの貿易先がほぼトリステインであるというのが健全ではないと考えまして、ガリアやゲルマニアとも貿易をしようとしたのです」
「うん。それで?」
「その事を良しとしないトリステインの商人達が圧力をかけてきまして、ロサイスで妨害を受けているのです。今のところは取引を妨害されているだけですが、今後はもっと直接的な妨害工作もあるかも知れません。お願いしたいのはロサイスの商人達に妨害に協力しないように働きかけて欲しいのです」
「なる程そう言う事か。でも何でロサイスの商人達はトリステインの言いなりになってるのかなあ」
「羊毛を買ってくれる、最重要の取引相手ですから。しかし我々は当面輸出品で競合する品を扱う予定はありませんし、輸入品に関しましてはトリステイン商人より遙かに低価格でロサイスの商人にも卸すつもりです。決して彼らにとって不利益を生む事業ではないのです」

その後も説明を続け何とか現状を理解して貰った。取引に関与する事は出来ないが、港湾施設の利用などに不都合が出ないように配慮するし、もし不法行為が有れば厳しく対処する事を約束してくれた。

「商売するって言うのも大変なんだねえ。みんなで仲良くすればいいのに」
「本当に・・・そうですわねえ・・・」
「あ、そうだ。港に出入りする時船に僕の所の旗を掲げれば良いんじゃない?ロサイスの人間は手を出さなくなると思うよ」
「それは・・・とてもありがたいですが、よろしいのですか?」
「いいよいいよ、忘れない内にロサイスの代官に手紙を書くから、細かい事は彼と話してね」
「ありがとうございます」

机に座るとレターセットを取り出しさらさらと手紙を書き出す。直ぐに書き終え、その手紙に封をしながらちらりと望外の厚遇に喜んでいるマチルダに視線を走らす。

「その代わりと言っては何だが、僕の方もマチルダにちょっとしたお願いがあってね」
「私にですか?それは光栄ですが・・・」
「何、大したことじゃ無いんだ。実は僕には娘がいてね。ちょっと事情があって屋敷から出せないんだが、その子の友達になって欲しいんだ」
「姫様ですか。私でよろしければ喜んでお相手を務めさせていただきます」

お願いと言われ緊張したが、他愛もない事だったのでホッとした。初めて聞く話ではあるが、貴族なら隠し子がいるなんて事は珍しい事でも無いので気にはならなかった。
大公は執事に指示を出し、娘にこちらに来るように伝えさせる。暫くするとマチルダが入ってきたのとは反対側のドアがノックされた。

「お父様、お呼びでしょうか。ティファニアです」
「ああ、テファ、入っておいで」

ドアを開け、入ってきたのはまだ幼い少女である。年の頃はウォルフやサラと同じくらいであろうか、透き通るような白い肌を持ち、穏やかそうな瞳が今は少し緊張している。
何故かその頭にはフードをすっぽりとかぶり、髪の毛はあまり見えなかった。
室内にそぐわないその格好に少し違和感を感じたが、こちらの様子を伺うように見てくるその瞳にマチルダは笑顔で返した。

「テファ、こちらはマチルダだ。今日からテファのお友達になってくれるそうだ。サウスゴータのおじさんの一人娘だよ。そしてマチルダ、この子が僕の愛娘のティファニアだ。妹だと思って可愛がってやってくれ」
「こんにちは、ティファニア。マチルダ・オブ・サウスゴータです。よろしくね」
「は、はい、ティファニア・オブ・モードです。こちらこそよろしくお願いします」

しゃがみ込み、視線を合わせて挨拶をするマチルダに、ティファニアは慌ててぴょこんとお辞儀をした。
その愛らしい様子にマチルダは思わず微笑む。そしてその背後から大公がティファニアに声をかけた。

「テファ、フードを取りなさい」
「え・・・は、はい」

何故かティファニアは視線を落とすと両手でフードの端をぎゅっと握った。
マチルダがどう対応して良いのか迷っていると、執事が何も言わずに部屋のカーテンを閉め、ランプに灯りをともした。

「・・・・・」

それを確認したティファニアはギュッと目を瞑り、ゆっくりとフードを下ろしていく。
やがて完全にフードが下ろされるとティファニアの胸の辺りまで掛かる輝くような美しい金髪が姿を現した。
しかし、マチルダの目はそれとは別の場所に釘付けになっていた。

エルフ・・・・・

ティファニアの耳は人間では有り得ない程長く、その先は尖っていた。その特徴は遙か東方、サハラに住むという亜人・エルフに他ならなかった。
エルフとは人間と数々の戦を経てその全てに勝利し、今なおブリミル教の聖地を不法に占拠し続ける悪魔。凶暴で獰猛だというその知識はしかし目の前の少女とは一致しなかった。
ギュッと目を瞑り下を向いて僅かに震えている少女はマチルダにとって庇護の対象としか思えなかった。

 何と声をかけたらいいものかと迷い、手を伸ばそうとして、ふと背後からの視線を感じた。
観察されている・・・マチルダがこの娘に対しどのような態度を取るのか測っているのだろう。しかしその背後の気配から大公も緊張している事を感じ取り、逆にマチルダの心は落ち着く。
思わず自然に笑みがこぼれた。
ウォルフがエルフとも通商したいと言い出した時には何を恐ろしい事をと思ったものだが、実際に会って見ればこんなに可愛らしいではないか。
そっと手を伸ばして震える手を握り、その小さな頭を撫でる。

「あたしもテファって呼んでも良いかい?あたしの事は本当のお姉さんだと思ってくれると嬉しいよ」
「え、は、はい」

マチルダが優しくいつもの調子で声をかけると同時に背後の緊張も解けた。
ふわっと嬉しそうに笑うティファニアはまるで妖精のようで、思わず見とれてしまう。ティファニアはそんなマチルダの手を恥ずかしそうに、でも嬉しそうにキュッと握り返してきた。
その後大公がまだ話があるからと下がるように言ったのだが、ティファニアは絶対に後で会いに来てね、とマチルダに頼み込み中々ドアから出て行こうとしなかった。

「やれやれ、君が普通にあの子に接してくれて嬉しいよ」
「母親がエルフ、なのですか?」
「そうだ。シャジャル・・・あの子の母親だが、私の愛した女性がたまたまエルフだった。ただ、それだけだ」
「その方は今どこに」
「この屋敷にいるよ。君が怖がるかと思ってテファだけを呼んだんだ」

大公は気楽に言うが、マチルダとしてはとんでもない事を知らされてしまった気分だ。王弟が全ハルケギニアの敵と目されているエルフを愛妾にしているなんてアルビオンの王権が揺らぎかねないスキャンダルである。
頭を抱え込んで呻りたいが、大公の前でそんな事をするわけにも行かず、微妙な表情をするしかない。

「ははっ、心配しなくても君にそんな大変な事をさせるつもりじゃないんだ。さっきも言った通り、ここから出られないあの子の為に時々ここに寄って外の世界の話をしてあげて欲しいんだ」
「はい。結構仕事でアルビオン中に出かける事が多くなりそうですので、ロンディニウムを通る事も多くなると思います。その時は必ず寄るようにします」
「うん、よろしく頼む。それにしても君はエルフに会うのは初めてだろう?随分と普通の対応をするものだね。こちらが拍子抜けしたよ」
「実はですね、我々の商会には目標がありまして。それは世界周航・世界通商というものです」
「世界周航に世界通商?それはどういう事だね」
「世界周航というのは遙か東方サハラからロバ・アル・カリイエさらにその先まで行ってみるというものです。世界通商はそのハルケギニアの外の世界と貿易をしようというものですね。通商相手にはエルフも含まれるでしょう」
「そんな事を考えていたのか・・・世界通商か、そんな日が来れば・・・なる程、テファ位じゃ驚かないって訳だな」
「驚きましたけど。エルフだからと言って忌避する理由にはならないだけです」
「あの子にとってはそれだけで十分だよ」

優しそうに笑うその顔は一人の父親の顔だった。

 マチルダはその後約束通りティファニアの所に顔を出し、お互いに色々と話をした。外の世界の人間との交流が極めて少ないティファニアはどんな話をしても興味深そうに聞き、マチルダも楽しい時間を過ごした。
ティファニアの母親であるシャジャルとも顔を合わせ、やはりその穏やかな人柄が世間のエルフのイメージとはかけ離れている事を確認した。

 サウスゴータへと帰る道中悩んだが、ウォルフ達にはティファニアの事を秘密にしようと決めた。
万が一にも秘密が漏れたら大変な事になるのが分かっている。そんな事にウォルフ達を巻き込みたくはなかった。

「はあ、大丈夫なのかね」

一人で考えているとやはり不安は湧いてくる。まだ十三歳の少女にはあまりにも大きな秘密だ。
しかし「マチルダ姉さん」と自分を呼んだティファニアの事を思い出すと気合いが入る。
あの子を守らなくてはならない。
モード大公も商会の事業を支持すると約束してくれた。将来商会がエルフと交易を行うようになればティファニアも普通に過ごせる日が来るかも知れない。
そんな日を目指してもっと頑張ろうと決意するのであった。












1-31    商会設立-5 ツェルプストー



 タニアがリンブルーに来たのはマチルダがもうサウスゴータに帰った後だった。
船籍をアルビオンに変更するのに手間取りロサイスで足踏みしていたのだ。しかしその間もタニアは忙しく働き、アルビオン北部で売れそうな品を買ってはロサイスの倉庫に積み上げたり求人の面接を行ったりしていた。
ダータルネスに着くとまずロサイスから積んできた小麦やガリア産品を売り捌き、それからリンブルーに移動しジャコモの炭坑でコークスを積み込む。これでようやくゲルマニアへ行ける。

 ゲルマニア南西部の町ボルクリンゲン。トリステインと国境を接するツェルプストー辺境伯領にあるこの町は最近好況に沸いていた。
ツェルプストー辺境伯の肝入りで最新式の製鉄所が建設され、新規雇用された従業員や輸送を担う船員などが新たに住み着き、更にそれ目当ての商人が集まり街は膨張する一方だった。
川から少し離れた一角には鉄製品を作る工房が並び、朝から晩まで鎚音が響いていて、更にその横では新たな工房の建築が進む。
川に面した製鉄所は専用の港を有し、ひっきりなしに鉄鉱石やコークス、石灰などを運ぶ船が出入りしていた。
そんな中ガンダーラ商会のフネがタニアと船倉一杯のコークスを乗せて商人用の港に着いた。リンブルーから時間がかかったのは風石を節約するために途中で海へ降り、川を逆上ってきたためだ。
川に入ってからは途中何度か臨検をされたが、特に止められることもなく無事ここまで来ることが出来た。
港に接岸し手続きを取る。積み荷をコークスと申告すると直ぐに製鉄所の責任者が飛んできた。

 ギルドの応接室に来たのは製鉄所の所長と仕入担当、それにボルクリンゲンのギルド長の三人で、対するのはタニアとベルナルドの二人だ。
お互い挨拶をすませると早速本題にはいる。

「それでエインズワース殿はアルビオンからわざわざコークスを売りに来たという事ですな?」
「はい、ですがコークスを売りに来ただけでは有りません。コークスを売り、鉄を買う。ガリアの商品を売り、ゲルマニアの商品を買う。貿易をしに来たのです」

ゆっくりと言ってタニアはニッコリと微笑む。
相手は少し呑まれている様でここら辺の呼吸は真似出来ないとベルナルドは隣で見ていて思った。

「ふむ、アルビオンの方がガリアのものを売るという。ずいぶんと長い空の旅をしてきた荷になりそうですが、真っ当な値段になりますかな」
「もちろんガリアの品は直接こちらに運びますのでその様なご心配は無用です。我が商会には海上輸送用の船も多数ありますので」
「アルビオンの方がガリア・ゲルマニア間の貿易を行うのですか?」
「我々は名義上アルビオンの企業になっていますが、アルビオンのみでは無くてハルケギニアの企業なのです」

タニアはまたガンダーラ商会の狙いを説明する。
現在のトリステインを介して行われている貿易の無駄の多さ。貿易を盛んにすることによる経済の発展について、。
商会がアルビオン・ガリア・ゲルマニアそれぞれに拠点を持つということ、既にアルビオンとガリアは整備が終わりこちらからの入荷を待っていること。
さらに三国がそれぞれ出資することによりお互いの利益になる様に活動することが出来ると言うこと。ここボルクリンゲンをゲルマニアでの拠点として考えていると。

「えーと、大体は理解しましたが、それは我々にも出資をしろと言うことかな?」
「はい、それだけではなくゲルマニアの利益のために働く人を紹介していただき経営に参加していただきたいと思います」
「うーむ、私は雇われているだけなので出資については約束出来ん。ギルド長、あなたの所ではどうだ?」
「いや、我々も最近ようやく加盟者が増えてきた所でそんな余裕はありません」
「それでしたら領主のツェルプストー様にお話しを通して頂けますでしょうか。こちらが事業計画書になります」

そう言って紙の束を手渡す。それには事業計画から株式の説明まで詳しく説明してあった。事業計画はアルビオンからの輸出品にコークスを加えた新バージョンだ。

「ふむ、確認しても?」
「どうぞ」
「ふむふむ、良く纏めてありますなあ。なっ!十万エキューですと?」

パラパラと目を通していた所長が大きな声を上げる。彼は精々ボルクリンゲンでの商館にかかる代金をねだってきていると思っていたのだ。それだけでもずいぶんと都合の良いことを言ってくると思っていたのだが・・・
横で見ているギルド長も絶句している。小さな街のギルド長には想像もしていなかった額らしい。

「既にガリアでのハブとなる町、ヤカのギルドが同額を出資しています。ガリアとゲルマニアが対等に貿易するためにこの額をお願いしたいと思っています」
「ううむ、ガリアがもうそんなに出しているのですか・・・この筆頭株主のウォルフ・ライエ・ド・モルガンとは何者ですかな、聞いたことはありませんが」
「サウスゴータの男爵のご子息です。ハルケギニアの平和と繁栄のため今回ご自身の財産を投じこの商会を立ち上げました。実際の経営に関しましては私に一任されています」
「男爵の子息がこれだけの額を用意出来るのですか・・・よほど目端の利く人物と見える。確かにこの株式という仕組みならば出資を募りやすいか」
「ご理解いただけましたでしょうか?我々としてはボルクリンゲンを第一の候補地と考えていますので、出資をしていただけるならば直ぐに商館を構えたいと思うのですが」
「あ、ああ、なるほど貿易は対等な立場で行うべきですな」
 
暗に出資しないのならば他所へ行くと匂わせると相手は少し狼狽えた。どうやら利益のある話だと理解はしている様だ。製鉄所というのは鉄を作れば作るだけコストが下がる。ガリアという大きな販売先は魅力だった。

「わかりました、ツェルプストー様に話をしてみましょう。ちなみにコークスの在庫や生産力はどれくらいあるのか分かりますかな?」
「現在商会の在庫で八百万リーブルほどあります。生産力はⅣ型炉が二基あるそうですが、採掘量はまだ増やすことが出来るそうです。ゲルマニアの方が移住してきて生産しております」
「おお!そんなにありますか。Ⅳ型炉ならば安定した生産が出来ますな。なるほど、これだけの品質のコークスが出来るわけだ」
「今回持ってきた分はこちらで売りたいと思っています。フネを移動した方が良いのでしょうか?」
「ああ、そうですな移動して下さい。次回からは直接製鉄所の港にお願いします。あちらは作業用のゴーレムを完備してありますので」
「分かりました、では今日はこれで」


 タニアはギルドの建物から出て来ると直ぐにフネに戻り、移動を指示。
ツェルプストー辺境伯に会えるのはおそらく明後日以降というので、それまでに商館用地の選定と帰りの荷の仕入れを考えておくことにする。
商館を構えることを前提にギルド長に話を聞いてみるが、売りに出ている商館などはなく、港の近くには既に建物が建ってしまっているので商館を構えるなら少し不便な土地に自分で建てるしかないと言われた。
そんな状態なら慌てて建てる事もないので仕方なく商館の方は保留にする。後は仕入れなのだが、荷下ろし作業中チラッと街を回ってみた所ではまだまだ発展途中であまり面白いものはない様だ。
悩んでいると川下からこの辺りではあまり見かけない大きさの帆船が三隻上がってくるのが見えた。艀の様な船が多い中その姿は目立ち、その内の二隻はガンダーラ商会の旗を揚げていてガリアからの第一便が着いたことが分かった。

「あら、ナイスタイミング」
「うん?あの船もガンダーラ商会のものですかな?」
「はい、あの内の二隻はウチのです。ガリアからの荷が届いたようですね、荷が揃い次第出港する様に指示しておいたので間違いないでしょう」
「あんな大きな船の荷を製鉄所以外は何もない、この小さな街に卸すのですか」
「この町で消費する分だけではないですから。我々がここまでガリアやアルビオンの荷を運び、貴方達ゲルマニア商人にここから先ゲルマニア各地へと運んでいただきたいのです」
「うーん、大きな話ですな。私などは生来の田舎ものでして、驚いてばかりです」

タニアを案内していたギルド長はため息を吐く。
製鉄所が出来るまでは街道は多く通るものの川に面した港と川渡しがあるだけの小さな町だったのだ。
ツェルプストー領とゲルマニア内部を結ぶ交通の要衝となり得る立地に領主が目を付け製鉄所を建設してから全てが変わった。
人が多くなりこれまで通過するだけだった商人達が荷を解く様になり、ついにはこんなのまで現れた。
あまりにめまぐるしく変わる現実に田舎の商人に過ぎない彼はついて行けそうもなかった。



「やあ、タニア殿ちょっと私も様子を見に来てみましたよ」

 ガリアからの船が着岸し、商人達でごった返す岸壁でタニアに話してきたのはヤカ商人ギルドの幹部、モンテーロ商会の商会長トーマスだった。

「こんにちは、ミスタ・トーマス。もう一隻の船はあなたのでしたか」
「まあ、船は私のだがね、荷の殆どはおたくのだよ。スハイツが荷が集まりすぎたんで貸してくれって言ってきたんだ」
「それはそれは、ありがとうございます。どうです、中々の人気でしょう」

タニアの言う通り、荷のサンプルを下ろし始めるととたんに多くの商人達に囲まれることとなった。
我先にと取り囲み商品の品質をチェックし、船員を捕まえては勝手に値段交渉に入る。まだ役人も来ていないので応じるわけにはいかないのだが、それでも次々に値段を告げてくる人が多く、更にはそのまま持って帰ろうとする者まで現れ収拾が付かなくなった。
慌ててやってきたギルドの職員と役人に協力してもらい何とか商人達を引き下がらせサンプルは船に戻した。凄い人気である。
タニアが代表してガンダーラ商会として挨拶し、ツェルプストー辺境伯が認めればこちらに商館を開く事、そうなれば定期的にガリア・アルビオンからの荷が届く事、今回の荷については明日の朝準備をして商談会を開く事、対象はボルクリンゲンのギルド加盟者に限る事、こちらで仕入れをしてガリアやアルビオンに輸出したい商品についての話も明日する事を説明した。
今日は取引はしないので引き取ってもらう様に告げると皆不承不承帰って行った。一部はそのままギルドの建物に入っていき加盟の手続きを取った様である。
あまりのガリア産商品の人気にはタニアも驚いた。特にこの地方は内陸でガリアから遠い上に隣のラ・ヴァリエールとの交易も無いらしく、ガリアのそれも西部の商品というのがとても珍しいみたいだった。
ちょっといきなり手広くやり過ぎたかしらと不安になっていたが、この人気を目にすると自信が出てくる。

「ふうむ、確かに凄い人気でしたな。もう商館の場所は決めたのですか?」
「いいえ、フォン・ツェルプストーにお会いしてからここに商館を構えるかどうか決めようと思っています」
「中々慎重ですな。まあ、いいことです」

そう言うトーマスの目がキラリと光った。

 翌日、港に十分な量のサンプルを広げ商人達に十分吟味して貰い、その後競り方式で次々に売り捌くと自信は確信に変わった。
最初加熱しすぎていた相場はやがて落ち着いたものの予想以上の利益を商会にもたらした。
しかも高値で買っていった商人達も皆笑顔で利益を上げる気満々である。競りが終わると荷が下ろされ計百五十万リーブルほどもあった荷が瞬く間に引き取られていった。

 最初の荷と言う事もあるが、ガリアから持ってくれば持ってきただけ売れそうな勢いである。
ウォルフがどうせ直ぐに誰かが真似をする、と言っていたのも分かる。今は最初に目をつけたアドバンテージがあるが、きっと直ぐに競合する相手が出てくるのだろう。隣で手伝ってくれているトーマスなどはその筆頭になりそうだ。
その競争に勝つためには立地が大事だとタニアは考えた。相手に先んじて行動出来るのだから常に有利な位置を確保すべし、だ。
そう考えるとこのボルクリンゲンでの商館についても慎重にならざるを得ない。今回はギルドの協力でそのまま港で荷を捌いてしまったが、毎回こんな事をするわけにはいかないだろう。
ギルドの加盟者数がいきなり増えてホクホク顔のギルド長が商館用地を紹介してくれるのだが、どれも船着き場から遠く利便性に劣る。
細々とした商館が立ち並ぶ船着き場近くの通りをため息を吐きながら歩いているとギルドから人が呼びに来た。ツェルプストー辺境伯が今日会うとのことである。

「ええ!今日ですか?ずいぶんと早いですね」
「ツェルプストー様はあなたの事業計画書というのを読んでいたく感銘を受けた様でして、直ぐにでも会ってみたいと仰り竜籠をご用意して下さいました」
「私平民なんですが、竜籠に乗っても良いのですか?」
「ああ、ゲルマニアではそんな細かいこと気にする人はいませんよ。とっとと行きましょう」

タニアは戸惑ったが直ぐに竜籠に押し込められツェルプストー辺境伯の居城へと行くことになった。
ゲルマニア有数の有力貴族であるツェルプストー辺境伯の城は遠くトリステインをのぞむ森の中に造られ、その偉容を見ればこの城が最前線の要塞であるということは直ぐに分かった。
そんな城の中庭にタニア達を乗せた竜籠はすべる様に降り立った。

「ふう、さすがに竜籠は早いわね。あっという間だったわ」
「私も始めて乗りましたが、この早さは驚異的ですね」
「あら、ベルナルド奇遇ね。私も初めてだわ。貴族だった頃だってこんなの乗ったことはないわよ」
「貧乏貴族だったんですね、分かります」
「そんなに貧乏じゃなかったわよ。こんなの持ってる方が少ないって」
「まあ、維持費がかなりかかる物らしいですからな」

主従でおしゃべりをしながら様々な様式が混ざった廊下を進み、ギルド長と三人でツェルプストー辺境伯の執務室に通される。
案内してきた執事にソファーに座っている様に言われ待っていると奥から壮年の男性が出てきた。がっしりとした体躯に真っ赤な髪と浅黒い肌、ツェルプストー辺境伯である。
慌てて立ち上がり紹介を受ける。

「ツェルプストー様、こちらがアルビオンから来たガンダーラ商会のタニアとベルナルドです。エインズワース殿、ツェルプストー辺境伯様でございます」
「お目通りいただきありがとうございます。紹介にあずかりましたガンダーラ商会会長タニア・エインズワースです」「ベルナルドです」
「うむ、私がフォン・ツェルプストーだ。早速だがお前達の事業計画書を読んだ。中々面白い話だな」

挨拶もそこそこに商売の話に入る。ここら辺は話が長いガリアやトリステインとは違う所だろう。
こちらの主張も理解している様で次々にいくつかの事項を確認していく。特に鉄の購入量とコークスの輸出量に興味がある様で詳しく質問された。

「それでこちらにお前達が進出する条件というのが十万エキューの出資だという訳か」
「はい。その額でツェルプストー様は我が商館に対し22.5%の権利を有する株主となります。出資していただければ直ぐにでも商館を建てたいと思います」
「いいだろう、出してやる。しかし直ぐにではない。部下をお前達の船に同乗させるからガリアとアルビオンの施設もチェックさせろ。話はそれからだ」

ツェルプストー辺境伯はそう言ってさっさと席を立つ。恐ろしく話が早い。

「あ、ありがとうございます。では早速明日午後出港しようと思いますので、部下の方を港まで来させて下さい」

 挨拶もそこそこに竜籠でボルクリンゲンまで帰り、ガリア向けに鉄や鉄加工品を購入した。
次回タニアが来る時に商館用地の購入と商館員の雇用を行うことにしてギルド長と打ち合わせを済ませ、翌日ゲルマニアの鉄を満載した三隻は艦隊を組み川を下っていった。
トーマスはまだあちこちゲルマニアを見てみたいという事なのでここで分かれる事になった。どうやら自分の商会もゲルマニア進出を考えているらしく、自分の荷として持ってきていたのは取り扱っている商品のサンプルだった。

 行きの航海中は何度も臨検をうけ、随分と時間が掛かったのだがたのだが、ツェルプストーの旗を掲げたので帰りは一回も止められず海まで出ることが出来た。

「この旗があると無いとじゃ全然違うわね。ツェルプストー辺境伯の威光ね」
「全くですな。今回は使者様がいらっしゃいますので掲げていますが、株主になって頂いたら毎回掲げるべきですな」
「そうね。ガリアはラ・クルスが直接株主って訳じゃないけど頼めば許可くれるかなあ?ラ・クルス肝いりの事業って事で」

その国の有力貴族を株主にすることの利益をひしひしと感じながら、今はのんびりと船の旅を楽しむタニアだった。




1-32    商会設立-6



 ウォルフはここ二週間ほぼずっと地下の製図室に籠もって図面を引いていた。
減速機関係の設計はほぼ終わり、今は歯車に歯を切るための刃物の刃型に合わせた線を引いているところだ。

「えーと、モジュールがこれだからラックだと・・・」
「もう、ウォルフ様またここに籠もってる!今日は商会の方に顔を出して下さいって言ったじゃないですか!」
「くそー、やっぱり関数表作るべきかー・・・ギブミーエクセル」
「ウォルフ様ッ」
「うおっ・・・なんだサラ、いきなり」
「いきなりじゃないです!さっきから呼んでいるのに」
「あ?ああ、ごめん。何?」
「今日は寺子屋で勉強の進み具合を見てくれるって言ってたじゃないですか。何でまだここにいるんですか」
「あれ?何で?」
「こっちが聞いているんです!もう良いから行きますよ!こんな所に籠もりっきりじゃ腐っちゃいます」

無理矢理ウォルフを製図板から引きはがして地上へと連れ出す。ウォルフはずっと製図のことだけを考えていたので思考をうまく切り替えられず、サラに引っ張られながらもまだ歯車のことを考えていた。

「うわっ眩しっ!」
「もう、日光が苦手なんて不健康すぎます」

 そう言われてみれば昼間に表へ出たのは久しぶりな気がする。季節はまだ残暑の気配を残していて地下の製図室に比べたら大分暑かった。
そんな中をサラはウォルフの手を引っ張ってずんずんと歩いていく。サラの方が体が大きいのでウォルフは小走りになってしまうがサラは気にしてくれない。
バーナード通りのそばにある商館に着いた時にはウォルフは大分汗をかいてしまったが、おかげで思考が現実に戻ってきた。

「ふう、まだ大分暑いな。勉強の進め方なんてサラにまかすって言ってなかったっけ?何でわざわざオレ呼んだの?」
「パオラさんが、ベルナルドさんの奥さんなんですけど、この間から小さい子相手にブリミル教の教えを聞かせているんです。どうなんだろうって思って」
「・・・何でわざわざウチでやるの?」
「何でもロマリアではお坊さんに教えの内容を聞かれた時にちゃんと答えられないと高いお札を買わされちゃうらしいんです。そんなことになったら困るからって」

険しい顔で建物の中に入る。中ではマチルダとカルロが事務を執っていた。

「ああ、ウォルフ久しぶりじゃないか。明日タニアがゲルマニアの人を連れてこっち来るってさ」
「ふーん、まあオレには関係ないかな。それよりマチ姉ちょっと話があるんだけど。カルロ、パオラさんを呼んできて」

カルロは頷くと席を立って呼びに行き、ウォルフはマチルダとサラを連れて応接室に移動する。
直ぐにカルロはパオラを連れてきて自分は事務に戻った。パオラは少し緊張しているようで、ウォルフが促すとぎこちなくソファーに座った。

「えーと、何であなたを呼んだかって言うと・・・子供達にブリミル教を教えているそうですね?」
「え?あ、はい。私は孤児院出身なので結構詳しいんです。他には何も才能がありませんが、皆さんのお役に立ちたいって思って」

少しホッとした様子で笑顔になって答える。少し誇らしげでさえあった。

「何か教えたいというのなら、次回からは子供達が喜びそうな物語などの本を読んであげて下さい」
「え?何で・・・」
「どうしてだい?別に教えてくれるんなら良いじゃないか」

パオラは驚いて絶句してしまったので、代わりにマチルダがウォルフに問いただした。

「子供達がブリミル教を学びたいというのなら、教会に通わせて学ばせようと思っています。あなたは神官の資格は持っていないんでしょう?」
「え・・・確かに持ってはいませんが、間違った事は教えていません!」
「あなたが純粋な厚意で行ってくれたことは理解しています。しかし、ロマリアとアルビオンの教会とでブリミル様の教えについて解釈が違ったりした事が過去にはあったのです。ここはアルビオンですから、ブリミル様の教えを伝えるのはアルビオンの教会であるべきだと思うのです」
「・・・・・」
「もし解釈の違いなどがあった場合、またはあなたが勘違いなどをしていた場合大変な事になる可能性があります。ここではブリミル様については聞かれたら答える程度にして下さい」
「はい・・・」

 パオラは悄然として部屋から出て行った。
ウォルフはこんな事を言ってはいるがこんなのは詭弁でしかない。ブリミル教について教えて欲しくないだけだ。
ブリミル教の教えはブリミル様が伝えてくれた魔法のおかげでハルケギニアの民は安心して暮らせるのだから感謝して祈りましょう、というものだ。
そんなことは時々思えばいい様なことで、教会が求めてくる様にしょっちゅうしなくたって良いだろうとウォルフは思う。
せっかくブリミル教の影響の少ない子供達を教えているのに、こんな小さな頃から教え込まれちゃったら結局大人達と変わらなくなる。

「あーあ、可哀想だね。ウォルフにいじめられて」
「いじめてないから。大体ブリミル教の坊主に騙されてこんな所まで流れてきたって言うのに何でまだあんなに信じてるんだよ」
「あ、それはこんな良い職場に旦那さんが勤めることが出来たのがブリミル様のお導きだったんだって言ってました」
「はぁー・・・いいな、坊主。丸儲けだな」

大きく息を吐きぐったりとソファーにもたれた。
本当に宗教と言うのは良い商売だと思う。良い事があれば御利益で、悪い事があれば試練を与えて下さったと言う。はずれがない。それが必要な人には必要なんだと理解してはいるが、それを利用して商売をしているように見える者達に好感を覚える事はなかった。

「でも、ロマリアとそんなに違うかねえ?最近はそんな事無いと思うんだけど」
「無いだろ、そんなの。オレが教えて欲しくないだけだよ」
「えっ!なんでさ」

マチルダは驚いて大きく目を見開いた。彼女からするとそれなら何故教えて欲しくないのか分からない。

「あんまり小さい時から宗教に触れていると思考を放棄する癖が付く懸念があるから。もう少し大きくなって判断力が付いてから自分で学ばせたい」
「別に宗教の所為で考えることをしなくなるとは思えないんだけど」
「宗教っていうのは合理的には説明出来ないものに対する畏れや敬いといった気持ちが救いを求める心や祈りになったものだから、根本的な所で考えることをやめている。何故メイジだけが魔法を使えるのか、ブリミル様がそれを可能にしたのは何故か、分からないから判断停止して拝んでいるんだ」
「・・・あんたは分かるって言うのかい?」
「分からねーよ。でも分かろうと思ってずっと考えている。それが大事なんだと思う。あの子達にも疑問に対して合理的に答えを導ける様になって欲しいから、世界はこうなっているんです、疑問に思わず覚えなさいっていう教え方はして欲しくない」

ウォルフのその言葉を聞いて、マチルダは師であるカールがウォルフについて「世界を理解しようとしている」と評していた事を思い出した。
世界とはどうなっているのだろうか、などと考えた事はマチルダには無い。その答えは物心が付いた頃には既に教えられていた。

「オレはあの子達に幸福になって欲しいと思っているから。その為には"正しい"事を自分で選べる様になる必要がある。その上でブリミル教の坊主の言う事が正しいと思うならばそれはそれでいいさ」
「ブリミル教を信じてたって幸せにはなれるんじゃないかい?」
「そりゃなれるだろうさ、ブリミル教の教えだって良いこと一杯言ってるんだから。でも自分で考えて選んだなら良いけど、何も考えず教会のいうことのみを信じていれば幸せになれる、なんてのは奴隷の幸福って言うんだ。そんなのをオレは人間の幸福とは認めない」
「・・・・・まあ、あんたは子供達にブリミル教にとらわれない考え方をして欲しいって事を言いたいんだね?」
「ああ、オレはブリミル様の事は本当に凄い人だと思う。でも今のブリミル教がこの世界の全てだとは思えない。そこに囚われていたらハルケギニアから出られない。その枠を超えた思考をして欲しいんだ」
「あんたは最初から枠が無かったからねえ・・・坊主に目を付けられるんじゃないよ?」
「・・・留意します」

 その後小さな子達を相手に道徳の授業を行い、高学年組の数学も少し見てサラに教えるポイントをアドバイスした。
あんまり籠もりっきりになっているのは良くないと反省し、せめて週に一度はこちらに顔を出そうと決めた。




 タニアはツェルプストー辺境伯から出資を受けることに成功した。
それだけではなくボルクリンゲンの商港と製鉄所用の港の間の埠頭とそれに隣接する用地をツェルプストー家から購入した。
コークスなどの資材置き場だったのをツェルプストーが港の拡大を目的に商人に開放する事を決断して資材置き場を移動し、ガンダーラ商会と他の新規参入商会が六軒ここに商館を構えた。商港と鉄港両方の港に専用の船着き場を有する最高の立地を得る事が出来たのだ。
ボルクリンゲンの町は人が増え続け、小さな建物が建ち並ぶ今までのメイン通りでは不便になったので、ツェルプストーが強権を発動し、区画整理を行った。
今まで製鉄所のみに通っていた街道からの大きな道を商港の方にも通し、住宅として使用していた建物は新市街を作りそこに移して港には大型の商館が並ぶ様にした。
この区画整理で更に多くの商人が近くの町から流入し、この地方で一番大きな町になるのも近いと言われている。

 ガリアで修理に出していた船達も戻ってきたので船員も更に増やし、大々的に貿易を行っている。
より効率的な物流の為、ガリアのプローナへと向かうテハダ川河口の街イルンとゲルマニアのボルクリンゲンに向かう国際河川ライヌ川河口の町ドルトレヒトにも拠点を設立した。
ドルトレヒトにはトリステイン東部の商人達も多く集まるようになり、この町も急速に規模を拡大している。各拠点での取扱量が増えるに合わせて商館員も増やし商会の規模は拡大する一方である。
しかし、その為に必要な資本も多くかかり、当分は無配が続きそうである。ウォルフが十六歳までにフアンに対して二十万エキューを払えるかどうかは配当次第なのでどうなるかは全く分からない。

 ハルケギニアの財界ではタニアが新進気鋭の女経営者として有名人になっており、フォーブスでもあれば表紙を飾りそうなほどだ。
ラ・クルス伯爵にヤカのギルド、さらにツェルプストー辺境伯をも手玉にとって金を引き出すその交渉術。ハルケギニアでは珍しい若い女性経営者と言う事や、容赦のない値切り交渉に大胆な事業展開など話題に事欠かないためだ。
アルビオン商人との関係は当初ぎくしゃくしたが、今となってはおおむね良好となった。
これはガリアやゲルマニアにも言えることだが国内での流通にあまり手を出していないのと、小売りは現地の商人に任せていることが大きかった。

 ガリアやゲルマニアとの直接貿易が始まり、定期便が運行するようになるとラ・ロシェールの商人達は取引価格を下げて対抗してきたが、商会を排除する程の影響はなかった。
ラ・ロシェール経由の貿易は風石が節約できる反面狭い岩山の道を通らなくてはならない陸路での輸送に難点があり、それがこれまで貿易の規模を拡大してこなかった原因の一つでもある。しかし、ガンダーラ商会がゲルマニアとの国境も通るライヌ川経由での貿易を始めたのでこちらを利用して取引量を増やそうとするトリステインの商会が出てきた。

 モンテーロ商会など、ガンダーラ商会の後を追いガリア-ゲルマニア間で直接貿易を始める所は直ぐに出てきた。この二国間の貿易はお互いに価格競争力の高い輸出品が有ることもあって今後ますます盛んになっていくと思われる。
同様にアルビオン-ゲルマニア間、アルビオン-ガリア間でも少しずつ競合する商人が現れ始めている。ゲルマニア商人はアルビオン産品について石炭以外には今のところ興味を示していないが、ガリア商人が自国で加工するつもりで羊毛を直接買い付けたため羊毛価格はここの所上昇し続けている。
万事順調に進んでいるように思えるのだが、アルビオン政府が供給を増やしてはいるのに関わらず風石の需要が急増し、価格が上がり続けているのがアルビオンの貿易にとっては懸念材料だ。


 マチルダはアルビオン国内の産業を振興するために奔走した。
羊毛の染色をしている所は見つけたのだが、色が地味だったのでそのままでは使えなかった。トリステイン産の染料は輸入できなかったので同等の技術を持つガリアから染料を輸入し研究させると、何種類かの染料はアルビオンでも生産出来ることが分かった。
やる気のあるその工場と提携して色つきの毛糸の生産を始め、試験的に国内で販売してみたが概ね反応は良かった。
しかしトリステイン製の毛糸と同等以上の品質になるまでは輸出するべきではないと言う判断のため、今は更に品質を上げるため研究を続けている。焦って輸出をしてトリステイン製に劣ると言うレッテルを貼られたくないのだ。

 メリノ村には直営の牧場を作り、メリノ村や周囲の村から農家の次男や三男を雇用しメリノの羊を増やしている。
空調を整えた倉庫に生産した羊毛を貯蔵し、ある程度の数が揃ったら出荷するつもりでいる。

 ウイスキーは蒸留から三年寝かせた樽を商会で購入し、そのままガンダーラ商会のタグを付けて蒸留所の貯蔵庫で寝かせてある。
この年買った分は五年後から販売を開始するつもりでいるのだが、在庫をほぼ全て購入したため蒸留所も経営が安定し生産量を増やした。

 アルビオン中に出かけることが多く、各地で時折襲ってくる野盗や亜人などを返り討ちにしていたら「サウスゴータの剣鬼」と呼ばれる様になった。本人はせめて「剣姫」にしてくれと言っているが。
ロンディニウムを通る時は大抵モード大公の屋敷に寄っていて、ティファニアとは随分と仲良くなった。


 サラは子供達の教育と商会の帳簿の監査を担当している。
自分より大きな子供達に教えることに最初は戸惑ったが、数学に対して理解しているレベルが全く違ったので子供達もサラもお互いに直ぐに慣れた。
寺子屋の子供は大分増え近所の子供も通う様になり、自分より大きな子供達に数学などを教えるサラは近所の平民の間で天才少女と噂になる様になった。

 子供達に勉強を教えた後時間がある時は商会の帳簿をチェックするのだが、その監査はとても厳しいと評判だ。サウスゴータの商館ではフリオがいい加減な書類を出してはサラに怒られている姿が頻繁に見かけられた。
ウォルフの様々な実験の手伝いもしているので少しずつ化学についての知識を蓄積している。有機化学が結構好きになってきたみたいだ。

 ラ・クルスからは最初の養育費の支払いと共に紋章入りのマントが届けられた。そのマントをメイド服の上から纏えば貴族メイドの誕生である。
すぐにマントは仕舞われてしまったのであるが、夏にラ・クルスの祖父母に挨拶した時にはちゃんと身に纏った。
フアンの態度が心配されたが、案外すぐにデレた。曰く、「アンちゃん(妻のマリア・アントニアのこと)の小さい時にそっくり」との事である。確かに垂れ気味の目とダークブラウンの髪はよく似ているが、不測の事態に備え緊張して見守っていたレアンドロは何だか違う意味で切なくなってしまった。


 クリフォードは商会には関わらず、何とかマチルダに追いつこうと熱心に魔法を練習している。
元来はいい加減な男であるが、必死にそれこそ何度も気を失うまで杖を振った成果か、ここ最近魔法の腕はメキメキと上達してきた。


 ジャコモの炭坑は順調にコークスを生産し続け、今はもう一つ炭坑の採掘権を買おうかと画策している。
炭坑の町リンブルーは大きく発展した。周辺の山に他のゲルマニアやアルビオンの商人が炭坑を開いた為人口が急増したのだ。
石炭を運び出すフネが物資を運んでくるので暮らしやすく、典型的な田舎町だったのに今や女の子のいる店もあるほどだ。


 レアンドロはウォルフから水酸化ナトリウムとその製法の提供を受けて製紙法を改善し、大々的に製紙業を振興した。
その製法とはメイジ二人による『練金』で、塩化ナトリウム水溶液から水酸化ナトリウムと塩酸を同時に精製させるというものだ。普通に一人で『練金』させると塩素イオンを水酸化物イオンに変換してしまったりナトリウムイオンを水素イオンに変換してしまったりで、精神力の消費の割にはろくに出来ないのだが、二人でやることによりうまく水を電気分解して効率よく水酸化ナトリウムを精製できている。
耐久性が格段に増した紙は評判を呼びラ・クルス産の紙はガリアにおいてトップシェアを握る程になった。アルビオンやゲルマニアにも多く輸出されたが、ウォルフとの契約で全てガンダーラ商会がそれを担った。
製紙業と三角貿易の効果でラ・クルス領は一年もたたずに大きく発展し、その手腕を買われガリア産業省の副大臣に抜擢された。その経緯にはオルレアン公の推薦が有ったと言われている。
妻セシリータとティティアナ、それと生まれたばかりの息子を連れてリュティスの屋敷ですごすようになったため、同じくリュティス暮らしの多いオルレアン公家とは家族ぐるみで付き合うようになっている。


 ウォルフはずっと旋盤の開発を続けていた。週に一度商館に行くのと魔法を習いに行く以外はほぼずっと地下の工房に籠もっているか方舟で研究してるかで、マチルダにモグラのウォルフとありがたくない二つ名を貰うほどだった。
研究はウォルフにとってちょうど良い息抜きとなっていて、樹脂や薬品、ガラス繊維などの量産化に向けた物をメインに行った。
ただ、樹脂製品を魔法抜きで量産しようとすると原料をどうするかという問題がある。石油を掘ればいいのかも知れないが、地球温暖化を見てきた身としてはなるべくやりたくないというのが本音だ。
その解答の一つとして研究しているのは発酵で樹脂の原料を得ようという物だ。廃糖蜜を原料にして様々な発酵を行い、エチレンやプロピレン、アセトンなどを生産するつもりだ。
既に一応は酪酸発酵によりアセトンとブタノールを生成する事は出来る様になっていて、今はより効率の良い菌株を色んな場所の土壌から探している所だ。

 その他の研究の成果としては魔法具を色々と作れるようになった。
魔法具を制作するには道具に宿らせたい魔法とその魔法を土石や風石もしくはミスリルなどの魔法金属や水晶などの鉱物の結晶に固定する魔法を重ねがけする必要があるのだが、ウォルフは魔法の同時使用が出来るので何とかできるようになった。
旋盤の開発の傍ら土石や風石から効率よく動力を取り出す機械や、コックピットの気圧を維持する魔法装置、更にはガーゴイルなどをこつこつと開発していった。
特にガーゴイルはその中枢部をグライダーに組み込めば自動操縦も実現出来そうなので確実性などを検証しながら研究を続けている。

 水の秘薬を使った魔力素の研究も引き続き行っているが、こちらはあまり進んでいない。ガーゴイルに使われている技術と組み合わせれば人工生命を生み出すことが出来るのではないか、と一時期はかなり頑張ったのであるが最近はずっと停滞している。何かしらのブレイクスルーが必要なようだ。

 魔法具の研究からガンダーラ商会で商品化されて大ヒットになっている物もある。
セグロッドと名付けられたその乗り物はセグ○ェイから車輪を取り去ったような形状で一本の棒に折りたたみ式の足置きと短いハンドルが着いている。足置きに乗ると風石の力で十五サントほど浮き上がり、ハンドルを握って棒を傾けるだけで前進や後進、旋回やその場での転回などが出来、最高速度は時速二十リーグほどだ。乗るのに訓練などを必要とせず直感的に操作でき、十分に馬の代替を務められる速度が出るので一気にサウスゴータ周辺の貴族に広まった。
使っている魔法は『レビテーション』ではあるが、足置きを常に地面と平行に保つための制御、棒の傾きと加速度の制御など単純な見た目からは想像しにくいほど複雑に魔法が付与されている。そのため大量生産には向かないが、本体の制作を外注して魔法付与にメイジを雇い生産している。

 旋盤の制作は一年ほどしてようやく試作一号機を完成させられたので、試作機を使って高精度な螺子などの部品を作ることが可能になり、より高精度で分解整備が可能な物に作り直していった。
旋盤が自分で自分の部品を作り、より高精度高機能な物に生まれ変わっていく様は、生物が進化していくのを見る様で楽しかった。
この少し前から高学年組に製図と機械の扱いについて教え始め、適正を示したリナとトム、それに新しい従業員の子供二人を機械工候補に選んだ。
ラウラは図形に対して全くもって適正がなかったが、リナはあっという間に製図の意味することを理解し、空間を把握する能力に優れていることを示した。

「ウォルフ様、この歯車の歯の形ってみんな決まっているの?」
「ああ、伸開線って言って、円筒に巻きつけた糸をほどくときに糸の先端が描く曲線だ。歯が滑らかに接触するんだ」
「うん?わー本当だ、おもしろいねー。なるほど二つの中心がある訳か・・・」

「ウォルフ様、この刃先をもっと尖らしちゃダメなんですか?魔法を掛ければ欠けたりしないでもっと切れ味が良くなりそうです」
「いや、仕上がりが悪くなるからダメ。丸くしてるのは刃先の熱を逃がす意味もあるし」
「ああ、この間言っていた焼き鈍しってやつになっちゃうのか・・むむむ」

疑問に思ったことはどんどん聞いてきて、答えると即座に理解していく。実に教えがいのある生徒だった。

 商会が発足した頃フアンにガリアまで来る様に呼ばれていたのだが、忙しかったので手紙で済ませた。どうせオルレアン公の話で何か建設的な話が出来るとも思えなかったし、商会の方はタニアに任せていたので行く必要はないと判断した。
ガリアに行ったのはまた次の夏の短期留学の時で、パトリシアに再び会えた。大分教師らしくなっており、何とシャルロットの家庭教師になることが内定しているという。

 フアンはウォルフに会うと直ぐにオルレアン公のことで文句を言ってきた。
彼がフアンに対して妙に親しげに振る舞う様になり、頻繁にリュティスに呼ばれる様になったというのだ。
親しくなって良かったじゃないかと言ったのだが、リュティスにレアンドロが住むようになってからも大した用も無く頻繁に呼ばれ結構迷惑しているとのことだ。絶対にウォルフが何かをした物だと決めつけ、オルレアン公との間に一体何があったのかとしつこく聞かれた。
オルレアン公の様子もちょっと変らしい。やたらと貴族のあるべき姿とか、ガリアは今後どのような道を進むべきなのかとかの話が多く、一貴族であるフアンには中々対応に困ることも多いそうだ。
しかしウォルフとしては手紙で説明したこと以上のことは何も無いので、王様になりたいんじゃないかという予想を伝えることしかできなかった。

 この年のバカンスはラグドリアン湖には行かないで、代わりに火竜山脈に観光に行った。ウォルフの目的は地質研究と火の精霊の発見だったが、精霊を見つけることは出来なかった。
地質研究ではそれなりに成果があり、火竜山脈は堆積岩と火成岩が複雑な地層を形成している山地であることが分かった。溶岩流がある様な所は火成岩からなる火山で、そうでない場所は堆積岩の険しい岩山となっていた。
堆積岩の岩山には以前ラ・ロシェールから来る途中で見た地層も露出している場所があり、やはり風石の痕跡の様な結晶が採れた。

 アルビオンに帰るとまたモグラ生活を送り、夏が過ぎ冬を越え春になろうという頃ようやくウォルフの旋盤が完成した。ウォルフは八歳になっていた。




[33077] 幕間1~4
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 01:39
幕間1~4



幕間1   空賊戦(前)



「また襲われた?人的被害は!?」
「幸い、有りません。怪我人が数人です」

 タニアはホッとため息をつき、椅子にもたれた。
商会が発足して暫くは順調にいっていたのだが、ここに来て続けざまに商会のフネが空賊に襲われた。今回ので三隻目である。
人的被害が出ていないのが幸いだが、こうしょっちゅう襲われていたら商売にならない。既に噂になり始めているし、このままでは商会が立ちゆかなくなるだろう。
ロサイスの警備隊に取り締まりの強化を願い出ているのだが、どうにも動きが遅い。
やるしかない・・・タニアは決意を固めこちらを見ているベルナルドに頷いた。

 アルビオンの空賊はアルビオンの船を襲わない。
まことしやかに囁かれる噂ではあるが実はある程度真実でもある。散々トリステインから苦情が入ってはいるのだが、本当にアルビオンの空賊はトリステインの船を狙って襲っていた。
もちろん例外もあるが、今回のようにアルビオン船籍のフネが連続して襲われる事は初めてで、警備隊も対応に迷っているのだ。
かつて大々的な討伐など行ったことは殆ど無いし、いざする気になったとしても彼らは神出鬼没でアルビオンの欠片と呼ばれる雲の中の浮遊島を根城とし、滅多な事ではしっぽを掴ませない。

 このままでは更に被害が拡大する恐れがある。タニアはガンダーラ商会として"アルビオン航空法第二十四条例外二項のA"を申請する事を今決意したのである。
この法律は通常大砲による武装が許されていない商船に自衛の為の大砲を積む為の手続きを定めた条項である。
連続して二回以上商船が襲われた商会が対象で、ガンダーラ商会はその条件を満たしている。大砲と人員は警備隊から貸与されるのでその分経費が掛かるが、背に腹は代えられない。
既にロサイス警備隊本部とは打ち合わせが済んでいて申請すれば良いだけになっている。

 タニアは商会の建物を出ると、ある造船所へと向かった。
そこではガンダーラ商会が格安で購入した廃船寸前のフネを即席の護衛船に改造する作業が行われていた。

「どう?ウォルフ、作業は終わりそう?」
「おお、タニア、もうちょいで終わりそうだな。また襲われたんだって?」

タニアが声をかけると甲板からウォルフが顔を出して答えた。ウォルフはここ三日ほど全ての研究を止め、フネの改修に掛かりきりになっていた。

「ええ、どう考えてもウチを狙って襲っているみたい」
「じゃあいよいよこいつの出番だな」

タニアに向かって軽く頷くとフネを叩いた。アルビオンの空賊にガンダーラ商会を狙うという事がどういう事なのか教えなくてはならない。

「仕方がないわ。サウスゴータにはもう連絡を入れたので、エルビラ様が到着したら打ち合わせをしましょう」
「おお、それまでには仕上げとく」
「じゃあ、頼むわ。私はこのまま警備隊に申請に行ってくる」

そう言うとタニアはささっと出て行った。

 エルビラは日頃サウスゴータの城で女官兼警備員として勤めていて、衛兵の訓練も担当している。
能力を考えたらもったいないと言える仕事ではあったが、本人は子育てと両立できるこののんびりとした仕事を気に入っていた。
今回タニアはそのエルビラを戦力として借り出したのだ。当初エルビラは渋っていたものの、悪辣な空賊の実態を話したらその気になってくれた。
彼女のメイジとしての能力はハルケギニア最強と言って良い。参加して貰えるだけでほぼ負ける事は無くなるというチートな戦力を確保できたので空賊退治も幾分気が楽になった。

 三日後、ロサイスの商館にエルビラを始め今回の作戦に参加する面々が集まった。
タニアを筆頭にする商会の面々、商会の警備責任者、ロサイス警備隊、それにマチルダにエルビラ、ウォルフ、更にはマチルダの護衛のメイジ達と言った所だ。
警備隊の面々はウォルフが参加する事に難色を示したが、軽くファイヤーボールを出して港にあった岩を粉砕してみせると黙った。

 ずらりと揃った面々に今回の作戦を説明していく。その作戦はおとりの船団をガリアから寄越し、襲ってきた空賊を捕獲するという単純極まりないものだ。
空賊は大砲で武装しているので、どうやってそれを無効化するのかと言う所がこの作戦の肝と言えた。
その為に呼ばれたのがエルビラだ。実のところ襲ってくる空賊が一隻ならばウォルフが改修したフネで制圧できそうな目処は立っていたのだが、僚船がいた場合対処しきれない。それをエルビラに頼もうというのだ。
サウスゴータにも許可を得て暫く仕事を休んでのアルバイトである。

「と言うわけで、エルビラ様には敵旗艦以外を殲滅していただきます」
「相手は何隻くらいいるのかしら」
「空賊の規模からすると、多くても全部で三・四隻ほどだと考えられます」
「あら、そんなものですか。中々良いアルバイトですね」
「・・・何隻位までお一人で相手できます?」
「十隻位は問題ないと思うわ。私、火薬を積んだフネとは相性が良いのですよ」
「是非、味方は巻き込まないよう、お願いします・・・」

さらっと言うエルビラに揃った面々は息をのむが、本人は涼しい顔をしたものだった。
それならば最初からエルビラが殲滅すればいいのではと思いそうになるが、空賊を捕獲して本拠地を突き止る事が今回の目標だ。

「じゃあ、今日はこれで終わりにしましょう。明日お昼頃出発して、夕方着く予定の船団を公海上空で待ちつつ哨戒しようと思います」
「「はい!」」

 会議室の外ではクリフォードが待っていて、会議が終わり外に出てくる面々を見つめていた。
そして列の一番最後にエルビラが出てくるのを見つけると声を荒げて詰め寄った。

「母さん!やっぱり俺だけ行っちゃダメなんておかしいよ!俺もみんなと一緒に闘いたいんだ!」
「クリフ、サウスゴータに帰りなさいと言ったはずです。何故まだここにいるのですか?」
「俺も、一緒に、闘いたい・・・」

クリフォードはウォルフ達の手伝いする為にロサイスに来ていたのだが、作戦への参加はエルビラに許可されなかった。

「私がマチルダ様やウォルフの参加を認めたのは十分に戦闘能力があると認めたからです。マチルダ様は剣を覚えてから戦闘に幅が出来ましたし、ウォルフは飛行しながら砲撃できるという特技があります。その上で二人とも十分な防御を張る事が出来ます。しかし、あなたは私の『ファイヤーボール』さえ、受け止め切れなかったではないですか」
「母さんの『ファイヤーボール』なんて受け止められるメイジの方が少ないよ・・・」
「あの程度の攻撃は闘いの場では普通に襲ってくるものです。足手まといにもなりますし最低限の戦闘能力を持たない者を戦場へと連れて行くわけにはいきません」
「・・・もういいよ!」

目の端に涙を浮かべて悔しそうに叫び、クリフォードは走り去った。


「兄さん攻撃は結構強くなったけど、防御がまだ甘いからなあ・・・」
「でも、良くあたし達が参加するのは認めてくれたよね、エルビラ」

走り去っていくクリフォードを見送って、エルビラとは少し離れた所でウォルフとマチルダがこそこそと話す。

「実力さえあれば良いみたい。戦闘に関しては結構スパルタだからね。実戦でしか分からない事がある、ってのが口癖だし。それより、マチ姉は大丈夫なの?太守様」
「護衛が五人に増えちゃったよ。邪魔くさいったら無い」
「あんま無理しないでよ?マチ姉に今商会抜けられちゃったら困るんだから」
「大丈夫さ。商会やめさせるなら家を出るって言ってやったから」
「・・・それを無理って言うんだけど」






 所変わってこちらはラ・ロシェールの酒場、その薄暗い地下の一室で二人の男が古ぼけた小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。

「良くやってくれた、こちらが今回の分の金だ」

フードをかぶった男がアタッシュケースをテーブルの上に置いた。髭面の男が開いて確認すると中には眩いばかりのエキュー金貨が詰まっていた。

「いいだろう、ごまかしてはいないようだな。これでもう一回あの商会のフネを襲えば俺達はまた元の関係に戻るって訳だ」
「・・・・・」
「しかし、天敵である俺達にこんな事を頼んでくるとはよっぽどあいつらの事気に入らないみたいだな。分かってるんだろう?これがばれたらあんたも縛り首だぜ」
「気に入る気に入らないの問題ではない。あんな商売を成功させるわけには行かん。あんなものはまだ芽が出ぬ内につぶすに限る」
「へっ、まあオレ達はあいつらが成功しても獲物が増えるだけだから全然構わないがな」
「・・・・・」
「ガハハハ、そうしけた面すんなって。心配しなくてももう一回はお前らの言う通りあいつらを襲ってやるぜ」

仏頂面をして黙り込むフードの男の背中を髭面が楽しそうにバンバンと叩く。

「・・・週末にもまた奴らの船が入港してくるらしい。空賊を警戒して船団を組んで来るという噂だ。向こうも何か手を打ってくるかも知れないから十分注意して当たってくれ」
「ハッ、誰にもの言ってんだ。素人が何隻集まろうと関係ないぜ。むしろ獲物が増えて嬉しいってもんだ」
「もう十分にガンダーラ商会が狙われている事を印象づけた。最後の襲撃は・・・」
「分かってるって。言われなくてもちゃんと皆殺しにしてやるぜ。たんまりと貰ったからな、これが終わったらオレ達はほとぼりが冷めるまで暫くはバカンスだ」

よかったじゃねか、あんたのとこの船も襲われないぞ、などと良いながらまたフードの男の背中を叩く。相当に上機嫌だ。

「ふん、これであいつらは再起不能になるはずだ。誰も船員が乗りたがらないフネなんて何隻あっても飾りでしかない。どこからあんなに大々的に始める金を集めたのか知らんが、全て無駄って訳だ」
「ひゅう、怖いねえ。俺らとしたら交易が盛んになった方が獲物が増えて良いんだがな。まあ、今回はあんたらの為に働いてやるぜ」

髭面はアタッシュケースを手に提げフードの男を一瞥すると部屋から出て行った。
その顔は最後まで上機嫌で、もうバカンス先の南の島に思いを馳せているのかも知れなかった。






 翌日、ガンダーラ商会の面々は整備が終わった護衛船に乗り込んだ。
今回ロサイス警備隊から貸し出された大砲は全部で四門。それを前部甲板に全て設置する。
はっきり言って空賊が本気でこちらを襲うつもりならば戦力にはなりそうもない数だ。
しかし、通常の空賊ならば損害を受ける事を恐れ、相手に大砲が積んである段階でその船団を襲う事は諦める事が多い。損害を受けた場合に補充をしにくいので他にも獲物が居る以上無理をする必要はないのだ。

「ううむ、本当にこんな火力で大丈夫なのでしょうか。作戦がうまくいかなかった場合、こんなボロじゃ逃げ切れませんよ」

不安を口にするのは警備隊の面々だ。命令により派遣されているが、本心では乗りたく無さそうだった。
彼らが心配している通りフネはボロだし、ウォルフが改修により帆を小さくしてしまったのでとても速度が出るとは思えない。彼らにはこのフネが空に浮かぶ棺桶のように感じられた。

「大丈夫です。貴方達には戦力としての期待をしていません。作戦通り空賊に対する牽制をお願いします」
「はあ、わかりました・・・」

彼らは不承不承乗り込んだが、甲板に上がると大砲の設置より先に脱出用ボートへと向かい、風石などを点検をしていた。
そんな不安な様子が伝染したのか、ガンダーラ商会直属の護衛部隊も一緒になって脱出用ボートの点検を手伝っている。


 そんな各人の思惑とは関係無しに準備は進む。やがて万端整うと警備隊に連絡を入れ、哨戒航行に出発した。
空賊が頻繁に出るのはアルビオンからそう遠くない公海上空である。その空域に先回りし、普通フネが飛ばないような高度でガリアからの船団が来るのを待つのだ。






「お頭、来ましたぜ。南南西海上ガンダーラ商会の旗印、二隻の船団でさー」
「なんでえ、しけてんな。四隻くらいになるって話じゃなかったのか」
「狙われてるって分かってますからね。他の商会に嫌がられたんでしょうよ」
「まだ距離があるな、近づくまではこのまま雲の中で行くぞ!気取られるなよ!」
「あいさー」

 ガリア・アルビオン近海上空二千メイルで海賊船団は時折眼下に広がる海を偵察しながら雲の中を航行していた。
ガリア方面から近づいてくるガンダーラ商会の輸送船団に狙いをさだめ、近づいてくるのを三隻の空賊船が今か今かと待っている。三隻とも小型で船足が速い型のフネに大砲を積み込んだ典型的なアルビオンの空賊船だ。
今輸送船は海上を航行している。海上で襲うと襲った後逃げる時に速度が出ないので千メイル以上に浮上した時に狙うつもりでいる。

 雲の中でじっと待っていると、やがて輸送船団は浮上して順調に上昇を続け空賊の潜む雲に近づいてきた。

「おい、そろそろ行くぞ!帆を開け!空賊旗を揚げろ!」
「「あいさー!」」

適当に掲げていた旗が降りるとするすると空賊旗が揚がっていく。帆を大きく広げた空賊船はゆっくりと獲物に向かって動き出した。
これまでじっと待っていた鬱憤を晴らすかのように忙しく船上を動き回る空賊達の中、髭面の船長が輸送船団とは反対側の上空にある雲を睨んだ。

「ヘッ、隠れてるつもりみてえだが、全部お見通しよ。おい、引きつけてあいつも一気につぶすぞ」
「「あいさー!!」」

上空で隠れているウォルフ達はとっくに見つけられてしまっていた。
空賊達は空戦で絶対優位と言われる高い位置を敵に取られていても全く慌てた様子はなかった。それもそのはず空賊達は今回得た金でとある公爵家から横流ししてもらい、最新式の大砲を入手していた。
圧倒的に長い射程距離と高い命中精度を誇るその大砲はロサイスの警備隊風情が商会に貸し出す旧型の大砲などとは比べるのも馬鹿らしいと思うほどに高性能だ。
商会の護衛船程度のフネなどは向こうの射程の外から十発も撃ち込んでやれば空の塵と消えるだろう。

「くっくっく、早く来いよ。大砲の差が戦力の絶対的な差だと言うことを教えてやるぜ」

髭の船長は楽しげに呟く。彼にとってこれから起こるのは戦闘ではなく、あくまで一方的な殺戮のつもりであった。




幕間1   空賊戦(後)



 アルビオンとガリアの間、もう少しでアルビオンに着くという公海上空でガンダーラ商会の輸送船団は順調に高度を上げていた。
このまま何事もなく航海は終わるのかとも思い始めた、もう少しで高度が千メイルを越えるかという頃正面上空の雲から突然空賊船団が現れた。堂々と空賊旗を揚げ、そうするのが当然と言わんばかりに停船命令を出してくる。
もちろん空賊に止まれと言われて素直に止まるつもりない。輸送船団を率いるスハイツは慌てず舵を切り、高度を一気に下げ速度を増しながら来た方向へと逃げ始めた。



 ウォルフ達はタニアやエルビラの使い魔を使い、割と早い時期に雲の中に潜む空賊船を発見して監視を続けていた。
その空賊がガンダーラ商会を狙って襲っている犯人だと確信するまでは攻撃しないつもりだったのだ。
様子を窺っていると果たしてその空賊はガンダーラ商会の輸送船に襲いかかった。 タニアは軽く咳払いをすると周りを見回し、作戦の発動を宣言した。

「では、予定通り攻撃を開始します。降下を続けながら射程に入ったらロサイス警備隊は砲撃を始めて下さい」


 古びた護衛船は勢いよく降下し、風を切り速度を上げる。
上部甲板では水夫達が忙しく走り回り、後部甲板では護衛部隊が鉄砲のチェックをしている。
そんな騒がしい船上でウォルフは甲板の隅に忘れ去られたように置いてある大樽をコンコンと小突いて話し掛けた。

「兄さんもそろそろ出てきたら?何時までもこんな中に入ってたら危ないよ」
「・・・おう」

大樽の蓋が開き、ピョコっとクリフォードが顔を出した。

「あっクリフ!来ちゃったんだ・・・」
「や、やあ、マチルダ様」

クリフォードが乗り込んでいた事に驚いたマチルダが声をかけるが、ただ事ならぬ気配を背後に感じてゆっくりと振り向いた。
そこには優しげな微笑みを浮かべたエルビラが立っていた。足元にはチリチリと炎を纏っている。
あまりの威圧感とその微笑みとのギャップに周囲にいた者は息をのみ、皆後ずさって道を空ける。

「クリフ。言いつけを破りましたね?」
「ひう・・・」

クリフォードの十一年あまりの人生でこれほど母が怒っていると感じた事はない。
ハルケギニア最強クラスのメイジの怒りは物理的な圧迫すら感じさせる程の激しさだった。
震え出す足を叱咤し、顔を上げて母を睨む。無言でこちらを見つめる母に向かって勇気を振り絞り口を開いた。

「・・・た、た、たとえ母さんの言いつけだろうとも、マチルダ様が闘いに出るってのに黙って見送るなんて俺には出来ないんだ」

言った。言ってやった。
クリフォードは全身に力を込めてエルビラを見返す。脳裏にはエルビラに燃やされる父の姿が浮かんでいた。

 そんなクリフォードを黙って見ていたエルビラは、ふう、と溜息を漏らすとウォルフに向き直り訊ねた。

「ウォルフ、あなたはいつからクリフに気付いていたのですか?」
「え?港でフネに乗った時から気付いていたよ。まあ、兄さんらしいなって」
「わかりました。クリフォードもウォルフも帰ったらおしおきですね」
「え、ちょっ、何でオレまで!」
「異議は認めません。故意に黙っていたのなら同罪でしょう」

絶句するウォルフを放っておいてクリフォードを見つめる。
まだまだ子供だと思っていた我が子ではあるが、マチルダを守る為に闘いたいというその目はいつの間にか男の目になっていた。
そしてエルビラの圧力に耐えられると言うことは闘う者として最低限の基準はクリアしていると言うことでもある。なにせ普通は大人でも泣き出したり漏らしてしまったりするほどの圧力なのだ。

「クリフ。あなたは今この船上にいるメイジの中で最も実力が低いです。ということはこれから闘いになった場合最も死ぬ可能性が高いと言うことです。それは理解していますか?」
「う、うん」
「ふう・・・帰ったらおしおきなのは変わりませんが、今回に限り参加を認めます。たとえ死んだとしても自分の責任です。絶対に足手まといにだけはならないようにして下さい」
「はい!」

クリフォードは嬉しそうに目を輝かせたがウォルフは隣で頭を抱えて呻っていた。





 空賊は輸送船団の予想通りの行動に慌てることなくそのまま追い立てていた。旗艦は高度を維持したまま、残りの二隻は高度を下げて速度を上げた。
後はもうこのまま追い詰め、接舷して乗り込めばいい。荷を満載した鈍重な輸送船が空賊船から逃れられるはずはないので、髭面の船長はもうどの辺で上空の護衛船を撃ち落とすかを考えていた。

「ん?お頭!輸送船団がぐいぐい高度を上げています!もう下の二隻より大分高い位置にいますし、直ぐに本艦より高い位置に行きそうです!」
「なんだと?・・・チッ!しまった!撃て撃て!撃ち落とせ!」

見ると確かに輸送船団は速度を保持しながらぐいぐいと高度を上げている。どう見ても荷を満載したフネの動きではない。

「罠だ!あいつら撃ち落とさんとボーナスが出ねーぞ!」
「射程外です!下の二隻からも届かない位置にいます!」
「風石をフルに炊け!絶対に逃がすな!それと後方警戒!何か切り札を持ってきてるかも知れん」
「あいさー!」

空船を出してくる事も一応予想はしていたので風石はふんだんに積んでいる。
収穫が少なくなる事は腹立たしいが、全部撃ち落としてしまえば契約通りトリステインの商人からは金が入る。
風石を最大出力で励起させ速度を上げようとしたところに上空から大砲の音が鳴り響いた。

「お頭!右舷後方を大砲の弾が通過。上空後方の護衛船からの砲撃!通常の大砲のようです」
「下の二隻にはそのまま輸送船を追って沈めさせろ!本艦は高度を上げて後ろの馬鹿を撃ち落とす」

怒気のこもる目で後方を睨む。いつの間にかガンダーラ商会の護衛船が後方上空に姿を現していた。
しかし懸念した新型大砲は積んでいないらしかったので気は楽になった。予定通り大した戦闘にはならなそうだ。
風石で増した速度を更に一度高度を落とすことで増やし、
護衛船との距離を取って護衛船の射程から逃れる。そこから大きく旋回しながら大量に積んである風石にものを言わせて高度を上げた。護衛船の後ろに大きく回り込むように飛んでいるので、このままいけば途中で一度すれ違い、砲撃戦になるだろう。
護衛船は一応こちらに近づいてくるように舵を切っているが高度差を維持しようともせずに突進してくるだけで、どうやら機動力もこちらが圧倒的に優っているらしい。これならばある程度近づいた時に少し距離を外して向こうの射程外から砲撃すれば一方的な戦闘にする事が出来るだろう。
やがて勢いよく降下してくる護衛船との距離が詰まった。もう高度差は殆ど無く、このままなら直ぐに攻撃出来るようになりそうだ。

「よし、右舷大砲すれ違いざまにぶっ放してやれ。あんなしょぼい大砲に負けるんじゃねーぞ!」
「あいさー!・・・ん?お頭!敵艦更に舵を切りました!まだこっちに・・・進行方向に入ってきます」
「はあ?もっと近づかなきゃ当てられねえってのか?」
「敵船首下部に衝角!ぶつけるつもりです!」
「なっ!」

衝角による体当たり戦。
それは大砲が発明されるまでは当たり前に行われていた戦術だが、最近ではそんな戦い方をする者はいない。
大砲による砲撃戦に慣れきった空賊達はそんな戦い方がある事を今の今まで忘れていた。
一瞬近づいてくる護衛船を砲撃すれば良いのでは無いかという考えが頭に浮かんだが、こんな作戦を採ってくる以上装甲を強化している可能性があり、それを考えるとリスクが大きかった。

「取り舵一杯、絶対に躱せ!距離を取ってあらためて砲撃する」
「あ、あいさー!」


 船首部分左右に二門ずつ斜め前方に向けて配備された前部大砲の砲手達は、もう大分前から今か今かと目標が射程に入るのを待っていた。
そろそろ敵艦が射角にはいるかと確認しようとした時急にフネが旋回した。
その後も何度もフネは急旋回を繰り返し、その急激な動きに砲手達は発射準備どころではなくなってしまった。一体何事かと壁に掴まりガンポートから外を窺った彼が最後に見たものは、目の前一杯に広がる衝角を備えた船首だった。

 






「うふふふふ、必死に逃げようとしちゃって、可愛いわね。この"ホーク・アイ"のタニアから逃げられるわけはないのに」

 後部甲板の舵輪の前でタニアはこちらの突撃を躱そうと旋回する空賊船を見つめていた。
その動きは全てタニアの予想の範囲内にあり、急速に近づく空賊船は既に捕まえたも同然と思えた。
ホーク・アイとは使い魔の鷹を上空に放ち、そこから俯瞰した視点を利用して戦場全てをコントロールするかに見えるタニアの戦い方に対してつけられた二つ名だ。

 自ら舵を握ると乗員に打ち合わせ通り船室に入るように指示を出した。
このままの速度で体当たりするつもりであり、風の魔法を発現してフネをコントロールすると同時に空賊船に吹く風も読み切り舳先を空賊船に向けた。

 ウォルフ達が集まった船室は後部デッキの下部にあり、ここはウォルフが念入りに装甲を張っているのでたとえ大砲の直撃を受けても大丈夫なように出来ていた。
タニア以外の全員が船室にはいると用意してある手すりに掴まった。そこにいる全員にウォルフがフルパワーで『グラビトンコントロール』をかけ、慣性をゼロにして衝突の衝撃を影響しないようにした。
全員が手すりに掴まり浮き上がりながら不安そうに衝突の瞬間を待っていると、凄まじい音がして空賊船にぶつかった事を知った。

「よし、成功。攻撃隊、外へ」
「「おおう!」」

室内前方に陣取っていた攻撃部隊が外に出てみると、護衛船は空賊船の前部甲板に三十度くらいの角度で突き刺さっていた。
空賊船の船首はめちゃくちゃに壊れ、ウォルフが急ごしらえで作ったチタン合金製の衝角は十分に仕事をしたようであった。

「ゴーレム隊、突撃!」

 タニアの号令と共に前部甲板に設けられた扉から次々に鉄や青銅のゴーレムが飛び出し、隊列を組んで空賊船へ乗り込んだ。
散発的な鉄砲での反撃や、斬りかかってくる者もいたがゴーレムの突撃と後方からの魔法攻撃で瞬く間に掃討し、上部甲板を制圧した。
衝突の衝撃でフネから振り落とされてしまった者や気絶してしまっている者が多かったらしく反撃らしい反撃はなかった。ガンダーラ商会の護衛部隊が気絶したり倒れ込んでうめいている空賊達を次々に縛り上げる中タニアは次の指示を出した。

「打ち合わせ通り部隊を二つに分けましょう。私はこのまま後部船室の制圧に向かいますから、マチルダ様は下部船室をお願いします」
「「了解」」





「ちっくしょう!なんて事しやがるんだ!おい、早く立て直せ!」
「うわああ、弾は、弾はどこだ」
「オレの杖を探してくれえ!」

ガンダーラ商会側が前部甲板から中央部まで制圧する頃、後部甲板上の船長達はまだまだ混乱の中にいた。
衝突の衝撃で全ての物資が散乱しており、おまけに皆パニックになっているので迎撃する準備を整えるのには時間が掛かった。

「早く鉄砲を揃えろ!こっちの方が上にいるんだ、狙い撃ちにしてやれ!」
「ヘイ、ただいま!」

何とか三人ほどが鉄砲を揃えて前方のタニア達に銃口を向けた。
しかし、構えようとしたその瞬間横方向から強力な『エア・ハンマー』がその三人に襲いかかり、三人はその周りにいた四・五人と共に船上から吹き飛ばされて遙か海上へと落ちていった。『フライ』を使用して高速で飛行しているウォルフからの攻撃である。
そのままウォルフは上空を旋回しながら後部甲板の空賊達に向けて『エア・ハンマー』を連発した。上空から放ったので受けた空賊は甲板に叩き付けられ失神する。ウォルフとしてはこちらに鉄砲や杖を向けようとしてくるのを順に叩いているのでモグラ叩きをしている気分だ。
やられる方は無防備な上空から好き放題に叩かれるのでたまった物ではないが。

「くそったれ!何だあのガキは!貸せッオレが撃ち落としてやる」
「あ、お頭・・・」
「《エア・ハンマー》!」
「ぐむっ」

素早く鉄砲を構えた髭の船長だったが、ウォルフの『エア・ハンマー』は彼も甲板に叩き付け気絶させた。
船長を失い、更にタニア率いる部隊が後部甲板まで上がってきたのを見た空賊達は艦最後尾の船長室に逃げ込むとバリケードを作って籠城した。

「ありがとう、ウォルフ。こっちはもう良いからマチルダ様の加勢をお願い」
「了解」

タニアについてきた土メイジは一人だけだったので多少手こずるだろうが、バリケードをゴーレムが破るのは時間の問題だと言えた。





 一方のマチルダ隊は下部船室を制圧中である。
メイジが連れた使い魔を用いて偵察をし、ゴーレムを使って慎重に一つずつブロックを制圧していく。散発的な反撃を制し、やがてフネの最下部まで到達した。

「ここはもう誰もいないみたいだね。一応、ぐるっと見ておくか」
「あ、マチルダ様、ご一緒します」

最下層は倉庫になっていたので人の気配はない。それでもマチルダは掴まえた空賊達を縛り上げている他の隊員達を置いて、確認のため中に入った。クリフォードも後に続く。
『ライト』の魔法具で物陰を照らしながら樽などが散乱している倉庫をぐるりと回る。
最奥まで行って何事もない事を確認し、帰ろうと踵を返した瞬間、物陰から空賊がマチルダに斬りかかった。

「あぶない!!」

虚を突かれはしたがマチルダはその気配に反応し、落ち着いてブレイドを出した・・・しかしマチルダが迎撃するより一瞬早くクリフォードの『風』が空賊を吹き飛ばした。

「あ、ありがと」
「うん、油断は禁物ですね。でも、オレが居る限りマチルダ様は安全ですから」

マチルダを守れたのが嬉しく、クリフォードは上気した顔で告げる。
そんなクリフォードに向かってマチルダも嬉しそうに笑顔を返した。

「はい、そこー。まだ戦闘中なんだから見つめ合ってないで。そこに倒れている空賊を縛り上げてからにしましょう」
「な!見つめ合ってなんかねーよ!」「・・・・・」

様子を見に来たウォルフに突っ込まれ、慌てて顔を逸らす二人であった。





 エルビラは直接戦闘には参加せずに護衛艦の船尾楼の上に立ち戦闘の様子を見ていた。火力がありすぎるので下手に参加するとフネが燃えてしまうのだ。
後部船室もほぼ制圧が終わりそうなのを確認し、ゆっくりと振り返る。さっきまで輸送船を追っていた空賊船が二隻、旗艦を助ける為にこちらへと向かってきているのが見えた。仕事をする時間のようだ。

「《ファイヤー・トルネード》」

『フライ』でマストのてっぺんに移動し、迫り来る空賊船に向かってルーンを唱える。火×火×火×風のスクウェアスペルは杖の先から巨大な炎の竜巻を発生させた。
吹き出した炎の螺旋はまわりの空気を巻き込みながら激しく燃えさかり、巨大に成長していった。
二百メイルを越える程にまで大きくなるとゆっくりと鎌首を持ち上げるように立ち上がり、更に巨大になりながら杖を離れてこちらへ向かってくる空賊船へと近づいていった。

 迫り来る巨大な炎を眺めながら空賊船の船長は夢を見ているのだと思いたかった。
船乗りとして長いこと生きてきて嵐や竜巻は最も嫌いなものだ。そしてフネでの火災も大事になる事が多いのでいつも注意している。
世の船乗りの悪夢が全て詰まったような存在が自分たちを巻き込み燃やし尽くそうとしている。
脳がそんな現実を受け入れるには数瞬の間を要した

「船長・・・」
「と・取り舵!い、いや面舵!何でも良い!早く逃げろ!!」
「か、舵効きません!引き寄せられてます!うわあー!」

一隻、また一隻と炎の竜巻は必死に逃げようとする空賊船を巻き込んだ。二隻の空賊船は最初帆を燃やしながら炎の外周部でぐるぐると旋回していたが、直ぐに積んでいる火薬が誘爆し、四散した。
上空遙か彼方に巻き上げられ、炎を纏いながら落下していくかつてフネだったものの残骸を敵、味方とも呆然と見送った。

「なんであんなメイジがサウスゴータなんかでパートやってるのよ・・・」

タニアの率直な感想であった。





 その後立てこもっていた空賊達も直ぐに拘束し、戦闘は終結した。逮捕した空賊は頭を含め全部で三十名ほど。こちらの被害はゼロで作戦は大成功だった。
タニアは上機嫌で戦闘に参加した皆に労いの言葉をかけ、空賊達が船倉に押し込まれる様を見守った。
最初ウォルフが作戦会議で「ガード固めて突っ込めば良いンじゃね?」と提案した時は何を適当な、と思ったものだが採用して良かった。
結局一発も当たりはしなかったが、大砲の直撃に耐えられる程強度を高めても重量がそれ程嵩まないチタニウム合金があればこその作戦ではあった。

 鹵獲した空賊船はマストが折れたり、前部が大破したりしてはいるが修理すればまだ使えそうなのでロサイスまで持ち帰り、軍に引き渡す事にした。
護衛艦も損傷を受けてはいたがウォルフの補強が的確だったのか、予想よりは痛んでいなかった。
しかし、どちらも艤装が壊れたりしていて自力航行は難しかったので、輸送艦二隻で曳航して帰った。

 ロサイスに帰ると盛大に出迎えられ、多くの人々が見守る前で空賊船と空賊達を警備隊に引き渡した。
空賊は捕まると縛り首と決まっている為、通常は徹底的に抵抗するものなので、これほど大量に捕まる事は珍しいそうだ。
ロサイス警備隊による徹底的な取り調べが行われ、空賊の本拠地が判明した。
直ぐに軍が急襲し、本拠に残っていた空賊とフネを叩きつぶし空賊の財産を接収した。空賊行為や奴隷取引、風石の違法採掘など彼らが長年の不法行為によって蓄えてきた財産は莫大で、公爵領が買えそうな程だったという。

 この事件以降王家主導による空賊討伐が積極的に行われるようになった。討伐に否定的な貴族達の主張を吹き飛ばすほど接収した財産は多大だったのだ。
接収した財産からすれば極一部ではあるが、国からガンダーラ商会にも取り分が支払われこれまでの損害を補填する事が出来た。
 
 ガンダーラ商会の名は空賊を退治した商会としてアルビオン中に響き渡った。
直接的な妨害工作を受けなくなった事も大きいが、取引を開始する時に話をしやすくなったのが何よりありがたかった。




  
 事件から数週間後ラ・ロシェールの酒場、その薄暗い地下の一室で二人の男が向き合っていた。
一人は空賊らしき体格のいい男。一人は頭からすっぽりとフードを被って正体を隠そうとしているが、数週間前に髭の空賊にガンダーラ商会を襲うように依頼した男だ。

「何の話かと思ったらそんな事か。髭のところが壊滅したばっかりだろう。あんな所に手を出すのはゴメンだぜ」
「勇猛と言われるアルビオンの空賊が随分と臆病になったものだな」
「計算高いと言って欲しいね。それにあんたらのせいで最近軍がやたらと張り切っちまってね、今アルビオンで大っぴらに動こうって言う空賊は居ないだろう。俺らも暫くロマリアにでも出稼ぎに行こうと思っているくらいだ」

フードの男が悔しげに呻る。ガンダーラ商会襲撃の依頼はすげなく断られた。
必死に思考を巡らすが、目の前の男を動かす方法は思いつかない。

「実はな、そんなあんたに手紙を預かってきているんだ」
「手紙?」

目の前の男がそう言い、懐から手紙を取り出した。
思わず聞き返し、呆然と手紙を受け取った。初めて会うこの男が何故自分宛の手紙を持っているのか。
訝しみながらもその手紙の封を切る。でてきた紙に目を通し、凍り付いた。

" これは警告です。
 今後再び当商会に対して不法行為を行った場合、全力で報復します事をご承知下さい。
                  ガンダーラ商会商会長 タニア・エインズワース "

ガタガタと膝が震え出す。相手は勇猛と言われるアルビオンの空賊を独力で三隻も壊滅したのだ。

「ラ・ロシェールの酒場の地下で人と会うことになったら渡してくれって頼まれたが、あのお姉ちゃんの読み通りだったみたいだな」
「おおお、お前、ここに来るまでつけられてはいないだろうな!」
「さあ?人間にはつけられてはいないと思うが、ずっと空に鷹がいるのは気になったな。ちなみにあのお姉ちゃんの使い魔は鷹らしいが」

真っ青になって思わず辺りを窺う。ばれたらあんたも縛り首だぜ、という髭の空賊の言葉が思い出された。

「まあ、あのお姉ちゃんも大した物だがな・・・あんた知らないようだから教えてやる。世の中には絶対に敵に回しちゃいけない人間ってのがいるんだ。オレはそんな人間を二人知っている」
「くっ・・・向こうにそんな人間がついてるって言うのか!」
「"業火"・・・罪を犯した者を全て焼き尽くし、食らい尽くす。そんな炎にわざわざ向かっていく事は無い。知らんぷりをしてれば関わらずに生きていけるんだ、あんたも余計な事はもう考えない方が良いぜ」

空賊らしきその男は踵を返し、それ以上何も言わずに出て行く。
後にはフードの男が一人、残されるだけだった。






幕間2   とあるメイドの一日



 わたしの一日は夜明けと共に始まります。
メイドをしている母親と一緒に起きて支度を調え、朝食の準備のために水を汲みます。水汲みは子供の仕事です。わたしは水メイジですのでこんなのはちょちょいと魔法でやっちゃいます。
それから食堂の配膳など朝食の準備を手伝い、頃合いを見て二階にあるウォルフ様の部屋へ行って起床を促します。
寝ているウォルフ様を起こすのはとても楽しいのですが、ここの所ウォルフ様は先に起きていて、ブツブツと呟きながらメモに走り書きをしている事が多いです。今日も何かブツブツ言っていますが、ヘキサメチレンジイソシアネートって何なんでしょうか。また何か知らない物質名が増えているみたいです。何でこんな頭の悪い名前をつけるのか分かりません。おかげでいくら覚えても覚えきれ無いです。

「お早うございます、ウォルフ様」
「お早う、サラ。今日も午後に実験しようと思うからこれとこれとこれを用意しといてくれ」
「かしこまりました。朝食の準備が出来ています。支度がお済みでしたら食堂へお越し下さい」
「ん?どうしたの、何かメイドみたいじゃん」
「わたしは元々メイドです。今まではちょっと馴れ合いすぎました。今後はビシビシ行きますからよろしくお願いします」
「お、おう、じゃあこれ洗濯物・・・」

 ウォルフ様から洗濯物を受け取り、使用済みのシーツ等と一緒に洗濯室へと持ち帰ります。階段は気をつけないと転ぶので荷物を持っている時は『レビテーション』を使っちゃいます。
洗濯はお母さん達本職のメイドがしますが、少し前にウォルフ様が洗濯機というのを開発してから凄く楽になったそうです。
洗濯機は穴の開いた大きな鍋を横に倒したような構造をしていてそこに洗濯物と水と洗剤を入れると「せんたくん」がぐるぐると回転させて洗ってくれるという物です。脱水をしている時は凄い速さで洗濯槽が回転していますが、変速機というものの試作品を流用したそうです。

 せんたくんはウォルフ様が作ったガーゴイルで土の魔力を動力としています。
丸い顔に微妙な笑顔、何故か物干し竿を模した角を生やしていてあまりセンスの良いデザインではありません。ウォルフ様曰く、キモ可愛いと言うのだそうですがキモいだけのような気がします。
すすぎや脱水、更には洗濯物干しまで全部せんたくんがやってくれ、とても楽になったのでせんたくんはメイドさん達に人気です。何せ洗濯物を入れて蓋をしてせんたくんに頼めば洗濯が終わっちゃうのですから。何と最近ではあのデザインがいいと言う人まで出てきました。
これだけ人気なのですから、デザインをもう少し可愛くして売り出したらどうですかとウォルフ様に進言したこともあるのですが、売り出す気はないそうです。コスト的にメイドを雇った方が安くなるし、メイドの仕事を直接的に奪うような物は良くないとのことです。あくまで試作品として作ったとのことです。
せんたくんが出来て以来メイドの仕事に余裕が出来たのでお掃除にかける時間が多くなり、お屋敷はいつも隅々までぴかぴかです。

 御一家の朝食中、メイドは給仕していますのでわたしはお母さんが帰ってくるのをキッチンで待ちます。他の使用人達は先に食事を摂りますからその配膳の手伝いや給仕などをしてすごします。
朝食はメイドだけで食べることになりますので御一家や御近所などの噂話に花が咲きます。わたしが思うにニコラス様やクリフォード様はもう少し行動に注意を払った方が良いと思います。メイドは見ていないようでも見ている物です。特にクリフォード様!メイドのスカートの中を覗こうとしているなんて言われてますよ!
朝食を食べ終わるとウォルフ様に言われた実験器具などを準備して、商館に出勤します。以前はお皿洗いの手伝いをしていましたが、寺子屋が出来てからは時間を取れなくなりました。わたしは子供ですが、水メイジですので結構皆さんに頼りにされていたのですが。



「では次の問題。三角形ABCにおいて、a=√7、b=2、c=1のとき、∠Aの大きさを求めよ。これは簡単ですね、余弦定理を用いればすぐに答えが出ます。では、トムさん」
「はい!a^2 = b^2 + c^2-2bccosAより、cosA=-1/2。よって∠A=120°です!」
「はいよく出来ました。皆さんも分からない人は居ませんね?では次の問題です」

 午前中は寺子屋で数学などを教えます。わたしが教えるのは高学年と中学年でクラス分けは年齢だけではなく理解度も勘案して決めています。
高学年は十一歳から十三歳までが在籍していて、リナとラウラもこのクラスです。中学年は九歳から十一歳、低学年はそれ以下となっています。
低学年はカルロさん達が時間の空いた時に教えてくれていますし、読み書きについては専任の教師を雇っています。
授業は全て無償で行っていますので多くの子供達が集まるようになりました。最も中学年以上にはテストがあるので誰でも入れるわけではありませんが。
わたしの授業は最初の頃はぎくしゃくしていたのですが、最近は人に教えることにも慣れてきたのでバンバン進めます。
宿題が多いと文句を言われることが多いですが、ウォルフ様がわたしに出すのはもっと多かったので聞く耳は持ちません。

 昼食はド・モルガン邸に帰ってウォルフ様と一緒に食べます。そうしないとあの人作業に熱中していて食べることを忘れてしまうことがあるので要注意です。

「ほら、ウォルフ様食べるときくらいその紙置いて下さい。お行儀が悪いです」
「もうちょっと、もうちょっとだけだから」

この人本当に貴族なのだろうかと思うことがよくあります。わたししかいない時はブリミル様にお祈りもしないし、今みたいに何かしながら食べるという行儀の悪いことも平気でします。
将来魔法学院に入学した時に苦労したりしないかと心配です。


 午後からは朝に言っていた実験をします。朝の内に用意しておいた実験器具等を使って行いますが、今日はわたしも手伝いをします。
今日の実験の目的はアクロレインとそのアクロレインからアクリル酸を生成する上での効率の良い触媒を開発する事だそうです。
ウォルフ様が反応させながら『練金』で触媒の成分や比率を次々に変えていき、生成物の成分を『ディテクトマジック』で調べながら最も効率の良い触媒を探します。
触媒に試してみる物質も多数ありますし、反応させる温度も変えながら実験を行いますのでもの凄く時間がかかります。ウォルフ様は魔法を使わないでやるよりはもの凄く早いと言っていますが、魔法も使えずにこんな馬鹿なことをする人は居ないと思います。
実験の結果プロピレンからアクロレインを生成するのにはモリブデン、コバルト、ビスマスなどの複合酸化物触媒、アクロレインからアクリル酸を生成するのにはバナジウム、モリブデンなどからなる多成分系触媒が採用されました。口で言うのは簡単ですがなんのこっちゃっていうかんじです。

「ふう、じゃあ今日はここまでだな。サラ、お疲れさん」
「はい、お疲れ様でした。今日の実験は何になるんですか?」
「んー、今は塗料目的でやっているけど、将来的には繊維とか接着剤とか高性能なオムツとか作るのにもつながるかな」
「オムツですか」
「おう、高分子で吸水しておしっこが全然漏れないやつが作れるようになるかも」

随分とまた変な物を作ろうとしますね。・・・ハッ!将来・オムツ→!!

「ウォルフ様・・・」
「んー?」
「あ、赤ちゃんは何人欲しいですか?」
「え゛・・・」

結局答えてはくれませんでしたが、将来生まれてくる赤ちゃんのために今からあんなに頑張って実験するなんてウォルフ様は結構優しいです。
何か違う違うと言っていますが、照れているんですね、分かります。


 夕食が終わるとわたしとウォルフ様との二人の時間になります。大事なことですから、もう一度言います。二人の時間です。
わたしの勉強を見てくれたり、寺子屋の授業の進め方についてアドバイスをくれたり、二人で静かに本を読んだりと過ごし方は色々です。
今日も勉強を見て貰った後はソファーで二人並んで本を読んでいます。ウォルフ様は分厚い魔法道具の専門書を『レビテーション』で浮かせて読んでいます。こんな時くらい杖を手放せばいいのに。
わたしが今読んでいるのは"共産党宣言"です。もう読むのはこれで三度目になります。
この本はウォルフ様が書いた物で、ブルジョア的所有を廃止し、人間が人間らしく生きる社会を創るための道筋を示した本です。
「プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」という最後の言葉には心が激しく震えました。
うっとりと本を眺めていても世界は変わりませんからウォルフ様に相談してみました。

「えっ?共産主義革命するの?今から?」
「そうですよ、今こそ我々プロレタリアは立ち上がらなくてはいけないんです!」
「いや、立ち上がらなくて良いから。座って座って」
「何言ってるんですか、ウォルフ様が書いた本じゃないですか。万国のプロレタリアよ、立ち上がれって」
「いやそれ全然適当に書いたやつだし内容だっていい加減なんだから。ああもう、何でそんなの読んでるんだよ」
「ウォルフ様・・・資本家に懐柔されたんじゃ・・・」
「だからなんでそうなる」
「犬!ウォルフ様は資本家の犬よ!」
「えーと・・・」
「たとえウォルフ様が妨害しようとも、我々は最終的な勝利を掴むまで決して立ち止まりはしない!プロレタリア独裁!!」
「落ち着け!!」

はっ・・・わたしは一体何を口走っていたんでしょう。ウォルフ様に無理矢理椅子に座らされて我に返りました。それにしてもウォルフ様に犬って言うなんて・・・。

 久しぶりにウォルフ様に説教されました。
ウォルフ様によると"共産党宣言"はノリでアジっぽく書いてみた物なのだそうで、本気にしたらダメらしいです。アジって何でしょう。
確かに高い理想を掲げているので魅力的に見えるかも知れないけど、実現するのは無理とのことです。平民全員が指導者になれるくらいの見識を持てるようになれば可能かもと言われましたが、さすがにそれは難しそうだと分かります。ショックです。
いつも全てを疑って正しい答を導けと言っているのに、こんな穴だらけの理論に簡単に扇動されるとは何事だと怒られてしまいました。そうは言ってもわたしはウォルフ様のメイドなんだからウォルフ様のことを疑うのは難しいです。そんな適当な本をそこらに置いておかないで欲しいです。
さっきのわたしの態度は思春期にありがちなアカカブレという症状だそうで、すぐに直る流行病みたいなものだから気にしなくて良いと言って下さいました。

 "共産党宣言"は危険なのでもう読むのをやめにして、ラウラから借りている恋愛小説の続きを読む事にしました。
この本は落ちぶれた伯爵家の元令嬢とその元使用人の息子との恋の話で、ちょっと読んでいるとどきどきするのです。元婚約者とか幼なじみだとか色々出てきて大変なことになっていますが、本当にこの二人は幸せになれるのでしょうか。

「はふぅ・・・ウォルフ様、恋って何なんでしょうね・・・」
「好きと認識した相手に対した時に脳内物質が過剰に分泌されてラリっている状態だな。相手の事を考えただけでも分泌されるみたいだ」

良い所まで読んで本を閉じてうっとりしていると、ムードも何も無い返事が来ます。
ウォルフ様にロマンチックな返事を期待したわけではありませんが、もう少し考えて返事をして欲しいです。

「ラリってるって・・・う、確かにラリってる?」
「好きな相手を思うと胸はどきどき、目は潤んで頬は赤くなる。現象としてはうちの親父が酒飲んでうぃっくってなってる時と一緒だ。あれも酒によって脳内物質が過剰に分泌している状態なわけだから」
「あんなのと一緒にしないで下さい!じゃあ、じゃあ愛はどうなんですか?愛もラリってるだけなんですか?」
「愛ってのは憎しみと一緒で共感する気持ちの事だな。好きな相手が笑っているだけで自分も幸せな気持ちを共有できるっていう事だ。憎しみは逆に嫌いな相手が笑っているだけでむかついてくる」
「それだけで愛してるって言うんですか?そんな単純な話なんですか?小説の中じゃあ、愛と憎しみで大変な事になっているのに」
「実際には愛に恋に独占欲とか性欲とか打算とかの諸々の欲が絡んでくるから大変なんだろう。まあ、恋も愛もそれだけってのは困るけど、大事な事だと思うよ」

何だか夢が、ロマンがありません。正しいのかも知れませんが、ウォルフ様はまだ七歳でこんなに枯れていて将来は大丈夫なのでしょうか。

「ウォルフ様」
「ん?」
「わたしが笑っていたら嬉しいですか?」
「当たり前だろ」
「じゃあ、恋はラリってるってことでも良いです」
「ん、もう少し大人になったら、サラも恋をするようになるよ。その時は盛大にラリれ」
「分かりました。目一杯ラリラリします。ウォルフ様もちゃんとラリって下さいね?」
「おう、まかせとけ」

ウォルフ様は笑って私の頭を撫でてくれました。
子供扱いされているようで少し恥ずかしいですが、撫でられるのは好きです。

 本を読んでいる内に就寝時間になりますので、ウォルフ様に挨拶をして自室に下がります。これでわたしの一日は終わりです。
明日は商会の監査をする日ですから忙しくなります。
八歳にしては結構ハードな日々なんじゃないかと思いますが、普通の八歳の子がどういう生活をしているのかは知らないし、毎日充実しているので気になりません。少なくともウォルフ様よりはゆとりのある生活を送っていますし。

 願わくばこの穏やかな日々がこれからも続きますことを・・・おやすみなさい。






幕間3   ガリア



 人口千五百万人を誇るハルケギニア一の大国・ガリア。そのほぼ中心に位置する首都リュティス。その政府官庁が集中する一角にある産業省の前にレアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルスは立っていた。

「遂に、ここに、来た。リュティスよ、わたしは帰ってきた」

レアンドロは二十数年前にもここに立っていた。
その年そこそこ優秀な成績で魔法学院を卒業し、大貴族の嫡男として将来政府中枢で活躍することを期待され、また自身も十分にその期待に応えるつもりで産業省の入省試験を受けるつもりだったのだ。
学院での成績、ガリアでも勢力と長い歴史を誇るラ・クルスの嫡男という地位、父フアン・フランシスコ・デ・ラ・クルスのメイジとしての名声などから名前さえ書けば受かる、と言われたその試験をレアンドロは落ちた。
緊張で前夜から激しい下痢と腹痛を起こし、試験会場へ向かう途中気絶して倒れた。
名前を書けば受かる試験で名前を書けなかったのだ。
当時ガリア王国軍両用艦隊総司令としてリュティスの司令部に勤めていたフアンはそんな息子を盛大な溜息で出迎えた。領地の経営を勉強しろとラ・クルス領に戻され、それ以来レアンドロはリュティス来る事は滅多になく、特にこの産業省の前に来たことは一度も無かった。

 傷心を抱いて故郷に帰ったのであるが、レアンドロを廃嫡して五歳も年下の妹であるエルビラを時期領主に据えるのでは、との噂が立ち始めたのはこの頃からだ。
それからの日々は辛いことが多かった。領地の経営で実績を上げようと頑張っても部下からは軽んじられ、領民には舐められ中々思うような成果を得ることは出来なかった。
そんな日々は妻セシリータと結婚してからも変わらず、彼女に中々子供が出来なかったこともあってますます酷くなったようだった。
変わったのは長女のティティアナが生まれてからだ。
フアンの態度が少し柔らかくなり、ウォルフ達が毎年ヤカに来るようになってからは重要な仕事をまかせられることも多くなった。
家臣達もレアンドロのことを軽んじる様なことは無くなり、次期当主として尊重してくれるようになった。
更にフアンから領内の経営をまかされるとウォルフ達と組んで産業を振興し、僅か一年で経済発展させることに成功した。
その成果を評価されて遂に因縁の産業省の副大臣に抜擢されたのだ。
レアンドロにとってまさに今が人生の春と言って良かった。

「お早うございます。ラ・クルス様。本日よりあなた様の秘書となりました、ポーラ・ガルシア・マルティネスです。よろしくお願いします」

 庁舎に入るなり待っていた人物に話し掛けられた。レアンドロの秘書だというその人は、ダークブラウンの髪をびしっと纏め瓜実型の形の良い顔に少しつり上がった目、いかにも才女という風にスーツを着こなして書類の束を小脇に抱えていた。

「ああ、よろしく。レアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルスだ。早速庁舎内を案内して貰えるかい?」
「かしこまりました。では、こちらへ」

その切れ長の目と同じようにつり上がった眼鏡をクイっと指で押し上げて答えると、踵を返しそのままレアンドロの前を歩いていく。
簡単に庁舎内を案内し、やがて立派な装飾の施された扉の前に立った。

「こちらがラ・クルス様の執務室になります。お入り下さい」

恭しく扉を開くとレアンドロが入るのを待つ。
そんな秘書の様子に満足して頷くと自身にあてがわれた執務室に入る。そこは十分な広さと格調高い内装を持ち、ガリアの副大臣という地位をレアンドロに実感させた。

「本日のご予定をお伝えします。午前中はこのまま私から業務の内容についてレクチャーを受けていただきます。午後にはシャルル様が登庁なさいまして会議が開かれますのでご参加いただきます。その後は関係業界の重鎮達から面会の希望が多数入ってございますので本日のお帰りは少し遅くなるものと思われます」
「おお、初日から忙しいね。少しってどの位かな、夕食までには帰れるくらい?」
「本日中には、予定を消化できそうですが・・・夕食はこちらで摂っていただく事になると思います」
「・・・成る程、中々ここの仕事はハードそうだね」

各省庁の副大臣は最も激務が要求されると言われているが、どうやらその噂に間違いはないようである。
しかしこれまで不遇を託っていたレアンドロにとって多忙は望む所である。やりたい事があるのに出来る事が無くひたすら本を読んでいた日々とはもうサヨナラだ。
ここならば自分の能力を思うまま発揮できる・・・レアンドロは胸が高鳴るのを自覚した。





 レアンドロがリュティスで働き出して暫く経った頃、同じリュティスのオルレアン公邸の門前で仁王立ちする女が居た。

「遂にここまで来たわ。わたしのサクセス・ストーリーはここから始まるのよ!」

高らかに宣言していたせいで衛兵には不審者を見る目をされてしまったが、直ぐに身分を明かして誤解を解いた。本日からここで住み込みの家庭教師として働くパトリシア・セレスティーナ・ソルデビジャ・ド・バラダである。
王族の子弟の家庭教師などは通常宮廷内の力関係などで決定されるのだが、シャルルが実力主義を言明した為に半分家を飛び出しているようなパトリシアもその試験を受ける事が出来た。
書類審査を難なくパスし、実技審査も主席で通過。一週間に及ぶ実習試験でも担当した教え子の魔法を最も上達させ、文句なしに水系統担当の家庭教師として採用されたのだ。
ウォルフと出会ってから一年。短期の家庭教師を続け、多くの子供に魔法を教えてきたパトリシアの努力が結実したのである。

 王族の家庭教師になると言う事はメイジとしてのキャリアを大きく積み増すと言うことである。実際採用が決まってから久しぶりに帰った実家では全く扱いが変わっていた。
実力はあるくせに気まぐれで勤めが長続きしないパトリシアをさっさと嫁に出そうとしていた父親は「我が家の誉れだ!」などと褒めそやすし、弟妹達も王族にパイプが出来た事を喜んでやたらと愛想が良い。
母親はこれから山のように縁談が持ち込まれるだろうと今リュティスにいる有力貴族の子弟の名を指折り数え、捕らぬ狸の皮算用をしている。
通常パトリシアのような年若いメイジが王族の家庭教師などに選ばれることは無いので、家族が舞い上がってしまうのも無理はないが、本人としては冷静に事態を受け止めている。
まずはきちんとシャルロットに魔法を教え、キャリアを積みゆくゆくは魔法学院の教師に・・・
ここ一年の教師生活で魔法を教える事に喜びを見い出していたパトリシアは、自身の将来の為に今回の応募に応じたのだ。

 シャルロットの教育は四人でチームを組んで行うことになっている。
シャルロットの系統である風のメイジが教師団長を務め、火・土・水のメイジがそれぞれ一人ずつ在籍している。全員がスクウェアメイジだ。
パトリシア以外は皆年配の貴族でリュティスにある自分の屋敷から通って来ており、爵位を持っていないのもパトリシア一人だけだ。
シャルロット本人は一年ほど前から魔法を習い始めていて、最近系統魔法も成功するようになったのでそれぞれの系統の専門家を集め、学ばせるつもりだ。
自分の系統以外は中々出来はしないだろうが、早い内から知っておくことが大事というスタンスである。

 パトリシアがオルレアン公邸に入居して一週間、いよいよシャルロットの初授業の日がやってきた。  
 
「お久しぶりにございます、シャルロット様。本日より水系統魔法を教えさせていただくパトリシア・セレスティーナ・ソルデビジャ・ド・バラダでございます」
「?・・・どこかで会った?」

何となく見覚えのある顔にシャルロットは記憶を探る。

「はい、一年ほど前、ラ・クルス領でウォルフ達に魔法を教えておりました」
「・・・!!父様の愛人候補」
「ぐっ・・・その事はウォルフの冗談でしたのでお忘れ下さいますよう」

ポンと手を叩いて余計な事まで思い出したシャルロットにお願いする。他の人に聞かれたらあらぬ誤解を受けてしまいそうだ。

「冗談よ。そう、ウォルフにも教えていたの」
「はい、まあ、彼には教えていたと言うより魔法を見せていただけですが」
「・・・どう違うの?」
「彼は見ただけで魔法を理解しますので、特に私があれこれと教える必要はありませんでした。教えると言うよりは観察されるというか・・・彼が出来ない魔法は単に必要な精神力が足りないだけでどうしようもないという感じでしたので」
「・・・・・・」

パトリシアの言葉を受けてシャルロットが考え込む。
その様子をパトリシアは注意深く観察していた。事前の情報通り思慮深い性格のようだ。

「どうして、ウォルフはそんな事が出来るの?」
「それは分かりません。ウォルフだから、としか言いようのないことでしょう。ただ、これだけは言えますが、彼は魔法を論理的に理解しようとしていました」

またシャルロットは考え込んだ。パトリシアはちょっとまだシャルロットには難しい話かなと思ったので話を切り上げ、授業を開始することにした。

「さあ、それでは授業を開始しましょう。本日は水魔法の基礎の基礎の基礎、『コンデンセイション』を学びましょう」

 パトリシアは魔法を教えるに先立って物質の三相から教え始めた。
物質には固体・液体・気体の三相があり、水も同様に氷・水・水蒸気の三相をとる。
目に見えている液体の水だけが存在する水の全てではなく、空気の中にもそして土や岩石の中にも水は含まれているのだ。
コンロでお湯を沸かす時に沸騰する事を例にとり、『コンデンセイション』はその逆に空気中の水蒸気から液体の水を取り出す魔法であることを説明する。
上達すれば土の中の水分や岩石の中の結晶水からも水を得ることが出来るようになるのだが、まずは空気中から取り出せるように教える。

「《凝縮》!」

 十分にイメージを作ったシャルロットがルーンを唱えると十サント程の水球が宙に出現した。
まだ六歳に過ぎない風メイジとすれば上出来な結果である。しかし、本人はどうやら不満そうだ。

「良くできましたね、初めてにしては上出来です」
「ウォルフはどうだったの?」
「彼は私と会う前から水魔法を使えていましたし、シャルロット様は初めてですので比べることではないです」

シャルロットの魔法はそのイメージから魔力の流れまで全く問題がないもので、今後イメージが固まるに連れて威力は増すものと思われた。

「パトリシア先生、私はウォルフよりも魔法がうまくなりたい。できる?」
「ウ、ウォルフよりですか?」

唐突に言われて返事に詰まる。シャルロットが才能に恵まれているというのは疑い無いとは思うが、あのウォルフに勝てるようになるかというと全く判断が出来ない。
目の前のポヤッとした少女が、現時点でさえ非常識な魔法を行使するウォルフに追いつくにはどれほど努力すればいいのだろう。

「それは・・・シャルロット様の努力次第でしょう。ただ、これだけは言っておきますが、現時点での差は大きいです。焦らず少しずつ近づくことが大事でしょう」
「うん、がんばる」

むん、とシャルロットが気合いを入れる。一体何がこの少女をその気にさせているのだろうと不思議に思う。

「では、私もお手伝いします。シャルロット様は風の次に水魔法に適正がありますから、まずはこれで彼を上回るよう努力しましょう」
「うん。ウォルフは水魔法にがてなの?」
「そうですね。彼は火メイジですのでやはり水は苦手のようでした。まあ、水もそこらのドットメイジよりは強力な魔法を使っていましたが、少ない水の魔力を効率よく運用して何とかしている感じでしたね」
「効率よく運用・・・」
「はい。全く同じ精神力が込められた魔法でも威力まで同じというわけではありません。如何に少ない魔力で最大の効果を得るか。彼はその事を常に気にかけているようでした」
「先生、私にもそのやり方を教えて?」
「もちろん。ポイントは如何に正しくイメージを創れるか、ということです」

ウォルフのことに拘るのは気になるが、シャルロットはこれまでパトリシアが教えてきた生徒の中で最もやる気がある生徒であることは疑いない事のようだった。
シャルロットにとっても魔法を論理的に解説してくれるパトリシアはとても相性が良く、四人いる教師の中で最もその授業を楽しみにするようになった。




 シャルロットとパトリシアが気の合う師弟としてほぼ毎日魔法の練習に明け暮れるようになった頃、一方の産業省では仕事に慣れたレアンドロが精力的に動き回っていた。
この日はオルレアン公や産業省の幹部の前でガリアにおける産業の振興について今後の方針をプレゼンしていた。

「なるほど、魔法以外からのアプローチも大事だと君は言うんだな」
「はい、我がガリアでは魔法の研究が盛んですが、それ以外の技術と組み合わせることによりその効果をより高めることが出来ます」
「ふうむ、魔法技術をより高める為の非魔法技術の研究か。それならば頭の固い貴族連中にも通せそうではあるな」
「ゲルマニアがあそこまで急激に発展した原因が非魔法技術であることは明らかです。連中は魔法まで技術の一つと考えているようですが、我々が採るべき道はそこまで技術に偏ることなく魔法の効果を最大限に発揮させる為の技術を開発するべきです」
「その非魔法技術を高めた成果がラ・クルスの紙か。確かにあれは随分と品質が向上したみたいだな。今後羊皮紙が不要になるのではないかとまで言う者がおったぞ」
「はい、あれは魔法を使わずに製造していたものに『固定化』の魔法をかけて品質を保持していましたが、製造工程を改善し、最初に魔法を少し使用することにより『固定化』が必要ないほどの品質を得るようになりました」
「確かに、非魔法技術だけで製造しようとしているゲルマニアより遙かに優れた品質を得ているのが痛快だな。いいだろう、非魔法技術研究チームを発足させよう。必要な人員は君が手配してくれ、当然君がリーダーだ」
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう、頑張ります」

 プレゼンの反応は上々で、オルレアン公からは予想していたよりも多くの予算が掲示され、幹部達もそれに異議を唱える事は無かった。

 レアンドロが見た所、ガリアの魔法研究はハルケギニアで最も進んでいるが、ここ最近の研究は実用から遠く離れているように見えた。
より優雅な所作をするガーゴイルだとか自動で毎日美しい鎧の装飾が変更されるゴーレムなど、貴族の好みだけを満足させる研究が大手を振っていて実際に役に立つような研究が疎かになっているように感じられるのだ。
国の中枢から外れ、故郷で冷や飯を食っていたおかげでレアンドロは今のガリアの問題点を客観的に分析することが出来た。
貴族の庭でガーゴイルがどんなに優雅にお茶を入れようともガリアの国力が上がることはない。このままではいずれゲルマニアに圧倒されてしまうのではないかという懸念をラ・クルスにいる頃から常に持っていた。
オルレアン公はまだそれ程の懸念を持ってはいないようではあるが貴族の在り方などに対しては深く憂慮していて、ガリアには改革が必要だという見解をレアンドロと共有しているのだ。

 その改革の第一歩として魔法に傾倒しすぎている技術開発を是正するという事をレアンドロは選んだのであった。


「えーと、予算がこれだけ付いたから結構大きい組織を立ち上げても大丈夫そうだな・・・」
「はい、百人くらいでスタート出来るのではないでしょうか」
「うちの省からは十人ほど参加させられるかな。後は他の所から引っ張ってこなければならないんだけど」
「半分ほどは嘱託という形で民間からも募集をしましょう。良い人材が発掘できるかも知れないですし、全部省庁からの出向だと予算を圧迫します」
「うん、各職人ギルドにも声をかけてみてくれ。私も良い人材がいないか、知り合いの貴族に声をかけてみよう」

 その後自分のセクションに戻ってきて部下達と新たに立ち上げる組織について話し合う。
大まかな方針は決まったが非魔法技術を研究すると言っても対象が広すぎるので絞るのが大変だ。布や紙、船や馬車の生産など産業省が従来担当してきたものだけではなく農業や林業など技術が応用できそうなものは全て研究の対象なのだ。
そんな広い対象の詳しいことがトップダウンで決められるわけもないので、各分野について詳しい人材に検討させるという方針で話を進める。

「あとガリアで一番非魔法技術の研究が進んでいると言えば軍ですね。こちらはオルレアン公ルートで協力を要請した方が良いです」
「どんな人材が良いか詳しく纏めて依頼しよう。鉱山省や林野庁、農業庁、水産庁などからも人を出して貰うとして、人選が大変そうだな。明日からも忙しくなるぞー!」

そう、大変そうに言うレアンドロの顔はとても楽しそうなものだった。



 スタッフと一丸になって立ち上げたこれらの研究は最初こそあまり大きな成果を上げることはなかったが、その後ガリアの産業に大きな変化を与えることになる。
彼が導入した手法は、魔法の効率的な導入・メイジが嫌がるような分野での魔法研究・商品の規格化や大量生産などであるが、折しも貿易が盛んになって来たこととも重なって徐々に成果を上げ、空前の好景気をガリアにもたらした。
その変化はそれを推進したオルレアン公の功績とされ、彼の王子としての名声をいよいよ揺るぎない物にしていった。王領に先駆けて最新技術を試験投入しているオルレアン公爵領は発展し、多くの商人や職人が集まり第二の首都とまで言われる程になっている。

 レアンドロも成果を上げる度に人々から賞賛と尊敬を受けることにはもう慣れた。
自身を信頼して権限を与えてくれる上司に信頼に必ず応えてくれる優秀な部下。やりがいのある仕事とそれを実現させるに十分な設備と予算。誰もが羨むような環境でレアンドロはひたすら仕事に打ち込んだ。
非常に忙しく、あまり妻子との時間を取れないことは悩みではあったが、それに優る満足がそこにはあった。
オルレアン公の懐刀と目され、事あるごとに取り入ろうとする手合いとの付き合いは大変だが優越感を感じてもいる。

 彼は自身の未来について、些かも陰りを感じる事は無かった。







幕間4   ライバル



「勝負だ!クリフォード・マイケル・ライエ・ド・モルガン!今日こそこのギルバート・キース・ハーディ・オブ・コクウォルズがお前を倒す!」
「また?なんか毎回同じ事してる感じだし、もうこんな事やめない?」
「なめるな!今までの僕とは違うんだ!」

 カール邸の中庭で自習時間になったとたん同級のギルバートから決闘を申し込まれた。実に今月だけでも三回目である。ギルバートは抜けるように白い肌と紅い唇が印象的な美少年で、クリフォードよりも色の薄い金髪を肩まで伸ばしている。
二月程前から何だかんだと言っては挑んでくるが、毎回全力も出さずに返り討ちにしている。最初の頃は楽しかったが今となっては特に得る物もないし、はっきり言って面倒くさい相手だった。

「いくぞ!構えろ!《エア・ハンマー》!」

中々の威力の魔法が飛んでくるが、あまり大きくはないので軽くステップして躱す。クリフォードの前髪がふわりと揺れた。

(それじゃあんまり意味は無いんだよなあ。もっと意識して高圧の空気を作らなきゃ)

『エア・ハンマー』は"風で大きなハンマーを作って相手を吹き飛ばす魔法"だと一般では教えているが、ウォルフの教えは"高圧の空気を作ってその塊を相手にぶつけろ"と言う物だった。
最初の頃は気圧という物が何を意味するのか分からなかったが、繰り返し教えて貰って今はもう理解している。何もない所に風があるのではなく、空気という物が存在し、その圧力の差こそが風なのだと言うことを。
それを理解してからクリフォードは風の魔法を使うのが飛躍的にうまくなり、同級の"風"のクラスでは誰も敵う者がいなくなってしまった。
しかしギルバート認められないようで、チクチクと絡んでくるようになり、先日からはついに決闘を申し込まれる程になってしまったのだ。

「ふう、しょうがねーな、《エア・ハンマー》」
「うわあ!」

 軽く空気の塊を当てて圧力を開放する。それだけでギルバートは吹き飛ばされ、ごろごろと転がっていった。後は『レビテーション』で落ちていた杖を拾って勝負有りである。正直どこが今までと違うんだと説教したくなる。
ギルバートは何度も地面を叩いて悔しがっているが、クリフォードとしては現状では全く勝負にならないというのが感想である。

「ホラ、杖だよ。そんなに痛くはなかっただろ?」
「僕は、僕はいつか必ずお前を倒す・・・」
「よし、じゃあ、こういうのはどう?一年間お互いに修行をして、一年後の今日再び対決するんだ!そこで雌雄を決しよう」
「・・・その申し出、しかと受けた。僕は絶対に負けない!」

 杖を返しながら何とか都合の良い方へ誘導するのに成功した。毎日のように来られても迷惑なのだ。
彼の家も男爵家ではあるがシティオブサウスゴータのすぐそばに領地があり市会議員も務めているので、領地を持たず一介の竜騎士にすぎないド・モルガン家のことは格下と思っていたらしく、クリフォードに魔法で負けていることが我慢ならないらしい。
ギルバートの母は既に亡く、父は出世のことにしか興味がないのでギルバートには早くスクウェアになれとしか言わず(自身はラインメイジのくせに)、そんな殺伐とした雰囲気の家庭で必死に魔法を練習して育った自分が、甘やかされて育っているやつには絶対に負けるはずはないという理屈らしい。
その事をくどくどと聞かされた時に面倒くさくてつい「あー、確かに俺は両親に愛されて育っているよ」と答えてしまったのが良くなかったのかも知れないが、とにかくうざかったのが片付いて良かった。

 その日の帰り道、ちょっと上機嫌でセグロッドを走らせているとちょうどガンダーラ商会の商館から帰ろうとしているマチルダとばったり出会った。こちらもセグロッドに乗っている。

「おや、クリフ何か良いことあったのかい?楽しそうじゃないか」
「マチルダ様、今お帰りですか。城まで送っていきましょう」
「別にそんなの良いのに・・・まあいいか。それで何があったの?」

二人で肩を並べて走り出す。心なしかマチルダの頬が赤くなっているように見えた。

「大したことじゃないですよ、ほら、この間言っていたやたらと決闘ふっかけてくるやつに今後は一年に一度って事で納得して貰ったんです」
「ああ、強くないくせに絶対に負けないとか言ってくるってやつか」
「はい、今日も『エア・ハンマー』で軽く吹き飛ばしました。たまになら相手しても良いんですけど、こっちの都合を全くお構いなしに決闘を押しつけてくるからうざいんですよ」
「ふうん・・・クリフも強くなったんだねえ」

チラッとクリフォードを見る。まだまだ少年っぽいが、そういえば少し逞しくなってきた気もする。

「そんなのとの試合じゃクリフも物足りないだろう、どうだい?まだ時間は良いだろう、あたしと一試合やって行きなよ」
「え゛・・・ママママチルダ様とですか?いや、それは・・・」
「クリフもラインになって結構経つし、そろそろあたしとも良い勝負が出来るんじゃないかい?」
「オレがラインって言うならマチルダ様はもうトライアングルじゃないですか!それに剣の方も凄いし・・・」
「・・・なんだい、あんたも付き合ってくれないのかい。最近なんかみんなに避けられている気がするよ」

いやそれは気のせいじゃなくて皆避けてますから!とクリフォードは心の中で叫ぶ。
マチルダが新しい『ブレイド』を覚えて以来、とっても危険な存在になってしまったので皆手合わせするのを敬遠するようになった。その為マチルダはここの所手合わせしてくれる相手に餓えていた。
クリフォードも例に漏れず尻込みをしていたのだが、口を尖らせて下を向くマチルダの姿を見て一瞬で心変わりをした。

「・・・このクリフォード、身命を賭してお相手を務めさせていただきます」
「大仰だね、軽くで良いんだよ軽くで」

 サウスゴータの城の裏庭でマチルダとクリフォードは距離を取って相対した。
覚悟を決めて相手することにしたが、剣鬼モードのマチルダは本気で怖い。マチルダは寸止めすると言っているが、剣鬼モードに入ってしまったらそんなの全然信用出来ない。
クリフォードは先手必勝とばかりに合図の石が落ちると同時に攻撃を仕掛けた。

「《エア・ハンマー》」
 
ギルバートの時とは違いフルパワーで放たれたそれはマチルダに命中し、吹き飛ばすかに見えた。しかしその空気の塊はマチルダに当たる直前で二つに切り裂かれ、緑の髪を揺らして通り過ぎた。

「クックックッ、いいわ、クリフ。あんた、とっても素敵よ」

マチルダが妖しい笑みを浮かべ一歩ずつ近づいてくる。その杖はいつの間にか茶色の『ブレイド』を纏っていた。





「マチルダ様っ!今の下手したら腕ちょん切れてますよ!どこが寸止めなんですか!!」
「クリフだったらあの程度は避けるだろう?ホラホラ、ぼやぼやしてると今度こそちょん切っちゃうかもよ?ひぃーはー!」

 マチルダは瞬間的に間合いを詰めて斬りかかってくると、そのまま全く休ませてくれる隙も見せずに次々に斬撃を打ち込んでくる。その切先は鋭く、クリフォードは受けるだけで精一杯で徐々に押し込まれてしまう。
魔力にはそれ程の差はないと思う。少なくともウォルフやフアンなどを相手にする時のような圧迫感は感じない。
それなのにここまで圧倒されるのはひとえにマチルダの剣士としての才能であろう。とにかく速く、何とか風を読んで躱してはいるがそれでもぎりぎりであちこちにかすり傷をつけられてしまう。
クリフォードはこんなに速く動く土メイジを他に知らない。

「《フライ》!ったく、遠慮無く削ってくれちゃってぇ!怖ええよおおお!」

何度か目の斬撃を何とか躱し、体が入れ替わった隙に『フライ』で一気に距離を取る。

「《エア・カッター》!」
「ひょおおおー!」

クリフォードが着地しながら放った魔法を次々にはたき落としながらマチルダが間合いを詰める。

「うわあ!《フライ》!」
「ちょろちょろと逃げてるんじゃないよ!《クリエイト・ゴーレム》!」

また『フライ』で距離を取ろうとしたのだが、マチルダの作り出したゴーレムに行く手を阻まれた。
そのままジリジリと間合いを詰められ、前門の剣鬼・後門のゴーレムと言った状態でまさに絶体絶命である。
クリフォードだって戦闘術などをフアンやニコラスに教えて貰っているし、風を読めるので普通の子供等とは比べものにならない程素早く動ける。このところ体力も付いてきて体裁きにはちょっと自信があったのだ。
それなのにマチルダは常にその先手先手を取り、躱しきれないような斬撃を放ってくる。
特に誰かに師事していると言うわけでないマチルダが何故これほど剣を使えるのか不思議に思い、一度尋ねたことがあったが、その答えは「どう剣を振ればいいかなんて・・・剣が全て教えてくれる」だった。
そんな何の役にも立たないことをつい思い出しているとマチルダと目があった。

「終わりに・・・しようか!ひぃやーっ!」
「ぬわわわわわ」

マチルダの怒濤の攻撃が始まった。頸動脈・頭・心臓等人体の急所めがけて次々にマチルダの『ブレイド』が襲いかかる。
クリフォードも『ブレイド』を出して攻撃を受け止め、削られながらも必死で耐える。ボクシングで言えばコーナーに追い詰められてKOも時間の問題という感じだが、クリフォードはまだ勝つことを諦めては居なかった。

「ああ、固い、固いよクリフ!こんな立派な男になったなんてあたしは嬉しいよ!」
「うおおおお」

マチルダがこの新しい『ブレイド』を覚えて以来ウォルフ達を除いてほぼ全ての物を斬り倒してきた。いつの間にかクリフォードが同じ『ブレイド』を覚え、マチルダの攻撃に耐えられるようになったことはマチルダにとって嬉しいことだった。
その歓喜を全てクリフォードにぶつけるように攻撃を続けていたのだが、さすがに疲労したのかほんの一瞬攻撃が途切れ、マチルダが息を吐いた。クリフォードはその隙をずっと待っていた。

「《発火》!!」
「きゃあっ!」

至近距離だった間合いでいきなりマチルダの顔のすぐ前に炎を発生させた。マチルダが顔を逸らせ、思わずつきだした右手首を掴む。マチルダがハッと気付いて抵抗するが、構わずグイッと腕を脇に抱え込み杖を持つ手で手刀を打ち込むとマチルダの杖をたたき落とした。

「あ・・・」
「俺の勝ちって事で良いですか?」

マチルダの額に杖を突きつけて宣言する。
これはウォルフに教えて貰った「眼瞼反射」というものの弱点を利用した戦法だ。
人間の体は自身を守る為、火などが急に顔付近に近づいた時思わず目を瞑る。これは大脳を経由せずに中脳で反射的に行われる行動なので人間が制御する事は難しい。このことを聞いて以来、やたらと間合いを詰めてくるマチルダには有効なのではないかと狙っていたのだが、バッチリと嵌った。
空になった手を見つめ呆然としていたマチルダだったが、ふとクリフォードが上半身血まみれになっていることに気付いた。

「ク、クリフ、血、血だらけじゃないか!あああどうしてこんな・・・つつ、杖」

どうしてもこうしてもない物だが、マチルダは慌てて杖を拾うと『ヒーリング』の魔法を唱え始めた。





 出血の割には傷は浅い物ばかりだったが、マチルダやサウスゴータ家の家臣達に傷を治して貰ったり血まみれになってしまった服の着替えを用意して貰ったりしていたら結構遅い時間になってしまった。クリフォードは帰ろうとしたのだがマチルダに引き留められサウスゴータ家の夕食に招待された。
顔を合わせたことはあったがマチルダの両親に友人として正式に食事に招待されたのは初めてだったので最初は随分と緊張したが、マチルダが間に入って色々と気を使ってくれたおかげでリラックスして食事と会話を楽しむ事が出来た。
毎日こんなのを食べているマチルダが何故太らないのか不思議になってしまう豪華な食事を済ませ、マチルダの両親に挨拶をして二人でティールームに移動し紅茶を飲む。少し食休みしたら帰るつもりだ。

「ねえ、クリフ。クリフは将来やりたいこととかあるの?」
「え、いや、さあどうだろう」

お茶を飲みながら何だかマチルダがちょっと可愛い聞き方で聞いてきて、クリフォードの心臓は高鳴ってしまう。

「将来かあ・・・あんまり考えたことがなかったなあ。ちょっと前はウォルフに追いつこうと魔法の練習ばっかしてたし、最近は最近でマチルダ様に追いつこうと魔法の練習ばっかやってるからなあ」
「ふふっ・・・魔法の練習ばっかじゃないか」
「毎日目の前のことをやるので精一杯だよ。マチルダ様は何か考えているの?」
「あたしはね、このサウスゴータの街をもっと良い街にしたいって思っているのさ。もっと豊かで暮らしやすく、みんなが笑顔で過ごせるような、ね」
「うん、マチルダ様らしいや・・・あれ?でもそれだと商会は?」
「その為に商会をやっているのさ。ガリアやゲルマニアで買ってきた物を安く物を売って、反対にこっちから輸出するために仕事を作って、どんどん良い感じになっているよ。ウォルフに乗せられて何となく始めた商売だけど今は凄く楽しいよ」
「いつもマチルダ様は自分より周りに気遣っているからなあ・・・よし!それじゃあ俺は父さんみたいに竜騎士になってマチルダ様とこの街をずっと守るよ!」
「ば、馬鹿あんた何言ってんだい・・・」

クリフォードは何か大切な物を見つけた時のような嬉しそうな笑顔でマチルダに宣言した。
突然ナイトのようなことを言われ、マチルダは赤面して下を向く。マチルダ十四歳、まだまだ結構純情である。





「あーああー。でもまさかクリフに負ける日が来るとはなあ・・・」

見送りに前庭まで一緒に歩きながらマチルダが残念そうにこぼした。並んで歩くとこの年代での二歳の差は結構大きくクリフォードは五サント位背が低い。
やはり自分より年下の子に負けるのは悔しい。もっと『ブレイド』だけに頼らないような戦い方も身につけなくちゃと思う。

「ひでえなあ・・・俺だって成長してるんですよ?」
「うん。手を掴まれた時、意外に力が強くて吃驚したよ」
「マチルダ様。今日俺は初めて勝ちましたけど、これからはどんどん強くなっていつか勝率を五分にして見せますよ!」
「あたしより二歳も年下のくせに生意気なんだよ。ふん、今日はたまたま負けたけどそうそうやられるつもりはないよ」

マチルダは口を尖らせ、軽く睨め付けるように向き直ると手の甲でトンとクリフォードの胸を叩いて強がった。
何気ない仕草ではあるが、クリフォードはやっとマチルダに認められたような気がして嬉しくなる。

「こっちだってもう負けるつもりはないからよろしく!」

マチルダがしたように、トンとマチルダの胸を叩こうとして・・・思いっきり殴られた。

「どこ触るつもりだい!」
「ゲハッ」



[33077] 第二章 1~5
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:22



2-1    初飛行

「か、完成だ!・・・・」

 最後の部品を取り付け、各部のチェックを済ませるとスイッチを入れる。ウォルフ式旋盤一号機は静かな音を立てて回り始めた。
これの一代前の試作四号機でも加工品の必要な精度は出る様になっていたが、今回のものがようやく設計図通りに分解整備・アタッチメント交換が出来る様になり、汎用旋盤と呼ぶ事が出来る様になったので正式な一号機とすることにした。
同時に作っていたウォルフ式フライス盤一号機も既に部品は揃っているので直ぐに完成するだろう。
周りを見回すと薄暗い地下室の中に旋盤の試作機が二台、フライス盤の試作機が二台、バンドソーにグラインダー、ボール盤や形削り盤等、ハンドプレスから鋳造用の砂場まで揃っていてちょっとした工場の様になっている。
全てウォルフと機械工候補達がこの二年間協力して一つずつ作ってきた物だ。

「ふひぃ、ようやく完成しましたね、あたしの旋盤」
「・・・ちょっと待て、これはオレのだ。お前達はお前達でそれぞれ自分のを作れ」
「えー?でもこれってあたしが削り出した部品の方が多いと思いますよ?」

舐めたことを言ってきたのはサラの従姉妹でラウラの妹、リナである。綺麗にして黙っていれば十分に美少女なのだが、今その顔は油で汚れ短く切った髪はろくな手入れもしていないのかボサボサでとても女の子には見えない。
二年前は姉の言ったことを繰り替えすばかりだったのに、随分とふざけたことを言う様になった。

「オレが設計と製図で大変だったからだろうが。とにかくお前達機械工一期訓練生の卒業制作だ。作り方はもう分かったはずだから自分で自分の旋盤を作れ」
「ほーい」「「「はいっ!」」」

元気に返事をした機械工候補は全部で四名。リナにトム、ジム、サムでリナが十三歳でそれ以外は全員一つ上の十四歳、身分上はガンダーラ商会の職業訓練生となっており給金が支給されている。
最初はウォルフが雇用しようと思っていたのだが、渡した手形をタニアが全て使ってしまい懐が寂しくなったので商会に雇わせたのだ。
四人は元気に返事をすると資材倉庫に行って材料を揃えようとしたのだが、ウォルフが慌てて止めた。

「あ、ちょっと待って。今度引っ越しすることになったから、大きい部品を作るのは引っ越し先にして。これから重量物搬送用の馬車を作るから、その部品の製作を頼む」

そう言って設計図の束を渡す。皆早く自分の旋盤を作りたくて不満そうだったが、引っ越しをすれば自分用のブースを持てると聞いてやる気を出した。
これまではド・モルガン家の地下室でずっと作業を行ってきたのだが、さすがに手狭になってきたのと電源の確保が問題になってきたのだ。
工作機械の電源は二百四十ボルトの直流で巨大な電池室を作ってまかなっているが、その発電はほとんどウォルフの魔力に頼っていた。
ボルテージレギュレータも開発したので安定した電圧を得る事は出来るが、電圧が下がってきた時に発電機を『念力』で回しながら旋盤を使っていると手回し旋盤を使っている気になってくる。
当初行う予定だったエルビラの火力を利用した蒸気タービン発電は、住宅地で行うにしては発熱量と騒音が大きすぎる懸念があって製造を見送った。太陽光発電も検討して、太陽電池を試作してみたのだがほぼ全ての工程をウォルフの魔法で行うことになり、量産するのが大変そうなので見送った。
タニアとも相談してサウスゴータ近隣の鍛冶屋などが数軒集まっているチェスターという村の外れにガンダーラ商会の工房を建設し、その傍らに大型の風力発電機を設置することにした。既にサウスゴータの役所から風車設置の許可を得ていて、旋盤が完成次第建築に取りかかる手はずになっている。
そこで馬車の軸受けやグライダーの部品を生産しつつ機械工を段階的に増やしていき、やがて加工貿易の主力工場にするつもりである。

 これまでグライダーの制作を放置して工場の建設を目指してきたのは、オルレアン公との事があった後あまり目立つことはやめようと決めたからである。
ウォルフはこれまで他人から自分がどのように見えているかということに無頓着であった。しかし個人が大きな力を持っていた場合、オルレアン公のようにそれを利用しようとする人間は多いだろうと言うことに気付いたのだ。
ガンダーラ商会開発の商品としてグライダーを売り出し、ウォルフに注目を集めないためである。
グライダーは受注生産にするつもりだが、チェスターの工房では部品だけを生産し、グラスファイバーの本体や組み立てはゲルマニアのボルクリンゲンに工場を造りそこで生産するつもりである。これも新技術への注目を分散させるためだ。
ツェルプストー辺境伯の熱心な勧誘があったことももあり、もうボルクリンゲンでの用地の選定に入っている。辺境伯からは高速で飛行する新型のフネというのを早く見せろとせっつかれているほどだ。

「じゃあ、後はよろしく。オレはカール先生の所に行くから」
「ほい、お任せ下さい」

 今日はウォルフはカールのところで魔法の授業である。もう習うことはあまりないのだが、週に一度の訓練なので顔を出している。
最近ウォルフはずっと気配を察知する訓練を続けていて、その事でカールに助言を貰っている。
気配を察知するとは目を瞑り火のメイジとして周囲の温度を感じ、風のメイジとして空気の流れを感じ、土のメイジとして地面の震動を感じ、水のメイジとして生物に流れる液体を感じるというものだ。
いわば光の代わりに魔力でものを見るという事なのだが、これが中々面白い。
ウォルフは火のメイジなので温度を感じるのはもう大分出来る様になった。目を瞑って歩いても地面や壁、人間の温度差から周囲の状況がわかり問題なく歩ける程だ。
しかしそれ以外の系統はあまり出来ず、今のところ風と土が条件が良ければかろうじて、水は全然といった感じだった。
サラは目を瞑っていても人間が近づいてくればその体内の流れで分かると言っていたのでそれを感じたいと修行中である。
一人輪の外で目を瞑っているとマチルダがやたらと戦闘訓練をしようと誘うのだが、それを断ってひたすらマチルダ達の気配を追っている。

「マチ姉?」
「なんだいウォルフ、また目を瞑って歩いてきたのかい?」

カールの屋敷に入ろうかと言う所で前方から来たマチルダに気付き声を掛けた。
ずっと目は瞑っていたので温度だけでマチルダを見分けられたことになる。

「おお、そうかなと思ったら合ってたよ。結構分かる様になったな」
「ふうん、本当に人の温度で個人が分かるんだ」
「大体の体型とマチ姉はちょっと冷え性だから手と足の温度が少し低い。そう言う特徴に敏感になってくるんだよ」
「うーん、あたしも人が歩いてる振動を感じれば大体の体重が分かるからそんなもんかな?」
「そんなもんだね。オレも土の振動ってやつをもっと感じたいぜ。あ、そうだマチ姉!旋盤が完成したからチェスターの工場建築し始めて欲しいんだけど」
「ああ、やっと出来たのかい。長かったねえ・・・工場ならもう結構出来上がっているけど、完成を急ぐ様に指示を出しておくよ」
「よろしく頼みます。それとタニアは居る?ゲルマニアの工場について話したいことがあるんだけど」
「今週いっぱいはガリアで、来週はゲルマニアだって言っていたよ。アルビオンに来るとしてもその後だね」
「じゃあ、ゲルマニアに会いに行くか、まだ行ったことないし」

タニアはずっと忙しく飛び回っていてサウスゴータまでは中々帰ってこない。各地の拠点に相互通信可能な魔法具を配置し、自身も一台持って常に指示を与えながら各地を回っている。
彼女に会うためにはスケジュールを調べてこちらが合わせる必要があった。

「ああ、そうするといいよ。旋盤が出来たって事はグライダーもすぐに完成するのかい?」
「ああ、そうか、うん、今週中に作っちゃうか。週末試験飛行したいんだけど許可取れるかなあ」
「フネとして登録しちゃえばいいみたいだよ。フネの形に規制や大きさの制限はなかったから。ゲルマニアに行くならグライダーを持って行ってついでに売り込んで来なよ」
「うーん、いきなり飛んでいくと吃驚されそうだから・・・商会のフネに積んでいくか」
「じゃあ、積み荷を調整しておくよ。それまでにグライダーを完成させてロサイスまで持ってきておくれ」

 もう既にグライダーは全て設計が終わっている。リナ達に指示を出すだけで全ての部品が揃い、後は組み立てるだけで完成するだろう。
随分と長いことかかってしまった。これまでの事を思い出し感慨に耽るが、これはまだ世界周航への第一歩でしかないのだ。
マチルダと商会のことについて色々話しているとサラとクリフォードもやってきたので授業を受け、そのまま帰りにド・モルガン邸に移動し完成した旋盤をお披露目することになった。

「へぇー、本当に鉄を削っているねぇ。初めて見たよ」
「鉄ってあんなに簡単に削れる物なんだ」

マチルダ達を引き連れて帰ってきた地下室ではまだウォルフに作る様に言われた部品を製作中だった。
旋盤に取り付けた材料が回転し、リナが刃物台に付いた取っ手をくるくる回すと刃物が移動してシュルシュルと音を立てて削れていく。
大根の皮を剥くかの様に削れていくので鉄は固い物という固定観念を持って見ると衝撃的な光景だった。

「簡単に削れる様にするために今まで苦労してきた訳なんだけど・・・まあ、こんな感じで正確な寸法で削れるからこれからは色んな物が作れるよ」
「正確なって、どれくらいの精度で作れるんだい?」
「オレが削って百分の一ミリメイル位。リナだともう少しいくみたいだな」
「ウォルフさまー、この子調子良いですよー。千分の一ミリメイル位まで分かりそうですー」
「・・・だそうだ」
「・・・・・・」

千分の一ミリメイル。マチルダにとって聞いたことがない位の小ささだ。
そんな精度が本当に必要なのかは分からないが、ウォルフがハルケギニアには存在しない様な物を作れるらしいと言うことは分かった。

「それで一体何が出来るんだい?そんな精度が必要な物なんて思いつかないんだけど」
「取り敢えずはグライダーの部品と、馬無しの馬車を作ろうかなって思ってる」
「馬無しの馬車かい?ガリアじゃ土石で走るやつがあったけどねぇ」
「まだ動力を何にするかは決めてないけど、一番改善したいのは乗り心地だよ。それと燃料を何とか出来れば売れると思うし、乗り心地の悪い馬車に乗らなくて済んでオレが幸せになれる」
「ふうん、まあ試作機が出来たら売れるかどうか考えてみようかね。じゃあ取り敢えず今週中にはグライダーを完成させておくれ。それでウォルフがゲルマニアから帰ってきたらチェスターの工場に引っ越して何が作れるかのプレゼンを頼むよ」
「しばらくは旋盤を増やすんで色んな試作はその後になるな。グライダーは先に完成させるから、マチ姉の方でフネの登録を頼むよ。船名は"スピリットオブサウスゴータ"でよろしく」
「な、なんだい、あたしの名前を入れるなんて、照れるじゃないか」
「・・・ごめん、マチ姉の名前だって忘れてた。町の名前として入れただけなんだ」
「・・・ふん、そんな事だろうって思ってたよ。まあいいや、こっちはそれで登録しておくから」

 マチルダはそう言い残すと帰って行った。彼女もなんだかんだで結構忙しい。
もともと抱えている仕事も多いし、この春からロンディニウムの魔法学院に入学することが決まっているのでその準備もあった。
ガンダーラ商会が発足してからアルビオンの景気は目に見えて良くなったが、その二つを結びつける人は多くは居ない。
サウスゴータ太守である彼女の父も商会が成功していることは認めながらもマチルダが商売をしていることにはあまりいい顔をしてしない。
マチルダはそんな父に商売が社会を良くすることが出来ると言うことを示したいと考え、これまで頑張ってきている。

マチルダに続きサラも家の手伝いのため母屋へ帰っていったが、クリフォードはマチルダ達が帰ったことに気付かないほどじっと旋盤が部品を削り出していく所を見ていた。
そう言えばクリフォードがここに入るのは随分と久しぶりかも知れない。

「兄さん、気に入ったの?」
「お、おお、ウォルフか。凄いな!これ!こんな凄いなんて思わなかったよ。良くこんなの考えつくな、お前」
「うーん、考えついたって言うか、中の人が教えてくれたから」
「なんだよ、また中の人かよ!便利だなお前の中の人って。俺の中の人はこんな事教えてくれねーよ」

ウォルフは昔から親しい人間には折に触れ前世などの発言をしてきたが信じて貰ったことはなかった。
軽く流される事が多かったが、最近ではただのネタになってしまっている。
どうも知り合いには転生を経験している人は居なそうで、ウォルフの研究テーマの中で輪廻転生は最も解明が難しそうなものだった。

 そうこうしている内にリナは全ての部品を削り終わった様で旋盤の後片付けを始めた。クリフォードはそれを見て残念そうにしていたが、自分も母屋に帰っていった。
ウォルフはリナが削った部品を置いてある机に近づき、その中のオイルダンパーの部品をチェックする。
ハルケギニアを旅行して一番の不満が馬車の乗り心地の悪さだった。全ての行程をフネで行ければいいのだが、そういうわけにもいかないので馬車の改良はかねてからやりたいことだった。
オイルダンパーとはサスペンションに取り付けて車体の揺動を抑える部品である。乗り心地改善の肝になるし、オイルが小さな穴を通る抵抗でサスペンションの動きを抑制するというそんなに複雑な構造でもないので是非開発したかった。
グライダーの舵にもダンパーは付けるつもりだが、そちらはエラストマーの摺動抵抗を利用した簡易な物にするつもりである。
リナが削った部品は心配しなくても全て図面通りに仕上がっている様で、チェックを終えると隣の部屋で脱脂してからアルミ合金の部品には陽極酸化処理を、鉄の物にはクロムメッキをかけた。
それぞれ槽にセットして元の部屋に戻るとリナ達は新しい材料とグライダーの部品の図面を引っ張り出してけがき始めていた。ハルケギニアの平民は本当によく働く。

「よく仕舞ってある場所が分かったな。明日中にそれ出来る?」
「分かります。明日の・・・午前中には出来そうですね」

リナが顔も上げずに返事をする。その間も手は正確に動いていた。
二年間も中断した割にはいざ作るとなると一日で出来てしまう。心強い仲間がいることは嬉しいが、ちょっと簡単に出来過ぎじゃないかとも思う。
しかし、ろくな道具もなく『練金』の魔法で形を整えた材料を万力で固定してヤスリでゴリゴリ削って微調整していた当時を思い出し仕方のないことかと苦笑する。

 翌日午後全ての部品が揃い、いよいよグライダーの最終組み立てに入る。
午前中にウォルフはワイヤなどの予め用意してあった資材から必要な部材を取り出し、長いこと布をかぶったままだったグライダー本体を磨き上げた。
舵の可動部分計十箇所には全てシールドベアリングを入れ、その他の可動部分にもしっかりブッシュを入れて滑らかな動きを確保。
日が傾く頃には全ての組み込みが終わり、操縦桿とペダルの動きに対応して舵がパタパタとスムースに動く様になった。
その頃にはマチルダからフネとしての登録が終わったと連絡があったので船名と登録番号を側面に記入し、両翼の下面にはガンダーラ商会のマークをでかでかと描いた。
一応軽く試験するため方舟の両扉を開放して扉に支柱を固定し、ここからワイヤでグライダーを繋いだ。魔法で風を送って挙動をチェックしようというのだ。
ウォルフが乗り込み、魔法で前方から風を送っていくと風速二十メイルもいかない内にふわりとグライダーが宙に浮いた。
前後や左右のバランスが問題ないことを確認し、直ぐに風を弱めて着地する。壁に隠れて見ていたリナ達から拍手が起こった。
ここまで終わってウォルフは満を持してサラを呼びにいった。
初めて一緒に空を飛ぶのはサラしかいないと確信していた。

「あれ?ウォルフ様、終わったの?」

アンネの手伝いをしていたサラが振り返って尋ねる。

「お誘いに参りました、ミス。私と空の散歩をご一緒しませんか?」
「あ、あう・・・・」

ふざけてちょっと芝居がかった誘い方をしたのだが、サラにはツボに入った様で真っ赤になって固まってしまった。

「え、えーと、グライダー完成したから試験飛行に行こうって誘いに来たんだけど・・」
「うん・・・」

微妙な雰囲気のまま二人で方舟に戻った。すでにグライダーは台車に乗ったまま大きく開いた格納庫の扉の上に出されていて何時でも飛び立てる様に準備が終わっていた。
少し離れた場所に着地し、感慨を持ってグライダーを眺め、ゆっくりと歩いて近づいていく。ウォルフの頭の中にはトップガンのテーマ曲が鳴り響いていた。

「あ、ウォルフ様準備終わりましたー。風石も積んであるので何時でも飛べると思いますです」
「ん、ありがとう。オレはこのままチェスターの工場にこいつを置いてくるから、ここの片付けもお願いするよ」
「はーい。今度あたし達も乗せて下さいねー」

今回関連法規を調べて判明したのだが、フネとして登録するとグライダーのような小さな機体でもサウスゴータの町中に着陸することが禁止されていることが判明した。
また詰めが甘いとサラになじられたが、今回離陸する分には何とかマチルダ経由で許可を得ることが出来た。今後も禁止されたままだとすると方舟の引っ越しも検討しなくてはならない。

 皆が見守る中、ふわりとレビテーションで浮き上がり後部座席に乗り込む。二年前にウォルフの体に合わせて作った座席は小さくなってしまっていたので今回新たに作り直した。
サラも続けて前部座席に乗り込み、シートベルトを締めた。
アクリル製の風防をしっかりと閉じ、深呼吸を一つする。いよいよ飛び立つ時が来たのだ。

 座席の後部に積んだ風石を励起させると機体は台車から離れ、ふわりと宙に浮かび上がった。
風石を励起させるには激しい振動を与えたり魔力を流したりと様々な方法があるが、今回は小型のバッテリーを積み込み電流を流すことでコントロールしていた。
そのまま最大ボリュームで風石から浮力を得て少々風に流されながらも上昇して行く。

「ふっふっふ、いよいよだ。長かったなあ・・・。テイク・オフ!」

目測で千メイル位上がったことを確認し、風石のスイッチを切った。
スイッチを切って暫くは風石が働いていたのでそのまま宙を漂っていたが、やがて機首を下にして落下を始めた。

「ひゃっほーー!!」
「ウウウウォルフ様!何か落っこっているんですけど!」
「そりゃそうだ!風石止めたんだもの」

サラが文句を言ってくる。風石で上昇していた時は余裕で外の景色を楽しんでいたって言うのに。そうこうしている間にも機体は速度を上げ、ほとんど真っ逆さまに感じる程の姿勢で地面に向かって加速を続けた。

「ウォルフ様の嘘吐きー!全然飛ばないじゃないですかー!あわわ、落ちる、地面が近づいてくる!」
「だから今は加速してるだけだって!わあー、ちょっと待て!」

ウォルフは急降下の無重力状態を楽しんでいたというのにサラは杖を取り出してシートベルトを外し、風防を開けようとしてくる。軽くパニックになっている様だ。

「ああ、もうっ」
「むぎゅっ」

ウォルフが操縦桿を手前に倒すと下方向に強力な加速度がかかり、立ち上がろうとしていたサラはひっくり返ってしまいそのまま座席に押しつけられた。丁度肩と首で座席に座っている様な体勢で、スカートだったのでカボチャパンツが丸見えだ。
そのまま水平飛行に移ったが、機内は気まずい空気に満ちていた。

「・・・・・・」
「・・・あー、サラ。今はほぼ水平に飛んでいるから外を見てみなよ。それからこれからはオレの許可無くシートベルトを外さない様に」

 沈黙を破ってウォルフが目の前のサラの尻に話し掛ける。サラは珍妙なオブジェの様になって固まってしまっていたが、もそもそと動き出し元の体勢に戻るとシートベルトを締め直した。耳まで真っ赤になっている。

「・・・本当ですね、風石は全く働いていないんですか?」
「うん、今は翼の揚力だけで飛んでいるよ」

サラはさっきの事を無かった事にしようとしているみたいなのでウォルフも合わせておいた。それくらいの優しさは持っている。

「速さがよく分からないのですが、どれくらいですか?」
「多分今時速九十リーグ位じゃないかな。馬車の六倍位か?」
「ふうん、凄いですね。最初のあれがなければもっと良いんですが」
「いや、あれだって大人しく座っていればどうって事・・・じゃ、じゃあそろそろ帰るか」
「・・・・・」

慌てて話題を変えて操縦桿を操作し、機体を傾ける。グライダーは大きく弧を描きサウスゴータへと進路を変えた。
長年の付き合いでサラの事は大体分かるが、今のこの物言わぬ後頭部はちょっと危険だ。

 そのまま真っ直ぐ進むとサウスゴータが近づいてくる。今は大分高度が下がって三百メイル位なのでサウスゴータの五芒星をかたどった大通りがよく分かる。
このままサウスゴータの北側を通ってチェスターの村に行こうとしたのだが、竜騎士が三騎サウスゴータから飛び立ってきた。
昨夜グライダー販促用のチラシを印刷して、今朝ニコラスに渡して職場で配ってくれる様に頼んでおいたのでグライダーについては知っているはずだ。ちゃんと正式に登録しているフネであるので問題はないはずだが、一応確認に飛んできたのだろう。
併走して飛びこちらを観察してくる竜騎士達に手を振ると向こうも手を振り替えして地上へと戻っていった。

 やがてチェスターの上空に到達し、主翼の上部にある空気ブレーキを立ててゆるゆると高度を下げると最後は『レビテーション』で機体を保持して工場に着陸し、無事にファーストフライトを終えた。

「ウォルフッ!凄いじゃないか!ちゃんと飛んでいたよ」

機体が静止するなり興奮した顔でマチルダが駆け寄ってきた。ウォルフはそれに自慢げな顔で応じる。

「おお!マチ姉こっちに来てたんだ。だから飛ぶってずっと言ってたじゃないか!」
「そりゃそうだけど、実際に見ないと中々分からないよ。ねえねえ、あたしも乗せておくれよ」
「うん、勿論。じゃあサラ、マチ姉と変わって?」
「はい、マチルダ様、気をつけて下さいね最初結構怖いですよ」

サラは軽く忠告して『フライ』で席から降りるとマチルダと交代した。

「ひとっ飛びしてくるからサラはここで待っててね。一緒に帰ろう」

 そう言い残して風防を閉めるとセカンドフライトに出発した。
上空で急降下して加速した時マチルダもサラと全く同じ反応をし、結果も一緒であった。マチルダはカボチャパンツでは無かった。
人間が逆さになって硬直してしまうこの現象を、ウォルフは密かに犬神家の呪いと呼んで恐れた。(嘘)





2-2    量産準備



「確かに、凄いとは思うけどさ、五千エキューもしたら売れないんじゃないのかい?そんなに原価がかかってないみたいだしもっと安くした方が良いと思うんだけど」
「いや、そんなにたくさん売れても困るし、まだ樹脂とアルミニウムはオレの魔法頼りだから暫くは少量生産でいきたい。あんまり安くして軍とかから大量発注とか来たらやだし」

 初飛行から帰ってきてマチルダもグライダーがどのような物かを理解したが、ウォルフが設定した価格では売れるはずがないと思った。
セグロッドは飛ぶように売れているが、あれよりも魔法が使われていないのが懸念材料なのだ。なにせ風石で浮き上がって落ちてくるだけなのだから。

「取り敢えずはこれで受注を取ってみて全く来なかったらその時考えるよ」
「うーん、最初に高くして後から凄く安くすると、最初の値段は何だったんだって話になっちゃうから好ましくないんだけどねえ」

 サウスゴータの商館に戻ってもグチグチと文句を言われたが、ウォルフに折れる気はなかった。
最後には渋々とマチルダも認めたが、本心ではもっと安くして大量に売りたいらしかった。

「まあ、もうチラシも配っちゃったって言うならしょうがないか・・・」
「そうそう、しょうがないよ。で、ゲルマニアに持って行くのはあれ以外に資材やら試作した機械やらで馬車四台分位になると思うからよろしく」
「はあ、分かったよ。あんたはいつも好きに生きてるねえ」
「えーと、お世話をかけます?」
「はあ・・・」


 家に帰るとニコラスが既に戻ってきていて、サウスゴータ竜騎士隊でウォルフのグライダーが結構話題になっていたと教えてくれた。
買ってくれそうな人はいるのか聞いてみたが、値段が高すぎるので竜騎士の給料じゃ無理だとの事だ。
ウォルフとしては領地持ちの貴族が興味を持ってくれるのを期待してグライダーでアルビオン中を飛び回ってやろうと思っている。

 翌週ウォルフはグライダーでロサイスまで移動し、フネにグライダーを積み込むとそのままゲルマニアのボルクリンゲンに向けて出港した。
サウスゴータからロサイスまでは馬車なら十時間以上もかかる道のりだが、グライダーは二時間程度で移動出来た。風竜には劣るが、使用した燃料が僅かな風石である事を思えば相当優れた移動方法である。
ゲルマニアに向かうフネの中では久々に何もする事がない時間なのでじっくりとサラ達や学校(最近こう呼び始めた)の教材を執筆する時間に充てた。
やがてフネはボルクリンゲンに到着し、ウォルフは生涯で初めてゲルマニアの地に降り立った。
ここ数年で大発展を遂げているというボルクリンゲンは、整然と整備された港周辺と雑然とした雰囲気の新市街という二つの顔を持つ活気溢れた街だった。
布をかぶせて甲板に積んでいたグライダーを下ろしていると早速商館からタニアがやってきた。

「はあい、ウォルフ久しぶりね。やっとグライダー完成したんだって?」
「ああ、タニア久しぶり。まあ旋盤が完成するまで放って置いたって感じなんだけどね」
「じゃあ、旋盤も完成してこれからはバリバリ稼げる、と」
「まだ一台だけだから。今リナ達が自分用の旋盤を作っているんで、何か生産するにしてもその後だな」
「ふうん中々大変なのね。で、これはすぐに飛べるの?」
「うん?翼をつければすぐに飛べるけど」
「じゃあ許可は貰ってあるから、早速私を乗せてフォン・ツェルプストーの居城に行って頂戴。結構せっつかれているのよ」
「いきなりかよ。チラシと・・・・ベアリングのサンプルも持ってくか。そのお城ってどれ位離れているの?」

二十リーグ位と聞いて風石で五百メイルも上昇すればいいだろうと当たりをつける。
さっさと組み立てて荷物を用意するとタニアと一緒に乗り込んだのだが、風石による上昇、そこからの急降下、パニックになるタニア、水平飛行に移る際にひっくり返るタニア、と最早テンプレとも言える展開で犬神家の呪いは健在だった。
城にはそれこそあっという間に着いたが、また微妙な空気になってしまいそのまま執務室に通される事になった。

「君が噂の天才少年か。ツェルプストー辺境伯だ、よろしく」
「ウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。初めまして」
「君の作ったグライダーというのが飛んでくる所を見た。中々面白い物だな」
「ありがとうございます。重量が七百リーブル程しかないので、風石の使用量を少なく抑えて人間を高速に移動させる事が出来ます。コストを考えれば風竜の代替になるのではないかと考えています」
「ふむ、一度風石で上がってその後はゆっくりと落ちてくるだけの様に見えるが、どの位の距離を飛べるんだね?」
「風石で一リーグほど上昇すればその後四十リーグ以上は飛行出来ます。通常は飛んでいる間に上昇気流を見つけてそこでまた高度を稼ぎますので、どの程度飛べるかというのはパイロットの腕と天候次第ですね」
「結構飛べる物だな。上昇気流とは何だね?」
「鳥なども利用していますが、風が山に当たる所や大地が太陽に熱せられた所などでは上向きに風が吹いていますので、それを翼で受けて上昇するのです。うまく利用すれば風石を最初に使うだけで千リーグだろうと二千リーグだろうと飛ぶ事が出来ます」

ツェルプストー辺境伯の執務室に入るなりグライダーについての話が始まった。ウォルフは多少面食らったが、好きな話なので落ち着いて説明する事が出来た。

「ふうむ、そんなにも飛べるのか。そう言えば竜がそんな飛び方をする時があるな。風竜の代替と言っておるが速度はどれくらい出る物なんだ?」
「急降下をすれば時速二百リーグ以上も可能ですが、巡航速度としては時速九十から百リーグ程です。速度を上げる程飛行距離は短くなり、頻繁に上昇気流を掴まえる必要が出てきます。勿論風石を使って上昇しても良いのですが」
「機体は何で出来ているんだ?木とかではない様だが」
「琥珀の様な樹脂とガラスの繊維です。翼の内部には途中まで鋼管の桁が入っています」
「なっ!ガラスだと?そんなもので・・・」
「細くしてありますし、組成も普通のとは違いますから。それを樹脂の心材にする事で強度が出ています」
「ふーむ、ますます興味深いな。樹脂というと、アレか、ニスみたいな物か。こちらで購入した場合、色々と研究するが構わないのか?」
「ええ、どうぞ。問い合わせには応えられない事もあるかも知れませんが、販売した物は自由になさって構いません」

ツェルプストー辺境伯の興味は尽きることなく、実際に試乗してみようと言う事になりグライダーが置いてある中庭に移動した。
 中庭ではツェルプストーの家臣達がグライダーに群がってあちこちいじっていた。舵をぐいぐいと動かそうとしている人も居て、壊されていないかと心配になったが無事だった。
家臣達を追い払ってまずはツェルプストー辺境伯が乗り込み、ウォルフも後部座席に乗り込んだ。
そのまま風石で五百メイル程上昇し、滑空を始めた。事前に急降下する事を説明していたのでツェルプストー辺境伯は落ち着いていて、犬神家の呪いを回避することに成功した。

「随分と快適な物だな。竜のように羽ばたく音がしないし、本当に今は風石を使っていないのか?」
「はい、今は最初に上昇した分で飛んでいます」

ちょうど上昇気流に入ったのでウォルフは機体を旋回させて高度を上げていく。

「今、丁度上昇気流に乗っています。一気に高度を上げますよ」
「ほう、なるほど風石を使わず風の力だけで高度を上げようというのか。フネにも横向きの帆はついているが、それだけで上昇するというのは・・・」
「トライアングル以上の魔力があれば持ち上げられる程の重さですし、最初以外はほとんど使用しませんので、航行中ずっと使用しているフネとは比較にならない程少量しか風石を使いません」
「ふうーむ、面白い」

グライダーは風に乗り一気に二千メイル程まで高度を上げた。

「こうやって上昇気流に乗っては高度を上げ、その分で距離を稼ぐのです。どちらへ飛びますか?」
「おお、高い高い。このまま南西方面に飛んでくれ。ラ・ヴァリエールの奴らに見せつけてやろう」
「え・・・国境を越えたりしたらいやなんですけど」
「はっはっは、なんだ肝が小さいな。ほれ、あそこの川を越えなければ問題はない。おお、竜騎士が上がって来おった」

その言葉通り対岸のヴァリエール領から竜騎士が五騎程も飛び立って来ている。やがて国境の川に沿って飛ぶウォルフと平行して飛び、こちらを観察してきた。

「ふん、くそ真面目な奴らよの。もういい、城に帰ってくれ」

その言葉にウォルフはホッとして機体を旋回させ、帰途についた。
日頃竜籠でこんな上空を飛ぶ事はないらしく、ツェルプストー辺境伯は上機嫌で領内を指さしウォルフに色々と説明してくれた。

「このあたりはずっと芋畑だな。もう少し収益性の高い物を作らせたいんだが土が痩せていて中々うまくいかん」
「はあ」
「お、あの村はワシが初めて盗賊団を征伐した所だな。他から来にくい地形をしておるだろう、追い詰めて皆焼き払ってやったわ」
「はあ」

適当に返事をしてはいるがウォルフも十分に楽しんでいた。おっさんとの二人きりでのフライトではあったが、初めて来たゲルマニアであるし上空から見る景色はアルビオンとは違っていて興味を引いた。
基本的には森林が多く、所々で大規模な畑作地帯となっている。森林が多い分亜人や幻獣なども多いのかも知れないが、アルビオンに比べると豊かで暮らしやすそう、と言うのがウォルフから見たゲルマニアの第一印象だった。
城に帰っても辺境伯は上機嫌でグライダーを二機発注してくれた。



「やったじゃない、ウォルフ。いきなり二機も売れるなんて幸先が良いわ」
「まあ、縁故販売って感じで微妙だけどね。これでツェルプストー辺境伯が飛ばしているのを見た貴族から注文が来るといいなあ」

 ボルクリンゲンに戻る機内でタニアが興奮した様子で話し掛けてきた。マチルダからは高すぎて売れないだろうという話があったのだが、いきなり二機も売れて上機嫌だった。

「そういえばあたしの分も作ってくれるの?結構便利そうに思えるんだけど」
「ガリアとゲルマニアとアルビオンに一機ずつ、それにタニアとマチ姉の分を商会用として用意するつもり。宣伝も兼ねるわけだから精々あちこち飛んでくれよ」
「そ、そんなに?一機五千エキューもするんでしょ?ちょっと多すぎるんじゃないかしら」
「それは売値であって、製造コストはあまりかからないから大丈夫。安売りをする気がないからその価格になっているだけだよ」
「って事は儲けが大きいって事よね・・・ふふふ、お金の匂いがするわー」
「・・・それで、ボルクリンゲンでの工場予定地ってどこら辺になるの?上から分かる?」
「ええと・・・もう少し先ね。新市街の向こう側の鍛冶屋が集まってるそば。もう整地してあるから分かるんじゃない?」
「ああ、あそこか。十分な広さはありそうだね。後で行ってみるよ」

一応新工場用地を確認して商館のある埠頭へと着陸する。
ここの工場でやるつもりなのはFRPの成形と機体の組み立て、試験飛行などである。その為に必要な人員として八人ぐらいをこの地の商館員に集めてもらう事にした。
ウォルフは工場が完成するまで滞在するつもりであっので早速工場予定地を視察に行き、設計図を描き始める。ゲルマニアの職人が建てるのでおおざっぱな物で良く、今まで書いていた物とは比べものにならない程楽だ。
翌日に工事に入ったかと思うと一週間程で工場は完成した。元の世界の建築と比べ工期の短さは勝負にならず、土メイジばんざいと言った感がある。
その間ウォルフは工事の監督をしたり、タニアや商館員にグライダーの操縦について教えたり、周辺の街へ出かけたりとのんびりとした日々を過ごしていた。
ボルクリンゲンの工員として雇用したのは結局予定通り八名、この街の発展に合わせて集まってきた新住人の妻や娘達で、全員が女性であった。
募集に応じたのがそもそも女性のほうが圧倒的に多かったのと、FRPを扱った後は風呂に入れてやりたいと思っていたので性別は統一した方が都合が良かった。

「みなさん、こんにちは。皆さんを指導するウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。よろしくお願いします」

ずらりと揃った工員達の前でウォルフがペコリと挨拶をする。
今日から見習い工員として働き始める訳だが、いきなりの事態に彼女らは戸惑った。画期的な新型船を製造するための工場で、今日はその開発者様から直接工程を説明されると聞いていたので緊張して待っていたのだが、目の前に出てきているのはどう見ても子供だ。
こんな子供が指導するなど本気なのかとあたりを見回すが、ボルクリンゲンで名高い美人商会長や工員募集の面接の時にあった商館員達を見ても至って真面目な顔をして黙っている。
広場にはなにやらトンボのお化けの様な物が出ているが、あれがその新型船だとでも言うのだろうか。そう言えば最近変なのが空を飛んでいると噂にはなっていた。

「では皆さん、こちらに移動してきて下さい。これが皆さんがこれから作る商品で、グライダー、と言います」

トンボのお化けの前で説明を受ける。やはりこれが新型船らしい。

「非常に軽量に作られており、この大きさにもかかわらず七百リーブル程しかありません。その為特殊な作り方をするので、皆さんにはそのエキスパートになって欲しいと思っています」
「あの、これをあたし達が作るのですか?あたしたち、メイジではないのですが」

 不安そうな工員達を代表して一番若そうな娘が質問する。初めて見るグライダーは白く輝いていて、どんな素材で出来ているのか、どんな作り方をするのか全く分からない代物だった。
その不安を感じ取ったウォルフは一から順に工程を説明していった。作業自体はそれ程難しい物ではない事、魔法は必要ない事、ガラス繊維を扱う時にちょっと痒くなることがあることなどを説明し終わった頃には皆安心した様で熱心に話を来ていた。
彼女たちがFRPの作業になれるまではバケツでも作らせておこうと型を作ってきていたので早速工場内に移動して作って見せることにした。
離型材を塗った型に樹脂を塗り、その上からガラス繊維を積層して更に樹脂を浸透させ、ローラーで空気を抜き、硬化させる。昨日作っておいた硬化済みの物を型から外して形を整え、補修をし表面をならす。また昨日作っておいた物に風の魔法具を使ったスプレーガンで塗装までする。
注意点やこつなどを説明しながら作業を進め、最後に昨日の内に塗装まで済ませておいたやつを取り出し、上部両側に開いた穴に真鍮のはとめをし、真鍮製の取っ手をつけて完成である。

「はい、これで完成です。塗った物が乾くまでは時間がかかりますが、それ以外では今の様にあまり時間をかけずに作ることが出来ます。非常に軽量で強度もあるバケツになります。確認して下さい」

出来上がったバケツを熱心に見ていた工員達に渡すと皆一様にその軽さに驚き、押してみたりして十分な強度があることを確かめていた。
当初の不安そうな様子は消えていた。目にした工程が、慣れは必要そうだがそれ程難しそうな事もなかったので安心したのだろう。

「じゃあ、人数分の型とローラーを用意していますから、今日は繊維を積層する練習をしましょう」
「「「はい!」」」

ボルクリンゲンの工場は順調に操業を開始した。










2-3    量産準備2



 一週間程でバケツの製造は軌道に乗り、ウォルフが居なくても満足出来る品質の物が出来る様になった。三ヶ月程は作り続けられる位の材料を持ってきているので一度サウスゴータに帰っても大丈夫だろうと判断した。
 硬化材に使っている過酸化ベンゾイルは爆発することもあるので取り扱いにはくれぐれも注意する様に言い残して工場を後にする。丁度タニアがアルビオンに行くというので一緒にグライダーで帰ることになった。
 ゲルマニアでの飛行許可も滞りなくおり、初の長距離フライトを楽しむことになった。

「ちょっとウォルフ、風石そんなもんで大丈夫なの?今の時期だと千リーグ近くはあるのよ?」
「大丈夫だろ、こんだけあれば上昇気流を使わなくたって持ちそうだ」
「うーん、ホントでしょうね?海の上で風石が切れて墜落、なんていやよ?」
「海の上ならもう三千メイル以上に上がっているはずだからいつでも陸地まで飛んでこれるよ」

 あまりにも少ない風石の量を心配するタニアを説得してグライダーに乗り込み、二百メイル程風石で上昇して滑空を始める。タニアもすっかり慣れた物で「ヒャッホー!」とか言って楽しんでいた。
すぐに上昇気流を捉えて千五百メイル程まで上昇、その後も何度か上昇と滑空を繰り返し、海上に出る前に高度六千メイルまで上昇、そこから一路洋上に進路を取った。
高度が二千メイルを越えた所で風石を動力とした空気調整器を作動させている。簡単な風の魔法を応用した物だがこれが有れば気圧や気温がコントロールできるので高度一万メイルだって大丈夫な優れ物だ。

 タニアはずっと楽しそうに景色を見て色々とウォルフに話し掛けてきていた。

「ふう、良い眺めねえ。フネだと普通ここまで高度を上げないから楽しいわ」
「楽しいだけじゃないぜ、三時間も経たないのにもう海の上に出ている。船とは比べものにならない速さだろう。それにこの運動性を見てくれよ!オレは、自由自在だ!」

 その言葉通り、ウォルフの意志を受けグライダーは右に左にひらひらと宙を舞う。
操縦にも慣れてきてウォルフはグライダーを意のままに操ることを楽しめる様になってきていた。

「ちょ、ちょっと、あんまり揺らさないでよ。・・・確かに随分と速いわね。風竜には負けるかも知れないけど、竜籠よりは大分速そう。これは私も頑張るしか無いわね」
「ん?そういえばアルビオンに何の用なの?」
「・・・アルビオンの役所からグライダーの説明に来いって呼ばれてるのよ。ベルナルドに行かせようかと思っていたけど、彼はグライダーのことをほとんど知らないからね。私が行ったほうが良さそうだなって」
「説明って・・・見たまんまじゃん。何を聞いてくるつもりなんだろ」
「結構な速度で飛んでいる所を見られてるし、軍用に転用出来そうな物をガリアやゲルマニアと繋がりがあると言われているガンダーラ商会が発売したんだから色々と気になるみたいよ?」
「うーん、そう言う話になっちゃうのかー・・・オレも説明に行った方が良いの?」

飛行機を兵器として転用した場合とても優れていると言うことは知っていても、実際にそう言う話になると少し落ち込んでしまう。
大型の機体を作れば兵力を展開するのに速度の面で有利になるし、揚力を犠牲にして速度を上げた機体を作り爆弾を満載してガーゴイルに操作させればかなり嫌な感じの兵器になる。ウォルフならばその爆弾を核兵器にすることも可能だろうから、アルビオンにいながらにしてハルケギニアを火の海にすることも可能と言うことになる。
しかし、ウォルフはそんなグライダーを作りたくはなかった。

「いいえ。あなたのことは伏せておこうと思ってるわ。アルビオンは我々商会にとって唯一後ろ盾になってくれる大貴族がいないから、あまり本当のことは言わない方が良いと思うの」
「確かにマチ姉はこっちにいるけどサウスゴータが後ろ盾になっているって訳でもないし、そもそも太守って言っても金は持っていても権限は市議会のほうにあるって言うしなあ・・・」
「モード大公も旗を貸してくれているけどあんまり頼りにはならなそうだしねえ。今回はツェルプストー様の威光を借りてゲルマニアで開発したって押し通すつもり。実際製造はゲルマニアで行うんだしね」
「うーん、それじゃあ済みませんがよろしくお願いします」
「ええ、まかせておいて」

ゲルマニアに工場を造ったのもツェルプストー辺境伯からのラブコールというのもあったが、新技術の出所をぼかすという狙いがあって決めた事だ。なるべく目立たずに殆どの新技術がウォルフによって生み出されていることについてぼやかしていきたい。
こういう話になるともうウォルフにはどうする事も出来ないので後はタニアに任せるしかない。
ウォルフも出来る事なら自分で何とかしたかったが、未だ幼い我が身では如何ともする事が出来ず、歯がゆい思いをするだけだった。

 暫くそんな事をウォルフが考えて黙っているとタニアが全く別の話を振ってきた。

「あ、そうだ。あと、あなた忙しい所悪いんだけど"タレーズ"を追加で三十本くらい作って欲しいんだけど」
「いいけど・・・前に渡したのはもう全部売れたの?結構な値段で売るって言ってたけど」

 タレーズとはタニアが企画しウォルフが開発した魔法具で、オリハルコン製の細いネックレスに魔法を付与したものである。
その機能は、つけた人間の胸や尻、顔などの表面を重力から開放するというものだ。不自然に若くするのではなく、顔の弛みなどが目立たなくなり胸や尻が持ち上がってちょっと若く見えると言う。
若い人にもずっと着けたままでいれば体形が崩れるのを防げるし、何時までも若々しくいられるという触れ込みで売っているらしい。
付与している魔法がウォルフオリジナルの『グラビトン・コントロール』である為、今のところウォルフにしか作れないのが難点で、タニアは安売りをしない方針だ。

「全部で九本、あっという間に売れたわ、中々の人気よ。スクラーリ伯爵夫人なんて着けてたら伯爵がその気になっちゃって、もう四十過ぎてるってのに妊娠しちゃったそうよ。嬉しそうに話してくれたわ」
「あれ?渡したのって十本じゃなかったっけ・・・」

そう言いかけてタニアをよく見ると首筋にキラリと"タレーズ"が輝いていた。

「ああ、これ?これはその、見本よ、見本。長期的に着けていたらどうなるかっていうのを私が身をもって実験しているのよ」
「別にそんな事構わないけど、いくらで売ってるの?それ」
「一本五千エキューよ。もう少し高くしておけば良かったかしらと思っているわ。胸が軽くなって肩がこらないし凄く良いものよ、これ」
「・・・分かった、作っとく」

 オリハルコン製ではあるが、オリハルコンの地金は『練金』と魔力子操作でウォルフなら割と簡単に作れる。
地金をチェーンに加工する工程は外注に出しているので手間が掛からず、魔法付与に掛かる時間はほんの僅かだ。
片手間で作れてしまうタレーズと、人生の半分近くを費やし情熱と手間を注ぎ込んでやっと作ったグライダーとが同じ値段。
男女の価値観の違いと言ってしまえばそれまでなのかも知れないが、理不尽を感じざるを得ないウォルフであった。

 その他にも道中色々と打ち合わせをしながら飛行し、結局十時間かからずにサウスゴータに着いてチェスターの工場へ着陸した。途中タニアがトイレを希望し、どこかの島まで降りなくてはならないかと思ったが雲の中で駐機して事なきを得た。魔法で飛べると言うことは便利である。
タニアはロンディニウムに行くために急ぎセグロッドでシティオブサウスゴータへと向かい、ウォルフは工場の完成具合をチェックして従業員宿舎などがきちんと作ってあるか確認してからサウスゴータへ帰った。

「あ、やっと帰ってきた。ウォルフ様、引っ越しは何時になるんですか?旋盤を組み立てたいんですが」
「えーと、ちょっと待って、明日・・・は無理だな、明後日にしよう」

 帰って来るなりリナに文句を言われる。確かにちょっと放って置きすぎたかも知れない。
長距離フライトで疲れてはいたが、引っ越しに使う馬車を今夜と明日で組み立てることにして、さっさと引っ越すことに決めた。

 翌日、ウォルフは朝早くから地下の工房で馬車の制作に励んでいた。久しぶりにサラが手伝ってくれている。
 旋盤などは鉄の塊の為、重量がかさむ。通常の木製の馬車ではとてもその重量に耐えられないので鉄製の馬車を二台ほど作り、更に風石を利用して運ぶつもりである。
まずはフレームの治具用に作られた部品を組み、そこにラダー状にフレームの材料をセットして溶接していく。もちろん魔法を使ってである。
出来上がったフレームにサスペンションの部品をアーム、コイルスプリング&ダンパーと順に組み付けていく。取り付けにはゴムを使ったブッシュを入れたし、これで乗り心地は改善されるはずである。
最初はトラックらしく板バネのリジッドアクスルにしようと考えていたのだが、この後に作る乗用車の試作も兼ねて四輪独立懸架のダブルウィッシュボーン式サスペンションとした。
車輪はステンレス製のリムにゴムを巻き七十二本のスポークを組んだ物で、旋盤を作る時に試作したワイヤ式のディスクブレーキを四輪に装備した。上り坂では風石を励起させて登坂し、下り坂ではこのブレーキを使用して安全に走行する予定である。
最後に荷台と御者台を装備しやっと完成したが、試運転も終えたのはもう夜中になってしまい、翌日の作業に備え急いで眠りについた。

 あけて翌日、朝早くから引っ越し作業となった。
 マチルダとクリフォードにも手伝って貰い、ウォルフの作った重量物運搬用馬車、ガンダーラ商会所有の荷馬車を使って次々に地下から荷物を運び出す。
その量は良くこんなに溜め込んでいた物だと言う程で、馬車は何度も往復することになった。
それでも夕方には全て運び終わり、工作機械も全て所定の場所に設置する事が出来た。大量の電池も新しい電池室に収まり、発電機との接続を待っている。
風力発電機はこれから作るので、暫くは手回し発電のみになってしまうが仕方がない。
新しく作った馬車は快調に働いた様で、風石の助けを受け、馬二頭のみとは思えない程の速度で重量物を運んでいた。
トムジムサムの三人は今日からここに住むことにしていて、リナはサウスゴータから通うつもりでいる。

 さらに翌日、ウォルフがサウスゴータの商館で必要な資材の手配をし、新しい工員候補の面接を終えた頃タニアがロンディニウムから帰ってきた。
アルビオンの役所がグライダーを新型の小型船と認定したという。これまでフネとして登録された艦船は港湾設備のない都市には着陸する事が禁止されていたが、竜籠と同等の離発着所を登録すればサウスゴータのような町中に離発着しても良いという許可が出たとの事だ。当然王城や軍事施設の近辺に近づくことは禁止されているがこれで相当便利になる。

「おお!じゃあ今後は方舟から直接出かけられるな。なかなか政府も話が分かるじゃねーか」
「ふう、そのかわり研究用として政府に一機無償で提供するようにとの事よ。最初は問答無用で今あるやつを取り上げようとしてきたけど、何とか交渉して新しく作ったやつで良いと言うことになったわ」
「うわ・・・うんまあ、一機位なら構わないか。ちゃんと文書にして貰ったの?」
「勿論よ。タニア様に抜かりはないわ。ちゃんと各地に通達を出してくれるそうよ」

 ただで一機とられるのは腹が立つが、グライダーの普及には利便性の向上が不可欠だ。そのおかげで各都市間で直接移動できるようになるなら文句はない。
二ヶ月以内に政府にグライダーを提出する様に言われて来たのでウォルフも色々と急がなくてはならない。
風力発電機を完成させて、グライダーの部品を必要数作り、ボルクリンゲンに移動して工員に教えながら組み立てる。結構ぎりぎりだ。

「うーん、今年の夏はガリアに行ってる場合じゃないかなあ」
「そうねえ、でもあなたがグライダーなんて作るからこんな事になったのよ?」
「へえ、分かってます。タニアは頑張ってくれたんだと思ってるよ?」
「役人の相手って、本当にめんどくさいわ。なんで政府に勤めているってだけであんなに傲慢になれるのか不思議だわ」
「お疲れ様です・・・」

 その後ポツポツとグライダーの注文が入ったが、全部商人からの注文であった。本当に使うつもりか真似したのを売り出すつもりなのかは分からないが、ウォルフとしては真似出来る物なら真似してみろと言う気分なのであまり気にしていない。都市から離発着出来る高速交通は魅力的な商品に違いないはずだという信念があるので普及が進めばいずれ真似する所は出てくるだろうとも思っている。

 本気で急いだウォルフは二週間で風力発電機を建てた。三十メイルの高さを持つ塔に長さ十五メイルの羽が三枚、その羽の傾きは可変出来、強風の時は風の向きに平行となって回転を止める。
その制御を行うのはウォルフが作ったガーゴイルで、土石を動力として二十四時間発電の管理を担う。
発電量は三百kWで、当面足りなくなることは無さそうである。
次に取りかかったのは鋼管を圧延する機械である。前回は一機分持てばいいような作りだったが今度はちゃんと作った。メタル軸受けで精度もあり、今はゴーレムの手動だが将来は油圧制御に対応できるようにしてある。
これを使って桁用の鋼管を加工していく。三段階に翼の先に行くにつれ肉厚が薄くなる様に加工し、一号機よりも軽く作れた。

 ウォルフが出かけていて居ない間の宿題として簡単な織機を設計したので、作っておく様にリナ達に言い渡した。それから学校で教えている子供達から十六人を工員候補として採用したのでその教育も任せた。
織機はガラス繊維を織るための物で、今は五サント位に切った繊維を均一に馴らした所にポリエステル樹脂を少量吹きかけ、マット状にしてそれを積層しているのだが、将来的には織った物を使いたいと思っているのでその布石だ。
舵などに使用する細かい部品とアクリル樹脂製の風防も二十機分作り、商会のフネで追加の樹脂・ガラス繊維ともにボルクリンゲンに送った。
外注から戻ってきたオリハルコンのチェーンに魔法を付与し、タレーズを完成させてマチルダに挨拶をする為にサウスゴータの商館に向かった。
マチルダはロンディニウムの魔法学院に入学するため寮に入る。ウォルフが戻ってくる頃にはここには居ない。

「マチ姉、おつかれ」
「ああウォルフ、荷物は送ったのかい?」

 商館に入り、ウォルフが声をかけると書類を見ていたマチルダが顔を上げて応じた。引っ越しの準備があるだろうに未だ仕事をしている。

「うん、全部終わった。じゃあ、オレはゲルマニアに行くね?マチ姉のことは見送れないけど、元気でね?」
「何だい、まだ気にしていたのかい。あたしがさっさとゲルマニアに行けって言ったんだろう、早いとこあたしの分のグライダーも作ってくれってね」
「頑張るよ。・・・でもサウスゴータにマチ姉が居ないのは寂しいなあ」
「ロンディニウムなんて百リーグ位しか離れていないんだよ、目と鼻の先さ。しょっちゅう帰ってくるし魔法具を持って行くから話は何時でも出来るし、今までとそんなに変わらないさ」
「うん、あんまり無理はしないで、商館はカルロが回してくれると思うから」
「ふん、それも寂しいもんだけどね」

 これから三年間マチルダは魔法学院で寮生活である。商会での身分は名誉サウスゴータ商館長となり、新たにカルロが館長を務めることになっていた。
ウォルフはちょっとしんみりした気分でマチルダに暫しの別れを告げた。
ここで入学祝いにとタニアに頼まれたのとは別に自分でチェーンの加工までしたタレーズをプレゼントしたのだが、マチルダは老化防止グッズと思っていたらしく「まだそんな歳じゃない」と怒り出してしまった。しんみりしたムードは台無しである。
結局、歳に関係なく肩が楽になる良いものだということで納得してくれたが、「女心が分かってない」と最後の最後にダメを出されてしまった。

 今回ボルクリンゲンに行くに当たって、ラウラを連れて行くことにしていた。メイジではないし、リナの様に旋盤を扱う才能はなかったし、計算なども出来ないわけではないのだが手が遅い。もったもったと計算しているのを見るととてもそんな仕事に就かせようとは思えない。
基本的に人が良いので商売ごとの交渉などに向いているとも思えないので、親から引きとって連れてきてから二年も経つが、どんな仕事をさせようか未だ決まらず少々持て余していたのだ。
ユーモアがあって、話がうまいので人に教える仕事が向いているのではないかと考え、グライダーの操縦を指導する教官候補として空いた時間に操縦を教えてみようと思ったのだ。
とりあえず数ヶ月ゲルマニアで訓練と教官育成をさせて、教官の数が増えたらアルビオンに戻す心算だ。

「ふわあ・・・本当にあたしがこれ乗ってもいいんですかぁ?」
「おう、この間言っただろう、こいつの操縦を顧客に教える係になってもらうって」
「あたしにそんなの出来る様になるんでしょうか・・・うにょ!」

ウォルフが『レビテーション』を唱えラウラを前席に座らせた。ラウラは前もって言われていたのでズボンをはいている。
続けてウォルフも乗り込むと風防を閉め、上昇を始めた。

「じゃあラウラ、これから飛行するわけだけど、ちゃんと勉強してきただろう?手順を説明して」
「は、はひ。えーと、必要な高度に到達したら風石を止めて、浮力を無くします。そしたら降下を始めるので十分にスピードが出た所で操縦桿を手前に倒し水平飛行に移ります」
「うん、よく勉強してるな。じゃあ今からその通りにやるから感覚を覚えろよ?それから、そっちの席の操縦桿も使える様になっているからやたらと動かさないように」
「はい・・・ひょわー!!落ちるぅーーー」

ウォルフは道中ずっとラウラに上昇気流の見つけ方、何故上昇気流が起きるかなどを教え、途中からラウラにも操縦をさせた。

「ウォルフ様、ウォルフ様、これチョー楽しいです!あたし、魔法使えないのに空飛んでますよ!空!」
「ふふん、凄いだろう。ほら左舷前方にサーマル(上昇気流)。つかまえな」
「はい!今までずっと変人だと思っていて済みませんでした!ラウラ、行きまーす!」
「・・・・・」

 二人を乗せたグライダーは前回より大分速く、距離が近くなっていたこともあって六時間でボルクリンゲンに着いた。
ラウラは初めてのフライトに興奮しっぱなしで次に何時操縦出来るのかを聞いてきた。
基本的にまたツェルプストー伯の許可が得られればこの領内では自由に飛べるので、ラウラには練習のためにどんどん飛ばせるつもりで居た。

「暫くはオレの時間が空いた時に一緒に飛んで、オレがもう大丈夫だと判断したら一人で、もしくは誰かと一緒にどんどん飛ぶことになるね」
「ぬあー!楽しみになってきました!あたし絶対になりますよ、鬼教官に!頑張りますからウォルフ様ももっと色々と教えて下さい!」
「いや、別に鬼じゃなくていいから」

上がりっぱなしのテンションにウォルフはちょっとついて行けなかった。




2-4    フロイライン・キュルケ



 ウォルフが工場の中に入ってみるとバケツがうず高く積み上がっていた。工場の管理は商館に任せてあるのだが、一回も出荷しなかったのだろうか。
不思議に思って作業をしている工員達の所に行ってみる。

「あ、ウォルフ様、いらっしゃいませ」
「ああ、久しぶり。どう?問題はない?」
「はい。みんな作業に慣れたので最初の頃より大分速く出来る様になりました」
「ああ、積んであるのを見たよ。一回も出荷してないの?」
「はい。商館の方がこんな高級なバケツなんて売れないって言ってました」
「高級で売れないって何だよ・・・」

 確かに改めてバケツを見てみると、滑らかで白く輝く本体に真鍮製の金具と取っ手が着いていてなかなか上品な趣である。
しかし、FRP作業の練習用に作らせているだけなのでいくらで売るかなんて考えていなかった。
取り敢えずバケツの方は商館の方で聞いてみることにして、ラウラを皆に紹介し、グライダーに乗る時間以外はここで働かせることを説明する。

「じゃあ、ラウラをよろしく。ラウラ、グライダーの製造方法を顧客に説明することもあるんだからちゃんと教えてもらえよ」
「ふあい。鬼教官への第一歩ですね」

 ラウラを残し、倉庫にグライダーをしまってセグロッドで港にある商館まで急ぐ。
ここの商館長はフークバルトという男で、優秀なのだが融通が利かない。ウォルフのことも子供扱いしてくるので対応に困ることが多い。
前回はタニアが居たので彼女に言えば良かったが今回はそう言うわけにも行かないみたいだ。

「えーと、バケツがある程度溜まったら売って欲しいって頼んだと思うんだけど何で売ってもらえないのか聞きに来たんだけど」
「ボクどこの子?お父さんにそんなこと言って来いって言われたの?それとも親方かしら。ここは商社だから、売れないものは買わないのよ」

直接商館長の部屋に向かおうとしたところ、入り口で新人のお姉さんに捕まってしまった。話が通じないので助けてもらおうと知ってる顔を探して周りを見るが、皆忙しそうにしていて誰もこちらを見ていない。

「ウォルフ・ライエ・ド・モルガンだ。フークバルトに会いたいからここを通してくれ」
「あ、あら、貴族様なの?じゃあ、仕方ないわね、お会い出来るか聞いてみるからここで待っててね」
「いや、一緒に行くよ。その方が早い」
「しょうがないですね。会えないって言われても私に怒ったりしないで下さいよ?」

ブツブツと文句を言うお姉さんについて行った商館長室で待っていたのは輝く金髪にやたらといいがたいを持つ男、フークバルトである。
お姉さんはウォルフが株主だと知って蒼くなっていたが、気にしない様に言って下がらせた。

「さて、何の用ですかな?ウォルフ様。納品するグライダーはもう出来ましたか?」
「いや、今日着いたんでまだだよ。部品もまだ届いてないし。工場にバケツが溜まって困っちゃうから売って欲しいんだけど」
「ああ、その件でしたら確かに私が止めています。良いですか?ウォルフ様、商売というのは適当に作って売れる値段で売ってと言うのでは決して成功しません。私としては一体いくらで売れば採算が取れるのか説明していただかないと売ることは出来ません」
「原材料は全部オレがそこら辺の木屑とか土から『練金』したやつだからただ。平民八人で一日百個以上作ってるみたいだから結構安く出来るんじゃない?」
「え?・・・そんな、じゃあ安く売っても採算は取れるって事ですか?」
「うん。オレが『練金』し続けるわけには行かないし、彼女らもグライダー制作の練習に作っているだけだからこの先ずっとは作らないけど、今ある分位は売れる値段で売っちゃって良いよ。せっかく作ったのに練金し直しちゃうのはもったいないし」
「・・・分かりました。早速明日荷馬車を向かわせます。ゲルマニアよりもガリアで好まれそうなデザインですのであちらにも輸出する様に手配しましょう」
「ありがとう。よろしく頼むよ」

 フークバルトに納得して貰い、工場に戻ってみるとラウラは皆に交ざってバケツを作っていた。全員に活性炭入りの防塵マスクをさせているのですぐにどこにいるのかは分からなかったが、楽しそうにおしゃべりしながら作業をしているのを見て安心し、ウォルフは倉庫から石膏型と木型を取り出してきた。
木型を使って、雌型をもう二台分作るつもりである。一号機がとても快調に飛んでいるので改造はしない。

 翌日全員を集め、今日からグライダー作りに入ることを告げる。ラウラと同じ位の年頃の娘から四十位の女性までずらりと揃っているが、皆気合いの入ったいい顔をしていた。
バケツの型や作りかけの物などを全て片付けさせ、いよいよ作業に入る。
まずは一つの雌型で、大型の物を作る時の注意を教えながら離型処理を丹念にして、ガラス繊維を積層していく。
それが終わったら三人で一つの班を作り、工員だけでやらせる。ウォルフは順次監督して、アドバイスを与えたり手伝ったりした。
簡単な構造のグライダーとはいえ、一機分の雌型は全部で三十個以上もあるので一日仕事となった。

「ふぃー、結構大変でしたねー。ウォルフ様本当に一人で作ったんですか?」
「おお、FRPはサラが手伝ってくれなかったからなあ・・・ずっと一人だったよ」
「・・・やっぱりウォルフ様は変人ですね。みんなでやってるから楽しいけど、あんな作業を一人で全部やったなんて信じられません」
「変人ジャナイヨ?普通ダヨ?」

 ラウラから哀れむような目で見られてしまってウォルフは軽くへこんだ。
 その後一日の仕事を終え、二人で食事をしながら色々と話をする。
子供二人なので外に食べに行く気にもならず、適当に食材を買ってきて調理した物を食べているのだが、話題は自然とグライダーについてになった。

「あれって、いくらで売り出したんですか?」
「聞いてない?五千エキューだよ」
「ごせん・・・う、売れるんですかあ?」

平民であるラウラには想像すら出来ない様な額である。そんなのを自分が飛ばして良いのかとさえ思ってしまう。

「今のところ六機注文が入っているな。それにアルビオン政府に取られる分を一機、ガンダーラ商会用に五機、計十二機作るまではここに滞在しようと思っているから、ラウラもそれまでに操縦を覚えてくれ」
「はひ、頑張ります。でも、ぜ、全部でろくまんエキューですか、ウォルフ様大もうけですね」
「商会に入ってくる金は三万エキュー、これは商会の収入だからオレに配当で入ってくるとしても極僅かになるよ。何か俺にはラ・クルスに二十万エキューの借金があるらしいから頑張って稼がないと」

二十万エキュー。もう訳が分からない額である。ちなみにラウラは今まで学校に通いながら商会の手伝いをして月に十エキューも貰っていたが、それを全額返済に回したとしても千六百年以上かかる額だ。
ラウラは試しに計算してみて愕然とする。確か商会を立ち上げた時はフネを借りて貿易をすると言っていたはずだ。急に商会が大きくなったなとは思っていたが、ウォルフがそんなに無理をしていたとは知らなかった。

「ウォルフ様、頑張りましょう!ウォルフ様は変人だけど凄い人なんだから、きっと借金だって返せますよ!あたしも鬼教官になって手伝いますから!」
「お、おう・・てか、鬼教官ってのは決定なの?普通の教官で良いんだけど」

 翌日ウォルフは朝から前日に着いていたアルビオンからの荷物を商館に取りに行ったのだが、帰ってきて顔を合わせた工員達の目が何故か優しかった。

「いいかい、借金なんかに負けちゃいけないよ」
「あたし達も応援するから、頑張って生きるんだよ!」
「えーと、うん、頑張ります」

 おばちゃん達にやたらと励まされてしまい、戸惑いながらちらりとラウラの方を見ると目を潤ませてうんうんと頷いている。犯人はこいつだ。
後で言い聞かせなくちゃと決意しつつ今日の作業を始める。

 型からFRPを外し、形を整えたらアセトンを使って表面を脱脂し、表面を補修していく。手先が器用そうだった四人を相手に、ガラス粉末と樹脂のパテで補修するコツを教える。この辺はバケツで経験を積んでいるのでよく分かる様だった。
他の四人とラウラはFRPを外した型とウォルフが新しく作った型にワックスを掛けて離型処理をしている。
補修が終わったら硬化するまで放置して、また次の機体の作成に入る。
そして翌日表面をならし、組み立てて各部品を接着し、また翌日接着部の補修をし、翌日表面を研磨してサ-フェーサーをかけ、そのまた翌日塗装をして、翌日いよいよアルビオンから届いた部品を組み込み、各部の動作とバランスを確認して完成である。
部品の組み込みには手先器用組四人とラウラが手伝って構造と組み込みのこつを学んだのだがなかなか難しい様でウォルフ抜きで出来る様になるには時間がかかりそうだった。
作業開始から七日間で一機作ることが出来た。次の機体は明後日に完成しそうで、空いた時間を使ってその次の機体や更にその次のも作り始めているので今後は二~四日に一機位のペースで生産出来そうである。
一機目にかかった時間を考えればあっという間と言って良かった。

「ふおお、今あたし、あたしが作ったグライダーで空飛んでますー・・・」
「ちょっと黙ってて」

 昼食後にウォルフはラウラを乗せて二号機で試験飛行をしていた。フネの登録前でもツェルプストー領の一定地域ならば試験飛行をしても良いという許可を得ている。その分税という形で金を納めはしたが。基本的な性能をチェックした後、今はラウラに好きに操縦させてウォルフは神経を集中させ、機体の軋みや変な振動が無いか感じとろうとしていた。その他に風を切る音にも注意を向け、飛びながら不具合がないかをチェックしているのだ。
全て問題ないことを確認し、ラウラに着陸を指示する。今日は魔法を使わない平民用の着陸操作をするつもりだった。
空気ブレーキを立てて十分に高度を下げ、そこから少し上昇して失速気味になるまで速度を下げ、風石を使用し徐々に降下する。風石を励起させるのには今回から手回し発電機を使っているので発電用のハンドルを回転する速さで揚力を調節しつつ、降下地点まで来たらロープに結んだ碇を投下して停止し、そのままゆっくりと着陸する。電気で風石を励起させるのは魔法で行うよりも微妙なコントロールを可能としているのでグライダーに向いていた。

「にうー、もう終わりですかぁ?もうちょっと飛びましょうよー」
「もう試験飛行は終わったからな。こいつは売り物だから」

 試験飛行を終えた機体を台車に乗せて倉庫にしまいながらもラウラはまだ飛びたそうである。
そこにちょうど商館長のフークバルトが客を連れて現れた。客は赤い髪をした少女とその護衛らしい二十代位の体格の良い男だ。

「ウォルフ様、こちらツェルプストー辺境伯のお嬢様で、工場の見学を希望しています。案内をお願いしたいのですが」
「キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーよ。あなた、なんか面白そうな物を飛ばしているわね?見に来たわ」
「ようこそお越し下さいました、ミス・ツェルプストー。一応この工場で責任者をしているウォルフ・ライエ・ド・モルガンでございます。興味を持っていただき嬉しく思います。早速私が案内いたしましょう」

 大貴族の令嬢らしく優雅に自己紹介をするキュルケ。次の誕生日で十一歳になる浅黒い肌と燃え立つ様な赤い髪を持った少女は悪戯っぽそうな目を輝かせて微笑んだ。
辺境伯令嬢の登場に緊張するラウラを工場へ戻し、ウォルフはキュルケ達の先に立って工場内を案内する。ちょうど工員がばらけて各段階の作業をしているので説明がしやすかった。

「ふうん、何か地味な作業ねえ。変な臭いもするし・・・メイジを雇うお金がないの?」
「ええと、まあメイジじゃなくても出来る作業ですし、臭いは特殊な秘薬を使っているからそのせいです」

キュルケは自分から案内をしろと言ってきたにしてはあまり興味が無さそうで、退屈そうにしていた。その反対に護衛だという男性は土メイジらしく、熱心に色々と質問をしてくる。

「ふむ、それでこの秘薬はアルビオンで作っているというわけですな?」
「はい。製法については・・・未だ研究中ですが、今は木屑から『練金』して作っています。魔法を使わない製法が確立出来ればもっと価格を下げられるのですが」
「なるほど、優秀なメイジは高給取りですからな。それで、こちらのガラス繊維というのは普通のガラスとはちょっと違う様に思うのですが、これも秘薬を使っているので?」
「いや、これは秘薬ではなく成分が違うだけです。こちらの鉱石の成分を溶かして得られる成分を多く加えています」

 そう言って秘薬屋で購入してきたボーキサイトを見せる。秘薬屋には様々な鉱石も販売しているのでアルビオンやガリアで新しい物を見つけると購入することにしていたが、ボーキサイトはアルミの説明にちょうど良いと思ってゲルマニアまで持ってきていた。
キュルケの護衛・デトレフが『ディテクトマジック』で確認しているが、優れた土メイジなら両方にあるアルミナに気づけるだろう。
ガラス繊維の実際の成分としてはシリカにアルミナ、それに酸化マグネシウムとなっていて、それにシランカップリング剤という樹脂との相性を良くする薬剤を塗っているのだが、ハルケギニアのメイジがどこまで分かるのかと言うことには興味がある。薬剤以外は普通に秘薬屋に有る鉱石に含まれる物質だ。

「ふうむ、確かに仰る通りのようです。色々と研究していますなあ」
「まあ、優秀なスタッフが揃っていますから。よろしかったらこちらをお持ち帰り下さい。薬剤は人体に害がありますので取り扱いには注意して下さい」

 多少はったりをかましつつラウラに用意させたガラス繊維と樹脂の主材と硬化剤、離型剤とローラーが揃ったFRP入門セットを手渡す。これは有力貴族が見学に来た時用に考えていた工場見学用のおみやげで、成形方法や薬剤の取り扱いについて説明している冊子が入っているのですぐに使えるものだ。
実は主人から制作方法を偵察して来る様に言われていたデトレフは、どう言って秘薬を分けて貰おうかと悩んでいたがいきなり全部貰えてしまって大いに喜んだ。
 更に色々と聞いてくるデトレフに一々丁寧に答えているウォルフだったが、キュルケは醒めた目でその様子を観察していた。
父が彼のことを天才の子供と評していたことを思い出す。天才かも知れないが自分の好きなおもちゃをいじることに夢中になってるだけの子供に過ぎないから、精々手元に置いて利益を吸い上げるべきだと側近に話していた。
貴重な発明品である秘薬をただで配るなんて全くばかげていて、父の言う通りなんだろうと思う。天才と呼ばれる子供が居ると言うことにも興味を持って来てみたが、今はもうその事にはなんの興味もなくグライダーに乗ってみたいという気持ちが有るだけだった。

「ねえ、まだ次の所には行かないの?」

 木材に比べて強度が・・・とか、鉄だといくら薄くしても重量が・・・などと楽しそうに話し込んでいる二人に声をかける。
ずっと放って置かれたのでちょっと声が不機嫌になってしまったのは仕方がないと思う。

「や、これはお嬢様、申し訳ありません。ささ、ウォルフ殿次に移りましょう」
「ああ、じゃあ次は塗装ブースに行きましょう。その名の通り、色を塗る工程ですね」

デトレフは恐縮していたが、ウォルフは何でもない様にそのまま隣の部屋へ移っていった。それが子供扱いされて軽んじられている様で、キュルケには気に入らない。もっと自分のことをちやほやするべきなのだ。
フンと鼻を鳴らして不機嫌そうについていったキュルケだったが、そんな気持ちは塗装ブースに置いてある機体を見た瞬間に吹き飛んだ。
ツヤツヤと美しい光沢を放つその機体は全体を鮮やかな赤色で塗装されていて、キュルケにはその見たこともないような美しい赤色を纏ったグライダーが自分のために用意された物の様に思えた。

「わたし、これが欲しいわ」
「ええと、これはフォン・ツェルプストーのご注文の品ですので、お父様にご相談下さい」

 赤いグライダーを見つめていたキュルケがこちらを振り向くとニイっと笑った。父親にねだって絶対に自分の物にしようと決めつつウォルフに聞いた。

「これは、今すぐ飛べるの?」
「いえ、まだ組み立てが終わっていないから無理です」
「わたし、今これで飛びたいわ。組み立ててよ」
「組み立ては明日行う予定です。ご覧になりたいのでしたらまた明日お越し下さい」
「組み立てなんて見たくないわよ。わたしは今これで飛びたいの。わたしがこんなに頼んでいるのよ?やってくれても良いでしょう」
「まだ塗装面が落ち着いていないのです。今触ると塗装がダメになってしまうから、明日と申し上げてます」
「塗装がダメに・・・むう・・・じゃあ、他ので良いから飛んでみたいわ。乗せてくれるんでしょう?」
「はい、それでしたら。じゃあ、倉庫にありますので、移動しましょう」

倉庫から一号機を出して組み立てている間、キュルケは少し奥に置いてあった風防を見つけて勝手に持ち出して来た。

「じゃあ、準備が出来たから・・・あの、それは製品に使用する部品ですから、触らないでいただきたいです」
「こんな透明なガラス、見たこと無いわ。全然色がついて無いじゃない。軽いし、綺麗に曲がっているし。ねえ、これ頂戴?」
「いえ、それは数があまりないので・・・」
「わたしの部屋の東の窓にこれをはめ込んで景色を眺められる様にしたら、とてもすてきだと思うの。ねえ、いいでしょう?」
「ええと・・・」

 頭の上に風防をかぶる様にして持ち、にこにこと笑いながらも全く折れる気配もなくねだってくる。
これが我が儘なお嬢様というやつか!と驚きながらもウォルフはだんだん断るのが面倒くさくなってきた。なにせ相手は全く交渉という物をする気配がない。

「わたしのことをキュルケって呼んで良いわ。わたしもあなたのことをウォルフって呼ぶから。友達になりましょうよ。友達だったらこれくらいくれてもいいでしょう」
「はあ・・・分かりました。一つだけなら構いませんので、お持ち下さい」
「ありがとう、ウォルフ。あなたの気持ちはありがたく頂くわ。友情ってホント素敵ね。でもねウォルフ、窓って左右に二つある物なのよ」
「・・・・・」

 結局ウォルフは風防を二つキュルケに提供することになった。ジャイアンに出会ったのび太の気分を味わいつつ、たかりから始まる友情なんて有るのだろうかとぼんやり考えた。








2-5    フライング・キュルケ



「じゃあ、前の席に乗り込んで下さい。『レビテーション』は使えますか?」
「勿論よ、わたしもう系統魔法も使えるのよ?」

 不満そうにウォルフを一睨みしてキュルケがグライダーに乗り込もうとするが、デトレフが待ったをかけた。

「ちょっと待って下さい。これは二人乗りじゃないですか。私はお嬢様のそばを離れるわけには行きません。ウォルフ殿、私が操縦しますからちょっと教えて下さい」
「え・・・・」

 あくまで護衛としての責任感から言っている様だが、ウォルフには見える。最初の急降下に驚いて、グライダーを捨てて外に飛び出す二人の姿が。
操縦する者を失った、愛するグライダーが地面に激突して粉々になる様まで思い浮かべてしまい、あわてて反対する。

「いや、そんなちょっと教えただけで操縦なんて出来ませんし、させられません。どうしてもと言うのなら今日はお嬢様は諦めて下さい」
「キュルケって呼びなさいって言ったでしょう。何でわたしが諦めるのよ?友達と二人でちょっと出かける位良いじゃない。どうしてもって言うなら、あなた『フライ』で付いてきなさいよ」
「いえ、お嬢様私は土メイジして、『フライ』はちょっと・・・」
「何よ、情けないわねえ・・・じゃあグライダーの上に跨って乗るとか」
「それはこっちがご遠慮いただきたいです」

 暫く揉めたが結局デトレフが折れ、ウォルフとキュルケの二人でのフライトとなった。

「ふうん、これで操縦するのね。竜を操るのとは大分勝手が違いそうね」

 滑空するのを待ちきれないのか、キュルケは風石を使って上昇する機内でガチャガチャと操縦桿をいじっている。前席のはワイヤを外しているのでいじっても問題はない。
急降下することは伝えてあるので驚いたりはしないだろう。辺境伯のお嬢さんに犬神家の呪いを起こすわけにはいかない。

「あら、随分高い所まで来たわねえ。竜籠ではこんな高さまでは来ないわ。あ、ウチのお城が見える!」
「じゃあ、そろそろ滑空を開始します。最初は速度を上げるために落っこちますけど驚かないで下さい」
「はいはい、さっき言っていたやつねーーーーきゃあああーー」

 分かっていても驚いたみたいだが、水平飛行に移ったらケラケラと笑っていた。

「あはははは今の凄く楽しいわね、ね、ね、もう一回やってよ、もう一回」
「分かりました。ちょっと上昇しますから待って下さい」

上昇気流を捉え、くるくると旋回しながら高度を上げていく。その間もキュルケはずっと楽しそうだった。

「すごいじゃない、どんどん高く上がっていくわ!本当に風石を使ってないの?」
「ここは上向きに風が吹いている場所だから、その風に乗っているだけなんです。じゃあ、そろそろ降下しまーす」

 そう告げると上昇気流から外れ、操縦桿を倒して一気に機体を下に向ける。その感覚はまさにジェットコースターの落っこちる瞬間と同じものでキュルケはまたけたたましい悲鳴を上げた。

「きゃーーーあ、落ちるぅーーあはははははh」

 キュルケがあまりにも楽しそうなので、ホストであるウォルフとしても嬉しくなりその後も頼まれるまま急降下を繰り返した。
十回程も急降下と上昇を繰り返したのだが、だんだんと日が傾いて上昇気流が弱くなってきた。ふと気付くと結構な時間が経っていたのでもう帰ることをキュルケに告げる。

「じゃあこれで最後にします。デトレフさんも待っているし、工場に帰りましょう」
「えー、まだいいじゃなーい。デトレムなんて待たせとけばいいわよ」
「上昇気流、上向きの風が弱くなったから、もう降りるしかないんです。グライダーは自然の力を利用しているから、いつでもどこでも好きな様に飛べる訳じゃないんです」

風石の力を使えば何時でも飛べるわけだが、それにはコストがかかるしもう十分に遊んだだろう。

「んー、じゃあ、お城まで飛んで連れて行ってよ。お母様に飛んでいる所を見せたいわ」
「うーん、いきなり城に行っても大丈夫かな。これ、一応アルビオンの船籍なんだけど」
「今日はわたしがウォルフの所に行っているって知ってるから大丈夫よ。グライダーで帰ってくるかもって言っておいたし」
「はあ、分かったよ。君には勝てそうにないや」
「そうそう、大分口調がこなれてきたわね。あなたの歳で敬語なんて、似合ってないわよ?」
「・・・・・」
「あら?もしかして気にしてた?でも、きゃあああー」

 悪戯っぽい笑顔で後ろを振り返るキュルケに対し、ウォルフは無言で急降下をさせて黙らせた。深めの降下角度を維持したまま城へと向かう。上空から一気に降りたので城までは十分とかからなかった。
キュルケはずっと席から乗り出して外を見ていて、見慣れた景色が高速で通り過ぎるのを楽しんでいた。

「もうお城だわ、速いわねえ・・・このままぐるっとお城の周りを回って頂戴」
「はいはい、仰せのままに」

城からは竜騎士が二騎飛び立ってきたが、キュルケの姿を認めると横に並んで一緒に城の周りを旋回した。

「お母様見てくれたかしら。じゃあもういいわ、中庭に着陸して。わたし帰るわ」
「えーと、デトレフさん待ってると思うんだけど、あっちに帰らなくても良いの?」
「何でわざわざあんな所まで戻らなくちゃいけないの?わたしの家はここなのよ。デトレムには忘れないであのガラスを二枚持って帰ってくる様に言っておいてね?」
「・・・伝えておきます。それと、あの人の名前はデトレフです」
「あら、間違えちゃった?とにかくちゃんと伝えてね」

 指示通りに中庭に着陸し、キュルケを下ろす。キュルケの母だという女性にお茶に誘われたが、用があるからと断って帰った。デトレフが気の毒すぎる。
帰りの機中でぐったりと疲れを感じながらキュルケのことを思い返す。肌や髪の色以外は父親にはあまり似ず超美人である母親によく似た容姿で将来は相当な美人になるのであろうが、燃えさかる炎の様に自由奔放な少女だった。
ウォルフも生まれてからこっち随分と両親には我が儘を通してきたと思っていたが、初めて会った他人にあそこまで通せる彼女には大分負ける。
オレもまだまだだな、などと呟きながらデトレフの待つ工場へと降下していった。

「ウ、ウォルフ殿、お嬢様はどうなされた?」
「えーと、お城で降りました。風防のアクリルガラスを忘れずに持って帰ってこいとのことです」

 着陸するなり走り寄ってきたデトレフはウォルフの言葉を聞くとがっくりと膝をついた。
暫くすると立ち上がり、黙って膝を払い荷物を取ってラウラに包んで貰った風防を頭の上に持ち、「お嬢様ーーっ!」と叫びながら挨拶もせずに走り去った。

「ウォルフ様、お帰りなさい。大変でしたねぇ」
「ああ、ラウラただいま。大貴族ってのは凄いな」
「全然帰ってこないからあのデトレフって人ずーっとぐるぐる中庭で歩き回りながら文句言ってました」
「まあ色々気苦労も多いんだろう、同情するよ」

 ラウラと一緒にグライダーを倉庫にしまう。結局午後一杯遊んでしまった。

「でも良いんですか?あんなに秘薬とか全部あげちゃって。ウォルフ様グライダー作るのにあんまりお金はかかって無いって言ってたんだから、真似されて安いのを売り出されちゃうんじゃないですか?」
「真似出来るならすればいいんだよ。ハルケギニアのメイジがFRP作れるって言うならそれはそれでオレの勝利だな」
「何でですか!普通そういうのは秘伝、とか門外不出とか言って隠すものですよ?」
「技術ってのは普遍性を持ってこそ意味のある物なんだよ。オレだけにしか使えない技術なんてオレが死んだらそこまでだろう?オレにはハルケギニアのメイジにどうやって教えたらいいのか分からないから、自分で分かる様になるって言うなら頑張ってくれって感じだよ」
「・・・絶対に真似なんて出来ないだろうって事ですか?」
「いや、そう言う事じゃないから。オレはたまたまこれの作り方を思いついたけど、他のメイジがこれを作れる様になる方法を今のところ考えつかない。だったら他の人にも考えて貰ってなんか良い方法が見つけてくれたらいいなって事だよ」
「ええー?ウォルフ様が思いつかないようなこと考えつく人が居るって言うんですか?」
「当たり前だろ、お前、オレのこと何だって思ってるんだ」
「えっと・・・凄い、変人?」
「・・・お前がオレのことをどう思っているのかはよく分かった。まあ、グライダー界のナンバーワンの座を譲るつもりはないけど、オンリーワンじゃなくても良いだろうって事だよ」

 今飛んできた空を見上げ、ウォルフはハルケギニアの空を様々な色・形をしたグライダーが飛び交っている様を想像する。高級機から廉価機まで多様なメーカー製のグライダーが飛んでいて、それはウォルフのグライダーのみが飛んでいる空よりもずっと楽しそうだった。



 その夜、ツェルプストー辺境伯は難しい顔をしながらデトレフの報告を受けていた。
最初はグライダーを作っている秘薬を手に入れたと聞いて喜んでいたが、ウォルフがそれを全く隠そうとする気配を見せず提供したと聞いて驚いた。
デトレフによればウォルフは聞いたことには何でも親切に答えてくれ、おみやげもこちら側が言い出す前に用意していたし、当初くれる予定はなかったらしい風防もキュルケがしつこくねだったらくれたらしい。
グライダーに乗った時にその透明度と曲面に加工されていることは知っていたが、持ってみてその軽さに驚いた。土メイジであるデトレフによればガラスではなく、樹脂だそうだ。
"君にも出来る!FRP入門"という冊子を読みながら思わず舌打ちをする。せっかくの新技術だというのにあの子供は嬉々として他領のスパイにも教えてしまいそうだ。

「で、どうだ。お前はこれを作れそうか?」

今、城にいる中では一番優秀な土メイジであるデトレフに尋ねる。後でボルクリンゲンの製鉄所にいるスクウェアの土メイジにも聞いてみるつもりだ。

「ガラスの心材の方はウォルフ殿に詳しく教えていただいたので秘薬屋か鉱山で鉱石を手に入れられれば出来るかも知れません。樹脂の方は全く見たこともない物質ですので、今すぐには無理です。ただこちらもウォルフ殿に教えていただいたので詳しく研究すれば、あるいは」
「出来るというのか?一体何を教わったと言うんだ」

いらいらしながら尋ねる。情報を手に入れた嬉しさよりもウォルフの無警戒ぶりに腹が立つ。

「コークスを作る時に出るガスがとても近い物質だというのです。今は燃やして捨ててしまっていますが、それが利用出来るのなら僥倖ですな」
「ううむ、そんなものから・・・これはエインズワースにあの子供をちゃんと管理する様に言うべきだな」
「はい。わたしがツェルプストーの者だったからかと思ったんですが、そうでもなく誰にでも隠す気は全くない様でしたからちょっと注意した方が良いかもしれませんね」
「とりあえずあの工場に向かう道を監視する様に警備隊に連絡しろ。関係者以外が行かない様に隠れて封鎖するんだ。確か一本道だったからやりやすいだろう」
「かしこまりました」

 デトレフが下がった執務室でツェルプストー辺境伯は一人考え込んでいた。グライダーの基幹技術と思えるFRPの材料および成型方法についてこんなに簡単に教えてしまうという事はウォルフがこの技術を大したことではないと判断しているのかも知れない。
もしかしたら他に何か重要な技術を隠しているのかも知れない。そんな疑心暗鬼にとらわれかけ、チッと舌を鳴らしてその考えを打ち切った。
ガンダーラ商会からの連絡によれば今週中に発注した二機とも納品される予定なので、どんな技術で作られているのかなどそれを研究すればいいことなのだ。ゲルマニアの技術力を持ってすればあんな子供が開発した物などあっという間に分析出来るだろう。
ウォルフは手元にいるし、ガンダーラ商会も充分にツェルプストーとの関係は深い。たとえウォルフが何を考えていようと心配する様なことはなく、技術が流出しないようにだけ気をつけていればいいのだ。
ツェルプストー辺境伯は持っていた書類を隅に押しやると、一瞬よぎった不安に似た感情を打ち消すかの様に次の案件に取りかかった。



 ウォルフはその週、予定通りフォン・ツェルプストーにグライダーを二機納品し、アルビオン政府に納める分もフネに乗せて出荷した。キュルケがねだった成果か、ツェルプストーからは更に一機追加の注文が入った。今度も同じように真っ赤な機体とのことだ。
ラウラの訓練をしつつ、デトレフともう一人ツェルプストーからのパイロット候補に操縦を教えたりしながらすごした。
工場では順調にグライダーの生産を続け、週に三、四機のペースで完成させていき一月後には最初の受注分を全て納品することが出来た。その後もポツポツと注文が入ってきているのでこのまま生産を続けるつもりだ。
工員も大分作業に慣れ、その中から自然とリーダーになる人間も現れたのでその一番年かさの女性を工場長代理に任命し、ウォルフは一度アルビオンに戻ることにした。大分資材が心許なくなって来たのだ。

「じゃあ、みんなあとはよろしく。グライダーの部品が無くなったらまたバケツでも作っていてくれ。ラウラも頑張って教官をやれよ!」
「「「はい!お任せ下さい!」」」

 一ヶ月程の訓練期間だが毎日、最後の方はそれこそ朝から晩まで飛んでいたため、ラウラは普通にグライダーを飛ばせる様になっていた。
初めて一人で飛んだ時は緊張していた様だが、元々風石があるために本来一番危険な着陸が安全に出来るのし、グライダーの操縦はそんなに難しくはない。
操作は結局慣れるしかない物だし、上昇気流の見つけ方などは自分で学ぶしかないが、ラウラはもうそのコツを掴んだ様なので今回ウォルフが帰国中、顧客の操縦訓練を任せることになった。
以前に操縦を教えた商館員達二人も暇を見ては訓練をし、大分うまくなったのでこの二人とラウラで今後顧客と教官候補の操縦訓練を行っていくのだ。
貴族相手に平民だけで教えていくことになるので不安と言えば不安だが、あくまで顧客サービスの一環であり、五月蠅いことを言う客には教本だけ渡して追い返して良いと言ってあるので何とかなるだろう。

「えーと、本日の訓練予定は・・・おっと、フォン・ツェルプストーのお嬢様ですね。気合いを入れていきましょう!」
「「はい!」」

 ガリア生まれの平民の少女・ラウラは生まれ故郷のヤカから遠く離れたゲルマニアの地で生き生きと働き始めた。



[33077] 第二章 6~11
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:23


2-6    些事が万事



 アルビオンに着いたらもう夕方だったのでチェスターの工場に行くのは明日にしてシティオブサウスゴータに着陸する。
着陸場所はサウスゴータの城壁の外にガンダーラが商会が設置した空港である。結局ド・モルガン家や商館の場所だと住居が密集しているとのことで設置の許可が下りず、竜駅の隣に新たに作った。この施設はガンダーラ商会専用ではなく、グライダー所有者なら料金を払えば利用できるし駐機しておける格納庫を備えている。
今はまだアルビオンではサウスゴータとロンディニウムにしか設置していないが、いずれはもっと増やすつもりである。
ウォルフは久しぶりにサウスゴータに帰ったのであるが、またもややることが山積していて思わず目が眩みそうだった。

・グライダーの部品と樹脂などの資材を揃えてボルクリンゲンの工場に送る
・各種の樹脂を量産するための研究を本格化させる
・グラスファイバーをより効率的に生産する機械の開発
・外注に出しているセグロッドのパーツの内製化←これは今は後回しにしたい
・新型の速度重視型やより大型のグライダーの開発←これはちょっと後回しにしてもOK
・工場の電源のメンテナンス
・工場の整備・機械工訓練生達が作った旋盤のチェック
・同じく訓練生達が作った自動織機の改良
・機械工達の仕事を作るために馬無しの馬車(自動車)の開発
・飛行機や自動車の動力となる内燃機関の開発
・マチルダがいなくなった商会のチェック
・学校の子供達やサラへの教育←会わないことが多くなり特にサラへの教育が遅れがち
・タレーズの追加生産をまた頼まれている

家に向かいながら飛行中にリストアップしていたメモを見返したのだが、何から手を付けたらいい物やら悩む。

「ウォルフ様!」
「うおっ」

メモを見ながらド・モルガン家の門をくぐろうとして中から飛び出してきたサラとぶつかりそうになった。

「よう、サラ久しぶり!元気にしてた?」
「久しぶりじゃありませんよ!ふらふらといなくなって全然帰ってこないんだから!」
「おお、元気そうだな。暫くはまたこっちにいるからよろしく」
「ここがウォルフ様の家なんだからここにいるのが当たり前なんです!」
「そりゃそうだな」

なんか怒っているサラを宥めながら一緒に母屋へ向かう。ウォルフはいくら怒られてもサラがどこか嬉しそうにしているので全く堪えなかった。

「で、学校とか商会は順調?マチ姉いなくなったけど」
「もう・・・学校は順調です。商会もちょっと活気が無くなった気はしますが問題はありません。フリオさんが遠話の魔法具を持たされちゃったんでどこにいてもマチルダ様から指示が来て大変だと嘆いていました」
「フリオもこれで少しは真面目になるのかなあ・・・政府へのグライダーの納品は問題なかった?」
「はい。カルロさんが行ったんですけどグライダーと取扱説明書だけ渡してさっさと帰ってきたらしいです」
「うわ、説明とかしてないの?」
「説明しようとしたらしいんですけど、役人の方が平民に教わるようなことはないって態度だったらしいんでそのまま放って帰ってきたらしいです」
「ふう、やれやれだな。まあそんなに操縦が難しい訳じゃないから大丈夫かな」

 商会には特に問題がないようなのを確認し母屋へと入る。母・エルビラがいたので挨拶すると、家に帰ってこなかったことをなじられた。
しかしグライダーの工場をゲルマニアに造ってしまったからにはある程度ウォルフが行ってないと話にならないので、なんとかエルビラに納得して貰う。もっと頻繁に連絡を入れる事を約束させられたが。
 他の家族の反応は、兄・クリフォードはマチルダがいなくなってしまったのが寂しいのか少し元気が無くあまり話はしなかったが、父・ニコラスはグライダーに興味を持っているようで、夕食時に色々と質問してきた。「まあ、竜の方が強いし速いな」と結論づけていたが、運用コストや誰でも乗れるということは評価してくれた。
父からの小言はあまりなく、貴族である事を忘れずに行動するようにと言う位だった。
 夜にはサラの勉強をみっちり見てやり、少し遅れていた分を取り戻した。



 翌日まずはチェスターの工場に行ってみると何故か人が多くその中で巨大な機械が稼働していた。

「ウォルフ様お帰りなさい。どうですかあれ。時間があったんでリナが設計してみんなで作ったんですよ」

 入り口近くにいた機械工のトムが声をかけてきた。ウォルフはそれに適当に返事を返しその機械を観察する。
それは巨大な自動織機だった。ウォルフがゲルマニアに行く前に作るように指示したのはガラス繊維を織る為の六十サント幅の物だったが、今稼働しているのは二メイル幅の布を織り上げていた。
しかも染色された糸を使って模様を織っており、ハルケギニアでは画期的な機械になっていた。
確かに結構前に紙型をつかって模様を織る自動織機の話をしたことはあったが、まさかこんな短期間で実現してしまうとは思っても見なかった。魔法も無しに一ヶ月ほどでこんなのを開発するなんてウォルフ的には非常識だ。

「あ、ウォルフ様帰ってきた!見て下さいよ、前に言っていた紙型で模様を織る機械出来ましたよ!」
「おお、見た。すごいな、お前」

 まだ十三歳の分際でこんな機械をこともなげに設計してしまうとは恐れ入る。詳しく聞くと大分前からパーツなどを色々試作したりして構想は練っていたらしいのだがそれにしてもである。
へへっ、と鼻の下を指でこするリナを見るととてもそうとは見えないが、間違いなく天才なんだろうと思う。
 工場内にはリナ達機械工以外にも多く人が居て、その人達はこの機械を導入検討している織物工場の人らしくカルロがついて説明をしている。
リナはそこから抜け出してきたのだがそのままウォルフを引っ張って機械の所まで行き色々と説明する。糸の角度や保持する方法が大事らしい。

「ゴーレムが必要な工程が結構ありそうなんだけど、オレがいないでどうやって作ったの?」
「マチルダ様やクリフォード様が手伝って下さいましたし、あとカルロさんが土メイジの方を雇って下さいました。今日はまだ来ていませんが、準男爵の奥様がパートタイムでこちらに通って下さってます」
「それはいいな。あと、これってモーターじゃないよね、動力は何使っているの?」
「電力だとウォルフ様がいないと大変そうなので水車と補助でウォルフ様の試作した風石の出力盤を使って回しています。これならよその人も導入しやすいかなって思って」
「うーん、確かに。これは売れそうだなあ。そういえばオレが頼んだやつはもう出来た?」
「出来ました・・・けど、こっちで得たノウハウをフィードバックしたいから少し作り直したいです。こっちじゃなくて機械加工室にありますよ」
「ああ、任せるよ。なんかもうオレより詳しそうだ」
「ほい!お任せ下さい」

リナはニパッと笑って嬉しそうに返事をした。ウォルフはそのままカルロに目で挨拶をして旋盤のある機械加工室に移動し、新しく作られた旋盤をチェックした。計四台有るそれらはどれも高い精度を持ち、問題なく使用出来る物だった。

「よし、全部OKだ。お前等四人全員訓練生卒業だ」
「うほーい!で、卒業すると何が変わるんですか?」
「給料だな。一人月二十エキューにアップだ。あの織機が売れたらリナはもっとアップだ」
「いやっほー!」

 リナ達は手を叩いて喜んでいるが、ウォルフも嬉しい気分だった。機械加工に更に習熟させる為にどんどん仕事をさせたかったのだが、織機が何台も売れるようなら暫く工場は忙しくなるだろうから自動車の開発は急がなくても良くなる。そう考えると一気に山積していた問題が片付けやすそうな気がしてきた。
話しながらバッテリー室もチェックするが、こちらはまだ手を入れないでも大丈夫そうだった。

「よし!どんどん片付けていこう!リナ、グライダーのパーツはどの位作った?」
「ほ、ほい、あたし達が作れるのはちょうど五十機分作ってあります。あとはウォルフ様の分です」
「いよっし!まかせとけ、がんがん作るぞー」

やる気が出てきたので頑張って『練金』する。ウォルフの性格上新しい物の研究や開発が大好きなので早くそっちに取りかかれそうになったのは嬉しい事だった。

 一週間後には全ての資材が揃い、ボルクリンゲンに送ることが出来た。
この間のウォルフの生活は朝起きて工場に出勤し、一日働き夕方帰宅、夕食後はサラに勉強を教えながら製図というサイクルで、ジャパニーズビジネスマンのように働きまくっていた。
ガラス繊維を紡糸する機械も改良され、一度の運転で大量のガラス繊維を得ることが出来るようになった。織機も順調に稼働し、今回からガラスマットからガラスクロスに変更となる。工員は勝手が違って大変だろうけどこちらの方が強度が出るので慣れて貰うしかない。
リナの織機は四台注文が入り、工場はその生産で大忙しである。クロムやニッケルなどのメッキ液の消費も増え、これの量産も何とかしなくてはならない問題だ。廃液を処理しないわけにはいかないので、結構ウォルフの負担になっている。
樹脂の量産のためのプラント、エタノールを醸造するための設備や蒸留機などの設計もした。エタノールやアセトンの原料として廃糖蜜をガリアやゲルマニアから輸入するようにカルロに頼んだのでそれが届けばいよいよ魔法を使わない樹脂の量産を始めることになる。
 これまでの研究でアクリル樹脂、ポリエステル樹脂、アクリルウレタン塗料など大体のところは生産出来る目処は立っているので、あとは大きい規模で同じ事が出来るようにする事と、原料であるベンゼンやトルエンを得るためジャコモ商会と交渉し、コークス炉ガスを利用出来るようになる必要がある。

「じゃあ、また行ってくるから。今度は割と早く帰ってくると思うからよろしく」
「もう、帰ってきたと思ったらいなくなっちゃうんだから・・・」
「お任せ下さい。設計図貰った分は急いで作ります」

 今度の出張は一度ボルクリンゲンに行って工員に新しいガラスクロスでの製造を指導してからアルビオンに戻り、ダータルネスからリンブルーのジャコモ商会の炭坑に行くつもりだ。
リンブルーは同じ国内なので自由にグライダーで飛べるし、距離も三百リーグも離れていないのでしょっちゅう帰ってくるつもりでいる。

 ウォルフは三日程ボルクリンゲンに滞在して工員達に指導して新しい部品のチェックもすませ、リナ達飛行訓練官の様子も確認するとすぐにアルビオンに戻り直接リンブルーのジャコモ商会の炭坑へ向かった。

「ド・モルガン様、お久しぶりでございます。あれがグライダーですか!なかなか便利そうですなあ」
「ああ、ジャコモ久しぶり。やっと完成したよ。どう?一機買ってみない?」

