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[32711] 機動戦士ガンダム0086 StarDust Cradle ‐ Ver.arcadia ‐ 連載終了
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:4a85b18f
Date: 2023/07/03 19:06
 はじめまして。私、廣瀬雀吉と申します。
 にじファンの著作権規制強化により削除の対象となりました作品ですが、是非とも最後まで書き上げたいと決心しまして、このサイトを選びました。何分『小説家になろう』生まれの者ですので色々とご迷惑をお掛けするとは思いますが、どうかよろしくお付き合いください。

 この作品は『機動戦士ガンダム0083 StarDust Memory』の二次創作です。時系列上UCとZガンダムの一部が含まれている事をご了承ください。尚他の作者様よりもフォントを大きくしてありますが、実は私は大変目が悪い為、どうしても小さい字が見えにくいのです。(今も眉間に皺が寄っています)もしよろしければこのままの大きさで書き続けさせて頂ければ嬉しいです。 修正しました。

 もし何か不都合な点やご迷惑をお掛けしている様な事がありましたら、是非ともご一報ください。可能な限り善処させて頂きます。

 では不束者ですがどうぞよろしくお願いします。
 



[32711] Prologue
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:4a85b18f
Date: 2012/04/19 18:00

 人類が重力の井戸の底から星を眺める事に飽きてその広さを知りたいと開拓の海原に乗り出そうとしたあの日、ラプラスと言う名の彼らの希望は高度400キロ上空に広がる宇宙の渚で砕け散った。昼夜を問わず満天を駆け抜ける流れ星に事実を知らない人々は目を輝かせ、事実を知る者は潰えた未来の顛末を目に焼き付ける。
 それが『礎の世紀』と後の世の史実家によって実しやかに語られる、宇宙世紀の幕開けであった。

 時はそれからいくつかの諍いと一つの大きな争いを流血の積み石ケアンによって乗り越えた、宇宙世紀0086年。

 歴史上、『ジオン公国』と言う名を最後に掲げて戦った者は一年戦争の最終決戦として名高い『ア・バオア・クー攻略戦』に於いてSフィールドの守備を任されたア・バオア・クー統一軍総帥直属艦隊司令、エギ―ユ・デラーズと言う佐官であった。彼はジオン公国総帥であるギレン・ザビ元帥の戦死後、残存兵力を糾合して戦域を離脱。カラマポイントでの協議を経て連邦政府との徹底抗戦を訴えた後に、自らが暗礁宙域に構築した『茨の園』での三年の雌伏の後に地球圏での決起を果たした。
『星の屑作戦』と命名された一年戦争終結後では最大とも言える紛争に温存してあった全兵力を投入したデラーズ艦隊 ―― 通称『デラーズ・フリート』は最終的に連邦宇宙軍の総艦艇数の約三分の二を灰燼に帰し、その戦果と我が身を引き換える様に一握りの戦力をアクシズに預けて壊滅する。しかし彼らが最後に放ったコロニーと言う魂の矢は地球の人々にブリティッシュ作戦以来の恐怖を想起させて、遍く星星の影から未だに宇宙の覇権を賭けて争おうとする勢力が存在しているのではないかと言う暗い影を人々の心に芽吹かせた。

 彼らが残した物は他にもある。それは『阻止限界点』を挟んでの地球連邦軍と繰り広げた最後の攻防で生み出された、ラプラスの残骸と地球を挟んで反対側の同軌道上に散乱するデブリの帯だ。所属や大小の区別なく打ち棄てられた無数の骸のその殆どが原形を留めていない、だが嘗て艦船であった物は今わの際まで振り翳した砲身で二度と相見える事の無い敵の影を追い、一年戦争当初の登場でそれまでの戦争の様相を一変させた機動戦士と言う名のパワードスーツは、引き裂かれた我が身を探し求めて闇の彼方へその手を伸ばす。
 爛れた罪の暗礁は時を忘れて在りし日の夢を追う。
 死者の見る夢を妨げる様に太陽の輝きがゆっくりと地球の輪郭を染め上げて、儚く散った彼らの愚かな結末を嘲笑った。


『勝利の余韻に浸っている場合ではない事はこれで明らかになった。我々が手を拱いている間にも地球は常に、悪意の洗礼を受け続けている』

 連邦議会で開催された非公式の予算委員会でそう語る壇上の男の素性を知る者は意外に多い。彼は選挙によって連邦国民によって選出された政治家では無く軍に所属する一将官で、しかも紛争終結後の最もデリケートな時期には決して歓迎されないタカ派思想の持ち主であった。白髪痩身の風体は恐らく民間企業であればとうの昔に定年を迎えて年金の世話にもなっていようかと言う外見でありながら、しかしその双眸の奥に秘められた野心と断固たる決意は彼に敵対しようとする改革派の議員達の声を封殺するに足る力を持っている。
 だが彼らが本当に驚いたのは、ジャミトフ・ハイマンと言うフランス訛りの公用語を話すその男が万雷の拍手によって議会内へと迎えられた事だった。彼の出自を知り、議会で演説する内容を事前に入手していた改革派の議員達は徒党を組んでこれの排除に当たる予定であった。しかしいざ蓋を開けてみれば同志同朋として力を恃んだその多くの者達が掌を返した様に立ち上がって拍手をする様を、抵抗勢力の中核を成す議員達は呆気に取られて眺めていた。弱者故に盤石と信じていた彼らの結束力はジャミトフの背後に潜む軍部の力を借りた保守派の卑劣な切り崩しによって跡形もなく崩壊し、気が付いた時には自らの政党内での立場すら危ういマイノリティにまで転落していたのだ。

 故に連邦政府が策定した0084年度以降の補正予算案には戦災復旧対策の為の金額がほとんど盛り込まれていない。本来であれば債権を発行してでも費やさなければならない多額の予算は全てジャミトフの思惑の通りに軍へと流入し、地球はもっぱら復興の為の手段を民間の活力と地球圏に居を構えるコロニー自治政府への恫喝へと求める事になる。前者に対しては将来の景気回復を見越した眉唾物の成長曲線を政府の公式見解として公のメディアで喧伝して、軍需の縮小によって来季の黒字が見込めなくなった企業の積極的な参画を促し、後者に対しては戦勝国の傲慢さと再び返り咲いた地球圏の盟主としての大義を振り翳して、一方的な関税の撤廃による市場の開放と防衛委託金と言う名目の、およそ言いがかりとしか思えない様な上納金を要求した。

 保守派で固められた連邦政府の指針は表面上は関係各企業や各コロニー自治政府に受け入れられた様にも見える、しかしその水面下では大戦終結後の社会情勢を顧みずに国家予算を軍備の増強へと注ぎ込もうとする彼らへの批判が様々な形で噴出しつつあった。公募による一般入札を許可された企業は、自分達が試算した額と受注企業が決定した後に公開された請負額との極度の開きに驚愕し、決定した企業ですら請負を辞退すると言う事例を頻繁に招く。背腹顧慮の決断を下した企業に於いても政府の要求する完成予想を実現するだけの能力と資金を調達する事は非常に困難で、何より戦争によって失った労働力を確保する事すらままならない状態であった為、納期の大幅な遅延若しくは計画の頓挫と言う事態すら存在した。身銭を切ってでも復興の為に尽力を果たそうとした企業の殆どが連邦政府の今後の展望に対して一縷の疑問を抱いたのは当然の帰結だった。

 また同じ事は恫喝によって自治権の一部をはく奪されたコロニー自治政府の側にも言えた。優遇されていた関税率を一方的に撤廃された事によって生じた大幅な貿易赤字を埋める為に、自国で消費する筈の貴重な天然資源を求められるがままに輸出品目リストのトップへと書き込む羽目になり、燃料不足による流通速度の低下はそのまま消費の冷え込みへと繋がる。倒産や撤退する企業が相次ぎ、法人税収の減収へ追い打ちをかける様に要求された防衛委託金は一気に国庫を圧迫する。破綻の危機を予感した自治政府の財務各省は一律に一般財源の増収を目的に各税率の引き上げを断行、しかしそれは宇宙に籍を置く『スペースノイド』と呼ばれる民衆の反感を買って統治に関わるほどの治安の低下を齎した。

 コロニーの各所で発生するデモや暴動、シュプレヒコールの嵐を忸怩たる思いで眺める自治政府の代表達、しかし彼らはこれ以上連邦政府につけ入る隙を与えない為にもそれらの声を自らの手で鎮圧しなければならなかった。ジオン公国と言う名の反連邦の急先鋒を成す術もなく失ってしまった彼らにはもう選択の余地が無い、封殺されていく人々の声に耳を塞いで屈辱的な隷属を煮え湯を飲む様な思いで受け入れる自治政府の代表達はその時初めて、ジオンと言う小国が強大な地球連邦に対して絶望的とも言える独立戦争を挑んだのかと言う事を理解した。


 荒廃を続ける地球の惨状と疲弊する経済、一向に抜け出す気配すら見えない不況の現実から人々の目を逸らす為には過激な思想と民衆の力を束ねる強い力を兼ね備えたカリスマが必要だった。連邦議会に新政府を象徴する旗手として選ばれたジャミトフは三顧の礼も待たずに中枢へと迎え入れられ、政府内での発言力を手に入れた彼はすかさず自らが携えた腹案を実行へと移した。

 ジャミトフが画策した軍の政治参画と言う目的を達成する為に利用した一つの状況、彼はその相手の素性を明確に言及する事を避けはしたが、首謀者達が為し得た成果を利用する事に躊躇いを覚える事はなかった。史上二度目のコロニー落しを実践したエギ―ユ・デラーズと言う犯罪者の名前や彼が率いた組織『デラーズ・フリート』と言う文言をジャミトフは残らず『スペースノイド』と言う文字に置き換えて、新天地を求めて宇宙へ飛び出した同胞のあり方を非難した。同時に連邦財務省高官と言う地位を隠れ蓑にして就任した公営賭博組合からの巨額の活動費の一部はマスコミ対策へと利用され、連日に渡る元同胞へのネガティヴキャンペーンはまるでそれが民意であるかの様に人々を扇動する。数字の魔力を縦横に駆使したジャミトフは連邦を構成する大半の支持を得て、自らの思想を具現化する為の最大の手段 ―― 地球圏治安維持部隊、通称『大地の申し子ティターンズ』の設立に漕ぎ着けた。

 老獪なジャミトフが画策した一連の動きで評価すべき事は、この組織の設立が部隊規模では無く『主義主張』であったと言う点だ。もしこの設立が連邦軍内での部隊設立であったならばその規模の拡大にはある程度の制約が付いていた筈である、だが誰でもが民主主義に於いて主張を許される『主義』に基づいて自分の立場を決められるのならば、軍の規約の前に連邦憲章と言う前提がジャミトフの提唱する『アースノイド偏重主義』に賛同する彼らの立場を保護する。民衆と同様、歪曲された世論に侵されていた兵士達は我先にと『ティターンズ主義』を標榜し、当時の幕僚長ジーン・コリニ―提督らの許可を経て独自のカラーを纏う事を許可された。『ティターンズ』と言う部隊が発足と同時にあっという間に巨大な権限を有する部隊へと成長した裏にはこの様なカラクリが存在した。


 まるで野火の様に連邦軍内での勢力を拡大するティターンズ、しかしその火を放った張本人達に安穏としている時間はない。彼らが発足する切っ掛けとなったデラーズ紛争は連邦に戦いを挑んだジオンの残党軍と言う構図が成り立ってはいたがそれはただの概論であり、その中で繰り広げられた様々な策謀については隠蔽されなければならなかった。『星の屑作戦』の大まかな作戦計画を敵麾下の艦隊司令、シーマ・ガラハウ中佐から入手していたにも拘らず一貫して楽観論者として振る舞い、それはジャミトフの口車に乗ってこの策謀を黙認した連邦軍上層部の前に想定外の損害を突き付ける。観艦式強襲の際に使用された宇宙空間内での戦術核の威力は既に算出されていた被害規模を遥かに超えていた、そして確約されていたコロニー落着の阻止は敵戦力と戦意を甘く見積もった参謀本部を嘲笑う様に大気圏へと突入する。失った将兵に対する補償と宇宙の藻屑と消えた軍事予算を頭の中で弾きながら、ジャミトフに加担した彼らは自らの保身を計る為にはどの様な手段が最適かと言う事を巨大な流れ星を眺めながら考えた。
 軍の作戦に従事する兵士には規約によって強固な守秘義務が課せられている、極刑は銃殺と定義されるそれを利用して上層部は情報の漏洩を防止する事に全力を注ぐ。作戦に参加した全将兵からデラーズ紛争に於ける一切の情報を口外した者には即座に重罪を適用する旨を誓約させる念書を取り付け、情報部に保管されている経過記録を一つ残らず改ざんする。幸いな事にこの作戦で生き残ったのは第1地球軌道艦隊司令代理バスク・オム大佐以下その殆どが『ティターンズ主義』を標榜する者達であり、故に軍から発せられたその命令に対して異論を挟む者はごく限られた一部の者に留まった。

 その『ごく限られた一部の者』 ―― それこそが彼らに突き付けられた最後の難題だった。連邦軍の全ての将兵がジャミトフの思想に賛同している訳ではない、ガンダム二号機を奪われてそれの追撃に当初から当たっていたコーウェン将軍旗下の第3地球軌道艦隊所属、ペガサス級最新鋭揚陸艦『アルビオン』もその例外の一つだった。地球重力下での試験の為にトリントン基地へと運んだ核装備の二号機を強奪された彼らは軍の開発責任者であったコーウェンの指示の下、二号機奪還の任務に着く。しかし彼らの奮戦も空しく二号機の核はガトーの手によって観艦式の開催されている宙域へと放たれて大勢の死者を生み出した。加害者意識を携えたままデラーズとの最終決戦に臨んだ彼らに披露された事の顛末は、道化の様に扱われた事への怒りよりも自分達の知らない場所で蠢いている軍内部の一勢力に対する不信感を芽吹かせている。
 勿論アルビオン艦長エイパー・シナプス大佐を始めその全乗組員は連邦軍に所属しているのだから当然守秘義務や罰則に対する極刑は適用される、だが策謀に加担した軍上層部は、鉄の結束を誇っていたであろうデラーズの企みが一体何によって自分達の元へと送り届けられたかを忘れてはいなかった。
 内部告発。悪く言えば離反、寝返りと言い換える事も出来るその行為は組織の瓦解に最も効力を発揮する。もし万が一、自分達がシーマ・ガラハウと手を組んで成し得た事をそのまま彼らに連邦内部でマスコミ相手に行われたとしたら、どうなる? 
 偽りの正義を楯に隆盛を誇る権勢も手にした莫大な軍事費も全ては泡沫の夢と化す、それどころか自分達の行った陰謀に巻き込まれた犠牲者の数 ―― デラーズ側を除外しても ―― を考えれば戦争犯罪史上最大の事件になる事は間違いない。幾ら軍が力を付けたとは言っても地球連邦は民意で選出された首相を頂点とする民主主義で成り立つ国家、文民が軍を管理統制するシビリアンコントロールは厳然と存在しているのだ。


 自らの保身の為に嘘を嘘で塗り固めようとする行為は紛争終結後、僅か十日後に軍事法廷が開廷された事でもよく分かる。だが不思議な事に今回の件に関して被告と名指しされたのは開発責任者であったコーウェンでもなければ、観艦式典の警備に当たっていたコンペイ島駐留艦隊の司令官でも無かった。弁護を担当した軍警察内部でも思わず首を傾げて告発理由を考えてしまう両名の名はアルビオン元艦長・エイパーシナプス大佐とオーストラリア方面軍トリントン基地所属のテストパイロットであるコウ・ウラキ戦時中尉。前者の罪状は『艦の私物化、命令不服従などの罪』そして後者は『ガンダム三号機の無断使用及び大破』と言う、有事に於いては罪にも値しない様な瑣末な罪状だった。

「艦の私物化と原告側は起訴したが、元々彼らは紛争中にはコーウェン将軍より独立遊撃艦隊としてガンダム二号機奪還の任に着いている。また地球軌道上での戦闘に於いてもアルビオンは『阻止限界点』の背後で布陣する原隊(第三地球軌道艦隊)への合流を果たすべく、単艦で戦域への突入を敢行したに過ぎない。それに史上二度目となる未曽有の危機を阻止する為に投入されたガンダム三号機はデラーズフリート内の主力艦隊を壊滅させ、最後までその宙域に留まって事態の打開を図ろうとした。彼らの行為は戦時下における立派な戦闘行動であり、その際に被る被害や単独行動を議論して悪戯に彼らの名誉を傷付ける様な判決など、下すにも値しない」

 法曹の誇りにかけて反対尋問の席で滔々と語った軍警察所属の若き中尉の姿をその後に目にした者はいない、軍法に寄る庇護も自己弁護の機会すら奪われた彼らは開廷から二日と言う短期間で判決の時を迎えた。陪審員代わりの軍関係者によって彼らに下された結論はエイパー・シナプス大佐への極刑とコウ・ウラキ戦時中尉の禁固一年と言う、やはりこれも異常なまでに重い刑罰。しかしその判決を聞いた全ての関係者が一様に納得した事は、彼らが策謀を隠蔽する為に選ばれた『生贄の山羊スケープゴート』だと言う暗黙の了解だった。ティターンズに捧げられた供物となった彼らの役割は情報の漏洩の阻止であり、事実デラーズ紛争を最後まで生き残りながらもティターンズのあり方に疑問を抱く者は、その行く末がどういう結末を迎えるのかと言う事を理解させた。刑の執行後に手向けられた不可解な誓約書に何の疑問も持たずに挙ってサインをする兵士の数を調べれば、その判決がいかに彼らの危機感を煽る物であったかを知る事が出来る。

 硬軟自在な手練手管によって仕組まれた隠蔽工作は果たしてジャミトフの策に加担した上層部の思惑通りに展開しつつある、連邦政府内部の改革に追い風を受けた彼らは盟主としての威光を地球圏に残る反連邦勢力に対して知らしめようと水面下で政略を練り始める。
 だがその時、連邦軍統合作戦本部と言うティターンズを取り仕切る本丸から思いもかけない横槍が入って彼らは再び苦悩の日々を迎える事になった。


 それはデラーズ紛争の中でも連邦軍が最大の被害を被ったコンペイ島宙域での事件。公式にはコンペイ島内の熱核融合炉が不慮の事故で暴走して核爆発を起こしたと発表されているが、そこで起こった事実を知る者は連邦軍の将兵以外にも存在する。最終決戦の場から逃れてアクシズ艦隊に拾われたデラーズフリートの生き残りがそれである。紛争終結後の彼らの足取りはアクシズ側も公表を控えた為 ―― 彼らを政治亡命者として保護した ―― 定かではないが、『星の屑作戦』決行の動機や作戦概要等の詳細は情報封鎖を行った連邦勢力下以外のコロニー自治政府に対して公表された。その事は内情調査の為に潜伏していた連邦軍の諜報員達の手によって伝え知らされた訳だが、彼らの報告書の中で共通して書かれていた事はコロニーが地球に落着して齎した被害の大きさよりも、コンペイ島で起こった試作ガンダム二号機による核攻撃に対して世論が敏感な反応を示しているという点だった。
 二号機が使用した核弾頭はMk-82と呼ばれる小型の戦術核、それは『ルウム戦役』という一年戦争以前のジオンとの小競り合いの後に締結された『南極条約』によって使用を禁止された兵器の一つであった。連邦軍が戦後密かに開発していた最新型の機動兵器が核搭載能力を有していたと言う告発に各自治政府は耳を疑い、しかし連邦が自分達に強いようとしている戦略の正体を垣間見て憤りを露わにした。戦後の混乱に乗じて大量破壊兵器による恫喝外交と言う手段を目論んでいたのではないかと言う疑惑は、あちこちのコロニーの議会に於いて最早議論と呼べないほどの紛糾を齎して、そして彼らはその真偽を確かめるべくコンペイ島付近の公海上に使節団を派遣して付近の残骸を隈なく調べ上げると言う決断を下すまでに至る。各自治政府の動向を事前に把握した統合参謀本部は急遽開催された軍の最高意思決定機関である幕僚会議に於いて、一つの可能性を示唆して判断を仰ぐ事になる。
 ―― 第二の『ジオン公国』が勃興する可能性あり、と。

 したり顔で禁忌を口にする将官の言葉に色めき立つ幕僚達、長であるコリニ―でさえもその可能性の前には苦悩に喘ぐ様を隠そうともしない。もし万が一その可能性が現実の物となれば自分達への最大の危機と化す事は容易に想像できた。連邦宇宙軍の総戦力は今だ紛争前の域には程遠く、分断された兵站は未だに普及の目処が立たない。アクシズや自治政府との不安定な三権鼎立を外交によって何とか維持している連邦政府が、軍の仕出かした不始末によって再び戦火を呼び戻してしまったとしたら果たして一年戦争の時の様に国家総動員制を牽いてその鎮圧に乗り出すだろうか? その答えは言うまでもない、恐らく政府は一連の事態に決着を付ける為に今回の紛争の裏で暗躍した全ての関係者を根絶やしにして、自治政府との交渉に臨むだろう。重力の海に身を委ねながら怠惰な日々を過ごす彼らならばその程度の変節等造作もない。
 地球を取り囲む情勢不安が連邦政府の耳に入るまでに軍は何らかの手立てを講じねばならなかった。ジャミトフを中心に軍の重鎮経験者や連邦外務省の次官まで巻き込んでの連日の会合で供出された対策案は、紙媒体であれば恐らく巨大な会議場の床を埋め尽くしても尚積み上がるほど多数に及んだ。
 不特定の案件から派生する様々な選択肢を入念に吟味し、自分達が求める結論に最も早くかつ安全に到達できる唯一を探し求める。それが例え自分達の謀った陰謀や法と言う名の前提を形骸化せしめる選択であったとしても。

 数日間の徹夜の議論の末に彼らが辿り着いた答えは、結論から見れば今までの方針と何ら変わりの無い陳腐な物に収まった。紛争中に連邦側が画策した陰謀の隠滅の徹底、一見同じに見える計画要項を受け取ったジャミトフはその表紙をめくる前に統合参謀本部の無能ぶりをどういう言葉で罵倒してやろうかと思案した。だがその内容を読み進むにつれて表情は一変し、許認可の判を押す時に至っては酷く上機嫌な声音で参謀長に向かって尋ねた。

「で、私は何をやればいいのかね? 」

 数日後、ジャミトフの親書を携えた連邦の士官がジャブローを飛び立った。彼の向かう先は『静かの海』に創られた月面最初の恒久都市フォン・ブラウン市に隣接して聳え立つアナハイム・エレクトロニクス本社、月の輪郭を彼方に臨む最上階の一室で意気揚々と差し出された、親書とは名ばかりの命令書を当時の社長であるメラニー・ヒュー・カーバインは苦虫を噛み潰して受け取った。連邦からの権益の独占をより強固な物にする為に請け負ったガンダム開発計画が政争の具となり、自らが預かり知らなかった事とは言え、社内取締役内に裏切り者まで輩出してしまったという負い目は自らの一線からの退陣と言う処分のみならず、送り込まれた使者を何の手続きも経ないまま本丸へと迎え入れると言う暴挙を拒めない。「鬼の首でも取った様に文字が躍っている」と言わしめるほど苛烈な文言はまるで士官時代からの鬱憤をジャミトフがそこで晴らしている様に思えた、と当時の事をメラニーはそう述懐する。
『紛争に関わった企業調査の為に軍諜報部から派遣する査察官の受け入れ』と言う要求は至極理に適っている様に見える、しかしメラニーには彼らが一体何の為にここを訪れて何をしようとしているのかが目に見えていた。巷を駆け巡る核攻撃の噂によって高まる反連邦の声を宇宙最大規模の企業に成長したアナハイムが知らない訳が無い、そして非公式ながらも軍の中枢へとその身を置いた嘗ての同級生 ―― いけすかない野郎ではあったが ―― が自分の野望を成就する為にどういう手段を講じるかと言う事も。
 国策による民業の圧迫は差し詰め地上の主要国家を巻き込んで行われた第二次世界大戦におけるナチス・ドイツ以来ではなかろうか、ジャミトフの遣り口に強烈なファシズムの悪臭を感じながらメラニーはその場での決断を迫られた。
 一般家電の開発から起業したアナハイムにとっての財産は積み上げて来た開発データの他には無い、巨大コングロマリットと化した現在に至っても常に各開発部門で記録されたデータは本社のメインサーバーで一律管理されている。アナハイムに所属する研究機関はあればどの分野 ―― 武器もしかり ―― であっても全ての開発データを自由に閲覧でき、その奔放とも言える経営手腕が今の帝国を築くに至ったと自他ともに認めている。
 その財産に手を付けようと言う愚行を最高経営責任者たる自分が許していいものか、答えは否、断じて否。

 今では珍しくなった巨大な樫の木の一枚板で作られた巨大なデスクの中央に置かれたその書類から逃げる様に背を向けて、メラニーはジャミトフの使いにその怒りを悟られない様に茫漠たる月の地平を睨みつけた。
 創業者としての誇りはジャミトフの要求を決して受け入れない、しかしもしここで自分が義憤に駆られてこの使者を追い返してしまったら次に奴がどういう手段に打って出るかは分かっている。連邦から受注しているありとあらゆる案件からアナハイムを締め出して徹底した兵糧攻めを仕掛けて来るだろう、二度と地球圏で商売が出来ないほど完膚なきまでに叩きのめされた企業がどうなるかは過去の歴史が物語っている。ジオニック、ツィマッドそして自らがその市場を切り崩したヴィックウェリントン社しかり。
 どんな巨大な企業でも、いや巨大であるが故に命脈を絶ち切られた時の衰退は激しい。解雇された労働者達が起こす争議を鎮める為に莫大な示談金を用意し、成立しなければ裁判となりその費用は期間に比例して増大する。まるで大昔の大帝国の崩壊を地で行く愚行に自分が足を踏み出せる訳が無い。
 そんな物の為に自分はこの会社を興した訳ではないのだから。

「貴官の要求を受け入れます。ただしデータを消去する際にはメインサーバーでは無く研究所内に置かれた端末を利用して貰います」
 踵を返して振り返ったメラニーは腹の奥底から湧き上がる憤怒の焔を完全に抑え込んで、素知らぬ素振りでその小柄な使者と向き合った。長い髪を真中から分けていかにも差別主義者然とした目を隠す事もしないその士官は、表情に見合っただけの高圧な態度で尋ねて来る。
「貴様、仮にも閣下のご命令を『要求』と言い換えるとは何事だ? それに閣下は確実なデータの破棄を望んでいらっしゃる、それを貴様らの用意した端末を使えなどとは事の重大さを弁えてないのでは? 」
「事の重要性は私もよく理解しております、勿論そうして頂けるのならば大変に有難いのですが物理的に困難だと申し上げているのです」
 権威を笠に着て尚も侮蔑の視線を投げかけるナカッハ・ナカト大尉と名乗る士官に向かってメラニーは静かに応えた。こめかみに青筋を浮かべて肩を震わせるその男を見て、メラニーはこの男が軽い統合失調症にでも罹っているのではないかと勘繰る。
「私共のメインサーバーは確かにこの敷地内にございますが冷却性を確保する為外部に設置されております。作業を行うのを止めはしませんがどれだけ時間が掛かるか分からない作業に耐えられる宇宙服を連邦軍はお持ちで? 」
 それが創業者としてのせめてもの抵抗だった。皮肉たっぷりに告げたその台詞に顔を紅潮させて今にも腰の拳銃へと手を伸ばそうとするその大尉の行動を見て、メラニーはこの男の病的なまでの癇癪に半ば呆れ、そしてこの様な性格破綻者が堂々と士官としてまかり通っているティターンズと言う集団に支配されつつある連邦の現状を心密かに憂えた。

 かくしてGPシリーズと呼ばれた四機のガンダムは創られた事の記録すらも許されずにこの世から消滅した。バックアップからキャッシュに至るまで、全てのメモリーから引き剥がされては消されていく至宝を目の当たりにして、その行動を密かに別室で監視する ―― 余計な部分は一文字たりとも閲覧させない決意で ―― SE達は呪詛の言葉を振り撒きながら天罰の存在を心の底からそれぞれの神に祈り続けた。


 抹消された存在に過去は存在しない、罪状の消滅したコウ・ウラキ戦時中尉はある日突然拘禁を解かれて再び軍名簿へとその名を記した。当然彼が記録した撃墜数も戦時階級も、そしてアルビオンに乗艦していた事さえも消去されたウラキ少尉は、再び地球連邦陸軍トリントン基地所属のテストパイロットへと復帰する予定であった。しかしここで奇妙な現象が彼のその後の運命を大きく揺さぶる事になる。
 消されてしまったデータから彼の戦歴を知る事は出来ないが、彼があの『阻止限界点』と言う宙域で大勢の敵を屠ったと言う記憶はその場に居合わせた大勢の将兵の脳裏へと刻みつけられている。紛争後の再編成の為に各方面へと散り散りに赴任した生き残り達の口からはウラキ少尉の奮戦振りが、まるで一年戦争の帰趨を決めた『アムロ・レイ曹長』と同じ領域での英雄譚として語られ始めた。彼が操った機体を口に出す事は勿論軍機上出来なかったが、彼が残した記録 ―― 同一戦域内での時間単位総撃破数 ―― は連邦軍を代表する撃墜王と同等の価値を持つ、そしてその希望を彼らが語らなければ最早戦意すらも喪失してしまいそうなほど最前線の兵士達は疲弊していた。神出鬼没の強兵つわものを絶えず相手にし続けるティターンズ最前線の損耗率は既に二割を超えて尚止まる気配すら見せない、蜘蛛の糸の様に細い兵站から送られて来る物資や補充兵だけでは覆せない嫌戦気分を払拭する為には理想や現実や忠誠よりも夢を語る必要があった。
 噂は噂を呼んで大きく膨れ上がるお伽噺の英雄には何時しか『悪魔払いエクソシスト』なる二つ名が付けられて一層聞く者の好奇を掻き立てる、やがてそれは前線からの絶大なる要望となって連邦軍人事部のサーバーへと押し寄せた。トリントン基地が未だに復興途中で部隊の配属すらも未定であると言う公式発表もその流れを後押しする、原隊を失ったエースの動向に対して秘匿回線を使用してまで嘆願する前線からの悲鳴を参謀本部が無視し続ける訳にはいかなかった。ウラキ少尉がシナプス大佐と同列の裁判を受けていながら厳罰を与えられなかったり、無罪同然で拘禁を解かれた事にはこの様なティターンズ側の事情が関与している。
 処分をしてしまえば確保しなければならない勢力範囲の境界ははち切れんばかりに膨らんだ風船を針で突いた様にあっという間に萎むだろう、そして自分達の嘆願を蔑にした上層部に対して何らかの不満や不信を抱くに違いない。しかしだからと言ってウラキ少尉をそのままティターンズに編入する事は不可能だった。
 彼は『ティターンズ主義』者では無いし、そうでありたいとも願ってはいない。
 
 拘禁を解かれたウラキ少尉の前へと差し出された一枚の紙、彼はそれを一瞥するなりすぐさま破り捨てて再び椅子へと腰を下ろした。彼の為に誓約書を持参したティターンズ付きの弁護士はその行動を織り込み済みだと言わんばかりの冷ややかな目で見つめた後、静かに口を開いた。
「その宣誓書にサインを頂けないと言う事は、貴官の赴任先はジャブローに一任と言う事になりますが。それでも? 」
 慇懃無礼な口調で尋ねる弁護士の顔を険しい目で睨みつけたコウは一言も喋らない、一切を拒絶する決意を湛えた黒い瞳だけが彼の意思を弁護士に伝える。
「 …… なるほど、命令不服従と言う新たな罪を重ねてでも私共に与する意思はない、と。ですが残念ながらこの宣誓書を破り捨てたからと言って貴官に罰が下される事など有り得んのですよ、貴方はもう十分に罪を償った」
 テーブルに置かれた二枚の紙を手に取り、持参した鞄へと収めながら弁護士は口元を歪ませて嘲笑交じりの声で言った。
「 ―― これからは、懺悔の時間です」

 連邦軍人事部から通達されたその知らせに配属を嘆願していた最前線の兵士達は憤慨し、抗議活動は一時的なサボタージュと言う形で前線の機能を一時的に麻痺させた。誰も聞いた事の無い地上の一基地に貴重な戦力を配備しようなどと言う暴挙を戦いに疲れた彼らが黙認出来る筈もなく、人事部の発表を非難する声はメールや書簡などと言う生易しい方法では無く、宇宙空間を飛び交う一般通信を使っての罵詈雑言と言う形で直に担当の元へと届けられた。だが不眠でそれらの声に対応する彼らですらその理由を的確に彼らに話せる筈もなく、ただひたすら理解と善処を求める返答に終始する。何故なら彼らとて上層部から送られて来た彼の処遇に対しては首を傾げざるを得なかったからだ。
 事情を知らない誰もが耳を疑うその決定に対してある種のアクションが起こったのは、ウラキ少尉が配属される基地の名を知っているごく一部の兵士から発せられた噂話からであった。発信元となった兵士達は皆一様にその基地の名を耳にして同じキーワードを異口同音に口にした。

「ああ、あの『忘却ロスト博物館スミソニアン』か」

 貴重な情報を保持するその兵士にはまるでスキャンダルを起こした女優に対してインタビューを試みるレポーターの様に大勢の仲間が群がった。そして彼らはその後に続く絶望的な説明に耳を傾け、最前線の希望の星となる筈の撃墜王が自分達の元へと配属される可能性が無くなったと言う以前に、彼がもう二度と軍の表舞台に立つ事は無くなったと言う事実を知った。勿論軍上層部の決定に対して異論や暴言が無かったと言う訳ではない、しかしあの一年戦争を席巻した『白い悪魔』と呼ばれる撃墜王が行方不明になっている事で軍の間では『撃墜王不要論』が既に蔓延しており ―― それが何らかの陰謀ではないのかと言う見解も含めて ―― 今回の件に関しても軍の方針がその方向で動いているのだと言う事を彼らに確認させるに留まった。個の武よりも集団の戦を重視すると言うティターンズの在り方に不満の声は抑制され、独自の解釈によって自らの立ち位置を確認するしか無くなった最前線の兵士達は、恐怖と権威によって作り出される選民思想に縋りながら静かにウラキ少尉の存在を記憶の縁から抹消した。


 赤茶けた大地の上にポツンと置かれた大小の建物と一本の滑走路、周囲に点在するコロニーの破片に囲まれた小基地は最低限の機能を回復するべく復旧の途上にあった。コロニー落着の爆心地から西に600キロほど離れた場所に位置するオークリー基地は一年戦争時に於いてはジオンに占領されたキャリフォルニアベース奪還の為の橋頭保として作られた最前線基地だ。しかし終戦後にはその役割を追え、軍縮の波に煽られたこの基地は再編計画によって解体放棄される運命にあった。従ってアイランド・イーズの落下軌道上に位置していたこの基地が被った被害は空城状態の建造物が衝撃波によって倒壊した以外には目立った物が無い、本来であれば解体の手間が省けたとばかりに放棄されるのが予定調和だろうとその地区へと移民して来た人々は考えていた。
 しかしある日突然軍用地の境界を示す鉄条網が周辺一帯に張り巡らされて何台もの工兵科のトラックが資材を満載して、たった一本生き残っている舗装路を連なって走る姿を見て彼らは驚いた。兵站の要衝からは遠く離れ、戦略的な価値の無いあの基地を再び立て直そうとする意図を人々はそれぞれに想像する。そしてその中の幾人かはその外観から偶然にも連邦軍上層部の陰湿な意図へと辿り着いていた。
 仮拵えの鉄条網から金網のフェンスへ、そして一定の距離を保って掲げられる『No limit』の看板。それはまるで戦時中に敵性人種を隔離した租界や収容所にも似ていると年老いた農夫達は口々に呟く、そしてその指摘が正に正中を得ている事を知る由もなく。

 一年戦争時に於いて最も割を食ったのは陸軍だと言われている。オデッサに於いて『ルビコン川を越えた』連邦軍はその舞台を宇宙へと移し、志願兵と兵種転換に合格した地上軍を引き連れてジオンとの更なる戦いに臨んだ。しかし初戦に於いて最も甚大な被害を被り、最も蹂躙された陸戦兵達の一部はそのあからさまな軍のやり様に嫌悪感を露わにして宇宙軍への参加を拒否した。敵の新兵器に対する十分な情報も与えられないまま戦線へと送り出された彼らは二足歩行で重火器を駆使するザクに手も無く打ちのめされ、目の前で大勢の仲間を失った。それでも彼らは自らの知恵と工夫で何とか戦線を維持し続け、連邦の反攻が始まるまでの期間を必死に耐え抜いて来たのだ。その功績に対して一言の労いも無く、兵種転換と称する詭弁で労働力を確保しようとする彼らのやり方は戦死者に対する冒涜の様に感じる。その傾向は激戦地を戦い抜いた古参兵により多く見られ、軍上層部は彼らの今後の扱いに苦慮し続けていた。
 戦争犯罪者ならば軍法に照らし合わせて処断し、アンデス山中に存在する『戦争犯罪者特別収容所シャンバラ』へと送る事が出来る、だが彼らは後方となった地上の治安維持の役割を淡々とこなしたままそれ以上の罪を犯す事はない。命令不服従と言う罪だけでは彼らを収容所送りにする理由には不十分なのだ。

 ならばと軍は廃墟と化したオークリーに目を付けた。燻り続ける不満分子の火種を一か所に集めて一元管理する、本隊からも程近くしかも周囲には何もない。罪状無き反乱予備軍を収容しておくにはその気候風土が最も理に適うと軍は判断し、オークリーの再建を決意した。軍務にしがみ付き続ける限り彼らがそこから余所へと移る事は出来ない、唯一そこを抜けだす方法は中途除隊と言う最も制約の厳しい除隊方法を選択するしかない。野に下った後も常に監視の目が付いて回り、再就職も軍関係以外の物に限定される。しかし戦後復興のままならない連邦社会に於いて軍の息の掛かっていない企業に就職出来る事など稀だった。そしてその企業でもそんな脛に傷持つ輩を積極的に雇用しようなどと言う度胸がある訳がない、軍に目を付けられれば明日の飯ですら召し上げられてしまいかねない情勢下では。
 オークリーへと送り込まれた彼らにはそこで生き抜く事しか選択肢が与えられない、何時しかそこは一年戦争の記憶を閉じ込めて軍の兵士から遠ざけてしまう為の施設として『忘却博物館』と揶揄されるようになっていた。体裁を整える為に集められる兵器は時代遅れの物ばかり、個人携行からモビルスーツに至るまでの殆どにその方針は徹底されている。オークリーの役割は実勢力がティターンズへと移譲された後も変わらず、そしてあの紛争に関わっていながら誓約書へのサインを拒んだウラキ少尉を含めて何人かの兵士達の赴任先も自動的にそこへと決まった。

 遥か彼方の地平に確かな輪郭を携えて聳え立つ巨大なモニュメント、オークリーから北に二十キロ離れた場所にあるアイランド・イーズの破片はしっかりと大地に根を降ろしてコロニーの落着が確かに起こったと言う事を証明する。
数多の艦船を受け入れる為に一際頑丈に作られた宇宙港の一区画は大気の摩擦にも燃え尽きる事無く、そこに大きな傷跡を刻みつけた。高さにして400メートルもある巨大なオベリスクはまるで宇宙で散った彼らの墓標の様にオークリーを見据えている、何処からでも望めて決して消える事の無いその存在こそがウラキ少尉達の『軟禁』先にオークリーを選んだもう一つの理由だった。
 常に日の光を浴びて煌めくその存在は彼らの罪に対して贖罪を求め続ける、目を逸らせばそれは己の心の内に、向かい合うならばそれは必ず瞼の裏に。彼らの心の中に渦巻く叛意を更なる後悔と自戒によって完膚なきまでに叩きのめす、彼らがその赤茶けた大地で未来の希望を失ってしまうその日その時まで途切れる事無く、終わる事も無く。
 それはティターンズが彼らに対して特別に与えた、無慈悲な暴力の姿であった。


 真空の凪の中で漂う数多の残骸がその一時だけは微かに蠢く。地球と言う青い星を閨の外へと追い出す太陽の光が風となってその空間を吹き抜ける度に、命なき戦場の屍はまるで命ある者の様に互いに身を寄せ、触れ合い、そしてまた遠ざかる。『セイレーン』と名付けられたその区画こそが『阻止限界点』と言うデラーズ紛争最大最後の激戦地、多くの兵器と乗倍の命が失われた戦場ヶ原。
 墓標を鏤めた光が奏でる鎮魂歌レクイエムは絶え間なく渚を揺蕩い、失った未来と途切れた過去を愛しむ様に声なき聲で謡い続ける。そう遠くない未来に訪れる母なる星の御手に誘われて炎と消えるその時まで。
 もし彼らの最期を一目見ておきたいとそこを訪れる者がいたとしたら、その者達はきっと知るだろう、その中でも一際大きく輝く残骸が彼らの出迎えに現れると言う事を。
 太陽の光に照らされて浮き上がる機体の色は明灰色。空間迷彩を纏わないその機体は全天不敗の意思の表れ。意図無き巡礼者に畏れを与える全容は朽ち掛けながらもその威光の残滓を残したまま、目にした者の心を鷲掴みにする。恐らく一度でも宇宙で敵と戦った者ならばそれがどういう物かを一目で気付くに違いない。
 モビルアーマー。
 大破しても尚その圧倒的な巨躯を宇宙に刻むその兵器はアクシズが密かに開発し続けた最後の切り札、掲げた両翼は折れ、手足を捥ぎ取られ、体をへし折られてもその身に刻んだ精神と付けられた名前が彼の頭を太陽へと挑ませる。傍らに浮かぶ紫の亡骸を懐へと掻き抱いて無謬の闇へと声を嗄らして。

新たな目標ノイエ・ジール』は、今も哭く。



[32711] Brocade
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:4a85b18f
Date: 2012/04/19 18:01

 何のために俺はここまで来たんだ、とコウは心の中で自分自身に問いかけた。レバーを握る両手に力が籠り、その震えは筋肉を伝わって歯を鳴らした。寒さや恐れとは全く違う衝動が全身を強張らせて抑えがたい衝動が喉を引き裂きそうになる。憤怒の雄叫びを必死で堪えるコウの目の前を巨大なアイランド・イーズは音も無く遠ざかっていく。

「敵旗艦、轟沈っ!」
 突然の戦況の変化に驚きの声を上げるオペレーター、だがその知らせを聞いた地球第一軌道艦隊司令、バスク・オム大佐の声は冷ややかだった。既に設置の完了した連邦軍最大の戦略兵器であるソーラ・システムの改良型は、無尽蔵に供給される太陽光を得る為にその反射板を展開し終わっている。拷問によって弱った視力を補う為のゴーグルの奥に潜む目を微かに曇らせてバスクは傍らに立つ副官へと呟いた。
「やはり海兵上がりと言えども所詮は女か、詰めの甘さに泣けて来るわ」
 口角を歪めながら嘲りを隠さないバスクは勢力図の一角で瞬く喪失点を一瞥する、その周囲で動き始めた敵残存兵力の動きを眺めていた副官はバスクとは対照的に、これから始まる狂騒劇バーレスクに表情を硬くした。
「閣下、『屑ども』が動きはじめました。部隊への指示を」
「フン」
 まるでその変化を楽しむ様に鼻を鳴らしたバスクは艦長席の肘当てに肘を付き、手に顎を預けながら言った。
「先鋒とシーマの艦隊をミラーの前面へと移動、鶴翼にて敵の侵攻に対処。どうせ奴らはミラーを壊しにやって来る。阿呆の様に飛び込んで来る奴らを包囲して十字砲火で殲滅しろ」
「しかしよろしいのですか? シーマ艦隊は合流したばかりで何の打ち合わせもしておりません。同じジオンの艦船同士が乱戦になればこちらで識別する事は不可能です、彼女諸共敵を攻撃する事にもなりかねませんが」
「構わん」
 命令に異を唱える副官の進言に対して、バスクはその目を遥か彼方の宇宙に固定したまま返答した。
「あの女狐共が自分達の身の安全を図る為には連邦軍の艦艇を守りながら自らの実力を示すしかない、敵がミラーに辿り着くには間に割り込んだ裏切り者を排除しなければならない。砲雷撃の応酬で速度の落ちた敵を両翼から包囲する事などガムの包みを握り潰すより容易いわ」
 ティターンズ将兵の間で『戦術の天才』と謳われるバスクの冷酷な読みに、副官は心の中で感嘆の溜息を吐いた。智将、策士と呼ばれる輩はどんなに甚大な被害が予想されようとも決して勝利から目を逸らしてはならない、情け容赦のない用兵を駆使しようとする自らの上官に彼は尊敬の念すら覚える。思わず小さく頷いてバスクの案に同意した副官の表情を横目で探りながら、バスクは薄笑いを浮かべた。
「仮にもその乱戦を掻い潜って生き延びる事の出来るもののふならば、それはそれで使い道がある。どうせ何処にも帰る場所などないのだ、精々我らの為に死ぬまで働いて貰うとしよう」
「と、申しますと?」
「我らの規模が大きくなれば『それ専門』の部隊が必要になって来ると言う事だ。世界と言うのはな、決して綺麗事だけで事が収まるほど単純には出来ておらんのだ」
 そう言うとバスクは自分の指示に逆らったまま通信を切った、銀灰色頭の男の顔を思い出しながら吐き捨てる様に言った。
「馬鹿め、シナプス。大人しく従っておけばいい物を」

「全乗組員に通達っ! 本艦はこれよりアイランド・イーズ奪還の為、同コロニー後部の宇宙港へと進路を取る。総員第一種戦闘配備っ! 」
 取り上げた受話器に向かって命令を下すシナプスのよく通る声は、突如破棄された停戦協定によって混乱する艦橋の隅々にまで届いた。コロニーの落着を阻止出来なかった失望感で行方を見失った艦橋のクルー達は、予想もしなかったその言葉に全員驚きの表情を浮かべる。シナプスの後方で全宙域の監視を司る、オペレーターのジャクリーヌ・シモン軍曹は全員を代表する様に尋ねた。
「艦長、今からコロニーを奪取しても地球への降下を防ぐ事は出来ません! ここは第一艦隊に合流してソーラ・システムの防御に回るべきです! 」
「停戦状態を維持出来ていたのならその選択も有り得た。だが、見たまえ」
 頭上から降り注ぐフランクな物言いにもシナプスの表情が変わる事はない、いやそれどころではないと言うのが本音なのだろう。事の起こりからデラーズと延々追い続けた彼には動き出した事態の深刻さがある種の予感を伴ってひしひしと伝わって来た。
「彼らはまだ諦めてはいない、指揮官を失ってでも前に進もうとするその執念がいい証拠だ。そしてその執念がいかに恐ろしい物かと言う事はここまで彼らと戦って来た我々だけしか知らない」
 断言するシナプスの言葉に全員が息を飲む、そして次の瞬間にはその洞察が正しいのだと言う結論に辿り着いた。オーストラリアでの追撃戦、アフリカ・キンバライド、そしてコンペイ島宙域での攻防。どれ一つ取って見ても彼らが命を惜しんで戦っていたと言う迷いは欠片も見られなかった。身を捨ててまで成し遂げようとしているその全てが今ここに浮かんでいるアイランド・イーズであり、それを鏡ごときで失う様な無様な最後を彼らが望んでいる筈がない。
「ソーラ・システムの射程に入る前にコロニー内の制御室に押し入り、何としてでもジャブローへの落下を阻止するのだ! パサロフ大尉、両舷強速面舵二〇。全艦対空防御っ! モビルスーツ隊も全部呼び戻してアルビオンの防御に廻せっ! 」
「艦長、第一艦隊の先鋒がこちらに向かってきますっ! この状況で戦闘に入れば敵味方誤射の可能性がありますっ! 」
 もう一人のオペレーター、ピーター・スコット軍曹の緊迫した声が響く、だがシナプスはその報告を受けて不敵な笑いを浮かべながら言った。
「ならば好都合だ。こちらに向かって撃って来る奴らは全て敵と見做して排除しろっ! 停戦が破棄されたのならばシーマ艦隊とて所属は未だにデラーズフリート、連邦の船にさえ当たらなければいいっ! 」
 グン、と掛かるGで背中を背凭れに押し付けられながらシナプスは艦橋窓の上に置かれたモニターに映る十文字の光を睨みつけた。
「ミラー前面に味方が展開している限りソーラ・システムは使えない、まだこちらに勝機はあるっ! 」

 沸々と湧き立つ怒りはコウの中に別の何かを生み出した。自我が奪われ、憑依される事の恐怖はその何かが齎す甘美な快感に手も無く屈する。弾ける殺意はコウの意識から理性と言う名の箍を外して、本能へと訴えかけた。レバーを握りしめた両手を真っ赤な血の色に染め上げた張本人、アナベル・ガトーと言う宿敵を倒す以外に収まる術がない事を。
 押しだすスロットルがデンドロビウムのスラスターに火を入れる。吐き出される六本の火柱は片側のコンテナが捥ぎ取られた機体をいとも軽々とアイランド・イーズの影へと向かって押しだした。

「おのれ、連邦め! あたし達を試すつもりかい!? 」
 グワデン撃沈の後、デラーズの残存艦隊からの意趣返しを避ける為に戦場を大きく迂回してミラーの前へと辿り着いたシーマが見た物は、自分の艦隊が連邦軍の楯となって敵の砲火に晒されている光景だった。指揮官不在のまま作戦に組み込まれた彼らが交渉による微妙な駆け引きなど出来る筈も無く、ただ背後から突き付けられた無数の主砲に脅されて敵との距離を縮めていく様は、捕虜となった戦奴が昨日までの味方へと立ち向かっている様にも見える。
 だか三年もの間、これだけの規模を単独で維持し続けた彼女の艦隊はここでその真価を発揮した。敵との間で交される砲火が熾烈を極め始めると、その圧力から逃れる様に次第に艦隊の進路を右翼方面へと向け始める。一糸乱れぬ艦列はその動きが一つの策であるかの様に敵味方に誤認させ、シーマ艦隊は大した被害も無く楯の役割を彼らの背後で憲兵の様に砲列を並べていた連邦艦隊へと譲り渡す。
「ヨーゼフめ、やるっ! 」
 主不在の艦隊をただ一人で護り続ける先任士官の顔を思い浮かべながらシーマは彼の老練な指揮を称えた。副官であったコッセルと海兵からの付き合いを続ける隻眼の男は見えなくなったその目で戦場を翻弄する、シーマの乗るガーベラ・テトラに向かってヨーゼフの声が飛び込んで来たのは天頂方向から着艦アプローチへと入ろうとした時だった。
「 ”シーマ様、ご無事で!? ” 」
 ミノフスキー粒子の戦闘濃度散布の為にその映像をモニターへと映す事は出来ない、だがシーマはいかにも慎重 ―― コッセルに言わせると臆病者 ―― を座右の銘に置くその武骨な男の険しい表情を想像して小さく笑う。シーマは荒くれ者達の中でただ一人、自分を見失わずに役目を果たそうとするこの男が好きだった。
「よくやった、ヨーゼフっ! あんたを残しておいた甲斐があった! 」
「 ”お褒めの言葉は後で、それよりこの混乱に乗じて艦隊を戦域より離脱させます。既に進発したモビルスーツ隊には帰艦命令を出しております、シーマ様もお早く” 」
 通信の最後とほんの僅かな時間を置いて、眼下の遥か彼方にあるシーマ艦隊旗艦『リリーマルレーン』が小さく光る。その輝きの意味を知って絶句するシーマ。

「シーマ様が帰艦するっ! フライトデッキ要員は着艦シークエンスの準備、ガイドビーコンを展開しろっ! 」
 激するヨーゼフの声はその人と形を覆す様にザンジバルの戦闘艦橋に轟く、だがその命令がこの状況下ではどれだけ無謀な物かと言う事が分からないクルーでは無い。自ら的に晒す様なその指示に対して、戦場を監視するオペレーターは怒った様に言い返した。
「無茶だ、先任っ! こんな所でレーザー発振なんかしたら敵に撃って下さいって言ってる様なモンだぞっ!? 」
「馬鹿野郎っ! 」
 間髪を入れずに飛ぶヨーゼフの怒声、その後に続いた無謀な命令の根拠に全クルーは沈黙する。
「俺達が仲間を見捨ててどうする!? ジオンの総帥府連中クソ野郎と同じ墓に入りたいのかっ!? 」
 怒りに震える両肩に止められたペーネミュンデ徽章が微かな光を受けて煌めく、羽織ったままのジオンの軍服の裾を翻しながらヨーゼフは叫んだ。
「俺達には、もう俺達しかいないんだっ! 」

「ガイドビーコンなんか出すなあっ! 死にたいのか!? 」
 招き入れるかのように手を広げるビームの帯を睨みつけながらシーマは思わず悲鳴を上げた。誘蛾灯に導かれる様に次々と取り込まれていく光の筋を目で追いながら、シーマは無謀な行動で仲間の帰艦を出迎える母艦目掛けて叫ぶ。
「もういい、ヨーゼフ! ここからでも十分に艦は見えている、だから早くガイドビーコンを閉じろっ! こんな所で『明かり』を付ければ命取りになるだけだぞ!? 」
 艦橋でのやり取りと同じ焼き直しを口にするシーマは、ヨーゼフの採った行動を信じる事が出来ない。回収の為に艦の速度を落とすと言う事が戦闘宙域でどれだけ危険な行為であるかと言う事を知らない男ではない筈だ。ましてや明かりを付けるなどとっ!
 アプローチの為の減速を中止して一刻も早くリリーマルレーンの傍へと辿り着く為にペダルを踏み込んだシーマの耳に、ヨーゼフの声が届いた。
「 ”シーマ様、アプローチが早すぎます。直ちに速度を落として着艦コースへ進入を。 …… 貴方様で最後です、お早く” 」
「あたしの事はいいっ! お前達の後からでも十分追い付ける、だから ―― 」
「 ”『マハル』の者が、貴方様を置いていく事など出来ないっ! ” 」
 叩きつける様に届くヨーゼフの叫びがシーマの耳朶を叩いた。反射的に抜けた両足の力が踏み込んだペダルの反発に負けてバーニアの炎を鎮める。
「 ”『マハルはマハルを見捨てない』 …… そう私共に仰ったのはシーマ様、貴方ではありませんか。貴方がいなければ ―― いえ、貴方さえいればきっと『マハル』は取り戻せる” 」
 迸るヨーゼフの想いがシーマの胸に故郷の景色を思い出させた。公国と口にしながら貧困に喘ぐ最下層の人々を一か所に押し込めて虐げ続けたと言うジオンの闇を歴史に持つサイド3・3バンチ、通称マハル。例えどれだけ貧しくとも、例えどんなに差別されようともいつかアースノイドの一員としての権利を獲得できる日を夢見て遠い星空をガラス越しに見上げ続けたあの日々。
 一年戦争末期にコロニ―レーザーへと改修された彼らの故郷はもう、ない。強制移民された彼らの仲間が一年戦争終結後に何処へと送られたのかも分からない、だがシーマ・ガラハウと言う存在がある限りマハルは決して終わらない。
 きっといつか彼女がどこかに安住の地を見つけて再びマハルの者を呼び集めるに違いない、そう信じてここまで臥薪嘗胆を繰り返して来たのだ!
「 ”我らの為にも、いえ貴方様の凱旋を心待ちにするマハルの人々の為にも一刻も早くここへとお戻りください。なあに、また宇宙海賊でもいいではありませんか。浮き草稼業もそれはそれ、なかなかに気楽でよろしいかと” 」
 シーマの耳に届くヨーゼフの声に微かな笑いが混じる、一瞬だけ忍び込んだ穏やかな調に表情を緩めるシーマ。
「分かった。取り敢えずヨーゼフ、あんたは後であたしの部屋へ来な。艦隊を守った事とあたしに対する暴言とは相殺してやる、だがあたし達の未来を語った事にはそれなりの罰を覚悟して貰うよ。それはあんたが決める事じゃ ―― 」
 言い含める様に語るシーマの言葉は最後まで続かなかった。ヘッドセット越しに聞こえる警報音が自機の接近警報と重なる、エネルギー波を感知するドップラーレーダーが指し示す方向を目で追うシーマにオペレーターの叫びが響いた。
「 ”敵機接近っ、直上っ! 全砲門対空防御っ、急げえっ! ” 」

 その邂逅は混迷する戦場ではありがちな遭遇戦の一つに過ぎない、ガトーの姿を追い求めて戦域の外周部からミラーへと近づいたコウは不自然な動きをする艦列を視認していた。ミラーを背に大きく左右に展開する連邦軍の陣形から逃れる様に右方面へと流れていく艦隊、それがジオンの巡洋艦から成る集団だと分かった瞬間に僅かばかりのコウの理性は完全に復讐の炎で焼き尽くされた。
 喉を詰まらせる激情ははけ口を求める様に指へと伝わる、流れる様に操作パネルを駆け巡る残像がOSの能力の限界を超えて火器管制を呼び出した。倍の速度で立ち上がるシステムウインドウが全天球モニターの画像を歪ませる、ステイメンの右腕が解放されて巨大な砲身の根元に立ちあがったトリガーグリップを握りしめた。
 眼下で隊列を組む彼らの取った行動は連邦にとって決して損になる取引では無かった、だがその為に多くの命を失った。あの女に騙されてモビルアーマーを月の地下で作り続けたケリィ・レズナーも、そして『星の屑作戦』の概要を手にしながら被弾して、宇宙の闇へと散って逝ったサウス・バニングも。自分の大切な物を高みでせせら笑いながら奪い、貶め、穢したままで ―― 。
 ―― 逃がさない、お前だけはっ! 

 狂った様に放たれる対空砲火は天に煌めく星の輝きを埋め尽くしても余り在る、高密度で飽和した光の壁を突き抜けて最大戦速で舞い降りる死神の姿をリリーマルレーンのオペレーターははっきりと捉える事すら出来ない。
「先任、駄目だっ! 早すぎるっ! 」
「シーマ様、離脱を、早くっ!! 」
 握り締めたマイクに向かって怒鳴るヨーゼフの耳に飛び込む絶望的な叫び、覆い被さる死の影に顔を振り上げて睨みつける全ての目。
「高エネルギー反応っ、直撃コースっ!! 」

 がくん、と引かれるグリップがジェネレーターのエネルギーの行き先を瞬時に変えた。有り余る力で巨体を奔らせたその全ては砲身最後尾にあるチャンバーへと押し込まれて縮退を強制される。慣性飛行へと移行した機体側面から伸びる90メートルの砲身は蓄えられる殺意を堪え切れず、ぽっかりと口を開けた砲口からミノフスキー粒子の圧縮によって発生する光を溢れさせた。
 不安定状態に陥った原子の質量の欠損は其れを埋め合わそうとする物理界の法則によってエネルギーを生み出す、サラミス級巡洋艦の主砲に匹敵するオーキスのメガ・ビーム砲は砲身に切られたライフリングに従って螺旋を纏いながら、その致死の穂先をリリーマルレーンの艦体中央へと突き刺した。

「ヨーゼフっ、お前らっ!! 」
 早贄にされた獲物の様に踠きながら瀕死の痙攣を繰り返すリリーマルレーンを主たるシーマは呆然と見守る事しか出来ない。天頂から放たれた馬鹿馬鹿しいほど高出力のビームは間違いなく艦中央部に位置する機関部を貫通した。
 もうすぐ、爆発が、始まる。
 目の前を駆け抜ける白い影を追う事も忘れてシーマは必死に呼びかける、その悲鳴に辛うじて応えたのはやはり彼女が留守を恃んだヨーゼフだった。恐らく艦内で発生したガスに咳き込みながらもヨーゼフはシーマに損害の報告をした。
「 ”申し訳、ありません。敵の攻撃は艦中央部を貫通、ダメコン(ダメージコントロール。被害処置)の為にAチームを向かわせてはいますが ―― ” 」
「言わんこっちゃないっ! もうそのザンジバルは終わりだ、みんなを他の艦へと脱出させろっ! 」
 身を乗り出して轟沈間際の母艦に指示を下すシーマ、だがそれに手を付けた所で間に合わない事は必至だった。誘爆を始める艦後部の炎がいよいよの時を予感させる。
「 ” ―― 現在、残存するモビルスーツを着艦口より強制排出中。シーマ様の護衛に向かわせます、旗艦の移譲はシーマ様にお任せします。 ―― どうか、お元気で” 」
「ヨーゼフっ、この大馬鹿野郎っ!! 」
 好きな男を罵声で見送る事しか出来ない自分の生き様をシーマは密かに呪う、しかし言葉に隠された手向けにヨーゼフは確かに笑いながら、穏やかに応えた。
「 ” ―― この、三年間。夢を見させて頂き、ありがとうございました。 …… どうか、必ず、シーマ様の夢を ―― ” 」

 膨れ上がる艦体がヨーゼフの今わの際の言葉を引き裂いた。湧き上がる閃光でモニターが翳る、全身を硬直させてリリーマルレーンの最期を見届けるシーマは泡の様に浮かんでは消える仲間達の面影を抱きしめながら、皮膚が破れてそこから滲み出す熱い物の味が分かるほど思い切り唇を噛み締めた。

 
 ソーラーシステムを挟んだデラーズと連邦軍の攻防は、滄海の一粟そうかいのいちぞくと化したシステムコントロール艦をガトーのノイエ・ジールが叩いた事でより一層の混迷の色を深めた。コロニーを温める事で密封された大気を膨張させて内部から破裂させようという試みは、コントロールを失ったミラーの焦点が合わなくなった事で十分な温度が得られず、破壊を免れたアイランド・イーズは神が天空に拵えた十字を引き裂く様に鏡の束を蹴散らした。自らの勝利を確信する余りに驕り昂った連邦軍は密集隊形のままアイランド・イーズの接近を出迎える事となり、無秩序に行われる回避行動は陣形を維持する処か秩序立った行動をも許さずに戦局を混乱させる。
 作戦の失敗を受けて背後からアイランド・イーズの宇宙港を目指すアルビオンは混乱する宙域へと単艦飛び込む羽目に陥った。敵と味方の砲火が入り乱れる中を迂回しながら目的地へと向かう事は無駄な時間を費やす事になる、とシナプスは全砲門を進行方向へと向けての一点突破を画策する。
 しかし既にアルビオンの火力はその30パーセントを喪失して敵の迎撃もままならない、幸いな事にコウ以外に全員生存が確認されたモビルスーツ隊を砲台代わりに据えてシナプスは作戦の継続を全員に伝えた。
 だがエンジンにも被弾して巡航速度にも届かなくなったアルビオンが果たしてアイランド・イーズに辿り着けるのか、奇跡とも思えるその可能性に皆が疑問を持ち始めた瞬間にその事件は起こる。
 アナハイムから出向していたガンダムプロジェクトの責任者であるニナ・パープルトンがコアファイターを奪って、閉鎖された左舷モビルスーツデッキからコロニーへと向かって発進したという知らせはアルビオンで未だに砲火を交える全乗組員を震撼させた。

 
 傍らから飛び出す小さな光を見つけたジムキャノンの照準は、それが瞬時にフルバーニアン仕様のコアファイターである事をAIのデータ照会によって確認する、同時に耳に飛び込んで来たモーリスのニナへの呼びかけに只ならぬ事態を感じたキースは、砲火の飛び交う宙域へと勢い良く駆けあがる炎の行方を目で追った。
「ニナさん!? まさかコロニーに!? 」
 条件反射の様に踏み込んだペダルがキースの乗るジムキャノンをアルビオンから遠ざける、だがその瞬間には敵か味方か判別出来ないビームの雨に行く手を遮られてしまう。元の場所へと押し戻されながらひたすらに進発の機会を伺うその後方で、キースの上官である二人は同じ葛藤に苛まれていた。

 キースの動きと前後する様に片腕の無いジムカスタムがスラスターを動かした。迷いも無くかつ大胆にアルビオンからの離脱を図ろうとするその動きは歴戦の兵士のそれだ、しかし対空砲火の飛び交う地獄の釜へとその身を踊らせようとした刹那、彼の行為はもう一機のジムカスタムによって阻止された。足首を掴んで逆噴射で仲間を引き戻そうとするその男は接触回線を使って一喝した。
「 ”馬鹿野郎っ! そんな機体で何しようってんだ、モンシアっ!? ” 」
 怒鳴り声にも臆する事無く聞き流しながら ”ちっ、もう気付きやがった”と口の中で毒づいたその兵士はねめつける様な視線をモニターに向けて、厭味ったらしい口調で応えた。
「ションベンに行くのにいちいち編隊長のお伺いが必要かよっ? ちょっとそこまで用を足しに行って来るだけでぇ。分かったんならとっととその手を離しな、ベイト『大尉殿』? 」
「 ”手ん前ぇ、用を足すならコクピットの中で垂れ流しやがれっ! コロニーまでトイレを借りに行く事ぁねえだろがっ! ” 」
「生憎だが俺ァ綺麗好きなんでな。昔っから水の出るトコじゃねえと縮こまって出るモンも出なく ―― 」
 モンシアの戯言に水を差す接近警報、姿勢制御のアポジをモンシアが動かした時には既にベイトの手は離れている。サイドロールで敵のバズーカを躱したモンシアの足元から放たれたベイトの弾幕は、さらに肉薄を試みたザクの四肢を存分に切り刻んで四散させた。モンシアと背中合わせで全周警戒の体勢を取ったベイトは楯の裏の予備マガジンを引き抜きながら怒鳴った。
「 ”見ろっ! 俺達がちょっと目を離した隙にこのザマだ、手ェ捥がれたポンコツが偉そうな事をぬかしてんじゃねえ! 手前はそこで対空砲火の代わりでもしてろっ! ” 」
「言ってくれんじゃねえか。そこまで言うんなら手前に聞くがよ、じゃあ一体誰が ―― 」
 台詞を切ったモンシアが突然銃を真上に振り上げた。二人の視界の死角から射程に忍び込もうとしたもう一機のザクがモンシアの放った弾幕の中に誘い込まれて被弾する、頭上で輝く爆発光に機体を染めながらモンシアは空になった銃を背後のベイトへと肩越しに渡した。
「 ―― ニナさんを連れ戻しに行くってンだ? まさか編隊長様直々に部下をほっぽらかしてコロニーまで行くってんじゃあ、ねえよな? 」
 意地の悪いモンシアの問い掛けにベイトは無言で装弾し終わった銃を渡す、アルビオンの艦橋の直前で見事な連携を披露する二人にはその問いに答えが出ない事を知っている。一年戦争を無傷で潜り抜けて来たが故にこの乱戦の中に飛び出していく事がいかに危険な事かが分かる、そんな事が出来るのは一握りの撃墜王エースか戦争を知らない新兵か、彼女の様な民間人しかいないだろう。
 戦火の中で生き延びると言う事は自分を取り巻く全ての情報を分析した上で最も生存の可能性が高い方法を選択すると言う事。巷で語られるお伽噺の様に勇気を出して火中の栗を拾いに行く事が命拾いをする為の最も確実な手段だ、と信じる連中に限っていつかは命を落とす物だ。
 それでもモンシアは敢えて手を焦がす決断に踏み切らざるを得ない。仲間の死を成す術も無く見送る事などごめんだ、と今は亡き上官の面影に向かって呟く。遺体の無い葬儀で大粒の涙を流しながら自分は彼の遺影にそう誓ったではないか。
 アルビオンの周囲へと絶えず視線を向けながらベイトの判断を待つモンシア、まんじりとした沈黙に業を煮やした彼が再び同じ問い掛けを嘗ての仲間に投げかけようとした時、突然二人の回線へと割り込む様に決意の籠った叫びが響いた。
「 ”ぼ、僕が行きますっ! ”」
 張り出したままのモビルスーツデッキに腰かけて左舷方向へと肩のキャノンを撃ちまくっていたキースが振り返った。目を切る事で途絶えた弾幕に反応した敵のモビルスーツがすかさずキース目がけて突貫する、阿吽の呼吸で放たれたモンシアとベイトの弾幕は突然の発砲に驚いて首をすくめたキースの頭上を駆け抜ける。前面へと殺到したビームの壁を躱す為に回避行動を取った敵の姿を確認したモンシアが、ヘッドセットの音量調整が最小になるくらい大きな声で怒鳴った。
「馬っ鹿か手前は!? ちっとばっか腕が上がったからって調子に乗ってんじゃねえっ! 大体手前みてえな『ドン亀』がどうやってバーニア装備のコアファイターに追い付こうってんだ、一機や二機喰ったくらいでのぼせ上がンなっ! 」
「 ”そ、そんな ―― ” 」
「 ” 中尉の言う通りだ、キース少尉。” 」
 それまで沈黙を守って自分の役割に徹していたアデルが至極冷静な声で二人の会話に割り込んだ。四人の中で最も敵に近い場所であるデッキ先端部に陣取った彼は両肩のキャノンと専用装備のビームライフルを巧みに操り、生き残っているアルビオンの対空砲火との相乗効果を狙い通りに引き出して、艦の前方に見事なまでの弾幕を描いている。漆黒のキャンバスに光のページェントを生み出す援護射撃のマイスターはキースに向かって慰める様な口調で言った。
「 ”自分達は此処でアルビオンの進路を確保しなければならない、少尉がここから離れただけで弾幕の薄くなった左舷から浸入してくる敵を抑えられなくなる。 ―― 一人前と認められているのですよ、キース少尉。自信を持っていい” 」
「誰がそんな事言ったっ!? アデルっ、俺は手前らの機体じゃアレに追い付けねえっツっただけだ! 深読みついでに余計な事までべらべらと喋ってんじゃ ―― 」
「 ”ではどうするのですか、中尉? ” 」
 耳に届いたその声はまるで差別をするかの様に固く、冷たい。『不死身の第四小隊』出の三人の中で最も理性的かつ唯一の妻帯者である彼にしてもその葛藤から逃れる事は出来ない。誰よりもコロニーの傍にいるからこそ逃げる様に離れて行ったその光を真っ先に追い掛けようとしたのは他ならぬアデルであった。伸ばす事の出来ない救いの手を抱えて誘惑に堪えるジレンマはアデルの声から思いやりと言う彼の良さを奪っている。
「 ”誰が彼女に追い付けると言うのですか? ―― アルビオンの防御で手も足も出ない我々は、一体誰にそれを頼めと? ” 」
「アデル、この野郎 ―― 」
 消去法によって唯一残ったその可能性はモンシアにとって屈辱の選択だった。アデルの誘導尋問など受けるまでもない、しかし人には絶対に譲れない相手と言うのが人生の中には必ず存在する。トリントンでの果たし合いに敗れて以来モンシアにはコウ・ウラキと言う男が自分にとってのそれだと言う事を本能的に知っていた、その男に向かって頭を垂れると言う事は自分の今までの価値観を捻じ曲げて屈すると言う意味にも等しい。
 砲火の五月雨の中をコロニーへと向かったニナを助けるのはあの『小僧』では無く自分であらねばならない。しかしベイトやアデルの言う通り、ここを離れればアルビオンを危険に晒しかねない。
 人としての信念を取るか、軍人としての義務に従うか。
 ぎり、と鳴る奥歯の音が耳に痛い。擦れ合う度に洩れる不愉快な音がモンシアの凛気を逆撫でる、奥歯が顎の力でひび割れそうになる寸前にモンシアはそれ以上自分の身体で鬱憤を晴らす事を諦め、しかし眉根を寄せて思い切り不愉快な顔を浮かべながらヘルメットのマイクに向かって怒鳴った。
「モーリスっ! 」

 艦内の状況や被害報告の飛び交う艦橋の喧騒をモンシアの罵声が凌駕した。余りの剣幕に通信士のウイリアム・モーリス少尉はヘッドセットを押さえて窓の外を振り返る、艦橋のすぐ外で対空任務に就いている二機のジム・カスタムの何処にも被害が出ていない ―― モンシアの片腕が無くなっている事は知っている ―― 事を確認しながら通信を開いた。
「 ”モーリス聞こえてねえのかっ!? 死んでねえのならさっさと返事ぐらいしやがれっ! ” 」
 再びの罵声が艦の全員の耳を引き付ける、慌てたモーリスは感度調整のつまみを掌で押さえながらモンシアの呼びかけに形通りの返信を行った。
「こちらアルビオン。中尉どうしました? 」
 じっと目を凝らして受信感度を示すメーターの針を見つめるモーリス、一度は上限を振り切った針の動きがその言葉の後に続かない。ミノフスキー粒子の干渉による混信を避ける為にゼロコンマ単位での周波数帯スクリーニングを繰り返しながら、モーリスは再び窓の外でじっとコロニーへと目を向けたままのモンシアに向かって尋ねた。
「モンシア中尉、こちらアルビオン。状況報告を、モンシア中尉っ! 」
「 ” …… 耳元で怒鳴ンなっ! ちゃんと聞こえてる! ―― 通信回線を開け、全周波数帯域オープンチャンネルでだ、今すぐにっ! ” 」
「なっ ―― 」
 立場も忘れて「気でも狂ったのか」と怒鳴りそうになったモーリスは、生来の負けん気を抑え込んでも絶句するのがやっとだった。小さく息をついて呼吸を整え、モンシアの指示をもう一度頭の中で反芻してから対抗手段となる文言を整えて反論する。だが理不尽さに対する不信は声のトーンに現れた。
「何を言ってるんですか! そんな事をすれば本艦の位置を敵味方全てに喧伝する事になります、通常ならともかく戦闘宙域での帯域開放は出来ないってマニュアルにも書かれているでしょう!? 」
「 ”やっかましいっ! つべこべ言わずにとっととやれっ! それでどっかで迷子になってやがるウラキの野郎に言ってやれ、『手前の女が大ピンチ』だってなあっ! ” 」

「誰が、何て? 」
 右舷デッキの格納庫の奥まった所にある艦内モニターに集まった整備員の中から頭一つ飛び出た大柄な女性が驚きの声を上げる、整備班の全員が『班長』と呼んで慕うモウラ・バシット中尉は褐色の肌を戦闘用宇宙服のバイザーに隠して、しかし驚きだけは露わにする。モウラの傍に立つ部下の男は決着のついたモンシアの横恋慕に意地の悪い笑みを浮かべた。
「モンシア中尉ですよ、やっとウラキ中尉とニナさんの事を認める気になった様で。往生際の悪さがあの人の持ち味だと思ってましたが、それも年貢の納め時って ―― 班長? 」
 第一種戦闘配備中の艦内に於いても格納庫で作業に従事する整備班に緊迫の色はない。彼らにとっての『戦闘配備』とは即ち味方の機体が着艦した瞬間であり、それまではどちらかと言うとリラックスしたムードが漂っているのが常だ。人が緊張を持続する事が出来る時間は二時間が限度、宇宙で整備と名のつく仕事に携わる者は皆その事を最初に上官から教わる。
 しかしその心得をモウラから教わった男は当の本人が険しい表情でモニター画面を見据えている事に訝しげな表情を浮かべた。自分と同じ反応を期待していた訳ではないが、少なくともそんな怖い顔をする所ではないだろうと言うのが彼の本音だ。しかしモウラに問い質そうとしても深刻極まるその表情の前では喉の奥へと引っ込めざるを得ない。
 あの女ったらしの意地っ張りが、そんな事を言うなんて。
 モンシアの変節はモウラの危機感を煽った。格納庫を取り囲む分厚い装甲板の向こうで起こりつつある戦況の悪化にモウラは震える、誰にも悟られない様に固く結んだ拳に力を込めた。
「全員各機体のケージと予備パーツの在庫を再確認して。それと宇宙服の酸素の残量も相互にチェック。 …… もうじき、時化るよ。」
 固い表情でそう告げるモウラの声を耳にした整備班全員の顔に緊張の色が走った。

 モンシアの無謀な提案を受けたシナプスは指示を仰いで振り返るモーリスの視線を退けたまま、顎を指で摘まんで暫しの間沈黙した。彼の進言が戦場での常識から全く外れていると言う事は確かだ、しかし敵味方が入り乱れているこの状況下ではそんな決まり事には何の意味も無い。 
 逆にそれを行う事で通信の途絶えたコウの安否が確認出来れば寧ろ好都合なのかもしれない。もし既に墜とされているのであればそれはそれで仕方ない、しかし生き残っているのであれば傷付いて速度の上がらないこの艦がコロニーに乗り込んで軌道修正を行うという一か八かの賭けに出るよりも、彼らの手にそれを委ねた方が遥かに短時間で、しかも確実だ。
「モンシア中尉、シナプスだ。中尉の提案は一理ある、しかしそれだけのリスクを背負ってウラキ中尉の安否を確認する必要があるのか? 彼の搭乗時間は既に常識的に考えられるモビルスーツの運用限界を遥かに越えている、言い辛い事ではあるが既にウラキ中尉が撃墜されている可能性の方が高い状況下では、ある」
「 ”そいつは取り越し苦労ってもんですぜ、艦長” 」
 モンシアとの回線に割り込んで来たのはベイトの声だった。片腕となったモンシアの背中を護る編隊長 ―― 嘗ての僚機は前方のコロニーを睨みつけたままでそれ以降の沈黙を守るモンシアの内心を代弁する。
「 ”考えても見て下さい。ウラキは何度あの『ソロモンの悪夢』と戦いました? その悉くを生き延びて内一回は相打ちだ。そんな『悪運』の持ち主を俺はウラキ以外に知りませんぜ。他の野郎は皆とっくに死んでる” 」
「 ”ですが、もし今回はその『悪運』がウラキ中尉の味方に付かなかったとしたら? ” 」
 ベイトの楽観論に水を差すアデルの声にはどこか深刻な感情が入り混じっている。三人の中での自分の役割が暴れ馬の騎手に等しい物とは言え、自分がその暗い可能性に言及しなければならない立場にいる事に酷い不公平を感じているのかもしれない。
「 ”幾らウラキ中尉の才能が優れていたとしても地球に居た時とは違います。慣れない無重力下で見た事も乗った事も無い機体、モビルアーマーに乗ったガトー相手では条件的にも圧倒的に不利です。それにあの『ソロモンの悪夢』が自分の戦歴に疵を付けた相手を黙って見過ごすでしょうか? 特に宇宙へ出て来てからこのかた、奴が戦いの度に見せるウラキ中尉への拘り方は、異常だ” 」
「 ” けェッ! どいつもこいつもウラキウラキとちやほや甘やかしやがって。あの野郎がこのモンシア様との決着を付けずにおっんじまう訳ねえだろがっ、もしもそんな事があって見やがれ、あの世でバニング大尉の前で手ェ着かせて謝らせてやるっ! ” 」
 アデルの危惧を一蹴したモンシアが突然銃を振り上げて艦の進行方向へと射線を吐き出した。アデルの牽制から逃れようとしたドムがリード射撃の交点に飛び込んでハチの巣になる、コントロールを失いながらも最期の一撃を試みるその機体をアデルのビームが貫いた。膨れ上がる光点に向かって艦首を飛びこませるアルビオン、残っていたデブリが艦の外壁を乱打する。

「モーリス少尉、通信回線の全帯域開放を許可する。電文は君に任せる」
 シナプスの決断は迅速だった。後背に命令を受けたモーリスは小さく頷くと通信機器へと向き合い、しかし電文の内容を任された事に思い留めて復唱交じりの質問をシナプスへと向けた。
「全帯域に向けての通信回線を開きます。 …… あの、艦長。電文は? 」
「 ―― 君に任せる」
 振り返った先にあるシナプスの顔がにやりと笑う、モーリスは人の悪い笑顔から視線を逸らした後にふと何かを思い当たり、通信回線を開いてこの指示の発案者であるモンシアに尋ねた。
「モンシア中尉、今からアルビオンより全ての帯域で通信を行います。発、ベルナルド・モンシア中尉。宛て、コウ・ウラキ中尉。電文内容『手前の女が大ピンチ』でよろしいでしょうか? 」
「 ”なんだそりゃあ!? それじゃあまるで俺がウラキの野郎の為に花を持たせてやった様に聞こえンじゃねえか! てめ、モーリスっ。通信士だったらもっと気の効いた言い回しとか出来ねえのかっ!? ” 」
「 ”手前が自分でそう言ったんじゃねえか。この期に及んで四の五の言ってんじゃねえ ―― ” 」
 ベイトの台詞が自らの射撃音で覆い隠される、艦首の至近を横切るザクの頭はその一撃で吹き飛んでいる。止めを刺そうとしたモンシアが逃亡を図ろうとするその機体を見送りながら背中を護るベイトに言った。
「 ”勘違いしてんじゃねえ、女を落とすにゃあ押しの一手じゃだめなンでぇ。相手が安心した頃合いを見計らってその隙をついて掻っ攫う、浮気ってなあそっちの方が燃えるんだよ、なあ、アデルっ!? ” 」
「 ” ―― お言葉ですがモンシア中尉、自分には経験が無いので分かりません” 」

「けっ! どいつもこいつもっ! 」
 モンシアは小さく頭を振ると苦笑交じりのアデルの声を一喝してモニターを睨みつけた。コロニーとアルビオンとを繋ぐ一本の道に立ち塞がる爆発光と、まるで親の敵の様に次々に押し寄せる敵のモビルスーツは時と共に数を増している。歴戦を自認する自分の目から見てもその宙域を突破してコロニーに辿り着ける可能性のある者はただ一人しかいなくなった。モンシアはAIが表示する高脅威目標の距離数字を次々に目で追いながらモーリスへと告げた。
「モーリスっ! 言い方なんざどうでもいい、ウラキの野郎が返事したらニナさんが一人でコロニーに向かったと伝えろ! 」
 二、三、四、と敵の数を数えながらモンシアはその中でも動きの鈍い、恐らく対艦装備で挑んで来るドラッツェに向かって照準を固定した。ロックオンを示すマーカーの点滅と追尾装置の作動音がコクピットに充満する。
「 ―― そうすりゃ嫌でもケツに火ィつけて飛んでくに決まってる、ニナさんの帰るとこだけは俺達がしっかり守っといてやるから ―― 」
 恐らく敵の抱えた対艦ミサイルの射程よりも手前の位置でモンシアはトリガーを押しこんだ。散布されるビームの一本が敵のミサイルを直撃して一際大きな花火を繚乱の宇宙に生み出す。
「 ―― 手前は死んでも惚れた女を連れて帰って来いってなあっ! 」



[32711] Ephemera
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6ac7193b
Date: 2012/05/06 06:23
 目まぐるしく攻守を入れ替えるその二機はどちらも一人の女性の発想から生まれた二機のガンダム。ニナ・パープルトンと言うエンジニアが自らの才覚と閃きを頼りに形作ったモビルスーツは出自を同じくしながらそのコンセプトを大きく違えている。
 過去の連邦軍のモビルスーツには無かった巨体と圧倒的なパワー、そして膨大な火力を有して戦場をひた走る試作三号機は拠点防衛と言う戦略上の勝利を単機で得る為に作られた、連邦初のモビルアーマーと言っても過言ではない。コクピットユニットをコントロールコアに配して、合体時の火器管制と運用統制を行うという発想はプロトタイプガンダムや試作一号機のパーツ構成と理論上は同じだが、核となるモビルスーツ『ステイメン』と母体となる武器庫『アームドベース・オーキス』に組み込んで同様の制御を行うには機構的に無理があった。
 コンテナ内に装填された武器はオーキスのOSによって管理されており、パイロットは二機が合体して『デンドロビウム』の名を得ると同時に二つのOSを運用する事になる。機体の制御に関してはステイメンのOSが主導権を握るが火器管制となるとそうもいかない、コンテナにある16個のウェポンスロット内にある武器とオーキスに設置されたメガビーム砲とクローアーム、そしてステイメン自身の武器も掌下に収めるとなるとその操作と制御は煩雑を極める。
 加えて巡洋艦に匹敵する六基のスラスターから齎される強大な推進力は、少しでも気を許すとあっという間にパイロットの意識を根こそぎ刈り取る。事実この機体のトライアルがアナハイムの研究施設兼自走ドック艦である『ラヴィアンローズ』付近で行われた際、襲撃して来た中隊規模のジオン残党軍モビルスーツ部隊を迎え撃ったテスト機はその全てを殲滅した後にテストパイロットの人事不省が起こり、最終的には漂流中の所を恐慌状態で救助を待つ敵のビームに被弾して爆散した。

 テストパイロットとして過酷な訓練を積んで来たコウはこの機体がどれだけ危険な物かと言う事をシートに腰を下ろした瞬間に感じ取った。コンピューターで画像処理されているとはいえ、生まれて初めて座る全天球型モニターの中央で制御パネルと共に浮かぶ自分はまるで宇宙に体一つで放り出された様に落ち付かない、そして全身に張り巡らされたセンサーから絶えず送り込まれる情報はコウの視野の届く範囲の至る所でウインドウを立ち上げる。それらを片っ端から読みこんで的確な判断を下すのは制御するパイロットの仕事はいえ、その量は余りにも多すぎた。優れたパイロットは与えられる情報の取捨選択を瞬時に行って必要な物だけを掻き集め、最も有効な方策を弾き出すのだがこれではその暇も無いと言うのがコウの本音だった。
 だがコロニーがいよいよ地球へと接近しつつあると言う時にそれを慮っている暇はない、OSが抱えた欠点を丸呑みにしてコウは試作三号機を戦いの海原へと漕ぎだした。
 コックピットで見つけたルセット・オデビーからの手紙の内容を、ニナに黙って握り潰したまま。

 シーマの乗るガーベラテトラは後方から猛スピードで迫るデンドロビウムとは用途も経緯もその見た目も全くの別物だ。試作一号機が重力下での機動性と簡単なOSの書き換えとパーツの換装を行うだけで空間機動にも対応出来る汎用型だったのに対して、試作四号機として登録されたそれは純粋に空間内白兵を実現する為の高機動型機種として開発された。
 体の各所に設けられた姿勢制御用のアポジモータの数は年鑑に記載されたどのモビルスーツよりも多く、そして両肩に大きく張り出したフレキシブルバーニアは見る者の目を特に引き付ける。マッチョな印象を決定付ける大きな手足はAMBACアンバック(Active Mass Balance Auto Control ;能動的質量移動による自動姿勢制御)に優れている事の証明、極端な推力偏向機動ベクタードスラスト・マニューバの実現を可能にした緋色の機体はガンダムの名を冠するに相応しくないモノアイを後方へと向けながら、距離を詰めて来る巨大な影を嘲笑うかの様に身を翻して躱した。
 オーバーシュートで眼前を駆け抜ける敵目がけて引き金を絞るシーマだが、その急激な機動に耐えられるほど人の身体は強靭ではない。脳を揺さぶられた事による一時的な五感の喪失はシーマの手から何度も決定機を奪っている、百分の一秒にも満たない空白でも狂った様に疾駆するデンドロビウムが射程外へと逃れるには十分過ぎる時間だ。
「ちいっ! またしてもっ! 」
 眼下で螺旋を描きながらブレイクする白い背中を追い掛けながらシーマの両足がペダルを蹴る、水道の蛇口をひねる様に吹き出す炎が矢の様にガーベラを押しだして漆黒の宇宙を切り裂く、追い縋るシーマに向かって放たれるフレアの閃光を、光量を調節するモニターの後ろで目を細めながらすり抜ける。
 眉間に深い皺を刻んだシーマの心中に宿る物はもう復讐では無い、それは宇宙で幾度も刃を交えたその敵の著しい変化から齎される恐怖だった。
 モニター上で小さくなったデンドロビウムの後方炎の向こうで未だに艦列を乱したまま逃げ惑うデラーズの残存艦隊、シーマはマイクに向かって敵となった彼らに向かって叫んだ。
「そこのデラーズの艦隊っ! 真上から敵が来る、急いで迎撃しろっ! さもないと ―― 」
 しかしシーマの叫びは届かない、それは再び生まれ始めた光の数珠によって証明された。

 巨大なコンテナの蓋が開いて頭を覗かせる四番と八番。デンドロビウムの齎す慣性を身に纏った二個のスロットは一気にコウの進行方向へと躍り出た。艦隊警護の為に終結したデラーズのモビルスーツ部隊だけはシーマの警告を受けて何とか対空迎撃の布陣を整える事に成功したが、出来る事はそこまでだった。ほぼ密集隊形をとってコウの進路に立ち塞がる彼らの丁度中央部で、先行したスロットは各面に埋め込まれた弾体を猛烈な勢いで吐き出した。
『ヘッジホッグ』の名が付いたその武装は空間掃討の為に設計された対物専用邀撃ミサイル。撃ち出された108個の小型ミサイルは絶対零度の宇宙空間に点る小さな熱を感知して根絶するまで追いかける。まるで絨緞爆撃の様に生み出される光の中で次々に蹂躙されるモビルスーツとそれを操る兵士達。スパンコールで覆い尽くされた薄幕を突き破るかの様に突進したデンドロビウムが刹那に吐き出す槍は、シーマの母艦を葬った威力を再び宇宙へと顕現させた。

 ビームの衝撃によって鉈で割られる様に艦橋から潰れていくムサイの傍を駆け抜けながら、シーマは自分を支配している感情が何であるのかと言う事を知る。自分の手から大事な物を奪った憎き相手、それはシーマが裏切ったデラーズの艦隊を奴が屠ったからと言って何の変わりも無い。それ以上にシーマには、今自分が相対している敵が途轍もない存在に変わり果てている事を恐れていた。
 殺人鬼。
 倫理を失った兵士ほど恐ろしい物はない。人の命を奪うと言う行為をより効率的に突き詰めた存在は理性と本能の境界線上にある倫理と言うコードによってその行動を制約されている、言うなればそれこそが彼らを犯罪者と言うカテゴリーから遠ざけている前提と言ってもいい。だからその境界から一歩でも外に踏み出せば彼らは罰せられるべき犯罪者だ、それを防ぐ為に軍法と言う物や条約と言う物が存在する。例えどんな些細な過ちを犯しても民間と比較して厳重な罰が与えられると言う事も、それを抑止力として彼らの倫理に働きかけようとする狙いを持っているからである。
 しかしもし何らかの心の働きによりその抑止を失って、目の前に現れる全ての物を障害物同然に排除する兵士が現れたらどういう事になり得るか、その具体例が今まさにシーマの目の前で繰り広げられている光景である。
 既に戦闘能力を失ってのたうつ様に戦線からの離脱を図ろうとする艦艇に対しても何の斟酌も無く実力を行使するその姿を見て、シーマはそれが既にモビルスーツと言う形をした災厄だと言う認識を持った。死と言う祟りを撒き散らす悪魔をこれ以上人の世で活動させる事は許されない、湧き上がってくる危惧と使命感はシーマの心の中に僅かに残っていた正義とも呼べる欠片だったのかもしれない。
 推進剤を残らず使い切るつもりで猛然とダイブするシーマ。絶対的な恐怖に挑もうとする人間は過去にも大勢いただろう、その誰もがこんな絶望的な気持ちで立ち向かったのかと心の中で慮りながら、それでも殺意に満ちた眼差しだけは遠ざかっていく白い悪魔の影を捉え続けていた。

 内なる声に耳を傾け。
 外なる声に耳を塞いで。
 ただコウは心の底から湧きあがる灼けた衝動に身を委ねたまま、モニターへと表示される高脅威目標の点滅へと目を奔らせる。事の善悪に意識を回す暇などない、ただ後天的に植えつけられた軍人としての論理が味方を示す青を外して赤い表示を追いかけた。血を求める様に走り出す指先と連動する白い巨体は中央に置かれたちっぽけな魂を核として、それの望むままに全ての力を行使する。命乞いなど無意味であると、吐き出す炎は次々にジオンの艦艇をその乗員諸共千々に引き千切った。
 乾き、渇え、復讐と言う喉を潤す為にコウは更に血を求める。強大なメガ・ビームの連射は絶対零度の真空下での物理を捻じ曲げて砲身を歪ませる、オーキスのAIがそれ以上の連射は不可能と判断した瞬間にそれはついに訪れた。砲身の溶融を防ぐ為にオーキスのAIは強制的にトリガーをロックして安全装置を掛ける、コクピットに充満する警告音と使用不可の点滅を瞬時に視認したコウがたちまち次の命令を火器管制へと伝達した。
 ステイメンのアビオニクスをオーキスへと接続するコンマ何秒かの間に必要な移行コマンドを頭の中で反芻する、それだけでも脳の中が掻き回されるほどの負担がコウに突き刺す様な頭痛を与える。
 腰を浮かせる様な振動と共にオーキスの下部が小さく開く、まるで蝦蛄の腕の様に折り畳まれていた巨大なアームが次の瞬間に空間へと姿を現した。蟹鋏の先端が開いて奥に仕込まれた柄を掴む、モビルスーツを縦に何機も並べた程の長大な光の剣が、眼下で対空砲を撃ち上げるムサイへと迫った。

「な、何だアレはぁっ!? 」
 回避運動を繰り返しながら必死で戦線を立て直そうとするムサイの艦橋は前方より迫り来る光の帯に目を奪われてそれ以上の叫びを失った。宇宙を縫い上げる光の羅列は目標へと向かう対空砲火、一撃必殺の効果を持つ主砲は突然の目標の変化に対応が間に合わない。それでもありったけの火力を注ぎ込んでの阻止行動はそれなりの成果を上げる筈、だと信じた。
 信じなくてどうする、一発でも掠りさえすれば、敵の侵攻スピードをほんの僅かでも鈍らせる事が出来れば。
 しかし彼らの望みは、そして願いは目の前に翳された刀身が起こした物理現象の前に脆くも潰え去る。柄より吹き出したメガ粒子を固定する為に形成されたIフィールドの鞘は外部から侵入しようとするメガ粒子にも同じ効果を発揮し、発生した斥力を持ってこれを遠ざける。弾かれていく対空砲火の光跡を目で追いながら士官達は尚も絶望から逃れる為にあらんかぎりの声を絞り出す、無駄だと分かっていても何かを成さずには居られない。それが人としての本能だ。
 呆気無く訪れたその瞬間にも彼らの喉は希望や未来を信じ続ける、しかしその望みを引き潰すのは艦橋を据え物の様に絶ち割る巨大な光の刃だった。発する熱が全ての機器と命と指示系統を蒸散させる、脳漿代わりの酸素が断熱膨張で水蒸気へと変わって棚引いて行く傍を駆け抜けた白い死神は最大限の旋回半径で再び傷付いたムサイへと襲いかかる。状況の分からぬままに船を動かす彼らの全てを逃すまいとするその刃は真横から一気にムサイの胴体を切り裂いた。寸分の狂いも無く駆け抜けた切っ先で破壊された熱核炉が一瞬の沈黙の後に光を吹き出し、それは艦内に残った弾薬に引火して想像以上の閃光を宇宙空間へと解き放つ。

 グレイアウト寸前の意識の中でシーマは彼我の戦力差を思い知った。どう足掻いてもこれ以上のパワーをガーベラに求める事は出来ない、あの悪魔と拮抗する為に必要な唯一のアタッチメント ―― シュツルム・ブースターは轟沈したリリー・マルレーンに置きっぱなしだった。それを失ってしまった今となってはアレに追い付くどころか傍へと近寄る事すら出来ない。加えてあの機体が持つポテンシャルの高さはシーマの生存本能に警鐘を鳴らすほど巨大で、不気味だった。前面に展開される火力はジオンのモビルアーマーのそれであり、今し方明らかになった下部のアームには常識外れのビームサーベルが仕込まれている。唯一死角として考えられるのは機体後部下面と上部、しかしそれをカバーする兵装が存在しない等考えられない事だった、これだけの破壊力を見せつけられた今となっては。
 MIWDSミューズ(Minovsky Interference Wave Detection System;ミノフスキー干渉波探知システム)によって表示される敵との距離が離れていく数値を血走った眼で睨みながら、シーマの卓越したエースとしての頭脳は勝機を求めて目まぐるしく回転する。たった一度でいい、奴が足を止めて攻撃しなければならない兵装を使いさえすれば ―― 。

「 ”シーマ様、お引きを! ” 」
 覆い被さる絶望から現実へと引き戻したのは聞き慣れた声だった。編隊の三番機として常にシーマの背中を護り続けた濃緑のゲルググMはシーマに先んじてその混沌とした戦域の只中にいる、周囲を敵に囲まれながらもシーマの露払いを続けた彼の機体は既に直進もままならないほど傷だらけだ。
「ヒンメルっ! お前っ!? 」
「 ” ここは危険です、それにその機体は目立ち過ぎます。直ちに戦域から離脱して残存艦へと ―― ” 」
「馬鹿なっ! このまま何も出来ずにやられっぱなしで居ろって言うのかい!? 大体 ―― 」
 シーマの口から迸る事実は多分ヒンメルにも分かっている、宇宙の孤児同然となった我らに帰る場所など既にない、全部あの悪魔が手にした鎌でズタズタに切り裂いたではないかっ!
「 ―― 何処へ引くって言うんだいっ!? 」
 
 シーマの叫びに絶句するヒンメル。しかし僚機として長く彼女の懐刀を務め続けた彼にはその発露となった根源が分かっている。シーマ・ガラハウと言う敬愛する上官が今最も何を欲して、何を成そうとしているのか。そして彼女の為に戦い続けた自分が彼女の為に何を為さねばならないのか。
 ヒンメルはパネルに表示されているダメージレポートに視線を走らせた。損傷率三割は本来であれば直ちに戦域を離脱して修理を必要とする数値、しかし今の自分の何処にそんな必要が? 連邦に帰順した今となっては生き残った所で処遇はたかが知れている、誇りを失う様な生き方を今更選択するには遅きに失する。
 その一瞬のヒンメルの思考は彼の意識から周囲の状況を見失わせるに十分な時間だった。下方より突然浮かびあがって来たムサイが対空砲火の照準をヒンメルとシーマの機体へと合わせる、ロックオンのサインを示す警告音は彼の四肢を反射的に動かすには役立ったが、それで十分な回避行動が取れる筈も無い。
「! 何いっ!? 」
 推進力の半減したバーニアが機体を押し上げて射線上に未だに身を晒していたガーベラを突き飛ばす、その瞬間に一斉に吐き出された主砲の火線は逃げ遅れたゲルググの両足を一度に吹き飛ばした。パーツの致命的な損傷によって発火する爆砕ボルトが残ったガラクタを脱ぎ捨てて、ヒンメルはコントロールを失った機体を制御しながらムサイの影に向かって怒りの咆哮を叩きつけた。
「おのれ、背後から撃つとは卑怯な! それでもジオンを名乗る誇り高き士官かっ!? 」

「ヒンメルっ! 」
 突き飛ばされたガーベラをあっという間に制御下に置いて、シーマは手を伸ばせば届きそうな場所でくるくると舞うゲルググに向かって叫んだ。間欠的に噴き上がるアポジとバーニアの炎がその機体の主の存命をシーマに教える、だがその後にするべき事が思い浮かばない。傷付いたまま何とか姿勢を保とうとする彼女の守護者は緩やかな軌道を描きながらシーマに向かって言った。
「 ”シーマ様、どうやら自分はここまでです。私はあの恥晒しムサイを道連れに囮となります、シーマ様はどうかその隙にあ奴の息の根をお止め下さい。” 」
 ヒンメルの言葉の中に隠された洞察が強くシーマの胸を打つ。彼女の望み、そしてその目的を知った上での捨て駒になろうとする僚機に向かってシーマはそのたった一言を告げる事が出来ない。「生きろ」と今彼に告げる事がどれだけ不遜で葬送の礼にそぐわない物であるかと言う事を知り、否定によって生まれ出ずる怒りに震えながらシーマは憤怒の息を堪えて告げた。
「分かった、頼む。 …… 長い間ご苦労だった。あんたもいい男だったよ、ヒンメル」
「 ” ―― 光栄で、あります。 …… ではっ! ” 」
 恐らくシーマの言葉はある意味ヒンメルの想像の埒外にあった物だったのだろう、一瞬の逡巡の後に漏れた小さな笑いがシーマの耳にこびり付いて離れない。送り火の様に火を伸ばしたゲルググのバーニアがその傷付いた機体を一直線にムサイの上部艦橋目掛けて押し出した。

 上部構造に向かって肩を突き出したヒンメルのゲルググは対空砲火によってハチの巣になりながらも最期の役割を十分に果たした。艦橋下の構造部に激突したその機体が自爆によって諸共に散華する様を唇を噛んで見守るシーマ、心の底で彼の願いが思惑通りに果たされる事を強く願いながらその時を待つ。
 ヨーゼフから託された望みは彼女の中に渦巻く怒りで歪に姿を変えた、今自分が本当に望む物はヒンメルが私に捧げた祈りにも似た呪いに違いない。しかしそれを成し遂げてこその未来が必ずある筈だと信じる。
 アレを、このまま生かしておく訳にはいかないのだ。戦いの負の部分を具現化した悪魔を野放しにする訳には。

 よろよろと戦線を離れようとするムサイが放つサインを血に飢えたコウは見逃さない。艦上部から火花を散らしながら熱核ロケットに火を入れたその艦はシーマが思ったよりも早い時間で戦闘速度へと移行した。恐らく生き残った士官達が何とか兵を遣り繰りして指揮を執っているのだろう、その復旧の早さはいかにも歴戦を重ねた艦であったのだと言う事をシーマに向かって知らしめる。しかしその先に待ち受けている彼らの運命 ―― そしてヒンメルの思い描いた小さな戦略はまるで全てを予期した様に、シーマの望む通りに展開した。漆黒の闇を駆け抜けて再び襲撃の位置取りを行うデンドロビウム、傷付いた獲物へと止めを刺しに掛かる猛禽は巨大な刃を閃かせて再び突貫を敢行する。
 しかしムサイの乗員はそこで座して死を待つほど暢気な連中では無かった。存亡を賭けて撃ち上げる対空砲火にはうろたえる事の無い強烈な意志が込められている、そしてその砲火のど真ん中へと機体を進めかけたデンドロビウムはシーマにもはっきりと分かるほど怯んでその機体を翻した。
 それこそシーマが待ち望んだ切っ掛けの予兆だった。明らかに速度の落ちた白い機体を下方に置いて素早く機体を移動させる、恐らく奴は再び距離を置いて襲いかかれる場所を探すに違いない、攻撃ポジションを探して獲物の周りをぐるぐる回る隙を突いてその真上からダイブする。
 地にのたうつ獣の死を待つ禿鷹の上から襲いかかる者は居ないと奴は踏むか? 気が付いた時にはもう遅い、オオタカの鋭爪は貴様の命をその存在ごと毟り取る。
 何度目かの旋回の後に巨大な刃が機体の下へと隠れていく、状況の変化に勝機を悟ったシーマはコックピットの底までフットバーを踏み込んで機体を猛然と加速させた。

 それはガトーと相見えた時まで隠しておいたたった一つの兵装だった。オーキスのマニピュレーターを解除して兵装コンテナへとアクセス、変更に伴うキーコントロールと手順がコウの脳裏で鋭い爪を立てる。目の奥が痛むほどの激痛を堪えながらコウはコンテナのハッチを解放した。
 遠距離砲撃の為のメガ・ビーム砲は未だに砲身が冷却できない、苛烈な敵の対空砲火によってコウはビームサーベルの間合いにすら近寄れない。業を煮やしたコウの狂気は迷う事無くそのとっておきを使う事を選択した。パージされた三番の蓋の後に飛び出す巨大な銛、後部モーターに点火したその鏃は有線の長い尾を棚引かせて艦体前方に繋がれていた大気圏往復用のシャトル ―― 通称コムサイ ―― を上面から貫通した。突き出した切っ先の先端が開いて返しの為のフックが掛かる、一本の有線で繋がれたムサイとデンドロビウムは互いに引き合いながら三次元の綱引きを宇宙で始めた。
 打ち込まれた銛を力づくで引き剥がしに掛かるムサイは鯨の様にもがきながら力の全てを推進力に廻す、対空砲火は必死でその筒先を漁師に向ける。だがその努力を嘲笑う様にムサイの周りを全力で周回するデンドロビウム、繰り出される有線はその軌道をなぞるかの様にムサイの艦体を縛り上げる。
 一定のテンションで巻きつくその有線の正体を知る者はそれを打ち込んだ漁師以外にはいない、何度目かの旋回の後に訪れた限界はコンテナの底に固定されていた綱の端を引き千切って、ムサイを軛から解き放つ。諦めた様に機体を離すデンドロビウムとこの機を逃すまいと全力での離脱を試みるムサイ、だがそれがコウの使った兵装の真価の始まりだった。

「あれは ―― 」
 デンドロビウムが手放した綱の端が突然火を噴く。断線を起点とする起爆はあっという間に絡みついたムサイの艦体へとその触手を伸ばした。火を点けられた鼠が奔る様な速さで爆発の連鎖を起こす光景を見たシーマはその兵装の正体を口走った。
「 ―― 爆導索っ! 」
 それは本来空間上に散布された機雷を除去する為の軽爆薬。マインスイーパーと呼ばれる武器をその様に使う等と言う発想がシーマにはない。しかしそれは逆にあの機体を操る敵のパイロットのセンスが実に柔軟で機転に満ちていると言う証でもあった。縛り付けた綱が誘爆を起こす度にムサイの艦体表面は紙屑の様に歪み、へこむ。まるで圧壊深度に達した潜水艦の様に外から内へと潰されていく新たな生贄の姿から目を逸らして、シーマはその場を離れて次の獲物を探している筈の白い機体を追い求めた。爆導索が全て燃え尽きると同時に起こるムサイの爆発光を手掛かりに反射を探す、そしてシーマの読みは的中した。
「動きを、止めたかっ!? 」
 離断の際の反発と爆発による衝撃波で翻弄される白い機体は機体の軸線を未だに進行方向へと向ける事が出来ないでいる。アンコントローラブル状態の敵の上面がまるで無防備で眼前に置かれている事を視認したシーマが、全ての力をこの一撃に注ぎこもうと手にしたライフルの引き金を引き絞った。

 敵を仕留めた事で発生する一瞬の隙が命取りになると、何度もバニングに言われた。しかし正気を失ったコウは過去に説かれた諫言も忠告も何一つ思い出せない。湧き上がる高揚と興奮を憶えたままの淀んだ感情が更なる犠牲者を求めてコウの五感を支配する。殺意に塗れるその身体が緊張で震えあがったのはまさにその瞬間だった。
 突然コクピットに充満するロックオン警報と降り注ぐビームの嵐、全天球モニターを埋め尽くさんばかりのそれは着弾の衝撃を持ってコウの本能へと訴えた。
「! 上っ!? 」
 顔を振り上げたその先。破壊されて飛び散る第一装甲板と緩衝材の飛沫と共にポツンと灯る赤いマーカー、だがその敵が桁はずれの速さで接近している事は飛ぶように減っていく距離数値の動きで分かる。天より降り注ぐ致死の流星群はコウがその数値を読み取ろうとする間にも絶え間なく降り注いで、何発もの直撃をデンドロビウムの上面装甲へと叩きつけた。着弾の度にモニターの画面が所々消滅する、上部のセンサーを潰されている事と機体に発生する不具合はリアルタイムでコウの前面へと表示される。機能不全を示す赤い文字を読み取る間もなくコウの身体は回避運動の為のブレイクを開始した、しかし。
「くそっ、スラスターが ―― 」
 全開位置にまで押し上げたスロットルに追従する筈のパワーが無い。慌てて目を奔らせたその先で点滅するダメージレポートには主機四番、補機二番の停止と自動消火中である事を示す黄色の文字が浮かび上がる。既に上部の殆どのモニターを消し飛ばされたコウには敵との正確な位置関係を知る術がない、残ったスラスターに全てを委ねてコウは機体を一気に正面へと走らせた。再び推力を取り戻すまでの永遠にも似た時の最中に敵の手に掛からない事を必死に祈りながら。 

 リリースしたエネルギーパックがガーベラの顔面を掠めて後方へと飛ぶ、速度を上げたデンドロビウムへと肉薄するシーマの腕は高機動時には至難の業とされるマガジンチェンジを苦も無くやり終えた。ボルトを引いて新たなカートリッジをチャンバーへと送り込んだシーマはボルトが撃発位置にくるのを待ち切れずに引き金を引く。再び吐き出されるビームの束は距離が近づくにつれて確実に、そして正確にデンドロビウムの機体を穿ち始めた。相手を完全に間合いに捉えたシーマは怒りに身を震わせながら眼下の敵に向かって大声で恫喝した。
「お前は一体どっちの味方だっ、この化け物っ! 」

 覆い被さろうとする死の吐息に包まれたコウの脳が激しい火花を散らして時間を止める。それが死の寸前に齎されると言うパラダイムシフトと呼ばれる物なのかどうかを知る事は、この結果が出てみなければ分からない。全てがコマ送りになった世界の中でただ一つ、コウの指先だけが元の速さでキーの上を駆け抜けた。呼び出された機体制御系のプログラムの中から、機体のコントロールを失わない為に組み込まれた推進系と制動系のバランスプログラムを選択して、有効か無効のどちらかを選択する。
 もう打つべき手は一つしかない ―― 『無効ディザブル』。

 眼前のモニターにはっきりと機影を浮かび上がらせた白い巨体が震えた。着弾の衝撃で悶絶する他に発生する異常で不規則な振動は、長年に渡る苛烈な戦闘経験によって回避行動の前兆であるという事をシーマは自身の経験に照らし合わせて知った。
 だがそんな悪足掻きが今更通用するほど離れている訳でもなければ、自分の腕が未熟な訳でもない。既にモニターに白い機体の輪郭を露わにした目標を彼女が見失うには全ての要件が欠けていた。
「そんな中途半端な機動でこのあたしを騙せるとでもっ!? やり過ごそうなんて ―― 」
 シーマの台詞の終わりを待たずに吐き出されたデンドロビウムの制動用バーニア、加速途中の機体を一気に減速する推力はそれを予測していたシーマが呆れるほどあっさりと巨体を空間へと繋ぎ止める。オーバーシュートを狙った逆噴射に合わせて肩のフレキシブルバーニアを作動させるシーマ、再びの眩暈が彼女の視界を曇らせる。ドリフト機動と言う、従来ではソロモンで喪失したフルバーニアンしか出来なかった機動特性によって、敵の輪郭をモニター中央に浮かびあがったレティクルの上に置いたシーマは、ぼやける視界の中で自らの勝利を確信した。

 機体の中心を正しく貫く様に設計されているデンドロビウムの推進器。大気という抵抗を持たない宇宙空間に置いては方向転換にスラスターの偏向という手法が用いられるのが一般的な常識だ。
 主機四本、補機二本で構成されるデンドロビウムのスラスター。其の全てがフライバイワイヤー方式によって操作され、パイロットの意志を受けて自在に動く事によって巨大な機体は自由に宇宙空間を飛び回る事が出来る。だがサラミス級の半分と言うジェネレーター出力の強大さはデンドロビウムの機動性能を司る偏向スラスターの自由度を大幅に制限している。
 人の体が耐えられるGの限界は約9から10G。如何にハードが高性能でも其れを操るソフトが耐えられなければ意味が無い。故に設定された機動力はどちらかと言うと一年戦争で開発された初期のモビルアーマーのそれに等しい物だった。デンドロビウムと言う機体が保持する『拠点防衛用』と言う役割が其の必要性を認めなかったと言う事も其の設定に寄与した事は否めない。
 限定された拠点だけを防御する為の戦術兵器。其の為に装備されたウェポンコンテナであり、Iフィールドジェネレーターである。万が一敵の襲撃に遭遇した場合には彼女を制御するステイメンが分離して迎撃行動に移行する。もっともその様な事態が発生した時にステイメンが駆使できる火力はデンドロビウムの其れには遥かに及ばない。だからといって強大な火力を失う事を惜しんで分離を躊躇うようであればデンドロビウムは其の攻撃の前に為す術が制限される。空間内機動性能に置いてはビグロやヴァルヴァロ程度の自由度しか持たない、時代遅れの機動兵器にしか過ぎないのだ。
 だが、コウの手によって制御系の制約をカットされた今ではその公式は当てはまらない。パイロットの身体を保護すると言う人道的な思い遣りと引き換えにして得る事の出来る現実は、その巨体が抱えた業を人の意思が続く限り弄ぶ事の出来る殺戮の世界。狂戦士バーサーカーと変貌するコウは握り締めた『グラム』を引き抜いて頭上の敵へと切っ先を向けた。

 コウのコマンドによって消去されたオペレーションプログラムは其のシステムの基礎理論を立ち上げたニナ・パープルトンの思惑を超えて彼の手中に収まった。機体前部に備え付けられた上下八本の制動バーニアの内上部の四本だけが持てる力の全てを吐き出して、狂った様に空間内を疾走するデンドロビウムを押さえ込む。アンバランスに働く力の衝突は容易くデンドロビウムの巨体を其のモーメントの発生に委ねた。正中線の軸が歪んで機体後部から前方下部に向って推進力が移動する。胴体を圧し折らんばかりに作用する暴力的な力はオーキスを支える骨組みとコウの体を限界まで軋ませる。
 機体の損壊を回避しようとするデンドロビウムは其の瞬間に機首を大きく振り上げた。宇宙と言う海の中で獲物を求めて荒ぶる巨大な魔物、天の星星を一呑みにせんとばかりに差し上げられる禍々しいその長い鎌首。
 一瞬にしてピッチアップを果たしたデンドロビウムは勝利に慢心したシーマのガーベラ目がけてそのあぎとを大きく開いた。

 揺さぶられた脳が機能を回復して視覚の補正を始める刹那に、シーマはモニター上で起こった異変に気が付いた。無機質な四角で構成されていた敵の巨体の輪郭があっという間に消失して真円を描く、その意味が理解できたのは円の中に刻まれたライフリングの突起が数えられるほど至近に接近した時だった。
「何ッ!? 」
 吼える様に叫ぶ声と全身の神経を駆け巡る緊急回避の操作はほぼ同時、両手両足を狂った様に動かして積み重ねた戦闘経験と条件反射によるルーティンを行使しようと試みる。 だが指呼の距離へと迫った黄泉の風穴から逃れる為には僅かながら時間と運が足りなかった。高機動によって鈍った四肢機能と長く愛機として連れ添ったマリーネライターを凌駕する加速は、携えた慣性を逆噴射で償却できずに緋色の機体をあっという間に突き出されたメガ・ビーム砲の砲口へと叩きつける。潰れていくモニターの後ろから姿を現す金属の塊はシーマの前に設えられていたモニターを邪魔だとばかりに下半身へと押し付けた。 砕けていく背骨の音と破裂する内臓の鈍い音を脳裏に響かせながら、喉を埋め尽くそうとする生温かい液体を堪え切れずに吐き出した。衝撃によってひび割れたバイザーの内部を汚す赤い液体で視野を奪われたシーマが訪れる死に向かって呪詛を放った。
「畜生っ! こんな事が ―― 」
 許されるか、と。夢と未来を同時に引き潰された女が全身全霊で神を呪う。だが次の瞬間に起こった事は必然とも呼べる現象だった。気密を失ったコックピットが吐き出す酸素と共にシーマのバイザーを粉々に割った。霧と化して外へと飛び出す自分の血を睨みつけながらシーマは最期の抵抗を試みる。残った力の全てを振り絞って何度も押し込むトリガーボタン、しかし彼女の期待にガーベラが応える事はもう、不可能だった。
 彼女の機体はお節介な製作者の良心によって設定された保護システム、緊急脱出の手順を機械的に始めていた。仕込まれた爆砕ボルトの火薬を全て点火して、生存する為に必要なパーツのみに限定しようとするAIの試みはコックピット以外の全ての部品をパージする、しかし彼女の腰の下で起こった爆発が彼女自身の命を安堵する事は叶わなかった。
 イジェクトロックは外されたまま、しかし脱出ポッドを吐き出す力はデンドロビウムの質量によって阻まれる。目の前が急に暗くなって全身の筋肉が痙攣する、それが減圧症ベンズによって引き起こされた物なのかそれとも今わの際に起こる物なのかすら判断出来なくなったシーマが肺の中の酸素と共に、目の前に突き付けられた砲口に向かって絶叫した。
「お前の様な奴が、戦争を呼ぶっ! お前の様に自分の我儘を通そうとする輩が。お前の様に理想に殉じようとする愚かな魂がっ! 」
 それは自らが掲げた理想の為にその身と矜持を穢し続けた哀れな戦士の訴えだった。ザビ家しかりデラーズしかり、マハル再興を心に誓った彼女の心に取り入って闇を押しつけたあざとい連中の面影に唾を吐きながら、顔も見せぬまま天上へと自分の魂を還そうとする愚か者を罵倒した。噴き上がる最後の酸素がシーマの頭から赤いヘルメットをもぎ取って、収められていた翠の髪を弄ぶ。暗闇の底にポツンと灯った小さな光は微かな熱を伴ってシーマの顔を照らし出す。
「お前のした事が許されると思うな、正しいと思うなっ! あたしの罪がお前に罰せられると言うのなら、お前の罪も何れは誰かの手で罰せられる。だから ―― ! 」
 膨れ上がる光源が盲いたシーマの瞼の隙間から眼球へと忍び込む。網膜に映り込んだ白亜の輝きに満たされたシーマは迎来する天使の御手をそこに感じながら、しかしもう二度と辿り着く事の出来ない楽園に背を向けて、穏やかな声で言った。
 最期の息と共に吸い込まれていく怨嗟の寿ぎを、まだ見ぬ悪魔に手向ける様に。
「 …… 先に行って待っててやるから早く来な、坊や。もっと、可愛がってやるからさ ―― 」

 天上目がけて屹立した砲身を駆け抜ける螺旋の輝き。励起したメガ粒子は収束したまま神へと挑む様にその全てを天空へと吐き出した。舞い散る穢れた戦士の魂が、せめて御座の階にまで届く事を望みながら。



[32711] Truth
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6ac7193b
Date: 2012/05/09 14:24
 心を砕かんばかりに逆巻いた殺意の激流が突然訪れた静寂に飲み込まれていく。苛まれ続けた頭痛が嘘の様に止んでコウはその目と耳を取り巻く世界へと傾けた。
 規則正しく鳴り続ける機器の作動音と何処までも広がる漆黒の空、上面のモニターが破壊された事で全周囲を収める事は叶わなくなったが、屋根付きの視界はコウに一時の平穏を齎した。アポジを吹かして機体を転回させて周囲に残る敵の姿を追い求める、だがステイメンのAIは探知できる範囲の何処にも敵がいないと言う無残な現実をコウに伝える。持てるポテンシャルを残らず発揮して拠点防衛の任と言う名の殺戮を全うしたデンドロビウムの真ん中で、コウは音も無く逝き分かれていく緋色の破片を追いかけながら呟いた。
「何人、殺した? 」
 押し寄せる罪の意識と痛む良心がコウの身体を大きく震わせた。忘我の境地にありながらその過程を冷酷に記録し続けた黒い瞳を固く閉じ、バイザーを両手で覆って光を拒む。
「 …… どれだけ死ねば、この戦いは終わるって言うんだっ」
 頭を垂れながら吐き捨てた言葉の影に隠れた多くの未来をコウは惜しみ、嘆き、そして悔やんだ。バイザーを覆う手を染め上げる見えない血がグローブの縫い目から直にコウの手を濡らして重くする、零れ落ちて逝こうとする魂の糸を手放すまいと力を込めて握り締める掌にその資格はない。体に染みついた人殺しの烙印を自らの心へと押し付けたコウの身体が起こす変調、臓腑の底から込み上げるえぐい酸味を必死で喉の手前で押し留めて、肩の力で押し戻す。
「ガトー、これが義の無い戦いに身を委ねた者の末路か。 …… お前と俺の手の色は違うと、お前はそう言うのか」
 手足に枷の重みを感じながら、コウは勝ち名乗りを上げた宿敵に向かって呟いた。ソロモンでの邂逅、そして通信機越しに交わした断片的な会話、奴は言った。「私の戦いは義によって成っている」と。
 同じ戦場で互いを求めて駆け抜けながら血泥に塗れてのたうつ自分と綺麗なままで誇らしげに胸を張る奴との間にどんな違いがあると言うのか。踏み拉いた命数を拾い上げて棺を埋めればその嵩はきっと同じか、奴の方が高い筈だ。それでもアヌビスの天秤は奴の罪を羽に変えて俺の罪を裁きにかけるのか。
 ただ答えが欲しかった。自分の犯した罪を正当化出来るだけの理由が欲しかった。殺さなければ殺されたんだと正当防衛を掲げるにはあまりにも一方的過ぎる、そして自分は戦いの最中に彼らを生かしたまま逃がす事も出来たのだ。
 しかし湧き上がる衝動がコウの意思を封殺して、ひたすら止めを刺す事を強制した。甘美な音色と妖艶な調に心を奪われたコウは趣くままに壊し、砕き、殺した。蛮族の魂が憑依したとしか思えない自分の行動が戦争と言う名の殺し合いの中でも正当には扱われない事だと分かる。
 分かっていたんだ!

 悲観的な思考の中で出口を見失ったコウの吐息が荒くなる、交感神経の変調は血中の酸素濃度を上げて過呼吸の前兆を現し始める。一時的なHVS(Hyper Ventilation Syndrome;過換気症候群)に陥りそうになった事を自覚したコウは慌ててシートの下に固定してあった箱を引っ張り出して蓋を開いた。
 ウレタンの窪みに固定された三本の円筒。その内の一本は既にここへと赴く前に使い切って空のまま収まっている。コウは小さく『2』と書かれた真ん中の筒を摘まみあげて先端のキャップを外した。
 インジェクターと呼ばれる簡易注射器の中にはデンドロビウムのOSを扱う際に発生するストレスを軽減する薬剤が封入されている、とルセットの手紙には書かれてあった。コウはコックピットの気密を確認して袖を捲り上げ、冷たいステンレス製の先端を肌に押し当ててからボタンを押しこんだ。
 飛び出した小さな針の先端から圧搾空気によって送り込まれる薬剤が筋肉内へと浸透する、万力で握り潰される様な強い痛みに顔を顰めながらコウは空になった円筒を再び元の窪みへとはめ込んだ。底に感じる固い感触はウレタンの下に隠された連邦軍の正式拳銃、それが決して自分の身を護る為に置かれている物では無い、と言う事を自覚してコウは静かに蓋を閉じて大きく息を整える。

 不思議な事にその薬剤はともすれば鬱に陥りそうになるコウの感情を逆方向へと引き上げる効果を持っていた。懺悔の泥沼に深く沈んだままだったコウの思考は幾度かの深呼吸を繰り返した後に正常に近い領域への帰還を果たす。勿論人としての良心を元通りに取り戻すと言う訳にはいかない、ただ自分の犯した罪が一体誰のせいであるかと言う事に気付いたコウは、その全てを清算する為の唯一の手段を思い付いた。

 全ては、お前のせいだ。 ―― アナベル・ガトー。
 俺はもう戻れない。俺の戦いをお前が私怨と呼ぶならば俺はその誹りを甘んじて受けよう。
 だが、お前だけは許さない。俺の全てを壊した報いは ―― お前の命で贖ってもらう。

「ガトー …… 何処だっ」
 背負う十字架の重みを委ねる為にコウは磔っせられるべき罪人の名をぽつりと呟く。茨の冠を被ってゴルゴダを目指すのは俺じゃない、例え丘へと繋がる階段に足を取られようとも手足を杭で打ちつけられても、最期に掲げられるべき者の名はお前の名前でなければならない、そしてその脇腹に鉄槍を突き立てるのはお前と最後まで関わり続けた百卒長としての俺の役目だ。
 恨みに埋め尽くされた眼が大きく開いて焦点を取り戻す、頭を上げた先で未だに点滅を繰り返す遠く離れた戦場へと姿を現す巨大な影。それが地球軌道上を一周して再び現れたアイランド・イーズであると言う事は直ぐに理解できた。
 後何周すればあの巨大な人災は地球の大気圏へと踏み込むのか、学校の校庭で見上げた空を輝きながら通り過ぎたコロニーの姿とその後に起こった悲劇の数々を思い出して、コウは思わず身震いした。
 もしアレがジャブローに落ちればそれは連邦軍総司令部の壊滅と言う被害に留まらない、6万メガトン級とも言われるその破壊力はアマゾン川流域の森林を残らず焼き払って地球上の酸素供給サイクルに甚大な被害を与えるだろう。そして恐ろしい事にその被害を直ちに復旧させる為の手段が無い。
 機械や建築や植林では賄えないほどの損失は地球環境に著しい影響を及ぼし、一年戦争で負った傷が癒されないままに人類は再び激変する自然の猛威との対決を余儀無くされるのだ、敗れた自分達が住み慣れた土地を追われたあの時と同じ様に。

「 …… あれは? 」
 明滅を繰り返す主戦場の光はアイランド・イーズにつき従う様に地球軌道上を移動している、シーマとの戦いが自分とコロニーとの距離をこれ程までに引き離しているとは予想外だった。これではアルビオンからの通信は様々な電波の妨害にあって自分の元へと届く事はないだろう。
 コウはアルビオンとの通信回路を開いて、ガトーに関する何らかの情報を得る為にデンドロビウムの舳先をコロニーの影へと向けた。そしてそれらの物とは全く性質の違う小さな光がよろめきながらコロニーへと吸い込まれていくのを見たのは、正にその瞬間だった。
 目を凝らして見つめなければ他の輝きに埋もれてしまいそうなほど頼りない輝きがコウの目を捉えて離さない。誘う様に手招きをするその航跡を追い掛けていたコウの脳裏にその時、ある疑問が過った。
「 ―― あのコロニーは、本当に、ジャブローに落ちるのか? 」
 アイランド・イーズが最終的に地球軌道を目指したのは月で推進剤に点火してからだ。34万4000キロも離れた場所から進発した移動目標が誰の手も借りずにそのまま地球上の一点へと狙い澄まして落ちると言う発想には無理がある。宇宙には絶えず天体からの重力が干渉して移動物体の慣性に様々な影響を与える、唯一の例外は全ての重力が均等に釣り合って物体を安定させる緩衝宙域 ―― 七つのコロニーが置かれたラグランジュポイントと呼ばれる平衡解だ。
 たった今自分が考えた様に、地球軌道上を周回しているあのコロニーが後何周で地球の大気圏に突入するかは分からない。と言う事はそれを確実な物として、狙った場所へコロニーを投下する為には最後の軌道調整を行わなくてはならない。
 地球を取り巻く数多の人工衛星がその任務を終えた後に軌道を変えて、大気圏で燃え尽きてしまう様に調整されるのと同じ手順で。

「そこにいるのか、ガトーっ! 」
 居場所を確信したコウの腕がスロットルを押しこんだ。息を潜めていた六本のスラスターは主の命を受けてコーンノズルを震わせながら炎の尾を伸ばし始める、凶暴な加速係数がコウの肉体をシートに押し付けて循環器にまで影響を及ぼした。虚血を起こして眩む意識に殺気を捻じ込んでコウは燃える様な視線を太陽の輝きに輪郭を露わにしたコロニーへと向ける。戦場の残滓がデブリとなって機体に触れては弾け飛ぶ、相対速度を上げて押し寄せて来るそれらを蹴散らしながらデンドロビウムは傷だらけの巨体を引き摺って、混沌渦巻く戦場へと再び舞い戻った。

 無駄だと分かっていながらニナは、操作パネルの前に立つ銀髪の男との微かな繋がりにその可能性を見出すしかない。だがニナが嘗て愛したそのジオンの士官は翻意を求めるニナの表情へとその鳶色の瞳を注いだ後に、堪え切れなくなった何かを吐き出す様に言った。
「 ―― ジャブローでは無いっ」
 矢の様に放たれたその一言がニナの思考を真っ白にする。そんな馬鹿な、聞き間違いだ、とニナは自分の耳を瞬時に疑った。大勢の命を踏み台にして、自分達の指揮官まで犠牲にして得た人類史上最大の破壊力を持つ戦略兵器は彼の手中にある。彼は一国家が総力を上げても為し得なかった偉業を達成しようとしている寸前にあるのだ、その彼が ―― 今、何と言った?
 言葉を失って立ち尽くすニナに向かって、ガトーは深刻な表情を浮かべて言葉を続けた。
「そこに落としては、意味が無いのだ。 ―― 私達の犠牲の」
「犠牲って …… 」
 ガトーの引き締まった唇から零れて来る言葉の一つ一つがニナの思考を混乱させる。疑問の鍵となる単語を復唱したまま呆然とするニナを置き去りにして、ガトーは再びパネルのボタンへと手を伸ばした。
 元々定点に浮かんだまま居住設備として利用されるスペースコロニーが能動的に空間を移動する事はない。準備されている推進剤は例えばそのコロニーの軌道が何らかの影響で平衡点から離脱し始めようとした時 ―― それはしばしば起こる現象だ ―― や、致命的な損傷を追った際にそれを太陽へと廃棄する為の物だ。ガトーの前にあるパネルはその為に設けられたものであり、そしてそれは複雑な打ち込みや数値の変更を行わなくてもちょっとした星間航行の知識がある者ならば誰でも操作が出来るほど単純化されている。
 ボタンを一つ押しこめばコロニーの軸線が変わって予測軌道が壁面の液晶パネルに表示される。生き残っているセンサーから集められた外部情報と照合された結果がアイランド・イーズの内部にある中央制御管制室 ―― 通称グレイブ ―― へと演算室から送られて来る。そしてその落着点は太平洋上の一点から徐々に東へと移動を始めていた。
「多くの者が命を落とす事に賛同してくれたこの作戦もこれで最終段階になる。私がここにいるのは、このコロニーを決してジャブローに落とさない様にする為だ」
「じゃ、じゃあ貴方はこのコロニーを一体どこへと落とすつもりなの? 」
 落下予測を表示するパネルを見上げたまま微動だにしないガトーの視線を追うニナは、緩やかな放物線がジャブローのある南米大陸の上部に位置する巨大な大陸の中央付近でぴたりと止まるのを見た。予測誤差を含めた小さな円がその点を中心として周囲へと広がる、だがその縁が大陸の形状を示す輪郭線から外へとはみ出す事はなかった。
「最も連邦の戦力に影響を及ぼす事が少なく、そして連邦の経済力に大きな打撃を与える事の出来る場所 ―― 北米大陸中央部に位置するカンザス・コロラド・オクラホマの州境、『コーンベルト』と呼ばれる連邦最大級の穀倉地帯」
「そんな。 …… それじゃあ貴方達は地球にいる人達の食べ物を奪って飢え死にさせるつもりなの!? 何の罪も無い大勢の人達を ―― 」
「残念だが私はそこまでロマンチストでは無い。確かに一時的には収穫量の低下で物資の不足や価格の高騰はあるかも知れんが、核を使用していない以上荒れ果てた大地にも草木は育つ。人が生きようと望む限りは、な」
 その口ぶりが嘗てのこの男の面影をニナに思い出させる。ジルベルト・フォン・ローゼンマイヤー、私が最初に愛したひと。去来する甘酸っぱい記憶を振り払う様にニナは頭を振ってガトーに尋ねた。
「じゃあ、どうして ―― 」
「 ―― 君は今日、その答えを見た筈だ。ニナ・パープルトン」

 禅問答の様にガトーから返された質問の答えをニナは見つける事が出来ない。苦悩を露わにするニナへと視線を流したガトーはそのまま顔だけをニナへと向けながらその解をはっきりと告げた。
「我々が起こした反乱に対して行われた様々な策謀、そしてコロニーの接近を見越した様に設置されたあの戦略兵器。 …… この状況を利用して人類を二分する対立を画策し、その勢力を広げようとする集団」
「それは連邦軍の中で自分達の力を増そうとしている人達の事? 軍内部の一部の勢力がそんな大それた事を考えているなんて信じられないわ」
「仮に彼らがそういう動きを見せたとしても、それは奴らの走狗に過ぎない。事の本質は ―― そして私達の真の狙いはその先で息を潜めて世界を操ろうとしている連中だ。権益を独占し、世界を牛耳る為にありとあらゆる手段を使って全てを混沌へと導こうとしている奴らが、この宇宙のどこかにいる。 …… 『アスラ』と呼ばれる謎の集団が」
 断言するガトーの目に嘘はない、そういう嘘や言い逃れが出来ない人物であると言う事をニナは知っている。貫く様に投げかけられた瞳から伝わるガトーの決意がニナの心を震わせた。
「疲弊した経済を補う為に連邦は必ず動き出す、残った軍事力を行使してスペースノイドを恫喝してでも影響力を維持しようとするだろう。その先に訪れる混沌こそ奴らが世界を掌握する為に必要な好機。反連邦と連邦と言う対立構造は再びこの世に戦乱を齎し、地球圏で巨額の資金が流動する。多くの命と引き換えにして」
「そんな、他人事のようにっ! 」
 淡々と未来の悲劇を口にするガトーをニナは非難した。彼は再び戦争の引き金を引く為にこの戦いを起こしたと言うのか、人類の半数を失ってもまだ終わりの見えないこの世界で更なる悲劇を積み重ねる為に!
「そんな事が許されると思ってるの!? 貴方がした事はそういう連中に切っ掛けを与えただけじゃない、これじゃあ貴方達がその連中の手先になって状況を作り上げた様にしか、私には思えない! 」
「奴らが世界を手に入れてからでは遅すぎるのだ。もしそうなってしまったら奴らは望んだ時に望むがままに戦争を起こす事が出来る。今日私達が行った事と同じ様な物ですらも、指一つで」
「でも貴方はその為の切っ掛けを作ったのよ。それを今更そんな言い訳で取り繕おうなんてっ! 」
 胸の内から込み上げて来る怒りがニナの視界を滲ませる。零れ落ちそうになる涙を堪えるニナに向かって、ガトーは静かに言い放った。
「 …… 分かって貰おうと思ってこの話を君にした訳ではない。私達がした事は奴らが刻もうとする時計の針をほんの少し先へと進めただけなのだ。予定にない世界の変化は息を潜めて機会を伺っていた奴らを必ず社会の表層へとおびき出す事が出来る。 ―― 閣下亡き今、私は閣下の遺志に賛同する者達を更に募って奴らと戦わなくてはならない。奴らが創ろうとする未来を否定する為に」
「聞きたくなかったっ! そんな事の為に ―― 」
 長い間ニナの心の底に深く沈んでいたその疑問が突然声となって口を吐く。抑え切れない衝動は叫びとなって二人の他には誰もいない、広い空間へと木霊した。
「 ―― 死ぬために、私の前から突然姿を消したなんてっ! 」

 残響が何度も二人の間を行き交った。目の届く位置にいながら決して触れる事の出来ない距離、そして今の二人を隔てる大きな溝。交わる事の無い平行線の淵で睨み合いながらニナはあの日の真意を問い質したかった。肩を震わせて拳を握るニナの姿に向かってガトーは、ニナにしか聞かせた事の無い穏やかな声で優しく語り掛けた。
「 …… 全てを忘れて欲しかったのだ、月に身を委ねて時が満ちるのをひたすらに待ち続けたあの日の偽りを。私が命を捧げて戦ったジオン公国ですらも奴らの手によって操られていたと知った時、既に私の未来は決まっていた。そんな私の運命を君に背負わせる事は出来なかった。少なくとも自分の未来を信じて健やかな日々を過ごしていた、あの時の君には」
 ガトーの脳裏に浮かぶあの日のニナ。金色の髪を揺らしながら弾ける様な笑顔で駆け寄って来る彼女の顔を思い出す。
「私の事など忘れて新しい未来を歩んで欲しかった。人と出会い、恋をして、子を生み、育て。 …… 私が歩む事の出来ない未来へと進んで欲しかったのだ。汚名を雪ぐ為に修羅を選んだ、生き長らえる死人となった私の事など忘れて」
「忘れてたわっ! 」
 ガトーの瞼に浮かんでいた彼女の幻想が慟哭によって砕け散る。強奪しようとしたガンダムの情報を入手した際、そのシリーズのOSを作り上げた者が彼女であったと言う事にガトーは少なからず驚いた。ニナを近づけまいとして自分の選んだ行動が逆に彼女を引き寄せてしまったのかと後悔もした。だから今度こそ本当に彼女を自分の背負った運命から遠ざける為に、あの日の真実を明かそうと決意したのだ。
 しかしガトーの記憶はニナの口から零れたその叫びで見事に覆された。二人が別々に過ごした三年という月日の間にそれぞれの運命は、とうの昔に次元を変えて交差している。 上から見れば交わっている様に見えて、しかし視点を変えれば決して交わる事の無い三次元の平行線。ガトーは自分とは違う並行パラレルへと身を置いた彼女の顔を、目を細めながら無言で眺めた。
「 …… なぜ。どうして私の前にまた姿を現したの? 貴方だと知らなければ、思い出さなければっ! 私はこんなに苦しむ事はなかったのにっ! 」
 詰る様に放たれる聲が胸に刺さる。小さな痛みによって齎される大きな驚きを心に秘めて、ガトーはニナから視線を逸らした。再び見上げるモニターに表示されたアイランド・イーズの推進機関が点滅を始めた事を確認したガトーは、小さな声でぽつりと呟いた。
「出逢うべき者を、見つける事が出来たのか? 」

 二人の間に穿たれた溝を満たそうとする沈黙。流れ込む水音の代わりに二人の耳へと忍び込んだのは推進機関の再起動の準備が整った事を知らせるアナウンス。合成音声マシンボイスで流れる警告とパネル上で点滅を始めた赤い光はガトーの手を小さなボタンへと誘った。グローブを嵌めたままの指先がそれを強く押しこむと、耳障りな音と共にすぐ傍にあるシャッターが開く。手動点火の為の赤いレバーをじっと見下ろしながら、ガトーは言った。
「 ―― 私達がここでこうしている瞬間にもこの宇宙の何処かでそう言う者達が大勢生まれているのだろうな。 …… ならば尚の事、私は。」
 不退転の決意を言葉の端へと残してガトーの手がレバーへと伸びる。その光景を追い詰められた獣の様な目で見つめるニナ。理によって埋め尽くされた動機を力の無い手で掘り返しながら、ニナは必死で盤面に刻まれた文字を思い出そうと試みる。
 しっかりして、ニナ・パープルトン。貴方は何の為に危険を冒してここまで来たの?
 このコロニーをジャブローへと落とす意思がガトーに無いと分かっても、地球にいる人達がこの先苦しむ事には変わりがない。そして私の過去がそんな犯罪に加担したと言う事を私自身が認めたくない。それに今そんな事をしなくてもその事実を彼が声高に叫び続ければ、いつかは誰かが気付く筈だ。テロによって世界を動かそうとする彼らの企みは、どんな正当な理由が存在したとしても決して許してはならないのだ、人はそんなに蒙昧でもなければ無知でもないっ!
 抗う心がニナの身体を動かした。目の端に映り込んだ金属の塊に向かって無我夢中で手を伸ばしながらニナは、全く別の所で囁く声を聞いた。
 ―― それが、本当に、貴方の本心なの?