炭坑の事務所で出迎えたジャコモに挨拶をする。まだ会うのは三回目位だが、何故か気楽にはなせる相手だ。

「便利そうな物ですが、今は商売の方にお金がかかってなかなか余裕が・・・」
「結構稼いでるくせに。まだまだ儲ける気なんだ」
「いえいえ、滅相もない。私なんてまだまだですよ。・・・ところで本日はどのような御用でしょうか、なんでも実験に協力して欲しいとのことでしたが」
「前来た時も言ったけど、コークス炉ガスを有効利用出来ないかと思ってね。今は全部燃やしてしまっているんだろ?燃料として利用もせずに」
「あのガスは硫黄が強いので難しいのですよ。何せ釜に『固定化』をかけていてもどんどん腐食してしまう程で・・・定期的にメイジに頼んだりするとコストが跳ね上がりますので今はタールを取ったら全て燃やしてしまっています」
「その硫黄を取り除くのが先に送った装置だよ。ちょっと色々実験させてくれ」
「・・・気楽に言いますな。それはゲルマニアの最新技術を持ってしてもまだ実用化はしていない技術ですぞ」
「ふふん、ゲルマニアの技術が常に世界最新だと思うなよ。で、どうなんだ?協力するのかしないのか」
「協力はしますよ。本当にそんなことが出来るのか、お手並み拝見ですな」

挑発的な態度を取るジャコモに対し、にやりと不敵な笑みを見せて作業にかかる。この工程が成功したら一気に樹脂の量産への道が開けるので気合いは十分だ。

 ジャコモに宛がわれたスペースに屋根をかけ倉庫から事前に送っておいた実験用の装置を取り出し組み立てる。この装置はコークスを賦活して活性炭とした活性コークスにガス中の硫黄分や窒素化合物を吸着させて取り除くという物だ。
すでにここから持ち帰ったガスでは成功していたが今回初めて現場での実験となる。ジャコモが助手を一人付けてくれたので一緒に事務所に泊まり込んで作業を続け、水やアンモニア水を加えて効率よく不要物を排除する方法を確立した。
さらに三日目には新たにリナ達から送られてきた分留装置を接続し、硫黄が取り除かれたタール、ベンゼン・トルエン・キシレンなどを含む軽油類、それに水素とメタンを主成分とするガスを得る事に成功した。

「ジャコモ、脱硫装置が完成したぞ!見に来てくれ」
「ええ?本当ですか!まだ五日しか経っていませんよ?」
「嘘ついてどうする。確認のために土メイジも連れてきてくれ」
「は、はいー」

取り敢えず一番欲しいベンゼンの生産が行えそうになったので、ジャコモに確認させたら一度サウスゴータへ帰ることにする。タールを精製したらナフタレンやクレオソート等色々有用な物も生産出来るが、今は興味がないので放っておく。
ジャコモの連れてきた土メイジが分留後燃やしているガスに硫黄が含まれていないことを確認し、呆然とするジャコモ商会の面々に自慢する。

「どうよ!ガンダーラ商会の技術力なめんなってとこだろ。そのガスはもう燃料に使っても釜が傷むことはないから」
「は、はあ、確かに」 
「で、これらの軽油類はうちが買い取るから一定数溜まったらチェスターの方に送ってくれ」
「あ、あの、ド・モルガン様」
「ん?」
「なんでこんな技術をウチに教えちゃうんですか?ガンダーラ商会の財力なら自分で炭坑買って作っちゃった方がコスト的にも機密保持にも良いと思うんですが」
「一から炭坑開発なんて大変じゃないか。やることがいっぱいあって忙しいんだよ。それに・・・買ってくれるんだろ?この脱硫装置」
「はい、それはもちろん!」

ジャコモは恐縮しているが、装置としては活性炭を利用しただけの物でどうと言う程の物ではないし、肝心のコークスを水蒸気賦活して活性コークスにする設備はチェスターにあるので機密にする程の物は持ってきていなかった。
使用済みの活性コークスを再生する装置は持ってきているので暫くは必要ないと思うが、将来消費した分の活性コークスをお買い上げ頂ければガンダーラ商会としても継続して利益をあげることが出来る。

「じゃあ、値段とかはカルロと相談してくれ。詳しい使い方はこのトーマス君に全部教え込んだから聞いてくれ。オレは帰るから」
「オス!まかせて下さい!バッチリ覚えました」
「お疲れ様でした」

来た時とは異なって大分良くなった扱いに満足してグライダーに乗り込み、チェスターに向けて出発した。グライダーには炉ガスから精製したベンゼンとトルエンを積んであり、工場に着いたらこれとエタノールなどを使って不飽和ポリエステル樹脂を魔法抜きで作ってみるつもりだ。


 チェスターの上空まで来ると、工場の中庭にツェルプストーに納品した真っ赤なグライダーが三機駐まっているのが見えた。
もの凄く嫌な予感とともに自分のグライダーも着陸させ、勇気を出して工場の中に入っていった。

「あら、ウォルフちょうど良かったわ。この子、何言っても話が通じなくて困っていた所なの」
「ウォルフ様お帰りなさい!この人何とかして下さいー。ダメだって言っても無理矢理機械加工室に入ろうとするんです!」

予感は当たり、工場の内部では機械加工室の扉の前で無理矢理中に入ろうとするキュルケとそれを押しとどめようとするリナや警備員達とが押し合いをしている所だった。デトレフ達護衛と見られるツェルプストー側の人間は後ろの方で申し訳なさそうにしている。

「やあ、キュルケ様お久しぶりです、アルビオンへようこそ。その部屋はガンダーラ商会の機密事項となっていますので部外者の方にはご遠慮願っております」
「なによ、連れないわねえ。ちょっと見せてくれるくらい良いじゃない、友達なんだから」
「ご遠慮願います、と申しました」

 ウォルフが重ねて言う。
 実際の所は一番見られたくないのは白金イリジウム合金製の定盤や同素材のノギスなどノリで作ってしまった無駄に豪華な測定機器で、それらを隠してしまえば他は別に見られても良いかなとも思っていたが、一応機密と言うことにしていたしその言いつけを守って頑張ったリナや警備員達の手前キュルケを入れるわけにはいかなかった。
それにキュルケにはどこかで線を引かなくちゃならないと思っていたのでちょうど良いと判断した。

「ちょ、ちょっと。ここってウチが出資しているんでしょう?だったらわたしだって部外者って訳じゃないじゃない」
「出資して頂いているのはツェルプストー辺境伯です、あなたではありません。辺境伯ご自身から正式に要望があれば公開することも検討しましょう。それまでは機密保持のためこれまで通り非公開とします」

 はっきりと子供扱いされキュルケは絶句する。フォン・ツェルプストーに出入りする商人や取り入ろうとする貴族に物を強請って断られたのは初めてだ。
しかしすぐに不敵な笑みを浮かべウォルフのことを観察する様に見やる。ダークブラウンの髪に深緑の瞳、年相応の背に子供らしく細い手足。美少年といえるかも知れないがハルケギニアではどこにでもゴロゴロ居そうな、そんな少年である。しかし、どこまでも深い泉のようなエメラルド色の瞳はキュルケにその考えを読ませなかった。
前回何でも言うことを聞いてくれたのでそう言う類の人間かと思っていたが、どうやら少し違うのかも知れない。

「ふうん、面白いじゃない。ちょっとこの中の物に興味が出てきたわ」
「興味が出てきたって・・・興味があるから中を見たかったんじゃないんですか」
「別にー?そこの子がここは入っちゃダメって言うから入りたくなっただけよ」
「・・・・・」

リナは隣であんぐりと口を開けてしまっているし、ウォルフも何だか頭が痛くなってきた。

「とにかく、そこは今のところ公開する気はないので諦めて下さい」
「うーん、でも気になるわー・・・そうだ!ウォルフ、あなたわたしと魔法で試合しなさい。それでわたしが勝ったらその中に入れなさいよ」

良い案でしょ、と笑顔を向けてくるがウォルフにはそれのどこが良い案なのか理解出来ない。

「お断りします。その試合を受けることは私にとって何のメリットもありません」
「え?・・・うーん、ウォルフが勝ったらほっぺにキスしてあげるっていうのは・・」
「必要ないです」
「そ、そうよね・・・うーん」

 キュルケがウォルフについて知っていることはグライダーを開発した天才少年、ということだけだ。彼がどのような物を欲しているのか分からないために適当な対価を考えつかない。
彼女にしては結構悩み、その結果考えることを放棄した。元々気は長くないのだ。

「分かったわ、その部屋に入るのは諦めてあげる・・・その代わりあなたわたしと試合しなさい。諦めてあげるって言ってるんだから、それくらいはしてくれるわよね?」

そう言って杖を構え、ニイと笑う。話している内にデトレフが散々メイジとしても天才だと言っていたウォルフと決闘するのが楽しそうに思えてきたのだ。キュルケは目的を達成するためには手段を選ばない事をモットーとしているが、目的だって選んでいるわけではない。

「その代わりって何の代わりだよ・・・お断りしますよ。もし試合であなたに怪我でもさせたら辺境伯に申し訳が立たないでしょう」
「あら、フォン・ツェルプストーを舐めないでくださる?代々軍人の家系よ、たとえ命を落としたとしても決闘の結果なら誰も文句なんか言わないわ」
「はあ・・・じゃあ、その試合・・・決闘で私が勝ったら今後わたしに権限がある場所で、私がダメと言った時は一度で了承してもらえますか?」
「フフ、あなたが勝てたらね?もちろんいいわよ」
「分かりました、お相手しましょう。デトレフさん、立会人をお願いします」
「は、はい。や、ウォルフ殿何とも、その」
「ああ、気にしないで良いですよ」

 我が儘な小娘に躾をするのも大人の義務だと覚悟し、そのままキュルケ達と中庭へ移動する。ウォルフはまだ八歳ではあるが。
リナ達には心配しないように伝えて仕事に戻らせ、駐まっているグライダーを屋内に片付けるとキュルケと相対した。その二人の間で神妙な顔をしたデトレフが決闘の始まりを宣言する。

「それでは、これよりキュルケ様とウォルフ殿の決闘を始めます。決闘と言っても模擬試合ですからお互いに殺傷するような魔法は控えるようにお願いします」
「うふふ、もちろん殺したりはしないつもりだけど、火傷くらいは我慢してね?わたし火メイジだから」
「気をつけます」
「それでは、お互いに名乗りを上げて始めて下さい」

そう言って自身は二人から離れる。キュルケとウォルフとの距離はおよそ十メイル、ウォルフにとっては何時でも魔法を当てられそうに感じる距離だ。

「キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーよ、二つ名はまだ決めていないわ。ゲルマニアの情熱溢れる火を見せてあげる」
「はあー・・・ウォルフ・ライエ・ド・モルガンだ。二つ名は・・・まだ無い」

 以前マチルダにつけられた"モグラ"という二つ名が頭をよぎるがそんなのは認めていないので名乗らなかった。二つ名というのは自分で考える物なのだろうか、それとも他人がつける物なのだろうか。

「じゃあ、いくわよ?いきなり終わったりしないでね?《フレイム・ボール》!」
「《土の壁》」

『フレイム・ボール』はラインスペルだ。巨大で大量の熱を有した炎の玉が高速でウォルフに襲いかかるがウォルフは全く慌てずに『土の壁』で防ぐ。別に何の壁でもいいし、『炎の壁』の方が効率は良いのだが、最近は火の魔法以外を主に練習しているのでつい『土の壁』で防ぐことになった。

「あら、わたしの『フレイム・ボール』をちゃんと受け止められるのね。年下の子じゃ初めてじゃないかしら」

 どうやら普通の子供相手にもこんな危険な魔法を使っているらしい。
あらためて一度きちんと躾をしてやらなくちゃならないと決意しながら使う魔法を検討する。あまり怪我をさせないで無力化出来る魔法が良い。
マチルダとやるときは『フライ』を使用して距離を取り、上空から『フレイム・バルカン』で砲撃するのが常だが、キュルケ相手にそんな戦い方をするわけには行かないだろう。

「ほらほら、そんな所に隠れても意味なんて無いわよ?《ファイヤー・ボール》!」
「《土の壁》」

正面に張った土の壁を回り込み先程よりは小さい炎の玉が複数飛んで来る。それに対応して『土の壁』を張っていたらウォルフはいつしかぐるりとほとんど壁に囲まれてしまった。

「そんな所にもぐり込んじゃって。まるでモグラね、モグラのウォルフだわ《ファイヤー・ボール》!」
「モグラ言うな。《エア・ハンマー》」
「え、《炎の壁、きゃっ!」

 モグラと言われ、ついカチンときて壁から飛び出すと同時に攻撃する。
キュルケは壁を壊そうと連続して攻撃をしていて無防備だったため、躱すことは出来なかった。キュルケの予想を遙かに超える速度で繰り出された魔法に咄嗟に出しかけた『炎の壁』を吹き飛ばされ、自身も五メイルも吹き飛び杖も落としてしまった。
適度に威力を弱めたつもりだが、それでもまだ体重の軽いキュルケに対しては充分だったようだ。多少自身の炎で髪とかは焦げているみたいだが、地面に激突する前に『レビテーション』で受け止めてあげたので殆ど怪我はしていないはずだ。
 頭を抑えて座り込むキュルケに杖を突きつけてゲームオーバーである。

「はい、おしまい。お疲れ様でした」
「くぅー・・・耳が・・・ちょ、ちょっと、ウォルフ、風って何よ!あなた土メイジじゃないの?それに今の威力、絶対にドットメイジの物じゃないでしょう!黙っているなんて狡いわ!」
「・・・土のドットだとか言った覚えは無いんですけど。軍人の家系なんでしょう?予断を戒められたことはないの?」
「う・・・」
「あー、お嬢様、今のは決闘相手に対する礼を欠いております。謝罪して下さい」

 間に入ってキュルケをたしなめるデトレフだったが、来る途中の機内でさんざんウォルフのことを優秀な土メイジだとキュルケに吹き込んでいた張本人なので気まずそうだ。

「・・・ごめん、なさい」
「どういたしまして。で、あそこの部屋以外だったら見学したいのなら案内するけど、どうする?」
「今日はもう良いわ。帰る」

 俯き気味に答えると、グライダーの方へとっとと歩いて行ってしまう。途中、自分の杖を見つけると悔しげに下唇を噛んでそれを拾った。
 キュルケはそのままグライダーに乗り込もうとするが、、慌てたのはデトレフ達だ。キュルケの我が儘にかこつけて樹脂の製造現場を視察に来ているのだ。立ち入り禁止区域はともかくとして、まだ何も見ていない。

「あああ、ウォルフ殿、申し訳ありませんが、今日はこれで。明日、明日もう一度来ますので案内をお願いしたいです」
「はい、分かりました。準備をしておきます」

 ツェルプストー一行は挨拶もそこそこに今宵の宿があるシティオブサウスゴータへと向かって飛んで行った。
ウォルフはそれを見送り、ようやく仕事に戻れそうだと安堵した。
 


 サウスゴータの中央広場に面した宿の一室で、キュルケはぼんやりと窓の下の広場を行き交う人達を見ていた。その頬を一筋の涙が流れる。
軽くひねられた。あれだけ強力な魔法を食らって無傷でいると言うことはウォルフが手加減していたのだと分かる。相手をなめてかかって、あげく手加減をされて返り討ちにされた。それはキュルケがこれまでに感じたことのない程の屈辱だった。
グイと涙を拭うとバスルームに移動し、ばしゃばしゃと顔を洗う。そして顔を上げると目の前の鏡に映る赤い髪をした少女を睨みつけた。

「いいこと?キュルケ・フォン・ツェルプストー。舐められたままで終わって良いわけはないのよ。あなたにはあの子を見返す義務があるわ」

 キュルケはこれまで自分の才能を疑ったことはなかった。疑うまでもなく自分の才能はハルケギニアトップクラスだと信じていて、その自信は今日ウォルフに負けたにもかかわらず揺らぐことはなかった。
今日負けたのは己の油断と怠慢のせいだ。ウォルフのことを勝手に土メイジだと思いこみ、負けた後で風メイジだった事を非難するなんて話にならない。
今日の決闘が実戦だったとしたら自分は死んでいる。死んだ後で文句を言うつもりなのかとその覚悟の無さに苦笑いを浮かべ、あらためて鏡の中の自分に宣言する。

「見てなさいよ。次に闘う時は絶対に全力を出させてみせる!」

静かに、しかし激しく誓うのであった。





2-7    呪文




 キュルケが帰ったその日、ウォルフは残った時間を樹脂生産プラントの組み立てに費やした。
リナ達に作らせた部品にウォルフが『練金』で作った大型の部品を組み合わせ、ポリエステルを製造するためのそれぞれの原料物質に合わせた物だ。学校から三人程このプラントの管理をさせようとスカウトしてきたので彼らに説明しながらの作業だった。
方舟で研究してた頃は投入する材料の管理、温度の調整、触媒の組成、生成物の確認と分割思考と魔法を駆使して一人で実験を行っていたものだが、このプラントは魔法を必要としないので平民でも使えるように作られている。

 翌日、完成したプラントで試運転をしている時にデトレフが約束通り訪ねてきた。

「やあ、ウォルフ殿。厚かましいかとも思いましたが、また見学させていただきに参りました」
「いらっしゃい、あれ?お一人ですか?」
「いやその、キュルケ様はロンディニウムを観光するとのことで他の護衛と一緒に朝から出かけてしまいました。私はちょっとグライダーに乗るのが苦手ですし、こちらの方が興味がありますし、昨日約束もしたので別行動となりました」

 デトレフがしどろもどろになりながら説明する。普通、護衛が自分の興味で任務から離れるなど有り得ないのだが、その辺は突っ込まないで欲しいというオ-ラを全身から出していた。
ウォルフもその辺の事情は何となく分かったのでスルーし、ちょうど時間が取れるためデトレフの相手をすることにした。

「ああ、構いませんよ。じゃあ早速ですが案内しましょう」

 先に立ち工場内を案内する。機械加工室を立ち入り禁止にしているのでそう時間はかからなかった。
デトレフは鋼管を圧延加工する機械と自動織機に興味を引かれたようで、むふーと鼻息を荒くしながら色々と詳しく質問をしてくる。

「いやしかし、これは恐ろしく精密に出来ていますな。一体どんな加工をすればこの様に出来る物やら」
「あー、その加工をあの機械加工室で行っているわけでして・・・」
「なるほど、企業秘密だというわけですな」
「まあ、そうなります」
「こちらの自動織機は今動いていますが、魔力を感じません。一体動力は何を使っているのですか?」
「裏の風車の動力を変換して使っています。アルビオンに風吹く限り動き続けられますよ」
「うーむ、すごい。これはガンダーラ商会では販売していないのですか?」
「してますよ。あちらの大型のは動力を風車から水車に交換していますが、確かメンテナンス契約込みで三万エキュー位だったと思います。私はあれの開発に携わっていないので詳しくは分かりませんが」
「さすがに良いお値段ですな。ううむ」

 デトレフはツェルプストー辺境伯から何か面白い物があったら買って帰ってこいと言われていたが、三万エキューはさすがに予算外だった。
後ろ髪を引かれながら移動し、稼働している樹脂生産プラントの前に来た。

「これがグライダーに使われている樹脂を生産する機械です。今回ようやくほぼ魔法なしの生産に目処が立ちました」
「ほほう、これが!おお、何やら稼働していますな。説明していただけますか?」
「ええ、もちろん。では左から説明していきましょう。これは主材の一つであるジカルボン酸を生成するための物で、原料はベンゼンです。あ、ベンゼンとはこの間話したコークス炉ガスから分留した物です。次は・・・」

 一つ一つの工程を簡単に説明していくが、とてもデトレフが理解出来ているとは思えなかった。
それは当然でもあるのだが一から教えるのは大変すぎるし、どのような物から出来ているのかを見るだけでいいと思って説明していた。

「・・・で、過酸化ベンゾイルを得て、硬化剤とします。以上で説明は終わりです。質問はありますか?」
「・・・全体的に何を言っているのか分からないのですが」
「まあ、初めてですからそうでしょう。要は色々な物質を混ぜたり熱したりして目的の物にしたと言うことです」
「はあ・・・」

 呆然としているデトレフを放っておいて机の上に小瓶を出し、主原料とも言えるベンゼンを注ぐ。
今はジャコモの商会で作っているが何せ石炭に対する収量が少ないので将来を考えるとゲルマニアでも生産してくれたら助かる。優れたメイジも多いみたいなので現物を見せればその内作ってくれるだろうと期待している。

「ほらデトレフさん、これがベンゼンです。これは昨日コークス炉ガスから分留したやつですよ」
「むむ、確かにこれはコークス炉ガスの中に入っている物・・・かなり純粋で不純物は少ないですね」

丹念に『ディテクトマジック』をかけながらデトレフが答える。これなら作れるかも知れないとは思うが、どうすればこれがグライダーになるのか今目の前で見ても分からない。

「あのー、ウォルフ殿。申し訳ないんですが、もう一度説明をしていただけませんか?出来ましたらベンゼンからの流れを追って、その、混ぜたり熱したりと言う所をもう少し詳しく」
「うーん、なかなか一度や二度説明した位じゃ分からないと思うので・・・」

 生成する物質とかにはウォルフが適当にハルケギニア語の名前をつけているし、触媒に使っている様々な鉱物などは今までハルケギニアでは存在すら確認されていなかった物ばかりなので説明した所で分かるはずはない。
ウォルフとしてはデトレフが同じ製法で作っても意味はない。ウォルフが話した事をヒントにしてハルケギニアのメイジとして精製して欲しかった。そしてあわよくばハルケギニアなりの化学工業が発展して化学原料を提供してくれるようになったらいいなと言う期待もある。
 色々と作りたい物があっても原料を全てウォルフ一人で調達するのは本当に大変なのだ。そう言う意味で合理的な考え方ができるゲルマニアのメイジには期待していた。

「もう一度、もう一度だけお願いします。もう少し詳しくしてもらえたら分かるような気がするのです」
「うーん・・・」

 しかし、デトレフはやはりウォルフの方法が気になるらしく諦めず粘ってくる。暫くは断ったが、結局根負けして説明することになった。

「じゃあ、一度しか説明しませんのでメモするなりして覚えて下さいよ?」
「おお、ありがとうございます!メモ、メモ・・・はい、どうぞ」

 デトレフがメモの準備をしたのを見届け、一応気を使ってゆっくりと丁寧に説明を始めた。

「えーと、まずはですね、バナジウム・モリブデン・リンなどの酸化物を触媒として高温でベンゼンと空気とを反応させて無水マレイン酸を得ます。無水マレイン酸とはマレイン酸の二個のカルボキシル基が分子内で脱水縮合したカルボン酸無水物です。次にリン酸を酸触媒担体としてベンゼンとエチレンとをアルキル化してエチルベンゼンとして、これに酸化鉄を主成分とし、カリウムやセリウム・モリブデン・タングステン・マグネシウム・クロムを微量添加した触媒を用いスチームにより熱を加えてスチレンを得ます。さらに銀を担持させたアルミナ触媒のもと高温でエチレンと酸素とを作用させてエチレンオキシドを作り、これに酸を触媒として水と反応させジエチレングリコールを得ます。ジエチレングリコールとは二分子のエチレングリコールが脱水縮合した構造を持つジオールです。ジエチレングリコールと無水マレイン酸に希釈剤兼架橋剤の役割をするスチレンを添加し主材とします。次に塩化ナトリウムを電気分解して得た塩素とトルエンとを反応させ、最後に塩化鉄を触媒として塩化ベンゾイルを作り、これに水酸化ナトリウムと過酸化水素とを加えて過酸化ベンゾイルを得てこれを硬化剤とします。過酸化水素は硫酸を電気分解して生じるペルオキソ二硫酸を加水分解して得ました」
「は?」
「後はご存じのように主剤と硬化剤とを混ぜれば重合しますのでグラスファイバーに浸透させるだけです。覚えられますか?」
「覚え・・・られるかー!!何ですか、その長ったらしい呪文は!虚無ですか?虚無の呪文じゃないと作れないって言うんですか!?」

思わずメモを床にたたきつけて叫ぶ。メモには「ばなじう」としか書かれていなかった。

「呪文じゃないですってば。これでも結構略して説明したんですけど、今言ったことがあのプラントで行われています」
「す、済みません。取り乱しました・・・」
「まあお気になさらず。ここでの製法は参考程度に考えて頂きたいです」
「実は・・・こちらでも研究しているのですが、なかなかうまくいかず・・・」
「まだ一ヶ月半位しか経って無いじゃないですか。そんなすぐに出来たらこっちが吃驚しますよ。成功のこつは実験実験また実験、です。これを差し上げますから頑張って下さい」

そう言ってベンゼン、トルエン、無水マレイン酸、ジエチレングリコール、スチレンがそれぞれ入った瓶を渡した。それぞれの瓶には薬剤の説明と取り扱い上の注意について記してあるラベルが貼ってある。

「う・・・いつもいつも済みません」
「ジエチレングリコールは舐めたら甘いですけど、毒ですから舐めないで下さい。材料はこれらの他には水と風とアルコールぐらいです」
「ありがとうございます、頑張ります。ツェルプストー辺境伯にはかなりせっつかれてまして・・・」
「ああ、気が短そうですものねえ・・・」
「ははは、いやまったく・・・」


 そのまま応接室に移動して暫し歓談する。デトレフは樹脂の製造過程を目の当たりにしながらそれを理解出来なかったので少し気落ちしていた。

「はあ、しかしウォレフ殿はあのような知識を一体どのようにして知る事が出来たのですか?」
「先程言ったように実験実験また実験ですよ。例えば・・・これが何か分かりますか?」

そう言ってビーカーに石灰水を『練金』してデトレフに渡す。
デトレフはそれを丹念に『ディテクトマジック』で精査した。

「これは・・・水に・・・石灰ですかな、薄く混ざっていますね」
「はい。では、それに息を吹き込むとどうなるかご存じですか?」
「どう・・・なるんですか?」
「濁ります」

ウォルフはそう答え、デトレフにストローを渡し吹き込んでみろと促す。
デトレフがこわごわとストローで息を吹き込むと果たしてその水は白く濁った。水酸化カルシウムと二酸化炭素が反応し炭酸カルシウムが生成されたのだ。

「確かに。しかしこれが何だというんです?」
「何故水が濁ったのかということを考え、分析して正しい答えを導く。他の様々な事柄についても同様にしてそれらを知識として蓄積していくと先程あなたが呪文と仰った内容が理解出来るようになります」
「な、何故濁るのですか?」
「それはご自身でお考え下さい。幸い我々には魔法があるのですから、それ程難しくはないでしょう」
「うーむ、分かりました。宿題、ですね」

 うーむ、うーむと呻りながら『ディテクトマジック』をビーカーの中の水にかけては悩んでいたが、やがて諦めて杖をしまった。

「こちらも持って帰って悩むことにしましょう。・・・ところで、ボルクリンゲンの商館にも伝えましたがこのたびツェルプストーから皇帝閣下にグライダーを献上することになりましてな、また二機グライダーの注文をしましたよ」
「ありがとうございます。皇帝閣下に献上ですか」
「もし気に入っていただけたら色々と便宜を図って頂けるようになるかも知れません。ますますグライダーは便利になりますな。今回初めて長距離飛行を経験しましたが、本当に少ししか風石を消費しないので驚きました。これは絶対にハルケギニアに根付きますよ」
「楽しみにして待っていますよ。うーん樹脂だけじゃなくてガラスとかの量産も急いだ方が良いかなあ」
「ははは、評判になれば注文が殺到するかも知れませんぞ」
「そうするとボーキサイトが・・・デトレフさん」
「何でしょう」
「ガンダーラ商会がツェルプストー領で鉱山開発をすることは可能ですか?」
「え?ちゃんと申請をしていただければ、勿論可能です。・・・ああ、アルビオンでは王家が鉱山を独占しているんでしたな」
「はい、それに我々は外国人ですし・・・」
「ああ、ゲルマニアでは納める物さえ納めれば関係ありませんよ。何せ土地が広いですからな、人手が足りない」
「でしたら、是非お願いしたいと思います。タニアと相談して近いうちに申請しますよ」
「どうぞどうぞ、辺境伯にも伝えておきましょう」
「よろしくお願いします」



 デトレフが帰った後、ウォルフは出来た樹脂をチェックした。今回の材料は持って帰ってきた分だとプラントを稼働させるには全然足りなかったので、殆どウォルフが『練金』したもので、直接『練金』した物よりは不純物が多かったが十分満足出来る品質の物が出来ていた。
ウォルフがいない間マニュアルに基づいて管理していた工員にねぎらいの言葉をかけてこの日の試験運転を終え、すぐに次のプラントの準備にかかった。

 翌日ウォルフが新しいプラントを組み立てているとキュルケが挨拶に来た。もう帰るらしい。

「ウォルフ、今回はお世話になったわ。わたし、ちょっと目が覚めた気がするの」
「いやいや、とんでもないです、今回キュルケ様には何もおかまい出来ませんで」
「キュルケ、でいいわ。後その下手な敬語もやめて」
「やっぱり下手ですか・・・」
「下手よ。引き籠もって研究ばっかしてるからじゃない?貴族だったらもっとスマートに話せるようにならないと。それが出来るようになるまでわたしには敬語を使わないで」

 からかうように言うのだが、キュルケの目にいつもあったどこか小馬鹿にした感じはなくなっていた。
ウォルフはおや、と思いあらためてキュルケを見つめた。
いつもくるくると忙しげに動いていた瞳はしっとりと落ち着きを見せてこちらを見返してくる。
元々が絶世と言っていい美少女である。強い意志を込めた瞳で真っ正面から見つめられてウォルフは少し気圧されるのを感じた。

「わかったよ。敬語がすぐにうまくなるのは難しそうだから普通に喋るよ」
「それでいいわ。じゃあ、わたしもう帰るから」

キュルケはフンと鼻を鳴らすと踵を返し去っていった。ウォルフがキュルケを追って外に出てみるとグライダーが三機上空で待っていてキュルケがそれに『フライ』で乗り込む所だった。キュルケは最後にこちらを見て風防を閉めるとそのまま編隊を組みゲルマニアへ向けて飛びたった。





2-8    東へ




 唐突にやってきたキュルケ達がやはり唐突に帰ってから一ヶ月あまりが経った。
ウォルフは樹脂生産プラントを調整しながら手を加え、新たに雇い入れた工員への指導も完了し、遂に本格的な樹脂の量産が始まった。
商会もマチルダがいなくなったことにも慣れ、順調に動いている。
 自動車開発はスターリングエンジンの発電機を搭載した電気自動車を第一の候補に考え、試作エンジンをリナ達に掲示して更なる研究をさせている。
最初は風石による発電機にするつもりだったのだが、昨今の風石相場の暴騰と小型化が難しい事から変更した。
ブタノールによるレシプロエンジンも考えたが、燃料の入手性を第一に考えて可燃物なら基本的に何でも良いスターリングエンジンが有利だろうと判断した。

 樹脂の量産が始まると当然のことではあるが色々な問題が発生するようになった。一つ一つそれらに対処して生産を続けているのだが、現状では対処しきれないような問題も出てきた。
エチレンなどを得るための原料として廃糖蜜を輸入しているのだが、ここに来てその輸送コストが高すぎるとタニアに指摘されたのだ。
これを解決するために思い切ってガリアの港町プローナに糖蜜からエタノールを生産するための工場を造ることにした。エタノールに加工してから輸送すればその分コストがカットできるだろうという計算だ。廃糖蜜はガリア南部産のサトウキビの物とゲルマニア産の砂糖大根の物とを使用しているのでプローナならばその双方に都合が良い立地だ。
せっかくだから大々的にと、プローナの町からは少し離れた街道沿いの草原に大型の醸造施設と連続蒸留機を設置。ついでに酪酸菌によるアセトン・ブタノール発酵や麹菌によるクエン酸発酵など様々な研究が出来る施設を隣に併設した。
 近隣のワイン蔵から蔵人をスカウトして醸造にあたらせ、今日はその連続蒸留機の初運転のためウォルフははるばるアルビオンからグライダーを駆って監督しに来ていた。

「いらっしゃいませ、ウォルフ様。お待ちしておりました」
「ああ、スハイツ久しぶり。もう準備は出来てる?」
「はい。ウォルフ様が到着次第、蒸留を開始できるようになっております」

 ウォルフがグライダーをプローナの港に着陸させるとガンダーラ商会のガリアでの責任者であるスハイツが出迎えた。
スハイツは初対面の時から子供であるウォルフにとても丁寧な対応を見せ、まるでウォルフが主人であるかのように接してくる。
他のガリアの職員達もたいがい丁寧で、ウォルフにはどうも居心地が悪く感じてしまうほどだった。

 連続蒸留機は何の問題もなく稼働し、高純度のアルコールを生産し始めた。酪酸発酵の方も今回使用した菌が高濃度アセトン・ブタノール含有発酵液に耐えられる事を確認できたのでいよいよ実用化の目処が立った。
技師達と今後についての打ち合わせや彼らが慣れていない酪酸発酵についての指導を済ませ、ウォルフはヤカに移動した。
祖父母に挨拶と、この夏休みはヤカでの短期留学を断ったのでそのお詫び、更にはゲルマニアでもやるつもりの鉱山開発と、それに先だっての地質調査などを頼むためだ。




「ならん。ガリアの土はガリアの物。お前がいくらワシの孫であろうとアルビオンの人間である限り好きにさせるわけにはいかん」

 久しぶりに会った祖父は相変わらず頑固であった。
ラ・クルスにも利益をもたらすであろう話なので気軽に頼んでみたのだが、フアンは一顧だにせずに拒否した。

「・・・分かりました。鉱山開発は諦めます。しかし、地質調査だけは何としてもしてみたいのです。お願いできませんでしょうか」
「ならんな。ガリアは土の国。土に対する思い入れは深い。お前の言うような深深度の調査などを外国人に許すわけにはいかん」

 今度は少しは考えたようだがやはり明確に拒否された。
ティティアナ達がリュティスに引っ越してしまい、少し寂しい思いをしていたのか上機嫌でウォルフを迎えたフアンであったが、領地のことに関しては私情は挟まないようだった。
どうにもなりそうにないので挨拶をしてフアンの元を辞し、ヤカにあるガンダーラ商会の商館に移動した。
 ちょうどタニアが石鹸工場を造るとのことでこちらに滞在しているので、色々と打ち合わせを済ませておく。
ちなみにタニアはタレーズのヒットで気を良くして化粧品など美容全般の物をガンダーラ商会で扱おうとしているらしい。ウォルフも化粧品の開発などを頼まれたが興味がないので断っている。



「はあー、やっぱり自分の領地がないと色々やりたいこともやれないなあ・・・」

 ハルケギニアの地質はずっと興味を持って研究していたテーマの一つなので、調査がこれ以上できないと分かっても中々諦めきれずグズグズとスハイツに溢していた。
特に興味を持っているのは風石の鉱脈である。ウォルフが調べた所ハルケギニアで一番一般的な堆積岩の地層がアルビオンの地層と一致しており、この地層を深深度まで掘ればアルビオン同様に風石の鉱脈があるのではないかと予測している。それがどうしてアルビオンだけ空に浮かぶ事になったのか、とか興味は尽きない。
もし風石の鉱脈が発見できれば大きな利益を得ることが出来るというのに、フアンは頑固だ。

「まあ、それはそうでしょう。かといって領地を買うにしてもそこからの収入などを考えるとかなり割高ですからなあ」
「あれ?ガリアでは領地って買えるの?」
「ガリアの爵位を持っていることが条件ではありますが、跡継ぎのいない所や収入の良くない所などは取引されているようです」
「そんなんならいいや。ゲルマニアなら買えるって言うけど実際のところはどうなんだろ」
「ゲルマニアもそれなりの所は良い値段よ。安い所はとんでもない辺境か領民が逃げ出して殆どいないとかね。それでも数万エキューはするわ」

 打ち合わせが終わってすぐに書類仕事に取りかかっていたタニアが話に割って入る。彼女はその辺のことを色々と調べたことがあった。

「爵位が欲しいだけならそれでも良いかもしれないけど、買う前に鉱脈調査とか出来ないだろうし値段と価値が見合ってないのはやだなあ」
「そうすると残るのは・・・ふふ、東方開拓団くらいですかね」
「東方開拓団?何それ?」
「うえ、東方開拓団は無いでしょう」

ウォルフは初めて聞く言葉だったので聞き返すが、タニアは嫌そうな顔をして手をひらひらと振った。

「東方開拓団とはゲルマニアが進める領土拡張政策の一つで、ゲルマニアの北方から東方にかけて広がる広大な森林地帯を開発するため、広く一般から開拓する人を募集しているのです」
「うん、そこまでは名前から何となく分かるけど、条件はどんな感じなの?」
「一万エキューだったかの預託金と、ゲルマニア貴族の推薦が有ればメイジ三十人平民二百人からなる開拓団をゲルマニア政府が貸してくれるのよ。それで開拓に成功すればその広さ・収入に応じて爵位をくれるって訳」
「期限は十年で、開発中は開拓団員に給与を支払う必要は無く衣食住だけを保証すればいいそうです。さらに叙爵後支払うべき税金は預託金から支払われる仕組みで、その分領内の開発を進められます」
「開拓が成功して追加で領民を増やしたいって時にもゲルマニア政府が国内の貴族達に領民の移住について斡旋してくれるそうよ。まあ、これは別料金らしいけど」
「結構条件が良さそうなんだが」

開拓団員が何だか奴隷のような扱いなのが気にはなるが、平民はともかくメイジを三十人もというのは凄く魅力的に思える。
興味を持って身を乗り出してくるウォルフに対し、タニアとスハイツは苦笑して答えた。

「東方開拓団という制度が出来て以来これまでに百五十以上の開拓団が出発しましたが、爵位を得たのは十に満たないそうです。それ程あの森は幻獣や亜人などの脅威が多いのですよ」
「そうよ、それにその成功したって言うのもわたしが調べた時にはもう破産して売りに出てたわ。買う人なんて居ないみたいだけど」
「政府が貸してくれる人員というのは全て何らかの犯罪で有罪判決を受けた受刑者だそうです。開拓が成功した場合、その開拓地での自由が約束されているので皆モチベーションは高いらしいですが、それでもあの森を開拓するにはメイジ三十人くらいでは全然足りないみたいですね」
「長くて二年、早ければ半年で撤退するのが普通みたい。ちなみに開拓団員が消耗した場合その数に応じて預託金から引かれるそうよ」
「ゲルマニア政府としては全く損をする心配がない、いいシステムと言えますね」
「・・・・・」

 ゲルマニアは元々森林地帯を開拓して成立した国家である。今は人間が支配している国土もかつては全て黒く深い森に覆われていた。
人間がその国土を広げる度に森から追われた亜人や幻獣等がその国土周辺の森に恐ろしく濃い密度で生息している。
竜やグリフォン、マンティコアなどの空を飛ぶ幻獣も多くいるために上空を飛ぶことさえままならないらしい。
そのためゲルマニアの領土拡張はここ数十年その開発のペースを大幅に落としていた。人間と森の先住民達との勢力が拮抗してしまっているのだ。
辺境の領土は度々森から襲ってくる亜人達の脅威により消耗し、領主は開発した土地を守るのがやっとという状態だそうだ。

「中々うまい話はないでしょ?あなたにはラ・クルスって言う後ろ盾がいるんだから、ゲルマニアで領地を買ったり東方開拓団に応募したりするくらいなら、伯爵に頭を下げて部下になって子爵領を貰った方が良いわよ」
「そうですよ、あなたがガリアに来てくれると聞けばヤカの民は大喜びであなたを迎えますよ」

 黙り込んでしまったウォルフにタニア達は声をかけるがウォルフはもう碌に聞いてはいなかった。
ウォルフは考える。確かにゲルマニア周辺の森を開発するのは難しそうだが、もっと離れた場所だったらどうだ?
ウォルフは考える。幻獣がいて空を飛べないというが、グライダーは高度一万メイル以上を可能とする。そんな所までわざわざ飛んでくる竜がいるか?
ウォルフは考える。この世界と元の世界との類似性からハルケギニアの東部には広大なユーラシア大陸に類似した陸地が続いている可能性が高い。シベリアにはあれだけ広大な森林地帯があった。こちらの大陸にだって人間が入植するのに適した土地が有る可能性は十分にあるはずだ。
ウォルフが今個人で自由に出来る金は三万エキューほど。ラ・クルスに紙質の改善方法を売った分と商会の給与、セグロッド開発のボーナスにタレーズの制作・地金代などで得た金であるが、十分に東方開拓団を結成できそうである。
ウォルフは結論した。東方開拓団に名乗りを上げるかどうか、調査に行くべし、と。

「ちょっと、ウォルフ何本気で考え込んでいるのよ!ダメよ?東方開拓団は割に合わないわ」
「割に合わないかどうか、判断できるほどの材料をオレは持ってないんだけど。だから現状を把握するため森へ調査に行きたい」
「今まで一体何聞いてたのよ!アレでダメじゃないなんてあなたどういう脳みそしてんの」
「若さに見合った柔軟な思考が出来る脳だと思ってます」
「柔軟すぎるわよ・・・ダメ、ガンダーラ商会ではやらないからね」
「まあ、商会でやるような事じゃないだろう。これはオレ個人でやるよ」
「個人でやるにしたって・・・あなた商会での仕事が一杯溜まっているでしょう。そんなに自由になる時間はないわよ?」

 それを言われると中々痛い。今やらなくちゃならないことはグライダーの量産化と自動車と新型グライダーの開発である。
グライダーの量産化はあとアルミニウムの量産に成功すればほぼウォルフの手が掛からなくなる目処が立ちそうなので、今から行くゲルマニアでの鉱山開発次第で何とかなる。
自動車開発についてはウォルフが選んだスターリングエンジンがネックになっていた。エンジンの実働模型はすぐに出来たのだが必要な出力を得ようとすると大きく重くなってしまうのが難点だ。
熱効率自体は悪くないので今高圧ヘリウムを使って小型化の研究を進めさせているのだが、まだ時間が掛かりそうだった。
何としてもこれを手っ取り早く開発してゲルマニアの森へ調査に行きたい。
新型グライダーの開発は、三十人くらい乗れる大型のグライダーを開発すれば開拓団の人員の輸送に大いに活用できそうなのでもうやる気満々になっている。

 ウォルフはおよその見通しを立て、何とかなりそうだと判断するとタニアに向けてニッコリと微笑んだ。

「分かった。今ある問題はとっとと片付けちゃおうと思う。こっちでの用は終わったからさっさとゲルマニアに行ってまずは鉱山の話を聞いてくる」
「・・・はー・・・あなた、全然諦めていないでしょう・・・」
「諦めるわけ無いじゃん、こんな楽しい話」
「・・・話に聞いていた以上に、自由な方ですね」
「そうなのよ。この子がやるって言ったらやるのよ、絶対に・・・」

タニアとスハイツがグチグチと溢しているが、ウォルフはどこ吹く風という様に席を立つ。本当に今からゲルマニアへいくつもりでいる。

「ツェルプストーだと、トリステインの上空を突っ切って行ったら早そうだけど、大丈夫かな」
「全然大丈夫じゃないから。それは領空侵犯になるからやめて」
「思いっきり高度を上げれば大丈夫なんじゃない?」
「グライダーが領空を横切ったとなるとすぐにウチに話が来るでしょう。まだグライダーはそんなに普及していないんだし、すぐにばれちゃいますよ」
「それに、あなたガリアでの飛行許可だってイルンとの往復しか取っていないでしょう」
「高度を上げちゃえば誰も来れないし気付かなそうだから、大丈夫っぽいんだけどなあ・・・まあ、やめとくか。早く自由に飛べる日が来ねーかなあ・・・海まで出るならついでにアルビオンまで戻ってリナ達の尻を叩いていこう」

 誰に聞かせるでもなく呟くとタニアとスハイツに挨拶をして商館を後にし、グライダーに乗り込む。その顔は晴れ晴れとしていて何の迷いもない。
旋盤とグライダーという大きな目標を完成させてしまって以来どうにも上がりにくかったモチベーションが今はガンガンに上がっている。
ゲルマニア北東部の大森林地帯の調査、それはつまりハルケギニアから一歩外へ出ると言うことだ。幻獣などは大変だろうが、ハルケギニア最大の脅威と言われるエルフはいないらしいのでサハラに行くよりは楽だろう。
 まだ誰も見たことのない世界が自分を待っている・・・それはウォルフにとってゾクゾクするような誘惑だ。
遙か彼方にある大森林を思い浮かべ、ウォルフは大空へと旅立った。




2-9    東奔西走




 ウォルフのグライダーはその日の内にサウスゴータに帰ってきた。日帰りガリア出張である。

「あっ、ウォルフ様帰ってきた。おかえりなさい、夕食はお済みですか?」
「ただいま、サラ。飯はまだだよ、何かある?」
「スープとパンくらいなら、何とか・・・ガリアに行ったんじゃないんですか?」
「行ってきたよ。明日はゲルマニアに行く」

 家に帰って両親に顔を見せて来た所でサラとばったり出会った。サラはもう寝間着になっていて風呂上がりなのか髪が濡れている。
誰もいない廊下を二人で厨房に移動し、色々と今回の成果を話して聞かせる。中でも東方開拓団の話は熱が入ってしまった。

「じゃあ、ウォルフ様はその東方開拓団に応募するつもりなんですか?」
「良い条件の土地が見つかれば。とにかく調査してみないことには話が始まらないさ。世界周航前の小冒険って感じだな」
「でもそんな誰も成功しないような危険な所にわざわざ行くなんて・・・心配です」
「危険な所には近寄らないって。オレの勘ではそんなに幻獣が多くない所だってあると思っているんだ」

話しながらサラは冷蔵庫からスープの鍋を出し、コンロで温める。ウォルフは自分でパンを用意してこちらもオーブンで温めた。

「どうぞ」
「ん、ありがとう」

 コトリとウォルフの前に差し出された器を受け取りちょっと遅めの夕食を摂る。
サラはグラスを用意して水を注ぎ、ウォルフと自分の前にグラスを置いて隣の席に座った。

「でもどうしてウォルフ様が領地なんかに拘るんですか?今のままでも良いじゃないですか」
「世界だよ、サラ君。世界が私を待っているんだ・・・」
「・・・何のキャラですか?」
「何だっけ?あ、ごめん、えーと、機密保持に凄く良さそうっていうのがまず一つ。誰も来なそうな土地だからね。二つ目は領地経営に興味がある。鉱山開発とかをもっと自由にやりたいし、社会実験もしたい。三つ目は世界周航の前線基地になりそうだって思って。ガリア側からサハラに出入りするのは色々と大変そうだけど北からだとごまかしやすそうだし。あとは正確な世界地図を作るのに測量技師を養成したかったりするんだけど自分の領地が有れば楽そうだってのも有るな」

 ちょっとふざけたら睨まれたので慌てて真面目に答えた。

「つまり、何かまた新しいことをやりたくなったと・・・社会実験ってなんですか?」
「その名の通り社会の実験だな。グライダーと自動車、それにセグロッドでハルケギニアの社会が変わっていく準備は出来るだろう。その後どんな社会にしていくべきか色々と実験するのに自分の領地があると凄く便利だ」

 ウォルフは将来的には鉄道や旅客機なども作ろうと思っている。鉄道は平民でも気軽に使える程度の料金を想定しているので、通勤コストが下がれば現在の職住が一致している社会から職住分離型社会へと移行する事が予測される。
そうなれば職業選択や取引の自由度は増えるだろうし、現在は分散している商業地区も一箇所に集中し、大都市を形成していく事が予想される。
高度教育や医療に関してもやりやすくなる。現在学校をやっているが、シティオブサウスゴータの、それも一部の地域に住む子供が対象でしかない。もっと広い範囲から子供を集めたくても通えないのだ。しかし、低コストな交通手段が出来ればより多くの子供に教育の機会を与えることが出来る。
 何もない所に交通のインフラを整備すると言うことは、いわば大きな社会変革を起こそうというわけだが、いきなりそれを他人の領地でやってみるのも気が引けた。

「便利だから領地欲しいって・・・お爺様がくれるって言ってる子爵領で良いじゃないですか。そっちなら危なくないし」
「爺様から子爵領を貰うって事はラ・クルスの部下になるって事だから世界周航なんて目指す自由はなくなるだろう。だからそっちの線は無しだ」

ふう、とサラは溜息をつく。確かにレアンドロに仕えているウォルフというのは想像が出来ないが、普通は子爵という好待遇で召し抱えたいと言われれば下級貴族の次男などは飛びつく物だ。

「明日からゲルマニアに行くって言うけど、そのまま調査に行くんですか?」
「いや、明日行くのは鉱山開発の許可を得るためとその開発の為の調査。一週間くらい行ってこようかと思ってる」
「また一週間も居なくなっちゃうんだ・・・」

 ウォルフが食べ終わるとサラはすぐに立ち上がって食器を片付けお茶を入れる。少し表情が陰っていた。
そんなことには気付かずにウォルフは脳天気にゲルマニアで探す予定の鉱石のことなどを話している。

「お茶が入りました」
「おう、ありがとう」

 やっぱり変な人だとサラは思う。メイドの仕事に一々礼を言う貴族なんてサラは他に知らない。
そんなことを思いながら、暫く一緒にお茶を飲みウォルフが話すのを聞いていた。

「ウォルフ様、わたし決めました」
「何を?」

 ウォルフを見つめサラが宣言する。ちょっと唐突だったのでウォルフは怪訝な顔をして問い返した。

「明日、わたしも一緒にゲルマニアに行きます」
「え、だってサラ学校・・・」
「たまにはわたしが休んだって良いでしょう。たっぷり課題を出しますし、一週間くらいなら大丈夫ですよ」
「えっと、何しに行くか聞いていい?」
「ウォルフ様が領地を持つかも知れないっていうゲルマニアを見に行くんです。野蛮な国だって言う人もいるし、どんな所かなって。ウォルフ様ばっかり何回も行ってわたしは一回も行ってないなんて狡いですよ」
「う、そうか。ごめん」
「それにウォルフ様、グライダーの操縦を教えて下さいって言っているのに、いっつも今度なって言うばっかりだから、道中で教えて下さい」
「あー、うー、すみません。うー、わかりました、一緒に行きましょう」

 何時になく強気のサラに押されて了承する。いつもサラに仕事を押しつけている自覚はあるので強く出られたら引くしかない。
今回の出張はサラの慰安旅行になりそうだなあとある程度覚悟する。

「じゃあ、明日の午前中はオレもリナ達の事を見るから、午後一で出発するつもりでチェスターの工場まで来てくれる?」
「ん、わかりました。お弁当持って行きますね、機内で食べましょう」

 サラが満足そうに言う。ちょっとフニャッとした、いつものサラの笑顔だ。
まあ、サラが喜んでくれるんなら良いかとウォルフも思う。まだ九歳なのだ、たまには息抜きも必要だろう。
まだまだ話したいことはあるが、ウォルフは明日は早くに工場に行くつもりだし、サラも準備が色々あるので切り上げて早めに寝ることにした。



 翌日早朝、ウォルフはグライダーでチェスターの工場に来ていた。
まだ出勤していないリナのノートを手に取り昨日の進捗具合を確認する。高圧ヘリウムのシーリングを色々試したみたいだが、×が並んでいて碌に進んでいないことが分かる。
取り敢えずヘリウムのシーリングはまだ難しそうなので、気体を窒素に変えて進めることにする。窒素なら入手性がいいのでウォルフが楽できるし、気圧を上げればそこそこの性能の物が出来るはずである。事情が変わったので最高の性能を追い求めることなく早期完成を目指す。
続いてリナが線を引いた設計図をチェック。ほぼウォルフの指示通りで基本的な設計は良さそうなので、空冷を水冷に変更する指示といくつかの寸法変更及び材質変更の指示を書き込む。
それが終わったらラジエターを制作する為の治具の設計を隣の製図板で行う。ラジエターはアルミニウムを使用する予定なのでいいかげんボーキサイトが欲しい。
 ボーキサイトからアルミニウムを魔法無しで製錬する工程は実はまだ分かっていない。アルミニウムの精錬がアルミナの炭素電極による電気分解だと言うことを知識としては持っていても実際に行ってみると中々難しかった。アルミナの融点が高すぎてうまくいかないのだ。
色々とアルミナに加えて融点を下げようとしてみているが、今のところうまくいっていない。電気炉を全部白金とかで作ってアルミナの融点であるおよそ二千度にまで加熱すればいいのかも知れないが、そんな一般に公開できない技術に意味はないし、電気を食いすぎる。
仕方がないので高コストにはなるが当面はメイジを使用する事を考えている。アルミナの段階まで精錬してやれば一般的なメイジの『練金』でも多少不純物としてアルミナが残るくらいで問題なくアルミの生成が行え、そこからアルミナを除去してやれば純度の高いアルミニウムが得られる。
しかも軽金属なので高級ではない金属というイメージを持つのか、アルミを『練金』してもメイジの精神力はあまり減らず案外効率が良い。ぺらぺらのアルミの弁当箱を触らせたり地殻中にかなり多く含まれる物質である事を散々アピ-ルする作戦には意味があるものと思われる。

「あれ?おはよございます。ウォルフ様ガリアに行ったんじゃないんですかあ?」

ウォルフが分割思考で今後のことを色々考えながら線を引いていると後ろからリナが声をかけた。どうやら出勤時間になったようだ。

「ああ、おはよ。行ったけど、ゲルマニアに行く前にお前達の様子を見に寄った」
「すみません、まだ殆ど出来ていないんですが・・・」
「ノートを見たよ。高圧ヘリウムはまだ早いみたいだからやめにして、当面は高圧窒素で行こう。ヘリウムよりは大分抜けにくいはずだ」
「ええー!昨日凄く苦労したんですけど!」

リナは驚いて声を上げた。それはそうだ、昨日はどんなに精密に加工したつもりでも僅かずつ抜けていくヘリウムに苦労し、遅くまで残ってより高精度なボーリングマシンの設計をしていた程だ。急にやめたと言われても納得しづらい。

「その苦労は無駄になる訳じゃないから気にするな。試行錯誤ってのは、した分だけスキルが上がっていくもんだ。それとこれ新しく作ってみたから試してみてくれ」

そう言って旋盤用のバイト(刃)をいくつか取り出し机の上に広げる。
どうすればより高精度なシーリングが出来るのかと考え、昨夜思いついて作っておいたものだ。

「何ですか?このバイト。刃先がちょっと違いますけど」
「単結晶ダイヤモンドのバイトだ。これで加工すれば鏡面に仕上がると思う。送りは自動で、ほんの少しずつ加工してみてくれ」
「むう、こんなのがあるなら最初から・・・試してみます」
「頼む。とにかく急いで自動車を完成させる必要が出てきたんで、ヘリウムについては継続研究って事にして窒素で早いとこスターリングエンジンを完成させて欲しいんだ」
「ふい、分かりました、頑張ります。でも、本当にこれ高圧にしただけでそんなに効率が良くなるんですか?」

熱力学についてまだ詳しく授業で教えていないこともあり、気体の量を増やせば仕事量が多くなると言うのが理解しづらいらしい。

「おお、オレはたまにしか嘘を言わないから大丈夫だ、信用しろ」
「・・・ウォルフ様のそう言う人間の軽さが部下を時々不安にさせているって知ってました?」
「知らん。余計なことを考えている暇があったら手を動かせ。手を動かしていれば不安なんか感じる暇は無くなる」
「うーい。じゃあ、昨日の続きに取り掛かりまーす」

 その後、二人とも無言のまま製図板に向かって線を引いているとポツポツと他の工員も出勤してきた。
ウォルフは彼らに片っ端から仕事を割り振る。いきなり増えた仕事量に悲鳴やら抗議やらを受けるが、全部無視した。この位はやれば出来るはずだ。
その後午前中一杯掛かってリナを中心に綿密に打ち合わせを重ね、ウォルフが居ない間にも仕事が滞りなく進むように手配を済ませた。

「・・・何で、こんな急に・・・」
「ウォーターポンプって俺一人で作るのかよ、リナ手伝ってくれよ!」
「何言ってるんですか、あたしにそんな暇があるわけ無いでしょ!そっちこそそんなの早く作っちゃってあたしの手伝いしなさいよ」
「じゃあ、オレはゲルマニアに行ってくるから、後はよろしく。遠話の魔法具を置いて行くから何かったら連絡くれ。オレの方も何か思いついたら知らせるようにするから」
「一週間位って言ってましたっけ・・・一月掛かっても終わらない気がしますからどうぞゆっくりしてきて下さい」
「はっはっは、何を言っているんだ。お前達ならこのくらいすぐに出来ると信じてるゼ!」
「いってらっしゃい・・・」

昼になりサラが来たのでウォルフは出かける事にしたのだが、もう全員殺伐とした雰囲気の中各自の仕事に取り掛かっており、それどころではなかった。
リナが投げやりに返事を返しただけで、良い笑顔で親指を立てているウォルフのことを気にかける人間は居なかった。
 何となくいたたまれなくなったウォルフはサラを連れてグライダーへと向かった。



 久しぶりのサラと二人のフライトである。
サラはとても上機嫌だし、ウォルフも一人で飛ぶよりもずっと楽しい。

「じゃあサラ、今からグライダーの操縦を教えるぞ。エルロンとエレベーターの二つの舵を操縦桿で、ラダーを足元のペダルで操作しするんだ。エルロンとは・・・」
「もうお昼すぎてますから、まずはお昼ごはんにしましょうよ。ちゃんと機内で食べられるようにサンドウィッチ作ってきたんです。ウォルフ様の分はちゃんとマスタード多めにしましたよ」

頼まれていた通り操縦を教えようとしたのだがサラに遮られた。すっかりピクニックにでも行く気分になっているみたいだ。

「いや、アルビオンに吹く風を利用して一気に高度を稼ぐつもりだから、ついでにサラに操作を教えたいんだけど・・・」
「うーん、じゃあ、ちゃちゃっと教えちゃって下さい。ご飯を食べ終わってから本格的な授業にしましょう」

 結局ご飯前には碌に授業は出来なかった。
仕方ないので高度を上げた後はグライダーを自動操縦モードで飛行させた。暇を見てちょっと改造し、ガーゴイルの中枢をグライダーに埋め込んであるのだ。
まだ上昇気流などを見つけて利用する事は出来ないが、風石を使用しての上昇や他の飛行物の回避、目的の方位へ外的影響を補正しながら飛行させる事は出来るようになった。食事を摂る間くらいは操縦桿を握っていなくても良いのだ。

「じゃあこれがウォルフ様の分です。残さないで食べて下さいね」
「ああ、ありがと」

サンドウィッチが入った袋を渡される。続けてチタンマグカップにお茶を入れて渡してくれる。
サラは座席が向かい合わないのが不満そうだが、楽しそうだ。

「うーん、海と雲が綺麗ですねえ・・・空も何だか色が濃いみたいです。こんな高い場所で食事をするなんて贅沢ですね」
「確かに今は高度六千メイルくらいだからな、こんなところで食事をしているのはオレ達くらいだろう」
「うふふ、ハルケギニア人初ですか」
「多分な。取り敢えずオレは初めてだ」

 結局サラが操縦桿を握る事は一度も無いままゲルマニアの入口の町ドルトレヒトに着いた。ここにもガンダーラ商会の倉庫兼商館があるが、そこには向かわず真っすぐに港の役所へと向かう。
入国手続きとゲルマニアの飛行許可を得る為だ。ウォルフのグライダーはゲルマニアでの身元引き受けをフォン・ツェルプストーが了承してくれているので毎回直ぐに許可は出る。
今回得た許可はこことボルクリンゲンの往復の飛行許可で、一ヶ月以内に出国しなくてはならないというものだ。
アルビオンではロサイス、ガリアではイルンにとそれぞれ入国する際には毎回着陸して許可を得なくてはならないのが面倒だが、この程度はまあ許容範囲だ。

 結局ボルクリンゲンには日没とほぼ同時に着いた。サラも途中操縦をする事が出来てグライダーの楽しさを少し分かってくれたみたいだ。
工場に着くと出迎えたラウラとサラは抱き合って再会を喜んでいた。そう言えばラウラをこちらに置きっぱなしだった。予定ではアルビオンに戻して指導教官にするつもりだったが忙しくて忘れていた。ここのところアルビオンでもボチボチと注文が入っているのでサウスゴータにも教習所を作らなくてはならない。
 この日は再会を祝してラウラの同僚の教官達と一緒に最近ボルクリンゲンで人気のレストランへ繰り出した。
ゲルマニアはアルビオンと並んで食の貧しい所と言われているが、この日のレストランのオーナーシェフはトリステインから流れてきたと言う事で、見た目も良くおいしい料理を楽しむ事が出来た。
 貴族向けの気取った料理では無いがトリステインの料理をゲルマニア風にアレンジしたり、ゲルマニアの伝統料理をより洗練された料理法で出してきたりとバラエティも豊富で人気の理由がよく分かった。

「おいしかったですねえ。アルビオンじゃ考えられませんよ、あんな料理出すレストラン」
「ああ、また行きたいな。でも、あんなレベルのレストランがまだ一杯出来ているんだろ?そっちにも行ってみたいしなあ」
「ふふふ、ボルクリンゲンは一月で全く違う街になると言われている程急に発展していますからね、新しいお店がどんどん出来ていますよ」

 帰り道、工場へと歩きながらだらだらと話をする。平民にはセグロッドを支給していないので皆歩きだ。
少し街から離れているがこの道は安全なので気楽なものである。実はツェルプストーが隠れて警備しているからなのだが。

「じゃあ、オレは明日から鉱脈探査に出かけるから、ラウラ、サラにグライダーの操縦を教えてくれ」
「まかせて下さい!あたしにかかればどんな嘴の黄色いひよっこも一週間で大空に羽ばたけるようにしてなりますって」
「うーん、わたしもウォルフ様についていきたいんだけどなあ・・・」
「うふふ、サーラちゃん?あたしの訓練を受けたくないって言うのかな?かな?」
「ひう!ラ、ラウラ?」

訓練に興味無さげにしたサラを背後から抱きしめ、ラウラが耳元で囁く。
その顔は笑顔だが、いつもと口調が違いサラが感じた事のないオーラをにじませていた。

「おっとサラ、ラウラは鬼教官らしいからな、言葉には気をつけた方が良いぞ」
「ええーっ、何時の間にそんな事になっちゃったんですか!?」
「明日からはビシビシ行くからね?大丈夫、訓練をやり遂げられればサラも立派なパイロットよ」
「はひー」

 つう、と頬を指でなぞられて思わず変な声を上げてしまう。何とかウォルフに付いていこうとか考えていたのだがどうやら無理そうだ。
訓練以外の時間にウォルフがいないと暇になりそうだが、ボルクリンゲンは楽しそうな街なのでまあいいかと諦めた。
 翌日からラウラの訓練が始まるとそれが甘い考えだったと思い直す事になるのだが。




2-10    ウォルフとサラinゲルマニア



「・・・ウォルフ殿、まだでしょうか。そろそろ他へ移りたいのですが」
「もうちょっと、もうちょっとだけ!・・・おお、これは多分泥岩が熱で変成した物だな。こっちは・・・」
「ウォルフ様、その辺全部ただの岩じゃないですか。もっと他の場所を探しに行きましょうよ」

 翌日早朝からウォルフは鉱脈調査に来ていた。メンバーはツェルプストーからデトレフと土メイジの鉱山技師、それに商会が雇っている土メイジ一人の計四人である。
許可された探査区域はツェルプストー領南部ライヌ川上流の深い森と平原、岩山とが混在する地域である。広さはあるが、トリステインとの国境から近い為無駄なトラブルに巻き込まれる恐れがあるのが注意すべき点だった。
 ウォルフのグライダーと、ツェルプストーのものと二機に分乗して現地に来たのだが、ウォルフが何でもない場所で一々引っかかるので中々調査は進んでいなかった。
ハルケギニアで一般的に価値のある鉱物と言えば、金銀銅に鉄・錫・亜鉛・鉛、それに風石に土石などである。最近では石炭や石灰も価値が上がってきた。それなのにウォルフはそれらの反応が全くない場所で一々駐まるのだ。

「一体何がそんなに興味深いというのですかな、そっちの彼が言う通りここにはめぼしい物はないと思うのですが」
「あ、いやすみません。確かに価値は無い物ですが、色んな種類の岩石があるのでどのようにここが生成されたのかと考えてまして」
「どのようにも何も、神が創ったに決まっているではないですか」
「・・・えーと、だからその神様がどういう風に創ったのかなって。それが分かれば何処に何があるか推測しやすいでしょう」

 確かにウォルフは有用な鉱脈を探しに来ているのだが、元々ハルケギニアの地質もずっと調べているのだ。その事を抜きにしていきなり鉱脈を捜すなど出来る物ではない。
大体、おおよその地質を掴んでからでなくては何処を捜せばいいのか見当がつけられないというのがウォルフの考えだ。
 蛇紋岩帯ならばクロムなどが見つかるかも知れないし、堆積岩帯なら岩塩や石灰岩などが見つかるかも知れない。魔法探査とて万能ではないのだ。捜している物を特定済みならば広範囲にわたり探査を掛けることが出来るが、そうでないならば探査範囲も狭くなるし精度も落ちる。効率的に捜す為に今は概要を把握しようとしているのだが、どうも理解してはもらえないようだ。

「はっはっは、神様に聞いてみるのがよいかも知れませんな」
「ちなみに、なんですが、普通は鉱脈というのはどのようにして捜す物なのでしょう」
「それは決まってますよ、山に入って心を落ち着かせ地の声を聞く。それが唯一の方法です。カンとも言いましてヤマカンという言葉の語源にもなっていますが、優れた土メイジ程これが良く当たるようになります」
「は、はは、私は土メイジじゃないので中々難しそうですね」
「何、悲観することはないですぞ、ウォルフどの程優れたメイジならばきっとその感覚をつかめるようになるに違い有りません」
「・・・頑張ってみます」

 カンの方は土メイジが三人もいるので任せることにして、ウォルフは地質の推測に戻った。
 火成岩であるかんらん岩が水と反応した蛇紋岩や堆積岩である泥岩などが熱によって変成したホルンフェルスなど断片的な情報から推測するに、どうやらここは元海中火山だったようである。最もそれが分かった所でハルケギニア人にどうやって説明すればいいのかは分からないが。
ウォルフとしては有意義な調査をしていて地下の構成が徐々に明らかになってきていても他の三人にとってはやはり退屈なようで、ウォルフの後ろで暇そうにしている事が多かった。



「うーん、中々めぼしい物はありませんなあ・・・翡翠位は見つかるかとも思ったのですが」
「翡翠ですか、宝石の。あんまり工業的には使えなさそうですねえ」
「蛇紋岩帯では時折見つかるのですよ。どうやらここには無さそうですが」
「翡翠ですか、翡翠はいいですねえ、綺麗で」
「綺麗なだけでもしょうがないだろう、さあ、次に行くぞ」

 何度目かの着陸と調査で相変わらず何も成果が無く、ウォルフ以外の一行にはいよいよ倦怠感が強くなってきた。中でも商会の土メイジが一番やる気がなくなっている。彼も彼なりに鉱物を捜してはいるのだが、一向に見つからないのだ。
 それも無理無いことで、実はウォルフに許可された地域は元々価値の高い鉱物がそうそう採れるとは予想されていない地域である。今回の探査に先立って行ったライヌ川の砂の調査でボーキサイトと呼べる程のアルミナを含む砂粒を発見したのでウォルフが強く希望してライヌ川上流域であるここに決定したのだ。
 銅などが採れる山のほうが、色々な鉱物が採れる可能性は高いのだがここはここでウォルフにとっては興味深い。大体ウォルフが捜しているのは通常とは違う金属なのでハルケギニア人が見込みがないと言ってもあまり関係がない。
求めているのはボーキサイトにチタン・クロム・コバルト・ニッケル・バナジウム・モリブデン・タングステン・アンチモン、リンやカリウムなどの鉱石、それに加えてあわよくば風石や土石と考えており、それぞれに発見が予想される場所が全然違う。
 ボーキサイトはもちろんだが、特にクロムとモリブデンは旋盤の軸や車軸などに使うクロムモリブデン鋼に使用したり、潤滑油に配合したりクロムメッキや工具に使用したりと用途が多いので欲しかった。
 調査員のモチベーション維持と多くの場所を調べる為、ウォルフの調査は段々とその速度を上げた。



 この後も転々と調査し、ウォルフはおおよその地質をつかむことができた。
 纏めると調査区域の東南方面にイェナー山があり、この山は堆積岩が隆起して出来ていてその南側には東西に長大な断層がある。この断層は最大三百メイル物高さの崖になっていて結構深い層まで地層が露出している。
イェナー山の北側から西にかけては蛇紋岩の岩盤が続いていて、調査地域南東方面の国境に近い草原と小規模な森が混在する地域は地表の堆積物が多く、現状では判断が出来ない。
 おおよそではあるが、トリステインやガリア北部と地質的に違いは無さそうだ。イェナー山北側の岩盤はラ・ロシェールそっくりだし草原部分はさしずめトリステイン平原の小型版と言った所であろうか。

「大体以前こちらでやった調査の内容と一致しますね。商業ベースに乗りそうなのは大理石くらいでしょうか。石灰はここからじゃ搬出コストが掛かりすぎそうですね」
「私はボーキサイトというのに絞って捜していましたがついぞ分かりませんでした」
「私も捜しましたよ。今まで見向きもしていなかった石ですから案外直ぐに見つかるかとも思いましたが、中々難しいものですな」
「北部の蛇紋岩の辺りでは磁鉄鉱の反応がありましたな、どの程度有るのかは未知数ですが」

 一行はイェナー山の山頂から少し下った所にある拓けた場所に二機のグライダーを駐めて休憩をしていた。ツェルプストー側と商会の土メイジとで適当に情報を交換しているが、ウォルフはその横で地図に地質を書き込み、より大きな地図も参考にしてこの地域の地下構造を推測していた。
 ガリア北部の海岸線ではここの堆積岩層のもっと深部に相当する地層が地表に露出していて、そこで風石の痕跡をウォルフは発見していた。その後の調査でそこは大昔に風石の鉱山があった場所だと分かっている。ここの地層は上部三百メイルが露出しているに過ぎないが、そこから推測できることは深部まで掘れば風石の鉱脈があるかも知れないと言うことだ。
イェナー山の岩盤が他の地域から隆起しているおかげで深く掘るのが楽そうなので、風石探索の為の深深度調査をやるならこの断層だと判断した。

「ウォルフ殿、どうなさいました?あまり見込みのない土地でがっかりなさいましたかな」

黙って考え込んでいるウォルフにデトレフが気を使って話し掛けてきた。ウォルフ達はこの調査をやらせて貰うだけでもツェルプストーに結構な額の調査料を支払っている。ちょっと気の毒に思えたらしい。

「え?いや、見込みは大分ありそうだと思っている所です」
「ほう・・・ガンダーラ商会は我々とは目の付け所が違うらしい」

ツェルプストーの技師が挑発的に言う。プロとしての判断をウォルフが気にもしなかったので少し気に触ったみたいだ。

「ふむ。ボーキサイトでも見つけましたか?我々にはちょっと分かりませんでしたが」
「ボーキサイトは見つかりませんでしたが、蛇紋岩帯でクロムやニッケルの反応がありました。まあ、まだどの位有るかは分かりませんが」
「クロム?ニッケル?・・・ああ、あの織機の部品に使われていた金属ですか。それは良かった」
「ふうむ、そのようなものがあるのですか。それはガンダーラ商会しか分からないですな」

デトレフは僅かでも成果があった事を喜んだが、技官の方は悔しそうにしている。

「ええ、まあ今のところはそうみたいですね。ところで、実際に採掘を行う時の詳しい取り分を教えて貰えますか?鉄で五分五分との事でしたが、クロムとかではどうなるのでしょう」
「五割なのは鉄・銅・錫・風石ですね。金・銀・土石は七割をフォン・ツェルプストーに納めていただきます。それ以外のものは今のところ四割となっています」
「風石や土石も採れるんですか」
「いやあ、土石はもっとガリアに近い所なら採れる所も有るみたいですけどここらでは採れた事はありませんね。風石は過去に採れた事があるという話だけはあります。どっちにしろ設定してあるだけですよ」
「分かりました。分け方は、原石でですか?それとも精製までしたものですか?」
「鉄は鉄鉱石でですね。まあ、製鉄設備をお持ちでないでしょうから、こちらで買い取るという形になります。それ以外は精製した物の価格で納税額を査定しています。精錬にかかるコストは計算式が設定されていますからそれに沿って控除しています」

ウォルフが判断するに妥当な線だった。今後クロムなどの有用性が知れ渡れば税率も上げられるのだろうが、契約期間中はその心配はないので当面は税率四割という低率で採掘できるのは魅力だ。

「じゃあ、帰りましょうか、日も大分傾いてきましたし」
「そうしましょう。明日からは我々は同行できませんが、何か分からない事はありませんか?」
「ありがとうございます。今のところはありませんね。また何か問題が起きたらその都度お伺いします」

 調査初日はウォルフとしてはまずまずの成果で終える事が出来た。ハルケギニアは地質が複雑なので調べるのは中々大変だ。ボーキサイトの調査がまだ進んではいないが、明日以降に調べることにする。

 工場に戻って生産ラインの方に顔を出すと完成品の検査が遅れているとのことなので担当メイジを手伝った。このメイジは仕事が丁寧でその分遅い。慎重な性格は検査に向いているだろうとウォルフは信頼していて仕事の遅さに文句を言ったことはない。
暗くなるまで手伝って、ようやく宿舎へ戻るとサラが大部屋のテーブルにグダッっと突っ伏していた。風呂上がりなのか髪の毛が濡れていてウォルフが部屋に入っても起きる気配がない。

「えーと、ただいま、サラ。どうしたのかな?」
「はっ。あわわ、ウォルフ様、お帰りなさい・・・いたたた」

慌てて飛び起きてワタワタしている。ウォルフにだらしない所を見られたのを気にしているようだ。

「おう、どしたの?」
「・・・鬼です・・・ゲルマニアには鬼がいました」
「どゆこと?」

 詳しく聞いてみると、サラが言うにはラウラは本当に鬼教官になっているとのことで、スパルタ方式の訓練だったらしい。最初の頃ウォルフが教習指導していた時は普通にだったものだが教え方が変わったらしい。
サラが実技でミスをすると工場三周、学科では一問につき腕立て十回とかとにかくミスする度に何らかの罰が与えられ、しかも絶対に拒否できない迫力で迫ってくると言うのだ。
もう何周工場を回ったのか分からないくらいだし、腕立て腹筋背筋スクワットも数えられない位やらされて立つのも辛いほどだという。

「じゃあ、取り敢えず少し『ヒーリング』かけてやるから」
「ありがとうございますー。わたしの杖はラウラに没収されちゃったんです」

メイジが平民に杖没収されるなよと思いながら『ヒーリング』をかける。痛んだ筋繊維の内カルシウム漏れを起こしている箇所を修復し、漏れ出したカルシウムを筋肉の中から除去。カルシウムは筋肉痛の原因だ。更に乳酸が過剰に蓄積しているようなのでその内のいくらかを血液中に流す。その内肝臓がブドウ糖に分解するだろう。

「ふああ・・・楽になりました。ありがとうございます。ウォルフ様は完全には直さないですよね」
「せっかく筋トレしたんだから身にならなかったらもったいないじゃん」

 丁寧に全身の状態をチェックする。大体まあ、この位で良いだろうというレベルまで治療した。

「あ、ウォルフ様勝手に治療しないで下さい。サラの身になりませんよ」
「ひうっ」

背後からラウラが声をかけてきて、ウォルフが診ていたサラの背筋が一瞬で硬直した。

「いや、筋トレの効果は残しつつ酷い痛みや疲労を取っているだけだから大丈夫だ」
「そんな事が出来るんですか、魔法って便利ですねえ」
「こんな細かい事出来るのはウォルフ様くらいですよ。それよりラウラの教え方は厳しすぎます!こんなんじゃ誰も習いに来なくなっちゃいますよ」
「ふーん」

 サラがウォルフの陰に隠れながら抗議する。相当にラウラが怖いらしい。ラウラはそんなサラを全く気にする事もなく冷蔵庫から水を出してグラスに注いでいる。

「ラウラ・・・まさかとは思うが、顧客にもそんな教え方をしているのか?」
「まさかあー。お客様にそんな事しませんよ。商会の子とか無料でレッスンする人限定です」
「ああ、それならまあいい、か?」
「良くないです! ウォルフ様頑張って下さい」
「だってですね、どうも自分でお金を払ってない人って真剣みが足りないって言うか、何かぬるいんですよ。サラだって昨日あたしが覚えておいてって言った事殆ど覚えてこなかったし」
「う・・・」

ちらりと横目でサラを見る。サラは思いっきり顔を逸らした。

「まあ、そう言うのもあるかもな。修了した顧客の評判は凄く良いし、指導方法はラウラにまかせたよ。サラもミスしなければ筋トレしなくても良いわけだから頑張れ」
「ああっそんな・・・ウォルフ様人間はミスをするものだっていつも言ってたくせにいー!」
「それを理由にして努力を放棄して良いって事じゃないから」
「ああ、鬼、鬼が二人に・・・」
「何も泣かなくても良いじゃないか。サラがグライダーの操縦を習いたいって言ったんだぞ」
「うう・・・こんな筈じゃなかったのに・・・」

 暫く落ち込んでいたサラだったが夕食時にはもう復活していた。
気持ちの切り替えを済ませ、真面目に勉強して早く操縦を覚えてしまった方が得だと判断したのだ。やけくそ気味に夕飯をモリモリと食べていた。

 この日はウォルフも一日中グライダーに乗りっぱなしで疲れていたし、サラは言わずもがななので早めに就寝した。



 翌日もウォルフは早朝から鉱脈探査に向かった。今日の供は昨日も来た商会の土メイジ・ジルベール一人だ。
メイジと言ってもドットで、はっきり言って魔法の方はたいしたことない。しかし、鉱物好きというか結構詳しいので雇用してみたのだった。
 早速二人でグライダーを飛ばし昨日鉱物の反応のあった蛇紋岩地帯を入念に調査する。
 その調査方法はひたすら当たりをつけた所の岩を『ブレイド』を使って切り出しその組成を詳しく調べるというものだ。そして調べたデータを元に鉱脈を予測し、更に詳しく調べ『ディテクトマジック』で確認する。アスベストが岩石中に含まれている場合があるので、防塵マスクを着け風の魔法を併用しての作業だ。
中々時間の掛かる作業で、この蛇紋岩の一帯を調べ終わるまで少なくとも三・四日は掛かりそうだった。

 初日から中々有望な鉱脈も見つかってはいるが、クロムやニッケルは今のところ利用方法が限定されているので直ぐに儲けにつながる事はない。クロムやニッケルを使ってステンレススチールを作ったとしても固定化の魔法があるこの世界ではそれ程の価値が認められるとは思えないし、精々ウォルフの負担が減るだけだ。
今後大量の需要が見込まれるアルミニウムに比してまだまだメッキや機械部品の一部にしか需要がないクロムなどはウォルフの負担軽減という観点から見て魅力が少ない。もし今回の調査地域でボーキサイトが発見できなければ契約はせず、他の地域の調査を申請するつもりだ。
 一日働いて、工場へと帰る。結構疲れたが、まだまだ調査は始まったばかりだ。

「あ、ウォルフ様お帰りなさい」
「おお、ただいま。ん?今日は疲れてないの?」

 サラが出迎えたが、昨日と違って元気だ。
話を聞くと今日は午後からラウラが他の顧客に付いたので楽だったらしい。教官によってそんなに指導方法が違うのもどうかと思うが、基本サラは教官の手が空いている時に授業を受けているので仕方がない。
 そんな話をしているとラウラも授業が終わったらしく帰ってきたが、サラが何を見たのかラウラを見るなり非難を浴びせた。昨日はあんなに怖がっていたくせに一日経ったら随分と威勢がいい。

「ラウラ!今日顧客のおじさんを踏ん付けていたでしょう、教官だからってああいうのは良くないと思います!」
「あら?誰にも見られない所でやってたつもりなのに」
「見えなければいいってもんじゃありません!商会の責任問題になります!」
「あの人は良いのよ、その方が喜ぶの」

一体何をしていたのかとウォルフは頭を抱える。ラウラはまだ十四歳の筈なんだけど。

「そんなわけ無いでしょう!とても立派な紳士だったじゃないですか!きっと今頃凄く怒って・・・」
「サラ、サラいいから」
「え?ウォルフ様どういう事ですか?」
「そういう人も世の中にはいるんだよ。サラはまだ知らなくて良いから放っておけ」
「・・・?」

分かってないサラをおいてラウラを引っ張り二人だけで話を聞く。

「ちょっと、ラウラ本当に大丈夫なのか?お前いつからそんなキャラになっちゃったんだ」
「大丈夫ですよ。最初はおしりを触ってきた人が居たんだけど、思わず蹴飛ばしちゃったら何か喜んじゃって。今の人で三人目だけど、もう目を見れば直ぐに分かるようになりました」
「そ、そうか、お互い納得しているなら良い・・・のか?」
「ポイントは思いっきり軽蔑した目で見てあげる事ですね。皆さん良く言う事を聞いてくれますし熱心ですから教える方としては楽です」
「ラウラが何だか遠い所へ行っちまったよ・・・」

ウォルフは遙か彼方ガリアの空の下にいるラウラの両親に心の中で詫びた。

(すまん、ホセ。お前の知っているラウラはもういなくなっちゃったのかも知れない)

「・・・いや、やっぱりダメだ。目つきや口でならまだ良いけど、踏み付けるとかの直接的なプレイはやめてくれ。そういう濃い人が集まってきても困るし」
「プレイって何ですか、プレイって。ちゃんとした指導です」
「手や足が出てる内はちゃんとした指導などとは言わん。とにかく、ウチは直接体罰禁止。いいな?」
「うーん、分かりました、目つきや口でですね?」
「それと、今後は素質のある人の担当になってもわざわざ開花させないでくれ」
「それはちょっと難しいんじゃ・・・花というのは太陽と水が有れば咲くものですよ?」
「・・・一応、気に留めといてくれ。ちなみに、今日の顧客って誰?」
「隣の領のフォン・シリングス様です」
「・・・家臣の人?」
「伯爵様ご本人です。今日の帰り際、家族の方の分って仰ってグライダーを三機追加注文して下さいました」
「・・・」

 人間って分からない。
本当は一番に研究すべき対象なのかも知れないが、ウォルフにとってあまりに複雑すぎて、何から研究を始めればいいのか分からなかった。




2-11    開発三昧



 蛇紋岩帯の調査には結局三日かかった。
結局利用できそうなのはクロム鉄鉱と珪ニッケル鉱だけで、様々な鉱物が産出すると言われる蛇紋岩帯ではあってもツェルプストーが重要な鉱脈と見なしていない事も頷けた。調査地域で一番有望なここでさえこんな有様なのだから他の所も通常の鉱物資源はあまりないのだろう。
しかし、ウォルフにとってはクロムとニッケルは欲しかった物であるのでこの結果で良しとする。これから採掘方法や精錬方法を研究しなくてはならないが、魔法があれば何とかなるだろうとは思っている。

 次にウォルフ達が向かったのは調査地域南東方面の国境に近い草原と小規模な森が混在する平野部地域である。
 ここはボーキサイトの最有力候補地だ。ライヌ川での調査から考えてここで見つからなければもっと上流の地域を調査申請するつもりでいる。一応イェナー山で深深度調査をしてからではあるが。
この平野はトリステインの方まで広がっていて向こう側もこちらと同じ地質と思われ、平野部の中央西寄りを流れるライヌ川が国境となっている。川岸は比較的新しい堆積物が積もっていて地下構造が分からない。仕方ないのでここでも片っ端から掘っていくことにする。

 平野の中で川から離れた地点を選び、ゴーレムを使って穴を掘っていく。工作機械を作って持ってきたかったが時間がなかったからしょうがない、ほぼ魔法頼りだ。
ある程度縦に掘り進んだら穴の上に櫓を組み、滑車を使って掘り出した土を排出する。国境の川から離れた地点で掘り始めたのだが、いきなりボーキサイトの層に当たった。地表から僅か三メイルほどの地点に地面と平行にボーキサイトの層が広がっていた。
 まあ有るだろうとは思っていたがやはり発見できると嬉しい。続いてこの鉱脈がどの程度の規模であるのかを調べる為に他の地点の調査もする事にした。
二十メイルくらいまで掘り進め、地層を観察して次の地点に移る。今度は五メイルくらいまで掘り進め、地層が前の穴と代わらないようだったら次に移動する。
その後二日掛かって何カ所か穴を掘り、鉱床の広がり具合を検証した。残念ながら調査地域の埋蔵量その物はそれ程でもなく、国境を越えたラ・ヴァリエールの方に広がっていると思われた。

「ふう、うまくいかないものだな。他も似たようなものだろうし、ここで良いか」
「そうですね、まあせっかく発見できたんだし良いんじゃないでしょうか」
「ただ、あっちの鉱床の方が大分広そうなんだけどなあ。ラ・ヴァリエールの開発は無理だよねえ」
「絶対に無理です。元々開発とかが嫌いなお国柄でもありますし」

 グライダーや自動車に使う分くらいのボーキサイトならこの区域からの採掘量でも当面は間に合いそうなので、もうここで開発を申請してしまう事にした。何せウォルフは急いでいた。
イェナー山の探査はまた後で採掘機を開発してから行う事にした。魔法だけで深深度探査などは大変すぎる。
この日ボルクリンゲンに帰ってから商館長フークバルトに報告し、正式に開発を始める事を告げた。
鉱山開発を行う為に設立する会社の事や人員、採掘方法などを相談しているとデトレフが様子を聞きに来た。

「おお、ボーキサイトが見つかりましたか。それは重畳」
「はい、ありがとうございます。それで、採掘方法などを技官の方に相談したいと思ったんですが」
「発見場所は深いのですか?」
「いえ、三メイルほどの深さです。上には土が被っているだけですね」
「それなら楽そうですね。では、明日また我々もご一緒しましょう」
「お願いします。見て貰った方が早そうですから」



 翌日、再び二機のグライダーを仕立て発見現場へと向かい、最初の穴の近くにグライダーを駐めて穴の前まで来た。
デトレフはいつものごとく興味津々であったが、技官の方はそれ程熱心ではなかった。ボーキサイトは今のところガンダーラ商会のみが有効利用出来る資源なので熱意を持ちにくいのだ。秘薬屋で売っていたのも変わった石、と言う理由だけだ。

「なるほどこんな風にあるんですなあ。岩山をいくら捜しても無いはずだ」
「まあ生成過程が全く違う物みたいですから」

熱心に穴の横に積み上げられている掘り出されたボーキサイトを魔法で精査するデトレフ。技官の方はもう穴の中に入って直接地層を検分していた。

「本当に地面から直ぐの所にあるのですね。これでしたら、採掘方法も何も無いでしょう。上の土を全部どけてしまってボーキサイトを掘り出すしかないと思います」

直ぐに穴から出てきた技官が告げる。鉱床の厚みは八メイルほど。それが三メイルの深さから始まっているので他に方法など無いように思えた。取り敢えず彼の経験ではこんな鉱床を扱ったことは無い。亜炭の採掘現場も相当浅い地層だったがここよりは深かった。

「やはりそうですか。こういうタイプの採掘用機械とかは開発されているのですか?」
「いや、ありませんよ。鉄鉱石や石灰などはやはり露天掘りですが、その都度採掘現場に合ったゴーレムを使っています。ただ、こんな全くの平地にある鉱床というのは私も初めてですね。亜炭などでこの様な鉱床を見たことはありますが、亜炭をわざわざ掘り出そうという者はいませんし」
「そうですか・・・となると自分で開発するしかないですねえ・・・」

どうやら削岩機にショベルカー、ブルドーザーやダンプカーも開発しなくてはならないみたいだ。ちょっとアルミが欲しいと思って始めた鉱山開発だがまた時間が掛かりそうだ。

「大型のゴーレムが使えそうですから平民を使って掘るよりもその方が効率が良いでしょうね」
「ガンダーラ商会がどんなものを開発するのか興味がありますなあ」
「いやあ、そんなに大した物を作るつもりはありませんよ。ちょっと今忙しくて時間が取れないものですから」

そう言いながらもウォルフは分割思考でどんなものにするかを考えている。将来的には油圧で駆動するアームを装備させたいが、当面はゴーレムの変形仕様で良いだろうと判断する。
そうすると新たに開発する技術としては無限軌道(キャタピラ)くらいかと少し安心した。ゴーレムが"歩く"という動作は結構エネルギー効率が悪く、土石の消費が多くなる要因なのでそこは改善したい。ゴーレムの転倒事故もなくなるし。

 デトレフや技官に来て貰ったが結局分かったことは自力でこれを掘り出してアルミニウムにまで加工しなくてはならないということだけだった。
多少落ち込んでいるウォルフに技官が耳寄りな情報を教えてくれた。

「ボーキサイトの下層にカオリンがありましたね。あれは磁器などの焼き物に使えますから一緒に採掘すると良いでしょう」
「ああ、あれは磁器に使えるのですか。ありがとうございます、知りませんでした」
「おや、珍しい。ド・モルガン殿でも知らないこともあるのですな」
「いやいや。そんな、何でも知っているわけではないです。秘薬屋にも無かったし、初めて見るものですよ」

 技官が教えてくれたのはボーキサイトの直ぐ下の層の白い石の層についてだった。アルミニウムの含水珪酸塩鉱物だというのは分かっていたが、ハルケギニアで既に利用されている鉱物とのことだった。
ハルケギニアでは磁器が既に開発されている。技官の話では最近コークスを利用した大掛かりな窯がボルクリンゲンに建てられたので、磁器の素材であるカオリンは結構需要があるとのことだ。
これまでの所、現金収入に繋がりそうなものが何も発見できていなかったので、売れそうなものが発見できたのは嬉しい事だった。経費のことでぶちぶちとタニアに文句を言われるのは嬉しいことではない。

 これ以上ここにいてもする事はないので、もう切り上げて帰ることにした。
チラッと見に行っただけであまり何もしなかったので、帰りに少し寄り道してツェルプストーが直営で石灰を掘り出している鉱山を見学させて貰った。ゴーレムを駆使して大々的に山を切り崩しており、色々と話も聞けたので今後の参考にするつもりだ。
 この鉱山の端で廃棄されている鉱石の中にマグネシウムを多く含んだ鉱石であるドロマイトを見かけたので研究用にと技師に断って貰って帰った。マグネシウムも今後欲しい金属である。
ボルクリンゲンに帰り商館長のフークバルトと相談し、ボーキサイトの採掘用機械と精錬準備が整った段階でツェルプストーと契約を結ぶ事にした。デトレフにもそのように伝え、内諾を得た。
 予定の一週間には一日早いがアルビオンに帰り、さっさと採掘用機械を作ってくることに決めた。




「じゃあまたね、ラウラ。私は中々ゲルマニアまでは来られないから、次にいつ会えるかは分からないけど」
「ちゃんとウォルフ様に頼んで時々グライダーに乗せて貰うのよ?飛んだら飛んだだけうまくなるんだから」
「うん、がんばる。いろいろありがとう」
「ふふ、随分良い子になったわね、リナによろしくね?」

 翌日早朝いざグライダーで飛び立とうしているだが、ラウラとサラが何だか抱き合って別れを惜しんでいた。二人とも涙ぐんだりして結構盛り上がってる。
サラは結構ラウラに酷い目に遭わされていたと思うのだが、いざ別れとなるとこれである。女の子は不思議だ。

「えーと、感動的に盛り上がっている所済みませんが、ラウラは来月サウスゴータに開く教習所に転勤して貰うからまたすぐ会えるよ?」
「・・・え?」
「あら、それじゃまたサラの操縦を見てあげられるわね。機体をスライドさせちゃう癖を直したかったから丁度良いわ」
「良かったなあ、サラ。悪い癖がしみ付いちゃう前に矯正してもらえるな」
「ほほ本当です・・・ねえ」

笑顔で別れることは出来たが、帰りの機中でサラの背中は少し煤けていた。




 アルビオンに着くとウォルフは真っ直ぐにチェスターの工場へと向かった。始まった頃は人の少なかった工場だが、今は樹脂生産プラントの工員や機械工二期訓練生、警備の傭兵達が大分増えていて、随分と賑やかになっている。
リナ達に出かける時に出しておいた課題は全く何も出来ていなかったが、まあしょうがないと諦めてウォルフは自分も直ぐに製図板に向かう。
作る必要があるのは深深度探索用の掘削機とボーキサイト採掘用機械であり、まずはキャタピラから設計に取り掛かった。

 最初はすぐに出来るかとも思っていたのだが、キャタピラ一つでもゼロから開発するのは大変だった。
履板をピンで繋ぎ、スプロケット付きのホイールに回して直ぐに試作品は出来たのだが、試験走行してみるといくつも問題が発覚した。
泥を噛んで直ぐに動きが悪くなったり、履板を繋ぐピンが折れたり、高速で走行すると焼き付いたりとさんざんな目にあった。ホイールから外れるというのも一度や二度ではない。自転車のチェーンみたいなものだから油を差しておけば大丈夫だろうと思っていたのだが甘かったようだ。
試験結果を受けて原因を精査し、試行錯誤を繰り返しながら改良を加える。まず、ピンに端面から穴を通し、各部をきちんとシールして潤滑油を封入。同時に泥などの侵入を防ぎ、さらに浸炭処理後に焼き入れを行うことにより靭性の確保、耐摩耗性の改善を果たした。
改善が施されたキャタピラはスムースに走行し、泥の中だろうと崖のような坂道だろうともう調子が悪くなるような事は無くなった。

 キャタピラが出来てしまえば後は既存の技術を組み合わせればよいので開発は早く進んだ。
走行の動力には電気モーターを用い、風石による発電機をその電力源とした。走行部は三機種共通とし、それに変形ゴーレムによるショベル、ブレード、傾けられる荷台をそれぞれ装備すればショベルカー、ブルドーザー、ダンプカーの完成である。
本音を言えばショベルカーとブルドーザーは無限軌道で良いのだが、ダンプカーはタイヤで作りたかった。しかしタイヤはまだ自動車用のものを開発中でまだ実用に至っていないので今回は諦める事にした。

 ショベルカーなどが完成したので次に深深度調査用の掘削機を作る。
シールドマシンを参考に茶筒型の本体を作る。試験採掘用なので直径は二メイルと小型にし、穴の中で自力移動できるように小型のキャタピラを四つ装備した。穴は垂直ではなく斜めに掘るつもりで、もしそのまま採掘する事になった場合索道かインクラインを設置しようと思っている。
掘削する刃には風石を使って『ブレイド』の魔法を付与した魔法具を作った。それを掘削面に垂直に突き立ててそれを回転させ円筒型に切り込みを入れるもの、回転させながら放射状に切り込みを入れるもの、掘削面に対し斜め付き入れてそれを回転させ岩盤から切り離すものと三種類に分けて装備し、一回の操作で十五サントほど岩盤を掘り進むことが出来るようにした。
掘削面の下部には掘り出された岩をかき集める機構も付け、その岩はベルトコンベアで掘削機の後方に排出され、全ての動力には他の機械と共通の風石発電機から電源を得ている。
この掘削機はメイジに操作させ、出水や落盤防止に対応させるつもりだ。
試験掘削をチェスターの工場地下で行ったが付与した『ブレイド』がウォルフ方式の為固い岩盤にも負ける事無く、一時間に二メイル以上も掘ることが出来た。どちらかというと岩の排出の方が大変だった。

 岩を地上に排出するのはスキー場のリフトの様な索道を作った。地上に動力となる風石回転盤を置き、リフトの椅子の部分をバケットにした構造だ。一台ずつは排出できる量は少ないが、連続して排出できるのと、構造が簡単でメンテナンスが楽なのが利点だ。
坑道の左右を上り線と下り線が行き交い、下部の滑車はワイヤで掘削機と固定してあるので万が一掘削機が落下しそうになってもそれを防止することが出来る。

 最後に取り掛かったのはアルミニウムを精錬する為の施設の設計だ。
まず現地でボーキサイトからアルミナにまで加工して、ボルクリンゲンでメイジを雇いアルミナからアルミニウムを精錬するつもりである。 
 ボーキサイトからアルミナを得る為に必要な水酸化ナトリウムであるが、既にイオン交換膜を開発済みなので伯父レアンドロに教えた方法ではなく塩化ナトリウム水溶液の電気分解によって得るつもりである。  
ちなみにイオン交換膜の原料であるベンゼン、エチレン、スチレン、硫酸は既に全てガンダーラ商会で生産しているので、製造するのに触媒以外は魔法を使用していない。
電力の確保にはボルクリンゲンにチェスターにあるのと同じ型の風力発電機を設置する事にしているので必要な部品をこちらで作り、送ることにする。羽根についてはFRPで作るので前回作った雌型をボルクリンゲンに送り、工場で作らせるつもりだ。
現地の反応槽の製造や沈殿池の設計、水酸化ナトリウムの電解槽の設計などを済まし、水酸化ナトリウム水溶液や塩酸を輸送する為のポリエチレンタンクも作った。

 全てを揃えボルクリンゲンに送ったのは約三ヶ月後のことで季節は既に秋になっていた。
ラウラはとっくにサウスゴータに転勤してきていて元気に働いている。サラはラウラが来るまで時間を見つけては真面目にグライダーの操縦を練習していたので、もうしごかれずに済んだらしかった。

 リナも姉であるラウラとの再会を喜んでいたのだが、スターリングエンジンの方は全然開発が進んでおらず、リナは随分とスランプに陥っていた。最近ではスターリングエンジンの開発よりも息抜きと称して自分の趣味の編み機を開発していることの方が多い位だ。
機械の構造などでは天才的な所を見せはするが、材料知識が少なすぎる為現状ではこれ以上どうにもなりそうになかった。
 
「もうこれ以上効率なんて良くならないと思います。もうこれは諦めて、あの風石発電機で良いんじゃないですか?」
「うーん、確かに行き詰まっているみたいだな」

 リナは自分の提出したレポートを読んでいるウォルフにこぼし窓の外に目をやる。そこではトム達男子が試作した自動車を楽しそうに試運転していた。
予定していたスターリングエンジンが出来ていないのでそのかわりに風石発電機を搭載し、ここの所ずっとタイヤのテストを繰り返している。
 ウォルフはどこか寂しげなリナにチラリと目をやり、またレポートに目を落とす。
 一番の難問はシリンダとピストンの気密を保ちつつオイル無しで低摩擦を達成しなくてはならないことで、通常の金属を材料にした場合に考えられる大抵のことは既に試していてリナが諦めるのは無理もないと思った。
しかしウォルフとしてはまだ低摩擦セラミックスのシリンダライナやプラズマ溶射機でモリブデンやシリコンなどを配合した低摩擦合金をコーティングしたピストンリングなど試したいことは沢山あるので諦めるという選択肢はなかった。
ただしどれも皆それなりに時間が掛かりそうで、調査をしたきり三ヶ月も放っておいて開発する気はあるのかとツェルプストーにせっつかれている現状では今すぐにというわけにはいかない。

「風石発電機も構造は簡単だし効率は良いけど、小型化が難しいからなあ。風石もどんどん値上がりしているし・・・最近セグロッドの売り上げも伸びが鈍ってきたってさ」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」

リナがプーっと膨れる。視線は外を見たままだ。

「今度ゲルマニアから帰ってきたら一緒に開発しよう。ちょっとまだ試してみたいこともあるし」
「じゃあ、あたしはウォルフ様が帰ってくるまでぼやっと待っているんですか?ぶー」
「安心しろ、君にそんな暇はない」

ウォルフはニヤッと笑うと機械の構造が描かれたメモを取り出した。

「これはコンプレッサーと言って空気を圧縮する機械だ。まずはこれを作ってくれ」

 それはレシプロコンプレッサーの概略図であった。
タイヤに空気を入れる為に必要だし、冷蔵庫など様々に応用が出来る機械だ。窒素ガスやアルゴンガスを空気から得るのにも使用する。リナに図を示しながら構造を説明していくと直ぐに理解してくれ、その目もだんだん輝いてきた。

「うん、これなら割と簡単に出来そうですね。スターリングエンジンの経験が役立ちそうだし、これまで持っている技術だけで何とかなりそうです」
「それはよかった。まだ試作だから必要な出力とか考えなくていいよ。今ある材料で出来そうなのを作ってくれればいいから。で、それが終わったら・・・これも頼む」
「にょ?」

引き出しを開けるとそこからバサッと机の上に設計図の束を出した。

「何時までもネジを旋盤で切ってる場合じゃないからな。ヘッダーと転造盤だ。よろしく」
「にょにょお?ヘッダー?転造?」

設計図を手に取り広げて見ているリナに概要を説明する。要は冷間圧造によりネジを量産する機械だ。

「ぬぬ、これも作れそうです、ね。これ凄い力が掛かってそうですけど、動力はゴーレムを使うんですか?」
「そのつもりだったけど・・・別にモーターでも出来そうだな・・・あ、リナ作っといてくれる?」
「にょにょにょ!?]
「あ、あと油圧駆動システムも作りたいと思っていたんだった。歯車ポンプと油圧シリンダも簡単な図面を引いてあるから時間があったら試作してみてくれるかな」
「にょにょにょにょ!?」

さらに新たな設計図を取り出しリナが持っている図面の上に重ねて渡す。リナはもうそれを広げようとはしなかった。

「ちょ、ちょっと待って下さい!ウォルフ様どんだけ長くゲルマニアに行っているつもりですか!」
「えーと、今回はアルミニウム精錬が軌道に乗るまでと深深度の試験採鉱だから・・・一ヶ月位だと思う」
「それっぽっちで、こんなに作らせる気ですか・・・どんだけー」
「暇なのが嫌そうだったじゃないか。まあ、動力がゴーレムでも良いから転造盤までは作ってて欲しいかな」
「うい、頑張ります」

リナはくるりとウォルフに背を向けると材料室の方へ小走りで向かった。どうやら元気が出たみたいだ。

 リナが材料室に消えるのを見送るとウォルフは外に出て自動車を試運転させているトム達に合流し、一緒に各部をチェック。何点かアドバイスを伝えるとそのままグライダーに乗ってゲルマニアへと旅立った。



「おーい、リナ。お前も自動車乗ってみないか?面白いぞ。どうせ行き詰まっているんだろ」

 トムが一人製図室に籠もっているリナを誘いに来た。リナは製図板から顔を上げ、トムを睨みつける。

「あたし、今もの凄く忙しいんだけど。あんた達も何時までも遊んでないでこっちに人数回しなさいよ」
「え、お前最近暇そうにしてずっと織機の部品とか作ってたじゃないか」
「ウォルフ様に新しい仕事割り振られたの!あんた達使っても良いって言われてるから、あんた今暇ならあれ作ってちょうだい。材料は機械加工室に出てるから」

机の上にある図面を指さす。そこにはこの短時間でコンプレッサーの部品がいくつか書き上げられていた。

「うええ、俺今タイヤの試験やってて・・・」
「あれは元々ジムの仕事でしょう。あんたがやんなくたって良いわよ」
「う・・・何でお前元気になってんだよ」

 トムは仕方なく机の上の図面を手に取るとブツブツと文句を言いながら機械加工室へと向かう。リナはトムに目をやることもなく製図板に向かったままだった。



「あれ、リナ、こっちにトム来なかった?」
「ほふん、丁度良かったわ、サム」

 リナが製図板から顔を上げてニコッと笑いかける。サムはリナを呼びに行ったまま帰ってこないトムを探しに来たのだが、その笑顔を見た瞬間ここに来たことを後悔した。

 この日以降サムとトムが自動車の試乗に戻ることはなかった。




[33077] 第二章 12~17
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:25


2-12    技術立国



 ウォルフがボルクリンゲンの商館に着くと、もう先に送った機械類は全て工場に運び込まれていた。

「ありがとう、フークバルト。何か変わったことはある?」
「昨日機械類を工場に搬入したのですが、夕刻ツェルプストーのデトレフ殿がいらして是非稼働している所を見たいと仰っていました」
「ああ、まあデトレフさんはどのみち見に来るだろう。他には?」
「特にないですね、指示通り鉱山の開発許可は取ってありますし、雇ったメイジや平民も明日工場に集合します」

 いよいよ鉱山の採掘開始である。まずは機械類の操作に習熟して貰う必要があるのが面倒だが、まあ習うより慣れろの精神で行こうと思っている。何せショベルカーの操作など教えられる人間がいないし、ウォルフさえ習熟しているとはとても言えない有様なのだ。

 翌日から輸送の為いくつかのブロックに分解されていた機械類の組み立て、兼整備講習、その運転教習、アルミナ精錬施設の建築、水酸化ナトリウム生産工場建設とこなしていった。計四箇所でほぼ同時に開始したのでそれら全てを監督するウォルフは忙しい毎日を送ることになった。



「いやあ、あのキャタピラというのは素晴らしいですなあ。道無き道も進めるとは。あれがあれば街道などいらないのではないですか?」
「ありがとうございます。確かに進むことは出来ますが、車輪に比べエネルギー効率が良くないので通常の移動には街道を車輪で進む方が良いですね」
「おお、車輪の物も作っているのですか」
「ええ、今アルビオンでウチの技術者達が乗用のものを開発しています。風石が値上がりしているのでなるべく風石を使わないで済むように研究をしている所ですよ」

 教習開始から三日目、この日はデトレフがボーキサイト鉱山に見学に来た。今は丘の上から走行するダンプカーを見学しているが、やたらとキャタピラを褒めそやし、興奮気味だ。
それもそのはず彼はウォルフの機械の価値を正確に理解していた。馬を必要とせず風石だけで走行する強固で重量物を運べる車体にどんな荒れ地でも関係ない無限軌道。最高で時速五十リーグ以上も可能とのことなので、砲亀兵の代替に使用した場合機動力が著しく向上するだろう。
そう、あのダンプカーの背に砲を乗せるだけで地上戦の戦術を変えるほどの兵器となるのだ。

「ちなみに、なんですが・・・あれは販売する予定はおありですか?」
「え、あれですか?いや、あれはそんなに数が売れるものでもないだろうし、量産しないとなるとちょっとコストが掛かりすぎるので今のところ考えていませんね。車輪を使った乗用のものは販売するつもりで開発していますが」
「うーん、そうですか。キャタピラの走行部分だけでも販売すれば買う人間はいくらでもいると思うのですが」

 食いつきの良さからなんとなくウォルフにもデトレフが戦車に使いたがっていると言うことは分かる。確かに戦車用にパッケージして売り出せば売れるのだろうとは思うが、ガンダーラ商会としては多国籍企業という性格上兵器などの取引には参加すべきではないと考えている。
あちこちの国で兵器を売り捌けば儲けは出るかも知れないがそれ以上にトラブルに巻き込まれそうなのは明らかだ。この世界では個人や商会の権利は往々にして国や領主によって制限されるものなのだから。

「風石と仰いましたが、動力として風石を使ってらっしゃるのですか?土石ではなく」
「走行に関してはそうです。アームなどは土石やメイジの魔法を使っていますが」
「ふうむ、ちょっと見せて貰っても・・・」
「ええ、構いませんよ。どうぞこちらへ」

 デトレフを誘ってダンプカーへが一台止めてある所へと向かった。
ダンプカーまで着くと蓋を開き、風石発電機を見せる。スイッチを入れて発電を開始するとデトレフの目の前で風石を取り付けた出力盤が回転を始めた。

「ほうほうなるほど、一部だけで励起させて回転をさせているのですな。それでこのゆっくりとした回転をどうやってキャタピラに伝達しているのですかな」
「あー、それはちょっと、企業秘密と言うことにして下さい」
「おお、そこに秘密があるのですな」

 デトレフは残念そうだがウォルフとしては電気の事を説明するのが面倒くさかっただけである。まあデトレフも車輪を回転させるだけなら土石でも出来るので絶対に知りたいと言う程のことではなく、それ以上訊ねることはなかった。
そのまま運転もさせてあげたのだがデトレフはまたまた絶賛し、興奮したまま帰って行った。




「とにかくですね、素晴らしいのですよ。多少の藪だろうが水たまりだろうが坂道だろうが思うがままにグイグイと走ることが出来るのでこれが何とも楽しくて。馬車よりも大きいくせに馬よりも気軽に御せるのです」

 城に帰ったデトレフはツェルプストー辺境伯に視察の報告を行っていた。まだ興奮しているのか口数が多く、自分の主人がいささか渋い顔をしていることにも気付いていなかった。

「十平方メイル位の広さはありそうな荷台に岩石を満載しても滑らかに走っていましたので、重量的には大砲を積んでも全く問題はないでしょうな」
「・・・・・」
「ウォルフ殿が言う所では量産すればコストは下がると言うことのなので、是非ともフォン・ツェルプストーとして働きかけをして購入できるようにするべきでしょう。あれに大砲を積んで百台も配備出来れば我が領の安全は約束されたようなものです」
「・・・・・」

 デトレフに喋らせておいてツェルプストー辺境伯はその戦術的な価値を検討していた。現代における戦闘ではまずフネと竜騎士にて制空権を得て、しかる後に砲亀兵などの陸上部隊を展開し、地上を制圧するというのが一般的だ。年々兵器の開発が進むと共にメイジや一般歩兵の戦略的な価値は低下し続けているが、今後その流れはますます加速するだろう。
そのキャタピラ車とやらに大砲を搭載した物を考えてみると、やはり一番の利点はその速度であろう。最高速度五十リーグというのは砲亀兵とは比ぶべくもなく、フネよりも速い。
移動するのに地形的な制約をあまり受けないとのことなので、進軍や撤退が自由に、迅速に行える。フネとは違い移動の時にしか風石を消費せず、その量も浮上しない為に圧倒的に少ないというのも利点だ。

 ざっと考えても利点しか思い浮かばないのだが、一番の問題点はそれを開発したのがゲルマニアの技術ではなく、アルビオンの男爵の倅だということだろう。
 
「それで・・・ガンダーラ商会としては市販するつもりはないと言っているようだが、お前はワシにあの子供に頭を下げてお願いをしろとでも言っているのか?」
「え、いやその、お願い、とかじゃなくてですね、株主として意見を・・・」
「やかましい!出来上がっている実物が目の前で動いているんだ。売らんと言う物をわざわざ売ってもらうことはない。お前が作れ」
「うっ・・・いやしかし、グライダーもまだ出来ていませんし・・・」
「ふん、どうせすぐに出来る見込みもないのだろう。取り敢えずこっちを優先しろ。こっちは変な素材は使って無くて鉄で出来ているだけなのだろう?」
「えっとまあ、そう言われればそうなんですが、ウォルフ殿の作る物は鉄と言っても部品によって感触が違いまして、その通り出来るかどうか・・・」
「機能さえ満たしていればその通り作る必要など無い。最高の土メイジと鍛冶が集まっているんだ、すぐに出来るだろう」
「は、はい、おそらくは」

 技術の内製化。ツェルプストー辺境伯が拘っているのはこの点であった。

ゲルマニアは他のハルケギニア諸国に対してメイジの比率が低い。そのことは取りも直さず国力が低いという意味になるが、その不足を補ってきたのがゲルマニアの技術である。
常に新しい技術を求め発展させてきたからこそ、今やハルケギニアでガリアに肩を並べる程の強国に成り上がったのだ。
それが自分も出資しているとはいえアルビオンを出身母体とする一商会に技術で劣ったままという事は許容できなかった。一時的に先行されるのは良い。しかし他人が作れる物を何時までも作れないまま、ということはこの国で有って良いことではなかった。
 だというのにデトレフ達がここずっと取り組んで出た成果というのは、FRPの主材の一つである無水マレイン酸らしきものを『練金』出来ただけだ。
それを聞けばウォルフならば凄い進歩だと思うものだが、ツェルプストー辺境伯には不満だった。何であんな子供が開発したものを一流の土メイジが何人も集まって開発することができないのかと。デトレフは「ウォルフ殿も何年もかかったと言いますし」などと言い訳するが、ゼロから開発するのと現物がそこにあるものを真似するのとでは全然違うはずである。

「いいか、一ヶ月だ。一ヶ月で取り敢えず試作品を見せろ」
「は、はい、分かりました」

いつも以上に強く命じられ、デトレフは胃がきりきりと痛むのを感じて顔をゆがませる。しかしそれを辺境伯に見せるようなことはなく、挨拶をして下がると急いで研究室へと向かった。

 確かに碌に成果は上げていなかった。唯一の成果である無水マレイン酸の『練金』も一流の土メイジが大量の精神力を使ってやっと少しばかりを生成させる事が出来ただけだし、グライダーその物の研究もはかばかしくはなかった。
FRPの実用化に目処が立たなかったので木から削りだして試作してみたらとんでもない重量になった。千メイルの高さから試験飛行してみたが百メイルも進まずに墜落した。
それならばと木で骨組みを作り、帆布を張ることで軽量化した機体を作ってみたがそれでもガンダーラ商会の機体より大分重かった。しかも試験飛行してみたらやはり飛行と言うよりは墜落と言った方が良い有様だ。
形に秘密があるのかと精密にガンダーラ商会製の機体を計測し、時間が掛かったが翼から胴体までほぼ同じ形状で制作したのだが、試験飛行でいきなり翼が折れて墜落した。『強化』の魔法をかけていたというのに。
今は翼を補強して、より念入りに『強化』の魔法をかけた機体を制作しようとしている所だが、これも成功するという保証は無い。

 そんな中での新たな命令ではある。確かに今度のは慣れ親しんだ鉄で作られている。しかし、出来るかも知れないという思いよりは失敗できないというプレッシャーの方が強くなってしまうのはここのところの経験上仕方のないことかも知れない。
しかし命令は命令である。作るしかないと己を奮い立たせるとまずは火メイジの鍛冶職人の元へと相談に向かった。




 デトレフが下がった後の執務室でツェルプストー辺境伯は考え込んでいた。
キャタピラのことはもう良い。直ぐにコピーできるだろうと思っている。ウォルフが思いついたアイデアをいち早く手に入れ、ツェルプストーでも実用化する。これまでと同じ方針だ。
 今、辺境伯の手にはアルミニウムのインゴットがあった。デトレフが参考にとウォルフにねだって貰ってきた物で、ハルケギニア人がかつて見たことがない軽さの金属だ。
これまで辺境伯はウォルフのことを早熟な天才なのだろうと考え、あまり深く考えることは放棄してきた。ツェルプストーが欲しいのはウォルフのアイデアであり、それは現状のままでも十分に得られそうであったからである。
しかし、こうもグライダーの開発が難航し、さらに新たな技術を次々に提示されてしまうとそうも言っていられなくなってきた。ツェルプストーにいる土メイジが誰もこのアルミニウム合金でさえろくに『練金』出来なかったのだ。

「うむ、もっとよく観察する必要があるな」

誰に言うともなく呟くと手元のベルを鳴らし秘書を呼んだ。

「お呼びでしょうか」
「再来週のキュルケの誕生パーティーだが、ガンダーラ商会のウォルフ・ライエに招待状を送ってくれ。アルビオンに行った時に世話になったそうだ」
「は、ウォルフ様ご本人にでしょうか?確かアルビオンの男爵家であったと思いますが」

 通常貴族のパーティーの招待というのは爵位を持つ者に対して行われる。子供同士が友達だからと言って子供だけ招待するなどということはあまりない。
しかし、ウォルフとツェルプストーの関係は親を介していないという特殊な物であったし、ごく内向きなパーティーならそういう前例が無いわけでもないので今回はウォルフだけを呼ぶつもりにした。

「まあ、それ程堅苦しいパーティーではないからかまわんだろう。あれの親のことなど全く知らんしな」
「ではキュルケ様の個人的な招待と言うことにいたしましょう」
「ああ、そうしてくれ。それと、ウォルフについてもっと詳しい資料が欲しい。本人だけではなく親兄弟親戚の好みや性格なども詳しく分析して纏めてくれ」
「は、アルビオンやガリアでの調査になりますので多少時間が掛かると思いますが、よろしいでしょうか」
「かまわん。徹底的に調べろ」
「畏まりました。早速手配いたします」

 ウォルフをもっと良く見極める必要がある。まだ八歳でしかないというのに異常な知識量を持ち、ハルケギニアの常識を次々に変えてくる。メイジとしても二歳年上のキュルケを軽く一蹴する程でその実力はデトレフ達には量れなかったという。
ツェルプストーにとって福音なのか、脅威なのか。制御できるのか、暴走する可能性があるのか。

「将来このまま商会に収まっているつもりなのか、それとももっと大きくなるつもりなのか・・・」

 そう呟くツェルプストー辺境伯の目は、戦闘を前にした時のように鋭く光っていた。




2-13    キュルケ生誕祭



 ツェルプストー辺境伯の思惑など知らず、ウォルフはゲルマニアでずっと忙しく働いていた。

 教習開始から一週間後にはボーキサイトの採掘が本格的に始まった。ショベルカーにはアームが二つ装備してあり片方には削岩ユニットが取り付けてあるので、表土を取り除きむき出しになったボーキサイト鉱床を壊しながら採掘する。表土は一箇所にまとめておいて採掘が終わったら埋め戻すつもりだ。
最初は変形ゴーレムのショベルカーに怯んでいた鉱夫達であったが、すぐにその扱いにも慣れ効率よく作業を送れるようになった。

 同時期にイェナー山の深深度調査も開始している。トリベルグの滝の横、高さ三百メイルの大断層の下に採掘拠点を設置し、断層面から地底奥深くを目指し掘り進めていった。一日十二時間掘削機を稼働して約四十メイル掘り進めるというペースだった。
土・風・水のメイジ三人を含む十人で一チームを作り掘削機の操作と土砂の排出を行う。メイジの三人は事掘削現場での落盤・有毒ガス・出水といった事故に対処するために配置している。これは普通の鉱山でもよく行われていることで、ハルケギニアの鉱山で事故率が低いのはやはりメイジのおかげであると言える。
 風力発電機の設置も終わり水酸化ナトリウム製造工場も完成し、今は大量に購入した塩が入荷するのを待っている状態で入荷次第稼働する予定である。
 クロムやニッケルなどは精錬方法を研究中で、まだ目処は立っていないので採掘はしていない。



 そんなある日ボルクリンゲンに滞在しているウォルフの元にキュルケが訪ねてきた。その時ウォルフは自室でアルビオンから送ってきたリナの図面を添削していたのだが、突然扉を開けて乱入してきたキュルケにその作業は中断された。

「はぁい、ウォルフ久しぶりね、元気?」

 あくまでにこやかにキュルケが挨拶するが、後ろで商会の事務員達が困った顔でこちらを窺っている。この部屋は事務室の奥を透明アクリルのパーテーションで区切っているだけなので事務員達は丸見えだ。まあ、キュルケのすることを気にしてもしょうがないので商館員に手を振って仕事に戻らせる。

「おうキュルケ、久しぶり。相変わらずだな」
「ご挨拶ね。友達が久しぶりに訪ねてきたって言うのに。あら?この絵は何?」
「んー、アルビオンの工場で設計してる機械の設計図。ちょっと添削している所」

 キュルケがウォルフの机の上に広げられた図面に興味を示すが、ウォルフはさして気にもせずに視線を机の上に戻すと作業を続ける。
いくつかの箇所に×を入れ、数値を書き換え、注意事項を記入する。大きく変更する所には横に簡易な図を書き込んだりもした。キュルケは暫く黙ってその作業を眺めていたが直ぐに焦れた。

「だから、それが何の機械か聞いているのよ」
「これは転造盤の一部だな。ネジを量産する機械だ」
「ネジって何よ」
「物と物とを接合する仕組みの一つ。魔法溶接と違って平民にも扱えるし、分解可能な所が利点」

その後もキュルケがあれこれと聞いてくるので簡潔に答えていたが、結局キュルケはその図面に書いてある物がどういう物であるか理解できなかったようだ。三面図も見るのが初めてらしいのでそんなもんだろう。

「ふーん、あなた本当に普通に働いているのねえ。まだ八歳だってのに」
「普通かどうかはよく分からんが、確かにここん所働きづめではある」
「男爵家っていうのも大変なのねえ・・・」
「そう大変・・・ん?」

 何か変なこと言われたような気がしたので顔を上げるとキュルケが憐憫を含んだ目でこちらを見ていた。

「ちょっと待て。ド・モルガン家は別に大変じゃない」
「そうなの?でも、こんな子供の頃から働かせるなんて、農村の方ではそりゃ普通かも知れないけど貴族の間ではあまり聞いたことがないわ」
「商会はオレが好きでやっていることだから、実家とは何の関係もないよ」
「え?でも商会始めるお金は実家が出しているんでしょう?」
「うんにゃ。びた一文出していません。全部オレが稼いだお金です」
「全部?あなたが?」

キュルケとしては貧乏な男爵家が優秀な息子のアイデアに全てを賭けて一発逆転を狙って借金して商会を立ち上げた、というストーリーを頭の中で作っていたので驚いた。ウォルフの親の話を聞いたことがないのは金策で忙しいからだろうと勝手に想像していたのだ。

「あなたみたいな子供が、そんな大金どうやって稼いだっていうのよ」
「色々と物を作って売ったんだよ。物を作るのは得意なんだ」
「はあ・・・物を作って売ったって言ったって、ガンダーラ商会って結構大きな商会じゃないの」
「今はね。最初はそうでもなかったんだ。まあ、借金もあるけど・・・ところで、何か用があって来たの?」

どうやって稼いだかを一々説明してると長くなっちゃいそうなので強引に話を振る。キュルケは興味がポンポン飛ぶから放っておくと相手をするのが大変だ。

「ん?そうそう、来週わたしの誕生パーティーがあるから招待しに来たのよ」

話を振られたキュルケは懐を探り招待状を取り出した。しかしそれは既にウォルフが知っていることだった。

「知ってる。昨日招待状を貰ったから」
「え?お父様がド・モルガンを招待したの?」
「いや、家は関係なくてオレだけを招待したみたいだね。君が」

ウォルフが言いながら机の引き出しから招待状を取り出す。そこにはキュルケの名前が使われていた。

「この封蝋は・・・お父様ね。ふうん、何かあなたに用があるみたいね」
「うーん、やっぱりそうなのか・・・多分キャタピラのことだと思うんだけど」
「あ、それよそれ。何かまた新しい乗り物作ったんだって?それにも乗せて貰おうと思って来たのよ」
「あー、あれは仕事で使っている分しかないから、今日は無理。虚無の曜日になら乗せてあげられるけど」
「えー、また来るなんて面倒くさいじゃないの」

 キュルケは一頻りごねたが仕事している機械を止めてまで遊ばせてやるつもりはない。びしりと説明すると何とか分かってくれたみたいだった。

「ふう、わかったわ、虚無の曜日ね。まったく、融通が利かないんだから。そんなんじゃ出世できないわよ?」
「出世なんて望んでないから関係ないね」
「まーねー、今更ウォルフにおべっか使われても気持ち悪いわね。仕方ないから今日は帰るわね、パーティー、来るんでしょ?」
「おお、貴族のパーティーって出るの久しぶりだから楽しみにしてるよ」

思い出すのは二年前のオルレアン公邸でのパーティーではあるが、まああんな事は滅多にないことだろう。
ウォルフはまだ年齢が年齢なので公式な晩餐会などには出たことがないが、今回のような私的なパーティーはガリアとアルビオンとで経験している。美味しいものも食べられるし色んな人を観察できるのでパーティーは結構好きだ。ゲルマニア有数の貴族であるツェルプストー辺境伯がどんなパーティーを開くかと言うことには少し興味があった。

 この日はキュルケはそのまま帰り、虚無の曜日に再び訪ねてきたので約束通りダンプカーやショベルカーの試乗をさせてあげた。キュルケはダンプカーよりもショベルカーの方が気に入ったようで、ひたすら楽しそうに穴を掘っていた。



 そして翌週、週の初めから忙しく働いているとあっという間にキュルケの誕生日当日となった。パーティーは夕刻からなのでそれに合わせてウォルフはボルクリンゲンを馬車で出発する。グライダーの方が早いので飛んでいきたかったが、パーティーの時は馬車で行くものらしいので慣例に従った。

「いらっしゃい、ウォルフ。良く来てくれたわね」
「誕生日おめでとう、キュルケ。今日は招いてくれてありがとう」
「ふうん、意外ね、結構ちゃんとしてるじゃない。いつもパッとしない格好をしているし、こういう所は苦手なのかと思っていたわ」

 言われてウォルフは自分の格好を見る。正装などはほぼ一年ぶりなので今着ている服は今日の為に新しく仕立てた物である。商会で扱っているアルビオン製の生地を使ってボルクリンゲンで縫製した一張羅だ。
特に華美であるというわけではないが、おかしい所はないはずだった。

「確かにこの服は今日の為に仕立てた物だけど、オレだってちゃんとする時はちゃんとするさ」
「意外と似合ってるわよ?ふふ、今日は楽しんでいって頂戴ね」
「ん、いやしかしすごい人だね。こんなに大きい規模のパーティーは初めてかも」
「私の誕生日は毎年これくらいの人が集まるわよ。ゲルマニア西部の貴族はほとんど来ているんじゃないかしら」
「はー、大したもんだな。あ、そうだ、デトレフさん、いる?珍しい鉱石を色々貰ったんでお礼を言いたいんだけど」
「警備には入っていなかったわね、何か最近忙しいらしいわよ?デトレフなんか良いじゃない、こっちにいらっしゃい、私の友達に紹介するわ」

 キュルケはウォルフの手を掴むと引っ張って子供達が集まっている一角へと連れていった。知り合いがいないウォルフの事を気に掛けてくれているらしい。
連れて行かれた一角にはキュルケの親戚やら近所の貴族の子弟達だという子供達が集まっていた。キュルケがウォルフを連れてくると男の子達は若干の敵意を含んだ目で、女の子達は好奇心を含んだ目で見てきた。
しかし、ウォルフがアルビオンの男爵の次男であると自己紹介すると皆興味を無くしたみたいだった。適当な挨拶を返すだけでキュルケを取り囲んであれこれと話し掛けはじめ、ウォルフはすぐに一人になってしまった。

 一人になったウォルフはキュルケを取り囲む輪からはずれ、パーティー会場をふらふらと歩いて回った。大きな城ではあるが特にこのホールはウォルフの背では端が見渡せない程に広く、来る前に想像していた以上の人数がこのパーティーに参加しているらしい。
これがゲルマニアにおけるツェルプストー辺境伯の権勢かと感心しながら参加している人々を観察する。大体近所の領地持ちの貴族が多いようだが、中にはあきらかに商人上がりらしい者や神官のような者、中央の役人らしき者もいてバラエティーに富んでいる。それらが雑多に混じり合い絶えず変化しながら二人から十人程の規模で会話に花を咲かせていた。
 この様なパーティーに参加する人間の目的はコネクションの獲得と情報交換だ。参加者達は皆楽しそうに会話をしているが、その目はギラギラと輝いている。特に情報については皆餓えているようで、ひっきりなしに話す相手を変えているような手合いも多い。
 ゲルマニアはハルケギニアでは比較的若い国だ。まだ成長期にあるこの国に住む人々はウォルフから見ると驚く程のバイタリティーに溢れていた。

 コネクションはともかくウォルフも当然情報を仕入れようとこの場に来ているので、料理を食べながら周囲の大人達の話に聞き耳を立てた。
都合良く今一番欲しい情報である東方開拓団のことを話題にしている人などは居なかったが、色々と興味深い話題が会場の其処此処で花を咲かせている。子供なのでそうそう会話に参加するわけには行かないが、料理を食べながら会場内を回遊し興味深い話題を探した。
 今聞いているのは左後ろの青年貴族の一団で、グライダーを購入した貴族がその自慢をしているところだった。グライダーに対する貴族達の評価は価格が高すぎるという人もいれば、お抱えの職人に作らせればいいのではないかという人も居てまちまちだ。何人かの貴族は購入を迷っているようだったので(買えー!)っと念を送りながら新しい料理を手にしていると今度は正面の夫人達の間でタレーズが話題に上がっている。
グライダーにしろタレーズにしろユーザーや購入検討者の生の声は色々と興味深かった。

「タレーズは普通にしていても凄く良いのだけれど、何が凄いって言ってその真価は仰向けに寝たときに有るわ」
「そうそう、わたくしも初めて着けて仰向けになったときには驚きましたわ!ちょっと最近だらしがなかったのが、あたかも火竜山脈のように、ツン、と」
「まああ・・・ツン、ですか」
「ツン、ですわ。それも固くなったり無理に引っ張ったりするのでは無くて、あくまでも自然な感じで、ですの」
「まあまあ、それは素晴らしいですわね。それは、あの、伯爵様の反応も違います?」
「それは、もう・・・実はね、今週だけでもう・・・(ゴニョゴニョ)・・・」
「そんなに!わたくしなんて、まだ今年に入ってからでもそんなには・・・」
「あらあら、あなたまだお若いのに。ちなみに私も今週は・・・(ゴニョゴニョ)」
「(ゴクリ)・・・」

 しばらくその場所に留まって話を聞いていたのだが、奥様達の話が声を潜めてやや赤裸々な内容になってきたのでまた移動する。奥様達が週に何回いたしているかなんてことには興味がない。
 新しい料理を手に取り、今度はどちらに行こうかと周囲を見回していると丁度料理を取りに来た少女と目があった。さっきの子供達の一団にはいなかった顔で年の頃は十三、四歳位、キュルケのように真っ赤な髪とキュルケとは違う真っ白な肌、黒曜石を思わせる真っ黒な瞳を持つ美少女だった。
賑やかなパーティー会場で一人でいるウォルフが気になった様子である。

「あら?僕、一人なの?」
「こんばんは。まあ、一人だけど楽しんでいるから気にしないで」
「気にしないでって、友達はいないの?ご両親は?」
「両親は来ていないし、知り合いはキュルケだけなんで」
「キュルケだけって・・・あっ!もしかしてあなたガンダーラ商会のウォルフ?」

 少女の声が結構大きくてウォルフは自分たちに視線が集まるのを感じた。ガンダーラ商会はやはり注目の的らしい。

「うん、そうだけど、お姉さんは?」
「あ、あらごめんなさい。私はマリー・ルイーゼ・フォン・ペルファルよ。隣のペルファル子爵領の長女、キュルケとは従姉妹になるわ」
「ん、オレはウォルフ・ライエ・ド・モルガン。そっちの仰る通り、ガンダーラ商会で技術開発部の主任をしている。よろしく」
「技術開発部の主任って・・・まだ子供なのに」
「子供ならではの自由な発想から商品化しているんだよ。ミス・ペルファルもグライダー一機お買いになりませんか?」
「あっはっは、あれって凄く高いらしいじゃない。私のお小遣いじゃ買えないわ」

 ウォルフが軽く営業してみると子供がそんなことを言うのが可笑しかったのか、からからと笑った。
彼女と挨拶している間に周囲の話はピタリと止んでいて、ウォルフは今度は自分の話を聞かれるのだろうということを覚悟した。アルビオンの男爵の次男と言った時は誰も反応しなかったのに。
 マリー・ルイーゼはそんな周囲の様子には頓着せずに話を続ける。

「ねえねえ、あなた、キュルケに決闘で勝ったって本当?キュルケは詳しく話したがらないんだけど、こんなに小さな男の子だったなんて思わなかったわ」
「決闘って言っても軽く杖を交えただけだよ。キュルケはオレのこと舐めきっていたしね」
「へーえ、本当なんだ。キュルケの相手は私だって苦労するって言うのに・・・ねえ、どうやって勝ったの?」

 声が大きい。気楽に聞いてくるが、周囲の貴族は耳がダンボになっている。ウォルフはシャルルの時に懲りて注目を集めたくないのであまりこの話題を続けたくなかった。

「いや、どうしたもこうしたも無いよ。キュルケが油断していた所にガツンと魔法を当てただけ。『エア・ハンマー』だったかな」
「キュルケったらどんだけ油断してたのよ・・・でも油断していたとはいえキュルケが捌ききれなかったんでしょう?」
「防がれる前に当てた。ただそれだけだよ。詠唱の早さってのは大事だね」
「ああ、まあねえ。でもキュルケも結構早いと思うけどねえ」

 その後何とか話題を逸らし、魔法全般についてとりとめのない話をしていると徐々に周囲の注目度も下がり始め、ウォルフは胸を撫で下ろした。
彼女は火メイジだそうで、ウォルフも火メイジだと知ると色々と悩みを相談してきた。目下の悩みは『ファイヤーボール』の威力向上だそうだ。威力を高めようと魔力を込めると玉が大きくなって速度が遅くなり、かといって炎の大きさをそのままで温度を上げても威力はあまり変わらないのだと言う。
キュルケに勝ったという一点だけでウォルフのような年下の子供に相談してくるなんて随分と気さくな人のようだ。

「火の大きさや温度で威力の大小をイメージするんじゃなくて、熱量という考えを元にすると良いんじゃないかな」
「熱量?温度じゃなくて?」
「そう。温度を上げても希薄な炎になっちゃうなら意味がない。ただ炎の温度を上げるんじゃなくて、対象の温度をどれだけ上げることが出来るかと言うことを意識してみると良いんじゃないかな」

 たとえば発光している蛍光灯の内部温度は一万度にも達する。しかし、希薄なガスである為にそれだけの温度であるにもかかわらず危険はない。
ハルケギニアの火の魔法も温度だけを上げようとしてみても全体の熱量は上がっていない、という事は良くあることだった。
特に『ファイヤーボール』は高温の可燃性ガスを球形に圧縮して保持し燃焼させながら制御して対象に当てるという魔法である為、どんな種類のガスをどれだけ高圧に圧縮できるかと言うことが威力向上に直接響く。ガスの量を増やさずに多少大きさを大きくしたり温度だけを上げても効果は少ない。
 ウォルフは一時期アセチレンガスをファイヤーボールに使用してみた事があったが、アセチレンは高圧を掛けられないので使用を諦めた事があった。
燃焼温度の高いアセチレンよりも多少温度は低くとも大量のガスをファイヤーボールに詰められるプロパンの方が物理的な威力は上なのだ。

「うーん、何となくイメージできるかも。ありがとう、今度試してみるわ」
「いえいえ、どういたしまして」

 そのままあれこれと二人で話してすごした。もう周囲から注目はされていないとウォルフは思っていたが、会場の反対側、ウォルフから大分離れた所からその様子を窺っている人物がいた。このパーティーの主催者、ツェルプストー辺境伯である。
彼はパーティーの最初から来場者の相手をしつつ視界の端でずっとウォルフの様子を観察していたのだ。キュルケに挨拶をし、所在無げに会場を彷徨い、今マリー・ルイーゼと楽しそうに話している、その全てを。




「よお、ウォルフ久しぶり。ガンダーラ商会は調子良さそうだな」
「や、これは辺境伯、本日はご招待いただきましてありがとうございます」

ウォルフの視界から見えるように近づいてきたツェルプストー辺境伯がおもむろに声を掛けた。辺境伯がウォルフのような子供を気に掛けると言うことはまず無いのでその声に振り返ったマリー・ルイーゼは驚いて目を丸くした。

「うむ、楽しんでいるみたいだな。マリー・ルイーゼに目をつけるとは中々・・・若いのに情熱を理解していそうだ」
「一人でいたのでミス・ペルファルが気に掛けて下さったのですよ」
「伯父様、私はまだ十三歳です。私が男の子と話す度に色々言うのはやめて下さい」
「もう、十三歳だろう。駆け落ちの一回や二回はしていてもおかしくない年頃だぞ?ワシの初恋は六歳だった。それは電撃的に激しく恋に落ちた物だ」
「私の歳で、駆け落ち経験者なんて聞いたことがありません!」
「どうだろうウォルフ、マリー・ルイーゼは色恋沙汰より杖を振っているのが好きという一族の変わり者でな。君、情熱を教えてやってはくれないか?」
「伯父様!」
「いや、済みません、私も情熱はまだちょっと早いみたいで・・・」

 情熱も何もウォルフはまだ八歳である。まあ軽い冗談なんだろうが、辺境伯が来てまた注目度が鰻登りになっている。程ほどにして欲しかった。
そんなウォルフに構うことなく辺境伯は更なる燃料を投下した。

「ふむ、君は年の割には随分と優れたメイジだそうだが、アルビオン人であるという欠点を持っていたな。どうだ?見事マリー・ルイーゼを落として見せたらペルファル子爵領を君に継がせてやるぞ」

 おおっ、と周囲の貴族達がどよめく。
 ウォルフは辺境伯の軽口だと思っているので苦笑いをするだけだが、マリー・ルイーゼには冗談では済まない話だ。大体彼女には兄がいるのだし、こんな五歳も年下の男の子を恋愛対象などとはとても考えられない。繰り返すがウォルフはまだ八歳なのだ。

「ちょ、ちょっと、伯父様!うちにはお兄様がいるんですよ?そんな勝手な」
「うん?あいつはキュルケを狙ってるんじゃないのか?それなら最低でも伯爵位には出世して貰わんとならんのだから、かまわんだろう」
「ええ?でも出世できるかなんて分からないんだから・・・」
「ふん。マリー、良く聞いておけ。出世できるか出来無いかなどと考えることに意味は無い。出世すると決めることが大事なのだ。後は決めたことを如何に"成す"か。そこに男子の生涯がある」
「うーん、わかります。志を立てる事が大事ということですね」

 言葉がないマリー・ルイーゼに代わってウォルフが返事をする。
子爵領に恋々とする位ならキュルケのことは諦めろと言うことだろう。貴族にとって領地の事はその程度の事とは言い切れない位には大事ではあるが、この一族にとって優先順位の最上位ではないと言うことだ。
キュルケからも聞いてはいたが、そんな全てに優先して恋に生きるというこの一族の思いきりの良さをウォルフは嫌いではなかった。まあ、真似しようとは思わないが。

「彼女に相応しい身分を手に入れて迎えに来ればいいわけだから、分かりやすいと言えば分かり易いですね」
「まあ、キュルケを愛するというのならその程度の"情熱"は当然見せて貰わんとな」
「うう・・・あ、兄には伝えておきます」
「ん?心配せんでもあいつもツェルプストーの血を引いておる。元々そのつもりに違いないわ」
「ホ、ホホホ・・・」

 キュルケは今日やっと十一才になったばかりである。今年十九才になる兄が本気でそんな幼女を愛しているとでも思っているのだろうか。
兄が聞いていたら泡を吹いて倒れるかも知れない。わははと豪快に笑う辺境伯に乾いた笑いを返しつつ、マリー・ルイーゼは兄がキュルケのことを諦めるであろう事を確信していた。




 その後も色々と話をしたが、会話が途切れたときにふと、辺境伯が尋ねた。

「ウォルフ、君はその若さで色々と才を発揮しているようだが今後アルビオンで出世したいとか考えているのか?」
「貴族としてですか?それはないです。でも・・・」

辺境伯の様子はさりげなく、しかしそう尋ねるその顔はどこか鋭さを持っていたが、それに対してウォルフは珍しく言い淀んだ。

「でも?」
「ああ、すみません。今、興味があるのは東方開拓団についてなのです。それだと出世するって事になるのかな?」
「東方開拓団?応募したいって事か?」
「取り敢えず調査してその結果次第ですけど」

 近い内に行ってみたいんです、とはっきりと答えるウォルフに辺境伯は意表を突かれ黙り込んだ。周囲の貴族達もざわざわと囁き合っている。
ガンダーラ商会で金を稼ぐことが目的なのか、その稼いだ金が可能とする更なる野望を持っているのか、見極めようと意気込んでいたが、辺境伯は目の前の少年がまだ八歳でしかないことを思い出した。
確かに人跡未踏の地を開拓すると言うことにロマンを感じて東方開拓団に応募するという者もいるとは聞く。しかし恋愛以外では徹底的なリアリストである辺境伯にとって成果の見込めない冒険など何の価値もない事であり、そんなものにかまけている者も利用しやすい相手でしかなかった。
 大人びた少年の意外な稚気に思わず笑みがこぼれる。これならコントロールすることは容易かも知れない。

「ふむ、開拓の達成率は当然知っていてそんなことを言っているのだな?」
「ええと、とても低いとは聞いています。正式な数字は知りませんが」
「それを知りながらなお応募するというのは何か成算があるのか?」
「今はまだ何もないです。ただ、そこがどんな場所なのか知らなければ判断が出来ないことだとは思っています。まあ、一番の理由は私が行ってみたいって事なのですが」
「それで調査か・・・それは当然ガンダーラ商会としてやると言うことだな?」
「いえ、これは私個人でやるつもりです」

タニアには先に断られました、と何気なく言ってくるウォルフの顔をまじまじと見つめた。八歳の子供があの森の開拓を自分個人の力でやると言う。正気なのかと疑ってしまうが至って真面目なようだった。

「個人で、か。亜人や幻獣の駆除経験はあるのか?」
「あまりないですね。トロル鬼を駆除したことがある位です」
「トロル鬼・・・その年で。ふうむ、面白い。かつてあの森に挑んでは跳ね返されてきた男達と君とでなにが違うのか見てみたくはあるな」

 ガンダーラ商会でやるというのならば株主の一人として反対せざるを得ないが、ウォルフが個人でやるというのならばツェルプストー辺境伯にとっては何も言うことはない。
ウォルフが成功するのならそれはそれでゲルマニアにとって良いことだし、失敗したってツェルプストーは何も痛まない。ガンダーラ商会の株保有率を上げる好機になるかも、という位だ。

「来週我が領で大規模な山賊討伐を行うのだが、君も参加しないか?」
「最近東の方で出没するという山賊ですか」
「そうだ。景気が良くなるのは良いが、ダニも増えてきたからな。東方開拓団の申請にはゲルマニア貴族の推薦が必要だろう。君の実力が問題ないと判断できたらワシが推薦してやっても良い」
「そう言うことであれば是非参加させて下さい。メイジとして山賊の討伐程度には問題ない力量があることを証明しましょう」
「ふふふ、戦闘が出来ずにあの森の開拓など出来るわけもない。それがどの程度なのか見せてくれ」

ツェルプストー辺境伯は満足げに笑みを浮かべ、ウォルフの肩を叩いた。




2-14    蠢動



 キュルケの誕生パーティーの少し前、とある秋の一日、ライヌ川を一隻の船が下っていた。ブリミル教の教会旗を掲げたその船はゆっくりと川の流れに乗り下流にあるボルクリンゲンへと向かっていた。
その船の中にはこの度新たにボルクリンゲンに設けられることになった司教区を統べる司教とその司祭、助祭達が任地に着くのを待っていた。

「司教様、甲板に出てみませんか?対岸はもうツェルプストー領らしいのですが、なにやら面白い物が走ってますよ」
「面白い物とは何だ。ジャイアントワームがスキップでもしているって言うのか?」
「まあまあ、そう仰らずに。ずっと船室に籠もりきりだと気分が滅入ってしまいます。さあさあ、どうぞこちらへ。良い天気ですよ」
「ええい、引っ張るでない。面白い物など知らん。あ、こら、引っ張るなと言うに」
「ほらあれですよ、ご覧下さい。さすがは技術大国ゲルマニアです、珍しい機械ですな」

 ブルキエッラーロ司教は興味がないので断ったつもりだったのだが、司祭に強引に連れ出され、甲板から対岸を眺めた。
 司教は相当機嫌が悪い。それもそのはずつい先日までクルデンホルフ大公国の司教であったのであるがゲルマニアなんぞへと転属させられたのである。ブリミル教では同じ司教でもロマリアに近いほど地位が高く発言権を持つ。ゲルマニアはハルケギニアで最も野蛮であるなどと言われ、この移動は事実上の左遷である。
 大体こうしている間にもこの船がロマリアから離れているという事実が司教を滅入らせる。それなのに部下になったゲルマニア生まれの司祭達が故郷に戻れることで何となく浮きだっているのも気にくわないし、あれこれとこちらに気を遣ってくるのも気に入らない。
 つまり、機嫌が悪いのである。

「うん?何だ、あれは」
「うーん、何でしょうなあ。土石で走らせているとは思うのですが、高価な土石をあんな勢いで消費する理由が分かりませんな」

 そこには確かに奇妙な物が走っていた。一見すると荷馬車のようではあるが馬は無く、車体の側面に複数付いてある車輪には何やら金属製と思しきベルトが巻いてある。上部の荷台には何やら赤っぽい岩を大量に積んでいて、それが結構な速度で砂煙を上げながら走っていた。
訊かれた司祭は首をひねって近くにいる助祭達にも聞いてみるが誰もあんな物は知らないそうである。しかし、誰も見た事がない中で司教だけはどこかで見たことがあるような気がして記憶の中を探った。
 走っているのはガンダーラ商会のダンプカーで、この日初めてゲルマニアを走行しているという物である。見たことがあるはずはないのだが、司教は一つの記憶に思い当たった。
それは現在の教皇が選出される以前、まだブルキエッラーロ司教が教会権力の中枢に近い位置にいた頃ロマリアで見た・・・ガンダールヴの槍と呼ばれる物の一つだった。

「何であんな物がこんな所にあるんだ・・・」
「え?司教様あれをご存知だったのですか?」
「う・・・いや、昔見た物にちょっと似ているだけだ。それよりあそこはもうツェルプストー領なんだな?では司祭、君はボルクリンゲンに着き次第あの荷馬車のことについて調べてみてくれ。誰が、何時、どこで作ったのということをだ」
「は、はあ、分かりましたが・・・司教様随分と気に入ったみたいですねえ」
「まあ、ちょっと気になるという程度だ。私はちょっと手紙を書くので船室に戻る」
「あ、でももうじきボルクリンゲンに着きますよ!」

 司祭が注意するが司教は気にせずその太った体を船室に戻した。慌ててレターセットを用意し、誰に手紙を送るべきか一瞬躊躇した。
ここで普通ならば直接の上司である枢機卿に送るべきであるのだが、ブルキエッラーロ司教は前回の教皇選出の際その枢機卿を推薦していた為にその後辛酸をなめている。それに彼の枢機卿はもう年を取りすぎていて今後権力に返り咲くことがない事は明らかだ。
 彼は頭の中の候補からその老人の顔を押し出すと一人の野心家の枢機卿を思い出した。まだ四十をいくつか超えたばかりでいながらその能力と人柄で次期教皇にも近いのではと言われる人物・・・エウスタキオ枢機卿である。
もしあの荷馬車の秘密を解明し、ガンダールヴの槍の運用法を見つける事が出来ればエウスタキオ枢機卿が教皇に選ばれるのに十分な実績を付加するし、ブルキエッラーロ司教も新教皇の覚えめでたく中央に復帰すると言うことも夢ではなくなるかも知れない。エウスタキオ枢機卿は野心家ではあるが自身に対して功があった者に報いる事で有名である。
 考えを纏めるとすぐにペンを走らせた。現教皇は最近健康に不安があると言われている。何があるのかは分からないのだから工作するのならばなるべく早い方が良い。
 



 ボルクリンゲンに着き、新築された教会に入り自室に落ち着くと直ぐに手紙を出した。何時返事が来るかと心待ちにしていたのだが、何と三日後に使者が来た。恐るべき早さである。何故かトリステイン経由でトリステイン商人のフネに乗ってきたらしい。
この三日のうちに司祭に頼んだ調査もある程度進んでいて、例の荷馬車がガンダーラ商会というゲルマニア・ガリア・アルビオンで売り出し中の商会が開発したもので、最近アルビオンで製造されたということまで分かっていた。
ガンダーラ商会についてブルキエッラーロ司教は知らなかったが、ゲルマニアの人間には既に有名らしく、地元出身の助祭には知らないというと驚かれた。グライダーというものが飛んでいるのを見て新しい乗り物を開発する商会なんだなと認識した。
 そのような商会の人間にガンダールヴの槍を見せればもしかしたら何か分かるかも知れないと期待は高まっている。

「初めまして、ブルキエッラーロ司教様。エウスタキオ枢機卿の元で神に仕えていますヴァレンティーニと申します。一応助祭の地位を賜っています」
「これはこれは、わざわざこんな地の果てまでようこそ、歓迎します」
「この様な格好で失礼いたします。エウスタキオ枢機卿からとにかく急ぐように言われ、取る物も取り敢えず参上いたしました」

 ブルキエッラーロ司教の前に姿を現した使者は陰鬱な雰囲気の中年男だった。一応助祭とのことだが、教会で正規の教育を受けているとはとても感じさせない、どちらかと言えば傭兵であると言われた方がしっくりと来るような男だ。後ろに控えている供の者達も同じでどう見ても荒事を仕事としている人間にしか見えない。
ロマリアの人間の筈だが服装は上から下までトリステイン辺りの傭兵がよくしているような装備で、聖職者たる助祭が司教の前に出るときにするようなものではない。トリステイン商人のフネに乗ってきたこともあり、何かしらトリステインで任務に当たっていた人間を急遽こちらに寄越したのだろうと判断した。

「ああ、お気になさらず。これだけ速く対応していただけたのです、無理もありません。そうですか、エウスタキオ枢機卿にはそんなに関心を持っていただけましたか」
「ええ、停滞している始祖の研究に一石を投じられるかも、と期待を寄せておりまして、私に詳しく調査するように命ぜられました。司教様にも協力していただけますよう、要請いたしております」
「おお、確かに。もったいないお言葉、痛み入ります」

 エウスタキオ枢機卿のサインの入った手紙を受け取り、ブルキエッラーロ司教は笑みを堪えるのに多大な努力を要した。
手紙には司教の心遣いに感謝するとともに今後ともよろしくという内容のことが記されていた。具体的なことは何も書いていないが、これは始祖のことを扱う時には普通のことである。この手紙こそ司教が欲しかったものだった。

「何でも仰って下さい、何せ始祖の謎が一つ解明できるかも知れないのですから」
「ありがとうございます。私は早速調査に入りたいと思いますので、司教様にはこちらの特命調査依頼書にサインをお願いします」
「うん?これは私の調査権をあなたに委譲するというものですか?」
「ええ、私の身分はただのロマリアの助祭でしか有りませんですので、この地で大っぴらには調査が出来ません。この書類が有ればガンダーラ商会であろうとツェルプストー辺境伯であろうと私が直接調べることが出来ます」
「ふむ、調査権限は新型の馬車に関するもの限定ですか。問題は無さそうですな、良いでしょう」

 さらさらとサインをされた命令書をヴァレンティーニは恭しく戴いてから懐にしまった。
 教会の調査と言っても公式に強制力のあるものではない。しかしブリミル教徒には教会に奉仕する義務があるとされているので、ブリミル教徒を名乗っている者ならば教会の要請を無碍には出来ない。
始祖の謎が関わっているので教会側もあまり情報を開示できないが、この教区を管轄する司教直々の調査命令書であり、たとえ領主といえども蔑ろには出来ないはずである。

「では、確かに」
「調査するとの事ですが人員は足りていますか?何人か融通する必要はありますか?」
「いえいえ、ロマリアから部下を連れてきておりますのでお気遣い無く。それではこれで。私は早速調査へ向かうとします」
「もうですか。さすがに出来る人の元にいる方は仕事ぶりが違いますな」
「性格でしてね、目の前の仕事はさっさと片付けたい質なのですよ」

 長旅の疲れも見せず任務に就こうとするヴァレンティーニに驚くが、もちろん司教に異存があるはずはなかった。



 その後ヴァレンティーニはツェルプストー領内で色々と調査をしていたが、ブルキエッラーロ司教がその調査に一切関わることは無かった。司教がその調査結果を知ることになるのはおよそ十日後の夜、ヴァレンティーニが報告に来たときだった。
調査はガンダーラ商会の商館から工場、ダンプカーその物、ツェルプストーの城から領内の噂まで広範にわたり、現時点で調査できる事は全て調べ尽くしていた。

 教会の奥まった一室で司教と二人きりになったヴァレンティーニが重々しい口調で切り出した。

「これまで徹底的に調査してきて解りましたが、中々巧妙に情報を偽装しているようで、このままここで調査を続けていても真実には到達できないとの結論に達しました」
「なんと。私の所の司祭がここの商館で尋ねた所では、あれはガンダーラ商会のアルビオンにある工場で生産されたと聞きましたが、それも嘘の情報であるというのですか?」
「おそらくは。部下の土メイジの話では、あれに使われている鉄は見たこともないほど高品質で、とてもアルビオンで製造できるような物ではないとのことです。ゲルマニアで製造していると考えるのが自然ですし、更に言えば私は使い魔を使いツェルプストーの工房であれらしき物を製造している現場を確認しました。私が尋ねたときにはツェルプストーはまったく関わっていないと証言していたものですが」
「ああ・・・敬虔なブリミル教徒であるはずのツェルプストー辺境伯が、そんな偽証をするとは・・・嘆かわしいことです」
「ガンダールヴの槍、ということは兵器であるということです。辺境伯がその事に気付いているのならば仕方のない事かも知れません」
「なるほど、新型兵器ならばたとえ教会といえども領主としては全てを話すわけにはいきませんか」
「ええ、そしてツェルプストーが本気で情報を秘匿しようとしているのならば、通常の手段では打つ手は無いということです」

 何だか随分と真実からは離れてしまっているが、当然二人は気付かない。しかしそれも無理はなかった。真実が一番嘘っぽいのだから。
ヴァレンティーニがツェルプストーの説明を信じず、使い魔のコウモリを使って城内を探った時にデトレフがウォルフの真似をしてキャタピラを作ろうとしている現場を見た事もあり、すっかりツェルプストーで作っていると信じてしまっている。
ボルクリンゲンにいる貴族の子供(=ウォルフ)がダンプカーやグライダーを開発した、という噂も耳にしていたが、聞いた時に一笑に付しただけで真実であるとは思わなかったのだ。

「そして真実が分かったとしても司教様の仰るようにガンダールヴの槍が運用できるようになるのは難しいかも知れません」
「それは・・・なぜですか?あれほどそっくりな物を作れるのならば、当然その謎を解明し、構造にも詳しい人間がいるのでは?」
「私はあの荷馬車もガンダールヴの槍も直接調査しました。外側の構造には驚くほど類似点が多いのですが、内部構造はまったく別物でした。内部の動力などは仕組みを解明できなかったのでしょう」
「そう・・・ですか。・・・それは残念です」
「まあ、そう気を落とさずに。あの荷馬車を作った人間が、それが何者であるにしろガンダールヴの槍を見た事がある、ということは間違いないと思います。継続調査の必要はあるでしょう」
「確かに。辺境伯が見たのはロマリアにある本物か、もしかしたら別に同じ物を持っている、と言う可能性もありますな。もしそんなことがあるならばこれは大変なことです」

 落ち込む様子を隠せずにいた司教だったが、慰められて少し気を取り直した。
全く無駄骨だったというわけでは無いし、エウスタキオ枢機卿と繋がりを持てたのは喜ぶべき事だ。もし今後この地でガンダールヴの槍と同型の兵器を発見する事が出来たらまた中央復帰の可能性は高まるだろう。大事なのは今後この繋がりを切らないことだ。

「ええ、色々と可能性はありますが今回はここで調査を打ち切り、私は一度ロマリアに戻ろうかと思います。また何か新しい情報がありましたら知らせていただくよう、お願いします」
「残念ですが、仕様がありませんな。色々と気をつけてみることにします。エウスタキオ枢機卿にはよろしくお伝え下さい」
「あなた様の信仰心を枢機卿に伝えますことをお約束します・・・ブリミル様に感謝を」
「ブリミル様に感謝を・・・」

 丁寧に挨拶を済ませるとヴァレンティーニは従者二人を従えて教会を辞した。このまま馬で街道へ出てロマリアへと向かうと言う。
そろそろ夕刻にさしかかろうという時間なので、司教が心配し、出発を明日にしたらどうかと言ったのだが、早く報告をしたいからとヴァレンティーニは馬上の人となった。
 司教はそんなヴァレンティーニの事をとても仕事熱心な、信者の鏡であると評価した。



 ブルキエッラーロ司教は知らなかった。

 そのまま街道へ出てロマリアへと向かったはずのヴァレンティーニが何故か途中で道を変え、国境を越えたラ・ヴァリエール公爵領の街・ティオンの傭兵ギルドへと入っていった事を。
これまでの調査期間中、彼が何度もティオンへと足を運び、とある傭兵団を雇い入れていた事を。
その傭兵団が金さえ払えば非合法活動でも躊躇無く行う悪逆非道な集団である事を。
ヴァレンティーニとその傭兵団が夕闇に紛れるようにティオンの街から姿を消した事を。

 ブルキエッラーロ司教は、知らなかった。




2-15    覚悟



 ハルケギニアの中央、大国ガリアとゲルマニアの間に挟まれた小国トリステイン、その東部にあるラ・ヴァリエール領にて領主であるヴァリエール公爵が部下達から調査の報告を受けていた。
この調査は数日前に公爵自らが指示した物で、ここ数日領内に流れる不穏な噂について、噂の出所と真偽を確認させる為の物だった。

「ふむ、では噂の出所はティオンの商人達という事なのだな?」
「はっ、おそらくは。しかし、噂は既に東部国境地帯に広く流れていまして、中には家財道具を持って西部に避難する者も出始めています」
「馬鹿馬鹿しい。今この時期にツェルプストーが攻めてくるなどと・・・」

 公爵が苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。
その不穏な噂とは、ここの所好景気に沸く隣国のツェルプストー辺境伯が不足する資源を得る為にラ・ヴァリエールに侵攻する準備を進めている、と言うものだった。
 有り得ない、と公爵は思う。ここ数世紀ツェルプストーとの国境はずっと変わらず、国境について争った事はない。大抵は領主間の感情の縺れによる小競り合いである。
トリステインは始祖の血を継ぐ歴史と伝統のある国家である。一時的な感情の暴発以外で戦争を仕掛け、その土地を己のものとしようというならばそれ相応の大義名分が必要だ。さもなくば、他の始祖の血を継ぐ三国、ガリア・アルビオン・ロマリアをも敵に回す事になる。
 卑しい商人のような真似をする国だとは思っているが、その程度の計算は出来るはずである。現在のツェルプストーとの関係ももちろん良好ではないが、お互いに戦争を仕掛ける程関わり合っていない。有り体に言えば無関心、と言っていい状態なのだ。

「一応、念のため調査を続けろ。使い魔を使って見張らせ、向こうの城に何か動きがあったら知らせるように。あと各地の騎士団も何時でも参集出来るようにしておけ」
「は、了解しました。鳥の使い魔を持つ者に交替で見張らせましょう」
「ああ、あと念のため各地の傭兵ギルドにどの程度兵を用意できるか聞いておけ」
「あ、その事でまだ報告していないことが・・・ティオンの傭兵ギルドで耳にしたのですが、数日前に大口の契約があったそうです」
「何?・・・契約したのは誰だ?」
「分かりません。ギルドは雇用主の情報は漏らしませんので。ただ・・・酒場で聞き込みをした所によると、複数の傭兵が近々ゲルマニアで大きい仕事があると話していたそうです」
 
 この世界の傭兵とは金で雇われる戦闘を生業とする者で、ギルドを組んではいるがいずれの国家にも属していない存在である。
日頃は商人の護衛をしたり、各地の領主が行う討伐などに雇われたりしているが、いざ戦争となるとより多くの金を出す領主とそれぞれ契約して戦争に参加する。
ラ・ヴァリエールを拠点にしている傭兵が全て戦争時にヴァリエール軍に属するわけでは無い。
 何者かがこのラ・ヴァリエールでまで傭兵を集めているという事実は公爵の緊張感を一気に高めた。
部下達を一睨みすると、腹に力を入れて声を張る。

「他に何か情報はあるか?」
「いえ、今のところは、以上です」
「指示は概ね先程出した通りだ。ただ、西側にいる騎士団はこちらに詰めさせろ。見張りは二十四時間態勢、気を抜くなよ。ゲルマニアの田舎者どもめ、もし攻めてくるつもりならば国境を越えた瞬間に皆殺しにしてくれようぞ!行け!」
「「はっ!!」」

 公爵の激しい檄にその場にいた者達が応え一斉に持ち場へと散っていった。これよりラ・ヴァリエール領は防衛体制に入る事になる。
まだツェルプストーが攻めてくるという事には懐疑的な思いもあるが、もし戦う事になれば公爵には負けるつもりなど微塵もなかった。

「・・・さて、カリンはどこにいるかな・・・」

ラ・ヴァリエール公爵は愛する妻を捜し、城の奥へと姿を消した。



「じゃあ、行ってくるから今日はよろしく」
「はい、お任せ下さい。ウォルフ様もくれぐれもお気をつけて」

 ツェルプストー辺境伯軍の山賊討伐当日のまだ早朝、ボルクリンゲンの工場でウォルフは作業の指示を細かく出した後、自分のグライダーに乗り込んだ。
 ウォルフにとっても本気の戦闘は久しぶりであり多少緊張していたが、それ程激しい戦闘になることはないと聞いていたので幾分気は楽だ。
と言うのも今回はキュルケの初陣であり、確実な勝利が求められている為にそれなりの相手を選んでいるとのことだ。ウォルフは魔法の実力を示す事が参加目的なので遠目から火の魔法で砲撃すればいいのかなと気楽に考えていた。
 しかしそんな気楽な気分は集合場所であるツェルプストーの居城まで来て、中庭に勢揃いした兵士達を見た瞬間に霧散した。
皆一様に気合いの入った表情で武器の手入れや装備の確認をしていて、この討伐隊が紛れもなく命のやりとりをするんだと言うことをウォルフに思い出させた。

「ああ、ウォルフお早う。今から今日の作戦のブリーフィングを始めるらしいからあなたも参加して」
「お、キュルケおはよ。ミス・ペルファルもお早うございます。今いくよ」
「お早う。今日はよろしくね」

 暫く中庭をうろうろしているとキュルケとマリー・ルイーゼに出会い、そのままこの討伐隊の本部に連れて行かれた。
 本部と言っても建物に入ってすぐのロビーに大きな机を出して地図を広げただけの物だが、既に大勢の人が集まり地図を前にあれこれと確認していた。
そこにウォルフ達も到着し、暫く経つと全員が揃ったらしく説明が始まった。
 今回の賊はツェルプストー辺境伯領東部二つの街道の間の山中の洞窟を根城とし、その入口に簡易な砦を築いているとのことだ。洞窟が崖に囲まれている上に巨木が立ち並んでいる為に発見しにくく、砦への攻撃経路は崖の正面からの一方向のみとなる。洞窟の上部の崖がオーバーハングしているので上方からの攻撃も無理なのだ。
賊の人数はおよそ五十、その内メイジは約五人と典型的な中小規模の山賊で、今はそれ程の脅威はないが今後放置すると規模を拡大しそうではある。

 洞窟から二つの街道へ出るルートがそれぞれあるので攻撃部隊を二つに分け、それぞれから進軍させる事になった。
一つ目の部隊は当然ツェルプストー辺境伯が指揮を執るが、もう一つの部隊長はキュルケである。もちろんキュルケには経験豊かなメイジが複数指導に付くのであくまで名目上ではあるが。
 ウォルフはツェルプストー辺境伯の部隊に配属さた。辺境伯直々に闘いぶりを見てくれるらしい。ちなみにマリー・ルイーゼも一緒の部隊だ。 
この二つの部隊とは別にもう一つメイジだけで編成された三十人ほどの部隊を崖の上部に配置している。賊が砦から出て来るようなら上部から攻撃、砦に籠もるようなら上部から穴を掘り直接洞窟内へ侵入する予定であり、この部隊はもう夜の内に配備済みとの事だ。
 三つの部隊を合わせると総数三百名を超え、メイジだけでも八十人以上いる。装備も最新であるし確かに戦闘と言うよりは討伐と言うのがしっくり来る戦力差だ。



「じゃあウォルフ、砦の前で会いましょう。あんまり来るのが遅いようなら私の部隊だけで攻撃しちゃうから」
「スタンドプレーには走るなよ?少ない人数で攻めて討ち漏らしても詰まらないんだからな」
「ふふふ、ウォルフったら自信がないのかしら?私は討ち漏らしたりしないわよ。うふふ、フルパワーで撃っていいのよね・・・最近の私の魔法、凄いのよ?」
「だから落ち着けって。道中にも罠とかあるかも知れないし、亜人や幻獣だって襲ってくる可能性はあるんだから」

 部隊長に任命されてキュルケの気合いが入りまくっている。ちょっと入れ込みすぎの感じがする牝馬を何とか宥めようとするが、効果はあまりないようだった。先発隊の情報では山賊達に気付いた様子は全く無いらしいが、戦闘なのだ、いくら警戒しても足りないという事はないだろう。
今回の作戦で一番の懸念はキュルケとキュルケの部隊に配属された子供メイジ達だ。昨日のパーティーに出ていた子供達の内、十二、三歳の子供達三人が参加している。それぞれに護衛が付いているとはいえ不安である事は間違いない。
 ウォルフにとってあんなに小さな子供達が戦闘の場に立つと言う事自体不安が一杯だ。優秀と言われているキュルケの魔法でさえ、空賊討伐時のクリフォードに劣っている。エルビラなら参加を許さないだろうし、他の子供達は言うまでもない。出来れば子供達のそばにいて守ってあげたいところだ。

「何か心配になってきたよ。オレ、今からキュルケの部隊に変えて貰えないかな」
「あら寂しいの?でも無理じゃないかしら。お父様道中の退屈しのぎにウォルフがいると丁度良いって言ってたし」
「うわ、それはそれで大変そうな・・・」
「せいぜいしっかり相手してらっしゃい。あなた一人がこっち来たからって何が変わるって訳じゃないんだから」
「へーい・・・本当に気をつけろよ?」

 配置転換の願いはかないそうもないので諦めて、キュルケにくれぐれも気をつけるように言い含めてそれぞれ出発した。
 
 討伐隊は列を成して街道を進み、やがて山中へと分け入った。街道からの入口は偽装されていたが、山中をずっと細い山道が続いていたので一列になりながら砦を目指した。
ウォルフはセグロッドなのであまり地形の制約を受けず、ずっとツェルプストー辺境伯の乗騎の隣を高さ一メイル位を維持しながら行進して話し相手になっていた。

「山賊って言うのは日頃からそんな洞窟に住んでいるものなのですか?」
「いや、日頃は奴らも街に住んでいる事の方が多いらしい。洞窟は略奪品や攫ってきた人質なんかを一時留め置く為に使っているみたいだな。日頃は精々見張りが数人いるだけだそうだ」
「それでは今回襲撃してもあまり効果はないのでは・・・」
「いやいや、ここ一月以上前からボルクリンゲンや周辺の街で大々的に取り締まりをしていてな、盗賊のアジトになりそうな所は徹底的に潰していったんだ。それでやつらは嫌気して、ほとぼりが冷めるのを待って山に籠もっている。そこを叩くのだ」
「なるほど、安心しました。下準備はしっかりとしているわけですね」
「あたりまえだ。三百人からの人間を動かして、いませんでした逃げられました、では話にならん。領民に対するアピールもある。ワシが動くからには目に見える形での成果が必要なのだ」

 いつも一人でよく話すのでウォルフの中では辺境伯は話し好きのおっちゃんと言うイメージだが、中々辺境伯の話は蘊蓄も含まれていておもしろい。
出発前は相手をするのは大変かもと思っていたが、今は全く気にならなかった。

「いいか、お主も領主になりたいというのならば心しておけよ。領主というものは特別な存在なのだ」
「はい」
「力を示し、敬意を集め、家中を統率する。親しまれるのは良いが馴れ合うわけにはいかん。判断一つ間違うだけで多くの領民が路頭に迷い、部下が死ぬ。最終的にその判断を下すのはただ一人、領主だけなのだ」
「・・・肝に銘じます」

 ウォルフも領主の責任について考えないわけではないが、実際にツェルプストーという広大な領地を治めている者の言葉には重みがあった。

「敵を破り領地を富ませる。弱みを見せず強さを示す。そんな領主こそ常に孤独だ。そしてその孤独から逃げず、受け止めている」
「・・・」
「敵に接して怯まず、兵の中央にあってこれを鼓舞する。領民に愛され兵を熱狂させるが、時にその領民の犠牲に目を瞑り兵を死地へと赴かせる。それを決めるのは一人だ」
「・・・」
「孤独に慣れる事は無い。何年領主をやっていようともだ」

 辺境伯は前方を歩く兵達に目をやり、次いで遠くの空を見つめ呟くように語る。ウォルフとマリー・ルイーゼはただ黙って頷いた。

「どんなに屈強な男であろうとも、それが永く続けば打ち拉がれてしまう。しかし、そんな孤独を癒せる唯一の存在がある。それが、愛なのだよ」
「・・・結局そこですか。そうですか愛ですか。情熱ですか」
「そうだ、情熱だ。その女の前では領主ではない、ただ一人の男でいられる。ただの男として泣き、笑い、愛を語れる。そんな存在が必要なのだ」

 何だか色々と台無しである。どんな話でも女性の話につなげる傾向のある人であるとは思っていたが今回はウォルフも虚をつかれた。

「ふう・・・辺境伯は随分とあちこちでただの男になっているようですね」
「ん?わはは、ワシはどうも情熱が溢れているらしくてな。しかし、ワシが女を口説く時は常に本気だぞ?」
「本気だろうと、そんなに沢山いたら一人一人に掛ける情熱は減っちゃうでしょうに」
「それはお前が情熱のなんたるかを知らんお子ちゃまだからそんな事を言うのだ。情熱とは割り算できる物ではない。掛け算なのだ!十ある情熱を五と五に分けるのではなく、こっちに十、一人増えたのならそっちにも十だ。いくら人数が増えてもそれは変わらん」

 すぐ後ろでマリー・ルイーゼが呆れた顔をしている。女性としてはそんな理屈で方々で浮気されたらたまった物ではないのだろう。辺境伯は自信満々の顔だがせっかくのいい話が残念なことだ。
まあ、この一族が過剰に愛を求めるのはトリステインとの国境地帯という立地で闘いに明け暮れてきた歴史がそうさせているのかも知れない、と納得する事にした。

 その後マリー・ルイーゼも交えてツェルプストー辺境伯の恋愛講座が始まってしまったのだが、その内容はとても八歳の少年と十三歳の少女にするような物ではなかった。
マリー・ルイーゼは暫く我慢して聞いていたが、怒って部隊の先頭の方へ移動してしまったし、ウォルフも八歳の身で女性をベッドに誘う実践的なテクニックとやらを講義されても対応に困る。
色々と突っ込みたいが、取り敢えず「隣に座った女性の膝が自分の方に倒れていたら最後まで行ってもOKというサイン」というのは絶対に勘違いだと思う。

 ツェルプストー本隊はとても戦闘行動中とは思えない緩い空気に包まれながら行軍していた。




 亜人や幻獣などにも遭遇せず至って平和な雰囲気の中、あと四リーグほどで砦に着くという時、突然遠くで雷がおちたような爆音が鳴り響いた。

「!!っ全軍停止!!偵察!」
「・・・キュルケの部隊がいる方角ですね」

 連続して鳴り響いたあきらかに爆発物のようなその音に、辺境伯は行軍を止めて偵察の報告を待った。
 ジリジリと苛立つ時間が過ぎ、鳥を使い魔にするメイジによってもたされた偵察の結果はかなり悪い物だった。

「報告します!東方五リーグほどの山中にてキュルケ隊が襲撃を受けています!爆発物にて本隊を寸断され、混乱に陥っています!」
「敵の数は、被害はどうなっている!」
「およそ三十から五十、連絡は取れず、被害は不明ですが複数の倒れている人間が確認できます」
「くっ、気付かれたというのか!伝令、砦の様子はどうなっている!」
「はっ、砦の山賊達も驚いているようで、慌てて洞窟から出てきてキュルケ隊の方角を窺ってるとの事です!」

 どうやらこの襲撃は山賊達にとってもイレギュラーだったらしい。崖の上部に潜んでいる部隊からの報告によるとかなり焦っている様子で右往左往しているとの事だ。
第三の勢力が戦闘に介入してきた事により事態は複雑な様相を呈してきた。敵の数も目的も分からないのだ。普通の山賊ならば領主の軍に奇襲を掛ける危険を冒す事はない。
 迂闊な行動は取れない為、辺境伯は慎重に指示を出した。

「城に連絡して竜騎士隊をキュルケの救援に向かわせろ。我々は予定通り行動して砦の山賊を討伐する」
「伯父様そんな!竜騎士隊が城から到着するのは十分以上掛かります。その間にキュルケがもたなかったら・・・」
「ここから『フライ』でメイジを救援に向かわせても五分以上かかる。しかも精神力の多くを使ってしまい、万全な闘いは出来ないだろう」
「そんな・・・だからってキュルケを見捨てるなんて・・・」
「先手を取られたとはいえ相手は少数だ。混乱から立ち直って部隊を纏めればキュルケ隊だけでも十分に戦えるはずだ。向こうは囮でこちらに本命の奇襲があるかも知れないのだ、部隊を割る事など出来ん」
「・・・」

 マリー・ルイーゼの意見は多くの家臣達も思っている事だ。誰もがキュルケを、あの小さな領主の娘を助けに行きたいと思っている。だから辺境伯も明確に理由を示して答えた。
皆が納得はしていなくとも理解はしたようなので辺境伯が進軍を伝えようとした時、更に最悪な報告が届いた。城と連絡を取り竜騎士隊の救援を要請したメイジからだった。

「報告します!」
「今度は何だ」
「ヴァリエール軍が軍事行動を開始!竜騎士が多数国境付近で威嚇行動を取っているという事です。我が方の竜騎士は既に殆どが国境の防備に向かっていて城には二騎しか残っていません!指示を待つとの事ですが、いかがなさいましょうか!」
「っ・・・ヴァリエール!!」

 ギリッと音が出るほど歯を噛みしめ、西の空を睨む。このタイミングは偶然とは思えなかった。

「・・・竜騎士はそのまま領地の防衛に当たれ。国境の部隊は守りに徹し、先に攻撃しないよう徹底しろ。我が隊は予定通り砦の攻撃に向かう」
「・・・今すぐ城へ帰還した方が良いのでは?」
「奇襲を受けるとすれば、ここで引き返した所を狙われる可能性が一番高い。このまま砦の山賊を殲滅し、キュルケと合流し、まだ賊がいるようならばそれも殲滅して城に帰る。全てを薙ぎ払え!進軍!」
「「はっ!!」」

 ヴァリエール軍の行動によりキュルケに救援を送ることは不可能となった。誰が絵を描いたのかは知らないが、必ずこの報いは受けさせる。厳然たる決意を胸に、まずは目先の敵である山賊をどのように皆殺しにしてやろうかと考えた。



「フォン・ツェルプストー!!」

 部隊の先頭が動き出し、辺境伯も馬を動かそうとしたその時、ウォルフが辺境伯に声を掛けた。ツェルプストー辺境伯は返事をせずにじろりとウォルフの方を向いた。

「本日はお誘い下さいましてありがとうございました。ただいまより私、ウォルフ・ライエ・ド・モルガン、指揮下から抜ける事をお許し下さい。森を抜けてキュルケ隊の救援に向かいたいと思います」

 キュルケ隊までは直線でおよそ五リーグ。『フライ』で行くには魔力を消費しすぎるし、馬で行くには森が深すぎる。しかしウォルフのセグロッドならば問題なく抜けられる。風魔法を併用すればそれ程魔力を消費しなくても五分以内にたどり着くはずである。
辺境伯はじろりと冷たい目でウォルフを眺めたが、一言「好きにしろ」とだけ返して馬を進ませた。

 ウォルフは辺境伯に軽く頭を下げると、その場からセグロッドで森へと分け入った。風の魔法を併用して加速し、あっという間に部隊から離れる。 

 無事でいて欲しい。

 キュルケや子供達、部隊の人々の顔を思い浮かべながら、ウォルフは滑るように森の中を進んだ。




2-16    火



 ウォルフが抜けた後、ツェルプストーの本隊は警戒を強めながらも少しペースを上げて進軍する。
その隊の中央付近でツェルプストー辺境伯にマリー・ルイーゼがウォルフを一人で行かせた事を詰っていた。

「伯父様、何でウォルフを一人で行かせたの?危ないし、ウォルフ一人が行ってもしょうがないでしょう」
「あれはツェルプストーの人間ではないからな。部隊を抜けたいというのなら抜けさせてやるわ」
「でも!・・・あんな小さな子供を一人でそんな危ない目に遭わせるなんて」
「ふん・・・危ない目になど遭わんかもしれんぞ?」
「え?どうして?」

 辺境伯は冷笑を浮かべながら吐き捨てるように言うが、マリー・ルイーゼは理由が分からず困惑する。ウォルフはキュルケの所に行ったのだから戦闘に巻き込まれるはずである。危なくないはずはない。

「あれはどうも年の割に"賢い"からな。"賢い"人間というものはどうしても損得というものが見えてしまう。この部隊がこの先勝ち目の薄い戦闘をする事になるのなら、今の内に抜けた方が得という物だろう」
「!!ウォルフが逃げたというのですか!」
「可能性の話だ。まあ、まだ子供だ。怖くなったという事もあるかも知れん」
「そんな・・・私は、ウォルフを信じます・・・」
「お前はウォルフの何を知っている?ろくに知りもせん人間の事を信じているなどと、そんなことは自分の希望を口にしてるに過ぎん。繰り返して言うが、あの子は"賢い"。五十人からの敵がいる所に一人で乗り込んでいって、どうにか出来るなどと考えるほど子供だとは思えん」
「・・・それでも、です。だってあの子はキュルケの所へ行くって言いました!」

 怖い。辺境伯に向かって叫んだ後馬を進め、辺境伯から離れるとマリー・ルイーゼは両腕で我が身を抱いて呟いた。
 彼女の心を今占めている感情は、まさしく恐怖である。今キュルケが直面しているだろう戦闘が怖いし、ウォルフが裏切ってたらと思うと怖い。
さっきまで二人で仲良さそうに話していたくせに、ウォルフの事など全く信じてないと言い切る辺境伯も怖かった。
 今日もし無事に帰れたら、昨日までの自分とは全く違う人間になってしまっているかも知れない。そんな事を考えるとマリー・ルイーゼは言いようのない恐怖に体を震わせるのであった。


 


 当然ながらツェルプストー辺境伯の懸念など杞憂に過ぎない。ウォルフはキュルケ救援の為一直線に現場に向かっていた。

 あと五百メイル足らずで煙が上がっている場所に着くという時、ウォルフの火メイジとしての感覚が前方の森に違和感を感じた。

「《フライ》!」

 咄嗟に魔法を使い、セグロッドを掴んだまま上空へと飛び上がった。その瞬間、間一髪でウォルフの進路上だった空間を複数の『エア・カッター』が切り裂いた。

「ほう、今の攻撃を躱しますか。随分と良い勘をしていますね」
「ヴァレンティーニ様、こいつ、ガンダーラ商会の所のガキですよ。つかまえますか?」
「そうですね、この子も交渉材料になるかも知れません。お願いします」

 嫌らしい相談をしている男達をウォルフは上空で静止して見つめた。人数は三人、内二人が風メイジの様で三人とも手練れだ。ウォルフの行く手を阻むように上空に上がってきた三人は、まず間違いなくキュルケ隊を襲っている連中の一味と考えて良いだろう。
そしてウォルフにはヴァレンティーニという名前に聞き覚えがあった。

「ロマリアの人間がこんなところで何をしている」
「いやあ、キノコ狩りをしていたんだ。まだちょっと季節が早いみたいだね」

 くつくつと笑いながらあっちのキノコは随分とじゃじゃ馬みたいだが、などととぼけた答を返す。ふざけて見せながらもその構えに隙はなく、三人とも慣れた様子で杖剣を構えている。十メイル位の距離で正面に一人、そこから五メイル位間隔を開けて左右に一人ずつ、その姿には一分の隙も無い。

「・・・」
「ちょっと君らの身柄を確保する必要があってね、良い子だから大人しく捕まってくれ。今なら手足の腱を切るだけでそんなに酷い事をしないつもりだよ」
「そうそう、下手に抵抗すると死んだ方がマシだと思うような目に遭っちゃうかも知れないぞーw」
「おいおい、あんまり脅すなよ、可哀想に怯えているじゃないか」

 ウォルフが黙っているのを怯えていると受け取ったのか、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら降伏勧告をしてくる。
どうにも話す内容や表情が真っ当な人間には思えない。ウォルフが黙っていたのは周囲の森にまだ伏兵がいないかを探っていただけだ。丹念に調べたが風の動きも人が発する熱も感じない。どうやらこの三人以外にはここらにはいないようなので、ウォルフの事を舐めきって油断している彼らを排除する事にした。

「《フレイム・バルカン》」
「なっ!!」

 ウォルフが放った魔法は連発式の『フレイム・ボール』である『フレイム・バルカン』だ。単発の火の玉ではなく連なる火の玉をイメージする事によって連射を可能にし、燃焼剤であるプロパンを高圧で圧縮して空気抵抗を減らして、さらに後方に向かって燃焼ガスを噴出する事によって飛行中も加速するようにした。その結果、速度は時速三百リーグ以上、連射速度は秒間五発以上を可能としている。こんな距離で躱しきれる人間はそういるものではない。
最初に撃ち込んだメイジはそのまま『フライ』で躱そうとしたが躱しきれず、一発目が当たり炎に包まれた瞬間消えていなくなった。風の『遍在』だったらしい。残る二人は『フライ』を解除して地面に落下しながらも防御魔法で防いだが、いずれも五発以上持ちこたえる事は出来なかった。中央にいたヴァレンティーニも『遍在』であったらしく一人目と同様にかき消えたが、右端のメイジは上半身に火の玉を受け落下した。

 急がなくてはならない。
この位置に伏兵を配しているという事は、敵がこちらの作戦行動を把握して動いているという事だろう。落下していく襲撃者には目もくれずウォルフはまたキュルケの元へと急いだ。



 そこは岩だらけのガレ場の斜面を道が横切るように通っている場所だった。
その細い道を一列になって行軍している所を爆弾らしき物を使って奇襲されたらしく、酷く岩が崩れて道が無くなっていた。岩に押しつぶされた人もいるようだし、周囲には人が転々と倒れていて呻いている。ようやくたどり着いた現場は酷い有様で、ウォルフはグッと唇を噛みしめた。

「救援だ、キュルケはどこだ」

 比較的軽傷そうな者を抱き起こして尋ねる。比較的軽傷と言っても足に酷い火傷を負っていて、苦しそうに呻き声を上げた後山道の奥を指し示してウォルフに答えた。

「ガンダーラ商会の子供か・・・あっちだ。キュルケ様を含む本隊は戦闘しながら街道方面に撤退していった」
「襲撃者の数は?どんな奴らだ?」
「傭兵みたいだが、数は分からない・・・三十人以上はいたと思う。辺境伯はこっちに向かっているのか?」
「ああ、オレはキュルケの方に行く。救援を待っててくれ」
「ちょっと待て、お前みたいな子供が行ってどうなる。ここで一緒に救援を待て」

 残れと言ってくれる男に心配ないと告げて先を急ぐ。何よりもまず襲撃者を撃退しないと被害者が増えるだけなのでこの辺の負傷者の救命活動は後回しにせざるを得ない。
 
 風の魔法を最大限に併用して急ぐウォルフの目が遂に戦闘中の部隊を捉えた。襲撃者達がツェルプストー軍を圧倒しており、随分と一方的な戦いになっていた。
撤退していくツェルプストー軍の中にメイジに抱きかかえられたキュルケの姿を見つけた。キュルケは右半身が酷く焼けただれ、気を失っているようだ。キュルケ隊は半ば包囲され、戦闘と言うよりは何とかキュルケを逃がす為の時間稼ぎをしている最中だった。
 どうやら少し遅かったようだ。ギリッと奥歯を噛みしめ、ウォルフは魔法を唱える。

「うわははは、早く逃げないと全滅だぞ?そおら!燃えろぉ!」
「《フレイム・バルカン》!」
「な!うおおっ」

 キュルケ隊に更なる攻撃を仕掛けようとしていた指揮官らしき男をウォルフは全力で攻撃した。
『フライ』で敵主力を飛び越えながらその指揮官に十発以上を撃ち込み、こちらに対応しようとした周囲を取り囲む敵にも上空から掃射した。
今日の為に魔力はずっと溜め込んでいたし、道中も魔力の消費をセーブしてきたので魔力切れの心配は少ない。思いっきり撃ち込んだ。

「キュルケの様子はどうだ!生きてるか?」
「あ、ウォルフ殿、は、はい。何とか・・・しかし、すぐに治療しないと危ないです」

 キュルケの部隊の前に降り立ち、更に魔法を敵に向かって掃射しながら後方でキュルケを抱えたメイジに尋ねた。他のキュルケ隊の兵達はウォルフの魔法の威力に唖然として声もない。今や敵のいた森は大きく燃え上がっていた。
敵からの反撃がないのでウォルフも一度後方へ下がってキュルケの様子を診たが、右上半身の火傷が酷い。その容態は一刻を争うものだった。
 ちらりと燃えさかる炎の方を見る。炎の向こうからあの高らかな笑い声が聞こえてきて、敵が無事である事が分かる。あれを倒すのには少し時間が掛かってしまうかも知れない。

「水メイジは何人いる?」
「二人です。あとは部隊の前方にいたので連絡が取れません」
「その二人、付いてきてくれ。安全な場所まで撤退してキュルケの治療をしよう。他の人は時間稼ぎをしながら徐々に撤退してきてくれ」
「分かりました。キュルケ様をよろしくお願いします。あと子供達も一緒に連れていって下さい」
「分かった。キュルケが大丈夫そうになったらすぐに戻ってくるから、それまであれを止めといてくれ」

 そのあれ、は「良い炎だあ!」等と言いながら炎の向こうでまだ笑っている。どうやら変態らしい。
変態である事は間違いないのだが、強力なメイジである事も皆先程までの戦闘でよく分かっている。残る者達は断固たる決意をその顔に漲らせてウォルフに頷いた。

「いえ、そのままキュルケ様と一緒に撤退して下さい。やつは我々が刺し違えてでも倒します」
「オレの事は心配ない。すぐ戻ってくるからそれまで無理はしないでいてくれ」
「体勢を立て直す時間をもらえました。無理なんか無いですよ」

 急襲からの連続攻撃で混乱し、防戦一方だった為に良いようにやられていたが、ここにいるメイジ達はほとんどがトライアングル以上である。体勢を立て直した今ならばそうそうやられるつもりはない。
ウォルフは戦闘を彼らに任せてキュルケを治療する事にし、『レビテーション』で浮き上がらせたキュルケを連れて街道の方角へと急いだ。




 子供メイジ達とその護衛、それに治療役の水メイジ二人と共に道をそれて小川のほとりまで逃げ、『練金』でステンレスのバスタブを作りその中にキュルケを下ろす。
護衛には周囲に散って辺りを警戒してもらい、ウォルフと水メイジ二人でキュルケの治療を始める。子供達はそれぞれの護衛について行った。
 火傷の治療は魔法で行う場合も通常と同じようにまずは熱を取る事が大事だ。一人の水メイジが川の水を操ってバスタブに常に新鮮で清潔な水が流れるようにし、火傷の熱を取る。同時にもう一人が慎重に鋏を使って焼け落ち体にまとわり付いている服を全て脱がし、ようやく火傷の全貌が明らかになった。

「これは、酷い・・・急がないと」
「う・・・キュルケ様」

 キュルケの火傷は右半身の肘の辺りを中心に頭から膝あたりまで広がっていて、特に腕の損傷が激しかった。年若い方の水メイジは絶句して涙ぐんでしまったが、年配の方は冷静に携帯している水の秘薬を取り出すとルーンを唱え火傷の治療を始めた。
年若いメイジも慌てて自身の携行している水の秘薬を取り出すと年配のメイジに手渡し、自分は再び水を操り火傷の熱を取るように水を動かす。その間ウォルフはもう一つバスタブを作り、その中に水を満たす作業をしていた。

「《コンデンセイション・ラグドリアンウォーター》」
「・・・ええ?」

 ウォルフが静かにルーンを唱えるとバスタブの水が神秘的な光を放った。ウォルフの魔法により一瞬でただの川の水だったはずのものが、あのラグドリアン湖の湖底の水となった。
以前より改良された魔法によって大量に作り出されたこの水には水の秘薬程の力はないが、その水の中にある対象に術者の意志をよく通すようになる。熱を取る、治癒するなどの魔法の通りが通常の水とは比ぶべくもないレベルに高められるのだ。

「こちらにキュルケを移しましょう。《レビテーション》」
「え、はい、あれ?何だ、これは・・・」
「・・・」

 年配のメイジはウォルフが何をしていたのか見ていなかったので一体何故ラグドリアン湖の水がこんなにここにあるのか理解できていないし、年若い方も目の前で見ていたにも関わらず信じ切れずにいた。
水メイジであるので感覚的にそれが本物である事はすぐに分かるのだが、理性が中々受け入れない。ウォルフはそんな二人を無視してキュルケをラグドリアン水のバスタブに横たえる。

「ほほほ、ホントにこの水ラグドリアン水ですよ!一体君、何したんですかあ!」
「落ち着いて。キュルケの治療を急がなくちゃならないのに変わりはないんだから。あとこれ、オレが携行している水の秘薬です。これだけあれば足りますね?」

 狼狽える年若いメイジを落ち着かせて治療を続ける水メイジにミスリル製のフラスコに入った秘薬を渡す。その量はこのメイジ達が持っていた十倍はある程でキュルケのこの酷い火傷でも治せそうな量だった。

「確かにこれだけあれば綺麗に直せそうだが、いいのか?こんなに」
「はい。辺境伯のつけにしときますので、じゃんじゃん使っていいですよ。少しの傷も残らないように綺麗に直してあげて下さい」
「・・・まかせてくれ。ブリミル様に誓って一筋の傷も残さない事を約束する」
「お願いします。オレは戻ってあの変態を退治してきますから」

 すでに『治癒』の魔法に集中しているメイジに背を向けウォルフは急ぎ戦場へと戻っていった。



 ウォルフが戻ってみると少し開けた場所でまだ戦闘が続いていた。
敵はもう一人しかいないようなのだが、その一人にこちらの部隊は押されていた。開けた草原でこちらは岩陰に隠れて四方八方から攻撃を仕掛けているのだが、敵は落ち着いてその全ての攻撃を捌き、こちらを一人ずつ倒そうとしてくる。
 最後尾で風の魔法を駆使して各部隊と連絡を取りつつ指揮を執るメイジに近づき声を掛ける。

「どんな感じ?苦戦しているようだけど」
「や、ウォルフ殿。なかなか厄介な相手でしてな、ちょっと手こずっています」

そう答えるメイジにはウォルフは見覚えがあった。キュルケやデトレフと一緒にグライダーでチェスターの工場まで来た一人だ。中々ハンサムな青年であったが、今やその顔は煤で汚れあちこちに火傷を負っていた。

「あいつはオレに任せて貴方達は怪我人を連れて撤退してくれ。この先の岩場から川に下がった所にキュルケを置いてある」
「な!あなたのような子供を一人で残すなんて・・・」
「味方がいるとオレも思いっきり魔法を放つ事が出来ない。あいつを倒す為に今は黙って撤退して欲しい」

 一人であの強敵を倒すというウォルフを唖然として見返すが、まだ幼いその顔には些かの気負いも見受けられない。
こんな子供が一人で闘うというのは非常識だが、先程垣間見たウォルフの強力な炎を思い出し、確かに倒せる可能性があるのはウォルフだけかも知れないと思い直した。

「・・・そう言えばあなたはあの"業火"の息子でしたな」
「ん?母さんを知っているの?」
「私はガリア出身でして。昔見たあの炎は今もよく覚えています」
「母さん程じゃないかも知れないけど、あいつ程度ならオレでも倒せると思っているし、あいつもオレとやりたいみたいだから」
「わかりました。申し訳ありませんが、お任せします・・・撤退!」

 ウォルフに背を向け今も闘っている味方に向かうと撤退の指示を出す。岩陰に隠れて魔法や銃を撃っていた味方が一人二人と集まってきた。
岩陰から出てくる時は絶好の好機の筈なのだが敵のメイジは特に気にした様子もなく追撃も掛けてこなかった。広場の中央で仁王立ちしたままニヤニヤとこちらの様子を見ていた。
 集まりつつある部隊と入れ替えにウォルフが前へと出る。その背中に先程のメイジが声を掛けた。

「では我々はこれで撤退します。くれぐれもお気をつけて。やつの特徴はやたらと高い温度の炎です。我々には対処方法が見つけられませんでした」
「ん、任せて」

 ウォルフは短く答えると近づいてくる敵メイジを待ち受ける。ゆっくりと近づいてきた男は筋骨隆々とした偉丈夫で、対峙するとウォルフの小ささが際だった。
その男は涎を垂らさんばかりに喜色満面の笑顔を浮かべ、ウォルフに語りかけた。

「よくぞ戻ってきた、少年よ。あいつらではどうも歯ごたえが無くて退屈していた所だ。お前のあの炎なら、楽しめそうだ」
「はあ、こっちは別に楽しくも無さそうだけどね」
「さっき見た時も小さいとは思ったが、こんなに小さな少年だったとはな。成長すればどれほどのメイジになっていた事か・・・残念な事だ」
「えーと、あんたに残念がられる覚えはないんだけど?」
「いやいや、実に残念な事だよ」

 互いに杖を構えてゆっくりと歩きながら話をする。ウォルフは敵のメイジが視力を持っていないらしい事に気付いて驚いたが、あくまで普通に話し掛けた。
二人はゆっくりと円を描きながら歩いていたが、互いに隙を見せなかった。
 
「さっきあんたの依頼主っぽいやつの『遍在』を倒したんだけど、本体はどこにいるか知ってる?」
「傭兵が依頼主の情報を漏らすわけ無いだろう。まあ、あの耳障りなトリステイン訛りを話す奴らだったらとっくの昔に逃げ出したがな」
「そういう情報も話すものじゃないと思うけどね」
「ははは、お前はここで死ぬのだしこの位は構わないだろう。それはともかく、さっきの娘を返してくれないか?あいつらが逃げたとはいえ、あれを持って行けば成功時報酬が入るんでな」
「キュルケなら今治療中だよ。死体でも持って帰るつもりだったのか?」
「ああ、それはすまないな、ちょっとした手違いだ。あの娘が可愛らしい炎を使っていたので、本物の炎を教えてやろうとしたら燃えてしまったのだ。お前にも教えてやろう、少年よ。さあ、さっきの炎をまた見せてみろ!」

 敵メイジが両手を大きく広げてウォルフに隙を見せる。
ウォルフは全く遠慮せずにフルパワーの『フレイム・バルカン』を二十発ほども撃ち込んだ。 
 ウォルフの魔法は爆発するように激しく燃え上がり、その夥しい熱量はそこに激しい上昇気流を生み出す程で、人間がそこで生存する事は不可能であるかの様に見えた。
 陽炎のように熱気が揺らめく中、しかしその傭兵メイジは何事もなかったようにそこに立っていた。

「確かに速いし、威力も中々だ。連射速度も素晴らしいし、全てがオレの見た事のないレベルにある事は間違いない。だが、ただそれだけだ」

にたりと笑ってその傭兵メイジは一歩ずつウォルフの方へ歩き出した。その杖の先から激しく輝く白い炎を出して尋常ではないその威力を誇示する

「教えてやろう、少年よ。火の魔法というものは、温度こそが全てだ。いくらお前の炎に威力があろうともこのオレの『白炎』に触れれば霧散する」
「《フレイム・ボール》」
「ふん」
 
 試しに今度は単発の『フレイム・ボール』を撃ってみたがその炎で軽く迎撃された。
たしかに『フレイム・ボール』が当たった瞬間に激しく燃え上がるのだが、その炎はほとんど上部へと燃え上がるのみで敵には全く届いていなかった。あの高温の炎に当たった瞬間、ウォルフの魔法はその制御を失ったのだ。

「ふふふ、少年よ、お前の炎の温度はおよそ二千九百度。普通に比べれば飛び抜けて高い温度ではあるが、このオレの炎は六千度を超える。全ての炎を貫き燃やし尽くす最強の炎だ」
「そんなに細かく炎の温度が分かるのか・・・六千度まで測れるなんて放射温度計いらずじゃないか」
「その気の強さもまた良い・・・お前が焼ける臭いはどんなかな?くくく、そろそろレッスンツーといこうか。今度はお前がオレの炎を受けてみろ!《白炎》!!」
「《土の壁》」

 ウォルフはまだそこまで細かく温度を測れないので素直に感心していたのだが、敵は虚勢を張っていると思ったようだ。
杖の先から伸びる白い炎はウォルフが咄嗟に張った『土の壁』に当たって激しく燃え上がった。

「んー、中々良い判断だ!お前の『炎の壁』ではこのオレの『白炎』には全く無力だろうからな。・・・しかし!」

 ウォルフが張った『土の壁』は地面を剥がして縦にしただけのような、質より量といったものだったが、それだけに大きく分厚いものだった。
しかし、傭兵メイジがそのまま炎を当て続け、更に一段炎を大きくすると、たちまちの内に表面が溶けだしその姿を崩していった。

「この様に、『土の壁』などこのオレの炎の前では何の意味もない・・・そろそろレッスン修了で良いかな?」

 念入りにウォルフの『土の壁』を溶かし、遮るものをなくした上でニタニタと笑ってみせる。

 その『土の壁』があった地面は赤く輝く溶岩のプールと化していた。




2-17    決着



 『土の壁』が溶けた溶岩のプ-ルを避けるようにゆっくりと歩きながら傭兵メイジが近づいてくる。その真っ赤な池の周囲では水蒸気が立ち上り、時々周囲の草に火が付いては燃え尽きている。
もしこの場面を他に見ている人間がいるとしたらウォルフの死は確定したもののように見えるだろうが、ウォルフに慌てた様子は全くなかった。
 いつも通りの様子で周囲を観察し、敵との間合いを計りつつ使うべき魔法を考察する。おそらくこのメイジの言う六千度の炎というのは掛け値無しだ。火の魔法に対してはずば抜けて高温の炎で気体である敵の炎を吹き飛ばし、その核にある魔力素も破壊する。それ以外の魔法ならばその圧倒的な熱量で魔法を構成する物質を高温にして土・水・風の魔力素を無効化する。
実に理に適った事で、確かにこのメイジの魔法は無敵であるかのように見える。化学反応としての炎でそれ程の高温を発する事象をウォルフは知らない。おそらく魔力素を直接エネルギーに変換しているのだろうと推測した。
物質のエネルギー変換などという事を感覚で行えてしまうメイジがいる事は凄いと思うが、エルビラも似たようなことをしているときがあるし、それを六千度という高温までやるメイジがいたとしても今更驚くような事ではない。 
 魔法を物理的な事象として見ているウォルフにとってこの敵の炎は対応策が全く無いという程のものではなかった。簡単に言えば、炎で吹き飛ばせない程の質量を持って、なおかつ温度が上がっても問題のない魔法で攻撃すれば良いだけなのだから。

 近づいてくる傭兵メイジを一瞥すると溶岩のプールへと杖を向けた。最強のゴーレムを呼び出す為に。

「今度はオレの番だろ?《クリエイト・ファイヤーゴーレム》!」
「・・・何?」

 煮えたぎる溶岩の温度は千三百度以上。それほどの高温にまで熱せられて溶けた地面が立ち上がって人形をとる。土の魔法を行使している時と同じ様な事象が土の魔法では有り得ない温度で顕現する。随分と長い事戦場に身を置く傭兵メイジといえども見た事も聞いた事もない魔法だ。

「ちょっと待て、なんだその魔法は!火のゴーレムなど聞いた事無いぞ!」
「オレだって六千度の炎を操るメイジがいるなんて知らなかったよ。じゃあ、逝ってみようか」
「だから待てと・・・うおお《白炎》!」

 身長二メイルを超えるゴーレムが意外な素早さで傭兵メイジへと襲いかかった。慌てて炎で迎撃するが、灼熱のゴーレムはその輝きを一段と増すだけで制御を失うような事は無かった。気体の炎ではより温度の高い炎に霧散させられても、液体で構成されているゴーレムには通用しない。いくら炎を当ててもその魔法の核を破壊する事は出来ないのだ。
 あっという間に間合いを詰めたゴーレムは、素早い動きで次々に蹴りや突きを繰り出す。傭兵メイジはそのゴーレムが放射する熱にジリジリと焦がされながらも間一髪でそれらの攻撃を躱し、何とか間合いを取ろうとする。余裕の表情は消え失せ、熱せられている事もあり今やその顔は汗でびっしょりと濡れていた。
長い戦闘経験を誇る傭兵メイジから見てもこのゴーレムには対処法が無い。自身の炎が効かない相手など初めてであり、攻撃を躱すのが精一杯だった。

「これは、火の魔法で、ゴーレムを作ったとでもいうのか!貴様、何故そんな事が出来る!」
「さあね。そんなこと気にしてる場合か?まだオレのターンだぞ《ファイヤー・ブレット》!《フレイム・バルカン》!」
「な、ぐおお!《炎の壁》!」

 何とかゴーレムの間合いから脱し、元凶を絶つべくウォルフの方へと回り込もうとしたがウォルフはそれを許さない。ゴーレムの指先から連射した溶岩の弾で牽制しつつ、同時にウォルフからも『フレイム・バルカン』で掃射し、十字砲火を浴びせた。
『炎の壁』では『フレイム・バルカン』を防げるが、『ファイヤー・ブレット』は速度こそ若干遅いもののその質量故に防御を突き抜けてくる。熱せられても制御を失わない溶岩の弾は『炎の壁』では吹き飛ばせない。
傭兵メイジは信じ難い反射神経でそれを躱していたが、ついにその場から一歩も動けなくなった。
 相手に余裕が無くなった事を見て取ってウォルフは、止めを刺す為に自分の側からも『炎の壁』を突き破る事の出来る魔法を用意する。容赦する気は一切無い。表情は変わっていないが、ウォルフは今怒っているのだ。

「ずっと、オレのターン《スーパークリティカル・ウォータースピアー》!」
「がっ!・・・」

 弾幕を張りながら間合いを詰めたウォルフが最後に放った魔法は火の魔法によって高温高圧にされ超臨界状態になった『水の槍』である。
通常の『水の槍』であればここまで強固な『炎の壁』であれば貫く事は出来ない。ただ蒸散してしまうだけだが、この槍は六千度に達する『炎の壁』を易々と貫き、傭兵メイジの腹へと突き刺さった。
 超臨界とは水が約二百二十気圧・三百七十四度を超えて高温高圧状態にされた時に、液体と気体の区別が付かなくなる現象である。既に臨界点を超えている為、それ以上熱せられたからといって気体に戻って蒸散するという事はない。
高温の水蒸気並に高速で飛翔している水分子が、液体の水のような高密度で次々と衝突する。この水の中に溶かし込まれた酸素は強力な酸化剤として働き、人間の細胞を構成する有機質を一瞬のうちに二酸化炭素などへと分解してしまう。水の中でありながら燃焼してしまうのだ。

「馬鹿な・・・このオレが、こんな、小僧に・・・」

 最強であるはずの『炎の壁』ごと貫かれた傭兵メイジは、大きな穴の開いた腹を抱えて前のめりに倒れた。最期に何事かを呟いていたが、ウォルフがそれを聞き取る事は出来なかった。



 敵が倒れたのを確認し、ウォルフは大きく息を吐いた。
強敵を前にしても普段通りに判断し行動できたとは思うが、それなりに緊張していたらしい。

「《発火》」

 周囲にもう敵がいない事を確認すると、最も基本の火の魔法で杖の先から炎を出してみた。
先程の戦闘で最後の魔法を放った時に少し違和感を感じたので、その確認だ。その違和感とは高温・高密度になるようにイメージして放った魔法が、今までよりも遙かに高いレベルで実現したことだ。
 自分の中の箍が一つ外れたような感覚・・・それは今小さな炎を出してみても感じる事が出来た。いつもより格段に消費される魔力が少なく感じられるのだ。
試しに『マジック・アロー』でまだ燃えている木を切り倒してみても、これまでとは速度大きさとも格段に優れたものが出せた。

「どうやらスクウェアになったらしいな・・・最後の壁を破る鍵は心の底からより強い魔法を行使できるように願う事か」
 
 実はここの所ウォルフの魔法は伸び悩んでいた。溜められる魔力の総量は日々の鍛錬もあって順調に伸びてはいたのだが、スクウェアスペルを使おうとしてもどうしても成功しなかったのだ。
既にトライアングルとしては有り得ない程の莫大な量をため込めるようになっていても使える魔法はトライアングルまでという、少々アンバランスな状態になっていた。
まだ八歳なんだしさして気にしてはいなかったが、そろそろスクウェアになる条件というのを研究してみたくなっていた所である。

 止めを刺す時にウォルフの脳裏を占めていたのは激しい怒りである。焼け爛れていたキュルケを思い出し、絶対にこのメイジをここで倒すと決意して『超臨界水槍』がより高温・高気圧になる様に強く願った。
その感情の高ぶりこそがスクウェアになれる鍵だということに納得する。確かに何が何でも強い魔法を使いたいと願ったことは今まで無かった事だ。強敵との戦いがウォルフに成長をもたらしたのである。
確認した結果に満足すると付近一帯を消火してキュルケの元へと戻る。スクウェアスペルはまた今度試してみるつもりである。



 川原へと戻ってみるとそこにはいつの間にか天幕が張られていた。その天幕から少し離れた所に兵達は屯しており、子供メイジ達もその中で所在なげにしていた。
キュルケはどうなっているかと近づいてみると、先程指示を出していたメイジが声を掛けてきた。兵達の視線が集まる。

「おお、ウォルフ殿・・・ここに戻って来たという事は、奴は」
「ああ、倒してきた」
「っ!!・・・オイゲンがきっと倒してくるからテントを張って待っていようと言っていましたが、まさか本当になるとは」

 兵達がどよめき、特に子供メイジ達は驚きで声もないと言った風で目をまん丸にしてウォルフを見つめていた。

「キュルケの様子はどう?気がついた?」
「いえ、まだですがもうほとんど治療は終わったそうです。どうぞお入り下さい」
「あ、そうだ。ざっと火は消してきたけど、まだ燻ってる所もあるみたいだから確認してきて欲しいんだけど」
「お任せ下さい」

 天幕の入口にウォルフを案内し、自身は部隊の人間に指示を出す。情報を集めて死傷者の収容や、離ればなれになっている部隊との連絡も試みるつもりだ。
ウォルフはそんな彼にまだ敵がいるようならばすぐに伝えて欲しいと伝えて一人で天幕の中に入る。内部には先程分かれた二人がそのまま残っていて、丁度キュルケをラグドリアン水のバスタブから上げて簡易な寝台に移そうとしている所だった。
一人が『レビテーション』で浮かせてもう一人が水の魔法で水分を飛ばし、シーツにくるんで寝台に寝かせようとしている。先程より大分キュルケの顔色が良くなっていてウォルフはホッと息を吐いた。

「ただ今戻りました。治療はもう終わりましたか?」
「お帰りなさい。おかげさまで全部直せましたよ。もうすぐ目が覚めると思います」
「うーん、素晴らしい腕前ですね。どこが火傷だったのか、もう全く分かりません」
「はっはっは、跡が分かると言う事は完全には元に戻ってないという事ですからな。あれほどの量の秘薬を提供されたのです。これくらいは出来ますよ」

 年配の水メイジ・オイゲンとウォルフは何事もなかったかのように会話をする。
一言で肌の再生と言っても、今回程激しく損傷したものを全く違和感なく回復する事はかなり難しい。肌のきめ、毛穴の間隔、果ては水着の跡まで再現されている事には驚きを禁じ得ない。
髪が半分程燃えて無くなってしまっているのが気の毒だが、『ディテクトマジック』で見てみるとちゃんと毛根が再生されているのでこれもすぐに生えてくるだろう。
 しかし、そんな事よりも気になる事がある人間もいた。

「ちょ、ちょっと、二人とも何普通に話しているんですか!ウォルフ君、君、戻ってきたのは良いけどあのバケモノはどうしたの?私たち逃げなくても良いの?」
「ん、倒してきた。怪我人の収容を始めるみたいだから君たち忙しくなりそうだよ」
「リア、大声を出すでない。無事に帰ってきたんだ、どうなったかなど明らかだろう」

軽く返され、年若い水メイジ・リアは唖然としてウォルフを見つめるが、オイゲンの方は全く動じずに腰を上げる。

「さて、では私は他の怪我人を見てきます。ウォルフ殿、キュルケ様を見ていてもらえますか?」
「わかりました、目が覚めたらお知らせします」
「お願いします。リア、お前も付いてこい」
「あ、あれ?何か、みんなあんなの倒せないって言ってなかったっけ?あれ?」
「リア!いつまで呆けている!さっさとこんか!」

 オイゲンに続いてリアがあわただしく出て行くのを見送り、ウォルフはキュルケの傍らに椅子を作り出して腰を掛けた。自分も手伝いに行こうかとも思ったが、また戦闘になる可能性が残っているので魔力を温存する事を優先した。
ためられる魔力量が莫大なものになっているとは言っても、さすがに先程の戦闘では結構消費した。ウォルフが苦手な水の魔法は魔力消費量が格段に増加するので他に水メイジがいるのなら自重しておきたい。
 キュルケの寝顔を眺めながらこれまでの経緯を整理する。
あのヴァレンティーニという遍在の伏兵はおそらく商館に来たという教会の人間であろう。ウォルフは会っていないが、商館長のフークバルトが対応してボーキサイト採掘現場まで案内しダンプカーを見学したという人間に風体と名前が一致する。
トリステイン訛りの特徴と言われる話し方をしていたが、元トリステイン貴族を父に持つウォルフからすれば違和感を感じるものであった。フークバルトからの報告によればトリステインの人間のようだとの事だったが、裏があるような気がする
 ダンプカー等が目的なのかとも思えるが、それだとキュルケをターゲットにしていたらしい事の説明が付かない。ウォルフの事も拘束しようとしたが、あくまでもついでという感じだった。
 ロマリアの教会の人間が大々的に傭兵を雇いゲルマニアの辺境伯軍を襲撃し、辺境伯の娘を攫おうとする。普通に考えれてばれればとても大きな政治問題になりそうなものだが、その当人達は隠れる様子も見せず堂々と作戦に参加している。
 言い逃れする気なのか、失敗するとは思っていなかったのか、色々と推測を重ねてみても今は情報が少なすぎる。取り敢えずチェスターやボルクリンゲンの工場は警備を増やすことにして今はそれ以上考えることをやめた。

 それから暫くして少々ウォルフが退屈し始めた頃、ようやくキュルケが目を覚ました。
暫くぼうっとして目蓋をぱちぱちとしていたのでウォルフは立ち上がって顔をのぞき込んだ。

「お早う、キュルケ」
「お早う、ウォルフ。どうして私のベッドにいるのかしら。夜這い?」
「いやまだ昼だし、君は十一歳でオレは八歳だ」
「恋に年齢は関係ないものよ。でも残念ね、あなた友人としてなら良いけれど、わたしのタイプじゃな・・・ここ、どこ?」

 キュルケはまだ状況が分かっていないらしく、ゆっくりと身を起こした。上に掛けていたシーツが滑り落ち、自身が一糸も身に纏っていないことを確認するととシーツを身に巻き付けながらウォルフに微笑んだ。

「ウォルフ、あなたのことは信じていたのに。まさか女の子にこんな事をする人だったなんて・・・でも、その年ならしつければまだ間に合うかしら」
「別に何もしてないし。ここはさっきの山道から少し外れた川原。君を治療する為にテントを張ったんだ。今オイゲンさんを呼んでくるから待ってて」

 左手でシーツを押さえながら右手で杖を捜して枕元を探っているキュルケに呆れて出て行こうとするが、キュルケはその言葉で気絶する前のことを思い出したみたいだった。

「え?・・・あ、あ、あ、いやぁー!!」

 両手で自分の顔を抱えてキュルケが叫ぶ。胸を隠していたシーツは落ちてしまったが、もうそんなことは気にしていない。その両目は真っ直ぐ前方を見つめていて、ウォルフには見えない何かに怯えていた。
キュルケは思い出してしまった。自分の魔法が無造作に叩き落とされ、圧倒的な熱を放つ炎が自身を焼く所を。自分の髪や皮膚が燃え上がる臭いと強烈な痛み、その激痛の中見上げた更なる暴力を振るおうとニタニタと笑いながら近づいてくるメイジの姿を。全て今経験したばかりのように鮮明に思い出してしまっていた。

 ウォルフは素早くベッドの上で泣き喚くキュルケに近づくとその頭を胸に抱きしめた。

「大丈夫だから。もうあいつは倒したから大丈夫。君を攻撃する者はもういないから」
「うううー」

 キュルケは必死に、たぐり寄せるようにウォルフの体に縋り付いた。強い力で背中を掻き毟られて正直かなり痛い。
しかしそれは我慢して何度もキュルケの耳元で大丈夫だと繰り返す。騒ぎを聞きつけてテントに入ってきたオイゲンに代わって貰いたいがキュルケが強く抱きついていて離してくれない。
 オイゲンがリラックスさせる魔法を使ってようやくキュルケは落ち着く事が出来た。

「ほ、本当ね?あいつはもう来ないのね?」
「ええ、大丈夫です。ウォルフ殿が倒してくれました、心配要りません」

 何度も何度も繰り返し大丈夫か訊ねるキュルケはウォルフから見てとても痛々しいものだった。
十一歳になったばかりの少女が殺されかけたのだから当然なのだろうが、いくら魔法が使えるとはいえこんな小さな子を戦場へ送るのはリスクが大きい。
 未だ縋り付いてきて離れないキュルケの頭を撫でながら、ウォルフは無理にでもこっちの部隊に入るのだったと後悔した。



[33077] 第二章 18~19,番外5,6,7
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:26


2-18    戦後処理



 ツェルプストー辺境伯領の山賊討伐の日から一週間後、ボルクリンゲンの商館に突然ツェルプストー辺境伯が訪ねてきた。
商館のある埠頭に突然降り立った真っ赤なグライダーに一時商会は騒然となるが、商館長であるフークバルトはこれを鎮めて直接応対した。

「これは辺境伯様、本日はどのような御用でしょうか」
「ウォルフはいるか?会いたい」

辺境伯の返答は簡潔なものであったが、ウォルフは日頃こちらの商館にはいない。工場を拠点として辺境伯領内のガンダーラ商会の各施設をを回っているので、どこにいるのかさえこちらでは把握していなかった。

「申し訳ございません、こちらには居りませんのでただ今確認を致します。少々、お待ちくださいませ」

確認を取るとウォルフはまだ工場にいるとのことなので呼び寄せようとしたのだが、辺境伯はそれを制し自分が移動すると告げた。
 商館員総出で見送る中、辺境伯のグライダーは滑らかに工場へと滑空した。



「こんちは、辺境伯様。グライダー使ってくれてるみたいで嬉しいです」
「ああ、中々便利だな、これは。竜で街に降りると住民が怯えるが、これはそれが無いのがいい。ただ、もう少し速度を上げたい気もするな」
「ご意見ありがとうございます。速度向上タイプも開発検討中なのですが、中々時間が取れなくて」
「もっと速いのが出来たら買ってやるからすぐに持って来いよ」
「はい。一番に納入します」
 
 工場の中庭に降り立った辺境伯を出かける予定を止めて待っていたウォルフが出迎え、連れだって話をしながら工場建屋内にある応接室へと移動した。キュルケの様子を聞いてみたが、もう心配は要らないらしいので安心した。
お茶を出した工員が下がり、ウォルフと護衛のみになるとおもむろに辺境伯は座っていたソファーから立ち上がり姿勢を正した。

「ウォルフ・ライエ・ド・モルガン殿、此度の山賊征伐において、貴殿の働き誠に見事であった。フォン・ツェルプストー当主として、また、キュルケの父として深く感謝する。謝意を伝えるのが遅くなって申し訳ない」
 
 ウォルフを見据えて礼を述べると胸に手を当てて頭を下げた。ウォルフも慌てて立ち上がって礼を受けたが、正直辺境伯にここまでされるとは思っていなかった。

「これは、ご丁寧に・・・恐縮します。今日はわざわざこれを伝えに?」
「まあ、そうだな。あと事後処理についてこっちにも伝えておこうと思ってな・・・ああ、そうだ、何か褒美はいるか?子爵領位なら何時でもくれてやるぞ」
「ありがとうございます。、しかしわたしは一応アルビオンの貴族でありますので、あなたから褒美を頂くわけには参りません、お気遣いは無用に願います」
「フン、ワシなんぞの部下に収まるつもりはないと言うことか。まあいい、いずれ借りは返すからな」
「楽しみにしています。今は賊の正体を教えていただけると嬉しいです。どうやらこっちにも関係のあることらしいので」
「うむ、では始めから話すとするかな」

 辺境伯はソファーに座り直すと語り始めた。あの日一体何があったのかを。

 ツェルプストー辺境伯の部隊がキュルケ隊に合流したのはキュルケ隊が襲撃されてから二時間以上経ってからだった。山道を八リーグ以上移動し山賊を殲滅した上での事なので十分に早かったのではあるが、もう全てが終わった後だった。
二つに分断されていたキュルケ隊も一つに合流し、怪我人の手当や死者の確認を終え部隊を再編成していた。休憩もそこそこに部隊をまとめて城に帰還し、外交ルートを通してトリステインと接触してみるとヴァリエールはこちらが攻めてくるものだと思っていることが分かった。
何のことはない、互いが疑心暗鬼に陥り攻め込まれると思っているだけだったのだ。
 辺境伯は当初ウォルフの所にもっと早く顔を出そうと思っていたのだが、ラ・ヴァリエールと相互不可侵を確認し、事実の確認や調査をしてゲルマニアの首都ヴィンドボナまで報告に行っていた為に来るのが遅れた。

 今回の事件の首謀者については未だ調査中で結論は出ていない。
ラ・ヴァリエール領のティオンを拠点に工作活動を行い、傭兵を雇った事はほぼ確実なのだが証拠が無い。
戦場から逃げる敵のメイジ三人を使い魔を使って確認しているがトリステインに入った後気付かれて振り切られてしまっている。ウォルフがヴァレンティーニという名のメイジを目撃しているが、他に彼を見た者はいない。
 ボルクリンゲンの教会に確認を取ったが、ヴァレンティーニという人間はロマリアから来た助祭でもう国に帰っているという。

「どう見てもその助祭か教会が首謀者っぽいのですが、その辺はどうなのですか?」
「昨日ロマリアの本国から問い合わせに対する返答が来た。それによると、そんな助祭はロマリアにはいないとのことで、助祭を派遣したという事実も無いそうだ」
「・・・ボルクリンゲンの教会かロマリアか、どちらかが嘘をついていることになりますね」
「明らかに疑わしいのはここの司教だ。件の助祭を派遣したのがとある枢機卿だと証言しているが、その枢機卿と司教とは本来全く別の派閥の筈なんだ」
「あー、書類とかは残ってなさそうですね」
「もちろん何もない。今分かっている事実はヴァレンティーニという名の人間がワシやお前の所をこそこそと嗅ぎ回っていた事だけだ。ここの司教の調査依頼書を持ち、細かい所まで立ち入って調査をしていた事だな。そしてそのトリステイン訛りを話す男とそっくりの風体を持つ男がヴァリエールの街で噂を広め傭兵を雇っている」
「うーん、教会はうちのダンプカーに興味を持っていたみたいなのですが、何故だかは聞いていますか?」
「詳しくは話さなんだが、始祖研究の一環とのことらしい。何のことだか分かるか?」
「いいえ、全く・・・何でここで始祖が出てくるんだ?」

 思わずウォルフは自問した。
何故ここで唐突にブリミルの名が出てくるのか全く分からない。伝説の虚無魔法の使い手と地球の科学文明の産物と言えるダンプカー。接点はないはずだがそうではないのだろうか。

「あの、わたしは寡聞にして知りませんでしたが、実は始祖はああいった機械を駆使したとかいう話があるのでしょうか?」
「いや、ワシも知らんな。ロマリアではどうなのか知らんが」
 
 もし伝説の虚無魔法が科学を利用したものだとするとウォルフが予測していた理論がいくつか壊れてしまう。それどころか何かとても残念な気持ちになってしまうので、始祖には是非虚無魔法を使っていて欲しかった。

「ま、まあ、ロマリアにはロマリアの理由があるのでしょう。わたしには全く分かりませんが」
「まあそうだな。これまでの流れからは司教がトリステインの何者かと図って不埒者を招き入れたという疑いが最も強い。しかし、司教を取り調べようとしたのだがロマリア本国から召喚状が届いたとかでロマリアへ帰ってしまった。悔しいが枢機卿の命令ではワシよりも権限が上だ。今後向こうで取り調べるとのことだが、真相が明らかになることはないだろう」

 吐き捨てるように辺境伯が言う。その顔には憤懣やるかたない思いが浮かんでいた。
自分の娘の命を狙ったかも知れない者が堂々と自分の領地から出て行く。そしてそれを黙って見送るしかないと言うことは辺境伯にとって耐え難い屈辱であった。

「え・・・っと、その司教は何食わぬ顔をしてロマリアで出世するのでしょうか?」
「その司教が調査依頼書を発行した人間にワシの軍隊を襲い娘を誘拐しようとしたいう嫌疑が掛かっているのだ。いくら何でもそんなことは出来んよ。まあ、人知れず始末されるか、精々どっかの孤児院の院長にでもなって一生冷や飯食いってところだろう」

 現役の司教がそんな犯罪に加担していたなどということは、教会にとって絶対にあってはならぬスキャンダルである。
そのため、調査はしてもその結果を公表することはないだろうと辺境伯は言う。教会は暫く辺境伯に対し下手に出てくるだろうがそれでお終いだろうというのが彼の予想である。
何とももどかしいが教会というのは領主にとってもある意味アンタッチャブルな存在である。下手に突いて今後の領地経営に禍根を残すわけにもいかなかった。

「というわけで、色々と情報を上げてもらったが真相が分かる見込みは低くなった。すまん。あとこれはワシのカンだが、この件にはまだ何か裏がある気がしている。今後まだ何か手を出してくるかも知れん。我々も警備を増やすが、やつらがあれに興味を持っているのは確かだろうからそっちも自衛してくれ」
「了解しました。はあ、教会相手だと色々と面倒くさいですね・・・」
「お前の場合自業自得という面もあるからな。同情はせんよ」
「はあ、いや、すみません」

 元々これらのトラブルはウォルフの発明品が呼び寄せたという面があると言えなくもないので辺境伯の言うことももっともだった。
それを言われるとウォルフとしては恐縮するしかない。それでも自重するつもりはないが。

「まあ、気をつけることだ。ヴァリエールとも相互不可侵を確認したとは言え、今後何があるかは分からんし」
「あー、戦争は回避してくれたんですね、ありがとうございます。せっかく色々と事業を始めたとこなんで戦争で頓挫することは避けたかったので」
「ふん、結構苦労したんだぞ?ヴィンドボナではこれを機にトリステインを併合してしまえと言う主戦論が大分強くなっていてな」
「そんな乱暴な。今時そんな事言う諸侯がいるんですか?」
「いるとか言うレベルではない。それ程積極的ではないのも入れれば半数を超えていたかも知れん。それもお前のせいだがな」
「ええっ!?そんなのもオレのせいなのですか!?」

 ウォルフは素に戻って驚くが、ウォルフのせいと言うかガンダーラ商会の誕生が関わっていることだった。

「いいか?トリステインという小国が何故永きにわたって存続する事が出来たのか。そのカギはアルビオンにある」
「はい。トリステイン危急の時はハルケギニア最強の軍事力を誇るアルビオン空軍がそれを助けたと歴史書にはありますね」
「うむ。アルビオンは陸地を持たぬ。平時には不足しがちな物資の供給をトリステインが行い、有事にはアルビオンがトリステインを守る。ここのところずっとそのような関係を続けてきた。もしゲルマニアがトリステインを占領することが出来てもあの地はアルビオンの攻撃から守ることに適していない。もしガリアが向こうに付けば戦線を維持することは出来ないだろう。その事はガリアから見ても同じ事が言える」
「トリステインという餌を目の前に三竦みになっているという人も居ましたね」
「そうだ。それが近年はその体制が大分緩んでいたのだ。トリステイン商人が自己の利益を追求するあまりカルテルを組み暴利を貪りだしたのが始まりだな。トリステインの貴族数名が主導したみたいだが、おかげでアルビオンでは徐々に物価が上がり、深刻な不況が国を覆うようになった。人々の不満は高まり貴族達は有効な手を打てぬ王家に不信を抱いた。王家を政治から外し、貴族による共和制を模索し研究するグループもいた程だ」
「そんな状態になっていて、しかもそれがゲルマニアに筒抜けというのは・・・」
「そう、ろくな状態じゃないな。アルビオンは二十年以内に王制が打倒され貴族による共和制に移行するのではないか、という予測が当時ゲルマニア政府内では最も強かった。ああ、一部の貴族が空賊行為に手を染めて力をつけていたこともあるか」
「・・・」
「言うなればアルビオンは水から茹でられた蛙のようになっていたのだ。徐々に変化する事態に気付くことなく緩やかな死を迎えようとしていた」

 蛙を湯に入れればその温度に驚いて飛び出すが、水から茹でると温度が上がってもそれに気付くことなくそのまま茹で上げられてしまうと言う。そこまで自分の国が深刻な状態になっていたことを聞かされウォルフは言葉がない。
王家に特に思い入れがあるわけではないが、貴族による共和制などとてもうまくいくとは思えない。自己の利益を最優先させる貴族が何人集まっても纏まるはずはないのだ。

「それをお前のところが変えた。ガリアやゲルマニアと航路を繋ぎ、カルテルに風穴を開けた。空賊を退治し王家を動かすことによって航路の安全を保証し、普通の商人も貿易に参加できるように主導した。結果アルビオンの経済には活気が出て王権は強化されガリア・ゲルマニアとの繋がりも深まった。その反面、トリステインとの関係は希薄になってきている」
「・・・確かに、ハルケギニアに置けるトリステインの存在価値は随分と低くなったようにも思えます」
「低いんだ。主戦派の主張ではトリステインを三分割するように提案すれば、さしたる反発もなくアルビオン・ガリアと共同作戦をとれると言うんだ。つまりトリステイン北部をアルビオンが、南西部及びラグドリアン湖をガリアが、南東部及びトリスタニアをゲルマニアがそれぞれ領有しようと言うことだな。アルビオンにとってこちらの大陸に領土を持つことは悲願だし、ガリアも王子がラグドリアン湖に随分と執心しているらしいから問題ない。始祖の血統は我がゲルマニア帝室が受け継げば全て丸く収まるという話だな」
「トリステインの国王はアルビオン国王の弟君です。そう簡単にアルビオンがトリステインと敵対するとは思えません」
「ワシもその点が引っかかったから今回は止めておいた。しかし、主戦派は貴族達に利益を示して焚き付ければあの王に抑え続ける力は無いと読んでいる」

 ウォルフもトリステインの国としての価値が落ちてきていることには気付いていた。ゲルマニアとガリアは今では盛んに直接交易をしているので緩衝地帯としての意味はなくなっているし、アルビオンにもトリステインを絶対に守るという理由が無くなっている。
 ガリアとゲルマニアはそれぞれ一国で完結した国家だ。広大な国土と多くの人口を持ち、多彩な産業は国庫を潤し豊富な資源が国力を下支えする。
それに対してトリステインは不足するものが多すぎた。狭い国土に貴族達がひしめき、汚職が横行し民は少なく一様に疲弊している。王家は将来を示せず貴族達は自分のことにしか興味がない。いずれ放っておいても滅びそうな国家だ。
この国が生き延びるにはアルビオンの王子とトリステインの王女との婚姻により連合王国となる他に道はないのではないか、と悠長に考えていたのだが、事態はそれまで待ってはくれないかも知れない。

「話が少しそれたな、今聞いたことは他言無用にしてくれ」
「はい。今後はその事も可能性に入れて行動することにします」
「まあ、今の国王がいるうちは無いかも知れんがな。あれは中々優秀な軍人だし」

 ひらひらと手を振って辺境伯はお茶に口をつけた。時間が経ってしまったそれは少し冷めていた。
 
「それはそうと、先週のことでいくつか聞きたいことがある。ワシと分かれた後のことを詳しく話してくれるか?」
「報告に結構詳しく書きましたよ?何が知りたいのですか?」
「まず、敵のメイジとの戦いについて。途中までは使い魔で見ていたんだが、キュルケの周辺警備や逃げた族の追跡で戦闘そのものを近くで見ていた者がいなかった。部下の話では敵は強力なメイジで、スクウェアやトライアングルのメイジが束になって掛かっても倒すことは適わず、遠巻きにして精神力が切れるのを待つしかなかったと言うことなのだが、お前は無傷で倒したらしいな。詳しく教えてくれ」
「えーと、炎の温度を上げることによって魔法を高威力化し、その威力に依存する戦い方をするメイジでしたので、その炎を突き抜けるような魔法で倒しました」
「・・・随分と簡単そうだな。何の魔法を使ったんだ?部下によるとどの系統も通用しなかったと言う話なのだが」
「『超臨界水槍』というオリジナルスペルです。『水槍』の温度と圧力を上げた物と考えて下さい」

 オリジナルスペルなどという言葉を八歳の子供がさらりと言う。その難しさを知っているだけに辺境伯は言葉を失う。部下からの話通りどうやらこの子供は魔法も尋常ではないらしい。
何かこの子の得意な機械仕掛けの武器でも用意していたのかと思っていたのだ。真っ当に魔法で倒したと考えてはいなかった。

「・・・まあいい、では第二の疑問だ。キュルケの治療に大量の水の秘薬を提供してくれたそうだが、ガンダーラ商会は秘薬の納入ルートを持っているのか?」
「いえ、あれは貰い物なんで、ガンダーラ商会が扱っているというわけではありません」

 水の秘薬の販売はトリステインが独占していてその流通量は少なく価格はおそろしく高い。辺境伯ですら十分な量を用意できない程なのに、一商人がそれ程の量を自分用に持ち歩くというのは異常である。
ガンダーラ商会はトリステインとはほぼ取引をしていないはずなので、不思議に思って聞いたのだがまたさらりと理解不能なことを言われてしまった。

「誰が、それ程の量をくれるというのだ?随分と気前の良い人間がいたものだな」
「あ、人間じゃありません、ラグドリアン湖の精霊様です。前にラグドリアン湖に行った時にくれました。まあ、気前は良いですけどね」
「何・・・だと?精霊と取引しているというのか・・・」
「だから取引じゃないですって。偶々、ちょっと話をしてたらポンとくれたんです。今のところ研究以外にはあまり使ってませんが、近所の子供が熱出した時なんかに重宝しています」
「・・・」

 公式には水の精霊と取引できるのはトリステイン王国のモンモランシー一族だけである。水の精霊がこの子供を彼の一族と同等と見なしているとすればトリステインの存在意義はますます少なくなることになる。

「第三の、疑問。・・・キュルケの治療の時に魔法で大量にラグドリアン水を出したそうだが、それはその、水の精霊に教えて貰ったのか?」
「いえ、あれは自分で考えつきました。精霊様やラグドリアン水を観察して思いついたんです。初めてやった時は精霊様も驚いていましたよ」
「・・・第四、お前は火メイジではないのか?何故そんな水のスクウェアですら出来ないようなことを易々と行える」
「得意な系統は火ですけど、それ以外も出来ないって訳ではないんで」
「ふざけるな!そんなんでラグドリアン水が出来てたまるか!」

 思わず怒鳴ってしまって、すぐに辺境伯はばつが悪そうに黙った。どうして自分がこんなにいらついているのか分からない。
ウォルフは怒鳴られてもさして気にした風でもなく肩をすくめて見せた。

「出来ますよ。ラインスペルになりますね。まあ、ハルケギニアの人にはイメージするのが難しい魔法かも知れませんが」
「・・・部下達はお前の事を始祖の再来ではないかと言った。あの冷静なオイゲンでさえもだ。それを聞いた時ワシは一笑に付したが、今ならその意味が分かる」
「勘弁して欲しいです。大体みんな始祖がどんな人だったかなんて分かっているんですか?」
「誰も見たことのない機械を次々と作り、誰も倒せない敵を倒し、人が作れるなどと考えた者もいないラグドリアン湖の水を作り精霊と交信する。そんな存在が始祖なのではないかと思うのは当然のことだろう」
「貴方達にとってわたしと始祖との共通点なんて「理解できない」って事だけでしょう。理解できないから考えることもやめているだけです。始祖はもっとずっと凄い人ですよ」
「・・・では、最後の疑問だ。始祖の再来でないというのならば、お前は何者だ?その年でその知識その魔法・・・そもそも人間なのか?」

 そう尋ねる辺境伯の眼光は鋭く言葉は力強い。しかし、額にはびっしりと汗が浮かび顔色は悪かった。
ウォルフは軽く嘆息すると辺境伯に聞き返した。

「ふう・・・辺境伯、オレのことが怖いのですか?」

 辺境伯はその瞬間自らの心臓が跳ね上がるのを感じた。隠していたことを言い当てられた時のような感覚・・・それはつまり辺境伯が目の前の少年に怯えていたと言うことで、そしてそれは彼にとって受け入れられる事ではなかった。
全身に力を入れ、グッと両拳を握りしめた。そうして杖に手が伸びようとするのを阻止し、歯を食いしばってウォルフを睨みつける。

「・・・舐めるなよ、小僧。誰に向かって口をきいて居る、ワシは帝政ゲルマニア随一の軍人・ツェルプストー辺境伯であるぞ!」
「これは失礼しました。・・・わたしが何者かということですが、まあ、ただの人間です。アルビオン貴族ド・モルガン男爵の次男でガンダーラ商会筆頭株主兼開発部主任のメイジ。それが、現在の私です。それ以上でも以下でもありません」

 見得を切る辺境伯に対し、素直に謝罪する。ウォルフはふつうに生活しているだけのつもりなので、それで辺境伯程の人間に怯えられるのは居心地が悪い。

「確かに他の人から見たら理解しがたい知識を持っていますが、それは独自に正しい知識を積み重ねた結果です。私の持つ「知」が正しいからこそ機械も魔法も正しく動くのです。そもそも私の魔法も技術も理解すれば他の人でも行使できる物ばかりです。今理解できないからと言ってバケモノのように言われるのは心外です」
「では何故その年でそんな正しい知識を積み重ねることが出来るのだ?八歳と言えばまだ魔法のなんたるかさえ知らぬ子の方が多い」 
「何故私がそんな知識を持つことが出来たのかと言うことですか・・・残念ながらそれはまだ分かっていません。研究していますが、目下解明の糸口すらつかめていません」
「クックック、分からない、か」

 正しい知識を持っていると言いながらそんな根本的なことは分からないと言い放つ。それがどうにもアンバランスに思えて辺境伯は思わず笑ってしまった。
どっかりとソファーにもたれかけて上を向くと目を閉じた。この子どもの得体の知れ無さに恐怖を感じたことは確かだ。それは受け入れることは出来た。

「分からないことを分からないと認識することが大事です。分からないことに適当に理由を付けて分かった気になる事、それこそが人間を真実から遠ざけます」
「ふむ、確かに、足の速い人間に何故足が速いのか尋ねてみても理由を答えることが出来る者はおらんか」

 今知らないのならば、今後知ればいい。辺境伯は力の戻った目であらためてウォルフを見つめた。先程までとは違い、ハルケギニアのどこにでも普通にいる少年としか見えなかった。

「その、ただの人間の望みは東方開拓団だったかな」
「あ、はい。正確には開拓団に応募する前に調査させて欲しいと言うことなのですが」
「いいだろう。どうやら能力は過分にあるらしいことが分かったからな。精々ゲルマニアの為にあの森を切り開いてくれば良いわ」
「ありがとうございます!いや、楽しみになってきましたよ!」
「まあ、根回しはしておく。準備が出来たら申請するが良い」
「はい!多分春になると思いますが、よろしくお願いします!」

 ニコニコとしているウォルフを見ていると、さっきまでの考えが何だか馬鹿らしい物に思えてきて辺境伯は一つ大きく溜息をついた。




2-19    闘う魂



 ウォルフは相変わらず連日忙しく働いていた。
アルビオンとゲルマニアとを行き来してリナ達と機械の開発をし、ボーキサイト鉱山のトラブルを解決してイェナー山の試験採掘を監督し、水酸化ナトリウム製造工場で工員を指導する。
各地の工場でどんどん人を増やしているのでそれの指導にも加わることもあるし、サラ達子供の教育も手は抜けない。新型グライダーの設計も進めているし、アルミニウム精錬工場ではメイジ達の指導があり、時にはガリアまで足を伸ばして発酵研究所も監督する。
 風のスクウェアスペル『遍在』を使えるようになったのだが、まだ一人しか出せない上に持続時間が短い。しかもツェルプストー領内位しか離れて活動できないので
根本的な解決となる程ではない。通常は魔法に習熟するにつれて出せる人数が増えて離れられる距離も伸び、持続時間も長くなるという話なので積極的に使っていこうと思っているが、早くそれぞれの国に配置できるようになりたいものである。
好きなテルメに行く時間も取れず、多分ハルケギニアの誰よりも忙しく働いているだろうと思われる日々を過ごしているとあっという間に一ヶ月が過ぎた。



 そんなある日ウォルフの元へ再びツェルプストー辺境伯が訪ねてきた。どうも表情が暗く、あまりいい話では無さそうだ。

「いらっしゃい、お久しぶりですね。今日はどうされましたか?」
「またお前に話があって来た。人払いをしてくれるか」

 今回は商館にウォルフがいる時に辺境伯が来たので、そのまま館長室を借りて二人きりになった。
辺境伯は珍しく少し話しづらそうにしていたが、ウォルフが促すと覚悟を決めたように話し始めた。

「あー、実は、キュルケのことなんだが・・・その、どうもこの間のことがショックだったみたいでな、自分の部屋から出ようとしないのだ」
「ああ、引きこもりですか」

 キュルケとはあれ以来会っていない。気にはしていたが、髪の毛とかも燃えてしまっていたので自分から出てくるのを待つつもりでいたのだ。
一度見られているとは言え、女の子だったら髪の毛や眉毛が無い状態で人と会うのはいやだろう。

「うむ、家庭教師が授業をしようとしても部屋から出てこんのだ」
「さらにニート・・・」
「ニートが何かは知らんが、城に帰ってすぐに新しい杖との契約はしたらしいが、まだ一回も魔法を使おうとしない。昼はマリー・ルイーゼやリアを離そうとしないし夜は母のベッドにもぐり込んでくると言うのだ」
「・・・」
「一度、自分のベッドで寝るように言い付けたのだが、泣き喚いて大変なことになった。それ以来ワシは会ってもらえん」

 言われてみてウォルフはキュルケの現在の状態を推測する。あれだけ酷い目にあったのだ、心に傷を負っていたとしてもおかしくない。
人間の心理など詳しくはないし、彼女が今どんな状態になっているのかも分からない。彼女がトラウマを克服する手伝いが出来るのならしてあげたいと思うが、何をしたらいい物やら皆目見当が付かない。
しかし、そんな状態ならば会って話をするだけでも良いのではないかとも思う。外との関係を継続することは彼女の助けになるのではないか、と。

「分かりました。キュルケに会いに行きましょう」
「頼む。オイゲンは時間をかけるしかないと言うのだが・・・何とかなるだろうか」
「わたしには全く分からないです。時間が掛かるというのはその通りなのでしょう。ただ、外の人間であるわたしと会えるようなら、回復に向かってると言えるのではないでしょうか」
「会うだけでか?それなら部屋から引っ張り出してしまえばいいとい言うことか?」
「無理矢理したら良くないでしょう。友人とはいえ彼女にとってわたしは外の人間です。彼女が部屋から出る案内には丁度良い人間かも知れません」

 人間は日頃周囲の社会を信頼して生活している。自分を信じ、肉親など周囲の人間を信じ、社会を信じている。道行く人が皆連続殺人魔で自分を殺そうと狙っている、などと疑っていてはとても生活など出来るものではない。
キュルケは今、信じていた自身の力に裏切られ、助けを求めたであろう肉親にも助けに来てはもらえず、あのような凶悪な人間が存在する社会に恐怖している。
またいつかあの時のような目に遭うのではないかと怯え、それを防ぐ力が自分には無いのではないかと怯え、今度こそ誰も助けに来てはくれないのではないかと怯えているのだ。その恐怖は社会に対する恐怖でありながら、自分自身に対する恐怖であり絶望であると言える。
 丁寧にウォルフが自分の考えを説明するとツェルプストー辺境伯は顔を歪ませた。

「あれがワシには精一杯だったのだ!たとえ娘といえどもそのために全軍を危険にさらす事などは出来ん!」
「多分キュルケも分かってくれますよ。ただ、感情のコントロールが出来なくなっている状態だという事を理解してあげて下さい」
「・・・」
「彼女もきっと信じたいのです。でもそれが出来ないでさらに傷ついている。今は誰かがそばにいて話を聞いてあげる事が大事なのかなと思います」
「ワシは、近づかせてももらえんのだ」

 ここでこれ以上推測を重ねていても意味はないので二人はグライダーに分乗し、キュルケの元へと移動した。



 ツェルプストー城の奥域、手入れされた草木が生い茂る中庭に面した日当たりの良い一角にキュルケの居室はあった。ウォルフはいきなり入っていくことはせずに、まずは様子を窺う為、中にいるマリー・ルイーゼを呼び出して貰った。
彼女と会うのも山賊討伐以来だ。

「ああ、ウォルフあなただったの。いきなり呼び出されるから誰かと思ったわ」
「やあ、ミス・ペルファル久しぶり。元気?」

 久しぶりに会うマリー・ルイーゼは少しやつれて見え、あまり元気そうには見えなかった。ウォルフは努めて明るく接したのだが、嘆息で返されてしまった。

「あまり元気じゃないわね。キュルケに会いに来てくれたの?」
「うん。元気無いんだって?」
「ふう・・・まあ、そうね。元気ないわね」

 話を聞くと思ったより深刻そうだった。キュルケは一日のほとんどをベッドの上に座って過ごし、マリー・ルイーゼかリアが隣にいないとパニックになることもあるという。

「ちょっと思ったより重傷そうだな。ミス・ペルファルはずっと帰らないでここにいるの?」
「うん、わたしはあの時助けてあげることは出来なかったから、せめて今、側にいてあげようと思っているわ」
「ん、それは凄く大事なことだと思う」
「そう?本当はあの時わたしも行けたら良かったんだけど・・・ウォルフには感謝しているわ。キュルケを助けてくれてありがとう」
「それはこの前も散々聞いたからもう良いよ。ミス・ペルファルみたいな美少女にハグされたし、おつりが来る位だ」
「フフッ、あんなもんで良かったの?キッスの嵐とかの方が良かったかしら」
「いやいやハグ位で十分です」

 ウォルフの軽口にマリー・ルイーゼはつい笑ってしまった。思えば笑うのは久しぶりな気がする。

「じゃあ、キュルケのとこに行きましょう!もっと明るくした方がいい気がしてきたわ」
「おう、行こう。元気を出すのが一番だ。元気があれば何でも出来るって東方の偉人・アントニオが言ってたし」
「元気があれば何でも出来る・・・その通りね。まずキュルケに必要なのは元気だわ!」

 二人で気合いを入れるとキュルケの部屋の前に移動する。先にマリー・ルイーゼが部屋に入って暫くした後ウォルフも呼ばれた。

「会うって。入って、ウォルフ」
「おう、失礼しまーす」

 努めて明るく振る舞おうとするマリー・ルイーゼに合わせ、ウォルフも軽い調子で応える。
部屋に入るとキュルケは部屋の中程で立って待っていた。簡易な部屋着にニットの帽子を目深に被り、横にはリアがいてその手を掴んでいる。いつも自信満々に相手を見据えていた瞳は、今は力を失っている。その視線はウォルフの喉の辺りを彷徨うだけで決して目を合わそうとはしなかった。

「キュルケ、久しぶり。元気、じゃなさそうだな」
「久しぶり・・・あの、わたし、ウォルフにお礼、言って無くて・・・」
「お、今言ってくれるの?おk、カモーン」

両手を広げて笑ってみせる。キュルケはほんの少し笑ってくれたような気がした。

「その、助けてに来てくれて、ありがとう。あなたが来てくれなかったら、死、死んでたかも知れないって聞いたわ。あと、水の秘薬やラグドリアン水のことも。傷が残らなかったのはウォルフのおかげだってオイゲンが言ってた」
「お、おお、どういたしまし、て、いやー、キュルケが助かって良かったよ!良かった良かった」
「ホント良かったわよね!ほらキュルケ、ウォルフと一緒にお茶にしましょう」

 キュルケがしんみりとなるのをウォルフとマリー・ルイーゼで何とか明るい雰囲気へともっていく。放っておくとすぐに落ち込むので結構気を使う。
お茶を飲みながらグライダーの風防をはめ込んだ窓を褒めたり、今度ウォルフが行くことになった東の森のことなどを話して過ごした。
 マリー・ルイーゼが東方開拓団に興味を持ったみたいで、色々聞いてきて結構話が盛り上がった。東方開拓団の制度というよりは辺境の森に住む幻獣に興味があるらしい。
そんな中、ポツリポツリと会話に参加していたキュルケが下を向いて何かを考え出した。どうしたのかとウォルフが様子を窺うと、キュルケは顔を上げ久しぶりにウォルフの目を見つめた。

「ウォルフは、怖くないの?そんな、何がいるのか分からないような森に行くのって」
「いやあ、怖いよ。オレってかなりビビりだし」
「そんなの嘘っ!この間もあいつを全然怖がってなかったってリアが言っていたわ!」
「ああいう正面から来てくれるタイプはそんなに怖いと思わないかな。突然認識の外から攻撃されるとかのが嫌だよ」
「あいつのことは怖くないんだ・・・」
「オレは臆病だから、日頃想定できることには対応できるように訓練してきた。あのメイジは確かに強力だったけど、想定を超える程じゃなかったよ」

 ウォルフがハルケギニアに転生してみて日本との一番大きな違いと感じたのは魔法の存在だが、その魔法は人間を殺傷することが出来る武器でもあるのだ。
銃刀法が整備され、銃はおろかナイフでさえも持ち歩くことが制限されている世界から、銃以上の武器を多くの人間が持ち歩いていると言える世界に来てみると、それは結構怖い事だった。
 ちょっとした諍いから決闘に発展したり、闇討ちされたりする。警察力は弱く、ろくな捜査もされないので自重しようとする空気もない。
大好きな物づくりの時間を削ってまでフアンや両親の戦闘訓練を積極的に受けたのも貴族のたしなみと言うよりは護身の為だし、気配察知の訓練に励むのも同じ理由だ。
ウォルフが感じている脅威に対してキュルケ達生粋のハルケギニア人はどうもおおらかというかあまり何も感じていないように思えるので、ウォルフは常日頃自分のことは臆病なんだと感じていた。

「相手をよく観察する事も大事だね。観察する事によって弱点が見えてくる事もあるし、弱点が見えた相手の事は怖くない」
「・・・でも、今回はウォルフが勝ったけど、いつか負けちゃうかも知れない。弱点なんて無い相手もいるかも知れない。それなのに、そんな所に行くの?」
「怖さよりも行きたい気持ちの方が断然強いから。負けるかも知れないけど、負けないように最善の努力はしている。それに勝てそうにない相手だったら逃げちゃうしね。オレは逃げ足は速いんだ」
「逃げるの?貴族なのに、敵の前から逃げるって言うの?」
「逃げる逃げる。この前だって勝てないと思ったらキュルケ連れてとっとと逃げてたよ」
「・・・」

 実際に逃げるとすればウォルフの『フライ』は『グラビトン・コントロール』を利用して質量ゼロにまですれば普通のメイジとは勝負にならない程の速度で上空へ逃げることが出来る。たとえ相手が伝説の風の使い手とかでも逃げ切る自信はある。
キュルケの感性からすれば敵の前から逃げる事は美しい事ではないのだろうが、ウォルフ的には戦略的撤退は余裕で有りだ。
 その後も色々と話をしたがキュルケはあまり話をしなくなったし、長居をするのも何なので今日の所は帰ることにした。あまり焦ってどうこうしようとしない方が良いだろうという思いだ。

「じゃあキュルケ、またな。元気出せよ?」
「ええ。今日は来てくれてありがとう・・・またね」
「近いうちに顔を出すよ、じゃ、これで」

 キュルケは部屋からは出ようとしないので入口のドアで別れる。素直なキュルケというのも何とも違和感がある物だ。
そのまま帰ろうかと思ったのだが、思い出して一応辺境伯の所へ顔を出した。辺境伯はずっとウォルフを待っていたらしく、すぐに執務室へと通された。

「で、どうだ、キュルケは。治ったのか」
「・・・そんなすぐに治るような状態ではないでしょう。何言ってんですか」
「むう、そうか・・・じゃあ、見込みはどうなんだ、何か分かったことはあるのか」

 性急な事を言う辺境伯にウォルフは呆れる。言葉遣いがぞんざいになってしまうのはしょうがないことだろう。 

「だからそんなすぐには分かりませんって。専門家じゃないんだし・・・あ、でも、辺境伯の話題が出た時にキュルケが竦むって言うか、良くない反応をしてた気がします。何か叱ったり余計なことを言ったりしませんでしたか?」
「いや、そんな覚えはないぞ。優しい言葉で多少叱咤激励しただけだ。可愛い娘が傷ついているんだ、こういう時に励ますのは普通だろう?」
「うーん、気のせいなのかな・・・あー、でもあんまり「頑張れ」って言うのも負担になるみたいですよ?今は頑張らなくても良いんだって言ってあげた方が良いらしいです」
「む、そうか。気をつけるとしよう。他に何かあるか?」
「後は、そうですね、キュルケは今、自分のことを否定されたと感じていますので、「心が弱いからダメなんだ」とか否定から入るのはダメです。肯定してあげてください」
「う・・・それはそのまま言ってしまったぞ・・・心が弱いから何時までもくよくよしているんじゃないのか?」

 少し焦って辺境伯が答えた。キュルケの心が強くなればいいと思って言った言葉をそのまま否定されるとは思っていなかった。

「たまたま足を骨折した人間に「骨が弱いから折れるんだ」って言うようなものですね。骨が折れる程の強い力が加わったことを考慮すべきで、「良く耐えた」と褒めるのが当然です。何か不安になってきたよ・・・「もう忘れろ」とか言うのも意味はないですよ?」
「それも・・・言ったな。なぜだめなんだ、忘れてしまえば楽だろう」
「忘れられる物ならとっくに忘れています。人間とはそういう風に出来ているので。今回は気軽に忘れられない程大きく傷ついてると言えます。もしかして、「甘えるな」とかも言っちゃったりしてますか?」
「・・・言った。オイゲンがもうどこも悪い所はないと言っているのに、やれ腹が痛いだの胸が苦しいだのと言うから、少し厳しくした方が良いかと思って・・・ダメか?」
「本当に痛いんです。心の変調が体に表れるのは良くあることなのに・・・傷ついた子供を親が甘えさせてやんなくてどうすんだ、このボケっ!・・・て言いたい位ダメです」
「それは言ってるのと同じだわい・・・そうか、ボケか、そんなにダメか」

 辺境伯は返す言葉もない。がっくりと肩を落とし、項垂れる。ウォルフが随分と失礼なことを口走ってるが、それを気にする余裕がない程打ちのめされている。

「ダメです。他には・・・「いつまでそうしているつもりだ」これは彼女が一番知りたいでしょう。先の事なんて考えられる状態じゃないです」
「ぐっ」
「「もっと酷い目にあった人もいる」彼女には関係ない事だし、立ち直れない自分を責めることになりかねません」
「むぐぐ」
「「ワシに恥をかかせるな」これは最悪ですね。何も言うことはない位ダメです」
「・・・」

 執務机に突っ伏し両手で頭を抱える辺境伯をウォルフは冷ややかな目で見つめた。まさか良く無さそうと思いついたことを辺境伯が全部言ってしまっているとは思わなかった。
本格的な治療方法などは知らないが、まず辺境伯との関係を改善しなくてはどうにもならない事はよく分かった。彼はキュルケの父親なのだから。

「とにかく今は彼女の話を良く聞いてあげることが大事です。彼女の言葉に耳を傾けて、肯いてあげるだけで良いんです・・・まあ、キュルケが会ってくれればの話ですけど」
「ぬうう・・・」
「せめて夫人経由であなたが怒ってないことを伝えて、謝罪しておいて下さい。じゃあ、また来ます」

 なおも落ち込む辺境伯を放置してウォルフはとっとと退出した。彼を甘やかす理由など何もない。



 辺境伯の元を辞した後ウォルフは直ぐに仕事に戻り、間に一日空けた二日後、再びキュルケの元を訪れた。キュルケはやはり同じ様な部屋着にニットの帽子を被っていて、部屋にはマリー・ルイーゼとリアがいた。
辺境伯とはちゃんと話をしたらしく、キュルケが少し嬉しそうに話してくれた。ここ二日毎朝顔を見に来ているらしく、何故あの日辺境伯がキュルケの救援へ行けなかったのか、そもそも何故部隊は襲撃されたのか、など話をしてくれたと言う。
ラ・ヴァリエールと事を構える寸前まで行ったことは驚きだったらしく、興奮した様子でウォルフに話した。
辺境伯との関係が改善したことは良いことで、それで少しは状態が良くなったかとも思ったのだが、まだまだ簡単にはいかないらしかった。

「じゃあ、まだ外には出てないんだ」
「うん、怖くて・・・外に出たら悪い人が居そうな気がしちゃって、こんな事じゃダメだと思うんだけど」
「いやいや、あんな目に遭ったんだからそう感じちゃうのは普通だよ」
「そう?ウォルフもそういう気分になる事ってある?」
「うん、言ったろ、ビビりだって。ボルクリンゲンのオレの部屋ってガラス張りだろ?あれは急に襲われない為だし、実は壁にも細工して外の様子が分かるようにしてある。例えば」

 ウォルフは杖を手に取ると『練金』で三十サント四方のゲルマニウムの板を作った。金属のように見えるその板を他の三人は見つめるが、それが何なのかは誰も分からなかった。。

「あ、これ窓の側にはめ込んであったかな?」
「そう、あちこちにはめ込んであるんだけどね、何だか分かるかな」

 キュルケが気付いたが、やはり何かは分からない。ウォルフはゲルマニウム板を手に取り三人にかざしゆっくりと動かす。
あちこちにかざして見せたり板の反対側で手を上下に動かしてみせると、マリー・ルイーゼがようやく気がついた。

「あ、温度が分かる!後ろに手とか顔とかがあると感じが違う!」
「正解。これはゲルマニウムって言って半金属の結晶なんだけど、可視光は透過しないんだけど赤外線に対しては透明って特徴があるんだ。えっと、つまり、普通の光は通さずに外の温度だけ分かるっていう性質を持っているから、壁の外に誰かが近づいたら直ぐに部屋の中から分かるんだよ」
「わたしはさっぱり分からないわ」
「水メイジには難しいかも・・・キュルケは分かる?」
「分かる・・・こんなのもあるんだ。っていうかウォルフって本当にビビりなんだ」

 リアには分からないらしいが火メイジである二人にはゲルマニウムの赤外線透過という特徴は分かってもらえた。しかし、女の子にただのビビりと思われてしまうのはちょっと辛いので訂正しておく。

「まあ、ただのビビりじゃだめで丁度良い塩梅って言うのがあるんだな。勇敢さは美徳だけど勇敢なだけだとただの無謀になる。慎重なのも良いけど過ぎると臆病になる。慎重さを持った勇敢っていうのが良いんだと思うよ」
「言い訳ヨクナイ。ウォルフがビビりなのは理解した」
「そうねえ、こんな変な窓作って外見張ってるってのはちょっと・・・」
「いや、別にずっと見張ってるわけじゃないから!外を誰かが通った時に分かるって言うか・・・」
「はいはい分かった分かった」

 ウォルフとしてはちょっとゲルマニウムの自慢をしたかっただけなのに、本気でビビり認定されてしまった。他にも魔法具を使って警備しているとはとても言えない雰囲気だ。まあ、キュルケが笑っているからこれ以上は気にしないことにする。

 この日、キュルケはウォルフ達と一緒に怪我の後初めて中庭に出た。



 また数日後ウォルフが訪れると、キュルケ達は庭でお茶を飲んでおり、笑顔でウォルフを迎え入れた。キュルケは帽子を被っておらず、生えてきた髪に合わせてほとんど坊主頭といった感じに短く切りそろえた頭を晒していた。
 この日は何故か聖人・アントニオの話で盛り上がった。いつの間にか偉人から聖人にランクアップしているがそれは気にしない。
マリー・ルイーゼが元気があれば何でも出来るという彼の言葉を言い出したのがきっかけだが、ウォルフは色々とアントニオの話を紹介させられた。

曰く、アントニオは強力なメイジ殺しであり、二つ名は燃える闘魂である。
曰く、彼は武器も杖も持たず、素手だけで闘う。
曰く、彼はビンタによってその闘魂を他人に注入することが出来る。そのため彼が訪れた街ではビンタをしてもらう為にいつも長い行列が出来た。
曰く、アントニオの魂と共に1!2!3! ダァーッ!と叫ぶと魂が燃え上がる。
曰く、座右の銘は「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」というもの。
 
 普通に聞けば眉唾物の話なのだがウォルフが見てきたことのようにペラペラと話すので三人とも信じてしまった。特にキュルケは件の詩をいたく気に入り、自身も座右の銘にすると言っている程だ。

「素手でメイジを倒すなんて素敵。アントニオってまるでイーヴァルディの勇者みたいだわ」
「あら、剣も槍も持っていないんだもの、アントニオの方が凄いわ」
「魂が燃え上がるってどんな感じなのかしら。ねえねえウォルフ、123ダァーッ!ってどうやるの?」
「えーっと、・・・」



 ゲルマニアの黒き森に面したツェルプストーの城の中庭で、ウォルフは一人テーブルに残り、メイドに入れ直してもらったお茶を静かにすすった。太陽は徐々に高さを落とし、庭木の影は長さを増している。少し離れた庭の開けた場所にはキュルケ達がいて、そこに城のメイド達も集まって結構な人数になっていた。
つい調子に乗ってアントニオの話などしてしまったが、あの詩を気に入るということはキュルケが未来に向き合い始めているのだと言えるだろう。
まだまだ大変だろうけど、キュルケが一歩を踏み出す勇気を持てたのなら良かったと振り返る。

「いくぞー!いーち!にーい! さーん!」「「「ダァーッ!」」」

 ただ、今は天に向かって繰り返し拳を突き上げる少女達をどうしたらいいものかとウォルフは悩んでいた。




番外5   サラのおしごと



「ああ、もう!」

 ここの所いつも上機嫌だったタニアが珍しくいらだちを隠さずソファーに身を投げ出した。ここはシティオブサウスゴータのガンダーラ商会、その商館にある事務室である。

「どうしました?ご機嫌斜めですね」

 女性の事務員がお茶を入れて持ってきてくれる。タニアは礼を言って受け取ると大きくため息を吐いた。

「今度ね?うちで美容品を扱おうとしてるんだけど、全然いいのがなくて・・・ガリアで目新しいのがなかったからこっちに来てみたんだけど、こっちはもう壊滅的でしょう」
「えーと、貴族様のことは分からないけど、そうなんですか?」
「そうなのよ!うちで扱うからには何か、こう革新的というか新しい物が必要なのに、あの商人達ったらもう何世紀も作ってるような物ばかり出してきて・・・」

 ブチブチとタニアは不満を言う。しかし商会の事務員には貴族の奥様の美容品なんてよく分からない話だ。

「まああ、商会長も大変なんですねえ」
「大変なのよ。ウォルフがサクッとなんか作ってくれりゃいいのに、あの子ったら興味が無いなんて言って断ったのよ?」
「フフ、男の子じゃ美容品に興味がないのは仕方がないでしょう」
「そりゃそうなんだけど、仕事なんだから・・・」

 なおもタニアは諦めきれないみたいだった。タレーズでおいしい目を見ているので二匹目のドジョウを狙っていたのだ。
元々ウォルフに手伝い位はしてもらえると当て込んで始めた美容品事業である。ウォルフがここまで忙しくなって断られてしまうとは完全にタニアの想定外だった。
自分で作るには知識が無いし、泥縄的に既存の製品を探してみても望む物がそう簡単に見つからないのは当然とは言えた。
 また大きくため息を吐いたタニアに事務室の奥から年配の事務員が仕事の手を止めて声をかけた。

「売る物が無いってんなら、サラちゃんのハンドクリームはどうだい?あれなら貴族の奥様だって満足するはずさあ」
「ハンドクリーム?サラが作っているの?」
「そうさ。あの子は優しい子でね、あたしの手がアカギレしていたのを見て自分が使っているのを分けてくれたのさ。アカギレなんてあっという間に治ったね」
「ああ、あれは良いですね。わたしも貰いましたが、もう冬場には手放せませんよ」
「どどど、どんなの作ってるの?水の秘薬とか使ってるのかしら」
「さあね、そんなのは知らないよ。でもあの子はちっちゃくても水メイジ様だからね、薬を作るのはお手の物なのさ」
「サラって今どこにいるのかしら、ド・モルガン邸?」
「この時間なら学校で授業してるでしょう。もうすぐ終わりますから、こちらに顔を出してから帰りますよ」
「じゃあ、来たら商会長室に来るように伝えて頂戴。わたしはちょっと急いで仕事片付けちゃうから」

 意外な近場に商品の種があったのかも知れない。タニアは今すぐサラに会いに行きたいのを何とか堪え、自分の部屋へと向かった。



「お疲れ様でーす!アンおばさん、何か御用はありますか?」
 
 昼になり、授業が終わったのだろう、元気良くサラが事務室に入ってきた。サラはいつも子供達の授業が終わった後こちらに顔を出し、話をしていく。

「おや、サラちゃんご機嫌だねえ。ウォルフ様が戻っているのかい?」
「あら、分かっちゃいますか?ふふふ、まあ、また出てっちゃったんですけど、昨夜は久しぶりにウォルフ様が歌を歌ってくれて・・・」

 サラが頬を染めて報告する。ウォルフは昔から良くサラに歌を聴かせてくれたが、数年前にジョニー・ビーからギターを貰ってからは伴奏付きで演奏してくれるようになった。
方舟の扉を開けて月明かりの下、サウスゴータの街並みを眺めながら開催される二人きりの演奏会はいつもサラを幸せにしてくれる。ウォルフとしてはサラがまだ小さい頃、泣いているサラに歌を歌ってあげると泣きやんだのでその頃の習慣が続いているだけなのだが。
 幸せそうなサラの様子に事務員のおばさん達は目を細める。微笑ましいとはこういう事を言うのだろう。

「あら、良いわねえ。ウォルフ様は歌が上手だものねえ」
「昨夜は"小さな恋のうた"っていう曲を歌ってくれたんですけど、これがまた素敵で・・・ウォルフ様は東方の曲だって言ってるんですけど、絶対に私のことを想って作ってくれたんだと思います」
「あらあら惚気かい?まあいいけど、商会長がサラちゃんに用があるってさ。会長室で待ってるよ」
「タニアさん来てるんですか。用って何だろ。じゃあ行ってきます」

 サラはまだ惚気たそうにしていたが、そうもいかず事務員達に挨拶するとタニアの元へと向かった。
 


 事務室から戻ってからタニアはずっとここの所溜まっていた仕事をこなしていたのだが、今はヤカに作った石鹸工場からの報告をチェックしていた。
 石鹸製造の事業は順調に準備が進んでいる。ウォルフもこの事業には協力してくれて、以前自分で石鹸を作る時に研究したというレシピを提供してくれた。
それを元に石鹸はオリーブオイルをベースに時間をかけて固めるタイプと一週間程窯で煮てから塩を加えて不純物を除去したタイプの二種類、それに加えて牛脂などの廉価な油脂を高温高圧釜で脂肪酸とグリセリンに分離してから作る、食器洗いや洗濯用のタイプを作った。
他には液体石鹸であるシャンプーとクエン酸をベースにグリセリンなどを少々加えたリンスが今のところの製品である。
 シャンプーに使う水酸化カリウムは岩塩鉱山で採れるシルビンという鉱石をツェルプストーから購入し、ボルクリンゲンの工場で電解して作っている。
シルビンは岩塩と一緒に産出されるが舐めると非常に不味い。ハルケギニアでは利用されておらず、ゴミとして捨てられていたので非常に安価だった。

 タニアが始めた事業ではあるが高温高圧釜の開発やシルビンの精製、水酸化ナトリウムの提供などほぼ全てウォルフの技術に頼っており、タニアが決めたことは加える香料の選定やパッケージそれに自身が開拓した販路だけである。
美容品事業をウォルフに断られて、意地になって一人でやるとウォルフに啖呵を切ったものだが改めて見直してみるとその存在の大きさに怯む。

 ウォルフに頭を下げてもう一度お願いしてみようか、などと思い始めた頃ドアがノックされた。

「タニアさん、サラです、お呼びでしょうか」
「サラ!待ってたわ」
「な、何なんですか?」

 タニアはサラを飛びかからんばかりにして部屋に招き入れた。サラが怯むがそんなことには頓着せずに手を引っ張ってソファーに座らせた。その顔は思わずサラが顔を背けたくなる程の笑顔だ。

「良く来てくれたわ、サラ。ちょっと相談があるんだけど、あなた、ハンドクリームってのを作ってるんですって?」
「は、はい、冬場にメイド仲間達の手が荒れるので何とかしようとしたんですけど、それが何か・・・」
「ちょっと、どんな物か見せて欲しいのよ。ほら、わたし今度美容品事業を始めるでしょう?中々良い商品が無くて困ってるのよ」
「え!あれを商品にするんですか?あれってオイルと蜜蝋を溶かして混ぜただけですよ?」
「そうなの?水の秘薬とか使った凄い奴じゃないの?凄く評判良かったわよ?」
「違います。その人が買えないような物を上げちゃダメだってウォルフ様に言われてますし。アンさん達はいつも無防備に水仕事してるんで効果が大きいだけです。貴族の奥様達用にはとても向かないと思いますが」
「そんな・・・良さそうだったのに・・・」

 タニアはあからさまに落胆してしまってサラもどうしたものかと思うがこれはどうしようもない。

「美容品事業、うまくいってないんですか?ウォルフ様はタニアさんが一人でやるって言ってましたけど」
「・・・ウォルフにも手伝って貰おうとしたのよ。なのに断るもんだから」
「いくらウォルフ様でも貴族の奥様相手の商売は無理なんじゃ・・・社交界の流行を完璧に把握するウォルフ様とか想像が付かないんですけど」
「商会の経営を安定させる為には柱になる事業が必要なのよ!貴族の奥様方の購買力は消費の牽引力よ!お金を儲ける為には必要なんだって言ったのに、あの子ったら興味が無いなんて言うのよ?お金にも興味が無いって言うのかしら」
「ウォルフ様が好きな物は、一に自分が作れない物、二に自分が作った物、三四が無くて五に食べ物です。エキュー金貨なんてウォルフ様が作れて、ウォルフ様が作った物じゃなくて、食べ物じゃありません。興味がないのも仕方ないです」
「お金があれば食べ物でも何でも買えるじゃない!お金は大事よ。あの子商売に向いてないんじゃないの?」
「だから商会の経営はタニアさんに任せっきりじゃないですか」
「うぐぐ、手伝ってくれって言ってんだから少し位手を貸してくれても良いじゃないかー」

 タニアはソファーに倒れ込みじたばたと足を動かして駄々を捏ねるが、もちろんそんなことをしても何の意味も無い。
 ウォルフは商会を作って航路を拓いた後は商会の経営をタニアに任せっきりで本人はずっと研究開発に専念している。経営に口を出したのなんて多少グライダーの販売をごり押しした位だ。
経営に問題があれば口に出すつもりだったみたいだが、現状何も問題はないのでタニアはこれまで自由に采配を振るってこれた。
 商会は貿易業以外ではグライダーや織機などの機械工業、タレーズの販売などで収益を得ている。今は順調ではあるが、これらは単価が高い為売り上げが景気にかなり左右される。
ここの所競争が激化して風石の値上がりなどもあり本業の貿易業で十分な収益を上げられない為、タニアとしては安定した売り上げを見込める収入源を持ちたかった。どんなに景気が悪くなっても女性は日々化粧をするのだから、美容品事業は安定した収益を商会にもたらすと思えたのだ。

「ほら、タニアさんそうしていてもしょうがないでしょう、起き上がって下さいな」
「ねえ、サラの方からウォルフに言ってくれない?なんかこう、アイデアだけでももらえたら嬉しいんだけど」
「無理です。どこまで出来るのかお手並み拝見とか言ってましたから、完全に傍観者モードに入ってますよ。むしろそっちに興味が向いていると言えます」
「・・・ガリアなら結構良い化粧品作ってる所があるんだけど、メジャーな所は販路がしっかり定まっていてうちが取り入る隙はないわ。マイナーな所はどうも今一で、しかたないからこっちで目新しいの無いかと思ったんだけど・・・」
「ダメだったんですか」
「この国の美容業界は二世紀は遅れているわね。口紅なんて明るいのと普通のと暗いのとの三色。それを若い・普通・年寄りで使い分けるだけ。万事がそんな感じでとにかく選択肢がないわ。とてもガリアやゲルマニアの貴族の奥様達が望むような品物を作れる気がしないのよ」

 ようやく身を起こしたタニアが自嘲気味に笑う。その様子を見ているとさすがにサラはタニアが気の毒になってきた。

「うーん、ハンドクリームは単価が安すぎるからなんだけど、スキンケア用品なら貴族の奥様にも売れるかなあ・・・家にわたしや家族用のが作ってありますから、見に来ますか?何か参考になるかも知れませんし」
「スキンケア?スキンケアって何?」
「ええと、お肌を整えたり、保湿したり、しみやそばかすを無くして日焼けを防いだりするんです」
「そう言えば・・・あなた、子供のくせにそばかすが一つもないわね。それどころか黒子もないわ。ちょっとこれどういうことなの」

 両手でサラの肩を掴みまじまじとその顔を観察する。少し垂れ気味の目やダークブラウンの髪などはいつも通りだが、久しぶりに近くで見るその顔はミルクを溶かし込んだような白い肌に血色の良い頬、どこもかしこも思わず触ってみたくなる程の瑞々しさだった。

「え、ええ。どっちもメラニン色素が原因だから除去しました」
「何ですって!?それにこの肌の肌理・・・子供だからってだけじゃない、これはもう赤ちゃんの肌よ!」

 プニプニとほっぺたから耳たぶまで触りまくる。サラは逃げ出したかったがそれを許さない迫力がタニアにはあった。

「えっと、だから肌理を整えて手入れしてるからです」
「ちょっと、それ自分で作ってるの?そういうのをわたしは求めていたのよ!」
「水の秘薬を使ってる物もありますから、そうそう安くはなりませんですけど。化粧品って訳じゃないけど良いんですか?」
「お肌は美容の基本じゃない!こんな肌になるんだったら、みんないくらでも払うと思うわ。水の秘薬
ならウォルフが結構持ってるって話じゃない。安く分けてくれないかしら」
「ウォルフ様が人に、この場合は精霊さまにですけど、貰った物を売るなんて有り得ないです。わたしが分けて貰ったのだって研究用だからくれただけですよ」
「くっ、あの子そういう融通は利かなそうだわね・・・まあ、いいわ。今すぐあなたの家へ行きましょう!」

 タニアは戸惑うサラを急かして外へ出て、ド・モルガン邸へと向かった。アンら事務員が声をかける間も無い程の勢いだった。

 あっという間に着いたド・モルガン邸で直ぐにサラの私室へ行こうとしたのだが、エルビラがいるとのことで先に挨拶に顔を出した。

「お久しぶりです、エルビラ様。いつもウォルフにはお世話になっています」
「あらタニアさん珍しいですね。ウォルフなら今日はいませんよ?」
「はい、今日はサラに用があったもので・・・」

 何気なく挨拶しに来たのだが、久しぶりに顔を合わせるエルビラを前にしてタニアは硬直した。エルビラはタニアよりも大分年上の筈だが、その肌はタニアよりも若々しく、どう見ても十代の肌だった。

「エルビラ様、肌、綺麗・・・」
「あら、ありがと。これはね、サラのおかげなのよ」
「・・・実は、今日こちらに来たのはそのスキンケア用品についてなのです」
「あら、ガンダーラ商会で扱うつもりかしら。販売が決まったら教えて頂戴、同僚達によく訊かれて困っているのよ」
「は、はい、是非。ではこれで失礼しまーす」

 まだ若いサラの肌が綺麗なのはある意味当然だが、三十も半ばのエルビラの肌をあそこまで若々しくするというのは衝撃的な効果である。
タニアはとんでもない鉱脈を掘り当てた予感をひしひしと感じていた。
 


「こちらが美白美容液"スーパーホワイト"で、こっちが美白乳液の"ホワイトキープ"です。"スーパーホワイト"を使うのは最初だけで良くて、しみとかが消えたら後は普通の美容液"ウォーターキープ"を使います。で、これが化粧水の"ウォーターイン"に洗顔用石鹸"パーフェクトクリーン"、最後がわたしはまだ使ったことはないんだけどムダ毛処理用クリームの"ツルリンEX"で、これは取り扱い厳重注意です」
「結構あるのね、素晴らしいわ。これで全部?一つずつ用途と用法、それに原料を説明してくれるかしら」
「はい、あとは"アンチエイジングDX"っていうのも作りましたけどもう全部使っちゃいましたので今ここにはないです。えっと、使い方なんですけど、スキンケアの基本は水分を如何に保つかと言うことです。洗顔して化粧水で水分を補充して美容液でその水分が逃げないようにして栄養を補充します。乳液は脂分の補充です」

 在庫が置いてあった方舟でサラは机の上に自分が作ったスキンケア商品を並べた。そして熱心にメモを取るタニアを前に一つずつ解説していく。

"パーフェクトクリーン"・・・非加熱製法で作った洗顔石鹸で原料はオリーブオイルと水酸化ナトリウム、それにラグドリアン水である。ラグドリアン水を使っている為に肌そのものには影響を与えることなくどんな汚れも落とす。
"ウォーターイン"・・・ラグドリアン水にアルコール・ジグリセリン・ヒアルロン酸などを添加した化粧水。普通の水でも作れるがもちろん効果は落ちる。水分を保持する魔法がかけられている。
"ウォーターイン・アンチエイジングDX"・・・"ウォーターイン"に水の秘薬を添加した肌老化防止化粧水。老化して傷ついた遺伝子を修復するが、どの程度まで修復できるかは個人の肌の状態による。
"ウォーターキープ"・・・ラグドリアン水にコラーゲン・ヒアルロン酸・エラスチン・アスタキサンチンなどを高濃度で配合した美容液。血行促進・老廃物排出・活性酸素除去などの効果がある魔法が掛かっている。
"ウォーターキープ・スーパーホワイト"・・・"ウォーターキープ"に水の秘薬を添加しており、肌のしみ、そばかす、黒子などの原因であるメラニン色素を分解し除去する。
"ホワイトキープ"・・・ラグドリアン水とホホバオイルをパームヤシの乳化剤で乳化した乳液。アスタキサンチンとリン酸アスコルビルマグネシウムが添加してあり有害な紫外線・UVC遮断の魔法が掛かっている。
"ツルリンEX"・・・水の秘薬を使用した毛根の血行を阻害し休眠に追い込む事で脱毛をするクリーム。塗るのに使用した手は必ず"パーフェクトクリーン"で洗浄すること。

 それぞれの添加物の効果や魔法の構造、簡単な製造の手順など、全ての説明が終わった時にはメモを取るタニアの手は痛みを覚えていたが、そんなのが気にならなくなる程彼女は興奮していた。それもハルケギニアでは聞いたことがない革新的なもので、説明を聞いているだけで効きそうに思えてくる。
この世界には元々水メイジによる若返りの魔法は存在する。しかし、漠然と若返りというイメージだけで行使される魔法と、科学的に老化の原因を潰していくサラの魔法とでは圧倒的に後者の方が効果が高いことは当然であった。

「ちょっと、凄いじゃないの、サラ。これならどれもそのまま商品に出来ちゃうわ。あなたどこでこんな事覚えたの」
「最初はウォルフ様が実験している横で時間が空いた時にクリーム作ったりしていただけだったんですけど、段々とエスカレートしちゃって」
「それにしてもイデンシとかなんとか、凄い知識の量じゃないの。ひあるろんさんとかも全然分からないけど、やっぱりウォルフに教えて貰ったの?」
「そりゃそうですよ。わたし一人でこんなに詳しくなりませんて」
「あの子ったら私には興味が無いとか言っておいてサラにはこんなに詳しく教えてるんだ・・・」
「私が美容液の作り方教えてって言っても教えてくれないと思いますよ?ウォルフ様だって知らなそうだし。細胞とか肌の構造とか基本的な事は教えて貰ってますので、後は自分で魔法を使って勉強しました。それに日頃から一杯話をしてグリセリンの保湿力とかアスタキサンチンの抗酸化力とかの知識も別々の話として教えて貰ってますから、それを応用して私が作りました」

 エヘンと胸を張る。ウォルフの知識を利用していてもここにある品々はサラの研究の成果だ。

「うーん、そうか知識の引き出し方にこつがいるのね。オッケー、今後の参考にさせて貰うわ」
「ちゃんと訊けばウォルフ様は教えてくれますよ。漠然とした質問だとウォルフ様の持つ知識が膨大だから答えようがないだけで」
「・・・今更だけど、一体何者なのよあの子は。訊けば教えてくれるって言っても、何を訊いたらいいのか分からないのが問題なのよね。まあ、いいわ。サラ!お願い、協力して!」

 ストレートにタニアはサラに全面的な協力を頼み込んだ。もうこれらの美肌化粧品抜きに今後の事業計画など考えられない。製品化に向けてサラの協力は絶対に必要なことであった。

「いいですけど、私もそんなには時間が取れないから・・・」
「今商会でサラがやってる事務とかは人を増やして対応するし、もちろん手当もドーンと出すわ!あと、ほらサラ孤児院を作りたいって言ってたじゃない、あれも作っちゃいましょう」
「えー!孤児院は作るのもお金が掛かるけど、運営にもお金が掛かるからってあんなに渋ってたじゃないですか」
「この事業が軌道に乗ればそれくらい余裕なのよ。だからお願い、一緒にハルケギニアの美容界に革命を起こしましょう!」
「タニアさんがそこまで言うなら・・・協力します」
「ぃよっし!」

 サラの協力を取り付けたのでタニアはすぐに具体的な検討に入る。
詳しくサラに聞くと成分の抽出など、大部分を魔法によって作られていることが分かった。ウォルフの作るプラントのような大掛かりな施設は必要ないが、メイジを多数雇う必要がある。
サラとも話し合い、工場はチェスターの工場に隣接、水メイジを早々に求人をかけて雇い始めることを決定した。原料になる鶏冠や動物の腱・血管等、甲殻類の殻やブドウ糖など必要な数量を聞き出してタニアが手配することにし、ヤカの石鹸工場やプローナの醸造所の協力を取り付けるのもタニアの仕事だ。
 水の秘薬やラグドリアン水に関しては現在取引ルートを持っていないが、タニアの持つ顧客リストには上級貴族の奥様達も多いので、今回の品の効果を喧伝すれば色々と入手について便宜を図ってもらえそうだと考えている。

「ただ、入手するまで時間が掛かりそうなのが問題ね。取り敢えずラグドリアン水だけでも先に何とかならないかしら」
「取り敢えずって、どの位の量が必要なんでしょう。多少ならわたしも作れますが」
「・・・何ですって?」
「『コンデンセイション・ラグドリアンウォーター』ってウォルフ様が作ったオリジナルスペルがあるんですよ。ラインスペルになるしちょっと難しいけど、百や二百リーブルなら直ぐ出来ますよ」
「貴方達にはもう、驚かないようにするわ・・・水の秘薬はもちろん作れないのよね?」
「ウォルフ様は作ろうとしているけど、まだ難しいみたいです。大きい力と小さい力がどうのこうのって悩んでました」 
「まだ、なんだ・・・ははは」

 ウォルフが何者なのか、何を目指しているのかタニアにはさっぱり分からないが、身内で良かったと思った。



 この後精力的にタニアは動き、あっという間に美容品事業は動き出した。メイジを雇い工場を建設し、製品を作り始める。その製品のブランド名は「sara」。
まんまサラの名前だが、ラグドリアン水を使用する製品には全てこの名を冠し、それ以下の製品とは区別した。
 タニアは一番のセールスレディーとして「sara」を愛用し、プルプルの美肌を手に入れた。滑らかでどこまでも肌理が細かく抜けるような白い肌はタニア自身十代の頃でもこんなに綺麗ではなかったと思う程だ。
彼女に会う貴族の奥様方達も大いに驚き、その噂はハルケギニアの社交界に瞬く間に広まった。
 おかげで水の秘薬の供給ルートにも無事伝手が出来、少量ずつではあるが水の秘薬を使用した製品も生産できるようになった。こちらのシリーズは「sara premier」として販売する。

 サラはいきなり工場長に就任させられた。九歳の身で十人からの部下を持たされて戸惑ったが、次第に慣れて生産や新商品の開発を積極的にこなしていくようになった。この間ウォルフも忙しく働いていたのでそちらの世話をすることが少なかった為に化粧品の開発に専念できた形だ。
雇い入れた水メイジ達にサラの魔法のイメージを理解させるのは時間がかかったが、きちんと順を追って説明し、メラニン色素や細胞の事など実際に魔法で観察しながら教えて何とか理解してもらえた。ただ、紫外線だけはどうにも理解してもらえず、結局そこはサラが担当する事になっている。
 サラの希望でハンドクリームやリップクリーム、ラグドリアン水を使わない乳液など平民向けの廉価な商品も販売することになり、こちらは割と大きな設備で平民を雇用して大量生産を開始した。
 約束の孤児院も開設された。子供を育てられない女性から預かったり、貧民街のストリートチルドレン達を保護したりしてどんどんその数を増やし、あっという間にサウスゴータで一番大きい孤児院となった。
当然子供達の教育もガンダーラ商会の学校で行うことになった。まだサラの受け持つクラスに入ってくる孤児院の子はいないが、廊下などで増えた子供達を目にする度にサラは喜びと共に責任感を感じるのであった。

 そしていよいよガンダーラ商会初の美容品である「sara」シリーズが発売された。基礎化粧品と名付けられたそれは、高めな価格設定ながら半年分以上のバックオーダーを抱え、お得意様から順に届けられた。



 とあるガリアでのパーティーにて、一人の夫人が会場の注目を一身に浴び、その中心でにこやかな笑顔を振りまいていた。
ここのところ化粧が濃くなる一方だとの評判であったデ・ガジェド伯爵夫人である。しかし今日の彼女は薄化粧でほとんどスッピンに近い状態であった。
何よりも周囲の関心を引いたのは、彼女が濃い化粧をしていた頃よりも遙かに美しく見えるという事実であった。四十を超えてその美貌に陰りが見え、今では若かりし頃の名声にしがみついているかに思えた彼女が、今ではどうだ、まるで二十歳の頃のように光り輝かんばかりの笑顔を振りまいている。
 誰もがここ最近流れていた噂を思い出し、真相を確かめんと伯爵夫人の周囲に集まっていたが、そのあまりの美貌に圧倒され中々声をかけられずにいた。
 そんな中、彼女とは長い付き合いのあるデ・ローレ伯爵夫人が一歩前へ出て声をかけた。

「ごきげんよう、デ・ガジェド伯爵夫人。本日は一段とお綺麗ですこと」
「あら、ごきげんよう、デ・ローレ伯爵夫人。嬉しいですわ、化粧品を変えたのが良かったみたいですの」
「それって、もしかして今話題の、ガンダーラ商会の?」
「ええ、ご存知でしたか?ずっと頼んでいたのが先週やっと届きましたの。お安かったし、とても良い買い物が出来ましたわ」
「あ、あら、あれは水の秘薬を使っているからって言ってもちょっとお値段が高すぎるんじゃないかって言う方もございましたのに」
「その方はきっと使ったことがないのでは? 一度でも使えばあれがとても安い事なんて分かるでしょうに」

 デ・ガジェド伯爵夫人は人差し指を軽くそのぽってりとした下唇に当てて艶然と微笑んだ。それは間近で見ていたデ・ローレ伯爵夫人が思わず息をのむ程のなまめかしさであった。
少女では出し得ない、四十を超えた円熟した女のみが出せる色気。それが二十代かと見まがう美貌によってまき散らされるのである。遠巻きに見ている男どもはごくりと生唾を飲み込んで前屈みになってしまっているし、周囲にいる女性陣もそわそわと落ち着きをなくした。

「どうやら、仰る通りのようですわね・・・実は、わたくしも注文はしてあるのですが、何時入荷するのか全く見通しが立ってないと言われていまして。そんなに早く入手されるなんて、何か、伝手でもございましたのですか?」
「伝手というか・・・ほら、ガンダーラ商会って後発というか、まだ新しいでしょう?水の秘薬の入手に苦労なさってるみたいでしたから、ちょっとお手伝いして差し上げましたの」

 キラリとデ・ローレ伯爵夫人の目が光る。周囲もにわかに騒がしくなった。

 タニアは今現在の販売を「premier」シリーズを含むセット「ファーストパック」のみに絞っている。
やはり水の秘薬入りの方が効果が覿面であるのでブランドイメージ形成の為には外せないという経営判断からであるが、おかげで市場に出せる数が少なくなってしまっている。
その結果起こりうる人気のせいで継続的な購入が出来なくなるという事態は「ファーストパック」を購入できた顧客のみに次回以降数量に余裕のあるノーマル「sara」シリーズを販売することによって避けるつもりだ。しかし「ファーストパック」を購入できていない顧客にとって何時入荷するか分からないと言う状態には不満が高まっている。
 今、品薄の原因が水の秘薬にあると明らかにされ、秘薬を入手する事が可能な夫人達は自分たちが即座に「sara」シリーズを手にできる可能性に色めきだった。
 
 この夜のパーティーは大いに盛り上がったものの、何故か会の途中で帰ってしまう参加者が続出した為に早めに散会となってしまった。

 「sara」シリーズの供給量はこの後徐々に増えていくことになるが、それを上回る勢いで注文が殺到した為に当分供給不足が改善されることは無かった。




番外6   デトレフの戦車



 その日、デトレフは朝から緊張していた。ツェルプストー辺境伯に戦車の自力開発を命ぜられてから一ヶ月と少々、事件の後処理などで遅れたがいよいよ辺境伯にお披露目する日なのだ。

「右良し!左良し!微速前進!」

 火竜山脈の地鳴りのような音を発しながらデトレフらフォン・ツェルプストーの技術者が総力を挙げて作り上げた戦車が動き出した。
 まだ大砲を設置していない車上でゆっくりと背景が動くのを確認しながらデトレフはホッと安堵の息を漏らした。今日のこの日の為にここ二日は寝ないで調整を続けてきたのだ。これでまたキャタピラが焼き付いただの切れただのトラブルが起こったらたまった物ではない。
そのままそろそろと走り、工房からお披露目をする練兵場へと向かった。

「停止!良し!方向転換、左七十度!」

 工房の出口まで来たところで一旦停止し、方向転換して出口へと向かった。ウォルフのダンプカーは走りながら方向変換をしているが、まだとてもそんなことは出来ない。
走行は片方のキャタピラに三人ずつ土メイジが配置され、それぞれ土石を使って出力をコントロールしていた。

「停ー止!良し!方向転換、右九十度!良ーし!微速前進!」

 最後の方向転換を終え、車体は無事に練兵場へと入っていった。車内では思わず歓声が上がり、お互いに握手を交わす乗組員の姿が見られた。
これまでも試験走行は練兵場で行っていたのだが、方向転換に失敗して門などに激突し、そのまま修理に向かったことなど一回や二回ではないのだ。

「ふー、何とかなりましたな」
「なりましたなあ。昨日履帯が切れた時はもうダメかと思いましたよ」
「確かにあれが今日だったらと考えると首筋が寒くなります。あれだけやってもまだ強度が足りないのですなあ」
「まあ、取り敢えず今日は大丈夫でしょう」

 開発で一番苦労したのは左右に二つあるキャタピラである。そのキャタピラの大量にある履板一つ一つはマイスターメイジが叩いて鍛え上げた手作り品である。最初の試作品では全て同じ型から鋳造した物だったが、サイズ・形こそほぼ同じ物が出来た物の組み立ててみると絶対的に強度が足りずキャタピラ車は五メイルと進むことが出来なかった。
初めは中々不揃いであったが大量に作ってその中から大きさの揃ったのを選んで仮組みし、ベンチテストにかけて大きさをならしさらに選別するという手法で今では結構な精度で揃うようになった。
大きさの揃った履板を熱処理して強度を上げ、また一つ一つマイスターメイジの手によって擦り合わせしながらピンで繋ぎ、本組みしてその上で魔法を幾重にもかけて強化してある。
 膨大な手間と莫大なコストが掛かったが、何とか作り上げることが出来た。
あらためて停車した車体を眺めると今までの苦労が思い出される。一つ一つの部品などもう芸術品と言って良い程丹念に作り込まれていて、これ程の機械を僅か一ヶ月あまりで作り上げた感慨は深い。
 デトレフ達は練兵場に停車させた車体を丹念に磨き上げ、ツェルプストー辺境伯の登場を待った。



「ふむふむ、車体は木製でそれに鉄を巻いて補強しているのだな。全部鉄には出来なかったのか?」
「全部鉄にすると走行している内に歪みが出やすいというのが担当メイジの判断です。使用しているヒッコリー材はしなやかで粘りがありますし、鉄に比べて重量的にもこちらの方が有利です」
「なるほど。こちらの方が優れているという訳か。速度はどれくらい出せる?」
「現時点で最高時速二十リーグ程です。速度向上は今後の課題となっております」
「・・・ガンダーラ商会は五十と言っておらなんだか?随分と差があるな」
「はっ、キャタピラの製造に予想以上の手間が掛かり開発が遅れています」
「うむ、最低でもあちらより速度で上回れるように開発を続けよ」
「はっ」

 ツェルプストー辺境伯は予定通り戦車が出来ていたことに満足し、上機嫌で説明を受けていた。
最高速度が大分劣っていることは不満だが、それが解決できない問題であるとは思えない。そんな辺境伯の表情が一変したのはコストについての説明を受けた時だ。

「は?もう一度言ってくれないか?ちょっと妙な数字が聞こえたんだが」
「は、はい。一台の製造にかかるコストは推定でおよそ五十万エキューになります。この数字は材料費、人件費、製造時のコークスや土石など全てのコストを計算しております。これとは別に走行時には土石が必要となります」
「・・・」

 ピクピクと辺境伯の頬が動き、こめかみにはぶっとい血管が浮き出ている。
説明していたデトレフは恐縮するが、こればかりはどうしようもないことだった。最高級の鉄を使い一流のマイスターメイジを大量投入して作っていることもあるが、何しろ土石が高いのだ。
試験運転をしては熱を持った部品を交換・調整して精度を高めていくという手法を採っている為にどうしても土石の消費は多くなってしまう。車輪に比べて圧倒的に機械抵抗が大きいこともあり、この車が走行するには莫大な量の土石を必要とするのだ。

「お前、前にこれを百台位整備すればとかなんとか言ってなかったか?ワシを破産させる気か?馬鹿なのか?死ぬのか?」
「あ、いや、何せ土石が高くて・・・量産すればその効果でもう少し下がるかも知れませんし、大型の水車を製造してその側に工場を建てれば更に下がることが期待できます」
「その水車を建てるのは誰だ、ワシか。下がるってどの位だ、そもそもそんなに大量に土石ってのは入手できるのか?」
「あー、そのー」
「大体ガンダーラ商会はそんな高価な機械で採掘をしているのか?ろくに金にならないアルミニウムのために」
「あー、ガンダーラ商会は土石ではなく風石を使用しています。最近値段が上がったとは言え土石に比べかなり廉価ですから、その分は安いかも知れません」
「だったら何故お前も風石を使わん!馬鹿高い土石を湯水のごとく使いおって、何を考えているんだ!」

 デトレフも安価な風石を動力にと考えなかったわけではないが、その場合出力のコントロールが大変に難しい。辺境伯が設定した一ヶ月という期限内にはとても使い物になる物が開発出来そうに無かったので高価なのを承知で土石を使用したのだ。
ただ、これほど大量に土石を消費するとは想定していなかった。精度の悪い物を無理矢理回しているせいではあるのだが、今回の物はあくまで短期開発の為の物であると言葉を尽くして説明する。
 まだまだ文句はあるみたいだが、辺境伯も今後コストダウンを図ると言うことで一応納得してくれた。
 
「では、風石にシフトすればコストは押さえられるんだな?」
「は、はい、二十万エキュー位には押さえられるかと予想できますが、速度向上を目指すとなるとまた掛かるコストが上がっていきます」
「むう・・・二十万キューか。ガンダーラ商会はそんなんで採算が取れるのか?グライダー一機売って五千エキューだぞ?」
「さあ、今はガンダーラ商会しか利用者がいないからアルミニウムには値段が付いていませんが、今後は利用者が増えて価格が上昇すると読んでいるのかも知れません。今アルミニウムを精錬できるのはウォルフ殿しかいませんし。キャタピラに関しては確かにコストが高すぎて販売は出来ないとは言っていました」
「むう・・・あの軽いだけで虚弱な金属にどんな用途があるというのだ。精々木材の代替位だろう」
「ま、まあ、ガンダーラ商会の事は今関係ありませんな。では早速試走をお目にかけましょう」

 ウォルフが市販しているグライダーの部品に使用しているアルミニウム素材はヒドロナリウムと呼ばれるマグネシウムとの合金だ。純アルミニウムに比べれば三倍近い強度を持つが、ジュラルミンなどに比べれば半分近くの強度しかない。
デトレフが入手したアルミニウムインゴットが純アルミニウムだったこともあり、辺境伯はアルミニウムにはほとんど関心を失っていた。

 そんな考え込んでいる辺境伯を横目にデトレフは試験走行の準備を進めた。不機嫌そうにしていた辺境伯もいよいよ動き出すと言うことで興味を持って戦車を見つめる。

「準備完了!微速前進!」

 デトレフが大きな声で号令をかけると戦車は盛大な音を立てながら動き出した。
小山が動くようなその姿は近くで見ている辺境伯を圧倒し、彼の機嫌を少し戻した。

「停止!良し!転回!良ーし!全速前進!」

 練兵場の端まで移動した戦車がその場で転回しこちらを向くと凄まじい音を立てながら全速で走り出した。地竜の群れでもこれほど五月蠅くは無いだろうという程の喧しさで戦車は辺境伯の目の前を通過して停止した。
大地を揺らして走り抜けた後にはくっきりとキャタピラの後が残り、周囲には油の臭いが漂った。

「ふーむ、中々凄まじいな。むっ、これは油の臭いか?どっかから漏れてるぞ」
「や、これはその、潤滑の為に定期的にキャタピラに油を噴射していまして・・・」
「と言うことは、こいつはいつも油まみれになっているって事か?」
「それは、その、そうなりますな。キャタピラが熱を持ちますのでそれを冷却する意味合いもありまして、これがないと強化の魔法も解けてしまいますので今のところ無くせません。今後の研究次第で低減する事は可能かも知れませんが」
「ふう・・・是非、そうしてくれ。火の魔法一発で火達磨になるようじゃとても戦場には連れて行けん」
「・・・」

 辺境伯は軽く左右に頭を振るとそのまま練兵場を後にした。現状の評価としては使い物にならない、と言った所だろう。
速度が遅いのも、ハイコストなのも今後改善できるであろうが、油まみれというのは許容できないことだった。

 後に残されたデトレフ達技術者は肩を叩き合って互いに慰めると、停車していた戦車に乗り込み工房へと撤収した。

 

 数日後、ガンダーラ商会のボーキサイト採掘場を見渡せる小高い丘にポツンと座り込んで採掘の様子を眺めるデトレフの姿があった。
朝からもう三時間はダンプカーなどが走り回る姿を見ていて、冬の気配を感じさせる秋の風が彼の体を冷やしても飽きることなくただそこに座っていた。

「デトレフさん、どうなさいましたか?朝からずっとここにいるそうですね」
「・・・や、これはウォルフ殿」
「ちょっと、ちゃんと寝てますか?凄い顔になってますよ」
「あー、実はあんまり・・・今日は休暇を取ったのでここでダンプカーが走るのを見ていました」
「休暇を取ったのなら家で寝ていた方が良さそうなんだけど・・・」
「・・・分からんのです。私には、分からないのです」
「わー!ちょっとデトレフさん、ここで寝ないでー!」

 ぱたりとその場に倒れ込んでしまったデトレフを採掘場の事務所に連れて行ってソファーに寝かせ、ウォルフはアルミナ精製槽や採掘機械達のメンテナンス等自分の用事を済ませた。
事務所に戻って、そのまま寝ていたデトレフを起こしてお茶を勧め話を聞く。最初は口が重かったデトレフもウォルフが促すうちにポツリポツリと語り出した。
話した内容は、キャタピラの開発を辺境伯に命ぜられていてそれがうまくいっていないと言うこと。言ってしまえばそれだけの話なのだが本人にとっては大変なことである。
 ツェルプストー専属のカウンセラーじゃないんだが、と思いながらもウォルフはデトレフの話を聞く。ちょっと自分の所為でとばっちりを食っているのかなと思う部分もあるし、デトレフには期待しているし。

「あーあれは我々も苦労しましたよ。砂を咬み込んで焼き付いたり車輪から外れたり、最初に作ったのは使い物にならなかったなあ」
「何と、ウォルフ殿も最初は失敗しましたか。そうですか・・・それでどんな対策を?」
「徹底的に関節部分をシーリングしましたね。潤滑油が出て行かないように、外から砂などが入ってこないように」
「シーリング、ですか」
「そうです、ま、要は隙間に摩擦の少ない詰め物をして隙間を無くしちゃおうって位の考えですね」

 紙とペンを取り出して履板を接合するピンの概略図を描き、デトレフに説明した。ニップルと呼ばれる潤滑油注入口からシーリングの仕組みまで、ただの鉄の棒と思っていた部品に施された精密な細工の数々にデトレフは驚いた。

「これは・・・こんなにまでしているのですか、あの一本一本に・・・」
「そうですね。シールから油が漏れてきたら寿命なんで分解して交換整備することになります」
「これなら、まだ出来るかも知れない・・・ウォルフ殿、ありがとうございます。今すぐ工房へ戻って試してみます」
「あ、はい、がんばって」

 ウォルフが描いたメモを大事そうに懐にしまうと挨拶する間もあらばこその勢いでデトレフは帰って行った。
ただ、この時の彼はオイルが漏れない程の精度という物がどの程度かということを知らなかった。
おかげでこの後も彼は苦労を重ねることになる。



 デトレフの作った戦車が一応の完成を見せたのはこの三ヶ月後、花咲く季節になってからだった。
潤滑油を通す仕組みと強度とのかねあいでキャタピラはどんどん大型化し、ついには全長十五メイルを超える程の大きさになった。
メインの動力として風石を用い、回転盤から直接動力を繋いで土石を補助動力とすることで細かな操作も可能となった。最高速度も時速五十リーグを達成し、シーリングも多少オイルが滲み出す程度まで精度を高めることが出来たので耐久性は格段に増した。

 しかし、この戦車の二号機が作られることはついに無かった。
それはついに解決しきれなかったコストの問題だったり、製造に掛かる期間が長すぎることとか、大きすぎて街道や橋などの負担が大きく運用が難しかったりした為である。

 しかしデトレフは満足だった。砲を乗せたその車体は流麗で美しく、小さな部品一つ一つまでマイスターメイジの心意気が感じられる仕上がりだ。
大きくなったおかげで射程の長い大型砲を複数積むことが出来たし、こういった兵器は一台あれば抑止力として働くことが出来る。この偉容を前にしたらそれだけで敵などは逃げ出すに違いない。
実際に前線の兵士達には鉄を張り巨大な砲を積んだこの厳つい車体がとても頼もしい物に感じられるらしく、よく労いの言葉をかけられた。
 彼らがこの戦車にかけられた開発費を知った時にどういう反応を取るのかなどということはデトレフは知らない。それだけあれば竜騎士をもっと配備できたとか、戦列艦が建造できたんじゃないかとかそんなことは問題ではないのだ。

 「デトレフの戦車」この言葉は今後この国でムダに贅沢な物のたとえになるのだが、それも今のデトレフには関係のないことだった。ただ、今はこの巨大な機械を作り上げた満足感に浸っていた。




番外7   シャルルの騎士



 その日ガリア国第二王子シャルル・ド・オルレアンはリュティスにある産業省の一室で報告書に目を通していた。大きな椅子に深く腰掛け、片手で報告書を持ちながらもう片方の手は肘掛けをこつこつと叩き、頻繁に足を組み替えて苛立たしさを隠そうともしていなかった。
報告書の署名はガリア西部の有力貴族であるラ・クルス伯爵家の嫡男で産業省副大臣、レアンドロ・フェルナンデス・デ・ラ・クルス子爵である。

 シャルルが数年前にレアンドロをチームリーダーとして始めた魔法技術と非魔法技術とを融合し、新たな産業を振興するという試みは概ね順調に進んでいた。
ガリアは好景気に沸いていて税収も伸びているし、それは間違いなくこのプロジェクトの成果である。プロジェクトは単なる産業振興にはとどまらず、より効率的な技術を開発し社会そのものを変革しつつあった。
 今回の報告書でも既存のフネの横に伸びるマストを強化し、帆の張り方を工夫して航行方法を改善する事によって風石の消費量を二割削減したことが記されている。
風石が値上がりしている昨今、順次フネの改装時にこの新方式のマストを採用していけば国全体で削減できる風石費は相当な額になる。今すぐ採用したい案だ。

 ではなぜシャルルがこんなに不機嫌なのかというと今朝ここに来る前に読んだもう一冊の報告書のせいである。
こちらのレポートは産業省とは関係のないオルレアン公爵家の諜報組織がガリア貴族間におけるシャルルと兄王子ジョゼフの評価を調査し、まとめた物である。
 率直に言ってシャルルの評価は一連のプロジェクトを始める前よりも落ちていた。三年前は五割程の貴族が何らかの形で次期王に相応しいのはシャルルであると表明していたものが、今回の調査では三割にまで落ちてしまっている。兄王子ジョゼフの支持率は変わらず一割程度なのでシャルル支持派だった者が様子見に変わっているものと思われる。

 改革をまずは王領やオルレアン公領、ラ・クルス伯爵領で導入している為に、他領と発展に差が出来ていることで取り残された貴族達から不満が出ていると言うことは確かにあった。
しかしここまで決定的にシャルルの評判が下がってしまったのは一年程前にリュティスの王城であるヴェルサルテイル宮殿の西門を改修した時に起こった騒動のせいだと言える。

 最初は何気ない提案から始めた事業だった。産業省のプロジェクトでは非魔法技術を利用はするが、あくまでも魔法をベースにしているのでメイジは絶対に必要である。産業振興に使えるメイジの数を確保しようと、魔法を必要としない職場からメイジを融通することが提案された。

 件の西門はちょうど門の前を川が流れているので大型の跳ね橋が併設されている。その跳ね橋の上げ下げは大型のゴーレムを使ってメイジ三人が一つの班を作り、四班計十二人で運用していた。
その跳ね橋を目の前の川に設置した水車を動力として開閉し、平民が操作できるように改修したのである。そしてメイジ十二人を産業省に引っ張ってきて雇用しようとしたのだが、このメイジ達が産業省に勤務することを拒否した。
 彼らは皆二十年以上その職場に勤務して宮廷の門を守っていることに誇りを持っていたし、今更違う仕事に就くことに不安を覚えたのだ。
何とか説得しようと試みたのだが、メイジを産業省に取られることに対して強い不快感を示していた宮廷が彼らを守る為に積極的にロビー活動を展開しだした事で事態は混迷の一途をたどる事になる。

 曰く、シャルルはメイジの職場を奪い平民で代替し、人件費を抑えようとしている。
 曰く、宮廷の次は貴族達に領地のメイジを出せと迫ってくるだろう。もちろん変わりに領地に送り込まれるのは平民である。
 曰く、王が通る宮廷の橋というものはメイジが操作すべきであり、平民が触って良い種類の物ではない。

 上の二つなどはまったくのデマだし、宮殿を警備している傭兵にはメイジではないものも多い訳で三つ目も言いがかりでしかない。しかしその他にもあること無いこと色々と喧伝されてしまい、貴族達が宮廷の意見になびくような事態に至っては結局このメイジ達を引き抜くのは諦めざるを得なかった。
それどころか改修した橋を業者などの物品搬入用門として隣に新しくメイジが開閉する豪華な橋を新設する羽目となった。
 
 プロジェクトチームが成果を上げる度に一々貴族達が反発するようになったのはその後位からである。改革はうまくいき成果も上がっているのに評価は下がっていく。急激な改革の反作用というべき事態にシャルルはどうしたらいい物かと頭を悩ませていた。
レアンドロは実務的なことには優れているがはっきり言ってそのような政治的な事柄には疎い。兄ジョゼフなら解決策を思いつくのではと思ったが、シャルルのプライドが兄に教えを請うことを拒んでいた。
 このところは成果が見込めそうでも貴族達に気を使って採用を見送る事柄が増えていて、プロジェクトは停滞気味であった。

「ふう・・・今回の改善で軍の大型艦なら一人か二人の風メイジを風石の運用から外すことが出来る、か。レアンドロは気楽で良いな」
「はっ。軍全体で採用したら相当数のメイジを確保できそうですが、当然反発も激しくなるでしょう」
「下手をしたら軍その物を敵に回すことになりそうだな。代わりの職をちゃんと見つけてからでないととても発表は出来ないな、これは」
「軍で風石の運用に回っているメイジというのは、戦闘には向かなかった者が多いので軍で新しい職務を見つけるのは難しいでしょう。かといって産業省に連れて来るとなると、仰る通り反発が激しくなりそうです」
「華やかで名誉があって安全な職務ならみんながやりたがるが、そうそうそんなのは無いからな・・・となると考えられるのは新造艦、軍備拡張か。しかし、せっかくゲルマニアと良い関係になりつつある時に大金使って軍備拡張する意味なんて無いしな。ふう」
「シャルル様、副大臣への指示はいかがなさいましょうか」
「・・・とりあえず保留。レアンドロには指示が有るまで発表しないように伝えてくれ」
「畏まりました。ではこちらも保留・・・と」
「・・・今日はもう疲れたな。僕はこれで帰るよ」
「はっ、王宮の方でしょうか」
「いや、屋敷だよ。シャルロットの顔を見ないと倒れてしまいそうだ」
「お疲れ様でした。ごゆっくりとお休み下さいませ」

 まだ日は大分高いが、シャルルは家へ帰ることにした。結局今日決済した事案はほとんどが保留となってしまって精神的に疲れがドッと来た。
 何とかしなくてはならないとは思うがどうしたらいいのかが分からない。シャルルはふわふわとした気分のままリュティスのオルレアン邸の門をくぐった。
古き因習に囚われた貴族社会。それを打破したくて始めた事業だが、結局因習に押さえ込まれているのは自分の方だ。王になっていれば多少の反対などに気を使うことなく強引に事を進めることが出来るだろうとは思う。
 貴族達の顔色を窺わなくてはならない自分の弱さがシャルルはたまらなくいやだった。



「良くできました、シャルロット様。では次は『エア・スピアー』を覚えましょう。シャルロット様、『エア・スピアー』とはどのような魔法ですか?」
「はい、『エア・ニードル』の発展系で空気を固めて作った槍を杖からのばし、敵を貫くというものです」
「良く勉強してますね、正解です。『エア・ニードル』が杖にまとわりつかせて近接した敵に対して使用する魔法であるのに対し、『エア・スピアー』は槍ですので少し離れた敵も攻撃することが可能となります。また、慣れれば投擲することも可能ですのでもっと離れた敵も攻撃範囲に入ります」
「先生、長さ位しか違いがないように思えるのですが、わざわざ別の呪文を覚える必要があるのでしょうか」
「もちろんです。大剣と短剣では全く使い方が違うように魔法も詠唱時間や強さなど、その使われ方に最も適したスペルになっているのです。面倒くさがらずにちゃんと覚えましょう」
「はーい」

 オルレアン邸の中庭では風メイジによる風魔法の授業が行われていた。ちょっと前までは風の授業もレアンドロの長女であるティティアナも一緒に授業を受けていたのだが、水のメイジである彼女は授業について来られなくなって今はシャルロット一人である。
邪魔をしてはならないとシャルルはその様子を物陰から覗いていたのだが、久々に見る娘の成長ぶりに驚いていた。詠唱時間も短いし、『エア・ニードル』は十分な硬度がありそうで今すぐ実戦に使っても問題無さそうだ。子供の成長は早い。思わず今日一日の疲れを忘れ、シャルルはそのまま一時間も授業を覗き見てしまった。



「それでは、今日の授業はここまでにしましょう。次の授業までによく練習しておいて下さい」
「はい、ありがとうございました」

 ようやく授業が終わった。シャルルは随分と長い時間覗き見ていたことに気がついて苦笑しながらシャルロット達の前に姿を現した。さすがに風のスクウェアである家庭教師はシャルルのことに気付いていたと見え、驚くことはなかった。

「やあ、シャルロット!僕のお姫様は随分と魔法が上達したみたいだね、驚いたよ」
「父さま、お帰りなさい!」

 ここの所帰りが遅く顔を合わせない日も多かった父が、思いがけず早く帰ってきたのでシャルロットは喜んでシャルルに駆け寄ると、その勢いのまま腰に抱きついた。

「ははは、さすがは将来有望な風メイジだ、疾風のようなスピードだな」
「父さま、今日はお仕事もういいの?」
「ああ、何だか無性にシャルロットに合いたくなってね、全部ほっぽり出して帰ってきたよ」
「ふふ、父さまサボりだ」
「ああ、サボりだよ。はははは」

 シャルルはそのままシャルロットを抱き上げ、二人で笑いながらくるくると回る。家庭教師はそんな二人に軽く黙礼すると、そのまま黙って下がっていった。

「それにしても、あの『エア・スピアー』は本当に初めて使ったのかい?とても良いイメージで魔法を使えていたから驚いたよ」
「父さまずっと見ていたの?『エア・スピアー』は初めてだったけど、『ウォーター・スピアー』はパティ先生にもう教えてもらっていたから、同じ様なイメージで使えたの」
「何と!風メイジだっていうのに、もう水の魔法もそんなに使えるのかい。これは『ジャベリン』もすぐに使えるようになりそうだなあ」
「『ジャベリン』って氷の槍でしょ?パティ先生にも出来るようになるって言われた」

 嬉しそうにはにかむ娘を見ていると胸に溜まった澱のような感情が洗い流されていくのを感じる。シャルルはシャルロットを腕に抱き上げたまま室内へと移動した。

「父さま、もう下ろして?何時までも子供じゃないんだから、ずっと抱っこしているのは変」
「もうちょっと位、いいだろう。いくつになろうが君は僕のお姫様だよ」
「もう・・・」

 家族でいつも過ごす居間まで来るとようやくシャルルはシャルロットを腕から下ろした。ソファーの上にシャルロットを座らせ、自分もすぐ隣に腰を下ろしてシャルロットに向き合った。

「それで、他にはどんな魔法が出来るようになったんだい?」
「風系統はラインスペルなら大体出来るようになったし、水魔法もいくつかラインスペルが出来るようになったけど、土と火はまだちょっとだけ」
「すばらしいね。それだともうすぐトライアングルにもなれそうだ。楽しみだよ」
「でも、ウォルフはもっと小さい時からもっと凄かったってパティ先生が言ってた。もっと頑張らなくちゃ」
「・・・ド・バラダ先生は君とウォルフを比べたりしているのかい?これはちょっと、見過ごせないかなあ」

 楽しい時間にいきなり冷水を浴びせられたような気がして、シャルルの声は随分と冷たいものになってしまった。王族の者に魔法を教えるのに王族以外の者と比べながら教えるなど許し難い不敬である。しかもそれがウォルフのような尋常でない子供が相手とあっては、許容できるような事ではない。
突然無表情になった父にシャルロットは慌てた。常にウォルフと自分とを比べているのは他ならないシャルロット自身なのだから。

「父さま、パティ先生を怒らないで。ウォルフと比べているのは私なの。パティ先生はそれに答えているだけ」
「何で君がそんなことを・・・いいかい?シャルロット、ウォルフの事なんて関係ないんだ、君は君で素晴らしいメイジにきっとなる」
「私は、誰よりも強いメイジになりたい。ウォルフよりも。だから先生にもウォルフのことを色々教えてもらっているの」
「何でそんな・・・君は僕のお姫様なんだから、そんなに強くならなくても良いんだよ?」
 
 誰よりも強くなりたいだなどと言い出したのが息子ならばシャルルも喜んだであろうが、シャルロットはまだ八歳になったばかりの少女である。その台詞には随分と違和感があった。
 しかしシャルロットは本気である。シャルルを真っ直ぐに見つめたまま自分の思いを告白した。

「私は誰よりも強くなって、騎士になる。父さまの、シャルル・ド・オルレアンの騎士に」
「え、騎士? シャルロットが騎士になるって言うのかい?」
「父さまが笑っていると私もうれしい。父さまの笑顔は世界一素敵なのに、最近は前みたいに笑ってはくれない。私は、父さまの笑顔を守りたいと思う」
「シャルロット・・・」
「どんな敵にも負けない。全ての敵を打ち倒し、父さまを守ってみせる・・・だから、だから父さまはいつも笑っていて?」

 小さな首をかしげてシャルルの事をまっすぐに見つめてくる。シャルロット・エレーヌ・ド・オルレアン八歳の誓いを受けた父は感極まってその小さな体を抱きしめた。

「ああ、シャルロット、君が僕の騎士になってくれるというのならば、僕はきっと百万の敵をも打ち破ることが出来るだろう! 僕の理想をこのハルケギニアに打ち立てるのにこんなに心強い味方はいないよ!」

 言葉にすることはなかったが、シャルルは腕の中の小さな騎士に誓う。絶対にガリアの王となり、素晴らしい国を作ってみせる事を。



 この日以降、シャルルの方針ががらりと変わり、プロジェクトはこれまでの自粛ムードから一転して攻めに転じるようになった。
次々に新たな改革を発表し、強引とも言える手段でそれを実行する。沸き上がる反発にはシャルルが率先して対応し、シャルルに好意的な貴族には誠心誠意プロジェクトの目指すものを説明して納得して貰い、そうではない貴族には手段を選ばず押さえて回った。
表には出せないようなことにも手を染めたが、シャルルがそれを後悔することはなかった。
 自らの目指す道を信じ、次々に断固たる態度で改革を実行していく姿に、人々は再び次代の王の姿を見るようになった。反発も当然強かったが一部では熱狂的にシャルルを支持する貴族達も現れ始め、この貴族達はオルレアニストと呼ばれ公然とシャルルの改革を支えるようになった。

 人々は言う。シャルルが王座へと続く階段を上り始めたのだ、と。



[33077] 第二章 20~23
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:28


2-20    地下からの風



 その日ウォルフはいつものようにボルクリンゲンの工場での雑務を終えた後、イェナー山の地下採掘現場へ来て排出される岩石を調べていた。
三十度の角度で地下に伸びるトンネルは既に長さが一リーグを超えており、深度五百メイルを突破してなおも地中の奥深くへ向かって掘り進めていた。
 地上では巨大な風石回転盤がゆっくりと回転し、そこから動力を得た横向きの滑車が回って地中から伸びているワイヤが動く。ワイヤに取り付けられたバケットリフトは次々に坑道から姿を現し、崖から離れた場所に岩石を排出してはまた地中へと姿を消している。
排出された岩石はそこで選別してサンプルを取り、残りはベルトコンベアで運ばれて少し離れたところにボタ山を築いていた。
 ウォルフの予想通り地下の地層も礫岩や砂岩、泥岩、石灰岩などの堆積岩が続いており、それが何処まで続くのかは今のところ全く分からなかった。

「もう掘り始めからずっと何の価値もない、代わり映えのない岩しか出てきませんよ。こんな石ハルケギニアの何処ででも採れますって。これ一体いつまで続けるつもりなんですか?」
「変わらないなあ・・・一応、変わるまでは掘ってみたいと思っているけど」

 出てきた岩を調べ、出てきた深さの記録と照合しているウォルフに商会の土メイジ・ジルベールが尋ねる。
一応手伝ってはくれているが、どうもうんざりとしている。彼はこんな地味な岩ではなくて結晶など派手な鉱物が好きなのだ。
ここの地層は褶曲などもしているので同じ層が出てきたりもする。ウォルフはそれを面白いと思うが、ジルベールにはいっそう退屈に思えてしまう。
 地層とは地殻変動の証拠だ。地層が変わる度にそこでは何かしらの出来事があったという事が分かる。とれた岩石の特徴を調べながら過去の事を類推するのは楽しいが、生粋のハルケギニア人には理解しにくい話らしい。

「ボーキサイトがあったって事はあの辺の平野は元熱帯雨林だったって事で、ここはどう見てもずっと海の底だろ? 火竜山脈の生成も関係していそうだけどあの平野とここでは何が違ったのかとか、色々と興味が出てこないか?」
「何を言っているのか分かりませんが、ここは昔から陸地であって、海の底になったことなどありません。火竜山脈も神が創った時から火竜山脈です」
「・・・まあいいや、結局もっと詳しく地層を調べなきゃ分からないんだし。取り敢えず温度が上がったりして掘れなくなるまで掘ろう」
「あ、そう言えば温度が徐々に上昇しているそうです。ウォルフ様は予測しておられたのですか?」
「ん。それでダメならここは諦めよう。オレはこれで帰るけど何か変わった物が、例えば岩塩とかセレナイトとか出たらまた呼んでくれ。今とあまり変わらないようなら・・・呼ばなくていいや」
「セレナイトって・・・ウォルフ様まだ風石諦めてないんですか」

 セレナイトとは教会の窓ガラスなどに使われているほど透明な石膏の結晶だ。しばしば風石と共に産出され、風の魔力を呼ぶ石と珍重されている。教会の窓に使われるのもその透明度ももちろん理由ではあるが、そういった伝承が関係していた。
風石がセレナイトそのものに凝縮して結晶している物もよくあり、その場合魔力の消費と共にセレナイトも崩壊する。ウォルフがガリアの露頭で発見したのもこれの石ころで風石から風の魔力が抜けた後の物だった。
 一応そんな根拠を元にウォルフはここを調べているわけだが、ハルケギニアの地下に風石の大鉱脈があるのではないかと言う説は何もウォルフ独自の考えというわけではない。アルビオン大陸がハルケギニアの一部であったという話は昔からあり、その原因はハルケギニアの地下に眠る風石の大鉱脈だとも言われている。
 もっとも一般にはおとぎ話と思われているが。

「諦めるわけ無いだろう、何の為に掘っていると思っているんだ」
「・・・いえ、失礼しました。セレナイト、出ると良いですね」

 生温いジルベールの目がむかつくが、地殻変動など知らないハルケギニア人にはウォルフの言うことが理解できなくても仕方がない。ジルベールの事は無視してグライダーに向かおうとしたが、その時突然坑道へ潜っているワイヤが激しい音を鳴らし、次いで辺り一帯に地鳴りが轟いた。
瞬く間に地面が激しく揺れだし、作業員達は激しく狼狽えた。アルビオンの大地がゆったりと揺れるのとは全く別のその振動は、ウォルフには久しぶりとなる地震であった。

「ウウウウォルフ様なな何ですかっこここれはっっ!」
「総員退避!崖から離れろ!」

 ウォルフ達が今いるのは高さ三百メイルの崖の下である。岩石を排出する作業をしていた平民の作業員達は皆ヘルメットを被ってはいるが落石が直撃したらひとたまりもない。
ウォルフは『フライ』で直ぐに宙に浮き地震の影響を受けないようにすることが出来たが、平民達は激しい揺れに身動きが取れずその場にしゃがみ込んでいた。
作業をしていた四名とメイジのくせに『フライ』が使えないジルベールを『レビテーション』で持ち上げ崖から離れた場所まで移動する。警備の傭兵までは手が回らなかったが彼らはさすがに身のこなしに長けていて自力で安全圏まで脱出していた。
 全員が脱出した直後、作業場には次々と岩が落下してきて辺りは凄まじい土煙に覆われた。
 そしてウォルフ達の目の前で崖は隆起を始め、坑道からは凄まじい勢いで風が吹き出し始めた。しばらくは風だけだったが、やがて大量の土煙が吹き出るようになった。

「あ、ハンス!」

 いつまでこれが続くのかと思った頃、作業員が声を上げた先には一抱えもある風石に抱きついて宙を舞う作業員の姿があった。
文字通り坑道から飛び出してきたその作業員は抱えている風石が励起しているらしくそのまま落ちることなく上昇していく。そのまま飛んで行ったら大変なのでウォルフが慌ててつかまえに飛んでいった。
 
「一体何があった?中の人間は無事か?」
「あ、いや何が何だか・・・」

 ハンスはあちこち擦り剥いて骨折もしているみたいだが、命に関わるような大きな怪我はないようだ。しかしあまりに突然の事態に現状を把握できていない。頭に被っていたジュラルミン製のヘルメットは所々大きくへこんでおり、彼が受けた衝撃の大きさを物語っていた。
初め中々離そうとしなかった風石はハンスの手を離れると勢いよく上空へと飛んでいった。

「突然掘削機が前に落っこちかけて、地上と繋がっているワイヤで何とか持ってるって状態になったんだけども、その後えらい揺れて、前の方から石ころとか色々飛んできて訳分からなくなって・・・」
「お前さんは風石抱えて坑道から飛び出てきたのさ。運が良かったな、ガリアまで飛んで行くとこだったぞ」
「ええええ!」

 どうやら風石の鉱脈に当たったらしい。話から推測するとそれが空洞になっていてその上部から穴を掘っていった掘削機が落ちかけたと言う所のようだ。構造的には前面の岩が無くなっても掘削機は落ちたりはしないはずだが、それが落ちたということは床が崩れるとかしたのだ。落下防止のワイヤがあって良かった。
揺れが収まったのを見て取ると二十メイル程も上昇した坑道の入口へ近寄り『伝声』の魔法で中にいる四人に声をかけた。風メイジが無事ならば返事があるはずだ。

「ウォルフだ、状況を教えてくれ。今からそっちに行くが、必要な物はあるか?」

 少しの間を開けて穴の中からやはり『伝声』で返事がきた。

「こちらは四名が無事です。怪我はしていますが緊急を要する者はいません。一名、ハンスが行方不明で今周囲を捜索しております」
「ハンスはこっちにいる。無事だ。必要な物はないんだな?」
「ああ、そっちまで行きましたか、良かった。はい、大丈夫です。掘削機が宙吊りになっていますので対策をお願いします」
「ああ、まかせろ。風石はそっちにあるのか?」
「・・・そうです!ウォルフ様、やりました!見たことも無い程の風石の大鉱脈ですよ!」

 地の底から聞こえてきた声に離れて聞いていた作業員達から歓声が上がる。
念のためもう一度確認をしてみたが、とにかくフネが何千隻も飛ばせる程の大鉱脈に間違いはないとの事だ。もちろんウォルフも嬉しくはあったのだが、そこまでの大鉱脈は想定していなかったので今後の成り行きに思いを巡らせた。
今すぐタニアに連絡を取りたいが、最近外回りに出る時は遠話の魔法具を工場に置いてきてしまっている。雑多な連絡が頻繁に入ってくるのを敬遠してのことだが、しょうがないのでジルベールに連絡を取らせることにした。

「ジルベール、お前はハンスを連れてオレのグライダーでボルクリンゲンまで戻ってデトレフに風石鉱脈発見を伝えろ。タニアにも遠話の魔法具で伝えさせるように。それが終わったらボーキサイト鉱山へ行ってショベルカーとブルドーザーを一台ずつこっちへ回してこの辺の落石を撤去するように手配してくれ」
「ブルドーザーは分かりましたけど、何で先にタニアさんなんですか?」
「風石の取引を停止するべきだし、ツェルプストーが情報操作をしようとするかも知れないじゃないか。我々はツェルプストーの為だけに働くわけにはいかない。ヤカのギルドやマチ姉だって株主なんだ」
「分かりました。でもここの埋蔵量がそんなに凄いのなら結局ツェルプストーが価格を握りそうですね」
「どうかな・・・お前、ここの岩石をハルケギニアの何処にでもあるって言ってたろ? …その通りだよ。つまり深くさえ掘ればハルケギニアの何処ででも風石が採れる可能性があるって事だ」

 あっと、ジルベールが声を上げる。彼はたまたまここで風石が見つかったのだと思っていて、何処ででも見つかるな可能性などは考えていなかった。
もしこの後風石鉱脈が次々に発見されたら風石の価格暴落は避けられそうもない。ツェルプストーがこの鉱脈を掘り尽くすまでその事を隠そうとすることは十分にあり得るかも知れない。

「ほほ本当に何処ででも見つかるんですか!?どうなっちゃうんですか?」
「知らんよ。有るのかも知れないし、無いかも知れない。ここで出るようならハルケギニアの何処でも出る可能性があることはタニアに伝えてある。それで商会がどう動くべきか判断するのはタニアの仕事だな。政治的なことも絡んできそうだし、オレ達技術者は予見しうることを伝えるだけだ。良いから早く行ってくれ」

 まだ何か話したそうにするジルベールを追い払う。考え過ぎかも知れないがツェルプストーが何か言ってくる前に外と連絡を取っておきたかった。



「凄いな、これは」
「凄いですね。これ今の風石の値段で全部売ったら商会大儲けですね」
「いや相場が下がるだろう。それ程の量だ」

 地下六百メイル程の掘削機がある地点まで潜り、風石の空洞内へ入ったウォルフの素直な感想である。風メイジが出迎え、彼と共に空洞内を飛んでみたがとにかく広い。
空洞の高さは三百メイル近くもあり、縦は二リーグ横方向は大規模に落盤しているところもあるがそれ以上。おそらくは地上で隆起している分の多くがここに空間としてあるのだろう。そしてこの大空洞の天井にびっしりと風石の結晶が張り付いており、採掘するだけで大変そうな量だった。
地底には所々天井から崩落した風石の結晶や岩石が散乱している。『ライト』の魔法で照らし出される洞窟内の光景は幻想的でウォルフは今度サラ達を連れてこようと思った。

 掘削機は取り敢えずワイヤから外し、風石を使って三百メイル下の地底まで下ろした。巻き取り機が落石で破壊された為坑道内にある二リーグ以上のワイヤを排出するのに時間が掛かりそうだったからである。

 莫大な量の風石があることは分かったし、いったん地上へと戻る。平民の作業員達を『レビテーション』で連れて行くのはウォルフが担当した。

 地上に出てみるとそこにはツェルプストーの竜騎士が二騎いた。来たのはウォルフとは顔なじみの騎士達だったが、先程の地震はツェルプストーの城でも結構揺れたらしく領内の様子を見に来たそうだ。その途中、励起状態が収まりかけてゆっくりと降下しつつあった風石の塊を見つけてこちらに来てみたという。

「やあ、ウォルフ殿おめでとうございます。風石の鉱脈を発見なさったそうですな。辺境伯も喜びましょう」
「ありがとうございます。近いうちに報告に参りますよ」
「いやしかし運が良い。掘り始めて一発でこんな大きな風石が採れる鉱脈に中るとは・・・ところで、先程の地震はこちらと関係が?」
「はい。鉱脈のまっただ中に掘削機が突入してしまったらしく、周囲の風石が一斉に励起したようです」
「あれほどの地震を、風石が?」
「・・・はい。ちなみにあの坑道は、先程までこちらと同じ高さにありました」

 ウォルフが崖の途中にぽっかりと口を開ける形になった坑道を指さす。その事実が意味することを理解した騎士は表情を引き締めてウォルフに向き直った。

「鉱脈を確認したいのですが、よろしいですか?」
「もちろん。ここはツェルプストーです」

 ウォルフが坑道の入口に案内し、ライトの魔法具を手渡すと、騎士達は一リーグ以上も直線で続く地底への穴に一瞬躊躇したもののすぐに『フライ』を唱えて地中へと降りていった。
 


 騎士達を見送ってウォルフ達は地上の片付けを始めたのだが、『レビテーション』で大きな岩石をどかす作業をしていると騎士達を待っている竜達が進んで手伝ってくれた。竜にしては随分と大人しい気質らしいが、可愛い奴らである。
宿舎や事務所、バケットリフトの動力である風石回転盤は幸い無事であったが、これらの施設と坑道との間に設置した選鉱施設とその間の滑車は手ひどく破壊されてしまった。
竜達とコミュニケーションを取りながら楽しく作業をしていると程なく騎士達が戻ってきた。騎士達は二人ともひどく興奮しており、挨拶もそこそこに竜に跨ると城へ飛んで帰っていった。

「はあ、大騒ぎになるかな、こりゃ」
「なるでしょうな」
「あんまり目立ちたくはないんだけどなあ」
「・・・その割にはやってることが派手すぎますな」

 今の価格で見積もればどんなに低く見積もっても数千万エキューを超える規模の発見である。相場価格は大幅に下がるだろうが、様々な思惑が交錯する事は間違い無い。
それを面倒と思うと同時にウォルフはやはりこの発見を喜んでいた。地下にこれだけの規模の風石が眠っているということでこの辺の大地もアルビオンのように大空に浮かぶ可能性があるということが明らかになった。
後は風石が地下に溜まる理由が解明されて、過去アルビオンに何があったのか明らかにできればハルケギニア七不思議の一つ、アルビオン誕生の謎が解けることになる。
 遠い空を眺めながらウォルフは水の精霊のように人間とコミュニケーションがとれる風の精霊とかがいれば良いんだが、などと夢想していた。




2-21    沸騰中



 風石の大鉱脈を掘り当てた翌日、崖から落盤してきた岩はあらかた片付け終わり、作業員達は持ってきた重機で宿舎の後方に大規模な選鉱場を造るべく整地に忙しく働いていた。
 そんな中ツェルプストー辺境伯本人が早くも鉱脈の視察に来た。ウォルフは壊れた搬器や滑車、支柱の修理などで忙しかったのだが、仕方なく直接案内をする。ちなみに午後にはアルビオンからタニアがこちらに来るという。



「おおう、あれが坑道の入口か。ポッカリと口を開けてまるでワシを誘っているようだ。中々色っぽいのう」
「・・・えと、はいそうです。地震であそこまで上がりました」
「ほほーう。風石の力だけでこの大岩盤があの高さまで持ち上がったのか。これは、すごいのお」
「そうですねえ、穴から風の力が逃げなかったらアルビオンみたいになっていたかも知れないです。そう考えるとラッキーでした」
「アルビオンだなどとそんな馬鹿な、と言いたいがこれを見るとそういう訳にもいかんな。さあ早速入ろうではないか。男子たる者穴が有れば入りたくなるものぞ」
「・・・はい、移動しましょう」

 視察に来た辺境伯はとにかく上機嫌だった。それも当たり前のことで、もともと辺境伯側としてはこのエリアにそれ程の収益を期待してはいなかった。ボーキサイトが出たと聞いた時もさほどの感慨もなくその報告を受けたものだ。
辺境伯領に現在風石が産出する鉱山は無い。重要な戦略物資である風石を得ることは長年の悲願ではあったが半ば諦めかけてもいた事なのである。そこにこの大鉱脈発見の報で、辺境伯の口が軽くなるのは止まりそうもなかった。

 そのまま辺境伯とウォルフ、それに鉱山担当のメイジや護衛数人で坑道の入口に移動した。
連れだって入口の少し平行に掘ってある場所に立って穴をのぞき込む。地下からは今も時折弱い風が吹いてきた。

「掘ったのお・・・千メイルと言ったか?」
「千二百弱になりますね。三十度の角度で掘ってますので深さで六百メイル程になります」
「よくぞこの短期間でそこまで掘るもんだ。ウォルフは穴掘り名人だな。マリー・ルイーゼには注意するように言っておこう」
「だから何でここでミス・ペルファルが出てくるんですか。いい加減そっちから離れて下さい」
「わはは、照れるな照れるな。この穴はジャイアントモールは使っとらんのか?」
「機械堀りです。話に聞くことはある幻獣ですけど、見たことはないですね。相当珍しいんじゃないんでしょうか」
「そういえばワシもそうそう目にすることはないのう。ガリアなどでは使い魔にしているメイジもいるとは聞くが。ところで・・・」

 ジャイアントモールを嫁にしたメイジの話を知っているか、とまた話が脱線しそうになったのを制してウォルフを先頭にして地下へと降りる。往復二リーグ以上の飛行になるが、もちろんそんな距離を飛ぶのが不安な者はここにはいない。左右にリフトが停止しているその中央を一行は割とゆっくりとした速度で降下していった。
やがて狭い坑道から抜け、目の前に大空間が広がると辺境伯も思わず声を上げた。

「これは・・・何と、ここまでとは・・・ウォルフよ、よくぞやってくれた」
「予想していたより遙かに大きい鉱脈でしたね」
「おお、あれが採掘機か!随分と立派だな、男だな、あいつは!」
「は、はは・・・」

 採掘機は直径二メイル程の細長い茶筒のような形状をしている。ハイテンションな辺境伯にウォルフは苦笑いをするしかない。

「いやいやこれは凄い。一体何処までこの鉱脈は続いているのかのう」
「相当広いと思いますね。ていうか、私の予想ではハルケギニアの半分以上の土地にこの鉱脈がある可能性があります」
「何だと・・・半分以上というのはどういう事だ?」

 莫大な量の風石を前に上機嫌だった辺境伯の表情が変わる。ちょっと今のウォルフの言葉は聞き逃せなかった。

「そのままの意味です。ハルケギニアの大地は深く堀りさえすれば風石が採れる可能性があります」
「馬鹿な!そんなことは信じられん」
「ですよねえ・・・オレもこんなの見るまではそこまでじゃないって思ってたんだけど」

 地殻変動によって細切れになってはいるが、ここの地層はハルケギニアで最も一般的な岩盤だ。イェナー山のように山になっている場所は無論だが、平地も多くの場所がこの地層の上に山の土や砂が堆積しているとウォルフは推測している。

「大量に採れて喜んでいたら実はありふれた物だったということか?そんな馬鹿な」
「まあ、価格がどうなろうと風石の価値に変わりはないですよ。ただ、領内の地下は調査をすることをお勧めします。風石を放って置いて領地が全て空に飛んでったなんてことになったら大変ですから」
「お前は・・・それがどの位の可能性であると思っているのだ?」
「分からないです。風石が結晶する条件が分かりませんし、鉱脈見たのもここが初めてですからここが特別なのかそうでないのか判断できません。更に言えば風石の蓄積が増えているのか止まっているのかも現状では分かりませんし」
「では、何故お前はこんな深くまで掘ったんだ。何の当てもなくここまでの労力をつぎ込んだ訳ではないだろう」
「セレナイトが採れる可能性があるとは思ってました。それに風石が付いているのではないかとも。他の地域に風石があるかどうかは分かりませんがセレナイトは出てくる可能性が高いと思っています」
「セレナイト・・・教会のガラスか。確かに風石と一緒に取れるとは言うが・・・」
「可能性があるのが分かっていたので確認したかったのが一番ではありますが、今後はここでの実績をふまえラ・クルスなどでも試験採掘を勧めるつもりです」

 前回フアンに頼んだ時は根拠を示すことが出来なかったので諦めたが、今回はこれほどの実績がある。ウォルフではなくヤカのギルドが採掘にあたれば許可が下りる可能性は大いにある。もしそれが適わずにラ・クルス自身での採掘になっても良いからそこに風石があるのかどうか、知りたかった。

「・・・待て、ちょっと待て。ここで風石が出たことは我が領の機密だ。他へ知らせることは許さん」
「お言葉ですが、契約にそのような条項はございませんでした。ヤカの商人ギルドは当商会の株主なのです。既にあちらには知らせてしまってますし、当商会が採掘機と人員を派遣してヤカギルドの出資で採掘会社を設立するという話が動き始めています」
「くっ、その契約は風石が出る前の物だろうが。こんなに出るとは思わんかったわい・・・他には何処に伝えた?」
「当商会の支部には通達を出して風石の購入にストップをかけています。特に機密事項扱いにはしてませんでしたので、そこから先はどうなっているか分かりかねます。後はマチルダ・オブ・サウスゴータに。彼女は今魔法学院で学ぶ学生ですが当商会の設立から関わる株主の一人ですので」
「むう、もう手遅れか・・・ここでの採掘はいつから始められるんだ?それと掘削機というのは何台ある?」
「採掘は、地上の施設を修理して一週間といった所でしょう。掘削機はそこにある一台きりです。これはこのあと縦坑を掘って地上に戻そうと思っていますので二十四時間稼働させたとしても二週間以上はここから出られません」
「むーう、貞淑な貴族の娘をやっと落としたと思ったら、実は男が一杯いたっていう気分だな。まあいい、そういう娘にもそういう娘なりの良さがあるものだ。肝心なのは如何に楽しめるか、だ」

 ウォルフの返事を受けて辺境伯はグルグルと歩き回りながら考え込んでしまった。この人は何処までが本気なのだろうか。
ツェルプストーとしては風石の相場が下がりすぎないように供給量を調整しながらなるべく高価格で長く売り続けたいと考えていたのだが、ウォルフの言うことがもし本当であったならば遠からず価格が暴落することは避けられそうもない。

「ウォルフ、風石の在庫を早急に捌きたいが、出入りの商人だけでは限界がある。ガンダーラ商会に協力を頼めるか?」
「出来る、とは思いますが、我々は商人で信用が第一ですから売る時はここで風石が出たことを伝えてからになりますよ?取引先に一方的に損をさせるわけにはいきませんので」
「それでかまわない。他所でも採れるかも知れない、というのは当然話すべき事の内には入っていないよな?」
「そうですね。それは私の予測に過ぎませんから」
「ならいいだろう。ツェルプストーで風石が出たと言って売りまくってくれ」
「分かりました。タニアに伝えておきます」

 ガンダーラ商会も貿易を生業としているので当然風石は大量に備蓄していたが、ツェルプストーほどの貴族となるとその桁が違ってくる。風石の採掘を待たず、価格が高い内に余剰を捌いてしまおうと考えるのはある意味当然と言えた。 

「うむ。帰ったら担当をそちらに行かせよう。あと、あの掘削機だが売って欲しい。値段はそちらの言い値を出そう」
「申し訳ありません、あれは売れないのです。今回のことを受けて鉱山開発専門の子会社を創ることになりまして、あれはそこの飯の種になりますので」
「ぬう、領内の他の場所で採掘するにはそこに依頼しろということか」
「はい。それか今回のように採掘権を与えていただくか、ということになります」
「むうう・・・いいだろう、採掘を頼むことにする」
 
 辺境伯にとって実に悔しいことだが、ゲルマニアには現在この深度まで掘削する技術は無い。ゴーレムでここまで掘るとしたらどれほどの時間が掛かるか分からないし、ジャイアントモールはあまり地下深くへは潜りたがらない習性があるという。
必然的にガンダーラ商会の技術に頼らざるを得ないわけだが、そうなると何時までも技術がない方が下風に立つことになる。その屈辱を自分達で技術を確立するまでの我慢と割り切って受け入れた。

 視察を終えた一行は地上に戻り、辺境伯は自分のグライダーに乗り込んだ。

「では詳しい話は担当と詰めてくれ。時間が勝負だ、他の場所で風石が出る前には今の在庫を全て売り払ってしまいたい」
「まあ、大丈夫じゃないですかね。今は風石不足ですから。いやしかし、風石不足は解消されたしこれからますます貿易は盛んになっていくだろうし、万々歳ですね」
「ふん、お前はツェルプストーに風石が出たことの意味を理解しておらん。今後ゲルマニアは多少騒がしくなるだろう」
「と、申しますと?」
「元々このツェルプストーがあるゲルマニア西部はゲルマニアで最も豊かで諸侯は独立自尊の気風が強い。それがゲルマニア帝室に従っているのは帝室が南部に保有する金山と風石鉱山の存在が大きい。この地方では昔からアルビオンを攻略すべしという征アルビオン論が根強いのだが、それの目的はあの大陸にある風石鉱山だ」
「おーう、ゲルマニアが割れると言うんですか」
「まあすぐに割れることはないだろうが、西部諸侯の発言力が強くなることは間違いない。もしかしたらトリステイン攻略の話がぶり返すかも知れん」
「それは・・・勘弁願いたいですね。いいじゃないですか、商売で儲ければ」
「そう考える者ばかりでは無いということだな」

 ツェルプストー辺境伯は一抹の不安をウォルフに残して去っていった。

 その辺境伯と入れ違えるようにガリアからタニアが到着したが、彼女の機嫌もこれ以上無い程に良好であった。
それもそのはずで新たに立ち上げた美容品事業はサラのおかげでうまくいっているし、本業である貿易業も今後は風石が安定供給されるので収益は改善するだろう。それに加えて深深度開発専門の鉱山会社という新たな収入源まで出来そうなのである。笑いが止まらないのも無理はなかった。

 この夜はタニアと今後の方針について話し合い大いに盛り上がった。これだけの風石があり、今後も発見できそうだとなると色々と出来そうなことが多い。
パッと思いついたのはアルビオン観光だ。アルビオンそのものの景観に加えて始祖縁の街シティオブサウスゴータ・美しい自然美の北部ハイランド地帯など見所は多く、渡航費用が安くなればもっと観光客を呼び込めそうな資源がこの国にはある。風石の量にものを言わせた大型の豪華客船を使ったハルケギニア一周クルーズやロマリア巡礼クルーズなども良いかもしれない。
観光だけではなく輸送費も大幅に安くなるので遠い地域、例えば辺境の森など、での鉱山開発なども行いやすくなる。これから開拓を始めるつもりのウォルフには間違いなく有利だし、夢は膨らむ一方だ。
 ウォルフは取り敢えずスターリングエンジンの開発中止を決定し、風石自動車の生産・販売と同様に風石を動力とする航空機の開発を決めた。

 風石の相場は暫く下降を続けたが、それまで需要に対応して増産していたアルビオンが供給を一時的に止めたので一定の水準からは下がらなくなった。

 採掘が始まったのは発見から十日が経った頃だ。急遽破壊された部品をアルビオンで製作し直し、索道を再始動するのにそれだけの時間が掛かった。
 今のところ採掘は人力で行っている。風石を使った浮遊装置を装備して天井に生えている風石を採取しているのだ。通常採取する時には風石を残さないように生えているセレナイトごと岩盤から剥がすのだが、ウォルフが再結晶するかどうかを知りたがった為にセレナイトは岩盤に残す方針で採取を行って採取跡は記録を取って経過観察をすることにしている。

 地下から縦坑を掘り、採掘機を地上に出すまではやはり二週間掛かった。
 ガリアでの試験採掘はヤカのギルドが主体となって深深度調査を申し込むとさすがにフアンも拒みきれなかったので、採掘機を整備してガリアへと送った。
 ツェルプストーからの依頼には新型の機体を作成して対応する。落下防止の為に全長を伸ばし、伸縮しながら掘り進むようにして直径も三メイルと大径化するつもりだ。

 新たに掘られた縦坑の上に櫓を組み、こちらからも人員の出入りと風石の搬出が出来るようになったのは発見から一ヶ月を超える頃だ。車輪のダンプカーとブルドーザーを分解して坑内に持ち込み、地底で組み立てて天井から剥離して地底面に落ちている風石を集めて搬出している。天井採掘用の機械が完成したら天井からどんどん地底に落としてそれを集めるつもりである。



 風石発見で沸き立つツェルプストー辺境伯領から遠く離れたロマリアの地で、一人の枢機卿がある報告書を読んでいた。神経質そうなその顔からは何の感情も読み取ることは出来ないが、空いた指はコツコツと机を苛立たしげに叩いていた。その目の前には報告書を提出した男が神妙そうな顔をして立ち、主人からの指示を待っていた。

「成る程。フォン・ツェルプストーではなくガンダーラ商会、それもこのウォルフ・ライエ・ド・モルガンという少年が異常ですか」
「は。我々も当初騙されましたが、ツェルプストーは隠れ蓑に過ぎません。ツェルプストーで開発したデトレフの戦車というものを詳しく調べましたが、ガンダーラ商会の物と比べるとあまりに稚拙な作りをしておりました」
「しかし、風石の鉱脈ですか。この少年は一人で大隆起を防ごうとでもしているのですかな」
「グライダー、キャタピラときてそんな深深度まで採掘できる技術を持っているというのですから驚きです」
「気に入りませんね。来るべき大隆起から民を救うのはロマリアであり、始祖の奇跡でなくてはならないはずです。この少年の信仰は?」
「ガンダーラ商会として教会に寄付はしていますが、この少年が足繁く教会に通うようなことはないようです」

 ふー、と大きく息を吐いて報告書を机の上に置く。目を閉じて親指と人差し指とで目頭を押さえつけながら尋ねた。

「それで、火メイジということですが、それは確かですか?」
「はい。見たこともない青い『ファイヤーボール』を見たこともない速度で撃ってきました。私の遍在は為す術無く打ち倒されましたし、雇った傭兵達もほとんど彼に敗れたようです」
「虚無ならば『ファイヤーボール』は使えないはず」

 ゆっくりと立ち上がり、窓際まで歩く。窓の外にはロマリアの街並みが広がっていた。

「虚無ではない。虚無では有り得ない。では、彼は何者なのだ?」

 その呟きに答える者はいなかった。




2-22    開拓のための調査のための準備の日々



 ボルクリンゲンのグライダー工場でウォルフはその日新型のモーターグライダー・略してモーグラに搭載した風石エンジン(こう呼ぶ事に決めた)の最終調整に没頭していた。
季節は既に春となり、この機体は二台目の試作機で風石エンジンもこれが三台目の試作となっている。回転盤の円周上に取り付けた風石を順に励起させて回転力を得るという風石エンジンの構造その物はとても簡素な物なのだが、風石の特性上小型化と高速回転することが難しい。歯車を使って増速しているのだが重量と大きさ・出力と機体とのバランスが最適な物になるようにするのが苦労した。
今回のエンジンには機体の姿勢に関わらず安定した出力を得られるように回転盤を傾斜させる機構が組み込まれている。錘を載せての試験滑空、エンジンを載せての試験飛行と予定を滞りなくこなし、この作業が終われば完成である。

「ふぃー、こっち終わりましたー」
「おっし、こっちも終わったぞ。完成だな」
「おめでとうございまーす」

 作業が終わると同時に周囲で見ていた工員達から歓声が上がる。彼女らも新しい機体を作るということは楽しいようだ。その列の中に入り少し離れて機体を眺める。今日はリナがアルビオンから手伝いに来ているのでリナも一緒だ。

 新しい機体は全長九メイル・全幅十八メイルで二列席が二つ計四つの座席があり、風石エンジンの大きさもあり胴体が随分と太くなっている為にこれまでの物より大きく見える。後部に荷室があり、後部座席を折り畳めば結構な量の荷物を積むことが出来るようになった。
折りたたみ式のタイヤを装備しているので離着陸が素早く行え、利便性が向上している。重量は千八百リーブルと重くなり、巡航速度は時速二百リーグ以上を予定している。
 この機体で東方へ調査に行こうと思っているのであまり目立たないように色はモスグリーンと控えめだ。
 工具などを片付けると早速試験飛行に出て、風石エンジンの確認をした。試験飛行の結果バランスなども問題がなかったのでリナを連れてアルビオンまでこれで帰ることにした。明日サウスゴータでパーティーがあるので今日中に帰らなくてはならないし、長距離の試験を兼ねての飛行だ。

「んーじゃあ、行きますか。忘れ物はないな?」
「ほいです。ボルクリンゲン名物の串焼きも買いましたし、燻製肉も腸詰めも大量に手に入れました。抜かりはないです」
「お前、ずっと一緒に作業してなかったか?・・・何時の間に」
「ウォルフ様が作ったって言う『ボルクリンゲンB級グルメマップ』が役に立ちましたよ。便利ですね、これ」
「お、おお、役に立てて良かったよ・・・じゃあ、いこか」

 リナを乗せて工場の中庭から出発する。風石浮上装置で浮き上がり、車輪を格納しつつ風石エンジンを始動させた。プロペラが回転速度を上げるに連れて機体も飛行速度を増してこれまでにない加速感を味あわせてくれた。

「ふにゅ、変な振動もないですし、グライダーに比べて離陸がスマートですね。さっき速度はどの位出ましたか?」
「二百五十位だな。まあボチボチだろう」
「そうすると、サウスゴータまで今の時期で三時間位ですか。これは速いですね」
「ホントは四百リーグ位の性能は出したかったんだけどなあ・・・」

 新しい機体はプロペラの力を借りてぐんぐんと高度を上げていく。上昇気流も使い、あっという間に高度を稼ぐとプロペラを回しながらの滑空に入る。暫くそのまま滑空してデータを取るとその後はプロペラを止めたり、回したり、ピッチも変化させて様々なデータを取りながら飛行した。

 ウォルフは当初ジュラルミン製の機体で一気に時速四百リーグ超えの飛行機を作ってしまおうと考えていた。風石エンジンの出力は搭載できる風石の量を増やす事によって容易に上げる事が出来るし、特に技術的な障壁は無さそうに思えて既に模型まで作っていた。
四百リーグを超える速度からの急降下や急旋回に耐えられる強度を持つ機体ならば竜などの脅威はかなり減ることになる。
 機械加工でジュラルミンの精密な部品を作り、メイジによる魔法溶接で組み立る予定だった。しかしこの工程に意外な盲点が有ったことにより計画は頓挫した。商会で雇っているメイジ達がジュラルミンや超ジュラルミン・超超ジュラルミンの魔法溶接が出来なかったのだ。
 ジュラルミンとはアルミにマグネシウムや銅等を添加した合金である。軽量でありながら鋼材に匹敵する機械的強度を有し、今後飛行機を開発する上で必要不可欠な素材であるが、アルミに他金属を混ぜただけでその強度が出るわけではない。
熱処理をして必要な強度になるように調質する事が必須なのだが、ハルケギニアのメイジはその事を理解してくれない。せっかくウォルフが調質しても魔法溶接する時には素の状態に戻してしまう。鋼の焼き入れなどを例にとって金属の組織について説明しても出来るようになったメイジはいなかった。
どうやらそこまで理解しているのはハルケギニアでは名工と呼ばれている一部のメイジだけらしい。
 ウォルフが商会で生産する機体の全てを組み立てるというのは現実的ではなく、結局魔法溶接を諦めてまたFRPで作ることになった。ちょっと心が折れていたので一から設計し直す気にはなれず、以前に設計した図面をベースにして一号機の基本設計をモーターグライダーへ転用するという方針で開発を進めた。
増加した速度と重量による機体への負担にはFRPハニカム材を応力のかかる部分に使用する事で対応し、強度を上げつつ最小の重量増加に止めている。

「まだジュラルミンの事を引きずっているんですか?いくら軽いとは言っても金属で作るよりもこっちの方がいいとは思いますけど」
「大型機を作る場合にそなえてジュラルミンで作る技術は必要なんだよ。仕方ない、東方の調査が終わったらリベット止めの研究をしよう」
「ほえ、また研究ですか。好きですねえ」
「ほっとけ。必要な技術を持ってないんだから研究するしかないだろう」
「この機体のおかげで随分とボルクリンゲンとの往復時間が節約できそうですから、頑張って研究でも何でもして下さい」
「グライダー飛ばしている時間はいい息抜きだったんだが・・・そうかこれからは減ってしまうのか・・・」
「楽しみの時間を自ら削って仕事の時間を増やす。企業人の鑑ですね」
「オレの仕事が増えれば、必然的にお前達の仕事も増えるって事を忘れるなよ?」
「にゅう、これ以上増えるのは勘弁して欲しいっす」

 不機嫌そうなことを口にしていても、からかうリナに答えるウォルフの声は明るい。今回アルビオンへ帰ればやるべき事がほとんど終わり、いよいよゲルマニアに東方の調査を申請できそうだ。
思えばここまでの道のりは長かった。調査に出る為にこなしてきた仕事の量を思うとウォルフ自身でさえ良くやった物だと感心する程だ。

 まずは調査の足となるこのモーグラの制作だ。
中々良好な性能で、プロペラを止めた時の滑空比は三十を下回り純グライダーに比べると随分と落ちるが、その分速度が上がっている。燃費も思った程悪くはないようで、これなら普通に飛行機としても使えそうだった。グライダーとしてもそこそこの性能なので搭載する風石が乏しくなっても安心だ。
 ただ、時速二百五十リーグの速度だと目視だけの飛行では安全性に不安が残る。視界が悪くなった時でも安全を確保できるようにしないと販売するのはちょっと難しそうだった。解決する案はあるので時間が出来たら対策してみようと思っている。

 アルミ精錬も材質の調整など随分と大変だったが今では順調に行われている。精錬時に出る廃棄物であるアルミドロスとマグネシウムの鉱石であるドロマイトからマグネシウムを精錬することにも成功し、ボルクリンゲンの工場ではグライダーに使うアルミ-マグネシウム合金の板材と棒材を生産している。これでグライダーの部品は全てウォルフが関わらなくても生産できるようになった。
マグネシウム精錬の副産物としてアルミナセメントという耐熱性のセメントが得られるようになり、これは炉の材料として飛ぶように売れた。ドロマイトはツェルプストーの石灰鉱山から購入しているが価格が安い為に当初あまりツェルプストーは協力的ではなかったのだが、アルミナセメントの販売以降は積極的に掘り出してくれるようになった。
ボーキサイトを掘り出した穴は順次アルミナを溶出した後の泥を中和して乾燥したもので埋め戻している。跡には塩に強い牧草の種をまいて草原に戻るようにしている。

 イェナー山での発見を受けて風石の試験採掘をヤカとボルクリンゲン近郊で行ったが、ヤカは千百メイル、ボルクリンゲンは九百メイル掘った所で風石の鉱脈とぶつかった。イェナー山の断層下のように空洞にはなっていなかったが、どちらも巨大な風石鉱脈だった。この発見で一時期に比べて随分と下がっていた風石相場は更に一段と下がった。
海から程近い河口の街ドルトレヒト近郊でも掘ってみたが、セレナイトは出たが風石は付いてなかった。この採掘現場では常に出水に悩まされ、セレナイトの層も水に浸かっていた。どうやらこのような状況では風石は析出しないらしい。この結果を受けて当面試験採掘は標高の高めの所を優先していくつもりだ。
これらの試験採掘を行った採掘会社「ダッド」は百パーセントがガリアの街ヤカの商人ギルド出資会社であるが、肝心の採掘機械はガンダーラ商会からのリースで社員もほとんどはガンダーラ商会からの出向だ。この会社は今後ハルケギニアで風石が採れそうな所を掘りまくるつもりである。
 イェナー山の風石鉱山の採掘も順調に行われており、商会に安定した収入と風石の供給をもたらしている。

 自動車の量産については車両その物は早い段階で形が出来ていたのだが、生産機械を作るのに時間が掛かっている。ネジなどの量産機械はもうできていて様々な種類のネジを量産しているが、部品ごとに生産機械を作っているので時間が掛かっている。やっと機械が完成したと思ったらまた新しい技術が開発されたり効率の良い工程が提案されたりして仕様変更するなど色々と大変なのだ。
自動車の仕様は風石発電機による発電で後輪のモーターを駆動するタイプで、床下に鉛蓄電池を搭載している。蓄電池用の鉛は軍需物資である為に必要量を確保するのには苦労したが、当面の需要に対する必要量は何とか確保している。タニアのコネや地下開発の約束などと引き替えに今後も調達先を増やしていく予定だ。
 なお、スターリングエンジン関連は全て開発をストップしてお蔵入りとなった。現在の風石の価格、今後の供給量を考えると風石以外のエネルギーは考えづらい。

 その生産を行う工場は結局アルビオンのチェスターに増設した。ヤカのギルドやツェルプストーからかなり熱心に誘致されたのだが、シャーシ用の加工機械がかなり大型になってしまって移動するのが大変だったのと機械関係はあまり分散したくないのとで諦めた。
ボルクリンゲンでは蓄電池の電極といくつかのプラスチック製部品を生産している。

 リナ達以外の機械工二期訓練生の少年達も機械工へと昇進した。一期生と比べると随分訓練期間が短いが、当時とは商会が保有する機械の数が違う為機械を操作する時間が圧倒的に多く取れるようになったおかげだ。機械工に昇進したと言っても技術的にはまだまだだが、今後は商品を作りながら技術を向上していくことになる。工員は今後も三期、四期と工員を増やしていく予定である。

 ウォルフには関係ないがサラの化粧品工場も順調なようで、どんどんと人を増やしている。おかげでウォルフの工場とも相まってチェスターが大分大きな街になってきている。工場を建てた頃は昼食を食べる店もない程のさびれた村だったのに今では数多くの店が軒を連ね、賑わいを見せている。

 順調にいっている事業を考えれば魔法溶接のことなどほんの小さな停滞に過ぎない。いよいよ近づいた出発を前にウォルフはリナと綿密に生産計画を打ち合わせた。



 予定通り三時間以内でチェスターの工場に到着し、早速出迎えたラウラ達飛行学校の教官に新型機の操縦法を教えた。何度か一緒に飛行して注意点を指摘してから工場へ移動し、今度はリナと一緒に自動車の生産準備に取り掛かった。
なんやかやとやることが溜まっていたので、ウォルフがサウスゴータの自宅へ帰り着いたのは夜もかなり更けてからだった。この日は早朝から一日中働いていてかなり疲れていたのだが、そんなウォルフを出迎えたのはチリチリと炎を纏う母・エルビラであった。

「ウォールフ!ようやく帰ってきましたね。明日はお城でパーティーだから早く帰ってきなさいと伝えていたでしょう」
「ただいま、母さん。だからちゃんと帰ってきたんだけど。パーティーは明日の夕方でしょ?」
「あなた、今年に入ってから一着も服を仕立ててないでしょう。一体何を着ていくつもりなのですか」
「去年ボルクリンゲンで仕立てたのを持ってきたけど・・・」
「その服は去年の物でしょう。成長期に何を言っているのですか。明日は朝から仕立屋を呼んでますから、予定を空けておいて下さいね」
「えっ、明日は朝からプレス機の試運転があるんだけど・・・ちょっと位丈が短くても気にしなければいいんじゃない?」
「空けておいて下さいね?」
「・・・イエスマム」

 予定はずっと詰まってはいるのだが、ウォルフといえども怒れる母には逆らえない。更にぐったりと疲れるとその日は早々に眠りについた。

 
 翌日、朝から服を仕立てて、合間に工場へ行き予定を少しだけでもこなして夕刻、ド・モルガン家そろってサウスゴータの城へ出かけた。工場へはこっそりと遍在を送って何とか予定通り作業をこなした。
貴族という物は何かに付けパーティーを開く物だが、今回はマチルダが一年を終了した祝いとのことだ。内向きの略式で行われる会であるが、マチルダの適齢期がそろそろ近づいているので次男三男を抱える貴族が比較的多く詰めかけていた。
 
「良く来てくれたね、クリフにウォルフ。嬉しいよ」
「マチルダ様久しぶり・・・」
「マチ姉久しぶり・・・何か随分と美人さんになったね」
「おや、ウォルフがそんなおべっかを言うなんてどういう風の吹き回しだい?」
「いやいやお世辞言ってるつもりは無いんだけど。なあ、兄さん」
「う、うん、綺麗だ・・・」
「ふふ、ありがと。まあ、サラのおかげさね」

 久しぶりに会うマチルダは一目で見る人を引きつける魅力的な美少女に成長していた。元々十分に美少女ではあったのだがその美しさには磨きがかかり、ボリュームのある美しい緑色の髪は艶やかに輝いていて、滑らかな肌は何処までも透き通っているかのように見える。穏やかな微笑みに出迎えられ、クリフォードは胸が高鳴るのを止めることが出来そうになかった。

「あー、サラの化粧品かあ。何か人気有るみたいだね」
「人気があるどころじゃないさ。学院でもしょっちゅう訊かれるよ、増産しないのかって」
「サラも随分と忙しく働いてるみたいだけど、当面は品薄だってさ」
「人気が出すぎるってのも大変なもんだ。じゃあ今日は楽しんでいっておくれよ。クリフもまた後で」
「ん、また後で」

 マチルダは忙しく次の客を迎える。どこぞの貴族の子弟達がちやほやとマチルダの回りを取り囲んだ。
数年前まではサウスゴータ家は太守といえどもあまり実権のない地位だったのであまり意識はされていなかったが、ガンダーラ商会の成功によってその影響力は飛躍的に上がっている。
 ガンダーラ商会がゲルマニアやガリアで次々と風石の鉱脈を掘り当てていることは、既にここアルビオンでも周知のことだ。風石価格の急速な低下によってここの所増産に次ぐ増産によって需要に対応していたアルビオン王家が供給を絞っていることもあって、これまでガンダーラ商会とは取引の無かった商人達も次々と取引を始めている。そのガンダーラ商会に強い影響力を持つと目されているサウスゴータ家に取り入ろうとする者が増えるのも無理無からぬ事であった。

「いやー、マチ姉凄い人気だね、兄さん」
「そうだな」
「学院でもパーティーでしょっちゅうダンスに誘われて大変だって言ってたけど、美人ってのも大変なんだね」
「そうだな」
「お、あの人イケメンだなあ。あれならマチ姉もくらっと・・・こないか」
「・・・お前、わざと言ってるだろう」

 ウォルフに言われるまでもなくクリフォードは気が気じゃない。美しく羽化を遂げたマチルダに対し、二歳も年下の自分はまだまだ少年の面影を色濃く残す。今マチルダを取り巻いているマチルダよりも年上の少年達の間に割って入る気にはなれなかった。

「ウォルフさー、俺にもっと魔法を教えろよ。何かこう、ガツンと来てビシッとしたやつ」
「何それ? 結構兄さんには教えてる気がするんだけど」
「うーん、まあそうなんだけど、俺にしか使えない凄いのとかないの?」
「兄さんにしか使えないなら兄さんが考えるべきだろ」
「それが出来ないから聞いてるんじゃないかー」

 クリフォードはずっと熱心に魔法の練習を続けているが、魔法学院をもう卒業しているであろう年上のライバル達を前に焦る気持ちを抑えられない。
ウォルフと二人で料理を平らげながらあれやこれやと魔法について話をしていると、ようやくマチルダが解放されて二人に合流してきた。

「はー、やれやれ、どうしてこう貴族ってのは話が長いのかね。あ、ウォルフあたしにもそれ取っておくれよ」
「ほい、お疲れ様。主賓なんだからしょうがないね」
「学院だとダンスの代わりに死合をしようって言うと大抵すぐに引いてくれるようになったんだけどね、こっちでそんなこと言うわけにもいかないし」
「だめだよマチ姉、嫁入り前なんだから、あんまり暴れ回っちゃ」
「あたしの評判なんてどうせもうとんでもないことになっちゃってるからね、せめて決闘の相手位にはなって欲しいもんだよ」
「お、俺ならいつでもマチルダ様の相手がつとまるのに。学院の生徒と言っても案外だらしないんだな」
「まったくだね。学院に来ている貴族なんてろくなのがいないよ。ちょっと『ブレイド』で斬った位でピーピー泣くんだから困ったもんさ」
「はは、マチ姉の『ブレイド』は怖いから」

 久しぶりに会ってもすぐに昔と同じように話すことが出来るのが幼なじみの気楽さだ。マチルダも先程までの張り付いたような微笑みを捨て去ってとても楽しそうだ。
そのまま三人で学院の話や商会のことなど近況を報告し合ったりしていたが、やがて話題はウォルフの東方開発団の話になった。

「じゃあ、来月にはその、東方調査へ行くつもりなんだ」
「おお、超楽しみだよ。いよいよオレもハルケギニアから一歩外へ出るんだから」
「その・・・ハルケギニアから出ると、エ、エルフとかいるかも知れないじゃないか。ウォルフは大丈夫なのかい?」
「んー、サハラ行く訳じゃないから会えるかは分からないけど、いつかは会ってみたいね」
「会ってみたいんだ・・・」
「そりゃあね。怖いって言われてるけど、どんな相手だか分からなければ何も始められないからね。マチ姉?」
「・・・ん? ああ、何でもないよ。まあ、気をつけて行っておいでよ」

 その後マチルダはどこか上の空になってしまい、何か考えているようだった。ウォルフはそんなマチルダのことは気にはなったが放っておいてクリフォードに話を振った。

「そうだ、兄さんも一緒に行かない? 幻獣とか一杯いる森らしいから魔法の鍛錬になるかもよ」
「・・・面白そうだな。誰も切り開くことの出来ない森で魔法の修行か」
「うん、マンティコアとか竜とか出てくるらしいけど、今の兄さんなら何とかなるんじゃない?」
「簡単には勝てないかも知れない。でも、だからこそ挑戦する意味がありそうだ」
「そうそう、奥義とかに目覚めちゃったりして」
「・・・行く。俺はゲルマニアの黒き森で俺だけの魔法を身につける!」

 今回はウォルフ個人の活動の為商会の人間を使うことが出来ない。万が一に備えて戦力になるメイジが欲しかったのでウォルフはクリフォードに白羽の矢を立てさせてもらった。
竜などに襲われた時のことを考えて魔法で反撃する為に新型機の後部キャノピーは飛行中でもスライドして開閉できるように作ってある。操縦する人間と反撃する人間とで最低一人人員が欲しかった所だった。ゲルマニアで傭兵を雇おうと思っているが、気心の知れた人間がいる方がやりやすい。
 グッと拳を握りしめるクリフォードを横目に、これで一人確保と心の中で呟いてウォルフは新しい料理を皿に取った。

 


 楽しく談笑するマチルダ達を広間の反対側の壁際で見ている一組の親子がいた。サウスゴータ市議会議員・コクウォルズ男爵親子である。
彼らとその取り巻き達はあまり周囲と交流を図ろうとはせずに自分達だけで固まって何やらぼそぼそと情報交換をしている。あまり楽しくはなさそうに料理をつつき、パーティーが散会になると真っ先に馬車に乗り込んで帰って行った。
 
「父上、太守様のご令嬢へ挨拶に行かなくても良かったのでしょうか」
「必要ない。今日のパーティーなど顔さえ出せばいいような種類の物だ。太守には挨拶したのだからな、娘のことなど考えんでも良い」
「・・・しかし、彼女は次期サウスゴータ太守になるのですから、親しくしておいた方がいいのでは」
「いいか良く聞けよ、ギルバート。太守などという地位は私が市長になったら真っ先に廃止すべき旧弊だ。政治という物は貴族の中で最も優れたる者が行うべきで、家柄だけのお人好しが名目上とはいえトップに立つなど何時までも続けることではない。お前が成人する頃にはあの娘そこらの貴族の娘の一人になっているわけだから、お前が結婚するような女ではないぞ」
「でも、彼女のやっていた商会の評判はとても良いみたいで、彼女が太守を継ぐなら安心だと出入りの業者が話しているのを聞きました」
「あんな商売など、それこそ何時までも続くものではない。あそこのせいで商売の規模を縮小せざるを得なかった所はごまんとある。今はうまくいっていても、一回ミスをしただけでアルビオン中から総スカンを食うだろう」
「そういうものなのですか」

 帰りの馬車の中で語って聞かせるコクウォルズ男爵に息子であるギルバートは一応素直に肯いて見せたが、彼はここ数年でサウスゴータにおいて知らぬ者はいない程になったガンダーラ商会がそんな状況になることなど想像できなかった。もしそんなことがあるのならばそれはよっぽどのことなのだろうと思う。

「いいか、お前が娶るのは貴族派の娘だ。モンローズ公爵やノルマンベイ侯爵あたりの娘を私は考えている。くれぐれも下らない娘に引っかかったりするなよ」
「そんな、公爵や侯爵って身分が違いすぎるのでは・・・それに貴族派とは?」
「貴族派とは旧態依然としたこの国を先進的な国家にしていこうとする有志の集まりだ。改革を進めるには身分などあまり意味はない。個々の実力こそが評価されるのだ」
「はあ・・・」

 そう言われてもギルバートには自分の父がそれ程能力のある人間にはとても思えなかった。魔法の方はライン止まりだし、家臣達の評価も総じて低い。
もちろんそんなことを直接父に向かって言えるはずもなく、曖昧に返事をするのが精一杯だった。

「政治にとって何が一番大事であるか、お前は分かるか?ギルバート。それを分からぬものが政治をやる事程国家にとって不幸なことはない」
「一番大事なことですか・・・優れた指導力で皆を導くことでしょうか」
「何をもって優れているのかと聞いているのだが・・・まあいい。政治とはな、利益の配分のことを言うのだ」
「利益の配分ですか」
「そうだ。力のない所から利益を奪い、力の強さに応じてその利益を配分する。多すぎても少なすぎても上手くない。ちょうど良い配分が出来る者こそ優れた政治家と呼ばれ、支持されるのだ」

 コクウォルズ男爵は今あるパイをどう分けるかということをひたすら考えるタイプの政治家であって、足りない時はよそから奪ってくればいいと考えていてパイを増やす知恵は無いようだった。

「それなのにあの小娘は「政治家たる者最大多数の最大幸福を追求するべきで、平民を含めた個人の幸福の和の総計を最大化する事が社会全体の幸福となる」等とぬかしおった。ああいう平民に媚びるような貴族にはもっとも政治をさせてはいけないのだ」
「でも・・・彼女の所は平民に喜ばれながら随分と利益を上げているようですが」
「その利益を何処に配分しているのかと言っておる! 平民の買うパンの価格が下がったからと言って何の意味があるというのだ。あいつらが色んな物を安く売るせいで追随して安売りせねばならん所の不満は日に日に高まっておるのだぞ」

 ギルバートの感覚では利益を誘導し領地の物価を下げて皆が暮らしやすくなるのならとても良い領主のような気がするのだが父の見解は随分と違っている。

「あいつらがポンポンフネを飛ばすものだから風石の相場はガンガン上がったんだぞ。今後も上がり続けると信じて多くの貴族が風石を買い占めていたというのに、今度はゲルマニアで風石鉱山を見つけただと?おかげで風石の相場は大暴落だ。抱え込んだ風石をどうすりゃ良いって言うんだ!」

 なおも男爵の怒りは収まらない。どうやら当人も風石を買い占めていた貴族の一人のようだ。
 逆恨みだよなあ、とギルバートは思う。自分がなりたいような理想の貴族像と父の語る貴族像が随分離れていて、思わず溜息が漏れた。彼の理想とする貴族は優れた魔法で領地を守り領民からは尊敬され国王の信任が厚い、といったものだ。少年らしい少年であるギルバートにとって父の口からそのような言葉が一つも出てこないことには落胆を感じざるを得ない事だった。

「おかげでここ数年王家の収入は凄かったともっぱらの噂ですね。なんでも複数の大型艦を建造するとか」
「その王家だって今後の風石収入は激減するんだがな・・・まあやつらのことはもういい。来月にはノルマンベイ侯爵の城でお嬢様の誕生パーティーが開かれる。お前の一つ下だそうだからそれまでに気の利いたことの一つでも言えるようになっておけよ」
「・・・はい」

 男爵はノルマンベイ侯爵令嬢の好みの花や本のこと、お気に入りの劇など細々と調べてきた事をギルバートに教えて聞かせたが、ギルバートはもう生返事を返すだけであった。




 ウォルフはこの日は辺境の森で予想される幻獣やそれに対抗する魔法の話などで大いに盛り上がり、楽しい気分で帰宅したのであるが、クリフォードを東方探検に同行させる許可を両親から得るのは結構大変だった。
父ニコラスは割と理解を示してくれたが、母エルビラは探検というものに否定的だった。
 結局許可が取れたのは父の「男の子が冒険に出たいと言ったのなら、親は黙って見送ることしかできないんだよ。どのみち出て行っちゃうんだから」という言葉が決め手となってクリフォードも参加を許された。
決してウォルフの「母さんもまだ若いんだし、暫く二人きりになるんだから弟か妹をもう一人位作っちゃえば?」という言葉がエルビラの心を動かしたわけではない。




2-23    納車して



 自動車の生産にはまだまだ課題は多かったが、二週間程最終的なチェックや工場の調整をして、ようやく販売を開始できる事になった。一号機はサウスゴータの商館で使用することにして、まずはロンディニウムの魔法学院までマチルダを送るのが最初の遠出になった。
一番安いモデルでも六千エキューと随分な高額になってしまったのでそうそう数が売れるとは思ってはいないが、既に新しもの好きの貴族からは何台か注文が入っている。
とにかく乗り心地がこれまでの馬車とは段違いなので、試乗した貴族達の評判はすこぶる良い。値段を除いての話だが。馬糞の臭いもしなければ五月蠅い蹄の音もなく、実に洗練された乗り物であると貴族の目には映ったようだ。

 自動車の発売後はウォルフは東方調査の準備に専念したが、発売から二週間経っても特に大きな問題は起きなかったので、いよいよ東方調査へと出発することにした。新型のモーグラで行くし、いざとなればさっさと帰ってくればいいのでその辺は割と気楽である。
同行するのは結局クリフォード一人である。クリフォードの友達とかで行ってみたそうにしていたのもいたのだが、親の許可が下りなかった。もう少し調査隊に人数が欲しいと思っているのでゲルマニアで傭兵を雇おうと考えている。
 クリフォードはこの一ヶ月、日課である魔法の訓練の他に、ラウラの元で新型機の操縦訓練にいそしんだ。一目見ただけで男の性質を見極められるようになっているラウラによれば、クリフォードは「才能がある」そうである。何の才能であるのかは言わなかったが、ウォルフはラウラに絶対にその才能を花開かせないように頼み込んでおいた。

「じゃあ、父さん、母さん、行ってきます。多分一ヶ月位で一度は帰ってくると思う」
「うむ。クリフ、男が行くと決めたんだ、絶対に弱音を吐くなよ。諦めなければ何かしら方法はあるもんだ。お前が何かをつかんで帰ってくることを信じてる。ウォルフは・・・まあいいや、お前はいつも通りだろう、気をつけて行ってこいよ」
「はい。行ってきます」
「父さんも頑張ってね。弟でも妹でもどっちでもいいから」
「ははは、何を言っているのかなお前は、ゲホンゲホン」
「ホホホ、クリフもウォルフも気をつけて下さいね。ゲルマニアの森には幻獣が多いと言うから」
「「はい」」

 そのまま空港まで見送りに来るというサラと三人でセグロッドに乗り城壁の外のある空港に向かう。空港の目立つ場所に止められた新型機には人だかりが出来ていて、皆ガンダーラ商会の新型機に興味津々といった所だった。

「じゃあ、ウォルフ様、これお弁当です。機内でクリフ様と食べて下さい」
「おお、ありがと。事業の方も忙しいとは思うけど、ちゃんと勉強するんだぞ」
「一杯宿題出してもらったから、頑張ります。さっさと終わらせちゃうので、ウォルフ様も早く帰ってきて下さいね?」
「はは、サラが宿題終わらせるのとオレが調査終わらせるのとどっちが早いか勝負か」
「はい。負けませんから。気をつけて行ってきて下さい」

 ウォルフが一月位いないことにはサラも慣れてきたものだが、今回は行き先に危険が待っているので少し心配そうである。ウォルフは一度軽くサラの頭を撫でて、モーグラに乗り込んだ。

「ウォルフー、この四角い板なんだ?ちょっと場所とってるんだがこの上に荷物を置いても良いのか?」
「あ、それは襲撃された時用の武器だから、すぐに取り出せるようにしておいて」
「これが武器・・・魔法具か?」
「そうだよ、火竜の群れとかに襲われた時用の装備。火竜って火の魔法だとあまり効かないじゃん。『マジックアロー』も魔法で防御できるし」
「おいおい火竜の群れなんているのかよ」
「いや、いるかどうかは分からないけど、対策しておくのは必要だろ?」

 先に乗り込んだクリフォードが荷物を収納しようとして先に積んであった魔法具について尋ねてきた。この魔法具はウォルフがこの調査の為に用意した武器の一つで、長距離音響装置である。
風石を使って高音圧の超音波で指向性の高い可聴音を発生させ、そのスピーカーを複数並べることによってさらに指向性を高めている非殺傷の兵器だ。常人ならば一瞬で行動不能にすることができるし、幻獣や亜人にも効果がある。
『拡声』の魔法をトリガーにしているので風魔法が使えるメイジにしか扱えないが、三半規管の発達した飛行性の幻獣には特に効果が高い。
 アルビオンの高地にいる竜で実験してみた所、火竜だと三百メイル以上離れた所にいても飛行不能になる程の威力があった。風竜にもそれなりに効果があり、一度この魔法具の攻撃を受けた風竜は二度と近づいては来なかった。
将来領地を持つことを考えた場合幻獣は確かに脅威なのだが殺してしまえばいいかというとそうとは言い切れない面がある。領地周辺の幻獣を殺せばその縄張りに後から新たな幻獣を呼び込んでしまう恐れがあり、そうすると延々と幻獣を殺し続ける羽目になりそうなのである。この魔法具で何度か追っ払えばその個体は人間のいる範囲に近づかないようになることが期待できるので、恒久的な幻獣避けになるのではないかと考えている。
 今回辺境の森で更に実地テストを行い、問題がないようならば開拓地の防備にも活躍するだろう。この他にも一応もっと強力な秘密兵器を作ったので荷室の奥に積んではあるが、こちらは使うつもりが無いので音響兵器だけで道中の安全を確保するつもりである。

「だだだ大丈夫なんだよな?これで火竜を追っ払えるんだよな?」
「多分大丈夫、後で使い方教えるから兄さんも覚えてね? さあ準備完了、出発するか。済みませーん! グライダーそっちに動くんでどいてくださーい!」
「そこは絶対大丈夫って言う所だろう・・・火竜の群れか・・・はあ」

 プロペラを始動させると人混みをどけて、そちらに機首を進める。クリフォードが黄昏れているが放っておいた。

「じゃあ、サラ! 行ってきます!」
「はーい! 行ってらっしゃーい!」 

 速度を増しながら浮上し、手を振るサラに別れを告げるとキャノピーを閉めて一気に速度を増す。サラは暫くその姿を追っていたが、あっという間に雲に隠れ、見えなくなった。

 遠ざかるアルビオン大陸を背にしながら滑空し、機体は一気に最高速度へと達する。

「サラも連れてってやれば良かったのに。行きたがってたぞ?」
「死ぬ可能性だってあるってのに、サラをそんな危険な目に遭わせるなんてとんでもない」
「ちょちょちょちょー! 死ぬって何だよ、そんなこと聞いてないぞ!」
「言ってないしね。はっはっは、多分大丈夫だよ、多分」
「うわあ・・・」

 何処までも続く晴天の下、ウォルフとクリフォードを乗せた機体は一路ゲルマニアへと向かった。



 ボルクリンゲンに到着したウォルフがまずしなくてはならないことは調査隊の結成と東方調査の許可証を受け取ることである。既に許可証はヴィンドボナから届いてるとのことなので、傭兵を雇うのは後回しにしてツェルプストーの城に受け取りに行くことにする。
丁度、ボルクリンゲンの商館から一台目の自動車を納車するとのことなので、ボルクリンゲンに着いた翌日に一緒に乗っていくことにした。帰りはセグロッドになるが、それ程大した距離ではないので気にはならない。クリフォードは別に付いていくような事でもないので朝から街へ出かけてしまっている。

 さて、自動車である。今回納車するのは、発売した中で最も高級な機種である。
発売した自動車の基本的なラインナップは高級機と廉価機の二機種で、そのうち高級機をストレッチして八人乗りのやや大型の車体にしたのがこのモデルだ。ドライブトレインは全ての機種で共通で、前部に風石発電機を積み、床下にバッテリーを積んで後輪をモーターで駆動して走行する。
 高級機は受注生産で内装や外装の塗装などを仕上げ、廉価機は仕様を統一して価格に訴求力を持たせている。ガーゴイルの中枢部を埋め込んで充電の管理をさせているが、高級機は更にクルーズコントロールやアンチロックブレーキシステムなどの運転支援機能を搭載している。おまけで上り坂では風石を自動で励起させることによりストレスのない登坂を実現していて、さらには回生ブレーキもこちらにだけ採用しており、その省エネ効果で航続距離が長くなっている。
二機種ともその外観は馬車職工ギルドに車体の制作を依頼している為随分とクラシカルでこちらの風景に合う物だ。座席などの内装も全て外注で貴族好みに仕上げ、特にこの高級機では念入りな装飾が施されている。
 一見しただけでは大きくて短いボンネットが目に付く位でこれまでの馬車とあまり変わりがないが、高剛性なラダーフレームと独立懸架のサスペンションは空気入りのタイヤと相まって別次元の乗り心地を提供している。



「毎度お買い上げ下さいましてありがとうございます。こちらがご注文の品になります」
「ほほーう、これが自動車というものか。では早速乗せてみろ。一体何が違ってて馬や竜がないだけでそんなに高いんだ?」
「あ、はい。じゃあちょっとその辺を走らせましょう」
「ちょっと待って、父さま、私も連れてって下さい」
「お、キュルケか構わんぞ、いっしょに行くか」

 ツェルプストーの城に着くと、挨拶する間もなく試走に出かけることになった。商会の販売員に運転を任せ、ウォルフは辺境伯と一緒に後部座席に乗り込もうとしたのだが、そこにウォルフの来訪を聞きつけたキュルケが駆けつけた。

「ウォルフ久しぶりね、これがずっと言ってた自動車なのね」
「おお、やっと完成したんだ。元気が出たみたいだな、良かったよ」
「心配かけたわね、もうバッチリよ」

久しぶりに会うキュルケと挨拶しながら、辺境伯とキュルケは一番後ろの席、ウォルフはその前列の後ろ向きの席に座った。

「ふむ、内装も馬車とそう変わりはないのう。本当に馬がいないと言うだけか?」
「まあ、見てて下さい」

 自動車が発車すると、それまで胡散臭げにしていた辺境伯もその静かさに驚いたようだった。走行音に耳を澄ませたり、窓から顔を出して車輪で走行しているのを確認したりする。自動車は城を出てボルクリンゲン方面へと街道を進み、キュルケは落ち着いて深々と椅子に腰掛け、流れる景色を楽しんでいる。

「成る程、この静かさと乗り心地は洗練されているな。ダンプカーとやらは時速五十リーグも出るとの事だったが、これもそのくらいは出せるのか?」
「五十リーグならすぐに出ますよ」
「だったらもっとスピード上げてよ。これじゃあ、つまらないわ」
「驚くなよ?じゃあ、フル加速して下さい」
「畏まりました」

 ウォルフが運転手に頼むと瞬く間に車体は加速し、時速八十リーグに達した。まだモーターには余力がある。

「む、むむ、これは・・・速いのう。地上でこの早さだと地竜並ではないか?」
「高性能な衝撃緩衝装置のおかげでこの速度でも安定して走行できます。コーナーでも」
「お、おい、ひっくり返るぞ!」「きゃあ!」

 丁度道がカーブになっていたが、車体は若干減速しただけでそのままカーブをクリアした。
車体に掛かる横方向の加速度で辺境伯とキュルケはもつれあって横に倒れたが、ウォルフは掴まっていたので何事もないように座ってたままだ。

「馬車のようにすぐにひっくり返ったりはしないように設計してあります。馬車の車輪とは比較にならない程グリップ力の強いタイヤを履いていますので操縦者の意志をそのままに路面に伝えることができます。急ブレーキお願いしまーす」
「了解しました」
「うおお!」「きゃあああ!」

ゴッゴッゴッと鈍い音を響かせて自動車は時速八十リーグから急停止した。辺境伯親娘は今度は前方に投げ出され、椅子から滑り落ちてしまった。

「このようにいざというときは急停止することができますので馬車よりもはるかに安全です。何か質問はございますか?」
「狙ってたな?」
「何のことでしょう?」

 椅子と椅子の間にはまり込んだ辺境伯が恨めしげな目を向けてくるが、ウォルフは何処吹く風である。最近辺境伯に対する遠慮が無くなってきた。

「ね、ね、今度は私に運転させて? 中々楽しそうじゃないの」
「この後、今運転している商会の係がお城で運転教習をやるから、それを受けた後にしてくれ。正しく運転しないと結構危険なものなんだよ」
「ちょっと位良いじゃない、相変わらずけちね」
「成る程、馬ならばある程度自分で危険を回避してくれるがこれは全て運転者が注意しなくてはならないのか。操作次第では崖から落ちたり衝突したりする危険があるな。動力は本当に風石だけなのか?デトレフによると風石だけだと細かいコントロールが難しいとのことだったが、かなりきめ細かく速度調整をしているな」
「風石だけですよ。仰る通り、そのままでは細やかな制御が難しいですので、一度エネルギーを変換して使用しています。効率は落ちますけどね」

 ウォルフは車から降りると車体側面下部の扉を開け、バッテリー室からバッテリーユニットを一つ取り出した。

「風石から小さな雷の力に変換して車輪を回していますが、これはその雷の力をいったん溜めるものです」
「雷の力だと? そんなことができるのか?」
「《練金》・・・この銅線でこことここを繋げると・・・」

 バッテリーユニットは一つ十二ボルトのバッテリーを縦に五つ繋げたものだ。その内一つの電極を外し、陽極と陰極を『練金』で作った銅線で一瞬だけ繋げる。
その瞬間、銅線からバチッと音を立てて火花が散った。

「何と・・・」
「この雷の力、我々は電気と呼んでいますが、これを利用して走行しています」
「ちょ、ちょっともう一度やってみてくれ」
「ええ、いいですよ」

 辺境伯とキュルケが『ディテクトマジック』をかける中、同じように火花を散らす。魔法とは全く関係のない火花に二人は驚くがその原理には二人とも心当たりはなかった。

「これは、雷の精霊をここに閉じこめたと言うことなの?」
「えーと、雷の精霊というのは存在しないんだ。これは純然たる物理現象で、水が流れているように小さな雷が流れていると思ってくれ」
「確かに『ライトニング・クラウド』は風魔法だが、雷が出るな。そうか、雷利用の乗り物か」
「はい。その雷の管理にガーゴイルの運用技術を使用しておりまして、このガーゴイルを作れるメイジは少ないので価格が高くなる原因になっています」
「ふーむ、これは魔法具でもある訳か。それならば高いのも分かるな」

 理解はしないまでも納得してくれたようなので、バッテリーを元に戻し再び車に乗り込んで城へと戻った。




「こちらがゲルマニア政府発行の調査許可証で、こちらが辺境の貴族に協力を依頼する書類になっている。あの森はまだゲルマニアではないのだから本来は誰が調べようと勝手なものなのだが、この許可証が有れば蛮人と接触した時にゲルマニアの名前を出しても構わんというものだ。調査協力依頼書はワシの名義で、もう根回しは済んでいるからこれを見せれば協力を得られる手筈になっている。全ての貴族とは言わんが、既に森の開拓を停止している所をいくつか選んでおいた」
「ありがとうございます。調査協力まで取り付けていただいて心強いです」
「うむ、お前には大分借りがあるからな。まあもっとも、この程度で返せたとは思っていないが」

 城に帰って早速調査許可証を受け取った。商会の販売員は家臣の人達に運転講習をする為に再び試乗に出かけたので、キュルケもそちらに行くのかと思ったのだが、何故だかこちらに来ていて、辺境伯の横で神妙な顔をしている。

「で、だ。恩があると言っておいてすぐにこんな事を言うのは何なのだが、お前に願いがある」
「えーと、何でしょう。すぐに出かけてしまうのであまり時間は取れませんが」
「あー、その出かける事についてだ。この、キュルケを一緒に連れて行って欲しい」
「えっ・・・」

 ウォルフとしては今回の調査行で危険な目にも遭うことを覚悟している。キュルケはお転婆とはいえお嬢様だ。彼女の安全を確保しながらの調査となるとその大変さは相当なものだろうし、調査速度の大幅な低下が予想される。行程には野宿も当然あるだろうし、トイレや風呂の問題も無視できなくなるだろう。
キュルケが遊び気分で行きたいと行っているのならばご遠慮願いたいというのがウォルフの本音だ。

「辺境伯もご存知の通り、今回の行き先はどんな危険が待ってるか分からない森です。幻獣や亜人も多いと聞きますので、私としてはキュルケの安全を保証できません。その申し出はお受けかねます」
「危険だから頼んでおるのだ。キュルケの安全は保証しなくて良い。こちらで腕の立つ護衛をつけるつもりだ。もちろん、見つけた土地にこちらが手を出すつもりも無い」
「いや、しかし」

 ウォルフがなおも渋ると、キュルケが歩を進めウォルフの正面に歩み出た。

「父さま、この先は私が自分で言います」
「む、大丈夫か? キュルケ」
「はい。・・・ウォルフ、これはね、私の我が儘なのよ。私も行ってみたいというのが一番だわ」
「あー、我が儘って分かっているんだ…」
「でも、それだけじゃないの。私ね、大分回復してきたのよ。魔法も前みたいに使えるようになったし、目の前で火を見てもパニックにならないようになったわ。でもね、まだやっぱり戦闘は怖いのよ」
「うん、無理も無い事だよ。焦る必要はないと思うんだよね」
「別に焦っている訳じゃないのよ。ただ、私はツェルプストーだし、戦えなくちゃ話にならないわ。でも、家臣達の前でこれ以上無様を晒すわけにはいかない。何より、たかが辺境の森に行く事を怖がっている自分を許せないの」
「いや、無様とか考えることはないよ」
「うん、でもやっぱり私が今のままだといやなの。キュルケ・フレデリカは闘うことによってしか取り戻せないと思っているのよ」
「うーん・・・」

 言いたいことは分かる。確かに以前のキュルケなら、ウォルフが辺境の森へ行くのなら我が儘言いまくって付いて来ようとしたかも知れない。好奇心だけでアルビオンまで飛んできてしまうようなお転婆なのだ。
ツェルプストー領内でキュルケの復帰戦を行った場合、キュルケに掛かるプレッシャーが並では無い事も容易に分かる。多くの家臣達が見守る中で領主の娘としての力を示し、強敵を打ち倒さなくてはならないのに失敗は決して許されないのだ。
 しかし、今現在まともに戦えない人間が辺境の森に行くというのは無謀としか言いようがない。家臣達の目のない所で復帰戦を行って、自信を取り戻してから披露したいのだろうが、そもそも復帰戦の難度自体はえらく上がることになる。
 無理に以前と同じような行動をとって戦闘が有るであろう所へ飛び込んでいくというのはどうなのだろうか。

「辺境伯、分かっているんですか?下手をしたら命を落としてしまうかも知れないんですよ?そうでなくても二度と闘うことができなくなるかも知れない」
「分かっている。もしそうなったらそれがキュルケの運命だったと思うことにする」
「ふう・・・分かりました。護衛につけるメイジの中に土と水のメイジを入れて下さい。それで手を打ちましょう」
「うむ、感謝する。メイジについてもまかせてくれ」
「キュルケも、オレは特別扱いはしないのでそのつもりで来てくれよ」
「わかったわ、ありがとう、ウォルフ」

 決心が変わらないようなので、仕方なくキュルケの同行を許可した。まあ、ウォルフにもメリットがないといやなので、該当地域の鉱物調査の為土メイジを、水源調査の為に水メイジの同行を希望しておいた。
その後打ち合わせを済ませ、キュルケを含めて四、五人のメイジがツェルプストーから参加することになった。元々モーターグライダー二機六人程度で調査隊を作ろうと思っていたのでもう傭兵は雇わなくても良さそうだった。
 すぐにでも出かけたい所だが、二機目のモーターグライダーの調整がまだ済んでいないので、出発は三日後に決めた。



[33077] 第二章 24~27
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:29


2-24    出発!



 出発の日の朝、調査隊の一行は城の中庭で初めて顔を合わせた。時刻はまだ夜明け前、ここから辺境の森へは千五百リーグ以上有るのでこの時間になった。

「あーら、中々いい男じゃなーい。初めまして、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーよ。素敵な殿方、あなた情熱はご存知?」
「え、あう、クリフォード・マイケル・ライエ・ド・モルガンです、ウォルフの兄になります、よろしく」
「兄さんもう十四だろう、こんな小娘相手にテンパッてんじゃねーって」
「て、テンパッてなんていねーよ!」
「ウォルフ、小娘ってどういう事かしら? 詳しく教えて欲しいわ。私が小娘ならあなたなんて小僧じゃない。小僧」
「そんなことでむくれるのが小娘っぽいわね。マリー・ルイーゼ・フォン・ペルファルよ、キュルケの従姉妹になるわ、よろしく」
「よ、よろしく」

 揃ったメンバーは全部で七人。ツェルプストーからはキュルケの他にキュルケの従姉妹で火メイジのマリー・ルイーゼ、水メイジのリア、土メイジのデトレフにキュルケ隊で指揮していた風メイジのバルバストルの五人だ。
これから一ヶ月程度一緒に過ごすメンバーになるのだが、美女と美少女が三人も揃っていたのでクリフォードは上気気味である。
 
 ウォルフは戦車を作ったりしていてずっと忙しいと聞いていたデトレフがいたので驚いてこっそりバルバストルに聞いてみたのだが、今は閑職に回されていて暇をしているそうだ。
ちょっと閑職ってどうなのかとは思ったが、最後にあった時よりも少しふっくらとしていて血色も良かったので、あまり気にしないことにした。

「これがその新型機なのね・・・うーん、前のよりもちょっとポッテリしててあんまり格好良くないわねえ。先っぽに変な羽根が付いてるし、キャビンもちょっと」
「乗員を四人に増やして風石エンジン積んだからしょうがないんだよ。これでも前のより大分速く飛べるんだぞ」
「多少速く飛べたってねえ、色も地味だし・・・ちょっと羽根の形も野暮ったいんじゃない?」

 どうも新型機のルックスは女性陣に不評らしい。二人乗りのスポーツカーと四人乗りのセダンを比べるような話でウォルフにはどうしようもない。
キュルケとウォルフが話をしている内にそれぞれの挨拶も終わり、モーグラにキュルケ達の荷物を積み込もうとしたのだが、とんでもない量が運び出されてきた。

「何だよ、そのでっかい鞄は! そんなの積んでいけるわけ無いだろ」
「あらん、無理かしら。グライダーが大きくなったって聞いたんでどうかなと思ったのだけど」
「無理無理無理、荷物は最小限にしてくれって言っただろう」
「ほらキュルケ言ったじゃない、無理だって」
「いいのよ、マリー。こういうのはうまくいったら儲けものなんだから」
「いいからさっさと必要なものだけ積んでくれ。とっとと出発するぞ」
「はーい」

 ウォルフにはこれから冒険に行こうって言うのにパーティー用のドレスを何着も持って行こうとする貴族の感覚は分からなかった。ただ、多少しおらしくなったと言ってもキュルケはキュルケなんだということはよく分かった。
グライダーが大分でかくなったと言ってもキャンプ道具や予備の風石も積んであり、二機で七人分の荷物を積んだらもう荷室の余裕は少ない。キュルケが必要なものを選ぶのに時間が掛かり、結局出発までに一時間近く費やしてしまった。



「オッケー、待たせたわね」
「じゃあ、出発しよう。遙か東、辺境の森を目指して」
「「イエーイ!しゅっぱーつ!」」

 ウォルフの操縦する一号機で女子達が楽しげに歓声をあげる。彼女らも初めての冒険旅行で随分とテンションが上がっていた。

「じゃあ、ウォルフも出発したし、こちらも後を追います・・・」
「そうですな、よろしくお願いします」
「窓を開けても良いですか?風のメイジとしては閉めきられているというのは、あまり好きではないのですが」
「あー、空気抵抗になりますので我慢して下さい。一応換気する機能が付いていますから」

 一方のクリフォードが操縦する二号機は随分とテンションが低かった。当初発表された車割り、ならぬモーグラ割りでは女子達はこちらに乗ることになっていたのだが、女子の希望で全く反対になってしまった。
リアが、聖人アントニオの話で本を書こうとしているとのことで、道中で詳しい話をウォルフに聞きたいからとキュルケ達と一緒に一号機に乗り込んできた。
 おかげでクリフォードは初対面の成人男性二人との長距離飛行という思春期の少年にとっては苦行とも言える目に遭うことになった。最初の発表でなまじ浮かれていたせいで、一段とその落差は大きく感じられるものであった。
 
 そのまま二機は順調に高度を上げ、高々度で高速巡航に入る。時速二百五十リーグで巡航するモーグラはハルケギニア人にとって驚きとしかいいようのない乗り物だった。
キュルケ達ツェルプストー組に新型機の操縦を教えつつ、無駄話をしつつ、順調に東へと進んだ。



「はっやいわねー、この新型機っていうの。もうあの街ホールシュタインでしょ、前のより倍以上速いんじゃないの?」
「そうなるね。その分風石をぶんぶん消費しているけど」
「風石なんて今凄く安いじゃない。何でこれまだ売ってないのよ」
「速い分荒天時の安全性に問題があるんだよ。対策ができたら発売するよ」
「いやいや、これは革命的な速度ですぞ、風竜の倍以上の巡航速度など前代未聞です」

 出発してから二時間以上経過したので一行は眺めの良い丘の上に着陸し、休憩を取った。実際に飛んで見せてその性能を知らしめた為に新型機の地位は随分と向上したようだ。
この辺りは穀物地帯らしく連なる丘には畑が続き、その所々に森が点在して遠くには街も見えている。のどかで、一般的なゲルマニアの風景だった。
 クリフォードはお茶を用意しているウォルフ達から少し離れた所でバルバストルと杖を交えている。バルバストルが風のスクウェアと知って早速弟子入りしたみたいだ。
デトレフが椅子やテーブルを作り、持ってきたチタン製のヤカンにリアが水を入れ、マリー・ルイーゼがお湯を沸かしてお茶を入れる。全系統のメイジが揃っているとさすがに色々と便利だ。ちょっとした休憩でもたちまち快適な空間を作ることが出来る。
 ウォルフは地図を広げて、現在位置の確認をする。もう全行程の三分の一を越えていて、どうやら辺境には昼過ぎには着けそうだった。

「ところで、ウォルフ殿は今回の調査についてどのような成算をお持ちなのか、お聞かせ願えますか」
「ああ、それは私も聞きたいことでした。ガンダーラ商会の事業は随分と好調のようですが、敢えてこの時期に東方開拓団などリスクの高いものに手を出すのですから、ちょっと興味がありますね」

 暫く経ってクリフォードの相手を切り上げてきたバルバストルがお茶をすすりながら尋ねた。今は彼に変わってキュルケがクリフォードの相手をしていて、マリー・ルイーゼとリアもそちらに見学に行っていた。

「成算なんて全く有りませんよ。それが立てられるのか調べに行くのが今回の調査ですから」
「ふーむ、そんなものですか。では具体的には今後の行程はどのようなものになりますか」
「えーと、まずは辺境の森の最南端、ハルケギニアの国家に属していない人達が住む荒野と接しているノイゾール伯爵領に向かいます」
「ふむ、蛮人との交易で、そこそこ領地経営がうまくいっている所ですな」
「そこから森の調査をしながら北上して、最北のレヴァル男爵領まで行きます」

 ウォルフは地図を示しながら説明する。ここまでの行程は過去に開拓団が入った所もしくはその隣接地の調査だ。

「で、そこまで行ったらそこからは東進します。ツェルプストー辺境泊が事前にレヴァル男爵領で風石が入手できるように手配してくれていますので、そこで必要物資を補給して森に何か変化が有るまで真っ直ぐに東に向かってみようと考えています」
「ずっと、森が続いていたらどうするんですか?」
「日数的に厳しくなったらその時点で引き返そうと思っています。反対に余裕があったらそこから南下してサハラの際位まで行ってみたいですね。そしてそこから辺境の森を一またぎして帰ってくる予定です」
「成る程、この新型機がなければ荒唐無稽に思える程スケールの大きな話ですが、これの速度を考えれば不可能では無さそうですね」
「まあ、今の段階での大雑把な計画ですけどね。状況が変われば臨機応変に対応していくということで。今はまだどんな状況になっているのかも全く知らないわけですし」

 どうも詳しく話をしてみると、デトレフもバルバストルも辺境の森の数カ所で単に亜人や幻獣などの状況を調べて帰ってくるものだと思っていたらしかった。
ウォルフは元々飛行機を使って他人が行かないような所まで行ってみようと思っていたので、認識に齟齬が生じていたようだ。この計画で最大の脅威はサハラにいるというエルフだが、サハラに入らず上空から見る位なら危険は低いものと思っている。

「一箇所を綿密に調べて開拓可能かどうかを調べるのではなくて、広範囲にわたって調査して開拓出来そうな所を探しに行くものだと思って下さい」
「成る程、それだと戦闘はそう多くはならないですかな」
「はい。突発的なものくらいになるでしょう」

 バルバストルはキュルケの護衛らしく戦闘の見込みをが気になるようで、戦闘よりは移動が多そうだと知って少し安心しているようだった。
と、そこに当のキュルケが杖合わせから帰ってきて、乱暴に椅子に座り込んだ。

「あーんもー、悔しいったら! 負けちゃったわよー」
「中々見事な負けっぷりだったわよ、キュルケ。あなたがあんな風にひっくり返って負ける所を久しぶりに見たわ」
「うっさいわよ、マリー。今度はあなたがやってみなさいよ。クリフったら中々強いわよ」
「かまわなくってよ? あなたの敵を取ってあげるわ」
「おーい、俺にも少しは休ませてくれよ」

 キュルケの後ろからマリー・ルイーゼとクリフォードも帰ってくる。少しの時間で随分とうち解けたようだ。

「そろそろ出発するから続きは次の休憩にしてくれ。もう一度休憩を取れば着くと思うから」
「はーい」

 再びモーグラに乗り込んで東を目指す。予定通り一度の休憩を挟んで昼過ぎにはノイゾール伯爵領に到着する事が出来た。ちなみにクリフォードはマリー・ルイーゼにも勝っていた。
初めて来た辺境の地は随分と赤茶けた大地で、特に南に行く程荒涼としていてその荒れ地が東へ延々と続いているのが確認できた。

「いやいや、驚きました。まだ返事を出したばかりだというのにもうお越しになるとは。今日出発とのことではなかったですかな」
「はい。今朝フォン・ツェルプストーを出て真っ直ぐこちらに来ました」
「いやいやいや、何という速度なのでしょうか。これはあのグライダーというのは噂以上に有用なようですな」
「今回乗ってきたのは新型機でして、従来のものより風石を消費する代わりに倍以上の速度で巡航できるというものなのですよ」

 にこやかに出迎えてくれたノイゾール伯爵はちょっと頭髪の寂しい小太りの中年で、ウォルフがまだ少年であることも気にせずに歓待してくれる気さくな人だ。
商人上がりの非メイジ貴族とのことだが、昼食を振る舞ってくれながらウォルフ達に開拓の苦労を色々と語ってくれた。
ノイゾール伯爵領は北半分が辺境の森にかかっていて、南半分は荒れ地となりその東の方には蛮人達が住んでいる。畑は少なく、南の方へ行く程地形も険しくなり、領民もほとんど住んでいない。そのまま南へ行けばガリアとなるのだがこの辺は国境もまだ曖昧だ。
この辺りの最大の脅威はやはり幻獣で、竜やワイバーンなどがよく森から出てくるとのことだ。彼が成功しているのは当初いがみ合っていた蛮人達と和解し、彼らと交易をすることで利益を得るようになったおかげだという。彼らは遊牧を生業として一定の場所に居住せず、草を追って季節ごとに広大な東の地を回っているそうだ。
 交易がこの領の生命線であるみたいで、ウォルフが森を開拓するにしても蛮人達とは争いにならないようにして欲しいと釘を刺された。

 ウォルフが他国の貴族でありながらツェルプストー辺境伯の協力を取り付け、綿密に調査してから開拓に臨もうとしている姿勢には好感を持ってくれているようだ。商人上がりが開拓団になる時は綿密な調査をしてからの事が多く、成功する確率も多少高いのだが、他国の貴族の場合ろくに調査もしないで失敗する事が多いと言う。
 成功の秘訣はメイジとしての技量などではなく、納得するまで調べる事だと自身の経験に照らして語ってくれた。

 ノイゾール伯爵が翌日ならば領地について詳しい係官を手配してくれると約束してくれたので、この日の午後は辺境の森へは行かず、モーグラを城に預けてみんなで城下町の散策に繰り出した。

「辺境といっても結構人はいるものなんだな。お、あの羊肉の炙り焼き美味そう」
「今は遊牧民が近くに来ている季節らしいから、特に多いんだろう」
「ふーん。確かにお店とかはテントのものばっかで人が減ったら何も無くなっちゃいそうね」

 城下町の目抜き通りは結構ゆったりとしたスペースを取っているが、その両側に屋台のようなテントが立ち並び様々なものを売っていた。布製品や革製品から金工品などの工芸品、宝石などの各種鉱物、様々な穀物や果物、香辛料などの食料と扱っている商品はバラエティーに富んでいる。

「あら、この柄かわいいわねえ。ちょっとそっちも見せてくれる?」
「おいキュルケまた買う気かよ。まだ旅は始まったばかりだぞ」
「だってこの先おみやげ買えそうな所なんて無さそうじゃない。バルバストルの荷に便乗して送っちゃうから良いのよ」
「え? バルバストルさんの荷って何」
「お父様からノイゾール伯爵領で香辛料を買い付けて来いって言われてたのよ。ねえ、これとこれどっちが良いと思う?」

 モザイク模様のような柄の布を体に当ててみなからキュルケが訊いてくるが、そう言えば護衛のバルバストルの姿がない。周囲を見回してみると少し離れた屋台で何やら激しく価格交渉をしていた。おいあんたキュルケの護衛じゃないのかと突っこみを入れたくなるが、この街なら危険は少なそうなのでそんなものかと思う。

「ふーん、じゃあオレも何か買って一緒に送らせてもらおうかな」
「そうしなさいよ、荷物なんてちょっと位増えたって全然関係ないんだから。あー、もう両方買っちゃおう」

 ガンダーラ商会でも織機を作っているので何かしら参考になるかと思い、ウォルフもキュルケに便乗して何点か特徴的な柄の布製品を購入した。ちょっとサラに似合いそうな柄もあったのでそれも荷物に紛れ込ませる。
その店を出ると今度は銀細工の店に女子達が吸い込まれてしまった。彼女らに付き合っていると通りを歩く速度が限りなく遅くなってしまいそうなので、銀の装飾品を選んでいるキュルケに断ってデトレフとクリフォードの三人で別行動を取ることにした。
買い食いなどをしながらぶらぶらと通りを流し、目についた宝石店に入ってみる。宝石店といっても原石がほとんどで、傍らには珍しい鉱物が並んでいる棚もある。

「お、モリブデン発見」

 一つずつ『ディテクトマジック』で調べているとモリブデンの鉱石を見つけた。

「店主、この青雲母というのは何処で採れるものですか?」
「あー、それはこごからずうっと南東の方に行った所の山で採れるね。水晶がよぐ見つかる所で羊たちが草食ってる間に探しに行ぐんだが、中々珍しい石だろ」
「ここから南東だと遊牧民の土地になるか・・・まあいいや、これ、買います」
「はいよー、まいどー」
「ちょ、ちょっとウォルフどの何値札通り買ってるんですか。こういう所は値切るものですよ」
「ん? まあ、いいですよ。ところでこの石をもっと大量に欲しいのですが、用意してはもらえませんか?」
「んあ、そりゃ出来るけんども、あの辺に行ぐのは冬だっから来年の話になるね」
「うーん、そうかあ・・・じゃあ、冬になったら直接買い付けに行ってみます。その時には沢山掘り出してくれるとありがたいですね」
「あんたらハルケギニア人がオラ達っとご来んのは大変だど?来るってんならこっちはかまわねえが」
「多分大丈夫です。何か目印になるものとか有りますか?」
「オラはマッサゲタのカディルだ。この黒い帽子がマッサゲタの目印だで、その辺で誰かに聞けばわがるとおもうよ」

 店主は何でもない事のように言ってテントの端にあった黒いとんがり帽子を被って見せた。詳しく場所を聞くとその季節にはここから東南東へ行った辺りの半径百リーグ位の場所にいるとの事で、その大雑把さはさすが遊牧民族といった所だ。そんなんで本当に会えるのかと不安にはなったが、冬になったら行ってみようと決めた。
その後もあちこちの店を覗いて革製のサンダルを買ったりちょっと買い食いをしたりして楽しく過ごした。調査隊というよりはこれではただの観光旅行といった感じだが。

 この日はノイゾール伯爵の城に用意された客用の部屋に泊まった。この地方では一般的だという蒸し風呂に入って汗を流し、客用に用意された居間で寛ぐ。やはり冒険という感じはしない。のんびりとこの地方の幻獣をまとめた図鑑の頁をめくっていると女子達が長い風呂から上がってきた。

「あれ、リアは一緒じゃないの?」
「アントニオの話を書くって言って部屋で頑張ってる」
「ああ、あれもう書いてるのか」

 キュルケ達はずっと三人一緒だったのにリアがいないので聞いてみたのだが、今日ウォルフから聞いた聖人アントニオの話を早速本に書き起こしているという。
ここまで来る道中機中ではほとんどアントニオの話をしていた。アントニオの話をして欲しいと言われてもまさか本当のことを話すわけにもいかずウォルフも困ったが、どうせ前世の話だし罪のないホラ話と思っていっそノリノリで話を作った。
 地球でのいろんな話が混ざってしまいどんな本に仕上がるのか空恐ろしかったが、多分子供向けの本になるだろうということで多少安心もしている。

「今後のことなんだけど、伯爵にずっとここ使って良いって言われているから取り敢えず明日は着替えとかの荷物はここに置いて出かけるつもり。明後日以降は移動することになるだろうけど」
「明日からいよいよ森に入るのね」
「大丈夫か?」
「分からないわよ。分かるようならこんな所まで来なかっただろうし」

 キュルケの顔に少し陰が差す。まだ自分に自信が持てないのだろう。こればかりはキュルケが自分自身で何とかしなくてはならない問題なのでウォルフもどうしようもない。

「まあ、頑張れ」
「ん、ありがと」

 ウォルフが気に懸けてくれていることは分かる。酷い状態の時は決して言わなかった頑張れと言う言葉の意味も。自分は一人じゃないという思いをキュルケは信じることが出来るようになっていた。

「んー、でも今日は楽しかったなあ。あんなに買い物したのは久しぶり」
「君たち凄かったね。馬車に積みきれないかと思ったよ」
「何よ、ウォルフ達だって結構買ってたじゃない。ちょっとキュルケ見てた? クリフったらアルビオンの彼女にミスリル細工なんて買ってたのよ」
「ちょっ、マチルダ様は彼女なんかじゃねえよ!」

 マリー・ルイーゼはいつもキュルケが落ち込むとすぐに明るい話に変えてくれる。キュルケにはそんなやさしい従姉妹がいる事がとても心強い。

「あら、やるわねクリフ。碧の髪が美しい年上のひとだっけ?」
「何でそんなことまで知って・・・ウォルフ!お前かっ」
「何のことかな? オレは訊かれたことに正直に答えただけだけど」
「うそだっ絶対に余計なことを言ってるだろ!」
「言ってないって。マチ姉が学院に入った日の夜、双月を眺めて「マチルダ様・・・」とか呟いてた事とか言ってないし」
「!!っ・・・おまっ、何処で見てっ・・・」
「他に言ってない事は・・・」
「だぁーっ!!言うなっ!!」

 爆笑の中、窓から逃げ出したウォルフを追ってクリフォードも『フライ』で飛び出していった。
その様子を指さしながら、キュルケは心の底から笑っていた。




2-25    怪鳥



 ノイゾール伯爵領の上空を千メイル位の高度でウォルフ達のモーグラは北へと向かっていた。伯爵家の租税調査官がウォルフの機体に乗って色々教えてくれながらの飛行だ。今日は昨日とは逆にキュルケ達をクリフォードの機体に乗せている。

「ああ、もうこんな所まで来ましたか。本当に速いですなあ。あ、あの村が我が領の北辺になります。そこから東へと道が続いているのが分かりますでしょうか」
「ええと、あの周りより木が低くなっている所ですか?」
「ハイ、そうなります。あそこが前回、十年程前でしょうか、東方開拓団が作った道になります。今回ド・モルガン様が我が領の隣を開拓なさるというのならば、やはりあそこから入っていくのがよろしいかと存じます」

 教えてくれた所には確かに以前道があったのであろう。しかし、十年の歳月はすでにその道を森へ還しかけていた。

「もう結構木が生えてきちゃってますね・・・ここから入っていくってどういう事ですか?前回の人達はあの村の隣から開拓したのではないのですか?」
「あの村は森から秘薬の原料などを採取する事で成り立っています。村から二十リーグほど、丁度あの先の山までは我が領の森としてゲルマニア政府にも認められています」
「二十リーグ先から、ですか・・・」

 中々厳しい条件に絶句しながらも取り敢えず森を見てみようと東へと機首を向ける。途中三百メイル程まで高度を落としてみたら森からワイバーンの群れが飛び出してきたので慌ててまた高度をあげた。
ワイバーンは千メイルの高さまでは追ってこないようだが、竜だとそれ以上まで来る事があるので注意するように言われた。数匹の竜にフネが落とされた事も有るらしい。特に今は繁殖の季節で神経質になっているとのことだった。

「あ、あの辺に村を作ろうとしていたのですな。跡が残っています」
「どれどれ・・・ってオークが住み着いているじゃないですか」
「ウォルフ殿、あちらの山には竜がいるみたいですぞ。ご注意ください」
「・・・まあ、どちらもこの森では珍しくないですから」

 村の跡にはまだ土メイジが作ったらしい建物が残されていたが、そこには大量のオーク鬼が住み着きこちらを眺めているのが見える。更にデトレフが示した山には風竜らしき物が飛んでいるのが見え、その山の麓で木々が動いているように見えるのはおそらくトロル鬼だろう。

「オークとトロルの群れに風竜か。多分下に降りたらもっと色々いるんだろうな。そして外界との街道沿いにはワイバーンの巣が大量に有ると」
「これは、ちょっと、降りる気もしない程ですな」
「あんなにワイバーンの巣がある所まで村人は入っているんですか?」
「え、多分・・・今は巣がありますが、この辺りは夏になると結構亜人や幻獣が減るのです」
「ああ、確かにトロルにはこの辺の夏は暑そうですね」

 遠くで飛ぶ竜や眼下でうごめくオーク達を見てると、さすがのウォルフでも積極的にここで自分の村を作ろうという気にはなれなかった。
まだまだ森は続いているが東方面には竜のいる山があるし、降りて調査する事もなくそのまま南へ転進する。時折高度を下げては幻獣に追われてまた高度を上げる事を繰り返していると、結局一度も着陸することなく灌木がまばらに生える荒野へと出てきてしまった。
 出てきた幻獣は竜にワイバーン、マンティコア、見た事無い程大きなオオワシ、グリフォンと、この森の生態系が多種多様である事がよく分かった。全然嬉しくないが。動物園で虎やライオンを見て嬉しいのは虎やライオンと同じ檻に入っていないからであろう。
まだ昼にもなっていないが色々と疲れたので、少しノイゾール伯爵領の方へ帰った所で休憩を取る事にした。そこならばあまり幻獣はいないからと着陸したのは上部が平坦なモニュメントバレーのような岩山の上だ。中々眺めの良い岩山で前面に森が良く見渡せ、西側遠くには伯爵領の村も望めた。



「おっかなかったわねえ。竜に追っかけられた時が一番スリルがあったわ」
「スリル有りすぎだっつーの。何だよあの森、非常識すぎるだろう」
「しかし、竜からも逃げられるとは素晴らしい乗り物ですなあ」
「まあ、こっちは全速で飛んでて向こうは静止からの始動だったから。向こうが本気で追っかけてこようとしたらこの速度じゃまだ結構やばいね」
「私、何時でも魔法撃てるように準備していたのに、機会が無くて残念だわ」
「俺はそんな機会ない方が良いよ・・・」

 クリフォードがかなりげっそりとして疲れている。ウォルフ機の後ろについて飛行していたし、幻獣達のプレッシャーをもろに受けていたようだ。クリフォードはウォルフ機に付いて高度を下げるつもりはなかったのにキュルケ達にやいやい言われて高度を下げさせられたという事もあるのかも知れない。
 それにしてもこの森の開拓は大変だと言わざるを得ない。せめて一方が開けている南端側から開拓すれば良さそうな気もするが、ノイゾール伯爵にそれは自粛するように言われている。遊牧民達が森から薪を得ているとの事で、余計な軋轢は生じさせないで欲しいとの事だ。それと今の時期はこの荒野は森よりも安全だが、初春と晩秋のワタリ竜が通過する季節は遮蔽物が無い分森よりも危険との事だ。
 あれだけの数の幻獣や亜人を皆殺しにするにせよ超音波で追っ払うにせよ、大変そうなことには違いない。あんな森のど真ん中に村を作るとなると四方全てを守った上に街道の安全も確保しなくてはならない。
どうしても開拓するというのなら周囲の森を全て焼き払って、幻獣達に餌を与えないようにすると同時に領地との間に緩衝地帯を設ければ一応守りやすくはなる。森の外とは二十リーグ位なら地下鉄で結べば受ける脅威は大分減りそうだ。しかし、それは最終手段と言っていいだろう。

 と、その時岩山の端まで行って遠くを眺めていたキュルケが声を上げた。

「ねえ、ちょっと、あそこの村が何かでっかいのに襲われてるんだけど」
「何だよ、あれ、鳥?」
「あれは怪鳥ロックですな。辺境の森というよりは南の荒野に住む幻獣で、この季節は時々人を襲ったりするのです」
「ずいぶんと落ち着いてますね。あんなのに襲われてあの村は大丈夫なんですか?」
「度々襲われますから背後の岩山にシェルターが掘ってあるんですよ。やつのでかい体ではシェルターの中まで首が届きません。その内諦めて帰りますよ」

 村までは二リーグ以上有りそうだが、その巨体がはっきりと見えた。恐らく十五メイル以上は有るだろう巨鳥が柵を破壊し、シェルターに首を突っ込んで何とか餌にありつこうとしている。辺境の森も大変だったが、南の荒野も大変そうだ。

「あんなのが度々来るんですか・・・」
「あれはマシな方ですよ。飛ぶのが下手で、走るのも遅いですからな。あの巨体では近づいてくるのがよく分かるので逃げる時間もありますし。ただ、一度来ると何度も繰り返し来るので、畑や村がめちゃめちゃにされてしまうのが厄介な相手です」
「何度も来るなら退治すれば良いんじゃないですか?」
「ははは、そりゃ確かに退治した方が良いですね、あんな図体でも焼くと美味いですし。しかし、あれは強固な羽毛を持っていましてね、刃も通らないし並の魔法じゃ全く効かないんですよ。火の魔法だと幾分効くみたいですが」
「ふーん、成る程。兄さん、出番だよ」
「え?」

 突然話を振られて何となくロック鳥を眺めていたクリフォードは吃驚して振り返った。

「え、じゃないよ、ホラ兄さんの腕試し。凄い魔法を身につけるんでしょ?」
「ああ、あれ? あれは、ほら、もうちょっと闘いやすい奴の方が良いんじゃないかな。火の魔法に弱いって言ってるからお前の方が向いてるんじゃ・・・」
「風魔法に耐性のある幻獣を風魔法で倒す事に意味があるんじゃないか。兄さんは強くなる、村の人は助かる、オレは美味い焼き鳥が食える。さあ行こう」
「マジ?」
「マジ。あそこなら戦ってる最中に他の幻獣に襲いかかられる事も無さそうだし、丁度良いじゃん。オレも側まで行ってやるから」

 ちらりと周囲を見回すと可愛い女の子が三人、どうなる事かとこちらを見ている。クリフォードはこんな状況で怖いから行きたくないです、等と言える程男の子をやめてはいなかった。

「うぉお、マジかよ何で俺こんなとこに来るなんて言っちゃったんだろう」

 小声で呟いて渋々『フライ』で飛んで行こうとしたのだが、キュルケ達も行きたいと言い出したので全員モーグラで行く事にした。デトレフとリアが操縦を担当して、ロック鳥を倒すまではモーグラは上空で待機する。
飛行機にとって二、三リーグの距離などそれこそあっという間だ。ロック鳥の上空に到着するとウォルフ、クリフォード、キュルケ、バルバストル、マリー・ルイーゼの順に飛び降りた。

「うおー、近くで見るとマジででっかいな」
「俺はやれる俺はやれる俺はやれる」

 キュルケ達がちょっと離れた所に降りたのを確認し、シェルターの穴に首を突っ込んでいる怪鳥ロックの後ろに立ってその巨体を見上げる。あまり動きが速くないから脅威としてはそれ程ではないと言われていても、この大きさはそれだけで威圧感がある。立ち上がったら十五メイル程もありそうで、これまで見たどんな生物よりも大きかった。
 今、ロック鳥はこちらに尻を向けているので目の前は巨大な尻の穴だ。とても分かり易い的をめがけてウォルフは魔法をたたき込んだ。

「おらっ、デカブツ、こっちが相手だ《ファイヤーボール》!」
「あ、ちょっと待っ」

 ウォルフの『ファイヤーボール』は目指す的に命中し、その瞬間怪鳥ロックは「ぎゃーっ」と妙に人間くさい悲鳴を上げて後ろを振り返った。ウォルフはさっさとキュルケ達の所まで下がっているのでその目の前にはクリフォードのみが立っていた。

「え、えへ?」

 何となく愛想笑いをしてみるがもちろんそんな事に何の意味もない。当たり前の事だが怪鳥ロックは激しく怒っていて、威嚇するように嘴を空に向けてカチカチ激しく鳴らす。その姿は鵜飼いの鵜と鷲を足してペンギンで割ったような感じで、首が異様に細長くて足は短く広げた翼は小さい。

「クエエエエッ!」
「!! っ《フライ》」

 予想外の素早さで細く長い首の先に付いている嘴による突きが繰り出された。クリフォードは間一髪でその攻撃を躱し、距離を取って着地する。

「へっ! のろまめ、こいつを食らえ! 《エア・カッター》!」
「クエエエエッ!」

 クリフォードの魔法が命中して羽毛をわずかに散らす。しかし、怪鳥ロックは全く気にする風でもなくドタドタと走り寄ってきた。

「ちっ、ったく効いてねえよ《フライ》」

 再び『フライ』で距離を取り安全圏に逃げる。そこから今度は『マジックアロー』で攻撃してみたが、今度は羽毛すら散らせず全く効果はなかった。
これは幻獣に時々ある事だが、魔力素による直接防御を行っている為だ。防御という強固な意志を帯びた魔力素によりこちらの魔力素による攻撃が無効化されてしまうのだ。物理的にも強化されるしやっかいな装甲だ。

「ウォルフー!『エアカッター』も『マジックアロー』も効かないんだけど、どうしよう」
「あの羽毛には魔力素が行き渡ってるね。『エアカッター』は少し効いているみたいだから、もっと硬くしてみたら?」
「硬くって、もう目一杯硬くしてるって!」
「もっともっとだよ、魔法で作る圧力に限界なんて無いんだから。大丈夫、兄さんはやれば出来る子だ」
「クエエッ!」
「うおっ《フライ》!」

 自分は必死になって叫んでるって言うのに冷静に『伝声』の魔法で答える弟に何だか腹が立つ。しかしそんな事に構う暇を怪鳥ロックは与えてくれなかった。
そのまま怪鳥ロックが間合いを詰めてはクリフォードが躱して『エアカッター』で攻撃するという事を何度か繰り返す。
 単調に見えてギリギリの攻防の中、クリフォードは出発前に会いに行った師の言葉を思い出していた。

「良いか、クリフォード。魔法で一番大事なのはイメージじゃ。そしてそのイメージをより強固にするのは自分を信じるという事じゃ。効かないかも知れない、等と考えながら放った魔法が効く事などまず無い。『エアカッター』を放つ時はその刃が相手を切り裂く所までイメージして放つのじゃ」

(確かにちょっとビビってたな。大丈夫、奴の攻撃は躱せる。俺の『エアカッター』を奴の羽毛より硬く出来ればそれでこの戦いはお終いだ)怪鳥ロックとの戦い方にも慣れ、クリフォードも大分冷静になってきた。
(もっと、もっと硬く・・・もっとだ)クリフォードはもう余計な事を考えず、『エアカッター』の威力を上げる事のみに集中する事にした。




「ねえ、ちょっとウォルフ、クリフ大丈夫なの?」
「まだ精神力は大丈夫だと思う・・・段々散る羽毛も増えてるし、もうちょっと様子を見るよ」
「そう、ならいいんだけど・・・あっ」

「クエエエッ!」
「《フライ》・・・うおっ」

 もう何度、怪鳥ロックの攻撃を躱したのか分からない程になり、キュルケ達が心配し始めた頃の事だった。
いつものように飛んで距離を取ろうとしたクリフォードを、ロックが翼を振るって叩き落とした。翼が届く所にはいなかったのだが、翼が巻き起こす強風で吹き飛ばされたのだ。

「ぐあ・・・」

 幸い、『フライ』を行使中だった為に致命的なダメージは受けなかったが、それでも結構効いてしまっていてフラフラと立ち上がる。
クリフォードが何とか立ち上がって杖を構えた時にはもう怪鳥ロックは十分に間合いを詰めていた。クリフォードの目の前すぐにはロックの体があり、今までは前方からの攻撃だったのが今度はほぼ真上からその巨大で鋭い嘴が繰り出された。左右には翼を広げられていて逃げ道はなく、恐らく後ろに逃げても間に合わない。

「危ねっ!」

 かろうじてギリギリ嘴を躱したが、すぐに上空からまた高速の突きが襲いかかる。かろうじて直撃は避けているが、ガッツガッツと地面を削る攻撃にクリフォードはもう立っている事は出来ず、地面を転がって躱すのが精一杯だ。

「クエエエエエッ!!」

 怪鳥ロックは中々仕留められない事に苛つくように一鳴きすると、転がるクリフォードに今度は容赦なくキックを放つ。
怪鳥ロックの巨体を支える強力な足から放たれる攻撃は想像以上のスピードと破壊力だ。

「危ねえっつうの! 《エアハンマー》!」
「クエッ!?」

だが、その攻撃はモーションが大きく、躱すのは難しくなかった。またギリギリで躱し、起き上がると横から『エアハンマー』をその足に食らわせる。
元々バランスの悪い怪鳥ロックは丁度足払いを食らったように体勢を崩して転倒した。

「おらあ! 《エアカッター》」

起き上がろうともがく怪鳥ロックに今度はクリフォードが続けざまに攻撃を加える。狙うは一点、首の付け根のみである。

 クリフォードの攻撃を受けながらも怒れるロックは気にせず立ち上がり、再び嘴による攻撃を再開する。しかし、先ほどよりは間合いが離れているため、クリフォードにとってこの攻撃はさほど脅威ではない。何度も繰り返される反撃は魔法を使うことなくギリギリで躱し、『エアカッター』による攻撃を継続した。
怪鳥ロックの嘴、翼、足による多彩な攻撃をその身体能力のみで躱して『エアカッター』を連発する。今まで『フライ』に使っていた詠唱の時間を全て攻撃に割り振ってロックを倒しにかかった。

 攻撃の度に威力を高めるクリフォードの『エアカッター』は徐々に怪鳥ロックの首から血を飛び散らせるようになった。クリフォードもまたロックの攻撃が何度もかすり、繰り返し地面に叩き付けられて傷だらけになっている。
全身が激痛に悲鳴を上げ、疲労が体の動きを妨げるようになっても、クリフォードの集中は途切れない。疲労が徐々に思考力を奪っていく中、クリフォードの意識は怪鳥ロックの首を切るという事だけに集中していった。

「クエッフーッ」

 気がつくとまた随分と間合いが近づいている。だがもうクリフォードは焦らない。黒々としていながら時折虹色に鈍く光る羽毛を見つめ、それを自分の魔法が両断するイメージのみを頭に浮かべた。

「クエエエッ!」
「うおおおお《エアカッター》!」

 覆い被さるようにして突きを繰り出してきたロックの首の付け根。これまでの攻撃でだいぶ羽毛が薄くなり血を滲ませていた場所に最大の集中力で放たれた『エアカッター』が吸い込まれた。

 その瞬間『エアカッター』が吸い込まれた箇所から血が噴き出し、怪鳥ロックの嘴はクリフォードの頭上すぐを通過して地面に激突。胴体から切り離された頭と首が血をまき散らしながらうねる大蛇のように後方に転がった。残された体はそのまま一歩を踏み出したが、ゆっくりとクリフォードに向かって倒れてきた。

「ここでぼんやりしてると潰れるよ?」

 いつの間にか近くまで来ていたウォルフが、呆然と自分に向かって倒れてくる巨体を眺めていたクリフォードの襟首をつかんで安全な場所に引っ張った。

 ウォルフに降ろされ、ぺたんと尻餅をつく。その姿勢のまま目の前で地響きを起こして倒れた巨体を眺めた。あらためてみるとその大きさはとても自分が倒したものとは思えない程巨大だった。

「やったぜ」
「うん」
「やったんだぜ?」
「うん、ご苦労さん」
「うおおおお!やったぜーっ!!」

 大の字になって叫ぶクリフォードを放っておいて、ウォルフは怪鳥ロックの体に近づいた。倒れてなお見上げる程の巨体だ。焼くと美味いと言っていたがどれほどの量の肉になる事だろうと考えていると、キュルケ達も近づいてきて、羽毛の硬さなどを確認している。

 シェルターの岩山からも村人が次々に出てきた。皆笑顔で、怪鳥ロックの体に上ったり羽毛を引っこ抜いたりしている。モーグラから降りてきたノイゾール伯爵家の家臣がロック鳥を倒した英雄としてクリフォードを村人に紹介すると大歓声がわき起こり、クリフォードは照れながらもそれに応えた。
クリフォードは次々に村人から感謝されて照れまくっていたが、同い年位の可愛い女の子にキスの祝福をされたのが一番嬉しそうであった。




2-26    探検?