 手の中に収まったそれは冷たく、重い。生まれた時から人に害を与える為に創られたそれは自分の造った物と同じ世界に属する。アルビオンへと乗り込む時に口頭で説明された銃の構え方を必死で思い出しながらニナは、三つの将星が重なる先にガトーの姿を縛り付けた。
 利き足を後ろに引いて足の裏全体で踏ん張り。両手で銃把をしっかりと掴んで両脇を締めて。肘を内側に向けて反動が真っ直ぐ肩に伝わる様に固定して。安全装置が外れている事を ―― 。
 それが外れていると言う事をニナが知った瞬間に世界は揺れた。歯の根を揺らすその震えは高熱に浮かされた患者の様にニナの唇を痙攣させる、必要以上に籠められた力が銃の先に浮かんだガトーの姿を大きくぶれさせて狙う事すら許さない。トリガーガードに差し込んだ人差し指が僅かな隙間を何度も往復して綺麗な爪に見えない疵を付ける、指の腹に当たる引き金は自分がそう望んだだけで的となった相手の命を一瞬にして奪うだろう。
 殺すと言う事は、そう言う事。
 人の意思が機械を通じて反映されると言う行為には必ず結果が付いて回る。今まで気付きもしなかった残酷な法則を初めて知ったニナはその時、今の自分と同じ様に武器を片手に戦い続けているコウの顔を思い出した。
 彼はまだそこにいる。戦うごとに、殺すたびに屠った者の人生に連なる多くの希望と未来を奪い、代わりに書き換えられていく自分の未来と運命を呪いながら。それでもまだ彼は砕けた心を引き摺って背徳に塗れた醜い宇宙そらを駆け巡る。
 コウ。貴方はこんな思いをしながら今まで戦って来たと言うの? こんな気持ちを抱えて、それでも貴方はまだ ―― 。

「 …… 君は、変わったな」
 ニナに向かってそう語り掛けたガトーの目は、いつの間にか震える将星の間へと置かれていた。相手が自分の決意を受け入れていると言う事に安堵を憶えたのだろうか、ニナの震えはその声を境に収まった。もしかしたら自分の願いを聞き届けてくれるのかも知れないと言う甘い観測がニナの緊張を抑えたのかもしれない。
「私が知るあの日の君ならばこんな所へわざわざ危険を冒してまで来る筈が無い、ましてや人に向かって銃を突き付けるなど。父の権威の影に怯えて故郷を離れ、フォン・ブラウンへと逃げて来たあの頃の君では考えもつかない。 ―― 何故、君はここへ来た? 」
 鳶色の瞳に宿る優しい光に目を奪われていたニナが、再び身体を強張らせて銃を構えた。先んじて用意してあったその答えを台本に書かれた台詞の様に、ニナは声に出して音読した。
「貴方を止める為よ、私にはその責任がある。シリーズ全ての機体の基礎理論を考え、それによって大勢の死者を出してしまった責任を取る為に私はここへやって来た。このコロニーはもう止められない、貴方達の思う通りになってしまったけれど、それでも私はこれ以上犠牲者が出る事を望まない。 ―― このコロニーは最も被害の出ないヒマラヤ山中か、オーストラリアのシドニー湾へ落として見せる。だからそこをどいて、ジル。 …… いえ、アナベル・ガトー」
「それは嘘だ」
 ニナの決意を真っ向から否定したガトーの言葉が銃口を一つ、大きく揺らした。目に見えない大きな刃が胸を貫き、呼吸は致命傷を追った怪我人の様に荒くなる。喉に張り付く粘った唾をごくりとの呑み下して、ニナは頭を何度も振った。
「嘘じゃないっ。私は貴方を止める為にここに来た、本当よっ! 」
 何に向かって自分は抗っているのか? 自問自答を繰り返して銃口を揺らすニナへとガトーは小さな笑みを寄越した。そこが落着間際のコロニーの中である事すら忘れ去ってしまう程穏やかな顔で。
「気が付かないのか? …… 『何』の為にここへ来たのか、じゃない。『誰』の為に、君はここに来たんだ? 」

 ガトーの問い掛けはニナの心を護っていた固い殻をいとも容易く打ち砕く。剥がれていく建前 ―― 自分はそれが本心だと信じ切っていた ―― の奥から浮かび上がって来る本当の気持ちに向き合ったニナの目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
 真っ直ぐに向けられたニナの蒼い瞳を見つめていたガトーは既にその事に気付いていた。昔とは違うニナの行動や心境、自分に銃を突き付ける動機までもが自分の知らない彼女である事。そして子を奪われる親の様に牙を剥き出して威嚇する彼女の姿は、絶対に守らなければならない物を手にしている人のそれであると言う事に。
 そしてその者は恐らく今でも彼女の傍にいる。
「 …… 君の大事な人間を私の戦いに巻き込んでしまった事はすまない、と思う。そして彼の『罪』を軽くする為に手を汚そうとした、君にも」
 ニナ・パープルトンという少女をここまで強く育てたその男の事をガトーは尊敬した。血の繋がりや立場などでは決して到達できない所まで彼女を磨き上げた彼に一度会ってみたかった。今となっては望むべくもないその願いを頬笑みに変え、しかし全てを振り払う様に表情を硬くしたガトーは再び眼下のパネルに視線を落とした。ガトーの一挙手一投足に注意を払っていたニナの手が反射的に銃の狙いを定める、震える手を目の淵で確かめながらガトーは強い口調で言った。
「だが『星の屑』はもう始まってしまったのだ。事を成してこそ私達の志を継ぐ者が現れる、私が奴らと戦う為には更なる力が必要なのだ。 …… 分かってくれ、ニナ」
「止めて、ガトー! 私は貴方を撃ちたくない、だから ―― ! 」
「私を殺すか? 」
 反射的に放った殺気は一年戦争にその名を轟かせた『ソロモンの悪夢』ならではの物、ニナの指は当てられた様に動きを止める。無意識のうちに行ってしまった威嚇に気付いたガトーは少し困ったような表情を浮かべて、ニナを襲った緊張を解きほぐす様に口元を歪めて笑った。
「 …… たとえ今君が私を殺してこのコロニーをヒマラヤへ落としたとしても未来は変わらない。そして閣下の志を継いで私がここにある様に私の遺志を継ぐ者も必ず現れる。私と同じ道を選んで未来を変えようとする者が」
 そこまで語ったガトーの目が不意に宙を泳いだ。何かを思い浮かべる様に焦点の合わない瞳を液晶へと向けながら、ガトーはある一人の男を瞼の裏に浮かべた。ソロモンの海で初めて自分と互角に戦い、そして引き分けに持ちこんだ若き連邦のパイロット。トリントンで初めて刃を交えてから短期間の内に自分と拮抗する力を手に入れたその才能。もし彼が自分の部下として付き従っていてくれていたら ―― 。
「 …… そうだな、例えばあのガンダムのパイロット。今、強いて誰かを挙げるとしたら彼の他に私の後を継ぐ者はいない。 ―― 皮肉にもその身の置き所を右左に違えてしまってはいるが」

 生まれて初めて得た感覚にニナの身体は硬直した。頭の天辺から全ての血が流れ落ちていく音が耳鳴りになってニナの耳を塞いでいる、自分が全く予想もしていなかった人物の事がガトーの口から零れた瞬間に目の前の全てが凍りつく。絶望や諦観等と言う言葉では表現するのもおこがましいほどの衝撃は、ニナ・パープルトンという存在から全ての機能を抹消して熱を孕んだ彫像へと変えた。
 そう、熱だ。宇宙空間に生身で放り出された様に凍え切った体の芯に点った小さな炎。揺らめく渦は瞬く間に紅蓮と化してニナの体内を焼き尽くす、駆け抜ける激痛に似た何かを堪えようとする眼の奥が、燃える様に、熱いっ!
「 …… 腐った連邦になぞ属さねば、あれ程苦しむ事もなかっただろう。だが戦場で幾度も刃を交える事で彼とは何度も会話した。百の言葉で互いを憎み、千の言葉で心を分かち合う。敵同士という立場でなければおよそ知る事の出来ない意識の共有と言う物を、私は身をもって体験する事が出来たのだ。私怨によって戦っている今の彼に必要な物は、それを大義に変えるただ一つの切っ掛け。 …… ア・バオア・クーで死のうとした私に救いの手を差し伸べて下さったデラーズ閣下の様に」
 遠い目で語るガトーの言葉は、今のニナにとってはテレビニュースで何度も繰り返し流されたデラーズの演説にも等しいほど無意味な物だ。耳に忍び込む彼の一言一言がニナの中では全く意味を成さない音声へと変わり、声に出せない心の叫びが炎と共に駆け巡る。
 貴方が誇らしげに語る者こそ私が無くしてはならないと願う、たった一つのっ!
「彼だけでは無い。恐らくこの先、私達が成し遂げた『星の屑』の真の目的に気が付いて陣営を問わずに参加しようとする者がきっと大勢現れる。アクシズの様に深くジオンに取り憑かれていない、本当の自由意志を持った戦士達が。…… 彼との戦いを通じてその希望を見出せただけでも、私にとってのこの戦いは十分に価値のある物だった。悔いはない」

 自分を突き動かそうとする衝動が人としての本能なのか、女としての欲望なのかは分からない。だがニナは自分の懐から最も大事な物を奪っていこうとする嘗ての恋人をその瞬間、真底憎んだ。憎悪が生み出す力の束がその全てをキーボードを打つしか能の無い指先の一つへと集められる。手袋越しにでも分かる冷たい鉄の感触は人差し指の色を白く変えて、後ほんの少しの決心を伝えるだけで撃鉄の留め金を外すだろう。
 撃て、と囁く誰かの声。撃たなければお前は全てを無くすのだ、と。
 肺の中の息を吐き尽すニナの口から洩れる声は獣の唸り声に似ている。そこまで自分自身を追いこんでも尚、ニナの指はピクリとも動かなかった。その何ミリかを動かす間に人は何センチ移動する? モビルスーツなら何十メートルだ? 罪までの距離を全く別の測りに置き換えてニナは犯す為の努力を試みる。

 渾身の力で銃を構えたまま自分を睨みつけるニナから目を逸らしたガトーには、彼女がそれ以上動けないと言う事が分かっていた。その何ミリを動かす為に兵士はどれだけの物を犠牲にするのか、覚悟の無い者には絶対に手の届かない領域に彼女が踏み込める訳がない。手をあけに染めてでも何かを得ようとする者にしかその距離を縮める事は出来ない、そして禁断を超える為の覚悟が、今の彼女には、足りない。
 微かに震える銃口を尻目にガトーは再びレバーへと手を伸ばした。最後の最後に覗かせたニナの優しさに付け込む自分のあざとさを嘲りながら、奥に置かれたレバーを握り締める。
「最後に君に出会う事が出来て、良かった。だがこれでお別れだ。 …… 君は君の空を臨むがいい」
 ゆっくりと動き出すレバーに注がれる二人の視線。確信を湛えた鳶色と無力さを思い知る蒼がその一点で交錯する。
「 …… 思えば君こそが、『星の屑』の真の目撃者に相応しい者だったのかも知れない」

 無人の区画内に響き渡る人の声を頼りにコウはそこへと辿り着いた。あらゆる事態を想定して設計されたコロニーの最重要施設とも言える中央制御管制室に到達するには、迷路の様に入り組んだ通路を一本の間違いも無く通り抜けなければならない。戦艦の通路と同様に何の表示も無い場所で途方に暮れたコウは、自分とアルビオンを繋ぐ為に置かれたステイメンのトランスポンダ(通信用の中継器)のスイッチを不用意に切ってしまった事を後悔した。ガトーの居場所を掴んで万難を排して乗り込んだ所で、初めて足を踏み入れる施設の情報が得られなければ打つ手がない、自分の迂闊さに憤るコウの耳が絶対にそこにある筈の無い人の声を捉えたのは正にその瞬間だった。
 声の強弱を聞き分けながら銃を構えて歩を進めるコウの目の前に現れた一本の通路。袋小路の片隅から漏れだす光と声に誘われるがままに行き着いた先で、コウは決して忘れる事の出来ない凛とした声と、頼りなげに付き添うもう一つを耳にした。
 未だに稼働し続けるコロニーの大気循環システムが発する轟音の為にその会話の内容を把握する事は出来ない、だがコウにとってはそこにガトーがいると確認出来ただけで十分だった。開口部の影に身を潜めて、コウは手にした銃を確認する。
 ダブルカアラムのマガジンを引き抜いて弾が十分に装填されている事をチェック、それを銃把に叩き込んだ後にスライドを引いて初弾を確実に薬室へと送り込む。廃莢された未使用の弾が目の前を通り過ぎようとするのを慌てて掴んだ後に、もう一度スライドを軽く引いて小さく開いたイジェクトポートから弾がチャンバーに収まっている事を確認して、安全装置を外す。
 モビルスーツパイロットを目指した自分が銃に触れる機会など、士官学校のサバイバル講習で行った実弾演習の時だけだ。頭の中でその時の内容を思い浮かべながら、コウは教官が言ったその言葉をふと思いだした。

 ”心配するな。お前達がわざわざそんな悪足掻きをしなくても、その前に優しいジオンの兵隊さんがきっちり火葬までやってくれるさ。モビルスーツ乗りってなあ、そういうモンだ”
 
 いかにも叩き上げと言った風情のその教官の授業を真面目に受けておけばよかったと、コウは今更ながら心の中で呟いた。太めの銃把は手袋を嵌めた掌に丁度収まるサイズ、そして引き金に指を掛けて体の前へと銃を捧げ持つコウの目に鈍い光を跳ね返す。呼吸を止めてそっと頭を覗かせるその向こうに見える、紫の背中。
 いたっ。
 まるで爆発した様に高鳴る心臓の鼓動が、離れた場所に立つガトーにまで聞こえるのではないかと思う程大きな音でコウの耳を埋め尽くす。驚いて身を潜める物影でコウはもう一度銃の安全装置を見つめた後に必死で息を整えた。バイザーが曇らない為に口を噤んで鼻だけで呼吸する、しかしその供給だけでは足りないほど大きな炎がどんどんと燃え広がる。
 訪れた千載一遇のチャンスは生まれた瞑い炎へと薪をくべ続けている。全ての決着を付ける機会を与えてくれた復讐の神に感謝しながら、武者震いを抑え込む。緩やかに流れだした景色がコウの体内時計を狂わせる、何時間もそこに隠れていた様にも思える時間を確かめる為にコウは腕時計の針を盗み見た。その秒針はさっきガトーの背中を見た瞬間からまだ一回転もしていない。
 有り得ないほど大きな殺意がコウの意識を飲みこんでいた。めり込む様に失う自我がもう一人の自分を覚醒させる、それは形だけを似せて作った悪魔の姿。あれほど自分を苛んだ良心の呵責は影も形も無く、残った上澄みには鈍色に光る鉛の様な悪意の塊があるだけだ。喉を溶かすその熱い塊を一気に臓腑へと流し込んで、コウは成し遂げた歓喜を手にする為の最後の段階へとその身体を躍らせた。

 操作パネルへと手を置いたその人物の長い髪が止まって見える。コマ送りになったその世界で息づく男の背中に憎悪の視線を叩きつけて、コウは両手の肘を真っ直ぐに伸ばした。
 自分が銃を操っているのか、銃が自分を操っているのか。モビルスーツを操縦している時とは違う生々しい感触がコウの意識を支配する。猛り狂う感情がコウの視野を狭めて目指す一人へと注がれる、途切れていく映像の淵に僅かに見え隠れする、もう一人の人物の姿。
 褪せた朱色の余圧服は連邦軍の、それも非戦闘員だけが着用できる特別仕様の物だ。取り込んだたった一つの情報がコウの殺意に歯止めを掛けて、瞬時に選択肢の階層を作り上げる。人質、内通者、それとも戦火を逃れてここへと辿り着いてしまった避難民!?
 人物を特定しようとするコウの目が躍起になって周囲を駆け巡る。積み重ねた情報が齎す結果如何によっては奴の殺害を諦めなくてはならない、最悪の場合はこのまま奴の身柄を拘束してアルビオンへと戻る事になるだろう。しかしそれで本当にいいのか?
 奴の裁きを人に預けて、それで本当に自分の気は晴れるのか?
 葛藤が迷いとなってコウの手に伝わる。しかし一度燃え広がったその炎をもう一度元の大きさへと戻す事は、コウ自身には出来なかった。有り余る熱量が再び両のかいなを焼き尽くして自由を奪う、復讐という名の快楽に後押しされたコウの全てが凄惨な未来を渇望した。何の躊躇いも無く注ぎ込まれた力が小さな爪を動かし始めて、それが音と共に最高の瞬間を演出しようとしたその時。
 透き通るような肌と、柔らかな曲線を描いて両肩に掛かる輝く様なブロンドの髪。
 潤む蒼い瞳と、自分の名を呼ぶ、小さな赤い、その唇。

 ”ニナッ!? ”

 全身を貫く驚愕と錯乱する意識は、果たしてコウの手を止める事は叶わなかった。神経を駆け巡る電気信号はコウの身体に忍び込んだ何かの力を借りて、一気に指先へと辿り着く。
 弾ける様な感覚と衝撃の後に続く、湿った音。翳した将星の先で揺らめきながら床へと崩れ落ちていくガトーの姿。轟音と共に動き出すアイランド・イーズ。
 そして。
 ガトーの名を叫びながら駆け寄る、自分にとってかけがえの無い物と信じていたニナの姿。



[32711] Oakly
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6ac7193b
Date: 2012/05/12 02:50
 そこには上もなければ下も無い。膝を抱えて漂う空間には手掛かりとなる物が何もなかった。押し包む闇は瞼の裏と同じ瞑さをコウの視覚へと押し付けて何の情報も与えない、コウは自分がノーマルスーツのまま宇宙空間へと放り出されたのかと錯覚した。
 慌てて探る掌に触れる素肌の感触。生命維持を司る為に重要なヘルメットすらも着用していない事を知ったコウは必死に宙を掻き毟った。死をイメージさせる暗闇から逃れようとするのは本能、自分がそこに存在している事すら定かではない空虚の中で、コウはそれでも何かの手がかりを得ようともがき続ける。
 だがそれも長くは続かない。無駄を悟ったコウは全ての抵抗を諦めてその闇へと身を任せた。開いている筈の目をぼんやりと遊ばせながら心の中で溜息を洩らす。
 ”ここが宇宙の訳がないじゃないか、だってここには光が無い”
 だとしたらここは何処なのだろう? もしかしたら自分はコロニーから逃れる事が出来ずにそのまま燃え尽きてしまったのかも知れない。 ―― 死んでしまった、という事なのか?
 そう考えると幾分安らぐ。肩に背負っていた重荷が取れた様にも感じる。自分が死ぬ事で全ての償いが果たせる訳ではない、申し訳ないと思いながらもこれがコウに出来る限りの事だった。自分の魂が、自分が命を奪った人々と同じ所へ辿り着ける筈がない、と思う。
 死して尚苦しみ続ける事でしか償う事は出来ないだろう、差し詰めここはその第一歩と言ったところか。

 仄かな光が闇に浮かんだ。意外な成り行きと位置関係を現す指標が目の前に現れた事にコウは驚いた。ルミノールが放つ様な淡い輝きが少しずつ何かへと変化する。コウの目が開き切った瞳孔を調節して形を成してゆくその物体の輪郭を確かめる。
 それは自分と同じくらいの背丈の男。豪奢に見える長い髪と引き締まったその肉体には少しの緩みも見られない、胸を覆う大きな襟付きのマントにはまるで地上絵に描かれた巨鳥ロックの羽が対称に二対。
 ガトーは静かに笑っていた。

 ”ガトーっ …… ”
 感嘆の吐息と共に自分との差を比較するコウ。やはりか、と。
 自分は闇の中、奴は光の中に立つ。どんなに自分が異を唱えたとしてもその立ち位置は変わらない、奴の罪は許されて俺の罪は許されなかったという事か。何かの要因を境に分けられてしまったその理由をコウは知りたくて、思わず目の前の光へと尋ねた。
 ”なぜ、お前は光の中に立っている? お前は俺より大勢の人をその手に掛けた、なのに俺は闇の中にいる。 ―― 俺は間違っていたのか? ”
 問いかけるコウに向かって投げかけられるその瞳には一片の陰りも無く、ガトーは微笑みながらじっとコウの顔を見つめている。気高くさえ思えるその姿と対照的に矮小な心で自らの置かれた境遇を疑うコウは、垂れた頭と共に重くなる口を開いて再びガトーに聞いた。
 ”俺とお前は交わってはいけなかったのか? お前を追って行ったが為に俺は、俺とお前に連なる大勢の人を死なせてしまった。 …… どうすればよかったんだ? あのままお前の後を追わなければバニング大尉も、ケリィさんも死ななくて済んだのかも知れない、そうすれば良かったのか? …… そうしなければならなかったのか? ”
 懺悔だ、とコウは思い ―― そしてそれをガトーに向かって行っている自分の姿と心根を滑稽だと思う。銃を向けて引き金を引いた相手に向かってそんな事を答える筈がないだろう。たとえ蟠りの無い世界に二人が導かれていたとしても、二人を隔てる世界には天と地ほどの差がある。それともお前は救われたいと願っているのか? 大勢の血で汚れてしまったその手を濯ぐ事すら出来ないまま。

 ”コウ・ウラキ”
 光の像から発せられたその声にコウは思わず顔を上げた。目の前に差し伸べられたガトーの手は、凍えるコウにとっては酷く温かい物に思える。握る事を躊躇うコウの耳に再びガトーの声が響いた。
 ” ―― 来るか? ”
 その手を取って進んだ先にお前の望む答えはあるのだと。間に秘められた言外の言葉をコウは確かに耳にした。手を触れた途端に変わる世界を確信し。再び踏みしめる事の出来る光の大地を篤信し。無意識の内に上がる右手はガトーの放つ光によって輪郭を取り戻す。
 たったそれだけの事が粟立つ様な感激をコウの心へと去来させる。

 ”やめて、コウ”

 忘れる事の出来ない声は荒ぶ風と共に背後からやってきた。氷にも似たその切っ先を背中に突き付けられたコウは、差し出された手を握る事も忘れて思わず振り返った。
「ニナっ、どうして!? 」
 コウの口から飛び出した叫びが今度ははっきりと聞こえる。闇の中に浮かび上がったニナの両手に握られた銃が真っ直ぐコウの胸へと狙いを定めている。何かの間違いだと疑う心を貫く様なニナの視線には紛れもない殺意があった。
「 ―― 嘘だろ、ニナっ。本気なのかっ!? 」
 同じ言葉を自分はいつか、何処かで聞いた。記憶の中に残る色褪せたアルバムを紐解いて張られている筈の写真の在りかを確かめる、しかし全てを捲り終える前に再びニナの声が耳に忍び込んで来た。
 ” ―― そう言う、事じゃ、ないのよ”
 確かめる様に放たれたその言葉一つ一つに重みを感じる、コウは決意を秘めた彼女の蒼い瞳から目を逸らせない。だがニナだと思っていたその姿が突然、陽炎の様に揺らめいて自分のよく知る人物に変化した。
 短い黒髪をカチューシャでまとめ、浅黒い顔を青褪めさせた彼女は煮え滾る憎悪を誰憚ることなく撒き散らす。銃の影から覗く歪んだ口の端に恨みを込めて、少女は言った。
 ”よくも、ケリィをっ!! ”
 叩きつけられた悲鳴にコウはうろたえる。次に襲ってくるであろう死に対しても何の心構えも出来なかったコウは、思わずその少女の名前を口にした。
「ラトーラさんっ!? 」

 耳を劈く轟音と小さな炎が硝煙を纏って光を砕く。刹那に胸に憶える猛烈な衝撃と困難になる呼吸。
 予期せず訪れた二度目の死に理不尽を唱える間も無く消失していく意識と、世界。

 苦しさの余りこじ開けられた瞼から差し込んで来たのは、小さな窓から差し込む朝の光。そして目を覚ましたコウの視界に真っ先に飛び込んで来たのはいつもの歪んだ屋根の梁では無く、真黒な顔の表面に埋め込まれた金の双眸だった。
 二度三度瞬きをして、覚めやらない意識を悪夢の底から呼び起こしたコウは、胸の真ん中にどっかと腰を据えたその黒猫の顔に焦点を合わせながら呟きを洩らした。
「 …… お前か、エボニー」
 コウの呼びかけにも何の興味も示さずにただじっとコウの顔を凝視する彼の息がコウの肌を擽る。恐らくうなされている主人の異変を悟った彼は、様子を探る為に床から一気に飛び乗ったのだろうと言う事をコウは簡単に推理した。グ、グと鳴る喉の音は目覚めたコウに向かって彼がいつも要求するもう一つのサイン。現金な同居者の訴えを耳にしたコウは小さく笑いながら彼の脇の下へと両手を伸ばして持ち上げた。
「分かったよ、今やるから下で大人しく待ってな」
 上半身をベットから起こしながら差し出した手を開くと、エボニーは獣ならではの身軽さですとんと床へと降り立った。彼の足音よりも大きな軋みがコウの腰の下から上がる、簡素な作りの木枠を歪ませない様にそっと足を降ろしたコウに一つ、体を掏り寄せた後に彼は目的の場所目指して体を翻す。嬉しさで直立する長い尾を見つめながらコウは、その後を追う様に立ち上がった。
 打ちっ放しのコンクリートの塊で出来た流しの水屋の扉を開いて封の切れている方の袋を取り出す、軽く振って残っている量を確認するとコウはしゃがんで足元にある金属の器へとコップ一杯ほどの中身を注ぎこんだ。差し込む光の輪郭を露わにする埃と共にある静寂の中に流れる甲高い金属音、音の終わりと同時にじっとその一部始終を眺めていたエボニーは首を降ろして朝食に取り掛かった。
 ひびの入った二個のマグカップに水を注いで片方を一気に飲み干す。もう一つを一心不乱に噛み砕いているエボニーの傍へとそっと置いたコウは、ゆっくりとベットへと戻って縁に腰を下ろした。
 湿ったマットの感触を掌に感じたコウは慌ててベットに掛けられたままの毛布をはぎ取って足元の位置へと纏める。恐らくそんな事をしなくてもここの乾燥した気候は昼間だけでこれくらいの湿り気など乾かしてしまう筈だと分かってはいても、体に染みついた軍人としての習慣が寝床をそのまま放置しておく事を許さない。業としか言いようの無い自分の行動を嘲笑ったコウは視線を自分の目の前にある隙間だらけの壁に移した後、ほう、と溜息をついて顔を覆った。
 顎を伝って落ちる汗がぽとりと、くすんだ色の木の床に小さな染みを作る。肌に張り付く濡れたシャツの感触に不快感を覚えながらコウはぽつりと呟いた。
「 …… あれから二年以上経ったって言うのに。 ―― またあの夢か」
 
 ブン、と静寂を破る安物の冷蔵庫の作動音にコウは耳をそばだてた。取りとめも無く頭の中を巡る妄想へと身を委ねていたコウは、喜劇と化した現実を噛み締めながらそっと両手を開いてみる。
 サリナスのショッピングモールで今頃売られているキャンプ用のテントの方がましに思えるほど隙間だらけの壁から洩れる外の明かりと、安普請を絵に描いた様な一間の平屋。雨風を凌げるだけの機能しかない納屋を人が住める場所に変えるのに掛けたあの一月がほんの昨日の事の様に思える。
 ぼんやりと壁を見つめたままのコウに小さな調べが届く。気が付いて動かした視線の先で、食事を終えたエボニーが扉の前で大きく伸びあがってドアノブ目がけて両手を伸ばしていた。何度も往復する小さな手の先に伸びた爪がドアに刻まれた古傷の上に新たな線を描いている。
 コウは無言で立ち上がると片隅に置かれた布製のチェストに歩み寄って着替えを取りだした。自分が寝泊まりする納屋の隣にはガレージ兼用に作られたシャワーとトイレがある。そんなに立派な物はいらないと辞退しようとしたコウに向かって「俺がセシルに怒られた時に逃げ込む場所が無くなるだろう」と真顔で言った組合長の顔を思い出す。
 屋根に張られた真新しい太陽パネルと温水器は昼間の間に約10キロワットの電気と120リッターのお湯を蓄える事が出来る、一般家庭には全然足りないと思われる量でもコウ一人が使うには十分過ぎる量だ。
「先に畑に行っといで。俺も後から行くから」
 頭上からのコウの声にエボニーはそれまでの狼藉を止めてトン、と両手を床に落とした。留め金を廻して開け放つ外から雪崩れ込む眩しい光と草いきれに目を細めたコウの足元を、先んじて飛び出すエボニーが小走りで段差を駆け下りる。車がやっと一台通れるほどの畦道をトコトコと歩き出す黒猫の背中を眺めながら扉を閉めるコウの耳に、囁く様なサイレンの音が届いた。
 聞き覚えのある音に無意識に顔を顰めながら、遠く南の地平に浮かぶ小さな突起へと顔を向けるコウ。朝日を受けて煌めくそれが何であるかという事を彼は一日たりとも忘れた事がない。ランドマークの様に聳え立つアイランド・イーズの残骸の向こうから聞こえて来るその音を聞きながら、コウはそのサイレンの齎す意味を嘗て所属していた軍の記憶を頼りに呟いた。
「 …… そうか、今日は早朝訓練の日か」

 季節外れの蒼穹は何処までも青く頭上を満たしている。魔天楼と呼ぶにはあまりに孤独なその残骸の壁面をすれすれに駆け上がるデザートイエローのゲルググが二機。アフターバーナー全開で垂直上昇を続けるその二機がまるでダンスを踊るかの様に息を合わせて途中にある段差に足を掛ける、仕切り直して再び駆けあがっていくその先で途切れる空を目指しながら、瑪瑙色の下地にジオンの紋章を銜えた白い鳥を描いたヘルメットを被ったパイロットは僅かに遅れた僚機に向かって叱咤の声を上げた。
「アデリア、何やってんだ。遅れるなっ! 」
「 ” そ、そんな事言ったって ―― ” 」
 抗議する様にじろりと動いたゲルググのモノアイが、ほんの僅か上に位置するもう一機へと向けられる。若さに溢れる少女の声は叱咤したパイロットの放った理不尽な命令を批判する声音が含まれている。
「拝み倒してやっとの事でザクからゲルググに換えてもらったんだ、これで負けたら俺達は整備班の昼飯のネタにされちまうっ! 」
「 ”そんな事っ ―― ” 」
 高度表示を睨みながら上昇を続けるゲルググのコックピット内でそのパイロットは少女の抗議を聞き流して、心の中で喝采を上げていた。凄いっ。いつものザクなら三回は足場を使わなければならない所をたった一回で屋上にまで到達する。シミュレーターで何度もこの機体の操縦を練習してはいたが、やはり所詮は仮想の物。重モビルスーツの持つパワーと圧倒的な体感は彼の心を高揚させる。
「 ”あたしは何にも言ってないし、聞いてない。マークスがザクはいやだって言うからこうなったんじゃない! これで負けても自業自得よ、そんな事より巻き込まれたあたしはどうなンのよっ!? ” 」
「大丈夫。勝てばそんなのどうって事ない。幾ら隊長って言っても所詮乗ってるのは俺のザクだ、今日こそ仕留めて ―― 」
 憤慨するアデリアを嗜めるように言うマークスの耳に割り込む声。
「 ” ―― 言ってくれるじゃないか、軍曹” 」
「隊長!? 」
 突然の事にバーナーカットのタイミングを逃したマークスのゲルググが、屋上を越えて遥か上空へと舞い上がった。眼下に見下ろす枯れ果てたオークリーの風景の中で、上手くスロットルを閉じたアデリアの機体が緩やかに降下しているのが見える。
「 ”何やってんの馬鹿っ! 目標十時、ロックオン警報っ” 」
 ヒステリックな音とアデリアの罵声が飛び交うコックピットの中で回避の為の姿勢制御を試みるマークス、それを援護する様にアデリアのライフルが火を噴いた。屋上の所々でめくれ上がった構造物の一角、遮蔽物へと放たれたペイント弾は僅かに覗いていた特徴的な頭を物影へと引っ込ませる。真っ赤に染まった壁に隠れたザクへと勝ち誇った目を向けながら、マークスは言った。
「これだけ幾何学的な建造物の中だとあの丸い頭はよく目立つ、ここじゃ隠れるのにも一苦労だ。いつもの俺達の苦労が分かってもらえましたか、隊長? 」
「 ” あたし達の角だって同じ事よっ、勝ってもないうちから威張らない。そんな事よりさっさと降りて来てよ、二人一組ツーマンセルで同時に攻めないと駄目だっていつも隊長に ―― ” 」
「悪りいアデリア。それ、ナシ」
 にやりと笑ってそう言うと、マークスはそのまま腰のスカートに隠された五基のバーニアに点火した。まるで重力を失った様にふわりと宙に浮いたまま屋上の上をひた走るマークス、ザクが身を潜めた遮蔽物を中心に回り込もうと軌道を変えた。
「お前はそこで隊長の頭を押さえろ、その隙に俺が回り込んで一気に仕留めるっ! 」
「 ”ちょっ、マークス! 私を囮にするつもり!? ” 」
「頼んだぜっ! 」
 肘に仕込まれたスラスターを動かして一気に加速するマークス。自分の非難を受け入れる気が毛頭ないと悟ったアデリアは慌てて物影に隠れて散発的な援護を開始する。ザクが隠れたと思しき遮蔽物を挟む様な位置取りで屋上へと着地したマークスがロックオンマーカーの作動も待たずに発砲した。
「! いない、どこだっ!? 」
 ペイントの弾ける楯の裏側にザクの姿は影も形もない、動揺したマークスが思わず足を止めてしまったその瞬間に耳元で響くアデリアの悲鳴。
「 ”マークスっ、そこで止まっちゃダメえっ! ” 」
 目の前を掠める赤い軌跡、アデリアの射線軸へと身を置いてしまった事を知ったマークスが反射的にザクがいた筈のバリケードへと足を滑らせて回避する。途端に足場が崩れてゲルググの身体が一階層下の空間へと投げ出された。
崩れ落ちるコンクリートの瓦礫と共に何とか体勢を整えるマークス、ほっとしたのもつかの間、モニターの見える範囲へと下からばら撒かれる弾幕に驚いてぐらりと傾いた機体は崩れる様に着床した。
「 ”軍曹、演習ごときで大事な機体を壊すんじゃない。帰った時整備班にこってり絞られるぞ? ” 」
「アデリアっ、下! 十二時っ! 」
 横たわったまま指示を出したマークスに反応する様に、天井に開いた穴から降り注ぐペイント弾の雨。援護の為に詰め寄ったアデリアが伏射の体勢で土埃の向こうにいるザクへと撃ち込んでいる姿が見える。物影へと機体を預けて周囲の状況が落ち付くのを息を殺して待つマークスの元へとアデリアの声が届いた。
「 ”マークス、大丈夫? 損害報告” 」
撃墜報告ダウンレポートじゃないのかよ。 ―― 隊長は? 」

 宇宙港の一区画とは言え、その空間は優に戦艦が二隻丸丸収まるほどの広さがある、これでゲートのアプローチラインの先端だと言うから驚きだ。想像も出来ないスペースコロニーの全体像へと想いを馳せながらアデリアは移動した戦場へと注意深くモノアイを走らせ、動体反応の有無を確認した後にバーニアを吹かして階下へと降りた。足裏のトーションバーがショックを吸収したと同時に上体を屈めて周囲を見回す、アデリアは答えた。
「残念。絶対に外さないタイミングだと思ったのに。 ―― で? 」
「 ” …… 着地の際の衝撃で左手が動かない。うっかり手を着いちゃったからな。 ―― どうしよう” 」
 マークスの情けない声にうわあ、という顔をしてヘルメットの額へと手を当てるアデリア。隊長が忠告した言葉には脅しの要素などこれっぽっちも含まれていないと言う事を二人は知っている、整備班が総出で手を加えてやっとの事で仕上がった機体をいきなり壊したとあっては、彼らに対して申し訳が立たないと言う以前に思う存分詰られる。昼飯のネタどころでは無くなった現状にアデリアは小さく溜息を吐いた。
「こーなったらもう、何が何でも勝つっきゃないわ。《クラッシャーズ》なんてステッカー、これ以上ロッカーにベタベタ張られてたまるもんか。 ―― マークス、立てる? 」
「 ”ああ、駆動系には問題ない。 …… よっ、と” 」
 掛け声と共にアデリアの背後からジェネレーターの出力が上がる際に発する甲高い駆動音が聞える。柱の影で立ち上がったマークスを横目で見ながらアデリアは弾数の少なくなったマガジンを交換して、手にしたそれを遠くの空間へ放り投げた。ガシャン、という金属音が囮となってどこかで息を潜めているザクが反応しないかと油断なくレーダーの数値に目を凝らすアデリアだったが、流石に歴戦を謳われるザクはその程度の子供だましには乗って来ない。
「やっぱ、ダメかあ …… 」
 敵の姿を捉える事が出来ずにモニターの上をうろうろと動き回るレティクルを眺めながら残念そうに呟くアデリアに向かってマークスの声がした。
「 ”そんな手に引っかかる様な人だったらとっくの昔に何回か勝ってる。 …… しっかし隊長も大人げない、幾ら昔の話はしたくないって言ってもここまで本気でつっかかって来るか? ” 」
「何、それ? 」
 思わず漏らしたマークスの言葉に引っかかるものを感じて問い質すアデリア。うっ、と小さく口籠るマークスの声がはっきりと聞こえる。
「ちょっと、何とか言いなさいよ。隊長と何を賭けたの? 」
「 ”い、いや。俺達が勝ったら、技術主任と伍長のラブロマンスの一部始終を洗いざらいぶちまけて貰うって約束を ―― ” 」
「あんたって ―― 」
 マークスが話す賭けの内容に思わず大きな溜息をついてやれやれと言った顔で。
「 ―― 悪趣味? 」
「 ”何言ってんだ。あの、人を寄せ付けない技術主任と伍長との悲恋話、基地のみんなが知りたいって言う噂の真相を俺が代表して ―― ” 」
「 …… 馬鹿ばっか。」
「 ”そう言うお前は興味ないのかよ、ニナさんと伍長が別れたホントの理由って奴” 」

 今度は尋ねたアデリアの方が声を詰まらせる番だった。マークスの言う『基地のみんな』に自分も含まれていると言う事は否めない。アナハイム・エレクトロニクスから嘱託としてオークリーへと派遣されたSEと言う以外には全て謎に包まれたその女性の人と成りが、ある日を境に突然変わってしまったと言う事実。そしてそれが基地に後からやって来た若き士官との悲恋によって形作られたという噂。
 別に彼女が人見知りで、周囲からの距離を自分から遠ざけていると言う訳ではない。だがどこか影のある表情と冷たく見える蒼い瞳が人を寄せ付けなくしていると言うのは、基地の全員が感じるニナに対する印象だった。
 食事の際に何度か同席を求めたアデリアに対してもニナは一度も迷惑そうな顔をした事がない。しかし身の上話をする訳でもなくただ淡々と食事を済ませるニナを前に、気まずい思いをするのはいつもアデリアの方だった。何度かトレーの上に残った手つかずのニンジンをフォークで弄るニナを見た事もあるが、その理由でさえ尋ねられないほどニナから発するオーラは冷たい物だった事を憶えている。
 語らない事による風評被害と言うべきか、噂に付き纏う憶測は人の数だけ多岐に及んだ。その中には少女漫画に出て来る様なドラスティックな物から、それこそ頭を蹴っ飛ばしてやりたくなるほどいやらしい妄想まで。ニナ・パープルトンと言う人物に特別な感情を抱く ―― 今『百合』と言った奴は、殺す ―― アデリアにとって誰よりもその真実を知りたいと言うのは当たり前の話だ。
「べ、別にそう言うんじゃないけどそう言うのって良くなくない? 隠している事を傍から覗きこむのって本人に失礼って言うか、その ―― 」
「 ”『別に』って事は興味があるんだろ? じゃ、勝とうぜ。せっかく相手がこっちの誘いに乗って来たんだ、このチャンスを逃す訳にはいかないからな” 」
 思わずくちごもってしまったアデリアの本心を見透かした様に声を掛けるマークス。もう、と思いながら自分の口下手さに改めて腹が立つ。マークスの目的に色々ツッコミたい所ではあるがどうせ抗弁しても勝ち目はない。それに同い年とは言え向こうの方が階級が上で、しかも分隊長だ。随伴機としてコンビを組む以上、上官からの命令には異論を挟んだとしても結局は従わなければならない。諦めた様な溜息交じりにアデリアは言った。
「 …… はいはい、分かった。利害の一致と言う事で今回だけはあたしもマークスのお誘いに乗ってあげるわよ。 ―― で、この後どうすンの? 」

 細かな埃が未だにエリア全体に蔓延している。視界が回復するのにはもう少し時間が掛かる事を悟ったマークスはライフルを静かに床の上に置いて、掌をそっと瓦礫の隙間へと押し付けた。
 宇宙での運用を主体として大戦の末期にジオンで開発されたゲルググにはコロニー戦用の装備が内蔵されている。掌に照準接続用のコネクタと共に埋め込まれた振動感知レーダーは本来はコロニーの外壁に押し当てて、内部で活動する敵の動向を知る為の物だった。ミノフスキー粒子で低下若しくは使用が出来なくなる探査方法が増える中、そのレーダーは限定的ではあるが有効な手段として連邦軍の接収となった機体にも装着されたままになっている。少しでも身じろぎすればその振動は波形となってパネルの左にあるモニターに現れる。

「 ”ミイラ取りがミイラになりかけてるって事は無いの? ” 」

 別れ際に呟いたアデリアの杞憂を胸の底に押し込んで、マークスはじっとモニターの波形を睨みつけた。既に彼女は階下に降りて気配を殺したまま待機中、下の階はここに比べて天井までの距離が近いからバーニアをひと吹かしすればあっという間にここへと到着するだろう。必勝の為の手順を何度も口の中で繰り返すマークスの緊張を高めたのは、小さな地鳴りと共に動き始めた波だった。
「動き出した。 …… そりゃそうだ、早くしないともうすぐ時間切れだもんな」
 腕時計は試合開始からもうすぐ二十五分を指す。早朝演習は朝食前の短い時間に行われる為、1ターンで終了と決まっている。時間切れで引き分けに持ち込もうと言う線も考えられなくはないが、隊長と言う立場とプライドはそれを良しとはしないだろう。逆に言えばそれだけ全力で戦わなければゲルググとの戦力差を埋められないと言う事だ。波形の方向を確かめて手を離したマークスはそっとライフルを取り上げて、捧げ筒の体勢で息を凝らした。
 確実に自分の背後から迫って来る振動を感じながらザクまでとの距離を測る。頭頂高が17.5メートルとしてその歩幅はかける事の0.45。一歩が約8メートルだから ―― 今、何歩目だ?
 その時突然予想外の方向から射撃音が聞こえた。自分の横合いからバリケードを掠めて走る弾道に、よっぽどアデリアが段取りを無視して上がって来たのかと勘繰ったほどだ。だがアデリアが潜む穴とは反対方向から飛来するそれは、確実にマークスのゲルググの傍へと着弾している。
「 ”装備に頼り過ぎだ、軍曹。状況は危険を冒してでも常に自分の目と耳で把握しておく、生き残る為の常識だ” 」
 威圧的な相手の声に抗う様に引き金を引くマークス。砂煙の向こうへと消えていく自分の弾に命中の手ごたえは無い。牽制を加えながら何とか機体を遮蔽物の裏から回り込ませたマークスは、今度は相手の背後を取る為に思いっきりバーニアを吹かしての高速移動を選択した。
 ふわりと浮きあがった機体がまるでドムの様な速さで床を滑る、巻き上げる砂塵によって再び視界を失ったマークスはすぐさまモニターを赤外線モードに切り替えて、相手が放つ銃口に残る熱を捉えようと試みる。バックパックを吹かしてくれたらもっと楽に、とは思うがそう簡単に自分の居場所を教えるほど生半な相手じゃない。

 回り込んだと思った先にある小さな隙間には既にザクの姿は無かった。またしても、と思うと同時にどうやって自分の目を眩ます事が出来たのかと訝るマークスの目に転々と残る熱源の跡が映った。どうやら自分がセンサーを離したタイミングを見計らって向きを変え、一歩ごとに小さくバーニアを吹かして歩幅を伸ばしたのだ。そのタイミングと言い発想と言い、自分が知らないテクニックを目の当たりにしてマークスは、やはり自分の隊長が只者ではないのだと言う事を思い知った。
 中長距離での戦闘は近接とは違って心理的要素が含まれる、相手の行動を読み切って裏をかきに来る彼の行動は今まで出会ったどの部隊長よりも巧妙で、辛辣だ。
「でも、このままじゃ時間切れだ。勝ちに来るならそろそろ俺を仕留めないと間に合わないっ ―― どうする、隊長? 」
 マイクに届かない様な小さな声で見えない相手を挑発するマークス。白茶けた靄は未だに晴れる気配がない、目を凝らして画面を見つめるマークスの目に熱反応を示す小さな赤い点が浮かんだのは、演習終了までの時間を知る為に腕時計へと目を遣ろうとした瞬間だった。マークスが潜んでいた遮蔽物の傍にそれが浮かんでいるのは予想外、二人は互いの場所を入れ替えた事になる。

「しめたっ」
 ほくそ笑むマークス、相手の背後にはアデリアが潜んだ穴がある。射撃準備を知らせる為に指先で二回ヘルメットを叩く、すぐさま帰って来た反応を耳にしたマークスは思いっきりバーニアを吹かして熱源へと突撃しながら引き金を引いた。アデリアからの一撃をより確実な物にする為に相手の目を思い切り引き付ける、あわよくば挟み打ちで仕留めるっ!
 アデリアのゲルググが轟音と共に穴から飛び出す、猛烈な熱量で赤外線モニターが不鮮明になる。マークスは慌てて通常モードへとモニターを切り替えて再び熱源のあった場所を見た。
 自分に対して全く撃ち返して来なかったザクは、もしかしたら最初の一撃で被弾したのかも知れない。しかし次の瞬間に靄の中から姿を現したのは意外な物だった。
「ええっ!? ライフルだけ!? 」
 遮蔽物に立て掛けてあるだけのライフルを横目に見ながらマークスはその場を通り過ぎる。その時、切迫したアデリアの叫び声が聞えた。
「 ”マークスっ、よけてっ! ” 」

 マークスのゲルググはアデリアが放った一連射をまともに喰らった。必死で射線から逃れようとする操作を嘲笑う様に叩きつけられるペイント弾、着弾の衝撃で演習用プログラムは破損したと思われる個所の電気信号を強制的にカットする。左側半分の機能が停止した為に推力のバランスを失ったマークスがくるりと体を翻すと、その時遮蔽物の反対側から身を躍らせたザクが自分に目がけて突進して来る姿を生き残ったモニターで確認した。狙いも着けずに無我夢中で引き金を引く。
 相手との距離と相対速度を考えてもその距離はマークスにとって、絶対の距離だと思った。しかしマークスはその時、信じられない機動で自分の弾を躱すザクを目にして愕然とした。
「は、走って躱し ―― 」
 左右の足を交差させてサイドステップで射線から逃れる、そんな事がモビルスーツにっ!? 
 思わず零れた無駄口の時間が途切れたのはゲルググの懐へと肩から飛び込んで来たザクのアーマーがモニターへと大写しになった瞬間だった。猛烈な力で弾かれた体がシートベルトのお陰で再び背もたれに叩きつけられる、HANS(Head and Neck Support。主に首を保護する為の救急デバイス)の紐が伸び切って金具の捩じれる音がする、背中に加わった衝撃で胃袋がせり上がる。

 肉弾戦の余波はマークスの背後に位置してしまったアデリアにまで及んだ。いきなり飛び込んで来たマークスの機体を抱える様な形で受け止めたアデリアは、オートバランサーが作動する暇もなく諸共に仰向けに引っ繰り返った。
 折り重なったまま穴の縁まで滑り込んで目を廻している二人に向かって、ザクから厳しい声が飛んだ。
「 ”二度もおんなじ失敗をする奴があるかっ、学習能力が無さすぎだ! 功名心に逸るのもいいが、その前に先ず自分の力量と言う物を見つめ直せ。 …… まあ今回は負ける訳にもいかなかったから、お前達のそう言う所に遠慮なく付け込ませて貰ったんだが ―― ” 」
 痛みに顔を顰めるマークスの耳に飛び込んで来る上官の叱責の声と、目に映る火器管制の作動ランプ。モニターは全部死んでしまったがそれでも位置関係を想像して右手の銃を持ち上げた。
「どこだ。 …… ちっくしょ、何とか一発でも ―― 」
 窮地に陥る度にむくむくと頭を擡げて来るマークスの反骨心は誰もが認める短所でもあり長所。自分の昇進ですらどぶに捨てた忌むべき本性を露わにして抵抗を試みようとする彼の耳に、再びザクのパイロットからの声が聞こえた。
「 ”その悪足掻きと根性は買ってやる、だがもうちょっと自分が足を踏み入れる現場の資料は良く読んでおく事だ。それを怠ると ―― ” 」
 
 コックピットの背後で始まった突然の崩落音。その衝撃でマークスの手が発射ボタンから引き剥がされる。え? と思う間もなく耳元でアデリアの声がした。マークスの心中を代弁する様に、自分の周りで起こっている状況に訳も分からず抗議する。
「 ”ちょ、ちょっと一体何なのよっ! ね ―― きゃあっ! 」
 悲鳴と共に地球の重力に引かれる背中が再びマークスの胃袋を持ち上げる。絶叫マシンの頂点から滑り落ちて行く様な浮遊感と共に崩れる瓦礫の音をBGMに、マークスはさも愉快だと言わんばかりの彼の声を耳にした。
「 ”そう言う事になる。よく覚えておけ、軍曹” 」

「あー負けた負けた、また負けた、っと。今日も《クラッシャーズ》は健在なりぃっ」
 変な節回しで悔しさを零しながらアデリアはコクピットの明かりを付けた。ヘルメットに手を添えて引き抜いた後から零れ出す栗色の長い髪は彼女の奮戦を物語る様に汗で濡れそぼっている。雑誌から抜け出た様なモデルの様な顔立ちとつぶらな瞳を彩る藍色は消灯したモニターの片隅で点滅する状況終了の文字を一瞥すると、ちっと小さく舌打ちした。
「勝負は時の運、っつてもねえ …… 一体いつになったら隊長から一本採れるんだろ? ―― マークス、平気? 」
 管楽器を思わせる様な透き通った声音で自分と共に瓦礫に埋もれた相棒の安否を気遣うアデリア。手首に巻いてあったオレンジ色のシュシュで髪をポニーテールに纏めながら小さく溜息をつく。
「 ” …… わ、悪りいアデリア。負けちった” 」
「怪我してないンならそれでいいわよ。どうせロッカーのキルマークがまた一枚増えるだけだし。 ―― それより何が起こったの? 」
「 ”どうやら俺達は崩落寸前の足場にわざわざおびき出されてたらしい。要するに俺達は屋上で隊長を挟み込んだ瞬間から術中に嵌ってた、と。 ―― そう言う事らしい” 」
 ファーストコンタクトが既に勝利へ至るまでの伏線だったと言う事実にアデリアは目を丸くして驚いた。今更ながら自分の上官の戦術眼には畏怖を隠せない。
「そんな化け物相手にどうやって勝とうって? しかしマークスの感想も頷けるわ、そこまで目下のモンに対してムキになンなくても ―― 」
「 ”負けた腹いせに、今度は上官を化け物扱いか? 伍長” 」
 割り込んで来た声にびくっと首を竦ませたアデリアが口を噤む。コクピットに響く彼の声には微かな笑いが潜んでいる。
「 ”それだけ喋れれば大丈夫だな。ではこれにて今日の演習は終了、後は分かってるな、二人とも” 」
 突っ込み処満載の隊長の言葉に返事も忘れて首を傾げるアデリア。訓練時間は本来一日午前と午後の四時間、早朝演習はあくまで練兵教程のオプションとして設定されている筈だ。それに「後はわかっているな」と言われてもアデリアには何の事だか分からない。
「あ、あの隊長。それってどういう ―― ? 」
「 ” ―― 了解しておりますっ、隊長殿っ! ” 」
 アデリアの質問を気迫で遮る様にマークスの声がコックピットに轟いた。あまりの声の大きさにびっくりしたアデリアがきょとんとした顔で天井を見上げる。
「 ”消化剤は早めに飲んでおけ。ランニングの途中で脇腹が痛くなったら後は地獄だぞ? ” 」

「 ” ―― モウラ” 」
 モビルスーツ運搬用のローダーの荷台で双眼鏡を片手に残骸の様子を外から眺めていたモウラの耳にザクのパイロットの声が届いた。片手に隠してあったマイクのスイッチを押したモウラが言った。
「あいよ。終わった? 」
「 ”マルコはどうしてる? ” 」
「さっきまであたしと一緒に二人の会話を大笑いしながら聞いてたけど今はコックピットの中にいるよ。サルベージに行かせる? 」
 荷台に横たわったままのザクのコックピットの開口部から、陽気に大きく手を振る青年の影が横目で合図したモウラの目に留まる。モウラが親指を突き上げると青年は頭を引っ込めてザクのコクピットハッチを閉じ始めた。
「 ”再起動用の予備バッテリーを持たせてこちらへ向かわせてくれ。二人とも ―― ” 」

「 ―― 仲良く、瓦礫の下でおネンネだ」
 崩れた穴の淵から階下に沈む二機のゲルググの体たらくを見下ろしながらキースが言った。



[32711] The Magnificent Seven
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6ac7193b
Date: 2012/05/26 18:02
 キースからの交信が終了した後もアデリアの目はコックピットの天井をぽかんと眺めたまま微動だにしない。小さく開いたままの愛らしい唇がふと何かに思い当たって動きだしたのは、スピーカーからマークスの大きな溜息が聞えたその瞬間だった。
「そう言えば、さあ。ちょっと気になった事があるんだけど、聞いていい? 」
「 ” ―― あ、ああ。 …… 何だ? ” 」
 質問に対して気まずそうに声を詰まらせるマークスの声を聞いて、アデリアの心の中に嫌な予感が広がった。賭けの胴元は一人だが、子は事情の分からない自分が含まれている様な隊長の含みをもう一度思い返しながらアデリアは尋ねた。
「マークスが勝ったらウラキ伍長とニナさんの別れた理由が聞けるとして ―― 負けた時ってどうなンの? 」
 話しながらアデリアはシートの下に手を差し込んだ。マジックテープで固定されたボトルを取り上げると親指でキャップを跳ね上げる。
「 ” …… 罰ゲーム” 」
「そんな事は分かってるわよ。あたしが聞きたいのはその内容、『ランニング』って隊長が言うんだからどうせ走ンなきゃなんないンでしょ? ―― 基地の外周を何周? 」
 設備としては最小限のものしか揃っていないオークリー基地だがその敷地面積は意外なほど広い。殆ど使われないメインの滑走路と誘導路、そして施設と居住区を合わせて縦2キロ、横1キロの外周は合わせて6キロの距離がある。アデリアは自分で持ち込んだライチ味のスポーツドリンクをごくりと飲み込みながら、頭の中でその様子を思い浮かべた。
「どうせ走るンなら午前中の涼しい内にしないとあっという間に気温が上がって干上がっちゃうじゃん、午後は非番になるって言ってもどうせ整備班のお小言聞かなきゃなンないんだから早めに終わらせなきゃ ―― 」
「 ”そ、そうだよな。早めに始めないとなかなか終わらないって言うか、昼飯までに帰って来れないって言うか ―― ” 」
「? 帰って来れない? なんで? 」

 猜疑心満々のアデリアの声を聞きながら意を決した様にヘルメットを取って膝の上へと置いたマークスの髪は、コックピットの僅かな光でもはっきりと分かるほど銀色に輝いている。濡れそぼったままの額に演習中とは違う類の汗を噴き出させながら、彼は左右で色の違う瞳を瞼でしっかりと覆い隠して突然目の前で柏手を打ってマイクの向こうの僚機に向かって大きな声を上げて頭を下げた。
「ごめん、アデリアっ! 」
「 ” ―― な、なによ突然。急に謝られてもあたしには何が何だか ―― ” 」
「お前を俺の賭けに巻きこんで本当に済まないと思ってる、しかしここは『夫唱婦随』を是とする分隊チームの理に則って是非とも俺と一緒に参加してくれ、頼むっ! 」
 動揺の余りに無茶苦茶な論理を展開するマークスはまるで神頼みをするかの様に更に大きく頭を垂れる。耳を傾けていたアデリアはその慌てっぷりに何事かと、疑いの声音をさらに大きくして尋ねた。
「 ” ―― なんか合コンの頭数を無理やり合わせようとする幹事みたくなってるわねぇ …… って言うかそれはそれでしょうがないから、とにかくその罰ゲームの内容を教えてよ ” 」
「 …… いいのか? 」
 アデリアの言葉にほっとしたマークスが思わず合わせた掌の内側で頭を上げた。縋る様な眼で真っ暗なモニターを見つめるマークスに向かって、促す様なアデリアの声が届く。
「 ” …… まあ、あたしも途中から乗っかっちゃったし。それにマークスが走ってる間にあたしだけボーッとしてるのもつまんないじゃん? しょうがないから一緒に走ってあげるわよ。 …… で? ” 」
 
 軽くなったボトルの蓋を閉じて、はあ、と溜息をつくアデリア。こうなったのもマークスの手綱を締められない自分に責任があるのだと自省して、共に罰ゲームを受ける覚悟を固めた。ボトルを元の場所へと収めようと体を屈めたアデリアの背中に、マークスの申し訳なさそうな声が届いた。
「 ”いや、最初は俺も隊長との賭けに何も知らないお前を巻き込むのはどうかと思ったんだよ。でも隊長が『どうせなら二人掛かりで掛かって来い、どうしても二人の事を聞きたいんだろ』って煽るモンだから俺もつい勢いに乗っちゃって、その ―― ” 」
「負けず嫌いのあんたらしいっちゃあ、らしいわね。それで? 」
「 ”隊長が俺のザクを使うって言うから ―― 二人掛かりでそれもゲルググだったら負ける訳が無いと思うだろ? だからつい俺も調子に乗って、もし負けたらお前も一緒に走らせますって口走っちゃって ―― ” 」
 ふむ、と。どうやら相手の方が一枚上手だったようだ。しかしこれ程相手の挑発に簡単に乗る様じゃどんなひよっ子セールスマンでも簡単にマークスに物を売りつける事が出来るに違いない、とアデリアはマークスにとっての自分の重要性を再確認する。
 ちょっと目を離すとこのザマじゃあ、やっぱりあたしがいずれは何とかしてやンないと。
「それはもう分かった。 ―― だから? 外周を何周走ればいいの? 」
 何とも言い訳がましくなって来るマークスの声に苛立ちながらアデリアが尋ねる。一瞬の沈黙が流れたコックピットの中に、マークスの小さな声が響いた。
「 ” …… いや、それが ―― ” 」

「 ―― 基地の周りじゃないんだ、アデリア。落ち着いて良く聞いてくれ。…… 基地から、ここまで、往復する事になった」
「 ”へえ” 」
 間の抜けたアデリアの声に思わずホッとするマークス。彼女の度胸はここで出会ってからコンビを組むマークスが一番よく知っている、男気溢れる彼女の度量は今回もその真価を発揮して黙って肚を決めたのかと思った。
 だがその思い込みもつかの間、アデリアの呟きが追いかける様にマークスのコックピット内に響いた。
「 ” …… うっそぉ” 」
 その後に続いた甲高い金属音は恐らくアデリアが手の中のボトルを床へと取り落としたのだろう、音で動揺を表すアデリアに向かってマークスは恐る恐る尋ねてみた。
「お、おい、アデリア、大丈夫か? 何、基地からここまでって言っても二十キロほどだし、それに真っ直ぐ一本道だから迷う心配もない。陸上選手だってもっと長い距離を走る事もあるんだ、パイロットの俺達が出来ない距離じゃ ―― 」
「 ”何言ってンの、あんたはっ!? ” 」

「基地からここまで往復って事はフルマラソンじゃないのっ! 大体マラソンは五キロごとに水分を補給しながら走るのよ、こんな乾燥した場所で水分補給も無しにどうやって走りきれって言うの!? 」
 さっきまでの覚悟も忘れて猛烈な剣幕で捲し立てるアデリアの声で大勢は決した。嵐が過ぎ去るのを待とうと鳴りを潜めるマークスに向かってアデリアは尚も詰め寄った。
「それにっ! こんなカンカン照りの日にタンクトップに短パンなんてあたしヤダよっ!? それじゃなくてもUV効かなくて日焼けすンのに、これ以上土方焼けしてどうすンの!? 」
「 ” ―― いや、それは隊長にパイロットスーツを着用して走れって言われてるから大丈夫だと ―― ” 」
「もっとダメじゃん!? 」
 体の熱が抜けない状態でそんな場所を長距離走ればあっという間に熱中症だ、どうしてもというのなら上半身を肌蹴て走るしか方法が無い。火に油を注ぐマークスの気休めを耳にしたアデリアは、「ああっ、もうっ!」と言いながらドスンと背凭れに体を預けてそのままずるずると体を沈みこませた。
「 …… なーんか嫌な予感してたんだよねぇ …… 今朝になっていきなり乗る機体が変わってるし、整備班は凄んで来るし、モウラさんは気の毒そうに肩叩いて来るし。何よ、知らなかったのあたしだけって事じゃん? 」
 そう考えると何故かムカムカする。自分だけが蚊帳の外に置かれていたと言う状況もそうだが、何よりその事に全く気付かなかったと言う自分自身の迂闊さにもだ。かと言ってここでガタガタ喚いて往生際悪く、普通の女の子の様に振る舞う事を隊長や整備班の人達は期待してるのか、否か?  
 意を決して両膝を思いっきり平手打ちしたアデリアが言った。
「 ―― いーわよ、じゃあ。」
「 ” …… お、おい。アデリア? ” 」
 低い声で唸ったアデリアが自分自身に言い聞かせる様に口を開く、今まであまり聞いた事の無い声音を耳にしたマークスが恐る恐る尋ねた。その心配もお構いなしにアデリアは尚も言葉を続ける。
「そこまでみんなが期待してるってンならお望み通りに走ってあげようじゃないの、フルマラソン。行って帰ってくるだけなら鳩でも出来るっつーの」
「 ”そ、そうだアデリア、その意気込みだ! 今こそお前の男気を発揮して目の前の困難に立ち向かう時だっ! 俺はお前を心から応援するぞっ! ” 」
「褒めてないっ! それに張本人が言うセリフじゃないっ! マークス、いい事!? 」
 まるで本人を目の当たりにした様な眼でアデリアがモニターを睨みつけながら怒鳴った。
「今日の所はあんたに付き合ってあげるから、あんたは今度の非番の日にあたしに付き合って街まで買い物に行くのよ! いいわね!? 」
「 ”街って …… 嘘だろっ!? サリナスまでここから片道200キロあるんだぜ、そんなトコまで何買いに行くんだよ? ” 」
「つべこべうるさいっ! 女の子には何かといる物があンのよ、基地のPX(売店)じゃ買えないモンもあるんだから。奢れって言わないから、せめての罪滅ぼしにランチと足代くらいは持ちなさいよ」

「女の子って …… お前の機体のペダルセッティング、俺と同じ ―― 」
「 ”なんか言ったっ!? ” 」
「 ”まあまあ、痴話喧嘩はその辺でお開きにして、そろそろ帰る準備しようぜ? ” 」
 二人の会話に割り込んで来るいかにも陽気な声は含み笑いを忍ばせている。からかわれてると気付いた二人が同時に声を上げようとした瞬間に、突然モニターが点灯してザクの姿が映った。電源の回復を現すパネル表示とジェネレーターの起動音を耳にしながら、マークスはサルベージに来たマルコに向かって言った。
「マルコ。誤解のない様に言っておくが、これは決して痴話喧嘩なんかじゃなくてお互いの誤解を解く為に話し合いをして、理解を深めてる最中なんだ」
「 ”ふーん。まあ、何でもいいけど ―― ところでお二人さんに朗報だ。 …… ハンガーの前で副長が仁王立ちで待ってるってさ。早いトコその罰ゲームとやらを終わらせないと、夜中まで整備に付き合わされるんじゃないの? ” 」
 いかにもご愁傷様と言いたげなマルコの口調にマークスは声を失って深い溜息をついた。
 
「 ”二人はどう? キース” 」
 モウラが演習の感想を尋ねて来る事などそう滅多にない事だ。結果だけを見ればキースの圧勝と言う事になるのだが彼女にとってはキースの勝利は薄氷を踏む思いの末に辿り着いたのだと言う事に気が付いている。やはり一年戦争を生き延びて来た猛者は目の付け所が違う、問い質して来たモウラに向かってキースは無線のスイッチを切って携帯を耳に掛けた。
「優秀だと、思う。作戦はともかく二人のコンビネーションとか決断力は一端いっぱしのパイロットのそれだ。 ニナさんが俺のOSに手を加えてくれていなかったら、最後の一撃で仕留められていたのは俺の方かもしれない」
「 ” そんなに? 買い被り過ぎなんじゃないの? ” 」
 疑う様に尋ねて来たモウラの声にキースは小さく頭を振った。体当たりをする一歩手前で振り上げたマークスの銃口は確かにキースを捉えていた、もしニナがザクのアクチュエーター稼働域を制限するプログラムを書き換えていなければ、あれほど深く足を交差させて横移動する事は出来なかった筈だ。
 筋肉の役割を果たす各シリンダーは破損を防ぐ為にその伸縮幅を制限しているのだが、その枠を外せばモビルスーツはこんなにも軽快に動けると言う事をキースは実践した事になる。確かに破損のリスクはついて回るが、緊急時に限界機動が出来るかどうかという事が生死の分かれ目になると言う事は、あの紛争で学んだ事の一つだ。
「いや、少なくともトリントンの頃の俺やコウよりもずっと優秀だ、末恐ろしい逸材だと思うよ。今日勝てたのはニナさんのお陰だ」
「 ”自分の力だとは言わないんだね。ま、あたしにしてみりゃもう少しあんたは自惚れてもいいと思うけど? 今のあんたはもうバニング大尉やモンシア中尉にしごかれていた頃のあんたじゃない、あたしが保証するよ ” 」
 出逢った頃の自信を封印して謙虚さを身につけてしまったキースを、ほんのちょっとの歯がゆさを滲ませながら励ますモウラ。昔の記憶を引き合いに出して今の自分を評価するモウラの事を、キースは本当に有難いと思う。自分の実力に対して正当な評価を下す人間と環境を失ったしまった今のキースにとって、彼女の言葉とニナのサポートが支えになっていると言う事を実感せずには居られない。
 そうだ、コウは、もういない。

「ありがとう、モウラ。素直に受け取っておくよ。 ―― これであいつらも暫くは大人しくなるだろう、どうやらあちこちで情報を仕入れてたみたいだけど」
 小さく息をついて人差し指でパイロットスーツの襟を空ける。愛用のシューティンググラスを外して外からの光に透かせながらレンズを拭き上げるキース。思った以上に汚れが酷いのはそれだけ彼らが奮戦したと言う事の証だ、賭けに勝った事の充足感と誰にも語ってはならない秘密を守れた事の安堵がキースの口から再びの溜息を呼び出した。
「 ” …… まーだマークスは諦めてなかったのかい? あんたが今朝、二人にゲルググを使わせると言った時にどうもおかしいなって思ってたんだ。ニナはニナで昨日の夜からマークスのザクに掛かりっきりだったし ―― ニナは今日の事知ってたの? ” 」
「昨日の夜に俺が話した。今朝乗り込んだ時には奴のザクはすっかり別物だったよ、特にOSをカットしたマニュアル操作時のレスポンスは特筆ものだ。アビオニクスがアナハイム製になっているから操作がし易いって事を差っ引いても、関節の稼働域の広さと緊急時の操作の自由度は格段に上がってる。トリントンで乗ってた奴とは雲泥の差だ」
「 ”技術主任の本領発揮って奴だね。しかしマークスの機体だけそんな事して大丈夫なの? あんただから機体を壊さずに済んだんだろうけど ―― ” 」
 モウラの言葉を受けてキースはじっとパネル上に埋め込まれたインフォメーションモニターを眺めた。青く点灯するオートパイロットと言う文字はモビルスーツがパイロットの手を離れてひとりでに動いている事を示している。
 兵の練度の低さによるシステムの進化は操作によるストレスの軽減と言う恩恵と共に、人型機動兵器と言う利点を奪い去ってしまった様にキースには思える。だが人は一旦便利さに慣れてしまうとなかなかその呪縛から抜け出す事が出来なくなる。アデリアも、マークスも素質の片鱗は感じさせるが、それが彼らの成長を妨げているのだとニナは昨日の夜キースに語った。
「マークスがマニュアル操作を覚える気にならなければ、多分大丈夫だ。モウラに手間は取らせないよ」

「まあ、そんな事は整備班うちの訓練にもなるから別に気にしなくていいんだけどさ」
 モウラはローダーの荷台に腰を掛けたまま後をついて来るキースのザクを眺めていた。日が昇ったばかりだと言うのに東から照り付ける日差しに頬が火照る、この分だと日中はもっと熱くなるのだろう。炎天下の中をもう一度この道を走る羽目になった二人の姿を想像してモウラは首を傾げて穏やかに笑った。
「でもこのままって訳にはいかないんだろ? 二人に成長して貰う為にはこの先どの道それを憶えて貰わなきならない。ニナもそれを見越してそうしたんだろうし、アデリアの機体にだって今日明日中には同じチューンを施す筈だよ? 」
「 ”俺に言われてやらされたんじゃ意味が無い。必要に迫られて身につけようと二人が思い立たないと絶対にモノにはならないんだ、でも ―― ” 」
「その為の餌が …… 問題、なんだよねぇ」
 辺りを憚る様に声を絞るモウラ、そしてモウラの言葉に口を噤んで同意するキース。

 コウとニナの事を知ると言う事。それはつまり史実から抹殺されたあの紛争の一部を知ると言う事に他ならない。二人の経緯を突き詰めれば突き詰めるほどに内容は核心へと踏み込んでいき、遂には後戻りの出来ない領域へと辿り着く。誓約書や転属と言う名の軟禁紛いの行為で一切の情報を洩らさない様にしているのも一滴の水漏れも逃さないと言うティターンズの決意の現れであり、それを白日の元へと晒そうとした何人かの人道主義的ジャーナリストが不慮の死を遂げていると言うのは風の噂でも良く耳にする。
 自分達が墓の中まで抱えなくてはならない宿命を敢えて前途有望な若者に背負わせるほど二人は無責任ではない。しかし自分達の経験を元に、彼らに対して万が一の備えを教え込んでおきたいと言うのは悲運の道を歩かざるを得なかった二人に課せられた責任でもある。世界が一夜を境に変貌するのは時として起こり得る事なのだ。

「とはいえ、ネット上の掲示板ではオカルトの様に噂されている話だしねぇ …… ああいう類は削除しても雨後の筍の様に次から次へと頭を出すから、いつかは誰かが裏を取って公にしてしまう事があるかも」
「 ”しかしその頃にはオリジナルの形は失われて劣化したコピーの様な内容が張られるだけだ、もしかしたらティターンズが積極的にその改竄に乗り出すかもしれない。そうなったら裏を取ろうにも取りようが無い、事実その物が全くの紛い物へと変化している訳だからな” 」
「奇しくも二人は興味本位な好奇心から開けちゃいけない禁断の扉へと手を掛けようとしている、って? 」
 モウラの問い掛けにキースは答えない。何とかそれを阻止しようとしているキースにしてもここ最近の演習内容が徐々に芳しく無くなっている事は分かっている。結果だけを見れば今だ負け無しと言う事にはなるのだが、見えない所で押されていると言う事はキースだけでは無く彼を支えるモウラやニナにも目に見えて理解出来るほどだ。
 操縦技能だけでは無く戦術や戦略をキースが駆使し始めたのがそのいい証拠で、あの紛争を生き延びたと言うアドバンテージを利用しなければ負ける事は無いにしても勝ち辛くなっている。
「 ―― もうさ、」
 モウラはそう言うと恐らく思考の迷路に閉じこもってこの先の事へと思いを巡らせているであろうキースに向かって言った。たった一人で秘密を守る為に立ち塞がらなければならない彼の心の重荷を少しでも和らげてあげたい、と思う。
 愛する者の抱える悩みであるからこそ。
「いっその事、ここいらですっぱりと負けて彼らに嘘八百言っちゃえば? ニナとコウは恋人同士だったけどコウの浮気がばれて大喧嘩して別れちゃった、とか? 」
「 ” …… 八百長は、趣味じゃない。それに ―― ” 」
 意外に早い反応にモウラは目を丸くした。耳をそばだてたモウラの耳に忍び込んで来るキースの答えには微かな苦笑いが混じっている。
「 ”友達の名誉は、守ってやりたい。 …… モウラ、すまない」
 この頑固者め、と思いつつモウラは携帯の回線を切って小さくザクに向かって手を上げた。

 出逢った頃には気付きもしなかった芯の強さがモウラの心を捉えて離さない。心の拠り所を失ったキースの見せた変貌を彼の人と形を知る誰もが驚き、疑いそして目を見張った。
 だがニナも、そしてコウも知らなかった彼の本性をモウラだけは理解していた。コウの乗るフルバーニアンの背後を護る為に彼がどれだけの被弾を被りながらも最後まで戦い続けたのか、ソロモンでの戦いはコウだけでは無く、キースの心にも大きな影響を与えた戦いだったのだ。
 激戦の中へと復讐と言う名の任務に駆られて飛び込んでいく親友を護る為、足りない技量を補うのに体を張って敵からの銃撃を遮ったキースのジム・キャノンⅡは全てのアーマーが剥離した状態で帰還した。主幹機能だけが生き残っているコクピットの中で操縦桿を握り締めたまま震えているキースの肩に手を掛けたモウラが最初に聞いた彼の言葉。

「コウは、無事か? 」

 無様な姿で帰還しやがって、まあ、と言ったモンシアに向かって涙を浮かべながら掴み掛かろうとしたあの日の事をモウラは忘れない。大事な物をこれ以上失いたくないという執念がキースを、そしてモウラの心を変えた。もしかしたら宇宙を焼き払ったあの神々しくて禍々しい核の輝きがその切っ掛けになったのかも知れない。
 しかしモウラは自分の本当の気持ちを改めて思い知り、そしてキースはアデリアとマークスと言う部下を護る為の戦いに今でも身を窶す。
 だが、モウラは思う。
 自分が手に入れた掛け替えのない者はその本性を現す代わりに、もっと大事な物を失ったのではないのか。彼が見せる事の無くなったあの日の笑顔はとても朗らかで大らかだった、それは誰のお陰で彼が手にしていた物だったのか?
 
 小さな嫉妬がモウラの心をつつく、見えない心の痛みを覚えた彼女は地平から登り切った大きな太陽から少し目を逸らして遠ざかりつつあるオベリスクの輝きへと視線を向けた。乾いた風が温まった頬を撫ぜてほんの僅かな涼しさを齎す。
 同じ風をこの世界の何処かで彼も感じているのだろうか、と行方も知れなくなったキースの親友へとモウラは想いを馳せながら目を細めた。
 
 
 全身に浮き上がった筋肉には一分の贅肉も見当たらない。境目までくっきりと分かれる筋繊維を隠す様にコウは作業ズボンに両足を通した。三年前よりも一回り大きくなった胸板を覆う様に着古したTシャツを被って、その上から紫外線対策の長袖を羽織る。それでも日焼けをするのだからこのオークリーという土地がいかに日差しが強いかと言う事が分かる。
 上着の裾を止める様に廻したツールベルトをホルスターの様にぶら下げてコウはゆっくりと椅子から立ち上がった。足元で鳴るギイ、と言う音がどこから出たのか分からないほどガタついた椅子を尻目にゆっくりと壁へと近づく。
 隙間だらけの壁板を補強する様に止められた横棒に打ちつけられた釘に掛けられた道具、革の鞘に収まった小さな鎌を手に取るとそれをベルトの穴へと差し込む。隣にあった小さなスコップと擦り切れた軍手を手に取ったコウは視線を部屋の隅に立てかけられた大きな鎌へと送り込んでポツリと呟いた。
「もうすぐ、アレの出番か。 …… もうそんな時期なんだ」
 スコップを腰に差して軍手を嵌める、足を通すブーツにはうっすらとワラビーらしきシルエットが残っている。紐を固く締めたコウは立ち上がって、ドアに掛けられた幅広の麦わら帽子を取り上げると入口のドアを引いた。
 太陽は天頂を目指す途上でも強く大地に照りつける、景色の輪郭を歪ませる熱気に目を細めながらコウは後ろ手にドアを閉めて短い階段を駆け降りた。

 自分達の前を走る影が少しずつ小さくなっている事を確認しながら、二人は元来た道を黙々と走り続ける。大きく開けた口から流れ込む熱気は肺を温めて、体の中に残った水分を全身の毛孔から吹き出させる。しかしオークリーの乾燥した気候は長袖のインナー一つになった二人の肌を少しも濡らす事無く、全て空気中へと蒸散させている。苦しげな息継ぎを何度も繰り返しながらやっとの思いでオベリスクの根元へと辿り着いた二人はクールダウンの為によろよろと歩きながら、壁に向かって両手をついて崩れそうになった体を支えて言った。
「 ―― や、やっぱりキツイ。 …… これでやっと半分って ―― 」
「 ―― お、俺達無事に基地まで帰れるのか? 」
 乾燥している為に日蔭の温度は日向に比べてかなり低い、彼女は肺の中の空気を全部一気に吐き出してから、再び大きく深呼吸した。汚れた酸素の交換によってリフレッシュする体内はそれだけでアデリアの気分をすっきりさせる。呼吸を整えたアデリアにマークスは担いだバックパックから取り出したペットボトルを手渡した。
「 …… うわ、もうお湯になってるわ」
 手にした水の温度にいささか辟易しながらも、アデリアはそれを一気に飲み込んだ。吸収などと言うまだるっこしい過程を経ずに干乾びた細胞へと取り込まれる様な水分の感覚を覚えながら、アデリアはそれを思わず頭の上へと差し上げて一気に被る。
 お湯とは言ってもそれはシャワーと考えれば丁度いい温度で、日蔭を通り過ぎる乾燥した風は彼女の身体を濡らした水と共に肌の熱を奪って涼しさを齎す。その気持ちよさにアデリアは思わず嬌声を上げて感激した。
「うっひゃあ、気持いいっ! 」
 衝動的に取った自分の行動が思わぬ効果を持っていたと、アデリアはマークスに同じ行為を勧めようと目を向けた。しかしアデリアがその口を開く前に当の本人はペットボトルの口を開いたままただ茫然とこちらを見ているだけだった。
「 ―― どしたの、マークス? 」
 尋ねながらアデリアは、まるでそうする事を促す様に自分のペットボトルを口へと運んだ、だがそれでもマークスは呆然とアデリアの方を見たまま固まっている。やがてその顔色にほんのりと血の気が上がって来るのを見てアデリアは、もしかしたらマークスが熱中症の類にでも罹ったのではないかと疑った。
「ちょっと大丈夫、マークス。顔赤いよ? もし気分が悪いンならちょっと此処で休んでいこう、日が少し傾いてからでも此処を出れば夕方までには帰れるからさ」
「い、いや違うアデリア。俺の事は心配しなくていい、これは、その、お前が思ってる様な病気じゃなくて、その ―― 」
「心配しなくていいって ―― そんな訳ないじゃん。ただでさえキツイのにあたしの分の水まで持って貰ってるんだからあんたの方がしんどいに決まってる。今日はもう訓練もないんだからゆっくり帰ろう、ね? 」
 表情を曇らせながら心配するアデリアの視線から微妙に目を逸らすマークス、気まずそうに口籠る彼の視線はそれでも自分の身体のある一点に注がれている。マークスから向けられた目線を辿る様にゆっくりと顔を降ろしたその先にびしょぬれになった自分のインナーが目に入った。
 ぴったりと張り付いた布地に浮かぶ自分の肌、アデリアはその瞬間、自分が暑さ対策の為に下着を着けずにインナーを着た事を思い出した。 ―― と、言う事は。
「!! 」
 慌てて胸の前で腕を組んで隠すアデリア、握っていたペットボトルが手の中から弾け飛んで地面に転がる。マークスの顔よりも真っ赤になったその顔を見られない様に踵を返したアデリアは恐る恐る尋ねた。
「 …… 見た? 」
「いや待て勘違いするな、俺はお前にその事を忠告しようと思ってたんだ、本当だっ! ただ、その、何て言うかお前にどうやってそれを伝えようかと考えてる間にお前の方が気付いたって言うか、いやその、つまりだな ―― 」
「ち、ちがっ、や、その、わ、私の方こそゴメンっ! 私が勝手に水を被ったんだからマークスはちっとも、何にもわ、悪くないわ、うん」
 しどろもどろの言い訳もお互いの羞恥を収めるには至らない、意を決したアデリアが胸元を隠したままで突然オベリスクの根元の向こうにある日なたの窪地へと駆け出した。慌てて声を掛けようとするマークスの意図を見透かした様にアデリアは声を掛けた。
「ちょ、ちょっと日なたに出て服、乾かして来る。マークスはそこで休んでて、すぐ戻ってくるから」
「お、おいアデリア。何もそんなに遠くまで行かなくても、その辺りの日なたにいればそんなの五分位で ―― 」
「マークス」
 引き止めようとするマークスに向かってアデリアは足を止め、溜息を一つ吐くと振り返らずに言った。
「いい? そんなデリカシーの無い事を言ってる様じゃ、何時まで経っても女の子なんて近寄って来ないわよ? 」

 あたしってば何を言ってるんだ、と自分の言葉を振り返って自己嫌悪に陥るアデリアは窪地の影で蹲ったまま地面の砂を眺めていた。
 自分で水を被っておきながら、見た? は無いだろう。それにマークスはあたしの疲労を考えて遠くへ行かない方がいいと言ってくれたのに、それを説教紛いの言葉で責め立てるなんて。そんなのマークスに彼女が出来る云々以前にあたしの性格の問題だ。
「 …… どうしよう、嫌われちゃった、かなぁ? 」
 あ、言うんじゃなかった、と。その言葉を口にしただけで更なる重みが自分の心に圧し掛かる。マークスとの距離をこれ以上離されたくないと思う自分と、もっと近づきたいと願う自分との葛藤はそんな些細な事でも大きく揺るがされる。彼との距離を今のまま保つ事が最も心地よいと思いながらも、絶えずジレンマに苛まれるアデリアの心境は穴があったら入りたい位に世界を締めだしている。
 悶々と悩むアデリアの耳に微かな足音が飛び込んで来たのは、照り付ける日差しに喉が悲鳴を上げ始めた頃だった。膝を抱えていたが為に未だに乾いていない胸元へと目を遣りながら、アデリアはその足音の主に向かって言った。
「ごめん、マークス。まだ服乾いてないんだ。もうちょっとだから向こうで待ってて? 」
 そう言いながらも顔を上げられないアデリアの首筋が差し掛かった影の感触で少し熱を落とす、人影が傍にあるのだと気付いたアデリアが少し視線を上げると、その目の前に小さなペットボトルが翳された。わざわざ自分の為に水を持って来てくれたのだと、アデリアはマークスの優しさに感謝しながら ―― その行為が自分の言動と対比してまた嫌悪感を募らせる羽目にはなったが ―― 言った。
「ありがと、マークス。 …… ごめんね、あんたが悪い訳じゃないのにあんな事言って。帰りはあたしも自分の分の水を持つから ―― 」
 そう言いながら受け取ったペットボトルの温度にアデリアは異変を感じた。それは今冷蔵庫から取り出した様にひんやりとして、キャップの開いた形跡すらない。そして頭上から降り注いで来る聞き慣れない男の声に、その危機感はピークに達した。
「そう、自分の犯した過ちに対して素直に謝れるのはいい事だ。最近の子にしちゃ珍しい」

 目の前のペットボトルを振り払い、咄嗟に身体を翻して相手との距離を取るアデリア。短い金髪を口元に蓄えた髭動揺に端正に整えたその男はサマージャケットを肩にかけ、二の腕まで捲くったインディゴ染めのダンガリーから生えたごつい腕をぶらぶらと振りながら ―― ペットボトルはその男の手の中にまだある、あれだけ勢い良く叩いたのに ―― ニヤリと笑った。
「おいおい、ご挨拶だなあ。初対面の人間にする挨拶にしちゃあ少々つっけんどんじゃないか? それとも人の施しは受けないと言う風に軍では教わったのか? ま、見上げた根性だとは思うがね」
「貴方は? 」
 敵意をむき出しにして尋ねるアデリアの行為は軍人として当然だった。今二人が走って来た道は連邦軍が飛び地として接収している軍用地の一角だ、つまりいかなる事情があろうとも事前の認可が無い限り軍人以外の人間が立ち入れない事になっている。
 仮にこのふざけた格好の男 ―― 年格好は三十歳前後、日に焼けた浅黒い肌と彫りの深い顔立ち。生やした髭が年齢より上の印象を与えるが多分それ位だろうとアデリアは思う ―― が軍人だったとしても、何の為にこんな場所をうろうろしているのかが分からない。自分で言うのも何だがオークリー基地は陸の孤島、軍と名の付く場所から人が訪れる事など殆ど無い『忘却博物館』なのだ。
「そう怖い顔するな、折角の美人が台無しだぞ? たまたまこの辺を通りかかったら窪地のど真ん中でお嬢ちゃんが蹲って泣いてたから、つい仏心で、な。余計なお節介だったかな? 」
「おせっかいついでに泣いてません! それより貴方は? この地域は軍の演習場です、民間人の立ち入りは固く禁じられていると閉鎖区画の柵に表示してありませんでしたか? 」
 適度な間合いを取って相手との距離を保つアデリアの足が小さく揺れる。臨戦態勢へと移行する足捌きは徒手格闘を得意とする彼女ならではの奥儀だ、相手の上背 ―― マークスより少し高い位だから多分180センチくらい ―― と同じ距離を取りながらアデリアは油断なく相手の姿を睨みつけた。今にも飛びかからんとする気配のアデリアを見て、その男は苦笑した。
「ああ、何か書いてはあった。だがもう錆サビで良く読めなくなってると言うのは軍の管理不足と言うべきだろう? 基地に用事があるんだが何せ普通の道だと遠回りになるんでね、いつも時間を見計らっては黙ってここを使わせて貰ってるんだ。まさかこんな時間にこんな日差しの強い場所に人がいるなんて思わなかったからよっぽど辛い事でもあったのか思ってね。傷付いた女の子を慰めてやろうと思うのは人情じゃないか」
「な、なぐさめるぅ!? 」
 
 人の真剣な悩みに向かってよくも、とアデリアは憤慨した。ただここで相手の挑発に乗って何らかの実力行使に移るのは負けた様な気がする、それが軍と言う権威を振り翳して相手に退場を促す物であったとしてもだ。自然なウォッシュの掛かったジーンズと胸元で見え隠れする分厚い胸板までもが憎たらしい。
 喧嘩を売るべき相手の欠点を注意深く観察していたアデリアは、遂にその場所を見つけてニヤリ、と笑い返した。足を止めて踏ん張り、両手を腰に当てて相手を舐め上げる様に見つめる様は、挑発に対するお返しとしては十分に非礼な態度だろうとアデリアは思う。
「残念ですけど、あたし。まゆ毛の無い『おじ様』には全く興味がそそられないンです。どうせナンパされるのでしたらそういうご趣味のご婦人を探されてはいかがです? 」
「!? ま、まゆ ―― 」
 手にしたペットボトルを取り落として思わず額に手を当てる男の表情が驚きに満ち溢れる。一気に優勢に立った事をその表情で確信したアデリアはここぞとばかりに畳み込んだ。
「ま、もっともそんな奇特なご婦人がこの界隈にいらっしゃるかどうかはあたしにも思い当たりませんが。そんなペットボトルの一本で女の子を引っ掛けようなんて普段はさぞやおモテになってるんでしょうけど、よっぽど生活に困っている方に限られるんでしょうね。食べ物が無くて飢えているとか、路頭に迷って困っているとか。基地に用事とか何とかおっしゃって此処までお相手を探しに来たんでしょうが、残念ながらこの辺はご覧の通り荒れ地のど真ん中ですから。さっさと諦めて『おじ様』のお眼兼ねに叶った女性が沢山いそうな場所にでもお移りあそばした方が ―― 」
 滔々と勝ち誇って語るアデリアの声が男の笑い声によって遮られたのはそこまで喋った時だった。これ以上無いほど豪快に笑い上げる男の反応に呆然と声を失ったアデリアは、自分の作戦が相手の歯牙にもかけられていない事を悟って再び語気を強めて言った。
「何がおかしいんですか! 先程も言いましたが此処は軍の施設内です、基地に用事があるのなら速やかに一般道に移動 ―― 」
「あーいや済まない、決して君の事を侮ったり馬鹿にした訳じゃないんだ。い、いや喧嘩の売り付け方のあまりの気風の良さに驚いてしまってね ―― 」
 笑いの止まらない男の顔を尚も睨みつけてもう一度同じ指示を口にしようとしたアデリアの顔色が変わったのは、その男の口からその単語が飛び出した瞬間だった。
「 ―― さすがは『ベルファストの鬼姫』。参った、俺の完敗だ」

 彼女に付けられたその二つ名を知る者は少ない。アデリアにとっても不名誉なその蔑称は彼女がオークリーに転属する前に所属したヨーロッパ方面軍ベルファスト基地に於いてアデリアが起こした大立ち回りによって密かに付けられた物だ。降格処分と共に付いて回るそのレッテルを知る者は連邦軍の人事部若しくは情報部、そしてオークリーに在籍する一部の隊員だけに限られる。
 当の本人の前でその名を口にしながら、反応を愉しむ様にニヤニヤと笑う無礼な男の身元を確かめるべく、アデリアは真顔になって問い質した。
「何故その名を? 貴方がそれを知ると言う事は自身の身分が軍関係者と名乗っているも同然です、速やかに貴方の所属と官職の提示を要求します」
「勿論知ってるさ、アデリア・フォス伍長。いや、元曹長。去年起こしたベルファスト基地での集団暴行事件の責任を取らされて降格の上転任。お前さんは部下の女性が基地の隊員に暴行を受けた事を知って相手の宿舎に単身乗り込み、当事者とその仲間八人を袋叩きにした。残念ながらその相手が『ティターンズ』であったが為に、お前さんだけが罪を全部着せられてこの地へと来る羽目になった、と。 …… どうだ、合ってるかい? 」
「ただの軍人では無いようですね」
 名前の付いた経緯にまで言及出来るのは間違いなく人事部か情報部だ。しかしエアコンの効いた建物の中でしか仕事をしない制服組や顔を見られる事すら遠慮する情報部の人間が何故わざわざこんな所へのこのこと顔を出す必要があるのか? 基地に用事があると言うのだからそうである可能性が無きにしもあらずだが、それにしては態度が横柄だし、大体人の過去をこれ見よがしに暴き立てるその性根が気に入らない。
「貴方を軍関係者と認めて再度要求します、速やかに姓名と所属、階級と認識番号を答えなさい。もし提示できない様であれば ―― 」
 それはマニュアルにも記載されている規約の一つだ。軍関係者は要求されれば特殊な任務に従事していない限り、速やかに相手の求めに応えて自らの身元を開示しなければならない。出来る限り穏便に事を済ませようと努力するアデリアがわざわざ形式ばった手段を選択したにもかかわらず、男はそれを一笑に付して言った。
「 ―― 出来るも何も俺はただの民間人だ、この近所に住んでる。軍関係者じゃないから君の要求には答えられない、申し訳ないが」
「 ―― では先ほども申し上げました通り、此処は軍用地です。民間人は ―― 」
 暖簾に腕押しと言った風情でアデリアの要求を突っぱねる男を睨みつけながら、退去命令を口にしようとするアデリア。しかしその時、アデリアの背後から砂を蹴立てて近づいてくる足音とマークスの叫び声が届いて彼女の言葉を抑え込んだ。
「アデリアっ、何があった!? 」
 マークスが窪地の淵を飛び越えて猛然と擂り鉢の底へと雪崩れ込む、不穏な空気を感じ取った彼はそのままの勢いでアデリアと男の間に身体を割り込ませて、男の顔を睨みつけながら怒鳴った。
「貴様、一体アデリアに何をした!? 」

 恫喝を受けた男の表情がアデリアに向けた物とは一変して険しくなる。眉間に小さく皺を寄せ、隠しておいた眼光を露わにした男はマークスの顔を鋭く睨みつけた。
「 …… マークス・ヴェスト軍曹。元北米方面軍ニューアーク基地所属第325機動部隊第二小隊所属。命令不服従七回、出撃拒否五回、度重なる上官への暴言。営倉入りの懲罰要件だけで貴様の軍暦は四人分の厚みがある。一介の軍人でしかない者が身の程も弁えず、事もあろうに民間人に向かって恫喝するとは何事だ?」
「不審者に言われる筋合いは無いっ! 軍関係者であるならば速やかに規定された要求に応えろ、話はそれからだっ! 」
 火花を散らす六つの眼光の鬩ぎ合いは男の一方的な試合放棄で幕を閉じようとする。だがそれは敗北を認めて降ったと言うのではなく、愛想を尽かした溜息と蔑み混じりの視線での新たな宣戦布告だった。
「目上の者に対して言う言葉がそれか。貴様の形では恐らくそうでもしなければ今まで自分を保てなかったとでも言うのだろうが、そんな物はただの貴様自身の甘ったれた根性の為せる技だと何故気付かん? 軍人として以前の人としてのあり方を教え込めない貴様の上官も推して知るべしだ。やはりオークリーはその名の通り、忘れ去られる卑怯者どもの巣窟か」
「貴様、俺の見た目だけじゃなく隊長までっ! 」
 完全に逆上したマークスの身体は背後で制止したアデリアの声と手を振り切って前に出た。ダブルステップで間合いを一気に詰めて間合いに飛び込み、溜めた軸足に力を込めて一気に上半身を捻り出す。腰を入れた右ストレートはボクシングを習い始めた幼少の頃からの得意技、絶対的な自信と精度を秘めた渾身の一撃。
 突き上げる様に伸びる拳は間違いなく男の顎を捉えて、次の瞬間には昏倒させるに足る威力を痛みと共に思い知らせる筈だった。
 だがその右腕に最も力が籠る、肘関節が伸び切る寸前にマークスは思い掛けない光景を目にした。ステップバックかスウェー(上体だけを後ろに反らして躱す防御テクニック)で回避するしかないと思われた自分の腕に向かって男が体を振り込み、自分の顔面目掛けて迫って来るマークスの拳を見切って頭を振った。小さく笑う男のもみあげの至近を通過して外れる自分の腕を男の手が掴んで捕える。
「何っ!? 」
 驚きと共に引き戻そうとした瞬間に手首と肘に猛烈な激痛が走った。一捻りで二つの関節を極めた男の身体がそのままマークスの身体に潜り込んで背を当てる、カウンターで喰らった衝撃に腰を浮かせたマークスはいとも簡単に相手の腰にその体重を預けた。跳ね上がる相手の膝の反動が背負われたマークスの足を一気に地面から解き放つ、浮遊感が支配する世界はマークスの脳を揺らしに掛かった。
「うわっ! 」
 天地が変わって目が眩む、半径の小さい旋回軌道は三半規管が平衡感覚を修正しようとする間も与えない。空を仰いだマークスが驚いた瞬間に背中を叩いた地面の感触は、猛烈な衝撃となって彼の臓腑を突き抜けた。苦痛の呻きは閉じた瞼の代わりに開いたその口から飛び出す。
「ぐうっ! 」
「マークスっ! ―― よくもっ! 」
 一本背負いを掛ける為に捕まえていたマークスの腕を男が離した一瞬の隙を付いてアデリアが間合いを詰めた。フェイントの中段でマークスと男の距離を離して、踊る様なステップで相手の足を払いに掛かる。相手の意識が足元へと向けられた瞬間にアデリアは一気に懐へと飛び込んで下段の足を相手の脇腹目掛けて振り上げる。驚いた男の肘が脇腹に置かれた瞬間に、アデリアの膝は柔らかい関節を駆使してその軌道を顔面へと変えた。
 下段から始まる二段フェイントの攻撃について来れる者はいない、とアデリアは信じていた。しかしその足の甲が唸りを上げて顔面へとヒットしようとした瞬間、男の手が間に差し込まれてそれ以上の狼藉を堰きとめた。
「! うそっ!? 」
「なるほど、これが噂の『右上段回し蹴り』か。仕掛けも切れもなかなかのモンだが ―― 」
 男はそう言うと驚愕を露わにしたままのアデリアを体ごと力一杯押し返した。バランスを失ったアデリアが大きく地面に投げ出されて尻もちをつく。上体を両手で支えて呆然と見上げるアデリアを見下ろしながら男が言った。
「 ―― 相手を一撃で仕留めようと言う気概が無ければただの気の利いたダンスだ。護身術程度には役には立つかも知れんが、軽さを補おうとするつもりなら相手の急所をピンポイントで狙え」
 ぱんぱんと手を叩きながらにやりと笑う男の得意げな表情を睨み上げながら、横たわったまま苦痛の呻きをあげるマークスを庇ってその間へと体を置くアデリア。衰えぬ敵意の瞳をじっと見下ろした男が、やれやれと言う様な表情をして言った。
「しょうがない、どうあっても名乗らなければここから先には行かせてもらえないようだな」
 猛獣の様な瞳の色が消えて、あっという間に元の雰囲気へと戻るこの男の素性はただ者じゃない。それでも油断なく身構えるアデリアの前で、人差し指で顎を掻きながら目を逸らした男は暫く何かを黙って考え込み、そして何かを決意したかの様に再び視線を落とすとおもむろに言った。
「私の名はヘンケン・ベッケナー。元地球連邦軍第七艦隊所属、除隊時の階級は中佐だ」

 最初に自分の身分を話した所で到底信じては貰えないだろうとヘンケンは思った。ではどうすればこの好戦的な若者二人が素直に自分の言葉に耳を傾ける事が出来るだろうかを考える、それが二人から目を逸らした理由だった。兵士の規律を正すのに最も効果的な方法は、階級によって立場を明確にする事。たとえそれが『エクス』の名の付く物であろうともだ。
「 …… ち、中佐って? 」
「それって、ウェブナー司令と同じ階級って、事? 」
 ヘンケンの読み通り、二人の目から瞬時に敵意の色が消えた。疑惑の表情が消える事は無いが、少なくとも自分が今まで開示した二人の経歴と実力を鑑みればヘンケンの言葉をある程度飲み込まざるを得ないと言うのが二人の本音だろう。
「今はこの先の農地復興計画の責任者として作業に当たっている、と言えば聞こえはいいが、平たく言えばこのあたりに移住して来た百姓の元締めみたいなモンだ。みんなからは『組合長』と呼ばれてる」
 痛む身体を必死で立ち上がらせて、不格好ながらも敬礼の姿勢を同時に取る二人。その慌てっぷりに内心「薬が効きすぎたか」と自分の行いを反省しながらヘンケンは言った。
「あ、いや俺はもう民間人なんだからそんな事はせんでいい。それよりどうだ、今日の所はお互い不問と言う事で手を打たんか? 民間人に手を上げたとばれればお前さん達もまたぞろ懲罰の対象になりかねんし、ましてやその民間人に叩きのめされたとあっちゃあ何かとバツが悪いだろう? 侘びと言っては何だが、帰りは俺が基地まで送って行ってやろう。どうだ? 」
「いえ! その様なお気遣いは無用であります。知らぬ事とは言え数々のご無礼失礼いたしました! 」 
 声を出すだけでも痛みに顔を顰めるマークスを肩で支えるアデリア。口を開かないのは上官に対する礼儀と、未だに解けない警戒心の為だ。ヘンケンは対照的に並ぶ二人の顔を見比べた。
「とはいえ、回りに道具の一つも見当たらない所を見るとここまで二人で走って来たんだろう? そんな体で基地まで ―― と、それは俺の責任だな。俺もこれからお前さん達のボスと大事な商談があるんだ、部下を傷めつけられてへそを曲げられては敵わん。それが俺に非が無い物だとしても、上司ってのはそういうモンだ」
「いえ、しかしそれでは中佐殿のお手を ―― 」
 食い下がろうと声を上げたアデリアの顔を笑いながら眺めたヘンケンが、小さくウインクをした。何の事か分からずにきょとんとしたアデリアに向かって口を開く。
「そう言う事ならこれは代金として受け取っておいてくれ、久しぶりにいい目の保養をさせてもらった事のお礼だ」
 その意味に思い当たったアデリアが再び真っ赤な顔で胸の前に両腕を廻した。支えを失ったマークスが突然の事に呆然となって足元へと崩れ落ちる。
「ご、ごめん! マークス! 」
「俺の後からついて来い。車に着くまでは振り向かないからパイロットスーツを着るといい。 …… 車はいいぞ。モビルスーツのコクピットとは違って冷房が効いてるからな」

 右手のキーをくるくると指の先で回しながら歩き始めたヘンケンの背中を目で追いながら腰に巻いていたパイロットスーツの上着の袖に腕を通すアデリアとマークスだが、アデリアはともかくマークスの方は打ち身が酷くてなかなか思う様に手が動かない。強がっては見たもののヘンケンの申し出が彼ら二人にとっての助けになっていると言う事は否定が出来ない事実だった。
「 …… ねえ」
 痛みに耐えて苦しそうに上着を着ようとするマークスの耳元で、それを手伝っていたアデリアが囁いた。
「何だよ、いきなり? 」
「どう考えても怪しくない? 身分証も提示しないし、やたら強いし。絶対に額面通りの『元連邦軍人』じゃ無いわよ、あれ」
「強いのは認める。でも僕達の経歴をあそこまで詳しく知ってるなんて正規に所属した連邦軍関係者意外考えられないよ。司令と同じ階級だったとしたらアクセスレベルは4だ。知っててもおかしく無いだろ? 」
「実は内部に潜り込んだジオンのスパイ、とか? 」
「何しにこんな所まで。スパイするならジャブローだろ? こんなとこに来たって得る情報なんか ―― 」
「 …… 無いわよねぇ、確かに」
 パイロットスーツをやっとの事で着終わった二人が立ち上がった。手を貸そうとするアデリアの行為を押し留めてゆっくりと歩き始めるマークスの足取りは心もとない、支える様に肩を貸してアデリアは車のドアに手を掛けたヘンケンの背中を睨みつけた。
「まあ、此処は素直に好意を受けようぜ、アデリア。どうせ基地に着けば分かる事さ。それに、どうやらいい人っぽいじゃないか」
 掌を返した様にヘンケンの事をそう評価するマークスの言葉を受けたアデリアが眉を顰めて横顔を眺める。
「呆れた、地面に叩きつけられた当の本人からそんな言葉が出るとはね。あんたの人を見る目がどうだか分からないけど、あたしには ―― 」
 そう言うとアデリアは車のドアを開いたままこちらへと手を振るヘンケンを睨み付けて、唾でも吐き掛けそうな勢いで毒づいた。
「 ―― ただのセクハラ親父にしか見えないわよ」



[32711] Unless a kernel of wheat is planted in the soil
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:b090dcee
Date: 2012/06/09 07:02
 どこまでも続くその青い空を霞ませる太陽の輝きは嘗て宇宙と言う名の航路を照らし続けた巨大な灯台だ。地球を取り巻く膜の様な大気を貫いて燦々と降り注ぐその光は、熱を伴って広大な大地を温める。
 地平線まで続く金色の野にただ一人、コウは無心で麦の並びに体を屈めて根元に生えた草を追う。幅広の麦わらのつばが作り出す影を追う様に手を伸ばして、ひげ根も揃わない小さな芽を一つ一つ丹念に摘まみ取る。足元に籠もる熱気がコウの体中から汗を導き、しかしオークリーの乾燥した気候は彼の羽織った上着が濡れる前にその水分を奪い取る。喉の渇きを覚えたコウが体を起して、腰にぶら下げたガラス瓶を手にとって口に当てた。
 ごくりと飲み込むその水はほんの少しの冷たさと、舌の奥に苦みを残して喉を伝う。畑に必要な水は何箇所かに掘られた井戸から供給されるのだが、それが天然の伏流水であると言う事をコウは農夫仲間から教えられた。人工的な物が殆ど焼き払われた土地であるが故に得る事の出来た天然の恵みに舌鼓を打ちながら、コウは収穫を迎えようとする広大な麦畑を仰いだ。
 軽い眩暈と筋肉痛が立ち上る陽炎と相まってコウの視界を揺らめかせる、しかしその瞬間にコウは自分が生きていると言う事を教わった。モビルスーツを操縦していたあの頃とは違う穏やかな充足感は自然とその表情を綻ばせ、真上から差し込む日の光が影を奪って全てを浮き立たせる。外敵からその実りを守る為に突き上げられた麦の穂先一本一本が天に鏤められた星よりも鮮やかに、キラキラと光を放ってコウの心と目を奪った。

 見えない筈の境界が音となってコウの耳に届く。緩やかに吹く風が乾いた麦の穂を鳴らした。
 光の揺らめきはさざ波の様にコウの元へと押し寄せる、まるで振鈴の様な音を奏でる畑のうねりがコウの身体を包み込んだ。言葉では表現しがたい不協和の音色は無数の麦の実が奏でる生命の声だと思う、揺らぎに満ちた世界に心と体を委ねて我を忘れていたその時、その音色に負けないほど涼やかな声がコウの意識に囁きかけた。
「 ―― 素敵な、音色ですね」
 恐らくその協奏曲の壮大さに心を奪われてしまったのだろう、まるで息継ぎを挟むかのように声を詰まらせたその声の主へとコウは振り返った。畑の畦道に一人佇んで、靡く翠の髪を首筋で押えながらにっこりと微笑む女性はコウの顔を眺めながら口を開いた。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃったかしら」
「いえ、そんな。 …… セシルさんもどうしてこんな所まで? 」
 コウの他に畑に人がいないのには訳があった。殆どの農夫は日中の日差しを嫌って早朝から作業に勤しむ、コウも同じ時間には畑に出るのだが、自分の手で麦を育てているコウは機械を駆使する他の者に比べて作業時間が長くなる。最も日差しの強い昼時になると作業を終えた他の者がいなくなって、この時間はコウ一人が作業を続ける事になるのだ。恐らくは今日一日誰も訪れる事のない場所へとわざわざ足を運んで来た組合長の細君に向かってコウが疑問符を投げかけるのは当然の事だった。
「どうしてと言う事もないのだけれど、丁度通りかかったらウラキさんが仕事をしている姿が見えて。機械の手を借りずに麦を育てるウラキさんの背中を眺めてると、ほんとはこうやって植物を育てていくんだなあって」
 小首を傾げてにっこりと笑いながら語るセシルの顔を眺めながらコウもつられて笑顔を浮かべた。人と触れ合う事を極端に避けるコウにとっての例外がセシルと、夫であるヘンケンの二人だった。何かと押しかけては世話を焼くヘンケンはともかくとして、いつもニコニコと微笑みながら妻としての仕事をこなすセシルにコウは頭が上がらない。
 一人やもめの自分がこれと言った大きな病も患わずに作業に従事できるのもセシルのお陰だ。お節介にならない程度に気を配るセシルの気遣いに感謝こそすれ煩わしいと思う事など罰当たりな発想だとコウは思う。
「それにしても」
 セシルはコウから視線を逸らして背後に広がる麦畑に目をやった。コウの畑の区画は二百メートル四方の小さな一区画だが、そこから伸び上がる麦の穂の高さと大きさは抜きん出ている。周囲で大きく揺れる金色のさざ波に見とれながらセシルは感嘆の声を上げた。
「よくここまで育て上げましたね。ハード・レッド・ウィンター種(硬質小麦。パンの原料に最適。育成が難しく品質にばらつきが出易い。冬蒔き)はとても育てるのが難しい品種なのに」
「いえ、それも俺一人じゃ。ヘンケンさんや他の仲間のお陰です、みんなの知識がなければ此処まで綺麗に育てる事なんて」
 それは本心だった。困難であるが故に一粒の充実したその品種を選んだ時、ヘンケンや組合の仲間は口々に思い止まらせようとした。しかしコウの決意が固いと見るや、彼らはコウの遣り方に合った肥料や作業方法 ―― それこそ種蒔きの時期や間引きのタイミングに至るまで ―― を調べて教えてくれたのだ。自分の我儘にこれ程までに真摯に向き合ってくれた仲間に対して敢えて距離を置かねばならない自分の境遇を、コウは心密かに悔やんでいた。
 忸怩たる思いを心に秘めて目を伏せるコウに向かって、セシルは心の内を見透かした様に言った。
「それもウラキさんの人柄の賜物ですよ。どんなに貴方がみんなから距離を置こうとしても、貴方の育てたこの麦達が貴方の人柄を証明しています。みんなもそれが分かっているからこそ貴方に力を貸したのだから、もっと自信を持って」

 励ますセシルの姿をじっと見つめながらコウはそっと麦わら帽子に手を遣って、セシルの視線から自分の表情を隠す為につばを降ろした。セシルの語る一言一言がまるで牧師の語る説話の様にコウの心へと突き刺さる。自分の犯した罪を懺悔する咎人はそうして救いを求めてしまうのだとコウは自分の心へと呟いた。
 だが血塗れになった手とその背に背負う罪の重さがセシルの赦しを遠ざける、そうする事でしか自分の罪は償う事が出来ないのだとコウは信じていた。アイボリーのチノパンに七分袖のカットソーを纏った女神はコウの瞑い心を光で苛みながら、変わらぬ笑顔でその姿をながめている。
「そ、そう言えばヘンケンさんは? てっきり一緒にいらっしゃる物だと」
 ばつが悪くなって精一杯話題を変えるコウ。目の前のつばの影から姿の見えないセシルが、その問い掛けに申し訳なさそうな声で答えた。
「ごめんなさい、本当は今日ウラキさんの畑を一緒に見に来る予定だったのだけれど急に基地の方から話し合いの連絡が舞い込んで来てしまって」
「基地? 」
 この辺りで『基地』と言えばオークリーしかない、しかしコウは無意識にその固有名を口に出す事を躊躇った。小さな痛みが胸の奥に湧き上がってコウの表情を曇らせる。
「この所、取引市場で小麦の価格が上がっているでしょう? うちの組合でもその勢いに乗って買い取り金額を上げて貰う様いろんな所に働きかけているのだけれど、基地へ納入する商品だけは半年前の価格で未だに取引されているの。先月の頭から基地の兵站部に価格の見直しを要求していたのが急遽今日になって会合を持つ事が決まってしまって。でもあの人大喜びで出かけて言ったわ、『今度こそこちらの条件を無条件に飲ませてやる』とか言って」
 肩を怒らせて玄関を飛び出すヘンケンの出で立ちが目に見える様だ。彫の深い顔立ちに髭を丹念に整えたヘンケンのその時の表情を想像しながら、コウはつばの影で曇らせていた顔を崩して思わず笑った。
「あの人もみんなの生活を守ろうと一生懸命なの。幾ら政府の打ち出した振興策とは言ってもいつまでも補助が続く物でもないだろうし、来年の予算ではまた軍備にその比重が掛かる事が予想されているから実入りはもっと少なくなる。此処で収穫できる作物の取引だけでみんなが生活出来るだけのお金を確保する為にはどうしても基地との取引が重要になるから、契約の見直しは必須条件だわ」
 その口調の強さが物語るのは、それがセシルも同じ考えであると言う事だ。違う場所で生まれた二人が同じ世界で同じ方向を見つめる事が可能であると言う事実は大きな羨望と小さな後悔をコウの心へと蘇らせた。
 ヘンケン家に於ける実務の全ては自分の目の前で静かに微笑むこの女性の手に掛かっている事は、何度かの訪問によってコウ自身もよく知っている、髭そりの場所すら分からないヘンケンを文句の一つも言わずに支え続ける彼女の伴侶としての在り方は、嘗ての自分が夢見て、そして零してしまった過去の幻。
 不意にその笑顔が瞼の裏に浮かんでは、突然の痛みと共に掻き消されていく。吸い込まれてしまいそうな蒼い瞳と飾り立てる様な金色の髪。
 ニナ、君はどうして ―― 

 パン、と言う小さな音がコウの目の前から過去を追いだした。驚いたコウが帽子のつばから目を覗かせると、柏手を打ったセシルは何かを思い出した様な顔でコウの顔を見つめている。
「そうそう、そう言えば私ウラキさんにお会いしたらどうしてもお伺いしたい事があったの。いつもお顔を見ると忘れてしまって後回しになってたんだけど」
「俺に、ですか? 」
 セシルから受ける質問の内容を想像しながら、予め用意してあった回答を頭の中に羅列するコウ。自分の過去や身の上についての質問には一切答える事が出来ない、その事が後々どんな危険を及ぼすか見当もつかないからだ。基地を離れて予備役へと編入された事については言い及ぶ事が出来るかもしれないが、その際に軍から提示された新たな条件については話す事は出来ない。
 自分をがんじがらめに縛り付ける様々な制約に内心辟易しながら、コウはセシルの言葉を待つ。セシルはそんなコウの思惑をどこ知らぬ顔で、無邪気に笑いながら尋ねた。
「ウラキさんは何故麦を選んだの? 」
「 …… 俺が、麦を選んだ、理由ですか? 」
 誰にも語らない身の上の事に関しての事だろうと身構えていたコウは肩透かしの様なその質問に呆気に取られた。
「そう。だってここに来た人の殆どは取り敢えず荒れた土地でも手っ取り早く育てる事の出来るお芋やソバを選ぶのに、ウラキさんはいきなり麦って言い出すんですもの。 ―― 主人も驚いてたわ、こんな所でいきなり時間と手間の掛かる麦を選ぶ奴は端から補助金目当てに来た食い詰め軍人か、そういう趣味のある奴に違いない、って。 …… 今だから正直に言うけど私もあまりウラキさんの選択には賛成は出来なかったの、此処での穀物の栽培はうちの主人を見て知っているから。なのにこんなに荒れた土地を機械も使わずにたった二年足らずでこんな立派な畑に仕上げるなんて、並大抵の努力じゃ出来ないわ。 …… ねえ、ウラキさん。貴方はどうして麦を選んだの? 」

 拘禁を解かれて転属命令書を片手にオークリーへと到着するまでに五日を費やした。軍人として優遇される筈の移動手段を使用する事すら許されず、戦争の傷跡を色濃く残す貧粗な民間の交通手段を利用して辿り着いたコウを待っていた物はアイランド・イーズが齎した惨状が築き上げた大地だった。
 実りを遂げる事無く枯れ果てた麦畑に分け入ったコウは萎れた麦の穂を手の中に、それは力を加えなくても容易く千切れて掌へと収まってしまった。重みの無い残骸を目に焼きつけながら、コウはそれが自分とガトーが手にした成果の果てだと思い知る。
 その一握の麦の穂が、コウに向かって語る、何か。
 拘置所内に置かれた礼拝施設に常備された各宗教の教典、ムスリムやカトリック、ユダヤや仏門に至るまでのありとあらゆる言葉で翻訳されたその中の一冊をコウは偶然手に取った。朽ちかけた背表紙に文字の欠片を滲ませて、隠れる様にひっそりと立てかけられていたそれをコウは、まるで救いを求めるかのように貪り読んだ事を昨日の事の様に思いだした。

「 …… 一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。おのが生命を愛する者は、これを失い、この世にてその生命を憎む者は、これを保ちて永遠の生命に至るべし ―― 」
 
 コウの声と共に吹き渡る一陣の風が、野に立つ二人の世界を音で埋め尽くす。千切れて飛ぶ言葉は風の調べに溶け込んだまま、霞む蒼穹を目指して緩やかに舞い上がる。やがて空気が流れと音を止め、元の静寂と風景を取り戻す刹那を待たずにセシルの口が開いた。
「その言葉は? 」
「昔読んだ聖書に書かれてあった一節です。麦と言う植物を通じて人の生き死にの意義を説いた言葉だとは思うんですが、意味までは。ただこの土地で俺が物を作るのだとしたら麦しかないと、最初から決めてたんです」
「その言葉の意味を知る為に? 」
 セシルの問い掛けにコウは黙って小さく頷いた。他の誰にも語る事の出来ないあの時の気持ち、掌の上で無残に砕けたあの麦の穂をこの手で蘇らせる事が出来たのならば自分の中の何かが変わるのだろうかと思い、そしてガトーと自分が立つ世界の差の謎を知りたいと望む。
 自分の犯した罪の贖罪と言うにはちっぽけな物なのかも知れない、しかしそれでも何もせずにただ苛まれるだけの日々を暮らすには、自分の今は辛すぎる。
 穏やかではあるがほんの僅かな憐憫を纏ったセシルの濃紺の瞳がコウを見つめている。湖の様に透き通るその深さに自分が飲み込まれてしまわない様に、コウはそっと目を伏せた。

「そろそろ行かなくちゃ」
 唐突に告げたセシルの言葉にコウは再び視線を上げた。目の前に立つセシルは一度ニコリと笑顔を浮かべた後に顔を南の地平へと向ける、天頂から降り注ぐ日差しを受けて光り輝くオベリスクを目を細めて眺めながら言った。
「ごめんなさいねウラキさん、お仕事中にお話ししちゃって。帰りに主人ともう一度ここに寄るから、その時には主人の話し相手になってあげて」
「帰り、ですか。これからどこまで? 」
 帰りと言う事はどこかへ出かけると言う事なのだが、ヘンケンと一緒にもう一度立ち寄るとはどういう意味なのか。彼は今基地に出向いていて話し合いの真っ最中、そしてここから基地の間には集落どころか民家らしい物すら存在しないと言うのに。
 待ち合わせる場所も思い当たらず訝しげに尋ねるコウに向かってセシルはいかにも当然と言わんばかりにあっさりと答えた。
「基地まで行くの」
「え …… ? 」
 驚いたコウは思わず辺りを見回してそれらしき車の影を探した。ここからオークリー基地まではオベリスクを挟んで直線距離で四十キロ、遥か地平線の向こうになる。車無しで辿り着ける距離では無い、しかしセシルが近寄って来た事に気付かなかったという事はよっぽど遠くに車を止めてあると言う事なのか?
 しかしコウの視界に入って来た物は遠くに見える車の影では無く、ほんのすぐ先の畦道の間に置かれた自転車の影だった。それも長い距離を走る為に作られた仕様の物では無く、セシルが近所を行き来するのによく使う町乗り用の小さな物だ。驚くコウの表情を見留めたセシルが不思議そうに小首を傾げてコウに尋ねた。
「? どうして? 何か変かしら」
「ま、まさかセシルさん、アレで基地まで行くつもりなんですか? 」
「だって、ここから基地まで四十キロくらいでしょう? 陸上の選手だって三時間もあれば走り切るんだから自転車だったらもっと早く辿り着くでしょ、うん大丈夫」
 胸を張ってそう言い切るセシルをしげしげと眺めながら、コウは彼女の美徳とも言える天然さに心の中で頭を下げた。万事物事を卒無くこなす様でいながら、こういう所の発想の甘さは実にチャーミングだと思う。
「残念だけど、セシルさんの自転車よりも彼らの方がもっと早く走りますよ。それにそれじゃあ基地で待たされるヘンケンさんが可哀そうだ。 …… 分かりました」
 ほんの一瞬だが見えない葛藤がコウの心を締めつけた。自分がそこへ行く事の危険性を誰よりも理解しているのは、予備役として誓約書にサインをした自分自身。しかし今のコウを支配しているのは純粋に隣人に対しての心配りでしか無かった。オークリーに行った所で見知った顔に出逢わなければ、誓約条項を破った事にはならないだろう。
 行って、戻ってくるだけなら。

「俺のバイクで良ければ基地まで送って行きます。少しここで待ってて貰えますか? 」
 コウはそう言うと麦の並びを掻き分けながら畦道へと進んだ。仕事の手を止めてまで自分の為に動こうとするコウに向かってセシルは困惑した表情を浮かべた。
「え、でもまだお手入れの途中なんじゃないの? そんな、お仕事の手を休めてまで ―― 」
「いいんです、もう大体終わりましたから。それにこいつの ―― 」
 コウが畑の段差に足を掛けると、そのすぐ脇に立つ麦の影から黒い影が顔を覗かせた。エボニーはコウに先んじて畦道へと駆け上がると優しい隣人に向かって円らな瞳を持ち上げて一声鳴く、しゃがみ込んで差し出されたセシルの手に顎を擦り付けると目を細めて喉を鳴らした。
「あら、エボニー。ご主人様のお手伝いしてたんだ? 」
「こいつの餌もやらなきゃいけないンで、ついでです」
 そう言うとコウはエボニーと肩を並べてセシルの脇をすり抜けた。追いかけるセシルの視線の先でコウは自転車に手を掛けて、既にスタンドを倒している。コウから差し向けられた好意に困惑した顔を収めて、笑顔を浮かべたセシルが遠ざかろうとするコウへと声を掛けた。
「じゃあ、私はここで待ってますから。もうちょっとここの景色も眺めていたいし」
 背中に掛かるセシルの声に小さく右手だけを上げたコウが、セシルの自転車と小さな同居人の影と共に遠ざかる。セシルは少しの間その後ろ姿を見送ると、踵を返して再び目の前に広がる金色の麦畑へと向き合った。
 景色を眺める為では無かった。
 眉間に小さな皺を寄せて何かへと想いを馳せる深刻な表情は、コウが知るセシルの物では無い。静かに目を閉じた後に小さく首を振って何かを否定するセシルの前を、再び金の波が風の輪郭を象って通り過ぎた。
 
 
 薄暗い部屋に置かれた15インチのモニターは四角形のカーソルを点滅させたまま、次の文字の入力を待っている。もう既に数多くの文字をそこに刻んで久しい筈なのだが、未だに対象となる人物達の会話が途切れる事は無いらしい。AとBと言う無機質な記号で区分された二人の人物の会話は全ての記録が終了した後に、自動的に本隊であるキャリフォルニアベースのメインサーバーへ転送される事になっている。盗聴の片棒を担ぐオークリーの電算機は暫しの中休みにも似た沈黙にその記録を中断していたが、電気信号として流れ込んで来た言葉の奔流に驚いた様に作業を再開した。
 カーソルが文字を刻んで矢の様にモニター上を駆け抜ける。
” だから、小麦の値段が上がってるんだって何度言やあ解るんですか。他の所の取引価格が上がってうちだけそのままじゃあこっちだって割に合わんでしょうが ”
 コンピューターに言葉の抑揚や感情を表す表現など存在しない。ただ手元へと届く単語を解析してメモリへと記録するだけの作業を延々と続けるだけだ。だが声紋分析によって違う人物の声が発した言葉だと認識した瞬間に、点滅するカーソルは改行した。
” いや組合長。君の言う事ももっともだが、主食の値段を上げるというのは基地の予算的にもちょっと ”
 文字の走る早さから、意見を交わしている二人の人物の感情は徐々に昂りを見せている事が分かる。もっともそれを監視する人物が存在しない以上、機械にそれを判断する事は出来ない。再び改行。
” 予算 そんな物軍なんだから幾らでも理由は付けられるでしょうに。モビルスーツの予備部品一つ余分に水増しして請求するだけで、どれだけの農家が助かる事か。こっちは連邦の政策の一環としてあの荒地を耕してるんですよ。それに陸の孤島みたいなこの基地へうちが品物を納入しなくなったら、司令は兵站部に対してどう責任を取るつもりですか ”
 会話を監視するメインコンピューターが犯罪の可能性を匂わせる文言に対して下線を引いて、警戒の為の点滅をその部分へと走らせた。『水増しして請求』と言う要求に対して基地側がどういう風な対応を取るかで監視員の行動は決定する。メインコンピューターが直ちにその文章を転送して軍警察の出動を要請すると、軍の金を横領しようと画策した哀れな犯罪者は確固たる証拠と共に拘束されると言う仕組みだ。確かにジャミトフの考えた内部告発システムは一時期蔓延していた軍の不正を暴き出す事には成功したが、常時監視を受けていると言うその風潮を歓迎する基地などどこにも無い。不正を全く行った事のない基地であればあるほど、である。
” 君、私を脅す積もりかね。仮にも過去に軍に在籍した者が、その言い草はなんだ ”
 その文言が記録された瞬間に前の男が放った会話の一部分に引かれた下線が消えて、点滅が終了した。犯罪の誘因に対して抵抗したと言う事実が記録されたメモリは判断を下すメインコンピューターと共に、再びその後に続くであろう小競り合いへとその耳を研ぎ澄ませた。

「 …… 全く」
 ぽつりと呟いたヘンケンが銜えた煙草に火を点けた。すかさずテーブルを挟んだ反対側に座る初老の男が小さく笑いながら、クリスタルの灰皿を手で勧める。肩章に二つ星を刻んだその男は代わりにヘンケンから勧められた煙草を小さく手で制して苦笑いを浮かべた。
「何だ、止めたのか。煙草」
「今時流行りませんよ。それにドクがうるさくて。お陰で太りましたけどね」
 それほど飛び出している様にも見えない腹を叩きながらウェブナーは笑った。ヘンケンは一口煙草を吸い込むと、振り向きざまに壁に掛けてある大きな絵画に向かって紫煙を吹きかける。表面に張り付けられた小指大ほどの大きさのICレコーダーは漂う煙の真ん中で未だにヘンケンとウェブナーの小競り合いを垂れ流し続けていた。
「ここまで猜疑心が強いとその内ティターンズ内部でも反勢力が生まれかねんぞ。まあ俺達の立場としては是非ともそうあって欲しいもんだが」
「奴にとって『軍』とは『ついて来る物』ではなく『従える物』なんでしょうな、現場知らずの文官上がりにはよくある傾向です。理想と現実が同じ物だと思い込む、厄介な持病とでも考えれば」
 言い含める様なウェブナーの物言いにヘンケンは小さく鼻を鳴らして抗議した。ヘンケン自身は別にティターンズと言う存在を憎んでいるのではない、ただその主義を利用して再び勢力を拡大しようと言う不届きな輩が嫌いなだけなのだ。そう言う連中が大勢の将兵を戦場へと誘い、枯らせる様に殺していく様を彼は一年戦争の前から知っている。
「だがその持病持ちが率いている『ティターンズ』が今や連邦軍の主力となりつつある。奴の抱える理想は現実への道を歩み始めた。 …… このまま行ったら『軍閥政治』どころか『恐怖政治』に成りかねんぞ。そんな物の為に何人の人間が死ぬ事か」
 嫌悪を込めて吐き捨てたヘンケンが手の中の煙草を灰皿で揉み消した。名残惜しそうに棚引く紫煙がゆっくりと二人の間を通り抜けて上へと舞い上がる、その先端が天井に到達しようかという時に突然ドアのノブが大きく回った。建て付けの悪さを物語る様に軋みながら開いたドアの影から室内へと足を踏み入れた小柄な老人は、小脇に抱えたファイルの束で大きく空気を掻きまわしながら、ヘンケンを睨みつけた。
「また軍の施設内で煙草を吸いおって。何人の人間が死ぬかを思案する前に自分の体を心配したらどうじゃ? 」
「なんだ、聞いてたのか。ドク」
 肩越しに投げつけられた毒舌に苦笑いを浮かべて片手を上げるヘンケンの脇を通り抜けたその老人は、ウェブナーの隣にどっかと腰を降ろすなり、再びヘンケンの顔を真正面から睨みつけた。
「いずれお前さんの定期健診の結果を改ざんしてセシルに見せてやろうと思っとるわい、なんなら肺の所を真っ黒に塗り潰そうかともな。何時までたっても宇宙での悪癖が直らんのじゃったらそれ位の事は許されるじゃろう。」
 ヘンケンの組合に属する農夫にしても、健康診断を受ける為の一番近い公共施設はここ、オークリーしかない。医に従事する者の発言とは思えない暴挙に目もくれずにヘンケンは笑った。
「勘弁してくれよドク。『スルガ』からの長い付き合いじゃねえか。」
 そう言うと再び煙草の箱を取り上げて上蓋を開く。真黒なパッケージに金のアルファベットが三つ重なる健康の敵を、まるで親の敵の様な眼で見つめる老人の目に気付いたヘンケンはその中の一本を抜き取ろうとする指を止めた。
「 ―― わかった、分かったよ。明日からはドクの言いつけを守って本数を減らす様に努力はする。だから今日だけは勘弁してくれ、な? 」
「努力『は』する、じゃと? 」
 ヘンケンの物言いに大きな目をぎょろりと剥いて眉を顰める老人は、まるで子供の嘘を片っ端から見抜いた教師の様に小さく鼻白んで毒づいた。
「出来もせん約束なんぞに興味なんかこれっぽっちも無いわい、なんじゃ、年寄りの戯言じゃと馬鹿にしくさって」

 ヘンケンの口から再び紫煙が撒き散らされる、しかしヘンケンもさすがに老人にそこまで言われては気にしない訳にも行かず、出来るだけ部屋の上へと煙が行く様に顎を少し上げて煙を吐き出した。そこまでして吸いたいのか、やれやれと言った表情でその仕草を眺めていたウェブナーは苦虫を噛み潰した老人とは別の、深刻な表情で会話の口火を切った。
「穀物相場の取引金額の上昇、ですか。数値だけを見れば確かに異常な伸びを見せている …… これだけ値動きが大きいとやはりどこかの組織なり機関が買い占めに走っていると考える方が妥当でしょうな」
 ヘンケンから手渡されたチャート表を一瞥したウェブナーはその折れ線グラフを分析する。右肩上がりになったそれは確かにこの半年の間に商社間での取引が増大している事を示していた。人口が少なくなった地球上で大した復興策も無く推移する現状を考えると、これは確かに異常な事態だと言える。
 どこかに消えている大量の穀物の行方を組織や機関と限定したウェブナーの顔をちらりと見ながら、ヘンケンは言った。
「確証はない、ただここの所の香港(香港先物取引市場)やドバイ(産油国価格協議委員会)も同じ様な形を描きつつある、軍需に関する商品だけが伸びてるって寸法だ。出所を分散させてファンド連中の投資にも見えなくもないが、それにしては特定商品だけに限定され過ぎているし、余りに大掛かりで節操がない」
「では、やはりこれは巨大な資金を背景にした組織と仮定した方が良さそうですかな? …… 例えば『連邦軍内部の一勢力』とか? 」
 不特定の表現で敢えてその存在を浮き彫りにしようとするウェブナーの慎重さに、ヘンケンは満足して笑った。確かに確たる証拠もない以上ここで『ティターンズ』の名を上げる事は不穏当だ、現実に即した的確な表現で事態を言い表すウェブナーをヘンケンは信頼している。
「お前がその事実を掴んでない以上、そう考える方が妥当だろう。備蓄が十分な所へ加えられる余剰な物資、これは明らかに国家機関による『備蓄準備』のプロセスを踏んでいる。それにルオの所にも軍から打診があったと言う事実も見逃せない、アジア地域の商取引の独占権をちらつかされてな」
「それで、あ奴はその話に乗ったのか? 」
 口を挟んだのは老人だった。ウェブナーの表情が伝染した様な深刻な顔は見た目以上に強面だ、だがヘンケンは小さく頭を振ってその杞憂を否定した。
「奴は華僑だ。ルオにとって国家は最も信用の出来ない連中らしい、「あんたらの手は借りなくても十分このままやっていける」と言い返して電話を叩き切ったんだと。ま、少し商売はし辛くなったとはぼやいていたが」
 いかにも奴らしい、と老人は呟いて背凭れに体を預けて呟く。天井の模様を眺める様にぼんやりとした彼から、再び問題定義が二人に齎された。
「となると、相手はどこじゃ? 今の状況ではアクシズしか対抗出来る勢力は無さそうなんじゃが」
「そうとも限らん。いかにも与し易しと見せかけてもっと別の狙いがあるのかの知れん。第一張本人のジャミトフは元財務局次官だ、数値に関する戦略には一日の長がある。あからさまに動きを起こす事で俺達の様な反勢力を焦らせて燻り出しに掛かっているのかも知れん、となれば、この動き自体が罠と言う事も考えられる」
「姑息な事を。そんな事で物価を上げられたんじゃ生き残った地球の連中はたまったもんじゃない」
 困窮する人々の生活をただ一人肌で知る老人はそのやり口の汚さに思わず毒づく。薬品の調達は軍需品に含まれてない事が多い故に、近隣の病院までヘリを飛ばして調達に向かうと言うのがその老人の月に一回の外出理由だった。向かった先の病院で満足に治療費も支払えない患者が、何の処置も施されずに ―― 勿論当人はその事を知らない ―― 飲み薬だけで追い返されると言う様を何度も老人は目にしていた。しかしその事が病院側の責であるとは老人は思わない、病院側とて政府の打ち出した医療保険の減額制度によってその経営を圧迫され始めていたからだ。

「もし、これの大本を『ティターンズ』の連中がやっているとして ―― 」
 ここでヘンケンははっきりと敵の姿について言及した。意外な顔をしてヘンケンの顔を眺める二人に向かってヘンケンは言葉を続けた。
「 ―― その資産規模の割に買い占め量が少なすぎるとは思わんか? 連邦政府の中枢に食い込んでいる連中だ、もし本気で戦争を始める気ならもっと大掛かりに大手を振って買い占めに走る様な気がするんだが。例えば俺達の畑を土地ごと買い占める位、派手に」
 自分の組合が算出する農作物の収穫量は、全体に比べれば微々たる物だがその品質に関しては決して劣る物では無い、とヘンケンは自負している。量を求めれば確かに有象無象の輩が作った物でも事足りるだろうが、奴らの中にも特権階級はいる。そう言う連中が自らの地位を誇示する為に必要とされる物が『品質クオリティ』だ。 選民思想で自分達の立場を正当化しようと言うのならば、当然ヘンケン達の出荷する農作物に目をつけない訳が無い。
「俺達にお声が掛からないと言う事は、まだそれほど本格的には動いてないと言ういい証拠だろうな、例えば『戦争の準備の為の準備』と言った、曖昧な戦略だと位置付けられる」
「それはまた気の長い話ですな。来るかどうかも分からない泥棒を捕まえる為に用の無い縄を何本も編んでいる様な物です、で、その意図は? 」
 小さく笑いながらティターンズの戦略を評するウェブナーに向かって、ヘンケンは小さく眉を顰めて言った。
「俺にもそこまではよく分からん。ただセシルがこのチャートを見てこんな事を言っていた。 …… 今の『ティターンズ』には切り札が無い。だから彼らはその切り札が到着する、あるいは出来上がるまでの時間稼ぎをしているんじゃないんだろうか、とな」


 被験者に襲いかかる危機的な状況を知らせる赤い点滅が狭い分析ブースを染め上げる。事態の急変に慌てたオペレーターが目の前に置かれたキーボードを狂った様に打ちまくる、しかし彼らの前を埋め尽くしたモニターと計器類、そして被験者のバイタルをリアルタイムで表示する生命維持装置は既に心房細動の兆候を示していた。
「プロカインアミド一単位静注っ! それでダメならピルぺノールを投与しろ、何でもいい、被験者の心臓を止めるなっ! 」
 五人のオペレーターの中でただ一人、一番真ん中の席で唯一ヘッドセットを装着したその男は冷や汗に塗れながら矢継ぎ早にオペレーターに檄を飛ばした。ブースとの間に張られたガラスの向こうで目の下まで機械仕掛けの帽子で覆われた一人の少女が、全身を痙攣させて絶叫する。指示を受けたオペレーター達がすかさずキーボードを叩いて彼の指示をコンピューターへと伝える、少女の生命維持を監視する役目を持つそれは命令通りの薬品を命令通りの量、正確に彼女の腕に繋がれたチューブから体内へと送り込んだ。
 祈る様な一瞬の空白の後に途絶える警報と徐々に下がり始める数値、だが彼らが沈静化する事態にほっとするのも束の間、すぐに状況は元の位置へと収まった。再び鳴り響く警報と上昇する数値はこれ以上の医療措置が通用しなくなった事を意味する、主幹研究員たるそのオペレーターはしとどに濡れたヘッドセットのマイクに向かって、その先でじっと成り行きを見つめている男に向かって叫んだ。
「所長、お願いですっ! これ以上の実験の継続は不可能です、直ちに回路を閉鎖して ―― 」
「 ”そのまま続行しろ” 」
 耳朶につららを突き刺される様な声が彼の鼓膜を震わせる、その震えは彼の全身へと伝播する。恐怖と怒りが混然となったその気持ちを必死で抑制しながら彼は尚もその男に向かって、祈る様な気持で言った。
「しかしっ! これ以上は被験者の生命維持に重大な問題が ―― 」
 男の血走った目がモニターに表示されるバイタルサインに向けられる。心拍数280、血圧300、呼吸回数180という数値は一瞬後に心臓が爆発してもおかしくない程の状況が被験者の肉体に発生している事を示している。問題どころでは、無いのだ。
 目の前でステンレス製の実験用医療ベッドに縛り付けられているいたいけな少女は今まさに死の間際にいる。さっきまでこの研究所の中庭で自分と一緒に本を読みながら笑っていた、あの少女がっ!
「彼女が、死んでしまいますっ! どうか ―― 」
「 ”死ぬ? …… フン” 」
 その声は実験の中止を懇願するオペレーターの言葉を一気に霧散させた。まるでそんな事など路傍の石の行く末に言及する様に他愛もない事だと言わんばかりの所長の声は、冷ややかに男の願いを一蹴する。
「 ”『それ』の代わりなど。構わないから死亡するまでの全てのデータの記録収集に努めろ、その為にお前達はそこにいる。もしここで手抜かりがあればそれだけで被験者の死が無駄になる。これ以上犠牲者を増やしたくないのなら、お前達の仕事を全うしろ” 」
 その瞬間にブース内を駆け巡った音にオペレーター達は戦慄した。人の発する事の出来る全周波数が大音響で轟き渡って彼らの全身を凍らせる、断末摩と呼ぶにはあまりに生々しく、そして人の絶望をその小さな体で表現しようとする少女は何度もベッドの上で全身を跳ね上げる。手足を固定した金属の枷の間から鮮やかな緋色の液体が零れ始めた。
 
「せんせいのこと、しんじてるから」

 脳裏で囁くその可憐な声と面影を掴む様に、男は目の前のパネルに設置された大きなレバーへと手を伸ばした。実験棟内の全ての電源を一瞬のうちに遮断する緊急停止レバーは、そこで研究に従事する研究員にとっての諸刃の剣だ。被験者の命を救う事は出来るが収集するデータが失われる可能性もある。だがそこへと手を伸ばした男の心に躊躇いなど微塵も存在しなかった。
 自分を信じて命を失おうとする少女を助ける為なら、たった一つの被験者データなど取るに足らない物ではないかっ!
 男の手に力が籠る、他の四人が見守る中で男の手がそのレバーをいよいよ引き倒そうとした瞬間。
「 ”馬鹿が” 」

 冷たく言い放った所長のその言葉が、男がこの世で聞く事の出来た最期の言葉だった。鳴り止まぬ少女の咆哮に紛れて響く小さな音は男の背後で起こり、そして次の瞬間には男の後頭部を穿って額へと抜けた。
 射出口から吐き出された脳漿と柔らかな彼の人格は勢いよく少女の最期を見届けようとするモニターへと吐き出されて液晶の文字を滲ませる。そしてただの塊になり果てた彼の肉体は、舌を震わせながら最期の息を吐き尽す少女の臨終の数値を隠す様に、自らの体液の上へと崩れ落ちた。勢い余ってパネルから滑り落ちたその身体が酷く湿った音を分析ブース全体に響かせて、そして生き残った他の四人はその音を耳にした瞬間に実験室にいた少女の心臓が、永遠に刻む事を止めてしまったと言う事に初めて気が付いた。
 抑揚とリズムを失ってただ鳴り続ける四つのブザーを耳にしながら、呆然と男の亡骸を見つめる四人の前にティターンズの制服を纏った大柄な男が現れた。ゴーグルを嵌めたその男の手には硝煙を棚引かせる自動拳銃が握られている。
「 ―― 貴様らの代わりも幾らでもいる事に気付かんかったか、馬鹿め。俺の手を煩わせおって」
 バスクはそう言うと残った四人のオペレーターに向かって歪んだ笑いを向ける。踵を返して分析ブースを立ち去るバスクの背中が見えなくなるまで、彼らはその場から一歩も動く事は出来なかった。



[32711] Artificial or not
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:b090dcee
Date: 2012/06/20 19:13
「芳しくないようだな」
 僅かばかりの忍耐と理性を総動員して問いかけるバスクの表情には苦々しさと怒りが満ち溢れていた。限られた軍予算の中の一角を投じて開発を続ける『強化人間開発計画』が先任者であるローレン・ナカモトの異動以降、思った様な成果を上げられない事にバスクは焦りを感じている。彼の後押しを受けてオーランド研究所から赴任したその小男 ―― バスクと比較すれば、であるが ―― は視線と共に加わる猛烈な圧力にも表情を変える事無く、うんざりとした顔で洗い晒しの蓬髪を根元から掻き上げながら言った。
「不良品をクライアントにお渡しするのはいささか私の主義に反しますのでね。それに成果が上がらない事を私共のせいにされては困ります、元はと言えばそちら側から提供されるモジュール自体に原因があるのですから」
「貴様ァ …… 」
 結果主義のバスクにとってその男の発言は看過できぬ暴言だった。現時点でのティターンズが持てる最高水準の技術と英知の結晶を欠陥品呼ばわりする無礼な科学者に対してバスクはついに怒りを爆発させた。
「自らの無能を棚に上げて、事もあろうに我が軍の技術開発部を愚弄するかっ!? 貴様の妄言を実現する為にどれだけの金と犠牲を払ったと思っているっ!? 」
「結果に重きを置く貴方の言葉とは思えませんな、バスク・オム大佐。いかに金や人を注ぎ込んでも駄目な物はしょうがない、私は結果が出せない原因をそう分析しているから貴方に告げたまでの事」
 わなわなと震えるバスクが放つ殺気を物ともせずに、その男は小脇に抱えてあったファイルをおざなりに差し出した。
「このファイルをご覧になればそれは一目瞭然です。現在、当研究所に在籍する被験者の能力値は前任者が持ち出した強化人間のレベルを遥かに凌駕している、問題なのは貴方がたが供出するサイコミュ・モジュールが彼らの性能に追い付いていないからです。このまま実験を続ける事には依存はありませんが、今のままでは貴方がたにお渡し出来る様なモノが出来上がるには何年掛かる事やら」
 溜息交じりに肩をすくめた男は、バスクがファイルを手にする意思が無い事を知ってそれを元の位置に収めた。細面の顔に張り付く糸の様に細い目はまるでいつも笑っている様に他人からは見える、対峙したバスクも万人と同じ心境でその科学者を睨みつけた。はやる気持ちが腰のホルスターのラッチを外して、今だ熱の冷めない銃のグリップへと手を掛ける。その光景を興味なさげに眺めていた男は、言った。
「殺すつもりでしたら、どうぞ。」
 男の声にバスクの腕が感電した様にブルッと震える、歯ぎしりをしながら怒りを必死で噛み殺して処刑の誘惑に耐えるバスクに向かって男は尚も言葉を続けた。
「私自身も自分の命になど全く興味が無い。私がこの世で最も興味がある事は私が求める答えが正しいのかどうか、それを証明する為の作業 ―― 『実証』のみです。貴方が庇う無能な技術者の為に私がここで死んでしまうと言う事は甚だ遺憾だとは思いますが致し方ない、スポンサーである貴方がたの意向に雇われている私が異議を唱える事など不条理な事ですからね」
 理路整然と自分の主張を並べ立てて傲然と胸を張る男の表情には、死に対する恐怖どころか何の感情も無い。ブランド物ではないが細長のプラチナ製の眼鏡の枠が、まるでバスクを射すくめる様にきらりと光る。
「 …… 泣いて命乞いでもすればまだ可愛げがあるものを」
 男の顔を睨みつけたままバスクの手は銃把から離れた。出口を見失って体中を駆け巡る怒りの発露を言葉に求めた彼は、まるでその腹いせの様に男の幸運を罵った。
「取り敢えず命拾いをしたな。貴様が前任者のDr.ナカモトの紹介でなければ、ここで今すぐにでも撃ち殺してやる所だ」
 捨て台詞のつもりで口にしたその言葉でバスクの怒りはその矛先を収める予定だった。しかし目の前の男はその台詞を耳にした瞬間に、今の今まで無表情を決め込んでいたその顔に憤怒の相を現してバスクに小さく吼えた。
「 ―― 今、誰の名前を口にした? 」
 万華鏡の様な男の変貌にバスクの表情は一瞬凍り付き、しかし余りに無礼極まりないその言葉 ―― 自分に向かってそう言う物言いが出来るのは、ジャミトフ閣下だけの筈 ―― に猛烈な怒りを覚えたバスクは、今度こそ腰の銃を抜き放って男の顔に突き付けた。仄かな熱を未だに残す銃口を前に男の両眼は小さく見開かれ、バスクを睨み上げたまま離れない。
「ナカモトだと? フン、あんな下衆と私を混同するとは愚かの極みだ大佐」
 見え隠れする小さな瞳に点る憤怒の炎がバスクの怒りを凌駕する、誤って引きそうになる引き金に掛かった人差し指をじっと睨みつけながら男は唸った。
「奴がジャブローへと連れて行った強化人間達を見るがいい、人としての成長を望む余りに感情などと言う不完全な制御回路を内包する兵器がお前達の役に立つとでも本当に思っているのか? 一つ預言をしておいてやるが既にロールアウトしたあの検体達は遅かれ早かれ破綻する、人としても兵器としても。そしてそれは必ずお前達の命取りとなる」
「自らを預言者と自負するならば自分の命日を言ってみろ。貴様の物言いは俺だけでは無く、ティターンズ全体に対する冒涜にも等しい」
「私の命日だと? お前に私が殺せるものか」
 浅黒い顔を紅潮させて震えるバスクに向かって言い放った男は、顎をしゃくってその怒りを煽る。次の一瞬にも訪れかねない死を眉間に受けたまま、男は敢然とバスクの顔を見上げて言った。
「お前達が欲しがっている切り札は私の研究いかんにかかっている、ジャミトフの小間使いの様な立場のお前が俺を殺す事など出来まい。それに今感じているお前の怒りは私をフラナガンの面汚しどもと同列に置いた事から始まっている、それをもっとよく自覚する事だ」

『フラナガン機関』と『ニュータイプ』。
 それは宇宙世紀初頭を代表する言葉として決して外す事の出来ない二つのキーワードである。ジオン公国の始祖であるジオン・ズム・ダイクンが提唱した概念と彼の死後に国政の跡を継いだ初代公王デギン・ソド・ザビの実子によって設立された研究機関は互いの理念や理想を理解する事無く、戦争と言う名の舞台装置の上で燦然と光り輝く不名誉な金字塔を打ち立てた。

 フラナガン・ロムと言う一人の科学者がいる。
 嘗てジオン公国内で『フラナガン機関』と言うニュータイプ開発研究の先駆けと成る研究所の初代所長としてその名を歴史に刻んだ彼は、元々大脳生理学の研究者でありジオン公立難病医学研究財団に籍を置く一介の科学者に過ぎなかった。
 当時彼が研究対象としていた物は不治の難病に指定されていたALS(筋萎縮側索硬化症)の発症のメカニズムである。運動伝達を行う筈の神経だけが犯されて筋力を失い、やがては人を死に至らしめるALSと言う名の病は最初に症例が確認された紀元後十九世紀から、宇宙世紀という科学が未曾有の進歩を遂げたその時に至るまで完全な解明には至らなかった。
『難病への挑戦』と言う謳い文句を掲げてその克服を誓った彼の元へは多くの科学者が集まり、国家としてはいまだ黎明期のジオン内に置いては比較的簡単な手続きのみでフラナガンの共同研究者として名を連ねる事が出来た。フラナガンの熱意と絆された彼らの努力は発症の九割が染色体の突然変異に起因する『五年以上の生存率一パーセント以下』と言う不治の病を解明まで後一歩の所まで追い込む事に成功する。
 加えて言うなら彼らが手にした膨大な研究結果から導き出され、その過程から齎される余波は既にALSのみの発症原因の解明だけでは無く『染色体異常によって引き起こされる既往症』 ―― ダウン症、エドワード症候群等 ―― の原因究明と言う副産物まで生み出そうとしていた。
 人類を苦しめ続けた原因不明の難病の完全解明と言う快挙を前にして歓喜の声を上げる科学者達、勿論その輪の中心にはフラナガンの姿もあった。専門外の分野にまで踏み込んで試練を克服した達成感は彼らとフラナガンだけの物である、そして人類史に名を刻む偉業を成し遂げた彼らの将来にはその積み重ねた労苦に見合うだけの栄光と、人々の感謝に包まれる輝かしい未来が待っている筈だった。

 だが、明るい明日を確信する彼らに現実の不幸が襲い掛かった。ジオンと連邦の間で勃発した『一年戦争』の切っ掛けともなった紛争 ―― 世に言う『一週間戦争』はそれまでの楽観論を一変させる分水嶺の役割をジオン国内の様々な所で果たした。戦時統制と言う名の国家の危急は平和と名の付く全ての物を一時的に ―― 連邦との戦争に勝利し、独立権を手にするまでの間 ―― 凍結する法案を寸暇を待たずに可決の運びとなり、その根拠は後に控えるジオン軍艦艇の大半を動員して行われる『ブリティッシュ作戦』、その後に恐らく勃発するであろう連邦軍との大規模な戦争は国費の殆どを費やさなければ継続すら出来ないと言う財務部の判断だった。
 戦時下における緊縮財政の現状を憂いながらも科学者達は戦争によって荒廃するであろう国土を復興させる為の基礎研究の継続だけは絶やさぬ様にと、総統府への嘆願を再三に渡って行っていた。だが当時のジオン公国総帥ギレン・ザビ大将はそれらの要求の一切を悉く無視して、総統府の門扉さえも開こうとはしなかった。軍靴の足音を響かせて悲劇の未来へと邁進する故郷に絶望して他の自治コロニーへと移動する者、尚も望みを捨て切れずに根気強く各省庁のお百度参りを繰り返す者等悲喜こもごもの人間絵巻が織り成す中、当のフラナガンは閉鎖された研究所にただ一人で立て篭もって自分の研究成果が生き残れる道を模索していた。
 手元に残った膨大なデータと資料に埋もれながら不毛な戦いを続けている、と研究所を後にする仲間から揶揄されるフラナガンだったが彼自身その戦いが全く勝ち目のない物だと考えていた訳ではない。彼は研究途上の過程に置いて誰も気にも留めなかった奇妙なデータに注目していた。それは彼自身が専門分野として血道を開け続けた『大脳生理』に関する、いくつかの症例が例外的に記録した脳波パターンの記録だった。

 ALSは運動を命令する脳波パルスが途絶える為に筋肉が萎縮退行してしまう病である。その解明の為に採取した被験者全ての脳波パターンの中に、ごく稀ではあるが異常な波形が検出される症例が有ったことにフラナガンは注目していた。
 運動を命令する信号は大脳の頭頂部、運動連合野から小脳で処理されて身体各部へと伝達される。言うなれば大脳で発生した『意志』を小脳が解析し、その実現に見合った筋肉動作を的確に各部に過不足無く伝えて体を動かすと言うのが『運動』の定義である。
 だがその運動に必要な筋肉を動かせなくなった被験者 ―― 四肢の一部の欠損と同様な状態 ―― の中には、以前と変らずその箇所が動いた様な錯覚に陥る者が多く存在した。医学的に『幻肢感』と呼ばれるこの症状は脳内の神経回路網の自発的活動によって発生する物だと解析されてはいるが、フラナガンはその脳波の振幅が特に大きい患者のデータにある一定のパターンがある事に気が付いた。
 動作を行う為に作用する筋肉の末端に筋電義手(筋肉の収縮に使用される微弱な神経電流を感知し、つかむ・はなすという把持動作をモーター駆動の部品で再現する。筋電の任意検出の出来ない患者には使用出来ない)を取り付けて、失われた運動機能の代用とする治療法を根治的とは言わない。病状の進行はやがてその呼吸器官にまで及び、ビタミンの大量投与や果てには人工呼吸器の装着と言った延命治療しか手段が無くなる。人ならざる生き方を強要される原因不明の病に立ち向かったフラナガンの生涯を賭けた挑戦がここで終わる訳にはいかない。あと一歩の所まで敵を追い詰め、しかし不名誉な撤退を余儀なくされてもこのままおめおめと引き下がる事など出来る筈が無いのだ。
 捲土重来を期す彼が藁にも縋る思いで手にしたそれらのデータは彼に残された最期の光明。が、彼のその発見が人類の進化の一翼を担う物だとは他の科学者も、そして彼自身もその時は気付き様も無かった。

 運動連合野から小脳へ流れる脳波パルスがごく稀に大脳全体に蔓延して異常な波形を創り上げると言うのが、彼の発見した特定患者に見られる共通のパターンだった。瞬間稼働率は波形計測器の上限を振り切るほどの大きさで、しかも波打つパルスが大脳の全ての連合野を駆け巡って異常な数のニューロンのリゾームを形成する。健常者の二倍以上の高さの活動電位はその頂点に達した瞬間に、フラナガンも驚きを隠せない現象を顕界させた。レポートされた患者は自分の身体から外された筋電義手の指を一本一本折り曲げたと言うのだ。
 初めは眉唾物のそのレポートを失笑しながら眺めていたフラナガンも、同じ様な症例がいくつか取り沙汰される様になると流石に黙殺は難しくなった。加えて研究所の閉鎖によって有り余るほど与えられた時間が彼の心中に湧き上がった好奇心を駆り立てる事に寄与し、フラナガンはその症例に共通する環境と幾人かの被験者への比較対象実験によってそれが決して偶然の産物ではない事を確信した。『金脈』を見つけた彼がそれらのデータからある一つの現象を解析するに至るまで僅か三ヶ月、彼は非公式ながら人類科学史上最も権威のある総合学術雑誌『ネイチャー』へと自らの論文を寄稿する。
 論文名は『緊張化における意識の飽和によって空間内に放出される意志の伝達』。余りの奇天烈さに僅か一か月での廃稿となりはしたが、それこそが『ニュータイプ』を語る上で最も肝要な基礎理論である『感応波サイコウェーブ』の発見であった。

 金が必要だった、と後に彼は当時の事を振り返ってインタビューにそう答えた。
 フラナガンの狙う本丸はあくまでALSであり、枝葉末節とも思えるそれらのデータは彼にとってのいわゆる『金になりそうな発見』の一つに過ぎない。しかしフラナガンは現在置かれたジオンの状況を考えると、この発見がいかに戦時に置いて有効な発見であるかと言う事に既に気が付いていた。
 戦争と言う政治活動はそれが政府の外交上の一手段である限り、永遠に継続する事は有り得ない。宗教や民族の対立によって引き起こされる紛争とは異なり、そこには必ず経済活動と渉外行動が含まれるからだ。資金が枯渇すれば戦争の継続は不可能であり、そうならない様に各自治体との交渉 ―― 時には敵との休戦協定や和平交渉もそこには含まれる。フラナガンはその時に恐らくジオン国内に蔓延しているであろう傷病兵への義手にこの発見を役立てようと考えた。
 戦争の規模が拡大すれば当然重度の負傷者も増える、手足の欠損は高確率の頻度で発生する重篤な傷病であり、何よりそれは傷病兵の社会復帰を困難にさせる。新たな仕事を探す為に幾ら職を求めても、基本身体に重度の障害を持つ者を雇用する事には二の足を踏んでしまうのが企業論理と言う物だ。戦争を未曽有の災害と位置付け、そこで傷付いた人々の救済に役立てる為に彼はこの研究成果を携えて総統府へと乗り込んだ。目の前の戦局の推移では無く戦後復興のための足がかり ―― ミクロでは無くマクロそしてそこから始まる人類全体に寄与する為の俯瞰ハイアングルへと至る未来を予想し、彼は詳細なデータと考察を不安定な滑舌でしか駆使できない弁舌を以って担当者に捲し立てる。そして彼はこの時まだ、人と言う物の本質が性善説に基づく物だと心の底から信じていた。

 困窮を極める生活はフラナガンの心から人への信頼を奪いつつある、直訴から数えて二カ月の間彼の元へは公的機関からの何の返答も与えられなかった。絶望と諦観が入り混じったやり場のない怒りを自らの心根の甘さだと言い聞かせ、ジオンという国の中での自分の居場所を見出せなくなったと決意をして荷造りを始めようかと考えていた矢先にそれは突如訪れた。
 廃墟同然の研究所の錆付いた門扉を無理やり開いて構内へと押し入って来た車には、公用車である事を示す六桁のナンバープレートと一人の妙齢の女性が乗り込んでいた。優雅な立ち振る舞いと滲み出る生来の高貴さを身に纏ったその女性は、何事かと出迎えに出たフラナガンに真っ直ぐ歩み寄ると何の迷いも無くこう告げた。
「フラナガン・ロム博士ですね。私はジオン公国突撃機動軍を預かっておりますキシリア・ザビ少将と申します。唐突ですが、貴方の力を是非お借りしたい」
 差し出された華奢な手を呆然と見詰めるフラナガンに向かって、キシリアはその栗色の長い髪を軽く揺らしてにこやかに笑いかけた。

 キシリアの手によって潤沢な予算がつけられたそのプロジェクトは人に精神を与えた北欧神話の神に準えて『プロジェクト・ヴィリ』と呼ばれた。人の意思を増幅させてそれを内臓したモーターに伝達して動かす、全く新しい概念で作られた義肢を動かすメカニズムを万人の為に役立てようとするフラナガンの試みは手足を失った兵士達の為だけでは無く、その対象の門戸を大きく広げて ―― 既に罹患して死へと歩みを進めているALS患者も含めて ―― 医学界に一大センセーションを巻き起こす研究だった。
 彼の元を離れて言った大勢の科学者が再び彼の元へと参集し、過去の経緯を水に流したフラナガンは一も二も無くそれを受け入れる。一人で出来る事には限界がある、資金を手に入れた彼が次に必要とした物は人材だった。
 ALSをあと一歩の所まで追い詰めるだけのスキルを持った彼のチームは掛けられた期待を一身に背負ってその力を十二分に発揮した。感応波発生のメカニズムと発動条件、そして不確かではあるがそれは資質を持った人間だけに特に顕著に表れると言う事を解析した彼らはその理論を現実の物とする為の実証へと着手した。当時ジオン公国内に置いて最も工業研究に特化したMIP社をキシリアから紹介されたフラナガンは、それらの研究成果を当時のCEOであるアレクセイ・ラージニコフに自らの手で手渡した。

「なるほど、これは実に興味深い研究だ」
 アレクセイは概論として書かれた冒頭の文章を一読してから溜息交じりに呟いた。彼が手にしたデータはほんの一部にしか過ぎないのだが、経営者であるアレクセイにその全文を理解しろと言うのは度台無理な話である。フラナガンは巨大な応接室のテーブルの向こうでじっと論文へと目を落としているアレクセイに向かってこう告げた。
「現段階でこの研究が不十分な理論である事はこちらの方としても重々承知しております、恐らく万人に対してこの技術を導入するまでには今しばらくの時間が掛かるでしょう。しかし先ず、これが本当に実現可能な理論なのかどうかを実証する必要があります。お手数だとは思いますがここは是非とも『公国の三又トライデント』の一角である御社にご協力をお願いしたい」
 懇願しながらテーブルへと両手をついて頭を下げるフラナガンの姿を、紙面から目を離してじっと見つめたアレクセイは微笑みながら答えた。
「そんな事をなさらずとも私共は博士の研究に全面的に協力致します、勿論キシリア様のお口添えと言う事も加味してなのですが、それ以前にわが社の主任研究員が博士の論文に非常に興味を抱いておりまして。恐らく彼がメインとなってわが社と博士のパイプ役になる事でしょう」
 アレクセイの言葉尻に重なる様に広い室内にノックの音が二度響く。キツツキのドラミングの様にせっかちなその音を聞いたアレクセイが入室の許可を発する前にその男は室内へと踊り込んで来た。
「何度言えば分かるんだハイデリッヒ。お客様がいる時はもう少し静かにノックをだな ―― 」
 しかしその男は企業のトップであるCEOの諫言などどこ吹く風で聞き流してつかつかとフラナガンの前へと歩み寄った。纏まりの悪い髪をそのままに眼鏡の蔓を人差し指で押し上げた男は糸の様に細い目でフラナガンの顔を見つめながら手を差し出した。
「初めまして、フラナガン博士。私はこの会社の研究員をしておりますエルンスト・ハイデリッヒと申します。『ネイチャー』に寄稿した貴方の論文を拝読してから是非とも一度お目にかかりたいとは思っておりましたが、まさかこんなに早くその機会が訪れるとは」
 嘘偽りを感じさせないその口調と言葉がフラナガンを破顔させる。差し出された手を握り締めたフラナガンは自分と同じ手を持つこの青年が、いずれは自分と同じ道を歩むであろう事を無意識のうちに予感した。

 MIP社から出向の形でプロジェクトに加わったハイデリッヒの働きは目覚ましく、そして隠れていた才能は一夜の内に花開く月下美人の様にたちまち開花した。本人いわく、フラナガンの論文を読んで以来その検証を独自にMIP社内で行っていたらしく『感応波』に関する基礎的な理論とその根幹を成す大脳生理学の見地に至っては専門家であるフラナガンも一目置くほどであった。
 独学であるが故に先入観が無く既存の知識の囚われない自由な発想は時としてフラナガンや彼の仲間の啓蒙を開き、既に試作品の製作へと着手していたMIP社の技術研究部に新たなデータとして送り込まれる。自分達の理論の実証に一日でも早く取り組みたいと願うフラナガン達ではあったが、ハイデリッヒの参加によって拍車が掛かった真理の探究はその決意を後回しにするには十分な魅力を秘めていた。
 そして彼らはその日が訪れるまで全く気付きもしなかったのだ。
 彼らの研究に目を付けたキシリアが、それを一体何に利用しようとしていたのかを。

「少将、これはどういう事ですっ!? 」
 フラナガンはMIP社から送られて来た巨大な機械の前に立つキシリアに向かって問い詰める。血相を変えたフラナガンの背後で疑惑の眼差しを注ぐ大勢の科学者の視線を痛いほど浴びながら、しかしキシリアはその秀麗な細面を少しも崩さずに言った。
「どうもこうもありません。これが貴方方の研究を実証する為にMIP社が総力を結集して作り上げた『精神感応波増幅装置』 ―― サイ・コミュニケーター・アンプモジュールの全容です」
「そんな事は分かっているっ! 私が貴方に聞きたいのはその後ろにある巨大な機体の事です、貴方はこの兵器を使って何をしようとしているつもりなのですか? 」
「それを貴方から問われる事こそ心外です。貴方方の研究を実証する為に最も効率が良く、実現性の高い方法を選択したのです」
 キシリアの背後にある巨大なユニットはちょっとした平屋の家屋ほどの大きさがある、まるで特撮に使うプロップモデルの様に様々な電子機器を無秩序に張り付けた壁面には通電を示す無数のLEDが点灯している。背後に控えた巨大な兵器との連結を果たす為に一体成型で作られたフレームが伸び出す様はまるでこの世に災いを齎す為に産声を上げた多頭獣ヒュドラだ。わなわなと手を震わせて怒りを堪えるフラナガンを前にしてキシリアは言った。
「これでも私は貴方の研究を高く評価しているのですよ。確かに貴方の研究は我がジオンが連邦に勝利した後に必要な研究なのかもしれない、しかし今のままではただの夢物語として歴史の影に葬り去られてしまうだけの運命です。科学雑誌が特集記事を組もうとしなかった様に。ですが ―― 」
 キシリアは言葉を閉ざすと背後にある二つの機械を横目で見上げた。
「このモジュールと能力者専用の戦闘兵器『ブラウ・ブロ』が戦場で成果を上げれば貴方方の『ニュータイプ』研究は継続できる、軍の予算を湯水の様に使ったとて誰も咎める者はいない」
「ニュータイプ、ですと? 」
 その言葉がキシリアの口から飛び出した瞬間にフラナガンは眉根を寄せて真実を疑った。嘗て始祖たるズム・ダイクンが予言した新たな人類の可能性、それが自分の発見した現象へと繋がっていると言う事が本当にあり得るのだろうか? スペースノイドとして苦難に耐え続ける彼らの誰しもがその存在を疑い、しかし夢現のうちに渇望し続けた宣託の顕現が一介の科学者たる自分に発見出来る筈が無い。猜疑の眼差しで口を噤んだフラナガンに向かってキシリアは言った。
「私がその預言の信奉者と言う訳ではない、しかし貴方の発見したその現象を『ニュータイプ』という位置付けにしてしまえば話は違ってきます。貴方がこれから行おうとする研究は始祖の預言を成就させる為の大事な物、その事に異論を挟んだりする者は国内にはおりますまい。そして ―― 」
 キシリアはその時初めて目の前の老人から視線を離して、肩越しに見えるハイデリッヒへと視線を送った。見つめられたその男は普段から笑った様に見えるその素顔を歪ませて、確かに笑った。
「私は博士の研究の後押しをする為にこの成果で得られる全ての物を継ぎこんで、軍での権限を拡大する。兄である総帥、ギレン・ザビを凌駕する為に」
「待って下さい少将、貴方は始祖の預言した人類の未来を謀るばかりか、彼らの能力を戦争に使うつもりなのですか? 」
 キシリアの決意を聞き届けたフラナガンが忘我の境地から自己を取り戻して慌てて尋ねた。
 フラナガンは自分の研究を人々の幸せの為に役立てようと考えた、その為に様々な苦難を乗り越えてここまで辿り着いたのだ。それが自分の思い描いた物では無く全く対極に立つ不幸の為に利用しようと言うキシリアの言葉を黙って聞き流せる筈が無い。自分のパトロンとなったキシリアに向かって意見をする事など出来ない身の上ではあるが、その瞳の奥に翻意の意思を湛えたフラナガンはじっとキシリアの瞳を見据えた。だがキシリアはフラナガンのその意思を全て受け止めた上で、敢えて冷酷な口調で答えた。
「では、科学の学究の徒を自らを置く貴方に問おう。 ―― 科学が劇的に発展する為に与えられる養分とは? 」

 それは戦争だ、とフラナガンの口は開きかけて止まった。それを認めてしまえば自分は何か大切な物を全て失ってしまう様な気がする、科学を平和の為に役立ると言う大義はそこへと生涯を捧げた者達にとっての宣誓にも等しい。しかし抗う為に必死でその答えを探そうとするフラナガンには、果たしてキシリアに提示すべき明確な回答を探す事は出来なかった。
「答えられない貴方の態度がその答えを物語っている。そう、それは戦争です。そして貴方の求める平和は人々が安穏と惰眠を貪る平和の中になどありはしない、この連邦との戦争を勝ち抜いた先にこそ存在する世界なのです。そして私には貴方にその機会を与える為の権力と、金がある」
「詭弁を弄してでもその価値があると貴方は言うのか、私が見つけたこの発見に。人の意思の力によって機械を遠隔操作すると言う力を戦争へと投入する事が今までの戦争の在り方を一変させてしまうかも知れないと言う事も含めた上で」
「そうです。我が軍がモビルスーツを投入した時と同じ位ドラスティックに。ですが博士、これだけは理解しておいて頂きます」
 キシリアは外していた眼差しを再びフラナガンの顔へと戻して、その十数分の間に随分と老けこんだ顔に複雑な表情を張り付けた老人を見つめた。
 しかしそれは当のキシリアとて同じ心境だったのかも知れない。この様に不確かな理論にすら縋りつかねばならぬほど戦況はひっ迫している、自分達が生み出したモビルスーツの連邦軍版、それもたった一機のプロトタイプに追い詰められていると言う現状を考えればそれに対抗もしくは拮抗する戦力を用意する事は喫緊の課題だった。
 即ち、これはキシリアにとっても自らの未来を掛けた生涯唯一の大ばくち。
「もし彼らの運命がこの先破滅への道のりを歩いてしまったとしても、それはこの理論を見つけて形にしてしまった貴方に責任がある」
 毅然と言い放つキシリアの顔を齎される衝撃で呆然と見詰めるフラナガン。キシリアは責の在り場所を自らの立場を以て彼に強く言い含めた。
「貴方がこの先、我らを宇宙へと導いたフォン・ブラウンとなるのか。それともプロメテウスの火を二度と人の為に使えなくしたロバート・オッペンハイマー(核の父と呼ばれる科学者)の様になるのか、それは貴方が自らの手で『実証』しなければならないのです。 ―― 聖櫃アークへと手を差し込んだ者の、それが責務」
 キシリアが言ったその言葉こそが科学者誰もが胸に刻む科学の功罪。戦争と平和に秘められた二律背反に隷属する彼らの宿命。
 フラナガンもまたそれをよく理解する科学者の一人だった、そして自らの望む世界を手にする為にはその手を血に染めなければならなくなったと言う事を深く理解し、絶望し、諦観を憶え。
 そして、狂った。
 
 仁を是と掲げたフラナガン・ロムの生涯はその日を境に大きく闇へと舵を切った。自らの犯した大罪と戻れなくなった過去を振り切る為に彼は軍より与えられる被験者に対して容赦の無い実験を行い、そして実戦に耐え得る幾人かの兵士を戦場へと送り出す事に成功する。
 彼の変節と変容に大勢の仲間が立ち去り、入れ替わる様にして新たな顔が加わったキシリアのプロジェクトは何時しか軍の極秘扱いの機関へと昇格を果たして『フラナガン機関』と言う称号を手にするまでに至る。しかしその名を冠して尚フラナガンの非人道的な人体実験は収まる事を知らず、寧ろ更なる苛烈さを以って被験者の命を弄んだ。
 人の命を物の様に扱い、生き残った者には寵愛を与えるその姿を眺めながら、研究所員の多くはジオンに忠誠を強く誓った科学者の行きつく理想形だと賛辞を贈る事でフラナガンの名は宇宙世紀史を語る上で欠かす事の出来ない単語として人々の記憶へと刻まれる事になる。
 しかしそれを当のフラナガンが喜ぶとは到底思えない、と賛辞を聞いたハイデリッヒは小さく呟いた。彼は出逢った時よりも小さくなったフラナガンの背中へと視線を投げかけながら、いかにも軍への幻想を捨て切れない若き科学者に向かって、こう言った。
「忠誠だって? 冗談じゃない、あれは復讐だよ。自分の手から大事な物を取り上げて行った軍に対する、彼なりの」
 その台詞を吐いた時のハイデリッヒの表情をその科学者は生涯忘れる事は出来ないだろう。口角を歪ませて細い目を開いて嗤う彼の瞳に燃え上がる深くて瞑い感情は、一瞬だけ科学者の目に届いてその名を脳裏に刻み込んだ。
 それは、狂喜だった。

 溜飲を下げる為には今すぐこの引き金を引いて、ぼさぼさ頭に詰まった役立たずの脳みそを床にぶちまけるのが一番だとバスクは思う。だが彼の身体は止め処なく湧き上がるその誘惑にも耐えて人差し指にその意思を伝達しようとはしていない。
 理由は分かっている。この男を誅する為の大義名分が無いからだ。バスクは震える手で握りしめた銃を渾身の理性で抑え込んで再び腰のホルスターへと差し込むと、男が小脇に抱えてあったファイルを乱暴に引き抜いてページを開いた。
 処断する為の理由を探すバスクの目に引き込まれた様々なデータや実験結果には、残念ながら男の言葉を証明する裏付けしか記載されてはいない。確かにこの研究所で実験を待つ被験者の能力データは、先んじてティターンズに徴兵した彼らの保持する能力の一歩も二歩も先へと進んでいる。
 むう、と唸りながら悔し紛れに渾身の力でファイルを閉じて男へと突き返すバスクは、それを手にとって脇へと収める男に向かって憤怒の吐息を吐きながら尋ねた。
「言い逃れが出来るとすれば貴様に与えられるチャンスは今しかない。俺の質問の返答如何によっては貴様を国家反逆罪によって今この場で処刑してやる。 ―― もう一度訪ねる、何故結果が出せんのだ? 」
 自らの死の宣告を男は何食わぬ顔で受け入れて、バスクに向けていた憤りをその笑顔にも似た素顔の内へと収めた。フッと小さく息を吐いてバスクを睨み上げていた目をその胸元へと一度落とした彼は、再びその顔を持ち上げてから静かに言った。
「では、今度こそはっきりと、貴方にも分かりやすくご説明いたします。実験が失敗するその全ての原因は、貴方方から提供されるサイコミュ・インターフェイス・モジュールのプログラムの稚拙さにあります。現段階での我が方の被験者の能力に対して追随出来得るプログラム速度が構築されていない、故に被験者の力がそのまま逆転リバーサルを起こして自身の脳を破壊してしまうのです」

 
「切り札、ですか。 …… 副長がそう言うのなら恐らくは正中を得ていると思ってもいいのでしょうが、しかしその正体が分からぬままではこちらも手の出し様が無い」
 ウェブナーがヘンケンの言葉を聞いてそう呟いた。敵が何らかの理由によって手を拱いている事は反勢力側にとっては安堵するべき事由なのだが、もしその切り札が完成した暁には自体は自分達が望まない方向へと急変する事に間違いはない。嵐の前の静けさとも言える今の猶予の間にこちら側としても何らかの防御手段なりを構築しておくのは戦略上の常道だろう。
「まあ、敵もこちらも同じ穴のムジナである事には変わりがないって事だ。取り敢えずは出来る事からこつこつと積み上げていかなきゃならんって話なんだが ―― 」
 ヘンケンはウェブナーの意見に対して否定とも肯定ともつかない返答をしながら、ちらりと押し黙って二人の顔を見比べている老人に尋ねた。
「ドク、彼はどうだ? 」
 ヘンケンの顔には今までにない真剣さが窺える、この話こそが今日の会合の本題だと言わんばかりの表情を見せるヘンケンに向かって老人は、目の前に置かれたファイルの束にそっと手を置きながら静かに告げた。
「 ―― 彼は、無理じゃ。コウ・ウラキ予備役伍長はもう既にモビルスーツを動かせる状態では無い」
 断言する老人の顔をじっと睨みつけたヘンケンは、背凭れに預けていた背中を引き剥がして老人へと上体を寄せた。険しい表情に張り付く鋭い眼光は宇宙を単艦で駆け巡っていた『スルガ』時代の物だ。
「Dr.モラレス、貴方がそれを断言する理由を説明して貰おう。私が生半な説明では絶対に納得しないと言う事が解っていての否定である事を期待する」
 突然口調の変わったヘンケンに向かってモラレスは、山の一番上に置かれた二冊のファイルをそれぞれに手渡した。表紙を捲って中を閲覧に掛かる二人にモラレスのいかにも残念そうな声が届く。
「詳しい事はその中に全て記載はしてあるが、まず結論から言っておこう。コウ・ウラキ予備役伍長の罹患しておる病名は『複雑性PTSD』、つまりは複合要因から発症する心的外傷後ストレス障害じゃ」
 一番最初に張り付けられたコウの履歴を読み込むヘンケンの脳裏にその病名の別名が浮かび上がる。砲弾神経症シェルショックとも言われるその症状は戦闘に於ける極度の緊張感と恐怖の持続体験によって発症するヒステリー反応だったと記憶している。だが彼の来歴を読む限りでは、彼がそれほど苛烈な戦場で死に至りかねないほどの体験をしたとの履歴は見当たらない。
 トリントン基地での任務中に事故に巻き込まれて同基地の所属を解かれた後、司令部預かりとなった彼の身柄は突然オークリーへと送られる。いかにも淡々と記載されたコウの経歴と、そこからは絶対に説明の付かない彼のモビルスーツ運用能力は逆にヘンケンに胡散臭さを覚えさせるほどだ。
「これだけを見ていると彼に付いた二つ名の出所すら分からん状態だな。それに一部の前線の兵士の間で噂された『悪魔払いエクソシスト』が罹る病気にしては些か単純でしかも間尺に合わん。 …… 俺がそれを信用するとでも? 」
 凄みをちらつかせるヘンケンに負けない眼光でその脅しに対抗するモラレスだが、その目には真実を語ろうとする意思がある。モラレスはおもむろにヘンケンとウェブナーへと目配せした。
「そんな事を儂が思っとる筈が無かろう。本題はこれからで、最初に言っておくがここからは医師としての分析とそこから導き出される推論に基づく。信じる信じないはお前さん達の勝手じゃ …… 次のページ」
 ぼそりと呟くモラレスの声に促されて履歴の裏に隠された紙面を目にする二人、飛び込んで来たのは表計算ソフトで作られた様々な数値とグラフのモザイクだった。
 上部に小さく記載された日付から、それが今年の初頭に行われた予備役兵の軍事教練のデータだと分かる。連邦軍に所属する予備役兵はその能力維持と適性検査の為に年に一回の軍事教練が義務付けられている、もっとも登録されている膨大な数の彼らにいちいちモビルスーツを貸与して演習を行う人出が地上の基地には無い為、その判断はもっぱらシミュレーターによる模擬演習とそこから採取される医療データに限られているのが現状だ。コウの持つエースとしての資質と、ジャブローに残る彼の履歴との乖離はここから生まれた。
 膨大な数の資料も佐官である二人には何の造作もなく読み込む事の出来るただの報告書でしか無い。ヘンケンは目を滑らせながら現役時代と同じ口調で今度はウェブナーに尋ねた。
「この時の伍長の設定を憶えているか? 」
「 …… 確か設定はAクラスパターンC、状況は敵の包囲を突破するプログラムだったと記憶しています。 …… ああ、ここに書いてありますね、伍長の機体は79年製ザクⅡで装備はDセット ―― ヒートホークとマシンガン、弾数は六十発。CPU側は同じく79年製ゲルググM型一個小隊三機A装備、弾数無制限」
「防御専門の型落ちでアサルト装備の量産機小隊とやり合わせようってか、随分ないじめ方だな」
 自分が想像し得る限りのどんなパイロットを用いた所で勝ち目はないと思われる設定に呆れるヘンケンだったが、それを聞いたウェブナーが顔色を変える事はない。
「こうでもしなければ彼の演習は直ぐに終わってしまいます、今回はドクのたっての要望で時間がかかる様な設定にしてありましたから。 …… 結果としては任務完了ミッションコンプリートまでに費やした時間は十分、手こずった事も含めてほぼ想定通りです」
「 ―― 全機、撃破か」
 映像データがジャブローからの指示によって封印されている事が悔やまれる。だが外様の身の上ではこれ以上の資料提供をウェブナーに頼めない、彼のアクセスコードでも届かないほど深い場所にコウの一切の記録は保管されているからだ。それでも無念を顔に滲ませたヘンケンにモラレスは言った。
「儂が今回知りたかった症状は、その十分間に何度か記録されている機器と生理の無反応状態じゃ。俗に言う『金縛り』なんじゃが、彼はそれが発生した十数秒の間だけ外的刺激に対して一切の反応を起こしていない。脳波以外はな」
「『金縛り』ですか …… それが彼の病状の特定の根拠と言う訳ですね。ですが、ドク」
 押し黙ったままモラレスの言葉を聞いているヘンケンに変わって今度はウェブナーが口を開いた。彼にとってコウは予備役と言えども当基地に所属する貴重なモビルスーツ隊員であり、その身に起こる全ての事象を把握して置かねばならないと言う事は司令官としてこの基地を預かる彼の責任でもあった。突破口を掴もうかとする様に尋ねるウェブナーの声は真剣そのものだ。
「その様な精神的な病ならば長期に渡ってカウンセリングを続ければ克服する事も可能なのでは? それに薬物による治療を施して立ち直らせる事だって ―― 」
「お前さんの言っている事はよく理解しておるし、儂も出来る事ならそうしたい。当基地に在籍しておる折には彼は何度もその事で儂のカウンセリングを受けておる。 ―― それが出来ない事情があるんじゃ、彼の身体には」

 体調不良を訴えて一度もモビルスーツによる演習に参加した事の無いコウが、実はモラレスのカウンセリングを受けていたと言う事をウェブナーは今初めて知った。確かに医者には患者の病状に対する守秘義務が存在し、モラレスは恐らくそれに則って今までの経緯を黙秘していたのだろうが、それにしても、とウェブナーは思う。
“そう言う大事な事は仲間である自分にくらいは打ち明けてくれてもいいだろう? ”
 ウェブナーの表情に走った小さな憤りを見透かす様にモラレスは、ウェブナーの方を向いて言った。ヘンケンはじっと瞼を閉じて頭の中の情報を整理している。
「お前さんにその事を告げなかったのはお前さんの考えている通りでもあるし、それだけでは無い。儂自身その答えに確証が持てなかったんじゃよ。だから今回それをはっきりさせる為にシミュレーターの設定を弄らせて貰ったんじゃ。 …… さっきの話に戻るがウェブナー、儂は彼に薬物の治療が行えないと言う事をお前さんに言った。その理由が『薬物』による物だったとしたら? 」
「どういう意味だ? 」
 ヘンケンの瞼がモラレスの言葉に反応した様に大きく開いた。
「彼の病状が、彼の体内に残っている『薬物』によって引き起こされている物だと分かったら、どうする? 」

 モラレスはそう言うとウェブナーの手からファイルを取り上げてぱらぱらと捲った。そして一番最後のページを開くとウェブナーの元へとそれを戻しながらこう告げた。
「ここに演習直後に彼から採取した血液検査の結果が記されておる。断っておくがこれはジャブローへと送った後に儂が手書きで書き加えたモンで、言うなれば公文書偽造に値する。悪いがお前さん達にも儂の共犯になって貰う」
 ヘンケンはウェブナーのファイルを横目で追い掛けながらそのそのページを開く、そしてはす向かいに座るウェブナーはと言えば、モラレスによって開かれたそのページに視線を落したまま驚愕の面持ちを湛えている。冷静沈着を座右の銘に持つウェブナーの変貌に徒ならぬ予感を覚えたヘンケンが急いでそのページに辿り着いて、見慣れた走り書きの赤い文字を声に出して読み上げた。
「Amphetamine …… アンフェタミン、だ、と。 ―― 覚せい剤、じゃないか」
「彼がそれを常用していると言う事実は確認されておらん、針の跡がないからの。つまりこれは彼の身体で生成される、覚せい効果を持つ未知の薬物じゃ。加えて言うならアンフェタミンと記したのはその組成が酷似しておるからで、同じ物では無い。儂も今まで見た事の無い位に強力な合成麻薬じゃ」
「待って下さい。アンフェタミンに成分が類似していると言う事は出自がどうあれ人の手が加えられていると言う事でしょう? 元々体内にある訳が無いそんな恐ろしい物がどうして体内合成で出来ると言うのですか? 」
 ウェブナーが慌ててモラレスの言葉を遮った。覚せい剤を常用すれば廃人になると言う事など誰でも知っている常識であるし、事実一年戦争の最中には覚せい剤までとは行かなくても麻薬の類を常用して恐怖を紛らわせていたと言う兵士の話をよく聞いていた。しかしそんな恐ろしい麻薬が体内で自家合成できる体質の人間など聞いた事が無いし、何よりそんな者が世に名を轟かせたエースの正体だったなどと信じられる訳が無い。

「アンフェタミン自体は、非合法ながらパイロットの疲労抑制剤として使われる事もある。前線で使用されていると言うのならば看過は出来んが納得はいく。しかしもしこの物質が体内組成で彼の身体に現れているとなると ―― 」
 ヘンケンがその答えを求めてモラレスを見る。モラレスは小さく頷いた。
「お主の考えている通りじゃ。つまり彼の身体は ―― 伍長の体内にある器官の一部が何らかの作用で変質していると言う事しか考えられん。儂の推測では彼の体内に送り込まれた何かが小脳内のアドレナリン作動性神経系の構造を書き換えて彼の神経核を作り変えてしまっているんじゃろう。戦闘時に起こる緊張と恐怖が、本来ならば体内で作られる筈のノルアドレナリンの代わりにこの麻薬を合成して彼の神経を刺激する、どんどん濃度の上がるこの物質はやがて覚醒効果の範囲を超えて、彼の神経伝達組織の活性を上げ続ける。シミュレーターのデータからもそれは確認出来るし、それが『悪魔払い』を支える力の源じゃと儂は思う」
「何でそんな惨い事に …… まさか彼は軍の手によって ―― 」
 憤ったウェブナーがそこまで喋った時、ヘンケンはしっ、と人差し指を口の前に立てて彼の言葉を制止した。ウェブナーが軍に対して疑念を抱くと言う事はジャブローに保管されているコウの軍歴の怪しさや封印される様々なデータによって証明されている。しかし彼の立場でそれを口にしていい事かどうかと言うのは、ヘンケンの価値観に準えれば否、であった。
「それ以上言うな。仮にも軍の要職に就く者が軽々しくそんな事を口にしては軽重の鼎を問われるぞ。軍人がするべき事は与えられた材料だけで的確な判断を下すと言う事、本分を忘れるな」
 ウェブナーの言葉に釘を刺した形で封殺したヘンケンが、今度は自分が定義した軍人の在り方でモラレスに尋ねた。
「ドク、お前の推測を整理するとウラキ伍長は何らかの作用によって体内で覚せい剤が合成できる体質になり、それが彼の持つ類稀なスキルの源になっている、と言う事で間違ってないな? しかしそれとドクが知りたがっていた『金縛り』現象の発症の事実とどう結びついて、ドクは彼をスカウトの対象から外すという結論に至ったんだ? 」

 モラレスはヘンケンの質問に視線を落として目を逸らした。残ったファイルの置かれたテーブルの一点を恨みの籠もった眼で睨みつけながら、その理由を口にする。
「これだけの事ならば儂も彼に対してモビルスーツから離れろとは言わんかった。寧ろ手駒として考えるならば今の彼は実に都合がいい、何せ超人的な力で『死ぬまでがむしゃら』に戦い続けるンじゃからな。 …… 儂が問題にしておるのは彼に起こる『金縛り』がなぜ起こるかと言うその理由なンじゃが、儂はそれが彼自身の無意識の願望によって引き出されていると考えておる」
「願望? 彼が何を望んでるって言うんだ、それも無意識のうちに」
 咎める様に問い詰めるヘンケンの声に初めて気づいた様に、モラレスは不意に顔を上げて視線を送った。その苦悩は受け取らざるを得なかったヘンケンにもありありと分かる。
「医学的に言うならば生成された合成薬物がある一定の濃度を越えるとそれを中和させる為に、別の麻薬が脳内で発生する事によって引き起こされる症状じゃ。GAVA神経系より分泌される脳内麻薬様物質オピオイドこそが彼を死に至らしめる引き金となる」
「オピオイド? 何だそれは」
 初めて聞く言葉に二人の声は互いの音程を補完した。見事な合唱で放たれたその声に向かってモラレスはじろりと二人の顔を見やってから静かに告げた。
「 ―― 人間が最期の瞬間に大量に分泌する『救い』の麻薬じゃ。死への恐怖を和らげる為に全ての感情を凍らせ、動く事を抑制し、抵抗を排除し、そして逃れられぬ運命を心静かに受け入れさせる為に必要な神からの贈り物ギフト ―― ここまで言えばもう分かるじゃろう」
 凍りついた様に動きを止めた二人の上司に向かってモラレスは両の手で顔を覆ってくぐもった声でその言葉を吐き出した。
「彼は、無意識のうちに『死』への扉を開こうとしておる。コウ・ウラキ予備役伍長は本人も自覚し得ない『自殺願望デストルドー』を発症しておるんじゃ」
 
 愉悦に顔を歪ませてバスクは腹の底から笑った。全く、愉快で仕方が無い。
 今まで散々虚仮にされ続けた自分に対しての嘲笑、そしてその不埒な行いに対して何憚る事無く断罪の一撃を齎す事の出来る歓喜。淀んだ笑いはバスクの口から迸って閑散とした部屋の空気を掻き乱した。元々のここの主である蓬髪の男はバスクの憤怒を書き換えた物の正体を見極める為に細い目の奥に隠れた瞳を小さく覗かせる、バスクは初めて笑い顔を崩した男を見下ろして言った。
「こ、これが笑わずにいられるか。よりにもよって貴様の仲間が作った最新式のモジュールを『欠陥品』呼ばわりしたのだからな。リーア(サイド6)に残った連中もお前の言葉を聞いてさぞや大喜びするだろう、連邦へと自ら出奔したお前ごときに何が分かる、とな」
「リーア? パルダの研究所はまだ実在すると? 」
 尋ねながらバスクを見上げる男の顔に若干の驚きが混じった。男の言うパルダの研究所とはフラナガン機関の本拠地の事、一年戦争の敗戦によって解体されたと思われていたその施設が連邦軍の保護下で未だに稼働し続けている等とは露ほども知らぬ事だった。
「そうだ。ニュータイプ研究の先鞭を付け、この世で最も権威とデータの蓄積があるフラナガン研究所。貴様が否定した物はこの世でおよそ考え得る限りの英知と経験が注ぎ込まれた代物だ。それをもってしても成果の得られない実験など全く持って不必要、貴様のやっている事など唯の狂人の戯れに過ぎない」
『狂人』と言う言葉を耳にした男の顔が小さく歪む。バスクとは違った愉悦の形が恨みの籠もる笑みに変わって男の表情を支配した。
「絵に描いた餅を食べる事など誰にも出来ない、と言う事ですね。つまり私の理想を現実の物にする為にはその不可能を可能にする、誰も見た事の無い才が必要である、と? 」
「よく分かっているではないか、そして ―― 」
 腰のホルスターからゆっくりと銃を引き抜いたバスクは、今度は落ち着いた表情でその銃口を男の額へと押し当てた。
「そんな者はこの世のどこにも存在しない。我々が欲しいのはこの先起こるであろう戦争を牛耳れるだけの力を持つ『ニュータイプ』と言う名の兵器だ、そしてナカモトが持ち込んだ彼らの性能に我々は十分満足している。貴様がこれ以上自分の理想を求めて研究を続ける必要性は認められない、と言う事だ」
「では認められる為にはその欠点を克服する事の出来る科学者 ―― 例えば過去のアインシュタインの様に『先ず回答ありき』と言う閃きを持った人物がいれば何の問題も無いと言う事ですね。その機械のプログラムを全く別の視点から書き換えられるだけの能力を持った人間が」
「貴様に心当たりがあると言うのなら、それは我々にも絶対に知れている。ティターンズを舐めるな」
 これ以上の命乞いにつきあっている暇も余裕もないと、バスクは唸って安全装置を指で外した。
「現時点を持ってこのプロジェクトは凍結、貴様は先程の不敬な態度と失敗の責任を取る為に、今この場で命を以って解任だ。安心しろ、貴様の開発した強化人間達は然るべき後に後任へと引き継がせて処遇を決める。…… さあ、この世の最期の言葉だ、何か気の利いた遺言でも遺してみろ」
「 …… 見つかっていれば、問題は無い訳ですね? 」
 言い含める様に尋ねて来る男の言葉はバスクの殺意を得体の知れない好奇心で凍らせた。命乞いの言葉を密かに期待していたバスクは予期せぬ反撃に会ってその指を止める、殺意と好奇の板挟みにされたバスクの感情が、そのどちらかを捻じ伏せようと大きく揺れた。
「挙句の果てに貴様の口から飛び出した言葉がそれか。そんな戯言で永らえようとしても無駄な事、貴様は既に俺の処刑者リストのトップに上がっている」
 言葉とは裏腹に噴き上がる殺意には翳りが見える。最後の一ミリを引き切れないバスクの迷いを見抜いた男の声が勝ち誇った様に言った。
「話は最後まで聞いた方がいい。私を処分した後で貴方が上層部から処分を免れると言う意味でも」

 脅しとも取れるその言葉に憤慨したバスクの意思はすぐさまこの不遜な輩を自分の目の前から永久に排除する事を決断した。腸を捻じ切る様に湧き上がる怒りの中からその命令を取り出して脳へと伝えるのに時間を費やす事など無い、しかしバスクがそれを腕に伝えようとしたのを見計らったかのように男の手がバスクの銃の傍へと伸びた。まるで人の命令伝達の速度まで読み切った様に掲げられたその指の間に挟まれた一枚の紙片、その手際の良さに怯んだバスクに向かって男は告げた。
「これが候補者です。貴方達がその記録から抹消し、私がそこから拾い上げた。知らないのは当然です」
 僅かに開いた細い目から覗く瞳が真剣な色を孕んでバスクへと向けられる。落ちつけ、と自分に言い聞かせて、男の処断をほんの少し先延ばしにしようと決心したバスクは銃を男の額に突き付けたまま、その紙片へと空いている手を伸ばす。片隅を摘まんで指の間からバスクがそれを抜き出そうとした瞬間に、男が言った。
「私が言うのだから間違いはない。彼女は ―― 」
 男の声はバスクの耳朶を叩いて不気味な響きを殺意に溢れる脳へと伝わった。例えるならばそれは人を死に至らしめる蛇毒にも似ている様な気がする。浸透する言葉が脳の中に張り巡らされたシナプスがニューロンごとぶった切ってその疎通を阻害する感覚だ。毒に侵された脳が男の言葉の導きに従え、とバスクに囁く。
 手にした紙片を片手で無理やり開こうとするバスクに向かって男は言った。
「 ―― この世に初めて生まれた、新たな形の『ニュータイプ』です」



[32711] Astarte & Warlock
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:b090dcee
Date: 2012/08/02 20:47
 その言葉は存在を知る一握りの者にとっての呪いにも等しい。男の口から飛び出した『ニュータイプ』と言う単語はバスクの身体の内に巣食った殺意を残らずはぎ取って好奇心へと置き換えた。後何秒か後の未来には男の命を奪う筈だった拳銃を慌てて腰へと戻したバスクは、街角で配られる号外記事に食いつく一般市民の様な顔で手の中の紙面を広げる。
「彼女ならばきっと私が理想とする強化人間の能力を十分に発揮できるプログラムを組み上げてくれるに違いない。いえ、それだけの素養が彼女の能力にはある」
「 …… 何だ、これは」
 得意満面に対象者へと賭ける期待を口にする男に向かって、バスクはまるで闇の底から漏れ出す地鳴りのような声で尋ねた。両手で広げられたその紙は彼の膂力を支えきれずに今にも破れてしまいそうなほど歪に歪んでいる。
「何だ、と申されても今貴方にお見せできる資料はその一枚だけ。後はこの研究所への異動が認められてからの提出と言うのは元々の決まりですが? 」
「だからこれは何だと聞いているっ!? 貴様の言う通りの人物ならば一廉の経歴、係累の持ち主の筈。それが ―― これではまるでこの女の履歴書ではないかっ! 」
 鬱積した怒りがその手に乗り移って手品の様に紙を丸めこむと、それを渾身の力で床へと叩きつけるバスク。種の無い仕掛けはその紙を小さく床から跳ね上げてもう一度床へと導き、それが物理法則に従った正確な放物線を描き終わる前にバスクのブーツがその紙を思い切り踏み躙った。
「そうですね、そう言う見方も出来ますか。 …… 確かに彼女が在籍していたのはただ一社、アナハイム・エレクトロ二クス社のみ、それ以外に彼女が参画した機関、軍関係の研究所などは一切なし。純粋な民間の技術者ですから」
「気でも狂ったかっ、それとも貴様の目は節穴か!? こんな女に我がティターンズの技術開発部や貴様の古巣が束になっても叶わないだと!? ましてやこ奴は『蝙蝠野郎 ルナリアン』ではないかっ! 」
「才能に出自は関係ない、それを言うならば私も、そして我が師フラナガンも貴方が重用するモーゼスもナカモトもスペースノイドだ。貴方方の主義主張がいかなる物であろうとも、この研究の最先端を求めようとするのであれば清濁併せ呑まざるを得ないと言う事はご存じの筈。そしてそれは彼女にも当てはまる事」
「詭弁を弄すなっ! 」
 咄嗟にバスクの丸太の様な腕が男の胸倉を掴んで持ち上げた。皺一つない白衣の襟が捻じ上げられて男の首へと絡みつく、しかし男はその両足がバスクの渾身によって宙に浮く寸前に何事も無いかの様にぽつりと呟いた。
「 ―― 彼女は『ガンダム』の開発者です」
 
『ガンダム』という名は元々連邦軍の次期主力機種開発計画の試作機に与えられる名称である。一年戦争の最中に急遽ロールアウトした試作機が上げた戦果と影響力は敵に恐怖と伝説を埋め込み、その功績を重視した連邦軍はいつしか性能損失が少ないとみられる量産機にもその名を冠する事が慣例化しつつあった。機体名称の一部へと変化した開発計画名ではあったが、それはティターンズの台頭した連邦軍においても最重要機密の一翼を担う名前には違いない。男の口からその台詞が語られた時、バスクはそれを鵜呑みにする事は出来なくても手を止めざるを得なかった。
「ガンダムだと!? 」
 吊るしあげたこの男がその名称を口にしたと言っても何ら憚る事は無い、この男もティターンズの極秘計画に従事する科学者の一人なのだから。しかしバスクはいかにも訳知り顔でそれを告げたこの男の態度が許せなかった。畑違いの軍の開発計画に対する侮蔑にも、バスクの耳には聞こえる。
「貴様の言う『ガンダム』とはどの機種を指して言うのだ、既に連邦軍にはその名を冠した様々なヴァリエーションが星の数ほど存在する。その様な言い逃れで ―― 」
「この資料を貴方に手渡す前に、私が何と言ったか憶えていますか? 」
 素知らぬ顔でそう告げる男の言葉にはっと表情を変えたバスクの手から力が抜ける。物語の伏線の様に何気なく記憶へと埋め込まれた言葉がバスクの心理に衝撃を齎した。
「 …… 『貴方達がその記録から抹消し』 ―― 」
 歴史の表舞台から抹消された試作機、それに該当する機種はあの四機しか思い当たらない。自分達がデラーズ紛争という状況を利用してその権益を拡大しようとし、そして成し遂げた後に残った負の遺産。
「私が、そこから拾い上げた …… ご名答」
「馬鹿なっ! あの機体の記録はアナハイムの本社に軍の技術者が乗り込んで完全に抹消した筈、何故それを貴様が知っているっ!? 」
 機密保持には万全を期するティターンズならではの腕利き連中が手抜かりをするとは考えられない。バスクの脳裏にその時の時系列と報告書の文面が津波の様に押し寄せて、それは彼の思考を整理するどころか一層の混乱を招く。苦悩を浮かべたバスクに向かって男が見かねた様に言った。
「これは彼らから私へと送られたと言うより、貴方方ティターンズへと私を通して送られたメッセージでしょう。もしこの事を知り、貴方方が何らかの実力行使を行う様であれば彼らは自らの保身の為にこの事を全人類へと確かな証拠と共に公開する、と言う。裏を返せばこれ以上アナハイムを窮鼠にしないと約束するのならばこの情報は一切口外しない」
「 …… おのれアナハイムの連中めっ、そんな恐喝紛いの脅しに我らが屈するとでも思っているのか!? 」
 男の文言に理を悟ったバスクは怒りの矛先を手の中の男から、遥かな宇宙の上に浮かんだ灰色の衛星へと向けた。人類史上最大の軍産企業と言えども所詮は戦争に寄生して生き血を啜る輩に過ぎない、それが自分の立場もわきまえずに何を言うっ!?

 足の裏へしっかりと自分の体重が掛かった事を理解した男はバスクの視線が調度品の全くない部屋の壁へと向けられた事を確認して、おもむろに足元の紙屑へとその手を伸ばした。ソールの跡がくっきりと残るその紙屑を丁寧に、慎重に開きながら言った。
「それは貴方方の問題だ。私の抱える問題が片付いた後で十分にやり合えばいいでしょう。しかし、先ずは ―― 」
 元通りとはいかないまでも、あらかた開き切った一枚の紙の隅に印刷された彼女のポートレート。高価な宝石を思わせる抜ける様な蒼い瞳と、それを引き立たせる金色の柔らかな髪。
「 ―― 彼女をどうやって私の元へと異動させるかと言う事を、考えて頂かなくては」

                              *                              *                              *

 両肩に掛かった金の髪がオークリーの風に揺れる。大ぶりなゲッティのサングラス越しにアデリアとマークスの出で立ちを一瞥したニナは、腕組みをしたまま溜息交じりに言った。
「まあ、なんて格好なの二人とも、と言いたい所だけど ―― 」
 サングラスの淵から覗く眉がピクリと上がる、その動きだけでもニナが二人の今日の演習内容に関して不満を持っている事が分かる。アデリアもマークスもまるで借りた猫の子の様に肩を竦めて、小首を傾げたまま二人を睨みつけるニナを上目づかいに盗み見た。
「今、貴方達二人の起動ディスクを回収して分析している所。もうちょっとしたら今日の演習の行動分析が終わるから、その間にその汚れた服を着替えて食事を済ませて会議室に来るようにとのお達しよ。私も後から資料を持ってモウラと一緒に行くから」
「 ―― ニナさ ―― い、いえ技術主任もご一緒ですか? 」
 名前を呼ぼうとした瞬間にアデリアの肘がマークスの脇腹を小突いた。慌てて言い直すマークスの視線は薄くローズの引かれたニナの口元へと注がれている、誰もが見蕩れる美貌を持っている事に自覚的では無いニナのさりげなさに心惹かれるマークスの気配を察知したアデリアが、視線を地面に向けて誰にも気づかれない様に小さく舌打ちする。
「そうね、隊長からの直々の要請だから私も。『モビルスーツの操縦の仕方をサルでも分かる様に教えてやってくれ』と言われたんじゃ、無碍にも断れないわ」
「 …… ひでえ言われよう」
「あたし達って、サル以下? 」
 技術部門のトップからさすがにそこまで低評価を下されると二人も黙ってはいられない。揶揄に対して思いっきり不満を露わにする二人に向かってニナは口元を崩しながら小さく笑った。
「整備から上がったばかりのゲルググを見事なまでに傷だらけにして帰って来た罰よ『クラッシャーズ』。アストナージがここまで怒鳴り込んで来ない事を幸運に思いなさい」
「そうそう」
 ニナの背後から被せる様に陽気な声が届く。恐らく十キロはあると思われる巨大なモビルスーツ用のスパナを肩に担いだモウラがにやにやと笑いながらニナの隣へと肩を並べた。
「お前達、ジェスに後で何か奢っとけ? 担ぎ込まれたゲルググに奴が真っ先に飛び付かなかったら、アストナージは仁王立ちのまんまであんた達を出迎えるとこだったんだから。―― あの小娘バラシ屋、ほっといたらゲルググの骨までしゃぶり尽くすつもりだよ」
 遣い込んで色褪せたモスグリーンの繋ぎの袖を肘まで捲くったモウラが視線を背後へと送る、その先にあるハンガーの内部ではクレーンの轟音と整備士達の怒号が鳴り響いていた。
「それに元アナハイムのシステムエンジニア様が直々に講義をして下さるって言うんだ、ジャブローに居たってそんな機会滅多にあるもんじゃないんだからもっと嬉しそうな顔をしたらどうだい? 」
 トントンとスパナで自分の肩を叩きながら視線を二人へと戻したモウラは穏やかに笑いながら二人を宥める、しかしマークスは自分より遥かに上背のあるモウラの顔を見上げながら困惑した様に言った。当然だ、フルマラソンを走り切った直後に冷房の利いた部屋になんぞ満腹で押し込まれたら、襲いかかってくる睡魔を振り切る自信が無い。全く同じ事を考えていたアデリアが隣で小さく頷いた。
「い、いやバシット中尉。それは自分達にとっても絶好の機会だとは思うし大変ありがたい事だとは思うんですが、自分もアデリアも座学は昔からどうも苦手で ―― 」
 ちょっと待て、と。言い逃れの巻き添えにされたアデリアが思わず目を見開いてマークスの横顔を睨みつけた。それに加えて藍色の瞳にはありありと抗議の意思が窺える、士官学校をダントツのトップで卒業した男が言うに事欠いて座学が苦手とはよく言う。彼が苦手だと言うのならば自分の立場はどうなるのだ。
「 …… ほう? アデリアが言うンならともかく、あんたの口からそんな言い逃れが聞けるとはねぇ。 ―― だってさ、キース中尉。どうする? 」

 モウラの視線が背中越しへ移動した事を知った瞬間に、マークスの後頭部へと強烈な平手が飛んだ。痺れる頭を両手で押さえて振り返ったマークスの目に真っ先に飛び込んだのはキースのシューティンググラスのオレンジだった。
「た、隊長。いつの間に ―― 」
 痛みに顔を顰めるマークスとその仕草を心配そうに横目で眺めるアデリアが敬愛する上官に向かって形ばかりの敬礼を小さく返す、だがキースの怒りはそれでは収まらない。
「お前たち、技術主任のご好意に対してその態度は何だ! 本来ならば自主的に教えを請う所を、不勉強なお前達二人の為に技術主任が徹夜明けの体を押して教えて下さると言うんだ、ありがたいとは思わないのか!? 」
 上官の部下に対する指導がいかなる物であっても部外者は口を挟んではならないと言う事を、その光景を見つめるニナとモウラは知っている。金髪を日の光に煌めかせながら猛烈な剣幕で捲し立てるその様を二人は口を噤んでじっと見守った。
「今日みたいな体たらくで敵と互角に渡り合えるなどと本気で思ってるンなら先ずその性根からもう一度叩き直してやるっ! あれほど俺が二人一組ツーマンセルで行動しろと教えたにも関わらず、機種の有利に頼んで別行動をとる等とは言語道断。戦闘の原則を無視して行動するから自分のザクにまで遅れをとる羽目になるんだ、少しばかりモビルスーツを上手く扱えるようになったからって図に乗るんじゃないっ! 」
 降り注ぐ罵声は見る見るうちにアデリアの表情を曇らせた。確かにキースの言う通りだ、もし二人が別行動を取らずにキースに当たっていたら、少なくとももう少しは持ち堪えられたのではないのか、と思う。
 ポイントマンの位置にあったマークスがキースと対峙した時点で自分はマークスの死角をカバーする事が出来た、そうしていれば少なくともキースの奇襲には対応できた筈だし、いざとなれば倍の火力で足を鈍らせる事が出来たかも知れないのだ。戦力を二分した時点でお互いの策敵能力は半減し、戦術的にはその隙を突かれて敗北したと言う事になる。
 演習を振り返って反省一しきりの表情を浮かべるアデリア、しかしその隣に立つマークスの表情は彼女とは全くの正反対だった。痛みを堪えて背筋を伸ばしたマークスは怒りの形相で立つキースの顔を見つめて、もう一度敬礼をやり直してからおもむろに口を開いた。
「隊長、お言葉を返す様ですが自分はそうは思いません。自分達が今日負けたのは隊長の戦略にであって、機体性能や技量には関係が無いと思います。もし今日の相手が隊長以外の誰かだとしたら、自分かアデリアかのどちらかがきっと仕留めていた筈だと自分は推測します」
 マークスの反抗にびっくりしたアデリアが慌ててもう一度脇腹へと肘を送る、しかしマークスの姿勢も表情も微動だにしない。彼の長所でもあり致命的な短所でもある反骨精神は自分の正義を疑わないと言う揺ぎ無い信念であり、それは彼のキャリアを今まで大きく損なって来たという事をアデリアは彼から聞いていた。ここでその心意気を披露してどうするの、と心配するアデリアではあったがその一方で彼の屈する事の無い精神力を羨ましいとも思った。

 キースは心の底でマークスの主張を認めている、モウラにも話した通り二人との演習で勝てたのは自分が今まで培ってきた戦闘経験による物が大きい。技量も戦術も彼らと同年代のパイロットは比較にならないほど上達しているのは演習後に回収されるデータからも、そしてキースやモウラ、ニナですらも認める所ではある。今日の演習が戦争経験の無い連中との模擬戦だったとしたら確実に彼らは勝利していた筈だ。
 だが彼らが真に越えなければならない相手はキース自身であり、そして何よりもその事実を今の段階で認める訳にはいかない。
 拳を握っていたキースの両手がその形のまま腰へと添えられる。睨みつけた目の力を解いて視線を逸らす、ハンガーの屋根の向こうへと続く色褪せた空へと目を向けたキースはぽつりと呟いた。
「 …… 俺に勝てない様では、お前達はいつか戦場で命を落とす事になる」
 あの紛争を生き残った要因をキースは自分の実力だとは思わない、運が良かったのだ。だが戦場で目まぐるしく向きを変える運命の天秤の針を自分の方へと傾ける為にはその運を凌駕する力を身につけなければならないのだ、どんな敵と相対したとしてもそれを潜り抜ける事の出来る、力を。
 ―― 相手の持つ運ごと叩き潰すだけの、力を。

 キースの放った静かな声が逆にマークスの動揺を誘う、思わず敬礼を解いたマークスが空を見上げたままのキースに向かって言った。
「そんな。隊長に勝つ、だなんてっ! い、いや勿論いつかは勝ちたいとは思っていますしその努力を怠るつもりはないですけど、隊長の実力以上の物を身につける事なんて今の自分には想像が出来ません! 」
「想像では無く、俺も含めて部隊が生き残る為にはそうするしかないって事だ。 ―― そうだな、バシット中尉? 」 
 叱責覚悟の意見が思わぬ反応をキースに齎したと言う事に動揺を隠しきれないマークスとその隣で驚きを露わにしたアデリア。肩越しに送った視線の先に立つモウラは少し困った様な顔をして、しかし穏やかな頬笑みだけはいまだに残っている。
「隊長の言う通りだよ、二人とも。負けたあんた達をいじめる様で悪いけど、世間にゃ隊長位の腕を持ったパイロットはごまんといる。そんな奴にも勝てないで、もし戦場で『撃墜王エース』と呼ばれる連中に出っくわしたら、今のあんた達じゃ何にも出来ずに死んじまう。あんた達がもし死んじまったとしたら ―― 」
 モウラの声が僅かに止まる。アルビオンから送り出す度に何度も覚悟したその気持ちを口に出す事は、例え戦場から遠く離れたこの場所にあっても嫌な物だ。
「 ―― その次は隊長の、番だ」

 資料に記載されたモウラの経歴がたとえ白紙であったとしても、彼女が幾重もの戦いの中を生き延びて来た歴戦の整備士であると言う事はその手腕から容易に想像できた。根拠のない裏付けはモウラ自身の技能とその身体から滲み出す雰囲気からも分かるのだ。渇いた喉を湿らせる様にゴクリと飲み込んだ唾の音が、まるで何かの早鐘の様にマークスには思えた。
「あんた達に勘違いして欲しくないのは、隊長はあんた達を生き延びさせる為じゃなく、自分が生き延びる為にあんた達を育てているんだ。実力的には全く歯が立たないエースでも相手は所詮一人、一対一では敵わなくても三対一ならばもしかしたら生き残る事が出来るかもしれない。その為に隊長は自分の持ってる技術の全てを全部隠さずにあんた達に使ってるんだ、だからあんた達もその期待に応えてやんなきゃ」
 背後から宥める様に零れ出すモウラの言葉が二人の背中に痛いほど突き刺さる。自分達が化け物呼ばわりしたキースでも歯が立たない『撃墜王』と言う者の存在を二人はまだ知らない、いやもしかしたらこの先も出逢わないかも知れない。圧倒的なその恐怖に背筋を寒くする二人に向かって今度はニナが声を掛けた。
「 …… 軍人である以上、万が一の覚悟はしておかなくてはならない。その時にもし貴方達が命を落とす様な事があったらそれは私達の責任。ここで出会ったのは偶然の悪戯なのかも知れないけれど、だからこそ私達は貴方達に生き残って貰いたい。その為には私達の持ってる全てを継ぎこんででもそのやり方を教えるわ、もう二度とあんな ―― 」
「 …… ニナさん? 」
 深刻なニナの声音に驚いたアデリアが思わず振り返って、声を詰まらせたその訳を読み取る為にじっとニナの表情へと目を凝らす。しかしニナはいつの間にか二人の影から目を背けて、少し離れた所へと乗り付けられたバイクへと注がれていた。

 赤と黒のツートンを基調とした大型のバイクは猛禽類の嘴を彷彿とさせるフロントフェンダーを僅かに傾けながらゆっくりと、司令部のある棟の脇へとその体を休めた。大排気量のエンジンとは思えないほど中音域に幅のある駆動音は緩やかなアイドリングを僅かに続けた後に、主の意思を受け入れてその息継ぎを止める。
 ハンガーから溢れ出る喧騒に紛れてひっそりとサイドスタンドを立てたコウは体に廻された両手をなかなか外そうとはしない背後のセシルに、遠慮がちに声を掛けた。
「せ、セシルさん。着きましたけど? 」
 ボブスターのゴーグルを外しながら背後へと視線を送ったコウの背中から、自分のヘルメットを被ったセシルの頭がゆっくりと離れた。前頭部のバイザーカバーに大きく『5』と印刷された赤いヘルメットは嘗て彼がトリントンで使用していた物だ、セシルは僅かに張り出した庇の影からコウの顔を見上げてにっこりと笑った。
「バイクって初めて乗ったけど、面白いわ。もう少しこのまま乗っていたかったのに」
「あ、いやその ―― 」
 何の屈託もなく見上げるセシルから慌てて目を逸らすコウ。セシルはそんなコウの仕草を面白がって笑うと、両手をコウの肩に掛けてひらりと地面へと降り立った。しなやかな身のこなしは重力と言うしがらみを微塵も感じさせない、セシルはコウのヘルメットを外すと軽く頭を振って艶やかな翠の髪の乱れを振り解いた。
「でもウラキさんの言う通り、自転車じゃ大変な事になるとこだった。本当にごめんなさいね、わざわざここまで送って貰っちゃって」

「 …… コウ? 」
 人目を憚る様にニナの口をついて出たその言葉をアデリアは聞き逃さなかった。反射的に送る視線の中に映るニナの表情は、アデリアが今までに見た事もない複雑な表情が見え隠れしている。微かに震えている肩は彼女の喜びから来る物なのかそれともその表情の大半を占める悲しみから来る物なのかは分からない、しかし今アデリアが見るニナには自分の知る技術主任のイメージと言う物が完全に覆されている。
 ニナの視線を追う様にアデリアの目がバイクの傍にいる二人の人物へと注がれた。カーキ色のカーゴパンツを軍用のブーツの中に託し入れ、長袖のTシャツから僅かに覗く胸の肌は浅黒い。その色はさっき自分達の自信をプライドごと叩き折った民間人と同じ、日焼けによる肌の色だ。身長はマークスと同じ位なのに妙に大きく感じるのは、肩の盛り上がった筋肉と厚い胸板のせいだろう。いかにも自分の肉体を誇示して漢らしさを滲ませるその男と対になる妙な色気の女の姿を目を細めて眺めるアデリア。

 何時しかそこに居合わせている四人の目がその一点へと向けられている事にマークスは気が付き、しかし自分以外の全員が漂わせるそれぞれの異様な雰囲気に驚いた。顔見知りならばすぐにでも駆け寄って挨拶をすればいい物を、何故かそこにいる全員が固まったまま微動だにしない。自分の隣でまるでうっとりと男を眺めるアデリアの表情を嫌な気分で眺めながらマークスは尋ねた。
「アデリア、お前ひょっとしてああいうマッチョがストライク? 」

 セシルの顔が何の躊躇いもなくコウの頬へと迫る。音も無く触れる柔らかい唇の感触に驚いたコウはびっくりした表情でセシルの方を振り返った。

「 ―― うん、ど真ん中」
 力強く返答したアデリアはその二人の睦み合いを羨ましそうな表情で眺めている。マークスはアデリアの嗜好がいかにも女性士官好みの男性像だと言う事を確認して心の中でそっと溜息をついた。分かりあえていると自分で思っていても、やはりそう言う所の価値観は共有出来ないと言う事なのか。ほんの少しの失望はマークスの表情を微かに歪めて、心に小さな針を何度も刺した。
 小さな痛みを覚えるマークスが大事な何かを諦めてアデリアの視線を追って二人へと目を向ける。その途上に映ったニナの表情も唇を固く閉じたまま、何かの痛みに耐えている。
 自分と同じ表情をしている、とマークスは思った。

「な、何を ―― 」
 慌てて頬を抑えようとするコウの手に間髪をいれずにヘルメットを手渡したセシルは、うろたえたままのその反応を悪戯っぽい表情で眺めながら言った。
「一人身のかっこいいお兄さんに、お姉さんからのほんのお礼です。それにいつもうちの主人の飲み相手になって貰ってる、そのお礼も兼ねて、かな? 」
 少女の様ににっこりと笑うとセシルはそのまま踵を返して司令棟の脇にある小さな入口へと足を向けた。モデルの様な足取りで去っていくその後ろ姿を電気に打たれた様に呆然と見送るコウ、セシルが不意に立ち止まってそのままの状態のコウに向かって声を掛けたのは入口へと姿を消す間際だった。くるりと振り返った彼女が小さくウインクをして、コウに言った。
「帰りに主人とお家に寄りますから、自転車宜しくお願いします。 …… それとこの事は主人には、内緒ね? 」
 人差し指を立てて唇の前に当てるセシル。余りにチャーミングなその仕草にコウは言葉も無く、やっと頷くだけだった。

「 ―― 今日はここまでだ」
 突然キースの声が目の前に立ったままの二人に届く。慌てて声の主を振り返ったアデリアとマークスに、キースは冷静な口調で言った。
「一時間後にブリーフィングルームで今日の演習の損害評価を行う、分かったな? 」
 突然の宣言にマークスは訝しげな顔を浮かべてキースの顔色を伺った。自分達を叱責したあの雰囲気がまるで影を潜めて、一瞬のうちに心を壁の中へと閉じ込めてしまった様な気がする。その全ての事があのバイクに跨った男に起因する物だと感づいたマークスは、思い切ってキースへとその疑問をぶつけてみた。
「 …… 隊長、お伺いしたいのですが、もしかしてあそこに来られた方は隊長のお知り合いの方なんじゃ ―― 」
「復唱はどうした、ヴェスト軍曹? 」
 取り着く島もなく言い放つキースの前にマークスの質問は遮られる、尚も口を開いて続けようとしたマークスはキースの眼光によってそれ以上の質問に彼が応える気が無い事を悟った。睨みつけるキースの視線に向かって真っ向から対峙したマークスは、背筋を糺して右手を掲げた。
「マークス・ヴェスト軍曹、アデリア・フォス伍長の両名は只今から一時間後の1400ヒトヨンマルマル時にブリーフィングルームに集合。本日の演習の損害評価に参加いたします」
 アデリアが無言で敬礼する、さっきとは明らかに違う表情の横顔を横目で見ながら復唱するマークスを一瞥したキースが言った。
「よし、解散デスミス

 アデリアの手がすかさずマークスの背中を押した。思い掛けないその強い力に慌てて振り返る視線の中で、アデリアは何かを言いたげな瞳を掲げている。
「ほら、マークス行こう? 早くしないとお昼ご飯が食べらン無くなっちゃう」
 背中を押していたと思ったら今度はマークスの前へと回ってその右手を引っ張る、握り締めたその力に顔を顰めるマークスの心境などお構いなしにアデリアは尚もその歩調を速めてハンガーの前からどんどん遠ざかる。早足が小走りになり掛けた所でマークスがアデリアの足を止めようと声を掛けた。
「お、おいアデリア待てって。そんなに急がなくてもまだ時間は十分にあるから ―― 」
 しかしアデリアはマークスの訴えを退けたまま、無言で施設棟の入口を潜った。頭上から降り注いでいた強い日差しが途切れて、ひんやりとした空気に変わった入口のすぐ傍でアデリアの手はやっとマークスの手首を離す。ジン、とする痛みを労わる様に自分の手首を擦りながら、アデリアの行動に抗議しようと口を開きかけたマークスに先んじてアデリアが言った。
「 …… コウ・ウラキ伍長よ、あの人」
 ぽつりと呟くその言葉はマークスを驚かせる、思わず振り返って元いた場所へと視線を投げかけようとするマークスの動きをアデリアが片手で制する。
「何で分かるんだ、今まで見た事もあった事もないってのに? 」
「さっき、ニナさんが呟いたの。『コウ』って」
 自分には聞えなかった ―― いやそこまで気が回っていなかった。しかしアデリアはその卓越した聴力を生かして、彼女から漏れ出したその一言から相手の素性を割り出した。確かにニナの周辺で『コウ』と言う名の男性を指すのは基地内の噂に残る嘗ての恋人の名前しか思い当たらない、と言うかそもそも彼女の周囲にそんな華やかな噂など煙の一本すら立っていない。
 絶句したままアデリアの表情を伺うマークスの前でアデリアの表情が変化した。不思議に思っていた感情が彼女の内面から溢れだしてそれが怒りであったと言う事をマークスに教える。
「 …… ニナさんのあんな悲しそうな声、聞いた事ない。きっと今でも伍長の事が好きなのよ」
 固く結んだ口の奥で彼女の奥歯がギリ、と鳴った。湧き上がって来るマグマの様な怒りを必死で堪えて、自分の足元をじっと見つめるアデリアの肩が震えている。長い髪が隠した表情を探る様にマークスが顔を覗きこんだ。
「お、おいアデリア。お前、ひょっとして ―― 怒ってンのか? 」
「きっと二人が別れた原因って、伍長の浮気が原因よ。ううんきっとそう、だってこんなまっ昼間っからあんな所でキスする所を見せびらかすなんて、なんて奴っ! 」
 アデリアの目がそこに浮かんだ見えない何かを睨みつけた。眉目秀麗を絵に描いた様な顔形でありながら、一度火が付くとその気性は火の様に激しく、熱い。ここに来てからずっと随伴機として彼女を従えるマークスは、それこそが彼女の二つ名の真髄である事をよく理解していた。
「女の気持を知っててそれを踏みにじる男なんて許せない、ベルファストの時と同じよっ! ―― あの子はあいつの事が本当に好きだったのにあいつは、あの下衆野郎はっ! 」
          
                              *                               *                              *

 アデリアの二つ名が付けられた事件の顛末をマークスは人づてに聞いた。八人の現役パイロットのことごとくに重傷を負わせてベルファスト基地に駐留するモビルスーツ部隊の機能を完全に麻痺させた張本人の名は既にマンスリーで掲示されてはいたのだがその内容まで知る者は殆ど無く、あくまで噂話と言う域を出ない物であった。
 通報によって駆けつけたベルファスト基地のMPが駆け付けた現場は、ほんの数十分前までパイロット用の娯楽施設が整ったプレイルームと呼ばれていた修羅場だった。まるで局地的な暴風が吹き荒れた様に什器備品が飛び散ったまま散乱する惨状の中で苦しげな息で横たわったままの哀れな犠牲者達、そしてそのただ中で何かに取り憑かれた様に動きを止めない女の姿。腰に縋って静止を哀願する同僚の叫びも無視して、その女隊長は血泡を吹いたまま動かなくなった男の股間を渾身の力で蹴り上げ続けていたと言う。
 本来であれば暴行罪による拘置収監が行われる筈の所を何らかの要因での情状酌量によって、降格と転属のみの処分で済んだのは彼女にとって幸運だったと言えるだろう。相手の男が一生『男』としての機能を失った事を考えれば。
 
 アデリアがここへと流れついた理由をマークスは、軍が怨恨絡みの死闘へと今後発展する事を恐れての転属だと今でも思っている。絶対に他の兵士と交流する事の出来ない、最も後方に位置する『忘却博物館』はそう言う事への対処にはまさにうってつけの場所なのだ。そして自分の命を守る為に上官からの命令を悉く拒否し続けた自分も、彼女と同じ理由でここにいる。
 オークリー基地の正門へとやっとの思いで辿り着いたあの日の事をマークスは昨日の事の様にはっきりと覚えている、それは奇しくもアデリアと初めて出会った日だった。

「あの、すいません」
 突然の異動で書類の整わないマークスの身元を照会する為に管理棟へと向った警備員の背中を見送って相当の時間が立っていた。未だに姿の欠片すら見えない人影を待ち惚けたマークスが少女の声と思われる物を耳にしたのは、スーツケースに腰かけたままその怠惰に流れる一時を愉しむ事に決めた瞬間だった。初夏の日差しから隠れる様に被った、大ぶりなひさしのキャップからはみ出した栗色の長い髪が緩やかに風にそよぐ様を目を細めて眺めるマークスに向かって少女は再び訪ねてきた。
「あ、あの、私今度此処で働く事になったんですけど何処に行ったらいいか分かんなくて …… えっと、基地の方ですよね? 」
「いや、違うよ。俺も此処に来たばかりだから」
 初対面の相手にそっけなく応えてしまったのは自分がここへと送られた理由について釈然としていなかったからなのかも知れない、しかしそうでなかったとしてもマークスのその言葉が少女の心にある種の失望を与えてしまった事は明らかだった。自分と同じ様にやっとの思いでここまで辿り着いた風情の少女は眉を顰めて藍色の円らな瞳を長い睫毛で隠しながらがっくりと肩を落とす、その姿を見たマークスは自分の心無い仕打ちを心の中で詰った後に、取り繕う様に慌てて少女に言い直した。
「あ、いやごめん。今警備の人が俺の用事で出払ってるんだ。その人が帰って来ればたぶん分かると思うから ―― 」
「じゃあ、一緒にここで待っててもいいですか? 」
 気を取り直した様に尋ねて来る少女に向かって小さく頷くマークス。少女は嬉しそうににっこりと笑うと自分の背丈の半分ほどもあるスーツケースをずるずると引き摺って横に置くと、マークスと同じ方向を向いて座り込んだ。

 餌となる野鼠を求めて頭上を舞う鳶の甲高い鳴き声と無機質なコンクリート剥き出しの建物の他には何も無い風景を彩る二つの影は、そこに座ったままで何を話すでもなくただ茫洋と広がるオークリーの景色を眺めている。何の気兼ねも無くただそうしているだけの時間の流れをマークスは心地よく思い、しかし自分が彼女と過ごす時間に安らぎを覚えている事に少なからず驚いていた。片手で足りるほどしかいない友人達の中にも ―― 勿論みんな同性だが ―― これ程無防備に自分を晒して置ける関係の間柄は少ない、
 今日初めて会ったばかりの少女がまるでジグゾーパズルのワンピースの様に自分の心の中へとぴったりと嵌り込んでいる事に戸惑う。第一自分は彼女の名前も知らないと言うのに。
 マークスは自分と同じ波長を持っているであろう少女の氏素性を尋ねようと決心して、言葉を忘れてしまったままの口を動かそうとする、しかしその前にマークスの目の前へと、隣に座っていた筈の少女の顔が飛び込んで来てマークスの決意を思い切り遮った。大きな藍色の瞳の中に映り込んだ自分の顔形に思わずのけぞったマークスは、彼女の顔全体がやっと捉えられる距離まで上体を離す。
「 …… 綺麗な目」
 まるで魅入られた様にじっとマークスを見つめる少女の顔は忌まわしい自分の目を評した彼女の言葉をそのまま返せるほどに可憐だと思う、口をポカンと開けたまま少女の顔を見つめたままのマークスに気付いた少女は、自分の仕出かした無礼に慌てて顔を離してあどけなかったその表情を崩してしまう。もったいない、と心の中で思うマークスに向かって少女は勢い良く頭を下げた。
「ごっ、ごめんなさいっ! あんまり綺麗なンでつい近くで見たくなっちゃって。右と左の目の色が違う人なんて見た事が無かったから、つい ―― 」
「いいよ」
 彼女の仕草に自分の決意すらも忘れたマークスは思わず笑って小さく頷いた。ほっとした表情の後に再び笑顔を取り戻した少女に向かって、マークスは自分の髪を指さして尋ねる。
「ついでに言えば、この髪の毛にも興味があるんじゃないか? 」
「そう、そうです。銀色の髪の毛の人なんて。まるで童話の中の王子様みたいで」
「 ―― 王子様、ねえ」
 そんな事を言ったのは少女が初めてだった。予想外の評価にマークスの笑顔には困惑の要素が混じって、それは彼の表情に小さな翳りを齎す。陳腐ではあるがそれは立派な褒め言葉だ、少なくとも生まれてこの方まで自分へと向けられた忌避と言う領域からは対極に位置するのを心の中では理解していても、やはり自分の見た目に何かしらの評価を下されるのは心苦しい。
「 …… ま、現実にはそうも言ってられないんだけどね。『ワールデンブルグ症候群』(染色体異常を特徴とする遺伝子疾患による症候群)を発症した子供はみんなこう言う風になっちゃう、本当は耳もおかしくなる筈なんだけど幸か不幸かそれだけは免れているけど」
「『幸か不幸か』って? 」
 小首を傾げて尋ねて来る少女の顔へと視線を向けたマークスはその愛らしさに驚いて思わず視線を色褪せた空へと向けた。全く価値観の揺らがない人物と言うのはいる物だ、鄙にもまれなと言うのはこの事を言うのだろうか?
「身体の何処にも不具合が無いのは幸運ラッキー、でも俺の眼と髪を見て気味悪がる連中の陰口が聞えるのは不幸アンラッキー
「そんな、こんなにきれいな髪と目を ―― 」
 微かな憤慨を顔に浮かべた少女の反応をマークスは嬉しく思った。今はもう疎遠になってしまった友人の一人が自分に言った事がある。マークス心配するな、お前のその顔形を気にいる物好きが世界の何処かにはきっといる、と。その友人の面影を瞼の裏に思い浮かべながら、マークスは溜息交じりに呟いた。
「今までにそう言ってくれたのは君で五人目。世間の人がみんな君と同じ価値観を持っててくれてれば良かったんだけどね」

 マークスの生まれたスイス地方は古くから『魔女』の存在を信じ、それ故に世界で最古の異端審問が行われた場所でもある。歴史の暗部とも言えるその悲劇は四万人にも上る無辜の民を浄化の名を借りた火で飲み込んだ後に、戦争と言う名の新たな悲劇によって終焉を迎えた。それ以降、学術的に集団ヒステリーの一種に分類されたその行為は形を変えた風習として人々の間に残り、それは大きく時を隔てた宇宙世紀の時代になっても根強くコミュニティの中に存在し続けていた。
 医学的に劣性遺伝、若しくは遺伝子異常によって発生する外見上の突然変異はその原因がはっきりと解明されてはいるが、治療法は殆ど存在しない。生まれた時から明らかに他人の子と違う顔形を具えていたマークスは彼を生んだ両親共々言われなき差別と蔑視の嵐に翻弄され、彼の両親は彼の生命と未来とを守る為に遠く離れた北アメリカへの移住を決意する。その成立当初から多種多様な人種で成り立つ連邦最大の民主国家は出自に関係なく受け入れると言う事をスローガンに掲げており、彼の両親がそこに一縷の望みを見出しそうとした事を今のマークスには責められない。
 結論から言えばマークスの両親の願いは全く叶えられなかったと言ってもいいだろう。『醜いあひるの子』に代表される差別を題材とした説話は確かに情操教育の一環としては有効なのだが、種としての本質的な部分で発生した違和を見過ごして受け入れるほど人は理性的ではないし革新的な生物でもない。程度の差こそあれ再び繰り返される一家の悲劇に意を決したマークスは家を飛び出して、自らの実力一本で生きていける道を模索した。
 幼い頃から習っていたボクシングは自らの護身の為に身に付けた物でそれを生かしてなどと言うつもりはない、かと言って自分を雇ってくれそうな場所などどこにも無い。家計を助ける為に申し込んだアルバイトで採用してくれたのはビルの夜間清掃等の普段人とは絶対に触れ合わない職種ばかりで、しかも実入りは悪かった。親から離れて自立する為にはどうしても纏まった金額の期待出来る職業が必要だったのだ。
 ありとあらゆる可能性を求めて知恵を絞り切った当時16歳のマークスは遂に連邦宇宙軍士官学校(Earth Federation Space Force Academy ; EFSFA)への入学を試みる。入学条件の下限17歳には届かないと分かっていながら彼は、ジオンとの戦争を間近に控えた軍の状況を推察し、もし自分が高得点を入学試験で叩き出せば特例として入学を許可されるのではと考え、そしてその読みは的中した。
 飛び級とも言える入学を果たしたマークスはその外見と風評によって更なる差別に晒された。自分の両親が今までにどれだけの仕打ちを受け、そしてどれだけ大きな軒となって自分を差別の雨霰から凌いでくれていたのかを知るいい機会にもなった。
 だがマークスはそれを両親に感謝すると同時にその外圧を打破する為の手段を手に入れなければならなかった。生徒に平等に与えられた武器は成績と言う数字しか無く、しかしマークスはその武器を磨く為に全ての精力を注ぎ込む。結果、彼が手にした物は士官学校首席卒業、それも1年時から一度もその場所を譲る事の無いと言う完全勝利とも言うべき物だった。

 卒業式の直前に教官が手にした靴墨みで髪を真っ黒に染められたマークスは、卒業生の座る区画の最前列に座っていた。総代として呼ばれたマークスのライバル ―― 彼が勝手にそう思い込んでいるのであって、マークスは何とも思っていない ―― が脇を通り過ぎる時に、マークスの顔を一瞥して言った。
「残念だったな『魔女ウィロック』。今度はもっとましな姿で生んでくれと親に ―― 」
 侮蔑の捨て台詞を言い終わる前にマークスの拳は彼の顎を捉えて弾き飛ばした。隣に座ってくれた数少ない親友の一人が尚も荒ぶるマークスを羽交い絞めにする暇も無く。
 
 士官学校でも数人を数えるほどの成績優秀者でありながら素行に問題ありと評価されたマークスが最初の赴任地へ赴いた時には既に一年戦争は終了していた。勝利に酔いしれる連邦軍の駐留基地には同時に嫌戦機分が蔓延し、ジオンの敗北後も各地で勃発する残党との小競り合いには専ら新兵が投入された。特にマークスの様な『札付き』にはいの一番にお呼びが掛かり、同時に赴任した士官候補生の殆どが戦死を遂げる中で唯一生き残り続ける彼は何度目かの出撃を遂に拒否する事になる。 自らの命惜しさに自分達を使い捨てにしようとする幹部連中の意図もそうだが、何よりもマークスを激怒させたのは自分を厄介払いする為に出撃と言う形で殉職を画策していたと言う事を知った為だった。それ以来マークスは一切の出撃命令を固辞し、そして彼の懲罰経歴はヘンケン曰く四人分の厚みに相当するほど溜まる事になる。

「 ―― やれやれ、やっと帰って来た」
 立ち上る陽炎の中に揺らめく人影を眺めながら呟いたマークスは膝に手を当ててゆっくりと立ちあがった。釣られて隣の少女も慌てて立ち上がるのをマークスは穏やかな目で眺める。近寄って来た兵士は一人の筈がいつの間にか二人に増えている人影を鬱陶しそうに睨みながら、やる気の欠片も無いと言った風情でマークスに言った。
「あーあんた、マークス・ヴェスト軍曹だっけ? 転属書類はまだニューアークにあるってよ。確認取れたから入ってよし」
 くたびれた襟に上等兵の階級章を張り付けたその男は憮然と言い放って再び手にぶら下げた書類に目を落とす。自分よりも上の階級であるマークスに向かって敬語の一つも使わないその男の事をマークスはむしろ好ましく思った。少なくとも自分の見た目に向かって嫌悪感の欠片も抱かない ―― たんに興味が無いのか ―― 男の物言いは今までどの基地でも体験できなかった新鮮な物だ。わざわざ管理棟に出向いて自分の赴任を確認して貰った事に感謝の敬礼を返すマークスの背後で、少女が小さく呟いた。
「 …… マークス・ヴェスト、って。 ―― まさか『魔女のマークスマークス・ザ・ウィロック』? 」
 士官学校で付けられた渾名を耳にしたマークスが驚いて振り返ると、そこには自分と同じ表情をした少女が自分の顔をしげしげと覗き込んでいる。不名誉なその名称をどこで知ったのかを尋ねようと口を開きかけたマークスの声を遮る様に、兵士が言った。
「ところであんたの他にもう一人ここに来る予定なんだが、どっかで見なかったか? 」
 まるであんたの事は後にしてくれと言わんばかりの不機嫌な声がマークスの視線を再び兵士へと向けさせる。
「い、いえ自分はここに一人で来たンで、自分の他には誰も」
「チッ」
 舌打ちした兵士はマークスへと向けていた目を門の外に広がる広大な荒野へ向けるとぼやく様に言った。
「全くこんななーんにも無い荒れ地のど真ん中で迷ったらとんだ迷惑だってのに。せめてウサギ狩りに出てる連中の網にでもかかりゃあ捜索隊を出す手間が省けるんだがなあ」
「ウサギ狩り? 何でそんな事を? 」
「日頃のストレス解消と実益、今晩の晩飯に決まってんじゃねえか。演習場まで行きゃあ山ほどいらあな。余ったら小遣い稼ぎに街まで売りに出るんだが、結構な値が付くぜ。どうだい、兄さんも基地の暮らしになれたら一緒に行くかい? 」
「あ、あの、私今日の晩御飯はいいです。遠慮します」
 か細い声に二人の視線は少女へと向けられた。口を押さえていかにも気持ち悪そうな表情を浮かべた少女を見た兵士が、マークスへと視線を向けて尋ねた。
「 …… 嫁さんかい? 申請出てなかったけど」
「や、いや違いますっ、この娘とはここで偶然 ―― 今日からここで働く事になってるらしくて、それで確認をお願いしようと」
「困るんだよなぁ、そういう事はいっぺんに言ってくンないと」
 よれた帽子の庇を摘まんでファイルへと目を落とした兵士は暫く無言で紙面を眺めた後に、空いた方の手に握っていたボールペンの尻でこんこんとファイルを突きながら言った。
「 ―― ちっ、またデータ漏れかよ。 …… 参ったな、もう一度管理棟に行くっきゃねえかぁ? 」

 口を開く度に不機嫌になる兵士の顔を眺めながら、マークスは少女を庇う為の対策を練った。『そう言う事』に慣れている自分ならともかく、いたいけな少女が相手の機嫌で嫌みを言われる事を黙って見ていられるほど暢気じゃない。何とか話題を逸らそうとマークスは件の『もう一人』について言及してみる事にした。
「もう一人って、一体誰がこの基地に? 」
「おお、兄さんも興味あるかい? そりゃそうだよな、こんな辺鄙な場所に一日に二人もパイロットが補充されるなんて今までに無かった事だからな」
 よくぞ聞いてくれましたとばかりに上機嫌になった兵士は突然饒舌になる。自分の作戦が的中した事を実感したマークスは思わず胸を撫で下ろした。
「 …… 大きな声じゃ言えないんだけどよ、とんでもない『凶状持ち』らしいぜ? 何でもベルファスト基地で大立ち回りをやらかして八人病院送りにしたって言う強面の女だ。脛に傷持つっつっても今度の奴ァ、とびっきりだぜ? 」
「ベルファストで八人病院送りって …… それって!? 」
 各基地に張り出される処分者リストの中でも最も印象的な事件を起こした当事者がここへ来ると聞いてマークスは驚きと期待を露わにした。諌める様に兵士が目配せしてその叫びを咎めると、小さく頭を下げて謝るマークスに向かってニヤニヤと笑いながら言葉を続けた。
「『ベルファストの鬼姫』ことアデリア・フォス曹長 ―― おっと、二階級降格で現伍長か。しっかし現役の兵隊を八人まとめてブッ飛ばすなんてどんな奴なんだぁ? ただでさえうちにゃあゴリラみてえな整備班長が巾利かせてるって言うのに、そんなのがもう一人増えちまったら野郎連中は肩身が狭くてしょうがねぇ。いっその事二人の間で白黒つけてくれるって言うんなら、赤黒買いで賭けも成立しようってモンだがなあ」
「 …… はい」
 噂話に花を咲かせる二人の耳に再び少女の声が飛び込んで来た。遠慮がちでもあり、しかし明らかに何かの意図を秘めたその声は兵士の注意を惹くには十分過ぎるほどだ。口は押さえたままだったが空いているもう片方の手を小さく上げている少女に向かって兵士が言った。
「どした嬢ちゃん、気分でも悪いのか? 吐くんならその辺に行って吐いちまえよ。大丈夫、誰も見てやしねえから」
「い、いえ。そうじゃなくて …… 」
 
 いくら彼女が否定した所でその姿は今にも吐きそうになっている人のそれにしか見えない。マークスはそれを否定する少女の態度を訝しく思いながらも、彼女をどこか離れた場所へと連れて行こうとした。少し離れた場所でなら人目を憚らずに痞えた物が出せるかもしれない。
 しかしマークスのその気遣いは少女の次の一言で、木端微塵に粉砕された。手で押さえられたままの口からくぐもった声で告げられる彼女の名前。
「 …… アデリア・フォス伍長、ただいまオークリー基地に到着いたしました。入場の許可を ―― 」

 その沈黙は二、三秒ほども続いただろうか。オークリーを吹き渡る乾いた風が彼女の口から零れた名前を荒野の彼方へと連れ去り、残った欠片が反芻された後に二人の脳へと衝撃を届ける。驚愕で開いた瞳と口をそのままに、声も無く後ろへと飛びずさる二人に向かって少女は涙で潤んだ藍色の瞳を向けて言った。
「 …… さっきは渾名で呼んじゃってごめんなさい。でもこれで、おあいこ ―― 」
 愛らしい口元がきゅっと持ち上がって笑顔を覗かせる、けなげなその姿にマークスの心臓はどきりと鳴った。驚いたまま呆然と視線を向けたままのマークスに向かってアデリアは、栗色の髪に隠れたこめかみに掲げたままの自分の片手を軽く押し当てながら、言った。
「 ―― ですよね? 」

                             *                               *                               *

「ちょっとマークス、あたしの話聞いてンの? 」
 我に返ったマークスの眼前一杯に広がるアデリアの顔、一年前と少しも変わらない ―― いや、少し大人びた ―― 彼女の見た目とは裏腹にその口調から上官に対する敬語は消え失せている。もっともアデリア自身にそれを勧めたのはマークス本人であり、咎め立てをする事など有り得ない。たった一つしか階級の違わない下士官同士でそんなつまらない事を論うつもりもないし、何より自分は人の上に立つという性分では無い。それにいざと言う時にはアデリアが自らその立ち位置を持ち前の聡明さで控えてくれると言う事が分かっている。
 つまり今のアデリアはいざっていう状態では無いのだな、とマークスは心の中で思いながら、しかし眉を吊り上げて一気に詰めよって来るアデリアの行動に回想からの帰還を強制されたマークスは思わず彼女の言葉の意味を尋ねた。
「え、何? 」
「やっぱり聞いてないっ! 」
 手を腰に当てて睨みつけていたアデリアの顔がマークスの前から去っていく。気の無い返事でより憤ったアデリアの語気が荒くなった。
「何なのよ人の話を上の空って。どうせまたニナさんの事でも考えてたんでしょ、どうして男ってどいつもこいつも影のある年上の女性に憧れるのかしら。ほんと、やらしいっ! 」
 怒ると子供の様に膨らむアデリアの頬へと目を送ったマークスが慌てて言った。
「どいつもこいつもって、ちょっと待てアデリア。お前の話を聞いて無かったのは謝るけど、今お前がしている想像は全くの見当違いだ。一体どこからそうなった? 」
「だからぁ、あんたの話にあたしも乗るって言ってンの! ウラキ伍長とニナさんの別れた理由って奴っ! 」
 自分に向けられた矢印の根元を、記憶の海のさざ波の中から必死で探すマークス。中途からの参加で混乱するマークスの脳裏にやっとアデリアの言う『自分の話』が浮かび上がったのは、巻き戻しの映像が今朝の演習時にまで遡った時だった。散々悪趣味だと罵った当の本人が一体どういう風の吹き廻しだと、マークスは疑いの眼差しでアデリアを眺める。
「何、その目っ!? いいじゃない別に今から乗っかっても。あんた一人じゃ心許ないからあたしも手を貸してあげるって言ってンだから光栄に思えっての! 」
「いや、それは確かにありがたいんだが一体どうやって調べる? 二人の関係を知ってそうなのはここじゃバシット中尉と隊長ぐらいのモンで、あの二人がそんな話をぺらぺらとしゃべる様なタイプには見えない。他の知り合いを当たってみるとしても、伍長は軍人だから他の部隊をしらみつぶしに探せばひょっとしたらって気もしないでもないが、ニナさんは元民間人だろ? 世界の違う二人がどこでどう知り合ったのか ―― 」
「 ―― そこよ、狙い目は」
 ついとマークス目がけて詰め寄ったアデリアが上目づかいでマークスを見上げる、凄みのある笑みを浮かべた彼女が言った。

「『軍人と民間人』と言う二人の経歴がミソなのよ。軍人と民間人が接触できる唯一の機会 ―― そうね、例えば基地の一般開放日とか。それにニナさんはアナハイムの元システムエンジニアだから、もしかしたらモビルスーツ絡みの接点があったのかも。とにかくこれだけ閉鎖的な世界で職場恋愛じゃないカップルなんてそう多くはない筈だわ、だからね」
「 …… つまり伍長とニナさんが出会いそうな基地の行事を、伍長の経歴に沿って調べて行けばいい訳か。そこから二人の出会った日を推測すればいい」
「それが分かれば後は ―― 」
 アデリアの笑みが嗤いに変化する。表現力豊かなアデリアの表情は、彼女の人格が一人では無いような錯覚をいつもマークスに起こさせる。
「伍長の懲罰履歴を調べれば一目瞭然。あいつがどれだけ浮気者で、ニナさんが好きになる価値の欠片もない人間かって言う事を内容証明付きで教えてあげればいいんだわ。だいたい元彼女カノのいる前であんな女といちゃいちゃするような奴だもん、きっと懲罰記録はソレ関係で真っ黒よ、真っ黒! 」
「 …… お前も、ワルだなあ」
 悪代官と廻船問屋の会話に終始する二人、自分はコウとニナの悲恋の話が知りたいだけなのに事態をそこまで悪化させようと策を練るアデリアの才を背筋を寒くしながら眺めるマークス。しかしそこでふと、ある事に思い当たったマークスが思わず目の前でニヤニヤと嗤うアデリアに向かって尋ねた。
「ところでアデリア。それはそれでいいとして一体伍長の経歴をどうやって調べるんだ? ジャブローのデータバンクへとアクセスしようにも降格続きの俺とお前じゃ、もしかしたら門前払いを喰らうかもって話だぜ? 」
「 ―― そう言うのに打って付けの知り合いがいるのよ」
 形のいい唇の前に差し上げられた彼女の人差し指が暗に沈黙を指示する、マークスは興味深々の風情でアデリアの顔を眺めた。
「そいつならすぐに伍長の経歴くらい調べてくれる筈よ、万が一それがジャブローのメインサーバーのデータバンクだったとしても ―― 」
「おまえ、それってハッキン ―― 」
 言いかけた途端にアデリアの掌が飛んできてマークスの口を塞いだ。押し当てられた柔らかさと余りの速さに目を白黒させて驚くマークスに向かってアデリアが囁く。
「しーっ、声、おおきい」
 驚いたのはアデリアも同様だった。慌てて周囲を見回して人影の有無を確認すると、ほっとした様に小さく溜息をついた後に言った。
「だから、万が一よ。第一予備役のデータがそんな所にある訳ないじゃない。彼にはあくまで士官が調べられる範囲にしとけって言っとくから、ね? 」
 ねだる様に見上げるその目をマークスは卑怯だと思う。そんな目で見つめられたら何にも言えないじゃないか。
 
 恐る恐る離れて行くアデリアの掌から解放されたマークスの口は、彼女の立てた作戦への許可を口にしようとしてはたと止まった。アデリアがニナを心の底から尊敬していると言う事は知っているし、それが単に上司と部下と言う関係や同じ基地に所属する仲間などと言う範疇を越えて血の繋がりにも似た結びつきを求めているのだろうと言う事も彼女自身の口から聞いた事がある。ニナを苦しめている張本人である伍長の過去の悪事を暴いて、彼女の目を覚めさせようとしている ―― やり方はあこぎだが、これも分からなくも、ない。
 しかしマークスはそこで自分の記憶の整合しない事実に気がついた。アデリアが憤慨を露わにする当のコウの事を、彼女はさっき羨望の眼差しで見つめていたのでは無かったのか?
 尋ねようとする心に再び走る小さな痛み、しかしマークスは訊かずに目を逸らしてアデリアとの関係を保つ事よりも、彼女の内面を深く知る事をそこで選択した。
「そう言や、お前」
 てっきり可否についての言葉が零れて来るだろうと予想していたアデリアは、マークスに改まって尋ねられた事に驚いてきょとんとした。まんまるに開いた藍色の瞳は穴が空くほどマークスの顔を見つめている。
「さっき伍長の事を『ど真ん中のストライク』って言ってなかったか? 」
「言ったよ、なんでさ? 」
 無邪気に尋ね返して来るアデリアの顔からほんの少し目を逸らして、マークスはその先を続けようとする。鼓動が少し早くなっている事を目の前の相棒に悟られない様に、声のトーンを少し落として言った。
「だってお前の好きなタイプなんじゃないの、伍長は。さっきはずっと見てたじゃないか」
「ああ」
 マークスの質問に対して浮かび上がったアデリアの表情は、全然マークスの予想に反した物だった。何の感情の起伏も見られないが故の強烈な殺気に、マークスは彼女の二つ名の意味を再びそこで確認する。
 片方の眉を僅かに吊り上げた『鬼姫』はコウを見ていた時と同じ目を今度はマークスに向けて、ぼそりと言った。
「だから『ど真ん中の攻撃対象ストライク』だって言ってンじゃん、あんな女ったらし。今度どっかで会ったら有無を言わさず絶対に、ブッ飛ばしてやるんだから」



[32711] Reflection
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:931e8e0e
Date: 2012/08/04 16:39
 他人事のように語る男の声を耳にしても、もうバスクには相手を誅しようと言う気力が無かった。男が自分へと突き付けた『実力行使』と言う言葉の中には勿論自分自身の事も含まれての事だろう、バスクがもしここで私的な義憤に駆られてこの男を殺せば、それは男にGPシリーズ関連の記録を手渡したアナハイムを敵に回す事と同義だ。彼らからのメッセージは決して脅しなどでは無く、決意であると言う事は捨て身で保身を試みているその姿勢からも窺える。
 込み上げて来る怒りを吐き出す事も出来ず射殺す様な眼で目の前の男を睨みつけるバスクの心境を余所に、男は手にしたニナに関する報告書を抜粋して読み上げた。
「 …… アナハイム・エレクトロニクス、フォン・ブラウン支社勤務。モビルスーツのシステムを研究開発するワーキンググループ『クラブ・ワークス』に籍を置き、彼女はそこでの仕事を認められて次期主力機種開発計画の主任開発責任者に抜擢され、あの四機を創り上げた。各機種のコンセプトや運用理論、OSプログラムは彼女一人の発想とプログラミングによってほぼ完全な状態でリバモア工区へと譲渡。 ―― 正に奇跡だ」
「何が奇跡だ、それ位の事は我が軍の研究開発部門でも普通に行われている事だ。軍の兵器 ―― とりわけガンダムを手掛けようとする者ならばそれ位の事は造作も無い」
 フンと小さく鼻を鳴らして抗弁するバスクだが、その口調にさっきまでの勢いはない。怒りの発露を失った事で逆に冷静さを取り戻した彼の顔を、男は普段通りの笑い顔で見上げた。
「確かに。しかし一度に四機の、しかしコンセプトの全く違う機体をたった一人で創り上げるとなると話は異なります。GPシリーズを軍がアナハイムへと開発依頼した時の条件は、その機体が戦術では無く戦略に対して多大な影響を与え得る能力を有した物であると言う、曖昧な物でした。恐らく責任者であったコーウェン将軍にしてもまさかここまでバラエティに富んだ物が出来上がるとは思ってもいなかったでしょうね」
 バスクの頬がピクリと動いた。ほんの少し前ならば今の男の言葉にも激昂を覚える所だが、GPシリーズの内容をアナハイムから聞き及んでいると分かった今では違う。しかし男の言に耳を傾けながら、こ奴がどこまで情報を集めているのかと言う事は実に興味深い。
「彼女はその曖昧な所から出発してあっという間にその四機の基礎理論を考え、それに必要なOSを組み上げた。言ってみれば彼女はGPシリーズの魂を作った『神』だと言ってもいい」
「『神』か。畏怖を覚え頭を垂れるべきその言葉も、この女と貴様からでは胡散臭さしか感じんわ。それともこれが、貴様がこの女を『ニュータイプ』と断定する根拠だとでも言うのか? 」
「少なくとも私の経験に照らし合わせればそう断じる他に彼女の才能を評する言葉が見つからない。まるで『カンブリア爆発』時に生まれたミロクンミンギア(最古の脊索動物と言われている。澄江動物群に分類)の様に突如現れた変異体を生みだした彼女の事を、他にどう言い表わせと? 」
 むう、とバスクは小さく唸ったまま押し黙った。確かにあの四機はそれまで連邦で密かに進められていた開発計画の悉くを凌駕していた。当初に行われたコンペティションにはバスクも同席していたが、まるで連邦軍の指針に挑戦状を叩き付けるかのような概要説明に度肝を抜かれた事を憶えている。核装備の二号機や拠点防衛用の三号機はまだしも、OSの乗せ換えとコアファイターの換装によって空間機動性を格段に跳ね上げる一号機や、不必要だと思われていた空間内白兵の精度をより突き詰めた四号機等は今すぐにでも正式採用して、ジオンの残党狩りに疲弊する最前線へと送り込みたいくらいだった。
「ですが、私が彼女を欲しがる理由は他にもあります」
 指で顎を摘まんで俯きがちに考え込むバスクの顔は、その男の声音に秘められた怜悧な嘲気によって持ち上げられる。
 男はまるで小雪の面の様に不気味な笑みを湛えていた。

「彼女は私の『同類』なのですよ」

                              *                                *                                *

 ニナの足は動こうとはしなかった。オークリーの大地を干上がらせる太陽の熱は基地のコンクリートを鉄板の様に焼いて、コウの姿までも揺らめかせる。蜃気楼の様にしか見えない彼の姿を目にしっかりと焼きつけたニナは、それが幻ではない事をただひたすら祈りながら両足へと尚も力を込めた。
 だがその足は厚さ1メートルを超えるコンクリートを貫通する根を張りだした様に動かない。湧きだす焦りと思う様に動けないもどかしさはニナの形のいい唇を歪ませて声を、言葉を迸らせそうだ。
 しかしニナはその瞬間に息を止めてその全てを胸の奥へとしまい込んだ。激発する感情が全身を駆け巡って末節に至るまで痛みを送る、その全てを固く閉じた瞼の力とそれを命じた強い意志によって堪えたニナは、もう一度陽炎の向こうに立つコウを見つめた。
 キースの背中が見える、そしてその後を追う様にモウラが。
 躊躇う心とは裏腹に心の奥底で産声を上げる小さな叫びがニナの祈りとなって全身を駆け巡る。
 二度と後悔はしたくない。
 ―― 動いて、お願い。

 エンジンを冷却するラジエタ―の金属が収縮してコウの足元で鳴る、それが切っ掛けであったかのようにコウはバイクの側へと降り立った。嬉しさを押し隠し苦しさを堪えると人は無表情になる、自分と同じ表情を湛えたままでゆっくりと近づいてくる親友の顔を見つめて、それがやっと声の届く距離まで近づいた時にコウは口を開いた。
「やあキース …… 久しぶり」
 やっとの思いで吐き出したコウの声には目もくれずに無言で迫る。頭に揺れる豊かな金髪の一本一本が見分けられるほどの距離でキースはシューティンググラスを外して肩越しに投げ捨てた。モウラの手がそれをキャッチした事も全く意に介せず、キースは眉を吊り上げた。
「 ―― 久しぶり、だと? 」
 コウの目の前でキースのどす黒い声が零れ出す。
「全部を俺に押し付けて雲隠れした友達の挨拶にしちゃあ ―― 」
 噛み締めた奥歯が大きな音を立てて鳴る、間髪いれずに繰り出されたキースのリバーブローは閃光の如くコウの腹へと突き刺さった。
「随分と間が抜けてンじゃねえか、この野郎っ! 」
 分厚い革の太鼓を思いっきり叩いた様な鈍い音はモウラの元にまで届いた。二人の間で何が起こったかを知り、事態の深刻さを知ったモウラが血相を変えて二人の元へと駆け寄る。
「ばか、キースっ! あんたなんて事を ―― 」
「 ―― 大丈夫だ、モウラ」
 そう言ったのは殴られた側のコウだ。息も詰まらせずに穏やかに告げるコウはさっきから少しも動いていない、寧ろ変化したのはコウの腹に渾身の一撃を叩きこんだキースの方だった。押し付けられたままのキースの拳の前に立ち塞がる、今までモウラが見た事も無いほど太い筋肉の束が白いTシャツの上にくっきりと浮かび上がっている。拳をゆっくりと離したキースは痛みを振り払う様に手を振ると顔を顰めた。
「 …… 一体どこでどう鍛えりゃこんな体になるってンだ? これでも結構 ―― 」
 キースがにやりと笑ってコウを見た。
「 ―― 目一杯なんだぜ、コウ」

「大丈夫か、キース? 」
 キースの言葉に小さく笑ったコウが差し出された手を握る。顔を顰めたままだがコウとは対照的に大きな笑顔を浮かべて笑うキース、そしてそのキースの笑顔を複雑な表情で見つめるモウラ。
「お前がいないからすっかり退屈してるよコウ。お前の身体ほどじゃないけど、今ンところは元気にやってる」
「そうか、良かった。 …… モウラも」
 キースの手を離したコウがその手をモウラへと差し出す、心の底に生まれたコウへの嫉妬を小さな溜息で押し隠して作り笑いを浮かべたモウラはその手を握り締めて息を飲んだ。
 固くなった掌の皮とごつごつとしたマメの感触は開拓農夫として一代を築いた祖父と同じ手。労苦の果てに刻み込まれる代償の大きさを知ったモウラは心の片隅に残る彼の死に様をコウへと重ねた。
「久し振りだね、コウ。近況の分からないあんた以外は皆元気さ。 …… あんたも、元気そうで何よりだ」
 地と共に生き、営みの中へとその命の灯を閉じた祖父の死に顔はとても安らかだった。家族に囲まれて、自らが最後に望んだ粗末なベッドの上に横たわったまま息を引き取る祖父の顔をモウラははっきりと覚えている。天命を全うし、全てを捧げつくした人だけに与えられる充足は魂の消滅と言う不幸を凌駕してなお彼女の心に生き続ける。そうありたいとモウラは願うしそうでなければならないと強く思う。
 透かし絵の様に朧な輪郭を携えて目の前に立つコウの面影が自分の記憶の祖父の顔形と重なって、しかしそれは次の瞬間に砕け散った。
 違うのだ、彼とは。
 コウ、あんたが歩むべき道はそれじゃない。
 
 作り笑いが引き潮の様に消えて険しい顔が浮かび上がる。曝露していく本心を掌へと伝えたモウラは同じ様に笑顔を収めたコウを睨みつけた。
「 …… もう、あんたはパイロットじゃ、ない」
 
 震える声がモウラの口から零れ出してコウの表情を濁らせる、自分の犯した罪から目を逸らす様に僅かに俯いたコウは握った手の力を緩めた。
「そうだ、モウラ。俺はもうパイロットじゃない。君の知るコウ・ウラキと言う男は二年前のあの日に消えたんだ」
「消えた? 」
 怒りに塗れたモウラの手がコウの手を振りほどいて胸倉へと伸びる。毟り取る様に白い生地を掴んで捩じり上げ、引き千切らんばかりに力を込めた。
「じゃあ今あたしの目の前にいるあんたは何なんだっ!? 愚連隊の溜まり場みたいなここにやって来たあんたが自分の地位と引き換えに取り戻した秩序と生きがいすらも幻だったって言うのかいっ!? 」
 コウの持つ尉官と言う階級はモウラやキースを守る為の戦いに全て費やした。オークリーに新たに配備されるモビルスーツ隊と言うだけで陸軍のごろつき連中に言われの無い迫害を受け続けていた彼らの楯となったのは、赴任したばかりのコウだった。安値で因縁を売りつける連中の喧嘩を更なる安値で買って出て片っ端から粉砕する、度重なる不祥事は例えコウの側に落ち度が無くても軍法によって裁かれ、コウは何度も敷地の奥にある営倉へと送られる事になる。
 釈放の度に降格処分の通知とニナの迎えを受けながら。

「そんな事をあんたには言わせない、あんたがあんたの過去を否定しちまったらあんたのお陰でここにいる意味を見つけた基地の連中の立場はどうなるんだっ!? そんな無責任な事が言えるのなら今からでもここから大きな声でみんなに言ってみろ、あれはほんの冗談でしたって! 」
 荒げた叫びが影の無い地面に木霊して白い景色を焼き尽くす。残響と言う名の棘が三人の胸へと突き刺さって見えない血を垂れ流す、分厚いかさぶたを無理やり剥がす痛みに耐えてモウラはコウを睨みつけた。
「あんたが創った部隊章、あんたが創ったコードネーム。あんたは何の為にそれを創った、みんなは何でそれを受け入れた? 白鷺シャーリーと言う鳥が気にいったからでもなけりゃあんたの事が怖かったからでもない、みんながあんたの事を信じてオークリーで過ごす明日に希望を持ったからじゃないか! それともあれは口から出まかせだったとでも言うつもりかい!? 」
 罪悪と言う茨が齎す痛みに耐えかねたコウの顔が大きく歪む。口を真一文字に食いしばって何かを執拗に耐えるコウに向かってモウラは必死で訴えた。
「訳を話せないンならそれでもいい、これであんたと二度と会えなくなったって構わないっ、でもせめて ―― 」
 悔し涙がモウラの目尻から零れ出す、それ以上情けない物が流れ出さない様にモウラは固く眼を閉じて全ての力をコウの胸倉を掴む手に籠めてその言葉を叫んだ。
「ニナにだけは全て打ち明けなよっ、コウっ! 」

 拳の震えが胸を伝わって心にまで届く。自分の為の怒りではなく、他人の為の怒りで流す涙がコウの胸へと強くせまる。
 来るべきでは無かったと後悔する心と全てを打ち明けようとする想いがコウの心で入り混じって複雑なモザイクを描く、ドロドロとしたその二つが渦を巻いて境界を滲ませながら奥深き場所に封印した決意へと雪崩れ込む。大きく息を吸い込み、心の内にある封緘へと手を伸ばそうとしたコウはその手を紙に掛けた瞬間に、止まった。
「 ―― やめて」

 悪夢の最後を締めくくるのはいつもその声だ。現実が色と熱を無くしてコウの世界をモノクロへと変えていく。
 だが今度はそれこそが虚偽の世界だ、時を刻む現実のリアルは確かな形と声と心を携えてモウラの背後に佇んでいた。
「お願いモウラ、もう ―― やめて」
 それが懇願だとはモウラには思えなかった、しかし制止と呼ぶにはあまりにも声が冷たすぎる。ニナの呼びかけはキースの背後、三身長もある距離から放たれたとは思えないほどはっきりした声で背を向けたままの二人の動きを止めた。モウラとキースが驚いて振り返った先には夢の中で出会う度に裏切った彼女がいる、コウの目が出会う事を恐れる余りに焦点を失った。

「ニナ、 ―― だってあんたっ! このまンまでいいのっ!? 」
 思いの丈を振り絞るモウラの叫びが背後のニナへと叩きつけられて、半身になった体が閉ざしていた扉を開く。モウラの背中越しに覗くコウはあの頃よりも逞しくなった体と少し伸びた髪を携えて、でも間違いなく、彼。
 忘れようにも、忘れられない。
 でも ―― 。

 瞳の前に置かれた濃い緑のガラスが創る単色の世界はニナを現実から遠ざける、セピアを隠すビリジアンが彼女を夢現へと導いて、揺れる心諸共に惑わせる。放つ言葉すら探せずに逃げ惑う切ない感情を追い掛けて、ニナは葛藤と言う名の罪を捻じ伏せる勇気を探している。
 痛いと呟く心の疵が。
 辛いと嘆く過去の記憶が。
 ニナの目からコウ以外の全ての輪郭を消していく、たった二人で残った閉ざされた世界から彼の名前を呼ぼうと彼女の勇気が、怯えたその背中を押そうとした瞬間。

「 ―― お久しぶりです、パープルトンさん」

 ギヤマン越しに見る歪んだ景色に無数の皹が入って一瞬のうちに砕け散る、届けられた声に籠められた拒絶と言う名の槌。
 舞い散る切っ先がズタズタに切り裂く世界の先に点る絶望の瞳をニナは見た。
 生じた迷いによってそう言う声でしか放てなかった言葉の矢がコウに与えた疵跡、跳ね返って来た虚ろな目がニナの心を貫いて全ての力を奪い去った。

                              *                                *                               *

「司令、組合長の奥様が到着されました」
 ドア越しに掛けられた守衛の声で一斉に声を潜める三人の男は互いに顔を見合わせて小さな溜息を吐いた。堂々巡りの迷路へと迷い込んだコウの勧誘についての論議は白熱を通り越して沈静を迎えつつあった。断固として反対し続けるモラレスに対抗するのはこの中で最も上位に立場を置くヘンケン、慎重派のウェブナーは戦略的な観点からドクの陣営に意見を寄せている。異を唱えるヘンケンにしても立場上そう言うスタンスをとっているだけであり、どちらかと言うと内心はウェブナーの意見に近い。人の命が蜉蝣の様に散って行った一年戦争を潜り抜けたヘンケンにとって、命を賭けてまで何かを得ようとする行為は自分の主義の最も対極にある物であり、絶対に認める訳にはいかない。ましてや二年と言う月日を共に過ごした仲間の身に潜む不治の病を聞いてしまった以上、彼に出来る事はコウを諦めると言う選択肢しか残されてはいなかった。
「入りたまえ」
 不必要に強い口調でドア越しに立つ守衛へと命じるウェブナー、少しの間を置いて開いた扉の影から覗くセシルの美貌は少しも衰えてはいない、いや寧ろ昔よりも華やかになった様にウェブナーには思える。ドアの向こうに控える守衛に笑顔で会釈して悩殺した後に、しなやかな身のこなしでするりと部屋の中へと足を踏み入れたセシルは後ろ手にドアを静かに閉めて軽く頭を下げた。
「遅くなりました」
「意外に早かったな、もう少し時間が掛かると思っていたが。 …… 首尾よくウラキ君をここまで連れて来られたのか? 」
 ヘンケンの問い掛けにセシルは無言で頷き、ウェブナーは微かに顔を曇らせた。ヘンケンから予め言い含められていたとは言え、契約違反を黙認すると言う行為は軍人には厳しい。セシルはすっとヘンケンの隣へと腰掛けると軽く目配せをして答えた。
「かなり葛藤がある様子でしたが、私が無茶な提案をするとすぐに」
「 …… やはり、ここには未練があると言う事か。それが分かってしまうだけに、なんとも」
 やり切れん、と言う言葉を隠してヘンケンは手元に置いた煙草へと手を伸ばす、箱を手にしたと思った瞬間に飛んで来たセシルの手がヘンケンの手の甲をぴしゃりと叩いてそこから先の動作を禁じた。「イテっ」と小さく呟いてやぶ睨んだ視線の先で小さく笑いながら咎める。
「中佐、ここは禁煙です」
「 ―― やはり中佐のお守を副長にお願いしたのは正解だったようですね、他の誰でもこうは上手くいかない」
「どうかの。どうせこのろくでなしの事じゃ、面倒な事は全てセシルに押し付けてのほほんと平和を満喫しておるんじゃろうて。全くお前さんの苦労が今ので偲ばれると言うモンじゃ」
 モラレスとウェブナーから賛辞を贈られるセシルの笑顔に割を食うのはヘンケンだ。部下から悪ガキ扱いされる指揮官は顔をあらぬ方向へと逸らして口の中で一しきり不満を呟いた。
「ところでお話の方はどこまで? 我々の追加戦力にコウ・ウラキ伍長を加えると言う事でしたが」
 微かに洩れ届くヘンケンの愚痴を聞き流したセシルがウェブナーに尋ねた。いきなり核心へと切り込むそのスタンスは彼女の笑顔の裏に隠されたままの真の顔、セシル・クロトワ少佐の物に間違いない。見た目と乖離する裏の顔を覗かせたセシルにウェブナーは緊張を走らせ、ヘンケンは愚痴を止める。モラレスだけがただ一人でセシルの要求へと対峙する事になった。
「その件じゃが …… 大変残念ではあるが断念する事にした。悪く思わんでくれ」

 モラレスの発言に何も言わずに小首を傾げるセシルの笑顔はとても愛らしいのだが、目が笑っていない。真意を問い質そうとする時の彼女の無言の圧力をひしひしと感じたモラレスは静かに言葉を続けた。
「理由はこの二人には話したが、あくまで儂個人の推論に基づく医学的見地からの判断じゃ。詳しくはその机の上のファイルに記載してある、読んでみてくれ」
 別に圧力に屈したからではない、そうした方が早いと思ったからだ。モラレスに促されたセシルは机の上に置きっぱなしになったヘンケンのファイルを手に取ると扉を開いた。一ページ、二ページと捲っていくスピードはウェブナーやヘンケンよりもはるかに速い、細い顎を指で摘まんだまま、足を組んでリラックスした状態で瞳だけが目まぐるしく紙面を駆け巡る。嘗て『スルガ』のCDC(Combat Direction Center:戦闘統括所)の主として君臨したヘンケン・ベッケナーの懐刀は瞬く間に膨大な資料を読み込むと、遣り切れない表情を浮かべながらぽつりと言った。
「なんて酷い事を …… ウラキ伍長はこの事を? 」
 聡明なセシルならば自分の説明が無くても早晩同じ結論へと辿り着くだろうと考えたモラレスの予想は当たっていた。『自殺願望』の事は話してはいないが、それでも彼がモビルスーツを扱えない体になっていると言う事は分かるだろう。膝の上に開いたままのファイルを静かに閉じたセシルは、それをそっと机の上に戻してモラレスに尋ねた。
「言ってはおらん、だが本人も自分の体が前とは違っていると言う事を薄々は感じておるじゃろう。乱闘の度に自分が叩きのめした相手をわざわざ見舞う様な優しい男じゃ、戦闘中に殺人衝動に駆られる自分の心境の変化には耐えられまい。故に知らず知らずの内に自らを追い込む羽目になっているという訳なんじゃが ……  今のままでモビルスーツに乗せる事は自殺幇助みたいなモンじゃ、そんな事を医者である儂が許可出来る筈がなかろう? 」
「では、対処療法はどうです? 生成されているのが麻薬物質だとしたらその症状を緩和させる薬品を投与すれば ―― 」
 一縷の希望を湛えたウェブナーの目がセシルを見つめる、彼とて自分の基地の戦力に関わる話をこのまま手を拱いて諦める訳にはいかなかった。有事の際に必要な戦力は多いに越した事は無い、例えそれが最前線から最も離れたここであろうとも、相手が常勤では無い予備役と言う立場であろうとも、だ。そしてモラレスもそのウェブナーの期待の大きさが分かっている。
「スタンド・アローンで自前のパソコンを起動して、粗雑ではあるが昔儂が使っておった創薬ソフトで検証してはみた。 …… 答えはNOじゃ。人工的に作られた覚せい剤ならば阻害効果のある物質 ―― ハロぺリドールが有効じゃろうと思って試してはみたんじゃがシミュレーションの結果は芳しくない、これ以上詳しい事を調べるンなら彼の血を採って外部の臨床検査施設にお願いするしかないンじゃが ―― 」
 ふっと小さく溜息を吐いて言葉を躊躇うモラレスの態度にセシルはその後の言葉を察した。もしこの物質が軍によって生み出された物ならばそれを外部に持ち出した時点で『機密漏えい』となる、知らなかったでは済まないほど重い罪がモラレスには課されるであろう。今の自分達の状況でティターンズに目をつけられる行動だけは避けなければならない。
「それでも阻害薬ハロペリドールを使えば一時的にその症状を緩和させる為には効力を発揮する事は出来ると思う、しかし人の感情を根本から塗り替えるほど強烈な合成麻薬様物質に何時まで対抗できると思う? 量が増えれば副作用も発生するじゃろう 、吐き気・痙攣、最悪の場合は心房細動を起こして死に至る。 ―― 行き着く所は同じじゃよ、やはり彼はモビルスーツに乗ったまま死を迎える事になる」
「要するに、打つ手無し、か」
 セシルの目を盗んで火を点けた煙草がいつの間にかヘンケンの指の間に挟まっている。ヘンケンは吸い込んだ煙を鼻から一息に吐き出すと、その煙の行方を目で追った。

「セシル、どう思う? 」
 宙を睨んだままのヘンケンが隣に座るセシルに尋ねた。神妙な面持ちで黙って視線を向けたセシルの目に映るヘンケンの横顔にはどこか諦めた様な、しかし安心した様な気配が見え隠れする。
「彼の経歴・係累について調べて出て来る物は眉唾ばかり、そして彼の身体の中にあって今だに彼の身体を蝕み続ける未知の薬品 …… これだけを見ても彼は過去にそれだけの物を引き換えにしなければ戦えなかった過酷な戦場を駆け抜け、そして生き残る事の出来た運のいい兵士なんだろうと俺は思う。こんな事を言っちまえば指揮官失格かも知れんが、俺は彼の採用を諦めるべきなんじゃないかと、思う」
 文節ごとに区切るヘンケンの言葉に隠された揺れる心は耳を傾ける三人にもよく分かる。そしてセシルはヘンケンの中で尚も続いているであろう良心の呵責が手に取る様に分かっていた。
 自分の身分を隠したまま彼に近づいてその人と形を観察し続けたヘンケンとセシルは、コウの持つ撃墜王らしからぬ優しい人柄に驚き、疑い、遂には心惹かれた。人との繋がりを拒絶しようとしながらも困った人を見かけたら手を差し伸べずには居られないと言う矛盾を抱えた彼を、ヘンケンは友人として認めている。
 そう言う人間を部下として扱えるほど彼は完璧な軍人では無い、そしてセシルと彼の部下はそんなヘンケンをこよなく慕っている。
「私も中佐の意見を支持します」
 そう言ったのはセシルの向かい側に座っていたウェブナーだった。歳の割には多いロマンスグレー ―― 彼には昔からいろいろ苦労をかけているからかも知れない ―― をきちんと整えた彼は、両手を膝の前に組んで前のめりになったまま、残念そうな表情を浮かべた。
「確かに伍長の才能をみすみす逃すのは惜しいとは思います、しかしだからこそ彼が不慮の事故で戦線を離脱した時の事を考えるとやはり採用すべきではない。戦局を単機で動かせるだけの特異点が消失した際に訪れる混乱と劣勢は二度とそれを覆す事の出来ない位大きなダメージを味方に齎します、ここはこのまま軍の監視下に置いて彼が二度と戦場へと出られない様に拘束しておく事が最も最良の策ではないかと思うのですが」
 人の理を解くヘンケンと戦略上のリスクを回避する為に慎重論を口にするウェブナー、モラレスはそんな二人の言葉に何度も相槌を打って肯定の意思を示している。民主主義を尊重するなら多数決によって三対一、当然セシルの負けと言う事になる。
 そう、セシルだけがその表情を崩す事無くじっと机の上へと視線を落として何かを考え込んでいた。彼女の目の前に供出される全ての資料がコウの採用に対して否定的な結論を裏付けている、反論できる隙も不備も見当たらないこの状況でその決定にどんな異論を挟もうと言うのか。
 しかしセシルにはどうしてもその決定に素直には従えなかった。勿論彼女の手の中にはそれを覆すだけの根拠となる物は何もない、あるのはただ、コウが自らの手だけで成し遂げた金色の麦畑の映像がただ一つ。そしてその真ん中にポツンと佇んで風に吹かれる彼の姿。
 目を伏せたままで呟いたセシルの声に、結論を出し終えた三人は慌てふためいた。
「 …… 彼は本当にモビルスーツに乗る事を ―― 諦めてしまったんでしょうか? 」

「い、いや副長」
 真っ先に口を開いたのはコウから直に退役届を受け取ったウェブナーだった。何度も翻意を促し、しかし彼の決意が揺らがないと言う事を確認したウェブナーは断腸の思いでその書類をジャブローへと提出した。本来であれば何日かの後に薄い茶封筒で配送されて来る筈の退役許可証が待てど暮らせと手元へと届かず、ウェブナーの記憶にも無い二週間の後に来たジャブローからの返信は定型外の厚みと重量と極秘の赤い判を押した封筒を携えた人事部の職員によって齎された。立ち会いの元で開封した書類の中身が退役許可証では無く、予備役への編入に伴う諸条件の変更書類であった事に驚いたのをウェブナーは昨日の事の様に覚えている。
「最初に私に退役を申し出たのは彼自身です、加えてジャブローから送られて来た予備役への編入書類にしぶしぶサインもしたんです。それほどまでに基地に居たくないと言う事をあからさまにした彼が、なぜ今更基地への ―― モビルスーツへの未練を残していると思うんですか? 」
「モビルスーツかどうかは分からんが少なくともこの基地には何らかの未練があるんじゃろう、誓約破りを冒してまでセシルをここまで送って来た事がそれを証明しておる。 …… セシル、儂からも聞きたいんじゃが、お前さんがそう思う根拠とは一体何じゃ? 」
 口を挟んだモラレスがウェブナーに変わってセシルの反論へと対峙した。机の上へと目を置いていたセシルが上目づかいに新たな挑戦者へと視線を送る。
「彼は自分の意思で農夫の道を選び、モビルスーツパイロットを棄てた。儂は伍長から何度も相談を受けてその事について話し合ったが、彼は儂にははっきりと「モビルスーツに乗りたくない」と言った。それだけ客観的な事実があると言うのに何故そう思う」
「そんな弱音を吐く人間があれだけの物をたった一人で作る事など出来ない」
 モラレスの問い掛けに間髪いれずに返答するセシル、ヘンケンの頬がピクリと動く。
「私はここに来る前に彼の畑を見て来ました。中佐には ―― 」
 セシルの視線がヘンケンを襲う。コウの畑を暇があれば巡回していたヘンケンにもセシルの発言の意味はよく分かる、規模は小さいが機械の手を借りずに体一つで難易度の高い品種を作り上げた彼の努力と根性には最早畏敬しか感じない、むしろ執念すら感じる。
「分かりますよね? 」
 念を押されたヘンケンが、しかし同意するより先に指に挟んだ煙草を灰皿へと捻り潰して火口を消した。腕を組んで視線を落として何かを考え込むのは、今度はヘンケンの番だった。
「私と中佐はここに流れ着いて来た兵士を何人も雇いました、でも誰一人として最後まで農夫としての仕事を全うした物はいない。 …… 腰かけ程度の心構えや思い付きでは決して通用しないのが人同士では考えられない自然との闘いであり、そしてその困難を私も中佐もよく知っています。だからこそそれを成し遂げた彼の事を他の軍人と同列には考えられないのです」

 データだけでは分からない直感と言う物に頼るセシルの顔を不思議な表情で眺めるモラレス。考えてみればデータに基づいて弾き出される結論から論理的に敵の優位に立つ戦術を練り上げると言うのが『スルガ』にいた頃の彼女だったように思う。まるで生きた戦術コンピューターだった彼女が意中の男と触れ合うだけでこうも変わってしまうのかとモラレスは内心驚き、ヘンケンの様に意見を主張する彼女の変化を内心微笑ましく思った。
「それに私は今日彼に、何故一番育てにくい麦と言う品種を選択したのかと言う事も尋ねてみました」
「アレを聞いたのか …… なんて言ってた? 」
 あらぬ方向を眺めながら腕を解いたヘンケンが手探りで煙草の箱を探す、逸早く感づいたセシルはその箱を自分の手元へそっと引き込んでから口を開いた。
「麦が地面に落ちても生きようとするならば、その麦は只の一粒に過ぎない。でもそれが種となる為に自分を殺す事が出来たなら、そこから多くの麦を実らせる事が出来る。 …… 本人は聖書の一節だと言っていましたが」
「『ヨハネの福音書』の一節じゃな、確かエルサレムの演説と記憶しておるが」
 空振りを続けるヘンケンの手を人の悪い笑みで睨んだモラレスはセシルの発言に興味を抱いた。世界的宗教の創始者が自らの死と原理思想を民衆に説いた逸話は宇宙へ人が飛び出した宇宙世紀の今になっても事ある毎によく引用される、人の死が無駄ではないと教えるその文言をモラレスはあまり気にいってはいなかった。人類の半数が死へと至らしめられた現実を目の前にかの御仁はそういう話をもう一度話す事が出来るのか、と言う懐疑的に捻くれた結論がその理由だった。
「彼はその言葉の意味を知りたいと私に言った。 …… ドクには申し訳ありませんが無意識にでも死にたいと思っている人間が果たして目的や目標を持ったりする物でしょうか? それにその言葉の中に隠された『自己犠牲』と言う意味を彼は知らずの内に体現しています。自らを傷つけ何かに抗い、そして戦い続けて成し遂げた彼だからこそ何かを簡単に諦める事など有り得ない。ましてやそれが自分の生きた証とも言えるモビルスーツならば尚更。 …… 上手くは言えませんが私は彼がここを離れた理由が他にあるのではないか、そんな気がしてならないのです」
 結論の出かかった議論を再び振り出しへと戻すセシルの提言は様々な表情を三人へと齎した。直感か数値か? 勿論直感などと言う曖昧な物に結論を委ねるほど彼らは能天気な生き方を選んではいない、数値と言う絶対的な指標はどんな改ざんをされたとしても必ず何らかの変化や結果を教えてくれる確かな物だ。それを軽んじて論ずる者ほど窮地の淵へと追い込まれる様を彼らは何度も何度も目にしている。
 だが今回に限ってはその経験則は当てはまらない、それを言いだしているのが数値による分析にもっとも長けているセシルだからだ。恐らく彼女の頭の中では目に通した資料の数値から自分達と同様の結論を一旦は弾き出しているに違いない、にも拘らずそれを真っ向から否定していると言う事は自分達には分からなくても彼女だけが感じる何かが存在しているに違いない。そう思わせてしまう程彼女個人の持つ戦歴と戦果は群を抜いて素晴らしいのだ。
 ないがしろには出来ない彼女の発言にウェブナーは眉間に皺を寄せたまま口を噤んで額を抑え、モラレスは自分の身体を縛り付ける様に強く両腕を組んで、天井へと目を向けながら何かを考え込んでいる。ただ一人、彼女の上位に立場を執るヘンケンだけが困惑する二人に代わってセシルに尋ねた。
「セシル、ウラキ君が未だに何かに抗う意志を持っていると言う事は百歩譲って認めよう。だがそれをモビルスーツに乗る事へと結びつけるには無理がある。それともう一つ、『一粒の麦』の逸話がどういう言葉なのかは分からんがそれは多分QOL(quality of life;生の質)に纏わる話なんだろう。自分の命に価値を見出して『種』を目指すと言う事はイコール『死』を求めている事には違いないし、そう言う意味ではドクの予見は当たっている。彼の本性はどうあれそんな心構えの兵士をこれから『ティターンズ』に叛旗を翻そうかと画策している俺達の陣営に迎え入れる事についての是非は論じるまでも無かろう」
「 ―― それは逆です、中佐」
 
 ヘンケンは自分に向けたセシルの表情から見る見るうちに曇りが取れて行く様を見た。まるで難解な数学問題をある切っ掛けによって解まで辿り着いた生徒の様な面持ちでセシルは呟いた。
「『種』だから『死』なんじゃない、『死にたくない』から ―― 『種』じゃない」
 禅問答の様な台詞を口にしたセシルの表情に思わず目を向ける三人、痛いほどの視線を一身に受けたセシルは自分の頭の中に突如として浮かび上がったその考えを取り留めも無く垂れ流す。
「『死にたくない』から彼は『死』を前提に語られるあの言葉の意味が分からなかった、じゃあその意味が分からない立場に立つのは ―― 」
 セシルの瞼が二度三度瞬きを繰り返して、その後にヘンケンの顔へをとその瞳を真っ直ぐに向けた。神秘的なターコイズは焦点を合わせて彼女の上官の瞳へと歓喜交じりの視線を送る。
「彼は『芽』なんだわ。そしてその言葉の意味を知りたいと願う彼の心の中には、もう誰かが『種』となって存在しているのかも知れない。ウラキさんは ―― 」
 
 ―― 何?
 セシルの言葉はそこで止まったまま先へ行こうとはしない。クラインの壺にも似た矛盾の無限ループがセシルの脳裏に閃いた解を瞬く間にひっくり返した。
 モビルスーツと言う掛け替えのない物を棄てて農夫へと身を窶したと言う事を『死』からの無意識の逃亡と捉えるならば、何の為に彼は『一粒の麦』の言葉の意味を知ろうとする? 『芽』が考えるべきは自分がどんな花を咲かせられるかという未来であり、『種』と言う過去に思いを縛られると言う事では無い。
 だが彼は未来をも捨ててしまっている、それは今の彼の人となりを見れば明らかだ。殊更に人との繋がりを拒み、常に自分を追い込みながら麦を育てている様は傍から見ていても痛々しい。機械を使って楽をすればいいとは自分も思わないが、それを未来永劫続けられるほど人の身体は頑健では無い。いずれは衰え朽ち果てるまでの命をただがむしゃらに使い潰そうとする今の彼が、果たして死から逃れようとしている等と言えるのだろうか?
 金色の野に一人佇んで風の音に耳を澄ませる彼の姿はそれを遠くから見つめるセシルの脳裏にある絵画を思い出させた。人が宇宙をただ宇宙としてでしか認識できなかった遥か昔に描かれたベルト・モリゾの『穀物畑』、12号のキャンバス全体に広がる麦畑の中に立つ一人の農夫の姿はその時の彼の姿にとてもよく似ている。
 印象派の旗手エドゥアール・マネに師事したとは思えないタッチで表現されたその農夫の存在を示す為の影は無く、陽炎でぼやけた輪郭の儚さまで同じ。色の濃淡によって表現される目鼻立ちも近くに寄って見てみればそれはただの絵の具の盛り上がりだ、命を描いている物では無い。
 人と言う表現には程遠いその農夫に重なるコウの生き方が正しいとはセシルにはどうしても思えなかった。生を謳歌して収穫の喜びを表現する画家の情念とは懸け離れたコウの今の出で立ちが絶対にそれを認めない、何故なら彼は ―― 
 ―― ただの、抜け殻だから。

『死』から逃れる為にモビルスーツを降りたのだとしたら今の彼は有り得ない。解き放たれる事無く死の枷を四肢に纏わりつかせたままのコウの姿を思い返してセシルは固く眼を閉じた。
 何かがどこかで間違っているのは分かる、だがそれがどこだか分からない。固定観念を捨てろセシル・クロトワ、全ての理由づけを一から逆に考えてみるんだ。彼は死にたいから種になろうとしているのか、農夫として死にたいと願っているのか、だからモビルスーツを降りたのか。 …… ちがう、そうじゃない。
 ―― 『死』から逃れる為に、モビルスーツを降りたんじゃない。

 自分の直感が弾き出した回答へと再び舞い戻って来たセシルが瞼を開いて世界の行方を取り込んだ。突然言葉を止めたセシルを見守る様に見つめる三人の視線にも気付かないかの様に、彼女はただ漠然と目の前の空間に自分の思考を躍らせた。
 答えはきっとそこにある、とセシルの勘が大声で告げた。彼が抱える全ての矛盾を解消するたった一つの鍵が、彼がここを離れた本当の理由の中にある。
 しかしそれを知る手掛かりは? 彼がそれを話したがらない以上、軍の記録の中にも記載されていないその理由を知る為にはどうしたらいい?

「セシル? 」
 自分の思考へと没入するセシルに向かってヘンケンが声を掛けた、しかしセシルはそれ以上声を発する事も無くただひたすらに迷路と化したコウの矛盾の手がかりを探している。
 今の彼女がその全てを理解するには必要な物が致命的に足りなかった。

                              *                               *                                *

 軋んだ音を立てて扉が閉まる、その音をその様をただ為す術も無く見守る事しか出来ない自分を、呪う事しか出来ない。
 彼をそうしてしまったのは自分のせいだ。あのアイランド・イーズで彼に銃口を向けてガトーへの復讐を阻止したのは、私。
 取り戻せなかった温もりの残滓を微かに感じながら、しかしそれをそっと心の奥に秘められた記憶の檻へとしまいこむニナ。泣き叫んで二度と開く事の無い扉を叩けたならどんなに楽だろう、自分の心を今砕け散ったガラスの破片で切り開けたなら、自分の心の底に潜む貴方への思いの丈を打ち明けられたなら。
 だがそのどれもがニナには許されない事だった。少なくとも彼の中にあの男の『仕掛け』が存在している以上、 今の自分に出来る事は ―― 彼を遠ざけておく事だけ。
 私から、そしてモビルスーツから。

「伍長もお元気そうでなによりです」
 ファイルを小脇に抱えて会釈を返すニナの姿にぎょっとするモウラは立て続けにキースへと視線を送った。シューティンググラスを外したままのキースの瞳は空を思わせるスカイブルーをじっとコウの表情に向けたまま動かない、観察をするような表情が収まったのはニナがモウラに向けて苦しそうな声を吐き出した瞬間だった。
「モウラ、私はもう行かなきゃ …… データの分析が終わるから」
 一期一会になるかも知れないこの機会をたったそんな一言で終わらせてしまおうとするニナに向かってモウラは眉を潜めて睨みつける、しかしニナはそれを受け止めても尚溢れる思いでモウラに向かって自分の意思を目で告げた。ガラス越しにでも分かる蒼い瞳に秘められた強い決意はそれだけでモウラの憤りを抑え込み、そして自分の思いを受け取る事が出来ないと言うニナの悲しい叫びを表している。
 穏やかとは言い難いが次第に弱まる感情の荒波を自分自身に感じながら、モウラは掴んだままのコウの胸倉を解き放った。指先に残る遣り切れなさを痺れで感じながらモウラはコウの前からその身体をどかせて、コウの姿をきちんとニナの目へと焼きつける。友人の決意に対する配慮と言うにはとても足りないが、自分に出来る精一杯の事はこれくらいしかないとモウラは臍を噛んだ。
「では私はこれで失礼します。伍長もお身体を大切に」
 声を震わせて踵を返すニナの背中をコウの視線が無言で追う。小さく下げる頭に残る、ニナと同じ小さな震えはそれを見つめるキースにしか分からないコウの葛藤だった。遠ざかっていくニナの歩調の忙しさに現れる彼女の苦悩、モウラもまたニナの葛藤を慮りながら二人の間に開いた大きな溝の存在を思わずには居られない。 壊れて行くあの日の残照を繋ぎ止める事すら叶わなかった自分の弱さを嘆きながら、モウラはニナの背中を見送った。

「キース、モウラ。悪いけど、俺もそろそろ帰るよ」
 言葉少なくそう告げたコウはバイクのシートに跨ってサイドスタンドを片足で跳ね上げた。キーを捻ると通電を示すインジケーターが日の光を跳ね返すように赤く灯る。
「待てよ、コウ」
 慌てた様に放たれたキースの声がセルを押そうとするコウの指を止める。つかつかと歩み寄るそのすぐ後にキースの採る行動を予見したコウは素早くキーの上に自分の手を翳した。
 果たしてそれはコウの読み通りだった。一瞬遅れてパン、と置かれたキースの手はコウの手の甲を叩く、自分の作戦を看破された気恥ずかしさを苦笑いに変えてキースはコウの顔を見た。
「せっかく会ったんだ、久しぶりに食堂で飯でも付き合えよ。グレゴリーさんだってお前の顔見りゃ腕によりを掛けてとびっきりの昼飯を御馳走してくれるに決まってる。ニナさんは忙しいけど俺達三人で積もる話を ―― 」
「悪いけど、キース。あたしも遠慮するよ」
「 …… 二人でしようぜ、な? 」
 水を差すモウラの悪態交じりの声にも怯まずコウを誘うキースの笑顔は昔のあの日に見せた物と同じ、モウラにはそれが許せなかった。コウがいなくなった事でどれだけの責任と重荷を残ったキースが背負い込む事になったのかをコウが分からなかった筈が無い、しかしそれを知りながら誰にも何も言わずに自分勝手に基地を飛び出した事がキースの顔からその笑顔を奪い去ったのだ。愛する者から大切な物を奪い去った事、そして自分には遂に取り戻せなかったその笑顔を満面に浮かべる今のキースが、そしてコウが憎らしい。
 そして何よりも取り戻せなかった自分自身が悔しい。
 顔に滲みだす悔しさを誰にも気取られぬ様に必死で隠しながら二人の会話へと耳を澄ますモウラ、ぎこちないキースの喋り方にコウをここへと繋ぎ止めて何とか近況を聞き出そうと言う意志を感じる。しかしコウはそんなキースの願いを振り払う様に、沈んだ声を吐き出した。
「キース、 …… いやキース中尉。私達が接触する事は自分が予備役に編入する際に交わされた宣誓書により禁止されております。今ここで貴方と共にいる所を本部へと通告されれば、それだけでも中尉に何らかの懲罰が下されかねません」
「止めろよコウ、そんな喋り方。今更俺にそんな事言ったって無駄だって。それにここはお前も知っての通りの場所、そしてお前がやっとの思いで創った基地じゃないか。お前がここにいる事を歓迎する者はいても密告しようだなんて考える奴がいるもんか」
 言葉によって立てられた心の壁を必死で押し倒そうとするキース、譲る事の出来ない二人の主張は言葉を失っても互いの視線の内で続けられる。諦めない熱意と拒む失意の鬩ぎ合いはコウが視線を逸らした事で一応の決着が付いたかに思われた。コウの左手が右手の上に置かれたままのキースの手を握り。
「 ―― すまない、キース」
 そっと解いた。

 はぁ、と小さく溜息を吐いて自分の努力が無駄に終わった事を苦笑で表現するキースの目から自分の表情を隠す様に、コウはゴーグルを掛けた。セルのボタンを押した途端に目覚めるエンジンはその吐息を後ろで持ち上げられた二本のマフラーから吐き出して独得のエキゾーストを響かせる、二個のシリンダーが絶え間なく刻む大きな鼓動の裏側に身を潜める様にコウが言った。
「 …… 俺にはもうその資格はない、自分の都合でお前に全てを押しつけて出て行った俺には。これは俺が自分自身に課した罰なんだ」
 零れ落ちる懺悔を腰に手を置いたまま笑顔で聞き届けるキース、だがその背後で黙って成り行きを見守っていたモウラの反応は違った。収めていた怒りを再び露わにして声を荒げながらコウの元へと足を向ける。
「あんたはっ! あんたはそれでよかったのかも知ンないけどっ! 」
 キースの脇を掠めてもう一度コウに掴みかかろうとするモウラが足を止めたのは、怒りで我を忘れたモウラの胸に差し上げられたキースの手が当たった瞬間だった。止めろ、と言う無言の命令を無視したモウラが尚も怒りをぶちまける。
「残されたモンの気持ちをあんたは一度でも考えた事があったのかいっ!? 年に一度の予備役訓練にも立ち遭う事の出来ないキースや、あたしや、ニナの気持ちをっ! そうやって内罰的に自分を傷付けて気が収まってンのはあんただけだって ―― 」
「モウラ」
 短く呼ぶキースの声はとても静かで力強い、それが自分の意思をはっきりと示した言葉である事にモウラは気付き、言葉と感情を押し留めた。モウラの胸元に押し当てられたままのキースの掌が小さく開くとモウラはその手の中に預かったままのサングラスを渡す、手首の一振りで蔓を広げたキースはそれを掛けると肩越しにモウラの顔を鋭い視線で睨み上げた。
 どうして、と言うモウラの気持ちが束の間の二人の視線の中で交錯する。だかキースはそのモウラの気持ちに気付きながらも敢えて無視してコウの方へと視線を戻した。
「そうか、お前がそう言うんならしょうがない。 …… 体にだけは気をつけろよ」
 差し出されたキースの手をゴーグル越しに戸惑うコウの目がじっと見つめる、おずおずと伸ばされたコウの手はやがて意を決した様にその手を固く握り締めた。

 微塵のブレも無いフルロック・ターンで車体を切り返したコウは進路を基地の正門へと向けた。控え目に開いたであろうアクセルはそれだけでも獰猛な本性を現して一気に車体を加速へと導く、振り返りもせずに遠ざかっていくコウの背中を見送るキースの背中にモウラが堪り兼ねて声を掛けようとした。
「 …… 『お前が誰と一緒にいるか言ってみな、そうしたらお前がどんな人間か言ってやる』か」
 何の脈絡も無くキースの口から飛び出したその台詞を耳にしたモウラが首を傾げた。
「なんだい、それ? 」
「ドン・キホーテ」
 モウラの目に映ったのはキースの穏やかな笑顔だった。信じて疑わない物を再びその手へと取り戻したコウの親友は、友人を蔑もうとする周囲の声にも怯む事のないサンチョ・パンサとしての誇りを身に纏ってモウラを見上げた。
「俺にとってのコウはやっぱりこの世に二人といない親友だ。さ、モウラ、言ってくれ。 …… それでもお前は俺の事が好きか? 」
 突然の問い掛けに絶句して目を丸くしたモウラはまるで少女の様なはにかんだ表情で小さく頷く事しか出来ない。その反応に満足そうな表情を浮かべたキースは足元に伸び始めた影を追い掛ける様に踵を返して、自分の生きるべき時間への帰還を決意した。

                              *                               *                                *

「歴史に名を残す先駆者に共通して言える事は、彼らが皆自分の欲望や欲求に対してすべからく我儘だったと言う事です。我々人類が宇宙へ飛び出す為に必要だったロケットはフォン・ブラウンの手によって作られましたが、それはV2と言う大陸間弾道ミサイルによって追試が為されたと言うのは有名な話。そして核を最初に兵器として考えたオッペンハイマーも、我が師フラナガンも然り。倫理や道徳を微塵も考慮せずにただ自分の頭の中に描かれた未知の発想を形にする為に、その全能力を注ぎこめる存在こそが歴史の針を前へと進める事が出来る」
 自らが口にした『同類』の定義を滔々と披露する男の表情を眺めている内に、バスクはこの男の持つ闇の深さと潜在的に抱える悪徳が露呈している事に気が付いた。サメの肌の様にざらざらした手触りと深海魚の様にぬめり付く粘膜の様な感覚はそれだけでもバスクの怒りを嫌悪へと変質させる。だがもっと恐ろしいのは自分がこの男の言に対して何の抵抗も無く理がある、と錯覚しそうになっている事だった。
狂気の伝播は弁舌や眼力、気迫や文言によって人に伝わり価値観を一変させる力があると言う事を、彼は全将兵に呼びかけたティターン発足のアジテーションの前にジャミトフから聞かされて愚直に実行した張本人でもあった。
「私が特に注目したのはあの連邦盤のモビルアーマーとも言える三号機のコンセプト、あれなどはまさに彼女がその資質を携えている事を証明している。モビルスーツの弱点である視認性を格段に向上させる全天球型モニターの採用、そしてその為にサバイバビリティ確保の為のコア・ファイターを廃止してパイロットを部品の一部に組み込むその発想。更にはモビルアーマーのコアとしてガンダム本体を配置する事で兵装コンテナオーキスを破棄してでも戦闘を継続する事が出来る。そのアグレッシブな発想たるや今までの連邦の、いやこれから考えられるどの陣営のモビルスーツにも真似が出来ないでしょう」
「何故そう思う? 」
 自分がこの男の発想を耳にしてそれを開発部に伝えない筈が無いだろう、にも拘らずそう言い切る男の言葉の根拠が聞きたいと切望したバスクが尋ねるのは至極真っ当な質問だ。男は薄笑いを浮かべて言った。
「パイロットと言う人格や人権を無視して武器を開発する事は有り得ないからです。ミノフスキー粒子が散布される戦場では人が自らの判断によって戦わなければならない、ニュータイプの扱うリモート砲台ビットだけが無人機として例外的ですがそれとて元となるコントロールユニットは人間だ、最後の最後まで徹底的に戦い続ける事を前提に考えられた機体をどこの誰が採用しようと言うのですか? 」
 貴方方はどうする? と言わんばかり舐め上げる男の視線の前でバスクは絶句した。第一そんな物を正式採用した所で誰がそれに乗り込んで戦いに赴くと言うのか、大昔の大戦末期にとある小国で率先して行われた『神風攻撃』など戦愚の極みだと考えるバスクには三号機が持っていた根本的なコンセプトに呆れて口を噤むしかない。
「彼女が」
 男はそう言うと手の中の紙をもう一度きちんと折り畳んでバスクに向けて差し出した。無言でそれを受け取ったバスクはティターンズの藍色の上着の内ポケットへとそれをしまい込む。
「優れている所は、三号機の持つコンセプトを徹底する為に薬剤の開発にまで言及していた事です。二つの機体の異なったOSを一人の人間が制御する為には超人的な反応能力と思考速度が無ければ成立しない、その為に彼女は戦闘亢進剤のパイロットへの投与を前提とした運用を基本としていた。自分の理想を現実の物とする為には倫理を冒す事も厭わない、それが彼女を私の『同類』と認める根拠です」
「似た者同士が手を取り合って創るニュータイプ用兵器だ、さぞかし背筋も凍るほど恐ろしい物が出来るのだろうな」
 皮肉たっぷりにそう告げるバスクの顔が奇妙に歪む、しかし男はバスクの揶揄にも負けないほど辛辣な表情で鼻を鳴らしてそれを一蹴した。
「当然です、私の目指す強化人間を究極とするなら彼女の創り上げるプログラムはまさに至高。恐らくこの世に比類する物の無い兵器が出来上がる事でしょう。そして彼女をここへと連れて来た大佐は恐らく人類史に名を刻む功績を上げた者として後世に語り継がれるでしょう」
 絶妙のタイミングで放たれた侮蔑と称賛の対比は、一方的に遣り込められ続けて卑屈になっていたバスクの心境に微妙な変化を齎した。自己啓発で用いられる巧妙な話術は敵対する者の反抗心に隠れた自尊心を擽ってそれまでの負のイメージを一新させる、理屈を分かっている筈のバスクですらその効果はてきめんに現れた。

「貴様の要求はよく分かった。そう言う事ならば俺は直ちにお前の意見をジャブローに持ち帰って具申する事にする、早急にこの女をオークリーからここへと異動させる手筈は整えるが最低でも二週間はかかるだろう。それまで実験は凍結、再開はこの女が貴様の要求するプログラムを組む事に成功してからにしろ」
 自分でも現金な物だと分かってはいても高揚感は隠せない、少なくとも満足な笑みを浮かべるだけの心のゆとりを取り戻したバスクは、それでも案件を出来るだけ端的に男に向かって言ったのは敵の心理戦にいい様に操られたと言う恥辱を隠すためだった。それに幾らこの報告を急いで持ち帰ったとしても当のジャミトフは最前線の戦況と窮状を巡回視察する為にルナツーへと向かったばかりだ、彼が帰ってくるまでの間じっと大人しく手を拱かせておこうと言うのは今まで散々いたぶられたバスクの鬱憤晴らしの様な物だった。
「二週間? そんなに? 」
 憮然としてそう言い放った男の反応はバスクの想定の範囲内だ、思わず鼻で満足の忍び笑いを表した。
「貴様の不満はもっともだが閣下は今前線の視察に赴いている途上にある、ジャブローへ帰還されてからこの案件は審議に掛ける事になるから最短でも二週間はかかる。何もする事が無いのならばその優秀な頭を持ち寄って、この研究所の周りを緑化する事でも考えたらどうだ? 」
「それは ―― 」
 男の顔が微妙に歪み始める予兆を感じたバスクは最初、その変化が今まで見せた事の無い戸惑いを表現するのかと期待した。だがその瞬間を今か今かと待ち構えるバスクの目に映った男の顔は、身の毛もよだつような狂喜を張りつかせた猛烈な嗤いだった。
「 ―― 好都合。少なくともこれでジャミトフ閣下が貴方の作戦に関与していなかったというアリバイが成立する」

「なんの事だ? 」
 些か冷静を取り戻したバスクにしても自分を名指しされて物事の些事を決めつけられたら何の事か疑うしかない、それに作戦と言う言葉が加わればそれは軍事行動を意味する。一介の科学者が分け入っていい領分から逸脱したその発言に苛立ったバスクは、やっと取り戻した筈の落ち着きをかなぐり捨てて尋ねた。発言を強制するオーラを纏いながら対峙するバスクに向かって男は冷ややかな目を向けた。
「そんな正式な手順を踏まずとも、もっと確実でいい方法があります。 ―― 大佐、彼女が在籍しているオークリー基地は半径二十キロ以内に人の居留地が存在しない。つまりはそんな所で何が起ころうと誰にも知られる事は無い、という事です。違いますか? 」
「待て、貴様は一体何の話をしている? 」
 背筋を走る何本もの寒気がバスクの脳裏に警鐘を鳴らす。この男が自分のさせようとしている事も、何について言っているかと言う事もバスクには十分理解出来る。
「正式な手順以外に確実な方法などない。それに軍に所属している者ならばジャブローの命令は絶対だ、もし逆らうようなら即座に身柄を拘束して解雇 ―― 」
 そこまで告げてバスクは自分の言を振り返った。確かに今自分の言った処分は普通の連邦軍基地には有効だ、今までにも辞令に対して異議を申し立てた者はそうやって無理やりにいう事を飲ませて来た。だが、あの基地は ―― 。
「そうです、今までの軍の常識が唯一通用しないその場所こそが『忘却博物館』貴方方が反乱分子の種を世間から隔離する為に創り上げた租界です。そして彼女は貴方方のアキレス腱の生き証人、共に在籍していたパイロットの退役願いを予備役編入へと変更してでも外部へと洩らすまいとしたメンバーの内の一人です。だから彼女が軍の辞令を断ったからと言って処分をする事も出来ず、さりとて解雇する事も出来ない。言うなれば彼女は貴方方が最も手の届かない場所にいると言ってもいい」
 的を得ている男の指摘に愕然とするバスクの目に再び狂喜の面が焼きつけられる、確かにこれでは男の言う通りに『あの部隊』を使うしか手段はない様にも思える。だが ―― 。
「 ―― 馬鹿を言うなっ! 貴様、何を言っているのか分かっているのか!? 」
「勿論です、第一貴方がそれを拒む事こそ私には信じられない。1500万人は簡単に殺せても辺境の基地に属するたった200人程度の人間は殺せないとでも? 」
「30バンチはティターンズに叛旗を翻そうとする輩を粛正する為に見せしめにやった事だっ! 同じ連邦軍に所属する『同胞』を殺す等とは訳が違う、その様な事を俺が貴様の言いなりになって手を染めるとでも思ったかっ!? 」
「同じですよ」
 バスクの激昂をまるで子供の癇癪の様に聞き流した男がじっと顔を見上げた。ゴーグルの奥に隠れる動揺を見透かす様な瞳は氷の矢の様に、抗弁を続けようとするバスクの意思を深く貫く。
「サイド1の人々もこの地上に住まう人々も元を糺せば同じ人類、そして30バンチの1500万人もオークリーの200人も片やコロニー、片や租界に隔離されている。逆らったが故に粛清されると言うのであればオークリーの人間にもその資格があるのではないですか? 」
「だからと言って軍を俺の一存で動かせるか! そもそも自分達の仲間を率先して攻撃しよう等と言う部隊がティターンズの中にある訳が無かろうっ!? 」
「これだけ言ってもまだしらを切り通すおつもりですか? 」
 いかにも辟易した男が後頭部をがりがりと掻き毟って蓬髪を大きく揺らした。
「いるではないですか、ちゃんと貴方の直属の『そう言う事専門』に編成された部隊が」

 息を詰めて声を失ったバスクが凍りつく、男はその様を確認した上でおもむろに告げた。
「私がその事を知らないとでも思っていましたか? …… 貴方から殺されそうになっても私が貴方を頼るのは、貴方が私の要求に対して真摯に向き合ってくれている事を知っているからです。貴方は私が新たな技術的要求をする度に民間の研究所をその部隊を使って急襲し、私の要求を満たしそうな科学者や研究者を秘密裏に拉致している事を知っている。その部隊の創設を命じた閣下が地球にいない今は、貴方がその部隊の最高責任者だ」
 それは男の言う通りだ、だがあの『部隊』は30バンチ事件以降ティターンズに叛旗を翻そうとする勢力を未然に潰す為に創設された部隊であり、決してこの男の私利私欲の為に使用していい物では無い。それに何故この男はその『部隊』の存在を知っている?
 バスクの煩悶を見届けた男はそこで初めて真顔になった。人と言う生き物が迷い込んだ時にはより強い意思決定を持つ者が上位の立場に位置する、特殊部隊の遭遇戦に規定される指揮系統の確立方法を地で行く男の戦略はバスクの迷いを自分の思う方向へ誘導する事に成功した。
「それを何故私が知っているかを貴方が知る必要は無い。要は貴方がその部隊を動かす意志があるかどうかという事だけだ。『忘却博物館』を閉館する意志があるというのなら、私と貴方の野望は成就に向けての新たな一歩を踏み出す事が出来る」
 強い声で放たれたその言葉がバスクの耳から忍び込んで彼の自我を揺さぶった。自分の野望は連邦から得た恩も忘れて宇宙を跋扈しながら自分達の存在がさも優良種であるかのように振る舞い、主権を主張するスペースノイド連中の抹殺。彼らを殺す事に何の斟酌も持つ事も無いし、それが実現するのであれば例え走狗と呼ばれようともジャミトフからの命令に従うと心に誓った。そしてその為に歩かねばならない一本道は今、自分が最も嫌悪する相手によって遥か彼方の光にまで真っ直ぐに敷き詰められている。
「 …… もし、俺が今それをここで断ったら ―― 」
「失う物の無い私は別に。…… だが貴方は今後宇宙史に残るかもしれない最大の手柄を失う事になる。今私が創り上げようとしている理想の強化人間に適合する兵器が完成したならRXシリーズガンダム等足元にも及ばない、そうすれば連邦が対コロニー政策を進める上において絶対的な支配力を手中に収める事が出来る ―― それだけの輝かしい未来を貴方は自らの下らない感傷で棒に振る覚悟が? 」

 勝ち誇ったような男の表情を眼下に見下ろしながら、バスクは自分の選択が誤っていた事に気付いていた。自分がこの男の毒に侵されてしまう前に、やはりこの男を撃ち殺しておくべきだったのだ。自分が今まで積み上げてきたキャリアに猛烈なリスクを課し、そのリターンにこれ以上無いほど甘美な果実をちらつかせるこの男の事を、彼はたった一言でしかいい表わす事が出来ない。
 メフィストフェレス。
 錬金術師でもない自分がこの悪魔と契約する事は果たして正しいのか? しかしもうどうする事も出来ない。バスクの本心はこの男との契約を破棄する事よりも、自分に与えられる筈の戦果と世界と称賛を夢見てしまった。
「俺は、やはりさっき貴様を撃ち殺しておくべきだった。 …… 貴様は人間ではない、人の理想の影で其の欲望を食い物にする、只の悪魔だ ―― 」
 呻く様に本心を洩らしたバスクの顔を何事も無く見上げる男の顔に無垢な笑顔が浮かび上がる。それこそが本懐である事を示す彼の無言の肯定は、バスクに人の形をした悪魔の真名を告げさせた。
「 ―― エルンスト・ハイデリッヒ。科学に魂を売り渡した狂信者め」



[32711] Mother Goose
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:82bb5bca
Date: 2012/09/07 22:53
 朔の夜空に煌めく星星が息を潜める地上の闇をせめてもの慰めで飾り立てようと試みるその時、既に異変は始まっていた。人の手によって成し遂げられたもみの木の森は深い緑の影を用いて悪意を遮る、磁性フェライトでコーティングされたシートの下で男は小さく呟いた。
「ダンプティからブージャム1、作戦開始まであと10分」

 壁面を埋め尽くすモニターは既に死んでいる、いや死んでいるのはそれだけでは無い。中央監視室とその施設の人間に呼ばれるブースの全ての命が途絶えていた、ハードも、ソフトも。退屈な夜勤の時間をやり過ごす為に行われていたカードゲームはそのコールを待つまでも無く闇の中に散乱している。手にしたカードと無造作に積まれたチップ代わりの9mmの山を交互に見比べていた男は、蟹目の様な暗視ゴーグルを机の上に突っ伏したままの男の手に向けながら自分の喉元に手を当てた。
「ブージャム1、かんぬきは外した」
 プッ、と言う微かな音と共に耳に差し込んでいたイヤホンから音が途絶える。男は目の前の犠牲者の喉を切り裂いたばかりの血塗れのククリで手の中のカードを持ち上げると、それを無造作にテーブルの上でひっくり返した。ぬらりと血の池に浮かんだその五枚のカードが束の間浮かんで、すぐにずぶずぶと池の中へと沈んでいく。
「Aと8 …… 」
 人目をはばかる様に呟きを洩らした男の声が嗤い声にまで変わるのに幾許の時も用しない、小さく肩を震わせながら男はシュッと息を継ぐと血が滴るククリを鞘へと差し込んだ。
「そんな手で勝負しようとするからこんな目に遭う。 …… いい勉強になったな、あんた。ワイルド・ビルとあの世で仲良くな」


 暗闇の中にぼんやりと浮かぶ数字は休眠状態のコックピットから目の前に下ろしたバイザーへと投射されるGMTグリニッジタイム、1を頭に残る全てがゼロを示した瞬間にその男は低い声で告げた。
「『オペレーション・テステュード』スタート。フェイズ2、バンダースナッチ開始。これよりジャバウォックは陽動を開始する、ブージャムは『バンカー』を確保の上ハンガー正面へと移動。合流して撤収」
「 ” 陽動? ” 」
 不意に割り込んだ問い掛けに男の顔が暗闇に嗤う、バイザーをヘルメットの庇へと押し上げた男はいかにも手慣れた手つきで次々に計器のスイッチを跳ね上げた。休眠状態から目覚めたOSが全動力を復旧させる、控え目ながらも様々な色彩を放つ計器盤は男の浅黒い顔をぼんやりと闇に浮かびあがらせた。
「 ―― 訂正、殲滅戦だト―ヴ1。ボロゴーブの到着までに作戦区域より離脱、間に合わないと思われる者は敵味方関係なくその場で止めを刺してやれ。生きたまま焼き殺されるよりはまだましだろう」
 腰の下から突き上げて来る核融合炉の振動を感じながら男はスロットルをゆっくりと前方へと押し込む。動きに追随するインジケーターは緑から朱色へ、ミリタリーラインを越えた時点で右手のマニピュレーターを操作した。モニターを覆い隠していた分厚い膜が取り払われて、様々な数値の表示と共に丘の麓の闇に沈んだままの建物の影が浮かび上がる。

 突然の巨人の出現に驚いた鳥達が夜目も利かぬままに思い思いの方向へと一斉に飛び立つ、かまびすしい羽音を夜陰の空へと響かせながら逃げる影を追う様に黒いモビルスーツが立ち上がった。
 部隊章や数字すらも書き込まれていないその機体は一年戦争を席巻したプロトタイプ・ガンダムの意匠を継ぎ、少し丸みを帯びたアーマー部と各所に設けられたセンサーの数が違う事を除けばほぼ同一と言っても過言ではない。ジム・クゥエルRGM-79Qと呼ばれるティターンズの主力機は夜戦用に新設された、その特異なシルエットの頭部を素通しになった幹の間から覗かせて、ゴーグルの奥に仕込まれた三種類ある単眼の一つに火を入れた。ターレットが回転してOSへと接続されたそれは情報を収集する為にフォーカスモーターを目まぐるしく動かして焦点を合わせる。取り込まれた映像は蒼白い陰影を輪郭として敷地内の全容を浮かび上がらせる。
「ト―ヴ1,2。敷地を左手に迂回して目標BとCへ。ラース1、2は正面目標Aを制圧。ダンプティはハンプティと合流、両隊の援護に回る」
「 ” ずるいな、隊長。また高みの見物ですか? ” 」
 陽気な若い声が笑い交じりでダンプティの配置命令に不満を口にするが、男の表情は変わらない。スターライトモードで映し出された建物の映像を険しい表情で眺めながら、この後に起こるべき変化を待っている。
「 ” ラース2、金が欲しくないのなら最初から隊長にそう言っとけ。だが今日の作戦はいつもと違って実入りがでかい、なんならお前の出来高を俺が貰ってやっても構わない ” 」
「ト―ヴ2、お前のその自信は奴を見てから考えろ。 ―― 来た」
 ダンプティは低い声で嗜めると画面の一角に浮かび上がった明るい光を凝視し、次いで腕時計へと目をやった。ルミノールの塗られた針は正確に時を進めている、こちら側の起動からまだ五分しかたっていない。さすがに早い。
「『エイリアン』のお出ましだ」

 その頭部は大昔に大ヒットした映画の中の異星人にそっくりだ。別にそのデザインに共鳴したり模倣をしたりと言う事では無く、単に前方視界と重量配分を適正に保つ為に採用されたデザインではあるのだがずんぐりとした上半身から異様に前に張り出した頭部はまさにそれを彷彿とさせた。戦闘時の全面視界を確保する為に採用されたアクリルキャノピーがハンガーの僅かな明かりを受けてぬらりと光る。
「ダンプティから観測員チェシャー、『ANUBIS4』を視認した。正面ハンガーより二機、後は? 」
「 ” 報告書通り緊急発進は二機一組ツーマンセル、各ハンガーより出撃中。火力平衡ファイアバランスは六対四、数が多いが大丈夫か? ” 」
「余計な心配は無用だ。連邦規格外の八十ミリも ―― 」
 ダンプティが告げた途端に、画面に浮かびあがったモビルスーツの両腕が火を噴いた。曳光の尾を引いてすぐ傍の地面へと着弾する機関砲弾があっという間に木々を薙ぎ倒して猛烈な砂埃を巻き上げる、視界を遮られたダンプティはカメラを赤外線へと切り替えた。
「 ―― 当たらなければ意味はない。それよりこの機に乗じて隊を展開する。 ―― 司令車6ペンス、対戦勢力図及び情報管制」
「 ” 現在研究所を中心に半径百キロ圏内に於ける民間車両及び航空機の運行及び存在は皆無。作戦終了後のマスコミへの情報提供は想定基準ケース11にて対応する事が情報局より事前に通達、 …… 現在承認されました ” 」
 落ち着いた女性の声で流れ込んで来るその言葉に眉を顰めるダンプティ、その表情の変化を説明する様にト―ヴ1が呟く。
「 ” 武装したジオン ―― を名乗るテロリストがバーゼル郊外のCDC(疾病管理予防センター)を占拠。これを包囲した鎮圧部隊と交戦の後、自決と周辺地域の汚染を画策してセンター最深部に保管してあった『GGガス』を含む全ての致死性兵器を開放 ―― ” 」
「そう言う事だ。負けた連中の矜持を穢す様でいささか心苦しいがここは素直に利用させて貰う。それが ―― 」

 巨大なブルパップライフルが木々の放つ炎に揺らめく、左手が銃身のボルトを握り締めると一気に引き切る。巨大な金属音と共に大きく開いた廃薬口から鉄と血の匂いを放つ弾頭が顔を出す。
「 ―― 敗戦国の、宿命だ」
 ダンプティはそう言うとボルトから手を離した。バネによって瞬時に閉じる開口部は初弾をチャンバーへと送り込んだ事を知らせるピンを持ち上げる、ダンプティのパネルの横に埋め込まれたライフテレメトリーが全員の生理的変化を表示する、ト―ヴ2はいつもより心拍数が高い、ラース1は、いつも通り。
 波打つ線描に一瞥をくれてダンプティはモニターの向こうで右往左往を繰り返す哀れな民生機動兵器の無様な姿を睨みつけ、しかし心の中では彼らが被るいわれなき暴力に対して僅かながらの憐憫を憶えた。可哀そうに、彼らがこう言う物を極秘に開発しようとしなければ、こういう目にも会う事はなかっただろうに。
「ではいくぞ」
 惜別の念は一瞬、彼は心の奥底へと今まで出会った不幸と共にそれを押しこめるといつもと変わらぬ怜悧な声で、それを宣言した。
「『W.W.Wウィー・ウィリー・ウィンキー』、状況開始オンボード

「馬鹿者っ、何故発砲した!? 」
 先行する一機の脇をすり抜けて後方のANUBIS4は前へと躍り出た。躍り出たとは聞こえはいいが重い上半身を支える為の二脚は以上に大きく動きも鈍い。キャクストンは大戦時に自分の愛機として扱ったジムと比較しながら、契約と特許でがんじがらめになった開発部と本社の無能さに心の中で毒づいた。
 せめて連邦に譲り渡した『MSM-07ズゴック』の基礎データがあれば、こんな鈍重な機体にはならなかっただろう。
「 ” す、すみませんっ! 無我夢中で気が付いたら引き金を ―― ” 」
 若者のおろおろした言い訳を話半分に聞き流しながらキャクストンは対物センサーの感度を上げる。遠目に見える林の中を移動する巨大な物体が確かに三つ、彼はそれが自らの戦闘経験からモビルスーツだと直感した。ソロモンでもア・バオア・クーで何度も経験した吐き気を覚えながら、それでもキャクストンは自分の中に生まれた疑問と対峙する。
「なぜモビルスーツがここにいる、それも二小隊も。 …… まさか、ジオンの残党? 」
「 ” ジ、ジオンの残党って、何でこんな連邦の奥深くまで彼らがっ!? ” 」
 キャクストンの呟きに反応した若者は躊躇う事無く声に恐怖を顕した。だが彼の事を臆病者だと罵る事は出来ない、自分も、同じだ。
「落ち着くんだエミリオ、まだそうと決まった訳ではない。もしかしたら新型装備のこの機体の評価試験に本社が抜き打ちで模擬演習を仕掛けているのかも知れない。それならば中央監視室から連絡が無かった事も頷ける、奴らもグル、と言う事になるからな」
 自分自身にそう言い聞かせる様に若者に説くキャクストンの目は厳しい、そんな希望的観測がただの慰めに過ぎない事など自分の勘がよく分かっている。確かにそういう可能性も無くはないのだが、それにしてはやり方が大掛かりであざとすぎる。嘗て一年戦争で『ジオンの三又』として名を馳せたMIPも今では連邦に吸収された一民間企業に過ぎない、夜勤手当すら削ろうとする本社にそんな甲斐性があるものか。
 だがその不安を口に ―― とりわけこの若者の前でする訳にはいかなかった。自分が極秘裏に開発された重モビルスーツのテストパイロットの責任者と言う事も一つ、そしてそれ以上に彼に対してその背中を見せつけねばならない理由がキャクストンにはある。
「マニュアル通りに対処していれば大丈夫だ。俺達の仕事は他の機体が立ち上がるまでの間、ここから一歩も敵を通さないでいる事。余計な事は考えるな」
「 ” で、でも ―― 義父さん” 」

 ―― しっかりしろ、エミリオ。お前はイライザの夫でジュリオの父、一家の未来を支えていくお前がそんな事でどうする?