 怪鳥ロックの解体は村人総出で半日仕事になった。
こうしたものの所有権は倒した者が持つ事になるのだが、クリフには何をどうしたらいいのか分からないので処理をノイゾール伯爵に一任した。
ノイゾール伯爵は解体と加工の手間賃として相当量の肉を村人に与え、足の速い内臓も村人が処分する。城からも応援を送り込み、次々に肉を切り分けて運び出す。今日は伯爵領中が肉を焼く臭いに包まれそうだ。
 羽毛は様々な工芸品や秘薬の原料として珍重されているらしく、一羽分有れば結構な金額になり、後で伯爵からクリフォードに支払いがあるとの事だ。何でも通常ロック鳥は火の魔法で倒すので、これだけ大量に羽毛が取れる事は滅多にない事らしい。

 ウォルフ達は解体を村人に任せて森の詳しい調査に行くつもりでいたのだが、この日はずっと村の護衛として留まる事になった。村の防備柵がロック鳥に壊され、そこに解体の臭いに誘われた幻獣達が多数森から出てきたのだ。
フタクビオオトカゲなどの嗅覚の鋭い爬虫類系の幻獣が主だったが、村人に聞くと食べるとの事なのでなるべく原形を留めるようにして殺した。主に働いたのはウォルフとバルバストルで、この二人は血抜きの事まで考えて殺す気の配りようだ。
 この防衛戦ではキュルケとマリー・ルイーゼも戦闘に参加した。フタクビオオトカゲは長いしっぽまで入れても六メイル位の中型のトカゲだ。復帰戦には丁度良い相手で、キュルケも難なく退治していた。彼女と対峙した幻獣はほとんど炭化するまで燃やされるというちょっと可哀相な目にあっていたが。
 四人で殺しまくった結果、解体作業が更に増えたのは仕方のない事だったのだろう。

 デトレフが村の防備柵を全て直し終わりノイゾール伯爵の城まで帰ってきたのは夕刻、もう完全に日が落ちた後だった。風呂に入ってからまた伯爵家の夕食に招かれた。こちら側の参加者はド・モルガン家の二人とキュルケとマリー・ルイーゼ、もちろんメイン料理はロック鳥だ。

「怪鳥ロックをたった一人で、それも風メイジが倒すなんて前代未聞ですよ。クリフォード殿はお若いのに素晴らしいメイジですなあ」
「いやあ、大変だったんですけどね、自分を信じて頑張りました」
「自分を信じてだなんて、中々言えませんわ。歴戦の猛者でも怪鳥ロックを前にすると怯む物ですもの」
「ホント、素敵。わたくしも風メイジなのですが、才能が無いのでロックの羽毛を『エアカッター』で切るなんて憧れちゃいますわ」
「『エアカッター』をですね、硬く、硬くしていくんですよ。そうすると切れ味を上げる事が出来ます」
「まあ、クリフォード様のはそんなに硬いのですの?今度わたくしに見せてくださいます?」
「お姉様一人だけ狡いわ、私にもクリフォード様の硬いの見せて下さい」
「も、もちろんいいですよ。ははは」

 伯爵にはクリフォード達と同じ年頃の娘が二人いるのだが、昨日と比べて随分とクリフォードに対して親しげに話し掛けるようになっている。株が上がったという事なのだろう。今回の戦闘でトライアングルになった事もあり、クリフォードも得意の絶頂といった所だ。

「ちょっと、あれどうなの?ド・モルガン家、跡継ぎいなくなっちゃうんじゃないの?」
「兄さんの人生だ。好きにすればいいさ。…うん、こっちの皿もいけるな」
「あんなに見事に鼻の下が伸びきっている人間って初めて見たわ。この表面の香ばしさがポイントね」

 ちやほやされるクリフォードを横目にウォルフ達は料理に舌鼓を打つ。怪鳥ロックの肉は一番良質と言われる首周りの肉を持ち帰ってきた。繊細な肉質と溢れ出る肉汁、ほどよい脂と濃厚な旨味で今まで食べた事のない味だった。ふんだんにスパイスを利かせた皿も良かったが、焼いて塩を振っただけの物もウォルフの好みに合った。

「随分と余裕ね。ご両親は跡を継いで男爵になって欲しいんじゃないの? …私はこっちのフルーツソースが一番良いと思うわ」
「後継ぐって言っても領地もないし、それ程拘ってないんじゃないかな。確かにこれは新しい味だけど、メインにはなり得ないだろう」
「男爵家って領地無いんだっけ? うん、わたしもこのフルーツソースは甘すぎると思う」
「有ったり無かったりだね、ウチは無いよ。肉が良いんだから味付けはシンプルなのが一番かな」
「二人とも味にうるさすぎるのよ。ところで明日はどうするの?」
「どうしよう。ちょっと、ここらからは思い切って離れた場所に移動した方が良いような気がするなあ」
「ちょっと、あれだとねえ…開拓どころか着陸も出来ないんだから」

 うーん、とウォルフは悩む。ちょっと、森の状況が想像していた物よりも随分と過酷だった。何度か着陸を試みたにも関わらずその度に幻獣に追われて結局一度も着陸できないままだ。あんな密度で幻獣がいるなんて森の中の食物連鎖はどうなっているんだと思う。森の上空ならば音響兵器で追っ払ってしまえばいいのだが、木々が密集した森の中では音が反射してしまい効果が低くなる。幻獣の脅威を肌身で体験するためもあり、今はまだ使用していない。
音響兵器を使わないのならば、もうこの辺は厳しいという事で当初の予定通り次の調査地へ行きたくなっていた。しかし、予定では北に行くというものの、ここは南端であるのでちょっと東へ行ってサハラをチラッとでも見てみたいという気持ちもある。
 結局食事中には結論が出ず、後で決める事になった。



「いやー、今日も全然調査進みませんでしたね。ちょっと観光旅行に来ている気がしてきましたよ」
「でも、大変そうだというのが分かったんですからそれが調査の成果ですよ」
「森の中が全部今日みたいだと野宿するのは難しそうですね」
「一応人数分寝袋を持ってきたんだけど…」

 食後、調査隊の内六人が昨日と同じ客用の部屋に集まった。残る一人、クリフォードは伯爵夫人と娘達にお茶に誘われ、ホイホイとついていってしまったのでここにはいない。
旅先の気楽さでとりとめのない事を話して過ごす。

「クリフは、お嬢様達に誘われて向こうでお茶、か。随分と良い身分になっちゃたものね」
「いやしかし、大したものでしたからね。あの威力、とても学院に入学前のメイジが放つ『エアカッター』とは思えませんでしたよ」
「中々良い集中力だったね。最初から出せればもっと楽に倒せたんだろうけど」
「はは、ウォルフ殿は厳しい。"業火"流といった所ですか」
「とんでもない。母さんはオレみたいに優しくはないよ」
「いや、あれ以上厳しくしたら死ぬでしょ」


「ここはもう一気にリンベルクまで行っちゃった方がいいんじゃないですかな。辺境の森に行くと言ったら普通はあそこに行くらしいですし」
「そこはここからだとまだ五百リーグ以上あるでしょ。もう少し詳しく調べてみたいね」
「その間だと…バヤマレには金銀を始めとする鉱山があるらしいですね」
「お、いいねえ、案内してくれるかな」
「案内は絶対にしてくれないでしょう。上を飛ぶのも嫌がると思いますよ」


「あ、そう言えばウォルフさあ、クリフが吹き飛ばされた時、凄い速さで飛んで行ったでしょ。あれってどういう事?」
「あ、それ私も気になった。『フライ』じゃ有り得ないでしょ、あんな速さ」
「どういう事って言われても、ただの『フライ』だよ」
「じゃあ、私もあんな速度で移動できるようになるの?ちょっとこつを教えて欲しいんだけど」
「『フライ』の構造を理解して、重力と質量及び大気圧について正しい知識を持てば使えるようになると思うよ」
「…なんか、凄くめんどくさそうな気がするわ。キュルケ、『フライ』の構造って何のことだか分かる?」
「『フライ』は『フライ』よ。構造なんて、そんな事知らなくたって空を飛べるわ」
「…キュルケはちょっと無理そうだね」


「あーああー、次に行く貴族の所にはかっこいい男の子がいると良いなあ」
「ウォルフに負けてから、ちょっと強そうな男の子見ると試合ふっかけては泣かせてたじゃない、あなた」
「だから、試合しても泣かない、かっこいい子よ」


「じゃあ、リアは岩塩鉱山に勤めてた事があるんだ」
「ええ、生まれた村に鉱山がありましたから、魔法が使えるようになってからはずっと働いてましたね」
「それってけが人の手当とかするのが仕事?」
「いえ、そこの岩塩鉱山は岩塩の層を水で溶かして採掘するタイプでしたので、水を操って岩塩を溶かすのが主な仕事でした」
「ああ、その溶かした塩水を再結晶させているのか。あの不純物の少ない塩ってそうやって採っているんだ」
「ご存知なかったのですか? そのまま固まりで掘り出せるような岩塩鉱山って少ないらしいですから、水メイジが採掘に関わるようになって以来ハルケギニアでは塩の生産量が数倍になったそうですよ」
「初めて知った。魔法って本当にあちこちで利用されているよなあ」
「給料は良かったですけどそこでずっと勤めていても水の扱いしか上手くならないし、もっと色々勉強したいと思って十六の時に町に出てきたんですよ」


「あれは私が二十歳の頃でした。鋳造の新技術を学ぶ為ヴィンドボナに向かう道中、突然ワイバーンに襲われましてな、あのときは死を覚悟したものです」
「それはよく逃げられましたね」
「とっさに土の中に潜りましたよ。土遁の術ですな」
「私がガリアで対峙したときは…」


「そんな水がない土地で井戸を独占するなんて、メイジの風上にも置けない連中ね」
「そうよ。それに種籾まで奪うなんて、非道すぎるわ。明日が、か……どんなに悔しかった事かしら」
「だろ? そこでアントニオは叫ぶんだ、「てめえらに、今日を生きる資格はねえ!!」ってね」
「くぅー…アントニオ格好良すぎじゃない?」


 話した内容は多岐にわたり最後の方はもう収拾がつかなくなった。結局サハラは諦め、明日の朝ここを出発し、ここより北の町でどこかに宿を決めてから森の探索に行こうと言う事になった。



 翌日朝食の席でノイゾール伯爵に世話になった礼と今日ここを出る事を告げる。昨夜にも出発する可能性を伝えていたので驚かれはしなかったが、残念がられた。

「何と、もう出発してしまうのですか。ウォルフ殿達程の戦力が有れば、きっと開拓にも成功すると思います。辺境の森などどこに行こうと同じ様な物です、我が領の隣に決めてしまってはいかがですかな」
「本当ですわ。せっかくこうしてウォルフ殿やクリフォード様とお知り合いになれたのに、もうお別れだなんて寂しすぎますわ」
「ありがとうございます。しかし、まずは見聞を広める事が大事だと思っていますので、北の端までは行ってみようと思っています」
「残念です、クリフォード様だけでも残っていただくわけにはいかないのかしら。わたくし、もっと風魔法を教えていただきたいわ」

 姉妹の姉の方が両手を胸の前で組んでクリフォードにしなを作る。胸元の大きく開いたドレスを着ているので、年の割に豊かな胸がこぼれ落ちそうだ。

「いいいや、俺だけ残るって訳にもいかないんで、すみません」

 クリフォードの目はその胸元に釘付けになっていたが、全ての理性を動員してなんとか断る事が出来た。

「二人ともあまり無理を言うな。彼らにはロック鳥を倒してもらっただけではなく村で防備柵の補修までしてもらっている。これ以上何かをお願いするのは図々しいというものだ。クリフォード殿、これを」
「これは…?」

 伯爵がクリフォードに袋を手渡す。見た目よりも重量のあるそれはジャラリと金属の音を立てた。

「ロック鳥の代金です。急な出発であまり用意できませんでしたが、五百エキュー有ります。また来ていただければもう少しお渡しできると思いますので、是非もう一度足をお運び下さい」
「姉妹共々、お待ちしております」
「ははは、はいー」

 ノイゾール伯爵一家に見送られてモーグラで飛び立つ。昨日より深い位置の森も見てみたいという事で真っ直ぐに北には向かわず、二百リーグだけ東に行ってから北上する事にした。

「兄さん、なんか名残惜しそうだね。別に残っても良かったんだよ?」
「ウォルフ、お前そういう事言うな」
「ははは、ゲルマニアの人間は情熱的ですから、クリフォード殿には刺激が強かったみたいですな」
「情熱的すぎるよ。妹の方なんて昨日一緒に寝ようとか言うんだぜ? あの子まだキュルケと同い年だって言うのに、何か肉食の幻獣みたいな目をして誘うんだ」
「寝てたら人生決まってたね」
「決まってましたな」
「だぁーっ! この年で人生決まってたまるか!」

 今日はキュルケが操縦桿を握るとの事でクリフォードは一号機に移動していた。どうも女子の視線が冷たく、居心地が悪かったらしい。代わりにバルバストルが向こうへ移動した。
貰った金については初めて持つ大金なのでどうしたらいいか悩んでいたが、貴族にとって金の使い方を勉強するのも大事な事なのでウォルフは放っておいている。

 森と荒野の境を行ったり来たりしながら東へと向かったのだが、ほとんど環境は変わらなかった。森の上で高度を下げると幻獣が警戒して上昇してくるし、荒野の方で一度着陸して調べてみたが、こちらはとにかく水が無く暮らすのは大変そうだった。
 結局多少移動した位では森の様子は変わらないという事で、予定通り東進を打ち切り、そこから北西へ進路を取った。

「あ、あそこ森が開けているな。山火事でもあったか?」
「そんな感じだね、また高度を下げてみよう」

 クリフォードが見つけたのは山三つ分位とそれに囲まれた平地だった。数年前位に山火事があったらしく、幅二リーグ近くにわたって大きな木が焼け落ち、その後から小さな木や草が生えている所だった。

「飛行性の幻獣はいないようだな、降りてみるか。ちょっと兄さん操縦代わって」
「オーケー、あそこにオオヤマガメがいるから近くに降りよう」

 高度を下げてみても何も下から上がってこないので着陸してみる事にする。ウォルフが後部座席に移って窓を開け、何時でも魔法で対応できるようにしてから速度を落とす。
無事に着陸に成功し、それを見たキュルケ機も降りてきた。オオヤマガメから二百メイル程離れた所で、森からは一リーグ程離れている。オオヤマガメは砲亀兵にも使われる事のある大型の亀で、大人しく臆病な性格をしているので、あれが草を食んでいるならば周囲には竜などがいない事が分かる。

「ようやく着陸できたわねー、もうこのまま一度も着陸できないで帰るのかと思っていたわ」
「いやそれは勘弁願いたいね。デトレフさん、どうですか?」
「んん、変な振動はありませんな。地中にも危険な幻獣はいないようです」

 デトレフが確認してようやく全員が機体から降りる。オオヤマガメは最初こちらを気にしていたようだが、今はまた草を食んでいる。少し周囲を散策してみて森にも近づいてみるが特に危険という感じはしなかった。

「中々長閑で良い所じゃない。ウォルフ、もうここに入植しちゃえば?」
「キュルケ、お前もう面倒くさくなっているだろう。領地にするにはまだちょっと狭いな、森が近すぎる。でもこれだけの広さがあれば当面の安全は確保できそうだから、ここを拠点として広げていくってのはありだな」
「あら、随分と自信があるのね」
「まあ、秘密兵器もあるし。ここが特別って訳じゃなくて幻獣の事だけを考えるなら、森なんてまず焼き払っちゃえば良いって事。ただ広さが十分に取れない場合」

 オオヤマガメの反対方向、ウォルフが杖で指し示した先には森から出てきたトロル鬼がこちらを窺っていた。獲物を見つけた喜びにその顔は醜くゆがみ、口からは涎が垂れていた。

「《フレイム・ボール》…周囲の森から出てくる幻獣達の脅威に怯えながら暮らす事になる」

青白く輝く炎の玉が高速で飛び、トロル鬼の胸に命中して激しく燃え上がる。トロル鬼は盛大な悲鳴を上げて地面に転がり火を消すと出てきた森へと逃げていった。

「……容赦ないわね」
「アルビオン人なんでね、トロルとは共存できないと思っている。人々が安心して暮らすためには森と十分な距離をとれる事が絶対に必要だな。必然的に広大な範囲を開拓する事になるし、森から抜ける街道の安全確保も課題だ。ここはちょっと遠すぎる」
「うーん、安全を考えるとなると森を全部焼き払うって事になるのかしら」
「広範囲にわたって焼き払うとなるとコントロールが難しくなるし、中々それは出来ないよね」

 それだけ広大な森を全て焼き払うなど現実的ではないし、もちろんウォルフにそこまでする気はない。少ない人員で山火事を全てコントロールなど出来るとは思えないし下手をしたらゲルマニアを敵に回しかねない話だ。
ここを拠点にして徐々に開拓地を広げるとすると森の外まで道がつながるのがいつになるのか分からないくらい時間がかかりそうだ。

「ちょっと森に入ってみようか。キュルケ達はここで待ってて。兄さん! ちょっと森に行ってみよう」
「お、おう」
「ちょっと待ちなさいよ、私も行くわ」

 キュルケが行くとなると大人数になってしまうので待っていて欲しかったのだが、結局デトレフとリアをモーグラの見張りに付けて残り全員で行く事になった。念のため残る二人には長距離音響兵器・エルラドの操作方法を教えておいた。



「でかっ! あの蟻でかっ!」
「兄さんもうちょっと静かに。あんな三十サントもあるような蟻の群れに襲われたくはないからね?」

 初めて見る生物にクリフォードが驚きの声を上げる。ウォルフに注意されて黙るがすぐにまた別の幻獣を見つけた。

「あのでっかい猿、頭が鰐になってないか?」
「リザードコングだね……夕べ図鑑で見たときは何の冗談かと思ったけど、本当にあんなのいるんだ。ワイバーンくらいなら尻尾を掴んで振り回せる膂力と、鋼鉄の鎧を紙のように引き千切る事が出来る顎を持っている、だったかな」
「あ、向こうへ行った。ふー…」
「あんなごついのとは戦いたくないわねえ。あら、いいにおい…何のフルーツかしら…ぐえっ」

 匂いにつられて横に逸れたキュルケの襟首をバルバストルとウォルフがすんでの所で引っ張る。引っ張られたキュルケの足先で地面が跳ね上がり、巨大なはえ取り草のような凶悪な罠が口を閉じた。

「お嬢様、大丈夫ですか」
「食獣植物だ。むやみに動植物に近寄らないように」
「…こんな森全部燃やした方が良いんじゃない?」

 初めて入った森の奥はまさに魔境だった。何者とも知れない吠え声が絶えず辺りには響き渡り、常にどこかの茂みががさがさと音を立てる。頻繁に幻獣の死体に遭遇するが、どれも綺麗さっぱり肉が付いて無く骨だけになっていた。妖しい花が咲き誇り見た事のないフルーツやナッツ類が沢山実っていて豊かな森である事が分かるのだが、それ以上に生存競争は厳しそうだ。
何やら騒がしいと思えば先程のと思われるトロル鬼を地竜が貪り食っている。気付かれると危険なのでこっそり離れようとしたら血の匂いに誘われて寄ってきたらしい巨大なトカゲの群れに襲われた。
 こちらに襲いかかってくるのを撃退するとまたその血の臭いにつられて新たな幻獣が寄ってくる。トカゲっぽいのやら、ハイエナっぽいのなど、多種多様な幻獣に襲われ、一時はかなり激しい戦闘になった。

「ウォルフ、あれ出せあれ! 秘密兵器さっき出してただろ!」
「ごめん。あっちに置いて来ちゃった《マジックアロー》」
「意味ねーじゃないかー!《エアカッター》!《エアカッター》!《エアカッター》! ひいいい!」
「何かあの蟻もこっち来ちゃったわよー!《ファイヤー・ボール》!《ファイヤー・ボール》!《ファイヤー・ボール》!」

 途中から幻獣達が死体に群がるようになってこちらへの攻撃が緩んだのと、ウォルフの『マジックアロー』が倒した木が丁度障壁となってなんとか包囲からは逃れる事が出来た。ほうほうの体でモーグラのあった場所に戻ったのは出発してからまだ一時間も経っていない頃だったのだが、全員が精神的にかなり疲れてしまっていた。
おまけにその元の場所に行ってみたらモーグラがいなくなっていて、結構本気で途方に暮れた。上空を見たらモーグラが飛んでいるのが見えてすぐに降りてきたのだが、いないと分かった瞬間の衝撃はあまり味わいたくない種類の物だ。
 モーグラがいなくなっていた理由は少し離れたところを風竜が飛んでいたため、念のために退避していたそうだ。エルラドがあれば心配ないはずだが、まだ信用出来ていないらしい。
 皆口数少なくモーグラに乗り込むとさっさと離陸する。そろそろ昼だが、こんな所で食事する気にもなれず、人里目指して西に機首を向けた。

「ちょっと、何だね。ワクワクする感じが無いね」
「ゾクゾクする感じはいっぱいあったけどな」

 辺境の森の調査は前途多難のようだった。




2-27    北上



 ゲルマニアの辺境、黒き森の上空を二機のモーターグライダーは滑るように西へと飛行する。
 腹も減ってきたので、森の様子に構うことなく飛ばしているのだ。さすがに時速二百リーグ以上で飛ばすと速く、三十分も飛ばずにシャンツの村に到着だ。
このシャンツの村を含む一帯は前領主が破産したとの事で、現在はゲルマニア政府が管理していた。実際の徴税や治安保持などは西隣のバヤマレ伯爵が委任されて行っているとの事だ。
 辺境過ぎて訪れる人も居ないので宿屋など無いとの事なので、交渉の結果今夜は村長の家に泊めてもらえるようになった。お土産として保冷庫に入れて持ってきた怪鳥ロックの肉を五十リーブルほど渡すと大変喜ばれた。色々生活が大変らしい。

 付近一帯の領地などに関する事はバヤマレ伯爵家が管理しているとの事なので詳しい話を聞きに行った。バヤマレ伯爵領は金銀などの鉱山でそこそこ栄えている。アポ無しの訪問だったのだが、伯爵はヴィンドボナにいるとの事で会えず、家臣の対応となったのだがかなり無茶な事を言われた。
バヤマレはシャンツの西に位置しているので辺境の森とは接していないかと思っていたのだが、北側で接していてこの辺一帯の森は五十リーグ程入った所までバヤマレ伯爵領だと主張してきた。そんな所まで何か利用しているのかと聞いてみたら、将来鉱山開発するつもりで地質調査をしたという。
 一回地質調査したら領地かよ、と突っこみを入れたくなったが何とか我慢して伯爵家を出た。ついでにお願いしてみた鉱山見学も当然のごとく断られた。



「あの森に五十リーグ以上も街道作ってその先で開拓とか、それなんて無理ゲー?」
「焼き払っちゃえばいいじゃないの、全部」
「実際の所どうなの、ウォルフ。開拓なんて無理ですって気分になっているんじゃないの?」

 鉱山の街らしく、鉱夫達が通う飲み屋は結構な数がある。その内の一軒で遅い昼食を摂りながら今後の見通しを話し合う。

「いやいやマリー何言ってんだよ、まだ来たばかりじゃないか」
「しかし、幻獣や亜人の他にも危険な植物や毒を持った蛇、蛙、昆虫など沢山いましたので、とても人間が暮らせる環境ではありませんよ」
「そうよ、あの二メイルもあるムカデが家の中に入ってきたら、とても正気でなんていられないわ」
「あの種を吹き矢にして攻撃してくる花って本当に植物なのか? 動物を狩ってそのまま栄養にして育つなんてアクティブすぎるだろ」
「だから全部焼き払っちゃいましょうよう」
「まあ、身を隠す事が出来ないからか、森が開けている所にはあまり幻獣がいないと言う事が分かったのが今日の成果だな。開拓する時は火も選択肢の一つという事で、今後は良さそうな地形を捜そう。山と谷ばかりのような所はダメだ」
「成る程、川や崖などで幻獣の進入路を制限できる所ならば何とかなるかも知れないという事ですな」
「まあ五十リーグでも出来ない事もないかなって気もするんだけど、なるべく近い所でそれなりの広さが取れる所を捜したいと思う」
「そんな所無かったらどうするのよ」
「有るまで捜す。今後は午前中に北上して、午後は東の森の奥を探索してみよう。何も二機一緒に飛ぶ事はないな、少し離れて探索すればそのぶん広範囲を調べられる」

 食後バヤマレの街を見て回ったが、特に面白い物はなく早々にシャンツの村へ帰った。
 もう今日は森に入る元気はなかったので村長にこちらの事について色々聞いて過ごす。村長はこの地を開拓した開拓団の一員だったそうで、その時の苦労を色々と話してくれた。
入植して森を切り開き畑を作り、亜人を退け幻獣を狩る。その苦労は相当なものだったそうで、当初の開拓団員で生き残っているのは三分の一にも満たないそうだ。開拓団を作ったシャンツも子爵位を得るまでになったものの、その翌年村を襲った竜と戦い死亡したという。
 息子が跡を継いだものの開拓時の借金の返済に行き詰まり、結局この領地を手放す事になったそうだ。
 開拓に入る時の期待、村を築き上げる辛苦、爵位を得た喜び、そして子爵の死と破産を全て見てきた村長は、ウォルフに東方開拓団とは生半な気概では出来る事ではないと忠告してくれた。

「シャンツ子爵、頑張ったんだなあ。オレも頑張らなきゃ」
「成る程、シャンツ子爵が生涯をかけて教訓を残してくれたというのに、ウォルフが全く参考にする気がない事は分かったわ」
「十分に参考にさせてもらうさ。目標は安全第一で一人の死者も出さない事だな」
「安全第一とか言っている段階で気概を感じられないわ」
「だって開拓をしたいとは思っているけど、人の命を懸けてまでしたいかって言われるとそれ程じゃないしさ」
「えー、普通こんな所まで来る人は命に替えてでもって思って開拓するもんでしょう。そうじゃないと出来ないって村長さんも言ってたじゃない。ノイゾール伯爵領の村人だってある程度の危険はある物だと受け入れていたし」
「全然。命の方が大事だね。安全と水は無料っていうくらいの領地にはしたいと思っているよ」
「…えーと、頑張ってね?」

 話を聞いた後キュルケに突っ込まれたが、ウォルフは無理をする気はまったくない。安全に開拓が出来る目算が立たなければ諦めるつもりだし、出来ると思っていた。
 それにしても、ゲルマニアの貴族社会では人間の勢力と亜人や幻獣の脅威とが拮抗して森の開拓が進まないと言われていたが、どうやら開拓を進める気があまりないと言うのが本当の事らしかった。
確かに幻獣などは多いが、政府が本気になって森を西側の端から順に開拓していけばそれが不可能であるという程では無いように思える。それなのに先に入植した人間の既得権に配慮して森を残しつつ入植するので難易度が跳ね上がっているのだ。
 シャンツ子爵もバヤマレ伯爵の鉱山のすぐ隣から開拓できればそこまで苦労する事はなかったはずだ。
ゲルマニアには既に十分に広い土地がある。畑にする土地などに不足してはいないので、希少な秘薬の原料などが取れ、危険の多い森をわざわざ開拓しなくても良いということなのだろう。



 翌日からは予定通り上空から森の地形を調べる日々が続いた。なるべく広い範囲を調査する為二手に分かれての調査だ。時折森に降りても見たが、毎回ろくな目には遭わなかった。
三日目くらいからは幻獣の調査は十分という事で長距離音響装置・エルラドで上空から幻獣を追っ払ってから森に着陸するようにした。エルラドの効果は抜群で上空からも幻獣が音に追い払われて逃げる様子がよく確認できた。幻獣を追っ払った後で森に降りてみると時々逃げそびれた個体が襲ってきたりはしたが概ね安全に調査が出来た。
エルラドは音の兵器という事でツェルプストー組が興味を示したが、攻撃方法が音なのでメイジなら『サイレント』である程度防げると知ると関心は大幅に下がったようだ。獣を大声で追っ払う機械と認識したようだ。
 地質や植生などの調査をしながら日々北上を続け、一週間目には辺境の森の北辺に到達した。
サボテンのような多肉植物や背の低い灌木しかない荒れ地から始まって、北上するにつれて照葉樹林が落葉広葉樹林になり、針葉樹林になり、徐々に湿原が多くなってついに森と呼べる程のものは無くなった。

「さささ寒いわねー!あちこち雪が残っているじゃないの。幻獣は居ないかもしれないけど、こんなとこ人間なんて住めないわよ」
「レヴァル男爵の話では、トナカイの遊牧をしている人とかトロルとかいるって話だったじゃない」
「そんなの住んでる内に入らないわ。ウォルフったらこんな所でトナカイ飼って暮らすつもりなの?」
「そんなつもりはないけど、ちょっと地下資源には興味があるかな。どうです、デトレフさんなんか分かりましたか?」

 一行はゲルマニア最北の領土レヴァル男爵領から既に五百リーグ程北に来ていた。この旅初めてのキャンプをしようと眺めの良い場所でモーグラを駐めて準備をしている所だ。
 レヴァル男爵領で風石や食料などの物資を補給し、ぐるりと辺境の森を回ってやるつもりでまずは北の果てまで来ているのだ。

「うーん、分かりませんなあ。どうも地中の水分が多すぎるようで私のカンが働きにくい状況みたいです」
「あー、そうか、地下の状態に左右されるんですね」 

 目を閉じて集中して地下の様子を探っていたデトレフが白旗を上げた。あらためて周囲を見回すと確かに沼地だらけである。ここは少し高くなっているものの、こんな状況では土メイジのカンは働きにくいみたいだった。
 その沼地をぐるりと回って薪を拾いに行っていたクリフォードが戻ってきた。一抱えもある木を『レビテーション』で持ってきている。

「だーめだー。薪になりそうな木なんて全然落ちてないよ。生木を切って来ちゃった」
「んー、じゃあリアに水分抜いてもらって。兄さんが自分でやっても良いけど」
「水ってまだ苦手なんだよなー。リアさーん、これちょっといいですかあ!」

 ここらはまだ木が全く無いというわけではなく、まばらな針葉樹とハイマツのような低い木と苔類が生えている。中々薪を捜すのも大変そうだが、魔法が有ればあまり関係のない話だ。
 料理用の火はウォルフが炭素の棒を『練金』したので火はもう焚いていて料理も始めている。薪は外で燃やして獣除けにする為のものである。
皆が料理をしている間、ウォルフはデトレフと一緒に今夜の宿を作る。そんなに凝ったものではなく、二十畳程のドームハウスだ。一応床は高くして中央に暖炉と煙突を設け、断熱に気を使っているので快適に過ごせるはずだ。

「ウォルフ、ご飯出来たけどまだなの?」
「おーう、もうできたから行くよ」

 ベッドなど内装の仕上げをしていたウォルフをキュルケが呼びに来た。デトレフは外の別棟でトイレや風呂を作っている。

「あっきれた。今夜だけ寝られればいいってのにこんなに贅沢に作ってるんだ。ツェルプストーの野営演習では父さまだってもっと質素な所に寝てたわよ」
「お前ら軍人の家系と一緒にしないでくれ。オレは軟弱な都会人なんだ」
「そんな軟弱なのが何でこんなところで野営しようって思うのよ、全く。デトレーフ、ご飯よ! あ、こっちも。お風呂なんて無くたっていいんだからそんなに凝らなくて良いでしょう、何で猫足なんて付けてるのよ!」
「や、お嬢様、これはその、バランスとしてですな…」

ブツブツ言っているキュルケに付いて食事へ向かう。デトレフもものを作り始めると凝ってしまう質らしい。



 今日のメニューはトナカイの肉の串焼きに野菜のスープで、これに固いパンが付く。サラダ位は欲しいものだが贅沢は言ってられない。
料理は全てバルバストルとリアが中心になって作ってくれた。二人で協力して料理を作る姿は新婚夫婦のようで、茶々を入れるだけのキュルケは散々からかって遊んでた。
 
「えー、では皆様お疲れ様でした。おかげさまで辺境の森南北踏破完了です。今後はこの森が東にどの程度続いているかの確認に行きたいと思います。まだまだ大変でしょうが、頑張りましょう!乾杯!」
「「「乾杯」」」

 ちなみにコップの中身はただの水である。もうすっかり日は暮れて、辺りは大分暗くなってきた。外で食べているので寒そうなものだが、焚き火もあるし、テーブルの下にはウォルフが『ライト』の魔法具を改良した遠赤外線暖房機を出しているので、それ程には感じない。
満天の星空の元、焚き火の明かりだけで食べると、もうそれだけでいつもより何倍も美味しく感じられるものである。幻獣の脅威もここではあまり感じない事もあっていつもより話が弾んだ。

「で、さあ。こんな人間も幻獣もいない所まで来たわけだけど、東って言っても何処まで行くつもりな訳?」
「海にぶつかるか、山にぶつかるか、砂漠になるか。何か変化が有るまで」
「変化がなかったら?」
「永遠に続く森なんて存在しない。まあ、積んでる風石の量にも限りがあるし、五日行っても何も変わらなかったら今回はそこまでにしよう」
「あまり代わり映えが無さそうだから飽きちゃいそうね。わたし、リンベルクでもう少し滞在したかったわ」
「あ、俺ももう少しあそこにいたかった」

 キュルケの言葉にクリフォードが同意する。リンベルクはベヒトルスハイム伯爵の子息、ベヒトルスハイム子爵が開拓した町だ。中々面白い発想をする人物らしく、その町は辺境の他の町とは違った様相を呈していた。
森から秘薬の原料を得る為に、探索者という制度を創設して森に入らせ、町はそのサポートをする為に特化したものとなっているのだ。秘薬の原料や幻獣や亜人の情報を公開して誰でも探索者になり易くし、負傷した場合にも適切な治療を受けられる体制が整っている。杖や剣、銃など探索者の装備品も一通りこの街で作っていて安く購入できるし、宿泊場所もピンからキリまで揃っている。探索者用の訓練施設まであって、全くの素人でもこの街に来れば探索者としてやっていけるようになる体制が作られていた。
 森から得た物は常に価格が変動するが、公開市場制を導入しているので売買に余計な交渉が必要ないのも魅力の一つだ。探索者は売りたいものを売りたい価格の時に市場に出せばいいのだ。傭兵をやっているよりも大金を稼げる可能性があるので、一攫千金を夢見るメイジやメイジ殺し達がハルケギニア中から集まってきていた。
そしてその探索者達が稼いだ金を使うのでそれを目当てに人が集まり、辺境とは思えない賑わいを見せていた。
 辺境の森の知識を集めた図書館。見た事もない携帯食料や多種多様な毒や疾病に対応する医薬品。種類が有りすぎてどんなものに使うのか分からない物まである武器や罠の数々。この町は初めて訪れた者にとって尽きる事のない興味を沸き立てるものを持っていた。

「あそこは凄かったな。森の奥百リーグでも人が入っているのには驚いたよ。オレもあそこの図書館にはもう少し居たかったかも」
「俺なんて、ちょっと探索者やってみたいって思ったぜ。一攫千金って憧れるよな」
「あんな風に産業になっちゃってるの見ると焼き払うわけにも行かないわよね。ウォルフもああいうの目指したら?」
「うーん、ああ見えてあれだけの物資をあの辺境に送り込めるようにするのは中々大変そうだよね。政治力もいるだろうし流通にも精通してないとすぐに不足するものが出ちゃうだろう。一度ベヒトルスハイム子爵には会って話をしてみたいなあ」
「確かに色々と工夫はしているみたいだったな」

 リンベルクでは森の奥に探索者を送り込む為に高速風石竜車なる乗り物が開発されていて、三十リーグ近辺までは一時間程度で入れるようになっている。風石で車体を浮上させて竜で引っ張ると言うだけのものだが森の探索範囲を広げるのに一役買っていた。
他にも色々と便利なものがあり、真似するかしないかは別にしてそんな発想が出来る子爵に会う事は有意義な事になりそうだった。

「結局今まで見てきた中で、ウォルフは何処が一番良かったの?」
「うーん、どこだろ。リンベルクより北のマイツェンから川を遡った所が良かったかなあ。あそこの山は結構有望なんだよね」
「ああ、あそこ…でもその村から結構離れていなかったっけ」
「三十リーグ位かな。でも川で繋がってるから大型で足の速い船を造れば幻獣には襲われにくいと思うんだ。平地も多いし、川が合流している所から周囲の山まで広げられれば領地を守る事も少しは楽になるだろう」
「って、その山の洞窟にオークが盛大に巣を作っていたじゃない」
「まあ、それはどこかに退去していただく事にするよ」
「あの数のオークを駆除するとか…大変そう」
「そうでもないだろ。洞窟の奥に発煙筒撃ち込んで、燻されて出てきたのをエルラドで追っ払えばすぐ済むんじゃない?」
「…あなた本当に亜人には容赦ないわね」
「いやしかし、川を利用するのは正しい判断ですな。あの森に道を付けるとなると、工事中ずっと護衛を貼り付けなくてはなりませんし、それがないというのならこれは大きな利点です」
「でしょ? まあ、マイツェンが既に結構森の方へ突出していて、ゲルマニアの中央との距離が遠いって言うのが難点だけど、許容範囲かなって思うんだ」

 ここまで調べてきて、何とかなりそうかと判断したのは三箇所程。非飛行性の幻獣や亜人の進入防止に適し、かつ飛行性の幻獣を撃退しやすい見通しの良い地形という事で選んだ場所だ。いずれも長距離音響兵器が有るからこそ検討の対象になるような場所であったが、北に移動する程虫の類が減ってきて、当初思っていたよりは何とかなりそうな気はしてきた。
特に例に挙げた土地は山に入ったデトレフが銅山があるカンがビンビンすると言っていたし、珍しい鉱石も見つかったので色々と期待が持てる。マイツェンから川を下ったドルスキには温泉があるというのも温泉好きのウォルフにはポイントが高い。
 この後デトレフ達にも良かった場所を順に聞いたが、皆特に良かったと思うような場所は無く、ウォルフの言った所で良いのではないかという結論に達した。

 寝る前に夜間警備の為のガーゴイルをドームハウスの屋根上にセットした。拠点防衛用ガーゴイル「まもるくん」だ。移動する機能はないが、赤外線及び魔力による索敵を行って侵入者を手に持ったエルラドで撃退する事が出来る。
せっかくセットしたまもるくんだったがこの夜は幻獣も亜人も現れず、調査隊員達はウォルフが持ってきたナイロンと羽毛の寝袋にくるまって快適な夜を過ごした。



[33077] 第二章 28~32
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:30


2-28    東進



 北辺の地の朝、ウォルフはいつも通り早朝に目が覚めた。ボルクリンゲンなら太陽が昇るかどうかの時間だが、かなり東に来ているのと緯度が高い為に外はもう大分明るくなっていた。
いつものように枕元のメモ帳を手に取り、寝ている間に考えていた事を纏めてメモしておく。もうずっと続けているウォルフの習慣だ。まだ寝ているメンバーを起こさないように静かに外に出る。北国の冷涼な朝の空気がウォルフの意識を覚醒させた。
 顔を洗おうと水場に近づくとドーム屋根の上にキュルケが座っているのに気が付いた。朝日を見ていたようだ。朝日を浴びるキュルケの事を、黙っていれば美少女なんだよなあ等と思いながら見ているとキュルケもウォルフが出てきた事に気付いてこちらに飛んできた。

「おはよ。はい、タオル。朝は一段と冷えるわね」
「おお、ありがと。早いね」
「デトレフの歯軋りがうるさくて目が覚めちゃったわ。明日からはあんなパーテーションだけじゃなくて女子は完全に別の部屋にしてちょうだい」
「…贅沢にするなって言ってたくせに」
「あら、必要なものは贅沢とは言わないのよ?」
「はいはい、仰せのままに」

 いつもの朝ならばジョギングに行くのだが、ここは走れるような場所がないので省略する。そのかわりいつもは第一か第二のどちらかをやっているラジオ体操を二つともやった。
ラジオ体操は本気でやるとそこそこの運動になるが、音楽がウォルフの頭の中だけで鳴っているのではたから見ると珍妙である。サウスゴータにいる時はエルビラの人形コレクションの一つ「笛吹アルヴィー」に伴奏をさせているのだがさすがに持って来られなかった。

「その変な運動毎日やってるの?」
「魔法使ってると運動不足になりがちだからな。せめてこれくらいは体を動かそうと思ってるんだ」
「ふーん。ちょっとそれが終わったらまた私の魔法見てよ」
「ああ、いいよ」

 キュルケが調査隊に参加することになったとき、ウォルフは毎日杖合わせをさせられる事になるのではないかと危惧したが、今のところそれは無い。キュルケは勝てる見込みのない勝負はしない質のようである。
代わりにこうして時間が空いた時に家庭教師のような事をさせられている。ウォルフはキャンプ用の警戒装置やモーグラの自動操縦システムやらの改良、安全航行支援装置の開発、採取した鉱物の分析など色々と忙しいのだが、時間が許す限りは相手をする事にしていた。



 キュルケの主力魔法は『フレイム・ボール』である。これまで大きくする事を主眼に置いて練習してきたというそれをウォルフは圧縮するように要求してきた。

「どうかしら。結構集束できるようになったと思うのだけど」
「うん、おかげで速度が上がるようになったな。その状態で温度を上げて行ければ良いんだけど」
「酸素を出すとか言うのは良く分からないわ。青い炎ってのも好みじゃないし、何か他に良い方法無いの?」
「んー、じゃあ、あいつの真似をしてみるか…」

 杖を構え炎を出す。いつもの青いプロパンの炎から酸素の供給を止め、普通のメイジと同じオレンジ色の炎にする。

「キュルケの炎だとこんな感じだろ?ここから精神力を直接熱エネルギーに変換していくと…」

 杖の先から出る炎は次第に輝きを増し、やがて真っ白に輝く炎となった。 

「これが、キュルケを襲った傭兵メイジが使っていた炎。多分、より高い温度を求めて実現したんだと思う。大丈夫?」
「え、ええ、大丈夫。…この炎、私も使えるようになるの?」
「それはキュルケ次第だな。やってみる?」
「もちろん。これが出来る様になるのなら何かが変わる確信があるわ」

 かつて自分を襲った炎を硬直して見つめていたキュルケだったが、ウォルフの誘いには力強く肯いた。その瞳には力への恐怖と力への渇望とが渦巻いて映し出されているようだった。
その渇望に応じ、ウォルフは精神力のエネルギー変換を詳しく教える。ブリミルの粒理論を元に質量とエネルギーとの関係を明らかにし、精神力と呼ばれている体内に溜め込んだ魔力素をエネルギーに変換して放出する事を教えた。

「精神力で火を喚ぶんじゃなくて、直接エネルギーってのに変換するのね?」
「そう、熱はエネルギーであり、光はその放射形態なんだ。温度のあるものは全て光を放射している。放射される光には目には見えない光もあるけど、オレら火メイジが温度を認識するのはこの目には見えない光を見ているんだよ」
「わかった、やってみる…《ファイヤ》!」
 
 キュルケが練習を始めたのでウォルフはその場を離れてお茶を入れる。もうリア達も起き出して朝食の準備を始めていた。

「お早うございます。朝から精が出ますね」
「おはよう、全くだねえ。キュルケはデトレフさんの歯軋りで起きたって言ってたけど、気になった?」
「いいえ、キュルケ様はここの所ちょっと眠りが浅いみたいですから」
「うーん、そうかー」

 表面上は明るくなっていても色々とまだ大変そうである。人数分のお茶を入れて自分の分をカップに注ぎ、椅子に座って飲みながら練習するキュルケの様子を見守った。やがて朝食の準備が整い、キュルケも練習を切り上げて戻ってきた。

「全然感じがつかめないわ。何かこつとか無いの?」
「うーん、とにかく温度を上げるようにイメージしてみたらどうかな。エネルギー変換の事を頭の隅に置きながら」
「おはよー、何の話してるの?」

 イメージをつかめないキュルケに更にアドバイスを与えていると、起きてきたマリー・ルイーゼが訊いてきた。誰も倒せなかったという襲撃メイジの魔法を教わっていると聞くと俄然興味を持ったみたいで、食事中は火メイジ三人でずっと話をしていた。クリフォードはバルバストルと風魔法の話をし、その他二人はどちらかの話に耳を傾けるといった感じだ。
話題はこれまでの戦いの検証に移り、キュルケには腑に落ちない点が有るみたいで訊いてきた。

「そう言えば、何でウォルフは日頃あの炎を使ってないの?あれ使えばもっと楽に勝てるんじゃない?」
「まあ、そうなんだけど、威力が有りすぎて延焼が怖いし、あれは肌に悪いんだよ」
「「……は?肌?」」

 キュルケとマリー・ルイーゼが硬直する。突然肌と言われてもすぐには何の事か分からなかった。

「簡単に言うと日焼けしちゃうんだ、あれは。オレら白人種は日焼けに弱いからな、日頃は使う事無いと思っている」
「キュルケ、わたし何だかやる気が無くなって来ちゃった」
「…わたしは日焼けに強いから大丈夫よね。気にした方が良い?」
「まあ、出来たらの話だけどね。もう少し温度下げるとかサラの化粧品を使えば問題ないと思うけど」
「サラ?……ああ、「sara」ね!まだ良いかと思っていたけど、買ってもらおうかしら」
「高すぎて私のお小遣いじゃ無理ー」
 
 六千度もの高温になれば放射される電磁波には紫外線も多く含まれる。一つイメージのステップが多いのでその分ほんの僅かではあるが魔法の発動が遅れるし、白人のくせに顔だけ真っ黒とかになりたくない、というのがウォルフが魔力素エネルギー変換を行わない理由であった。 
 話題がサラの化粧品の事に移り、何であんなに若返るのかいろいろ聞かれた。ウォルフは自分が開発した訳じゃないのでこまかいところまでは知らないと言ったのだが、この話題に対する女性陣の食いつきは凄くて、特に途中から会話に割り込んできたリアは熱心に色々聞いてきた。やはり水メイジとしては興味があるのだろう。



 ちょっと話が長くなって出発が遅れたので急いで片付けて出かける支度をする。ドームハウスはこのまま誰もが使える山小屋的施設として残していくつもりだ。出発前に利用に当たっての注意事項を壁に書き込んだ。

「えーと、清潔に利用して下さい…利用後は利用前より綺麗になるように清掃してから退去して下さい…あと何か書く事有るかな」
「細かいわねえ、どうせこんな所人なんて来ないわよ」
「いいんだよ、気分だ気分。季節はずれの吹雪とかで難儀した人がこのドームハウスで助かるかも知れないじゃないか」

 細々と書き込んでいるウォルフの後ろで茶々を入れていたキュルケが、ふと、真面目な声になり、訊ねてきた。

「ねえ、ウォルフ、私の戦い方はどうかしら。ちゃんと戦えてる?」
「んー?まだちょっと、亜人相手だとオーバーキルになってんな」
「それは、問題があること?」
「冷静になれてないって事だし、最小限の精神力消費で倒す事が数を相手にする時には必要だと思うから、もっと戦況を客観視した方が良い」
「…わたし、絶対にあの炎を使えるようになるわ。この旅の間には必ず」
「頑張れ。魔法にとって"思い"ってのは凄く大事な要素だ」
「……うん」

 ドームハウス利用上の注意事項を書き終わり、出発しようと後ろを振り向く。丁度、キュルケが少し離れた所に駐めてあるモーグラに乗り込む所だった。



 いよいよ東進を始める。これまでは幻獣の調査の為低い高度を飛ぶ事が多かったが、今日は高々度で一気に距離を稼ぐ。
速度を増しながらモーグラが徐々に高度を上げる。眼下に広がる大陸には延々と森林が続き、何処までもそれが続いているように見えた。いくら進んでも変化のない、単調で退屈なフライトだ。狭い機内で強ばった体をほぐす為、そろそろ休憩にしようかという頃、ようやく変化が現れた。
 前方遙か彼方に南北に続く山脈らしき物が見えたのだ。

「来ましたよ?変化。あの雲の上のは山だろう」
「来たねー。もうこのままずっと森が続くかと思ってたよ。このままあそこまで行っちゃうのか?」
「いや、まだ五百リーグ以上はありそうだから一回休憩入れよう」
「ウォルフ!見た?山が見えるわよ!」
「おー、こっちでも確認していた所。休憩にしよう」
「オーケー、高度下げるわ」

 各機に積んである遠話の魔法具からキュルケの声が飛び込んでくる。向こうも興奮しているみたいだ。今日のモーグラ割りは女子とバルバストルが二号機だ。休憩後はその時話していた内容によって女子がばらける事もあるが朝の出発時は大体この割り振りになっている。
あの山の高さは分からないが、今の高度を考えるとまだまだ距離があるので一旦休憩を取り、すぐにまた出発する。最近は午前中の休憩は軽く取り、午後の休憩を長めに取るようになっている。

 休憩から二時間程飛ぶといよいよ山脈が近づいてきた。前方の山は標高三千メイル位、北に行く程標高は低くなり、南に行くにつれ高く、また何重にもなっていて何処まで続いているのかは見えない。

 徐々に近づいてくるまだ雪が残る山肌には竜はいないようだ。やがて山脈を飛び越えると高度を下げ、山頂より少し下がった平らな雪原に着陸した。

「いやーったぜーっ!!ついに脱出ハルケギニア!」
「これは一人の人間にとっては小さな一歩であるが、ハルケギニア人にとっては偉大な飛躍であーる!」
「何言っちゃってんの?ウォルフ」

 キャノピーを開けて叫んでいるクリフォードを尻目にウォルフはさっさと一番乗りで雪面に降りた。キュルケに突っ込まれるが気にせず見晴らしの良い所まで走った。アポロの話なんてハルケギニア人で分かる人間はいないだろう。
眼前には何処までも続く地平線とこれまでと変わらない大森林が広がってた。空から見ていた景色ではあるが、改めて地に足を付けて見るとまた、違った物に見えてくる。
 暫く東の方角を眺めているとキュルケも横に来て一緒にこの雄大な景色を眺めた。
 
「人間はいなそうねえ」
「エルフもな。ハルケギニアの外は全部エルフの住む砂漠だとか言ってた奴らにこの景色を見せてやりたいよ」
「そう言う人はこの森のまだまだ向こうにサハラがあるって言うんじゃない?」
「はは、行った事もないくせに良く言うよな」
「こんな所まで来たけど、こんな遠くに入植する気はあるの?」
「今のところ無理っぽいけど、将来的には鉱山開発位はするかも知れない」
「はあー、物好きねえ、こんな遠くで…」

 ハルケギニアは封建領主制なので鉱山開発をするのに一々土地土地の領主と交渉し、許可を得なくてはならない。おかげで調査するだけでも大変で、ウォルフが必要とするタングステンなどのレアメタル等、いつまで経っても見つけられそうもなかった。
その点誰の物でもないこの地なら、広大な範囲を調査し、必要な資源を得る事も可能であろう。前世の記憶でロシアや中央アジアと言えば資源が豊富という印象が有り、ついこちらの世界でも、と期待してしまう気持ちもある。
 ウォルフは色々と妄想を広げているが、キュルケは全く興味が無い様子である。キュルケ程好奇心旺盛でも外の世界に対する興味というのは薄いらしい。さすがは六千年もあの世界に留まり続けた生粋のハルケギニア人ということだろうか。

 見晴らしの良いこの場所で朝に作ってきた昼食を摂り、方角を変え今度は山脈に沿って南下する。二百リーグ程進むと時々トロル鬼などがいるのが見え始め、更に進むと山脈に風竜が巣を作っているのが見えた。山はますます高くなりその裾野も広がっている。
竜のいる所に着陸するのは危険なので少し戻った川のほとりで野営した。ここは山からの土砂が長い年月深い谷に堆積して出来た平地で、荒々しい山々に囲まれた清らかな川の流れと新緑の木々は中々の景勝地だ。その眺めのよい場所に前日と同じようなドームハウスを建てた。
 夕食はクリフォードが捕ってきた鹿がメイン料理だ。キュルケとバルバストルと三人で狩りに行って、キュルケが勢子となって仕留めたそうだ。
 クリフォードがせっかく捕った鹿の皮を持って帰りたいとごねたので山育ちのリアが皮を剥がして処理してくれた。『リムーブ』というウォルフも初めて見る魔法で皮下組織を取り去り、水魔法で洗浄乾燥し更に『タンニング』という魔法でなめす。『タンニング』には鹿の脳みそを併用して皮を柔らかくする魔法だが、脳を取り出して煮込むのがちょっとグロい。仕上げに薪の上に櫓を組んで燻せばできあがりだ。これはメイジなめしと言ってふつうの毛皮よりも高級品になるそうだ。

 翌日も南下を続け、竜を避けて高々度を飛びながら時折山脈の東西を行き来して地上を観察した。南下を始めた地点から八百リーグ程来たあたりで山脈は最も高くなり、恐らく六千メイル級と思われる偉容を見せていた。
このあたりを境に南から北へ流れていた川が北から南へと流れるようになり、南側では山脈の左右に二筋の流れを作っている。更に南へ二百リーグ程来たあたりに六千メイル近い火山があり、噴煙を上げていた。その火口付近は大きなカルデラとなっており、大量の火竜が巣を作っている。
 この火山がこの山脈の最も新しい山のようで、ここで山脈は終わり南側はなだらかな斜面が続いている。その斜面の途中までは背の低い森があるが、その先は二筋の川に挟まれた広大な草原になっているのが見える。草原の西を流れる川の西側は辺境の森が続いているが、東側の森は火山の辺りから徐々に草原に移行している。この辺りの緯度ではこの川が辺境の森の境界と言っていいだろう。
 
「お!あそこ温泉湧いているんじゃないかな。噴煙とは違う湯煙が上がってるぞ!あ、あっちにも」
「いいですなあ、私もガリアにいた頃は良く火竜山脈の野湯に行ったものです。いつ火竜に襲われるか分からないのがちょっとなんですが、良い物でしたよ」

 火口から南へ大分下がった辺り、標高二千メイル付近の西斜面で広い範囲にわたって無数の噴気が上がっているのが見える。火山にはつきものの温泉だ。東側斜面にも同規模の温泉が見え、どちらの温泉も滝となって川に流れ込んでいるのが良く見えた。他にも斜面のあちこちで湯煙が上がっているのが見え、ここは温泉天国のようだった。

「火竜と混浴は嫌だけど、こっちにはいないみたいだし、降りてみるか」
「ええー、ちょっと離れた所にあんなに火竜がいるのよ? 温泉なんてゲルマニアのテルメで良いじゃない」
「ぐるっと回り込んで高度を下げてから近づけば奴らからは見えないから大丈夫だよ。火竜の勢力範囲では他の飛行性の幻獣もいないだろうしね」

 キュルケの懸念を一蹴し、慎重に高度を下げる。そう、ウォルフは温泉に目がなかった。火竜山脈に行った時は地質調査をかねて温泉地を結構回ったし、ゲルマニアでも虚無の曜日に近くのテルメに出かけるなんてのはしょっちゅうだ。
せっかく見つけた温泉に入らない選択肢など無いのだ。近くにモーグラが駐められる平地のある東斜面の温泉を選んで降下する。

「うわ、なにこれ変な臭い」 
「うおおー、良い匂い…《ディテクトマジック》」
「ちょっとウォルフ何で降りないの?」

 キャノピーを開いたとたんに漂う硫黄の匂いにキュルケとマリー・ルイーゼは顔を顰め、ウォルフとバルバストルは目を細めた。

「あ、ちょっと待ってて、今、毒の濃度を測ってるから」
「ど、毒?! 何でそんなのがあるの!」
「お嬢様、火山から吹き出す風には毒が入っている事があるのです。むやみに動かないで探査してから行動するようにして下さい」
「んー、大丈夫だ。火竜山脈の温泉地並みだな。一応、この毒は下の方に溜まるからむやみにしゃがみ込んだりしないように。へたに高濃度のを吸い込むと死ぬから」
「…火竜が来るかも知れない、毒が吹き出す所に何でわざわざ行くの? ねえ、何で?」
「さあ、行こう! 丁度良い温度だと良いなあ!」

 キュルケの呟きはウォルフの耳には入らなかったようだ。ウォルフはタオルを用意してとっとと降りると『ディテクトマジック』で硫化水素濃度を調べながら源泉の方へ歩いていった。

「ああ、もう、行っちゃった。なんなの?あの子」
「あいつ昔から異常に温泉好きなんだよ。魂の故郷とか言っていた事もある位」
「お嬢様、昼食は私が用意していますから、温泉に入ってきたらいかがかしら?」
「うーん、一応見に行くか」

 周囲は火山性ガスの為草一本生えていない荒れ地だ。ここには温泉以外見るべき物は何もない。ただぼんやりと待つのは性に合わないのでキュルケ達も源泉見学に行く事にした。一応タオルを持って。
やはり『ディテクトマジック』で探査しながら歩くバルバストルを先頭にキュルケとマリー・ルイーゼそれにデトレフが続く。リアは昼食の準備、クリフォードは火竜警戒のため長距離音響兵器を持ってモーグラに待機している。みんなクリフォードが自分からそんな事を言い出したので驚いたが、実はウォルフが行く時に遠話で頼んでいたとの事だ。
 五分も歩かないうちに方々から噴気が吹き出す地帯に入り、足元には源泉が川となって流れるようになる。源泉はそこら中にあり、地面から音を立てて湯が噴き出している様は初めて見るキュルケには不気味な物に見えた。

 更に少し上ると作った湯船に魔法で近くの源泉から湯を注いでいるウォルフを発見した。その湯船は十人程は入れそうな大きな物で、既に半分程湯が入っている。この分ならばすぐに湯を張れそうだ。

「ウォルフ、何やってんの? もしかしてこれがバスタブなの? ゴミが浮いているわよ」
「遅いじゃないか。ゴミじゃないって、これは湯ノ花」
「ええー? なんかちょっとやな感じね」
「もうすぐ入れるけど、キュルケ達も入る? だったら仕切りと脱衣所位作るけど」
「仕切と脱衣所って、こんな大きい湯船作るくせに浴室作らないの? こんなところで裸になんてなれないわよ」
「あー、ほら毒の風があるから、湯小屋作るのちょっと難しいんだ。毒が籠もると死ぬ可能性があるからさ」
「……」

 作れない事はないがウォルフとしては硫化水素対策に窓を増やすと『練金』で作るのは大変になるので我慢してもらうつもりで言っている。他に人も居ないんだし、仕切と脱衣所が有れば十分だろうと思ってのことだ。ぶっちゃけ、面倒くさい。
 キュルケとマリー・ルイーゼは後ろを振り返った。この斜面は開けた所にあり、標高も二千メイル程有るので眼下には深い峡谷を挟んで辺境の森が延々と広がっている。地平線まで見渡せるその開放感たるや相当な物で、二人はここで服を脱いで裸になる自分を想像できない。微妙な年頃なのだ。
湯船を振り返り、今度は上を見る。空は何処までも青く、時折火竜が飛んでいて太陽が眩しい。絶対に無理だと思った。

「ごめん、ウォルフ。せっかくのお誘いだけど、ちょっとこれには入れないわ」
「私もちょっと…」
「残念だな。じゃあ下で待ってて、ひとっ風呂浴びたらすぐ戻るから」
「うん…」
「戻る時は飛んで行くと毒風に当たる心配がないよー」
「「……」」

 フラフラとキュルケとマリー・ルイーゼが帰って行く。ちょっとカルチャーショックを感じているみたいだ。そうこうしている内に湯が張れたので温度を確認して残った三人は早速入る。服を脱ぎ、かけ湯をしていよいよ至福の時間だ。
 
「あ゛ー、良い湯だあ…」
「や、これは生き返りますなあ」
「熱っ、これ下から湯が沸いているんですか」
「そうそう源泉の上に湯船作ったから、足元湧出温泉だね。熱い所は避けて入って」
「新鮮な温泉という事ですな。こんな形式は中々見た事無いですね」
「もったいないよなあ、キュルケ達も入ればいいのに」
「ははは、女子にはこの豪快な風呂の良さは分からないでしょう。この素晴らしい景色! 命が洗われるようです」
「全くだね。あ、また火竜が飛んだ。ここは火竜の湯だな」

 そのままのんびりと景色を楽しみ時折飛び交う火竜を眺めながら暫しこの贅沢な時間を楽しむ。リラックスして時々会話をしながら湯につかり、熱くなったら湯から出て風に当たり、涼しくなったらまた湯に入る。バルバストルのガリア時代の武勇伝などを話していると、クリフォードが『フライ』で飛んできた。

「あれ、兄さん、兄さんも入る?」
「ウォルフ! いつまで入ってんだよ! キュルケ達すっげえいらいらしてるぞ」
「あれ、もうそんなに時間経った?」
「や、一時間も経ってる。これは不味いですな、思わず時間を忘れました」

 慌てて風呂から上がって戻ったのだが、キュルケ達の機嫌はひどく悪い。既に自分達は昼食を終えて、憮然として待っていた。
いろいろと機嫌をとってみるが中々直らないのでこの日はもう移動する事をやめてここに泊まる事にし、夜までに女子用の風呂をウォルフが責任を持って作る事を約束するに至ってようやくキュルケの機嫌は直ったのだった。



 ウォルフが女子浴室を作る間、キュルケはマリー・ルイーゼとバルバストルをつれてセグロッドで山を降りる事にした。森まで行って何か獲物を狩って来るつもりだ。

「ここら辺、本当に何も出ないわね」
「身を隠すような物がありませんから、ネズミのようなのしかいませんね」
「それって、火竜がよく飛んでいるから?それだと、私達も危なくない?」
「注意は怠らないようにしましょう。やはり狩りをするなら西の森ですね」

 温泉の停泊地から南方面へ下ってみたのだが、腰程の高さの灌木がまばらに茂り、時折イタチやネズミのような小動物や蛇などを見かけるだけで幻獣や亜人はいないようだ。
進路を変更して西側、ハルケギニアの方向へと向かう。暫く下り坂を勢いよく走っているとやがて深い峡谷の上に着いた。行く手には高さ五十メイルもの崖が大地に深く刻まれ、その下を綺麗な水色をした川が滔々と流れていた。
どうやら温泉の成分が流れ込んでいるようで、崖の下まで降りてみたが生き物の気配を全く感じない川だった。
 『フライ』で崖を登り、西側ゲルマニア方面へと出ると暫く灌木混じりの草原を走ってその先の深い森へ入る。ゲルマニアと接している辺りの森とは多少植生が違うようであまり大径木は生えてないが、その印象は全く変わらない深い深い森だ。

「この森は…出ますね。お嬢様方、お気を付け下さい」
「あー、またこの森に入るのね。キュルケ、獲物って何を狙ってるの?まだお肉は昨日の鹿が一杯残っているみたいだけど」
「分かんないわよ、とにかくクリフの毛皮よりもゴージャスなのが良いわ」
「あの毛皮見て自分も欲しくなったのね?でもキュルケの魔法だと毛皮が燃えちゃうんじゃないのかしら」
「う…『マジック・アロー』があるわよ」
「『マジック・アロー』ですと大きい獲物には通用しないでしょう。毛皮ならば先程のイタチの類が良いのではないですか?」
「いやよ、あんなちっこいの…って何か来たみたいね」

 深い森の中、前方の茂みに何やら複数の気配がある。キュルケ達はセグロッドから降りて迎撃する体制を整えた。
茂みの中から飛び出して襲ってきたのはオーク鬼、豚の頭と肥満した肉体を持つ亜人だ。二メイルもの巨体を持ち、魔法にもある程度耐性があるので厄介な相手だがこっちにはスクウェアメイジもいるのでさしたる脅威ではない。

「はっはーっ! 燃えなさい! 《フレイム・ボール》」
「キュルケったら随分とテンション高いわね、《フレイム・ボール》」

 キュルケとマリー・ルイーゼでオーク鬼に次々と魔法を撃ち込む。飛び出した勢いのまま激しく燃え上がったオーク鬼は醜い悲鳴を上げて地面に転がり、それを見た後続のオーク鬼は恐れを成して逃げ出した。

「ふん、逃がすもんですか。追うわよ!」
「え、逃げてくなら追わなくても良いんじゃ」
「あ、お嬢様お待ち下さい」

 バルバストル達の制止を振り切ってキュルケはセグロッドで逃げたオーク鬼を追い立てた。一匹、一匹と火達磨にして最後の一匹を追って森の中の少し開けた草原に出ると、そこには今キュルケが追ってきたオーク鬼を頭からくわえた地竜がこちらを見つめていた。

「ラ、ランドドラゴン!」
「お嬢様、お下がり下さい!」

 セグロッドを急停止させたキュルケを後ろから追いついたバルバストルが庇う。二メイルもの身長と肥満した巨体のオーク鬼がまるで虎に捕まったウサギのようにプラプラと揺れている。その巨大な竜は、圧倒的な存在感でこの森に迷い込んだ人間を睥睨していた。
 地竜とはハルケギニアではもう野生の個体をほとんど見る事が無い竜である。飛ぶのを苦手としているが幻獣の中で最も走るのが速いと言われ、地中に潜る時にも使う前足には鋭い爪がありその爪での攻撃は素早く強力だ。火竜程ではないがブレスも吐くし、鉄よりも遙かに固いと言われる分厚い鱗で守られている為倒すのは相当難しい。通常十人以上のメイジで討伐するものというのが一般的な認識だ。
どさりと咥えていたオーク鬼を地面に落とし、ゆっくりとこちらに近づいてくる地竜。長年にわたりこの森の最強覇者として君臨してきた幻獣の迫力に、キュルケとマリー・ルイーゼは身動きすら取る事が出来なくなっていた。
 地竜の縦に裂けた瞳孔が細まる。この竜がただの餌としてキュルケ達を認識している事が何故だかよく理解できた。

「ミス・ペルファル、お願いします、キュルケ様を連れて逃げて下さい。ここは、私が食い止めます」
「わ、わかった。お願い、ホラ、キュルケ早く!」
「う…あ……」
「早く! 《エア・シールド》!」
「ああ、もう《レビテーション》」

 何とか体を動かせたマリー・ルイーゼが未だ硬直して動けないキュルケを『レビテーション』を使用して浮き上がらせ、そのまま後ろ向きに膝の辺りを抱え上げて連れ去る。移動は片手運転のセグロッドだ。
逃げようとした人間に地竜が炎のブレスを吹きかけたが、間一髪でバルバストルが魔法で食い止めた。

「ふふふ、これほど強い相手とやるのは久しぶりだな。風のスクウェアの実力、その身で思い知るが良い」

 バルバストルとて一人でこの竜を仕留められるなどとは思っていない。キュルケを逃がすためだけの戦いが、始まった。




2-29    ドラゴンバトル



 ゲルマニアから遠く離れた深い森の奥、バルバストルは一人地竜の前に立つ。
地竜の走る速さはセグロッドよりも速い。地竜にキュルケ達を追わせる訳にはいかなかった。

「《ウィンディ・アイシクル》!」
「シャーッ」

 杖の先から生み出された何十もの氷の矢が地竜を襲う。目、鼻、口、喉、腹、腕の付け根、肘の内側、地竜の体の弱そうな部分を正確に狙って放たれた魔法ではあるが、それは尽く強固な鱗にはじかれた。
攻撃された事に怒った地竜が素早く襲いかかり、その強力な爪で必殺の一撃を繰り出す。バルバストルは何とかその一撃を躱して間合いを取るが、一発でも掠れば即死の攻撃である。
 風メイジにとって地竜は最も相性の悪い幻獣だ。大昔の地竜討伐の様子を記した書にもまず風メイジは出てこない。大抵は土メイジが穴を掘って罠を作り、そこに地竜を誘導して罠に嵌った時に複数の火メイジで炎を浴びせ、蒸し殺すというのが地竜の退治方法だ。
通常の風魔法だと効果がないかと思って『ウィンディ・アイシクル』にしてみたのだが、全て跳ね返されてしまった。

「ふん、キュルケ様が逃げおおせるまで、もう少し付き合ってもらうぞ《エア・カッター》《マジック・アロー》!」

 どちらの魔法も鱗にはじかれ、また爪での攻撃を受ける。

「ではこれならどうだ、《ライトニング・クラウド》」

 攻撃を躱して放った電撃は一定の効果を地竜に与えたみたいで、多少嫌がる様子を見せたがそれだけだった。攻撃が緩くなる事も動きが鈍くなる事もなく、ますます盛んに反撃してくる。
恐らくこの様子ではスクウェアスペル『カッター・トルネード』でも効果はなさそうだ。対人戦ではその速度で優位な風魔法もこの最上級の幻獣には効果が薄い。バルバストルはキュルケが逃げた距離を計算し、何時自分も撤退するか、地竜の攻撃を躱しながら慎重にその機会を覗っていた。


 
 一方キュルケを肩に担いだままマリー・ルイーゼは必死に森の中を駆ける。もう少しで森を抜けるはずだった。

「下ろして」
「え? ちょっと、大人しくしてて。もうすぐ安全なところに出るから」

 キュルケを抱えているので咄嗟の襲撃には対応しづらい。周囲の警戒に意識は向けている。
幸い先ほど倒したオーク鬼が撒き餌になっているのか、幻獣が襲ってくる気配はなかった。

「下ろしてってば、わたしはまだ闘ってない!」
「わ、わ、っちょっと!」

 突然暴れ出したキュルケにバランスを崩され、やむなく急停止する。二人がもつれて転んでしまったが、キュルケはすぐに起き上がって自分のセグロッドに乗ろうとした。

「ちょ、ちょっとキュルケどうするつもりよ、そっちはダメよ」
「戻らなきゃ。置いて来ちゃった」
「何言ってんの、何のためにバルバストルが残ったと思っているの」

 走り出そうとするセグロッドを掴んで止める。こんな森の中で立ち止まっているだけでも嫌なのに、戻るなんて正気とは思えなかった。

「だから、戻るの!・・・あれは、わ、わたしの獲物なのよ!」
「怖くて身動きが取れなかったくせに何言ってるのよ!バルバストルもきっと後から逃げてくるから」
「怖いから、怖いからこそ戻るのよ。ここで逃げたら、また外に出られ無くなっちゃう。あのベッドの上に戻る事になっちゃう」
「で、でも、死んじゃったら元も子もないから、ね?」
「行かせて、マリー。バルバストルがヴィリーみたいになっちゃったら、わたしはもう二度と杖を握れない」

 ヴィリーは襲撃事件で命を落とした家臣の一人だ。彼がキュルケに覆い被さって庇ってくれたからキュルケは死なずに済んだ。
ヴィリーの事を口にする、その表情は怒りでも悲しみでもない。感情を全く感じさせず、まっすぐに睨み付けてくる顔はマリー・ルイーゼが初めて見るものだった。
 何を言えばいいのか、どうすればいいのか、分からなくなったマリー・ルイーゼの腕を、とうとうキュルケが振り解いた。

「…わたしは行く。マリーは一人で逃げれば良い」
「あ、キュルケ、待ちなさい!」

 制止するマリー・ルイーゼを振り切り、キュルケは地竜のいた草原へとセグロッドを戻らせる。その顔には悲壮な決意が浮かんでいた。



 草原に戻ったキュルケが見たものは圧倒的な力で攻撃する地竜と、それを何とか躱しながら時折反撃するバルバストルとの激しい戦いであった。地面はえぐれ、木はなぎ倒され、所々ブレスが焼き払ったのであろう焦げた地面はブスブスと煙を上げている。
暫く呆然とその激しい戦いを見ていると、戦闘中のバルバストルがこちらに気付いた。

「っ! お嬢様、何故戻ってきたのですか、早くお逃げ下さい」
「ほら、ね? キュルケ、バルバストルもああ言ってるし、逃げよ?」

 なおも下がらせようとするマリー・ルイーゼの手を振り払い、地竜に向かってセグロッドを進める。ゆっくりと近づくキュルケに地竜が気付き、振り向いた。
バルバストルが自分に注意を向けようと魔法で攻撃するが、地竜はうるさそうに首を振っただけで、キュルケとバルバストルを見比べてどちらを攻撃すべきか迷っている。

「たかが、トカゲの親玉じゃない。偉そうにしてるんじゃないわよ! 《フレイム・ボール》!」
「ああ、もうキュルケったら! 《フレイム・ボール》」
「ギュルルッ」

 地竜と目があった瞬間、キュルケは奥歯を噛みしめて睨み返し、己を鼓舞するように叫ぶと魔法を放った。以前のようなそこそこの大きさだけが自慢の『フレイム・ボール』ではない。小さく集束し、高速でそのエネルギーを一点に撃ち込む、ウォルフ直伝の『フレイム・ボール』である。
事ここに至ってはマリー・ルイーゼも説得を諦め、キュルケに続いて地竜を攻撃した。こちらの『フレイム・ボール』も旅に出る前より威力が上がっている。
 地竜はキュルケとマリー・ルイーゼの攻撃を受け、少し嫌がるそぶりを見せたがすぐさま炎のブレスで反撃する。火竜には劣るとは言っても竜のブレスである。途轍もない攻撃力な訳だが、キュルケはそれがあのメイジやウォルフが見せた白い炎よりも温度が低く、自分の『フレイム・ボール』よりも速度が遅い事に気が付いた。
それだけでこの竜を倒せるという訳ではなかったが、その事実はキュルケの緊張に囚われ硬直した体を解き放った。マリー・ルイーゼと共にセグロッドを鋭くターンさせて展開し、難なくブレスを避ける事が出来た。

「ふ、ふふ、やってやるわよ、トカゲ。覚悟なさい」

 再び放たれたブレスを躱すと草原を縦横に走行しながら次々に魔法を放つ。連続して放たれる火球は面白いように地竜に当たった。

「ちょっと嫌がってるみたいなんだけどな、マリー!着弾点を集中してみましょう」
「うわったっ、た。危ない危ない。オッケー、じゃあ、喉を狙うわ。《フレイム・ボール》」
「喉ね、了解《フレイム・ボール》!」

 ちょこまかと走り回りながら二人で攻撃を放つと、地竜は的を絞れずに幻惑される。火球を受けるのは嫌なようで避けようとするが、キュルケ達が避けさせない。
地竜のブレスが途切れた瞬間にキュルケが懐に飛び込み、急停止して魔法を放つ。魔法が喉に当たった瞬間には後退してその鋭い爪を躱して安全圏に離れ、今度はその前をマリー・ルイーゼが魔法を放ちながら横切る。そちらを追いかけようとするとした地竜に今度は反対側からキュルケの砲撃が襲いかかる。
 セグロッドの機動性を最大限に利用して二人は絶え間ない攻撃を続けた。地竜のトップスピードは速いが、その体重故にゼロから三メイルくらいまでの加速はセグロッドに分があり、細かいターンも得意ではない。僅かな利を最大限に生かしたぎりぎりの攻防だ。

「うわ、《エア・ハンマー》危なっ! お嬢様、危険です、今すぐ下がって下さい!」
「ありがとう、助かったわ《フレイム・ボール》! 何で下がるのよ、今良い所でしょう、マリー!」
「チャーンス! 《フレイム・ボール》」

 草原に飛び出していた岩に足をぶつけてバランスを崩したキュルケが転倒し、それに追いつこうとしていた地竜をバルバストルが横から『エア・ハンマー』で殴り倒した。もんどり打って倒れた地竜にマリー・ルイーゼが魔法を集中させ、キュルケは素早く起き上がってまた走り出す。
さっきまでキュルケを止めようとしていたマリー・ルイーゼも今となってはノリノリで攻撃している。バルバストルはこの少女もキュルケに負けず劣らずの戦闘狂だった事を思い出した。

「いや、今だって私がいなかったらキュルケ様はやられていました。お願いです、下がって下さい」
「でも、今みたいにあなたが守ってくれるんでしょう? 《フレイム・ボール》マリー、左から絞って!」
「いや、しかし…」

 いつのまにか、キュルケの顔は笑っていた。マリー・ルイーゼも笑顔で魔法を放っていて、護衛対象が指示を聞いてくれずに危険に突っ込んでいくこの事態をどうすればいいのか、バルバストルは泣きたい気分になった。

「バルバストル!」

 なお何事もなかったように立ち上がる地竜を前にキュルケが声をかけた。

「はっ」
「あいつの喉が大分赤熱しているわ。『ジャベリン』を撃ち込んでみてくれる?マリー、注意を引きつけて!」

 キュルケに言われて地竜を見てみると確かに喉の鱗が繰り返された攻撃により集中的に熱せられ、赤くなっている。今ならあの馬鹿みたいに硬い鱗も強度が下がっているかも知れない。

「《フレイム・ボール》ほら、今!」
「くっ…《ジャベリン》!」

 『ジャベリン』は氷の槍を投擲する魔法だ。太く長い氷の槍は『ウィンディ・アイシクル』よりも威力が高い。その魔法をキュルケの『フレイム・ボール』が当たった直後に寸分違えず同じ場所に当てた。
激しい音と水蒸気が立ち上がり、丁度目の前を横切るマリー・ルイーゼの方に体を伸ばしていた地竜は、後方へはじかれるようにして倒れた。

「やったか? …ちっ」
「いいじゃない、利いてるわ。ホラ、喉の鱗にひびが入ってる。もう一回やってみましょう」
「オッケー、また温度が上がるまで喉を炙るのね」
「そうね、バルバストルは合間に『エア・カッター』で攻撃して注意を逸らして。炙るのは私達がやるから、鱗が赤熱したらまた『ジャベリン』をお願い」
「くっ、これでダメだったら逃げますよ? 《エア・カッター》!」

 鱗のひび以外には『ジャベリン』のダメージを感じさせず、地竜は勢いよく起き上がってきた。しかしバルバストルが放った『エア・カッター』はこれまでと違って鱗の破片と血を散らし、明確なダメージを地竜に与えた。
またキュルケ達の機動攻撃が始まり、今度はバルバストルも加わってさらに地竜を追い詰める。地竜はかなり攻撃を受ける事を嫌がり、細かく動くキュルケ達に対しブレスで反撃しようとするが、喉にある油袋が先ほどの攻撃でダメージを受けたのか上手くブレスを吹く事が出来ない。次第に受ける火球の数は多くなり、その喉は再び赤熱の度合いを増していった。

「バルバストル!」
「今度こそ、くらえ、《ジャベリン》!」

 再び放たれた『ジャベリン』は、今度こそ水蒸気をあげながら深々と地竜の喉に突き刺さる。どう見ても致命傷を喉に受けながら、それでも地竜は暫く立ち上がろうともがいていたが、破れた油袋から漏れた油が引火して、喉で爆発が起きるともう動かなくなった。

「死んだ、のね?」
「死にました」
 
 倒れてから結構な時間キュルケ達は警戒を解かずに地竜の周囲を回っていたが、バルバストルがその死を確認してようやくセグロッドから降りて地竜の側まで来た。
 
「きゃあああー!!やってやったわ!」
「やったやったやったー!!」

キュルケとマリー・ルイーゼは両手を高く上げ、飛び上がって喜ぶと二人で抱き合って更に感情を爆発させる。

「まったく、最初から分かってたわよ、こんなの余裕で倒せるってね!」
「良く言うわ、キュルケ。あなた、ギリギリだったじゃない。膝から血がにじんでるわよ」
「こんなのかすり傷ね。次はもう少しスマートに倒すわ」

 けらけらと笑い合う二人の後ろで、バルバストルは二度と地竜なんかと闘いたくないと思っていた。



 その後、地竜のどの部分を持って帰るかでキュルケとバルバストルの間で少し揉めた。

「だーかーらー、爪は当然として、皮も全部持って帰りましょうよ。これだけあれば三人分の軽鎧が出来るでしょ?ドラゴンキラーズとして三人で揃えましょう」
「それは魅力的な案ですが、モーグラの荷室がもう一杯になっています。これを持って帰るのなら他の荷物を捨てなくてはならないです。爪と、何か小物が出来る位の一メイル四方位にしておきましょう」
「取っておいて、後で取りに来たら良いんじゃない?」
「ここは、ツェルプストーから往復で五千リーグ以上離れたハルケギニアの外です。ウォルフ殿のモーグラならともかく、普通のグライダーで往復するのは私は敬遠したいのですが」
「むむむ、一応、ウォルフに頼んでみるから、さっきの所までは運んで頂戴」
「…わかりました」

 解体は結構大変だった。というか、バルバストルが苦労した。皮の外側からは刃が通らなくても内側からは意外に簡単に切る事が出来たのだが、大きいし向きを変えるのもかなりの試行錯誤を要した。
地竜の匂いのおかげか、解体中に他の幻獣が寄ってくる事が無かったのはラッキーだった。
 キュルケが驚いたのは胃の中から大量のダイヤモンドなどの原石が出てきたことだ。バルバストルは知っていたが、食物をすり潰すのに固い鉱石を飲み込む習性があるらしく、これがハルケギニアでかつて地竜が乱獲された原因と言われている。しかもこの宝石を少しずつ消化して鱗の成分にしているらしく、野生のランドドラゴンの鱗は飼われている個体とは比較にならないほど硬く、珍重されている。
剥がした皮を乾燥させて折り畳み、食用にするレバー・秘薬の原料と言われる胆嚢・武具の素材になる爪と一緒にバルバストルが『レビテーション』で持ち上げてセグロッドで帰った。軽く乾燥させはしたが、それでも結構な重量だ。かなり大変な思いをバルバストルがして、何とか停泊地まで持って帰った。



 キュルケを見送った後ウォルフは女子の浴室を作り上げ、その後はクリフォードを助手にしてモーグラの点検を行っていた。
それもそろそろ終了という頃、停泊地の下の斜面から元気な声が聞こえてきた。

「たっだいまー!帰ってきたわよー」
「おお、お帰り。何だか凄いのを獲ってきたな」
「ふっふー。なんと、ランドドラゴンよ。苦労したわ」

そう答えるキュルケの顔は満面の笑顔だが、三人ともあちこち擦り傷がついているし服も汚れている。一目で大変だっただろう事は分かる。

「いや、良く倒したな。相当硬いって聞いていたけど」
「硬いの硬くないのって硬いわよ。三人が揃ってなかったら無理だったわね」
「ん、後で話を聞こう。とりあえずその傷リアに直してもらって、風呂入ってこい。凄い臭いしてるぞ」
「あらそう? 解体を手伝ったりしたからね。じゃあ、そうするわ」
「あ、リア、これ今日の晩ご飯にして欲しいんだけど、ランドドラゴンのレバー。それとこっちは胆嚢。これは持って帰るから乾燥して頂戴」
「うわ、すごいですね。じゃあ早速治療しましょう、二人ともこちらへ」

 リアが二人を伴って出来たばかりの今日の宿、ドームハウスへと入っていった。
それを見送ると、バルバストルは大きく溜息をついて椅子に腰掛けると皮鎧を外し始めた。バルバストルもよく見れば傷だらけだ。

「何だか随分と疲れてますね。やはりランドドラゴンは手強かったですか?」
「ああ、そう、ですねえ。やり合うつもりはなかったんですが、キュルケ様が突っ込んで行っちゃって」
「それは……良く無事でした」
「まだ事件が尾を引いていたのでしょう。しかし、途中からは随分としっかりなさっていたので今後はもっと冷静になってくれそうですが」

 大きく溜息をつくと、バルバストルは先程の戦いを振り返る。戻ってきてからのキュルケはまさに戦女神のようだった。自分達の魔法で何が出来るのかを見極め、三人の位置を常に把握して最も効果が高まるように指示を出す。途中からはバルバストルも自分がキュルケの意のままに動いているのを感じた。あれは生まれながらの将の器なのだろう。

「ふふ、しかし、キュルケ様の将来がとても楽しみになりました。どうやらキュルケ様には将の才がおありのようです」
「ふーん、中々楽しそうな戦いだったみたいだね」
「いやいや、戦っている最中はとても楽しめませんでしたけどね」



 この夜の食事の後、キュルケによって戦利品がお披露目された。ちなみに魔法によって完璧に血抜きされたレバーのソテーは脂っぽくないフォアグラといった感じでかつて味わった事のない美味だった。 
まずは胃の中から取れた宝石の原石の数々。内臓系の秘薬の原料になるという胆嚢や、杖の素材として最上級と言われる爪。そして一番の自慢はやはり、美しい鱗で覆われた皮である。

「じゃーん!これがランドドラゴンの皮でーす」
「相当硬い…けど鱗だから自由に動くのか。確かにこれで軽鎧を作ったら上等な物が出来そうだな」
「フフフ、野生のランドドラゴンの軽鎧なんて今やコレクターくらいしか持ってないわ!レアよ、レアものよ」
「しかし随分と量があるから嵩張るな。どうやって持って帰るつもりなんだ?」
「問題はそこなのよね…ウォルフ、何とかならないかしら」
「荷物が一杯だから無理…って言いたい所だけど、キュルケのトロフィーだしな。んー、ここにデポしていけばいいか」
「デポ?」
「ここに置いてって、帰りにここを経由して帰るんだ。帰る時ならキャンプ道具とかもう必要ないから置いてけば荷室に余裕が出来るだろう」
「あ、そうよね、このまま南まで行って帰るつもりだったけど、ちょっとここまで戻ってくればいいのか」

 ウォルフが割と気楽に持って帰る事を認めたので、キュルケの気分も軽くなる。バルバストルにごちゃごちゃ言われたけど持って帰ってきて良かったと思った。

「ん、多分もうサハラまで千リーグもないと思うから、ハルケギニアから取りに来るより楽だと思う。キャンプ道具置いていけばここが次にこっちに来た時の拠点になりそうだし」
「いやもうこんな所来ないんじゃない?」
「それは分からないじゃないか。ここの温泉は観光資源として有望だよ」

 こんな地の果てまで観光に来る物好きなんているものか、と思ったが自分達がその物好きである事に気付いて苦笑する。
確かにここの温泉は気持ちよかったけど、と先程入った温泉を思い出す。硫黄の匂いは確かに臭いんだけど、何故か入っていると気にならなくなり心身ともにリラックスする事が出来た。

「確かに慣れると良い温泉だって言うのは分かったけど、本当にウォルフったら温泉好きねえ。なんかテルメにいるおじいちゃんみたい」
「ほっとけ。貧乏性なのか日頃は何かしら頭の中で考えているんだけど、温泉に入るとスコーンって何も考えない状態になれるんだ。ホント、最高の贅沢だよ」
「…ウォルフって早死にしそうよね。二十歳位にはもうよぼよぼのおじいちゃんになっちゃうんじゃないかしら」
「だまれ。二十歳やそこらで老け込んで堪るか。ちょっと気にしてるんだから言わないでくれ」
「あはは、気にしてるんだ。気にしなくても大丈夫よ、ウォルフおじいちゃん」

 不機嫌な顔のウォルフをからかいながら、キュルケは昨日までよりも軽くなっている自分の心に気が付いていた。




2-30    南下



 早朝まだ日が明け切らぬ頃、ウォルフは大量の竜の声で目を覚ました。まもるくんが作動しないのでまだ距離があるのだろうとは思ったが、念のため様子を見に外へ出た。
ハルケギニアとは時差が結構有り、ウォルフの感覚としてはまだ夜中なので結構辛い。体はまだ子供なのだ。
 外に出ると、上空を無数の火竜が西の森へと飛んで行く所だった。おそらく毎日この時間に狩りに出るのだろうが、東から差し込む朝日を背に浴びて百頭以上の火竜が一斉に飛ぶ姿は圧巻だ。起きてきたバルバストルとリアと共に暫くこの光景に見入る。

「これは一見の価値がありますねえ。まもるくんがいなかったらちょっと本気で怖いですが」
「露天風呂に入りながら見たかったですね」
「ああ、それはいいねえ。昨日の夕日も良かったけど、これも絵になるな」

 昨夜警戒区域内に迷い込んだ火竜を一匹追い払っているので、まもるくんの実力は証明済みだ。これほど沢山の火竜がいる所で危機感も無くいられるというのはまもるくんがいてこそと言える。
 
 この日は今いる火山の南側に広がる大草原を探索し、サハラが見える所まで移動してそこで泊まるつもりだ。更に翌日、草原の東側の荒野を調べてこの温泉に帰って来る予定となる。
そこまで調べれば後は帰るだけなので、ようやく今後の日程の見込みが立った事になる。一応最後に候補地の詳しい調査をしてからと言ってはいるものの、皆上機嫌で出発の支度をしていた。ちなみにウォルフが上機嫌なのはせっかく早く起きたので朝からのんびりと温泉に入っていたからである。

 飛び立ってすぐに南の草原が目に入る。暫く上空を飛んでみるが、切り立った崖の下を流れる川に挟まれて台地になっているようで、全く木もない草原が何処までも何処までも続いている。木が無いのは乾燥帯だからか台地には川も小川もなく、台地の端は崖になっていてその下を強酸性の水色をした川が流れているだけだ。
温泉の辺りでは、川のすぐ側まで辺境の森が迫っていたが、少し南下すると川に近い辺りも草原になっていて森は十リーグ以上後退している。

 幻獣もいなそうだし草原に着地してみると、ステップ気候に相当するのだろうか、そこは豊かな土壌の草原だった。土は黒土で、穴を掘って暮らしているらしいネズミのような小動物を時々見かける。そしてそのネズミを狙っているだろう猛禽類が上空で悠々と滑空していた。
地上に立ってみると草原しか見えない。ここまで何もない地平線を見るのは全員初めてだった。

「おお、これだよ。こういう所を求めていたんだよ。幻獣の気配は全くないし、この土なんてちょっと耕せばすぐに麦畑になりそうじゃん」
「…地中にも幻獣の気配はありません。ここを領地にするならば、あの森から十リーグ以上離れていますし、幻獣の脅威はハルケギニア以下かも知れないですね」
「ハルケギニアとは遠すぎますが、この草原が全て畑になるのなら、この地だけで自給自足が出来るかもしれませんな」
「ちょっと待ってよ、そんなに良い所が何で森になってないの?何で幻獣がいないの?」

 マリー・ルイーゼの疑問に地中を探っていたリアが簡潔に答えた。

「水です。どうやらあまり雨が降らない所らしいですが、空気中も地中も水分が少ないです。私は集中すれば三十メイル位離れた所まで水の流れを感じる事が出来ますが、この草原の地下に水の流れを感じる事が出来ません」
「あ、でもそれなら両端の川から水を汲めば良いんじゃない?」
「あの川は温泉の毒が流れ込んだ川で、生命の息吹を全く感じませんでした。とても畑を潤す事は出来ないでしょうし、飲用にも適さないでしょう」
「う、水がないのは辛いわね。あっちの森に小川でもないの?」
「あちらの方が標高が低くなっていて、見た感じはありませんでしたね。それにもう一つ問題が。これだけ木が何もないと、平民が薪を得る事が出来ません。平民は暖房も調理も薪に頼っていますのでちょっとこちらで暮らすのは難しいと思います」
「うーん、地下水があるとしても崖下の川面と同じくらいだとすると深さ百メイルくらいか。しかも量が少なそうだし、水がなければ家畜を飼う事も出来ないな。なかなかそう簡単にはいかないか」

 薪の方はこれだけ広い土地だしどこかで石炭でも出れば何とかなるかも知れないが、水の方は中々大変だ。どこかから水を引っ張ってきて灌漑するにしてもこれだけ広大な土地を潤すには生半可な工事ではなくなるだろう。

「とりあえず保留かなあ。こんな所に拠点があると色々便利そうなんだけど」
「いや、水がないのは無理だと思いますよ?」

 ウォルフの目的である世界周航に於いて最大の難関はサハラにいるというエルフであるが、ノイゾール伯爵領で聞き込みをしてもぼかされたりして未だ情報は不足している。どのような種族なのか、話が通じるのか、ハルケギニア人を見かけただけで攻撃してくるのか、その攻撃力はどの位なのか、とにかく全く謎のままである。
 ここに拠点を持つという事は、この大草原を農地にすると言う事の他に情報収集の為にも利点が有りそうだ。ハルケギニアでエルフについて調べていると常に異端の疑いをかけられる危険があるが、ここならば教会の目は届かないだろう。
今回の調査で、サハラを経由しなくても世界周航へ出られるということは判明したのでサハラなどは無視してもいいのだが、エルフがサハラ以外にも住んでいるのかどうか、知ることは重要だと思っている。もしエルフがハルケギニアで言われているように凶暴で獰猛な種族だった場合、世界周航の最大の危険であることは確かなのだ。
しかし、情報収集をしたくとも、ウォルフは世界周航に出かけるのを魔法学院卒業後と想定して準備をしている。両親との約束で魔法学院に行く事は確定事項なので、それまでにそこそこ開拓できるような所でないと手を出すわけにはいかなかった。

「エルフじゃないマッサゲタみたいな遊牧民の人達はいないのかな。ちょっと話をしてみたいんだけど」
「蛮人ですか。とりあえずこの草原にはいなそうでしたね。じゃあ、南へ向かってみますか」
「家畜も水を飲むからなあ」

 とりあえずこの土地の問題点が分かったので、土壌を採取して移動する事にした。

「兄さん、キュルケー、もう行くぞー」
「ええ!ちょっと待ってよもう少しだからー」
「お、よし、来たっ!」

 ウォルフ達が話している間、キュルケとクリフォードはネズミを捕まえに草原へと行っていた。少し離れた所にいた二人に声をかけたのだが、丁度クリフォードがつかまえた所みたいだった。

「やったわね、ちょっとわたしにも見せてよ」
「おお、大人しいな、ホラ」

 キュルケがクリフォードからネズミを受け取る。観念しているのか大人しくなっていて、渡される時に少しもがいただけだった。
ウォルフも興味を持ったので側に来てのぞき込む。黒くて耳が丸くて顔が白っぽいベージュで手が白い。何となく千葉あたりにいるネズミに似ていて前世の世界に持って行ったら受けるだろうなと思った。赤いパンツをはかせれば完璧だ。
詳しく観察してみるとネズミと言うよりはちょっと大きめなモルモットといったところだ。森にいた幻獣達に比べると随分と癒し系といった感じで、キュルケの顔も緩む。

「あら、この子中々可愛いじゃないの。連れて帰って飼おうかしら」
「いやもう無理だよ、勘弁してくれ。これって穴に潜ってなかった?どうやって捕まえたの?」
「ん?最初『フライ』で捕まえてやろうと思ったんだけど、すぐに穴に潜るからわたしが火で炙り出して、逃げ出した所をクリフが捕まえたの」
「へへ、地上に出ちゃえばこっちのもんだからな」
「二人とも段々狩りになれてきてるな。これ今夜食べるつもり?」
「うーん、毛皮も小さいし、あまり美味しそうじゃないから良いわ。クリフはいる?」
「いや、俺もいらない。まだ鹿肉もあるし」

 結局観察しただけで、すぐに離してやった。暫くもぞもぞと歩き回っていたが、たーっと、走って逃げ、すぐに近くの穴の中に逃げ込んだ。その様子は何となく微笑ましく、やはり癒し系である事が確定した。

 その後、転々と着陸しながら地質や水脈を調べたが大きな変化は無く、水場を見つける事も出来なかった。

 南下するにつれ段々と気温が上がり、ますます乾燥が進んだ頃、大草原は唐突に終わりを迎えた。火山から五百リーグと少し行った辺りで草原の東端と西端を流れる川は海かと思う程広大な湖に流れ込んでいた。そしてこの湖の南には何も生えていない広大な平地があり、その先はどこまでも黄色い砂が続いていた。エルフの住む地、サハラである。 

「おおー、あれがサハラかあ…エルフってどんな建物に住んでいるのかな、なにも見えないね」
「んー、砂煙しか見えないな。ちょっと、遠すぎだろう。しかしこの辺も誰もいなそうだな」
「ウウウウォルフ殿、サハラには行きませんよね、そうですよね?」
「ああ、エルフは危険だって言いますからね。今回はサハラには入らないつもりです」

 ついにサハラが見える所まで来たわけだが、不安がるデトレフを安心させて機首を返すと湖の畔に着陸する。昨日の停泊地より五百リーグも南に来ている上に標高も二千リーグ近く下がっているおかげで春だというのに大分暑く感じる。
モーグラから降りて薄着になると周囲を散策する。と言っても草原と茫洋たる湖が広がっているだけだが。
 湖の水を調べてみると、川よりも更に酸性が強くこの湖にも生命が住んでいる事は期待できそうになかった。

「パッと見は水色で綺麗なんだけどねー。魚も捕れないわ、畑に使えないわじゃこんなに広くても意味無いわね」 
「うーん、随分浅そうだけど、これだけ巨大な酸性湖を中和するのは現実的じゃないよなあ…」
「ちょっと広い土地があるからって、こんなハルケギニアから離れた所で開拓するなんて夢みたいな事言ってないで、マイツェンの所をどうやって開拓するか算段付けた方が良いんじゃない?」
「む、出来なくはない、出来なくは。ただ、大変なだけだ」
「それを普通は出来ないって言うのよ」

 キュルケに諭されるが、ウォルフの頭の中はグルグルとここで開拓した場合のシミュレーションをしている。
穀物を栽培するなら水を何とかしなくてはならないが、この乾燥地帯では灌漑に使える程の地下水は期待できない。川の水を中和して使うとすると莫大な量の石灰が必要になるだろうし、硫黄などを除去する工程も必要だろう。
ゲルマニアの中央からは二千リーグ以上離れているし間にあの森がある事もあり、鉄道を敷く事は難しい。そうすると必然的に空輸する事になるのだが、ここで風石が出なかった場合、ハルケギニアの風石相場で輸送費が決まる事になる。穀物は機械化で大規模に栽培するとしてどの程度競争力を持った価格に収まるのか。
 結論としては、今やるべき事では無いと出た。

「ん、やめとこう」
「よくできました」

 湖岸からモーグルの側に張ったテントに戻り、幾分すっきりした気分でテーブルに地図を広げて今日来た所を新たに書き込んでいく。地図というか大まかな概略図であるが、図の中にサハラと書き込むのは感慨深い。

「はあー、よくぞこんな所まで来たものね。モーグラがなかったら考えられないわ」
「ノイゾール伯爵領なら多分西北西に千五、六百リーグ位の所にあるから、今日中に帰る事も可能だぜ」
「そう考えると案外近いわね。でもダメよ、わたしの竜皮取りに戻らなくちゃ」
「オッケーオッケー、もう今日はここに泊まるし、オレちょっとこの辺を見てこようかな」

 そう言ってウォルフが示したのはこの停泊地の東にある何も書いてない所だ。

「まだ東に行くの?好きねえ」
「明日も行くつもりだけど、時間があるなら鉱石のサンプルを取っておきたいんだよね」
「私も行くわ。ここにいても退屈そうだし、マリーも行くでしょ?」 
「わたし、ちょっとパス…」

 先程から机に突っ伏していたマリー・ルイーゼが力なく返事をした。さっきからどうも元気がないと思っていたら熱が出ているらしい。リアがすぐに様子を見るが、大事ないらしい。

「昨夜、温泉ではしゃぎすぎたのよ」
「うう、わたし以上にはしゃいでいたキュルケに言われると腹が立つ…」
「ホホホ、誰かさんとは鍛え方が違っててよ」
「何とかは風邪を引かないだけでしょ」

 デトレフはまたドームハウスを作っているし、リアはマリー・ルイーゼの看病と夕食の支度をすると言うので、その他の四人でちょっと東の様子を見に行く事にした。



 飛び立ってすぐ前方に妙なものが見える。湖岸が湖に向かって半島のように突き出ているのだが、そこに蟻塚のようなものが多数立っているのだ。

「お、なんだろあれ。ちょっと降りてみるか」
「大丈夫? エルフのお墓とかじゃない?」
「どう見ても自然物だな。じゃあ降りまーす」

 近くに着陸し、『ディテクトマジック』で確認しながら近づいてみると、それは高さ二メイルくらいの泥の塔だった。いくつかの塔の頭からはポコポコと断続的に泥が泡と共に吹き出し、今も成長している最中のようだ。

「なによこれ…」
「土の精霊のおならだろう。ちょうど泥のところに吹き出してこんな事になっちゃってるんじゃないか?」
「へぇー、土の精霊っておならするんだ」
「…兄さん、適当な事を言わないように。確かにちょっと成分は似ているけど、これは天然ガスだな『ファイヤ』」

 ウォルフが杖の先から細い火を出して一番近くの塔の頭にかざすと泥の泡がはじけるのにあわせて杖の火が断続的に強くなった。

「わ、何これ燃える空気が出ているって事? 面白いじゃない」
「やっぱりおならじゃないのか? おならって燃えるんだぞ、俺は火を着けてみた事があるから知っている」
「兄さん何やってんだよ……別におならだと思っててもいいけどさ。ハルケギニアでも利用している村とかはあるらしいよ、調理に使っているくらいみたいだけど」

 天然ガスが出ているという事は石油もこの地下に眠っている可能性が高いという事だ。開拓をあきらめたばかりでこんなのが出てきてまたウォルフの心はざわめく。キュルケが面白がってあちこちの塔で火を付けているのを眺めながらやはり惜しいと思うのだった。



 再びモーグラに乗り込み東を目指す。もう周囲にはめぼしいものがないのでぐんぐん高度を上げると遠くまで見通せるようになる。東の川を越えた地域はやはり草原であるが、灌木などが茂っている所もあり、ちょっと様子が違っていた。
遠くに見える東の山を目印に暫く飛んでいると、外を見ていたクリフォードがそれに気付いた。

「あそこ、何か村があるぞ」
「え…ホントだ! こんな所に人が住んでる!」
「行ってみよう」

 目指していた東の山から少し北に逸れた所に、環状に柵を巡らした集落らしき物が見えた。すぐにウォルフは機首をそちらに向けるとゆっくりと高度を落とす。

「ああ…羊と、人が居るなあ。これは、レッツ異文化交流だな」
「ちょ、ちょっと大丈夫なの?エルフじゃ無いの?」
「うーんと、耳は、普通。人間みたいだ」

 上空から近付きすぎないようにして確認する。水場を中心にして簡易な柵で囲まれた三十程のテントの集落だ。遊牧民らしき人達がこちらを見上げている。遊牧民ならいきなり攻撃してくる事はないだろうと接触してみる事を決めた。刺激しないように集落のすぐ上を跳ぶ事は避け、少し離れた所に着陸する事にする。

 ここの人達からならエルフの情報が得られるかも知れない…不安げな一行の中で、ウォルフのみが満面の笑みを浮かべていた。




2-31    異文化交流



 遙かなる東の地、ハルケギニアと同じ程の面積を持つ広大な森を越えた草原のそのまた隣の草原。ウォルフ達は遊牧民と思しき部族の集落を訪ねていた。
 集落から離れた所に飛行機を駐め、クリフォードを万一の時の備えとして飛行機に残して三人で歩いて集落へと向かう。
太陽はまだ高く、じりじりと強烈な日差しが照りつけ地面には陽炎が立ち上っている。キュルケは大分暑さに弱いらしく、この時点でもうグロッキー気味だ。
村を囲っている柵に付いている簡易な門まで来ると、門の前で一人の女性が立っていた。第一村人発見である。上空からはもっと大勢がいる事を確認しているが、どうやら彼女が代表して応対してくれるようだ。
 
「止まれ。アルクィークに何の用だ」

 言葉は通じそうである。この辺はこちらの世界の便利な所だ。
 言われた通りに立ち止まり、三人並んで女性の前に立つ。その女性の姿は足に脛まである編み上げのサンダルを履き、布を巻き付けたようなスカートに上半身は胸元を隠す大きな首飾りをつけただけの半裸だ。
 スカートに使われている原色の布といい、瑪瑙やらガラスやら沢山の石で出来ている首飾りに指で描いたような白い顔料の化粧はウォルフにアフリカの原住民を思い出させた。
肌の色はそれ程黒くなくキュルケと同程度。目鼻立ちははっきりしていて大きな目に高い鼻梁、きりりと引き締まった口元でアーリア系の美人と言った感じだ。ただ、ここがファンタジーの世界だと思わせるのは、半裸であるはずのその腹にはヘソが無く、その豊かな胸には乳首が見あたらず、滑らかな肌が続いているだけと言う事実であった。 
 この世界なら肌のように見える服くらいはあるかもしれないので、取り敢えず乳首とヘソの謎は置いておいて慎重に言葉を選んで挨拶をする。精一杯の笑顔で第一印象を良くしようと頑張った。

「初めまして、私はアルビオン王国サウスゴータ竜騎士隊ニコラス・クロード・ライエ・ド・モルガン男爵が次男、ウォルフ・ライエ・ド・モルガンと申します。本日はこちらの方々と友好関係を結びたいと思い、参りました」
「アルクィーク族長カミラの娘、ルーだ。アルビオンとは初めて聞くが、何処にある国だ」
「ここからずっと西方へ三千リーグ以上・・・ここと西の大きな川との間の三十倍程行った所にあります」
「そんなに遠くの人間がアルクィークに何の用がある。友好関係を結ぶことは構わないが、お前達の目的は何だ」
「目的は二つあります。我々は商売をしておりまして、このような布から穀物やもっと大きな物まで取り扱っております。一つ目の目的としましては出来ればこちらとも交易をしたいと考えております」

 持ってきた荷物からアルビオン製のウール生地を取り出して恭しく差し出した。アルビオンで作っている物ではかなり上物である。

「こちらをお納め下さい。これは友好の印として差し上げます」
「どれ…ほう、これは上等な物だな。ここまで細かな目は中々無い」

 紺色に染め上げられた滑らかな布を自分の腰に当ててみたりしている。どうやら気に入ってもらえたようだ。

「ふむ、布は一流だが染料が今ひとつだな、鮮やかさが足りない。我々の染料を少し分けてやるから持って帰って染めてみると良い」
「そのようなものがありますか。これは早速良い交易が出来そうですね」
「しかし、交易といっても毎回そんな遠くから来るのは大変ではないのか?ここには東方からもキャラバンが来るが、年に一度か二度程だぞ」
「我々が乗ってきた乗り物、飛行機といいますが、あれなら三千リーグの距離も一日で飛ぶことが出来ます。距離はそれ程問題有りません」
「……竜でも一日でそんな距離は飛べん。それはどんな速度なんだ一体。想像が付かん」
「風石という風の魔力が結晶した石を利用しています。風石はご存知ですか?」
「風石なら羊たちを暑さから守るのに使っているぞ。この辺りでは採れないから西の耳長から手に入れている」

 耳長。おそらくはエルフのことだろう。ハルケギニアを出て初めて聞いたその名前にウォルフは興奮を隠せなかった。

「耳長とは、エルフのことでしょうか?こちらはエルフとも取引しているので?」
「そのような名前だな。西の砂漠の部族とは数年に一度、彷徨える湖が小さい時期に湖岸を越えて向こうの街まで交易に行っている」

 詳しく地理を聞くとあの草原の南に広がっていた広大な湖は「彷徨える湖」と呼ばれ、季節や年によりその大きさを大きく変えているらしい。火山による強い酸性の水質により生命のいない湖で、その水が引いた時にサハラまで行くそうなのだが、飲める水や木も草も無い地を抜けるのは大変なことだそうだ。

「あの湖の水は飲むと歯が溶けるのでラクダにも飲ませられんし、かといってあの地を迂回すると行程が増えすぎるので大変なんだ」
「風石でしたら我々も用意することが出来ますよ。そんなに大変な思いをしなくても良くなるように出来ると思います」
「おお、それはいい話だな。いいだろう、お前達を歓迎する。村の中へ入ると良い」

 ルーが門の方を振り返り右手を挙げると今まで誰もいなかった門からぞろぞろと村人達が出てきた。弓と矢を持っており、こちらを警戒していたことを伺わせる。
またルーが何か手振りで伝えると、矢を矢筒に仕舞い、弓を肩にかけてこちらに笑顔を向けた。

「兄さん、歓迎してくれるって。エンジン止めて兄さんもおいでよ」
「お、マジかおっけー、すぐ行く」

 ウォルフが『伝声』の魔法で伝えると退屈していたらしいクリフォードから勢いよく返事が来た。

 集落の中央にある大きなテントで食事などをもてなしてくれるとのことで、色々と話をしながら移動する。
お互いの地理のこと、気候のこと、幻獣のこと、食料のこと、話題には事欠かなかった。




「成る程、それでお前は領地を開拓する為にハルケギニアを出てきたとい言う訳か」
「はい。この年で生意気なとお思いでしょうが、多少の困難ならば克服できる力はあると思っています。この辺で我々が住むのにどこか適した土地はありますでしょうか?」
「畑を作り人が定住する、か。ふむ」

 テントの中で出された冷たいお茶を飲みながら、ウォルフはもう一つの目的である開拓のことを切り出した。もちろんこちらの部族の意思を尊重することを事前に伝えてある。
今、族長は放牧に行っているらしく帰ってくるのはもう少し後とのことで応対は引き続きルーが行っている。
このテントは人々が集まる為に有るようで、天井が高くその上部には穴が空いていて、外よりは大分涼しかった。その大きなテントの中にぐるりと輪を描くように大きなソファーが置いてあり、植物で編んだようなフレームに布がかけられていて座り心地は中々良好だった。
 三十人は座れそうなそのソファーにウォルフ一行は並んで座り、ルーは少し離れた所に座っている。

「アルクィークの民ならばどこに住もうと勝手にすれば良いと言うものだが・・・」

 ウォルフの話を受けたルーは立ち上がっておもむろにキュルケに近づくとじろじろと観察し、キュルケにも立つように促した。何事かといぶかしげに立ち上がったキュルケのシャツの裾を両手でつまむ。
生地でも確認するのかと思いきや、何の躊躇もなく思いっきりそのシャツの裾をめくり上げた。暑くてだれていたこともあってキュルケの反応は遅れ、最近ふくらみ始めた乙女の秘密は衆目の下にさらけ出されてしまった。

「っ!!」
「ふむ、やはり無袋人か」

 慌ててキュルケが腕を振り払いシャツを下げるが、ルーは気にした風もなく冷静そのものだ。

「ち、乳、乳…」
「兄さんだまれ。こういう時は見なかったふりをするもんだ」

 キュルケはキッとクリフォードの方を睨んだが、すぐにルーの方へ振り返り、おそろしく柔和な笑みをその顔に浮かべた。
 
「…わたし、こんなに分かり易く喧嘩を売られたのって初めてだわ。……覚悟はよろしくて?」
「よせ、キュルケ。バルバストルさん、ちょっと向こうへ連れて行って下さい」
「お嬢様、こちらへ」
「あ、こら、ウォルフ杖返しなさい! バルバストルもちょっと離しなさいったら」

 キュルケが杖を構えたので、ウォルフは横から手を伸ばして素早く杖を奪うとバルバストルに頼んで後ろへ下がらせた。キュルケはじたばたと抵抗するが、こんな他所の集落のど真ん中で喧嘩始められても困るのでバルバストルは口を押さえて抱え込んだ。

「そういえば無袋の女は胸を出すのを嫌がるんだったかな。失礼、確かめただけだ」
「いえ、お気になさらず。彼女もすぐに落ち着くと思います。ところで、無袋人とは?」
「もがっ、気にしなさいよっ! むぐぐ…」
「袋を持たない人間のことだ。東のルークレック山から西のニトベ川までは神が我々アルクィークに約束した土地だ。無袋人が住むことは許されない」
「その、袋を持たない、というのが何のことだかわからないのですが」

 ウォルフが言うと、ルーはきょとんとしてこちらを見返す。彼女にとっても意外な問いだったようだ。

「そうか、アルクィークに会うのも初めてか。私は未婚なので本来異性に見せるものではないのだが、お前位の年なら問題はないだろう、ちょっとこっちへ来い」
「え?は、はい」

 ウォルフを移動させ、クリフォード達に背を向けるとルーはおもむろに胸元を隠している首飾りを背中へと回した。
露わにされた胸元にはやはり乳首も胸の谷間もなく、そのかわり鎖骨の合わさるあたりの下に一本の切れ込みがあった。

「我々アルクィークは子供を産んだ後三年程この胸にある袋で子供を育てる。お前達の女にはこの袋がないのだろう?」

そういうとルーはその切れ込みに指をかけ、グイッと下に引っ張った。横一直線の、十サント程のただの切れ込みだったものが丸く広がり、中にはピンク色の綺麗な肌が続いていた。

「うおおお、すげえ! これ中に乳首があるんですか? 見たいっ!」
「バ、バカモノ! いくら子供とはいえ、そんな所まで見せるはずは無かろう!」
「あ、そうですよね、すみません興奮しまして」
「何よー、わたしの胸は見せたくせに! あんたもみんなに乳首見せなさいよね!」
「アルクィークの袋は神聖なものなのだ。お前達のように外に放り出しているものとは違う」
「放り出してなんていないわよっ! ちょっとウォルフ杖返しなさい、その女の乳首見せてあげるから!」
「キュルケお願い落ち着いて」
「乳首……ぶほっ」

 興奮するキュルケを宥めるのに時間が掛かったが、ルーが悪いと思い直したのかきちんとキュルケに謝ってくれて何とか落ち着いた。怒りが収まったわけでは無さそうだが、暴れる事はなくなった。
 それにしても有袋類の人類がいるというのは、この世界に来てからたいがいのものには慣れてきたウォルフにとっても非常な驚きだ。
この後詳しく聞いてみたが妊娠の期間は約一ヶ月とのことで、ヘソもないことから彼女らがほぼ胎盤を持っていないだろうという事がわかった。
 進化論では有袋類と人類が属する有胎盤類とが分岐したのは遙か太古とされている。そこらのネズミよりも人類とは遺伝子的に遠い存在なのだ。そんな遙か昔に分岐した生命がここまでそっくりに進化して同じ言葉を喋っているなんて事があるのだろうかと思う。
確かにフクロモモンガやフクロオオカミ、フクロアリクイなど有胎盤類の種とそっくりの有袋類がいることは知っていたが、人類となると話は別だ。
 冒険に出て以来の発見にウォルフは興奮して次々に質問を浴びせた。

「三年も袋の中で育てるって事ですけど、その間に次の子を妊娠しちゃうって事はないんですか?」
「妊娠することはあるが、袋が空くまでは出産することはない」
「えっ…受精卵のまま持ってるって事かな?袋が空くと自動的に出産するんですか?」
「そうだ。双子を妊娠した時は三年の間を空けて出産する事になるな。五つ子を妊娠した時は一番下の子が袋を出る頃には一番上の子は十五才で成人になっている」
「うおおお、すげえ…その、赤ちゃんの排泄物とかはどうなるんですか?妊娠期間一ヶ月とかだと赤ちゃんすごく小さいでしょう?自分でコントロールできるとは思えないのですが」
「ん?袋の中にいる間は排泄などしないぞ?アルクィークの袋の中は世界で最も清潔な場所だ」
「魔法でどうにかなっているのかな…すると外に出ていきなりうんちとかするようになるんですか?」
「そうだ。小さい方はその日の内、大きい方は翌日以降に初通じがある。トイレの訓練には大体一週間位かかるな」
「はー、一週間位で済むなら随分と子育ては楽そうですね」

 転生したおかげで乳児だった頃の記憶が何となく残っているウォルフは本気でこちらの赤ちゃんを羨んだ。あの悟りを開かねばとても耐えられない時間がないのは素晴らしいことだ。

 話が脱線してしまったが、ルーが言うにはこの辺り一帯は彼女らアルクィーク族の土地なので、有袋人ならともかくウォルフ達無袋人が住むのは認められないそうだ。
詳しく範囲を聞くと東は遠くに見えている山地から西は先程越えてきた川まで、南北も相当広い範囲にわたって遊牧して暮らしているとのことだった。その西の川の更に西の、今日ウォルフ達が調べた草原は好きにすれば良いと言われたが、そこに水がないのはアルクィークも分かっていることのようだった。

「分かりました。こちらの土地は把握しましたので勝手に住み着いたりはしないことを約束します」
「うむ、他の土地ならばどこに住もうと我々が文句を言うことはない」

 この後も色々話をしたが、残っているメンバーが心配するといけないので適当な所で戻る事にする。有意義な出会いに再訪を約束してウォルフ達はモーグルに乗り込むのだった。




2-32    そして日常へ



 アルクィークに出会った翌日、草原の東側の土地を探索しながら温泉まで戻り、温泉でまた旅の疲れを落とした。
マリー・ルイーゼの熱は一晩寝たらもう下がっていて、一日モーグラから降りることもなく安静にしていたのがよかったのか、温泉に着いた頃にはすっかり元気を取り戻していた。
温泉でもう一泊して体調を整え、辺境の森を一気に飛び越えゲルマニアへと戻った。マイツェン周辺の候補地の地質を詳しく調査した後、探索者の街リンベルクで最後の観光と土産物などを購入していよいよツェルプストーへ帰る。結局三週間程で全ての調査を終えたので、予定よりは大分早く帰れる事になった。

 今回の調査はウォルフにとって大変有意義なものとなった。開発予定地では当初の目的である鉱山開発に有望な山が見つかっているし、広さ的にもそこそこの伯爵領よりも広い地域を開拓する予定なので、社会実験も十分に実施できる。
 東の様子も多少知る事が出来たし、いざとなったらハルケギニアから脱出できるルートがあるというのは、いつ異端審問に掛けられるか分からないウォルフにとって心強い事だ。
そして何よりエルフを知る人に直接エルフの事を聞けた事も大きい。ルーの話によると一言でエルフと言っても色々な部族がいるらしく、アルクィークの東や南の地方にも住んでいるそうだ。魔法技術に優れ高度な文明を発展させている反面、自尊心が高く傲慢な態度を取る事もあるという。
しかし、アルクィークと戦闘になった事はなく、ハルケギニアで言われている程好戦的な種族でもないようだ。今後開拓地をベースにしてアルクィークと交易を続ければもっと詳しい情報も得る事が出来るようになるだろう。
 鉱石のサンプルも多数手に入ったし、幻獣や亜人の脅威がどの程度なものかもよく分かった。万全の備えが必要ではあろうが、音響兵器もあるし開拓を断念する要素は何もなかった。
 


「あー、もうじきこの旅も終わっちゃうのねえ。楽しかったなあ」
「随分とリンベルクで暴れ回っていたみたいだしな」
「うふふ、ちょっと探索者として働いただけよ」

 ゲルマニアに戻って来て、開拓予定地の鉱山や水脈の詳しい調査をしたのだが、ウォルフとデトレフ、リア以外の知識のない他の四人はやる事が無く暇になった。
調査に付いてきたのは最初の一日だけだが、ウォルフ達が調査をする後ろで暇そうにしていたものだ。先に帰っても良いと言ったのだが四人とも先に帰る事を良しとせず、何故だかリンベルクに行って探索者登録をしてしまった。養成所を一日で卒業し、ウォルフ達と宿では一緒だが昼間はずっと辺境の森で狩りや採集をして過ごしていた。
 初心者パーティーの癖に毎日華々しい戦果を上げるキュルケ達はリンベルクの話題となっていたものだ。 

「何だったらウォルフ、開拓する時に護衛として雇われてあげても良くってよ。学院に入るまでなら時間もあるし」
「…キュルケを雇えばバルバストルさんが護衛に付いてきそうだからお得だよなあ」
「ちょっとちょっと、ウォルフ殿わたしには給料払わないつもりですか」
「えー、だってバルバストルさんはツェルプストーの家臣なんだからオレが勝手にお金渡したら不味いでしょ」
「それはそうね。バルバストル、ウォルフからお金受け取ってるの見たら叛意有りと見なすから」
「あの森で竜とか相手にして神経すり減らして通常手当ですかそうですか…ふふふ、勤め人なんて所詮そんなものですよね」
「あはは、冗談よ、冗談」

 キュルケは結局、魔力素の熱エネルギー変換が出来るようにはなっていない。しかし、焦った様子は見せず、今後も練習していくそうだ。曰く、「あんな傭兵に出来た事なら、いずれわたしも出来るようになるはずでしょ」とのことだ。
お前は何様なんだと聞きたくなるが、多分キュルケ様なのだろう。

「あー、お城が見えてきた。なんかゲルマニアが随分と狭くなった感じがするわ」
「もっともっと狭くするよー。目標時速千リーグだな」
「それはいくら何でも無理でしょうって言いたいけど、ウォルフならやりそうで怖いわ」
「出来るのは随分と先になりそうだけど、いつか絶対にやるから。お、お迎えご苦労さん」

 減速しながら城に近づくと竜騎士が二騎上がってきたので翼を振って合図する。すぐに竜騎士もこちらを確認したようで護衛するように両脇に付き、キュルケがキャノピーを開けて手を振るとそれに応えた。
プロペラを止めて城の上空に入る。中庭を目指して高度を落とし、最後はプロペラを逆転させて減速、風石を少しだけ励起させてふわりと着陸した。
 今日この時間に帰る事は連絡済みで、中庭でお茶を飲んで待っていたツェルプストー夫妻はゆっくりとモーグラの方へ歩いてきている。キュルケはすぐにモーグラから飛び出すとそちらへと飛んでいった。

「おお、キュルケよ、よくぞ無事で帰ってきた」
「母さま、父さま、ただいま帰りました!」
「お帰りなさい、キュルケ」

 両手を広げて待つ辺境伯の横をすり抜けてキュルケは母の胸に飛び込んだ。辺境伯は暫く広げた両手を所在なげにしていたが、キュルケに近づくとその頭を撫でた。

「…どうだキュルケ、危ない事はなかったか?」
「うん、地竜戦以降はそんなに危険な目には遭わなかったわ」
「そうか。それにしても地竜だなどと、おお、あの皮がそうか」
「他にも色々取ってきたのよ!母さまも見て見て」
「あらあら、そんなに引っ張らないでよ」

 ツェルプストー組の荷物を下ろしているモーグラの方へ母の手を引っ張って行くキュルケ。辺境伯はその後ろから一人とぼとぼと歩いて続いた。



 メンバーから辺境伯へ帰還の報告を済ませ、キュルケの戦利品の披露なども終わり、預けていた荷物も受け取ってウォルフとクリフォードはボルクリンゲンに帰る。

「じゃあ辺境伯、キュルケは確かにお返ししましたから」
「別にキュルケの安全など気にせんで良いと言っただろう」
「そうは言われても、預かった方としたら気になりますよ」
「ふん……で、どうするんだ?開拓する気になったのか?」
「はい。これから準備を進めて夏のバカンスが終わった頃には取り掛かりたいと思います」
「うむ、分かった。手続きを進めておく。お前はヴィンドボナへ行く必要はない。開拓団員の引き取り以外全てこちらで手続きが済むだろう」

 よろしくお願いします、と辺境伯に頼んで、勢揃いしているメンバーの方へ向き直る。これで調査隊は解散なのでウォルフは一人一人に思いを込めて感謝を述べた。

「リア、君が来てくれたおかげで道中の食糧事情はとても充実したものになった。水脈調査にも力を貸してもらって本当に助かった。感謝している」
「中々楽しかったですよ。まもるくんのおかげでキャンプ地では安心して過ごせましたし」

「デトレフさん、毎日の宿舎建築お疲れ様でした。おかげで快適に過ごせました。地質調査でも貴重な助言を下さり調査の効率が随分と上がりました」
「いやあ、わたしごときの意見がウォルフ殿の役に立ったなら光栄です」

「バルバストルさん。色々な意味でお疲れ様でした。多分今回のメンバーで一番疲れた事でしょう」
「ははは、今日は一杯やってさっさと寝る事にしますよ」

「キュルケとマリー…えっと、君たちが来てくれてとても楽しかった。では、これで調査隊は解散します。皆さんお疲れ様でした」

 ちょっと私達の扱い雑じゃない? と不満げなキュルケとマリー・ルイーゼを尻目にモーグラに乗り込む。クリフォードも二号機に乗り込んで離陸準備を進めた。

「ウォルフ、早くそのモーグラ市販しなさいよ。ちょっとそれに乗り慣れたらグライダーじゃまどろっこしそうだわ」
「グライダーにはグライダーの良さがあるんだけどな。まあ、頑張るよ」

 最後に挨拶を済ませると、モーグラを勢いよく発進させる。初めての冒険の旅が終わった。数多くの収穫があったが、より遠くへの冒険のための第一歩を踏み出せたことにウォルフは満足していた。

 
 
 ボルクリンゲンの工場に帰ると三日程かかって雑務を終わらせ、すぐにアルビオンへと帰る。帰りは一機でクリフォードと二人旅だ。
 出発したのが既に夕方だったので到着は夜になったが、サウスゴータの空港に着陸して迎えの自動車に荷物を積み替え、家へと帰った。


「ウォルフ様、お帰りなさい!」
「ただいま、サラ」

 ド・モルガン邸に入って自動車から降りるなり、走ってきたサラが勢いもそのままにウォルフへ飛びつく。

「《レビテーション》」

 とっさにウォルフがかけた『レビテーション』によりサラはふよふよと宙を漂ってウォルフの腕の中にポスンとたどり着いた。

「ウォルフ様、そこは頑張ってドーンと胸で受け止めましょうよう」
「無茶を言うな、お前と俺の体格差を考えろ」
「わたしの方が年上なんだからしょうがないじゃないですか。男の人はそう言う時にちょっと頑張るものですよ」

 サラはこのところ背がニョキニョキ伸びているのでウォルフとは十サント以上差が出来ている。サラのタックルをウォルフが生身で受けたら押し倒されるのは分かりきっていた。

「ウォルフの今後の成長にご期待下さい。で、留守の間変わりはない? 宿題はできた?」
「遠話でも話しましたけどみんな特に変わりはないです。宿題は…ウォルフ様が早く帰ってきちゃったからまだ終わってませんよ。まったくもう、寂しくなっちゃったんですね?」
「はいはい。父さん達にも挨拶に行こう」
 
 メイド達に荷物について指示を出し、サラと連れだって母屋へと向かう。その後ろからクリフォードも付いてきていた。

「一応、俺も居るんだが…」
「あ、クリフ様もお帰りなさい。忘れてました」
「ただいま……ぐすん」



 ウォルフ達兄弟の帰りを待っていたのはサラだけではない。ニコラスとエルビラは玄関ホールで二人の帰りを待っていた。

「父さん、母さん、クリフォードとウォルフ、ただ今戻りました」
「無事に帰って何よりだ。クリフ、いい顔になったな」
「はい。凄く沢山の経験を積めました。トライアングルにもなったし、メイジとしてとても成長できたと思います」

 実際クリフォードにとっても今回の東方行は実に為になった。領地持ちの貴族の子供ならばある程度魔法が使えるようになった段階で、討伐などで実戦経験を積む事が出来るが、ド・モルガン家には領地がない。
経験も積めたし、帰ってきたばかりだがまたリンベルクに行きたいと思う程には幻獣相手の狩りは楽しかった。

「それは何よりですね。早速明日私がその成長を確かめてあげましょう」
「え゛…母さんと?」

 ニッコリと笑うエルビラを前にクリフォードが固まる。どうやらエルビラは怪鳥ロックよりも怖いみたいだ。

「ははは、クリフ、成長したと言ってもまだエルビラは怖いか。ウォルフも成果があったみたいだな、顔に出ているぞ」
「うん。夏の終わりには開拓を始めようと思ってる」
「うーん、本当に東方開拓などに手を出すとは…俺も昔は考えたんだけど、一万エキューを用意できなかったから諦めたんだよなあ」
「そうなんだ。初めて聞いたよ」
「結婚する前の話だしな。今は手を出せなくて良かったと思ってるよ。ウォルフ、ちゃんと魔法学院には行くんだぞ?」
「約束を忘れてはいないよ。学院に行くまでに人を育てれば問題ないと思ってる」
「人を育てると語る九歳児…まあいい、今年の夏はガリアに行くけど、ゲルマニアで開拓すると聞いたらラ・クルスのじじいが激怒しそうだな。そっちは自分で何とかしてくれ」
「う、そう言われても俺の人生だしなあ…だけどさ、そもそも地質調査させてくれなかったの爺様だし。たぶん大丈夫だよ」

 夏休みにガリアに行くというのは既に決定事項だ。無理矢理約束させられたものだが、両親なりに仕事一辺倒の息子を心配しているらしい。
 この後、家の人間みんなに土産品を配ってこの日はゆっくりと夜を過ごした。サラに贈った布は気に入ってもらえた様で、スカートに仕立てると嬉しそうに話した。



 翌日、早朝からチェスターの工場へ出かけ、ここでもいなかった間に溜まった仕事をこなす。
 自動車の売れ行きはすこぶる悪いらしく、何とまだ五台しか売れてないとの事だった。やはり価格が高いのが一番の理由で、それに加えて風石の価格が暴落した為にちょっとの距離でもフネを使う貴族が増えた事も理由の一つである。

 今馬車業界の話題は自動車ではなく、ガリアのモンテーロ商会が開発した帆走車だ。風石を動力とし、地上を走行する事も出来るし、普通のフネのように空を飛ぶ事も出来る空陸両用の車だ。飛行している時は乗り心地が良いわけだし、グライダー程速さを求めない貴族には十分な性能だ。帆に貴族の紋章を刺繍するサービスが特に好評で、ほとんどの帆走車が紋章付きだ。
車軸のベアリングにはガンダーラ商会で生産・市販している高精度なものを使用しているが、思わぬライバルの出現である。 ガリアではかなり売れているらしく、既にゲルマニアでも真似して作る所が出ているという。

「うちの自動車もガーゴイル機能を外して価格を下げましょうよ。このままじゃシェアを取られちゃいます」
「帆走車だと操縦が相当難しいだろう。性能的にも競合するようなものじゃないから問題ない。ガーゴイルレスはもう少しハルケギニアの人が電気になれてからにするよ。電気が異端の技術じゃなくて魔法で制御できるものだってアピールするのは大事だと思うんだ」
「うーん、それじゃ工場の仕事はどうなるんですか日産一台位は想定していたのに全然です。最近はベアリングの注文ばっかり入ってきてますよ」
「仕事があるなら良い事じゃないか。それに当面は俺の重機を作る仕事が入るから忙しくなるよ」

 リナが自動車が売れない事による仕事の減少を心配するが、ウォルフはボルクリンゲンでタニアと開発に必要な船、ダンプカー、ショベルカー、ブルドーザー、掘削機の売買契約を結んできた。今後はその生産で暫く忙しくなるはずである。
全部ウォルフが開発したものなので領地の産品の優先販売の約束と引き替えに商会に負担がかからない程度に格安としてもらったが、ウォルフの貯金は随分と目減りしてしまった。風石鉱山発見による配当が出ていたので何とかなったが、開拓には金がかかる。今後も空いた時間にはタレーズなどをひたすら作って内職に励む事になりそうだ。

「あ、昨日連絡がありました。今、材料を手配してますよ。あれ、ウォルフ様のだったんですね」
「うん。東方開拓なんて重機やゴーレムがなけりゃ百年かかりそうだったよ。重機使って一気に開拓しないと何時までも安全にはならなそうだった」
「開拓も良いですけど、ちゃんと自動車の販売の事も考えて下さいね」
「おう。まあのんびりやるさ。とりあえずは開拓地で使う船の設計だな」

 船はこれから造るのだが、リベット技術の開発も兼ねて風石エンジンで推進するアルミ製の双胴フェリーにするつもりである。リベット止めと言えば、こちらの世界では平民向けの廉価品に使われる技術と見られがちだが、元の世界では未だに航空機に使われている立派な接合方法だ。
船体はボルクリンゲンで作るとしてこちらでは船舶用大型風石モーターとスクリュープロペラの開発、リベットの基礎研究をするつもりだ。

「さあ、設計するぞ」 

 作業着に袖を通し、製図板に向かう。ウォルフはまたいつもの日常に戻ってきた事を実感した。




[33077] 第二章 33~37
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:32


2-33    思惑



 季節は夏になり、ド・モルガン一家はガリアのラ・クルス家を久しぶりに訪れる事になった。
エルビラが妊娠した為一時は中止も考えたのだが、つわりも収まり本人も久しぶりに両親に会いたいと言う事で予定通りサウスゴータを出発した。
 ラ・クルスまではド・モルガン家とアンネとサラとラウラとリナの計八人がモーグラ二機に分乗して直接行くので、以前とは比べものにならない程楽な行程だ。

「馬車に乗るのが嫌で自動車作ったって言うのに、いざ作ったら自動車にも乗らないって言うんだから皮肉だよな」
「お前がこんな便利なの作るからだろう。自動車は話題にならないが、このモーグラは良く職場の話題に出ているぞ」

 ラ・クルスまでの飛行中、何気なく呟いたウォルフの独り言にニコラスが突っこみを入れる。
 自動車販売は相変わらず不振が続いていて、月に数台という感じの販売数が続いている。一応熱心なファンもいて、二台、三台と買ってくれる客もいるので徐々に自動車の良さが広まっていると信じたい所だ。
タニアからは不採算部門として目を付けられており、そろそろ何とかしたい所だ。今度、ボルクリンゲンで自動車によるレース、第一回ツェルプストーグランプリを開催するのでそれを機に人気が上昇する事を期待している。

 不振の自動車に比べるとモーグラは高価格にも関わらず発売するなり高い人気で生産が追いつかない程だ。荒天時や雲の中での視界確保についてはハルケギニア式レーダーを開発する事で対応した。
『ライト』の魔法でマイクロ波を前方へ照射し、反射波を可視領域が変更された『遠見の鏡』で捉えて、それをコックピット前面に映像として表示するというしくみだ。
使用する電磁波がマイクロ波のために表示される映像は鮮明なものにはならないが、レーダーとしては十分なものになっている。
 言わば電波を"見る"魔法具だが、これを作るのは苦労した。『遠見の鏡』は風魔法を使っているのだが、電磁波の可視領域を電波という人間には知覚できない波長にイメージだけで変更するのが難しかった。現物をいくら調べてもニコラスやバルバストルら風メイジに聞いてみても解らなかった。
風メイジは戦闘に特化している者が多く、魔法具に詳しい人は少ないのだ。遠話の魔法具があんなに便利なのに普及していないのはそれを作る技術が既に失伝しているためで、ウォルフにもまだ遠話の魔法具の仕組みは解明できていない。
 何とかツェルプストー秘蔵の古書に『遠見の鏡』に使用されている魔法の事が詳しく書いてあったので作る事が出来たが、それがなかったら普通のレーダーを今も作ろうと研究していたかも知れない。

 相対的に人気が落ちてしまったグライダーの為に、商会で各地の都市に設置してある空港にグライダー用の簡易なカタパルトを設置した。ジェットコースターのようなレールの上を走る台車をリニアモーターで加速してグライダーに初速を与えるというものだ。
最近増えてきた競合空港対策でもあり、グライダーの初期加速に不満を持っていた客は多かったらしく評判はよかった。

 競合空港が増えたのはグライダーの利用者が増えたからで、ゲルマニアとアルビオンで木枠帆布張りの機体を廉価に販売する商会が出てきた為ハルケギニアの空を飛ぶグライダーは飛躍的に増えてきている。ガンダーラ商会の物と比べれば圧倒的に性能は低いし故障しやすくはあるが、その低価格で着実にユーザーを増やしている。
その機体はまるっきり模倣というわけではなく、揚力と強度を確保する為に翼の根本が幅広になっていたり色々と各自工夫をしているようだ。翼先端での失速を回避するために前進翼になっている機体をみた時はウォルフも感心したほどである。

 東方開拓の準備は順調だ。まずボルクリンゲンにて、開拓で大量に必要になるであろう鋼材を確保するために製鉄法の改善に着手した。
ツェルプストーの高炉で生産される銑鉄を購入してきて電磁誘導炉で溶融し、炭素や不純物の除去方法を研究。得られたデータを元に大型の転炉とそれに続く圧延工場を設計しアルビオンの工場に発注してある。
 高炉で生産された銑鉄には炭素が大量に含まれており、そのままでは硬くて脆いのでどのように炭素を抜くかということが製鉄法の重要なテーマなのであるが、ゲルマニアでの方法は反射炉で溶融した銑鉄を攪拌しつつ火メイジが特殊な炎を操って精錬するという物だ。
実はこの特殊な炎というのがゲルマニアの高品質な鉄を作る製鉄法の重要な機密らしく、ツェルプストーからは教えてもらえなかった。
しかし、ウォルフにはその炎が酸素を多く含んだ酸化炎であることが予想できるので教えて貰えなくてもあまり関係ない。銑鉄中の炭素と酸素を反応させて燃焼させているのだろうということはウォルフには直ぐに分かる事なのだ。
 ウォルフが設計した転炉は炉の下部からアルゴンガスを吹き出して攪拌し、上部から純酸素を吹き付けて炭素を取り除くというものだ。鉄に含まれる炭素が減ると融点が上がるが、炭素が燃焼する熱のため外部燃料は必要としない。
酸素やアルゴンはコンプレッサーで空気を冷却しながら圧縮し液体とした上で分留して生産した。
 この転炉が完成すれば、反射炉に比べ十倍以上の生産力を持つことになるので必要な鋼材を自分で生産するのに十分だ。

 マイツェンから開拓地への主要交通機関になる予定の船はオールアルミ製の双胴船を二隻造った。二つの下部船体はAl-Mg合金製で魔法溶接によって製造したが、それらを結合する上部船体はジュラルミンや超々ジュラルミン、さらにはAl-Mg-Si系の合金など試験的に色々な素材の部品を使用してリベット止めで組み立てている。
リベットやアルミ合金についてはまだ研究中なので、今後船を運用しながらそれぞれの素材の耐蝕性や応力腐食割れ、リベットの緩みなど経年変化を観察していくつもりだ。
 風石エンジンを動力にしてスクリュープロペラで推進し、プロペラにはスーパーキャビテーティングプロペラを採用。船首下部に衝角を持っているような形のウェーブ・ピアーサー型船形により自動車十台を搭載しながら時速四十リーグで安定して航行する性能を実現できた。
この他にも船外機を取り付けた小型のアルミボートを何艘か制作したので持って行くつもりである。

 重機や今回からタイヤで駆動するようになったダンプカーなども製造が終わり、今はゲルマニアの鉱山で働きながら公募の開拓員候補を訓練している。
ちなみに結構な給料を掲示したにも関わらず開拓員候補は十名程しか集まらなかった。

 今、工場では製材機械を作るのに忙しい。これは、平民の家を現地の木材で造ろうと思っている為で、チェーンソーのように使えるブレイドソー(ちなみにこれは人間を切らないように設定してあるので安全だ)を始めとしてバンドソー、プレーナー、角鑿盤、ルーター、テーブルソー、ロータリーレース、プレス機等ウォルフの試作を元に大型の機械を製造している。
これらの木工機械を駆使して作る平民の家はアルビオンで雇った大工五人と一緒にパネル工法の家を開発した。工場で設計図通りに作った壁面を組み立てて作る家に対する彼らの感想は「ままごとの家みたいだ」だったが、工場で前もってある程度作っておくことで現地での工期が短くなるように工夫を凝らした家だ。彼らに開拓団員が工法を覚えるまでマイツェンで指導してくれる事を頼み込んで、交渉の結果、ブレイドソーを各人に提供する事で了承してもらえた。
この家に使われる金物はボルクリンゲンの工場で生産する予定で準備を進めている。
 他にもコンプレッサーを使用した大型の冷蔵庫など長期の生活に必要なものも色々と作り、もうこの旅行から帰ったら直ぐにでも出発できる程にはなっている。

 順調に飛行を続ける機内で、ニコラスと東方開拓の話をしているとあっという間にラ・クルス上空に到着した。

「本当に速いな。もっと大きいのは作らないのか?」
「作るよ。今その技術を開発中だからもう少しかかるけど、多分完成したらこれよりも速く飛べると思う」
「もしそれが実現したら、ハルケギニアの物流は一変するかも知れないな」
「航行そのものには既存のフネよりはコストがかかるけど、飛んでる時間が短くなるから人件費を考えればよっぽどローコストで運行できる。空飛ぶ帆船はなくなるかも知れないね」
「…それも寂しいもんだがな」

「ほら、サラ、リナ、起きろ。もう到着するぞ」
「んあ…もう着きましたか、速いですねぇ…zzz」
「だから起きろって」  

 サラはこの休みを取る為に美容品工場の仕事をここの所ずっと居残りでやっていたので寝不足らしく、昨夜も準備で寝るのが遅かった事もあってモーグラに乗り込むなり熟睡していた。リナも全く同じ状況で、起こす言葉にも反応せずに熟睡している。
道中も寝っぱなしで結局到着してウォルフが無理矢理起こすまでサラ達が起きる事はなかった。



 東方調査以降ウォルフは仕事もあるのでラ・クルスには時々来ていた。その時にウォルフが東方開拓団に応募する事を聞いたフアンの反応は微妙なものだった。
自分の力で領地を得ようとしているのだから祖父としてそれを応援したいような気持ち、何故、それがガリアじゃないのかという残念な気持ち、東方の森の開拓なんて無理ではないかという気持ち、商人になるよりはマシかという安堵の気持ち、様々な感情が綯い交ぜになった複雑な表情でウォルフの事を見つめたものである。
 今回顔を合わせてもまだその気持ちを消化し切れていないようで、複雑な顔をされた。
 ド・モルガン家と時期を合わせて帰ってきているレアンドロ一家とも一通り顔合わせが済み、家族一同揃っての昼食の時にもフアンは詳しい話を聞いてきた。

「で、どうだ、ウォルフ。開拓とやらの準備は進んでいるのか?」
「はい。もう申請も済みましたし、開拓地から一番近い村であるマイツェンを領有するミルデンブルク伯爵から村の外の河岸に専用の桟橋と開拓の拠点を作る許可は得ました」
「結構な税を取られるのではないか?」
「いえ、一部牧草地にかかってますけど、開拓しようとしている場所は三十リーグも離れていますし、製材所を建てるつもりだと言ったら好意的な税額にしてもらえました」 

 マイツェンは辺境の村には珍しく、広大な牧草地に囲まれた村だ。周囲数リーグにわたって牧草地が続いていて、今も毎年幻獣の少ない時期に少しずつ拡大しているという。
牧草地はあっても幻獣を誘い込む恐れのある家畜はいない。僅かに移動用の馬を飼っている位だ。種類ごとに年三回程収穫される牧草は全て内陸にあるミルデンブルク伯爵領へ船で送られている。この地に付随する子爵位が無かったら伯爵も破産して売りに出されていたこの土地を購入する事もなかったが、伯爵は手に入れてからは"頑張らない"事をモットーに開拓を続け、今では伯爵領に収益をもたらすまでになった。
 ミルテンブルク伯爵領にとってこの村は牧草供給地としての意味合いしか持たない。そんな土地に新たな税収をもたらすというウォルフは好意的に迎えられていた。
 
「ふうーむ、それほどその地の鉱山は見込みがあるのか? ガリアじゃダメなのか?」
「見込みはありますね、鉄や銅、亜鉛、鉛、錫などを始めとして色々面白い鉱石が見つかっていますし。ガリアは、その、調査させて貰えないことも多いですから詳しくは分からないです」
「う、うむ、それならば仕方ないな」

 キラキラと目を輝かせて開拓地の事を語る孫に、さすがフアンも強い事を言えずに黙った。以前はウォルフの事を嫡男の長女であるティティアナの婿候補の一人として考えていた節があったが、嫡孫であるディエゴが二年前に生まれたので事情が変わってきている。
ガリア貴族であるフアンにとってゲルマニアの東方開拓団と言えば、ガリアで出世も出来ずどこの貴族の婿養子にもなれず、三十過ぎまで実家に寄食しているような次男三男が一発逆転を狙って行くものという印象がある。
 そんなものに自分の孫が応募するなんて、何となく恥ずかしいような、好きにやらせてみたいような、まだまだフアンの気持ちは整理できないようだった。

 フアンが黙ったのでレアンドロが詳しく辺境の森の様子を訊ねる。ガリアの人間にとってゲルマニアの辺境の森はおとぎ話のように遠い世界だ。

「でも、ウォルフ達は辺境の森へ行ったんだろう、凄い所だって噂だけど大丈夫なのかい?」
「凄い所ですよ。予定地は毒を持つ昆虫とかは南の方よりは少ないみたいですけど、大型の幻獣が結構多くて大変でした。なあ、兄さん」
「うん、五メイル位のトカゲなら小っちゃいって思うようになった」
「トカゲは十サントくらいなら可愛いって思えるけど、そんな大きいのは嫌…」

 五メイルのトカゲを想像して顔を歪ませるのは従姉妹のティティアナ。フォークを持つ手が止まってしまっていた。

「あ、でも三メイルのカエルはでっかいって思ったよ。何かこう、質量感が凄かった」
「そんなのもっとやあ!」
「それがな、ティティ、十メイル離れた所からでも舌を伸ばしてこっちを捕まえて食べようとしてくるんだよ。凄く素早いし全く予備動作がないしで、躱しにくいんだ」
「ああ、あれは五メイル以内に近寄られたらやばそうだったね」
「てらてらと色鮮やかな黄緑色をした大カエルがカパッと口を開いて、中からネバネバとした粘液にまみれたピンク色の舌が…」
「リフ兄いじわる!ティティがカエル嫌いって知ってて言っているんでしょ!」

 もうティティアナはフォークを置いて両手で耳を塞いでいる。クリフォードはティティアナが涙目になっているのを見てさすがに慌てた。

「や、いや、カエル嫌いなんて知らなかったって、ホント。でも、辺境の森も慣れると中々楽しい所だよ。ティティも一度行ってみると良いよ」
「絶対に行かない!」

 ティティアナはプンとむくれてしまったが、クリフォードがあの森を楽しいと感じたのは本当だ。この後辺境の森の幻獣について皆に聞かれるままに色々と話をした。怪鳥ロックはガリア側にも出るようで、その存在を知っていたフアンはクリフォードが一人で倒したと聞いて驚いていた。
様々な幻獣の話が出た結果、ティティアナが辺境の森へ行く事は絶対に無いと確定した。

 話の途中からはフアンもまた会話に参加するようになり、幾分気持ちを切り替えられてたのか若い頃竜を倒した時の話を自慢したりしていた。



 食後、ウォルフはレアンドロに誘われて中庭に面したテラスへやってきた。 

「わざわざ済まないね、ウォルフ。ちょっと内密な話なんだ」
「いや、別に構わないけど、商会関係の話?」
「あー、そっちの話もあるな、そっちから済ませるか。あの、苛性ソーダなのだが、以前はウォルフの提供してくれた製法でガリアでも作っていたけど、今はガンダーラ商会から購入しているだろう?」
「うん。価格も安くしているし、そちらもメイジを節約できて良かったと納得しての取引だと思うけど」
「あ、いや別に不満があるわけではないんだ。ただ、シャルル殿下がこんな重要な物資を外国に頼りきりというのは良くないと仰ってね、出来ればガンダーラ商会に製法を提供してもらいたいとのことなんだ」
「製法の提供か…」
「対価は払う。ガンダーラ商会に損はないようにする。ガリアの王子がそう約束しているんだ、何とかならないだろうか」

 水酸化ナトリウムの製法でネックとなるのはイオン交換膜だ。地球ではこれが発明される前は石綿で行っていたが、そんな方法を勧めるわけにはいかない。
イオン交換膜の製法と言っても、気相接触脱水素反応だのスルフォン化だのを短期間でハルケギニア人に理解できるように教える自信がウォルフには無い。さらにスチレンなど交換膜の原料の作り方も教えろと言われたら大変すぎる。気楽に請け負えるような内容では無かった。

「ちょっと…難しいかな。教えられる人間が多分オレしか居ないし、オレにそんな余裕はないし」
「む、一日二日も空ける余裕はないのか…」
「いや、そんな簡単に教えられる内容じゃないよ」
「そうか、うむむ…」

 レアンドロには悪いがボルクリンゲンで生産する量でウォルフは困ってないし、そんな事に割く時間はない。

「どうしてもと言うなら、ボルクリンゲンに技術者を送って下さい。工場を見学できるように手配しておきます」
「え、作っている所を見せてくれるのかい?」
「そっちで勝手に作れるようになる分には構わないよ」
「おお、ありがとう、それなら殿下も喜ぶよ」

 ホッとした顔で答える。ちょっと自分達に都合の良い申し出だと思っていたのだろう。
他にも色々とガンダーラ商会から導入できそうな技術について相談をしてきたが、その辺はタニアかガリア代表であるスハイツに相談してくれるように頼んだ。ウォルフとしては細々とした経営の事にはあまり関わりたくない。

「うん、分かった、商会長かガリア代表だな。で、もう一つの話なんだが、これもシャルル殿下からの申し出で、ウォルフ、君にオルレアン公爵領に来ないかという誘いなんだ」
「伯父さんも知っている通り、この後家族みんなでラグドリアン湖に行くけど」
「それは知ってる。知ってるけどそう言う意味じゃないんだ。子爵位とそれに相応しい領地を用意するからシャルル殿下に仕えないかという誘いなんだ」

 ウォルフから目を逸らしながら言いにくそうに切り出した。似たような話をフアンが言っていても歯牙にもかけなかったのを知っているし、今も東方開拓団をやる気になっている事も知っているからだ。

「その、殿下は君の様々な発明をとても高く評価していて、年齢など関係なく相応の地位を保証してくれるそうだよ」
「オレまだ九歳だよ? 他の人が黙ってないでしょう」
「やっている内容に対して今の君の地位はとても不安定だろう? ちゃんとした身分と強力な後ろ楯を手に入れておくのは悪い事じゃないと思うんだ。地位の事は大丈夫、今のシャルル殿下にはそのくらいどうとでもなる力がある」
「うーん、ごめん、メリットはあるのかもしれないけど……伯父さん、断っておいてくれるかな」
「ああ、シャルル殿下は、パーティーの時に返事を聞くからって…」
「断る事を了承してもらって、パーティーでもその件を持ち出さないと約束してくれないと、ド・オルレアンなんかに行けないんだけど」

 大勢の貴族の前で勧誘されて、それを断ったらまた面倒な事になりそうだ。シャルルは相変わらずなのだろうか。

「ああ、そうか、わかった、苛性ソーダの話も含めて明日ド・オルレアンまで行って話をしてくるよ。残念だけど、しようがない。こんな事で君たちとギクシャクするのは望む事ではないし」
「何とか角が立たないように断って下さい」
「それは大丈夫だよ。シャルル殿下は君が東方開拓団に応募すると聞いてちゃんとした地位と身分を与えれば引き抜けるかと思っただけなんだ」
「はは、確かに開拓団はそう言う人が応募するものらしいね」

 ウォルフは今のところ自由にやれているので、この自由を手放す気はなかった。開拓がうまくいったとしても期限の十年間が過ぎるまでは爵位を貰わないように気をつけないと、と思っている程で九歳の身空で子爵などと言う堅苦しいものになるなど冗談としか思えない。
何だか気が重くなってしまったウォルフはこの後サラ達と合流してレアンドロ家の長男ディエゴと初対面し、まだあどけない二歳児に存分に癒してもらった。

 ラ・クルスでの日々は何事もなく過ぎ、貴族らしく観劇したりパーティーに参加したり、暇を見て風石鉱山に行ったり醸造工場や石鹸工場へ行ったりして過ごした。
パーティーではウォルフと同じ年頃の貴族の娘を何人か紹介され相手をしたが、どうも満足してもらえる対応は出来なかったみたいだ。正直なところ、話が合わなかった。
 向こうからしてみても、いくらラ・クルスの血を引いてるとはいえアルビオンの領地無し男爵の次男ではどう見ても不良債権のように思えるし、この年で商売していると言われてもピンと来なかったようだ。
そういえば同世代の友達と言える存在が全くいない事に今更ながら気付いたが、それこそ今更どうとなるものではないので気にしない事にした。

 レアンドロには領内でやっているというプロジェクトをいくつか見せて貰ったが、色々と面白い事をやっていた。
一緒に見学した女子達には、魔法によってエナメルの微粉末を調製したエナメル工房見学や、やはり魔法によって成分を変えた色彩豊かなガラスを使用したガラス工房見学が人気だったが、ウォルフが面白いと思ったのは水メイジによるヒヨコの選別だ。
 この時使う魔法は唱えるだけで数百羽いるヒヨコの内オスだけを浮き上がらせて一瞬で選別するというもの。これまで雄のヒヨコにかけていたコストをカットできたので卵の生産量が飛躍的に上がり、竜など騎乗用の幻獣達も好物のヒヨコをふんだんに食べられるようになって機嫌が良いという。
養鶏業が大規模化を進めるにつれ新鮮で安価な卵を使った卵料理はラ・クルスの新しい名物になりつつあるという。
 こんな魔法の使い方を思い付きもしなかったウォルフはまだまだ魔法の可能性はいくらでもあると感心したものだ。

 そんなこんなで楽しく過ごす内、ラ・クルスでの日々はあっという間に過ぎていった。




2-34    表裏



 祖父達に別れを告げてド・モルガン一行はラ・クルスを後にし、ラグドリアン湖へと向かった。モーグラでの移動はそれこそあっという間で、また以前と同じホテルに泊まって湖畔でのバカンスを楽しんだ。いつもと同じように昼は湖で遊び、夜には本を読んだりホテルを抜け出して水の精霊と語らったり、ゆったりとした時間を過ごした。

 水の精霊はウォルフが呼びかけるとまたすぐに現れて色々と話をしたが、水の精霊が自身の起源を求めて昔の事を思い出そうとしている事を聞いた時にはウォルフのテンションが上がった。
 何せ本物の歴史の生き証人だ。固有名詞を全く覚えていないのは残念な事だが、何百ヶ月前に戦争があったとか何千ヶ月前に地震があったとか正確な数字が出てくるのは貴重な史料だ。
 現在二十万ヶ月程前、つまり約一万七千年前位まで記憶を遡っているらしいのだが、ウォルフの知識によれば生命の起源はあと四十億年程昔なので頑張って欲しいものだ。それを伝えた時に水の精霊がちょっと落ち込んだように見えたのはきっと気のせいだろう。

 歴史の話だけでなく魔法研究の助言もしてもらった。最近ウォルフは魔力素を凝縮して人工土石や水石を作り出す研究をしていたのだが、どうにも系統魔法ではうまくいかないので相談に乗って貰ったのだ。
 ウォルフの考えた方法は魔力素をセレナイトに凝縮して定着させるというもの。風石の研究から導かれた方法だったが、出来上がったものはそこに魔力素が定着しているだけのセレナイトの塊で、土石や水石としては全く利用できないしろものだった。敢えて言うなら"魔力が定着する"という魔法が発動している石、であろうか。セレナイトに凝縮するというのは間違っていないらしく、ウォルフが用意したセレナイトに水の精霊が見本として凝縮して見せてくれたが立派な水石が出来上がった。
 水の精霊曰く、魔力素を取り込んでから利用するという系統魔法の方法が自然の理から外れているので仕方がないそうだ。一度生命が取り込んだ魔力素は取り込んだ者の意志をその身に宿してしまうらしい。そしてその意志を実現した後は一度魔力子とウォルフが呼んでいる素粒子の状態に分解してしまうので、そこに定着した魔力素を利用できないのだ。
『コンデンセイション・ラグドリアンウォーター』のように魔力素が自分で定着する条件を整えてやる事が出来れば不可能では無さそうなので、何故セレナイトに魔力素が定着しやすいのかを明らかにする必要がある。精霊魔法を使えるようになればいいのだが、魔法の発動方法からして全く違う魔法をそう簡単に使えるようなら苦労はない。一応水の精霊の魔法を観察はしたが元々水の精霊自身が魔法その物という存在の為、全く参考にはならなかった。
 何せ『ディテクトマジック』を唱えても魔法が発動しているとは探知できないのだ。せいぜい普通に魔力素があって、それが移動している位にしか分からないというのにちゃんとそれが魔法になっている。ウォルフから見ると精霊魔法は人間には使えないのではないかとすら思えた。


 バカンスと言いながらまた研究しているのはウォルフの性なのでしょうがない。他の者は皆十分にバカンスを満喫し、いよいよド・オルレアンでのパーティーに出かける日となった。

「はーあ、久しぶりのド・オルレアンの屋敷だな。何か緊張してきた」
「緊張してきたのはこっちもだよ。頼むから今回は問題起こさないでくれよ」
「父さん、それはシャルル殿下に言ってもらわないと」
「ははは、大丈夫だよウォルフ。殿下は君がガリアに来てくれないと聞いて残念がってはいたけど、無理強いするような人じゃないよ」

 レアンドロが心配ないと肩を叩くが、その無理強いを前回されそうになったから気にしている。不安は尽きないが、ウォルフはそれ以上は何も言わなかった。

 ウォルフ達は今、レアンドロの連結馬車に同乗してド・オルレアン邸へ向かう所だ。この風石を利用した大型の連結馬車は二台の台車を長大な客車で連結し、貴族用の広大な室内空間を実現しているものだ。前後に配置した台車に細長い客車が乗っている様は丁度電車のようだが、八頭の馬で牽引するので馬車としての体裁を失っていない。客車と台車とが分離してリンクで繋がれており、客車は走行中風石で浮いているので乗り心地がすこぶる良い。
 モンテーロ商会の帆走車と言い、この連結馬車と言い自動車にはライバルが多い。ウォルフがその雲の上を走るような乗り心地に慣れた頃、馬車はオルレアン邸に到着した。

 オルレアン邸に入ってすぐのエントランスで、訪問客の相手をしていたシャルルとその奥方がにこやかにレアンドロ一行を出迎え、やがてウォルフにも声を掛けてきた。

「やあ、ウォルフ久しぶりだね。魔法は上達したかい?」
「お久しぶりにございます、シャルル殿下。ボチボチと上達しています。最近は忙しくて魔法の鍛錬はサボり気味ですが」
「ははは、聞いているよ、随分と色々やっているみたいだね。今度はゲルマニアで開拓をするとか」
「はい、有望な鉱山が見つかりました事もありまして、ちょっと挑戦してみようかなと」
「君なら成功すると信じているよ。奥にシャルロットがいるから話をしてあげてくれ、君と会えるのを楽しみにしていたんだ」

 シャルルはさらりと挨拶を済ませるとすぐに次の客の相手をしに移動した。それは身構えていたウォルフが拍子抜けした程だし、ニコラスやエルビラもホッと安堵したようだった。

「シャルル殿下は毎日凄い数の案件を処理しているからね。一つうまくいかない事があったからって一々拘泥してはいられないんだよ」 
「何か風格が出てきたというか、肩の力が抜けているというか、前とは変わったみたいだね」
「色々とご苦労なさったけど、それらを全て糧になさったんだろう。最近では次の王はシャルル殿下で決まりだって専らの噂なんだ……おっと、これは内緒だよ?」

 感心するウォルフにレアンドロが誇らしげに話してくれた。王者の風格が出てきたと言う事ならウォルフも賛成だ。そのくらい今のシャルルは堂々としていて覇気に満ちていた。

「ゆとりが有る感じがいいよね。心配はいらなかったって事か。じゃあ、安心して今日はモリモリ食べて帰ろう!」
「おっと、また食べまくるのかい。シャルロット様もいる事だしコックも忙しくなりそうだ」
「へー、シャルロットもやっぱりまだ大食いなんだ、あ、いた。おーい、シャルロット久しぶり」

 話しながらエントランスからホールへと入るなり奥のテーブルでサラダを食べているシャルロットを見つけた。ウォルフがそちらへ歩いていくのを見届けてレアンドロも近くの知り合いのグループの所へと移動した。

「ウォルフ」
「あ、覚えててくれた。忘れられちゃってないか心配だったんだよ」
「忘れたりしないわ。パティ先生がいつも話をしてくれるし」
「そう言えばパティ先生って今シャルロット達の家庭教師やっているんだっけ、元気にしてる?」
「元気すぎる位。彼氏が出来たらしくて惚気るのがうるさいわ」
「へー、まあ、先生もいい年だしな」

 二人の共通の教師であるパトリシアは当年二十四才、ハルケギニアではそろそろ嫁き遅れと言われる年だ。
 しばらくパトリシアの事について話をしているとクリフォードやサラ、ティティアナもやってきて会話に加わった。

「兄さん、パティ先生彼氏出来たって」
「何でそれをわざわざ俺に言うんだ。関係ないだろう。シャルロット様、こんちは、ご無沙汰してます」
「久しぶり、クリフ。シャルロットで良いっていったよね?」
「う、うん、でも久しぶりだし…」
「久しぶりだからってリフ兄他人ぎょーぎだよ。シャルロット、こちらが私のサラお姉ちゃん、よろしくね?」
「は、初めましてシャルロット様、サラと申します」

 サラは初めて会う王族に緊張しきりだ。ガリアにいる間はレアンドロやフアンに言われてマントを着用し、貴族として行動しているが根は平民なのだ。

「初めまして。サラさんもシャルロットって呼んでくれると嬉しいな」
「む、無理でえす……」

 あまりにもおそれおおい事を言われ、サラは恐縮してウォルフの陰に隠れた。シャルロットは不満げな様子を見せたが、これはいつもの事なのでしょうがないと諦めた。

「お姉ちゃんはね、私と同じ水メイジでガンダーラ商会の化粧品を作っているんだよ。化粧品の名前にもなっているの」
「あの化粧品…水のスクウェアのパティ先生ですら分からない所が多いって言っていた」
「ねえ、すごいよね。ウチのお母様もあれ使ってから凄く綺麗になったの」
「うん、あれは凄い。私の母さまも使っているわ。どういう秘薬なの?」
「えとその、老化した細胞を補修して、水分を補うという考えです。水分がたっぷり入っていればそれだけで綺麗な肌に見えますし、それに加えて皮膚が老化する原因を排除するので、そのままの肌をキープできます。ウォルフ様から教わった知識を利用して、色々と工夫を凝らしているのですよ」

 女子達がわいわいと化粧品の話に突入してしまったのでウォルフとクリフォードは料理の方へ移動して食事を始めた。たとえ何歳でも女子というものは美容に興味があるものらしい。山海の美味珍味が並んだ料理に舌鼓を打っていると、シャルロットもやってきてウォルフに話し掛けた。

「ウォルフ、この後杖合わせをしてくれる?」
「杖合わせって、君ドレスじゃん。ここガリアだし、オレあんまり目立ちたくないんだけど。君と試合なんてしたら大注目になっちゃうよ」

 これから本格的に食べ始めようとした所だったし、正直言って注目を集めるのはこりごりだ。

「大丈夫。着替えるし、会場からは見えない中庭があるから」
「それならいい、かな? でも何でまたオレなんかと」
「ウォルフは凄いってみんなが言うから、どの位凄いのか知りたくて」
「うーん、ご期待に応えられるかは分からないけど、お手柔らかに頼むよ」

 結局シャルロットがごり押ししてウォルフが相手をする事になった。満腹だと動きづらいので食事を中断し、さっさと手合わせをしてしまう事にして移動する。

「おい、ウォルフ分かっているな。万が一にもシャルロットに傷を付けたりするなよ」
「いや、試合なんだから怪我位はする可能性はあるだろう。ある程度攻防をしないとシャルロットも納得しないだろうし」
「ここはド・オルレアンなんだぞ! 見ろよ衛兵の人達ピリピリしているぞ」

 シャルロットが着替えてくるのを待つ間、トラブルになる事を心配したクリフォードがウォルフに近付いて小声で注意する。確かに周囲にいるオルレアン家の家臣達はシャルロットと手合わせをする外国の貴族の子供に対して好意的な感情を持ってはいないようだ。

「なるべくは気をつけるけど、そんなに危険な事にはならないと思うよ」
「思う、とかじゃなくて、"しない"んだ。また逃げ帰るのはゴメンだからな」
「わかったわかった。気をつけるよ」

 クリフォードはまだ言い足りないようだったが、シャルロットの準備が整ったのでそれ以上は言う事が出来なかった。



 オルレアン公邸の奥の奥、うっそうと木々が茂る森にほど近い中庭で、ウォルフとシャルロットは十メイル程の距離を空けて対峙した。シャルロットは動きやすそうな服に着替えてきているが、ウォルフは正装のままだ。クリフォードが立会人で、観客はサラとティティアナそれにシャルロットの護衛である衛兵数人だけだ。クリフォードが立ち会いをするのはあくまでも子供同士の遊びであるというスタンスの為だ。 
 ウォルフは衛兵からのプレッシャーになるべく気付かないふりをしながら、如何に怪我をさせないで試合をするかに頭を悩ませていた。何せ相手はぴかぴかの王族で、ここはその領地なのだ。キュルケの相手をする時以上に気を使わなくてはならない。

「じゃあウォルフ、絶対にシャルロットを傷つけるような魔法を使わない事。シャルロットは全力でどんな魔法撃っても大丈夫だから」
「んー、努力します」
「……ウォルフも全力出して構わない」
「あー、まあとりあえずやってみよう。気に入らなかったら二回戦すれば良いんだし」

 ウォルフの全力とか、クリフォード的には心臓に悪すぎるのでやめて欲しい。

「ごほん、では二人とも正々堂々と戦う事。始め!」

 クリフォードの合図と共に二人の間の空気がピンと張り詰める。ウォルフはゆっくりと横に移動しながらシャルロットの構えを観察する。重心はやや高め、前後左右どちらにでも即座に移動できそうな構えでウォルフとは反対側に円を描くように移動している。スタイルとしてはシャルロットは相手の魔法を受け止めるのではなく、ギリギリで躱して反撃するというものらしい。シャルロットも慎重にこちらを観察していて、自分から仕掛けてくる気配は無い。
 睨み合っていてもしょうがないのでとりあえず攻撃してみる事にした。使う魔法は怪我の少ない『エア・ハンマー』だ。

「じゃあ、ウォルフ行きまーす《エア・ハンマー》」
「くっ!」

 シャルロットの重心が高めだったので大きくは避けられないだろうと、威力は落ちるが大きい『エア・ハンマー』を放ってみた。半径二メイルもの大きさで放たれた魔法の槌を、そこまで広い範囲の攻撃を想定していなかったシャルロットは躱しきれずに避けた勢いのままゴロゴロと地面を転がった。転がるシャルロットに今度は集束して威力を高めた『エア・ハンマー』を放つが、素早く起き上がるとトンボを切って躱した。

「おお、凄い身のこなし」
「今度はこっちの番《エア・カッター》!」
「ほんじゃこっちも《エア・カッター》」

 シャルロットの放った『エア・カッター』を迎撃して打ち砕き、そのままウォルフの風の刃はシャルロットに襲いかかった。
 文字通り間一髪で身を捻って躱したが、シャルロットの美しい青色の髪が数本宙に舞った。

「ちょおーっ!! バカウォルフ! 危ないだろ、お前何やってんだ!」
「シャルロットの身のこなしなら、あのくらいは避けられるって」
「クリフ、うるさい」
 
 シャルロットは気丈にクリフォードに文句を言ったが、内心ではかなり冷や汗をかいていた。自分の『エア・カッター』が砕かれたのに気を取られて反応が遅れた。
 実はシャルロットが決闘形式で立ち合うのはこれが初めてだ。教師の十分に手加減をされた手合わせとは違い、一歩間違えば大怪我になる魔法が目の前を飛び交う緊張感は想像していたものよりも随分と大きい。
 しかし、そんな内心を全く気取らせずに再び攻撃を仕掛ける。シャルロットの『エア・カッター』や『エア・ハンマー』をウォルフが打ち砕いてそのまま反撃するという全く同じ展開になったが、先程よりも間合いが遠い事もありシャルロットは余裕を持ってその反撃を捌いた。
 そのまま何度か同じ攻撃を繰り返したが、ウォルフは足を止めた場所から一歩も動かずに余裕を持って全ての攻撃に対応した。飛ぶ軌道の違う『マジック・アロー』を合間に挟んでみたりして工夫してみたが、そんな小手先の変化はウォルフには何の意味もないようだった。
 はっきり言ってこの間合いではシャルロットは手詰まりだ。ウォルフの方が詠唱も早いし魔法の威力も数段上だ。飛んでいる見えない風の刃に正確に当てられるのだから制御もウォルフの方が上なのだろう。シャルロットには何カ所か風の刃が掠り、血は出ていないようだが服が切れている。もちろんシャルロットにとって服を切られるなんて事も初めてだ。
 どうも手詰まりになったようなので、ウォルフの魔法がシャルロットに掠る度に心臓が縮む思いをしているクリフォードがこれ以上黙っていられずに声を掛けた。

「ももも、もう十分なんじゃないかな、二人とも十分頑張った事だし、引き分けって事で」
「だってさ。どうする? シャルロット」
「何を言ってるの? ウォルフはまだ全然余裕じゃない」
「だって、護衛の人達が凄く怖い顔してるう…」

 クリフォードから弱音が出るがシャルロットの耳には入らないようだ。確かにクリフォードがもう止めたくなる位、状況は絶望的だ。このまま続けていてもやがてシャルロットの精神力が尽きて敗れるだけだろう。そんな状況で、シャルロットはしかし、微笑んでいた。

「みんなお願い、もう少しやらせて? わたし今、凄く楽しいの」
「あ、あー、我々は別に何も…」

 とびっきりの愛らしい笑顔で言われては、護衛達も文句を言うわけにはいかない。元々この家の家臣達はシャルロットに弱い。

「じゃあ、再開かな。どうも手詰まりっぽいけど、どうするつもりだ?」
「…ウォルフは優しいね。魔法の先生達は、魔法を教えてくれてもこんな風に魔法をぶつけてきてはくれない。わたし、こんなにワクワクするのは初めてだよ」
「お遊びって感じだったら、オレももっと適当に相手するんだけどね。どうやら結構本気みたいだし」

 話しながらもシャルロットはずっとどうすればいいのか戦略を考えている。『ブレイド』や『エア・ニードル』の間合いにはとても入れそうもないし、『エア・カッター』は全く通用しない。『エア・ハンマー』もあちらの方が上手だから『ウィンド・ブレイク』なんかじゃ決め手にはならない。
 とにかく分かっている事はこのまま遠距離の間合いにいてもジリ貧だと言う事なので、間合いを潰す事によって勝機を見いだす事にした。

「本気も本気、次が最後の攻撃……わたしの全力、受け止めて?《ウィンド・ブレイク》!」

 宣言した直後、激しい風を自分とウォルフとの間の地面に叩き付け、砂埃を上げて一瞬の間を作る。シャルロットは即座に詠唱を始めながらその砂埃に突っ込むように勢いよく駆けだした。

「《アース・ハンド》」

 砂埃の中、地面から突き出た手で駆けだしたその足を掴まれそうになったが、間一髪ジャンプして躱す。

「《エア・ハンマー》」

 着地する瞬間、拳大の風の槌でしたたかに脛のあたりを叩かれて転がるが、受け身を取ってすぐに起き上がると詠唱を完成させた。唱えるは『風の槍』シャルロットが放つ最大威力の魔法だ。

「もらった!《エア・スピアー》!」

 中距離の間合いまで進入したシャルロットの杖から勢いよくウォルフへと『風の槍』が伸びる。来る日も来る日もひたすら練習してきたのだ、この魔法の速度と貫通力には自信があった。さすがのウォルフも躱しきれないはず、とのシャルロットの思いは次の瞬間に崩れ去った。

「《ファイヤー・ボール》」

 凄まじい勢いで飛来する炎の玉が『風の槍』を飲み込み、消し去りながらシャルロットへと襲いかかる。全く反応できない速度で飛んできた炎の玉は『風の槍』を完全に消し去ると、シャルロットの目の前一メイルで弾けて消えた。
 目を瞑ったシャルロットの周囲を熱風だけが通り過ぎ、力が抜けたシャルロットはぺたんと尻餅をついて座り込んだ。

「終わりで良いかな?」

 呆然としているシャルロットの目の前に杖を突きつけ、終了を宣告する。
 コクンと肯いだのを確認し、魔法でざっと体を調べてみて脛の内出血以外怪我がない事に満足すると手を差し出した。

「はい、お疲れ。お互いに怪我が無くて良かった」
「…ウォルフの『ファイヤー・ボール』凄く速かった」
「速さってのは大事だからね。ちょっと足見せて」

 ズボンの裾をまくると、脛がポッコリと腫れて内出血していたので魔法を唱えて治療した。内出血を止め、細胞を補修して炎症を抑え血液を散らす。シャルロットの細い脛はあっという間に元通りになり、怪我したとは分からなくなった。

「ウォルフは全部の系統が得意なの?」
「いや、効率という面では火が得意な系統になる。水だとドットスペルでも結構精神力を消費しちゃう」
「私は土と火が苦手。ウォルフは全部の系統を使いこなしていて凄いと思う」
「苦手って思うとあまり使わなくなるし、どんどん魔法のイメージを作りにくくなっていくと思うんだ。確かに系統ごとに効率の差は出てくるものだけど、あまり気にしないでどんどん使っていくべきだね」
「うん、これからは火と土ももっと練習するようにする」

 ウォルフが見た所、シャルロットの魔法はこの年齢としては驚異的と言っていい程の腕前だ。王家の血筋というのも有るのだろうが、この向上心こそ彼女のメイジとしての今を築いている根幹なのだろう。今後どれほどのメイジになるのか、楽しみだ。
 サラやティティアナ達観客は皆拍手して迎えてくれたが、クリフォードはシャルロットに大きな怪我がなかった事に心底安堵して座り込んでしまっていた。

「シャルロットって身が軽いねえ、何かリスみたいだったよ」
「全然ウォルフに通用しなかった。もっと頑張らなくちゃ」
「今だって凄く頑張っているのに、好きねえ」
「うん、今日は凄く楽しかった! クリフやサラさんはウォルフと毎日手合わせを出来るなんてうらやましい」
「フフ、毎日なんて手合わせしてられないですよ。私は戦闘苦手ですし」

 やいやいと話しながらまたパーティー会場へ戻る。シャルロットの興奮はまだ収まらないようで、またドレスに着替えて戻ってきてからもずっと魔法の事を話していた。
 そんなシャルロットの相手をしながら、ウォルフは今度こそ腹一杯に料理を食べる事が出来た。



 パーティーが散会した後、シャルルは先程までとは打って変わって静まりかえった屋敷の執務室で部下の報告を受けていた。

「以上のようにウォルフ・ライエ・ド・モルガンはメイジとしても既に一流。あからさまに本気を出してはいませんが、魔法のコントロールはほれぼれする程でした。実戦での実力は分かりませんが、人気取りには十分なものを持っていると言えるでしょう。エルビラ・アルバレス…"業火"の息子という事も有りますし、陣営に引き込めればガリア西部の掌握はより容易になると言えます」
「うん、レアンドロだとどうしてもカリスマ性に欠けるから、ウォルフとのコンビで人気を取るのは間違っていない戦略だと思うんだ。ガンダーラ商会の技術も欲しい事だし」
「水の精霊との邂逅は確認できませんでしたが、夜中に一人でホテルを抜け出す所までは確認済みです。帰って来た時に立派な水石を保有していましたので、どうやら水の精霊と取引できるという事も本当の事らしいです」
「やはり本当だったか。彼さえ確保できれば、トリステインは無くてもいいな」
「そうですね、トリステイン王家を廃した後に、アンリエッタ王女と番わせて現在のモンモランシ領、ラグドリアン湖周辺を治めさせるのが良いように思えます」

 いつものシャルルを知る者が聞いたら耳を疑ってしまうような事を平然と言い、部下もそれを当然と答える。どうやらこの主従は日頃からこの様な話をしているようだった。

「む、それでは権威が強くなりすぎないか?」
「没落した王家に何の脅威がありましょうか。むしろラグドリアン専任の地位を与えて、政治には口を出させないのが良策かと存じます」
「ああ、なるほど、むしろ権威だけの存在にしてしまうのか。代々水の精霊との交渉役と始祖の血を受け継ぐガリアのド・モルガン家。いいじゃないか」

 楽しそうに言うシャルルの顔は、日頃の誠実な王子の顔しか知らない者が見れば別人かと思うような含みのある表情だ。

「次に、商会の株をヤカ商人ギルドから入手する件ですが、リュティスの商人を通して彼らが投資したという十万エキューの三倍額で打診しましたが、断られました」
「やれやれ、僅か数年で投資額が三倍になるって言うのに満足しないのか。強欲な商人達だな」
「はい。ラ・クルスとの関係を考えるとこちらの正体をばらすわけにもいかないので今後の交渉は難しいでしょう。ツェルプストーの方も今のところ関係は良好なようなので、株を手放す見込みはありません」

 ふむ、とシャルルは考え込む。ガリアで現在進行中の各種改革だが、実はガンダーラ商会の技術を利用しているものも結構多い。地下千メイルにまで及ぶ風石鉱山開発はまんまガンダーラ商会の技術で行っているし、水酸化ナトリウムの製造ももちろんの事、ガンダーラ商会製の高精度ベアリングなどは今やガリアの産業界にとって無くてはならない物だ。
 シャルルにとってガンダーラ商会の技術は、ウォルフと共に手に入れられるものならば手に入れておきたいものであった。

「ガリアとゲルマニアでは現状で出来る事は少ないか。と、するとあとはアルビオンだが、貴族派とやらに渡りはつけているんだな?」
「はい。王家とガンダーラ商会の躍進に不満を持っている者ばかりで、特に今回風石市場で損失を多く出していて追い詰められつつあります。朝貢を条件にある程度の自治を認めてやれば支援に飛びつくものと思われます」
「情勢としてはどうなんだ? ここの所王家の力が増しているようだが」
「確かに今は王権派が盛り返していますが、我々が支援するならば貴族派が最終的な勝利を得る事も難しくはないでしょう」
「そうなればトリステインとアルビオンの二国とも実質的にガリアの物になる可能性があるか。私の戴冠に丁度良い華を添える事になるな」

 また、何かに酔っているかのような笑みを漏らす。貴族派がアルビオンで国政の実権を握る事になれば、ガンダーラ商会のアルビオンでの活動はかなり制限されるというのがシャルル達の見込みだ。

「ふふふ、アルビオンで排斥されたらどうなる? ガンダーラ商会といえど所詮一商会、どこか大きな力に頼らざるを得ないだろう。そう、この私のような」
「御意。現在アルビオンで行っている機械製造などの事業を国外へ転出せざるを得なくなった場合、辺境の森では地理的に遠すぎて適していないでしょう。ハルケギニアの中心近くにあるラグドリアン湖周辺に領地を約束すれば辺境の森の権利などさっさと売り払う事が予想されます」
「うむ。だがまだ早い。まだトリステインへの工作も途上だし、アルビオンも動きがあるのはまだ先だろう。暫くは泳がせておけばいいな。とはいえ、開拓の進捗具合は常に把握しておきたい。確か、ウォルフが開拓員を募集していると言ったな、そこに何人か諜報員をもぐり込ませてくれ。そうだな、二人位で良いだろう。その二人を支援するチームを作って連絡や情報収集に当たってくれ」
「畏まりました。目的は情報収集という事で風メイジが良いでしょうな。丁度良いのに心当たりがありますから、早速送り込みましょう」



 部下が去った後、シャルルはゆっくりと椅子から立ち上がり、壁に貼ってあるハルケギニアの地図の前に立った。
 広大な領地を誇るガリア。そのガリアと同等の大国ゲルマニアに挟まれた小国トリステイン。強力な空戦力を持ち地勢的に攻略しにくいアルビオン。シャルルはそれらの全てを手に入れるつもりだ。そして、それだけで終わるつもりも勿論無かった。

「ガリアとアルビオン、トリステインを統一すれば既にこの地におそれるものなど何も無い。ロマリアなどもはや圧力を掛けるだけで言いなりに出来るだろうし、アルブレヒトに異端宣告を出させる事すら可能となるだろう」

 異端宣言が出されてしまえばゲルマニアなど一年も持たずに瓦解する事が予測される。自分たちも異端宣告を出される危険を冒してまで帝室に忠義を貫く貴族などあの国にはいないのだから。

「最後にロマリアを武装解除すればこの六千年の間誰も出来なかったハルケギニアの統一が成し遂げられる。その統一王の名はシャルル・ド・ハルケギニア、この僕だ」

 シャルルはハルケギニアの地図を見つめ続ける。その目の輝きは妖しい光を放ち続けていた。




2-35    大事の前の小事



 楽しかったガリアでの日々も終わり、いよいよ東方開拓へ出発する日が近づいてきた。
 そんな、わくわくする毎日を過ごしていたある日、ウォルフはタニアの呼び出しを受ける。チェスターの化粧品工場の一角に設けられた商会長室で、不機嫌な顔を隠そうともしないタニアがウォルフを待っていた。

「ウォルフ、東方開拓にかまけるのはいいのよ? いいのだけれど、自動車の販売台数が絶不調のまま底辺を這っているのは、これはどういう事かしら?」
「あー、中々商品の良さが消費者に理解されていないみたいだね」
「何を人ごとのように…あなた言ったわよね、俺が居なくたって工場は回るようにしてから行くって。今自動車工場はどうなっているかしら?」
「絶賛技術訓練中でございます」

 自動車生産のために増員された工員は予定していた仕事が無いので、規定の訓練を終えた後も他の機械の取り扱いなど部署を変えながら訓練を続けている。他の工場は忙しいのにこの工場だけ仕事が無い。訓練も集中的にやったら直ぐに終わってしまいそうなので他の部署に応援に行ったり、十八歳以下の若い工員になどは旋盤などの高い技術が必要な機械の訓練を始めているほどだ。

「訓練させている間も給与は出ていくのよ? あなたが必要だと言うから大幅に増員したのに、これはどうした事かしら」

 このままでは開発費をペイするどころか人件費がかさむ一方だ。本来はウォルフが開拓にかまけている間も、自動車の生産で工場はフル生産状態になっている予定だったのに、計算外の事態だ。

「分かった、分かりましたよ。他にいくつか考えていた事があるから手っ取り早くその事業を始動させよう。それで勘弁してくれ」
「ん、何をするつもり?」
「平民向けの安価な服飾製品を考えている。当然機械による大量生産を前提に開発を進めるつもり」
「平民向け…」

 ナイロンやポリエステル更にはガラス繊維を生産しているし、リナの自動織機なども有る。ガンダーラ商会は繊維工業に強い。その強みを更に伸ばす計画だ。
 ウォルフは続けて概要を説明するが、タニアは平民向けという点に懸念を感じた。

「平民なんて年に数枚しか服を買わないわ。しかも単価が安い。あまり商売としてはうまみが無さそうなのだけど」
「現在市場規模が小さいからって将来も小さいままと考えるのは間違っているだろ。特にアルビオンなんかだと今までより大分物価が下がったので平民の購買力に余裕が出ているし、何より平民は人口の九割を占めるという事を忘れてはいけない」
「うーん、確かに最近は暮らしに余裕が出てきたのか、ちょっと良いものの需要が高くなってきているわねえ」
「だろ? 暮らしに余裕が出たら身の回りのものに気を遣うようになるんだよ。だからこれまでよりちょっと良いものを安価に提供すれば爆発的に売れると思う」
「……いいでしょう。開拓に出発するまでにサンプルを提出して下さい」
「とりあえず半額くらいにはなるようにするから、楽しみに待ってて」

 結局ウォルフの仕事がまた増えたわけだが、まあ仕方ない。自動車が全然売れなかったのだから。頭を切り換えてウォルフは工場へ戻って計画を練った。
 


 まず最初に取りかかったのはボタン製造だ。
 ハルケギニアの服に使われているボタンは金属や動物の牙や貝などが原料で、金属はこの世界では高価だし貝なども一つずつ研磨して作っているのでウォルフから見るとやたらと高価だ。ボタンの機能からすればそんな高級品は必要ないのでこれを大量生産すれば服の値段は結構下がる。
 以前いくつか試作した事はあるので、その工程を元にして生産機械を設計、製作する。グライダーにも使っている不飽和ポリエステルを棒状に成型し、それをスライスして切削、穴開けまで行う機械だ。
 この機械で量産されたボタンを卸業者達に見せ、低廉な予定販売価格を伝えると好評を得た。価格だけではなく、このボタンは樹脂中に混和された顔料によるカラフルなラインナップや、平民向けのボタンで主に使用されている貝に比べて割れにくく高強度で有ることなど優れた面は多い。
 ボタンの大きさや形状など業者達の意見も取り入れながら開発を続け、すぐに量産を始める手筈を整えた。

 ボタンと平行してリナ達と共に編み機の開発にも取り組んだ。この編み機は二本の糸から筒状の生地、いわゆるニットを編み上げる吊り編み機と呼ばれる機械で、これまでの織機とは違い伸縮性に優れた生地を生産できる。
 フライス編み機という首の部分などを編める機械も平行して開発し、これらが完成すればTシャツやジャージなどのウォルフにとってなじみの深い服が作れるようになる。
 試作して生地を編んでは改良を施すという作業を繰り返し、こちらは開発に少し時間が掛かっているが、そろそろ最終形が近いという状態になった。

 こういった開発の現場ではウォルフの『遍在』の魔法はかなり活躍した。今回この二つの機械を同時に開発できたのはこの魔法が有ってこそだ。今まで体が二つあればと思っていたことがようやく実現できたのだ。
 魔力を相当消費するので開拓の現場ではあまり使えなさそうではあるが、開発も出来て『遍在』の練習も出来てと有意義な日々を過ごした。

 最後に取りかかったのはミシンの製造だ。
 ちょっとウォルフはもう時間がとれなかったので概要だけリナに説明してあとはまかせた。元々複雑な機械だし、すぐに出来るとは思っていなかったのでのんびり作らせるつもりだったのだが、二週間ほどで一台作ってきたので驚いた。おかげでウォルフも出発前にその試作機を見ることが出来た。

 今回リナが作ってきたミシンは単環縫いという方式だ。針穴に通した糸を布の下部ですくい取りループを作り、布を送って次のループに通す。糸のテンションやすくい取るタイミング等製作にはかなり微妙な調整を必要だったみたいだが、どうやらリナはコツをつかんだようだった。
 ウォルフがリンク機構などの機械の基本的な構造を教えたのはもう大分前になるが、リナは完全にその知識を自分のものにしている。興味深げに見つめるウォルフの前でリナは重ねた布をあっという間に縫い合わせて見せた。

「ふふふ、どうですか、お針子さんでもない素人の私がこの早さであっという間に縫ってしまいましたよ…しかもこの縫い目の美しさ! 機械ってすばらしい…」
「おお、この調子でロックミシンも本縫いミシンもすぐに作れそうだな。よろしく頼むよ」
「…今ようやくできあがったばっかりじゃないですか。少しは感慨に耽らせてくださいよ」
「吊り編み機もフライス編み機も編み機の方はもうほぼ原型が固まったからな。これでロックミシンが完成すればTシャツを量産できる」
「ロックミシンってもっと複雑な縫い方のやつですよね。布の端を切り揃えながら縁かがりをする…はあ」

 ニットは伸縮するためにそれに対応した縫い方をしなくてはならない。必然的にミシンも複雑化するのだ。  

「もちろん、このミシンも改善を加えてもっといろんな糸や生地に対応できるようにしてくれ。今はまだこのセットにしか対応していないだろう」
「うにゅ、わかりますか。調整する項目がかなり多いんですよね。ウォルフ様が精密機械と言ったのも分かります」
「あと、オレから見るとちょっと一つの目が大きい気がするな。もうちょっと細かく縫って欲しい」
「ぬう、平民向けなのに高級志向ですね……」
「機械なんだからあんまり関係ないだろう。とりあえずボタンの量産でタニアの方は満足してくれたみたいだから、しっかりとした物を作ってくれ。ミシンにしても編み機にしても長く使う物なんだから」
「うーい。この機械達を量産するとなったら相当工場も忙しくなりそうですからね、がんばりますよ。打倒! ガーゴイル針子」

 おー! と、気合いを入れるとリナは早速ミシンを分解し始める。話している内に改良点を思いついたようだ。
 ミシンは人間が操作しなくてはならないから増産には限界があるが、速度において手縫いを圧倒する。多くの縫製工場で使われているガーゴイルよりも早くて正確であるので仕上がる製品の品質は安定するだろう。早くも目処が立ちそうなのでウォルフも安心して出かける事が出来る。

「おお、頑張ってくれよ。じゃあ、オレもうゲルマニアに行くから。一月くらいで一度帰ってくるけど、進捗状況は知らせてくれ」
「いってらっさい」

 あっさりとした見送りを受けてボルクリンゲンへ移動する。先日送り出した製鉄工場用の設備類がそろそろボルクリンゲンへ着くので工場建設に立ち会わなくてはならない。
 タニアにも許可を得たし、サラ達家族もウォルフが暫くいない事にはもう慣れっこだ。ウォルフは心おきなくアルビオンを後にした。



「おお、溶鉄が出てきた。あれはまだ銑鉄なのですね?」
「ええ、おたくから二束三文で買ってきたやつですよ」

 ボルクリンゲンに着いて休む間もなく直ぐに製鉄用の施設を設置し転炉の試験運転を開始したのだが、どこで聞きつけたのかデトレフが見学にやってきた。別に見られて困ることでもないのでウォルフは解説しながら一緒に工員の作業を見守った。
 工場の奥に据えられた大型の電磁誘導炉からは断続的に真っ赤に光る溶けた鉄が流れ出し、前部に設けられた炉にたまっていく。十分な量が前炉にたまった段階で予熱した転炉に溶鉄を流し込むのだ。これまでこの炉ではツェルプストーから購入した既に精錬された鉄を溶融してワイヤなどに加工していたが、今回は精錬する前の炭素や不純物をふんだんに含んだ銑鉄を溶融している。
 精錬が終わって成分が調整された鉄とは違い、銑鉄は不純物が多くそのままでは炭素が多すぎる上、高炉でいくらでも生産できてしまうので値段的にはかなり安い。
 普通は自分で精錬する炉を持っていて不純物や炭素を除去できる火メイジや、魔法でそれが出来る土メイジなどが購入する素材だ。

「あれはコークスで溶融しているのではないのですか? 投入しているのが見えませんが」
「自動車に使っている電気の熱で溶かしているのですよ。隣の棟の地下に風石発電機を設置しています」

 騒音が出るので地下に設置された大型の風石発電機は今この瞬間も勢いよく回っている。大型の交流発電機と接続されており、鉄を溶かす程の電力を安定して供給していた。

「やや、また電気ですか。どうも電気は分かりにくいですなあ」
「雷が落ちれば火事になるでしょう。同じ理屈で鉄も溶けるのですよ」
「ううむ、風メイジに聞いたところでは風を擦り合わせれば雷が出来るとのことですが、どうも何のことやらさっぱりで」
「まあ、自動車が手元に有るわけですから、じっくりと研究してください」
「それなのですが…実はまた動かなくなったのです」
「…走行中に動かなくなったのですか? それとも停車していたのが再起動しなかったのでしょうか」
「その、辺境伯にもっと速度を上げるように言われてモーターを分解してみたのですが、元通り組み立てても動かないのです…」
「…それは多分元通り組み立ってないですね。商館の方に伝えておきますよ。スタッフが引き取り修理に伺いますので渡してください」
「よろしくお願いします」

 そうこうしているうちに十分な量の鉄が溶けたようで、精錬に入る。鉄の精錬はいかに不純物を取り除き、炭素の量を必要な量に調整するかと言うことが大事だ。
 まず溶銑予備処理として最初に酸化鉄を入れて珪素を取り除き、次いで石灰、酸化鉄、螢石などをアルゴンガスと共に吹き込むことで燐と硫黄を除去する。発生するスラグを取り除き、珪素、燐、硫黄と鉄鋼に必要のないな成分が低減したところで転炉に勢いよく溶鉄が注ぎ込まれた。
 工員が訓練通りの手筈で転炉を操作し、底から吹き出るアルゴンガスで攪拌しながら上部から酸素を吹き付ける。十分に炭素が反応したところで酸素を止め、フェロマンガン、フェロシリコン、アルミニウムなどを加えて反応を止めて成分を調整した。
 不純物を含んだスラグを取り除き、転炉を傾けて取り鍋に溶鉄をとり、クレーンで運んで連続鋳造機にかける。鋳造機から出てきた鋼材は適当な長さに切断されそのまま長い圧延機を通り、直径一サント程の鋼材が次々に冷却棚に吐き出されてきた。通常はこの鋼材からワイヤを作っている。

「なんだかものすごい量が一気に出来ますね。一度にどれくらい処理できるのですか?」
「二十万リーブル位ですね。まあうちには十分な量だと思っています」
「二十万…」

 反射炉で精錬する量とは桁が違う上に精錬にかかる時間はこちらの方が圧倒的に短い。しかも機械を操作しているのは平民で、メイジはいない。その圧倒的な生産性の差にデトレフは暫く絶句したまま固まっていたが、再起動すると冷却棚へと近づいて『ディテクトマジック』を使用して鉄の品質を確認する。

「くう……見事な品質ですね。我が領で一般に生産されるどんな鉄よりも不純物が少ない、強靱でしなやかな鉄です」
「投入している石灰や蛍石はツェルプストーから購入した物を使用しています。燐や硫黄はやっぱり少なければ少ない程いいですね。本当はもう少し硫黄を減らしたいところですが、まあ十分な品質かなあと思っています」
「蛍石はうちでも使用していますが…これほどは不純物を除去できてはいません。一体何が違うのでしょうか?」
「ああ、多分珪素が原因でしょう。珪素が一定以上鉄の中に含まれていると燐が除去できないのですよ。先に鉄錆などを投入してある程度除去しておくのがポイントみたいです」
「…ウォルフ殿は不純物のことにも詳しいですなあ。やはりそれも観察の成果ですか」
「そりゃそうですよ。鉄以外を除去、とか言っても不純物として何が含まれているのか分からなければ除去する方法も本来は分からないはずです」

 不純物の除去には炉に使う耐火煉瓦の性質にも左右されるようで、今使っている水酸化マグネシウムを焼結した物をベースに製造した煉瓦に至るまでは随分と試作を重ねたものだ。
 この後もいろいろとデトレフに質問され、転炉の上から吹き付けている空気は酸素という特殊な気体で単なる空気を吹き込むのでは効率が悪いということ、炉の底からはアルゴンガスというもっと特殊な気体を吹き出して鉄を攪拌していることなどを説明した。
 この工程を見たまま模倣しても上手くはいかないことを間接的に指摘され、デトレフは落ち込む。もしツェルプストーで転炉を導入できれば鉄の生産量は飛躍的に上がることが予想できるのだ、無理もない。
 がっかりと落ち込んでいるデトレフにウォルフがさらなる爆弾を投下した。

「気に入ったのでしたら、ツェルプストーでこれ一式買いますか?実はこれ、ほぼ同じのを今度ガリアのラ・クルスに納入することが決まっているんですよ」
「なっ! ガリアですって?」

 ぞわりとデトレフは鳥肌が立つのを感じる。これまでゲルマニアの鉄の販売先であったガリアがゲルマニアよりも高度な技術で鉄を作り出す……技術でライバルに追い抜かれる事に対する焦燥感は技術者として味わいたくない種類の物だ。

「ええ、価格とかはちょっと私には分からないのですが、来月には納入する予定で今アルビオンで製造しています。これよりちょっと大型の転炉と連続鋳造機と圧延機をセットで納入する予定ですよ」
「買います。一割多く払いますから、ラ・クルスより一日でも早く納入していただきたい」
「ちょっ、結構な額になりますよ? 辺境伯の決済が必要なのでは?!」
「かまいません。辺境伯は必ず購入します」

 きっぱりとデトレフは断言する。高炉を持っていないガンダーラ商会ならともかく、高炉を有する他貴族が自分たちよりも優れた技術で鉄の生産を始めるなど黙って見ていられる事ではない。彼は既に長い事ツェルプストーに仕えているので辺境伯が絶対に買うと言うであろうことは分かった。

「わかりました、フークバルトとタニアに伝えておきます。今日帰りに商館の方へ寄ってください。細かい条件など商談はそちらで」
「お願いします」

 ガンダーラ商会としては設備一式を販売した後はそのメンテナンス費用と酸素やアルゴンなどのガス、フェロシリコンやフェロマンガンなどの調質材の販売で継続して利益をあげる予定だ。フェロシリコンはシリカが原料なので問題なく生産できているし、フェロマンガンは今は宝飾品材料として流通している菱マンガン鉱の鉱石や加工屑を安価に購入してきて精錬しているが、開拓地で鉱脈が発見できているので今後は安定して供給できる見込みが立っている。
 ガリアやゲルマニアで転炉が操業するようになると空気の分溜機が足りなくなりそうなので、それは増産して対応する事にした。

 デトレフとしてはこの新製鉄法をいち早く取り入れて自分たちの技術にする事が急務だと判断した。鉄の製造コストは大幅に下がるだろうし、生産量も飛躍的に上げる事が出来る。グライダーや戦車などとは比べものにならない程重要な事だ。
 これほど不純物の少ないしなやかな鉄ならばかねてから懸案だった高品質な鉄製大砲の量産化が出来るかもしれない。現在使われている青銅製の大砲は何しろコストが高い。低コストな鉄製の大砲ならば戦列艦などの建造費を大幅に下げる事が出来る。

 ウォルフとデトレフ、それぞれに思惑を持ちながら握手して分かれた。デトレフはサンプルとしてできあがった鋼材をグライダーに積めるだけ積み込んで帰って行った。早速大砲を試作してみるつもりなのだ。
 ツェルプストーとはこれからもこうして持ちつ持たれつの関係を続けていくのだろう。重量超過で無理に機体を浮かせているグライダーを見送り、ウォルフは商館へ連絡を入れた。




2-36    開拓団結成



 ゲルマニア南部、ガリアとの国境もほど近い街ミュンヒ。ゲルマニアで最大の聖堂を持つこの街は、多くの神官が行き交う信教の地であると同時に近郊に最大の刑務所であるランツベルク監獄と最大の岩塩及び風石鉱山であるベルヒテス山を持つ労働者の街という顔を持っていた。
 ウォルフはガンダーラ商会における残務をすべて処理し、開拓団員の引き渡しの為この街を訪れていた。
 ツエルプストーからは三百リーグ程しか離れていない街だが、人員輸送用のフネを移動させるのには丸一昼夜近くかかった。ウォルフは後からモーグラで来た為に一時間少々しかかかっていないが。
 ここで開拓団員の貸与手続きを済ませ、いよいよ開拓へと向かう。団員の食料・装備・住居など開拓に必要な物資は既にボルクリンゲンから船団を組んで海路マイツェンへと送り出してある。重機は新開発の双胴船に積み込んで海路で送り、ダンプカーは資材を積み込んで陸路を自走し、ここで引き渡される開拓団員はフネに分乗して空路向かう事になる。

「お待たせしました、ウォルフ・ライエ・ド・モルガン殿ですね。こちらが貸与する開拓団員のリストです。後ほど顔合わせをしますので、それが済みましたら確認してこちらの書類にサインをして提出して下さい」
「分かりました。これで全員分ですね?」
「はい。こちらがメイジで、こっちが非メイジとなります。では、準備が出来ましたらご案内いたしますのであちらでお待ち下さい」

 東方開拓団申請の手続きはツェルプストーの方でほとんどやってくれていたのであとはここ、ランツベルク監獄で開拓団員の引き渡しを受ければ終了だ。ツェルプストーからはデトレフが手続きの為に同行してくれている。
 もう一人同行しているのは商会の土メイジだったジルベールだ。ジルベールは風石鉱山の採掘を担当していたのだが、タニアに頼み込んで期限付きで移籍して貰っていた。彼にとって地味な石しか出てこない風石鉱山よりもウォルフが見せた辺境の森から産出する珍しい鉱石の数々のほうが魅力的に映ったらしく、暫く悩んだ末に移籍を了承してくれた。
 ゲルマニア政府から一万エキューの預託金と引き替えに貸与される開拓団員は総勢二百三十名。その経歴などが詳しく記された書類は結構な分量があった。それだけの数の人間の人生を預かるという事にはプレッシャーも当然ある。しかし、開発できるという自信があるからこそ手を出したのだ、今更臆するつもりはない。待合室のソファーに座ってページをめくり、一人一人確認しながら、絶対に死亡事故を起こさない現場にするいう決意を新たにした。
 暫く座って確認してみたが、総じて皆若い。貸与される人員を選ぶ権利はこちらにない為に老人ばかりだったらどうしようかと心配していたが、杞憂だったようだ。ここの受刑者内で希望した者から選ばれるとの事だが、いくら東方開拓団の死亡率が高いと言われていても自由になれるチャンスがあるというのはまだ若い者にとって魅力的なのだろう。
 男女比はメイジが男十八人に女十二人、平民が男百七十五人に女二十五人。平民の方に随分と偏りが有るがこれは犯罪者の数がそういうものなのだろう。書類上で目立ったのには十三才と十一才のメイジの姉妹だ。おそらくは連座制で投獄されたのだろうとは思うがちょっとこの二人は戦力とは考えにくい。

 随分と待たされた後、ようやく講堂のような所へ通された。いよいよ開拓団員との初顔合わせだ。
 ずらりと居並ぶ団員の前にウォルフはデトレフとジルベールを伴って登壇した。団員達はいきなり現れた子供に訝しげな視線を送るが、さすがに刑務所での訓練が行き届いているらしく、私語などは一切無い。

「あー、皆さん初めまして、この度東方開拓団を結成する事になりました、団長のウォルフ・ライエです、よろしく。アルビオンのド・モルガン男爵家の次男でありまして、ゲルマニアでの後見貴族はツェルプストー辺境伯になります。後ろにいるのはツェルプストー家臣のデトレフさんと、自由参加の開拓団員であるジルベールで、ジルベールは皆さんの世話をして一緒に開拓地に向かいます」

 ウォルフが自己紹介すると、団員達は不安げな様子で互いに顔を見合わせた。こんな子供の下で働くなど信じられないのも無理はない。ウォルフはある程度予想していた反応なので無視して名簿の確認に入った。
 
「では、名簿を確認しますので呼ばれた人は手を上げて返事をして下さい。えー、アーベル」
「はい」
「アルノルト」
「はい」

 順次名前を呼びながら全員の名簿と顔とを確認する。作業としては面倒だがこれから十年以上一緒に働く予定の者たちだ。きちんと一人ずつ顔を合わせておきたかった。
 平民達はいかにも山の男といった荒くれ者達が目に付くがメイジの方はどことなく線が細い者ばかりだ。メイジは全てドットかライン。戦闘力としてはそれほど期待できないが、まもるくんが有るのでそれ程心配はしていない。どちらかというと土木や建築での活躍を期待している。
 一見しただけではあるがメイジも平民も全員健康そうで、ツェルプストー辺境伯が政治力を発揮してくれたのであろう事が分かる。
 確認を終えるとジルベールが全員をフネへ誘導し、ウォルフは手続きを完了する為係員の元へと向かった。

「ではこちらにサインしましたので確認して下さい」
「はい、確かに。ではこちらの書類は推薦貴族に、ツェルプストー辺境伯ですね、お渡し下さい」

 係員から渡された書類はデトレフが受け取った。続いてウォルフにはブレスレットのような物が渡された。

「こちらは開拓団員達の首輪を制御するブレスレットになります。使用方法はご存知ですか?」
「…いえ、初めて見ました」
「では説明いたします。あの首輪は隷属の首輪と申しまして、受刑者の反乱や逃亡を防ぐ目的で付ける物です。ゲルマニア政府開発の品で所有権は政府に帰属しますので、開拓終了時や装備者が死亡した時はお返しいただく物として認識して下さい。では先ずこのブレスレットを手に通して下さい」
「はあ…」

 言われた通りブレスレットを手に通すとすぐに縮んでウォルフのまだ細い手首にぴったりと装着された。

「こちらの言う事を聞かない時は対象を認識して「締まれ」と言うだけで首輪を締め上げる事が出来ます。長時間締めたままだと死にますのでご注意下さいね」
「……中々物騒なマジックアイテムですね」
「はい。禁制の魔法も使用されていますので、構造を調べたりはしないで下さい。こちらに保管されている隷属の鎖と対になっていまして、首輪に対し不当な干渉を試みた場合は魔法で記録されますし、無理に外そうとするとやはり締まりまして装着者が死亡します」
「わ、分かりました。他の団員にも徹底させます」

 中々恐ろしい事を平然と言いながら係員は机の下から黒光りする鎖を取り出した。帰ったら早速調べてやろうと思っていたウォルフは少し焦って答える。ブレスレットは二つ支給されたので一つはとりあえずウォルフが付けっぱなしにする事にした。
 係員によると禁制の魔法とはいえそれほど多くの効果があるわけではないので、開拓団員をしっかりと管理する必要があるそうだ。

「特に開拓団員が犯罪を犯した場合、その責任は開拓団長であるあなたにかかる事になるのでご注意下さい」
「えっと、団員が逃げちゃった場合とかはどうなるんですか? その場合でもこのブレスレットで首絞めて対応するのでしょうか?」
「ブレスレットは対象が視界に入っていないと作動しませんので、その場合はこちらにご連絡下さい、鎖に首輪の所在を解析する魔法がありますので。ただ逃亡した場合首輪の対象者は死刑となりますが、その損失及び逮捕に要した経費もあなたの責任となりまして預託金から引かれますので逃がしたりはしないよう、ご注意下さい」
「…団員達はこの首輪の事を知っているのですよね」
「ええ、勿論。ですが、辛い日々が長く続くと人間は死んだ方がマシだと思ったりするらしいのです。死ぬ前にせめて故郷を見たいとか言う理由で逃げ出す者はよくいるようです」
「それは…そんなには酷使しないつもりなので大丈夫だと思います」
「はは、お優しいですな。あと受刑者はセックスが禁止されていますので、ご注意下さい。性欲を押さえる機能が付いていますので自発的にする心配はありませんが、セックスするとやはり首輪に記録され、こちらで確認次第相手共々処罰いたしますので。まあ、あなたにはまだ関係ないでしょうが、合意があった場合でも帝国の財物を毀損したと言う事で罰金もしくは一年の懲役となります」

 セックス禁止というのは性犯罪防止の為に設定された条項のようだ。男性団員の性犯罪防止は勿論、かつては女性団員を性奴隷のように扱う開拓団長が時折いたのでその対策にもなっているそうだ。係員の説明からウォルフが推測したところでは性交時の脳波を検知して作動する魔法が組み込まれているらしいが、まあ随分と念の入った事だ。

「この首輪は開拓に成功すれば外されるんですよね?」
「はい。その場合はもう普通の領民となります」

 ウォルフは開拓期限の十年後位を目標に完了申請をすれば良いかと考えていたのだが、子供が作れないというのではあんまりのんびりするのも団員に悪い気がしてきた。三十近くの女性もいたので、十年後では家庭を作るのは難しくなってしまうかも知れない。 



「じゃあジルベール、君が責任者だからよろしく頼むよ」
「お任せ下さい! ちゃんと全員無事に送り届けますよ、多分」

 全ての手続きを終え、フネに帰ってきたウォルフはジルベールに開拓団員をまかせ、自分は一度ツェルプストーに戻る。デトレフを送るのと辺境伯に挨拶をする為だ。
 ジルベールに任せるのは些か不安だが、他に人員がいないので仕方がない。ブレスレットの説明をして一つ渡し、モーグラに乗り込むとさっさと離陸する。 
 刑務所暮らしでグライダーの類を見た事が無い開拓団員達が驚く中、ウォルフのモーグラはぐんぐん加速して彼方へと飛び去った。

「はあー、えらく速いフネだなありゃ。刑務所に入っている間に随分と世の中は変わっちまったらしい」
「いやあ、あんなのはつい最近出来た物だから、刑務所は関係ないぞ。あ、部屋割り済んだ?」
「あ、はい。船室に結構余裕があるのですが、良いのでしょうか」
「良いんじゃない? ウォルフ様が決めた事だし。千五百リーグ近い長旅になるんだからぎゅうぎゅうじゃ疲れちゃうでしょ」
「その、ウォルフ様とはどのような方なのでしょうか? 我々もあんなに若い方が開拓団長になるなど想像していませんでしたので」

 ジルベールがフネの中の部屋割りを任せていたのは三十才位のメイジの団員だ。短い移動の間にも何となくみんなを纏めていたのでそのままジルベールがやるべき仕事を丸投げした。

「このフネの所有者であるガンダーラ商会の創始者で、さっきのモーグラとかの開発者。風石鉱山を見つけたり色々やっているよ」
「ええと、親御さんがお金持ちなのですか? アルビオンの男爵だそうですが」
「いや、全部自分で出しているみたいだよ。どんな人かって言うのは良く分からないね」

 ウォルフがどんな人間だなどといきなり解説なんて出来るわけもない。あっさりと説明を放棄した。

「まあ、長い付き合いになるんだから自分で見極めればいいんじゃない? ただ、あの年でスクウェアメイジらしいから、子供だからってあんまり舐めた真似はしない方が良いってみんなに伝えておいて」
「……徹底させます」
「頼みますねー。見た事無いけど、怒ると怖いって噂なんで。あなた、名前何でしたっけ?」
「マルセルと言います、よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃあそろそろ出発しましょう」

 ジルベール達開拓団員を乗せたフネは順調に高度を上げ、一路東へと向かった。



 ウォルフは真っ直ぐにツェルプストーの城に向かい、デトレフを下ろすとキュルケやこの城で待っていたクリフォードと合流した。
 開拓の始めはやはり幻獣や亜人を駆除する作業が激しくなりそうなので、戦闘力を見込んでウォルフが期間限定で参加を依頼していたのだ。ツェルプストーからはキュルケとマリー・ルイーゼ、それに二人の護衛としてバルバストルが参加してくれる。

「ウォルフ。手続きは全部終わったのかしら?」
「ああ、開拓団総勢二百三十人貸与して貰ってきたよ。辺境伯に挨拶もしてきたし、早速出発しよう」
「オッケー、こっちも準備はバッチリよ。どう? アントニオの詩を刺繍させたの、素敵でしょう」

 そういうとキュルケは新調したマントを翻し背中を見せる。つらつらとマントにハルケギニア語で刺繍されている"迷わず行けよ、行けば分かるさ"の「道」の詩。それを見たウォルフの感想は「ヤンキーみたい」だったが口にはせずに適当に褒めておいた。

「うふふ、ランドドラゴンの軽鎧は向こうに着いたら見せてあげるわね。またあの森に行くのは楽しみだわあ…どう、開拓団に強そうなメイジはいた?」
「いや、ドットとラインだけだったし、あんまり戦闘に向いていそうじゃなかった。メイジじゃない方が喧嘩は強そうだったよ」 
「なによそれ…でもまあ、そんなもんか。ガリアの方で応募してきたメイジ達ってのは強そうなのよね?」
「ああ、あっちもラインだって言っていたけど、傭兵していたって言うし随分と強そうな感じだった」

 一向に応募人数が増えなかった開拓団員の一般募集だったが、最近になってガリアで風メイジが四人も応募してきた。
 これで開拓団のメイジはここにいる五人とガリアの四人、ジルベール、貸与の三十人で計四十人だ。
 まずは木々の伐採と整地、飲料水の確保と幻獣・亜人避けの防壁作り。やる事はいくらでもあるのでメイジはいくらいても足りない。この四人の応募でウォルフは今後も応募がある事を期待するようになっていた。

「ふうん。そんな引く手あまたっぽそうなのが何で東方開拓団なんかに応募してきたのかは気になるけど、一回手合わせしてみたいわね」
「見る目がある人はいるって事だと思いたいね。まあ多少思惑がある人だとしても団員としてちゃんと働いてくれるのならあんまり気にしないけどね」

 開拓団の方には相変わらず応募が少ないが、ガンダーラ商会の方には求人に応募が殺到している。しかし、どうもひも付きというか、誰かの指図で来ているっぽい人が多いのであまり雇用を増やせず慎重に人物を選別している。
 こちらに来ているメイジももしかしたらそう言う類なのかも知れないとは思うが、開拓団では特に機密事項を扱うつもりはないし、気にしだしたらきりがないので応募してくれた人は原則受け入れることにしていた。

「じゃあ、今回もよろしくお願いします! ウォルフ・ライエ東方開拓団、出発します!」
「よろしくー、なんかいつになくテンションが高いわね」
 
 キュルケの真っ赤なモーグラと二機でマイツェンへと向かう。クリフォードにはキュルケのモーグラに乗って貰い、ウォルフの機体には自由応募の平民三人が乗り込んだ。
 まだ年若いこの三人は最初に応募してきた平民で、ウォルフが遍在で念入りに測量の技術を教え込んだ測量専門官だ。拠点建設予定地と開拓予定地の測量の為に先に到着する予定のモーグラでつれていく。
 この日はリンベルクのホテルに泊まり、翌日早朝にマイツェンに着いた。



「相変わらず何にも無い村ねえ…大体人がほとんど居ないじゃない」
「牧草の刈り取りのシーズンはみんな泊まり込みで来るけど、普段はあまり人がいないみたいだな」
「この間はたまたま人が多くいるときだったのね。人が居ない村って辛気くさくて嫌だわ、さっさと森に入りましょう。私たちの任務はまもるくんの設置ね?」
「うん。この地図のポイントに村の外周をカバーできるよう設置して欲しい。領主の許可は取ってあるから。まずはマイツェンを安全地帯にするんだ」
「マイツェンの周りにある草原の外周ね。それはすぐに終わりそうね。それだけ?」
「それが終わったら、詳しくは測量班に教えてあるけど、彼らは村の測量が終わったらここらの見晴らしの良い山の頂上に三角点を設置して三角点網を作る予定だから、その工事を護衛するのが主な任務になる。ついでに三角点のそばにもまもるくんを設置して防空網の整備もお願いしたい。オレはここで防壁を作ってるから」
「オッケー、分からない事があったら聞きに来るわ。じゃあマリー、クリフ行きましょう」

 マイツェンの村には村の規模にしては立派な川港があり、川から水を引き込んでいるその港ごとぐるりと村を囲む石造りの防壁がある。高さは八メイル程でかなり立派なのだが、村は狭くて空き地が無く、今回ウォルフが拠点と製材所を作るのはこの防壁の外だ。
 まもるくんを設置するのでそれ程しっかりした物を作る必要はないが、万が一幻獣などが迷い込んだ場合、一時足止めする必要がありそうなのでこちらにも三メイルの高さで防壁を作るつもりだ。
 今回のまもるくんはジャイアントモールなど地中の幻獣対策に振動装置を搭載している。天敵である地竜の足音を再現し、防壁と併せて空中・地上・地中いずれからの進入も許さない。
 予定地の北側は川に面している上に頑丈な岩盤が五メイル位段差を造っているのでそのまま使え、西側はマイツェンの村の防壁をそのまま利用するので東と南側だけではあるが、総延長一リーグを超える工事を一人でやるのは結構大変だった。
 ひたすら『土の壁』を唱えて堀と壁を作る日々だ。後で石積みの防壁にするつもりだが、今はとにかく囲みを完成させる事が優先されるので、時折こちらの様子を窺う幻獣をまもるくんが撃退する中ひたすら魔法で土を高く盛った。
 作業を初めて三日目にはおおよそ作り終え、次に開拓団専用の川港と倉庫の建築に取り掛かった。キュルケ達は基本的にはマリー・ルイーゼとクリフォードが測量の護衛に付き、キュルケはバルバストルを連れて気ままに幻獣達を追い回しているらしい。キュルケが獲ってきた幻獣がウォルフ達の食卓を賑わす事になった。

 そして作業を初めて五日目、大回りして海路はるばる航海してきた輸送船団とその輸送船団より後にボルクリンゲンを出た陸路組、空路ミュンヒから飛行してきたフネ二隻の本隊とがマイツェンへと到着し、いよいよウォルフの東方開拓団が勢揃いした。




2-37    開拓前夜



「ばかやろう、邪魔だって言ってんだろが! まず宿舎作るんだって!」
「えーと、我々はどこへ行けば…」
「建築経験ある人ー、あの親方に付いていってくださーい」
「契約では荷を運ぶだけなのでさっさと荷を下ろして帰りたいのですが」
「おーい、こっちメイジ何人か来てくれよう!」

 川から少し離れた所で水道用の井戸を掘っていたウォルフが船団到着の報を受けて港まで来てみると、そこは見事に混乱していた。今朝完成したばかりの港にジルベールの指揮するフネが先に入ってしまった為、荷物を下ろしたい輸送船団が渋滞しているのだ。
 詳しく話を聞くとどうもジルベールが悪い。輸送船団が二隻ずつ荷下ろしのために入港していたのに、港が空いた時に上空から割り込んで着水してしまったそうだ。
 とりあえずフネ二隻の人員は全て下ろさせ、村の方の港に移動させてそこでまだ残っている荷下ろしをさせる。開拓団専用港の方は宿舎建築の資材、重機、製材所用の大型機械を優先して荷下ろしさせる。
 所在なげにしている団員たちに片っ端から指示を与えて荷下ろしなどに人員を割り振るとようやく作業がスムースに流れ始めた。

「やあ、助かりましたウォルフ様。三百人近く人間がいるといろいろ大変ですね」
「何を人ごとのように。お前は人の上に立つのに向かないなあ……早くリーダーを選ばなきゃな」
「向かないですね。ところでオレはいつ鉱山へ行けるのですか? あの美しい菱マンガン鉱とか硫カドミウム鉱が採れたという山に早く行きたいのですけど」
「…当面拠点整備に時間がかかるから鉱山に取りかかるのはだいぶ先だ。一人で勝手に行こうとはするなよ? ワイバーンとか、うようよいたからな」

 そう言えばジルベールがただの鉱物オタクだったことを思い出す。そのオタク趣味につけ込んで珍しい鉱石を見せびらかして引き抜いてきたこともあるので、怒ることもできない。
 とは言え貴重な土メイジだ、ジルベールには井戸を掘る手伝いをさせ、遍在を出してウォルフは井戸を掘りつつ作業全体を監督した。

 村の港と開拓団専用港とで船から積み荷を降ろし、整理して倉庫に収めているグループと大工について宿舎の建築に取りかかっているグループ。大きく分けて二つのグループに分かれて作業していたのだが、荷下ろしが終わるとその人員が建築の方へ移動してそのマンパワーにより夕方には三百人が泊まれる宿舎が一応完成した。二段ベッドを一部屋に四つ入れて二階建て二十部屋の結構大きな建物が二棟で、今日は男女共用だが明日には女子宿舎も一棟別に造る予定だ。
 宿舎用の資材はボルクリンゲンでパネルにまで加工していたので、メイジが作った基礎の上にそれを組み立てて屋根と床を張って窓やドアを入れただけの簡単な建物だ。本当に建てただけで内装などは構造用合板むき出しの味気ないものだが、これで団員たちが今夜夜露に濡れる心配はなくなった。今後住みながら外壁や内装を仕上げて行く予定だ。
 石造りではなく木造であることで建物の幻獣に対する防御力に不安を訴える者もいたが、マイツェンは牧草地に囲まれており、まもるくんの防御力が高いため心配は無用だ。まもるくんは超音波を利用しているので障害物が多いと音波が反射してしまうので広範囲を守ることに適さないが、ここほど開けていればどんな幻獣だろうと接近する前に追い払えるのだ。
 明日からはここを拠点にして開拓地へと入り、木を切り倒して搬出し平地を整地する作業を進める。将来的には製材所勤務の人間以外は開拓地に移住し、この建物は新規移民の一時宿泊施設、つまりホテルとして活用する予定だ。



 夕食前ウォルフは今日の作業でリーダーシップを発揮していた者十人、重機班と測量班、製材機械担当工員と大工の代表、それにツェルプストー組を集めて今後の予定についてミーティングを開いた。  

「えーと、今日はお疲れ様でした。おかげさまで宿舎もできまして、開拓の第一歩を記すことができました。まだほとんどの方が初対面だと思いますのでざっと各人の紹介をしたいと思います」

 今集まっている場所は製材所の予定地で、既に基礎はできあがっており明日以降上物を建築して機械を設置していく予定だが、今はまだ石を敷き詰めた床があるだけの場所だ。
 
「こちらの四人は二週間ほどの予定だが、幻獣駆除及び護衛を担当してくれるキュルケとマリー・ルイーゼ、バルバストルさん、クリフォードだ。キュルケはフォン・ツェルプストーの息女、クリフォードはオレの兄だ」
「よろしくね」「よろしく」

 紹介されたキュルケたちが軽く挨拶をし、一同がそれに応えるが、辺境伯の娘とあって皆緊張気味だ。

「食糧確保も担当してくれるらしい。今夜の肉も彼らが用意してくれたので後で味わってくれ。次、大工の親方マーカスさん。マーカスさんは今日の作業から三十人を選んで訓練を兼ねて製材所の建築に当たってください」
「マーカスだ、よろしく。坊、皆手先が不器用そうだったんだが、若いのから優先的に選んでいいか?」
「任せます。パネル工法の大工ならそれほど器用さを要求されないだろうし、なんとかなるでしょう。レビテーションが得意なメイジも五人くらいはいた方がいいですね。えー、その隣が製材機械担当のミックです。ミック、君は平民の女性二十五人に製材機械の講習をしてくれ。あと、せんたくんZときえーるボックスの操作方法もお願い」
「わかりました。えっと、ミックです、若輩者ですがよろしくお願いします」

 ミックはサウスゴータの機械工二期生で、製材機械の設計製造をウォルフとともに行ってきたので、今回商会から借りてきた。設計の方はまだまだだが機械の扱いには大分慣れている。
 せんたくんZは新たに開発した大型の自動洗濯ガーゴイル、きえーるボックスは好気性菌類を利用した生ゴミ及びし尿処理機、いわゆるバイオトイレと呼ばれる類の機械だ。もともとハルケギニアは生ゴミの排出量も洗濯物も少ないが、人間が多いので総量は多い。より効率的な開拓のために設置することにした。
 きえーるボックスはまだ研究開発中なのでより優れた菌類の発見と併せて開拓地で改良を続けていく予定だが、一応処理は出来るのでこれがあれば開拓地が糞尿だらけにはならないですむ。

「次、測量班のゲオルク。君達は引き続き測量を続けてくれ。特に水源となる山間部には将来ダムを造る予定だから精密にして欲しい。重機班のモーリッツ、監獄組からメイジ五人平民十人を選んで訓練しておいてくれ。明日以降開拓地の整地に忙しくなる予定だから」
「わかりました。防壁を補強する工事はどうしますか?ちょっと土の壁だと大型の幻獣を止められなさそうですけど」
「大型のは接近させないから補強は後回しでいい。木の根処理と堤防作りが当面の作業になりそうだからそのつもりで訓練よろしく。えー、次は監獄メイジ代表のマルセルさん。あなたに政府から貸与された開拓団員の代表をお願いしますので、皆の要望などをまとめて私まで報告してくれるよう、お願いします」

 マルセルは今年二十九になる元貴族のメイジだ。十九歳までは貴族として暮らしていたが親が帝室の跡目争いに巻き込まれて粛正対象となり、投獄された。
 いきなり代表に選ばれて困惑していたが、臆さずに手を挙げると早速発言した。

「マルセルと申します、まだどんな開拓団なのか理解もしていませんが、よろしくお願いします。早速要望があります、宿舎が木造で防壁もマイツェンの村よりもだいぶ低くて皆が不安を覚えています。村には空き家も多いみたいなのであちらに泊めてもらうことはできないのでしょうか?」
「防壁全体を常時作動型のガーゴイル複数で警備していますので、火竜百頭の群れといえどもここには近づけません。心配は当然かとは思いますが、皆さんには安心してくれるよう伝えて下さい」

 火竜百頭を撃退するガーゴイルなど普通は想像できない。マルセルは絶句してしまったのでウォルフは次の人の紹介に移った。
 主力となる部隊は開拓地で切り倒した木材の搬出に従事することになる。森の木はウォルフとクリフォード、バルバストルで片っ端から切り倒してしまう予定だが、毒蛇や毒虫など危険に直面する作業なので入念に打ち合わせを済ませた。



 この夜の夕食はキュルケ達が獲ってきた幻獣などの焼き肉と野菜の入ったスープなどで、森で採れるフルーツやナッツ類も沢山用意されている。メイン料理は三時間以上掛けて焼き上げた三本角竜牛の丸焼きだ。宿舎の前の広場に炉を組み、全員が集まっての晩餐だ。広場には肉を焼く匂いが漂い、ウォルフからワインの樽も提供されて自由に飲めることになっているので、監獄組のテンションは食事を始める前からマックスになっていた。

「えー、今日はお疲れ様でした。明日も早朝から作業がありますからあまり飲み過ぎないように注意してください。乾杯!」
「「「乾杯!」」」

 マイツェン入りしてからずっと毎日ウォルフはため込んだ魔力素が尽きるまで作業していたので、今日団員達が集結してようやく一息つけた感じだ。
 一仕事終えた開放感からくつろぎ、キュルケ達とテーブルを囲みながら焼き上がった肉を片っ端から平らげていた。

「んー、じゃあ亜人の巣は全て壊滅したんだな?」
「そうね、東部山岳地帯のオークと南部湿地帯付近のコボルドは共に開拓予定地からは逃げ出したのを確認しているわ。巣の跡地を見通せる高台にまもるくんをそれぞれ設置してきたから、戻ってくることもないと思うし」
「おつかれさん。あとは平野部だな。これは木を全部切っちゃえば何とかなりそうだ」
「まもるくん、木があると効果が低いから気をつけた方がいいわね」
「ん、分かってる。とりあえず全部切っちゃうのはそのためだしな」

 しばらく今後の予定について打ち合わせをしていたが、ふと、キュルケが誰かを捜すように広場を見渡した。

「ねえ、ウォルフ。ガリアから来たメイジってどこにいるのかしら?」
「ん? ええと、あそこで二人きりで飯食っているのと、あっちでメイジの女の子をナンパしてる二人組だな」
「二人だけでぼそぼそ話しちゃって怪しいわね。向こうのも妙にハイテンションだし。ねえ、あの四人わたしが預かってもいいかしら?」
「あ、元からそのつもりだった。四人とも風以外の系統はあまり得意じゃないみたいだし、警備担当が無難かなって」
「オッケーオッケー、キュルケさんに任せなさい。ちょっと挨拶してくるわ」
「おう、任せた。優秀そうな人たちだし心配はいらないと思うよ」

 さっさと夕食を済ませたキュルケは楽しげな笑みを浮かべて立ち上がった。



 広場の片隅で目立たないように二人で座り、料理を食べながら時折ぼそぼそとなにやら話しているのはガリアで応募してきたメイジ、クラウディオとルシオだ。
 キュルケは二人に気取られないように足音を殺し、背後からゆっくりと近づいた。全く音を立ててはいなかったと思うのだが、五メイルくらいまで近づいたときにおもむろに二人がキュルケの方に振り向いた。

「どうなさいましたかな、マドマゼル。ここらには料理や取り皿は置いてありませんが」
「キュルケよ。あなた達ガリアから来たメイジでしょう? 明日からはわたしと一緒に仕事してもらうから、挨拶しに来たわ」
「おお、そうでしたか、これはわざわざご丁寧に。私がクラウディオでこちらがルシオでございます」
「あなた達ガリアで食い詰めて来たっていう設定らしいわね。並の風メイジはそんなに敏感じゃないわよ?」
「…どうも生来の臆病者らしく、物音には敏感なのですよ」
「ふふふ、臆病者が東方開拓団に応募とか、中々笑える冗談ね。まあいいわ、明日は本隊より先に現地入りするから早めに集合してね?」

 苦い顔をする二人にひらひらと手を振ると、すぐにその場を離れもう一方の二人組の方へと向かう。ウォルフの言うとおり、工作員というよりは情報収集のために来ているようだ。盗まれて困る情報もあまりないとのことだし、せいぜいメイジとしてこき使ってやればいいのだろう。

 もう一方のガリア組モレノとセルジョは監獄組の幼い姉妹の横に座って熱心にナンパしている最中である。どうやらモレノが熱心でセルジョは少し引いているようだ。姉ですらまだ十三歳でしかないので周囲の目は冷たいが、本人は一切気にしていない様子でぺらぺらと調子のいいことを言っている。

「ロマリアの聖堂は本当に美しいんだよ。一目見れば誰もが神の存在を信じられる、素晴らしいものだ。是非君たちにも見せたい」
「ありがたいのですが、ご存じの通り、私たちは罪人ですので無理ですよ。開拓が成功するまでは、ロマリアに行く自由など得られません」
「いやいや、君たちのような幼い娘が罪人だなんて、どんな冗談なんだい。どうせ何もしていないんだろう?」
「確かに私たちは生まれてからずっとランツベルク監獄で育ちましたが、ゲルマニア政府が決めたことです。私たちにはどうしようもありません」
「どんなことにも裏道はあるってことを知った方が良い。君たちなら教会に奉仕することを誓ってロマリアの教皇庁に申請すれば恩赦が出る可能性はあると思うよ」
「恩赦…ですか?」

 迷惑そうにしていた二人だが、恩赦の話が出てはさすがに興味を持ったようだ。モレノの方を向き、続きを聞こうとする。

「そうだよ、ゲル「そこまで」」

 話しかけてから初めて自分の方を向いてもらえ、喜び勇んで続きを話そうとしたモレノの目の前に杖が差し出された。キュルケである。

「開拓団のど真ん中でどうどうと引き抜きとは、あなた何の冗談なのかしら」
「あ、いやお嬢さん、引き抜くつもりはなくて、そういう方法もあるって教えて差し上げようかと…」
「適当な話をするものじゃないわ。あなたには女の子の興味を引くための話かもしれないけど、相手にとっては深刻な話なのよ」

 まだ何か言い訳しようとする男を一睨みして、姉妹の方へ向き直る。よく似たストレートのプラチナブロンドと淡い碧色の瞳が印象的な美少女姉妹だった。

「騙されちゃだめよ? 男って適当なこと言って気を引こうとするものだから。ロマリアの恩赦請求なんて、百万エキューはかかるって言われているシロモノよ」
「やっぱり、そんな都合のいい話なんてないのですね。あの、あなたは?」
「キュルケよ、キュルケ・フレデリカ。ウォルフの友達なの。短い間だけど開拓団の警備を担当しているわ」
「わたしはグレース、こっちはわたしの妹でミレーヌです。二人ともランツベルク監獄から初めて外に出たから世間知らずなの、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして。あいつらのことはウォルフに任されているから、まだ何かちょっかいかけてくるようならすぐに知らせて。火だるまにしてあげるわ」

 キュルケは姉妹に自己紹介し、けしからん二人の方を見た。二人はばつが悪そうにこそこそとその場から離れようとしていたが、キュルケが後ろから声をかけた。

「そこの二人。名前は?」
「…モレノとセルジョですよ、お嬢様」
「そう。では、モレノとセルジョ、あなた達明日は早朝から仕事があるから、遅れないで来なさいね? 元気が余っているみたいだから、いっぱい働いてもらうわ」
「その、俺たちはお嬢様の下で働くので?」
「ええ、ウォルフの許可は取ってあるわ。主な任務は竜などの幻獣が開拓団に近づかないように撃退することよ」
「そいつは随分とハードな任務ですね。俺たち程度の魔法じゃ竜には通用しないと思うのですが」
「大丈夫よ。あなた達はとても優秀なメイジのような気がするもの」

 モレノとセルジョはにっこりと告げるキュルケに引き攣った笑顔を返し、早々に退散した。



「おい、どうすんだよ、目をつけられたっぽいじゃないか。だからやめとけって言っただろう」
「仕方がない。あの姉妹の髪色と瞳を見ただろう、ベルク公にそっくりじゃないか。確認をとるのは当然だ」
「ベルク公の顔なんて知らねえって。あんな金髪碧眼どこにでもいるだろ、俺たちの任務はこの開拓団の情報収集だ。任務に支障を来すような活動は慎め」
「俺はここ十年もベルク公の埋蔵金を追いかけてきたんだ。こんな開拓団なんかより遙かに価値が高い情報だろう」

 割り振られた部屋へ戻りながらモレノとセルジョが小声で密談している。どうやらこの二人もキュルケの読み通り余所からのスパイらしい。二人は魔法を使って周囲の気配を探りながら密談を続けた。

「あんな与太話…もしそうだとしても、指示を受けてから行動すべきだ」
「フネの中じゃあ自重してたろ、連絡が来ないから勝手に調べ始めたんだ。あの年頃だと死んだとされているが遺体が見つかっていないベルク公の二人の娘と同じだ。しかも彼女たちの父親とされているのがベルク公の粛正に巻き込まれたマルク伯爵だ。疑わしいと思うのは当然だと思うがな」
「もしベルク公爵の娘だったらどうだと言うんだ。事件の時は上の娘だって二歳だ。記憶なんて無いはずだろ」
「たとえ記憶がなくたって、何かしら埋蔵金の情報が記された物を託されている可能性がある」
「そんなの監獄に入るときに詳しく調べられているって。とにかく指示が来るまではあの姉妹には接触をするな…オレにはお前が本当にあんな小娘に熱を上げているように見えたぞ」
「ば、馬鹿野郎、あんなの演技に決まっているだろうが」
「…まあ、迫真の演技だったな。おかげでこっちの狙いはごまかせたみたいだが」
「ふん、ヴァレンティーニ様ならこの情報の価値を分かってくださるさ」

 この二人は知らなかった。
 ウォルフが開拓団員を無条件で受け入れてはいても、無防備に受け入れているわけではないことを。
 防壁の上に配置されたまもるくんの内、何体かには録音装置が内蔵され、集団から外れた場所で密談する人物の会話内容を録音している。パラボラ式の集音装置を装備して集音には魔法を使っていないのでメイジにも気付かれにくい。
 この事はその内開拓団員にも知らせようと思っているが、今はまだ不審者を把握することが重要なのでウォルフだけの秘密となっている。集団生活を送っているので宿舎内では密談はしにくいかと、外に設置してみたが早速その威力を発揮しているようだ。
 
 二人はこの広場で交わされた会話がすべて録音されているとは全く気づかずに、連れだって宿舎へと入っていった。




[33077] 第二章 38~40,番外8
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 02:32


2-38    責任の所在



「《マジック・アロー》」
「《ブレイド》」
「《マジック・アロー》」

 帝政ゲルマニアの首都ヴィンドボナから東へ千リーグ以上離れた深き黒き辺境の森で魔法の詠唱が響き渡る。
 ウォルフの放つ魔力素のみで構成されたやたらと幅の広い鏃を持つ魔法の矢は木々をなぎ倒し、その過ぎ去った後はバリカンで刈られたように細長い空間が広がる。地面には切り倒された木々が折れ重なりその下には綺麗に切断された切り株がのぞいていた。
 一緒に木を切り倒しているクリフォードはイメージの問題で、ウォルフほどの幅広い矢を作れないので大径木は『ブレイド』で倒し、細い木を倒すのに『マジック・アロー』を使っている。

 開拓、と一言で言ってもその実際は単調な作業の連続だ。ひたすら木を切り倒して運び出し、根を掘り出して岩などを取り除き整地する。食獣植物や毒虫を焼き払い、やたらと多い幻獣を開拓予定地外に追い立てる。土地が盛り上がっていればそれを均し、窪んでいれば埋め立ててなだらかな平地にする。時折パニックになって開拓団に襲いかかってくる幻獣を駆除するのは護衛のメイジの仕事、それらの死体を食料や皮などに加工するのは平民の仕事だ。
 開拓開始から二週間、ウォルフ達はひたすらこの作業を続けてきた。エルラド(長距離音響装置)で警備しながらの作業なので幻獣や亜人などの危険は少ないが、中々思うようには進まない。一日中働いて三平方リーグ(九アルパン)を超えるくらいの木を切り倒すのがやっとだし、整地にはもっとずっと時間がかかる。
 当面の開拓予定地である平野部だけでも六千アルパン程はあるのでまだまだだ。周辺の山地にまで手を出すとなるといつまで掛かるかわからない。一応、開拓地からマイツェンまでの川の両岸百メイル以上木を切り倒したのでかなり安全に航行できるようになったし、開拓地の港も整備が終わって丸太をマイツェンに送り出す作業もだいぶスムースにいくようになったで、今後はスピードアップをしていきたいと思っているが。
 
 この開拓地はマイツェンを含む広大な平野にあり、東西に大きな川が流れ、そこに南側から別の川が合流している。その合流地点近くに川港を作り、二つの川に挟まれた地域を開拓地と定めた。T字の右下の部分になる。
 この川は全くの自然の川なので何度も流れを変えたらしく、開拓地には堤防を作ることも必須だ。木を切り倒し堤防を作り東側に五十リーグ以上離れている山地にまで開拓地をのばす。まだ開拓は始まったばかりだ。
  
「ふう、今日はこれくらいかな。皆さんお疲れ様でした」
「おーう、お疲れ。いやー、今日もがんばったなあ…あれ?キュルケはどこ行った?」
「ほら、さっきの迷い込んだワイバーン追っかけて行ったきりだよ」
「ああ、最後に大物が欲しいとか言っていたからなあ」

 そろそろ日が傾いてきたので、この日の作業を切り上げて港へ撤収する。ワイバーンを追っかけていったキュルケのことは誰も心配してはいない。バルバストルが付いているし、エルラドも持っているのでそうそうやられることはない。
 開拓が始まってからずっと一緒に働いてきたクリフォード達は、今日が最後の作業だ。整備が完了し、今後の作業にも目処が立った。予定通りの日程で警備を終了して帰る。
 ウォルフとしてはもっといて欲しいが、クリフォードやマリー・ルイーゼは来春魔法学院に入学するのでその準備もあり、いつまでも遊んではいられないのだ。

 港に停泊している船に乗り込んで待っていると、程なくキュルケ達も戻ってきた。その杖の先にはワイバーンではなく四メイルくらいの小型のトカゲをぶら下げていた。

「あー、もう、逃げられちゃったわよ。モレノがびびってエルラド外すから」
「お嬢、そうは言いますが、一人だけあんなに突出して囮みたいになればびびりますって」
「そこをがんばって、みんなが包囲する時間を稼ぐ作戦だったじゃないの」
「エルラドですぐに落ちてくれればいいですけど、そのままパニックになってこっちに突進してきたじゃないですか。不可抗力です」
「そのまま照射していれば落ちたんだって。逃げるのが早すぎるのよ」
「おーい、いいから早く乗ってくれ。みんな待っているんだ」

 せっかくの獲物を逃がしてキュルケは随分とお冠である。言い合いしながら船に乗り込んだ。
 キュルケとモレノ達自由参加組メイジはなんだかんだぶつかり合いながらも仕事はしっかりとこなしていた。四人ともラインメイジと申請していたくせに、幻獣にぶつけてみるとトライアングルスペルを使ったりして怪しさは相変わらずなのだが、キュルケはもう気にもしていないようだ。
 ちなみにトライアングルスペルを使っていたことを指摘すると、「やや、危機に直面してランクアップしたようですな、やったー」などと白々しく言ってきたものだ。
 この四人と監獄組のメイジの内風と火メイジの十四人、併せて十八人で今後は開拓地を守っていくことになる。トライアングルメイジといえどもモレノ達は信頼がないのでリーダーはラインメイジのマルセルに任せるつもりだ。

 開拓地の港を出港したフェリーは徐々に速度を上げ、滑るように川の上を進む。夕暮れ時のこの時間帯は幻獣の活動が最も活発になる時間ではあるが、連日のエルラドによる攻撃で最近はすっかり川で襲撃されることはなくなった。
 やがて完全に日が沈む頃、フェリーはマイツェンの港に到着した。



「ウォルフ様、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま。今日は怪我人は出なかった?」
「はい。皆大分仕事になれてきましたようで」
「ふう、ようやくだな。じゃあ、風呂に行くか」
「はい。もう準備はばっちりです」

 マイツェンの製材所に設置したウォルフの執務室で出迎えたのは監獄組のメイジ、グレースとミレーヌの姉妹だ。どこからとも無く入浴セットを三人分取り出してニッコリと笑っている。
 ここのところウォルフが帰ってくると一緒に大浴場へ行くのが日課となっているので、ウォルフはそのまま自分の分の入浴セットを受け取り、連れだって少し離れたところに建てた大浴場へと向かった。
 ウォルフのここでの毎日は朝起きてガンダーラ商会の各拠点との連絡を取り、開拓地で一日働き、風呂に入って夕食後は研究開発と内職というのがパターンだ。
 本当は『遍在』の魔法を使って日中も研究開発を進めたいのだが、基本火メイジなので風のスクウェアスペルはまだ負担が大きい。開拓地でいざという時に魔力が足りないという事態は避けたいので日頃は自重している。

 この二人についてはモレノ達がその身柄を狙っていると知って書類を見直してみたのだが、確かにベルク公爵派として投獄されたマルク伯爵の娘とあった。
 話に信憑性が出てしまったので放置するわけにも行かず、姉妹を自分の目の届くところに配置しようとしばらく秘書のように扱っている。
 二人には無断でマイツェンから外には出ることはしないように言いつけてあるし、まもるくんによる警備体制も整ったので実はもうウォルフの秘書をする必要はないのだが、ウォルフが激しく忙しいのを間近で見て、そのまま手伝いをしてくれている。
 グレースは土、ミレーヌは水メイジなのでウォルフが作業に出ている間はグレースは大工見習い、ミレーヌは他の水メイジと一緒に辺境の森でとれる秘薬の材料の勉強とウォルフのテキストによる人体の仕組みについての勉強に勤しんでいる。
 二人ともまだメイジとしての腕は最低限といったところだが、年齢を考慮に入れれば将来は有望だ。監獄組のメイジとしては一番将来性があるといえるのでウォルフはじっくりと育てていくつもりだ。
 姉妹の魔力パターンをまもるくんに登録しているので、マイツェンにいる限りまもるくんの目をかいくぐって拉致される恐れは少ないが、念のために二人には人気のないところには行かないように注意している。

 お風呂セットを持って、てくてくと三人で歩く。大浴場は広場を挟んで反対側にあるので少し距離がある。

「ウォルフ様、キュルケ様達は本当に明日帰っちゃうのですか?」
「うん。キュルケとマリー・ルイーゼ、兄さんとバルバストルさんが帰ることになるな」
「…寂しくなりますね。せっかく仲良くしてくれてたのに…」

 つぶやくように言うのは姉のグレース。ミレーヌの方はもう割り切っているのか無言だ。二人とも監獄内の児童院で育っているので周囲に同世代の子供がいない状況にはなったことがない。

「まあしょうがない。キュルケもあれで辺境伯令嬢だからな、いつまでもふらふらしているわけにはいかないだろう。春になったら商会の学校に通っている子の内何人かはこっちに就職してくれるって言ってるから、また賑やかになるよ」
「本当ですか?うーん、でも春かあ…まだまだ遠いですね」
「それまでは若いのは君たち二人と製材所のミックだけになるけど我慢してくれ」
「はーい。まあ、元々子供なんて一人もいないと思って応募したんですけど。監獄内学校の先生とかは辺境の森は地獄みたいなものだから子供が行くような所じゃないって言ってたんですよ」
「確かにきっつい所なんだけどね。よくそんな事言われて応募する気になったなあ」
「外の世界を見たかったんです。だって、物心ついたときからずっとあの中にいたんですよ? 東方開拓団って制度があるっていうのは聞いていたけど、最近は全然だったらしいから、このチャンスを逃したら一生外になんて出られないんじゃないかって思って、お姉ちゃんを説得して一緒に応募したんです」

 ウォルフは無言で頷く。もし彼女たちと同じような境遇にウォルフが生まれていたらやはり応募しただろうと思う。

「外の世界はどう? 楽しい?」
「そりゃあ、もう! 大きな木、とか川とか全部初めて見ました。フネに乗ったのも初めてだし、みんな優しいしドルスキの街も楽しいです。応募して本当に良かったですよ」
「ん、それなら良かった」

 答えたのは妹のミレーヌ。いつも前向きで明るい彼女は開拓団のマスコットとして皆に愛されている。

「でも、こんなに楽しくていいのかなって思っちゃいます。時々とても不安になりますです」

 こちらは姉のグレース。美少女ではあるがいつも悲観的な事を言っているので、薄幸の美少女などと呼ばれている。丸顔で元気の良いミレーヌに比べてどこか線が細く、か弱い印象だ。

「もう、お姉ちゃんたらまたそんな事言って! ウォルフ様に失礼だよ」
「でも、私なんかがそんなに幸せになんて、なれる訳がないし…」
「幸せになれるかどうかを決めるのは自分だよ。オレは開拓団のみんなに幸せになって欲しいと思っているんだけど」
「そうだよお姉ちゃん。不幸な顔をしてると不幸になるって、いつも学校の先生も言ってたじゃない」
「……うん。ごめんなさい、ウォルフ様。私、どうも不安がりで」
「まあこんな森の中で開拓してるのだから、その気持ちも分かるけどね。今度まもるくんの性能をみんなに披露するか。少しは安心して貰えるかも知れない」
「うん、それは良いですね。話には聞くけど実際に私たちはまもるくんが活躍しているところを見た事無い訳ですし。あ、キュルケ様とマリー様」
「あら、グレースにミレーヌ、一緒に入りましょうか」
「はーい」

 ちょうど大浴場に到着し、入り口で一度宿舎に戻っていたキュルケやクリフォード達と丁度顔を合わせた。話を打ち切ると男女に分かれてそれぞれの脱衣場に入る。
 この大浴場はウォルフが井戸を掘ってすぐ次に建てた三百人が一度に入れる立派な物だ。二カ所計四つの浴室を持ち、その内の一つが女子浴室となっている。浴室は高い天井を持った日本の銭湯を思わせる造りで、カランが並ぶ洗い場の奥に満々と湯を満たした大きな浴槽がウォルフ達を待っていた。

「うあー…気持ちいいー。兄さんもバルバストルさんもお勤めご苦労様でした」
「おう、中々楽しかったよ。ただ、エルラドがあるし森にはあまり入らないしで、思ったよりはずっと安全だったな」
「あれは本当にかなり有効ですな。市販はしないのですか? 帰ったら辺境伯にも導入するよう奨めたいのですが」
「う…あれはまだオレしか作れないのであんまり数が用意できないのですよ」
「うん? 風魔法で大きな音を出しているだけではないのですか? 市販しないというのならば、ツェルプストーでも作れそうですが」
「作ってみれば分かると思います。指向性をいかに高めるかがポイントなのです」

 ただ大きい音を出すのでは使う者まで被害を受けてしまうし、エルラド程遠くまで音を飛ばす事は出来ない。エルラドは振幅変調をかけた超音波によって可聴音を発生させているからこそ高い指向性を実現できているのだ。そう簡単に模倣できる物ではない。
『サイレント』を併用すれば使用者の被害は軽減できるかも知れないが、遠くまで音を飛ばす事が出来ないと竜を追い払うのに十分な距離を確保できないだろう。

「やはりあの聞いたことのない変な音に秘密があるのですな。違和感は感じてもそれがなんだか分からずにずっと引っかかっていたのですよ」
「まあそうです。やっぱり風メイジだと分かりますか。兄さんは分かった?」
「わかんねーよ。お前の作るものは大体変だからな」

 クリフォードはいつもあまり聞いていないが、大体風呂ではその日の反省点などを話して過ごす事が多い。
 開拓が始まって最初の内は色々問題も起きたが、二週間が経って日常は安定してきたように思える。この日も事故も襲撃も無く一日が過ぎていっている。

「いやー、しかし開拓も凄いペースで進みますねえ…。想定していたより五倍くらいの速度で平地が出来ていっている気がします」
「重機使ってますから。むしろもう少しペースアップしたいくらいです」

 バルバストルの持っていたイメージでは、森を切り開く作業部隊を守りながら少しずつその活動範囲を拡げていくのかと思っていたが、いきなりウォルフがバッサバッサと木を切り倒していくところからして想定とは違う様相を呈していた。
 時間が掛かるだろうと思っていた大木の根の撤去も、さほど苦労せずに処理している。普通は大型のゴーレムや使い魔が主体となって掘り出し、その場で細かく分割して纏めたものを運び出すので搬出が終わるまで次の根に取りかかるという事は無い。
 それがウォルフの方法だとまず重機で掘り出し、風石カートと呼んでいる風石を利用した小型のフネで吊り上げて後方へ移動する。このときには既に重機は次の根に取りかかっているために作業が遅滞すると言う事がない。
 その後もブレードソーで細かく切り分けてゴーレムでトラックへ積み込み、更に後方へ搬出するという作業をそれぞれの担当者が遅滞なく行うので、やたらと効率良く作業をする事が可能となっている。

「風石カートの数がもう少し有った方が良かったですね。まあ、ここらへんは実際に作業してみなければ分からなかった事だと思っていますが」
「はあ、あれだけ効率よく開拓できているのに、まだ日々改善ですか。ウォルフ殿は実はとても欲張りなのかも知れないですね」
「まだまだですよ。風石カートがもっとあれば倒した木の搬出がもっと効率よく出来ます。簡単な構造だし作業員も技術をそれほど必要としないので追加で商会の方に注文を出すつもりです」
「今の風石相場でこそですけど、あのカートとブレイドソーの組み合わせは我が領の林業でも使えますね。辺境伯に提案してみるつもりです」

 バルバストルはキュルケの護衛としての役目だけでなく、開拓地の作業の実態を辺境伯に伝える役目を担っている。
 報告する事が多すぎて、毎日レポートを作成するだけでかなりの時間を費やしているのがここに来ての最大の悩みだった。



 翌日早朝、キュルケ達とクリフォードはマイツェンを旅立つ。ツェルプストーまでは約千五百リーグ、モーグラでも半日の行程だ。

「じゃあ、ウォルフバイバイね」
「キュルケもマリーも兄さんもありがとね、あ、バルバストルさんも。また時間ができたらいつでも来てくれ。バイト代はずむから」
「おう、おまえも気をつけろよ。油断したときが危ないんだぞ」
「ん、気をつける。父さん、母さんとサラによろしく。もう二週間くらいしたらオレもいったん戻るから」
「わたしは次に来るのは夏休みとかになっちゃうかも。ずっと家を空けてたから両親がお冠よ」
「まあ、東方開拓団の護衛なんてマリーみたいな嫁入り前の貴族がする仕事じゃあないような気はするよな。あ、そうだキュルケ、これ」

 見送りのためにモーグラの前まで来ていたウォルフが思い出してズボンのポケットから封筒を取り出す。

「ん、手紙? 父さまに?」
「そう、渡しといて」
「魔法封蝋までして…機密事項なの?」
「んー、ちょっとした相談事かな。あんまり他の人には見られたくないけど」

 魔法封蝋は対象以外の人間が開けると手紙が燃えてしまうという特殊な封蝋だ。主に機密事項のやりとりに使われるが、キュルケはウォルフが使っているのを初めて見た。
 しばらく手紙とウォルフの顔とを見比べていたが、ハハンと何か分かったような顔をして頷いた。

「成る程、父さまに相談があると。で、どっち? グレース? それともミレーヌかしら。ウォルフもようやく年頃になったのね」

 グレース達姉妹も見送りに来ているので二人には聞こえないようにウォルフの耳元で尋ねる。

「オレがあの二人を側に置いているのはそういうことじゃないから。ちゃんと渡してくれよ」
「またまたー、照れなくてもいいことなのよ? お姉さんにだけ話してみなさい」
「だから違うって。何も言わないでそれを辺境伯に渡してくれればいいから」
「父さまの政治力で二人の身分を何とかしたいんでしょ? 分かるわー、開拓が終わるまでなんて待ってられないものね。素敵。ウォルフにそんな情熱があったなんて」

 もうキュルケはウォルフの方を見ていない。両手を頬に添えクネクネと身を捩っている。

「ふー、…キュルケ最近親父さんに似てきたね」
「っ!! 似てきた? と、父さまはこんなクネクネしたりしないわよ、似てきた!?」

 別にクネクネしているのが似ているなどとは言っていない。恋愛事が絡むと人の話を全く聞かなくなるあたりそっくりだと思うのだが、なにげにショックだったらしい。キュルケはがーん、と擬音が出そうなくらい硬直し、きょろきょろと周囲を見回す。
 近くにいたマリー・ルイーゼやバルバストル達が、気まずそうに目を逸らした事で更にショックを受けたキュルケは慌てて否定した。

「な、何よ、父さまなんてわたし、全然似てないわよ。小さい頃から母さま似ってみんなに言われてきたんだから」
「はいはい、みんな待ってるんだからさっさと乗り込む」
「ちょっと、聞いてるの? ウォルフ。似てないわよ」

 なおも否定するキュルケをぐいぐいとタラップに押しやると文句を言いながらなんとか乗り込んだ。続いて全員さっさと機上の人となり、プロペラが回転を始めた。

「キュルケ様ー、マリー・ルイーゼ様ー、また来てくださいねー!」
「似てないんだからねー!」

 四人を乗せたモーグラは大声で叫ぶグレースとミレーヌの前を通過して離陸するやぐんぐんと高度を上げ、あっという間に西の空へと消えていった。



 途中探索者の町リンベルクに寄って買い物などをしていたため到着は夕刻になったが、キュルケのモーグラはその日の内にフォン・ツェルプストーまで帰ってきた。
 早速父親の所へ顔を出すと、辺境伯は執務中だったがその手を止めて娘を迎え入れた。

「父さま、ただいま帰りました」
「おお、キュルケお帰り。どうだった、ウォルフの開拓団はうまくいっているのか」
「ええ。順調すぎて物足りないくらいだったわ。これ、ウォルフから父さまへ手紙を預かってきたんだけど」
「ふむ、わざわざお前に渡してきたのか」

 辺境伯はキュルケから手渡された手紙をしげしげと眺めた。ガンダーラ商会が使っている遠話の魔法具を使えば、ツェルプストーとの連絡は即座に取れる。わざわざ魔法封蝋をしていることから、どうも内容は機密事項らしい。

「ウォルフは何か言っていたか?」
「なんか相談事だって言ってた。ねえ、開けないの?」
「む、今開ける。なんだお前興味があるのか」
「なーんかウォルフの様子が変だったのよねー。ちょっと、怪しいって思ってるんだけど」

 興味津々のキュルケを待たせて、辺境伯が魔法封蝋に指を押しつけると封蝋はポンッと軽い音を立ててはじけた。開いた封筒から手紙を取り出し、目を通す。

「どれどれ……んん?」

 最初は訝しげでしかなかった辺境伯の表情が、読み進めるにつれ次第に獰猛な笑顔になってくる。キュルケは父親のその表情だけで手紙の内容が自分が考えていた物とは全く違う物であろうことを悟った。

「キュルケ」
「は、はい。父さま」
「モレノとセルジョとやらはどんなメイジだった?」
「えっと、なんかいい加減な感じでした。実力はあるのにやる気がない、みたいな」
「一緒に仕事していたのか?」
「はい。ウォルフに頼んで私の下に置いてもらったので。どっかの間諜っぽかったけど、ウォルフは気にしていないようだったわ」
「クックック、そうかそうか、ウォルフも中々おつなことをする」 
「それ、何が書いてあるの?」

 心底楽しそうに笑う辺境伯に不安を覚えてキュルケが尋ねる。こんな辺境伯の態度には心当たりがなかった。

「いやなに、大したことではない。そのモレノとセルジョとやらがな、どうやらお前を襲った奴らの一味らしいと言うんだ」
「はあ?」
「詳しく調べたいのならば、ボルクリンゲンでの開拓団募集に風か火のメイジを応募させてくれればこやつらと同じ班に配置できるともあるな。フフフ、ウォルフめ、メイジ不足をワシの家臣で補おうとしているな」

 キュルケは一瞬頭が真っ白になってしまい、驚きの声を発する他は全く反応が出来なかった。
 しかし、辺境伯の言葉の意味が理解できるとともに、その顔はやはり笑顔になった。もし、ウォルフが見ていたら「ほら、似てる」と言うだろう、獰猛な笑顔だ。

「ふ、ふ、ふ、ウォルフったら何で向こうにいるときに言ってくれないのかしら。二人とも火だるまにしてやったのに」
「だからだろうな。お前に火だるまにされてしまったら背後にいる主犯者までたどり着けん」
「そんなの…捕まえて火炙りにしてやればしゃべるんじゃないかしら」
「そういう奴らは拷問に対する訓練を受けているからそう簡単にはしゃべらん。それどころか禁制の魔法をかけられていて捕まえた瞬間に死んでしまう者もいるくらいだ。諜報員など所詮トカゲの尻尾に過ぎん」
「じゃあ、じゃあ父さまはどうするつもりなの?」

 不満そうな表情を見せる娘に辺境伯はニヤリと不敵に笑って見せた。

「そういう諜報員は必ず派遣元と連絡を取っている。魔法を使ってか使い魔かはわからんが、必ずだ。あんな辺境ならばそれを辿ることはそれほど難しいことではあるまい」
「使い魔はともかく、魔法で連絡を取ってても辿れるものなの?」
「できる。使い魔ならば気づかれずに追跡するのは容易だし、魔法なら系統魔法にそんなに離れたところで会話する魔法はないから遠話の魔法具を使うのであろう。気取られぬように『ディテクトマジック』をかけた結界内で魔法具を使わせる必要があるが、大まかな距離と方角を割り出すことは出来る」

 辺境伯は話しながらも可能性を一つ一つ検討する。

「今度こそ絶対に逃がさん。自分が誰に杖を向けたのかを徹底的に分からせてやらんとな。キュルケ、そやつらの雇い主が判明するまでウォルフの所へは行くな」
「確かにあいつらに今会ったら絶対に杖を向けちゃうわね…わかったわ。その代わり、奴らの正体が判明したら絶対に私にも教えてちょうだい」
「ふふふ、自分の借りは自分で返すか。いいだろう、それでこそツェルプストーの女というものだ」

 キュルケが下がると即座に辺境伯は家臣を呼び寄せる。開拓団に送り込むメイジの人選と連絡を辿り敵を割り出す班の編成、考え得る魔法具すべてに対応するための準備とやることは多かった。

 そして翌日、ガンダーラ商会のボルクリンゲン商館に開拓団志望のメイジが二人訪れた。
 ウォルフから特に連絡は入っていなかったらしく、ゲルマニアでの初めての応募に驚かれはしたがすぐに受け付けてもらえ、十日後の補給船に同乗して現地へと向かう事となった。

「だんな様、開拓団に送り込んだものが無事、出立したそうです」 
「うむ。では手筈通りマイツェン周辺の都市へも手の者を送り込むのだ」
「はっ」

 部下が下がった執務室でツェルプストー辺境伯は机の上に広げた地図に目を落とした。
 地図は随分とすかすかで、何も書いていないところが多い。この地図は先の東方調査に同行したデトレフの報告を基に加筆された辺境の森の地図である。
 暫く地図をにらんでいたが、やがて部下を送り込んだ先に納得して目を離す。やはりミルデンブルク伯爵領の町ドルスキか、ベヒトルスハイム子爵領の町リンベルクが密偵が送り込まれる町としては適している。
 ドルスキは温泉保養地として最近訪れる人が増えているし、リンベルクは探索者の町だ。どちらも余所者が多いので連絡役が滞在しても不審には思われないだろう。
 距離としてはドルスキの方が近いし、マイツェンへの唯一の補給路である川沿いにあるのでこちらが第一候補だ。

「一体何が出てくる? ロマリアかトリステインか……まさかゲルマニア帝室ってことは無いだろうが」

 既に辺境伯は主犯者が判明した後のことを考えている。トリステインだった場合問題は少ないだろう。戦争をちらつかせて強圧外交で主犯の確保を図ると共に工作員を送り込んで直接的な解決を目指せばいい。
 上手くいけば主犯達を皆殺しにした上でトリステインから賠償金を得られそうだし、上手くいかなかったとしても戦争になれば必ず勝てるのでそれなりの利益があるだろう。向こうから仕掛けてきたのだ、遠慮するつもりはない。

 ロマリアだった場合は慎重に行動しなくてはならない。ロマリア自体を敵に回すのは面白くないので、きっちりと証拠をそろえた上で犯人個人の犯罪として弾劾する必要がある。
 こちらのメリットとしては借りを返す事以外にはロマリアの影響力を低下させる事が出来るだけだが、辺境伯はそれでもいいと思っていた。