                               *                               *                               *
 
 死を覚悟した一年戦争、ア・バオア・クーと言う最後の激戦を戦い抜いて生き残ったキャクストンに齎された一報は自らの退役勧告と地球に残した愛娘の懐妊と言う悲喜こもごものドラマだった。平時であれば一家に降りかかった不祥事と怒りを露わにし、憤りのままに振る舞う父の姿を娘とその不埒な男へと向けかねない一大事なのだが、キャクストンはそうはならなかった。
 人類と呼ばれる半分の人間が世界から消滅し、その愚行を止めようとした戦いで大勢の仲間と共を失った。命を戦火の中から拾い上げて還って来た彼にとって自分の娘が手にする事の出来た愛情と、血脈の繋がる奇跡を得ると言う事は無上の喜びとなって彼の感情を昂らせた。
 軍からの猛烈な勧誘 ―― 生き残ったと言うだけで一騎当千の価値があるとでも思ったのだろうか ―― を一蹴してキャクストンは野に下る事を選択した。軍に残ればその経験を生かして訓練教官としての道もあったのだろうが、それよりも彼は残された家族を見守りながら余生を過ごす事を強く望んだ。妻の命を守り切れなかった韜晦と、それを補って余るほどの孫の存在は彼の胸に平和への渇望を齎したのだ。
 生きてさえいれば運良く手に入れた未来と向き合える、天職として選択した軍人と言う道をキャクストンは僅かな、しかし確かなぬくもりと引き換えにして生きる事を誓った。
 しかし現実は彼が思った以上に厳しい仕打ちを退役軍人達に与えた。権利として執行される筈の軍人年金の支給額は連邦の国庫のひっ迫によって満額には届かず、それは長年積み立てて来たキャクストンとて例外では無かった。契約書の隅に小さく書かれていた『連邦の経済事情による大幅な支給額の変更の可能性』と言う特約事項は正に連邦の現在の状況を予見していたかの様に効力を発揮して、退役軍人達が起こす訴訟の数々を次々に棄却へと追い込んだ。
 尾羽を打ち枯らして貧困へと肩を落とす自分の戦友達を眺めながら、平和とはここまで人を変えてしまうのかと感慨にふけるキャクストン。その対象者であるにも関わらず彼らと袂を分かてたのは、キャクストンが彼らよりもより激しい激戦区を潜り抜けて来たからかもしれない。
 人生を達観した彼にとって金銭とは意欲を掻き立てる要素を持たなかった。ハンブルグのこじんまりとしたアパートの一室を借りて、たまに様子とほんの少しのこずかいをせしめにやって来る娘と孫の顔を眺めながらキャクストンは、このまま穏やかに妻の元へと旅立てる日を想像しながら ―― 。

「再就職先はMIPドイツ・総合技術研究所、場所はここからそう遠くない場所にあります。内容は現在開発中の人型武装重機のテストと運用試験、そして搭乗する警備員達の育成。 …… この話、キャクストン元少佐には真に打って付けだと私は考えておりますが」
 ふむ、とキャクストンはテーブルを挟んだ目の前に座るスーツ姿の男をまんじりともせず眺めていた。内容を言葉短く的確に話すのは軍人にありがちの癖だが、この男は人事部の一地方支部で働く斡旋管理官だ。
 文官には出来ない物言いを続けるこの男にキャクストンは嘗ての仲間の匂いをかぎ取っている。誠実そうな瞳で口を噤んだままじっとキャクストンの返事を待つその男に向かってキャクストンは尋ねた。
「その内容を知る前に一つ貴方にお伺い ―― 」
「『聞きたい』で結構です、少佐殿。なんなりと。 …… 貴方のお噂はかねがね耳にしておりましたので是非ともいつかお会いしたいと思っておりました」
 小さく手を上げて言葉を挟みこむその態度には不愉快さが無い、キャクストンはその物腰に感心しながら小さく笑って彼の申し出を受け入れる事に決めた。
「こんなくたびれた老人でがっかりしたのではないのかね? 嘗ての『白頭鷲スクリームイーグル』も戦争が終わればこんな物だ。老けこむ歳では無いとは自分でも思ってはいるが、本人にやる気が無いのでは働きようが無い」
「その眼光は未だに撃墜王の物だと私はお会いして確信しました。元ルザル艦隊旗艦『ディザルバ』所属、第一強襲突撃隊中隊長。ロリス『ザ・イージス』キャクストン少佐」
 羨望を携えて昔の身分を語る男に向かってキャクストンは両手を広げて肩をすくめた。おどけて見せたキャクストンの態度にお互いが打ち解けた笑顔を浮かべて顔を見合わせる。西日に翳るキャクストンの笑顔に向かって、男は気を取り直した様にキャクストンに尋ねた。
「で、申し訳ありません。聞きたい事とは? 」
「むう、私事で大変申し訳ないのだが ―― 」
 心の底から恥じいる様に目を伏せたキャクストンの白髪混じりの頭に目を向けたまま次の言葉を待つ男に、キャクストンは言った。
「その警備員達の中に、エミリオ・エスターと言う者は含まれているかね? 」

「 ” お父さん聞いて、あの人がとうとう出世したのよ ” 」
 イライザの声がキャクストンの脳裏に響く、電話の向こうで孫の嬉しそうな声が被さってくるのはきっとイライザの興奮があの子にも伝わっているからに違いない。愛すべき者達の混声合唱を眉を顰めて聞きながら、キャクストンは尚も捲し立てる娘の言葉に頷いた。
「それはおめでとう。しかしこのご時世に出世をするとは彼もなかなかの強運を備えていると見える、私などは毎月の退役認定に出向く度に支給額が減額されていると言うのに」
「 ” 生活、苦しいの? もし父さんさえ良かったらあたし達と ―― ” 」
 おっと、と心の中で自分の発言に自制を掛ける。いかんいかん、素知らぬ素振りで軍の決定に従いながら心の底の恨み辛みが思わず声に出てしまったと見える。こんな事を言ってもイライザを心配させるだけだと言うのに。
「生憎だがそれには及ばん。老人一人が息をして生きていくだけのお金は頂いている。 ―― それよりも委託の警備会社に勤める彼がお前を喜ばせる、どれ程タフな出世をしたと言うのだね? 」

 エミリオの勤務していた警備会社がMIPに吸収合併され、それに伴い大幅な配置転換が行われた事によって彼は新設される研究所の警防部へと配属されたのだと彼女は言った。だがキャクストンはその人事の裏にある異様なきな臭さをかぎ取っていた。
 MIP社と言えば今でこそアナハイムに吸収されはしたが元々は『ジオンの三又』を名乗る一角として名高い軍需企業だ、それだけ巨大で、しかもモビルスーツ関係を開発生産していた会社が警備部門の一つも持たない等有り得ない事だと思う。全ての権利を移譲して民生企業としての道を一から歩んでいる彼らにとっては警備等委託で十分事が足りる筈なのだが、それが何故今になって買収などと言う大掛かりなM&Aを畑違いに仕掛けたと言うのか?
 心の中に湧き上がる靄は彼が戦場で生き残る為に必要だった第六感とも言うべき物、それ無くして今の自分の幸せは有り得ない。しかしキャクストンは生まれて初めて自分の勘を封殺して愛する娘の喜びに心の底から賛辞を贈る事に決めた。
 自分の老婆心で娘の得た幸せに水を差す様な真似をしたくない、と思った事が一つ。そして彼は命の拠り所としたその感覚を至極馬鹿馬鹿しいと思っていた。
 ―― ここは戦場では無い。もうそれに頼って生きる時代は終わったんだ、キャクストン。

 手なれた感じで携帯端末を開いてデータの照会を始める男の手元を、不安に歪む口元を両手で隠す様に組んだまま見つめるキャクストンの目は眼光鋭い。願う事ならば自分のその勘と娘の会話の接点がただの一つも交わっていない事を切に祈りながら、嘗ての撃墜王はMPI社が警備会社を買収するに足る唯一の可能性を頭の中に描いていた。
 それは仲間との会話の中でしばしば出会う事のある他愛のない事を発端とした。ジオン残党軍と連邦軍の小競り合いは現在進行中の縄張り争いにまで発展しつつある、その中でジオンは自分達の生産拠点を確保する為に民間企業をターゲットとしたテロを仕掛けていると言う噂であった。
 当然の事ながら連邦勢力下の各企業は軍に対しての庇護を求める、しかし既に疲弊の一途を辿る連邦軍はのらりくらりとその訴えを躱しながら一向に手を打たない。業を煮やした彼らは自警団紛いの組織を自主的に編成して対処を始めていると言うのだ。
 それが同じ退役軍人の仲間内から零れて来た話だと言う事がその話の信憑性を裏付けた。彼らは自らの食いぶちを確保する為に絶えずアンテナを張り巡らせ、そう言う話の影で動く募集の可能性を模索し続けているからだ。その時は他人事と聞き流していたキャクストンも、いざ自分の身内にその現実が降りかかって来たとあっては落ち着いていられない。
「 …… エミリオ・エスター警備主任、年齢二十五歳。お知り合いですか? 」
 端末の液晶をさりげなく読み上げた管理官の声が胸に刺さる棘の様にキャクストンを襲った。やはりそういう事か、と心の中で呟く彼の前に浮かびあがった真実は連邦軍も絡んでの大掛かりな業界の方針転換を示唆していた。
 軍事機密として厳重に保管されていなければならない筈の兵器データの意図的なリーク、そしてそれがどういう訳か元ジオンの軍需産業へと流れて再びモビルスーツ開発への参入を図っている。開発されている『人型武装重機』なる代物がどう言った物かは分からないが、少なくともそこいらの工事現場で稼働しているパワーローダーにマシンガンを取り付けただけという事はないだろう。
 連邦軍の人事課に属するこの男が話を持って来たという事を鑑みれば。
「 …… 私の義理の息子でね」
 キャクストンの言葉で初めて端末から視線を上げた男の目には微かな憐憫が混じっている、気付いたキャクストンは自分の予感が正しいと言う事を知った。
 やはり連邦軍はその役割を自らの機密と引き換えに民間へと移譲しようとしている、そして彼が見せた憂いの瞳はそこで警備を担当する者達が戦火の中へと叩き込まれる可能性を示している。
 戦争経験の無い、エミリオや若者達が自分達も予期せぬままに。
「 …… よ、っと」
 ソファの肘かけで体を支えながらキャクストンはゆっくりと立ちあがった。見上げる管理官を尻目に西日の差し込む窓際へと体を進めると、そのまま暮れなずむ町の景色へと遠い目を向けた。眼下の路地では夜の訪れと競い合う様に子供達が戯れて一日の終わりを惜しんでいる、彼らは日が暮れたら温かい明かりの灯った我が家へと我先に帰っていく、父や母が待つ事を疑いもせずに。
 そしてそれはイライザにとっては当たり前の事では無かった、軍人としての自分は常に軍を中心に生き続けた挙句に彼女から母を奪った。どれだけ不憫な思いを自分の為に彼女が受けたかを考えるとどんなに頭を下げた所で赦してもらえる物では無かったと思う。
 その彼女がやっと手にしようと言う確かな未来を守る為に、自分が為さなければならない贖罪とはなんだ?
「 ―― この話、お受けしよう」

「よろしいのですか? 」
 声を顰めて尋ねる管理官にキャクストンは朱色に染まる横顔を見せつけながら笑った。
「この話を私の所へ持って来たのは君の方だろう、そしてこの話が私にうってつけだとも言った。 …… この話に隠れている潜在的な危惧を少しでも薄める為には、彼らを率いる為の指揮官が必要だ。少なくともモビルスーツ一個小隊に対して持ち堪える事の出来る指揮能力と経験を持った」
 自分の意図を理解してくれたキャクストンに向かって男は小さく頷いた。目の端に映る男の引き締まった表情を伺いながらキャクストンは、自分に言い聞かせる様に呟いた。
「『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』とは誰が言った言葉だったか。だが私は敢えてその言葉に異を唱えよう」
 そう言うと窓の傍から体を離したキャクストンは男の傍まで歩み寄ると、大きく武骨な右手をゆっくりと差し出しながら言った。
「ただで消え去る訳にはいかない、老兵は後に続く若者達の為にその使命を全うしなければならないのだと」

                              *                                *                               *

 ペダルを踏み込む事でパワーが上がり、巨大な足が前に出る。キャクストンは鈍重な機体を目一杯の速さで前へと進めると、未だに暗闇に向かってきょろきょろと頭を向けるエミリオの隣に立って機体の一部をボディに押し当てた。
「エミリオ、お前は俺の背後で援護に回れ。モーションモードをミリタリーに、回路ポジティブ。EEGリンカー作動」
 エミリオに命じる言葉と同時にキャクストンの手がパネルのスイッチを次々に押し倒すと、有機ELディスプレイが夜目を遮る事無くほんのりと発光して機体の操作環境が変化した事をパイロットに示す。ヘルメットのバイザーを下ろすと目の前に浮かびあがる世界は朱色と白の世界へと変化した。
 センサーによって取り込まれる赤外線映像はAIによって立体的な画像としてバイザーの裏へと送り込まれ、それは両目に嵌めこんだコンタクトレンズへと直に投影される。連邦軍には無い直視型の暗視システムはより精細でリアルな映像をパイロットに伝える事が出来た。
「機体は重いがそれを補うだけの電子装備を備えているAMUBIS4がそう簡単にやられてたまるものか。それに ―― 」
 股関節の固定ロックが外れて両ももの付け根が腰部ブロックから解放される、稼働域の広がった下半身を支える為に巨大な油圧シリンダーが大きな息継ぎをして収縮を繰り返した。オートバランサーが正常に作動している限り重心の低いこの機体が倒れる事はない、パンタグラフの様にフレキシブルに動く二脚を動かしながらキャクストンはエミリオの前へと進み出る。開けた視界の先に潜む何者かの影を追って対物センサーが感度を上げた事を示すゲージを上昇させた。
「脳波との双方向パラレルを実現したこの火器管制装置に敵うモビルスーツなど存在しない、見つかった時が敵の最期だ」
 目の前で動くレティクルは絶えず数値を表示して目まぐるしく視界を駆け巡り、同期する両手の80ミリアデン砲は闇の中に漂う土煙に向かって油断なく巨大な銃身を突き付けている。
「 ” 義父さん、一人で前に出るのは危険です。ここは並列防御で火力を広範囲に展開した方が ―― ” 」
 追い縋る様に機体を近づけて来るエミリオの提案にキャクストンが思わず頬笑みを浮かべる。なるほど、ここ何カ月かの自分のシゴキも彼にとっては決して無駄では無かったと言う事か。
「通常ならば確かに」
 キャクストンはまるで昔の小隊指揮官に戻った時の様な口調でエミリオの提案を一部肯定した。若者の提案を受け入れてそれに自分の経験も加味してより建設的な方針へと導く、キャクストンの小隊が最後まで生き残った秘訣だった。
「しかし敵の姿が見えない以上、その経験値は自らと同等もしくは遥かに上位にあると考えた方がいい。しかもこちらは目下の所敵に先手を取られている、この不利を覆すのなら先ずは縦深防御で火力を集中させておいた方が得策だ。ポイントマンが楯になる事で後方の援護は守られるし、前衛が被弾している間に後衛が敵を見つけて仕留められる」
「 ” そんなっ! 義父さんを僕が見殺しに出来る訳が無いっ! ” 」
「残念だがそれが実戦と言う物だ。勝ちを手にする為には何かを手放さなければならない、全てを欲すれば人は自ずと臆病になり、そこを死神に付け込まれる」
 まるで他人事のように死を語りながらキャクストンは尚も前へと進み出た。敵の火線で諸共にされない為にはどうしてもエミリオとの距離を離す必要がある、敵の目を引き付ける様に存在を誇示するANUBIS4の巨大な足が地鳴りを上げて夜の大地を震わせた。
「それにお前は俺の事を過小評価し過ぎだエミリオ。これでもア・バオア・クーへ一番に降下した101空挺の生き残りだ、あの時に比べればこのご時世の戦いなど ―― 」

 目の前に現れた表示は耳よりも早かった。夜の帳を劈く様に鳴り響いた鵺の羽音は遠くで聞える野太い轟音とほぼ同時、着弾の花火はその直後にキャクストンの目を灼いた。
 この非常時に明かりを灯す事無く沈んでいた照明塔の鉄骨が火花を上げて砕け散る、金属の千切れる金切り声はいとも簡単に鉄塔の嵩を減らして地へ投げ捨てた。弾け飛んだ電線から発する筈の火花は無く、それがキャクストンには不気味に映る。いかなる事態へと陥っても緊急時の電源供給だけは途絶しない造りになっているとこの研究所の警備責任者から聞いた事がある、いかなる事態とはこの様な事を想定してはいなかったという事なのか?
「 ” 義父さんっ! 一体これは!? ” 」
 ヒステリックに耳元へと届く義理の息子の悲鳴にキャクストンは顔を顰めて眉を顰めた。落ちつけ、と心の中で自分と彼を嗜めるキャクストンの意識は事態の解析へと全力を注いでいる。
 確かに照明塔が何者かによって破壊された事は一大事だ、非常電源が途絶えている事も気掛かりだ。しかし何よりキャクストンを震撼させていたのは砲弾の飛来音に重なって鳴り響いた砲声だった。
「この、砲声は」
 アンノウン等では無い。知っているのだ。自分が経験した数多の戦場で常に自分達の背後から敵を脅かし続けた後方支援機、モビルスーツとして生まれながらその存在を決して軍に認めて貰えなかった、不遇の経歴を持つ機体。
「120ミリキャノン、ばかな。何故連邦軍がここにいる? 」
「 ” それを耳で聞いて解る貴様は、元連邦軍の兵士だな? ” 」

 無線に割り込む不気味な声がキャクストンとエミリオの肝を凍えさせる。最大まで感度を上げた対物センサーの策敵音を嘲笑うかの様に、黒一色のジムはふらりと闇の帳から姿を現した。ロックオンマーカーの反応を物ともしない敵の態度に徒ならぬ気配を察知したキャクストンはセミオートでの操作から自分が慣れ親しんだマニュアルでの機体操作へと切り替える、目視による照準に切り替えた途端にそのジムはまるで飛びこむかのように一気に間合いを詰めた。
「何とっ!? 」
 敵の突然の侵攻にさすがのキャクストンも狼狽する、左右のイナーシャが唸りを上げてシリンダーを廻し始める。だがその火口から80ミリ砲弾を吐き出す前にジムは白兵の間合いへと飛び込んだ。
 鈍い両脚を巧みに操って自分に不利な間合いを少しでも解消しようとするキャクストンの六感に届く得体の知れない殺気、思わず差し出した左手が敵の振り上げた巨大な金属の刃にぶつかって大きな火花を撒き散らす。
「黒い山刀マチェット夜襲専門部隊ブラックウィドウか!? 」
 噂には聞いていたが、と記憶の底から大戦中に暗躍した特殊部隊の目録を弄る。激戦を彩る業火の裏で密かに敵の背後を突いて致命の一撃を繰り出すその部隊の事をキャクストンは噂でしか知らない、だが勝利の影には必ず付いて回る不可思議な因子は生き残った事の神への感謝によってその悉くが記憶の内から掻き消された。 ジオンの海兵と双璧を為す彼らは標準装備のビームサーベルの代わりに巨大な黒い山刀を携えて敵の本陣を背後から急襲して頭を潰すのが主任務、しかし完璧なチームワークと装備で挑んだ何度目かの戦いで不意に起こったほんの一つの偶然が彼らを壊滅させたのではなかったのか?
 銃身を保護する為のカバーが斬撃の衝撃で宙を舞う、キャクストンは目の端へと消えていくそれらのデータを無視してトリガーを押しこんだ。シリンダーに装填された六発の80ミリが次々に撃発、マニピュレーターと同じ大きさの射出口が轟然と火を噴く。駐退機(発射した際に生じる反動リコイルを砲身のみを後座させることによって軽減するための装置)の反動がANUBIS4の上体をガクガクと震わせて三発に一発だけ混じる曳光弾は至近にある敵の胴体を確実に貫通する、キャクストンの戦歴と経験は近未来の予想図をそこにはっきりと描く事が出来た。
 だが、砲口から弾が飛び出す前にジムの胴体は軸線上には存在しなかった。瞬きすらも許さないその刹那に敵の機体は滑る様に闇を駆け、追撃の為に放たれたエミリオの弾をピポットバックで次々に躱す。まるでモビルスーツの物とは思えない鮮やかな機動に唖然としたキャクストンは焦りを弾道に滲ませたエミリオの動きに気が付くのが遅れた。
「止めろエミリオ! 無駄弾を撃つんじゃない、敵の思うつぼだぞっ!? 」
 口元のマイクに向かって怒鳴るキャクストンの脇を駆け抜けていた曳光弾の炎の帯がそれでやっと一段落する、距離を離した相手に向かって自らの筒先を向けながらキャクストンは目の中へと投影されるデータリンクを次々に読み取った。シルエット・重量は確かに現主力機として採用されているジム・クゥエルとほぼ同じ。『ほぼ』と言うのはただ一点、頭部に備えられた多数のセンサーの在る無しだ。まるでパンクヘッドの様な頭部と俊敏な機動性だけがキャクストンの知るジムとの相違点だった。
「 ” 発射速度の遅いアデン砲で助かった。もしあんたがジムに乗っててマシンガンでもぶっ放していたら今の一撃で決着はついていたかも、だ ” 」
 黒い山刀の切っ先をキャクストンへと向けながら、まるで演習後の反省会の様な台詞を吐く得体の知れない相手。しかし男の言葉は逆に『その装備である以上、お前達に勝ち目はない』と宣言しているも同然だった。ANUBIS4唯一の武装である80ミリを絶対の間合いで躱されてしまったらこちらに為す術はない。
「貴様ら何者だ!? 何故連邦軍特殊部隊のブラックウィドウがここにいる、答えろ先鋒リード! 」
 軽快な足捌きと弾幕からの後退の潔さにキャクストンは自分の対峙している男が先陣を切る役目を果たす先鋒だと判断し、果たしてその推測は当たっていた。イヤホンの奥でククッと嗤う不気味な声と湧き上がる物を噛み殺す様な声がキャクストンの胃袋を恐怖で満たす。
「 ” …… その名を聞くのは本当に、久しぶりだ。だがそれが分かったのならば知ってる筈だ、俺達は既に全滅したと言う事を。 …… つまりあんたの前に立っている男は、地獄の底から這い出して来た亡者や魑魅魍魎の類、という事になる ” 」
 前に差し出された刃が手首を支点にグルンと回る、刃を上に向けたクゥエルはそのままだらりと手を下ろすと融合炉の唸りを大きくして膝を曲げて構え始めた。
「 ” そしてあんたは大戦の生き残り、それもかなりの手練と見える。ならば分かる筈だ、俺達が何をしに来たかという事も ” 」
「 ” 義父さんっ! 他に出撃したANUBIS4の反応が次々に消失っ、六号機、五号機ロストっ! ” 」
 ズズン、という地響きと建物の向こうの景色を焦がす巨大な花火、それは恐らく撃破されたANUBIS4の弾薬が誘爆した証拠だろう。融合炉が爆発すれば自分達はもちろんこの敷地内が全て消滅しかねない、緊急停止用の安全装置スクラムブレークは幾度ものテストで想定される危機に対して十分な効果を発揮してはいたがそれは平時においての事だ、有事の際にはそんな物が確実に機動する保証はない。しかし何事も無く状況が経過していると言う事は ―― 。

「エミリオ、後退してハンガーへと向かえ」
 敵の目的、実力、戦力。その全てが自分の指揮下にある部隊と格段の差がある事を理解したキャクストンは沈痛な表情でエミリオに命じた。マニュアルによる照準は炎の明かりを受けてぬらぬらと光る黒いクゥエルの胴体の真ん中で射撃準備が完了している事を示す点滅を繰り返す、トリガーに当てた親指が小さく痙攣している。
「 ” そんな、出来ませんっ! 義父さん一人をここに残して僕だけが生き残ったら、僕はイライザに何と言って謝ればいいんですかっ!? ” 」
「あれも軍人の子だ、いざという時の覚悟は幼い時から心得ている。それに ―― 」
 酸っぱい唾が喉の奥に溢れて息苦しい、久しぶりに味わうアドレナリンの味を舌の上で転がしながらキャクストンは言った。
「まだ生き残れると決まった訳ではない。敵の目的は」
 キャクストンの両側でガラガラと音がする。背中に背負った弾薬パックからシリンダーへと80ミリが流れ込む音、六つのチェンバーが満たされたと同時にブルーのランプが目の前で点灯した。
「 ―― 俺達の、殲滅だ」

 その目的は一体何だ、と自問自答の末に現れた不毛な回答はキャクストンをうんざりさせた。作戦中の軍人がそんな事を敵に教える訳が無い、目的や思惑はここにいる彼らの上に立つ者のみが知ることであり、部品や歯車がその事について斟酌する必要はない。嘗ての自分自身もそうだったように。
「いいか、後退してハンガーまで辿り着いたら絶対に明かりをつけるな、無理やりにでも扉をこじ開けて中へと逃げるんだ。そうしたらお前は生き残っている連中を集めてシェルターを目指せ、あそこならば三・四十人入っても二週間は立て篭もれるし外部との無線連絡もとれるだろう」
「 ” 義父さん、そんなっ!? ” 」
「反問は許さん。俺がここで斃れてもお前がそれをやり遂げればこちらの勝利だ …… そうだな、連邦の士官? 」
 百戦錬磨のキャクストンが仕掛けた誘導尋問は効果的に敵に作用した。愉悦のオーラを振り撒きながら肩を揺らしたクゥエルは四肢の関節を支えるシリンダーを笑い声の様に軋ませる。それが突撃の際に行うモード変更による物だと言う事がキャクストンには分かる。自らの行動の肯定といよいよに迫る死地の開幕を肌で感じ取りながらANUBIS4に許された唯一無二の武器を、背を丸めた死神の影に突き付けた。
 だがその一瞬の静謐は背後で発生した大音響と出撃を周囲へと示す黄色い回転灯によって破られた。明暗の境界を鮮明に描くLEDと照らし出される敵の姿、一瞬で変わる世界の景色にエミリオの恐れは消えて微かな笑顔さえ浮かび上がる。
 いかに電子装備が優れてはいても操るのは一己の人であり、暗視装置と言う機械を通しての景色では無く肉眼で見る事の出来る世界は安心感を齎すのだ。独立回路として設置された緊急出撃用の電力供給システムがこれ程役に立つとは思った事が無い。
 しかしその恩恵に与るべき筈のエミリオの義理の父はその世界の只中で敵と対峙しながらそれを享受しようとはしない。寧ろ有り得ないほど取り乱した声で背後を護るエミリオを飛び越えて、今まさに目を覚まそうとするハンガーに向かって怒鳴り声を上げた。
「馬鹿野郎っ! こんな所で明かりなんか点けるな、奴らの狙いは俺達の『殲滅』だと言っただろうがっ! 」

「全てのハンガーの位置を確認、A・B・Cブースまでの距離およそ二千。仰角調整一番二十五度、二番二十八度。包囲2-6-2」
 真っ暗な世界で呟かれる声音はまるで機械だ。目の下まですっぽりと覆った巨大なヘルメットから伸びる無数のコードは火器管制と直結され、射撃に必要なありとあらゆるデータが3D 画像でゴーグルへと送り込まれる仕組みになっている。大気の流れ、自転速度、気圧変動による空気抵抗の増減までも線描で表現される景色をじっと眺めながら、RX-75ガンタンクn²の形式番号を頂く長距離支援砲機動兵器のパイロットはコントロールスティックの端に突き出たトリガーに親指をそっと重ねた。
「 ” 観測員チェシャーから『ハンプティ』。風速2.5ノット西から北東へ、誤差修正2クリック。Aブース前で接敵中のラース1に注意 ” 」
了解コピー
 この暗闇の森の何処かで自分と同じ様に息を顰めて戦場の成り行きを観察する、陰気な顔の二人の観測員の顔を思い浮かべてハンプティは僅かに覗く口元を歪めた。傍観者とはかくあるべき、オーケストラを束ねる指揮者マエストロの如く冷静に、しかし心の奥では自らが差し伸べる手によって生み出される変化を愉しむべし。人の生き死にを演出する為にはそれが不可欠。
 パイロットの声を受け取ったタンクのAIが指示に従って機体の微調整を始める、コアブロックを廃した事によって初めて実現した上半身の旋回は基部のターレットモーターをゆっくりと動かしながら照準の微調整に対処する。諸元を全てクリアした火器管制は証となる緑のランプを点滅させて、敵を撃破する為に必要な弾種の選択を横文字でパイロットへと要求した。
「弾種、初弾HESHヘッシュ(High Explosive Squash Head:粘着榴弾)、次弾APITエイピット(Armor Piercing Incendiary Tracer:焼夷徹甲曳光弾)。3ローテーション」
 機体背面に増設された巨大な露天積載式の弾薬パッケージが扇状に開口して内部に収納された弾頭を夜風に晒す、折り畳み式の小さなマニピュレーターはその内の一発を掴むと跳ね上げられた尾栓から覗く砲身部へと押しこんでそそくさと次の弾を取りに戻る。薬室への装填を確認した火器管制はリモートで巨大な尾栓を閉じると全ての射撃体勢が整った事を、照準表示と言う手段でパイロットへと報告した。 水平に並ぶ一つの大きな三角と、対称に並ぶ小さな三個の三角は太古からの照準器の名残。弾道予測によって確実に成否が判定できる火器管制システムには不必要と思われるそれが未だに残されているのは、それを操る兵士のモチベーションを上げる為でもある。箱庭の様に映る景色の一角でヒステリックな光を上げる建物の一つに一際大きな黒い三角形を押し当てた男は、そこで初めて笑った。
「ハンプティから全機、これより砲撃を開始する。誘爆に注意せよ」
 声と共に踏み込んだ小さなフットペダルが機体下部のアンカーを作動させてタンクの位置を固定する、小さな土煙りと地響きはフーガの様にもみの木の林のあちこちで木霊した。機体の揺れが収まって照準が狂っていない事を確認した男は、闇に赤い舌をチロリと覗かせながら親指のトリガーを静かに押しこんだ。
発射ファイア
 
 砲撃音と同時に着弾が確認出来なかったと言う事は鉄塔を破壊した物とは違う弾種が後衛から発射された証、しかしキャクストンはその事実に敵がこれから実施しようとしている作戦の正体を知る事が出来た。
 壊走を続けたジオン軍が最後に立て篭もったオデッサ・バイコヌールの鉱山跡へと仕掛けた連邦軍の非情な作戦、全周完全包囲状態での艦砲射撃は最後まで抵抗を続けようとしたジオン残党の士気を挫いてその息の根を止めた。
「! 『スレッジ・ハンマー』! 」
 キャクストンの記憶がその名を口走ったと同時に背にしたハンガーの屋根で大きな音がした。空のドラム缶を勢いよく叩き潰した様な間抜けな音と上がらない火の手、拍子抜けしたエミリオは後部カメラの映像でその成り行きを確かめようとする。しかし事態が悲劇に向かって進行中である事を既に悟っているキャクストンは間髪をいれずにエミリオに命じた。
「エミリオっ! ハンガーの前から離れろ、対爆姿勢っ! 」
「 ” え ―― ” 」

 弾頭部の金属は薄くて柔らかい。『HESH』とは着弾の衝撃によって坐滅し、目標にへばり付く事によって初めて効果を発揮する特殊弾頭。持ち込んだ運動エネルギーが着弾によって相殺された瞬間に弾頭内部の大半を占めるPBX爆薬が起爆し、指向性の破砕エネルギーで目標を破壊する。炎も煙も上げない地味な兵装ではあるが密閉された空間内に置いてこれ程効果的かつ残忍な物は存在しない。
 放出された爆発力は生み出した破片を全て凶器に変えて内部にある全ての物を切り刻む、それがモビルスーツであろうと人であろうとも。
 敷地内を覆い尽くした二メートルの厚さのコンクリートがひび割れるほどの衝撃と、振動センサーのグラフは天井知らずに跳ねあがって振り切ったまま。オートバランサーが作動を始めてしまう程大きな揺れに翻弄されるエミリオの機体に、開きかけていたハンガーの扉の隙間から逃げ場を求めて吹き出した爆風と様々な欠片が猛烈な勢いで叩きつけられた。嘗ての無機質はANUBIS4の脚部装甲を次々にへこませ、有機物はビシャリという湿った音と共に赤い血糊を容赦なくぶちまける。
「 ” 義父さんっ! ハンガーがっ!? ” 」
「まだだっ! 」
 エミリオの悲鳴にキャクストンの緊張が高まる。『スレッジ・ハンマー』の恐ろしさは敵に逃げ場を与えない事じゃない、立て篭もった敵を一網打尽にしてしまう火力にあるのだ。高々榴弾の破壊力だけで全てを殲滅出来るとは自分も、そして敵も思っている筈が無い。
「エミリオ、対空防御っ! 次に来る焼夷弾は弾足が遅い、絶対にハンガーに落とさせるな。全て叩き落とせっ! 」

 天を突く120ミリが巨大なマズルブラストで周囲の林を一瞬真昼の様に染め上げた。静寂を破られた深淵の森は恐怖に震えてその森に息づく周囲の生き物の意識を奪う。目標に対して寸分の狂いも無い一撃を叩きこんだ黒塗りのガンタンクはまるでその意識を呼び覚ますかのように、尾栓部に開けられたスリットから耐熱プラスチックの嵐を背後のもみの木へと叩き付けた。
 駐退機によって発砲時の反動を吸収するANUBIS4のアデン砲とは違い、120ミリ無反動砲を採用したガンタンクはその衝撃を発射ガスの後方排気による均衡によって軽減する方法が取られている。発射時の初速が遅く、射程を稼ぐ為にどうしても大量の炸薬を必要とするこの兵装がRX-75-4プロトタイプ以来採用され続けているその訳は、二本の砲身を担ぐ事でトップヘビーになる重心による機動力の低下を砲身を少しでも軽くする事で補う事と、状況に応じて様々な弾種を放てると言う汎用性による物だ。一年戦争時の実戦において最前線での有用性を証明出来なかったこの哀れな機体は、後方からの支援という点においてその活路を見出した。
 だがここに配置しているRX-75n²は他の物とは若干違う方式が採用されている、それが発射ガスの代わりに後方へと吐き出された大量の耐熱プラスティックの礫だ。砲身の尾栓が開いた瞬間に吐き出される筈の発射ガスが最後部に装填された強化プラスチックの塊を粉砕し、カウンターマス(相殺重量物)として後部シャッターから飛礫の様に吐き出されて発射の際の運動エネルギーを打ち消す。時代遅れの方式とも言えるデイビス方式を採用している理由は夜戦専用の砲台と言う理由に他ならない。後部より吐き出されるプラスチックの飛礫は熱を伴わない為、赤外線によっても探知されにくい仕組みになっているのだ。
全弾命中インパクト。次弾装填」
 照準は湾曲した構造物に空いた大きな二つの穴へとしっかり付けられている。予め指示してあったAPITと呼ばれる焼夷弾が薬室へと送り込まれる音が聞える。尾栓部が閉じた事を知らせる緑のランプが男の視界の隅に点灯した時、彼は二度瞬きしてその惨状の上に置かれた大きな三角形を睨みつけた。
「 …… 本当はこの後にメインディッシュが控えてるんだが、これはほんの前菜だ。遠慮はいらない、思い切り食べてくれ」
 煙も上がらぬその暗い穴の奥で運良く生き残っている哀れな被害者達に向かって、加害者たるガンタンクのパイロットはぽつりと呟きながら再びボタンを押しこんだ。
「 ―― 発射」

 闇に灯った鏑矢が音速を纏って夜空を駆ける。研究所の敷地を見下ろす遠い丘の一角でちらついた輝きは一筋の光となって二人の元へと舞い降りようとしている。キャクストンからの『絶対』 ―― そんな言葉を彼は今まで一度も使った事が無かった ―― に切迫したエミリオは援護も忘れて機体を旋回させて、もうすぐ射程に収まろうとする焼夷弾に目がけてその砲火を差し向けた。
 握り締めたレバーが冷や汗でしとどに濡れる、押しこんだボタンを押さえる親指が折れそうだ。上半身だけを廻して全力射撃を始めてしまった事でAIが照準を自動補正する暇が無い、姿勢が不安定だからだ。目の前で震えるレティクルが光の光跡の先頭を掴みかねている。
「当たれっ、当たってくれぇっ! 」
 大声で叫びながら奇跡を求めるエミリオの耳をそれ以上の砲撃音と給弾音が埋め尽くす、砲身の過熱を警告する断続的なブザーがコックピットを席巻する。その一切が今のエミリオにとってどうでもいい事だった。
 たった二秒足らずの間に繰り広げられる窮地のど真ん中に立たされた自分が唯一生き残るための手段が、そこにしか無い。
「頼むうっ!! 」
 
「エミリオ、弾を追うんじゃないっ! 弾道の前に弾幕を ―― ! 」
 途切れる事の無い80ミリの砲撃音にキャクストンは背後の様子を確認する事も無く大声で、未だに奇跡を掴み損ねたままの義理の息子に叫んだ。
 高速移動する物体に対して有効な射撃方法 ―― 予測射撃リードシュートは士官学校で実戦形式の教練に入れば否が応でも教わるスキルの一つだ。モビルスーツの免許を持っていると言う事でエミリオがその程度の事を知っていると自分が勘違いしてしまっていた事、そして自分が平和と言う物に溺れてしまっていたが為に最も初歩的な実戦技術を教えていなかったという手抜かりにキャクストンは臍を噛む。自分の犯した過ちを神が許してくれると言うのなら、自分の身を今まで守ってくれたほんの一滴の奇跡という物に身を委ねるしか手段が無い。
 しかしエミリオの奮闘もキャクストンの願いも、その奇跡を叶える為には貢物が不足していた。
 戦場の神はその清算の為に生贄を必要としていた。

 飛来した焼夷徹甲弾は真っ暗な穴から内部へと飛び込んでハンガー中央部の床面に着弾し、衝撃と共に発火するテルミットが鉄をも溶かす熱と炎で瞬く間に内部を焼き尽くした。地獄の業火は奪い尽くした酸素の在りかを求めてその舌先を外へと向け、その光景はまるで火竜が産声を上げた瞬間の様にハンガーの開口部から残らず火柱を立ち上げた。

 対爆防御の姿勢をとる暇も無く、エミリオの機体はあっという間に炎の中へと飲み込まれた。キャクストンの目にエミリオの危機を示す表示が短い単語の点滅で表示される、『EOL(End of Life)』と炎の輝きに全身を晒したまま微動だにしない敵の姿を同時に視界に収めながらキャクストンの奥歯がギリ、と鳴る。
「 ” いい光景じゃねえか。 …… あんたも見てみろよ ” 」
 誘う様にそう告げる男の声にキャクストンは唇をかみしめてクゥエルを凝視した。脚部を深く曲げて背を丸め、切っ先を突きだした尖突の構えは変わらない。愉快そうな声音を心の底から不愉快に感じながらキャクストンは尋ねた。
「何がだ? 」
「 ” …… 思い出すだろ? 炎と破壊、叫喚と絶望。これこそがあの頃の俺達の生きる全てだった筈だ。 …… 違うと言うなら ―― ” 」
 クゥエルの背後に吹き出す瘴気が殺気を伴ってキャクストンの元へと届けられる。背後で誘爆を始めた弾薬庫の80ミリがのべつ幕なしに四方八方へとばら撒かれる、高周波を放ちながら至近弾が二人の間を駆け抜けて闇の向こうへと消えて行った。

「 ―― 俺と戦って、勝利を手にして。証明して見せろ」
 男の手がスロットルを乱暴に押し上げる、一瞬の息継ぎの後パワーゲージは堰を切った様に最大まで振り切れた。フットバーを猛然と踏み込んで歪んだ嗤いを浮かべた男のその口が、歓喜に塗れて吼え立てた。
「 ―― 実力でな! 」



[32711] Torukia
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2012/10/06 21:31
 体の中を駆け巡る血が冷えて来るのが分かる。仲間を蹂躙された怒り、義理の息子を危機に陥れた憤り、そのどちらもキャクストンにとっては掛け替えのない大切な物であり、無為に奪われる事に憤激を露わにした所で咎める者は誰もいない。だが彼の積み重ねた歴戦の記憶はそれを自分が感じれば感じるほど深く静かな奈落の水面へと彼の心を誘った。目の中に現れる様々な数値と周囲の状況、そして滝の様に上から下へと流れていくクゥエルの基本データを読み込みながらキャクストンは浅い呼吸を繰り返す。
 山刀を腰だめに構えて真っ直ぐに突進して来る敵の速さは尋常ではない、基本データと記録される敵との差異を頭の中で分析したキャクストンは即座にその機体の持つポテンシャルを推測して回避行動へと移行した。脳波とANUBIS4との全制御システムを双方向でリンクするMIP社謹製EEGリンカ-は大脳皮質上を流れる脳電位を測定し、操縦者の意思を筋電位に置き換える前の予備動作を各システムへと伝達する。故に操縦者は自分の意思がそのまま機体へと乗り移ったかのような早いタイミングで機体を操作する事が出来た。
 習熟訓練期間にANUBIS4の完熟運転を試みたキャクストンであっても、ジムの動きに慣れた体がその速さを体得するのに幾許かの時間を要したのは言うまでも無い。一度体に染みついた癖と言う物は中々取れない物だ、とは技術者の予測した行動データ以上の運動能力を示した後に彼が呟いた言葉だった。
 敵の動きをけん制する為の一連射が右腕の砲口から吐き出された、光の羅列は闇を切り裂いて真っ直ぐにクゥエルへと奔りキャクストンの予想通り躱される。しかしそれは敵の攻撃の方向を限定させる為の策に過ぎない、左手から間合いへと飛び込んだクゥエルは黒い山刀を下段から一閃させて前へと大きく張り出したANUBIS4のコックピットを狙う。軌道と意図を読み切った左腕が刃の前へと立ち塞がって、80ミリの砲身と引き換えに敵の斬撃を阻止した。
「 ” おおっ! ” 」
 乾坤の初撃をものの見事に受け止められた男の口から洩れた声には狂気と歓喜が入り混じっている、バレルに深く食い込んだままの刃を引き剥がす為に動きを止めた敵のコックピット目がけてキャクストンの右手が動く。だがその肘をクゥエルの左手がむんずと掴んでそれ以上の狼藉を許さない。出力勝負の格闘戦の様な状態に陥ったANUBIS4とクゥエルは融合炉の雄叫びと全身をわななかせて揺らめく明かりの中に対峙した。
「 ” さすがはEEGリンカ-、凄い反応速度だ。事前に聞いていたデータとは格段の差だ、それとも操縦者の違いと考えるべきか ” 」
 門外不出の新機軸の名称が男の口から零れた事で発生する一瞬の動揺、生まれた隙に乗じて男の山刀が食い込んでいたバレルから一気に引き剥がされる。頭上へと振り翳して必殺の一撃を繰り出そうとするクゥエルの胴体をANUBIS4の左手が思い切り殴り付ける、装甲板のへこむ嫌な金属音と共に突き飛ばされた敵の機体は固定していた右腕を手放して一足飛びに間合いを離した。
「貴様、何故その名をっ!? それはこの研究所で研究に携わってる者の中でもほんの一部の人間しか知らない筈だっ! 」
 少しでも距離を取られれば80ミリは簡単に無力化される、零距離射撃に活路を見出そうとするキャクストンは右手のイナーシャの叫びと流れ込む給弾音を耳にしながらその真意を大声で問う。
「 ” 聞いてどうする。この世界に秘密にできる事など何一つないと言う事は軍に所属していた者ならば誰でも知っている事だ。ましてやそれが ―― ” 」
 嘲笑の欠片を声に滲ませた男の声がキャクストンの癇に障った。途切れた言葉の向こう側にある得体の知れない真実に耳を澄ませたキャクストン、待ち受けるそこに向かって男は言った。
「 ” ―― 軍がわざとリークした基礎理論から派生した物であるならば、だ ” 」

 戦慄はキャクストンの五感を支配して不随意な痙攣を齎し、勢い余って押しこんだトリガーが予期せぬ砲弾を夜闇へとばら撒いた。しかしそんな一撃ですらも楽々と躱してしまう相手の能力を垣間見て、キャクストンは自分の踏み込んだ世界の中心が渦巻く陰謀の只中にあったと言う事を思い知る。
 既存のOSでは為し得なかった操縦者と機体とのタイムラグを劇的に解消し、これからのモビルスーツ開発に一石を投じるであろうと確信していたEEGリンカーが実は軍の手によって密かに考えられていたと言う事。そして彼らはANUBIS4にそれが搭載されている事を確認した上でここへと攻め込んで来たという事。その二つの事実と彼らが殲滅を目的にここへやって来たと言う目的から導き出される結論はただ一つ。
「 ―― ANUBIS4のデータ収拾か」
「 ” その問いに関しては素直にイエスと言っておく。だがそれが何を意味するか等と言う事は俺には分からない、元軍人のあんたにならその理由は分かる筈だ ” 」
 当たり前だ、と心の中でもう一人のキャクストンが罵声を浴びせた。任務に就く兵士に与えられる任務はごく単純な物、そしてそれ以外の余計な物は決して知らされない。殺せと命じられれば殺し、奪えと命じられれば躊躇なく奪い去る。例えそれがどんなに自分の意にそぐわない物であったとしてもだ。
「 ” あんた自身がさっき言った様に、勝つ為にはここで俺と刺し違えて俺達の目的を阻止するしか手が無い。実にシンプルでいいじゃないか ” 」
「刺し違えて、だと? 」
 そう尋ねると炎に輪郭を揺らめかせたクゥエルの山刀が持ち上がって、キャクストンの背後を指し示した。指が後部カメラのスイッチを押すと、パネルの液晶に炎の中から這いずり出て来るエミリオの機体が映し出された。
「! エミリオっ!? 」
「 ” あんたの勝ちの目はまだ残っている。エミリオ君の命を護り通す事が今のあんたの任務だ ” 」

 押し寄せる熱で下腹部に仕込まれた核融合炉が爆発しなかった事がエミリオにとって幸いだったのかどうかは分からない、だが各関節のモーターと油圧シリンダーが殆ど焼き付いた状態で擱坐しかかったその機体を紅蓮の焔から引き摺り出した物はANUBIS4を開発した技術者が操縦者に手向けた自律回避という手段だった。EEGリンカ-によって機体に発生している深刻な損傷とパイロットの意識低下を確認したOSはパーテーションで切り分けられた区画に書きこまれている脱出プログラムを自動的に立ち上げ、命令を受領したAIは融合炉の出力を臨界まで押し上げて各動力機構に最期の力を送り込んだ。
 鈍重な機体を無理やり炎の渦から押しだした脚部が歪み、支えられなくなったシリンダーが根元から折れ曲がる。しかしズゴック以来二機目のモビルスーツとしてMIP社からロールアウトしたANUBIS4は持ち前の耐久性をいかんなく発揮して、瀕死の機体を安全圏にまで到達させた。
 壊れかけの外部センサーが周囲温度の低下を感知するとOSは操縦者保護の為の措置へと移行した。ヘルメットに繋がれていた大小のコードが強制的にパージされて意識の飛んだエミリオの頭を解放する、ぐらりと傾いたエミリオの身体を五点式のベルトが機械の力でシートへ緊締するとキャノピーが煙を上げて吹き飛んだ。一瞬だけ充満した煙と火薬の匂いと吹き込む風によって意識を取り戻したエミリオは自分の置かれている状況がよく分からない、錯乱したままの操縦者を差し置いてANUBIS4のOSはシート下に仕掛けられた脱出用の射出ボルトに点火した。
「うわあっ!! 」
 悲鳴と共に夜空高く舞い上がるエミリオの身体は打ち上げられたシートごと二度三度回る。遠心力によってシートベルトの破断システムが作動すると空を舞う物体は彼一人となり、役目を終えたバケットシートはそのまま地面へと舞い落ちる。放物線の頂点に到達したエミリオの背中から自動的に引き出されたパラシュートはそのまま地面への落下運動へと突入しようとした彼の身体をもみの木の天辺ほどの高さで固定した。
「義父さん! 」
 俯瞰する景色の中で対峙する二体の影がもみの木の林を侵食して遠くへと伸びる。炎が巻き上げる熱気にゆらゆらと揺られながらエミリオの身体はほどなく地面へと投げ出される、着地の衝撃を感知した背中のパラシュートが基部から根こそぎ外れて彼の身体を置き去りにした。
 風を孕んで猛烈な勢いで飛びさる白い影を目で追いながら、エミリオはその行き先が生死を賭けて睨みあう二人の間へと向かっている事を知った。声も無くその成り行きを見守るエミリオがまるでそのパラシュートを手で掴んで引き戻そうかとするかのように手を伸ばした瞬間、世界は突然変化した。
 まるでその白いナイロンの布を遮断機に見立てていたかの様に二機のモビルスーツは、違った音色の咆哮を上げながら決死の間合いへとその身体を躍らせた。

「 ” もう左手は使い物になるまいっ! ” 」
 左手の下腕部中央に大きな亀裂の入ったANUBIS4に向かって、自らの有利を確信した男が一気に間合いへと踏み込んだ。得意とする下段から振り上げられる山刀が唸りを上げてキャクストンの左側面を襲う、生き残っているアクチュエーターがキャクストンの防御の意思に瞬時に反応してその剣閃の終点に立ち塞がる。チタンのカバーを易々と切り裂くクゥエルの山刀は内蔵されたアデン砲のバレルをほぼ切断した状態で左手に食い込んだ。
 断線した箇所が小さな火花を散らしてカバーの裂け目から外へと抜け、重要な武装を失ったと判断した火器管制は損傷率とバックパックの給弾ラインを右腕の兵装へと切り替えた事を示すレポートを赤い点滅と共にキャクストンの目に投影した。
 亀裂の入った左腕部のメインフレームが嫌な音を上げてへし折れる、キャクストンは途中で折れ曲がった左手を振りまわしてそこに繋がったままの山刀ごとクゥエルの上体を傾けた。力に抗って反射的に背を反らしたのは乗っている男の意思では無く、機体制御の為に設けられたオートバランサーの仕組みによる物。しかし左腕を一本犠牲にしたキャクストンが狙っていたのはまさにその瞬間だった。
 振り上げた頭が右手のアデン砲の射線軸に乗った瞬間にキャクストンはすかさず引き金を引く、吐き出された80ミリはたった一撃でクゥエルの頭部を木端微塵に破壊した。
「 ”! やるっ! ” 」
 男の感嘆を聞き流しながらキャクストンの左手がスロットルをゆっくりと押し上げる、それは男の見せるパワーコントロールとは全く対照的だ。融合炉の出力特性に合わせたスロットル操作は近接戦闘時において最も留意すべき要素だと言う事をキャクストンは長い闘いの間に知る事が出来た。そして敵と自分との相違点がそこにある事に着目し、彼の戦歴が自分の物よりもはるかに短く、そして恵まれていた物だと言う事を理解する。
 勝機があるのだとしたらその一点しか無い。
 巨大な足が地響きを上げて頭の無いクゥエルとの間合いを縮める、敵のAIが反応の消失したアイカメラから肩口に設置されたサブカメラへと主幹機能を移譲するそのタイムラグこそがキャクストンに最も必要な敵の隙だった。間合いを取ろうと後ろへとよろめくクゥエルの懐へと飛び込んだANUBIS4が硝煙を燻らせたままのアデン砲をコックピットへと突き付ける、その時やっと機能の移譲を終えて状況を垣間見た敵の左手がそうはさせじと再びANUBIS4の右腕を掴んで捻り上げようとする。
「 ―― くらえっ! 」

 そこまでがキャクストンが書きあげた勝利へのシナリオの伏線だった。自分に対する最も驚異的な武装 ―― 80ミリの存在を頭部の破壊という成果によって敵の脳裏に刻みつけたキャクストンは、他の攻撃の選択肢をその思考の中から奪い去った。山刀によって繋ぎ止められた右腕と80ミリでの攻撃を阻止する為に使ってしまった左腕、四つに組んだ状態から繰り出せる攻撃はジムの頭部に申し訳程度に設えられた60ミリ二門、しかしもうそれは無い。膠着するしかない戦況を打破する為に繰り出されたのは操縦者の保護の為にモノコックフレームで強化されたANUBIS4の頭部だった。
腹部と背部にあるシリンダーが前傾姿勢の命令を受けて瞬時に作動する、突き出されたコックピット先端部は最大出力でほんの目の前に位置するクゥエルの操縦席前面装甲板へと襲いかかった。
 猛烈な衝撃と共にキャノピーのアクリルが砕け散る、鋭利な破片がキャクストンの全身へと降り注ぐ。頬を掠めた切れ端が彼の血を頬へと導く事などお構いなしに、キャクストンはANUBIS4の先端部が間違いなく敵のコックピットの装甲板に深く食い込んだ事を確認した。フットバーを蹴り出してミリタリーラインまでゲインした融合炉のパワーを両足へと送り込む、クゥエルの1.5倍の重量を誇るその巨体は一気に黒い機体を押しだし始めた。
 バキン、という嫌な音がしてクゥエルの二足歩行機動バイペダルモーションを支える足裏のトーションバーがへし折れる、思わぬ損傷に体勢を崩しかけたクゥエルは姿勢復旧の為のオートバランサーの助けを借りて何とかその場に踏みとどまる。
 顎を喰い込ませてそのまま捻じ伏せようと試みるANUBIS4の力を押し留める事が危険だと判断した男は、事態の打開に攻撃を選択した。自由になった右手から繰り出される大上段からの一撃は間違いなく、一直線に剥き出しのキャクストンの頭上目がけて降りて来る。鋭利な殺気を感じた彼の意識はすぐさまリンカーを通して
OSに反映され、敵の拘束を振り切って上段へと差し上げられた右手がその進路を遮った。死に物狂いで放たれた敵の斬撃は一瞬でパネルを両断して内部まで届き、張り巡らされた油圧パイプを一刀両断にした。
「油圧低下っ、くそっ! 」
 モビルスーツにとって融合炉は心臓、シリンダーやモーターの類は筋肉や関節、そしてオイルは血液に当たる。血が無くなれば油圧で動くシリンダーは動かなくなって全機能が停止する、モビルスーツにとって油圧の減少と言う物はある意味『死に至る病』を罹患した状態にあるのだ。暗闇に吹き出すタイプIIオイルはラインの閉鎖を指示するキャクストンの意思に逆らって相当量が撒き散らされる、プレッシャーゲージの針は見る見るうちに半分を切る。
 ヒュンヒュンと泣き声を上げて機体を上下させるANUBIS4の異変に気が付かない敵では無い、動きの止まった右腕に食い込んだ山刀を無理やり引き抜くと今度は十分に狙いをつけてキャクストンの遥か頭上に差し上げる。
 目前へと差し迫った死に血走った目を向けながら、キャクストンは残ったオイルの殆どをANUBIS4の上半身から下半身へと移動させた。

「よくぞその機体で健闘したと言いたい所だが、貴様の頑張りもここまでだ」
 サブカメラによってモニターに映し出される景色に反映される情報量はメインカメラのそれに比べて以上に少ない。セーフモードとも呼べるその視界の真ん中にはっきりと映し出される好敵手の顔は自分が思い描いていたよりもはるかに歳老いている、しかし闘志漲るその表情に浮かぶ勝利への執念は称賛に値すべき物だ、と男は思う。もしもこの男が自分と同じ機体に乗り込んでいたとしたら、この瞬間に勝ち名乗りを高らかに上げていたのは向うだったかも知れない。
 だが人生にたらればが無い様に生き死にを決する戦場にもそれは無い、在るのは勝者と敗者を隔てる無情の運命のみだ。勝利と言う名の甘美な果実へと手を伸ばした男はそれを捥ぎ取る為に右腕のアクチュエーターを操作して、その延長上で高々と掲げられた黒い山刀を振り下ろそうと試みる。
 だが、その異変は勝利を確信して薄笑いを浮かべた男の心の隙を突くかのように突然眼前で始まった。

 足元に三本置かれたフットバーの両側は両足を駆動させる為の物、そして真ん中の一本は駆動方向を切り替える為のピポットペダル。OSによる姿勢制御をキャンセルしたキャクストンは不安定になった機体の重心崩壊を利用して三本のフットペダルを不規則なリズムで何度も踏み抜いた。
 ぐらりと揺れる側の姿勢を立て直す為に踏み込まれる巨大な足が前後に小刻みに動いてその姿勢を一気に変える、OSには書かれていない変則操作に追随するANUBIS4は指呼の距離にあるクゥエルの目の前でくるりと体の向きを変えた。
「 ” ! 何っ!? ” 」
 超信地旋回。ガンタンクや61式戦車などの履帯走行やホバーによってしか為し得ない機動を鮮やかに決めるANUBIS4の巨体を目の当たりにした男の驚愕がキャクストンの耳へと届く。
 自分の愛機だったジムに比べれば不格好この上ないが、それでもこの技を目にした者は少ないだろう。一年戦争の激戦を潜り抜けたキャクストンは度重なる乱戦の中で何度も白兵戦を越える格闘を体験した。銃を棄て、剣すら持つ暇の無い間合いの中で何とか生き延びる為に自ら編み出した修羅の業だ。
 振り下ろす目当てを失ったクゥエルの右手が惑う、円運動によって完全に失った間合いを少しでも取り戻して、再び山刀の振り下ろせる位置にまで機体を下げようと一歩後ろへと下がるクゥエル。しかし。
「 ” ぬうっ!? ” 」
 その下げた足が突然膝から砕ける様に折れ曲がる。破壊されたトーションバーによって歩行時のクッションを失った機体はその衝撃をもろに膝へと伝える事になり、負荷のかかった関節はその衝撃を吸収する為に自動的に折れ曲がった。横倒寸前の機体を立て直す為にOSが操縦者の手から制御を奪う、それがキャクストンに与えられた唯一の勝機とも言えた。
 ANUBIS4の上半身と下半身を繋ぐ腰部関節、二つの超重量を連結する為の巨大なモーターが最後の唸りを上げた。多重に組まれたギアが全力で機体の上半身を旋回させる、その最中に伸ばした左手の残骸が猛烈な勢いでクゥエルの脇腹にヒットした。
「もう立ってはいられまいっ!? 」
 キャクストンの咆哮が夜空に木霊する、そしてその予言通りにクゥエルは制御の限界を超えて地面へと叩きつけられた。

 耐久限界を超えた衝撃に緊急停止ティルトストップしたクゥエルに向かって、完全に破壊された左腕の破壊孔からオイルを垂れ流しながらゆっくりと近づくANUBIS4。残り少なくなった駆動力をその足に全て叩きこんでクゥエルの右手を山刀ごと踏み潰す。バキバキと言う鈍い音と共に繊細なマニピュレーターは粉々に砕けて地面へと埋まる、使い物にはならなくなったが唯一原形を留めたままの右手の砲口をクゥエルのコックピットに突き付けながらキャクストンが高揚した声で叫んだ。
「ゲームオーバーだ、先鋒っ! 命が惜しければこちらの問いに答えろ、貴様の所属部隊と姓名、認識番号はっ!? 」
 睨みつけるキャクストンの真下で機能を失った右手が爆砕ボルトによってパージされる。鼻を突く火薬の匂いと共にキャクストンの耳へと男の声が流れ込んだ。
「 ” これが経験の差というものか、まさか格闘戦を挑んで来る気だったとは予想外だった。どうやら俺の負けらしい ” 」
 観念をしている様にキャクストンには聞こえなかった。目に見えない何かを渇望し、しかしそれを嘲笑う様に声を顰める男の声にキャクストンは遣り切れなさを覚えた。自分が戦争によって妻を失ってしまったのと同じ様にこの男も戦争によって何か大切な物を失ってしまったのかも知れない、同じ戦争被害者であるにも拘らず持ち得たスキルを片や人殺しに、片や人を護る為にぶつける事になるとは皮肉な星周りだと思う。しかしその罪は本人の望む形で償わなければならない。
「 ” …… あんたの考えている通りだ。ここでお別れなのは残念だが出来る事ならあんたとは真っ当な戦場で、ちゃんとしたモビルスーツで戦いたかったぜ ” 」
「答える気はない、という事か」
 これ以上追及したところで是非もない、万が一の不慮の事態に遭遇した際にはそういう覚悟で臨む様に義務付けられているのが特殊部隊員だ。正規兵であった自分達よりも階級以上の大きな権限を持ち、多額の報酬を得ると言われている彼らの抱えた代償がそれだった。
「では貴様をコックピットごと叩き潰して起動ディスクを回収させてもらう。氏素性は語られなくても貴様の真実だけはそこに書き込まれているはずだからな」
 それさえ手に入れる事が出来れば幾らこの男が黙秘したまま死んだところで無意味だ、少なくともこの機体を動かす為に必要な姓名と認識番号位は書き込まれていなくてはならない。勿論その起動ディスクが新品である事もあるのだがこの男に限ってそれは有り得ない、汎用型のデータでは決して不可能な機動をこの男のクゥエルはやって見せたのだから。
「 ―― 最期に何か言い残しておく事はあるか? 」
 形しか残ってない右手を僅かに振り上げてコックピットへと狙いを定めながらキャクストンが尋ねる。大きく窪んだ第一装甲板には亀裂が入り既にその役割を終えている、後一撃を加えればクゥエルのコックピットは紙屑の様にくしゃくしゃに潰れてしまうだろう。ほんの少し先に見える自分の勝利を確信しながら、しかし疑うが故の脂汗が額から鼻筋へとその滴を伸ばした時に男が答えた。
「 ” ―― 殺せる時には物も言わずに殺す事だ。 …… 嘗ての歴戦と言えども平和と言うぬるま湯にどっぷり浸かった揚句に耄碌してしまえばこんな物か ” 」
 声音に侮蔑を含ませた男の声がキャクストンの耳朶を打つ、ほんの少し憤ったキャクストンがその怒りの矛先をモニターの中央へと叩きつけようとレバーに力を加えようとした瞬間に。
 それは猛烈な被弾の衝撃だった。

 まるで上下に引き千切られた様に宙を舞うANUBIS4の姿が絶望に満ちたエミリオの目に焼き付けられた。重心の集中した下半身と上半身とを繋ぐ接合部の巨大なギアが見えない何かに貫かれて弾け飛び、擱坐した下半身から逃れる様に飛び立つ上半身。まるでシャボン玉の様にふわりと宙に浮かんだ、彼の義父の乗るその機体に今度は炎の束が一斉に襲いかかって蹂躙を始めた。蜂の羽音の様な連射音を響かせて殺到するそれらは絶え間なくエミリオの義父が乗り合わせていた物体を削り、穿ち、引き裂き、あっという間に元の形を作り変える。
 重力に引かれて地へと転げ落ちるキャクストンの機体がその慣性を失って静止する頃には、全ての動力とそれを司る命の根幹が血と硝煙だけを残して粉々に引き潰されていた。愛情と言う名の身勝手で愛する娘を孕ませてしまった自分に向かって、複雑な笑みを浮かべたまま黙って右手を差し伸べた父であり、敬愛する上司が。
 見るも無残に、跡形も無く。

「 ―― ふう」
 ガンタンクのパイロットはバイザーから僅かに覗く口元を軽く膨らませて小さな溜息を吐いた。何の打ち合わせも無しに行うしか無かった援護射撃に同調した仲間の機転に感心すると共に、遠距離での精密射撃に成功した幸運を彼は戦場の神に感謝した。ほんの少しでも横風が吹いていればこの狙撃は成功しなかった、自らの放った焼夷弾の業火が吹き荒れる中でのこの戦果は彼にとっては奇跡とも言える。
「 ” いい腕だ、ハンプティ ” 」
 暗い声で述べるダンプティの賛辞にハンプティは少し口元を歪めた。完璧主義で鳴るこの男が小さな戦果に対して称賛を与える事など滅多にない事だ。
「どうも。しかし少しでも余計な風が吹いたらどこに当たるか分かりませんでした、奴は運がいい。大体二人一組で行動する所をわざわざ単機で突っ込む方がどうかしてる、追っかけといて正解だ」
「 ” そう言うな。幾らMIP社の機密兵器とは言えANUBIS4があそこまで動けるとは思わなかったんだろう、勿論乗り手の技量があってこその賜物だが ” 」
 自らの油断によって窮地に陥った『ラース1』の不手際を責めるな、と仲間が死んでも眉一つ動かさない指揮官は言う。珍しい事も二度続くとそれを偶然とは受け取れないのが人の性と言う物だ、ハンプティはふと心の中に生じた懸念をダンプティへと質問の形でぶつけてみた。
「 …… 殺っちゃ、まずかったですかね? 」
 自分の行動が指揮官の意にそぐわなかったのかと内心冷や汗をかきながら尋ねるハンプティに、ダンプティは少しもその暗い声音を崩さずに一言言った。
「 ” 馬鹿な事を ” 」
「確かにこの状況で確実に相手を仕留めるのなら、幾らAPFSDS(Armor Piercing Fin Stabilized Discarding Sabot;装弾筒付翼安定徹甲弾。安定した命中率と貫通力に特化した砲弾)でも一番狙いやすい胴体部を狙うしか無かった。しかしあのパイロットの技量ならばラース1と引き換えにして旅団うちに取り込んでも損は無かったんじゃないかと」
「 ” それでも相手が首を縦に振らない御仁だったらどうする。当てにならないエースの為に貴重な戦力をふいにする事など愚かな選択だ、それに『対象』以外の余計な物を抱え込む暇も余裕も俺達には無い。与えてやれる物は ―― ” 」
 途切れた言葉の影で小さく響く鼻白んだ声は嘲りの色を湛えていた。
「 ” ―― 速やかな、死だけだ ” 」

 闇の中で横たわったその残骸に命の痕跡などあろう筈がない、それは今まで戦争と言う修羅を体験した事の無いエミリオですら分かる事だった。無数の60ミリで嬲り尽くされた機体のコックピットは大きな鉤爪で抉られた様に削り取られて形を失い、少し離れた所でオブジェの様に佇んだ下半身の様相とは一線を画した。
 言葉や思い出や絆や未来を一瞬にして失ったエミリオの口から洩れる絶叫は既に人の物では無く、人の本性が獣である事を具現化した雄叫びだ。炎の明かりに揺らめく幻想的な森の闇にその声がにべも無く吸い込まれて行った時、突然横合いの敷地の影から三体の巨大な影が独得の地響きを立てて現れた。
「 …… うそだろ、こんな。そんな」
 キャクストンが地に叩き伏せた機体と同じ物が三機、右腕にはチタン装甲で包まれたANUBIS4をハチの巣にしたずんぐりとした獲物が抱えられている。まるでエミリオの叫びを聞きつけたかの様に現れたそのクゥエルを前に今まで自分を突き動かしていた慟哭は影を顰めて、新たな感情によって彼の心は埋め尽くされる。
 妻と、息子。
 幻想の様に浮かび上がった二人の笑顔を瞼に映して、エミリオの恐慌は頂点へと達した。生き延びたいと願う生存本能の前には悲しみすらも無力で、今し方命を落とした義父の顔すら思い浮かばない。ただひたすら自分の愛した者の元へと還ろうとする衝動はいとも簡単に彼の足を動かして、燃え盛るハンガーへと向かわせた。
「い、イライザっ、サリューっ! 」
 二人の名を零しながらクゥエルの影に背を向けるエミリオは無意識のうちに駆けだす、それは奇しくもキャクストンの言い残した遺言を実行する為の行動と合致した。走ると言うにはあまりにも無様で逃げると言うにはその足の運びすら覚束ない、泳ぐように空を掻く両手で必死にハンガーの横に設置されたシェルターの扉を握り締めようとするエミリオ。彼は確かにその時、生き残れる唯一の手段へと辿り着ける位置にいた。
 だが、そこにある筈のカルネアデスの板は既に誰かの手の中にあった。定員はただ、一人。

 エミリオが扉に手を掛けようとした瞬間に、それは何の意図も無く開いた。取っ手を握り締める筈の掌は空しく宙を食み、内開きの入口の奥に佇む黒い影はあたかもエミリオの帰還を出迎えるかのようにじっとその場に立っている。
「たっ助けてくれっ! 敵がもうすぐそこまで迫ってるんだ、早くシェルターにっ! 」
 NBCR(Nuclear・核 biological・生物 chemical・化学 radiological・放射能)完全対応のそこ以外に自分の身を護る場所はない、早口で捲し立てて危急を知らせようとするエミリオの言葉をその男はまるで信じられないと言った風情でじっと入口に佇んでいる。埒の明かない男の反応に焦ったエミリオは思わず男を押しのけてシェルターの入口へと足を掛けた。
「 ―― 残念ですが」
 耳元で影絵の男の囁きが聞えたのは脇を通り過ぎて通路へと一歩踏み込んだ瞬間だった。まるで粘りつく汚泥の様などす黒い何かがエミリオの焦りへと働きかける、咄嗟に振りかえった彼の目に映ったのは黒くペイントを施された男の口に開いた白い歯の輝きだった。
「ここはもう満員です。貴方も含めて、ですが」
 突然腹の真ん中に叩き込まれる男の拳、背中に突き抜ける衝撃と焼けた火箸を差し込まれた様な灼熱感はエミリオの全身に火花を飛ばした。

 ククリと呼ばれる曲刀は肝動脈を両断して背中へと貫通した。切っ先の突き出した背中の裂け目から吹き出す鮮血はあっという間に二人の立つコンクリートの床を濡らして沼地に変える、突然の成り行きを未だに信じられずにブージャム1の手を掴むエミリオの蒼白い顔を歪んだ顔で眺めながら、彼は言った。
「おや、致命傷を負ったのにまだこんな力を残していらっしゃる。どうやら余程の心残りがこの世におありの様で …… 分かります、ええ分かりますとも。貴方の様に最期までもがき苦しむ方々を私は何人も間近で見て来ましたから」
 醜い嗤いを浮かべたブージャム1の顔目がけて咳き込んだエミリオの血が飛び散る、頬を伝って落ちようとするその滴をぬらりとした赤い舌で舐め取る。力を見る間に失っていくエミリオとは対照的にブージャム1はククリを握った手に力を込めて捻り上げた。
 大きな刃渡りが押し広げる傷口から内圧によって大量の血液が吹き出す、五月雨の様な激しい音を立てて瀬戸際に立つ者の背後を濡らす夥しい出血はエミリオに間際の痙攣を齎した。ガクガクと震える膝の力が抜けて全ての体重がブージャム1のククリへと圧し掛かる。
「 ―― おっと」
 邪魔者扱いするかのように小さな掛け声と共にククリを引き抜くブージャム1、僅かに浴びる返り血を物ともせずに自分の目の前から哀れな犠牲者が崩れ落ちていく様を目で追う。生前に犯した罪の許しを請うかの如く跪いたエミリオの身体はそのまま支えを失って突っ伏し、光を無くしたガラス玉の様な瞳を加害者のブーツへと注いで息絶えた。事切れた事を確かめる様に死者の頭を爪先で小突いたブージャム1は右手にぶら下げたままの血塗れのククリを一閃し、そのまま腰の鞘へと収めてラッチを止めた。
 
「 ” ―― 終わったか ” 」
 ダンプティの問い掛けに微かに表情を歪めて咽頭マイクへと手を添える。復唱をしようとしたその口が何かの蟠りを感じてぴたりと止まる、ブージャム1はいかにも指揮官然としたこの男が嫌いだった。
「 ” ―― ブージャム1、復唱はどうした ” 」
「こちらブージャム1、作戦は予定通りに終了。対象βパッケージブラボーは現在Cチームが確保、移送の段取りに入りました」
「 ” …… AとBはどうした。上がって来たのは貴様一人か? ” 」
 陸戦班の持つ状況の異常をいち早く察知して問いかけるダンプティの声にブージャム1は思わず冷や汗を流した。自分がシェルターの外へと顔を出したのはモビルスーツ部隊の進捗状況を確認する為で、若者と出逢ったのはただの偶然だ。出会いがしらの思わぬ獲物につい手を下してしまった自分の非道を詰られる謂われはないが、自分の部下達がこれからしようとしている事については十分に後ろめたい思いがあった。特に任務に関して冷酷かつ厳格で鳴るこの指揮官の前に於いては。
「げ、現在A班とB班は生き残った者を一か所に集めて監禁中、ボロゴーブの後始末をより確実にする為にそうした方がいいと ―― 」
「 ” 何故殺さない? 陸戦班の任務は対象以外の目撃者全員の抹殺だったと俺は記憶しているが ” 」
「は、それはそうですが、その ―― 」
 いかにも融通の利かないダンプティの受け答えに心の中で舌打ちし、しかし何もかも見透かされた様な物言いに思わず口ごもってしまう。それはこの男の前では絶対にしてはならない所作である事をブージャム1は知っていた。目的が達成された事で恣意的な振る舞いに及ぼうとする部下に対して狼藉に及ぶことへの許可を与えた彼の耳は、次の瞬間に殺意の響きを携えて耳朶へと滲み込むダンプティの声を聞いた。
「 ” いいか、よく聞け ” 」
 急ごしらえのブリーフィングルームで見せた氷の様な瞳を思い浮かべたブージャムの背筋に冷たい物が走り抜ける、膝の震えを意思の力で必死に抑え込む彼の元へと届く更なる追い打ち。声と言う名のダンプティの黒い腕はブージャム1の脳内で再生されていた淫蕩の映像を一気呵成に捻り潰した。
「 ” 貴様らが作戦遂行の為にどういう手段を採ろうが、どんな殺し方をしようが俺は関知しない。だがこれ以上人の尊厳を踏み躙る行為を俺の前で行うと言うのであれば、貴様らは自分の命を覚悟しろ。 …… 手向かう事が出来るのならば精々やってみる事だ、地上戦力でこの『サイケデリック・ジム』五機と遣り合う事が可能だと、本気で思う事が出来るのならば ” 」

 ダンプティの宣告と同調する様に、敷地内へとその巨大な姿を現していた三機のクゥエルは一斉にライフルのボルトを引いて新たな弾をチャンバーへと押し込んだ。排出された新品の60ミリは豪快な音を立ててコンクリートの地面を大きく抉る。重厚な振動は必死で押さえていたブージャム1の膝の震えを生まれたての小鹿の物へと変える。瞬きも出来ずに見上げる闇の先でブージャムの罪を裁く為に動き出す黒色の巨人は、其の最初の一歩を彼に向って踏み出した。
 彼らの企てた邪まな提案を須らく一蹴する為に迫り来る、戦争の帰趨を決定付ける為に開発された巨人族の影と地鳴りをシェルターの扉の前で佇んだまま痴呆の様な顔で見上げるブージャム1。外しようの無い距離でANUBIS4を蜂の巣にしたばかりの銃口が彼目掛けて突き付けられた。
「 ” これが脅しで無い事は、貴様になら分かる筈だ。 …… 理解出来たのなら速やかに任務を遂行しろ。 ―― 無線は開いておけ。もしも貴様らがこの期に及んでその様な行為に及ぶのなら戦争犯罪の証拠ごと、この場で俺が消去してやる。ボロゴーブの落とした火炎の中で己の犯した罪を神か仏にでも懺悔するんだな ” 」
 
 甲高い悲鳴と銃声、そして沈黙の連鎖はダンプティがAハンガーと名付けた敷地の傍に近づくまで続いた。「 ” 任務完了 ” 」と忌々しげに吐き捨てたブージャム1の声に何の返答もせずに、彼はモニターに映り込んだ二つの影へと目をやった。横たわったまま動かないクゥエルの身辺を護衛する様に立つのは恐らくト―ヴ1であろう、コックピットハッチの上で膝を抱えたまままんじりともせずに燃え盛る炎を眺めているパイロットに向かってダンプティは言った。
「無事か、ラース1」
 この部下の無鉄砲な振る舞いは今に始まった事ではないが、それでも今回は余りに度が過ぎている。敵の力量を計るのならば少なくとも60ミリの一丁は携行していくべきだと苦言を呈しようかとした矢先、男は小さな声でぽつりと言った。
「  ” ―― また無様に生き残ってしまった。援護射撃など余計なお世話だ ” 」
 それが果たして自分に向けられた物なのか、それともハンプティに向けられた物なのかどうかは定かではない、しかし戦闘中の高揚した気分から脱却して普段の冷静さと厭世感を取り戻している事だけは分かる。出かかった譴責をぐっと喉の奥へと押し込めて、ダンプティは何食わぬ口調を装って尋ねた。
「損害状況を報告しろ」
「 ” 損傷率20パーセント、脚部トーションバーの破損と油圧のメインパイプが破裂して長時間の単独行動は不可能です ” 」
 報告を受けたダンプティが傍らに立つト―ヴ1へと視線を送る、分隊の副指揮官としての立場にあるその男は自分の機体のサーチライトを破損個所に当ててダンプティの視界に届きやすい様に配慮している。確かに足の裏はもう片方の足の裏とは形が変わって、キャクストンの渾身の裏拳を受けた脇腹からは決して少なくない量のオイルを地面へと垂れ流している。
「確認した。残り時間を考えると『ベルゲ』(作業用ガンタンク。主に擱坐した機体を回収する)は間に合わん、機体はト―ヴ1に破棄して貰え」
「 ” 了解 ” 」

 公式非公式を問わず現在展開中の作戦行動の中でも最も苛烈で凄惨な現場を担当する自分の部隊で常に先鋒を務める彼は作戦の成否以上の事に興味を持たず、まるで修行を終えた僧侶の様な出で立ちで基地への帰路に着く。終始一貫して貫かれるラース1のスタイルは分隊指揮官であるダンプティですらも畏敬の念を覚え、そして残念ながらその事が彼と仲間の協調性を失わせる要因ともなっていた。故にラース1には固定した僚機が存在せず、ともすれば今夜の作戦の様に単独行動を余儀無くされる事もしばしば起こる。
 優秀なポイントマンであるが故にラース1を作戦中に喪失する事は部隊にとっての大きな痛手となる、部隊が被るリスクを回避しようと考えるダンプティは再三に渡って注意を喚起し続けた。だが上官からの忠告に表面上の同意だけを示すラース1の眼の奥に残る憎悪の焔の存在を、ダンプティは知っている。
 それが何らかに対する復讐を意味している事は疑い様の無い事実、だが傭兵の集まりであるこの部隊に過去や志願の動機はいらない。必要なのは任務遂行に必要な能力と、人である事を捨て去る精神力。自分達が生息する水深と同じ深さで泳ごうとする者だけが法外な報酬と連邦軍公認の殺人許可証を手にする事が出来るのだ。 それが出来ない者若しくは出来なくなった者に与えられる物は、誰にも知られる事の無い地獄への ―― 天国など自分達には有り得ない ―― 片道切符。例外は、無い。
 隠し切れない執念を抱える彼がそれらの特権を気紛れで手放す事はあり得ない。例えどの様な人と形で自らの本性を覆い隠そうとした所で、彼が今この部隊に存在して戦い続けている事、それが彼の目的の為に必要な手段であると言う事実をダンプティは確信し、そして未だに炎を見詰め続けて蹲っているラース1の影を見詰めながら無線機の周波数を切り替えた。

 眼球を干上がらせようとする其の炎は自分の心中に渦巻く妄執。瞬きを忘れて見詰め続ける『ラース1』の両手は湧き上がる失望と生き残った安堵と言う二律背反にせがまれて、瘧を罹患した子供の様に震え始めた。不随意に震える手を誰にも見られない様に、隠した私怨を悟らせない様に『ラース1』は押し寄せる痛みを怨みに変えてバイザーの影で血走る瞳を凝らして其の炎の向こうで繰り広げられているであろう、殺戮の魔宴サバトを想像する。
 仄かな明かりの下に浮かび上がる冤罪の死刑囚、裁かれる事無く執行される極刑。そして代行者を名乗る地上班の兵士達の足元に広がる鮮やかで生臭い緋。征服者の手によって繰り広げられる終焉の挽歌は虐げられた敗者にのみ与えられ、命と共に地へと振り撒かれる血潮と異なった彩を持つ澱んだ闇が、黙を引き連れて世界を変える。
 其の世界こそが、彼の望んだ世界。
 自らの生死を運命の前に差し出して気紛れな占卜に委ねる如き戦い方は、恐らく彼自身も知る通り歪んでいるのだろう。だがラース1にとっては『男』として生きる事を失った彼自身が、未だに生き続けて此の世に何を為す事ができるかと言う事を知る為の大事な儀式なのだ。
 ラース1の視線が砕けた輪郭を炎の影に沈めつつあるANUBIS4の無残な残骸に憾みを篭めて注がれる、自分に勝利しながらつまらぬ人道によってその権利を手放した間抜けなエースに向かって心の底で呟いた。
 ―― 奴こそが、俺自身を支配する暴棄の運命から救い出してくれる『救世主』だったのかも知れないのに ――
 他人の手によって齎された偶然と度重なる必然。敗者を蹂躙する事によって得られる快感を中断させられた彼の脳裏に運命を嘲笑う雄山羊バフォメットが姿を現した。右手に死、左手に生を掴みながらその長い舌をチロリと覗かせてラース1に問い掛ける。
 ―― お前に相応しい物は、どちらだ? ――
 溢れる妄想と逆流する血液。教会を模した闇の神殿に吊り下げられた鐘の音が雄山羊の尖った口から滴る涎と共に繰り返される。彼の外耳を舐め上げる様に響く悪魔の声は、彼の理性を押し流して潜めた本能を皮膚の上まで浮き上がらせる。だがその瞬間に必ず訪れる肉体の変調は彼の意識を常に現実へと引き戻すのだ。
 股間に刻まれた傷の疼きに耐えかねたラース1が零れ出ようとする苦痛のうめきを唇を咬んで押し殺す。破れる皮膚から流れる一筋の血が顎を伝って滴り落ちた。
 現世と幽界の馬の背で滑り落ちるまで踊り続けようと試み、未だに其の不安定な足場に片足で立ち続ける『ラース1』の生殖器はあの日に犯した罪と共に消え失せた。あるのは肛門付近から臍の下にまで続く醜く引き攣れた縫合痕のみ、失った箇所を埋め合わせる為に無理矢理寄せ合わされたその患部は覆い隠そうとする陰毛と同じ様に歪《いびつ》に歪んだ彼の運命を暗示した。
 その傷が自分の体に刻み込まれたあの日から。
「 …… アデリア・フォス」
 血の滲む唇が微かに歪んで『ラース1』の肉体に生涯忘れえぬ傷を刻みつけた者の名を呟く。血走った瞳は焦点を失い、眼球の底に刻まれた偽善者の相貌を睨み付けた。

                                 *                               *                              *

 異例の人事によって中隊長へと昇格を果たした『ラース1』には与えられた地位と名誉がどういう意味合いの物か分かっていた。
 R&R(recognition and recuperation:慰労と休養)を間近に控えた作戦で、自分の部隊を援護する筈の前線司令部が敵の余りに統率の取れた攻撃に怖気づいて『ラース1』らの部隊を最前線に置き去りにした挙句に彼一人を除いて全滅させたと言う不祥事。その事実が前線全体に波及して士気が低下してしまう事を懸念した軍上層部が画策した、隠蔽の為の口止め料だという事を。
 彼を逃がす為に盾となって斃れる友人の声と、弾薬が底を尽いて補給を求めながら手にする事無く無念の死を遂げていく倍する数の仲間の叫びを耳にしながら決死の覚悟で包囲網の只中へビームサーベル一本に望みを託して飛び出したラース1。彼の背後から届く『生きろ』と言う仲間の切なる願いは、そのまま彼の生き様に呪いとして刻み付けられた。

 自分達を見捨てた軍に対する怒りと、死んでいった仲間達の願いの板ばさみに合ったラース1は傷だらけになった機体を引き摺って戦域を離脱した瞬間に自らの感情を凍結した。
 唯一人生き残った事に対する賞賛も、事実がラース1の口から漏れる事を恐れる上官の危惧も彼の胸には届かない。外部からの干渉を一切拒絶した彼の理性は恐ろしく危うい足場の上に立ち、強靭な意志の力で支える事によってその均衡を保っていた。その足場から滑り落ちてしまえば自分の心中で渦巻く憤怒が彼の意志を残らず支配してしまうであろう事を知り、憤怒と言う名の激情に取り込まれた自分が復讐と言う二文字を携えてどの様な行為に及ぶかを理解した上で、敢えて彼は仲間の呪いに身を委ねる決断をした。
 自分の心を一生殺して生きる事、それこそが自分の足元に臥した仲間達の魂に報いる唯一の手段だと信じ、そして自分の一生を彼らの為に捧げる事を誓った。

 次の作戦の準備と予定通りのR&Rを消化する為に立ち寄ったヨーロッパ西岸に浮かぶ小さな島の川の辺《ほとり》に居を構える基地。『ベルファスト』と呼ばれる連邦軍基地に常駐していたモビルスーツ隊の女性隊員を所望したのは彼ではなく、年上で古参兵の彼の部下の一人だった。
 古参とした鳴らした彼がラース1に対して其の提案をしたのはほんの出来心に過ぎない。新しく参集した部下の為に一席を設ける訳でもなく、唯ひたすら無口に ―― ともすれば其の行いは全員の顰蹙を買った ―― ハンガーに座り込む上官を見兼ねた、彼なりの歪んだ気遣いの果ての提案だった。男であるならばその様な下種な提案には何らかの反応を示す筈だと信じ、彼は世捨て人の様に頑なに人の繋がりを拒もうとするラース1の感情を解き解す切っ掛けを作ろうと考えたのだ。
 だが、それはラース1にとっては別の感情を湧き上がらせる切っ掛けにしか過ぎなかった。小さく頷いて軍内部に於ける犯罪を許可するラース1を前にした其の古参兵は狼狽した。まさか新任の中隊長がいきなり自らの地位を汚泥に浸す様な行為に手を染めるとは予想していなかったのだ。
 慌てて自分の提案を取り下げようとする古参兵の瞳を強烈な殺意の篭った目で見上げるラース1。上官としての威厳を湛えた眼光は、古参兵の弱気を恐怖へと変貌させた。
 この目に逆らう事は死を意味する。彼は長い戦闘経験からその事を十分に理解していたのだ。

 ラース1は件の女性隊員を知っていた。一人でポツリと坐るハンガーの片隅に近寄って来てはラース1の過去をしきりに問い質そうとし続け、同僚の制止の声も振り切ってラース1が抱える心の闇の正体を解き明かそうと奮闘する彼女の姿は傍目には博愛精神に満ちた修道女にも似ているのだろう。事実彼女はベルファスト基地内のどの職員からも好かれる、非の打ち所の無い容姿と性格を有した女性である事は間違いなかった。
 許せなかった。

 古参兵の申し出をラース1が許可した理由は自分に好意の目を向け、過去を抉り出そうと試みる其の女性隊員の存在を否定する彼自身の願望による物だった。
 戦火の及ばぬ後方で何食わぬ顔をして平和を満喫する幸福に満ちた彼女の素顔。友が、仲間が不条理に撃ち斃される戦場を知る事も無く、彼女を取り巻く友や仲間の忠告にも耳を貸さずに無遠慮に彼の心に土足で浸入しようとする彼女の言葉。
 全てが自分を置き去りにした事実を覆い隠して仲間の死すらもプロパガンダに利用して正義を喧伝する偽善者然とした軍の上層部の姿に重ね合わせた彼の心は、その瞬間に揺れ動く足場の上から一気に奈落の底へと滑り落ちた。
 その女の全てを『穢したい』と思った。

 女の言葉や態度。全てが死者に対する冒涜だと思った。
 
 人気の無い、深夜のハンガーで上官の命令と言う大義名分と共に犯行に及んだ部下達がラース1の心中を図る事等出来はしない。死者との盟約を破ったラース1は、自分の罪に加担した外道と共に戦争犯罪人として極刑を受ける覚悟を固めた。ティターンズと言う組織を統制する為に策定された軍規は厳格を極めており、その中でも戦争犯罪 ―― 特に軍内部での ―― に関する刑罰は有無を言わさぬ重罪が設定されている。短い期間では有るが指揮官としての教練を受けた『ラース1』はその事を十分理解しているが故に、死者を裏切った自らの最期を同じ地平に立つ軍の手に委ねたのだ。自分の仲間に手を下した奴等の手で、仲間の住まう天上とは域を違える地獄に落ちようと。
 だが事態は『ラース1』の望んだ極刑とは全く正反対の方向へと流れ始める。
 それは加害者である自分達が『ティターンズ』であり、被害者の女が『連邦軍』であると言う立場の違い。軍内の一勢力でありながら未だ最前線にて実戦を続ける勢力と言う事実と其の実力は既に軍全体に影響を及ぼすほど強大な物となっていた。その事に不快感を覚える連邦軍とティターンズの将兵の間での小競り合いは各方面軍の到る所で勃発しており、喜ぶべき事に其の殆どが示談と言う形を借りてティターンズ側に勝利を齎していた。軍内だけではなく、連邦政府内でも強い影響力を行使し始めた主流派に抵抗出来るほど気骨のある勢力は、既にこの時存在していなかったのだ。そしてこの事実が連邦軍からティターンズへと転属を求める兵士の増加を誘引する理由にもなりつつあった。
 ネズミ講の様に兵力を増やしていくティターンズの興隆を指を咥えて眺めるだけの傍流に成り下がった連邦軍。弱者の立場にしがみ付いた一人の女性隊員に降り懸った傷害事件などティターンズに取っては犬に咬まれた程度の事で、取り立てて表沙汰になるほどの大げさな事ではない。成り行きで仕出かしたこの不祥事も良くて示談、最悪でも連隊長からの譴責処分で済む筈だ、とラース1の弁護に当たった弁護士は願望を反故にされた怒りで喚き散らす彼の前で驚嘆の表情で告げた。

 実際に事態は弁護士の予想通りの展開を見せた。MPによる身柄拘束も無く、これと言った事情聴取も行われないままお咎め無しと言う御白洲の裁きを手にした彼らがささやかな宴を催した基地内のプレイルーム。民間人ならば確実に懲役刑を下される犯罪ですらも隠蔽する、ティターンズの力と其の勢力に属する事の恩恵を噛み締めた外道の群れと、それを失意の目で眺めるラース1。
「こんな物なのか」と。
 死者に呪いを掛けられた自分には自由に死ぬ事すらも許されないのか。矜持を失い、他人を傷付け、死を覚悟しても生き続けなければならないのか。それも自分の仲間を見殺しにし、自分を此処まで追い込んだ『ティターンズ』に無様に助けられて。
 ラース1は生きる目的を自らの手で失った。自らの犯した罪さえ裁かれる事が無いというのなら、せめて次の戦闘には華々しく散ってやろうと決意を固めた。仲間の喧騒を尻目に絶望の境界と死と言う名の脱出路を思い浮かべたその時。

 その女はやって来た。栗色の長い髪と秀麗を覆い隠す般若の面を携えて。

                              *                                *                               *

「 …… やはり、お前か」
 アデリア・フォス。俺の歪んだ運命の鍵を握る者は。暴棄の嵐に吾が身を曝して地獄を求め続ける俺の道標。
 お前は俺の罪を裁いた。俺の罪を裁く事でお前は罪を得た。ならば。
 お前と俺は同じ世界の住人として等しく、互いに寄り添い縋って生きていかなくてはならない筈だ。
 全てを失った俺が未だに生き残ると言う定めは、全て神によってお前の元へと導く為に引かれた茨の畔。鋭い棘は俺の五体を切り刻み、流れる血は犯す罪と同量の苦悩を俺自身に思い知らせる。
 その道程の果てで俺の到着を待ち侘びるお前は、やはり俺と同様に自らの罪に塗れて汚れていなければならない。
 俺と同じく何も無い、空虚な魂を抱えて泣き叫んで居なければならない。
 もしお前がそうでないのなら俺がお前をそう変えてやる。罪に塗れたお前が抱えた未練をこの俺が断ち切って、お前が俺と同じ世界の住人である事を俺が教えてやる。
 だから、待っていろ。アデリア・フォス。
 俺達が同じ畔の袂に佇んで、抱えた罪に吾が身を苛む宿命を携えて生きる者同士だと神が決めたというのなら、俺達は必ずどこかで廻り合う。
 だから ――
「待っていろ。何時の日か、必ず ―― 」
 互いの罪を互いに裁いて、手を取り合って地獄へ堕ちる。それが俺の望み。
 手にした彼の刃がアデリアの喉を貫き、アデリアの断罪の剣が彼の心臓を刺し貫いて抱き合ったまま共に息絶える。斜陽煌く宿業の畔の上で、茨に塗れて斃れていく互いの光景を想像して、押し寄せる激痛も顧みず鬼面の哄笑を浮かべるラース1。

 それは彼自身にも気が付かない、奇怪に歪んだ愛情の現れであった。

 死の宴の痕跡は熾き火一つを闇に残して静寂の海に沈んだ。
 寂寥の風鳴りは意味も無く存在を奪われた大勢の子羊に送る母なる大地からの鎮魂歌レクイエム、『グレゴリオの無伴奏アカペラ』は『聖歌チャント』の意味を正しく捉えてハンブルグ郊外の森林を本来有るべき姿に戻そうと尚も其の息吹を上げる。
 気を利かせた傍観者ボロゴーブが壊れたチェンバロで伴奏をつけようと、夜空に不気味な音を漂わせてセッションに加わった。風の音に混じって闇に眠ろうとする森林を揺り覚ます轟音は、巨大な黒い影を引き摺って研究所の上空に差し掛かりつつある。

 のっぺりとした腹から零れ落ちる流体構造を持つ何かが夜空に巨大な花を咲かせる。落下速度を抑える為のパラシュートに繋がれたそれはゆらゆらと研究所の敷地目掛けて舞い降りた。
 ぶら下がった爆弾の先端が研究所のコンクリートに接地した瞬間に野菊の茎は最後の目的の為に炸裂し、暴虐とも言えるその威力を一気に開放した。研究所の敷地を埋め尽くす、それはまるで二つの太陽。
 大地を底辺として半球状に拡大した火玉は互いに手を取り破滅の力を増幅した。内部に吹き荒れる断罪の業火は善悪問わずに灰燼に帰す。形あるもの無きもの一切の区別無く、原初の塵へと還して彼ら其々が請い敬う神々の御許へと彼らの全てを薙ぎ払う。それが人の手によって創られた、人の罪を覆い隠す為の、人にしか出来ない外道の極み。
 一瞬にして周囲の酸素を奪い取る巨大な火玉が、促進される破壊力と言う進化の果てに訪れる自己崩壊の法則に従って突如消滅した。真空と化した無間の闇を取り繕う様に流れ込む空気の塊が、被災を免れた周囲の木々を引き倒して何も無くなった広大な原野に殺到した。そこに存在した筈のMIPドイツ・総合技術研究所と言う痕跡を多い尽くさんばかりの勢いで。

 そして巨大なキノコ雲と言う狼煙を残して、彼らの宴は終了した。
 立ち去る者には次なる修羅を、留まる者には無念の死と言う結果だけを残して。

「『我は死なり、世界の破壊者なり』か」
 ポツリと呟いたダンプティの言葉を聞き留めたトーヴ1が通信回線を通じて尋ねて来た。
「 ” 何です? その台詞 ” 」
「ヒンズー教の経典に書かれてある一節だ。人類が初めて核爆発実験を行った時に立ち会った研究者の一人が呟いた言葉だそうだ。 …… この光景は正にその言葉に相応しいとは思わないか? 」
「 ” まあ、核の使用を南極条約で禁じられている以上、現時点で最大の破壊力を持つ爆弾ですからね。 …… なるほど、うまい事を言う ” 」
「どちらが、だ? トーヴ1」
 言葉の隅に揶揄の含みを忍ばせて尋ねるダンプティの感傷的な言葉は、トーヴ1の返答を躊躇わせるには十分過ぎる力があった。束の間の逡巡の後にトーヴ1はこの場に相応しい回答を口にした。
「 ” どちらも、ですよ中佐 ” 」
 ト―ヴ1の回答に自虐の笑み ―― しかしそれはほんの微かに口角が攣り上がる程度 ―― を浮かべたダンプティが無線機のボタンに手を伸ばす、連邦軍すら使用不可能な暗号回線の周波数に合わせたダンプティが撤収の為の第一声を放った。
「こちら『W.W.W』、『M.G.B』HQマザーグース・ヘッドクォーター応答せよ」
 無線封鎖開けの余りにも早いタイミングでの通信に、面食らって慌てる女性の驚いた声が『ダンプティ』のコクピットに流れた。
「 ” ―― こっ、こちらM.G.B・H.Q。『W.W.W』どうぞ。」
作戦終了ミッションコンプリート。これより『対象Bパッケージブラボー』を連れて原隊に帰投する、以上」
「 ” ―― 了解しました。予定回収時刻はGMTグリニッジ標準時0400マルヨンマルマル、誤差プラスマイナス05でお願いします ” 」
「了解した。交信終了オーヴァー
 一切の無駄口の無い会話を成立させたダンプティが交信を閉じて周波数を弄る、通常回線に復帰した通信機のスピーカーからトーヴ1の口から漏れる安堵の溜息が流れた。
「安心したか、ケルシャー」
 作戦中に呼ぶ事の無かったトーヴ1の名前を口にしたダンプティが、他の誰にも会話の内容を聞かれない様に相手のクゥエルに手を掛けて接触回線で通話を始めた。語り掛けるその声に残忍な集団を束ねる冷酷な指揮官としての面影は無い。
「 …… こういう非道な作戦はジオンでは考えられない物だからな。やはり連邦、特に『ティターンズ』と言う連中は頂けない連中だ、反吐が出る」
 秘匿された会話にも拘らず息を潜めたケルシャーが無言で相槌を打つのがダンプティには分かる、不意に同意の沈黙を破ったケルシャーが『ダンプティ』に向かって尋ねた。
「 ” こんな事を何時まで続けるつもりなんですかね、ティターンズは。いろんな所から科学者を掻き集めて、今回に到ってはよりにもよって皆殺しとは。彼らの目的が最終的に『アレ』を創り出す為の物だとしてもこのやり方は酷すぎる ” 」
「だが我々には此処に『留まる』しか選択肢がない、少なくともこの部隊の背後に見え隠れする『アスラ』の手掛かりを掴むまではな」
 その言葉を口にしたダンプティの表情が失望に曇る。『アスラ』と言う謎の集団の手掛かりを掴む為に傭兵の集まりであるこの部隊に身を投じた自分達だが幾度の凄惨な作戦を完璧に達成しても得られる成果は規定された報酬と束の間の休暇期間のみ、それが終われば再び言われるがままの非道を繰り返す日々を送らざるを得ないのだ。ジオンの将兵であったという誇りを血泥の中に叩き込んでまで。
「だがケルシャー、既に反ティターンズ勢力は到る所で動き始めている、我々の身辺が忙しくなっているのがその証拠だ。『敵』が多くなれば奴等は必ずそれに応じなくてはならない、自分達の利益を拡大する為に、あざとく、姑息に」
「 ” そうでしょうか? ” 」
 疑問符をあからさまに乗せるケルヒャーに向ってダンプティは、恐らく目と鼻の先にまで近付きつつあるであろうチャンスを切望し、そしてその予感が的中しているであろう事を心の底から期待して言った。
「お前は知らないのか? 闇はな ―― 」

 ダンプティの視線が夜の闇に沈んだ研究所の跡地を睨み付けた。
「 ―― 夜明け前が一番暝いんだよ」



[32711] Disk
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2012/11/15 19:30
 見た目より重い音がするのは内部に防弾用の鉄板が仕込まれているせいだ。司令官室と通路を仕切るドアがゆっくりと開いて仏頂面のヘンケンがのそりと廊下に姿を現した。いつ終わるとも知れない民間人との会合に暇を持て余して欠伸をした警備兵が慌ててそれを噛み殺す様を一睨みしてから踵を反して出入り口の向こうを険しい顔で眺めた。
 ヘンケンの視線をするりと躱すようにセシルが退出し、その後に颯爽と続く人影が警備兵の眼前を過ぎる。恐らく激論の最中に乱れたであろう髪を手のひらで撫で付けながらヘンケンと対峙するウェブナーの表情は鏡写のように不機嫌だ。睨み合う二人の背中に密かに目配せした警備兵はこの会合の結果が失敗に終わったという事を想像せずにはいられなかった。
 それは決して彼らにとっても無関係な事ではない。オークリー基地にルートを持つ業者は限られており、その中でも生鮮や主食の半分を引き受ける農場の組合長にそっぽを向かれでもしようものなら、それだけで明日からの彼らの糧食に影響が出る。いくら陸戦部隊の連中が躍起になってウサギを獲って来た所で新鮮な野菜や穀物の代わりにはならないのだ。オークリー基地と言う名の陸の孤島があっという間に難民キャンプの様な状態になる事は間違いない。
 だが喧嘩別れとなった会合の最後に互いが交わす棄て台詞を固唾を呑んで見守る警備兵の視野に映るウェブナーの不機嫌な表情 ―― 彼の記憶でも司令がそんな顔をした記憶が無い ―― が次の瞬間には砂礫の如くに崩壊して笑みが浮かんだ。
「いや、実に有意義な時間を過ごさせていただきました。組合長のご英断に感謝します。」
 きちんと整えられた髭が笑顔で歪む。ウェブナーの方から差し出された右手を見下ろしたヘンケンが、ウェブナーとは違ったシニカルな笑みを浮かべてしっかりと握り締めた。
「まあ、買い掛けを止めて現金取引と言うのでしたら、こちらの方としても条件としては申し分ない。組合員に支払う代金は一日でも早い方がいいですからな、彼らも仕事に張り合いが出るでしょう。その代わり ―― 」
「分かってます。次回の価格協定の見直しの際には必ずベッケナーさんの所を真っ先に協議させていただきますよ。その結果次第ではカリフォルニアベースの入札にも参加し易くなる」
「今日の会合がお互いに利益を齎す切っ掛けとなって欲しい物です。『雨降って ―― 』とは正にこう言う事を言うんでしょう」
 狐と狸のばかしあいを地で行く会話を耳にしたセシルが神秘的な笑みを浮かべて二人の表情を眺めた。
 実際、基地との商品の取引が現金に変った事は事実であるし、それによって開拓地域で働く農夫達の金銭的損失が早期に補填されると言うのは確かだ。ウェブナーがヘンケンに約束する全ての事項は『表向き』のヘンケンの職業には全てプラスの方向へと働くだろう。
 だが、ここに集まった本来の目的と『裏の顔』が携えた議題に関しては何の進展も無かった。コウのスカウトに関する議題の是非はセシルの一言によって混迷の度合いを深め、四人の意見は三つに分かれた。コウの人と形を知るセシルは賛成の立場に廻り、残されたデータを重く見たウェブナーとモラレスは二人と反対の立場を採った。互いが互いを説得すると言う不毛な議論を繰り返した挙句、中立の立場を取ったヘンケンの水入りで会合は物別れになる事を余儀無くされる。
 会話の漏洩を防ぐ為に盗聴器の傍に貼り付けたICレコーダーの再生時間が限界を迎えた事で時間切れとなった議論の結末は、結局保留と言う最も時間を無駄にした形で終了する事となっていた。
「会議は踊る、されど進まず」とかの貴族に揶揄されても言い返せるだけの理由がない、とセシルは自分の弁舌の拙さを歯がゆく思う。もっとも今彼女が手にしている根拠は全てが主観や推測に過ぎず、数字と手数に勝る二人を相手にここまで食い下がることができたのはセシルの並々ならぬ決意によるものなのだと彼女の実力を知る誰もが確信するだろう。少なくとも痛み分けで終わった事はセシルにとっては勝ちに等しい事なのかも知れない。

「奥様には感謝しなくてはなりませんな」
 ウェブナーの意味深な言葉が自分の内へと思考を向けていたセシルを現実へと引き戻した。焦点を合わせる黒い瞳と交差する視線に秘められたウェブナーの感謝がそこにはある、立場上セシルの意見に対して反旗を翻したウェブナーではあったが実は心の何処かで自分の価値観を覆す考えを待ち望んでいたのかも知れない。彼がセシルに告げた言葉は『表』の意味でも『裏』の意味でも共通する感謝の意であった。
「奥様からこの様な提案がなされなければ、話し合いは破談になる所でした。ベッケナーさんはいい伴侶をお持ちだ」
 形式ばった言い方では有るが、ウェブナーにはそれに取って代わる賛辞の言葉を見つける事は出来なかった。事実、強力で新たな戦力の補充は現在反ティターンズを取り巻く勢力に置いては必要不可欠であり、増大する敵戦力と拮抗する為には一騎当千の強兵の存在こそが萎えていく士気を高める起爆剤になる筈なのだ。すんでのところで最悪の展開と結論に落ち着こうとした議論の行く末を見事に崖っぷちに軟着陸させたセシルの洞察力を、ウェブナーは共に宇宙を駆けていた時と同様の尊敬の眼差しで見詰めた。
「いえ」
 ウェブナーの視界の中でにっこりと笑みを浮かべて静かに会釈を返すセシル・クロトワという女性が、一年戦争開戦初期に勃発したルウム戦役においてジオンによる旗艦アナンケ拿捕後の代行を務めたマゼラン級戦艦二番艦『ネレイド』の後を受け、最後の砦となった三番艦『ホーライ』の副長だったということはその時の生き残りならば誰もが知る事実だ。自らも被弾して指揮系統を喪失した艦をたったひとりで取り纏めながら壊走する連邦宇宙軍の殿を務め、損害を最小限に留めて自らもルナツーに帰還したと言う武勇伝は一年戦争が史書に記載された今となっても将兵の間で一種の伝説と化している。
 戦功と実績から言えば恐らくこの三人の中では誰よりも輝かしく、そして華々しい未来が待ち受けていた筈の彼女がその後どの様な経緯でヘンケンの乗艦する『スルガ』 ―― それもサラミスを改装した輸送巡洋艦だ ―― の副長に収まったのかは定かではない。だが僚艦の艦長を務めていたウェブナーも与り知らぬ内に彼女は何時の間にかヘンケンの側に立ち、ヘンケンの補佐として十年来の付き合いの様な振る舞いを見せていた。当時は様々な憶測を呼んだ二人の関係も六年を経過した今となっては二人を繋ぐ絆が純粋な『上官と部下』の関係止まりである事を疑う者はいない。
 もっともそれはこの二人が『本当の夫婦ではない』と言う事実を知る者だけに限定されてはいるのだが。
「では、私達はこれで。ウェブナー司令、新たな契約書は近日中にこちらに届けさせますので、くれぐれも反故になさるような事だけは ―― 」
「分かっております。これでも軍人の端くれ、自分の決断には責任を持つ主義ですからな」
 にこやかに笑いながらヘンケンの手を離すウェブナーの目には、この議題についてもう一度仕切り直そうとする意志がありありと浮かんでいる。ヘンケンは彼の視線を受け取ると小さく頷き、その同意を求めるようにセシルへと視線を送る。
 しかしその頃にはセシルの瞳はヘンケンの顔へと、いや正確にはヘンケンの顔を通り過ぎてもっと遥か遠くの世界へと注がれていた。

 頭の中をぐるぐると駆け巡るコウの矛盾に思考を捉えられたままのセシルだが、傍目にはそれを感じさせないようにする器用な所がある。だが普通の人なら分からないその変化も長年共に死線をくぐり抜けたヘンケンにはお見通しだ、片目を二度瞬いてセシルの視線に変化を与えて気づかせる。それは二人だけにしか出来ないお決まりの符丁のようなものだった。
 我に返って焦点を合わせたセシルの黒い瞳に向かってヘンケンが意味深な視線を送る、それがここでの会合を終えた後に当事者の家へと赴き当面の事情と情報を採取するという意味である事がセシルには理解できた。
「ごめんなさい、慣れない話し合いで少し上せたようですわ。外の風に当たればじきに収まります」
 ヘンケンの視線に応えるように小さく笑いながら自分の思考迷路に鍵をかけるセシル、その背後から後ろ手にドアを閉めながら通路へと姿を現したモラレスが声をかけた。
「そうじゃな、気分の悪い時にはそれが一番」
 どことなく労わるような声音で話しかけてくる老軍医の顔を振り返る三人に向かって顔を上げたモラレスは、ゴソゴソと白衣のポケットに手を差し込んで何かを探している。
「組合長が引っ切り無しに煙草を噴かすモンじゃから、そりゃ気分も悪くなるじゃろう。 ―― ほれ」
 そう言いながらポケットから引っ張り出した掌の中の物をセシルに預ける。秘色のセロハンに包まれた小さな飴が転がった。
「奥さんにはハッカじゃ。そしてあんたにも」
 モラレスがヘンケンの掌に無理矢理飴を押し付けながら言った。
「あんたには禁煙飴じゃ。煙草も程々にせんと健康を害するぞ? あんた達の仕事は体が資本なんじゃろう」
「いや、それはそうですが今更飴を舐めて誤魔化す気には ―― 」
「ばかもん」
 ヘンケンの反論をやんわりとした口調で遮ったモラレスではあったが、其の目には本気でヘンケンの体を心配している意志が見て取れる。まるで教師に怒られた生徒のように口ごもるヘンケンの顔をジロリと見上げながらモラレスは言った。
「同じ時に、同じ物を見、同じ物を食べる ―― 具合の悪い時には尚更じゃ。そうしないと夫婦と言えども元は他人同士の繋がりじゃ、あっという間に壊れてしまうぞ? これは儂からの『夫婦円満』の為の呪いみたいなもんじゃ、ありがたく受取っとけ」

 上官と部下でありながら偽装結婚を続ける二人の精神状態を、傍にいる警備兵に気付かれない様に気遣うモラレスの言葉が二人の胸に染みた。
 任務とは言え本来は宇宙を住処として船の中で寝泊りしていた二人が地上に降りて何年が経過しただろうか? 反ティターンズの地下組織の中核となって活動する二人にとって、今現在の状況は決して喜ばしい方向へと向っていない ―― いや寧ろ悪化しているのは確かだ。ヘンケンの性格から言えば直ぐにでも現存の組織を纏め上げて然るべき指導者に預け、叛旗を翻す為の準備に勤しみたい事だろう。宇宙を根城とする二人が艦隊を操りティターンズとの雌雄を決する事こそ本懐であり、また無限を具現するその世界こそが二人の真価を発揮できる領域の筈なのだ。
 生きるべき世界から遠く離れて重力の井戸の底で慣れない同居生活を続ける事が思わぬ軋轢を生み出す、今日二人の意見が分かれたのがその前兆だとモラレスは心密かに憂慮した。お互いに気付かぬストレスから来る見解の相違は放っておけば二度と修復不可能な関係にまで発展する様をモラレスはカウンセラーとして何度も見てきている、初期段階で発生する症状を悟ったセラピストとしての判断は二人に対しての忠告と戒めを飴玉と言葉という行為で教える事だった。
「ありがとうございます、ドクター。ありがたく戴きます」
 モラレスの諫言に対して何かと意地を張るヘンケンは複雑な表情を浮かべたまま口を噤んでいる、「やれやれ、またか」と呆れた笑いを浮かべたセシルがそっと手を差し出して、モラレスの指に摘まれた飴を受け取った。その光景を不愉快そうに視線で追うヘンケンの頑なな表情に向かってモラレスが意地の悪い笑みを浮かべた。
「 ―― 何じゃあ、奥さんに口移しで食べさせて貰わんと飴の一つも受け取れんのか? 見かけによらず意外に甘えん坊さんなんじゃなぁ」
「おおっ!? あ、あんた、な、なんて事 ―― 」
 怒りと羞恥が同時に温度を上げてヘンケンの余裕を失わせ、真っ赤になった顔の上で青い瞳が目まぐるしく泳ぐ。縋る場所を探す様にオロオロする視線を横目で眺めながら微笑んだセシルが、掌の飴をヘンケンの目の前で転がした。
「あなた。じゃあこれはあたしが、後で」
 静かに囁いたセシルの顔を複雑な表情で見下ろすヘンケンとその視線をなぞる様に上目遣いで見上げるセシル。二人の間に流れる空気と意識の差を既によく知るモラレスは、彼だけが知るセシルの秘密を鑑みて心の中で呟いた。
 “やれやれ、セシル。お前さんも不憫な女じゃなあ”

 慌てたヘンケンがこれ以上の戦線の維持は不可能だとばかりに帰路への撤退を決意した。歴戦の指揮官を言葉一つでやり込めた老医師の顔をこれでもかと睨みつけながら出口へと続く長い廊下を歩き出す、その時ヘンケンの体に小走りで走って来たニナが正面からぶつかった。
「きゃっ! 」
「おっと」
 屈強なヘンケンの胸板に跳ね返されたニナが尻餅を着いた。手の中に抱えていたファイルの束が盛大な音を立ててヘンケンとニナの間の距離を埋める様に床へと散らばる。出会い頭の衝撃で頭を押さえながら蹲るニナの姿を呆然と見下ろしていただけのヘンケンの表情が、次の瞬間には起こった事の全てを理解して狼狽に変った。
「し、失礼お嬢さん。他の事に気を取られていて気づかなかった。怪我は無いかね? 」
 そう言いながら慌ててしゃがみ込んで足元に振り撒かれたファイルと中から飛び出した書類を拾い集める。一冊一冊を手の中で纏めながら ―― それも多分ヘンケンの指揮官としての癖なのだろう ―― 彼の目は時折隙間から見え隠れする書類の内容をつぶさに追っていた。
 記載されている数字の羅列は恐らくモビルスーツに関するデータに間違いない。時間毎に変化する出力変動とそれを操作するパイロットの運用に関連する事項を記載した詳細なデータログなのだろうが、その質量が桁違いだ。手の中へ収めるごとに重みを増す資料を盗み見ながらヘンケンは驚嘆を禁じ得なかった。そこにあるデータ量は自分が預かっていたどのモビルスーツ部隊の解析データよりも分厚く、そして多岐にわたる項目で記述されている事が分かる。
 そして膨大なデータ記録はたった三人のパイロットの物である事がヘンケンの驚嘆を加速させた。散らばった書類の海の波間に未だ漂う三枚の起動ディスクがヘンケンの推測の根拠となっている。
「い、いえ、こちらこそ失礼しました。お怪我はございませんか? 」
 ヘンケンと同じ高さに頭を下げて周囲の書類を慌てて集めるニナだがその声はどこか上の空で、焦りを覗かせたその表情と蒼い瞳はしきりに床の上を這い回っている。明らかに大切な何かを探すニナの姿と呟く様に謝る声を耳にしたヘンケンは手伝いの手を止めて、すぐ傍にあるニナの顔を見詰めた。
「 …… なんでしょう? 」
 ヘンケンの眼差しに気付いたニナが同じように手を止めてヘンケンの視線に向き合った。どこか人を寄せつけず、人の情けを拒む。ここまでの道すがらで出会った少女と同じ ―― いや彼女よりも遥かに温度の低い声を放ったニナに向ってヘンケンが尋ねた。
「いや、お美しい割には妙に冷たい声をお持ちの様だ。何か嫌な事でもあったのかと思いましてね。思い過ごしでしたらご勘弁願いたい」

 ヘンケンには当人にも自覚の無い無邪気な悪意を言葉に込める癖がある、嫌悪の面持ちを露にしたニナが彼の問いには答えずに視線を逸らしてファイルの回収を再開した。“勘弁してくれって言ったじゃねえか”と心中で一人ごちたヘンケンはばつの悪い表情を隠す事も無く再び作業を再開する、不器用な上官の背中に見兼ねたセシルが上体を屈めてそれを手伝い始めた。
 廊下にしゃがみ込んだ他の二人とは対照的に膝を軽く曲げて、立ったまま長い手を伸ばしてニナやヘンケンよりも素早く書類を集める姿は優雅としか表現しようが無い。セシルの細い指が突然姿を現した四枚目の起動ディスクに触れたのは書類の海が引き潮を向かえて元の場所へと収まり、ニナがほっとした表情を見せて立ち上がった瞬間だった。
「あら、これ ―― 」
 セシルの足元に置き去りにされた3.5インチの透明な保護カバーに包まれたディスクを彼女のしなやかな指が拾い上げる、その呟きを耳にしてセシルの手に視線を向けたニナの表情が一瞬にして強張った。小さく息を呑んで立ち竦んだ彼女は、笑えば愛らしく見えるであろうその唇を小さく開いて戦慄かせたまま視線をディスクへと注ぎ込む。
 それはセシルの記憶の中に存在するどの機器 ―― 航空機から戦艦まで ―― にも当てはまらない違和感を持っていた。兵器を動かすために起動ディスクという物が発案されてからおよそ10年、その形式や仕様は日々進化を遂げているのだがセシルが手にしたそれは明らかにニナの持つ他の三枚とは大きさや厚みが異なり、しかも保存状態が劣悪だったのか所々カバーが欠けている。
 その状態でも恐らく起動には問題が無いとは思うのだが、それでも全てのモビルスーツパイロットが脱出の際にこれだけは持ち出すと言われるほど重要な役割を担うディスクがこんな無残な形で存在している姿を彼女は見た事が無い。彼女の経験ではディスクの状態とパイロットの状態は比例しているのが常である。これ程ぼろぼろのディスクの中にデータが保存されているパイロットの損傷は良くて四肢の一部欠損。悪ければ、植物状態かあるいは ―― 。
 興味を引かれたセシルの手が何に気なしにディスクを裏返す、それは単に好奇心から来た衝動的な行為に過ぎない。だが流麗な筆記体で書かれている擦り切れたローマ字を目の中に焼き付けたセシルは、恐らくそのディスク内に保存されているパイロットの名前である事を予測して、そしてそれが物語る事実に戦慄を覚えた。
“! ―― コウ・ウラキ”
「 ―― 返してください」

 戦慄に冷水を浴びせるような強い響きにセシルは我に返って顔を上げた。視線の先に立つ女性は青い瞳を僅かに顰めて自分の顔をまるで射貫くような目で睨みつけている、空の青さを思わせるような鮮やかな蒼に見え隠れする焔の存在は親の敵を見るかのよう。しかしそれはセシルの王佐の才に火をつけた。
「 …… 人の好意に対して向けられる言葉ではありませんね、お嬢さん。もっと他に言い方は? 」
 ディスクを軽く差し上げながらニナの挑戦を受けて立つように挑発する言葉を吐いた時、そこに居合わせた四人が思わず顔を見合わせた。モラレスとウェブナーはその形が宇宙軍時代の彼女の姿であることを確認して驚き、警備兵は軍属が民間人に対して働いた失礼を諌めようと割って入ろうとする。しかしその動きをヘンケンの手が遮って封じ込めた。
「な、何を ―― 」
 押し止めたヘンケンに向かって抗議の声を上げようとした警備兵がヘンケンの目を見て声を失う、将官として長く兵を束ねてきた圧倒的な気迫は異を唱えようとする下士官の声を封じるには十分だった。差し出した自分の手が状況の境界足り得ることを確認したヘンケンはそのまま視線をセシルの背中へと黙って向けた。
 地上では絶対にその素顔を見せなかったセシルが彼女に向けてその姿を露わにしたという事は、そうしなければならない事態が発生したという事。勿論セシルの言葉には相手を咎めるだけの十分な理がありもっともな言い分だとも思う、しかしそれだけの事で自分の素顔を一般人に晒してしまうほど短気でもなければ軽率な人物ではない。そうでなければこの三年間を誰からも疑われずに夫婦と言う役柄を演じることはできなかった筈だ。
 ヘンケンにはセシルに対する絶対的な信頼感がある、ヘンケンの視線を背中で受けたセシルは挑発的な微笑みを浮かべたまま、じっとニナの言葉を待っていた。

 ロゼッタストーンの解析に成功したトマス・ヤングと言う研究者は、こんな閃きを手がかりにしたのだろうかとセシルは思った。コウ・ウラキという人物を解析するにはあまりにも情報が足りず、およそ自分が二人に対して反論したのは状況証拠から導き出した推測でしかないという事を自覚している。しかし偶然とは言えこんな場所で重要な手がかりになるであろう物的証拠に巡り会えるとは思いもよらなかった。傷だらけの形式遅れの起動ディスクとそれを必死に探し求める一人の女性、そして。
「 ―― どうしました? これは貴方にとってとても大切な物なのでは? それを取り戻すのに何を躊躇しているのですか? 」
 煽るようになおも挑発を続けるセシルにウェブナーとモラレスは黙って傍観を決め込み、ヘンケンはじっと肩ごしにセシルと対峙する女性の姿を凝視する。彼の記憶ではこういう場合、セシルの気迫に圧された兵士は決まって謝罪の言葉を述べて言い直すのが殆どだ。凛と響くその声が自分の犯した罪を浮き立たせて誤りを自認させる、ルウム戦役で潰走する艦隊を立て直した統率力は伊達ではない。だが恐らく彼女もご多分に漏れる事などないのだろうとタカをくくっていたヘンケンの目の前で、ニナはまるで獲物を狙う猛獣のような目でセシルを睨みつけた。
「 ―― 返せっ」

 ” その目だ ”

 ぼやけて映るセシルの肩が震えて、彼女の中にある何かの琴線に触れた事がヘンケンには分かる。それを確認しながら華奢にしか見えない彼女のどこにそんな力が宿っているのだろうと同時に思いを奔らせる、数多の将兵を牛耳ってきたセシルの気迫に臆することなく立ち向かおうとするニナの気迫に感心したヘンケンの視界の中で、差し上げられていたままのセシルの腕が不意に動いた。すっと差し出された指の間に挟まれたディスクを物も言わずにひったくったニナが、小さく一礼をして五人の間を足早に駆け抜けて廊下の向こうへと消えていく。その背中を横目で追うセシルの顔にもう以前の表情は無かった。
「君、すぐに彼女の後を追って、今日の就業時間終了後に私の部屋へと来るように伝えてくれ。君はそのまま元の配置に戻って構わん」
 いつもとは異なるウェブナーの口調にただならぬ気配を感じながら、警備兵は小さく敬礼をするとすぐさま踵を返してニナの後を追う。分厚い靴底が鳴らす鈍い足音が廊下の向こうへと消え去った事を確認したヘンケンが、たまりかねた様に口を開いた。
「なんだ、ありゃあ。 …… ウェブナー、お前も色々と大変だな。つくづくご同情申し上げるぜ」
 同情を孕んだ溜息がヘンケンの口から漏れて、後頭部を軽く掻き上げる仕草に心情を表現する。
「この基地で働く女性に遭ったのは彼女で二人目なんだが …… まあ、その何だ、個性派揃いの性格と言うか何と言うか。 ―― ひょっとしてお前の趣味なんじゃねえだろうな、“ツンデレ”っつうのか? あれ」
「勘弁してくださいよ中佐、この歳でそれは色々無理です。それに意味も間違ってます」
「彼女は? 」
 静かに尋ねるセシルの声音には未だに副官としての色彩が残っている、宇宙で僚艦として随伴した時と同様の口調はいつになっても心地のいい物だ。
「ニナ・パープルトン技術主任。民間から軍への技術供与と言う形でこの基地の技術開発部に在籍しています、再建当初からの配属ですので何故ここに居るのかと言う事までは分かりません。調べては見たのですが ―― 」
 否定的なウェブナーの言葉を聞きとがめたヘンケンが小さく舌打ちをして言葉を遮る、眉間にシワを寄せて八つ当たりをするように睨んだ目が敵に対する嫌悪を唾棄混じりに吐き出した。
「軍法すら捻じ曲げて支配を強化するなど、れっきとしたファシストのやる事だ。情報の隠蔽、記録の改ざん ―― 何様のつもりだジャミトフあのの野郎は」
「ここが部屋の中なら今頃中佐の発言は本隊へと送られてMP達が色めき立っている頃ですよ、それに現状はその通りですから致し方のないところで。もし彼女やウラキ伍長の経歴が書き換えられているのだとしたら、その原本は今でもジャブローのデータアーカイブのどこかに残っているはずです。ただし ―― 」
「それを閲覧するためにはレベル5将官クラスのアクセス権限が、必要? 」
 廊下の先へと消えていったニナの背中を追い求めるように目を向けるセシルの質問に、ウェブナーは小さく頭を振ってため息を漏らした。
「もし彼らが過去にティターンズが隠し通さなければならない事件に遭遇していたとして、ここでこうして軟禁状態に遭っている事に何らかの意味があると仮定すればその権限はおそらくそれ以上 ―― おそらくジャミトフやそれに近しい者達に限定されるでしょう。とても私たちの手に負える代物じゃない」
「じゃが ―― 」
 それまで三人のやりとりを黙って聞いていたモラレスが会話に割り込む。三人の肩の下にある老獪な医師は後ろ手のままでクッと顎を持ち上げながら、セシルとヘンケンにとっての驚愕の事実を告げた。
「この基地に来てからの事ならば、誰もが憶えとる。パープルトン君はウラキ伍長が予備役に編入されるまで恋仲だったんじゃよ」

 まるで兄妹のように同じ表情で目を見張るヘンケンとセシル。不意打ちを食らわせた老医師は二人の反応をいかにも心外だと言う様な表情で見上げながら眉を顰めた。
「そんなに驚かんでも彼らとて男と女じゃ、そんな事があったとしてもなんも問題がなかろうて。それにこんな辺境の基地で隠しおおすには何せ世間が狭いからのう。 …… とにかくモビルスーツ隊の隊長と整備班長、ウラキ伍長とパープルトン君はこの基地に赴任する前からの知り合いだという事はこの基地の古株ならば誰もが知っていることじゃ。まあ、それ以上の事は本人達が頑なに喋ろうとはせんがね」
「まるで市場の野菜か果物だな、一山いくらの叩き売りにあった先がこんな僻地のうらぶれた基地になるとは本人たちも預かり知らない事だっただろうに …… で」
 ヘンケンはジロリとモラレスを、疑いのこもった眼差しで見下ろしながら尋ねた。
「 …… ドク、あんたの持ってる情報はそれだけか? 」
 角ばった顎を指で摘みながら犯人を問い詰める刑事のような口調で話すヘンケンに向かって、あらぬ嫌疑を掛けられたモラレスがその視線を跳ね返す様に上目遣いで睨み付けた。
「それだけに決まっとるじゃろう、医者の仕事を何と勘違いしておる? …… この儂を疑うとはいい度胸じゃ、ヘンケン。いつからお主は死んだ儂の親父になりおった? 」
 売られた喧嘩を安値で買い叩くモラレスと買い叩かれて憤慨するヘンケンとの間で飛び交う視線に火花が散った。

 親と子ほども違う歳の二人が腕づくで喧嘩をするという事はありえない、だが時に言葉は腕力以上のダメージを相手に与える事もある。ヘンケンらしいストレートな罵倒とモラレスらしいクールでシニカルな嘲弄はお互いの性格や癖をあげつらう事に始まって、いつしかお互いの出自や一族の成り立ちの妖しさや賎しさにまで及んだ。さすがにここまで話が加熱すると ―― もう本題の事などそっちのけだ ―― 我関せずを決め込んでいたウェブナーと言えども仲裁に入らざるを得ず、口角泡を飛ばす二人の間に被弾覚悟で体を割り込ませた。
「まあまあお二人共、そんな大人気ない事で言い合っても仕方がないでしょう。ここはお互い昔のよしみで ―― 」
「なんじゃと? 」
 眼下から向けられたモラレスの視線はまるで戦艦の主砲がぴたりとこちらに狙いをつけたように見える、無傷ではいられない事を覚悟したウェブナーに向かって砲撃が始まった。
「ウェブナー、貴様はここの基地司令で儂はここの軍医じゃ。同じ職場で働く仲間の肩を持たんでどうやって責任者としての威厳を保とうと言うんじゃ? 」
「ウェブナー、昔のよしみでといったがそれを言うなら俺とお前は元上官と部下だ。上官が敵対する相手の風下でお前は一体何をするつもりだ? 」
 敵機動巡洋艦ザンジバル込の一個艦隊の一斉射撃にも全く動じなかった歴戦の勇士があっという間に窮地に立たされた。困惑した苦笑いとタジタジとなる仕草には明らかに自分の英断に対する後悔が表れ、一糸も報いる事のない撤退を余儀なくされる。むくつけき男三人の不毛なメンズトークを腕を組んで眺めていたセシルが後退を始めた味方の脇を通り過ぎて、ずいとヘンケンの傍へと進み出た。
「あなた? 」

 廊下を出口へと急ぐヘンケンが振り返ると、やはり廊下の奥へとウェブナーに宥められながら去っていくモラレスと視線が合った。お互いに子供の様に舌を出しながら最後の砲火を交えた後、ヘンケンはいかにも不愉快といった表情で出口から差し込む外の明かりを睨みつけた。
「ドクの野郎、絶対何か隠していやがる。上官に向って隠し事とは軍医の風上にも置けねえ奴だ」
「あら中佐殿、いつの間に軍務に復帰なされたのですか? それならそうと早くおっしゃって頂ければ私も『あんな』回りくどいやり方を取らずに済みましたものを。ブリーフィング中のトラブルシュートの権限は副官にあるんですから」
 揶揄混じりに答えるセシルの前を歩いていたヘンケンの足が突然止まって振り返った。微笑みながらそれを見守るセシルに向けられたヘンケンの顔にはまるでおとぎ話の鬼のような赤みが差している、震える唇をやっとの思いで操りながらヘンケンが言った。
「お、おっ、お前があ、あん、あんな事を仕出かすからだな! 俺の言いたい事がこれっぽっちも言えずにドっ、ドクの ―― 」
「私の胸の触り心地を十分にご堪能いただけましたでしょうか、中佐殿? 」
 
 ヘンケンとモラレスの紛争は別に今回が初めてという訳ではない。事ある毎に立ち会い続けたセシルは幾度目かの和平工作の失敗の後に遂に究極とも言える作戦を考案する、それは自分の体を武器にしてヘンケンの全ての機能を凍結すると言う女ならではの荒業だった。戦場では比類なき豪胆さで敵を蹴散らすヘンケンが、女絡みの事になるとからっきし意気地がなくなるという事をセシルは歯がゆく思いながらもよく知っている。アキレスの踵のようなただ一つの弱点に目掛けて放ったセシルの矢は今回も惚れ惚れするような勢いでヘンケンの急所を貫き、その全機能を停止させる事に成功した。
 羞恥も淫靡もなく、ただあっけらかんと微笑んで意味深なセリフを吐くセシルにはどこか勝者としてのゆとりが垣間見える。部下の思惑にずっぽりとはまったままのヘンケンはその腹立ちも込みでセシルに向かって不満を垂れた。
「ば、馬鹿者っ! いくら副官だからと言っても公衆の面前でやっていい事と悪い事があるだろう!? 毎回毎回お前はそうやって ―― 」
「妻でも副官でも同じ事ですわ。別にお代を頂こうと言う訳でもなし、諍いが起これば身を挺してこれに対処するのが私の勤め。今までも、これからも」
 もし同じ事が起こったら次もこうしますよ、と暗に脅しながら小首を傾げてニコリと笑うセシルの笑顔に毒気を抜かれたヘンケンが口を噤んで踵を返す。こういう腹の据わった所があるからこそ自分の副官として長く付き合えるのだと分かってはいても、突拍子もない発想力は時としてヘンケンを手玉に取るほどの意外性がある。見た目の淑やかさと懸け離れた内面をもう一度思い返しながら、ヘンケンはふとさっき出会ったばかりの金髪の女性へと思いを馳せた。
セシルとはタイプは違うが世の中の男性の殆どが声を揃えて「美人だ」と言うであろう美貌の持ち主であるにも拘わらず、あの気性はその評点を一から覆す程の存在感がある。人を寄せ付けないあの態度と挑戦的な目を思い返したヘンケンが、後頭部をガリガリと掻きながら背後に続くセシルに言った。
「しかし何だ、ウラキ君が彼女と付き合っていたと言うのは本当の話なのか? 俺が思うに彼にはこう、もっと明るいタイプの優しい女性がだな、似合っていると思うんだが。あの性格のきつさじゃあどんな男でも一目散に逃げ出すぞ、もしウラキ君が彼女と別れたいがために予備役の道を選んだとしても ―― 」
「今、何て? 」
 口調の変わったセシルの声がヘンケンの足を止めた。思わず振り返った視線の先でセシルは細い顎を指で摘んでじっとヘンケンの顔を見つめている。
「? 彼女の性格がきついと言ったんだが ―― 」
「その後です、『艦長』」
 その声と言葉に昔の記憶を呼び覚まされるヘンケン、『スルガ』の決して快適とは言えない艦橋でたった二人で何かを相談していたあの頃の雰囲気をセシルは全身に滲ませている。それは彼女の脳裏に何かの光や閃きが産声を上げた瞬間によく見られる光景だった。
「ウラキ君が彼女と別れたいがために、予備役を」 

 何かが繋がったような気がする。
 私たちは大きな勘違いをしていたのかも知れない。
 人が『死』から逃れようとするのは本能だ。
 人が『死』を受け入れるのは運命だ。
 私たちはウラキさんが『死』という命題に直面して今の生き方を選んだのだと信じ込んでいた。『死』から逃れるためにモビルスーツを降り、降りたが為に生きがいを失って『死』を求める様に自ら労苦を選んでいるのかと思っていた。
 だが、そのどちらも違っているのだとしたら?
 彼が全く別の理由で ―― 彼女との間に起こった事件によって、別の道を選ぼうとしているのだとしたら。
 もしその事件が、彼の心の中に撒かれた『種』に深く関わっているのだとしたら。

 無言でじっと見つめるヘンケンに気がついたセシルは上目遣いに見上げながら真顔で言った。
「 …… 理論的でもなく根拠もない、でも艦長の直感にはいつも驚かされます。もしかしたら艦長は今日の会合の一番の要点を無意識の内に見抜いたのかもしれませんわ」
「? 俺が? どういう事だ? 」
「もし彼女が ―― ニナ・パープルトン技術主任がウラキ伍長の今の生き方に何らかの影響を与えた人物だと言うのなら …… それが二人の別れた原因なのかも知れないですけど、それさえ分かればウラキ伍長の行動の不整合が解き明かされるかもしれません。何故彼がモビルスーツを降りたのか、降りなければならなかったのか」
 真剣な眼差しでじっと顔を見つめるセシルとは対称的に苦笑いを浮かべたヘンケンは、セシルの分析をやや斜に構えて受け取ったようだった。そんな馬鹿なといった表情で彼は答えた。
「お前の人物評にケチをつける訳ではないが、今回だけはさすがに深読みしすぎなんじゃないか? 少なくとも人としての最低限の礼儀すら尽くせぬ人物が、ウラキくんの秘密の鍵を握っているなどと俺は考えたくもないな。第一あれだけの仕事を抱えた『鉄の女』が男との色恋事をどうだのという暇があるのか? 」
「あら、私も宇宙にいる頃はそうでしたわ。艦長は彼女を通して私の事を批判なさっていらっしゃるのですか? 」
 即座に切り返すセシルに少しむっとした表情で応じるヘンケン、言いがかりをつけるようにヘンケンの揶揄を責めるセシルは畳み込むようにその先へと言葉を伸ばした。
「私と彼女は多分そういう所では似通っているのでしょう、さっきの睨み合いも『同族嫌悪』という奴なのかもしれません。でもそのにらみ合いの意味が分からない艦長と、彼女と別れたウラキさんもよく似てらっしゃいます。艦長の庇い方ですと『同族相憐れむ』と言ったところでしょうか」
「回りくどい言い方はよせ、『副長』」
 眉を持ち上げたヘンケンが唐突にセシルの事をそう呼んだ。空調の効きなど当てにも出来ない蒸し暑いオークリーの廊下が、その一瞬だけあの日の『スルガ』に変化する。大勢の非戦闘員を満載した輸送巡洋艦を操って戦域を突破する為にはどんな手段が必要か、どれだけの犠牲を覚悟しなければならないのか。二人だけで話し合ったあの日の空気をひしひしと感じながら、セシルは昔の出で立ちを彷彿とさせるヘンケンと向き合った。
「クロトワ少佐、貴官に上官として説明を求める。貴官が俺の人物評に対して異論を挟むその根拠とは何だ? ニナ・パープルトン技術主任とウラキ伍長は既に離別をしているというのは周知の事実だ、その理由が彼女の人間性にあるのだと読んだ俺の推理は間違っているというのか? 」
 これこそが。
 この姿こそが私が惚れ込んだ彼の真の姿なのだとセシルは思った。

                              *                                 *                                *

 ルウム戦役での退却の折に敵を惹きつけるために的となった『ホーライ』を最後まで護り続けた二隻のサラミス、その内の片方 ―― 艦番65『ワンダー』の艦長は戦域を離脱する寸前に襲いかかって来たジオンの送り狼の群れへと顔色ひとつ変えずに艦首を向けた。
 手負いの殿を守る事ほど無駄なものはない、慌ててその暴挙を阻止しようとしたセシルの前に彫りの深い男の顔が現れた。敵の砲火で絶え間なく照らし出されるサラミスの質素な艦長席で、男はゆっくりとタバコに火を着けながらセシルに向かって言い放った。
「 ” 君は最後までよくやった。女性士官の身でここまでやれればもう十分だ、後は俺たちに任せて貰おう ” 」
「失敬なっ! 仮にも第一連合艦隊三番艦を預かる私を女性だと侮るとは! 速やかに貴官の姓名と階級を述べよっ! 」
 火力の激減した後部兵装をやり繰りするクルーの喧騒がセシルの怒号で一気に収まる。鬼の形相で艦長席の肘掛を握り締め、天涯に設えられた液晶に浮かんだ男の顔目掛けて上体を浮かせる彼女に全ての視線が集中する。
「 ” …… 別に侮っている訳ではない、これでも貴君を尊敬しているのだよ。今は臨戦下だ、言い方がまずかったのは謝る。私はヘンケン・ベッケナー中佐、所属は連邦軍第四戦隊 ” 」
「第四、戦隊。 ―― まさか『一週間戦争The Week』の生き残りっ!? 」
 この戦いの先駆けとなるジオンとの最初の交戦で壊滅したと言われる二つの小艦隊、連邦軍第8ミサイル雷撃艦隊と第4戦隊はその全てを犠牲にしてティアンム艦隊の到着までの時間を稼ぎ、ジオンの画策したコロニー落とし『ブリティッシュ作戦』の完遂を阻止した誉高き部隊だとセシルは聞いていた。その生き残りが事もあろうに自分の目の前に現れようとは。
「 ” 残念だがもう俺とウェブナーだけになってしまったがな ―― まあそんな事はどうでもいい、ここは俺たちが敵の前衛をかく乱するからその間にルナツーの防衛圏内へと逃げ込め。いけ好かない奴だがティアンムは真面目な男だ、きっと援護に来てくれてる。俺とはそりが合わんがね ” 」
「馬鹿な、たったサラミス二隻でどうやってあれだけの敵を叩こうというのですか! それならば私も貴官らと砲門を並べて迎撃に参加しますっ! 」
「 ”  ―― わっかんねえ姉ちゃんだな ” 」
 後頭部を掻き上げながら苦虫を噛み潰したような顔でポツリと呟いたヘンケンが突然真顔になってくわえたタバコを吐き捨てた。鋭い眼光をセシルへと向けながら唸るような声で口を開いた。
「 ” ヘンケン・ベッケナー中佐からセシル・クロトワ少佐へ発令。貴官は直ちにこの戦域を離脱してルナツーのティアンム艦隊へと庇護を求めろ、これは上位階級からの命令である ” 」
「! なぜ私の名を!? 」
「 ” 当然だ。退却戦の殿をここまで務め上げた事は賞賛に値する、貴君の才はこの後も連邦軍の為に大いに活用されるべきだと思う。こんな所での無駄死には俺が許さん、いいな? ” 」
 答えなど必要としない裂帛の気合と気迫はセシルの中から反抗という選択肢を消去した。呆然と見上げるスクリーンの向こうでヘンケンは小さくウインクをした後、すぐさま肘掛の無線のスイッチを押し込んだ。
「 ” ウェブナー、『車懸り』で敵前衛のど真ん中に突っ込む。遅れるなっ! ” 」
 メインエンジンから猛々しい炎を上げて『ホーライ』に背を向けた二隻のサラミスは、まるでワルツを踊るかのようにくるくると弧を描きながら遠ざかっていく。しばしの静寂の後に突然スクリーンに生み出された数珠つなぎの爆発光をセシルは腕を震わせて見つめていた。

                              *                                 *                              *

 あの時全身を襲った震えを思い出す、あの時に去来した切ない思いを思い出す。自分を導いてくれる者、私に欠けている物を持っている者。今は農夫に身をやつしてはいてもその奥底に眠る指揮官としての能力と、人としての魅力は私の心を捉えたまま離さない。彼に対する尊敬と憧れこそが私に連邦宇宙軍暫定旗艦『ホーライ』艦長と言う立場を棄てさせた、唯一つの理由。
 セシルの長い睫毛がヘンケンの気迫に屈服した様に静かに閉じる。自分の気持を悟られない様に瞼で瞳を包み隠したセシルが尋ねた。
「彼女が私に向かって最後に向けた目を覚えてらっしゃいますか? 」
 静かに微笑むセシルの表情をじっと伺いながら小さく頷くヘンケン、そのタイミングを見越したかの様にセシルは言った。
「あの目は『嫉妬』ですわ、艦長」

「も、ダメ。頭ん中数字がぐるぐる回ってるゥ」
 アデリアが夕食の乗ったトレーの前に額を預けて突っ伏して手に握ったナイフとフォークをふるふると震わせながらそのまま床にまで沈み込みそうな上体を辛うじて支えて呟いた。
 ニナの講義は其々に優秀な成績で士官学校を卒業した二人の学習能力を持ってしても理解出来ないほど難解且つ熾烈を極めた。ブリーフィングルームのホワイトボードに書き連ねられる大量の数式と対応するコンピューター言語とそれに付随する操作説明。技術主任としてオペレーションシステムの内容を完全に把握しているニナにしか出来ない講義ではあったが、それをこの場で把握しろと言われた所でパイロットである二人には無理な相談であった。
 モビルスーツの動作はOSに予め組み込まれた動作パターンによって制御されている。一例を上げるならば、火器管制をアクティブにすれば正面のモニターに照準用のレティクルが表示されるが、その時には火器を握った手が自動的に上がるといった具合だ。機能の強化によって煩雑になるパイロットの手順の負担を少しでも軽減する為のプログラムではあったが逆にその事はパイロットの操作の独創力を奪う事になる、と講義を始める前に教鞭を取ったニナは言った。故に今回のニナの講義はオペレーションシステムを切った場合での操作手順の説明となった訳だが ―― 。
「 ―― 大体さぁ、非現実的だと思わない? 今のOSには“マニュアル”が存在しないんだよ? それなのにわざわざマニュアル状態を仮定したモビルスーツの操作説明をされても、ねえ。足元の石ころ一つ拾うのに両手両足ばたばたさせて操作しなきゃなんないなんてカッコ悪いったら」
「ん? ああ …… 」
 アデリアのぼやきに上の空で返すマークスと言えば目の前にある食事に手も付けずにしきりに両手を動かしている。見るからに落ち着きの無い ―― 自分の話に全く感心の無い態度を取った事も気に入らない ―― マークスの膝をむっとしたアデリアの爪先がテーブルの影で蹴り上げた。
「痛ったっ! 何するんだアデリア。仮にも上官だぞ、俺は」
「こんな時だけ上官風吹かさないでよっ。マークスこそ何? あたしの話を今日はちっとも聞いてないじゃないっ。士官学校の主席様ってそんなに落ち着きがなければ取れやしないって事でも言いたい訳? 」
「あ、これか」
 アデリアの怒りの原因が自分の手の動きにあると知ったマークスは軽く笑った。本来ならば部下であるアデリアの取った態度の対して何らかの叱責を与えても憚られる事は無い立場のマークスではあったが一度もアデリアに対してそんな素振りを見せた事は無い。特徴的な左右の瞳がアデリアのむくれた顔を眺めて言った。
「これは今日の講義とは関係ないよ、俺の癖みたいな物。それに主席を取ったのは結果論だよ。皆からのいじめに対抗する為に、仕方なく」
 そう言いながら何事も無かったかの様に食事を再開するマークスが赤ワインで柔らかく煮込まれた野ウサギの腿肉をフォークで突き刺して口に運ぶ。口の中でほぐれていく肉の繊維と染み出す旨味に顔を綻ばせながら口を動かすマークスを見て、アデリアが呟いた。
「 …… ごめん、マークス。言い過ぎた」
「いいよ、アデリアの話を聞いてない俺も悪い。 …… で、何だっけ? マニュアル操作が非現実的だって? 」
 尋ねるマークスの目の前でアデリアが手の中のフォークを指揮者のタクトの様に振り回す。
「そおよぉ。デフォルトで設定された動作パターンが720種類、そこに普段の演習の自律学習モードで認識されるパイロット独自の動作パターンが加われば戦闘行動には何の支障も無い筈よ。なのに何で今更そんな七面倒臭い事を ―― 」
「でも、俺達はキース隊長に負けた。それも『俺のザク』に初めて乗った隊長に、だ」
 事の発端は全てマークスにある。賭けに負けた代償の延長戦を戦ったアデリアに向ってその結末をまるで他人事の様に語るマークス、無責任な物言いにアデリアが歯をむき出してその顔を睨み付けた。怒った顔でも愛らしさが損なわれる事の無いアデリアの顔を笑いながら見詰めるマークスが言葉を続けた。
「そっか、アデリアは見てないからな。 …… ザクのクロスステップって見た事あるか? 」

 マークスが尋ねたその言葉の意味がいかに非現実的な物であるかという事はモビルスーツに乗った事のある者にしか分からない。重い上半身を支えるために作られた股関節のジョイントは極めて頑丈で、しかも破損を防ぐために可動域を著しく制限されている。機動の際に動作するモーターは四基、アクチュエーターはビルの柱のような太さの物が八本繋がれているがそれは両足を動かす事の為に置かれていると同時に、限界以上の動作範囲を超えないように置かれたリミッターとしての役割を果たす。オートバランサーという物が作られた経緯も元はバランスを崩したモビルスーツが態勢を立て直そうとして無理な機動をする事によって、関節部の致命的な破損を引き起こす事を防ぐ為に作られたものだとアデリアは聞いている。
 自らバランスを崩そうとすればすぐさまその機構が働いてパイロットの手からコントロールを奪い取る仕掛けはいかにも傲慢ではあるがこれによってモビルスーツの自損事故は一年戦争時の100分の1まで減少し、連邦軍の懐から無駄な出費を防ぐ事に成功した。今では標準装備となったきらいのあるこれらは運用の為になくてはならない物であり、それを技術部のトップが否定するという講義を受けたアデリアが逆否定の立場を取るのは当然のことだ。
 だがマークスはキースの乗ったザクが目の前で自らバランスを崩すような動きで近距離からの銃撃を躱したと言っている。当然自機の自動制御の類はキャンセルされていたに違いない、しかしその動きを再現する為にどれだけの操作と神経を費やさなくてはならないのだろう?
 宙を引っ掻いていたアデリアのフォークがあらぬ方向でじっと止まる、やがてゆっくりと手をおろした彼女は眉根を寄せて疑いの眼差しをマークスへと向けた。
「 …… ほんとに? 」
 軽く頷きながらマークスがトレイを持ち上げて、隅に置かれたバニラのムースをアデリアのトレイへと流し込んだ。どうやら今日一日自分につき合せた事の詫びのつもりらしい。
「あれが多分OS抜きのマニュアルでしかできない事なんだと思う。俺たちと隊長の違いってそこなんじゃないかな? 俺たちが士官学校に入学した時には既にこの機構がモビルスーツに採用されていた、自転車の練習に使う補助輪みたいに。でもその頃隊長は実戦の現場でそういう便利な物がないモビルスーツで戦っていた、だからそういう無茶ができる」
「で、あたし達にもそれをやれってニナさんは言いたい訳? 」
「出来なきゃ、俺達は自分も守れない。隊長も死ぬ。 …… そういう事だよ」
 モウラが口にした危惧を反芻してそう結論付けるマークス、やれやれと諦めのため息をひとつ吐いて観念したアデリアがようやくトレーの中の野ウサギの赤ワイン煮込みに手を付けた。

 カリフォルニア州周辺は世界でも有数のブドウの産地として知られている。アイランド・イース落着による被災を免れたブドウ畑は現在でもワインの原料となる良質のブドウを産出し続け、その恩恵はこのオークリー基地にも届いていた。ピノ・ノワール種で作られるブルゴーニュワインに似た赤ワインは常に地下の倉庫に保管されており、野ウサギの煮込みには必ずといっていいほどこのワインが、惜しむ事無く投入される。
 赴任当初には言葉だけでも気分を悪くしていたアデリアだったが、意を決して ―― マークスの強い勧めもあった ―― 一口口に入れた途端にたちまちこの料理の虜になった。野趣溢れる野ウサギの風味とワインのコクが口の中で渾然一体となる瞬間は筆舌に尽くしがたく、今まで自分が食べたどの料理にも無い陶酔感がある。
 もっともそれは一目でコックとは思えないほどの上背と体格を持ち、豪快な笑い声で知られる巨漢のコック長が持つ繊細な業の賜物だという事に二度驚きはしたのだが。
 肉を切り分けて ―― ナイフ等必要無い ―― 口に入れた途端にアデリアに浮かぶ至福の顔は子供の様に可愛らしい。
「 …… これを水で流し込まなきゃいけない自分の立場に罪悪感を覚えるわ。ほんと、グレゴリーさんていい腕よね」
「全くだ。いろんな基地を回ってきたけど、ここの食堂だけは超一流だ。民間人だって聞いたけど、どこの店にいた人なんだろう? 」
「楽しそうだね、二人とも」
 穏やかな声は二人の会話の間に割り込んできても何の違和感も与えない、食事へと神経を集中していた二人がふっと顔を上げるとアデリアの直ぐ傍に眼鏡を掛けた男がにこやかな笑顔を携えていた。面識のあるアデリアが笑いながら片手を上げて東洋人の顔立ちを持つその男と挨拶を交わす。
「いいタイミングだわ、チェン。もうちょっとで食べ終わるから隣に座って待っててくれる? 」
 空いているフォークの先でちょんちょんと自分の隣を指すアデリア、行儀の悪さに一言物申そうかと口を開きかけたマークスの機先を制してチェンは右手を差し出した。
「初めまして、マークス軍曹。自分は司令部付きのシステムエンジニア、ルオ・チェンと言います。アデリアからお噂はかねがね」
 馴れ馴れしくアデリアの隣へとさも当然といった風情で腰を下ろすチェンを複雑な心境で、しかしその事はおくびも見せずに笑顔で握手を交わす。技術職の人間が漂わせる独特の線の細さは隠し切れないが、それでも何処と無く人懐っこい笑顔と声音の柔らかさはマークスの心中にある警戒心を解くには十分だった。なんの遠慮もなくアデリアの隣に座った事だけを除いては。
「それで? 今日ここに僕が呼び出されたのはどういうご用件かな、アデリア姫? 」
 
 まあ、確かに傍から見ればアデリアの容姿はそこいらの女の子よりは抜きん出ているとは思うのだが、その内面を深く知るマークスの口からは思わず疑問符が飛び出した。
「姫、だって? 」
五月蝿うっさい、マークス。 …… チェン、コウ・ウラキ予備役伍長って知ってる? 」
 二人分のデザートをせっせと口に運びながらアデリアが尋ねる。何の変哲も無いバニラムースなのだが手作りはやはり美味しい、知らずの内に綻ぶアデリアの顔を眺めながらチェンが答えた。
「ああ、遭った事は無いけどデータと噂だけは。で、その人がどうしたの? パーソナルデータの閲覧なら管理部を通せば演習記録以外の物が手に入るけど」
「演習記録以外? 何で演習記録だけが手に入らないの? 」
 パーソナルデータとは個人の戦闘能力を数値化して記録した物で、その中でも特に重視される物が演習時の戦闘記録である。有事の際に借り出される非常勤の予備役兵のデータが閲覧出来無いと言う事はそれぞれにどれだけの能力やどういう適性があるのかも分からないという話で、それは小隊編成時の際に著しい障害になりかねない。長距離狙撃に適性のある兵士に白兵戦を要求しても十分な戦果は得られないからだ。
「さあ、そこまでは僕にも。でも何人か予備役登録の人がいるけど皆同じ扱いだよ? 閲覧には司令の許可が必要。ま、穿った見方をすれば『そんな者この基地には必要無い』って事なんじゃない? 」
「ふーん、まあいいわ。で、」
 突然前屈みになってチェンの方へと体を寄せるアデリア。チェンの体が彼女の動きに合わせて微かに揺れた。
「そのウラキ伍長なんだけど、軍歴を調べて欲しいの。軍に入隊時から現在に到るまでに参加した作戦やら行事やらイベントやらを詳しく、全部」
 周囲に聞えない様に小声で話すアデリアの顔をほんの少しの猜疑心と大いな好奇心で見詰めるチェン。近づく二人の顔を正面からじっと眺めて手を組んだマークスの顔へとちらりと視線を向けたチェンがそのままの状態でアデリアに訪ねた。
「調べるのはお安い御用だけど、それは僕の前で腕を組んで座ってる君の上官の許可を得ての事だよね? 」
「心配には及びません。自分が許可しました」
 二人にやっと届くような小さな声でそう言ったのは、周囲に聞こえないように話をする二人への気遣いだ。小さく頷くマークスの顔を少しの間眺めていたチェンは、アデリアの方へと向けていた体をきちんとマークスの方へと向けて座り直した。
「了解しました、軍曹殿。非合法ではありますが上官からの正式なご依頼と言うのであれば断る事は出来ません。近日中に結果を軍曹の元へとお持ちします」
「なによ、頼んだのはあたしじゃない。何でマークスの所に持ってくのよ? 」
 届け先の突然の変更に憤った依頼主が軽く抗議の声を上げた。眉を吊り上げてチェンの横顔を睨むアデリアに向かって、チェンはウィンクをしながら横目で答える。
「どっちに届けても同じことだろ? 軍曹とアデリアはパートナーなんだから二人で一緒に見ればいいじゃない。それにさ ―― 」
 不意にチェンの上体がアデリアへと傾いた。かざした手をアデリアの耳に被せて、正面に座るマークスには絶対聞こえないようにチェンは呟いた。
「 ” ―― 二人だけの秘密が出来るなんて、アデリアにはいいチャンスじゃないか ” 」

 ぶん、と後ろを振り返るアデリアの顔は火を吹きかねないほど真っ赤に染まっている。突然の行動に驚いたマークスがアデリアを気遣うように声をかけた。
「お、おい、アデリア。どうしたんだよいきなり? 」
「ご、ごめん。ちょ、ちょっとムースが喉につかえて ―― 」
 わざとらしく咳き込むアデリアを横目にチェンが如何にも愉快だと言わんばかりの視線を投げ掛け、チェンの顔をものすごい目で睨み付けるアデリア。何事かと呆気に取られて二人を見つめるマークスを尻目にチェンが薄笑いを浮かべたまま腰を上げた。
「じゃあ、僕はこの辺で失礼します。 ―― あ、アデリア。この前の儲けがあるから今回の代金はロハでいいよ」
 チェンが投げ掛けた言葉に肩をビクっと震わせて咳込みをやめるアデリア。連邦士官としては決して聞き捨てならない単語の存在を耳に止めたマークスがにこやかに笑うチェンに向かって尋ねた。
「儲け? 代金、ですか? 不躾ですが連邦士官の副業は軍法によって禁止されています。伍長がそれに違反をしているというのなら、この話は ―― 」
「残念ですが軍曹、その条項は既に改定されています。今は平時で不景気ですから兵士に支給される給与水準も年々減りつつある、ご自身の明細をご覧になった事は? 」
 やり返されたマークスが思わず口ごもった。滅多なことでお金を使わない ―― 使う暇もない ―― マークスが明細書の封も切らずにゴミ箱へと投げ込んでいる事をチェンはアデリアから聞いていた。「そういう奴だからいつか私がしっかり管理してやンないとだめなのよ」と言うアデリアの愚痴も一緒に。
「上限は税法上の関係で厳しく定められてはいますが、今はむしろ連邦軍でも奨励されている位です。もちろん稼ぐにはそれなりのリスクと才能を必要とされますが、伍長には幸いにもそれがあります」
 そう言うとチェンは胸ポケットから一枚の写真を取り出してマークスへと差し出した。裏返しに手渡された紙を手にとってめくろうとするマークスの手を、何かに思い当たったアデリアの引き吊った目が捉えた。
「 …… これがその証拠です。よろしかったら差し上げますよ」

 これに類する破壊力を持つ兵装を彼は知らない。一目見た途端に心臓は激しく高鳴り喉からせり上がりそうになる、コックピットのロックオン警報が突然鳴り響こうともこれほどの緊張や興奮を得ることはない。
 真っ赤な顔で食い入るように写真を見つめるマークスの変化を目の当たりにしたアデリアが瞬時に固まった。彼女にはマークスが見つめている物がどんな代物かという事を知っている。
「 …… こ、これは ―― 」
 そこに写っているのはアデリアに間違いない。しかし着衣はマークスが今まで目にした事のない程扇情的な物だった。胸元に大きく描かれた『HOOTERS』のロゴとピチピチのオレンジのホットパンツから伸びだした白い太もも、恥ずかしそうな顔でイメージガールのようなポーズで写る彼女は一瞬でマークスの網膜に焼き付いたまま離れようとはしない。
「きゃあっっ!! 」
 やっと事態を飲み込んだアデリアが食堂全体に響き渡る叫び声を上げて飛び上がり、鳶か鷹の勢いでマークスの手から写真を毟り取った。あまりの声に食堂に居合わせた全員が何事かと三人へと視線を向けて、事の経緯を知る為に沈黙する食堂の空間の中をアデリアの震える声が飛び回った。
「な、ななな、何で、あんたがこっ、これ、これ ―― 」
 正常に作動しなくなった言語野をフルに活用しても尚、言葉にならない台詞をそこいら中にばらまくアデリアに向ってチェンがにこりと笑った。
「まだあるよ。この写真では儲けさせて貰ったから大事に取ってあるんだ。今までのデータも全部。 …… 何なら軍曹に今までのも全部見てもらって ―― 」
「消しなさいよっ! 消さないって言うんなら今からあんたの部屋に行ってご自慢のサーバーごとぶっ壊すわよっ! 」
「どうぞどうぞ。だってデータの保管場所は此処じゃ無いもの。もっと意外な場所に隠してあるから、探しても無駄だよ。」
 そう言い残して手だけを振って食堂を後にするチェンの後姿をアデリアが真っ赤な顔で歯軋りをしながら睨み付けて見送る。羞恥と怒りでわなわなと震える肩を真っ赤な顔で見つめていたマークスが声を掛けた。
「な、なあアデリア。さっきの写真なんだけど ―― 」
「は、はひっ!? な、何でしょう? 」
 引き攣った声で返事をしながら思わず敬語を使って振り返るアデリアに向って、伏目がちに視線を落としたマークスが尋ねた。
「お、お前さあ。そ、その ―― 」

 や、やばいっ。心臓壊れちゃうかもっ!
 い、いやちょっと落ち着けあたし。こ、こういう時はさっきニナさんから聞いたモビルスーツの運用方法を思い出せばって ―― うわあ、全っ然思い出せないじゃん!?
 大体マークスもマークスよ、あたしに写真の何を聞こうっての? そりゃあちょっとは売れたしあたしも少しは自信がない訳じゃないけど、それでもそんな真っ赤な顔してあたしに聞く事ないじゃん! これじゃああたしってばどんな顔してマークスに答えりゃいいっての!? 
 もー最悪っ! こんなンがあたしとマークスの思い出になっちゃうなんて一生の不覚なんてモンじゃない、どーすりゃいいのよ、あたしっ!?

「 ―― 副業って、フーターズで働いてるって事なのか? 」

 は?

 全く予期してなかったマークスの言葉でアデリアの熱が一気に氷点下まで下降して、次の瞬間には別の所から火の手を上げた。恥ずかしさの影で蹲っていた淡い期待は ―― どんな褒め言葉でもよかったのに ―― 上倍の怒りとなって心の中を吹き荒れる。キッと睨みつけたアデリアの視線の先でその対象となったマークスは、割と気の利いたセリフでこの困難な状況を打破できたと一人悦に入っている。そのすっとぼけた顔に向かってアデリアは心の中で罵声を浴びせた。

 この、鈍感野郎ォっ!

「? アデリア、どうした? 俺がお前に何か ―― 」
 アデリアの表情を眺めていたマークスが慌てて尋ねた。彼にしてみればてっきりアデリアがいつものノリで笑いながら「ばっかじゃないの、そんな暇お互いにあるわけないじゃん」と返してくる事を期待していたのだ。しかしマークスの目の前で仁王立ちになった彼女の背中からは明らかに怒りのオーラが広がっている。言葉を続けてなんとか取り繕おうとしたマークスの声を制するようにアデリアが怒鳴った。
「 …… バカッッ!! 」
 
 踵を返して足早に食堂の入口へと歩き去るアデリアの背中を何が起こったかも分からずにただ呆然と見送るマークスを、自体の決着を見守った観衆の喧騒が取り囲んだ。いかにも気まずい雰囲気の中でひとり取り残されたマークスは二人分のトレイを重ねると、そそくさと立ち上がって返却口へと足を向ける。
 自分の何が悪かったのかと首を傾げながらトレイをステンレスの台へと置こうとしたマークスの前に真っ白な壁が現れる。気がついたマークスが見上げるとそこには腕組みをしたまま神妙な面持ちで彼の顔を見下ろす大男が立っていた。口を真一文字に引き締めたまま何かを言いたげに瞳を向けるグレゴリーに向かってマークスは、おそるおそるその目の意味を尋ねてみた。
「ぐ、グレゴリーさん。 …… 何か? 」
「 ―― ばーか」
 言葉の内容とは裏腹に彼の鈍感さを哀れむ様な視線を向けたグレゴリーが、マークスの手から直接食器を受取ってシンクの中へと放り投げた。




[32711] Scars
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2012/11/15 19:32
 モウラの部屋に置いてあるスリムなロッカーと金属のナイトテーブルは、モビルスーツの廃材を利用して作った物だ。殺風景な壁にはお気に入りのレゲエ歌手の巨大なポスターと軍から送られたいくつもの賞状が飾られている、それが一介の整備士から中尉という階級にたどり着いた叩き上げの彼女の努力の歴史と言っても過言ではない。
 だが、ベッドに横になったまま眺めている同じコンクリートの壁にはそれがない。器用なモウラから見ればいかにもブサイクな作りの小さなテーブルに所狭しと置かれた写真立て、そして見慣れたシューティンググラス。
 なんの飾り気もないその部屋が自分の部屋よりも穏やかで暖かく感じるのはなぜなんだろう。モウラがふとそんな思いに駆られた時、不意に隣に横たわるキースの体が動いて枕元のタバコへと手を伸ばした。部屋を彩る間接照明の明かりに彼の青い目がかすかにきらめく。
「ねえ …… 」
 甘えるように尋ねるモウラの目の前でキースの親指が動いて金属の蓋をカチンと鳴らす。軽い残響音が部屋の中でかすかに木霊した後に続く擦過音と共に焦げた芯に炎が灯った。不安定なゆらめきが咥えたタバコに火をつけて、役目を終えたジッポーはすぐにその輝きを蓋の中へと覆い隠した。立ち上る紫煙がうるさいエアコンから吐き出される冷気に紛れて部屋の隅へと消えていく。
「なんで昼間、あたしを止めたんだい? 」
 チチッという小さな火口の鳴き声がキースの顔を仄かに照らす、横顔を眺めながらじっと答えを待つモウラの顔を遮ってキースの手が自分の口へと伸びる。まだ火の着いたばかりのタバコをそのまま枕元の灰皿へと押し付けると小さくため息を吐いてからおもむろに答えた。
「 ―― ガトーと初めて会った日の事を覚えてるか? 」
 
 世界は時として一夜で変貌する。天国と地獄、そして生と死。保障されていた平和はトリントンでのあの日に覆された。失われた命と手に入れた絆、そして甘酸辛苦のもつれ合った遠い記憶。
「  ―― 忘れる訳、ない。 …… 忘れられない」
「ニナさんから聞いたんだけど、あの日基地に帰ってからアレン中尉とカークスの遺品を整理しろって言われて …… コウのやつ、アレン中尉の遺品を泣きながら片付けてたってさ」
 オーストラリア方面軍トリントン基地所属のモビルスーツ部隊が三名だけを残して壊滅したあの日。無傷で帰還したのはコウの搭乗したガンダム一号機のみでキースのザクは頭部を切り飛ばされて辛うじて動く程度、そして彼らを預かっていた指揮官のバニング大尉に到っては敵の重モビルスーツと刺し違えた挙句に右足脛部の骨折と言う被害を被った。 だが彼らが戦った相手の正体からすればそれは奇跡の御技に違いない、とモウラは今でも思う。なぜなら彼らの相手はジオンの中でも最後の切り札エース・イン・ザ・ホールと呼ばれた通称『ソロモンの悪夢』、アナベル・ガトー率いる猛者の集団だったのだから。
「あのガトー相手に生き残った事が奇跡だってのに、コウの奴 …… あいつ昔からそうなんだよなあ。何かな事あるとすぐに自分のせいにしちまう」
「でも自分の出した結果に対していつも真摯に向き合い続けた彼だからこそ、エース足りえた …… あ、ごめん」
 別にその気がなくとも、いつの間にかコウとキースを比較するようなセリフを口に出してしまった事に慌てるモウラの顔を横目で見たキースがクスッと笑った。
「まあ、ね」

 モウラの言葉はコウ達がトリントン基地に帰還した直後にニナから見せられた起動ディスクの初動記録バージンデータに由来する。ガンダム一号機はテスト時の事故による改修作業の後にトリントンでいきなり予期せぬ実戦を迎えた訳だが、その機動性と出力は恐らく当時連邦軍に存在したモビルスーツの中でも別次元の性能を誇っていた。
 テストパイロットのセレクションを実施するに当たりアナハイムは機動核となるバーニアのみを先行して送りつけ、機動特性の最も類似するパワード・ジムである程度慣れてもらってから本試験に入ろうと考えていた。またその際に記録されるそれぞれのテストパイロットのデータが正式採用の基準になる事はクラブ・ワークスで検討された既定事項の一つであった。
 ニナの予想ではそれでも恐らくパワード・ジムと一号機の間には瞬間駆動率と反応速度に格段の差が存在するから、恐らく試験当初の段階ではその性能の半分も引き出せないだろうと予想していた。しかしガトー来襲の混乱が一段落して取り出された一号機の起動ディスクには ――
「あたしも長く整備士やってるから彼が叩き出した数値の異常さはよく分かる …… あんた達はそれまでザクに乗ってたんだろ? 」
「S7(連邦宇宙軍機動兵器学校:Earth Federation Space Force Fighter Weapons School)ではこれでもジムに乗ってたんだぜ、陸戦用ばっかだったけど。俺はトリントンで初めてザクに乗った時「冗談じゃねえ、こんな乗りにくいの」って思ったけど、あいつは子供みたいに喜んでたなあ。動かしてる気がするぅとか何とかわめいて騒いでたっけ」
「それ、何となく分かるわ。コウはパイロットっていうより『モビルスーツマニア』だもんね。ニナもあの時言ってたわ、「何あの人、あたしのガンダムを無断でじろじろ眺めて」って」
 ニナをナンパするキース、呆れるニナ。間に割り込むモウラとその三人のやりとりから遠く離れて少年のような目で一号機を見上げていたコウ。最悪の出会いだったはずが、今ではもっとも微笑ましい記憶となって二人の目蓋に蘇る。ベッドで体を寄せ合ってクスクスと笑う二人の声を、古びたエアコンの騒音がかき消した。
「あいつが不器用なのは知ってるだろ? 」
 薄笑いを浮かべて尋ねるキースに向かってモウラは小さく頷く。同意を得た事に安心したようにキースは、天井を見上げて言葉を続けた。
「人付き合いも生き方も、ニナさんとの事も。そして俺達との事も。 …… でもあいつはなんにも変わってない、一生懸命に何かを伝えたいって気持ちはわかった」
「伝えたい? …… 何を? 」
「不器用だって言ったろ? 」
 呆れたような笑いは察しの悪い自分に向けられたものなのか、それとも再び雲隠れした友人に向けたものなのか。キースは少しむっとしたモウラの顔へと視線を戻した。
「自分でもどうしていいのかわからないのさ。だからあんな冷たい言い方になる、ホントはそんなこと思ってもいないくせに」
 そう言うとキースはモウラの肩ごしに視線を向けた。家族との記念写真、モウラとのツーショット、そしてトリントンへの配属が決まったその日に街へ繰り出して祝杯を上げたコウとの写真。遠い昔に忘れてしまった無邪気な笑顔の二人をジッと見つめる。
「あの目は …… そんな目だ」
 
 逢瀬の時間はまたたく間に過ぎ去った。キースを置いて一人ベッドから降り立ったモウラは椅子の上にたたんで置いてある下着を手にとった。
 モビルスーツの整備士として中尉の座を手に入れたモウラの背中は大の男でも手こずるほどの重さのレンチや器具を扱う為に逞しく鍛え上げられている。およそ女性らしさの欠片も無いその背中や彼女の体躯が、実は彼女の中の女を隠し通そうとする為に生まれた物である事をキースは知っている。モウラ・バシットと言う女性が外見とは裏腹に誰よりも思慮深く、優しく、そして自分の見た目にコンプレックスを持っているという事に気付いた瞬間にキースはモウラが可愛いと思った。
 そしてそれが二人にとって恋に落ちた瞬間でもあった。
「そういえば、モウラ」
 下着に脚を通したモウラの背中に向かって、何かを思い出したようにキースは問いかけた。モウラはなくなる時間と競争をするように着替えを続ける。
「ん? 何? 」
 整備用の繋ぎを手に取りながら眉を顰めて、自分達の置かれている境遇にほんの少しの恨み節を心の中で唱える。本当はキースの部屋へこんな服を着て訪ねる事などしたくない、しかし基地内でも階級的には上位に位置する二人が逢瀬を重ねる事に規律と風紀の乱れを危惧した二人は、互いの部屋を訪れる際には作業着で尋ねる事と決めていた。
 部屋の出入りを基地内の人間に見咎められても整備班長と隊長と言う関係ならばモビルスーツ隊関係の話し合いと言う事で辻褄が合わせられる。自分達の立場を隠れ蓑にこの様な策略を弄す事に後ろめたさも感じるが、それでも会いたいと思ってしまう事が二人の愛情の深さを物語っていた。
「コウとニナさん、本当は何かあったんじゃないのか? 」

 狙撃手としての才能を認められてアデルと同じジム・キャノンⅡのパイロットに抜擢されたキースの観察眼は超一流だ、どんな些細な変化も矛盾も見逃さずに的確に捉える事の出来るその能力は誰もが一目置いている。モウラはキースの問い掛けが二人の何処に掛かっているかを知りつつ、あえてとぼけて聞き返した。
「何かって …… そりゃ何かあったんじゃない? コウはみんなに黙って基地を飛び出してったンだから」

 心の中に去来するニナの告白。デラーズ紛争最期の日にアイランド・イーズの中で起こった出来事の一部始終、そしてニナの本心。
 思い出すだけで胸の奥で切ない痛みがうずき出す。ガトーをコウが撃ち、止めを刺そうとしたコウに銃口を向けた。なぜそうしなければならなかったのか、その理由。
「コウがこれ以上傷付くのを見たくない」からだとニナは言った。コウを愛するが故に自分の嘗ての恋人と ―― モウラはそれをラヴィアン・ローズで知った ―― 同じ咎人にはしたくない、と。

「いや、ここでの事じゃない。もっとその前 …… コウがガトーと相打ちになった辺りから。見た目には繋がっている様でいて、どこか根っこの大事な部分が途切れてる …… そんな気がしたんだ」
 キースの一人言に耳を傾けながら黙々と着替えを続けるモウラの手は震えている、心の中で渦巻く葛藤がその原因だ。愛する者に隠さなくてはならない秘密がモウラの胸を締め上げて、その言葉を吐き出させようとする。
 吐き出してしまえばどんなに楽だろう、ニナはコウの世界を護る為に敢えて汚名を被ったのだ、と。コウに銃を向けなければ彼はきっとガトーをその手で殺して大きな罪を背負う事になる、そうはさせない為にニナは愛する者に銃を向けたのだ、と。
 だがその真実を知ったキースはニナの事を果たしてどう思うだろうか? 自分の親友、いや戦友に向かってたとえどのような事情があるにせよ銃口を向けた者の事を正当だと評価するだろうか?
 彼らは兵士だ。そして兵士である以上戦場へと赴いて命の遣り取りをするのは当然の行為であり、銃を向けると言う事は相手が自分の敵だと認識する事と同意だ。いくら仲間とは言えそんな事をしたニナをキースは笑って許すのだろうか?

「 ―― モウラ? 」
 背後でキースがベッドから起き上がる気配がする。モウラは着替えの手を止めるとたまりかねた様に振り向いた。
「キースっ、あたしあんたに ―― 」
 全てを告げようとするモウラの声が、すぐ傍まで近寄っていたキースの唇で塞がれた。

 肌よりも熱く、暖かな感触に全てが溶けていく。包み込む様なその感覚が離れた後に残されたモウラの泣き出しそうな顔に向かってキースが小さな笑顔を浮かべた。最近では見せなくなったその優しい笑顔だけは確かに自分だけの物なのだと思う。
「言いたくないのなら、言わなくていい。 …… 聞かないほうがいい事もある」
 離れていくほどに溺れそうになるキースの深い愛情に、目尻から涙が一筋。ベッドの上で膝立ちで自分を抱きしめるキースの頭は自分の頭の上にある。モウラは目の前にあるキースの胸板へと甘える様にその頬をうずめた。

                              *                                *                                *

 煌々と照らし出された士官宿舎の廊下へといつもの姿で現れるモウラの背中で閉じていく束の間の愛情。後ろ手に握ったドアノブを自分の身体へと引き寄せて、モウラは自分の愛した男がこれから迎えようとする安らかな眠りを妨げない様にそっと境界の扉を閉じた。

 だがモウラの足はその場所から一歩も動かなかった。告げぬままに赦された罪は人の心により大きな罪悪を植えつける事がままある、今のモウラはまさにその境中にいた。頭上より降り注ぐ強い光が生み出す足元の濃い影へとじっと視線を落としながら、キースの優しさをにべも無く受け入れてしまった自分の弱さを後悔する。
 たまにめぐり来る同じ非番の日にこそこそとお互いの愛を確かめる。それが他のみんなに伝わる事を恐れてなどと言うのは建前だ、本当はニナにこの事が伝わる事を恐れている。コウが黙って基地を出て言ったあの日からニナの時間と共にあたし達の関係も足を止めた、それはまるで今ここで足を踏み出せずに佇んでいる自分と同じ。
 分かっているのだ、このままじゃいけないと。
 わかってるんだ、このまんまでいい筈がない、と。
 でもだからと言って今の自分に何が出来る? この広大なオークリーのどこかで息をひそめて暮らしているコウを見つけてどうしようって言うんだ、あの日のニナの本心をコウに打ち明けてもう一度コウに戻って来てもらう? もしそれでもコウが心変わりをしなかったらどうなる?
 友達の秘密を打ち明ける事で失う物の大きさは分からない、もしかしたら何も失わないかもしれないし、全部失うかもしれない。でも自分は全部失う事を恐れている、それならば、いっそこのまま ―― 。

「 …… 出来やしないよ、そんな事 ―― 」

「 ―― 何がですかぁ? 」
 思いを巡らせたままいつの間にか目を閉じていたモウラは、自分のすぐ傍にまで歩み寄って来ていた人の気配にすら気付かなかった。驚いて目を見開いた彼女の目の前にある赤毛の少女の不思議そうな笑顔に、モウラは思わずたじろぐ。
「うわっ! ジェスっ、あんたいつからそこにっ!? 」
 モウラと同じ色の繋ぎを来た少女はショートカットの赤毛をフルフルと振りながら、やれやれといった面持ちで両手を腰に当てた。
「いつからって、たった今。―― さっきからずっと班長探してたんですよ、部屋にもいないし。きっとここだーと思ってキース隊長の部屋の前まで来て見たら、案の定」
「案の定ってあんた、ここは士官専用の宿舎だよ? それにあんたアラート勤務は? 今夜はあんたとアストナージが当番の筈じゃ ―― 」
「アストナージ上等兵殿は、現在当直の陸戦兵の方と『ジン・ラミー』(二人制のカードゲーム)に夢中であります、班長殿。それより ―― 」
 笑いながら自分の同僚を茶化すジェシカに呆れ顔を向けるモウラ、その顔には訳がある。
 本来アラート勤務と言う物は性質上前線若しくは紛争が起りそうな地域に隣接する基地に限られていた。ところが先日ジオンを名乗るテロリストがハンブルグ郊外の疾病管理予防センターを襲撃して保管してあった細菌などの致死兵器を大量にばら撒くという事件が報じられた。
 幸いな事に鎮圧部隊の手によって空気中への流出は免れた物の『封じ込め』の為に使われた爆弾は付近一帯を残らず焦土に変え、施設内の生存者は襲撃したテロリストも含めて皆無と言う結果と相成っている。事態を受けて連邦軍は宇宙からの渡航者の数を制限し、警戒も強化された。奇しくも『そうしている間にも地球は悪意の危機に晒されている』と議会で演説したジャミトフの言葉を実証してしまった形になった地球上の各基地は、規模の大小に関わらず一年戦争以来の大規模なアラート体制を実施する事を決定した。
「こんな僻地にジオンが来て何する気だ」と言う口さがない兵士達 ―― もちろんその中にはマークスやアデリアも含まれる ―― の不満を他所に基地司令であるウェブナーは直ちにアラート勤務のシフトを通常シフトに組み込む事を決め、指示を受けた各部隊は公平且つ民主的な『ジャンケン』と言う形でアラート勤務の人員を割り振っていった。 もっとも連続しての夜間勤務が無い様に極力士官達が率先して勤務シフトを肩代わりしてはいるのだが、兵数の少ないオークリー基地ではそれも思う様に行かず、時として何日も連続してハンガー内に待機せざるを得なくなる。かくいうモウラとキースも昨日までは三日連続の勤務をこなしたばかりで、今日は久々の休養日と言う事になっていた。
 ウェブナーの決定に何の異論もはさまず、直ちに部下の不満を立場と言う力で封殺したモウラ達には彼の気持ちがよく分かる。戦争と言う名の闇は平和な日常を一瞬にして悲劇に変えてしまうほど罪深く、そして一度起ってしまえばケリがつくまで逃れられないたちの悪い悪夢なのだ。そしてそれがここで起らないと言う保障はどこにも無い。軍歴からも抹消されて事実関係すら隠蔽された『トリントン基地襲撃事件』を経験したモウラ達には尚更の事だった。
 
「今日、ウラキ伍長が基地に来てたんですって? 何で教えてくれなかったんですかぁ? 」
 睨まれた事にも悪びれずに屈託の無い笑顔を向けるジェスが少女らしく甲高い声で尋ねた。まだ幼さの残る彼女は丁度アデリアの二つ下に当たる、まだ未成年だ。だがその腕前と機械に対する洞察力は若手の整備士の中では群を抜き、先任のアストナージが舌を巻くほどの速さと正確さでモビルスーツを次々にロールアウトさせる実力を持っていた。予算上の制約から外部の整備士を雇う余裕の無いオークリー基地に於いては、そして数少ない整備士をやりくりするモウラにとっては貴重な人材と言えよう。
 だからといって好き勝手にさせるほどモウラは寛大な人間ではない。とかく規律を蔑ろにしがちの彼女を上司の厳しさで譴責するモウラであったが、それにも一切懲りる事無く自由を謳歌する彼女の姿は陸戦兵の間でも話題になっている。燃える様な赤い髪と円らな瞳、そして常に濡れた様に艶やかな赤い唇がどうも荒くれ連中のツボに入る様で、彼女の周囲には群がる男の噂が絶え間ない。もっとも「あの子の尻にはきっと尻尾が生えていて先が尖っている筈だ。じゃなければあの年であんなに男あしらいが上手い筈が無い」とは現実に触れ合う機会の多いキースの、ジェスに対する評価である。
「何でって …… コ、いやウラキ伍長はすぐ帰ったからね。それに伍長が有事と訓練の日以外にはこの基地に出入禁止になっている事位あんたも知ってるだろう? …… て、言うか。ジェス、その事誰から聞いた? 」
「警備のハリスさんから。聞いたら教えてくれましたよ? 」
「どうせ色目使ってねだったンだろ? せめて目上には階級をつけな、そうやってすぐに友達扱いにする所があんたの悪い癖だ」
はい班長アイ、マム。 …… で、ウラキ伍長ってば今日は何しに来たんですか? まさかこの基地のだれかさんがお目当てだとか? 」
 上目遣いで見上げるジェシカの瞳は女であるモウラにしてもドキリと思わせるほど魅力的だ、だがそれこそがこの少女の手だと知るモウラはその手にゃ乗らないぞと言わんばかりの眼光で睨み返す。
「はずれ。ウラキ伍長の働いている農協の組合長の奥さんを送って来ただけだよ。とーっても美人の、ね」
 そう言いながらモウラはキースの部屋の扉を後にした。幾ら防音になっているとは言えここでの立ち話は何かと支障がある。それに士官専用 ―― それも男性に限る ―― の宿舎で何時までも立ち話をしている所を誰かに見咎められたらそれこそ整備班の沽券に関わろうという物だ。
 それでなくてもモビルスーツ隊にはニナといいアデリアといい、どう言う訳が美形の女性が揃っている。仕事一途のニナや恐ろしい二つ名を持つアデリアに手を出す奴はいないだろうが、この子は違う。違う所か本人はそれを楽しんでいる節が見え隠れする所が在る故に、モウラの叱責は常にジェスに向けられる羽目になる。向けられるが故に姉が歳の離れた妹を怒る様なその光景は常に男共の同情を買い、いきおい彼女の手元には慰めの言葉と余るほどの贈り物が溢れる様になる。ジェスが入隊してから妙に男連中からのモウラに対する風当たりが強くなったと感じるのは、決して気のせいではあるまい。
「えー、美人って言っても人妻でしょ? 伍長ってひょっとして年上趣味? それとも欲しがりさん? 」
 肩を並べて脇に着くジェシカの言葉に、そう言えばニナもコウより年上だったな、と思いつつモウラは目の前の小娘の無邪気な推測に内心驚く。
「さ、さあ。そこまでは知らないよ。 …… 今日はやけにウラキ伍長の事であたしに絡むねえ、ジェス。どういう風の吹き回しだい? 」

 これだけ男を虜にするジェスがモウラの前でその手の話題に触れた事は今までに記憶がない。モウラやニナとの間では専ら機体整備の内容や日常会話しか行わない彼女が『ガールズトーク』を率先して行おうとする事などモウラには初めての経験だった。尋ねたモウラの進路を塞ぐ様に回りこんで後ろ歩きで歩くジェシカが意味深な笑みを浮かべた。
「だぁって、かっこいいじゃないですか」
「はあ? かっこいいって、コウの事言ってんの? あんた」
 唐突なジェシカの発言に素でコウの名を口に出して意外な顔をするモウラとその反応を満足そうに見上げるジェスの顔は正反対だ、ぽかんと口を開いたままでジェスを見下ろすモウラではあったが彼女が嘘偽りを言っている訳ではないと言う事は理解できる。視界の中で少女らしくない小悪魔の笑みを浮かべたジェシカがいきなり告白した。
「顔はまあまあそこそこだし、体はがっちりしてるし。言葉遣いは優しいし、何より笑顔に影があるとこがいいじゃないですか。それにあのモビルスーツの扱いの上手さときたら」
「まあまあそこそこって …… そういえばあんた、予備役訓練のシミュレーターの担当だったね。コウ、―― いやウラキ伍長とはそこで会ったんだ? 」
 本来であればそれはモウラの仕事である。しかし件の理由からコウが参加する予備役訓練にモウラが参加する事は認められず、事態に窮したウェブナーが急遽抜擢したのがジェスだった。未成年であるが故に世情に疎く、しかし職能に関して高評価を得ているジェシカは一切の結果を他言無用とすると言う誓約書にサインをした上でコウのシミュレータープログラム及びモニタリングを担当した。故にここでモウラにその事を話すジェスの行動は厳密に言うと既に誓約違反に値する。
 しかしそこがジェスのジェスたる所以だ、彼女は恐らく今までの経緯やモウラとの会話の中からモウラとコウに何らかの関係がある事を察知し、そしてモウラの前でならコウの事を喋っても良いと言う事を既に感じ取っているのだろう。ジェスの見た目や口調から小娘等と侮っているとその強かさに痛い目を見る事になる。
 果たしてその強かな小悪魔は珍しく照れくさそうな笑顔を浮かべてモウラに言った。
「えっへっへ。会っちゃいましたよー。なんか運命的な出会いって言うか、こう何て言うかあたしのハートにビビッと電気が走ったというか」
「整備不良の漏電だ、そりゃ。そうでなけりゃあんたの気のせい」
 コウに対する感想を取り付くしまも無く一蹴するモウラの声を聞いたジェスが、小さく舌を出して抗議の意思を示したかと思うとくるりと振り返ってモウラの前を歩き出す。恐らく声音の変化からこれ以上の詮索は危険だと判断したのだろう。この辺の身の振り方がいかにも強かな女であると印象を同姓に印象付けてしまう、彼女の長所でもあり短所でもある。
「あー、でもいいよなあ。好きな人の機体を整備して送り出すなんてどんな気持なんだろう。あたしも一度でいいからそんな事やってみたーい」
「うちにはマークスがいるだろ? あの子の機体で十分じゃないか」
「ダメダメ、あれはアデリアのモンだもん。あたし人の物には興味ないですから」
「自分になびかない奴は物扱いかよ、全くあんたは」
「ね、班長? 」
 前を歩いていたジェスが呟きと共に足を止める。唐突な行動にぶつかりそうになったモウラの寸前で彼女はくるりと振り返り、モウラの顔を円らな瞳で見上げた。
「 …… どんな気持ですかぁ? 」

 問い掛けられたモウラの顔全体に動揺が広がった。自分とキースの関係は公表していないとは言えある程度の公然たる秘密となっている。本人達が上級士官であるが故に規律を重んじ、乱れさせない様に配慮する努力を汲み取って彼らの周囲も気付かない振りをしてくれているのだ。 暗黙の了解にも拘らずその禁忌を口に出すモウラの部下たるその小悪魔は自らの本領発揮と言わんばかりの悪どい笑顔を前面に押し出して、くるくると変わるモウラの表情を愉快そうに眺めている。部下である以前に年下にからかわれたと思ったモウラが、声を荒げて叱った。
「こらっ、ジェス。大人をからかうのもいい加減にしないと ―― 」

 それはジェスの手に握りしめられた起爆装置だったのかもしれない、とモウラはその瞬間に彼女の顔に浮かびあがった悪魔の様な笑みを見て後悔した。しかし時既に遅し、ジェスは真っ赤な唇をいやらしく歪めてポソリと言った。
「 …… 首にマーク、ついてますよ? 」

 パン、と叩いたのはからかったジェスの可愛いほっぺたでは無くモウラ自身の首だった。浅黒い肌に指す赤みはまるで食べごろになったイチジクの様で、そこに現れた表情はとてもジェスより遥かに上の歳とは思えない。自分の秘密を母親に見透かされた時の様にただおろおろと視線を泳がせてうろたえるモウラの様子を一しきり眺めた後、強烈な対人地雷クレイモアの効き目を楽しんだ小悪魔はウインクをしてペロッと舌を出した。
「 …… えへ、今のはうそ。引っかかりましたねぇ、班長? 」
 途端に顔色だけはそのままで表情だけが劇的に変化する、羞恥の感情が冷却される間もなく怒りへと変わり、憤激の蒸気を吹き上げ始める僅かな間隙を突いてジェシカの足は脱兎の如く駆け出した。とっ捕まえる為の大事な一歩に出遅れたモウラがありとあらゆる悔しさを吐き出す様に、駆け去るジェスの背中へと怒鳴った。
「くぉらぁっ!! ジェスっ! 」
 だがその叫び声ですら彼女の逃げ足には届かないだろう、陸戦隊を焚き付ければショットガンを抱えて仕留めに行くんじゃないかと思うほどの逃げ足を披露するジェスはコロコロと笑いながら背中越しにモウラへと捨て台詞を投げつけた。
「じゃあ、班長。あたしはハンガーに戻りまーす。今度ウラキ伍長が基地を尋ねて来たら必ず教えてくださーい」

 夜中の士官宿舎の廊下を華やかな雰囲気に変えてジェスは一目散に去っていく、一人仁王立ちのまま肩を怒らせて怒りのはけ口を探していたモウラはそのまま腰のポケットに突っ込んであった無線機を乱暴に引き抜いてスイッチを押しこんだ。
「こらぁっ! アストナージっ、あんた今何やってるっ!? 」

 アストナージは階級こそ上等兵ではあるがその実績は一年戦争の終結を戦艦の中で迎えた事からも分かる様に一流の整備士の資質を持っている。彼は生き延びる為にモビルスーツのみならず火器、果ては戦艦内の熱核エンジンの整備まで独学で修得し現在ではこの基地でモウラに次ぐ整備班副長の肩書きを担っている男だ。どの様な経緯でこの基地まで流されて来たのかは理解出来ないが本人曰く「何でも出来る奴は何にも出来ない上司に疎まれる」と言う理由で、自らこの基地への赴任を志願したらしい。ただ、先輩の立場として同僚のジェシカの言動や行動を放任していると言う点だけがモウラにとって物足りない部分ではあったのだが。
 久し振りに聞く上司からの叱責に答えるアストナージの声が動揺に揺らめいている。
「 ” ―― はっ、はい、班長。なんでしょう? ” 」
「あんたの相方が士官宿舎を徘徊中だっ! アラート勤務中にあんた達は二人して何やってんだあっ! 」
「 ” へっ? ジェスが? …… あああーっ! あいつ俺の抱き枕身代わりにして抜け出しやがったなぁっ! ちっくしょ俺のマリちゃんに何してくれてんだあっ! ” 」
「あんたの趣味なんざぁどうだっていいっ! あんたら罰として明日からのジムのC整備、二人だけで明日中に終わらせろっ。完了するまで飯と休憩は、抜きだっ! 」
「 ” ちょ、まっ ―― ええっ!? そ、そんなあっ! ” 」
 歴戦の整備士をして悲鳴を上げさせる『C整備』とはモビルスーツの運用を二日から三日休止して行われる完全検査整備の通称である。各部の点検、メンテナンス、消耗部品の耐用期間前交換は言うに及ばず核融合炉の燃料棒の交換、装甲板全体の非破壊検査まで行う重整備だ。エンジンに関しては専用のブースと機械、そしてアストナージはその経験があるので二人でも何とかなるだろう。だが問題は ――。
「 ” いやマジ勘弁してくださいよ、班長。誰が非破壊検査用のUTM(Ultrasonic Testing Measuring instrument:超音波探傷試験測定器)を一日中抱えてろってンですか? そんな事したら俺の明後日の大事な非番は全身筋肉痛で ―― ” 」
「知るか、そんなのっ! 一日中死んでろっ! 」

 失望の叫びを上げるアストナージの声を聞く耳持たないとばかりに通話スイッチで息の根を止めるモウラ、ぜーぜ―と荒く息を吐く彼女の背後から遠慮がちな声が届いたのはその直後だった。
「 …… あー、その、バシット中尉? 」
 低いトーンで周囲を憚る様に掛けられた声にモウラが思わず振り返る、ウェブナーは軍服のネクタイを人差し指で緩めながら困惑の体で自室のドアの隙間から姿だけを現した。
「こっ、これは司令! あっすっすいません、お休みの所をお騒がせして」
「いや、まだ休んではいなかったのだがね …… その、なんだ」
 凍り付く様に直立不動で敬礼するモウラの姿を見て、ウェブナーは咳払いを一つすると窘める様に言った。
「部下の規律を正すのは確かに大事な事だが、時と場合を選ばんと何かと自身に不都合な事が起らんとも限らん。特に彼女は ―― ジェシカ・アリスト上等兵はまだ子供だ。母親代わりに躾けるのは構わんがほどほどに、な」
「はっ! 」
 母親と言われて内心“せめて姉と言ってくださいよ、司令”とぼやきながら敬礼を返すモウラがウェブナーの忠告に対して感謝の意を告げた。
「不肖の私めに過分なご助言、感謝に堪えません。以後この様な事の無きよう奮励努力致します」
「よろしい、では君も早く休みたまえ。アラート勤務のせいで何かとシフトが窮屈になっている昨今だ、休める内に休んでおかんといざと言う時に身が持たんぞ? 軍人とはそういう物だろう」

 ウェブナーの忠告をそのままの姿勢で聞き届けるモウラの目の前で居室のドアが静かに閉じる、それと入れ替わりに今まで自分が過ごしていた部屋のドアが小さく開いてキースがモウラの様子を窺っている。心配そうな目を向けるキースに向かってモウラは苦笑いを浮かべながら小さく手を振って一連の騒動が収まった事を知らせた。安堵の表情と共に再びドアの影へと消えていく彼の姿を確認したモウラが、今度は自分自身の為に大きな安堵の溜息を洩らす。
「 …… にゃろ、ジェスの奴。明日になったらC整備の監督がてらとことんボロ雑巾みたいになるまでしぼってやる」
 大きな鼻息を一つ立てて大股でその場を後にするモウラ、自分が思うよりも速く、そして大きな音を立てているのは一刻も早くここを立ち去らなければと言う義務感による物だ。早足と呼ぶにはあまりにも騒々しい歩調で長い廊下の出口までやっとの思いで辿り着いたモウラは、ふと壁に貼り付けられている姿見の前で足を止めた。
 それはどの宿舎の出口にも必ず備え付けられている物で、元々は各隊員の身だしなみの最終チェックに使用される。軍と言う物に厳密な規律が確立されて以来、兵士には内外とも完璧な様相が求められる様になった。大昔からの風習とは言えAD世紀から続く伝統は現在に至るまで脈々と受け継がれている。モウラは自分の全身が映る大鏡の前へと上体を寄せると、念入りに首筋の辺りへと視線を向かわせた。
「 …… まさか、ほんとに痕残ってンじゃ ―― どうしよう、ボトルネックなんて着たらそれこそだし、あたしこんな濃い色のファンデなんか持ってない」
 首を伸ばして必死でジェスに指摘されたその痕を探し回るモウラ、だが鏡に映った自分の困惑した表情へを目をやった彼女はそこで自分の余りの間抜けっぷりに手を止め、やがて大きな溜息をついて鏡の中の自分に向かって問いかけた。
「 ―― あたし、なにやってンだろ? 」

                              *                                *                               *

 古いエアコンのモーター音だけが支配する小さな部屋の中をリズミカルに駆け巡るキータッチの音。連弾で弾くピアニストもかくやと思わせるその速さはニナのしなやかな指先から生み出されている物だった。
 
 ラヴェルのトッカータにも似たリズムで仄かな明かりに照らされた部屋の中を飛び回るニナの奏楽はハンマーが叩く弦の音色の代わりに無数とも言える記号の羅列をモニターの上に生み出している。恐らくオークリーの基地内では彼女にしか分からない基地内のメインコンピューターとのチャット内容は彼らの流儀に従ってニナの指から話すよりも早く語られ、彼らはニナからの質問に短く二者択一で答えを返す。その繰り返しがニナの動きに変化を齎した。時には微かに笑い、首を傾げて新たな会話に没頭するニナは男物のYシャツ一枚と言うしどけない姿で足を組んで“いつになったらこの石頭は私の発想に屈服するのだろう”と手を変え品を変えて様々な角度からの質疑を繰り返す。それが就寝前の僅かな時間に行われる二ナの儀式だった。
 普段はメインコンピューターのバージョンアップや基地内のシステムについて取り留めのない会話を続けて終わるこの寝物語も今日の夜は一味違う、ニナの発言にも力が入る。なぜなら今日の話題はニナが本領を発揮すべきカテゴリーに属す物だったからだ。モビルスーツのOSのマニュアル化に伴って連動する基本動作システムの介入についての意見交換はそれを開発した研究者に対するニナからの挑戦状に値する物だった。
 デフォルトで設定された基本動作プログラムを書き換えてマニュアル操作の選択肢を追加し、その際に必要最小限の動作パターンを連動させてパイロットの補助アシストに使用する。以前から温めていたその発想を現実の物として検討するには、キースがマニュアル操作で二機のモビルスーツに勝利したと言うレポートを提出したこの時を置いてほかにはない。アナハイムから支給された現状のプログラムではOSを解除しない限りマニュアルへと移行できない、だがそれではキース経験者ならばともかく一度もマニュアルでモビルスーツを動かした事の無いマークスやアデリアにとっては未知の領域になる。その結果手なれた筈の基本動作の保持にまで負担を強いる事になるのは今日の講義を受けた彼らの顔色を見ても明らかだ。
 眉間と額に皺を寄せて一生懸命頭で理解しようとするのは新世代の性なのか。二人の発想にはイメージと言う物が欠けている様な気がすると言ったのは今日実際に戦ったキースの言葉だ。実際に死線を何度も潜り抜け、生存の可否を計るストレスの中で生き延びようと試みたキースやコウにとってはそんな事 ――

 思い浮かんだその名前がニナの軽やかな指先を止めた。焦点を失う蒼い瞳が心と共に電子の世界から遠ざかる。

 モニター上にあるカーソルが点滅して、ニナに会話の続きを要求した。心の中を過る過去に目を背けて再び自分に課せられた作業に没頭しようとニナは入力を再開した。

 ―― ただ二人にはそれを実践する機会も状況も十分に与えられてはいない。唯一キースとの模擬戦がその貴重な機会となる訳だがそれでは足りない。自身の不利な状況を絶対の意志を持って覆そうと言う気力、それが無い以上彼ら二人がこのままマニュアル操縦に挑む事は可能であっても現状以上の機動力を手にする事は困難であろう。結論としては現状搭載されているOSを完全にマニュアル化するのではなく、デフォルトで設定された基本動作720種類を削って必要最低限の動作に絞り込む。その動作をマニュアル時の補助に加える事によって、少なくとも移動や待機状態の姿勢の保持にまでパイロットが神経を割く事は無くなる筈だ。
 あの時もそうだった、デンドロビウムのコクピットで出撃待機状態を保持し続けるコウはその姿勢制御に神経と体力を磨り減らした ――

 吸い込まれる様に遠ざかる現実と共に現れた記憶はまさにあの日に遡る。アイランド・イース落着間近のアルビオンで不退転の全力出撃を敢行しようとするコウが尋ねて来た、阻止限界点到着までの時間。狭い機内に押し込められたままで逃げ出す事も出来ず、苦しげな呻き声と共に問い掛けられた言葉に答えたのは誰でもないニナ自身だった。
 モーリスよりも、シモンよりも、誰よりもコウの傍にいて彼を支えていたかった。もっと他の言葉が ―― コウの力になる真実の言葉がきっとそこにあった筈なのに、彼の呻き声を聞いたニナはそれを口にする事を躊躇った。

「がんばって」
 なぜ言える? その言葉は彼に『死を恐れるな』と言う意味と同じ事。絶望的な戦いを目の前にしてもなお生きて欲しいと願う私がどうしてその言葉をコウに告げられるのか?
 過去の幻影に捉えられて揺れる瞳が彼女に訪れた動揺を表す、その瞳に映るモニターのカーソル。点滅を繰り返す一本のか細い線はニナの回想を遮るように更なる会話を要求した。

 ―― 例えば『歩く』と言う動作一つとっても各部を構成する機器に様々な動きやストレスを与える。足を踏み出すのではなくて『倒れこむ上体を支える為に足を出す』その繰り返しを持続させる為には体幹部に設置されたリアクションホイールによるバランスの修正が欠かせない。 現状のプログラムをマニュアルにするとそんな簡単な動作までもがパイロットの手に委ねられる事になる。計器の水平儀を睨みながら絶えず振動に襲われるコクピット内で手足を微妙に操作してその行動を継続させるには、新OS搭載前のモビルスーツの活動限界時間である二時間が妥当である。ましてやそこに戦闘行動が加わればその操作の煩雑さは想像を絶する忙しさだろう。コウは「モビルスーツの動きなんて所詮は自分の動きの延長線上にあるんだから、そんなに難しい事じゃない」と言ってたけれど ――

 トッカータからソナタ、そしてセレナーデ。やがてニナの指はキーボードの上でゆっくりと止まった。指の動きと連動して画面の上をひた走っていたカーソルは彼女の動きに合わせる様にゆっくりと停滞する。震えるニナの指は必死になってその先の言葉を探し続ける、だが凍えた心から生み出される偽りの会話はそれを書き綴る事さえ赦さなかった。険しい表情で点滅するカーソルを睨みつけるニナの目はまるでこの会話の中断が理不尽な事であるかのように仄明るい画面へと注がれた。
 中途半端な静寂の中にニナの溜息が洩れた。
 吐息の中で霧の様に混じり合う今日と言う日、もう二度と出逢う事がないと、会えないのだと諦めて心の中から痛みと共に引き剥がした自分の半身。世界中の誰が見失っても自分だけは間違える事の無い、焦陽降り注ぐ日差しの中に影を霞ませて佇むコウ。何も理由を告げずに姿を消したあの日とは雰囲気や体の輪郭は大きく違っている。でも自分と合わせた視線で繋がる複雑な感情 ―― 基地を出て行く前の日に投げ掛けた遣り切れなさに溢れる感情を抑えきれない瞳の色 ―― はあの時と寸分も。いいえ、それは多分出会った時から彼の瞳に浮かんでいた、彼自身のジレンマに支配され続ける複雑な感情を秘めたコウの眼。

 ニナの視線がモニターを離れて机の隅へと移動する、几帳面に積み重ねられた三枚の起動ディスクの脇にそっと立てかけられた傷だらけの一枚へと焦点を合わせた。保護ケースの真ん中に刻み込まれた大きな傷がまるで今の二人の様だと取り留めのない感想を思い描きながら、ニナはそれをそっと取り上げる。筐体の隣に置かれた旧式のドライブスロットにコウのディスクを押しこもうとして、不意にその手が止まった。
 それは幾度繰り返しても必ずこの瞬間に始まるいつもの葛藤だった。
 これが最期になるかもしれない、「このディスクを押し込んだ瞬間に壊れてしまったら」 ―― そう考えただけでこのディスクを覗く気すら失せる。もちろんそんな事は起りえる筈が無いと自分で言い聞かせてみたところで、それを蔑ろにして大事な物を全て失ってしまうと言う偶然も偶然以上の確率で起り得る。

 コピーは取れない。コピーを取るにはディスクの持ち主の乗った機体 ―― モビルスーツでなくても、航空機でも船舶でもいい ―― のハードディスクに介入接続してデータを吸い上げない限り複製できない仕組みだ。本人の認証が無ければ動かないモビルスーツのセキュリティを利用したコピーガードの仕組みを、今更ながらニナは恨めしく思った。複製を作ろうにもこのディスクの持ち主はもうここにはいない、それどころか彼は自身の存在意義とも言えるモビルスーツパイロットと言う職業を捨てて別の世界へと旅立ってしまった。
 ―― 彼にとっては掛け替えの無い物だった筈なのに。

 揺れ動く心を抑え込む渇望がニナの手を操って、そのまま手の中にある壊れかけのディスクをスロットへと静かに押し込んだ。
 彼女の指から離れたディスクが何かから逃れる様に深い穴に吸い込まれて消える、僅かに残った後悔がその行方を追い掛ける。閉じる扉とモーターの駆動音が穏やかに響き始めたその時初めてニナはハッチに押し当てられたままの人差し指の腹をゆっくりと引き剥がした。一瞬の間を置いて点灯する緑色のLEDはディスクに異常がなく、読み取りを開始したと言うドライブからの確かな合図。ニナの視線がドライブから送られる情報を表示するモニターへと移動した。
 読み取られた起動ディスクはニナにパスワードを要求した。無機質な文字で浮かび上がる連邦宇宙軍第三種機密事項にこのディスク内容が指定されていると言う注意事項、そしてこのディスクを閲覧している貴方が本人若しくはその関係者に該当するかを詰問する文章。もし悪意の有る第三者がこのディスクの内容を利用した場合には例外無く軍法会議に掛けられる、と言う警告文。だが羅列される文章内容の全てを無視したニナはためらう事無く自分とコウだけが知るパスワードを打ち込んだ。
『 Edelweissエーデルワイス 』

 その言葉はガンダム一号機の空間機動強化型であるフルバーニアンのトライアルが終了した月面のリバモア工場でニナが決めた言葉だった。『尊い記憶』『大切な思い出』という意味を持つこの花が好きになったのはいつの頃からだったのだろう? コウにその花言葉の意味を聞かれて「これは私にとっての思い出だから」と答えたのは苦し紛れの嘘、本当は自分とコウを繋ぐ大切な絆だったから。
 様々な過去の記憶が去来するニナの目の前で、モニターがディスクのデータを展開した。既にジャブローのデータアーカイブには存在しない彼の軍暦、そして階級。
 コウ・ウラキ戦時中尉。
 画面の中のコウはあの頃のまま、固い表情で映っているのは入隊した直後だからだろうか。ぼんやりと眺めていたニナの視界の中で突然その口が動いた様な気がした。眉尻が上がり険しい目で、開く筈の無いコウの唇がニナの脳裏にあの時の言葉を蘇らせる。
 ” なぜだニナっ、どうして ―― ”

 耳を塞いだ。
 目を閉じた。
 聞きたくない、見たくない。
 言いたくても、いえない。

                              *                               *                                *

 靴の裏に仕込まれた磁力に抗う様にニナの足は床を蹴る、核パルスエンジンの咆哮と共に始まる姿勢制御で傾く床を物ともせずにニナは一息で制御盤の前に倒れるガトーへと駆け寄った。自分の思い描いた未来には無いその映像をまるで何かの冗談を見るかのようにただ茫然と眺めていたコウは、ニナの上げた叫び声で初めて我に返った。
「ガトーっ! しっかりしてっ、ガトーっ!? 」
「 …… 何を、して、いるんだ ―― 」
 受け入れられない現実はコウの意識を元の位置へと戻せない。銃をぶら下げたままガトーを膝の上に抱きあげた愛する者の姿に愕然とするコウに向かって、ニナは涙に濡れたままの蒼い瞳を向けた。
「もう止めて、コウっ! 」
 彼女の言葉が自分の名前だと言う事にやっと気が付いたコウの中で渦巻いた理不尽は彼の身体に流れる復讐と言う名の油に火を付けた。あっという間に延焼を始める猛烈な業火は瞬く間にコウの理性を焼き尽くして拳銃を握り締めた掌にまで熱を伝える。
「 …… そいつから離れろ、ニナっ! 君はそいつが誰だか分かっているのかっ!? 」
「この人はもう戦えない、あなたは勝ったのよ! これ以上殺しあう事なんて必要ない筈だわ、だからもう止めてっ! 」
「気でも狂ったのかニナ! そいつはガトーだっ、君のガンダムを奪い、そのガンダムで大勢の人を殺してっ! そいつのお陰でアレン中尉は、バニング大尉は ―― 」
 コウの殺意が震えとなって体中を駆け巡る、彼は自分がここに至るまでの動機となった人物の名を渾身の怒りと共に吐き出して、目の前に座り込んだままのニナと宿敵たるガトーに叩き付けた。
「 ―― ケリィさんはっ! 」
 
 モビルスーツパイロットと言う人種が戦いの中にロマンを求めて止まない特殊な人種である事をコウに教え、そして自分と同じ価値観を持ちながら戦争と言う名の狂気の中で命を奪い合う事しか出来なかった恩人の名前。地獄の釜の淵から零れ出す様に現出した瘴気は彼の背中から噴水の様に飛び散って管制室全体に蔓延する、僅かに生き残っている非常灯の灯火ですら覆い隠すかのようにもニナには見える。
「分かってるっ、そんな事分かってる。でもあなたがこの人を殺してそれでどうなるの? 何かが変わるの? 世界が、あなたが、それともわたしが!? 」
「言うなあっ! 」
 抗うニナの声がコウの自我を苛む、何も変わらないと分かっていながら大義の無い戦いを余儀無くされたコウにとってニナの問い掛けはそのまま彼自身の疑問へと取って代わった。私怨の赴くままに奪い取る命は彼の罪となって手足を枷取り、生き抜く為に血濡れた手足に力を込めて更なる殺戮に身を投じて罪を重ねる。戦士や兵士とは遠く離れた場所に蹲るコウの魂は穢れに満ちたまま救いと贖いを誰かに求めて、そしてその相手は今目の前で自分の愛する者の腕の中で苦しげな息を吐いている。
 ―― この男が俺の全てを変えてしまった。そしてまた変えようとしている。掛け替えの無い、それさえあればこの先何が遭っても生きて行けると信じて止まないただ一人の存在を。
「そんな事は関係ない! そいつさえいなければ、そいつがあんな事さえしなければ ―― 見ろ、俺の手を! 」
 喚きながら差し出された白い手が震えている、コウは怒りと苦悶が綯い交ぜになった顔でニナの泣き顔を睨みつけた。
「これが人殺しの手だっ! この手がケリィさんを殺した、バニング大尉を救えなかった、コンペイ島で、そしてここで大勢の人間を殺して血塗れになった手だ! 」

「全て、そいつのせいだっ! コロニーは止められない、死んだ人は生き返らない。でもガトーは殺せる! 俺はその機会を与えられたんだ。正義や善悪なんかはどうでもいい、それでも俺自身が罪を背負って皆の無念を晴らせるなら俺なんかどうなってもいい、俺はその為にいままで戦って来たんだっ! 」
「正気なの、コウ!? そんな物があなたの戦う理由だと!? 」
 蔑ろにされた自分の願いを耳にしたニナの表情が変わる。それはコウの言った通り正義や善悪など関係の無い、コウに向けられた純粋な怒りだった。そうではないと信じていた者に裏切られた彼女の怒りはまるで断罪する判事の様な勢いでコウへと向けられた。
「なぜそれが自分のエゴだと言う事に気付かないの!? ただ仲間や周りの人達を失った憎しみに任せて大勢の人を『殺した』のはガトーに対する復讐の為だけだったと言うつもり!? 思い上がらないで、もしそうだとしたらあなたとガトーは別の世界の人よ、そしてあなたは決して力を手に入れてはいけない唯の殺人鬼だわっ! 」
 噛みつく様に睨みつけるニナを見るコウの目から邪悪な炎が消え失せた。愛する者に否定される自分の覚悟を胸に抱えたまま、コウはただうろたえた。
「なぜ分かってくれないんだ俺をっ! 俺が殺人鬼だと? そんな …… そんな事を君の口から ―― 愛してくれてると信じていたのにっ! それとも俺への気持は嘘だったのかっ!? 」
「そんな事っ! ―― 」

 どうして分かってくれないの、コウっ!

「 ―― あたしはこの人が好きだった …… 好きだったこの人とあなたが戦う事の結末を見なければとここまで来た。でもそれがこんな事にっ! ―― 」
 心の中で膨れ上がるニナの本心が悲鳴となって制御室の空気をかきまぜた。過去の記憶と今の願い、交雑してその先へと続くであろう未来の結末が楽しい類の物である筈がない事はニナ自身にも分かっている。だからこそニナはコウの代わりにここへとやって来たのだ。ガトーを止めて、コウの罪を少しでも軽くする為に。
 決してこの二人のどちらかが命を失って、二度と埋める事の無い疵が出来ない様に!
「 ―― 二人がこうならない事だけを祈ってきたのに! ましてあなたのそんな変わり果てた姿を見せ付けられる事になるなんてっ! 」
 
 その手が罪で汚れてしまったと言うのなら。
 その手が血に塗れてしまったと言うのなら。
 二人で背負って歩いていこうと思った、そう決意をして乗り込んだニナの前に立ち尽くす、変わり果てた愛する者の姿。
 ―― 私はこんな者の為に命を賭けてここに辿り着いたのではない。

 やり場を失った怒りと向けられた失望。人工的に生成される循環大気の中で相克する二つの感情を再び繋ぎ止めたのは血の海に横たわった男の口から突然に発せられた言葉だった。まるで何かを閃いた哲学者の様な静かな口調で、ニナの膝へと頭を預けていた銀髪の兵士は呟いた。
「なるほど、戦えない者を私怨に委ねて殺してしまえば殺人か …… 一理ある」

 脇腹の銃創に押し当てられていたニナの手をそっと自分の手に置き換えたガトーが身動ぎした。膝に掛かっていた重みが薄らいだ事でガトーの意図を悟ったニナが思わず叫んだ。
「ガトーっ! 」
「何っ!? 」
 驚きを表す事なる叫びが制御室の壁面で残響する、その木霊に応えるかのようにガトーの身体が動き出した。体を捻る度に、腕を、足を動かす度に襲い掛かる猛烈な痛みがガトーの表情を曇らせる。だが敵国の教本にまで名を残した伝説の撃墜王はその口を堅く噛み締めて、呻き声一つ漏らさず上体を起こした。
「どいてくれ、ニナ。ここから先に君は来てはいけない」
 ガトーの血塗れの手がニナの宇宙服に押し当てられる。掠れた血糊が新たな赤をニナの服に上書きして異なった色調のモザイクを織り成した。意志を伝えるその手に加わる力は流れ出た血の量に等しいかの如くにか弱く、だがそこに籠められた強靭な決意はニナの体を一息で押し退けた。
「ガトー、何を ―― だめっ、動かないでっ! 」
 ガトーの強い意志に逆らえなかったニナの体が縋る言葉だけを響かせて血塗れの床の上に残される。傷付きながらも誇りを捨てない猛禽の双眸がコウの姿を睨み付け、宿木代わりに羽を休めたニナの体をどけた手が冷たい床を叩いて上体を支える。掌に残る懐かしい感触と夥しい震え、ニナが愛した嘗ての男は傷の痛みと郷愁の温もりを感じながら全身の力を両足に籠めてゆっくりとコウの眼前へと立ちはだかった。
「だが、コウ・ウラキ。貴様は間違っている」
 苦悶の表情すら噛み殺したガトーが轟然と言い放った。

「 …… 私は、まだ戦えるぞ。私を討って貴様の本懐を遂げられると感じるのならばそうすればいい。誰も貴様を怨みはしない」
「何を …… ガトー、貴様あっ! 」
 千載一遇のチャンスを再び与えられたコウの手がガトー目がけて振り上げられる、だがその構えはおよそ戦闘教則にそぐわない無様な物だった。伸ばした右手はがくがくと震え、支える左手は震えを押さえる為に右腕の肘を握り締めている。狙いの定められないジレンマがバイザーの陰に隠れたコウの表情を焦りに歪める。
「戦いは常に私怨によって始まると以前、私は貴様に言ったな? 嘗ての私もそうだった。ソロモンで散った大勢の仲間とドズル中将の怨みを晴らさんが為に連邦と戦い、大勢の兵士をこの手で葬った。貴様の今はあの時の私と同じだ、何も変わらん …… だがな」
 微かな微笑みすらも浮かべて訥々と語るガトーの声はコウの殺意を見る見るうちに薄めていく、その変化は跪いて呆然と見上げるニナの目にも明らかだった。殺気に満ちた眦が緩んで眉間の皺が消えていく、それはまるで道に迷った破戒の者が新たな悟りを開く瞬間に起る変化にも似ている。自分にもできなかったコウの説得を宿敵であるガトーがいとも簡単に成し遂げていると言う事実にニナは胸を撫で下ろし、そして次の瞬間。
 戦慄した。

 ガトー、あなたはコウに何をしようとしている!?

「 ―― 私は今大義を持って戦いに臨んでいる、そして自らの犯した罪が意味ある物に変わる瞬間は誰の身にも訪れるのだ。貴様はここまで血塗れの手を握り締めて『星の屑』に深く関わった、そしてこの戦いを通じて選択せざるを得なかった自分の行いに対して自戒の念を覚える今この瞬間こそが貴様にとっての唯一の機会だ」
「俺の、罪が …… 意味ある物に、だと!? 」
「そうだ」
 強い肯定の言葉が迷路に落ちたコウの心へと救いの手を伸ばした。鳶色の瞳に宿る強い意志、そして鍔迫り合わせた二人だけにしか判らない信頼感が敵味方の境界を喪失させて繋がる。
「既にコロニーは大気圏突入の最終段階に入った、もう誰にも止められん。だがここで私を討つ事は貴様にとって一つの決着を着ける事になる。―― 私に勝ったと言う事実が貴様を変える。それはこの先に広がる未来への分岐点になる筈だ、罪と大義の。」
「待て、ガトー。貴様が口にする、貴様自身の大義とは何だ。貴様らの目的はコロニーをジャブローに落とす事で連邦軍を混乱に陥れる事ではなかったのか? 」
「違う。だがそれは人それぞれに違う物だ。私には私の大義があり、ここで貴様に語るべき事ではない。それにそれは ―― 」
 揺らめいていたガトーの体が突然静止した。両足を肩幅に広げてしっかりと踏ん張り胸を張ってコウの前に立ったその姿は生気に満ちている。強い威厳を放ちながら、しかしその表情は暖かく。連邦軍が『阿修羅の化身』と信じた男はその非なる意味を掲げてコウの眼前で真の顔を見せていた。
「 ―― 私を討った後に分かる。この戦いを通じて私と戦った貴様こそが手に入れる事の出来る唯一つの物。その時貴様が踏み拉いた万骨の命は貴様に大義を与える筈だ。今の私がそうである様に」

 コウの手に宿った物はもう殺意では無かった。ガトーを撃つ事で与えられる贖罪への渇望は彼の手の震えを止めて、その将星のど真ん中へと敵の胸を収めた。さっきまではあれほど熱を帯びていた人差し指が嘘のように冷たい、それは引き金の温度が正しくコウへと伝わっているからだ。全ての感覚を取り戻したコウがガトーへと向けられた銃を操ろうと一本の指に力を込める、だが彼の人差し指は意に反してピクリとも動かなくなっていた。
 撃つ事によって得られる物と失う物。罪からの解放は確かに得難い機会ではあったが人を殺すと言う罪を自らの手によって犯す事を容認するには、彼は正気に戻り過ぎていた。再び迷い込んだ新たな葛藤との境目を見極めたガトーが言った。
「 ―― どうしたコウ・ウラキ、私を撃て。今ここで撃たねば貴様は一生罪の意識に苛まれて生きて行く事になる、貴様がこの先宇宙そらで生きようとするのならば迷うな。そうしてこそ貴様は初めて私の ―― 」

「やめて」

 今までに二人が聞いた事も無いニナの冷たい声がガトーの言葉を遮った。驚いて視線を合わせた二人の先に立つニナの手にはしっかりと銃が握り締められ、しかしその銃口は敵として君臨したガトー目がけてではなく彼女が心から愛してやまないコウの胸元へとぴったりと定められていた。
「な ―― 」
 その可能性を全く考えていなかったコウの口から驚きの声、そしてガトーの苦々しい視線がニナを襲う。ガトーに狙いを付けた時とは圧倒的に差のある決意が蒼い瞳を支配している、ニナが言った。
「 ―― やめて ―― 」

                              *                                *                               *

「 ―― コウ」
 呟いたニナの唇を伝う一筋の涙がぽとりと。それは今日と言う日の懺悔の始まりだったのかもしれない。
 大きく開かれた蒼い瞳が知らずの内に涙を湛える。ニナの視界を曇らせながら溢れる暖かなそれは、室内の空調によって冷まされた時に初めてニナに存在を気付かせた。その感触に慌てて頬を押さえるニナが思わず呟いた。
「 …… 涙? 何で、私 ―― 」
 ぼやけてしまった視界の中に霞んだコウの顔を取り戻す為にしきりに瞬きを繰り返す、しかしその度に押し出される涙が彼女の求める現実を否定する様に更なる勢いで溢れ出た。一筋でしかなかった物が後から後から伝わって膝の染みを大きく広げる、そこまで来て初めて現実を受け入れたニナが途切れ途切れに呟いた。
「忘れられる、訳 …… ないじゃないっ。」
 迸ったニナの言葉が彼女自身の体中を駆け巡った。
 血が、心が沸騰する。全身に溢れる熱と失った悲しみが手を携えて彼女の全身を震わせている。感情の暴走に耐えられなくなった瞼が強く閉じられて、溢れる涙をこれ以上零さないようにと天を仰いだ。
 あの場所で別れたまま、再び出会わなければ良かったのか? コウがこのオークリーに配属されるかもしれないと風の噂で聞いて、ティターンズから供出された誓約書にサインもせずにありとあらゆる手段を使ってこの基地に辿り着き、彼の帰りを待っていたのは間違いだったのだろうか。
 彼の為に自分が諦めた物を再び取り戻そうとする事は、所詮は叶わぬ夢にしか過ぎなかったのか。
 繰り返す自問自答は狂った様にニナの心を掻き毟った。傷が広がり、言葉が溢れ、受け止める掌の隙間から零れ落ちて行くニナの後悔。後悔は次の瞬間に『罪』と言う名に書き換えられて彼女の心を暗い澱みに変えていく。
 微かな嗚咽がニナの唇から漏れ始めて、涙が目尻の堰を切って闇に沈んだ鮮やかな金の髪を濡らす。そこへと追い打ちをかける様に翻弄される彼女の記憶に焼き付けられたコウの顔が懐かしい声で無情にも問い掛けた。
 ” ―― なぜ、ガトーを選んだんだ。ニナ ”

「 ―― 違うっ! 」
 喉の奥から絞り出す様な悲鳴と大きく見開かれた蒼い瞳が虚空へと飛んだ。声の主を追い求めて殺風景な天井をぼやけた目で追いかける、だがそれは手に入れる事の出来ない幻影だ。小さく頭を振ってコウの声を否定するニナは慟哭を上げた。
「私は貴方を選んだのよ、コウっ! 貴方を選んだから、ガトーと共にあそこを去らなければならなかったのっ ―― 」
 その台詞が孕んだ矛盾を繋ぐ鎖は錆びて朽ちたままニナの心の中だけにある。幾らニナが望んでも、錆びた鎖は繋ぐ端から崩れ落ちて元の形を保てない。そして意味も無い。
 ―― コウがいなくなった今となっては。

 天を仰いだ蒼い瞳が舞い降りて再び目の前のモニターに釘付けになる。潤んだ瞳から流れ出る涙を拭いもせずに画面の片隅に映り続けるコウの顔をただひたすら見つめ続けた。

 私にだけ何かを言って欲しかった。
 例えそれが私を罵る言葉でも構わない。私のした事を詰って蔑まれた方がまだ救われる、私はあなたにそれだけの事をしたのだから。
 でも、でも私は。
 それでも私はあなたの声が、本当の声が聞きたい。

 唇の前で固く組んだ両手が、渇望に震えるニナの唇が心の底で蟠ったまま幾度と無く繰り返されるその言葉を遂にこらえ切れずに吐き出した。
「 …… 何か言って、お願いよ。 …… コウ ―― 」

                              *                                *                               *

 彼女の決意を見間違える訳がない、とコウは信じている。そして今彼女の瞳に宿っている決意の正体を知ってコウは自分の目を疑った。焔の様に燃え上がる殺意と不退転の決意はコウを怯ませ、そして愕然とさせるに十分過ぎる力だ。
「なぜ、だ。ニナ」
 ガトーの為に銃を握った彼女に向かってコウは問い質す、だが言葉の代わりに返って来た物は一発の銃声だった。反動で跳ねあがったニナの腕の先にある銃口から硝煙が棚引く、金属が金属へと食い込む甲高い悲鳴がコウの背後で巻き起こる。凍りついたコウの目の前でニナは再びその銃口を突き付けながら告げた。
「やめて、コウ」
「なぜなんだニナっ!? そいつは俺達を ―― ガンダム二号機をっ! 」
「そうじゃない」
 途端にニナの瞳から殺意がかき消えた。代わりに浮かびあがる深い悲しみと絶望、吸い込まれてしまいそうな心の深淵へと声を飲みこまれたコウに向かってニナが訴えた。
「そう言う事じゃないのよ、コウ」

 砕けていく最後の理性を必死で掻き集めながらコウは寄りそう二人の姿を睨みつけた。湧き上がる猛烈な衝動は紛れも無く殺意、しかしそれを叩きつけるには自分の存在は余りにも矮小で、そして目の前で寄りそう二人は高尚過ぎた。罪人同然の自分に道を指し示そうとした好敵手と失ってはならない筈の者。今もし誰かを殺さなければならないのだとしたら、それは間違い無く自分自身へと向けられなければならない。
 体の芯から外郭へと飛び出そうとする棘の痛みに従う様に鬼相を露わにしたコウの前で二人の身体が浮き上がる、磁力靴のスイッチを切って床を蹴る二人の体がゆっくりとコウの傍を通り過ぎて、非常用のエアロックへと泳ぎだした。
「まて、待ってくれ、ニナっ! 」
 心のどこかで絶対に信じようとはしなかった結末の到来にコウは焦り、声を荒げてその名を呼んだ。呼応する様に振り返るニナ、交錯する互いの瞳。
「ニナ戻れっ、戻ってきてくれっ! 」
 切なる願いを拒絶する様に瞳を伏せる彼女に向かって、彼女の願いに背いた自分の立場も忘れてコウはニナの背中へと叫んだ。
「 ―― 傍にいてくれるんじゃなかったのか、いつも、俺の傍にっ! 」
 届いている。言葉だけではなく紡がれる文字の一つ一つがニナの肩を絶え間なく震わせた。だがまるで未練を断ち切る様に背を向けたニナとガトーは真っ直ぐにエアロックの通路にへとその身体を降ろした。追いかける道理すら見いだせずにただ立ち尽くしたままで二人の影を見上げたコウが血を吐く様に絶叫した。
「ニナァッっ!! 」

 言葉の残滓を締め出すかの様に機械仕掛けのエアロックはその扉をモーターの軋みと共に閉じていく、扉の影に隠れるガトーの背中とそして最後までコウの姿を見つめ続けた彼女の蒼い瞳までもが冷たい金属に遮られて消えていく。エアロックの摘みが回転してロックされた事を無機質なチャイムでコウに教える、それはコウにとっての全ての終わりだった。
 引き裂かれた痛みに耐えかねたコウの口から獣の様な咆哮が吐き出されて全ての音を掻き消した。切なさや愛しさや悔しさや哀しさ、人が持つ人としての全てを否定するコウの痛みはたった一人の空間を敗北した勝者にとっての辺獄へと塗り替えた。

                              *                                *                               *

 夜明けにはまだ程遠い時間だった。
 目を開けた暗闇の先で蒼白く光る二つの目はエボニーだ、コウの叫びに驚いたエボニーは飼い主の異変に驚いて距離を取ったままじっと成り行きを観察している。心配するでもなく、かといって無視する訳でも無い。今のコウにとっては動物の持つ独特の距離感がありがたかった。少なくとも過去の幻影に苛まれる心を覗き込まれる事に抵抗を感じたり、心を砕いて押し隠すような事をしなくて済む。
「 …… ごめんよ、エボニー。驚かせちゃったか」
 ベットに横たわったまま差し出した手が夢の中に消えて行ったニナの代わりの何かを求める。狭い部屋の片隅で蹲っていたエボニーは飼い主の発作が収まった事を確認すると緩やかな足取りで近付いてするりと頬を摺り寄せた。闇に溶け込んだ髭がコウの指に固い感触を残して消える、再び手にした現実がコウに失われてしまった希望と取り戻す事の出来ない貴重な者の存在を知らしめる。
「ニナ …… 」
 失った物はあまりに大きい。知らずの内に洩らした愛する者の名前は溜息と共に黎明の部屋を舞う。エボニーの両目がなぜか舞い飛ぶ言葉の欠片を追う様にコウの頭上を緩やかに彷徨う。やがて目に見えない何かが消えた事を確認したエボニーはおもむろにベットの上に飛び上がってコウの体に身を寄せた。
 丸くなって後ろ足に顎を預ける様を窓から差し込む月明かりで眺めながらコウの手が静かに頭を撫でる。手の動きがエボニーの咽喉鳴りの始まりと共に止まり、コウの目は古ぼけた梁の剥き出しになった冷たい天井を見上げた。
「何故、あんな夢を …… 今まで一度も見なかったのに」
 もし昨日ニナと出会わなければあの夢の続きを見る事は無かったのだろうか? 偶然の邂逅と交わす言葉がコウの記憶のか細い川を遡って悲劇の源流に到達した、ただそれだけの事なのだろうか?
 なのになぜこんなに心がざわめくのだろう、もう一度ニナと共に歩きたいとでも思っているのか? 誰にも知られない様に封印した心の奥底に眠る、自分自身の身勝手な理由を省みることなく。
「 …… 何を馬鹿な。自分から手放しておいて、今更 ―― 」
 呟きはコウの中に隠された願いを退けて、コウ自身に与えられた罪を言葉によって思い知らせる。吐き出された後悔を照らし出す様にニナの瞳と同じ蒼光が、宇宙を駆けた時と変わらぬ冷たさでコウの眠りを誘った。



[32711] Disclosure
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2012/11/24 23:08
「次の作戦が決まった、一週間後の未明になる」
  窓一つない地下の部屋でその男は居丈高な声で告げた。規定によるR&Rを予定通り消化したダンプティは休み明け早々に下された出頭命令にも何食わぬ顔でその部屋を訪れる、しかし心の奥底ではいかにも腐敗した連邦軍を象徴する様なこの男と相対するのを嫌悪した。威嚇する様にこってりと塗りつけられたポマードの匂いが鼻に衝く、それよりも部下である自分達を蔑んだ目で見つめるその態度が気に入らない。自分の周りでは今まで見た事も無い最低の上官に向かって、それでもダンプティは右手を掲げて踵を鳴らした。
 直立不動で見事な敬礼をする彼に向かって男は無造作にファイルを投げてよこした。二人を隔てる巨大なデスクの表面を滑ったそれはぴたりとダンプティの前で止まる、さして分厚くも無い作戦命令書を取り上げると彼は表紙を捲ってから呟いた。
「オークリー基地? 聞いた事も無い名前ですね …… 軍の施設、それも基地を襲撃するのは今回が初めてだ」
「基地とは名ばかり、連邦でも鼻つまみ者達を強制的に収容した刑務所の様な所だ。もちろん基地と言うからにはモビルスーツも旧式ではあるが配備はされている、しかし問題はあるまい」
 簡単に言ってくれる。
「ですが准将、今度の相手は曲がりなりにもそれなりの訓練を受けた軍人です。それにモビルスーツ部隊が配備されていると言うのであれば前回の研究所の様には ―― 」
「臆病風にでも吹かれたか、中佐」
 幅広な口角を歪めて嘲笑うその顔はまるでお伽噺に出て来そうな小鬼ゴブリンを彷彿とさせる、僅かな照明の光を受けて妖しげに光る瞳をダンプティに向けた男はさも愉快げな口調で言った。
「作戦成功率100%を誇る『W.W.W』小隊の真の姿がまさかジオンの負け犬に率いられているなどとは、今まで襲われた奴らも気付くまい。貴様の戦績も自らの実力では無くただ単に運が良かっただけではないのか、ええ? 」
 他人は自分を映す鏡なり、とは昔の人はよく言った物だ。自分がこの男を心の底から嫌っている様に、この男も自分の事を嫌悪している。
 だがそれもティターンズという勢力の興りを考えれば頷ける、地球至上主義を掲げた彼らにとって元ジオン軍の自分等は最も唾棄されて然るべき存在なのだ。この旅団が一切の前歴を考慮せずに参加出来る外人部隊の性格を持っていなければ、自分ばかりかケルシャーもここへもぐりこむ事は出来なかっただろう。
 無表情で罵詈雑言を聞き流したダンプティを舐めあげていた男は、自分の挑発に一切乗ろうとはしない彼の顔に向かって侮蔑の鼻息を洩らした。
「貴様の臆病さ加減は大佐カーネルもよくご存じのようだ、今回の作戦を実施するに当たって彼の方からも直々に追加戦力の要請が届いている。 ―― それも、五機もだ。私は反対したがな」
 そう言うと面白くもなさそうな顔で次のファイルを机の上に滑らせた。追加戦力として参加するパイロットの経歴へと目をやったダンプティは、ふと浮かんだ疑問を迂闊にも口に出した。
「 …… ざっと見る限りではつい最近にティターンズへと参加した連中ばかりですね。能力的には十分なのですか? 」
「自惚れるな。それでも最前線でつい最近まで残党狩りをしていた連中ばかりだ、貴様の元お仲間を、な」

 心の底で燃え上がった殺意の焔を理性の力で必死で押し留める。危うく素顔をさらけ出しそうになったダンプティが小さく喉を鳴らして気持ちを整えると、怒りで眩んだ視界がはっきりと像を結ぶ。目の前に座った男はいつの間にか机の引き出しを僅かに開いて右手を深深と差し込んでいた。
 そこに何が握られているかと言う事など言うには及ばない。
「了解しました。それでは彼らを準隊員として我が小隊へと編入させます。役回りとしては各隊員の援護と言う事になりますが」
「貴様の好きにしろ、入ってからの事まで私は関知しない。それに今回の貴様達の任務は前回と同様、敵高脅威目標の撃破制圧。本作戦の実働は地上部隊が行う手筈になっている」
「と言う事は今回もその基地内の誰かを確保すると言う事で? しかしこんな聞いた事も無い様な基地にどんな人材が埋もれていると ―― 」
 ダンプティが尋ねた瞬間に男の指の間に挟んだ紙切れが目の前へと滑り込んだ。一枚のポートレートに映った女性の顔を見るなりダンプティが目を細める、その変化を見逃さなかった男が言った。
「どうした、この女がどうかしたのか? 」
「いえ …… 」
 取り上げた写真をじっと眺めていたダンプティがしばしの沈黙の後に男へと問いかけた。
「どう見ても只の、美しい女性です。今までの様に科学者や技術者ならともかく、彼女に一体どのような利用価値が? 」
「対象は殺害する。ブージャムには口頭でそう命じてある」

 声には出さなかったがダンプティの顔には疑問の表情がありありと浮かぶ。対象すらも殺害するという事は攻撃対象となったこの基地の全てを完全に抹殺すると言う事になる、ならばわざわざ自分達が出張ってそんな回りくどい事をしなくても他にもっとやり方があるのではないか?
「これはバスク・オム大佐からの直々のご命令だ、「見つけ次第殺せ」とな。クライアントの手前表向きは対象の確保と言う事にしてあるが、戦場で起こる不慮の事故ならば仕方があるまい? 」
「我が隊の戦果に疵をつけてでも、この命令を成し遂げろと? 」
 自分達の積み上げた実績と言う物はそのまま作戦行動へのモチベーションへと繋がる、常勝無敗を誇る者のたった一度の敗北が致命傷になる事は過去の歴史が教えている。目には見えない興亡のあやを危惧したダンプティが男にそう尋ねた時、彼はいかにも不愉快そうに鼻を一つ鳴らした。
「何の罪も無い大勢の人間を殺し続ける貴様らが戦果? ふん、ご大層な物言いだな中佐。その下らん誇りとやらが貴様の母国を敗北へと導いたと言う事が未だに分からんか」
 戦場での命の遣り取りの本質を理解出来ないこの男が一度もそこに参加していない輩だと言う事をダンプティは知っている、故にそれを只の殺し合いだとしか認識できない彼は足し引きでしか戦争を考えられないのであろう。自分の過去に向かって恥辱をぶつける男に向かって、ダンプティはまるで心の扉を閉ざすかのようにはっきりとした声で返答した。
「若輩者ゆえ戦争の機微について閣下と語り合う事は能いませんが、司令部よりの下知と言う事であらば速やかに拝命いたします」
 その固い物言いこそがダンプティの最大の抵抗だった。何の感情も浮かべずにそう告げて踵を返した彼の背中へと男の侮蔑が投げつけられる。
「命令とあらば同族殺しも厭わんとは、さすがに自らの出自たるこの地球にコロニーを落とした連中だけの事はある」

「酷い顔色です、一体どんな無理難題を ―― 」
 部屋の外で待っていたケルシャ―がダンプティを一目見るなりそう言った。自分では平静を装っているつもりでも張りつめた空気から解放された瞬間に、その心情は正直に表情へと現れた様だ。自分が唯一本音を語れる同士に向かってダンプティは小脇に抱えたファイルを渡した。
「次の作戦が決まった、実施は一週間後の未明。作戦要項はそのファイルに書かれてある通りだ、貴様は直ちにその内容に従って詳細な時間割を構築して各部署間での調整に入れ。各項目に関する補正と承認は私自らが行う」
 手渡されたファイルの表紙を開くなりケルシャ―は、ううむと小さく唸ったまま手書きの書類から目が離せない。
「 ―― まさか味方の基地まで手に掛けるとは …… 目的の為に手段は選ばんとは言えこれはあまりにも非道過ぎる。 ―― 中佐」
 ダンプティよりも遥かに年上のケルシャ―は歴戦の足跡を顔の皺に刻み込んだ武人の表情に憂慮の色を携えて顔を上げた。
「私がこのような事を中佐に申し上げるのは差し出がましい事だとは思うのですが、もしこの作戦が中佐の矜持を真に穢す物であるのならばお受けする必要はないのでは? 他にも実働部隊はいますし何よりも ―― 」
「俺達は傭兵、金銭の授受をもって作戦への承拒を選択出来る。 ―― 確かに貴様の言う通りだが ―― 」
 そう言うとダンプティは手を伸ばしてファイルを捲るとニナの写真がクリップで止められたページを開いた。怪訝な目で覗きこむケルシャ―に静かな声で言い放つ。
「俺達が断った所でバスクからの命令である以上この作戦が中止される事は有り得ない、そして他の連中には任せられない理由がここにある」

                              *                                *                               *
 
 研究所の最上階にある広大な窓を占領する黎明の暁はそれを眺める一人の男の眼を赤く彩っている。生まれい出ようとする今日と言う日に魅せられたかのように身動ぎもせず、立ち尽くしたままでいるハイデリッヒの背後に控えていた暗い人影が心に秘めた不安を押し隠せずに尋ねた。
「よろしいのですか、所長。あのような軍人を信用して」
 微かに含まれる怯えと非難の要素を孕んだ声にハイデリッヒは応えない、あけの閃光が遠くに霞む山肌を照らし出して彼の蓬髪を白から赤へと染め上げた瞬間に彼はその口を開いた。
「信用? する訳が無い」
 踵を返して尋ねた部下に向き合うその顔には得も言われぬ嘲笑がある、意外な返答に驚いた彼を前にしてハイデリッヒは両手をポケットに収めたままで静かに言葉を続けた。
「あのバスクと言う男は正直言って無能だ、ティターンズと言う組織があの男を重用する限りいずれは致命的な失態を犯して全てを崩壊に導く事は間違いない。無能は無能なりに現場であくせく働いておけばいい物を、変な色気を出して政治等と言う分不相応な魔窟に足を踏み入れるからああいう風に肩肘張って生きていかねばならない羽目になる。まさに道化だな。 ―― まあもっとも」
 面従腹背を曝露するハイデリッヒの表情は嘲りを通り越して愉悦へと進化する。
「 ―― そうでなければ困る。道化は道化なりに精一杯観客の要望に応えて踊り続けてもらわねば、わざわざこの研究所をティターンズ直属の機関に推し進めた意味が無くなる。彼らの力無しには私の『実証』にも支障をきたすのでね」
「ですがあの男がこちらの思惑通りに動くと言う保証も無い、無能と言えども今日までにあの地位にまで登りつめた人物ならばかなりの権謀術数は持ち合わせていると考えるべきでしょう。何もこれほどの素質の持ち主の参画をそんな男に委ねなくても ―― 」
「思惑通りだよ、私にとっては」
 ハイデリッヒはそう言うと顎を持ち上げて白い天井の一角を見上げながらぽつりと呟いた。
「 ―― 奴は殺そうとするだろうな、彼女を」

 ハイデリッヒの独白はそれを尋ねた男の声を凍りつかせる。望んだ物を手に入れられない可能性へと言及したハイデリッヒは小さく口を開いたまま呆然とする彼に向かって言葉を続けた。
「奴は無能ではあるが正しく軍人だ、今頃は妄想で膨らんだ頭を冷やして自分が成り上がる欲望とそれに伴って降りかかる自分への風当たりを計りに掛けている頃だろう。 …… ティターンズはまだ創設して間も無い組織だ、巨大な勢力を誇っているが故にその内部は脆弱で危うい。自らの出世を献身や人望では無く恐怖や権力で成し遂げた奴だからこそ自分の突出が組織のバランスを崩すと言う事にはすぐに気が付く、その時に奴が選べる分岐は驚くほど少ない」
「自分の保身の為に、所長の依頼をわざと失敗する。 …… それでは私達の為に必要な得難い才能をみすみす ―― 」
「奴には是非ともそうして貰わねば困るのだ。その為の毒も撒いておいたのだから」
 失う物の無いハイデリッヒと大きな損失を被るバスクとの立場の対比がそれだ。彼が真に支配者たる資質を持っているのならばハイデリッヒの提案がいかに今後の宇宙史に大きな足跡を残す可能性があるかと言う事を深慮するだろう、しかし俗物であるが故に自らの立場や抱えた財産に固執し、それを打ち棄ててまで夢の実現と言う曖昧な物へと自らの足を向けると言う暴挙に出る事はありえない。ここで対象を殺した所で自分の立場や権力には何の影響も及ぼさない、またはそれに近い方法や言い訳を考えるに違いない。
「そういう点においては奴は矛盾だらけの、中途半端な人間なんだよ。そのまま私の申し出に乗っておけばティターン等と言うちっぽけな一勢力だけではなくこの人類の生存圏全ての権力を手中に収める事ができると言うのに。だが奴の様な卑屈な者が抱える矛盾によって引き起こされる判断が今回の私の狙いでもある」
 腹の内に収めておいた思惑を全て晒したハイデリッヒは満足そうな笑み ―― 相対する男には普段との違いは分からないが ―― を浮かべて小さく頷いた。

「『ニュータイプ』としての彼女はまだ生まれてもいない、いわば覚醒前の状態だ。自分の仕事や研究の影に見え隠れする力を彼女や周囲の人間はただの才能としか思わないだろう。実際彼女の成し得た仕事は奇跡に近い代物ではあるが世の理の常軌を逸したと言うほどの物でもない、あくまでも人の考えの及ぶ理屈の範囲内に収まっている。もし彼女がその能力を完全に発揮していたとしたらこんな物では済まない、恐らくこの世の誰一人として扱う事の出来ないガンダムが出来上がっていたはずだ」
 その結論は彼ならではの実績から導き出された物だ、と口を噤んだままハイデリッヒの講義へと耳を傾ける男は思った。かつてフラナガン・ロムの右腕としてジオンのニュータイプ研究に深く関わり、その後継者と目されながら突然の逐電によって連邦軍へと亡命を果たした科学者。ニュータイプ理論においてはその卓越した分析力と非道とも言える実証によって師をも凌ぐ一家言を擁し、その彼をして『生まれてくるのが十年早かった男』と言わしめた鬼才。
 エルンスト・ハイデリッヒ博士。
「では所長は彼女の事を大佐にお願いする前に、既に注目していらしゃったと」
「次期主力機開発計画の責任者が彼女だったと知ってからだ。独自のつてでその事実を確認した私はすぐに彼女が生まれてから現在に到るまでに残した足跡 ―― 在籍した学校の成績はもとより論文、作文の類に到るまで全ての綱目に於いて検討したが、そこには彼女がニュータイプとして覚醒したと言う事実は見いだせなかった。しかしあのガンダム三機の基礎理論を立ち上げた時のデータには、僅かながらニュータイプ特有の閃きによる論理の跳躍が見受けられたがね」
 洗い晒しの白衣のポケットから眼鏡を取り出して、何かを思い出す様に金属の蔓を何度も折り畳みするハイデリッヒは突然閃いた様に顔を上げて目の前の男に尋ねた。
「ここで君に質問だ。 ―― ニュータイプの最も効果的で、かつ効率のよい発動条件とは何だか分かるかね? 」

「死に直面若しくはそれに類する環境に置かれた時、自己防衛本能によって発動するケースが一番効率的で最大の効果を上げる ―― 」
 それは自分が研究員時代に前任者のDr.ナカモトから教わった一節だった。ハイデリッヒは彼が寸暇の間を置かずに答えた事に喝采をするように小さく頷いた。
「そう、それだ」
 人を褒める事など滅多にないハイデリッヒの称賛に男は喜びよりも恐怖を覚える、そして今自分が告げた言葉の意味を彼の思惑と照らし合わせて愕然とした。ありありと浮かんだ驚愕の表情へと細い目を向けたハイデリッヒは、手にした眼鏡をかけながらその模範解答を提示した。
「彼女を今だ体験した事のない死の間際へと追いやる。他の症例と同様自分の命を脅かす圧倒的な死の匂いこそが彼女の中に眠る資質を目覚めさせるトリガー、それが発動しさえすれば彼女は『至高』へと至る為の第一歩を踏み出す事が出来る。それに彼女を生かしてオークリーから脱出させる為の手も既に打ってある …… ニュータイプとして覚醒した彼女ならば手駒はそれだけで十分な筈だ。科学の力が暴力を圧倒する様を私もじかにこの目で確かめてみたい所だが ―― 」
 まるで愛しい物を愛でるかのように恍惚の視線を宙へと泳がせるハイデリッヒ、嬉々として未来を語る姿など彼が人を褒める事以上に男は目にした事がない。だが彼の空想には確かな戦略と確信が存在する事を知って男は固くなっていたままの表情を緩めた。
「彼女が所長の思い通りに目覚めてこの研究所へとやって来ればそれも叶います。今残っている検体の能力を最大限に発揮出来るモジュールさえ完成すれば、今までにロールアウトした検体を遥かに凌ぐ強化人間が出来上がります。これこそ所長の意図した彼らの未来の姿、科学が暴力を凌駕する力の発現」
 熱に浮かされた様に滔々と賛辞を述べる男は自分の感情が目の前に立つ鬼才と同調した事に陶酔する、だが酔った頭に冷水を浴びせる様なハイデリッヒの一言は瞬く間に男を現実へと引きずり戻した。
「 ―― 彼ら? それは一体誰の事だ? 」

 怜悧な刃物を思わせる彼の声が男の耳に突き刺さる、夢の途中からの突然の下車を命じられた男はハイデリッヒの表情へと目を凝らした。明けゆく朝日のお陰で逆光になってはいるが、そこにはあからさまな疑問と侮蔑の色が見て取れる。
「い、いえ、ですから研究所内に残っている『検体』達の事です。確かに少なくなりましたがそれでもまだ相当数が残っている、彼らの能力が十分に発揮できさえすれば所長がおっしゃった『人類の生存圏全ての権力を手中に収める』力が ―― 空前絶後の兵団が出来上がるではありませんか。それに所長が以前から考えている『アレ』を実現する事だって ―― 」
 捲し立てる男に向かって掲げられたハイデリッヒの掌がそれ以上の発言を遮る、糸の様に細い瞼の奥から不気味な瞳が覗いて男を射抜いた。
「 ―― 君は『キク』と言う花を知っているかね? 」
 目の前で立てられた掌から放たれる異様な圧力、例えようもない恐怖を感じた男はハイデリッヒの問い掛けにさえも答える事は出来なかった。ひりひりと焼けつく喉が声を詰まらせ、凍った思考が言葉を奪う。やっとの思いでできた事は彼の言葉の一部分を反復する事、それだけだった。
「 ―― 『キク』」
「『菊』と言うのは今や連邦に吸収され尽くして帰属意識アイデンティティすら失った東アジアでも僅かに生息している花の名前だ。私はその中でも特に『和菊』と呼ばれる物が好きなのだよ」
 隠喩と呼ぶにはあまりにも唐突で、しかも今までの話題とは到底噛み合いそうもない花の話をハイデリッヒは男に聞かせる。しかし男はその声から耳を遠ざける事は出来なかった、ハイデリッヒの喉を伝わって届く声には聞き流そうとする我儘すらも捻じ伏せるだけの恐怖が宿っている。
「『菊』の美しさに魅せられた園芸愛好家フローリスト達はたった一輪の大輪を咲かせる為に惜しみない努力と手間をそれに費やす。…… 私が特に気に入っているのはそのやり方だ、実に合理的で理に適っている」
 
 痺れた様に声を失ってじっとその場に佇む男にはその後に続く彼の言葉を知っている、いや知っているつもりだった。だがハイデリッヒの発想は彼の部下として様々な『実証』を手掛けてきた男にとっても予想外の、そして背筋の凍る様な言葉だった。
「自分が選んだその一輪を咲かせる為に、生まれて来る全ての蕾を次々に切り落とすのだよ。 …… 根より吸い上げた全ての物をその一輪の為だけに与えるのだ。そうした犠牲の果てに完成する作品こそが見る者全てを魅了し、称賛を得られる資格を持つ」
 生き残っている『検体』を全て犠牲にしてでもそのたった一つの『花』を咲かそうとするのか。
 ハイデリッヒの未来を垣間見てしまった男の喉がごくりと溜まった唾を飲み込んだ。研究者として真理を追求する以上その到達点を特定する事は必須だ、だが彼の求めるそれに辿り着くまでには今までも、そしてこれからも多くの屍を必要としている。
 間違いない、これが彼にとっての戦争だ。
 彼の中での戦争は彼の師の元を離れたあの日から、未だに終わってはいないのだ。

 男の心を読んだかのようにハイデリッヒが薄く冷ややかな嗤いを浮かべる、眼鏡の蔓を指で押し上げながら鋭い目を向けながら言った。
「さあ、始めようじゃないか。彼女が『至高』であるならば、我々はそれに見合った『究極』を彼女の為に用意しなければ、な」

                              *                                *                               *

「! ちょっと待ったぁッ! 軍曹、あんた何やってンすかぁッ!? 」
 ハンガー内の異変に気付いたアストナージが手元にあった野戦用のヘッドセットをむしり取ってマイクへと罵声を浴びせた。モウラに命じられた罰則であるジムのC整備の段取りの最中に起った事態はただでさえ不安定なアストナージの情緒を更に逆撫でするほど大胆かつ無謀だ。バケットの上で登壇を待ちわびるUTMの巨体に片足を掛けたまま、アストナージは我が目を疑った。
 アイドリングを始めた薄緑のザクは確かにマークスの予備機だ、彼が使用しても何ら咎め立てする事は出来ない。だがそのセットは前回の演習でキースが使用してから何の手も加えられてはいない、つまり搭載されているOSのプログラムは全て解除されている筈だ。「どこかの神の悪戯であの機体のOSが元に戻ってますように」と祈るアストナージの願いも空しく、マークスの搭乗したザクはケージのロックが解かれた瞬間に大きくバランスを崩した。
「言わんこっちゃねえっ、 ―― ジェス、全員に退避命令っ! やっこさん、血迷いやがったっ! 」
「 ” 聞えてるぞ、アストナージ ” 」
 さもありなんと言った体で含み笑いを洩らしながらマークスが言った。不敵な声がヘッドホンから耳へと届いた瞬間にアストナージの怒りはうなぎ上りに頂点への道を駆けあがった。
「軍曹、あんた一体何考えてンすか!? 今日の演習計画書にはゲルググを使うって書いてあったでしょうが、大体その機体はこの前隊長が使ったそのまんまだ、軍曹に扱える訳がねえっ! 」
「 ” ご忠告痛み入る。だが今日の演習にはこの機体で出ようと思う、悪く思わないでくれ ” 」
「ハアッ!? あんたいま俺の話のどこを聞いて ―― 」
 言葉の途中で踏み出されたマークスの一歩目がアストナージの声を止めた。普段ならばリズミカルに動くその足がまるで赤ん坊の様に心許ない、オートバランサーの加護すら受け入れないマークスの暴挙を知ったアストナージが唾を飛ばして怒鳴り付けた。
「それで悪く思うなって、どの口がっ!? モビルスーツってなあ官給品であんたのおもちゃじゃねえンだ、へこんだ装甲打ちだすだけでも大変なんだぞ、分かってんのかっ!? 」
「アストナージっ! 」
 ジェスの肉声がどんな音よりも大きくアストナージの耳に響く、ただ事とは思えないその叫びにヘッドセットを外した彼はジェスがいたであろう方向へと目を向けた。彼女の指さす方向にはアデリアの予備機である黄褐色のザクがケージに収められている、だがあろう事かその機体までもが千鳥足でハンガーの誘導路へと足を踏み出していた。
「おいぃぃ …… どこのトンマだあの機体のOSをいじった奴ァっ!? プログラム関係は技術開発部の領分だろがっ! 」
「 ” あたし ” 」
 惚けた口調でぽつりと漏らしたその声をアストナージが聞き逃す訳がない、アデリアだと分かった瞬間にアストナージの怒りは頂点に達した。
「あんたら一体何考えてンだ、いくら演習で負け続けだからってヤケになるこたぁねえだろがっ! それともあんたら二人でそろいもそろってドMかコラァッ!? 」
「 ” なによ、そんなのやってみなけりゃわかんないじゃない。もしかしたら演習の最中にマニュアル操作のコツを掴んで勝つってこともあるかもよ? ―― 何よ、ジェス ” 」
 アデリアの楽観的観測を耳にしたジェスが頭と手を交互に左右に振って「それは、無理」とジェスチャーする、その光景へとモノアイを動かした彼女のザクはグラリとバランスを崩して前のめりになる。慌てて伸ばした右手が天井から伸びたままのホイストの鎖を掴んで転倒を防いだ。金属の擦れ合う轟音とハンガー全体の骨組みを揺らす振動が梁の上にたまった土埃を一気に撒き散らす、もうもうとする景色の中を尚も諦めずによろよろと動き出す二機のザクを睨みつけながらアストナージが誰かに怒鳴った。
「おい、このまンまじゃ埒があかねえ、誰か班長を呼んで来いっ! それとハンガー出口を緊急閉鎖、直ちにだっimmediately! 」
「 ” いいンでないの? ” 」
 
 割り込んで来たその声音が誰の物でもない、自分の上司の物である事を知ったアストナージは反射的にハンガーの出口へと視線を走らせた。防爆仕様の分厚い扉を開閉する為に設置された電源盤の前で、先任たるアストナージの命を受けて駆け寄った整備士をニヤニヤと笑いながら片手を上げて押し留めているモウラの姿が彼の目に飛び込んで来た。隣には金の髪を日に揺らしながら、いつもの出で立ちで颯爽と立つニナもいる。
「 ” 構わないからそのまま出しちゃいな、あたしと技術主任が許可する ” 」
 思い掛けない上司の指示にあんぐりと口を開けたまま声を失うアストナージ、代わって整備班全員の声を代弁したのは二人の前で戸惑いながら焦っているデニスと言う男だった。
「いや、班長。いくら許可したってダメなモンはダメでしょう? こんな深酒の酔っ払いみたいなのがよろよろ出てったところで隊長に指一本で瞬殺されるのがオチですよ、演習のエの字にもなりゃしませんって」
「そりゃあたしだってそう思ってるよ? でも、技術主任が、ねえ」
 意味深な目を横に立つニナへと向けると、彼女はヘッドセットのスイッチを入れてその場に居合わせている全員に向かって言った。
「今日の演習内容の変更は私の一存で許可します。 …… 二人には貴重なデータ採取の為の尊い犠牲になってもらうわ、もちろんそれを管理する整備班全員にも、ね」
 
「え、あ。いや …… ええっ!? 」
 バケットの手すりを握り締めて驚くアストナージ、彼だけでは無い。整備班の全員が退避の途中である事も忘れて一斉にニナの方へと振り向いた。彼らの間を相変わらずよたよたともたつきながら慎重に足を踏み出すザクが通る。
「 ” 今日の演習が全くの無駄である事は承知している、でも二人が昨日の演習内容を省みて新しい事にチャレンジしようとしている努力を私は認めるわ。勝って得られる物よりも負けて得られる事の方が遥かに価値があり、これから先に役立つ事が多い。 …… そうよね、アストナージ? ” 」
「いやいやいやお言葉ですが技術主任」
 何と言う説得力だ。気が付けばニナの言う事に誰もが耳を傾け、彼女の言う事が世界の理だと言わんばかりの表情で皆この理不尽を受け入れようとしている。彼女の説得に対して未だに疑いの目を向けているのはジムのC整備と言う罰ゲームを課せられたアストナージとジェスだけだ、それもその筈二人にはそんな余計な作業を請け負えるだけの心と体の余裕がない。
「ダメダメーな奴にダメダメ―って言うのは当たり前の事っしょ? それにデータ採りって『クラッシャーズ』の何を採ろうって言うんです、時間単位での部品損耗率ならこの基地始まって以来のキャリアハイを更新するに決まってる」
「 ” 『クラッシャーズ』言うなッ! ” 」
「うっせ、伍長っ! …… それにこんな状態のザクで演習に参加して本人達は納得して負けても後始末する俺達はどうなンです? 負けて上手くなンのは金持ちの道楽だけでいつも必ず還って来るのは山の様な請求書の束っスよ? 隊長だってそんな書類を司令の元へと持ってくのはヤでしょうよ」
「 ” 覚悟の上だ、アストナージ ” 」

 声と共にハンガーの奥で待機していたゲルググの目に灯が燈った。融合炉の出力がミリタリーラインを越えた所でキースの乗ったその機体はゆっくりとケージから背を離す、壁際へと手を伸ばした彼は一本の模擬戦用サーベルを手に取ると背中のハードポイントへと固定した。
「 ” 今日の所は初めてだからハンデをつける。軍曹と伍長はいつも通りのA装備、俺はこれ一本でいい。中近距離と白兵戦ならば無茶な機動を試みて致命的な損傷を被る事は少ない筈だ ” 」
「 ―― もういっその事隊長お得意の遠距離射撃、一発終了で今日の所は手ぇ打ちませんか? とにかく奴らがあの機体を動かすだけでもこちとらひやひやモンですゼ、ましてや走ってこけたりなんかすりゃあもう目も当てらンねえ」
 重量のあるモビルスーツが転倒すればそれだけでも各パーツへとかなりのストレスが掛かる。それを防ぐ為のオートバランサーを使わないなんて先祖がえりもいい所だ、進化する科学の恩恵から派生する利便を否定する事はアストナージのポリシーには無い。て言うか何でわざわざそんな事ッ!? 
「 ” そう言う修羅場を君は潜り抜けてここにいる、この事態をただならぬ事と感じている君の危機管理能力はやはり他の者より秀いでている。ならばそれをこの機会にもう一度全員でおさらいしておく事もアリなんじゃないのか? ” 」
「いや、それナシ。もうお腹いっぱい」
 呟くアストナージの横へと迫ったキースのゲルググは赤い単眼だけをバケットへと振り向けてゆっくりと通り過ぎる、それは既にハンガーの出口へと到達している二機のザクとは対照的だ。一向に自分の意見を聞き入れない ―― 聞き入れる気が、多分ない ―― キースのゲルググを歯ぎしりしながら見上げるアストナージに向かって、いつの間にかすぐ下への台座へと腰を降ろしていたジェスが言った。
「 ―― こりゃダメだわ。もう諦めようアストナージ、皆さんやる気マンマンだもん」

 じりじりと照りつける日差しがほんの少し天頂を行き過ぎて僅かな影を基地にもたらす、ビーチパラソルを片手にハンガーの屋根へとよじ登った整備士の一人が手にした双眼鏡に目を押し当てたまま突然大声で叫んだ。
「先任、帰って来ました! シャーリー帰投! 」
「状況を確認しろ! 機影は何機だ!? 」
 胸の前に腕を組んだアストナージの人差し指が事態の進捗を急く様に小刻みに動き、あみだに被った作業帽の庇で影になった両目がこれから自分に降りかかる事態を予感して目尻を細める。仁王立ちになって見張りの報告を黙って待つアストナージと打って変わって、その背後へと集まった残りの整備士達は思い思いの方法で準備体操を始めている。色々な機械が醸し出す微かな騒音の他には何も聞こえない沈黙を破る様に、屋根の上で双眼鏡に映る映像を凝視していた男はおもむろにそれを目から離して報告した。
「 ―― 一機確認っ! モビルスーツ回収車ドラゴンワゴンに随伴して来ます。繰り返します、機影は一機っ。隊長のゲルググです! 」
 途端に湧き起こる様々な声、だがそこには失望や憤りに似た毛色の物が無かった。むしろこれから戦いに挑もうとする戦士達が自らを鼓舞しようとする息吹に似ている、とその光景をモウラと共に視界に収めているニナは思った。ふと隣に立つモウラの方へと視線を送ると、モウラは両腕を胸の前で組んだまま満足そうな笑みを浮かべている。
「いよおおっっし! 聞いたか手前らっ!? 」
 腰に手を当て踵を返したアストナージが腹の底から大声を出して全員へと向き直った。帽子の庇を摘まんで後ろ前に被り直した彼は親指で背後の地平を指さしながら言った。
「我が麗しのモビルスーツ隊の皆様は今日も我等に思わぬお仕事をお恵み下すッた! これも自らのスキルを高めるいい機会として真摯に受け止めて奮励努力する様に! いいか!? 」
 呼応する様に上がる鬨の声にニナは目を丸くした。それと同時にこれと同じ光景と雰囲気を憶えている。
「 …… あの頃を思い出すだろ、ニナ? 」
 耳元でそっとささやくモウラの言葉にニナは小さく頷いた。モウラを筆頭にデラーズ紛争を戦い抜いたアルビオンの整備士達、どこでどうしているのかすらももう知る事は出来ないが彼らも同じ様に自らを奮い立たせて五機のモビルスーツの整備に臨んだ。あの日を彷彿とさせる光景が、今自分の目の前にある。
 思い出と呼ぶにはあまりにも苛烈で、しかし鮮明に刻まれた記憶はニナの心を湧き立たせる。自分がこの世界でしか生きられない人種だと心の底から思うのは、現場で戦う彼らと接しながらその琴線に触れて興奮を覚える時だった。

「二手に分かれて整備を行う、隊長のゲルググアグレッサーはケージに固定したら速やかに各部の機能チェックと補給を行ってそのまま待機状態スクランブルにまで持っていけ。その後こちらを手伝ってくれ。 ―― ジェスっ! 」
はい副長アイ・サー
 軽く敬礼を返すジェスの顔を真剣な表情で睨んだアストナージが、びっくりするほど厳しい口調で彼女に言った。
「お前はアデリア機を担当しろ、夕飯までには補給込みで必ず機体をロールアウトさせるんだ」
「夕食までに? あと六時間もないじゃん、ちょっと厳しいかも」
「やりもしないで愚痴ってんじゃねえ、戦場本番だったらこんなモンじゃ済まねえぞ? 損傷した機体を一刻も早く最低限の稼働状態に持ってかないとこっちが殺られンだ、ここがその最前線で今が戦闘宙域の真っ只中だと思って作業にかかれ。大事な武器を壊してのこのこ帰ってきた『クラッシャーズダメダメさん』達に『オークリー最速』の腕前を見せてやンな」
 不思議そうな顔でアストナージを見ていたジェスの顔が『オークリー最速』の言葉を聞いて綻んだ。踵を揃えて見事な敬礼を施した彼女の片目が軽やかに閉じる。
了解アイ、では夕飯までには必ずやアデリア機をロールアウトしてご覧にいれます。 …… やってやろうジャン? 」

 短い赤毛を日の光に煌めかせて脱兎のごとく駆け出すジェスの後ろ姿を尻目に、モウラはある事に気がついた。同じ様に彼女の背中へと視線を送るアストナージへ近づくと、自分の目線の下にある彼の背中越しに声を掛けた。
「そう言やアストナージ、班を二つに分けてもう一機の機体の整備は一体どうするつもりなんだい? まさかあんた一人でマークスの機体を ―― ? 」
「まさか」
 軽く笑うとアストナージは何かを想像する様に自分の足元へと視線を落として、そのまま目を閉じた。
「 …… 多分俺の予想ではアデリアよりマークスの機体の方がなまじ動けてる分だけ損傷は激しい筈です。ジェスにはまだ荷が重いでしょう」
「ふーん、あたしの予想も同じ。で、それが分かってて ―― 何で? 」
「マークスの機体には二人で当たります。俺と ―― 」
 アストナージの目が開いて意味深な瞳がモウラへと向けられる。すでに彼の意図を悟っていたモウラは繋ぎの袖を捲くりながら笑った。
「あたしも数に入れてたか。 ―― OKアストナージ、じゃあ久々に実戦を潜り抜けた整備士の腕前とやらを、ぴよぴよやかましいひよっ子共に拝ませてやるとするか」
 アストナージの直ぐ傍を颯爽と通り過ぎるモウラの足取りは軽い。意気揚々とハンガーに足を踏み入れる二人の姿を見た他の整備士は、久し振りに見るその光景に目を ―― オークリー最速と謳われたジェスですら ―― 見張った。年季の入った愛用の工具箱をぶら下げてマークスの機体へと歩み寄る二人に向かって羨望と喝采の拍手が巻き起こる、高所作業車のバケットに自分の道具を置いたモウラは工具を一纏めにしたホルスターを腰に回しながら尋ねた。
「さて、アストナージ。 …… ジェスには晩飯までに仕上げろって言ったんだ、あたし達はどうする? 」
 ケブラー製の作業用手袋に手を通しながらモウラの片腕は宙をぼんやりと見詰めて暫し考え込む。やがて何かに閃くとモウラに向かってニヤリと笑った。
「そうですね、ひよっ子どもが晩飯なら、俺達は …… 日没までに」
「上等! 」
 掛け声と共に交わされるハイタッチは号砲のようにハンガーを駆け抜ける、その合図を待っていた整備士達は我先に目の前の獲物へと飛び付いた。

 二人にとっては初めて見る光景だった。
 唸りを上げて天井を行き交うホイストクレーンはただの一時もその動きを止める事無く、次々に運ばれて来る予備パーツの木箱はザクの足元へと次々に積み上げられてバールで蓋を引き剥がされる。アセチレンの青い火と切り飛ばされる金属の悲鳴、セラミックグローブの焦げる臭いと機体の足元から立ち上る猛烈な水蒸気。自分の愛機があっという間にばらばらにされていく様子を目の当たりにした二人は普段とは全く雰囲気の違う整備班の気迫に気圧されて、ハンガーの片隅に腰かけて息を潜めた。
「ねえ、なんか …… すごくない? 」
 話しかけるアデリアの声も耳に入らないほどマークスは初めて見る整備班の動きに眼を奪われている。アデリアの機体の膝から装甲が引き剥がされて、クの字に折れ曲がった油圧シリンダーがアセチレンで一気に切り飛ばされる。基部に仕込まれた二個の駆動用モーターは耐熱手袋をはめた整備士の手で直に引き抜かれ、切断したばかりのモーターを握る手から煙とセラミックファイバーの焦げる匂いが上がった。耐熱仕様とは言え掌に伝わる猛烈な熱さに顔を顰めながら、しかしその整備士はそれでも間髪いれずにその廃品を足元の容器に投げ落とす。
水を湛えた容器に落ちたモーターから致命的なクラック音が鳴り響いた。
「こういうのを見るのは初めてだろうな、お前達には」
 呆然と見守る二人の背後でキースの声がした。戦場と化したハンガーには当然キースの居場所も無い、作業の邪魔にならないようにと気を使う部外者の居る場所はどうやら二人の居場所と同じ所に落ち着いてしまうようだ。二人は同時に背後へと目配せすると再び全てを見逃すまいと目の前の作業へと集中した。それはまるでお気に入りの映画のワンシーンすら見逃すまいとする観客の様だ。
「これが『U整備』状態シフト …… 何て早さだ」
 緊急整備アージェントメンテ ―― 通称『U整備』。戦闘中の艦船に帰還したモビルスーツを最短で補修・補給を完了して再び戦域へと送り出す為の、整備士の間では裏メニューとも言える整備方法だ。当然訓練等で身に付く代物ではなくおよそ一年戦争を生き延びた一握りの整備クルーのみに許される、経験のみが物を言う禁じ手に当たる。
 マニュアルや工程・手順段取り等を一切無視してどんなに損傷した機体でも一応の稼働領域まで持っていく、その為にはどんな手段もお構いなし。純粋に速度だけを追求した整備手段を目の当たりにしたアデリアとマークスが呆然としてしまうのも無理はない。再生利用リビルドなど全く考えない破損部品の扱いは自分達の所属するオークリーの常識では考えられない物だった。
「うちの整備班にこんな特技があったなんて知らなかった。あたしなんか『構造理論』の時間に教官の口から出た噂話でしか知らないもん。みんな普段はのんびり作業してるのに ―― 」
「おい、そんなの整備班みんなの耳に入ったら明日から看てもらえなくなるぞ」
 小さな声で隣のアデリアに耳打ちするマークス、驚いたのかそれともくすぐったかったのか肩をすくめたアデリアの背中越しにキースが言った。
「ここのトップは二人とも一年戦争の生き残りだからな、状況に応じて様々な整備手段を教えておく事は上官としてはごく当たり前の事だ。 …… しかし、まあこの整備班の姿を見る限りでは二人の指導方針と教わる側の習得状況はすこぶる良好と言えそうだ」
「確かにこれならば誰がどこの部隊に出向しても引けを取らない。 …… 今まで回って来たどの基地でもU整備を行う事の出来る整備クルー等見た事も聞いた事もない」

「さて、整備班の実力の程は二人にもよーく理解できたと思う。上官の指導が行き届いている部隊がどれだけ立派に働くかと言う事もな」
 エンドロールと呼ぶにはあまりに無粋で高圧的なキースの言葉は二人を観客席から退場させるには十分だった。椅子代わりに使っていた木箱の上でビクッと首を竦めたまま凍りつく二人の背中に向かって、キースは人の悪い笑みを浮かべた。
「 ―― で、ここからが本題だ。その有能な整備班のご利益にあやかった俺のモビルスーツ部隊のお二人さんは今日の演習で何を身につけたのかな? 貴重なモビルスーツを二機も行動不能にしたんだ、それに値する十分な見返りを期待してもいいんだよな、俺は? 」
 後ろめたい気持ちでいっぱいの二人が恐る恐る後ろを振り返ると、腕を腰に当てて少し前屈みで二人の顔を覗き込むキースと目が合ってしまった。反射的に跳ねあがった二人が同時に見事な敬礼をキースに向かって披露する。
「もっ、もちろんであります。マニュアル制御下での戦闘を許可していただいた事によって得た貴重な経験を無駄にするなんてとんでもない! 自分達の我儘につきあっていただいた隊長や整備班の方々、それに許可して頂いた技術主任殿に対しては感謝の言葉もありません」
 少なくともこれだけ動揺した中でよくも心にもない事をペラペラと喋れるモンだと、マークスの台詞を耳にしながらアデリアは上ずったその横顔をチラリと見た。
「そうだな、そうでなくては今日の罰ゲームを見逃してやった意味がなくなる」
 意味深な笑顔で二人の顔を交互に見やるキースとは対照的に緊張を隠せないまま敬礼を解かない二人がいる。蛇に睨まれた蛙の様に固まった二人に向かってキースが言った。
「今日の所はお前達の覚悟に免じて強制的な講義の時間は免除にしよう、その代わり今日行った演習で得た自分達の課題を復習して次の機会へと繋げる様に。 ―― 今度は今日の様に模擬戦用のサーベル一本とはいかないぞ、心しておけ。」
「あ、ありがとうございますっ! 」
 何かの呪縛が解けたかのように小さく跳ねて頭を下げるマークス、しかしその隣で同じ様に喜んでいる筈のアデリアは緊張の顔色に加えて不信感を浮かべたまま掲げた手を降ろした。
「あの、隊長? 」
 小首を傾げてキースの顔をしげしげと眺めながら眉をひそめるアデリア。ん? と目を向けたキースに彼女は尋ねた。
「今日の課題とお聞きしましたが、私達 ―― いえ、特に私なんですが今日の演習ではひっくり返ってばかりでまともに隊長と噛み合ってないンですけど。一体何が課題で何が課題でないのかも分からない私はどの様に今日の課題を復習すれば ―― 」
「ああ、その点なら心配するな」
 シューティンググラスを外したキースの目はとても優しい、しかしそれを見た二人の身体には再び硬直が始まった。経験上彼がこういう目をした時には決まってとんでもない事を口走るのが定番なのだ、投げかけるその目が優しければ優しいほど。
「次の機会は来週だ、それまでに二人は考えられるだけのありとあらゆる手段を使って今日の課題を克服しておけ。もちろん ―― と言うか当然技術主任の助けを借りて、というのもアリ、だ」
 考えられるだけ? キースに引かれた一本道を迂回して辿り着こうにも迷子になってしまうだけではないか。
 やっぱりと言う想いと共に昨晩の講義内容を思い出して思わずげんなりする二人の表情をみかねたキースが苦笑しながら二人を叱った。
「こら、そんな顔するんじゃない。普通の基地でこんな事仕出かしたらすぐ営倉にブチ込まれる所だ、俺達が出かけた後に渋い顔で中止を命じている指令を解き伏せてくれた技術主任と整備班長に心から感謝するんだな」

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「ちょっとチェン。それどういう意味? 」
 あからさまに不満を口にするアデリアに向かってチェンは向かいの席からLサイズのスムージーを差し出した。周辺に町どころか民家の欠片もないオークリーでは、仕事が終わってから繰り出すべき場所がない。勢いその不満は基地の運営方法へと向けられる事となり、糧秣を一手に担う兵站科に属するコックたちは自主的に夕食から消灯までの間だけ解放されたロビーに軽食を提供する事になっていた。かと言ってそこで出されるメニューには一切の妥協が無く、簡単なサンドイッチからコーヒーに至るまで微に入り際に至る気遣いが為されていた。アデリアの手にしたスムージーも
手作りのジェラートに思い切り空気を混ぜ込んだもので、これが彼女の一番のお気に入りだ。
 消灯間際のロビーにはさすがに人影が少ない。チェンを呼び出した二人はそれでも出来るだけ人の目に触れない角の一角に陣取って秘密の会合を行う事にしていた。受け取ったカップの蓋にストローを刺して中身を勢いよく吸い込むだけで仄かなバニラの香りが漂い始める。
「どういう意味って …… 今僕が言ったまんま伍長の軍人としてのキャリアは予備役から始まってるって事さ。0084年4月に当基地に予備役として登録、入隊時に受けた身体測定によると身長175センチ・体重68キロ・瞳の色は黒。視力は右1.5左は2.0。健康診断の評定はA ―― つまりどこにも障害が見受けられないという事。その他の経歴・経類は不詳、前歴不明。 …… これが人事部のアーカイブに保管されているコウ・ウラキ予備役伍長の全データさ、他には何も無い」
「嘘だ、第一彼はここにいたってみんなが知ってるじゃないか。それに民間人からいきなり予備役に登録されるなんてまるで徴兵制だ、そんな事例聞いた事もない。 ―― 大体予備役兵が何のトライアルも受けずにいきなり機動兵徽章ウィングマークをつけることができるなんて」
 思わず身を乗り出したマークスの肘に自分のコーヒーカップが当たって大きく揺れる、慌てて掴んだ彼に向かってチェンは微笑みながら自分のジャスミン茶に口をつけた。
「そうですね。ですが確かに記録上では入隊と同時にパイロットとして登録されています、そしてパイロットとして採用される為には欠かせない筈の適性検査の記録すら残ってない。 ―― 要するにウラキ伍長はどういう訳かこの基地に居たという事実を抹消されて、今や軍ではなかなか見つける事の出来ない天才肌の素人パイロットとして予備役に登録されたと言う事になります。眉唾もいいとこですけどね」
「今や? じゃあ前はいくらでもいたって事? 」
「そう言う過程を経て機動兵器を扱った人は他にもいるって事さ。例えば一年戦争で最初のガンダムに乗って活躍したアムロ・レイ曹長とか」
「一人だけじゃん、それにそれこそ眉唾よ。予知能力を使って敵をばったばったとなぎ倒したって、中国のお昔の話じゃあるまいし」
 確かに、とチェンはにっこりと笑ってアデリアを見た。チェンという名前と顔立ちからも分かる様に、連邦の発足と共に消滅してしまった中国と言う国名は彼の出自に大きく関わっているのだろう。ぶしつけな物言いでそれを揶揄するアデリアに対しても何の蟠りも持たずに笑いかけて来る所に、マークスは彼の芯の強さを感じた。
「まあ、とにかくこれ以上はどうしようもない。尉官クラスのアクセス権限ではこれが限界、ここから先へは佐官以上のパーソナルコードが必要になる。ここで佐官といえば司令とドクしかいないからハッキングした事が表沙汰になる可能性は大、いくらなんでも自分で自分の首を絞める様な真似は出来ないよ」
「そっかあ、だめかあ …… あんたが出来ないんじゃあこの基地で他にそんな事が出来る人はいないわよねえ」
「僕の他に出来そうな人といえば、一人いるけど」
「誰よ、それ? 」
「技術主任」

 それを調べる為にあんたに頼んだのよ、と言いたくなる気持ちをぐっと堪えてアデリアは再びスムージーに口をつけた。口の中に広がる甘い香りと心の中に広がる苦い気持ちが混ざり合って、それは彼女の愛らしい顔を複雑に曇らせる。奇妙なアデリアの表情を黙って見つめていたチェンは、おもむろに自分のラップトップをテーブルの上へと置いた。
「じゃあ上手くいかなかった罪滅ぼしと言っちゃあなんだけど、ここで君に耳寄りな情報があるんだ。きっと興味があると思うんだけど」
「 …… 何よ、どうせまたモデルの仕事か何か? ―― 今ンとこ手がすいてるからやってあげてもいいけど、それなりの条件は持って来てよね。ここの安月給じゃそれ用の服も買えない ―― 」
 そこまで口走ってアデリアははたとマークスがいる事に気がついた。横目でそっと視線を送るアデリアとマークスの視線が同時に交差して、その瞬間に昨日の記憶が蘇った。真っ赤になった顔を見られない様に下を向いたアデリアがしどろもどろの口調でチェンに言った。
「あ、や、やっぱいい、あたしもうやンない。 …… ご、ごめんチェン。ほんとにもう ―― 」
「違うよ」
 穏やかにアデリアの予想を否定したチェンはラップトップを起動させるとくるりと回して液晶を二人の側へと向けた。既にブックマークがされていたと思われるそのサイトはかなりチープな作りで、どこをどう見ても個人が立ち上げたとしか思えないデザインだった。
「? …… 何、これ? 」
 ぱちぱちと瞬きしながら覗きこむアデリアに釣られてマークスも隣から身を乗り出す、肩に当てられた分厚い胸板の感触でアデリアの顔に再び血が上った。世間知らずの小娘の様な衝動を心の中で罵倒しながら、それでも抑え切れない高鳴りに困惑しているアデリアに代わってマークスが尋ねた。
「『貴方の知らない宇宙の裏側・真実はどこかに隠されている』 …… 都市伝説か何かのサイトかい? 」
「まあその類です、ただしこれは大手に登録されている物ではなくてかなりディープな ―― アフリカで細々と運営されている小規模のプロバイダが管理しているホームページの一つです。伍長のデータを調べている間に、ほんの暇つぶしに、ね」
 そう言うとチェンはすっと手を伸ばしてキーを押した。画面はすぐに切り替わって溢れんばかりの文字であっという間に埋め尽くされた。
「伍長の足跡がネットのどこかに残ってないかと思って一斉に検索をかけたんです。まあ、それは見事に ―― 幼稚園から士官学校に至るまで合致した場所がなかったんですがただ一つ、このサイトだけに同じ名前がありました。違う形ではありますが」
 チェンの言葉を耳にしながらマークスは、手を両膝に置いて固まったままのアデリアを置き去りにしたまま画面へと目を走らせる、やがてその口がぽつりと言葉を呟いた。
「 …… 『浦城 航』 ―― これ、なんて読むんだ?」
「『うらき わたる』。前後はしていますが文中での彼の出自を考えるとその読み方が正しい、今の呼び方は連邦公用語に準拠していますからね。その名を持つ彼がこの物語の主人公です」

 時折見せるマークスの異常なまでの集中力がほんとに憎たらしい。あたしがこんなにドキドキしてるってのにあんたは何とも思わないの!? 
 羞恥を怒りへとやっと置き換える事の出来たアデリアが、マークスと同じ目線で液晶を眺める。無理やり焦点を合わせた先で時折スクロールを繰り返す文字の羅列を一通り読みこんだ後に、彼女はぼそりと抗議した。
「 …… チェン、ひょっとしてこれはあたしに対する何かの当てつけ? 別にあたしだっていっつもファッション雑誌ばっかり読み漁ってる訳じゃないんだけど」
「 ―― 『ニナ』」
「え? 」
 マークスの呟きにアデリアが声を潜めて画面に見入った。彼が見つめているその先には確かに『nina』の文字がそこかしこに踊っている。
「恐らくヒロインはロシア人なので読み方は『ニーナ』でしょう、ですが綴りはどちらも『nina』。技術主任と同じです」
「偶然の一致、にしては出来過ぎてる、か ―― チェン、この話のあらすじは?」
「舞台は一年戦争終了後の地球。オーストラリアで開発中だったガンダム試作機をジオンの残党が奪って、それを連邦軍が追うという話です。最終的には彼らは二度目のコロニー落しに成功する訳なんですが、恐ろしい事にそのコロニーの名は『アイランド・イーズ』。 ―― どうです? 」
「実名を使って私小説書くなんてよくある手じゃん。それにアレは移送中の事故で間違って地球に落っこっちゃったンでしょ? 話の締めとしちゃ上手だと思うけど ―― 」
 言い返すアデリアの声を柳に風と受け流すチェンと馬耳東風のマークス、主張が聞き入れられない事にちょっと腹が立つアデリアではあったがマークスの邪魔をしない様にそっと言葉を押し殺す。
「で、面白いのはここからです。この話の中に出てくる三機のガンダムがとんでもない代物でして、最初に主人公の乗るガンダムはともかく奪われたガンダムは核装備。そして最後に出てくるガンダムに到ってはモビルアーマークラスと言うから書いた作者もなかなか面白い発想を持ってる。最後には全部なくなっちゃいますけど」
「へえ、歴史の影に消えたガンダムかぁ …… 面白そうな話だな、今度俺も全部通して読んでみようかな」
「男の子って好きよね、そういうの。あたしはあんまり興味ないけど」
 男二人の世界から見事なまでに一線を引いたアデリアが手の中のスムージーを一気に吸い切る。不機嫌を露わにした彼女に向かってチェンは宥める様に言った。
「偶然と言えば確かに偶然と言えるかもしれないけど小説としてはかなり面白い部類に入ると思うよ。それに主人公のライバルの名前がジオンの将校の実名だって所も驚くし」
「実名? 主人公やヒロインの名前は架空でそれだけが実名なのかい? 一体どんな有名人 ―― 」
「 ―― アナベル・ガトー」
 その名を聞いた二人の動きがぴたりと止まった。目を大きく見開いてチェンにもう一度その名を告げる様に暗に促す。
「そう。戦術教本にも必ずその名が残されているジオンのトップエース、アナベル・ガトー。 …… 『ソロモンの悪夢』その人の名前です」

 時が止まったような沈黙の後、それを一気に振り払ったのは硬直の解けた二人の大きな笑い声だった。踊る様に身体をくねらせて机を叩くアデリアと天を仰いで腹の底に溜まった愉快を一気に吐き出すマークス。
「あはははっ! チェン、それは無い、それは無いって! 」
「いや、全くだ。いくらなんでも敵の名前にあの撃墜王の名前を使うなんてどうかしてる、せっかくのリアルが台無しじゃないか。何をどう考えたってあのアナベル・ガトーと戦って生き残ったパイロットがいる事自体がすでに、もう」
 笑い転げる二人の姿を目の前にして、チェンは半ばあきらめ顔で笑って両手を軽く差し上げた。
「まあ、このサイトに書かれている物自体がかなりのトンデモ話ばかりですからね。例えば一年戦争でジオンの実質的指導者の立場にあったギレン・ザビ総帥が未だに生存して再びジオン勃興を目指しているとか、実は暗殺されたジオン大公の子供達が生きているとか。この作者には申し訳ないけど、まあ何と言うか『蛇足』ってやつかナ? 」
 目の前の二人に同調するチェン、だが笑いの渦に翻弄されていたマークスはその時彼の目に浮かんだ不思議な光に目を奪われて笑うのを止めた。
「 ―― どうした、チェン? 」
 チェンに尋ねるマークスを見てアデリアも笑うのを止めた。笑顔の余波を残したマークスに向かってチェンは眼鏡の蔓を指で押し上げながら、少し皮肉めいた頬笑みを浮かべながら答えた。
「私の国に伝わる兵法の一つに『偽兵の計』と言うのがありましてね。実際の兵数を敵から隠す為に多くの旗を立ててその目を欺くと言う物です。これだけ眉唾物の噂話が数多くあるとその中にあるたった一つの真実も嘘に見えてしまう、そんな可能性はないのかなあ、と」
「トールキンかい? 『木は森に隠せ』って言う。 …… でも残念ながらそんな事はありえない、特にガトーの名前が出てしまったんじゃね。彼はア・バオア・クーで戦死している」
「 …… 『木を見て森を見ず』。やっぱり全体的にこのサイトの信憑性を考えるべきなのかなぁ …… 何だ、やっぱり都市伝説は伝説のままって事か」
 残念そうに上を見上げて呟くチェンをアデリアがニヤニヤしながら眺めている。どうやら昨日の夜の出来事を彼女はかなり根に持っているらしく、久々にみるその表情にかなりご満悦の様子だ。
「ま、でもなかなか面白かったわよ、チェン。あたしにしてみればあんたのそんな残念そうな顔初めて見たんだし、マークスに感謝しなきゃ。読む気はこれっぽっちもないケドね」
 してやったりの声にチェンが顔を戻してアデリアを見た。テーブルの上に置いた両肘で支えた掌がアデリアの両頬を包む、まるでアイドルのプロマイドの様なポーズでニコニコと微笑む彼女につられてチェンの顔にもいつもの穏やかさが戻っていた。
「形はどうあれ君に気に入ってもらえたのなら、まあ良しとしよう。 …… あ、もうこんな時間か。」
 チェンの声でマークスは自分の腕時計を覗きこむ。父から手渡されたイタリア製の軍用時計は今まさに夜の9時を指そうとしている、顔を上げて遠くを見ると調理場の食器返却口のカウンターで誰かがこちら側を一生懸命覗き込んでいるのが見えた。
「じゃあ、ご依頼の件については以上と言う事で。また何かこういう事で困った事があったらいつでも声をかけて下さい」
「ええもちろん。今日のミスは貸しにしておくからできるだけ早く返してね、当てにしてるから」

 ラップトップを小脇に抱えて出口へと向かうチェンの後ろ姿を眺めながら、マークスはさっきの彼の言葉がどうしても耳にこびり付いて離れなくなっていた。
 数多くある偽物の中に紛れ込んだたった一つの真実、もしそんな物が本当にあるのだとしたらそれはどういう意図を持って隠された物なんだろう? 確かに途中までしか読んではいないがあの小説は実によく出来ていた、連邦軍の施設の概要から駐留している兵数。冒頭のモビルスーツの模擬戦に至ってはパイロットでなければ書けない描写がほとんどを占めていた。もしガトーの名前が出て来なければあの小説は軍のレポートだと言われても何一つ疑わなかったかもしれない。
 それにウラキ伍長のデータの改ざんも気にかかる。チェンは伍長の事を今や伝説と化したまま姿を消した『アムロ・レイ曹長』に準えて、アデリアはそれを眉唾ものと一笑に付した。だがチェンの語ったこの話のあらすじによると主人公は少なくともコンセプトの違う二機のガンダム ―― それも一機はモビルアーマー ―― を操ってガトーと戦い続けた事になる。にわかには信じられないがもしあの話が森の中に隠された一本の小枝だったとしたらそれは真実と言う事になり、伍長の経歴改ざんも政府か軍の何らかの意図が絡んでいると言う事になる。
 そんな、ばかな。
 じゃあなぜそれだけの人材が予備役なんかでこんな最果ての地にくすぶってるんだ? 連邦の現状を考えればそういう稀有なスキルを携えた兵士はもれなく最前線へと投入されてしかるべきだ。一騎当千の兵を送り込むだけで敵の士気は消沈し味方の戦意は高揚する、噂でしか耳には出来ないがここから遠く離れた連邦の勢力境界線では未だに小競り合いが続いていると言うのだから。

「なーに難しい顔して考え込んでんのよ。ほら、あたし達も行くわよ」
 深刻な表情で座り込んだままのマークスの肩をアデリアがポンと叩いて立ち上がった。小気味のいい声と柔らかな肩への感触に我へと返ったマークスがアデリアの声を追いかけると、彼女は既に席を立って全員の分の空のコップをゴミ箱へと投げ込んでいる所だった。
「行く? …… ああ、そうだな。明日の非番はお前の買い物に付き合う約束だったからな、今晩は早く寝なくちゃ」 
「何言ってンの。どうせ寝るまでまだ時間あるんでしょ? だったらもう今からあたしに付き合いなさいよ」
 椅子から立ち上がろうとした瞬間に聞いたアデリアの言葉でマークスの心臓が大きく音を立てた。どぎまぎする心を悟られない様にそっとアデリアの顔を盗み見るマークスを尻目に、パンパンと手を叩いたアデリアがにっこりと笑った。
「あたし今 とっても気分がいいから、明日の非番を心置きなく過ごす為に課題を今日中に済ませる事にしたの、今決めた」
「え? 」
 自分の想像していた艶っぽい展開ではなく、それは普段のアデリアからは最もかけ離れた位置にある発想に驚いたマークスはぽかんと口を空けて彼女を見た。我ながら間抜けな顔だろうとは思うがそれ以外の表現方法を思い付かなかったマークスに向かってアデリアがむくれた。
「なによお。あたしだってたまにはそんな気になるんだから。 ―― さ、今からニナさんの所に行って課題をパパッと済ませちゃうわよ、あんたも一緒に」
「パパッとって …… い、いや俺はいいけどもうこんな時間だぜ? いくらなんでも消灯時間を過ぎてからって言うのは技術主任に失礼じゃないか? どうせなら復習しといて明日の夜にでも改めて訪ねた方が ―― 」
「はっはーん」
 いやな嗤いを浮かべて両腕を組んだアデリアが挑発する様にマークスを見下ろした。
「 ―― マークス、実は一人暮らしの女性の部屋にまだ入った事ないんだ? 」
「なっ、お前何を ―― 」
 図星を刺されて思わず立ち上がったマークスの口から出た言葉はそれだけ、あとは口をパクパクと開けるだけで何の言葉も浮かばない。男を翻弄する悪女の様ないやらしい笑みから普段通りの可愛らしい笑顔へと表情を変えたアデリアが胸の前で組んでいた両腕を解いてパン、と柏手を鳴らした。
「じゃあ、今日がそのいい機会じゃない? あたしがついてってあげるからこれも将来の勉強だと思って覗いておけば? ―― さあ、行こ? 」
 言うなりくるりと踵をしなやかに返してアデリアは出口へと歩き出す、肩より長い栗色の髪を颯爽と靡かせて歩く後姿には、そのスーツを身に纏っていなければパイロットだとは分からない位の可憐さがある。一瞬見とれたマークスではあったがすぐさまアデリアの言い残した言葉を思い返して我に返った。
「ちょ、ちょっとまてアデリア。お前が勉強しに行くんだろ? いつの間に俺が話の主役になってンだ? 」 

 アデリアの華奢な手が古ぼけた木の扉を軽くノックする、その音色は多分士官専用にしては控えめな広さの室内の隅々にまで届いた筈だ。だが訪問を告げるアデリアの所作に対しての返事はコトリともしなかった。
「? 変だなぁ、まだこの時間に寝てるって事はないと思うんだけど ―― 」
 呟きながらドアノブに伸ばした手をマークスが慌てて掴んだ。
「な、何? 」
 手の甲を包み込む温かくて固い感触にアデリアはびっくりしてマークスへと振り向いた。丁度夜間照明に切り替わったところで廊下の明かりは薄暗い、赤くなった顔色をマークスに気付かれなかった事に内心ほっとした。
「いやいやアデリア、返事が無いのに人の部屋に勝手に入るのはまずいだろう。技術主任だって疲れてもう寝ちゃってるのかも知れないし、そしたら俺にはハードルが高すぎる。今晩は諦めて明日、ちゃんと技術主任の予定を聞いてからだな ―― 」
「何言ってんのよ。せっかく出てきたこのあたしのやる気を今使わないでどう使うのよ。『今日出来る事を明日まで延ばすな』って言うでしょ? 」
「『明日できる事は今日するな』とも言うぜ? 」
 理屈では全く敵わない事は今更言うまでもない、説得と言う名の伝家の宝刀が抜かれる前にアデリアはお得意の実力行使へと訴える決意をした。マークスに掴まれたままの手でドアノブを掴んで試しに回してみる、もしそれが動かない ―― 施錠されている ―― のならば自分の貴重なやる気にも諦めが付く。その時はマークスの提案に大人しく従おうと考えていた。
「 …… 開いてる」
 滑る様に開いたドアの隙間から柔らかな明かりが漏れ出した。これ以上の阻止を諦めたマークスがアデリアの手をそっと離すと、彼女はそのままドアの隙間に顔を差し込んで小さな声で呼びかけた。
「ニナさーん、いますぅ? …… あれ、やっぱいないなぁ …… どこ行ったんだろ? 」
「これが、技術主任の、部屋って …… 何もないじゃないか。アデリア、本当にここがニナさんの部屋なのか? 」

 身体を捻じ込んで中へと押し入るアデリアの行儀の悪さに眉を顰めながら、マークスは小さな声で自分の姓名と階級を口走ってからドアノブに手をかけた。大きく開いたドアから狭い室内の様子が見渡せる、だがその余りもの殺風景さに彼は思わず先陣を切ったアデリアの背中に尋ねた。
「お前、誰かと部屋間違えてないか? 女の子の部屋なんか妹のしか見た事ないけど ―― まるでここに来たばっかりの人の部屋みたいじゃないか。下手したら俺の部屋より何にもないぞ、ここ」
「ううん、でもここがニナさんの部屋だよ。あたしは今日で二回目 …… 前に来た時と変わんないなあ、やっぱなんもない」
 アデリアの手が女性士官の部屋だけに置かれたドレッサーの上にある口紅を取り上げた。根元を廻して押し出される中身をちらりと確認すると、小さな溜息を洩らした。
「 …… せっかく買って来たロゴナのグロスも手付かずかぁ、似合うと思ってたのに。あたしは結構気に入ってるんだけどなぁ」
 呟きながらキャップを閉めて元の位置に立てる、金色のキャップが仄かな明かりを受けてマークスの目を引きつけた。じっとその場に佇んで肩を落としているアデリアに向かって彼は尋ねた。
「明日の買い物の目的ってその事だったのか。 …… 二ナさんへのお土産を買うために俺をサリナスに誘ったのか? 」
「あ …… うん」
 何かを諦めた様に振り返って顔を上げたアデリアの表情には、マークスが今まで見た事もない悲しさが漂っていた。思わず声を失ってじっと見つめたままのマークスに向かって、アデリアは小さく笑った。
「気付いてた? ニナさんって、あたし達がここに来てから一度も笑った事がないんだよ? 」

 アデリアから語られた事実に思い当たったマークスの表情がそれで変わった。自分達がどんなヘマをしても、そして誰かがどんなに面白い事をしでかしても彼女はシニカルな笑みを浮かべるだけですぐに元の表情へと戻ってしまう。マークスの中にある『ニナ・パープルトン』と言う人間像は人が絶対に持ち合わせていなくてはならない感情の中から『喜』の部分だけを切り取った、そんな存在だった。
「あたしね、四つ上のお姉ちゃんがいたんだ、丁度ニナさんと同い年の。だから何となくかな、ニナさんがあたしのお姉ちゃんみたいに思えて ―― 」
「『いた』? 」
 人類の半数を失った一年戦争の後で自分の身内の事を話す際によく使われる『過去形』だがそれをアデリアが口にした事がマークスにとっては意外だった。感情豊かで朗らかで、いるだけでその場の雰囲気が華やぐ彼女の身辺にそんな不幸が存在しているとは考えられなかったからだ。二つ名が付いた事件の事を差っ引いたとしても。
「一年戦争で死んじゃった。 …… お姉ちゃんも軍にいてね、戦艦のオペレーターをしてたんだ。あたしお姉ちゃんと一緒の戦艦に乗って一度でいいから送り出してもらうのが夢だった、だからモビルスーツパイロットになろうと思ったんだけど丁度士官学校に入学が決まった頃にソロモンでね ―― 」
 少し俯いて訥々と語られる彼女の身の上話はマークスにとっては初めての事だ、辛い過去を振り返る彼女の負担が少しでも少なくなるようにとマークスはじっと口を噤んで彼女の表情へと視線を注ぐ。
「お姉ちゃんもね、あたしには厳しかったんだ」顔を上げて悲しみを振り払う様にけなげに笑う彼女にドキリとする。
「ほら、あたしってほっとくととんでもない事するじゃない? …… 小っちゃい時からね、あたしが何か悪い事すると真っ先にお姉ちゃんが飛んできてものっすごく怒るの。あたしはお姉ちゃんに嫌われたと思って、辛くて、悲しくてそのたんびに泣いてた。そしたらね ―― 」
 アデリアの両腕が自分の身体を抱きしめた。思い出の中に残る懐かしくて切ないその感触を味わう様に言葉を閉じた後、彼女はそっと目を閉じた。重なる長い睫毛が優しく煌めく。
「 ―― こうやって抱きしめてくれて、それで耳元で囁くの。『ばかね。私があなたの事を嫌いになる訳が無いじゃない。あなたは私のたった一人の妹なんだから』って。その言葉が嬉しくて思わずお姉ちゃんの顔をみると、いつもお姉ちゃんは笑ってた。 …… こうやって目をつぶるとね ―― 」
「 …… だからウラキ伍長の事が許せないのか? ニナさんから笑顔を奪った原因かも知れない、彼の事を」

 マークスの問い掛けにアデリアからの是非はない、しかし彼女のコウへの敵対心の理由の中にそれが含まれている事は明らかだった。無言になった二人の空気を動きっぱなしのエアコンの騒音が緩やかにかき混ぜ、その可憐な唇から小さな溜息を一つ洩らしたアデリアが気を取り直した様に言った。
「あたしね」そう告げる彼女の瞳が潤んでいるのが分かる。今にも零れ落ちてしまいそうな涙は彼女の睫毛に溜まって、滴のままで留まったままだ。
「あたしの周りの人にはみんな笑ってて欲しいんだ。 …… あの戦争で悲しい思いをしなかった人はあたしの周りには一人もいなかった、だからせめて生き残ったあたし達だけでも楽しく生きなきゃ死んだ人達がかわいそうじゃない? だからニナさんみたく笑えなくなった人を見ると、ついね」
「ベルファストの時もそうだったのか? 」
「そうかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。 …… 実を言うとね、あの時の事あたしあんまり覚えてないんだ。あの子が泣いてて事情を聴いて、あの男の所へ言った時に他の連中に襲われかけてそれからはもう何が何だか。気が付いたらあたし、その子に止められてた。 …… その子ね、そんな目に遭ってもその男の事大好きだったんだよ」
 その事を告げるのはアデリアにとっては傷を抉りだすに等しい行為だった。胸の奥に秘めた記憶の痛みに苛まれた彼女の顔が苦痛にゆがんだ。
「今考えるとね、本当はあの男が憎くてあんな事をしたのじゃないのかも知れない。あの子が乱暴された事は絶対に許せないけど、それよりもあの子の気持が裏切られた事の方に腹が立ったのよ。 …… あの子の目がおかしい訳じゃない、本当はあの男も元はそんな事をする筈のない良い人だったのかも知れない。でもみんな戦争が変えちゃった」
 ぽろりと零れた一滴の涙が床に小さな染みを作った。瞬きもせずにマークスを見つめたアデリアが、小さな声で自分の中にある戦う理由を口にした。
「 ―― 戦争が、憎い」

 互いの瞳を通じて何かを共有する事の心地よさにマークスは酔っていた。アデリアの心の叫びがマークスの心へと伝わってそれは仄かな熱に変わる。愛情とか好意とか、言葉に出来る感覚では無い絶対的な価値観はそれ自体が確かな絆となって二人の心を結びつけた。マークスの異色の両目に点った熱情にアデリアは驚き、そして我に返った。
「あ、ご、ごめんね。こんな話、ちっとも面白くなかったでしょ? な、なんであたしこんな話しちゃったんだろ、それも人の部屋でだよ? ほーんとあたしってだめだなあ、ちょっと自分の気分がいいからってこんな話自分からするなんてどうかしてる」
 自分の素顔をさらけ出してしまった事が恥ずかしかった。自分が天真爛漫な女の子である事を貫こうとして無理をし続けている事を告白してしまった事を迂闊に感じて、慌てて元の貌を取り繕おう試みた。マークスの視線から隠れる様に顔を背けたアデリアはそのままゆっくりとベッドの傍まで歩み寄って、そっと端に腰かける。固いスプリングがギシリと鳴り、その余韻が冷めやらぬうちにマークスが視線を落としたまま呟いた。
「もう、いいのか? 」
「え? 」
「いつも強気で明るくてそれでも優しさを忘れないお前と、そんな辛い過去を黙ってみんなと繋がって来たお前、どちらも俺にとってのアデリアさ。何も変わらない」
 そう語るマークスの目に映るアデリアの表情が変化した。顔の奥底から浮かび上がってくるような年相応の泣き顔、だがそれは悲しみから来る物ではなかった。全てを理解され、受け入れてもらえた事の感動を露わにする歓びが彼女をそうさせているのだった。
 悲しみも歓びも、全ては心の内で燻る熾きの様な物。思いやりと言う風によって、それはいとも容易く燃え上がる。

 いく粒かの涙を潤んだ目尻からぽろぽろと零した後、アデリアはその事にはっと気が付いて思わず両の掌で涙を拭った。
「や、やだ。こっ、この部屋何だか蒸し暑い。あ、汗が目に染みてみっともないったら」
 そう言いながらベッドから立ち上がったアデリアが慌てて空調のリモコンを探す。滲んだ視界でよく見えないまま彼女はデスクの上に置いてあるマウスをそれと間違えて掴んだ。
「あれ? 違った。これ ―― 」
 そう呟いた瞬間に待機モードでじっと主人の帰りを待っていたデスクトップのハードディスクは微かな唸りを上げて駆動を始めた。低周波と共に転倒した液晶が通常画面で表示される壁紙では無く、何らかの資料を二人の前へと表示する。
「 ―― やだ、勝手に動かしちゃった。どうしよう」
 握ったままのマウスを壊れ物のようにそっと元の位置へと戻す、人の物を勝手に動かした後ろめたさでドキドキするアデリアとは対照的に、マークスは少し離れた場所からその画面を興味深く見つめていた。
「なんだそれ、何のデータだ? 」
 尋ねられたアデリアが慌てて画面を覗きこむ。横軸を時間に置き換えて一本の線を真中に上下へとジグザグの振幅を繰り返すそれを彼女は見間違える筈がなかった。
G重力データ。プラスとマイナスの振幅幅が凄いわねぇ、まるでシェイクされたみたい」
 アデリアの目から見てもそれは間違いなくモビルスーツの運用データに間違いはなかった。時間経過と共に記録されたそのデータは出力の増減とそれに伴うコクピットのGの相関関係を示す物だった。
「多分隊長の起動ディスクじゃない? 大分昔の戦闘の時のとか。だってあれだけの実力の持ち主だもん、これくらいの数値は叩き出すでしょ」
「 ―― 違うっ」
 小さく叫んだマークスがつかつかと歩み寄って、驚くアデリアを尻目にデスクのイスを足でどけた。液晶の前に陣取ってまるで信じられない物を見る様に異色の瞳を見開く。
「ちょ、ちょっとマークスやばいって。これニナさんの私物なんだから勝手に覗いちゃダメだって」
「 ―― 見ろ、アデリア。 …… ここ」
 液晶を指さしたマークスの指を追う様にアデリアの視線が走る。届いた先にあった物はグラフの左下、統計図表上そこには記録された機種の詳細なデータが必ず記載されていた。その数値を一見し、再びその桁数を何度も数えた彼女が目を丸くして呟いた。
「な、なによこれ。平均出力4万キロワットって ―― 巡洋艦サラミスの4分の、1? 」
「ジムの約30機分に相当する数値だ。これはもうどう考えたってジオンの開発したモビルアーマーしかありえない、でもなんでこんな物をニナさんは持ってるんだ? 」
 このデータの持ち主の名前を知りたいと思ったマークスが机の上のマウスへと手を伸ばし、それはアデリアの手が阻止した。思わず目で抗議するマークスに向かって小さく頭を振って抵抗を試みるアデリア、だがそれは束の間の事にしか過ぎない。彼女がマークスを慕う理由は同じ価値観をお互いに持っていると言う事、即ち彼の興味がある事はとりもなおさず自分も持っていると言う事だ。
 誘惑に負けたアデリアが押さえていたマークスの手をそっと解き放つ、彼はそのままポインターを移動させてこのディスクの個人データが載っているページへとアクセスした。再び動き出すハードディスクのモーター、旧式のそれが呼び出すデータが徐々に液晶へと現れる。
 見覚えのある顔と。
 聞き覚えのある名前と。
 聞いた事のない、その男の階級。
「そ、そんなばかなっ」
「こんな事 …… ええっ!? 」
 驚きを露わにして画面を食い入る様に見つめる二人の前に、あの日のコウの記録が表示された。



[32711] Missing
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/01/27 11:57
 月の光に照らし出されたオークリーの大地はまるで自分の生まれ育った所の景色にそっくりだ。ニナは宿舎へと続く長い渡り廊下を歩きながら、滑走路の向こうに浮かびあがる丘の稜線を眺めながらそう思った。時折吹き渡る風の哭き声以外には自分しかいないその世界で彼女は、今自分が手にしている達成感を噛み締めながら遠い過去へと想いを馳せている。
 そっくりなのは景色だけじゃない。自分を高揚させる達成感とこの足取り、間違いない。
 あの日の月、リバモア工区のオペレーションルーム。

 宇宙空間での戦闘によって『重力下仕様』のガンダム一号機は大破した。当初より予定されていた宇宙戦仕様への換装を行う為にアナハイム・リバモア工区へと運びこまれた一号機はそこで大幅な仕様変更を含めた全面改装をこのプロジェクトの責任者であるニナ・パープルトンの手によって行われる運びとなった。機動能力向上の為のスラスター数増加とそれに伴うジェネレーターの巨大化、関節保護の為の稼働アーマーの追加など仕様変更の為の項目は多岐に及び、結果レストレイン・ケージから解放された一号機は当初予定されていた物とは全く別物の機体となってその全貌を現した。
 総推力234000㎏、パワーレシオだけならば今でも絶対に凌駕出来ない機動性能を誇るその試作機を操縦するパイロットの姿を改装に参加したエンジニアの誰もが想像し、そして疑いの眼差しを設計者であるニナへと向けた。本当にこんな物を使いこなせるパイロットが連邦に存在するのか、と。
 しかしそこに、彼女が必要とする最後のパーツは存在しなかった。

 両肩から突き出たユニバーサルブースト・ポッドから伸びる白炎、宇宙空間へと押し出す圧搾式カタパルトの水蒸気。星空を切り裂いて一直線に彼方へと飛び去る姿を、ニナはオペレーションルームの窓から羨望の眼差しで見送った。試作機である事を示す白と連邦軍の所属である事を明示する識別パネルの青は月の地平を僅かに照らす太陽の輝きに彩られて黒白に抗う。スピーカーから聞こえるコウの声に絶対とも言える確信と期待を込めて彼女は、刻々と送られて来るテレメトリーへと目を向けた。
 産声を上げた我が子の実力と性能、それは完全に彼にマッチしている。当然だ。
 これは全て『彼の為だけ』に私が創り上げた機体なのだから。

「 ―― この機体は成長するわ、誰かさんの戦技レベルと一緒に、ね」

 自分の予言通りに成長したフルバーニアンはガトーの魔の手からコウの命を護って二号機サイサリスと共にソロモンの海で散った。失った事への悲しみよりも取り戻した事への喜びに安堵するニナ、しかしそれも長くは続かなかった。
 彼がなぜ生き残ったか、その訳に気付いてしまった瞬間に。

 初陣からたった一ヶ月の間に伝説の撃墜王と対等に渡り合ったと言う事実、それはかのアムロ・レイ曹長が初陣に『赤い彗星』シャア・アズナブルと戦って以来の快挙となる。アムロ曹長のその後の活躍を紐解いてみると、彼がシャアと互角に戦えたその理由が自身の持つ稀有な資質によって為し得た物だと言う事が分かる。ではコウもそう言う資質を携えた、規格外の兵士なのだろうか?
 答えは否。ニュータイプとは常人とはかけ離れた空間認識力を持ち、未来を予知し、前兆を感知できる能力を持つ者達の事だ。確かにコウの空間認識や未来予測には目を見張る物こそあれそれが信じられないと言う程の物ではない、それにもし彼がそういう人種なのだとしたらなぜ彼はあの時不完全なままの一号機で宇宙へ飛び出したりしたのか。なぜ一号機は為す術もなく敵の砲火に蹂躙され続けてしまったのか?
 ほぼ同列に位置する自分の手掛けた二機の間にある差異はパイロットの技量のみだ、ではそれを埋めてガトーとコウが拮抗出来る為の要因とは?

  ―― 吐き気を催す様なおぞましさがニナを襲った。――

 彼を生き延びさせるために創ったプログラムはその代償として彼の魂を殺戮の螺旋の頂点にまで押し上げた。恩人を殺め、千畳の屍を糧にして成長を続ける私の願いは彼の復讐を手助けする為だけの道具へと次第に変わっていってしまった。撃墜王と言う血塗れの烙印を握り締めて宿敵と相見えた彼を見て、私は自分の犯した本当の罪の姿を知った、ソロモンの露と消えた将兵の命もケリィ・レズナーもサウス・バニングもその真実の前では私にとって取るに足らない瑣末な事でしかない。
 私は。
 私はこんな物を創ってしまったのか。
 こんな物を与えてしまったのか。
 あの二人に。

 罪は償わければならない。
 罪には必ず罰がついて回ると言う事を私は知りながら目を背け、素知らぬふりをしてやり過ごせると信じていた。自分が手掛けた二機のガンダムが跡形もなく宇宙の藻屑と消えた事を贖罪として、何事もなかったかのようにコウと二人で生きようと望んだ。どこまでもその勢力を広げていく人類の瓦の片隅で幸せを得るには十分過ぎる未来の続く限り。

 ―― 手遅れだった。――

 私の決意を嘲笑うかの様にその白い巨体を現した三号機、それは彼の為に創られた ―― いや、誰かの為に創られた機体では無い。拠点防衛と言う曖昧な役割を可能な限り考慮して、およそアナハイムで注ぎ込めるだけの技術を詰め込んだテストベッドとも言える物だった。コントロールコアとなるステイメンの武器以外は全て空間掃討用重兵装、彼がそれを放つだけで数百の命と未来が確実に消滅する死神の鎌。連邦初のモビルアーマーと言っても過言ではないこれを創造したのは紛れもなく自分自身、しかし私が棄てたその試案を形にしたのはルセット。私の良き友人でありながら良きライバルであり続けた女性。
 
                              *                                *                               *

「とぼけないで」
 咎める様なルセットの目を正視できずにニナは思わず顔を背けた。小脇に抱えていた自前のミニノートをまるで敵の手から我が子を隠す様にそっと後ろ手へと廻すニナ、不自然な動きを見咎めたルセットが畳み込むように問い質した。
「あなたがウラキ中尉の起動ディスクのコピーを持ってない、ですって? そんな訳ないでしょう。おまけにフォン・ブラウンのあなたのデスクに残っている筈のキャッシュすら消去してるだなんて」
「も、元々あのプログラムはあくまで試作機用のβ版だったから。正式採用されてからちゃんとしたコマーシャル版に書き換えるつもりだったのよ、だから ―― 」
「ふうん、じゃあいつでも書き換えられる様にその元データはあなたの知ってる『どこかに』はあるって事ね? 」
 取り繕う様につく嘘を一枚一枚剥がしていこうとするルセットの質問に耐えかねたニナが遂に言葉を失って俯く、ルセットはこれ以上の詮索が無駄だと分かると轟然と胸を張ってニナを睨みつけた。
「そう、そこまであなたがしらを切るならそれでもいい。中尉にはデフラの起動ディスクでステイメンに乗ってもらうから」
「だめよっ! 」
「ニナ、それは彼女の起動ディスクを使う事に対して? それともウラキ中尉を三号機に乗せる事? 」
 何もかも見透かした様に畳み込むルセットの問いに対する答えはただ一つ、しかしニナはそれを口にする事を躊躇った。ガトーの核攻撃によって終結したと思われた『星の屑』は華やかな戦果の裏側で更なる、そして真の戦略を露わにした。移送中の二基のコロニーを奪取して接触させる事により地球の引力圏内へと導く乾坤一擲のコロニー落し、事態は全てデラーズのタイムテーブル通りに進行中でしかもそれを止める為の十分な手立てすら見つからない。一縷の望みを遊撃艦隊として活動するアルビオンに託したコーウェンが最後の試作機を彼らに手渡そうとするのは必然の流れだと言えた。
「軍の命令に民間企業の一職員がもの申すなんてそんな事できっこないじゃない、あなたがいくら拒んでも彼は三号機に乗るしかないのよ。二度目のコロニー落しを阻止する為に、ね」

 ―― わかってる。わかってるからこそこのプログラムをコウに渡す訳にはいかない。テストパイロットをして人事不省を起こす様なモビルスーツにこんな物を搭載してしまったら一体どういう事になるか、人の手に余る制御機構とオペレーションはあっという間にプログラムに飲み込まれてコウの思考を引き摺り回した挙句に彼の意識を根こそぎ刈り取ってしまうだろう。私がこの機体のプランを破棄したのも、恐らく常人には二つのOSの統合制御が不可能であろうと言う観測による物だった。ルセットの手によって実験が続けられていると言う話は耳には挟んでいたがそれが実戦に投入されるとは思えなかった、そのまさかが今現実となってしかも操るパイロットはコウただ一人。
 ルセットの言う事は間違ってはいない、軍の命令である以上私達は三号機を受け取って一刻も早くコロニーの後を追わなくてはならない。コウがそう望んでいる限り、私は、彼を、止められない。
 だからこそ、これだけは、渡せない。

                               *                               *                                *
                               
 ニナの手の中に抱えられたミニノートの奥深くで封印されていた『禁書』。そのフォルダを開く事を躊躇わなかった訳ではない。だが彼女はあえて若き二人のパイロットの為にそれを役立てる決心をした。もちろんコウに組んだ物よりも遥かに制約が多く単純化された物ではあったが、それでもあの二人には十分だろう。そしてあの時のコウには無かった要素が彼らにはある。
 感情の高ぶりと共に操作の精度が荒くなるマークスはコウによく似ている、でも彼にはアデリアがついている。見た目とは裏腹な冷静さと沈着さを兼ね備えた優秀な僚機が。
 ただ一人でガトーと戦う事を求めたコウには誰もいなかった、だからこそ彼はあそこまで自分のスキルを高めなければならなかったのだ。もし今のキースがあの時の彼と共に戦場に立っていたのならばきっとあんな事にはならなかった。キース自身もそれを口には出さないがきっと同じ事を考えていたのだろう、だからこそコウのいなくなった今、ストイックに自分を追い込んで二人を鍛え上げようとしている。
「大丈夫、あの二人なら、きっと」
 ぽつりと呟いたニナは現実の世界へと想いを立ち戻らせて、自分の部屋のある宿舎の入口へと視線を戻した。
 ―― 大丈夫、彼らはコウじゃない。そしてガンダムもここにはないのだから。

 夜間モードに切り替えられた廊下の照明は足元すらおぼつかなくなるほど薄暗く、時折灯っている小さな豆電球の下を通る度にニナの髪がそれを受けて微かに煌めく。建物を縦に貫く長い廊下の突き当たりの右側、そこに彼女の居室があった。出来るだけ音を立てない様にハッシュパピーのソールを静かに降ろしながら自室へと向かうニナの耳に、まるでその心遣いを嘲笑う様に男女の声が聞えて来た。
 コンクリートの壁に反射して届く遠慮がちなその音をはっきりと捉えたニナは、ふっと足を止めて自分の居室の反対側にある筈の避難通路の扉を睨みつけた。
 ニナの部屋は仕官宿舎の中でも女性隊員専用エリアの一角に当たる。ただ自分の立場は技術部門の関係者という事でアデリアやモウラとは別の階の、民間人から嘱託と言う形で採用されている基地スタッフに使用を限定された階層にあった。
 緊急出動や非常事態に際して逸早く脱出路を確保できる位置に宿泊エリアを設けたのは民間人の安全の確保を優先に考えた先任司令官の配慮である。軍人である以上常に万が一の事態と言う部分は常に想定されていなければならず、その時の民間人の保護は古今東西如何なる場合に於いても最優先の考えられる、とは聞こえのいい話だが要は軍事行動において民間人の存在は単に邪魔になるからである。
 自分達の職場から部外者を排除し、仕事の専念できる環境を整える。その為その階層の廊下の先には地下へと続く避難通路の非常扉がある。分厚い鋼鉄で作られた其れは恐らくファウストやRPG等の対戦車駆逐ミサイルによっても破壊出来ない分厚さを誇り、一度閉めればそこに逃げ込んだ人員の安全は取りあえず確保される事を暫定的に約束する。
 だが平和な地上で、それも『忘却博物館』と軍内部から揶揄されるほど戦火から遠く離れたこの基地において軍規の緩みと言う物は往々にして幅を利かせているという事は摂理に叶った現象だ。特に民間スタッフ専住のこの階では消灯時間を過ぎてから束の間の逢瀬を楽しむカップルが少なくない。彼らは安普請で生るこの仕官宿舎での逢引を良しとせず、たまにこの避難通路の向こう側での秘め事を画策して扉の向こうへと消えて行く。その方が『音や声が外に漏れにくい』と言う単純かつ重要な理由を優先して。
「 …… まったく、もうっ! 」
 気持ちは分かるが腹が立つ。基地の周囲に人家が無く、人がいないという事は『そういう施設』が存在しないと言う現状を考えてみればその様な不埒な行動を選択するカップルの心境を非難する事は躊躇われるのだが、それがよりにもよって自分の部屋の直ぐ傍で行われていると言う現実は心情的には理解が出来ても納得がいかない。
 だがだからといって無理やりオークリーに赴任したニナにこの部屋を優先的に宛がってくれた先任の司令官の好意を無にする訳にもいかなかった。引渡しのほんの僅かな間とは言え司令官として赴任したパイロット上がりの彼はこの基地に於けるこれからのモビルスーツ隊の将来を憂慮して、万が一の時に備えてこの部屋をニナの為に選んだのだ。これからこの基地に隔離される事が決まっていた哀れな陸戦隊員の群れが憂さ晴らしに襲い掛かってきても逸早く逃げ込める、ニナの身柄の安全を保障するセフティーハウスとなるこの通路の直ぐ傍に。
 憤りを篭めて壁を睨むニナの耳が聴きたくない物を捉える、それが男女の声だという事が分かると一層腹立たしい。自分がこの忌々しい鉄の扉をビブラムの靴底で蹴り付けると言う不届きな行為に及ぶ前に自室に篭ろうと決心したその時だった。
「 …… ? 」
 ニナが小首を傾げた。
 おかしい、いつもならばもっと生々しい会話や声が聞こえて来る筈だ。だが不本意ながら耳を澄ませたニナの耳に届く男女の声には蜂蜜の様な甘さも、悩ましげな愛しさの欠片も無い。ただ声を潜めて何かを呟く感嘆の声だけが理性を伴ってニナへと届いている。本能をより合わせた様な男女の睦み事では絶対に発せられる事のない声。
「違う? …… 」
 ニナはそう呟いて声のする方向を探った。周囲に反響して分かり辛いその声音が、『いつもの場所』の反対側から流れている事を知るのにさほどの時間は掛からなかった。

 はっとして振り向くニナの視線の先には自室の古ぼけたドアがある。そして内開き ―― いざと言う時立て篭もるのには其の方が都合が良い ―― のドアの隙間から、その感嘆交じりの会話は漏れ出している。自分の憤りが見当違いであった事に、そしてその声の主達が誰であるかという事を理解したニナの表情が一転して氷解した。自分の勘違いによって湧き上がってきた感情を思い返して、揺れ動いた心の醜態を顧みながら苦笑する。
 鍵を掛けないのは最近のニナの癖。今夜の様に何時誰かが尋ねてきても部屋に迎え入れる事が出来る様に、最近ではほんの少しの外出ならば鍵を掛けずに部屋を後にする事が多くなった。昔とは違ってオークリー基地自体の治安が安定してきた事も挙げられるがそれよりもモビルスーツ隊の存在が陸戦隊のはみ出し者達に渋々ながら認められているという事も大きな要因だ。
 モウラやキース、そして …… コウの奮戦によってその地位を確保した彼らは最初は恐怖によって、そしてそれはコウの行動によって次第に尊敬へと変わっていった。布教にも似たコウの、懲罰による降格をも顧みないあの闘争の日々はこの基地自体の安定した日常を齎す事に寄与した。これは彼が残した成果の一つ。
 だがその日々の間 ―― 味方がいないその間に彼が私を心の支えにしてくれた事は無かった。気遣う私に言葉を返す事はあっても、その心を開く事は一度も無かった。拒絶する訳でもなく、感謝する訳でもなく。ただ心配する私の顔をじっと見つめる漆黒の瞳の底に蠢く絶望の影だけが私の心を苛み続ける。
 それを彼に植え付けてしまったのが、私。
 その影を消そうと努める私の日々の積み重ねを嘲笑うかの様にコウの瞳は陰りを増して、そして遂にあの日 ―― 。
 泡沫の様に浮かんでは消えるコウへの思いをそっと両手で包み込んで、自室に無断で居座り続ける二人に対して浮かんだ苦笑はそのままだった。閉じた蕾の中で出口を求める様々な思いを握り締めて、そしていつもと変わらぬ技術者然とした表情と雰囲気で武装を固めたニナは今朝の自分に戻って自室のドアへと歩み寄る。無断で自室に入った二人をどの様に叱ってやろうか、せめてドアくらいは閉めて話をしなさい。回りの部屋に迷惑だから、と言う台詞を頭の中に書き連ねてドアの取っ手に手を伸ばそうとした。

 ―― あなたたち ――
 皮肉交じりに浮かんでいた苦笑が見る間に凍り付いて指先にまで及んだ。ドアの隙間から覗く二人の背中はまるで恋人同士の様に仲むつまじく寄りそって一つの影になっている、だが前のめりになって何かを覗きこんでいるその気配を感じ取った瞬間にニナの記憶は昨晩にまで一気に遡った。ドアを開けた途端に目に入る古ぼけた17インチの液晶画面、彼らがそれを見ている事は明らかだ。ではそこには何が映っている?
 ” ―― あの後あのディスクを私はどこに仕舞った? 取り出した覚えは? いやそもそもパソコンの電源を落とした記憶は? ” 
 失われたまま取り戻しようのない過去に囚われていた昨日の自分の記憶を必死の思いで手繰り寄せるニナ、だがそれはまるで古ぼけて擦り切れてしまった映画のフィルムの様に断片的でしかも肝心な物は何も蘇らない。不吉な予感に鷲掴みにされた心臓が二人の背中に届くかと思ってしまう位に盛大な音を立てる、全てが凍りついた世界に佇んだままのニナの元へマークスの声が届いた。
「 ―― 何だよこの反応速度。20ms(ミリ秒)なんて単位、見た事も無い。どうやったらこんな速さで火気管制を呼び出せるんだ? 」
「それよりこの火器の種類は一体どういう事? 一回の戦闘で呼び出した攻撃選択コマンドが、えっと …… いち、に、さん …… 16!? 何でこんなに武器を装備出来るの? 伍長の乗った機体に付いていたハードポイントって一体いくつあったのよ? 」

 ―― ああ、神様っ! ―― 
 心の底で迸った慟哭がニナの体中に絶望を生んだ。絶対に誰にも見せてはならない禁断の書を自分の不注意で人の目に晒してしまった、それもよりにもよって自分が歩めなかった健やかな未来を託したあの二人にっ!
 目の前が真っ暗になって足が震える、少しでも気を許せばしゃがみ込んでしまいそうな膝を必死で支えながらニナは懸命に打開策を考える。吐息さえ聞こえない様に口を押さえた掌が熱を帯びた様に熱い、カタカタとなる歯の根とは対照的に瞬きすら忘れた彼女の両目は未だに彷徨う思考の迷路に逆らって、じっと二人の背中を見つめ続ける。
 だがそんな膠着も長くは続かなかった。ふうっとマークスが溜息を洩らした後に呟いたその言葉が、ニナの意識の全てを霧散させた。
「 ―― それにしても伍長の起動ディスク、現行の物とは違って随分と古いタイプの物みたいだ。一体何年ごろの物なんだろう? 」
「? ディスクを見ただけでそれが分かるの? 」
 マークスの指が外付けのディスクリーダーのイジェクトボタンに伸びる指をアデリアの声が止めた。マークスの指先の動きに釘づけになったニナの瞳が焦点を失って大きく見開かれた。
「俺達が使ってるディスクはアナハイムが主導になって全てのモビルスーツが同じ装備をつけられる様に統一された『ユニバーサル規格』になってからの物で、それさえあればアビオニクスがアナハイムの物であればどんなモビルスーツにもデータが反映される。でもこれは旧式の外付けリーダーを使ってるくらいだから多分その前の物だと思う、出してみれば一番手っ取り早く分かる ―― 」

 ―― やめてっ!! ――

 偶然以上の確率がニナの脳裏に閃いた瞬間に全ての思考が消え失せた。残っていた物は本能とも言える衝動とそれに後押しされる行動、背後で起爆した何かに背中を蹴飛ばされてニナは自室の扉に体を叩きつけた。

 酒場のスイングドアの様に勢いよく開いた木製の扉はそのまま勢い余って壁に激突した。大きな音がフロア中に轟く中で血相を変えて部屋に飛び込むニナと驚いて振り向く罪なき二人の侵入者、突き刺さる視線の中をつかつかと早足で歩み寄って傍らを通り過ぎたニナは、データリーダーのイジェクトボタンに触れていたマークスの指を振り払うとそのままモニターをオフにした。途絶える画面に呼応する様に沈黙が支配する室内、ニナが声を震わせて言った。
「あなた達」
 仄瞑い海の底から浮かび上がってくるような低い声。怒りや恐怖と言う言葉では表現し尽くせない様々な負の感情がその声には込められている様にアデリアは思う。蛍光灯の明かりに照らされた金の髪を穴があくほど見つめていた彼女に向かって振り向いたニナの表情はそれほど険しかった。
「今ここで見た物はすぐに忘れなさい。そして絶対に、二度と思い出してはいけない。いい? 」
「なぜですか」
 ニナの圧力に立ち向かう様に尋ねたのは隣に立っていたマークスだった。アデリアの目から視線を外してキッと睨みつけるニナに向かって、マークスは毅然とした態度で再び聞き返した。
「理由を ―― その訳を教えて下さい。それともう一つ、ニナさんがこの基地に常駐していない『民間人』の起動ディスクをなぜ隠し持っているかと言う事についても」
「まるでMPの様な聞き方ね。 …… 訳は教えられない、そして彼は ―― ウラキ伍長は予備役兵よ、ただの民間人じゃない」
「予備役兵が個人の起動ディスクを所持しているなんて聞いた事がない。大体彼らは有事の際にはどの機体でも使用可能なように汎用型のディスクが基地に保管されている筈です、従ってウラキ伍長がこのディスクを使って戦闘に参加する事は出来ない。それにこの形式のディスクが使えるアビオニクスを搭載した兵装がこのオークリーには、ない」
 理詰めでニナの矛盾を叩くマークスの表情は真剣だ、何かに突き動かされる様に彼はこのディスクの正体を暴こうとしている。口を噤んだまま射る様な視線を投げかけるニナに向かってマークスは更に問い質した。
「 ―― ニナさん、本当の事を教えて下さい。彼は …… ウラキ伍長とは一体、何者なんですか? 」
「彼は、ウラキ伍長はかつてオークリーのモビルスーツ隊に所属していて、この基地を離れる際に予備役として登録し直された、ただの民間人 ―― 」
「あなたはさっき彼の事をただの民間人じゃないと自分の口で言いました。そして …… あなたも、彼の過去をそう記憶しているんだ」
 マークスの言葉にアデリアがはっとなった。ウラキ伍長と言う人物に最も近しかった者の言葉こそ真実、そして自分達が探し当てた彼の記録との決定的な相違。
「軍に記録されている彼の経歴には『民間人からこの基地に予備役登録が為された』事になっている、と言う事はウラキ伍長はいままで一度も軍には在籍していない。でも彼を知るあなたや隊長、整備主任や古参の隊員達は伍長がこの基地の再建直後から働いていたと言っている。 ―― 彼についての記憶が全員書き換えられているのか、それとも軍の記録が書き換えられているのか …… ニナさんはどちらだと思いますか? 」
「なぜそれを。あなた達の立場ではジャブローのアーカイブに立ち入る事は許されない筈」
 マークスの放った真実にうろたえるニナ、取り繕う言葉を探す為に小さく動く唇は果たして何もそれに対する打開策を発する事は出来ない。
「僕がその事実を手に入れた事なんて今はどうでもいい事だ。それより僕が知りたいのは、なぜ軍はたった一人の兵士の経歴を書き換えてまで過去を隠そうとしているのかと言う事。そしてニナさんはその理由を知ってる筈です、他人が持っていると言うだけで軍機を犯すにも等しい個人の起動ディスクを、その危険も顧みずに隠し持っていたあなたならば」
「マークス、もう止めよう? 」
 尚も問い詰めるマークスの腕を引きながらアデリアが言った。
「ニナさんが言えないって言うんだったらもうそれでいいじゃない、きっと誰にも言えない大事な事なんだよ。それにマークスはニナさんとウラキ伍長の話が聞きたいんじゃなかったの? だったら何もこんな所で、しかも問い詰めてニナさんを困らせる事ないじゃない」
「 ―― 気がついたんだ。隊長やニナさんが言う、『目標とする相手』の事に」
 何かを確信してそう断言するマークスの瞳が輝きを増す、その光から目を逸らす様に顔を背けるニナと受け止める様に大きく眼を見開くアデリア。
「そうなんですね? ニナさん。 …… 彼 ―― ウラキ伍長の事なんですね、僕たちが目標とする ―― いや、しなければならない目標と言うのは」

「 ―― 彼は、もういない」
 小さな声で呟いた唇をアデリアは確かに見た。ニナの言う通りオークリーにはもうコウはいない、だがそれを意味する言葉ではない様に思えるほど切なく、そして重々しい声だったようにアデリアは感じた。ただじっと顔をそむけたまま静寂の時を費やすニナに向かって、業を煮やしたマークスが強い口調を差し向けた。
「ニナさん、僕を見て下さい。―― 僕の顔を」
 その言葉に促される様にそむけた目を再びマークスの顔へと向ける、何かにだだひたすら耐えようとしているニナの顔色ははた目から見ても痛々しいほどだ。
「分かりますか? …… 僕はこんな顔形をしている。アデリアは知っているけど僕の眼と髪の色は劣性遺伝で、この事で小さい時から僕と両親は随分と苦労をした。生まれた国を追われて辿り着いた新天地でも同じ様に蔑まれ、自分の出で立ちで巻き添えを食らう両親だけでも楽にしようと入った士官学校で付けられた仇名が『魔女のマークス』だ。そして軍に入隊した後でもそんな下らない差別は続いた。時には自分の命に関わるほどに」
 苦々しい過去を告白するマークスの瞳と魅入られた様にその異色を見つめるニナの蒼い瞳、交差する二つの感情が見えない火花をほんの僅かな暗闇に飛ばす。
「僕は色々な基地に …… 軍と言う組織に弾き出されてとうとうここに流れ着いた。コンクリートの建物以外には何も無いこの基地を見た時、最初はやっぱり自分の様な人間にはどこにも居場所は無い、遂に流刑地送りにされたと思ったくらいだ。 …… でも、違った。この基地は僕の様な者を差別も分け隔てもせず迎え入れてくれた。言葉遣いは悪くても、規律はなっていなくてもそれでもこの基地の人達は僕の事を『仲間』だと言って接してくれた。だからここは僕にとっての『楽園』なんだ、多分最初で最後の」
 振り絞る様な言葉がニナの顔色を変えていく。差別と言う名の理不尽に抗い続けた若き才能の苦悩を知ったニナの目から拒絶の意思が消え、憐憫と言う名の慕情すら現れ始めている。マークスの腕を押さえていたアデリアの手がそっと引かれて彼を自由に解き放った。
「 ―― アデリアはニナさんの事を『姉』の様に思っていると僕に言った。でも僕はニナさんだけじゃなく、僕の見てくれを何も言わずに受け入れてくれたこの基地にいるみんなの事を『家族』の様に思っている。だから僕は自分の本当の父や母と同じ様にこの基地の皆を守りたい、守れるだけの力が欲しい」
「『家族』 …… 」
「僕の『家族』が守れるのなら、守らなければならないのなら僕は何だってしてみせる。どんなに理不尽でも無茶でもその為に必要ならばどんな事だって構わない。 ―― だからニナさん、教えてください」
 それはアデリアにさえ告げた事のない彼の願いだった。ニナのコウの事を聞く為だと言ってキースに無茶な賭けを申し出たのも、そしていきなりマニュアル操作での演習を画策したのもその根源には「その力が欲しい」と願うマークスの持つ強い意志が齎した結果なのかもしれない。
「僕の大事な『家族』を守る為に得なければならない力って、『コウ・ウラキ伍長』とは一体何者なんですか? そしてどうして伍長は、どんな理由でこの基地を去らなきゃいけなかったんですか? 」

 左には強い意志を現す琥珀の色、右に冷静な理知を潜める白銀の光沢。その瞳の何処が気味が悪いのだろうと間近で見るニナは思う。マークスの宿した双眼異色ヘテロクロミアは正しく人が生み出した偶然の産物であり、そこには求めても得られる事の無い美しさが混在する。
 だが求めて得られない物ならば人はそれを手に入れる事を諦めて自分の価値観からそれらの存在を締め出して決して認めようとはしなくなる、それが『差別』の正体だ。人の罪に苛まれ続けて尚抗い続けた青年の二色の虹彩の底に輝く願望は差し伸ばされる手となって、ニナが心の奥に封印してあった記憶の琴線へと触れた。

 アデリアは私の事を『姉』と、そしてマークスは『家族』だと言う。それは私達も同じ。二人の事を掛け替えの無い『家族』と思うからこそ今まで見守ってきたのだから。だけど。
 あなた達の事を大事に思うからこそ、隠さなければならない事もある。『家族』だからこそ守らなければならない物がある。それはあなた達の素晴らしい未来の姿。
 私達が生きた現実の全てをあなた達に話してしまったら、あなた達が泳ぐ清浄な水域と私達が潜む混濁した水域の水は、交わる。日の光の下で健やかに平和を謳歌し続けるあなた達の人生はそれを境に一変する。私達と同じ秘密を抱えて一生報われる事の無い人生を歩まなければならなくなる。それを少しでも外部に漏らした事が当局にばれれば速やかに存在を抹消されてしまうかもしれないと言う恐怖に怯えながら。
 ―― だから、言えない。話す訳にはいかない。

 言語やことわざのみならず過去の事象や歴史上の教訓に至るまでありとあらゆる知識を総動員して説得の準備を始めるニナ。しかし当たりくじの僅かな抽選箱をかき混ぜるその手が不意に掴みだした一つの可能性を省みて、彼女の確固たる決意はあっという間に覆された。

 もし、今ここでその事を告げないとしたら二人はこの後どうするのだろう、私の言う事を聞いて大人しく引き下がってくれるのだろうか? 
 いや、否定ネガティブ
 自分達の手でコウの矛盾を探り当てた位だ、例え私がここで彼らを上手く説得できたとしてもそれで引き下がる様なやわな根性はしていないだろう。きっと私以外のルートを通じてコウの事や、彼に纏わるいくつかの秘密を解き明かすに決まってる、そしてそれはティターンズが必死になって隠そうとしているあの紛争の真実の一端に触れる事と同じ意味を持つ。 ―― 結果は同じ。
 いや違う、同じじゃない。
 私の知らない所で彼らがあの日の事実を知り、その事で『デラーズ紛争』を調べようとする者達に次々に訪れている偶然の不幸がこの二人の身に襲い掛かったとしたら、私は今晩の事を後悔せずにいられるのか?
 自分が隠し通そうとした事で失ってしまったコウ、私は同じ事を繰り返そうとしているのか? 失ってから初めてその大きさに気付き、後悔してしまう様な真似を再び。
 