「ロマリアの政治状況をもう少し詳しく知る必要があるな。教皇派と保守派とに分かれているのだったよな、もう少し密偵を増やすか」

 部下を再び呼びつけて指示を出す。
 どんな人間だろうと政敵というのは存在するものだ。辺境伯はたとえ教皇といえども犯人だった場合には責任をとらせるつもりだった。




番外8   Grand Prix



 最近とみにその権勢を誇るツェルプストー辺境伯領で、第一回ツェルプストーグランプリが盛大に開かれた。
 近隣の自動車所有者の貴族に呼びかけて開催する運びとなったこのレースは、ボルクリンゲンをスタートしてツェルプストー領内いくつかの村や町を回る一周十二リーグ程のコースを二十周しその速さを競い合うというものだ。
 十数台の自動車が参加する事になったが、当初は通常の街道を閉鎖する事に対する苦情が山のように持ち込まれ開催が危ぶまれた。しかし臨時の迂回路を設けて街道の問題を解決し、練習走行が始まり地竜並のスピードで目の前を駆け抜ける自動車達を見ようと人々が集まり始めると祭りは徐々に盛り上がっていった。
 商人達は屋台を開いてたくましく商売を始め、予想屋が建ち並んでレースの展開を予想した。子供達は屋台のお菓子や自動車の玩具を買い求め、大人達は車券売り場に長い列を作った。練習走行の合間を縫って行われるガンダーラ商会による自動車の試乗会は大人気でこちらの行列も途絶える事はなかった。
 この大会は主催がツェルプストー辺境伯で、ガンダーラ商会が協賛して開催されている。ウォルフは全体のサポート役として自動車の修理、整備などを担当するために開拓地から帰ってきていた。



「さあ、本日予選最終走者はご存じキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー! 最近は"野火"だの"不審火"だの、不名誉な二つ名が付けられ始めていますが、昨日の練習走行ではトップタイムをたたき出した優勝候補です」
「彼女は速いですよ。このコースを走り込んでいますし、グライダーやらセグロッドやら乗り物を操縦するという事に慣れています」

 レースの全てはツェルプストーの家臣達が操作する遠見の魔法を駆使して全て生中継されている。ボルクリンゲンの港に設けられたホームストレートに面する特設スタンドには観客が鈴生りになり、思い思いにレースを楽しんでいた。
 実況はマリー・ルイーゼが、解説はデトレフが担当し、これも拡声の魔法で会場に放送されている。
 キュルケの二つ名は、ここのところ領内の幻獣や亜人の討伐に出かける度に山火事を引き起こしてしまったために付いたものだ。本人は取り消そうと躍起になっているが、徐々に広まり始めてしまっているし今また周知されてしまった。

「マリー! 後で覚えてなさいよー!」
「さあ、今キュルケがスタートしました。デトレフさん、キュルケの車は見かけが随分と他の自動車と違いますが、これは?」
「フレームや風石発電機、モーターなどという車体そのものは一緒ですが、軽量化のために上部のボディをFRPで作りました。二百リーブルは軽量化してあります」

 実況席の前をキュルケが通過しながら大声で文句を言ってきたが、マリー・ルイーゼは気にせず実況を続ける。
 キュルケの車は他の車よりも車高が低く、流線型で滑らかなボディーをしている。最近ガンダーラ商会でFRPの材料を離型材や塗料などと一緒に一般にも販売し始めたので、それを利用してデトレフがこのボディーを作り上げたのだ。随分と試行錯誤をしたがグライダーのキャノピーを流用してなかなか流麗な車体に仕上がっており、キュルケもお気に入りだ。

「キュルケ選手、スムースな動きでコーナーをクリアしていきます。これは速い! デトレフさん、ボディが軽くなるとどんな利点があるのですか?」
「まず加速が良くなりますね。コーナーリングも優位になりますし、ブレーキも効きが良くなります。自動車にとって軽いという事は明確なアドバンテージがある事なのです」
「なるほど。FRPのボディを作ってきたのはキュルケ選手の他にはシリングス伯爵とヴァルトハウゼン伯爵のみ。三人共に良いタイムをマークしていますが、この三人が優勝争いをすると見て間違いないでしょうか?」
「今のところ予選トップのタイムを出しているツェルプストー辺境伯を忘れてはなりません。屋根やドアを取っ払ったのでそこそこ軽量化もなされていますし、小さなウィンドスクリーンによって空気抵抗も少なくなっています。なにより秘密兵器を装備していますのでその運動性能は侮れません」
「そう言えば辺境伯の車には妙な車輪が装着されていましたね。秘密兵器とはあの車輪の事でしょうか」
「よく気がつきました、その通りです。あれはアルミホイールといいまして、ガンダーラ商会で開発中の物です。アルミニウム合金という軽量な金属を数千リーブルという圧力で鍛造した逸品だと聞いています。開発責任者のウォルフ殿はレースはイコールコンディションの方が面白いからと提供を断ったのですが、辺境伯が商会長に直談判して手に入れたという曰く付きの代物です」

 辺境伯も一度はウォルフに断られて諦めていたが、練習走行でキュルケに圧倒されて慌ててタニアにねじ込んで提供させたのだ。噂ではかなりの額のエキュー金貨が積み上げられたと言うが、真相は闇の中である。

「ホイールが鉄からアルミになるだけでそんなに性能に差が出るものですか?」
「あのアルミホイールは通常のホイールに比べて半分程しか重量がありません。サスペンションのバネの下に付いているホイールがそれほど軽くなると路面追従性が格段に上がります」
「路面追従性…ですか。それが速さに関係してくるので?」
「勿論です。このコースの路面は石畳になりますのでどうしても細かい凹凸があります。これをタイヤが跳ねることなくトレースできるとコーナーリングの速度を上げる事が出来るようになるのです。ほんの僅かな速度の差ではありますがライン取りの自由度も上がりますし、積み重ねると結構大きなものになります」
「そんな素敵アイテムを自分だけ装備するとはさすが辺境伯、こんなお遊びにも本気です。『競争とは勝つ事にこそ意味がある』と常日頃言ってるだけはありますね。さあ、皆さんバックストレートをご注目下さい、キュルケ選手がライヌ川対岸の街道に入ってきました。これは速い!」

 これまでトップの辺境伯よりも三秒以上速いタイムでキュルケがバックストレートに入ってきた。そのタイムがマリー・ルイーゼによって読み上げられると怒濤のような歓声が上がる。

「さあ、これは良いタイムが期待できそうです。キュルケ選手、橋を渡って最終コーナーに入りました」
「これは、もしかしたら八分を切るかもしれないですね」

 観客が固唾をのんで見守る中、キュルケはそのままホームストレートを駆け抜けゴールラインを通過した。オフィシャルのタイムは八分一秒〇七、文句なしのトップタイムだ。
 観客席ではキュルケがトップタイムを出した歓声と八分を切れなかった嘆声とが交差したが、皆初めてのレース観戦を楽しんでいるようだった。

「予選の最終結果が出ました。一位・キュルケ・フォン・ツェルプストー・八分一秒〇七。二位・ツェルプストー辺境伯・八分八秒二五。三位・シリングス伯爵・八分九秒〇五…」
「いやー、予想通りですがキュルケ様は一歩抜け出ましたね。二位以下の選手達が明日はどう戦うのか、楽しみです」
「キュルケに挑むおじ様軍団といった構図になりましたね。では、デトレフさん明日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」



 予選は滞りなく終わったが、本戦は明日だ。所詮はお遊びなので和やかなムードのレースになるのかと思われていたが、皆随分と本気になっている。
 おかげで各車の調子を見て回っているウォルフはやたらと忙しい思いをする事になった。

「私の車はモーターの回転がいまいちなような気がする」
「キュルケちゃん程ではなくても良いが、ヴァルトハウゼンよりはスピードが出るようにしてくれ」
「このバッテリーってのが重いのだが、全部取ったらだめだろうか」

 みんな好き勝手な事を言ってくる。

「気のせいです」
「無理です」
「やめてください」

 一々全部相手していたらキリがないので適当に対応しつつ車はちゃんと性能が出るように整備する。まだ販売したばかりだし、それほど変な改造もされてはいないので手を入れるところは少ないが、安全面を中心にチェックした。

「あら、ウォルフ忙しそうね。後でわたしの車も見てちょうだいね?」
「おお、キュルケ。予選トップおめでと。後三台くらいだな、それが終わったら顔を出すよ」
「うふふ、ありがと、待ってるわ」
「ウォルフはまだワシの車の整備中だ。向こうへ行っとれ」
「おお、怖い怖い、うふふふふ」

 ツェルプストー辺境伯のピットで整備をしているとキュルケが通りかかった。予選トップの成績に上機嫌になっている。
 反対に不機嫌になっているのが辺境伯だ。アルミホイールのおかげでコーナーリング性能は良くなっているはずなのだが何せ運転技術がキュルケに大分劣っている。

「ウォルフ、何か秘策は無いのか。このままではキュルケに負けてしまう」
「だから、オレは今回オフィシャル側の人間だって言ってるでしょう。辺境伯だけ特別扱いするわけにはいかないのです」
「くそっ、堅物め。その顔は本当は何か策があるのだな? ヒントで良いから何か教えんか」
「ヒントはありません。自分でお考え下さい。レースは何があるか分からないですからね、チャンスはありますよ」

 この日ウォルフが全ての車両の整備を終えたのは夜も大分更けた頃だった。



「さあ、いよいよツェルプストーグランプリが始まります! 各車ウォームアップを終え、それぞれ所定のグリッドにつきまして、今か今かとスタートを待っています。デトレフさん、今日注目して見るポイントはどんなところでしょうか?」
「やはり予選で圧倒的なタイムをたたき出したキュルケ様がポールポジションからそのまま優勝してしまうのか、それとも辺境伯をはじめとする他のドライバーに何か秘策はあるのか、と言ったところでしょうか」
「いずれにしてもレースはキュルケを中心に動くという予想ですね…さあ、シグナルが赤から今……青に変わりました!」

 いよいよグランプリ当日、観客のテンションはマックスまで高まり大歓声の中レースはスタートした。

「おおっと、辺境伯がすばらしいスタート! 真っ先に第一コーナーへ飛び込んだのはポールポジションのキュルケではなく、予選二位のツェルプストー辺境伯! 圧倒的なスタートダッシュでトップを奪いました。デトレフさん、これは?」
「おそらく登坂支援魔法を起動させましたね。辺境伯の車両はこの中で唯一のファーストクラスと呼ばれる高級機種なので登坂支援魔法が搭載されているのですが、それをスタート時に起動させる事に成功したのでしょう」
「そんなのが辺境伯の車にだけ搭載されているんですか。さすが汚い、あ、いや、それは他の車も搭載したいですね」
「開発者のウォルフ殿によれば、コーナーリング中に発動すると挙動に不安があるとの事で、登坂時以外はプロテクトされていたシステムです。おそらくツェルプストーの魔法技術者がそのプロテクトを突破したのでしょう」

 登坂支援魔法は『グラビトン・コントロール』で構成されているのだが、コーナーリング中に作動するとドライバーの意志よりも曲がりすぎてしまったり、小さなギャップで跳ねすぎて逆に曲がらなかったりと不安定な挙動になる。
 そのため通常は作動しないようになっているのだが、追い詰められた辺境伯はそのプロテクトを破ってきた。

「コーナーリング中の挙動を見ると登坂支援魔法は使っていませんね。スタートダッシュだけに使用したようです」
「成る程、少々反則気味の手ですが、おかげでトップを奪う事には成功しました。キュルケが現在二位でコーナーごとに猛烈なプッシュを仕掛けています。デトレフさん、高級機種だけの機能は他に何かありますか?」
「あとは電力回生機構が大きなポイントですね。減速時のエネルギーを電力に変換して回収する仕組みで、他の車が二回の給石を予定しているところ、おそらく辺境伯は一回で済ませると思います」

 風石発電機の克服できなかった欠点として風石が消費されたときにその分発電力が落ちるというものがある。ガソリン自動車だったらガソリンが半分になってもエンジンの出力は変わらないが、風石の場合は発電機に搭載してある量がそのまま出力に直結する。
 最高回転数の方にリミッターを付けているのとバッテリーがあるのとである程度は緩和されているが、レースのような最高出力を連続して使用する状況では風石が減ったら交換してしまいたい。

「各チーム工夫はしているようですが、交換に二十秒程のピットストップを余儀なくされます。これが一回少ないというのはかなり大きなアドバンテージです」
「昨日の予選の結果からはキュルケの圧倒的有利かと思っていましたが、辺境伯も侮れませんね……と言ってる間にバックストレート手前のコーナーでキュルケが仕掛けたぁ!」

 コーナーリングでキュルケが前に立ったのだが、すぐ後のストレートの立ち上がりで辺境伯に抜き返された。抜きつ抜かれつのドッグファイトに観客のテンションも上がる。

「さあ、先頭グループがホームストレートに入ってきました。先頭はキュルケ…を今辺境伯が抜いた! 辺境伯、キュルケと続いて今観客席の前を通過していきます。三位は少し離れてフォン・シリングス、さらにフォン・ヴァルトハウゼンと続きます」
「辺境伯は最終コーナーの立ち上がりで支援魔法を使っていますね。負けず嫌いだなあ」
「一周目は辺境伯が制したわけですが、こうして見るとキュルケの車はボディのせいだけではなくて車高そのものが低いような気がしますね」
「ええ、サスペンションユニットを少し短くダンパーが硬い物に交換していて、重心が低くなってコーナーリングが速くできるようになっています。コーナーリング中の挙動も安定しますので操縦性が高くなり、ドライバーの意志通りにラインを選ぶ事が出来るのですよ。ブッシュも全て硬い物を入れてますので随分乗り心地はハードになりましたが」
「それは自分で作ったのですか? それとも辺境伯のように無理矢理?」
「パーツリストにも載っている純正品ですよ。発注すれば誰でも手に入る部品です。全員に案内は行ってるはずですが導入しているのは五台だけですね」
「ああ、そう言えば辺境伯以外の上位の車は皆車高が少し低いですね。情報に敏感なチームが速いという事でしょうか」

 そのままレースはキュルケと辺境伯を軸として進み、中盤を過ぎるまで抜きつ抜かれつのデッドヒートは続いた。



「さあ、残り五周となって先頭はキュルケ、二十秒程遅れて辺境伯、さらに一分遅れてシリングス伯爵となっていますが…」
「はい。キュルケ様のトップスピードが落ちてきています。ここはピットインするしかないでしょう」
「キュルケの一回目の給石は停車時間とそのための減速を含めると三十秒程ロスしています。今回も同程度ロスするとなるとトップが入れ替わりますね」
「残り五周で辺境伯がその位置を守りきれるか、目が離せない展開です」

 バックストレートを疾走するキュルケにピットインのサインが出る。キュルケは親指を立てて応えるとピットロードへとハンドルを切った。

「さあピットにキュルケが入ってきました。素早く停車してクルーがボンネットを開けて風石を交換します! キュルケチームは独自の風石装填装置を使用していますね」
「はい。マガジンと呼んでいますが風石発電機の形状に合わせて素早く風石を交換できるように制作しました。あっ! 風石がこぼれた!」
「ああっと、キュルケチーム痛恨のミス! 焦ったのか一部の風石が励起してしまい飛んでいってしまいました。慌てて予備のマガジンを用意していますがこれは痛いロスです」
「これは…起きるはずのないミスがこんなところで起きてしまいました」

 キュルケチームが手間取っている間にツェルプストー辺境伯がトップに立つ。キュルケチームの隣のピットは大盛り上がりだ。
 結局コースに復帰したときには辺境伯に三十秒以上も差を付けられてしまっていた。会場の誰もが辺境伯の優勝を確信したが、一周して帰ってきたときにその差が二十四秒を切っていることがアナウンスされるとまた歓声が大きくなった。
 キュルケの追い込みが始まったのだ。

「これは…残り四周で二十四秒差! この一周で六秒程縮めていますからキュルケ様、行けますよ!」
「ちょ、デトレフさん落ち着いてください。レースも終盤集中力の無くなる時間帯ですが、ここにきてキュルケはファステストラップをマークしました! 七分五十八秒七二! 八分きりましたよ!」
「これがキュルケ様の集中力です! この集中力で先日は野生の地竜を討伐したのです!」

 キュルケが周回遅れの車を躱す度に大きな歓声があがり、その歓声に後押しされるように辺境伯との差を縮めていった。
 最終周回、バックストレートから続くコーナーでついにキュルケが辺境伯を抜き去ると観客の興奮も最高潮に達し、気の早い観客によって辺境伯の車券が破り捨てられ紙吹雪となって観客席に舞った。

 だがその興奮は突然に終わりを迎える事になる。
 ボルクリンゲン大橋からホームストレートに至る下りの最終コーナー、このコースで最も速度の乗るコーナーでキュルケのインに辺境伯が追突。二台がもつれてそのままコース外側のセーフティゾーンにコースアウトしてしまったのだ。
 キュルケはしばらく風石を励起させたりしてサンドトラップから脱出してコースに復帰しようとしていたが、三位だったシリングス伯爵が直ぐ横を駆け抜けるのを見て諦めた。

 ちりちりと炎をまとわせながら車から降りる。直ぐ横で辺境伯も憮然とした表情のまま車から降りてきた。
 キュルケは辺境伯を無視してピットへ帰ろうとしたのだが、辺境伯の掛けた言葉でその動きを止めた。

「運が無かったな」

 辺境伯は、確かにそう言った。



 思いがけぬ幸運でトップに立ったシリングス伯爵がそのままゴールし、チェッカーフラッグが振られた。遠見の魔法でウィニングランをするシリングス伯爵の様子が大写しにされているが、観客の誰もそのシーンを見てはいなかった。
 満員の観客が注目するのはただ一カ所、ホームストレートの端で勃発した壮絶な親娘喧嘩だった。

「わたしのどこが運がないって言うのかしら、誰がそれを言うのかしら、教えていただきたいわ、父さま《フレイム・ボール》!」
「ぬお!《ファイヤー・ウォール》! 貴様、娘の分際で領主たるワシに杖を向けるとは、世が世なら反逆罪ぞ《ファイヤー・ボール》」
「あら、父さまほどのメイジならラインメイジの炎なんてロウソクの炎みたいな物でしょう。子供の可愛い悪戯と思って下さいな《ファランクス》!」
「こんなん可愛くないわー!!」

 キュルケはいつの間にやらセグロッドを取り出し、それに乗って辺境伯の周囲を素早く移動しながら魔法を放つ。
 辺境伯の『ファイヤー・ボール』を躱しざま放った『ファランクス』は小さな『ファイヤー・ボール』の弾幕で、四方八方から迫る炎の攻撃に辺境伯はしばし防戦一方となった。
 キュルケの攻勢に観客からは大きな声援が上がる。皆どんな成り行きになるかと固唾をのんで見守っていたのだが、ド派手に燃え上がる炎で一気にヒートアップしたようだ。

「あー、ちょっと喧嘩始めちゃいましたが、どうしましょう、あれ」
「ちょっとあの間には入りたくないですなあ。むむ、キュルケ様の機動攻撃は見事ですね」
「あれで地竜を幻惑しましたからね。どんなに威力のある攻撃でも当たらなければ意味ありません。あ、ちょっと辺境伯そんなに大きな『フレイム・ボール』は大人げ無いんじゃないでしょうか」
「キュルケ様は大火傷から立ち直ったばかりだというのに…あ、ウォルフ殿が向かった。ちょっと期待」
「ウォルフだけに任せておく訳にもいかないでしょう。私たちも行きますか」
「そうですな。やれやれ困ったものだ」

 辺境伯の大きな魔法攻撃をセグロッドの機動力を生かして躱し、小さな魔法で反撃するキュルケ。小さな力で大きな敵に立ち向かうその姿に人々はイーヴァルディの勇者を重ねあわせて応援した。
 しかし、観客の殆どを味方に付けていてもラインとスクウェアというランクの差はいかんともしがたい。時間がたつにつれ次第に押され始めるのはどうしようもない事だった。
 巨大な炎を操って退路を断ちつつ物量でごり押しする。たとえ直接当たらなくてもいいと割り切った辺境伯の攻撃にキュルケは追い詰められていった。

「きゃあっ!」
「ふははは、残念だったな、《フレイム・ボール》!」

 攻撃で爆発した地面に煽られて転倒したキュルケに完全に悪役と化した辺境伯の攻撃が襲いかかる。キュルケにその攻撃が当たるかと思った瞬間、横から来た風がその炎を打ち消した。ウォルフの『ウィンド』である。
 もちろんただの『ウィンド』では無く、ウォルフがO2レスと呼んでる種類の風だ。風の魔法で気体を操作し、空気中の酸素以外の気体を風として送ったのだ。
 炎とは酸素濃度が十三%以上ないと燃え続ける事は出来ない。酸素を含まない風でその炎を失った火の魔法は風に煽られ急速に温度を失って霧散した。

「辺境伯、危ないですよ」
「……今のは直前で消すつもりだったのだ」
「それなら良いのですがじゃれ合うのはもうこれくらいにして下さい。表彰式の時間が押してます」
 
 全力で放った『フレイム・ボール』を事も無げに消し去られ、驚いてはいたが辺境伯がそれを表に出す事は無かった。ウォルフに非難の目で見られて気まずそうに顔を背けるとそのまま踵を返した。

「ふんっ、いいかキュルケ! ワシは謝らないからな!」

 どうにも締まらない捨て台詞を言い放って辺境伯はピットへと帰っていった。

「……まあ、悪かったとは思っているみたいだね」
「あれのどこが?! 絶対に許してやんないんだから! 母さまに言いつけてやる」

 たたきのめされ、あれだけ大きな『フレイム・ボール』をぶつけられそうになったというのにキュルケの闘志は未だ衰えていない。今からこれだとキュルケが反抗期になったら辺境伯は苦労しそうだなあ、とウォルフは人ごとのようなことを考えていた。



 最後にハプニングはあったが無事第一回ツェルプストーグランプリは終える事が出来た。
 レースの主役達がゴール直前でリタイアしてしまい、少し寂しい表彰式になったが急遽キュルケがプレゼンターを勤めたためにそれなりに観客も盛り上がった。
 第二回グランプリが翌年に開催される事も決定し、見に来ていた貴族から何台か自動車の注文も入ったのでレースそのものは大成功だったといえるだろう。
 既に辺境伯達今回の参加者達は自動車の改造に着手したようで、ウォルフは来年どんな自動車達にあえるのか楽しみになった。



 辺境伯はレースとその後の乱闘を見ていた妻にこっぴどく怒られた。
「キュルケちゃんに謝るまでは一人で寝ていなさい」と夫婦の寝室から追い出され、それどころか彼の愛する妾達も正妻の命令に従って誰一人として辺境伯を部屋へ入れてくれなくなってしまった。
 それでも領主の沽券に関わると謝罪を拒否した辺境伯はこの日から暫く執務室の長椅子で一人の夜を過ごすことになった。家臣達の前では何でもない事のように振る舞っていたが、結局独り寝に耐えきれず夫人の前でキュルケに謝ったのはそれから一週間が経ったころ。
 ゲルマニアでも名だたる貴族であるツェルプストー辺境伯が、実は夫人には頭が上がらないというのはこの一家だけの秘密だ。




2-39    諸事雑事



「成る程。凄まじい勢いで鉄が精錬されていくものだな。このペースで精錬できるのならあの価格でも高くはないか」
「これでようやく鉄鋼の価格も下がりますね。どうも高いなあと思ってたんですよ」
「くっ、ゲルマニアの鉄は低価格高品質と評判だったのにっ」

 ハルケギニアで初めて開かれた自動車レースの興奮も冷めた頃、ここボルクリンゲンにあるツェルプストーの製鉄所でツェルプストー辺境伯とウォルフは転炉の試運転に立ち会っていた。多くの家臣達が見守る中、圧延機からは次々に鋼材が吐き出されている。
 高炉のすぐ側に転炉から始まる精錬・圧延工場を建設してあり、莫大な金額を商会に支払っただけあってその精錬速度、鋼材の品質はこれまでの常識を覆す程のものだった。
 見守っている家臣達は一様にその精錬の速度と鋼材の品質に驚き、ざわざわと落ち着かない。新方式の製鉄法と聞いてどの程度のものかと余裕を持って見ていたのが今では全くその余裕はなくなっていて、特に精錬担当の火メイジは顔を真っ青にしていた。
 アルミニウムやFRPなどの新素材についてならばまだしも、鉄についてはゲルマニアが一番との自負があったのにプライドを粉々に砕かれてしまった格好だ。
 ウォルフは家臣達が色々と説明して欲しそうにしているのに気がついていたが、時間的に余裕がないのであえて無視していた。この後ガリアにも行って同様に製鉄所の建築に立ち会わなくてはならないのだ。
 この試運転にはガンダーラ商会からも作業員を連れてきて作業をさせている。自分に向けられた多くの視線を無視して、連れてきた作業員達と一緒にツェルプストーの作業員にこつや注意点を伝えているウォルフの代わりに、ある程度転炉の仕組みを理解しているデトレフが説明を買って出ていた。

「あの上から吹き付けている気体は酸素でして、これがこの製鉄法の一番大事なポイントらしいですぞ」
「下から吹き上げているのもその酸素か?」
「それはアルゴンという別の気体だそうです。あたかも金のように他の物質と反応しない特殊な気体らしいですぞ」
「そんな気体どうやって作っているんだ、特殊な魔法か?」
「…さあ? ウ、ウォルフ殿ー?」
「あー、普通にそこらの空気に含まれていますので圧縮して冷却して分溜しています」
「…」

 作業員達と話をしていたウォルフが振り向いてあっさりと答えるが、ツェルプストーの技術者達が理解しているかどうかは疑わしい。ウォルフとしてはここやラ・クルスでの作業をさっさと終わらせて開拓地に早く帰りたいので丁寧には説明していられない。メイジならば自分で調べれば分かるはずだという思いもある。
 デトレフが切なそうな顔をしているが、まあしょうがない。

「えーと、全てそこらの空気に含まれていますが、鉄と反応しやすい物としにくい物を見極め、それぞれ集めてそれぞれ適した用途で使用しています。現物は置いていきますから後は皆さん自由にご研究下さい。それではわたしはこの辺で」

 まだまだ操業は続いていたが、大体の目処は立ったので、後は連れてきた作業員達に任せてウォルフはさっさと帰る事にした。
 しかし、例の間諜の件があるので打ち合わせを、という事で辺境伯と所長室に移動した。

「ご苦労だったな。開拓地がまだ忙しいだろうに、随分と時間を取らせたようだ」
「いえ、まあこちらが本業ですから。お買い上げありがとうございます」
「うむ。で、どうだ。手紙の事以外に何か新しい事は分かったのか」
「いえ。一応彼らの居室にも録音機を取り付けましたが他の団員も居ますし、今のところ目新しい情報はないです。週一回ダエグの曜日にフクロウで連絡を取る予定だったみたいですが、中々フクロウが来ないみたいでやっと来たときは悪態をついてましたね。けちくせえやつだって」
「けちくせえ、か。ガリア東南部やロマリアの方言だな、仕事をしないやつの事だったか」
「ああ、そういう意味だったんですか、納得です」
「ふふふ、これでまた少し絞れたか。録音しているとの事だったが、今も残っているのか?」
「ええ、勿論。これを辺境伯に預けておきます」

 そう言うとウォルフは背負ったリュックから二十サント程の人形を二体取り出してテーブルに置き、その頭を指で押した。

『おい、どうすんだよ、目をつけられたっぽいじゃないか。だからやめとけって言っただろう』
『仕方がない。あの姉妹の髪色と瞳を見ただろう、ベルク公にそっくりじゃないか。確認をとるのは当然だ』

 そのとたん二体の人形はそれぞれモレノとセルジョの声色で話し始める。もし本人が聞いたとしても驚くだろう程同じ声色で密談の一部始終を話しきった。

「確かにヴァレンティーニとやらの名前が出ているな。まさか偶然という事はないだろう」
「偶然ってのはないですね。後ろの方に入っている別の日の密談ではキュルケ襲撃の日の事を話題にしてましたし、司教さんの飛ばされた先とかにも触れていました。後で確認して下さい」
「確定か。くっくっく、ようやく尻尾を見せてくれおって、どうしてくれようか」
「あー、犯罪者の処分でしたら強制労働先には是非、ウォルフ・ライエ開拓団をご利用下さい」
「うん? 犯罪者を領内から出したら政府から文句を言われ…ないか。ワシが後見貴族になってるから開拓地は暫定的にツェルプストー扱いになるのか」
「はい。関連法規を調べましたけど、開拓地で出た犯罪者の管理は開拓団長とその後見貴族が責任を持って取り扱う事になるそうです」
「ちゃっかりしておるな。いいだろう、死刑にするまでもないような奴ならお前の開拓団で強制労働させる事に異存はない。その代わり今後とも情報提供をよろしく頼む」
「ありがとうございます、すみませんね、どうにも人手不足でして」

 ニヤリと笑う辺境伯にウォルフも笑顔で返す。辺境伯は今後も協力を取り付ける事が出来、ウォルフはその見返りを確約する事が出来た。

「それにしても、これはおしゃべりアルヴィーか。よくこんな子供向けの人形を持っていたな」
「母がこういうものを好むので。結構使えるんですよ、これ。ただもうストックが無いので今度来るときまでに辺境伯の方で用意しておいてくれるとありがたいです」
「うむ、任せろ。ダース単位で用意してくれる」

 おしゃべりアルヴィーは貴族の子供向けの玩具だ。玩具ではあるが、伝言を残したり魔法のスペルを覚えるのに使われたりして結構実用的なものでもある。ウォルフは市販されているこの人形を利用してまもるくんに録音された音声を保存しているのだ。

「いや、そんなにはいらないですよ。フクロウの後を追跡していたみたいですが、何もつかめませんでしたか?」
「ああ、二十リーグも飛ばない内にワイバーンに食われてしまった。夜行性のワイバーンもいるのだな、やっかいな森だ」
「夜の森はいっそう危険なのにのんきにワイバーンが出る高度を飛んでいるんだ…そりゃ、やられるな。あれは亜種らしいです。色も真っ黒だし飛行音がほとんどしないので気づくのが遅れがちになります。せっかく連絡に来たのが食われてしまったという事はまだろくに連絡は取れていない可能性が高いですね」
「うむ。せっかくモーグラを高度一万メイルなどというところに待機させているのだ。早いところ主犯のところまで連れて行って欲しいものだ」

 まもるくんのおかげで平和に過ごしているので忘れがちだが、開拓地はもとよりマイツェンも辺境の森のまっただ中にある。その空は非常に危険なのだ。

「まあその内対策をとって定期的に連絡を取れるようになりますよ。そのときを待ちましょう」
「奴らの頑張りに期待、ってかんじなのが変だが、まあその通りだな。ワシの手の者はどうだ、無事潜り込めたか」
「エメリヒとクヌートですね。エメリヒはモレノ、クヌートはセルジョと同じ班で働いてもらってますよ。なかなか働き者のナイスガイで助かってます」
「二人ともよろしく頼む。ドルスキやリンベルクにも手の者を送り込んでいるから、万一モレノ達が逃げたりしたときは使ってくれ」

 モレノとセルジョの班を分けたのは録音装置を設置してあるのがマイツェンだけなので、密談をするなら開拓地ではなくマイツェンでして欲しいとの狙いからだ。
 その後辺境伯と互いに持っている情報を交換し、適当なところで会談を切り上げてさっさと退席した。仕事が詰まっているのだ。



 すぐに機上の人となり向かった先は故郷アルビオン。
 久しぶりに帰ったチェスターの工場では編み機が十台以上が動いていてニットの生地を生産していた。様々な材質・太さの糸を編んでいるこれらの編み機は開発中のもので、まだ改良したいとの事で編み機の量産はしていない。
 この編み機は生産されるニットの品質は高いのだが一時間あたりの編める生地が一メイル程と一台の生産効率はあまり高くない。そのため数を揃えるつもりなのだが、そうなると必要な部品は膨大な数になる。
 鋼材からプレス・熱処理・メッキ処理といくつもの工程を経た針がずらりと並ぶ姿は美しいが、必要な精度を維持しながら量産できるようになるまで多くの時間を費やした。
 今はもう量産する準備も整っているので、編み機の最終的な仕様決定を待っている段階だ。

 ウォルフは早速量産機械を一つ一つ確認し、リナがミシンを開発している研究室に移動した。

「お、ジーパン出来てる! やたっ」
「結構苦労してましたよ、それ。針子の経験者がいたから何とかなってましたが。そんなゴワゴワの布でズボン作るなんて信じられないって言ってました」
「はいている内に馴染むから良いんだよ、これで。おおー、設計図通りリベットまでちゃんと打ってある…Tシャツとパーカーはまだ?」
「今日ウォルフ様が来るって言っておいたから今向こうで縫っているはずですよ。もう出来ている頃かもしれませんね」

 ジーパンは織機による綾織の布で出来ているので今開発している編み機とは関係ないが、太い糸を使用した厚めの生地なのでミシンの試運転を兼ねて作ってもらっていた。
 アルクィークで貰った染料では鮮やかになりすぎだったので、アルビオン製の安い染料で染めた糸を縦糸に使って生地を織り、前世の記憶のままに描いたスケッチと型紙通りに出来上がっている。
 定番となっているようなものには定番となる理由がある。今後も地球の文化で導入可能なものは積極的に導入していく予定だ。

「OK行ってみる」
「にゃー! ちょっと待ってくださいよ、ここの構造見て意見下さい。時々下糸と上糸のテンションがおかしくなるんです」

 Gパンの完成に気をよくしているし、早くTシャツを見に行きたいが、ここでリナの相談にも乗らなくてはならない。そんな時に便利な魔法がこの世界にはある。
 
「《遍在》じゃあミシンはそっちのオレが見るからよろしく」
「まかせろ。本体はTシャツよろしく」
「…何という魔法の無駄遣い。久しぶりに見るとやっぱり不気味ですね、遍在って」
「ふふふ、風は遍在するのだよ。って意味わかんないよな」

 風の魔法『遍在』によって二人に分裂し、本体は違う棟にある縫製工場に行ってしまった。
 リナはまだこの魔法に慣れなかったが、ウォルフが一人になってしまえば気にはならなくなる。ミシン開発チームの面々と一緒にウォルフに現状を説明するのだった。

 ジーパンは試着してみた結果ボタンフライの調子がいまいちで作り直して貰う事にしたが、何度か作り直して貰う内に納得できるものが完成したため、ウォルフは早速通常履くズボンをジーパンにするようになった。
 これまでのハルケギニア製のどのズボンより丈夫なので作業着にはぴったりだ。濡れると乾きにくいので森などに着ていくものとしては適さないが、そういった用途にはポリエステル100パーセントで伸縮性のあるズボンを開発中だ。
 アルビオンでの仕事を済ませてガリアに行く頃にはTシャツもパーカーもスウェットも試作品が出来上がった。綿の糸を編み機で編んだこれらの服は織物と違って伸縮するので着心地が格段に良い。
 サンプルを見せたタニア達商会上層部にも好評で、編み機やミシンそのものの販売の他に服そのものも取り扱う事にして大規模な縫製工場を建てる事になった。
 紡績から縫製まで研究開発と生産を一貫して行える工場にするとの事でタニアから紡績機の開発も指示されたが、ウォルフはまたリナに丸投げした。化学繊維ならもう実用化しているが、原綿から綿糸にする工程を新たに研究しなくてはならないのでまた時間がかかりそうだからだ。
 リナも相当忙しいが、とにかくウォルフはやる事が多くて忙しい。開拓地で空いた時間に設計していたトラクタやコンバインハーベスタをこちらの工員と共に試作し、それが形になる前にもう直ぐにガリアに移動だ。文字通り寝る間もない程で、ガリアへの移動中は自動操縦のモーグラ機内で熟睡する事になった。



 ガリアでも転炉の設置をして開拓地に戻ったときには出発してから一ヶ月が経過していたが、まだ出かける前に切り倒した木は一部しか運び出せてはいなかった。とりあえず森との境界付近に簡易的な防壁になるように積み上げているが、全て運び終えるにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
 いずれ開拓地にも製材所を作り開拓地で使う分は現地で加工するつもりなので、そうなればもう少し木材を捌ける量が増えるだろう、と期待しつつウォルフもまた作業に戻った。

 開拓地の港から少し離れたところには最初の集落を作り始めていて、井戸も掘ったのでもう少しでこちらに住み始める事が出来そうだ。
 まだ当分木は切らなくても良さそうなので引き続き築堤の監督と、上流の山間地のダム予定地の精密測量に励む。ダム予定地より少し下がったところに広大な緩速砂濾過浄水場用地も確保し、上水道の設計も本格的にし始めた。

 築堤の工事が終わればマイツェンからこちらへ移住を始め、本格的に都市の建設に取りかかる事になる。
 川港のある平地一帯は将来ウォルフの領地の中心となる都市になる。この中心都市と領内各地とは鉄道と幹線道路で結び、多くの人々はその沿線の街々から出勤してくるようになるだろう。事前に何度も検討し直した都市計画だ。まずはその実現に向け築堤と平行して下準備を始めた。
 道路用石畳の石材の手配は当面輸入でしのぐつもりだが、山地には上質な石材が採れそうな山もあるので将来的には自家製に切り替えたい。アスファルトやコンクリートは今のところ必要量が確保出来なそうなので採用を見送っている。路面電車の敷設方法は道路担当の作業員達と検討しなくてはならない。初めての事なので色々と実験もしなくてはならないだろうが、当面は必要ないだろうから用地だけ確保しておく。

 官庁予定地、市場予定地、学校予定地、商業地域、住宅地域、更には劇場や公園、スタジアム予定地まで、木を切り倒した平地に次々と杭を打ち都市の機能を割り付けていく。
 実際にこれら全てに建物が建つのはずっと先になるだろうが、この都市が多くの人口を抱える事になっても快適に人々が暮らせる事を想定して設計してある。港とそこから離れた官庁街とを結ぶ直線をまず整備して都市の機能を配置し、官庁街を中心にして螺旋状に都市が発展していくようにしているので、その時の住民の数に応じて必要な規模の街になる事だろう。

 責任が大きくなるのでプレッシャーもあるが、好き勝手に都市を設計するというのはゲームをしているみたいで楽しい。領地を作るというのも物作りの一つなんだなとウォルフは思った。




2-40    見学会



 ウォルフが開拓地に戻って一週間後、ガリアから一隻の船が到着した。
 まだ朝靄に包まれたマイツェンの港に入港してきたこの船は、食糧や物資の補給とラ・クルス領で募集した移民希望者の見学ツアー御一行様を乗せてきていた。

 ハルケギニアでは幻獣や亜人などの脅威が多いため、管理がいい加減な貴族の領地では平民の数は一定もしくは減少傾向であるが、ラ・クルスのように管理が行き届いている領地では人口増加が問題となっている。なまじ魔法があるために人々が暮らしていくのには十分以上の食料が生産されているのだ。
 基本的にこの世界の農業は村単位で行われている。土地というものは領主のものであり、灌漑や排水、耕作物決定などは村によって行うので村のものでもあり、実際に耕す耕作人のものでもあると考えられている。村人同士の平等性を確保するために耕作地は定期的に割り替えが行われ、得られる農作物は領主と村と耕作人とで分配する。
 村の耕作地は限られているために村人が一定数より増えた場合、耕作地を割り振ることが出来なくなる。そのため人口が増え、村にいられなくなった次男三男などは村を出ることになるのだが、メイジならば就職先を探す事が出来てもただの農民などは通常傭兵になるか人口が減っている領地に移動する位しか働き口が無い。しかし、都市住民の職業である商人や職人などは子供の頃からの厳しい修行が必要なので、農家の息子がおいそれと就ける職業ではない。

 今ラ・クルスではシャルルとレアンドロの推進するプロジェクトによりそこそこ働き口はあるが、近隣の領地からその仕事を求めて人々が流入してきているので競争は厳しい。しかもそんな慣れない仕事よりは農家ならやはり農業に携わりたいと思うのは人情なので、今回ウォルフが企画した無料の体験ツアーには百人以上の応募があった。募集しているのが領主の孫という安心感もあり、自分の目で見てどのような土地かを見てから決める事が出来るというのもポイントが高かった。

「はーい、皆さんお疲れ様でした、当開拓団団長のウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。この船は荷下ろししますので、皆さんはあちらに用意してあるフェリーに乗り換えて下さい。早速開拓地の視察に行きましょう」
「や、これはウォルフ様ご丁寧にどうも」
「はい、立ち止まると後がつかえますので、立ち止まらないであちらの船に乗り込んで下さーい」

 自分たちの領主の孫が自ら案内に来た事にツアー客達は驚いたようだが、挨拶もそこそこに促されて早速船を乗り換えさせられる。
 ウォルフと一緒に誘導しているのはグレースとミレーヌの姉妹だが、今回彼らを受け入れるに当たってはこの姉妹が随分と働いてくれた。宿泊場所を確保し食糧を手配して見学の細かい行程表を作り周知するという、ウォルフから見ても文句の付けようのない仕事ぶりだった。
 秘書のまねごとをしている内にどうやらちゃんと秘書として育っているらしい。

「やあやあ、まだここからも移動するのかよ。やっぱり遠いなあ」
「うーん、こう遠くちゃあ、そう頻繁には帰れねえなあ」
「開拓団ってのはそこに骨を埋めるつもりで参加するものだろう、何甘い事言ってんだ」
「やあ、ここがマイツェンか。随分と立派な防壁があるな。でも、こっちの建物は低い防壁しかないけど大丈夫なのかい?」
「おお、辺境に来たって感じだな。彼女と観光に来たってんなら楽しめるのだが」
「お前に彼女がいた事なんて無いだろう」

 やはり開拓地の遠さは評判が悪いようで、皆文句を言いながら降りてきた。しかし、さすがにテンションが高くなっているのかお喋りしている者が多く、彼らの興味はマイツェンの建物や森、乗り換えるフェリーなどに向けられる。

「はー、随分ととんがった衝角がついてるなあ。あんなのが必要な幻獣が川にいるんですか」
「いや、あれは速度を上げたときに水の抵抗が少なくなるようにあんな形になっているだけですよ」
「なるほど、速度を上げてから突き刺すわけですな」
「それは威力がありそうです」
「…まあいいや。じゃあ、全員乗ったら出発します」

 ウェーブ・ピアーサー型船形のフェリーはウォルフの前世でも最新の高速船形だったが、この地では見ただけでその効果を判断できる者はまずいない。実際時々大型のリザードの類の幻獣が突き刺さるので開拓団員にも水面下で鋭くとがった船首をただの衝角だと思っている者は多い。
 ウォルフは説明をあきらめてわいわいと好き勝手に話しているツアー客に続いてフェリーに乗り込んだ。

「ウォルフ様、準備完了いたしました。出港できます」
「ん、じゃあ早速移動しよう」

 警備隊から準備完了の知らせを受けて船長に合図する。フェリーは軽く汽笛を鳴らして動き始めた。
 警備には万全を期している。万が一にもツアー客が幻獣や亜人の脅威を感じる事がないように前日には広範囲にわたって掃討作戦を展開したし、今日のためにまもるくんも増強して配備している。

 ウォルフには農業の知識も経験も無い。窒素・燐酸・カリウムが肥料の最重要の三要素である事は知っていても、それをいつどのくらい与えればいいのかなどは全く分からない。実際を伴わない薄っぺらな知識しかないのだ。
 作物ごとの種蒔き時期、手入れ方法、肥料の種類、水の量、適した土壌など、その多くの知識は農民達の間で代々伝えられているもので、手軽に手に入れる方法などは無い。
 図書館に行けば魔法の事はある程度調べられても、農業に関する書籍などは殆ど無いのだ。農業は年単位のサイクルなので一から知識を積み重ねていくのは時間がかかりすぎる。開拓地で早い時期に農業を軌道に乗せるために農民をスカウトしてくる事は絶対に必要な事だった。
 農民以外の技術者なども欲しいには欲しいが、農具などについてはウォルフがサポート出来る事もあるし、農民は自分の事なら割と何でも自分で出来るのでまず何はともあれ農民を増やす事を目指した。


 波を蹴立てて時速四十リーグで航行するフェリーは一時間もかからずに開拓地へと到着した。
 港の周囲には既に数リーグ堤防が築かれ、その内側には無数の木材が積み上げられて出荷を待っている。木材はここで筏を組んでマイツェンまで送られ、そこで乾燥・製材を経て開拓地で使うものは加工し、大径木や木目の美しい銘木など市場価値が高そうなものは船に積んで輸出する予定だ。
 現在ハルケギニアでは風石価格の低下が空前の造船ブームを引き起こしているので、ここで採れるような大径かつ長尺な木材の需要は高い。フェリーが開拓地に到着するまでも多くの筏とすれ違った。

 港から少し離れたところでは木造の住宅が何棟も建てられて既に村の様相を呈している。堤防を作る者、家を建てる者、木材を搬出する者、皆生き生きと働いていてさぼっている者などは見あたらなかった。

「ここが、開拓地のメインの港となる予定です。ここには空港も建設して旅客をメインに取り扱います。貨物はここから東側に行った山裾と南の台地の下にそれぞれ港を作って扱う予定です」
「はあ、二ヶ月前から開拓し始めたって言ってたけど、もうこんなに出来てんですか」
「メイジが三十人以上いますし、重機、あちらの変形ゴーレム車を平民が扱う事でより効率的に開発できています。この広大な平野は殆ど農地にしますから、皆さんにはそこに種を蒔いて麦を育てて欲しいです」
「確かにこれだけ平らで広けりゃ耕すのは楽そうだな」

 ラ・クルス領は川沿いの一部の土地をのぞいては丘陵地に畑が広がっている。収穫物を村に持ち帰るだけで苦労する事もあるのでこの平らな土地はとても魅力的に思えた。
 ウォルフが先頭に立ってフェリーから下り、土を確かめて貰う。皆思い思いに土を手に取ってぎゅっと握りしめて手を離し、土の状態を確認している。何人かは土を舐めている者もいるが、好評のようだ。
 川が栄養を運び、森がそれを更に豊かにした土だ。作物を育むのに十分な栄養を持っている事が農民達にはわかった。

「これは良い土だな。麦には最適だろう」
「ブタヨケソウやネギ類もいいな。直ぐに収穫が見込めそうだ。だがカブや芋類には向かないな」
「うーん、砂がちょっと多いんじゃないか? ハシバミ草やレタスならこれでも良いかもしれないが…」
「んん? そこらへんは木を掘り返したからだろう。こっちを見てみろ、この辺全部すごく良質な腐植さ」
「おお、成る程この辺は相当深く掘り返したのか。ああ、これなら麦も大丈夫そうだな」

 ワイワイと客達が土を評価しているが、ウォルフにはなぜ麦が良いのにカブや芋がダメなのかは分からない。ちなみにブタヨケソウとはオーク鬼がその臭いを嫌うためハルケギニアの村落では一般的に栽培されている野菜だ。
 農家達の間を回りながら評価を聞いていると、沸き立つ農家達とは別に、少し渋い顔をして土をいじっている一団を見つけた。

「どうしました?」
「や、ウォルフ様。いえね、私どもはリンゴを主に栽培していた農家なのですが、ちょっとここらの土はリンゴには向かないようで…」
「そうですね、リンゴを作るにはちょっと苦みが強いです」

 不満を述べた農家に土の味を見ていた農家が同意する。ウォルフは彼らがpHの事を言っているのだと見当を付けた。
 事前に調べたところではここらの土壌pHは七にいかないくらい。ほぼ中性といったところだ。おそらくリンゴは酸性土壌を好むのだろう。

「それなら、東側の丘陵地が適しているかと思う。後で行ってみよう」
「ほう、土メイジでもない貴族様が土の事をお分かりになるので?」
「多分だけどね。リンゴはこの領の主力産品の一つにしたいと思っているから、是非確認して欲しいよ」
「主力産品てウォルフ様、こういう事はあんま言いたくねえけど、もう少し勉強した方が良いんじゃ…」
「バカ、ディノ何失礼な事言ってんだ!」

 ウォルフに対して直言してきた者を他の者が咎めるがウォルフはそんな事は気にしない。

「いや、別にかまわない。勉強した方が良いって、何を? 土の事?」
「こんな辺境でリンゴを主力産品にするって事ですよ。長い距離を輸送してたら値段が高くなって売れねえし、そもそも日数かけてたら傷んじまう。ここでリンゴを作るって事はここで消費するしかねえって事だよ」
「ああ、その事。それなら考えているから大丈夫。低コストで新鮮なまま保存する方法を開発したから収穫期とは少し時期をずらして販売するつもりなんだ。それなら多少高くても売れるだろ?」
「はあ?」

 事も無げに言われて絶句するがそれも無理はない。食物の長期保存をする場合、この世界ではメイジが『固定化』の魔法を掛け、食べる前にそれを解いて供するのが普通だ。全く劣化せずに保存できるので便利だが、メイジが二度関わるためにそのコストは高くなる。それに対してウォルフが開発したのはコンプレッサー式の冷蔵庫とその庫内の空気の成分を調整してリンゴの鮮度を保つという保存法だ。
 元は製鉄用の酸素やアルゴンを分溜する過程で出る二酸化炭素の有効活用を模索する内に開発した技術だが、ウォルフの試算では規模が大きくなれば保存のコストは『固定化』の魔法を使った場合よりも十分の一以下になると出ている。さらに『ライト』の魔法により近赤外線を照射することで糖度を測定し、特に糖度の高い物をブランド化して高価格で販売する計画もあるのでこの辺境の地からの輸送費を計算に入れても十分に商売として成り立つと目論んでいた。

 ウォルフが詳しく計画を説明していくとポカンと口を開けて聞いていたリンゴ農家達は真剣な眼をして聞き始めた。農家が続けられるのなら、位の気持ちで応募した今回の視察旅行である。将来の具体的な販売戦略まで聞かされて俄然その気になってきた。

「ですので皆さんに栽培して欲しいのは甘く、芳醇で香り高く、美しいリンゴです。多少手はかかってもそれに見合う対価を得られるようにしてほしい」
「ジャムやシードルにしかならないようなリンゴは作らなくて良いって事ですか。ここの気候はどうなんですか?」
「春から夏までの気温はリンゴの著名な産地であるラ・ロワールとほぼ一緒らしい。冬は少し寒くなるみたいだけど、リンゴの木が育たないという程ではないって」
「ほほーう」

 気温などはマイツェンでの話だが、ほぼ変わらないだろう。リンゴは耐寒性が高いので多少気温が低いくらいなら問題はない。リンゴの名産地と気候が近いと聞いてとたんにリンゴ農家達はそわそわし始める。一刻も早くウォルフがリンゴ栽培に適していると言う丘陵地へと行ってみたいのだ。

 この後また船に乗り込んで件の丘陵地へと移動したが、その土質はウォルフの見立て通りリンゴ栽培に適していると農民達から太鼓判を押して貰う事が出来た。ここら辺はまだ切り倒した木々が搬出されていないのであまり詳しくは回れなかったが、村の建設場所や更に奥地の林・鉱業地域などをざっと案内するともう農民達はここでの暮らしを具体的に考え始める程だった。

「ウォルフ様、いつくらいからこっちに住めるんだかね、まず何はともあれ苗木の植え付けをしたいんだが」
「あー、植え付けの時期っていつなのかな、見ての通りこっちの方はちょっと開拓が遅れ気味なんだけど」
「今くらいから夏前までだな、本当は秋の内に植える方が良いんだけど」
「秋の内ってのは無理だなあ」

 どうも何人かは親から独立してどこかの領地でリンゴ農家を始めるつもりだったらしく、もう自分の苗木を用意しているそうだ。彼らには春までにこの地に村を整備する事を約束し、移住の確約を取り付ける事に成功した。
 そうするとそこからはもうとんとん拍子に話が進み、リンゴ農家の多くは移民を約束してくれ、彼らに引っ張られるように普通の農家達も移民を真剣に検討し始めた。この丘陵地にはあまり人が入っていなかったせいかワイバーンが飛来するというハプニングがあったのだが、周囲に設置したまもるくんが何でもない事のように撃退したのも髙ポイントだ。



 この日マイツェンに帰った一行は広場での焼き肉パーティーの歓待を受け、秋も深まった辺境の地の夜を存分に楽しんだ。
 肉を食べワインを飲みダンスを踊る。広場の中央には煌々と篝火が焚かれ、季節外れの祭りのような夜にテンションは上がる。意外に開拓団参加を申し出てくれた人が多かったためウォルフもついつい羽目を外し、勧められるままワインを口にして大いに酔っぱらった。

「さあさあ、どうぞウォルフ様もう一杯。ラ・クルスの男たる者この程度のワインは水と一緒ですぞ」
「あっはっは、ラ・クルス育ちじゃないんだけど。しかし、この水は久々に飲んだけど美味いな!」
「さすがはエルビラ様の息子様です。あの方はワインなど火の魔法の元だと仰っていました」
「母さんの魔法の元になるにはワインじゃあアルコール度が低すぎっぽいな。てか母さんって平民達と酒飲んだりしてたの?」
「村々を回って野盗などをよく殲滅して下さってくれていましたから、慰労の宴などはよく開かれていましたよ」
「へえー、知らなかった。でもそういうの好きそうだよね」

 討伐ではなく殲滅なのがエルビラらしいが、相変わらず彼女はラ・クルスの領民達に愛されている。ウォルフは移住確約組に囲まれ、気分良く杯を重ねていた。ちょっと酔っぱらう事を懸念してはいたが、後で魔法を使って酔いを醒まそうと思っているので気楽なものだ。

「くそうっ、ド・モルガン男爵めえ! 俺たちのエルビラ様を返せー!」
「そうだ、返せー! お前にはもったいなさ過ぎるだろー!」
「あの、その人一応オレの父さんなんですけど」
「わはははは」

 もうみんな無礼講で飛ばしまくっている。エルビラがガリアにいたのはここにいる者達がまだ子供だった頃のはずなのだが、関係ないらしい。ウォルフも酒宴は久しぶり、っていうかこの人生では初めてだがとても楽しい。酔っぱらう男達と一緒に気持ちよく酒に酔った。
 そんな中、ウォルフの正面で良い感じで酔っぱらっていた青年が、ふと、まじめな顔をしてウォルフに語りかけた。

「ウォルフ様、この開拓団の問題点を見つけましたぞ!」
「何、問題点と? それは今すぐ教えて貰いたいものだ、さあ言え」
「ではこのペドロ、皆を代表してお伝えいたしましょう! この開拓団最大の問題点、それは…!」
「それは?」
「女の子が少ない事です! うおぉおー、出会いが無えよぉー!」
「そうだそうだー! 畑なんかどうでも良いから、オラの嫁を用意してくれー!」
「うおー!、その通りだー! 青年団とか言ってる内に三十超えちまったぞ、兄貴には今度孫が出来るって言うのに!」
「おしりのおっきな女の子が好きです!」
「に、二の腕、二の腕の弾力!」
「ばいんぼいん!」
 
 農村の青年達の魂の叫び。それはウォルフの魂にも直接響き、激しく揺さぶった。
 まだ九歳でしかないウォルフの胸に、独身男達の悲哀がこれほどまでに深く染み入るのは何故だろうか。輪廻転生の不思議を久しぶりに実感しつつウォルフは腰を上げた。

「二年だ」

 ゆらりと立ち上がったウォルフが告げる。誰もその言葉の意味が分からずに顔を見合わせている。

「…ウォルフ様?」

 ぐいっとコップを掴むと、残っていたワインを一気に飲み干した。
  
「っぷぅ…正直な話、今現在ハルケギニアの何処に行こうとも、ここに嫁入りしてくれる若い娘さんなどいないだろう」
「う……」
「それはそうだ。目に見えない農地なんて無いのと一緒だ。成功してみせるまで、この森が豊かな農地に変わるなんて誰も信じてくれない」

 とぷとぷと新たなワインをグラスに注ぐ。

「お、俺はウォルフ様の言葉を信じてますぜ、こんな森なんて切り開けるって」
「ありがとう。でも、分かるだろ? 女ってのは自分の常識からは決してはみ出そうとしないものなんだ」

 冷徹な言葉に、盛り上がってた座は一気に静かになった。実際見学者の中には既婚者もいたが、ここまで来ているのは全員男だし移住を確約したのも独身者だけだ。

「男だけの集団に未来など無い。やがて老いて消滅するだけだ」

 ぐすっと鼻をすすり上げる音が時折響く中、ウォルフはクイッとグラスを傾け、朗々と声を張り上げた。

「だがな……オレは楽観している。この、開拓団の未来を」

 力強く宣言するウォルフに下を向いていた者達が顔を上げる。

「オレは挑戦する! たとえ、不可能と言われようと。女達には見えない道が、男には見えるってことを教えてやる!」

 ウォルフを見詰める男達一人一人の目を見詰め返し、続ける。
 
「願わくば、オレと共に挑戦して欲しい。この、地獄とも呼ばれた森を、実り豊かな大地と変える事に!」

 ウォルフの言葉が農民達の胸を打つ。農民にとって挑戦という言葉は自分たちとは関係のない、物語の世界の中の言葉だ。

「二年だ! 二年間歯を食いしばってこのくそったれな森を切り開けば、お前達はガリアでは決して得る事が出来ない程広大な耕作地をその手にする事が出来るだろう! その時!」

 もうウォルフは絶好調だ。『レビテーション』で軽く体を浮かせて周囲を睥睨し、拳を振り上げるとそこにいる全ての人に自分の声を届かせた。

「お前達は、お前達の女に自分の未来を示す事が出来るんだ!」

「うおおおお! やってやんよー!」
「待ってろオレの女ー!」
「決して自分に限界を設けるな! 出来ない事なんて無い! そんなのはやる気が無いやつの言い訳だ! 飛ぼうとさえ思えば、人は何処までだって飛べるんだ!」
「うおお! やってやるよおおお!! おれはガンダーラにだって行ってやるぜえええっ!」
「ここが俺たちのガンダーラなんだ! 俺はウォルフ様と一緒にここをガンダーラにするんだ」
「ガンダーラ!」

 一瞬の沈黙の後、ウォルフの檄に応じて次々に男達が叫ぶ。
 やがて誰かがギターの演奏を始め、広場はここ数年ハルケギニアで大流行している曲・ガンダーラの大合唱となった。この世界のどこかにあるという理想郷ガンダーラの歌に宴はますます盛り上がり、ウォルフはその真ん中で酔い潰れるまで気勢を上げた。



 夜通し続いた喧噪の片隅で、酔いつぶれたウォルフが毛布にくるまって丸くなっている。
 人々は皆時折思い出したようにその下を訪れ、杯を捧げてはまた喧噪の中に戻る。皆、その寝顔に輝かしい未来を夢見ているようだった。 



 この日以降、度々移住希望者達が開拓地を見学に来るようになった。ウォルフが開拓を続けながらハルケギニア中を飛び回り、各地の領主と交渉を重ねた結果だ。ハルケギニアには農奴制はほとんど残っていないが、余計な軋轢を避けるため一応ちゃんと領主には気を使った。
 見学者はガリアとアルビオンの人間が殆どで、トリステイン、ゲルマニア、ロマリアの人間はほぼいなかった。トリステインでは領主に伝手がないので交渉するまでにも至らず、ゲルマニアは相対的に人が少ないため領主が募集をいやがった。父方の親戚が何軒かトリステイン北部に残っていたので一応手紙で打診して見たのだが、ガンダーラ商会の親戚とは周囲に知られたくないので訪ねてきたりはしないように、との丁寧な返事をいただいた。ロマリアは街に沢山難民がいるそうので当初大量に移民を連れ帰られるのではと期待したが、カルロ達ロマリア出身の者に話を聞くと、難民生活を長く続け施しを受けて暮らす事に慣れきった人々は労働意欲が低く勧められないとの事で諦めた。
 前記の二カ国出身者の見学会では、多くの見学者が移住を約束してくれたときもあれば殆どゼロの時もあったが、ウォルフの開拓団は確実にその人数を増やしていった。

 積極的な勧誘活動によってウォルフ・ライエ・ド・モルガンの名前がハルケギニアの貴族、平民達の間で噂に上がるようになってしまったが、ウォルフはそれでもかまわなかった。
 商会という不安定な立場ではなく、領主という安定した立場を得るためには避けられないという事だ。風石の事などでやりすぎた感があるので、早晩似たような状況にはなるだろうという判断も有っての事だ。

 ガンダーラ商会がゲルマニアで東方開拓をしているという噂が広がるにつれ、見学希望者とは別にいきなり移住を希望してくる者もあった。住んでいた領地の税が厳し過ぎたり、不作だったりして食い詰めた難民達だ。
 これまでのハルケギニアではロマリアへと向かっていたそれらの難民達が、その噂を頼ってサウスゴータやボルクリンゲンの商館を訪れるようになったのだ。殆ど着の身着のままのそれらの人々をウォルフは無条件で受け入れ、開拓地へと送った。
 彼らが口々に歌うのはガンダーラの歌。ハルケギニアで流行する歌そのままに、彼らはウォルフの開拓団こそ愛の国・ガンダーラを実現すると信じていた。

 ガンダーラ商会が直接関与しているわけではないが、ウォルフの開拓団はいつのまにかガンダーラ開拓団と呼ばれるようになっていった。





[33077] 幕間5
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/17 02:46

幕間5   キュルケの復讐-1 謎の神官



 東方開拓団に潜入したモレノとセルジョがようやくその彼らの主との連絡を取る事に成功したのは、開拓が始まって二ヶ月近く経ってからだった。
 その間ロマリアとの間で連絡を取ろうとしたフクロウなどの連絡用の鳥はことごとく途中の森で命を落とした。道中で事故に遭っている事に気付いたモレノが使い魔を召喚して直接高々度を維持して飛行するように指示してようやく連絡を取れたのだ。
 モレノが召喚した使い魔は四つ羽の烏で、以前使い魔にしていたものと同じ種類の幻獣だ。実は前任の使い魔もここに来てそうそうマンティコアの餌となって命を落としているので、警戒に警戒を重ねて森を越える任務に就かせた。

 何度か使い魔を行き来させて現状の報告と今後の指示を受け、辺境の森の危険性を伝える事が出来てからは定期的な連絡が取れるようになった。

 モレノ達は遂に気づかなかったがその使い魔はさらに高々度を飛ぶモーターグライダーによって追尾され、ロマリアの下町にある連絡用拠点の場所はツェルプストーの知るところとなった。
 その拠点で容疑者であるヴァレンティーニも確認できたので、これ以降ツェルプストーの調査はその拠点の人員・活動の解明へと注力される事になっている。

 もう一組の諜報員であるクラウディオとルシオの方はもう少し早くから連絡を取り合っていた事が判明している。近隣の街ドルスキに諜報員が常駐していて週に一度の開拓団の休暇にあわせてクラウディオかルシオのどちらかが直接接触しているようだ。
 ツェルプストーによってその実態がすぐに明らかにされ、彼らを送り込んできたのがオルレアンだという事までウォルフにも報告されたが、こちらはキュルケの事件とは関係がなさそうという事から監視だけであとは放置している。



 自分たちが諜報員である事をウォルフが気付いているとは全く思いもせず、彼らは概ね平和に日々を過ごしていた。

「セルジョさん、お帰りなさい。今日も大猟ですね」
「あ、ああ、グレースちゃんただいま。まあ、小型の幻獣ばかりだからな、大したことねえよ」
「セルジョさん達が幻獣と戦ってくれるから私たちは安心して暮らせるんです。ありがとうございます」

 この日早番だったセルジョがマイツェンの川港で仕事中にしとめた幻獣の死体を小舟から下ろしていると、グレースがやってきて声を掛けた。グレースは加工や貯蔵の采配もしていて、後ろには幻獣を解体する一次加工担当の者を連れてきている。
 開拓の最前線ではエルラドをかいくぐって襲いかかってくる幻獣もいる。主に中小型の肉食系幻獣ではあるがそれを倒し開拓団員達の安全を守るのがモレノ達の仕事だ。
 今日も仕事として駆除を行ったのであるが、グレース達開拓団員達にはいつも感謝の言葉を述べられる。それがロマリアの間諜であるセルジョにはこそばゆかった。

 物心ついた頃からロマリアの間諜としての訓練を受け、ロマリアのためにずっと働いてきた。そんな彼らが周囲から受ける視線は常に変わらない。ロマリアの孤児院にいた頃も、仕事に就いてからも、彼らを見る人々の視線は常に蔑んだり卑しんだりするものだった。
 諜報員として各国に潜入し娼館の用心棒や傭兵などをしているときも、本国に帰ってきても、彼らに感謝などを示す人間など会った事はなかった。

「お疲れ様でしたー」 

 どうにも居心地の悪さを感じ、ほかの隊員に声を掛けているグレースに背を向けて宿舎の方に歩き出す。その背中にグレースからまた声がかかったが、軽く手を挙げて応えたセルジョは振り向きもせずそそくさと自分の部屋へと帰るのだった。



「なあ、俺たちいつまでここにいるんだ?」
「なんだ、唐突に。そんなの俺が分かるはず無いだろう、ヴァレンティーニ様に聞け」
「だってよう、ここに秘密なんてもう無いじゃないか。小僧の部屋にだって侵入して調べたし、あそこにある何かよくわかんねえ設計図とエルラドやまもるくんを何基かかっぱらって逃げちまえばいいんじゃないか?」
「それを判断するのは俺たちじゃねえよ。何言ってんだ」
「…なんか調子が狂うんだよ、ここにいると」

 夕食後、モレノとセルジョはたばこを吸うという名目で外に出て、誰もいない広場で話をしていた。抜かりなく周囲の気配を魔法で探ってはいるが、勿論この会話の内容もウォルフによって録音されている。

「やっと慣れてきた頃じゃねえか。最近はミレーヌたんも挨拶してくれるようになったし俺はもう少しここにいたいぞ」
「ミレーヌたんって何だよ、お前マジであの姉妹狙ってるんじゃないだろうな」

 ふざけた調子で返すモレノに何故か苛立つ。モレノは埋蔵金の事を諦めていないようで、ずっと姉妹の懐柔は続けているようだ。初対面の印象が悪かったので最近になってようやく普通に応対してもらえるようになったところだ。

「俺のミレーヌたんに対する気持ちはそういうのとは違うんだよ。ミレーヌたんマジ天使」

 ただ、普通に接してもらえるようになってからモレノの様子が段々変になってきたのがセルジョには気がかりだ。

「…やっぱりもう撤収すべき時期みたいだな」
「おいおい冗談だよ、冗談。何本気にしてんだ」
「お前いつも何かとあの姉妹の事を見ているし、客観的に見るとかなり不審者だぜ。道を踏み外す前に撤収した方がお前のためにもなるだろう」
「例の件が気になってるだけだっつの。笑うと可愛いんだよなあ…俺も早く結婚するべきかな、あんな娘にパパとか呼ばれたら最高だよな」
「俺らが結婚とか、無えよ。やっぱ、撤収だな」
「無えって、こたあ、無えだろう…いや、マジな話真相がまだ判明していないんだから調査終了って訳にはいかないぜ?」
「ちっ」

 二人ともそれなりに優秀な諜報員で、現在この開拓団で彼らの調査が入っていないのは他の宿舎から少し離れたところに建つ女子宿舎だけだ。この棟だけは独立してまもるくんに守られているので男性は全く立ち入る事が出来ない。潜入を試みて警備の穴を捜してみたが、穴は見つけられなかった。
 実はこの二人がこの広場で進入経路を検討する度にウォルフがそれを参考にして警備を厳しくしていったのだが、勿論この二人にそんな事が分かるはずも無い。
 姉妹の私物に何か手がかりがあるかも、というのが現在モレノが主張している事だが宿舎に潜入できないのならばどうしようもない。

「何いらいらしてんだ? 最初はどうなる事かと思ったが、条件の良い潜入先じゃないか。飯は悪くないし、仕事もそれほどきつくない。返り血で汚れても毎日風呂に入れるし、汚れた服も翌日には綺麗に洗濯されて返ってくる。週に一度の休日に町に行けば女も買えるし、何が不満だってんだ」
「もういい。お前には分からないんだな」

 苛立たしげにタバコを消すとセルジョは踵を返して一人先に部屋へと戻った。



 モレノ達が調査に行き詰まっているのと同様に、開拓地から遠く離れたハルケギニア南方の地ロマリアに潜入したツェルプストーの諜報部隊もその捜査に行き詰まっていた。

「ダメです、今日も空振りです」
「…用心深い奴め。もう二週間も追っているというのに一向に尻尾を掴ません」

 もう何度目になるか分からない首を振る部下の姿に、部隊の隊長であるライムント・フォン・ラテニッツは溜息を漏らした。敵の連絡拠点であると思われるロマリアの下町にある建物を特定するまでは上手くいった。しかしそこから先の捜査が一向に進まない。
 その拠点に来るのは毎日一人か二人、念の入った事に全て『遍在』の魔法で創られた分身だった。
 毎日どこからとも無く出勤してきて建物に入り、そこから出てくる事はない。室内で消えているのだろう。遍在と本体との間のつながりをたどろうとしても、その建物が魔法的に防御されているらしく全く探知できない。
 教会が関与している疑いが濃厚なので「タウベ」と呼ばれている鳩形のガーゴイルをロマリアに多くいる鳩の群れに潜り込ませ、有力な神官を見張らせているがこちらも一向に成果は上がっていない。

 潜伏しているアパルトメントの直ぐ先をヴァレンティーニが堂々と顔をさらして歩いている。毎日それをなすすべ無く見送るしかなかった。

「正直手詰まりです。あの建物に強襲をかけて何か手がかりがないか賭けてみるしかないのでは?」
「あそこは敵がたどり着く可能性があるものと想定している。これほど用心深い奴らだ、万が一にも手がかりを残す事など無いだろうよ」
「出勤途中に接触して何とか本体を探知する時間を稼ぐというのはどうでしょう」
「…その方向で考えている。先週ヒルデガルトをヴィンドボナから送り込んでくれるように連絡してあるが、現在付いている任務を抜けるのに少し時間がかかるらしい」

 ヒルデガルトはハニートラップ専門の諜報員だ。相手が遍在である以上強硬手段は執れないので、なんとか柔らかい手段で手がかりを得ようと言うわけだ。
 まさかハニートラップにかかるとは思っていないが、五分程足止めするだけで良いのだ。それだけの時間があれば遍在から繋がっている魔力のラインをとらえて本体のいる場所への方角が分かる。たとえ確率が低いとしても今はそれしか思いつく方法がなかった。



「どうも困っているようですね」
「っ!!」

 突然誰もいなかったはずの部屋のすみから掛けられた声に、室内にいた五人が一斉に身構えた。振り返ったその先には大きな古くさい鏡があるだけだったはずだが、その鏡の前にはいつの間にか見知らぬ男が立っていた。
 このアパルトメントの一室はロマリアにいるツェルプストーの協力者を介して借り上げたもので、抜け穴などは一切無い。魔法で徹底的に調べてから拠点にしている事もあり、唐突に現れた部外者の姿に部隊は緊張に包まれた。

「ああ、そんなに身構えないで下さい。私は敵では無いのですから。ヴァレンティーニを追っているのでしょう?」
「…不法侵入してきた人間を警戒するなと言っても無理な話だろう」

 ライムントは杖を構え、最大限の警戒を持って侵入者に対峙する。彼の左右に部下が展開し、いつでも戦闘に入れる状態を整えた。

「おやおや、不法侵入というのならばあなた達こそでしょう。コンラート商会には入国の許可を出していますが、ツェルプストーの諜報部隊がこの国で活動する事は許可されていないはずです。ここはロマリアですよ?」
「…全部お見通しって訳か。何者だ?」

 少し冷静さを取り戻したライムントは油断無く杖を構えながら侵入者に問いただした。侵入者は神官服を身にまとい、まだどこか幼さを残したその顔は絶世と言って良い美貌だ。
 謎の神官は手練れのメイジ五人に杖を突きつけられているというのに一向に緊張している風はなく、むしろ涼しげにそこに佇んでいた。

「私が何者であるのか、ということはこの際関係無い事です。あなた方が知りたいのはヴァレンティーニと彼のボスであるエウスタキオ枢機卿についての情報ではないのですか?」
「エウスタキオ枢機卿だと? 次期教皇に最も近いと言われている保守派の重鎮がこの事件の黒幕だって言うのか」

 確かにその名前はブルキエッラーロ司教の証言にも出ていたので監視対象になってはいるが、これまで全く疑わしいところはなかった。証言の信憑性が低い事もあり、ツェルプストー内では捜査の重要度が下がっている人物だ。

「残念ながら。枢機卿とも有ろう立場の方がそんなことをしているとは有ってはならない事ですが、彼のいつもの手段なのです。自身の都合で罪を犯し、政敵にその罪を被せる。これまで彼に葬り去られた人は十人を超えるでしょうか、彼が疑われた事すら一度もありません。その陰謀の中心にいつもいるのがヴァレンティーニだというわけです」
「なるほど、今回はブルキエッラーロ司教が罪を被せられたという訳か。それなら筋が通るかもしれないが、お前がエウスタキオ枢機卿を貶めようと工作している可能性は無視できないな。誠実で温厚という評判の枢機卿と正体不明の神官とでどちらの言葉を信用できるのかは自明な事だ」
「ふふふ、私の言葉が正しいのかどうか、確かめるのはあなた達の任務でしょう。これを……」

 謎の神官はゆっくりと懐から紙を取り出すとライムントに差し出した。渡されたその紙を開いてみると、そこには大聖堂にもほど近いロマリアの宗教庁の建物とその周辺の詳しい地図が記されていて、なにやらいろいろと書き込みがしてあった。

「…これは?」
「エウスタキオ枢機卿は日頃その西館で執務を執っています。この一階から三階が彼の私室になっていますが、この地下からさらに西側に秘密通路が延びていて、この建物に繋がっています」

 地図の上の印を指さす。そこは宗教庁の裏手、城壁を挟んだ先の下町で、三階建てから五階建てくらいの建物が密集している街区だった。

「一見するとここと同じようなただのアパルトメントですが、そこにヴァレンティーニはいます」

 ごくり、と誰かの喉が鳴った。
 正体不明の人物からもたらされた情報ではあるが、現在何も情報がない彼らにとってそれは天からの恵みのように思えた。

「エウスタキオ枢機卿の狙いをお前は知っているのか? 彼はツェルプストーで何をしようとした?」
「我々がずっと探しているものがそこにあるのかと勘違いした、とだけ言っておきましょうか。ブルキエッラーロ司教はスケープゴートとして都合の良い立場だった」
「勘違い、という事は今はもうツェルプストーには興味を失っていると思って良いのか?」
「そうですね。今はガンダーラ商会に関心を寄せているようです」

 あくまで涼しげに、まるで見てきたかのようにこの神官は話す。その美貌に微笑みが絶える事はない。

「お前は彼の枢機卿の事を色々知っているようだな。何故それを宗教庁上層部に訴え出ない?」 
「彼は司教枢機卿です。ハルケギニアの何処にも司教枢機卿を裁ける法など存在しないのですよ」

 司教枢機卿とはブリミル教において教皇に次ぐ地位であり、教皇の選出はハルケギニアの枢機卿全員が集まって開かれる枢機卿会議において行われる。教皇の選出という教会で最も重要な意志決定を担うため、いかなる勢力からもその独立性を担保する必要があり、その会議において重要な役割を担う司教枢機卿は全ての国で不逮捕特権が認められているし訴追を受ける事もない。
 その司教枢機卿の罷免は唯一枢機卿会議においてのみ決定する事が出来るが、現在枢機卿達の中で最大の勢力であるエウスタキオ枢機卿が罷免されるという事は事実上あり得ない事だ。

「彼が枢機卿である事に神の意志が介在するのなら、彼がしてきた事も神が必要とした事なのでしょう。しかしそうでないのなら彼は神の名を騙るただの罪人という事になります。娘を燃やされた親ならば神にエウスタキオ枢機卿の正統性について問えるのではないかと考えました」

 枢機卿のことを神の名を騙る罪人だなどと、ブリミル教徒であればとても口には出来ないような事を話しながら、その顔が微笑みを絶やす事はない。
 ゴクリとまた誰かの喉が鳴った。自分たちが枢機卿に手をかけるという恐ろしい未来を想像したようだ。

「…神がそんな間違いを起こすなどと、ロマリアの神官が言うとはな…お前の考えは異端なのではないか?」
「誤解なさらぬように。神は間違いなど起こしません、ただ、我々を試す事があるだけです。ブリミル様にエルフという試練を与えたように、我々は常に神に試されているのです。神の試練を乗り越えるためには常に心に神を思い、神と対話する事が必要です」
「…」
「『ブリミル様に感謝を、そして心に神様を』ブリミル教徒であればどんな幼子でも知っているこの言葉の本当の意味を知って下さい。大丈夫、我々を試す厳格なる神は、我々に慈愛をもたらす優しき神でもあるのです。あなた方が心に神を宿すとき、神は必ず答えを下さります」
「…」
「あなた方が神にどのように問い、神がどのように答えて下さるか、私は見守りたいと思います」

 謎の神官はゆっくりと、歌うように、詩を詠むように言葉を紡ぐ。諜報員達を見回し、誰も答えるものが居なくなった事を確認するともう話は終わったというように背中を向ける。

「ああ、そうそう、一つ忠告を」

 思い出した、という風にこちらを振り返り、寒気がする程清冽な微笑みをその美貌に浮かべた。

「ここはロマリア、神の法と理が支配する都。神の道を踏み外したものには破滅が待っています。あなた達がその道から外れる事の無いように祈っています」

 また後ろを向き、そのまま何事でもないように鏡の中へと足を踏み入れる。呆然と見送るライムント達の前でたちまちの内に姿を消し、僅かに光った後その鏡はまた何処にでも有る普通の鏡となった。





「一体何なんだ、あの魔法は。あんな魔法聞いた事無いぞ」
「あれが虚無魔法なのか? ロマリアには虚無が伝わっているのか?」
「いや、離れたところを行き来できるマジックアイテムは有ると聞いた事があるぞ」
「俺らにどうしろって言ってんだ。枢機卿に手を出せと言ってみたり神の道を外れるなと言ってみたり」
「枢機卿に手なんて出せないだろう。下手しなくても異端認定されちまうぞ」
「異端認定どころじゃない。悪魔認定だな」

 神官が姿を消すと残された諜報部隊員達は思い出したように騒ぎ出した。
 各々が勝手に口を開き、与えられた情報を消化できていない事が丸わかりだ。しかし、そんな中でもさすがに隊長のライムントは冷静だった。丹念に神官が消えた鏡を調べ、騒ぐ部下に指示を出す。

「落ち着け。まずは本部に連絡だ。現状報告と今見た魔法についての問い合わせ、それからお前とお前は示されたアパルトメントについての下調べに向かえ。気取られるなよ、罠の可能性もあるぞ」
「はっ」「た、直ちに」

 一喝されて隊員達は冷静さを幾分取り戻し、指示を受けたものは早速その指示に従って行動を開始する。しかし指示されず残った者はまだ不安そうだ。まだ鏡を調べながら考え込んでいるライムントに恐る恐る尋ねた。

「あの、隊長、本当に枢機卿に手を出すんですか?」
「そんな事は知らん。俺たちの任務は事実を調べる事だ。殺人・強盗・強姦・誘拐・人身売買と領内で好き勝手に犯罪行為を犯してきた山賊を討伐に向かった領主軍に襲撃を掛けた犯人を捜して居るんだ」
「それが、枢機卿だった場合…本当に…」
「今は考えるな。領主による領地の統治というのはブリミル様の信託を根拠として行われている。領主軍を襲撃する正当性など教会であろうと有るはずはない」
「…」

 いくら言葉を重ねても、隊員達の反応は鈍い。ハルケギニアで暮らすブリミル教徒にとって、枢機卿と敵対するかもしれないという恐怖は中々拭い去れないようだった。
 勿論ライムントにもその恐怖は理解できるが、彼の場合それよりも枢機卿という立場の人間が襲撃の黒幕であるかもしれないという事に対する怒りの方が大きい。この辺は諜報部隊の隊長として長く活動してきて、腐敗した神官という存在を数多く目の当たりにしてきた経験が関係しているのかもしれない。
 ライムントが隊員達には分からないように溜息をついていると、そこに別室で本部との連絡を取っていた隊員が戻ってきた。

「報告します。やはり本部の指示も当該アパルトメントを重点的に捜査せよとの事です。ヒルデガルトはやはりまだ時間がかかるそうですが、こちらはもう必要ないかもしれないですね」
「うむ、鏡を調べてみたが、魔法の痕跡はあったがその実態は何も分からなかった。誰か知っている者はいたか?」
「いえ。しかし、こちらに魔法具技師を派遣して下さるそうで、エウスタキオ枢機卿の身辺や政治状況と併せて魔法について向こうでも調べるそうです」
「こちらはアパルトメントに集中すればいいわけだな。以上か?」
「あ、いえ、その」

 何故か言い淀む。ライムントは首をかしげて部下が口を開くのを待った。

「キュルケ様がこちらに向かっているそうです。表向きはただの観光旅行だそうですが、そんなはずは無いだろうとの事でして、ターゲットに勝手に接触されたりしないように注意を払えとの事です」
「うお、痺れを切らしたか。くっ、そっちの対応がまた大変そうだな」

 ここのところ日に何度もキュルケから捜査の進捗状況の問い合わせが来ていたみたいだが、遂に待ちきれなくなったらしい。
 せっかくの極秘調査も素人に引っかき回されては台無しになってしまうかもしれない。ライムントはまた新たに増えた問題を前に、盛大に溜息をつくのだった。




幕間5   キュルケの復讐-2 ツェルプストーの血



 キュルケがロマリアに到着したのは連絡があったその日の夜だった。
 都市国家ロマリアの一番外側の城壁、そのさらに外に設けられた竜駅に自分と護衛達のモーグラを預け、竜駅からほど近い、大聖堂からは少し離れた所に建つホテルにチェックインして潜入捜査中の諜報部隊の長ライムントの訪問を出迎えた。

「これはキュルケ様、お早いお着きで。背後関係が明らかになるまではゲルマニアで待機して下さいとお願いしたはずですが、これはどういう事ですかな」
「全然進展がないみたいだし、ちょっと観光がてら様子を見に来ただけよ。心配しなくてもあなた達の捜査の邪魔なんてしないから安心してちょうだい」

 貴族向けのホテルの一室で豪華なソファーに身を沈めたキュルケが座ったまま手をひらひらと振る。すぐに興味が無さそうに視線を外し、テーブルの上の夜食代わりのクッキーをつまむ。
 キュルケのすぐ後ろでは護衛に付いてきたバルバストルやリアがライムントに申し訳なさそうな顔をしていた。

「ほう、それではキュルケ様は一体何をしにこんなところまで?」
「だから今言ったでしょう、ただの観光よ、観光。それよりちょっと進展があったんだって?」

 こちらが迷惑に思っている事を分かりながら、そんなことには全く頓着しないキュルケに溜息をつきながら答える。

「…ええ、情報提供者が現れまして、現在その情報を精査中です」
「どういった内容?」
「それはまだ。確認が取れた段階で報告します」
「ふーん……ライムントはその情報にどの程度の確度があると思っているの?」
「分かりません。予断を挟めるような情報ではございませんので、とにかく正確な情報を集めています」
「ふうん」

 キュルケがまたクッキーをつまむ。その様子は全く興味が無さそうなのだが、ライムントにはその目が妖しく光ったように見えた。

「キュルケ様、くれぐれも、くれぐれもご自分で捜査しようなどとは思わないで下さい。せっかく掴んだ細い糸なのです。これを逃すわけにはいきません」
「分かってるって。ところで、ウォルフの情報から割り出したって言う、”遍在の巣”っていうのはどこらへんにあるの?」
「……キュルケ様」
「だ、だって知らないで近づいちゃったら困るじゃない。邪魔しないために聞いてるのよ?」

 キュルケがロマリア観光用の地図を広げて尋ねる。一応もっともらしい事は言っているが、とても信用できない。
 しかし、実際ふらふらと近づかれても困るので、渋々とその地図上を指さしてキュルケとバルバストルに注意する。

「ここが辺境開拓団に潜入している密偵の使い魔を追跡して割り出した敵のアジトです。こちらとこちらの聖堂はブルキエッラーロ司教の属していた派閥のもので現在監視中ですのでこちらにも近づかないように。それから」

 大聖堂の近く、いくつもある宗教庁の建物の一つの裏手、その周辺をぐるりと指で囲む。

「このあたりは現在最重要の監視対象になりますから絶対に近づかないようにお願いします」
「分かったわ。それらに近づかなければいいのね?」
「あと我々の拠点にも近づかないでいただきたい。あなた様の来訪はもうあちらにもばれているでしょうからな」
「はいはい、近づいたりはしませんよー、と」

 ライムントが念を押すようにキュルケの顔をのぞき込むが、当のキュルケはそっぽを向いてまだ短い髪の毛をいじっている。

「ふー、まあ今日はもう良いでしょう。おいバルバストル、空いてるベッドは有るか?」
「あ、はあ」
「え、ちょっと何あなたこっちに来る気? 部隊の方はどうするのよ」
「おや、何か困る事でもおありで? ご心配なく、こちらの体はただの『遍在』ですから」
「……同じ顔の人間が二カ所にいるなんてロマリアの諜報機関の警戒を呼んじゃうんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。本体の方はロマリアに入るときからずっと『フェイス・チェンジ』で顔を変えていますから」
「……風メイジって本当ずるっこってかんじよね。今日は疲れたからもう寝るわ。明日は昼前くらいに出かけて、どこかおいしいロマリア料理の店でお昼にしたいから案内よろしくね」

 キュルケは手をはたくと立ち上がってさっさと自分の部屋へ引っ込む。貴族が好むようなレベルのおいしいロマリア料理の店などライムントは知らない。溜息をつきながら自分たちの部屋へと下がった。



 翌日の朝、ロマリアの街にはバルバストルとライムント、それにリアの三人を従え、颯爽と街を歩くキュルケの姿があった。

「まったく、今時セグロッド使用禁止だなんてこの街は遅れているわね。ちょっと移動するのにいちいち時間がかかるじゃない」
「ハルケギニアでも屈指の古都ですからなあ。新しいものが受け入れられるのには時間がかかるのでしょう」
「それに杖の携行禁止とかも意味が分からないわ。杖はブリミル様が下された聖なるものよ。それを恥ずかしいもののように隠して持ち歩かなくちゃならないなんて、ブリミル様に不敬なんじゃないかしら」
「あの、そう言った事はあまり大声で話さないように願います。あと昨日私が言った事を覚えていますでしょうか」

 このままこの道を進めば大聖堂に至る前に夕べあれほど近づくなと言った街区を通る事になる。

「あら、何だったかしら? 大聖堂ってこっちだそうよ。ロマリアに来て大聖堂を見ないなんてあり得ないわ。もし何か問題があったとしても、きっとそれは仕方のない事なのよ」

 絶対に確信犯だ。やられた、というのがライムントの正直な感想だ。朝遅くまだ眠そうな顔をして朝食に来たキュルケにすっかり騙された。部隊の方の調査状況に気を取られ、注意を払うのを怠った結果がこれだ。
 気付いたときにはキュルケがホテルのコンシエルジュに大聖堂までの道をわざとらしく聞いていて、その後ろで間抜け顔をさらす羽目となった。大聖堂への道など一本しかない。現在調査中の街区のすぐ横を通るその道をキュルケはわざと教えさせたのだ。
 人目もあり、コンシエルジュに礼を言いロビーを軽やかに抜けて大聖堂への道に踏み出すキュルケを、止める事は出来なかった。

「そうだ、そこの角を曲がった先にあるビストロが実に美味いと評判でした!」
「今、朝ご飯食べたばかりだから、お昼は遅めで良いわ」
「そう言えば東にある聖堂もとても美しく、その芸術性で観光客に人気だと聞きます。そちらを先に回りませんか?」
「まず大聖堂に行ってからでしょう。そっちはその後で行こうと思っていたところよ」
「西部地区には観光客も入れるカタコンベが有るそうです。キュルケ様はそのようなところがお好きなのでは?」
「大好きよ。でも、そういうところは夜にこっそりと入り込む方が何倍も楽しいと思うわ」

 何を言ってもキュルケは聞く耳を持たない。大っぴらに魔法を使えないために、間諜の耳が何処にあるか分からないこの街では強硬手段を執る事も出来ず、ライムントは苦々しい顔になるのを押さえるのに苦労した。



 遂に捜査地区にまで入るとキュルケは目立たないように周囲を見回した。勿論キュルケだって捜査を妨害しようと思ってこんな事をしている訳ではない。
 キュルケは事件の時傭兵達の後ろにいたヴァレンティーニ達を見ている。本当にここに奴がいるのか自分の目で確かめたいという思いは強い。それに加え、あのときの襲撃が自分を標的にしたものならば、自分が姿を現す事で尻尾を出すかもしれないと期待している所がある。
 少女らしい浅はかな考えではあるが、キュルケは本気だ。本気で自分の力で襲撃者に復讐しようとしていた。
 ゆっくりと歩きながら暫く街行く人に目をこらすが、当然そんなにすぐに目的の人物が見つかるはずもない。代わりに目に付いたのが教会の横道に長い列を作る人々だ。虚無の曜日でもないのにそんなに沢山の人が教会に集まるのが不思議に思えた。

「あそこで並んでいる人たちは何をしているの?」
「仕事もなくお金もない人達が教会から食事が配給されるのを待っているのです。あれは昼飯の分ですな」
「あんなに沢山…今からお昼までずっと並んでいるの?」
「配給される量には限りがありますから、食べ損なわないためには並ぶしかないのです。朝食の前から並んでいますし、昼食が終わるとすぐにまた夕食のために並び始めますよ」

 ロマリアにはハルケギニア中から難民が集まってくるが、ここにはそれらの人々に対して十分といえる程の仕事はない。当然の結果として難民達は仕事に就く事が出来ず、教会の慈悲にすがって生きる事になる。
 美しく整備された街と教会。しかしその教会には常にやせ細った無表情な難民達が列をなし、その横をでっぷりと肥満した神官達がきらびやかな神官服に身を包んでにこやかに談笑しながら通り過ぎる。
 並んでいる人達にはどう見ても働き盛りと思える年齢の人達が多数いる。そんな人達が日がな一日ただ何をするわけでもなく道で並んでいるだけなのだ。
 大聖堂に近づくにつれ教会の数は多くなる。注意して見ているとどの教会も正面は美しく装飾されているが、横道や裏道には配給を待つ人達が長い列をなしている。大聖堂に近づくにつれ神官達の肥満度が上がっていくようなのは気のせいなのだろうか。
 あきらかに異常なのに誰もそれを異常とは思わない、この国のゆがんだ姿にキュルケは言葉を失った。

「これがロマリアのもう一つの顔です。ここは昔からずっと……こうなのですよ」

 

 初めて訪れたロマリアの大聖堂は、巷で語られる通りそれは立派で荘厳なものであった。しかしその立派な建築物がキュルケの胸に何らかの感情を呼び起こす事は無かった。

「ああ、立派ね」

 寄付という名の入場料を支払うと礼拝堂へ入る事を許される。
 屋内である事が信じられないくらいの広大な空間は無数の精緻な彫刻に飾られ、その美しいステンドグラスの輝きはここで祈る者に天国の存在を信じさせるであろうと思われた。

「だから、何?」

 形だけ祈る振りをして、すぐに大聖堂から外へ出る。
 天国かと思われる大聖堂から一歩外に出れば、そこが光の国と呼ばれるのも当然と思える美しい街だ。様々な意匠の建物は白く輝く石で美しく装飾され、道行くきらびやかな神官服を際だたせる。

「帰る」
「あ、キュルケ様お待ち下さい」

 予定ではこの後東の聖堂を見てどこかで食事となっていたのだが、キュルケはさっさと元来た道を宿泊先のホテルへと戻り始めてしまった。慌ててバルバストル達もその後を追う。
 ウォルフ達と行った辺境の地での観光はとても楽しかった。厳しい環境の中でも人々は精一杯頑張って生きていて、街には活気が溢れていた。だから今回の旅行でも実は観光を楽しみにしてもいたのだが、その期待は裏切られたと言っていいだろう。

 最初に行列を見た教会まで戻ってきて、ふと足を止める。
 先ほどよりも行列は長くなったであろうか、人々は相変わらず無表情にそこで立ちつくしていて、こちらに向けられている目が何を見ているのかは分からない。
 ライムントが必死に制止するのも聞かず、キュルケはつかつかとその行列に近づいた。
 
「あなた達」

 行列の先頭の方に並んでいた男達に声を掛ける。皆痩せてはいるが多くはまだ若い、健康そうな男達だ。

「どうしてこんなところで並んでいるの? 仕事が無いの?」
「き、貴族のお嬢様、ええ、はいその通りでございます。ここで並んでいると食事が貰えるのですよ」

 いきなり身なりの良い少女に話しかけられて顔を見合わせていた男達は恐縮しながら答えた。
 えへらっと笑う、こちらの顔色を窺うようなその表情にキュルケはぞわりと鳥肌を立てた。

「仕事さえあれば、並ばなくても良いのですが、食べないと生きていけませんもので、はい」
「そう。仕事が有ればいいのね? だったらわたしが紹介してあげる。付いてきなさい」
「あの、仕事といいますと、どのような?」
「友達がゲルマニアで辺境開拓団をやっているの。人手不足だって嘆いていたから行けば歓迎されると思うわ」
「へ、辺境開拓団! お嬢様私たちは何の能もないただの平民でして、幻獣などとは戦えません。ご勘弁下さい」
「辺境なんて地獄みたいな所だって言うぞ、やっとの思いでロマリアに来たってのに、何でそんなところに行かなくちゃならないんだ」
「なによ、辺境って言ったって全く普通の所よ。こんな所にいるよりずっと良いわ」
「信じられるか! あんたもしかして俺達を人買いに売り払おうってんじゃないだろうな」
「お嬢様、落ち着いて下さい」

 口々に男達が騒ぎ始める。バルバストル達は何とかキュルケを落ち着かせようとする一方で不測の事態に備え、鞄に片手を入れて杖を掴んでおいた。

「こらっ!! お前達、何を騒いでおるんだ、飯を出さないぞ!」
「あわわ、侍祭様これには訳がございまして、そこな娘が我々を人買いに売り払おうとしましたので、つい大声を上げてしまいました」
「そうですそうです、人買いに売られたら最後、辺境の森で幻獣の餌にされるそうなのでそんなのはごめんです」
「誰が人買いよ! あんた達みたいなやせっぽちじゃ幻獣の餌になんかならないわ! そこのデブの方がよっぽどましよ!」
「じ、侍祭様になんて口をー」
「だれがデブだ! ええい、静まれ静まれーい!」

 教会から神官が出てきた事によって事態はさらに混迷の様相を呈してきたが、神官が一喝すると並んでいた男達はピタリと静かになった。

「ふん…娘、こいつらはこう言っておるがどうなんだ?」
「キュルケ・フォン・ツェルプストーよ。ゲルマニアの辺境伯の娘になるわ。仕事が無いって言うから働く場所を紹介してあげようとしただけよ」
「ここはロマリア。ゲルマニアの爵位など何の意味もないぞ。こいつらはお前の紹介では働きたくないそうだ。去れ」
「そうだそうだ、辺境開拓団なんかで働けるかってんだ。俺らにはブリミル様が付いているんだ、騙そうとしても無駄だぞ!」
「帰れ帰れー」

 それまで頭に血が上っていたキュルケだったが、口々に帰れと騒ぐ男達を前にして逆に冷静になった。
 腕を掴んでキュルケを引き留めていたバルバストルの手を離させると踵を返し、その場を後にした。その背にはまた罵声が浴びせられたがキュルケはそれを気にすることなく元の道に戻った。
 最悪の事態まで想定していたバルバストル達は、ほっと息を吐くとキュルケの後を追った。

「よくぞ抑えてくださりました」
「別にー? あんな人達のために何かをするなんて馬鹿らしいと思っただけよ」
「彼らは与えられる事に慣れてしまっているだけなのです」
「あんな、ただ餌を貰っているだけなんて、家畜以下じゃない。あいつらも、それで良いと思っている教会も大嫌いだわ」
「そのお心は正しいとは思いますが、あまり大声で話して下さいませぬよう。あと、ホテルに着いたらお小言がございますのでご覚悟を」
「今日はパース」
「パスできません」



 ぐたぐた言い争っている内にホテルへ着き、ライムントは早速部屋の壁・床・天井に『サイレント』を掛けて外部からの盗聴を遮断し、窓際に立って外を眺めているキュルケに説教を始めた。

「いいですか、キュルケ様。今回のこの手掛かりを逃したらもう永遠に敵を捕らえる機会を逸してしまうかもしれないのです。そうなれば…」
「ああ、もう。あなたの言いたい事なんて分かってるわよ。じゃあ具体的に今日の私の行動の何がいけなかったって言うの?」
「一つ一つの行動がどうこうという話ではないのです。そんな事を言うならばそもそもキュルケ様がこちらに来ただけで敵の警戒心を高めているかもしれないですし。それよりもこのロマリアでの責任者たる私の指示に従わなかった事が問題なのです」

 いくら領主の娘とはいえ、今日のキュルケの勝手な行動の数々に対しライムントは怒っていた。どのくらい怒っているかというと、何とか言いくるめて、それが出来ないのならば強制的にでも国へ送り返そうと思っている位だ。
 ライムントは長年ツェルプストーの諜報を一手に率いてきた強面だ。普通の少女ならば彼にこれほど怒られれば泣き出してしまうのだろうが、キュルケは一向に怯まない。

「いちいち過ぎた事をぐだぐだと細かいわね、そんなんだから嫁に逃げられるのよ」
「なぁっ、嫁の事は関係ないでしょう! 私は辺境伯にロマリアでの指揮を一任されています。その私の指示に従えないというのならば私にも考えがあります」
「ふん。昨日あなたの話を聞いてあげたのは、一応現場責任者だと言うから顔を立てて上げただけよ。私が何をするのかなんて、私が決めるわ」
「ほう……」
「あの、お茶入りました…」
「あら、ありがとう、リア。ちょっとこの石頭と話があるから席を外していてちょうだい」
「は、はい」

 かなり険悪な雰囲気になった二人の間におずおずとリアが入ったが、すぐにキュルケに追い出された。ついでにバルバストルも外に出して、部屋にいるのはキュルケとライムントの二人だけになった。

「私の指示に従えないというのがキュルケ様の答えなのですね? では、荷物をまとめて下さい。今すぐツェルプストーへと帰っていただきます。力ずくにでも」

 無表情になったライムントが冷静に告げる。だが、キュルケに動く気配はなかった。

「ふう、分かってないわね、ライムント。あなた、ツェルプストーに来て何年になるの?」
「……二十年程になりますが、それが何か?」
「わたしは十二年よ。あなた、随分長くいるのねえ」

 ライムントの問いには答えず、キュルケはテーブルの上の果物ナイフを手に取る。右手に持ったそれを左の掌に当てると躊躇無く刃を引いた。
 それほど深くは切らなかったようだが、当然掌は鮮血に染まる。さすがのライムントもキュルケのいきなりの行動に驚き、硬直することしかできなかった。
 キュルケは目の前で掌をゆっくりと握り、拳を作る。その拳から一筋の血が流れた。

「この血は、ツェルプストーの血よ。父さまと母さまから受け継いだ、フォン・ツェルプストーで最も高貴な血。今回の事件ではこの血が流された。その意味を、あなただって分からない訳ではないでしょう」

 拳を掲げ、その流れる血をライムントに示して見せた。

「"ツェルプストーの血は、血をもって贖わせなければならない" ツェルプストーで初めて杖を持つときに教え込まされる言葉よ。家訓といってもいいわ。ツェルプストーにおいて全ての法に優先する、ね」

 おもむろに手にしたナイフを投げる。ナイフはライムントの顔、そのすぐ横をかすめ、軽い音と共に壁の肖像画に突き刺さった。

「いい? これはわたしの復讐なの。あなたは勿論、父さまにだって止める権利はないわ」

 自分の復讐は自分でする。そう言いきる少女の気迫にライムントは完全に飲まれていた。

「これはあなたのミスよ、ライムント。父さまだってわたしに配慮して全ての情報を伝えていたというのに、あなたは自分のところで情報を止めた。あのとき、わたしにはあなたの指示に従う義理が無くなった」
「い、いやしかし、私は敵に感付かれる可能性を考慮して…」
「それを判断するのはわたしだと言っているの。あなたが情報を上げないのならば、わたしは自分で見て判断しなくてはならなくなる。あなた達の任務はわたしへの助力と助言。おわかり?」
「……」

 キュルケの言う家訓は当然ライムントも知っていた。確かにツェルプストーでは被害を受けた当人に復讐する権利があり、義務が課せられている。その当人が死んでいる場合に妻・夫・子供・親にその義務が移動する、というものだがキュルケはまだ十二歳なのだ。そのまま適用するなんて考えもしなかった。

「分かったのなら、あなたが手にしている情報を全て出しなさい。全てを聞いた上で、あなたの指示に従うかどうか、判断してあげるわ」

 勿論キュルケも自分が素人の子供でライムントが諜報のプロであるという事は理解している。その上での命令だ。
 ライムントは天井を見上げ、ほんの少しの間黙って目を瞑ったが、大きな溜息と共に顔を下ろした。この少女の事を子供扱いしていたのがそもそもの間違いだった事にようやく気が付いた。

「やれやれ、ツェルプストーの血を示されたのでは従わない訳には参りませんな。分かりました。昨日何があったのか、あの街区で何を調査しているのか、全てお話ししましょう。…っと、その前にその手を治療しなくてはなりませんね、リアを呼びましょう」

 溜息を吐きながらリアを呼ぼうとドアの方へと振り返る。ふと、そのドアの隣に飾ってある肖像画が目にとまり、思わず動きを止めた。

「……これは、神の意志は我々と共にあるようですな」

 キュルケの投げたナイフが深々と眉間に刺さっているその肖像画には、"エウスタキオ枢機卿"と題名が付けられていた。




幕間5   キュルケの復讐-3 神の道



 ヴァレンティーニはその日もいつものようにロマリア始めハルケギニア中からもたらされる様々な情報の分析に当たっていた。
 ツェルプストー襲撃でしくじって以来現場には出ておらず、ここロマリアからハルケギニア中にいる間諜に指示を送る毎日だ。彼が今いるこのオフィスはロマリアの宗教庁裏手の下町にあり、地下でエウスタキオ枢機卿のオフィスと繋がっている。
 近所の人には元貴族で親の遺産を食いつぶしているロマリア史研究家という事になっており、ロマリアには実際にそんな人間がごまんといるので今まで不審に思われた事は無い。時々長期間いないのは研究旅行に行っているという訳だ。
 
 昼食から帰ってきた部下と入れ違いに近所の飯屋へと向かう。よその宗派では諜報部隊といえども大がかりな本拠地を構え、使用人を雇っている所もあるようだがヴァレンティーニは人員を最小限に絞っている。食事は外でとるし掃除などは、あまりしないが、自分たちでしている。
 この建物を出入りするときは『フェイス・チェンジ』の効果がある魔法具のネックレスを首に掛けて顔を変えているので、この拠点が誰かにばれるという事は心配していなかった。

「あらいらっしゃい、今日は遅いのね」
「何かシチューとパン。食後にフルーツを頼む」
「はいよ」

 いつものように注文をし、テーブルの上に代金を置いていつもの椅子に座った。食事時のピークは過ぎていたのでもう店内は大分すいている。軽く店内を一瞥すると持ってきた書類を広げて目を通し始めた。

「はいよ、お待たせ。あら、地図かい? 随分と古そうなものだねえ」
「アクイレイアの古地図だ。今度発掘に行くかも知れないのでな」
「相変わらず熱心だねえ、その調子で嫁を探せばいいのに」

 アクイレイアのような古い都市には現在の都市の地下に、もっと古い時代の構造物が残っている事がよくある。
 今回ヴァレンティーニ達が調べているのは、とある宗派の教会がその地下の空間に若い女性を誘拐してきて監禁しているらしいというものだった。
 エウスタキオ枢機卿とは対立する宗派の事だ。表沙汰にしてその宗派そのものを叩くか裏取引で支配下に置く事にするのかは枢機卿が判断する事になるが、おそらく裏取引で自派閥に引き込む事になるだろう。
 ヴァレンティーニの仕事はその証拠を掴む事。古地図と現在の地図とを見比べ、進入できそうな経路を検討しているが、はたからは遺跡発掘の計画を練っているようにしか見えないだろう。
 いままでもエウスタキオ枢機卿はそうして派閥を大きくしてきた。そうして取り入れた派閥は表向きは関係ないように装い、いつでも切り捨てられるようにしてある。
 万が一事件が表沙汰になってもエウスタキオ枢機卿には何も影響がない。そのやり口は、まさしく狡猾と言えるものだった。

 何枚もの地図にチェックを入れながらあっという間に食事を平らげ、お茶を飲んでいると暇になった女将が話しかけてきた。

「そんなふうに遊んでいられる程の財産があるんなら、嫁を貰おうって気にはならないのかい? 今は良くたって年を取ったら一人じゃ大変だよ?」
「二人も遊んで暮らせる程は無い。子供が生まれたりしたら事だしな」
「子供が生まれたらおめでたいじゃないか! あんたがちょっと働けば良いだけだろう」
「働いたら負けだと思っている。女や子供なんて面倒くさいだけだ」

 ハルケギニア中を陰謀のために飛び回っているヴァレンティーニは、実際にはかなり働きものな訳だが、この界隈では怠け者で通っている。

「それに俺が結婚したらこの店には来なくなるぞ、常連を失うような事を言うものではないな」
「は、独身の男どもが結婚して店に来なくなるのは本望だね。いつまでもだらだらと来られる方が心配になるよ」

 それに、と女将は続ける。

「最近は新しい客も増えたしね。ああ、そうだあんたにも今度紹介して上げるよ、あんたの研究に興味が有るみたいだったんだ」
「ほう」

 ヴァレンティーニの目が鋭くなるが、女将は気付かない。

「ゲルマニアってのは料理が不味いところなのかねえ、ウチみたいな飯屋の料理を美味い美味いって言って食べてくれる良い子だよ」
「人気があって何よりだな。ゲルマニア、か。確かに料理の評判はそれほど高くないが」

 ゲルマニアといえばロマリア市内の連絡用拠点を見つけ出し、監視しているツェルプストーの事が思いだされる。どうせあちらには『遍在』しか行かないので放置してあるが、どうやって連中があそこを割り出したのかは現在調査中である。
 何日か前にあの時大火傷を負ったツェルプストーの娘がロマリアにやってきて、この街区の教会とトラブルを起こしたという報告もあった。そのトラブルに意図が全く感じられなかったので、あれは偶発的なものでここに来たのに理由はないと片付けはしたが関係が気になる。

「料理が不味いって有名なのはアルビオンだけどね。あんたあちこち行ってるんだろ? 本当はどっちが不味いんだい?」
「あ、ああ、不味いと言えばアルビオンだな。ゲルマニア料理は素朴とも言えるが、アルビオン料理は悲惨と言えてしまう」
「やっぱりアルビオンかい。そこまで酷いって言われると逆に興味がわくよ」

 からからと笑う女将の相手をしながら慎重に店内を探る。すると、カウンターの片隅に見慣れない木製の人形が置いてあるのを見つけた。よっぽど注意してみないと分からないが、僅かに魔力を感じる。

「女将、あの人形は? どうも見た事がないが」
「ん? ああ、それは今言っていた人がくれたのよ。人形の行商をしているらしいんだけど、ここに飾っておいて、欲しいっていう人がいたら紹介してくれって。ウチなんかじゃ人形欲しいっていう人なんてそうそういないって言ったんだけど、いいからって。……あんた、欲しいのかい?」
「い、いや、欲しい訳じゃない」

 声をひそめて聞いてくる女将に慌てて否定する。まず間違いなくあの人形は監視道具だろう。まだ勘でしかないが、自分の元に捜査の手が伸びてきている事を感じる。
 そういえば三日程前にとある教会の潜入捜査に入った部下二人と連絡が取れなくなっている事を思い出した。数日音信不通になる事なんて良くある事なので気にしていなかったが、至急確認する必要がありそうだ。

 手早く書類を鞄に戻し、店を出る。気を張って周囲の気配を探ると、やはり違和感を感じる。どうやらもうすでにここら一帯は監視されているようだ。
 オフィスのある建物まで戻ってみたが、ますます違和感は強くなる。今まで気付かなかった事に舌打ちをしながら建物の前を通過し、大聖堂の方へと歩いた。

「ちぃっ、タウベがこんな所にまで……」

 大聖堂前の広場では複数の監視型ガーゴイルを確認できた。本部へ帰る事は諦めて人込みをよけながら早足で広場を突っ切り、横道に入って一つ角を曲がったところで走り出す。もう一つ角を曲がって裏道に入ったところで『遍在』を唱え、さらにその『遍在』に『フェイスチェンジ』を掛けて今の自分と同じ顔にすると、その『遍在』を表通りを真っ直ぐに走らせた。
 本人はマントを脱ぎ捨てて『フェイスチェンジ』を重ね掛けにして別人に成り済まし、そこにあった生地店を通り抜けて裏口から出ると人込みに紛れ、そのままロマリアの街に姿を消した。



「こ、これはヴァレンティーニ殿」
「預けてあるものを出してくれ。急いでいるんだ」
「は、はい、ただ今」

 数刻後、ロマリアの西の外れに建つ、とある教会にヴァレンティーニは姿を現した。『フェイスチェンジ』を解き、魔法具もはずした素の顔だ。
 応対した司祭から箱を受け取ると個室に籠もる。急いで箱を空け、中から出てきた人形を手に取った。

「緊急連絡、コードCだ。こちらヴァレンティーニ、今から姿を消す事にする」
「お疲れ様。そう言わずに、もうちょっとゆっくりしていってちょうだい」

 諜報員はその存在がばれてしまったら意味はない。暫く身を隠そうかと手にした枢機卿との緊急連絡用魔法具からはそこから聞こえるはずの無い、しかしどこかで聞いた事のある声がした。

「あら? もしもーし。ヴァル、聞いてますかー?」
「誰が、ヴァルだ。ヴァレンティーニはファミリーネームだぞ、勝手に愛称を付けるな」
「ああ、聞いていた。だって、あなたの名前なんて知らないし、しょうがないじゃない。うふふ、ちゃんと名乗るのは初めましてになるわね、キュルケ・フレデリカよ。お願いがあるのだけど、聞いて貰えるかしら? そっちに今ウチの手のものが向かっているから大人しく捕まって欲しいの」
「くそっ」
 
 ほっぺにチュウしてあげるから、などと言っている人形を壁に叩き付けると、逃走用にと箱の中に入れてあったセグロッドを掴み、教会を飛び出す。
 ヴァレンティーニ達は純然な諜報組織であって、戦闘要員というものを持っていない。皆それなりに手練れのメイジだが、万が一本部を襲撃されたら戦闘で勝てる見込みはない。敵に証拠を与えないためには逃げるしかなかった。
 ひとしきりまた街中を廻った後に人気の少ない城門から街を出て、誰も後を追ってこない事を確認するとセグロッドを西の山へと走らせた。



 ヴァレンティーニがロマリアの街から逃げ出した直後、キュルケ達ツェルプストーの諜報隊員達は拠点に集まって今後の方針を確認していた。

「えー、ヴァルは逃げ出しましたので、そっちは二班に任せる事にします」
「ヴァル、ですか。ヴァレンティーニが…」
「わたしがヴァルを想う気持ちは恋に似ているわ。会えない間の切なく疼くこの胸、会った瞬間に骨まで燃やし尽くしてやりたいこの激情。ヴァルは分かってくれるかしら…」
「キュルケ様の恋の行方はさておいて、問題は今回の主犯、エウスタキオ枢機卿なのだが…」

 クネクネと身を捩っているキュルケを放っておいて、ばさりとライムントが書類の束を机の上に広げた。そこにはこの短い期間で集めたにしてはあまりにも大量な神官達の犯罪の数々が記されている。大抵は収賄や横領といったものだったが、中には人身売買などの重大犯罪も含まれるスキャンダラスなものだった。

「やっぱりあの諜報員達をさらっちゃったのは正解だったわね。今まで見つからなかったのが不思議なくらいの大漁ね」
「あれは賭に近かったからもうやりたくはないが…しかし、ここまでだったとは、聖職者達がなんたる事だ」

 これらは証人として抑えた諜報部員が拠点としていた教会で入手したものだ。かなり念入りに隠されていたこれらの資料は、どうやらヴァレンティーニが自己の保身のために確保していた分らしい。おかげで捜査の手間がずいぶんと省かれる事になった。

「うふふ、『ディテクトマジック』をすり抜ける魔法が有ったのは驚いたけど、ウォルフの魔道具には意味無かったわ」

 資料が隠されていた壁には魔法としてはほぼ完璧な隠匿魔法が掛けられていたが、今回ツェルプストーはウォルフから魔法具の提供を受けている。モーグラに搭載しているレーダーの技術を応用した『ライト』の魔法によりマイクロ波を照射して壁の中を透視できる魔道具の前には隠匿の魔法など何の意味もなかった。
 ちなみにヴァレンティーニが逃走に使っているセグロッドにはやはり『ライト』による電波発信機が仕込まれている。地上で彼を追うものがいなくても、上空一万メイルにいるモーグラから彼はずっと監視され、追跡されていた。

 これまで証拠が見つかったとだけ知らされていた諜報部員達は初めて目にする資料を前にしてにざわざわと落ち着かない。ライムントは彼らが資料をテーブルに戻すのを待って会議を続けた。

「現時点での問題は、時間だ。辺境伯が政府の高官と協議してゲルマニア政府がどのような対応を取るのか決めるまで待つとなると、肝心のエウスタキオ枢機卿が守りを固める恐れがある。今のところかなりダークだが彼本人の犯罪への関与を示す証拠がない。逃げられる公算は高い」

 これほど事件が大きくなってくると辺境伯にとっても一人で扱うのは難しくなる。一辺境伯が告発するにしてはスキャンダルの範囲が広範すぎるのだ。
 事態はゲルマニアとロマリアとの話にならざるを得ないのだが、残念な事にこれほど大量の証拠でもまだ彼らの派閥構成員のうち一部の人間に関するものしかないので、その上に立つ枢機卿という立場の人間を弾劾するにはまだ不十分だ。
 時間を置くとこちらがどれだけの証拠を得ていて誰を罪に出来るのか、向こうに伝わる可能性は高い。そうなったら枢機卿はこれらの神官達をトカゲの尻尾を切るように切り捨てる事を躊躇しないだろう。その結果は枢機卿の安泰が守られるという事だ。

 エウスタキオ枢機卿のオフィスを捜査し、彼に関する証拠の保全を図りたいのだが当然ツェルプストーにはこの国の捜査権など無い。宗教庁を警備する聖堂騎士の目をかいくぐり長時間の捜査を行うのは難しいだろう。

「一刻も早く枢機卿が関与した証拠を確保するために何をしたら良いか、忌憚のない意見が欲しい」

 諜報隊員達は思わず顔を見合わせた。ライムントがこんな風に迷っているのを彼らは見た事がなかった。

「あー、教皇様に訴え出てエウスタキオ枢機卿を逮捕して貰えませんでしょうか」
「教皇聖下は現在病気療養中だ。危篤という訳ではないが、政治力を発揮できる状態にはない」
「今度の降臨祭にエウスタキオ枢機卿がアルビオンまで行くという情報があります。その時でしたら警備が薄くなって潜入捜査が可能なのでは?」
「時間がかかりすぎる。ヴァレンティーニが消えた事に対策される前に何とかしたい」
「この、ゲスどもの誰かと取引して証拠収集の手引きをさせるというのは?」
「……ううむ、それが一番現実的か?」
「宗教庁に頻繁に出入りしている人間となると、数が減りますね。この司祭と、この助祭……あとは……」

 工作を仕掛ける神官を選んでいる室内に、パンッ、と掌を叩く大きな音が鳴り響いた。話を止めた諜報部隊員達の視線の先にいるのは、キュルケだ。

「さらって来ちゃいましょう」
「キュ、キュルケ様?」
「さらって来ちゃえばいいじゃない。本人を確保しちゃえば証拠の隠滅も出来なくなるわ。その間に父さまが政治的な話をすれば良いのでしょう」
「さらってって、枢機卿をですか?!」

 皆硬直して反応が出来ない。事ここに至っても枢機卿という肩書きはハルケギニア人にとって重い。

「す、枢機卿をさらったりしたら国際問題になりますよ! 辺境伯の立場さえ危うくしかねません」
「ばれなければいいのよ。父さまが関与した証拠さえ無ければ何とでも言い訳は出来るわ」
「そこまで過激な事をしなくても今検討中の作戦なら……」
「そんなゲスと取引するなんていやよ。そもそもそいつら信用なんて出来ないし」
「いや、しかし……」

 諜報部隊員達はまだ踏ん切りが付かないようだが、ライムントは違った。机の上の証拠品を押しやると大きな紙に記された宗教庁周辺の地図を広げた。

「ふむ、確かにエウスタキオだけを確保するのであればそれほど難しくはないな」
「でしょ? 証拠の捜査には時間がかかるけどちょっと行って人一人捕まえてくるだけなんだから」
「やつらはまだこちらがこの地下道の存在を把握しているとは思っていない。ここから潜入すればエウスタキオの寝室のすぐ隣まで一直線だ。聖堂騎士隊ともぶつかることは無い」
「ライムント様、本気ですか? 一つ間違えばとんでもない事になりますよ」
「……何度も言っている事だが、俺達の仕事は我々を襲撃した犯人を確定し、逮捕もしくは抹殺、それが出来ないのであれば裁判で使用できる明確な証拠を確保する事だ。目的を達成するためにもっとも可能性の高い作戦を選択すべきで、犯人の地位は関係ない」
「……」

 ブリミル教というこの世界の秩序そのものとも言える存在と敵対する恐怖。隊員達の心を占めているのは、出来ればそんな事をするのが自分たち以外であって欲しいという怯えの気持ちだ。
 そんな沈痛な雰囲気を破ったのはキュルケのいつもと変わらぬ声だった。

「枢機卿と思わなければ良いんじゃない?」
「は? 一体何を……」
「キュルケ様?」

 虚を突かれたような隊員達に構わず、キュルケは再び堕落神官達の資料を手に取りページをめくる。  
 目に付いた資料を隊員達に見えるようにテーブルに並べながら話しかけた。

「ヘクトール」
「はっ」
「この児童買春が大好きな司祭は好みの難民の子を見つけると、親を殺してでも自分が懇意にしている娼館に入れてるみたいなんだけど、あなた子供いたでしょ、親としてどう思う?」
「……度し難い屑ですな。可能ならばこの手で殺してやりたいです」

 それまで怯えの色を見せていたヘクトールの目に怒りの感情が浮かぶ。

「ゲオルク」
「は、はい」
「こっちのお金が大好きな司教様は、賄賂や横領くらいじゃ足りないらしくて人身売買にまで手を出しているんだけど、この人今度枢機卿になるらしいわよ」
「とんでもない話です。まさか教会がここまで腐っているとは」

 ゲオルクの目にも怒りが灯る。

「ロルフ」
「はい」
「この六十過ぎの助祭は自分好みの少年達でハーレムを作るためにこの秘薬を使っているらしいわ。水メイジから見てこの秘薬はどういう薬なの?」
「これは……こんな薬を常用させたら、数年で心が壊れてしまう。人で、無くなってしまう」
「成る程、数年経ったら少年も自分好みの年頃からは外れちゃうからかまわないってわけね。見上げたものだわ」

 ロルフは手にした資料を握りしめ、拳を震わせる。

「勿論、こんな神官達はロマリアにいる膨大な数の中ではごく一部よ。多くの神官達はまじめに、信仰の中で生きている事なのでしょう。でもこんな神官が存在する事を許し、自分のために利用しているのがあのエウスタキオだって事を忘れないで欲しい」
「……知っていて、構わないって放置しているのは、やっているのと一緒ですよ」
「そしてもう一つ。ツェルプストーのものならば、この男の指示であの襲撃事件が起こされた事を絶対に忘れてはならない」

 禁制の秘薬を使用したため証拠としては使えないが、捕らえた諜報員の証言によりエウスタキオ枢機卿の指示であの事件が起こされた事は確認済みだ。

「わたしは忘れない。あの日受けた痛みと屈辱を。わたしを……わたしを庇って死んだヴィリーのことを。マテューを、クルトの叫び声を、わたしは決して忘れはしない」

 キュルケは今でも時折当時の事を夢に見る。夜中に、あるいは明け方にぐっしょりと汗をかいて目が覚めた時、彼女は一人小声で彼らの名を呼び続ける。
 決して思いが薄れる事は無い。過ごした夜の数だけキュルケの炎は一層強く燃えさかっていた。

「エウスタキオが枢機卿だなんて、わたしは認めない。枢機卿とは人々の尊敬を受ける存在。彼はわたしの、キュルケ・フォン・ツェルプストーの尊敬を受けるに値しない!」

 キュルケが叫ぶ。

「『この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ――』というのは東方の聖人アントニオの言葉よ。彼はわたしに迷わず行けと言ってくれた。……わたしは迷わない。たとえエウスタキオが神そのものだったとしても、わたしはわたしの道を歩いてみせるわ!」

 教会に行くのもさぼり気味で、食事前の祈りも時々忘れる彼女は決して敬虔なブリミル教徒とは言えないだろう。そんな彼女でも神という存在に対する畏れは大きい。それでも、それを遙かに凌駕する激情の炎が彼女の心で燃え上がっているのだ。
 その激情に焼き尽くされたかのように男達は息をのみ、室内は静まりかえった。



「涙を拭いて下さい、キュルケ様。キュルケ様と歩む道が神の道なのか、俺には分かりません。でも、あいつらが神の道を歩いていない事だけは俺にも分かる」

 静寂を破り、前に進み出たヘクトールがキュルケに杖を捧げる。

「おそらくエウスタキオ枢機卿は悪魔に取り憑かれたのでしょう。本物の枢機卿は早く悪魔を殺してくれと叫んでいるに違い有りません」

 ロルフが続く。

「思えば始祖降臨から六千年、一つ所に留まった水は予想以上に澱んでいるみたいですな。水は流れるようにあるべきです」

 ゲオルクが、ライムントが、ツェルプストーの男達が次々に少女に杖を捧げた。

「決まりだな、今夜決行する。作戦を練ろう」

 ライムントのかけ声で男達は再びテーブルを囲む。その顔にもう怯えや畏れの色は無い。断固たる決意を秘めた集団はあらゆるタブーから解き放たれ、目的に向かって動き始めた。



 キュルケ達が作戦を立てている頃、ヴァレンティーニを追う二班はのんびりと追跡を続けていた。
 更なる証拠収集のため、ヴァレンティーニは今すぐ捕らえず暫く泳がせるという方針が辺境伯から示されている。

「こちら、一号機。視界良好、ヴァレンティーニは森が深い部分を選んで西へ移動中。なかなかやりますね、マンティコアから逃げ切りましたよ」
「その先の村のエウスタキオ派の教会に部隊を展開済みだ。教会に入り次第襲撃する。村に近づいたら知らせてくれ」
「了解。現在の速度だと十分後くらいになりそうだ」

 この日以降ただ一つその手に残ったセグロッドを頼りに、ハルケギニア中を舞台にした逃走劇を演じる事になる。 
 そんな未来など知るはずもなく、ヴァレンティーニは監視されたまま一直線に教会へとセグロッドを走らせた。




幕間5   キュルケの復讐-4 終幕



 ライムント達が例のアパルトメントの存在を知ってまずした事は、建物についての徹底的な調査だ。ウォルフの魔道具でアパルトメントとそこから伸びる地下通路、壁を隔てた宗教庁の建物まで全てをスキャンして内部構造、人員配置、罠の存在まで綿密に調べた。
 次に監視型ガーゴイルで人の出入りを監視して敵のおおよその陣容を把握した。この情報と捕らえた密偵から得た情報をもとに潜入作戦を立てた。アパルトメントから潜入し、地下通路を通って密かにエウスタキオ枢機卿を拉致し、アパルトメントから抜け出す計画だ。
 キュルケはライムントのこの作戦を受け入れ、今回はライムント達が拠点としているアパルトメントで待つ事になった。連絡が入り次第モーグラで一緒に出国するつもりだ。

「エウスタキオはどうしている?」
「変わらず自分のオフィスにいますね。昨日に比べて多少聖堂騎士の警備が増えたでしょうか」
「聖堂騎士が地下通路を警戒している様子はあるか?」
「いいえ。相変わらず外からの進入に対しての警備体制となっているように思われます。予想通りこの地下通路はエウスタキオ枢機卿の派閥でもごく一部しか知らされていないようです」
「よし、宗教庁側の諜報員は出払っているな。では作戦を決行しよう。さっさとかっさらってツェルプストーに帰るぞ」
「はっ」

 聖堂騎士による外側の警備は強化しているようだが、消えたヴァレンティーニの捜索のため、直接の敵である諜報部隊は手薄になっているようだ。
 今が作戦の実行時期と見定め、ライムントは呪文を唱えて杖を振ると『フェイスチェンジ』で自らの姿を変えた。あのアパルトメントに出入りしている時のヴァレンティーニの姿だ。
 水メイジであるロルフをずた袋に入れて肩に担ぎ、アパルトメントに歩いて近付く。ロルフは気絶している振りをして大人しくしていて、丁度誰かを攫ってきたかのように見える。
 密偵から手に入れた鍵でドアを開けて堂々と内部へ潜入した。ドアから入ったところは小部屋になっていてすぐに隣の部屋からのドアが開き、若い男が出てきた。

「ヴァレンティーニ様! ご無事だったんですね、心配いたしました。これは?」
「……」
「!っ ……」
 
 もう夜となりヴァレンティーニが姿を消してから半日近くが経過している。若い諜報員は姿を現した自分たちのボスの姿に安堵の表情を見せたが、ライムントが口に指を当てて目配せをすると緊張感を取り戻した。この仕草は盗聴されているから余計な事は喋るなという合図だ。
 黙ったまま男が出てきた小部屋へと移動し、そこにいた男達も同様の仕草で黙らせる。怪訝な顔をでこちらを伺う男達の前でドサリとロルフを床に落とし、真っ直ぐに部屋の左側に付いているドアへと向かった。捕らえた密偵から無理矢理聞き出した情報によれば、この拠点は二重構造になっている。ただの諜報員には入る事を許可されていない、ヴァレンティーニ達上級幹部だけが入る事を許された区画があり、それがこのドアの先だ。
 ドアを開けた先には小部屋があり、その先はヴァレンティーニ達幹部の居室になっている。平の諜報員達はヴァレンティーニ達がそこから上層部へと連絡を取っているものと思っているのだが、実はこの部屋は囮だ。入ってすぐの小部屋の床が一部持ち上げられるようになっていて、そこから地下続くに秘密通路が本命なのだ。
 諜報員達に待つように合図をして一人小部屋に入りドアを閉める。迷わずに床の入り口を開け、地下へと体を滑り込ませた。

 細い通路を滑り降りたその先の通路の壁の薄暗い一角にもドアが有り、秘密の部屋へと続いている。この部屋の壁一面には盗み見の鏡と呼ばれる魔法具でこの建物の窓、ドア、さらには内部まで沢山の映像が映し出されており、事前の予想通りここでアパルトメント全体を監視していたようだ。
 その中の部屋にも諜報員が二人いてヴァレンティーニに扮したライムントを出迎えた。何も喋らずにここまで来た自分たちの上司を疑っていないようで、状況を確認しようと筆記具を差し出した。

「眠っていてくれ」
「がっ」
「なっ! 何、を……」

 ライムントは筆記具を受け取る振りをして近づくと、反応する間も与えずに二人に打撃を加え、無力化する。掌底で心臓を正確に撃ち抜かれた二人は全く抵抗する事が出来ずに床に倒れた。
 心臓を強打された事により一瞬呼吸も出来ずにいたようで、反撃しようと体を起こし杖に手を伸ばした時にはもうライムントが呪文を唱え終わっていた。眠りにつく魔法、『スリープクラウド』だ。

 アパルトメントに異常が有った場合、この二人からエウスタキオ枢機卿に異変を知らせるシステムだったものと思われる。通路を閉鎖する魔法も用意されていたようだが、この二人をエウスタキオ枢機卿に気付かれることなく拘束できたので作戦は大きな山を越えた。
 諜報員達にはアパルトメントから外に出入りして諜報活動を行う一般の者と、このトンネルと宗教庁側の建物とを行き来して監視を行う者との二種類がいて、互いに顔を合わす事はないようだった。その間をつないでいたのがヴァレンティーニなどのごく一部の者で、かなり隠密性にには気を配った組織だと思われるが、魔法防御をものともしない魔道具は地下の一室で動かないこの二人の存在を確実に把握していた。
 この先で通路の存在を知っている者はおそらく現在エウスタキオ枢機卿ただ一人。あとは表の諜報員達を無力化すれば作戦は成功したも同然だ。

 壁の映像で階上の者達が大人しく待っている事を確認し、来た通路を戻る。ドアを開けて部屋へと入ってきたライムントに室内にいた諜報員達が顔を向けた。

「無事に終わった。もう、いいぞ」

 ライムントの声に反応して諜報員達の背後に放置されているずた袋から杖が姿を現すが、背後に目を持たない諜報員達は当然気付かない。常と違うヴァレンティーニの声に声に違和感を感じるだけだ。

「? ヴァレンティーニ様、声が……?」
「《スリープクラウド》」
「!!っ」

 ライムントに注目していたところに背後から放たれたロルフの魔法。室内にいた諜報員達は、やはり抵抗する事も出来ずに昏倒した。

 



「貴様、ツェルプストー、こんな事してただで済むと思っているのか!」
「いや、わたしは聞いていなかったのですよ、まさか娘がこんな事をするなんて」
「娘のせいにして自分は逃げるつもりか、そんな事をしても貴様の罪は消えはしないぞ、まずはこの縄を解け」

 ゲルマニア西部ツェルプストー辺境伯領、その居城の一室で縄で縛られたまま椅子に座らされ、きゃんきゃんと喚いているのはエウスタキオ枢機卿だ。一週間も牢に入れられっぱなしだったのでストレスが溜まりまくっているようだ。

 結局ライムントと彼の率いる諜報部隊はあっさりとエウスタキオ枢機卿をそのオフィスから拉致して見せた。作戦には参加せず、拠点で待機していたキュルケが思わず拍手するくらい短時間で枢機卿を確保し、拠点まで戻ってきた。各所に仕掛けられていた罠にも一つもかからず、誰とも戦闘することなく帰還する事に成功している。
 枢機卿を深夜にロマリアの城壁を越えて運び出すのには黒棺と呼ばれる棺を使用した。これは通常公に出来ないような死体を城壁外へ運び出す時に使用され、ロマリアにおける暗黙の了解で神官服を着た者が運び出す時には深夜だろうと誰何される事はない。

 ターゲットをモーグラに積み込み高々度を飛行して国境を越えたが、最後までロマリアが気付いた様子はなかった。あるいはあの謎の神官は気付いていたのかも知れないが、妨害や追跡は一切確認する事が出来なかった。
 懸念していたのは枢機卿を連れ帰った時のツェルプストー辺境伯の反応だったが、心配は必要なかった。キュルケは「それでこそ、ツェルプストーの女」と褒められ、ライムント達にも金一封が出た。
 あっさりと事件が解決したのは良い事なのだが、キュルケなどには物足りない幕切れだったようだ。

「まさか、そんな事はしません。むしろ褒めてあげましたよ、よくやった、と」
「な……貴様、認めるのだな、ロマリアで神官を、それも枢機卿という地位にある者を拐かすという神をも畏れぬ所行が自分の責任で行われたと」
「神は常に畏れ、敬っています。これでも私は敬虔なブリミル教徒なのですよ」
「ぐぬぬ、ブリミル教徒がこんな事をするはずがない。これは、悪魔の所行ぞ。貴様が悪魔に操られていないというのなら今すぐわたしを解放し、跪いて許しを請うのだ。そうすれば寛大なる神は言い訳くらい聞いてくれるかも知れん。さあ、縄を解け」

 随分と威勢の良い事を言っているが、その目はきょろきょろと落ち着かず、口元は引きつり頬はぴくぴくと痙攣している。怯えているのが丸わかりな様子にツェルプストー辺境伯はやれやれと溜息を吐いた。こんな小物に領内を引っかき回されたのがやるせない。

「悪魔と言うならそれでいいが、エウスタキオ、お前には全て話して貰わなくてはならん。何故我が領で工作をし、軍を襲ったのか。分かりやすいように最初から話せ」
「ききき貴様、一辺境伯の分際でこの私を呼び捨てにするなど許せん! 悪魔め、神罰を受けると良い。それがいやなら縄を解け」
「ふう、エウスタキオで無いのならばどう呼べばいいのだ?」
「決まっておる、エウスタキオ枢機卿猊下だ! ええい、早く縄を解けと言うに!」
「残念ながらその呼び方は出来ないな。何故なら、お前はまだ生きているだろう?」
「ひょ? ……」

 自分の生死に関わる言葉が出てきて硬直する。ツェルプストー辺境伯の言葉の意味を考え、目を泳がせるエウスタキオに構わず辺境伯は言葉を続けた。

「エウスタキオ枢機卿猊下は、もう死んでおる。昨日教皇聖下の名前で死亡広告が出されていたぞ? まだ生きている人間を、死んだ人間の名前で呼ぶ訳にはいかないだろう」
「ひうっ、ひっ? ……」

 びっくりして妙な声を上げるエウスタキオに、教皇の名の下に発せられた死亡広告の現物を見せてやるとピタリと動かなくなった。
 自分の死亡広告を見る事の出来る人間は少ないだろう。葬儀の日程が記されているその通知を見詰める目蓋は痙攣するように瞬きを繰り返し、唇は震えている。

「な、な、何で、こんな。聖下がそんなことを」
「死因は流行病だそうだ。怖いものだな、ほんの数日前の報告では元気そうだったのに。ああ、病はもう終息して平民には被害が全くなかったというのが朗報だな。平民の間では贅沢病なんじゃないかと言われているそうだ」
「は、流行病だなんて嘘だ! 私が死んだなんてでたらめだ!」  
「知っとるわ。ついでに教えてやるとお前の腹心と言われているジョヴァンニ枢機卿とアルフレッド枢機卿、その他にも多くの神官が今回の病で命を落としたそうだ」
「ひゅ、ひゅー…」

 もう一枚、これはこの日届いた、人数がやたらと増えた死亡広告を見せてやった。自分の派閥の人間達の名前を大量に見る事になり、もうエウスタキオ枢機卿は気絶寸前になっている。あまりにも不甲斐ない姿に辺境伯の方が苛ついてきた。悪党なら悪党らしく最期までどっしりと構えていて欲しいものだ。

「三人もの枢機卿が一度に身罷ったので大々的な葬儀を行うそうだ。まあ、流行病ゆえ遺体はもう荼毘に付されているとの事だがな。ワシも出席する事になっているからあまり時間が取れん。さっさと話せ、何故ツェルプストーを襲った?」
「遺体なんて元々無いぞ! 私はまだ生きているんだ!」
「おい」

 この期に及んで騒ぎ立てるエウスタキオに辺境伯が痺れを切らして凄む。

「枢機卿猊下と呼ばれたいのなら、いつでも呼んでやるぞ、エウスタキオ。死んだ人間の名前で呼ばれたいのならな。燃やしてしまったはずの遺体が届いたらロマリアは困る事になるかも知れんが、ワシは一向に構わんのだぞ」
「ひ、ひぃぃ」
「そう呼ばれたくないのならさっさと話せ。納得したらエウスタキオのままこの城から出してやる」

 コクコクと凄い勢いでエウスタキオ枢機卿が頷く。事ここに至って自分の命が風前の灯火である事に気が付いたようだ。



 もっと粘るかと思って禁制の秘薬まで用意してあったのだが案外簡単に事が済んだ。エウスタキオ枢機卿からツェルプストーが得た情報は以下の通り。

・ロマリアでは昔から"ガンダールヴの槍"と呼ばれる、始祖ブリミルの使い魔・ガンダールヴの為の武器を収集・研究している。しかし、これらは今のところ使える人間が見つかっていない。
・ガンダーラ商会のダンプカーやグライダーが一部ガンダールヴの槍に酷似している。グライダーの部品に使われるアルミニウムという金属はハルケギニアでは今までガンダールヴの槍からしか見つかっていないし、他の部品もその品質はハルケギニアではあり得ないもの。
・ガンダールヴの槍を運用できるようになるのであれば、虚無の研究が盛んなロマリアで自分への評価は果てしなく高まるだろう。間違いなく次期教皇候補の筆頭になるくらいだ。
・ツェルプストーがガンダールヴの槍に関する情報を持っており、一部とはいえ使いこなしていると判断した。
・攻撃したのはガンダールヴの槍を使用させ、観察するため。傭兵達は使い捨てでも良いつもりだった。
・キュルケを狙ったのは人質にしてガンダールヴの槍に関する情報と取引をするため。トリステインで情報もしくはガンダールヴの槍そのものと引き替えにする手筈を既に整えていた。
・今はガンダールヴの槍に関する情報を持っているのはウォルフ・ライエ・ド・モルガンだと睨んでいて、調査中だった。
・自分を売った美貌の若い神官には心当たりが無い。そもそも若く美しい小姓を側に置くのは権力を持った神官ならよくやる事なので対象となる者が多すぎる。

「父さま、ウォルフって始祖と関係があるの?」
「分からん。本人は知らんと言っていたし、あの顔は本当そうだったが…」

 エウスタキオ枢機卿を牢へ下がらせた部屋でキュルケや部下達と机を囲み、これらをどう判断して良いものやら頭を悩ませる。これまでに得た情報とも合致するし、一応納得の出来る内容なのだがあまりにも突拍子もない事なので迷う。

 貴族としてのツェルプストーはこれまでずっとガンダーラ商会及びウォルフとは友好的な関係を続けてきた。資金を提供し便宜を図ってやり、その代償として莫大な利益を得て新技術の提供を受けた。おかげで領内の発展は加速する一途だし、娘の命を助けられた恩まである。
 ツェルプストーとしてはその関係に不満はなく今後も続けていくつもりだが、ウォルフが始祖と関係がありその知識を利用しているという話には説得力がある。なにせウォルフの知識はあまりにも他と隔絶しているからだ。

 実は最近、間接的にしか利益を受ける事が出来ないゲルマニアの他の貴族からはガンダーラ商会の多くの施設がツェルプストーに集中している事に不満の声が出ている。強権を発動してガンダーラ商会をゲルマニアにある分だけでも国有化するべきではないかなどという提案が出されたりしている程だ。
 当然辺境伯に許容できるような事ではないのでこれまでは何とか抑えてきた。しかし、ウォルフが始祖に関係がある存在でその力の一端を自由に使えるという事になれば、ゲルマニアとしても対応を慎重にせざるを得ないので現状の維持がしやすくなる。
 もし強権を発動してウォルフがゲルマニアから出て行くような事が有れば、たとえガンダーラ商会の技術や資産の一部を手に入れたとしてもその損失は計り知れないものになるからだ。
 いずれにしてもまずはウォルフに確認と更なる情報収集が必要なので、当面判断は保留する事になった。

「まあいい。いずれ分かるときもあろう。キュルケ、エウスタキオの処分はどうする? お前がやるか、それともこっちで始末しようか?」
「あんな小物いらなーい。ヴァルの方がずっといいわ。ロマリアが欲しがっているんでしょ? あげちゃえば?」
「お前がいいならロマリアに引き渡すが――ヴァル?」
「ヴァレンティーニの事ですよ。どうもお気に入りになっちゃったみたいです」

 バルバストルがほとほと困った顔で辺境伯に教えた。ヴァレンティーニはこの一週間ずっと逃げ続けていて、キュルケはライムントの追跡部隊に参加していた。かつてエウスタキオ枢機卿の影響下にあった教会に身を寄せては襲撃されるという事を繰り返しており、現在はガリア西部を逃走中だ。
 キュルケはエウスタキオ枢機卿の生殺与奪の権利を握っている。ようやく処遇を決めるとの事で戻ってきているのだが、もう枢機卿の事を政治的には抹殺して復讐は成し遂げたと言えるし、取り調べ中のあまりに情けない姿を見ていたのでもう興味を失っていた。

「お気に入り? ヴァレンティーニだぞ、どこに気に入る要素があるというのだ?」
「何度か対峙してみたけど、素敵なのよ。風メイジって攻撃が軽いってイメージで今まで馬鹿にしてたけど、対人では本当に強いわね。私ではまだまだ一対一で勝てない相手よ」

 キュルケはどこかうっとりとした表情で言う。何気に馬鹿にされていたらしい風メイジのバルバストルは隣で渋い顔だ。

「強さはまあどうでもいいんだけど、包囲されて絶望に染まる表情とか、傷を負って思わず出る声を必死に抑えるところとか、本当に素敵なの。ゾクゾク来ちゃうわ」

 両手で自身の体を抱きしめながら漏らす吐息は、とても十二歳とは思えない悩ましさだ。

「絶体絶命の窮地でも心が折れないの。それで包囲にわざと穴を空けてあげるとすぐに気付いて、目が輝くのよ。キュートでしょ? 本当、彼の生に対する執着ってセクシーなのよ。もっと絶望させて彼の心が折れる瞬間を見たいわ」

 チロリと舌を出して唇を舐める。頬は赤く染まり、潤んだ瞳はまさしく恋する乙女のものだ。

「片足引っこ抜いたりしたら、どうかしら? それでも彼は杖を取るかしら。うふふふ……」
「……」

 これは、やばい。キュルケがとてもいけない道に踏み出そうとしている事を辺境伯は理解した。

「あ、あー、キュルケ、ヴァレンティーニの追跡はもうライムントに任せておけば良いだろう。テーブルマナーと詩歌の先生が暇そうにしていたぞ?」
「何でよ? 今テーブルマナーを習ったって、テーブルクロスを炎上させちゃう自信があるわ」
「いやしかしお前の将来のためにもいったんヴァレンティーニの事は忘れた方が良いと思うんだ」
「忘れられるものじゃあ、無いわ。この胸のときめき、父さまにだって止められないわ!」

 踏み出そうとしているのではなかった。もうキュルケは全速力で走り出しているようだった。



 明確な証拠を得た神官の不正については、ロマリア・ゲルマニア政府と三者でこの一週間折衝を繰り返した結果、ロマリア政府の責任で処分を行うことで合意を得た。
 きちんと処分が行われるのならばツェルプストーも事件を表沙汰にするつもりはない。死亡広告を見る限り今のところロマリアは約束を履行しているようだ。

 ヴァレンティーニを泳がせておく事も合意内容に含まれていて、事件以降彼が逃げ込んだ教会もエウスタキオ派という事で捜査の対象となった。ツェルプストーの追跡部隊に襲撃させ、その謎の集団による襲撃事件の捜査という名目でロマリア政府がその教会の不正を捜査している。
 元々神官の不正行為に気付きながらも証拠がないために声を上げられず、苦々しく思っていた者は宗教庁内部にも相当数存在した。浄化作戦と名付けられた捜査は密やかに、しかし大々的に行われた。

 ツェルプストー辺境泊は今回の事件においてブリミル教に対し多大な貢献があったとの事で、教皇から直々に聖シルヴェステイル教皇騎士団勲章を授与された。
 この勲章はブリミル教に対し多大な貢献があり、なおかつ人品信仰共に優れた人物のみに授与される大変名誉あるものだ。辺境伯領では七日間連続で祝賀の祭りが開かれ、大いに領主の栄誉を讃えた。

 こうして表向きは良好となったロマリアとの関係だが、安心ばかりはしていられない事もある。
 不正に関与した神官は全て処分したとは言え、ツェルプストーはロマリアという宗教組織の黒い部分の証拠を握ってしまっている訳で、今後彼の国がどのような態度に出てくるのかは分からない。
 辺境伯は領内の防諜組織を再編してこの不確定要素に対応していく必要に迫られた。

 エウスタキオ枢機卿について、拉致してきた事は何処にも知らせていなかったのだが、当然そんな情報は漏れるものらしい。ゲルマニア政府を介さずにロマリア政府が直接引き渡しの可能性を打診してきた。
 もう彼についてツェルプストーに用はなかったし、必要以上の情報は引き出していない事をロマリアに示した方が良いとの判断もあり、求めに応じ無名の背教者としてそのまま引き渡した。

 彼がその後どうなったのかは誰も知らない。その姿をロマリアの教会で見かける事は二度と無かった。




 陰謀、というのはエウスタキオ枢機卿に限らず、ロマリアという国では極々一般的な政治活動なのかも知れない。
 エウスタキオ枢機卿の処分が終わったある日、教皇のもとにあの美貌の神官が訪れていた。

「お前の言う通りツェルプストーに聖シルヴェステイル教皇騎士団勲章を授与したが、どうやらもうその効果は現れているようだ」
「元々欲しがっていたアルブレヒト三世には与えず、その臣下に与えたのが良かったようですね。随分とぎくしゃくしているようです」

 聖シルヴェステイル教皇騎士団勲章は権威がある。いや、権威が有りすぎる。ゲルマニア政府に、西部の諸侯がツェルプストー辺境伯を頭目にしてゲルマニアからの独立を考えるのではないか、との疑惑を抱かせるくらいには。
 力を付けすぎたツェルプストー辺境伯はゲルマニア政府にとって微妙な存在になっている。強力な味方ではあるが、強力すぎる味方は時として敵よりも危険な存在になり得るからだ。

「彼らがそのままゲルマニア政府に潰されるならそれもよし、大人しく恭順するのなら余計な事は出来なくなるだろう。独立するなら恩を売って首根っこをつかまえるのも良し、政府に荷担してやはり潰すのもまた良しか」
「はい。独立する場合は首都の近くに司教領を要求しましょう。下手な事は出来なくなるはずです」

 穏やかに微笑むその姿はとてもそんな腹黒い事を考えているようにはとても思えない。しかし、もしツェルプストー辺境伯がこの会話を聞いていたら盛大に顔をゆがめる事だろう。

「うむ。今後の成り行きを見守る事にしよう。今日は報告か?」
「先日のツェルプストーによるエウスタキオ枢機卿略取の件について、作戦解析がようやく終了いたしました。やはり当該拠点における侵入対策は正常に機能していたそうです。魔法防御も正常だったそうなので、あれほど容易に罠の存在を探知出来るはずはないと言うのが技術部の見解です」

 詳細はこちらに、と書類を手渡す。教皇は老眼鏡をかけてぱらぱらと目を通す。

「ふむ。彼らが我々にとって未知の虚無を利用している可能性はやはり高いか」
「そのようです。今回ツェルプストーにウォルフ・ライエ・ド・モルガンから何らかの技術供与が為されているのは確認できました」
「やはり鍵はド・モルガン少年か。虚無なのか、あるいは異端なのか……彼の事を観察するのだ、じっくりとな」
「御意。既に送り込む聖堂騎士の人選は済ませております。ガリア経由で潜入させましょう」
「彼らの活動によって大隆起もいくらかは遅れよう。焦る事はない、確実に開拓団の中枢に入り込むのだ」
「御意」

 ロマリアという国の密偵が本当に恐ろしいのは気が長いという事だ。信仰に支えられたその活動は何十年であろうと続ける事が出来る。国外に潜入したロマリアの密偵が、その地で数世代にわたって諜報活動を続ける事などはざらだ。
 今度は教皇の意を受けて、バラバラに四人の聖堂騎士が密偵として開拓団に送り込まれた。それぞれ得意な魔法が違う彼らは別々の部署に配属され、互いに相談する事もなければ定期的に連絡を取る事もないその男達を密偵と見破る事は不可能な事のように思われる。
 
 意識からして普通の開拓団員となった彼らは、開拓地にゆっくりと溶け込んでいくのだった。




幕間5   キュルケの復讐-5 虚無の契約



 エウスタキオ枢機卿をロマリアに引き渡してから三日後、さらってきてからは二週間が経った頃、ハルケギニアを忙しく飛び回るウォルフがその途中でツェルプストーの居城に立ち寄った。
 丁度エウスタキオ枢機卿達の葬儀から自領へと戻ってきていた辺境伯は自ら出迎え自室に通すと、事件の顛末を報告しガンダールヴの槍について正面から聞いてみた。

「ガンダールヴの槍、ですか」
「そうだ。今言った一致点がなかったら興味を持つ事はなかったとの事だ」
「始祖って使い魔が四ついるんでしたっけ?」
「そうだ。どんな存在かは伝わってはいないが、武器を操ったり笛を吹いたりしていたらしいから人間ではないかと言われている」
「うーん……」

 話を聞いてすぐに否定するのかと思っていたが、ウォルフは悩み出してしまった。
 ウォルフは混乱しているのだ。自分が地球文明からこの地に転生したことは理解しているが、その原因や過程はまったく不明のままなので自分と始祖との関わりを否定する事が出来ない。
 以前キュルケが襲われた後始祖についても調べたが、その使い魔が戦車や戦闘機を使用するような記述は無かった。ガンダールヴはたしかに剣と槍を持ってたはずなのだが、いつの間にか装備を近代化したのだろうか。

「どうなんだ。本当に始祖と関係があるのか?」
「うーん、わたしが始祖であるという事は無いです。始祖が虚無以外の系統を使えたという話は無いはずですから、火メイジであるわたしは始祖では有りませんし、虚無の使い手でも無いでしょう」
「ではガンダールヴなのか? 始祖を守る神の盾なのか?」
「それは、分からないとしか今は言えないですね…」

 ロマリアにあるらしい飛行機や戦車を操縦させるために、ブリミルもしくは他の虚無の使い手がウォルフの魂をこの世界に召喚したという事は、あるかも知れなくて、嫌だ。
 ウォルフは深々と溜息を吐くと、ゆるゆると頭を振ってまた考え込んでしまった。以前にも出ていた話だが、ロマリアが本気でそんな事を考えているとは思えなかったのだ。

「むう、結局わからんか。前にも聞いたが、何故、お前はアルミニウムなどの知識を持っていたのだ?」
「そこが、ガンダールヴ説について否定しきれないポイントですね。アルミニウム合金の組成などについての詳しい知識は実験などを通して得たものですが、アルミニウムそのもの、アルミニウムという金属が存在する事は、アルミニウムを見る前から知っていました。その知識を得た過程で始祖の意志が介在した可能性について、わたしは知見を持っていません」
「ううむ……そうだ、使い魔ならルーンが体のどこかに刻まれているはずだ。何かないのか?」
「それは無いと思います。見える範囲にはないと思いますし、昔から家族でよく一緒に風呂に入ったりしてましたが誰に何を言われた事もありません。昔、寝ている間ですけど幼なじみに裸にされて体中のほくろを数えられた事とかもありますが、その時も何も言われませんでした」
「貴様、その年でなんて楽しそうなプレイを」
「プレイじゃありません。昔と言ったでしょう、四歳の子供がした事です。翌朝気がついた時にちゃんと叱っておきました」
「さすがにルーンが刻んであったら気が付くか。まあ、将来刻まれるのかも知れんが」
「適当に言わないで下さい。人なのに使い魔にされるっていやな気分ですよ」

 本当に嫌そうに顔をしかめる。使い魔は幻獣や動物だから良いのであって、人間を使い魔にするなど趣味が悪いとしか思えない。

「その、ガンダールヴの槍、でしたっけ? 私が直接確認する事は出来ませんか?」
「いや、ロマリアの秘宝と言っていた。こちらから出向けば見られる可能性が無いとは言えんが、危険だろう」
「ですよねー。向こうが何考えているのか分からないのが怖いです」
「こっちでもこの件は調査を続ける。エウスタキオがいなくなったとはいえ、ロマリアがお前に興味を持っているのは確かだ。注意しておけよ」
「はい…ロマリアはなるべく避けるようにします」

 ウォルフはげんなりとした様子だ。ここのところ開拓が上手く進んでいたので上機嫌だったが、あんまり調子に乗らない方が良いかもしれない。

「うむ。では次に…お前の所に潜入していたモレノとセルジョだが、ろくな情報は持っていなかった。今日連れて帰っても良いぞ」
「ああ、ありがとうございます。エメリヒとクヌートも今のまま務めさせてくれるとの事ですし、メイジ不足の中助かります」
「隷属の首輪を政府から借りてきてはめてある。強制労働期間についてはこっちの基準では十年くらいだが、こいつらの場合はそっちで決めて良い」
「うわ、おおざっぱ。人権とか無さそうだな」

 あまりに適当な刑期に思わず小声でこぼした。封建領主の権力の大きさを感じる。
 モレノとセルジョはヴァレンティーニの逐電後速やかにウォルフによって逮捕された。いつも通り出勤するところに現れたウォルフになんの反応をする間もなく杖を奪われて逮捕されてしまい、その後「ちょっとツェルプストーに行ってきて」と言われて移送されていたのだ。
 二週間近く綿密に取り調べを受け、これまでヴァレンティーニの下エウスタキオ枢機卿のために働いてきた事が外患誘致及び内乱等幇助罪に相当するとして、強制労働が確定していた。ツェルプストーとしては死罪でも構わなかったのだが、ウォルフの希望を汲んだ判決となっている。

「うん? 何か言ったか?」
「いえ、何も。開拓地での仕事は気に入ってたみたいだし、今まで通り働いて貰いますよ」
「うむ。後はヴァレンティーニだが、ロマリアからガリア・トリステインと来て現在ゲルマニアを逃走中だ。どうやらお前の所を目指しているみたいなのだが、辺境の森に逃げられるとやっかいだ」
「一人で森に入って生きていけるとは思えませんが…開拓地まで来たら逮捕しておきますよ。これまで良く逃げた方でしょう」
「頼む。追跡部隊を使ってくれて構わない。キュルケにあまり関わらせたくないのだ」
「ああ、成る程。でも先週会ったときは随分と熱を上げてましたけど、昨日会ったときはもうそれほどでもなかったですよ?」
「そ、そうか? まあ本当の本気以外は飽きやすいというのもツェルプストーの気質でもあるな。うむ、そうか、それなら安心なのだが」

 先週会ったときは完全に箱の中のネズミをいたぶるネコ、といった感じでウォルフもこれはやばいと思ったものだが、昨日は割と冷静にヴァレンティーニを観察している、といった感じで危なさは感じなかった。

 モレノとセルジョの件についてあらためて礼を言って下がると、早速二人を受け取りに行った。「久しぶり、元気そうだな」などと普通に話しかけるウォルフに二人はとまどっているみたいだったが、諦めたのか何も言わずにウォルフと一緒にモーグラに乗り込んだ。



 開拓地へ戻り、二人がまた今まで通り働き始めて一週間後、ヴァレンティーニはマイツェンの隣の温泉町・ドルスキまでやってきた。
 まずは何をするつもりなのかまた泳がせておいたのだが、ヴァレンティーニがドルスキにやってきてから三日間、キュルケはドルスキには見向きもしないでずっと開拓団の手伝いをしていた。時間が空く度にバルバストル達と森へ入っては幻獣を狩ってきて、辺境の暮らしを満喫している。

「んー、じゃあキュルケは本当にいいんだな? 行かないって言うならモレノとセルジョに行かせるが」
「いいわ。こっちで幻獣狩っていた方が楽しいもの。まったく、ヴァレンティーニったら期待はずれよ」
「あー、そうなんだ?」
「そうよ。いつまで経っても反撃するそぶりも見せずただ逃げるだけ。あいつこっちに来るのにツェルプストー領を大きく迂回してきてるのよ?」
「いやまあ、普通敵の本拠地は避けるでしょ、危ないし」
「反撃するチャンスじゃない! 玉砕くらいの覚悟は決めて欲しいのに、昔の伝手を頼ってひいこら逃げるだけ。そんなんじゃダメよ、わたしの情熱は燃え上がらないわ。自分がかつての仲間達にとってかなり迷惑な存在になっているのにも気付かないでエウスタキオ枢機卿派の根絶に与しちゃっているし、もう幻滅」
「燃え上がらなくて親父さんはホッとしているみたいだったけどねー」
「ああ、これが本当の恋なのかと思ったのに、女の子はこうして大人になっていくものなのね」

 足を引っこ抜いてやりたいと思うような恋はさすがのハルケギニアにも無い。
 エウスタキオ枢機卿を逮捕するために隊員達が立ち上がり、実際に逮捕して見せた時にキュルケの復讐は完遂している。彼なら何かやってくれるとの期待を打ち破られたキュルケにとって、今のヴァレンティーニではその残り火を燃え上がらせる程の魅力もないようだった。

「ん、じゃあキュルケは今日も幻獣狩りか。気をつけてな」
「勿論よ。まだ死にたくはないもの。最近感覚が鋭くなってきたのよ、三十メイル位の範囲なら幻獣の数とかが大体分かるようになってきたわ」
「その感覚は大事だな。どんどん磨いていくと良いよ」
「ええ。見てなさい、その内目を瞑っていてもこの森で幻獣を狩れるようになるわ」

 ニヤリと笑うその顔は随分と精悍だ。ウォルフと初めて会った頃は普通の我が儘な貴族のお嬢さん、と言った感じだったキュルケだが、今は随分とワイルドに育っている。まだ短めな髪と相まってパッと見の印象は野性的でグッと男前な感じだ。
 そう言えば昨日も狩ってきた幻獣を港に並べ、頬が幻獣の返り血に汚れているのも気にせずにいい笑顔を見せていた。その幻獣を受け取っていたミレーヌの頬が赤く染まっていたが、きっと夕陽が照らしていたからだと思いたい。



 キュルケが行かないというので、ヴァレンティーニの逮捕にはライムントの部隊をバックアップにしてモレノとセルジョの二人を向かわせる。
 二人はライムントが立てた作戦に沿って休暇のための定期便でドルスキに向かい、のんびりと街を廻って温泉カフェで時間を潰す。温泉カフェは温泉を飲むための施設だ。医師の指導の下、健康状態に合わせて飲泉する。
 平日の午後だったのでカフェ内は空いていて、中庭に面したオープンスペースの立席テーブルで温泉を飲む。そんな二人にゆっくりと近づいてくる男がいた。ヴァレンティーニだ。

「ヴァレンティーニ様……」
「久しぶりだな、二人とも無事で何よりだ。連絡が取れなくなっていただろうと思うが、本部はツェルプストーの襲撃を受けて壊滅した。異端めが、エウスタキオ枢機卿の命も奪ったらしい」
「死亡広告を見ました」 
「うむ。俺も散々襲撃を受けたが、この街に来てからは襲われていない。ようやく撒けたようだ」
「それは大変でした」
「三人いれば今後の襲撃から逃げるのも容易になるだろう、また神のために働いて貰うぞ」

 大仰に頷くヴァレンティーニだが、二人は困惑した顔を見合わせるだけだ。

「それで、今後の事だがロマリアにはいつか戻るつもりだが、ここまで来たのには目的がある。ウォルフ・ライエの所有するモーグラを奪い、逃亡の足を手に入れるつもりだ。こいつでは三人乗れないからな」

 左手に握りしめたセグロッドを見せる。逃亡生活を支えてきたそのセグロッドはこれまでの戦いで随分と傷ついていたが、ヴァレンティーニにとって心の支えだった。

「お前達の報告で昼間はマイツェンが手薄になっている事を思い出したんだ。モーグラを手に入れたら、ほとぼりが冷めるまでアルビオンのゲーガン枢機卿を頼るつもりだ。彼ならばこちらも弱みを握っているし色々とやりやすい」
「……ご存知有りませんか。彼は既に信仰に重大な違反があったとの事で枢機卿会議にてその地位を剥奪されています。侍者の少年達にしてきた事がばれたのでしょう、司教区からも追われていますので今はどこで何をしている事やら」
「で、ではロウ枢機卿はどうだ、彼なら……」

 またモレノが首を振る。ヴァレンティーニはその後も何人かの名前を挙げるが、ことごとく元の地位にとどまっている者はいなかった。
 黙ってしまったヴァレンティーニにモレノとセルジョは困ったように顔を見合わせた。

「ヴァレンティーニ様、実は俺達からも報告があるのですよ」
「う、うむ、お前達もこんな辺境で孤立無援では大変だったろう。あの後の事を教えてくれ」
「まあ、それほど大したことはなかったんですけどね」

 モレノが首に巻かれているマフラーをゆっくりとほどく。そこには罪人の証である隷属の首輪がしっかりとはまっていた。
 ヴァレンティーニの動きが止まる。その一瞬のうちに背後に立っていたセルジョが呪文を唱えた。

「《ライトニング》」
「ぐあああ!」

 背後から放たれた電撃にヴァレンティーニは咄嗟に手にした杖を取り落とし、その場に倒れた。モレノは杖を蹴飛ばして遠くへ転がすとセグロッドを握る手を踏みつけて離させる。まだ痺れが残り動けないヴァレンティーニを後ろ手に拘束して、さらにブーツに隠してある予備の杖とナイフも取り上げた。

「申し訳ないです、ヴァレンティーニ様。俺達はもうウォルフ様の手兵なのです」
「ぐ、があ、この裏切り者め、今までの恩を忘れおって……」
「いや、まあそうなんですけどね、あなたには教皇聖下の御名前で背教者認定が出されております。この辺が潮時でしょう」
「馬鹿な、俺はこれまでロマリアのためにずっと働いてきたのだぞ、どうして、それが」
「これまで見捨ててきた人達と同じですよ。今度はあなたの番になったというだけです。それに、困った事にウォルフ様にも恩を受けちまいまして、どっちの方が大きいかって話もありまして……」

 ヴァレンティーニの顔が絶望に染まる。背教者と認定されるということは、異端認定ほどではないが、ハルケギニアの社会的立場としては抹殺されたということだ。ヴァレンティーニはこれまでロマリアという宗教の権威を利用して好き放題に工作活動をしてきた。その権威を取り上げられ、自分の未来が閉ざされた事を理解した。

「くそっ、もう俺の生きる場所はハルケギニアには無いというのか。何故だ。何故こんな事に」

 喚くヴァレンティーニにセルジョが悲しげな顔を向け、セグロッドを手に取る。

「噛み付く相手を間違えましたね。こいつだって、いくら便利だからってずっと使い続けるなんて……逃走用の乗り物はこまめに取り替えろってヴァレンティーニ様は教えてくれてたじゃないですか」
「な、セグロッドになにか仕込んで有ったというのか? ちゃんと調べていたぞ、位置を知らせるような、そんな魔法はなかった!」
「ウォルフ様の事をその程度にしか認識していない事が全ての敗因です。俺達の事も最初からばれていたそうですし」
「そんな、馬鹿な、何故そんな全てが見渡せる。……虚無か? ウォルフ・ライエが虚無なのか?」
「虚無じゃあ、無いそうですよ《レビテーション》」

 ぶつぶつと呟いているヴァレンティーニを魔法で持ち上げて肩に担ぐ。もうドルスキの港には搬送用のモーグラが待機している。セルジョはせめてそこまでは自分の手で連れて行くつもりだ。
 突然の逮捕劇に周囲は多少騒然としたが、この街の領主・ミルデンブルク伯爵家の騎士を連れたライムントが姿を現し、ツェルプストー領を襲撃した凶悪犯である事、ロマリアからも手配状が出ている事を説明するとすぐに落ち着いた。今度は好奇の視線で見られる事になったが。
 その視線の中をヴァレンティーニを肩に担いだセルジョが歩く。

「こっちは、居心地が良いですよ。ロマリアよりも、ずっと。ここに送り込んでくれた事を感謝します」

 セルジョのつぶやきを、もうヴァレンティーニは聞いていなかった。



 ヴァレンティーニが逮捕されたドルスキの街から遙か離れた南の地、ロマリア。その中心部の大聖堂にもほど近い宗教庁の建物、その中でも教皇に近しいものしか入れない中枢部にある一室で、その報を受けた二人の人物がいた。
 一人はライムント達の前に現れた謎の神官、もう一人はこんな場所にいるのがそぐわない少年。粗末な衣服に身を包み、明らかに場違いである少年はしかし、怯まず、気後れもせずに堂々とそこに立っていた。

「ヴァレンティーニも捕らえられたみたいですね。どうやら事件は全て解決した模様です」
「ふうん。密偵を送り込むんだろ? そのガキが始祖と関係があるのかもう分かったのか?」
「いいえ。しかし彼が始祖と何らかの関係がある事は、彼の発明品とガンダールヴの槍とを見比べれば明らかです。彼が何に導かれ、どのようにしてこの地に至ったのか、今後も研究していく必要があるでしょう」

 ニッコリと笑う神官は本当に美しく、信者の女性達がその微笑みで失神すると言われているのも納得できる。

「彼のようにあちらの世界から来た人間はこれまでにも居ました。しかし、彼のように魔法を使いこなす事が出来る人間は初めてです。ブリミル様の恩寵が彼の地の人々にも降りているのかもしれないというのは、興味深い事実です」
「へっ、羨ましいねえ。ハルケギニアに住んでたって魔法を使えない平民なんてごまんと居るってのに」
「恩寵が降りた者が降りていない者達を導くのです。彼の知識は正しい信仰のために使われる事になります」

 ウォルフの存在もロマリアからすれば既に予定調和の中に組み込まれているものらしい。
 ロマリアは長い長い歴史の中で、常に周囲のものを自分のものとし、利用してその勢力をハルケギニアに深く浸透させてきた。その彼らにとって、ウォルフなどはほんのちょっとしたイレギュラーでしか無いようだ。

「今回は彼の協力もあり、予想以上のペースで腐敗神官の排除を断行できました。これも神のお導きによるものでしょう」
「確かにお前の言う通りだったな。あのいけ好かない助祭が鼻水垂らして命乞いしていたのには胸がスカッとしたぜ」
「それで…どうですか? 決心は付きましたか?」
「……いいぜ。お前は約束を守った。今度は俺の番だ。お前に従えば、みんなを救えるんだな?」
「勿論です。来るべき大隆起、これを防ぐためにガンダーラ商会も動き始めているようですが、まだ足りない。彼らの方法ではハルケギニアの一部しか救えない。全てを救うためには神の奇跡が必要なのです」

 そう言いながら真っ直ぐに見詰めてくる瞳は、どこか狂気をはらんでいるように感じられて、少年はゾクリと背筋に冷たいものが走るのを感じた。しかし迷う事はなく、胸を張ると強気に言い放った。

「それが俺の運命ならば、受け入れてやる。お前の使い魔になってやるよ」
「ブリミル様に感謝を。我々の研究では、おそらくあなたが授かる力はヴィンダールヴ。幻獣がひしめく辺境の森だろうと自由に行き来できるようになるはずです」
「案外ガンダールヴとやらになっちゃうかもな。そうなってもガンダーラの調査は続けるのか?」
「やってみれば分かる事です。……では、早速コントラクト・サーヴァントを行いましょう。目を瞑って下さいますか?」
「何でだ? 何かずるしないか見ていたいんだけど」
「ちょっと…目を開いていると、気恥ずかしいでしょう。大丈夫、痛くはしませんから、リラックスして目を閉じて下さい」
「何で近付いてくるんだよ! ちょっと待て、いいから待て」

 謎の神官は待たない。少年を部屋の角に追い詰めて逃げ場を塞ぎ、ゆっくりと近付きながら呪文を唱えた。

「さあ、契約しましょう。『我が名はヴィットーリオ・セレヴァレ。五つの力を司るペンタゴン、この者に祝福を与え、我の使い魔となせ』」
「だから待てって言ってんだろ! な、何、何!? アッー!!」

 神の導きにより不滅の栄華を誇る、光の国ロマリア。ブリミルの栄光を永遠のものと記憶する地でこの日、虚無の契約が成された。

「初めて……だったのに……」



[33077] 3-0    初めての虚無使い
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:36
 その日カールの元を一人の客が訪れていた。

「やあ、これは久しいなあラ・ヴァリエール公爵、サウスゴータへようこそ!」
「ご無沙汰しております、ミスタ・ストラビンスキー」

カールの屋敷に現れた壮年の男性をにこやかに出迎え、久方の再会を喜ぶ。
その客、ラ・ヴァリエール公爵は少し緊張した面持ちで挨拶を返した。

「しかし、いつ以来じゃろうなあ、ワシがこちらに来てからは初めてじゃから二十年近くぶりになるか」
「不肖の弟子の分際で、いつも手紙での挨拶ばかりで申し訳ない」
「弟子などと・・・三十年以上も前の事じゃよ。立派な貴族になられたな」

目を細めてラ・ヴァリエール公爵を見る。少年の頃の面影は其処此処に残っていて懐かしく感じさせた。

「しかし、公爵家の当主ともあろう者がお忍びで他国まで来るというのはただごとではないな、手紙に書いてあった娘のことか」
「はい、いくらやっても魔法を成功させることが出来ないのです。そこで先生にも話を聞けば何かヒントになることがあるのでは、と藁にも縋る思いで参りました」
「ふむ、しかしお主や奥方が長年見てきてできなかった物をワシがすぐに何か言えるとも思えんのじゃが・・」
「いや、実は手紙に書いてあった少年のことでこちらに来る決心をしたのです。なんでも魔法を爆発させた、とか」
「ああ、ウォルフの事じゃな。アレは吃驚したわい、普通に『発火』の魔法を教えておったらいきなり爆発したんじゃ」

ひっくり反っておったわい、と続け思い出してにやりと笑う。

「その子のことです。実は私の三女はただ魔法が成功しないのではなく、全て爆発を引き起こしてしまうのです」
「なんと・・・」

全ての魔法が爆発する、そんな聞いたことのない現象に絶句する。公爵令嬢がそんなことになっているとしたら、確かに問題であろう。

「ですから、私は先生に尋ねたいのです。その子の魔法は何故、爆発したのか、そしてどうやって成功するようになったのかを」
「あの時はたしかイメージの問題と言っておったが・・・ワシには解らんのだよ」
「解らん、ですか・・・」
「ああ、解らん、な。あの子の魔法は往々にしてワシの理解を超えておるのじゃ。」
「そうですか・・・・」

がっくりと落ち込んでしまった公爵を気の毒そうに見やる。
僅かな望みにかけこんな所まで来たことが無駄になってしまい、その横顔に浮かぶ徒労感は隠しようもなかった。

「その子は連れてきているのか?」
「はい、アルビオン旅行ということで連れてきました。今は宿屋に置いてきています」
「ではウォルフに直接その子の魔法を見せたらどうじゃろう。彼なら何か気付くかも知れん」
「その子にですか・・・その子は今何歳で?」

公爵が躊躇する。噂が立つのをおそれているのだろう。

「十一歳じゃ。大丈夫、賢い子じゃよ。余計なことは口にせん」
「ルイズと同い年ですか、ううむ・・・」
「ワシも一緒に見るが、おそらくワシよりはウォルフの方が何か解る可能性が高いと思う。あの子はわしら大人とは全く違う物の見方をしている」

結局翌日にウォルフを呼んでルイズの魔法を見せることにした。




「初めまして、ラ・ヴァリエール公爵、お嬢様。ウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。よろしくお願いします」

翌日の午後、ウォルフはカール邸の中庭に来ていた。
最近はあまり来ることもなく、たまにお茶によるだけであったがウォルフにとってはいつもの場所である。
紹介を受けて挨拶を返したウォルフの前にいるのはトリステインのラ・ヴァリエール公爵と、長いピンク色の髪が特徴的なその三女である。

「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ」

素っ気なく応えるルイズは少し緊張しているようだった。
昨夜ヴァリエール公爵に聞いていたとはいえ、同年代の男の子に自分の失敗魔法を見せるのは初めてなのだ。
ウォルフはその鳶色の目に怯えを感じ取り何も言わなかった。

「ではルイズ、何か魔法を使ってみなさい。カール先生とウォルフ君が見ていてくれるそうだ」
「はい、お父様・・・・・《レビテーション》!」

ボカンと音を立ててルイズがねらいを付けた石の辺りが爆発して散った。
ルイズは悔しそうに下唇をかんでいるが、ウォルフは驚きに大きく開いた目を輝かせていた。

「実際に見ると話以上じゃの。どうじゃ、ウォルフ何か分かったか?」
「いいえ、今のだけではちょっと・・ミス・ヴァリエール、系統魔法も使ってみていただけますか?」

何故か目をキラキラさせ嬉しそうに話し掛けてくる少年に若干引きながらも、公爵を見上げ許可を得ると続けて魔法を使った。

「《発火》!」ボカン!

「おお!風系統もお願いします」

「《ウインド》!」ボカン!

「水系統も」

「《凝縮》!」ボカン!

「土も」

「《練金》!」ボカン!

 カールはあまりにもデタラメな魔法に掛ける言葉もなかったし、ヴァリエール公爵も目元を抑えて俯いてしまっている。
ルイズは杖を握りしめた手を震わせ下を向いて今にも泣きそうだ。
そんな中で一人ウォルフだけが嬉しそうにうんうん頷いていた。

「何じゃウォルフ何か分かったのか?」

その言葉に公爵とルイズの視線が集まるのを感じながら、言葉を濁す。

「いえ。コモンマジック、系統魔法で全て同じように爆発していますね。・・ちょっとカール先生と二人で話をしたいのですが・・・」
「公爵とワシとは三十年来のつきあいじゃ、遠慮は要らん、ここで話せ」
「推測なので、公爵様達にとって余計な事を耳に入れてしまうかも知れません。ちょっとその前にカール先生の意見を聞きたいのです」

存外に頑なな態度で二人きりになることを要求するウォルフに折れ、公爵親子に断ると別室に向かった。

「で、推測とは何じゃ、話してみよ」
「恐らくミス・ヴァリエールの系統は、・・・虚無です」
「なっ・・・・・・」
「ほぼ間違いないと思います。私が虚無についてこれまでに立てた仮説に一致しますし、今観察した内容もその正しさを裏付けています」
「ど、どのくらいの確率でそうじゃと思っている?」
「九十九パーセント。いやあ、さすが公爵家ですねぇ、凄いなあ。伝説の系統を目にすることが出来るとは思わなかった」

 ウォルフの研究では魔法の発動には魔力素という物がかかわっていることが分かっている。
これは四種類有り、それぞれが火土風水に対応している。これが大きく複雑になり自意識を持つようになった物が精霊と呼ばれる存在である。
しかし、この魔力素はもっと小さな存在、"さらなる小さな粒"から構成されているらしいことが分かってきて、それをウォルフは魔力子と呼んだ。
恐らく虚無の系統は、この魔力子を直接操る事を専門とする系統なのだろうと仮説を立てていたのである。
そして、この魔力子を直接操ることが出来るのならば、時間や空間そのものの操作が魔法で可能になると予測していた。
ウォルフが観察したところによると、ルイズは魔力素を操ろうとして、それを構成する魔力子を引っこ抜いてしまっているようだった。
そのため魔力素が魔力素として存在することが出来ず爆発を起こしているみたいなのである。
精霊がいたら皆殺しにしてしまいそうな魔法だ。

「虚無の系統と言ってもルーンなど伝わっておらんぞ。・・・・これは公爵に話して彼に判断してもらうべき事ではないか?」
「それでもいいですけど、今のところ推測だけですからね。信じない可能性もあります」
「ふーむ、お主はどうするつもりじゃ?」
「私に二三日貸してもらえませんか?コモンマジックなら出来るようになる可能性があります。それが出来るようになってから話した方が面倒が少ないのではないでしょうか」
「公爵令嬢をそんな猫の子を借りるように言うでない。お主成功させられるのか?」
「『ライト』とか『レビテーション』とかなら教え方によっては成功すると思います」

 それからも話し合ったが結局ウォルフの言う通り公爵に提案する事にした。
そしてウォルフがルイズを連れてド・モルガン邸に行ったら公爵にも話し、納得してもらうのだ。
ルイズが魔法を成功する前に話して、頭から拒絶されたくはなかった。

「ああ、待たせたの、ちょっと話が纏まらなかったんじゃ」
「それで、先生の判断はどうなりましたでしょうか」
「ウォルフの言うことは正しそうでもあるんじゃが、何分推測が多くての、もっと慎重に判断すべし、と言うことになったんじゃ」
「と、言いますと?」
「ルイズ嬢をウォルフに二日ばかり預けてみんか?それくらいあればコモンマジックなら出来るようになる可能性が高いそうじゃ」
「理由はなしで、ですか・・」
「そうじゃ、済まんがいい加減なことを言うわけにはいかんのじゃ」
「ううむ・・・・ウォルフ君、率直に言ってくれたまえ、君は、ルイズの魔法をみてどう思った?」

公爵がウォルフに向き直り尋ねた。その体から発せられる覇気は、さすが一流のメイジと思わせる物だった。

「興味深いですね。他に誰も例がないというのがまた・・・ただ、私の魔法理論ではあり得る現象です」
「ふむ、ルイズの魔法が普通にあり得る、と・・・・・」
「普通、とは言いませんが。普通であろうと無かろうと、そこに"在る"現象は在るのです」

 どうもハルケギニア人は自分が理解出来ないことを有り得ないと言って済ませてしまう傾向がある。
なぜそれが起きているのかを考えることを放棄してしまうのだ。
ルイズももう十一歳とのことである。
こんなに大きくなるまで虚無の系統である可能性を全く考慮せずに、ただ漠然と魔法の練習をしていたらしい事に愕然とする。
どう考えてもルイズの魔法が普通ではないことは一目瞭然だろうに、魔法が爆発するなんて"普通、有り得ない"事だからと考えることをやめてしまうのだ。
普通、有り得ないのであれば、普通ではない場合の可能性を精査すべきなのだ。

「・・・分かった。君の"魔法理論"でルイズを指導してみてくれ」
「かしこまりました」

 改めてウォルフはルイズに向き合った。
ルイズは拗ねたように口を尖らせそっぽを向いている。

「じゃあ改めてよろしく、ミス・ヴァリエール・・・長いからルイズって呼んでいい?」
「いいんじゃない?あんた先生らしいから」

中々難しそうなお嬢さんである。

「じゃあルイズ、まずはオレの家に移動してちょっと魔法を使ってみよう」
「何で移動するのよ、ここでいいじゃない」
「うーん、ここはもうじきカール先生の生徒達が来るんだ。ほら君の魔法はその・・・刺激的だから」
「わわ分かったわよ!移動すればいいんでしょ!」

そう怒鳴るとルイズはウォルフより先に立って屋敷から出て行ってしまう。
ウォルフは慌てて公爵とカールに挨拶をして後を追うのであった。



 何とか反対方向に歩いていってしまっていたルイズを引き戻し、ド・モルガン邸に着いた。
出迎えたサラにちょっと大きな音がするけど気にしないように言って、他の使用人にも伝えてもらった。

「さて、ルイズ。練習を始める前に確認をしておきたいんだが、君は今の自分の現状をどう考えている?」
「どうって?」
「トリステイン屈指の名門ラ・ヴァリエール公爵家の三女。一流のメイジである両親の間に生まれ、美しいピンク色の髪と愛くるしい顔立ちにすらりと均整の取れた健康な体を持ち、将来はかなりの美人になると思われる。公爵の話によると頭脳も明晰で努力家。優しく思いやりがあり、前向きな性格をしている」
「そそそそうね、そそそんな風に言われることもあるわね」

べた褒め、と言っていいウォルフの言葉に思わずルイズの頬が赤くなる。

「反面、魔法の才能はゼロ。何をやっても爆発し、そのたびに両親や周りの者に迷惑を掛けている。その原因は全く不明で、それ故将来的にも期待は持てず、使用人にも気を遣われる始末。・・・オレから見るとこんな感じだけど、君としてはどう?」
「なななんで、ああああんたなんかにそんな事言われなきゃならないのよ!」

目に涙を浮かべ、拳を振るわせながら睨みつけてくるルイズと目を交わし、続けた。

「ねえルイズ、君は本当に魔法が使えるようになりたい?君が魔法を使いたいって思うことは、とても辛いことなのかも知れないよ」
「ああああたりまえじゃない!わわ私がどれだけ魔法を使えるようになりたいって・・・」

とうとうポロポロと涙がこぼれてしまうがそれでもまっすぐにウォルフを睨み続ける。
その涙をウォルフは美しいと思う。

「魔法さえなけりゃ君はとても幸せな人生を送れた筈なんだよ?公爵様は優しいし、君が魔法を諦めるって言えばきっとそれでも幸せになれる人生を用意してくれると思うんだ」
「・・・私は貴族よ!そんな卑怯な人生を送りたいなんて思わないわ!」
「絶対に諦めないと言うんだね?」
「そうよ!私が諦めるのは、私が死んだときだけよ!」

存在の全てを掛けて少女が叫ぶ。
もう涙は止まっている。睨みつけて来るその瞳をどこか眩しい気持ちでのぞき込み、ウォルフも決意する。

「じゃあ、オレは約束しよう。ルイズ、オレは君が魔法を使えるようになる方法を知っている。君が諦めないのなら、君が魔法を使えるようになる、その方法を教えるよ」
「私、魔法、使えるようになるの?」
「大変だけど。これまでの考えを全部捨てなきゃならないんだ。これまでのルイズは魔法が使えないルイズ、それを捨てて魔法が使える新しいルイズになるんだ」
「魔法が使える新しいるいず・・・・」

ルイズの手を握り、至近距離でその鳶色の瞳を見つめながら小さい子供に言い聞かせるように語りかける。
ルイズもどこか呑まれたように見つめ返していた。

「そう、だからこれからオレが言うことを全部信じて欲しいんだ。この屋敷にいる間は"うそ"とか、"有り得ない"とか"そんな筈はない"とかは言っちゃだめだ。いい?オレが言うことをそういうもんだって思って魔法をイメージするんだ、できる?」

コクコクと頷くルイズ。どこか幼児化しているようだ。
暫くルイズを落ち着かせるために深呼吸をさせる。

「いい?魔法を使いたいって思うことが魔法を使えるようになる事じゃないんだ。自分のイメージと世界とを合わせるのが魔法なんだ!つまり魔法が出来るようになるには、世界を知ればいいんだ」

じゃあまず一つ教えよう、と石を一つ手にとり説明を始める。

「ルイズ、この石は手を離すと地面に落っこちてしまう。何でだと思う?」
「そりゃ、物は下に落ちるものだからよ」
「じゃあ何で月は落ちてこないの?」
「月にはきっと月の精霊がいて・・・」
「違うよルイズ。月には精霊なんていない。正解はこの世界には万有引力という物が存在するからなんだ」
「?万有引力?」
「そう、この世界の全ての物体にはお互いに引っ張り合う力が掛かるんだ。その大きさは物体の重さに比例し、距離の二乗に反比例する」
「???」
「全ての物は互いに引っ張り合っているんだ。地面に落ちると感じるのは地面の方が圧倒的に重いからで、月が落ちてこないのは月を引っ張る力と月が地面の周りを回って懸かる遠心力が釣り合っているからだよ」
「全てが引っ張り合う・・・」
「そう、それでその力を媒介する小さな粒がグラビトンていう素粒子なんだ」 
「素粒子・・・」
「ブリミル様の粒理論ってあるよね、そのもっとも小さな粒を素粒子って呼ぶんだ」
「・・・」

「つまり、この石から出ているグラビトンを出さなくするようなイメージで魔法を使うと・・・《グラビトン・コントロール》」

ふっという微かな音とともに石が上空に舞い上がる。
やがて魔法を切られた石が地面に音を立てて落ち、ルイズはそれを口を開けて眺めていた。

「そそそんな魔法って聞いたこと無いわよ、おおオリジナルなの?」
「オリジナルって言うか、『レビテーション』に含まれる魔法の成分を抜き出しただけ。ものすごく単純な上にルイズには適しているって思ったから」

魔法の成分を抜き出すなんて聞いたこと無いわよ、と叫びそうになるが、思い返せばさっきから聞いたことのないことばっかりだった。
新しいルイズになるんだ、と繰り返しつぶやき、心を落ち着かせ考える。

「つまり地面と石との間に働いているグラビトンってやつを動かなくするイメージでいいのね?」
「そうそう、飲み込みがいいね。動かなくするって言うか、オレは出させなくするっていうイメージでやっている」

しばらくルイズは目を閉じて「新しいルイズ、魔法が使える新しいルイズ」とぼそぼそ繰り返し呟いていたが、やがて目を開き、眼前の小石を睨みつけた。

「やってみる。グラビトン・コントロールね、グラビトン・コントロール、グラビトン・コントロール・・・・いくわ!《グラビトン・コントロール》!」

ふらっと一瞬石が揺らいだと思うと、ふっという音とともに上空高くに舞い上がった。

「ルイズ、魔法を切って。石が上がりすぎて危ない」

そう横から声を掛けるが、ルイズは目を見開いたまま空を睨み絶賛魔法行使中である。
しかたないので手を伸ばし、杖を取り上げるがルイズはそれに気付いた様子もなかった。
やがて風に流された石が少し離れたところに落ちてきたので、ウォルフが『レビテーション』で回収した。

「はい、ルイズが魔法で飛ばした石。爆発してないよ」

じいっと石を見つめていたので杖と一緒に渡すと、その石を抱きしめたまま座り込んで泣き出してしまった。
暫く宥めていたのだが、まったく効果はなく泣くに任せるしかない。

こんなにすぐに魔法を成功する事が出来た、と言うことはルイズが心からウォルフのいうことを信じたと言うことだ。意地っ張りなだけで結構素直な女の子なのかも知れない。
ルイズの頭を撫でながらそんなことを考えていたら、

「ウォルフ、様、何、女の子泣かせて、いるんですか?」

背後から液体窒素よりも冷たい声がした。

「サラ、これはオレが泣かせた訳じゃなくて、彼女は初めての魔法を成功させた喜びの涙を・・・」
「先程は手を握りしめて何か囁いていましたよね?」
「見てたんだ・・いやいやそれは誤解だから。あれはただ彼女の心に言葉が届くように言い聞かせていただけ・・・」
「心に言葉が届くように・・・ですか」

何か何時になくねちっこく絡むサラにこれはだめだと判断し、逃げ出すことにした。

「あ、もうこんな時間だ。サラ、ミス・ヴァリエールをカール先生の所まで送ってくる。ほらルイズ、立って。帰るよ」

 カールの屋敷に着くまでずっとルイズは泣いていて、その心にのしかかっていた重圧を思いウォルフは何も言わず隣を歩いた。
ただ、カールの屋敷についてもまだ泣いていたルイズと一緒にヴァリエール公爵の前に立ったとき、ウォルフは自分の判断を後悔した。
ルイズの涙を見たヴァリエール公爵のまわりの温度が下がり、大気中の水分が凝縮しだしたのだ。
ウォルフにとって幸運だったことは、公爵が攻撃する前にルイズが公爵に抱きついて誤解が晴れたことだ。

「魔法、まほ、魔法・・・・」

ズビズビと鼻を鳴らしながら公爵の胸でルイズは泣き続けた。



[33077] 3-1    ラ・ヴァリエール公爵の目的
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 00:00
 降臨祭を前にざわつくサウスゴータの街を、ウォルフは人込みを避けながら美しいピンクブロンド色の髪の少女と一緒に歩いていた。
 明日から十日間が祭りの本番、今夜は前夜祭なので街には多くの屋台が出て賑わっている。東方開拓を始めてから二度目の降臨祭だ。ウォルフは十一歳になっていた。

「昨日よりまた人が増えたわね。なんだか屋台とかも増えて街の様子が違うし、確かにこれで一人じゃ迷子になったかも」
「だから言ったろ。くだらない事で意地を張るもんじゃないよ」

 少女の名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。トリステインの名門ラ・ヴァリエール公爵家の三女だ。ウォルフの恩師・カールからの依頼により彼女に魔法を教えて二日目、この日は『ライト』の魔法を教えたその帰り道、公爵の待つホテルへと送っている途中だった。

「昨日の状況だったらわたしは一人でもきっと帰れた。今日こんな風になっているなんて知らなかったのだもの、しょうがないわ」

 講義が終わって帰るとき、一人で帰れるか一悶着があって結局ウォルフが送る事になったのだが、ルイズは結構頑固だった。実際はルイズには護衛が付かず離れずに付いていて、一人で帰しても問題なかったしウォルフもその事には気付いていたが、まあ、一応女の子だしウォルフには付いてる密偵も多いので念のため無理に付いてきたが正解だったようだ。
 ウォルフに強気な事を言いながら、ルイズはご機嫌だ。その理由はただ一つ、魔法だ。
 これまで彼女はハルケギニアでも屈指の名家に生まれながら魔法が使えなかったのだが、ウォルフの教えを受けるようになって早速昨日は『グラビトン・コントロール』、今日は『ライト』と、次々に魔法を使えるようになっている。その事実は問答無用に彼女を有頂天にさせるのだった。

「ふふふ、『ライト』……くっふふふ、こっちにも『ライト』」

 道を歩きながら呪文を唱え、杖を振って屋台の軒先や夫人の連れている子犬の鼻先、ワインの瓶や吊してある牛の頭など、目に付く端から次々に明かりを灯す。ルイズが灯した明かりは赤や青、緑やオレンジなど様々な色の光となり、人込みで賑わう夕暮れ時の街を彩った。

「おーい。街中でむやみに杖を振らないでくれ。『ライト』とはいえ、怖がっている人もいる」
「何よ、いいじゃない。これから夜になるんだし、いろんな色の光が有ればとても綺麗よ」

 注意をしても聞く耳を持たない。ルイズは上機嫌で更に明かりを増やす。失敗したら惨事を引き起こすくせに良い気分だ。

「ふふふ、こんなに色とりどりの『ライト』をあやつれるメイジなんて、他にはいないわ。七色…そう、"七色のルイズ"よ。ねえ、わたしの二つ名"七色"がいいんじゃない?」
「別に良いけど、それだと七色の『ライト』使えるだけっぽくて、今いちかな」
「何よ、『ライト』だけじゃなくて七色にちなんだ魔法が出来るようになればいいだけよ。えっと、赤い閃光と共に炎が燃え上がる、とか青色の光ともに水が噴き出す、とかそんな感じで」
「あー、まあ、頑張って」

 彼女が今使っている『ライト』は電磁波を発する魔法だ。通常ハルケギニアのメイジは様々な波長の光が混じった白色の可視光を発しているが、イメージさえ持つ事が出来れば電波からガンマ線までも照射できる汎用性が高い魔法だ。
 ちょっと光をいじって波長と位相をそろえたコヒーレント光を高出力で照射すればレーザー兵器の出来上がりなので、ルイズの言っている赤い光と共に炎が燃え上がるくらいは軽く出来そうだ。兵器に使える程のレーザーなど魔法がなければ途轍もない巨大な設備になってしまうが、メイジには関係ない話なのだ。
 開拓地では魔法具として既に実用化しているものではあるが、とても危険な魔法になるためウォルフに教えるつもりは無い。

「ふんだ。魔法なんてコツを掴んだら簡単なものよ。見てなさい、すぐにあなたに追いついてやるんだから」
「その意気や良し」
「ところで、次の魔法は何なの? そろそろ『ファイヤーボール』とかかしら」

 君は『ファイヤーボール』を使えるようにはならないんじゃないかな、と言いそうになるのをぐっとこらえる。
 ウォルフの見立てではルイズは伝説の系統・虚無系統のメイジなのだが、まだヴァリエール公爵の判断で本人には伝えていない。

「明日はオレあんまり時間とれなそうなんだよな。明日になってから考えるよ」
「ふうん。じゃあ、後のお楽しみね。あー、おなか空いた! 魔法ってお腹空くのねえ、今まで使えなかったから知らなかったわ。あ、でも夕食はまたあのレストランなのよね」

 機嫌の良いルイズは口数も多い。この後ウォルフはいかにアルビオンの料理が不味いかという事についてさんざん聞かされた。

「とにかく、初めてアルビオンでスープを口にしたときの衝撃は忘れられないわ。トリステインでは肉や野菜を煮ただけの味も何もないものをスープとは呼ばないわよ?」
「うーん、まあ食習慣や考え方の違いだね。アルビオン人は塩味は人によって好みが違うんだから自分で付けるべきだと考えているんだ。テーブルの上に塩と胡椒があったろう」
「自分で塩を入れるのなんて初めてだったわよ。量が分からないから入れ過ぎちゃって凄くしょっぱくなっちゃったわ。野菜も元がなんなのか分からないくらい煮てあるし、本当アルビオンの料理ってわけ分からないわ」
「アルビオンは空にあるからお湯が沸騰する温度が低めで、しかも日によって変化するんだよ。煮えたと思っても煮えていなかった失敗が多くて段々煮込む時間が長くなっていったんだと思う」

 普通に考えれば標高三千メイルのアルビオンの沸点は九十度くらい。しかしアルビオンを浮かせている風の魔力の影響か、そこまで下がる事はそうそう無くて、日頃は九十四度位を中心に毎日変化している。この毎日変化している、というのがくせ者で茹で時間を定量化できない。結果、とりあえず煮込んどけって感じになっているとウォルフは感じている。
 もっとも、ド・モルガン家ではウォルフが作った圧力鍋があるので問題なく、使用人もガリア人を多く雇っているのでウォルフは子供の頃からおいしい料理を食べていた。アルビオンの料理が不味いと言われてもあまり実感がない。

「そうだとしても、もうちょっと工夫とかで美味しくなるんじゃないかしら。またあの料理を食べるかと思うと憂鬱だわ」
「だったら、今日はお祭りだから屋台で食べれば良いんじゃない? 牛の丸焼きやローストビーフはこの国で数少ない美味しい料理だよ」
「……どっちもただ焼いただけじゃない。でもそうね、外で食べた方が良いかも。牛の丸焼きって何処でやってるの?」
「いつもの年は城の前庭を開放してそこでやるんだけど、今年は城に入れないらしくて今夜は中央広場でやるってさ」 
「中央広場ね、なんだホテルのすぐ前じゃない。それで決まりだわ」

 ルイズは気付かないがウォルフの表情が少し陰った。
 実はウォルフは最近マチルダと会ってない。最高学年も終わり間近となった魔法学院は冬期休暇中でこちらに帰ってきているみたいなのだが、忙しいとの事で会って貰えなかった。
 クリフォードに至っては休み前に学院で「もうお互い子供じゃないし、学年も家格も違うのだから頻繁に会いに来ないで欲しい」とはっきり言われたそうだ。酷く傷ついて帰って来て、以来ずっと部屋に籠もっている。ウォルフが部屋を覗いてみたらスライムみたいになっていた。
 確かに三年生で評判の美少女であるマチルダと仲良く振る舞う新入生、との事で随分と嫉妬を受けたりしたそうだが、あんまりだ。最近のマチルダはちょっとおかしい。
 卒業後は父親の手伝いに専念するからと名誉サウスゴータ商館長である現在の職を辞退してきて、彼女が保有する株式についても商会に引き取るよう希望してきている。タニアが慰留に努めたがマチルダの決意は固く、翻意させる事は出来なかったそうだ。
 結局、株式はタニアが引き取る事で調整中だが、その手続きが終わるとマチルダはガンダーラ商会とまったく関係が無くなってしまう。

 サウスゴータ家も変だ。よくお忍びで街に来ていて平民にも親しまれている太守だったのに、最近はロンディニウムにいることが多いのかすっかり街に出てこない。家格にしては多く雇っていた使用人達に次々に暇を出している事が街で話題になっていて、様々な憶測が飛び交っている。
 ウォルフの母、エルビラも出産を機に休職していたのだが、そのまま契約の解除を通達された。本人は初めての娘・ペギー・スーの子育てに夢中になっていて気にしていないが、ウォルフにはサウスゴータ家の変容は気になる。
 サウスゴータ竜騎士隊に所属する父ニコラスに聞いてみても、竜騎士は日頃城の方には行かないし、直接の指揮権は議会が持っていて太守と会う事もそうないため事情は分からないという。
 昔を懐かしむつもりはないけれど、ウォルフにとって現在のマチルダやサウスゴータ家の態度は納得できるものではなかった。

「ここの太守の娘とは友達でさ、凄く気さくな姉さんでルイズにも紹介したかったんだけど、最近忙しいみたいなんだ」
「ふうん。でも、今回は父さまも含めてお忍びで来てるんだから、そんな堅苦しい事は無しで良いわ」

 本当はいつもの年のように城で牛肉をつつき、マチルダに初めて出来たトリステインの知り合いを紹介したかった。堅苦しくはないんだけどな、とウォルフが呟くその声は喧噪にかき消された。
 ちょっと暗くなっちゃったので気分を変えて、ルイズにサウスゴータの歴史や建物の説明をしながら歩き、程なくしてラ・ヴァリエール公爵が待つホテルに着いた。



 ルイズを部屋まで届けたらさっさと帰ろうと思っていたのだが、ラ・ヴァリエール公爵に引き止められた。お腹が空いたと騒ぐルイズを置いて別室に引き込まれたのだ。

「ウォルフ君、今日カール先生に聞いたのだが、君があの、ガンダーラ商会のオーナーだと言うのは本当かね?」
「オーナーというか、創設者で筆頭株主なのは確かです」
「おお、本当に君みたいな少年が…」

 公爵が複雑そうな顔でウォルフを眺める。トリステインでガンダーラ商会といえば泥棒に近い商売で成り上がった下品で野蛮な商会だと悪名高いのだが、目の前の少年からはそんな事を思わせるものは何も感じなかった。
 元々評判をそのまま信じていた訳ではないが、ラ・ヴァリエールの宿敵であるツェルプストーと親密な関係にある事もあって、ガンダーラ商会はこれまで警戒すべき対象だったのだ。

「ええと、商会が何か問題でしょうか。トリステインでは随分と評判が悪いとは聞いていますが、誓って真っ当な商売をしております」
「ああ、いや商売がどうこう言う訳ではなくて、むしろ商品を買いたいんだ。ほら「sara」って言う化粧品があったろう、アルビオンに行くならあれを是非買って来て欲しいと妻に頼まれていてね。いや以前一セットは入手できたんだが、それ以降全然手に入らないから残りが少なくなってしまって困っているんだ」

 公爵ともあろう立場で妻のお使いをしている事が恥ずかしいのか、妙に早口でまくし立てる。ウォルフが気圧される程の勢いだ。

「私は部署が違いますからちょっと化粧品の事は分からないのですが、丁度降臨祭で商会長がサウスゴータに来ています。もしよかったら明日紹介しましょうか?」
「いや、そうかよろしく頼む。あの化粧品の効果は凄いものな。妻が一気に十歳以上も若返ったような気がして驚いたよ。恥ずかしながらこの歳で新たに子供を授かってしまったほどだ」
「あはは、それはおめでとうございます。実は私も今年妹が出来まして、再来月で丁度一歳になります」
「おお、我が家のロランとは同い年だ。あの化粧品は実に少子化対策になっているな」

 孫でも通るほど年の離れた息子の話になると、厳ついラ・ヴァリエール公爵の顔も緩みっぱなしになる。ラ・ヴァリエール家に待望の長男が生まれたのはド・モルガン家の赤ちゃんより二ヶ月早く、ルイズとは十歳差、最も年の離れた長姉エレオノールとは実に二十一歳差だ。
 この二家だけの話ではなくハルケギニアの貴族界では最近ベビーブームが起きており、タレーズベイビーズとかsaraベイビーズなどと呼ばれている。

「父さま、いつまでウォルフと話しているの! お腹空いたって言ってるでしょう」
「あー、ルイズ。ウォルフ君はお前の先生なのだから、呼び捨てはどうかと思うぞ。先生かミスタ・モルガンと呼びなさい」
「ウォルフがいいって言ったからいいの! もう、父さまなんて一人で御飯食べれば良いんだから」

 ルイズが乱入してきて話は強制的に終了となった。とっとと一人で外の広場へ向かうルイズを追って公爵とウォルフも外へ出た。

「じゃあ、私はこれで。明日は午前中にガンダーラ商会の商館へお越しください。バーナード通りから一本入ったところにあります。今日この後寄ってご来訪を伝えておきますけど、こちらに寄越した方が良いですか?」
「ああ、ありがとう、大丈夫、わたしの方から行くよ。それじゃあ、気をつけて」
「失礼します」

 ルイズはもう広場へ行ってしまったようなのでウォルフは公爵に別れを告げ、家路へと足を向けた。 



 翌日、祝日なので通常業務は休んでいるガンダーラ商会の商館にラ・ヴァリエール公爵を迎えたタニアは、その対応を決めかねていた。こういう時のために在庫には余剰を確保してあるし、ラ・ヴァリエール公爵ほどの立場の貴族ならば今後の事を考えて誼を通じておいた方が良い。
 しかし、化粧品を欲しいと言うだけにしては公爵の目が真剣というか気迫を感じるのが気に掛かっていた。商会が懇意にしているツェルプストーとは仲が悪いと聞いているので何か裏があるのかとも勘ぐってしまう。
 だらだらと話を引き延ばしていると、風メイジであるタニアの耳にウォルフが商館に入ってきた声が聞こえてきた。とっさに愛想笑いをして応接室に公爵を待たせ、ウォルフに現状の確認に行く。

「ちょっとウォルフ」
「あ、タニア。あれ? ラ・ヴァリエール公爵来なかった?」
「来たわよ、っていうか来ているわよ。っていうかあれどういう事よ。何で化粧品であんなにマジになっているの?」
「あー、よく分からないけど、よっぽど奥さんが怖いんじゃない?」
「どんだけ怖い奥さんなのよ…なんか裏があるんじゃないの?」
「カール先生は信頼できる人物だって言ってたよ。思惑はありそうだけど、便宜を図っておいた方が良いと思う」
「…それは何故? あなたがそんな風に言うなんて、何かあるの?」

 いつものウォルフならば貴族の対応になど意見を言わない。貴族の情勢などについてはタニアの方が詳しいし、興味がないからだ。

「えーと、これは他言無用にして欲しいんだけど、ラ・ヴァリエール公爵の娘が虚無の担い手なんだ」
「……は?」
「虚無のメイジなんだ。今はスペルも分からないからただの魔法の下手なメイジだけど、将来ハルケギニアの中心人物になる可能性はあるだろ? 商会としては今の内に親しくなっておく方がいいんじゃない?」
「え、はあ?」

 ウォルフとしては元々タニアの耳には入れようと思っていた事なのであっさりと話すが、タニアとしてはあまりにも現実感のない話に呆然としている。
 虚無のメイジという存在は、それが実在するのならハルケギニアの政治情勢を左右するものになる。商会の代表としてタニアは知っておいた方が良いのだが、いきなり言われても理解が及ばない。

「本当、なの?」
「本当。一昨日虚無だって分かったんだけど、公爵も虚無の事について調べるって言ってるし、今後もっと詳しい事が分かるかも」
「あなたって人は、本当に。今度は虚無を連れてくるなんて……」
「いや、向こうから来ただけだから。一昨日から家でコモンマジックを教えているよ」
「はあー、分かったわ。失礼の無いように、最大限便宜を図る事にするわ」

 会長室の金庫から化粧品セットを取り出し、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸すると公爵を待たせている応接室へと戻る。ウォルフは自分の用事を済ませるため奥の部屋へと向かった。
 


「お待たせしました。済みません、休日で職員が殆どいないものですから」
「ああ、お気になさらず。押しかけてきたのはこっちですからな。それで…」
「はい。いま工場とも確認を取ってみたのですが、こちらの一セットだけなら融通できるそうです。ラ・ヴァリエール様とは今後良い関係を持ちたく存じますので、お譲りしたいと思います」

 にこやかな笑顔と共にケースに入った化粧品セットを机の上に取り出した。ケースを開けて中身を見せるとその横にそっと請求書を差し出した。
 このセットは「ファーストパック」から、継続して使用する必要のない商品を外し、その代わりに艶爪クリームや脂肪揉み出しオイルなどの新製品をセットした「デイリーパック」だ。ファーストパックよりは安価だが、化粧品としては法外な価格にも公爵は眉一つ動かすことなく小切手の束を手に取った。

「ところで…このように画期的な商品を開発できると言う事は、よっぽど優秀な水メイジを雇っているのでしょうなあ。発売以来これを模倣した商品は沢山売り出されたそうですが、効果においてガンダーラ商会に及ぶものは一つもないと聞いています」

 小切手にサインをしながら、さりげなく公爵が切り出した。

「え、ええ、確かに開発したのは水メイジですけど、当商会の持つ先進の魔法技術がベースになっています。余所では中々真似できないでしょうね」
「その水メイジはやはり、メイジとしてとても優れている方なのでしょうな。例えば、どんな病気でも治してしまう、とか」

 何故だか急に公爵の視線が鋭くなる。タニアは慎重に言葉を選んで返答した。

「いえ、秘薬開発の方に重点を置いている研究者ですので、医学の方は経験がありませんわ」
「ほほう、秘薬研究者ですね。と、すると医薬品も扱っているのでは?」
「医薬品は当商会の取扱品目にはございませんですのよ」
「それはもったいないですな。実は私は水メイジでしてこれでも一流と呼ばれているのですが、その私から見てもこの化粧品は謎だらけです。ただ、私にもこれが人体について非常に詳しい人間じゃないと作れない代物だという事だけは分かります」
「ええ、それで?」

 ますますプレッシャーを強める公爵にタニアは警戒を強める。ところが公爵は唐突にそれまでの鋭い視線を外し、その顔に沈痛な表情を浮かべた。

「実は、これは内密にして欲しい事なのですが、私の次女が幼い頃から原因不明の病にかかっております。十八歳になりましたが、医者からは成人までは持たないだろうと言われていた程です」
「まあ、それは…おいたわしい事でございます」
「平穏にしていれば屋敷の周りを歩いたりするくらいは出来るのですが、何の拍子で具合を崩し寝込むか分からない。名医を招聘しても高名な水メイジに教えを請うても原因は一向に分かりませんでした。娘を治療できる可能性について、私はどんな些細な情報でも求めているのです」

 そう語るラ・ヴァリエール公爵の様子は真摯で、とてもでたらめを言っているようには思えない。しかしそうは言ってもサラを外部の人間に「sara」の開発者として会わせる訳にはいかない。サラにどんな危険が降りかかるか分からないからだ。
 公爵はサインを終えた小切手をテーブルの上に載せ、タニアへと差し出した。そこには請求書の倍額が記入されていた。

「この化粧品の情報がガンダーラ商会にとって機密だという事は理解しているし、こちらに都合の良い申し出だという事も分かっている。秘密は守る。報酬もそちらの望むだけだそう。頼む、この開発者に会わせて欲しい」

 公爵家当主に頭を下げられるというのは、普通の商人ではまず経験し得ないレアな体験だ。公爵の要求はこの化粧品の開発者に病気の娘の診察をして欲しいと言う事。
 人の命が関わる事でもあり、無碍に断る訳にも行かずさりとて二つ返事で了承する事も出来ず。タニアは困り果てる事になった。



[33077] 3-2    目覚め
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 00:01
「じゃあ、この夫婦にはこの子とこの子。こっちのまだ若い夫婦にはこの子ね」
「そうですね。やっぱり男の子は難しいですから、お姉ちゃん役がいたほうが問題が起きにくいと思います」
「オッケー。じゃあこれでよろしく頼む」
「かしこまりました」

 タニアが商館の応接室でラ・ヴァリエール公爵の相手をしている頃、ウォルフは商館の奥の部屋で孤児院の職員と養子に出す子供について選定をしていた。
 ウォルフの東方開拓団は順調にその規模を大きくしていて、叙爵申請だけならもういつでもできる程にはなっている。
 移民達の生活も落ち着いてきて養子を欲しがる夫婦が出てきたので、サラの孤児院から養子縁組しようという事になったのだ。普通は農地を持つ夫婦が不妊だと弟妹の子供を養子に貰って跡継ぎにするものだが、開拓団に参加している夫婦には弟夫婦などに農地を譲ってきた者達が結構いる。
 親のいる子供を両親から引き離すのはしのびないと考えての事らしいが、やはり子供は育てたいという思いは強いらしい。秋の収穫を無事迎えられて今後の生活に見通しが立った事もあり、ウォルフに養子縁組の希望が多く寄せられるようになった。
 本当はサラも選定に参加すると言っていたのだが、降臨祭で年少組の子供達を連れて教会に行っており、ウォルフと残った職員で決めている。元々は午後に予定していたのだが、ラ・ヴァリエール関連でウォルフの時間が少なくなったためにこういう仕儀に至った。サラはサラで午後に最終確認する予定だ。

 ここのところ開拓団長としてのウォルフの仕事はこういう雑用が多い。最初の頃は全ての判断を要する事項がウォルフに集まってきていたが、類似する事柄を一つ一つ各部署に割り振っていった結果、通常業務に関してはウォルフが判断を仰がれるようなことは無くなった。
 現場に出て直接木を切ったり築堤工事に参加したりする事は少なくなり、代わりに団員達の不満を解消したり装備の充実を図ったり、開拓団全体がスムースに機能するように気を配っている。



「ちょっとちょっと、ウォルフ」
「お、タニア、ラ・ヴァリエール公爵はもう帰った?」
「いや、ちょっと今待たせているんだけど、相談に乗りなさいよ」

 応接室から出てきたタニアが帰ろうとしていたウォルフを捕まえて会長室に引き込んだ。かいつまんで公爵との会談内容を説明し、対応を協議する。タニアの立場としてはトリステイン進出の足がかりとしてラ・ヴァリエール公爵とは親交を深めておきたいが、問題は向こうの要求内容だ。

「サラをトリステインなんかにやれないよ。何言っちゃってんの?」

 ウォルフが怒気をはらむ。タニアは気圧されながらも説明を続けた。

「いや、そうなんだけどね? トリステインのとは言え公爵様だし、娘さんも気の毒な事になっているしどう断ったら良いかって問題が…」
「最低限、娘さんにこっちに来て貰って、オレの立ち会いの下でないと認められない。当然向こうの人数には制限掛けるよ」
「娘さん体弱いから長距離移動に耐えられないって言うのよ…」
「飛行機で迎えに行ってやればいいじゃん。たいした時間じゃないよ」
「ほら、アルビオンは標高が高いから無理させたくないんだって」
「気圧くらい風石でどうとでもなるだろ」
「私たちはそう思っても、向こうは娘さんの命が掛かってる訳だから……」
「ふう……病気の娘さんには気の毒だけど」
「んー、やっぱり断るしか無いのかしら」

 なんと言ってもサラの安全とは比べられない。サウスゴータやガリアとは違うのだ。陰謀では無いと言う事が完全に否定しきれない事もあり、断る方向に気持ちが向かう。

 しかし、そんなウォルフの脳裏に、やはりラ・ヴァリエール公爵の娘・ルイズの顔が浮かぶ。一昨日会ったばかりだが、泣き顔、笑顔、色んな顔を見てきた。
 大きく溜息を吐いて天井を仰ぎ、考えを整理する。ラ・ヴァリエール公爵の希望は化粧品開発者による診察。しかし本当の願いは次女の治療。
「知らなければ判断できない」いつものウォルフの信条を思い出した。

「待って……とりあえず今日この後ルイズに会うから、そっちにも話を聞いてみる。公爵達は今夜のフネでロサイスを発つって言ってたから、それまで返事を保留しておいて」 
「ルイズさんってこっちに来ている公爵の三女ね、虚無の。分かった、公爵にはそう伝えておく……公爵みたいな立場だと、娘のためとは言えあんな風に頭を下げられない人も多いのよ。何とかしてあげたいって思ったわ」
「ん。知る事、まずはそこから始めよう。よく考えたらオレがトリステインに行っちゃえば良いんだな」
「……そうよ。それであなたが判断すれば良いんだわ。サラを表に出す事無いじゃない」

 サラをトリステインに行かせられない事に変わりはないが、ウォルフが見て治療不可能ならばサラにも無理だろう。サラにもウォルフにも医学の専門知識が有る訳でもないし。
 ラ・ヴァリエール公爵には不満が残るかも知れないが、ウォルフが見てダメならばガンダーラ商会として出来る事など無いので、その時は諦めて貰うしかない。ウォルフは商館を出ると真っ直ぐにルイズと約束している中央広場へと向かった。



 祭りの飾り付けと共に様々な屋台が並んでいる中央広場に着くと、そこは人込みでごった返していたがルイズはすぐに見つかった。一番人気の屋台の長い行列の中にその特徴的なピンク色の頭を見つける事が出来た。

「ルイズ、もう待ち合わせ時間になるぞ」
「あ、ウォルフ。ちょっと待って、もうちょっとだけ。この屋台昨夜も人が凄くて食べられなかったのよ」
「…一応ルイズの分も昼食頼んであるから、並ばなくても良いんだけど」
「でも、私アルビオン料理は苦手だし、ここの鶏肉は美味しいってみんな言ってるし、もう結構前まできたからもうちょっと待っててよ」

 ウォルフを待たせてでもルイズは列から離れるつもりはないらしい。もうちょっとと言っても、まだ二十分くらいは掛かりそうな位置だ。軽く溜息を一つ着くとルイズから離れ、ウォルフは行列の先の屋台に向かう。混雑する売り場の横を通り抜けると奥の調理場へ顔を出した。

「お疲れ様、頼んでおいたのもう出来てる?」
「ウォルフ様、いらっしゃい。今、揚がったら包みますよ」
「頼むよ。相変わらず随分と盛況だね」
「はいな。このフライドチキンは完全に降臨祭の名物になりましたね。毎年楽しみにしているお客さんが多いですよ」

 この屋台はガンダーラ商会が祭りの期間運営しているフライドチキンの店なのだ。バターミルクに漬け込んだ鶏肉を特製スパイスで味付けして圧力釜で揚げたこの料理は毎年ファンを増やし続け、今年は遂に中央広場の一番良い場所に出店出来る事になった。
 売り上げから経費を引いた額を毎年チャリティーとして教会に寄付しているが、昨年のその額は二位の店を大きく引き離してのトップだった。

「ね、ね、ウォルフ様今話してたの、彼女?」
「彼女? 彼女?」
「昨日も一緒に歩いていたでしょ、私見たのよ」
「ええー、院長せんせはいいの? 言いつけちゃうよ?」

 ウォルフの後から屋台に入ってきて、きゃいきゃいと話しかけてきたのは商会で運営している孤児院の子供達。材料の搬入やら予約客への配達やらを手伝っている年長組だ。ちなみに院長せんせとはサラの事だが、全ての子供達が年の変わらないサラの事をそう呼んでいる訳ではない。

「彼女じゃないよ。トリステインから来たお客さん。カール先生の知り合いなんだ」
「えー? サラちゃんがいない間にアバンチュールを楽しんでいるんじゃないの? 怪しいなあ」
「何処でそんな単語覚えてくるんだ…ちょっと訳ありで魔法を教えているだけだって」
「ほらほら、お前等くだらない事でウォルフ様を煩わせてるんじゃないよ。また配達する分が揚がるぞ」
「はーい」

 子供達はきゃあきゃあと騒ぎながら配達場所の確認に向かう。サラが孤児院を始めてからサウスゴータの商会はいっそう賑やかになった。

「まったく騒がしいもんだ…よっと、はいどうぞ熱いですからお気を付けて」
「ありがと。まあ、子供が元気なのは良い事だよ」
「はは、ウォルフ様もまだまだ子供の年齢なんですがねえ…」

 大きな紙袋二つに入ったフライドチキンを受け取り、ルイズの所に戻る。ルイズは屋台から紙袋を持って出てきたウォルフを目を丸くしてみていた。

「前もって予約していたんだ。ルイズの分もあるからさっさと行こう」
「え、ええ。やるわねウォルフ。美味しいところはちゃんと抑えてあるのね」
「はは、まあそういう感じ」

 ルイズを連れてド・モルガン邸に戻り、食堂でパンと副菜をいくつか貰って方舟に登る。最近はここで研究や工作をする事もなくなり、今やただの展望台と化しているが、相変わらず眺めは良い。
 横幅が二十メイルもある巨大な左右の扉を開いて風を通し、床の延長となるその扉の上にテーブルをセットして料理を並べた。吹きさらしだとこの季節には寒そうだが、風石を使った魔法具で吹き込む風を調整しているし遠赤外線暖房も入っているので気にならない。

「初めて来たときも思ったけど、変な建物ねえ。まあ、確かに眺めは良いわ」
「だろ。ほらあそこの塔が教会だよ。今日は司教様のお話と子供達の劇があるんだって」
「ふーん、もう食べていい?」
「ああ、どうぞ召し上がれ。待たせたね」
「前略、ブリミル様に感謝します。むぐ」

 そうとう腹が減っていたらしいルイズはお祈りもそこそこにフライドチキンに食いついた。テーブルに並べる直前まで『固定化』を掛け、保温もしていたので揚げたての状態が保たれたフライドチキンは熱々のパリパリでジューシーだ。
 ルイズは食欲を刺激するスパイスの香りと口の中で飛び出す肉汁に目を丸くして、しばし無言でほおばり続けた。

「熱っ…熱う…おいっしーわねー、これ。トリステインでもこんなに美味しい鶏肉料理食べた事は無いわ」
「それはどうも。伝統的なアルビオン料理ってわけじゃ無いけど、最近ではここの降臨祭の名物になってるそうだよ」
「ふーん」

 返事をしながらもう次のピースに手が伸びている。ウォルフの話にはあまり興味がないようだ。あっという間に並べられた料理を片付けるとようやく人心地着いたルイズがウォルフの淹れたティーカップに指を伸ばす。

「ありがと。ってここの家メイドいないの? 全部あなたが用意しているのって変じゃない?」
「いつもは専属のメイドがいるんだけど、今は祭りで忙しいんだよ。まあ外にいるときは自分で何でもするし、慣れているから問題ない」
「専属メイドなのに、あなたの優先度が低いのね…メイドに舐められている主人って大抵主人の方に問題があるそうよ? 言う事聞かないのなら首だっ、ていうくらいの気概で躾けなきゃダメよ」
「うん…忠告ありがとう」

 その専属メイドにラ・ヴァリエール公爵が会いたがっている訳で、首に出来るような相手ならこんなに悩んだりしていない。そもそも言う事聞かない訳でも舐められているわけでもないし、曖昧に返事をしておいた。
 食後のまったりとした時間、とりとめのない事を話したが、機を見てウォルフはルイズの姉について切り出した。

「えっ? ね、ねね、姉さまの事?」

 姉の事を聞いたとたんにルイズは椅子に深く座り直し、その背はしゃん、と伸びた。手を膝の上に重ねておき、姿勢はとても良くなったけど視線がきょろきょろと落ち着かなくなる。
 不思議な反応を疑問に思いながら重ねて尋ねる。

「お気の毒に、あまり体の調子が良くないらしいけど、どんな人なんだろうって思って」
「ああ、ちいねえさまの事ね」

 くたりと椅子の上で弛緩する。何故か緊張でこわばっていた顔はふにゃっと緩み、嬉しそうな、でもどこか悲しそうな表情で話し始めた。

「とっても優しい人よ。天使みたいに綺麗で、あったかいの」

 ルイズが話した内容も大体タニア経由で公爵から聞いた話と同じだった。カトレアという名で昔から身体が弱く、ラ・ヴァリエールの領地を一歩も出たことはない。魔法は使えるものの、その力を使用すると身体に大きな負担が掛かるらしく体調を崩す。動物が好きで、数多くのペットを飼っている。

「私も将来はちいねえさまみたいに素敵な女性になるつもり。ねえウォルフ、私って水メイジの才能無いの? 水の魔法が使えたら、絶対にちいねえさまの体を治してみせるんだけど」
「残念ながら、君の才能には謎の部分が多く、今のところよく分からないんだ」

 悲しそうに眉を寄せるルイズを見ていると、公爵の話が嘘だとはとても思えない。
 虚無のメイジであるルイズへの興味もある事だし、ウォルフはラ・ヴァリエール公爵家ともう少し関係を深める事を覚悟した。

「よしっ、食休み終わり! 立派なメイジになるために練習練習」
「そうね、まずは練習しなきゃ始まらないわ」

 ルイズにも手伝わせて片付けを済ませ、中庭に移動する。
 今日練習するのは『ディテクトマジック』ウォルフがハルケギニアに転生して以来、最も使用しているであろう魔法だ。

「まず、『ディテクトマジック』これは魔法の対象を探知し情報を得る魔法だ。得られる内容はこちらが知ろうとした内容である事がポイントだ」
「うん? 知ってる事しか分からないって事? そんな事はないんじゃない?」
「知らない魔法が掛かっていたとすると、魔法が掛かっている事は分かってもどんな魔法かは分からない。でも、知っている魔法ならどんな魔法か分かるんだ」
「あんまり変わらないような気がするけど…」

 分かったような、分からないようなルイズにウォルフはポケットから三サント程の黄金色に輝く金属の塊を取り出す。

「わ、これ金?」
「そう金。金属について、あまり知識のない人でも『ディテクトマジック』をかけたらこれは本物の金だとわかる」
「そりゃ金なんだからそうでしょうよ」
「ところが、金属に詳しい人が『ディテクトマジック』を掛けるとこれは金ではないと出る」
「???」
「これは殆どが金なんだけど、それに銀と銅がそれぞれ一割強入っている合金なんだ。いわゆる十八金だね。日頃十八金のアクセサリーや金貨を見て金だと認識している人は、この魔法を使ってもまず金であるか金合金であるか判別できない」
「……なるほど、何でも教えてくれる便利な魔法では無い訳ね」
「その通り。この魔法を使いこなすには知識を拡げる事が重要なんだ」

 ウォルフが普通のハルケギニア人と何が違っていたかと言えば、前世の科学知識を持っていたために物質の構造などを知っていた事だ。
 周りが物質を何となく認識している中でただ一人分子構造を見て、原子を見て、電子軌道を見て、原子核を見て陽子も中性子も見た。魔法は光の分解能を遙かに超えた微小世界を、大型の透過型電子顕微鏡ですら見ることが出来ない世界を観察する事を可能とするのだ。
 元の世界の知識にこの世界で新たに知識を積み重ねた結果、結晶構造を自在に操り、原子核を組み替え、質量とエネルギーとを自由に変換できるメイジが誕生することになった。
 物質の操作に関して、圧倒的な知識量の差がそのまま圧倒的な能力の差となってウォルフとハルケギニアのメイジとの間には存在している。
 その差を埋める第一歩はこの『ディテクトマジック』を使いこなし、世界についての知識を積み上げる事だ。

「何を知りたいのか、正しくイメージするのが大切だ。ラグドリアン湖の水の精霊に『ディテクトマジック』を掛けた人は大抵気が触れちゃったらしいよ。知ろうとした対象が膨大すぎて脳が処理しきれなかったらしいんだ」
「なな、何よ、結構危ない魔法なのね」
「うん。最近のオレの研究では、この世の全てのものは魔力素や魔力子の一形態でしかないらしいことが分かってきた。オレ達が日頃魔力として認識しているのはそのうち、物質の形態を取っていないものって事だね」
「なんだか大きい話になってきたわね。そんなに魔力素だらけだと困らない?」
「日頃は透過するか普通の物質になっているから、関係ないよ。『ディテクトマジック」とは魔力素の形になっていようが物質の形態を取っていようが、魔力素や魔力子そのものが"記憶"とでもいうものを持っていて、それを読み取るっていうかんじなんだ」

 ウォルフのイメージとしては分散して存在している世界の記録、みたいに考えている。

「なんだか難しいわね、みんな『ディテクトマジック』ってそんなに深く考えて使っているものなの? まあいいや、やってみる」
「この金合金で試してみよう。これは金と銀と銅の合金だ。その正確な比率を調べてみてくれ」
「オッケー、正しくイメージ……《ディテクトマジック》!」

 ボカンッと、久しぶりにルイズの魔法が爆発した。ウォルフが一応念のためこっそりと『風の壁』を使用していたために二人とも被害はなかったが、粉微塵に飛び散ってしまった金塊を思い、ルイズは硬直して動けなかった。

「もっと細かいところまで見ようとしないと比率なんて分からないよ。はい、もう一度」

 またポケットから金の粒を取り出してルイズの前に置いた。ルイズは目の前の金の粒を見つめたがギギギと擬音が出そうな動きでウォルフの方を向いた。
 根拠のない自信で魔法が当然成功すると思ってたルイズにとって、金塊が粉々になる光景はちょっとショックだったらしい。

「ね、ねえウォルフ。私は、そりゃ高貴な生まれだけど、いちいち金の粒を粉々にしなくちゃ魔法の練習が出来ないって訳ではないのよ?」
「あ、気にしないで良いよ。そうだ、イメージしやすいように純金もとなりに置いておこう」

 ウォルフはルイズの抗議を聞き流すと金の粒のすぐ横にまた金属の粒をみっつ追加した。

「金が金として存在できる最も小さな粒をイメージするんだ。物質の違いはその小さな粒の構造の違い。その細かい無数の粒が一番外側の電子って言う小さな粒を介して一つになっているのがこの純金の粒だ。そして銀の最も小さい粒が集まって一つになっているのがこっちで、もう一つが銅だ。この際電子は無視していいから、これらのその小さな粒がこの合金の中でどれくらいの比率で溶け合っているか、さあもう一度イメージしよう」
「あの、だから私その辺の石で良いんだけど…」
「その辺の石だと構造が遙かに複雑になるから難しいって。金は原子も大きいし、結晶構造も面心立方構造で分かりやすいから初心者には最適なんだよ」

 虚無魔法を極めれば時間と空間を操作できる様になるとウォルフは考えている。ルイズにはウォルフでは越えられない知識の壁を越えられる可能性があるわけで、ウォルフの指導にもつい熱が入る。

「ああ、もう分かったわよ! 知らないんだから! 《ディテクトマジック》!」

 ボカンッとまた金の粒が爆発するが、ウォルフはやはり気にせずに次の粒をセットする。
 本当は他のメイジみたいにもっと曖昧なイメージでも金属の種類くらいは分かるようになるとは思うが、ルイズの目指すべき地平線はそんなところには無い。

「ただ単に細かくイメージするんじゃなくて、細かい先にある構造を見る事を意識するんだ。具体的には一億分の三サントよりもうちょっと細かく」
「具体的すぎてわけ分からないわよ…《ディテクトマジック》!」

 ボカン! 純金の粒が消し飛ぶ。

「銅は一億分の二・五サントくらい」
「だから具体的すぎるって! 何よその微妙な違い《ディテクトマジック》!」 

 ボカン! 銅の粒が粉砕される。

 いくら試してみてもルイズの魔法が正しく作用する事はなく、粉砕された金属の粒は二桁に達した。

「…これだけ頑張っても上手く行かないなら、ウォルフの魔法理論ってのが間違っているんじゃないの?」
「君の魔法が特殊なだけだよ、もう少し頑張ってみよう」
「私の系統は火なのかと思っていたけど、上手く行かないから他の系統の魔力素をイメージしても全部上手く行かなかったわ。理論が間違ってなければ、こんな事ってあり得ないでしょう」
「あ」

 昨日までの受業で魔力素や魔力子に関する事は教えていたが、素粒子を対象に操作していたためか、ルイズが直接魔力子を操作するという意識を持たずとも魔法を成功させる事が出来ていた。
 ルイズは虚無のメイジだし、虚無として魔法を成功させていたのでウォルフもルイズが魔力子をイメージして魔法を行使していると思いこんでいたが、うかつだった。ルイズが火や風などの属性を持つ魔力素をイメージしたら成功するはずは無い。

「ルイズ、この魔法でイメージを作用させるべきなのは魔力子なんだ。火や風などの魔力素を構成する更なる小さな魔法の粒。粒でもあり波動でもある、なんの属性も持たないこの粒をイメージして杖を振ってみよう」
「……そういう事は先に言いなさいよ。魔力素や魔力子の記憶、とか言われたら魔力子よりも自分の系統の魔力素の方がうまく出来そうな気がしていたわ」
「ごめん。ルイズも分かっているって思いこんでた」
「まあ、いいわ、やってみる。魔力子――この世界で最も小さな魔法の粒――私の願いを知り、私に応える……いくわ、《ディテクトマジック》!」

 暫く集中を高めてから振られた杖の先で、金の粒が僅かに光を発した。ルイズは目を見開きその粒を凝視する。

「凄い、こんな風になっているの?」
「分かる? 金色一色の物質って訳じゃなくて、内部には複雑な構造があるだろ? その構造を詳しく知りたいって魔力子に働きかけるんだ」
「ウォルフの言った通り、一番外側は関係ないみたい、その中に粒があるのが分かる…何枚も殻を重ねたようになっている。一番真ん中にもっともっと小さい粒があるわ、金が一番大きい――内側の殻は銀も銅も同じ感じ……」
「ルイズ、問題は金銀銅の比率だったよ、答えは?」

 ルイズが原子核や電子殻まで認識している事に興奮を覚えながら尋ねる。純ハルケギニア人でそこまで分かったのはサラ以来じゃないだろうか。ルイズは確認するように何度も杖を振り、やがて答えた。 

「これが金で、これが銀、こっちが銅――金が六個、銀が一、銅が一。魔法ってこんな事まで簡単に分かっちゃうのね……」
「正解。出来ちゃえばこんなもんかって感じだろう。慣れればもっと複雑な比率でも何となく分かるようになるよ」
「ウォルフ」
「ん? 何?」

 ルイズは何故か魔法の行使をやめても呆然と金の粒を見つめていた。ルイズが見たのはこの世界のほんの一部であるミクロな世界。しかし、そこは世界そのものでもあった。
 原子が連なり電子がその間に存在し、光子やニュートリノが飛び交う。魔力素は全ての種類がそこら中に存在し、魔力子はそれよりも更に多い。この世界の真実をルイズは見た。
 ゆっくりと振り返り、その鳶色の瞳が真っ直ぐにウォルフを見つめる。

「私、分かっちゃった……私の系統って、虚無なのね」

 どう、答えて良いものか、ウォルフは咄嗟に返事が出来なかった。



[33077] 3-3    目覚め?
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 00:02
「で、どうなのだろうか。エインズワース会長は君がオーナーなので、君の判断を尊重すると言っていたが」