「 …… 一つだけ約束してちょうだい」
 俯いたままぽつりと零れたニナの声には、今まで二人に向けられていた激情の彩りが無かった。彼女の突然の変化に目を見開いて成り行きを見つめる二人に向かって、ニナは顔を上げると静かな面持ちと声音で告げた。
「今から私があなた達に話す事を絶対に他の人に言ってはいけない、例えそれがあなた達の親友でも親兄弟でも。―― そしてキースやモウラにも」
「隊長やモウラさんにも、ですか? だってニナさん達はずっと伍長と一緒に ―― 」
「二人もこの事は知らないのよ」
 小さく頭を振って否定するニナの表情には後ろめたさがありありと浮かんでいる。
「 …… だからこの事はあなた達二人だけの胸の中にしっかりしまっておいて欲しいの。軍の機密保持とはレベルの違う、あなた達の命に関わる問題だから。いい? 」
 覚悟を突き付けるニナの瞳が交互に二人の顔を見つめた。視線と共に流れ込んで来る冷たい予感に背筋を凍らせながらもアデリアとマークスは交互に小さく頷いた。
『好奇心は猫をも殺す』とは大昔の小説の題名だったか、頭の中にふと浮かんだ他愛もない一節に心の中で一人ごちたニナは、目の前の二人が決してそうはならない様に祈りながら一つ溜息をついて視線を落とした。
 その仕草が懺悔をする為の儀式に似ている、とアデリア。その通りだった。
「あなた達が見た起動ディスクは確かにコウ・ウラキ予備役伍長本人の物。そしてそこに記録されているデータの最終更新日は宇宙世紀0083年11月13日 …… 彼が宇宙で最後に戦った日」
「戦った? ―― ちょっと待って下さいニナさん、0083年って一年戦争から三年も後の事じゃないですか。その頃に起こった戦闘と言えば一部のジオンの残党による小競り合いしか無かったと教えられました、ましてやこんなモビルアーマーが参戦する宙域がその頃にあったなんて僕にはとても信じられない」
 言いたい事を全部マークスに持っていかれてしまったアデリアは真剣な眼差しをニナへと向けたまま無言で頷く、二人の反応を無かったかのように受け流したニナはその後に続くべき言葉を告げた。
「それはティターンズがその勢力を拡大する為に利用した地球圏内の極小規模な地域で発生した紛争、そしてコウはその紛争の中心で数多くの敵と戦い続けて最後まで生き残った撃墜王。それ以降彼は予備役に編入されて表舞台から姿を消すまでこう呼ばれていたわ …… 『悪魔払いエクソシスト』と」

 それは特殊な二つ名だった。本来別名を与えられるほどの実力を持ったパイロットならば氏素性は広く知れ渡っているのが常だ。『白い悪魔』とジオンの兵士に畏れられたアムロ・レイ曹長しかり、『赤い稲妻』と呼ばれたジオンの英雄シャア・アズナブルしかり。
 しかしその二つ名は軍関係者の間で突如として持ちあがり、まるで夏の日の入道雲を思わせる勢いでその名を広めた。誰しもがその正体を知りたがり、そしてその実力をこの目で見極めたいと願う、しかしその二つ名がどういう経緯で兵士の口に上り始めたのかも定かでは無く、どこの所属部隊で一体誰なのかと言う事すら分からなかった。いつの間にかその名は寓話や伝説の中の英雄像として彼らの間で語られるようになり、風化しかけたその噂を耳にしたアデリアやマークスでさえお伽噺の主人公の様な扱いでその存在を疑っていたのだ。
 だがその伝説が確かな実体を持って、しかも自分達のすぐ傍に現れたと言う事実は二人を愕然とさせるには十分だった。アデリアはその小さな口を噤んで思わず唾を飲み、マークスはその言葉をやっとの思いで口にした。
「あ、あの人が …… 伍長が、あの『悪魔払い』、だって? 」
 小さく頷いたニナには誇らしさの欠片も見受けられない、むしろその名前の背後にある罪深さを嘆く様に沈痛な面持ちで顔を上げた。
「私やキースがあなた達に求めた物は確かにあなたの予想通り、キースのパートナーとして立派にやっていけるだけの実力よ。でもそれは決してコウ ―― 彼が『悪魔払い』と呼ばれる由縁になったこの日の力じゃない。ここに記された記録は決して人が到達してはならない悪魔の領域、ふみ込んだら最期、二度と戻っては来れなくなる」
「悪魔の領域? 」
「そう。あなた達でも一目見れば分かるくらい、この時の彼の反応速度は常軌を逸している。OSの処理速度の限界を超えたコマンド入力と火器制御 ―― 彼はそこまで自分を追い詰めなければ勝てない相手と戦っていた、アナベル・ガトーと言う悪夢と」
 その名を聞いたアデリアの脳裏に蘇るついさっきの記憶、そんな事はありえないと三人で顔を見合せて笑ったあの小説のストーリー。
「じゃ、じゃあ伍長の乗っていたこの機体はまさか …… ガンダム、三号、機? 」

 なぜそれを知っている、と言わんばかりに眉をひそめたニナがキッとその声の主を睨む。反射的に慌てて口を手で塞いだアデリアを一瞥してから彼女はほう、と溜息をついた。
 そこまで調べがついているのならばもう隠しておいても意味がない、いっそここで全てを洗いざらい話して彼らにこの話の持つ恐ろしさを分からせておいた方がいいのかも知れない。封印していた過去を再び引き剥がす為にニナは顰めた眉を元へと戻した。
「開発ナンバー、AERX-78GP03。 ―― 一年戦争終結後に当時の連邦軍本部とアナハイムとの間で極秘に進められていた次期主力機動兵器開発計画『ガンダム・プロジェクト』 …… 彼が残した記録はその内の試作機の一つ、『デンドロビウム』と言うコードネームを持つ三号機によるものよ」
「試作機、を戦線へ投入、だって。そんな無茶な、そこまで切羽詰まった戦況に戦勝国が陥るなんて。一体そこでどんな戦いが行われたって言うんですか? 」
「 ―― あのアイランド・イーズが事故では無く、彼らの手によって地球へと落とされたと言ったら? 」
 静かにあの紛争の終結点ピリオドを語ったニナの目にもはっきりと分かる位、二人に動揺が現れた。人の手によって地上に落とされたコロニーはブリティッシュ作戦によって落下したアイランド・イフィッシュだけだと教えられてきた、南極条約違反である『大質量兵器の使用』を何の糾弾もせずに隠蔽して何の得があると言うのか。
「『南極条約』には確かに違反しているけど、所属する国家を持たない彼らには適用されないわ。それに戦時協定として締結されたそれは平時に於いては何の効力もない」
 二人の内に浮かんだ疑問を読み取った様にニナが答えた。どうせ見透かされているのなら、とマークスは気を取り直して次々に湧き上がる質問を素直にニナへとぶつける。
「彼ら、と今言いましたね。 ―― 国家を持たない、と言う事は私兵と言う事になる。しかしいくらガトーが伝説の撃墜王と言っても、一兵士にそれだけの戦力を統率するだけの力があるとは思えない」
「彼はその戦いを起こした張本人じゃない、その艦隊のモビルスーツ隊の総指揮官として全軍を掌握していただけ。 …… エギ―ユ・デラーズ、それがその紛争を ―― いえ、ティターンズに千歳一隅の機会を与えた男の名前。その当時私の作ったガンダムが盗まれたその瞬間から始まった一連の紛争の事を、連邦軍ではこう呼んでいた」
 ふっと遠い目になったニナが二人から目を離して肩越しに見える暗い部屋の隅を見た。思い出すにはあまりにも辛く、そして生々しい過去の疵。だがニナは全ての力でその重い扉をこじ開けると、そこに刻み込まれた記憶の題名を声に出して読み上げた。
「 ―― デラーズ、紛争、と」



[32711] Missing - linkⅠ
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/01/28 18:05
 初めて見た本物の夕焼けの感動はもう遠い昔の記憶でしか無かった。ほんの数時間前に体験した事なのに、この僅かな時間に起こった様々な出来事はその素晴らしい映像をあっという間に時間の彼方へと押し流す。
 破壊された搬入口から吹き込む熱風と爆発音、絶え間なく足元を揺さぶる振動は敵の攻撃に晒されていると言う事実よりも現実味のない夢物語をニナの前に突き付けている様だった。就航中の強襲揚陸艦では最大のスペースを誇るモビルスーツハンガーが書き込み切れないト書きと喧騒で塗りつぶされて彼女の足と手を止める、その呪縛が解けたのは遥か頭上で叫んだモウラの声を捉えた瞬間だった。
「給弾終了っ! ウラキ少尉、コンタクトっ!」
 頭部の給弾口に差し込まれていたフレキシブルコンベアがモウラの手によって引き抜かれてハッチが叩き付ける様に閉じられる、側頭部に設けられたエアダクトに向かって大声で叫んだモウラに呼応した一号機は休眠状態にあった核融合炉に渇を入れてジェネレーターへと電力を供給し始めた。しかし強電システムの放つ野太い低音と発電冷却機の高周波、急激に高まる覚醒への予兆は果たしてその白い巨体を振動させるだけにとどまった。
「ばかっ、なんて無茶なっ! リミッターが作動するまで制御棒を解放するなんて! 」
 オーバーロードを避ける為に設置された安全器がジェネレーターへの電源供給をカットした事を示す猛烈なバイブレーションが一号機に襲いかかる、恐らくコックピット内では警告ランプを点滅させたAIが懸命の復旧作業に当たっているだろう。だだをこねる様に整備用ケージから離れようとはしない一号機の巨体を足元から見上げながらニナは叫んだ。
「モウラ、やめてっ! この機体は彼には無理だわっ! 今すぐ融合炉の緊急停止ボタンを押して ―― 」
 フルドライブ状態の融合炉がもし爆発したらその被害はアルビオンや自分だけには留まらない、この基地全てを巻き込んで何もかも蒸発させてしまうかもしれない。だが彼女の脳裏にふいに浮かんだその文言は自分の本心をひた隠す為の建前にすぎなかった。このままでは二号機ばかりか一号機までもが自分の知らない輩に奪われてしまうではないか。
 その瞬間邪まなニナの本心を見透かしたかのように突然一号機は身震いを止めた。機体を構成する全てのモーターやシリンダーから流れ始める硬質のカノンが、ニナに一号機の発進準備が整った事を知らせる。
「無理かどうかは分かンないけど、今一番二号機に近いモビルスーツはこの一号機だけだ。もう少尉に任せるしかないっ! 」
「そんなの駄目よっ! なにもわざわざコレを出さなくても基地のモビルスーツ隊に任せればいいじゃないっ、それにザクにしか乗った事のないパイロットじゃあこれは扱えないわっ! 」
「 ” ―― ザクだって立派なモビルスーツですよ、パープルトンさん ” 」
 ヘッドセットからニナの耳に忍び込んだコウの声は震えている、それよりも彼の言葉が彼の仲間のパイロットに自分が吐いた毒と同じ台詞だった事に思わず声を失った。気恥ずかしさで熱を帯びる目の奥で全ての機器に電力が滞りなく供給された事を示す一号機の両眼が鮮やかに光を放った。
「ウラキ少尉、整備責任者ハンガーオフィサーのモウラ・バシットだ。残念ながらその一号機の武装は60ミリ機関砲の50発と両肩のビームサーベルしかない、機動性能は二号機よりあるけど耐久性と出力がダンチだ。近接戦闘は避けた方が無難だよ」
「 ” ご忠告に感謝します、バシット中尉 ” 」
 おっ、と驚くモウラ。この緊迫した状況が彼にとっての初陣と言うのは誠に遺憾であるとしか言えないのだが、それでも人としての理性を保っていると言う所にモウラは根拠のない可能性を見出してニヤリと笑った。いや、根拠がない訳ではない。この事態に何のパニックも起こさずに会話をする新兵、そう言う連中は必ず彼女の元へと生きて帰って来たものだ。
 ただ一人の例外もなく。
「OKウラキ少尉。だが今は歳や階級の上下うえしたなんざ抜きだ、あんたがパイロットならあたしはメカニック ―― 出来るとこまで頑張ンな。生きて帰ってきたら後の面倒はあたしが見てやるよ」

 高所作業用のバケットの上で一号機の後頭部を不敵な笑いで見送るモウラを見上げたニナは、ヘッドセットを乱暴にむしり取って傍のコンソールへと叩きつけるとすぐ脇にある艦内電話へと手を伸ばした。整備士としての義務に目覚めたモウラが一号機を止める事はもう、ない。だったら私は自分の権限を最大限に利用してあの機体を止めてやる。このプロジェクトの責任者としての立場から、彼らが従わざるを得ない力を使って。
 彼女が手に取ったその電話はアルビオン艦橋への有線回線だ、一度目のコールですぐに繋がった電話に向かってニナはその先で何事かと待ち構えている筈のシナプスに向かって切実に訴えた。
「シナプス艦長、ウラキ少尉を止めてください。奪われた二号機を追ってテストパイロットのウラキ少尉が一号機で ―― 」
 だが彼女の声を電話の先にいる相手がまともに聞いているかどうかも疑わしい、なぜならいつも耳にする彼の穏やかな声は周囲の喧騒に遮られてまともにニナの耳へとは届かなかったからだ。
 何処からか放たれた対地ミサイルは雨霰のように敷地内へと降り注ぎ図体のでかいアルビオンは格好の的となっている、対処に追われるシナプスとクル―にニナの訴えが届かないのも無理はない。ニナの呼びかけに応じようとしたシナプスの背後でオペレーターの緊迫した叫び声が響き、続いて彼女の世界が猛烈な爆音で満たされる。二号機の手によって破壊された資材搬入用のハッチから吹き込む閃光と爆風はあっという間にニナの身体を取り囲んだ。
「ニナっ! 敵の爆撃だよ、そこにいちゃだめっ! 」
 バケットから身を乗り出したモウラが声を振り絞ってニナへと叫ぶ、だが既に災厄の予兆に取り巻かれたニナの耳には届かない。届いているのかも知れないが、彼女の身体がそれを受け入れようとはしない、迫り来る死の恐怖の為に。
 その場でおろおろと立ち往生するニナを助ける為にモウラはパネルの昇降ボタンを思いっきり拳で叩いた。ジャッキの油圧が低下してバケットを乗せたアームがゆっくりと折り畳まれ、それは人が梯子を降りるよりも早い速度でハンガーデッキを目指す。鋼板まであと数メートルの距離に迫った所で矢も盾もたまらなくなったモウラが手摺に足をかけて飛び降りようと身構えた。
「 ―― 至近弾っ、全員物影に隠れろおっ! 」

 それが誰の声だったのかモウラには分からない、だが次の瞬間目も眩む様な閃光と熱風がハンガー内へと吹き込んだ。慌ててバケットの床に伏せてやり過ごそうとするモウラの頭上をささくれだった装甲板がペンデュラムの様に駆け抜け、それは彼女の背後で轟音を上げて大きく歪む。思わず目を閉じたモウラが視界の外へと消えてしまった、出会ってからほんの僅かの間に意気投合した新しい親友の名を叫んだ。
「ニナぁっ! 」

 目を閉じて頭を抱え込んだままのニナには一体何が起こったのか分からない。真っ白な光と鼓膜を突き破らんばかりの炸裂音、自分の周囲に吹き荒れる嵐、金属の残響音。はっきりしている事はそれが今まで自分が体験した事のない現象で、しかも命に関わる事なのかもしれない、と言う事。
 爆発の衝撃波で全身が痺れている、余波に眩む頭で自分の身体の状況を確かめようと恐る恐る瞼を開いてみる。指を動かし足を動かし、アルビオンに乗艦する前に受けた負傷個所の自己診断方法を思い出しながら自分の意識を徐々に視野へと集中させる。何かよくない物を目にする覚悟で焦点を合わせたニナは、自分の前に置かれた見慣れない金属の大きな壁を見つめて呆然とした。
「 ” ―― 怪我は、ありませんか? ” 」
 頭上から降り注ぐ震える声に思わず天を振り仰ぐニナ、そこには自分の記憶には無い一号機の両目があった。ニナの身体の前へと翳して爆風から守ったその手が微かに熱を帯びている。機械の顔に浮かんだ憂いの色に驚きながらもそれを表現する術を知らないニナは、ただ促されるままに何度も小さく頷いて自分の安否をコウへと知らせた。
「ニナっ、大丈夫!? 怪我はない!? 」
 血相を変えたモウラがまるで敵に狙われた我が子を護る様に大きな体で抱きしめる、その姿を見守る様に俯いたままの一号機の外部スピーカーが抱き合う二人に向かって声をかけた。
「 ” …… バシット中尉、生存者と民間人の確保と避難誘導をお願いします。 ―― 僕は、行きます ” 」
 声と共に噴き上がるパワーゲインの唸り声、ミリタリーラインを軽く突破した一号機のジェネレーターは複雑に編み込まれた機構の一つ一つに火を灯して白い巨体を軽々と持ち上げた。パーツの擦れ合う音一つ立てずに立ち上がるそれは全てが高い精度で組み上げられている証拠、幾何学美の粋を凝らした人類の最高傑作は滑らかな動きでその大きな足を前へと踏み出した。
 下敷きになった残骸やコンクリートの塊がその重みで奇妙な破砕音を周囲へと撒き散らす、気付け代わりのその音で耳朶を叩かれたニナはやっと取り戻した現実の世界で遠ざかっていく一号機の背中に向かって思わずその手を伸ばした。
「まっ、待ってっ! 」
 力の限り差し伸ばした彼女の指がそこまで届けとばかりに彼を追い求める。だがその指の間から覗く僅かな景色の間から一号機の姿は零れ落ちた、破壊されたハッチの向こうに広がる破壊と混沌の戦場へと。
 力の及ばぬ彼女の代わりに二号機を取り戻す為。

                                *                                *                               *

「 …… それがコウがガンダムに乗った理由 ―― そして私との出会い。核装備の二号機を奪取したのがガトーだと分かったのは、後を追った彼らが帰って来てから知ったわ。無傷だったのはコウ一人、トリントン基地のモビルスーツ隊はコウとキースと指揮官のバニング大尉を除いて全滅したけどね」
「そんな …… だってテストパイロットの部隊だったんでしょ、その基地に駐留していた隊って。連邦軍でも一番上手にモビルスーツを扱える部隊が全滅だなんて ―― 」
「それが『ガンダム』。そしてそれを自在に操る事の出来るエース、勝つ為の条件を二つも手に入れた彼に勝てる者は誰もいない。むしろ彼と見えて生きて帰って来た者がいるだけ奇跡と言えるわ」
 ニナの答えを受け取ったアデリアの眉がピクリと動く。その仕草をちらりと横目で見たマークスは訝しく思った、それは彼女が不快感を表す時に無意識に出る癖なのだ。
「もちろんコウだって敵う訳がない。でも帰って来た一号機を見た時私は興奮したわ、やっぱり『あたしのガンダム』は凄いって。コウが無事だったのもきっと一号機の性能のおかげだ、そう思っていたわ。 …… コウに返して貰った起動ディスクを開いて見るまではね」

                                *                                *                               *

「モウラ、ちょっと」
 データ管理用のラップトップの画面をニナが真剣な面持ちで見つめている。一号機の点検が一段落した所で呼び出されたモウラはマグカップの中で冷えたコーヒーを啜りながらニナの肩越しに画面を見つめて、そこに描かれた様々な数値に目を通してから彼女に尋ねた。
「ニナ、これってあの少尉さんのデータなのかい? 」
 画面の隅にはそのデータの持ち主が正式に登録されていない事を示す『No Name』の表示、だがそのデータが誰の物なのかをリバモアからの付き合いであるモウラが尋ねる訳がない。この機体はジェネレーターの事故でニール・クレッチマンと言うベテランパイロットを失って以来、誰の手にも委ねられていなかったのだから。
 コウによって記録された稼働データ数値の異常さは門前の小僧並みのモウラにも分かる、瞬間最大駆動率、反応速度、関節部を構成するアクチュエーターの伸縮バリエーション等ありとあらゆるデータが試験想定範囲の上限を超えて実戦領域に踏み込んでいる。言を返せばそこまでこの一号機を扱う事が出来なかったとしたら、彼は他のモビルスーツの隊員と一緒にガトーの手によって『星』の一つにされていた事だろう。
「信じらンない …… いくらテストパイロットと言っても彼らが普段使ってた機体とは格段の差があった筈だよ。よりにもよって『ザク』しか乗った事の無い少尉さんがいきなりこんな数値を ―― 」
「ザ、ザクも …… いい機体だわ、モウラ」
 咎める様なニナの物言いにきょとんとしたモウラは、ジオンが誇る機動兵器の始祖に纏わる三人のあやに思わず苦笑してニナの後頭部へと視線を落とす。
 どうしてどうして、仕事一徹の堅物かと思いきや可愛い所も存外あるじゃないか。不承不承ながらも自分の非をモウラの前で初めて認めた彼女に向かってモウラは尋ねた。
「ンで、あたしを呼び出したのは何の相談なのかな? このプロジェクトの責任者としてはこのデータを見て黙ってはいられないという所なのかい? 」
「そ、そうじゃないわ。ただこの基地に残っているパイロットで無事なのはあの二人だけでしょう? この先一号機の運用試験をお願いするとしたら彼ら二人の内どちらかじゃない。私は整備責任者としてのモウラの意見を聞きたいだけよ」
「運用試験? …… 聞いてないのかい? ニナ」
 何を、と口が開く前に振り返ってモウラの顔を見上げるニナに向かってモウラは残念そうな表情を浮かべた。嘘偽りでは無い、それがモウラの本心だった。
「残念だけど一号機の試験は中止するみたいだ。ジャブローからの指示でこのアルビオンは二号機奪還作戦の任に就く事がさっき決まったよ。艦内はとっくに臨戦態勢、補充の部隊ももうすぐ到着する」
「! なんですって!? じゃあ一号機はどうなるの? まだパイロットも決まってないって言うのにっ! 」
 激昂して思わず腰を浮かせたニナの両肩に手を当てて、落ちつけと言わんばかりにモウラが宥めた。だがそんな事で彼女が収まる訳がない、手から伝わる怒りの震えがそれをモウラに教えている。
「一号機は現状のままで軍が受領する事になると思う。パイロットは ―― んー、多分だけど今から来る隊員の誰かと言う事になンじゃない? 実戦経験の浅い新米少尉さんと一年戦争の生き残りとじゃあ上層部の受けも比べモンになンないし、まあ妥当っちゃあ妥当な ―― 」
「なによそれっ!? 私の意見なんかどこにもないじゃない。いくら軍に譲渡するって言っても開発責任者の私を無視して話を決めるなんてあんまりだわっ! 」
「そりゃまあそうなンだけどさあ、ちょっと落ち着いて考えてみなって。一刻も早く二号機を奪還する為にはそれなりの ―― 」
「それなりって何よ!? じゃあ連邦軍の誰かも分からない馬の骨が彼と同じ数値を叩きだして私を納得させる事が出来るって言うの!? ありえない、そんな事絶対にありえないっ! 」
 見目麗しき姿形に隠されていた火の様な感情が露わになって目の前の友人を責め立てる。自分の想像には無かった彼女の豹変ぶりに思わずたじろぐモウラではあったが、その原因がたった一つの事柄に集約されている事に気付いて思わず小さく笑ってしまった。もちろん彼女のそんな表情を見逃すニナでは無い、自分の訴えに対して見透かした様な笑みを浮かべたモウラを咎める様な眼で睨みつけた。
「 …… 何? 」
「いや、随分とウラキ少尉の肩を持つんだなあ、って。それにその口ぶりじゃああんたの中ではとっくにパイロットが決まってンだろ? 」
 モウラの思わぬ指摘でニナの表情は一瞬凍り付き、次の瞬間にはあられもなく狼狽した。大きな目を何度も瞬かせて口をパクパクと開いて今の不埒な言葉に言い返そうと試みる、だがモウラはそんなニナの肩をポンポンと叩くと穏やかな笑顔を浮かべた。
「ま、あんたの気持ちも分からなくはないけど契約上では軍への譲渡の後はアナハイム側の所有権が消滅する事になっている ―― それくらいの理屈は分かンだろ? それにウラキ少尉はトリントンの常勤だ、幾ら基地が機能しなくなったと言っても地上配備から宇宙軍へと急に移籍なんて出きゃしない。彼が宇宙軍に必要なよっぽどの理由でもない限りね」
「 ―― ウラキ少尉は今どこ? 」

 真顔になったニナがいた。ラップトップの蓋をパタンと閉じてモウラを見上げるその目は険しい。
「どこって …… だから彼はこの基地の所属だから今頃後片付けに追われてるんじゃない? …… 戦死者がだいぶ出たからね、彼の仲間も含めて」
 その言葉を聞いた途端にニナはすっくと立ち上がった。余りの勢いに押されたモウラが後ずさりするのもお構いなしにテーブルのラップトップを小脇に抱えると、思わぬ展開に呆気にとられたままのモウラに背を向けた。
「 ―― って、ニナ。なにする気? 」
 不穏な気配を感じ取ったモウラがその華奢な背中を包む空色の制服に向かって問いかける、ニナは金色の髪を僅かに揺らして僅かに振り返りながら答えた。
「とりあえず本社。残った一号機の実戦データを採る必要があるかどうか」
「ああ、そりゃそうだ。あんたもあたしも宮仕えの身だ、なにはともあれお上のご意向を ―― って、今、何て言った? 『実戦』? 」
 ニナの言葉の中に紛れ込んだ物騒な単語を拾い上げたモウラの顔色が変わった。普通の人ならば頼まれても忌避する諍いを表すそれを、彼女はまるで近所のコンビニでも行くかのようにさらりと言ってのけた。
「私もアルビオンに残ろうと思う、一号機をより完全な形で軍に譲渡する為に」
「 ―― ちょい待ちニナ、あんた今自分の言った事の意味が分かってる? 」
 本当に怒ると妙に固い口調になるのがニナの癖だと言う事をモウラは知っている。そして見かけによらず自分の欲望に忠実で、その為にはどんな手段も厭わないと言う事も。二号機を追ったコウへと一言伝えようと単身基地を飛び出そうとしたニナをあわやの所で引き止めたモウラは、今の彼女を抑え込むのがどれだけ至難の業であるかと言う事が分かる。
「これからアルビオンは軍の命令を受けて正式な任務に就く、今までみたいに試験運用艦じゃなくなるんだ。もしかしたら戦闘になるかもしれない軍艦にわざわざ乗る必要があると思う? 」
「だからってこんな形で一号機を持っていかれても私の気が済まないわ、まだ調整を加えないといけない所が山ほどあるんだから。戦闘になると言うのならそれは私にとっても好都合、きっと彼なら一号機の全てを限界まで使い切ってくれるに違いない」
「彼って …… 」
 視線を外して出口へと足を向けた彼女の背中を唖然として見送るモウラ、だがやっとその言葉の意味を飲み込んだ瞬間に我へと返った彼女は焦りを交えて呼びかけた。
「あんたっ、本っ当にあたしの話を聞いてたの!? 自分で志願でもしない限りウラキ少尉はこの艦に乗り込めないんだって! 幾ら開発者のあんたが推薦したって軍の規定をひっくり返せる訳無いっ! 」
「彼を一号機に乗せる為なら ―― 」
 足を止めて振り返る彼女のどこにそんな気迫が隠されているのか。凄みすら感じさせる目つきでモウラを睨んだニナはきっぱりと自分の決意を言い切った。
「無茶でも何でもやるわよ、どんな手を使ってでも私自身を賭けてでも。一号機には ―― ううん、私には」
 手の中のラップトップをぎゅっと握りしめて声を詰まらせる。
 ―― 人と人との出会いは偶然の悪戯なのか? もしそうだと誰かが言うのなら私は声を大にしてこう言うだろう、「それは嘘だ」と。コウとここで出会った事はきっと私にとって、そして彼にとっての必然。
「 ―― 彼が必要なのよ」

                                *                                *                                *

 馴れ初めを語るニナの表情はとても穏やかにマークスには見えた。激動の悲劇の中で生まれたたった一つの小さな希望、その記憶は未だに彼女の心を捉えて離さない。口元を小さく歪めるその顔が今の彼女に出来る限りの頬笑みだと言う事も。
「最初はコウの事を『部品』の一つくらいにしか思ってなかった。でもそれは私の一号機を完成させる為にはなくてはならない存在 ―― 今思うとあの時の私はちっとも素直じゃなかった、もしかしたらコウの事が好きだと言う事を隠す為にガンダムと言う存在を利用してたのかもしれない。彼が初陣でコムサイを落とし、アフリカ大陸で包囲を突破する為に一度に三機のモビルスーツを撃破した時もそれはコウの実力ではなく私のガンダムの性能のお陰だと思って ―― そう思い込もうとしていた」
 そう言って静かに閉じたニナの長い睫毛が震えている、どんなに艶やかで美しい思い出だとしても今彼女が語っている物語のエピローグは悲劇。用意された結末に向かって捲るページの重みはそのまま彼女の心の痛みへと繋がっている。
「でもあの日 ―― そう、私が止めるのも聞かずに一号機で宇宙へと飛び出したあの日、私はとうとう気付いてしまった …… 自分の本当の気持ちに」

                                *                                *                                *

「ウラキ少尉、機体を放棄して味方に保護を求めてくださいっ! そのままではアルビオンと進路が交差します、出来るならすぐに座標移動をっ! 」
 シーマの強襲によって大破した一号機は、乱戦によって引き離されたアルビオンのモビルスーツ隊の手の届かぬ宇宙を彷徨っている。メーターが振り切れるほどの声量でコウへと呼びかける通信士の声を震える耳で聞き届けながら、ニナは艦橋の窓遠くで緩やかに流れる小さな流れ星を縋る様な眼で追いかけていた。
 重力下では無類の強さを発揮した一号機ではあったが、コアファイターの換装による仕様変更でしか空間戦闘での実用性を発揮できないと言う偏ったコンセプトは実質宇宙空間での一号機の使用の凍結を意味した。だが一号機の潜在能力を高く評価したコウはそれをよしとせず、自らの手で書き換えたプログラムを手にしてアルビオンの防御の為に宇宙へと飛び出す。結果、推進系統とAMBACの連動性を欠いた一号機はシーマの前で操縦不能状態アンコントローラブルに陥り、為す術もなく蹂躙されて戦域の終端部を漂っていた。
 シモンの元へと送られて来たテレメーターに記録されている一号機の損傷率は40%、それは重篤な事態が機体やパイロットに訪れている事を意味する。しかしもはや死に体となった最新鋭機の回収を交戦空域より帰還するモビルスーツ隊へと委ねようとした矢先、一号機は突如息を吹き返した。手足をもがれ、顔を潰されたスクラップがバーニアだけをくしゃみの様に漏らしながらアルビオンへの衝突コースを取っていると言う事実は超望遠に設定された外部カメラの映像に小さく写る白い影の動きを見てもはっきりと分かる。
 頭部と共に通信アンテナを吹き飛ばされた一号機から送られて来る物は位置計測の為の規則的な探信音のみ、不規則な加速を繰り返しながらアルビオンに接近しつつある一号機は意思を持たない巨大なデブリと同様の危険な障害物でしかなく、衝突による二次災害を想定したアルビオンは対空銃座の一部を迫り来る一号機の影へと向けた。
 艦橋に流れる異常な緊張感と不気味な沈黙、オペレーターと通信士の叫び声と一号機との距離を刻々と伝える砲術士以外には息さえも遠慮がちなその空気に全てを察したニナは思わず振り返って、自分の背後に控えて頭上のスクリーンへと目を凝らしたままのシナプスに向かって叫んだ。
「やめて下さい! シナプス艦長! 」
 それが何に対して向けられた事なのかは十分わかっている、だがシナプスはそれでも表情一つ変えず艦内モニターにその輪郭を鮮明にし始めた一号機を睨んだまま微動だにしない。
「お願いです艦長! 一号機を、コウを撃たないでっ! 」
「 ―― オペレーター、何をしているっ! 休まず呼びかけんかっ!? 」
 ニナの叫びに驚いて声を休めた二人の命綱に向かってシナプスは声を荒げた。表情に浮かび上がる苦渋と苦悩、焦りは怒りへと変わって尚も二人を叱咤する。
「モーリス、シモンっ! 二人掛りで呼びかけんか、最後まで諦めるんじゃないっ! ―― 左舷銃座! 発砲は私の指示を待て。万が一の時には出来るだけコクピットへの直撃を避けろ、コースを変えるだけでいいっ! 」
「艦長っ! 」
「止むをえんのです、パープルトンさん」
 なけなしのシナプスの理性は民間人であるニナの為に使われた。感情を必要以上に押し殺したが故に低く籠った声が彼女の説得へと向けられる。
「私にはこの艦に乗り込む全員の命に対する責任がある。ウラキ少尉が ―― 一号機がアルビオンに対して重大な脅威を及ぼす存在になると言うのなら、それは私自身の責任において排除せねばならない …… それが軍艦と言う物です。貴方はその事を理解した上でこの艦に乗り込んだのではなかったのですかな? 」
 シナプスの言葉とは裏腹に名指しで怒鳴られた二人の要員は弾かれた様にコウの名を呼び続ける。まるでその艦橋の中がシナプスの抱える複雑な心境であるかの様にニナには思えた。多くを生かすために払う小さな犠牲は確かにそれ自体を人が『正義』と呼ぶように、どこにでもあり得る事なのかもしれない。
 だが。
「お願いです、一号機はどうなってもいいっ! でもウラキ少尉は ―― 」
 切羽詰まったニナの思いがどこかで燻っていた小さな火種を呼び覚ました。それはたちまち大きな炎と化して彼女の心の奥底にしまっておいた秘めた何かに燃え移る。
「 ―― どうかコウだけはっ! お願い、助けてっ! 」
「 …… パープルトンさん、いや、ニナ・パープルトンっ! これは私の判断だ、民間人である貴方が口出しする領分では無いっ! 」

 苛立ちの恫喝を受けてもニナは引き下がる事は出来ない。自分を突き動かすものの正体をニナはその時初めて知った。
 一号機よりも。
 自分の乗るアルビオンよりも。
 もしかしたら自分自身よりも。
 彼を、失いたくないっ!

 無言で対峙したまま鬩ぎ合うニナとシナプス、そしてその成り行きを固唾を呑んで見守る艦橋のクルー達。徐々に排除限界へと接近する一号機からの探信音は次第にその間隔を縮めて砲術士のカウントの声だけが大きく世界に鳴り響く。だが最終決定を求める為に彼がシナプスへと振り向いた瞬間に届いた声は、その場でただひたすら悲劇を眺めるしか出来なかった者達に希望を齎す物だった。
「 ” ―― 発砲するなアルビオン。こちらは編隊長スコードロンリーダーのバニングだ ” 」
 アルビオンのモビルスーツ隊の指揮官であるバニングから齎されたその通信は艦内すべての状況を一変させた。エースをなすすべもなく失うという悲劇に溺れたアルビオンの全員がそこに一筋の光明を見出して雄叫びを上げる、シナプスは柄にもなく肘掛のマイクを一度取り損ねるという失態を演じる有様だ。彼に先んじてバニングとの回線を確保したのは通信士のモーリスだった。
「こちらアルビオンっ、バニング大尉、よく聞こえます。どうぞ! 」
「 ” 早とちりするんじゃない、現在一号機をエスコートしてアルビオンへと向かっている。ウラキ少尉はまだ生きている。―― 繰り返す、ウラキ少尉の生存を確認した ” 」
「シナプスだ。バニング君、すぐに少尉に機体を放棄するよう命令してくれ。現在一号機は本艦との衝突コースをとっている、少尉の救助を確認した後に艦砲にて排除する予定だ」
「 ” 艦長、残念ですが ―― ” 」
 バニングのジム・カスタムが何度も、幼子を連れて飛ぶ親鳥のように後方をよろよろとついてくる一号機へと振り返る。その姿がはっきりとスクリーンで確認できるほど双方の距離は近づいている。
「 ” ―― 一号機の接近は機体の故障ではありません、奴の意思です ” 」
「どう言う意味だ? 」
「 ” ―― 奴は被弾と負傷の影響で意識が朦朧としているようです、こちらからの応答には一切答えません。しかもうわ言のようにアルビオンへの着艦を求めています、何度も ” 」

「なんだって!? あの機体でここに降りるって言うのかい!? 」
 通信を聞いたモウラが怒ったように叫んだ。その瞬間に頭の中を過ぎったあの日の自分の言葉、『生きて帰ってきたらあとの面倒はあたしが見てやるよ』 ―― 確かにあたしはあんたにそう言ったが何もこんな所で返す事ァねえだろ!?
 過去への回想で失ったほんの一瞬の空白、気付いた時には整備班の殆どの者が途方に暮れて戸惑っている。無理もない、アルビオンに乗り込んだ一年戦争経験者は数少ない。我に返ったモウラは慌てて傍にいる先任整備士に向かって大声で指示を出した。
「なにやってんのっ! ネットを、クラッシュバリアを全部上げて! ハンガー内の全照明と着陸誘導灯ミートボールの出力を最大、ガイドビーコンは限界まで伸ばして! 要員はすぐに誘導路から退避だ、急げっ! あっという間に降りてくるよっ! 」

 一瞬の沈黙を守っていたのはシナプスも同じであった。突き付けられる究極の選択、艦の安全を優先するべきか負傷兵の保護を優先するべきか。
 顎を摘まんだまま頭上のスクリーンへとちらりと目をやる。ジムに随伴する一号機の損傷は思った以上に深刻で、特に顔面を半壊されたのが痛い。ガイドビーコンに同調する為のデュアルカメラを潰されたモビルスーツが無事に着艦出来る確率など小数点以下だろう。その様な勝ち目のない賭けに艦全員の命を賭ける価値があるのだろうか。
 スクリーンから視線を外して俯いたシナプスはふう、と息を吐くと徐に肘掛けのマイクを取り上げてスイッチを入れた。
「達する。これより本艦はガンダム一号機回収の為に現時点を持って第一種戦闘配備を解除、直ちに緊急着艦の準備へと移行する。左舷に位置する全ての対空要員並びに保安要員は速やかに右舷デッキへと避難しろ」
「 ” 艦長!? ” 」
 艦橋に響くバニングの声には虚偽の感情が入り乱れている、彼とて一号機の惨状を間近で見ればコウの判断がいかに無謀な物かと言う事くらいすぐ分かる。だが自分の予想とは全く正反対の命令を下したシナプスに疑問の声を上げるのは当然の事だった。
「私は軍人である前に一介の船乗りだ、遭難している仲間が助けを求めているのなら万難を排してそれに手を差し伸べるのは当たり前の事だろう。 ―― できるか、大尉? 」
 先導役に敢えて事の成否を確かめるシナプスの声は低くて力強い、絶句していたバニングはそこにシナプスの強い意志を感じ取ってその迫力に負けない力強さで問いかけに応えた。
「 ” やりますっ! 必ず、やらせて見せます。 …… 一号機のアルビオンへの着艦、許可願います ” 」
「よかろう、着艦を許可する。大尉」
 シナプスはそう言うと口を両手で塞ぎながら震えているニナの顔をちらりと見て、言った。
「必ず彼を …… ウラキ少尉を連れて帰って来てくれ」
 
 シナプスの言葉が終わった瞬間に艦内の空気が一変した。静寂を打ち破る非常警報、それに負けないぐらいの大きな声で自分の担当部署へと指示を飛ばす艦橋のクルー達。操舵手のパサロフが前方に置かれたモニターの数値を睨みながら舵輪を少しづつ右に廻して窓の外に広がる星の位置を変え始める、接近する一号機との相対速度を出来るだけ抑える為の逆噴射の振動がアルビオンの全身を大きく震わせる。彼らの執る行動は襲いかかって来た敵に対する対応と何ら変わりがない様にも見える、しかし明らかに違う所が一つだけある。
 それは熱だ。仲間を助けたいと思う気持ちが激突による恐怖を完全に凌駕している、コウを助ける為に全ての手を尽くそうとする仲間達の願いがアルビオン全体を包み込んでいる。
 何かに後押しされる様に震える床を蹴って艦橋の出口へと向かうニナの両足、脇を通り過ぎるその横顔を祈る様に目を閉じながら見送るシナプス。

 艦中央から縦に貫く移動用エレベーターへと飛び込んだニナは何かに怒りをぶつける様に開閉ボタンを拳で叩いてうなだれた。止めどなく溢れる涙が瞳を濡らして景色を歪ませる、零れ落ちた滴の後に向かってニナは泣き叫んだ。
「ばかっ、私の言う事きかないから …… ディスクも持たずにいっちゃうからっ! 」

 ―― 私のせいだ。
 彼の頑張りに嫉妬した私が意地を張るからこうなった。私よりも一号機を好きな彼がきっとこうするであろう事を、私だけが誰よりも知っていた筈なのにっ!

「 ―― ガンダムを …… 一号機をどうしてくれんのよ …… 」

 ―― 違うっ! 
 空いた穴は埋めればいい、傷ついた物は換えればいい、壊れた物は直せばいい。
 でも無くした物は二度とは帰ってこない、彼を失えば明日からの私は今までの私じゃなくなる。大事な物すら守れない、そんな私を私は赦す事が出来るの!? 

 嗚咽と慟哭と共に湧き上がる想いはニナ・パープルトンと言う仮初めの全てを否定して狭いエレベーターシャフトの中に木霊した。

「救護班待機っ! あたしがハッチを開けるっ! 」
 慣性のついた一号機のデブリを肘で払いのけながらモウラは一直線にコックピットへと飛ぶ。最後のネットに辛うじて引っ掛かった一号機は着艦のショックで足を捥ぎ取られて見るも無残な姿をハンガーへと晒している、虫の息となった融合炉に緊急停止スクラムをかけたモウラは急いでハッチの爆砕レバーを握り締めた。
「下がれ、強制開放っ! 」
 一気呵成に引き抜くモウラの目の前でハッチの結合部が鈍い音を立てて外れる、その途端にコックピット内部に残っていた残留酸素が気圧差でその重い塊を勢いよく一号機の残骸から押し出した。一瞬で霧と化した空気がその中にあった全ての浮遊物を巻き込んでハンガー内へと流れ出す。被弾の衝撃で破壊されたであろう機器の破片と蓋が開いたままの緊急医療キット、そして ―― 
「 ” コウッ! ” 」
 血塗れの白いスーツが最後に飛び出した事をモウラが確認する前に、その叫び声は耳へと届いた。慌てて振り返る彼女の目に映る朱色のノーマルスーツ、差し伸ばしたその手がコウの腕を掴むとまるで包み込む様に抱きかかえた。
「 ” ごめんなさいっ! コウ。私が、わたしがあんな事しなければっ! ” 」

 スーツで隔てられたその距離がもどかしい。遮る物が何もなければ彼の温度をこの肌で直に感じる事が出来るのに。
 力の抜けたコウの身体を抱きかかえたニナが何度も何度もその名を呼ぶ、ひび割れたバイザーの奥に眠る彼の顔を必死の形相で見つめながら。返り血で自分の身体が染まるのもお構いなしに。
「! …… いき、て、る」
 ニナの呼びかけに応えるかのようにコウの睫毛が小さく震える、握った腕の筋肉が微かに動く。奇跡を手にした喜びはニナの蒼い瞳から新たな涙と声を迸らせる。
「ごめんなさい、コウ。 …… ありがとう、生きててくれて。私 ―― 」
 それ以上の思いをニナが口にする事は出来なかった。言葉にならない嘆きの調べがハンガーの隅々にまで届いて、それは救護班に二人の身体が確保されてからも鳴り止む事は無い。ストレッチャーに横たえられるコウと看護師に支えられたニナがハンガー脇のエアロックから通路へと出ていく様を、一号機のコックピットの淵に掴まったままのモウラが目を細めながら見送っていた。
「ったく『塞翁が馬』ってレベルじゃないけど。ま、いいか。 …… ニナ、コウが生きててほんとによかったね」
 複雑な笑みを浮かべて大きく空いたままの開口部からボロボロのコックピットを眺める、パネルの隅で辛うじて点滅していたパワーゲージの最後の一つの息の根が止まった事を確認したモウラがそこでやっと安堵の溜息を洩らした。
 
                                *                                *                                *

「私はコウを死なせたくなかった」
 ぽつりと漏らしたニナの何げない言葉の中に隠された重み、単純であるが故にそれがいかに確固たる思いであったかを窺い知ることが出来る。語り部の声に緊張するマークスは既にその雰囲気に呑まれて立ち尽くしていた。
「コウのディスクに残された戦闘データ、そして記録されたジオンのありとあらゆる機動兵器のスペック、そして彼がこの先辿り着くであろうパイロットとしての能力の限界。それらを全て再検証して出来上がったのが『フルバーニアン』、私の手がけた最高傑作」
「『フルバーニアン』? 」
「正式名称は『AERX78-GP01Fb』、それが生まれ変わった一号機の名前。速度と機動性能に特化したその機体を凌ぐモビルスーツは紛争が終結してから三年たった今でも未だに存在しない、それも多分この先暫くは現れないでしょうね。そしてコウの為だけにカスタマイズされたその機体が誰かに後れを取る事など有り得ない、事実彼は初陣で一年戦争末期に未完成のまま放棄されていたモビルアーマーを月面で撃破しているわ」
「え ―― の、乗って間もない機体で、モビルアーマーを撃破だって? 」
 小さく頷いて肯定するニナを信じられないと言った面持ちで見つめる二人。数々残る戦争中の逸話の中にもそんな馬鹿げた話にはお目にかかった事がない、それは言うなれば初めて乗った車でレースに出て優勝する様な物。
「そんな適応力を伍長が持ってるなんて信じらンない。それにモビルアーマーってそんなに簡単に墜とせるモンなの? 」
 無口だったアデリアが隣のマークスに向かって尋ねても、聞かれた彼でさえそれに答える事は出来ない。なぜならモビルアーマーの実物すら拝んだ事のない彼らにはその圧倒的な破壊力や防御力を想像する事すら困難だからだ。
「コウだってもう少しの所で命を落とす所だった ―― その時の事をコウは私には何も話してはくれなかった。もしかしたら本当は敵のパイロットを死なせたくない、例えここでガンダムを失っても …… そう考えてたんじゃなかったのかしら」
「そんな。敵に情けをかけるにしても程度って物がある。相手が自分を殺そうとしているのにわざわざ犠牲になろうとするなんて ―― 」
「彼は ―― ケリィ・レズナーと言う敵のパイロットはコウにとっての、恩人だったから」

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「 ” ウラキっ! コウ・ウラキ聞こえるかっ! ” 」
 ガンダムシリーズに継承される脱出機能 ―― コア・ブロック・システムによってケリィのヴァルヴァロに捕えられた下半身をパージしたコウは、メインブースターを全開にしてその一点へと肉薄した。それは恐らくケリィも知らない、しかし共にそのモビルアーマーを組み立てたコウだけが知る唯一の弱点。
 強襲型のモビルアーマーであるヴァルヴァロの前面装甲は異様なまでに分厚くモビルスーツのビームライフル、いや距離によっては巡洋艦の主砲ですらも跳ね返してしまうかもしれない。だが重装甲の機体に唯一残されたアキレスの踵、それが機体上面から燃料タンクへと取り廻されたアポジ用のラインだった。
 ベース機となったMA-05ビグロの弱点を補う為に追加された数多くのアポジモータはその真価を十分に発揮してニナの想像を超える機動力をヴァルヴァロに授けた。だが巨大なスラスターを後部に抱えるこの機体の余剰スペースは限られており、その為からかアポジへと燃料を供給するラインは装甲下で複雑に入り組んでしまっている。そして全てのラインが偶然にも一点に集まるその場所が丁度機体上面の中央に位置するメンテナンスハッチだった。
 真っ赤な装甲板を易々と貫いたフルバーニアンのビームサーベルは全てのラインを分断して推進剤の真っ直中へとその刃を差し込んだ。発生する膨大な熱量によって発火した二液は瞬くうちにヴァルヴァロの全身を駆け巡ってそれ自体を巨大な爆弾へと変質させる。
「ケリィさん!? 」
 連邦軍の通信周波数で発信されたケリィの呼びかけに思わず驚きの声を上げるコウ、誘爆寸前の巨大なモビルアーマーを目の前にして彼は未だにそこから離れられずにいる。
「 ” ウラキ、俺は後悔などしていないぞ。最期の相手が貴様だった事を誇らしく思っている位だ ” 」
「最期って! ケリィさん、早く機体から脱出をっ! そのモビルアーマーはもうすぐ爆発しますっ! 」
「 ” ―― 脱出装置など、端からこれにはついていない。これが俺の棺桶のつもりだったからな ” 」
 ケリィの答えにコウは耳を疑った。馬鹿な、彼から見せてもらった青写真には確かに脱出用の爆砕ボルトが描かれていたではないか。
「 ” そこまで片手で扱えるようには出来なかったって事だ、ガトーが俺の元へとビデオレターを寄越してから今までの間ではな ” 」
「あなたは ―― あなたは最初から死ぬつもりでっ!? もう二度とあの家へと戻る事なんか考えもしないで!? 」
「 ” 俺の覚悟を奴に ―― ガトーに伝えるにはそれしかなかった。片腕である事を知っていながらデラーズフリートへの参加を呼びかけて来たあいつの信用に応える為には ” 」
「ケリィさんがそこまで命を賭けるだけの価値があの男にはあるって言うんですか? 自分には分からない、あの男はやっと平和になった宇宙にもう一度戦争を巻き起こそうとしている張本人だ! 」
「 ” ―― あいつがどんな事をしようとしているかと言う事までは知らん、ただ俺が思ったのは貴様が必ずガトーの野望に立ち塞がる最大の障害になると思ったからだ。ガンダムさえいなくなればあいつはきっと事を成し遂げる、まさか貴様がガンダムのパイロットだとは夢にも思わんかったが ” 」
 装甲下での誘爆がサーベルの柄に伝わり始める、コウはビームの刃を手元のレバーで収めると僅かにヴァルヴァロの背中から距離を空けた。
「 ” 俺がなぜ、街のごろつきに叩きのめされた貴様をわざわざ自分の家に連れて帰ったか分かるか? ” 」
 死へと向かう旅すがらに語り掛けられたケリィの声に、コウは応える前に息を呑んだ。敵である資格を失って残された友人としての間柄、それを如実に表す彼の声。
 優しかったのだ、途方もなく。

「 ” ―― 貴様は、俺が出会った頃のガトーに似ている ” 」

 驚きのあまりに言葉を失ったコウへとケリィは更に語りかけた。
「 ” 貴様の中には既にガトーがいる、それは奴と修羅場を潜り抜け続けた俺だから分かる事だ。貴様と刃を交えた事で俺は長年抱き続けた疑問の答えを得る事が出来た、俺と奴とどちらが力が上なのかという答えにな ” 」
 ぐらりと揺れる目の前の深紅が緩やかに月面へと降下を始める、為す術もなくその場へと浮かんでいたフルバーニアンの機体に向かってヴァルヴァロの腕が押し付けられた。
「 ” もう行け、その前にこれは貴様に返しておく ” 」
 押し出される上半身のすぐ脇で、囚われたままの下半身が星空に舞う。
「ケリィさんっ! 」
「 ” 敗者にかける言葉などない、死者に手向ける言葉も無用だ。兵士はいつか自らの死を戦場で迎える、それこそが本懐 ” 」
「だめだっ! あなたが死んだらラトーラさんはどうなるんだ!? 彼女は今でもあの家であなたの帰りを待っている筈なのにっ! 」
「 ” ―― 愛よりも、友情よりも ” 」
 押し寄せる葛藤がケリィの言葉を詰まらせる、だが彼は断固としてその姿勢を崩さない。目には見えなくてもコウには分かる、例えその腕を失っても威風堂々と背筋を伸ばし、力を漲らせたその目でモニターを睨みつけているに違いない。それがケリィ・レズナー大尉と言う、恐らくジオンの撃墜王の一人である彼の姿。
「 ” 『俺達』には守らなければならない物がある、進むべき道がある。今は分からなくても貴様はもうすぐそれを知る事になるだろう。ガトーに近づけば近づくほど俺と同じ志を持った者達が貴様の前に立ちはだかる、己の矜持と義を証明する為に ” 」
 ヴァルヴァロの後部の装甲板が内部からの爆発で剥離した。暴走を始めた三基のメインスラスタがコウとケリィの距離を絶望的なまでに引き裂き、制御不能に陥った瀕死のヴァルヴァロはコウの恩人を黄泉路へと導く。接近警報の鳴り止まないコックピットの中でケリィは、声を張り上げて勝者に向かって高らかに謳い上げた。
「 ” 聞け。この世に正しい物などない、それは人が何かを為し得た後に起こる様々な事を評価されて初めて正しいと証明されるのだ。もし自分が間違ってないと信じるのならそれを貫き通せ、ガトーと見えて貴様の『義』を証明して見せろ。生き残れるとは限らんがな ” 」
「ケリィさんっ! 」
「 ” さらばだ、ウラキ。 ―― ジーク・ジオン ” 」
 その声が途絶えた瞬間にヴァルヴァロの機体は月面へと激突した。コウの眼下で真っ二つに折れ曲がる機体を猛烈な爆炎が包み込んで辺り一帯へと衝撃波を撒き散らす、最期の命の輝きをその目にしっかりと収めながらコウはバイザーの奥で血が出るほど唇をかみしめる。月を埋め尽くさんばかりの光に瞳と心を焼き焦がしながらコウは呟いた。
「 …… ガトーに辿り着かなければ、奴を、殺さなければ。この戦いは終わらな、い、…… だれも救えないのか? 」

                                *                                *                                *

「その日からコウは変わった」
 そこでプレリュードが終わり、本当の悲劇の幕が上がった事をアデリアとマークスはニナの面持ちから知った。いつの間にかニナの両手はしっかりと結ばれて、籠められた力が彼女の白い指を更に白く彩っている。引き剥がされる罪の痛みに苛まれるニナは悲痛な声でこう告げた。
「コウの顔から笑顔が消えて、彼の口から未来を描く言葉はなくなった。それは彼がこの戦いを何としてでも自分の手で終わらせようとする覚悟の現れ、そしてその為にガトーを殺すと言う固い決意」
 小さな声に秘められた大きな後悔、それは彼女のエゴによって生まれた二人の運命。
「『フルバーニアン』はその為に彼に与えられた最悪の兵器だと …… 私は二人が戦ったソロモンの海で初めて知ったわ」



[32711] Missing - linkⅡ
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/02/20 23:50
「ヘンケンさんはセシルさんとどこで知り合ったんですか? 」
 話の流れを遮っていきなりそう尋ねて来たコウの顔をヘンケンはまじまじと見詰めた。収穫の無事を祝って設けた二人だけの宴席はたけなわとなっても物静かな居住まいを残し、それは手元に置かれたオールドバカラの輝きを一層引き立たせている。多少ガタは来ているものの月夜の静けさをそのまま部屋の中へと取り込むこの空間をヘンケンは妙に気にいっていた、勿論今目の前で真剣な面持ちで尋ねて来るこの青年の事も。
 どういう心境の変化だとヘンケンは少しの間手の中のショットグラスを弄んだ後に、人の悪い笑顔を浮かべて上目づかいにコウに言った。
「 ―― 藪から棒にそんな事を俺に聞いて来るって事は …… さてはどこかに気になる女の子でも出来たって事か? 」
「あ、い、いや、そういう事じゃなくて。 …… 二人を見てるとすごく羨ましくて。赤の他人同士が一緒になって生活する、それなのに夫婦と恋人同士ではどこか違う。その違いって何なんだろうって」
「簡単だ。恋人同士では逃げられるが夫婦同士では逃げられない。切り捨てられるか否か、それだけの事だ」
 ヘンケンの手がガタつくテーブルの上に置かれた傷だらけのボトルへと伸びて、その中身を空になったまま置かれているコウのグラスへと注ぎこむ。製精度の高さを物語るその粘りが注ぎ口の上でトクトクと鳴った。
「そうだな、分かりやすく言うと例えば君が戦場で片腕を失ったとしよう。その姿を見て助けてあげなきゃと考えるのが恋人、そんな事を考えもしないのが夫婦って事だ」
「? それじゃ恋人の方が相手を思いやっている様に聞こえますが」
「助けてあげなきゃと考える事には助けないと言う選択肢も残っている。だが夫婦はそんな事を考えない、相手を助けるのが当たり前なんだ。他動的か自動的か ―― その差を埋められるかどうかが長続きするコツだ」
 いまいち釈然としないコウに向かってニヤリと笑い、手の中のグラスを軽く差し上げて中身をちびりと啜る。背凭れに腕を預けて身体を傾けたヘンケンが少し首を傾げて目を閉じた。
「セシルと俺は同じ巡洋艦の部下と上司でな、まあ有体に言えば職場恋愛って事になるんだが ―― 知り合ったのはお互い別の船に乗っていた頃からだ。そん時ゃあいつのほうがいい船マゼランに乗ってたんだぜ」
「船? じゃあセシルさんとヘンケンさんは ―― 」
「二人とも一年戦争の生き残りさ、今の俺達の年代じゃあ石投げりゃ当たる位にありふれたレッテルだけどな。欠員だった俺の船の副官にあいつがやって来た時にゃみんなが目を疑ったモンだった、なんでこんな女が輸送巡洋艦の副官なんぞに志願したのかって。面と向かって断ってやろうと思ったらセシルの奴いきなり「私に生き恥を晒させた責任はどうとって頂けるのでしょうか」だと」
 肝心なところをぼやかしてはいるものの、少なくともセシルとの出会いに関しては嘘ではない。まるで孕ませた責任を求める女性のように詰め寄る彼女に向かって彼は有効な迎撃手段を構築する事が出来ない。転入手続きから私物の搬入に至るまでのありとあらゆる反攻手段を完全に封じられたヘンケンは、外堀を埋められた城の城主よろしく諸手を上げて彼女の卓越した手腕に白旗を上げるしかなかった。その時の経緯を苦笑いを浮かべながら思い出すヘンケンではあったが、それから現在に至るまでに二人の周りで起こった環境の変化はけっして口外できる代物ではない。
 自分達が反ティターンズの為に雌伏の時を過ごす仮初めの夫婦だと彼が知ったら、彼は今の話をどう思うだろうか? だがまだこんなものじゃない、こういう時の為に練り上げた嘘を自分は彼に向かって告げ、そして信じ込ませなくてはならないのだ。
 二人が特命を受けて宇宙から地上に降りた事は、彼らが属する組織の関係者以外誰にも知られてはならない極秘事項なのだから。

「一年戦争が終わって軍に残るか否かの選択を迫られた俺達は今後の身の振り方を考えていた。そんな時に丁度この話が人事の方から舞い込んで来てな。まあ、あの一年戦争を生き延びたんだ、これからはゆっくりと現場を離れて暮らすのも悪くないかな、と。セシルもそんな俺の選択を歓迎してくれてな。それからはここで物作りに勤しんでいるって訳だ」
「 …… 自分もそんな人を知っていました。でも、その人は全てを諦め切れずに再び戦いへと赴いた。その時の彼の選択は間違っていないと自分は思っています。ですが残された人は ―― 」
 視線を落としたバーボンの液面がゆらりと拡大して二人の人影をコウの視界へ誘った。ケリィ・レズナーとラトーラと言う二人の幻影、思い出してしまったのはヘンケンが何気なく使った「隻腕」云々の表現による物なのだろう。ケリィは彼女の支えを拒んで戦場へと再び舞い戻る、袂を分かった二人を永遠に引き裂いたのは、自分。
 それは拭い切れない自分の犯した罪の一つであり、決して忘れる事の出来ない、忘れてはならない記憶なのだとコウは今でも信じている。
「それは人の生き方であって夫婦としての在り方じゃない。俺はセシルと共に生きる事を選んだが君の思うそいつは違ったと言う事だ。自分の命を燃焼できる世界を戦いに求め、自分が求めた戦場に共に生きようとした人物を連れて行く事は出来ないと分かっていた。 …… 離れたくないと思いながらもあえて切り捨てなければならない、悲しい事ではあるがそれも愛情と言う形の一つなんだろうな」
「じゃあ、ヘンケンさんはもし万が一自分が戦わなくてはならなくなった時 ―― 」
「セシルと行くさ」
 あっけらかんとそう告げたヘンケンは煙草を手に取った。ゆったりとした仕草で火を点し、一口大きく吸ってから煙草を吸わないコウを気遣い頭上を見上げて紫煙を吐き出す。隙間だらけの壁面から吹き込む外界の風に乗ってゆっくりと移動するその行方を酔いの回った目でぼんやりと眺めた。
「それが俺とセシルの共有する価値観なのさ。あいつを置いて行かない、俺を一人では行かせない。 ―― まあ、セシルに改まって聞いた事ぁないんだが、多分あいつもそう言うだろう。漕ぎ出す海がどれだけ時化ていても舵と帆の向きが同じならば船は必ず嵐を抜ける、それが夫婦パートナーとしての在り方だと俺は思う」
 それは夫婦等ではなく純粋な上司と部下の関係である事をヘンケンは語らない。ただ赤の他人同士が見えない絆で結ばれているという点においてはどちらも同じ意味を持つと思っている。セシルと言う人間を完全に信頼しているからこそ生み出される関係は夫婦にも勝るとも劣らぬ繋がりを持って二人を結び付けているのだろうと。
 もっとも自分の世話で手を焼いているセシルにこんな事を言ったら多分迷惑そうな顔をするとは思うが。
「 …… そう言い切れる事が、ヘンケンさんが自分には羨ましいです。自分にそんな強さはありません。自分が生きる事で人を傷つけ悲しませる位なら、自分は」
「そいつと同じ道を選択したって訳だ。なるほど ―― 」
 声音の変化にはっとしたコウが顔を上げるとそこにはヘンケンの静かな眼差しがあった。心の底まで見透かす様な瞳に厳しさと、ほんの僅かな憐みを携えて彼は言った。
「では君はなぜここにいる? 」
 ヘンケンが手にした煙草を灰皿代わりに使っていたエボニーの餌の空き缶に置いた。紫煙が緩やかに二人の間を立ち上って、頭上で仄かな明かりを放つ裸電球の光を薄める。
 言外に籠められたヘンケンの言葉の意味に打ちのめされながらコウは口を噤んで目を伏せた。

                                *                                *                                *

 ソロモン ―― その響きに一入の感情を持つアデリアの表情が曇りを見せた。最愛の姉を失った、そして自分の夢の一つを取りこぼしたあの場所はまたしても自分の大切な人から大事な何かを奪ったのか。やり切れない思いと行き場のない憤りが彼女の内に渦巻き、それはいつの間にか腕の震えへと変わっていた。
「今わの際に残したバニング大尉の言葉が全ての始まりだったわ。星の屑の作戦要項を手に入れその内容を読み伝えている間に彼は爆死した、最期にコウへと伝えた言葉はガトーがソロモンに現れると言う事だけ」
「83年のコンペイ島 …… たしか観艦式の最中にコンペイ島の融合炉が暴走して大爆発を起こしたって ―― 」
 マークスの言葉を受けて頷くアデリア、その事故は二人の記憶にも新しい。一年戦争後初めて実施された観艦式の最中にコンペイ島の核融合炉が突然暴走を始め、大勢の技師の犠牲も空しく炉心溶融からの核爆発を起こしたそれが参加した連邦軍の艦艇の約三分の二を呑みこんでしまったと言う大惨事。当時士官学校に通っていた二人はそれぞれの場所でこのニュースを耳にし、大勢の軍人があるべき死に場所ではない所で命を落とした事に心から哀悼し、それと同時に自分達がまだそこに行く事が出来なかったと言う幸運に心から感謝した物だった。
 ニナは無言で小さく頭を振った。
「それは『星の屑』と呼ばれる作戦行動のプロローグ。奪われたガンダム二号機に搭載されていた核弾頭はガトーの手によって観艦式宙域のど真ん中に撃ち込まれたのよ」
「 …… なん、です、って? 」
 予想も出来なかった真実を目の前にしたアデリアの顔が紅潮する、その問い掛けはまるで鞭のようにニナの良心を叩く。痛みに顔を背けた彼女の肩が震え、その両手は耐え忍ぶように固く結ばれる。
「あたしの、お姉ちゃんが死んだ海で ―― 核が」
「その弾頭は私が貰っていた資料の数値を遥かに凌ぐ破壊力を持っていた、そして宇宙で核が使用された前例は、ない。 …… 自己拘束型熱核弾頭Mk-82と呼ばれるその兵器は一瞬にして何百隻の軍艦と数えきれないほど大勢の命を呑みこんだ …… 私は自分の作ったガンダムが犯した罪を、ただ、見ている事しか出来なかった」
 まるで内側へと収束する様に力を込めるニナ。息を止まらせ、言葉を止めて過去の記憶に苛まれるその姿をじっと見つめる事しか出来ない傍観者の二人。黙を埋める苦悶の吐息がほんの少しの間物語を遮って、しかしそれはニナ自身の手で再び始められた。
「私は、コウとガトーがもう戦う事はないだろうと思ってた、圧倒的な数と戦力を誇る連邦軍にデラーズの艦隊が勝つ事など考えられないって。たとえ彼らがソロモンで何かをしようとしてもあっという間に阻止されるに違いない、私のフルバーニアンを操るコウならばガトー以外の敵に墜とされる筈がないのだから …… でも、甘かった」
 不意にニナが顔を上げて虚ろな視線を宙へと走らせる。暗闇に浮かびあがる過去の罪を躊躇いがちに口にした。
「そこにはもう、何もなかった …… コウとガトーを隔てる、全てが」

                                *                                *                                *

 これがガトーの棲む世界なのか。
 締めあげられ揺さぶられ叩かれる、絶え間ない慣性の恩恵に体中の液体と言う液体が偏りありとあらゆる臓器が震える。網膜に集まる血量によって変化する景色の色彩の中で敵の位置を示す数値とマーカーだけがコウの意識を繋ぎ止める。
 猛烈な戦闘機動でデブリだらけの宇宙を駆け抜けるフルバーニアンは推進剤の残量を見る見るうちに減らして双子の兄弟の影を追う、しかし彼の努力を嘲笑うかの様に身軽になった二号機はその性能をいかんなく発揮してフルバーニアンの攻撃を躱し続けている。
 星は消え、光が流れて世界が変わる。たった二人だけの世界で対峙を続ける彼らは命を賭けて刹那を削り続ける、どれだけの時間がたった? 何秒、何分、何時間? 概念すら失いつつあるコウの目の前へと現れる敵の機体。
 致死の輝きを目の前にしてコウの身体は考えるよりも早く右手のコントロールレバーを操った。

「ウラキ機、被弾っ! 」
 オペレーターのシモンが目の前に置かれたテレメーターの点滅に向かって叫んだ。膨大な出力のミノフスキー・ドライブはフルバーニアンの左肩へと届くや否やいきなりルナ・チタニウムの複合装甲を飴でも溶かす様に抉り取る。せり上がる恐怖に声を上げる事すら忘れたニナの耳に、艦橋のスピーカーから雑音混じりのコウの怒鳴り声が飛び込んだ。
「 ” まだあっ! ” 」
「ウラキ機、フロントスラスター展開っ! フルブーストっ! 」
 シモンの声と同時にスピーカーからものすごい轟音が艦橋内を席巻した。耳を塞ぎたくなるような不気味な地鳴りの中を、何事が起きたのかとシモンへと視線を向ける全てのクルーに逆らってニナが悲鳴を上げた。
「だめっ、やめてコウっ! ガトーと一緒にあなたまで死んじゃうっ! 」
「機体表面の温度が急激に上昇中、胸部第一装甲板が溶け始めてますっ! 」
 ニナの声に被せる様にシモンが叫ぶ、足をガクガクと震わせながら口を手で塞いでじっとスピーカーの方へと苦しげな目を向けるニナ。ぬう、と一言唸ったまま肘かけの上に置いた手を固く握ってシモンを見上げるシナプス。                  
「Iフィールドの侵食止まりませんっ、ウラキ機の損傷15パーセントに ―― メインバーニア二番離断っ! 」
「いやあ、コウっ! 」
「 ” わあああぁっっ!! ” 」
 それは断末摩の叫びだと、耳にした誰もがそう思った。

 最初からそこに決めていた。
 コウはハレーションを起こしたモニターを見つめながら手にしたサーベルを逆手に構えて振り上げた。降ろす場所は二号機の動かなくなった左腕の根元、きっとそこには二号機の肩を覆うフレキシブル・スラスター・バインダーのエンジンが隠されている筈。出力全開で伸ばされたビームの切っ先がコウの叫び声と同時にその一点へと振り下ろされた。

 最初に大きな爆発音、次いで籠もった様な小さな音が断続的に。そこにいる全員がコウの敗北を確信 ―― それは彼の死と同義だ ―― した瞬間に、騒々しくなったスピーカーから有り得ない声と信じられない報告がアルビオンの艦橋へと轟いた。
「 ” こちらウラキ、二号機を撃破っ! 行動不能を肉眼で確認っ! ” 」
「観測員、どうだっ!? 」
 撃墜報告ダウンレポートを受けたシナプスが即座に艦橋最上部に鎮座する観測室員へと檄を飛ばすと、超望遠レンズでその事実を目撃した観測員ですら余りの興奮に声が上ずる。
「 ” ま、間違いありません二号機撃破っ! 『ソロモンの悪夢』撃墜アナベル・ガトー ロストっ! ” 」
 爆散する絶望と爆発する歓声、だが所属するエースが上げた大金星に湧くアルビオンの中でただ二人だけがその後に起こるであろう深刻な事態へと目を向けていた。シモンが表情を曇らせながらヘッドセットへと叫ぶ。
「ウラキ少尉、こちらでも二号機の撃墜を確認。ですが中尉の機の損傷も ―― 」
「 ” 分かってる、一号機も大破したっ! コアファイターはメインバーニアの損傷で使用不能、これから単独での離脱を試みるっ! だれか、誰か味方をここへっ! ” 」
「了解しました、直ちに付近の機体をそこへと向かわせますっ! スーツの救難シグナルを発信して一刻も早くそこから離れて ―― 」
「 ” ちがう、そうじゃないっ! ” 」
 シモンの呼びかけがまるで見当違いだと言わんばかりに怒鳴るコウ、シートベルトを乱暴に毟り取る彼の焦りが衣擦れの音と混じってシモンの耳に飛び込んで来た。
「 ” 誰か、誰か奴をっ! ガトーはまだすぐそこにいるっ、早くっ! ” 」

「 ” こちらキース、現在ウラキ中尉の救出に向かって ―― だめだ、コウっ! 敵機ボギー3、奴らもそちらへ向かってる、あっちの方が早いっ! ” 」
「ウラキ中尉、すぐに現場から離れてっ! ここままではあなたが敵の捕虜になる可能性がっ! 」
「 ” くそっ! ここまでやってやられ損かっ!? ―― せめてディスクを、これだけはニナに ―― ” 」

「もうやめてっ、コウっ! 」

 不安と恐怖に押しつぶされて、ただ成り行きを見守っていたもう一人 ―― ニナの叫びが艦橋に木霊した。そこで初めて事態の深刻さに気付いたクルー達が声を潜めてニナへと目を向ける、刻一刻と迫るピリオドの恐怖に打ち震えながらも彼女は必死の形相で、宇宙の彼方に一人取り残されたままのコウに向かって呼びかけた。
「ディスクなんてもうどうでもいい、お願いだからっ! 」
「 ” …… ニナ、か? どこにいるんだ、まさか艦橋にっ!? 何で中央ブロックにいないんだ! ” 」
「そんな事どうでもいいっ、お願いだから早くそこから離れてっ! 」
「 ” ばかな、なんて事を言うんだっ!? ” 」
 それは今まで積み重ねてきた二人の努力を失う事と同じ意味だ、おいそれと棄てられる物ではない。コウは開発者であるニナの口からそんな言葉を聞くとは想像していなかったのだろう、だが驚愕に塗れた声で尋ね返したコウに向かってニナは同じ言葉を泣きながら何度も繰り返す。
「お願い、おねがいだから ―― 早く、帰ってきて。お願い」

「 ” ―― 分かった。 …… すまない、ニナ ” 」
 唸る様に呟いたコウの声の背後では既に暴走を始めたジェネレーターが不協和音を響かせて彼の声を霞ませる。ブッっという不快な音と共にアルビオンとフルバーニアンを繋いでいた会話の糸は永遠の眠りについた。

 コウが脱出した事を知らせる救難信号がシモンのモニター上へと浮かび上がる。安堵の溜息を一つ洩らしたシモンは全ての仕事を背中合わせに座っているスコットに預けると、静かに席を立って階段を下りた。シナプスの脇を通り抜けて足を向けた先、そこには跪いたまま項垂れるニナがいる。
「 …… ウラキ中尉は無事ですよ、キース少尉が彼を保護した事を確認しましたから。さあ元気を出して、これで全て終わったんですから」
「二号機爆発します、一号機も誘爆を始めましたっ。観測室から映像来ます」
 オペレーター席のスコットが頭上のモニターを見上げながら報告する、蹲ったニナとその肩へと優しく手を賭けたシモンが同時に天を仰いでその光景へと視線を注いだ。不鮮明ながら連鎖的に爆発を繰り返して砕けていく二つのガンダムを呆然と見詰めるシモン、ガンダムの不敗神話が音もなく崩れていく瞬間に立ち遭った事の不幸をじっと噛み締めて声を失う彼女の代わりにニナがぽつりと呟いた。
「どうして、彼らが」
「彼ら? 」
 思わず尋ねたシモンを尻目にニナは尚も言葉を重ねた。その光景を耳を澄ませながらじっと見つめるシナプス。
「 ―― どうしてあの二人が戦わなくてはならないの? 」

                                *                                *                                *

「戦争だもの、敵同士が戦うのは当たり前じゃない」
 冷たく言い放つアデリアに向かってマークスは非難の目を向ける、だが彼女はそんな無言の圧力を全く無視して尚もニナに対して鋭い視線を向けていた。
「ニナさん、一つ聞いていい? …… ニナさんにとってのガトーって、一体何なの? 」
「私にとっての、ガトー? 」
 不思議そうな眼を向けるニナと何かに憤ったままのアデリアの目がそこで出会う。
「そう、何でニナさんはさっきからガトーの事を『彼』って呼んでるの? ニナさんは伍長の事が好きなんでしょう? だったらその人を殺そうとする敵は絶対ニナさんの敵じゃない。それなのに …… いくら死んだ人だからってそんな言い方しなくても。それじゃあ伍長があんまりだわ」
 説教の様に言い連ねるアデリアに向かってニナが浮かべた頬笑みはどこか自嘲的ですらある。マークスはその顔が再び静かに項垂れるまでじっと行方を追い掛けていた。
「 …… 私ね、コウと知りあうずっと前からガトーを知ってたの」
「え、…… 何? 」
 唐突に告げられた真実に二人は思わず目を丸くした。
「彼と私が出会ったのは私がまだアナハイムに入る前の事だったわ。アナハイムのテストパイロットだと名乗った彼に興味があったのは確かだけれど、それよりも私は彼の生き様や考え方に憧れた。だれにも頼らずに孤高を貫こうとする彼の出で立ちが、その時の私が住んでいた世界にはとても眩しく見えたの。 …… 今考えればもうその時には『星の屑』は始まってたのかもしれない、彼は私がアナハイムへ入社が決まったと同時に私の前から姿を消したの。サヨナラの一言も言わずに、ね」
「じ、じゃあニナさんはあの『ソロモンの悪夢』の、元カノって ―― 」
「あの頃の二人の付き合い方を本当にそう呼べるのかどうか。…… もしかしたらそれは私の独り善がりで彼はそうは思ってなかったのかも知れない。彼に認めてもらおうと必死になって大人の振りをして背伸びをして、そんな私をジルはいつも優しい目で見つめてた」
「ジル? 」
「ジルベルト・フォン・ローゼンスタック、それが出会った時に名乗っていたガトーの名前。音信不通になった彼を探す為に私はアナハイムの膨大な社員名簿を隅々まで調べた、でもそこにジルの名前は存在しなかった。 …… まるで夢の様な日々、覚めてしまえばそれでお終い」
 その時ニナの瞳から自らを蔑む様な光が消えた。代わりに浮かんできた物はどこかしら温かさすら感じる穏やかな頬笑み、それは二人が初めて目にしたニナの心からの笑顔だった。
「私はコウと知り合って初めて人を好きになる事の意味を知ったわ。何も飾らずにただありのままのお互いをぶつけ合う、どんなに嫌いになろうとしても諦めようとしてもそれが出来ない。コウと一緒にいる事こそ私が私でいる為に最も必要な事なんだと、私はコウから教わった」
 だが彼女はそれを手放してしまったのだ、たった一つにして唯一の存在を。なぜだ?
 マークスの目に浮かんだありありとした疑問の光に何も答えず、ニナは後ろ手でモニターのスイッチを押した。年代物の液晶がぶん、と言う音と共に点灯してコウのデータを再び浮かび上がらせる。
「この機体は私の友達、ルセット・オデビーが作ったの」
 懐かしい目で画面を眺めながらニナがぽつりと言った。
「機体自体のコンセプトの発想は私。一号機と二号機はどちらもモビルスーツが一戦力として稼動する為の究極の性能を求めて私自身が手がけた物 …… でもこの三号機は違う」
 ニナの指がキーを軽く押した。画面が切り替わりあの日のコウが記録した兵装選択コマンドのデータが呼び出される。
「ガンダム自体をコアブロックの様に定義して、その本体に多種多様な兵器を詰め込んだコンテナを抱えて戦場を制圧する巨大な武器庫 ―― これ一機で一艦隊を壊滅させる事の出来る大量殺戮兵器、それが『AERX-78GP03・デンドロビウム』」
「戦場を制圧、一艦隊を壊滅? 馬鹿な。そんな事がたった一機のモビルスーツで ―― 」
 マークスの口から零れ出した疑問を封じたのは緩やかに動くニナの指だった。画面が切り替わったかと思うとそこには二人がまだ目にしていなかったデータが映し出された。兵装選択コマンドのデータを細分化してデンドロビウムの各コンテナに収められた兵種ごとに分けた分析結果 ―― どの武器が最も多くの敵を殺したか。目を大きく開いて見入る二人、3D表示で示されるその空間は想像以上に広大でしかも敵である事を示す赤い点に埋め尽くされている。だがそれがタイムゲージの進行と共に次から次へと✕に変化していくのを見て、思わず驚きの声を洩らした。
「 …… な、なんだよこれ。たった一機で、一方的じゃないか」
「あの日のコウが挙げた戦果がこれ。機動巡洋艦ザンジバル1、重巡チベ3、軽巡ムサイ7、モビルスーツに至ってはその宙域に展開していた敵の80パーセント以上を撃破もしくは戦闘不能に至らしめた」
 こともなげに事実を告げるニナの口調は紛れも無く技術者としての冷酷な響きを持っている、ことこの分野に関してはニナはそのスタンスを捨てる事は出来ないのだ。信じられないと言った面持ちで耳を傾ける二人にニナは更に言葉を続けた。
「でもこの機体には致命的な弱点があった。『ステイメン』と呼ばれるガンダム本体とそれを収納する母機の『アームドベース・オーキス』二つを一人のパイロットが操る事によって様々な戦場の局面に対応出来る様に開発された機体にはそれぞれの機構に対応したOSを必要とする。でも人はそんなに器用じゃない、目まぐるしく変化する戦況に応じて全てのデータの取捨選択を行うと同時に敵に対して最も効率的な兵装を選択して実行する。―― それも巡洋艦のエンジンを積んだ機体をGに耐えたままで操りながら」
「しかしこの機体がロールアウトしたって事はテストはしてたんでしょう? だったらその間に二つのOSを統合した物を搭載し直す事だって ―― 」
「 …… それを実証する為にテストをしていた02号機は偶発的に起こったテスト宙域での戦闘でパイロットごと破壊されたわ。コウが乗ったのは私が書き残したコンセプトをそのまま形にした01号機、そしてそれは02号機以上に人の手には余る物だった。 …… たった一つの可能性を除いては」
「可能性? 」
 マークスの問いにニナの顔が曇る。胸の内から溢れ出る痛みに顔を顰めて、しかしそれを押し留める事を諦めた様に顔を伏せ、強く瞼を閉じた彼女が振り絞る様な声で告げた。
「薬物よ」

 確かに戦時中、前線の兵士は敵前の恐怖を紛らわす為に『そういう類』の物を使用していたと言う噂を聞いた事がある。だがその話には大概オチがあって一年戦争が終わってからもその誘惑に耐えきれずに戦場を求めて幽鬼の如くに彷徨い歩くと言うのだ。その噂が話半分だと考えてみてもやはり一度そう言う物に手を出した人間がまともに社会復帰できる等とは考え難い、もしこの話が兵士の薬物使用を戒める為に考え出された物だとしたら連邦の広報部には何らかの感状を与えるべきだろうとマークスは思う。
 しかしその噂話をコウに当てはめるのは少し無理がある。たった一度チラリと見ただけではあるがバイクに跨った彼の姿は男の目から見ても逞しく、かつ凛々しくあった。とても何か病的な物に侵されている様な気配など感じられない。アデリアと違って様々な基地を転々と渡り歩いてきたマークスには、そういう人間がどういう雰囲気を持っているかと言う事を何人も目にして来てよく分かっているのだ。
「OSを書き換えない状態であの機体を操る、その為に考えられる事は『操る側の反応速度を上げる』事が最も有効な手段。 …… そう言う戦闘薬が開発されれば『デンドロビウム』は連邦にとって最も有益な兵器になり得る。でも私はそこまで試案を書き記してこの機体の開発を破棄したの。私にとってのモビルスーツはパイロットとエンジニアが協力してそのポテンシャルをフルに発揮するのが理想の形、でもこの機体はパイロットを自分の中へと取り込んで一個の部品の様にしてしまう。ただの歯車に」
 ニナが顔を覆ってその表情を二人から隠した。くぐもった声で告げられる事実に籠められた痛恨と韜晦は、二人には見えなくてもよく分かる。
「そんな物が出来る筈がないと私は思ってた。まさかルセットがそんな物を使ってまであの三号機を動かそうとする筈がないって …… でもそれはその時すでに出来上がってた、パイロットの反応速度を増大させる神経伝達促進剤『PI4キナーゼ・タイプⅣ』と呼ばれた、この機体を操る為だけに開発された試薬が」

                                *                                *                                *

 医者を探しに格納庫を飛び出すコウの叫びを背中で聞きながら、ニナは自分の膝の上で力なくもたれかかるルセットの身体を渾身の力で抱きしめた。あたたかい、温かいのにその命は今にも失われようとしているのが分かる。苦しげな息と目の前に広がる真っ赤な染みが彼女の命の砂時計を無情なまでに減らし続けている。
「ルセットっ、しっかりして! 今コウがドクターを呼んで来るからっ! 」
 瀕死の怪我人を動かしちゃいけない、だがなぜ揺すぶってしまうのだろう。そうすれば彼女が一命を取り留めると信じているかのようにニナはルセットの身体を小さく、何度も揺さぶった。懸命の呼びかけに応えるかのようにルセットの瞼がうっすらと開く、だがそこにはもう以前の様な勝気で挑発的な瞳の輝きはなかった。
「 …… わたし、どうして ―― 」
「喋らないで、もうしゃべっちゃダメっ! 」
「 …… どうして、中尉をかばっちゃったんだろう。変よね、わたしらしくもない」
 焦点の合わない瞳がそっと頭の上にある白い巨体へと注がれる。デンドロビウムを動かす為の核となるガンダム、関係者の間で『ホワイト・フェアリー』と呼ばれるステイメン。だがルセットの視線を追う様にそれを見つめるニナの瞳には明らかな憎しみが宿っていた。
 私の世界から次々に大事な物を引き千切っていくこんな物が妖精である筈がない。正義の使者である訳がない。
 戦争と言う悲劇の中で数々の輝かしい戦果を喧伝された特別な機体と名称、だがそれは一部の矮小な輩によって仕組まれた卑劣な情報操作だ。それはこの機体を手掛けてその悲劇の数々を目の当たりにし続けてきた私だからこそ、分かる。
 これは、悪魔の名だ。
「わたし、どうしても三号機をもう一度動かしたかった。デフラの死を無駄にしたくなかったの、だから ―― 」
「ルセットっ! もう、」
「負けたくなかった、あなたに。 …… 仕事でも、恋でも」
 微かな笑みを湛えながら零した彼女の言葉にニナは慄然として言葉を止めた。残り少ない瞳の輝きと焦点がステイメンからニナの顔へと戻って、ルセットは尚もニナへと告げた。
「私、ジルがガトーだとすぐに気付いた。あなたは、彼が二号機を奪ったと知った上で一号機のデータを取り続けてるんだと思ってた。自分の生み出した作品がどれだけ成長するのかを技術者として見極める為に、全てを捨て石にして。 …… でも、違ったのね」
 震える手の中でルセットの身体が冷めていくのが分かる、友である故の洞察と結論の確かさにニナは驚き、しかしそれを最期に遺い残そうとしている彼女の優しさに心を打たれた。無言で頭を垂れる事でしか彼女の言葉に報いる術がない。
「あなたが …… ジルよりも、中尉を、心から愛している、なんて。 …… 今なら分かる、だからあなたは中尉を乗せたくなかった。 ―― 三号機っ、」
「あの二人は互いに呼び合っている、まるで魂が繋がってる様に。…… どちらかが斃れてしまうまで、死んでしまうまで終わらない。私はどんな事をしてでもその連鎖を断ち切りたかった、例え自分の夢や野望を全て失ったとしてもコウだけは守りたかった。だから ―― 」
「 …… 無責任、ね」
 まるで子供の悪戯を咎める様な口調でルセットは言うと、すぐに大きく息を継いだ。瞳が空しく宙を彷徨い、大きく肩で息を始める。その瞬間が訪れる前に、とルセットは残った力のありったけでニナへと伝えた。
「三号機を、おねがい。…… あなたにしか頼めない。あなたの為に、つかって」
「わたし、のため? なぜ、わたしが」
「もう、にげちゃ、ダメよ。ニナ」
 その言葉に籠められた多くの意味に気付いてはっとするニナ、弛緩を始める筋肉を捨てて全ての力を顔へと注ぎこんだルセットの表情は微かに笑っている。
「ご両親から、ジルとの別れから、ガンダムから、そし、て、彼らが迎える結末から ―― もう、にげちゃ、だめ。立ち向かいなさい、ニナ・パープルトン」
 彼女の手を強く握り締めるニナの目尻から涙が零れ始めた。血の気がなくなり蒼白くなったその肌に取り残されたルージュだけが異様に紅い。

 閉じてゆく世界と共に失われていく感覚、遠ざかる現実の輝きをぼんやりと眺めながらルセットはその時を待っていた。死と言う物はもっと痛みと苦しみを伴う物だと思っていたが、不自由になる言葉と思考を除いては何の不都合もない。解き放たれる魂はこんなにも自由になれるのだとルセットは全てを受け入れようとした。
 だがその瞬間彼女は思い出す。
 自分は全てを託そうとしている友人に大切な事を言い忘れていると言う事を。
 ステイメンの座席の下に置かれた医療用キット、その中に隠された魔法の薬の存在。始から始まって解に至る三本のインジェクター、それはニナ自身が提案しながら三号機を廃案にしようとした根源。
 
 私は彼女が中尉をただの道具としか見ていない物だと思い込んでいた、だから私も彼をただの道具として受け取っていいのだと理解した。彼が完熟訓練を終えて実戦へと向かう時必ず必要になるであろうそれを私は彼の為に用意した、一通の嘘の手紙メッセージと共に。
 だがそれが誤解だったと分かった以上、それを彼に手渡してはならない。もし彼がそれを使ってしまえば全てが変わる、きっとニナが最も恐れていた事が起こるに違いない。
 だめだ、このままじゃ私は死ねない。
 ニナを苦しみの淵へと追いやったまま逝ってしまう事なんて。

「 ”ニナ …… ” 」
 もう力が出ない。
 死に塗りつぶされていく自分に残された物は余りに少なく、それを遂げる為には後悔と言う物が余りに多すぎる。暗闇の中に輝く小さな光の粒に向かってルセットは、残された命の全てを傾けて最期の言葉を探し続ける。

 ルセットの身体が死の痙攣に囚われて細かな振動をニナへと伝える、取り戻せない友人の命に追い縋るニナはその顔に覆いかぶさってあらん限りの声で呼びかけた。
「ルセット、だめっ! 目を開けて、私を見てっ! 何か言って、お願いっ! 」
 その呼びかけが功を奏したかのようにルセットの瞼がうっすらと持ちあがる、彼女は濁ったままの瞳で何かを探し求めながらその言葉を口にした。
「 ―― ニナ …… ごめ、ん」
 言葉の意味を計りかねたニナがその意味を問い質そうとした瞬間に、遂に彼女にその時が訪れた。真っ赤な胸が一つ大きく膨らんだかと思うとそれは見る間にしぼんでいく、全ての力が床の血だまりと共に流れ出てしまったかのように失われて彼女の重みが全てニナの膝へと圧し掛かる。
 ほんのりと浮かんだままの笑い顔だけが痛みを覚えずに永遠の旅路へと向かう彼女にとっての救いだったのか。ニナは誰の目も憚る事無く、自分としのぎを削って競い続けた友人の最期を溢れだす涙と慟哭の嵐で見送る事しか出来なかった。



[32711] Missing - linkⅢ
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/03/21 22:43
 俯いたまま訥々と語るニナの苦しげな横顔をマークスはじっと見つめていた。友人から託された形見とも言える三号機に待ち受ける定めはガトーとの対決、苦渋の決断とも取れるその想いを踏み躙る様に仕掛けられた薬と言う名の罠。心が血を流す様な苦しみに耐え抜いた彼女に与えられた結末が今日ここに至るまでの日々だとしたら、神はたった一人の人間にどれだけの試練を与えようと言うのだろうか。
 それは自分が今まで味わった物とは比較にもならない、桁が違う。少なくとも自分には家族が、少ないながらも心を許せる友人が、そしてアデリアがいる。
 だが目の前でうなだれながら自分の罪の足跡を語る彼女には何もないのだ、延々と続く未来と言う森の中を孤独なまま死へと歩むしか道がない。そうまでして取り戻そうとしたたった一つの希望すら取りこぼした彼女には空虚な永遠が待ち構えているだけなのだ。
「マークス」
 まるでマークスの憂いを見透かした様にニナが言った。
「あなたが見たこのデータはコウがその薬を使って叩き出した幻、でもガトーを墜とす事は出来なかった。…… お伽噺にあなた達が付き合う必要はない」
「お伽噺? 」
「現実にはありえないと言う事よ。コウはモビルスーツを捨て、ガトーは死んだ。これは彼らが残した遺言の様な物、普通の人がこの領域に届く事など出来る筈もないしその必要もない。だからあなた達は ―― 」
「ここで見た事は全部心の中にひっそりとしまって鍵を掛けろ、二度と開く事のないように …… そう言いたいんですか? 」
 小さく頷くニナの背中にはその葛藤がありありと現れていた。これ以上私の話を聞けばあなた達は本当に後戻りできなくなるわよ、と暗に。
 マークスは思わず、未だに厳しい表情でニナを睨みつけているアデリアの顔へと目を向ける。視線を感じたアデリアがその視線に籠められたマークスの意図に対して小さく頭を振って応える。
「 …… できません」
 マークスもアデリアと同じ意見だった。ウラキ伍長とニナの出会い、そして彼らが ―― もちろんその運命の糸に絡まってしまったままで二人の上司として存在するキースやモウラも含めて ―― どれだけの戦いを強いられて今に至ったかと言う事は十分過ぎるほど理解した。デラーズフリートとの戦いは彼らから戦後の楽観論を奪い去って、彼らの後に続く世代に今もどこかで息を潜めている戦争の危機と言う非現実的な現実を教えようとしている。キースが『自分を超えろ』と発言した事も、モウラが整備士達に全ての技術を教え込もうとしている事も辻褄が合う。
 悲劇と死者の魂を積み上げた上に生きる彼らには今の全てがまやかしなのだ。隠蔽された事実をひた隠しにして束の間の平和に甘える自分達に二度と同じ思いはさせない、その為の力を誰にも気取られぬ様に密やかに後達に植え付けようとする彼らはそんなあざとい遣り方を採らなければならなくなった時点で自身の未来を諦めたのだ。
 彼らの選択が正しいのかどうかは今の自分には分からない。恐らくニナの口から語られた事実は彼女が先立って緘口令を強いた事からも分かる様に、恐らく何らかの、そしてかなりの危険を伴う情報なのだろう。自ら共犯者としての道を選んだ自分達にはニナやキースと同じ様に未来を諦め、ただ生きる為だけに過去へと縛られる運命が待っている。
 自分達が知る事も出来なかった彼らの過去に。
 だからと言ってここで聴かなければ良かったと。心を抉って過去の記憶をここまで語り続けたニナに対してその言葉が面と向かって言えるのか? 未だに自分達の身を案じてその生傷を晒したままで俯く彼女に自分達が背を向ける事などあってもいいのか?
 それでいいのかマークス。本当にお前はそれで?

「彼は、生きてるんだ。ニナさん」
 励ます様にそう語り掛けた彼の言葉に向かってニナは顔を上げた。
「あの日ガトーと戦った伍長はもういないのかも知れない、ガトーは死んでしまったのかも知れない。でもここに彼らの残したメッセージがある以上見過ごす訳にはいかない …… あなたはそう考えたから僕達に辛い過去を語ってくれたんじゃなかったんですか? 」
「それは過去に起こった悲劇の物語の一節、そしてここに残る記録の領域にまで到達できるパイロットが再びこの世に現れる可能性は限りなく小さいと思う。だから ―― 」
「ゼロじゃない」
 マークスの一言がニナの表情に翳りを齎した。ニナにも分かっているのだ、その可能性が全くない等と言う事は決してあり得ないのだと。人が、そしてモビルスーツがこの世界に存在する限り必ず争いが起こり、そしてその中で特に戦いに秀いでた者が現れる。過去の歴史に記された数多の戦争の記録の中で誰かの名前が残らなかった事などただの一つもないのだから。
「ニナさん話して。最後まで」
 アデリアはそう言うと胸の前で両腕を組んだ。
「あたしには伍長がどうなってガトーが何で死んだかなんてどうでもいい。なぜニナさんがそんなンなっちゃったのか、その訳が知りたいの。ニナさんの話を聞いて ―― ちゃんと聞いて、ニナさんの為にあたしは何が出来るのか考えたい。…… だからお願い、最後まで聞かせて」

 ほう、と少し大きな溜息が二人の耳朶へと届く、ニナは机からすぐ傍にあった椅子へとゆっくりと腰を降ろすと華奢な両手を膝の上へと置いた。
「あのアイランド・イーズが阻止限界点を越えた時、私達は耳を疑った」
 今までの表情とは明らかに違う、決意の籠もった目を二人に向けながらニナは言った。
「突然デラーズから送られて来た停戦宣言、そしてコロニーの進路上に置かれた巨大な太陽炉 …… 全てが彼らによって予め計画された事だった。私達はそうとも知らずに命がけで、舞台の上を狂った様に踊りまわった哀れな道化」
「どういう意味です? それに彼らって? 」
 暗喩だらけのニナの言葉にじれったさを感じるマークス、しかし彼女がそれを伝えようと決心しても尚迷い続けている事を咎める事など出来ない。ほんの少しの躊躇の空白の後に語られたその言葉が全てを物語っていた。
「 …… その紛争によって今、最も利益を享受している勢力。 ――『ティターンズ彼ら』の事」
「! そっ ―― 」
 馬鹿な。確かに彼女はこの話の前にそうは言ったけれども、それは政治的な勢力バランスにおいての事だろう。いくらなんでも当時軍の大隊規模でしかなかった勢力が実力でその切っ掛けを作るなんて考えられない、もしそんな事があったのだとしたらそれは ―― 。
「クーデターに利用しようとしたのよ、当時の彼らは」
 きっぱりとそう断言したニナには微塵の迷いも無く、そして疑いすらなかった。 彼女が二人の追及を今まで必死にひた隠しにしてきた理由がマークスにはこの時初めて分かった。彼女が、そしてキース達が対峙する権力は余りにも大きい、そして彼らのアキレス腱となる陰謀の生き証人がここにいるのだ。
「彼らは地球周回軌道上に『ソーラ・システムⅡ』を設置してコロニーが阻止限界点を越える瞬間を待ち構えていたのよ。密閉された内部の空気を少し暖めるだけでコロニーはあっという間に破裂する …… 彼らがデラーズのコロニー落しをただ見守っていたのにはそういう奥の手があったのよ。自分達が地球の危機を救ったと言う名誉によって地球と宇宙を切り離す為の機会にしようとしていた、それが今のティターンズの始まりとなった」
「でも彼らの目論見は失敗したのね、だってコロニーは今ここにあるんだもの」
 アデリアの言葉を聞いたニナが小さく頭を振ってそれを否定する、訝しげな顔で光に煌めくニナの髪をじっと見る彼女の表情は硬い。
「あの紛争の当事者の目的はそのほとんどが達成されたと言ってもいい、ティターンズはコロニーの阻止に失敗はしたけどその勢力の拡大には成功した。そしてガトー達は予定通りコロニーを地球へと落着させた」
「でもできた事はそれだけだ。ブリティッシュ作戦の時と同じ様にガトー達はジャブローへとコロニーを落とす事は出来なかった」
「 ―― それが、彼らの目的だったのよ。『コロニーを決してジャブローには落とさない』」

 戦略的に考えてデラーズの立てた作戦は完璧だとマークスは思っていた。コンペイ島で行われた観艦式への核による強襲、そして残存艦隊の目を月に引き付けてからのコロニーの地球落着軌道への投入。ガトーの手によって阻止が失敗したと言うのであれば後は彼らの思うがまま、ジオンにも出来なかったジャブローの壊滅をその手で完遂する事が出来た筈だ。だがよりにもよって前人未到の大戦果が彼らの目的ではなかった、とニナは言う。
「 …… 何かの間違いだ、そんな事は考えられない。だってそうでしょう? それだけ綿密な作戦を立てておきながら最後の最後にそれを最も大きな目標へ落とさないなんてどう考えてもおかしい。ジャブローが壊滅して軍の指揮系統が混乱すればそれに乗じて逃げ出す事も出来たのに ―― 」
「私はそれを彼自身の口から聞いたの。コロニーをジャブローに落とさない為に一人で乗り込んだ、アイランド・イーズの管制室の中で」

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「余計な事を」
 管制センターの出口へと急ぐ道すがらに偶然に手に入れた緊急医療キットの中からニナがパッチを取り出して、ガトーのパイロットスーツに空いた穴を覆う様に貼り付けた。これで真空下での宇宙服の与圧は確保される筈だがその下に空いた銃創からは未だに出血が続いているのだろう、顔色は青褪めて身体は被弾のショックが冷めやらないまま小さく震えている。
「それは手当ての事? それとも ―― 」
 睨みつける彼女の瞳にはそこはかとない怒りが溢れている。誰にも縋る事のない自我剥き出しの彼女の声にガトーは立派な女性としての成長を遂げたニナの本性を知り、そして満足そうに小さく微笑んだ。
「 ―― 貴方がコウに対してしようとした事を止めた事? 」
「 …… それを、分かっていたとは、な。 ―― 両方だ、ニナ。君が罪を肩代わりしようとした相手がコウ・ウラキだったと言う事情までは大体飲み込めたが、君の望みが以前の彼を取り戻す事だと言うのならば諦めろ、もう手遅れだ」
 脇腹を押さえながらガトーが壁へとその背中を押しつけた。そうすれば少し苦痛が和らぐのだろうか、ガトーは浅い呼吸を繰り返して自分の状態を確かめる。
「彼は私に救いを求めた、戦う事の意義と言う物を知りたいと願った。もうそれだけで十分だ、後は私と同じ舞台へ上がりさえすれば彼はきっと、私の後を継いで ―― 」
「まだだわ! 」
 ほんの少し距離を置いたニナの口から吐き出される怒声にガトーは眉を顰めた。驚きと傷の痛みに苛まれながらガトーはニナの怒りを受け止める様に眺めた。
「まだ間に合う。それにそんな事はさせないっ、 …… コウを貴方と同じ世界になど行かせないわ、私が必ず止めてみせる」
「では、なぜ君は私と今ここにいる? 彼を止めると言うのならばいっそ私の事など放って置いて欲しいものだ。彼と元の世界へと帰還する、それこそが君の願いではないのか? 」
 探る様に敢えて事の本質をぼかして尋ねるガトー。もしかしたら彼女は自分が彼にした事の正体に気付いていないのかも知れない、ならば知らない方がいい、彼はもう誇り高き戦士としての第一歩を記そうとしているのだから。己の矜持と守るべき物の為に全てをなげうって戦いに挑む、私の後継者となる為に。
 だがガトーの予想は間違っていた。ニナは嘗ての恋人だった男に向かって敵意を向けている。それは守るべき物を抱えて命を賭ける、自分の同類の姿だった。
「傷ついた貴方をあそこへ見捨てて行く事とコウがあなたに止めを刺す事は同じ意味よ、どちらもコウの目にあなたの死を焼き付ける事に変わりはない。貴方の死と共にコウの中に眠っている何かが目覚めるのだとしたら、その時コウに訪れる変化を知っているであろう貴方を絶対に死なせる訳には行かない」
 自分の企みが完全に看破されていた事に思わず苦笑するガトーとそれを阻止できなかった事に悔しさを滲ませるニナ。相対する表情を浮かべた二人をせかす様にコロニーはゆっくりと足元の床を傾げ始める。
「貴方をかばってあそこを離れる事しか私には出来なかった。 …… でもたとえコウに憎まれたとしても、貴方にそのトリガーだけは引かせない」
「君は彼に向かって引き金を引いたと言うのに、か。 ―― ならばなぜあの時私を撃たなかった? 彼の手を汚させなければまた彼の運命も、この先へと続く話も変わっていただろうに」
「悔しいけど、」唇を噛んだニナの口元が微かに歪んだ。
「過ぎ去ってしまった過去を自分の手で消すだけの勇気や決心は私にはない、でも未来を失う覚悟なら三号機にコウを乗せた時から出来ているわ。彼が死ぬのなら ―― 」
 自分の記憶にはないニナの声だった。不退の決意と確固たる意志がそこにはある。
「私も、生きてはいない」

 積み重ねた時間と悲劇の重み、そしてそんな中で彼らが得た美しい力にガトーは感動し、そして彼女をそこまでの人間に仕立て上げたコウ・ウラキと言う青年に尊敬の念を覚える。それはまさに比翼の鳥の如くにお互いを求め、助け合おうとする真の愛情の姿だ。
 だが彼らが比翼の鳥を演じて未来を刻もうと言うのならば、自分は康王と成りてそれを引き裂かねばならない定め。
 道はもう分かたれてしまったのだ、決して諦める事の出来ない自分の願いの為に。

「君たちが夢見る未来と言う名の希望も、幸せを手に入れた人々が世代を重ねてその血脈を伸ばそうとする世界も、それはやはり『操りし者共アスラ』によって作られた幻像に他ならないのだ。それだけではない、この世界に生きとし生ける全ての人類に彼らの謀略による悲惨な運命が波及する可能性があるのだ。その存在がこの世界の何処かで息を潜めて全てを操ろうとする限り」
 その表情にはニナには負けない強い物があった。相譲れぬ互いの主張が落着へとひた走るアイランド・イーズの小さな通路で火花を散らす。
「ギレン総帥閣下の意思を受け継ぐ為に敗残の将にまで身を窶しながらア・バオア・クーから撤退した自分達はこの世界の裏側に潜む何者かの存在を知り、閣下の目指した世界のうつわが実は文字通り彼らに『操られて』創られた『理想郷』にしか過ぎなかったと言う事実を知ってしまった。私は ―― いやデラーズ閣下はその汚名を雪ぐべく、彼らをその表舞台へと引きずり出す為にこの作戦を発案されたのだ」
「その為にこれだけの事を仕出かして大勢の人が亡くなった、そうまでしてあなた達が追い掛ける『アスラ』とは一体どこの誰なの? 」
 真剣な眼差しで問い質すニナの視線を避ける様にガトーは顔を背けて空を睨む、無念の思いがその声に滲んだ。
「 …… 残念だが、私にもうその機会は訪れない」
 要であったエギーユ・デラーズと言う名の巨星も既にこの世界から退場し、彼の意思に賛同して集った仲間もその大半がシーマ・ガラハウの裏切りによって壊滅させられつつある。恐らくこの戦場に残っている兵数は最早戦闘を継続出来る物には遠く及ばず ―― ドズル中将の仰った通りだ。数は力なり ―― 正しく敗残兵と呼ぶに相応しいのだ。 
 我々の運命は既に時の間際へと差しかかった、そして終焉へと至るまでの距離はそう遠くはないだろう。

「だから私はこの戦いの全てを語り継ぐ者を残さねばならない。…… このアナベル・ガトーは後に続く資格と権利を得た者に、私の遺志を継がせなければならない」
 再びニナへと目を向けたガトーの目に今までの優しさはなかった。再び蘇る鷹の様な眼差しに潜む鳶色は強い決意の後押しを受けて、鈍く不気味に輝きを増した。
「自分達の全てを投げ打って成し遂げた『星の屑』が散った址に生み出される『揺り篭cradle』を護る為に。 ―― ニナ」
 
 ガトーの強い決意を翻そうとしたニナの身体が彼に向かって動き出す。何としてでもこの男を止めなければと、そういう思いの発露が為せる自然な振る舞いだ。しかしニナは次の瞬間に腹部に猛烈な衝撃を感じて呼吸を封じられた。
「 ―― すまんっ ―― 」
 声音が変わった事に気付いたニナがその焦点を合わせた瞬間にはガトーの体が直ぐ傍にあった。ガトーの全体重を乗せた強烈な当身がニナの鳩尾に炸裂する、伝わる衝撃は宇宙服を貫いて横隔膜を一瞬だけ停止させ、そのショックは脳神経の一つである迷走神経へと伝播した。駆け抜ける痛みのシグナルはニナの脳をあっという間に休眠状態へと導く。
「! ガ、トー …… 」
 薄れ行く意識の中で呟かれた彼の名、力を失って肩に圧し掛かるその重みに嘗ての想いが蘇る。

 金色の、豊かで柔らかな髪が頬をくすぐり微かな吐息が首筋を撫ぜる。ニナの体を愛おしむ様に抱きしめたガトーの両腕に力が籠る、もう再び見る事のない嘗ての少女に向かって彼はそうする事でしか己の想いを伝える事が出来ない。
 思い出す事、忘れ得ぬ事、あの日あの時あの場所で紛う事無く手に入れ掛けていた安寧の日々を。激しい痛みと共に振り払った筈の桃源郷での思い出を。
 そしてガトーはその全てを受け止めた後で痛切に思い知らされた。
 やはり自分はこの少女を心から愛していたのだと。

 そしてまたしても自分に課せられた運命は彼女から最も大切な物を奪って行かざるを得ないのだと。

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 ニナが語る物語を真実だと証明する者はこの場には存在しない。彼女が語る妄想紛いの物語は実際の所、彼女の人となりを知るマークス自身にしてもそれを眉唾と判断することはやぶさかではないのだろうと思う。
 しかし自分が目にしたウラキ伍長のデータ、そして自分達が知っていた0083年に起こった事件のことごとくに対して理路整然と別の理を語るニナの話を否定する事は難しかった。疑うにはあまりにも信憑性があり、そして虚言や妄想癖を持つ人間の会話にしては破綻が無い。
「じゃ、じゃあもしガトーの言う事が正しいのだとしたら。コロニーが地球に落ちた事も …… いや、そもそもあのジオンとの戦争自体が既に何者かによって仕組まれた物だ、と。 …… まさか、そんな事が」
「証拠は何一つない、ただガトーがその時に語った事だけが事実。でももし彼がその正体に辿り着いていたのだとしたら、わざわざ地球にコロニーを落すなんて回りくどい真似はしなかったでしょうね。直接敵の本拠地へと殴り込んで自分の仲間の ―― 戦いで失った多くの命の仇を討ったに違いないわ。彼らは敵の正体を確かめる為に『星の屑』作戦を決行し、そこで発生する世界の混乱に乗じて権勢を拡大しようとする集団の正体を暴こうとした。でもガトーが考える以上に敵の力は強大で、彼はそれらの正体を知る前に命を落してしまった」
 それではデラーズ紛争という名の出来事自体が未必の行為に他ならない。デラーズフリートと戦った連邦軍にコロニーの落着を防ぐと言う大義名分があるとは言え、その彼らが実は『アスラ』によって密かに動かされていたとしたら連邦軍ですらも被害者と言う事になる。互いの正義の為に行われた殺し合いまでもが背後に隠れて世界を操る勢力によって画策された物だとしたらそれは最もやりきれない、犬死だ。
「でも確実に残った物が二つある」
 想像に余る巨大な策謀に唖然とするマークスにニナは顔を向けた。そこに浮かんだ苦悩の表情がそのままコロニーの中でガトーへと向けていた物なのだろうと感じたマークスは思わず息を呑んだ。
「『星の屑』が成功した事によって恐らく世界は近い内に大きな動きを見せるわ、ガトーの予言、デラーズの思惑の通りに。そして ―― 」
 そこにニナが必死になってモビルスーツのOSのアップデートを繰り返している訳をマークスははっきりと理解した。一年戦争が終わって仮初の平和の中で短い春を謳歌していた彼らがガトーの襲来によって巻き込まれた戦争と言う名の非日常、それが再び起こる可能性があると示唆する彼女に出来る最大の防御策。
「彼は自分の望みどおりに、伍長の目の前で命を落した」
 釣られる様にニナの言葉を補完したマークスがその意味を噛み締めた時、彼はそこにある真理に思わず目を見張った。ガトーの最期の望みが叶えられたと言う事は、伍長は即ち ―― 。
「ガトーはコウの中に『種を撒く』事に成功した。自分と同じ世界へとコウを連れて行くための」

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 コックピットを埋め尽くす閃光、収束した太陽の輝きは飽和した光の粒子を衝撃波に変えて天空を切り裂く。絶対的な死を予感させる圧倒的な力の前にコウの体は全ての命令を拒絶した。コロニーでのニナとのやり取りがコウに生きる希望を見失わせていると言う事も一つの要因なのかも知れない、果たしてコウは確かにその瞬間に生に対する執着を棄てて、死を受け入れようと心を決めた。
 だが全ての計器の数値すら読み取れなくなった白い棺桶の中に高圧的な男の声が轟いた。指揮官特有の厳格さをまとったその声は一瞬にしてコウを死の顎から引きずり出す。
「 ” スロットルを開けろ、コウ・ウラキっ! ” 」
 反射的に動く左腕が握ったレバーを全開位置へと叩き込む、同時に頭上で鳴り響く巨大なモビルアーマーの絶叫。デンドロビウムを襲っていた致死性の痙攣は猛烈な慣性へと姿を変えて決着の付いた二人の機体を天頂方向へと押し上げた。
「ガトーっ!? 」
「 ” 未熟者めが、ここで諦める事などっ、” 」
 激怒したままのガトーの叫びがコウの意識を辛うじて繋ぎ止めた。だが必死で襲いかかろうとする死に抗おうとするデンドロビウムとノイエ・ジールに叩き付けられるソーラ・システムの咆哮はまるで今までの鬱憤を晴らすかの様に二つの機体を蹂躙した。光の河に屹立した長大なメガビーム砲は溶解しながら吹き飛ばされた、ノイエに立ち向かう為にただ一つ残されていたクローアームは基部から捻じ切られて粉々に砕け散った、唯一生き残った兵装コンテナは内部に残っていた弾薬と共に爆散した挙句にデンドロビウムのメインスラスターを巻き添えにする。
「 ” この私が許さんっ! ”  」
 その言葉に導かれたコウが、そしてガトーがオーバーブーストによるノッキングに抗いながらレバーを必死で固定する。死の間際に追い込まれながら尚も生へを手を伸ばす彼らの意思は長く伸びた炎と化し、現存する戦艦の推力を遥かに凌駕して光の奔流を掻き分け始めた。

 デンドロビウムの損害状況を目視するガトーは爆散して分離したコンテナがノイエの前面装甲板を吹き飛ばしたのを確認した瞬間に、生き残ったアポジを起動させてデンドロビウムと自分との位置を入れ替えた。ソーラ・システムから放たれる膨大な神火は盾となったノイエの背面を容赦なく焼き焦がし始める、機体表面の温度を示すセンサーがエラー表示を示したまま動かなくなり人類に計測できる限界の数値を表示した後に息絶える。
 融解を始める機体の背面に基部を持つ、デンドロビウムを拘束していた四本のマニピュレーターが機能不全を起こして停止する。それでも宇宙を疾駆する巨大なジオンの紋章はその手に抱えた微かな希望を救うべく、雄叫びを上げて光の大河を静寂の支配する対岸へとその目を向ける。
 光の緞帳を抉じ開ける為の、頼みの綱の両肩のブーストバインダが耐熱限界を超えて爆発した。あっという間に激減した推進力に力尽きたと思われたノイエが為す術もなく光の大河へと溺れ始めたその刹那、白光の世界でただ一人、歯を食い縛って尚も生への望みを捨てなかったガトーの視界に一際大きな残骸が映った。
 反射的に呼び出された火気管制は背面装甲の影で未だに機能を残していた左手を迷う事無く撃ち出す、鋭く窄められたクローアームは光に翻弄されながらもガトーの導きに応じてその残骸に突き刺さり、その爪を残骸の内部で大きく開いてロックした。掌のメガ粒子砲にミノフスキー粒子を供給する為のフレキシブルケーブルは光圧に耐え切れずに離断する。
「間に合えっ! 」
 叫びと共に猛烈な勢いで巻き取られる有線ケーブル、藁よりも頼りなく感じる一本の命綱に縋るノイエと抱え込んだ彼の最期の希望は次々に部品を光の粒へと変えながら、しかしガトーの願いを叶えるかのように死の奔流から無明の岸へと遂に辿り着いた。

 自分の得た生と運命の悪戯に感謝をしながら眼下を荒れ狂う光の川を見つめて無念の吐息を漏らすガトー。巨大な残骸の影に隠れたまま光の河を席巻する閃光の行進ページェントはそこで生み出される新たなる死者を意味している。互いの主張を後背に立てて雌雄を決する事すら奪われて無常な死を遂げねばならない兵士の無念は如何ばかりか、とその光を憎悪の目で睨みながらガトーは死せる魂へと想いを馳せた。
 彼らもまた『アスラ』の生み出した被害者なのだと、それを世界の影に隠れてほくそ笑む彼らの見えない顔を思い浮かべて怒りがこみ上げる、そして自分にも訪れようとしている斜陽の時をその身に感じながら。
 既に宇宙に漂う自分の手足は傷だらけで満足に動かす事も叶わない。自分の運命が自分の全てを授けようとした好敵手の手を借りて、実は自らが立ち向かおうとした大きな闇によって捉えられてしまった事に幾許かの無念を感じた。残り少なくなった僅かな時間で成し遂げられる事はあまりにも少なく、そして無意味な物なのかも知れない。たとえ運良く生き永らえたとしても ―― 。
 絶望塗れの自分の道行に虚ろな視線を向けながら、しかし彼は仰いだ星空のその先に浮かぶ巨大な残骸へと目を向けた瞬間にその全てを受け入れる決心をした。
 穏やかな輝きを取り戻した太陽光が微かな鎮魂曲レクイエムを奏でて揺らすその残骸を埋め尽くした色彩は見紛う事無き鮮やかな赤。偶然ではない、運命の導きと言う物を初めて信じたガトーは瞬きを何度も繰り返しながら震える声で呟いた。
「またしてもこの命救われました …… ありがとうございます、閣下。」
 元ジオンの将兵に賞賛と畏怖を持ってグワデンと呼ばれたその戦艦は光嵐の残滓を受けてゆっくりと揺らぐ、二人を死から救い出した有線ケーブルは最後の役目を終えて弾け飛んだ。離れていく巨大な残骸の影を穏やかに眺めながらガトーは、裏切り者によって目の前で処刑されたその面影に向かって強い口調で告げた。
「行け、と申されますか、閣下。 …… 分かりました。閣下の望みのままに。」
 震えながら胸の前に翳した手を静かに下ろすとガトーは、所々映像の欠けたメインカメラの淵に映る白い巨体へと目をやった。四本のサブアームを爆砕ボルトでパージして、全ての機関を停止したまま穏やかに眠り続けるデンドロビウムを死者の墓地へと解き放つ。無重力下で加わった慣性によって緩やかに舞うその姿を見送りながら、彼は穏やかな笑みを浮かべて胸を張った。
「コウ・ウラキ、私の勝ちだ。 …… すまんな、貴様に討たれてやる事はもう出来んが ―― 」
 勝ち名乗りを上げるガトーの足元に赤い液体が滲み出した。彼らの陰謀は二人の機体を飲み込む事は出来なかったがその正体を知ろうとする不倶戴天の、それもデラーズ亡き後の要となるであろう指導者の命に正確に届いている。激しい衝撃が加えられた事で彼の脇腹の銃創は内包した血管の断裂部分から無視できないほどの出血を齎した。
 霞んでいく意識と失われる手足の力を自覚してからガトーは、眼下で恐らく『無事に』意識を失っているであろう彼の希望に向かって声を掛けた。
「 ―― いい戦いだった。心から礼を言う」
 晴れやかな声だ。失われていく命すら感じさせない軽やかな手つきで次々に機能を再起動させるガトーの表情にはもう躊躇がない、生き返ったノイエのアポジが小さな炎を噴き出してその無残な身体を翻す。メインモニターから外れていくデンドロビウムの影を追い掛けながらガトーは、ニナと別れた時と同じ表情を晒しながら静かに言った。
「いつか、私を追って来い。 …… この星の海のどこかで、私は ―― 」
 迷いなくふみ込む両足がノイエのバーニアに火を入れた。不規則に揺らぐ長い炎の束が彼としもべを約束された敗者の地へと誘う。加速によって再び始まる出血と痛みに顔を歪めながら、しかしその声だけは残された微かな光に向かって歓びを滾らせながら。
「 ―― 『お前』を、待っている」

                                *                                *                             *

「ガトーが死ぬのを私は救助の為に戦闘宙域外縁部に待機していたアクシズの艦の中で聴き届けたわ。連邦軍の退去勧告を受けて離脱する艦内に流れたガトーの最期の叫び声を忘れた事はない、でも私にはその声がコウを呼ぶ声に聞こえた。 …… そう、今でも忘れられない」
 心の奥底で封印されたままの記憶の宝箱を混ぜ返して中身を整理しながら次々と取り出される過去に傷付いて、悲劇の結末をぼんやりと語るその姿はあまりにも痛々しい。全てを取り出したその中にかの神話に告がれるパンドラの様な奇跡が待ち受けていると分かっているのならまだ救われる、だが現実には既に答えは出ている。
 話の続きから現在に至るまでニナに与えられた奇跡はなく、彼女は形骸と化した思い出の匣を抱えたまま親を亡くした孤児の様に小さく蹲っているだけなのだ。
「ガトーが帰還の機会を棒に振ってまでコウと戦ったと言う事を彼の部下から聞いた時に、私はガトーが遂に自分の望みを叶えたのだと悟ったの。 …… 彼の言っていた全ての条件が揃ったと分かった以上、もう私に選択の余地はなかった。コウの元に戻って彼が二度と戦いに身を投じない様にしなければならない。ガトーの目論見だけは阻止しなくてはならないと決心してアルビオンを目指した」
「もし、ウラキ伍長が死んでいたら? ニナさんに裏切られたと思い込んでそのままコロニーに残っていたとしたら? 」
「そのままシャトルで大気圏に突入するつもりだった。あの場所に集った三人がここで全て召されてしまえば神様の気紛れもそう悪い物じゃない、コウの生まれた星に墜ちて死ねるのなら私はきっとコウの元に行ける。 …… でもコウは生きていた。ガトーが自分の機体を盾にしてデンドロビウムをソーラ・システムからの直撃から守ってくれたお陰で」
「ガトーが、伍長を? いや、しかし友軍に向かってソーラ・システムを照射するなんてどういうつもりなんだ? 」
「ただの悔し紛れね、あたしなら絶対そうする」
 何かに怒りを滾らせたままのアデリアが吐き捨てる様にそう告げる、感情的に放たれたその言葉が実はその時のバスクと同じ気持ちであったと言う事をそこに集う三人は知らない。まるで眩しい物でも見るかのように目を細めたニナがアデリアの顔を見上げた。
「 …… でもコウはアルビオンには居なかった、彼は錯乱して味方に発砲した事でステイメンごと拿捕されてそのままジャブローへと送られた。 ―― 軍事裁判での判決は懲役一年の禁固刑、私はその間にありとあらゆる手段を使って彼が釈放後に赴任しそうな場所を探った」
「そして行き着いた先が、このオークリーだった」
 マークスの言葉に小さく頷いたニナはアデリアから目を逸らしてまた足元へと視線を落とした。
 キースやモウラと立場の違う民間人のニナがティターンズから供出された宣誓書のサインを拒否すればどうなるかと言うのは彼女にとって一つの賭けだったのだろう。軍属としての徴用条件を満たしていなければ民間人が基地へと配属される事は普通では考えられない、たとえそれが軍にとっての重要な機密を握っている人間だとしてもだ。いやむしろ民間人ならば何らかの罪をでっちあげて収容所送りにする事だって出来る、二度とその事実が世の中に出回らない様に。閉鎖された組織の中にはその中でしか通用しない常識が存在し、それを犯した者だけが罪に問われる。それが軍と言う物なのだ。
 自分やアデリアが受けた軍による理不尽を省みながら、あえてその選択へと身を投じなければならなかったニナの心境を慮る。と同時に彼女の持つ事態への先見の明と演算能力に感嘆を禁じえない、彼女はその読み通りにここオークリーへと赴任する事が出来たのだから。それを証明したのはニナから告げられた次の言葉からだった。
「 …… そして何時か刑期を終えたコウがオークリーに着任すると言う事も確信していたわ。彼がそんな宣誓書にサインをする筈が無いと信じていたから」

 強い確信と共に物語の顛末を語り終えたニナは、そこでようやく小さな安堵の溜息を洩らした。もちろん物語はこれで終わった訳ではない、しかし彼女の記憶の中で最も鮮烈でかつ辛辣なパートはようやく終わりを告げ始めている。しかし視線を上げたニナはその声になぜか空しさを込めて呟いた。
「アナハイムのガンダム計画はそれを推進した専務の、連邦軍に対する裏切り行為の発覚によって抹消される事が決定したわ。彼は連邦軍に協力姿勢をとる裏側でデラーズフリートにも物資を供給していたの ―― 彼はその責任を取って自殺してしまったから本当の真相は闇の中へと葬られたけれど、その事実は逆にアナハイムと言う企業に対する連邦軍の不審を生んだ。連邦軍は当面のアナハイムとの取引を凍結し、該当する取引の中には次期主力モビルスーツ開発計画も含まれていた。 …… 私が命懸けで見届けた子供たちの未来はそこで終わった、その機体が存在した事も含めて全てのデータは跡形もなく消去されたわ」」
「全てが抹消 …… ? 」
 マークスは思わずニナの背後のモニターを見た。では全てを抹消されたモビルスーツの、それも起動する為の鍵となるディスクが何故ここにあるのか? もしデータを消すと言うのなら起動ディスクなどは真っ先に焼却処分されている筈なのに。
 尋ねようとしたマークスの機先を制してニナが、筐体の横に置かれている旧式のディスクリーダーへと目をやった。
「このディスクは、処刑された元アルビオンの艦長のシナプス大佐の遺品の中から出てきた物 …… どういう経緯でシナプス艦長がこのディスクを手に入れたのかは分からない。でも遺族の方が艦長の遺言の通りに軍の検閲を避けてわざわざ私にと、その手で直に渡してくれたのよ。見つかれば自分達も拘束されるかもしれないというのにね ―― そしてこのディスクが私の元へと還って来たすぐ後に、コウはここに来た」
 自分で言ったその言葉がニナの表情に微妙な変化を齎した。それまではまるで機械かなにかの様に淡々と出来事を語り続けた彼女が初めてその切ない思いを表に見せた。
「 …… 怖かった、どんな顔をしてコウに会えばいいのか分からなかった。でも誤解されても嫌われても私達には少なくとも未来へと歩む権利だけは与えられたと思った、私は与えられたその時間をコウに捧げて生きようと思ったわ。…… 彼を決して宇宙には行かせない、この地球で彼と共に暮らそうと心に誓ってモウラと一緒にコウを迎えに行った」

                                *                                *                                *

「ニナ、ほら」
 短く放ったモウラの声がニナの背中をどん、と押す。簡素な作りのジープのシートを滑り降りて地面へと足を降ろしたニナはその頼りなさに思わず足をふらつかせた。
 まるで自分の身体じゃない、作り物の人形の中に入って自分を動かしている様な錯覚がニナの心を戸惑わせる。それでもニナはぎこちない身体を操って、ほんの少し先で自分の方へと視線を向ける懐かしい顔に向かって足を踏み出した。長くなった黒い髪が吹き抜ける風でそよぐのが分かる。
 早く彼の元へ、と焦る心とは裏腹にその足は遅々として進まない。まるで向かい風の中を歩む様にゆっくりとコウへと近寄るとその顔形がはっきりと分かる所まで来てから声をかけた。
「お帰りなさい、コウ」
 何か他にもっと気の利いた言葉があったのかも知れない、だがニナの口を突いて出た言葉はそれだけだった。出会った事への戸惑いと思わぬ声にうろたえるコウの表情に笑顔はない、ただどこか遠い瞳で自分を見つめている事だけがニナには分かった。
「やあ、ニナ」
 固い声音がニナの元へと風に乗って届く。覚悟を決めてはいたものの、やはり自分に向かって吹き付ける非難と疑惑の逆風の存在はニナの決意の正誤を疑わせる。自分の心をどす黒く染め始めた恐怖で心が折れてしまう前に、せめて。 ―― ニナは勇気を振り絞ってコウの元へと歩みを進めた。
「 …… どうしてここに? ここは連邦軍の基地、民間人の君がいる所じゃない」

 たった半年の間に人はこんなにも変わってしまう物なのだろうか、険しい風貌と眉間に刻まれた深い皺が彼の受難と猜疑心に満ちた心境を物語っている。出会いに対する何の感慨も、感動の欠片もなく問い詰める様なコウの質問と共に一陣の風が駆け抜ける。道の両側で朽ち折れた麦畑が乾いた音を立ててざわめき、コロニーの落着によって発生した熱でからからに乾いた麦の穂鳴りは今のニナの振る舞いを非難するシュプレヒコールの様に辺りを取り囲んだ。
「アナハイムは首になったわ。今はここで軍属として技術部に勤務しているの」
 作り笑顔のままほんの少し視線を落としたニナ、体の奥で破裂しそうになった感情全てを必死の力で押し隠してそう告げるのが今の彼女には精一杯の力だった。複雑な表情のままでじっとその顔を見据えるコウは心の中で交錯する様々な ―― それはニナのそれと殆ど変わらない物なのかもしれない ―― 想いをそっと隠して、小さく笑った。
「そうか、無事でよかった」
 許しとは程遠い、形式的な社交辞令だけを口にしたコウの顔を見上げてニナは思わずはっとした。手を伸ばせば必ず届く場所にある彼の表情にニナの心の底で眠っていた遠い記憶が蘇る。
 あの時と同じだ。
 最後に月で見たガトーと同じ顔、そして同じ目を彼はし始めている。
 動揺したニナから笑顔が消えて自身も気付かない狼狽が浮かび上がる、コウは必死で指の隙間から零れ落ちようとする彼女の一縷の望みに素知らぬ顔でそっとニナから視線を逸らした。
「キースとモウラもここにいるのか …… 不思議だな、あれからまだ半年しか経ってないのに何年も前の出来事みたいだ」
 コウが彼らの背後で身体を休めるゲルググへと視線を送る、コクピットから脱け出したキースはハッチの縁にある懸垂用ケーブルを使って地上へと降りようとして、いまだにその動かし方が分からずにもがいている。いつまで経っても不器用な、だが地球軌道を席巻したあの豪火の中を生き延びた昔と変わらない親友の姿にコウは打ち解けた笑いを浮かべた。
「ねえ、コウ …… また、モビルスーツに乗るつもり? 」
「どうしてそんな事を聞くんだ? 」
 それはまるで既に用意されていたかのようだ。ガトーから語られた真実を話す事の出来ない罪悪感に思わず顔を背けてしまったニナ、その横顔から片時も目を離さないコウはズボンのポケットの中から手探りで小さな金属片を取り出した。
「 …… 君が、つけてくれないか」
 コウの掌の上に横たわるそれは所々メッキがはげた、傷だらけのウイングマークだった。オークリーの日差しを浴びて光を跳ね返す十二枚の小さな翼は、それ自体が彼の意思であるかのようにニナの瞳へと輝きを放った。
「君の手で俺の胸につけて欲しいんだ。もし君とどこかで会った時にはそうして貰おうと決めていた」
 それはたとえお互いの進む道が二手に分かれてしまったとしても。黒い瞳に言外の言葉を映してコウはニナを真っ直ぐに見つめていた。まるでそこへと吸い込まれていく様にニナの手がコウの手の中からピンバッジを取り上げる、夏服の胸ポケットにしっかりとそれを差し込んだニナに向かってコウは静かに言った。
「また乗るよ、俺は」
 その声は、その言葉はニナの迷いを振り切るだけの力がある。無言でじっと見上げるニナの蒼い瞳の中に、コウは自分の決意を刻みつけた。
「その為に俺は軍に残ったんだ。もう一度 ―― モビルスーツに乗る為に」

                                *                                *                                *

 モビルスーツ隊が今日に至るまでの経緯はマークスもアデリアもキースやモウラから少しは聞いて知っている。元々ならず者の集まりだったオークリーに秩序とルールを齎したのは誰あろう、ウラキ伍長 ―― その時は少尉だったらしい。四面楚歌のモビルスーツ隊の末席に陣取った彼は度重なる基地の兵士の嫌がらせに対して片っ端から粛清を行い、全員の矢面に立って物理的な対抗手段を取り続けた。だがその話を聞いた二人が最も驚いたのは、彼がここに来てからのモビルスーツ隊と他の兵士との諍いがこちら側の全戦全勝だったと言う事だ。彼が伍長に降格となった最後の喧嘩などは一対二十と言う途方もない戦力差で、しかも相手は陸戦隊の生き残りの集まりと言うも猛者だったらしい。しかし彼は全くの素手で、しかもさしたる怪我もなく立ち向かって来た全員を完膚なきまでに叩きのめした。すぐ傍で観戦していたアストナージに言わせると「二度と歯向かおうなどとは思えないくらい圧倒的な力の差を見せつけて完勝」したと言うのだ。
 マークスがニナにその話をすると、彼女はほんの少し恥ずかしそうな顔をしながら、しかし確かに幸せそうな頬笑みを浮かべていた。
「モビルスーツに乗る為に軍へと還って来たのに来る日も来る日もケンカに明け暮れて、そんな事を考える暇もない。やっとの事でジムの調整を終えてさあこれから試運転って時にも、乱入してきた兵士を迎え撃つ為に一人でハンガーの外へと出でっちゃって …… ほんとに、昔から間が悪いのよコウは」
「でもそのお陰で今のオークリーになった? 」
 マークスが尋ねるとニナはコクリと頷いた。
「その時の彼はまるで指揮官の様だったわ。鉄拳制裁でのした相手に対しても必ずお見舞いに行って ―― もちろん懲罰房から出た後よ ―― ちゃんと謝って。で、その相手がまた喧嘩を売ってきたらまた叩きのめして謝って。そんな事を根気よく何度も何度も繰り返している内にみんなは少しづつ変わっていった、最初はコウに対する恐怖からだったのかも知れないけれど、彼がモビルスーツ隊を守るために戦っているのではなく、基地で未来を見失ったみんなの目を覚まさせる為に頑張っていると言う事を彼らが理解した時にこの基地は変わった」
 それが自分達のコールサイン『シャーリー白鷺』の由来である事をマークスはキースから聞いた事がある。古代インドでその名を冠した男は多くの人間を引き連れて神の元へと帰依したとされる、未来へと再び道を指し示したコウは二度とそれをみんなが見失わない様にその名前を残したのだ、泥の中で大きな翼を広げてジオンの紋章を咥える白い鳥の描かれた部隊章と共に。
「でもいつかその時はやって来る、コウがモビルスーツへと乗り込むその時が。彼の中に撒かれたガトーの種がどういう形でコウに変化を齎すのか、でもそれが芽吹いてしまったら私は果たしてそれを止める事が出来るのか。いろんな考えが私の中で浮かんでは消えて、でも答えなんか見つからなかった。いつも最後に残ったのはあの日のガトーの様に戦いを求めて私の元から去って行ってしまうと言う恐怖だけ、何度もその日を夢に見てはうなされて飛び起きた」
「それで伍長の初演習はどうだったんですか? 仮にも『悪魔払い』の名を持つエースパイロットだ、薬なんかなくったって隊長以上にモビルスーツを動かす事が出来たんでしょう? 」
「 ―― その日は、とうとう訪れなかったの」
 その呟きに思わず、え? と首を傾げた二人の前でニナは頭を振った。
「彼がみんなの為に拳を振るっている ―― それが私達の大きな勘違いだった。彼はそんな事の為に毎日いざこざを起こしていたんじゃない」
「ど、どうして? だって彼がいなければこのオークリーは恐らく未だにやさぐれた兵隊のうろうろする、無法地帯だった訳でしょう? 彼の功績のどこに勘違いの入り込む余地があるって言うんですか? 」
「そんな物の為にふるう暴力なんてありえない」
 マークスに応えたのはニナではなくアデリアだった。彼女は身体の脇に垂らした拳をぎゅっと握り締めて何かを思い出す様な、そしていたたまれない眼でニナを見ていた。
「あたしの時と同じだ、そうしなければ大切な物を守る事が出来なかった。 ―― そうよね、ニナさん? 」
「 ―― 彼は、それで隠していた。自分がモビルスーツに乗れなくなっていると言う事を」

 三人三様の顔でニナの言葉の真実を見つめるその薄闇に深夜零時を知らせる時報が小さく響く、黙の時を破ったのは韜晦に塗れたニナの悲しい声だった。
「私は知らなかった、ドク以外は誰も知らなかったっ。彼がその為にカウンセリングを受け、何度も何度もその原因を突き止めようとしていた事を。PTSD? シェルショック? 違う、そんなありきたりのもんじゃないっ! 彼がモビルスーツに乗れなくなったのは ―― 」
 叫んだニナが顔を伏せて両手で覆う、勢いで弾かれた涙の粒が微かな光の中を舞って床へと零れ落ちた。
「私があんな事を考えなければっ! 私がガンダムなんか創りさえしなければコウをあんな目にっ、彼の一番大事な物を諦めずに済んだかも知れなかったのにっ! 」
 嗚咽が、慟哭がニナの前に佇む二人から言葉を奪う。その先の言葉を尋ねる事さえ憚られる空気の中では、アデリアとマークスはただじっと時が経つのを為す術もなく見守る事しか出来ない。
「その続きは儂のほうから話そう」

 遠慮がちなその声は締めた筈のドアにいつの間にか生まれた隙間から忍び込んで来る。押し開けられて広がった空間から現れたのはくたびれた白衣を纏ったまま、片手に薬袋をぶら下げているモラレスの姿だった。
 突然の声と予期せぬ闖入者に慌てて振り返る三人の前で、彼はいかにも気まずそうな顔で後頭部を指で掻きながら言った。
「すまんな、そう言うつもりはなかったんじゃが …… じゃがそこから先の話は儂の方から説明した方が早いじゃろう」
 そう言うとモラレスは頭を掻くのを止め、後ろ手でニナの部屋の扉を静かに閉じた。



[32711] Realize
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/04/18 23:38
 狭い部屋に集った三人の顔ぶれをざっと眺めたモラレスから小さな溜息が漏れた。予期せず訪れてしまった告白の瞬間は彼の心に後ろめたさと言う影を落としてここへと足を運んだ事を後悔させる、だがここに足を踏み込んだ以上もう後戻りはできない、と言うのが今の彼の正直な心境だった。
「まさか奴らよりも先に本当の事を伝えねばならなくなるとはなあ …… 本当は誰にも話さずに彼をこのままそっとしておこうかと思ったんじゃが」
 一人ごちたモラレスの述懐を耳にしたアデリアとマークスは不思議な顔で首を傾げた。ニナは恐らくこれからモラレスが語ろうとする話の内容を大方予想して、しかしそこに何の救いもないであろう事を予期した揚句に生まれた葛藤をそのまま面へと表している。知りたいと思う気持ちと知りたくないと思う気持ち、ニナの複雑な表情へと目をやったモラレスは厳かに口を開いた。
「ニナ君が今も話した通り儂は伍長からモビルスーツ適正に関する相談を受けていた ―― 先ずその事から話さねばなるまい。ニナ君にはそこの所を曖昧に伝えてはあったんじゃがこの際はっきり言っておこう」
 ゆっくりとニナの隣へと歩を進めたモラレスはデスクの上に手にした薬袋を置くと、暫く無言でモニターに映るコウのデータを読んだ。素人ながらにここへと映し出された彼の戦歴の凄まじさには背筋が寒くなる、もしこの数値をヘンケンやウェブナーが見たらどう思うだろうか? 自分達の陣営に欠けているカリスマの存在、たとえ病んでいたとしてもそれを手に入れると言う事の意味はこれからの戦力の充実に大きな役割を果たすだろう。軍人とは思えないほどお人よしなヘンケン ―― 彼はどちらかと言うとウラキ伍長のスカウトには懐疑的だ ―― でも自分達の任務の重要性を鑑みれば一も二もなく彼を自分達の組織へと無理やりにでも参画させようとするのではないのか?
 モラレスが昨日の昼、三人に対して本当の事を言わなかったのはそれが理由だった。シミュレーションのデータだけでは今一つ確証がなかった自分の動機も彼女の告白を耳ににすればその判断が正しかったと言う事が分かる。
「ウラキ伍長はモビルスーツに対して猛烈な拒絶反応を示す、それが彼がモビルスーツに乗れなくなった本当の理由じゃよ」
 モニターから目を逸らしながらモラレスが呟いた。

「拒絶、反応? …… それってモビルスーツなんか見たくも乗りたくもないって、意味? 」
 モラレスの言葉にピンとこなかったアデリアが直感的にそう言う、語彙としては正しいその発言にモラレスは少し険しい表情を向けた。
「事はそう単純ではない。彼はモビルスーツに自分の意思で乗りたがっているんじゃが、いざそれを動かそうとした途端に肉体がそれを完全に拒絶するんじゃよ。伍長の場合は嘔吐反射とそれに伴う全身の運動機能障害、ボタン一つ触れる事もままならん状態に陥るとの事じゃ」
「ドク、それはおかしい。だって伍長は予備役登録されてる訳でしょう? だったら年に一回義務付けられた予備役演習と健康診断で伍長には不適性の判断が下されている筈です」
「無論じゃ、彼がここ以外の基地の予備役に登録されていたとすればじゃがな。じゃがここの予算は他の基地よりもはるかに少なく、演習だからと言っておいそれとモビルスーツを動かせるほど潤沢ではない。故に予備役のモビルスーツ演習にはもっぱらシミュレーターが使用されているのは知っておるかな? …… ここでパイロットの二人に質問じゃ、お前さん達もそれを使って演習をした事はあるじゃろうがそれと現実とを比較してどう思った? 」
 突然振られた質問に目を白黒させながら互いを見つめる二人、モラレスはその戸惑いが正解だと言わんばかりに登壇を果たした教師宜しく交互に二人の戸惑いを見つめた。
「駆動音も振動もなく体感する慣性もない、所詮は数値と演算によって創り上げられた紛い物の世界じゃ。実際に地表何メートルの所から操るのとは全く別のモンじゃろう? ―― まあそこが今回の伍長の話のミソでもあるんじゃがな、そうでなければ彼が訓練を無事に終了する事もなかったと言う訳じゃ。 …… ニナ君? 」
 三人の会話をよそにじっと手を膝の上へと置いたまま暗闇へと目を向けていたニナは、モラレスの声に反応してピクリと肩を震わせた。恐らく彼から齎される質問の内容が既にニナには分かっていたのだろう、だがモラレスは手間になる事を承知であえて尋ねてみた。
「さっきお前さんが洩らした薬の名前 ―― 確か『PI4キナーゼ・タイプⅣ』と言ったか。そのデータがどこにあるか分からんかね? もしその成分の一端でも分かればひょっとしたら治療法の手がかりが見つかるかも知れんのじゃが」
「 …… ごめんなさい。そのデータもアナハイムのメインサーバーに眠ってた物で、計画が抹消された時にその全てはティターンズに消去されました」
「ふうむ。『全て』、ねえ」
 もうその答えは予め用意されていた物だったのだろう、それ以上の事は喋れないと暗に示したニナの台詞にモラレスは小さな溜息をついてニナの瞳を見つめた。その言葉が嘘である事は明らか ―― 事実彼女の手元にはコウの起動ディスクがある ―― なのだがモラレスはその疑惑には目を伏せた。
「ない物をねだった所でそれが現実になる訳でもない。では現状を踏まえた上での儂の想像になるがそれでもええかの? 多分ニナ君にとってはとても辛い話になると思うんじゃが」
 三人の目がニナへと注がれる。俯いたまま暫く動かなかった彼女はそれでも何かの決意を固めたかのように小さく、コクリと頷いた。

「儂の手元には今、先だって行われた予備役の訓練データがある。そこに記録された伍長の変化と今の会話を元に彼の身体の中で何が起こっているのかを推測する訳じゃが、無論本当にそうなるのかどうかは起こってみなければ分からん。ただこれは儂の知識と経験を元に分析するから、当たらずとも遠からじな結論になると言う事だけは覚悟して貰おう」
 覚悟と言う言葉の後に訪れる沈黙はモラレスが三人に対して同意を求めたと言う証拠、沈黙を持ってそれに応えた三人に対してモラレスは小さな咳払いを一つした。
「まずニナ君が言った『PI4キナーゼ・タイプⅣ』と言う薬品名じゃが儂には心当たりがない、しかし聞く限りではその薬品は明らかに酵素 ―― それも『PI』の頭文字が示す通り細胞膜の中にある『イノシトールリン脂質』に作用する性質の物じゃと考えられる」
「酵素? それに『PI』って? 」
「ホスファチジルイノシトール。4と言う事はイノシトールリン脂質に6つあるイノシトール環の4番目に作用すると言う事、キナーゼとはリン酸化酵素の総称じゃ。問題はタイプⅣという名称なんじゃがこれは儂にもさっぱり分からん、何らかの分類を示す名称じゃとは思うんじゃが」
「 …… それだけ説明が出来るンなら、伍長に使われた薬の内容も大体分かるのが普通じゃないの? 」
 首を傾げながらアデリアがドクに尋ねる、その姿を見るマークスにとってもドクの説明には頭をひねらざるを得ない。機械や戦術に関してはある程度の理解を示す事は出来てもこれほど畑違いの世界だと、モラレスが何を言っているのかさえ理解が出来ないと言うのが本音だ。
「前半の部分だけならお前さんの質問にはYESじゃ。ヒドロキシル基をリン酸化させる事によって細胞内での信号伝達を活発化させて様々な生理現象に関与する。細胞の増殖・維持からインシュリンの分泌まで、人間の身体はこの物質によって保たれていると言っても過言ではない」
「聞けば聞くほど体に良さそうな話よね、それじゃあ別にそれを使ったからって害になりそうにもない気がするんだけど」
「まあ、文字通りの役割しかこの酵素が果たさない、と言うのならばそうなんじゃが実際伍長の身体にはある種の変化が現れている。お前さん達もデータを見て分かっているとは思うが彼の異常な反応速度が一番顕著にそれを物語っている、そして彼が言うには自分以外の全てがゆっくりになってしまうと言う事らしい。問題なのは彼自身はその世界の中で普通の速さで動けていると言う事、これは生理学的に言う『ゾーン』や『フロー』による精神集中状態や『タキサイキア現象』とは全く異質のモンなんじゃ」
 専門的な分野にモラレスが迂闊にふみ込んでしまった事で二人の表情から難解と言う文字が描かれる、モラレスは自分の意見に慌てて補足を始めた。
「『タキサイキア現象』とは景色がゆっくりに見える現象の事じゃ。人間は危機に瀕すると血液の成分を変化させて最悪の出血に備える、その際に体の機能をその準備に費やす為に五感が鈍くなって映像を脳が十分に処理できなくなる現象じゃ。しかしそれはただ情報の処理速度が遅くなっているだけじゃからそれで自分だけが早く動ける訳がない、見えてる世界と同じ様に自分の動きも遅く感じる」
「でも伍長は違う、彼は周りの景色の時間軸とは全く違う世界で自分の身体を動かす事が出来る ―― そう言う事ですか? 」
 やっとモラレスの話の内容に追い付いてきたマークスが尋ねると、モラレスは小さく頷いた。
「この事から導き出される結論 ―― それは伍長の身体がそういう現象に陥っているのではなく、全く別の要因でそうなってしまうと言う事。儂が思うに伍長がそうなる可能性、それは『景色がゆっくりに見える』のではなく『景色がゆっくりに見えるほど脳の情報処理能力が上昇している』状態なんじゃないかと推察する。 …… で、ここでさっきの酵素の役割について、じゃ」

「情報処理を向上させる為には伝達速度を上げるのが一番の方法じゃ。分かりやすく言うと隣町へ移動するのに今まで自転車を使っていたのが車になる、高速鉄道になる、飛行機になると言った具合にじゃ。そうなると取り込まれた情報に対しての結論を下すスピードが上がって行動が早くなる、と同時に肉体は大きなリスクを抱える。伝達速度に身体の各器官が耐えられなくなるんじゃ」
 それまで俯いたままでじっと話を聞いていたニナの肩がピクリと動いた。彼女が三号機のコンセプトを発案した時に絶対に必要だと定義し、そして破棄した戦闘亢進薬の役割はまさにモラレスが言ったそれだった。
「しかしそれを実現する方法が人体の中に一つだけ存在する、それが『ドーパミン』を始めとする脳内麻薬の存在じゃ。事実伍長の身体からはアンフェタミンに似た成分の物質が検出されておる、それは多分ノルアドレナリン前駆体であるドーパミンを放出させて興奮による苦痛軽減を図ろうとしておるのじゃと儂は考える。それが多分『タイプⅣ』という末尾に隠された秘密じゃろう」
「 ―― そうか。その酵素が細胞間での信号伝達を活発化させて情報処理能力を上げると同時にもう一つの役割である生理現象の誘発を特定の器官へと働きかけて運動機能を無理やりそこへと追随させる、それがその薬の正体なんですね? 」
「あくまでも推定じゃがそう結論付けても構わんじゃろう。それが彼の力の源泉とも言えるがの」
 マークスにそう答えたモラレスはふっと溜息をついて視線を落とした。そこには俯いたままじっと背後のモラレスの声へと耳を傾けているニナの金色の後頭部がある、心なしか震えている様に彼には見えた。
「それだけならばこの薬は立派な戦闘亢進薬として軍の薬剤リストに列挙されていてもおかしくはない。じゃがこの薬は伍長の乗った試作機に搭載されて以降、この世のどこにも存在してはおらん。 …… 欠陥が、この薬には致命的な欠陥が存在するからじゃよ」
「欠陥? 」
 モラレスは一瞬その言葉を躊躇った。滔々と流れる川の流れがほんのわずかの間堰き止められるような奇妙な静寂、やがて彼はぽつりと言った。
「 ―― 殺人衝動の誘発。それともう一つ」

 それはモラレスがコウとのカウンセリングの最中に見出した症状だった。衝動的に振るう暴力の最中に彼が考える事はただ眼前に迫る脅威を徹底的に排除する事、彼に向かって仇なす全ての敵が動かなくなった瞬間に訪れる猛烈な罪悪感と後悔。人を殺める事の出来る精神状態を持つ者は一様にその行為自体を自らの本質に置き換えて正当化に走ろうとする、「殺さなければ殺される」「これは戦争だから仕方がなかった」言いかえればそれは「そうしなければ自分の自我が保てない」と言う防衛本能が引き起こす論理のすり替えなのだ。
 モラレスは最初、彼も軍人としてそういう病に罹患しているのかと思って真摯に彼の告白へと耳を傾けた。だが回を重ねるごとに彼の衝動的な暴力が、まるで何かに取り憑かれた様にスイッチが入っている事に気が付いた。抗い難い誘惑の後に発散される力が引き起こす諍いの顛末は、蹂躙した者とされた者の境界を見事なまでに隔てて彼の目に結果を教える。コウが必ず怪我をした相手の所へ出向いて自分の非を詫びていたのは決して相手の為にではなく、乖離したまま相手を傷つけてしまった自分の正体に怯えての事だった。
「伍長がなぜそうなってしまうのか、儂も今一つ理解が出来んかったんじゃがニナ君の話を聞いていてやっと予想をする事が出来た。ドーパミンを前駆体とするならばその中には人の闘争本能を活性化させるアドレナリンが含まれている、脳内の麻薬レセプターに取り込まれたその物質はあっという間に人の精神を『そういう生き物』へと変貌させるじゃろう。本能に抗える理性など、生き物である限りかなりの困難を要する」
 ニナの脳裏に蘇るあの光景、それはアイランド・イーズでの人が変わった様なコウの姿だった。苦悩と怒りに満ちた表情を携えてガトーと自分の目の前へと姿を現した彼はまるで血に飢えた鬼の様だった、いつ引き金を引いてもおかしくない彼を止める為に銃口を向ける事を躊躇えないくらいニナは追い込まれた。もちろんガトーを止める為には最悪彼を殺すしか選択肢がなかったのかもしれない、しかしガトーに向けて銃弾を撃ち込んでからの言動はおよそニナの知るコウの人となりとは全くかけ離れた物であった事を思い出していた。

 それが。あの日のコウの行動の全てがその薬によって支配されている物なのだったとしたら。

 何かに耐え忍んでいたニナの表情が少しずつ変わりつつあった。ほんの少し顔を上げた彼女はぼんやりとした目を、前に立つ二人の向こう側へと向ける。
「それは多分彼が戦いに身を投ずるほど ―― 命の危険に晒されるほど分泌量を増やして伍長の精神を支配し、ただの殺意の塊へと変えていく。彼がその戦場を離脱する ―― 生死に関わらず ―― までじゃ。一年戦争の末期に対特殊能力兵士用のプログラムで似た様なシステムが開発されていたと言う噂を耳に挟んだ事はあるが、これはそんな生易しいもんじゃないのう。モビルスーツの心を司る一番重要な部品に狂戦士の能力を与える …… 『画期的な戦闘薬』と言う事になる。そして画期的と言うからにはもう一つ大きな特徴がある。それはこの試薬はたった一回の使用でその効果を持続する事が出来ると言う点じゃ。」
「効果を持続、って戦闘薬は麻薬と同じ物なんだから依存性はあっても持続性はない筈なんじゃないの? 」
 うろ覚えの知識をひっくり返して今度はアデリアが口を開く。モラレスは啓眼を持って的確に常識の矛盾点を突いてくる少女に向かって満足そうに笑った。
「さっき儂が『もう一つ』と言った理由、それはこの薬が『酵素』である事じゃ。PI4キナーゼという物質は元々人の身体の中に存在する物だからそれを拒絶する事など有り得ない、それは密かの伍長の身体の至る所に存在していつでもその効果を発揮する機会を待っておるんじゃと思う。その機会が訪れたならいつでも彼の身体を支配できるように、あざとく、巧みに」
「それはつまり元々人の体内に存在しなかったこの酵素がこれからは伍長の体内物質の一つとして存在し続ける、と言う事ですか? 彼に命の危険が迫ればそれはいつでも彼に超人的な反射速度を与える、と? 」

 その通り、と言う言葉がモラレスの口から洩れる事はなく、代わりに小さな溜息がそれに取って代わった。何かに考えを巡らす様に眉間に皺を寄せて、少し前髪の後退した額を二三度掻いた彼はやぶ睨みになってマークスを見つめた。
「では伍長がモビルスーツに乗れる事が出来たと仮定して話を進めてみる、現状彼の身体の内部で起こりつつある変化を想像しながらじゃがな。前回行った予備役訓練の際のシミュレーターにおいて彼は素晴らしい成績を残した。旧式のザクでゲルググで組織された一個小隊に挑んだ彼はその全てを十分で撃破したんじゃが、その際に奇妙な反応をテレメトリー中の生体記録部分に残している」
「 …… 嘘だろ? ザクで、ゲルググ一個小隊を十分で …… 撃破? 」
 一年戦争末期にジオンに配備されたゲルググという機体は製造数こそ少なかったものの全ての面で優れた機体であった、機動力・火力・汎用性といったドライバビリティは連邦軍に標準配備されたジムを遥かに凌いでいる。連邦軍の上層部をして『あと三ヶ月配備が早まっていたなら戦況は逆転していた』と言わしめたその機体で構成された一個小隊をたった十分で、それも自分達があれほど嫌っているザクで沈めたと言う事実は想像を絶する。
「馬鹿もん、引っかかる所はそこじゃないわい。儂が言いたいのはその後じゃ。 …… 彼は敵を全滅させるまでの十分間の間に少なくとも三回、全身の機能が完全に停止した事を示す『ハング・アップ(hung up)』を記録しておる。不随意筋によって行われる生理機能以外の全てが無反応になるその状態は僅か十秒程に過ぎんのじゃが、その間ウラキ伍長の意識は一切の外的要因に関しての反射を失っておる。儂はその原因が『オピオイド』と呼ばれる脳内麻薬の分泌によって発生する精神の拮抗状態 ―― 『最期の救いラストサルベシオン』だと睨んでおる。つまり過剰かつ長時間分泌されるアドレナリンはこの麻薬様物質と拮抗し、伍長の体は異常に傾いたそのバランスを平衡に戻す為にそれを発生させる。彼がモビルスーツに乗り続けて戦場へと向かえば間違いなくこの症状は彼を死に至らしめる、物理的に彼がモビルスーツに乗る事の出来ない理由の、それが二つ目じゃ」
 ヘンケンやウェブナーの前で語った事をモラレスはもう一度、自分の中で確かめながら彼らへと伝えた。薬の名前が分かった事で生まれる新たな推論、モラレスは自分の頭の中の知識を全て動員してコウの身に降りかかるであろう致命的な現象について言及を始めた。

「では、もし彼が運良く生き延びる事が出来たなら …… これは推測にしかならんが、やはり同じ運命がウラキ伍長には待っていると儂は思う。さっき儂が言った酵素の役割を憶えておるか? 」
「 …… 確か、細胞内の信号伝達を活発にして生理現象を引き起こすとか、何とか」
「そしてそれが伍長の力の源とも言った。じゃがPI4キナーゼと言う物質の力だけではそれほどの変化を誘発させる事は不可能なんじゃよ。それに出来る事はあくまでPI3キナーゼと言う物質が持つ役割を補助する役目、信号の伝達や生理現象には殆ど干渉しないと言ってもいい」
「え? じゃ、じゃあ今まで伍長の身体の中で起こってた変化って言うのは ―― 」
「それはもちろん現実じゃ。 ―― こう仮定してみようかの、ではそのPI4キナーゼと言う物質が本来の役割のベクトルを別の方向へ振り向けていたとしたらどうじゃ? 『補助アシスト』ではなく『加速ブースト』だったとしたら? 」
 アデリアとマークスはモラレスの言葉を受けてお互いの顔を見合わせた。機能が増幅されると言う事は単純に考えてPI3キナーゼの発揮する力が強まると言う事、確かにその理屈ならば彼の超人的な反射機能にも説明がつく。
「これで伍長の能力の辻褄は合う。 …… そしてその後に彼を襲う悲しい結末についても、じゃがな」
「悲しい、結末? 」
 呟いたアデリアの顔とそっと目を伏せて溜息をつくモラレスの顔を交互に見やったマークスは最後にニナへと目をやった。膝の上で固く握りしめられた白い拳と震える肩が彼女の心の叫びを代弁している。
「PI3キナーゼの機能、つまりタンパク質をリン酸化するというシステムは細胞の機能を維持する為に行われる化学反応じゃ。それが活性化する ―― 生物学的には『PI3キナーゼ-Akt経路』と呼ばれる現象じゃがそれは細胞の様々な活動に関与する、細胞分化・増殖や代謝、細胞遊走、細胞骨格の再構築などの生物活性がそれじゃ。じゃがその勢いが加速していく ―― つまり細胞分裂や増殖が異常な速さで行われるとある種の不具合が発生する。一個の細胞が分裂出来る回数は約50から60回、そこで『ヘイフリックの限界』を迎える」
「『ヘイフリックの限界』 …… ? 」
「細胞のDNAの端には同じ塩基配列が並んだテロメアと言う部分がある。それは分裂の度に少しづつ短くなっていく、一種のカウントダウン装置みたいなもんじゃ。それが全て尽きた時その細胞は自らの命を絶つ仕組みになっておる」
「アポトーシス」
 絞り出す様な声でニナが言う、モラレスは小さく頷いて傍らに座るニナへと視線を向けた。
「プログラムド・セル・デス。本来ならば体細胞がそれ以上増えない様に用意された現象なんじゃが、彼の場合にはそれが仇となる。つまりその酵素が能力を発揮すればするほど彼の細胞はその現象を加速させてしまうんじゃ、彼の力が状況認識と運動速度に特化している点を考慮するとそれはズバリ、彼の脳細胞」
「じゃ、じゃあ伍長はどうなっちゃうって言うんです? 」
「脳をやられて生きておられる者などおる訳がないじゃろう。『PI4キナーゼ・タイプⅣ』にとっての正常な活動が生体の反応速度を『どんな事をしてでも上昇させ続ける』と言う事だと仮定するならばその特性は対象の活動の維持を前提としない筈じゃ。その酵素は伍長がその生命活動を終了する最後の一瞬まで彼の脳細胞を破壊して情報伝達を活性化させ続ける、そう考える方が妥当じゃ」
 
 重い沈黙が狭い室内を包み込む。突き付けられた推論の信憑性はその全てにおいて高く、そして説得力に溢れている。モラレスはまるで彫像のように固まったままの三人の前で一つ咳払いをした。
「一つ救いなのはこの話がこの老いぼれの苔むした知識から導き出された仮定と推測でしかないと言う事じゃ。本当にその試薬が儂の想像した通りの過程を経て人を死に至らしめるとは限らん、伍長に起こっている体の変化は現在の所では精神的なストレスから来る拒絶反応、試薬による反応伝達速度の上昇とそれに伴って生成される麻薬物質との拮抗状態による反応停止。 …… ただ軍の中で医に携わる者としてはそれだけでも十分彼に対してモビルスーツパイロットの適正に不適格の烙印を押すに値する」
 そんな言葉が何の慰めにもならないと言う事は当のモラレスが一番よく知っている。「もしそうであったなら」などと言う仮定を飛び越えてこの推論は導き出された、ここでモラレスの話を否定すると言う事は真実から目を背けようとしている事と同義にしか思えないからだ。
「それに人と言うのは自己の崩壊にとても敏感な生き物でな。恐らくウラキ伍長はモビルスーツに乗れば自分がいずれは死に至るかも知れないという事を本能で嗅ぎ分けておるんじゃろう。彼の拒絶反応が戦傷記憶から来る物であれば恐らく軍に戻って来る事は無かった、じゃが彼は再びモビルスーツに何らかの理由で乗り込もうとしておる。彼が抱える強情な意思と肉体の乖離が齎す矛盾こそが彼の拒絶反応の原因だと考えても差し支えはあるまい」
「ではその肉体と精神の抱える矛盾がウラキ伍長の中で解決した時、彼はまたモビルスーツに乗る事が出来る、と? 」
「その意味を分かって口に出したか、マークス? 」
 突然モラレスの口から飛び出した強い口調にマークスは思わず身を固くする。モラレスはジロリと彼の顔を睨みながら咎める様に言った。
「彼がそう決断する事イコール、自身の死を覚悟すると言う事じゃ。 …… 儂はな、そういう奴は軍にいちゃいかんと思うんじゃよ。ニナ君の言う事が確かな物だとしたら少なからず近い将来にまた戦争が起こる、その時にこんな絶望的な運命を背負った者が戦場に立ってはいかんのじゃ。確かに伍長は人の繋がりから遠く離れた ―― 孤立した存在なのかも知れん、じゃが人と言うのは一人では生きられないし彼もまた何らかの人の繋がりの中で生きている一つの存在なんじゃ。その彼が戦場へ死を前提として赴いた時にぽっかりと開いた穴は誰が埋めればいい? 彼が二度と帰ってこないのだと言い聞かせてその穴を埋めようとする、彼の人生に連なった者達は何を代わりにそこに嵌め込んで補うと言うのか。そんな者は ―― 彼の代わりなどおりゃせんのじゃよ。彼と全く違うピースを嵌め込めばその違和感に苦しみ、彼と同じ様な運命を持つ者を嵌めれば再び訪れるかも知れない喪失の予感に心を痛める。彼の死と言う物は彼だけの物じゃなく、彼の周りで彼を支え続けた人の繋がりをも殺してしまう事になるんじゃ。軍医と言う者が兵士の命を救う事に第一義の使命を担うと言うのなら帰還の当ての無い死人をわざわざ戦場に送る事などあってはならん事じゃと儂は思うし、その為の治療を施す気もない」
 言い聞かせる様に強く語るモラレスに三人の目が集まる。大勢の命を救い、それ以上の命を取り零してしまった老医師のコウに対する結論がそれだった。

 ニナが見上げた先にモラレスの顔がある、彼はニナを見下ろして微笑んでいた。彼女が今まで隠し通してきた事が間違ってはいないのだとその顔は言っている様にニナには思える。たったそんな事でも人はこんなに救われるのだと、ニナはモラレスの配慮に感謝した。少なくともこの後の話をする事が出来るだけの勇気を、ニナはモラレスから与えられた様な気がする。
「じゃあウラキ伍長はモビルスーツに乗れなくなった事に絶望して軍を離れた。だが隊長や技術主任と同じ立場であるウラキ伍長は何らかの制約を受けて予備役登録と言う形でオークリーに永住する事を余儀なくされている …… 今の彼を取り巻く現状はそういう事になるんでしょうか? 」
「私がその事実を知った時にはもう遅かった」
 マークスの洞察が正解である事を認める様にニナは言う、見上げるその瞳には幾許かの力が残されていた。
「彼は私達が知らない間に基地指令に退役を申し出て、却下された代わりに出された交換条件を全て受け入れて、ある日突然この基地を出て行ったわ ―― キースにも、モウラにも」
 再び訪れる悲劇のあの日へと立ちかえるニナの瞳が微かに潤むのをマークスは確かに見た。
「私にも、何の理由も別れの言葉さえ告げずに」

                                *                                *                                *

「ニナっ! 」
 その知らせは突然だった。鍵の掛かっていない居室のドアを蹴破る様に乱入してきたモウラがベッドの上に横たわるニナの肩を乱暴に揺さぶる。尋常ではない目覚めを要求されたニナの意識はそれでも生来の低血圧に由来する休眠状態からなかなか浮き上がれずにいる。
 片手の袖で開く事を拒否し続ける瞼を刺激して僅かな時間の睡眠すら妨げる声の主を確認する為にぼやける視界を確保した。
「モウラ? …… 一体どうしたの、こんな時間 ―― 」
 ぼそぼそと尋ねながらベッドの脇にある時計に目をやった。人の動きに反応して表示明度を変えるそのデジタルは明らかに緊急事態以外では世界中が眠りの底に沈んでいる時間を示している、不満を露にしてニナが言った。
「 ―― まだ四時じゃない。何事 ―― 」
「コウが、いなくなったんだ」
 血相を変えてニナを見つめるモウラの只ならぬ雰囲気を認識するのに数秒、切迫した声のモウラの台詞を理解するのに更に数秒。貴重な時間を自らの生理現象によって浪費してしまったと気が付いたニナが深い眠りの底から一気に覚醒への梯子を駆け上がり、深い眠りの森の住人から現実へと覚醒しようとする表情を見守ったモウラが尋ねた。
「あんた、知らない? 」
 ばね仕掛けのように跳ねあがったニナの上半身がそれ以上のモウラの追及を拒否した。あまりの勢いに怯むモウラを無視して手近にあったスラックスに足を通して、靴を履くのももどかしく自室の扉へと手を掛けた。
「ニナっ! 」
 我に返ったモウラが壁に掛かっていたガウンを引っ手繰ってニナの後を追った。民間人の宿舎から兵舎までの長い廊下に二人の足音がリズムを乱したままで鳴り響く。

「コウっ! 」
「ニナさん!? 」
 背後から聞こえたニナの叫びに思わずキースが振り返る、血相を変えて駆け込んで来たニナがキースの体を押しのけてコウの部屋へと雪崩れ込んだ。あえぐ呼吸も荒ぶる動悸も問題ではない、ニナは薄暗い室内の隅々にまで目を凝らして愛する者の痕跡を追い掛けた。きれいに折り畳まれたシーツと肌がけ、そして几帳面に並べられたテーブルと椅子の上には何一つ残っていない。確かに置かれていた筈の彼と家族の集合写真、キースとのツーショット。
 呆然とその場に立ち尽くしたままのニナの背後からキースが、遥か昔に聞いた情けない声でニナに告げた。
「コウの奴、いなくなっちまったんだ。俺が早朝訓練の打ち合わせで何の気無しに部屋に来て見たらもぬけの殻でさぁ …… あいつ、一体どこに ―― 」
「だめだキース、基地の中のどこにもいない。非番の連中総出で探させてるけど見つからないんだ」
 無線機を片手に飛び込んできたモウラが息を切らしたままそう言うと手にしたガウンを肩で息をするニナの肩に羽織らせた。モウラの心遣いにも全く気付かないままニナはもぬけの殻と化したコウの居室の暗い影へと定まらない視線を泳がせる。
「ニナ、あんた本当に何も知らない? 昨日の晩なんかあったとか今までにどこかおかしい所があったとか。早く何とかして連れ戻さないとこのままじゃああいつ ―― 」
 暗に『脱走兵』に認定される事を匂わせるモウラ、その言葉にニナの瞳の焦点が一気に定まって我を取り戻す。軍との契約を一方的に破棄して逃亡を図る『脱走兵』には軍と言う組織の特殊性から厳しい処罰が待っている、ましてや今の四人の立場は事実上軍の監視下に置かれている故に極刑は免れない。ティターンズから供出された誓約書にサインをしなかった時点で四人にはその行動に関して完全なる制約が掛けられていた。軍務以外にこの土地から離れる事 ―― この基地にいる限りそんな事は有り得ない ―― は絶対に許されないと言う条項はこの基地に赴任する際に交わした契約のトップに挙げられた物だ。
 何かに思い当たった様に突然ニナが動き出した。きちんとしまい込まれていた椅子を乱暴にどけると机の引き出しへと手を伸ばす、彼女の手で次々に開かれるスチール製の箱の中には果たして彼女が願う様な物は何もなかった。この部屋同様もぬけの殻となったそれは何の抵抗もなく残酷な事実だけをニナの目に教える。
 最後の引き出しは勢い余ってレールから外れた。ニナの手を離れた空っぽの鉄の箱は大きな音を立てて床の上へと転がり、興奮で息を荒げたままのニナが後を追う様にして躍り出た一枚の紙切れに目を止めたのは彼女に課された必然だった。床の上に舞い降りたそれを慌てて手に取ったニナは裏返しにした瞬間にその正体を知り、愕然として息を詰まらせた。

 それは彼女自身の姿だった。場所はあの日のアルビオンのハンガー、整備用の赤い繋ぎを着たままコウのディスクを片手に浮かべたその笑顔が今となっては痛々しい。その先にある悲劇を知る事もなく、ただ平穏で幸せだった毎日に身を委ねて明るい未来を信じ続けていたあの日。朗らかなその笑顔が誰に向けられた物かなど言うまでもない、私がそんな顔を向けられたのは後にも先にもただ一人。別れの言葉の代わりに残された、それが彼からのメッセージ。
「 ―― コウっ! なんで ―― 」
 迸る激情が声を遮る、写真を握り締めたまま震えるニナを叱咤する様にモウラが彼女の両肩を掴んだ。
「しっかりしなっ! あんたが分かンないんだったら誰にも分かりゃしないんだ、なんか心当たりとかない? コウが行きそうな場所とかやりそうな事とか。あいつがモビルスーツを棄てて軍を逃げ出す事なんてあたしにゃ考えられないんだからっ! 」
 絶望で埋め尽くされそうになるニナの瞳が肩の痛みで元の色を取り戻す。そうだ、まだ遅くはない、せめて訳を。自分の前から何も言わずに姿を消そうとするその訳だけはどうしても知りたい。
「 …… 正面、ゲート」
 なぜ今まで思い付かなかったのか。いや思い付かないのが当然だ、彼がこの基地から離れる訳がないと言う固定観念を拭い去れば行きつく先はそこしかない。オークリーから外へと通じるただ一つの出入り口、正面ゲート。
「正面ゲート。そこには当直の警備兵がいる、この基地から外へ出る為には必ず彼の前を通らなきゃいけない。何かの用事で外出したのならそこに詳しい記録が残っているはずだわ」
「もしそこに記録が残ってなかったり警備兵が眠らされてたら ―― 」
 良からぬ想像で埋め尽くされたモウラの口から零れ出た不安をキースの一喝が捻じ伏せる。
「らしくもないぞ、モウラ。あいつに限ってそんな事がある訳ないだろ。もし万が一そんな事があったとしてもあいつは俺の手で必ず連れ戻す、首根っこをふん捕まえて縛り上げてでもだっ! 」
 怒鳴る様に告げるなり踵を返して一瞬の内にコウの部屋のドアから薄暗がりへと飛び出すキース、まるでその影を追う様にモウラが身体を翻す。ニナは写真をブラウスの胸ポケットへと収めると慌てて二人の足音しか残っていない廊下へと走り出した。
 
 基地内の照明はキースの命令で未だ夜間照明のままの状態を保っていた。コウが失踪した事を大っぴらに喧伝すればそれはそれで思わぬ事態へと進展してしまうかもしれない、しかしキースの配慮は今となっては裏目に出ていた。宿舎の建物の前にあるほんの短い階段を駆け降りる事さえ危なっかしい、しかし最後の何段かを一気に飛び降りた彼はそのままの勢いで広い回廊を目的地に向かって駆けだした。暗闇の遥か先にポツンと灯る頼りないその光に一縷の望みを託して彼は必死でひた走る、夜と共に自分を押し包もうとする不安を振り払おうとするように。
 だがキースの願いは彼が思いもかけない所から横やりを入れられて中断を求められた。薄闇の中へとゆっくりと進みだして来たその影はキースの目から光を隠す様に足を止め、まるで大きな壁の様に立ち塞がって彼の到着を待っている。夜目を利かせてそれが人だと分かった彼は一気にその脇をすり抜けようと進路を変えようとしたが、その人影の正体を認識した途端に突然その人物の前で足を止めた。
「 ―― うぇ、ウェブナー司令っ …… 」
「こんな夜中に一体何事だ、キース中尉。それに明かりをつけないまま相当数の基地職員がそこいらじゅうを駆けまわっている、私はそういう訓練を行うという提案を君から受けた記憶はないが? 」
「あ、いえこれは、その ―― 」
 敬礼をしながら口籠るキースの後ろで追い付いたモウラとニナが立ち止まった。思わぬ人物の登場に驚きと困惑の色を露わにした二人が手を上げる事も忘れてキースの様子とウェブナーへと交互に目をやる中、彼女達はウェブナーの背後にひっそりと立つ人影に気が付いた。
「ならばすぐに止めさせたまえ、もう必要ない」
「いえ、それは司令 ―― その、ある事情でやめる訳には ―― 」
「ウラキ伍長なら、もうここに戻ってくる事はない。年に一度の予備役訓練の時以外はな」

 想像を超える衝撃は人の手から何もかも奪ってしまうのだと言う事を、三人はその時初めて知った。瞳孔の開いた目が集中する中でウェブナーは背後に立つ当直の兵士へと目配せした。彼は手元の懐中電灯でもう片方の手にある書類を照らしながら、沈んだ声で三人に告げた。
「本日0300マルサンマルマル時を以ってコウ・ウラキ伍長は連邦北米軍オークリー基地より退去。 …… 本人のサインがここに」
「彼は本日午前零時を以って通常勤務の契約を解除、以降は当基地所属の予備役として登録される事になる。軍人とは言え彼はもう民間人だ、故にこれ以上捜索する必要はない」
 ウェブナーの声に耳を貸しながらキースが兵士の書類をひったくった。モウラから懐中電灯を受け取ると慌てて書面へと目を走らせる、震える手で握られたそれを背後から近づいて見つめるモウラとニナ。それは間違いなくコウ本人の文字だった、それがどんな走り書きだったとしてもニナが、そして整備記録にサインを貰うモウラが見間違える訳が無い。
「そんな! …… 何でだよ、コウ。お前、どうして ―― 」
「訳を ―― 訳を教えて下さいウェブナー指令っ、どうしてコウは ―― ウラキ伍長は急に予備役に編入されたりしたんですかっ!? 」
 暗闇の中でもウェブナーが冷静である事が三人には分かる、だが彼らが思っているほどウェブナーは落ち着いてもいなければ冷酷な人間でもなかった。ニナの訴えを耳にした彼はその胸中へと訪れている筈の疑惑と不条理に心を痛め、そしてそれは声へと滲みでた。
「詳しい事はこの書面に記載されている事が全てだ。伍長より上申された退役届けを送ったジャブローからの命令書に基づいてウラキ伍長の処遇は決まった、そしてその命令書は軍の上層部がウラキ伍長の『希望』を十分吟味した上で判断を下したと聞いている …… これが彼と軍の交わした誓約書の写しだ。特別に目を通す事を許可する」
「上申、だって? それはつまり彼が自ら予備役を希望したと言う事でありますか!? 」
「 …… 当初彼は退役を希望していた、だがジャブローは彼の申し出を退けて予備役へと編入する案を提示したのだ。この契約書に記載されている全ての条項は彼も十分納得した上での合意だ、公的文書としての条件は完全に満たされている」
 ウェブナーが小脇に抱えていたプラスティックのファイルをニナへと手渡した。周到に用意されたそれを手にとったニナと後の二人は確信した、ウェブナーはこうなる事を全て予想してこの書類をここに持って来て三人が来るのを待ち構えていたのだ。彼らには事の次第と真実を告げなくてはならない、それを知る権利を有する者達なのだと判断して。
 それは人一人の運命を決めるにはあまりにも軽く、そして粗末な物だった。ニナが慌ててファイルを開くと薄闇でもはっきりと分かるほど細かな文字がびっしりと敷き詰められている、モウラがその書類を背後から照らし出しと彼女は一心不乱に条文を読み進めた。機密事項や軍務に置ける極秘事項の守秘、それを漏えいした場合に発生する罪状と刑罰、そして ―― 。
 その場所へとニナの視線が及んだ時、突然彼女の膝ががくりと折れて地へと落ちた。失った恐怖と絶望に支配されたニナの手から零れ落ちようとするそのファイルをモウラが手にとって再びその先へと視線を向ける、一しきり目を通した後に彼女の横から顔を覗かせていたキースの口から飛び出した言葉には怒りと苛立ちが溢れていた。
「なんだよ、これっ! こんな事ってあるのかよっ!? 」
「ウェブナー指令っ、これは本当ですか!? コウと私達の接触を一切禁止するなんて、そんな理不尽を本当にコウが呑んだって言うんですか!? 」
 憤慨するモウラに向かって向けられたウェブナーの視線は厳しい、至極冷静な振りを装って静かな口調で事実を告げる。
「何も不思議な事ではない。民間人と軍人の交流は定められた時以外では原則として禁じられている。それが少し厳密になったと言うだけの話だ」
「民間人って …… 指令、非礼を承知でお伺いします。ウラキ伍長は民間人といえども予備役軍人です、基地に登録されている軍人との接触を禁じると言うのは余りにも矛盾が過ぎるんじゃないでしょうか」

 このまま終わっていい筈がなかった、ニナからあの日の事を打ち明けられた自分がそれを黙って見逃していい筈がない。友人の選択に非を唱える事無く許す事を選んだ自分が、今にも消えてしまいそうな希望の灯を消していい筈がない。
 その為だけにニナは全てを押し隠してコウと歩む人生を選んだのだ、今にも揺らぎそうな決意の彼女を必死で叱咤激励し支えてきた自分がここで見捨てていい筈がない。
 見捨てられる訳がないっ!