 タニア逃げやがったな、とウォルフは毒づきたくなったが公爵の前であり、堪えた。

 ウォルフは虚無に目覚めたルイズを連れて、ラ・ヴァリエール公爵の待つホテルへと来ていた。ルイズはまだぼやっとしていたが、今は自分の部屋で荷物をまとめている。
 ここに来る時間を伝えていたので、当然タニアもこちらに来るのかと思っていたが、裏切られた。
 仕方なく、圧力を強める公爵に一人で説明する。オブラートにくるんだソフトな言い方が苦手なので、本当はタニアにいて欲しかったのだが。

「機密保持のため『sara』の開発者を国外に出す事は了承できません。これまで当商会にその機密を盗もうと潜入してきた間者の数は二桁を優に超えます。ご理解ください」
「ううむ……こちらで完全武装の戦列艦に竜騎士隊を用意して道中の安全には万全をつくす。勿論アルビオン政府への根回しも怠るつもりはない。始祖に誓って機密保持には協力する、頼む……娘を診させて欲しい」
「申し訳ありません。道中だけの安全ではなく、その後の安全保持にも関わってくる問題なのです」

 アルビオン政府に話を通してトリステインの戦列艦が来たりしたら、それだけで大騒ぎだ。それに、なんと言われても他人のためにサラを危険に曝すつもりは無い。サラはまだラインメイジで、十二歳として常識の範囲内の能力しか無いのだ。

「……私は、娘が健康になるのなら、どんな可能性でも試してみたいと思っている。あの化粧品は本当に凄い。あれを開発したメイジならば、何か娘の病気について分かるかも知れないと思っている。頼む、娘の命を救ってくれとは言わん、試すだけでも良いんだ」

 ラ・ヴァリエール公爵がウォルフに頭を下げる。始祖の血を引くトリステインでも一二を争う名門の当主が、アルビオンの男爵の倅に頭を下げるなんて普通はあり得ない。
 公爵の本気をまざまざと感じ、ウォルフは溜息を吐いた。

「……頭をお上げ下さい、公爵。開発者を行かせる訳には参りませんが、代わりにわたしが娘さんの状態を確認するというのなら、受け入れる用意がございます」
「君が? こう言っては何だが、君は火メイジではなかったか? たしかに、ルイズを虚無と見抜いた眼力は認めるが……」
「まあ、確かに火メイジですが、水の系統もある程度は使えます。いいですか? 《コンデンセイション・ラグドリアンウォーター》」

 ウォルフが呪文を唱えると部屋の水分が凝縮し、魔力を帯びたラグドリアン湖の深みに眠る水となった。パッと見には普通の水であってもメイジ、それも優れた水メイジでもあるラ・ヴァリエールにはその水の特異性は一目で分かる。

「と、この程度には」
「ば、馬鹿な、こんなものをあっさりとメイジが作れるなんて…」
「それと、あの化粧品の開発中はずっと相談に乗っていましたし、あれらは全て私でも作れます。正直に言って、私が診て何も分からない状況でしたら、その開発者が診ても治療できる可能性は低いと思います」

 ウォルフが部屋のコップに入れたラグドリアンウォーターを呆然と見ていた公爵であったが、治療できる可能性、の言葉にウォルフの方へ振り向いた。 

「君は一体何者……いや、いい。君が何者であろうとも、問いはしない。あらためて頼みたい、カトレアを診て欲しい」
「どのような病状なのかは分かりませんが、私に出来る事があるのなら最善を尽くしたいと思います」
「ありがとう、よろしく頼む」

 差し出された手を握り返し、がっしりと握手をする。分厚く、温かい掌だった。
 公爵達が帰るのに飛行機で送る事も出来たが、尋ねてみたところ従者達もいる事だし来た時と同じロサイスからラ・ロシェールへのフネで帰るという。それだと時間が大分掛かるのでウォルフは付き合っていられない。来週、公爵達が帰ってからウォルフが訪れる事を約束した。

「その日の午後にツェルプストーから飛行機で飛んで行きますので、国境警備の竜騎士達に伝えておいて下さい。銀色の機体だと言えば分かると思います」
「……問わない。問わないぞ、君が何者だろうが、どこから来ようが」

 最近ウォルフが乗機にしている飛行機は開発中のジュラルミン製のものだ。表面は塗装を省きアルミニウムの地肌を磨き上げているので銀色に輝きよく目立つ。最近はその高速性能と光り輝く機体でライトニングなどと呼ばれているものだが、ボルクリンゲンなどで離発着をする度にラ・ヴァリエールの竜騎士が反応しているのは分かっていた。
 ウォルフやガンダーラ商会がツェルプストーと親密である事にはラ・ヴァリエール公爵としては引っ掛かるものもあるのだろうとは思うが、受け入れて貰うしかない。

「あ、そうだ。そう言えば、ミス・ルイズが虚無に目覚めました」
「……まだ黙っていて欲しかったのだが」
「ええ、そう聞いていたのでこちらもそのつもりだったのですが、『ディテクトマジック』を教えたら自分で気が付いてしまいました。まだちょっと混乱しているようですので、フォローをお願いします」
「そ、そうか。妻と相談してから伝えるつもりだったのだが、何か、特別な教え方でもしたのですかな」
「うーん、虚無のメイジの『ディテクトマジック』は我々普通のメイジのものとは違うようですね、より根底で世界と繋がっているようです」
「ふうむ。虚無メイジがどんな魔法を使うかなどは何も伝わってはおらん。この先ルイズはどうすればいいのか、難しいな」
「わたしもちょっと今回は虚無メイジの特殊性を思い知らされました。『ディテクトマジック』は危険性もあるかも知れないですのでちょっと様子を見た方が良いかもしれませんが、もしかしたら自分でスペルを覚えるようになれるかも知れません」

 今回ルイズが『ディテクトマジック』を使用した後、様子が少しおかしかったので体を調べてみたら熱を出していてさらに低血糖に陥っていた。どうも得られた情報が多すぎて脳が過剰に働いていたようだ。
『ディテクトマジック』で得られる情報は、それと意識できるものばかりではない。世界観が変わる程の情報を一気に処理したであろう脳は発熱して疲弊していた。

「自分で、とは?」
「そのままです。ブリミル様は虚無のメイジとして空前絶後、虚無のスペルも自分で作ったと言います。同じ虚無のメイジのルイズならば同じ事が出来る可能性があります」
「それは、ブリミル様が特別だからじゃないのか? 一からスペルを作るなんて不可能だろう」
「ディテクトマジックを掛けていたときにルイズは歌のようなものを聞いたと言っています。粒理論に基づくこの世界でもっとも小さな粒、その波動をルイズが聞いたのだとしたらそれは虚無のスペルなのかも知れないです」
「うむむ、それならそれで大変な事だな」

 素粒子とは粒であり波動でもある。その波動の性質に関与できるのが虚無のメイジならば、この世界の真実に触れ、干渉するスペルを作る事が出来るはずだとウォルフは考えている。
 二人で腕を組んでうなっていると、ドアがノックされてルイズが部屋に入ってきた。

「父さま、支度が出来ました」
「うむ。では、馬車も待たせているし、出発するか」

 ホテルの車寄せで馬車に乗り込む公爵親娘を見送る。最近は個人では自動車を導入する貴族も増えたが、全体で見るとまだまだ馬車の方が圧倒的に多い。

「では、ウォルフ君、来週また会えるのを楽しみにしている。ルイズの件も含めて、報酬はその時に話し合おう」
「はい、楽しみにしています。公爵もお気を付けて」
「何で家に来る事になってるのか分からないけど、また魔法を教えてくれるの?」
「あー、分からない。もしかしたら時間が取れないかも知れないし」
「その……今回は本当にありがとう。ちょっと、系統はアレだけど、魔法が使えるようになったのは凄く嬉しいわ。ウォルフは私の系統、すぐに分かっていたのよね?」
「もちろん。そうじゃないと中々成功させられなかったと思うよ。魔法については今度、研究に付き合ってね? 楽しみにしてるから」
「そそそ、そうね、研究は必要よね」

 ニッコリと笑うウォルフに何故か腰が引けるルイズ。ウォルフのサイエンティストとしての気質はまだ知らないはずなのだが、分かってしまうものなのらしい。



 馬車を見送ると商館に顔を出し、チェスターの工場にも行って溜まっている仕事をこなした。今回の休暇はのんびり出来る予定だったのに、思わぬ事態でいつもよりも忙しくなった。ウォルフがド・モルガン邸に帰り着いたのはもう夜中になろうとした時間だ。

「あー、やっぱりここにいた! 一緒にお風呂入りましょうって言ってたのに何一人で入ろうとしているんですか! わたしずっと待っていたんですよ!」
「だーっ! サラももう十二歳になったんだろう、どうして一人で入れないんだ!」

 ようやくたどり着いたサウスゴータのド・モルガン邸で、ウォルフが風呂に入ろうと脱衣所で服を脱いでいるとサラが突入してきた。
 ずっと一緒に風呂に入ってきて、そろそろ自立させようとしているのだが、中々言う事を聞いてくれない。

「やだって言いました。一緒にお風呂に入る夫婦は仲が良いのです。私とウォルフ様も仲が良いのだから一緒に入るのです」

 どこで聞いたのか豆知識を披露しながら、すぽぽぽぽーん、と服を全部脱ぐとウォルフの背中を押して一緒に浴室へと移動した。



 かぽーん、と桶を置く音が響く中、二人は湯船に並んで入る。結局いつも通りの入浴になり、ウォルフはサラの髪を洗ってやって、互いに背中を流しあった。
 
「はー、いいお湯…」
「……」
「……ウォルフ様またすぐ遠くに行っちゃうんだから、帰ってきたときくらい一緒にお風呂入っても良いじゃないですか」

 ウォルフがどう説得しようか考えていると、サラの方から話を振ってきた。不満そうに口を尖らせている。
 東方開拓が始まってから、サウスゴータには中々帰って来れていない上に、今回の休みは昼間も別行動が多かった。なるべく一緒にいたいというサラの気持ちは分かるが、そろそろ二人とも思春期だ。男女の別を付けておいた方が何かと良い。その内恥ずかしがるようになるだろうと思って放置していたのに一向にその気配はなく、いい加減心配になってきた。

「いいか? サラ。何故世の中で女性の裸というものに価値があるのかを考えるんだ。美人のシャツはちょっとはだけたくらいで男どもの視線を釘付けにするし、裸婦画をこっそりとコレクションする貴族も多い。女なんて全人類の半分もいるんだからその裸なんて世の中で最も珍しくないものの一つだってのに」
「それは男の人がスケベだからですよ。アンおばさんが言ってました、男の人はみんなスケベだって」
「男がスケベであるのは否定しないが、裸を見たがるのは女性が肌を隠すからだ。隠されれば見たくなる、という男のフロンティアスピリッツを利用して女性はその価値を吊り上げてきたといえるんだな」
「ええー! スケベな目で見るから隠すんですよ。何言ってるんですか」
「男がスケベじゃないと子供が生まれない。大昔は男女とも裸で暮らしていた。子供が生まれる確率を上げるため、男のスケベ心を最大限に盛り上げるという目的を持って女性は肌を隠すようになったんだ」
「……それとお風呂入るのと何が関係有るんですか?」
「サラの将来を心配しているんだ。このまま恥じらいを知らずに育ったら子供が作れなくなってしまうかもしれない」
「ええっ!」

 サラにとって衝撃の新事実だ。子供に囲まれた幸せな家庭を持ちたいと思っているのにそれが出来ないなんて。

「で、でも、パオラさんってあの歳でベルナルドさんと一緒にお風呂入るくらい仲良くて、この間子供が生まれたじゃないですか」
「夫婦で入っているのは奥さんが恥ずかしがっているのがいいんだ。一緒に入っていると言っても、恥じらう事が無くなった夫婦に子供は生まれない」
「そ、そんな…じゃ、じゃあわたしも恥ずかしい振りをすれば良いんですか?」
「確かに世の中にはそういう演技が得意な女の人もいるけど、サラには無理だろうし、そんな女にはなって欲しくないな」
「うううー」
「今度アンおばさんに聞いてみろ。男の前ですぽぽぽーんと全裸になる女の子に子供は作れるでしょうかって」
「ぐぅ……ぶくぶくぶく……」

 確かにそこだけ言われるとサラにもその行動が女の子として間違っているように思えてくる。物心付いたときからずっとそうしてきた訳だし、これまで考えた事など無かったが。
 鼻まで湯に沈みながら悩む。答えは、見つからなかった。



 翌日早速事務員のアンにこっそりと問い質した。二人で仲良くお風呂に入るのは間違っている事なのでしょうか。
 最初はサラの突飛な質問に面食らっていたが、アンにはウォルフの懸念している事がすぐに理解できたので大仰に溜息をつくとウォルフを支持した。

「確かにウォルフ様の言っている事が正論だね。そんな女の子じゃあ子供が出来ないって事は無いだろうが、望まない結婚をする事になりそうだ」
「ええー、そんなあ…」

 もうサラは半泣きだ。自分の行動の何がそんなに間違っているのか分からない。

「いいかい、サラちゃん。男ってのは追えば逃げるし、逃げれば追うものなんだ。どうやって男に追わせるかってのが男女の間では一番重要な事なんだよ。相手がいやがっているのに裸で押しかけるなんて論外だね」
「は、裸で押しかけてました! どどどどうすればいいのでしょうか?」
「女の裸ってのはメイジの杖と一緒さ。一番大事なものなんだ。メイジの決闘でいきなり杖を投げつけて勝とうとする馬鹿はいないだろう? 武器として使うなら女の涙くらいにしておくべきさ。こっちは、まあ、多少乱発しても大丈夫だからさ」
「確かに……はっ、そう言えば一昨日ウォルフ様がなんか外国の女の子を泣かせていました! あれって、武器なのでしょうか?」
「おやおや、サラちゃん、その子は危ないよ。外国の女ってだけで男にはミステリアスに映るもの。ミステリアスな女はいつだって男の心を捕らえて放さないものさ」
「ううー……」
「その上で涙だろう。女の涙なんて男の心を縛り上げるロープみたいにも使えるからねえ、ウォルフ様はもう捕まっちゃったかねえ」
「ぐすっ」

 遂に涙がこぼれる。メイド仲間の報告によりウォルフが昨日もその女の子をこそこそ連れ込んでいた事は調べが付いていた。虚無のメイジだからなどと説明はされたが、ウォルフは時々ホラを吹くので疑念は募る。
 自分が考えなしにいた事が取り返しが付かない事態を招いたような気がして、唐突に不安がサラの胸を襲ったのだ。
 その涙を、アンは両手の親指で拭って笑いかける。

「くすっ、冗談さ。そんなぽっと出の女の子がウォルフ様の心を捕まえられるわけはないだろ? サラちゃんには今まで紡いできた絆があるんだからどーんと構えていれば大丈夫さ」
「ほんどうに、ぞうだのでじょうがー?」
「大丈夫、ウォルフ様の落ち着き方は半端じゃないからね。あたしらにだって年上に思える時があるくらいさ。そんなに簡単に恋に落ちる訳は無いよ」
「……」

 恋とは違うかもしれないが、アン達にもウォルフがサラをとても大事に思っている事はよく分かっている。サラが泣くのであれば、そんな女などすぐに放り出して来るであろう事を確信するくらいにはウォルフの事を理解していた。

「それにウォルフ様が一緒に風呂に入らないようにって言ってきたのは、もう子供同士の関係じゃなくて、大人の関係になろうっていう意味なんだよ?」
「えっ……? 大人の、関係……」
「そう。結婚もしていない男女は一緒にお風呂なんて入らない。サラちゃんはもう子供じゃなくて結婚前の女の子になったって言っているのさ」
「結婚前の、女の子……!」

 その瞬間、サラの顔がボンッという音が聞こえそうな勢いで真っ赤になった。

「え、結婚だなんて、そんな、まだ、わたし……」

 俯いて指先をもじもじさせながら、ごにょごにょと何か呟いているがアンには聞き取れない。こんな可愛い子を放って置いて余所の女にうつつを抜かす分けなんて有るはずないじゃないか、とアンはほほえましくその様子を見守った。

 この日以降サラがウォルフの入っている風呂に乱入してくる事はなくなった。サラが一人で入っている事に気付いたウォルフは一抹の寂しさを感じたものだが、後でこっそりとアンに礼を言っておいた。



[33077] 3-4    ラ・ヴァリエールに行くと言うこと
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/05/09 00:03
 ウォルフは早朝の工場で、サラを助手にして新型飛行機「ライトニング」の最終チェックを行っていた。ここはチェスターのガンダーラ商会の機械加工工場に最近併設された専用空港のガレージだ。
 この機体は高出力風石エンジンの開発と高速飛行の研究を主眼に設計製造したもので、今のところ市販の予定は無い。風石エンジンの出力増加時における揚力バランスの変異対策と出力向上のため機体を双胴とし、その中央の翼の上に複座の操縦席を設置した。滑空を考慮していないので主翼は極端に短く、双胴に続く垂直尾翼は二枚で水平尾翼は左右が繋がっている。機体の材質は超ジュラルミンを純アルミニウムでサンドした構造の板材を使用している。板材の接合はリベットと魔法溶接が半々といった具合で、今後工員の技術が向上すれば魔法溶接をなくす事も出来るだろうと思っている。
 今回の機体では舵をワイヤから油圧に変更した。おかげで高速飛行時にもストレス無く操作ができるようになり、操作感もこれまでの舵にあった曖昧な感じがなくなり、ダイレクトな感覚を得られるようになった。何度か仕様変更しているその舵の動きをチェックしていると、まだ祭りだというのに工場に泊まり込んでいるリナが起きてきた。
 彼女はもう殆どこの工場に住んでおり、周囲からは主と呼ばれている。

「あ、ウォルフ様おはよございまふ、もう出かけるんでふか」
「おはよ。まあ、またすぐに帰ってくるよ。こいつならひとっ飛びだ」
「時速五百リーグで巡航できるならそりゃ辺境の森でもすぐでしょうよ」
「今回の高密封低トルクシールドベアリングはやっぱりいいな。風石濃縮技術がもう少し効率を高められればこの機体で七百リーグくらいまで行けそうだ」
「ベアリング開発者としてはお褒めに頂き光栄ですー、しかし、時速七百リーグですか」
「一応機体は時速九百リーグの急降下にも耐えるように設計しているけど、エンジンの出力から言ってそのくらいがいいとこじゃないかな」

 風石に関する研究は一年前より大幅に進んでいる。何故、ハルケギニアのあんな地下に風石の大鉱脈が形成されたのか、ウォルフはほぼ解き明かしていた。
 これまで風石は密閉状態で保管するのが当然とされてきた。これは空気に晒されていると風の魔力が抜けていくためだが、ウォルフは地道なデータ収集によりセレナイトが付着している風石だと解放空間でも風石の自然減が少ない事を発見した。
 風石の重量を少なくするためにこれまではセレナイトを綺麗に風石から剥がして採掘していたが、試しにセレナイトが付着した風石を密閉してみたら風石の結晶が成長するという事実を確認する事が出来た。自然に成長する量は極微々たるものだが、風を密閉容器に当ててやると成長する速度は早くなる。
 風の魔力素には物質を透過するという性質と、セレナイトに吸着して結晶化するという性質があり、セレナイトに風が直接当たらないようにしてやれば風石として結晶化するのだ。
 地殻によって風が直接当たらない地下深くに風石の大鉱脈が存在する理由がこれのようだ。風の魔力素は分厚い地殻をものともせず、自由に動き回っているのだろう。
 何故アルビオン大陸が六千年以上の永きにわたり空に浮かび続けているかという謎もこれで説明できる。セレナイトに風が当たらないように密閉するだけで空気中の魔力素を捕捉し、風石を生産できるのだから、ハルケギニアには今後エネルギー問題というものは存在しなくなると予想される。
 この風石再生産方法の確立により、東方探検における燃料補給という問題はほぼクリアされる事になった。前回の調査行では荷物の多くを風石が占めていたが、今後は減らす事が出来る見込みだ。何せ、この密閉容器に入れたセレナイト付き風石を飛行機に積んでおけば飛行中に幾分かは風石が増えるので、航続距離を伸ばす事が可能なのだ。
 今ガンダーラ商会ではセレナイトを密閉容器に入れ、この容器に風を当てる事で純度の高い風石を生産する研究を続けている。風石エンジンの効率を上げるためには、風石そのものの出力を上げる事が最も手っ取り早い。セレナイトの形状や純度によって風石もその性質を変える事が分かっているので、人工的に結晶化させた純度の高いセレナイトを使って風石に含まれる魔力素を増やそうという試みを現在実験中だ。

「はー、まあ頑張って下さい。それじゃああたしはこれで」

 リアはベアリングの評価を聞くともう興味はないようで、さっさと自分の設計室に行ってしまった。特に彼女に何かして貰うつもりもなかったウォルフはサラと二人で作業を進め、離陸準備を整えた。

「じゃあウォルフ様、気をつけて下さいね。最近この街にも間諜が多くなってきたって報告がありましたし、トリステインは信用できないって話ですから」
「ん、気をつける。サラも注意を怠るなよ。いざとなったら迷わずにピコタンに助けを求めるんだぞ」
「は、はい。いってらっしゃいまし」
「……行ってくる」

 何かここのところサラの言動が少しおかしい。間近で顔を合わせるとすぐに真っ赤になって下を向いてしまうが、ウォルフはなるべく気にしないように努めている。風呂に一人で入るようになって一時的に反動が来ているだけで、そのうち元に戻るだろうと期待しての事だ。

 ピコタンはウォルフの母エルビラの使い魔のフェニックスで、もうずっとサラの事を見守っている。ラインメイジくらいなら瞬殺出来る能力があるし、何かあったときはエルビラにすぐ伝わるので安心だ。その上フェニックスは風竜と同程度の速度で飛べる上ほぼ殺す事が出来ない幻獣なので、もし誘拐事件が発生したとしても犯人がピコタンを振り切って逃げる事は不可能だ。
 他にも色々な魔法具と傭兵や使い魔による警備を行っているのでこれまでガンダーラ商会は敷地内に賊の侵入を許した事はない。
 サラの頭を一撫でして飛行機に乗り込む。これからボルクリンゲンに行って溜まっている仕事をこなした後トリステインのラ・ヴァリエール公爵領へ向かう。開拓地に戻れるのはその後だ。
 
 

 見送りを受けて離陸し、まずは機動飛行で新油圧システムの調子を試した。左右旋回、垂直上昇、360°ターン、ナイフエッジ等をこなし、機能に問題なしと判断して機首をボルクリンゲンへ向けた。
 道中の急降下試験では七百リーグを余裕で超える事が出来た。旋回性能は今一だが、この機体ならば竜に追われても振り切れるので、竜の多い地域でもある程度低空を安心して飛行できる。

 二時間も掛からずにボルクリンゲンに着くと早速仕事に取りかかった。この工場で今出荷数が多いのはモーグラと空中船用船外機だ。

 モーグラは一万メイル以上という高々度航行能力と時速二百五十リーグという巡航速度が評価され、爆撃機としてアルビオン・ガリア・ゲルマニアの各国の軍に納入されている。普通のフネも竜騎士も飛べない様な高度を飛行できるのだし、風石を併用すれば機外にいくらでも爆装を増やせるのでその爆撃機としての潜在能力は高い。納入されたモーグラはなにやら秘密の改造を受けて、順次配備されているようだ。

 船外機とはフネの両舷側に一つずつ搭載し、航行速度を向上するためのものだ。ジュラルミン製のフレームに風石エンジンとプロペラを搭載し、やはりジュラルミンのカバーで覆った。
 これを搭載して帆を簡略化したフネはこれまでの三倍程、時速五十リーグ以上で航行できるようになるので、空中船専用航路に就航しているフネは最近次々に改造されている。飛行時間が三分の一になればその分回数を増やせるので、投資に対する見返りは十分に期待できるのだ。
 この外装は比較的簡単な構造なのでリベット打ちの職人を養成する訓練には丁度良かった。ウォルフにとっては当初興味を持てない機械だったが、今は積極的に製造指導している。

 工場を見て回り、設計部に異動して現在設計中の大型飛行機の設計図をチェックする。大まかなところはウォルフが決めているが、最近は設計を出来る社員も育ってきたので細かな部品の設計などは任せている。勿論使えない設計には容赦なく不可を出しているので社員達には鬼と呼ばれているが、最近は三回くらいの書き直しでOKが出る事も多くなった。
 風石があるので前世の飛行機よりは要求技術レベルが低いとは言え、飛行中に分解するようでは困る。設計部員一人一人の設計図について、何がいけないのかどう直すべきなのか解説した。
 黒板に張り出して説明し、参考にするべき書籍を紹介してお終いにするつもりだったが、すぐに周りから質問が飛んできて結局二時間程講義する事となった。勿論参考図書は全てウォルフの著作だ。
 
 忙しく過ごす中で昼過ぎ、仕事が一段落してウォルフが社員食堂で遅めの昼食をとっているとキュルケが乱入して来た。一緒に食事をしていた設計部員達はすぐに気を利かせてテーブルを移動する。

「ウォルフ! 丁度良いときに来たわ、辺境の森へ行くわよ!」
「……キュルケ、また家出してきたんだ。今度はどうしたの?」
「どうしたもこうしたも無いわよ、また普通の恋愛をしろとか言われて社交界に連れ出されたわ」
「キュルケだったらそういうとこ行けばもてるだろ。見目麗しい男どもにチヤホヤされるのは好きそうだけど」
「そりゃ、好きだったけど、何か違うのよ、温いの。『君の炎に焦がされたい』とかいくら口で言われても、わたしの情熱は燃え上がらないわ」

 最近キュルケはよく家出してはウォルフの所やウィンドボナの魔法学院に入学したマリー・ルイーゼの所へと駆け込んでいる。開拓地で幻獣を狩ったり、リンベルクでマリー・ルイーゼと二人で探索者をしたりと自由に暮らした後二週間位すると家に帰っているが、最近その頻度が増えてきているような気がする。

「実際に炙ってみたら、泣くし。そこはクールに躱して『僕が焦がされたいのは君の情熱さ、可愛い火ネズミちゃん』くらい言って欲しいのに、がったがった震えながら泣き出すなんてあり得ないわ」
「あー、よっぽど怖かったんだね、可哀想に……良いとこの坊ちゃんだったの?」
「公爵の長男だってさ。父さまは怒ってぐちぐち言ってくるし、もう最悪。何が、男と見れば燃やそうとするな、よ。あんな『ファイヤ』躱せない方がおかしいんじゃない」 

 あんなんじゃワイバーンの前に出たら一瞬で丸焼けよ、などとキュルケは言っているが、公爵子息はまだキュルケと同じ十三歳、普通はワイバーンなどとは闘わない。ちなみに可愛い火ネズミちゃんと言うのはゲルマニア方言で、年少の火メイジを褒めるときによく使う表現だ。
 キュルケは十三歳になって反抗期真っ盛り、と言った感じで、辺境伯も苦労しているようだ。ウォルフと出会って以来やたらと行動力が付いてしまっているので家出もダイナミックだ。この間などゲルマニアから遙か離れたクリフォードの通うロンディニウムの魔法学院に転がり込み、一騒動起こしていた。突然の美少女の登場にクリフォードはキュルケが帰った後同級生の質問攻めにあったという。

「キュルケ、もう春になったら魔法学院に入学した方が良いんじゃない? 同年代の子供が一杯いる訳だし、退屈しないで済みそうだよ」
「そうするべきなのかしら…、でもマリーの話だと魔法学院と言ってもそこそこ使えるのは五、六人しかいないって話だし、やっぱりすぐに飽きちゃいそう」
「うーん、士官学校の魔法科なら手強いのは沢山いそうだけど、辺境伯令嬢が入学するのは現実的じゃないよな」

 士官学校の魔法科は軍の中でも対人の魔法戦闘に特化した部隊の指揮官を養成する学科だ。ライムントもここの卒業生だが、とにかく対人戦闘には強いメイジがそろっている。

「あそこって授業料が無い代わりに卒業後に何年か軍に勤める義務があるじゃない。わたし、軍勤めなんて絶対に無理だと思うわ」
「確かに。上官の命令にイエスとしか答えないキュルケとか想像できない」
「ウォルフも一緒に魔法学院入学しない? あなたがいれば退屈はしなそうよ」
「無理。オレの忙しさは知っているだろ」
「ふう……魔法学院に入学して、あげく退屈だったりしたらすぐに退学しちゃいそう。そうなったら探索者として生きていくのかしら…」
「待て、早まるな。それは若さの暴走だ。君には辺境伯令嬢としての義務がある」
「わかってるわよ。言ってみただけじゃない」

 貴族とは領民から徴収した税金で暮らしている。ツェルプストーで育ったキュルケにはツェルプストーの為に尽くす義務があり、好き勝手に生きて良いものではない。
 なおもブチブチとこぼしているキュルケだったが、ウォルフは食事が済んだので立ち上がった。仕事が詰まっているのでいつまでもキュルケの相手はしていられない。

「ちょっと、オレは暫く忙しいから、辺境行くなら一人で行ってくれ。向こうには連絡しておくから」
「え? ウォルフは行かないの? いつもここで一日二日仕事したら移動してるじゃない」
「明日の午後に、そこのラ・ヴァリエール公爵に呼ばれているんだ。ちょっとそっちの用事がどのくらい掛かるか分からないから」

 ラ・ヴァリエールの名前が出たとたんキュルケの瞳がきらきらと輝き出す。興味を持たれたらしい。
 ツェルプストーとラ・ヴァリエールとは過去幾度となく杖を交えており、自他共に宿敵と認める間柄だ。ここのところは戦争にはなっていないが、休戦状態が続いているだけで、何時どんなきっかけで戦争が再開されてもおかしくはない。
 実際キュルケが襲撃された事件の時は後一歩のところで大規模な戦争になるところまで行った。そんな相手とウォルフとが交流を持ったことを知ったら辺境伯は何を思うだろうか。

「何? 何? 何でヴァリエール? 父さまはウォルフがラ・ヴァリエールに行くって知っているの?」
「別に辺境伯には知らせてないけど。降臨祭で実家に帰ったときに知り合ったんだ。オレの魔法の先生が昔公爵にも教えていたんだってさ」
「ふーん、まあいいわ、父さまには黙っていてあげる。だからわたしも連れてって? なんだか楽しそう」
「いや無理。向こうのこともあることだし。辺境伯には話してくれて構わないよ、元々隠すつもりなんてないし」
「ああん、相変わらずケチなんだから。何しに行くのか興味あるわー……ヴァリエールって今、娘が三人いるんだっけ?」
「うん、一番下の子がオレと同い年。一番上はもう成人してるって」
「その一番下の子と婚約とかするの? それで呼ばれてるの?」
「ルイズとはそういう関係になる予定はないよ。今回は別件」
「もう名前で呼び合ってるんだ。今そのつもりが無くても可能性はあるんでしょ?」

 ルイズは虚無なので、虚無の使い魔のガンダールヴである可能性が疑われているウォルフとしては、今後ルイズに召喚されて使い魔にされる可能性を否定できない。

「婚約はともかく今後親しい関係になる可能性までは否定できない、かな」
「うふふ、父さまったらピンチじゃなーい。わたし、家出やめるわ。今日は家に帰る」

 キュルケは心底楽しそうに笑いながら言う。多分チクチクと辺境伯をつついて不安を煽るつもりなのだろう。サディスティックなその笑顔にウォルフは溜息を吐く事しかできない。

「……ヴァリエールの方の用事が終わったら城に顔を出すから、よろしく伝えといて」
「ツェルプストーから男をさらうとか、やるじゃないヴァリエール、見直したわ。なんだか楽しくなりそうね」

 現在のウォルフのゲルマニアでの立場は、有力貴族であるツェルプストー辺境伯の子飼いというものだ。ゲルマニア政府を含めて他の貴族は辺境伯に遠慮して直接ウォルフと交渉しようとはしないし、辺境伯もさせてこなかった。ミルデンブルク伯爵など周辺貴族とは話し合わなくてはならない事も多く頻繁に会っているが、細かい取引などは輸送を請け負っているガンダーラ商会が行っている。
 ウォルフによってもたらされた多大なる利益を思えば、辺境伯がウォルフを手放そうなどと考えるはずも無い。横から掠おうとするものが現れないか常にチェックしていて、ウォルフに娘を近づけさせようとする貴族などにはやんわりと恫喝して追い払っているくらいだ。
 開拓団が順調にその規模を拡大してゲルマニアで爵位を得る事がほぼ確定した頃には、ウォルフとキュルケをくっつけようと画策していた時期があったが、辺境伯にとって残念な事に、一向にそういう雰囲気にはならなかった。そのウォルフにラ・ヴァリエールが手を伸ばそうとしていると知れば、騒動になるのは間違いなかった。

「頼むから、騒ぎを大きくしないでくれ。本当にちょっとした用事なんだ」
「ふふ、わたしとあなたがくっついちゃえば、父さまも安心なのにね。ウォルフの所に行くと幻獣ばっかり殺して廻っているから心配みたいよ」
「あー確かに、もうあんまり闘わせないでくれ、って言われた事はあるよ。キュルケの勝手だからって放置したけど」
「ウォルフのそう言うところは好きよ。父さまにペコペコしないものね。でもあなたと恋人とか、無いわー」

 ウォルフの事を好きかと問われれば勿論好きと答える。ぬるま湯みたいな毎日を刺激的なものに変えてくれたのはウォルフだった。しかし愛を語る相手では無いと言う事だ。愛する相手にはあのヴァレンティーニを追っていたときのような身を焦がすような情熱を感じさせて欲しいと思っている。ウォルフは何というか、キュルケから見ると枯れすぎていた。

「まあ、無いな。とにかく、帰ったら辺境伯にも説明するから」
「分かってるわよ、出かける前に言ったりしないから安心して」

 とても信用できない笑顔を残してキュルケは去っていった。ウォルフは一抹の不安を感じながらもようやく仕事へ戻る事が出来た。

 そして翌日、心配されたツェルプストー辺境伯からの連絡も無く、午前中で仕事を終えたウォルフは飛行機に乗り込み、予定通りラ・ヴァリエールへと向かった。



[33077] 3-5    初診
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:40
 ゲルマニアに広がる黒き森、その只中にそびえ立つツェルプストーの居城。様々な建築様式が混ざり合う城の中庭で、キュルケは母親と一緒にティータイムを楽しんでいた。
 夕方にはまだ早く昼食後というには遅いこの時間、いつもは午後の休憩がてら辺境伯と夫人の二人で過ごすのが常だが、何故だか今日はキュルケが前もってこの中庭に来ていた。

「あらあなた、お仕事ご苦労様」
「うむ。何だ、キュルケも来ていたのか。昨日は返事をしなかったが、公爵子息にちゃんと詫び状を書いてきたのか?」
「ええ。よく考えたらわたしも乱暴だったわね。もう十三歳なのだし、少しはお淑やかにした方が良いかしら」

 ひらひらとメイドに代筆させた手紙を振ってみせる。

「うむ、良い心がけだ。公爵子息とは縁がなかったが、お前程の器量なら縁談などいくらでもある。どれ、ワシが出しておこう」

 厳かに頷いてキュルケから手紙を受け取る。詫び状で公爵の体面を立てられるので、今回の件はこれでお終いだ。そもそも焦がして欲しいなどと口走ったのは向こうなのだから。
 前日は険悪な雰囲気になっていた親娘だったが、キュルケから折れたので辺境伯の機嫌も良くなりティータイムは和やかな雰囲気となった。

「縁談かあ……そう言えば、わたしの好みははっきりしているけど、ウォルフってどういう女の子がタイプなのかしらね。全然分からないわ」
「ウォルフちゃんってまだ十歳でしょ? そういうのは早いのかも知れないわね」
「十一歳になったみたい。父さま、ウォルフって結構有望株なんでしょ? いつかどこぞの子爵が娘を売り込んできたって怒っていたわよね」
「……ガンダーラ商会が拠点を置いた所はいずれも大きく発展し、おかげで税収も随分と上がっている。ガンダーラ商会ではなくウォルフの知識そのものに価値があると言う事すら理解していない馬鹿者どもが、商会を誘致する為だけにウォルフを抱き込もうなどと…勿論、そんなのは全て蹴散らしてやったわ」
「価値を知っている貴族がウォルフに手を伸ばしてきたら、父さまはどうするの?」

 キュルケの目が、悪戯好きのネコのように鋭く光り、その口は美しい弧を描く。辺境伯は娘の様子に胸がざわつくのを覚えたが、一般論で答えた。

「まずはワシに話を通す事だな。ゲルマニアにおけるウォルフの後見貴族たるワシに挨拶もせず、直接取り入ろうとする輩など許す訳にはいかん。もっとも、ワシの睨みがきいている中でそんな事をしようとする貴族などそうはおらんが」
「父さまの事を怖がらない貴族だったら? 例えば公爵とか、そういう有力貴族が自分の娘と結婚させようとしてきたらどうするの? 父さまもエリーザベトやロベルティーネをウォルフの辺境開拓団に送り込んでいるみたいだけど、同じような事する貴族が出たら、どうする?」

 エリーザベトやロベルティーネはツェルプストーの一族で、マリー・ルイーゼと同じくキュルケの従姉妹だ。ウォルフと年頃の近いこの娘達を辺境伯は何度か手伝いと称して開拓団へ送り込んでいた。
 一回二週間程送り込んでくる辺境伯の意図は明白だったが、彼女たちにはそれぞれ護衛数名も付いてくるので単純にメイジの労働力と見れば結構な量になる。メイジはいくらでも欲しいウォルフはありがたく受け入れている。戦闘もさせられず、専門的な作業も無理なので『レビテーション』で工事現場の手伝いをさせたり、木の根を掘り起こした際に出てくる虫を焼き殺す作業に従事させたりしている。

「たとえ公爵だろうと、ゲルマニアでワシを敵に回してまでそんな事をするものはいないだろう。何だお前、何か知っているのか?」
「別にー? じゃあ、ゲルマニアじゃなかったら? 元々敵だったら? 例えば、ラ・ヴァリエールがウォルフにちょっかい出してきたら、どうする?」
「……」

 にこやかに話す娘の前で、辺境伯はその状況を考える。ウォルフはまだまだ技術力は上がると言っている。モーグラは時速二百五十リーグくらいだが、時速五百リーグくらいで飛ぶ貨物船を近いうちに完成させるし、将来的にはもっと速度を上げるとの話だ。
 もしその将来にガンダーラ商会が拠点をトリステインに移したら、よりガリアやアルビオン、ロマリアとの距離が近いトリステインの方が発展し、ツェルプストーはその周辺地域の一つに成り下がってしまうかも知れない。それほどウォルフの持つ技術は脅威だ。マイスターメイジ全ての能力を結集しても未だその技術を理解し切れていないツェルプストーにとって、手放す事など想定も出来ない。

「トリステインの石頭どもが、ウォルフに手をのばす事など有り得ん。ガリアのラ・クルスでは有るのかも知れないが、トリステインではガンダーラ商会は蛇蝎のごとく嫌われておる」
「ふーん、じゃあ、どうしてなのかしらねえ」
「何がだ。何か知っておるならさっさと言え」

 頬杖をついてニヤつきながらこちらを見る娘に苛ついて、つい強く言う。ヴァリエールがウォルフに手を出すなんてあり得ないと思っているし、ガリアの方も風石の試掘で何カ所がボーキサイトの鉱脈を発見しているのに採掘の許可が下りないとウォルフがぼやいていた。とうていウォルフの技術を正当に評価しているとは思えない。ウォルフが根を張る場所はゲルマニア以外には無いはずだった。

「ルイズって言うんだって」
「誰がだ」
「ラ・ヴァリエールの三女。ウォルフと同い年の可愛い女の子で、今日ウォルフは呼ばれて会いに行っているそうよ」
「な……」

 僅かに狼狽える辺境伯をキュルケは頬杖をついたまま観察するように見ている。その目は本当に楽しそうだ。

「ちょっと、確認に行ってくる」
「いってらっしゃい。ウォルフはヴァリエールの用事が済んだら父さまの所に顔を出すって言ってたわ」
「……」

 辺境伯は憮然とした表情を作ると、キュルケは無視して妻に断りを入れ、執務室へ戻っていった。

「キュルケちゃん、いくら父さまが可愛いからってあんまりいじめちゃだめよ? あの人はわたしの旦那様なのですからね」
「……母さま、わたし、父さまを可愛いなんて思った事ないのですけど」
「ふふふ、あなたならきっとすぐに分かるようになるわ。きっとね」
「そういうものなのかしら。あ、そうそう母さま、この間討ち取ったワイバーンの皮で、母さまのブーツを作らせてみたの。ちょっと履いてみてくれる?」
「あらあら、嬉しいわね。あなたの分はちゃんと作ったの?」
「もちろんよ。母さまのとお揃いになるわ。ほらこれ」
「まあ、素敵。良い娘を持って幸せだわ、うふふ」

 辺境伯のことなど忘れたように、親娘二人きりにもどったティータイムは賑やかなものになった。



 一方、ツェルプストーのティータイムより少し前の時間、ウォルフは約束通り飛行機に乗ってラ・ヴァリエールを訪れていた。
 余計なトラブルがないか心配だった国境警備の竜騎士は、ウォルフを確認すると左右に展開して竜の頭を下げ敵意のない事を示し、国境で滞留させられる事はなかった。国境からそのまま案内する竜騎士に付いて真っ直ぐに飛べば、ラ・ヴァリエールの居城まではあっという間だった。
 先に着陸した竜騎士に続いて城の前庭に着陸したウォルフを出迎えたのは、ラ・ヴァリエール公爵本人だ。

「ラ・ヴァリエールへようこそ、ウォルフ君。長旅で疲れたろう、客室を用意した。まずはゆっくりと疲れを取ってくれたまえ」
「あ、いえ、三十分もかかっていませんから、お気遣いは無用に願います」
「そ、そうか。そう言えばあの飛行機とやらは随分と早く飛べるのだったな」
「ええ。今乗っているのは速度を重視した試作機ですが、市販しているモーターグライダーでもボルクリンゲンからここまで三十分は掛かりませんよ」

 トリステインでもモーターグライダーは入手して国防に使えるか研究したそうだが、加速性能、機動性、耐火能力全てで火竜に劣るため、その評価は低かった。
 火力がないので試験的に小型の大砲を搭載してみたら飛行性能が大幅に落ちたため結局取り外し、購入した機体は結局トリスタニアの上空警備に使用しているという。上空でも暖かく広いキャビンのおかげでこちらの用途では好評だそうだ。
 戦闘力としての竜には劣るが竜籠よりは実用的なようだ、そんな話を公爵としながら案内されるまま城内へと移動する。竜も戦列艦も航行できない高度を飛べるというのに随分と低評価だ。余所の国では爆撃機として相当数すでに配備しているというのに、何とものんびりとした話でウォルフは軽く溜息を吐いた。
 跳ね橋を渡って城門をくぐり、広い中庭を横断してと結構な距離を歩いた先ではルイズと、そのルイズによく似た髪色の女性がウォルフを待っていた。

「紹介しよう、妻のカリーヌだ。カリーヌ、こちらがウォルフ・ライエ・ド・モルガン殿だ。遠路はるばるサウスゴータから来てくれた」
「あ、いえボルクリンゲンで仕事をしてましたのでさほど遠くから来たという訳ではありません。初めましてミセス・ヴァリエール、お目にかかれて光栄です」
「初めまして、ミスタ・モルガン。私どもの娘のためわざわざお越し下さったとの事、感謝します」

 ラ・ヴァリエール公爵夫人はルイズとよく似た容貌で、今は笑顔の形になっているがその目は笑っておらず、鋭い光を放っていた。ウォルフはその眼光を多少不快に思いながらも受け流し、何の反応も返さなかった。娘をウォルフのような得体の知れない少年に診せる事を納得していないのかも知れない。
 公爵の家中統率能力を下方修正しながら横を見るとルイズがその公爵夫人の横で、指示を待つガーゴイルのように硬直して立っている。訝しげなウォルフの視線に笑顔を作って答える。

「ラララ・ヴァリエールへようこそ、ミスタ・ウォルフ。歓迎いた、いたしますわ」
「……どうも」

 噛んだ事には触れずに挨拶を返す。ルイズはとても緊張しているみたいだが、どうも隣の公爵夫人が原因のようだった。
 ルイズや夫人とのぎこちない挨拶が終わり、次は例の病弱な次女になるわけだが、公爵によると彼女は今日は体調を崩して自室で安静にしているとのことなので、早速移動する。
 


 その部屋は上流貴族の私室としても広く、統一された豪華で上品な内装と日当たりの良い大きな窓が印象的な居心地の良いものだった。何故か部屋の中には多種多様な動物たちがいて、それらが心配そうに窓のすぐそばに設置された豪華なベッドを囲んでいる。部屋の入り口にウォルフとルイズを残し、公爵夫妻はベッドに横たわるこの部屋の主に話しかけに行った。
 ウォルフはその部屋に一歩入ったとたんその異様な雰囲気に飲まれ、自然と足を止めていた。確かに部屋の中に動物が数十匹もいるのは尋常ではないが、ウォルフが異変を感じたのはそれとは関係ない部分で、部屋の中に滞留する魔力素の質だ。何者かの意志を帯びた魔力素がこの部屋に広がっていて、一種の結界のようになっている。
 系統魔法しか使わないメイジでは気付かないだろう希薄な気配だが、ラグドリアン湖の精霊や精霊魔法を行使するアルクィーク族と交流のあるウォルフにはわかる、精霊魔法の気配だ。
 その魔力素の異常の中心にいるのはこの部屋の主であるルイズの姉、カトレアだった。

「……エルフ?」

 ウォルフにとってあまりに異様なその状態に思わず言葉を漏らした。離れている公爵夫妻達は気付かなかったようだが、隣に立っていたルイズは目を丸くしてウォルフの方へ向き直った。

「ちょ、ちょっと、何でちいねえさまがエル――」
「ウォルフ君、来てくれ。紹介しよう」

 小声で詰問してきたルイズを遮ってベッドの脇から公爵がウォルフを呼んだ。ウォルフは仕草でルイズに黙っているように頼むと、呼ばれるままにベッドサイドへと移動した。

「こちらが今日お前を診てくれるウォルフ君だ」
「まぁまぁ……初めまして、不思議なお方。ラ・ヴァリエール公爵が次女、カトレア・イヴェット・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールです。今日はよろしくお願いします」

 間近で見るカトレアはルイズによく似た、しかし随分と柔らかい印象の女性で、血色は良いし親譲りのピンクブロンドの髪は艶やかに輝き、一見しただけでは病人とは思えない。穏やかな表情で優しげに微笑み、どこか諦観を含んだ目が唯一病人であることを思わせる程度だ。

「こちらこそ、よろしく。ウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。若輩者ですが、普通のメイジとは違う考え方をするようなので今回呼ばれました」
「本当、普通の殿方とは随分違っていらっしゃるようですね。ルイズと同い年だという話でしたけど、ずっと年上のような気がします」
「ははは、年寄りじみているとはよく言われます。では早速ですが、いくつか質問に答えていただけますか?」

 カトレアはいたずらっぽい目をしてウォルフの事をとても興味深そうに見てくる。ベッドの上で座るその体は、病弱だという割にルイズや公爵夫人とは違い随分とふくよかな体つきに見える。顔や肩、ウエストなどは細いようだが胸の辺りのボリュームが全く別物と言った感じだ。
 公爵に許可を得て早速問診を開始する。いつからどのように具合が悪いのか、具体的な症状はどのようなものか、具合が悪くなる特定の条件などはあるのか、事細かく聞いていく。

「何でもないときに具合が悪くなる事もありますけど、魔法を使った後はかなりの確率で体調を崩している気がします」
「月のものは有りますか? また、周期は安定してますでしょうか」
「はい。大体一定だと思います」
「初潮後に病状について何か変化を感じた事はありませんか?」
「そう言えば、月経中は体調を崩す事が多いです……けど、それはそういうものなのでは?」

 ずけずけと質問するウォルフの事が気に入らないのか、問診中にまた公爵夫人から殺気が漏れてきたが、あくまで無視している。隣のルイズはかなり怯えているが。
 また公爵に断ってから魔法でカトレアの体を精査する。内臓や骨の状態、血液・リンパなど体液の流れ、魔力の流れ、ホルモンバランスなど魔法で分かる事を把握していく。
 特に腫れている臓器やおかしな箇所は見あたらなかったが、いくつか細かい癌があったので水の秘薬を使用して治しておいた。
 染色体検査のため口腔粘膜を採取し、最後に注射器で血液も採取して今日の診察はお終いだ。これらの検体を採取する時には公爵に説明を求められたので一応詳しく解説しておいた。本当は尿も採取しようと思っていたのだが、背後からのプレッシャーにより断念した。

「じゃあ、今日はこれで終了です。採取した血液などを検査して診断を下したいと思います」
「ありがとうございました、先生」
「う、先生は勘弁して下さい。正式な医者でも何でもないので」
「では、ウォルフさん、とお呼びしますわ」
「ええ、それでお願いします」

 カトレアは診察中もそれが終わっても、何が楽しいのか終始ニコニコと笑顔だった。ウォルフはそんな彼女に挨拶を済ませ、公爵達を促して部屋から出る。
 応接室と呼ぶにはあまりにも広いホテルのロビーのような部屋に案内され、そこでウォルフは公爵に見解を尋ねられた。

「どうだった、ウォルフ君。何か分かった事はあったかね」
「なかなか難しいですね。澱みがいくつか有りましたので、それは治療しておきました。カトレアさんの病状は原因不明の要因により、不定期に澱みが出来て時々それが重症化するというものでしょうか?」
「……その通りだ。どんな水メイジに診せても、毎回澱みを完治しているのにこんなふうに繰り返し澱みが現れるなどあり得ない事だと言う」

 澱みとは癌の事で、ハルケギニアでは癌は治る病気だ。少なくとも水の秘薬を用意できる貴族で癌で死ぬ者は殆どいない。風は遍在し、水は流れる。生命において生と死は常に一対で、それは水の流れに似ている。人間の体の中で細胞は常に生と死を繰り返しているが、死ぬ事を忘れた細胞が増殖を繰り返して体に悪影響を与えるのが癌という病気の本質。
 ウォルフの前世の医学では癌細胞とは遺伝子にその発生原因があるとされているが、ハルケギニアの医学では水の魔力の部分的な枯渇がこの病気の原因だとされている。故に水の魔力を与えてきちんと魔力が流れるようにすれば癌細胞は死滅する。水の魔力の豊富な水メイジなどでは自然治癒するのが普通でまず癌という病気にかかる事も少ない位だ。

「そもそもカトレアの症状の難しさはそれだけではない。一カ所の澱みを魔法で抑えようとすると直ぐに他の場所に澱みが現れるのだ。まるでイタチを追うようだと言われた事があるくらいだ」
「それは水の魔力が体内で凄く不安定になっているからですね。破けた布を直そうと、弱った布を無理に引っ張ったら他の場所が破れるようなものです。澱みだけでなく全身に魔力を流して補強する必要がありますね」
「うむ。いつも腕の良いメイジに完治して貰っているが、それでも長くは保たない」

 そもそもカトレアのように念入りに全身を精査して癌細胞を全て死滅させたのに一ヶ月も経たずに再発する事など、これまで観察された事のない症例なのだ。原因も分からなければ治療法も全く分からなかった。

「今のところわたしにもその原因が何であるのか、特定できません。一度帰って詳しく調べたいと思いますので、お三方もご協力お願いします」
「ん? 勿論協力は惜しまないつもりだが…」

 ウォルフの言葉に幾分落胆している公爵にウォルフは綿棒を取り出して見せた。ウォルフお手製の口腔粘膜採取キットだ。
 何か遺伝的な疾患があるのか、染色体を詳しく調べてみようというのだが、まだウォルフに生物学の知識が少ないので染色体やDNAを調べても病気の治療方法がわかるとは考えていない。しかし、こういった機会に知識を積み重ねる事は必要だと思っているし、原因の特定には繋がるかも知れないので頼んでみた。

「ちょっと口腔粘膜を採取させて下さい。公爵と公爵夫人、それにルイズの三名で結構です。何、痛くはありません、この綿棒で五、六回頬の内側を擦るだけです」
「別に、いいけど、ちょっと変態的なのが嫌だわ」
「原因が遺伝に起因するものか調べる必要があるんだ、変態って言うな。ほら、口を開けて、あーん」
「……あーん」

 ルイズが少しいやがったが、三人とも協力はしてくれた。公爵夫人に「あーん」した時には顔を真っ赤にしてこめかみをぴくぴくと痙攣させていて、かなり辛抱をしている事がうかがえた。ちなみに最後になったラ・ヴァリエール公爵にはそれまでの手順通りに自分でほおの内側を綿棒で擦って貰い、それを横で見ていた公爵夫人からはさらに強い威圧感がウォルフに向けて発せられた。
 染色体の検査などは精密な作業になるので、ボルクリンゲンで行う事にしてこの日はこれでいったん帰る。飛行機まで送るという公爵にウォルフは遠慮して建物のエントランスで別れたが、ルイズだけは話があるとの事で一緒に飛行機まで着いてきた。



「ウォルフ、ちいねえさまのことエルフってどういう事よ! いくらウォルフでも変な事言うと怒るわよ」
「ああ、つい出ちゃったんだ。オレ、ラグドリアン湖の精霊と話した事有るんだけど、その時と雰囲気が似ていたから。先住魔法使う人間みたいな存在ってイメージで」
「…ま、まあちいねえさまは精霊みたいに純粋な存在だから、仕方ないけど。エルフは無いでしょう、もう言わないでちょうだい」
「言わないって。つい出ちゃっただけだから」

 ハルケギニアでエルフみたいというのは獰猛で残忍な人間であるという意味になるので、ウォルフのあれは聞かれているとは思っていなかったために出た言葉だ。

「はあ全く、あんなの母さまに聞かれたら大変よ? 母さまってすっごいメイジなんだから」
「ああ、怖そうなお母さんでルイズも大変だね」
「……ウォルフあなたって相当な大物ね。そういえば母さまの殺気をあんなに涼しそうに受け流す人って初めて見たわ」
「オレ、一応公爵の客だったんだけど、それにあんな殺気ぶつけてくるってどうなの? 君のお母さんって日頃からあんな感じなの?」
「それは――いつもあんな感じね。自分に相談しないで、ウォルフみたいな子供にちいねえさまの事を任せた父さまの事が気に入らないのよ、きっと」
「まあ、実際に何言われたわけじゃ無いけど、もう少し大人になった方が良いんじゃないかな」
「……それで、母さまにもあーん、ってしたのね?」
「子供には子供の対応をってね。はは、こめかみにぶっとい血管浮いてたろ、見た?」
「怖すぎて、顔なんて見られなかったわよ……」

 ルイズは目を丸くしているが、ウォルフとしてはいくら気に入らないとは言え、貴族の妻なのだから夫の客にはもっと愛想良くしろよ、と思う。
 ラ・ヴァリエール公爵のような壮年の貴族が、政府の職を辞して社交界にもあまり出ず、自分の領地に籠もっているのはあの性格のきつそうな妻にも原因があるのかも知れない。

「子を守る母親ってのはナーバスになるらしいって思っておくよ」
「そうしておいて。わたしの系統を秘密にしておいて欲しいって頼んだのをウォルフが断ったのも気に入らないらしいの」
「普通に考えて秘密になんて出来ないだろ。ハルケギニアで虚無の系統の発現は王の帰還を意味する。私に出来る事じゃないよ」
「やっぱり、そういう話になってくるのよね。母さまはそれが嫌みたい」
「貴族たるメイジはその支配の根拠を魔法に置いている。始祖に授かった神の力である魔法を使えるのだから人々を導く地位にいてもよいってことだな。そして貴族達を統べる王はその根拠を始祖の血に置いている。元々ハルケギニアは神が始祖のために用意したものだからその子孫が受け継いでいくという理屈だ」
「うん…」 
「貴族達は六千年間始祖の血統を王として戴いてきた。君を王として戴くかどうかは貴族達が決める事なのだろうけど、王が王であることを隠して逃げるって事は許される事じゃないと思う」
「はあ、わかったわ。虚無の系統に生まれついちゃったんですものね、覚悟するわ」

 実際問題として、ルイズが虚無である事がトリステイン国内に広まると、様々な思惑が渦巻く事になるだろう。その中でルイズ自身が危険に曝される事を公爵夫妻は懸念しているのだ。

「実際の話としては君がトリステインの王位に即くって事は可能性が低いかな。アルビオンのウェールズ王子の所に嫁いでその子供の一人をアンリエッタ王女の子供と結婚させるってのが一番可能性が高そうだ」
「ちょっと、何よそれ。わたしの結婚って勝手に決められちゃうの? 一応、婚約者がいるのだけど」
「へえ、その歳でもうそんなのいるんだ。どんな相手?」
「隣の領の、ワルド様」
「そこの爵位は?」
「子爵」
「…そんなの君が虚無だって分かった瞬間に無かった事になってそうだけど。そもそも公爵令嬢の嫁ぎ先じゃないだろ子爵って」
「父親同士が友達なのよ。いいじゃない、子爵だって」

 ルイズの頬が赤くなっているのを意外な気持ちでウォルフは見た。普通爵位が下の貴族に嫁がせられるというのは貴族の娘にとって屈辱を伴うものだが、ルイズにはそれを感じている様子がなかった。
 しかし彼女の将来にはいろいろな可能性が考えられるが、そのまま子爵に嫁入り、というのは最も可能性が低そうだ。

「トリステインの女王になって貴族の半分くらいをぶっ潰せば子爵と結婚しても誰も文句を言わないかも」
「いやよ、そんなの。恐怖の女王みたいじゃない。大体、アンリエッタ様だっていらっしゃるのに王位だなんて…」
「可能性は色んな事が考えられるよ。今のところ虚無のメイジと言っても何か出来る訳でもないし、他の人は信じない可能性の方が大きいけど、覚悟はしておいた方が良いね」
「人ごとだと思って好き勝手言っちゃって…」
「いや、だって人ごとだし」

 丁度飛行機についたので話を終わらせて乗り込む。また翌日の来訪を約束してウォルフはツェルプストーへと飛行機を発進させた。



[33077] 3-6    再診
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:40
 その日ボルクリンゲンに帰ったウォルフは、帰るなりツェルプストー辺境伯の来訪を受けた。当初かなり興奮していたようだったが、ルイズが虚無である事を伝えると冷静さを取り戻し、今後の対応を協議した。
 辺境伯の話では、ゲルマニア帝室に報告しないという事は考えられないと言う事だった。ゲルマニア帝室はハルケギニアの主要国家で唯一始祖の血統を継いでおらず、他国から格が低いと見られる事が多い。
 虚無の血統の娘と言えば喉から手が出るほど欲しがると思われ、報告しなかったりして後でバレたら叛意有りと見なされかねない程だという。これまでトリステイン王室にはアンリエッタ姫一人しかいなかったので婚姻という話には中々ならなかったが、ルイズかアンリエッタどちらかという話ならば進められるかも知れないとのことだ。

「アルブレヒトさんって今何歳なんでしたっけ?」
「閣下は来年四十になられる」
「うわ、犯罪だ。ルイズって今十一歳だよ歳の差いくつよ」
「五年後には十六歳だな、十分に嫁入り可能だ」
「政略結婚、すげえ…」

 四十四歳の独身男性が十六歳のピチピチの嫁を貰うのだから、前世からすればお伽噺のような話だ。実際にはアルブレヒト三世には側室がいるだろうから独身男性ってわけじゃあないのだろうけど。

「そんなんで驚いていてどうする。この間お前にも三十の行かず後家との結婚話を持ち込んできた馬鹿がいたぞ。十やそこらで一人暮らしている少年には母親代わりの女性が必要だろうという苦しい理由だったが」
「三十なら余裕で守備範囲ですけど、年の差を考えたら色々大変そうだし、母親代わりは要らないなあ」
「守備範囲なのか…もしや、貴様熟女好きか? それでキュルケに目も向けないのか?」
「そんな趣味はありません。結婚するなら同年代が良いと思っています」

 ウォルフは否定したが、この後ツェルプストーのウォルフに関するファイルには熟女好き、の一文が追加される事になってしまった。
 特に年配の女性が好みという訳ではなく、二度目の人生なのでどうしても十五、六歳以下だと子供という感じがしてしまって恋愛対象として考えられないというだけなのだ。前世の年齢が透けて見えるような気がしてちょっとイヤなのだが、三十歳くらいの女性だとまだ"女の子"と認識してしまう。

「本当にラ・ヴァリエールと婚約話が出ている訳ではないのだな? あそこにはそろそろ嫁き遅れそうな娘がいるとの話だったが」
「ありません。大体オレはトリステインで悪名高いガンダーラ商会のオーナーですよ? 十分な根回しもせずに婚約なんてしたらトリステイン中を敵に回すでしょう」
「まあ、そうだな。そんな工作をヴァリエールがしているという報告はないな。しかしお前が熟女好きなら」
「熟女から離れて下さい。長女だってまだ二十二歳だって話ですよ? 熟女って言うには気の毒でしょう。大体婚約とか無いです、向こうの奥さんには随分と嫌われてしまったみたいですし」
「ああ、カリーヌか。顔の造作は良いが、全く抱く気のしない女だ。ふむ、アレに嫌われたのならお前も苦労しそうだな」

 結局ツェルプストー辺境伯も、虚無の謎を解くためにウォルフがラ・ヴァリエールと関わりを持つ事には納得せざるを得なかった。
 虚無とはどのようなものか、現状はどうなっているのか一々報告する事を約束させてようやく帰って行った。



 カトレア嬢の血液検査は健康なもので、あらかじめ魔法で調べた通り血糖値等おかしな数字はなかった。癌が治っている段階だとほぼ健康体なのだろう。

 ヴァリエール家の検査では随分と興味深い事が分かった。染色体を詳しく調べた結果判明した事はウォルフも全く想定していなかった事実だ。
 公爵以外の三名にはどうも人間以外の遺伝子が入っているらしく、そのDNAは一部ウォルフが見た事のないものになっていたのだ。
 人間には四十六の染色体があるが、三人とも対になっている十六番目の染色体が通常の人間より僅かに長い。その遺伝子がエルフなのか他の亜人なのかは分からないが、祖先で混血しているものと思われる。
 他の二人には異常が無いのでこの染色体の異常が即疾病の原因であるとは言えないが、部屋に初めて入った時の感覚を思い出すと関係があるように思える。
 どうもカトレアには精霊魔法を行使しているという自覚は無いようだったが、あれは間違いなく精霊魔法だと思っている。ウォルフは確かにあの時"契約"された精霊達の中に足を踏み入れた。

 無自覚に精霊魔法を使うという事がどういう事なのか、ウォルフには分からない。結局、ラグドリアン湖の精霊か、アルクィーク族のルーに聞いてみる必要がある事は確かだった。



 翌日、今度は午前中にウォルフはラ・ヴァリエールを訪れた。前日と同じルートで城に着陸し、まず公爵に面会する。
 昨日ウォルフの治療後カトレアは体調を回復し普通に過ごしていたそうだが、夜になってルイズと喋っているときに再び体調を崩して今は寝込んでいるという。
 早速カトレアの私室に移動するとそこには侍医達の他にルイズと公爵夫人も来ていて、カトレアの様子を心配そうに見守っていた。ウォルフに向けた視線には昨日程の殺気を感じさせなかったが、今日は笑顔を作ることもなく、よりウォルフのことを警戒しているようだった。

 カトレアは、平たく言えば死にかけていた。治療を施している医師の横でウォルフも診察してみたが、方々で肥大化した癌細胞により多臓器不全を起こしていた。心臓も弱っているようで妙な拍動を繰り返している。今すぐ治療しなければ命が危ないという状態だ。
 昨日健康体になったばかりなのに今日もうこの状態なのだ。癌細胞がちまちま増殖したと言うよりは一気に広範囲で癌化してそれが更に増殖したという感じだろう。

「昨日はすごく元気になって、いろいろお話をしていたのだけど……」

 泣きそうな顔でルイズが言ってくるが、ウォルフにはこの原因について予想がついている。多分、ウォルフに興味を持ったのだろう。

「とりあえず、これは治しちゃおう。先生、手伝います」
「おお、君がド・モルガン君か、昨日は澱みが残っていたはずだったが綺麗に治していたな。今は危険な状態は脱した事だし、どれ、見ていてあげるからやってみなさい」
「はい。失礼します」

 医師に言われて治療を交代する。この状態で危機を脱したというのが凄い。それほどの重体だ。
 ここの医師は癌を一カ所ずつ治していたが、ウォルフは水の秘薬を大量に用意して一気に治す。

「《ヒーリング》」

 ウォルフは既にカトレアの遺伝子のイメージを持っている。その遺伝子とほんの少しだけ異なっている、本来死ぬべき細胞に水の魔力を流して死滅させ、腫瘍を小さくしていってついには消滅させた。その傷跡を修復して全身に水の魔力を行き渡らせる。たった二つのイメージで行使された魔法は、瞬く間にカトレアの体を癒した。

「……つらく、無いです」
「ちいねえさま!」

 それまで苦しそうにしていたカトレアが呆然と呟くと、その膝の辺りにルイズが抱きついた。

「今日の所は澱みを取り除けました。先生、確認をお願いします」
「あ、ああ、そんな、馬鹿な、本当に? 《ディテクトマジック》」

 あまりに短時間だったので侍医には信じ難い事のようだったが、確認の結果は治っていた。

「こんな短時間で治るものなのか。君、いったいどうやったんだ」
「普通の『ヒーリング』です。効果の違いはイメージの違いですね。カトレアさん、調子はどうですか?」
「ウォルフさん、ありがとうございます。お腹が空きました」

 ふわっという音が聞こえるかのような、柔らかい笑顔で微笑んだ。公爵家の一同は安堵に胸をなで下ろしたが、ウォルフもホッと一息ついていた。病巣が広範囲に広がっていたのでかなり魔力を消費した。もう少し重篤だったら一回で完治するのは難しかったかも知れなかったのだ。なんと言ってもウォルフは火メイジなのだ。

「随分と体力を消耗していますからね、がんがん食べるのが良いでしょう」
「はい。そうだ、もうすぐお昼ですから、ウォルフさんもご一緒しませんか? 色々お話をしたいです」
「えっと、その前にあなたの病気についてわたしの見立てを話させて下さい」

 ウォルフが公爵に目を向けると大きく頷いた。その横では殺気をさらに減らした夫人がこちらを見ている。ルイズはまだ抱きついたままだ。

「残念ながらあなたの病気の治療方法は分かりませんでした」
「はい」
「驚きも、落胆もしないのですね?」
「何となく、そんな気がしていましたから」

 ラ・ヴァリエール公爵は手を目に当てて天井を仰いでいるが、当の本人はほんの少し諦観をふくんだ微笑みを浮かべるだけだった。

「おそらく、今回これほど症状が悪化したのはわたしが原因です」
「まあ、そうなのですの?」

 カトレアはきょとんとした顔をしているが、また背後の公爵夫人から殺気が吹き出した。勘弁して欲しいと思いながらウォルフは言葉を続ける。

「これは想像なのですが、昨日わたしが帰った後、わたしに興味を持たれたのでは無いですか? どのような人物か知るためにルイズを質問攻めにしたのでは?」
「まあ、興味を持ったなんて、恥ずかしいです。だけど、仰り通りですわ。昨夜私はルイズを質問攻めにしました」
「質問攻めにしても求める答えは得られず、それでイメージを更に膨らませて、もっともっと知りたいと思って――体調を崩した」
「お恥ずかしい。でもウォルフさんはまるで見ていたかのようですね」
「あくまで想像ですよ――というわけで」

 ウォルフは公爵達に向き直った。

「暫く、カトレアさんと二人きりにして下さい。そうですね、二時間くらいでしょうか」
「……なんだ、その数字は? ご休憩か? ご休憩するつもりなのか?」

 今度は公爵夫人だけでなく公爵本人からも殺気が吹き出した。二人から発せられる殺気は滝のようにウォルフを襲い、そこいらの小悪党ならちびりながら泣き出しそうな程だ。
 ちなみにご休憩とはハルケギニアで一般的な隠語で、元は主人が昼間にそういう状態になったときにメイド達がご休憩中と言って二時間程私室に近づかなかった事に由来する。

「そんな訳無いですよ。カトレアさんが今日みたいに重篤な状態にならないように必要なのです」
「二人きりになる必要など無いだろう! わしは認めんぞ、今、ここで、話せばよい」
「ちょっと、皆さんの前で話したくない事もありまして」
「そうですわ、お父さま。ウォルフさんはそんな方ではありません」

 頬に手を当て恥じらいながらカトレアもウォルフを擁護する。

「そう言いながら、頬を染めるんじゃない! 認められん、二人きりなど認められんぞ」

 そんな意図があった訳ではなかったが随分と大騒ぎになってしまった。どうにも収まりが付かなそうだったが、そんな状況を破ってくれたのはルイズだった。

「父さま! 元々父さまがウォルフに治療を依頼したのでしょう? それなのに治療を妨害するなんてウォルフが気の毒だわ」
「む、治療などと思えんから言っておるのだ。若い男女を二人きりになど……」
「二人きりなんて私も何度もなっています。ウォルフは何もしませんでした。ウォルフ、本当に治療に必要なのよね?」
「勿論。治療って言うか、今日の症状が再発しないように必要なカウンセリングって感じかな」

 公爵はなおも、お前の時とは流れが違うだろう、などと言っていたが、これまで沈黙を守っていた公爵夫人が遂に口を開いた。

「良いでしょう。もしカトレアに破廉恥な行為をした場合にはその命をもって償って貰います。あなたもそれでいいですね?」
「あ、う、うむ、お前がそう言うのなら……」
「破廉恥って……まあ、しませんけどね?」

 ウォルフとしては好意で忙しい時間を割いて来ているのに、さんざんな言われようだ。腹は立つが、娘を思う親心という事で許容する事にした。

「では二時間後、食堂で待っています。あなた、ルイズ、参りましょう」
「じゃあね、ウォルフ、ちいねえさまの事をお願いね」
「……よろしく頼む」

 ようやく公爵達が部屋から出て行って二人きりになった室内で早速カトレアに話しかけた。

「ふう、やれやれだな。では、カトレアさん、服を全て脱いで裸になって下さい」
「はい」

 チラッと扉の方に目をやりながらのウォルフの言葉にカトレアは素直に頷き、胸元のボタンに手を掛ける。とたんに扉の外でふくれあがった殺気に苦笑を漏らしながらウォルフはカトレアを制した。

「ああ、冗談ですよ。服を脱ぐ必要はありません」
「うふふ、ウォルフさんって冗談がお好きなのですね」

 扉に頭をぶつけたのは公爵だろうか、カトレアも分かっていたようにクスクスと笑いながらボタンから手を離す。どうやら先ほど頬に手を当てていたのも彼女のほんのお茶目心だったらしい。
 扉まで歩いて行って外に顔を出し、そこで聞き耳を立てていた公爵達に会釈してから後ろで控えていたメイドにお茶を頼んだ。公爵達がすごすごと廊下を移動したのを確認しつつ、部屋に戻ると扉に『サイレント』をかけ、他の壁や床などにも同様に魔法を掛けて外から室内の会話を聞かれないようにする。扉はメイドが戻ってくるまでは開け放しておき、待つ間に室内の動物たちを全て調べ上げ、誰かの使い魔が紛れ込んでいないか確認した。
 ウォルフが作業している間にカトレアはトイレに行っていて、先に作業を終えたウォルフはテーブルの上のリンゴの皮を剥きながら彼女を待った。

「お待たせしました。あら、お上手ですね」
「お腹が空いているようですから、少しつまみながらお話ししましょう」

 リンゴを勧めて窓際のテーブル席に向かい合って座る。室内には相変わらず精霊魔法の気配が漂い、その大本であるだろうカトレアは朗らかな微笑みをたたえている。
 この室内にいるとカトレアの腕の中に抱かれているように感じる。彼女の人柄のせいかそれはとても心地よく、動物たちがこの部屋にいることを好むのもこれが原因だろうと思われる。

 系統魔法とは世界に存在する魔力素や魔力子を体内に取り込み、杖を媒介としてメイジの意志を乗せた魔力素によりその意志を世界に作用させるというものだ。
 メイジと世界とは明確に分かれていて、僅かにその間を媒介する杖という存在が有るだけだ。世界の一部でありながらメイジの分身とも言える杖の存在が、メイジの意志を世界に作用させることを可能としている。

 その系統魔法に対して精霊魔法では杖が必要ない代わりに世界と術者の境界が曖昧だ。アルクィーク族では契約と呼んでいたが、自身の意識を周囲の魔力素に拡大して直接的に意志を作用させている。アルクィーク族のルーが契約した領域に入るとルーの中に入っているような気がしたし、魔法も使いづらくなった。

 カトレアはどうしたわけかその意識の拡大を無意識に行っていて、その時に自身の命そのものと言っていい魔力素が外に流れ出してしまっていた。命とは水の魔力素で出来ているとウォルフは考えている。水の精霊は死体が有れば水の魔力素を付与してかりそめの命を与える事すら出来ると言っていた。
 外の世界に興味を持ち、外の世界を知りたいと思う度に彼女の命は彼女の体からこぼれ落ち、命そのものを危険に曝している。彼女の心臓が弱っていたのはそのままその拍動を止めようとしていたのだ。
 この状態で系統魔法を使用したら体に悪影響があるのは当然だ。自身の命を削ってしまう可能性があるのだから。

 こんな話をどこから話したら良いものか、メイドが持ってきたお茶を入れながら悩む。完治させる方法は今のところ分からないが、カトレアが自分の状態を知り、意識を変えれば病状は改善を見せる可能性は高いと思っている。
 ウォルフはメイドを下げ、扉が閉まって『サイレント』が掛かっているのを確認し、再び二人きりになった室内で自己紹介からやり直した。

「えー、興味がお有りのようなのでまずは私のことから話し始めましょう。私の名前はウォルフ・ライエ・ド・モルガン。アルビオンはサウスゴータのド・モルガン男爵家の次男で、異世界の記憶を持つメイジです。よろしく」



[33077] 3-7    公爵家にて
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:e96bafe2
Date: 2012/06/03 00:52
「私の名前はウォルフ・ライエ・ド・モルガン。アルビオンはサウスゴータのド・モルガン男爵家の次男で、異世界の記憶を持つメイジです。よろしく」
「まぁまぁ! 異世界の記憶ですか。それで不思議な感じがしたのですねえ……あ、私はカトレア・イヴェット・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール、今度父さまが子爵領を下さると仰っているから名前が変わるかも知れないですけど、ラ・ヴァリエール公爵家の次女で半病人ですの」

 ウォルフの自己紹介に対しての反応はごく普通だった。カトレアは驚かないし、ウォルフの言葉を疑うこともない。
 それも当然でこの部屋は言わば彼女の結界内、この領域で発せられた言葉が真実であるか否か、彼女には明白なことだからだ。きらきらと目を輝かせながらウォルフの言葉を待つ。

「この宇宙のどこか別の星になるのか、それとも次元すら全く違う全く別の世界になるのか分かりませんが、その異世界の記憶を利用して、様々なものを作り、商会を発展させてきました。カトレアさん、これを」

 カトレアの背後に回り、ごく細いネックレスを首に掛ける。

「これは? まあ、なんと言うことでしょう!」
「タレーズと言います。トリステインではあまり流通していませんが、良く売れているのですよ」

 ずっしりとした重量を感じさせるカトレアのふくよかな胸が重力から解放され、今までその重みが掛かっていた肩がスッと楽になる。
 ウォルフが昨日カトレアを診察してこの胸のことは気に掛かっていた。横になっても形の崩れない張りのある乳房はその大きさ故に胸に圧迫を加え、彼女の呼吸を苦しいものにしていた。
 体力が落ちたときに体への負担が少ない方がよいと考え、タレーズを持ってきていた。勿論プレゼントのつもりはなく、代金は公爵に請求するつもりだ。

「これ以外にも様々な物を作っています。今では商会の規模も大きくなりまして、色々やってますが、本質的には私が作ったものを世の中に広めるためのものです」
「聞きましたわ。何でも、飛行機というものをお作りになったのでしょう? 竜よりも速く飛ぶと聞きました。それも異世界の記憶で作りましたの?」
「ええ、向こうは魔法がない世界ですのでハルケギニア風にアレンジしていますが、向こうの知識を利用しています」
「魔法がない…それで人々は暮らしていけるのですか?」
「無けりゃ無いで色々工夫するものです。少なくとも私のいた国はハルケギニアよりも安全で快適でした。魔法なんか無くたって、人は月にまでも行っていましたよ」
「ええっ? 月って人が行けるような所なのですか?」

 ウォルフは椅子に座ってゆっくりと話し始めた。魔法のない、科学技術に支えられている世界のことを――。



 きっかり二時間後、ウォルフはメイドに案内されて食堂へと移動した。カトレアは着替えてから来るとのことでまだ来ていない。
 公爵一家はもう勢揃いして座っていて、ルイズ以外はまだピリピリとした空気を纏っている。勧められるままウォルフは用意された席に座った。

「お疲れ様だったな。どうかね、治療は上手くいったのかね?」
「治療というか、カウンセリングみたいなものですね。彼女の今後の過ごし方や心の持ち方によって症状を緩和できるかと思っていますので、アドバイスなどを」
「ふむ、それが本当なら喜ばしいな」
「ウォルフ、ちいねえさまもう大丈夫なの?」
「完治はしていないけど、今日みたいな状態にはなりにくくなったと思いたいね」

 安心して溜息を吐くルイズの目にちょうど支度を終え、食堂に入ってくるカトレアが映った。いつもはカトレア一人、体を締め付けないドレスを着ているのだが、今日はルイズ達と同様に体の線を出すドレスを身につけていた。
 彼女の出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるボディラインはドレスを着るとよりいっそう強調される。それほど胸の開いたデザインではないがタレーズによってその位置を変えた胸は、いつもより一回り大きくなったように見え、ちょっとした拍子に飛び出してしまいそうだ。

「おお、こうして見ると凄いな。ルイズやったじゃん」
「ん? 何がよ?」
「カトレアさんによく似てるルイズなら将来あんなナイスバディになるんじゃないの?」
「……当たり前じゃない。私には輝かしい未来が待っているのよ」

 完璧な淑女と言った出で立ちのカトレアに感心して、小声で対面に座るルイズに語りかけると誇らしげな顔で返された。
 ルイズに似ていると言えば隣の公爵夫人の方がより似ている気はするのだが、こちらは随分と薄い胸をしている。ウォルフは彼女の将来の希望のため、そちらの方についてはあえて触れなかった。

「ほおぉ……ぐっ! むむむ…カ、カトレア、そんな格好で大丈夫なのか、もう少し楽な格好の方が良いのではないか?」

 娘の見事な胸に見入っていた公爵は何者かによって脛をしたたかに『エアハンマー』で打ち据えられ、暫く悶絶していたが何とか顔を上げてカトレアに問い質した。

「ええ、お気遣いありがとうございます、お父さま。ウォルフさんのおかげで体調はとても良いですし、この服もそれほど締め付けるものでも有りませんから大丈夫です」
「そ、そうか。久しぶりにそうした格好を見たが、見違えてちょっと驚いてしまったよ、ははは」
「ウォルフさんにこのタレーズというものを頂いたので、とても上半身が楽になりました。ちょっと服のサイズが合わないみたいですね」
「ほお、ウォルフ君? カトレアに、プレゼント、ですかな?」
「いえいえ、治療の一環です。体に負担を掛けない方が良いでしょうから、カトレアさんに楽に過ごして貰うための装備ですよ。商会で扱っている商品ですので、後で公爵に代金を請求します」
「ん、そうか、それならいいんだ、がんがん請求してくれたまえ。カトレアを気遣ってくれて感謝する。さっきも話をしていただけなんだよな?」
「当たり前です、お父さま、下品なことを言うのはやめて下さい」
「……との事です」
「ん、んん、そうか。ではそろそろ食事にしようか。この家はそんなに堅苦しくはないから、ウォルフ君も気楽に過ごしてくれたまえ」

 ウォルフへの質問をカトレアが遮って代わりに答える。ニコニコと笑顔の娘だが、公爵は何故かプレッシャーを感じ、咳払いを一つすると昼食の料理を運ばせた。

 簡素な、と言う割にはやたらと豪華な昼食は意外にも和やかな雰囲気で進んだ。その中心人物であるカトレアはコロコロとよく笑い、食べ、ウォルフに開拓団の事など外の世界の話をねだる。ウォルフにとってもこの食事の時間は楽しいものとなり、会話は弾んだ。

「ウォルフさん、このタレーズはとても素晴らしいものですけど、こういう服を着るときは注意しなくてはなりませんね。油断したら飛び出してしまいそうです」
「はは、暴れん坊なのですね。チェーンの連結部に効果を調整できる機構が付いています。適宜調整してお使い下さい」
「あら、ちょっと調整してみて下さいますか? あともうちょっとだけ胸が下がるように…」
「ええ、構いませんよ。ちょっと、失礼します」

 ウォルフが首の後ろに回り込み何度かタレーズを調整し、カトレアがモニョモニョと胸の収まりを探ってベストポイントを見つけ出す。カトレアの周辺は和やかだったが、少し離れたテーブルの端ではまた公爵が脛をしたたかに打ち据えられていた。

「うふ、ありがとう、丁度良い感じだわ」
「ちいねえさま、それってそんなに良いの?」
「ええ。これまでの悩みから解放された気分よ。ルイズくらいの年頃の体に戻ったって感じかしら」
「ふうん。ねえウォルフ、私の分はないの?」
「いや、ルイズは必要ないだろう」
「何でよ、来年くらいにはきっと必要になってるわ」
「来年、必要だったらお父様に買ってもらって下さい」
「……ふん、見てなさいよ、来年ウォルフはわたしに謝ることになるわ」
「楽しみにしているよ」
「うー、その目をやめなさい」

 ウォルフが優しい目で見てあげたというのに、ルイズは気に入らないらしくうなっている。その脇でカトレアが微笑んでいて、仲の良い子供達をラ・ヴァリエール公爵夫妻が見守っている、という感じで昼食を食べ終えた。

「カトレアもルイズも随分とウォルフ君と仲良くなったものだな。カトレア、さっきはウォルフ君と二人でどんなことを喋っていたのかな? さわりだけでも教えてくれないか?」
「ええと、そうですわね、どうしてこんな体になったのか、とか具合が悪くならないためには日頃どうやって過ごせばいいか、とかですわ」

 ちらりとウォルフを見てから答える。その様子は公爵の気に入らないものだったが、それよりも話の内容に気になる点があった。

「病気の原因って事か? それが分かっているのなら、対策も立てられるかも知れないじゃないか。ちょっと、わしにも話してみなさい」
「ええと、それは…」

 またちらりとウォルフを見る。ウォルフに関することについては黙っていて貰うことになっているが、カトレアのことについて話すのは構わない。ウォルフに関することと言っても、どうせ今までもカトレア以外は誰も本気にしてくれなかったような内容だが。

「どうぞ。私が話して欲しくない事のときは止めますので」
「わかりました。ではお話しします。ウォルフさんが言うには、私のこの症状は精霊魔法的な現象の誤作動によって引き起こされていると言うことです」

 カトレアは公爵の方へ向き直り、時折ウォルフの方を見ながらゆっくりと考えながら話す。
  
「精霊魔法…先住魔法のことか? エルフなどが使うと言う」
「はい。わたしは先天的に精霊魔法を行使しやすい体質らしくて、こんな風になっているらしいのです」
「そんな体質、聞いたこと無いぞ…」

 ウォルフは解説して欲しそうな公爵を無視してデザートをつつく。視界の端ではエルフという言葉が出てきたときの公爵夫人の表情を観察していた。青ざめ、動揺している様子でどうやら彼女は何かを知っているようだ。

「ですから、系統魔法では私の症状を完治するのは難しいそうです。本気で治療したいのならば精霊魔法を調べるべきとのことですわ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ウォルフ君、君は何故精霊魔法なんてものを知っているのだね? 何故カトレアが精霊魔法的な現象によって病気になっていると判断したんだ?」
「ラグドリアン湖の精霊など、精霊魔法を観察する機会が多少ありました。それらの知見に基づいた判断です」
「ラグドリアンの精霊と交信が出来るのか……」
「ですので、公爵の方で何か精霊魔法に関する伝手がございましたら調べて頂きたいと思います」
「そんなもの、あるはず無いだろう…ここはハルケギニアだぞ」
「本当に、無いのですか?」

 そう言いながらウォルフの視線は青白い顔をしている公爵夫人・カリーヌを捉える。カリーヌは大きく目を見開き、思わず杖に手を伸ばした。

「母さま? どうなさったの?」

 様子のおかしい母親を心配したルイズが横から声を掛けた。カリーヌは慌てて杖から手を離し、何でもない様子で微笑む。

「なな何でも有りませんよ? カ、カトレアの事を心配していただけです」
「? 母さまは何か先住魔法の事、ご存知ないの?」
「知りませんよ! エルフの事なんて!」
「……」

 ルイズとは小声でやりとりしていたのだが、想外に大きな声が出て一座の注目を集めてしまう。しんと静まりかえった座の中でカリーヌは不器用に笑顔を作った。

「こほん。それでですね、お父様、ウォルフさんには精霊魔法を使える知り合いの方がいるそうで、その方に一度診て貰ったらどうかとの事なのですが」
「本当かね、ウォルフ君。どんな相手なんだ、一体?」
「ここから、そうですね三千リーグ以上東に行った草原にいる部族です。辺境の調査行で知り合いました」
「三千リーグ…ロバ・アル・カリイエか? 君はロバ・アル・カリイエに行ったのか?」
「話に聞くロバ・アル・カリイエってかんじでは無かったですね。もう少し手前のようで、東の方で蛮族と呼ばれている部族と似たような感じです」

 むむう、と公爵は唸る。蛮族なんぞに愛する娘を診せるのは抵抗があるが、公爵は娘を治せる可能性があるのならば、何人であろうと構わないと誓っている。感情を押し殺し、蛮族による診察を許可する事にした。

「良いだろう。ウォルフ君、さっそくその蛮族を連れてきてくれたまえ。報酬のことは心配いらない。たとえ蛮族が相手であろうともちゃんと払う」
「いや、無理です。診て貰うなら、カトレアさんが東方へ行くという形になります。それと蛮族ではなくアルクィーク族です。そこの族長のカミラさんかその娘のルーさんだったら何か分かるかも知れません」
「馬鹿な! カトレアをそんなところにやれるものか! トリステインの公爵が頭を下げて頼むのだぞ、たっぷりと礼を約束すれば問題ないだろう」
「彼らは彼らの草原を愛し、草原と契約している部族です。よっぽどのことがない限り草原からは離れません。ましてその部族の長ともなれば生まれてから死ぬまで彼らの草原から離れないのが当然だそうです」

 ルーは部族の中で医師のような事もしていた。エルフよりは魔法の扱いにおいて大分劣るのだそうだが、族長の一族はかなり魔法に精通しているように見えた。彼女らならばカトレアの病状について何らかの知見をくれると思うのだが、公爵の態度は異文化交流をしないハルケギニアの貴族らしく、尊大で他文化に対する敬意に欠けたものだった。

「カトレアを送るとすると、最低でも戦列艦を一隻と竜騎士を四騎程度は用意せねばならんが、そんな武装したフネにゲルマニアが上空通過の許可を出すはずがない。不可能だ」
「高々度を飛行する必要がありますしゲルマニアの端からでも千五百リーグ以上有りますから、従来型のフネでは風石がもちませんね。辺境の森の上を飛ぶので、竜の群れの餌食になる公算が強いです」
「むうう、そうだ! ラグドリアンの精霊だったらどうだ? 彼の存在と交信が出来るのならば、カトレアの治療くらい出来そうなものだ。先住魔法が原因だというのならば、精霊に治させれば良いのではないか?」
「精霊とはそういう便利な存在ではないと思います。我々とは全く異なる存在であり、我々の肉体・精神・生命を自在に操れてしまいますので、細心の注意を持って対峙する必要があります。気楽に利用しようという考えはお勧めできません。もしカトレアさんの肉体が治ったとしても中身が別物になってたりしたら意味無いでしょう?」 

 結局公爵とウォルフとの話はかみ合わなかった。カトレアからもアルクィーク族の部落へ行きたいとの希望が出たのだが、公爵は許可を出さず、当面の間保留して今回の治療の経過を観察すると言うことで落ち着いた。
 今回のウォルフに対する報酬はウォルフが必要経費としてタレーズや水の秘薬の代金を請求したのに対し、公爵はまたその倍額を小切手で支払った。開拓地にお金が掛かるため、現金はいくらあっても足りない。ウォルフはありがたく頂戴しておいた。

「では、そろそろわたしはお暇しましょうか……と、その前に公爵夫人とも二人きりで話したいのですが」
「わ、わたくし、ですか?」
「はい。ほんの五分程度で結構ですので」
「ウォルフ君、カリーヌはダメだぞ。彼女は私の妻だ」
「……存じておりますが」

 いくらサラの化粧品で若く見えるとはいえカリーヌは四十も半ばでウォルフの母エルビラよりも年上だ。そんな女性にまだ十一歳のウォルフがどうこうと言うことは無いというのに、この人もツェルプストー辺境伯と同じ人種なのだろうか。

「……よろしいでしょう。わたくしの方もミスタ・モルガンとは二人きりでお話がしたいと思っていたところです」
「カリーヌ……」
「という訳ですので、カトレア、あなたの部屋をちょっと貸して下さい。あそこならまだ『サイレント』が掛かっているでしょう」
「は、はい、どうぞ。こちらでお待ちしていますわ」

 病人であるカトレアの部屋は食堂から近い位置にある。カリーヌはウォルフを伴ってカトレアの私室へと移動した。どこか寂しそうな公爵は全く無視だ。



「さあ、わたくしに何のお話があるのですか? ミスタ・モルガン、お話し下さい」

 扉に『サイレント』をかけ直し、密室となった室内でカリーヌがウォルフを真っ直ぐ見つめながら促した。
 カリーヌは超一流のメイジだ。彼女と二人きりになって間近でその威圧感を受けるウォルフは、まるで雌の竜と閉じこめられたようだと感じたが、努めて冷静に答えた。

「何、大したことでは有りません。あなたの先祖がカトレアさんのような病状について、何か書き残していないかと思っただけですから」
「っ……」

 その鋭い目をいっそう吊り上げて、カリーヌはウォルフを睨み付けた。



[33077] 3-8    決意
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/11/06 20:56
「あなたの先祖がカトレアさんの病状について何か書き残していないかと思っただけですから」

 その言葉を受けたとき、カリーヌはウォルフを睨み返すだけで他に反応を返すことが出来なかった。その言葉はそれほどの衝撃を彼女に与えた。

 カリーヌの実家、ド・マイヤール家には一つの伝承が残っている。それは、昔、マイヤールの娘がエルフと恋に落ち、子をなしたというもの。ド・マイヤールはそのエルフの血を隠すため中央には出ず、貧乏貴族と蔑まれながらも田舎でひっそりと暮らしている、という信じる者などいないようなお伽噺だ。
 もちろん、祖母から聞かされたそんなお伽噺をカリーヌも信じたことは無いし、誰にも話したことはなかった。だというのに、この少年はカトレアを見た瞬間にエルフと呟き、まるでド・マイヤールの伝承を知っているかのように話している。
 超一流の風メイジであるカリーヌはカトレアの部屋にウォルフが入ったときに呟いた声を当然聞き取っていた。何故、この少年はカトレアを見ただけでそう思ったのか、得体の知れない不安がカリーヌを襲った。

「……わたくしの先祖がどうかいたしましたか? わたくしの知る限り、カトレアのような病気になった者はいませんが」
「ええ、あなたが知っている範囲ではそうなのでしょう。しかし、もっと昔だったら? 昔は先住魔法を使える人間もいたと聞きます。カトレアさんの病状について何か記して有るかも知れません」
「何故、その話を夫にはせず、わたくしにだけ聞くのですか? わたくしの実家はトリステインの隅にある貧乏貴族です。たいした文献は残っていません」
「それは、あなたに聞く必要があると思ったからです」
「……夫には聞く必要はないと?」
「ええ」
「……」

 さすがのウォルフもハルケギニアの貴族に面と向かってあなたの血にはエルフの血が混じっている、などと口にすることは出来ない。もしかしなくても決闘騒ぎになること間違い無しだ。このおばちゃん相当強そう、と言うのが対峙してみての感想なので、これでも気を遣っている。

「誤解していただきたくないのは、わたしがこのようなことを言っているのはカトレアさんの病気を治すため、だということです。他意はありません。何せ情報が少ないので僅かな手掛かりだろうと当たってみる価値はあると思っています」

 沈黙が流れる。しばらくの間二人は睨み合っていたが、やがてカリーヌから視線を外した。

「……分かりました。明日にでも実家に向かって調べてみます。カトレアみたいな病気にかかった先祖ですね?」
「ええ。他にも妙に勘の鋭い人とか動物にやたらと好かれた人、先住魔法を使えた人とか、耳が人より長かった人とかの記録を中心にあたってみて下さい」
「……昨日あなたがカトレアの部屋に入ったときに口走ったことについて、問い質そうと思っていましたが、やめておきます」
「あ、やっぱり聞こえてましたか」

 苦々しげにカリーヌは頷く。その先はアンタッチャブルだ。



 割とすぐに話が終わって、食堂へと戻る。食堂にはルイズ達の弟となるロランが連れてこられていて、周囲に愛嬌を振りまいていた。

「あら、ウォルフもうお話終わったの?」
「ああ、まあたいした話じゃなかったしね、この子がロラン君?」
「そうよ。ほらロラン、このお兄ちゃんはアルビオンって言う御飯の不味い国のメイジなのよー」
「だー」
「ちょっとそれどういう紹介の仕方だよ」

 ロランは父親譲りの金髪と少し目つきが鋭いが愛らしい顔立ちで、ルイズに抱っこされてご機嫌にしている。赤ちゃんがいるだけで場の雰囲気は和やかになる。カリーヌのこわばった表情も幾分ほぐれたようだ。
 ロランを中心にワイワイと話している子供達とは少し離れて公爵は妻の横に並んだ。

「うん? カリーヌ大丈夫か? ウォルフ君との話は何だったんだ?」
「ええ、大丈夫です。あなた、わたくし、明日から暫く実家へと帰りたいと思います。心苦しいのですが、その間ロランのことをよろしくお願いします」
「ななな何だと? 何でいきなり、そんな」

 若い男と二人きりにさせた直後に実家に帰りたいと申し出る妻。公爵は色めき立った。

「ド・マイヤールにカトレアの病状について何か情報があるかも知れないとミスタ・モルガンに指摘されたのです。あまり人手に任せたくないので、私が行くのが一番良いでしょう」
「なぜウォルフ君がそんな事を…行くというのはお前の判断なのか?」
「ええ、わたくしの先祖が情報を残した可能性があるのなら、当たってみるべきだと思ったのです」
「う、うむ、それなら仕方ないな。それにしても彼は何かまだ情報を持っているのか?」
「分かりません。分からないことだらけです」

 独り言のように呟く視線のその先ではウォルフが屈託無くロランを抱いてあやしている。確かにその様子はなんの下心も思惑もないように見える。しかし、カリーヌにはウォルフが普通にしていればいるほど、何か得体の知れない存在であるかのように感じられてしまっていた。

 そんなカリーヌの幾分怯えさえ感じられる視線にはまるで気付かないかのように、ウォルフは今度こそ挨拶をして帰って行った。ルイズの魔法は見てあげられなかったが、『ディテクトマジック』を使うときの注意点などを詳しく指摘して次に会うときまでに練習しておくように伝えておいた。



 ボルクリンゲンでの仕事も終えて、ウォルフは久しぶりに辺境の地へと帰ってきた。新型機のおかげで三時間程度で来られるので、以前より頻繁に行き来が出来るようになった。
 マイツェンには寄らず、直接開拓地へと向かう。マイツェンには輸出用木材の製材所と元の宿舎を利用した移民希望者の一時宿泊所があるが、最近は同じミルデンブルク伯爵領内の他の村から安全なマイツェンに移住する人が増えて普通の村のようになっている。
 ミルデンブルク伯爵の協力もあり、牧草地は次々に畑に姿を変えて村の規模も拡大し、もうかつての寒村の景色を思い出すのも難しい程だ。うっすらと雪の積もったそのマイツェンを眼下に見て五分も飛ばない内に開拓地に到着した。

 T字に交わっている川のそのT字の右下部分に相当する平地は既に半分以上は畑へと姿を変えている。切り倒した木を臨時の防壁として積み上げ、それ以外にも貯木場には大量の丸太が積み上がり、開拓の手は山地にも広がっている。山地と言っても日本のような急峻な山々ではなく、なだらかな丘が連なっているので斜面を畑にすることは可能だ。
 春から秋にかけては移民達は畑作業を主に働いていたが、冬になっては開拓地を拡げるため、雪景色の山では多くの移民達が忙しく働いていた。
 遠くに重機が動いているのを眺めて高度を下げる。川の合流点からはほど近い、川港からメイン道路をまっすぐに行った先に建てた中央庁舎と呼んでいる建物に着陸した。
 この建物はその名の通り開拓団全体を采配するためのもので、重要な意志決定は全てここで行われる。マイツェン等で受け付けた移民希望者を希望に添って割り振ったり、病院や学校なども併設してある総合庁舎なのだ。
 既に一番遠い村でここから四十リーグも離れているので学校はここの他に二カ所作ってある。まだまだ開拓地に子供は少ないが、今回養子縁組事業をスタートした事だし今後は増えていく予定だ。ウォルフとしては教育には手を抜けないので、教師の不足が頭の痛いところだ。
 飛行機から降りるウォルフをグレースやミレーヌ他中央庁舎に詰めている者達が出迎えた。

「ウォルフ様、お帰りなさい。おめでとうございます」
「ああ、ただいま。新年おめでとう。何か変わったことはない?」
「有りません。降臨祭のお祭りも二度目ですので順調にいきましたし。あ、今回ロマリアから来て下さった神官がすっごいハンサムで女の人はみんなウットリしてました」
「あれ? ドルスキの下っ端神官が来るって言ってなかったっけ」
「たまたま今回辺境の地を巡っていたとのことで、お若いのにとても位の高い神官様が来て下さったのですよ。ドルスキの司祭様なんて自分の教会ほっぽり出してきてペコペコしてました」
「へー、そうなんだ。それが変わったことか」

 美貌の神官。どこかの報告書で読んだような単語が聞こえてきて、帰って来るなりいい気はしないが、ロマリアに目を付けられているのは今更なのでスルーした。
 ハルケギニアにおいて教会は不可欠な存在だ。宗教は人々の心に平安をもたらし、社会を安定させる作用がある。ウォルフも開拓地には祈りの場としての教会を建て、虚無の曜日にはドルスキから神官が通ってきている。
 しかし宗教が人々の為ではなく宗教組織そのものの為に存在するようになり、組織の発展を第一にするようになると、社会に害悪をまき散らす。現在のブリミル教もこのような組織になりつつあり、エウスタキオ枢機卿などはその最たる者だ。領内の教会が暴走することを予防するために、ウォルフは開拓地における事業者には全て帳簿を付けることを義務づけ、教会にも例外を認めず寄付金や必要経費の詳細を明瞭にすることを求めた。ドルスキの教会からは相当苦情がきたもので、そのせいか開拓から一年が経過し、移民も二千人を超えて立派な教会も建っているというのに未だに常駐する神官は決まらない。普通は住民が五百人も超えたら神官が住み着くというのに。
 ロマリアからも苦情が来たみたいだが、教会だけ特別扱いするのは良くないし、教会経営の苦しい内幕を公開して寄付金を集めやすくするためという理屈で押し通している。

「ロマリアからこんな所まで来るなんて大変だね。他には何かある?」
「あ、一度まもるくんの防空網を風竜に突破されました。風竜が二十頭くらい塊になって凄い勢いで飛んできて、ほとんどは開拓地に入ることはなかったのですが、二頭程が畑に墜落しました。すぐに警備隊が駆除しましたので畑以外には被害は有りませんでしたけど」
「……それは問題だな。警備隊の報告はある?」
「はい、机の上に他の報告と一緒に。ちょうど神官様がいらっしゃるときだったのですが、警備隊を含めて開拓地の様子をとても感心していて褒めて下さいました。ウォルフ様にも会いたがっていましたよ?」
「まあ、会えなくて残念だったね。警備体制は要再検討だな」

 他にも細々としたことをグレースから報告を受けながら移動する。神官のお付きの少年が月目のものすごい美少年だったなどということは、ウォルフとしてはどうでも良いことなのだが。

「ああ、ウォルフ様、やっと帰ってきました…」
「よう、随分とやつれてるな、大丈夫か?」

 庁舎内にはいると、げっそりとやつれたマルセルが出迎えた。彼はウォルフのいない間の代官に任命しているのだが、ちょっとウォルフの仕事は量が多すぎるらしい。

「はあ、ウォルフ様が帰ってきたことだし、ようやく休めそうです……」
「まあゆっくり休め。なにか報告有る?」
「留守中のことは毎日の細かい報告と週毎の纏めたものを提出してありますのでそちらをご確認下さい。風竜の事はお聞きになりましたか?」
「ああ今聞いた。後で報告書を読んでみる」
「お願いします。他には特段、報告するようなことは無かったです」

 現在開拓地内にはこの庁舎のある中央の都市に五百人程貸与された開拓団員を中心に居住し、周辺の森を切り開いた平地に千五百人程が村落を作って暮らしている。
 一つの村は五十家族ほどを目安に移民を割り振っていて、今のところそれぞれ百人から二百人位の人口になっている。それぞれ飲用の井戸、風石発電所、共同の冷蔵倉庫、トラクター二台、除草・害虫駆除用ガーゴイル一台、集会所兼用の教会などをウォルフ側の責任として整備しており、その村がすでに十以上出来ている。
 各家庭のエネルギーとして将来的には発電所の電気をメインにするつもりだが、現在は開拓地で伐採した木々の枝や掘り起こした根を薪にして村々に供給している。前世では鋸を痛めるため利用方法がなかった木の根もハルケギニアでは余すところ無く利用できる。
 それらの差配や必要資材の手配、設備のメンテナンス等ウォルフがいない間にも仕事が減ることは無い上に、降臨祭の準備や手配などでマルセルは寝る間を削って仕事をこなしていた。
 自分の机に向かってその報告書を手に取り確認するが、書類として完璧過ぎることがウォルフには逆に気に掛かった。

「ん、良く纏まっているみたいだが、もう少し人を使うことを覚えてくれ。そんなに消耗するまで仕事をしていたら、長くは続けられない」
「はい。どうも、細かいところが気になってしまいまして、中々ウォルフ様のようには…」

 ウォルフは大体大雑把なところで指示を出して後は他の人に任せてしまっているが、マルセルは生真面目な質なのか自分で最後まで確認しないと気が済まないようだ。
 今、多少上手く行かなくても良いとウォルフなら思えても、仕事を任されたマルセルとしてはそういう気分には中々なれないものだった。
 上のものが全部仕事をコントロールすれば短期的には仕事の効率は上がるのだろうが、長期的に見ると人が育たないしデメリットが多い。

「開拓団が上手くいっているときは、上の者は適当に手を抜くくらいが丁度良い。今日から一週間休んで良いぞ」
「はあ…」

 マルセルに続けて各部署の責任者から報告を受け、それぞれに指示を出す。特に警備隊長とは入念に打ち合わせをして、二度と防衛線が突破されることのないように対策を練った。
 今の警備隊長は元ロマリア密偵のセルジョだ。もともとメイジとしての腕は確かだし、ツェルプストーの刑期が終わってもこちらで働きたいと申し出ていることもあり抜擢したが、今のところよく働いてくれている。
 そのセルジョによる竜の群れの襲撃事件に関する詳しい報告にはウォルフも顔をしかめた。

「成る程、これが本当なら確かに誰かに操られていたんじゃないかって思っちゃうな」
「はい。とにかく、妙に統制の取れた群れでした。かなり上空から急降下してきまして、一度追い払っても繰り返し襲撃してくるというしつこさで。群れのリーダーらしい一番大きな個体を討ち取ったらもう来ませんでしたけど」
「ふーん、レーザー銃は使った?」
「いいえ。竜が落ちた場所は中央市の降臨祭会場からは二十リーグ程離れていましたので、わたしが駆け付けた時はもう討ち取っていました」
「それはよかった。あれはちょっとまだ外部には知られたくないから」

 ウォルフが警備隊長であるセルジョのみに配備しているレーザー銃はサブマシンガン程の大きさながら鉄を溶かす程のレーザー光線を発することの出来る兵器だ。
 風石をエネルギーとして魔力子に変換し、それをさらに完全なコヒーレント光として銃の先から照射する。エルラドと同様にメイジによる魔法を起動トリガーにしており、こちらの場合の魔法は『ライト』だ。この銃は光束を調整して二十メイルくらいの射程を持っているが、それ以上遠いと光が回折により拡散してしまうので威力は弱くなる。
 同じく『ライト』を使用したレーダーによってレーザーが反射されそうな時は照射できなくなる安全装置を搭載しているし、魔力による認証も行って警備隊長にしか扱えないようになっている。十分に訓練して危険性を認知させるなど安全には配慮しているが、なにぶん強力な兵器なのであまり外部には知られたくない物だ。
 万が一に備えてセルジョには持たせているが、警備隊にも外部の密偵が入り込んでいる現状では使用にはかなり気を使う。

「とにかく、あんな上空を飛んでいた竜が襲ってくるなど、これまで想定しませんでしたから警備体制は見直す必要がありますね」
「ったく、何でわざわざそんな上空に上がってから突っ込んでくるんだよ」 

 滅多に無いことなのだろうが、また無いとも言い切れないので対策を取ることは必要だ。仕方なく、上空にまもるくんを装備した自動グライダーを常時飛行させ、警備させることにした。これまでは一定以下の高度を飛ぶ竜について追い払っていたのが上空を飛ぶこと自体を許さない方針に変更したのだ。

「では、手配を願います。万が一ということが無いとも言えませんし」
「手配ってオレが作るしかないんだけどね。それでまだ不安があるようなら各村に長射程レーザー兵器を配置するしかないな」
「えっ、レーザーってそんなに射程を伸ばせるのですか?」
「実験では五リーグくらいまでは攻撃範囲にすることが出来た。ちょっと光学系が大きくなっちゃったから携帯するのは難しそうだけど」
「……あれの射程が五リーグまでになるとすると、本当に恐ろしい兵器になりますね」
「試作機の内一機はここの屋上に設置してあるよ。鏡で反射されたらそのまま返ってくるから、あんまり戦争には使いたくないけどね」

 もし戦争に使うならば、戦車の装甲を撃ち抜くような使い方は出来ないが、竜騎士は容易に撃ち落とせるし、木造のフネは炎上させてしまえる。ウォルフは鏡で反射できるようなことをわざと言っているが、文字通り光速で攻撃できる兵器なので躱す事なんて出来ない。撃つ方が鏡を撃たなければ良いだけなのだから。
 明らかにハルケギニアのパワーバランスを崩してしまう程の兵器だ。

「売り出せばものすごい額で売れますでしょうに」
「興味ないね。まあ、確かに最近金欠気味だけどさ」

 移民達の家はウォルフが用意しているし、トラクターなど開拓用の機材の購入費、資材、食料など、お金はいくらあってもどんどん出て行く。
 移民からは収入が一定程度以上になるまで税が取れないので、現在開拓地の収入源は限られている。切り出した原木、採取した希少な植物など秘薬の原料、討伐した幻獣の素材、マイツェンの製材所で製材した木材、マイツェンからすぐそばの岩山で採掘している珪岩、開拓地で採掘を始めたマンガン鉱などだ。このうちマイツェンの物はミルデンブルク伯爵領なので税を支払っている。
 切り出した原木が大量なので、それなりに収入はあるが、出ていくお金の方が多い。なんとか産業をと、あちこちで声を掛けているが今のところ工場建設までこぎ着けたものはまだあまりない。

 セルジョとの話を切り上げて、ウォルフはこの庁舎での仕事を終えて開拓地の視察に出かけた。下から上がってくる報告に対応すること、現場で生の意見を聞いて対策すること、どちらも開拓団をスムースに運営するためには必要不可欠な事だ。

 まず向かったのは、川港のそばにある家具工場だ。ここはウォルフが誘致し、出資もして建てたもので、広葉樹の木材を使って平民向けの組み立て式の家具を製造輸出している。
 ここの経営者はチッペンダールというもとはアルビオンで駆け出しの家具職人だった男だが、ガンダーラ商会にセールスに来た縁でここに工場を構えることになった。
 ハルケギニアでの家具販売と言えば、家具工房に注文して、家の間取りに合わせて製作するというものだ。それなのに商会にセールスに来たチッペンダールは家具のカタログという物を作って、自分がどんな家具を作れるのか示し、顧客がイメージを掴みやすいようにして契約を取ろうとしていた。
 その、時代を先取りしているとも言える商才を見込んでウォルフが勧誘したのだが、最初は首を縦に振らなかった。しかし、ウォルフが製作した木工機械の数々や、ネジと金具を利用した組み立て式家具の見本を見せられて、アルビオンの工房を閉めて開拓地に工場を造ることを決意した。
 今ではボルクリンゲンに大型の倉庫兼用の店舗を出店し、開拓地で生産した安価な家具を販売し始めている。工員の技量が習熟して工場の生産ラインが安定してきたらもっと大量に生産し、他の大都市にも店舗を展開する予定だ。
 新商品開発もウォルフと共同で行っている。ウォルフはステンレストップのシステムキッチンを作りたいとかねてから思っていたのだが、流しは左官の仕事だと思っているチッペンダールは中々了承しなかった。今回ボルクリンゲンから船で送ったステンレストップとIHヒーターコンロ・換気扇に冷蔵庫を工場に持ち込み、将来的にはキッチンはこの形になると説得するとその機能性に納得したチッペンダールが遂に折れて、システムキッチンの試作を作ることを了承した。

 ちなみにこの時ウォルフが持ち込んだ機械類は、冷蔵庫はコンプレッサーを使用した純電化製品、換気扇は風石を直接利用した純魔法具だ。換気扇は風石を使った方が羽根が無いために掃除の手間が省けて便利だ。冷蔵庫やIHコンロなどの電化製品は価格が高くなるし、そもそも開拓地でないと電気の供給が無いので売れないが、コンロを従来型の薪の物に替えたシステムキッチンそのものは最近増えてきた裕福な平民層に受け入れられるのではないかと思っている。
 電化製品については家庭用発電機を売ればいいのかも知れないが、メンテナンスのことなどを考えると現在ウォルフにそこまで手を伸ばす余裕はない。将来に期待しつつ販売を見送っている。

 チッペンダールと打ち合わせを済ませて翌日は川港とその隣に建てた開拓地向け製材所、その翌日は村々、次の日は鉱山、と毎日現地視察を続け、合間に開拓の最前線に出て木を切り倒したり幻獣を倒したり忙しく働く。当然研究や開発も平行して行っている。
 そんな開拓地でのウォルフの日常は、程なくして中断することになる。それは、マイツェンを経由して開拓地の川港に着いたフェリーに乗ってやってきた移民希望者達を出迎えたときだった。

「何やってんすか、カトレアさん」
「ああ、ウォルフさん、やっと会えました。開拓地ってとても遠いんですねえ」

 それは移民希望者達の中で一際目を引くピンクブロンドの髪を持つ美女、このたび叙爵してラ・フォンティーヌを名乗ることになったカトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌだ。
 ノンビリとしているカトレアの手を取り、事情を聞くために別室へと連れて行った。

「グレース、グレース」
「はい、あの、そちらの方は?」
「あー、トリステインのラ・ヴァリエール公爵のご息女。ちょっとこの人と話があるから、移民希望者達への説明代わってくれ」
「は、はい、かしこまりました! えーと、ごゆっくり?」

 最後が変だったが後はグレースに任せ、移民希望者達に開拓団長として軽く挨拶だけするとカトレアと二人で港湾事務室を借り切って引っ込んだ。
 とりあえずカトレアの体調を確認する。ウォルフが『ディテクトマジック』で体を精査する間、カトレアは大人しく黙っていた。

「んー、少し澱みがありますね。でも、こんな所まで来た割には綺麗なもんだ。大分、抑えられるようになりました?」
「はい。ウォルフさんの仰った通り、知りたいと思ったときはちゃんと相手に尋ねることにしています。旅をしていると興味を惹かれるものが多くて、そうできない事もありますけど」
「うん。普通の人はみんなそうしているからね。……やっぱり自我の漏出が病気の原因だったっぽいな」
「ゲルマニアを旅してきて思ったんですけど、川に鉄橋が架かっているのが多いですねえ。トリステインでは鉄橋なんて大貴族が権威を示すために架けるようなものだって聞いていましたけど、普通の所にかかっているので驚きました。さすがは鉄のゲルマニアですね」
「あ、うん。鉄橋が増えたのは最近なんだけどね」

 ゲルマニアで鉄橋が増えているのはガンダーラ商会が格安で売り出しているからだ。転炉により大量に精錬される鉄を使い、サイズごとに規格化されたものを工場で造っている。完成した橋を風石を使って輸送して、橋脚の上に据え付けるだけなので工期も短く、鉄橋と言えど木や石の橋よりも耐久期間も考えたトータルでは随分と安くなっている。
 最近ゲルマニアではガンダーラ商会の鉄橋と言えば、安い! 早い! 長持ち! と有名になっているのだが、カトレアは知らないようだ。

「そうなんですか。他にもやっぱり色々とラ・ヴァリエールとは景色が違いましたので楽しかったです」
「…それで、カトレアさん、こちらへはどんな用件で?」

 カトレアが携行していた秘薬を使って澱みを取り除きながら尋ねる。病状が悪化するリスクを冒しながらこんな所まで来たのだ、ただの物見遊山の筈はない。

「えと、その前にウォルフさん、キュルケ・フレデリカさんという方はお知り合いとのことですが、ご存知でしょうか?」
「ええ、確かに知り合いですが……彼女が何か?」
「ああ良かった。とても親切にしていただいたのに、ろくにお礼も言えずに別れてしまったものですから。後で連絡先を教えて頂きたいです」
「はあ、構いませんけど…」

 カトレアが言うには家を飛び出してきて、ボルクリンゲンに着いたまでは良かったのだが、広い町で道を聞いてもガンダーラ商会の商館にたどり着けずに困っていたとのこと。ボルクリンゲンの商館はそうとう目立つ場所に建っているので普通は見つけられないということは無いと思うのだが、箱入りのお嬢様というのはそう言うものなのだろうか。
 あげくたちの悪いのに絡まれて往生していたのだが、たまたま通りかかったキュルケに助けて貰い、その上商館まで連れて行ってくれたそうだ。
 それどころか開拓地行きのフネが出たばっかりで、暫くは便がないと聞くと自分のモーグラにカトレアを乗せてフネまで追いかけて乗せてくれたという。
 ちなみに、カトレアに絡んでいたゴロツキどもは全員キュルケ一人に叩きのめされてしまったそうだ。

「随分と男前だな、キュルケ」
「ねえ。殿方でしたら恋に落ちてしまったかも知れませんわ」
「いや、それはまずいな。カトレアさんラ・ヴァリエールだって名乗りました?」

 おそらくキュルケはまた山賊討伐のための捜査をしていたのだろうが、ラ・ヴァリエールとツェルプストーが一緒にいて喧嘩にならないのか聞いてみた。

「いいえ? 家出中ですし、家名は名乗っていません。それが、何か?」
「彼女、ツェルプストーだからさ。ラ・ヴァリエールとは犬猿の仲だって聞いたけど」
「まあ! フォン・ツェルプストーのお嬢さんでしたか。彼女となら仲良く出来そうですね」

 カトレアはキュルケがツェルプストーと聞いても気にすることもなく微笑んだ。累代の敵と言ってもあまり実感は湧かないのかも知れない。

「そう言えばまだ名乗っていませんでしたね、このたび子爵位を頂戴いたしまして、カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌと名乗ることになりました。ウォルフさん、今後ともよしなに」
「ああ、結局貰ったんだ、子爵位」

 前回会ったときは自分のような半病人が子爵位などを貰って良いものかと悩んでいたが、結局貰うことにしたようだ。

「はい。もう一人前の貴族ですから、自分の判断で行動することが出来ます。だから、家を出てこちらまで来ました。父には話していません」
「いや、子爵位をお父さんから貰ったんだからそういう訳にもいかないと思うのだけど……」
「いくのです。ここに来た用件ですが、ウォルフさんにお願いがあります。私を、アルクィーク族の村まで連れて行って下さい」

 ウォルフを真っ直ぐに見つめて懇願した。その目に浮かぶのは生きる意志。最初に彼女の部屋で会ったときに感じた、儚げな、どこか生きることを諦めたような雰囲気は全く感じなかった。

「行っても何も分からず、無駄になるかも知れませんよ?」
「ハルケギニアでじっとしていても何も変わらないのですから、足掻くだけ足掻いてみたいと思います」
「もしかしたら長期の治療になるかも知れません。それは大丈夫ですか?」
「大丈夫です。どうせ病人ですし、子爵と言っても爵位だけみたいなものですから」
「精霊魔法――ハルケギニアで先住魔法と呼ばれている魔法と関わりを持つことになります。ブリミル教において、異端と呼ばれる可能性が有りますが、それでも?」
「構いません。私が私として生きることは、私が生まれ持った権利です。たとえブリミル様でもそれを侵すことは出来ません、ってウォルフさんが言ってくれたのですよ?」
「そんな事言いましたっけ。良いでしょう、オレも精霊魔法に興味はありますし」

 ウォルフはルーに精霊魔法を習った事があるが、全く出来るようになる気配はなかった。ルー曰く、精霊魔法というのは本来生物であればどのようなものでも使えるようになるはずなので、アルクィークで教えを受けながら二、三ヶ月程杖無しで暮らせば、程度は分からないが使えるようになるだろうとの事だ。
 この超忙しいウォルフが現状でそれ程の長期にわたって杖無しで暮らす事など想定できない。もしかしたら魔法学院に行く頃には時間が取れるようになっているかも知れないが、今のところウォルフにとって精霊魔法は老後の楽しみという位置づけだ。それだけに、この精霊魔法に適性の有りそうなカトレアが精霊魔法を見てどのように感じるのか興味があった。

「ありがとうございます、このお礼は必ずさせていただきます」
「ちょっと、今すぐって訳にはいかないので、仕事のキリが良くなるまで開拓地を見学でもしていて下さい」
「あ、じゃあさっきの人達と一緒にいます。ここに来る道中で結構仲良くなったのですよ」

 カトレアを待たせて仕事に戻る。特に急いでいる仕事はないので二三日なら空けても大丈夫なはずだ。
 自室に戻って書類を確認すると案の定ラ・ヴァリエール公爵からカトレア捜索の手紙が届いていた。いなくなったので見つけたら連絡して欲しいというものだ。
 少し悩んだが、返信だけしてカトレアはアルクィークに連れて行ってしまうことにした。

 さっさと仕事を片付けて東へ行く準備を始める。カトレアが来たのは午前中だったが仕事をしている内に夕方になってしまった。
 今日は東の温泉キャンプに泊まればいいだろうから、急いで支度をする。今夜と明日の食料にウォルフが経営しているボーンスープショップからスープを一鍋貰って飛行機にパンと一緒に積み込んだ。このボーンスープは用途が無く捨てられていた幻獣の大腿骨などを強火で煮込んだスープだ。丁度前世の豚骨スープのような味だが、カロリーがとにかく高いので体を使う開拓団員達には好評だ。ウォルフはよく細身のパスタを湯がいて入れて食べている。
 アルクィークにいくのは三ヶ月ぶりくらいだ。久々に向かう東の地を楽しみに思い浮かべて準備を進める。食糧の他折角東に行くのだから動植物や鉱物の採集キットも用意し、最後にアルクィーク族との交易品をトランクに入れて完了だ。このトランクは機体下部に取り付ける機外トランクで、これのおかげで荷物の搭載量は飛躍的に上がった。

 見学から戻ったカトレアを乗せ、ウォルフの飛行機は夕陽に向かって飛び立つ。東の山脈にある温泉までは三時間程、あっという間の空の旅だ。ここで一夜を過ごし翌日アルクィーク族の村へ向かう。



 数日後、開拓地に戻ったその飛行機にカトレアの姿は無かった。




[33077] 3-9    往復書簡
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/11/06 20:58
 トリステイン貴族ラ・ヴァリエール公爵から東方開拓団団長ウォルフ・ライエ・ド・モルガンへの書簡

急啓
 このたびはご来訪下さりまして、誠にありがとうございました。おかげさまにて、カトレアも以降は体調を崩すことなく元気にしておりました。
 しかし、格段のお心遣いを頂いたミスタ・ウォルフには申し上げにくいのですが、また不躾なお願いを申し出なくてはならない状況になりました事をお伝えします。
  
 カトレアがエオローの週ユルの曜日の夜、突然出奔いたしました。当方でも手を尽くして捜索しておりますが、今のところ見つけることは出来ていません。
 妻が現在実家に帰って書庫を調査しておるのですがそちらにも現れず、完全に行方を見失っております。

 ミスタ・ウォルフから提案された東方行を本人は希望しておりまして、私が安全を考慮して許可を出さない事に納得していないようでした。もしかしたらそちらに現れるということも有ろうかと思っております。

 もし、そちらに姿を現すことがございましたら、なにとぞご一報下さりますよう、お願い申し上げます。 

草々 

 始祖歴六二三七年ヤラの月エオローの週オセルの曜日 
           ピエール・ド・ラ・ヴァリエール

 ウォルフ・ライエ・ド・モルガン様          
  


                        
   *   *   *   *   *
        


 ウォルフ・ライエ・ド・モルガンからラ・ヴァリエール公爵への書簡

拝復
 お手紙頂戴いたしました。ちょっと時間がないのですが、取り急ぎお返事いたします。

 カトレアさんは無事当方で保護いたしました。

 一般のメイジとして移民希望見学会に参加して開拓地にやってきましたが、いたって元気にしております。彼女の強い希望でこれから東方のアルクィーク族の村まで行く事になりました。

 帰りましたら、またあらためてお知らせいたします。

                       拝答

 始祖歴六二三七年ヤラの月ティワズの週虚無の曜日 
          ウォルフ・ライエ・ド・モルガン
  
 ラ・ヴァリエール公爵様        




   *   *   *   *   *
          


 ラ・ヴァリエール公爵からウォルフ・ライエ・ド・モルガンへの書簡

前略
 カトレアが無事との知らせ、ありがたく受け取りました。

 東方へはもう出発してしまったのでしょうか? もしまだならば取りやめて直ちにカトレアを帰していただきたいと願います。
 とりあえず迎えの馬車を送りました。そちらへ到着するまで二週間程掛かる見込みですが、もしこちらに来るフネ等に便乗出来るようでしたら馬車は無視して構いません。とにかく一刻も早くカトレアと会いたいので、便宜を図って下さるよう重ねてお願い申し上げます。

                        草々

 始祖歴六二三七年ヤラの月ティワズの週エオーの曜日 
           ピエール・ド・ラ・ヴァリエール
  
 ウォルフ・ライエ・ド・モルガン様




   *   *   *   *   *
         


 ウォルフ・ライエ・ド・モルガンからラ・ヴァリエール公爵への書簡

拝復
 本日、東方より帰ってまいりましたので、取り急ぎお返事いたします。

 カトレアさんは当人の希望でアルクィーク族の村に残って治療を受けることになりました。カトレアさんから公爵への手紙を同封してあります、お受け取り下さい。

 当地の医師、ルーさんの話ではカトレアさんの病気は精霊病と呼ばれているもので治療可能とのことです。ただ、普通は三歳くらいまでに発病するものなので、カトレアさん程病気のまま成長した前例は無く、また系統魔法を使っていることの影響も無視できないので治療には時間が掛かるとのことです。それでも、二ヶ月は掛からないだろうとの見込みだそうですので、再びカトレアさんとお会いできる日を楽しみにゆったりとお待ち下さればよろしいかと存じます。
 待ちきれないというときのために、別紙にアルクィークまでの地図を記しました。ラ・ヴァリエールからだと三千リーグと少々の距離になると思います。

 そう言えば、公爵夫人はまだ実家の方に調査に行っているのでしょうか? もしまだ行っているようなら調査は不要になったとお知らせしてよろしいかと思います。

 カトレアさんの病気が治りそうとのことで、私もとても嬉しく感じております。まだ寒い季節は続きますが、お体に気をつけてご自愛下さい。

                        拝答

 始祖歴六二三七年ヤラの月ティワズの週マンの曜日 
           ウォルフ・ライエ・ド・モルガン
  
 ラ・ヴァリエール公爵様     




   *   *   *   *   *
          


 トリステイン貴族カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌから父親への書簡

拝啓
 こちらは冬とは思えない暖かな日々が続いておりますが、ハルケギニアはまだまだ寒いのでしょうね。お父様、お母様、それに小さいルイズとロラン、皆健やかにお過ごしでしょうか。

 何の断りもなく出奔いたしましたこと、お詫び申し上げます。ミスタ・ウォルフには格別のお計らいを頂き、無事アルクィークの村に着きました。
 こちらは一面見渡す限りの草原で、アルクィーク族はその中で羊を飼って暮らしています。遊牧民と言うのだそうですが、旅人をもてなす習慣があるとのことで異邦人である私のことも暖かく迎え入れて下さいました。

 お喜び下さい。私の病気は治せるものだと診断されました。
 今まで私や家族皆を苦しめてきたこの病から解放されるということは俄には信じがたいことですが、もし本当ならば夢のような気持ちです。皆様に会えないのは寂しいことですが、暫くの間私はこの地で治療に専念したいと思います。

 健康な体になって皆様と再会できることを楽しみにしています。

                        敬具

 始祖歴六二三七年ヤラの月ティワズの週マンの曜日 
               不肖の娘、カトレアより
  
 親愛なるお父様へ
 

 

   *   *   *   *   *
          


 ラ・ヴァリエール公爵からウォルフ・ライエ・ド・モルガンへの書簡

前略
 カトレアが治療可能とのこと、あまりにも望外の知らせにてただ今混乱いたしております。
 しかし、二ヶ月も娘の顔を見られないというのは辛いものです。何とか一度顔を見られるよう、手配いただきたく存じます。
 不躾な願いだとは承知しておりますが、何とぞ娘を思う親心をお汲みいただけますよう、重ねてお願い申し上げます。
                         草々

 始祖歴六二三七年ヤラの月ティワズの週イングの曜日 
           ピエール・ド・ラ・ヴァリエール
  
 ウォルフ・ライエ・ド・モルガン様
 



   *   *   *   *   *
         


 ウォルフ・ライエ・ド・モルガンからラ・ヴァリエール公爵への書簡

前略
 継続して治療を行う必要があるとのことで、カトレアさんは途中で帰ってくる訳には参りません。
 どうしてもお会いしたいというのであれば、ラ・ヴァリエール公爵が彼の地へと行く必要がございます。モーグラが一機有れば二日程で安全に行ける程度の距離ですし、方向さえ間違えなければ何もない草原ですので行けば上空からその村を見つけることは可能だと思います。
 いきなり村の中に着陸するなど無茶をしなければ友好的な部族です。一度お会いにいかれるのもよろしいかと存じます。
 ただ、あなた様がゲルマニアを通過して渡航する許可を政府から得るというのは、一開拓団の団長であるわたしの手には余る事です。どうかご自身で御手配下さいますよう、お願いします。

 なお、カトレアさんの元には通信用に私の部下の使い魔を一羽残してきました。週に一度程度手紙が送られてくる予定ですので、来ましたらそのまま転送いたします。

 ご心配なのだろうとは思いますが、アルクィーク族は親切な部族です。ご安心ください。

                        草々

 始祖歴六二三七年ヤラの月ティワズの週ダエグの曜日 
           ウォルフ・ライエ・ド・モルガン
  
 ラ・ヴァリエール公爵様




   *   *   *   *   *
         


 カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌから父親への書簡

再啓
 早いものでこちらに来てから一週間が経ち、初めての虚無の曜日になりました。お父様、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 ルーさんによる治療は順調に進んでいるそうで、こちらに来てから一度も体調を崩すことはありません。
 私の病気である精霊病とは自分と世界との境界が曖昧になって、命が体から出て行ってしまうというものだそうです。その命はそのまま精霊になってしまうとのことですが、それを防ぐためには世界の一部である自分を認識しつつ世界と自分とを区別する必要があるそうです。 
 世界と自分とを別なものとしながら世界に干渉する系統魔法の感覚は邪魔になってしまうそうで、ここに来て三日目にお父様から頂いた杖を燃やしました。病気が治ればまた杖を持っても大丈夫だろうとの話ですが、長年慣れ親しんだ杖を燃やすのは辛かったです。
 お母様とルイズにもそれぞれ手紙を記しました、渡して下さいますようお願いします。

 まだまだ寒い日々が続きます、お体にはお気を付けて。 

                        敬具

 始祖歴六二三七年ハガルの月フレイヤの週虚無の曜日 
                    カトレアより
 
 親愛なるお父様へ




   *   *   *   *   *
         


 ラ・ヴァリエール公爵から娘への書簡

前略
 事情はウォルフ君に聞いた。今すぐ会いに行きたいが、中々思った通りに行動できない。こんな時は公爵という自分の身分を恨めしく思う。
 多分トリステインが東方に興味を持ったとゲルマニア政府に思われたくないのだろうが、私を連れてそちらに行くのは難しいようだ。彼に頼らねば私には東方へなど行く術はない。
 本当にお前はお前なのか、この手紙は本物なのか、じっとしていると色々疑念が湧いてきてしまう。疑っても、どうしようもないというのに。

 とにかく、今はカトレアやウォルフ君の手紙を信じて待ちたいと思う。それしか出来ないからなのかも知れないが。

 治療のためとは言え杖を燃やすなどと、異境の地で一人どんなに心細い事だろうか。ああ、今すぐ会いに行けない父を赦してくれ。お前が無事に戻ったらまた家族みんなでテージョの丘へピクニックに行こう。勿論動物たちも一緒に。

 寒くはしてないか? 着替えは十分にあるのか? 食事はちゃんと摂っているか? お前が無事にラ・ヴァリエールに帰ってくるのが一番大事だと言うことを忘れずに行動して欲しい。

 いついかなる時もお前の幸せを願っている。
                          草々

 始祖歴六二三七年ハガルの月フレイヤの週ラーグの曜日
                       ピエール
   
 最愛なる娘、カトレアへ
 



   *   *   *   *   *
         


 カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌから父親への書簡

前略
 お手紙届きました。こんなに離れていても私たち家族は繋がっていられるのですね、とても嬉しかったです。ピクニック、楽しみですね。あんな昔のことをお父様が覚えていらしたのがとても嬉しいです。家族揃ってあの丘で食べたお母様のバゲット、懐かしいです。不揃いではありましたが、私のこれまでの人生で一番美味しいと感じた料理です。

 こちらの生活にも大分慣れてきて、毎日新鮮な驚きと共に過ごしております。夜空が白む頃に起き出して日が暮れると寝る毎日です。ラ・ヴァリエールにいた頃は朝寝坊だった私が毎日朝日が昇るのを見ているのですから、驚きでしょう?
 食事については村人達と同じ物を頂いていますので、ご心配になるようなことはありません。昨日は羊の生レバーを初めて食べました。新鮮なレバーってあんなに美味しいんですね、まだ暖かいレバーを夢中で食べて口の周りが血まみれになってしまいました。 
 私はルーさんのテントに泊めてもらっていますが、夜いつも寝る前には色々お話しして大分仲良くなりました。ルーさんはハルケギニアのファッションに興味が有るみたいです。
 ルーさんの話では病気は日々少しずつ治していくしかないそうです。今は精霊との一方的な契約によって私の命の器に空いてしまっているという穴を塞いでいる最中です。言葉で説明するのは難しいですが、精霊病とはそういう病気だそうです。塞いだ後できちんと契約を結び治せばもう再発することは無いとのことです。
 とにかく体の調子は良いです。毎日馬に乗って子供達と一緒に早駆けしていますが、調子が悪くなる気配さえ有りません。 
 こちらでの暮らしは中々楽しいので、のんびりと治していこうと思っています。

 遙か東の地より、皆様がお元気に過ごされることをお祈りしています。 
                          草々

 始祖歴六二三七年ハガルの月ヘイムダルの週虚無の曜日 
                     カトレアより
 
 親愛なるお父様へ

 追伸 手紙用に持ってきた紙を集落の子供達にあげるととても喜びます。ウォルフさんに次に来るときに多めに持って来て欲しいと頼みたいので、お父様から開拓地に送って頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。




   *   *   *   *   *
          


 ラ・ヴァリエール公爵から娘への書簡

前略
 カトレアが日々楽しく過ごしていると聞き、安堵していることをまず第一に伝えたい。お前の手紙を読んで私も懐かしくなり、今日はカリーヌにあのバゲットを作ってもらった。しかし、味はあの時と同じ筈なのだが、何故なのだろうな、あの時程美味いとは感じられなかった。やはりあの丘で皆で食べるから良いのだと思う。
 紙のことは了解した。ウォルフ君に頼むと同時に彼の開拓地に大量の紙を送っておいた。きっと請け負ってくれるだろう。

 そろそろどうだろう、帰ってこられる見込みとか、そういったものが立つのではないかと願っているのだが。動物たちが寂しがっている。ロランもルイズも、もちろん私やカリーヌもだ。
 ウォルフ君に無理を言ってモーグラを入手した。今操縦を習っているのだが、ガンダーラ商会の教官がやたらと無礼な小娘だ。カリーヌには丁寧に礼儀正しく教えるくせに、わしには平気で罵声を浴びせおる。馬鹿にするなと怒鳴ってやりたいのだが、何故か彼女の前だと言う事を聞いてしまう。何か魔法でも使われているのだろうか、全く困ったものだ。
 日々我慢して教えを受けているが、大分操縦にも慣れてきた。ゲルマニアの許可さえ出ればカリーヌか私のどちらかはそちらに会いに行けるかも知れない。

 また会える日を楽しみに待っている。

                          草々

 始祖歴六二三七年ハガルの月ヘイムダルの週ラーグの曜日
                        ピエール 
   
 最愛なる娘、カトレアへ

 追伸 お前は世間知らずなのでしょうがない事なのかも知れないが、世の男性貴族は女性が生肉を食べるということを好まない。
今後病気が治れば男性とお付き合いをすることもあろうかと思うが、生レバーが美味しいなどとは口走らないように。というか出来ればそんな食習慣は身につけないで欲しい。 




   *   *   *   *   *
         


 カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌから父親への書簡

前略
 私が家を出てもう一月が経ちました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 紙のこと、ありがとうございます。ここの人達にはお世話になりっぱなしで返せる物が無く、心苦しく思ってしまいます。

 このアルクィークの大地で日々暮らす内に、精霊を感じ取る事が出来るようになりました。もう少ししたら精霊と契約して精霊魔法を使ってみるつもりです。
 精霊魔法を滞りなく行使できるようになれば、もう病気が再発する心配はないそうです。

 毎日毎日、羊の世話をして馬であちこち走り回っています。動き回っているのでお腹がとてもよく空いていっぱい御飯を食べています。こんど会ったときに驚かれてしまうかも知れませんね。

 今日の夕ご飯はギニーというネズミのような小動物の皮を剥いで丸ごと羊の脂で素揚げした物でした。これは形がそのままで食卓に出てくるので最初は抵抗がありましたが、クリスピーな食感とジューシーなお肉で今では一番お気に入りの料理です。あまりにも美味しいので家に帰ったときにリス達を見る目が違ってしまいそうです。特に骨の周りのお肉が美味しいのですよ。
 捌くのも上手くなったしラ・ヴァリエールに帰ったら作ってみたいのですけれど、ギニーってハルケギニアにもいるのかしら?
 私が揚げたギニーの姿揚げを皆で食べられたら、楽しいでしょうね。ではまた、お便りします。

                        草々

 始祖歴六二三七年ハガルの月エオローの週虚無の曜日 
                    カトレアより
 
 親愛なるお父様へ

 追伸 羊の生レバーの美味しさを解ろうとしない殿方なんて、こちらからお断りです。




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 ラ・ヴァリエール公爵から娘への書簡

前略
 カトレアよ、これは大事な話だからよく聞いて欲しい。
 手紙には書いてはいけないことがある。誰に見られるか分からないものなのだから。
 我々はブリミル教徒で、ブリミル教徒の中で日々暮らしている。お前にその気がなくとも教会から見ればそれは異端とされてしまうかも知れない。
 だから、その魔法は使わないで欲しい。お願いだ。

 ああ、今すぐお前に会いたい。ゲルマニアが飛行許可を出さない。私は娘に会いたいだけなのに。

 また会ったとき変わらぬカトレアで有ることを願っている。
                          草々

 始祖歴六二三七年ハガルの月エオローの週ラーグの曜日
                       ピエール
   
 最愛なる娘、カトレアへ

 追伸 ネズミの姿揚げを好きだというのも他の人の前では口にしないで欲しい。




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 カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌから父親への書簡

前略
 先週はずっと集落の引っ越しで忙しく、お手紙を書く時間が取れませんでした。

 集落は季節毎に移動しているそうなのですが、今回移動するなり今年初めての羊の出産がありました。母というものはあのように大変な思いをして我が子を産み落としているのですね。
 私もいつか誰かの母になるのでしょうか。なんだか今までは考えもしなかったことですが、とても素敵なことと思えます。

 魔法のことなのですが、精霊魔法が異端であるとは私には思えません。異端であるというのはこの世界の有り様を理解していない人が言うのではないでしょうか。
 私はお父様とお母様の娘として生まれたことを誇りに思っています。ですから、生まれついてのことは恨むまいと病気であることを受け入れて生きてきました。
 私には精霊魔法を扱う才能があるそうで、ルーさんにはまるでエルフのようだと褒めて貰っています。この才能もお父様とお母様に頂いた物ですので、それを恥ずかしいと思うようにはなりたくありません。
 確かにハルケギニアでは誤解されることも有るかも知れないとは思いますが、お父様には私の気持ちを知っていただきたく、あえて記しました。

 こちらからの手紙はこれで最後になります。ウォルフさんの都合次第ですが、ようやく帰れることになりました。
 そうです、帰れるのです。

 まさか本当に病気が治る日が来るとは、今もって信じられない思いです。一刻も早く皆様と会ってこれが夢ではないことを確認したいです。その日まで、後暫くお待ち下さい。

                        草々

 始祖歴六二三七年ディールの月フレイヤの週虚無の曜日 
                    カトレアより
 
 親愛なるお父様へ

 追伸 今日は芋虫の躍り食いをしました。地中に棲む白くて十サント程もある芋虫で、最初は食べにくいものですが、頭を指でつまんで口に入れ、そのすぐ下の所を前歯でプツッと噛み切ると上手く食べられます。とてもクリーミーで美味しいものですが、これもハルケギニアの男性にはお気に召さないのかしら。




   *   *   *   *   *       


 カトレアの手紙はいつものように四日かかってトリステインのラ・ヴァリエール公爵に届いた。

「カトレアが、エルフのようだと言われて喜んでいる」
「そ、そんな……」
「それどころか、先住魔法を使えるようになってしまったらしい」

 ラ・ヴァリエール公爵は手紙を読むなりデスクの上に放り出して頭を抱えた。もはや追伸に突っ込む気力もない。
 夫が読み終わるのを待っていた妻のカリーヌは机の上から手紙をひったくると急いで目を通し、やはり同じように頭を抱えた。実家の伝承のことはまだ夫にも話していない。いや、話せなかった。

「とにかく、この事は絶対に秘密にしなくてはならん。ルイズのこと以上に大問題だ」
「そう、ですわね。系統魔法が使えなくなる訳じゃないようだから、先住魔法を使わせなければ良いのですね」
「この事は世話になったウォルフ君にも知られる訳にはいかん。カトレアにも口止めをせねば」
「多分、ミスタ・ウォルフはもう知っています。そのアルクィーク族とも取引をしているようですし」
「くっ、そうか、そうだよな。彼は恩人だ、それは間違いない。だが……」
「あなた……」
「いや、何でもない。ラ・ヴァリエールは恩を忘れたりはしない。絶対にだ。我々には誇りがある」

 カトレアの病気が治って帰ってくると言うのに、喜んでばかりいられない事態となった。
 もし、娘が先住魔法を使っていることが教会にでも知られれば公爵家といえども無事には済まない。その危険性を全て排除したくなるような気持ちが、ともすれば公爵の胸の内に浮かんでくる。

 公爵は軽く頭を振ってその考えを追い出すと、複雑な気持ちを抱えたままカトレアを迎える準備を始めるのだった。




[33077] 3-10    風雲急告
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/11/17 23:09
 その日、ラ・ヴァリエール公爵は竜騎士に先導されて高度を下げつつ近づいてくる銀色の機体を複雑な気持ちで見つめていた。一緒に窓際に立って見ている妻のカリーヌも同じ気持ちだろう。一ヶ月以上会えなかった病気の娘が、絶対に治らないかと思われた病を治して帰ってくると言うのだ、勿論非常に喜ばしい。
 しかしその娘が手紙に書いてきた内容が、公爵夫妻の胸の奥に棘のように突き刺さり、ヂクヂクとした痛みを感じさせていた。




「お父様、お母様。カトレアただ今戻りました」
「……うむ、よくぞ帰ってきた。お前の無事な姿を見られて、それだけで満足だ」

 公爵夫妻の前に現れたカトレアは少し日焼けしただろうか、とても健康そうな顔色でしっかりと大地に立っていて、彼女を見て病人と思う人はいないだろう。大分見違えたが、二人の娘カトレアに間違いなかった。
 出迎えた公爵夫人の目は少し潤んでいて健康そうな娘の姿に言葉がない。無言で娘を抱きしめた。

「長年私達の事を苦しめていた病は私の体から去りました。これからは普通に暮らしていけるそうです」
「まあ、本当に喜ぶのは侍医達に確認させてからだが実に喜ばしいことだ、今夜はお祝いだな。ウォルフ君も本当にありがとう。ささやかながら宴を用意している。楽しんでいってくれ」
「どういたしまして。しかし折角のお誘いですが、今日は遠慮させていただきます。ちょっとアルビオンで緊急の用事があるとかで、今から向かわなくてはならないのです。今日はカトレアさんを届けにだけ来ました、本当に治って良かったです」
「何だ、ちょっとくらいもダメなのか? 君にどんな礼をしたらいいものやら、相談したいのだが」
「ありがとうございます。ですが、今日はちょっと……」
「お父様、ウォルフさんは本当に急いでいるようなので……ウォルフさん本当にありがとうございました。借り一、にしておきますから」
「はい、貸し一ですね。じゃあ、わたしはこれで」
「本当に急いでいるのだな。仕方ない、ラ・ヴァリエールには何時でも寄ってくれ、君の飛行機は何時いかなる時も受け入れることを約束するし、何か困ったことがあったら力を貸そう」
「はい、そんなに困る事の無いよう、がんばります」
「本当に、ありがとうございました。これまでの数々の無礼をお詫びします」
「ウォルフ、ありがとね」
「あ、はい。それじゃ、どうも」

 丁寧にお辞儀する公爵夫人や、姉が元気になったことに感動して涙ぐんでいるルイズともチャッチャと挨拶を済ませ、ウォルフは再び飛行機に戻って飛び立った。借り一というのは、どんな礼をしたらいいかと聞いてきたカトレアに対するウォルフの答えだ。ウォルフが困った時は助けてやる、くらいの気持ちでいてくれと言っておいた。
 急用があるというのは本当で、開拓地を出る前にタニアから緊急の招集が掛かっていた。今までに無いことなのでちょっと心配だが、とにかく行ってみなくては何があったのか解らない。ウォルフは真っ直ぐにサウスゴータへと機首を向けた。



「ウォルフ様!」
「お、サラただいま。みんな揃ってる?」
「はい。ウォルフ様が最後です」

 サウスゴータに戻って商館にまで来ると、商館の外に出て待っていたサラが飛びついてきた。最近同じくらいの背になってきたサラの頭を一撫でして抱きついている体を離させると商館へと入った。いつもの商会長室ではなく会議室に案内されると、そこにはガンダーラ商会の幹部が勢揃いしていた。
 会長のタニア、会長秘書ベルナルド、サウスゴータ商館長カルロ、ガリア代表スハイツ、ゲルマニア代表フークバルト、と円卓にずらりと座っていて、他にもチェスターやボルクリンゲン、プラーナの各工場の責任者が出席している。

「よし、ウォルフ来たわね。じゃあ、早速会議を始めるわ」
「ああ、これだけ集めた理由を教えてくれ」

 促されてサラと一緒に席に着く。座る場所はタニアの正面だ。

「先週、我が商会の後援者でもあられましたモード大公が投獄されました。現在ロンディニウムの城内で取り調べを受けているとの事ですが、罪名は公にはされていません。太守のお話だと反逆罪だそうです」
「なっ!」
「馬鹿な、王弟だぞ」
「何をしたんだ、一体」

 タニアの発言に会議室内が一気に騒然となる。それはそうだろう、モード大公は野心など微塵も感じさせない温厚な人柄で有名だった。現アルビオン王である兄ジェームズ一世との仲も良く、彼が謀反を起こす理由など見あたらない。
 ウォルフも勿論驚いたが、言われてみて納得できることもある。最近のマチルダの態度だ。あれは、この事態を予見していたのではないか?

「直接的にモード大公が何をしたのかということは一切情報が有りません。我々と親しくしている貴族達も情報収集に走り回っています」
「あの大公が何かをしたということはあるまい、これは陰謀に違いない」
「陰謀で有ろうが無かろうが、大公が投獄されていることには変わりがありません。大公が投獄されたのが先週、そして今週になってサウスゴータ議会からこんな通知が来ました。ベルナルド、読んで」
「はい。では、失礼いたしまして……」

 ベルナルドが読み上げた書類は、チェスターの工場に出ていた船舶の着陸許可を取り消すというものだった。正確には年度ごとに更新している許可を今年度末、即ちこの月末で打ち切るというものだ。
 現在アルビオン関係の貿易はロサイスを中心に行っているが、工場で使用する原料や資材の輸入と製品の輸出に関しては直接工場に隣接して建てた桟橋から行っている。
 きちんと議会の認可も受けていたのだが、その許可が取り消されるとなると全て陸路を介してロサイスから輸出入することになり、時間とコストの増大は免れない。
 取り消しの理由は防空戦略上の都合との事だが、多大な不利益を被る側としてはそう簡単に決められて納得できるものではない。

「さらに、昨日ロサイスの港湾管理局から、来月からロサイスの港の商用利用に関してはロサイス商業ギルドに加盟していることを利用条件とする、と通知が来ました」
「ロサイスでギルドに加盟していないのなんて、ウチだけじゃないか…」
「仕方がないので商業ギルドに加盟を申し込みましたが、現在新規会員を募集していないとのことで断られています」
「それは、完全にウチを狙って潰そうという動きだな」

 ウォルフの呟きにタニアが黙って頷く。チェスターも、ロサイスも使えないとなったら商会には大打撃だ。もともとロサイスのギルドやサウスゴータ議会とはあまり上手く行っていなかったが、大公という重しが取れて一気に態度を鮮明にしてきた感じだ。
 かつてはロサイスのギルドに加盟しようとしたこともあったが、他の商会の反対があって実現しなかった。そもそもロサイスは軍港なので港湾整備や管理は政府が行っているし、荷の積み卸しや輸送を自前で行っているガンダーラ商会としてはギルドに加盟するメリットは少ない。
 それでも加盟しようとしたのは周囲との摩擦を減らすためだったのだが、嫌われているので実現しなかったというところだ。

「そのようね。港湾施設にギルドが投資してロサイスのハブとしての機能を高め、アルビオンにおけるサウスゴータ地方の競争力を底上げする、とか言ってるけど完全に後付けの理由にしか思えないわ」
「くそっ、何が競争力だ、真っ当に競争する気なんて無いくせに!」
「それでロサイスが使えないとなると、現状で一番近い港は東部のノビックになるわ。今までより遠くなるけど、仕方がないわね」

 ノビックはサウスゴータから東に百五十リーグ程行った先にある田舎町だ。農業や牧畜が盛んだが、何とか人口を増やそうと周辺の貴族達で出資して港を整備している。
 織機の関係でその地方の複数の貴族とも取引があるし、比較的ガンダーラ商会が進出しやすい町ではあるが、街道があまり整備されていないので大型のトラックを走らせることが出来ないのが難点だ。

「当面はノビックを利用して貿易を続けるしかないけど、サウスゴータがこんなんじゃ何時までもここにはいられないわ。チェスターの各工場を将来的には移転させたいのだけど、移転先について皆の意見が欲しいの」
「なるほど、そのままノビック近郊に移動するか北部の貴族領などにするか。いっそガリアかゲルマニアに降ろしてしまうかといったところですな」
「化粧品工場と樹脂製造工場は我がガリアのプローナに集約するのが良いでしょう。元々樹脂の原料工場も有る訳ですし」
「ガリアは最近きな臭いじゃないか。樹脂のほうは良いとしても、化粧品はアルビオンから出すべきでは無いのでは?」
「機械関連はやはり我がボルクリンゲンに集約するのが一番ですな。就職希望者はいくらでもいるし、操業再開までのタイムラグはそれほどかから無いと思います」
「今回のようなことがまたあるかも知れない。あまり一カ所に集約しすぎるのは良くないから自動車はゲルマニアでも別の領にした方がよいのではないか?」
「むむ、では化粧品をボルクリンゲンに移籍させるか。化粧品はツェルプストー辺境伯のような強力なバックアップがあった方が安心だろう」
「いや、だからツェルプストーにそんなに肩入れするのが危険だと言っているのだ」

 各々が自分の所に誘致しようと発言する。様々な意見が出る中で、タニアは黙ったままのウォルフに意見を求めた。

「ウォルフ、あなたの意見は?」
「うーん、集約しすぎないという意見に賛成かな。景気が良いせいでどうもガリアもゲルマニアも動きが怪しい気がする。戦争のリスクを考えると分散させておくべきだと思う」
「とすると、どこか新しい領に作ると言うことですかな?」
「その辺の判断はタニアに任せるけど、自動車とか機械加工関連の工場はそろそろ二箇所に増やしても良いかと思っていたところなんだ」
「なるほど、一カ所に限定する必要はない、と」

 乗用の自動車の販売は相変わらずパッとしないが、昨年ジュラルミン製のコンテナを使用したコンテナトラックを開発してからはこちらの製造で工場はフル操業中だ。
 荷物の積み替えの必要無しにコンテナのままフネで輸送でき、そのままトラックに乗せて街中へ運び込めるので輸送効率は大幅に上がる。コンテナは積み重ねて置く事が出来るので港やフネのスペースの有効活用という点でも優秀だ。今はまだガンダーラ商会を中心に注文を受けているが、将来的にこの方式が輸送の中心になると目されている。出荷台数が多いのは嬉しい事だが、おかげでアルミニウムが不足し、ウォルフが今乗っている飛行機の量産を諦めなくてはならなくなった。

「そういうこと。あ、サラの所(化粧品)はオレの開拓地に移動した方が良いんじゃないかって思ってた」
「うーん、しかしあそこは遠いからねえ…」
「警備が楽になるという利点があるよ。幻獣を大量に消費しているから、アスタキサンチンとかコラーゲンとかの原料が手に入りやすいというのもメリットだ」
「ウォルフの所ってまだ行ったこと無いんだけど、安全性はどのくらい有るの?」
「むしろこっちより安全じゃないかとオレは思っているけど。とりあえず開拓民で幻獣や亜人に襲われて死亡した人はまだ一人も出ていない。山賊もゼロだしね」
「それなら検討する価値は有りそうね。誰も入って来られないっていうのは魅力だわ」

 ウォルフの提案にタニアもいくらかは乗り気になる。何分遠いのが難点だが、水上輸送すればそれほどコストは掛からないし、サラの化粧品程高価な商品ならばそれはあまり気にする程ではない。
 一番の問題点は従業員達がそんな僻地に転勤することを了承してくれるかどうかだが、タニアには説得する自信など無い。

「ただ、給料を上積みしても転勤してくれる人がどれくらいいるかは疑問ね。商会で育った子達と違って水メイジ達はいくらでも働き口はある訳だから」
「この間サラの化粧品の工程を見たけど、オレならもっと水メイジを減らせるよ。水メイジをある程度説得してくれたら生産量の確保は何とかなると思う。まあ、その辺を含めて、判断はタニアに任せる。オレはちょっと今からマチ姉に会ってくる」
「あ、わたしも一緒に行きます」
「……会ってくれないわよ? わたしも何回も面会を申し込んでいるのだけれど」

 モード大公が投獄されたのならば、その腹心であるサウスゴータも大変なことになっているかも知れない。ウォルフはマチルダにどうしても会いたくなっていた。

「無理にでも会ってくる。ちょっと、会わなきゃならない気がするんだ」
「うーん、会えるならお願いしたいくらいだけど、無茶しないでね?」
「任せてくれ。なるべく逮捕されるようなことはしないつもりだ」

 そのままタニア達は残って検討を続け、ウォルフとサラは商館を出ると真っ直ぐにサウスゴータの城に向かった。



 サウスゴータの城壁内にかなりの面積を専有するその屋敷はいつもと同じように佇んでいた。サウスゴータで城と言ったらこの屋敷の事を指し、その立派な構えは訪れるものに威圧感を与える程だ。ただ、以前は人の出入りが多かったのに今は誰も通るものが無く、庭の木々もろくに手入れをしていないようで荒れている。門番の衛兵だけが目立っているどうも陰気な雰囲気だった。
 
「お嬢様はご多忙中につき、お会いすることは出来ません」

 ウォルフ達を出迎えた執事はにべもなく断わりの言葉を述べた。
 当然ウォルフ達とも顔見知りのその執事は、サラに涙を浮かべた目で見つめられると多少怯んだが、態度は変えずマチルダと会うことは出来ないと言う。

「執事さん、こっちもそんなに暇な訳じゃないんだけど。降臨祭の前からずっと面会希望を出しているってのに、一回も会えないってどういう事なのかな?」
「そう、仰せられてもお嬢様は本当にお忙しいのです。旦那様がロンディニウムに行っている今、実質的にこの屋敷はお嬢様が率いている訳ですから」
「ふうん、確かに今大変そうだもんね。だから、会いたいんだけど」
「いえ、ですからお嬢様は…」
「それでも会いたいんだ。あ、そういえばオレ、スクウェアになったって、執事さん知ってたっけ?」
「は、はい。しかし会えないものは会えないと……」
「マチ姉に伝えてきて? ウォルフが暴れようとしている、全力でって」
「……」
「オレが暴れたら執事さんには絶対に止められないよ? そこらの衛兵でも全然無理だね。だから、しょうがないんじゃない?」
「それは……確かにしょうがないですな。仕方有りません、こちらでお待ち下さい」

 遂に執事は折れ、ウォルフを待たせて建物の中に戻っていった。昨年辺りは夏に何度かこの屋敷でマチルダと手合わせをしているので、ここの家の者はウォルフのメイジとしての実力をよく知っている。
 そのウォルフに暴れるなどと言われて今ウォルフを見張っている衛兵などはかなり緊張していた。

「ねえ、ウォルフ様。執事さんが絶対に無理って言ったら、本当に暴れるつもりだったの?」
「まあその時の気分だけど、ちょっとここのところ開拓地でストレスの溜まる仕事が多かったからちょっと切れやすくなってるかな」

 マチルダを呼びに行った執事は中々帰ってこない。待ってる間暇だったのでサラに魔法を教えて時間を潰す。高圧の水に研磨剤を含ませて噴射する水×水×土のトライアングルスペル『ウォーターカッター』を教えてみたのだが、サラはまだトライアングルは使えないようだった。
『ウォーターカッター』で門の前の石畳に"ウォルフ参上!"とか落書きしているとようやく門からマチルダが現れた。

「人んちの前に何書いてんだい……」
「マチ姉!」
「久しぶりだね、サラ。もう大分大きくなったね」

 さっそくサラが走り寄って抱きつき、マチルダはバツが悪そうにしながらもその体を抱きかえした。ウォルフは落書きを『練金』で消して、マチルダへと向き直る。

「久しぶり。ちょっとマチ姉痩せたんじゃない?」
「ここのところ忙しいからね。おいで、中で話そう」

 マチルダに案内されて屋敷内の応接間に移動した。屋敷内はあちこちのカーテンが閉められて薄暗く、人手が足りないのか廊下の隅にはほこりが目立つ。
 何度も来たことのある部屋だが、部屋に入るときに執事がウォルフに向かって深々とお辞儀をしてから下がったのは初めてだった。

「さて、一体どんな用事なんだい? あたしも忙しいんだ、手短に頼むよ」

 部屋に入ってソファーに座るなりマチルダが切り出した。本当に急いでいるようでそわそわとしている。

「マチ姉はもうわかっていると思うけど、現状の説明をして欲しいかな」
「分からないね。現状って一体何の現状だい?」
「マチ姉……」

 強気に言い放つが、サラに見つめられると目を逸らす。そんなマチルダにウォルフはつい溜息を漏らしてしまう。

「ふう。えーと…モード大公が何故逮捕されたのか。マチ姉はその理由を知っているみたいだから」
「っ!! ……逮捕されたのは確かだけど、理由なんて知るもんか。王様がいかれちゃったんじゃないのかい?」
「オレには知っているように見えるんだけどなあ。太守様は今何してるの?」
「父上は釈明と事態の収拾のためロンディニウムで活動している。あたしはその留守を守るのが仕事だ」
「ふーん」

 もちろんウォルフはまるで信じていない。そんな言い訳でこのところのマチルダの行動を説明できる訳がなかった。その後色々と聞いてみてもマチルダの態度は変わらず、頑なな姿勢のままだ。 

「マチ姉、お願い。ウォルフ様はまたすぐに開拓地に帰っちゃうから、今日どうしても話を聞きたいの」
「何の事を言っているのか分からないんだよ。あ、魔法学院の話でも聞きたいのかい?」
「マチ姉」
「サラはかわいいからね、学院に入ったら下心丸出しの男共が近付いてくるだろうけど、油断したらダメさ。学院ではパーティーがしょっちゅうあるけど、会場から離れて森とかに誘うような男は要注意だね」
「マチ姉、お願い」
「あたしも最初はよく誘われてね、珍しい夜光獣がいるって話につい乗っちゃったら襲われそうになったもんだよ。まあ、当然返り討ちにしてやったけどね」
「……」

 サラに対しても態度は変わらない。涙をうっすらと浮かべているサラから目を逸らし、ぺらぺらと関係ない事を口走っている。

「もう良いかい? 用が無いならもう帰っとくれ」
「……ふー……」
「ええっ!? ウォルフ様、帰っちゃうの? マチ姉のあの顔は嘘吐いているときの顔だよ?」

 無言で立ち上がったウォルフをサラが諫めるが、マチルダはそっぽを向いて何も言わない。そんなマチルダには溜息しか出ないが、ウォルフは同時に彼女が何か大きなトラブルに巻き込まれていることを確信した。しかし、マチルダから話をしてもらえないとなると、ウォルフとしては出来ることは何もない。
 仕方なく、サラを促して立たせるとドアの方へ向かう。マチルダも無言で付いてきた。

「マチ姉。マチ姉がどう思っているかは知らないけど、オレはサウスゴータとは運命共同体のようなものだと思ってこれまでやってきた」
「……」

 ドアを開けようとして、その前にマチルダの方に向き直り最後の声を掛ける。

「マチ姉がいなかったらガンダーラ商会はあそこまで大きくはならなかったし、ガンダーラ商会だからこそサウスゴータの町に活気を呼び戻すことが出来たと思う」

 マチルダを見つめて話すが、マチルダはやはりそっぽを向いたままだ。サラはそんなマチルダの態度に唇を噛み締め、何も言葉を発することが出来ない。

「困ったときは助けを求めて欲しい。それがオレやサラ、ガンダーラ商会、タニアやカルロ、ベルナルド達皆の総意だ。オレ達は全力でマチ姉を助けることを約束する」
「……」

 少し、喉が震えているだろうか、マチルダはそれでも何も言わず横を向いている。ウォルフはまた溜息を吐くと、帰るべくゆっくりとドアの方へと振り返った。



「あ……」

 ウォルフがドアのノブに手を掛ける。その背中に向かって、マチルダの口から声が漏れた。
 背後から聞こえた声に、振り返ったウォルフの視線とマチルダの視線とが交わる。その瞳は虚ろで、無表情のようでもあり、恐怖を浮かべているようにも見えた。



「……助けて」

 かすれた声が、室内に響いた。

「…もう、どうしたらいいか分からないんだ」

 無表情なまま呟くようにそう言ったマチルダの頬を涙が流れる。その姿は弱々しく儚げで、放っておくとマチルダが消えてしまうような、そんな感じを覚えさせた。

 数瞬の沈黙の後、ウォルフが反応するより早くサラが走り寄り、マチルダを抱きしめた。

「大丈夫だよ、マチ姉。絶対にウォルフ様が何とかしてくれるから」

 サラの方が大分背が低い為に肩口に抱きつくような形になっているが、優しくマチルダを抱きしめ語りかける。
 そんなサラにマチルダは縋り付くように抱きつき、声を上げて泣き出した。



[33077] 3-11    初エルフ
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/11/17 23:10
 泣きやんだマチルダが顔を洗いに行っている間、ウォルフとサラはもとのソファーに座ってその帰りを待っていた。マチルダが全部話すと言ってくれたおかげで二人の表情は随分と明るくなった。

「ねえ、ウォルフ様。マチ姉が助けてって言わなかったら、本当にそのまま諦めて帰ってたの?」
「無理矢理話させる訳にもいかないから、この屋敷は出るしかなかったろ。マチ姉の代わりに門の近くにいたどっかの間諜をとっつかまえて洗いざらい吐かせようとしてたかな」
「えっ、そんなのいたんだ、気付かなかった」
「あの側にいたのは二人。裏門とかにもいたっぽいから結構沢山捕まえられそうだった。最近禁制の魔法が沢山載っている魔法書を入手したんだよ。それだけいれば色々試せそうだよな」
「……禁制の魔法は使っちゃいけないんだよ?」
「ゲルマニアではまだ禁書に指定されてなかったから向こうで使う分には大丈夫そう。でもばれたらものすごく怒られるから、サラは真似しちゃダメだぞ?」
「怒られるとか言うレベルじゃないと思うの……」
「ウォルフ、あんたの倫理教育はどうなってるんだい……」

 マチルダが戻ってきてウォルフの向かいに座る。顔を洗ってきたせいか、ずっとこわばっていた顔は憑き物が落ちたようにすっきりとしている。

「やっぱり間諜は来ているのかい。あたしのおかげであんたに捕まらないですんだなんて、ラッキーな奴らだね。まだ屋敷の中には入られていないと思うんだけど……一体何から話そうか」
「あいつらは誰が差し向けたもの? マチ姉は予測が付いているんでしょ?」
「二通り考えられるね。一つは貴族派と自称しているサウスゴータ議会を牛耳っている奴ら。もう一つは国王陛下」
「国王はモード大公を逮捕した嫌疑をこちらにも掛けてきていると思って良いのかな?」
「そう、なるね。貴族派の奴らも目的は同じさ」
「サウスゴータを追い落としたいってわけか。一体、モード大公は何をやったの? あの人がそんな犯罪に荷担するなんて想像付きにくいんだけど」
「犯罪なんてしてないよ! あいつ等が勝手にそう言っているだけさ!」
「じゃあ、何をやったの?」

 声を荒げるマチルダに、ウォルフが冷静に問いかけた。マチルダはまた目をウォルフから逸らしたが、今度は呟くように長年秘密にしてきたことを口にした。

「エルフの、親娘を匿った」
「……」
「ほほう」

 サラは目が点になっているが、ウォルフは目を輝かせている。ものすごく今回の件に興味が出てきた。

「確かに法律には書いていないことかもね。それで、匿ったってのはどういう事なのかな? なんでエルフがサハラじゃなくてアルビオンなんかをうろついているの?」
「その、人間に興味があってサハラから出てきたそうなんだけど、ブリミル教の教えに感動してブリミル様が降臨したサウスゴータに来てみたかったらしいよ?」
「ほほーう。しかし、人間に興味があったといっても子連れでフラフラと人間の街に出てくるものなの? 子供さんっていくつ?」

 ウォルフの目がさらに真っ直ぐに見詰めてきて、マチルダは目を合わせられない。

「そ、その、サハラから出てきたときは一人だったんだ。サウスゴータで、大公様と出会って……」
「ぶっ……そのエルフって女の人?」
「ああ……」

 ようやく事情の全貌が分かってきた。ハルケギニアで、エルフを妾にしていたら異端の誹りは免れない。あまつさえ子をなしたとなればその罪は王家にも向かう程のものと思われる。王家は絶対に公にする訳にはいかないことだろう。
 頭の後ろで手を組み、ソファーに大きく寄りかかって天井を見上げる。シャンデリアの蜘蛛の巣が目についた。

「やっぱりエルフと人間との間で子供は作れるんだな。確認が取れてしまった……」
「ん? やっぱりってどういうことだい?」
「ああ、この間遠い祖先にエルフっぽい血が入っているぽい人と会ったんだよ。エルフと人間とで子供って出来るのかなあ、って思ってたけど確認できたって事」
「ちょっとそれホントかい? 一体何処の誰なんだい?」
「エルフの血が入っているって言っても、すっごく昔のことだからもう全然普通のメイジだよ。それより、そのエルフの親子がこの屋敷にいるんだね?」
「えっ、マチ姉、ホント?」
「……」

 少し緊張感を増したマチルダが、黙って頷いた。その返事を受けてサラもつられて緊張したが、ウォルフは再びソファーの上で脱力した。恨みがましい視線をマチルダに向けて零す。

「ずるいなー……マチ姉。オレがずっとエルフのこと調べてるって知ってたのに、自分だけエルフと知り合いになってるなんて……」
「っ! し、仕方ないだろう、何度か話そうとは思ったんだけど、ウォルフがどんな反応するかなんて分からないじゃないか!」
「しかも、ハーフエルフなんて楽しそうなのまで独り占めして……ねえ、いつから知ってたの?」
「その、商会発足した頃、大公様に口利きして貰った時に……」
「五年近く前じゃないか。精霊魔法の研究とか、一体どれほど遠回りしたことだろう……オレは一体これから何を信じたら良いんだ」
「あーあ……、マチ姉が意地悪するから拗ねちゃった。責任取って下さいね?」
「どうしようもなかったんだよ、巻き込みたくなかったんだ」

 膝を抱えて項垂れるウォルフと呼吸を合わせたサラとの二人がかりの非難に、マチルダの顔が引き攣る。なおも何事かブツブツ呟きながら、抱えた膝をゆさゆささせているウォルフは放っておいてサラに語りかけた。

「ウォルフはともかくとして、何でサラまでそんな、普通なんだい。エルフなんだよ?」
「だって、マチ姉のお友達なんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、きっと大丈夫よ。良いエルフに違いないわ」

 サラはそう言って穏やかに微笑む。せっかく顔を洗ってきたというのに、また鼻の奥がツンとしてマチルダはあわてて鼻をかんだ。
 
「……サラは、きっといつかこっぴどく人に騙されるよ。そんなに簡単に他人を信じちゃダメさ」
「じゃあ、マチ姉が側にいて悪い人が近づかないように注意してて。今回みたいにいなくなるのはもういやだよ?」
「うん…ごめん……」



「責任を取って下さい」
「うわっ、なんだい、ウォルフ」

 ニュッと唐突にマチルダの眼前にウォルフが顔を突き出してきた。ウォルフの動きを全く認識していなかったマチルダは驚いてひっくり返りそうになってしまった。

「責任を取って下さい、エルフとハーフエルフに会いたいです」
「…そんなに会いたいのかい? 会ってどうするつもりさ」
「現在、マチ姉を取り巻いている状況にどう対処したらいいか、そのエルフに会わないと決められないだろ」
「本当にそれだけかい?」
「えっと、済みません、興味あります。エルフ、会いたいです」
「ふふふ、勿論、会ってもらうつもりさ。会わないと本当に良いエルフなんだって分からないだろうからね」

 目の前のウォルフの目を見詰め返し、莞爾として笑う。マチルダにもう迷いはない。さっさと立ち上がると二人を案内し、エルフの待つ棟へと移動した。

「いいかい? ウォルフ、人体実験とかはだめだからね?」
「やだなあ、マチ姉、オレのことをどんな風に思ってるんだよ」
「だめですよ? 女の子だって言うのだから、優しくしないと」
「サラ、お前までオレのことを信じてくれないのか? お父さんは悲しいよ」
「ウォルフ様は時々突っ走っちゃう時があるって理解しているだけです。あと、年下のお父さんは生物学的に有り得ません」
「あり得ないことは無いぞ? 光速に近い速度が出せるフネが有れば…」
「はいはい、いいかい? 入るよ」

 言い合いをしているウォルフとサラを無視してマチルダがエルフがいるという部屋のドアをノックする。少し遅れて部屋の中から返事があった。

「あたしだよ。テファいいかい? ちょっと入るよ」

 まずは先にマチルダだけで入って許可を得ることになった。ウォルフ達は少しの間廊下で待たされたが程なくしてドアが開く。

「いいってさ。ウォルフ、いいかい? くれぐれも相手が怖がるようなことをするんじゃないよ」
「オレ、そんな事しないのに…」
「日頃の行いのせいですよ」

 念には念を入れて注意を受け、ようやくウォルフの人生初エルフだ。
 カーテンが閉められ薄暗い室内で、二人の女性が緊張した面持ちで立ってウォルフ達を出迎えた。ウォルフが始めて出会ったエルフはとてもよく似た容姿で、親娘と事前に知らなかったら姉妹だと思っただろう。
 二人とも輝くような金髪に宝石かと見まがうばかりの翠玉の瞳とエルフの証である長く尖った耳を持ち、神々しいと表現出来てしまう程の美貌だ。さらに加えるならば、娘の胸がでかい。母親の方は巨乳に分類されるんだろうけど、ちょっと大きめかなと言った程度だ。しかし、娘の方は一歳年上のサラがマジマジと自分と見比べてしまう程にでかい。ウォルフと同い年で十一歳との話なのだが、とにかく、でかい。
 室内はカトレアと出会った時のような精霊魔法の気配がしていて、ウォルフは嬉しくなってくる。やっとエルフと会えたのだ、今は困惑の表情を浮かべる二人に対し、満面の笑みで応えた。初エルフと友好的な状況の中で会えたことが嬉しい。こんなエルフばっかりならとっととサハラに行けば良かったと思い始めているくらいだ。

「ホラ、マチ姉、紹介」
「いたっ、肘で突くんじゃないよ。ちょっとは落ち着いたらどうだい」
「いいから、ホラ」

 やたらとテンションの高いウォルフをもてあましつつ、マチルダはお互いを紹介する。

「あー、シャジャルさん、テファ。こちらがウォルフと、その従姉妹のサラ。二人ともあたしの幼なじみで、ガンダーラ商会の幹部をやっている。……それで、こちらがエルフのシャジャルさんとその娘のティファニア。テファは大公様の娘になるんだ」
「初めまして、ミズ・シャジャルそれにミス・ティファニア。ただ今ご紹介に与りました、ウォルフ・ライエ・ド・モルガンです。ガンダーラ商会で技術開発部主任を務めております」
「は、初めまして。サラです。正式にはサラ・デ・ラ・クルスって言えって言われています。ガンダーラ化粧品の工場長をしています、よろしく」
「あら、お二人ともマチルダさんからいつもお話を聞いているから、初めてって感じがしないですね。シャジャルと申します。こちらは娘のティファニアです」
「ティファニアです、初めまして」

 ニコニコしているウォルフと少し緊張気味のサラが挨拶をし、それにエルフの二人が応えた。無事に初対面の挨拶を交わした二人を交えて、ウォルフとサラはマチルダからこれまでの経緯を聞く。
 モード大公がシャジャルを囲い、ティファニアをもうけ、兄王にばれて捕まって、二人の追放を拒否していると言うことを。どうやら貴族派も情報を掴んでいるらしくしつこく探りを入れてきているということも。
 今のところモード大公はエルフの行方を話していないらしいが、彼の柔弱な性格を考えると、それがいつまで続くかは分からないとのことだ。もし彼がサウスゴータに匿われていることを認めたら、ここに王の兵がなだれ込んでくるのは時間の問題だろう。

 それで、これまでの経緯をふまえた上で、今後どうするべきかという話になったのだが、この話し合いは難航した。

「話せば分かって下さると思うのです」

 シャジャルが、誠実そうな人柄が良く理解できるようなことを言う。

「話をしないで逃げてしまったのがいけなかったのではないかと、ここのところずっと思っていました。誠意を持って話せば、同じ始祖を信仰する者同士、通じ合えるはずだと信じています」

 もう隠れるのはやめて、表に出て話し合うべきだと主張するシャジャルに、マチルダは俯き、額に手を当てて頭を振っている。この人を匿うのは結構大変なのかも知れない。

「えーと、個人的な意見を言わせて貰えば、王の追っ手の前に姿を現すのは絶対にしてはならないことだと思います」
「どうして、でしょうか」
「まず、シャジャルさんを追ってくる一番下っ端の者はあなたと話をするという選択肢を与えられておりません。間違いなく会うなりあなたを殺そうとしてくるでしょう。話をする間など無いはずです」
「そんな……でも、ウォルフさん達のような方もいます。全部が全部そのような人達ばかりではないのでは?」
「シャジャルさん、ウォルフはかなり特殊な部類なんだ。こんなのがハルケギニアの一般メイジと思ったらだめだ」
「マチ姉の言い方に何か棘があるような気がする……でも、その通りだよ。オレ達はマチ姉がいるからあなた達を信用できた。他の人間にその信頼関係は無い」
「……」
「もし、あなたが出て行った場合、全てが悪い方に転がる。まず、あなたは何を言うことも出来ずに殺されるだろう。弟を捕まえている王も、エルフの死体という証拠が出てしまったら王弟とはいえ処刑せざるを得なくなる。あなたを匿っていたサウスゴータ伯爵もマチ姉も捕まって処刑されるだろう。この屋敷に対する捜査は徹底的に行われ、ティファニア嬢もおそらく逃げおおせることは出来ない。あなたが表に出て、話し合いをしようとした瞬間に運命は破滅に向かって動き出すんだ」
「何で、何で、そんな…」

 ポロポロと真珠のような涙を零しながら、ウォルフのことを恨めしげに見てくるが、ウォルフとて意地悪でこんな事を言っている訳ではない。普通に展開を予想しただけだ。

「人間とエルフとの間の不幸な歴史が人間にエルフへの恐怖を植え付けました。人を殴ったことの無いような善良な平民でもエルフに石を投げるのを躊躇する人はいないかと思われます」
「エルフへの、恐怖、ですか…」
「ええ。怖いから、分からないから攻撃するのです。相手が襲いかかってくると信じているから拳を握って前へ突き出すのです。相手がパニックになっていることを理解してあげて下さい。そんな時に殴る事が出来る距離に飛び込んでしまうのはお互いに不幸です」
「でも、ウォルフさんの話を聞いていると、理解して貰えれば、わかり合えると言っているような気がしますけど…」
「ええ、勿論信じていますよ? 今わたしとあなたがこうして話しているように、エルフと人間とが良き隣人となれる可能性はあると思います」

 何の屈託もなく笑顔で話すウォルフにシャジャルはあっけにとられていたが、その涙は止まったようだ。隣に座るティファニアを見、マチルダを見、またウォルフに視線を戻した。

「わかりました。今は私たちが姿を現すべきではないということを、理解しました」
「その通りです。今は、その時ではない。あなた達さえ見つからなければ、証拠は無いのです。モード大公の命も救われ、またいつの日か一緒に暮らせるようになるかも知れません」

 ウォルフが本音で語ったことにより、なんとかシャジャルに思いとどまって貰うことには成功した。一番安堵しているのはマチルダだ。彼女はここのところシャジャルの説得に随分と苦労していた。

「ありがとう、ウォルフ。あたしじゃあそこまではっきりとは言えないから、中々説得が難しかったんだ」
「マチ姉はやさしいから。じゃあ、まず二人をここからは逃がすということで作戦を練りたいんだけど、シャジャルさんはどこか当てとか有りますか?」
「いいえ。わたしは部族を飛び出してきてしまったものですから、もう部族には帰れません。ハルケギニアにいられないというならば、わたしたち親娘に行くところは無いのかも…」

 またシャジャルが暗くなるが、ウォルフは意に介さない。ハルケギニアではなくてサハラでもない、彼女たちが暮らしていける場所を考える。 
 蛮人地域か、辺境の森の先か、あるいは新大陸というのも楽しそうだがいずれにしても魔法がないと暮らすのは大変そうな場所だ。

「シャジャルさん、魔法はどのくらい使えますか?」
「えっと、系統魔法は使えません。精霊魔法はエルフなりに使えます」
「ちょっと、何か使ってみてくれますか?」
「はい、いいですよ…《風よ、遍く吹く風よ、我の示す先にその姿を現せ》」
「ひゃっ」

 シャジャルが詠唱して軽く腕を振るとその動きに合わせて室内に風が吹いた。サラは初めて見る精霊魔法に驚いていたが、ウォルフは何度も見たことがあるので冷静に観察している。完璧にコントロールされた風の魔法はシャジャルの魔法の腕前がルー達一般的なアルクィーク族よりも上だということを示していた。これくらいの腕があるなら獲物くらいは自分で捕れそうだ。

「なるほど。土や水の魔法も使えるのですか?」
「はい。やってみましょうか?」
「いえ、今は結構です。ティファニアさんはどうなのでしょう。ハーフエルフとのことですが」
「あの、その、わたしは…使えません」

 ティファニアが小さくなって答える。彼女は系統魔法も、精霊魔法も成功したことはなかった。マチルダは辛そうに目を逸らし、サラも気の毒そうな表情を浮かべているが、使えませんと言われて「はいそうですか」で済ますウォルフではない。

「ちょっと、やってみてくれませんか? 杖は持っているようですし、とりあえず系統魔法の方を」
「えっと、その、本当に出来ないですよ?」
「構いません。出来ないのならどうして出来ないのか、知りたいですし」
「あう」

 不安げに母の方を見るティファニアにウォルフは優しげに答える。が、満面の笑みで身を乗り出しているのは既に暴走しかけているからだろうか、サラが脇からウォルフの膝に手を置いて、暴走するのを止めている。

「ウォルフ様、ティファニアさん怖がってるから、優しく、ね?」
「オレはいつだって優しい。さあティファニアさん一緒にやってみよう。痛くしないから」
「ひ、ひうう」
「ああ、もう。テファ、大丈夫怖くないから。こいつ時々こんなになるけど心配ないから」

 なんだかティファニアに怖がられてしまったが、間にマチルダが入ってなんとかその場は収まった。ソファーから少し離れた場所で気持ちを集中させてティファニアが杖を振る。ウォルフは少し離れてその様子を『ディテクトマジック』で見ていた。

「じゃ、じゃあやります……《ウインド》!」
「……」

 何も、起こらなかった。ティファニアの体から杖へと流れた魔力は、そのまま虚空へと溶け込むようにして消えた。
 残念そうな一同の中で、ウォルフだけは少し驚いた様子を見せていたが、特に何も言わず続きを促した。

「成る程、ちょっと火の魔法も使ってみてくれますか?」
「は、はい……《ファイア》」
 
 また、何も起こらない。静まりかえった室内でティファニアは一人、消えてしまいたそうにしている。

「ど、どうだい? ウォルフ、何か分かったのかい?」
「……何で爆発しないんだ? 性格の問題なのか?」
「は? 何で『ファイア』で爆発するのさ。あんたとは違うんだよ?」

 ティファニアの失敗魔法は、そのなんの系統の色も示さない魔力の流れがルイズのそれと酷似している。ただ、ルイズの失敗魔法が爆発を伴うものだったのに対し、ティファニアのそれは何も起こらない、ソフトなものだった。
 ルイズの失敗魔法の詳細は既に判明している。魔力素を構成する魔力子の一部を抜かれ、強制的に崩壊させられた魔力素がその結合エネルギーを熱として周囲の物質に放射し、急激に温度が上昇した物質が膨張・爆発するというものだ。ガンマ線や粒子線などの放射線の形態ではエネルギーの放射がなされていないのが幸いだが、かなり危険な失敗魔法だ。
 それに対してティファニアの失敗魔法は魔力素崩壊の一歩手前でその作用を止めてしまっている。癇が強く少々強引なところのあるルイズと、どこかおどおどしているティファニアとの性格の違いと言われれば納得できそうな違いだが、いずれにしてもティファニアの系統が虚無で、イメージ次第ではまたコモンマジックなら出来るようにはなりそうだということは分かった。

 分からないのは虚無の系統の発現条件だ。始祖の血統にランダムに出るものかと思っていたが、始祖の血統とエルフの血が混じるというレア条件四人の内二人が虚無だという事は、偶然では済ませられない事実かも知れない。

「まあいいや。こっちも何とかなりそうだな」
「本当かい! ティファニアが系統魔法を使えるとなるとは嬉しいね」
「ん、問題ない。それで、とりあえずお二人には暫く誰にも見つからない場所で暮らしていただきたいのですが。少なくともモード大公が釈放されるまで」
「それは、構いませんが、そんな場所があるのでしょうか?」
「とりあえずハルケギニアの外に小屋を何カ所か持っていますので、当面の暮らしはそちらで送ってもらいたいと考えています」

 シャジャルには東の温泉地を勧めておき、魔法が出来なくて落ち込んでいるティファニアには今度出来るようにすることを約束した。
 温泉地の小屋は最近冷蔵庫や暖房などの快適装備も増えて過ごしやすいし、開拓地からはウォルフの飛行機ならば三時間程だから食糧の補給なども問題ない。五百リーグ程行けばアルクィークの村があるので時々訪れれば寂しさも少ないだろう。

 特にそこで過ごすことに問題は無いとのことなので潜伏場所は決定した。問題はこの屋敷に大量に張り付いているらしい間諜だ。彼らに囲まれているのが分かってシャジャル達は移動をすることが出来なくなったと言う。

「あれ、そう言えばマチ姉って卒業式もう終わったの?」
「明後日、ヘイムダルの週の虚無の曜日だけど、別に出なくても卒業にはなるし、行かないつもり」
「それは出た方が良いな。何でもないのに卒業式出ないとか、怪しすぎるし。彼女たちを無事に逃がすまでは、表向きあくまでもエルフなんて知らないという立場を貫くべきだ」
「……テファ達のことが心配なんだよ。そんなに長い時間離れていたくないんだ」
「オレ達を信じてくれるんだろ? マチ姉が動くと間諜の注目を集めることが出来る。いや、いっそ……明日、迎えの車を寄越すよ。ロンディニウムまで送らせよう」

 迷わずに指示を出すウォルフに、渋っていたマチルダも結局従うことになった。事態は切迫している。もし、太守が逮捕されたらその時点で逃げ出さなくてはならない程に。
 ウォルフ達は一つ一つ確認を取りながら脱出計画を練っていった。



[33077] 3-12    ドライブ
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/11/24 21:55
 サウスゴータの屋敷の門をガンダーラ商会製の最新型自動車がくぐる。このモデルは今までの機種より馬車っぽさが減って自動車らしくなっており、車高も低く操縦性が高い。サスペンションシステムの性能向上で車高を落としても地面の凹凸による振動を十分に吸収することが出来るため、風石発電機への影響が少なくなったことにより実現できた車体だ。
 滑らかな動きで屋敷の正面に停まると運転手が降りてきてトランクを開く。メイド達が運んできた大きなスーツケース二つを積み込んで暫く待つと、ようやく建物からマチルダが出てきた。
 運転手と一つ二つ言葉を交わし、悠然と後部座席に収まる。運転手は後部ドアを閉めると運転席へと戻り、ゆっくりと車を発進させた。

 その様子を五百メイル以上離れた街中の建物から魔法具を使って見ている男達がいた。前日にガンダーラ商会のオーナーであるウォルフ・ライエ・ド・モルガンが久しぶりに城を訪れていたので何かあるかと思っていたが、早速動きがあったようだ。

「どうやら動きましたぜ。国王の騎士団にも教えてやった方が良いでしょう」
「あの大きな二つのスーツケース。まず間違いないな、おぞましい存在があの中に入っていることだろう」
「やはりここに逃げ込んでいたというわけか。まったく、太守ともあろう方が見下げ果てた行いだ。まあ、おかげでサウスゴータ家を潰せるのだがな」
「サウスゴータ家の財産は議会の管理物になるのだろう? まさか国王が全て没収とかは無いよな」
「王家がそんなことを言い出せるものか。我々が王家に反旗を翻したら大変なことになるのだ、めいっぱい気を使ってくれるわ」
「うむ。王家が気を使っている内に我々は王家の力を徐々に削いでいけばいいのだな」
「まずは王弟を処刑させることだ。当然理由を公表など出来るはずもないのだから、貴族達の信頼を著しく失うことになる。貴族達の支持を失った王家…これは楽しみだ」

 ここで密談しているのは貴族派を名乗る派閥の一団。王家を倒し、貴族による共和制を最終目標に掲げる彼らに秘密を嗅ぎ付けられたのがアルビオン王家にとっての不幸だった。

 貴族派に追い立てられるように王家は今回の事件を秘密裏に解決しようと奔走しているが、その王家にとって想定される最悪な結末とはシャジャル達が名乗り出てモード大公とエルフとの間の娘であるティファニアの存在が明るみに出る事。この場合、おそらく王家は存続を続けることが出来なくなる事が確実と思われる。
 その次に悪いと思われる解決方法がシャジャル達を見つけ出して秘密裏に始末し、モード大公も処刑するという結末だ。王にとって権力基盤を強化する存在である弟を失うという事態は避けられるものなら避けたいが、兄王に妾と娘を殺された王弟という存在は政治的に危険すぎるので処刑せざるを得ない。証拠はないとは言え、貴族派に弱みを握られるというのもこれが最悪に次ぐ結末と言える理由だ。証拠の有無にかかわらず、情報が漏れた場合モード大公の処刑という事実は噂に信憑性を与えてしまう。
 最も穏便な結末はシャジャル達が誰にも知られることなくサハラへと帰る、というもの。貴族達はまだ証拠を掴めてはいないので、王もしらを切る事が出来るしモード大公を釈放することも出来る。モード大公もシャジャル達がサハラへと帰ったのなら諦めるはずだろう。
 だがこの結末にはその過程で常に一つ目の結末の可能性が残る。途中で露見するリスクがある以上、その存続を第一とする王家としては次善の策として二つ目の結末を目指さざるを得ない。

 貴族派達は王にモード大公を殺させることによりその権力を揺るがそうとしている。王家が滅んでもそこらの公爵が出てきて王位に即いたのでは意味がない。王家の力を少しずつ削り、減らし、自分たちのものへとしていくのに、今回の事件は実に都合の良いものだった。



 マチルダを乗せた自動車は街中を軽やかに駆け抜け、やがてサウスゴータ家御用達の帽子店の前で停車した。道を行く馬車などの邪魔にならない端に停まるとマチルダは運転手を待たせ、建物の中へと消えた。停まっている自動車の後部座席はスモークガラスとなっており、中の様子は見えない。その事がいっそう追っている者達の疑念を確かなものにさせた。
 暫くして帽子のケースを抱えて戻ってきたマチルダを乗せてまた自動車は走り出し、今度は仕立屋の前で停車する。他にも靴屋やアクセサリー店など何軒も回った後、ようやく車は城門へと向かう。ロンディニウム方面の門である北門へ向かっているようだ。

「読み通り北門へ向かうみたいですな。街中で逃げられるとやっかいだ、やはり門から出てしばらく行った岩山で止めましょう」
「ああ、人目に付く訳にはいかないし、あそこなら逃げ場はないしな。いいか、確実に仕留めるのだぞ」
「たとえ相手がエルフといえど、我ら近衛騎士団引けを取るつもりはありませぬ」
「その意気だ。たのむぞ、差し違えてでも倒して貰わねば王家の未来はない」

 マチルダの車の後を付けるこの風石馬車に乗っているのは、王の特命を受けた警視長官と王家直属の近衛騎士団長。今回の情報が王家にもたらされて以来、首都警察を率いる警視長官自らが捜査を行い、近衛騎士団は捜査を手伝いつつ戦闘に備えてきた。
 首都の治安を守るために王家によって創設された首都警察の初めての大きな仕事が、首都ではない地での王家自身の不祥事の捜査になるとは、国王の予想もしていなかった事態ではあろうが、貴族達に知られずに事件を収拾させるためには仕方のないことだった。
 既にサウスゴータから出ている主要な街道にはそれぞれ二十名からの近衛騎士団を配置している。おそらく先行する自動車が予定しているポイントに行くまでには近衛騎士団は六十名に増えるだろう。
 現在後を追っている五台の馬車に分乗している騎士や警察官を入れれば百人近い戦力だ。二人のエルフと一人のメイジに対しては十分な戦力と思われた。



 マチルダを乗せた車はシティ・オブ・サウスゴータの城門をくぐるとグイッと加速した。続いて城門をくぐった風石馬車などを置き去りにしてアルビオンの大地を駆ける。
 運転席に座るのは前日の夜に開拓地から急遽ウォルフに呼び寄せられてマチルダの護衛に付いたモレノ。ウォルフに頼まれた時は渋ったが、任務が美女の護衛と聞くと二つ返事で了承した女好きだ。彼は久しぶりの訪問となるアルビオンを満喫しているようだった。

「いやいや、楽しいですな。辺境の地から呼び出されたかと思ったら、こんな美女と二人きりのドライブだなんて、ウォルフ様も中々粋なことをしてくださる」
「あんた、モレノって言ったっけ、随分と調子が良いけどロマリアの出身かい?」
「おやおや、まだろくに話もしていないって言うのに出身地が分かってしまうなんて、これは運命の出会いに違いない。ロマリアはサンテ・ペルテ島出身・風のトライアングル・モレノ三十歳独身です、よろしく」
「ちょっと、疲れちゃうから少し静かにしていてくれるかい? まったく、ロマリア男ってのはこんなのばっかりかい…」
「お疲れですか、それはいけませんね。マチルダ様のような美女には笑顔がよく似合う。ここは気の利いたロマリアの小咄を一つ…」
「多分それを聞くともっと疲れそうだからやめとくれ。それよりちゃんと前を見なよ、前」
「おっと」

 ルームミラーに映るマチルダに目を奪われて、危うく道行く馬車に追突しそうになる。軽くハンドルを切って躱したが、運転支援ガーゴイルに注意を受けた。

「ただ今の運転は 危険度 2 です。注意力が 低下している兆候が 見受けられます。自動運転に 変更する事を お勧めします」
「うるせえ。ガーゴイルのくせに人間様に意見してんじゃねえ」

 車体の中央、ダッシュボードの前に上半身だけという形で据え付けられたこのガーゴイルは、発電管理など電気系統の制御はもちろんの事、ナビゲートや自動運転などもしてくれる優れものだ。しかし、モレノは気に入らないようでしょっちゅう文句を言っている。
 ガリアの御者ガーゴイル制作者組合と共同開発したものを組合で製造、パーツとして輸入してきてガンダーラ商会の工場で自動車制御用の魔法基盤を追加して組み込んでいる。高価なものなのでコスト高の原因ではあるが、制作者組合と懇意になって以来素材の斡旋や人材派遣もして貰えるようになり、ガーゴイル用土石の入手やメイジ不足に困るような事は無くなった。 

「……ガーゴイル相手にムキになっているんじゃないよ」
「いえ、マチルダ様。こう言っちゃあ何だけど、こいつは失敗じゃないかなあって思うんですよ。交差点を突っ切ろうとすると勝手に減速するし、ちょっとスピード上げたくらいで一々注意してくるし、苛つきますわ」
「馬車よりスピードが出るんだから、安全対策をするのは当然だろう。気に入らないなら自動運転に任せればいいじゃないか」
「男のロマンを分かっていませんね。自分でハンドルを握るのが良いのですよ」
「だったら注意されないような運転をするんだね。さっきの交差点ではセグロッドの子供達が飛び出してきたし、今だって馬車に突っ込みそうになった。あんたがいいかげんだから怒られるんだよ」
「どっちもまだ余裕があったんですって。俺様の運転技術をこいつは分かってない。そこがむかつくんですよ」

 マチルダが注意してもまだブチブチと文句を言っている。ウォルフから信頼できる護衛を付けると言われたが、もう少しましなのはいなかったのだろうかとマチルダは嘆息し、窓の外に目を向けた。
 外は見慣れたサウスゴータの景色が流れている。もしかしたらしばらく見ることは出来なくなるかも知れないその景色を、目に焼き付けるように何時までも見続けた。

「おっとマチルダ様、前方で正体不明の騎士団が道を塞いでいます。いかがなさいますか?」

 そのまましばらく走った後、車を減速させながらモレノが聞いてきた。言われて前方見ると、確かにマンティコアなどに騎乗した一団が道を塞いでいた。五十人ほどはいそうな騎士達は全員金属製の鎧で武装しており、山賊などが出会ったら一目散に逃げ出すであろうと思われる偉容だ。

「いかがって、停まるしかないだろう」
「突破する、とかUターンして逃げる、とか皆殺しにする、とか選択肢があるかと思いますが」
「……直前で停まっとくれ。話を聞いてみるさ」
「かしこまりました」

 ゆるゆると走って部隊から一人前へ出ている騎士の横で停車する。マチルダは窓を開けて声を掛けた。

「いったい何なんだい、これは。ここは街道だよ、いったい何の権利があって占拠してるんだい?」
「こちらの自動車に不法行為の疑いが有りとの通報を受けている。捜査をするので乗員は外へでるように」
「あたしはサウスゴータ太守の娘だよ、誰かと勘違いしているんじゃないのかい?」
「勘違いなどしておりませんとも、マチルダ・オブ・サウスゴータ様」

 騎士は油断無く杖を構えたまま告げる。後方の騎士達も誰一人自動車から視線を外さなかった。

「……あんた達の所属は? 仮にも貴族の車を調べようってんだから高等法院か貴族院の捜査令状を持っているんだろうねえ?」
「我々はテューダー王家の近衛騎士団だ。緊急事態故、捜査令状は所持していない。これは命令ではなく、依頼だと認識して貰いたい。貴女もアルビオンの貴族ならば王家の依頼には従った方が賢明だと思うが」

 騎士が示す紋章は確かにテューダー王家のもの。王家の近衛がこれだけの数で一地方であるサウスゴータに出張って来ているのは異常なことだ。マチルダは肩をすくめると大人しく従うことにした。

「従うかどうかは依頼の内容にもよるさね。まあ、いいさ。モレノ、降りるよ」
「はいはい、ただ今」
「……賢明です。無駄な事はしない方が良いですな」

 しぶしぶ、といった風情でマチルダとモレノが自動車から降りる。騎士は相変わらず二メイル程離れた場所に立ち、油断する様子はない。

「それで、どうすればいいんだい?」
「後ろのトランクを開けるように。ミス・マチルダは立ち会ってくれ」
「構わないが、なんだか仰々しいね。モレノ」
「はいな」

 マチルダの指示でモレノが運転席のノブを操作し、後部のトランクを開ける。騎士達が移動して車から五メイル程離れた場所にずらりと並んで杖を構えた。
 そうこうしている内に街道を通りたい他の馬車が渋滞し始めるが、関係のないものは騎士に追い払われると慌ててUターンして逃げていき、その他の馬車からはぞろぞろと騎士や警官が降りてきて包囲に加わった。

「このスーツケースの中身を検めます。ミス・マチルダ、開けて下さい」
「女性の荷物を開けさせるなんて、一体どういうつもりだい。この事は王家に抗議するよ? 王家の態度次第では貴族院に訴え出ても良いくらいさ」
「捜査が終了したらいくらでも訴えて下さい。これは近衛騎士の職務で行っていることですから」

 大きく開けたトランクの前に移動し、騎士はマチルダにその中に鎮座する二つのスーツケースを開けるように要求してくる。貴族の女性の荷物を男性が検めるなど、紳士の国と言われているアルビオンではまずあり得ないような事態だ。さすがにマチルダはやんわりと抗議するが騎士に譲歩する気配は無い。

「あんた、名前はなんて言うんだい? 教えとくれよ」
「……アレックス・マクリーンだ。いいからさっさと開けろ」
「女の荷物を漁った男って有名にしてあげるよ、サー・アレックス。覚悟しとくんだね」

 アレックスと名乗った騎士は嫌そうに顔をしかめたが無言で更に荷物を開けるよう促す。マチルダはモレノに命じてスーツケースを降ろさせると鍵を開けて一歩下がった。
 ごくり、と後ろに立って杖を構える騎士達のだれかの喉が鳴る。皆一様に緊張している中、アレックスはスーツケースの前にしゃがみ込み、おもむろにその蓋を開けた。

「何だと?」

 スーツケースの中を占めていたのは色とりどりのドレス。旅行中の貴族の娘の荷物としては極一般的ではあったが、アレックスの求めていたものではなかった。慌ててもう一つのスーツケースも開くが、こちらも靴や化粧品やウィッグ等、普通の荷物で一杯だ。

「馬鹿な、ガセだったのか?」

 アレックスは荷物に手を突っ込んで引っかき回すが、そんなことをしてみても普通の荷物は普通の荷物のままだ。
 何人かの騎士が車に近付いて『ディテクトマジック』で念入りに調べているが、そちらも怪しいところは何もない。証拠がなければ近衛騎士団といえど何も出来るものではなかった。
 マチルダはモレノと目を合わせて肩をすくめると、アレックスの側に歩み寄り、話しかけた。

「あたしは明日魔法学院の卒業式でね。用意が色々あるから早いとこ寮に帰りたいんだが、まだ何か用はあるのかい?」
「あ、いや、問題ない。今荷物を元に戻す……」

 慌ててアレックスが道に散乱した衣装などをスーツケースに戻し始めるが、小さな白い布を手にしたところでその動きを止めて硬直した。妙齢の、貴族の女性のそんなものを本人の目の前で手にするなど、どうリアクションを取って良いのかまるで分からない。
 動くのをやめてしまったアレックスのすぐ横で、マチルダは『レビテーション』を唱えて荷物を全て宙に浮かせ、手早くスーツケースに詰め込んで蓋をした。
 アレックスは何も出来ずにその様を見ているだけだ。マチルダはスーツケースを車のトランクに再び収めると、いい笑顔でアレックスの方へ向き直り、その手に握ったままだった布を奪い取った。

「ああ、何というか、その。そ、そんなのが入っているとは思わなかったんだ……」
「女の衣装は珍しいのかい? そんなに欲しいんなら、これはくれてやるからさっさとあたしの目の前から消えとくれ」

 奪い返したその布を拡げると勢いよくアレックスの頭に被せた。白く輝くその布の名はパンツ。女性が下着として服の下に着るもので、男性が頭にかぶるものではない。

 この瞬間、アレックスに"パンツかぶり"という一生消えることのない二つ名が付いた。



[33077] 3-13    一段落
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/12/06 18:49
 シティオブサウスゴータの北、ロンディニウムへと続く街道を真っ直ぐに進んだところの岩の多い地帯で、街道を封鎖して行われた検問の結果は何とも言い難いものとなってしまった。
 パンツをかぶったまま呆然としているアレックスの後方で、騎士団長と警視長官はあわてて風石馬車を方向転換させ、サウスゴータへと戻らせた。

「くそっ、こっちは囮か! 城を見張っている部隊に連絡を入れて確認を取れ。マチルダが出た後に城を出た車がないか調べるんだ」
「大丈夫、見張りは継続している、監視をかいくぐって城から逃げ出すことなど出来ないはずだ」
「それだけでは不安だ、サウスゴータ議会に圧力を掛けて、シティオブサウスゴータを出る車全部を検査出来ないか?」
「そんなこと出来る訳は無いだろう。決して大っぴらには出来ない事案だってことを思い出してくれ」

 マチルダにまんまとやられた感があるのでしばらく混乱していたが、屋敷には動きがなかったこと、マチルダが通った経路を検討して一瞬たりとも監視の目が離れなかった事を確認するとようやく落ち着きを取り戻した。

「おそらくは脱出のリハーサルだったのだろうが、こちらが監視していることは気付かれてしまったな」
「まあ、いずればれた可能性はある。気付かれたとしても奴らに打つ手は無いはずだ」
「そろそろ本気で強行突入を検討する必要があるな。そっちの判断はどうなんだ?」
「…サウスゴータ議会がこちらに付いているから、多少のことは誤魔化せるとは思うが、慎重に検討する必要がある」
「しかし、もう時間はないぞ。議会がこちらに付いていると言っても、向こうは向こうで確保のために独自に突入する可能性がある。我々は後れを取る訳にはいかないのだ」

 二人は情報を整理し、太守の城を武力制圧する、という強硬手段を取るための手順を検討する。マチルダには戦闘力の高い地竜の使い魔がいて、それが屋敷の警備に就いているのでこれまで強硬突入を躊躇していたが、そんな事を気にしていられなくなってきた。
 まずはモード大公に続いて太守であるサウスゴータ伯爵の反逆罪容疑での逮捕。サウスゴータ議会を動かし、衛兵や竜騎士隊と共に警官隊で屋敷を囲み、万が一の逃げ道を潰す。最後に近衛騎士団が突入してエルフを確保、抹殺という流れだ。しかし、アルビオンは議会であり最高司法機関でもある貴族院の力が強い。今のところモード大公の逮捕は王家内の問題ということである程度遠慮しているところはあるが、サウスゴータ伯爵など他の貴族も逮捕するとなると王命だけでごり押しする事は危険だ。
 強硬に押し入って証拠を得たとしてもそれを公表する訳にはいかない訳で、王家の立場は悪くなることは間違いない。騎士団長達はこれまで得た情報について慎重に検討を重ねた。




 一方、近衛騎士団から解放されたマチルダ達は上機嫌で街道を走行していた。
 マチルダも後部座席から助手席に移動して窓を開け、気持ちの良い風を受けながらモレノの軽口にも付き合う機嫌の良さだ。

「いやいや、あの騎士の間抜け面ったらなかったですな。マチルダ様も容赦ない」
「はん、あたしのテファに手を出そうとしてる奴にかける情けなんて持ってないね。いい気味だよ」
「しかし、良かったのですか? マチルダ様の下着をあんな大勢の前で公開するなんて」
「あんたも知ってるだろ? あれはウォルフが用意したものだからね、あたしの物じゃないし、気にならないさ」
「成る程。しかし、あそこにいた騎士達はマチルダ様のパンツだと思ったのでしょうなあ…」
「……」

 件のパンツはウォルフが用意した中身一式を車内でスーツケースに詰めた物だ。自分の物という意識は全くなかったが、モレノに言われてようやくあれがはしたない振る舞いだった気がしてきた。
 自分のパンツを初対面の騎士の頭に被せるなんて、周りの騎士達はとんでもない女だと思ったことだろう。アルビオン貴族の女性はもっとお淑やかなものだ。

 急に黙り込んで赤面しているマチルダを横目で眺めてモレノは話題を変える。赤面する美女は眼福ものだが、それを指摘する程モレノは不躾ではない。

「ウォルフ様は無事飛行機にたどり着けましたかね。まあ、無事じゃなかったら相手が大変な目に遭うのでしょうけど」
「……あの子が無事に逃がすって言ったんだ。今までどんなとんでもないことでも言ったことは全部実現してきた。あたしはそれを信じて待つよ」
 
 シャジャルとテファ、二人のエルフは今頃ウォルフと一緒に飛行機に乗って東方の潜伏地へ向かっているはずだ。別れる時に不安そうにしていたティファニアのことを思うとマチルダは胸が張り裂けそうになるが、今はウォルフを信じて待つしかない。

 二人は監視者の予想通りスーツケースに入って屋敷を出ていた。自動車の車内でスーツケースから出て用意されていた中身と入れ替わり、帽子屋の前で停車していた時に床に空いた穴を通ってウォルフが待つ下水道へと抜け出したのだ。馬車とは違って車高の低い新型車は尾行者が思いもしない死角をその車体の下に持っていた。
 そのままウォルフに連れられて下水道を移動し、少し離れた場所に停車していたトラックにマンホールから乗り込み、シティ・オブ・サウスゴータから脱出した。そのまま郊外まで移動して飛行機の着陸規制の無い森の中でウォルフの飛行機に乗り移り、そこから一気にアルビオンを脱出するのだ。この間、一応念のためにシャジャルの魔法で二人の耳の形を普通のものに変化させ、ティファニアは男の子に変装していたが、森の中で乗り移った時にも誰かに見られた様子はなかった。
 シャジャルがその魔法を使えるということはマチルダは知らなかったらしく、その時の驚きぶりったら無かった。これまで逃げてくる間は使ったことが無く、マチルダは相当苦労してきたらしいのだ。本人曰く、「耳を隠すなんて事に魔法を使うなんて考えたこともなかった」そうだが、この抜けっぷりはシャジャルの特性なのか、エルフという種族固有のものなのか要研究といったところだ。

 王家や貴族派が一斉攻撃を仕掛けてくることすらあり得ると思っていたので、安全のためにサラも一緒に連れて行きたかったのだが、ウォルフの飛行機は基本的に二人乗りのため、一緒に行くことは出来なかった。座席を改造してシャジャルとティファニアは乗れるように出来たものの、さすがに四人乗りにするのは無理だった。万一のために当面の間サラはアンネとともに警備の行き届いたチェスターの工場で生活するようにして、更に護衛をエルビラに頼んでおいてある。
 今回タニアはウォルフに事情を打ち明けられてかなり途方に暮れていたが、放置すればマチルダもサウスゴータ太守やモード大公も死罪になりそうな情勢にウォルフの決定した方針を追認するしかなかった。
 ウォルフとも相談の上で、直接的にシャジャル達エルフに関わるのはウォルフだけにして、脱出に使った車やトラック、更に飛行機は全てウォルフ個人のものを使用している。
 念のために商会の警備体制は強化しているが、タニアは詳しい事情を部下に話すことはしなかった。



「あ、ウォルフ様の飛行機が飛んできました……」
「えっホント? どこだい?」
「ほら、あそこ…」
「……」

 マチルダ達の車の前方上空二千メイル程をウォルフの飛行機「ライトニング」は飛行していた。
 思わず停車して車外へと出た二人の前でその銀色の機体は二度程翼を振って合図し、そのまま勢いよく高度を上げていって雲の中に入り見えなくなった。
 翼を振る合図は昨日決めた作戦が成功した時の合図だ。空を見上げ、それを確認したマチルダの頬に涙が流れる。マチルダはしばし黙ってそのまま見上げていたが、眼福とばかりに嬉しそうに自分を見ている視線に気付き、顔を隠して涙を拭いた。

「レディーの顔をじろじろと見るんじゃないよ。さ、出発出発」
「いやいや、大変結構なものを見せていただきまして…」
「そういや、あんたいつまでこっちにいるんだい? もう要らないから、帰っても良いよ?」
「おう、冷たいお言葉。ウォルフ様からはほとぼりが冷めるまでは護衛してろと申しつかっております」
「護衛が付くなんて久しぶりだよ。これでもあたしはスクウェアメイジなんだけどねえ」
「それでも、ですよ」

 モレノは背中に手を回すと外套の中からレーザー銃を取りだし、マチルダに見せた。

「なんだい、そいつは。またウォルフの発明品かい?」
「そうです。先ほどの、皆殺しにするという話は別に冗談ではありません。それを可能にする程の力がこの魔法具にはあります」
「冗談、を言ってる風には見えないね。近衛騎士団皆殺しなんて王家を全面的に敵に回しちまうようなことは自重して欲しいもんだよ。それで?」
「ウォルフ様は強すぎる力をお持ちですが、信頼できる仲間というのはまだ少ないです。それこそ、開拓団の護衛部隊にまで各地の間諜が入り込んでいるのを放置しなくてはならない程」
「……」
「マチルダ様はその数少ない信頼できる仲間だと伺っております。テューダー王家如きに殺させる訳には参りません。あの程度の騎士団は何時でも排除できますので、必要な時はお申し付け下さい」
「……そいつはどうも」

 銃をしまい、運転席に乗り込む。モレノとセルジョは共に元ロマリアの密偵ではあるが、現在は開拓団のために働いている。ロマリアで所属していた組織が壊滅した当初は精神的に不安定になっていたが、ウォルフに仕える事で落ち着きを取り戻すようになった。裏の工作員としてロマリアの汚い部分ばかりを見てきた彼らにとって、開拓団はとても居心地が良いらしく、これまでウォルフが驚く程熱心に働いてきた。その働きぶりで開拓団でも信頼されるようになっており、現在は隷属の首輪をはめられているが、他の団員と一緒に外す方針がウォルフから示されている。
 
 突然真面目に話し始めたモレノに鼻白みながらマチルダも助手席に乗り込み、再び出発した。封鎖されていた影響か、街道には他に馬車もなく車は快適に走行した。

「学院を卒業したら、開拓地に来ては下さいませんか?」
「ウォルフがそんなこと言えと言った……訳じゃあ、無さそうだね。あんたの判断かい?」
「はい。ウォルフ様はマチルダ様がサウスゴータの街を見捨てることはないだろうと仰っていました」
「さすがにウォルフはよく分かってるね……」

 昨日、マチルダはウォルフからガンダーラ商会の今後の方針を聞いた。ロサイスの使用停止とチェスターの桟橋の使用禁止によりチェスターの工場は大幅縮小、閉鎖の可能性もあり、サウスゴータの商館も売却するかも知れないという。
 チェスターの工場が閉鎖したらまた街には失業者が溢れ、ガンダーラ商会の去ったサウスゴータは商人達のカルテルによりまた物価が釣り上げられる事が目に見えている。
 ガンダーラ商会が出来る以前のような街に戻ってしまうこと。それは、サウスゴータを愛し、より良い街にするために努力してきたマチルダにとって身を切られるように辛いことだ。

「あたしはあの街を、あの街の人達を愛しているんだ。太守の家に生まれた娘として、あの街の人達が必要としてくれる限りはあそこを離れたくは無いよ」
「うーん、では街の人達と一緒に移住するってのはどうですか? あの街はもうガンダーラ商会を中心とした産業構造になっているって言うのに、その産業が立ち行かなくなるように規制してくるなんて正気の沙汰とは思えません。工場や街の人々ごと開拓地に来るってのはどうでしょう」
「ふふ、誰もいない街に議会と貴族だけが残っているのかい? 確かに、そうなればあたしも心おきなく移住できるね」

 シティオブサウスゴータは人口四万人を数えるアルビオン有数の大都市だ。あまりにも現実味のない話にマチルダは力なく笑う。

 二人を乗せた自動車は快調に街道を走り、やがてロンディニウムに到着した。




 ロンディニウムに入る時もまた臨検を受けたが、今度はアレックスのような被害者は出なかった。サウスゴータ家の屋敷に着いたマチルダは、何よりもまず両親に会ってシャジャル親子を逃がしたことを報告した。エルフがハルケギニアから脱出したというのはサウスゴータ伯爵にとって待ち望んでいた情報だ。どこか安全な場所に匿いたかったのにサウスゴータの城に連れてきた段階で間諜に囲まれてしまい、移動させることが出来なくなっていたのだ。
 彼女たちを追放しないでくれ、というモード大公の依頼とは若干の差があるが、現状では仕方がないことだろう。かの存在さえいなければモード大公の釈放交渉も進展させることが出来る。
 サウスゴータ伯爵は早速王家の伝手と交渉し、もうエルフはアルビオンにいないことを匂わせることにした。

 その情報に接した政府の官僚達の反応は早かった。サウスゴータ側と非公式に交渉を続け、今回の事件の収拾方法を探った。サウスゴータ伯爵の懸命の交渉の結果、モード大公の釈放が決定されたのはそれから一週間が経った頃だ。サウスゴータの屋敷やロンディニウムの屋敷、更には魔法学院の寮の部屋にまで内密に首都警察の捜査班を受け入れてエルフがいない事を証明した後、実現した。

 全てが丸く収まるかと思われたが、王弟の逮捕という事態にまでなってしまっていたのでそれで終わりという訳にもいかず、今回の事件はサウスゴータ伯爵がモード大公を唆して次期王位を狙わせた事件として処理されることになった。王妃の血筋に平民の血が入っているなどという事実をでっち上げ、ウェールズ王子の王位継承権を引き下げようとしたなどという、まあ普通は有り得ない話だ。王妃が疑いようもなくバリバリの王族出身だということはアルビオンの貴族なら誰でも知っている事実なのだから。

 本来は死罪に相当する罪だが、始祖降臨以来の名家のこれまでの功績を鑑み、自首したことで罪一等を減ずるという裁決が下されることで両者が合意。サウスゴータ伯爵家は廃絶、それに伴って太守の地位は廃止、伯爵家の城屋敷など全ての財産は没収となり、夫妻は国外追放というものだ。夫妻の娘であるマチルダは未成年で事件当時魔法学院に通う学生だったということもあり無罪という温情ある裁決の部分は最後までサウスゴータ伯爵が粘って勝ち取った条件だ。娘を前科持ちにしたくないという親の愛情の勝利といえるだろう。

 他に落としどころが無かったのと、アルビオンにサウスゴータ家を残した場合エルフを呼び戻すのではないかという王家の恐怖心もあり、モード大公の立場を第一に考えたサウスゴータ伯爵はこの案を受け入れた。王家としてはエルフという爆弾を握られていることもあり、これ以上あまり無理は言わず、多少不自然さは残るが一応筋が通るこの筋書きを押し通すことになった。

 モード大公の処分は、大公位を剥奪、領地のほとんども没収されて王家の管理下に置かれ、王位継承権も剥奪されるというものだった。王位簒奪を図ったにしては緩い処分だが、政治的にはほぼ無力となったと言えるだろう。彼は暫く謹慎生活を送ることになる。

 マチルダはこの間に無事卒業式を終えて一度サウスゴータへと帰り、屋敷の捜査にはサウスゴータ側の代表として立ち会った。ちなみに卒業式でクリフォードにこれまでの態度を謝罪し、仲直りしたそうだ。元大公の釈放と両親の逮捕と追放手続きなど色々と忙しい日々を過ごしたが、その表情はこれまでとはまるで違い、とても明るいものだった。

 追放が決まった両親は僅かな供回りを連れて昔バカンスで行ったロマリア南部の島に移住するそうだ。マチルダ自身は出来ればアルビオンに残りたいと考えているが、中々難しい。幸いガンダーラ商会を設立した後に開設したロンディニウムの銀行の個人口座は差し押さえの対象にはならなかったので、生活に困るということはない。この口座には所持していたガンダーラ商会の株式をタニアに売り払った代金が入金されているので、その残高は一生遊んで暮らせる程はあるのだ。このお金を元手にして、また個人商店をサウスゴータで始めようかと考えていたが、王家との関係を考えるとマチルダがアルビオンに居続けるというのはあまり良くないだろう。
 ガンダーラ商会は今後のアルビオン貿易を東部と北部の港を軸に行っていく方針だという。その場合この南部は完全に物流のメインルートからは外れるので、今までのようにサウスゴータにハルケギニア各地からものが集まってくるという状態にはならなくなる。このままでは失業率が跳ね上がった上にインフレが起こる事が確実と思われるので、少しでも何とかしたいと思っての事だったのだが。

 サウスゴータの使用人達はマチルダが残るなら一緒に残って世話をし、商売を始めるならそれを手伝いたいとも言ってくれていたが、マチルダが彼らの安全を考慮して断った。モード大公家でティファニア達の世話をしていてその存在を知っていた者は全て王家に捕まり、処刑されたものと聞いている。発覚を恐れる王家が時間が経ってから不安になり、使用人達にまで手を伸ばすことは十分考えられる事だ。事情を知らない者も説得して、なるべくアルビオンから離れて貰うようにした。中々時間が掛かったが、根気よく説得した結果ほとんどの使用人達はウォルフの開拓地に移住することに合意してくれ、マチルダも開拓地に屋敷を持つ事をにした。アルビオンで商売をする事を諦めた訳ではないが、現実的な問題としてティファニア達が安心して暮らせるのが開拓地くらいしか無いのではないかとウォルフと話していたこともあり、マチルダとしても開拓地に生活の拠点を持っておきたいとの判断だ。

 今回の件ではもっと酷い結末も十分予想できた。ウォルフの尽力のおかげで少なくとも皆の命は助かったと、事件の処理がようやく落ち着いてきて皆が安心した頃にその事件は起きた。

 マチルダはこの時まだ知らなかったのだ。貴族派がエルフの所在を掴むことを諦めた訳ではないということを。



[33077] 3-14    陰謀
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/12/10 22:56
 その日、ウォルフの父ニコラスはいつものように竜騎士隊の隊舎へと出勤していた。その様子は眠たげで、明らかに前日の酒が残っている風であり、またその事を隠そうともしていなかった。
 ここのところ隊の士気は著しく低い。自分たちが忠誠を誓っていた太守は失脚し、いけ好かない議会があれこれと注文を付けてくる。その上今日は竜騎士に、竜に乗らない地上勤務を命じて来やがった。勤務の場所は太守の屋敷、内容は城屋敷の引き渡しの監視。街中でもあり、竜がいると騒ぎになるから竜では行くなとのことだが、そんな仕事は竜騎士の仕事ではない。衛兵を行かせるか足りないなら傭兵を雇えと思うが、効率化の名の下に議会はここの所こういった細々とした仕事を押しつけてくる。
 これで給与がアップするならまだ少しは納得するのだが、ここのところずっと好景気だったというのに竜騎士の給与は一度も上げられていない。やる気を出せという方が無理な状態だ。竜騎士隊長が議会に何度も苦情を言っているが改善される様子はない。

「じゃあ、すまんがニコラス、行ってきてくれ。コクウォルズ男爵が指揮を執っているから、そちらの指示に従ってくれ」
「ほーい、いってきます」
「すまんな、よろしく頼む」
「今日予備番だったのが不運だったと諦めることにしますよ。まったく、予定通り昨日やってれば俺は関係なかったってのに」

 隊長に頼まれて、自分の部隊の見習い三名を引き連れて屋敷まで歩いていく。竜ならば一瞬の距離だが歩くと結構掛かる。余分な予算を一切認めようとしない議会に対する怨嗟を口にしながら移動した。
 行ってみた先の仕事も酷かった。サウスゴータ家の代表としてマチルダ、王家代表として近衛騎士団、議会代表としてコクウォルズ男爵を中心とした議員数人とが立ち会いに来ているのだが、議員達が連れてきた人員の質が低く、どこのゴロツキだといった感じだった。多分傭兵なのだろうが、その中でもたちの悪い類のように見えた。

 屋敷内の絵画や装飾品などの内、財産的価値の高いものを運び出して売却し、その利益は王家と議会とで折半する予定だ。この屋敷は議会の管理下に置かれるのだが、この男達がとにかく目を離すとそこらのものを懐に入れる。いくら注意してもキリが無く、コクウォルズ男爵に訴え出ても神経質になり過ぎじゃないかと言われるだけで、何の対応もない。

「一体、何なんだ、この野盗の群れは」
「これは、あの議員達が仕組んでいますね。自分たちの私腹を肥やすつもりなのでしょう」
「ちっ、逮捕しちまうか? 記録用のマジックアイテムを持ってくれば良かったな」

 ふと気付くと議会の荷馬車の他に家紋の付いていない荷馬車があって、次々と荷物を積み込んでいる。あまりにも公然と行われる犯罪に対し、どう対応すべきか迷っていると風メイジであるニコラスの耳にメイドの悲鳴が聞こえた。
 あわてて声のした方に駆けつけると、議員の連れてきた男の一人が木の繁みにメイドを引っ張り込んで良からぬ事をしようとしている。

「《エア・ハンマー》」
「ぎゃあっ!」
「大丈夫か?!」

 不埒者を魔法ではじき飛ばし、メイドを助けた。コクコクと青白い顔で頷いているが、まだ服も着ているし無事なようだ。
 
「てめえ、何しやがる」

 何するも無いものだが、吹き飛ばされた男は怒り心頭といった風情で剣を抜いて斬りかかってきた。ニコラスはその攻撃を冷静に捌いてその剣をたたき落とし、更に足を払って転ばせる。

「婦女暴行未遂の現行犯だ。大人しくしろ」
「俺様が抱いてやるって言ってんだ、女だって嬉しいに決まってるだろうが!」
「死にやがれ! 色男!」

 全く悪びれるところのない男を捕まえようとしたら背後から別の男に斬りかかられた。こういう場面で殴りかかるというのは割とよくあるが、さすがにいきなり剣を抜くということはハルケギニアでもそうは無い。攻撃を躱しながらニコラスは何か不自然さを感じたが、男達が何を考えているのかまるで分からなかった。
 見ると、自分が連れてきた竜騎士隊の隊員達も複数の男達に襲われている。何とか捌いているようだが、向こうの方が圧倒的に人数が多い。ニコラスは目の前の男達をもう一度魔法で吹き飛ばしてから部下の方へと走り、『エア・カッター』を放って部下を助けた。

「あ、ありがとうございます、くそ、こいつら何なんだ」
「纏まれ。お互いに一定以上離れるな。落ち着けばなんてことはない相手だぞ」
「は、はい。副隊長の方へ行こうとしたらいきなり襲いかかられました」

 じりじりと間合いがつまり、再び斬り合いが始まろうとしたその時、後方から制止の声が掛かった。

「静まれ、静まれーい! 喧嘩とは、一体何をやっておるのだ! ここは近衛騎士団団長・ショーン・グリーンが預かった。双方、杖と剣を引けーい!」
「ったく、来るのが遅えよ」

 ニコラスは小声で毒づくが、ホッと胸をなで下ろしてもいた。今日連れてきているのはまだ竜騎士としては見習いの者達なのだ。白兵戦の経験もなく、こんなゴロツキ相手でも不覚を取る可能性は十分にある。

「ちょっと、ニコラス大丈夫かい? いったいどうしたんだい」
「ああ、マチルダ様、何、大したことはありませんよ。女の子を襲おうとした不埒者を逮捕しようとしたら逆ギレしただけです……あれ、あの娘はどこ行った?」
「そりゃ災難だったね。それと、様付けはやめとくれよ、あたしはもう貴族じゃ無いみたいだから…って、あたしが様付けするべきなのか?」
「マチルダ様はマチルダ様です。絶対に俺なんかに様付けしないで下さい」

 駆け寄ってきたマチルダに答える。たとえ没落しようとニコラスにとっての主家はサウスゴータだった。

 その後、近衛騎士団による取り調べが行われ、全員が一人ずつ聴取された。ニコラスは最後となり、団長のショーン・グリーンが担当に付いた。これまで見てきた様々な怪しいことを報告し、二度とこんな事がないように近衛騎士団としてサウスゴータ議会に働きかけて欲しいとまで言った。
 しかし、全てを聞き終えたショーン・グリーンが発した言葉はニコラスが全く予想していないものだった。

「ニコラス・クロード・ライエ・ド・モルガン男爵、君を暴行容疑で逮捕する。君に対する取り調べは今後権限を持つ議会が責任を持って行うことになる」
「……私の話、聞いてました? 一体どんな耳していたらそんな結論になるのでしょうか」
「君が主張しているメイドの悲鳴というものを君以外に聞いたものがいない。君の部下達を含めて。それと、現在この屋敷にいた全てのメイドを集めて確認したが、襲われたと証言する者はいない。よって君の証言は虚偽と見なした。その他の者の証言を整合すると、君がコクウォルズ男爵が雇っているカイルといざこざを起こして魔法で襲いかかったという事になる。君が先に魔法を放ったという事実は複数の証言により裏付けが取れている」
「……成る程」

 どうやら、はめられたらしいとニコラスは気付いた。メイドの悲鳴は微かなものだったのでニコラス以外に聞いたものがいないというのはわかるが、メイドそのものがいないということは有り得ない。あのメイドかこの団長、もしくは両方がやつらとグルなのだろう。サウスゴータの司法権は議会が持っている。どうやら面倒なことに巻き込まれた事を理解した。

 ニコラスは杖を取り上げられて市庁舎へと護送された。貴族なので手枷や腰縄はさすがに付けられなかったが、杖を奪われたことは屈辱だ。
 マチルダが必死にニコラスの弁護をしたが、彼女の今の立場は犯罪者の娘でただの平民だ。何の効果もなかった。

 この事件は議会によって直ちに念入りな調査が行われた。サウスゴータのド・モルガン邸は何度も捜査を受けたし、全く関係ないだろうにガンダーラ商会の商館まで彼の立ち寄り先というだけで数回にわたって念入りな捜査を受けた。ニコラスと商会の関係など、ボランティアで週に一回子供のメイジ達に魔法を教えているだけだ。当然抗議はしたが、今回のサウスゴータ謀反との関連性の有無を調べているとの返事で、謝罪などは無かった。




「どうやらサウスゴータ議会は本気で私達ガンダーラ商会に出て行って欲しいらしいわ。ニコラスさんの逮捕もウチに嫌がらせをするためだったみたい」
「名目上はただの暴行事件なのに、殆ど関係ない商会の帳簿を差し押さえるとか意味が分かりません。ただの嫌がらせに間違いないでしょうな」
「そうね。ニコラスさんに面会して詳細を聞いたけど、卑怯な罠にかかったのは間違いないみたい。あくまで目標はこっちって訳ね。これを見て頂戴」

 ガンダーラ商会の商館に集まった面々に、タニアが今回のニコラス逮捕の直後に議会に提出された法案を見せた。この日の会議にはサラやカルロなど商会の幹部の面々の他マチルダとついでに護衛のモレノも参加していた。
 その内容は、地場産業の振興と職人の雇用確保のため今後サウスゴータ地方では面積が一アルパン以上の工場は操業を禁止する、というもの。大きな工場が増えると競争力に劣る小さな工場は経営が難しくなり、その事は新規の起業が難しくなると言う事を意味する。それは産業の活性化を阻害する、というのが彼らの理論だ。
 この地方でそんなに大きな工場などガンダーラ商会の工場しかない。既に操業している工場を停止させるとは、何処が産業振興なのかとこちらとしては言いたくなるが、ガンダーラ商会を狙い撃ちした法案なので言っても無駄なのだろう。

「これは、非道い。移転の計画を前倒しするしかないですな」
「最後まで良く読んでね、この法令は公布後一週間を持って有効となり、一アルパン以上の面積を有する工場はその敷地を更地と見なすってあるでしょ? そんなのんびりしている暇はないわ」
「無茶な。たとえ法令で操業を禁止したとしても上物である建物や設備は我々の財産だ。この法律は財産の私有を認めたアルビオンの国法に違反している」
「公共の利益のためならば財産権を制限できるという条項を悪用するつもりみたいね。そこで、こっちの別の公共事業案を見てね? やっぱり産業振興のためにチェスターで公営の牧場を始めるそうよ」

 新たに見せられた申請書は確かに公営事業についての認可を求めるものだったが、添付されている地図には工場の土地が更地と記されていた。そしてやはり添付されている書類には接収計画なるものがあり、公共の利益のため当該地域の私有地は適正価格を支払い取得する、とある。その予定価格は工場が進出する前の寒村だった頃の相場で、しかも荒れている土地のもの程度しかないものだった。

「……つまり、あと一週間で工場の土地上物は全部議会のものになってしまうのですな? 僅かな端金を支払われて」
「そうなるわ。あまりにもデタラメなんで国の貴族院に問い合わせたけど、個別の領地の法令に関与するのは慎重に行いたいとの返答だったわ。とても臨機応変に対応はしてくれないでしょうね」
「それは……対応してくれたとしてもその時には既に取り返しが付かなくなっていそうですな」
「だからもうあそこは即時撤退することに決めました。工場にある物資を運び出すためにガンダーラ商会の全てのフネをアルビオンに集めています」

 法律があって、行政がその法律を守るからこそ安心して企業活動もできる。議会が欲望をむき出しにして法律を守る気がないのならば、そんな場所に留まる理由はない。

「くそう、何てデタラメなんだ。ウォルフ様は何も言ってなかったのですか?」

 しかし、突然そんな事を言われても、その理不尽をすんなりと受け入れられるものではない。フリオは声を荒げて机を叩いた。日頃はいい加減な彼も、愛着あるサウスゴータから出て行かなくてはならないという事態には激しい怒りを感じる。出来ることなら議会をぶっ潰してしまいたい程だ。ちなみにウォルフはシャジャル達を脱出させたきり、ニコラスの逮捕もあって今のところアルビオンには戻って来ていない。

「ふふ、笑え、と言っていたわ。ホント、あの子は子供とは思えないわ」
「笑え、ですか?」

 今、怒りで歯を食いしばっていたフリオは唐突な言葉を受け、聞き返した。

「そうよ。腹が立ったら笑えって。議会の小物っぷりは笑うしかないだろうってね。最初は、議会うぜええええって叫んでたけど」
「その議会によって笑えない損害を被る訳ですが……」
「ウォルフによれば、誰かが傷つけられたり殺されたりした訳じゃ無いんだから、笑い飛ばせるってさ。どうしてもみんなが議会をぶっ潰したいのなら、それが出来るような武器を提供するけど、議員を皆殺しにしてまでサウスゴータで商売がしたいってわけじゃあ無いだろうって」
「皆殺し……ウォルフ様だと、そう、なりますか」
「そうらしいわ。世の中の大抵のことは大したことはない、怒るべき時は別に有るって。あの子だけは怒らせたくないって思ったわ」

 確かに、考えてみればサウスゴータでは随分と利益を上げてきた。今回の撤退費用を入れてもその収支は圧倒的なプラスだ。余計な費用が掛かるのは残念だけど、人を殺してまでどうこうするという事態ではないように思えてくる。殺気立っていた一同は少し落ち着く事が出来たようだ。

「ううむ。しかし、さすがに一週間ではフネが足りないのでは?」
「足りなかったら余所から持ってくるのよ。一週間くらいでは何も出来ないだろうと舐めきっている奴らに、目にもの見せてくれるわ」

 タニアが机の上に新たな資料を広げる。そこにはおおよそ見積もった荷物の量と、各地の貴族や商会から借りる事になったフネの積載量と入港予定日が記されていた。  

「友好関係にある各地の貴族や商会に依頼してフネを出してもらっています。ツェルプストー辺境伯などは大喜びで大量の船舶を出してくれましたし、いくつか大型の機械は搬出を諦めなくてはならないかも知れないけど、ほぼ全ての機械や設備は運び出す目処が立ちました」
「おお……確かにこれだけあれば」
「ふむ。やつらが接収できるのは空の工場だけというわけですな。それはそれでざまあみろと言う気にはなりますな」

 法令の公布から施行まで一週間有るのが唯一の救いだった。それでも法律で制定されている最短の期間だが、おかげで対策を取る事が出来そうだ。

「みんな、なんか、ゴメン」
「や、マチルダ様が謝ることはないですぞ、そもそも議会が悪い訳で…」
「うん、でもウチがもっとちゃんとしてたら…」

 マチルダがガンダーラ商会の面々に謝る。これまではモード大公や太守の重しが有ったので議会も大人しかったが、随分と無茶をしてくるようになった。以前ならば、議会がこんな法律を通してきたとしても、大公か太守のどちらかがノーと言えばそれで終わってしまっていたのだが、今はどちらもいない。二人の影響力が無くなった時、議会にどれほどの権限があるのか、今まではあまり考えていなかった。
 コクウォルズ男爵など数人の議員には黒い噂もあったのだが、確認が取れなかったこともありこれまで放置してきた。太守が太守としての権限を使ってもっと捜査をしていれば今日のようなことにはならなかったかも知れない。

「マチルダ様がそれを言ってもしょうがないでしょう。まさか太守様がこんな事になるなんて、誰も想像できなかったのですし」
「うん…でも……」

 モード大公がエルフというアキレス腱を抱えていたのをマチルダは知っていた訳で、失脚するという可能性も考えて最善を尽くしておくべきだったと後悔している。エルフの件を知っているマチルダから見れば、ニコラスの逮捕は商会に捜査に入る口実作りとしか思えなかった。
 自身は学業があり、親の仕事もあまり手伝えなかったのだが、何とか出来たのではないかという思いは消えない。今回のニコラスの逮捕で議会の無軌道ぶりを改めて思い知らされた。サウスゴータで個人商会を始めようかと思っていたが、こんな議会のもとではとてもではないが商売などやっていけるものではない。マチルダの事業は開始前から暗礁に乗り上げた。




「さ、それで問題は従業員達の今後です」
「従業員達にも生活がありますからな。いきなり工場を閉鎖すると言われても困るでしょう」

 マチルダが黙り込んだのを見てタニアが話題を戻した。今回集まったのはこっちが本題だ。

「転勤に応じてくれる人には家族の引っ越しなども含めてかかる費用を商会で負担します。応じられないという人には申し訳ないですが、退職金を渡して解雇という形になりますね」
「……不満は出るでしょうな。今まで上手く行っていた分、なおさらです」
「今回の移転決定の経緯については、全て詳しく文書に記して掲示します。全て書けば我々が何故この地で商売をやっていけなくなったのか理解して貰えるはずです」

 議会で決定される法律は全て公示されているが、一般市民は日頃法律などに興味はなく、意識しないで生活している。大抵の法律は一般市民の生活にそれほど直接関わってこないし、専門用語で書かれているので難解だからだ。
 今回の撤退発表も一般市民からしてみれば唐突なものと映るだろう。きちんと起こっている事態を理解してもらうために丁寧な説明は不可欠だ。

「まあ、工場の桟橋とロサイス港の使用禁止から始まって工場の操業禁止、そして強制接収の可能性まで順を追って説明すれば我々がもうこの地では活動できないということを理解しては貰えるでしょうな」
「ええ。それに加えて裏では議会に対する噂を流すわ。ニコラスさんは前太守に忠誠を誓っていたために罠にはめられた、とか竜騎士隊が反抗的だから見せしめにされた、とかサウスゴータ様の事件も実は議会の陰謀だったのではないか、とか有ること無い事ね」

 大体サウスゴータ家が王家に謀反を企むなんて事を信じる人はこの街にはほとんどいない。皆今回の事件には不自然なものを感じていたので、きっと噂には色々と尾ひれが付いて広まっていくことと思われる。

「まあ、ささやかな抵抗だけど、市民達が議会に対する疑念を強めてくれたらいいかと思っているわ」
「あの議会さえなければ、何時でも戻ってこれる訳ですからなあ。ウォルフ様の開拓団の移民募集も一緒に掲示しましょう。あの議会のもとで暮らすのは不幸です。いつでもこの街を捨てて新たな生活を築けるということを教えてあげませんと」

 マチルダがまた、辛そうな顔をしたが、今度はすぐに顔を上げた。 

「そうだね。あいつらが思い知るためには一度みんないなくなっちゃえば良いのかも知れない」
「とりあえずウチの工員には、全員移住して貰いたいと思っていることを伝えるつもりよ」

 この後タニアから撤退までの行程表が発表された。中々タイトな日程で、皆時間的な余裕があまり無いことを今更ながら思い知った。
 それぞれが自分の部署でするべき仕事が大量にあるので、今回の会議は早々に終了した。




 事件から十日程後に行われた裁判の結果、ニコラスは有罪となった。その日の朝方近くまで飲酒していたことが暴露され、酒が残っていて喧嘩をしたのだろうという結論だ。ちなみに、議会の調査の結果、サウスゴータ家の荷物を積み込んでいたとニコラス達が証言していた馬車はその存在そのものが否定された。ニコラスにとって不幸な事に、メイド達は屋敷の中を担当しており、その馬車を見ていなかった。
 騎士隊ともあろうものが職務中に酒に酔って喧嘩をし、あまつさえ魔法を使って他家の者に大怪我をさせるなど言語道断とのことで、ニコラスへの処分は竜騎士隊を解雇、爵位と屋敷は没収、シティオブサウスゴータへの立ち入り禁止という随分と厳しいものになった。
 ようやく釈放されたニコラスを、エルビラは文句を言うこともなく普段通りに出迎えた。屋敷を退去するために許された時間は一週間。夫妻は長年住み慣れた屋敷から退去するために荷造りを始めた。



[33077] 3-15    温泉にいこう
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/12/15 23:42
 時は少し遡ってマチルダが近衛騎士団と一悶着を起こしたその日、アルビオンを脱出したウォルフとシャジャル達は北寄りの航路を取って東の山脈へと向かっていた。途中何度も確認したが追ってくるものはなく、行き先を知られる心配は無さそうだった。
 これまでの緊張からか、シャジャル達親娘は出発して暫く経つと舟を漕ぎ始め、もともと一人分だったのを二人で座れるように改造した窮屈な席で折り重なるようにして眠っていた。

「シャジャルさん、ティファニアさん、起きて下さい。そろそろ目的地に着きますよ」
「ふわ…? あわわ、済みません、あの、どれくらい眠ってました?」
「五時間くらいですね。随分と気持ちよさそうに寝てましたよ」
「そんなに……済みませんでした。ほら、テファ、起きて」
「うにゅうう……ふあ……おはよございます……」
「おはよう。ほら、前を見てごらん、あの山脈の端に小屋が建ってるんだ」
「……うわあーっ!」

 ティファニアは最初まだ寝ぼけていたが、ウォルフに言われて外の景色を見たとたん息を飲んだ。雪を被った雄大な山脈が眼前に迫り、荒々しい岩肌は天に突き刺さりそうだ。
 飛行機に乗った時はなるべく外から見えないように身を屈めていたし、飛び立ってすぐに雲の中に入ってしまったこともあって景色はあまり見ていなかった。生まれてから今までほとんどの時間を屋敷の中で過ごしてきたティファニアにとって、こんな景色は想像すらしたことのないものだ。

「すっごい、すっごい、すっごい! お母さん、あれ何?」
「あれが山よ。サウスゴータでも見たでしょ」
「ちょっとだけ見たけど、あんなにとがって無かったわ。どっちが本当の山なの?」
「どっちも山よ。山にも色々あるの」
「こっちは凄い森……あ、下のは川ね? なんだか絵とは違う……」

 山に仰天し、森に感嘆し、渓谷を流れる川に驚愕する。ティファニアの驚きは止まるところを知らないようだ。

「凄いね! お母さん、外の世界って凄いね!」
「……そうね」

 ずっと娘を閉じこめていたことを思ったのかシャジャルは言葉少なに答える。やがて飛行機は目的の小屋を視界に捉え、高度を下げた。



「本当にこんな所にお家があるんだ……結構大きいけど、何でこんなところに建てたの?」
「明日紹介するけど、ここよりもっと東にいるアルクィーク族との交易の拠点にしたり、地質調査をしたり。最近は測量の拠点として使っていたな」
「火竜が結構飛んでいますけど、何か精霊との契約でこの地を守っているのですか?」
「魔法具で防御しています。何度も追っ払ったから、もうここには近付こうともしませんよ」

 火竜の湯に建てた小屋に着き、荷物を降ろす。長ければ数ヶ月はここで暮らして貰う予定なので結構な荷物の量だ。トラベルポッドと呼んでいる機体の下部に取り付けた着脱式の荷物入れを半分近く占有していた。

「ふーん、ウォルフさんって色々やっているのですね」
「まあ、何でも屋って感じになっている。じゃあ、ちょっと建物開けてくる」
「あ、わたしも行きます!」

 鍵を開けに行くだけなのにティファニアも付いてきた。荷物を持って建物まで行き鍵を開けて中に荷物を運び入れる。こちらの建物は最初に建てたドームハウスとは別棟になる石造りの平屋で、眺めの良い大きな窓を持つリゾート感溢れる建物だ。
 ウォルフが持ってきた大量の荷物をティファニアが運び込んでいる間に、ウォルフは窓の全面を覆っていたチタニウム製の雨戸を外し、窓を開けて風を通す。この建物は魔法により窓を開けても硫化水素ガスは入ってこないようにしてあるので室内を通る風は爽やかな高原の風だ。

「わあー――」

 室内に入ってきたティファニアが歓声を上げる。西の森を見渡す床から天井まである大きな窓は額縁のようだ。その額縁越しに景色を見渡せる一番良い場所には座り心地の良いソファーが置いてある。思わずティファニアはそこに座って景色に見入った。
 呆けているティファニアを放っておいて、ウォルフは室内掃除用小型ガーゴイルのスイッチを入れる。空中を浮遊して窓などを拭きつつハタキがけをするメイドロボⅠとチリやホコリを集めて拭き掃除するメイドロボⅡの二種類だ。どちらもアルミ削りだしのアームを持つメカメカしい造りで女の子の格好はしていないし、メイド服も着ていない。そもそも人間の姿すらしていないのだが、クリフォードにはその点でダメ出しを食らった。正直そこまで気を配ってガーゴイルの製作をしていられない。

 ガーゴイルが動き出したことを確認してウォルフは水回りなどの確認に向かう。ここは水源がないので水にはいつも苦労する。源泉はいくらでもあるので温泉水なら豊富なのだが。雨水を集めてトイレなどに使う中水槽に水が溜まっていることを確認して、上水槽には魔法で水を溜める。地熱利用の床暖房のバルブを開けて暖房を開始し、最後に源泉地帯に行って温泉の浴槽を洗って湯を張れば、宿泊準備完了だ。
 浴槽に湯が溜まるのを待つだけとなって宿泊棟に戻ると、まだシャジャル達は荷物の整理をしていた。

「あ、ウォルフさん、寝室が二つあるのですが、私たちはどちらを使えばいいでしょうか?」
「どちらでも……オレはどちらでも構いませんから、二人別々に寝たければツインの方を、一緒が良いならダブルの部屋にすれば良いでしょう」

 シャジャルに聞かれたティファニアがダブルを選んで、今日はウォルフはツインの部屋に寝ることになった。この宿泊棟は将来のリゾートホテル経営のためにモデルルームとして造ってみたのだが、中々良い雰囲気に仕上がっている。
 高い天井に真っ白な漆喰で固められた壁と落ち着いた色合いのウッドフローリング。ベランダはウッドデッキになっていて室内からそのまま出られ、天気の良い日はここで食事をするのも楽しい。テーブルや家具は趣味の良いデザインで統一され、スプリングの効いた大きなベッドと厳選された寝具が快適な眠りを約束する。
 小屋と聞いていたのでもっと粗末なものを想像していたシャジャルは恐縮しているほどで、ティファニアは好奇心をあらわにしてあちこち見て回っている。荷物をあらかた片付けた二人にウォルフは建物の使い方を一つずつ教え、最後に少し離れた場所にある温泉へと案内した。

「わああ……でっかいお風呂。あっちの建物は何ですか?」
「ああ、あっちは女湯として建てたものなんだ。露天風呂に入れないとか我が儘言う奴がいてね」
「ええー、ここで泳いだら気持ちよさそうなのに」
「えーと、今夜はオレが居るから、こっちは男湯って事で、明日以降なら好きなところに入って良いから」
「このお風呂に入りながら景色を見たいなあ……」

 どうやらティファニアはこの露天風呂が大分気に入ったようで、今すぐにでも入りたげにしている。シャジャルはそんな娘の様子を目を細めて見ていた。



 夜になり、アルビオンから持ってきた食材を調理して夕食を作る。シャジャルもティファニアもそこそこ料理が出来たので安心した。貴族の妾という立場の人だと料理をしたこともないということも結構多く、心配していたが杞憂だったようだ。
 夕食後、ウォルフはシャジャルに今後、どのようにして生きていくつもりなのか、突っ込んだところを聞いてみた。マチルダがそばにいると中々聞きにくいことだ。

「その……今のところは、何も考えられません。大公様を愛し、その愛の結晶であるティファニアを育てることが私の喜びでしたので…」

 そうなんじゃないかなとは思っていたが、案の定何も考えていない事が判明した。モード大公もシャジャル達の存在がばれると言うことを考えもしていなかったみたいだし、似た者カップルなのかも知れない。
 特技も何もないそうだし、金が稼げそうな特技は精霊魔法だけ、それもハルケギニアでは使えないものだ。

「今はテファと二人、何とか生きていければいいのですが、今後、どうしたらいいかとなると……」
「その、エルフの部族に帰るって事は絶対に出来ないのですか?」
「……無理です。私たちの部族にとって人間と関わる事が既に禁忌なのです。禁忌を犯した私は、おそらく、見つかった瞬間に殺されてしまうでしょう」
「……お母さん」

 不安げにすがりつくティファニアをシャジャルは愛おしそうに抱きしめた。その顔は穏やかで、優しい母の顔だ。

「サハラがダメとなると、もっと東方に行くか、さもなくばやっぱりハルケギニアで暮らすって事になりますね」
「そうですね。大公様が生きているのなら、ハルケギニアからはなるべく離れたく有りません。……魔法で耳さえ隠せば気付かれにくいとは思います。どこか、メイジの少ない村で親子二人ひっそりと暮らせれば良いのですけれど」

 ポロリとシャジャルの頬を涙が伝う。これまで彼女の世界のほとんど全てだった男、モード大公との別離が現実のものとなって認識できてしまった。
 ポロポロとまた真珠のような涙を零すシャジャルをこんどはティファニアが抱きしめている。
 ウォルフはこうしたしんみりとした雰囲気が苦手だ。泣いてる暇があったら笑えばいいのに、などと思いながらシャジャルが落ち着くのを待った。

「す、済みません、色々と尽力頂いてるのに、こんな……」
「お気になさらず。じゃあ、話を続けます」

 親子二人きりでここでずっと暮らしていくのが安全なのだろうが、その孤独にはきっとこの二人は耐えられないだろう。実際には人のいる地で暮らさざるを得ないのだろうが、その場所も、収入を得る手段も、何もシャジャルは考えていない。
 マチルダには二人の暮らしくらい援助することは難しくないだろうが、メイジの少ない田舎という条件で、親子二人が仕事もせずに暮らしているのは目立ちすぎる。
 二人の言葉遣いや所作、容姿や物腰などはとうてい農民には見えないものだ。普通の農村に移り住んでもすぐに噂になることは間違いない。

「とりあえず、オレがやっている開拓地なら、今移民ばっかりだから移住しても目立たないで済みます。シャジャルさんの職業を含めてマチ姉とも相談しながら、こちらで決めようかと思いますが、それでよろしいですか?」
「お任せいたします。マチルダさんにも、ウォルフさんにもご迷惑ばかりおかけして、本当に申し訳ありません」
「マチ姉はともかく、オレは下心がありますから、気にしないで良いですよ。ところで、シャジャルさん。モード大公が釈放されるまで、ここでアルバイトしませんか?」
「ア、アルバイト、ですか?」

 下心があると言われて驚き、アルバイトなどと言われて何のことか分からず、パチクリと瞬きをしてウォルフの顔を見詰めた。

「はい、短期の非正規労働ですね。ここでぼーっとしてても暇でしょうし、働いていれば気も紛れるかなって思うのですが」
「それは、構いませんが、ここでどんな仕事があるのでしょうか?」
「よくぞ聞いてくれました」

 別室に隠れたウォルフが紙の束を抱えて戻ってきた。それをテーブルの上に拡げ、シャジャル達に見せた。

「これは…地図ですね、この渓谷のものでしょうか。こっちの設計図は何になりますか?」
「ここの上流、二十リーグ程行ったところの地図になります。ここにダムを建設し、水路を介して南の草原を灌漑するという計画があるのですよ。とりあえず測量は済ませてあるのですが、この水路の基礎工事をしていただけませんか?」

 言われて改めて詳しく地図を見てみる。ダムの高さは百メイルを超えるし水路の長さが五十リーグにも及ぶ大工事だ。素人の自分に何かできるとは思えないが、何もすることがないというのも事実だ。
 詳しく話を聞くと、最初は岩場に溝を掘るだけで良いと言う。温泉地より南の斜面に印が付けてあるので、そこに水がゆっくりと流れるような傾斜をつけて水路を掘って欲しいと言う。岩場なので重機でどうこうするより魔法で加工してしまった方が早いかも知れないのだという。
 それを聞いてシャジャルも安心した。精霊魔法にとって土木工事は得意分野だ。エルフの町には高層建築が立ち並んでいる程で、その土地の精霊と契約しながら水路を掘り進むくらいならシャジャルにも出来そうに思えた。

「それくらいなら私一人でも出来そうですね。是非、やらせて下さい」
「ああ、良かった。一人と言わず、ティファニアさんとお二人でお願いしたいです」
「ええ? わ、わたし、魔法使えませんよ?」

 急に話を振られてティファニアは驚いているが、シャジャルはティファニアを見詰め、何か考えている風だ。

「そうですね、ここはもうハルケギニアではないのですから…テファ、杖を」
「杖? はい」

 差し出された母の手にティファニアは何の疑問も持たず自分の杖を渡した。

「《炎よ、燃えさかる炎よ。宿りて杖を、燃やし尽くせ》」
「えっ、わっ……」

 左手に杖を持ったシャジャルが詠唱を唱えて軽く右手を振ると、たちまちの内にティファニアの杖は炎に包まれた。
 シャジャルが手を離してもテーブルの上で宙に浮いて燃えていたが、やがて燃え尽きてウォルフがさりげなく用意した皿の上に灰となって落ちた。

「あ、あう……そりゃ、わたしは、魔法の才能がないけれど……」

 魔法が使えないなりに長年愛用してきた自分の分身とも言える杖を燃やされ、ティファニアは涙目だ。一応、『念力』とかなら成功することもあったというのに。

「あー、ティファニアさん、落ち込むことは無いと思うよ? 精霊魔法を習得するのに系統魔法の杖は邪魔らしいんだ。杖を燃やしたのは精霊魔法を習得するためだよ」
「えっ、本当? わたし、出来損ないなのに、精霊魔法使えるの?」
「あなたが出来損ないなんて、誰が言ったの? ハルケギニアで精霊魔法が使えても意味はないので教えなかっただけよ。本当は系統魔法を使えるようになって欲しかったんだけど……」
「本当? お母さん、本当にわたし、魔法が使えるの?」
「ええ。精霊魔法は精霊の存在を感じ、精霊と契約し、大いなる意志の下で行使する魔法です。その理とは別の理で行使される系統魔法は精霊の存在を感じる妨げになるようです。精霊に祝福されて生まれてきたあなたです。杖を無くせば精霊の存在を感じられるようになるでしょう」

 ティファニアは呆然としている。系統魔法も精霊魔法も才能がないと思っていたのに、精霊魔法は普通に使えると言われてもピンと来ないのだからしょうがないだろう。
 シャジャルはエルフの姿をしているティファニアが系統魔法を使えるようになることで、エルフと人間との融和を進めたいと思っていたそうだ。エルフが人間の中で普通に暮らし、人間が普通にサハラを訪れる、そんな未来を夢見ていたとのことだ。

「ところで、ウォルフさんは精霊魔法にもお詳しいのですね。テファに魔法が使えるようになると仰っていたのは精霊魔法の事ですか?」
「ティファニアさんは系統魔法も使えるようになると思いますよ。精霊魔法はそんなに詳しくはないですけど、最近知り合いのメイジが杖を燃やしてアルクィークの村で精霊魔法を覚えたんです。だからです」
「まああ……メイジの方でも精霊魔法を使おうとする方がいるのですね。それにテファがブリミル様と同じ系統魔法を使えるようになるなんて、素敵」

 ただの系統魔法じゃなくてブリミルと全く同じ虚無魔法なんですけどね、と言いかけたが、やめた。どうもシャジャルはブリミルのことをアイドルかなにかのように思っているようで、面倒くさいことになりそうだったからだ。いまもどこかウットリした目でティファニアを見ているし。

 とにかくまずは精霊魔法ということで、水路の工事をしながらティファニアは魔法を覚えるということになり、二人のアルバイトが決まった。



 深夜、ウォルフは寝る前に露天風呂へ向かった。夕方にも一度入っているが、満天の星空の下入るのは格別だ。一人静かに湯を楽しもうと思っていたのだが、外に出たとたんティファニアが追ってきた。

「ウォルフさん、どこ行くの?」
「ん、寝る前にひとっ風呂。寒いから中入ってな」
「……わたしも行く。ちょっと待ってて」 

 ティファニアはいったん建物に戻るとすぐに風呂の支度をして外に出てきた。聞くとウォルフと話をしたいと思って部屋に来ようとしたところだと言う。
 住むところを追われ、こんな地の果てまで逃げてきたのだ、色々と不安に思うこともあろう。ぽつぽつとアルビオンでの思い出などを話すティファニアに相槌を打ちながら温泉までの道を歩いた。

「じゃあ、オレこっちだから」

 露天風呂との分かれ道まで来たのでティファニアに断るが、何故か一緒に付いてくる。女子浴室はもう少し上の方に歩いたところにあるのだが。

「あの、わたしもこっちに入ってみたいんだけど、ダメ? まだお話ししたいし」
「……オレ、男なんだけど、気にしないの?」
「? お父様とも一緒に入っていたもの、気にならないわ」

 ティファニアは十一歳にしてはもう出るところが随分と出ている。とりあえずモード大公がアメリカだったら逮捕されるような父親だと言うことはわかった。
 ウォルフも最近思春期に入ってきて色々と微妙なのだが、温泉好きの一人としてこの素晴らしい露天風呂に入りたいという希望を断ることが出来ない。

「今日くらいかまわないか。おいで、一緒に入ろう」
「はいっ!」

 一応気を使って脱衣所ではティファニアに背を向けてさっさと服を脱ぎ、先に脱衣所を出てきた。
 月明かりが照らす中、湯面からはうっすらと湯気が上がり、幻想的な雰囲気を醸している。ウォルフはワクワクする気分のまま浴槽に近付くと、湯加減を見てかけ湯をし、ゆっくりと浴槽に入る。体を沈めながら「あ゛ー」と声が出るのは仕様だ。

「熱くない?」

 背後から声がしたので振り向くと、ティファニアが足の先でチョンチョンと湯に触れて湯加減を見ているところだった。
 当然ながら全裸で、斜め後ろから月の光を受けて白く輝くその姿はファンタジーとしか言いようがない程美しい。

「綺麗だな」

 思ったままに呟いて、その裸身を眺めた。全身はまだ子供らしく細いのに胸部の膨らみはもう女性としての存在を主張し、アンバランスでいながらどこかバランスの取れているその裸身は、幼いながら神々しいまでの美貌と相まって現実の存在では無いかのように思える。

「綺麗?」

 湯の中から自分を見詰めるウォルフと目があったティファニアは後ろを振り返る。そこには山裾から上がってきた双つの半月が大地を照らしていた。

「本当、綺麗!」 
「うん、綺麗だね」

 温泉の周りは溶けているが、山にはまだまだ雪が残っている。その雪が月の光を反射して暗い夜空に輝く様は壮絶な美しさで、ティファニアは初めて見た光景にまた息を飲んだ。ウォルフの台詞が棒読みだがそれを気にする様子はない。

 その後、あらためて湯に入ろうとしたティファニアが、かけ湯をしないでそのまま入ろうとしてウォルフに怒られたり、何気なく歌った歌が虚無の歌でウォルフに詰め寄られたりしたが、概ねのんびりと二人で温泉を楽しんだ。
 色々と話もしたが、一番盛り上がったのはマチルダの話だ。ティファニアの前ではレディとして振る舞っていたらしい彼女が、サウスゴータではおてんば姫と呼ばれ、アルビオン中に轟く剣鬼という二つ名まで持つという話は初耳とのことだった。



「あー、気持ちいいなあ。大分月が上がってきましたね」

 ティファニアは浴槽の縁に頭を乗せて大の字になった体を湯に浮かべ、星空を眺めている。おかげで色々とけしからんものがウォルフから丸見えになってしまっているが、気にする様子は無い。

「胸くらい隠しなさいよ、もういい年頃なんだから」
「あ、お母さんにお婿さんになる男性以外には見せちゃいけないって言われてたんだ、どうしよう」
「そうだよ、将来テファのお婿さんになる男にばれたら、決闘騒ぎになるかも知れないんだからな?」
「ええっ決闘する事になっちゃうの? じゃあ、一緒にお風呂入ったの、内緒ね?」
「うん、内緒にしておいてくれ、オレの社会的な立場の為にも」

 風呂に入っているだけだし問題はないと思うが、サラやマチルダあたりにばれたら色々と面倒なことになりそうだ。人はこうして秘密を抱え、大人になっていくものなのだろうか。

「ふふ、でも、こんな素敵な温泉に男の子と二人で入っているなんて、昨日までは考えもしなかったなあ……」
「あー、うん。アルビオンには温泉無いしね」
「わたしね? ずっと、ずっとお屋敷の外に出てみたいって思っていたの。お母さんにそれを言うと悲しそうな顔をするから、あんまり言えなかったんだけど」

 ティファニアは生まれてからずっと屋敷の中で育ったという。そう思うのは当然だろうと思う。

「だから、外の世界に連れ出してくれたマチルダ姉さんやウォルフさんには、とても感謝しているの……ありがとう」
「その内、何処にでも好きに行けるようになると思うよ。ハイランド、ラグドリアン湖、火竜山脈、綺麗なところはいくらでもあるし、ガリアやゲルマニアは勿論、トリステインなんかでも楽しい街はたくさんある……今は、我慢だな」
「楽しそう……山や川だって絵本とは全然違ったし、全部行ってみたいわ」
「山や川だってもっともっと色々あるよ。そこの川はずっと下った先で彷徨える湖って言う、時期によって大きさを変える湖に流れ込んでいるんだ。流れ込む辺りでは川幅ももっと広くなっていてね、ここらへんとはまるで違う川のようだよ」
「うう、行ってみたいなあ……」
「そこなら、明日アルクィーク族の村に行く前に寄る事も出来るな。行ってみる? 彷徨える湖の湖岸にはね、天然ガスが湧いていて泥の塔がいくつも……」

 どうも世界の話が好きなようなので、今まで行ったあちこちの話を詳しくしてあげるとティファニアは目を輝かせて聞き入り、更に世界周航の計画を話すと是非自分も連れて行って欲しいと頼んできた。ウォルフが話すこの世界の話はティファニアの冒険心に火を付けたようだ。

「クルーは何時でも募集しているさ。だけど、使えない人間は連れて行けないからな。明日から、魔法の練習頑張ってくれ」
「はい! お母さんに教えて貰って、絶対に使えるようになります!」

 勢いよくティファニアが答える。何にせよ目的が出来たのは良いことだ。アルビオンにいた頃はおどおどしていた目に力が入るようになった。
 テファ、と愛称で呼ぶ程には親しくなった少女の返事に、ウォルフは満足気に頷くのだった。



[33077] 3-16    大脱走
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/12/23 01:37

 火竜の湯に来た翌日、ウォルフは二人に飛行機の操縦を教えながらアルクィークの村まで連れて行った。暫くここで生活するので、お隣さんへのご挨拶だ。
 風石や布、コークスなど持ってきた荷物とアルクィークに頼んで採掘して貰っているこの地方でしか採れないレアメタルの鉱石や染料などとを交換し、また火竜の湯に戻る。
 ティファニアは人の多いこの村に住みたそうにしていたが、シャジャルはこの一族のことを知っていたらしく、この地にはアルクィークしか住めない事も理解していた。エルフの特徴を示すティファニア達の耳を見てもなんの反応も無いアルクィークを気に入り、同い年くらいの子供とも積極的に話をして友達になっていたティファニアは残念そうだった。しかし、一時滞在なら別として恒常的にここに住む訳にはいかないのだ。
 今度ウォルフがモーグラを一機持ってくるので、それが来たら泊まりに来ると友達になった子供達と約束していた。

 まもるくんの設定方法なども教え、対岸の森で山菜やキノコや果物の採れる場所、平原で容易に獲れるギニーの調理方法などこの地で生きていくため必要な事を教え終わったウォルフが開拓地に帰ったのはこの地に来てから二日後、開拓地を発ってからは四日目のことだった。

「あああ、ウォルフ様やっと帰ってきた! お願いですから、連絡は取れるようにしていて下さい」
「緊急事態だったからしょうがないんだ。いなくなったって言っても中二日だけなんだから一々わたわたしないでくれ」

 開拓地でウォルフを出迎えたのはマルセル。相変わらず頼りなげな様子にウォルフは苦言を呈した。遠話の魔法具を置いてきたのは万が一にもシャジャル達の行方を探査されることがないようにとの配慮だ。
 色々と報告を受け、とりあえず今出せる指示を出すととたんにマルセルが生き生きと動き出す。どうもこの男は誰かの下じゃないと輝けないみたいだ。

「グレース達はどこ行ったの? 見あたらないけど」
「えっと、ガンダーラ商会からサウスゴータの工場の一部を移転するとの連絡があり、工場用地を視察に来ている方を案内しています」
「お、オレも行こう。誰が来ているの?」
「トムさんと言う方です。機械加工工場の責任者とのことですが、まだお若い方です」
「ああ、そいつオレが育てた奴だから、若いのは仕方ないよ」

 ガンダーラ商会の事情には詳しくないマルセルが目を白黒させるが、気にせずウォルフは移動した。
 トムは川港からほど近い広大な空き地でグレース達開拓団の係官相手に色々と注文つけているところだった。

「あ、ウォルフ様帰ってきたんですね。あの川港の桟橋ですが一つはウチの専用のものにしてくれるように言ってくれませんか? どうもここの人達融通が利かないみたいで」
「ですから、何で専用桟橋が必要なのか、理由を説明して下さいと言っているでしょう」

 どうも揉めているみたいだった。どちらもウォルフが関わっているとは言え、開拓団と商会とでは全く別の組織だ。摩擦が起きるのはある意味当然と言えた。
 トムが求めているのは港湾設備の占有権だ。何も、ただ独り占めしたいという理由ではなく、ガンダーラ商会の荷役作業が他の商会とは違うためだ。いつも新たな港に進出する時には港湾施設を一部占有して使用している。
 ガンダーラ商会では一定以上の大きさの機械部品などの荷物はパレットと呼ぶ木製の荷役台に固定して流通させている。その他の木箱に入れて運ぶようなものも木箱を纏めてパレットに載せて輸送していて、そのパレットの移動に特化した形のゴーレムを使用して倉庫などもそれを前提にして作ってある。通常の荷物との共用は作業効率が落ちるので避けているのだ。

「パレットの説明なんて面倒くさいよ。ウォルフ様、いいでしょう?」

 どうもトムは考えていることを言語にして相手に伝える能力に欠けているらしい。ちょっと説明すれば誤解が解けるのに、おかげでグレースが苛ついてしまっている。

「トム、ここの港はパレットを利用することを前提にして設計している。専用桟橋は必要ないと思うが」
「え、あ、そうなんすか? あ、でもクレーンとか…」
「当然設置済みだ。お前誰がここを開拓していると思っているんだ?」
「あー、うー、済みません、あんまり考えていませんでした」

 クレーンもパレットもフォークリフトもコンテナも全てこの世界ではウォルフが開発したものだ。当然ここの港はそれらに対応している。専用桟橋を使うことが当たり前になっていて、何で専用桟橋が必要なのか気にしていなかった自分の考え無さに思い至り、謝罪した。

「まあいい。チェスターの工場の引っ越し先は決まったのか? ちょっとまだ決定内容知らないから教えてくれ」
「あ、はい。機械工場の内、設計開発と量産前試作や少数製作品の生産はこちらでやることになるそうです。あと、サラの化粧品工場も。まあ、これらは機密保持が重要ですからね」
「うん、まあ希望した通りだな。他には?」
「自動車は半分くらいのラインをツェルプストーに移転させて、樹脂製造プラントと活性炭の製造プラントはより大型のものをガリアのプローナに新設するそうです。織物や縫製など繊維関係は当面そのままで、アルビオンを第一候補にして移転先を探すとのことです。機械と自動車工場の残りも今のところ残すつもりみたいですね」

 まだ完全移転の話は出る前なので移転計画は緩やかだ。いきなり施設だけを移転してもすぐに生産などは出来ないので、移転先で工員を育成しつつチェスターの工場を縮小して行くつもりだった。

「まあ、想定の範囲内だな。どう? みんな移住してくれそう?」
「機械工は割と前向きですね。もともと機械がなければせっかく身につけた技術も意味無いですし、ウォルフ様みたいに自分で一から旋盤作れるとも思えませんし。工場が移転するなら一緒に移住するしかないですよ。ただ、サラの工場の方は中々難しいですね。元々勤め先はいくらでもある水メイジ達ですし、あの化粧品の製法を狙って方々から引き抜き話もあるそうですから」
「うーん、ウチにも水メイジは多少いるけど、まだまだ足りないよなあ。製法を改良してメイジの関わる行程を少なくしないと。それに残った人が引き抜かれるのは問題だよな」

 化粧品の製造は機密保持のため品目ごとに一つ一つの工程を細かく分け、それぞれ別人が担当するようにして、全体の工程を理解しているのはサラだけだ。隣が何をしているのか、お互い知らない状態で働いているし、付与する魔法もサラしか出来なかったりするので、何人かを引き抜いたとしてもいきなり化粧品をコピーするのは難しいようになっているという。
 
「はい。ですから、製法が流出しちゃうんじゃないかって商会長なんかはピリピリしています」
「まあ、コピーされたらされただな。サラがもっと良いのを作ればいいってことだ」
「……簡単に言いますね」

 ウォルフにはあまり興味のない話なのでさらっと流す。
 自分の所だけで科学技術を囲い込んで外に出さない、というつもりはウォルフにはない。特許制度がハルケギニア全土で施行されたらウォルフの持つ技術を公開しても良いのだが、特許制度の創設についてツェルプストー辺境伯とも話をしてはいても中々進んでいないのが現状だ。
 そもそも特許制度は科学技術の発展には不可欠な制度だ。研究者が一人で開発できる技術の量など通常は限られているが、先人が開発した技術を公開することで後進は更にその先へと進むことが出来る。
 人類全体の利益のために先人の利益を保証し、権利を守る事によって技術を公開しやすくする制度が必要なのだが、今のところガンダーラ商会の持つ技術が飛び抜けているために、権力者にとっては魅力的なものに思えないようだ。他人の技術など、盗み、奪う事が当たり前の世界では技術開発者の利益を守る必要なんて無かったのだから。
 ツェルプストー辺境伯などはウォルフが口を酸っぱくして説明したのでその必要性は理解してくれているようだが、ゲルマニア一国だけで特許制度を導入しても意味がない。当面は商会内部だけの機密とし、漏れた分はしょうがないと諦めるしかないようだ。
 
 トム達が帰った後、ウォルフはまた開拓地で溜まっている分を片付けてしまおうと、通常の仕事に戻った訳だが、暫くするとアルビオンから続々と悪いニュースが入ってきた。
 マチルダの卒業式やティファニア達と東へ行ったのがヘイムダルの週(ティールの月第二週)だったのだが、その週はまずサウスゴータ伯爵の逮捕があった。まあ、これは想定内だ。
 そして翌週エオローの週の始めにはサウスゴータ伯爵の追放決定に父ニコラスの逮捕と、更にはサウスゴータ議会の暴走とも言える工場の操業禁止通達という酷いニュースが続いた。
 ちょっと開拓地に居続けられる状況ではなく、ボルクリンゲンまで移動して情報収集と対応策を探っていたのだが、更に翌週ティワズの週にはニコラスの爵位剥奪と追放が決定され、ウォルフは平民になってしまった。
 アルビオン貴族の息子という肩書きが無くなり、ガンダーラ商会オーナー兼東方開拓団長の平民となったわけだが、それで何が変わるという訳ではない。タニアと連絡を密にし、今出来ることを一つずつこなしていくためボルクリンゲンで引き続き活動した。今回の対応についてツェルプストー辺境伯と相談してアルビオン側の空に艦隊を出して警備して貰ったり、簡易な艀を造ってアルビオンに送ったり、個人的にヴァリエール公爵からフネを借りたりとやる事は沢山あった。ティワズの週が終わり、フェオの月に入るとチェスターの工場の桟橋とロサイスの港が使用できなくなり、工場の機械を運び出すことは難しくなる。一隻でも多くのフネをアルビオンに送り、全ての機械と資材を運び出すつもりで、輸送船の手配に当たった。




 ゲルマニア西部、ライヌ川の河口の街・ドルトレヒトの港にガンダーラ商会のフネが三隻アルビオンから到着した。チェスター工場移転に伴う設備と人員を輸送してきた両用船であり、アルビオンから最も近いこの港で船を交換するのだ。
 このタイプのガンダーラ商会の両用船は風石エンジンによる推進器を搭載しているので航行速度が速く、FRP製のバラストタンクを採用している事により普通の両用船より積載量が多い。チェスターとゲルマニアとの往復にはこれを主に使用してとにかく荷物をアルビオンから運び出し、ゲルマニア国内の輸送は水上船でまかなう予定だ。

「ウォルフ様!」

 工員や商会の孤児院の子供達と一緒にフネから降りてきたサラは、岸壁に出迎えたウォルフの姿を見つけて駆け寄った。

「サラ、無事で良かった」

 飛びついてきたサラを抱き返し、そのダークブラウンの髪を撫でる。サラは暫く黙って撫でられていたが、やがて顔を上げて現状を報告した。

「私の化粧品工場は設備が小さめだから荷造りが早く終わったので、みんなより先に出発してきました。ニコラス様達はまだサウスゴータに残っています」
「うん。タニアに聞いた。とにかくみんなが無事ならそれが一番だよ。工場なんてまたやり直せばいいさ」
「ふふ、そうですね。これからは開拓地が私たちのお家になるんですよね」
「うん。向こうに家とかはもう用意させてある。おれも落ち着いたらすぐに向かうから」

 少し涙目のサラを元気づけるように笑い掛けると、ようやくサラの表情もほぐれる。唐突に故郷を追われることになり、精神的にショックを受けていたのだろう。サラの母アンネはまだサウスゴータに残っているので不安だということもあるようだ。
 最後に船から下りてきたのはウォルフの母・エルビラだ。息子の顔を見てどこかホッとした表情を見せたが、すぐにまた厳しい顔に戻って声を掛けてきた。

「ウォルフ、子供達は向かいの水上船に乗せればいいのですか?」
「ああ、母さん。そう、このフネはすぐにまたアルビオンへ向かうんだ。水上船も荷物を全部積んだらすぐに出港するから母さんはそっちに乗って」

 エルビラはタニアに頼まれてこのフネの護衛に就いていた。ウォルフが妹ペギー・スーの誕生祝いに贈った鎧を身につけて周囲に鋭い視線を送っている。
 この鎧はウォルフがチタニウムなどで作った趙子龍鎧と呼んでいるもので、鎧の内側に赤ん坊を格納することが出来、しかもその内側はアルクィーク族の袋を参考にして快適な状態が常に保たれる機能が付いている。はっきり言ってネタとして作ったのだが、まさか着用してもらえる日が来ようとは思っていなかった。もちろん、今もその鎧の内側ではペギー・スーがすやすやと寝息を立てている。
 ニコラス達も一緒にこのフネに乗る予定だったのだが、ロンディニウムの魔法学院を退学になったクリフォードが帰ってくるのを待つのと、タニアから陸送部隊の護衛を依頼されたためにサウスゴータに残っている。
 クリフォードは酷く落ち込んでいるとのことだ。新学期になったら使い魔を召喚する事を楽しみにしていたのに、まさかの退学だ、無理もない。とにかくニコラス達と合流してアルビオンを出るつもりで、その後のことはまだ何も決めていないと言う。

「タニアさんに頼まれているので開拓地までの護衛はしますが、送ったらわたしはこちらに戻ってこようと思っています。開拓地は安全なのですよね?」
「あ、うん。今のところアルビオン関係の間諜は入っていないと思う。モーグラでラウラに迎えに行かせるから、帰りはそんなに時間が掛からないで帰って来られるはず」
「ここに来るまでに二隻程空賊のフネを燃やしました。何者かがけしかけているようです。更に多くの船団も確認しましたし、以降のフネを安全に航行させるために対策をとる必要があるわ」
「うん、次の便は十隻以上の船団になるけど、オレが護衛に付く予定」
「そう……大丈夫なのですね?」
「最初はガリアやゲルマニアにそれぞれフネを降ろすつもりだったけど、怪しい動きがあるって事で一旦ゲルマニアに全て降ろすことにしたんだよ。纏まってた方が守りやすいし、多分大丈夫。近づかせるつもりもないよ」

 ニコラスの逮捕から十日以上経っているが、ウォルフはこれまで一度もアルビオンへは入らず、工場移転問題の対策に奔走してきた。ようやく段取りは全て終わり、あとは計画通り工場を空にしてそれを安全に空から降ろすだけだ。
 ツェルプストー辺境伯の艦隊が警備していたにもかかわらずアルビオンから離れる時に襲われたそうだが、最初の便にはエルビラを乗せていたおかげで事なきを得た。エルビラもさすがに鬱憤が溜まっているので、襲った相手は哀れな事になったそうだ。今回は随分と辺境伯に働いて貰っているが、貸しがあるので問題はないと思っている。ボルクリンゲンにチェスターで操業していた活性炭の製造プラントを降ろすことにした事だし、ツェルプストー辺境伯にとって今回の事件はメリットが多いはずだ。既に決定していた自動車工場の生産ライン半分ほどと併せてずいぶんとボルクリンゲンの工場が大きくなることになったが、その程度は仕方のないことだと言える。ちなみに、機械製品の工場と自動車工場のもう半分の生産ラインをどこに移設するかという問題については、まだ決まっていない。

 細々としたやりとりやゲルマニア政府との調整もあり、ここ一週間程ウォルフは寝る間無い程の忙しさで随分とストレスが溜まっている。エルビラに答える顔は随分と危ない笑顔になってしまった。

 サラやエルビラ達を見送った直後、タニアから船団の出港準備が調ったとの連絡が入った。

「じゃあ、行きますか」

 ウォルフは飛行機の装備を確認するとコックピットに乗り込み、故郷アルビオンへ向けて出撃した。



[33077] 3-17    空戦
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2012/12/27 20:26







 テューダー王家は大きな間違いを犯した。
 後の世でアルビオンの歴史を語る時、このときの王家の判断はそう評されている。

 虚々実々入り乱れた情報戦の果てに王家はエルフがまだアルビオンにいるものと判断した。サウスゴータ元伯爵とモード元大公の身柄について取引を行った後も継続した捜査の結果、エルフがアルビオンを出て行ったというのは太守側のブラフであり、チェスターにあるガンダーラ商会の工場に潜伏している可能性が高いとされた。サウスゴータの娘マチルダが一度シティ・オブ・サウスゴータを離れて以降、件の工場は目に見えて警備を強化しており、彼女が屋敷を王家に引き渡した後ずっと工場に住み込んでいる事がその根拠だ。決定的な証拠を得るために何度も工場に密偵を送り込んだのに、それらの企みが全て失敗に終わった事も王家の疑念を深めた。

 工場やガンダーラ商会そのものからは何も情報を得られなかったものの、サウスゴータに放った密偵からは商会について信じがたい情報を得る事になった。曰く、ガンダーラ商会はエルフから技術・資金面において援助を受けており、モード大公がエルフを妾にする事になったのも策略からだという。秘術にて心を操作して罪人であるエルフの女を工作員に仕立て、モード大公を傀儡として王位に就ける予定だったという。事が露見して工作に失敗したエルフ達は、その存在を明らかにしてアルビオンを混乱の渦中に突き落とそうとしており、その混乱に乗じてエルフが唯一恐れている始祖の血脈の根絶を図っているそうだ。

 既にゲルマニア政府とエルフとは協力関係を持つ事で合意しているとの情報まで得られた。その合意内容はテューダー王家を滅ぼし、ゲルマニアがアルビオンを手に入れるというもの。
 アルビオンを脱出したエルフはゲルマニアに降り、そこで逮捕され教会にてモード大公との事を全て告白。教会はテューダー王家に対し異端認定を発し、ゲルマニア軍とアルビオン貴族派諸侯軍の連合軍とで王家に宣戦布告する。王軍を打ち破り、アルビオンは貴族達にある程度の自治を認めつつゲルマニアが統治。全て終わった後に捨て駒である愛妾のエルフとその娘とを処刑してエルフ達はサハラに戻る。
 そんなストーリーが彼らの間では既に決められているというのだ。

 さすがにこの情報については王家内でも真偽を疑われはしたが、万が一の事を考えて王家は焦燥感を募らせた。そんな中、いよいよ件のエルフがフネでアルビオンを脱出すると言う情報も入ってきて、王家は決断を迫られた。モード元大公は妾にしていたエルフに心を惑わされている。そんな事態になったら余計な証言をされる前に彼を処刑しなくてはならないが、そのこと自体エルフの証言を認めるようなものになってしまう。

 切羽詰まった王家はそんな未来を防ぐため、王立空軍に命令を下した。考えていたものとはまるで違う未来が待っているとは思いもしないで。



 サウスゴータ近郊チェスターの村にあるガンダーラ商会の工場に併設された桟橋。そこから一斉に飛び立った二十隻程の船団はやがてアルビオンの縁を離れ、眼下に浮かぶ雲にその機影を映していた。

「商館長、今のところ怪しい船影はありませんが、もう少しで先発したフネが襲われたという空域に入ります」

 報告する船員にコクリと頷くのはサウスゴータ商館長だったカルロだ。元はロマリア出身のただの平民だった彼が今やこんな大船団を率いるようになったわけだが、案外堂に入っていた。タニアに託された遠話の魔法具を手に取り、ぼそぼそと何事か話している。
 隣に経つ船員にも聞こえない程の声だが、落ち着いた様子にはデッキにいる者達も安心感を感じ、ともすれば不安になる気持ちを落ち着かせてくれる。空賊に狙われていると聞いているために緊張はしているが、それほど苛つくことなく航行を続けているのは上に立つカルロが冷静だからだろう。

「右舷前方五リーグ、高度千二百メイル上空に船籍不明の船団が現れました。中小型の戦列艦です、所属を表す標識は表示しておりません」
「……進路は?」
「当方の進路上空に入るように前進中です。回避行動を取りますか?」
「高度を上げながら面舵」
「了解。風石を焚け! 面舵!」

 カルロはチラリと船長に目配せして確認を取った後、落ち着いて指示を出した。船団の内十六隻は最新の船外機を搭載し足の速い新型船になっているので、もし空賊に襲われてもその十六隻は逃げ切れる。しかしカルロが請け負ったのは足の遅い四隻も含んだ二十隻全部をゲルマニアに届けることだ。怪しいと思うものには近付かず、早めの対応を心がけている。

「やたらと立派な型のフネですが、どうやら空賊のようです。敵船団全十五隻、こちらへ転舵。散開して降下しつつ速度を上げています。問いかけには無言、距離、四・五リーグに近付きました」
「警告を。それ以上近付くようなら空賊と見なし、撃墜すると伝えよ」
「本気ですか? こちらにはろくな武装はありませんが…」

 敵は一隻に数十門も強力な大砲を積んだ戦列艦だというのに、こちらの船団の武装は規制以下の小型の砲を一隻に付き数門搭載しているだけだ。撃墜という表現に船員は違和感を覚え、聞き返した。

「……」

 しかし、カルロはコクリと頷くだけだ。仕方なく、伝声官はそのまま海賊船へと伝えたが、返答は大砲の音だった。

「大砲は当艦隊後方を通過した模様。まだ射程には距離がありますが空賊船さらに速度を上げました。後方四リーグ高度百メイル上」

 最近の空賊船は速度を重視して横方向の帆を増やしてグライダーのように航行するようになっている。上空から滑空して一気に速度を増し、そこから大量に風石を励起して高度を稼ぐということを繰り返して獲物に襲いかかる。
 まさにその状態になった空賊船を遠目に見てデッキがざわめき始める。足の遅いフネの船員を移して残りのフネで逃げればまだ余裕で逃げられる距離だ。船員達は商館長の判断を待った。
 いつの間にか敵のマストには空賊旗が上がっている。望遠鏡を使用していない船員達にもその姿が視認できるようになってきて、船内は焦りの色が濃くなってきた。

「なんだよあれ。あんな豪勢な空賊なんているはずないだろう」
「王立空軍か。アルビオンを出て行く俺達なら襲っても構わないって訳か」
「馬鹿な……王家が民間のフネを襲うっていうのか?」

 王立空軍はアルビオンの空の象徴だ。今までは自分たちを守ってくれていた存在が、突然牙を剥いた事実に動揺が走る。

「商館長、当方も滑空に入りますか? このままでは向こうの射程に入ってしまいます」

 船員が提案したが、カルロは静かに首を振って否定する。

「必要無い。風石を焚いて高度を稼げ」

 カルロは再び遠話の魔法具を手に取り、何事かを話しかけた。





 一方、ガンダーラ商会を追う艦隊では船員達が遠方で逃げるフネを眺め、ぼやいていた。

「全く、ろくな武装もしていない、ただの民間船ではないか。空賊の振りをしてあんなのを撃ち墜とせだ等と、誇りある王立空軍の仕事とは思えん」
「あれって、民間人も乗っているのですよね。気が重いです」
「というか、民間人しか乗っておらん民間のフネだ。提督も随分と抵抗したそうだが、王命との事で受け入れざるを得なかったようだ。何でも、チェスターから飛び立ったフネは全て撃墜したいらしい」

 もちろんこの艦隊はそもそも空賊船ではなかった。空賊などとは練度も装備も格段に違う王立空軍が空賊を装って襲撃を掛けているのだが、唯一士気という点では空賊に大分劣るようだ。

 ここのところ王立空軍と王家の間には微妙に距離が開いている。そもそもの始まりは王家が軍にはその詳細を知らせずに近衛や新たに設立したばかりの首都警察を使ってなにやら工作活動をしていた事だ。まずそのことが軍上層部の不信を呼んだ。何の断りもなく、空軍の拠点であるロサイスや駐屯地のあるサウスゴータをちょろちょろと動き回られるのは、はっきり言って不快だった。
 それに加えて今回も理由を開示せずにかなり無理な命令をしてきた。民間人の虐殺など進んでやりたい者などいない。近衛や首都警察の尻ぬぐいをさせられている感もあり、軍の王に対する忠誠心は揺らぎつつあった。

「全くガンダーラ商会は何をやったんだか。……しかし、艦長、油断無きように。マッキンリー提督の艦隊はたった三隻の船団を逃がしてしまったそうです。空賊に情報を流してけしかけて船団の足止めをさせた所を襲う予定だったそうですが、空賊などでは足止めできなかったらしいです」
「ああ、例の業火だろう。かのメイジがいたのはマッキンリー提督には不幸だったな。ただの空賊船など鎧袖一触だろう。空賊討伐を装って共に撃ち落とそうとしたのだろうが、あの提督はいつも賢く立ち回ろうとして失敗している気がするな」
「天災レベルの魔法が来るそうですね。我々はこちらの船団に当たって幸運だったといえるでしょう。こちらと同様に一隻も逃すなと厳命されていたとしたら、マッキンリー提督は降格されるのではないでしょうか」
「うむ、我々も気を引き締めねば。ガンダーラ商会には気の毒だが主命には従わねばならん。そろそろ射程に入るか? 射撃の腕の見せ所だな」

 受けた密命は民間人の抹殺。気乗りはしないが、きっと相手にもそんなことをされる理由があるのだろうと無理矢理納得して攻撃の準備に取りかかる。
 これから行われるのは戦闘ではなく、一方的な虐殺だ。大事なのはいかに一隻も残さずに撃墜するのか、その一点だけだった。

「艦長、前へ出ますか? このままの位置ではたいした戦果を上げられないでしょう」
「あんな民間船相手にがっつく必要はない。前のフネが随分とやる気になってるから任せておけばいいだろう」

 いつの間にかこのフネは艦隊の中でも後方に位置するようになっている。このままでは攻撃に後れを取ってしまうが、艦長としてはあまり気にしていない。艦長は今回の作戦内容が外部に漏れた場合、アルビオンという国家の信頼が低下してしまう事を理解し、懸念していた。ガンダーラ商会が何をやったのかは知らないが、王家と対立しただけで虐殺されてしまう国にフネを送る商人はいないだろう。 

「我々が気にするべきは、本隊から離れて逃げようとするフネを確実に撃墜する事だ。たとえもう墜落が確実と思えるような奴も見逃すな。全てのフネにしっかりととどめを刺すんだ」
「イエス・サー」



 いよいよ前方のフネが大砲の射程圏内にガンダーラ商会の船団を捉えるかというその時、飛行中の僚艦が爆発した。正確には甲板上の大砲が爆発しただけみたいだが、唐突な出来事に混乱しているのか急に舵を切って回避行動を取ろうとしたため僚艦とぶつかりそうになっている。

「な、何だ! 攻撃か! 各自警戒態勢を取れ」

 どこから攻撃されているのか分からないが、そうこうしている間にも次々に僚艦が燃え上がり、爆発している。艦隊から少し離れる方向に舵を切りながら、攻撃相手を探してみても見つからない。

「索敵班! 何をしている、報告を!」
「しゅ、周囲二リーグ以内には敵船の姿はありません! 前方のガンダーラ商会の船団が一番近いフネです」
「馬鹿な、これだけ離れていてこんな正確な狙撃が出来るか! メイジが艦隊に潜入しているのかも知れん、探せ!」
「ははっ、高出力で近距離魔力索敵を実施します」

 狙撃されている気配も無しに僚艦を破壊されたので、メイジによる工作を一番に疑った。メイジとはその身一つで高い火力を発揮する存在なので、潜入工作をされると非常にやっかいだ。これまでの戦でも幾度となく巨大な戦艦が決死の覚悟で潜入してきたメイジ一人に墜とされてきた。
 そんな疑心暗鬼にとらわれる中、このフネも謎の攻撃を受けた。バチッと音がしたかと思うと横帆を張っているマストが焼け落ち、次いで甲板に備え付けられていた大砲が爆発。やはり敵からの攻撃は認識できず、怪しい人影も何処にもなかった。

「くそっ、やられた。風石を焚け、高度を維持しろ! 副官、被害状況を報告せよ!」
「風石は無事ですが、両舷側のマストを失いまして、高速航行不能です。帆が、帆が燃えていますので航行そのものも不可能になりそうです。一体どこから攻撃されたのでしょうか!?」
「知るか! 索敵の結果は?」
「見つかりません! 登録していない魔力はありません。誰かが裏切ったのでしょうか? うわあっ!」
「くおっ!」
「左舷被弾! 艦首が大破しました! 僚艦の誤射と見られます」

 急に襲いかかってきた衝撃に船上にいたものは立っていられずに倒れた。どうやら艦隊はパニックに陥っているらしい。
 
「くそ、馬鹿どもめ、ええい、もういい! 竜騎士を出撃させろ、ガンダーラ商会のフネだけはなんとしても墜とすんだ!」
「は、竜騎士全騎出撃! 目標前方の民間船、絶対に逃すな!」

 相手の船団の数が多いので万が一にも目標を逃すことの無いように、この艦には四騎の竜騎士を乗せていた。他の四艦にも四騎ずついるので計二十騎がこの艦隊にはいることになる。
 ハルケギニア最強と言われるアルビオンの竜騎士隊だ。これだけいれば小国なら墜とせそうな程で、目の前の民間船相手には過剰な戦力と言えた。

 しかし、力強く羽ばたく竜騎士が遠くを逃げるフネに追いつき、墜としてくれるとの期待はすぐに絶たれることになった。

「馬鹿な…竜騎士だぞ、ハルケギニア最強の……」
「艦長…これは一体、何が起こっているのでしょうか……」

 艦の後部から飛び立った竜騎士は、艦隊の目の前で一騎、また一騎と撃墜されていき、ついには一騎もその姿を見ることが出来なくなった。
 とにかく何も出来ない、というのが墜とされるのを見ていた者達に共通する印象だ。バチッと音がしたかと思うと竜の首が弾け、次いで油に引火して爆発するという事を繰り返した。疑心暗鬼に囚われ、方々で同士討ちを始めていた艦隊もあまりに有り得ないその光景にやがて沈黙した。
 どこから攻撃されたのか、何をされたのか全く分からないままに、艦隊は航行能力と攻撃能力を完全に失った。

 次第に遠ざかるガンダーラ商会の船団を眺めながら、艦長サー・ヘンリ・ボーウッドは呆然と呟いた。

「分からん……君はさっき、我々は運が良かったと言っていたか?」
「いえ、失言でした。今日の我々の運勢は最悪だったみたいです」
「……」
「艦長?」
「いや、おそらく、我々は運が良かったんだと、私は思う」
「それは、何故でしょうか?」
「何故なら我々は生きているからだ。きっと彼らが我々を殺そうと思ったのならば、いとも簡単にそうできたのだろう。あの竜のようにな。彼らがそういう気にならなかったというのは、我々にとって幸運だったと言わざるを得ないだろう」

 竜騎士が撃墜される様子を見ていれば分かる。あれは潜入工作員の仕業などでは断じて無い。竜の鱗を一瞬で貫き吹き飛ばす威力、高速で飛行する竜に正確に当てる精度、どこから攻撃されているのかは結局分からなかったが、デッキ上にいる自分たちが攻撃されなかったのはたまたまだったのだろうと思える。
 この日の戦闘の詳細は各艦の艦長達から報告書が提出されたが、どの報告も結論部分は同じだった。
 すなわち、「ガンダーラ商会には虚無がいる。手出しするべからず」と、どの報告書も結論づけていた。




 勿論空賊に扮した王国空軍を殲滅したのは虚無の魔法なんかではなく、ウォルフが開発したレーザー兵器だ。遙か上空から放たれた高出力中赤外線パルスレーザーはマストに使われる木材を瞬時に蒸発・切断し、大砲の火薬を爆発させ、竜の首を吹き飛ばした。赤外線なので目には全く見えずに破壊する攻撃は、魔法のようにしか見えなかったことだろう。 

「竜騎士まで出てくるとは思わなかったな。やっぱりあいつ等は王立空軍って事か。ふざけやがって」

 艦隊の上空三千メイルでウォルフは一人呟くと、艦隊の航行能力を全て奪ったことを確認して機体の下部に出していたレーザー兵器を格納した。レーザー兵器は直径六十サント長さ一メイル程の大きさの筒型で、フォーク型の架台や射撃管制装置を入れると結構嵩張るのだが、荷室を削ってまで搭載しておいて良かった。
 当初、この兵器を開拓地の外で使うことにはウォルフにも葛藤があった。あまりにも強力な兵器は軋轢を生じさせるからだ。しかし、王という立場にある者が宣戦布告もせず、覆面をかぶって民間のフネに襲いかかるという光景はウォルフに全ての躊躇を捨てさせるのに十分だった。この卑劣きわまりない艦隊を安全に無力化できるのなら、この兵器の使用を躊躇う必要はないと判断したのだ。
 しかしそれにしても。この兵器を初めて実戦投入したがウォルフも驚く程の戦果だ。この調子では全艦撃ち落とす事も可能と思え、ちょっと一隻くらい撃ち落としてみたい誘惑に駆られてしまった。
 これならば将来の世界周航で出かけた先でエルフと敵対したとしても、そこそこ何とかなりそうだという手応えを感じる事が出来た。シャジャルの話では、エルフはやはり人間に対し友好的では無いそうなのでウォルフも慎重に対策を検討している。雨や砂嵐だと吸収・散乱して射程がずっと短くなるので、レーザーが万能の兵器と言う訳にはいかない。カウンターという全ての攻撃を跳ね返す強力な魔法を使う者までいるとの事なので簡単に安心する訳にはいかない。他の防衛手段の開発を続けながら、精霊魔法の解明にも力を入れている。しかし、この戦果を見るとやはりレーザー兵器は攻撃力の主力の一つとして計算しても良さそうだった。

 それにしても、マチルダからは王家とはお互い納得して取引したと報告されていたが、王家は全く納得していなかったようだ。ハルケギニアから脱出したとの言い分を信じることが出来ず、まだガンダーラ商会が匿っている可能性を無視できなかったのだろう。アルビオンを去る者ならば、もしエルフがいなかったとしても構わないという計算があったのかも知れない。
 空賊に化ければ万が一表沙汰になったとしても、非難できないと思って安易に襲撃を仕掛けてきたのだろうが無駄な事だ。こんな襲撃でテューダー王家が得た物は、ウォルフ始めガンダーラ商会の敵愾心だけだ。

 ただ、今後もシャジャル達の安全には注意する必要がありそうだと、ウォルフは少し憂鬱な気分になってはいた。
 溜息を一つ付いて機首を返し、船団の後を追う。もうすぐツェルプストーが出張っている空域まで到達する見込みだ。



 自分たちを襲撃した艦隊が戦闘不能になり竜騎士が次々に墜とされる様を、ガンダーラ商会の船員達も呆然として見ていた。

「あれは、何なんでしょう、神のいかづちでしょうか?」

 そう訪ねる船員にカルロはゆっくりと艦隊の上空を指さして見せた。太陽を背にしているので敵の艦隊からは見えないようだが、こちらの船団からは遠目にその姿が見えた。一目見ただけでわかる、銀色をしたウォルフの飛行機だ。

「あんな所からウォルフ様は攻撃しているのですか? そんな魔法ってあるのでしょうか?」
「……魔法のことは分からない。しかし、ウォルフ様はそうすると言った。だから、そうなったのだ」

 カルロ達ガンダーラ商会に長く勤める平民達のウォルフに対する信頼は絶大なものとなっている。ウォルフが指示したことには疑問を挟まずにその通りに動く。ウォルフはそれを思考放棄だとあまりいい顔をしないが、考えても分からないのだから仕方がない。

「……ウォルフ様なら、ハルケギニアを統一とか、出来ちゃうんじゃないですかね」
「興味が無さそうな事だ。かかる火の粉は振り払えど、自分から戦いを求める事は無いだろう」
「まあ、そうですね。確かにハルケギニアの王様になってふんぞり返っているウォルフ様は想像できませんが」

 あれだけ大規模な空賊などいない。ましてや竜騎士を十騎以上運用するなど諸侯軍にもそんな規模の艦隊は無いだろう。ということはあの艦隊はハルケギニア最強のアルビオン王国空軍だということになる。
 それをたった一機で葬り去ったウォルフに、味方ながら戦慄する。この船員は昔、ウォルフが虚無なのではないか、と噂になっていた事を思い出した。

「ウォルフ様が虚無だからこんなに目の敵にされるのですか? 王様が権力を奪われそうなのを心配して」
「……」

 的外れな予想にカルロは苦笑しながら首を振る。今回の件はウォルフは関係なく、サウスゴータ側のトラブルだと聞いている。何故王家がここまで執拗に追跡してくるのかは分からないが、ウォルフに手を出した事を今は後悔しているだろう。

「虚無だった方が商会としては嬉しいのだが、残念ながら違うそうだ。ウォルフ様は火の系統のメイジだ。メイジの間では常識らしいのだが、虚無と他の系統のメイジとで系統を兼ねるという事は無いそうだぞ」
「はあ、そうなんですか。ウォルフ様は風だろうが水だろうが普通に使っているので、虚無くらい使えちゃうのかと思っていましたよ」

 平民には魔法などあまり関係のない話なので中にはこんな風にトンチンカンな事を言うものもいる。カルロがまた苦笑しながら上空を見上げると、ちょうどウォルフの飛行機が船団を追い越すところだった。
 船員達が歓声を上げる中、ウォルフは船団の周りを大きく周回してからまた高度を上げ、警戒する態勢へと戻っていった。ウォルフがいるのなら、大丈夫。船員達は先ほどとはまた違う安心感の中で航行を続ける事が出来た。



[33077] 3-18    最後の荷物
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/01/13 01:44
 その日、サウスゴータ市議会議員コクウォルズ男爵、もといコクウォルズ子爵はアルビオン王国の首都ロンディニウムに来ていた。国内各地の貴族達の別邸が並ぶ一角、その中でも一際立派なモンローズ公爵の屋敷に呼び出され、恐縮した面持ちで公爵の前に立っていた。

「コクウォルズ君、今回の件で君は子爵になった訳だが、君たち南部の貴族が得たものに対して我々が得たものは少ないような気がするのだが、君はどう思っているのかね?」
「申し訳ありません。結局エルフの身柄を確保できなかったのが痛手でした。王家に決定的なダメージを与えられず、モード大公と太守を失脚させただけではたいした利益を得られませんでした」

 肥満した体を億劫そうに動かすとモンローズ公爵は葉巻に火を付け、紫煙をコクウォルズ子爵に吹きかけた。アルビオンの貴族連合レコン・キスタの重鎮である彼が聞きたいのはそんな言葉ではなかった。

「ふん、君たちはサウスゴータ地方を実効支配する事に成功したがな。まだ文句はあるぞ、ガンダーラ商会を追いだしたのはどういう訳だね、彼らの持つ技術は有用だと言っておいただろう」
「ガンダーラ商会の工場を丸々手に入れようとしたのですが、法律の隙間を突かれ、逃げ出されました。工場の設備の内、いくらかはまだ手に入れる算段をつけているところですが」
「やれやれ、出来れば全て手に入れたかったんだがね。かのお方もガンダーラ商会の技術を手に入れる事には期待しているんだ。これ以上落胆させないでくれよ」
「はっ」

 コクウォルズ子爵は平身低頭と言った様子で頭を下げる。

「まあ、結果的には王家に適当な情報を流してアルビオンを出て行くガンダーラ商会の船隊を襲わせたのは良い判断だった。結構な損害が王立空軍にあったそうではあるし」
「はっ。まさか王立空軍をはねのけてしまうとは思っておりませんでしたが。あちらには『業火』が護衛に付いたと聞いて様子を見ましたが、良い判断でした」
「そこでだ。戦力がダウンした今こそがねらい目だ。今こそ王家の威信を更に下げ、貴族達の心を王家から引き離すべき時だ。モード大公の所領や財産はほとんど王家の物となったので、王家そのものの財力は強化されていると言えるだろう。時を置けば被害を受けた空軍も回復してしまう。そうなる前に、何かいい手はないものかね?」
「……今からでもこちらでエルフの身柄を抑える事が出来れば、王家との勝負は決するとは思うのですが」
「出来るのかね?」
「我々はまだサウスゴータの娘・マチルダと行動を共にしていると睨んでいます。あの小娘がサウスゴータから逐電する時なら一緒に確保できるはずです。エルフを確保さえ出来れば王家など終わったも同然。教会に持ち込んで異端認定を受けさせ、モード大公の罪とそれを隠蔽しようとした王家の罪を公にすればそれまでです」
「ふむ。分かっているだろうとは思うが、ここが正念場なのだ。なんとしてもこの好機を逃す訳にはいかないのだよ。頑張ってくれたまえ」
「かしこまりました。詳しい作戦になるのですが――」

 ガンダーラ商会やマチルダ、更にはエルフの戦闘力を考えると南部の貴族だけでは出来ない事もある。いくつか、作戦について公爵と相談して子爵は下がった。公爵の様子を見る限り、なんとか満足させる事は出来たようだった。



 コクウォルズ子爵は自分の馬車に戻り、馬車をサウスゴータへと急がせる。馬車には息子のギルバートが乗っていたが、その存在を気にする事はなく、その口からは罵倒の言葉が次々に吐き出された。

「糞がっ! 何が、我々が得たものが少ないような気がするのだが、だ。元々何もしてないのだから得る物だって少なくて当たり前だろうがっ!」
「父上、まだ外の路上には人もおります。あまり大声を出されませぬよう」
「いいか、ギルバート、やはりモンローズ公爵はだめだ。自分の利益にしか頭にない二流の貴族だ。やはりお前の嫁にはノルマンベイ侯爵の息女が良いな。先週のお礼はちゃんと出したか?」
「はい。パーティーから帰ってその日の内には」
「うむ、それでよい。やはり貴族たる者交わるのは一流の人物でなくてはならん」

 父上のお知り合いは二流の人物が多いようですね、と言いたくなるが、ギルバートは黙っていた。そんな事を言ってもこの父親は癇癪を起こすだけだという事はこれまでの経験で嫌という程分かっている。

「しかし、どうだ? お前は結構ガンダーラ商会に入れ込んでいたようだが、政治というものの力をまざまざと見せつけられただろう」
「……はい。まさか、あのガンダーラ商会が、サウスゴータから出て行かなくてはならなくなるなど、想像も出来ませんでした」
「ふふふ、社会の和を乱し、私利私欲に走った者の末路など似たような物だ。平民に媚びたところで意味はない。貴族への配慮を忘れてはならん」

 サウスゴータで民衆の敬意と親愛の情を集めていたガンダーラ商会が、議会の活動により撤退を余儀なくされたのにはギルバートも驚いた。サウスゴータ太守の不祥事もあったが、ガンダーラ商会がここまで何も出来ずに排除されるとは思っていなかった。
 父親であるコクウォルズ子爵はこれで以前の正しいサウスゴータへ戻ると言っているが、本当なのだろうかとギルバートは思う。彼はガンダーラ商会が出来る前の閉塞した町の雰囲気を覚えている。あれが正しい町のあり方で、あれに戻る事をよしとしている父親の話は、やはり納得できるものでは無い。

「では、父上。私はここの文具店に用がありますので、ここで失礼します。あまり無理はなさいませぬよう」
「うむ。しっかり勉強するように。あと、学院で大事なのは人脈を作る事だ。人付き合いはしっかりな」
「はい。失礼します」

 ギルバートはこれ以上父親と一緒の車内にいる事が耐えられず、学院の寮へ向かう乗合馬車がある駅で父親の馬車から降りる。
 走り去る馬車を眺めながら、試合では遂に勝てなかった幼なじみを思い出した。一体何があったのか、彼に尋ねてみたいものだと思うのだった。




 そんな動きをつゆ知らず、ウォルフはサウスゴータのド・モルガン邸、翌日からは議会の管理下に置かれるこの生家で久しぶりに父と兄に再会していた。護衛任務の合間であり、チェスターから後一便で全ての資材を運び出せる目処が立ったウォルフは幾分リラックスして家族の無事を喜んだ。

「父さん、災難だったね。無事で良かったよ」
「ウォルフ、済まん。お前達を平民にさせてしまった」
「そんな事気にしてないから、父さんも気にしなくて良いよ。まあ、人生こういう事もあるさ」
「そうそう、ウォルフの言う通りだよ、父さん。ここから這い上がるのが男ってもんだろう」
「……あれ? 兄さん随分元気そうだね。落ち込んでたって聞いてたけど」
「何を言っているんだウォルフ。何時までも下を向いちゃいられないだろ。俺はもう歯を食いしばって歩き始めているぜ」
「そ、そうなんだ」
「……ウォルフ、クリフはマチルダ様に慰めてもらったんだ。一瞬で立ち直ったよ」
「ああ……」
「ははは、そろそろ立ち直る頃合いだっただけだって」

 当初酷く落ち込んでいたクリフォードも、訪れたマチルダの「一緒に平民になっちまったね」との言葉で立ち直った。それこそマチルダがびっくりする程素早い立ち直り方だった。
 父と兄が笑っているのを見てウォルフも安心した。ド・モルガン家はいつも明るかったが、この状況でこれなら心配は要らないだろう。二人がこんな目に遭ったのはウォルフやマチルダのとばっちりだと言える。少なからず責任を感じていたウォルフにとってこの明るさは救いだった。



 ガンダーラ商会がサウスゴータから撤退する最後のフネは、ウォルフがこの旧ド・モルガン邸に建てた方舟になった。元はただの倉庫だがチタニウム合金製のモノコック船体を持ち、十分な強度があるし、船腹が開いて大型の荷物を積み込めるので普通のフネには積み込みにくい設備や長尺物などを陸路ここまで運び、積み込んでいた。ここまでの道中では議会の連中から嫌がらせを受けたりしたが、街の人達の助けもあり、無事に輸送する事が出来た。五メイル進むごとに検問を受けたりしていたのだが、役人達は市民から投石の集中砲火を浴び尻尾を巻いて逃げ帰った。
 方舟はもしかしたら受けるかも知れない襲撃の事も考えて、完成済みの船外機を四機舷側に取り付けて高速で飛行出来るVTOLに改造した。プロペラの向きを水平から垂直まで変化させる事が出来るのがポイントで、この機構のおかげで離陸がスムースに行える。廃船にする予定のフネから登録票を剥がしてきて貼り付けたので、法律的にも立派なフネとなった。
 既にリナがある程度作業を済ませていたのでウォルフは取り付け部位の補強と搭載作業をしただけであっという間に改造完了だ。軽く試運転をして早速飛び立つ事にした。風石が積んであるので最悪一機でもエンジンが動いていたら飛行できるので気が楽だ。





 ニコラス達はウォルフの手伝いをしてくれていたが、作業が終わると親子三人地上に降りてきて、長年暮らした屋敷を眺めた。クリフォードとウォルフにとっては生家であり、ニコラスにとっては苦労して手に入れた初めての屋敷だった。それぞれの思いがあり、やはり最後はちょっとしんみりとした。

「んー、じゃあオレは行くから父さん達も気をつけて」
「おう、お前も気をつけろよ。そっちのフネには我が家の全財産が載っているんだからな」
「うん、母さんも待っている。ドルトレヒトで会おう」

 ニコラス達が見守る中、ウォルフが乗り込んだ方舟は六年間据え付けられていた支柱から解き放たれ、空に浮かんだ。作った時はまさかこんな事になるとは微塵も思っていなかったが、人生何があるか分からないものだ。
 励起させた風石と、四機の風石エンジンの力により方舟はぐんぐんと高度を上げる。議会に言われたのか竜騎士が追ってきたが、特に何をする事もなく、高度が六千メイルを超えたら地上へと戻っていった。
 次第に遠ざかるサウスゴータの街をウォルフは甲板から見詰める。転生を経験したウォルフといえど、故郷を追われるのはやはり辛いものだ。二度と行く事は出来ない日本よりはましと自分に言い聞かせながら何時までも五芒星の形を見詰めた。

 上空八千メイルまで上がるとプロペラを水平にして飛行する。先にチェスターの工場を出ていた最後の船団にはすぐに追いついた。飛ぶ事を想定して作っていない船体はバランスが悪く、風石を併用しないと安定しないが、ただ飛ぶだけならば飛行に問題はないようだ。ウォルフは雲の中に隠しておいた自分の飛行機を呼び寄せると移動し、また警備体制に就いた。
 これまでエルビラと交代でアルビオンを脱出する船団の警備をしてきたが、結局三度目に空賊を装った艦隊を撃破してからは一切手を出してくるものがいなくなった。もう何度もフネがノーチェックで出国している訳で、ガンダーラ商会がエルフを匿っていたとしても既にアルビオンを出ている事は確実な訳なのだから今度こそ諦めて欲しいと思う。
 今回もちょっかいを出してくるものは無く、ゲルマニアへの最後の航行は平穏なものだった。



 一方のクリフォード達は議会の役人に屋敷を引き渡し、マチルダ達と合流してトラックの連隊にてアルビオン東部の町、ノビックを目指した。この連隊が運ぶのが最後の荷物で、チェスターの工場は綺麗に空となった。明日、議会の連中が略奪に来るのだろうが、彼らが手に入れるのは空の建物だけだ。
 このトラックにはチェスターにあった編み機の内フネに積みきれなかった小型のものや資材が積んであり、ノビックでまた一部の工場を始めるために運んでいる。撤退の過程でアルビオン王家とも対立してしまっているので、工場の再開は未定となってしまったが、今のところ最初の予定通りに行動している。工場と一緒に移住する予定だった工員も同行していて、ニコラス達はその道中の護衛と言う訳だ。合流した時にはそろそろ夕刻となっていたが、今夜中には護衛任務を終了し、ニコラス達もノビックを発ってゲルマニアへ向かいたいので道を急いだ。

 見張りを兼ね、クリフォードはマチルダとトラックのコンテナの上に登り、周囲を警戒しながら話をしていた。

「うーん、じゃあ、クリフはガリアで魔法学院に入り直すので決定かい」
「先生の話では一学年の時の単位は認定されるだろうって事だから、あと二年くらいなら良いかなって思ってさ」
「別に魔法学院なんて行かなくても良いんじゃないかい? あたしも二年次以降はあまり習う事がなかったくらいだったよ?」
「うん。でも、ウチは母さんが魔法学院を途中退学しているからさ。あまり話したがらないけど、息子には卒業して欲しいって思ってるみたいだから」
「……ああ、それは行くべきだねえ。しかし、意外だね。あのエルビラがそんな面もあるんだねえ」
「母さんは魔法はあんなだけど、ウォルフとは違って割と普通だから。魔法学院卒業していないって事で、色々悔しい思いもしたみたい」
「よく分からないけど、世間ってのはそういうものなのかね。でも、二年かあ……それまでまた離ればなれなんだね……」
「マチルダ様……」
「……様ってつけるのはよしとくれって言っただろ? 過去は関係ないし、先の事は分からない。だけど今は、身分なんて無い同じ平民なんだ」
「マ、マママ、マチルダ」
「何だい? クリフ。ふふ、初めて名前だけで呼んでくれたね」
「マチルダ」
「ふふ、だから何だい? クリフ」

 こんな感じで、甘ーい雰囲気満点な二人だが、油断はしていなく、その気配に気付いたのは二人同時だった。

「クリフ」
「うん。父さんに風で伝えた」
「モレノ、上がってきとくれ」
「……少々、お待ち下さい。ちょっとお二人が甘すぎて胸がもたれてしまって……」
「ななな何盗み聞きしてるんだい! いいからさっさと上がってきな!」

 モレノはふざけた事を言っているがすぐにコンテナの上に上がってきていた。マチルダ達の横に立って後方を睨む。即座に使い魔の烏を送って情報収集させた。

「風石馬車……十台くらいですね。このトラックなら速度を上げれば振り切れそうですが」
「……この先もずっと道が細い。伏兵がいたら挟み撃ちにされてしまう。工員達の安全を考えると、乱戦は避けたいんだけど」
「それでは各個撃破しましょう。後ろのは私が始末します」
「頼めるかい?」
「はい。すぐに追いつきますので、警戒しながらゆっくりと進んでいて下さい」

 マチルダが頷くのを確認するとモレノはレーザー銃を構えてトラックから飛び降りた。そのまま街道の上に立ち塞がり風石馬車が追いつくのを待つ。何もせずに待つのも何なので、街道脇の木を切り倒して街道を塞いだ。



 いかにも山賊といった出で立ちで追ってきた連中は、道を塞がれて怒り心頭のようだ。馬車を止めるやいなや数人のメイジが降りてきて、モレノに攻撃を仕掛けてきた。使い魔からの情報でそうだろうとは思っていたが、どうやら確かめるまでもなく、敵のようだ。

「小賢しい真似をしやがって! 死にやがれ《エア・カッくふっ」

 詠唱を最後までさせるまでもなくレーザー銃を腰だめに構えて額を撃ち抜く。この銃はレーザーが反射する危険性があるので水平には撃たない。必ず角度をつけて撃つように心がけている。

「て、てめえ、何しやがっ」  
「おい、こいつやばいぞ、変な杖持って、むぐっ」
「やばいやばいやばい、逃げろ、エルフだ」

 エルフを追ってきたのだとしたら、エルフと判断した瞬間に逃げるというのはどうなのかとモレノは思ったが、後ろの方の馬車はもう方向転換をして逃げ始めている。
 ウォルフに今回の事件の事を聞いていたのでエルフと言われても特に何も思わない。逃げる者は追わず、残った者を一人ずつ始末していった。

 五分とかからずに襲撃者達は静かになった。練度の低さから近衛騎士団とは思えない。何か身元を示す物証はないかと軽く探してみたが、どこぞの貴族の紋章が入ったナイフが一本見つかっただけだった。
 捜索を諦め、セグロッドに乗ってマチルダ達を追う。暫く走ると道を塞いで戦闘が行われている現場に出くわした。
 
 闘っているのはマチルダの使い魔のモス。ハルケギニアで最も硬い鱗と鋭い爪を持つランドドラゴンの成竜だ。周囲を取り囲むメイジを爪で弾き飛ばたりブレスで焼き払ったりと奮闘している。トラックは見あたらないので先に進んでいるようだ。数がいるのでどうしてもその車列は長くなり、一度止まると守る事は難しい。トラックが止められていない事に安堵しながらも嫌な予感を感じ、モスに加勢する。

「モス、手伝うぜ」
「ギュル? ガー!」
「くそ、新手か! もういい、引けっ引けえっ!」

 ランドドラゴン一頭を持てあましていた十人程の襲撃者達は、モレノが参加した事により逃亡を図ったが、瞬く間にモレノとモスによって打ち倒された。
 今度は遺留品を確認する事もなく、モレノはモスに飛び乗った。ランドドラゴンは地上最速の幻獣。トップスピードはセグロッドよりも遙かに速い。

「ギュ?」
「頼む、モス。お前のご主人様の所へ急いでくれ。嫌な予感がするんだ」
「ギュルー!」

 まだ戦闘の興奮が冷めないらしく周囲を睥睨していたモスだったが、モレノの言葉を受けて猛然と走り出した。モレノが時速百リーグ以上でありながらシルキーなその乗り心地を堪能する間もなく、マチルダに追いついた。
 マチルダは、攻撃を受けたのか横転したトラックとそのトラックに道を塞がれた五台のトラックとを守りながら襲撃者達を斬り倒している最中だった。

 見るとクリフォードとマチルダのゴーレムがトラックとその乗員達を守り、マチルダは敵の真っ直中に切り込んで剣舞を披露している。マチルダが舞う度に血しぶきが上がり、襲撃者の戦意は減少していたのだが、そこにランドドラゴンが走ってきた勢いそのままに突入してきて遂に戦意はゼロになった。

「ダメだ、逃げろ逃げろ! こんないかれた奴に付き合ってられるか!」
「ハッハー! 逃がす訳無いだろう? 最後まで付き合って貰うよー!」

 モスがメイジをなぎ倒し、その背中からモレノがレーザー銃を撃ちまくり、逃げ出したところにマチルダが飛びかかって斬りまくる。襲撃者達はここでもあっという間に殲滅された。

「モレノ! モスと一緒に先を追ってくれ、まだ襲撃があるかも知れない」
「はっ、そのつもりです。マチルダ様もお気をつけて!」

 襲撃者を片付けるとモレノは直ぐにまた先行隊を追いかける。先行する車列には織物工場に勤めていた平民とその家族がバス二台分同行している。マチルダとガンダーラ商会にとって絶対に守らねばならない存在だった。
 横転したトラックはタイヤを交換すればまた走れそうとの事なので、マチルダとクリフォードは交換を待って後を追う。ここまで執拗な襲撃を受けるとは想定していなかった。エルフの所在を掴んでいない以上、王家にとってもうガンダーラ商会を襲う意味は無いはずなのに。

 先行隊には傭兵の護衛部隊が二十人位いるが、強力なメイジは傭兵の隊長とニコラスくらいしかもう残っていない。もし、もう一度襲撃を受けたら今度こそ護衛を引きはがされてしまうかも知れない。
 モレノは不安を感じながらモスを急がせるのだった。



[33077] 3-19    略取
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/01/19 23:30
 ガンダーラ商会護衛部隊隊長ハリー・ジョンソンは焦っていた。想定していなかった規模の襲撃を受けて徐々に戦力を減らされてしまい、今いる護衛部隊は自分を含めたメイジ十人平民十五人とウォルフの父ニコラスだけだ。もう一人、輸送している平民達の中にいるウォルフの乳母だったという女性がメイジとの事だが、戦闘力は期待しないで欲しいとの事だ。三回目の襲撃の時にトラックを止めるべきだったのかも知れないが、あの場所は特に道が狭くて止める事を躊躇ってしまった。トラックを止めてマチルダ達を待つべきか、止まったところを襲撃される事を避けるために走り続けるか、悩みながら周囲の気配に神経を尖らせていた。
 しかし決断が出来ない内に道はまた細くなり、周囲の森がより一層と深くなった頃、トラックのライトが前方の街道を塞いでいるバリケードを映し出した。

「隊長、前方で街道が封鎖されています」
「ちっ、全車停止! なるべく小さく纏まれ! 襲撃があるぞ!」
「はっ、各自武器を持って展開しろ」

 狭い街道で無理矢理三列になって停車する。それでも十四台あるので結構な長さだ。護衛部隊はトラックを降り、左右に展開しつつ襲撃に備えた。

 待ちかまえる護衛隊に側面両側前方の森、バリケードの両側から湧き出てきた襲撃者達が襲いかかる。数はおそらく護衛隊の倍程、メイジと平民の傭兵との混成部隊だ。

「くそっ、ニコラス殿、こいつらは我々が引き受けます! バスの人員の護衛をお願いします」
「了解した! 《エア・カッター》油断しないで、こいつ等結構メイジの数が多い」
「メイジならメイジに対する戦い方があるものです。ご心配なさらぬよう」
「心強い。では任せます。《エア・カッター》」
「頼みました。鉄砲隊、前へ!」

 都合四度目の戦闘が始まった。



 更に二、三発護衛部隊を援護する魔法を放ってからニコラスは後方に向かい、トラックの運転手達を降ろしてバスの間に停めた二台のトラックの荷室に押し込んだ。バスに乗っている人員を併せて六十人以上いるが、このトラックはいざというときのために荷室を空にしていたので全員入る事が出来た。この大人数をニコラスとアンネの二人で守る事になる。しかもアンネはメイジとして最低限のドット、その中でも能力は低い方だ。
 ウォルフからは戦闘の可能性があるのでフネで移動する事を勧められていたのだが、フネに乗りきれなかった平民の工員達が陸路で移動する事を聞いたアンネが自ら志願して今ここにいる。けが人の治療などを想定していたのだが、まさかアンネまでも戦闘にかり出される羽目になるとは思っていなかった。 
 不安ではあるが、アンネはメイジである以上力のない平民を守るのは義務だと思っている。平民達を労り、励まし、気丈に振る舞っていた。

 そんなアンネの様子をニコラスは心苦しく見ている。アンネとのつきあいの長いニコラスには彼女が戦闘に向いていない事など分かりきっている。それなのに、こんな状況に陥っているのが辛い。
 ニコラスが何を思おうが関係なく敵は来る。トラックの後ろにアンネと別れて立ち、森からの気配を探っていたニコラスの感覚が、右側の森から敵が接近してくるのを感じとった。トラックが街道一杯に停まっているために狭くなっているこの場所では一人で多人数を相手取るのは難しい。ニコラスは撃って出る決断を取らざるを得なかった。

「アンネ、右から敵が来る。すぐに倒すから、その間敵が来たら何とか時間を稼いでくれ」
「は、はい。出来るか分かりませんが、やってみます。大丈夫、私だってウォルフ様に魔法を習ったんですから、少しくらいなら持ちこたえられますよ」
「頼む。いざとなったら平民達と一緒にトラックに籠もってくれ。中から鍵を掛けたら外からは開けないようになってある。この荷室はチタン合金の二重壁になっていて、魔法防御も固く掛けてあるそうだから暫くは持ちこたえられるはずだ」

 右から来る気配は十人以上だ。トライアングルのニコラスにとってもすぐに全滅させるのは難しいかも知れない。胸を張って答えるアンネから目を逸らし、森の中へ飛び込んだ。ウォルフがアンネに教えた魔法なんて『ウォーター・シュート』という水鉄砲の強力版みたいなものだけだ。それを顔目掛けて撃ち続ければ呼吸と詠唱を妨害できますよ、という程度で、水かけ祭りなら結構な戦力になりそうではあるが殺傷力はきわめて低い。しかし、アンネに使える魔法などその程度なのだ。
 ニコラスが森へ消えるとアンネの周りは急に静かになり、遠くで戦いの音が絶え間なく響いくようになる。その音を聞いているだけの時間は、平民達にとって恐怖を感じさせるのに十分だった。

「アンネさん、あたし等大丈夫なのかね……何で山賊がこんなにしつこいんだい?」

 小さく開けた扉の隙間から外に立つアンネに顔見知りの工員が不安そうに尋ねてきた。普通山賊などは軽く襲ってみて、相手が存外に強かった場合すぐに撤退するものだ。彼らは生業としてやっているだけだし、大きく損耗したりするとその後組織を維持するのが難しくなるからだ。
 それがこんなに何度も執拗に仕掛けてくるなど聞いた事が無い。既に延べ人数で襲撃者の数が百人を超えているらしい事と合わせ、工員達の顔は恐怖で引き攣っていた。

「大丈夫ですよ。ニコラスさんがいますし、マチルダ様も直ぐに戻ってきてくれるでしょう。心配は要りません」

 平民達を安心させるために力強く言うが、その声は少し、弱くなった。アンネ自身も恐怖を感じており、何で襲われているのかなんて分からないからだ。何とかやり過ごしたいと願っていたその時、アンネが念のために森に撒いておいた水を伝って、森から出てくる敵の気配を感じ取った。ニコラスが向かった森とは反対側だ。

「扉を閉めて。合図が有るまでは決して開かないで下さい」
「あ、ああ。でもあんたも危ないと思ったらすぐに逃げるんだよ」
「大丈夫です、いざとなったら森に逃げますよ。セグロッドもありますし、時間さえ稼げばいいんだから」

 ここにはメイジはもう自分しかいない。アンネはバスの間から出て、襲撃者達に向かい合う。恐怖で足が震えるが、何とかニコラスが戻ってくるまで時間を稼ぐつもりだ。相手が何を目的に襲ってきているのか探るため、自分から声を掛けた。

「こんばんわ。何の御用でございますでしょうか。ご入り用のものがございましたら用意いたします。出来ましたらそれを持ってそのままお帰り願いたく存じますが」

 いきなり襲いかかってくるかもと思っていたが、相手の反応はアンネの想像とは別のものだった。ぼそぼそと仲間内で話し合い、まるで彼らの方が怯えているかのようだ。

「……おい、こいつじゃないのか? 情報通りだろう」
「確かに。パツキンの巨乳で年の頃もぴったりだ。胸は常識の範囲内だな」
「ちょっとまて、常識外れだって言う娘がいるんじゃなかったか? 今、オレの使い魔のカエルが後ろの平民達を探ってくるからまだ手は出すな」
「待て待て、耳が普通だぞ、違うんじゃないのか?」
「馬鹿、そんなのいくらでも誤魔化せるだろ。カエル、どうだ?」
「ダメだ、荷室に引っ込んじまっている」
「仕方ねえ。こいつだけでも確保するしかねえか」

 彼らの話し声がアンネまで漏れ聞こえるが、意味は分からない。金髪で胸がでかいから何だと言うのか。娘のサラも狙っているらしいのは母として聞き逃せない。

「確かに美人だが、悪魔のように美人だって話ほどじゃあないな」
「そうか? オレは全然いけるぜ、はあはあ……」
「いけるかどうかって話じゃねえ。情報と比べてどうかって事だ馬鹿」
「オレの人生を狂わせたスザンナに似ている……垂れ目の女はみんな悪魔だ」

 ますます訳が分からない。段々腹が立ってくるが、時間を稼げているようなのでアンネは何も言わずにいた。更に何だかんだと相談したあげく、男の一人が進み出て話しかけてきた。相変わらずおっかなびっくりと言った感じだが。

「おい、姉さんよ。あんた、娘がいるって話だが、何処に行ったんだい?」
「娘ですか? 確かにいますが、先に出国しましたよ?」
「ビンゴだ……娘さんの行き先を教えてくれる訳にはいかないかい?」
「申し訳ありません、それはちょっと……」
「じゃあ年を教えてくれないか? 十一だか二だかだって聞いたんだが」
「十二になりました。娘が、何か?」

 また男達はぼそぼそと話していたが、すぐにアンネに向き直った。嫌らしい笑みをその顔に浮かべ、続ける。

「姉さん、ちょいと俺達に付き合ってくれねえか? あんたが暴れたらとんでも無いことになることは分かっている。だが、俺達も引く訳にはいかねえんだ。大人しく付いてきて欲しいんだが」
「あの、それはちょっと……お金なら差し上げますので、それで納得して頂きたいのですが」
「金なんて……くれるなら貰うが、あんたに来て貰う事に意味があるんだ。今更荷物とかを奪うのは無理そうだし、せめてそれくらいの土産がないと――今だっ!!」
「? っ!!」

 男の視線がアンネの上空に向き、釣られてアンネも空を見たが、その目に映ったのは自分に向かって急降下してくるワイバーンだった。

「きゃああああっ!」

 ワイバーンは竜の一種だ。翼が生えている位置が背中ではなく肩で、腕が翼となっている強力な幻獣。戦闘力は風竜に劣ると言われているが、勿論ドットメイジ程度は瞬殺する能力を持っている。鋭い牙が目の前に迫り、アンネは自分の死を覚悟した。
 しかし、強力な翼を大きく拡げ、アンネの前で急制動を行ったワイバーンは攻撃することなく直ぐにまた上空へと舞い上がった。その一瞬、投網のように一枚の黒い布を拡げてアンネに被せた。

「な、何? 一体何なの?」
「よし、かかった。野郎共、今だ!」
「よっしゃー!!」

 アンネと話していた男達が襲いかかり、その布を巾着のように閉じて縛り上げ、アンネを中に閉じこめてしまった。更にぐるぐると縄で縛り上げる。アンネはなすすべ無くされるがままだ。

「いやあああ、ニコラス様! 助けて下さい!」
「ははは、残念だったな、色男は来ねえよ。この布は某公爵家秘蔵のマジックアイテム・『虚無の布』だ。魔法は一切通さないし、たとえその中で先住魔法を使っても解除される。無駄な事はしないで大人しくしてろ」
「そ、そんな、《ウォーター・シュート》!」
「ははは、無駄無駄。野郎共、引き上げるぞ!」
「おおっ!」
「いやあっ」

 再び降下してきたワイバーンが布ごとアンネを掴んで舞い上がる。男達はかん高い笛を鳴らして合図を送ると一斉に撤退していった。

「アンネ!」
「ニコラス様! 助けて!」

 ようやく襲撃者達を倒して戻ってきたニコラスだったが、少し遅かったようだ。『フライ』で飛び上がり、手を伸ばしてアンネを掴もうとするが、伸ばしたその手の先を掠めてワイバーンはアンネを大空へと連れ去った。
 そのまま『フライ』で追うが、どんなに優れたメイジだったとしてもワイバーンに大空で追いつけるはずもない。あっと言う間にアンネの姿は夕闇の空へと消えていった。
 ニコラスは奥歯を噛み締めて後手後手に回った行動を悔いる。これなら最初に追っ手がかかった時に止まって闘えば良かった。その時その時の安全性を第一に考えすぎて戦力を分散し、敵に時間を作られた。ここまで大規模の襲撃を想定していなかったので仕方ないとも言えるが、アンネを連れ去られた痛みはそんな事で納得する事は出来ない。

 バスまで戻ってみると、既に敵は逃げ去った後だった。護衛部隊の方も戦闘は終わったみたいなので、ニコラスは先ほどまで戦闘していた場所に戻り、そこに残された遺体に何か犯人の手掛かりがないか探った。
 念入りに探したが、手掛かりになるようなものは何もなくニコラスは途方に暮れる。アンネはもうずっと一緒に暮らしているド・モルガン家にとって家族と言える存在だ。攫われて放っておけるものではない。
 手掛かりがないのなら逃げた連中から聞き出したいが、彼らは森の中に消えたので今から追っても見つける事は困難だ。呆然として再び車列に戻ると、そこに後方からモレノが追いついてきた。
 モレノはともかく、モスの逞しい姿にトラックから出てきた平民達はほっと一安心する事ができた。ようやく一息つけた感じだ。

「ニコラス様、どうなさいました」
「アンネが攫われた。連中の手掛かりを探しているが、何か無いか?」
「っ! あ、手掛かりがあります……最初に襲ってきた連中ですが、こんなナイフを持っていました」
「これは……」

 ナイフに刻まれた紋章は、ニコラスには見慣れたコクウォルズ男爵家のもの。自分を陥れた男の紋章を見つけ、ニコラスの胸にどす黒い感情が吹き荒れた。
 今すぐ殴り込んでアンネの行方を吐かせたいが、彼の領地はここからはシティオブサウスゴータの反対側になり結構な距離がある。竜かウォルフのモーグラがあればたいした距離ではないが、それ以外では時間が掛かりすぎる。モスでさえ陸を行くので二時間以上かかるだろうし、この後の道中を考えると使う訳にも行かない。
 ニコラスは暫く黙考して考えをまとめると、無言でトラックの一台に近付き、荷台の資材から必要と思える物を探す。セグロッド二台、鉄の棒、ナイロンのロープ、ずた袋、アルミニウムの板材などを適当に取り出し、ザックに入れて背負った。さらに風石庫から風石をひとかたまり取り出すとこれは懐に入れた。

「俺はアンネを追う。君はマチルダ様と一緒にノビックを目指してくれ。息子を、頼む」
「心当たりはあるのですか? いや、そもそも追いつけるのですか?」
「分からない。ここから先は俺個人として動くつもりだ。何なら俺の事は勝手にいなくなった事にしてくれても構わない。とにかく今は一刻を争うんだ。頼んだぞ」

 相手が市議会議員な上に緊急事態でもあるのでこれから取る手段は非合法なものになる。ニコラスは話を打ち切ると『フライ』を唱え、飛び出した。更に懐の風石を励起して高度を上げていく。その姿は夕闇に紛れ、直ぐに見えなくなった。




 この後マチルダ達も追いつき、再び隊列を整えて出発した。ノビックに到着したのは大分遅れ、もう夜半近くになろうかという時間だった。街道を封鎖していたバリケードを撤去し、周囲を警戒しながら進んだので随分と遅くなった。
 工員達がアルビオンにいる事を怖がったので、とりあえずトラックや荷物は予定通りノビックの倉庫に預けたが、工員達はゲルマニアから来たフネに移して出国した。

 そのゲルマニア行きのフネの船室でほっと息を吐く平民達の中に、ニコラスとアンネの姿は無かった。



[33077] 3-20    奪還
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/02/22 22:14
「つまり、アンネはシャジャルさんと間違われて攫われたって事で良いんだね?」
「済まない、ウォルフ。あたしの所為なんだ……」
「申し訳ありません、ウォルフ様。誰もあそこまでの規模の襲撃を想定しておりませんでした」

 アルビオンから脱出するフネの上で、ウォルフはマチルダとモレノを個室に呼び出し、二人から報告を受けていた。フネは停止しているが、ツェルプストーの艦隊がまだアルビオンからほど近いこの空域にまで来て護衛に付いてくれているので平民達ももう安心している。もう夜も深くなっており、アンネが攫われてからは随分と時間が経過してしまっている。ウォルフが護衛していた船団も不審なフネの急接近を何度も受けたため中々護衛任務から離れられず、何とか護衛を引き継ぎ、襲撃現場に駆け付けた時にはもうニコラスやアンネの姿は影も形もなかった。二人を捜してサウスゴータ上空まで往復して上空から探索したが見つからず、詳しい話を聞こうとアルビオンを離れるフネに乗り込んだのだが、襲撃された原因は何とも間抜けなものだった。

「シャジャルさんとアンネを間違えるなんてどんだけザルな情報だよ…」
「荷台の換気口から外の話を聞いていた者の話では、金髪で巨乳気味な美女で十一、二歳の娘がいる事を確認していたそうですから、間違いないかと」
「……確かにそこだけ聞くと同一人物だな。くそっ」

 思わず壁を蹴飛ばすと存外に大きな音が出た。ウォルフが怒っているのは自分自身にだ。完全に予測を外していたとしか言いようがない。王家が人知れずエルフを始末するつもりなら近衛騎士団と首都警察くらいしか実行部隊は無いと思っていた。その動向は掴んでいたので彼らによる襲撃は無いと判断していたのだ。そもそももう延べ何十隻というフネが出立している訳で、今更工場にエルフが残っているなどと思われているのは意外すぎた。
 陸送した工場の設備はいずれも市販している物で、機密品が無い事もウォルフ達の油断を誘った。あの部隊を襲っても得る物が少ないのだから襲う可能性は少ないだろうと判断してしまった。襲う側からすればそんな事は分からない訳で、勝手に判断したこちらの落ち度である事は間違いなかった。話を聞くと相当な規模の襲撃部隊だ。必ず事前に動きがあったはずで、貴族達の動きに注意を払っていなかった事が悔やまれる。フネを襲ってきたのが王家だけだったので油断してしまった。

 悔しがるウォルフが壁を蹴った音に反応して、下を向いて唇を噛んでいたマチルダが顔を上げた。

「絶対に許さない……あいつら、あたしから全てを奪ったくせに、まだこんな非道を」

 自分の所為でガンダーラ商会がアルビオンを追われアンネが攫われるという事態と、自分が護衛に就いていたのに何も出来なかった自責の念。マチルダは全身に激しい怒りを漲らせて呟いた。その身から放たれる殺気は剣鬼と呼ばれている時よりも更に鋭く、杖を握りしめる拳は白く血の気を失っていた。

「攫ったのが王家じゃなく貴族派らしいってのをラッキーだったと思おう。王家だったら直ぐに殺しただろうけど、貴族派ならまだ生きている可能性は高い」
「……工員達を無事に届けたら、あたしもすぐにアルビオンに戻るよ。生きているなら、絶対に探し出してみせる」
「ああ。実際の話、まだ生きている可能性は高いと思うんだ。ただエルフを捕まえただけじゃ貴族派にとって何の意味もないしね。王家との繋がりを示す証拠を得たいと思うはずだけど、アンネからそんなものを得られるはずもない」
「でも、それだったら間違いだったって分かった時に殺されちゃう可能性がある」
「そうだな。だから時間が勝負になる。アンネが攫われた事を公表して、その身柄に懸賞金を掛ける。奴らがゲスなら懸賞金が欲しいと思うくらいの額を」

 あいつらほどゲスなら、いけしゃあしゃあとアンネを保護したとか言って名乗り出てきそうな気もする。そこまで行かなくとも仲間内で意見が割れるようならアンネが生存する可能性は高くなる。それにマチルダには伝えなかったが、ウォルフの乳母という立場が知られればシャジャル達との交換を求めてくる可能性もある。

「それなら、あたしの金を使っとくれ! 十万エキューくらいは直ぐに用意できるよ」
「うわ……ちょっと多すぎだろう。ウチの人間を攫えばそれくらい出すと思われても困るから、攫われたのはオレの乳母だって公表して、額はそうだな……五千エキューくらいにしておくか」
「そんなもんでいいのかい? わかった今小切手を切るよ」

 マチルダはさらさらと小切手にサインをして切り出した。額面は五千エキューを二枚。二枚目は懸賞金をつり上げる時用だという。
 ウォルフは開拓地に突っ込みすぎて現在手元資金が少なくなっているのでありがたく提供を受けた。もともと餌用なので貴族共にくれてやるつもりはないが。

「他に、何かあたしに出来る事は無いかい? アンネを救うために出来る事は何でもしておきたいんだ」
「今のところは無いかな。考えても仕方のない事は考えないようにしよう。もしアンネが無事じゃなかったら、サウスゴータ議会と襲撃に関わった議員には消滅してもらうってオレはもう決めたから、マチ姉も余計な事は考えないで良いよ」
「消滅かい。まあ、当然だね、そのために何か準備する事は有るかい?」
「別に無い。そんな事にならないようにアンネの無事を祈っていてくれ」

 ウォルフは二人に答えると、すぐさま飛行機へと戻ってサウスゴータへと出発した。まだサウスゴータにはタニアが残っているので懸賞金などの手続きは直ぐに取れるだろう。何よりアンネを追ったニコラスの情報が何か手にはいるかも知れない。モレノがニコラスに渡したというナイフの紋章はコクウォルズ子爵のものらしいとマチルダが教えてくれた。子爵を手始めに議会の連中を一人ずつ締め上げる必要があるかもな、などと物騒な事を考えつつウォルフはライトニングを急がせた。

 

 一方、輸送隊を離れたニコラスがまず最初にした事は足の確保だ。セグロッドは持っていたが速度が遅い、モスは輸送隊の守りに必要なので使えない、トラックは運転できない、残った選択肢は竜騎士である自分のスキルを生かす事だった。『フライ』で飛翔し、風石も併用して更に高度を上げる。ニコラスは長年サウスゴータの竜騎士として勤務してきた経験から、野生の竜がどんな季節のどんな時間にどこら辺を飛ぶかという事を熟知している。アルビオンにおいて竜種の脅威はそこらの盗賊団などより遙かに高いからだ。
 そのニコラスの経験によれば夕刻のこの時間、サウスゴータの東であるこの地を寝床に帰る竜が通過するはずだった。

「来た……」

 竜が通過する高度の千メイルも上空で待っていたニコラスの眼下を一頭のワイバーンが飛んでいる。予想通りだ。
 狙いをつけてゆっくりと降下する。竜は日頃自分の上空になど注意を払わない。彼らを襲う者などハルケギニアの空にはいないから。

「《サイレント》」

 周囲の音を消す魔法『サイレント』を纏い、風切り音を消す。速度調整は懐の風石を叩いて調節し、方向は手足にかかる空気抵抗で調節する。ワイバーンは気付かない。
 もうワイバーンは目前だ。ニコラスは慎重に狙いを定めた。

「ギャッ! ギャー、ギャー、ギャー!!」

 落ちてきた勢いそのままにワイバーンの頭の後ろに衝突し、必死で首の後ろにしがみつく。首に回した手を離したらブレスで焼き払われてしまうのは確実なので、まさに命がけだ。
 ウォルフが見ていたら、「アバター!」と感動したかも知れない場面ではあるが、ここの竜には映画のように意志を繋げる器官など無いのでこっちの方が大変だ。ワイバーンは突然の襲撃者を振り落とそうと狂ったように頭を振りながら飛ぶし、時折その翼で首の後ろにしがみつくニコラスをはたき落とそうとまでしてくる。魔法具が有ればこんな目には遭わないのに、と愚痴の一つでもこぼしたくなるが口を開く余裕すら無くただひたすらしがみつく。
 さんざん空を迷走して遂には墜落して一緒に地面を転がったが、それでもニコラスは離れない。起き上がったワイバーンが首を地面に擦り付けて引きはがそうとしても、ニコラスは傷だらけになりながら両足で首をロックして耐えた。苛立ったワイバーンが大きく叫んだが、それはニコラスにとっては隙だった。足で首をロックしたまま手早くザックの中からずた袋を取り出して、叫んでいるワイバーンの頭に被せた。

「ギャウ?」
「はー、手間かけさせやがって……いてててて、あちこち傷だらけだ」

 とたんに大人しくなったワイバーンに相変わらずしがみつきながらニコラスが大きく息を吐く。ワイバーンは視界を塞がれると大人しくなるという、鳥と同じ性質を持っている。だから野生のワイバーンを魔法具無しで調教する時は頭に袋を被せるまでが大変なのだが、今回は無茶をした。
 ザックの中の鉄の棒を取り出すと手早く『練金』で加工してロープを通し、袋の中に手を入れてワイバーンの口に噛ませて固定し、轡とする。轡を使うとブレスが使えなくなるが、調教していない竜では仕方がない。手綱もつけて長さを調節し、ようやくここで首に絡めていた足を解いた。
 翼の付け根に座って首を撫でながら『ヒーリング』を唱える。これは別に怪我を治すためではなく、ワイバーンの精神を落ち着かせるためだ。視界を塞がれて大人しくなっているとは言え、今ワイバーンは緊張の極みにある。その状態の時にこの魔法を唱える事により、その緊張は緩和し、竜は背中に乗る人間という存在を受け入れるようなる。

「……さて、勝負だな」

 グルグルとワイバーンが機嫌の良い時の声を上げるようになったのを確認し、気合いを入れる。人間を受け入れるようになると言っても、誰でもと言う訳ではない。竜が背に乗る人間を受け入れて飛ぶようになるには、竜がその人間を気に入るかどうかに掛かっている。要するに相性が大事なんだと言われているが、慣れも必要なので普通は乗る前に竜の世話をしたり餌を与えたりして時間を掛けて慣らしていく。しかし、ニコラスに今そんな時間はない。
 自分がどれだけ今竜を必要としているのか、強く心に思う。ニコラスは長年の経験で竜がかなり人間の気持ちについて機敏だと言う事を理解している。人間が考えている事は、おおよその所は竜に伝わるのだ。竜に乗るためには、心の底から竜に乗りたいという気持ちを持つ事が必要だ。 

 ゆっくりと慎重にずた袋を外す。緊張の一瞬、ワイバーンはちらりとニコラスを見たが、直ぐにまた目を細めてグルグルと喉を鳴らした。

「ふー、ありがとう。お前は良い竜だぜ」

 無事、受け入れられたのがわかり、ニコラスは逞しい首に抱きついて両手でその肌を撫でた。こんな短時間で竜を調教するのはニコラスも初めてだ。奇跡とも言える成果にまた気合いが入る。この竜と一緒にアンネを救い出すと決意した。

 最後にアルミ板を加工してブリンカーという目の左右につけて後方の視界を制限するための竜具を作り装着する。これは調教初期の竜が背後から手綱を介して伝えられる指示を違和感なく受け入れるようにするためで、ふとした時にライダーが視界に入ってパニックに陥る事を防ぐ効果もある。人が背中に乗る事に少しずつならしていくための道具だ。

「遅くなっちまった。さっさと行くぞ」
「ギャウー」

 また翼の付け根に座り直して、両足で肩を軽く叩く。ワイバーンは軽く吠えて応えるとその翼を大きく羽ばたかせ、空へ舞い上がった。
 向かう先はコクウォルズ子爵領の村、コクウォルズ。石造りの昔ながらの家が建ち並ぶその村の外れにある領主の館、そこを襲ってなんとしてもアンネの情報を得るつもりだ。
 ワイバーンの捜索と捕獲、轡や手綱・ブリンカーの製作などで既に一時間はロスしている。ワイバーンを調教しながら、ニコラスは急いで飛び続けた。




 ニコラスとアンネにとって幸運だった事に、アンネの身柄は数ある貴族派の屋敷の内、コクウォルズ子爵の屋敷内に運び込まれた。この屋敷は子爵がその権勢を誇示するためにやたらと立派な造りをしているのだが、石造りで窓が小さい家が多いこの村には珍しく庭に面した大きな窓を持っている。その大きな窓がある一室でコクウォルズ子爵は満足そうにその戦果を見詰めた。
 ここに来るまでサウスゴータの竜騎士隊に気付かれないために大きく迂回して飛行した結果、三時間近くもかかってしまった。ワイバーンに吊り下げられたまま長時間寒風にさらされていたアンネは寒さと恐怖から震えていたが、コクウォルズ子爵達には興味のない事のようだった。

「モード大公の元侍女の拷問記録から得た情報は本当だったな。やはりマチルダはエルフを自分の傍らからは離そうとしなかったようだ」

 布にくるまれたまま地面に転がされているアンネを足先で突いて確認する。強く突くと震えるからだが僅かにうめく。

「しかし、こんなんじゃエルフかどうか確認できないだろう。弱っているみたいだし、出しても良いのではないか?」
「そうですな。この布にくるまれていたら姿を偽る魔法も解けている事でしょうし、確認が取れます」
「いや、しかしここにいる人数ではエルフに対抗できません。皆殺しにされてしまいますよ」
「ううむ、メイジなら杖を奪えば済むというのに、エルフとは面倒だな。どうやって尋問すれば良いのだ」
「それはやはりこの状態のまま行うしかないでしょう。おい女! 大公との馴れ初めから順を追って全て話せ!」

 コクウォルズ子爵の取り巻きの一人が、床に転がるアンネを蹴飛ばして尋ねる。

「ぎうっ……大公様となんて、会った事も、ございません。私は、エルフなんかでは、ありません。どなたかと、お間違えでは?」
「戯言を申すな。貴様がエルフじゃなくて誰がエルフと申すのか。その布にくるまれている限りこちらはお前を自由に殺せるのだぞ、考えてから物を申せ」
「本当の事でございます。お願いします、この布をほどいて、私の耳を、確認して下さい。エルフなどとは違う事が、直ぐに、分かるはずです」
「ぬ? 本当にエルフじゃないのか?」
「何を騙されておるんだ。こんなのは我々を騙す手に決まっておろう。布から出したとたんにズドンだな」
「ええい、この期に及んで見苦しい奴め! 良いからさっさと吐け! 大公との馴れ初めは? 世話をした女官の名前は? マチルダとは何時知り合った? どうやって今まで我々の目を眩ませた? そもそも人間の社会に潜入した目的は何だ! 全て話すんだ!」 
「ぎ、ぎうっ、ぐ……」

 ドカドカと容赦なく蹴られ、アンネは返事をする事も出来ない。嗜虐的な笑みを浮かべたその男はさらに打撃を加えようとしたが、それは永遠に出来ない事になった。
 庭に面した大きな窓を突き破り、巨大なワイバーンが飛び込んできてその男を踏み潰したからだ。

「ぎゃあああ!」
「うわあ、何だ、何事だ!」
「何でワイバーンが! た、助けてくれえ!」

 室内にいた者達はあまりに唐突な出来事に頭を抱えて逃げまどう事しかできない。ワイバーンから飛び降りたニコラスはアンネを抱えて素早くワイバーンの背に戻り、布の縛めを解くと優しく抱き抱えた。

「遅くなって済まない。もう、大丈夫だ」
「ニコラス――様?」
「ああ、大変な目にあったな。さあ、帰ろう《エア・ストーム》」
「うわ、馬鹿者、ワシの屋敷内でそんな魔法を使うなあ!」

 ニコラスが唱えた魔法によりワイバーンを中心にして室内に巨大な竜巻が発生する。散乱したガラスやら陶磁器やらが舞い上がり、凶器となって室内で暴れ回った。
 室内が静かになった事を確認して魔法を止め、ワイバーンを窓際にまで移動させる。ニコラスが胴を両足で軽く叩くとワイバーンは窓から飛び立ち、更にもう一度叩くと大きく羽ばたいて高度を上げた。

「大丈夫か?」
「あ、はいあちこち蹴られましたけど骨は折れていないです、打撲だけですね。ニコラス様が早く来てくれて助かりました」
「うん、大事になる前で良かった。ほら、寒いだろう、ちゃんとその布にくるまっているんだぞ」

 ワイバーンの背で縛めを解かれたアンネは自分で自分を診察して無事を確認するとニコラスの至近距離で微笑んだ。まだ体が冷え切っているアンネはニコラスの膝の上に横座りして抱きついている訳で、その距離でそんな笑顔を見せられると年甲斐もなくドギマギしてしまう。アンネをくるんでいる布が落ちないように首のところで結んでやった。

「ありがとうございます。この布、魔法を通さない珍しい布みたいなんです。ウォルフ様へのおみやげに良いですよね」
「へえ、そりゃ珍しいな。確かにウォルフが喜びそうだ」
「ふふ、これくらい迷惑料として貰わないと割に合わないです」
「ははは、アンネも逞しくなったなあ」

 アンネを連れ去ったワイバーンとは違い、ニコラスはシティオブサウスゴータの近くを突っ切って直線的に飛んだため、失った時間を取り戻せた。元同僚である竜騎士には追いかけられたが、アンネを攫われた事を告げると何も言わずに見逃してくれた。
 いくつもの偶然が重なって無事救い出せたニコラスは少し、気が緩んでいて、その襲撃に対応するのが遅れた。コクウォルズ子爵達の様子から、もう追っ手はかからないだろうと思ってしまっていたのだ。

「きゃあああっ!」
「ちいいぃぃぃぃ!」

 上空から急降下して襲いかかってきたワイバーンを咄嗟に反転して脚で迎え撃った。二頭のワイバーンは脚を縺れさせてくるくると弧を描きながら落下し、墜落した。

 結構な勢いで墜落したために、ニコラスとアンネも襲撃してきたライダーも墜落の衝撃でワイバーンからは放り出されてしまった。ニコラスは咄嗟にアンネを庇って抱きしめたまま地面に衝突し、おかげで肋が何本か折れたようだ。
 痛む肋に顔をしかめながらすぐに起き上がって気配を探る。落ちた場所は森の中で、ワイバーンはもう二頭とも飛び立ってしまったようだ。調教が終わっている敵のワイバーンは呼べば戻ってくるのだろうが、ニコラスのワイバーンではそんな事は期待できない。ニコラスは息を潜めて敵の姿を探したが、すぐにその敵から声を掛けられた。

「ニコラス・クロード! サウスゴータ竜騎士隊を首になった間抜け。出てこいよ、お前には感謝している!」

 奴のワイバーンは上空を旋回しているが、呼ぶつもりが無いらしく、ゆっくりとニコラス達を探しながら森の中を歩いている。 

「ワイバーンのブレスで焼き殺してもいいんだがな、それだと首が残らないからこの俺が手ずから殺してやろう《エア・カッター》」
「ヒッ…」

 適当に放たれた『エア・カッター』が頭上の太い木を切り倒し、倒れてきた木の音に思わずアンネが悲鳴を漏らす。風のメイジらしいその男は小さな声を聞き逃さず、ニヤリと反応した。

「そこか。女を抱えていると大変だな、出てこいよ。逃げられはしないぜ?」

 その『エア・カッター』の威力を見ると、トライアングル以下という事は無さそうだ。ニコラスは溜息を吐くとゆっくりと立ち上がった。

「アンネ、隙を見て逃げてくれ。ここからならサウスゴータまでは三十リーグは無いと思う。議会はダメだからタニアを頼れ」
「そんな、ニコラス様は…」
「俺は後から追う。何、大丈夫だ。そこらのメイジにはそうそう遅れを取らんよ」

 持っているセグロッドの一台を渡し、アンネに背を向けて敵の声がする方へ歩き出す。着陸した時に挫いたのか左足首が痛いし、脇腹も呼吸する度に激しく痛んで怪我の存在を思い知らされる。ワイバーンがあちこちに擦り付けてくれたおかげで、体中が打ち身や擦り傷だらけ。そしてそんな思いをしてまで捕まえたワイバーンはもう逃げてしまった。 
 アンネが攫われる前の戦闘で結構消耗したし、アンネを捜して遠見の魔法を使いまくったおかげで精神力も空に近い。思わずトホホと言いたくなる状況で相対するのはおそらくスクウェアと思われる格上のメイジ。
 それでもニコラスは敵の前に姿を現した。

「ほらよ、出てきてやったぜ。何で俺なんかに感謝しているんだ?」
「おお、お前のおかげで、今度サウスゴータ竜騎士隊の隊長に就任が決まってな。議会に反抗的な今の隊長を首にして俺を後釜に据えて下さるとコクウォルズ子爵様が仰ったんだ。それもこれもお前が間抜けにも逮捕されたおかげだと聞いている」
「…そいつは良かったな。就職記念にここは一つ見逃してくれんかな」
「はっはっは、話に聞いた通り、お前は面白い奴だな。竜騎士達は反抗的だと聞いているが、お前の首を持っていけば反抗する奴はいなくなるだろう。だから、見逃すのは無しだ。就職祝いにお前の首をくれ」
「俺の首を持っていっても、全員、辞めちまうんじゃねーかなー……」
「辞めさせんよ。俺様の部下になったからには一から性根を叩き直してやる」

 ニヤリと笑って杖を構える。

「ジャック・ライリーだ。騎士の情けで苦しませずに殺してやる。ありがたく思え」

 やたらとやる気満々のスクウェアメイジを前に、ニコラスに勝算など無い。せいぜいアンネの逃亡時間を稼ごうと思っているくらいで、のんびりと杖を構えた。

「……ニコラス・クロード・ライエ。チェンジ願います」



[33077] 3-21    生きて帰る
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/03/03 03:08
 ザワザワと、夜の風を受けて大きな木々が不気味な音を立てる森の中。ジャック・ライリーとの戦いが始まって二十分以上が経過していたが、圧倒的に不利な状況の中、ニコラスはまだなんとか立っていた。

「はっはっは、何時まで躱せるかな? 《ウィンディ・アイシクル》!」
「くそっ、景気よく撃ちやがって……」

 痛む左足を軸にして次々に襲いかかる魔法攻撃を何とか躱し、時折反撃を試みている。相手はとにかく魔法の数量で相手を圧倒してくるというどこかで見た事があるようなタイプのメイジ。絶望的な状況にもかかわらずニコラスが冷静さを保てるのは豊富な経験のおかげだろう。
 しかし、そろそろ本気で精神力が無くなりそうだ。ニコラスはアンネが逃げた距離を計算して撤退する事を考え始めた。二十分あればセグロッドに不慣れなアンネでもそこそこ移動できる。十リーグも先行して逃げられれば、まず安全圏に達したと思って良いはずだった。

「そらそら、動きが鈍くなってきたぞ、《エア・カッター》」
「おい、苦しませずに殺してくれるって話じゃなかったか?」

 まだギリギリで躱しているが、既にかなりの数の魔法がニコラスを掠めていて、もうあちこち血塗れだ。心底楽しそうにニコラスを痛めつけるジャック・ライリーに文句をつけるが状況は何も変わらない。

 しかしこいつは確かに魔法の才能には恵まれているのだが、ニコラスから見ると体捌きなどはまだまだ修練の余地がある。このタイプのメイジなら、接近してしまえば何とかなりそうだとは思う。この左足さえ自由に動かす事が出来れば、だが。

「何の事だったかな? しかし、今のは巧く躱したなあ。それじゃあ、これはどうだ? 《エア・ハンマー》」
「ぐうっ」

 魔法そのものは文句なしのように思える。単にスクウェアだというだけではなく詠唱も早く、杖を構えてから魔法が飛来するまでのタイムラグが少ない。フットワークが思うように出来ないニコラスは『風の槌』を躱しきれずに地面へ転がされた。

「げふっ、ごほっ」

 叩き付けられた衝撃で息が詰まり、咽せる。折れた肋から響く激痛に気が遠くなりかけながらも、訓練された肉体は反射的に立ち上がってまた杖を構えた。

「うーん、『エア・ハンマー』じゃあ、大したダメージはないみたいだな。《エア・スピアー》」
「ぐっ、があっ」

 ギリギリで躱せたかに思ったが、躱しきれずに風の槍が腕を貫いた。脚が縺れたせいで躱せなかったが、今の魔法は詠唱から発動まで僅かだが間があった。使う魔法によって少し発動が遅くなるメイジは結構いるが、その僅かな違いでもニコラスレベルのメイジには十分に隙となる。体と精神力さえ万全だったなら付け入る事が出来る弱点と言えるが、今はどうしようもない。

「ふふん、お前はよくやったよ、ニコラス・クロード。もう十分だろう」
「知ってるか? そう言うのを死亡フラグって言うらしいぜ」

 現状でこのメイジに勝つ事はもう諦めている。ニコラスが目指すのは生きて家族のもとに帰る事、その為だけに最後に残った精神力を振り絞る。
 ニコラスにはウォルフと話をしていて可能性を感じてずっと練習してきた魔法がある。四十を過ぎてからそんな初歩の魔法を練習するのは恥ずかしかったけれど、その魔法だけが今この状況からの脱出を可能にすると思えた。

「何?」
「あばよ、クソ野郎。《ライト》!」
「ぐわっ!」

 その瞬間、夜の森は強烈な閃光に照らし出された。

 強烈な光は人間の視力を奪い一時的に行動不能にする、とウォルフに聞いたことがあったのだ。練習する度に強く光る魔法に興奮し、昼間の太陽と同程度の明るさでも夜の闇に慣れた目を眩ませるには十分なものであると知った。

 これがニコラスの用意した最後の手段だ。ずっと持っていたセグロッドを取り出して飛び乗った。後ろは振り向かず、一目散に逃げる、が――。



「《エア・カッター》」
「があっ」

 背後から襲いかかった魔法がふくらはぎを切り裂き、ニコラスはセグロッドごと転倒した。

「びっくりしたじゃないか。こんな手を隠し持ってるなんて、中々やるな」
「くそが……大人しく『目がー』とか言ってろよ」
「いやいや、まだ視力は戻ってないぞ、大したものだ。しかし、俺達優れた風のメイジならば、目なんて見えなくたって気配を追えるだろう?」
「……まあな。それでも、動揺して欲しかったものだが」

 倒れたままのニコラスにジャック・ライリーがゆっくりと近付いてきて杖を構える。いよいよ絶望的な状況だ。これまでか、とニコラスは目を瞑った。

「う、《ウォーター・シュート》!」
「……《エア・シールド》」

 ニコラスの直ぐ横の森から頼りない詠唱と共に、ちょっと勢い強めの水鉄砲がジャック・ライリーに向けて発射された。その攻撃は当然のように風の壁に遮られ、じょぼじょぼと情けない音を立てて地面に落ちる。

「女。これは、何の真似だ? 確かに少し喉が渇いてはいるが」
「ひいっ、あの、水入り?」

 木の陰から現れたのはアンネ。ニコラスを庇うようにして前に立ち、ぷるぷる震える杖をジャック・ライリーに向けている。
 その姿を認めたニコラスの顔が絶望に染まる。アンネが逃げていなかったのなら、これまで何のために頑張ってきたのか分からない。

「アンネ。逃げろって言っただろう……」
「ご、ごめんなさい。傷だらけのニコラス様をおいて逃げられませんでした……」
「馬鹿やろう……」
「ふん。麗しき愛ってところか? そう言えばお前はどうもエルフじゃあ無いみたいだな」
「はひぃ」

 じろりと睨まれてアンネは竦み上がる。何とか隙を突いてニコラスと一緒にセグロッドで逃げようと思っていたのに、もう一歩も動けそうにない。

「エルフじゃないって事は、お前を連れて帰っても俺の立場が悪くなりそうだな。だから……死ね《エア・カッター》」
「ひゃうっ」
「アンネっ!」

 スクウェアメイジが殺す気で放った『エア・カッター』がアンネに襲いかかった。アンネは躱す事も出来ず、その場に棒立ちとなったままだ。

「何?」
「……」

 血を吹き出して倒れる、いや、上半身と下半身とが泣き別れになるくらいの勢いで放った魔法だというのに、アンネは変わらずそこに立っていた。ジャック・ライリーは訳が分からない。有り得ない事が、今目の前で起きた。どう見てもただのメイドで、特別な装備など何もなく、肩からマントのように羽織っていたままだった黒い布の陰に隠れているだけだと言うのに。

「ニコラス様! 今ですっ!」
「《フライ》!」
「ひゃあーああ」
「っ! 虚無の布か!」

 一瞬。ほんの一瞬だけニコラスの方がその特殊な布の存在に気付くのが早かった。アンネの呼びかけに反応したニコラスはなけなしの精神力を振り絞って『フライ』を詠唱し、アンネにタックルするようにして抱きつくと虚無の布ごとジャック・ライリーに突進した。
 彼らは詳しくは知らなかったが、古に作られたこの虚無の布には全ての魔法を無効化する本物の虚無魔法『ディスペル』が付与されている。この布に向けてどんな魔法を放っても意味がないのだ。

「あ、うう」

 突進してくるアンネとニコラスに、ジャック・ライリーはどう対処して良いのかわからずに棒立ちとなったままだ。彼には魔法を通さない布に通用する魔法攻撃を思いつけなかった。
 そのまま三人は衝突し、地面に転がる。一瞬の静寂の後、アンネとニコラスはゆっくりと体を起こしたが、ジャック・ライリーが起き上がる事はなかった。その胸に、コクウォルズ家の紋章が刻まれたナイフが深々と突き刺さっていたからだ。

「いたたたた。こ、怖かったあ……魔法は通さないって聞いていても怖すぎです」
「ア、アンネ、大丈夫か?」
「は、はいニコラス様は大丈夫ですか?」
「ああ、オレは良いから先に、そのクソ野郎にとどめを、頼む」
「えっと、し、死んでる。ニコラス様、この人もう死んでますよ!」
「それは、良かった。ちょっと、止血を、お願い…」
「わ、わ、ニコラス様、しっかりー!」

 体を起こしてジャック・ライリーの様子を確認しようとしていたニコラスがパッタリと倒れる。出血しすぎたその顔は真っ青だ。
 慌ててアンネが治療に当たるが、元々魔法はへたくそなので、止血するのが精一杯だ。そうこうする内に遠くの森で動く追っ手らしき明かりを見つけ、アンネは慌てて『レビテーション』でニコラスを抱え上げた。今度こそ追っ手に見つからないように、森の奥へと進んだ。

 後には物言わぬジャック・ライリーの死体が残っているだけだった。




 懸賞金の手続きは朝にならないと出来ないのでタニアとの会談を後回しにし、ウォルフがコクウォルズ子爵の屋敷にたどり着いた時、そこで見たのは山狩りにでも出かけようとしている武装した傭兵の集団だった。とりあえず来てみたのだが、屋敷は窓が大きく壊れているし、もうウォルフにとってはビンゴとしか感じられない。飛行機を上空に残して飛び降りた。
 
「ひいいいっ! なんだお前は、怪しい奴め!」
「ちょっと人を探しているんだけど、アンネはどこ?」
「誰だそれは! 今すぐ立ち去れ、去らねば討つぞ!」
「じゃあ、ニコラス・クロードは? こっちに来てるかと思ったんだけど」

 ちょうど門の中で松明を配っているところだった一団に尋問した。ウォルフはちょっと変装しているので過剰に反応されたが、気にしない。森の方を見ると木々の間にもチラチラと松明が見え、もう出発した集団もいるようだ。あまり時間は掛けたくない。

「……こっちが探しているくらいだ。貴様は何者だ、化け物め」
「ふーん、じゃあ、コクウォルズ子爵はどこ?」

 相手の視線がちらりと壊された屋敷の方を向いた。

「ありがと。行ってみようかと思うんだけど、ここはとりあえず……《エア・ストーム》」
「うわあっ」

 相手に反応する間も与えずにウォルフは杖を振る。そこにいた二十人程の男達は巻き起こった突風に吹き飛ばされた。屋敷も気になるが、アンネ達が山狩りにあっているのだとしたらそっちが危ない。ウォルフは飛行機を呼び寄せると飛び乗り、松明の火を頼りに森に向かった。

「父さん! アンネ! いたら返事してくれ!」

 松明が移動していたのでその前方に向けて『拡声』の魔法で呼びかけてみるが反応はない。一団を飛び越しながら『ライト』の魔法を落としてそこにアンネ達がいない事を確認する。ウォルフはとりあえずこの一団も倒しておこうと飛行機を旋回させた。森の中とはいえ上空からなら地面にいる人間などエルラドの良い的でしかない。超音波をフルボリュームであびせて全員を気絶させた。山火事防止のために巨大な『エアハンマー』をその上から叩き付けて松明の火を消火しておくことも忘れない。

「父さん! アンネ!」

 一度飛行機から降り、倒した傭兵達の周囲を確認してみたが、やはりアンネ達の姿は無い。上空からもまた呼びかけてみたが、アルビオンの森はあまりに広かった。



 むやみに広い森を捜索しても見つかる可能性は低いと判断してコクウォルズ子爵の尋問を優先させる事にした。逃げてからの経過時間や移動方法が分からないと、大まかな推測すら立てられない。屋敷へととって返したウォルフは、歩きながらレーザー銃を取り出した。練習はしたが、ウォルフ本人が実戦に使うのは初めてだ。まずは建物の入り口で守りを固めているいかにも傭兵と言った感じの荒くれ者達がターゲットだ。

「何者だっ! ぎゃあっ」
「あやしいやっ!!」
「な、何だ、えうっ!」
「ひいっ!」
「邪魔だ。『エア・ハンマー』」

 進路を遮ろうとしてきた四人程をレーザーで打ち倒し、倒れた体を魔法で吹き飛ばす。屋敷に侵入したウォルフはその後も全く誰もいないのと同じように屋敷の中を進んだ。レーザー銃の使用感としては、ちょっと簡単すぎる印象だ。赤色レーザーで照準もつけているので照準が標的を照らした瞬間に引き金を引けば倒せてしまう。そもそも外すという方が難しいくらいで、あまりにも簡単に敵を倒す事が出来る兵器に作ったウォルフの方が戦慄する。一応出力を落としているのでいきなり命中した場所が爆発するという事はないが、目を焼かれては戦闘を継続する事は難しいだろう。ハルケギニアの魔法技師がこの武器に使っている魔法がただの『ライト』だと知ったら驚愕する事は間違いない。光のコヒーレンスを極限まで高め、高出力の『ライト』が発した光をレンズで集束して照射する。それだけでウォルフはただの照明器具を兵器へと作りかえた。
 杖は焼き銃や剣は破壊し、その後もさしたる抵抗はなくウォルフは主人の寝室にたどり着いた。

「ひ、ひいいいい、おい、貴様等俺を守れ!」
「ぐあっ」
「ぎゃあっ」

 コクウォルズ子爵の護衛に付いていた二人のメイジも何も出来ずに倒れ伏した。

「話すのは初めてになるね、コクウォルズ子爵。ちょっと、尋ねたい事があるんだけど、いいかな?」
「ば、化け物め! そんな変装をしていても分かるぞ、貴様、ウォルフ・ライエだろう」
「やだなあ、ちょっと老け顔なだけで変装何てしていないよ」
「ハゲでひげが生えてる子供がいるか! ちょっとは考えて変装しろ!」

 ウォルフが変装に使用しているのはヴァレンティーニが使っていた顔を変える魔法具だ。特に設定をいじらなかったので四十過ぎの親父の顔がそのまま十一歳の体に乗っかっており、違和感がありありだ。

「まあいいや。攫ってきた女の人はどうしたのかな?」
「知らん! あのエルフはとっくに逃げ出したわ。貴様こんな真似をしてただで済むと思っているのか、ワシはサウスゴータ市議会議員コクウォルズ子爵だぞ!」
「アンネはエルフじゃねーよ。人一人攫っておいて、何言ってんだ、コクウォルズ。自分が今何を言ったのか分かってるのか?」
「……まさか、録音なんてしていないだろうな?」
「してるに決まってるじゃん」

 背中のリュックにはおしゃべりアルヴィーが入っている。もちろんこの会話内容は全て録音していた。まあ、もっともこちらも不法行為をしてるので表沙汰に出来るような事ではないが、ウォルフにとっては子爵を断罪するのに十分な証言だ。

「逃げ出したんなら嬉しいけど、森では見つからなかったんだよね。ちょっと念のため家捜ししても良いかな? 何か地下に人の気配がするし」
「くっ、死ね! ぎゃああっ」

 コクウォルズが杖を向けたので、レーザーでその杖を燃やしてやった。手にも当たったみたいで床を転がり廻っている子爵の額に照準を合わせたが、思い直して引き金から指を外した。こんな屑など殺したほうが後々面倒が無さそうなのだとは思ったのだが、さすがに貴族を殺すと市議会だけでなくアルビオンという国そのものが表立って敵対してくる可能性がある。それは面倒くさそうだし、アンネ達が無事ならそこまでする程ではない気もするので一旦保留する事にした。

「おい。暫くの間お前の命を預けておく。アンネ達が無事に見つかるように祈っておけよ」
「ひいいいい」

 うずくまってヒイヒイ言っている子爵を放置して、逃げだそうとしていたコクウォルズの傭兵らしき男を捕まえて詳しい顛末を聞いてみたら、どうやらニコラスがワイバーンに乗って襲撃したらしいと言う事が分かった。ニコラスは若い頃使い魔の竜を戦闘で失ってから二度と使い魔を召喚するつもりは無いと話していたが、どうやら新たに召喚したものとウォルフは判断した。竜で逃げたとなると捜索対象範囲が広くなりすぎて大変だが、竜騎士が竜を得たのなら安心できる。ニコラスを追っていったワイバーン使いが戻ってこなかったという話も有り、緊急性が幾分低くなったようだ。ウォルフは屋敷内の証言の裏付けと証拠の確保のために屋敷内、特に地下の捜索を優先する事にした。

 人が入れそうな空間を見つけては『エア・ハンマー』で壁を吹き飛ばして中を窺い、部屋から部屋へ移動する。屋根裏も地下室もくまなく探したが、アンネもニコラスの姿も見つからなかった。
 地下にはやたらと頑丈な牢屋があって、少女が二人監禁されていた。解放しがてら話を聞いてみると盗賊にさらわれてここに連れてこられたとの事。領地の規模の割には豊富な資金力を見せるコクウォルズ子爵には黒い噂が絶えなかったが、真っ黒だったらしい。
 
 少女達を保護しなくてはならないし、この地下室にもいないという事は逃げ出したというのは本当なのだろうと判断してウォルフは家捜しを打ち切った。ウォルフは移動するのに廊下や階段を使わずに直接部屋から部屋に移動して探し回ったので、そのころにはコクウォルズ子爵の立派な屋敷は穴だらけの廃屋と化してしまった。

 とりあえず何か更なる情報を得るためと、タニアに彼女たちの保護を頼むため、ウォルフは一旦サウスゴータへと戻った。




 しかし、サウスゴータでいくら待ってもその間の森の上空を何度も往復して探しても、ニコラスとアンネが現れる事はなかった。ウォルフは三日間仕事を休んで周辺の森や村を探索したが、手掛かりを得る事が出来ずに一度ボルクリンゲンに帰らざるを得なかった。
 アンネには懸賞金を掛け、情報を広く求めたが発見に繋がるようなものは得られず、時間だけが経過した。ウォルフとは入れ違いにエルビラとクリフォード、それにマチルダがゲルマニアから帰ってきて捜索に当たったが、こちらも成果はなかった。

 エルビラ達はその後も周辺の村々を泊まり歩きながら捜索を続け、村人の協力も受けながらワイバーンの目撃情報を求めたり戦闘の跡などを探し続けた。エルビラは太守に仕えていた当時、時間が空いた時には周辺の村で山賊の討伐や亜人・幻獣の駆除などを趣味として行っており、平民達には太守様の女官様と呼ばれて大層慕われている。マチルダも当然人気があったので村人達は皆協力的だった。彼らのネットワークを駆使して情報を集めたが、ニコラスとアンネらしき人物の目撃情報すら得られなかった。

 議会の方も独自に捜索を行っているようで気は抜けない。何度か捜索を邪魔されたエルビラが切れて貴族の館を焼き討ちとかしているが、そんなことは小さな事でしかない。サウスゴータ議会はアルビオン王家にエルビラ達の指名手配を求めたが、そもそも襲撃する時は仮面を被っていたので証拠がないし、ガンダーラ側からもコクウォルズ子爵を筆頭にサウスゴータ市議会議員達の犯罪について告発が来ていた為、王家はこれを無視した。元々領地の治安維持は領主の義務であるわけだし、もうガンダーラ商会とは関わりを持ちたくないようだ。

 

 何度か仕事を休んで捜索に参加していたウォルフが、その反応に気付いたのは、偶然だったのかも知れない。ウォルフはエルラドをスピーカーとして使用し、上空から広い範囲に呼びかけを行っていたのだが、その廃村に向けて呼びかけた時、エルラドから発せられる超音波の反射が普通とはちょっと違うように感じられたのだ。

 サウスゴータ夫人が経営していた孤児院の跡だというその村は街道から外れた森の中にひっそりと佇んでいて、まだ捨てられたばかりのその村におかしな所は何もない。その村は事件直後にも捜索していたがその時にはもう誰も住んでおらず、ニコラス達はいなかった。
 不審に思い飛行機を降りて村を歩いてみると、すぐに違和感の原因と思われる家を特定することができた。

「これは……『サイレント』が掛けられているな。壁全体と、屋根にも。調べてみるか」

 『練金』で壁をすり抜けて内部に潜入した。内部は普通の民家の造りで『サイレント』は掛かって居らず、ウォルフが入った場所は台所。湯気を立てる鍋があり、人がいる事は間違いないようだ。
 奥の部屋にその人間がいるようなので、気配を消し警戒しながら廊下を進む。奥の部屋の二人以外にこの家には人間はいなそうだ。
 ドアの前に立ちノックしようとするウォルフの耳が、部屋の中の物音をとらえた。

「あんっ、そんなとこ触っちゃダメですよう……もう、食べさせてあげませんよ?」
「ああ、ごめんごめん。わざとじゃないんだ、わざとじゃ。この手が悪いんだな、この手が。えいっえいっ」ペシッペシッ
「ふふふ、今は食事中なんですから、お行儀良くして下さいねー。はい、あーん」
「うん、アンネは優しいなあ。あーん」

 ドアの向こうは見たこともないようなスウィートでストロベリーな異空間が広がっているみたいで、ウォルフは今すぐ踵を返して帰りたくなった。砂糖を吐きそうになるというのはこのような気持ちだろうか。ニコラスとアンネの情報を求めて奮闘しているマチルダとは最近顔を合わせる度に二人の報復を何時始めるか話し合っている。襲撃に関わった議員達の割り出しも終わり、そろそろ大々的に始めようかと思っていたのに、当の二人はこんな状態だ。

 全てを見なかった事にしたい気持ちはやまやまだが、そういうわけにもいかず覚悟を決めてドアをノックする。とたんに中でごそごそガチャガチャと物音がし、「ど、どなたですか?」と少しうわずったアンネの声が聞こえた。

 声で分かっていたことだが、やはり中にいるのは探している人達らしい。盛大にため息をつきながらドアを開けると、果たして驚いた顔のアンネと杖を構えながらやはり驚いているニコラスがウォルフを出迎えた。ニコラスはベッドの上に座り、アンネはその傍らに立っている。

「……」
「お、お久しぶりですウォルフ様、お元気、そうですね?」
「お、おうウォルフ。驚かすなよ、ノックは玄関のドアでするものだぞ。久しぶりだな、無事だったか?」
「ああ、みんな無事だったよ。って、そうじゃねぇーだろ!! 久しぶりだなじゃねーよ! 生きてンなら何で連絡よこさねーんだ、みんなずっと心配してるんだぞ!」
「い、いやあ、連絡はしようと思ったんだよ? でも俺は怪我しちゃって動けなかったし、外の状況は分からないし、見つからないように暫くは大人しくした方が良いかなって」

 ウォルフに怒鳴られ、慌ててニコラスが色々と釈明する。ちょっと支離滅裂になりかけの説明によると、少し前からここに潜伏していたという。連絡を取ろうとした時に議会の捜索隊に見つかりそうになり、安全を考慮してニコラスが動けるようになるまでのつもりでここに籠もっていたと。そう言われてベッドに腰掛けているニコラスをあらためて見ると確かにあちこち酷い傷跡が残っている。

 ふむ、と考える。ただずっとアンネといちゃいちゃするために籠もっていたのかと思ったが、それなりに大変な目に遭っていたようだ。

 もっと詳しく話を聞いてみると、アンネを救い出したまでは良かったが追っ手との戦闘で杖が折れて出血多量と精神力切れによりニコラスは気絶。携行していた水の秘薬を用いてアンネが治療するも、へたくそなため大して回復せず一週間程は森の中の洞窟で生死の境を彷徨ったと。
 意識が戻ったのが今から三週間前、そこから一週間でそこそこ回復して杖の契約を始め、先週契約が終わって自分で傷を治しているそうだ。しかし、契約した杖は相性が今一で魔法の通りが悪い上に水の秘薬はアンネが使い切ってしまったので傷が変な風にくっついちゃったりしているのを治すのに苦労しているとの事。
  
「あれ、父さん新しく使い魔を喚んだんじゃないの? なんでそれで帰って来られなかったの?」
「使い魔なんて喚んでないぞ。俺の使い魔は死んだキャシーだけだ」
「でも、父さんがワイバーンで突っ込んできたってコクウォルズの家の奴が言ってたよ?」
「その辺のワイバーンを捕まえて乗ってっただけだ。使い魔にしなきゃ、魔法具が無きゃあ竜に乗れないなんてのは二流の竜騎士だ」
「おお、すげえ。初めて父さんをちょっと尊敬したかも」
「初めてで、しかもちょっとかよ。まあ、そんな訳で、一度アンネが連絡に行こうとした時にも苦労したし、脱出する時は二人一緒にしようってことになったんだ。幸い、ここには食料も残されていたしな」

 一応筋は通る。戦闘できる者がいなければ森を抜けるのも大変だろう。しかし、視線を横にずらしてアンネを見ると腹部にアンネとは別の生命の気配。どう見ても妊娠中です、ごちそうさまでした。

「アンネ、そのお腹は?」
「あ、これは、その、ニコラス様が…」
「いや、その、やっぱり妊娠してるか? 傷が治りかけて弱っていた時にだな、優しく看病して貰っている内につい…一回だけだったんだが大当たりで……」
「まあ、わかるけどね。人間弱ると遺伝子を残したくなるものらしいし」
「その、エルビラには……」
「あ、父さん、この事母さんに伝える時は先に言ってね? 秘薬をバケツ一杯用意してあげるから」
「……はい」

 死にそうな怪我して何をしてんだかと、冷たい目で父を見る。まだ妊娠二週間ちょっととのことなのでそんなのの気配が分かる自分を凄いとは思うが、別に分からなくても良かった事だ。ニコラスへの皮肉に、まあ、死んじゃったら秘薬も効かないけど、と付け加えるのは忘れなかった。
 サラの親とはいえアンネはまだ二十八歳。昔からニコラスにちょっかいを掛けられていたが、それ程本気で嫌がっている風には見えなかった。吊り橋効果もあったのかも知れないが、本人も合意の上だったのだろう、顔を赤くして俯いている。女盛りというのに結婚する気は無いみたいだったのでニコラスの妾に納まるのは彼女にとって良いことなのかも知れない。現在ニコラスは住所不定無職だけれども。
 それにしても一発で妊娠するとは。サラの時も一発ホームランだったらしいからアンネは今のところ打率十割だ。ていうか、妊娠したのは一発だったかも知れないが、あの様子で一回だけなんて誰も信じない。

「まあいいや。母さんが待ってる、帰ろう」
「おお、帰るのはいいんだが、ウォルフ、水の秘薬持っているんだろ? ちょっとこの左足だけでも治してくれよ。痛いし、歩きづらいんだ」
「えー? どうだろう、秘薬が勿体ないし後にした方が良いんじゃないかな。ちょっと母さんが荒れ狂っているんだよね。ケロッと出てこられたらそれこそどんな事になるか分からないし、父さんは怪我してた方がいい気がする」
「……ちょっとって、どれくらい?」
「議会の連中の領地の屋敷が五つ更地になった。このままだとサウスゴータ郡部に貴族の家は無くなるんじゃ無いかともっぱらの噂。そこにアンネが妊娠させられたとなると……」
「後で、火傷の治療と一緒で良いです……」

 ニコラスの事を『レビテーション』で持ち上げて外に出て、飛行機を呼び寄せると二人を前の座席に押し込んで飛び立った。一人分の座席に二人を押し込んであるのでニコラスの膝の上にアンネが乗る形になっている。もぞもぞしながら顔を赤くしている二人を見てるとまたイラッとするが、これも無事だったからこそだろうと思い直した。一つ大きく深呼吸をして、前に座る父親にまだ告げていなかった言葉をかけた。

「父さん」
「あん?」
「アンネを助けてくれて、ありがとう」

 少し、驚いたらしいニコラスが後ろを振り向いたが、すぐに何でもないとでも言うように手をひらひらさせてまた前を向いた。
   
「お前は忘れているかも知れないが、これでも俺は家長だしな。当然の事をしただけだ。みんな無事で良かった」
「頼りにしてるよ、家長様」

 三人を乗せた飛行機が向かった先はほんの三十リーグ程離れたメルズの村。今日エルビラはその辺で捜索している。

 再会の様子は省略する。ウォルフは水の秘薬を駆使してニコラスの治療を行った。



[33077] 番外9    カリーヌ・デジレの決断
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/03/07 23:40
 轟々と音を立てて屋敷が燃える。
 ウォルフが父ニコラスを見つけ出す少し前のとある日、サウスゴータとロサイスとを結ぶ街道の通る、裕福な貴族の領地にあるその屋敷は炎に包まれていた。室内の一角から始まったその火事は今や炎が屋根にまで回り、焼け落ちるのも時間の問題のように見える。この事態を引き起こした人物はそれがさも何でもないことのようにまるで慌てず、ゆったりとその屋敷の正面から外に出てきた。

 黒に近い赤髪、抜けるように白い肌。眼の回りを仮面で隠しているがエメラルドのような深緑の瞳、そして何よりその強力無類な魔法。最近サウスゴータ周辺の貴族から歩く天災、気まぐれな絶望などと呼ばれ恐れられている「業火」エルビラ・アルバレスその人に間違いなかった。

「ぞ、賊が出てきたぞ、野郎共囲むんだ!」
「無理無理無理ですって、代官様。女官様に手を出さなければ、お怒りに触れることもないのですから、そこからお退き下さい」
「そうですよう、何そんなところに突っ立っているんですか、女官様のお邪魔になるじゃないですか」
「て、てめえら、何女官様とか呼んでんだ! 今から屋敷を燃やすから出て行きなさいとか言われて素直に出て行きやがって! 俺は旦那様からこの屋敷を預かっている者として、屋敷を燃やした賊を黙って帰らせる訳にはいかねえんだ」
「そんなこと言ったって、先に手を出したのはウチの旦那様なんだから仕方ないじゃないですか。屋敷燃やすのに中にいたら危ないですし」
「大体旦那様はこっちに来るって聞いただけで真っ先に逃げ出しちゃったんだし、頑張ったけど、敵わなかったって報告だけすればいいですよ、どうせ結果は同じなんだし」
「くっ、てめえらがそんなんなら仕方ねえ! こうなったら俺一人で……ひいいいっ!」

 わーわーと言い合っている男達の横をエルビラは悠然と通り過ぎた。威勢の良いことを言っていた代官はエルビラと眼があっただけで腰を抜かしてへたり込んでしまったので、その行く手を遮る者は誰もいない。

「ふう……やっぱりここにも情報はなかったわね。貴族達も情報を掴んでいないのは間違いないのかしら。あらスー、外に出たいの?」 
「あーうー」

 男達から離れたエルビラは着用している趙子龍鎧の胸の部分を開き、中に収まっていた愛娘ペギー・スーを外に出す。鎧の中は快適なようなのだが、一歳を超えて動きたい盛りの娘は長時間だと外に出たがる。森へと歩きながら腕に抱えてあやした。物々しい鎧を着用している事や仮面を付けている事を除けば、その姿は普通の散歩中の親娘で、たった今貴族の屋敷を一つ壊滅してきたようには見えない。そんな二人に森の中から姿を現した少年が歩み寄る。ペギー・スーの兄、ウォルフ・ライエだ。

「母さん、また貴族の屋敷燃やしたんだ」
「あら、ウォルフ来ていたの。仕方ないでしょう、ニコラスの捜索に協力してくれたアシュリー達に鞭打ちとかしたのよ、あの子爵。屋敷にいなくて残念だわ」
「やれやれ。まあ、確かに自業自得だな。おいで、スー」
「だーいー」
「向こうに飛行機停めてあるから、一度帰ろう」
「そうね、この辺にはもう情報無さそうだし、そうしましょうか」

 三人の親子は連れ立って森の奥へと向かった。赤ん坊を抱き上げてあやす兄の姿とそれを幸せそうに見詰める母。まったくもって普通の親子としか見えない。そんな親子の姿を森の中からじっと見詰める一対の眼があった。

「あれが、エルビラ・アルバレス。ウォルフ・ライエの母……確かに、手強そうね。息子のような得体の知れ無さは無いけれど」

 木の陰から覗きながらポツリと呟くのはカリーヌ・デジレ。トリステイン貴族ラ・ヴァリエール公爵の妻にしてルイズ・フランソワーズの母、トリステインでかつて最強の名を恣にしたメイジ、「烈風」だ。当時の衣装である男装に身を包んだ彼女は油断無くその気配を消している。

「んう、女の子もやっぱり可愛いわね。ああ、ロランに会いたいわ」

 暫く会っていない息子を思い出し、少し淋しそうに呟いた。そのまま親子の様子を観察していたが、ウォルフがチラリとこちらに目を向けた気がして慌てて木陰に隠れた。

「まさか気付いてはいないわよね。この距離だし」

 超一流の風メイジであるカリーヌが気配を消すとまず気付かれるはずはないのだが、相手は得体の知れないメイジであるウォルフなので油断はならない。こちらに向けた視線は妹をあやしている時とはまるで別人のような鋭いものだった。暫く隠れていると、彼らは行ってしまったようで、ホッと息を吐いた彼女は木の陰から出てきて勢いよく潜んでいた斜面を駆け下りた。木陰に繋いだ馬はそのままにしておいて、燃えている屋敷へと向かう。そこでは先ほどの代官と見られる男が部下達を駆り立ててバケツリレーで火を消そうとしているが、もうそんなのでどうにか出来る段階の火事ではなくなっているので部下達の動きは鈍い。

「やめておけ。あの炎だと、近付くだけで火傷を負うぞ」
「何だてめえは! ……何か、御用でしょうか」

 代官は背後からかけられた声に苛立たしげに振り返ったが、そこにいた細身の男から先ほどまでいた化け物と同等の威圧感を覚え、丁寧に言い直した。

「周りの者達をもう少し下げろ。そうすれば火を消してやる」
「へ、へえ。おい、聞いていたか、下がれ下がれ!」
「ああ、その位で良いだろう、『エア・ハンマー』」

 人々が下がったのを確認したカリーヌがスペルを唱えて杖を振ると、ズドン、という地響きと共に屋敷は叩き潰され、あれだけ荒れ狂っていた炎も同時に鎮火された。上空から振り下ろされた巨大な『風の槌』が、燃えさかる炎ごと屋敷の構造全てを押しつぶしたのだ。まだ多少燻ってはいるが、高さが無くなったのでもうそれ程大きく燃える事はないだろう。他の建物への延焼の危険性はなくなった。

「す、すげえ。こんな風魔法、見たこと無いぞ」
「いや、俺は、見たことある……」

 感謝と畏怖の混じった気持ちで人々がカリーヌを見詰める中、一人代官だけは驚愕の表情を浮かべていた。彼は若い頃領地の商人と共に良くトリステインへ買い付けに行っていた。もう二十年以上前のことだが、その時に数度見たことのあるトリステイン魔法衛士隊マンティコア隊隊長の魔法は、忘れようとしても忘れられるようなものではない。呆然として顔を確かめれば、その顔にも見覚えがある。トリステイン最強と言われた「烈風」カリンその人に間違いなさそうだった。

「ト、トリステインの、カリン様でございますね、アルビオンにいらしてたとは存じませんでした。ありがとうございます、おかげさまで延焼を防ぐことが出来ました」
「ああ、私を知っているのか。どこかで会ったことがあったかな」
「会っただなんてとんでもない、遠くからお見掛けしたことがあっただけです。ラ・ロシェールの岩山で二十人もの盗賊共が木の葉のように吹き飛ぶ光景は、強烈に私めの胸に焼き付いております」
「そんなこともあったか。まあ、昔のことだ」

 遠く異国にまで来ていきなり昔の自分を知っている人物と会ってしまい、カリーヌは驚いたがそんな気配は見せず鷹揚に頷く。

「カリン様には是非、お礼をいたしたいので、ぜひあちらの別宅へお立ち寄りください」
「ああ、いや旅の途中故遠慮しておく。シティ・オブ・サウスゴータへ行く途中、たまたま火事に立ち会ったから消しただけだ。そんなにかしこまる必要はない」
「そんなことを仰せられても、何もせずに帰したとあっては私めが主人に叱られてしまいます。カリン様はサウスゴータは初めてでございましょうか?」
「ああ、そうなるな。一度来たいとは思っていたのだが中々機会が無く」
「では、せめて街まで案内いたしましょう。現在この地方は多少ごたついておりまして、お一人では街に入る時に少々時間が掛かるかも知れません」
「ふむ。そういうことなら、遠慮無く案内を受けるとしよう」

 カリーヌが森に繋いである馬を取りに戻る間、代官も急いで馬を用意し、屋敷から持ち出した筆記具で手紙をしたためた。

「おい、急いでこの手紙を街の屋敷にいる旦那様に届けろ。伝書でな」
「は、はい。この場の後始末はいかがなさいましょうか」
「そんなのはお前に任せる。また火が付くかも知れないから、水をかけて完全に鎮火させろ」
「はい。あの、代官様が行かなくても、誰かに案内させればよいのでは……」
「馬鹿もん。『烈風』と言えば『業火』に対抗できるメイジだぞ。逃す訳にはいかん、何としても味方に引き込まなくては」

 サウスゴータを長らく治めてきていた太守に代わり、新たな支配者となろうとしている市議会議員達は、現在エルビラに暴れ回られているおかげで民衆の支持が落ちる一方だ。毎日のようにどこそこの貴族の屋敷が燃やされたと面白おかしく新聞に書き立てられては、とてもではないが民衆の敬意を集めることなど出来ない。

 エルビラだけでも大変なのだが、更にもう一組の「怪盗」も紙面を賑わしており、議会の支持を落とす事に貢献している。男女二人組の怪盗なのだが、男の方はあまり印象に残る事がないので話題にはならない。しかし、女の方の印象が強くて街の人々の話題をさらっている。貴族の屋敷ばかりを狙う怪盗「土塊のフーケと風塵のベルイル」はお宝などには目も向けない。彼女らが盗み出すのはエキュー金貨と貴族の不正を示す証拠書類だ。金を盗み出し、その金を生活が苦しい平民の家に投げ込む。手紙や書類を盗み出し、不正の証拠を見つけてはそれを街の広場に張り出す。貴族達からしたらたまったものではないが、彼らは時に逃げながら金をばらまく事もあり、義賊として平民達から圧倒的な支持を得ている。戦闘の腕は確かで、四十メイルものゴーレムと全てのものを断ち切る剣技で圧倒する。その正体は誰がどう見ても元太守の娘マチルダではあるのだが、仮面をしているその少女怪盗のことをマチルダだと証言する市民はいない。

 現在サウスゴータ周辺貴族達は、彼らが所属する「貴族派」の内部でもその地位と影響力を著しく下げている。ガンダーラ商会の技術と生産力を一つも手に入れることなくみすみす国外へ逃がし、資金や物資の援助を受けて行われた襲撃でも何も得る物がなかったためだ。他の地域の貴族達からはっきり能無しと言われた者もいるほどで、この評価を覆すのは大変な事だ。いくら威厳を持って高圧的に振る舞おうとも、民衆達にはそんな貴族達の焦りの気持ちが透けて見えている。統治を安定させるため、まずエルビラ・アルバレスとマチルダの暴虐を止め、平民に自分達の力を示さなくてはならない。

 カリンの力を利用してエルビラ達を追っ払うことが出来れば、そしてその時に上手く立ち回ることが出来れば、個人的に準男爵くらいの爵位を得ることは可能ではなかろうかとスタンリー子爵家代官フレデリックは目論んでいた。



 フレデリックに案内されてカリーヌは街道を馬で数リーグ進み、サウスゴータへと到着した。城門では検問が行われていて長い行列となっていたが、フレデリックが軽く門番に挨拶するだけで二人はスムースに城内へと入れた。

「確かに城門での手間を大分省くことが出来たようだ、礼を言う」
「とんでもない事にございます、この程度は当然のこと。カリン様、お泊まりはどちらへ?」
「ああ、ホテル・デ・ヴェーレの予約を取ってある。確か、中央広場に面しているのであったな」
「……はい、こちらになります、ご案内いたしましょう」

 ホテル・デ・ヴェーレはサウスゴータ一の格式を持つ、上級貴族御用達の高級ホテルだ。来る途中に話したところでは色々思うところあって騎士隊を辞め、現在は流浪の身だと話していたが、そんな身の上で泊まるようなホテルではない。カリンの素性に色々思いを馳せながら、フレデリックはホテルまで案内した。

「それでは私めはこれで失礼させていただきます。スタンリー子爵家の屋敷は市内にもありますので、何かお困りのことがあれば声を掛けて下さい」
「ああ、ありがとう。助かったよ、君も気をつけて帰ってくれ」
「はい、それではこれで。カリン様、良い旅を」

 ホテルのロビーでフレデリックとは別れ、カリーヌはチェックインして部屋へと入った。豪奢な室内で男装を解き、シャワーで旅の埃を落とす。長距離の旅に疲れた体に熱いシャワーが気持ちよかった。

 カリーヌがこんな所まではるばる来ている目的は情報収集だ。特にガンダーラ商会とその筆頭株主であるウォルフ・ライエの情報を求めていた。ラ・ヴァリエール公爵の部下による情報収集も勿論行っているが、入手できている情報はごくありふれたものだけだ。ラ・ヴァリエールはウォルフに公にしたくないことを既にバッチリと知られてしまっている。トリステインではガンダーラ商会の悪評を聞くこともあり、不安が募ったカリーヌは止める夫を置いて単身ここまで来てしまったのだ。

 ウォルフ・ライエとは何者か。信頼に足る人物なのか、油断ならぬのか。何故あの歳であんな立場に至っているのか、何か秘密はあるのか。たとえ恩人であろうとそれだけで全ての判断を停止して信頼してしまえる程、貴族の世界は甘いものではない。カリーヌはウォルフの全てを知りたかった。

 虚無こそメイジ達の王、などと公言して彼は平然とルイズを政争の渦中へと投げ込んだ。まだ十一歳でしかない娘をだ。彼が秘匿することを拒んだおかげで夫はろくな根回しも出来ない内に王家に報告せざるを得ず、その結果王家やアカデミーがルイズをトリスタニアへ寄越すように要求してきている。もちろんそんな要求は拒んでいるが、アカデミーによる研究には協力する約束をさせられた。カリーヌには彼の立場でももっと他にやりようはあったのではないかという思いが強い。
 カトレアのことについて彼とはまだ何も話してはいないが、もし彼がルイズの時と同じような対応を取ったらと思うと、カリーヌは全身が粟立つのを止めることが出来ない。娘を守るという本能に駆り立てられた母親は、久方ぶりに昔の衣装を引っ張り出し、城を飛び出した。



 シャワーから出ると荷物を広げ、資料を取り出して確認する。

「スタンリー子爵……あった。サウスゴータ市会議員で貴族派と呼ばれる王制廃止派の一員。今回ガンダーラ商会とは決定的に対立した一派ね」

 今回の事件でウォルフ・ライエの父親であるド・モルガン男爵が爵位を失って平民になっているが、その彼は現在行方不明だという。ロサイスではガンダーラ商会と王立空軍との間で激しい戦闘があったと噂されており、実際に大量の艦船が大破して修理中だった。色々調べては見たがどちらの情報も真偽は確認できなかったので、今回貴族派と伝手が出来たのは調査の進展のためにはプラスとなりそうだ。

 色々と資料を確認していると部屋にある『伝声』の魔法具がベルを鳴らした。このホテル自慢の設備で、軍の船舶などには普通に装備されているがホテルにあるのは珍しい。

「はい」
「カリン様、サウスゴータ市会議員スタンリー子爵様が面会を求めてフロントまでいらしています。いかがなさいましょうか」
「ああ、ロビーで会うから待っててもらってくれ」
「かしこまりました」

 早速フレデリックの主人が面会に来たようだ。遠からず接触してくるのではないかと思っていたが案外早い。部屋に通そうかとも考えたが、僅かな間に散乱した荷物を見て外で会うことにする。手早くまた男装に身を包み、身支度を調えると階下のロビーへと向かった。



 ロビーにはフレデリックとスタンリー子爵が待っていて、消火活動のお礼に夕食をご馳走したいとのことだった。断る程のものでもないし、こちらの目的のためにはありがたいので承諾すると二人は喜んで帰って行った。ハルケギニアでも名だたるメイジと食事を共に出来るのは名誉なので、仲間の貴族にも声を掛けるとのことだ。

 多くの貴族から話を聞けば、ガンダーラ商会の本質も見えてくるかも知れない。カリンの名声が思わぬ形で調査の役に立ちそうで、幸先の良さに調査に対する意欲もいや増した。まだ夕食には時間があるのでその間カリーヌは街で情報収集にあたった。マーケットや広場などでさりげなく市民達に今回の事件やガンダーラ商会の事について探りを入れたが、そこここで話題になっているので自然に聞き込みが出来た。

「太守様が王様に謀反だなんて、そんなことある訳ないだろう。この髭を賭けても良いよ」
「議会の連中のでっち上げだろうね。以前から太守様を煙たがっていたみたいだし、酷い話さ」
「姪っ子がガンダーラ商会に勤めているけど、良くしてもらっていたよ。工場移転に付いていってゲルマニアに行っちゃったのだけど、道中で襲撃を受けたらしい。商会の護衛部隊が追っ払ったそうだけど、襲撃してきた奴らの中に市議会の連中の子飼いを見かけたって手紙に書いてきたよ」
「やっぱり市議会の連中の仕業だったんだね、あの襲撃。全く非道い話さ。あたしの甥夫婦もそのノビック移住組だったんだけど、結局みんなで相談してアルビオンを出ることにしたそうだよ。向こうの暮らしはとても良いみたいで、あたしにもゲルマニアに来ないかって誘ってくれてるよ。サウスゴータには愛着があるけど、こんな非道い話ばかりだと、考えちゃうねえ」
「ほんと、どうなっちゃうのかねえ……小麦の値段が五割も上がったよ。ガンダーラ商会追い出して良い事なんて一つもない無いだろうってこの街の者はみんな思っているよ」
「まったく。マチルダ様、おっといけない、フーケ様のおかげで何とか暮らしてはいるけど、フーケ様だって何時までもああいう事を続ける事は出来ないだろう。そろそろ、決断すべきなのかねえ」

 ちょっと話を振るだけで、大量の反応が返ってくる。皆議会や王国政府の対応には大いに不満を感じているらしく、反対に商会の評判はすこぶる良い。トリステインでの評判とはまるで違う事に多少驚きながら、カリーヌは調査を続けた。



 夕刻、約束した時刻に迎えに来たフレデリックの用意した馬車に乗り、向かった先はサウスゴータでも名のあるレストラン・ローズ・アンド・ワンド。通された部屋からは窓越しに美しくライトアップされた庭が見え、季節にはまだ早いというのに花壇の薔薇は満開となって客の目を楽しませている。室内には既に数名の男達がカリーヌを待っていた。全員がサウスゴータ市議会議員だという。

「いやいや、かの高名なメイジ、カリン様と食事を共に出来るなんて光栄です。アルビオンへはどのようなご用件で?」
「ただの観光だよ。ただ、これは内聞にしていて欲しいのだが、最近ガンダーラ商会がトリステインにも進出してきていてね、恩のある貴族の方にどんな商会なのか観光のついでに様子を見てきて欲しいと頼まれているんだ。まあもっとも、もうこの地方からは撤退してしまったようだが」
「ああ、それは……注意した方が良いですぞ。ガンダーラ商会を一人見たら十人は入り込んでいると考えて良いでしょう。いつの間にやら入り込み、シロアリのように全てを食い尽くしていく奴らです。この地方では何とか駆除に成功しましたが、この数年の間に産業はかなり食い荒らされてしまいました。これから復興への道を進まなくてはならないのですが、大変ですよ」

 なるべくさりげなく、商会の話を振ってみたのだが、早速食いついてくる。彼らが語るガンダーラ商会は、市井の者達が語るものとはまるで別の商会のようであった。

「そうなのか。街で市民達に聞いてみたところでは評判が良かったので、意外に思っていたのだが」
「それがやつらの手なのです。不当廉売で競争相手を破産に追い込み、市場の独占を目論んでいるのです。廉売している間は平民の人気はありますが、市場を独占した後に彼らがどんな態度に出るかなんて火を見るより明らかです。全く、平民というのは救いがたい。秩序を破壊し伝統を蔑ろにする事がどんなに罪深いのか、まるで理解しようとはしないのですから」
「はあ……」
「全く度し難いですな。自分たちの社会を内側から食い尽くそうとしている者に喝采を送り、害虫を駆除した恩人に不満を述べるのですから。平民に理性を求めるのなんて無理だと分かっていても、腹は立ちます」
「ガンダーラ商会の調査をカリン様に依頼したそのトリステイン貴族の判断は正しいですぞ。害虫は食いつかれる前に潰すのが一番です」
「まあまあ。ワインの用意が出来ました、今日の出会いを始祖に感謝して乾杯いたしましょう」
「おっと、つい興奮して声が高くなりましたな。それでは、あらためまして、乾杯!」
「「乾杯」」

 ガンダーラ商会がここにいる貴族達に嫌われているというレベルではなく、憎まれていると言うことはよく分かった。そのまま食事へと移ったのだが、料理自体はアルビオン料理が世間で言われている程悪くはないと思った。野菜料理はともかくローストビーフやステーキは中々のものだ。しかし、食事中ずっと口汚い罵詈雑言を聞かされていては美味いと感じるはずもない。彼らの情報がどの程度真実を含んでいるのかも分からず、カリーヌは適当に相槌を打ちながら話を聞いていた。

「今日はカリン様も見たでしょう、私の屋敷が燃やされるのを。仮面で顔を隠してはいますが、あれはガンダーラ商会のオーナー、ウォルフ・ライエの母エルビラ・アルバレスに間違いありません」
「あの炎、相当な使い手ではあるな」
「あれの夫が爵位を失ったのは自業自得だというのに、逆恨みして攻撃を仕掛けてきているのです。残念ながら我々にあのレベルのメイジを逮捕する手だてはありません。王国政府に対応を要請しているのですが、腰が重く話にならんのです」
「犯罪者だというのなら、法に照らして厳粛に処分するべきだろう」
「あの連中は犯罪者の集まりです。サウスゴータ元太守の娘マチルダも最近では大っぴらに盗みを働くようになりました。何とか捕縛したいのですが、こちらも腕が立ちまして中々難しい現状です」
「まったく。法治国家たるアルビオンでこうも法律が無視されるとは。嘆かわしい事です」
「カリン様ならあの程度のメイジ……おっと失礼、余計なことを」

 チラチラとカリンの方を窺ってくる。彼らにしてみればカリーヌから助力の申し出をして欲しいのだろうが、生憎こちらは彼らと敵対するつもりはない。今回は調査のためだけに来ている。
 何度かそれらしく水を向けられたが、カリーヌは曖昧に受け流し当たり障りのない返事をするに留まった。カリーヌの反応が薄いことに焦ったのか議員達の言葉は徐々に激しさを増し、口を極めてウォルフを罵り、エルビラを誹り、マチルダを貶めた。ついにはブリミル教徒ならば聞き逃せない事まで口にするようになった。個室だというのに周囲を窺うようなそぶりを見せ、声を顰めて語りかける。

「ここだけの話ですが、ガンダーラ商会はエルフと取引をしてその力を利用しているとの情報があるのです。はっきり申し上げてハルケギニア社会の敵ですよ、あの連中は」
「エルフ、ですと?」
「ええ。そもそもおかしいとは思いませんか? アルビオンの一地方都市の男爵の倅が突然あんな巨大な商会を興すなんて」

 ごくり、とカリーヌは思わず喉を鳴らした。エルフと交流があったからこそ、カトレアに精霊魔法の適性があることも分かったのかも知れない。アルクィーク族などと言うハルケギニア外部の民と交流があるのなら、当然エルフとも交流があるのではないか。ずっと謎だったことの、答えの一端が見えた気がした。

「しかし、エルフだなんて、そんな事あるはずが」
「今回の事件でモード大公は全ての所領を没収され、大公位も王位継承権も剥奪されました。これが、普通の事態の訳はありません」
「それは、トリステインでも話題になっていた。一体何故、と」
「大公は秘薬で心を狂わされ、ガンダーラ商会の操り人形となっていたそうです。相手を意のままに操る事が出来る、メイジには絶対に見破られる事のない薬。その薬の出所がエルフだと。エルビラ・アルバレスも同様にこの薬を使われているという話です。我々にとってずっと謎だったんですよ、商売になど何の関心もなかった大公が急に一商会の肩入れをして、その勢力を伸ばすのに協力しだしたのですから。しかも、大公自身はそれほどの見返りを受けていないときたら」
「……」

 そんなことがあるはずはないと、カリーヌとしては思いたいが、今回の事件の不可思議さがその可能性を否定しきれないものにしている。モード大公にはカリーヌ自身何度も会ったことがある。野心や欲というものをどこかに置き忘れてきてしまったのではないだろうかと思うような、毒にも薬にもなりそうにない人物だ。その彼が謀反だなどと、何の冗談かと思ったくらいだ。だが、事実として大公は逮捕されている。あの謹厳実直を絵に描いたような王が、間違いでそんなことをするはずはない。

「今回、王家はギリギリで大公を取り戻しましたが、悪魔の関与に関して、決定的な証拠を得ることは出来ませんでした。しかし、我々は確信しております。近い将来、ウォルフ・ライエとその一味がハルケギニアの敵として異端認定されることを」
「それは、何とも途方もない話ですな。何故、私にそんな話を?」

 愛する娘カトレアが磔にされ槍で刺し殺される場面を想像してしまい、また一つ喉を鳴らしたが、努めて冷静に答えた。そんな地獄のような光景が、彼女が精霊魔法を使えるようになっていることが外に漏れれば有り得ない未来ではないのだ。顔色は蒼白となってしまっているだろう。
 
「トリステイン最強の騎士『烈風』カリン殿は義に篤く悪を憎む方だと聞いております。その力、ハルケギニアのため正義のため我々にお貸しいただけないでしょうか?」
「お願いいたします。ウォルフ・ライエを誅し、エルフとの連絡役を担っているとも言われているマチルダを捕縛することにご協力いただきたい」
「エルフを倒すのは我らメイジの悲願。私達は王弟を愚弄したあやつらを逃がしたくないのです。彼の者がいなくなればエルビラ・アルバレスもおそらく正気に戻るでしょう。お願いします、何とぞ、そのお力を」

 ずらりと揃った貴族連中が、頭を下げる。
 とっさにカリーヌは返事をすることが出来なかった。ウォルフは恩人だ。心から感謝している、それは間違いない。ルイズには魔法を使えるようにしてくれ、カトレアに至っては命を救ってくれた。廊下を走るカトレアなど、これまで想像すらしたこと無かったというのに最近では当たり前の光景になっている。カトレアの、廊下を走るなと注意した時のはにかんだ笑顔。朝食のスープをお代わりしようか悩んでいる姿。何気ない瞬間だが、カリーヌはそれらの場面に会う度に心からの幸せを感じている。治してくれたのはアルクィーク族だが、彼が気付かなかったらカトレアは今もベッドの上だったことは間違いない。彼への感謝を忘れる程カリーヌは恩知らずではない。

 だが娘を守る母として、ウォルフがいなくなったら、と想像してしまうことも止めることが出来ない。カトレアには厳重に注意して絶対に精霊魔法を使わないように言い聞かせている。もし、ウォルフが何かの事故でいなくなったら、カトレアの秘密がばれる可能性は無くなるのではないか。カトレアの危険は、無くなるのではないか。そんな想像は悪魔の囁きのようにカリーヌの心の隙間に入り込んでくる。
 恩人ではあるが、カリーヌにはウォルフ・ライエを心から信じることは出来ない。彼女にとってウォルフはどこまで行っても得体の知れないメイジなのだ。

「どうでしょうか。現在ウォルフ・ライエは父親の捜索のため近辺の森をうろちょろしております。油断もしているようですし、我々も五十名からなるメイジと鉄砲部隊との混成部隊でサポートできます。エルフの関与をあきらかにできれば、王家や教会からも感謝されるでしょう。お望みならアルビオンで叙爵も出来ましょうし、勿論謝礼も十分に用意させていただきます。逆に御名前を出したくないというのであれば、お心に沿うように差配させていただきます」

 ウォルフ・ライエを信じることは出来ない。だが――。




「お断りします。ウォルフ・ライエが人々に害を為すのを私は確認できておりません。そのような曖昧な状況で振るう杖を、私は持っておりません」

 エルビラ・アルバレスがウォルフとその妹に向けた笑顔。母として、あの笑顔ならカリーヌは信じることが出来る。自分の都合で、人の言葉だけであの笑顔を奪おうなどと考えることは出来ない。

「ウォルフ・ライエはハルケギニアの、ブリミル教の敵ですぞ。あの小僧が一日長く生きるだけでその分始祖の威光が汚される。彼の者を討つ機会がありながら、あえて逃がしただなどと知られれば『烈風』の名にも傷がつこうというもの」
「では、あなた方でその敵を討てば良かろう。『烈風』など、とうに埃をかぶった名ですよ。それでは、失礼します」

 それに何より、この市会議員だとか言う連中のゲスな言動と顔つきがこれ以上カリーヌには我慢ならなかった。さっさと席を立つと案内も待たずに店から出て行った。

「くっ、なにが『烈風』だ。エルフの名前にビビリやがったな」
「っていうか、本当に『烈風』なのか? おいスタンリー、確認は取ったんだろうな」
「あ、いやフレデリックが間違いないって……」
「くそっ! しっかり確認せんか! 無駄金を使ってしまったではないか」
「大声を上げるな! 奴らを何とかしたいのはみんな一緒だ」
「そうだぞ、ワシのところなんて女房と娘が実家に帰りおった。何とかせんといかんのだ」
「ああ、あの化粧品がらみですね。私のところも女房が口を利いてくれません。不満があるなら何か名案を出して下さいよ」
「そんなものあるなら苦労はせん。こういうのは若いのが何とかするもんだ」
「あんた達、何ガンダーラ商会に金払って化粧品なんて買ってるんだ。あいつらは敵だぞ、儲けさせてどうする!」
「ワシが買った訳じゃない、女房達が勝手にやった事だ」

 後には憮然とした表情の男達だけが残された。自分たちでウォルフを何とかし、エルビラ達の暴虐を止める案など彼らに思いつくはずもない。結局彼らはお互いを非難しあい、責任を押しつけ合うことしか出来なかった。



 カリーヌはその後数日をサウスゴータでの調査に費やし、その後ロンディニウムにまで足を伸ばした。大公の事件の真相を調べるためと、大公そのものに面会するつもりだった。

「そこにいるのは、誰かな?」

 カリーヌが少ない情報を追ってたどり着いたのは、ロンディニウム郊外のとある古城。古びた城壁に囲まれて閑かな森の中にぽつんと佇むその城は、王家の所有物ではあったが施設が老朽化し、街道からも外れているため最近では管理する者が住んでいるだけ、という王家からも世間からも忘れ去られているような存在になっていた。
 モード王弟は大公位を剥奪され、王の命令に従ってこの城でひっそりと暮らしていた。世話をする者が数人、監視する者が十数人という静かな暮らしだが、最近ではそれにも慣れ、日々本などを読んで過ごしていた。

 この日も中庭の景色の良い大きな栗の木の木陰にロッキングチェアを出し、ページを繰っていた。
 ふと、風を感じて顔を上げると、頭上の木に何者かの気配を感じ、声を掛けた。

「……お久しゅうございます、殿下。トリステインのカリーヌ・デジレにございます」
「カリーヌ……」
「そのままでお願いいたします。監視の者の眼がございますので」
「あ、ああ。……随分と久しぶりだね、元気だったかい?」

 モード元大公は現トリステイン国王の弟となるので、王妃マリアンヌと親友の間柄となるカリーヌとは面識があった。若い頃はお互い二人のデートに付き合わされたりした程で、パーティーなどで顔を合わせれば親しく話す間柄だった。
 王の刺客でも来たのかと思ったら思わぬ旧友の来訪だったので、元大公は嬉しそうにカリーヌに語りかけた。

「はい、おかげさまで。娘達も健康で、昨年生まれた息子もすくすくと育っております」
「それは何よりだ。いやあ、残念だなあ。一度息子にデレるピエールを見に行きたいって思っていたんだよ。なかなか難しくなっちゃったなあ……」
「……その事でございます、殿下。一体何があって、このような仕儀に至ったのでしょうか?」
「ああ、大したことじゃあ無いよ。まあ、僕が考え無しだったって事だな。僕がしたことに後悔はないが、もっと慎重に行動するべきだった」

 監視に気付かれぬよう、木の上下に分かれたまま話す。久しぶりに会った元大公は、やはりどこかぼんやりとした人物だった。

「その、サウスゴータなどでは殿下が薬を使われて傀儡となっていたとの噂を流す者もいました。そのようなことは無かったのですか?」
「薬? 僕が薬を使われていたって言うのかい? ……どうなのかな、君から見て僕は薬を使われているように見えるかい?」

 元大公は背もたれに頭を預け、真っ直ぐにカリーヌを見詰めてくる。その瞳は揺れ動くこともなく、瞳孔も開いておらず、カリーヌには全く正常のように見える。

「いいえ、見えません。マリアンヌ様と陛下より、今回の逮捕が不当なものであり殿下が亡命を希望するのならば、トリステインとしては受け入れる準備があるとのお言葉を預かっております。ご希望とあらばトリステインまで案内できますが、殿下は亡命を希望いたしますでしょうか?」
「いや、亡命なんてするつもりはないよ。兄上の判断は正しく、僕の逮捕、そしてその後の処分は全て正当なものだ」
「本当に、一体何があったのでしょうか? ガンダーラ商会の陰謀とも言われておりましたが、そうとも思えませんし」
「詳しくは話せないんだけどね。僕が甘い判断でテューダー王家を存亡の危機にさらし、サウスゴータ伯爵は僕を庇って自ら泥をかぶった。ガンダーラ商会についてはまるで逆さ。ほとんど関係なんてなかったというのに、僕たちを救い、テューダー王家を救ってくれた。サウスゴータ伯爵が追放され、ガンダーラ商会もサウスゴータから撤退させられたと聞いて僕は自分のしたことの意味を知った。僕は陛下が蟄居の命を解くまでここから動くつもりはないよ」

 またカリーヌの眼を見詰めながら静かに宣言する。その瞳に浮かぶのは確固たる決意と微かな悔恨。自分の起こしたことの結果を認め、その責任を取ろうとする者の姿がそこにはあった。

「……わかりました、マリアンヌ様と陛下にはそのようにお伝えいたします。それでは、これで失礼します。お元気で」
「うん、君も元気で。皆によろしく伝えてくれ」

 また風が吹いたかと思うと、もう樹上にカリーヌの姿はなかった。暫く周囲を見回していたモード元大公は、何もなかったようにまた本へ目を落とした。



 結局ロンディニウムでの調査でも事件の真相は明らかにはならなかったが、どこかさっぱりとした気持ちでカリーヌは帰途につくことが出来た。帰りもサウスゴータ経由でロサイスから空路ラ・ロシェールへと抜けるつもりだ。

 この日もサウスゴータのホテル・デ・ヴェーレの予約を取っていたカリーヌは城門をくぐって中央広場へと至る大通りを歩いていた。もう少しでホテルだというその時、知り合いなどいないはずのこの街でカリーヌは声を掛けられた。

「カリーヌさん、こんばんは」
「……」

 もちろんカリーヌは『烈風』カリンの姿のまま、つまり男装したままだ。そろーりと振り向くと、やはりそこには見知った顔の少年がにこやかな笑顔を見せていた。

「あの、今日ウチの親父見つかったんで、今後は多少時間が取れそうなんですよ。だからルイズに今度会いに行くって伝えておいて下さい」
「あ……はい。……その、お父上のことは私達も心配しておりました。見つかって何よりです、ご無事でしたか?」
「はい、元気にしておりますよ。元気すぎてまた弟か妹を増やしてくれたみたいです。一体何やってたんだって怒鳴りつけてやりました」
「それは……おめでたいですね」
「ははは、確かに目出度いです」

 とぼける間も与えず用件を伝えた少年は、じゃ、などと言って手を振るとさっさと身を翻そうとしたが、ふと立ち止まって質問してきた。

「あ、そうだ。そう言えばカリーヌさん先日の昼間、森にいましたよね? スタンリー子爵邸が燃えた時、そのそばの大きなクルミの木の陰あたり」
「……いましたね」
「やっぱり。気配が微細ですごく分かりづらかったです。今度そちらにお邪魔した時、ぜひあの気配の殺し方を教えて下さい」
「……はい、よろこんで」
「よかった、楽しみにしてます。では、皆さんによろしく」

 今度こそ手を振って去っていく。カリーヌにとって、ウォルフ・ライエはやはり得体の知れないメイジだった。



[33077] 番外10   ラ・フォンティーヌ子爵の挑戦
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/03/15 01:01
 ハルケギニアの二大大国ガリア王国と帝政ゲルマニアの間に挟まれた位置にポツリとその国土を主張する小国トリステイン。
 水と歴史の国と呼ばれて久しいこの国の東部、ラ・ヴァリエール領ではこの日、当主であるラ・ヴァリエール公爵とその娘ラ・フォンティーヌ子爵とが激しく言い争っていた。健康になったのは良いのだが、それまでの素直さが嘘のように言う事を聞かない事が多くなってしまった娘を、公爵はここのところ持てあまし気味だ。

「私にはラ・フォンティーヌを豊かにする義務があるのです。現在ラ・フォンティーヌは完全にラ・ヴァリエールの一部となっていて、大きな街も産業もありません。先日お忍びで行ってみて領民にここは何処だと聞いたらば、ラ・ヴァリエールですと答えた程です。私にはまだ嫁いでいる暇は無いのです。無論男性とお付き合いしている暇も」
「お前にラ・フォンティーヌを与えたのは嫁ぐ事もできないと思ったからなのだぞ。健康になったのなら結婚をし、子供を産むのは貴族に生まれた娘の義務だ。ラ・フォンティーヌは十分に豊かなんだし、領地経営などにかまけている場合ではない」
「結婚が嫌な訳ではありません。ただ領地を頂いたのに何もせずに嫁ぐのが嫌なだけです。ラ・フォンティーヌ子爵としての誇りを持ちたいのです」

 公爵は何も今すぐ結婚しろと言っている訳ではない。愛しい娘により良い相手を選ばせてやろうと、来月トリスタニアで開かれるとある大きなパーティーにカトレアを連れて行こうとしただけなのだが、彼女は忙しいから行かないなどと言う。
 確かにカトレアやルイズのことがあって、姻族を増やしラ・ヴァリエールの政治基盤をより強固なものにしておきたいという思いは当然ある。しかし、娘を思う親心に偽りはないというのに。

「そんな事を言っている内にエレオノールのようになったらどうするんだ! 二人目の婚約者にも婚約解消を申し込まれたぞ。女だてらにアカデミーなどで研究に熱中しているから、そんな事になるのだ」
「姉様は研究のせいと言うより、男性に対する態度に問題が有るような……。とにかく、誰かと結婚するにしても夫の仕事に理解がある方がよろしいでしょう? 領地経営を実際にやってみればその大変さが分かるようになると思いますし」
「いや、逆だな。妻が領地経営なぞに詳しくなって口出しするようになった夫婦は大抵上手くいかなくなっている。ラ・フォンティーヌなどジョスランに任せておけばよいのだ」

 ジョスランとはラ・フォンティーヌを含むラ・ヴァリエール領内のいくつかの地域で代官として租税の徴収や領民の希望を聞いたり裁判などを行っている男だ。これまでラ・フォンティーヌは彼に任せきりで何も問題は起こらず、昔ながらの農業中心ながらもそこそこ豊かな領地となっている。
 彼に任せておけばカトレアなど何もせずとも一生生活に困るなどという事はないというのに。
 
「あ、こらまてカトレア! まだ話は終わっていないぞ」
「すみませんお父様。ブーリへの道路の破損状況について村長と視察する約束になっております。時間が迫っていますので今日はこれで失礼します」
「そんな村長など放っておけ、こら、待ちなさい」
「申し訳ありません、お父様。お小言は帰ってきてから」
 
 結局公爵の制止を振り切って、ラ・フォンティーヌ子爵カトレアは出て行ってしまった。
 後に残された公爵は憤懣やるかたないといった風情だ。ブーリの村長という、公爵からすれば視界の端にすら引っ掛かる事が無いような身分の者を優先されたのは公爵の身分に付いてから初めてのような気がする。
 秘書達は触らぬ神に祟りなしとばかりに執務室から退散し、パーティーへの返事をどうするのか聞きに来た祐筆は公爵に睨まれてあわてて引っ込んだ。当分、公爵の機嫌は直りそうになかった。



 公爵の執務室から逃げ出したカトレアは真っ直ぐに自分の部屋の前へ止めてあったモーグラに向かった。
 実はラ・フォンティーヌでは村長だけでなく、他の人とも会う約束をしているので本当に時間が無く、急いでいた。その人の事は公爵には言えないので少々強引に飛び出てきてしまったが仕方ない。家来に用意させていた荷物を受け取るとタラップに足を掛けた。
 このモーグラは病気の快癒記念に公爵から贈られたものだ。元は公爵がアルクィークの村まで行くために手に入れたのだが、その後使用していなかった。
 精霊魔法を使えるようになったカトレアが、何か別のものに夢中になるのならその方が良いと公爵は判断してこの高価な飛行機を与えたのだ。公爵の目論み通りカトレアは暫く操縦訓練に夢中になったものだが、その後領地経営をするとか言い出して公爵を困らせている。

「ちいねえさま! モーグラに乗るの?」
「あらルイズ。魔法の練習はもう良いの?」
「全然進まないから気分転換をする事にしたの。集中力が落ちている時に練習しても、得る物は少ないってウォルフも言っていたし」
「そんな事言って最近気分転換ばかりしているのじゃないかしら?」

 モーグラに乗り込もうとしたカトレアに声を掛けてきたのは妹のルイズ。もう十一歳になると言うのに、大好きな姉の元に走り寄ってきて見せる満面の笑顔はほんの小さな子供の頃のままだ。
 彼女は虚無のメイジである事が判明して以来魔法を教えられる者がいなくなり、自主練習の日々を過ごしている。これまで真面目に頑張ってきた反動か、どうも練習をさぼり気味になっている。

「もう、ちいねえさまったら意地悪。そんな事無いわよ、ほんのちょっと息抜きしているだけなんだから。ねえ、ちいねえさまモーグラに乗るのなら、私も一緒に乗せて?」
「あら、遊びで乗るのではないのよ? ちょっとラ・フォンティーヌまで視察に行くの」
「えー、私もちいねえさまと一緒に行きたい。領民の暮らしを見るのは貴族として必要な事みたいだし」
「あらあら、しょうがないわねえ」
「うふふ、ちいねえさま大好き!」

 カトレアにはごねるルイズを説得する時間もない。仕方なく乗せて一緒に連れて行く事にして、機中では注意を与えておいた。

「ラ・フォンティーヌで私は人と会いますが、ルイズは後ろで大人しくしていて下さいね?」
「分かってるわ。お仕事の邪魔なんてしないもの」
「それと、帰ったらちゃんと魔法の練習もするのですよ? 後で困るのはルイズなのだから」
「はーい。ウォルフが来てくれればやる気も出るのだけど、今忙しいみたいなの」

 ウォルフがいるのといないのとではやはり全然進み方が違う。成果がなければやる気も出ない訳で、気分転換だけでなく色々と理由を付けながらこのところのルイズはだらけっぱなしだ。それでもこれまでの魔法が使えないというプレッシャーからは解き放たれ、彼女は今のぬるい生活を楽しんでいた。
 ルイズはまだ知らないのだ。王立魔法研究所に勤める彼女たちの長姉エレオノールが、虚無魔法の研究のためラ・ヴァリエールに来る予定になっていると言う事を。今はまだトリスタニアで研究に役立ちそうな資料を集めているが、それが終わったらルイズにとって地獄の時間が始まる事になる。エレオノールはラ・ヴァリエールに来たりてルイズをしごく。
 今は束の間の平和を満喫しているだけだとは夢にも思わず、ルイズはカトレアと一緒のフライトを楽しんだ。

 モーグラだとラ・フォンティーヌまではほんの少しのフライトだ。景色を楽しむ間も無く、二人とその護衛を乗せたモーグラは村にある代官屋敷に降り立った。
 そこからはセグロッドで川港へと向かう。川港で人と待ち合わせをしているのだが港の周辺は土地が狭く、モーグラを駐めておく場所がないからだ。




 ルイズの文句も聞かず急いで向かった先の港はライヌ川沿いの村には良くあるほんの小さなものだ。その桟橋で赤髪の少女が繋留用のボラードに腰を掛けて彼女を待っていた。

「申し訳ありません、お待たせしてしまったでしょうか」
「遅い。五分の遅刻よ。これが噂に聞くトリステイン時間というものなのかしら?」

 カトレアはこのブーリの港があるラ・フォンティーヌの領主だ。その領主に対し座ったまま尊大な物言いをする少女にルイズはカトレアの後ろで目を剥いた。

「弁解のしようもございません。以後気をつけます」
「まあいいわ。じゃあ、船の中で話しましょう」

 少女はそれ以上追求しようとはせずに立ち上がると、後ろに停めてあった真っ赤なクルーザーにカトレアを誘ったのだが、その物言いに黙っていられないのはルイズだ。

「ちょっと。待ちなさいよあなた。ブーリの領主に向かって、ブーリの港でその物言いは何なの?」
「ルイズ! やめて」

 カトレアが抑えようとしたがルイズは止まらなかった。ツカツカとカトレアの前へ出てきて腕を腰にやり、胸を張った。このポーズを取ると胸口のマント留めがよく目立つ。
 しかし、ラ・ヴァリエールの領民なら一目で気付くその紋章入りの金具を、赤髪の少女はまったく気にしなかった。

「カトレアさん、このちんちくりんは何なの?」
「ちっ――!!」
「す、すみません。妹なのですが、付いてきてしまったものですから。ルイズ、お仕事の邪魔はしないと言ったでしょう。後ろで大人しくしてて」
「でもちいねえさま! こんな平民に舐められたら領主としての示しが付きません。ちいねえさまは優しいから舐められやすいのだと思うわ」
「ルイズ!」

 赤髪の少女は杖を身につけてはいるがマントをクルーザーに置いてままにしているために今は着ていない。それで平民と判断しているようだが、彼女の胸や後ろのクルーザーに付いているツェルプストーの紋章には気がついていないようだ。

「カトレアさんを姉と呼ぶって事は……ふうん、成る程。あなたがヴァリエールの"虚無"なのね」
「っ!! ……あなた、何者? 返答次第ではただではおかないわよ」 
「あら、どうしてくれるって言うのかしら? わたしと杖を交えようって言うの? 伝説が? うふふふふ、それは楽しそうね」

 ルイズは目を細め、一歩下がると杖を構えた。ルイズの事を虚無と知っている者はまだ少ない。自分が知らない、自分の事を知る者の登場にルイズはいつでも魔法を撃てるように身構えた。
 ルイズが攻撃に使えそうな魔法はただ一つだ。ウォルフとの虚無魔法の研究でルイズの失敗魔法は虚無魔法の一つなのではないかと考えられるようになり、爆発をイメージして更なる小さな魔法の粒、魔力子の波動を聞く事によってルイズは『爆発』の魔法を会得しつつある。
 この魔法によって爆発をコントロールできるようになっているので、たとえメイジが相手でも戦えるはずとの自信を持っている。
 しかし赤髪の少女、キュルケに向けられた杖は横から伸びた手によって素早く奪われた。

「ちいねえさま!?」
「ルイズ、わたしのお客様に杖を向けるなんて何を考えているの? あなたはもうモーグラに帰ってなさい」
「あら、わたしはかまわないのに」
「いえ、重ね重ね申し訳ありません。あなた、ルイズを連れて行って」
「はっ」

 カトレアに頼まれモーグラに同乗してきた護衛二人の内の片方がルイズを連れて下がる。ルイズは初めてカトレアに強く叱責されて呆然としていたが、カトレアが連れ去られるルイズの方を向く事はなかった。

「ウォルフも言っていたけど、まだ子供なのね、あの子」
「お恥ずかしい。素直で良い子なのですけど、少々甘やかしすぎたようです」

 虚無のメイジと手合わせするのは少し楽しみだったキュルケは残念そうだ。カトレアと二人で連れ立ってクルーザーのキャビンへと移動した。



 キュルケのクルーザーは鋼鉄製で真っ赤に塗装された全長十メイルくらいの小型の船だ。水上航行をメインにしているが、風石も積んであり、動力が繋がっているプロペラを切り替える事により空中航行にも対応している。もっとも重いので空中航行は得意ではなく、あくまで緊急用だ。
 ライヌ川は国際河川なので航行は自由だが、積み荷を降ろす場合は港を使用して使用料を領主に払う必要がある。その使用料を逃れようと港を使わずに荷の積み卸しをしようとする者がどうしても出てくるのだが、このクルーザーはそう言った不届き者達の取り締まりに威力を発揮している。
 そのクルーザーの中、貴族らしい豪奢な内装の中央キャビンでカトレアは掲示された書類を見詰め、溜息を吐いていた。

「五万エキュー、ですか」
「ええ。安いものでしょう? 長距離航海用ではないけれど、船体はツェルプストー製で木製より遙かに長持ちする双胴の鉄製。それにガンダーラ商会の防食塗装を施してあるわ。風石エンジンはガンダーラ商会製L107型を二機搭載しているので、乗員や貨物を満載してもパワーに不足を感じる事はないはずよ」
「その、鉄製の船だと丈夫そうですが、錆びたりはしないのですか? 水に浸かるものだし、固定化の魔法代が膨大になりそうなのですが」
「この船も鉄製だけど、錆が出た事はないわ。亜鉛の犠牲陽極板というのを定期的に取り替えれば魔法は必要無いそうよ。何でそうなのかはわたしは知らないけど」
「うーん、そうですか、五万エキュー……」
「カトレアさんにこの話を持ちかけられた時は驚いたけど、すぐにいい話だと思ったわ。私達次の世代の人間がこの航路を開くことによって、対立や戦争は過去のものだと領内や近隣に知らせることが出来る。これからは経済の時代よ。ここに航路を通せば大きな成長が見込まれるというのに、ただ川を挟んでにらみ合っているなんて馬鹿らしいわ」
「え、ええ、そうですよね。キュルケさんも私と同じ考えで嬉しいです。でも、五万……」

 ラ・フォンティーヌ領はラ・ヴァリエールに隣接する領地ではあるが南北に走る街道からは外れた東にあり、東はライヌ川に接しているためにいわゆるどん詰まりになっていて人々の往来が少ない。人が動かなければ物が動かずいつまでもラ・フォンティーヌは田舎の小さな領地だ。
 それを解消するために港を整備してツェルプストーとの貿易を始めようとしたのだが、渡し船用の船をツェルプストーから購入しようとしていきなり躓いた。五万エキューだとラ・ヴァリエールにとっては大した金額ではないが、年間の税収が三万エキューに届かないラ・フォンティーヌからすると大金なのだ。
 ツェルプストーとの話し合いでさすがに橋を架けられないので渡し船を、となったのだが、大量の馬車や車を一度に運べる船を頻繁に行き来させ、道路のように使えるようにと合意したまでは良かった。ツェルプストーとラ・フォンティーヌで一隻ずつフェリーを所有し交互に行き来させようとしたのも良かった。その大型のフェリーの価格が五万エキューにもなるのがカトレアの予想を超えていたのだ。

「この船を二隻ツェルプストーとヴァリエールでそれぞれ所有して、交互に運行すれば良いと思うわ。航路が短いから二隻あれば十分だし、将来的に予測される需要にも充分対応できるはずよ」
「その、もう少し小さな船というのはないのですか?」
「ライヌ川のもっと下流ではトリステイン-ゲルマニア貿易が段々盛んになってきているわ。クルデンホルフも街道の整備を積極的に行っているし、それらとの競争に勝つためにはこの程度は最低必要なはずよ」
「クルデンホルフ。経済が豊かなところですわね」
「ええ。トリステインが経済的に厳しいとは聞いているけど、ラ・ヴァリエールなら問題なく払えるはずよ? 帰ってお父様に聞いてみて。鉄製でエンジン付きの船の価格としては破格にしているのだから」
「え、ええ、そうですね、一度持って帰って検討いたします……」
 
 カトレアは購入を即答する事が出来ず、弱々しく答えた。ツェルプストーとの航路の事は父親には伝えていない。五万エキューは彼女自身が用意しなくてはならないお金だった。



 代官屋敷にまで戻ってルイズと合流し、こんどはブーリの村長と一緒に道路の視察に向かう。ルイズはカトレアに叱られたのがショックだったのか随分と萎れていて、更にカトレアが会っていたのがツェルプストーの娘だった事にもショックを受けたようで来る時とは打って変わって無口になり、黙って後に付いていた。
 ブーリの村はライヌ川の河岸段丘の下部に開けた村で、段丘下部の湧き水を使って畑を灌漑している。その段丘の上部へと続く道がそのまま街道にまで繋がっているのだが、この坂道が細い上に数カ所が崩れており、通行しにくいものになっていた。港の拡張をするのならこの道も拡張工事をしなくてはならず、斜面に付いたこの道を広げるとなると結構大がかりな工事となり費用が掛かりそうだ。
 一頻り村長と道路の視察をしたカトレアは、村長が出してきた工事費用の見積もりを受け取りまた頭を抱える事になった。

 カトレアがこんなに領地経営に関心を持っているのは理由がある。治療を受けるためゲルマニアを横断した時の衝撃が彼女を動かしているのだ。
 トリステイン人が野蛮な田舎と蔑んでいるゲルマニアは、実際に行ってみるとトリステインよりも遙かに進んでいて、豊かだった。建物は林立し道路は広く清潔で、道行く人は皆カラフルな服装を身に纏い活気がある。無数の自動車や馬車が行き交い、最初にボルクリンゲンに行った時などは目を回すかと思った程だ。
 帰ってきて病気が治ったのでモーグラの操縦訓練を兼ね、トリステインでは比較的豊かだと言われるラ・ヴァリエールの各地を回ってみたが、とてもゲルマニアには及ばないというのが彼女の実感だった。

 何より感じたのは圧倒的な経済力の差。何故ここまでの差が付いてしまったのか、ラ・ヴァリエール領内の何人かの商人に話を聞いてみたところでは、ちょっと前まではここまでの差は無かったとの事だ。
 初めは普通の不景気だった。アルビオンへの輸出が滞るようになってものが余るようになり、物価が下がった。ここまでならこれまでもあったことなのだ。一度戦争でもあれば解消されるような事態だったのだが、今回はその先の展開が違っていた。ガリアやゲルマニアとの国境を越えて物が大量に流通するようになり、その低価格に国内の産業は対抗できず、生産業の多くが苦しんでいるという。
 そして商売そのものの仕方もとても難しくなってしまったそうだ。例えば、ちょっと前ならゲルマニアの名工製の剣、と言えばトリステインでは珍しく、多少あやしい品でも高値で売れたのに今そんな商売をすればすぐに潰れてしまう。以前なら市場というものは売り手が主導していたが、今その市場は買い手が主導している。その変化を理解して対応できているところは大きくなって、理解できないところは潰れている。そしてその潰れている商人の多くはトリステイン商人で、販路ごとどんどんゲルマニアやガリアの商人に買い上げられているという。

 このままではトリステインがそのままゲルマニアに買い上げられてしまうのではないかという、漠然とした危機感が彼女を動かしていた。




「カトレア様、お呼びでしょうか」
「待ってたわ、ジョスラン。ラ・フォンティーヌの事で相談があるの」
「このジョスラン、旦那様よりカトレア様の代官を任されておりまする。何なりとご相談下さい」
「あのね――」

 ラ・ヴァリエールの屋敷に戻ったカトレアは、父親の所へ顔を出す約束も忘れて真っ先にラ・フォンティーヌの代官、ジョスランを呼び出した。
 ジョスランは長年ラ・ヴァリエールに仕える五十がらみの男で、最近薄くなった頭髪が悩みだという穏やかな男だ。カトレアが領地の事を気に掛けているのを好ましく見ていた彼も、ライヌ川対岸のツェルプストーとの間に定期航路を開くという提案には眉を顰めざるを得なかった。

「しかも、五万エキュー、ですか。その船が。確かにこの大きさで鉄製なら安いのかも知れませんが……」
「とにかく人が動かなければラ・フォンティーヌの発展は無いと思うの。国境警備に巡回する騎士くらいしかあの領地でお金を落としてくれる人がいないのは問題だわ。そりゃ農作物は豊かで食べるに困ると言うことはないけれど、それだけじゃあ……」
「しかし、五万エキューともなると旦那様に相談しなくては動かせないお金です。ここは一つカトレア様から話を通していただいて――」
「お父様には話せないわ。ツェルプストーと定期航路を開くとか言ったら反対するに決まってますもの」
「しかしそれでは」
「私は独立したトリステインの貴族よ。自分の領地の方針は自分で決めます。あなたにお願いしたいのはこれらを換金して欲しいのです。全て売れば五万エキューにはなるはずです」
「カトレア様! これは旦那様が下された宝石類ではありませんか。やや、これは旦那様が誕生祝いにと下されたアクアマリンのペンダント。ああ、こちらは大奥様から受け継がれた家伝のイヤリング」

 カトレアが取り出したのはネックレスやら指輪、イヤリングなどのジュエリーだった。色とりどりの宝石をあしらっており、一目で高価な品だと分かるようなものだ。ただ単に高価だと言うだけでなく、ラ・ヴァリエールに代々受け継がれているような名品も数多い。全て売れば五万エキューどころではない額になるだろう。
 これらの宝石類はラ・ヴァリエール公爵達がプレゼントした物だし、ここはラ・ヴァリエールの居城でジョスランはラ・ヴァリエールの家臣だ。どこが独立した貴族なのか問い質したくなる状況だが、その辺の事をカトレアはあまり気にしていないようだ。

「構いません。必要ならば全て売り払って下さい。ラ・フォンティーヌにはこの船が必要なのです」
「これらを売り払うなんて、そんな……」
「お願い、ジョスラン。私は本気であの地を豊かにしたいのです」
「むむむ」

 カトレアは凛々しい顔で重ねて言うが、事はそんなに簡単な話ではない。五万エキューという投資に対してどの程度の効果があるのかと言うことはそれ程問題ではない。その程度の金はラ・ヴァリエールにとって大きな問題となる額ではないからだ。しかし宝石の中にはラ・ヴァリエールの至宝として有名なものもあるし、たかがその程度の金のために先祖代々の宝を売り払われてはたまらない。

「……実は、トリスタ・ジェネラル銀行にラ・フォンティーヌ名義の口座がございます。そちらなら五万エキュー程度はすぐに動かせます。宝石はお仕舞い下さい。これらはそう気軽に売り払って良い物ではございません」
「まあっ! ありがとう、ジョスラン。そんな口座があったなんて、これはきっとブリミル様のお導きねっ」

 ヴァリエール公爵に報告しようか悩んでいたジョスランだったが、結局カトレアの本気に根負けした。ここのところのカトレアの行動力から推測すると、ジョスランが断ったら彼女は自分でそこらの商人に売り払ってしまうだろう。そんなことは許容できなかった。
 その程度の権限は与えられているジョスランだが、公爵にばれたら叱責されるのは間違いない。いざというときはカトレアを庇って責任を取る覚悟を固めた。



 ジョスランが用意した五万エキューによって、カトレアは無事ツェルプストーと船の売買契約を交わす事が出来た。しかし数日後、ジョスランはまたカトレアに呼び出される事になる。

「カトレア様、お呼びでしょうか」
「待ってたわ、ジョスラン。ラ・フォンティーヌの事で相談があるの」

 呼び出されて入ったカトレアの私室。そのテーブルの上には見覚えのある宝石類が既に並べられていて、ジョスランは嫌な予感に駆られたが、あくまで冷静に答えた。

「このジョスランはカトレア様の代官を任されておりまする。何なりとご相談下さい」
「あのね――」

 カトレアが言い出したのは新型の船に合わせた港の拡張工事と街道へ繋がる道の拡幅工事。港を改修しなければそもそも新型船は発着できないし、道を広げないとトラックなどが通れない。更に発展するためにはボルクリンゲンに来るような大型船に対応した桟橋も必要だろう。どの工事も絶対に必要なのだが、少なく見積もっても三万エキューは掛かる。
 
「その費用が三万エキューですか。それでこの、旦那様が下された宝石は――」
「全て売り払って下さい。この工事はラ・フォンティーヌに必要なものなのです」
「むうう、たかだか三万エキューのためにこれらを処分したなどと旦那様に知れたら大変なことになりますが」
「かまいません。たとえお父様に勘当されたとしてもわたしはこの事業を進めるつもりです。もし、宝石類では足りないというのでしたら、私のドレスも売り払って下さい。多少の足しにはなるでしょう」
「……トリスタ・ジェネラル銀行を通して公債を発行しましょう。ラ・フォンティーヌには借金がありませんから、二万や三万の債権はすぐに捌く事が出来るでしょう。宝石はお仕舞い下さい。これらはそう気軽に売り払って良い物では無いのです」
「まあっ! ありがとう、ジョスラン。そんな方法があったなんて、これはきっとブリミル様のお導きねっ」

 ここで宝石を処分してしまったら先日五万エキューも拠出した意味が無くなってしまう。ジョスランはまたもや現金を用意せざるを得なかった。
 喜ぶカトレアとは対照的にやや疲れた風でジョスランは帰って行ったが、彼はまた数日後カトレアに呼び出される事になる。ややげんなりとして入った部屋の机の上には、当然のようにあの宝石類が並べてあった。

「カトレア様、お呼びでしょうか」
「待ってたわ、ジョスラン。ラ・フォンティーヌの事で相談があるの」
「……このジョスランはカトレア様の代官を任されておりまする。何なりと、ご相談下さい」
「あのね――」
 
 カトレアが言い出したのは領地で行う事業の事。具体的には牧草地の拡大工事をしたいとの話だった。ラ・フォンティーヌは元々のどかな農村地帯で外との交流はあまりなく、農産物も自給自足が多い。その多種にわたる農産物の中でこの領地の名物と言える物が牛や羊の乳を使ったチーズだ。
 各村ごとに違う製法で作るチーズがあり、独特な製法で作られるとろけるような牛乳のチーズや、旨味の詰まった羊乳のチーズなど一部のマニアの間で有名になっているものも有るくらいだ。
 今は村の周辺に少しあるだけの牧草地を拡大し、牛乳や羊乳の生産量を増やしてチーズを増産させる計画だ。牧草地の拡大費用を領主であるカトレアが負担し、各村に融資もして牛や羊を増やし、チーズの加工場を建てさせる。それらの資金にまた三万エキュー程かかるというのだ。
 
「道が通っても素通りされるだけだと意味がないでしょう? 渡し船の運賃はうんと低価格にするのだし、特産品を作るのは必要だと思うの。ゲルマニアとの交易に行き来する商人達が買ってくれれば、ラ・フォンティーヌのチーズは絶対に評判になると思うわ。だって美味しいもの」
「それでまた、ですか。この宝石は――」
「全て売り払って下さい。この事業はラ・フォンティーヌに必要なものなのです」
「……実はブーリの代官屋敷の地下にはいざというときの戦費として金塊が隠されております。今回は緊急事態と言う事でこれを使用いたしましょう。ですので、宝石はお仕舞い下さい。これらは気軽に売り払って良い物では無いんですったら」
「まあっ! ありがとう、ジョスラン。そんなものがあったなんて、これはきっとブリミル様のお導きねっ」

 ブリミル様導きすぎだろう、とジョスランは内心で愚痴をこぼす。ついに非常用の隠し財産にまで手を付けてしまった。公爵にばれたら大目玉どころでは済まないかも知れない。
 ここまでの大金を投じてなんの効果もなかったら、本気でジョスランの首は胴体とさよならする羽目になる可能性がある。ジョスランはカトレアの提案を実現させるために奔走した。
 
 カトレアは思いついた事をやらせるだけだが、実際にそれを実行するとなると手続きや作業などその段取りは多岐にわたり大変だ。これまでの工事なども実務は全て彼が取り仕切っているのだが、おかげでこの後ジョスランはほとんどラ・フォンティーヌに掛かりきりにならざるを得なくなってしまった。
 それはもう少し先の話になるのだが、ラ・フォンティーヌが独立した領地として体裁を整えるようになった頃、彼は正式にラ・ヴァリエールから移籍し、生涯ラ・フォンティーヌに仕える事になる。この頃はまさかそんな事になるとは微塵も思っていなかったのだが。

 ジョスランの活躍もあり、何はともあれゲルマニアへの道は開けた。街道までの道も整備され、大型の馬車がすれ違っても余裕のある道は御者達に通りやすいと好評だ。このルートはトリステインの首都トリスタニアからゲルマニアの首都ヴィンドボナへ至る最短ルートになるので今後通行量はますます増えるものと思われる。
 目ざとい商人の中には既にブーリで商館を開く者も現れた。道行く馬車相手の商売をする者達も増え、ラ・フォンティーヌはゆっくりと経済成長を始めたのだ。
 カトレアはジョスランを伴って毎日ブーリを始めラ・フォンティーヌ各地を周り、精力的に働いた。その姿は溌剌としていて、今の彼女を見て病人だと思う人はいないだろうと思われる。
 




 そんなある日、彼女の下に一人の男が訪れる事になる。男の名はカルロ。ガンダーラ商会アルビオン代表兼サウスゴータ商館長だった男だ。
 ガンダーラ商会はアルビオンで閉鎖せざるを得なかった工場を移転させる場所をずっと探していた。ボルクリンゲンに移動した分は既に稼働していたが、拠点を分散するためにもう一カ所工場を造る予定だったのだ。ボルクリンゲンから近くライヌ川の水運を使え、街道が整備されている場所。ブーリはいつのまにかその条件にぴったりの土地になっていた。

「ようこそお越し下さいました。ガンダーラ商会のカルロ殿、歓迎いたします」

 ブーリの代官屋敷でカトレアが満面の笑みでカルロ一行を出迎える。この日を境にラ・フォンティーヌの経済成長は急激に加速を始める事になった。



[33077] 番外11   ルイズ・フランソワーズの受難
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/03/22 00:41
 ルイズはその日、城の中庭にある池に浮かぶボートに寝ころび、一人空を眺めていた。
 前日にカトレアに叱られて以来どうも魔法の練習に身が入らず、今はここでさぼっている。身が入らないというのはそれ以前からかも知れないが。

 昨日ルイズの事をラ・ヴァリエールの"虚無"と呼んだ少女は隣の領の宿敵フォン・ツェルプストーの令嬢でキュルケと言うらしい。火のメイジとして既にかなりの使い手で、カトレアが無頼に絡まれていたところを助けてくれたという恩人だそうだ。
 自分より二歳年上だというキュルケの、どこかこちらを小馬鹿にしたような目を思い出してルイズは身を起こした。

「ふんだ。火のメイジが何よ、私は"虚無"よ。杖を交わしたら負けないんだから……《エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ――》」

 呪文を唱え、杖を振ると同時に池の水面が激しく爆ぜた。いつもより大きめの『爆発』で、身が入らない事と魔法の威力とは関連性がないようだ。
 唱えた虚無の呪文はルイズが独自に魔力子の波動を聞く事により解明したものだ。『ディテクト・マジック』をかけたまま『爆発』をイメージするとルイズの思いに呼応して世界が揺らぐ。その揺らぎを魔力子の波動として捉える事が出来た時、ルイズはそれが虚無の呪文である事を理解した。その波動をルイズは虚無の歌と呼ぶ事にしたが、最近の研究ではこの呪文にはまだ続きがあるらしい事が分かっている。普通の呪文とは違って途中まででも魔法が発動するし、呪文が長くなればなるだけ威力が増す事も分かっている。虚無の呪文独特のこの特性にはウォルフもとても興味を持っていたが、ルイズとしても今後もどんどん調べていくつもりだ。

「ルイズ様ー、ルイズ様ー」
「あん、なによもう、今集中しようとしたところなのにぃ……」

 呪文の続きを調べるために杖を構えていたルイズの集中は、彼女を探しに来たメイドによって遮られた。

「ルイズ様、こちらでしたか。仕立屋が到着しました。ドレスを新調いたしますので採寸をなさって下さい」
「あら、新しいドレス作るの? パーティーなんて有ったかしら?」
「来週、エレオノール様がお戻りになるので、近隣の独身貴族を招いた小規模な宴を開くそうでございます」
「エエエエレ、エレオノール姉さまが? なななんでよ、研究が忙しいって言ってたじゃない」

 小舟から岸へ上がりつつ、メイドの言葉に驚いて問い質す。エレオノールが帰ってくるというのは彼女にとって重大ニュースだ。

「その研究をこちらでなさるそうで、暫く滞在するとの事でした」
「そんなあ……あれ? 姉さまって婚約者の方がいらっしゃるのに、何でそんなパーティーが必要なの? 婚約者の方もいらっしゃるの?」
「そのような婚約はございませんでした」
「え?」

 メイドは多少強張りつつも無表情に答える。ルイズの記憶では先日確かに二度目の婚約が成立したと聞いたばかりなのだが。

「そのような婚約はございませんでした。これは最重要の連絡事項としてメイドの間では徹底的に周知されております」
「そそそ、そう。私の勘違いだったようね。……ありがとう、命拾いしたわ」
「いいえ。さあ、まいりましょう。今回仕立屋が新たな仕入れ先を開拓したとのことで、素敵な色の布を沢山持ち込んでいるのですよ」
「ふふふ、ドレスなんかもうどうでもいい気分だわ……ふう、暫くってどれくらいなのかしら……」

 力ない足取りで屋内へと戻る。ルイズにとってエレオノールは母親以上に鬼門と言える存在だった。



 それから一週間ルイズは気の重い日々を過ごし、いよいよエレオノールがラ・ヴァリエールに帰ってきた。
 父親譲りの金髪に母親によく似た細身の体はピンと背筋が伸び、しゃきしゃきと歩く姿は威厳がある。ルイズは出迎えの列に並び、緊張を高めていた。

「お父様、お母様、エレオノールただ今戻りました」
「うむ、健康そうで何よりだ。今夜はパーティーを用意している。楽しみなさい」
「はい、楽しみにしています。トリスタニアでは仕事関係のパーティーが多くて気疲れするばかりでしたので、息抜きさせていただきます」
「そうすると良い。ところで、どうだった。例の件だが、何か有用な資料は見つかったのか?」
「いえ、何せ古いものが多く、何が有用で何が有用でないのか分からないのが現状です。一応貸し出しが可能なものは借りてきましたので、色々と試してみたいと思います」
「うむ、頼む。我が家では今のところ何も見つかっていないのでな」
「こうなってみると、あなたが魔法研究職に就いていたのは幸運でした。私からも頼みましたよ」
「はい、お母様。アルビオンの子供などに後れを取ったままではいられませんもの。あらロラン、大きくなったわねー」
「あーうー」

 まずは両親に挨拶をし、ついでに末の弟の頬をくすぐる。エレオノールが暫く帰っていなかった間に弟は随分と大きくなったように見える。
 差し出したエレオノールの指を握ってきたロランを暫くあやし、次にカトレアの前へ移動した。手紙ではやりとりしていたが、彼女が健康になってからは初めて会う。
 久方ぶりの妹は随分と溌剌としていて、もう病人の頃の儚げな様子はない。本当に健康になったことを実感したエレオノールは目を潤ませながら声を掛けた。

「カトレア……本当に健康になったのね、あなた」
「お帰りなさい、姉様。うふふ、毎日お城の外にお出かけしていますし、御飯だって最近は家族で一番食べているのですよ?」
「それは何よりね。でも、気をつけた方が良いのではなくて? あんなに少ししか食べていなかったあなたが急にそんなに食べるようになると太ってしまいそうよ」
「それが、よく歩くようになったせいか筋肉が増えたみたいでウェストや手足はかえって締まりましたのよ。胸は、少し太ってしまったようですが」
「それは……良かったわね。あなたが健康になって嬉しいわ」

 確かにカトレアのナイスバディには一層磨きが掛かっていて、トリスタニアでもまず滅多にお目にかかれないようなプロポーションになっている。これまでは体を締め付けないゆったりとした服を着ている事が多かったが、今はウェストを絞った貴族らしい服装となっているのでそのメリハリの利いたボディラインがよく分かってしまう。
 それに対してエレオノールは母親に似ていてよく言えばスレンダー、大雑把に言えば平たい体型だ。エレオノールが三つ年下のこの妹に抜かれた十四歳の夏を忘れる事は無い。「胸は太るとは言わないわよ!」と叫びたいのを堪えるのに多大な精神力を要した。
 何とか気を落ち着かせても、気を抜くとつい「爆発しろ」とか呟いてしまいそうだ。もうそのカトレアの胸で膨らむ見事なものにはなるべく視線を向けないようにして次に移る。出迎えた家族達の最後に並ぶのは下の妹のルイズだ。

「お、お帰りなさい、姉さま」
「ルイズ……」

 小さいルイズ。ちびルイズ。長らく系統の判明していなかったこの妹が、実はハルケギニアでは既に失われたと思われていた系統・虚無だと言う。
 最初に手紙で知らされた時は何を馬鹿なと本気にしなかったが、その後両親共に信じているようなので認めざるを得なかった。既に王家にも密かにその可能性は伝えられており、あの両親が確信もなくそんな事をするはずはないからだ。
 まだ公にはされていないが、今回エレオノールが研究所を休んでこちらに来たのも、形式的には王家の依頼による特命の魔法研究となっている。
 いつものように鯱張っているルイズを目の前にすると、とてもそんな大層なメイジには見えないが。

「あなたの魔法については後で見せて貰うわ。……いいえ、後でだけではないわね。今日からずっと、二人で、みっちりと納得するまで魔法の研究よ」
「え? ええっ!?」

 エレオノール帰郷の目的を知らされていなかったルイズはきょろきょろと周囲に目をやるが、両親も、優しい姉も、何故かロランまで頷いていて、既にエレオノールとのマンツーマン魔法レッスンは決定事項のようだった。

「ああああの、その、私の系統は特殊なので姉さまと言えど詳しくはないのじゃないかな、なんて思うのですが」
「アルビオンの子供が指導できるものを、アカデミーに勤めるこの私が指導できないとでも言うのですか?」
「ととと、とんでもないです。あの、それでみっちりってどの程度……」
「研究中の日課については計画表を作ってきました」

 ルイズの前に立つエレオノールが手を横に差し出すと侍従がそこに羊皮紙の巻物を置いた。エレオノールは優雅な手つきでそれをほどくとルイズの前に示す。

「正しい研究は正しい生活から生まれます。私の指導下に入ったからにはこの予定通りきっちりと生活して貰いますからね」

 示された予定表に目を通したルイズは目の前が真っ暗になった気がした。
 彼女の今の気持ちを一言で表すのなら絶望と表現することができる。その予定によれば、ルイズは朝の六時から夜の八時まで毎日エレオノールと一緒に過ごす事になる。一日中研究やら鍛錬やらが入れられている上に夜の八時から十時までも「自己研鑽」とか書いてあって、どうやら寝る時間以外は魔法漬けにされるらしい。

「こっこっこ……」
「系統が判明してからこれまでどのような日課を行っていたのかも後でレポートにして提出しなさい。嘘を吐くと酷いわよ?」
「こ、これ本気……?」
「ええ、勿論。あなたの系統が本当だとしたら、それは大きな責任を伴うものよ。怠惰な生活をしていて負えるようなものではないわ」

 さも当然というように返される。ルイズはこんな時に貧血になって倒れてしまう事が出来ない、健康な自分の体を恨んだ。



 エレオノールが帰ったこの夜は盛大なパーティーとなった。現在ラ・ヴァリエールには二十二歳と十九歳の結婚適齢期の美しい娘が二人もいる訳で、周辺の若い男性貴族が大勢集まった。二人とも若く美しく健康で、別に跡継ぎも生まれているので面倒な事もなく、ラ・ヴァリエールはトリステインでも一、二を争う名家で金持ちだ。結婚を希望する貴族は多い。
 特にこれまで病気だったためにこの夜がパーティーデビューとなったカトレアの人気は凄まじく、すっかり本来主役だったはずのエレオノールを食ってしまっていた。これまで魔法学院にも行かず、二女がいるらしいと言う噂だけだったカトレアが優しげな美女で巨乳だったのだ、色めき立つ男達が多かったのも当然だったろう。パーティーはカトレアを中心として大いに盛り上がった。



「ルイズ、もう下がるのか」
「はい、父さま。明日の朝は早いらしいですし。姉さまがあの様子だとどうなるのか分かりませんが」
「む、ちょっと飲み過ぎのようだな。まあ良い、今夜は無礼講だ」

 パーティーの終盤、下がろうとしたルイズにラ・ヴァリエール公爵が声を掛けた。エレオノールの方を見ると随分と酔っぱらっているのか周囲の男性貴族達と威勢良くなにやら議論している。給仕からボトルを奪い取り、手酌でグラスにドバドバワインを注いでいる娘の姿から公爵はそっと視線を逸らし、見なかった事にした。

「姉さまがあんなに酔っぱらっているのを初めて見ました」
「まあ、ストレスが溜まっていたらしいからな。勤め人というのはそんなもんだ」
「姉さまったら今はあんなだけど、さっきまでバーガンディ伯爵が側にいた時はとてもお淑やかだったのよ」
「ふむ、脈があるのかも知れないな。バーガンディ伯爵はカトレアの方に興味があるみたいだが。……ところでルイズ。今まで話す機会がなかったが丁度良いから今話しておこう。……ワルド子爵にも招待状を送ったのだが今回は忙しいとの事で来られなかった」
「はい」

 ワルド子爵というのは一応ルイズの婚約者だった、ラ・ヴァリエール公爵からすると亡き親友の息子という関係の貴族だ。現在魔法衛士隊に勤めている彼との婚約はルイズが虚無と判明して速攻で解消した。幾分一方的になってしまったこちらの申し込みを特に文句を言うでもなく受け入れた彼に対し、公爵は幾分かの負い目を感じており、今回丁寧に持てなそうと考えていたのだがそれは実現しなかった。

「一応カトレアとならこちらも受け入れる準備があると打診してみたが、身分が釣り合わないとの事で断ってきた。ジャン=ジャックは父親に似た真面目な男だ。どうもお前との事も彼は本気にはしていなかったようだな」

 ルイズは黙って頷く。そもそも婚約と言っても父親同士が飲んでる席で交わしたようなものだ。

「彼とは縁がなかったが、この先お前の将来がどのようになるのかは全く見通しが立たん。覚悟をしておけ」
「私はもう、小さな子供じゃあないわ。ワルド様は小さな頃の憧れだっただけ……貴族の娘として、虚無のメイジとして自分に課せられた義務は理解しています」
「それなら良いんだ……おやすみ」
「お休みなさい、父さま」

 公爵に挨拶して自室へ戻る。その脳裏にはもうワルド子爵の事など浮かんではいない。 
 彼女の初恋は虚無に目覚めた時に終わっている。もし、魔法が使えないままだったとしたら、ワルド子爵と結婚する未来もあったのかしらと考える事はあったが、今更魔法が使えないメイジに戻る事など考えたくもない。虚無のメイジとして生きていく道しかルイズにはないのだ。
 



 翌早朝、ルイズは部屋に侵入してきたエレオノールにたたき起こされ、いや、つねり起こされた。

「ちびルイズ。あれだけ言ったのに時間になってもグースカ寝てるってのは一体どういう神経なのかしら?」
「いひゃい、ねえひゃま、いひゃいでふ」

 ふかふかの暖かな布団の中で幸せにまどろんでいたというのに、暴虐な侵入者はその布団をはぎ取りルイズを朝の冷気にさらし、頬をつねって引きずり起こした。昨夜あれほど摂取していたアルコールも彼女を止める事は出来なかったらしい。

「本当にあなたの頬は良く伸びるわねえ。ホラさっさと顔を洗ってらっしゃい。朝食前のレッスンを始めるわよ」
「うー、姉ひゃま、酷いです」

 頬を解放されたルイズは目の端に涙を浮かべてエレオノールを睨んだが、洗面所を指さされてすごすごと移動する。昔からルイズがこの姉に逆らえた事など無い。
 洗面や着替えを済ませたルイズが連れ出されたのは城の中庭。ボートを浮かべる池まであるここはとても広く、魔法の練習には適していた。

「さあ、ルイズ。あなたが会得したという虚無魔法を見せてご覧なさい」
「はは、はい、わかりました」

 エレオノールが見ている前でルイズは一つ深呼吸すると杖を構えた。彼女が使える虚無魔法などまだ一つしかない――『爆発』だ。

「じゃあ、いきます。《エクスプロージョン》」

 ルイズがゆったりとした構えから歌うように呪文を紡ぎ、杖を振ると目標にした石が爆ぜ飛んだ。間違いなくそれは虚無魔法なのだが、エレオノールから見るとこれまでの失敗魔法と何ら変わりがない爆発のように思えた。