 だがそのモウラの不退転の決意を受け入れたウェブナーはそれでも何も語らずそこにいる、無言で三人に注ぐ視線が彼の意思を何よりも雄弁に物語っていた。言外へと連なる彼の意思は静かに軍人としての在り方をそこに連座する者達へと問いかける。理不尽も矛盾も軍人である以上命令書が発行されれば受け入れなければならない、ここが地の果てに忘れ去られた辺境の駐屯地であろうともそれは必ず守られ、破る事など考えてはならない絶対の効力と拘束力を持つ秩序なのだ。
 それを知っているからこそ君達はここにいるのではないのか、と。

「 ―― トンプソン、てめえっ! 」
 キースがやおら怒鳴って当直の警備兵に掴みかかった。胸倉を目一杯締め上げられた男の体が大きく伸び上がる。
「何でコウを止めなかった!? まさかいつかコウにやられた事を根に持ってそのまま行かせたんじゃねえだろうなっ、そうだとしたらとんだ逆恨みもいい所だ! ぐれてたお前をぶん殴って更生させてくれたのはあいつのお陰なんだぞ!? この野郎、恩を仇で返すような真似しやがって! 」
「俺だって止めたんだよ! そんな事出来る訳ねえじゃねえかっ! 」
 はけ口の矢面に立たされた当直の警備兵の声は涙声だ、彼は訴える様にキースに向かってそう叫ぶと堪え切れなくなった感情を爆発させて尚も言葉を止めなかった。
「俺以外の誰が今日ここにいたってそうするに決まってるっ! 『少尉』のお陰でどれだけの仲間が救われたと思ってンだ、あの人に一度でもげん骨カマされた連中ならそんな事今更言われなくったって分かってるよっ! 」
「じゃあなぜ黙って行かせたっ!? 」
 尚も続くキースの追及は警備兵の身体の変化で中断された。まるで憑き物が全て落ちたかのように力の抜けた男の身体が時折ヒクヒクと上下する、いい年をした大の大人が泣きじゃくるその気配にキースは胸倉を掴んだままの腕の力を弱めた。
「でもよ、あの人に「君も軍人だったらちゃんと自分の職務を全うしろ」って言われたら ―― 俺の目ェ覚まさせてくれた『少尉』にそんな言い方されたらどうやって俺は止めればいいんだよぅ」
 その答えを求められた所でどうしようもない、キースはコウではないのだ。彼が今までオークリーで行って来た事は決して無駄な事ではない、むしろこの地の果てに置かれた訳あり人の溜まり場を立派な連邦軍基地へと塗り替える為の犠牲だったのだ。そう考えた時にキースの胸にニナの物とは違う大きな恐怖と絶望が去来して肩が震えた、もしかして俺達は今途轍もなく大きな物を失ってしまったんじゃないのか? 一軍人や一隊員の範疇を越えて多くの者を従える資質を持った、掛け替えのない存在をたった今。
 キースの危惧を裏付ける様に、警備員の男は地に下ろした足を頼りなく揺らしながら項垂れたまま言った。
「 …… なぁ中尉、俺達は明日からどうすりゃいいんだ。少尉がいなくなって、手ェ引っ張ってくれる人がいなくなって残った俺達ゃどうすりゃいいんだ? あの人が指し示した所へあの人を踏ンずけて行けってのか、…… 俺達ぁ、これからどこを目指して行けって言うんだ、頼むから教えて、くれよぉ」
 その言葉を聴いたニナの両肩が大きく揺れた。地面に向かって吐き出される絶叫が乱反射を繰り返して遠い夜空に木霊する。沈黙を持ってニナの慟哭を見守る四つの影はただ成す術も無く、彼女の魂に似た無念の咆哮が無謬むびょうの闇へと吸い込まれていく様を見守る事しか出来なかった。

 そうよ、コウ。私は明日からどうすればいい?
 貴方を失った私は明日から何の為に、何を探して生きていけばいい? 
 ―― 教えて。

                                *                                *                                *

「もういい、だいたいわかった」
 震える声を引き連れてアデリアはマークスの脇をすり抜けた。歩調に遅れてなびく栗色の髪はまるで熱を帯びているかの様に熱い、それが彼女の怒りの形であるとマークスが知った時にはもう手遅れだった。アデリアはニナの前でしゃがみ込むと彼女の両腕を握り締めて小さく揺さぶった。
「あたし達を大事に思う気持ち、自分と同じ目に遭わせたくないって気持ちはすごくうれしい。でも何でニナさんはまだここにいるの? 」
 貫く様に見据えるアデリアの視線に耐えかねたニナが僅かに顔を背けた。
「何の為にニナさんはここに来たの? もしかしたら近い内に起こるかもしれない戦争に備える為? それとも自分のやった事を後悔してその罪を償おうとでもしてるの? 」
 もちろんそのどちらでもない事は今までの話を聞いていた全員が知っている。だがアデリアはニナの口からそれを言わせたいと心の底から望んでいた。見失ってしまった彼女の想いをもう一度彼女自身に分からせる、過去の時間の中で迷子になってしまったニナの手を引いて出口へと導く為にはそれしかない。
 束の間ニナはアデリアの顔を唖然とした表情で見上げていた、しかしその後に自虐的な薄嗤いを浮かべた彼女は頭を振りながらその蒼い瞳と心を閉ざした。
「だめよ、アデリア。私がそんな事をしたら貴方達にも迷惑が掛かる。これ以上私のエゴの為に皆を危険に晒す事なんて ―― 」
「たとえニナさんが伍長を追いかけてここを出て行ったって誰も迷惑になんか思わない。それにここは伍長が創って隊長が守るオークリーよ、そんな簡単にだめになるほどヤワじゃない、そうでしょ? 」
「私達に掛けられた戒めはあなたが思っているよりもずっと厳しくて、情け容赦がない。指定された地域の外へは一歩たりとも足を踏み出す事が出来ない、外部との連絡すらも全て軍の盗聴下に置かれて軍関係者以外の面会者は親兄弟と言えども許可されない。それを破ったならどういう処罰が待っているかも ―― それは容易に想像がつくわ。この事件に足を踏み入れようとした大勢のジャーナリストや作家達がある日突然不慮の死を迎えている事からも分かる様に」
 再び開いたその瞳には明らかに脅迫の意図がある、鋭い視線でアデリアの願いに対抗するニナにはまるで複合装甲を何重にも重ねた鉄壁の壁が存在しているのが傍から成り行きを見つめるマークスにも理解出来る。
「それでもニナさんは、その条件を全て知っててここに来たんだよね? 」

 マークスのお株を奪う様にアデリアはニナの脅しに屈することなくそう言い放つ、ニナが展開する論法のそれがただ一つの矛盾点だった。楔を穿つその言葉に声を詰まらせたニナの手をアデリアは言い聞かせる様に再び小さく揺さぶった。
「あたし達の事なんかどうなったって別にいいじゃない、伍長のいないオークリーなんてどうなったっていいじゃない。ニナさんは伍長を守る為に全部捨ててここに来たんでしょう? アナハイムの友達とも会えない、月にいるご両親にも会えない、それでもニナさんは伍長と一緒にいる事を選んだ」
「そう」
 やっとの思いでニナが探し出した言葉がそれだった。心の底で燻り始めた火の様な感情を抑えつける理性がニナの眉間に深い皺を刻みこむ。
「それだけの犠牲を払ってオークリーに来た揚句に迎えた結論がこれ。だから私の今の望みはねアデリア、もう私の為にこれ以上多くの人を傷つけたり苦しめたりしたくないの。そんな目に遭うのは私一人で十分だから」
 静かにそう告げたニナの前に跪いていたアデリアが勢いよく顔を伏せ、握っていた両手を離した。突然ものすごい勢いで立ち上がり開いていた掌を甲まで真っ白になるくらい握り締めてわなわなと震えたアデリアは栗色の長い髪の毛を大きく揺らしながら、まるで部屋全体を埋め尽くす様な大声で足元へと怒鳴り付けた。
「自分の臆病の言い訳にあたし達なんか使わないでよっ!!  」

 限界まで膨れ上がった風船が遂にはち切れる瞬間にも似た激情の暴発、今のアデリアを表現するのならばそう例えるのが正しいのだろう。驚きのあまり静止する事も忘れたマークスを尻目にアデリアは、心の底から湧き上がる荒波に身を委ねたままその怒りを解き放った。
「伍長がいなくなったオークリーに残る事に何の意味があるっていうの!? モビルスーツを改良する為、あたし達をいつ来るかも分かンない戦争から守るため、そんなのどうでもいいっ! 今のニナさんにそんな事されてもちっとも嬉しくないっ! 」
 顔を真っ赤にして捲し立てるアデリアを驚いた顔で見上げるニナ、心の赴くままに両の腕に力を込めたアデリアがその表情へと苛立ちを更にぶつけた。
「あたしはニナさんの事が大好き、でもそれは今のニナさんじゃないっ。何もかも諦めてじっと我慢するなんて、いつもあたし達に一生懸命何かを教えてくれるニナさんはどこ行っちゃったの!? あたし達の事を考えてしてくれてるって事がそんな大事な物と引き換えにされてるなんて、あたし耐えられないっ! 」
「引き換えになんかしてない、コウももしここにいたらきっとあたしやキースと同じ事をあなた達にするわ。あたしは彼の代わりにあなた達を育てているだけ ―― 」
「それがお節介だって言ってんのよ! ニナさんはニナさんよ、伍長の代わりになんかなれっこないじゃないっ! 彼の事は一番自分がよく知ってるみたいな事をよく言えるわね、会って本心も聞き出せないくせにっ! 」
 まるで電流に撃たれたかのようにニナの身体が大きく震えた。アデリアの放った痛恨の一言はニナがたった一つ信じていたコウとの価値観を粉々に打ち砕く、一番の彼の理解者であると信じるが故に選んだ決断をアデリアは敢然と否定したのだ。
「昨日彼はここに来た、ニナさんは伍長から何かを聞いた!? 世間話や挨拶じゃない、ニナさんが一番聞きたい事をちゃんと聞けたかって聞いてンのよっ! なんでここから出てったのかその訳を、どうしてニナさんの前から姿を消したのかその訳をっ、もう無いかもしれないチャンスに何も出来ないから臆病だってあたしは言ってンのよっ! 」
「私は彼に棄てられたのよ。どうしてそんな事をコウに聞けるの? 聞いて傷付くくらいなら聞かない方がいい、それにもし彼の答えが私の想像している物とは違っていたとしても彼から一番大事な物を私が奪った事には変わりない。コウはモビルスーツを捨て、私はモビルスーツを選んだ。私達の未来がもうどこかで交わる事は二度とないのよ」
「そんなおためごかしなんかもううんざりっ! あたしは伍長の気持ちなんか聞いてない、ニナさんがどう思ってンのかが知りたいのよっ! 自分がそれで苦しんでるって事がどうして分かンないの!? 」
 ニナの前で跪いたアデリアがすごい勢いで再びニナの腕を掴んだ。がくがくと揺さぶる彼女の手が勢い余ってニナの頭を揺らす、金の髪が小さな光を受けて煌めくほど、激しく。
「いってよ、ちゃんとっ! はっきりとっ! 今でも伍長の事が好きなんだって、ニナさんの声でっ! 」



[32711] Missing you
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/05/03 00:34
 荒れ果てた荒野を吹き抜ける一陣の風は彼女の世界を瞬く間に一変させた。幾重にも積み重ねられた礫砂の重しがあっという間に取り払われて遠い空へと消えていく、その下から姿を現す願いと言う名のオアシスは止め処なく彼女の心の奥深くから湧きだして止まる事を知らない。溢れだした物がニナの蒼い瞳を潤して零れ落ちて行くのをアデリアは必死の形相で睨みつけた。
「 …… いや」
 小さく首を振って、今でも変わらず持ち続けるその願いを口に出す事が出来ずにいるニナはそれ以上拒む様に渾身の力で自分の身体をアデリアから遠ざけようと試みる。だがそれ以上にアデリアの意思は固い、万力の様に締めあげた彼女の腕へと再び思いの丈を乗せた。
「なんでっ!? なんでその一言が言えないの!? じゃあたしが代わりにその訳を言ってあげるわ、ニナさんは怖いのよっ! その気持ちを一度でも口にしてしまえば今まで自分が我慢してた事が無駄になる、一生懸命伍長を自分から遠ざけようとしてた事が間違ってるって分かっちゃう。でもそんなのおかしい、どうして好きな人の事をそんな事で諦めなきゃいけないの!? 」
「違う、私はそんな事 ―― 」
「じゃあ今なんで泣いてるのよっ! ニナさんがどんなに頑張ってもニナさんが伍長の事を今でも好きだって事は絶対に変えられない、そんな当たり前の事がどうして言えないの? ほんとに違うって言うんなら今ここで言ってみなさいよ、あたしはもう彼の事を二度と思いださないってっ! 」

 アデリアの声がニナの奥深くにまで滲み込んで、彼女自身にも気付かなかった頑丈な鎖をズタズタに引き千切る。壊れて行く何かと共に零れ出すその想いは冷え切ったニナの身体全部を駆け巡って、瞬く間に耐えがたい熱をその隅々にまで染み渡らせた。飽和していくその激情が彼女の意思を飛び越えて捌け口を求める、赤みの差していくニナの顔に残ったより紅い唇が微かに動いた。
「 …… あいして、いるっ」
 無意識の内に堰を切ったその想いが再び彼女の中へと逃げ込む事はもうできない。濁流と化した彼女の想いは今までのニナを覆して目の前に立つアデリアへと向けられた。
「愛してるっ! ――  そうよアデリア、私はコウを愛してる、何でそれを忘れる事が出来るの!? あの人無しでは私は生きていけない、コウは私の全てだったのよっ! 」
 想像も出来ないほど強い力がアデリアの両腕を振り払った。歯を食いしばって炎を纏った蒼い目でアデリアを睨みつけたニナはまるで追い詰められた獣の様に猛然と泣き叫ぶ。
「でも私と一緒にいたらコウは嫌でもあの日の事を思い出す、モビルスーツの事を思い出すっ! そうしたらきっとコウは今まで以上に苦しむのよ! 私と過ごしたあの日々が、私にとってはかけがえのない思い出が彼にとっては苦痛でしかなかったと分かった時の私の気持ちがアデリアに分かる!? 」
 切ない想いと共に忘却と言う名の砂浜へと埋めたその想い、何度繰り返しても記憶と言うさざ波に洗われて浮かび上がるその想い。幾度となくそれを恨み、その度に安堵と感謝を繰り返す。数え切れない夜と昼を過ごしてさえも色褪せる事の無かった過去に苦悩と歓喜を繰り返した今この時に至るまで。
「私が何度この基地を飛び出してコウを探しに行こうと思ったか、コウの居場所を知るためにジャブローのデータベースに潜り込みさえしたわっ! でも見つけた所でどうすればいい、またあんな辛そうな顔をするコウの前で私は何を聞けばいい!? あなたの言う通りよアデリア、私はだからコウに会うのが怖かった。もう二度と会えないんだと諦めて、彼がこのまま穏やかな生き方をする事を彼のいなくなったこの場所でずっと願い続けようと決心したのよ …… この前ここでコウを見つけるまではっ! 」
 ニナの両手が自らの顔を覆い隠した。僅かな隙間から染みでる涙と嗚咽が元の静寂へと戻る事を許さない。豪奢な金の髪がその悲しみの大きさを表すかのように大きく揺れた。
「コウの胸に飛び込みたかった、抱き締めたかった …… 離したくなかったっ! 行かせたくなかったっ! でももしこんな私をコウが許してくれても一緒にいればいつか同じ事が起こるのよっ! あれだけ好きだったモビルスーツに乗れなくなっただけじゃない、自分の体にそんな薬を打ち込んで二度と元に戻れなくなった原因を作ったのが私だと知ったら彼はきっと私を許さない。私が彼から全てを奪ったのは間違いない事実なのよっ! 」
「その薬はニナさんが創ったモンじゃない、他の誰かが創ったんでしょう!? 他人のやった事の責任を取って何の意味があるっていうの? そんなの偽善よ、ただの自己犠牲じゃないっ!? 」
 ニナとの距離を詰め、仁王立ちになったアデリアが覆いかぶさる様にニナを見下ろした。
「彼からニナさんがモビルスーツを奪った事を後悔してるって言うんならまた取り返せばいいじゃない。納得できなくても妥協できるやり方を探せばいいじゃないっ! 伍長とニナさんにとって一番大事な事って何? モビルスーツを動かしたり育てたりする事じゃない、二人が一緒に同じ物を見続けるって事じゃないの!? 」
「私はそうしたいと願った、でもあの人はそれを拒んだ。私にはもうどうする事も出来ない、何もかもが分からなくなったのよっ! 昔の二人に戻る事も新しい何かを見つける事ももう無理よ、だってあの人はここにいないじゃない!? 」
「ここにいないからって諦めるって言うの!? そんなのはお願いじゃない、ただ彼の優しさに期待して縋り付いてるだけじゃないの! 笑う事も忘れてこんなトコでぼんやりしてる暇なんてもう無い、だって、伍長は ―― 」
 アデリアの目尻から零れた涙がぽとりと落ちてニナの膝を濡らした。
「死んじゃうかもしれない病気に罹ってるのよ!? 」

「だからって私にどうしろと!? 」
 分かってもらえない悔しさが涙となって現れたアデリアを咎めるようにニナが責め立てた。
「モビルスーツに乗れなくなってるなんて私は知らなかった、そんな大事な事をなぜ彼は私に教えてくれなかったの? コウにとっての私なんてそれ位ちっぽけな存在でしかなかった、だから何も言わずに出てったのよ。そんな私が彼の為にどんなやり方を探せって言うの!? 私はモビルスーツを育てる事しか能の無い女よ、そんな私が他のやり方なんて探せると思う!? 」
「二人で考えるのよっ! それに伍長から何も聞かない内からそんな風に決めつけないで、まだそうと決まった訳じゃないっ! 」
「アデリアは彼のあの目を見た事がないからそんな事が言えるのよっ! 昔のコウとは全然違う、冷え切った瞑い眼差しの奥に煌々と輝く憎しみの光。私がその火を消す為にどれだけ耐え忍んだか ―― でも駄目だった、私の存在が彼にモビルスーツを思い出させると言うのならどんな事をしても絶対に彼を取り戻す事なんて出来ない、それともあなたは無理やり彼をモビルスーツに乗せろとでも言うつもりっ!? 」
 アデリアの奥歯がギリ、と鳴る音をマークスは聞いた。慌ててその横顔を見た彼の背筋に戦慄が走る。
 今までに見た事の無いアデリアの形相と燃える様な怒りのオーラがそこにはあった。
「私よりも好きだったモビルスーツに乗れなくてもがき苦しむ様をあなたは私に眺めてろ、そして彼を殺す為にそれに無理やりにでも乗る方法を考えろとでも? そんな事出来る訳ない、そんな事をしなければならないのならいっその事あの時死んだ方がましだった。そんな姿のコウを見るくらいなら私はもう生きていたくないっ! 」
「 ―― このっ!! 」
 叫んだアデリアの右手が閃く、弧を描いたそれは目にも止まらぬ速さでニナの頬へと打ち下ろされる。パアン、と言う鮮やかな音と共にニナの首が豊かな髪を巻き込みながら大きく揺れた。
「卑怯者っっ!! 」
「やめろアデリアっ! 」
 出遅れたマークスに捕えられたアデリアがまるで猛獣の様に暴れながらニナとの距離を置く、だが収まらないアデリアはニナに向かって尚も感情の吹き出すままに罵声を浴びせた。
「どンだけ伍長を馬鹿にすれば気が済むのよ、どンだけ自分を蔑めば気が済むのよっ!? 相手の事も自分の事もこれっぽっちも信じられない、ニナさんと伍長ってそんな薄っぺらい関係だったって言うの!? 」
 マークスの腕を振りほどいて勢いよくニナの傍へと駆け寄ったアデリアが、赤く染まった頬を押さえて呆然とするニナの前にしゃがみこんでもう一度その両腕を掴んだ。
「なんで自分の心と向き合おうとしないの!? 彼の苦しむ姿をこれ以上見てられない、それは自分が彼にしてしまった事だから。でも百歩譲ってニナさんが本当にそう思ってるンならっ! 」
 アデリアの台詞にニナが反応した。背けていた顔を真っ直ぐにアデリアへと向けるその目に光る物は明らかな反抗だ。
「ちゃんと最後まで責任取ンなさいよ、ニナさんの友達も最後にそう言い残して死んじゃったんでしょう!? 遺された人がそんな事言うなんて死んじゃった人に対する冒涜だわ、そんなのあたし絶対に許さないっ! 」
「コウを失う事でしか私の罪は償えないっ、ルセットとの約束も果たせないっ! 」
 瞬きもせず睨みつけたニナがアデリアに噛みつく様に泣き叫んだ。
「私の事なんか嫌いになってくれてもいい、それでモビルスーツになんか乗れなくなったって、いいっ! 生きていてくれれば幸せになってさえくれれば。そこに私なんかいなくったって構わない、私が一人で苦しむ事しか彼を救う手立てはないのよっ! コウを選んだ私が彼の為にしてあげられる事なんかもうそれしか残ってないの! 」
「そんなの何にも償ってないっ、ただ自分の罪を他人に押し付けてるだけよ! そんな事して伍長が幸せになれるなんて独り善がり、本当に信じてンの!? 」

 頑なに閉ざされていた心の殻はもうボロボロにひび割れていたのだろう、ニナの表情から失われていく抗いの色を見たマークスは素直にそう思った。剥がれ落ちていく諸々の言い訳の後に残った純粋な彼女の気持ちは、恐らく自分自身にもはっきりと形として捉えられなかった物だっだのかもしれない。まるで武装解除を受けた後の敗残兵の様に虚ろな表情を残したニナに向かってアデリアは、言い聞かせるように両の腕を何度も何度も揺さぶった。
「違うのよニナさんっ! 間違ってる間違ってる間違ってる、ニナさんは絶対に間違ってるっ! 」
「アデリア、もういい」
 勝敗は決したのだ。コウの為に良かれと思ってしていた事全てを完全に否定された時点でニナにはそれを覆すだけの材料がない、硝煙弾雨の中へと被弾する事も恐れずに飛び込んで彼女の心の奥に隠された本当の気持ちを暴いたアデリアは誇るべき大殊勲を上げたのだとマークスは思う。だがアデリアはまるで熱に浮かされた様に尚もニナに向かって必死の形相で追い打ちをかけた。
「モビルスーツなんか関係ない、本当に伍長が必要な物って何? ニナさんが本当に必要な物って何? あたし達じゃどんなに頑張ったってそんな事分からない、二人だけが知ってる二人にしか分からない大事な物を探すのをなんで嫌がるの? 嫌われたっていい、拒まれたって構わない、今までニナさんが払った犠牲に比べたらそんな物些細な事じゃないっ! 」
「アデリア、私 ―― 」
「それでもニナさんには伍長しかいない、ニナさんがほんとのニナさんに戻るには、伍長が昔の伍長に戻るには二人で何とかするしかないのよ。それでもニナさんはこのまま伍長の事をほったらかしにしておくの? もう一度二人になるのが怖いからって彼をこのまま見送るつもり? 」
「アデリア、もうよせっ」
 ニナの表情が大きく歪んで大粒の涙が零れ出す。慌てたマークスがアデリアの肩を押さえて感情の暴走を制しようと試みたが既にその時を逸していた。
「ニナさんが何もしなければ伍長は何も取り戻せないまま、何にも分かンないまま終わっちゃうのよっ! ううん多分もう終わってる、伍長は全部空っぽになったままでただ生きてるだけ、もし彼がこのまま何にも知らないままでニナさんの知らないどこかで死んじゃったンならそれはニナさんのせいだわ。ニナさんが ―― 」
「アデリアっ、やめろっ!! 」

「 ―― ニナさんが伍長を殺したのよっ!! 」

「フォス伍長っ! 」
 そこに集った誰もが今までに耳にした事の無い凛とした声が狭い室内に轟き、それ以降一切の物音がかき消えた。険しい表情のマークスがアデリアの背中に向かって鋭い眼光を差し向け、まるで線を切られた様に沈黙したアデリアは肩で息を継ぎながらニナの両腕を握り締めている。軍人として後天的に植えつけられた習性に訴える様な真似をマークスは兼ねてより唾棄すべき悪習だと罵り、自分は決してその様な行為には手を染めないと言う事を公言して来た。
 だがアデリアの暴走を止めるにはもうその手段に訴えるより他にはない、マークスは自らが掲げた矜持をアデリアの為に汚泥へと叩き込み、上官として初めて彼女の頭を力任せに抑えつけた。
「 …… もう、止めろ。これは上官命令だ」
 アデリアの手から力が抜けてニナの両腕から離れて行く。肩を落としたまま小刻みに震える背中の向こうで彼女の声が聞える。
「マーク、ス」
 悔しさと悲しみと憤りと、色々な感情が複雑に絡み合って生み出されたアデリアの声音にも厳しい表情を崩さずにじっと成り行きを見守るマークス。やがて音も立てずにすっと立ち上がった彼女は巻き切られた発条が戻る様な勢いで踵を返して顔を上げる。
「 ―― なんで、っ」
 咎める様な藍色の瞳がほんの一瞬揺らめいて目の前に立つマークスへと向けられる。だが彼の言わんとする事の意味を汲み取ったアデリアは、ばっと顔を伏せたままマークスのすぐ脇を駆け抜けて出口へと向かった。
 マークスはアデリアを振り返らなかった。彼女の口から零れる微かな嗚咽と勢いよくドアの閉まる大きな音が彼の耳朶を叩いて、再びエアコンの雑音だけが木霊する狭い室内に佇んだまま、彼は目の前で俯いたままで動かなくなったニナに静かに言った。
「ニナさ、 …… いえ技術主任。部下の数々の暴言と非礼を当人になり変わって謝罪します。フォス伍長には後日謝罪に伺うように命じておきます」
「マークス、いいのよ。分かってもらおうとは最初から思って ―― 」
 ふっと顔を上げたニナの前に置かれた双眼異色、薄闇の中でひたすら注がれている彼の目を見たニナは思わず声を詰まらせた。全てを見通しながらもそこには彼なりの憤りと主張が見え隠れしている様にニナには思える。
 それは彼女の感じた通りだった。マークスは真っ直ぐニナの目を見ながら、穏やかながらも強い口調で言った。
「僕とアデリアは生い立ちも違う、彼女には彼女なりの辛い過去があり、僕には僕の過去がある。どんなに親しい間柄でもそれは決して踏み込んじゃいけない心の境界線の様な物なんだと僕は思う」
 吸い込まれる様にマークスを見上げるニナは瞬きも出来ない。
「ニナさんが今まで耐えてきた苦労は僕やアデリアには想像もつかないほど苦しい物だったのかもしれない。でも僕達は他人である以上、やっぱりニナさんの心の中にはどうしても入っていく事は出来ないし全部を分かってあげる事は出来ない、 ―― 彼以外の誰かがニナさんを理解出来ない様に」
「マークス、それは ―― 」
「だからアデリアがニナさんに言ってた事が本当に正しいのかどうかは僕にはわからない、本当はニナさんの選択が伍長の為に正しくて彼女の考え方は間違っているのかもしれない。でも僕は苦しみから逃れる為に諦めるような事だけはしたくない。今までそうしなかったのだから、これからも」
 何かを言おうとしてニナは小さく口を開き、しかしそこから思った様な言葉を紡ぎ出す事は叶わなかった。この世に生を受けてからこの瞬間に至るまで、人生の至る所で謂われなき理不尽に抗い続けた彼に向かってニナが言える事など何もない。
 なぜなら彼の言う通り、私は、彼じゃない。
「 ―― 僕はアデリアが正しいと思う。ニナさん」
 静かに目を閉じて輝きを瞼の奥へと押し込めたマークスは、悲しげな声でニナに告げた。
「 …… あなたは、間違ってる」

 二人が去った室内に取り残されたニナとモラレスはただ静かに時の経過が醸し出す沈黙に身を委ねていた。自分を否定され、行いを咎められたニナは打ちひしがれた様にじっと部屋の隅の暗がりを眺めている。
 だが不思議な事に彼女の胸へと去来した想いは言葉にはできない開放感だった。今まで背負ったいた運命の重みがばっさりと切り離されて少し軽くなったような気がする、しかしだからと言って彼らの言葉を肯定する事にも素直に従えないまま思い煩うニナに向かって老人が声をかけた。
「 …… 若い、と言う事は、ええ」
 その声に引き付けられたニナの目が声の主を追いかける。モラレスは軽く微笑みながら二人が後にしたニナの居室の木の扉へと視線を投げかけていた。
「絶望を跳ねのけ諦める事無く立ち止まる事無く未来の希望を追い求める。若いモンにしか与えられない、それが特権じゃ。じゃが残念ながら儂らがそれに手を染める為にはほんのちょっと絶望の枷が多すぎる様じゃ。 ―― 人が臆病になる事は止められん、傷を負う数が増えるほどに治りは遅くなっていつしか傷を負うことを恐れてしまう。それを間違ってると咎められるのは心に傷を負った事のない者にしか言えん言葉じゃ。じゃが」
 不意にモラレスがニナを見た。真っ直ぐに向けるその目はアデリアやマークスとは違う感情、優しさと憐れみが現れていた。
「生きていく事と傷付く事が同じ意味であると言うのなら、それに恐れる儂らはやはり生きてないと言う事になるんじゃろうか? …… まあ、儂にも答えは出んがね」
「ドク、私はっ ―― 」
 間違っているのか、と尋ねようとしたニナの機先を制したのは小さく掲げられた彼の右手だった。その答えを先送りにしたモラレスはニナに向かって優しい声で言った。
「今日はもう休みなさい、何も考えず。 …… 薬の量はいつも通り、一錠じゃ。それでぐっすり眠れる。夢も見る事無く眠るがええ」
 ニナに向かって小さく頷いたモラレスは両手を後ろに組んでしずしずとドアへと歩き出す。小さなその背中をじっと見送るニナは彼がドアの扉を開いた時に、誰にともなく呟いた言葉を耳にした。
「 ―― 眠れば、明日じゃ。それは誰の身にも平等にやって来る。 …… 明日と言う日が今までで一番いい日にならないと言う保障はなかろう? 」

                                *                                *                                *

「 …… まあいい。誰だって秘密の一つや二つは持ってるモンだ」
 目を伏せたまま何も答えないコウに向かってヘンケンはそう言うと残り少なくなったショットグラスのバーボンを一気に呷った。強い酒が齎す酩酊感に抗うように大きな息を一つ継ぐと空になったグラスをテーブルへと置く。
「ただこれだけは一つ言える。君が何かに堪え切れずに逃げ出したとしても、やはり君が辿り着く所は戦場だ。そういう人間に用意された楽園など、ない」
 その言葉の持つ深い意味に気付いたコウはそっと顔を上げてヘンケンを見た。彼は今日幾本目かの煙草にゆっくりと火をつけて、満足そうに燻らせるとオイルライターの蓋の開け閉めを何度も繰り返した。
「このままじゃいけないと言う事を君は分かっている。 …… だが分かっているだけじゃ駄目だ、それに打ち勝つ為に君自身が今何をしなければならないか。それは誰のアドバイスを受けた所で出来るモンじゃない、自分の手でしか生み出す事の出来ない何かを君自身が掴まなきゃいけない」
「それが二度と戻ってこない物だとしてもですか? 自分の手に余る様な想いだったとしても? 」
「二度と帰ってこないものなどこの世には何もないさ、死んだ連中を除いては、な」
 まるで何かを思い出す様に切ない目でライターの表面を眺めるヘンケン、一年戦争の生き残りとしてコウより遥かに多い仲間や同僚を亡くした彼にとっては、その想いこそが二度と叶えられない願いなのだろう。刹那に漏らした小さな溜息がその事を千の言葉よりも雄弁に彼の心根を語り継いだ。
「ま、とりあえずあれだけの麦を立派に育て上げたんだ。俺にはウラキ君が農夫の才能に恵まれてるとしか思えんがね。どうだ、いっその事昔の事なんかパッと忘れて俺やセシルと一緒にここに腰を落ち着けてみないか? なんなら組合の中から働き者の女の子でも見つくろって試しに付き合ってみるってのもアリだ。結婚てなぁ運や縁でするモンじゃない、その時のノリと勢いでこう、ドバァッっとだな ―― 」
 深刻になる部屋の空気を吹き飛ばす様にヘンケンが、茶化しながら大きく手を広げる。滑稽な大人を演じようとするその姿を見たコウの口から思わず含み笑いが漏れ出す、ヘンケンはコウの仕草がまるで心外だと言わんばかりに首を傾げた。
「なんだぁ? 俺は結構本気でこの話をしてるんだぜ。その反応は頂けないなぁ」
「い、いえ。すいません、ヘンケンさんのお気持ちや心遣いは本当にうれしいんですけど、今はまだそんな気持ちになれないって言うか、その ―― 」
 無邪気なヘンケンの仕草がコウの心を解きほぐして、くすくすと笑うコウの姿を何ともばつの悪い表情で見つめたヘンケンがコウから何歩か遅れて同じ様に笑い始めた。和やかな空気が夜中の気配を掻き消した所でヘンケンがテーブルの上の瓶を摘まんで持ち上げた。
「うお、結構飲んじまったな。これじゃあ次の機会に呑む酒が足りなくなっちまう」
 瓶の中身は半分をとうに過ぎて残り三分の一になっている、名残惜しそうな目で一瞥をくれたヘンケンはそれをポーンとコウに目がけて投げて寄越した。まるで大事な物でも扱うようにそっと抱えたコウに向かってヘンケンは笑った。
「よーし、この話の続きはまた今度の機会にお預けだ。言っておくが俺は決して諦めた訳じゃないからな。これでも大勢の面倒を見ている立場だ、そういう話が舞い込んで来た時の弾はしっかり確保しとかないとな」
「弾、ですか? 僕が? 」
「そうだ、人はどうしても華やかな話や立場に強く憧れがちだが実はそう言う奴ほどしたたかにいざという時の準備を怠らないモンだ。「備えよ常に」が俺の人生訓なんでね、それまでボトルキープだマスター」
 身勝手な様だがそれを不快に感じさせないヘンケンの物言いにコウは笑ってボトルへと視線を落とす。
「備えたいのは山々ですが、僕はお酒は作ってませんよ? どうやって補充する ―― 」
「明日サリナスへセシルと一緒に行くんだろ? その時こっそり買って来といてくれ。今度はそうだな ―― もっと強い酒がいい、テキーラとか。かっとなって頭の芯が痺れるやつが」

 酔いを感じさせない足取りで踵を返したヘンケンは真っ直ぐに出口へと歩を進める。建て付けの悪い木の扉を大きく開いて、五月とは思えないほど冷え切った夜の大気を招き入れた彼はそこで足を止めた。
「 ―― ウラキ君」
 ぽつりと呼びかけたヘンケンの声にコウははっとその背中へと視線を送った。外の景色を蒼白く照らす月の光に影を残して、ヘンケンはじっと夜空を見上げている。
「俺も君も多分間違いだらけの人間だ。きっと今までにも大きな、多くの間違いをしでかして大勢の仲間を失ったのだろう。 …… あの時にこうしていれば、あの時こうしなければ良かった。後悔で埋まった様な生き方をしているんだ」
 肩越しに覗かせたヘンケンの横顔に浮かぶ遣り切れない想い、戦争によって与えられた悲劇を噛み締める様に、戦争によって傷付けられたコウの未来を憂うようにヘンケンは微笑んだ。
「だがそれでも人は何かを目指して生きていかなくてはならない。道を間違った事で取り返しがつかなくなってそれを後悔したとしても、やっぱりいつかは選ばなきゃならないんだ。それを諦めてここへ逃げ込んで来た君の生き方は間違ってる」
 心の底で生まれた猛烈な痛みにコウは顔を顰めて目を伏せる。ヘンケンはその一部始終を視界へと収めながらゆっくりと外へと足を踏み出した。
「そう。間違ってるんだ、君は。 …… じゃ、明日よろしくな」
 コウの声を待たずにヘンケンの背中が軋みながら閉じるドアの向こうへと消えていく。再び取り戻した日常の沈黙の中でコウはじっとテーブルの上の酒瓶へと目を向けた。乱反射する光がプラネタリウムの様に部屋の天井へと映り込んで、質素な宇宙を作り出す。
 それは決して自分が戻る事の出来なくなった、憧れにも似た禁断の世界。天に翳したコウの手がそのまま自分の両目を覆い、訪れる闇を呪うように溜息をついた。
「俺は、間違っているのか」
 忍び込んだ夜風がコウの言葉から熱を奪い、蒼白の黙は彼の問い掛けには何も語る事もなく短い夜の刻を静かに刻み続けていた。

                                *                                *                                *

 パン、と言う乾いた音が暗闇に鳴った。
 大きな水桶をひっくり返した様な雨がそこに佇んだままの彼らのポンチョを黒く濡らす、やがて零れ落ちる様に一つの影がずるりと崩れてそのまま小さく地面へとまとまった。
「不敬罪と反逆罪を適用 …… 当該任務における戦死者一名」
 無機質なラース1の声と銃口から棚引く硝煙は降りしきる雨に掻き消される。自分達が正規の隊員としての扱いを受けなかった事に不満の限りをぶちまけていた彼らは、自分達が地獄の釜の淵で踊らされていると言う事にその時やっと気が付いた。一人減った仲間の屍体に視線を落とす余裕すら失った彼らは、銃を掲げたままピクリとも動かないラース1の銃口へと釘づけになった。
「これが俺達の部隊だ、よくその目に焼き付けて置く様に」
 彼らの臆病へと更なる恐怖を捻じ込む様にダンプティの声が流れる、銃口の前にゆっくりと立ち塞がった彼の背後でラース1は構えていた銃を降ろしてホルスターへと差し込んだ。
「貴様達が欲しがる ―― いや、戦争が終わった後も自分の居場所を探しているフリークス共が喉から手が出るほど欲しがっている殺人許可証は敵だけに適用されるのではない、命令に従えない者や不満を述べる者には容赦なく行使する事が出来る。これから始まる地獄に耐えられない者は勧んでそうする事だ、いつでも殺してやる」
 ダンプティの瞑い目が四人の新参入の兵士を右から左へと見回す、恐怖による絶対の服従を強いられた彼らはまるで弾かれた様に隊列を整えて右手を差し上げた。
「よろしい。 ―― そう悲観する事はない、先遣隊としてのこの任務が終了すれば我が隊は本作戦を行動に移す。その時には貴様達は否が応でも我が隊の一員として働いてもらう事になる、存分に最前線で生き延びてきたその経験を役立てて生き延びる様に。還って来た者には破格の報酬額を用意してあるとクライアントからの申し出だ」
 今にも切れてしまいそうなくらい張りつめた糸がダンプティのその一言で僅かに緩む。入隊の儀式としてはここではごくありふれた、しかし血生臭い段取りを踏み終えた彼らにはこの部隊に参加すると言う意味が骨の髄にまで染み渡った事だろう。固い表情で敬礼の姿勢を維持する四人の前で踵を返したダンプティは、何事もなかったかのような表情でリラックスしたまま立っているラース1へと向き合った。
「相変わらず部下を取りまとめるのが上手い。 ―― あの人を思い出させますな」
 ラース1から少し距離を取って佇むケルシャ―が苦い笑いを交えながら呟く。果たしてそうだろうかと自嘲的な笑みを浮かべて無言を貫くダンプティ、今の振る舞いを『彼』が知ったら恐らく烈火の如く怒りだして拳の一つも顔面へと喰らうに違いない。
 結果は同じでもそこへ至るまでの過程を重視した彼のやり方とは雲泥の差がある、恐怖ではなく信義をもって部下を掌握し続けたが故に戦史に名を残す将として後の世に伝え継がれているのだ。
「ラース1に発令、現時刻をもって先遣隊は本作戦遂行の為の情報収集の為北米大陸へと渡り、カリフォルニア州サリナスを本拠地に活動を開始せよ。分遣隊の指揮権はラース1に移譲する」
「命令とあらばその人選に従う事もやむなしだが、一つ質問したい。…… なぜ陸上部隊を使わない? 」
 情報収集や斥候ならば不慣れなモビルスーツ部隊のパイロットを使わなくてもそれなりの部隊を派遣すればより確実で正確な情報を手に入れる事が出来る、なぜそうせずに自分達を派遣するのかと彼が尋ねるのは道理だ。それに戦場でも単独での戦闘を得意とするラース1に部下を ―― それも新規参入の兵士ばかりを預けると言うのは彼自身も理解に苦しむ。声音に若干の疑惑を忍ばせながら首を傾げたラース1に向かってダンプティは答えた。
「現時点でこの隊の指揮官経験者はここにいる三人だけだ。俺とト―ヴ1はこの後の準備の為にここを離れられない、つまりは消去法だ。それと …… 今回の作戦に限り陸戦は信用できん、得た情報を歪曲して掴まされたら楽な仕事もそうではなくなる。故に、貴様だ」
「意外だな …… あんたの口からそんな言葉を聞くとは」
「木鶏や木石の類ならともかく残念ながら俺は人間だ、そう言う猜疑心を持ってしまう事もある。それにモビルスーツ乗りと陸戦は理解し合えないのが当たり前だ、鳥の心を人が知る事が出来ない様に …… 軽蔑したか? 」
「 ―― くだらんことを」
 最後の言葉を呑みこんだラース1は緩やかな動きで、しかし誰よりも正確で美しい敬礼をしながら静かに告げた。
「命令を受諾。ラース1は現刻を持って本隊を離れ、先遣の任に着く」

 重苦しい雨空を切り裂いて舞い上がるビジネスジェットの排気炎をダンプティとケルシャ―は肩を並べて見送っていた。再び訪れた漆黒の闇と振り止む気配すら見せない豪雨の中でケルシャ―はぽつりと呟いた。
「 …… いよいよ、始まりましたな」
 声に反応して小さく頷いたダンプティは、辺りを憚る様に小さな声で尋ねた。
「作戦後の手筈は? 」
「ハワイの『中佐』には既に話を取り付けてあります。ただしそこまでは自力で、しかも足取りを気取られぬ様に、と」
「あの人もなかなかに手厳しい、少佐が頭が上がらなかったと言うのも頷ける」
 苦笑いを浮かべて司令部の入口へと足を向けたダンプティの後にケルシャ―が続く。雨音に紛れて作業を続けるハンガーの扉から洩れる明かりへと目をやったダンプティは不意に足を止めてケルシャ―の方を振り向いた。
「大丈夫だ、いつも通りやればきっとうまくいく。貴様は心配症だなケルシャ―」
「 ―― お気づきでしたか。 …… しかし今度ばかりは難題です、初めての事ばかりが多すぎる。まさか自軍を攻撃しろなどとはジオンの頃では及びもつかない命令ですからね」
「そう愚痴るな。不確定要素が多いのは仕方がない、最終的にこれは俺と貴様だけが知る要項なのだからな。だがこれさえやり遂げれば俺達は帰れる」
 そう言うとダンプティはポンチョのフードを外して叩きつけられる雨の中に頭を晒した。ウェーブのかかった濃茶の髪があっという間に濡れそぼって頭皮に張り付く。大粒の雨が開いた目の中へと飛び込んで来るのも顧みず、彼は天を仰いで雨空を見上げた。
「 ―― 俺達が、帰るべきあの場所へ」



[32711] The Stranger
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/05/18 18:21
「はーい、オーラィオーラィ、そのまま真っ直ぐ ―― 」
 昼過ぎのハンガーに響く間延びした整備員の声。軸線をずらした後方ではバックミラーに自分の姿を移した整備員が頭上に上げた手をゆっくりと振りながら、目の前をバックで進入する巨大なモビルスーツ専用のローダーを誘導していた。広大な荷台に横たわっているモビルスーツには機体を保護する為のゴムシートが掛けられ、この下に隠されている物が軍の物であると言う事を内外に示す『keep out』のテープが張られている。荷受に先駆けてジャブローから送られてきた命令書と、荷物の内容が書かれた書類とそのテープの存在を交互に見やったモウラがちっと舌打ちしながら呟いた。
「何が『おさわり厳禁keep out』だよ全く。そんなに大事なもんならわざわざここに持ってこなくてもいいじゃないか。どうせ厄介事の種ばっかり押し付けるつもりの癖に」
 毒づきながら輸送担当の責任者から渡された受領確認の書類にサインをする。遠く離れたアマゾンでアナグマの様に息を潜める本部のやり方に対して述べた不満を間近で聞く羽目になったその男は、日に晒されて色褪せた帽子と焼けた顔を綻ばせてモウラの愚痴に同意した。
「ジャブローのお偉いさんにゃ現場の都合なんて二の次でね。この機体も地下の倉庫に入りきらなくなったから弾き出された様なもんで別に他意がある訳じゃない、本当はスクラップになる所を未使用の機体だからってンでどっか邪魔にならない所にでも飾っとこうって腹なんじゃないんですか? 」
「未使用? そんな機体ならどこの基地でも欲しがりそうなもんだけどね。ましてや『この機体』は最近じゃ滅多にお目にかかれない代物じゃない」
 あれだけの大戦で使われなかった機体が存在するなんて、とモウラは目を丸くしてローダーの荷台を見上げる。今置かれている連邦の経済状態とそれに伴う軍の方針を考えれば、その素性が何であれ新品の機体がこんな辺境へと配備される事など考えられなかった。

 デラーズ紛争の最中に起こったコンペイ島での核攻撃によって連邦軍はその戦力の約半分を喪失した。紛争の結末がデラーズの敗北に終わったとは言え、彼らが残した危機感は結果として連邦政府の方針に大きな影響を与え、軍内部で戦力の増強を謳うティターンズの台頭を許す事にはなっている。
 だからと言って失ってしまった将兵や艦船、そして近代宇宙戦闘の主流であった艦隊戦偏重主義を根底から覆す要因になったモビルスーツを一気に補う事は不可能だった。民生の工場をフル稼働させても標準配備として採用されたジムを戦時下の様に大量生産する事は困難を極め、何よりそんな動きを外部に知られればまたぞろ『藪をつついて蛇を出す』様な羽目にならないとも限らない。不安定な情勢下に置かれた連邦政府が今や最も注意を払わなければならない事は、ジオンと言う反連邦の旗手を失った他のコロニーを収める各自治体の動向になってしまったと言うのは、謂わば彼ら自身が撒いた種であった。
 不足したまま遅々として増強の図られない戦力に業を煮やした連邦は、現在開発中若しくは新たに生産される機体が十分な域に達するまでの最も安上がりで手っ取り早い方法として、接収又は鹵獲したジオンのモビルスーツを予備戦力として投入する事を決定した。ジャブローやルナツー、そして各基地の倉庫や果てはリサイクルの為にジャンク屋の軒先に積み上げられたまま放置されていた機体を叩き起こして再び戦いの空へと舞い上げる。敵国の機体を自戦力として登用する事については軍の内部で賛否両論が巻き起こったが、反対論者にそれに取って代わるだけの代案を用意する事は出来ない。代わって賛成論者には彼らの反論をねじ伏せるだけの材料を手に議会へと登壇し、その案の帰結は誰の眼にも明らかであった。

 賛成派がこの法案を推進した根拠はこうだ。一年戦争に勝利した連邦の影響下にはジオンから亡命して来た技術者や科学者が少なからず存在している。彼らの能力を生かす再就職先を斡旋する意味でも、また戦争の終結による景気の停滞によって職を失った労働者の雇用を確保すると言う意味においても敵国のモビルスーツを再生すると言う計画は即効性のある景気回復策であり、何より物資の動きが外部に悟られにくい。実際その計画が実行に移された時点で発生した経済効果は彼らの予想を遥かに超えた。旧ジオニック社やMIP社に在籍していた技術者は自ら進んでこのプロジェクトに参画し、思わぬ副産物まで連邦社会に恵んで今尚拡大の一歩を辿っている。
 彼らが派遣された、倒産寸前だった企業の内のいくつかは彼らが密かに暖めていた数々のアイディアを再生されるモビルスーツに搭載して軍部からの賞賛を浴びて受注をもぎ取った。連邦からの要請による受注は彼らの懐に莫大な資金を流入させ、彼らはそれを手に民間型のモビルスーツ ―― 用途は産業用に限定されるが ―― の開発に着手する。自らの企業の生存を賭けて軍から民間へと市場を移した先見の明は今や連邦軍との取引をほぼ独占するアナハイムの傘下を離れて民間の企業として独自の開発路線を進みつつある。
 戦火に焼け爛れた地上を復興させようとする人々の願いは敵国の科学者が作った機械によって叶えられ、世界の至る所で活躍を続ける作業用のロボットは自らの手で壊した世界を自らの手で修復しようと現在も稼動を続けていると言うのは、恐らく人類が戦争と言う愚かしい行為に手を染め始めてから何度も繰り返された摂理に違いない。

 戦力増強計画の大綱が連邦政府の議会を通過してからというもの、新品の機体はもっぱら今尚続く小競り合いの最前線へと配備される事が多くなった。主に宇宙空間で繰り広げられる戦闘に供給されるジムは宇宙空間仕様に限定され、それは逆に戦線より遠く離れた地球上の連邦軍基地に廻す重力下仕様機を製造するラインが占拠された事を意味している。勢いそれらが齎す状況は地球上の基地にジオンのモビルスーツを蔓延させて、前年度の連邦軍軍事評価指数においては地球に駐屯する部隊の約半数が主戦力としてそれを使用すると言う発表が為された。最前線への補給施設として建造されたスマトラ島のマス・ドライバー基地ですら一個中隊規模のザクやゲルググが配備されていると言うご時世に連邦軍の主戦機を要求するなどとはもってのほかと言う風潮が地上軍の暗黙の了解と言う事になり、ましてやそれほど戦略的拠点として重要視されていないオークリーに正式採用の機体が配備される事など有り得ない。
 だからオークリー基地にただ一機配備されているキースのジムは当然工場から出て来たばかりの新品ではない。その機体がここに運ばれて来た時には何年も土に埋まっていた物が発掘された様な状態で ―― それだって奇跡と言える ―― 当時のモウラの言を借りればそれは司令部が世間体を気にして体裁を整える為にしぶしぶ用意したと言っても過言ではなかった。だがその機体のレストアに及び腰だったモウラや整備士連中が重い腰を上げざる得なくなったのはコウとニナの熱意によるもので、彼らは自分達の持つスキルと役割をフル活用してそのスクラップの再生に自ら進んで乗り出した。
 少ない予算の中から予備パーツを購入する為の資金をねん出し、使えそうななパーツは可能な限り修復して調整する。最初は二人から始まった趣味の世界がいつの間にかモビルスーツ隊全員を巻き込んだイベントへと姿を変え、全員が持つ知恵と経験を結集して再稼働を目指したそのスクラップは言うなればモビルスーツ部隊員全員の意地と誇りを形にした傑作機であった。
 不安と期待が綯い交ぜになった試運転のその日はどこまでも澄み渡った空が広がる晴天だった。乾いた日差しの中に響く融合炉の唸りとジェネレーターの叫び声、動き出した油圧がマニピュレーターのシリンダーを作動させてジムの指を折り曲げる。その右手が拳の形を作り上げた瞬間にだだっ広いと思っていたハンガーの空間は全員の歓声で突然狭くなった。スーパーボウルの勝者チームもかくやと思わせるほど爆発した興奮は、最初の一歩を踏み出したコウをも巻き添えにして大きなうねりに変化する。だがモウラはそんな事よりもコックピットの中にニナと一緒にいたキースの歓喜の雄叫びが一番印象に残っていた。

「うおおおぉぉっ! やったぁ、これでもうジオンの基地じゃなくなるぅっ! 」

 胸に去来する驚きと更なる喜びはモウラの身体を震えさせた。そんな事をぜんぜんおくびにも出さずに日々の訓練を重ねてきた彼が、実は最も気に病んでいた事がそんな他愛もない事であった事。だがたとえこんな辺境の基地で不自由な暮らしを強いられていても、やはり彼は連邦軍の士官だったのだと気付かされたその日。キースが胸の内に秘めていた望みを自分の手で叶えてあげる事が出来たと言う喜びは彼女にとっても同じ意味を持つ、モウラがあらゆる意味でキースと共に未来を歩んでいこうと決心したのはまさにその瞬間だった。

 だがその一機以降この基地にスクラップと言えども連邦軍の機体が送り込まれる事はない。オークリーの稼働機体が予備機も含めて定数に達した事と資材の再利用によるスクラップの減少でそれ以上の追加は認められなかった。もちろんアデリアとマークスがこの基地に赴任して来た事で彼らの専任機を前の基地から廻航する権利は得たのだが、それを行使した途端に資材部から送られて来た回答は『No』の二文字。何の詳細も記載されずにただ代替機と言う事で搬送されて来た彼らの機体は、既に当時としても隔世の感を思わせる『ザクⅡ』と呼ばれた機体だった。

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「すごいね、ジャブローの嫌がらせもここに極まれりって所かい? 」
 モウラはカラーリングの異なった二機のザクがケージに固定されている様子を眺めながら隣に立っているアストナージに尋ねた。受け取った資料に目を通しながら小さな溜息をついた整備班の先任はやれやれと言った風体で彼女の言葉に応えた。
「デザートイエローの方はオデッサ、オリーブドラブの方はフィンランドでの接収となってますねぇ。まあどちらの機体も地上での鹵獲になってますンで重力下使用には問題無いとは思います。予備部品も機体と一緒にほぼ二機分、ただしリビルトやらリサイクルのオンパレード。ま、年式が年式ですから新古品ですら期待は出来ないとは思いますがね」
「79年製、五年落ちのヘビーユースかい。こりゃ相当にガタが来てるぞ、モノコックフレームが歪んでなきゃいいけど」
「一応寸法が一緒なんで治具はジムのやつが使えるとは思うンすけど …… どうします? 」
 むう、と唸ったまま黙って何かを考え込むモウラ。到着した機体は先ず全体を一度分解して再度組み上げると言うC整備から行う事がモウラ独自オークリーの慣例となっている。ありとあらゆる検査を経て ―― モウラはその点においてはジャブローを全く信用していなかった ―― 合格した部品だけを集めて元通りに組み立てるのだが、彼女が今最も危惧しているのはモビルスーツを支える外部骨格・モノコックフレームの不具合だった。
 モビルスーツの構造は外装のみで内部の機器などの自重を支える応力外皮構造 ―― 通称モノコックフレームで成り立っている。機体の軽量化と開発期間の不足から小型化に遅れた動力システムを収める為に採用されたこの方式は主にジオン公国で初期に開発された一連のモビルスーツ群に散見されるのだがこれにはいくつかの欠点が存在した。その中でも特に問題視されているのは装甲が骨格の役割を果たす為に衝撃で歪んだ場合、機体全体の重量配分マスバランスが崩れて著しく機動性能が低下すると言う点である。唯一にして最大のその弱点をジオン軍の地球降下作戦によって蹂躙され続けた陸軍は多くの将兵の犠牲の代償と引き換えに手に入れ、ザクの脚部装甲に対装甲弾で歪みを作り、自らを囮に無理な機動を強いて自損もしくは自倒へと持ちこむ部隊『ゴーレム・ハンター』と呼ばれる特殊猟兵を生みだした。ジオン軍の蹂躙を最後の最期に押し留めたのは彼らの活躍があってこその物だった。
 ザクの弱点を分析した連邦軍は自らの力で独自に作り上げた量産型機動兵器『RGM-79』にセミ・モノコックを採用した。これは装甲板の内側に縦通材などの補強を施す事によって衝撃からの歪みを緩和し、機動性能の低下を出来るだけ防ぐと言う意図のもとに作られている。ジオンの物に比べてデザインが直線的で武骨ではあるが耐久性と損傷率では格段の違いを示した事で、その機体は最後まで主力機の座に君臨し続ける事が出来たのである。だが基本構造がモノコック方式である以上ジムの弱点がジオンのモビルスーツと同じ所にある事には変わりがない。それは宇宙空間においても同様で、装甲の歪んだ機体で戦闘機動を続けるとその部分に加わる慣性重量によってそのひずみはさらに激しくなり、最終的には金属の耐久限界を超えた時点で一気に破壊される。十分に整備の出来なかった味方の機体がその様な要因で敵の砲火の餌食となって散っていく様をモウラとアストナージは何度も目にし、そしてその度に痛恨の思いでロッカーを蹴り上げた。
 それは二人が一年戦争の間に何度も何度も味わった忌まわしい記憶であり、それと同時にU整備と言う類稀なるスキルを身につける事の出来た二人への惨い代償とも言えた。
「 …… 運を信じてやるっきゃないかぁ、もしも歪んでたら目一杯時間をかけてでも直すまで。どっちにしても彼らに整備不良の機体を彼らに渡す訳にもいかないし。 …… アストナージ、場合によっちゃニナにも手伝って貰わなきゃダメかも知ンない。一応連絡だけはしといて。 …… それと」
 諦めた様に呟いたモウラが二機のザクから視線を下ろして足元を見た。真っ白な繋ぎを着た紅い髪の少女が道具箱を片手に下げて、今にも獲物に飛び掛らんとばかりにうろうろしている姿が見える。
「あのお嬢ちゃんにも手伝ってもらうか。丁度人手も足りないし」
「って、あの子まだここに来て間もないド新人ですよ? いくら何でもいきなりモビルスーツのC整備ってのはハードル、高すぎないスか? 」
「あの子の服、よっく見てみな」
 モウラに促されてアストナージがちょこまかと動き回る少女の姿に眼を凝らすと手袋以外の部分に汚れが無い。派手な髪の色に先ず目を奪われるその少女には先ず手ごろな所で基地の車両を整備する所から始めさせたのだが、彼女の繋ぎはいつまで経っても卸したての様に真っ白でそのどこにも油染みの欠片すら見当たらなかった。これはその少女がいかに要領よく、しかも手際よく整備を終わらせているかと言う事を示している。腕利きの整備士であるアストナージは年端のいかない少女が見せる才能の片鱗に思わず口笛を吹いた。
「 …… なるほど、見かけに騙されちゃいけないって訳だ。あの歳でアレだと、将来有望な整備士になれるかもって所ですか? 」
「あたしもあの位の歳にはもう産業用ロボットを触ってた。早すぎるって事は無いだろ? 若い内に経験を積ませるのが上司の器量ってもんだ」

「こらあっ、ジェスっ! ちょろちょろするんじゃない! 」
 アストナージの怒鳴り声に驚くモウラ、一昔にも思えるその思い出から我に返ったその先に映った光景はまるで瞼の裏の出来事を再現している様に思えた。繋ぎの色は白から他の整備士と同じ緑色に変わってはいたが、あの時と何も変わらず ―― 内容のいかんに関わらず彼女に対する評価は激変してはいたが  ―― 両手で道具箱を提げてローダーの周りをうろうろしているジェスの姿が眼に止まる。モウラの器量を常に試し続ける可愛い顔の小悪魔は次の獲物をその荷台に隠してあるモビルスーツに定めていた様だ。
「来た来た来たっあたしのオモチャ。へっへっへっ、一体何が入っているのかなぁ? 」
 舌なめずりをしながら唐突にローダーによじ登ろうとするジェス。覚悟はしていてもいつも予測不可能な行動で周囲を冷や冷やさせる彼女の行動は、いつものようにモウラの心拍数を上げる事に成功した。
「こらっ、ジェス! まだ受け取りのサインしてないんだ、サインするまでは司令部の持ち物なんだから勝手に触るんじゃないよ! 」
 慌てて呼び止めたモウラの顔を見て首をすくめたジェスは、名残惜しそうに引き返した後でおもむろに足元に置いた道具箱に片足を預けた。腕を腰に当ててモウラへと向き合う様はまるで古参の整備士のようだ。
「えー? じゃあちゃっちゃとサインしちゃってくださいよぉ。アストナージと違ってあたし非番返上で来るの待ってたんですからぁ」
「ったく、あの子は」
 そう言いながらも苦笑いを浮かべて手早く書類にサインするモウラ。今や戦場より遠く離れた地上で長閑な基地の風景と空気に触れた輸送担当の責任者はその穏やかさににっこりと笑って、三枚複写の真ん中をモウラの手に預けて頷いた。振り返ったその男が手を上げるとローダーを牽引していた巨大なトラックはヒッチを外して荷台だけをその場へと置いていく。
「じゃあ、確かにお渡ししました。後は煮るなり焼くなりご自由にって所ですか。 …… 早くお嬢ちゃんに許可をあげて下さい、見てるこっちが気の毒になる」
 苦笑する男の言葉に誘われてモウラがローダーの方を見るとジェスが既にロープに手をかけながら、彼女の合図を待ちわびてこっちを見ている。お預けを食らった子犬の様な目をしたジェスを見たモウラは怒るよりも先に呆れかえってしまったのだが、いかにも彼女らしいその行動に思わず笑みを洩らした。
「ほら、もう受け取ったよ。取って良しっ」
「りょーかーい。せぇのっ! 」
 ニヤリと笑ったジェスの手がロープを思いっきり手前に引くと複雑に絡められたトラッカーズヒッチが踊る様に波打って、荷台の左右に引っ掛けられた固定用のロープはこまねずみの様に駆け回るジェスの手によって次々に緩められていく。弛んだロープを手馴れた仕草で丸めたジェスがその束を肩にかけたまま荷台の上へと駆け上がった。
「 ”おお、愛い奴じゃ愛い奴じゃ。ささ、もそっと近こう寄れ。近こう寄ってお主の顔をよく見せておくれ” 」
「 ―― 誰だよ、お前」
 薄気味悪い、という言葉を表情に張り付けたアストナージが尋ねるとジェスは何事もなかったのように平然と答えた。
「『アクダイカン』っての? 衛星放送の日本映画に出て来たんだ。『ジダイゲキ』って面白いんだよ、エロくて」
「え、エロって、お前っ ―― 」
「ほら、ウラキ伍長と今度会った時にニホンの予備知識がないと何かと話を合わせ辛いじゃない? だから一生懸命勉強してるんだ。 …… って日本人てばみんなあんなにエロいのかなあ? 伍長ってここにいた時にはそんな感じだったの? 」

「 …… なんつーこと口走ってんだ、ニナが聞いたら卒倒するぞ」
 万が一の事態を想像しながらその後に訪れるであろう修羅場に背筋を寒くするモウラ。日本人に対する理解の方向性が趣味一辺倒の見当違いに突っ走っている事についてキツく言及したい彼女ではあったが、今はそれ以上にシートの下の荷物に用がある。ジェスに対する指導と説得は後回しにする事を決めこんで、モウラはまるで現場監督の様にジェスの動きを目で追った。モビルスーツを覆うゴムシートは薄いとはいえかなりの重量がある。ジェスは腰を屈めて全体重を足に乗せ、全身の力を下半身と背筋に込めて一気呵成に捲り上げた。
「よいしょおっ! 」
 旅の埃と共に舞い上がったシートが捲くれてジェスの足元で露になったのは明らかにモビルスーツの頭部だ、明り取り用の天窓から差し込む強い光がその特徴的な意匠を整備員達の目の前へと披露した。
 マットブラックで塗装された頭全体に顔面部を埋め尽くす十文字のスリットを縁取る鮮やかな赤、そしてその中に埋め込まれたモノアイ。おお、と一言つぶやいたまま凍りついたジェスが次の瞬間弾ける様に飛びあがってその顔を覗き込んだ。
「うわあ、何だこれ何だこれっ! すっごーい! 初めて見たぁっ! 」
 何度も小さくジャンプして手を叩くと言う歳相応の喜び方を見せ付けるジェスの姿に冷めた目を向けるモウラ。あいつめ、今日の所は自慢の尻尾を自分の部屋に置き忘れてきたなと皮肉めいた笑顔を浮かべた時、背後の頭上から今日初めて聞く彼女の声が響いた。
「珍しいわね、MS-09ドムなんて」
「 …… いつからそこにいた? 」
 首をすくめて恐る恐る後ろを振り返るのはすべてあの小娘が原因だ。コウがエロいだのどうのこうのと言うジェスの会話をニナが耳にしたならば途端に説教の鬼と化すに決まっている、その方面に関してはウィットの欠片も持ち合わせていない彼女だと知っているモウラだからこそ彼女の口から飛び出す言葉の数々が手に取る様に分かる。だがモウラの杞憂に相反して目の前に現れたニナは、大ぶりのサングラスの縁から覗く眉を持ち上げて穏やかな笑顔を見せていた。
「たった今。受け取りに立ち会えなくてごめんなさい、ドクにもらった薬がちょっと利きすぎたみたい」
「いや、それは別に何の問題もなかったんだけど …… 今日は、どしたの? 」
 ほっとしたのも束の間、今度はニナの出で立ちに目を見張る番だった。ゲッティのミラーレンズに白のブラウス、袖を止める金色のアームバンド。止めはレベッカ・テイラーのテーパードと来ればこれはもうオークリーで働く人間の出で立ちではない。まるでファッション雑誌から抜け出して来た様なニナをしげしげと眺めたモウラが何事かと尋ねるのは当然だ。
「あんた …… そんな服持ってたっけ? い、いやすごく似合ってるとは思うけど ―― 」
「ご挨拶ね、私だって一応これ位は持ってるわよ? なあにモウラ、それじゃ私が女じゃないみたいじゃない? 」
「あ、や …… い、いやそう言う意味じゃなくってさ。何か今日はいつもと違うって言うか、見違えたって言うか …… 何かあったの? 」
 自分なりに感じた疑問をモウラはうまく言葉にする事が出来ない、それが決してニナの着ている服だけから来ているのではないと言う事は分かっていた。軽快な受け答えに華やかな雰囲気はどれもデラーズ紛争を経験する前に見せた彼女の雰囲気によく似ている。初恋の相手に偶然出会った時の様にどぎまぎしながら尋ねるモウラから再びローダーの上へと視線を移したニナは、どこか懐かしい物でも思い出すかのような口調で呟いた。
「たまには、ね。…… 息抜きも必要だわ。『張り詰めてると壊れちゃう』って誰かが言ってた。ところでどうせここに廻して来るんだからそれなりに訳ありの機体だとは思うけど、今度は何? 」
 宇宙仕様のゲルググに始まってスクラップ同然のジム、アデリアとマークスのザクとここの基地のラインナップには退屈しない。どんな難題を抱えてここに運ばれて来たのかとニナは手摺の上で両腕を組みながらモウラに尋ねた。小首を傾げて揺れる金の髪が日の光を受けて眩しく煌めく。
「ん、まあ …… それなんだけどね。ジャブローから送られて来た資料によるとどうも未稼働の機体らしいんだ。倉庫に保管されていたのが邪魔になって送られてきたらしい」
「らしいらしいって …… それも未稼働? じゃあ試運転もしてないって言うの? 」
「いや、炉の制御棒の封緘は外れてるんで一回は動いている筈だって書いてるんだけど ―― ほら、資料」
 説明するより読んだ方が早いでしょ、とばかりにモウラが手の中の資料をニナへと手渡した。興味深深で読みふけるニナを尻目にホイストで吊り上げられた荷台はドムを固定したままハンガーの空いている壁面へと宙吊りになって運ばれていく。整備用のケージは既存の六機で満杯でよそ者に割り当てるだけのスペースがない、取り敢えず模様替えをするまでの間新参者には割を食ってもらおうと言うのが整備部の方針だった。整備士達の視線を一身に受けるその荷台があっという間に壁面に固定され、高所作業用のバケットが後を追う様にハンガーの奥へと走り抜けて行く。
「 …… これだけ? 」
 ニナが不満そうに書類をぺらぺらと捲ってモウラに聞く、案の定だ。「そう、それだけ」
「だってこれじゃ何にも分からないわ。分かってるのは外形的な特徴だけじゃない、役所の健康診断だってもう少し中身のある書き方をするわよ。接収場所や機体番号や形式名称まで未記入ってどういう事? 」
「未稼働の機体だってんなら、未登録って事もあるかも、じゃない? 」

 製造の際にコックピットの裏へと刻印される機体番号はそれがどこのメーカーのどこの工場で、いつ頃作られた物であるかを知る事の出来る固有機体追跡機能トレーサビリティシステムの為の大事な証拠だ。軍に納入された際に登録される機体番号は配備履歴としてジャブローのアーカイブに記録され、その機体に誰がいつから乗り込んでいたかを詳しく知る事が出来る。未稼働と言うのならばこのドムは一度も戦場へと赴いていない訳で、それならばそんな事もあるのかもしれない。だがニナはモウラの言葉を小さく首を振ってやんわりと否定した。
「モビルスーツとして作られる以上それは軍事の目的を有する重機と言う事が前提なのよ、試作機・実験機を問わず登録する為の機体番号は必ず刻印されていなければならないわ。ジオニック・ツィマット・アナハイム、ジオンも連邦も関係ない、生まれ故郷の企業のデータバンクにすら記録が残ってないって事は意図的な物がない限りありえないわ」
 ふむ、と鼻を鳴らして頷くモウラ。なるほど、あの三機も試作機でありながら元々は実験機の性格を持っていた。それにすら刻印の義務が生じていたと言うのなら、目の前のドムにもなければならないと言うのは道理だ。
「それに形式名称が記載されてないって。 …… 何、まるで厄介払いされた捨て子みたいじゃない」
 立て続けに書類の不備を論うニナの様子にモウラは苦笑いを浮かべた。こと表現が過激になるのはそれがモビルスーツに関しての事だからなのかもしれない、いかにもニナらしい。
「捨て子かあ、じゃあ差し詰めこの基地は養護施設であたし達は彼らのお世話をする施設のおばさんってとこ? 」
「私はまだそんな年じゃないわよ。モウラの言ってる事が私達にぴったり当てはまるって事は否定しないけど」
 昨日まではどんな軽口にも薄笑いでしか返してこなかった彼女がきっちりと、それも自分なりの緩急を交えて投げ返して来る。見た目ばかりではなく中身まで昨日までのニナとは違っている事にモウラは内心驚き、しかしそれを表情に浮かべる事は押さえながらもう一度会話のキャッチボールを試みた。
「じゃあ可哀相な捨て子を拾った施設のおばさんとしては他の子と同じ様に、分け隔てなく育ててあげるとしましょうかねぇ。目が空いた時に初めて見たお母ちゃんがあんな小娘じゃあ先行き心配だし、グレでもしたら大変だ」
「相変わらずジェスには厳しいのね、私に言わせればモウラがジェスのお母さんみたいよ  ―― じゃああのドムはモウラの孫って事になるのかしら? 」
「 ―― ちょっと、ニナ? 」
 さっきのモウラの発言にお返しのジャブを放ったニナがモウラの声を無視してハンガーの奥へと歩き始める。やり込められたモウラは自分がジェスの母親代わりと揶揄された事よりも、一晩であの頃の雰囲気を取り戻したニナの身に一体何があったのかを推し量る方へと意識を向けながら、しなやかに歩く後姿を追いかけた。

 外部から電源を供給されたドムはメンテナンスモードに入っている。オークリーは連邦軍の基地だが運用される機体はほぼジオンの機体であるが故にそのノウハウは既に確立されている、整備士の手によって装甲を外されて丸裸になった不審なドムの素性が明らかになるのは時間の問題だろうと、そこに立ち遭っている誰もが確信していた。
 だがその先鞭をつけたオークリー唯一の切り札はハッチの開いたコックピットのシートの上でコンソールを睨みつけたまま微動だにしない。プログラムの事に関して彼女がこんな風になっている姿を今までモウラは見た事がない。
「 …… だめ、開かない」
 シートに腰を深く預けて肘当てで支えた腕に頬を乗せてまんじりともせず、不満そうな声でニナが呟いた。指はコンソールの下から引き出されたキーボードからもう片方のコンソールへと移動して心のもやもやを表現する様にコツコツと音を立てている、難解な数式の解析に行き詰った数学者の様な表情は、その正体を解き明かすであろうと予想していた周囲の整備士に軽いショックを齎した。
「どう、ニナ? 」
 コクピットに直付けされたバケットからモウラがひょっこり顔を出してニナに尋ねた。ニナの弱音に驚いた事も事実だがその障害が機械的な部分で解消できないか、と指示を仰ぐ意味合いもある。だが思惑に反してニナは顔を手の甲に預けたままの姿勢で顔だけを向けて、自分の行き詰った原因を話した。
「恐ろしく頑固なセキュリティね。8個のアルファベットと8桁の数字の組み合わせって言う所までは分かったんだけど、それって幾通りの組み合わせがあるの? 」
「え、ええ? …… えーっと、16かけ15かけ ―― 」
「約21兆よ。おまけに電源を入れた時に分かったんだけど解除コードが乱数表示されてるわ。多分この機体を最後に触った誰かが他の人に使われない様にセキュリティコードをいじったんでしょうね。 …… 何分間隔かは分からないけど絶えず変化する暗証番号を見つけるなんて最新鋭のコンピューターでも無理、この機体を動かすにはそれこそプログラムを最初から作らないと不可能よ」
 ああ、と何かに思い当たったモウラが思わず鼻白んだ。「それでジャブローでも手を焼いてこっちに送り着けて来たって訳か。ここなら何とかするとでも思ったのかねえ? 」
 モウラがニナの肩越しにモニターを見つめた。真っ黒な画面の中央で目まぐるしく踊りまくる16個の文字、その全てが正しく入力されないとこの機体は一切の入力を受け付けないと言う。ニナが不可能だと言うのならばそれはこれをいじった人間にしか出来ないと言う事なのだろう、だがモウラはあえてニナに自分が思い付いた可能性を戯れにぶつけてみた。それは絶対に禁忌な事ではあるが、多少の時間がかかってもこの機体の現役復帰を諦める事は整備士として考えられない。
「 …… ニナ、モビルスーツのプログラムを一から作るとして、どれ位かかる? 」
 ひそひそと尋ねるモウラの言葉に一瞬驚いたニナだったがすぐに彼女の意図を察して、周囲を見回しながらそっとモウラの方へと顔を寄せた。
「『あれ』を創るのに約1年、それもアナハイムのスーパーコンピューターの3分の1を独占して作らせて貰ったものだから、ここにある設備じゃ無理。たとえジャブローのメインコンピューターを使わせて貰ったとしても無理だと思う。軍と企業では用途が違いすぎるし、なにより私の欲しい機能が備わっていないもの。そこから創るとなるとそれはもう一個人が作れるもんじゃないわ、百人単位のSEがよってたかって創り上げる大企業の中枢コンピューターをプログラムする気でやらないと」
「 …… AI換装つってもこんな珍獣に合う物なんてどっかの倉庫にでも転がってるのかねぇ、こりゃいよいよ望み薄かい? 」
「珍獣、ね」
 ニナはそう言うとキーボードをコンソールの下へと仕舞って電源を落とした。色とりどりのインジケーターが消灯してコックピットの中は殺風景な雰囲気を取り戻す。
「ま、時間だけはたっぷりあるからその間になんか方法を考えてみるわ。せっかくただでもらった機体なんですもの、それに動く様にしてあげないとこの子が可哀そう ―― それより」
 ニナの目がコンソールの一番向こうにあるスリットへと向けられた。モウラはニナの見ているおおよその方向を探ってやっと同じ場所へと辿り着く、そこにはどのモビルスーツにも必ず存在する起動ディスクのプラグスロットがある。
「 ―― 巧妙に偽装してあるけどこのアビオニクスは間違いなくアナハイムの物だわ。起動ディスクを差し込むスリットが当時のアナハイムの規格に準拠している。…… ほら、ここ」
「 …… ん、知ってる。で? 」
「で、じゃないわよ。これは明らかに矛盾してる。…… ドムが生産されていたのは一年戦争の中盤だけ、それもツィマット社が単独製造した機種よ。それにアナハイムのアビオニクスがそっくりそのまま乗っかってるなんて考えられない」
「知ってるってのはやっぱりここもそうだったのかって意味でね」
 モウラはそう言うと両腕を組んでじっと天井のコンソールを見上げた。ジオン独得の黒を基調に塗られたパネルと敷き詰められたスイッチ類、だがこれは違う。一年戦争時に宇宙で捕獲したリックドムとは明らかに違う配置と摘みの形にモウラはこの機体の違和感を感じていた。
「下の方でもバラしてみてから驚いてたんだ、どうやらこの機体は重力下仕様のモンじゃなく宙間仕様のドムだって事。装備されているバックパックと本体内蔵の脚部エンジンはは何れも熱核ロケットだ、おまけにスラスターカバーが異常に小さい」

 ドムという機体はツィマット社が社運を賭けて開発した陸戦用のモビルスーツである。一年戦争前に極秘に行われたジオン軍の主力機選定の為のコンペにEMS-04・ヅダを擁して挑んだ彼らは競合相手となったジオニック社のYMS-05・ザクに敗れた。敗因は搭載したエンジンの出力に機体が耐え切れずに空中分解したテスト中の事故による物だが、敗れたとは言え絶対の自信を誇る自分達の技術をこのまま歴史に埋もれさせる訳にはいかなかった。
 ツィマット社の技術者達はいつか自分達の技術がジオン中興の手助けとなる日を夢見て臥薪嘗胆の思いで研究を重ね、そして意外にその日は早く訪れる事になった。地球陥落を間近に見ながら連邦軍の思わぬ反撃に遭遇したジオン軍はその理由を現状配備されているザクとMS-07B・グフの機動力不足と捉え、直ちにその欠点を補う機体の開発を各社に命じた。
 だがザク・グフと言う名機で立て続けに正式採用を勝ち取ったジオニック社にとって、これだけ短期間の間に新機軸の機体を開発する事など困難であった。ジオニック社の混乱を感知したツィマット社がこの千載一隅のチャンスを見逃す筈も無く、予てから検案していたグフ試作実験機からモデファイされた『プロトタイプ・ドム』をジオン軍に提出する。
 ズダに搭載された土星エンジンは宇宙空間では暴走と隣り合わせの危険なエンジンであった。だが大気と重力と言う抵抗力が常に存在する地上下の運用においてならば際限なく出力が上昇する事も無く、暴走を防ぐ事が出来る。安全性向上の為に開発された制御リミッターを新たに付け加えたズダのエンジンはそのまま試作機に搭載され、そして彼らの思惑通りの成果を上げて、望みを叶える。試作機は僅かな構造変更を受けただけで、ほぼそのままの形でジオン軍のモビルスーツの中で三番目の正式名称『MS-09・ドム』を与えられて戦場を駆け巡る事を許された。

 新機種の登場は前線で戦うジオン軍、連邦軍双方の兵士に強烈な印象を与えて、膠着した戦線は遂に大きく傾くかと思わせた。だが残念ながら戦術的に優位に働く事象が全体の戦略に及ぼす影響は余りにも小さく、しかも遅きに失した。連邦軍が投入したRX-78・ガンダムのヴァリエーションである陸戦型ジムによって戦線は一気に押し切られた形になり、地球上での橋頭堡を失ったジオン軍は宇宙への退却を余儀なくされ投入した地上戦力の全ては連邦の鹵獲若しくは破壊を許す事になる。
 国力の大半を既に注ぎ込んでいたジオン公国にとって喪失した戦費は戦争継続に於いて致命傷とも呼べるほど莫大な額に上った。戦力を増強するにしても主な生産ラインは既に地球上に移転しており、それが接収された瞬間に生産力を奪われたジオン軍は突撃機動軍中佐、マ・クベの提唱した統合整備計画に準じてその製造拠点を自国の各社に置くしか選択肢が無い。しかも戦線の縮小と言う戦略的敗北で被害を被ったのはジオン公国だけではなく、そこに参画していたジオニック、ツィマットの両社もであった。開発費用を捻出する事もままならなくなった両社は宙間戦闘用に配備するモビルスーツを地上戦用のモビルスーツの改修によって対処する旨を公国軍司令部に打診し、受理される。
 ジオニック社のザクは一年戦争の当初より運用が続けられていた為、機体自体のコンセプトが古い事や装甲が貧弱な事を除けば宇宙での活動に支障をきたす事はない。だがツィマット社のドムはそうはいかなかった。ジオニック社がグフの空間用改装計画を資金難によって見送った事を受け、採用の糸口を見つけた彼らは再びコンペに参加する。あまり乗り気ではなかったジオニック社の提出した高機動型ザクを抑えて、彼らが提出した『MS-09R・リック・ドム』は再びジオン軍に正式採用される運びとなった。
 重装甲によるパイロットの生存能力の確保や操作性について高い評価を得ていたドムはそのエンジンをジェットからロケットに転換する事で、後退を続けていた戦線を押し戻す為の更なる戦力として期待された。もっともそれは本国で密かに開発が続けられていたジオニック社の『MS-14A・ゲルググ』が登場するまでの僅かな間に過ぎなかったのだが。

「じゃあ、これって地上じゃ使えないって事? …… 何よ、それじゃあほんとにジャブローの嫌がらせじゃない」
 悩んで損したとばかりに大きな溜息をついて、次に何とも嫌みなジャブローのやり口に思いっきり頬を膨らませるニナ。今日一日で人間味のある表情をいくつも見せる彼女の変化に目を細めながらモウラは苦笑した。
「まあAIの換装は当てにはなンないけど、トローペンのエンジン二基ぐらいならいつかは見つかンでしょ。でもねえ、機械的な部分は何とかなっても肝心の操作系統がこのざまじゃあ、ね」
「でも何でわざわざリック・ドムなんてオークリーに送って寄越したのかしら? どうせだったらルナツーか月にでも送った方が部品の調達も込みでもっと動かせる可能性があるのに」
「それがさ、どうも普通のリック・ドムでも無さそうなんだよね」
 次から次へと湧いて出る謎にモウラもニナも顔を見合わせて眉をひそめた。ニナは無言でモウラにその話の続きは、と暗に促す。
「 …… 無いんだよ、ついてる筈の『目くらまし』が」
「目くらまし、って …… あの役立たずの拡散ビーム砲の事? 」
 ニナの口を突いて出る過激な表現にモウラはコクリと頷いた。
「ひょっとしたらどこかで大破してその辺りの補修を省いたんじゃないか、とも思ったんだ。なんせアレはあんたの言う通り役に立たないことこの上ないからね。でも胸部フレームの中をどう構造解析してみてもその機構があったと言う痕跡すら見当たらない、最初からそういう設計になってたみたいにおっきな演算装置が代わりにそこに乗っかってるんだ」
「演算装置? 用途は? どこのメーカー? 」
「ざーんねん、それも含めて全くの謎。ジオン規格の特殊なロックナットで厳重に封印されててあたし達じゃ手も足も出ず。ったく、整備士泣かせのお姫様ってところだよ」
 両手を広げて降参のジェスチャーをするモウラ、ニナは目の前のコンソールへと視線を戻して腕組みをした。
 完全停止した融合炉に繋がる操作系統全てを閉鎖する封印が解除できない限りこの機体が動き出す事は絶対にない。ではそんな物をなぜジャブローはこんな辺境へと送りつけて来たのだろうか?
 手に負えないと言うのならばスクラップにすればいい、資源の乏しい地球ではそれを潰して予備パーツでも作った方がよっぽど前向きな意見だ。いくら戦場から遠く離れているとはいえパイロットの訓練には実際にモビルスーツを使用する事だし、消耗部品は有り余るほどストックしても困る事はない。実際にそれだけの数のジオンのモビルスーツが連邦軍の基地では未だに稼働中なのだから。
 それに今宇宙で稼働している機体がジムシリーズばかりかと言うとそうでもない。偵察や斥候、後方支援の部隊には未だに使い潰しの利くジオンの物が使われていると言う話だ。ならばこの機体は地上に置いておくよりもルナツーか月へと持っていくのが妥当だろう。アナハイムにでも一声かければ中身の機械をそっくりそのまま取り替えて、少なくとも動くだけの機体には仕上げる事が出来るかもしれない。
 それともう一つ。
 なぜジャブローはこの機体をアナハイムとの取引材料に使わなかったのだろうか? 連邦に対する裏切り行為がオサリバン専務の独断専行による物だけだったと言うのではなくそれ以前の一年戦争の頃から会社ぐるみで行われていた可能性があると言うのならば、この機体は彼らに対する脅しに使える。GPシリーズのデータ抹消だけで責を逃れたアナハイムが保っている今の立場 ―― 公正な取引を順守する一民間企業と言う立場を撤廃して軍に隷属するだけの企業へと貶める事も出来るはず。

 ありとあらゆる可能性を潜り抜けてここに立つドムもどきのこの機体に纏わる秘密、自分達の立場にも似たその立ち位置にニナはそこはかとない不気味さを感じた。
 得体の知れない恐怖は彼女の目をそっと周囲へと運ばせる。コックピットフレームはガンダム一号機よりも狭く、モニターは若干小さい。一年戦争当時のジオンを色濃く表す景色の向こうで真っ赤に塗られた肩アーマーが真上に跳ね上がって肩関節内の駆動モーターを露出している。
「おとぎ話の主人公 ―― そうね、さしずめ『眠れる森の美女』とでも言ったらいいのかしら。魔法を解いてみないと正体も分からない、さてこのお姫様の目を覚ます事の出来る王子様はどこに? 」
「動かなくなった年代物の機械は斜め45度からぶっ叩くってのが昔っからの知恵だけど? 」
「乱暴だわ」
 微かな悪寒を胸の底へと仕舞い込みながらニナはシートから腰を離した。ニナの動きに先んじてモウラがバケットへと飛び移り、ん、と言いながら手を差し出す。伸ばされたその手をそっと掴みながら、ほんの少し動きを止めた。
「? どした? なんか気になる事でも? 」
 少し驚いたモウラがニナの顔をまじまじと見る。ミラーレンズによって最も心を映し出す蒼い瞳が隠れているとはいえ、体からにじみ出る戸惑いは隠せない。僅かなためらいの後、ニナは遠慮がちに尋ねた。
「今日は、アデリアは …… 来てないの? 」
 なんだ、そんな事かとモウラはニナの手を引っ張るとバケットの中へと誘った。確かに乗り込んだ事を確認すると眼下の整備士に合図を送りながら昇降パネルのボタンを押しこむ。
「今朝がた来た ―― っつってもマークスだけど、奴ら昨日のお詫びに皆の買出しを引き受けてくれるんだと。整備班全員の買出しリスト持ってサリナスに向かったよ。今頃はもう着いてるんじゃないかな? …… あの子がどうかした? 」
「ううん、何でもない。ここに来てないのなら、それでもいい」
 ニナがモウラと肩を並べて近づいてくるハンガーの床を眺める。何気なくニナの横顔へと目をやったモウラはサングラスの奥に隠れていたその目を見て唖然とした。腫れぼったくなった瞼から覗く充血した眼、まるで今し方まで泣きはらした様なニナの目を見つけたモウラが思わず息を呑んで呟いた。
「ニナ、あんた ―― 」
 はっとしたニナが慌ててモウラの視界から横顔を逸らした。金のうなじだけをモウラに向けて、しかし肩にかかった豊かな髪はまるで何かを恐れているかのように小刻みに震えている。その仕草を見ただけでモウラは自分が今彼女に聞いてはいけない事を聞いてしまったのだと悟った。ここで今彼女にその目の理由を問いただしたらどう答えるのだろう、正直にその理由を話してくれるだろうか。
「 …… やっぱ、いい。何でもない」
 否。彼女はやっぱり何も話してはくれないだろう。彼女自身のことで私に打ち明けてくれたのはコウとの間で起こったアイランド・イーズでの出来事だけ、その後に起こった二人の間での諍いや出来事については自分に知っている以上の事を彼女の口から聞きだす事は出来なかった。たぶんそれはこれからも、ずっと。
 聞かない方がいい事もある、キース、これでいいんだろう?
 震えを止めたニナが肩の力を抜いてゆっくりと振り向く、何事もなかったようにニッと笑うモウラに向かってニナは遠慮がちだが、しかし心からの感謝を込めて困った様な笑顔を浮かべた。

                                *                                *                                *

「 ―― で、それがお前の罪滅ぼしって訳か? 」
 ショッピングセンターに併設されるカフェのデッキでマークスがしみじみと言った。日差しを遮るタープの無い席の向こう側に置かれた二台のカートは会計済みの商品が無造作に、しかも崩れ落ちんばかりに積み上げられている。過積載も甚だしい二台のカートの持ち主は青銅製のテーブルの対岸に分かれてお互いのオーダーに喉を潤している最中だった。
「全く、こんな事になるんだったら最初からあんな事言わなきゃいいのに、お前ってほんと不器用 ―― 」
「言われなくったって分かってるわよぉ」
 テーブルに突っ伏したアデリアの栗色の髪が日差しに揺れる、ティファニーのアビエイターで隠した藍色の目が充血して腫れている事は待ち合わせの時に分かった。薄いニットに白のサマーセーター、デニム地のショートパンツにサンダルと言う出で立ちは恐らくこの近辺に通り縋る男性諸氏の視線を引き付ける事は間違いなく、実際彼女が何者かを知ろうとする野次馬が遠巻きに二人を眺めている視線は常にマークスも意識している。
 だが今目の前で反省しきりの声を上げるアデリアは、恐ろしい二つ名を持つモビルスーツ乗りでもなければどこかのグラビアを飾るモデルはだしの美少女でもない。有り金全部をドッグレースの一点買いにつっ込んで呆気なく敗れ去った挙句、帰宅する電車代をどうしようかと悩む賭博初心者の負け組に見えるのは気のせいか。
「大体、整備班の買出しとニナさんへのお土産が同じ量ってのはどういう事だ? それにその包み ―― 」
 マークスがちらりとカートへと視線を送る、二手に分かれたマークスがアデリアと合流してみると既に彼女のカートは自分の物と同じ位満杯になっていた。いくら地の果てに押し込まれて世情に疎く、そう言う物に全く興味のないマークスでも専門店街を一回りした後のそれがどういう意味かと言う事くらいは分かる。
「 ―― よく分からないけど全部ブランド品だろ? 一体どれだけ使ったんだ? そんなに給料貰ってないぞ、賞与だってまだだし」
「 …… 貯金全部、カードも限度額いっぱい」
 マークスが大きな溜息をついた。恐らくその貯金の中にはチェンに貰った出演料も含まれているに違いない、足を紐で結ばずに断崖絶壁から飛び降りた彼女の行動を咎める様に言った。
「そんなに落ち込むんならいっその事謝っちゃえばいいじゃないか。『昨日はごめんなさい、私が言い過ぎました』って。ちゃんと頭を下げて謝ればニナさんもきっと許してくれるさ、ニナさんだってそうしたくて今頃アデリアの事探してるんじゃ ―― 」
「 …… 絶対やだ。だってあたし間違ってないもん」
 じゃあそのカートの山は一体なんなんだ、と心の中で問いかけながらマークスはアデリアの強情さに舌を巻いた。こうなると彼女がてこでも動かないと言う事をマークスはよく知っている、交渉が無駄別れに終わった彼はやれやれと言った風情で言った。
「分かった、じゃあもうこの話は終わりだ。そのかわりお前がニナさんに買ったそのプレゼントの山はお前が直に渡すんだぞ、それくらいはやらなきゃ」
「ええっ!? 」
 突然ガバッと上体を起こしたアデリアが驚きの声を上げた。当てが外れたと言う思いをあからさまにした表情が見る間に情けない顔へと取って代わり、顔の前で結んだ両手の影から彼女の物とは思えないほど情けない声が零れ出た。
「いや、それあたし無理っ。マークス代わりに渡しに行ってよ。 …… ねっ、ほんとお願い、何でも言う事聞くから」
「ば、ばかっ、周りの人がびっくりするからそんな言い方止めろっ。俺だってニナさんの所に行くのは気まずいんだから」
「 ―― なんで? 」
「 ―― って」
 その目が一番始末に負えない、真っ直ぐに向けて来るその瞳にいつも吸い込まれそうになる。マークスはまるで自分が事件の容疑者になったような気分で思わず視線を逸らした。何も言わずにじっと見つめて来るアデリアの好奇の視線に遂に耐えられなくなったマークスは、恐る恐る白状した。
「その、俺もニナさんが間違ってるって、つい言っちゃったんだよ」

 信じらンない、という文字を大きく顔に掻きこんだアデリアが彫像のように固まったまま動かない。マークスには分かっていた、アデリアが自分に何らかのフォローを期待していたのだと言う事を。そしてこれから彼女の口から発せられる言葉の一部始終も想像出来る、覚悟を決める為にぬるくなったアイスコーヒーをズズッと啜りながらマークスはそのファンファーレを待つ。
「馬、っ鹿、じゃないのあんたはっ! なんであんたがあたしの援護射撃に出てんのよっ!? 」ほら来た。
「ちょっと待った、お前の論理はおかしい。お前自分で今間違ってないって言ったじゃないか、それを俺が支援してなんの不都合があるんだ? と言うかなんで俺がお前に怒られなきゃ ―― 」
「怒るに決まってンじゃんっ! あんたまでニナさんを責めたらニナさんが可哀そうでしょ!? あんなに泣いてる人に慰めの言葉もかけらンないって、あんたはどうしてそうデリカシーがないのよ!? 」
 うわあ、と。こいつ自分のやった事を棚上げして俺の性格を責める方向に転嫁してきやがった。ていうかもう無茶苦茶だ。
「俺がそんな物を持ち合わせてないって言うのはお前が一番よく知ってるだろう。それに俺もニナさんが間違ってるって思ったからそう言ったんだ、それのどこが間違ってる? 」
「間違ってるわよっ! ま、間違ってないけどなんかどっかが間違ってンのよ、根本的に本質的にッ、そ、その、りっ、理屈じゃないのよこう言う事は、そンくらいの事とっとと分かンなさいよっ! 」
 男の顔に指を突き付けながらゼイゼイと息を荒げて怒鳴る美少女の姿は間違いなく周囲の注視を浴びる、何事かと成り行きを見守る観客へとちらりと視線を流したマークスはハア、と溜息をついた。
「分かった分かった、じゃあ俺は今晩ニナさんが間違ってるって言った事について謝りに行く。 ―― で、お前はどうするんだ? 」
「んなっ!? 」
 話の流れとしてはこうなる。見事にマークスの誘導尋問にハマったアデリアが声を詰まらせてのけぞる。視線だけで答えを促そうとするマークスの前でアデリアは栗色の髪を掻きむしりながらテーブルの上へと突っ伏した。思い悩むと言うにはあまりにも過激な仕草に少し驚きながら、しかしマークスはアイスコーヒーを片手にじっとアデリアの返事を待つ。
「 …… やっぱ、やだ」
 ぽつりと洩れたその声にマークスはやれやれと言う表情を浮かべた。さすがベルファストの鬼姫、強情さも筋金入りか。

「 …… ありがとね」
 アデリアを見守っていたマークスがその言葉を聞いたのは生温かいアイスコーヒーが彼の喉を通っていよいよもう飲むのを止めようかと思案している最中だった。驚きのあまりむせそうになったマークスが慌てて咳払いをして、まじまじと動かないままの声の主の頭を見つめる。
「とりあえず、あたしの事を庇ってくれた礼だけは言っとくわ。ついでと言っちゃあなんだけど ―― 」
 マークスの視界の中ですっと顔を上げたアデリアから苦悶の表情は影を潜めて、代わりに笑顔が灯っている。コロコロと変わる彼女の表情と状況の変化に戸惑うマークスの前で彼女はパンツのバックポケットから小さな箱を抜き出すと、それをそっとマークスの前へと押しやった。
「はい、これ」
「? 俺にか? 」
 怪訝な目で丁寧なラッピングが施されたその箱を見つめるマークスにアデリアの無言の強烈な圧力が掛かる。促されるままに手にとって丁寧に包みを開けた彼の前に姿を現したのは、今巷で流行りのオープンイヤー型小型携帯電話だった。世情に疎いと自他共に認めるマークスはそれを掌に載せてじっと眺めたままアデリアに尋ねた。
「なんだ、これ? 」
「って、携帯電話。見た事無いの? 」
「へえ、これが …… すごいな、こんなに小さくなってるんだ」
「マジで? 」

 実家への連絡は基地からの衛星電話で間に合うし基地の外に親しく付き合う友人もそれほど多くはない、もっとも他の基地で友人を作れるくらい器用な人間だったらオークリーにまで飛ばされる事はなかっただろう。掌の上にある小さな機械をまるで珍しい昆虫でも扱うかの様に指で突きながらマークスは感慨の面持ちで見つめている。
「今時携帯持ってないってどうなの? それじゃあ基地から緊急連絡があった時に捕まンないじゃないの」
「いや、携帯は持ってるさ。ただどうも最近調子が悪くて電波が入り辛いんだ」
 マークスがごそごそと胸ポケットへと手を差し込んで自分の携帯を取り出す、細長い箱型の正体を確かめたアデリアが目を丸くしてそれをしげしげと眺めた。
「 ―― 一体、何年物? 」
 彼女にもその形状の携帯が出回っていた時期が思い出せない、どこの会社の物かも判別不明な ―― そんな物はとっくに擦り消えている ―― 彼の携帯を手に取ったアデリアは小さな液晶の窓をじっと見つめた。マークスと共に肩を寄せ合って一緒に映っている優しそうな夫婦と小さな女の子、アデリアにとっては初めて見る彼の家族の姿だった。
「俺がジュニアスクールに上がる前に買ってもらったモンだからもう十年くらいか、だからその写真も十年前のものさ。親父とお袋はもっと老けてるし、妹はもう18歳だ。それとは全然違うよ」
「ふーん、妹、いるんだ」
 興味深々でマークスの携帯に見入っていたアデリアはそう呟くと意味深な笑顔でそれをそっとテーブルの上へと置いた。妹がいた事を自分はつい最近アデリアに言わなかったか、と考えを巡らすマークスは彼女の表情をうっかり見逃してしまった。
「ま、これはこれで大事にとっとけば? せっかくあたしが買って来たんだから今日からマークスはあたしの携帯を使う事、もうあたしの番号はそこに入れてあるから」
「い、いやそれはいいよ。だってこれはまだ使えるんだし ―― 」
「いい? 携帯ってのは繋がって初めて使えるって言えるの、あんたのはもう繋がンないんだから使えないも同然。大丈夫、データはチェンに頼んで吸い出しといて貰うから安心して使いなさい」
 畳み込まれて逃げ場を失ったマークスがテーブルの上に置かれたままの自分の携帯を元にしまってから新しい携帯を手に取った。一しきり眺めてから彼はアデリアにぽつりと尋ねた。
「 …… お前、ニナさんの物だけ買いに行ったんじゃなかったっけ? 」

 しまったと言う台詞を顔中に張り付けたアデリアが顔色を悟られない様にそっぽを向く、今日の本当の目的はニナへのお土産よりもマークスの携帯を買う事だったのだ。思わぬ所から綻びを生じた戦略に心の中で苦虫を噛みつぶしながら、それでも一向に整わない心臓の動悸を必死に抑え込もうと試みる。
「な、なに勘違いしてんのよっ! そっそれはアレよ、昨日ニナさんとああいう事があってマークスにも迷惑をかけたからほんのお礼よ、あんたの思ってる様な事なんてなんにもないわよっ! 」
「お? おお …… それにお礼なんていらないよ、この前の罰ゲームでお前を巻き込んだのは俺だし。 …… で、いくらだった? 」
 全く空気を読めないマークスの行動はアデリアのいら立ちを募らせる、ポケットに手を突っ込んで自分の財布を取り出そうとする彼に向かってアデリアは猛然と一喝した。
「ばかっ! そんなのこっちがいらないわよっ! いいからさっさと受け取って! 」
 ものすごい彼女の剣幕に驚きながらマークスはしぶしぶとそのプレゼントを自分の携帯と同じポケットへと押し込む。やっとの思いで今日の自分の第一目標を制覇したアデリアはやっと肩の荷が下りた様に、しかし思いっきり嫌みな笑いを浮かべた。
「そう、それでいいのよ。今度あたしとここに来るまでにあんたはそれの使い方を完全にマスターする事、今日みたいに待ち合わせ場所を決めて時間になったら落ち合うなんて最悪、気になって買い物に集中できないから。それと ―― 」
 品定めをするようにマークスの出で立ちを頭の天辺からつま先まで視線を運んだアデリアが、今度は何だと怪訝な表情を浮かべたマークスに今日一番気になっている事を尋ねた。
「今度は私服で来なさいよ。何でたまの非番の日にあんたは制服なんて着てる訳? 」
「連邦軍人だから」
「周りから浮いてるって自分で気がつかない? てか一緒にいるあたしがこんな服着てんのに何であんたがそうなのよ」
「それは逆だよ、俺が私服を着たらこんなもんじゃ済まない。服なんて学校を卒業してから一回しか買った事がないしな。…… アデリアはどうしても俺の禁断のコーディネイトが見たいのか? 」
「 …… 分かった。じゃあマークスは人前に出られる様な私服が一着も無いって事で、OK? 」
 やっぱり口じゃ敵わない、とアデリアは早々に攻撃方針を変える事を決意した。戦略目標を鎮圧する為には先ず敵に対して最も有効な戦術を採用すべし。戦史の時間に習ったその言葉をアデリアは教科書通りに忠実に再現する事に決めた。
 口で敵わないなら、実力行使あるのみ。
「じゃあ、今度はマークスが貯金をはたく番ね。今度の一緒の休みはここへマークスの私服を買いに来るのよ、いいわね? 」

 突然の提案、しかも今度は自分を巻き込んでの浪費への ―― 必要じゃない物を買う必要なんてない ―― お誘いにマークスは慌てた。一度手に取ったコーヒーのカップを元に戻すと彼女の申し立てに異議を唱えた。
「よくない、ちっとも良くない。服なんか官給品で十分だよ。それに俺の見た目はアデリアが一番分かってるだろ? これに似合う服なんて ―― 」
「だーいじょうぶ、大丈夫。あたしに任せときなさいって。マークスの髪と目にぴったりの服をあたしがこれ以上無いほど完っ壁に合わせてあげるから。黙って立ってりゃかっこいいんだからマークスは大人しくモデルになってればいいの」
 まるで聞く耳を持たない彼女に向かってぐうの音も出ないマークス、更に何かを言いたげな彼を置き去りにして徐に立ち上がったアデリアは、そそくさとテーブルの上に乗せられたままの飲み物をマークスの分まで片付け始めた。
「お、おいアデリア、それまだ途中 ―― 」
「どうせぬるくて不味いんでしょ? 顔に書いてあるわよ。それにそうと決まったらこんな所でぼーっとしてる場合じゃないわ、とりあえず下見がてらあちこち見て回んないとね。―― マークスは荷物をバンに置いて来て、あたしはここを片付けとくから」
「ええっ? お前、まだ行くのか? 」
 これ以上何を買うんだと驚いたマークスの目の前でアデリアの動きが止まる、トレーにマークスのアイスコーヒーを置いたかと思うといきなり右手でL字を作って“バーン”といいながら肘を折った。掲げた腕の陰から僅かに顔を覘かせる美少女が長い髪を風に靡かせ、小さくウインクをしながら楽しそうに言い放つ。
「あんたも、来るのよ」

「なるほど、よく目立つ」
 男は部屋の窓から双眼鏡でサリナスの風景にひときわ目立つ二人の姿を目で追いながら呟いた。背後でテーブルの上に並べられた個人装備を点検する三人は既にその顔を頭へと焼きつけている、銃身を短く切ったライアットガンに弾を押しこんでいる男が窓から離れたソファでじっくりと腰を落ち着けているラース1に尋ねた。
「しかし大丈夫でしょうか、我々だけで。確かに情報収集には慣れない現地に向かって基地を調べるよりも拉致して尋問した方が手っ取り早いとは思いますが」
「相手は丸腰だぜ? とっ捕まえるのなんてニワトリ縊るより簡単さ。それよりどうやってあの二人を回りに気付かれない様にさらうかの方が問題だ、そんな訓練モビルスーツの教導過程のどこにもないからな」
「 ―― 青写真を」
 容易く言い放ったもう一人の男を嗜めるようにラース1は短く言い放つと窓際に立つ男に声をかけた、双眼鏡を降ろした男は足早にブリーフケースを開けると小さなラップトップを取り出して起動する。画面に映し出されたのはラース1が分隊指揮官権限で本部から取り寄せたサリナスのショッピングセンターの全体設計図だった。
「やつらがもう一度建物に入ったら各員は打ち合わせの通りに騒ぎを起こせ。俺とタリホー1はその間に地下三階にある中央監視室を占拠して貴様らの到着を待つ」
 ライアットガンの弾込めを終えた男が小さく頷く、ラース1は全員の意思の疎通を確認するとゆっくりとソファから立ち上がって窓際へと歩み寄った。男が残した双眼鏡を手にとって再び外界の景色を眺めるその背中に誰かが呟く。
「しかし彼らがまた建物に戻らなかった場合は? 見た所二人のカートは満杯ですし、どうやら帰り支度をしている様にも見えます」
「入るさ、入らない筈がない」
 そう言うとラース1の目は楽しそうな笑顔を浮かべてそそくさとテーブルを片づけているアデリアを追った。綻ぶ口元から覗く真っ赤な舌がぬらぬらと蠢く。
「そういうシナリオが必ず出来上がっているんだ、用意されている筈だ。俺と奴との出会いが必然だと言うのならば」
 昼天の日差しを受けて浮かび上がる妖しい嗤い顔に張り付いたままの狂喜、瞑い双眸に点った黒い炎は彼の中で昂る感情と共に大きく燃え上がる。ラース1は誰にもわからないある種の確信を持って、仮初めの平和な未来を謳歌し続ける彼女を射殺さんばかりに睨みつけたままだった。



[32711] Salinas
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/06/05 20:31
 別にしたくてこう言う事をしてるんじゃない、とアデリアは自分の背後を通り過ぎながらひそひそと話す女の声に心の中で毒づいた。確かに男物の服を扱う店の試着室に頭だけ突っ込んで中を窺う女なんて、色魔か安っぽい倫理観しか持ち合わせない水商売の女くらいの物だろう。自分が最も毛嫌いする人種と同じ所業を選択しなければならなかった事の顛末にアデリアはほんの少しの誇らしさと、それを補って余りある面倒臭さに大きな溜息をついた。
「な、なんだよアデリア、そんなにこの服おかしいか? 」
「 …… 別にィ ―― ああ、よく似合ってていいんじゃない? 」
「なんだよ、何そんなにプンスカしてるんだよ?」
 なれない服を押しつけられてやっとの思いで着つけたマークスは仏頂面のアデリアに向かって不満を述べた。お前の方から誘ったんだぞ、と無言で憤慨するマークスを尻目にアデリアはじろりと頭の先から爪先まで一瞥する。別に似合ってない訳ではない、逆だ。似合いすぎてるのだ。それも自分の選んだ服のことごとくが、どいつもこいつも。
 マークスの容姿はことファッション界と言う畑違いの世界では絶対に通用するとアデリアは常々思っていた。プラチナの様に輝く銀色の髪や神秘的な両目は彼自身の思惑はともかく神から与えられた唯一の物だ、生まれながらにしてその『特異点』と苦楽を共にして来た彼はいつしかその欠陥を自分の生きざまに取り込んで、確固たる存在感を築き上げた。彼を見てその形を見習おうとしてもそれは必ず『偽物フェイク』として扱われてしまうだろう、本物との差はそれほどまでに激しいのだ。
 だが当人も知らぬ間に封印され続けてきたその兵装の破壊力はアデリアの想像を絶する物だった。一件目の店で彼の出で立ちに痺れたアデリアは迂闊にも試着室のカーテンを開いてマークスの姿を衆目の面前へと晒してしまった、それがどういう結果を巻き起こす事になるかなど想像もせずに。
 突如としてサリナスに降臨した異界の麗人は男性物を取り扱う店舗に僅かながら居合わせたカップルの ―― 特に女性の目をあっという間に惹きつけて、その噂はあっという間に界隈の女性の耳へと伝播した。砕ける波頭の様に押し寄せて来る女性の波に向かってダックダイブの如くすり抜けた二人はほうほうの体で一件目を後にした、もう今日の所は、というか暫くの間あの店は使えない。
「チッ、せっかく目をつけてたのに」
 お気に入りの店を自分の不注意で出禁にしてしまったアデリアがマークスの事などお構いなしに毒づいた。ブランドとは関係なしに男性物の洋服を色々なジャンルで、それもセンス良く取り扱ってる店はあの店がピカ一だった。無論これだけ広大なショッピングセンターならば他にも様々な店があるがどうしても何かが欠けてしまう、普段から効率を重視するアデリアにとってそれは徒労と言うに等しい物だ。
「 …… にしてもこの服窮屈だな、これじゃなんかあった時に体が動かないだろう。男の普段着なんだからもっと機能性を重視してだな ―― 」
 アデリアとは別の部分で不平を言うマークスは姿見に見慣れない自分の姿を映しながらぶつぶつと呟く。
「似合ってるんだからいいじゃない。それに最近の服ってみんなそんな物よ、出来るだけ体のシルエットを強調出来るようにタイトな作りになってンの。今時軍の服みたいな機能一辺倒のデザイン無視的な奴なんてコロンビアかノースフェイスアウトドアショップにしか売ってないわ」
「なんだ、それを早く行ってくれよ。じゃあそこに行こうぜ、こういうのはどうも俺には ―― 」
「却下、それじゃお金にならない」
「 …… なに言ってんだ、お前? 」
「あんたの普段着なんて買う気ないわよ? あたしが ―― いやあんたが買うのは外出する時に着る服なんだから、それなりの物を選ばなくっちゃ。それにその先もちゃんと考えてあンのよ」
 確かにマークスの私服を選ぶ事が目的ではあるのだが、この先コレクションを増やして行く為に必要なマークスの実弾が心許ないのは自分の給料明細から推測しても明らかだし、ご自慢の貯蓄などたかが知れている。吹けば飛ぶような残高の預金たくわえにしがみ付くよりも現実の資産を活用してこの先の運用資金を確保していくプロセスを構築する為にも最初に購入する服は慎重に選ばなくてはならない。
 それにアデリアが自分のへそくりを作る為の根城に定めたチェンの販売網は伊達じゃない。生写真の売り上げは勿論の事、彼女達が身に着けている服を購入する為にクリックされるアフィリエイト広告はその売り上げに応じて服飾メーカーから巨額の還付金をチェンに齎してその一部がモデルの下に入ってくる。チェンが立ち上げた合法的なネットビジネスの仕組みを知っている以上、アデリアが偶然手に入れた金の卵に最初に施す装飾について神経質になるのは当然の事だった。
 アデリアに説得されても一体何が何だか理解出来ないマークスがしぶしぶと自分の姿をしかめっ面で舐め上げる、誰の手にも触れた事のない原石が持つにはあまりにも大きくて派手な素養に、アデリアは不公平と言う名の運命を信じてしまいそうになる。
 世の中で『モデル』と持て囃される人種が陰でどれだけ苦労をしてその体型や容姿を保ち続けているかと言う事をアデリアは色々なファッション雑誌の記事を読んで知っている、ましてや目の前の男はそんな世界の対極に位置する『軍』と言う名の異次元に居を構える名も無き一兵士に過ぎない。確かに軍人と言う物が自分の肉体を財産とする以上常に鍛え上げられていなければならないのは当たり前 ―― それは自分についても同じ事が言える。アデリア自身も自分の体型を維持する為に特段の努力をしている訳ではない ―― なのだが、自分の審美眼に絶対の自信を持つアデリアが思わず畏怖の念を持ってしまうほど、マークスのモデルとしての資質は群を抜いている様に思う。彼が今まで差別され続けていたのはその容姿が不気味だからなのではなく、ひょっとしたら自分が初めてマークスと出会った時に感じた通り、余りの美しさに嫉妬してしまったのが本当の理由なんじゃないのかと思わず考え込んでしまうほどだ。
「ほんとにそれが理由だったとしてもあたしは驚かないかもね、あの店の騒ぎを考えれば …… それにしてもなんでこんな男に今まで言い寄る女の子が誰もいなかったんだろう? 」
「何の話だ? 言い寄る …… 何だって? 」
 思わず口を突いて出た一人ごとを聞かれたアデリアが慌てて首を引っ込めてカーテンを閉じる、背中をカーテンへと向けておどおどしながら試着室の中に一人残されたマークスに言った。
「あ、あんたには関係ない。そ、それよりこの店はもういいから次の店に行くわよ。だから早く着替えて」
「お、おいまだ行くのか? もういい加減にしないと基地に着く頃には日が暮れちまうぞ? 」
「もう一軒だけ、あそこにはもっとクダけた感じの服が置いてあるからそれも見てみたいのよ。その方があたしも服を合わせやすいし ―― 」
「お前と服を合わせるって ―― おい、まさか」
 まるで何かに思い当たったかのようなマークスの声がきぬ擦れの音と共にカーテンの奥から聞こえる、声音の変化を不審に思ったアデリアがチラリと肩越しに視線を向けた時、マークスの訝しい声が聞えた。
「 ―― お前、まさか俺にコスプレさせて一緒に儲けようって言うんじゃないだろうな? 」

 ―― んだとぉ、ごるぁっ! ―― 

「ちょぉっと、待っちなさいよマークスっ! 」
 いきり立ったアデリアが頭の天辺から湯気を吹きあげて試着室のカーテンへと手をかけると続けざまに力いっぱい開け放った。下着のまま手にしたズボンに足を通しかけたマークスが驚きの表情を向けたまま凍りついて何事が起きたのかと目を丸くする、怒り心頭のアデリアは仁王立ちで腰に両手を当てて、出せる限りの大声で一気に捲し立てた。
「人の事、マニアか守銭奴見たく言わないでくれるっ!? あたしだって好き好んであんな格好したんじゃないわよ、心臓病の子供の移植手術にいっぱいお金がいるから、やだけどいっちばん売れそうな格好をしたのよ! 嘘だと思うんならチェンに聞いてみなさいよ ―― 」
「わ、悪い、アデリア。俺が悪かった、今の発言は心から謝る、謝るから ―― 」
「謝るから、何っ!? 」
「 ―― カーテン、閉めてくれ」
 困惑しきったマークスの呟きで初めて自分の仕出かした事の大きさに気がついたアデリアが恐る恐る背後へと目を向ける、彼女の視界の中に再び映り込んだ一件目と同じ現象はデジャブとなってその先行きを預言した。あっという間に沖へと広がるひそひそ声のさざ波はもう彼女の力ではどうする事も出来ない。
「わ、わかったっ。ごめんマークス、ゴメンだから早く着替えてっ、このまンまじゃまたさっきとおンなじ目に遭っちゃうかも」
 後ろ手にカーテンを閉めて蒼くなったアデリアが周囲を威嚇する様に鋭い視線を向けて牽制する、しかしもう手遅れだと言う事だけははっきりとわかった。好奇の目と羨望の眼差しを湛えた大勢の女性達が ―― 老若を問わず。ところでなんでそんなちっこい子供まで? ―― じりじりと試着室までの距離を縮めて来る、アデリアは自分がまるで大昔にはやったホラーゲームの主人公の立場に立たされたような気がした。

 今ほどモビルスーツ乗りであった事に感謝した事はない。迷路の様に入り組む通路を何本も渡り歩いて体力任せに追手を振り切る、二人はとある街区の片隅にある本屋へと駆けこむとそのまま一気に裏口へと抜け、脇にある細い路地へと身を隠すとそっと自分達の後を覗き見た。人ごみの波に何の変化も現れない所を見ると恐らく追跡者たちは諦めたのか分散したのか、どうやら撒いた事を確認したアデリアが大きな安堵の溜息をついた。
「も、もうここまでくれば大丈夫ね。 …… 全くひどい目に遭ったわ」
「ま、全くだ。服を一着買うのがこんなに大変だとは思わなかった、お前毎回こんな思いして服選んでるのか? 」
「ンな訳ないでしょう、今日のこの騒ぎは基本的にマークス、あんたのせいだかンね。大体あんたがそんな ―― 」
 その先をアデリアは危うい所で押し留めた。彼の見た目が引き起こした騒動だがそれを彼は誇りには思ってはいない、むしろ自分や周囲の人々を苦しめ続けた元凶として忌み嫌っている筈なのだ。そんな事を理由にしていい訳がない。
「 ―― ぼさっとして隙だらけだからこんな事になンのよ。分かったらもうちょっとビシッとしなさい」
「 …… ん、ああ ―― 」
「 ―― おい」
 高圧的な態度で指をさすアデリアに対してマークスはどこか上の空で相対している。余りの反応の薄さに苛立ったアデリアがもう一度同じ事を言い聞かせようとした時、突然機先を制したマークスが呟いた。
「なんだ、この匂い。 …… 焦げ臭い」
 周囲をきょろきょろと見回すマークスの姿に、自分の主張を通す事を諦めたアデリアが諦め交じりの溜息で答える。だがその息を再び鼻孔へと取り入れた時に彼の言葉が間違っていない事に気付いた。
「 …… ほんと。なんだろ? 食べ物の匂いじゃない」
「だよな。なんか紙か布の燃える臭い ―― なんじゃないか、これ? 」
 その時には臭いは意識をしなくてもはっきりと分かる様になっていた。香ばしい臭いではない何か、それは心のどこかで危機意識を呼び覚ます引き金の様に感じる。出所を確かめようと臭いに導かれて顔を上げたアデリアは視線の先に見つけた天井の空調ダクトにじっと目を凝らす。その途端に朦朦たる白煙が猛然と噴出してあっという間にその辺りの天井全体を雲の如くに埋め尽くした。
「火事だわっ! 」
 二人の顔色が一瞬にして変わった。まるで覆いかぶさる様に弾ける警報音が一瞬にして彼らの休日を戦場へと導いた。

「 ” 状況終了、現在リネン室の延焼を確認 ” 」
 イヤホンから報告を受け取ったラース1は無表情に目の前のモニターへと視線を向けた。乾燥した化繊はよく燃える、ましてやカリフォルニアのこの気候だ。乾いた空気は火が燃え広がるのには絶好の環境と言えた。
 そして騒ぎを起こすにはいささか陳腐な手段ではあるがラース1が選択した『放火』と言う手段は人の心に一番手っ取り早く恐怖を齎す事を知っている。燃え盛る炎の前にはどんな屈強な兵士でさえも訓練ではどうしようもない怯えを感じる、人を人類の盟主へと押し上げたその発見はそれと同時に人の心にそれが自分達の手に余る物理現象だと言う事をDNAに刷り込まれているのだ。
「ご指示の通りに非常排煙を停止、煙は全て館内へと流れ込む筈ですが ―― しかしこれでは」
「これが平和の齎した罪の姿だ」
 タリホー1の声を遮ったラース1の声はとても低く、そして身の毛もよだつほどの冷たさを纏っていた。サリナスの気候とは正反対のその温度が彼の背筋に寒気を走らせる。
「惰眠を貪り続けた彼らには最早危機に対して立ち向かうと言う気概すらない、まだ戦争はこの宇宙の最前線で続けられていると言うのにな。 …… 覚えておけ、俺や貴様の仲間や友人はこいつらを守る為に死んだ」
 無秩序に逃げ惑ういくつかの小さな集団が寄り集まって細菌のコロニーの様に次々と領土を広げる、満たされた煙が彼らから逃げ道への案内を見失わせて更なる混乱を呼び起こす。今や人々はパニックと言う二次災害を引き起こす為の要因として自分達の生存の確率を狭めつつあった。人の動きの異常を追いかけて移動を繰り返す監視カメラはその範囲の広さにフォローしきれず、目が痛くなるほどの明滅を繰り返す。
「ほんの少し冷静になれば気がつくだろう、消火装置が ―― スプリンクラーすら作動していない事に。だがそんな些細な異常にも気付かない、ただ自分の命の心配だけをして他人を省みる事無く無様なままで生き延びようとする …… 何と滑稽な」
「滑稽、ですか? 」
「俺達は神ではないが、もしここにそんな奴がいて俺達と同じ光景を目にしたならばきっとこう思うだろう。人間と言うのは何と愚かしい、独り善がりな生き物である事かと、な」
 吐き捨てられる言葉には人々に対する侮蔑が、しかしその表情には満面の愉悦がある。歪なラース1の感情を推し量る事が出来ずにタリホー1はそれ以上踏み込んだ質問が出来ない、彼の顔に浮かんだ戸惑いを悪魔の笑みで迎えた彼はその疑問を推し量る様に答えた。
「そうだ、俺は彼らに感謝しているんだよ。彼らの存在なくして標的を捕える事は出来ない、ここで俺が彼らに出会うと言う事は『あの』日から神によって仕組まれた宿命だったのだ」
 ラース1はそう言うとタリホー1に無線のスイッチを入れる様に視線で促した。悪魔に魅入られた様な面持ちで従った彼の手からマイクを受け取ると、ラース1は次々に趣を変える壁面全体のモニターを見上げた。
「もうそろそろ何人かの連中は事態の異変に気が付いている筈だ。そして自分達の手でこの混乱を何とかしようとする輩が現れ始める、恐らく火元を探して階下を目指そうとするだろう」
 ぞっとする冷気を湛えるその声音が二人だけの室内へと流れ出す、スイッチを押しこんだラース1は唖然としたまま成り行きを見守るタリホー1の横で嗤いに顔を歪めたまま命令を下した。
「作戦をフェイズ2へと移行、フィルタリングを開始しろ」

 そこに居合わせた誰もが自分の置かれた状況にあの日の混沌を重ね合わせていた筈だ。突然空から舞い降りた災厄、大気を焦がして地上を目指したアイランド・イフィッシュ。平和を塗り替えるには余りにドラスティックで、しかしその日から一年に渡って続く闘争の未来を暗示するには十分過ぎるほどのインパクト。生き残る為に全ての倫理をかなぐり捨てて逃げたと言う罪の意識が、今の状況には全て正当化されて人々の心へと蘇った。
 逃げ惑う弱者を虐げて先へと突き進む強者の群れは一機に非常階段の入口へと押し寄せる、またある集団は生き残っているエレベーターの扉の前で狂った様にボタンを押しながらケージの到着を待っている。どの顔も一様に怯えと狂気を漲らせてあの日と同じ罪を重ねる為にそこに立つ。
「ばか野郎っ! まだ出口に急ぐんじゃない、何が起こるか ―― 」
 マークスの怒声も彼らには役に立たない。幾人かの背を掴んで引き剥がそうとする彼の背中へと新たに襲いかかる正気を無くした人の群れ、砕ける波頭の様に伸びた人の手にマークスが捉えられてしまう寸前にアデリアが彼の身体を引き戻した。すんでの所で奔流を躱す事の出来たマークスに向かってアデリアが捲し立てる。
「バカはあんたよ、一体なにやってんのよっ! そんなことしたってもうあんたの声なんて誰も聞いちゃいないんだから ―― 」
「そうじゃないっ、何か変なんだよアデリア! なんで火災警報が鳴ったままさっきから消火装置が作動しない!? 」
 マークスの指摘にアデリアは目を見張った。確かにそうだ、どんな建物でも人が大勢集まる施設には必ず設置されているスプリンクラーが作動しない。火の手はこの階からは見えないが、それでも消火装置が作動しているのならば煙の色や勢いに何らかの変化が見られる筈だ。だが。
「どういう事? まさか故障 ―― 」
「してたらすぐに消防が駆け付ける、だがその気配すらない。おかしいんだアデリア、これじゃまるで ―― 」
 マークスの言葉が突然発生した深い地響きによって遮られる、はっと顔を上げた二人の前で煙の向きが突然変わる。マークスはとっさにアデリアの手首を掴むと次々に押し寄せる人の波に逆らって一気に走り出た。
「マークスっ!? 」
「あの土台の影にとびこめっ! 」
 階段のすぐ脇に置かれている案内板の柱、内部構造を支える巨大な一本の根元に目がけて言われたとおりにダイブするアデリア。すぐ後に続いてマークスが身体を投げ出した刹那。
 巨大な火柱と爆風がエレベーターシャフトと吹き抜け階段を一瞬にして吹き飛ばした。

 その巨大な油圧式リフトはサリナスショッピングモールの一番の目玉だった。巨大なカートごと何十人と言う客を思い思いの階へと搬送する事の出来るエレベーター、モビルスーツ用に開発された技術を一般に転用した新たな試みは今日の今この瞬間まで人々の為に役立てられていた。
 だが今はそれが仇となる。巨大な扉はシャフトを駆けあがって来た爆風によって引き千切られ、それはその前へと集まっていた人間の群れを草の様にいとも容易く刈り取った。寸断される肉体が阿鼻叫喚と共にばら撒かれて次の瞬間には物と化す、悲鳴は呻きに、呻きは沈黙へと移り変わって最後に金属が奏でる轟音と共に消滅する。
 そこへと辿り着けずに運良く難を逃れたと思われた弱者にも災難は相応の報いを用意している、吹き出した爆風が周囲に置かれた什器を持ち上げて辺り一面へと見境なしに放り投げた。軽重を問わずに叩きつけられる鉄製の凶器になぎ倒され、押しつぶされる人々。広がっていく新たなうめき声に耳を塞いだアデリアが何かに抗うように大きな声で叫んだ。
「こんなの、こんなのってないっ! なんでみんなこんな目に、さっきまであんなに楽しそうだったみんながなんでっ! 」
 それに応えるかのように二人の隠れた柱に什器の一つが叩きつけられた。ビクッと首をすくめる二人の耳に届く金属の破砕音と破片の雨音、残響する爆音の影でマークスが言った。
「汝、死者にくすしき事跡みわざを現したまわんや、うせにし者立ちて汝をほめたたえんや、神よ、なぜあなたは私を捨てられるのですかエリ・エリ・レマ・サバクタニ。 ―― 神様の子供でもどうにも出来なかった死がこんな世界を作るって言うのか!? 」
 床に向かって吠えたマークスが上体をゆっくりと起こす、背中に降りかかった小さなコンクリートの破片がパラパラと音を立てて周囲へと散らばった。
「冗談じゃないジーザス、誰かがこんな事をしなけりゃ絶対に起こらなかった悲劇と末路だ。俺は絶対に認めないっ! 」

 その光景に呆気に取られているのはマークスやアデリアだけではなかった。被害状況を刻一刻と ―― この場合は災害規模だが ―― 伝えるパネルの前に仁王立ちになったタリホー1はその損害の大きさに唖然としたまま言葉を失った。個人装備として支給されたたった4発の爆薬がまさかこれほどの威力を発揮しようとは夢にも思わなかったのだ。
「モンロー / ノイマン効果。原理としては俺達も作戦でよく使う対装甲榴弾(成型炸薬弾:HEAT)と同じだ。ここのリフトはモビルスーツの搬送用と同じタイプの物で、底部の裏側は落下時の衝撃を最小限に抑える様すり鉢状に作られてある。その頂点に目がけて全ての爆発力が集中する様にC-4を設置すれば、たった一発でもこれだけの効果を得る事が出来る」
 淡々と話すラース1をこれほど恐ろしいと思った事が今の今までタリホー1には無かった。任務の為には一般人を手に欠ける事も厭わないこの男のやり口に嫌悪感よりも恐怖が先に立つ、だがラース1がただのテロリストだと言うのならば自分の正義漢にも火が着いて彼の所業を詰る事も出来るのだろうがそうじゃない。彼は上官によって正式に任命された立派な分隊指揮官なのだ。
「破壊工作など久しぶりで本当は心配だったのだが。しかし思いのほか上手くいったようだな」
「一般市民を巻き込んででも対象を確保する …… 本当にそれだけの価値があの二人にあるのでしょうか? もし彼らから何の情報も得られなければ ―― 」
「それを考えるのははダンプティや本部の仕事だ、俺は与えられた命令を遂行する為に最善を尽くす。たとえそれが一般市民を何百人巻き込む事になったとしても、だ」
 修羅場へと視線を送りながら事もなげにそう告げるラース1が突然酷く顔を歪ませた。それが彼の渾身の笑みだとやっと気がついたタリホー1はその原因に尋ねようと口を開く、だがそこから音が出る前にラース1の声が全てを説明した。
「そうだ、お前達はもうそうするしかない ―― 偽善に塗れて俺達を探しに来るがいい」
 蕩ける様なラース1の視線を追ったタリホー1が辿り着いた一つのモニター、そこに映っていたのは彼らの対象となった二人の男女があたりを窺いながら非常階段の取っ手へと手を伸ばした姿だった。
「そうするしかない …… ラース1はあの二人が必ずこうする事を見越して爆破を敢行したのですか? 」
 肯定の代わりに返って来たのはくぐもった奇妙な含み笑いだった。彼らの正義感に侮蔑を露わにした彼の目には憎しみの光が宿っている。
「認めたくはないが、これが軍から授かった俺達の業だ。平和がはびこるこの世の中で未だに命の危険と隣り合わせに存在する者達、彼らしかこの状況に立ち向かえる人種がいない」
「敢えてテロリストの役を演じる事によって彼らの正義感を煽り、その正体を確かめにここへと足を向けざる得なくなるように仕向けた、と? 」
「自分が間違っていないと。正しいと思い込んでいる青臭い輩だからこそこんな陳腐な罠に引っ掛かるのだ。俺が知るあの女は、そう言う奴だ」
 ふと漏らした最後の一節がタリホー1の耳に引っかかる、対象となったあの女性を彼は知っているのか? だがその疑問を口にする事は憚られた、彼の眼に宿った狂気は何を切っ掛けとしてどこに吹き出すかも分からないからだ。事実彼は顔色一つ変えずに自分の部下となる兵士の額を撃ち抜いたではないか。
「非常階段からは一本道だ」
 アデリアとマークスが非常階段の扉を用心しながら押し開く姿を眺めながらラース1が言った。
「各員は所定の配置に付け。定石通り二人一組ツーマンセルで行動するならこちらとしても手間が省ける、個別に行動するようなら必ず女のほうから叩け。位置はこちらから指示する」
「戦闘力は常識的に考えて男の方がある、叩くなら先ず男のほうからでは? 」
「雄が捕えられたと分かると雌は助けを呼ぶ為に逃げる、だが雌が捕えられると雄はそこから逃げ出す事が出来ない。それが遺伝子に刻まれた動物の本能だ」
 人の行動は結局定められた法則から逃れる事は出来ない。一抹の憐みを声に覗かせながらラース1は呟いた。
「つくづく御しがたいものだ、雄と言う物は」

「マークス、さっきあたしがあげた携帯」
 非常階段の扉をゆっくりと閉じたマークスに向かってアデリアが手を差し出した。意味を察した彼が胸ポケットの中の携帯を取り出すとそれを彼女の掌へ載せると、アデリアはおもむろにそこに並んだ小さなキーを長押しすると再びマークスの元へと戻した。よく見ると端に埋め込まれた小さなランプが長い間隔で点滅を繰り返している。
「ほんとはちゃんと教えてあげたいけど今は時間が無いからとりあえずこの機能だけ使うわ。VOX(Voice Operation Transmission:音声反応式通話機能)にしてあるから何かしゃべれば全部こっちに聞こえるから。音声を捉えてからスイッチが入るからタイムラグで最初の一言は途切れるかも知れない、だから会話の頭には必ずコードネームをつける事、いい? 」
 自分の携帯を耳にかけながらアデリアが言った。マークスは彼女の仕草の見よう見まねで何とか自分の耳へと装着する。
「骨伝導システムがついてるから小声でもお互いの声は相手に届くわ、音量は入力値に対して自動的に調整するからいきなり大きくなる事はない。何か質問は? 」
「すごいな携帯って。まるで軍用無線機CNR並みの機能だな」
「軍が遅れてるのよ。発想は軍需の方に一日の長があるけど開発になると民間の方が有利よ、色々なシチュエーションが用意されてるから ―― で、マークス」
 確認する様にアデリアが尋ねる、マークスはそれがてっきりこれからの手順を確かめる為に彼女が聞き直して来たのかと思った。だが心配そうな顔で見上げる彼女の表情に思わずドキリとする。
「一つだけ約束して。もし危ないとあんたが判断したらすぐに外へと応援を呼びに行く事」
 それは彼女に言われなくても当然の事だ。相手は爆薬まで持ち込んだテロリストに対してこちらは丸腰、出来る事と言えば精々相手の位置を把握して警察に通報するくらいの事だろう。それでも今の状況で彼らの元へと肉薄できる精神力と経験を持つ者がこの建物の中に何人いる事か、そしてそれをあてにしている暇はない。
「そんな事。お前に言われなくても分かってる、て言うかそれはお前の役回りだ。もし俺がそう判断したら ―― 」
「約束して」
 深刻な顔でそう告げるアデリア、何も言えなくなったマークスに彼女は重ねて言葉を続ける。
「あたしは大丈夫、でもあんたはダメ。だから約束して。 …… あんたどこかそういう所、あるから」
 
 時間と競争する様に二人が階段を飛び降りる。自分達がこの階段の存在に気付いた様にもうすぐ大勢の避難民がここへと押し寄せて来る筈だ、それまでに何とか一階の踊り場を越えて地下へと降りなければならない。身軽なアデリアはその機動力をいかんなく発揮してマークスとの差を広げていく、さすがに自分と同じセッティングでモビルスーツを乗りこなす訳だ、とその背中を妙な感心をしながら追いかけるマークスにアデリアの檄が飛ぶ。
「早くマークスっ! 上はもうあたし達がこの非常階段を使った事に気付いたっ! 」
 彼女の叫びと大勢の人間のざわめきが建物を縦に貫く吹き抜けにこだました。降り注ぐその波を背に二人の足は更に速度を上げる、しかしその時二人の耳に飛び込んで来たのは新たな人のざわめきだった。三階の踊り場を通り過ぎた瞬間に突然非常階段のドアが勢い良く解放される、あわやの所でそれを躱したマークスはそれと同じ現象が自分の足元でも発生している事に気付いた。
「アデリアっ、二階ももう気付かれてるっ! 」
「ちっくしょ、あと一息だってのにっ! 」
 追いかけるマークスの視線の片隅にアデリアの背中が見える、そのサマーセーターが突然ふわりと宙に浮かんだ。既に彼女の進行方向には大勢の人だかりが出来ている、アデリアは階段の手すりに飛び乗るなり大声で彼らに向かって叫んだ。
「ほらどいてっ! 怪我してもあたしは知らないからねっ! 」
 タン、と蹴った彼女の身体が人だかりの頭上へと飛ぶ。群衆の先頭は既に階段の途中まで進んでいたが、アデリアはそれを飛び越えると驚いて足を止めた彼らの前に軽々と着地した。
「マークス、先に行くっ! 」
 振り返りもせずにそう言うとアデリアは再び階下への階段を駆け下りていく。慌てたマークスがすぐ後を追おうと人ごみの中へと突進を試みたが、前が足を止めた事ですし詰め状態になったそれは彼の進行をいとも容易く拒んだ。必死で身体を割り込ませながら大きな声でマークスは叫んだ。
「待てアデリアっ! 一人で行くな、すぐ下で待ってろ ―― 」
 だがもみくちゃにされたマークスの声は他の人々の怒声に紛れて彼女には届かない、マークスの視界からどんどんと遠ざかる白い影に向かって彼は何度も呼びかけ、しかしもうどうしても届かないと分かった時に実力行使に打って出た。
 肩から身体を捻じ込むと無理やり人ごみを押し開いて前へと進む、肘を脇に入れられ、向う脛を何度も蹴られながらそれでも必死に先頭を目指すマークス。何度となく繰り返したボディチャージが功を奏して人だかりの先頭をその視界にとらえた時、突然彼の肩を掴む者が現れた。
「離せ、この ―― 」
「ばか野郎、軍人が何をやってるっ!? 」
 振り切ろうと揺すった肩ががっちりと抑えられて動かない。焦ったマークスがその男の拘束を解く為に振り向きざまの右フックを放とうとした時、まるで目の前に火花が飛ぶような衝撃が彼を襲った。
「落ちつけっ! 取り乱すんじゃないっ! 」
 強烈な平手打ちで我に返ったマークスが人の波に翻弄されながらその男へと目を向ける。マークスより頭一つ大きい ―― 背丈も厚みも ―― この混乱の中でも少しも慌てる事もなく、冷静な目を彼へと向けながら厳しい声で言った。
「君の様な立場の人間がこんな時に落ち着いてなくてどうする? 彼らを守る為に存在するのが軍人と言う職業だ、それを蔑にするといざと言う時にだれも手を貸してくれなくなるぞ? 」
「は、はいっ! 申し訳ありませんっ! 」
 まるでキースに叱られた時の様にとっさに謝るマークスに向かって男はニッと笑って頷いた。マークスは気付かなかったが男は彼を巻き込む人の波からその巨体を生かしてがっちりと守ってくれている、男に促されて前を向いたマークスの背中に向かって男が言った。
「そうだ、落ちつけ。落ち着くと周りの状況がよく見えるだろう? …… 君はどこへ行こうとしていたんだ? 」

 緊迫した状況の中での男の笑顔は余りにも朗らかで、それでいて余裕に満ちている。マークスは先ず一息ついて荒い息を整えると男に言った。
「ありがとうございます。僕はマークス・ヴェスト軍曹、オークリー基地の隊員です」
「オークリー、あの忘却博物館ロストスミソニアンの? 君の様な若者が一体何をやらかしてあんな所に行かされたんだ」
「ご存じなんですか、あなたは一体 ―― 」
「昔軍にいた。今は辞めてここの警察に勤務している、今日は非番だったんだがどうやらとんでもない事に巻き込まれちまったようだな。 …… で、どこへ行く?」
 男に再び尋ねられてマークスははっと表情を強張らせた。そうだ、こんな所でぐずぐずしている暇はない。アデリアを一人で行かせたままでは彼女が危ない。
「地下に隠れているテロリストの居場所を突き止めようとしていました、もう私の部下が先に」
「 ―― あの可愛いお嬢ちゃんもオークリーの兵隊だって? 開かれてンのか人手不足なんだか、俺が退役してから軍もすっかり様変わりしやがったモンだなあ。それより君たちだけで居場所を突き止めて、そこから先どうしようって言うんだ? 」
「居場所をみつけたらそこから警察に連絡します。相手に気付かれない様に監視が出来れば武器は必要ないし、それに正確な位置に警官を呼び寄せる事が出来ます」
追跡子トレーサーの役割を自ら買って出ようっていう訳か」
 マークスが頷くと男はふっと鼻で息を吐いてポンと肩を叩いた。どういう意味かをマークスが考えるよりも早く、男は苦笑いを浮かべて言った。
「しょうがない、ここに警察の関係者が一人いる。それに人手は一人でも多い方がいいだろう、何せここの地下区画は迷路みたいに入り組んでいるからな。俺も一緒に行こう」
「え、いやしかし民間人の方を危険に晒す事は ―― 」
「俺に言わせりゃお前さん達の方がよっぽど部外者だ。もし怪我でもされたら軍の方からキツーイお叱りが待ってるだろうしな …… そら、もうすぐ前が開ける」
 男の言葉に進路へと目を向けたマークスはその言葉が正しい事に気付いた。もうすぐ目の前に一階の踊り場が見える、そして人の流れはその先の階段にはただの一人も流れ出る事はなかった。そこから下は非常灯の薄暗い明かりに照らされた無人の階段がずっと最下階まで続いている、そしてもうそこにアデリアの姿はない。
「では行こう。軍曹、君がポイントマンだ。俺は後ろを抑える」
「ですがもし僕が敵の存在に気付かずに後ろを取られたら ―― 」
「その時は」
 そこで二人は人の流れから飛び出して再び階段へと足を踏み入れた。たった一本の逃げ道から外れる二人に訝しがる何人かの目を無視して男は告げた。
「俺を楯にして君は先に行ったお嬢ちゃんを探し出せ。そして一緒にここから逃げ出すんだ。いいな? 」

 五層から成る地下階層は地下一階の食品階を除いてショッピングモール全体の保守と駐車場を兼ねている。マークスは自分が車を止めた地下二階にアデリアが向かったのではないかと推理し ―― 車の中には車載のスパナなど武器になりそうな物が僅かばかりある ―― そこへと向かったが、果たしてそこに彼女の姿はなかった。ドアを開けた形跡もない所を見るとまだその階には来ていないようだ。
「と言う事はセオリー通り一番下から探してるって事か」
 車を調べるマークスの背後で男が感心した様に呟いた。理由を尋ねてみるとこう言う爆破テロの場合、犯人は最も爆心地から遠い所にいる事が多いと言う。故に警察は捜索する際には必ず現場から最も遠い所から虱潰しに当たっていくのが基本らしい、自らが破壊した現場へと追い詰める事で退路を絶ち、逃走経路を制限すると言う作戦なのだと男は言った。
「隊長との演習の成果がこんな所で現れてるとは思わなかった。と言う事はアデリアは地下五階にいると言う事ですか? 」
「もしそうじゃなくても俺達が底から攻めれば彼女とはどこかで当たる、時間が短縮出来て一石二鳥って事になるかもしれない。そうと分かればここにいる意味はない、急いで一番下に向かうぞ」

 鉄の扉を用心してマークスが開く、喧騒から最も遠くに位置する地下五階はひっそりと静まり返ったままだった。ドアの隙間から廊下の様子を窺った彼がするりと中に忍び込むと後から男が続いて中に入る、物音一つ立てないその歩き方は彼がただの警察官ではない事を窺わせた。
「どうやらこの辺りが最初の火元の様だ …… 見ろ」
 男が顎で背後の通路を指し示すとそこには真っ黒に焦げた区画が未だに煙を漂わせている。この階はスプリンクラーが作動したのか、二人の立っている床は水浸しのままだ。高い湿度に思わず額に噴き出す汗を拭いながら男は蒸気で見通しの利かない通路の向こうへと目をやった。
「この階層はこのショッピングモールの環境機能設備が置かれている階だ、この廊下を真っ直ぐ行くと駐車場への関係者通用門がある。敵が隠れるには絶好の場所だな」
「挟み撃ちにも最高の場所、ですか? 」
「そう言う事だ。通路にいる限りどこもかしこもキルゾーン、かと言って隠れる場所もない。取り敢えずここはまずい、一番奥の駐車場の手前に警備員の詰め所がある。そこで言ったん体勢を整えよう」
「そこまでいけば ―― 」
「規模はしょぼいが暴徒鎮圧用の武器はある。爆弾抱えたテロリストにどこまで通用するかはわからんがな …… 急ごう」
 男に促されたマークスが足を踏み出す。そっと足を降ろしても水浸しになった床からは湿った音が鳴り響く、自分の立てる足音に緊張しながらマークスが何歩か先へと進んだ時、男の緊張した声が背後で聞こえた。
「待て軍曹」
 慌てて足を止めて振り返ったマークスの目に男が指でつまみあげた物が見えた。思わず自分の耳に手を当ててその感触を確かめる。
「 …… これは、確かアデリアの ―― 」
 そこまで呟いたマークスの目に微かな光が飛び込んで来た。ふわりと浮かんだ鬼火の様な蒼白い光はばしゃりと水音を立ててゆっくりと通路へと降りて来る、振り向きざまに男が叫んだ。
「くそっ、ビンゴだ軍曹っ! 」
 何者かによって投げられた電源ケーブルは明らかに自分達への攻撃に向けられた物だった。事の進捗に追い付けずに硬直したマークス、しかし次の瞬間男の身体がものすごい勢いで彼へと迫る。あの日を思い出させるショルダーアタックをまともに背中に喰らったマークスの身体が勢いよく弾け飛んで乾いた床の上を転がる、途端にバン、という何かが大きくはじける音が廊下中に轟いた。
「ぐあっ! 」
 絶叫した男の身体が水溜りの上で跳ね上がった。感電する男を何とかしようと思わず手を伸ばしたマークスに向かって、彼は痙攣を繰り返しながら怒鳴った。
「軍曹行けっ! 早、くっ! 」
 悶絶しながら差し伸ばされた手を拒否した男がマークスの先にある通路へと指をさす。意図をくみ取ったマークスは男の姿から目を逸らすと思いっきり床を蹴飛ばして前へ出た。
 
 頭の中をアデリアの言葉がよぎる、「もし危ないとあんたが判断したらすぐに外へと応援を呼びに行く事 …… あたしは大丈夫、でもあんたはダメ。だから約束して」そうだアデリア、お前との約束は守れそうにない。お前にそう言われた時からそんな約束は守れっこなかった。
 お前を置いて俺だけ逃げ出す事が出来るなんて、お前は本当にそう思っていたのか?
 全力でリノリュームの床を蹴り飛ばすマークスの身体に力が籠る、上半身を極限まで前傾させて一気にトップスピードで長い廊下を駆け抜ける。あっという間に近づく駐車場への出口とその脇にある詰所の扉、しかしもう少しでそこへと辿り着こうとしたその瞬間にマークスの目は闇に光る小さな輝きを捉えた。駐車場の出口の奥に暗がりに潜む何かの影、それが銃の将星だと分かった途端に彼は思いっきり自分の身体を前へと投げ出した。
「うわっ! 」
 驚きの声と同時に轟く発砲音がマークスの耳朶を同時に叩く、間髪いれずに脳天を擦過する何かで目が眩む。焼け火箸を押しつけられた様な痛みで何とか意識を保った彼はそのままの勢いで一気に床の上へと滑りこむ、ガシャンと言うポンプアクションの響きがもう一度マークスの脳裏に警鐘を鳴らした。
「くそおっ! 」
 進行方向へと思い切り左手を伸ばして掌で床を叩く、たったそれだけの抵抗の変化でバランスを崩した彼の身体は大きく回転した。進行方向へと爪先が向いた瞬間に再び走る衝撃と発砲音、しかしマークスの機転が功を奏したのか弾道は彼のすぐ脇を通過した。勢いを失う身体を無理やりに引き起こして再び駐車場の出口へと走るマークス、敵の姿は薄闇の中でもはっきりとわかった。
「この野郎っ!! 」
 怒鳴るなり決死のダイブを敢行した彼の身体が三メートルの距離を一瞬で打ち消した。肩口に当たった敵の身体ごと床へと転がったマークスは相手の体に馬乗りになると、いきなり銃把を握って相手の顔面を殴りつけた。怯んだ敵の手から銃を力づくで捥ぎ取るとそのままの体制で相手の顔面へと銃口を突き付ける。
「言えっ! アデリアをどこにやった!? 」

 不敵な表情のまま何も言わずにただじっとマークスの顔を見つめたままのその男からは何かしらの余裕が窺えた。お前に撃てるのかと言わんばかりのその態度にマークスは逆上してフォアエンドを勢いよく前後させる、未使用の薬莢が宙を舞って男の顔のすぐ傍へと落下した。
「これが脅しだと思ったら大間違いだっ! この至近距離で顔面に食らったらどうなるかお前でも分かるだろう、棺桶の蓋も開けられない様な無様な死に顔を晒す前に白状しろ、アデリアを、彼女をどこにやった!? 」
 違う色の瞳に同じ色の焔が燃え上がる、鬼気迫る表情で男に迫るマークスに向かって男がぺっと唾を吐いた。瞬きをする事もなくそれを頬で受け止めたマークスは一瞬の葛藤の後に次の行動を決意する、人差し指へと徐々にかかる力は引き金をゆっくりと引き絞ってシアーの解放に取り掛かる。
「ま、待て軍曹、殺しちゃ、いかん」
 息も絶え絶えにマークスへと掛けられた、聞き覚えのあるその声が彼の指を押し留めた。全身をずぶぬれにしたままドアによりかかったその男に向かってマークスは思わず声をかけた。
「大丈夫ですか、怪我はっ!? 」
「お陰で何とか、と言いたい所だがまだ体が痺れてる。くそっ、こちとら非番だってのに余計な仕事を増やしてくれたもんだ、全く」
 吐き捨てる様に言う男の方から後ろ手に縛られた男がマークスの脇を掠めて前方へと投げ出される。
「俺に電気マッサージをかけてくれやがった野郎はこのザマだ。どうやらテロリストは五人、さ、後の三人はどこにいる? 」
 男はふらつきながらマークスへと近づくと彼が構えたままのショットガンへと手を伸ばす、だがマークスが彼の申し出を拒否して銃を構えたまま、じっと組み敷いたままの男を射殺さんばかりに睨みつけている。
「早まるな軍曹。君のスキルはこんな事の為に使うモンじゃない、違うか? 」

 男の言葉にマークスの殺気が薄れた。男の手が躊躇いがちにマークスの銃把を握ってそっと力を込める、今度は何の抵抗もなくマークスの手から彼の元へとショットガンが収まった。マークスから引き継いで油断なく銃を構えた男が呟いた。
「君の様な素直な奴が俺の周りにもいたなら、俺は軍に絶望せずに済んだのかもな」
 その声が何故かマークスの心のどこかにある何かに引っかかった。まるで許しを請う様な男の声は一体誰に向けられている、そして何に?