「ルイズ。まさかとは思うけど、これまでの失敗魔法を虚無魔法と呼ぶようにしただけ、とは言わないわよね?」
「なっ、ちゃんと呪文を唱えたわ! この呪文は私が『ディテクトマジック』で調べた虚無の呪文なのよ」
「うーん、適当に言ってるだけじゃあないのかしら。じゃあ『働く女性こそ美しい』と唱えながら杖を振ってみなさい。あなたならそれでも爆発が起こるかも知れないわ」
「え゛、何その呪文」
「早くやってみなさい『働く女性こそ美しい』!」
「は、『働く女性こそ美しい』?」
「うん? 何も起きないわね。じゃあ今度は『理性と知性は女性の美徳』!」
「『理性と知性は女性の美徳』姉さま何かあったの? なんか怖いわ」
「何もないわよ。っていうか何もなかったのよ! もう一度! 嫌な事を全てを吹き飛ばすイメージで『理性と知性は女性の美徳』はいっ!」
「『理性と知性は女性の美徳』! 姉さまこれなんか嫌なんですけど」
「世の中には『女性は男性に愛される為にのみ努力すべき』とか言う男性貴族もいるのよ。そういう馬鹿共を全て吹き飛ばすつもりでもう一度! 『理性と知性は女性の美徳』!」
「り、『理性と知性は女性の美徳』!」
「爆発しろおっ!」
「『爆発しろ』!」
「……成る程、何も起きない、と。確かに適当に言っている訳では無さそうね」
 
 エレオノールが適当に作った呪いの文句をルイズに詠唱させて杖を振らせても何も起こらなかった。もう一度今度は虚無の呪文で『爆発』を起こさせ、メモを取る。それは他の系統とは全く共通項のない呪文だった。
 続いてコモンマジックである『レビテーション』と『ライト』をやって見せたが相変わらずエレオノールの気には召さないようで、その眉は開かない。顰め面のままメモを取り、時折ルイズに質問するだけだ。『レビテーション』は『グラビトン・コントロール』と『念力』とを組み合わせた普通に近いイメージのものだったし、『ライト』はこれ見よがしに七色に光らせてみたのだが。

「ふう、じゃあこの辺にしておきましょう」
「はーい……」

 ルイズにとって居心地の悪いレッスンがようやく終わった。また朝食後にすぐ始めるそうだが。



 朝食後のレッスンではエレオノールの私室でウォルフから教わった魔法理論を一から説明させられた。魔力素や魔力子について話している間中エレオノールは眉を顰めっぱなしで度々口を挟む。
 一々説明する度に否定的な事を言われてルイズも楽しいはずもなく、レッスンは険悪な雰囲気となっていった。

「成る程。ブリミル様の粒理論を発展した考えを基本にしているのね? ブリミル様がこの世界を構成する『小さな粒』について言及している事は確かだわ。でもそれは概念的なものだというのが今の学説の主流となっていて、ちょっとその考えは異端だわね。魔法を引き起こすのはメイジの精神力なのよ?」
「……でも、ウォルフの言う通りにしたら魔法が出来たもん」
「ルイズ。あなたはアルビオンの子供の言う事と、トリステインのアカデミーの結論とどちらを信じるの? 魔法の理論が多少間違っていても魔法が発動してしまう事はよくある事なの」
「アカデミー出身の先生もいたけれど、魔法を使えるようにはしてくれなかったわ。アカデミーって日頃どんな研究しているの?」
「む、それは……」

 大人しく言う事を聞くかと思っていたルイズに聞き返され、思わずエレオノールは口ごもる。
 アカデミーの次席研究員である彼女の現在の研究テーマは「より美しい聖像を作る原料土の選別と精製の為の魔法の研究」だ。どこからも異端だとは非難される事が無いだろう立派な研究だとは思っているが、ルイズの魔法には役に立ちそうもないのは確かだ。

「その先生は私が虚無だって事は分からなかったけど、ウォルフはすぐに分かったわ。アカデミーは虚無魔法には詳しくないんでしょ?」
「ルイズ、いい? あなたが虚無のメイジだという事はまだアカデミーでは認められていないわ。まずは私が詳しく調べ、その後主席研究員の人達が来て判定する事になっています。あなたは余計な事は考えず言われた通りのことをやりなさい。もし、あなたの魔法がアカデミーに認められなかったりしたら……おお! 恐ろしい」

 エレオノールは今回の知らせを受け、トリスタニアで調べられる事は調べてからラ・ヴァリエールに来たが、調べた内でもガンダーラ商会についてはとんでもない事ばかりが判明した。
 下品で野蛮な成り上がりの商人という噂だけなら良い。そんなのは成り上がった商人には勲章とも言える陰口だろう。エレオノールが戦慄したのはガンダーラ商会が商売に利用している魔法技術だ。
 始祖の奇跡たる魔法を馬車の馬の代わりに使い、始祖の時代にはなかった素材を開発し、からくりでものを作ったりしているという。いずれもトリステインでは異端と言われかねないきわどい行為だ。
 アカデミーは魔法研究所と銘打ってはいるが、そんな実用的な魔法を研究する事はない。大抵は始祖の奇跡である魔法の権威を高めるための研究がなされており、そんな実用魔法の研究など異端と呼ばれてまず許可されない。
 
「だから、あなたの立場は現在『虚無である可能性のあるメイジ』よ。自分から虚無だ虚無だなどと吹聴しないでちょうだい」
「私、虚無の歌聞いたもん」
「ルイズッ! 」
「私虚無だもん! 信じないなら信じないで良いわよ!」
「ああ、あなたがこんな反抗的になるなんて、よっぽどそのアルビオン人に悪い影響を受けたのね。お父様もなんでそんな子にルイズを会わせたのかしら」
「何も知らないくせにウォルフの事まで悪く言わないで。姉さまの馬鹿っ! もう知らない!」
「あ、こら待ちなさい!」

 エレオノールは額に手を当てて困った様子で言うが、ウォルフの事まで否定されてとうとうルイズは我慢できなくなった。踵を返すとエレオノールの部屋から飛び出した。
 彼女がこんな時に逃げ込む場所は城内に二カ所ある。今回はカトレアの部屋へと飛び込んだ。

「あらルイズ、どうしたの?」
「ちいねえさま! 聞いて下さい、エレオノール姉さまったら非道いんですっ……て、これ何やってらっしゃるの?」

 息せき切って走り込んだ室内には多くの使用人達が立ち働いていて、カトレアもなにやらタンスの中のものをトランクに詰め込んでいる。まるで引っ越しでもするかのようなその様子にルイズは怪訝そうに尋ねた。

「ちょっとこのお城を出て行く事になったの。ブーリの代官屋敷……いえ、もう領主の館ね。あそこに住む事にしたから、あなたもいつでも会いに来てね」
「ちいねえさま、何で……?」

 ブーリまでは近いとは言え二十リーグ程はある。まだ子供のルイズにとって気楽に出かけられる距離ではない。

「ちょっとお父様と喧嘩しちゃってね、出てけって言われちゃったのよ。大丈夫、みんな付いてきてくれるって言うし、困る事はないわ」
「ええっ!? そんな」

 カトレアはいたずらが見つかった時のようにちょろっと舌を出して言うが、とてもそんな気楽な状況には思えない。これまでカトレアの世話をしていた家臣達や護衛は付いて行くみたいだが、異常事態である事は間違いないだろう。

 何より、エレオノールが帰ってきたとたんにカトレアが出て行くというその不幸に、ルイズはまた目の前が真っ暗になったように感じるのだった。



[33077] 番外12   エレオノール・アルベルティーヌの憂鬱
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/03/22 00:42
 ゴトゴトと、昔ながらの馬車は路面の凹凸を拾いながら街道を走る。ラ・ヴァリエール公爵令嬢にして王立魔法研究所次席研究員エレオノール・アルベルティーヌは憮然として移りゆくトリステインの景色を眺めていた。
 時折馬車が大きく揺られ、エレオノールの体も揺さぶられるが気にならない。彼女の頭の中は前日にトリスタニアのアカデミーで行った中間報告の時の事で一杯だった。

「ふーむ、確かに謎のスペルにより魔法が発動しているようだが。ミス・ヴァリエール、これだけの内容で君の妹を虚無と認めるのは無理な話ではないかね」

 その通りだ。こっちから虚無と認めろなんて話をした事はない。王家には可能性があると報告しただけだ。

「きみが通常の研究を離れて一月が経つが成果は何もないとしか言えないようだね。きみ、いくら王家からの依頼とは言え給与泥棒と言われてもしょうがない状態だよ、これは」

 だったらお前がやって見ろと言いたい。大した成果を上げてない奴程他人の研究にはケチを付けるものだ。

「所詮、虚無など伝説に過ぎないのではないか? ラ・ヴァリエール公爵ともあろう方が、何を考えているのか」

 ルイズの魔法が普通ではないのは確かじゃないか。説明できないのなら、黙ってろ。

 また一つ馬車が大きく揺れた。橋を渡るようだ。エレオノールは眼下を流れる川を眺めて溜息を吐いた。



 研究開始から一ヶ月、成果は全く上がっていなかった。ルイズとの関係は最初から破綻し、今も修復できていない。言われた事はやるし質問すれば答えるが、それだけだ。ルイズは毎日やる気もなく杖を振り、ただひたすら時間が過ぎるのを待っている。
 今、ラ・ヴァリエールに戻っても研究が進む見込みは無い。考えると気が重くなるばかりの現実を前に、エレオノールは深々と溜息を吐く事しかできなかった。

 やがて馬車はラ・ヴァリエールの城へと滑り込む。エレオノールはまた一つ大きく溜息を吐いた。



「ルイズ! ルイズは何処!?」

 今日帰る事は伝えていたし、レッスンの時間まで約束していたというのに部屋に行ってもルイズはいなかった。どうやらまた逃げ出したみたいだが、近くのメイドを捉まえて尋ねても要領を得ない。
 ここのところエレオノールがガミガミとルイズを叱り、ルイズは目の端に涙を浮かべながらそれに耐えているという事が多かったので使用人達は皆ルイズに同情的だ。
 おかげでルイズが逃げ出す度にエレオノールは自分で探し回る羽目になる。使用人達に命じても、見つかりませんでしたとの報告しか上がってこないからだ。今回も一人城内を探し回り、門番を締め上げてようやくルイズが城外に逃げ出した事を掴む事が出来た。

 すぐさま竜車を用意させ、ルイズを追う事にした。最初の頃は真っ直ぐにカトレアの領地に逃げ込んでいたルイズだが、ここのところは学習したのか領地の別の街に逃げ込んでいるようで、夕方まで時間を潰してから悠々と城に帰ってくる事が多い。
 帰ってきた時にいくら説教しても何処吹く風だ。横を向いて聞き流している。

 今日こそはそんなことになる前に捕まえてやると気合いを入れて竜車に乗り込んだ。
 エレオノールは焦っていた。ルイズが虚無でないのならばいいのだ。文句は言われるだろうが、王家とアカデミーとに勘違いでしたと断りを入れればそれで済む。
 虚無だった場合には確実にその証拠を手に入れなくてはならない。もし虚無の僭称と認定されてしまったらルイズがどんな目に遭わされるのか想像も付かない。証拠も掴めず、それなのにルイズが虚無だと自称している現状はとても危険なものだった。
 ルイズのここのところの行動から推測して捜索する方向を決め、まずは一番近くの街へと向かった。

 しかし、広いラ・ヴァリエール領内に逃げたルイズを見つけ出すというのは難しい話だ。ここのところセグロッドを手に入れているので行動範囲が広くなっているし、最近はエレオノールの裏をかくような逃げ方をする事も多い。何の手掛かりも得られないまま一つ目の街から移動し、エレオノールはラ・ヴァリエール最大の都市ティオンにまで来た。
 南の門から街へ入り、周囲に目を光らせながら緩やかな坂になっている大通りを歩く。門番はルイズを見ていないとの事だったがそれだけでここにいないという証拠にはならない。注意深く路地路地に目をやりながら中央大広場まで到着した。
 
 この街の中央大広場には大きな教会が建っていて、エレオノールはここにルイズがいるのではないかと目星を付けていた。このような大きな街の神官にはラ・ヴァリエール家のものと顔見知りの者も多いので、それらの人を頼って時間が過ぎるまで匿ってもらっているのではないかという推測だ。

 ルイズを探してその広場に足を踏み入れたエレオノールは、そこがいつもとは違う雰囲気になっている事に気がついた。平日のそろそろ夕方というこの時間、いつものこの広場にはそれ程多くの人がいるという事はなく、皆お喋りしたりベンチに座ったりして思い思いに時間を過ごしているが、今日の中央大広場はなにやら様子が違う。広場にはいくつものテントが立ち並び、なにやらビラを配っている人やテントに人を呼び込んでいる人がいて、教会には若い女性が連れ立って入っていく。テントは食べ物を出してたりなにやらパネルを展示したりしていて結構な人が群がっている。何が起こっているのかエレオノールには分からなかった。

「お姉さん! そこの美人のお姉さん! メガネを掛けた、そう、そこのあなた!」
「わ、わたし?」

 何事があるのか広場を見渡して近くのテントを覗いてみようとしたエレオノールは、唐突に一人の少年に声を掛けられた。調子の良い感じでにこやかに話し掛ける少年は、ルイズと同じくらいの年頃だろうか、くりくりと良く動く深緑の瞳がエレオノールの印象に残った。
 しかし、いくらお忍びで比較的質素な身なりにしているとは言え、こんな平民の少年に話し掛けられてはいそうですかと返事をするエレオノールではない。ツンと尖った鼻を逸らして少年を無視し、教会へと行こうとした。

「無視しないでよ。ねえお姉さん、お姉さんは結婚しているの?」
「何だってのよ。結婚なんてしてないわ。喧嘩売ってるの?」

 その行く先を塞ぐように回り込まれてつい、相手をする。結婚という単語に反応してしまった。

「おお、お姉さんみたいな美人が未婚だなんて、トリステインの男共は見る目が無い。ねえ、恋人はいる?」
「い・な・い・わ・よ! よし、その喧嘩買ってあげてもよろしくてよ。わたし今とても虫の居所が悪いの」
「喧嘩は遠慮しまーす。ストレスの多い現代、女性が一人で生きていくのは大変ですよね? あなたを理解し、あなたを必要とする優しい男性があなたを待っています。こちらをどうぞ、そちらの教会で随時詳しい説明を行っています。興味がお有りでしたら是非足をお運び下さい!」
 
 少年はエレオノールにビラを手渡すともう次の女性に話し掛けていた。キャッチセールスに引っ掛かったのかとそのビラに目を落とすと、そこには意味不明の事が記してあった。

『開拓地に春到来! 素敵な出会いがあなたを待ってます! ゲルマニア大横断の旅 交通費宿泊食事代全て無料! ふるってご参加ください』

 どうも旅行パンフレットのようだが全て無料というのが解せない。よくよく読んでみると下の方に『十六歳から三十歳位までの独身女性限定』と書いてある。これはもしや大々的な人攫いなのではないかと思ったエレオノールは先ほどの少年の所へ詰め寄った。

「ちょっとあなた! これは一体誰の許可を得てしている事なの?」
「おっと」

 ツカツカと近寄って首根っこをつかまえたつもりなのに、少年は寸前でスルリとその手から逃れた。

「いや誰の許可って領主様の許可を得なきゃこんな事出来ないよ。教会だって借りてるんだし」
「嘘おっしゃい。ラ・ヴァリエール公爵は領民を大事にする方よ。こんな人さらいまがいのあやしい事を許可するはず無いわ」
「人さらいまがいって何さ。ちゃんと許可は取ってるよ。ホラこれ」

 ごそごそと懐を探って書類を取り出す。何でこんな少年がそんなものを持っているのか訝しみながら確認すると、確かにそこには事業の内容と父ラ・ヴァリエール公爵のサインが記してあった。
 確かにここのところトリステイン国内では比較的景気の良いラ・ヴァリエール領内では、周辺地域から流入してくる流民が問題になっていたが、こんな事を父が許可するとは中々信じがたい。

「そんな、本物だわ……んん? ウォルフ・ライエ開拓団?」
「そう、そのウォルフ・ライエ開拓団の団長、ウォルフ・ライエです、よろしく。お姉さんはちょっと性格きつそうだけど、美人だしもてると思うよ? 結婚予定がないなら参加してみないかな、将来有望だぜ」
「あなたがっ!!」

 調子よく勧誘していたのだが、キリキリと歯を噛み締めながら憤怒の表情で睨み付けられてウォルフはさすがに驚いた。こんな美人さんに親の敵を見るような目をされる覚えはない。

「あれ、お姉さんオレのこと知ってるの? そんな目で見られる覚えはないんだけど」
「……ちょっとここでは。そうね、教会で部屋を借りましょう。あなた、ちょっと顔を貸しなさい」
「えーと、オレ忙しいんだけど。良い知らせを待っている男達がいるんだよ」
「待たせておきなさい」

 ウォルフが控えめに抗議するがエレオノールは無視してさっさと教会へ入って行ってしまう。こっちも無視してやろうかとも思ったが、ラ・ヴァリエール公爵のサインを一目で見分ける人物だ、無碍にしない方が良いかもしれない。
 まあ、本来この勧誘活動は出張してきた開拓団員達だけでやる予定だったのだが、今日はルイズに会えなかったので手伝っているだけだ。とりあえず手に持っていたビラの束を近くの開拓団員に渡すと彼女の後を追った。



「こ、これはエレオノール様! あなた様もお見合いツアーにご参加なさるので?」
「ななな何でわたしがそんなものに参加するのよ! あなたも喧嘩売ってんの!?」

 教会に入るなり顔見知りの神官が声を掛けてきたが、エレオノールはまなじりを釣り上げて一喝した。

「そうでございますよね、いくらなんでも平民相手の……あ、いや申し訳ない、つい早とちりを」
「……まあいいわ。随分人が多いわね、神官も手伝っているの?」
「いやあの、奥の中庭に椅子を出して説明会を行っていますが、混雑するもので案内を。これは公爵様の方から要請がありましてこんな事に」
「ああ、いいのよ別に。文句があって来た訳じゃないの。ちょっとあちらの少年と話をしたいので部屋を貸して下さる?」

 後から入ってきたウォルフを振り返って神官に依頼する。神官はウォルフが責任者であることを知っているので得心がいったように頷いた。

「畏まりました。中庭側は説明会で騒がしくなっておりますので反対側の小部屋をご用意いたしましょう。人払いをしておきます故、お帰りになる時にお声をおかけ下さい」
「ありがとう。暫くお借りします。あ、その前にお茶をお願いしますわ」
「すぐにお持ちしましょう」

 ロマリアでは傲慢な神官が多いとのことだが、ここラ・ヴァリエールではそんなことはないようだ。交渉した時も温厚だったし、と後ろから眺めていたウォルフはそんな風に判断した。
 神官が用意した部屋は信者達が話し合いをするのに使ったり、神官に相談事をする時に使う小部屋だ。シンプルな内装で仕上げられた部屋の一角にはソファーと小さなテーブルがあって、座って話を出来るようになっている。エレオノールはそのソファーにウォルフを誘った。

「お座り下さい。ウォルフ・ライエ・ド・モルガン殿。予てからあなたとは話をしたいと思っていました。ラ・ヴァリエール公爵家の長女エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエールです。カトレアとルイズが世話になったみたいね、お礼を言っておくわ」
「ああ、成る程ルイズのお姉さんでしたか。しかし、お礼……」

 随分と居丈高に言われたので唖然としてしまったが今のは一応お礼だったらしい。ルイズから話は聞いていたが、聞きしにまさるとはこの事だと思う。

 お茶を持ってきた教会の小姓が下がると、正面に座ったエレオノールは早速用件を切り出す。

「ミスタ・モルガン。話というのはルイズのことです。あなたは何故――」
「あ、ちょっとお待ち下さいエレオノールさん。それはなくなりましたのでウォルフ、もしくはウォルフ・ライエとお呼び下さい」
「は? 無くなったとは、何が?」
「最近父が爵位を失いましたので、ド・モルガンは無しです。ただのウォルフ・ライエですね」

 爵位を失ったなどと言う重大事をしゃらっと言うウォルフには驚くが、興味のないことなので流す。もちろん、平民になったくせに態度のでかい子供だとの認識はしっかり持った。

「では、ミスタ・ウォルフ。わたしがあなたに聞きたいことは、何故、あなたはルイズのことを虚無と判断したのですか? ここ一ヶ月、私はルイズの魔法を研究してきましたが、虚無であるという証拠は得られませんでした。今のところ、あなたがルイズに虚無だと教えて、その教えを受けたルイズが魔法を使えるようになった、その事のみがルイズを虚無のメイジたらしめています。あなたは何故ルイズを見て虚無だと思ったのですか?」
「あの、ルイズは虚無魔法『エクスプロージョン』を使えると思うんですが、それじゃダメなんですか?」
「あんなのはいつもの失敗魔法と何ら変わりありません。あんなのが虚無魔法だなんてとてもアカデミーでは主張できません」

 ただの平民がルイズのことを呼び捨てにする事に苛つきながら答える。この領内にはルイズのことを呼び捨てにする平民などいない。いや、いて良い話ではない。

「虚無魔法なんだけどなあ。何で判断したかって言われても、今のところ観察した結果としか言いようがありませんね」
「そんな曖昧な判断で人の妹に虚無だなどと吹き込んだのですか?」
「いや、まだ研究中ですし、分からない人には理解しがたい事かも知れませんが、ルイズが虚無であることは間違いないと思います。いずれ明らかになるでしょう」
「研究はわたしがしています。明らかになる見込みなど全くありません。それなのにルイズは虚無だと主張することをやめない。これは、とても危険なことなのです」
「……えーと、それでオレに何をしろと?」

 お互いの主張は平行線をたどるしか無く、ウォルフは話にならないと思いながら投げやり気味に聞き返した。ちょっと、ビラ配りに戻りたくなってきた。

「ルイズに虚無のメイジではない可能性があることを納得させて欲しいのです。ルイズはちょっと、そうほんのちょっと頑固なので今は少し意固地になっていて、こちらの言うことに耳を貸さなくなっています。虚無だと最初に吹き込んだあなたがそれを否定すれば、少しはこちらの言うことに耳を傾ける気になるかも知れません」
「いや、虚無じゃない可能性、無いし」
「……」

 こんなに丁寧に話しているというのに平然としてこちらの言うことに耳を貸さない平民を睨み付ける。しかし、睨まれたからと言ってルイズが虚無ではない可能性など出てくるものでもない。魔力素をあんなに簡単に破壊できるメイジが普通のメイジである筈はないのだ。ウォルフはエレオノールの視線を気にすることなく頭の後ろで手を組み、ソファーに大きく沈み込んで足を投げ出した。エレオノールに良く聞こえる盛大な溜息までセットだ。

 過去エレオノールの前でこんな態度を取った平民はいない。怒鳴りつけてやりたくなるが、エレオノールは何とかそれを堪えた。

「……有るか無いかはこちらが判断することなのよ。私達は、トリステイン王立魔法研究所としては虚無だという確証は得られていないの。ということは虚無じゃない可能性があるって事なのよ」
「あなた達がルイズを見て虚無じゃないと判断するなら、それはそれで良いじゃないか。話は平行線になるけど、誰が困るという訳でもないし」
「虚無だと証明できない者が虚無だと主張することは虚無の僭称になるわ! これはブリミル教においてとても大きな罪よ。ルイズが異端認定されてしまうかも知れないじゃない! 誰が困るって、わたしが、今、とても困っているわよ!」

 思わず何度もテーブルを叩いて叫ぶ。ルイズのために良かれと思ってやっているのに全く分かって貰えない。アカデミーの連中は話にならない。あげくこんな平民にまで舐められる。
 エレオノールは感情が高まりすぎて、呼吸が苦しくなる程だ。暴れ出そうとする感情を抑えようとしている内に、何だかとても悲しくなってきてしまった。
 
「もうイヤよ。いくら言い聞かせてもルイズは言うこと聞かないし、逃げるし。じじいどもは好き勝手なこと言うし」
「あー、異端認定かあ……面倒くせえ。そいつらだってルイズが虚無じゃない証明なんて出来ないと思うんだけど」
「異端認定に証明なんて必要無いのよ! あの子まだあんなに小さいのに、非道い。非道いわ。ねえ、そんなことになったらどうしたらいいの? ねえ、あなた。あなたに責任取れるって言うの?」
「あ、いや責任って。そういう話になるの?」

 とうとうポロポロと涙をこぼしながらウォルフに詰め寄る。

「こんなに頑張っているのに誰も分かってくれない。家臣達だって全員わたしがただルイズに意地悪していると思っているのよ? でも、仕方ないじゃない! わたしだって意地悪なんてしたくないわ。心配なのよ! 心配で心配でしょうが無いの。ねえ、分かる?」
「あ、はい。分かります。お姉さんが実は妹思いの優しい人なんだなあって分かりました」

 ウォルフだって男なので女性の涙は苦手だ。体を起こしてとりあえずエレオノールを慰めることにした。

「カトレアはこんな大変な時だってのに自分の領地に籠もって。『ルイズは虚無なのだから心配しなくても大丈夫よ』なんて慰めるだけなんて本当の優しさじゃないわ」
「んー、でも優しくしてくれる人が家族にいるのは大事だよ。役割分担だと思って気にしないのが一番さ」
「お父様もお母様も全然分かってくれない。最近はむしろわたしのことを困った姉って目で見ている気がするし」
「いや、それは思い過ごしじゃないかな。公爵はあなたのことをとても頑張っているって言ってたよ」
「ルイズだってわたしのことなんて意地悪ばばあって思っているに違いないわ。わたしなんて誰にも理解して貰えないで、みんなに嫌な奴って思われながら一人年を取っていく運命なんだわ」
「そんなこと無いよ、少なくともオレは理解した。お姉さんの小さな胸には大きな優しさが詰まってるって」
「おう。……誰の胸が何だって?」
「いや、そこだけ反応しないでよ」

 いくら慰めても反応がないのでこっちの言うことは耳に入ってないのかと思ったが、ちゃんと聞こえていたらしい。カトレアとの差が気になってつい思ったことが口に出てしまった。ルイズの未来はどっちだ。

 エレオノールの懸念は理解できる。最悪でロマリアが出てくる事態になるかなとウォルフは考えていたが、そんな事になる前にアカデミーが虚無ではないとレッテルを貼る可能性は高いみたいだ。
 虚無の可能性がある者に対して、証拠も無しにそんなことをしないだろうとのウォルフの思いは、どうやらアカデミーという存在を良く理解していないだけらしい。ラ・ヴァリエール公爵の影響力もあるのでまさか異端認定はされないだろうとは思いたいが、ルイズの嫁ぎ先が無くなるような事態は起こりそうな気もしてきた。

 しかし、そんなことよりもウォルフにとって今問題なのは、目の前でドロドロとした怨念を溢れさせているエレオノールだ。触れれば祟り神にでもなってしまいそうで、下手な対応は出来ない。
 絶体絶命のピンチに思えるがこの状況を打開する目処は立っている。この教会の神官が人払いしたというのに、さっきからドアの外で室内の様子を窺っている存在がそれだ。
 ウォルフは杖を振って『念力』でそのドアを開いた。



 唐突に開かれたドアの前に俯いて佇んでいたのは特徴的なピンク頭の少女。気配から予想していた通り、覗いていたのはルイズだった。

「良いお姉さんじゃないか、ルイズ。君のことが心配なんだってさ」
「……」

 立ち上がってウォルフを締め上げようとしていたエレオノールは視線を移し、そこに探し人を見つけて唖然とした。考えてみればこの教会にはルイズを探しに来ていたので彼女がいることは不思議ではないのだが、今みっともなく泣き喚いていた所をルイズに見られていたのかと思うと何ともバツが悪い。

「ちびっ! ちびルイズ! ああああなた今まで一体――」

 袖口で涙を拭って、気恥ずかしさをごまかすように叫んだエレオノールの声はすぐに止んだ。室内に走り込んできたルイズが、エレオノールの胸の中に飛び込んできたからだ。

「ルイズ、あなた――」
「ごめんなさい。姉さま、ごめんなさい。姉さまのこと、ずっと意地悪ばばあって思ってました」
「……」

 思わずいつものようにほっぺたをつねり上げそうになったが、腕の中で泣いているらしい事に気付いてそんな気は無くなる。一つ小さく溜息を吐いてその頭を撫でた。
 そう言えばルイズがこんな風に抱きついてくるのは何時以来だろうか。うんと小さい頃は母に叱られたとか池に蛙が出たとかで抱きついてきていたような気もするが、いつしか飛び込む胸はカトレア限定となった。エレオノールが魔法学院に行っている間にルイズとの距離が開いたような気もするが、記憶は定かではない。三年間離れて暮らしている間に、エレオノール自身もルイズとの距離を測りかねるようになって、ついついきつく当たるようになった気がする。とりあえず昔のようにエレオノールの腕の中で泣いているルイズの頭を撫でながら、彼女が落ち着くのを待った。



「虚無の僭称にされる可能性なんて、考えていませんでした。姉さまが心配していることはもっともだと思います」
「よろしい。これからはレッスンにももっと協力的になるわね?」
「はい。もう逃げたりしません。心配していただいていていたのに反抗ばかりしてすみませんでした」
「これからちゃんとしてくれれば良いわ。私もアカデミーの体質をもう少し丁寧に説明するべきだったわね」

 解り合ってしまえばなんてことはないことだった。ルイズはエレオノールが自分のことで涙を流す姿を鍵穴からのぞき見て、これまでの誤解にようやく気付いたのだ。
 自分のことを嫌いで、単に虐めるのが好きな性格破綻者なのではないかという疑惑は氷解した。愛情の表現方法に問題はありそうだが、妹思いの優しい姉であることは間違いなさそうだった。
 姉妹の和解を端でぼやっと見ていたウォルフはやれやれと溜息を吐く。エレオノールの胸から顔を上げたルイズと目があった。

「ウォルフ、ごめんね。折角ウォルフに虚無って認めて貰ったのに、私、虚無じゃないってなるかも」
「あ、いやいいよ、そんなの全然。安全第一で身の振り方を考えてくれ」

 ルイズも無理に虚無と主張することの危険性を認識した。安心したエレオノールが隣で頷いているが、ウォルフにはあまり興味がないことだ。
 問題が解決したのでルイズもエレオノールの隣に来てソファーに座った。もう涙も収まったようで、ケロリとしている。ルイズとウォルフとが直接会うのは久しぶりだ。手紙のやりとりはしていたが、ウォルフが大変な事件に巻き込まれていたためにずっと会うことが出来なかった。

「ところで、教会の窓から覗いていたけど、ウォルフは開拓民のお嫁さん探しのためにわざわざラ・ヴァリエールに来たの?」
「そうね、開拓団長自らビラ配っているなんて随分と人手不足なのね」
「……ルイズに会いに来たんだけど、城に行ったらいないって言われたんだ。時間が余ったから手伝っていただけだよ」
「あらそうなの。ごめんなさいね、今日はエレオノール姉さまが帰ってくる日だったから逃げちゃったのよ」
「らしいね。まあ、事情は大体分かったよ」

 そう言えばウォルフは一部始終を全部見ていた訳で、泣き顔を見られていたことを思い出した二人は頬を染める。

「授業の続きをしてくれるの?」
「そのつもりだったんだけど、どのくらい進んだ?」
「手紙に書いた位だわね。『エクスプロージョン』の呪文が少し、長くなった程度よ」

 あまり進んでいない。というかほとんど進んでいない。ここのところルイズはエレオノールに時間を取られ、ほとんど自習する時間が無かった。

「ほとんど進んでないんだな。まあ、そんなことだろうと思って良いもの持ってきたぜ。これならお姉さんの懸念も一発解消できるかも知れない」

 ルイズによる自習の成果に大した期待もしていなかったウォルフは、責めもせずソファーに放り投げていたリュックから真っ黒な布を取り出した。

 これはアンネが襲撃された時に使われた伝説のマジックアイテム『虚無の布』だ。襲撃された時、アンネが何となく寒さを防ぐものとして持ち続けていたものだが、伝説としか言いようのない凄いアイテムだった。これを見た時のウォルフの衝撃は大したもので、虚無が伝説の系統と呼ばれる理由を理解した。この布に魔法が効かないと言うのならまだ良かったが、衝撃を受けたのは魔法で『練金』した金の粒をこの布でくるんだ時だ。
 完璧な『練金』で、どこからどう見ても本物の金になっていて、熱して溶かしたり叩いて伸ばしたりも出来るというのに、この布でくるむと元の石ころに戻った。ウォルフには本物の金だろうが『練金』で作った金だろうが見分けは付かない。せいぜい『練金』で作った金には不純物がないことくらいしか見分けるポイントがないというのに、この布はウォルフには見えないものを見分ける。

「何よ? この布」
「アルビオンで『虚無の布』って呼ばれていたマジックアイテムだ。知り合いが偶然入手したものを借りてきた。ルイズに『ディテクトマジック』でこの布に付与されている魔法を調べて貰おうと思ってね」
「あなたっ!! それって!」
「そう、本物の虚無がここにある。オレにはこの魔法が何であるのかは分からなかった。でも、ルイズなら何とかなるんじゃないかって思っているんだ」
「えっと、これを解明すれば、私また虚無ってことになるのかな?」
「そうなるね。これに付与されている魔法は全ての魔法を無効化する。虚無魔法って名前に相応しいものだよ。これをルイズが使えるようになれば、文句を付ける奴はいなくなるだろうと思う」
「そんな、虚無魔法の本物があるなんて……」
「姉さま、全ての魔法を無効化する魔法を使えるようになれば、アカデミーも認めてくれるのかしら?」

 ルイズの呟きに、エレオノールはコクリと頷くことしか出来なかった。
 


 ウォルフはこの日から三日間ラ・ヴァリエールに泊まり込んでルイズに付きっきりで『虚無の布』の解明にあたった。
 マジックアイテムの基本的な作り方から物理的構造と魔法的構造の見分け方、解析する上での注意点などを付きっきりでたたき込んだ。
 大抵のマジックアイテムには複数の魔法が複雑に絡まり合って付与されているが、それらを全て理解し構造まで把握していないとマジックアイテムの解析など出来ない。その作業について全くの素人と言えるルイズに基本的なパターンから教えなくてはならないために、研究は朝から晩まで長時間にわたった。

 そして三日目、ルイズは再び虚無の歌を聴いた。ウォルフが推測した『虚無の布』の構造をもとに、その根幹に付与されている魔法『ディスペル』を解明したのだ。

 その強力無比な虚無魔法を目の当たりにしたエレオノールは体の震えを止めることが出来なかった。試しにとエレオノールが『強化』と『硬化』をガチガチにかけて作った『ゴーレム』をルイズの魔法は一瞬で土塊に戻した。

 メイジの権威の象徴である魔法を無効に出来る魔法は、エレオノールに畏怖を感じさせるのに十分なものだったのだ。その力を目の当たりにした瞬間、ウォルフが「本来ルイズがトリステインの王になるべき」などと言っていた、その理由を理解した。虚無のメイジこそがメイジの王である、と。





「じゃあ、じゃあつぎこれね? これには『固定化』と『硬化』の魔法が掛けられている。この『固定化』の魔法だけ『解除』してみてくれ」
「どっちも似たような魔法ね、見分けが付きにくいわ。でも『固定化』は化学的な不活性化がメインで『硬化』は分子間結合の強化がメインね。やってみるわ……《ディスペル》!」
「おおっ! お見事。すげえ、ちゃんと『硬化』だけ残っているよ」

 ルイズとウォルフが完成した魔法の実験をしている傍らでエレオノールは人知れず溜息を吐いている。
 虚無魔法『ディスペル』の完成によりルイズが虚無のメイジであることは確定した。それにもかかわらず、エレオノールの不安が解消されることはなかった。
 虚無のメイジが王になるべきだとすると、既に王がいるこの国ではそれは政治的に不安定をもたらす要因でしかない。今後様々な思惑が絡み合い、ルイズは政争の舞台へと連れ出されることになるのだろう。
 ウォルフは個人的に既にロマリアに目を付けられていると話をしていた。彼は虚無の使い魔の疑惑を掛けられているそうで、ルイズには笑いながら使い魔は断るから召喚しないでくれなどと言っていたが、もう密偵を送り込まれている程だという情報は見過ごすことは出来ない。

 ルイズの将来を思い、また溜息を吐く。エレオノールは、少なくともウォルフのように脳天気でいられなかった。



[33077] 3-22    清濁
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 20:53
「《ウィンディ・アイシクル》!」

 凛とした詠唱と共に現れた無数の矢。凍てつく氷が矢の形となったその魔法はオーク鬼との距離を瞬く間に飛び越え、豚のようなその醜い体に吸い込まれた。前面に立っていた一団が倒れ、すぐさまその後ろにいた一団がシャルロットに殺到しようとしたが、もう一度詠唱が唱えられると周囲は沈黙に支配された。

 亜人達が全て物言わぬ骸に成り果てても、シャルロットは油断無く杖を構えたまま周囲に目を光らせる。気配を読み、風の音を聞いてもう生きている者がいない事を確認すると、ようやくかまえていた杖を降ろした。

「お見事です、シャルロット様。もうオーク鬼五匹くらいでは本気になる事もないようですね」
「そうでもないわ。オーク鬼は死んだふりをする事があるから油断は出来ない。前に一度危ない目にあったし」
「その経験を忘れない事です。どんなに優れたメイジといえど、油断から身を滅ぼす事はままある事なのですから」

 強力な魔法を覚えても慢心することなく精進を続ける教え子の姿に、風の魔法を担当する教師は目を細めた。

 十歳になり、トライアングルメイジとなったシャルロットはますます戦闘者としての能力を高めている。何処までの高みに登るのか周囲の者は皆楽しみに見守っているのだが、本人はまだまだ不満らしく研鑽に余念がない。その絶え間なく努力を続ける姿勢は王宮で評判となり、シャルルの戴冠を望んでいる者達を勢いづかせていた。
 シャルロットが今いるこの場所はリュティスから少し離れたところにある王領の森。あまり手をつけられていなこの森は日頃王家の狩りなどに利用されているが、シャルロットはここのところその奥地へと分け入り、亜人や幻獣との実戦経験を積んでいる。大勢の勢子が獲物を追い立て、やはり大勢の護衛に守られたシャルロットがそれを倒すという王族らしい狩りではあるが、迫り来る亜人の群れに対峙する経験はシャルロットにとって貴重なものだ。

「それでは今日の授業はここまでですな。シャルロット様、この後のご予定はどのようになっていますか?」
「今日はプローナにウォルフが来るっていう話だから、会いに行くわ。明日の授業はお休みね」
「……またですか。シャルロット様、少々噂になっております、アルビオン人などとあまり親しくするのは考えた方がよろしいのでは?」

 シャルロットはウォルフがガリアに来る度にその情報を得ては会いに行っている。もう十回以上は会いに行っただろうか、飛行許可の関係で事前に情報は手に入るので、連絡がある度に自分のモーグラを飛ばしてラ・クルス領まで行っている。
 口さがない者達が王家の姫がアルビオンの下級貴族の所に通っているなどという下らない噂を立てている事は知っているが、シャルロットにとってウォルフに手合わせして貰うのは一番魔法の修練になると感じているので何を言われても気にするつもりはない。

「あなた達がもう少し本気で相手してくれれば、ウォルフに会いに行かなくても良いのだけど」
「…シャルロット様がお怪我をなさらない範囲でお相手いたしております」
「それじゃあ、意味が無いわ。あの背筋がピリピリとするような感じじゃなきゃダメだと思う」

 最近はウォルフも面倒くさがって一、二合位しか魔法を撃ち合ってくれないが、それでも得難い経験だとシャルロットは思っている。ウォルフ以外にシャルロットを昏倒させてくれるような魔法を撃ち込んでくるメイジなどいないのだから。

 なおも教師には文句を言われたが、気にするシャルロットではない。リュティスに帰ると早速出発の準備を整えた。リュティスからラ・クルス領まではモーグラでも四時間以上かかるが、昔に比べると随分と近くなった。道中で読む予定の本を何冊かと、帰りに寄る予定のオルレアン領の実家に持っていくおみやげを積み込んでいると、そこに友人であるウォルフの従姉妹ティティアナが訪ねてきた。

「シャルロット! ちょっと待って、ラ・クルスに行くの?」
「? ウォルフが来るらしいから、会いに行くの。いつもの魔法の鍛錬よ」
「わたしも連れて行って! ウォルフ達大変な事になっちゃったらしいから、会いに行きたいの」
「別に構わないけど、大変な事?」

 シャルロットに常時付いている護衛は二人なのでモーグラには一つ座席が余っている。ティティアナを乗せて離陸し、道中で話を聞きながらラ・クルスへと向かった。ウォルフ達ド・モルガン家がサウスゴータで他貴族の罠にはまって爵位を剥奪されたという話はシャルロットを驚愕させた。この世界で貴族がその爵位を奪われるというのは大きな事件だ。そんな大変な時に会いに行っていいものやら迷ったが、せめて会って励まそう思ってそのまま飛び続けた。




 一方のウォルフはプローナでかなり苛つきながら新工場の建設に立ち会っていた。
 この工場は綿花から綿糸を紡績し、布地を織ったりニットを編んで服飾材料を生産する工場だ。本来この仕事はリナのチームがやるべきであり、ウォルフは機械の設計にも生産にもあまり関わっていないので受け持ちたくなかった。しかしリナはゲルマニアの工場建設で手一杯で、仕方なくその他をウォルフが担当する事になった。とにかく工場や商会の機能移転でみんな忙しい。こんな目に陥る原因となったサウスゴータの議会に向けて呪詛の言葉を呟きながら、ウォルフは設計図通りに工場が造られるよう、気を張り詰めて監督していた。

 アルビオンでの一連の騒動が終息した後、ガンダーラ商会は結局アルビオンからほぼ撤退することになった。チェスターの工場などサウスゴータ周辺の拠点だけでなく、各都市にあった支店や空港などほぼ全てだ。そこまでの事態になったのは王家との関係が拗れきった事が原因だ。そもそも民間のフネを空賊の襲撃と装って撃墜しようとしてくる王の下では商売などできないし、それに加えて商会が巨額の賠償金を王家に支払わせた事も影響している。

 サウスゴータ議会がチェスターの工場の敷地と建物を接収するという無法行為を、商会の大株主であるツェルプストー辺境伯とヤカ商人ギルドを擁するラ・クルス伯爵が黙って見ているはずはなかった。彼等の支援を得たタニアは王家に対して強気の交渉を展開し、議会の接収計画は違法でありそれを知っていながら看過した国に責任があるとして二百万エキューを移転費用と逸失利益として請求した。辺境伯などは嬉々として交渉にまで出張ってくる熱の入れようで、その結果百五十万エキューが商会に支払われる事になった。一連の騒動に対し負い目があり、裁判となって痛い腹を探られる羽目になる事をいやがった王家と、係争が長期化する事は嫌な商会とが折り合いをつけたのがこの金額だった。王家はサウスゴータの貴族達にこの金額を請求するつもりのようだが、彼らが大人しく支払う見込みはない。

 商会としてはこの賠償金によって移転費用は賄えた上に撤退時に協力してくれた辺境伯達各地の貴族や商会に謝礼を払う事が出来たのでその点については良かったが、王家と商会との間がこれで修復不可能な程に悪化した事は間違いない。今後どんな無理難題をまた持ちかけられるか分かったものではないという観測もあり、これまでのようにアルビオンで活動する事を諦めたのだ。

 当初アルビオンに残すつもりだった服飾関係の工場は、暫く移転先を探していたが結局大部分をトリステインのラ・フォンティーヌに降ろすことになりそうだ。アルビオンでこれまで培ってきた技術にトリステイン伝統の材料やデザインを取り入れ、一から再出発するのだ。当初はラ・フォンティーヌに服飾関連を全て集積するつもりだったのだが、紡績に関しては広大な綿花栽培地を持つガリアにもあるべきだろうとのことで、紡績工場はラ・クルスのプローナにも建て、ラ・フォンティーヌとの二カ所となった。ついでに樹脂の製造プラントもプローナに移設したので化学繊維もこちらで紡績を始めている。
 他にもアルビオン王領であるメリノの村にあったガンダーラ商会直営牧場は解散して村営へ移管し、メリノ村で引き受けきれない余剰の人員と羊はウォルフの開拓地へと移籍。ウール原料はそこからラ・フォンティーヌへ輸出され、製品に加工される。メリノ村の事業は結局赤字で終わったが、ガンダーラ商会の事業によりここの羊毛の高品質さはハルケギニア中に知れ渡った。村長からはまたいつでも戻って欲しいと感謝の言葉をかけられている。
 アフターサービスに対応するためロンディニウムと他二カ所の商館のみは残したが、騒動後程無くしてサウスゴータなどに作った空港、各地の商館など全ての売却及び撤退が完了し、かつて一世を風靡したガンダーラ商会のアルビオン貿易は東部と北部の貴族領経由で細々と続けるだけになった。

 一応、今後また復帰する可能性を探るためにガンダーラ商会と親しい貴族を通じて情報収集は続けているが、一時期勢いを失っていた貴族派が最近また権勢を振るうようになってきている事もあり、当面はこのままの状態が続きそうだ。
 貴族派は風石相場の暴落で多くの財産を失ったとの事だったのだが、もうその事を忘れさせる程の豊富な資金力を見せている。どうもガリア系の商会が絡んでいるとの事だが、王家との本格的な衝突も近いのではないかと商人達の間では話題になっている。
 王家と貴族派との争いなど、もう商会には関係のない事になったので、ウォルフとしては勝手にやってくれと言ったところだ。
 


「ウォル兄ー!」
「ウォルフ! 久しぶり」
「ああ? おおティティにシャルロット、久しぶり」

 機械の向きを九十度間違えて設置しようとしていた作業員をしかりとばしているウォルフに背後からシャルロット達が声を掛けた。ウォルフは二人を確認すると軽く手を挙げて応えた後すぐにまた作業に戻る。作業員にはガリアで新たに雇った者が多く、機械の設置になれていないので細かいところまでウォルフが見なくてはならず、ずっと忙しかった。

「はい、スラー! ゆっくりねー」
「貴様、ド・モルガン! シャルロット様に対して不遜であろう。今すぐそんな作業は中断してこちらへ来い!」
「え? あっ、そこ! ちゃんと水平とっているんだから、適当に木を挟もうとするなって!」
「ちょっと、あなたは黙ってて。私とウォルフの関係なんだから。ウォルフ、なんだか大変だったって聞いたんだけど、忙しいの?」

 王女を一瞥しただけでクレーン作業に戻るというウォルフの態度にいきり立つ護衛の者を抑えて、シャルロットがすぐ後ろまで来て尋ねた。ウォルフはシャルロットに意識を裂きながらも、作業からは目を離せない。

「マジで忙しい。えっと、杖合わせかな、ちょっと時間がないから兄さんとやっててくれるとありがたいんだけど」
「きき貴様!」
「いいから」

 今日は相手をするつもりのないウォルフにまた護衛がまた声を荒げるが、ウォルフが気にする様子はない。サウスゴータ議会にむかついているからとか、アルビオン王家に襲撃されて腹が立っているとかそう言う事は関係なく、ウォルフは純然と忙しくてシャルロットに気を使っている余裕がないだけだ。何せここ一ヶ月以上ろくに開拓地へと帰る事も出来ず、ニコラスとアンネの捜索やトリステインやガリアでの工場移転など働きづめなのだから。

「あの、杖合わせは時間があったらでいいわ。平民になっちゃったらしいけど、大丈夫なの?」
「んあ? まあ、まだ十一才だからね、貴族だろうと平民だろうと大して差はないよ。……あ、それは後だって! こっちの機械が搬入できなくなるだろ!」

 手順書をちゃんと読んでいるのか全く不明な現地の作業員達に苛ついてまた怒鳴る。絶対に技術者をもっと育ててやると決意した。シャルロットが隣で身を竦ませているが、気にする余裕はない。まだまだ仕事は大量にあるし、さっさとここの作業を終わらせて東の地にいるティファニア達に補給に行く必要もある。二週間前に一度補給に行ったが、そろそろまた食料が尽きる頃なのだ。出来ればモレノあたりに行って欲しいのだが、まだ一度も東に行った事がないしマチルダの護衛にもう少し付けておきたいしでやはりウォルフが行くしかない。呆然と見守る二人を尻目に作業を続けた。

「本当に忙しそうだね。ちょっとくらい落ち込んでいるかと思って来たのに心配なさそうね。シャルロット、もう行こうか」
「はい、降ろしてー! え? 何で落ち込むの?」
「ううん、ウォルフが元気なら良いの、また今度杖合わせしてね」
「ん、またな」

 早々にその場を辞して、二人はクリフォードが来ているという城へと向かった。
   


「お、ティティにシャルロット。慰めに来てくれたのか?」
「そうなのよ、ウォルフは必要ないみたいだったけど」
「うん、まああいつは爵位なんて何時でも取れそうだから。俺は結構落ち込んだから、二人とも盛大に慰めてくれたまえ」

 シャルロットの突然の訪問に慌てふためくラ・クルスの城で、クリフォードは相変わらずいつもの調子だった。

「リフ兄……聞いてるよ? マチ姉さんに慰められたら一秒も掛からないで復活したって。私、リフ兄のことはまるで心配していなかったんだけど」
「ティティは俺の事を誤解しているな。男ってのは繊細で傷つきやすいものなんだぞ」
「へーそうなんだーところでリフ兄、私の叔父さんになるって本当?」
「スルーされた……爺様がその方向で調整してくれている。ガリアの魔法学院に通う事になるっぽいのはほぼ確定」
「本当なんだ……よろしく、リフ叔父さん」
「いや、呼び方は前のままで良いぞ。おじさんって呼ばれるとなんか一気に老けた気がする」

 こちらもデ・ラ・クルス伯爵の養子になるなら心配することは無いようだ。ウォルフもすぐにまた貴族に復帰するみたいだし、想像以上にタフな兄弟の様子にシャルロットは安心した。

「クリフともっと頻繁に杖合わせ出来るようになりそうなのはいいけど、一体何があったの? 爵位ってそんなに簡単に無くなるものなの?」

 そう言えばシャルロットの父シャルルも先月くらいからやたら忙しそうにしていた。もしかしたらアルビオンの異変と関係有るのかも知れない。

「うーん、あー、モード大公様が王様と何かトラブったらしいんだ。親父はその余波を食らって巻き込まれたみたい」
「王家の兄弟が争うなんて…そんな事、あるのかしら」
「大公様は逮捕とかまでされてて結構大変だったそうだぜ。領地も殆ど没収されちゃったみたいだし。それで、ウチは元々ウォルフのせいであちこちから妬まれてたから、見せしめには丁度良かったって訳。親父は行方不明になるし、マチルダも平民になっちゃったし、ホント大変だったよ」
「呼び捨て!? リフ兄、マチ姉さんの事呼び捨てにしてるの!?」
「んんっ……ふふふ、困難を共に乗り越えて二人の絆は深くなったんだな、これが」
「わーお、リフ兄のくせになんか生意気……」
「それで、お父様は? 無事だったの?」
「またスルーかよ、シャルロット……あー、無事無事。むかつくくらい無事だった。おかげで母さん達サウスゴータで指名手配かけられたってのに」

 サウスゴータ議会は議員襲撃の犯人としてエルビラとウォルフ、それにマチルダを指名手配にして懸賞金をかけた。クリフォードもマチルダと一緒に暴れてはいたのだが、何故か彼は手配からは漏れた。
 他の地域の貴族達や王家にも働きかけを行ったみたいだが証拠がない為に相手にされず、商会がこの手配を非難し、サウスゴータ貴族達の不法行為について積極的に宣伝活動を行っていることもあり、この手配が有効なのはシティオブサウスゴータとその周辺部だけに限られている。もっとも手配と言っても形式だけで、懸賞金の額が低い事もあるのかエルビラやウォルフがサウスゴータを歩いても誰も手を出しては来なかったし、平民達は普通に挨拶してくるような状況だった。一応犯罪者としておきたいが本気で敵対されるのも怖い、といった及び腰での指名手配なので周知すら徹底されていないようだ。

 ウォルフ達はアルビオンの事などもう全く気にせずに生活している。一家は開拓地に移り住み、ウォルフの手伝いをしながら暮らしている。怪我の治ったニコラスはどこからかまた風竜を捕まえてきてクリフォードに竜の扱いを教えながら調教に勤しむ毎日だ。今回ウォルフがガリアに行くと聞いて飛行機に便乗し、クリフォードも祖父母に会いに来たのだ。

「指名手配……そんな、酷い」
「何故か、俺だけ手配されなかったんだけどね。ちくしょう」
「え?」
「あ、いや何でもない。まあ、父さんが暫く行方不明になって、母さんも随分と荒れていたから。ウチの母さん、怒るとマジ怖いんだ」
「怖いらしいねえ……叔母様が怒ると山を一つ丸ごと溶かしたとか、川を干上がらせたとか、とんでもない話を聞くわ」
「いや、山は無理なんじゃないか? さすがに……川は出来そうな気もするけど」
「でも、大丈夫なの? 何だったら、ご家族みんなでガリアに亡命した方が良いんじゃない?」
「あ、大丈夫。アルビオン王家も認めてないような手配だから気にしていないよ。もうアルビオンに行く事もそう無いしね、運悪く王家と貴族派との勢力争いに巻き込まれちゃっただけだって思ってる」

 実はシャルルがここのところ忙しいのはウォルフ達をガリアへと亡命させようと画策していた所為なのだが、シャルロットには勿論そんな事はわからない。彼女は彼女なりに心からウォルフ達の事を心配していた。

 結局この日はウォルフに相手にして貰えず、クリフォード相手に何回か手合わせをして帰ることになった。護衛達は平民になったくせにシャルロットを相手にしないウォルフに憤懣やるかたないといった風情だったが、シャルロット自身はクリフォードとの杖合わせでもそれなりに充実した時間を過ごせたし、気にしていなかった。
 一対一ではまだまだクリフォードの方が大分強いが、ティティアナと二人がかりで対戦した時はクリフォードを圧倒し、もう少しで一本取るところまで行く事が出来た。 

 ここの城に泊まるティティアナとは一旦別れ、シャルロットはラグドリアンの畔に建つド・オルレアンの城に向かい、ここで一泊した。
 この城はゲルマニアがトリステインを狙っているのではと噂されていた頃、ゲルマニアとガリアとが戦争になったとしても対応できるように、防御力を高める目的で大改修がなされた。風情のあるお屋敷から戦闘用の要塞へと姿を変え、昔の面影は大分無くなっている。思い出の中の姿とは大分変わってしまっているが、ここには幼い頃からシャルロットの面倒を見てくれている使用人達が今も多数働いている。久しぶりに会えた彼らとの対面を楽しみ、翌日シャルロットはティティアナと一緒にリュティスに戻った。

「父さま、ただ今」
「ああ、シャルロットお帰り。またラ・クルスに行っていたんだってね。まったくお転婆さんだな、父さんは心配だよ」
「ふふ、父さまが相手にしてくれないからよ。昨日はウォルフにも相手して貰えなかったし、さみしいわ」
「ああ、彼は今大変らしいからね。ほら、おいで」

 翌日リュティスの屋敷に戻ったシャルロットを珍しく家にいたシャルルが出迎えた。どうも仕事が一段落したらしく、その晴れやかな顔には一点の曇りもない。
 家で見る久しぶりの父の姿にシャルロットは満面の笑顔で抱きつき、たっぷりと甘えた。

「父さまが最近忙しかったのって、アルビオンと関係があるの?」
「まあ、関係ない、とは言えないかな。政治っていうものはどんな遠い国の事でもどこかで繋がっているものだから」
「ウォルフ達平民になっちゃったんだって。父さま、何とかしてあげられないの?」
「彼には以前から僕の下で子爵にならないかってオファーを出しているのだけどね。彼はゲルマニアで爵位を得るつもりらしい」
「そうなんだ…でもいきなり爵位を奪われちゃうなんて怖いわ」
「彼らはちょっと目立ちすぎていたからね。色々と嫉妬を買って足を引っ張られたりするのさ。シャルロットはまだ知らなくて良い事だよ」

 不安そうなシャルロットの額にシャルルが優しくキスを落とす。
 他人の悪意というものをこれまで知ることなく育ってきたシャルロットにとって、ガンダーラ商会がアルビオンから排除されたという話は衝撃だった。何の落ち度もないように思えるものを貴族達の連合が排除し、それを王家も咎めないなど、あって良い事ではないように思える。
 冷え切ったシャルロットの心をシャルルのキスは優しく温めてくれた。

 シャルロットは知らない。
 ウォルフの父ニコラスが爵位を失うきっかけになったモード大公の事件。その事件で、大公家を探ってエルフの存在を掴み、貴族派を焚き付けたのが今優しくキスしてくれた父シャルルだという事を。
 ウォルフの亡命がかなわなかった今、シャルルが貴族派に更なる資金を提供し、アルビオンを混乱に陥れる為に謀略を動かしているという事も。
 アルビオンでの政変に合わせ、ガリアで権力を握るために策動を始めている事も。

 今はまだ、シャルロットが知る事はなかった。



[33077] 3-23    暗雲
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 20:54
 開拓地の朝、ウォルフは家族用に新たに建てた屋敷から出勤する。領主公邸となるこの屋敷から同じ敷地内に建つ中央庁舎までは徒歩五分くらい。新たに植えた木立の中をサラと一緒にのんびりと歩いて通勤するのが日課になっている。

「ウォルフ様、今日の予定はどうなってます?」
「午前中は庁舎で内勤、午後に肉牛の肉質審査をするからマツザカ村に行く」
「帰りは遅くなりますか?」
「いや夕食には帰ってくるよ。一緒に食べよう」
「はい! 今日はわたしも忙しく無さそうなので何か一品料理を作りますよ」
「ん、楽しみにしている」

 中央庁舎の屋上にはサウスゴータから持ってきた方舟が置いてあり、とても分かりやすい建物となっている。サウスゴータでこの方舟を見ていた人々達には見慣れたものだが、初めて見る人には建物の上にフネが乗っているのは不思議に映るらしく、新規移住の人などは大抵驚いている。そんなランドマークとなっている庁舎の入り口でサラと別れ、とっとと自分の執務室へ向かう。午前中に書類仕事を済ませるつもりなので『遍在』も出して気合いは十分だ。移民の割り振りや怪しい人間のチェックなど、目を通すべき書類は多い上に面接やら面談やらも入ってくるので大変だ。

 季節は夏を過ぎ秋となった。最近の移民の特徴としてはサウスゴータから移住してくる人が随分と多くなった事が第一に上げられる。その数は開拓団の対応が滞る程で、マイツェンの宿泊所はいつも満員だし、ウォルフもここのところずっと忙しい。サウスゴータ出身者は都市住民なのでそのままイーストゴータと名付けられたこの開拓地の中心都市に住み着いていて、どんどん街の規模を拡大している。おかげで当初農村を中心に発展してきた開拓地のバランスが随分と良くなり、生活に必要な物資の多くを開拓地でまかなえる目処が立ってきた。

 サウスゴータから移住してくる人々は皆議会への反発を口にしていて、ガンダーラ商会が去った後のサウスゴータの現状を教えてくれる。やはり物価と失業率の上昇は酷いらしく、まるで別の街になってしまったというのが彼らに共通した感想だ。何でも市会議員の貴族達に融資していた国外資本の商人達が一斉に資金を引き揚げたため破産する貴族が続出しており、アルビオンでも最悪の景気となっているらしい。議員の人数は定員の半数程になり、もはや自治も難しくなっているので王の直轄地になる可能性もあるそうだ。貴族の行く末に興味はないが生まれ育った街の人々のため、ウォルフは移住斡旋の為の予算を増額した。

 アルビオン撤退という大事件があった割にはウォルフの開拓団もガンダーラ商会も順調で、その規模を拡大している。ベアリングやネジなどの機械部品やサラの化粧品等、根強い需要があるものは他の商会を経由してアルビオンに輸出を続けているし、商会としてはアルビオン撤退のダメージを最小にすることが出来た。ガンダーラ商会はアルビオンという大きな市場を失った訳だが、代わりにトリステインという新たな市場に参入してその損失をカバーしつつある。トリステイン西北部を中心にガンダーラ商会に反発する者は相変わらず多いが、これまでハルケギニアの発展から取り残されていた事に危機感を抱いていた者達も当然相当数いて、そういった貴族や商会を足がかりにして取引を増やしている。協力的な貴族にはsaraの化粧品を定価で販売するという方針をとっているので、これまでアルビオンやガリア経由で大枚を払っていたり、そのプレミア価格が高すぎて手を出せなかったりしていた貴族の女性達からは圧倒的な支持を得ていて、今後取引をする貴族はますます増えていくものと思える。

 当初心配された工員達の転勤もかなりの数が応じてくれ、化粧品以外は以前の生産量を回復する事が出来ている。工員の移住に関してはトリステインに工場を造ったのが良い方向に働いた。ゲルマニアはちょっと、という工員でもトリステインなら受け入れやすい事がその原因にあるようだった。当初単身赴任という形でアルビオン以外の工場に勤務した者達が、次々に本格的な移住を決意してくれている。カルロがガンダーラ商会トリステイン代表となり、フリオはその下でフォンティーヌ領のブーリに新設された商館長として働いている事もあり、これまでとあまり変わらない環境であることも労使の信頼関係の維持に一定の役割を果たしているようだ。
 化粧品工場の水メイジは半減してしまったが、開拓団にも最近は余裕が出ているので水メイジをそちらに回し、更に製法を工夫したりして何とか以前の生産量を取り戻すべく努力中だ。一部アルビオンに残った水メイジ達が化粧品の原料製造会社を設立し、途中まで加工した原料を輸出しているのも生産量の回復には役立っている。

 サラは開拓地で化粧品工場勤務と孤児院経営に忙しく働き、エルビラは開拓団の団長代理として就職。エルビラの団長代理就任には一悶着有ったが、渋るエルビラを何とかウォルフが説得した。これまでその任に就いていたマルセルは、能力は優秀なのだが心が細く重責を担うには向かない。多少の事では動じないエルビラに責任だけ負って貰うという約束で引き受けて貰った。通常の業務はマルセルに任せ、日頃は警備の最前線で活躍している。
 クリフォードは祖父であるフアンの養子になってクリフォード・マイケル・ライエ・デ・ラ・クルスと名乗り、翌春からはリュティスの魔法学院に編入する事が決まった。丸々一年空くが、その間はウォルフの開拓地で竜騎士見習いとして過ごすそうだ。
 移民の中にはサウスゴータ竜騎士隊を辞職してきた騎士や見習い達も五人程いて、ニコラスと一緒に竜の調教に励んでいる。調教が終わればイーストゴータ竜騎士隊として開拓地の守りに就く予定だ。

 アンネはそのままメイド兼妾として勤めており、旧ド・モルガン家は以前の使用人のままイーストゴータで新生活を始めている。ちなみにエルビラがまた妊娠したのでアンネの子供と合わせ、更に家族が増える。また、アンネの兄であるホセの一家も移住してきて開拓地で暮らすようになった。ホセの子供達も一緒に移住してきたので久しぶりに家族と一緒に暮らす事になったリナは喜んでいる。そのラウラとリナの妹たちの内三人程はヤカのガンダーラ商会に勤めていたが、今回転勤届けを出してイーストゴータの商館に勤めるようになった。そのリナはそのままイーストゴータの機械工場を任されているが、長姉のラウラはゲルマニア貴族シリングス伯爵の後添えとして結婚した。四十過ぎのおっさん相手に十七才の花嫁だが、まあラウラとは性癖も合うみたいなのでウォルフは祝福しておいた。結婚後もボルクリンゲンからフォン・シリングスはそう遠くもないのでモーグラで通ってきて飛行訓練校の教官として働いてくれている。

 開拓地では農工商業がそれぞれ盛んになってきているわけだが、まず農業は力ずくで開墾した広大な農地で小麦や大麦、エン麦、ライ麦、トウモロコシ、ソバなどの穀物を中心に栽培している。農地の広さの割には農民の数が少なく労働力は不足気味なのだが、ガンダーラ商会と一体となって開発したトラクタやコンバインハーベスタ等の農業機械と二十四時間稼働する除虫・除草ガーゴイルや防鳥ガーゴイルなどの魔法道具を駆使して補っている。というかこれらの機械や魔法具がなければとても耕せないくらい農地は広い。もう十分な農地があるので森を切り開くスピードは随分と減速しているくらいで、現在は薬草や実をつける樹など森の有用な植物を開拓地に移植しながらの開拓となっている。

 山地ではリンゴやサクランボ、桃、葡萄、ナシなど果樹の栽培を始めていて、こちらは将来的に輸出をメインとする予定。移民の中に土メイジで研究熱心な農夫を見つけたので、農業技術研究所所長に任命して開拓地で栽培可能な植物を研究させている。この研究所にはウォルフも頻繁に足を運び、従来の魔法的な研究だけでなく科学的な研究で栽培方法の改善や品種改良などを行っている。
 特に今熱心に研究しているのは量産した板ガラスを利用した温室栽培だ。栽培時期をずらして農産品を出荷できれば高付加価値品となるので、ウォルフも積極的に技術支援を行って研究を続けている。

 広大な農地から生み出される莫大な穀物を餌にして、牛豚鶏の飼育も始めた。特に穀物肥育牛はハルケギニアでは他に無いので高付加価値商品になる可能性が高く、餌の加工方法や肥育方法の模索などを慎重に行っている。

 工業はガンダーラ商会の工場とチッペンダールの家具工場が中心になるが、開拓地は幻獣の皮が豊富に獲れ、木材資源も豊富だ。皮革加工業者や木地師など自主的にサウスゴータから移転してきた者も増えてきているので、今後は盛んになっていくものと思われる。 

 開拓地内の商業については当初ウォルフが行っていた食糧の配給を民営化する形で始まった。開拓地までの物資の輸送は殆どウォルフからの依頼を受けたガンダーラ商会が行っているが、そこから先の流通は民営化している。市場も整備されて開拓民達は自由に商品を買えるようになった。

 まだ開拓地は拡大中だが、春にはとりあえず開拓完了届けを出して授爵する予定だった。しかし思わぬ所から横やりが入り、完了届けは提出済みだが授爵に関しては保留中となっている。ツェルプストー辺境伯によれば伯爵になるだろうという見込みで何も問題がないはずだったのだが、ガリアからクレームが入ったのだ。 

 ガンダーラ商会はガリア国内に多数の資産を持ち、多くの産業と密接に関係している。その商会の筆頭株主であるウォルフがゲルマニアに臣従するのは受け入れがたいと言う。どうもシャルル王子が暗躍しているらしく強権を発動する事も辞さぬと言い、最近ガンダーラ商会が進出したばかりのトリステインや、全く関係ないだろうロマリアまで連携して圧力を掛けてきていて、ゲルマニアとしても無視する事は出来ないらしい。

 商会としても、さすがにガリアから撤退するという選択肢は無いので、現在ツェルプストー辺境伯やタニアが調整中だ。ガンダーラ商会は本社をボルクリンゲンに移し、それに併せてタニアがマイツェンとドルスキを持つミルデンブルク伯爵領に隣接するバウムガルト男爵領を購入してタニア・エインズワース・フォン・バウムガルト女男爵の誕生する計画もあったのだが、これにもガリアやトリステインからクレームが入り、ウォルフの叙爵と併せて保留状態になっている。

 一応、完了届けの提出をもってグレースやミレーヌなどの国から貸与されていた開拓団員達は自由の身となった。ウォルフがこれまで無償で提供していた衣食住費や交通費は有償化され、それに伴い引き続きこの地で働く者達には給与が支払われるようになった。これらの元開拓団員も普通の移民と同じように生活するようになっていて、イーストゴータにいる限りここが開拓地であるということを意識する事はほとんど無い。開拓地やミルデンブルク伯爵領、バウムガルト男爵領やその周辺地域などを一体となって開発する予定もあったのだが、これも先行きは見通せなくなっている。
 バウムガルト男爵領は今はただの寒村がいくつかあるだけだが、広さだけはかなりの物があり、事前調査で石炭と石灰岩の鉱脈がある事を確認している。おそらく風石の鉱脈もあると予測されるので鉱山の街として開発していければ、開拓地もより一層の発展が期待できたのだが。






 ウォルフは予定通り午前中の仕事を片付け、庁舎に『遍在』を残して本体はマツザカ村へと移動した。四十リーグほど離れた土地だが、飛行機ならば十分もかからない。
 ここで今日は主力品種として育成する牛の種類を決めるべく、専門家と検討しながら粛々と牛の肉質を審査する予定だったのだが、想定外の事態がウォルフを待っていた。 

「お肉おいしー!」
「テファ姉ちゃん、そっちのお肉も取ってえ」
「あーっ! お肉落ちたあっ」
「ばっか、早く拾え。三秒以内なら大丈夫なんだぞ」
「マイクがあたしのお肉取ったー!」
「むむ、これはまったりとしてそれでいてしつこくなく、芳醇な肉の旨味が口の中一杯に広がって、あたかもお祭りの夜のように色彩豊かな味わいを楽しませてくれる……絶っ品!」

 肉質審査の会場は混沌の坩堝と化していた。
 予定通り審査を始めようとしたのだが、肉を焼く匂いに連れられてドアの外に鈴生りになっていた子供達を招き入れてしまったのが全ての原因だ。
 最初五人くらいだったのでまあいいかと思ったのだが、すぐに二十人程にまで増え室内は阿鼻叫喚に包まれる事になった。今調理場は審査そっちのけで子供達の食欲を満たすために次々に肉を焼いている。

「す、すみませんウォルフさん。いつもちゃんと食べさせているのですが」
「あー、まあ、入れちゃったのはオレだから仕方ないよ。しかし凄いな、いつもはお肉出してないの?」
「そう言えば…全然出していないかも知れないです。私の部族ではお肉と言えば羊で、それもお祭りとか何かあった時の特別な料理でしたから…」
「お肉と砂糖は子供の必須栄養素だな。食べさせた方が良いみたいだ」
「済みません。お肉の入った料理を勉強します」

 ウォルフを前にして恐縮しているのはエルフのシャジャル。
 シャジャルとティファニアの親娘はほとぼりが冷めるまで東の地で暫く二人きりで暮らした後、ウォルフが公営の肉牛牧場を開設したこのマツザカ村に定住し、牧場の隣に併設した孤児院の世話をして暮らしている。シャジャルが料理を担当しているようだが、エルフ流だと少し問題が有るみたいだ。
 この村は開拓地で二十六番目に造った村で、開拓地の外れにあり、メインの街道からは外れているので外の人間はまず来ない。村人はウォルフに対して強い信頼を持つラ・クルス出身者で固め、ティファニア達の事は他言無用と頼んである。魔法具でその長い耳を隠しているが、最早ばらしても平気なのではないかと思えるくらい農民達や孤児院の子供達に馴染んでいた。一度、密偵に怪しまれた事があったのだが、その時はティファニアが虚無の呪文『忘却』を掛けて追い返したので大事には至らなかった。ティファニアがオルゴールから聞こえてきた魔法、とだけ認識していたこの呪文の存在を知ってウォルフも彼女たちの定住を決めたのだが、すっかり子供達と馴染んでいる彼女たちの姿を見てエルフだと思うハルケギニア人はいないだろう。

「おーい、お前達。ただで肉食べさせている訳じゃないんだからな。ちゃんと美味しい肉を探すんだぞ」
「はーい!」
「ウォルフ様ー、全部美味しかったらどうするんですかー?」
「全種類食べてみて、もう一度食べたい順に順位を付けろ。多分一番正確な付け方だ」
「もう一回食べたい奴ですね、わかりましたー!」

 この審査会には肥育農家や肉屋、調理師などが多数参加しているが、試食は子供達がまだまだテーブルを占拠しているので皆別のテーブルに陳列してある生肉を先に審査している。ウォルフもシャジャルと別れてそちらに合流した。

 専門家達が熱心に見ている肉の塊の前にはそれぞれ産地と月齢・与えた餌など詳しい肥育資料が掲示してあり、データを参照しながら肉質を見比べる事が出来るようになっている。

「おおー、これだけあると壮観だな」
「十種類牡牝十九頭のサーロインとフィレを並べました。必要とあらばすぐに他の部位も用意できます」

 これらの肉は一月程前に屠殺して今日のために冷蔵庫で熟成していたものだ。ハルケギニアの牛は農耕用と酪農用が主で、肉牛専門の種はあまりない。農耕用の牛や乳牛の牝が年老いたもの、乳牛の牡、闘牛で死んだ牛などが市場には出回っているのだがウォルフからするとあまり美味くない。
 無いならば作ってしまえということで今回の試みになったのだが、結構多様な種が集まった。アルビオン北部で乳牛として飼われていた牛、トリステイン北部の湿地が多い地域で農耕用に飼われていた牛、ガリア南西部で闘牛用だった牛、辺境の森で獲れる幻獣種の牛など様々だが肉にしても結構違いがあって面白い。
 ウォルフも専門家に混じってそれぞれの肉質をチェックする。プロは肉の色艶やしまりときめ、脂の色や交雑具合などを見るらしいのだが、ウォルフは繊維の細かさや脂の質と量、アミノ酸の種類や量などを魔法を使って確認する。
 何種類か良さげな肉をチェックして、肉屋に話を聞くが大体皆評価は似たようなものだった。

「目玉はやっぱりこの蜜牛か。群れを確保できたのはラッキーだったな」
「はい。とりあえず一頭だけ割ってみましたが煮ても焼いても美味いです。別格ですね、高値が付くのも納得の肉質です」

 ウォルフの興味を引いたのは十九番の番号が振られた肉だ。この肉はガリアやゲルマニアの深い森で稀に捕獲される野生の牛のもので、花の蜜や果実、蜂蜜など甘い物だけを好んで食べる幻獣だ。
 羽根牛とも呼ばれ、牛としては小型の体躯を持ち、通常は頭に生えている角の部分が翼になっていて結構な速度で空を飛び回り木から木へ移動する。蜂を寄せ付けない強靱な皮膚を持ち、肉質は非常に柔らかく見た事無い程細かく入ったサシが特徴で、焼くと蜜のようにとろける美味さと評判の高級肉だ。調理師達のテンションの高さを見ればどれほどの肉かというのが分かろうというものだ。
 エルラドを照射すると三半規管が狂うらしく、暫く飛べなくなってしまうという弱点を持っていたので今回開拓地の森で結構な数が捕獲できた。ここで飼育方法を模索している。

「ウォルフ様ごちそうさまー! 十九番がおいしかったー」
「オレも十九番また食べたい! 十七番は硬くて噛み切れなかったから呑んじゃった。じゃあね、ばいばーい」
「おお、ちゃんと採点表は提出して行けよ。またな」

 子供達の評判もやはり蜜牛が一番のようだ。同じ幻獣種でも三本角竜牛などは煮込み料理ならともかく焼き肉では硬すぎるようで評判が悪い。子供達が食べ終わり孤児院へ戻ったのでウォルフや他の参加達も試食してみるが、やはり品質的には蜜牛が頭抜けている。
 トリステイン産の牛もここで穀物肥育を行ったおかげか結構美味しかったが、やはり食べ比べると差がある。
 蜜牛を繁殖させて増やしたいのは山々だが、この牛は飼育が難しい。この村では今、普通の牛と掛け合わせて育てやすい品種を開発できないかと研究中だ。

「まず、飛んで逃げるという問題は翼を開けないように縛る事で解決しましたが、そのままだと餌のコストが掛かりすぎますね。現在糖蜜と果物、蜂蜜などを与えていますが、より値段が高いガリアでの枝肉価格をベースに計算しても普通に赤字になりそうです」
「麦芽は食べてくれないんだっけ?」
「はい。しかし、掛け合わせた品種が麦芽を好んで食べる事が確認されています。肉質はまだ分かりませんが、こちらの方が肥育するには有望ですね。飛ぶ能力も無いみたいですし」
「肉質次第だな。しかし、蜜牛でなくても普通の穀物肥育牛も普通に美味い。ハーフ蜜牛の肥育コストがどのくらいで納まるか、と併せて判断しよう」
「確かに。このトリステイン原産の七番なんかはかなりいけますな。普通の牛でこんな美味い肉は食べた事有りませんでしたよ」

 この後試食した結果を集計し、基本的にはトリステイン原産牛を増やし、それに加えて蜜牛とトリステイン原産牛、肉は硬いが味が良いと評判だったガリア産の闘牛の三種に絞って掛け合わせを試していく事を決定した。



 審査が終わったのであとは帰るだけなのだが、すこし時間があったので久しぶりにティファニアと話して過ごす。

「はあー、ウォルフさん今日はすみませんでした、躾が行き届かなくて…」
「おお、飢えた獣のようだったな。皿ごと食べちゃうかと思ったよ」
「そんな、いくらお肉が久しぶりだからってお皿を食べたりしませんよ」
「……そうだね。お皿は食べられないね」

 ボケに真面目に返事されると辛い、と言う事をティファニアと話すとよく思い知らされる。

「まあいいや。テファも肉食べた?」
「はい、食べました。なんか、どれもこれも臭みが無くてこくがあるお肉でしたね。とても美味しかったです」

 本当に美味しかったらしく、蕩けそうな顔で答えた。シャジャルあたりには肉に臭みがないと逆に物足りないみたいだったが、普通にハルケギニアで育った人達には概ね穀物肥育牛の肉は好評だった。
 開拓地は現在も農地がどんどんと広がっていて、機械化による大規模農業が本格的に稼働し始めており、今後ますます大量に穀物が生産されるようになる予定だ。その総量はハルケギニアの穀物市場にそのまま流すと相場が大暴落してしまう可能性が高い程だ。
 それではまた叩かれてしまいそうなので、全て輸出するのではなく高付加価値の牛肉に姿を変えて輸出しようというウォルフの戦略だったのだが、間違っていないようだ。

「ん、それはよかった。どう? 最近魔法の方は練習してる?」
「は、はい、練習していますが『グラビトン・コントロール』はまだ出来ません」
「うーん、あれ以上は詳しく説明できないしなあ……」

 ティファニアは東の地で避難生活を送っていた時に水路を造りながらシャジャルの教えを受けて精霊魔法に目覚めた。更にウォルフから教わってルイズ同様に虚無のメイジとして系統魔法のコモンマジックをいくつか出来るようになっているが、まだ成功しているものは少ない。ルイズの方が覚えが良かった程で、その差が理解力の差なのか精霊魔法のせいなのか、ウォルフにも分からなかった。『忘却』の呪文は王家が所有していたオルゴールを手にして覚えたそうだが、中々そんな虚無の呪文を覚えさせてくれるマジックアイテムなどはそこらに転がっているものではない。どのようなものか伝手を頼って調べてはいるが、彼女にも自力で魔法を覚えられるようになってもらいたい。

「母に大いなる意志の話とかを聞いていますから、どうしても固定観念が強いのかも知れないです。一度ルイズさんという方にお会いしてお話を伺ってみたいです」
「ちょっと……ルイズに会うのは今はまだ難しいかな。会うならテファが出て行く形になると思うけど、まだアルビオンがごたごたしているし…」
「あ、マチルダ姉さんに聞きました。なんでもまた貴族同士の争いがあったとか」

 マチルダはアルビオン撤退後、二つの事業を運営し、女性実業家として活躍している。一つはアルビオンのサウスゴータとノビックとの間で定期バスを運行するバス会社だ。この事業は赤字ながらサウスゴータ市民が移住する時の足として利用され、荷物も運んでいるのでノビックからの輸入品をサウスゴータに届ける役割もはたしている。
 もう一つの事業はイーストゴータを拠点に開拓地での小売りをメインにした商会を経営している。この商会では開拓地各地を回る移動販売車を使用した事業も展開していて、この移動販売車に便乗して時折ティファニア達に会いに来ているのだが、アルビオンの情勢などもその時に教えてくれる。貴族派が随分とその勢力を大きくしているらしいということはその時に聞いた話だ。

「王様がガツンと貴族派を一掃するか、いっそ貴族派が王制を廃止しちゃうまでは大人しくしておくのがよさそう。君達親子は政治の駒にされやすいと思うから」
「はい……もう、あんな思いはしたくありません」
「テファがアルビオンの女王になっちゃうってのも、解決策としてはいいんだけど。まあ、そのためにも虚無の魔法はもっと凄いのに目覚めて欲しいんだ」
「は、はあ……」

 ティファニアが虚無の系統のメイジだと証明できれば、彼女がハルケギニアで大手を振って生きていけるようになる可能性はぐんと広がる。現在は魔法具で耳を短く見せかけ、輝くような金髪もダークブラウンに染めて本当の姿を隠している。基本的に村の外の人間と会うことはないし、いつでも逃げ出せるように準備もしている。そういったストレスのある生活とはおさらばできるのだ。
 現在虚無の魔法についてはルイズの方が進んでいるが、それでもまだまだだ。ルイズより遅れているティファニアにはもっと努力が必要だ。『忘却』の呪文だけだと、水の系統でも似たような事は出来るので虚無の証明としては弱いのだ。

「とにかく、『ディテクトマジック』、頑張って。ルイズの話だと虚無のスペルが歌のように聞こえるらしいから」
「それって、もう自力でスペルを見つけるみたいな物じゃ無いですか……はあ」
「がんばれがんばれやればできる」

 少々投げやり気味に励まして、ウォルフはイーストゴータへと帰っっていった。

 

 
 順調なウォルフとガンダーラ商会だが、最近のハルケギニアの政治状況は不安定なようで、各地から色々と不安になるような事が報告されてきている。

 アルビオンは引き続き王党派と貴族派の対立が激化し、トリステインはガンダーラ商会の進出によりそれを歓迎する貴族と拒絶する貴族との間に軋轢が生じている。ゲルマニアではそれまで高まっていた西=トリステインとの間の緊張状態は、ゲルマニア政府がトリステインとの融和政策を発表した事により緩和したが、ウォルフの成功を見た人々の目は東の辺境の森へと向いて新たに進出する者が増え、すでに定着している者の権益と衝突を始めている。
 平穏に見えるロマリアでも教皇が老齢な事もあり、後継者争いが表面化し始めるなど、ほぼハルケギニア全域にわたって何かしらの動きがある。ウォルフの扱いについてゲルマニア政府が慎重なのもこうした不安定な政治情勢が影響していると言える。
 そして、全体的に不安定なハルケギニアだが、その中でももっとも不安定なのは王が病で倒れたという大国ガリアの情勢だった。

「うーん、またシャルル派とジョゼフ派とで衝突かあ……」
「子爵同士ですが、結構大きな戦いになったそうです。双方傭兵を雇って百人規模になったとの事で」
「ちょっと、小競り合いって言うには大きいわねえ…」

 オルレアン公爵シャルルの改革はガリア社会に確実に変革をもたらしているが、それを良いものと考える貴族ばかりではない。旧い考えに凝り固まった者にとって改革とは伝統を破壊するものでしかないのだ。
 シャルルを支持する者達がオルレアニストを名乗り結束を固める一方で、守旧派は長男であるジョゼフを支持して結束し正統派を名乗った。オルレアニストがシャルルの功績を誇れば正統派はガリアの伝統を叫び、対立は激化していった。
 当のシャルルとジョゼフの仲は良好で、今も一緒に酒を飲んだりチェスをしたりしているが、それぞれを支持する派閥の対立はそんな事には一切お構いなしだ。
 今回王が病で臥せると、大した病でもないのにもかかわらずまたぞろ方々で小競り合いが始まるようになった。

「次の王はシャルル様で決まりって聞いていたんだけど、何でこんなに揉めているの?」

 ちょっと情勢が分からないのでタニアはガリア代表のスハイツと遠話の魔法具を通し、現状のレクチャーを受ける。一般に流布されている噂ではジョゼフは魔法的に無能なので魔法大国ガリアの王は務まらないだろうという事だったのだが。

「どうも、シャルル様は強引な手法を色々取っているみたいで、貴族達の反発が大きくなってしまったようです。本日お話がございまして、我々の領主であるフアン様はジョゼフ様を支持するとのことです。そのつもりで行動するようにと申しつけられました」
「えっ! ラ・クルスってシャルル派の重鎮じゃない、何で裏切るような事になっているのよ!」
「分かりません。お話は短かったですので。これは推測なのですが、どうもシャルル様には良からぬ噂があります。もしかしたらフアン様に賄賂を送ろうとしたのかも知れません……」
「……あのじーさんにそんなの渡したら逆効果に決まっているじゃない」
「人間というものは一度賄賂を送り始めると、今度は送らない事が不安でたまらなくなってしまうものだそうです。もしかしたら、シャルル様もそう言った状態に陥っているのかも知れません」
「レアンドロさんはどっちに付くの? ラ・クルスが割れるのかしら」
「シャルル様の副官と言った立場に居られますから、ジョゼフ様に付く訳にはいかないでしょう。ラ・クルスは割れるものと思われます」
「……とにかく情報収集は綿密に、いざ戦争になっても慌てないように十分な準備をしておいて頂戴」
「畏まりました。今総力を挙げてレアンドロ様に連絡を取ろうと試みている所です。ラ・クルスの親子で戦うなんて事にならないと良いのですが……」

 ガンダーラ商会はアルビオンで酷い目にあったばかりなので各地の貴族の情勢には神経を尖らせていたが、タニアが想像していたよりも事態は深刻なものになっていた。実のところはフアンにシャルルが賄賂を送ろうとしたという事実は無いのだが、そんな事が噂になる事自体が問題だ。

 スハイツからもたらされた情報は戦争が近いと言っても良い程で、今後の見通しは全く立てられない。ラ・クルスは両用艦隊の基地がある軍港サン・マロンからも近く、街道も多く通りもし戦争になった場合地勢的に重要な位置にある。平和な時は便利なのだがもし戦争になったらヤカやプローナなど商会の施設が巻き込まれるのは必至だ。プローナの工場などは大きくしたばかりだというのに。
 ラ・クルスに限らなくてもガリアでしか生産していない香辛料や、最近ガンダーラ商会でも投資して大規模化を進めている天然ゴムの農園など、代替が利かないものも多い。内戦などは絶対に止めて欲しいが事態はもう一商会がどうこうできるレベルを超えている。とりあえず情報収集だけを指示してタニアは通話を打ち切った。

「はー、また大変な事になってきたわよ…」

 タニアは一人呟くと、今度はウォルフに連絡を入れるためにまた遠話の魔法具を手に取った。



 ラ・クルス伯爵家当主フアンがジョゼフに付いたという情報は、当初どの程度のものかそれを伝えられたスハイツですら真意を測りかねるものだったが、フアンが本気だという事がその後明らかになった。

 レアンドロには連絡を取ったが、彼は今オルレアン公爵領の森で人工林の視察に行っており、忙しいらしくあまり相手にはしてくれなかった。シャルルの家庭教師まで務め、その後も良好な関係を長年続けているフアンがジョゼフを支持するなど有り得ないと思ったらしい。
 なぜジョゼフ支持を表明するようになったのか不明なままだったが、当のフアンはラ・クルス領の周辺貴族と頻繁に会合を開くようになった。夫人も参加を拒まれたその会合では、時折激しい議論が交わされていたようだが、そうこうしている間にリュティスからまた驚くべきニュースが入ってきた。

 シャルル・ド・オルレアン討伐。

 全ガリア貴族が驚愕を持って受け取った勅命がガリア全土に発布された。



[33077] 3-24    誤解
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 20:57
「ブオナパルテ公のお成ーりー」

 部屋の両脇に勢揃いした近衛達の間をガリア王子ブオナパルテ公ジョゼフが歩く。ここはガリアの首都リュティスの郊外にあるヴェルサルテイル宮殿、広大なその宮殿の中でも一際目立つ巨大な城、薔薇色の大理石と青いレンガで作られたグラン・トロワと呼ばれる王の居城だ。
 その王城の奥、王の他には侍従しかいない王の寝室でジョゼフは王と対面した。

「来たか、ジョゼフよ」
「はっ、大事な用と伺い、馳せ参じました」
「……それを、読んでくれ」

 病床の王に呼び出され何事かと急いできたジョゼフは、侍従から手渡された資料を開くなり硬直した。そこには弟であるオルレアン公シャルルの犯した数々の犯罪が記録されていた。

「こ、これは…父上、何者がこんな讒言を父上の耳に入れたのですか! シャルルがこんな事をするはずがありません、これは、謀略です」

 高潔で誠実。愛する弟の人格を丸ごと否定するかのような資料に憤然として抗議する。ぱっと見ただけでジョゼフにはそこに書いてある事が事実ではないと確信できたからだ。

「その資料が間違っている事はありえんよ。余の手の者が直接調べ上げた事ばかりだ……今日、シャルルを逮捕する」
「ち、父上……」

 そう言われてもなおジョゼフには信じる事が出来ない。あの、光り輝いていた弟のどこにそんな闇があったというのか。

「シャルルはフォントヴローに入れる。あそこならばド・オルレアンも近いからな」
「……」
「ド・オルレアンはシャルロットが成人したら継がせよう。ガリアはお前が継ぐのだ。この事件が終息したら、余は退位してカニグーに入ろうと思っている」

 フォントヴローはド・オルレアンの西方百リーグ程、カニグーはリュティス南西の火竜山脈にある修道院だ。そこに入ると言う事は世俗からは切り離される事を意味し、扱いとしては死んだ者と同様になる。父王からの明確な後継者指名を受けたというのにジョゼフの胸の内は複雑だ。ずっと、優秀すぎる弟の事を考えていた。
 
「シャルルが逮捕されると貴族共が騒ぎ出すかも知れん。お前は花壇騎士団を率いてリュティスの治安維持にあたってくれ」
「……父上、いえ陛下、お願いがあります。シャルルの逮捕に行かせて下さい」
「……」
「おそらく、ここに書いてある事は事実なのでしょう。しかし、私には分からないのです。何故、シャルルがこんな事をする必要があったのか」
「分からない、か。……いいだろう、近衛騎士団を預ける。お前の好きにせよ」
「ははっ」

 力なく手を振る父王に頭を下げてジョゼフは退出する。何故こんな事になったのか、シャルルの事が頭を離れる事はない。近衛騎士団の準備が出来るまで資料を詳しく読んだが、ジョゼフの頭脳を持ってしてもシャルルの行動を理解する事は出来なかった。
 そこに記されているシャルルはジョゼフの知らない男だった。元々シャルルを支持する貴族には誠実で有能ないつものシャルルで接し、中立派には領地の開発に協力したり要職に就くのを支援するなどして取り込み、自分の派閥を拡大している。ここまでなら良い。ここまでなら問題はないのだが、シャルルの活動にはこの先がある。
 教会へと装って神官個人へ多額の献金をしたり、利益供与を要求する貴族に応えて金品を支払うなどはまだましな方だ。ジョゼフ派の貴族を罠に陥れて投獄するという明らかな犯罪行為にまで手を染めていて、ジョゼフにはその熱意が理解できない。
 いずれも巧妙に行われており、ガリア程諜報機関が発達していない国だったら露見しなかったかも知れないが、今ここには詳しい報告がある。

 結局何も分からないまま、呼びに来た騎士と連れだって弟の元へ向かう。その顔はずっと厳しいままだった。



 リュティスにある産業省、その最上階に位置する大臣室。いつもは静かに開閉されるそのドアが、突然荒々しく開け放たれた。驚く秘書を押しのけ、ジョゼフを先頭に十人程の騎士がどやどやと室内になだれ込む。

「な、なんですかあなた方は。や、やや、あなたはジョゼフ様。しかし、ジョゼフ様といえどこんな無体は許されませぬぞ」
「やあ、兄さん、どうしたんだい? そんなに大勢引き連れて」

 いきり立つ秘書を手で押さえて、シャルルがにこやかに兄を迎えた。一方のジョゼフは悲しそうな目で弟を見つめると用意していた書状を読み上げる。

「ガリア王国公爵シャルル・ド・オルレアン、貴公にはガリア王位継承について王室典範に違反した嫌疑が掛かっている」

 ジョゼフは机の前まで歩いていくとシャルルが貴族達に渡した金品の額やその詳細、及び受け渡し日時と場所などが詳しく記された証拠の書類をシャルルの机に叩き付けた。

「これ以外にも何人かの貴族の疑獄事件にもお前が不当に介入している疑いもかかっているし、お前が産業省で行っているプロジェクトについて、帳簿上おかしな点がいくつも見つかっている。お前には陛下より直接逮捕・拘束の命が下っている。何か申し開く事はあるか?」
「……貴族どもに金を渡して王位継承運動をさせるのを禁止する法律はなかったと思うけど?」
「馬鹿な! たとえ法に明記されていなくとも、そんな王権に泥を塗るような行為が許されるわけはない! 王権とは魔法と共にブリミル様に付与された神聖なものだ。そもそも賄賂を送って王位を継承するなど、王室典範では想定すらしていない」

 一転して無表情になったシャルルにジョゼフが身を震わせて叫ぶ。嘘だと言って欲しかった。事ここに至ってもジョゼフはまだこの弟がこんな事をしたことを信じられなかったのだ。
 彼から見たシャルルは清廉潔白で誠実で、およそ不正とは縁のない人間としか見えていなかったのだから。

「神聖、ね。結構笑えるな、兄さんからそんな言葉を聞けるなんて」
「何が笑えるんだ……大体、貴族に金を渡して王位に就いて、貴族をまとめてなどいけるものか。それがわからないお前ではないはずだろう」

 こんな状況で本当に嗤ってみせるシャルルに薄ら寒いものを感じる。ジョゼフは現実のものとはおもえない弟の姿に呆然としながらも言葉を絞り出した。
 
「どうしてだ、シャルル。どうしてお前がこんな真似をしたんだ」
「王権がブリミルから与えられた物ならば、ブリミルから呪われているとしか思えない兄さんがガリアの王子として生まれてきたのは一体どういう訳なんだろうね」
「っ!! ……俺は、お前が王になるんだとずっと思っていたよ。こんな事が起こるまでは」

 顔をゆがませるジョゼフだが、シャルルは気にする様子も見せずに言葉を続ける。

「僕はね、兄さん、僕はどうしても王になりたかった。いや、王にならなくてはならなかったんだ。兄さんだってわかっているだろう、この国がろくでもない状態になっていることは」
「ああ、お前がそんな状態を何とかしようとしていたのは知っている。随分と成果も上がっていたじゃないか。こんな不正なんかしなくたって、お前こそが王に相応しいとみんな思っていた。だのに何故」
「どんなに正しいことをしたって、彼らはそれが正しいことと知りながら自分に僅かでも負担があると知ったとたんに反対する。正しい国の在り方など誰も考えず、真実など見ようとはしない。それがこの国さ、兄さんだって賄賂を使えばもっと支持して貰えたんじゃないかな」
「……下の者には全体が見えない。正しい事が見えていない者達を正しく導くのが王家の責務だ」
「貴族も神官も役人も出世と金儲けにしか興味が無いんだから、金を渡すのが一番手っ取り早いんだよ。賄賂は撲滅するべきだとか言っていた奴でさえ、自分以外に渡される賄賂が気に入らないだけだった。ちょっと渡し方を工夫してやったらみんな喜んで懐に収めたよ」

 またシャルルが嗤う。しかし楽しそうには見えない。

「そんなやつらに王にしてもらって、どうやって王権を維持していくつもりなんだ。またたかりに来るだけだろう」
「問題ないよ。僕が王になったら金を受け取った奴らなんてみんな一気に粛正するつもりだったからね。僕がいくら成果を上げようと、彼らに彼らの周囲の人間に与える利益より多くの利益を与えなければ認めることはない。ならば、彼らに一時利益を与えて黙らせた後でそんな腐った奴らを一掃できる地位に就いてやろうと思っただけだよ」
「そんなことをしなくても関係なかったじゃないか、シャルル。お前の魔法の才には皆が心酔していた。元々お前を王に推す声が強かったことはお前だって知っているはずだ」
「どのみち粛正は必要になったはずさ、この国は貴族が多すぎるんだよ。それに魔法の才なんて……王様の魔法が強くて何の意味があるんだい? 魔法なんて騎士とかこそが持っているべき能力だろう。彼らが僕を推していたのなんて、着飾る服が派手な方が良いってだけの事だよ。僕は、僕の改革をあんな奴らに停滞させられる事に我慢が出来なかったんだ」

 自嘲気味に嗤うシャルルにヂクリとジョゼフの胸が痛んだ。ジョゼフにはない魔法の才、それを服の飾りのように言われて感情は波立つ。しかし王になりたいと口にする弟の姿はジョゼフに兄としての思いをよみがえらせた。

 今ならまだ間に合う。今なら一時的にシャルルを拘束して、貴族の腐敗をあぶり出すための策だったと偽る事が出来る事にジョゼフは気が付いた。国王を説得する必要があるが、腐敗貴族の収賄の実態についてシャルルが囮捜査をしていた事にすれば、全て丸く収める事が出来る事を。
 シャルルを逮捕し、シャルル派の貴族が騒ぎ出したところで工作の証拠を元に一気に収賄貴族達を粛正する。王族を囮のために逮捕するなど批判される事は間違いないだろうが、国の根幹を腐敗させる不正を一掃するためのやむを得ない策だと強硬に主張すれば何とかなると思う。本来はその賄賂を送る役は自分の方が相応しいとは思うが、仕方がない。その後自分が何年か王を務め国のかたちを整えた後、シャルルに禅譲すればこの国は何の問題もなく一つに纏まるはずだ。行きすぎた改革のスピードを緩め、周囲の伝統とじっくりと馴染ませる。ジョゼフにはそれが自分に出来るはずだという確信があった。

「シャルル、オレがお前を王にしてやる…王にしてみせる。お前が王に相応しい事なんて、誰もが知っている。もちろん俺もだ。だから、だから今は大人しく捕まってくれ。これ以上取り返しが付かなくなる前に」

 ジョゼフの真摯な言葉にシャルルの顔がくしゃりと歪む。その顔は笑っているようにも泣いているようにも見え、ジョゼフは弟のそんな表情をこれまで見た記憶がない。

「わかってない……兄さんはわかってないよ。兄さんに王にしてもらったって、意味なんて何も無いっていうのに……」
「何がわかっていないと言うんだ。教えてくれ、シャルル。俺達兄弟が力を合わせれば、出来ない事なんて無いはずだろう」
「僕はね、兄さん。才能や王権がブリミルに選ばれた者にのみ与えられるなんて事を認めない。僕が何者になるかなんて、僕自身が決めて見せる……《エア・ストーム》」
「よせっ、シャルル!」
「ジョゼフ様、危ない!」
 
 素早く杖を構えたシャルルが魔法を唱えた瞬間、室内には暴風が吹き荒れた。背後のステンドグラスが粉々に砕け散り、室内には割れたガラスやら装飾品やらが飛び交った。取り囲んでいた騎士達は魔法を使えないジョゼフを庇おうと動いたが、シャルルの魔法はジョゼフを攻撃したものではなかった。
 シャルルの魔法が狙っていたのはシャルル自身。巨大な竜巻はあっという間にシャルルの体を室外へと運び去り、そのまま遠方へと移動していく。ジョゼフ達は床に伏せ、暴風が吹き止むのを待つしかなかった。

「待て、シャルル! 待ってくれ」
「さようなら、兄さん。僕は、僕の力できっとガリアの王になるよ」

 叫ぶジョゼフに遙か遠くからシャルルの声が聞こえた。おそらく風魔法で伝えているのだろう。

「シャルル! 馬鹿野郎っ……」
「危ない!屋根が崩れるぞ、早くジョゼフ様を建物の外へ!」

 必死に窓際に向かおうとするジョゼフを羽交い締めにして騎士達がドアから連れ出す。ジョゼフが騎士達に引きずられるようにして建物の外に出た直後部屋の天井が落ち、あたりは砂埃に包まれた。



 シャルルを逃がした事をヴェルサルテイル宮に戻って王に報告したが、父王は何も言わなかった。引き続き捜査の全権を任されたジョゼフはまず在リュティス貴族に外出禁止令を発令した。
 リュティスの街はシャルルから金を受け取った貴族や神官、更には不正に関与した役人などの逮捕劇があちこちで繰り広げられ騒然としていたが、そんな喧噪とは無関係な内務省の地下室でジョゼフは逮捕したオルレアン公夫人と対面した。

「突然こんな事になって驚いていると思うが、今、私は公人としてこの場にいる。それをわきまえた上で発言して欲しい」
「もちろん分かっておりますわ、ジョゼフ殿下。私に分かる事でしたら、全てお話しいたしますので何なりとお尋ね下さい」

 少し憔悴しているようだったが、義妹であるオルレアン公爵夫人マルグリットはしっかりとした様子で答えた。ジョゼフは努めて冷静にシャルルの犯罪について夫人の関与を中心に尋問していったが、彼女は何を知っている訳でもないようだった。

「オルレアン公夫人、あなたはシャルルが何をしていたのか把握していなかったというのですね?」
「はい。最近は仕事の話を私達とする事を好みませんでしたし、私達も聞かなかったですから。……ただ、夫がそのような事をした、と王が仰ったのなら、したのだろうなとは思います」
「何故だ? マルグリット、何故、君はこんな事を納得できるんだ」
「……お義兄様は、シャルルのした事を聞いた時、何を思いましたか?」
 
 ドクンッと自分の心臓が跳ねた気がした。取調室と言うには豪奢な机を挟んで向き合ったオルレアン公夫人から真っ直ぐに見詰められ、ジョゼフは狼狽えた。

「わ、私は何も考えられなかったな。父がシャルルを逮捕すると言うのを聞いても、信じられないと言う思いしか浮かばなかった」

 これは嘘だ。ジョゼフはオルレアン公夫人に嘘を言っている、とオルレアン公夫人と話しているジョゼフとは別のジョゼフが冷静に観察している。自分自身の心を冷静に観察しているもう一人の自分の存在をジョゼフは感じた。
 本当は気付いている。父王がシャルルを逮捕すると宣言した瞬間の感情に、どんなものが混じっていたのか。

「とにかくシャルルに確認しなければと思って、父に頼んでシャルルの元へ行かせて貰ったのだ」
「そうですか…なら、お義兄様には分からないのかも知れないですね」

 それきりオルレアン公夫人は喋らなくなってしまったので、ジョゼフは尋問を打ち切った。次に姪であるシャルロットを尋問する予定だったのだが、少し考えを整理するためキャンセルして自室へと戻った。
 


 自室へ戻ったジョゼフは椅子に深く腰掛け、じっと目を瞑ってシャルルやマルグリットの言葉を反芻していた。
 おそらく本当にガリアの行く末を案じていただろうシャルル。そのための数々の改革、それとその為に引き起こされた反発やシャルル派とジョゼフ派との対立を、あの心優しい弟はどのような思いで見ていたのか。
 ジョゼフは何も考えていなかった。どうせシャルルが王になるのは既定路線だと決めつけ、主流派になり損ねそうな貴族共が騒いでいるだけだと醒めた目で見ていただけだ。人品能力共に優れる弟と優っているのは先に生まれた事だけの兄とでは、王としてどちらが相応しいと評価されるかなんて考えるまでもなく明らかだ。

 しかし、弟の立場から見たあの騒動はどのようなものだったのだろうかと思いを馳せた時、ジョゼフは誠実で兄想いな弟がたどり着くかも知れない結論に気が付いてしまった。国中の貴族が二つに割れ、一方は無能だと王子を罵りもう一方は伝統の破壊だと返す。そんな状況が国にとって望ましい筈はない。そういえばシャルルが陥れた貴族達は皆、ジョゼフ派と言いながらも既得権益の確保のみに関心があるようなタイプで、国のため、ジョゼフのためなど考えてもいないような連中ばかりだった。あんな連中がいなくなるのは国にとって益こそ有れ、悪い事は何もないように思われる。シャルルが裏金を渡していた連中もそうだ。彼らを一掃できるのなら、ガリアは随分と風通しの良い国になるだろう。

 あの、心優しい弟は自らを犠牲にする覚悟でガリアの改革を推し進めていたのではないか。
 ガリアの腐敗を一掃し、国を一つにまとめるためにそんな方法を選んだのではないか。

 その結論に到達した瞬間、ジョゼフは思わず胸に手を当てて服を握りしめた。
 その瞬間にジョゼフの全身を突き抜けた感情をなんと呼べばよいのかはわからない。ただ、ジョゼフは荒れ狂う感情を抑えるため、暫くその姿勢のまま胸に当てた拳を握り続けた。
 その推測がもたらした衝撃のその激しさは呼吸する事すら忘れ酸欠になりかける程。呼吸が落ち着くまでそこに留まったジョゼフはやがてフラフラと自室を出て内務省の庁舎内を彷徨った。




「や、ジョゼフ様。やはり取り調べますか?」
「……あ、うむ。ちょっと暫く二人きりにしてくれ」
「は、それでは外の廊下の先におりますので、お帰りになる時は声をおかけ下さい」

 ジョゼフが行き着いたのは先ほど予定をキャンセルしたシャルロットの取調室。何をしにここに来たのか認識しないままそれまで尋問を担当していた騎士と交代し、椅子に腰掛けた。シャルロットはずっと下を向いたまま、ジョゼフが部屋に入ってきた時からずっと顔を上げる事はなかった。

「……」
「……」

 室内は沈黙に包まれた。まだ興奮が収まりきっていないジョゼフはシャルロットの青い髪を凝視したまま拳を握りしめていたが、シャルロットがポタポタと涙を零している事に気が付くと、大きく溜息を吐いて天井を見上げた。
 シャルルはこの娘の事を愛していた。この娘もシャルルの事を愛していたというのに、こんなところで一人泣かせて、一体何やっているのかと頭の片隅でシャルルに文句を付ける。
 
 この娘を殺したらシャルルはどんな顔をするだろうか、と、ふと考えた。この娘の母マルグリットでも良い、シャルルの目の前で殺したらあの弟の顔を怒りで歪ませる事が出来るのだろうか、と。

 姪と義妹とを弟の目の前で酷たらしく殺す、そのあまりにおぞましい想像に溜息を吐いて頭を振る。こんな想像をしてしまう、あまりに惨めで卑小な存在。そんな自分をジョゼフはずっと大嫌いだった。




 そのままどれくらいの時間が経っただろうか、室内はシャルロットが時折鼻を啜る音と、ジョゼフがコツコツと指先で机を叩く音だけが響いている。唐突にその沈黙を破ったのは、ジョゼフだった。何の前置きもなく、落ち着いた声で、こう告げた。
 
「シャルロット。俺はゲルマニアに亡命しようかと考えている」

 咄嗟には理解できないその言葉に、ずっと下を向いていたままだったシャルロットが顔を上げた。

「え?」



[33077] 3-25    並立
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 20:59
 ジョゼフが取調室に来て数刻、ずっとシャルロットを見つめたまま黙っていたが、何の前触れもなく口を開いた。
 
「シャルロット、俺はゲルマニアに亡命しようかと考えている」
「……え?」

 唐突に喋りだしたジョゼフの発言の内容が内容なので、シャルロットもつい顔を上げて伯父の顔を見た。ジョゼフはシャルロットから目を逸らすように横向きに座り直し、顔を合わそうとはしなかった。

「シャルルが王命に背いて自領へと帰った。と言う事はこのままでは内乱になる。俺はシャルルを捕まえて修道院に放り込むのも、自分が捕まって放り込まれるのも御免だ。東方開拓団とやらにちょっと興味もあった事だしな、ゲルマニア帝室の娘を何人か妊ませてやる事を約束すれば、この俺でも受け入れてくれるだろう」
「え? え?」
「今は騒いでいる貴族共はどうするかな。まあ、ガリアにいなくなる俺には関係がない事だが」
「え、え? 伯父様がいなくなったら、次の王様には誰がなるの?」

 あまりに驚いて涙も止まる。手持ち無沙汰にペンをいじる伯父を見詰めて聞き返すが、何を言っているのかよくわからない。

「俺の知った事か。父上を殺すなり追放するなり、和解するなりしてシャルルがなるか、シャルルを捕まえてお前かイザベラのどちらかがなるか、好きにすればいいだろう」
「ダ、ダメー! 伯父様逃げちゃダメ、ちゃんと父さまと戦って!」
「ふざけるな! 何でお前にそんな事を言われなくちゃならん。俺はシャルルの考え通りに動くのなんて御免だ!」

 それまで横を向いていたジョゼフがシャルロットを睨み付ける。その気迫にシャルロットは身を竦ませるが、ここは引く訳には行かない。下唇を噛み締めながら、ジョゼフを睨み返した。

「シャルルが本当に王になりたいと言うのなら、なれば良い。そうでないのなら、知るか。勝手にしろ」
「ダメ、絶対。……父さまはずっと苦しんでいた。伯父様が逃げちゃったら可哀想」
「シャルルの何が可哀想なものか。俺の方がずっと可哀想だ」

 フンと鼻を鳴らしてまた横を向く。
 シャルルの人生がどのような人生か一言で現すとすれば恵まれていると言えるだろう。ガリアの王子として生まれ、才能に恵まれ人格に優れ、尊敬と人望を集めている。父王からは信頼され、その出自と能力に見合った地位を与えられて類い希な能力を存分に振るい、成果を上げている。聡明で美しい妻との仲は睦まじく、二人の愛の結晶である娘は父親思いで、この間はシャルルの騎士になると誓ってくれたそうだ。シャルル程恵まれている人間はいない。

 翻って我が身を顧みれば、同じくガリアという大国の王子に生まれながら、どんなに努力しても一握りの魔法の才すらなく、父に疎んじられ性格は歪んで家臣からは無能だの陰気だのと陰口を叩かれている。内務省に勤め北花壇騎士団の団長などもやっているが、表に出るような仕事は何もしていない。魔法の才が無いとわかってからは嫁の候補探しにも苦労する程で、ようやく縁があった嫁は病弱で娘を生むと程なくして死んだ。子供は女子が一人しかいないというのに、後添えの話も全く出ないというのはガリア程の大国の王子として普通では有り得ない事だ。その娘との仲だって、魔法を使えないことが遺伝していることが分かって以来、直視することの辛さからつい距離を取ってしまい、良好であるとはとても言い難い。
 そして何より、比べるのも馬鹿らしい程の差があるというのにそれでも嫉妬してしまう品性の下劣さ。決して手が届かないものに嫉妬している男の事を、ジョゼフは哀れだと思う。

「いいかシャルロット、お前にも言っておく。イザベラは可哀想に俺の娘に生まれてしまったから魔法の才は無いんだ。『イザベラ姉様は何で魔法が出来ないの?』とか『魔法が出来ない理由をわたしも一緒に考えるよ!』とか言うな。お前達が完全な善意で言っている事だって分かっててもこっちは言われる度に傷つくんだ」
「わ、わたしそんな事言った事無い」
「どうせ似たような事は言っているだろ。あの娘はまだ自分の才能を受け入れられていないからな、懸命に杖を振っている姿は哀れで哀れで見ておれん。……いや、そうだな、イザベラもゲルマニアに連れて行こう。こんな所に一人残すのは可哀想だ」
「ダメ……」
「ゲルマニアでの待遇は領地無しの宮中伯くらいかな。始祖の血が欲しいあの国ならば公爵位くらいはくれるかも知れんが、領地は自分で切り拓くというのも楽しそうだ。ガンダーラ商会の開拓地には是非一度行ってみよう……」

 楽しそうに亡命後の計画を話す伯父をシャルロットは呆然として見ていた。シャルルが王に謀反を起こした今、ジョゼフが亡命してしまうなど一体どうなってしまうのかわからない事態だ。
 王位継承権一位がジョゼフで以下シャルル、イザベラ、シャルロットと続くが、ジョゼフとイザベラが亡命したら継承権の四位までがいなくなるか資格を失う事になる。第五位となるとパンティエーヴル公がいるが、既に老齢だし彼にガリアを率いていく程のカリスマは無い。結局シャルルが簒奪するか継承権を回復して王位に就く事になるのかも知れないが、兄に王位を譲られた格好になるシャルルがどんな思いを抱くかを想像し、シャルロットは身を震わせた。

 娘とはいえシャルルの思いを全て理解している訳ではない。だが、今回の事件が起きて納得できたところもある。シャルロットには王位を譲られた父が喜ばない事だけは確信できた。

「伯父様、父さまには勝てないから逃げるの?」
「……あ゛?」

 それまで楽しそうだったジョゼフが殺意すら感じさせる瞳でシャルロットを睨む。その無言の圧力を押し返し、シャルロットは懸命に唇を嘲笑の形にゆがめて続ける。

「だって、そうでしょう? 父さまを逮捕に行って取り逃がし、父さまが挙兵準備を始めたら亡命するなんて、父さまの事を怖がっているとしか思えないわ」
「……」
「伯父様にはお爺様の信任もガリア王家に忠誠を誓う軍隊もある。それなのに寄せ集めの諸侯軍を率いる父さまには勝てないのね」
「……おそらくシャルルに同調する貴族は七十六から九十二の間の数になるだろう。多くの貴族は様子見に走るものと思われる。いかにシャルルと言えど、その程度の数ではガリア正規軍を破る事は出来ない」
「随分詳細に予測しているのね。その数の中にラ・クルス伯爵は入っているの? あの方の影響力は結構大きいと聞いていたのだけれど」
「確かに彼がシャルルに付けば更に多くの貴族が反乱軍に参加するだろうし、地勢的にもド・オルレアンから直接サン・マロンを抑えられるのでグッと優位になるだろう。しかし伯爵が王家に反旗を翻すのは有り得ない事だ。大体もう王は今回の件も相談済みだそうだ」

 その表情から既に怒りは消え、冷静な戦略家として自分の見立てを話す。ジョゼフが大臣を務める内務省には国内の情報が全て集まってくるので、貴族の動静を予測するなどはお手の物だ。

「サン・マロンが確保できない場合、オルレアン軍の圧倒的な弱みは航空戦力の貧弱さだ。現代の戦いにおいて制空権を制した方が戦いを制する。いかにシャルルが優秀なメイジや幻獣部隊を揃えたとて、上空から雨あられと降り注ぐ砲弾には抗しきれないだろう」

 ふん、と鼻を鳴らすとまた椅子に深く腰掛け、横を向いた。

「城に籠もる事になるのだろうが、いかに強固な城と言っても籠城など援軍がある場合にのみ有効な戦略だ。三ヶ月以内に反乱が制圧されシャルルも逮捕もしくは亡命を余儀なくされる事は確実だ。つまり、俺がオルレアン軍を恐れる理由など何もない」
「……父さまは素晴らしい人格だって多くの人から尊敬されてたわ。それでも、そんな数しか父さまを支持しないの?」
「貴族というものは勝つ方に乗るものだ。自家の存続という大問題の前には人格の善し悪しなど大した問題ではない」
「ガリア王家始まって以来の魔法の天才という評価を受けているわ。それでも戦列艦相手には何も出来ないの?」
「魔法は永遠に撃ち続けられるものではない。一時局面を打開する事は出来るかも知れないが、大局としては変わらないだろう」
「……父さまは何も出来ないの?」
「後は暗殺だな。俺と父上とイザベラを暗殺すればそれでシャルルの勝ちだが、あのシャルルがそんな手段を執るはずもないし、ガリアの宮中は警備の厳しさではハルケギニア一だ。難しいだろう」
「何も出来ないなら、何でみんな父さまが王に相応しいなんて言ってたのよ……」
「……」

 ぽつりと呟くように言うシャルロットにジョゼフが答えられる訳もない。 

「わたしは認めないわ、ジョゼフ・デ・ブオナパルテ。わたしはあなたの言う事など一つも認めない。シャルル・ド・オルレアンは地上で最もガリアの王たるに相応しい存在。あなたを倒しガリアの王になる」

 体を震わせながらシャルロットはジョゼフを睨み付ける。ジョゼフは何故この姪がここまで言うのか理解できない。
 そもそもジョゼフは亡命すると言っているのだ、戦闘が起こらない可能性だってあるというのに。

「もうよせ、シャルロット。それ以上言うとお前も反乱罪に問われる事になる。それは父上の本意では無い」
「かまわない。わたしも杖を取って父さまと共に戦う。あなたを倒すべく」
「シャルルもお前を反乱者などにするつもりは無い。どうせ全部芝居なんだ、幕が下りるまではここで大人しくしていろ」
「芝居なんかじゃない! 父さまは本気であなたを倒そうと――」

 立ち上がって叫ぶシャルロットの口を、やはり同じように立ち上がったジョゼフが掌で塞いで黙らせる。シャルロットの細い顎を握り、顔を近づけて睨み付ける。

「いい加減にしておけよ。こう見えても俺は苛ついているんだぞ」
「……」
「いいか、俺が亡命する理由を教えてやろう。……シャルルを殺さないためだ。俺はシャルルを殺したくない、俺はガリアにいない方が良いんだ」
「ぐっ!」

 そのまま腕を突き出してシャルロットを椅子に叩き付ける。シャルロットは肺を打ったようで暫く咽せていたが目だけは変わらずジョゼフを睨み続けた。 

 ジョゼフはシャルルの一連の行動が自分を王位に就けるための工作なのではないか、という疑惑を抱いてしまっていた。自身の失脚を覚悟の上で腐敗貴族を道連れにして一掃し、ガリアをジョゼフの下で一つにまとめ上げる。内乱が激しくなる前に恭順を示し、その後は魔法技術開発などに専念してガリアを陰から支えるつもり、といったところだろうか。弟の事を聖人視するあまりたどり着いた誤った推測だが、ジョゼフがそんな事を受け入れる事はとうてい出来なかった。
 もし、反乱を制圧してシャルルを逮捕した時に、あのいつもの爽やかな笑顔で「やっぱり兄さんには敵わないね。ガリアの王に相応しいのは兄さんだよ!」などと言われたら、おそらく自分は殺意を覚えてしまうのではないかと危惧しているのだ。

「と、父さまは、ずっと、あなたに勝つために努力してきた。逃げるな、戦え、ジョゼフ!」
「……俺は、シャルルを捕まえたら殺すと言っているんだぞ? シャルロット。抵抗しなかったからと言って罪を減じる事もないし、王族だからと死罪を回避するつもりもない。お前の大好きな父さまが卑しい伯父に殺されても良いと言うのか?」
 
 底冷えのするような瞳でシャルロットを見詰める。口角は吊り上がり、どこか狂人のような表情を浮かべていた。

「王族だから、始祖の血統だから死罪にはならない、などとお前達が思っているのなら大間違いだ。俺は、この世界で最も始祖の血を呪っている男なのかも知れないのだから」

 目を見開きブリミル教徒としてあるまじき事を口にするジョゼフに、シャルロットは震え出す体を叱咤して答えを返した。

「あなたが、父さまと本気で戦ってくれるのなら、構わない。あなたが逃げてしまったら、父さまは父さまじゃいられなくなる」
「何を……?」

 ジョゼフは全ての言葉を本気で言っている。その本気はシャルロットにも伝わっているはずだ。それなのにあまりに頑なな姪の様子を不審に思い、ジョゼフは首をかしげた。

 シャルロットが思い出しているのは遠い過去、ラグドリアン湖の畔の屋敷。その日ウォルフを迎えたパーティーが散開した後のシャルルの叫びだ。
 昔の記憶ゆえ明確ではないが、あの日シャルロットはシャルルが別の存在になってしまったと感じていた。その幼き日の記憶がシャルロットに二度とあんな状態にシャルルをしない、シャルルを守ると騎士の誓いをさせている。

 また睨み合う伯父と姪だったが、取調室に駆け込んできた秘書官によってその睨み合いは中断させられた。

「ジョゼフ様! 大変です、オルレアニスト達にお屋敷が襲われイザベラ様が拐かされたそうです! すぐにお戻り下さい」
「何? ……ちっ、貴族共の暴走だな。シャルルがそんな事を指示する訳はない」
「あっ、伯父様待って! わたしをイザベラ姉様と交換するよう交渉して、お願い!」

 叫ぶシャルロットを無視して、ジョゼフは入ってきた係官と一緒に外へ出た。シャルロットを部屋に残したまま取調室の扉は閉められる。ジョゼフは急いで情報が集まる大臣室へと向かった。


  
「ああ、ジョゼフ様大変な事になりました。イザベラ様が……」
「今聞いた。向こうから何か連絡は取ってきたか?」

 大臣室では秘書官が出迎え、周囲では官僚たちが情報収集に忙しく働いていた。

「いいえ、襲撃が起きる前にシャルル様による檄文が確認されておりますが、イザベラ様についてはまだ何も……」
「そうか。屋敷の被害はないのだな?」
「あ、いえ、メイド長を含め十五名の使用人が殺害されております」
「馬鹿な! フォワは父上の忠節な臣下であり俺やシャルルの乳母だぞ、実行犯は誰だかわかっているのか?」
「モンフォール伯爵の姿が確認されておりますが、今のところ確認が取れたのはそれだけです」
「あのシャルル馬鹿か。くそっ、どうしてくれよう……」

 このメイド長は先代のフォワ伯爵夫人で、二人の王子の乳母を務めていたものが、ジョゼフの事が心配だという理由から屋敷を持つ時に押しかけてきてそのままメイド長に収まったという人物だ。
 ジョゼフにとっては実の母以上に密接な時を共に過ごしてきた相手で、殺されたと言う事が受け入れられない。苛つきながらここ数日のオルレアン派貴族達の動静を提出するように指示を出す。

「フォワ伯爵には連絡を出しておきました。葬儀はどうなされますか?」
「とりあえず伯爵に頼んで密葬で済まして貰ってくれ。この件が片付いたら俺の母として国葬を執り行う」
「畏まりました」

 苛つきながら早速用意された資料に目を通す。今日にでも亡命してしまおうかと考えていたが、そういう訳にもいかなくなってしまった。愚か者共を血祭りに上げ、フォワの葬儀を済ませるまではこの国を離れられない。
  
「シャルルに連絡しろ。フォワが殺された事とこの実行犯共の引き渡し、それにイザベラの解放を通告するんだ」
「犯人の引き渡しには応じないのでは? イザベラ様も捕虜交換という形になると思いますが、シャルロット様をと言う事でよろしいですか?」
「んん? フォワの殺害犯だぞ、シャルルが許すとは思えん。マルグリットやシャルロットを反乱軍に招くというのもシャルルは望みはしないだろう」
「失礼ながら、ジョゼフ様はシャルル様という方の評価を誤っておられるかと存じます。これをお読み下さい、先ほどガリア中にばらまかれた檄文にございます」
「これは……」

 秘書官が手渡した檄文はラ・クルス産の紙にオルレアンご自慢の新型印刷機で印刷された物で、これは現在ガリア各地でモーグラからばらまかれている。
 その内容に目を通したジョゼフはその激しさに目を疑った。
  
『全ガリア貴族、及び民衆に告ぐ

 奸佞なるガリア王子ジョゼフ・デ・ブオナパルテ、ガリア王位を簒奪せんと企て陛下不予に乗じて王軍の指揮権を奪取せり
 彼の者、始祖ブリミル様の恩寵を受けずに生まれ、王に認められず貴族の信任を得ておらず
 もし彼の者が王となればこの国を亡国へと導くのは必定である
 我、ガリア王子シャルル・ド・オルレアンはこの愚挙を看過する事は出来ない
 ガリアの大統を守るため、兵を挙げ、軍を率いてかの逆賊を討たんと欲す

 国を憂うものよ、杖を取りて馳せ参じよ
 未来を望むものよ、剣を取りて集え
 
 全てのガリア臣民の力を結集せし時、卑劣なる君側の奸は必ずや取り除く事が出来るであろう』

「これを、シャルルが出したのか?」
「これはリュティス上空から撒かれた物ですが、その時に使われたモーグラはオルレアン所有のものでした。シャルル様の指示で出された文だという事は間違いございますまい」
「むう……」
 
 ブリミルの恩寵を受けず王に認められず貴族の信任を得ておらぬ卑劣で奸佞な逆賊。およそシャルルが自分に向かって言わなそうな言葉の羅列を前に、つい呆然としてしまう。いや、シャルルに言われるとジョゼフでさえその通りだという気がしてきてしまう。確かに自分はブリミルの恩寵を受けていないし、その他もその通りなのだろうと思う。だが、それをシャルルが言うのか、と言う点がジョゼフには腑に落ちない。
 民衆というのは声の大きい方を信じる傾向がある。このビラはジョゼフのイメージ悪化に一定以上の成果があるだろう。もしこのままジョゼフが王位についても簒奪者としてのイメージはついて回る事になってしまった。

「シャルル様とも有ろう方がここまで宣言するとなると、様子見を決め込んでいる貴族も相当数がシャルル様の陣営に参加する事が見込まれます」
「……確かにな。王が不予で王命も全て簒奪者が出しているに過ぎないのならば、ガリア貴族はそんな命令に従う必要は無いな」
「人事のように仰らないで下さい。西部と南部を中心に王が秘薬を使われてジョゼフ様の傀儡となっているとの噂が流されています。このままでは反乱に参加する貴族はもっと増えるものと思われます」
「まだ一日も経っていないのに、そこまで手を打っているのか。シャルル、やるなあ……」

 もう夜は大分更けてきたが、まだシャルルが逐電してから半日も経っていない。噂が流されたのは夕刻以前だろうから、シャルルはオルレアンに戻る前にそれらの手を打っているものと思われる。
 唐突に無能な長男を後継者に指名し、有能で後継者の本命と見られていた次男に討伐令を出すなど王が狂ったと感じても何も不思議はない。シャルルはその不自然さを指摘する事で自身の正統性を主張してきた。
 これで亡命する目が消えた事にジョゼフは乾いた笑いをこぼした。王に薬を盛って王位を簒奪しようとした大逆罪の犯人を受け入れてくれる国はないだろう。ゲルマニアがそれをやるとシャルルとの全面戦争に突入する事になるだろうが、そこまでの覚悟はあの国には無い。

「何でシャルルはこんなに好戦的なんだ?」

 ポツリとこぼす。先ほどはシャルロットに状況を解説したが、一番重要なシャルルの動機という物をジョゼフはまだ解析できていない。

「少し考えをまとめる。元帥と大臣達を招集して陛下の御前で会議を開くから、連絡を頼む」
「陛下はご病気でございますが……」
「やむを得まい。国の一大事だ、寝室に集まれば問題はないだろう。あとシャルルにイザベラを…いや、これはいいな、暫く時間をくれ」
「は……」




 情報収集にばたついている部屋を後にし、地下へと降りる。向かった先はオルレアン公爵夫人マルグリットのいる取調室。ここで、ジョゼフは確認を取らなくてはならなかった。

「どうなさいましたか? ジョゼフ様。そんなに息を荒げて」
「マルグリット、お前に聞きたい。……シャルルは何故、そんなに俺と戦いたいのだ?」
「……何の事でしょうか?」

 椅子に座ったまま背筋を伸ばした美しい姿勢を崩さずマルグリットは問い返した。ジョゼフは机に近付き、持ってきたシャルルの檄文を広げて見せた。

「これを見ろ。シャルルが全国にばらまいた檄文だ。俺はゲルマニアに亡命しようかと思っていたというのに、こんな事をされては出来なくなった。こんな大事になる前に穏便にシャルルを王に出来る方策だって有ったのに、シャルルは拒否した。何故だ?」
「……あの人の望みはただ一つです。ジョゼフ・デ・ブオナパルテとシャルル・ド・オルレアンの二人の内、どちらが王に相応しいのかはっきりさせる事。それだけです」
「そんなの、ずっと分かりきっていた事じゃないか。シャルルが次王に相応しいとは皆が思っていた事だ」
「……かつてのあの人はその判断を王や貴族達に委ねようとしていました。王子として立派に見えるように気を配り、品行方正、非の打ち所がない人間として振る舞って――」
「待て、振る舞ったとは何事だ。シャルルはその通りの人間だ」
「あなたはっ!」

 唐突にマルグリットが声を張り上げてジョゼフを睨み付ける。穏やかだと思っていた義妹の、憎悪とも取れる視線を受け、ジョゼフはたじろいだ。

「……あなたはいつも卑怯でした。魔法が使えない事を言い訳にして決して表には出ようとしなかった。いつも殆ど全てを自分で完成させて、最後の部分だけをシャルルに譲る。それでシャルルが皆に褒められたとて、あの人が喜ぶと思いますか?」
「いや、俺はシャルルが困っている時にちょっと手伝った事があるだけ――」
「ハサミ川の築堤工事の時、シャルルが資材の発注量を間違っていたのをこっそりと正しい量で届けさせたのはあなたですよね?」
「そんな昔の事を……あれは大雨が近かったから工事を遅れさせる訳には行かなかったんだ。シャルルだって初めての大きな仕事で舞い上がっていたから」
「シャルルは落ち込んでいましたよ。発注ミスにより多くの人命を危険に曝すところだった。それなのに誰が助けてくれたのか分からないから感謝することも出来ない、と」
「ちょっとミスをフォローしただけだ。いちいち名乗るほどのことでもないだろう」
「シャントワーニュ紛争の時、双方の貴族の情報を詳しく調べ上げたレポートを提出してシャルルの仲裁が上手く行くようにし向けたのもあなたですよね?」
「あれはたまたま俺がそういう情報を手に入れられるセクションに就いていたからだ」
「だったらあなたが仲裁すれば良かったでしょう。シャルルは言っていました。あのレポートを読んだ後なら誰にでも出来るような仲裁だったと。それなのにガリア始まって以来の公正な裁き、などと貴族達に褒めそやされるあの人の気持ちを考えた事がありますか?」
「……」
「言い出したらきりがありません。あなたが陰から手を出す度にシャルルは深く傷ついていたのです」
「……」

 なおもマルグリットに睨まれてジョゼフは絶句する。この義妹が自分に対してこんなにも激しい感情を抱いているなど想像した事もなかった。
 シャルルの事にしてもそうだ。正直に言えば、まだ仕事に慣れていないシャルルの先回りをしてこっそりと手伝ってやるのはジョゼフの自尊心を満たす行為だった。そのままずるずると続けていたが、それがそんなにシャルルの心を傷つけるなどと思った事はなかった。

「シャルルはある時を境に自由に生きるようになりました。王の目や貴族の目を気にする事無く、自分自身の望みに向かって行動するように。シャルル・ド・オルレアンこそがガリア王に相応しい、その事を自分自身に証明する、その為に生きるようになったのです」
「証明する……その結果がこのざまか」
「ええ、シャルルなりに最善と思った事をしてきた結果でしょう。あるいは能力が足りなかったのかも知れません。それでもシャルルは決して後悔する事はないでしょう。王や貴族の評価がどうあれ、彼の道が閉ざされたわけではないのですから」

 マルグリットは椅子に座って立っているジョゼフを見上げている。しかし、ジョゼフが見下ろされていると感じる程マルグリットは堂々としていた。

「……俺の、せいなのだな?」
「思い上がらないでいただきたい。なるべくしてなったのです。私はシャルルがあなたを撃ち破ると信じています」

 シャルルが自分自身に証明するために行動しているというマルグリットの言葉は、何故だかジョゼフの胸にすとんと落ちてきた。思えば子供の頃から頑固なところのある弟だった。どんな事でも、誰がどう言おうとも、自分が納得するまでは認めなかった。
 シャルルは王になる事を目的に行動しているのではなかった。優れた王になろうとしていたのだ。おそらく戴冠後はシャルルの言った通り不正貴族を粛清する大嵐がガリアを吹き荒らす事になるのだろう。自分が支持した王に粛正される貴族達の反発は大きな物になるだろうが、それでも腐敗を取り除き、膿を全て出し尽くしその上に自分の王国を築き上げるつもりだったはずだ。
 ガリアを繁栄させハルケギニアに冠たる地位を確固たるものにした後にこう言うのだろう。ホラ兄さん、僕の方が王様に相応しかっただろう、と。
 想像の中のその姿は少年の頃のままで、初めてシャルルが狐を狩った時の誇らしげな笑顔を思い出し、つい、横を向いて笑い出してしまった。

「は、ははは、はははははは、そうか、シャルル、お前の方が王に相応しいか」

 晴れやかな笑顔となったジョゼフはマルグリットに向き直る。今度はマルグリットが圧倒される番だった。

「良いだろう。ならば、戦争だ。俺とシャルルのどちらが王に相応しいか、決めようじゃないか。俺達二人だけで」

 シャルルが納得するまで付き合ってやろうと、なんの気負いも無く、そう思えた。もうそれしか二人には道がない事を聡明なこの王子は理解していた。ジョゼフが王位を譲ったとて、シャルルが満足するはずもない。
 自分が勝つ事になろうと、シャルルが勝つ事になろうと構わない。内乱が激しくなろうと、人々が死にガリアの国力が落ちようと構わない。これまで鬱屈し続けたその全てをぶつけられるような予感にジョゼフは身を震わせた。

「まあ、後世の歴史家には二人とも王に相応しくなかった、と書かれる事になるかも知れんがな。そんな事は俺達の知った事じゃあないだろう。なあ、シャルル」

 身を翻し部屋を出て行く。来た時とは違いその顔は本当に楽しそうなものになっていた。



 この後御前会議を経てド・オルレアン討伐軍が編成され、ジョゼフは元帥としてこれを統率する事になった。
 諸侯軍の到着を待たず、シャルルの逐電から三日目には五千人の陸戦部隊が先発としてリュティスを出発、ド・オルレアンへと向かう。

 ここに後の世で後継戦争と呼ばれる事になるガリアの内乱が始まった。



[33077] 3-26    決別
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 21:00
「シャルロット様、ジョゼフ様がお呼びです」

 ここはガリアの首都リュティスの郊外にある王族の居城ヴェルサルテイル宮殿の東の塔。その最上部にある監禁のための牢に入れられていたシャルロットは迎えに来た衛士に従って塔を降りる。
 牢というには豪奢な内装だったし所詮囚われの身だ、不満はなかったが、杖を奪われ五日も本も何も無しに一人でいたのは退屈だった。塔の窓から雲を眺めるだけの生活が終わったのはシャルロットには嬉しい事だった。

「来たか、シャルロット。お前をイザベラと交換する事でシャルルと合意した。不服はないな?」

 通された部屋で待っていた伯父に尋ねられ、頷く。この捕虜交換を待っていた。オルレアン派にとってシャルロットの存在は重要だ。シャルルの妻でしかないマルグリットではイザベラの交換相手には不十分なので、シャルロットも当然自分が交換されるものだと思っていた。

「わたしはいつ解放されるの?」
「十日後だ。ラグドリアン湖の湖上でイザベラと交換する。だが、一つ条件を付けた。お前達二人は数少ない王家の血を引く者だからな。だらだらと戦争を続けられても困る」
「どういう事?」
「つまり、俺かシャルルのどちらか勝った方に仕える事を約束しろ、て言うか杖に誓え。俺かシャルルが降伏するか捕まるか、殺されるか国を追い出されるかしたら二人とも残った方に忠誠を誓うのだ。これはあくまで単なる兄弟喧嘩で、お前達は変わらずガリアの王族なのだから」
「……あなたがガリア王として父さまよりも優れているのならば、あなたに忠誠を誓う事に異存はない」
「よし。優れているとの判断はさっき言った、降伏するか、捕まえるか、殺すか、国を追い出すかで良いな?」

 コクリと頷く。シャルルが勝つ事に全力を傾けるつもりなので負けたときのことは考えない。

「済まないがマルグリットはこちらで預かる。何、不自由な思いはさせん。この戦いが終われば会えるさ」
「伯父上を、信じます」
「うむ、任せろ」

 にかっと笑うその顔はとても朗らかで、これから戦争をする相手とはとても思えない。

「こっちに来い、戦況を教えてやる。こちらの先発部隊はリュティスを出発してド・オルレアンに向かっているが、本隊はまだ編成中だ。傭兵を雇うのと諸侯軍が集まるのには時間が掛かるからな。シャルルに付いた諸侯は現在百七十一、こちらが三百六十程、残りが様子見だ。領地周辺の動静不明のためとか何とか言って領地に籠もっている」
「……父さまに付いたのがあなたの予想より多い」
「そうだなあの苛烈な檄文のおかげで、あのシャルルがそこまで言うのなら、と信じたものが結構な数いたようだ。ああ、お前はまだ見てないか、これだ読んでみろ。俺もこの檄文には面食らったさ」

 シャルロットは以前とはあまりにも違う伯父の様子に戸惑いながらもその檄文に目をやった。

「……父さまらしくない」
「うむ、シャルルはそれくらい本気だと言う事だ。さあ、それで現在の情勢だが、この地図を見ば一目瞭然だ。青が王軍、赤がシャルル、黄色が中立だ。こうしてみると黄色が多いな」

 机の上に広げた大きな地図の前に連れてきて解説する。それにはジョゼフの言う通り色分けされた印が書き込まれ、更に現在行動中の軍隊を模した駒が上に置かれている。

「ラ・クルスが青と赤になっている」
「ああ、実際は青だな。一応レアンドロがシャルルに付いたままみたいだから赤も入れてみた。軍としては爺さんが全部掌握している」
「ティティ……」

 自分の家が兄弟で戦争する事になって、そのとばっちりで友人の家が親子で戦争する事になった。ティティアナの顔を思い浮かべてシャルロットは唇を噛み締めた。

「まあ、どっちが勝っても家は残るのが双方に別れた利点だ。わざと別れるようなところもあるくらいなんだぞ」
「……ティティのお祖父さんはそんな計算高くはないわ。とても真っ直ぐで、優しくて、厳しくて……」
「そうだな。しかしお前の友達が身分を失うような事はないのは事実だ」

 言い聞かせるように言うジョゼフだが、シャルロットは答える事が出来ない。戦争というものの無情さを、とりわけ同じ国の人々が殺し合うという内戦の非情さを初めて実感していた。
 ティティアナの祖父のフアンには幼い頃から度々魔法の手ほどきを受け、つい先日も立ち会ったばかりなのだ。あの厳しいながらも優しい人と本気で杖を交わさねばならないと言う事実は、シャルロットの心に重くのしかかるのだった。

「あの爺さんは父上の臣下であり、レアンドロはシャルルの臣下だったって事だな。さて、地図に戻ろう。黄色の連中が何時色を変えるのか分からないのが難しいところだ。見ての通りリュティスの側にも結構黄色いのがいるから、リュティスの守りを薄くする訳にもいかん。はっはっは、困った困った」
「まだ戦闘は始まっていないの?」
「いや、リュティスを出た先発隊が何度か小規模な戦闘をしている。これらは大した規模ではないが、大きい規模の戦いとしてはシャルルがラ・クルスに攻め込んだ。電光石火だな。街道を確保してサン・マロンを制圧しようとしたみたいだが、ラ・クルスの爺さんが撃退した。今は少し引いたこの辺に陣を張っている」

 大きな街道が通り、交通の要衝であるヤカでの戦いは一時激しいものとなった。シャルルからの無血開城の要求をフアンが突っぱね、即座に戦闘に突入。シャルルが用意した長射程の野砲に当初手こずったが、野砲の攻撃に耐え、モーグラによる爆撃をラ・クルスの竜騎士が阻止している内にサン・マロンから援軍のガリア王国軍両用艦隊が到着、空からの援護を得て城近くまで迫っていたオルレアン軍を領地の外まで撤退させる事に成功している。
 なおもジョゼフは楽しそうに解説をしてくれる。ラ・クルスに攻め込んだシャルルの狙いから今後の見込み、周辺貴族のちょっとした豆知識まで話題は豊富だ。

「シャルルが用意した野砲がやたらと性能が高いらしくてな。射程は長いわ命中率が高いわで、うっかり射程に入り込んだ戦列艦が二隻大破されたそうだ。軍に秘密でそんなものを開発してるとは怪しからんとは思わんか?」
「父さまのところで国に先行して技術開発をするというのは王も認めていたはず」
「そうは言うが、あいつは産業省だからな、兵器開発は分野違いだろう」

 調べたら石灰岩の採掘に大砲を使って岩盤を粉砕する方法を試すという名目で、コストダウンのための鉄製大砲の試作と精度向上のため砲身内部に螺旋状の溝を刻むという研究レポートが提出されていた。数多くのレポートの中に紛れていたこの技術をおそらく利用しているのだろうが、王家に黙って自軍のみに配備するとはシャルルも中々やる、というのがジョゼフの感想だ。
 今回の事態まで想定して準備していたとなると、この内乱は長引くかも知れない。

「まあ、新型砲や何があるか分からない新装備も脅威なのだが、一番の問題はこの城だ。ラグドリアンに面した、お前もよく知るこのアンボワーズ城。自然の地形を生かした防壁は強固で、規模も大きく湖に面した港もあるので水には困らないし両用船の戦列艦が常に空から湖から守っている」
「父さまはトリステインを攻め落としたゲルマニアの大軍が攻め寄せても落とす事は出来ないって言っていた」
「まあ、その通りだな。近くの風石鉱山で産出した風石を大量に貯蔵しているし、穀物集積地になっているので、ここに数年籠もっても大丈夫なくらいの兵糧もある。ここにこの新型砲があるかと思うと攻めたくはないな、まあ、よく準備したものだ」

 ここ数年ガリア西部から集められた穀物は広大なこの城の倉庫に貯蔵され、アルビオンやトリステインに輸出してきた。このような事態になってみるとシャルルが国の政策を自分の勢力拡大のために実に上手く利用している事がよく分かる。
 ガリアの総兵力は三十万とも言われるが、おそらくシャルル側には五万から七万くらいが付くと見られ、ド・オルレアンに集結するのはその内三万くらいだろう。その人数を収容する余裕があの城には十分にあり、それを養うだけの兵糧も既にある。

「シャルロット。今回の内乱でシャルルが取るだろう戦略はどのようなものだと思う?」
「……何で、わたしとそんな話をするの?」
「シャルルがお前に魔法の練習ばかりさせているみたいだからだな。王家の者がただの魔法馬鹿になっても困るから、俺からも色々話をしてやろうという親切だ」
「魔法馬鹿になんてならない……伯父上を暗殺すればそこで父さまの勝ちだと思う。父さまのもとには優秀なメイジが沢山いるから、実行するのは難しくないはずだけど……父さまはそんな手段はとらない」
「うむ。暗殺など最も輝かしさの無い政治手段だ。兄を暗殺して王になっただなど、シャルルの治世に必ずや暗い影を落とすことになる。それに俺はあいつが戴冠するところを見なければならないはずだろうから、暗殺は無いだろう。それで?」
「父さまの方が劣勢なのは間違いない事だけど、潜在的にはそうとも言えない面はあると思う。あのお城に拠って時間を稼ぎ、政治的に逆転の糸口を探る事は可能なはず」
「その通りだ。シャルルの一番の武器は、やつ本人のカリスマ性だ。兵数的に俺が絶対有利と見られる状況で戦いが長引けば、シャルルに味方する者はずっと増えてくるだろう。では、俺はどうしたらいい?」

 本当に楽しそうに問いかけられ、シャルロットは戸惑いながらもジョゼフの置かれている状況を考える。味方からその能力を疑われているジョゼフとしては、戦争の早い段階で自身の力量を証明する必要があるはずだ。

「大兵力を動員すると父さまはお城に籠もってしまう。それだと戦争が長期化して伯父上には望ましくない状況になるだろうから、父さまから見て野戦で勝てると判断するくらいの寡兵、それ相手に引きこもったら臆病だと嗤われるくらいの少ない兵で、なおかつ伯父上が直接戦場に出て父さまを城からおびき出して勝つべきだと思う」
「ちょ、おま、向こうの方が装備が良いんだぞ、向こうより少ない兵でどうやって勝つんだよ」
「知らない。そこは伯父上が頑張るべき」

 ジョゼフは笑っているがシャルロットはあくまで冷静に答えた。敵であるシャルルの娘なのだ、そんな事知るかというのは彼女の本音だ。

「ふん、冷たいなあ。じゃあ、宿題にしておこう。その状況で俺が勝つ方法を考えてみてくれ。他の戦略でもいいぞ、まだ捕虜交換には間があるからな、戦争で相手の立場に立って思考するというのは重要な事だ。訓練と思ってやってみろ」
「わかったわ……伯父上はどうなの? 伯父上が父さまだったらどんな戦略を取るの?」
「俺がシャルルだったら、か。色々考えられるな。まず国内の貴族共を懐柔するのは当然として、アルビオン王に助力を頼んで王立空軍を一部借りるって手も有りかもな」
「……ガリア王家にアルビオン王家がいきなり敵対するなんて事は有るの?」
「ガリア北部、トリステインとの国境あたりの土地を約束してやれば可能かな。狂王子の魔手からガリア王を救い出す、とか言って嬉々として飛んで来そうだ」
「……父さまはそんな国を売るような事はしない」
「どうかな、約束した土地がすぐに取り返せると思っていれば問題ないとは思わんか? 一時的にアルビオンの物になっても、シャルルが王位に就いてアルビオン王を廃すれば取り返せるだろう」

 ジョゼフは既にシャルルがアルビオンの貴族派に支援を行っている事を掴んでいる。貴族派と協力して二つの大陸に分散したアルビオン空軍を各個撃破する事はそれほど難しい事とは思えなかった。

「そんな事をすれば、外交的な信頼を損ねると思う。そんな事でアルビオン王の弟が王を務めるトリステインや他の国を敵に回すのは良策とは思えないわ」
「ふむ、だったらそのトリステインを利用するかな。アンボワーズ城を拠点とした詳細なトリステイン侵攻計画を向こうに流して、ジョゼフがオルレアンを倒した後はこんな事を計画していると脅せば援軍を送る事に躊躇はしないだろう。何せ向こうは誠実なシャルル様(笑)だし、俺は得体の知れない卑劣な王子だしな」
「……トリステインが得る見返りは? いくら危険が迫っているからと言って、戦争に掛かる莫大な費用をトリステインが支払うメリットは?」
「その金だ。あそこは不景気だから、戦争準備金を支払ってやって勝った時にも金を支払う事を約束すれば大喜びだ。元々あそこも貴族が多すぎるから、王家としては戦争して少し減らしたいと思っている。それがシャルルと組んで勝てる見込みがあるのなら乗っかってくるだろう。シャルルが王位に就いた時に大きな貸しを作ることになるしな」

 すらすらとジョゼフの口から自身を叩きのめす方策が語られる。シャルロットには何処まで本気なのか、見極めが出来ない。

「ロマリアに働きかけるというのもいいな。何せ俺は魔法的には無能だ。そんなブリミルと神との契約を無視したような王が誕生するのはロマリアにとって不本意な事だろうから」
「外国を頼るしかないの?」
「戦争が長期化したら、新教徒に一定の権利を認めてやるのも効果は有るかな。新教徒を弾圧しているような頭の古くさい堅物領主は大抵俺の支持に回っているが、領地で新教徒達が蜂起したら帰らざるを得ない。結果として戦争は更に長期化するし、俺の陣営は弱体化する」

 まだまだいくらでもジョゼフにはシャルルを勝たせるための方策は見つかるようだった。こんな事まで詳しく話す伯父の意図を分かろうと、シャルロットは注意深くジョゼフの言葉に耳を傾けた。



 この日から数日、またシャルロットは塔の小部屋で過ごした後、ラグドリアン湖へ向かう戦列艦に乗せられイザベラとの身柄交換へ臨む事になった。
 この数日はシャルロットが希望した本が与えられ退屈する事はなかったが、これから始まる戦いの事を考えている事の方が多く、読破した量はあまり多くはならなかった。



 シャルロットが捕虜交換に向かう当日、交換用のフネに乗り込むシャルロットをジョゼフが見送りに来た。まだ軍服は身につけておらず、気楽な服装だ。相変わらず上機嫌で親しげに話しかけてくる。

「どうだ、シャルロット。宿題は出来たか?」
「いくつかは。今答えるの?」
「いや、いい。シャルルにでも話せ。…今日でお別れだ。死ぬなよ、シャルロット。俺とシャルルはこんなになってしまったが、戦が終わったらイザベラとは仲良くしてやってくれ」
「は、はい。伯父上も、お元気で」
 
 優しげなジョゼフの瞳は本当にシャルロットの事を心配しているようで、シャルロットもつい、昔のように答える。これからこの伯父と戦争をするとは信じられない。一度タラップの方へ体を向けたが振り返り、改めて伯父の顔を見詰めた。

「伯父上、父さまに何か、伝言は……?」
「伝言か、そうだな……俺は全力で勝つ。お前も全力で来い。俺の弟にあるまじき腑抜けた戦いは許さん、だな」
「一言一句違えずに伝えます」

 ニヤリと笑って答えるジョゼフに背を向け船へ乗り込む。リュティスからラグドリアン湖へはフネで三日程。いつもはモーグラが数時間で移動している距離をガリア王国軍の戦列艦はのんびりと進んだ。



[33077] 3-27    緒戦
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 21:01
「ああ、シャルロット! よくぞ僕のもとへ帰ってきてくれた…」
「父さま…!」
「済まなかった。こんな急に事態が動くなんて…君たちだけでもこっちに住まわせておけばこんな事にはならなかった」

 ラグドリアン湖上での捕虜交換はつつがなく行われ、シャルロットは無事ド・オルレアンのアンボワーズ城へと到着していた。
 城の崖下に設置された港で、フネから降りてきた娘を出迎えたシャルルは真っ先に駆け寄って幼い娘を抱きしめた。一時は父とも母とももう二度と会えないのでは無いかとまで思っていたシャルロットにとって父の温もりは何物にも代え難いものと感じられた。

「父さま、母さまが…」
「うん、大丈夫。兄さんも女性にはそう非道い事もしないだろう。僕は必ずマルグリットも取り返すよ」

 シャルルに会えたらもっと色々喋ろうと思っていたのに、涙が溢れて言葉にならない。親子はそのまま崖の内部に設置された昇降機に乗って崖の上に建てられている城郭へと移動した。

「どうだい、シャルロット。みんな士気が高いだろう」

 崖の上には強固な城壁に囲まれてラグドリアン湖の眺めの良い迎賓館や宿泊棟、旧いままの家族が暮らす屋敷などが建っているが、一番目を引くのは美しい芝生が生え揃った広大な広場だ。ガーデンパーティーなども開かれるこの広場は端の方には昼寝に丁度良い木陰もあり、天気の良い日にはここで過ごすのが最近のシャルロットのお気に入りだった。
 その、美しい芝生の上で今日は屈強な兵士達が練兵をしていた。歩兵達の一糸乱れぬ動き、幻獣部隊の迫力有る疾走、鉄砲部隊の絶え間ない試射などシャルロットにもその本気さはよく分かった。

 訓練している兵達の横を抜け、屋敷へと向かう。もう家族同然とも言える使用人達とも再会を喜び合った後、シャルロットは父にジョゼフとの話の内容を全て話した。
 ジョゼフから見たシャルルが取るべき戦略、向こうの狙いなど、まずはシャルロットの憶測を含まずにジョゼフが話した事だけを伝えた。

「成る程、きっと兄さんは僕の考えている事など全てお見通しだって事を伝えたかったんだね。それでわざわざシャルロットとそんな事を話したんだ」
「そうかも知れないけど、そうじゃないかも知れない。伯父様の話しぶりには特段の意図を感じる事が出来なかった」
「兄さんは僕に城を出てきて欲しいんだよ。僕たちの開発した新型の大砲は飛距離が二割増している。命中率は比較にならない程上がっているし、この新型砲が配備されたこの要塞を攻略する事は兄さんでも無理だからね」
「……でも、ラ・クルスでは父さまが負けたって」
「あんなの負けた訳じゃあないさ。両用艦隊が来る前に落とせればって思っていたんだけど、間に合わなかったからこちらから撤退したんだよ。こっちはフネの数が少ないからね、出て攻めるには向いていない」

 この城には現在三万からの兵がいる。この屋敷がある区画の下の区画にも芝生の広大な広場があるのだが、そこには兵達が生活しているテントが立ち並び、更に快適に長期間籠城するために木造の兵舎も次々と建築中だ。更に下の区画には周辺の使用人やリゾートホテルに勤める者達の街まで城郭内に有るので生活に必要な職種の者達は揃っている。
 この人数を養えるだけの兵糧が城の地下倉庫には備蓄されており、風石や弾薬も十分にため込んであるし、いざとなればメイジも大量にいるので弾薬などは自家補給できる。
 強固な城壁に加えラグドリアン湖から水を引き込んだ堀にも守られ、堀の外側の地下にはジャイアントモールを利用して縦横無尽に穴を掘ってあり、そこにも水が満たされているのでうかつに地下から近付こうとすれば溺れ死ぬだろう。上空にはレーダーを搭載したモーグラが常時警戒飛行をしていて、新型大砲を搭載した戦列艦は何時でも港から飛び立てるように準備している。シャルルは籠城する気満々だった。

「長期の籠城で心配なのは士気の低下だけど、色々工夫して乗り越えるつもりなんだ。芝居を見たり、魔法戦闘競技会を開いたりね。シャルロットも出てみるかい?」
「いい。父さまが籠城する事は伯父様も予測していた。その予測を覆す作戦を考えてきたんだけど、聞いてくれる?」
「勿論聞くとも。僕の小さな作戦参謀は、どんな作戦計画を立ててきたのかな?」
「その、内乱が長期にわたるのは父さまが勝つ確率は高くなるかも知れないけど、ガリアとしては損失が大きいと思う。短期で決着を付けるために、ここを出てリュティスを目指すべきだと思う」

 ジョゼフに与えられた宿題はジョゼフが勝つための方策とのことだったが、結局殆どの時間をシャルルが勝つための方策を考えていた。その時いくつか考えた中でもジョゼフには言わないようにしようと思っていたとっておきの作戦を披露した。
 シャルル軍が保有する戦列艦は五隻全てがガンダーラ商会の船外機を搭載しており、時速五十リーグという高速航行を可能としている。新型砲を搭載している事もあり、極端に相手の数が多くない限り負ける事は考えられない。
 この五隻と搭載している竜騎士、それに加えて兵一万程をリュティスに送れば、現在守備が薄くなっているかの都を征服する事はそう難しくないはず。リュティスをおとし、ヴェルサルテイル宮殿からシャルルが号令を掛ければそれに応える貴族は今までとは比べものにならない数になるはずだ。

「うーん、それはそうなれば良いけれど、一万の兵はどうやって送るのかな。フネ五隻にはそんなに乗れないよ?」
「筏を作って風石で浮かべ、モーグラや竜で引っ張っていけばいい。二十時間くらいで着くから耐えられるはずよ」
「しかし、その間ここの空ががら空きになるからなあ……」

 折角のシャルロットの計画だが、戦列艦がいなくなるとこの城の守りも万全ではなくなる。リュティスを取ったとしても彼の地は守る事に向かないので、占領してから直ぐに両用艦隊が攻め寄せたら撤退を余儀なくされるかも知れない。そうなった時、この城を失っていたらもうそこで戦いは終了だ。

「航行は出来なくても、小さめのボートに新型砲を載せて上空に配備すれば攻めて来にくいとは思うの。それで何とかリュティスを落とすまで持ちこたえる」
「良い作戦だとは思うけど、リスクが高いかなあ。それで上空に回せる砲の数では両用艦隊の一斉攻撃には耐えきれない可能性が高い。この城を失って、更に両用艦隊にリュティスを攻められたら持ちこたえられないよ」
「宮殿でお祖父様を確保できれば両用艦隊は伯父様の指揮から外れる。全ての司令官が従う訳ではないかも知れないけど、様子見に移行する者は多いはず。そんな状態でこの城とリュティスの両方を攻められるはずはないわ」
「全てが上手く行った場合を想定している作戦だね。シャルロット、僕は確実に勝てる作戦がある時にそんなリスクの高い作戦をとるわけには行かないんだ」

 シャルロットの作戦はきっぱりと拒否された。リュティスを今すぐ手に入れるという案は魅力的だが、この城を失う危険を冒す事は出来なかった。

「……父さま、伯父様からの伝言を伝えるわ。"俺は全力で勝つ。お前も全力で来い。俺の弟にあるまじき腑抜けた戦いは許さん"だそうよ。籠城するというのは、父さまの全力の戦い方なのね?」
「そうだ。僕はこうなる事も想定してずっと準備をしてきた。籠城してこの城からトリステインを動かし、アルビオンをロマリアを動かし、ガリアを動かす。兄さんの言っている方法とは少し違うけどね、もう作戦は動き出しているんだ。僕はこの城にいながら兄さんに勝つ」

 言い切るシャルルの顔は自信に満ちあふれ、かつての線の細さはない。

「だったら、わたしの言う事はもう何もないわ。わたしもこのお城で父さまの力になる」
「うん、長い戦いになるかも知れないけど頑張ろう。今日はシャルロットが帰ってきたお祝いだ、盛大なパーティーを開くぞ」

 シャルルの言葉通り、この日は夕方から城内はお祭り騒ぎとなった。国内や領内各地との交通は遮断され始めているが、まだラグドリアン湖を経由したトリステインとの貿易ルートは生きているので城内にはまだまだ物資が溢れている。ラグドリアン湖で獲れた鴨や鱒、トリステイン産牛の丸焼きなどに舌鼓を打ち、タルブ産のワインで喉を潤す。司令官のシャルルから兵卒に至るまで平等に振る舞われた料理は兵達の士気を大いに上げる事になった。
 楽しい時間を過ごしていても戦争は直ぐそこまで迫っている。ジョゼフの軍勢はひたひたと迫り、翌日の朝には城からも遙か遠方のラグドリアン湖畔に陣を張るガリア王国軍の偉容を眺める事が出来るようになった。



 テーブルの上に広げた地図の前、まだ若い士官は緊張した面持ちでガリア王子の前に立っていた。

「ふむ、周辺の住民の避難は滞りなく進んでおるな」
「はっ。仰せの通り各村落に荷馬車を回し順次家財道具もろとも避難させております。ただ、現場から避難範囲が広すぎるのではないかとの声が上がっておりますが」
「指示した通りに進めてくれ。オルレアンの民も変わらずガリアの民だ。我々が守るべき者達なんだ」
「はっ!」

 命令を受け、慌ただしく出て行くその者と入れ替わりで次の報告が入る。

「報告します! オルレアン領における鉱山の詳細について、聞き取り調査が終了しましたので坑道図が完成しました」
「うむ、やはり複数の出口を持つ坑道もあるのだな、五リーグも違う場所に移動できる坑道もあるじゃないか。ここを拠点に奇襲や攪乱をされるとやっかいだ。調査隊を派遣し坑口を塞ぐように」
「はっ! 直ちに手配いたします」

 その士官が出て行くとまたすぐに別の兵が入ってくる。ラグドリアン湖畔に展開した王国軍の一際大きな陣幕の中で、ジョゼフが部下に次々と指示を出していた。
 捕虜交換で解放されたイザベラは既にリュティスに帰っている。いよいよ近付く戦争を前に王国軍兵士達は慌ただしく動き回っていた。



「随分と戦闘前に入念に準備をするのですな」
「戦争する前にしなければならない当然な事をしているだけだ」

 指示が一段落してお茶を飲んでいるジョゼフに話しかけてきたのはギョーム・ド・ビルアルドアーン。ガリア両用艦隊の総司令でガリア屈指の名家ビルアルドアーン公爵家の嫡男。背が高くがっしりとした体格でガリアの王族に連なる事を示す蒼い髪に飾られた容貌は精悍、魔法の腕はスクウェアというエリート中のエリートだ。

「住民の避難などは放っておけば勝手に逃げるものなのだから、わざわざ軍が手助けする事は無いのでは?」
「準備する時間は十分にあるのだし、手篤く保護しておけば占領後の施策もやりやすくなる」
「ふうむ、平民にお優しい事で」

 オルレアン領の平民達への避難指示は人道的な見地から出されているのだが、ジョゼフが魔法を使えないから平民の人気取りに余念がないのだなどという噂が流されている。ビルアルドアーンの発言はその噂を下地にしたものだったがジョゼフが気にする様子はない。

「ああ、俺はどうも貴族の人気は今一だからな、平民くらいには優しくした方が良いんじゃないか?」
「それは、ご立派な心がけで……」
「ふん。ビルアルドアーン、向こうの戦列艦の情報は手に入ったか?」
「いえ、ガンダーラ商会製の船外機を搭載し、新型大砲を積んでいると言う事が分かっているだけです。航行速度はこちらの三倍程、射程は二割り増しと言ったところですね。正直五隻とは言え正面からは当たりたくないです」
「大砲はともかくとして、速度三倍ってなんなんだ。何でそんなのがオルレアンだけに配備されているんだ」
「ガンダーラ商会の船外機は高性能なのですが、何分高価格ですので両用艦隊全てに配備するとなると予算が莫大になります。航行速度に差はありますが、戦闘速度は高度を落とす事で稼ぐ事が出来ますので、それほど急いで配備しなくても良いだろうとの判断です。今後重要な技術になるのは間違いないし、まずは国産化しようとの事で、他ならぬシャルル殿下が同様のものを開発中でした」
「まだ出来ていないのか?」
「試作機を搭載したフネは一隻作って軍に納入されています。最高速度は同程度なのですが、大きくて重いのでまだまだですね」

 元々両用船には技術的なボトルネックとして重量の問題がある。水に浮かび水上を帆走しようとすると船体の下部に錘(バラスト)がある事が必要だ。空に浮く時にはこの重量増加分が無視できない大きさなので、アルビオンやトリステインなどでは水に浮かぶという利点を取らず空中専用船を配備している。
 今回シャルルが作ってきた船外機は大砲の多くを外さなければならない程の重さ。それ程の重量を船体の上部に載せるとバランスが悪くなるのでバラストを更に増やす必要も有り、そのまま搭載すれば必要となる風石で船内が圧迫される事になる。この試作船の性能では論外だというのが艦隊司令部の判断だった。

「技術が国産化できるまでは多少高くても買ってきて使ってれば良いだろうに。ではあとは大砲か、新型大砲とやらも無限に撃ち続けられる訳ではないだろう。弾数はどれくらいあるんだ?」
「分かりません。ただあの城は対トリステイン戦要塞として整備していますので、有事の際は我が両用艦隊の補給基地としても機能するように弾薬が貯蔵されています。工廠もありますし、五隻なら弾数を気にしなくても良いのではないでしょうか」
「例えば、こちらが一斉攻撃を続けて、向こうのフネの弾切れを待つと言う事は出来るのか?」
「無理ですね。四隻もあれば防衛できますし、順番に補給できる余裕は十分にあります」
「むう…では、両用艦隊司令部としては打つ手がないのか?」
「いいえ。所詮五隻しか有りませんので、火船を雨霰と突撃させればいつか力尽くと思われます」

 火船とは火を付けて無人操縦で相手のフネに突撃するミサイルのようなフネだ。上空から速度を上げて突っ込むので躱すのは難しい。

「成る程。モーグラとやらを火船に使ったら更に躱しにくいのではないか?」
「モーグラは高価ですので、グライダーを使用したものを独自に開発しました。ファイア・グライダーはガリアが誇る魔法技術により誘導され、時速数百リーグで上空から敵に突っ込みますので、躱す事はほぼ不可能ですね」
「成る程。では、明日それで軽く当たってみよう。向こうも何か対策しているかも知れないからな、深追いはせず、まずは様子を見てくれ」
「御意」

 ビルアルドアーンが下がるとまた別の士官が報告に来る。幕僚には臆病と言われる程の慎重さでジョゼフはシャルル包囲網を張り巡らせていった。



 翌朝日が昇り、湖の朝靄が晴れてきた頃、第一回アンボワーズ城攻略戦が開始された。今回の作戦目標はオルレアン軍航空戦力の排除。五隻しかいないというオルレアン軍に対し、四十隻という圧倒的な数の艦隊が城の南東方面から近付く。

「こちらが湖を飛び立つとほぼ同時に向こうも空に上がりましたな。中々良い反応です」
「向こうは四隻だな。丁度十倍の戦力か」
「そろそろ先頭があちらの射程に近付きますが、射程には入らないように指示してあります。東側へ回り込みながら戦列を整えますよ」

 ジョゼフは昨日より前方となるアンボワーズ城の見晴らしが良い丘に陣を張っていた。隣では艦隊の指揮を副司令官に任せたビルアルドアーンが解説している。
 朝靄もだいぶ晴れ、今は城や艦隊の様子もよく見える。城一つ落とすには過剰とも言える戦力が隊列をなして航行する様は圧巻だった。

「あの艦隊の動きは全て囮なのだな?」
「はい。遙か後方から出発したファイア・グライダー部隊が上空から近付いています」
「向こうのフネは両用艦隊より常に少し上の高度を維持しているな。練度は高いようだ」
「何、練度なら負けません。攻撃、始まりますよ」
「うん? 両用艦隊の挙動がおかしいぞ、何があった?」
「な、何だ? 何をしている!」

 遙か上空を飛行しているファイア・グライダー部隊がそろそろ攻撃に入ろうかというその時、それまで綺麗な隊列をとって飛行していた艦隊が突然乱れた。隊列はバラバラになり、互いに衝突しそうになって高度を落とすフネまで出る始末だ。

「練度、高いのか?」
「いや、何か有ったようです。突風が吹いたかメイジによる潜入工作があったか…」
「ふむ。シャルルが何かしたのだな。お、攻撃が始まったようだ」

 千メイル程の高度に展開しているオルレアン艦隊に対し、それより低い位置に展開する両用艦隊を囮として、上空一万メイル以上から加速したファイア・グライダーが襲いかかる。微かな煙を棚引かせながら飛行するそのグライダーはしかし、突然進路を乱されコントロールを失い地面に墜落した。
 上空から地面に対しかなりな角度を付けたまま次々に飛来する火船は全て同様に進路を乱され、有るものは草原に墜落して爆発し、有るものは森を燃やし、また有るものはラグドリアン湖の藻くずと消えた。空中で爆発するものも結構あり、目の前のフネにはとうてい何の損害も与えられそうにない。
 両用艦隊は五十機も用意したグライダーがなすすべ無く落ちていくのをただ見守るだけしか出来なかった。

「ば、馬鹿な、一体何が……」
「風が吹いているな。おい、さっきより艦隊が城に近付いているぞ」
「あ、引けっ! 引けっ! 伝令!」

 ビルアルドアーンが伝令を伝えるより早く、アンボワーズ城上空のオルレアン艦隊の大砲が火を噴いた。まだ距離があったためにそれほど命中率は高くないようだが、いくつかのフネは被弾し隊列を離れた。
 その様子を見ていたジョゼフは即座に判断する。これ以上この作戦を続ける意味はないと。

「撤退だ。どうせ追っては来ない。即座に城から離れるように伝えろ」
「は、はひ! 撤退! 撤退だあっ!」

 伝令が伝わるや即座に両用艦隊は艦首を返し撤退を開始する。バラバラではなく隊列を保ったままなのがせめてもの誇りだろうか、帰ってくる艦隊を見詰めるビルアルドアーンの顔は真っ青となっていた。

「航行不能なフネは無いようだな。負傷者の収容と治療を優先して行え。ちょっと出かけてくるから後は任せた」
「は、はい。損傷した船も即座に修理いたします」
「まあ、急がなくても良い。正攻法ではどうやら難しそうだ」
「は。あの、どちらへ向かわれるので?」
「ラ・クルスだ。味方についてもらったというのにまだ挨拶もしていないからな。避難民についてもちょっと相談したい」

 ジョゼフの明晰な頭脳は今日の戦闘で何が起こったのかを既に正確に推測していた。おそらく城と上空のフネとを使った大がかりな魔法装置による防御だ。城を中心とした巨大な風の渦を発生させ火グライダーの進路を逸らしたのだ。
 城からまだ随分と離れていた両用艦隊の航行をあれほど乱すのだから相当なエネルギーだろうが、あの城に貯め込まれているだろう大量の風石を思えば可能だと判断できる。地上の木々の様子、火グライダーの航跡、上空で発生する雲の動きや艦隊の挙動などからジョゼフはこの推測が正しいものだと確信していた。
 
「なかなか楽しくなってきたなあ、シャルルよ」

 ジョゼフは用意させた竜籠に乗り込み、ラグドリアン湖を後にした。



[33077] 3-28    地質
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 21:02
「はっはっは、どうだい、シャルロット。この城の防御力は万全だと言った通りだろう!」
「本当、凄い。あの数の艦隊が何も出来ないで帰るしかないなんて…」
「ガリアを真の強国に押し上げようと努力していた僕たちと、漫然として前の日と同じ日々を過ごしていた者達との違いだな。国中の新聞が今日の戦いを国民に伝えるだろう。今は中立している貴族達が何を思うか……楽しみだな」

 葬式のように静まりかえっていたジョゼフの陣営とは対照的に、アンボワーズ城は昨夜の宴がまだ続いているようなお祭り騒ぎに包まれていた。ハルケギニアでも名だたる存在となったガリアの両用艦隊を鎧袖一触とばかりに跳ね返したのだから無理はない。
 実際にはそれほど大した損害を相手に与えた訳でもないのだが、士気の向上という点ではこれ以上ない結果だ。両用艦隊が帰還したのを確認して降下してくる戦列艦を城の者達は大歓声を持って出迎えた。

「おっと、今日の陰の功労者が来たぞ。レアンドロ! こっちだ。サイクローンは大成功だったな」
「ああ、シャルル様、ただいま参ります」

 シャルル達は迎賓館のラグドリアン湖と港を見渡せる大広間のバルコニーにいたのだが、広間に入ってきたレアンドロを見つけ、声を掛けた。

「こちらの被害は無かったようですね。期待通りの成果がありまして、ホッとしています」
「ははは、あれほどの魔法防御装置を開発したというのにまったく謙虚だな。そこがレアンドロらしいとは言えるが」

 今回大活躍したサイクローンとはレアンドロが開発した拠点防御用魔法装置だ。魔法による気候操作の研究から派生した技術だが、この城の防御力を一段と高める事に一役買っている。
 原理的には簡単で『エア・ストーム』と『風の壁』を組み合わせたものに過ぎないが、大量の風石を使用するその威力は絶大だ。
 城を中心とした巨大な渦巻きを発生させ、中心に向かって渦を巻く風は城に近付くにつれ風速を上げる。城の周囲から集められた膨大な空気は暴風となって緩やかな円錐状に張られた『風の壁』まで到達すると、その『風の壁』が発生する強烈な下降気流に導かれて城壁まで降下する。
 集められた空気は城壁上に二百五十六機も設置された吸引口を通り、城中央部に設けられた排気口から上空に放出される。排気口の先にもパイプ状に『風の壁』が張ってあり、ここの内壁では上昇気流が発生するようになっているので排気は更に加速され上空三千メイルで放出される。
 レアンドロが空気の噴水と呼んだその排気は急激に冷やされて雲となり、拡散して下降し渦へと戻る。起動する時には莫大な量の風石を必要とするが、その後の運転にはそれほどはかからずに城を守り続ける事が出来るシステムだ。その制御には王家に伝わるヘキサゴンスペルの奥義まで使用されており、シャルルがこの城を改造するにあたり一切のタブーを認めていないことを示す装備となっている。

「ありがとうございます。しかし、サイクローンでは渦の下部、城壁や港は防御できません。油断はなさいませんように」

 少し疲れた顔をしているレアンドロは大勝にも気を引き締める事を要求した。レアンドロは仕事でオルレアンの森に入っている時に変事の報を受けた。そのまま領地やリュティスには帰らずにいたらシャルルが帰ってきて討伐令が出され、シャルルが反旗を掲げるのに従う事になった。リュティスに残してきた妻や子供達の事は気になるが、父はジョゼフに付いたと聞いたので非道い事にはならないだろうと安心している。昨夜シャルロットがこっそりと今回の事を謝ってきたが、本人はシャルルに付いた事を後悔していない。もしシャルルをほっぽり出してラ・クルスに帰ったとしたら、あの父は激怒しただろうと思っている。
 自分の家臣というものをまだあまり持っていなかったレアンドロは近習だけを引き連れてこの反乱軍に参加しているが、その知識で十分に貢献していた。この城の設計に関わってきた彼にはこの城の限界もよく分かっている。一勝したくらいで喜んではいられなかった。この城が最後の砦なのだ。城を出るその日まで勝ち続けなくてはならない。
 サイクローンを含め、城の防御システムはまだ開発中だ。設計上では城の上空に出城を築くはずだったし、防御用艦船はもっとずっと数が多かった。地上の砲門も数を増やしている最中だし、現在の防御力でどれほど一斉攻撃に耐えうるのかは未知数だ。
 
「うん。油断なんて出来る訳無いさ。まだ兄さんの方が圧倒的に勢力が大きいのだからね。さあ、頑張って手紙を書こう。戦争すると書類仕事が増えるなんて知らなかったよ、ははは」

 国中に分散するオルレアン派貴族との連絡、中立派やジョゼフに付いた貴族の勧誘、諸外国との通信などシャルルが書くべき手紙は数限りない。それどころか対戦中の両用艦隊の士官にまで誘いを掛けている。その仕事量は相当なもので、シャルロットが魔法封蝋などを手伝ってくれているが、毎日夜遅くまでシャルルの部屋のライトが消える事はない。
 シャルルはシャルルの戦いを戦っていた。



 一方のジョゼフはと言うと、軍を離れ、近くのラ・クルス伯爵領を訪ねていた。供は近習だけであり、戦争中とは思えない程の軽装だ。

「ようこそお越し下さいました、ジョゼフ様。大したもてなしも出来ませぬが、どうぞおくつろぎ下さい」

 竜籠に乗って訪れたジョゼフを出迎えたのはこの街の領主、ガリア西部において隠然とした勢力を保持し、元々石頭とは呼ばれていたが今回の行動により晴れて鉄頭との二つ名を頂戴する事になったフアン・フランシスコ・デ・ラ・クルスその人。

「ああ、顔を上げてくれ。今回の助力、誠に感謝する。卿がいなかったら今回の戦線はもっと難しいものになっていただろう」
「礼には及びませぬ。この身は血の一滴にいたるまで陛下の臣。その命に従うのは当然でありますから」
「レアンドロは残念だった、何とか命は助かるようにする。卿の忠誠に報いるにはそれでは足らぬだろうが今はそれくらいしか約束できない、と父から伝言を頼まれています」
「ありがたいお言葉ですが、お気遣いは無用です。私が陛下の臣だったようにレアンドロはシャルル様の臣なのです。不肖の息子の事はもう死んだものと思うようにしています」

 頭を下げる臣下に、不肖の息子と言われれば自分たち兄弟こそだとジョゼフは苦笑した。人の迷惑を顧みないのはもちろんの事、国を巻き込む規模になっているがこれは所詮兄弟喧嘩の延長に過ぎないのだから。

「きっとまた会える日が来るさ。今回の内乱はそれほど長引かないと思っているしな」
「長引きませんか。あの城は難攻不落だと聞いていたものですが……」
「難攻はあっても不落は無い。人間が作るものに完璧なものは無いのだから。……ところでこちらの少年は? どことなくフアン殿に似ている気もしますが」
「ああ、紹介しましょう。先日私の養子となったクリフォードです。エルビラの息子でして、甲斐性無しの父親がまた無職となりましたので引き取りました。クリフ、挨拶しなさい」
「初めまして、ジョゼフ殿下。クリフォード・マイケル・ライエ・デ・ラ・クルスでございます」

 緊張した面持ちでクリフォードが挨拶する。彼は開拓地にいたのだが、ラ・クルスが戦争になりそうと聞いて駆け付けていた。エルビラは妊娠中でウォルフやニコラスはフアンが来る事を拒んだのでそのまま開拓地に残っている。ガリアの内戦はガリアの人間だけで解決するそうだ。

「おお、君があのエルビラの。大変な弟を持って苦労しているという……」
「ぶっ……ええ、そのエルビラの息子です」
「報告書で読んで以来君にはどこか親近感を感じていたんだよ。そうか、フアン殿の養子になっていたのか、これからよろしくな、クリフ」
「あの、その、勿体ないお言葉でございます」

 ガリアの王子が自分の事を知っていたと言う事に動転して、狼狽しつつ答える。ジョゼフは陰気との噂だったが、クリフォードの目にはそのようには映らなかった。

「そう言えば君の両親も大変なことになったそうだが、大丈夫なのか?」
「あ、はあ。両親共に弟のところで元気に働いています」
「まあ、これの父親は元々エルビラを掠って行った時も無職でしたし、殺しても死なないような男ですので心配は要りません」
「ああ、そう言えばエルビラが家を出て行った時、卿は随分と荒れていたよなあ……」

 エルビラは当初駆け落ちに近い形でニコラスと結婚している。ジョゼフはその頃のことを良く覚えていた。

「コホンッ。あー、ところでジョゼフ様はこちらに何かご用命でしょうか。まだ陣を張ったばかりだと聞いております。こちらにまでいらっしゃるのは何か御用があるかと存じるのですが」
「ああ、そうだな二つ程頼みたい。一つは避難民対策だ。現在ド・オルレアンの領民を戦闘予定地域から避難させている。周辺の諸侯に受け入れを要請しているが、小規模な領地が多い。貴殿が彼らの仮住まいに必要な物資を用意してくれるとありがたい」
「お任せ下さい、領内にある物は融通できるように手配いたしましょう。食糧は余裕があるので今すぐにでも送る事が出来ます」
「感謝する。もう一つの頼みはこちらにガンダーラ商会の商館が有るだろう、風石の採掘にはあの商会が関わっていると聞いた。アンボワーズに搬入された風石について色々と聞きたいので紹介して欲しい」
「畏まりました。直ちに責任者を呼びましょう」
「ああ、データなども知りたいのでこちらから行こうと思う。誰かガンダーラ商会を知っている者を案内に付けてくれ」
「それでは……クリフ、お前が案内しなさい。よくあそこには入り浸っているだろう」
「は、はい。殿下それでは早速」

 ジョゼフとその護衛を引き連れラ・クルスが用意した自動車で街へと向かう。城下にある商館には程なく着いた。



「こ、これはジョゼフ殿下、ご足労頂き恐縮至極にございます」

 商館は精一杯混乱していたが代表のスハイツはきちんと礼服を身につけて迎えた。一応城から先触れは出したので間に合ったようだ。

「よい。聞きたい事が有って来たのはこちらだ。知っている事を教えてくれ。ド・オルレアンの風石開発をしているのはこちらで良いんだな?」
「はい、いいえ、一応別会社になっていますが、こちらでも情報を共有しておりますし、人間もこちらのものですので、まあこちらでやっていると言っても良いかと」
「分かりにくいな。知りたいのはド・オルレアンでの風石の産出状況とあの城に貯蔵している量。向こうが用意した風石を使用した防御装置が強力でな、あれがどの程度稼働できるのか知りたいんだ」
「分かるとは思いますが、どのような魔法装置でございますか?」

 館員に資料を取りに行かせ、ジョゼフからサイクローンの詳細を聞き出す。スハイツは暫くなにやら計算していたがやがてペンを止めて顔を上げた。

「ざっと、ざっとの計算ですが、レアンドロ様が風石利用の『エア・ストーム』で行った実験結果がこちらにも残っています。ジョゼフ殿下の証言通りの嵐を発生させ続けるとなるとおよそ二年程で搬入した風石は枯渇するものと思われます」
「二年……そんなに持つのか。起動していない間は消費しない訳だし、枯渇を待つのは難しいな」
「そうでございますね。元々あの城はゲルマニアの大軍が包囲しても耐えきれる事を前提条件として設計されていると聞きました。補給無しで三年というのが物資の備蓄量設定基準との事です」
「三年か。ううむ、聞けば聞く程たいそうな城だな」
「シャルル様が心血を注いだと聞いております」

 風石が切れるのを待つ事は出来そうにない。ジョゼフは溜息を吐くと館員が持ってきた資料に手を伸ばした。
 所々黒塗りがされてはいるが、風石鉱山の試掘から稼働に至るまで詳しい資料が揃っていた。これがあれば今は隠されている坑道もすぐに見つけられそうだが、ジョゼフの興味を引いたのはオルレアン領の地質図だ。一般的な地図と地下の断面図がまとめてあるもので、ジョゼフはこんなものを初めて見た。
 これを見るとラグドリアン湖の南側、城がある辺りは堆積岩の同じ岩盤がずっと続いている事が分かる。 

「ちょっとこの地図を見せてくれ」
「はい、どうぞご覧下さい」
「これは。ガンダーラ商会ではこんなものを当たり前に使用しているのか? 大体こんなに広範囲の地下構造をどうやって調べたんだ」
「ええと、その、特にオルレアンでは進んでいるのです。普通の領地ではここまで領主が調べさせてくれません。ボーリングをして地層を調べ、地形や地層の傾斜、断層などと合わせて推定しています」

 よっぽど興味を持ったみたいでジョゼフは更に二、三質問してきてデータなども欲しがる。いつの間にか風石の事など忘れたように地質図に夢中になっていた。

「ふむ、しかしこの地図を見ると風石はあまりオルレアンには無かったようだな」
「あ、いえ。風石関係はデータの持ち出しを禁止されていましたので、こちらにある地図には記してないだけです」
「ああ、そういう訳か。とすると、これはあまり意味がないのか?」

 言われて他の資料に目を通してみると、試掘などの資料も数字などには全て黒塗りが施されてあり、詳しいことは分からなくなっている。

「そうとも限らないですね。我々で請け負った工事ですし、資料のデータは消しても大体はもう分かっています。この辺が風石の地層になります」
「これは……こんなに広範囲なのか」
「オルレアンに限らず、大体このくらいは有るみたいです。まあ、ハルケギニアのどこを掘っても風石に中るような気はしております。出水が予想されたので湖から遠い、この辺からこういう感じに坑道を掘ってあります」

 スハイツはペンを取ると手を伸ばして地質図に風石の地層を書き込み、さらに坑道の位置まで記す。開発に直接関わっているのでそれくらいは当然覚えていた。オルレアン領の風石開発は国防の拠点であるアンボワーズ城に搬入する事が目的のため、契約相手は王家となっているし支払いも国の予算からだった。ジョゼフにその内容を教える事に何も問題はないので、スハイツは気軽に話す。

「ただ、やはり出水が酷くなり、コストの関係で採掘は中断されております。あの城に納入されているのは主にラ・クルス産の風石ですね」
「採掘中断。穴を掘ったのは無駄だったって事か」
「ある程度は掘っていましたから、まるで無駄だったわけでもないのですが。また風石の価格が上昇したら排水して採掘を再開するつもりみたいです。今は安くなってしまいましたから。坑道はほとんど全部水に浸かっております」
「ああ、成る程。ガンダーラ商会と言えども出水量や風石の価格推移までは予測できなかったって事か」

 ジョゼフは納得がいったように頷いたが、まだまだ聞きたい事は沢山あるようで、スハイツは更に問われるまま堆積岩の形成過程や、風石の蓄積過程なども問われるままに説明した。それらの理論はウォルフからの受け売りだが、スハイツも一時期かなり勉強したので淀みなく説明することが出来た。

「成る程、勉強になった。またヤカに来ることがあったら寄らせて貰おう」
「はっ。ありがたきお言葉でございます」

 結局ジョゼフはオルレアン領の地下構造の話で多くの時間を費やし、城を攻める対策など何も得るものはなかったというのに礼を言って上機嫌で帰って行った。
 地質図は控えがあるので進呈し、上々の対応を果たせたスハイツはホッと胸をなで下ろす事が出来た。



 自軍に戻ったジョゼフはなおも飽きずにその地質図を眺め、感嘆の溜息を吐いている。そんなジョゼフに、何故か周囲の目を気にするようにジョゼフが一人でいる事を確認したビルアルドアーンが近寄ってきて話しかけた。

「どうなさいましたかジョゼフ様。先ほどから随分とその図にご執心のようですが」
「ん? ああ、ビルアルドアーン。これはオルレアン領の地質図というものだそうだ。地下の構造を調べたのをまとめたんだな。ラ・クルスで手に入れてきた」
「ほほう、ここらで有用な鉱物は風石や石灰岩くらいだと聞いておりましたが、なにやら色々あるようですな。砂岩……とは……」
「その名の通り砂が押し固まったような岩だそうだ。何の役にも立たない、そこらの岩だと。他のものもそうだ、泥岩は泥が固まったもの、礫岩は砂よりも大きな石粒が固まったものだと。役に立つ鉱物などお前が今言ったものくらいらしい」
「そんな役に立たないものをこんな広範囲で調べるなど、随分とオルレアン領は暇みたいですな」
「分からんか。俺は地下にこんな秩序だった構造があるなんて知らなかったし、考えもしなかった。ガンダーラ商会が言う事には、地下の構造を知る事で有用な鉱物がどの辺にあるのか推測する事が出来るようになるそうだ」
「世間ではガンダーラ商会が風石鉱脈を掘り当てたのは偶然だと言われています。そうでは無いと仰るので?」
「皆が無秩序だと思っているところに秩序を発見し、その先の真理に到達する。そう言う事だ。ガンダーラ商会が急激に伸びたのは当然かと思ったのさ」
「はあ…」

 興味なさそうにビルアルドアーンから目を離し、地質図に戻す。暫く二人の間に沈黙が流れたが、ビルアルドアーンがそれを破った。きょろきょろとまた周囲を見渡し、天幕内に誰もいない事を確認するとジョゼフの直ぐ側までにじり寄り、小声で語りかけた。

「殿下。アンボワーズの攻略ですが、わたくし、秘策を考えて参りました。お聞き願えますか?」
「何だ、急に。……許す。話せ」
「わたくし殿下が仰った正攻法では無理だという意味をずっと考えておりました。確かにあの城を正面から攻めたのでは被害も費用もかかりすぎて、たとえ勝利したとしてもその後の国の再建に支障を来します」
「まあ、そうだな」
「そこで搦め手はないかと考えたのですが、現在あの城はトリステインから密かに食糧などの補給を受けています」

 港から水中に潜って航行する潜水艦の存在が既に確認されている。トリステインに苦情も入れたが、知らぬ存ぜぬの一点張りで話にならなかった。

「そうだが、既に十分な食糧は城内に有るみたいだし、あまり意味はないのではないか? あの潜水艦を破壊するにしても、水の精霊を怒らせぬよう配慮する必要があるしな」

 水の精霊は湖の外で戦争していてもまったく関与しないが、水中で殺し合うような事をすると結構怒ると言われている。反対に今日のファイア・グライダーのように湖を汚すのでは、と思うような事には案外頓着しない。これは湖の自浄作用が強いからだと考えられているが、精霊の基準は今一はっきりしていない。

「記録に拠れば食べるために殺すなら問題ないみたいですが、難しいでしょう。そこでです」

 ビルアルドアーンが含みを持った笑顔になる。ジョゼフはその表情を不快に思うが表には出さず続きを促した。

「トリステイン側にわたくしの伝手がおります。彼の補給船に工作員を忍び込ませて城に潜入、シャルル様を暗殺する事は可能だとの結論を得ました!」

 ピキッと言う音が聞こえそうな程ジョゼフの表情が強張ったが、己の策を熱っぽく語るビルアルドアーンは気付かない。

「丁度良い凄腕の暗殺者がいるのです。絶対にばれる事は有りません。何、ジョゼフ様の名誉に傷が付く事もありませんよ、裏切りを約束した籠城貴族の一人が功に逸って勝手に殺した、と言う事になります」
「ほほう…そんな事が可能なのか…」
「出来るのです! 攻め込んだ時に門を開ければ領地を増やしてやる、という約束でも文書に残しておけばジョゼフ様は疑われないでしょう。シャルル様がいなければド・オルレアン軍が戦う理由もない。遠からず瓦解する事間違いございません」
「黙れ」

 室内が凍り付くような冷たい声にビルアルドアーンがピタリと停まった。

「何を言うかと思えば、王族を暗殺するなどとは。貴様自分が何を言ったのか分かっているのか」
「い、いえ、わたくしはただ、被害を出さずに確実に勝利を得る方法を……」
「そうか、だが必要ない。暗殺などは卑劣で自分に自信のない者がする事だ。俺は正面からあの城を落とす」
「それは…ご立派な事で…」
「もう下がれ。くれぐれも余計な事はするなよ。シャルルに万一の事があったら貴様を三族もろとも断頭台に送ってやるからな」
「……は。それで、ジョゼフ様はどのようにあの城を落とすので?」
「お前は考えなくて良い。とっとと艦隊に戻って命令を待て」
「…失礼いたします」

 必勝の策を無碍にされ、両用艦隊総司令だというのに野良犬のように追い払われた。ジョゼフの陣幕から追い出されたビルアルドアーンの顔は、怒りで歪んでいた。



[33077] 3-29    ジョゼフの策
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 21:03
「ジョゼフ様、大変です! ビルアルドアーン両用艦隊総司令が反逆を画策、逃亡いたしました」
「お? 捕らえる事は出来なかったのか?」
「は、ジョゼフ様の懸念通り、命令を無視して艦隊を戦場から離脱させようと図りましたので、指揮権を剥奪いたしました。逮捕しようとしたのですが、当初大人しく従うかと思われたものの抵抗し、騎士二人を傷つけ逃亡しました」
「そうか。メイジとしては優秀だったということだな。無能が自分から去ってくれて助かったと思おう。しかし、総司令が反逆か。捕らえたら遠慮無く極刑に処させて貰う」

 シャルルの暗殺などとふざけた事を提案してきた総司令を追い返した翌朝、衛兵が慌ただしく告げに来たが、ジョゼフはまったく慌てずに答えた。ビルアルドアーンの反逆など想定の範囲内でしかない。

「ジョゼフ様、落ち着いている場合ではないでしょう。ビルアルドアーン公爵家はもともとシャルル様親派でした。彼が軍にいましたから中立の立場を取っていましたが、これで反乱に与する可能性が高くなってしまいましたぞ」
「シャルルに付いてくれれば目障りな家をまた一軒潰せるじゃないか。問題ない」
「はっ、殿下は剛胆でいらしゃる…」

 アンボワーズ城が見渡せるラグドリアン湖畔のこの場所に陣を張ってから三日目になるが、兵達の士気は下降の一途だ。連日開かれている幕僚会議では激論が交わされているようだが話は纏まらず、今日も指示が出ている作戦行動は領民の避難誘導だけで、戦闘の予定はまるで聞こえてこない。
 軍隊ではなく慈善団体なのではないか、との声が上がる程住民の避難に対しては手篤い。村々を回るだけではなく、周辺の洞窟などに逃げ込んでいる村民を説得し遠方へ逃がすなど、オルレアン領には人がいなくなるのではないかと言う程の徹底ぶりだ。
 そんな任務ばかりしているのに加えて、艦隊総司令が反乱逃亡ような体たらくでは士気が上がるはずもなかった。 

 翌日にはビルアルドアーン公爵がシャルル支持を宣言して隣の領に攻め込んだとの知らせが届いたが、ジョゼフはやはり何の感興も抱かないようだ。

「馬鹿な奴だ。これで親子共々死罪だな。……さあ、そろそろあの城を落とすとするか。城から出てこないなら、出ざるを得ないようにしてやれば良い。魔法技師を呼べ」
「はっ」

 訝しげな周囲の目の中でジョゼフは不敵に笑っていた。




「シャルル様、敵軍に動きがあります。どうやら撤退するようです。ご確認ください」
「撤退? そんな馬鹿な、リュティスに何かあったのか?」

 いつものように手紙を書いていたシャルルは伝えに来た兵に続いてバルコニーへと出た。時刻は昼過ぎ、燦々と差す日の中で、確かにジョゼフ軍は撤退を始めていた。

「ふむ、これは誘引かな。撤退すると見せかけて追っ手に逆襲を仕掛けるつもりなのだろう。しかし、そんな見え見えの手を兄さんが仕掛けるとは思えないけど…」

 ジョゼフの最大の弱みは配下達の信任を得ていない事だ。もしかしたら軍をコントロール出来ていないのかも知れない。何せ今日は向こうの艦隊司令を出していたはずのビルアルドアーン公爵家から協力するとの連絡があった。どうやら司令はもう退任してしまったらしく、ジョゼフが幕僚を掌握できていない事の何よりの証拠だ。

「偵察機を増やし、行動範囲も広げて向こうの動きを追ってくれ。それとリュティスの間諜に連絡を入れて確認を」
「はっ!」

 指示だけ出して書類仕事に戻ったが、暫くして五リーグ先で敵軍が停止したとの報告が入った。やっぱりただの誘いだったかと、書類に目を戻そうとしたその時、それは起こった。
 


 遠くから聞こえる地鳴り。微かな振動。しかしそれははっきりとした方向性を持って次第に大きくなっていった。
 窓の外では鳥たちがギャーギャーと激しく騒ぎ、何事かと羽根ペンを置こうとしたそのペン立てが振動で倒れた。

「シャ、シャルル様これは一体っ!!」
「落ち着いて杖を取れ。シャンデリアや窓のガラスには注意しろ」

 部屋に飛び込んできた部下に指示を出して自身は素早くバルコニーへと出る。そこで目にしたものは非現実的すぎて、シャルルは我が目を疑った。

「父さま、あれは、何?」
「……」

 いつの間にか側に来ていたシャルロットに答える事も出来ず、シャルルはただ呆然と眺めるだけだ。

 水と緑豊かな大地、ド・オルレアン。その豊かな大地が次々と空へ浮かび上がっていた。




 そこには新たに整備した用水路があったはず。水をまき散らしながら上空へと向かっているその姿はもうただの溝にしか見えないが。

 そこには大きな橋があったはず。浮き上がる大地に引き裂かれバラバラとなって落下しているが。

 改良中の農地も拡幅した街道も、村も森も全て空へ舞い上がっていた。

「兄さん……地下の風石を励起したのか……」
「父さま……」

 地下深くに眠る風石の大鉱脈。そこで火薬の樽などを爆発させれば風石が励起し、その振動が更なる風石の励起を連鎖的に引き起こし、このような事態が起こる事は理解できる。単位面積当たりに存在する風石の量と出力する事の出来る力も知っていた。それがその面積の岩盤の重さよりも大きい事も。しかし、それを想像した事はなかった。風石が地下にある事は知っていても、それが一リーグもの厚みのある強固な岩盤を砕き、大地を浮き上がらせる程の力を秘めているとは予想できなかったのだ。おそらくジョゼフは水に満ちた坑道を潜行できる潜水艇を作り、ガーゴイルを使って地底深くで爆発を起こしたのだろう。それをやると思いつけばシャルルにも方法はいくらでも挙げられるが、思いつく事が出来なかった。

 なおも強くなる振動に恐怖を感じているのか、シャルロットが縋り付いてくる。シャルルはその小さな体を抱きしめながらこの後の展開を読もうとし、その事実にようやく気が付いた。

 あの風石の鉱脈は、この城の地下にまで続いている、と言う事実を。

「っ!! 全員、屋外に待避しろ! 輜重兵は風石庫を解放し、非メイジの人員に漏れなく風石を配布せよ! 体重を持ち上げられる程の量だぞ」

 兵達は混乱しており、命令が伝わったか分からない。確認を取りに行こうと窓から飛び出した。シャルロットには崖下の港へ行ってフネを全て飛び立たせるように指示し、自身は風石庫へと向かう。

「シャルル様!」
「フネ・モーグラ・竜・マンティコア、空を飛べるものは全て飛び立て! ラグドリアン湖上空で待機し、異変に備えろ! 早くしろ、この城も浮き上がるぞ!」
「っ!!」
「いそげいそげいそげ! 早く格納庫を開くんだ! さっさとしろ竜騎士! まだ竜舎に残っている竜がいるぞ!」

 途中会う部下達に次々に指示を出しながら進む。背後で浮き上がっている大地の塊を見ると、重心の問題か上下が逆さになっているものも多い。一刻の猶予もなかった。
 
 それからの時間はとても長いような、あっという間だったような、曖昧な記憶しか残っていない。
 風石を運び出し、平民兵達に手渡している最中にアンボワーズ城は一際激しい揺れに襲われ、とうとう大地から切り離された。
 湖に接している城が大地から離れる事によって、ラグドリアン湖の水は大地が剥がされて出来た巨大な谷に流れ込み、濁流がそれを満たそうとする。
 その濁流に押されるように、浮き上がろうとしていた城は大きく傾き、まだ城に残っていた多くの人間を振り落とす。大きく振れながら、アンボワーズ城は大空へと舞い上がっていった。
 阿鼻叫喚の地獄と化したその場からシャルルは何とか空中に脱出し、その壮絶な光景を呆然と眺めた。彼の周囲にはシャルルが助け出した平民兵達が魔法によって宙に浮いているが、言葉を発する者は誰もいなかった。

「シャルル様!」
「あ、レアンドロ……」
「シャルロット様は無事フネに乗り込んで飛び立ちました。シャルル様もどうか移動して下さい」
「あ、うん」

 二人で『フライ』と『レビテーション』を使い周囲の平民兵と一緒に移動する。空中にはまだ他にも多くの兵がいるが、フネに収容できる数ではないのでどうしようもない。風石を抱えているからまだ暫くは大丈夫なはずだとそのまま放置した。

「空中の兵達はモーグラや竜など機動性の高いもので引っ張って北西の草原に移動させるように指示しましょう。それで、シャルル様、どうなさいますか?」
「え?」
「城が、壊滅しました。もはや我が軍は戦える状態ではありませんので、撤退か降伏か、もしくは自決なさるか、選ぶ必要があります」
「……少し、考えさせてくれ」
「御意。しかし、時間がありません。おそらく両用艦隊がこちらに近付いています、お早めにご決断下さい」
「わかった」

 激しい土煙に覆われ、視界は良くない。先行するフネは土煙を避けるように高度を下げて飛行していた。舞い上がった岩の塊からなのか、絶え間なく落ちてくる石などを避けつつそれを追った。 
 定員より多くの兵を乗せたフネに追いつき、乗り込んだシャルルはここで愛する娘との再会を果たした。シャルロットは不安げに一人で座り込んでいたが、直ぐに立ち上がってシャルルを見詰めた。

 その瞳を前にしたシャルルの感情を何と表現したらいいものだろうか、いくつもの複雑な感情が胸の内で混ざり合った。周囲を見渡すとシャルロットだけでなく皆シャルルを見詰めている。静まりかえったフネの上で、不安そうにシャルルの言葉を待っていた。
 一度目を瞑り、大きく深呼吸をしたシャルルが再び目を見開いた時には決断を済ませていた。シャルロットを見詰め返すと少し含羞を滲ませ、微笑んだ。

「はは、やられちゃったな。さすが兄さんだ……悔しいな」
「父さま……」

 シャルルの、万感の思いが籠もっているだろう呟きに、耐えられずシャルロットは全身を震わせてその頬を涙が流れた。彼がこれまでどれほどの努力をしてこの城を築き上げてきたのか、シャルロットはずっと見てきた。
 万が一トリステインがゲルマニアの手に落ちた時、ガリアを守るのはこの城だと、城郭を拡大し防御を固めどんな攻撃にもびくともしない要塞としたはずだった。それが、あっという間に崩されてしまった。シャルロットはその不条理に涙したのだ。
 シャルルは自分のために涙を流す娘に歩み寄ると、優しく抱きしめる。

 この子が誇りに思える父親になりたいと、強く思った。

「それで、シャルル様…」
「……撤退する。草原へ着陸して余剰人員を降ろそう。この艦以外は白旗を揚げ、引き続き人命救助を続けるように」
「はっ……接地用意! バランスを崩すなよ、最短時間で人員を降ろすぞ」
「おおーっ!」

 大方の漂流している兵を回収し、草原へと運び終えたのは一時間程も経った頃だったが、まだジョゼフの軍勢が襲いかかってくる様子はなかった。城のあった場所から三リーグ程離れた場所に両用艦隊は停泊し、こちらの様子を窺っているように不気味な沈黙を見せている。
 城の周囲はまだ上空から石が落ちてきたり、励起が収まった大きな岩盤がゆっくりと降りてきたりしていたが、風向きの関係でこの辺りは何の影響もない。草原には二万以上の兵が逃れていたが、もう戦意のないただの集団となっていた。



 これからどうなるのか、不安そうに身を寄せ合う兵達の前に停泊したシャルル軍旗艦オセアン号の甲板にシャルルが姿を現し、兵達に声を掛けた。

「まず、僕のために集まってくれた皆に謝罪したい。今回は僕の油断から負ける事になった。まず真っ先に城の地下の風石を採掘しておけば周囲が全て浮き上がっても城は無事だったろう。それどころか、坑道をこの城から掘っていればそもそも兄さんは風石の鉱脈まで容易にたどり着く事が出来なかったはずだ。水の問題があったにせよ、コスト対効果を考えすぎた結果がこれだ。済まない」

 集まった兵の前で、シャルルがまず謝罪する。淡々と事実を述べるその顔には悔しさはもう感じられない。

「ガリアからは撤退する。ここが落ちたとなると僕の影響力は格段に下がるだろう。内戦を続ける事は徒に混乱を長引かせる意味しかない。その戦いで兄さんに勝てる見込みは無い」

 このときは顔を少し伏せたが、再び顔を上げた時は力強い視線で周囲を見渡した。

「僕は魔法を使えない兄さんがガリアをガリアとして導く事が出来るとは思っていない。兄さんが王となったガリアは、ガリアではないどこか別の国となるだろう。僕は、それを許容する事が出来ない」

 兵達が頷く。シャルルこそがガリアの王に相応しいと思ってみんな集まってきたのだ。

「僕の行く道は苦難の道となる。反逆者と呼ばれ、二度と故郷に戻る事が出来ないかも知れない。その先に栄光など無いかも知れない。それでも、一緒に歩いてくれるという者だけ、オセアン号に乗り込んでくれ」

 ざわざわと兵士が互いに顔を見合わせているが、そんな兵達を気にせず、シャルルは声を張り上げる

「僕こそがガリアだ! 僕が兄さんに降伏すると言う事は、ガリアが消滅すると言う事だ。だから僕は膝を屈したりはしない。一時的な後退は有れど、僕が生きている限りそれは負けたことにはならない。僕は必ずここに舞い戻る。僕は必ずジョゼフを打ち倒す。ガリアの双杖に栄光あれ!」

 叫ぶように宣言するシャルルに応えるのは一部の兵だけだ。多くの者達は動揺し、狼狽えている。
 シャルルがオセアン号の船室に姿を隠し、オセアン号から降りる事を選択した乗組員が次々にタラップを下ってくると、地上の兵達も選択を迫られる事になった。その、それぞれの選択をシャルルは見ることなく、オセアン号の後部にある自室に籠もった。

 シャルルが姿を隠した船室内は豪奢な内装で飾られ、一見しただけではそこがフネの中だとは分からない。その贅沢な造りのソファーに座り、シャルルはシャルロットに別れを告げようとした。この先の苦難を思えばとても連れて行けない。 

「父さま、わたしも一緒に行く。いいでしょ?」
「……シャルロット。兄さんと約束したはずだ。僕が国を出て行く事になっても君は残るって」
「だって! こんなのずるい。伯父様は正面から戦ってない。こんなんじゃ伯父様をガリアの王だなんて認められない!」
「勝った者が王なんだ。これはそういう戦いだったんだよ」
「……何にも出来なかった。あんなに魔法を練習したのに、父さまの騎士になるって誓ったのに」
「はは、君が戦わないような戦争をするのは予定通りだったんだけどね。まさかあんな手を使われるとはなあ…」
「伯父様はずるい。杖も交わさずに勝っちゃうなんてガリアの王族とは思えない」
「それが戦争というものさ。もう、おやすみ『眠りの雲』」
「っ! 父――さ、ま……」 

 魔法によって意識を失ったシャルロットを抱き止めた。ソファーにその身を横たえ愛おしげに髪を撫でる。シャルルは近侍が呼びに来るまでずっとその寝顔を眺めていた。

「シャルル様。出港準備が完了しました」
「うん、今行こう。どうだい? フネを動かせるくらいは残ってくれたのかな」
「当然です。少し船室が狭い程ですよ」
「……そうか。がんばらなきゃな。バッソ、予定通りこの子を頼む」
「……誰か、他の者に代わっていただけませんか? 私は殿下に見いだしていただきました。最後までお供いたしとうございます」
「君にしか頼めないんだよ、バッソ・カステルモール。兄さんは君がシャルロットに仕える事を承知している。頼む、シャルロットを守ってやってくれ」
「……御意」

 抱き上げたシャルロットを近侍の騎士カステルモールに手渡し、最期にその頬を一撫でしてからシャルルは甲板へと向かう。タラップから降りるシャルロットとカステルモールを振り返る事はしなかった。

 オセアン号が地面を離れ、東の空を目指すのを待っていたようにジョゼフ率いる両用艦隊が草原へと近付いて来た。
 シャルルの事は追わず、地上にいるシャルル軍が白旗を掲げている事を認めると軍使を送り、降伏を受理した。

 長期化するかと思われたド・オルレアンの戦いは僅か三日で幕を下ろした。



[33077] 3-30    ガリア王ジョゼフ一世
Name: 草食うなぎ◆ebf41eb8 ID:2e49d637
Date: 2013/08/01 21:03
「凄い…お城が空を飛んでいる」
「まさか一発で城まで浮き上がるとはな。ハルケギニアの地下には想像以上の風石が蓄積しているらしい。鉱脈が水に浸かっていた事も関係有るのかも知れないが」

 ここは両用艦隊旗艦ギヨーム・テル号の上部甲板。ジョゼフの前で食い入るように目の前の光景を見詰めているのはリュティスに帰したつもりが何故か戻ってきた娘、イザベラだ。そのイザベラに向かってジョゼフはまるで人事のように感想を述べていた。鉄製のカプセルを何個も作り、中に火薬樽と風石を満載して坑道の奥まで潜水型ガーゴイルで送り込み、同時に爆発させた。その効果は、命じた本人も驚くものだった。

 いくら計算上で大地の重量を浮き上がらせることが出来る量の風石が存在すると言われても、その間には強固な岩盤があるので中々こんな事態が起こりうるなどとは想像しにくい。しかし、ガンダーラ商会で地下の構造について話を聞いたジョゼフは、岩盤というものが一枚板になっていると言うことはなく、断層などにより切れ目が入っていることを理解していた。広範囲で風石を励起させれば大地を持ち上げることが出来るはずだとは思ったが、さすがに連鎖して励起する風石がここまでの事態を引き起こすとは想像していなかった。

 ジョゼフとしては何回かに分けて地面を剥がして、最終的にアンボワーズ城の城壁を崩せれば上々のできだと考えていたのだ。最低の場合では城の堀を埋める土砂として利用できれば御の字だと。
 地面を剥がしていく過程では工作しようとするジョゼフ軍とその意図を知って防ごうとする城から打って出るシャルル軍との激しい戦いも想定していた。というか、それが元々の狙いだった。シャルル軍を城から引きずり出し、その数を削るつもりだったのだ。
 それが今やアンボワーズ城は砂煙と共に上空五千メイル程にまで舞い上がり、まだ落ちてくる気配もない。どう見ても戦争は終了していた。



「ジョゼフ様。北側から回り込んで砲撃を掛けましょう。向こうは混乱の最中、搭載している新型大砲とて威力を発揮できないはずです」
「必要ない。放っておけば撤退もしくは降伏するだろう。あそこにいるのもガリアの民なんだ。無駄に殺生する事はないだろう」
「はっ、失礼しました」

 勢い込んで提言してきた士官を送り返してまた目の前の光景を見る。落っこちてきている岩盤もあるが、多くの岩盤はまだ上昇を続けている。岩盤が浮き上がった谷に流れ込んだ水は濁流となって渦を巻き、ラグドリアン湖の水位は随分と下がったようだ。端の方では溢れ出した水に洗い流された村もあるようで、住民を避難させた判断は間違っていなかった。
 ジョゼフは盤石な支持基盤というものを持たない。内乱の犠牲者は少なければ少ない程後の治世が楽になるのだから。

「父さま、もう戦争は終わりですか?」
「そうだな。後は籠城兵の降伏を受け入れて、各地のシャルル派貴族共へ降伏勧告、それでも従わない者を一つずつ潰していけば終わりだ」
「せっかく戻ってきたのに何もしないうちに終わっちゃったわ……叔父様達は、どうなるの?」
「シャルルはどうするかな。資金提供の見返りとしてアルビオンから少し離れた洋上の浮遊要塞を手に入れている事は分かっている。おそらくそこを拠点に空賊でもしながら再起を図るんじゃないか?」
「ガリアの王族が空賊なんて……」
「楽しそうじゃないか。なんなら代わって欲しいくらいだ」
「……」

 ジョゼフとしては本気で言ったのだが、からかわれたと思ったのかイザベラはジョゼフを睨んで黙り込んでしまった。どうも娘とのコミュニケーションは上手く行かない事が多い。
 難しい年頃の娘は放っておいて後ろの部下に指示を出す。

「そうだな、反乱貴族達への降伏勧告はもう出すとするか。生命・爵位保証、領地・年金削減あたりで手を打てと打診してやれ。あ、ビルアルドアーンは別な? 両用艦隊総司令で裏切るなど許せん。あそこの降伏条件は当主の生命保証だけだ」
「は。人質などの要求は?」
「いらん。シャルルがいなくなれば反乱の大義名分など立たなくなるだろう。早期に事態の収拾を図る事を優先する」

 続けてド・オルレアンの復興のため、周辺貴族に協力を要請する指示も出させた。ド・オルレアンは結構な広さで大地が抉れてしまい、重要な橋や街道もなくなってしまったので今後の復興は大変そうだ。両用艦隊を総動員して剥離した岩盤を捕捉して埋め戻すべく努力させるつもりだが、全てを元に戻す事は出来ないだろう。とにかくアンボワーズ城の建っていた岩盤にはその地下に兵糧だの武器弾薬など大量に貯蔵したままなので間違ってもトリステインやラグドリアン湖などに落ちないように監視させている。

 結局反乱軍は風石の励起後程なくしてほぼ全てが降伏したので、ジョゼフは反乱軍の降伏を受理するとさっさとリュティスへ帰り、そこから改めて全国の反乱貴族に降伏勧告を発した。戦後処理には結構時間がかかるかも知れないが、もう大きな障害も無いので順次解決していけるだろうと確信している。

 リュティスでは市民達が大歓迎でジョゼフを出迎えた。無能と呼ばれていた王子が僅かな期間で優秀と言われていた王子を撃ち破ったのだ。戦乱に巻き込まれるのではないかと不安を感じていた市民は口々にジョゼフを褒め称えた。



「大儀であった、ジョゼフよ。シャルルは国外に逃亡したのだな」
「はっ。ラグドリアンからトリステイン国境上を北西に向かい、海に出たところで北方へ進路を取りました。アルビオン方面に向かったものと推測されます。戦力はオセアン号一隻と後から城を発った輸送船が一隻、それに竜騎士四騎程が着いていったようです」

 凱旋した息子を、王は静かに出迎えた。大分体調は回復しているようで、ここのところのように病床ではなく、王の私室での接見となった。

「うむ……それならもうガリアにとっては脅威とは言えなくなったな。王などにならなくとも、ガリアを支える事は出来ただろうに。全てはあの子の心に気付いてやれなんだ予の不明が招いた事よ。ジョゼフよお前にも辛い業を負わせてしまった。済まぬ」
「おそらく私達兄弟は並び立つ事が出来なかったのでしょう。シャルルを殺してしまうような結果にならなくて良かったです」
「シャルロットはどうしている? あの子も辛い目に遭わせた。労ってあげたいが反逆者の娘故そうすることもできん」
「父親と別れたのがショックだったのか塞ぎ込んでいますので、マルグリットと一緒にしてあります。数少ない王家の人間です、私の養女にしたいと思いますが、可能でしょうか?」
「それは……難しいだろう。今回の件でシャルルに反感を持っている者達の感情は決定的なものになった。王家に戻すにはシャルロットがシャルルとは違う、ガリアに有益な人間だと証明しなくてはならない」
「そうですか……分かりました、シャルロットやマルグリットとも相談して今後の身の振り方を決めさせましょう」
「うむ、シャルルがまだ生きているのなら二人とも人質として留め置かねばならん。どこかに離宮を建ててやるか…」

 シャルロットの取り扱いは今後のガリア政府最大の悩みだ。現状二人しかいない王家の子供の内の一人だが、まだ存命中の反逆者の娘。ジョゼフといえどもどのように扱うべきか、決めかねていた。

「えー、それで、戦後処理ですが、まずトリステインからラグドリアン湖の異変について火の付くような抗議が寄せられましたが、自然現象故致し方なしと回答しておきました」
「自然現象……風石が暴走するのがか?」
「ええ。ガンダーラ商会は危険性をかねてから指摘していました。これまで本気にする貴族はいませんでしたが、今後は違うでしょう」
 
 今回の岩盤隆起ではトリステイン側の船舶にも相当数被害が出たようだ。当然損害賠償を求めてくるものと思われるが、それは拒否する事にした。トリステインが隠然とシャルルに助力していた事について、何かしらのペナルティを支払わせる必要があると判断したためだ。

「風石相場を見て躊躇していた者達も本気で掘り始めるか。確かに、自領が空に飛んでいってしまう可能性があるなら無視は出来ないな」
「ええ。とりあえず街や城の地下に眠る風石を掘り出すまでは戦争を始める馬鹿はいないでしょう。反撃で受ける可能性のある被害を考えたら、とても戦争を始められません」
「そう考えるとトリステインには感謝されてもいいくらいだな」

 最近はそれ程ではなくなったとは言え、相変わらずトリステインはゲルマニア貴族から攻略対象として見られている。もし戦争が始まった場合、数だけはやたらといるトリステインのメイジが特殊工作部隊としてゲルマニアに潜入し、風石を励起させる事は可能だと思われる。
 通常の破壊活動とは規模が違いすぎる手段を相手が持っている間は戦争など起こせないものだ。

「次にラグドリアンの精霊ですが、結局姿を確認できていませんので、何を考えているのかは分かりません。姿を現したらその時、柔軟に対応するしかないでしょう」

 ラグドリアン湖は面積が広がった分水位が大幅に下がってしまったが、これは現在驚異的な早さで回復中だ。流れ込む川の水よりも大幅に多く水が増えているので、どうやら水の精霊が関与しているらしい。ガリア側の方が標高が高いからすぐにまた元の水位に戻るものと思われる。今後埋め立てる場合は出水に注意しなくてはならないかも知れない。

「うーむ。精霊が怒った場合埋め戻すのは不可能だろうな」
「申し訳ありません。思ったよりも派手に岩盤が浮き上がりました。ラグドリアン湖の面積は一割ほど増えたかと思われます」
「まあよい。シャルルが何かやっていたみたいだが、ほとんどは森だ。損失としてはそれ程でもないだろう」
「はっ。次に反乱貴族達ですが、伯爵以上でまだ降伏していないのは五人ほどです。三十五人が現地で降伏、二十人ほどがシャルルと共に逃亡、残りは自分の領地で降伏勧告にサインしました。遠からずリュティスに出頭してきます」
「うむ。ほぼ終わったな。ビルアルドアーンはどうなっている?」
「まだ抵抗している五人の内の一人です。ここは生命保証しかしていませんので降伏は無いものと考えています」
「……当主のジョフルワだけでも助けられんか? 息子はあれだが、予には忠実な臣下だった」
「無理でしょう。両用艦隊総司令の身で反逆したのです。当主としては、あの馬鹿息子が逃げ帰ってきた時に逮捕して差し出すべきでした」
「……いや、無理を言った。予定通り処分してくれ」

 一時は随分と増えたシャルル派貴族だったが、爵位の継続を条件として掲示した事もあり、ほぼ消滅した。複数の領地や爵位を保持している貴族からは余剰分を剥奪し、分割できそうな所は分割して削減し、分割できないような所からは罰金を取り立てる。今回の反乱では特に戦功を上げた貴族もいない事からそれらの収入はほとんどが王家のものとなり、王権が強化される事になる。

「えー、ラ・クルス伯爵ですが、息子であるレアンドロが反乱軍に参加したものの本人は王家に変わりない忠誠を示したためその罪は不問とします。レアンドロの所有するデ・ラ・ソラナ伯爵領を没収するのは仕方ないでしょう。その代わりと言うわけではありませんが、デ・ベアレン子爵領をラ・クルス伯爵に与える事にします。シャルルを緒戦で撃退した功績は大きいですので」
「うむ。シャルルを撃破しただけでなくオルレアンの避難民を援助してくれたという。その位は当然だろう」
「それと、跡取りが居なくなりますので、レアンドロの子供達は伯爵との養子縁組を認める、ということでよろしいですね?」
「跡取りが居ない訳にはいくまい。当然認めるぞ」

 ラ・クルスにとっては今回の戦争で受けた損失は嫡子であるレアンドロの領地・爵位だけとなった。
 他にも個々の貴族の対応やシャルルの抜けた産業省の扱い、ド・オルレアンなど新規編入王領の統治方針など細かな事を相談してジョゼフは退出した。
 


 ラグドリアン湖の戦いから程なくしてガリア全土に及んだ内乱は終息した。その規模の割に死罪となった貴族が一桁という少なさで、この反乱を収拾したジョゼフの器量は驚きを持ってハルケギニア中に伝えられた。

 内乱終結から三ヶ月後、キンと冷え込んだ早春のまだ冷たい空気の中、ヴェルサルテイル宮殿のバルコニーに新ガリア王ジョゼフ一世が姿を現した。前王は今回の内乱の責任をとるとして修道院に隠棲する事になり、この日からガリアは名実共にジョゼフの国となるのだ。
 勢揃いしたガリア貴族達にブリミル教の神官達、それと新王の宣誓を見ようと集まった大勢の人々の前で、ジョゼフは堂々と戴冠の宣誓を行った。

「予、ガリア王ジョゼフ一世は、次のことを約束しよう」

 朗々とした声は魔法で拡大され、集まった人々の一番最後までよく届く。

「予は、始祖から続くガリアの伝統を護り、並びに、ガリアの平穏を妨げる全てのものを排除し、並びに、我が庇護に委ねられた人民を法令に従い治めるものとし、並びに、全てのハルケギニアにおいて、真の全き平和を未来永劫にもたらすものとする。予は、全ての身分及び地位において、窃盗、弾圧及び全ての種類の不正を禁止し、抑止するものとする。全ての裁判において、正義と衡平が例外なく保たれることとなるよう命じ、取り計らうものとする。これらの上述のものごとを、予は、予が厳粛な宣誓により、誠実に約束する」

 それは、ブリミルの事にほとんど触れていないという例外中の例外と言える形式の宣言だったが、人々は気にするでもなく新王に喝采を送った。人々が常に求めているのは強い王。シャルルを一蹴したジョゼフはその条件に当てはまる王だった。  
 強い王に熱狂する人達とは反対に、苦虫を噛み潰したような表情をしているのは元シャルル派の貴族達。貴族としての地位は守られ戴冠式に参列する事も許されたが、財産は減らされ勢力は削がれた。ジョゼフが王である限り栄達の見込みのない彼らにとってこの戴冠式は全くもって面白くないものだった。

「シャルロット様、戻りましょうか」
「……うん」

 歓声を上げる人達に紛れて遙か後方からその戴冠式を見ていたシャルロットだったが、それを見てもなんの感情もその胸には沸き上がってこなかった。
 今やただ一人の家臣となったバッソ・カステルモールに促されるまま人込みをすり抜け、宮殿の奥に造られた離宮へと戻った。
 
 シャルルに魔法を掛けられて眠らされ、起きた時にはもう全てが終わっていた。顔見知りの騎士も、子供の頃から知っている貴族も全てジョゼフの前に膝を折り、降伏していた。
 リュティスに連れ戻され、母の胸で一頻り泣いた後、シャルロットに残っていたのは虚脱感だけだった。
 ほんの小さな頃から当然のようにハルケギニア中を飛び回って活動しているウォルフという存在を見てきたシャルロットにとって、自分がまだ子供だと言う事は自分が何も出来ないと思う事の理由にはならなかった。
 才能があり、それに見合う努力を続けてきたシャルロットは、当然自分もシャルルの役に立つ事が出来ると信じていた。それが現実には何の役にも立たず、ラグドリアン湖には行って帰ってきただけだ。

 何故伯父が気付いた作戦を自分が気付かなかったのかと、後悔ばかりが胸を打つ。もしかしたら伯父はその可能性に気付けと、宿題にメッセージを込めていたのかも知れない。それなのに自分は結局シャルルが勝つ方法ばかりを考えて足下の危険を見過ごした。

 

「ふー……」

 今日何度目か分からない溜息をシャルロットが吐いた。祖父が建ててくれた離宮はこぢんまりとしていて居心地が良いが、そんな事はシャルロットの慰めにはならない。
 母は隣のソファーで刺繍をしていて、カステルモールは二人にお茶を入れてくれているようだ。騎士のくせにそんな事まで出来るカステルモールを意外に思いつつ、差し出されたカップを手に取った。

「そういえば、バッソ、パティ先生はどうなったの?」
「リュティスを離れて以来、連絡を取れていません。実家に連絡を入れようかとは思いますが、彼女の実家も大幅に領地を削られていますので帰っているかどうかは分かりませんね」 
「そう……ごめんなさい」
「シャルロット様が謝るような事ではないですよ」

 シャルルの近侍をしていたカステルモールとシャルロットの家庭教師をしていたパトリシアは恋人同士だ。結婚も近いと言われていたものだが、どうなるかは全く分からなくなってしまった。

「それでも、ごめんなさい。パティ先生も、もう結構いい歳なのに……」
「あの、本人には絶対に言わないで下さいね? それ」

 歳はカステルモールの方が下なので年齢の話は二人の間ではタブーだ。プリプリと怒るパトリシアを思い出して、つい笑みを浮かべたカステルモールに、シャルロットの表情も緩む。

「言わないわよ。…そっか、パティ先生は行方知らずか」
「彼女はあれで優秀なメイジです。心配は要りませんよ」
「あれでって……」

 教師や使用人など、リュティスの屋敷にいた者達はシャルルが逃亡した時点で全員拘束され、取り調べを受けた後に全て放逐されたと聞いた。当然ド・オルレアンの領地で雇っていた人間も全員だ。多くの人生を狂わせてしまった重みは、まだ十一才の少女の心にずしりとのし掛かる。
 自分がこれから何をすればいいのか全く分からない。杖は取り上げられてしまっているし、人質としてただこの離宮で歳を重ねていくのが役目なのかと思うと絶望的な気分になる。この狭い離宮を離れる時でさえ、マルグリットとシャルロットのどちらかは拘束されてしまうのだ。もう、人間としての自由など、無いように感じられた。

「さあ、出来た。綺麗になったわ。どう? 可愛いでしょう」

 母が刺繍の終わった布を人形に着せている。その人形はちょっと前に母から贈られたものだったが、今回の事件の最中に着せてある服が汚れてしまっていた。新しい服を着せられた姿は新品のようになったが、杖もなく宮殿から出る事も出来ない今、シャルロットは自分が王家の人形になってしまったような気がして、以前のようにその人形を抱きしめる気にはなれなかった。



「で、お前はこれからどうするつもりなんだ? シャルロット」

 思い悩むシャルロットを呼び出したジョゼフは、その胸の内を言い当てたかのようにズバリと尋ねてくる。玉座からシャルロットを見下ろしてくるその姿はまさしく王者の風格だ。気圧されながら答えを探す。

「わからない。でも、わたしには魔法しかない。魔法で何か、人々の役に立つ事をしたい」
「魔法か…下らんな。まあいい、だったら花壇騎士に任命してやる。せいぜいガリアのために役に立つと良い」
「なっ! ジョゼフ様、シャルロット様はまだ十一才になったばかりの女子でございます。花壇騎士団には受け入れられないでしょう」

 小声で魔法の事を呟いた時に一瞬ジョゼフの瞳に憎悪が浮かんだが、シャルロットもカステルモールも気付かない。シャルロットのような少女を花壇騎士にすると言う事に驚くのみだ。

「所属は北花壇騎士団だ。あそこは単独行動だからそんな事は関係ないぞ」
「北花壇……馬鹿な……」

 ガリア北花壇警護騎士団とはガリアの裏側に存在する非公式な組織だ。ガリア貴族社会において表には出せないような事件の解決を請け負い、幻獣や亜人の討伐から諜報、要人暗殺などの破壊活動まで幅広く活動しているが、日頃人々にその存在を認知される事はない。危険な任務が多く、まだ十一才の王家の姫が働くような場所ではない。

「お前は従騎士だな、カステルモール。お前が付いていれば問題はないだろう。色々勉強できる部署でもある。どうだ、やるか?」
「あなたの命とあらば。わたしの身はガリア王家の物。命に背くつもりはありません」
「シャルロット様、お考え直し下さい、北花壇の仕事は危険なのです」
「ふん……ああそうだ、名前を考えておけ。正式名称はガリア北花壇警護騎士七号になるが、任務中に本名を名乗る事は許されないからな」
 
 やるかと聞かれて答えるシャルロットは無表情で、何の感情も見受けられない。そんな彼女をジョゼフは面白くも無さそうに眺めている。

「一つ、聞きたい。先日の戦いにおいて、伯父上はあの作戦以外にあの城を撃ち破る方策を有していたのか、教えて欲しい」
「うん? なんだ唐突に。あの城を落とす方策か、勿論いくつかは考えていたぞ。一番こちらが安全そうな方法を選んだだけだ。例えば…」

 例えばあの魔法防御システムは横からの攻撃には強いが原理的に上からの攻撃には弱い。噴水のように吹き出した風は拡散し、勢いを失うからだ。グライダーならまだしも、上空から真下に向けて撃ちこむ大砲を全て防ぎきれるとは思えない。
 上空を守ろうと航空戦力をそちらに回せば、あの貧弱な艦隊では下部の守りが手薄になる。別働隊が城壁を攻撃できる隙は十分に生まれるはずだ。城壁にある魔法装置を一カ所でも破壊してしまえば城の防御力は大幅に下がってしまうのだから、艦隊を下部の守りから外す訳にはいかない。結果として上空からの砲撃を長期間続けたら、そう長く籠城できるとは思えなかった。
 他にも港が魔法防御装置の外側にあるという致命的欠陥も存在するし、実は既に工作者のメイジを複数城内に紛れ込ませてもいた。ジョゼフからしたらいくらでも攻略法は考えられた。

 つらつらと複数の攻略法を紹介するジョゼフの前で話を聞きつつ、シャルロットは痛切に力を欲した。ジョゼフが目を付けた弱点をあの時父に伝えられなかった自分を責め、それを出来る自分に変わる事を切望したのだ。
 
 目の前の伯父を見る。この人はずっと無能だと言われながらもずっとその牙を研いでいた。見かけ上の戦力に惑わされず、相手の弱点を分析し攻める時に一気に攻める。それは口で言うほど簡単な事ではないはずだ。

 シャルルや自分に足りないものが有ったのは確かなのだろう。ならば、この人に付いて、その足りないものが何だったのか、学びたいと自然に思えた。来るべき日までジョゼフの下で牙を研ごうと決意したのだ。
 いつの日かシャルルが戻ってくるその時まで、自分はガリアの人形で良い。シャルロット・エレーヌ・オルレアンという人の名は捨て、ジョゼフの忠実な臣下として生きる事を決めた。

「名前を、決めた」

 シャルロットが力強くジョゼフを見返しながら答える。ジョゼフは今度は興味深げに続きを待った。

「タバサ。我が名はタバサ。この身はガリアの杖にて王ジョゼフの忠実なる僕。我が忠誠はガリアのもとに。我が信はガリアの為に。王よ、何なりとお命じ下さい」
「ふむ、いいだろう。タバサよ、そちを北花壇騎士七号に任命する。そら、お前の杖だ、持っていけ」

 忠誠を誓う姪の事を面白そうに眺めた後、ジョゼフは大振りな杖を投げて渡した。その杖は古めかしい大杖でシャルロットが長年愛用してきたものだった。

 シャルロットはそれを空中で受け取り、礼をするとカステルモールと共にその場を辞した。



「シャルロット様、一体どうして! あなたがジョゼフの騎士になったとてシャルル様はお喜びになりません」
「タバサ」
「しかもそんな名前だなんて…シャルロット様のお人形の名前ではないですか」
「私の名はタバサ。あなたもそう呼んで」

 離宮に帰る道すがらカステルモールが非難してくるが、シャルロットは一向に取り合わない。自分たちが暮らしている離宮に着くと、真っ直ぐに母の元へと向かった。

「母さま、花壇騎士団に任官しました。任務の邪魔になるので髪を切りたいのですが」
「まあ……父さまが悲しむわね、あなたの髪が大好きだったから」
「父さまが帰ってきたら、また伸ばします。切って下さいますか?」
「ええ。仕方ないわね、こっちにいらっしゃい」

 母マルグリットは騎士団に入った事については何も言わず、裁縫箱のハサミを手にとってシャルロットを手招きした。彼女なりに覚悟はしていたのかも知れない。

 この日以降シャルロットは北花壇騎士七号・タバサとしてハルケギニア中を飛び回って任務をこなしていく事になる。王家の姫であった時には望めども得られなかった実戦の機会は、シャルロットのメイジとしての能力を確実に磨いていく事になった。
 魔法だけで解決できるような事件ばかりではない。一つ一つの事件が彼女の経験となり、力となり、彼女を成長させていった。

 任務を解決して報告に行くと、ジョゼフはいつも上機嫌で彼女を出迎えた。食事を共に摂りながら詳しい話を聞き、その事件の背景や解決後の影響などを解説してくれる。
 ジョゼフの見識はいつも鋭く卓越していて、シャルロットはいつしか彼との食事を楽しみにするようになった。倒すべき王ではあるが、彼との会話はシャルロットを成長させてくれる実感があるのだ。

 敵愾心を抱いていてもジョゼフの事を嫌いではないというのは、ずっと変わらない。
 カステルモールもシャルルの兄としてジョゼフが生まれた不幸を嘆くとも、彼の事を憎んでいる訳ではない。むしろシャルロットやマルグリットの扱いは正当で感謝しているくらいだ。
 蒼髪の美少女騎士とその従騎士は、心中に相反するものを抱えながら日々を過ごしていった。


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