 次の瞬間、マークスの首筋に猛烈な衝撃が走る。頭の芯から飛びだした火花の様な輝きはあっという間に視界を真っ白に染めて、そして見る間に世界を暗闇へと変える。急速に閉じていく意識の片隅で、マークスは最後に男の声を確かに聞いた。
「すまない、軍曹」



[32711] Nemesis
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/06/22 23:34
「君に与えられる選択肢は二つだ、フォス曹長」
 深刻な顔で告げるその基地指令の階級までもが少佐。一年戦争の余波で焦土と化したベルファスト、舞台を宇宙に移した事によって戦線から取り残された北欧に位置するこの基地に関する人事は再建途中の基地に有りがちな異例の抜擢がまかり通っていた。
 基地指令の階級は元より女性兵士だけで編成されたモビルスーツ部隊の常駐配備、そして曹長と言う階級でありながら小隊長に抜擢されたアデリア・フォス。その全てが終戦後の混乱をなかなか収拾できない連邦と軍と各報道機関による世論誘導の手段である事は関係者だけが知る秘密だった。復興の士気を高める為に選ばれたアデリア達にその真意を伝えられる事は無かったが、引っ切り無しに基地に訪れる軍の広報や地元のテレビ局の取材要請を全て受け入れる方面軍司令部や基地指令の態度を見ていればあらかたの想像はつく。
 来る日も来る日も記者のインタビューやフラッシュに追い回されながら、アデリアは ―― いや、その対象となったベルファスト基地全体に厭世的な空気が蔓延している事を肌身で感じていた。無論彼女とて軍に ―― 最高の難易度を誇るモビルスーツパイロット ―― 志願したのは見世物になる為ではない、自分の最も大事な物を奪った『戦争』に対する憎しみゆえの事である。自分の姉も同じ志で軍を選びソロモンの海に散ってしまった、その遺志を継ぐ事こそが自分の使命だと考えていた。遠く離れた場所で起こっている戦争が生み出す悲劇を知っていながら何も出来ずに宇宙を見上げて手を拱いているのはもう嫌だ、と強く願った故の発露。しかし現実には自分を含めたモビルスーツ隊に相応しい任務が与えられる事は無い。
 ベルファストで急遽編成された自分の部隊が一年戦争で失った戦力の補充という緊急課題に基づく女性兵士の戦場参画を意図した物であるという事は頭ではちゃんと理解しているし、立場を自覚するアデリアが自分の主張や思惑も押し留めて全ての取材に嫌な顔一つ見せずに協力するのは当然の事だと思っている。だが任務とは全く関係の無い所で磨り減らされる神経は、アデリアの心にも不満と言う劇薬を生み出す要因になり、それは今自分の目の前に座る上司に対する直接的な評価になっていた。
 
 自分の正義を信じて疑わないアデリアにとって基地指令から提案されたその申し出は意外な物だった。確かに相手を病院へと送り込んだのは自分だがそれには自己防衛と言う立派な理由がある、それに八対一という相手との戦力差・性別による戦闘力を鑑みれば自分がいかに不利な状況に立たされていたかと言う事など火を見るより明らかだ。どう贔屓目に見ても自分に下される処分は譴責か減俸か ―― いずれにしても軽微な物だろうと信じて疑わなかったアデリアは、座りの悪いスチールデスクの向こう側に座って深刻な顔を浮かべる基地指令を訝しい表情で見つめた。
「二つ、とは? ―― 一体どう言う事でしょうか、指令」
「こちらが除隊届けになります。除隊の際に条件となる項目は貴官の場合特殊な物も含まれますので、よく読まれた上で速やかにご署名なさった方がよろしいかと」
 当事者たる基地司令に代わって口を開いたのは隣に座っている弁護士風の男だった。陰湿そうな性格を滲ませる切れ長の目を僅かに開いたその男が手元に置いてあった書類をすっとアデリアの前に滑らせて寄越す、それよりも望外の処分を口にしたその弁護士の顔をまじまじと見つめたアデリアは信じられないと言った面持ちでその書類へと目を通した。『なぜ? 』という言葉が頭の中で反響してその逃げ場を探す、あちこちで始まる頭痛は彼女の可憐な表情に何本もの深い皺を刻みつけた。
「私も君の今の立場やこれまでの功績を考えるとこの様な選択しか与えてやれない事を心苦しく思う。―― だが君はまだ若い、条件つきではあるが軍を止めても十分に幸せになれるだろう。この先の事を考えれば多少の理不尽を飲み込んででも、それで今回の事が不問に処されるというのならば良しとしなければならないと考えるんだが? 」
「不問? 」
 その言葉の意味は知っている、それは発生した事象において明らかに自分に非があり相手に罪が無かった時に使われるべき言葉だ。自分と相手に該当する者が誰に当てはまるのかを悟ったアデリアがまるで判事のように言い含めようとする向かい側の男を敢然と睨みつけた。
「不問とはどういう意味ですか指令。私は何も悪い事をしていない、確かに相手の兵士を傷付けたのは認めますが彼らだって無抵抗だった訳じゃない。私がそれだけの処分を受けると言うのならば彼らにも同じ処分が与えられてしかるべきです! 」
「なるほど、加害者なりの正しい意見ですな。被告人は皆そう言う」
 さもあらんと蔑んだ口調で言い棄てる弁護士に向かって思わず言い返そうとするアデリアを基地司令の目が制止する。示談の際に行われる発言の一切は詳細に記録に留められ万が一それが裁判へと発展した際には証拠として提出される、ここで彼女にその様な不利を被らせる訳にはいかなかった。
「ですがフォス曹長 ―― でしたかな? 貴官の動機が部下に対する暴行に端を発しているとは言え貴官の取った行動はれっきとした犯罪行為だ。しかも貴官の部下からはその後貴官の行動の動機を裏付ける為の ―― 被害者達に暴行をされた事に対する告訴も為されていない。つまりこの件は貴官が、私怨によって引き起こした唯の傷害事件という扱いになるのですよ」
「そんなっ! 私怨なんかじゃない、私は彼女に謝る様に彼らに言った。彼らはそれを笑った挙句に私まで ―― 」
「それを証明する物は何も無いのですよ。貴官が引き起こしたあの現場、大怪我をした ―― うち一人は再起不能だ。彼らがこの事件に関する全ての顛末と証拠です」
「じゃあ彼女に聞いてみてっ! 彼女は私と一緒にあそこにいた、彼女が第三者として全てを知ってるわ! 」
「ですから ―― 」
 押し問答には飽き飽きしたと言わんばかりに男が大きな溜息をついた。膝の上に行儀よく置いてあった両手をテーブルの上に置き、肘をついて自分の口元を隠した彼は陰湿な声音でアデリアに告げた。
「 ―― 証明する物は何もない、とさっきから申し上げている。被害者達から暴行を受けたと言われる貴官の部下の証言も含めて、ですが」

 アデリアの顔から血の気が引き、そして即座に赤く染まる。常日頃から信を置く自分の部下や仲間に裏切られたと言う事実、しかしあの事件が起こるまでそんな疾しさの欠片も感じなかったという心証。なぜそんな事が起こってしまったのかを必死で考えるアデリアの目に弁護士の口元が僅かに見える、彼の口角は僅かに釣り上がって自分の狼狽を愉しんでいるかのようだ。
 それを見てアデリアははっきりと理解した、あの事件から今までに至るまでにこの基地で、いや自分の部隊の中で何が行われていたのかという事を。紅潮したままの顔で怒りに燃え上がった瞳が隠しようのない弁護士へと向けられる。
「 …… 彼女に、何をした? 」
 弾け飛びそうな理性を必死で押さえる意思は彼女の言語野を疎かにした。この男の思惑になど乗るものか、と煮え滾る腸の痛みが彼女の可憐な顔を苦痛に歪ませる。
「被害者の弁護士として当然の事を尋ねただけですよ。 ―― 彼女が被害者の男性達にどの様な仕打ちを受けてどの様な行為に及んだか、勿論その中には彼女自身に非はなかったかどうか、互いの合意の上で行われた行為なのではないか等の性癖含みの精査も含まれる事になりましたがね」
 いやらしく眼を細めたその表情にアデリアの理性のたがが遂に外れた、何もかも忘れてその腐った面に一撃をお見舞いしようとする彼女の身体は大きく跳ねて男の胸倉を掴み上げる。だが彼女の行動をあらかじめ織り込んでいたかのように男はそのにやけた表情を崩さなかった、アデリアが起こす次のアクションを待ちわびるかのような目で振り上げた彼女の拳へと目を向ける。
「この下衆野郎っ!! 」
 気勢を上げて振り下ろそうとしたアデリアの右手は果たして彼女の狙い通りにその男の顔面を捉える事はなかった。背後に控えていた軍警察の屈強な警官にあっという間に取り押さえられた彼女はそれでもなお狂った様にテーブルの上でもがいている。手負いの獣のように暴れる彼女の暴走をそこで止めたのは基地司令の冷静な叱責だった。
「やめたまえ、フォス曹長。君がこの事について抗弁する為には軍の法廷に被告人として立つしか方法がない、そして君に一切の勝ち目は無い。その事を理解した上でこの方は『示談』を提案されているのだ、彼を雇った依頼主の意向でな」
「それが即刻除隊と言う処分ですかっ。こんな外道の言いなりに、こんな外道を雇った依頼主の言いなりになって私が罪を被らなければならないと!? 」
「それ以上は名誉棄損になりますよ? 民間人に対して看過しがたい暴言ですな、貴官の仰り様は」
 慇懃無礼なその物言いがアデリアの凛気に再び触れた。弁護士との間合いを再び詰めようとするアデリアの目の前にすっと差し出された手が彼女にとっての今唯一の抑止力だ、基地司令に促されて上げた腰を力の限り椅子へと叩き付ける。安物のパイプ椅子が彼女の尻の下で今にも壊れそうな悲鳴を上げた。
「曹長、話は最後まで聞け。君にはもう一つの選択肢がある、それは司法取引によって自分の罪を認めた後にジャブローから指定された基地へと転属する事だ」

 司令の手元に置かれていた一枚の紙切れが満を持したようにひらりと裏返ってアデリアの手元へと差し出される、そこには彼女にとっては全くねつ造された事件の顛末と身に覚えのない告白文とが堅苦しい文言で掻き連ねられている。読むのも忌々しいその分の全てをすっ飛ばしたアデリアは、最後に空欄となっている署名欄へとじっと目を凝らしていた。
「勿論、罪を無条件に認める事によって君は降格になるだろう、しかし君が軍に残りたいと言うのならばその望みは聞き入れられる。例えそれがどの様な辺境になったとしても、と言う条件つきではあるが …… それが先方の用意した最大限の譲歩だ」
「不名誉な二者択一ですね」
 喧嘩腰でそう吐き捨てるアデリアを複雑な面持ちで見つめていた基地司令がまるで見たくない者から目を逸らす様に瞼を閉じた。
「それが彼の依頼主である『ティターンズ』の意向だ。彼らは君が現場復帰を果たした被害者達からの報復を受けない様に配慮をしてくれている、それを避けるには住む世界を違えるか、絶対に交流する事の無い条件の場所へと転属するしかないだろうと言うティターンズの見解を私は指示せざるを得ない。だがどちらにしても君の身柄をヨーロッパ方面軍で預かる事は不可能になった …… そういう事だ」
 要するに体のいい厄介払いか、と憤慨で焼き切れそうな思考回路をやっとの思いで動かすアデリア。本来であれば軍内部での事件に関してはある程度の対等な処分が下される所を今回は被害者である『ティターンズ』と自分の所属する『ヨーロッパ方面軍』がそうさせなかった。
 ヨーロッパ方面軍には旧体制派の佐官が多く新興勢力であるティターンズの部隊を駐留させる事に難色を示していると言う話を聴いた事がある、今回アデリアが引き起こした傷害事件は被害者であるティターンズの側に部隊を送り込む為の格好の口実を与える形になったのだ。この事が均衡を保ち続ける旧体制とティターンズの勢力争いに大きな影響を与える前に方面軍司令部は高度に政治的な判断を駆使するに至ったのだろう。
 確かに目の前に座る基地司令の立場から言えばそうせざるを得ないと言うのが本音なのだろう、だがそれを理解しても尚アデリアには納得がいかない。それでは軍の中の正義とは一体いついかなる時に行使されなければならないのか? 身も心も傷付いた彼女の為に力を貸す、それこそが軍と言う物の在り方ではなかったのか?
「正義に疑問を持つ君の気持はよく分かる」
 司令の零した本音にアデリアと弁護士は相反する意味で驚いた。アデリアはまるで自分の心を読んだかのようにその点を彼が指摘した事、弁護士はまさか一介の責任者に過ぎない彼がこの場合の正義の在りかがどこにあるのかを暗に指摘した事にだ。
「君が私の判断をどの様に受け取ろうがそれは君の自由だ。だがフォス曹長、誤解の無い様に断っておくが先方でも君の身柄を引き取る事はできないのだ  …… 考えても見たまえ、前線で未だにジオンの残党と戦う現役の兵士が女性隊員一人に袋叩きにされたと言う事実が彼らの内部で広まったらどういう事になるか。精鋭で構成されていると言うティターンズの権威には傷が付き、それは彼らの母体である連邦軍の屋台骨に何らかの風評被害を与えんとも限らん。彼らはこのことが表沙汰になる事を好まんし、我々も回避したい。故に互いにこの件に関して協議を重ねた上で決断を下した。君の拘留期間が長かったのは双方の意見調整に時間を要したからだ」
「私がその条件を両方とも断ったとしたら? 異議を唱えてサインをしなければ私にはどういう処分が下されるのですか、私がその選択をする可能性くらい織り込み済みでしょう? 」
「貴官には軍法廷での証言の機会が与えられます。勿論弁護士を付ける事も可能だが、今の貴官の立場で依頼を引き受けてくれる弁護士など居ないでしょう。せいぜい軍選弁護士が貴官の弁護をいやいや引き受け、そして貴官は敗訴する。軍兵士八人に対する重篤な傷害罪 ―― 貴官が士官の一人に向けて行った過剰行為には殺人未遂が付くかもしれない。どちらにしても『連邦軍アンデス刑務所シャンバラ』送りになる事は間違いないでしょう、それもそれ相当の長い刑期は覚悟された方がいい」
 すかさず隣の弁護士が計算高い笑みを浮かべながら滔々と捲し立てる、まるでそうしてくれと言わんばかりにニヤニヤと嗤うその面に悪態を突こうとした矢先を司令の声が制した。
「やけを起こすな、フォス曹長 …… 君の置かれている状況は今君が考えている通りだ、そして君の所属している連邦軍はその様な事態に陥る事を望まない」
 拒否権を発動すればこの件が少なくとも軍内部で表ざたとなり、策を弄してうやむやにしようとしているティターンズに何らかのダメージを与える事が出来るかもしれない。自分のキャリアを引き換えにしてでも相手と刺し違えて正義の在りかを確かめようとするアデリアの行動を司令はにべもなく退けた。
「選択肢はここに提示した二点のみだ。そして君は連邦軍人である以上そのどちらかの条件を必ず選択しなければならない、これは命令だ」

 判決を自分の味方から言い渡されたアデリアの口から言葉が洩れる事はなかった。わなわなと震える腕だけが理不尽な現実に対して向けられた彼女の憤懣と葛藤を現実へと伝える、言いようのない孤独感に心が苛まれ続けて言葉を探す事すら忘れた彼女に向かって弁護士の男が席を立ちながら告げた。
「依頼主からは今日中にと言う事でしたがまあいいでしょう、貴官に一晩の猶予を差し上げます。今晩一晩拘置所の冷たい床で頭を冷やしてよく考えなさい。どちらを選んだとしても貴官が被害者の兵士達とこの先一生顔を合わせなくて済む事には変わりが無い、貴官の身辺と将来を慮ってくれたティターンズに感謝する事ですな。 …… では私はこれで。これでも何かと忙しい身の上なので」
 恩着せがましい捨て台詞を吐いた弁護士が足元に置かれたゼロハリバートンを手にとってゆっくりと出口に向かう。その憎憎しい背中を末代までも語り継ごうと記憶の中に焼き付けようと誓ったアデリアが殺意の籠もった眼で男の後ろ姿を睨みつける、その圧力を感じたかのように男はドアの前でくるりと踵を返してアデリアへと向き直った。
「貴官が信じる正義などこんな物です、フォス曹長」
 歪んだ嗤いに浮かび上がった彼の本性、弱者のもがく様を高みで見物する権力者の走狗である事を臆面もなく晒した男は忍び笑いを洩らした。
「いかに貴官が自分の正義を謳い上げた所で所詮は何も知らない子供の理屈だ、そんな下らん物がまかり通るほどこの世の中は甘くない。より大きな力の前には貴官の信じる正義など取るに値しない、眉唾物の愚かな主張だ」
「 …… 何が言いたい? 」
 男の口調にアデリアはそう言うのがやっとだった。彼は手足をがんじがらめに縛られて身動きの出来ないまま、牙だけを剥き出しにして抵抗を続ける哀れな獣に哀れみと蔑みを織り交ぜた視線で応えた。
「正義とは力、なんですよ。清廉潔白を是とする貴官には信じられないかも知れないが、世界はどこまでも不公平に出来ている。世間知らずのお子様にもそれが理解出来る日が必ずやって来る、いずれ貴官が穢れたと自分で感じた時に初めてそれを知る事になるでしょう。 …… ではまた明日、良い返事を期待して伺う事にしましょう」

 掲げた信念を蔑にされた揚句にボロボロに打ち壊されたアデリアの足が爆発する、真っ白になった頭のままで動く彼女の原動力はただ今まで受けた仕打ちを晴らさんが為の恨みによる物だ。だがその想いが現実に彼女の元へ成果として届けられる事は有り得なかった、再び屈強の兵士の手でがっちりと捉えられたアデリアは無我夢中で全ての四肢を動かして何とかその戒めから逃れようと荒れ狂う。
 下卑た笑いでそのざまを見下ろしながらゆっくりと扉の向こうへと姿を消していく男に向かって、思い付く限りありったけの罵詈雑言を浴びせながら必死で抜け出そうとする彼女の手を司令が握り締める。
 もうどうする事も出来ないのだと掌の熱でそう告げる彼によってアデリアはやっと現実を取り戻した、そしてその時彼女は初めて気づいた。
 自分が泣いている事、そして悔しさと絶望に打ちひしがれた心を抱いたまま夢を失ったと言う事に。
 
                                *                                *                                *

「 …… 痛っ、いたたた ―― 」
 背中の痛みでアデリアは意識を取り戻した。息をする度に猛烈な激痛が彼女を襲ってアデリアは思わず小さくせき込んだ、浅い呼吸を繰り返して何とか楽な体勢を確保する彼女の目に明るい光が差し込んで来る。
「 …… ここは? それよりあたし、何で ―― 」
 そう呟きながら身体を動かそうとする彼女は、初めて自分ががっちりと手足を縛られて椅子に括りつけられていると言う事が分かった。頑丈なスチール製の椅子はかなりの重みがあり少しくらい暴れた程度ではびくともしない、それはオークリーでもっとも巨漢であるグレゴリーでも難しいだろう。
 混濁した意識に活を入れてアデリアは考えた。確か地下四階まで下りて来た時に下からドアの閉まる音が聞えて来て、その正体を確かめる為に地下五階の通路へとそっと足を踏み出したあたしはそこが火元だと言う事に気がついた。その焼跡から何か犯人の手掛かりになる様な物が見つからないかと足を向けた途端に突然 ―― 。
「 ” 目が覚めたようだな ” 」
 突然部屋のどこからか落ちついた男の声がした。アデリアは自分の置かれた周囲の状況を知る為に瞼をゆっくりと開いて焦点を合わせる、そこは天井に設置された無影灯が支配する真っ白な大部屋だった。体の及ぶ限り首を廻して後ろを振り返るとそこには大きな鏡がある、どうやらマジックミラーの様だ。
「 …… ショッピングモールの中にこんな取調室の様な場所があるなんて驚きだわ」
「 ” なぜここがショッピングモールの中だと分かる? ” 」
「だって焦げ臭いもの」
「 ” なるほど、どうやら頭の回転も元に戻っているようだな、結構 ” 」
 いかにも上から目線の物言いに眉を顰めるアデリア、と同時に相手の理知的な物言いに同業者の臭いを感じ取っていた。テロリストと言ってもその意味は広義で、例えばジオンの残党が連邦軍に向かって小競り合いを仕掛けて来てもそれはテロ扱いされるご時世だ。しかし自分に向かって語り掛けられる声にはどこか統制の取れた、しかも自分を偶然に捕えたと言う慌ただしさがない。どういう理由かは知らないが敵に選ばれた自分が罠に落ちたと言う事だけは間違いない。
「とりあえず弁護士を呼んでくれ、なーんて事は言わないわ。でもこの手足の縄は解いてちょうだい、捕虜に対してのこの扱いはジュネーブ条約に違反してるし」
 軽い口調でそう要求するアデリアだがこの提案には仕掛けがある、もし彼らがのこのこと姿を現して彼女の縄を解いたのなら、彼らはテロリストではなく何らかの任務を受けた正規軍の兵士だと言う事になる。それに少しでも縄の結び目が緩もうものなら彼女はすぐさま相手に飛びかかって一気に形勢逆転を狙う事も出来る。
 じっと相手の出方を黙って待っていたアデリアだったが、先方からは何の反応もない。痺れを切らした彼女がもう一度同じ要求をしようと口を開きかけた時再び男の声が、今度ははっきりと天井のほうから聞こえた。
「 ” これから私の質問に応えてもらう。今更ではあるが君の置かれている状況は極めて遺憾だ、誤解のないように予め言っておくが私としても君の身柄を無事にご両親の元へとお返ししたいと心から願っているし、面倒事は極力避けたい。だが君の取る態度如何によってはその約束も反故にせざるを得ない事になるかも知れない、ここはお互いの利益を優先して協力し合う事が得策ではないのかと私は考えるのだがどうだろう ” 」
 ちっと舌打ち。どうやらこっちの考えなどお見通しと言う事か。だがこれで敵が単なる烏合の衆ではなく正当な軍の訓練を受けた事のある人物だと言う事が分かった、ならば。
「連邦軍北米方面軍オークリー基地所属、アデリア・フォス伍長。認識番号0147241」

 捕虜として尋問を受ける際には決して敵に有用な情報を与えてはならない。ただしハーグ陸戦条約第九条に基づいてその氏名・階級に関しては事実をもって返答しなければならない。士官学校での教えの通りにアデリアはそのマニュアルを行使した。
「 ” よろしい。ではフォス伍長、基地での君の所属部署は? ” 」
「 ―― 連邦軍北米方面軍オークリー基地所属、アデリア・フォス伍長。認識番号0147241」
 これさえ答えておけば敵はアデリアに危害を加える事が原則的に禁じられる。もし仮に敵が痺れを切らしてアデリアに肉体的危害を与えるのなら今度はジュネーブ条約が彼らの相手だ、十九世紀と言う遥か昔に制定されたその条約が宇宙世紀の今になっても確かな効力を持って国家間の諍いの後始末に駆り出されているのは、それ以上互いにとって公平な条約が作り出す事が出来ないと言う事。そして戦争の本質と言う物が大昔から何も変わっていないと言う立派な証拠だ。
「 ” ―― オークリー基地の通常戦力、つまり常勤している兵数は何人だ? ” 」
「連邦軍北米方面軍オークリー基地所属、アデリア・フォス伍長。認識番号0147241」
「 ” …… オークリー基地にあるモビルスーツは全部で何機だ? 機種並びに実稼動数を予備機も含めて答えたまえ ” 」
「連邦軍北米方面軍オークリー基地所属、アデリア・フォス伍長。認識番号014724、いちィ」
 思いっきり嫌みな口調で自分の認識番号を答えながらアデリアはふとオベリスクの傍で出会った退役中佐の顔を思い出した。あの時自分は彼の事をジオンのスパイではないかと勘繰ったのだが、実は本当にそういう陰謀が存在していてオークリーにある何かを探っているのではないか? 
 今の連邦に対して弓弾く立場にいる者と言えばジオンの残党とアクシズあたりになるのだろうか、しかし彼らが様々なリスクを背負って敵対行動に出る事など今の平和なご時世には考えにくい。それとも昨晩のニナの告白にあったデラーズフリートの決起の切っ掛け ―― 連邦の秘密兵器が実はオークリーに隠されていて、その情報を密かに入手した誰も知らない新たな勢力がそれを狙って蠢動を始めようとでもしているのだろうか?
「 ” 強情なのは見上げた根性だ、と称賛したいところなんだが ―― ” 」
 溜息交じりの男の声がアデリアを推理の淀みから引き戻した。アデリアに相対している男は尋問慣れしているのだろうか、彼女がとった行動に対して苛立ちの一つも見せずに落ちついた声で言葉を続けた。
「 ” 協力をしてもらえないと言うのであればこちらとしても不本意なのだが仕方がない、君に対する物の尋ね方を少し変えてみる事にしよう ” 」
 思わせぶりな物言いに思わずどういう事かを尋ねようとして慌てて口を噤む。不安を煽って相手の動揺を誘うのは尋問の常とう手段、平静を保つ為に目の前の白い壁へとじっと視線を向けたアデリアの背後で突然ドアの開く音がした。姿を見せたその男はどちらかと言えば中肉中背、目だし帽を被っているから人相は分からないが歩き方で軍人かもしくはそういう訓練を過去に受けた事のある物だと分かる。
 その男はアデリアの周りを遠巻きに迂回しながらゆっくりと彼女の前を通り過ぎると左手の壁の前まで真っ直ぐに突き進み、注視を続けるアデリアの目の前で足元にある何かに手をかけた。
 強烈な無影灯の光で白の部屋に置かれた白いシーツカバーはそこにあった事すら彼女に気付かせなかった、だが男がそのカバーを引き剥いだ中から現れた黒い影を見た瞬間に彼女の思考は真っ白に変化した。
「ちょっ、なんで …… あんたがそこにいンのよ ―― 」

 アデリアと同じ様に両手両足を拘束されたその青年は河岸のマグロのように横たわったまま身動ぎもしない、銀の髪を床へと押し付けたまま特徴的な瞳を固く閉ざしたままの彼女の上官は男の足元でゆっくりと身体を上下させている。
「 ” 今はまだ生きている ” 」
 声を失ってただ茫然と見詰めていたアデリアの耳をその男の声が奪った。感情を取り繕う事無く背後のガラスへと振りかえった彼女の表情には怒りと憎しみがありありと見てとれる。
「 ” だが君の態度が今のままだとこれから先、彼の身の上にどのような災難が降りかかるか分からない。いいか、これは『災難』だ。彼にとっての ” 」

 ―― マークスの身に何かが起きるって事は全てあたしのせいだって言いたいのか、この〇〇野郎っ! ―― 

「 ” では尋ねるフォス伍長、私達に素直に協力するや、否や? ” 」
 アデリアの奥歯がギッと鳴る、黒白の葛藤が一瞬の内に彼女の心で渦巻いて混じり合う。何十分にも感じる僅かな沈黙の後に、アデリアは全身を震わせながら男に告げた。
「 …… 連邦軍、北米方面軍オークリー、基地所、ぞく、アデリア・フォス、伍長。認識番号014724 ―― 」
「 ” ―― やれ ” 」
 全てを言い終わる前に男の命令が部屋に響く、はっと視線を向けたアデリアの目の前で部屋へと足を踏み入れていた男は左手にぶら下げていた何かをすっと持ち上げて腰だめに構えた。それがポンプアクション式のライアットガンであると認識するのに貴重な何秒かを費やしてしまったアデリアの口から声が漏れるのが遅れた。
「いやっ! やめ ―― 」
 彼女の声を掻き消す轟音が筒先から迸った。吐き出された弾頭は容赦なくマークスの服を貫通して脇腹へと食い込む、肉を叩く湿った音と着弾による衝撃で跳ね上がる彼の身体がアデリアの目に焼き付いた。
「マークスっ!! 」
 叫びと共に跳ね上がるアデリアの手首に縄が食い込んで皮膚を喰い破る、縄を染める出血などお構いなしにそれでも彼女は全身をマークスへと投げ出した。猛然と戒めに抗いながら必死の形相で彼の横たわる姿を見つめていたアデリアの眼前でマークスの身体が突然弓なりにのけぞる、見えない力で全身を縛り上げられた彼の口から苦悶の咆哮が部屋中へとこだました。
「ぐあぁっ!! 」
 唇を喰い破って口角から流れる血の色が赤い、悔しさのあまりに噛んだ唇の血の味を味わいながらマークスに起こった変化を見守るアデリアにはその正体に心当たりがある。それは自分が喰らった物と同じ奴だ。
「 ” 暴徒鎮圧用の特殊弾頭・テイザーエクスレップと呼ばれるスタンガンで最高出力は百万ボルト。伝説の脱出王、かのハリー・フーディーニですら逃れる事は不可能だ。鍛え上げた自らの筋肉がそのまま拘束具となって自らを締めつけるのだからな。もちろん一発では命に別条はないのだが ―― ” 」
 再び男の声を遮る発砲音と共に食い込む弾頭、剥がれ落ちた弾頭部のラバーが中に隠された電極を剥き出しにしてマークスの筋肉へと突き刺さる。倍加された電圧が彼の口から悲鳴すら奪い去った。
「 ” …… 後何発で彼の心臓はとまるのかな? ” 」
「殺してやるっ! 」
 顎から滴り落ちるアデリアの血が膝頭を赤く染める、彼女は背後の鏡を殺意の籠もった形相で睨みつけながら憤然と吼えた。
「もしマークスが死んだらお前達を殺してやるっ! どんな事があっても何があってもあたしはお前達を許さないっ、必ず ―― どんな事をしてでも地の果てまででも追いかけて、絶対に一人残らず息の根を止めてやるっ!! 」
「 ” 『鬼姫』の口からその宣託が為されるとさすがに信憑性がある、だが ” 」
 再びの発砲がマークスを襲う。もう人としての動きとは全く違うリアクションを続ける彼に意識はない、着弾のショックと電撃の痙攣が混在するマークスのあり様を泣きそうな目で見つめるアデリアに向かって男が言葉を続けた。
「 ” 交渉の主導権はこちら側にある。君に出来る事は私達に協力して彼の命を救うか、彼の死をここで見届ける事か ―― 二つに一つだ ” 」

 血走った目に充満する殺意が長い睫毛と共に閉ざされて深い皺がアデリアの眉間に刻まれる、やり場のない怒りが彼女の全身を小刻みに震わせて今にも爆発しそうだ。だが彼女にははっきりと分かっている、男の言う事に間違いの欠片すらもないと言う事を。
 囚われの身である自分がマークスに対してできる事、彼の命を救う為に出来るただ一つの事。
 自分の正義を、自らの手で穢すしかないと言う事。

 ―― ニナさん ―― 

 項垂れて垂れ下がった栗色の長い髪の影で零れ落ちた音の無い声、それが彼女の中で幾重ものさざ波となって昨日のニナを浮かび上がらせる。
 彼女も、そうだったのか。
 伍長の命を救う為に、自分の心を裏切ったのか。
 彼を助けられるのが今あたししかいないと言う事と同じ様に、伍長を助けられるのは自分しかいないと知ってそれを選んだのか。

 なぜこんなにも世界は不公平なのだ、なぜこんなにも世界は残酷なのだ。
 あのにやけた男の面に自分の正義が正しい事を証明したかった、あの日の自分が間違っていない事を証明したかった。だが結果はどうだ、結局奴の言う事はなにも間違っていなくて自分は自分の間違いを証明する為にオークリーと言う最果ての地で一人もがき続けていただけだ。
 これがあの日のあたしに世界が突き付けた答えなのか、意識を失ったあの男を蹂躙し続けるあたしの腰に縋りついて詰る様に怒鳴った彼女の言葉が正解だったと。

 ―― アデリアの様に正義を語る偽善者がいつかまた犠牲者を生むのよ! この人殺しっ!! ――

「 ” 伍長、答えは? ” 」
 静まり返った部屋の中に突然響いた男の声でカッと目を見開いたアデリアに選択の余地はなかった。俯いたまま自分の膝へと零れていく大粒の涙の行方を眺めながら彼女は振り絞る様な小さな声で言った。
「 …… 言う、通りに、する」
「 ” ―― よく聞こえない、もう一度。はっきりと声に出して宣誓しろ、協力するか否かイエス・オワ・ノウ? ” 」
 突き刺さる様な男の言葉がアデリアの良心を抉る。身体の奥底で起きた苦痛に苛まれながら、それを振り払う様な大声で彼女は叫んだ。
「言う通りにするっ、するから彼は、マークスだけは助けてっ! お願い、あたしはあんた達の言う事なら何でも聞くからっ! 」
 髪を振り乱して大声で答えたアデリアの口から零れ出す嗚咽が白い部屋に流れた。たとえ世界を敵に回しても、マークスを敵に回したとしてももう構わない。マークスが生きてさえいてくれれば、あたしはそれで。

「 …… あれは、誰だ? 」
 唐突に背後で起こったその呟きに、自分の役目をほぼ九分通りに完遂したタリホー1は驚いて振り返った。彼の眼の中に姿を晒したラース1、しかしそこには自分がおよそ窺い知る彼の姿を見てとる事は出来ない。まるで予期せぬ事態に遭遇しておろおろとうろたえる ―― そんな顔を彼と自分はさっきまで大勢見ていた筈だ ―― 民間人の様な表情で彼の方へと歩み寄ったラース1はそのまま脇を通り過ぎて、自分達とアデリアを隔てるマジックガラスへ手を着いた。
「ただの小娘の様じゃないか、俺がお前に期待していたのはそんな事じゃない」
 縋る様な眼で小さく頭を何度も振りながら目の前で繰り広げられる感傷劇メロドラマを否定する。余りの変貌ぶりに呆然と見守る彼らの意表を突いて素早い動きを見せたラース1は、机の上に無造作に投げ出してあったダガーへと手を伸ばすと鞘から刃を引き出した。彼の部下がそれを止めるには遅きに失した、ラース1から放たれるおぞましい狂気は既に彼の瞳へと住まいを変えて辺りを席巻する。
「奴を、捨てろ。ゴミの様に、屑のように。俺の股間を蹴り潰した時のあの顔で」
 光を受けた刃が眩しく光を撒き散らす、表面に映った自分の顔を舐める様に睨んだラース1の表情が引き攣った嗤いへと変化するまでに瞬きの暇もなかった。
「ラース1、落ちついて下さい。あなたはこれから何を ―― 」
「 ―― 何を? 」
 心外だとばかりに語尾を上げた彼は吊りあがった目でタリホー1を睨みつけながら、まるで自分の心を言い聞かせる様に答えた。
「 …… 俺の女に教えてやるのだ。お前のいるべき世界はそんな場所ではない、とな」
 彼の言葉に込められた意味を理解出来ずに、石のように固まったまま佇む三人の間へと割って入ったラース1は隣とを隔てるドアの取っ手に手をかけるとそのまま勢いよく押し開いた。

 気配すら隠そうともせずどかどかと押し入る男の姿にアデリアは顔を上げ、そして目出し帽を被った男はその表情が見えないにもかかわらず明らかな狼狽を露わにした。涙が溢れた目を拭う事も出来ずにその狼藉者の影へと必死に目を凝らそうとする彼女に、ラース1は自分の素性がばれる事などお構いなしに強い口調で言い放った。
「お前があのアデリア・フォスだと言うのか」
 その声を耳にした途端にアデリアの心臓がこれ以上無いほど大きく鳴った。まさかそんな筈はないと自分の記憶を疑い、しかしあの日に聞いたあの声を二度と忘れる訳がないと信じる彼女の葛藤が感情を揺さぶる。ぼやける視界の中に浮かびあがった、昔よりもやつれた男の顔を呆然と見上げたアデリアは心に浮かんだその名前を恐る恐る口にした。
「 …… ヴァシリー・ガザエフ大尉? 」
 その名を聞いて驚いたのはむしろ彼を引き止めようとして、後からぞろぞろついて来たタリホー1達の方だった。ここにいる誰も知らない筈のラース1の名前を疑いもなく口にした捕虜、そして彼女の妄想が生み出した産物だと思ったその言葉を何の抵抗もなく受け入れるラース1の態度に。驚きで血のにじむ唇を半開きにしたまま見上げる彼女の顔を首を傾げて眺めるラース1はおもむろに目を細めた。
「なぜティターンズのあなたがここに ―― 」
「なぜお前はそんなに堕落してしまったんだ」
 アデリアの問い掛けを拒むようにラース1は言葉を吐き捨てた。湧き上がる負の感情を堪える為に彼の手が力強く握り締められ、手の中の刃が白い部屋の明かりを跳ね返してアデリアの目を奪う。
「その縋る様な眼は何だ? 助けてくれと請うその言葉は何だ? あの時そう言った兵士の股ぐらを踏み潰したお前は一体どこへ行った? 」
 立て続けに迸るラース1の質問にアデリアは戸惑った。彼女はその時の事を何も覚えてない、ただ湧き上がる怒りに任せて死に物狂いで戦い続けただけだったのだ。てっきりその時の恨みを晴らす為に彼がここにいるのだと理解しようとしたアデリアだったが、ラース1の表情へと目を向けた彼女がその答えに疑問を投げかけた。それを口にした彼自身がそう言う顔で彼女を見下ろしていたからだ。迷子になった子供の様に今にも泣き出しそうな顔でアデリアとの距離を詰めたラース1は情けない顔をアデリアの眼前へと突き付けた。
「あの時のお前はとてもいい顔をしていた、すごくいい目をしていた。自分の前に立ち塞がる者を何の斟酌も無く薙ぎ払い叩き潰す、絶対的な正義の代人として俺の前に現れた。お前の手で俺は裁かれお前は俺の罪を抱えて俺の前から姿を消した。俺はお前を探していた、俺の中に未だに残る最後の悪魔の御遣いを俺の命と共に消してもらう為に」
「一体何の事を。それにあたしはあの時の事を何も覚えてない ―― 」
「俺は覚えている、お前が見せた正体をその時の俺だけが知っている」
 彼女の言葉の惰気を払うようにラース1の目が彼女の瞳を射抜いた。恐怖に打ち震える光彩を憎むように睨みつけた彼は、目の前にあるそれを否定する様にゆっくりと首を振った。
「 ―― そうじゃないアデリア・フォス。お前の中にそんな物があってはならない、お前はお前の中の正義を振り翳してお前が感じる悪を誅殺し続けなければならない、お前の全てを犠牲にしても」

 息も絶え絶えに横たわるマークスの姿を値踏みをするように一瞥をくれたラース1がぽつりと呟いた。
「お前を堕落させたのはその男か? 」
 黄泉の底から溢れだす瘴気を彷彿とさせる低い声はアデリアの恐怖を更に掻き立てる。ラース1は彼女の目の前に突き付けていた顔をゆっくりと持ち上げると手首を返してダガーを逆手に持ちかえた。
「この男さえいなくなればお前はまた、あの日の顔を俺の前に見せてくれるのか? 」
 殺意を込めた次の一歩と共にアデリアの鼓動がドクン、と大きく鳴った。あまりの激しさに喉の奥が苦しくなって吐きそうになる、明らかな目的を持って歩を進めるその背中に向かってアデリアは必死に懇願した。
「やめてガザエフ大尉っ! あたしは何でも言う事聞く、あの日の恨みなら今ここで晴らして貰って構わないっ! だから、だからその人だけは助けて、手を出さないでっ! 」
「それが間違っていると言う事になぜお前は気付かないんだっ!? 」
 ガツンと足を止めて全身を震わせるラース1、煮え滾る怒りをオーラの様に纏わりつかせて彼はあらん限りの力で吼え立てた。
「なぜ軍を止めなかった、なぜお前は軍に残ったっ!? 自分の正義を証明する為にお前は俺と同じ世界に残ったんじゃなかったのか!? 死でしか償えない俺の罪を徹底的に暴きだし、安らぐ事のない呪いと罪を全て清算する為にお前は辞めようとはしなかった。お前しか俺を救えない、解き放てないっ! 友や仲間を全て見殺しにした哀れな俺の穢れ切った魂を! 」
 それは恫喝でも慟哭でもなく、ただひたすらラース1の心の奥底に眠っていた望みだった。憐憫を請うように泣き叫ぶ彼の姿はもう誰の目にも、あの優秀だった士官としての面影はない。道に迷ったまま行き場すらなくした哀れな旅人が道標を探してうろたえる様にしか見えなかった。
「お前を殺す、誰が!? お前を殺すのは俺だ、そしてお前が俺を殺すんだ。あの日の様に阿修羅の顔で、眩しくて目を逸らしてしまうくらいに鮮やかな正義を高らかに掲げて俺を殺せっ! そして俺からもぎ取ったお前の罪でお前が穢れてしまわない様にきれいなままで俺が殺すっ! だからあの日のお前が俺には今必要なんだっ! 」
 ラース1の気配が混迷の淵を抜けて狂気へと変貌するのが分かる、突き動かされた足でそのまま真っ直ぐ前に横たわったままのマークスの元へと辿り着くと彼はマークスの銀の髪を掴んでその首筋を刃の前へと晒した。
「お前を穢す物はどんな物でも容赦しない、その為には何でも奪う、誰でも殺すっ! こんな凡百の若造ごときに ―― 」
「やめて大尉っ!! 彼を殺さない ―― 」
「 ―― 俺の安らぎを奪われてたまるものかぁっ!! 」

 まるでスローモーションのように映り変わる景色の中でただその刃の煌めきだけがアデリアの目を捉えて離さない。一瞬先の未来や一瞬前の過去が何かの間違いであってくれと心底願う彼女の祈りに反して、時間はただその事実へと至る経過を刻々と映し出す。銀色の光が無影灯の光を撒き散らして大きく天を目指す、その頂点から真っ逆さまに降りて来て止まった先に彼女の絶望がある。
 この痛みもこの苦しみも全て夢であってくれと。今日の事はただの悪夢で悲鳴と共に飛び起きたらそこはいつもと変わらぬ日常で。シャワーを浴びて着替えたらいつものように彼がいらいらしながら宿舎の出口で待っていて、ハンガーには隊長とニナさんとモウラさんと整備班のみんながいて。
 だが目の前で起こる現実を否定する事も忘れて大きく見開いた瞳が一瞬先の未来を予言する、喉を大きく切り裂かれた自分の最も大事な物が手の届かない遥か遠くへと旅立っていく光景を。全てが壊れて消えて無くなった後に残る物は何だろうか、そう、それはきっとこの男が正義と信じて疑わないあたしの絶望と狂気。

 言葉にならない叫喚が彼女の喉から迸る、タリホー達は事の進捗に着いていけずに置き去りになる。もう誰の手も届かないマークスの命とラース1の刃はその結実に向かって一瞬の時を駆け抜ける。
 
 光だった。
 立ち尽くしたままのタリホー達の間を突き抜けた光が真っ直ぐに、そして膨大な数の光を振り撒きながらものすごい勢いで飛び去る。鈍い風切り音を放ちながら彼らの膝元をすり抜けたその物体は、今まさに喉へと突き刺さらんとする鋭い刃をその持ち主の腕ごと引っ叩いて吹き飛ばした。骨にまで達する激痛に悲鳴を上げたラース1が思わず右手を押さえてマークスの身体から離れる、彼の野望を阻止したその塊はそのまま対面の白い壁の激突して大きな残響音と共に砕け散った。
 白い壁に琥珀色の大きな染みと独得の臭気を放ちながら。
 
 砕けたガラスが無数に床へと散らばり、様々な色を跳ね返して白い壁を彩る。バーボンの臭いが充満する室内で何が起きたのかも分からない彼らに向かって、静かな男の声が背後から届いた。
「 …… 後で、買い直さなきゃな」
 我に返って振り返る彼らの目に映った者、その男は洗い晒しの白いTシャツに太い束の筋肉の繊維を浮かび上がらせてカーゴパンツのポケットに片手を突っ込んだまま無造作に立っていた。髪の毛と同じ色の憂いを帯びたその目が圧倒的な迫力で彼らの心を締め上げる、そして絶望の淵から奇跡的に生還を果たしたアデリアだけがその声に聞き覚えがあった。
 たった一言だったけど、忘れもしない。なぜあなたがここに ―― 
 男は不審者の存在など意にも解さずその現場へと足を踏み入れた。まるで船の舳先にでも切り裂かれる様に左右へと分かれるタリホー達を尻目にアデリアの傍へと近づいた彼は、足元に転がっているカラスの破片を取り上げると椅子と彼女を繋ぐ縄をいとも簡単に切り離した。男の目的が明らかになった瞬間に我を取り戻したタリホー達が一斉に阻止の行動へと移ろうとする、だがそれは不可能だった。
「これ以上、彼らを傷つける事は許さない。 …… 『弟』と『妹』を返してもらう」
 コウは振り向きざまに鋭い視線を向けて彼らの機先を制すると、断固とした態度と口調でタリホー達に言い放った。

「こ、これは軍の作戦行動だ。いかなる場合においても民間人の介入は容認されない、お前のやっている事は極めて重大な妨害工作に相当する」
 足を止められたままのタリホー1がなけなしの知恵を振り絞ってコウの行動を阻止しようと試みる、だが彼はその忠告にも耳をかさずにアデリアの身体を椅子から肩へと担ぎあげるとそのままマークスの傍へと歩み寄った。横たわったまま意識を失っている彼のベルトに手をかけるとそのまま手荷物の様に片手でぶら下げる。
 まるで重力を無視したその光景に思わず目を見張るタリホー達、コウは彼らの開けた道をそのままとって返すとそのまま隣の部屋へと通じるドアへと向かった。中へと足を踏み入れ、人気のない事を確認すると二人の身体を床へと横たえて再びドアへと踵を返す。コウが外へと出る間際に内鍵のボタンを押しこむ音をアデリアは聞いた。一人で彼らの前に姿を現したコウが後ろ手にドアを閉める、カチッと言う音と共にドアはロックされてコウは退路を失った。
「軍、だって? 」
 タリホー1の忠告に向かってやっと反応したコウが相手を非難する様に言う、戯言紛いのその台詞に向かってコウは鋭い視線と共に言葉を続けた。
「君達が拷問していた相手は立派な連邦軍正規兵だ、それを軍事行動だと言う限りは君たちの素性はジオンの兵士か? 」
 ぐっと言葉に詰まるタリホー1、いかに部外者と言えども余分な情報を与える事は自らの命取りになりかねない。口を噤んだままじりじりと間合いを詰めようとするタリホー達に向かってコウは言った。
「俺は民間人だ。俺が君たちに手が出せない様に君たちも民間人である俺に手は出せない、それを行えば君たちは軍事法廷ではなく民間の法廷で刑事裁判にかけられる事になるからな。だが軍人である以上命令は絶対に遂行する義務がある、このまま彼らを見逃すわけにもいかないのだろう? 」
 コウの目が壁に当たって砕け散ったバーボンの残骸へと向けられる、彼の言葉が理解出来ないタリホー達はお互いに顔を見合わせて次に取るべき行動を思案している。
「たった一つ、軍人と民間人が唯一傷害で裁かれない事例が存在する。 …… それは酒の席で起こったいざこざだ」
 未だにコウに向かって疑問の目を向ける彼らに向かってコウは何かを決意する様に一つ大きく息を吸い込むと、そこにいる誰もが想像もしなかった答えを彼らへと投げかけた。
「 ―― 一つ、ゲームをしよう」



[32711] Expose
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/08/05 13:34
 セシルはモラレスと言う医師の能力と実力を高く評価している。彼が下す診断や患者や怪我人の症状に対する分析にはほとんど間違いがなく、それは一種の予言のようだと感じることさえある。
 一年戦争も含めて彼自身が積み上げた救急救命のスキルと知識はその分野でほぼ頂点に位置し、しかし彼はティターンズのやり口に異を唱えて今ではオークリーの一軍医に甘んじている。本来ならばダカールにある行政特区の中にある邦立記念病院のどこかの長にでも収まっていてもおかしくない階級と経歴の持ち主であると言うのに。
 その彼がコウのスカウトに懐疑的だった理由は戦闘時における無反応状態の発生とその要因となる体内麻薬の存在による物だった。確かにあのデータはその事実を裏付けているしモラレスが反対するには十分な根拠となる、彼の医師としての心情やスタンスを知るセシルやヘンケンがそれに対して徹底的な反論を試みる事ができなかったのは彼を信頼するがゆえの事である。
 だが、これは何だ?
 瓦礫の上に突っ伏したまま嘔吐を繰り返す ―― いやそれはもう嘔吐となど呼べる状態ではない。全身の力を総動員して体の中の物を全て吐き出そうとしているようにも見える、空気すらも残らず吐き出してしまったコウの顔色は蒼を通り越して今では紫色に変わっている。チアノーゼによる筋肉の痙攣が全身へと伝わって彼の身体は高熱に浮かされた患者のようにカタカタと震え、全身から噴き出した油汗が白いTシャツを重く濡らしてぽたぽたと地面に滴り落ちる。あまりのコウの姿に一瞬声を失っていたセシルが我に返ったのは、彼の頭上で未だに大きな鋼板を支えていたパワーローダーがみしみしと嫌な音を立て始めた時だった。
「ウラキさんっ! 」
 慌てて傍へと駆け寄ったセシルの手がコウの腕を掴む。並の女性よりは遥かに強い彼女の力でも大の男を引き摺るには手に余ると思われたがコウは彼女の力に抗えないほど弱っていた。ぐらりと動く身体を力いっぱい引っ張って何とかこの危険な場所から連れ出そうとするセシル、しかし彼女の試みはあと一歩のところで思わぬ抵抗によって阻まれた。
 パワーローダーの脚部フレームをしっかりと掴んだコウの右手だけがセシルの救いを頑なに拒み続けている。
「ウラキさんっ! 手を離して、早くっ! 」
 思わぬ事態に叫びながら必死でコウの手を引くセシル、しかし彼の身体は微動だにしない。意を決した彼女がフレームを掴んだままのコウの右手に取り付いて固く結ばれた指を一本一本引き剥がしに掛かった。既にモーターの焼け焦げる匂いと不安定な騒音が辺りに充満して、そのパワーローダーの耐久限界が差し迫っている事をセシルに教える。
 もう時間が ―― っ!
「えいっ! 」
 最後まで食い下がったコウの指をやっと外したのと同時にローダーの駆動モーターが火花を上げて息の根を止めた。邪魔者を排除した何十トンもありそうな鋼板が遂にその牙をむいてコウとセシルに襲いかかる、ミシミシメキメキと言う身の毛もよだつような破砕音は徐々に二人の頭上へと迫っている。コウの身体をその場から遠ざけようと全ての力を足に籠めて引きずるセシル、だがその瞬間逃げ出そうとした彼女の片足が何かの力で地面に縫い止められた。
「!? 」
 異常な事態に足元を見下ろしたセシルの目に血だらけの手が飛び込んで来た。瓦礫の隙間から伸びる様に生え出たその手は彼女のパンツの裾を千切りかねないほど強い力で握りしめている、一瞬で全ての状況とこの後に起こるであろう悲劇の未来の選択肢を思い描いた彼女の瞳がその手を凝視して僅かに揺らめいた。
「た、たすけて ―― 」
 男の声か女の声かも分からないうめき声は瓦礫の奥深くから、耳を埋め尽くすほど大きくなった破壊音に負けない生きる事への渇望。セシルの目に浮かぶ焦りと悲しみと苦悩、だがそれは刹那にも至らぬ微かな刻みの間合いに過ぎなかった。
 全身の力をその足に溜めた彼女は次の瞬間、思いっきり足を引き抜いてその救いの手を振り切った。

 額に置かれた冷たいタオルの感触はコウの意識を急速に混沌から引きずり上げつつある、僅かな身動ぎからそれを感じたセシルはベンチの脇に置かれた花壇のレンガに腰を降ろしながらそっと声をかけた。
「なぜあんな事に? 」
「 …… 駄目だったんですね」
 セシルの問い掛けには答えずにコウはそう言ってゆっくりと重い瞼を開いた。彼の内から込み上げて来る悔しさと悲しさ、それを覆い尽くす様に黒い瞳へと現れる空しさがその表情を鈍く曇らせる。その表情を何も言わずにじっと見下ろすセシルを避ける様にコウは再び目を閉じた。
「もう俺はモビルスーツには乗れないんです、モビルスーツどころかあんな簡単な作りの産業用機械にまで。身体がそれを感じると必ずさっきみたいな症状が襲ってきて自分ではどうしようもなくなる …… それが俺が軍を辞めた理由です」
 セシルはコウが予備役として軍に残っていると言う事実を知っている、しかし彼が自分に向かって吐いた嘘をただ黙って聞き流した。
「セシルさんはあの時、機械も使わずに麦を育てている俺をすごいと言った、でも違うんです。本当は …… 機械を使う事が怖かった。リハビリの為に買ったあのバイクも最初は手を触れる事も出来なかった」
「でも今では誰よりも上手にバイクに乗る事が出来る。 …… リハビリはうまくいったと思っていいんじゃないですか? 」
「俺もそう思っていました、誰かが乗り捨てたあのローダーに手を触れるまでは」
 コウがベンチの上でゆっくりと上体を起こそうとする、支えようとするセシルの手を目で拒んで彼は自分の掌を何もない目でじっと眺めた。
「俺の手はいつも取りこぼしてばかりだ、誰も、何も …… 救う事すら出来ないのか」

「 ―― だからまだ中に人が残ってるんだって」
 喧騒の中からその声を二人が耳にしたのは周囲の雰囲気にそぐわぬ異和感からだった。同時に視線を向けたその向こうで一人の男がレスキュー隊員と押し問答をしている、オレンジの作業着を身につけた隊員は困惑した表情で男の抗議に耳を貸しながら反論していた。
「もう一階から上の上層階に至るまで私達がくまなく探しましたが、少なくとも自分で歩けるだけの軽傷者はいませんでした。後は地下区画だけですが ―― 」
「だからそっちに三人降りてったんだよ、超可愛い女の子とごっつい男と若い兄ちゃんと。若い兄ちゃんは大きい鳥の部隊章の付いた軍服を着てたから多分軍人だ、嘘じゃねえよ」
「ですからそっちの捜索は私達じゃなく警察の特殊部隊の管轄になります。テロリストが立て篭もってる可能性がある場所に武器も持たずに進入できる筈がないでしょう? 」
「じゃああんたの言うその特殊部隊とやらはいつ到着して、いつあの三人を助けに行くって言うんだ? 」
 噛みつく男の物言いに辟易した様にレスキュー隊員は、肩にかけたロープの束を担ぎ直して男の脇をすり抜けた。無視された男はそれがまるで公務員の怠慢だと言わんばかりに後を追って、糾弾の声を浴びせ続けながら遠ざかっていく。セシルが気の毒そうな表情でその光景へと目をやっていると、その彼女の耳に突然靴へと足を通すガサガサとした音が飛び込んだ。
「ウラキさん? 」
 その音がコウの足からしていると分かった時には既にコウはブーツの紐を手早く締め上げている最中だった。彼の決断を読み取った彼女がそれを止めようと次の言葉を探す前にコウは、未だに震えている膝で両手を支えて無理やり立ち上がった。
「俺が地下に降りて彼らを探してきます。セシルさんは警察が来たら地下に人が残っている事を知らせて下さい」
「そんな体で? それにそんな危ない真似を何もわざわざウラキさんがしなくても ―― 」
「俺もそう思います。でもさっき誰かを助けられなかったからその罪滅ぼしに今度こそ、と言う訳じゃない」
 コウは買い物袋の一番上に飛び出していたバーボンの首を掴んで引っ張り出した。
「その部隊章をつけているのなら彼らはキースの部下だ、もしあいつがここにいたらきっとそうする ―― 代わりに俺がするのは当然の事です」
 何かを確かめる様に一度足を踏み下ろしたコウはよし、と呟いてベンチから離れた。もう一度思い止まらせようと口を開きかけたセシルは彼の向けた背中から放たれる熱量に声と言葉を失う、座ったまま不安そうな瞳を向ける彼女を振り返ったコウはいつものように儚い笑顔を浮かべた。
「大丈夫、きっと二人を連れてここへ戻ってきます。セシルさんはここで待っていてください、約束ですよ」

                                *                                *                                *

 この状況下で不敵にも提案を持ちかけると言う事は腕ずく絡みの事に違いないと誰もが想像するだろう。挑発とも取れるコウの言葉に身構える男達は反射的に自分の腰へと手を伸ばす、だがそこで彼らは自分達が犯した致命的なミスに気がついた。
 ラース1の執った行動に慌てた彼らは油断したままぞろぞろと彼の後に続いて取調室へと入って来てしまった、コウによって鍵をかけられた事で近接用も含めて全ての武器を隣室へと置いて来てしまったのだ。一瞬にして余裕を無くした彼らがそれを悟られない様に威嚇の面持ちでコウを睨む、しかしコウはそんな彼らの動揺を見透かした様に平然と言った。
「俺はもう不必要に人を傷付ける事をしないと心に誓っている、だからここで君達に対して何かをしよう等とは思っていない」
 真っ白な袖から生え出た浅黒い両腕をズボンのポケットに差し込んで、悠然と顔を上げたコウは彼らを上目づかいに睨みつけた。
「彼らをここから連れ出したいのならば力づくで俺を排除する事だ。ただし武器を使ってはいけない、あくまで君達の腕力だけでだ」
「 …… 随分とおもしれえ事言うなァ、あんた」
 コウの正面で対峙していたタリホー1の影からいかにも好戦的な目つきをした男が顔を出した。背丈はコウと同じ位だがその体つきには無駄な贅肉がない、モビルスーツに乗る為だけに鍛え上げられたその身体を肩から前面へと押し出して、タリホー3のコールサインを持つその男は凄んだ。
「どンだけ自分の体力に自信があるのか知らねえが大の男五人、それも軍人に袋叩きにあって無事に済むとでも思ってンのか? 粋がるのはそンくらいにして早く道を開けた方が身のためだぜ」
 タリホー1を押しのけてずいっと前に出たその男はコウの胸板にドン、と自分の身体をぶつける。だが揺らぎもしないコウの身体を上から下まで舐め上げた男は小さく口笛を鳴らすと、歪んだ笑いをコウの目前で見せつけた。
「ヒュウ、マジかよあんた。マッチョな体に似合わずそう言うご趣味がおありだとはな。ま、長い戦争があったんだ、中にはそういう変態野郎が出てきても ―― 」
 タリホー3の身体が僅かに沈んで重心が下がる、大きく引き絞った右腕が彼の怒鳴り声と共にコウの顔面目掛けて勢いよく解き放たれた。
「おかしかねえけどなあっ! 」

 陸軍の兵士がモビルスーツパイロットを敵視しているのには理由がある。自分達が多大な犠牲を払って勝ち得た戦果を事によってはたった一機で手に入れられる火力と機動力を保持している事が一点、その他に自分達が過酷な環境で作戦に従事しているその頭上を涼しい顔で跨いでいくその姿に遣り切れないほどの妬みを感じるのだ。「椅子に腰かけたままで人殺しをする」と言うやっかみ文句は嘗て陸軍の兵士が空軍の兵士に喧嘩を売る時に使われた常套文句、今はその対象がモビルスーツの兵士に禅譲されているに過ぎない。
 だがモビルスーツを動かすという事は只ならぬ体力を必要とするという事を、当事者以外の者は知らない。絶え間なく全身を襲う振動に揺さぶられる脳、戦闘行動によって発生するGはパイロットの体をまるで洗濯機に放り込んだかの様に蹂躙し、しかし彼らはその過酷な環境の中で常に考え、行動し、成果を上げねばならない。大昔に『パイロットの六割頭』と表現されていた戦闘行動中の思考能力は現在に至っては五割に届くかどうか、だがその有効領域を拡大する為に  ―― 敵よりそれが劣る事があれば、それは即ち自身の敗北に繋がる ―― 彼らは日々過酷なトレーニングを続けて、どの軍の兵士よりも強靭な肉体を手に入れるのだ。モビルスーツパイロットの門戸が他の兵科よりも異様に狭いと言うのはそれが根拠になっている。
 渾身の一撃に会心の手応え ―― タリホー3の経験上その二つが同時に発生する事は数えるほどしか経験がない、どちらか一つの要件を満たせば少なくとも相手を戦闘不能へと追い込めるそれを二重に重ねた自分のパンチが目の前の男の意識を刈り取るには十分過ぎる。思わず不敵な笑みを浮かべた彼は大口を叩いた民間人の後悔に塗れた表情を眺めてやろうとその顔を目で追った。
「 ―― な、なんだ? 」
 その右フックは最も威力のある場所でコウの左頬を捉えている、あとはその力を残らず伝える為にその手を撃ち抜けば事は足りる。だが ―― 
「 ―― ゲーム、開始だ」
 相手の拳をそこに置いたまま、歪んだ顔でコウは告げた。笑みを失い驚愕に小さく口を開けるタリホー3、しかしそれ以上に無抵抗の民間人が放つ強烈な眼光にたじろいだ彼は思わず後ずさりしてコウから距離を取る。拳に残る熱と痛みを覆うように片方の掌で押さえた彼は顔を顰めて呟いた。
「冗談じゃねえ、どうなってンだこいつの身体? 」
 腕自慢のタリホー3が弱音を吐いた事で腰が引けたのは他の隊員達だった。事の重要性を理解している筈のタリホー1ですら目の前に立ちはだかった男の異常な肉体の耐久力にこれ以上の任務の遂行が困難になったのではないかと疑う。だが彼らの中に生まれた惰気を振り払ったのは一番後ろで手首を押さえたまま殺気に満ちた瞳で障害を睨みつける、彼らにとっての悪夢だった。
「殺れっ! 」
 狂犬の様に顔を歪めたラース1がものすごい声で全員の背中を罵倒した。
「邪魔する物は全て実力で排除する、それが俺達の流儀だ! たとえ民間人でも容赦はするな、それともお前達は今ここで俺の邪魔をして仲間の様に殺されたいか!? 」
「 ―― それが君の流儀か? 」

 歴戦の兵士をたじろがせるだけの裂帛の気迫、絶対にただの民間人ではないと彼らに信じ込ませる殺気はラース1の命令を跳ね返してしまう威力があった。コウの鋭い視線がタリホー達の間隙を貫いてラース1ただ一人に注がれた。
「部下を恐怖で縛り上げた上に倫理を捻じ曲げる、そしていいなりになって自分の行いの是非にさえ目を背ける。それが君達の間でまかり通っていると言うのならそれはもう軍じゃない、ただのテロリストの集まりだ」
「貴様などに軍の何が分かる!? 綺麗ごとを並べていくら自分の行いを正当化しようとしても所詮は人殺しの集まりだ、そんな汚い場所に正義や倫理などあるものかっ! 勝った者が、生き残った者だけが死んだ者を貶める事が出来るんだ、自分の罪を正当化する為にっ! 」
「そんな事をして生き残った男を俺は知っている。その男は自分の犯した罪を抱えていた物全てを使って清算する羽目になった、これからも奴は何も手に入れる事が出来ないまま後悔ばかりを繰り返す人生を歩むのさ。そして君にも同じ運命が待っている、自分の命が世界のどこかで閉じてしまうまで」
 自嘲の浮かぶ瞳が激しい気迫を僅かに緩める、まるでラース1の未来を予言するかのように告げるコウの頬をその時一つの拳が襲いかかった。再び猛烈な首の力でその威力を全て受け止めたコウが、自分に拳を向けた相手の顔をじろりと睨む、そこには必至の形相で彼の預言を阻止しようとするタリホー1の顔があった。
 たとえどんな恐怖を植えつけられたとしても自分達が選んだ行動をテロリズムと蔑ませる事は出来ない、ショッピングセンターの爆破も連邦軍兵士の拉致も拷問も全ていいなりになって嫌々行った訳ではない、全て自分達がそれが正しいと信じて行った事なのだ。それを通り一辺倒の正論で論破されては自分達の存在意義を疑う事にまで発展しかねない、そうなる前にその口を二度と開かなくなるまで叩き潰さねば。
 タリホー1の行動は他の隊員の心の中で巣食っていた善悪のたがを外した。突き動かされる様にコウへと駆け寄った兵士達は声にならない叫びを上げながら火の出る勢いで襲いかかった。

 数えきれない蹴りや拳がコウを削る為に放たれる、だが彼らの渾身の一撃は全て鍛え抜かれた筋肉の鎧によって阻まれた。無論顔は腫れあがり瞼は切れ、夥しい血が頬を伝って彼の白いTシャツを真っ赤に染める、しかしその両足は根が生えた様に白い床を捉えたまま離さない。腫れあがった瞼から覗くその眼光は何者にも穢されぬまま気高く、そして鋭利な刃物の様に鋭く彼らの姿を睨みつける。
 防御を捨てたコウの剥き出しになった急所へと何度も何度も拳を叩き付けるタリホー達は自分達が彼に与えている以上の苦痛を自分達が被っている事に既に気付いている。関節は熱を持ち、手の甲は腫れあがって痺れたまま感覚がない。だがそれでも彼らは憑かれた様に同じ事を何度も繰り返した。そうしなければ自分達のここにいる意味がなくなってしまう事を知っているからだ。
 タリホー3の会心の一撃がコウの脇腹へと炸裂する、それは彼が自分の痛みの限界を超える事と引き換えに放った拳だった。だが肝臓の上へと間違いなく突き刺さった筈の手にはまるで鉄板を殴った感触と衝撃だけが残り、彼の最後の攻撃がコウには遂に通じなかったという事を教えた。苦悶の表情で痛んだ手首を押さえて蹲るタリホー3へと視線を落として、コウは僅かに残る瞼の隙間から光を残す瞳を覗かせる。
「もうそれでおしまいか? 」
「まだだっ! 」
 怯えて縮こまるタリホー3を庇うようにタリホー1が殴りかかった。ガツっという鈍い音がコウのこめかみから鳴り響く、それがコウのやせ我慢が限界へと到達した瞬間だった。屈しなかった首が大きく曲がって頭を揺らす、瞳の輝きを瞼の裏側へと隠して膝を揺らしたコウを見てタリホー1は叫んだ。
「見ろっ、いくら頑丈でもこいつは化け物でも何でもない、ただの人間だっ! 一気に畳み込め、さもないと ―― 」
 呼びかける前に最後の勇気を振り絞った隊員達がコウに目がけて群がった、もうそこにラース1に対する恐怖はない。
 自分達が兵士である事の証明、それを否定した男を討ち倒して取り戻さなくてはならないと言う義務感が彼らを突き動かすたった一つの糧だった。負ける訳にはいかないのだと言う執念が彼ら手足を無我夢中で動かし、それに屈する様にコウの身体は少しづつ、しかし着実に床までの距離を縮めつつあった。
 
 遂に朽木が斃れる様にコウの身体は床へと横たわった。目の前に差し出された結果を疑うように見下ろすタリホー達は、しかし勝利者としての高らかな鬨の声も歓喜の雄叫びも上げる事は出来ない。代わりに上がった息を必死で整えながら身動ぎもしなくなったコウの肉体へと怯えた目を凝らした。
「や、やったのか …… ? 」
 誰ともなくそう告げる声は白い部屋の中で空しくこだまする、身体の中の大事な何かを抜かれた様に呆然と佇んだままの彼らの背中に突然ラース1の蔑んだ声が届いた。
「いくら粋がっていても結局はそんな物だ、どんなに強い意志も力もそれを上回る暴力には耐えられまい。力など最後までそこに立っていた者だけが口に出来る権利だ、負け犬はそこで大人しく転がって夢でも見ている事だ」
「 ―― ばかな」
 タリホー1の呟きがただ一人勝ち誇るラース1の表情を曇らせた。彼らの足の隙間から僅かに覗くコウの身体は微かに痙攣している、それは殴り続けられた事によるショック症状が齎した物だと彼は信じていた、いや信じ込もうと自分に暗示をかけ続けていたのか。
 しかしコウの身体はじりじりと動き始める、最初は誰も気づかないほど僅かだった物が呼吸が起こす喉鳴りと共にはっきりと意思を持った動きへと変わる。悪夢を眺める彼らの視界の中でコウは上半身を起こして膝を立て、今にも壊れそうな骨組みを必死の形相で支えながら再び彼らの前に立ち塞がった。
「 …… ま、だだ。まだおれはやれる、この通り立ってる、ぞ」
 真っ赤な血をよだれの様に垂れ流しながらコウは顔を上げて瞼を開いた。腫れあがった両の目が何かを見る事など出来るのだろうか? だが彼らはそんな疑いよりももっと根本的な事実を疑って自問自答を繰り返す、果たしてこいつは ―― 本当に人間なのか?
「ルールを思い出せ、そして続けろ、俺の息の根を止めるまで。それが出来ないのならここから立ち去れ。 ―― 俺は最初にそう言った筈だ」
「 ―― やれ、殺せっ! 殺してしまえっ! 」
 狂ったようなラース1の雄叫びが戦意を喪失したタリホー達の背中へと叩きつけられた。薬物を撃ち込まれた様に一瞬ビクッと身体を反応させた彼らは一様にコウに向かって身構える、だがそこまでだった。
 彼らの心は満身創痍でタリホー達の前に立ち阻む、一人の青年の粉々に打ち砕かれてしまったのだ。距離を詰める事も後ずさりも許されない彼らに出来る事、それはただそこに立ち竦んだまま時が流れていくのをじっと待っている事ぐらいだ。
「どうした、貴様らっ! 殺せと言ったら殺せっ! 俺の命令が聞けないのかっ!? 」
「 ―― 残ったのは君だけだ」
 コウの声の圧力で左右に分かれたタリホー達がラース1までの花道を作る、手を押さえて跪いたままのラース1は呪い殺さんばかりの形相で自分の前に立ちはだかるコウの顔を睨み上げた。
「君達の負けだ、彼らの事は諦めてすぐにここから立ち去れ。俺は彼らさえ無事に基地に帰す事が出来ればそれ以上の事に干渉しない、約束する」
「干渉しない、約束する、だと? 」
 吐き捨てる様に言ったラース1は目にも止まらぬ速さで身体を翻すと壁際で光を放つダガーを掴んだ。刃を上に向けて握り締めた左手が彼の懐に折り畳まれて痛む右手を身体の前に掲げる。
「これから死ぬ奴にそんな事ができるかっ! 」
 彼我の距離を一足長で飛び縮めたラース1のナイフが横薙ぎにコウを襲う、そしてコウの反応は僅かに遅れた。腫れた頬を掠めた光が一筋の血を伴って弧を描く、連撃で繰り出された刃はコウの胸板に大きな裂け目を刻みつける。不意に訪れた痛みに苦悶の表情を浮かべながら、コウはそれでもルールを犯して目的を得ようとする敵の顔を凝視した。
「ラース1っ! 」
 タリホー1は思わず呼んではならない彼のコールサインを口走る、だが殺意に塗り固められた彼の世界をそれが打ち破る事は難しかった。盲執に捕われたその瞳はギラギラと音を立てて、ただ自分の邪魔をするコウに向かって焔を上げる。彼が教わった近接格闘術の全てを使って操るダガーは止まらない、きっとその民間人を殺すまで。

 もう二度と味わいたくないと思っていたあの感覚と予兆、死を予感した瞬間に訪れる悪寒と相反する興奮が稲妻のようにコウの身体を駆け巡る。彼の自我を幾度も奪い、そして気が付いた時にはこんな事を誰がやったんだと思わせるほどの酷い光景を彼の目に焼き付けるあの前兆。刻一刻と止まっていく時間と景色は火のついた導火線の様にそこに至るまでの残り時間をコウに教えた。
 剥き出しになる生への渇望は彼の殺意に火を灯す、更なる成果を求める為になおもその熾き火へと息を吹き込む得体の知れない何かにコウは必死で叫んだ。
 ” ―― やめろっ!! ―― ”

 光の帯を纏った刃がコウの喉元目掛けてひた走る、長い切っ先はそのまま行けばコウの喉笛を頸動脈ごと断ち切って確実な死を与えるだろう。だがそれが彼の皮膚を切り裂こうとした刹那、誰にも予想の出来なかった衝撃がラース1へと襲いかかって軌道を変えた。刃は予想のルートを大きく外れてコウの首にも届かないまま空しく空を切って遠ざかる。
 その右フックは誰にも予想が出来なかった ―― いやそもそもそれがいつ放たれたのか、動きを止めたままの二人の成り行きを見守るタリホー達には分からなかった。必死の間合いに一歩踏み込んだ完璧な右フックは理想的な形でラース1の左頬を捉えて顔形を変えている、カウンターの衝撃をまともに食らった彼の首は身体ごと大きく後ろにずれて一瞬の内に意識を断ち切られている。惰性で振りまわされた右手が大きく肩に廻されたかと思うと力の無くなった掌からダガーが飛んで再び壁際へと転がった。
 まるで糸の切れた操り人形の様に膝を落とすラース1、だがコウは彼がそのまま崩れる事を許さなかった。自分の目の前を滑り落ちようとする首に左手を掛けたかと思うとその一点だけで身体を支える、絞首刑を受けた罪人の様にぶらりと垂れ下がった身体を片手で宙に持ち上げるとコウは止めを刺す為の右の拳を大きく身体の後ろへと引き絞った。
「 ―― もう、いけっ!! 」
 目の前の悪夢に心を奪われて動けないタリホー達に向かって振り絞る様なコウの声が届いた。圧倒的な力の差を彼らの前に示したその処刑人は全身をわなわなと震わせながら用意した最後の一撃を必死で抑え込んでいる、コウの言葉が理解出来ないタリホー達に向かってコウはもう一度、今にも放たれそうな右手を大きく震わせながら叫んだ。
「はやくこの、おとこを、おれからとおざけろ。だれでも、いい、はやくっ!! 」
 それが殺意に憑依された彼に残されるたった一つの理性だと理解したタリホー1が慌てて床を蹴り飛ばす、同時に点火したコウの拳は世界から消える様に構えた位置から放たれた。タリホー1がラース1の身体にタックルするのとコウの拳が彼の顔に届くのとはほぼ同時、衝撃でねじ曲がった頭を抱きしめてタリホー1は上官の身体と共に白い床へと倒れ込んだ。

 それは人の形をした悪魔の様だった。血塗れの口を大きく開けて声にならない咆哮を迸らせる民間人は宙に置かれたままの右手を掴んで自分の胸元へと押し当て、自分の血が滴る床へとゆっくり跪いて全身を震わせる。振り撒かれる狂気が眩く照らす部屋の明かりを翳らせるようにも感じる、その忌まわしい何かに抗うその男は顔を伏せたまましわがれた声で言った。
「たのむから、いけ。早く俺の前から消えてくれっ! そうしないと ―― 」
 後はもう言葉としての機能を果たさない、意味不明の雄叫びを何度も迸らせながら頭を床へと打ちつけるコウの姿を見たタリホー1はそれに続く彼の言葉を想像して身体を起こした。意識の無いラース1の身体を肩に担いですぐさま呆然自失のままコウの背中を眺める仲間達に命じた。
「撤収だっ! 」
 まるで雷に打たれた様に全身を震わせてその叫びに反応する隊員達、注視の目が一斉に集めてタリホー1は立ち上がった。
「これ以上の作戦の続行は無意味だ、退路を民間警察に押さえられてしまう前にここを離脱して拠点に戻る。急げっ! 」
 弾ける様に走りだしてたった一つしか無い出入り口へと駆け出す隊員達が次々に赤い光の射す廊下へと消えていく。ラース1を肩に担いだタリホー1は部屋の扉を潜った後に再び中へと視線を向けて、たった一人で自分達の作戦の全てを水泡に帰した民間人の姿を見た。
「 …… なんて奴だ、このばけものめ」
 頭を押さえて悶絶するコウの姿に侮蔑交じりの捨て台詞を投げかけると急いで仲間の後を追う。一人そこに取り残されたコウの咆哮が彼の背中にいつまでもラース1が倒された時の恐怖と寒気を刻み込み続けていた。

 彼らの撤収ルートはもう時間的に被災者に紛れこんでの逃亡方法しか残されてはいなかった。邪魔が入らなければ彼女の協力を取り付けた後で拠点へと戻り、そこかで本格的な情報収集へと移る予定だったのだが撤収を決断するまでに予想外の事が起こり過ぎた。時間の経過と共に捜索の手は館内全域に及んで、いくつか予定していた脱出ルートには既にレスキュー隊なり警官なり何らかの目が及んでいるに違いない。だが体中に汚れを擦り付けてよたよたと階段を上がっていけばとりあえずは被災者として外部へと連れ出してくれる、そこから先は自分達の力量でどうにでもなるとタリホー1は踏んでいた。
 コウの咆哮が木霊する赤い廊下をひた走るタリホー1の向かう先は非常階段の出入り口、だが彼の足は明らかにその手前で足を止めて固まった仲間達の背中に止められた。
「おい、どうしたっ! 早く非常階段を上がって上の階に行かないと ―― 」
「 ―― 貴様が指揮官か? 」

 それは背後で泣き叫ぶ男の声よりもはっきりとタリホー1の耳に届いた。驚いて男達の背中を肩で押し退けると、非常階段の扉の前で立ち塞がる様に立つ女性の姿がある。両腕を胸の前に組んで遥かに高い上背の彼らを睨み上げたままのセシルはその眼光だけで彼らの足をその場に縫い付けたのだ。
「な、何の話です? 俺達は駐車場で生き埋めになりそうな所をやっと抜け出してここまで逃げてきたのに」
「下手ないい訳だ、それに ―― 」
 作り笑いで嘘を並べ立てたタリホー3へとセシルの冷たい声が飛ぶ、竦み上がる様な殺気を放つその目と指揮官特有の強い口調が彼の口を無理やり閉めた。
「坊やには聞いてない」
 一蹴されたタリホー3の顔色が変わる、だがセシルはそんな事は歯牙にもかけずに一歩前へと足を踏み出した。まるで見えない壁に押されたかのように後ずさるタリホー達を尻目に彼女は、ただ目の前に立つタリホー1に向かって声を放った。
「大人しく質問に答えろ、ここに来た民間人はどこにいる? 」

 ラース1が持っている物とは違う強制力、しかしその声には抗い難い力があった。軍人である限り命を賭けても守らなければならない命令を伝える為に特化した声音と百人単位の兵士が束になって掛かっても敵わないと思わせるだけの圧倒的な気迫は紛れもなくあの一年戦争を戦い抜いた兵だけに許された物、そして彼女はきっと戦史に名を残す戦歴の持ち主に違いない。幾度も主を変えて戦場を渡り歩いたタリホー1は彼女の命令に必死で抗いながらそう思った。
「し、しらないっ、俺たちはたった今 ―― 」
 締め上げられるような声で本能に逆らってそう告げるタリホー1の顔をセシルの眼光が槍の様に刺し貫く、見えない痛みに耐えかねて目を閉じそうになる彼に向かってセシルはそれまでにない低い声で唸る様に言った。
「この声の主が、彼か? 」
 ずい、と踏み出す更なる一歩に彼らは彼女との距離を開かざるを得なかった。全員でかかれば他愛もなく捻じ伏せられそうなその華奢な身体は鋼鉄の壁となって彼らの心へと押し寄せる、数の力という拠り所に縋っているタリホー1が肩に担いだラース1へと目をやった。彼ならばこういう時にどういうアクションを選択するのか、服従か、否か?
「 ―― どけ」
 
 セシルから放たれたそのたった一言がタリホー1に残されていたプライドをへし折った。よろめく様に壁際へと身体を寄せた彼の傍を、肩まで伸びた髪を揺らしながら颯爽と歩み過ぎる彼女の横顔は妖しいまでに美しい。鳴り響く靴音に耳を奪われながら後ろ姿を見送るだけの彼らが、何故か命拾いに安堵する溜息をついた瞬間にセシルが突然足を止めた。
「もし彼に何かがあったとしたら、貴様らは私の前に二度と現れない方がいい」
 思わず息を呑んだ彼らに向かってセシルがその細い首をゆっくりと廻して振り返る、そこに浮かんだ凄絶な表情に彼らは心まで凍らせた。それはさっきの男に勝るとも劣らぬ殺意を秘めて、まるで命の値踏みをするように彼らの顔を一人一人順番に見据えている。お前達の顔はもう覚えたと言わんばかりに一つ瞬きをしたセシルはその顔を元の位置へと戻してからコウの叫びが漏れ聞こえる廊下の先へと目を向けた。
「今まで生きてきた事を心の底から後悔するくらいに」
 その声は人の声には聞えなかった。原初の罪を暴く断罪者しか持たない非情な声は、百戦錬磨を標榜していたであろう彼らの過去を蔑むように嘲笑う。大事な物を抜き取られた様に呆然と佇む彼らは魅入られた様にその声に耳を傾けざるを得なかった。
「 ―― 切り刻んで、殺してやる」

 揺さぶられる自我と殺意の板挟みに翻弄されたコウは自らに与えた痛みによってようやく我を取り戻しつつあった。額を何度も床に打ちつけたおかげで顔の腫れは酷くなったが、その代わりに暗い淀みに絡め獲られていた自分の意思がはっきりと自覚できる状況にまで回復している。途端に襲いかかって来るダメージによる痛みに顔を顰めて上体を起こした時、コウは自分に向かって歩み寄る足音に気が付いた。
「まさか無抵抗とは。ずいぶんと男前にされましたね」
 どうして一人でここへ、とコウが問いかける前に彼女は呆れた口調でコウの行いを評価しながら腫れた部分を優しくなぞった。人は何らかの危機に瀕した時先ず反射的に頭を守る様に行動生理学上出来ている、それは恐らく遺伝子に刻みこまれた防衛本能から由来している物なのだが、セシルはコウの顔に刻まれた打撲跡を見ただけで当たり前のその事を拒絶したのだのだと悟った。でなければここまで顔形が変わる事など考えられない。
 セシルの洞察が図星である事を証明する様にコウの顔が歪んだ。多分笑ったのだろうが顔中の筋肉がうまく連動していない、顔を汚している血をそっとハンカチで拭おうとするセシルの手を止めたコウは腫れあがった瞼を僅かに開いて辺りを見回した。
「連中は? 」
「慌てて逃げて行きましたよ、一人担がれたままでしたけど」
 コウにそう告げながらセシルは壁際に転がっているナイフへと目を向けた。どうやら完全に無抵抗と言う訳ではなく自分の命を守る為にやらなければならない事を最低限行ったらしい、モラレスが語った「無自覚の自殺願望」は彼の深層心理に刻まれた物ではなくもっと浅い部分にあると言う事実にセシルは胸を撫で下ろした。パワーローダーの傍で倒れていた彼を見た時にはいつか自分自身で死の選択をしてしまうのではないかとその身を案じたが、本当の危機に直面した時に彼のとった行動はそれが杞憂である事を彼女に教えている。
 しかしコウはそうではなかった、セシルの思惑に反してコウは自分が取った行動に恐怖と嫌悪を抱いている。殺意と共に鎌首を擡げる甘美な誘惑は彼の良心をたちまちの内に焼き焦がして別の物へと変貌させた、それの生み出す結果はいつも同じで他人が傷付くか自分を傷つけるかの立場の差異でしかないのだ。今回はたまたまうまくいったが、もし同じ事がもう一度起こったのなら ―― いやそもそも彼らがゲームの続きを続けようとしていたなら自分はどうなっていたのかさえ分からない。知りたくもないと言うのがコウの心境だった。
 悪寒に打ち震える心を押し隠す様にコウは痛んだ身体を押してゆっくりと立ちあがると、唖然と見上げるセシルに背を向けると彼の足は何かを思い出した様によろよろと隣の部屋へと続くドアへと向かった。肩を貸そうとするセシルの勧めを断ったコウはドアの前で立ち止まると静かにドアをノックする、だが意識があった筈のアデリアからの反応は帰ってこなかった。
「 …… まずいな、こっち側には鍵がない。彼女の意識が残ってたから何とかなると思ってたんだが ―― 」
 困惑するコウは望みを託してドアノブに手を掛けて思いっきり捻ってみる、しかし頑丈な金属製のロックはさすがのコウの力でもびくともしない。途方に暮れたコウの背後からセシルがつい、と歩み寄ると目配せを一つしてドアの前にしゃがみこんだかと思うと髪の毛を止めていたピンを抜き出して器用に曲げ直した。伸ばした先端を鍵穴に差し込んで感触を指先で確かめながら奥まで押し込むとそっと手首を返して指先を廻す、ほんの一挙動で堅牢を誇るドアロックはセシルの手品の前に陥落した。
「これくらいできなければ、あの人ヘンケンと一緒になんていられません」
 唱えたジョークに唖然とするコウを尻目にセシルは隣の部屋へと足を踏み入れた。慌てて後を追ったコウはすぐに意識があったまま運び込んだアデリアに何かあったのかと足を向けたが、そこには既にセシルの姿があった。彼女はアデリアの頸動脈に指を当て、次に胸の動きをじっと観察していたかと思うと溜息をついた。
「どうやら気を失ってるだけみたいですね。ウラキさんが助けに来て張りつめてた気が一遍に緩んだんでしょう。 …… そちらの方は? 」
「脇腹の辺りに酷い裂傷がありますが、出血の割に傷はそう深くない。何かのショックで気を失ってるんだと思います」
「まあ」
 ぽつっとそう言うとセシルはすっと立ち上がって、足元ですやすやと眠っている二人の顔を交互に見比べてからぽつりと呟いた。
「連邦軍の士官が、なんて情けない」
 どうやら彼女の物差しの中にはこの程度のピンチなど物の数ではないようだ、コウは顔色一つ変えずにてきぱきと二人の戒めを解くセシルを眺めながらそう思った。一年戦争の経験者とそうでない者との間には全く違う世界観が存在する、とコウは以前アルビオンの戦闘指揮官であったバニング大尉から聞いた事がある。事実一号機の専属パイロットの座を掛けてモンシア中尉と模擬戦を行った際には彼の仕掛けた柔軟の戦略に悉く翻弄されたものだ、そういう意味では自分もセシルから見ればここで気を失っている二人と同じ様に映るのかもしれない。
「さて、これからどうしましょう」
 アデリアとマークスの手足を全て解き放ったセシルが立ち上がりざまに尋ねた。
「多分彼らはこのまま上の階で被災者のふりをして救助を待つつもりですね。わざわざ後を追う事もないでしょうし下手に見つかって後でもつけられたら意味がない、帰る場所が分かってるのなら道順だけでも変えないと」
「しかし軍の行動だと言うのなら恐らくオークリーまでの帰路も彼らは把握しているでしょう。いったんはどこかで匿って基地のほうから迎えに来てもらった方が安全じゃないですか? 」
 コウの言葉を受けたセシルが一つ頷いてそのまま視線を宙へと飛ばした。一見ぼうっとしている様に見えて、しかし彼女の頭の中は演算装置もかくやと言う速度で思考がフル回転している。彼女と長く付き合って来たヘンケンやドクならばその後に彼女が下す判断の正当性が理詰めのロジックで構成されて一分の隙も見当たらないと言う事を知っている。
「 …… 基地に向かわなければ、いいのですね? 」

 上目づかいで尋ねて来るセシルの表情には人をどきりとさせる要素が多分に含まれている、そしてそれは思いこみではなく事実だとコウは身をもって思い知る事になる。彼女の意見に思わず頷いたコウはその後に続いた彼女の提案に慌てふためいた。
「ではウラキさんの家に」
「ええっ? 」
 思わず自分がオークリーに出入りしてはいけないと言う契約内容が喉まで出かかって、慌ててコウは口ごもった。あたふたとしている彼に向かってセシルはさも当然と言わんばかりにその理由を説明する。
「理由は貴方の家がどこにも登録されていないからです。私の家も考えましたが万が一の事を考慮するならウラキさんの家が一番適している、例え衛星を使っても貴方の家に表示されるデータは農機具の倉庫の筈ですから。人の住んでいない場所なら彼らがわざわざ調べに来る事もないでしょう」
 基地を後にしてからの足取りを誰にも知られない為にヘンケンからその倉庫を借りて転がり込んだ事が隠れ家として絶好の条件を満たしているのは皮肉な話だ。それを逆手に取られた形で出された提案には反論の余地すらない。
「 …… 分かりました、じゃあ俺の家に連れて行きます。基地への連絡は? 」
「ヘンケンに任せます。組合長から基地への電話ならば傍受されても仕事の話としか思わないでしょう、基地の誰かを家まで呼び出した上でウラキさんの家まで案内させます。もっとも携帯の電波は変調周波スクランブルがかかっているのでそう簡単には傍受出来ないでしょうけど」
 一瞬で弾き出したセシルの方針に対抗できる代案をコウは一時間時間を与えられても用意する事が出来ないだろう、コウは彼女に全てを委ねて横たわったままの二人の身体に手を掛けた。全身の痛みでさっきの様に軽々と持ち上げる事は厳しいが、それでも何とか担いで歩くぐらいの事は出来そうだ。未だにぐんにゃりとした二人の身体を両肩に担いだコウは、先に出口へと向かうセシルの背中に尋ねた。
「でもセシルさん、彼らの後を追わずにここから出られる方法なんて ―― 」
「彼らの向かった反対側の駐車場の先に地下街へと通じる作業員出入り口があります、そこから地下街に出て車の止めてある場所の傍まで行きましょう。あそこなら現場からかなり離れているから人目にはつきにくいでしょうし、市街地を抜けてしまえば幹線道路を使わなくても家には帰れる ―― 私達の勝ちです」
 何から何まで首尾一貫して周到に立てられた彼女の計画にコウは目を見張ってまじまじと背中を眺める、痛いほどの視線に気が付いたセシルは緊迫した場面に縁遠いほどゆっくりと振り返って、穏やかな笑顔でコウの疑問に答えた。
「どこに行ってもまず最初に非常口の場所だけは確認しておく様に、とご両親から教わりませんでした? 」




[32711] No way
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/08/25 23:16
 小さな明かり採りの窓から差し込む月の光が小さな部屋の片隅を青く染めていた。小さな寝息の輪唱を聞きながらコウはじっと壁際の暗闇に身を潜めて外を眺めている、どこまでも続く麦の海原は風の無い月夜にぼんやりと佇んで幻想的な輝きをコウの視界へと届けた。
 二人を無事に運び込んだ後セシルはマークスの応急処置を手早く済ませて自宅へと戻っている。着弾の衝撃で裂傷を負ってはいるものの弾頭自体にはそれほどの威力がないので表面的な外傷に留まっているとセシルは説明しながら無菌パッチを何枚も貼りつけ、コウは命に別条がない事を知るやいなや思わずしゃがんでしまう程疲れきっていた。緊張が解ければ全身を殴られた痛みがコウの身体に襲いかかり、セシルはヘンケンに事情を話して組合保有の医療キットを持ってくるために置いてあった自転車をひったくるようにして家路を急いだのだ。
 自分の身体の具合は自分が一番よく分かっている事とは言え彼女のそうした心遣いにコウは思わず甘えてしまう ―― いや寧ろそれは彼女の有無を言わさぬ不思議な力による物だったのかもしれない。
 腫れた顔が熱を持ってちくちくと痛み、まんじりともしない彼はそのまま窓の傍に立ってじっと外の様子を窺う事にした。万が一ここの所在が奴らに知られたとしても麦畑のど真ん中にぽつんと立つあばら家へと辿り着けるルートは一本しかないし、それを外れて麦畑に押しいれば乾燥した麦の穂がたちまち鳴子の役目を果たして人の接近を知らせる仕組みになっている。コウはほんの少しの変化も見逃さないように外の景色へと目を凝らしていた。

 闇の中で腕時計を見るとルミノールの小さな点と針が一本の線になる、日付が変わったところでコウはそっと身体を壁から離してそっと部屋の真ん中にあるテーブルへと足を向けた。
 脇にある自分用のベッドにはアデリアを、そして急ごしらえの台の上にはマークスを寝かせてある。まだ痛むのだろうか、眉を顰めたまま苦しそうに横になっている彼の姿を見てコウは怪我人にこの様なもてなししか出来ない自分の部屋の現状を心苦しく思っていた。人と極力会わない様にしていた彼の家に余分な寝具などある訳がない、怪我人を寝かす必要に迫られたコウは急遽ガレージの奥で埃を被っていた脚立に板を差しかけて簡易ベッドに仕立てたのだが、いくらなんでも女の子をそんな場所へ寝かす訳にはいかない、と敢えてマークスに貧乏くじを引いてもらったのだ。もっともそれはセシルの意見が大勢を占めたのだが、連邦軍の士官ともあろう者がこんな傷ごときで気を長々と失っている事に対する彼女なりのお仕置きなのかも知れない。
 足を忍ばせて向かった先にある椅子へと静かに腰掛けて、コウはほう、と深い溜息をついた。蒼い光にぼんやりと浮かんだ自分の部屋に目を閉ざし、もう昨日になってしまった波乱の一日を振り返る。
 いろんな事があり過ぎた。瓦礫の下に埋まった人を助けようとして叶わなかった事、モビルスーツとは似ても似つかない二足歩行の産業機械ですらも扱えなかった事、そして正当防衛とはいえまた人を自分の意思とは関係なく傷付けてしまった事。基地を出る前と何も変わっていない自分の症状に絶望すら感じる、自分はもう元に戻る事は出来ないのか?
「元に、戻るだって …… ? 」
 心に浮かんだその言葉だけが何故かコウの口を動かした。愕然として目を開いた彼はそれが自分の奥底にある取り返しのつかない望みだと知っている、そしてそれに縋ろうとする自分をどうしようもなく軽蔑した。今更何を言っているんだ、自分が自ら手放しておいて、と心の中で毒づいた彼は衝動的に机の上に置いてあるスピリッツへと手を伸ばした。
 マークスの傷を消毒する為に使ったそれはれっきとした飲み物だ、だがコウはガレージで使う明かり用のランプの燃料としてそれを使っている。度数の高い液体を一口飲めばそれだけで今晩の確実な眠りと明日の猛烈な頭痛は確実だ、だがそうする事でしか今日の出来事の憂さは晴らせない ―― そんな気がする。
  
 しかしコウがそのキャップを捻る事は出来なかった。オークリーからの迎えがもうすぐ来るだろうと言う事実が一つ、そしてその時にみっともない真似だけはキースの手前出来ないだろうと言う事が一つ。自分がモビルスーツ隊の隊長の友人である事など古株の人間しか知らない事だし、自分が嘗てオークリーに在籍していたなどと言う事実を知られる訳にはいかない。それでももう二度と会う事の無い友人の名誉を自分が傷付ける事だけは避けたかった。
 思い直した様にテーブルの上へとボトルをそっと戻すコウ、その彼の耳に丁度いいタイミングで車の近づく音が遠くから聞こえてきた。
 じっと聞き耳を立てながらその車が自分のいる小屋からどれくらい離れた場所で停まるかを探る、さっきの奴らの仲間ならば音の決して届かない離れた場所で車を止めて徒歩でここまで来るだろう。しかし大排気量を示す鈍い低音はコウの家の隙間だらけの壁板から眩い光を忍び込ませながら玄関の前で停車した。
「 …… 来たか」
 ほう、と大きな溜息をついてコウが静かに立ち上がると、車のドアが大きな音を立てて慌ただしく人が走り出る足音が聞えた。その人物は建物の前で一瞬躊躇したかのように立ち止まると ―― 多分こんな所に人が住んでいるのか訝しがったのだろう ―― そろりとポーチの階段を上がって玄関の前へと近づいた。辺りを憚る様に遠慮がちなノックが二度響く。
「夜分に失礼します、連絡を頂きましたオークリー基地の者ですが」
 静かな月夜に染み透るような女性の声にコウは一瞬たじろいだ。自分がいた時から慢性的な人員不足に陥っていたオークリーには夜間に常駐する隊員数が少ない、だからてっきり手が空き気味な司令部付きの人間が警備部の兵士が来る物だと思っていた。こんな夜中に女性を一人で来させるなんて、とコウは慌てて返事をしながらドアへと手を掛けた。
「こちらこそ夜中にお呼び立てして申し訳ありません。本当は自分がオークリーへ連れて行こうかとも思ったのですが訳あって ―― 」

 幻想的な蒼い光に色を染める豊かな髪と同じ色を湛える両の瞳が驚きに揺れながら見開かれてコウを見る、一時も忘れた事の無い記憶の実体はコウの喉から声を奪い言葉を消し去った。微かに震える唇が小さく動いて、あの日と同じ声で彼の名を呼ぶ。
「 ―― コウ」

 それは長い間だったのか刹那だったのか、お互いが顔を見合わせて凍りつくその間に去来する過去が時の流れを見失わせる。うたた寝から目覚めたエボニーが小さく泣きながら二人の間に身体を割り込ませ、ニナの足へと歓迎の頬ずりをしなければそれはいつまでも続いた筈だ。だが普段はヘンケンやセシルにも見せない親愛の仕草を初対面のニナへと送った事に驚いたコウの時はそれを境に動き始めた。
「なぜ、君が」
 たどたどしい口調で尋ねるコウの声がやっとニナの時間を目覚めさせる、彼女は二度ほど瞬きをして目の前の現実をやっと受け入れてから口に当てた手を降ろして小さく微笑んだ。
「き、キースとモウラはアラート勤務、整備班は新しく来た予備機の整備にかかりっきりなの。連絡を受けた時に私が一番手が空いてたからここに ―― それより二人は? 」
 気を取り直したニナの声に緊張が走る、コウは無言で自分の身体を脇に寄せて二人の寝姿が見えるようにした。足早にニナが二人の元へと駆け寄るとコウは開いたままのドアを静かに閉じて彼女の背中を眺める、明かり取りから差し込む月明かりに浮かびあがる金の髪がとても神秘的だった。
「彼女の方は気を失って眠っているだけだ。彼のほうは脇腹に傷を負っているが見た目よりも大したことはない、たださっき目覚めた時にパニックを起こしたんでモルヒネで眠らせてある」
 自分の置かれた状況が分からずに暴れようとしたマークスの首筋に、暗殺者のように一瞬でモルヒネの針を撃ち込んだセシルの手際を思い出す。ニナはコウの声を背中で受けながら大きな安堵の溜息を洩らした。
「臨時ニュースでショッピングセンターの爆発事故の一報が流れてから慌ててアデリアの携帯に電話したんだけど全然繋がらなくて。間が悪い二人の事だからひょっとしたら巻き込まれてるんじゃないかってモウラが言ってたのがまさか本当にそうなってたなんて ―― てっきり暢気な顔で帰って来るもんだとばかり」
 まるで血を分けた姉の様な口調でぼやくニナの後ろへと手元にあった椅子を置き、座る様に促す為にコウは頭上の電気のスイッチを引いた。フィラメントが焼けて黄色い光が蒼い光を退ける、骨董品の生み出す仄かな光に驚いたニナが思わず後ろを振り返った。
「? ニナ ―― 」
 気の抜けた彼女の表情がコウの目の前で見る見るうちに驚きへと変化してそれは次第に怒りへと辿り着く、まるで昔に戻った二人の距離を突然ニナの怒声が迸った。
「コウっ! どうしたのその傷っ!? 」
 はっとしたコウは慌てて後ろへ下がって光の下から自分の顔を遠ざける、まるで岩の様に腫れあがって熱を持ったままの顔を彼は冷やす事すら忘れていた。コウの目の前であの日の顔を取り戻したニナはたじろぐコウに向かって鋭い口調で問い質した。
「なんで怪我してるって早く言わないのよっ! 薬箱はどこ、それくらい持ってるでしょうっ!? 」
 尋ねながらニナはあたりをきょろきょろと見回すと、コウの答えを待たずに流しの上にある水屋へと足を運ぶと扉を開いて救急箱を取り出した。なんで置いてある場所が分かったんだと驚くコウを尻目にニナは、自分の為に差し出された椅子をドンと床に置くと睨みつけてそこへ座る様に無言で促す。あまりの迫力に断る決心さえ退けられたコウは言うがままにゆっくりと腰を落としてニナの横顔へと視線を向けた。テーブルの上に置いた薬箱の中身をごそごそと探っていた彼女は突然はたと手を止めて一瞬何かを考えている。
「 ―― 髭そり用の剃刀は? 」
「? …… さっきの流しの棚の上だけど」
「ライターは? 」
 何を始める気だと言おうとしたコウに背を向けてニナは再び流しへと足早に向かうとコウの髭そりを手にとって戻ってくる、それをテーブルの上に置いた彼女はすぐ傍にあったスピリッツの瓶底でプラスティックのカバーを叩き割って小さな刃だけを取り出した。冷静な彼女のやる事とは思えない狼藉にコウはびっくりして思わず尋ねた。
「ニナ、一体何を ―― 」
「すこし黙ってて」 
 一蹴したニナが真剣な面持ちで刃を取り上げると、コウがテーブルの引き出しから取り出したヘンケンの忘れ物に火をつけていきなり刃先を焼き始めた。真っ赤に焼けた刃が摘まんだ彼女の細い指先を焦がす、苦痛の表情で火を消したニナはそのまま注意深くコウの傍へと近づくと腫れて潰れたコウの左の瞼へとそれを押し当て一気に引いた。
「痛うっ! 」
「いいから我慢なさい」 
 切開した瞼からどす黒い血が一気に溢れだす、ニナはそれを自分の袖で受け止めると血塗れの刃を捨てて薬箱の中にある僅かなガーゼを取り出した。溜まっていた血を少しづつ押し出すとコウの左目は急に視界が開けて遠近感を取り戻す、真剣な表情で治療に勤しむニナの顔がすぐ傍にあった。
 
 ワセリンと止血材の粉を混ぜて瞼に開いた傷口へとやけどした指で擦り込む、まるでボクシングのトレーナーのような鮮やかな処置にコウは驚きつつも感心した。
「いつの間にこんな事を覚えたんだい? 」
「誰かさんがいつもいつもケンカばかりしてるから、そのうちもっとおっかない人にいつかこてんぱんにされるんじゃないかと思って。応急処置くらい私が覚えてないとあなたにもしもの事があったら嫌でしょう? 」
 どうやら彼女の師はドクらしい、なるほどそれならこの手際の良さも頷ける。自分の知らないニナの特技に揺らぐ心の天秤が、しかし彼女が何の気なしに漏らした二人の過去で再び元の位置へと針を戻した。それは自分のだらしない過去が生み出した予期せぬ産物、本来ならば彼女にとって必要のなかった物ではないか。
 コウの心の揺らぎがニナにも伝わり、彼女は自分の言った言葉がその原因だと言う事に気づいた。後悔する様に表情を僅かに曇らせ、しかし治療の手は止めたりしない。殴られた衝撃で切れた個所へと次々に医療用の接着剤を搾った彼女は指でつまんでそれを無理やりくっつける、コウの顔はその度に痛みで歪んだ。
「 …… 何かの役に立つだろうと思って買っといたんだけど、やっぱり滲みるから …… 無菌パッチを張り付けるだけじゃ駄目かい? 」
「もう少しこの傷が深かったらドクをたたき起こして来てもらう所よ、針と糸持参でね。赤ずきんの狼さんみたいに縫われたくなかったら黙って大人しくしてて」
 聞き分けのないコウをあやす様に言い含めるニナの声が温かい、束の間に浮かびあがる切ない想いが何度も何度もコウの喉を鳴らして胸を掻き毟る。
 どうして自分はこの時間を手放してしまったのだろう、自分が自分である事の意味を教えてくれる大事な人との大事な世界を。
 ニナの指の温もりを、微かな吐息を感じながらしかしコウには分かっていた。二人にとって大切な世界でありながらそれはお互いが共に並び立って初めて共鳴する二つの鐘の様な物、どちらかがひび割れればそれは醜く酷く耳障りな世界しか二人の元へと齎さない。
 そしてその二つの鐘のどちらが誰かなどもう言うまでもないではないか。

「ふう、やっと終わったわ」
 やれやれと言う表情で顔を離したニナはそこでコウの堅い表情に気が付いた。遭遇した思わぬ事態に興奮した心が冷め、置かれた現実へと目を向けたニナが慌てて散らかった薬箱の中身を元に戻した。出した時よりも丁寧に片づけたその箱のふたをパタンと閉じると元の水屋へと仕舞い込む。
「顔の腫れは多分二三日で取れると思う、傷もあんまり派手に動かなければ開かない筈だわ」
「 ―― ありがとう、ニナ」
 心の底から込み上げてきた本心は水屋の扉を閉めようとする彼女の手を一瞬だけ止めた、ニナは静かにそれを閉じると小さく笑いながら頷いてコウの向かい側へと座った。会えない日々が積み上げた数えきれない話の中からどれを選べばいいのかとお互いが口籠る中、ニナはふと自分がテーブルの上に置いたスピリッツの瓶へと目をやった。それはニナが知るコウの人となりで最も大きな変化だった。
「 ―― お酒」
 ぽつっと呟いたニナの声にコウは慌てて同じ瓶へと視線を注ぐ、中を通り過ぎた光がゆらゆらと黄色いモザイクをテーブルの上に描いている。
「 …… 飲むようになったのね、どうして? 」
「たまに来る組合長がお酒が好きで。それに組合の集会になるとどうしても最後は宴会みたいになってしまう、無理やり勧められている内にいつの間にか」
 押しの強い相手にはどうしても逆らえない、少しも変わらないお人よしな性格にニナは思わず笑った。新しい生活はどう? と何度も何度も心の中で繰り返してしかしそれを口にする決心が彼女にはできない、それを自分が口にした途端に最後の手がかりさえ失ってしまう様な気がするから。

 私は何を考えてる ―― ニナの心に鈍い痛みが走った。もう一度彼とやり直したいと心のどこかで考えているのか? 心の底でコウの新しい未来を認められない自分の愚かさに辟易しながらニナはそっと話題を変えた。
「私の方は相変わらず、キースとモウラも仲良くやってるわ。あなたが基地を飛び出してから配属されたのがこの二人、キースに毎日みっちり絞られてるわよ」
「あいつの部下なら上達も早いだろう。キースはアルビオンにいた頃は一番練成訓練に出てたからな、バニング大尉やモンシア中尉に鍛えられたあいつならきっと俺よりうまく教える事が出来るさ」
「そうかなあ? モンシア中尉が教官じゃあろくでもない事まで教わってたような気がするんだけど。大体あの最中にモウラをナンパしてた辺りがもうね」
「それについては俺もあいつの事を言えないな」
 困った顔で呟いたコウの顔をきょとんとして眺めたニナが思わず声を殺してクスクスと笑った。小さく吹き出したコウが同じ様に笑いながら傍で眠り続けるマークスの顔を眺める。
「で、どうなんだい? オークリーの技術主任の目から見てこの二人の実力は? 」
「素材と素質に関しては申し分なし、雛にも稀なとはこの二人の事を言うのね。でもまだ全然 ―― 最近のモビルスーツってOSが何でもかんでも一元管理するからパイロットが過保護になるのよ。昨日だってOS切らせて演習やらせたら棒きれ持ったキース相手にもうさんざん、私がせっかく講義したのに何の役にも立ってないんだから」
「そりゃ手厳しい ―― でもその素質が開花する日や機会がない事を俺は心の底から祈るけどね」

 暗に彼らがいる間に戦争が起こらない様にとほのめかすコウの横顔は厳しい。しかしコウが知らない事をニナは知っている、彼の願いはとっくの昔にあのアイランド・イーズの中で潰えてしまっている事を。
 星の屑は跡かたもなく消え、その戦端を開いたガトーは戦争が始まる事を預言してこの世から姿を消した。彼が語ったその後に生み出される『Cradle』が戦争を意味しているのか、それを知る一端がコウの中に眠っている事を分かっているニナは密かに眉をひそめた。
「大丈夫、もうジオンは負けたんだし前線の小競り合いも少しづつ下火になってるわ。万が一アクシズと戦争になっても彼らが戦場に駆り出される事なんて有り得ない、だってここは『忘却博物館』なんだから」
 自分に言い聞かせ、その嘘を信じ込ませようとニナはしている。だがコウの表情から安穏とした雰囲気が顔を覗かせる事はなかった。彼もニナやキースやモウラと同様にあの紛争を体験した当事者だ、そして自分の預かり知らぬ所で事態は進展し、気が付いた時にはどうする事も出来ないほど悪化していくのを身を以って体験している。ニナのその言葉が気休めにもならない事など言った本人が一番よく分かっていた。コウは今日彼らに降りかかった災難を振り返りながら、まるでニナの言葉に弓弾く様に呟いた。
「彼らの事を組合長さんからなんて聞いた? 」
「何て、って。二人がショッピングセンターの爆発事故に巻き込まれて怪我をしてるから急いで迎えに来てって。そりゃ何で連絡が病院からじゃないのかって不思議には思ったけれど、きっと基地の人間だから病院よりこっちの方が手当てが早いと思ったんじゃないかってドクが」
「 ―― 彼らはどこかの軍に拉致されようとしていたんだ」

 ええっ、という驚きの言葉よりも得体の知れない恐怖がニナの肌に鳥肌を立たせて息を詰まらせる。信じられないと言う言葉よりも目の前に置かれたコウの腫れあがった顔がその根拠を裏付けている、彼がオークリーにいた頃に引き起こした乱闘騒ぎのそのどれにおいても彼がここまで負傷する事態など一度もなかったからだ。 ただならぬ状況下からの生還を果たしたと思われるコウの言葉だからこそそれは盤石の重みを持ってニナの心へと圧し掛かった。
「理由はたぶん二人に聞いてみれば分かるかもしれない、でも軍人としての規律の在り方は良くも悪くもしっかりしている。どちらかと言うとジオンと言うよりも連邦、いやティターンズに近い感じの印象だった」
「どうして、分かるの? 」
「俺が両方の『彼ら』と戦ったからさ。デラーズフリートの連中は少なくとも部下をけしかけて自分が後ろでナイフを突き付けていると言う事は、しない」
 それはあの悲惨な戦いを生き延びた彼にしか言えない言葉だった。しかし頭の中にある二人の経歴をいくら思い返してみてもそんな騒ぎに巻き込まれる様な前科持ちとは思えない。
 確かに素行不良でこの基地に送られはしたけれども少なくとも彼らが犯した罪はこの基地への転属と言う事で清算されている筈だし、ましてや拉致されてその後の何らかの陰謀に利用されるほど彼らの存在価値は華々しくない。
「とにかく ―― 」
 頭の中の考えが一向に纏まらなくて呆然としているニナへと表情を和らげたコウはどことなく嬉しそうだった、と後になってニナは思った。彼は自分の掌へと目を落としてぽつりと呟く。
「 …… 助けられて、よかった」

 二人の間に流れた沈黙を破ったのはコウだった。必死に二人が攫われようとした理由を考え込んでいるニナに向かって彼は助け船を出したつもりだった。
「二人が拉致された理由に心当たりがないんだったら他には何かないのか? オークリーに最近何か変化があったとか誰かが来たとか」
「ないわ、何もない。来たって言えば得体の知れないドムが一機、それも厳重なロックが掛かって融合炉にアクセスする事も出来ない。どこかにでっかい床の間があるんならそこに飾ってそのまま放っておきたいくらいよ、動けるようになるにしても相当の時間と手間は覚悟しなきゃ ―― って」
 基地の機密を思わず漏らしてしまったニナが慌てて手で口を塞ぐ、その仕草を見たコウは笑って小さく頭を振った。
「大丈夫、一応俺は予備役なんだし軍の守秘義務は有効化されてる。それに『あれから』の一切の情報は決して外部に漏らさないって言うのが軍と結んだ契約の条件だ、そうでなきゃとっくに ―― 」
 その後に続く言葉を容易に理解出来るニナは顔を強張らせた。基地を離れて予備役になった今でもあの契約が効力を残している、『生死を問わず』の文言がちりばめられた彼らだけに与えられた特別な契約書はその条項の一項目でも破った途端に行使される拘束具だ。コウが出て言った日にウェブナーから見せられたあれ以外にも恐らく膨大な量の制約が記された契約書をコウは読み、そして受け入れてサインをした。
 自由に出歩く事すらままならない虜囚のような生活に彼は一体何を求めたのか。
「ねえ、 ―― コウ? 」
 ニナの心の奥底で蟠っていた何かが突然具体的な形と言葉を持って姿を現した。 昨日の夜にアデリアから否定された自分の決意、そして彼女から示されたたった一つの光が彼女に勇気を与える。瞼を閉じたニナは暗闇のどこかで見守る彼女の願いに魂を震わせて祈りを捧げた。

 ―― どうか私に、力を。

「 …… どうして私を置いて行ったの? 」

 目を開けたニナの目に映るコウの顔から穏やかな笑みが消え、代わりに浮かびあがったのは猛烈な悔恨を湛えた苦悶の表情だった。彼女の質問が不意を突いたと言うのがその原因だったのだろう、抉られた心の痛みを我慢する事も出来なかったコウは目を伏せてその顔をニナに見られないようにした。
「あなたがモビルスーツに乗れなくなってるって事はドクから聞いた、でもなんで私に一言相談してくれなかったの? あなたがモビルスーツに乗れなくなったって言うのなら私だってモビルスーツを捨てても構わない、どうして私を連れて行ってはくれなかったの? 」
 ひたむきなニナの蒼い瞳が真っ直ぐにコウへと向けられる、逸らす事なんてできない。一度は途切れた繋がりをもう一度縒り合す為にどれだけの勇気を振り絞った事か、あの日の真実を知る為の微かな手がかりを求めてニナは必死で訴えた。蟠っていた不条理の解を求める為に。
 ニナの一言一言に打ちひしがれる様にコウは苦悩の色を深めた。躊躇いと戸惑いが長い沈黙の時を二人の間に刻み、それは離れた場所で眠っていたエボニーにも伝わった。彼は目を覚ますと身体を大きく伸ばしてあくびをしたかと思うとすぐ傍にある皿まで歩いて湛えられた水に舌を伸ばした、微かな喉鳴りが静けさに彩りを与える。
「俺は」
 俯いたままのコウの口から絞り出す様な声が零れる、彼がこれから洩らす一言一句に耳を塞ぎたくなる自分を叱り飛ばしてニナは目を見開いた。ただ握り締めた両手だけが何かを恐れてぶるぶると震える。
「もう君の傍にはいられない ―― 彼の代わりにはなれないんだ、ニナ」

 自分の元から去った理由がモビルスーツに乗れなくなった事だとニナは今まで信じていた、だからコウの言った『彼』という言葉の対象がすぐには思い浮かばなかった。それがガトーの事を指しているのだとやっと分かったニナは、彼が決して自分の事を嫌いになったから離れて言ったのではないと言う事を知って、心のどこかでその事実を喜んだ。まだ取り繕える余地が自分とコウの間には残っているのではないか、と。
「何をいってるの? あなたはあなたよ、コウ・ウラキはガトーなんかじゃない。そして私にはあなたしかいない、なぜそんな事を言うの? 」
「君はまだガトーの事を愛している、俺は彼がいなくなった後に君に選ばれただけの道化だ。モビルスーツを動かすパイロットとしての素質だけを買われて」
「バカな事言わないでっ! 私がいつあなたの事をそんな風に扱ったっていうの? あなたが一号機に初めて乗った時にはあなたの事をそういう風にしか見なかった事もある。でもあなたが宇宙で傷付いた時に私ははっきりわかった、あなたがいなければ私はもう二度と自分でいられなくなるんだって。あなたがいなくなってからの私はどうやって生きていけばいいのかも分からない、ただ必死でモビルスーツに取りすがって ―― あなたとの絆にしがみついて生きているだけなのよ。なのになぜ ―― 私はあなたにそんな風にずっと思われてたのっ!? 」
「じゃあなぜ俺の所に戻って来た? 」
 余りに筋違いな思い込みに憤慨するニナをコウの冷たい目が襲いかかる。まただ、その目がいつも私の心にいいようのない痛みを与えて彼を遠ざける。でももう私は負けない、ここで負けたら私は彼を永遠に諦めなくてはならなくなる。
 だがニナの不退転の決意は彼の一言によって呆気なく砂上の楼閣と化した。それはニナが彼の為に残さざるを得なかった忌まわしい過ちだった。
「君はあの時ガトーを守る為に俺へと銃を向けたんじゃないのか? 」
「あれはっ ―― 」

 ” ―― 彼の様な男がこの先にもきっと現れるはずだ。連邦、ジオンを問わず私達が命を賭けて成し遂げるこの『星の屑』の未来に起こる動乱を目の当たりにして、志を同じくする者達が。 …… 彼を通じてその希望を見出せただけでも、今の私に後悔は無い”

 ニナの脳裏に突然響いたその声が言葉を詰まらせた。

 ” ―― どうしたコウ・ウラキ、私を撃て。ここで撃たねば貴様は一生罪の意識に苛まれて生きて行く事になる。貴様がこの先宇宙で生きようとするのならば迷うな。そうしてこそ貴様は初めて私の ―― ”

 自分がコウを撃った理由を説明するには彼にガトーの語ったあの真実を告げなければならない、そしてそれはガトーが最後に望んだ彼への呪い。もし解けてしまえばそれはコウがガトーの後を継いで『星の屑』の続きへと身を投じなければならない、彼の意思がどうであるにも拘らず。
 なぜか分かる、逆らえないのだ。ガトーは万難を排しておよそ誰も為し得なかった「狙った場所へのコロニー落し」を成し遂げた、そして世界は全て彼の予言通りに戦争へと歩みを進めつつある。ティターンズの台頭、連邦の対コロニー政策、圧政に苦しむスペースノイドの中から嘗てのジオンのような勢力がいつ立ち上がってもおかしくない情勢になっている。それを阻止する為にティターンズは更なる戦力の増強を繰り返して連邦での勢力と発言権の強化を増しているのだ。
 その彼がコウに託した物をどうして絵空事と片づける事が出来る? 目の前に現れた自身の後継者へとその襷を手渡す事がガトーにとってのゴールだったのだとしたら、それはコウにとっての ―― いえ、私にとっての悲劇の始まり。

 それをここまで封じ込めている物が、私とコウの間にあの日生まれた誤解だったなんてっ!

 握り締めた手の中から何かが零れてしまうのを恐れるかのように、指の間が白くなるほど強く握り締めたニナの首が遂にがくりと折れて俯いた。喉まで出かかった言葉を気道を詰まらせる事で押し留める彼女の動きに、コウは肯定の意思と受け取って失望の色を満面に浮かべて溜息をついた。
「言えないのか、やっぱり。…… でも君がそんなに苦しむのなら言わなくても構わない、聞かないほうがいい事も人にはある」
「 ―― 違うっ!! 」
 俯いたままで心の叫びを床へと叩きつけたニナが激しく頭を振った、豪奢な金の髪が汚れた黄色い光を受けて大きく揺れる。どうすればいいのかを必死に模索する彼女だがもう為す術がない事は分かっている、一度踏み込んでしまった禁忌を回避して誰しもが納得できる終わりを迎えられる訳がないのだ。彼に真実を告げる事が出来ないのなら、もう私は彼に誤解されたまま身を引く事しか出来ない。
 今度こそ、本当に私はコウを失ってしまうのだ。
「 ―― 本当はあの日、ニナの顔を見るまで俺は迷っていた。でも君にまたモビルスーツに乗るのかと尋ねられた時に俺はガトーの代わりでもいいと決心したんだ、いつの日か君が俺の所へと戻って来た事が間違ってなかったと思って貰える日を信じて。でもその僅かな希望も今日、俺は失った」
 まるで死刑宣告だ、とニナは思う。自分の半身から零れる過去の記憶の全てが自分との決別の為に使われている、抵抗も反論も、弁解すらも出来ないこの状況で私は何に縋ればいいのか、ありもしない神の御加護を期待してただじっと彼の言葉に耳を傾けていればいいのか。
「だからもう俺は君の為にガトーを演じる事は出来ない。俺にはもう、何も ―― 」
 もうやめて、コウっ!
 息が詰まる。
 胸が苦しい。
 誰か、誰か助けてっ!

「あたし帰る」
 唐突に響いたその声は全身を震わせて硬直したニナの背後のベッドからだった。上半身を起こしたアデリアはまるで何事もなかったかのようにぶすっとした顔でベッドから足を降ろすとすぐ傍に横たわっているマークスのベッドの脚立をコン、と爪先で蹴った。
「痛ってえっっ! ―― おまえなんて事するんだ、こっちは怪我人なんだぞっ!? 」
「ふん、それだけ元気に喋れてどの口が。ほらあんたも一緒に帰るのよ、せっかくニナさんが迎えに来てくれたんだから ―― て、あれ? 」
 痛む身体を押してしぶしぶシーツを肌蹴たマークスの着衣を見てアデリアが首を傾げた。モルヒネのお陰でアデリアと同じ体勢を取るのにも一苦労なマークスはやっと足をベッドに下ろしてから彼女の訝しげな表情に気付く。
「どうしてあんたの服がそんなにきれい? 確かあたしが見た時は脇腹に弾を食らって血が出てたと思ったんだけど」
「それは自分の服です」
 アデリアの疑問に答えたのはそれまでの険しい表情を隠して立ち上がったコウだった。彼はゆっくりとテーブルを回り込むとマークスの表情を確認して安堵の笑みを浮かべた。
「それだけ動けるのならもう大丈夫、軍曹の服はあまりにひどい状態だったのとどこから奴らに足がつくかも分からなかったので勝手に処分させて頂きました。申し訳ない」
 確かに言われてみればマークスの着ていた物に比べてあちこちがくたびれている、しかし同じカーキ色の ―― 明かりの加減でよく分かんないけど多分そう ―― 夏服の肩に張り付けられた部隊章は間違いなくオークリーに所属するモビルスーツ隊の物。ネームタグこそ外されてはいたが確かに連邦軍から支給される正規品だ。
「いえそんな。こちらこそあなたの貴重な物をお借りして申し訳ない、これは後日綺麗にしてお返しに上がります」
「その必要はありません、それは軍曹に差し上げます。 …… 自分にはもう必要のない物ですから」
 ニナの顔が苦痛に歪む、マークスとは違ってコウの顔には目もくれないアデリアはじっとニナの様子を窺っていたが、それを見た瞬間にすっと立ち上がってニナの傍へと歩み寄る。動けない彼女の手を取っていつものように明るい声が狭い室内に響いた。
「さ、いこ? 早く基地に戻んないとみんなが心配しちゃうから」
 いつものアデリアらしからぬしおらしい態度もそこまでだった。彼女はグイッとニナの手を引っ張ると無理やり立ち上がらせ、余りの豹変ぶりに驚くニナを尻目にずかずかと入口へと向かった。まるで家出して来た我が子を連れ戻す親の様だとその光景を眺めるコウの前から、勢いよく扉を開いたアデリアは一気にニナを外へと押し出して姿を消した。後に一人残されたマークスはよっこらしょと立ちあがりながら困った様に後頭部を掻きあげた。
「あいつめ、怪我人にしんがり任せてどうするんだ全く。 …… 部下が失礼しました、ウラキ伍長」
 自分の名前を呼ばれたコウが驚いた顔をして、しかし穏やかな顔でマークスを見た。その表情の豊かさにマークスは本当にこの人物が伝説の撃墜王なのかとその真偽を問いたくなる。しかしその必要はなかった。緩やかに掲げられた右手が創りだす敬礼の形は自分が今まで見た誰の物よりも上品で、しかも歴戦を語るにふさわしいだけの風格を表していた。
「こちらこそ自己紹介が遅れて申し訳ありません。自分はオークリー基地所属、コウ・ウラキ予備役伍長であります」
「北米方面軍オークリー基地モビルスーツ隊所属、マークス・ヴェスト軍曹。お会いできて光栄です、伍長」
「 …… アデリア・フォス伍長です」
 小さな声は開きっぱなしのドアの影から。コウが振り返るとそこには顔だけ突き出して敬礼をしているアデリアの姿があった。コウが改めて自分の名を告げようとしたその機先を制してアデリアの鋭い声が飛ぶ。
「いいですか、ウラキ伍長。今日はお互い色々な事があり過ぎました、ですから疲れてますっ。大事な話や要件は後日日を改めて、もう一度話し合った方がいかがかと存じますがどうでしょう? 」
「お、おいアデリア。お前なに言ってんだ? 仮にも個人のプライバシーに口出しする権利なんて俺達に ―― 」
 大体アデリアが必要以上に丁寧な言葉遣いをするときは怒り心頭に達している時だ。先行きに慌てたマークスが嗜めようとすると彼女はいーっと歯をむき出して抵抗の意思表示を示してからおもむろに言った。
「そんなのある訳ないってのは分かってる、超でっかいお世話なのもね。でもね、いくらなんでもこんなのってないわよ。どさくさ紛れに結論を出すべき話じゃない、だってニナさんにとってすごく大事な事だもの」
 ギン、とコウを睨みつけるアデリア。おいおい、それじゃあ今まで二人の話を全部盗み聞きしてたって白状したも同然じゃないか、と額に手を当てるマークスをチラリと横目で覗いたコウはしょうがないなあと言う表情で再びアデリアへと向き直った。
「フォス伍長、あなたのお気持ちは大変うれしいがこれはもう済んだ事なんです。ですからこの事についてもう一度話し合った所で導かれる結論は同じだと思う。それに自分は軍との契約上有事以外でのオークリー基地関係者との接触は禁止されている、後日と言うお約束はできないんですよ」
「へーそーですか。そーいうことなら今日マークスがお借りしたあなたの思い出の品をきれいに洗濯して差し上げて、後日当基地で一番暇なパープルトン技術主任に意地でも届けて頂きますのでそのつもりで。ご都合のよろしい日にちを教えていただければ何が何でも即日お伺いいたしますからっ 」
「ですからこれは軍曹に差し上げると ―― 」
「い・い・で・す・ねっ! 」
 反論許すまじと言い放ってドカンと力いっぱいドアを閉めるアデリア、その威力は安普請の小屋がギシギシと抗議の悲鳴を上げるほどだ。びっくりして首をすくめるコウと彼女の怒りの表現方法に呆気にとられるマークス、柱の軋む音が鳴り止んだ時にコウが言った。
「軍曹も伍長もとても優しい方の様ですね、彼女の為にこんなにして頂けるなんて。 …… 頼みごとが出来る権利も資格もない自分ですが」
 コウはそう言うとゆっくりと振り返って照れくさそうな笑みを浮かべた。
「オークリーを …… みんなの事をよろしく頼みます」
 
 マークスの去り際にコウはありがとうと呟き、彼にそれを問い質されるとコウはその言葉の持つ意味を語った。コウが初めて自分の意思で誰かを助けようと思い、それが叶えられた事の感謝だと言うと彼はまるでコウの身の上を案じる様な悲しい顔をした。
 暗闇の中へと遠ざかる赤いテールランプを見送っていたコウは、それが遥か向こうの幹線道路を曲がった瞬間に踵を返した。やるせない気持ちを月明かりへと投げかけてその足をポーチへと載せた時、不意にガレージとの間の暗がりからセシルの声がした。
「彼女との間にあった出来事とはそういう事だったんですね」
 驚いて目を見開いたコウの前にセシルがついと月明かりの下へと身を滑らせた。一瞬他言無用と釘を刺そうとしたコウだったが、よく考えればセシルが立ち聞きした話をよもやまついでに他人へと洩らす事なんてありえない。彼女の表情に浮かんだ微かな後ろめたさがその根拠を十分に裏付けていた。
「俺は一度、彼女に拒まれました。でも彼女の選んだ男が死んで、彼女が戻って来た時に俺は未練にも彼女の為にその男の代わりを演じようとした。でも、もう俺にはそれを演じる事は永久に出来ない。彼女の為に必要な物を失った俺はそれを取り繕い、ごまかしてそれでも傍に居続けたいと願い、自分の中との矛盾に敗れた結果がこのザマです。二度とモビルスーツに乗れなくなった俺など、彼女にとって何の価値も無い」
「自分の事をモビルスーツの為の部品か何かの様に言うんですね。壊れた部品はもう用済みだと? 本当に彼女があなたの事をそう思っているとでも? 」
「そう思わなければ」
 セシルにはその時浮かんだコウの表情がたまらなく哀れに見えた。どれだけの負の感情を折り重ねればそんな顔が出来るのだろう、戦場の廃墟の中でぼろぼろに朽ちて主を失ったモビルスーツの様だ。
「彼女の事を諦める事が出来ない。 …… 自分勝手で女々しい人間です、俺は」
 嘲る様にそう言いながらコウはゆっくりとセシルの傍を通り過ぎる、コウが扉に手を掛け、部屋の中へと足を踏み入れた瞬間にセシルはぽつりと呟いた。
「 ―― 私は、撃てますよ」

 コウの足が止まった。
 それが何について言った事かを瞬時に理解したコウは、次いで耳を疑った。思わず振り向いた先にあるセシルの顔には今まで見た事のない強い感情が籠っていた。
「私はあの人を撃てる」
「なぜ? 」
「愛しているから」
 何のためらいもなくコウにそう告げるセシルの瞳に宿る秘めた決意がコウの胸を強く打つ、彼女の真理に触れたコウの心にあの日のアイランド・イーズでの出来事がまざまざと蘇った。
「私の未来はあの人と共にある。あの人の未来が消えてしまうと言うのなら私の未来もそこには無い。だから私はヘンケンを撃てる」
「セシルさんも俺が間違っていると」
「さあ? 」
 答えをはぐらかす様にセシルは笑うとずいと前に進み出てコウの顔を見上げた。今まで一度も見た事のない挑発的な瞳の輝きが心の奥まで見透かされた様な錯覚に陥る、セシルは手にしていた薬箱をコウに手渡すとくるりと踵を返した。
「それは私に聞くよりも彼女にもう一度会って直に聞いてみた方がいいんじゃないかしら。それよりも私はあなたが彼女の全てを受け入れる事が出来るかどうかにかかっていると思いますけど」
 意味を詳しく尋ねようとするコウに背を向けてゆっくりとポーチを降りるセシル。オークリーへと続く道とは別の畦道に赤いテールランプが小さく灯っている、ヘンケンの燻らす煙草の火口が蛍の様に小さく灯った。
「 ―― 彼女はその時どうだったのかしらね」

 万が一の時の為に医務室の電源を立ち上げて待機していたモラレスはニナから二人の状態を聞かされると「じゃあ明日でもいいわい」と言い残して通話を切った。オークリーに到着するまで車内で交わされた会話はたったそれだけ、正面ゲートを通過して敷地内を通り抜け、ハンガーの明かりが見える様になった頃にアデリアはここでいいとニナに告げた。自分で後部のドアを開けて助手席からよろよろと降り立ったマークスの隣に立った彼女は暫くの間ニナの顔だけを見つめていたが、ニナが不思議そうに首を傾げた瞬間に意を決してその言葉を口にした。
「きのうはごめんなさいっ! 」
 深深と頭を下げたおかげでアデリアの長い髪は今にも滑走路に届きそうだ。ニナは彼女の突然の謝罪に心の底からびっくりした様な顔をし、マークスは不覚にも全財産をショッピングセンターの駐車場に残して来たツケがそれか、と彼女の不器用さに思わず苦笑した。ハンドルに軽く手を添えたままニナは小さく笑うとアデリアに頭を上げるように頼んでから言った。
「いいのよ、もう。あなたはなにも間違ってなんかいなかった、多分間違ってたのは私の方。あなたに昨日叱られたおかげで私は今日コウから本心を聞く勇気が持てた、私の方があなたにお礼を言わなきゃ」
「それは彼がオークリーを離れた理由を聞けたって事? 」
 深刻な顔で尋ねるアデリアに向かってニナは小さく首を振って応えた。
「それだけじゃない、もっと多くの ―― 私と彼の間にある取り返しのつかない過ちについて。でももうそれを償う事もやり直す事も出来ない、今となっては彼がこのまま一生農夫として生き続ける事が私の心からの願い。もし彼がその過ちの理由に気がついてしまったら私はきっと今以上にその事を後悔する、だからもうこのままで、いいの」
「で、でもそれじゃニナさんはこれからどうやって ―― 」
「生きていくわ、たとえどんな事になってもどんな目に遭っても。思い残す事がなくなるまで」
 それは遠い未来かもしれないし今この瞬間に訪れるのかもしれない、でもニナはアデリアの前で切ない笑顔と共にその思いを吐露した。胸が痛くなるほどの儚さに溢れたその表情の前ではアデリアもマークスも何も言えない、ただ一つはっきりしている事はもうそれがいつ訪れても彼女は受け入れる準備が出来ているのだろうと言う事だった。その想いに触れたアデリアがうつむいて何かを呟く、だがそれは彼女自身にしか聞く事の出来ない心の叫びだとマークスは知っていた。
「今日は遅いからハンガーに言って報告を済ませたらすぐに寝るのよ。明日は朝一番にドクが手ぐすね引いて待っている筈だから寝坊しないようにね」

 月明かりの元へと置き去りにして遠ざかっていくテールランプをマークスはじっと見つめたまま動けなかった。自分が知りたいと思っていたニナとコウの物語がまさかこんな顛末になってしまうとは夢にも思っていなかった、ただの色恋事や痴話喧嘩、修羅場の類で済んだのならばどんなに楽だった事か。
 愛しているからこそ別れなければならないと言う不条理な選択を余儀なくされた二人にとってそれがどんなに辛い事であるか、だが頭の中では分かってはいてもそれを理解するには自分は余りにも幼すぎると思った。それがたまらなく悔しい。
 道に迷っている旅人がすぐそこにいる、自分は彼らに道順を教える事も行き先を示してやる事も出来ない。哀れな姿に可哀そうだと思いながらも何一つ報いてあげる事も出来ない自分の無力さが恥ずかしい、傷の痛みすら忘れて彼は両の拳を握り締めたまま月闇に仄かな明かりを放つハンガーを睨みつける。
「 ―― さ、今日はもう終わり終わり。色々あったけど無事に帰って来たという事で」
 マークスの背後から急に能天気なアデリアの声がした。さっきまでニナへと向けていた深刻な表情はどこへやら、彼女は両手を腰に当ててそれを自慢する様な態度でマークスを見つめていた。
「 …… なにはともあれまずは隊長に今日の事を報告しなきゃ、明日の朝一にはドクの所へ行って報告書を書いて指令に提出して ―― ああ忙しい忙しい」
 アデリアの足が動き出すのを待ってマークスは何も言わずにハンガーへの長い道のりへと足を踏み出す、頭の中で何度も反芻される今日の記憶が生々しい痛みと共に蘇って彼の足を滞らせる。庇う事でゆっくりとしか歩けないマークスは必然的にアデリアに追い越される形となる筈だった。
「 ―― 痛ってえっ!! 」
 それは突然に襲って来た激痛だった。思わず悲鳴を上げたマークスの身体に背後からしがみつくアデリアの姿がある、彼女はマークスの胴体に両手を廻して顔を背中へと押し当てていた。マークスの悲鳴を聞いても彼女はその手を解く事も、力を緩める事すらしない。
「い、いたたたっ、お前さっきからなんて事するんだ、いくら無事に帰って来た事が嬉しいからって ―― 」
「 …… ごめん」
 驚くほどか細い声で謝ったアデリアはそれでもマークスの背中に顔を押し当てたままじっとしている。歩く事もままならなくなったマークスが困惑しているとやがてその背中に彼女の震えが伝わって来た。
「 ―― ほんのちょっと …… ちょっとの間でいいからこのままでいて。お願い」

 絶え間なく吐き出される彼女の熱い吐息が涙と共にマークスの背中を濡らす。何度も身体をびくつかせながらそれでも終わらない悲しい嗚咽は傷の痛みよりも激しくマークスの心を打った。コウに借りた制服を憎むように鷲掴みにして自分の力の無さを悔しがるアデリアは、振り絞る様な声でマークスの背中に向かって呟いた。
「 …… なにも ―― なにもできないよう。おねえちゃん ―― 」
 子供の様に泣きじゃくる彼女の姿が、そして心に負った傷がマークスには辛かった。姉のように慕うニナの為に出来る事が自分達には見つからない、ただこのまま彼女が今までの様に笑う事も出来ずに過ごす日々を共に見守る事しか出来ないのか。一昨日までの自分達ならばそれでもよかった、出口を見失った複雑な迷路の存在など知りもしなかったのだから。
 背中で泣くアデリアの声と共に湧き上がる歯がゆさに耐えかねたマークスが青く輝く月へとその目を向けた。見上げた空から降り注ぐ愁霖の様な光の束を色の違う瞳に映して彼は己の心に問いかける、コウが自分にありがとうと言ったその訳を。
 無力である事を認め未熟である事を恥じる、だがそれでも自分達に出来る事はどこかにまだある筈だ。彼に救われた事で自分達は彼の心を助ける事が出来た、結果論でもいい、無力だと思っている自分達は偶然にも彼の為にそれだけの事を今日成し遂げたのだ。
「まだだアデリア、諦めるにはまだ早すぎる」
 力強く告げたマークスの声にアデリアは思わず涙でびしょぬれの顔を上げて空を見た。銀色の髪が月の光に煌めく、影になって見えない筈の彼の表情がアデリアにはよく分かる。
「確かに俺達には二人を元に戻す力なんてないのかも知れない、でもやっぱりこのままじゃ俺は嫌だ。俺もお前と同じ様に、お前とニナさんが笑っている顔が見たい」
「でも …… でももうあたしどうしていいのか分かンない。あたし達に何が出来るっていうの? 」
 縋る様に問い掛けるアデリアを背にマークスは頭の中に浮かんだ一つのアイデアを必死で形にし始めていた。ウラキ伍長がニナさんから離れた大きな理由はモビルスーツに乗れなくなった事が一番の原因だ、その理由は彼の中で発生している薬品による拒絶反応による物だ。ドクはもしウラキ伍長がモビルスーツに乗る事が出来たら複数の理由で確実に死に至ると説明したがその大本にある物もやはりその薬品によって引き起こされる生体反応。
 じゃあ、その薬品の正体さえ分かればドクに頼んで対抗策を考えてもらう事が出来るんじゃないのか?

「アデリア、頼みがある」
 それはあまりに危険すぎる賭けだ、恐らく見つかればコウやニナよりも先に軍法会議に掛けられて一生日の目の見ない生活を送る羽目になるかもしれない。だがそれでも何もしないでこのまま時を過ごすよりはましだ、何より今日の事を後で振り返って後悔する様な生き方だけはしたくない。
 無力である事は認めよう、だが無能である事だけは断じて認めたくない。自分は今までそうやってここまで来たのだから。

 凛としたマークスの声に驚いたアデリアは涙を拭ってもう一度マークスの頭を見上げた。微動だにしない彼はまるで手の届かないその存在へと戦いを挑むかのように月を睨んで夜空へと告げる。
「明日の夜、チェンを俺の部屋に連れて来てくれ。 …… 彼に頼みたい事がある」

 負けたくない。
 どんな運命が待ちうけようともどんな結果になろうとも、それでも自分達の思い描いた未来を勝ち取る為に人は進む。足を止めてしまった彼らの代わりに今度は自分達が手を伸ばそう。
 それは決して無意味な事なんかじゃない、きっと何かの価値がある事なんだと。
 ―― 信じるんだ、マークス・ヴェスト。



[32711] Prodrome
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd
Date: 2013/10/24 22:37
「ふむ、ティターンズにいた元兵士が、ねえ」
 モラレスはマークスの脇腹の治療を終えて包帯をぐるぐると巻きながらアデリアに答えた。元々彼女には何の治療も必要ではないしマークスの傷は既にセシルによって完璧な応急処置が施されているから、モラレスに出来る事と言えば新たに包帯を巻き替える事ぐらいしかない。
「じゃがショッピングセンターの件は地下の駐車場で発生した不審火がガスに引火して起こった爆発事故だと地元警察から発表されたぞ? 昨日の内に現場検証が終わっておると言うのもおかしな話じゃがそれでも公式な記者会見での発言を頭から否定する訳にもいかんじゃろう」
「それっていつ? 」
「朝一番のヘッドラインじゃ、今日はカリフォルニア中がこの話題でもちきりだろうて。まあ死者が百人単位で出た大惨事じゃ、こうやって生きておるだけでもありがたいと思わにゃあ ―― これで、よしっと」
 巻き終わりを包帯止めで固定したモラレスがマークスの背中をポンと叩いて治療の終了を告げると、彼は走った痛みに顔を顰めながら傍らに置いたシャツに手を掛けた。
「 …… えらく年季の入ったシャツじゃが隊長にでも借りたのか? 」
「あ、これ ―― 」
 ついうっかりコウのシャツを着て医務室へと来てしまった事を彼はその時初めて思い出した。明るい所で見るとネームタグのついている所だけが本来のカーキ色で後は色褪せて白に近い、リップストップ地の生地が今にも破けそうに透けている。
「昨日の夜、ウラキ伍長からお借りしました」
 何気なく答えたマークスの目に映ったのはモラレスの驚きの表情だった。コウの話を打ち明けたのは一昨日の夜、それがいくらも日が経たない内にその当事者に出会うとは。運命のあやと言う非科学的な物の存在を科学の真っただ中にいるモラレスは肯定する訳にはいかないのだが、それでも人知を越えた何かが起こすとんでもない悪戯にまでそれを押し付ける事もできない。口を開けたままぽかんとマークスの顔を眺めた彼はとても多くの思いと感情を顔に表した後に、たった一言こう言った。
「 ―― 彼は …… 元気だったか? 」

 それ以外に何もモラレスは聞かなかった、だがマークスには彼の心の中にある葛藤がよく分かった。彼はコウがモビルスーツに乗る事に真っ向から反対している、だがあの話をする前に彼はニナに確かに尋ねたのだ、その薬の正体を。
 今のコウがただの抜け殻であると言う事を誰よりもよく知っていたのはモラレスだろう、しかし本心としては何とか彼にもう一度元の姿を取り戻してもらいたいと思っているのだ。それは彼がモビルスーツにもう一度乗れると言う事だけではなく、人として生きる為に最も大切な物を取り戻してほしいと言う医師としての願望なのだ。もしかしたらニナの次に彼の事を慮っているのは本当はあの老医師なのかも知れない。
「 …… どうした、アデ ―― 」
「しっ」
 前を歩いていたアデリアが突然壁際に身を潜めて窓の外を窺っている、彼女に倣ってそっと外の様子を盗み見たマークスの目に一機の戦闘機が飛び込んで来た。部隊章、機体番号などその機体の履歴来歴を表す物が何もないスカイアローだが、黒と紺のツートンだけがその所属をはっきり示している。
「なんでティターンズの戦闘機が ―― しかも単機でこんな所に降りて来てるなんて」
「 …… もしかしたら昨日の事かも知れない。ガザエフ大尉の事で何か情報が入ったのかも」
 声を潜めて呟くアデリアの肩が微かに震えている。彼女にしてみれば「こうならない事」を想定してオークリーへと異動して来たのだ、だが被害者に見つけただけに留まらず拉致する為にあれだけの惨事を引き起こしたと言うのであればそれはれっきとした犯罪行為でありしかるべき処分が科せられる筈だとマークスは思う。
 しかし彼女はマークスとは別の心配 ―― 自分がここから引き剥がされて再びどこか遠い場所へと異動させられる事を恐れていた、理不尽も二度重なればそれはただの権力の濫用だ。断腸の思いで取引に応じてここまで来たのにそれを再びひっくり返す様な真似などされてたまるものか。
「こうしちゃいられないわ、早くここにティターンズが来た理由を突きとめなくちゃ」
 まるで動物の様に素早く身を屈めると、マークスの声も待たずに彼女は廊下の端まで一気に走り抜けた。置いていかれた事よりもその動きの鮮やかさに唖然として後ろ姿を見送ったマークスは窓から見える機体の周囲に人影が全くない事を確認すると、素知らぬふりでゆっくりと歩きながらアデリアの後を追う。
「そんなんじゃ見つかった時に逆に相手に何かあるって怪しまれるだけだろうに、全くあいつは」
 モビルスーツに乗った時に見せる冷静さの十分の一も普段備えていたら、と思いながらそれが出来ない彼女を小さく笑いながら目で追うマークス。廊下の角を曲がるとアデリアはもう影も形も見えない、窓越しから小走りに次の棟へと繋がる渡り廊下を小走りに駆け抜ける彼女の姿を目で追いながら、あまり遅れると何かあった時にフォローが利かなくなるからとその足をマークスが速めた瞬間に突然アデリアの小さな悲鳴が耳に届いた。アデリアが尻もちをついている光景を見たマークスは言わんこっちゃないとばかりに急いでその建物の出口へと向かう。
「そんなに慌てて走るからだろ? 別に急がなくても ―― 」

 マークスがかけた声に彼女は反応出来なかった。じっと向かいの建物の入り口を見つめたまま自分の前に立ち塞がったままの大きな影にただ目を奪われる、それはアデリアがぶつかった事にさえ気がつかない様にただそこに佇んだまま観察する様にじっと彼女を見下ろしていた。
 だがそれは果たして見ていると言えるのだろうか? ジジッと言う微かな音と共に目の位置にあるレンズが素早く回る、顔の半分を銀色に光る強化外骨格に覆われた男は感情のない顔に置かれた口を微かに開いて固定したままアデリアに声を掛けた。
「 ” しっかり前を見て走る事だ伍長。モビルスーツパイロットがコックピット以外の所で負傷する事など恥辱物だぞ ” 」
 ぬっと姿を現したその男は機体の色と同じティターンズ色の制服を纏っている。略服ではあるが銀色に光る鳥型の襟章を見た瞬間にアデリアは慌てて立ち上がり、マークスはすっ飛んで来てアデリアの横へと肩を並べた。
「部下が失礼をいたしました、大佐殿っ! 」
 直立不動の姿勢で同時に手を掲げる二人を前にその男は二人を交互に見た後小さく頷いた。
「 ” よろしい。制服の色が違うとはいえ同じ連邦軍だ、今後も任務に励むように ” 」
 感情のないマシンボイスでそう告げた男は二人の前を掠める様に通り過ぎる間際にマークスの肩を左手でぽんと叩いた、その固さと重みにマークスは一瞬驚きの表情を浮かべる。ゆっくりと機体の方へと歩み去るその巨体の背中を眺めながら、辺りを憚る様にアデリアが尋ねた。
「 …… ごめん、マークス。 ―― どうしたの? 」
「あの人、義手だ」
 呆然とそう告げるマークスの顔と男の背中を交互に見比べながらアデリアが、恐らくマークスも心の中に浮かんでいる疑問を思わず呟いた。
「 …… そんな身体でどうやって戦闘機を飛ばしてここまで来たんだろう? 」

「たった今ティターンズの情報部の大佐がここに来て、昨日のサリナスの件での情報を置いていかれた所だ」
 報告書を提出した二人の前でウェブナーはふうっと溜息をついてから机の上で手を組んだ。彼と出合い頭にぶつかった事を黙ったまま二人はじっとウェブナーの表情へと視線を注ぐと、彼は朝とは思えないほど疲れ切った顔で二人を見上げた。
「現在軍と警察双方で事故と事件の両面から捜査を続けている。ただ大佐が言うにはこういう地球上の事ではお互いの縄張り意識が強いだけに手柄の奪い合いになるらしい、今朝の発表にしても完全に警察側のフライングで実際には何の特定も出来ていない。君達から提出された報告書は十分に吟味した後に今後の捜査に生かすとの事だ」
「今後の捜査って …… そんな悠長な。第一自分は現に連中に至近距離から撃たれてるんですよ? アデリアだって奴らに脅されてこの基地の情報を聞き出されそうになってる、明らかに何らかの軍事目的の為に拉致されたとしか考えられません」
「君達に起こった出来事とショッピングセンターでの爆発事故とを結びつける接点が残念ながら今の時点では薄過ぎるのだよ。君達に起こった事が事実だとしてもそれは軍が単独で調査をしなければならない案件だ、それについてはこの報告書を情報部へと送った時点で彼らの管轄になる」
「私を襲った連中の首謀者がベルファストの時の被害者だったという点もですか? 」
 深刻な顔でアデリアが口を挟んだ。彼女にとってはそれはどうしても譲れない事なのだ、居場所が知れた以上連中はどの様な手段を使って自分に襲いかかってくるか分からない。基地の中にいれば安全なのかと思うのかもしれないがそうではない、彼らはオークリーの情報までつぶさに自分から聞き出そうとしていたのだから。
「 ―― それも報告書に記載してあると言うのなら捜査の対象だ。彼らがどこかの傭兵に身を窶したと言うのならば愚かな事だ、連邦軍の諜報網はそんなに甘くはないと言う事をどこかの穴倉で思い知る事になるだろう」
 ウェブナーは手元に置いてある報告書の束を手に取るとファイルケースの中へと差し込んでパチンと閉じた。
「君達から預かった報告書は私が直ちにジャブローへと送って然るべき調査を依頼する、その結果が出るまで君達二人は演習目的以外でのこの基地からの外出を自粛して貰う。どうしても行きたい所があるのならその時には私かキース中尉に申し出てくれれば警備部の陸戦を何人かつけよう、二人にとってはあまり愉快な事ではないとは思うが」
 ウェブナーは二人が襲われた事を単なる絵空事や妄想としてではなく事実として扱っている事がマークスには嬉しかった。基地司令が自分達の援護に回ってくれると言うのであれば、その方針には従わなくてはならない。
「仕方ありません、マークス・ヴェスト軍曹とアデリア・フォス伍長の両名は直ちに司令の指示に従います」
 机の前に立って肩を並べて敬礼する二人を見上げながらウェブナーは心から気の毒そうな声で言った。
「不自由なのはほんの一週間ほどだろう。その頃には犯人が見つかったという報告がここにも届く筈だ、それまでは我慢してくれ。民間人の職員には今日から基地のトラックを使って通勤して貰うように通達する、陸戦隊には色々と迷惑を掛けるが仕方があるまい。 …… では、解散」

「だからってここはお前達の好き勝手にしていい場所じゃねえんだぞ? 」
 グレゴリーはそう言うと厨房の中にまで入り込んで彼のデザート作りを興味深々と言った体で ―― 本当はお零れに預かれることを期待している ―― 覗きこんでいるアデリアとマークスを睨みつけた。麺棒を使ってあっという間に伸びていく生地はまるで二人にとっては魔法を見ている様だ。
「グレゴリーさん、今日のデザートは何? 」
 アデリアが再び冷蔵庫へと向かう生地の使い道を推理しながら尋ねるとグレゴリーは傍らのミキサーの傍に置かれた苺の山を顎で指しながら言った。
「今日は近所の農家から露地の苺が届いたんでナポレオン・パイ(苺のミルフィーユの別名)でも作ろうかと思ってな。今晩はどういう訳か予約の数も少ねえし、ちょっとは手の込んだ物を提供してみようって訳だ」
「! 苺のミルフィーユっ! あたしそれ大得意っ! 」
「大好物の間違いじゃねえのか? ―― ほれ」
 グレゴリーは無造作にボールへと手を伸ばすと苺を二粒摘まみとってそれぞれの手に乗せた。ヘタを取って丁寧に洗われた大粒の苺の表面がつやつやと光り輝いている、アデリアがそれを一息に頬張るとほう、と言いながら至福の表情を浮かべた。
「 …… おいしい ―― 美味しいとしか言えない。何この香り、それにすごく甘い」
「すこし酒を振り掛けて青臭さを押さえてやるのがコツだ。素性がいいからほんの少し手を加えるだけでもこれだけおいしく仕上がる …… 地球は汚れてるってジオンの連中は言ってたが、俺は料理をしながらこう言うのを見ると地球もまだまだまんざらでもないって思ってるんだがな」
「グレゴリーさんは昔からこの仕事だったんですか? 」
 苺を呑みこんだマークスが尋ねると彼はん? と少し驚いた表情を浮かべた。巨体の上に強面の面構えはそれだけで周囲を威圧する迫力がある、マークスは慌てて自分の質問にフォローを入れる羽目になった。
「い、いえグレゴリーさんの身体だったら一年戦争の時に兵役検査を受けてもすぐに合格すると思ったから、それでもしかしたらどこかの戦線で活躍してたんじゃないかって」
「 ―― 俺達の年代で生きてる奴はみんなあの戦争に何らかの形で関わってるさ、俺もそうだ。一年戦争の時は宇宙にいた、巡洋艦の砲手としてな」
「 …… 連邦宇宙軍からなんでまたコックに? 」
 アデリアが次の狙いをボールの中にあるカスタードクリームへと定めた事を察したグレゴリーはこれ以上は駄目だとばかりにその身体で視界を遮った。残念そうに指を銜える彼女の質問に顔を綻ばせながら答える。
「簡単な事だ、艦が撃沈されて仕事がなくなった。その時にいた司厨長が驚くほど腕利きのコックでな、今のお前さん達の様に入り浸ってる間に色々と覚えちまったって訳だ。門前の小僧の何とかってやつだな」
「でも見ているだけであれこれできちゃうって事はやっぱりそういう方面に才能があったっていう事ですか? 」
「まあ、多分そうなのかもな。自分でパネルの上の数値を合わせながら狙いを定めてボタンを押す、それだけで大勢の人間が死んだ。 …… そういう生き方に飽き飽きしていたのかも知れんがね。壊す事よりも創る事の難しさを俺はこの仕事から教わってる、でも出来上がった時の感動は自分が戦場で生き延びた時と同じ位に大きな物だと言う事も最近分かる様になった。戦争に費やすエネルギーをみんなそういう方面に使う事が出来たら人はどれだけの事が出来るんだろうな」
 あっと顔を見合わせた二人はその言葉に今のコウの生き方を同時に重ね合わせた。農夫として生きようとする彼も今のグレゴリーと同じ心境でそれを始めたのではないのか、撃墜王として多くの敵を葬った事に罪悪感を抱くのならそこから逃げ出そうとしたとしても何ら不思議な事ではない。
「じゃあグレゴリーさんはもう戦争が起こっても軍に戻って元の砲手という仕事をする気はない、と? 」
 マークスが恐る恐る視線を向けるとグレゴリーは腰に手を当ててハッと笑った。
「もう俺も30を過ぎてる、俺がいくら頼みこんでも軍のほうから願い下げだろうよ。 ―― だが、まあ」
 そう言うと彼はふっと厨房の奥で炎を上げているコンロを眺めながら呟いた。
「物を作る以上に俺はあの暑さと緊張感がたまらなく好きなんだ。 …… 誰でもそうだが自分が本当に好きだと思える物からはどうしても離れる事が出来ない、俺もそれを忘れたくなくてこの仕事を続けてるのかもしれんな」

                                *                                *                                *

 間接照明だけが照らし出す部屋の端にある机の向こうでその小男は腕をぶるぶると震わせてダンプティを見上げている、彼とダンプティの間には数えきれない量の書類の山が今にも崩れそうな形でうず高く積み上げられていた。
 旅団では機密保持の為に未だに紙媒体と言う物が報告書の類に使用されていて、それは万が一の時にいつでも焼却できるようにとの理由からだったのだが少しでも問題が大きくなるとあっという間に報告やら承認やらの書類で机の上が埋め尽くされる。それをいかに要領よく始末できるかで管理職の能力の有無を計る事が出来るのだが准将の前に積み上げられたそれは彼のみならず、他の誰一人とて一息に片づける事など不可能な量だった。そしてそれらが何によって引き起こされた物であるのかという事をダンプティは既にケルシャ―から聞いていた。
「 ―― 黙っていては分からん何とか言ったらどうなんだっ! 中佐っ! 」
 一気呵成に今までの鬱憤を叩き付ける准将の前でダンプティはじっと彼の顔を見下ろしながら、しかし頭の中では全く別の思考を働かせていた。ラース1達がサリナスの事件に関与した疑いがあると言う一報が飛び込んで来た時点で彼はラース1の分遣隊指揮官の任を解いてすぐさま彼らを回収し、予め用意してあった旅団のセーフハウスに軟禁状態した。情報部からの報告によると五人から個別に聞き取りをした結果、オークリーの兵士を拉致しようとして引き起こした陽動作戦の一環としてその作戦を決行したと言う。ここまでは規模の大小を論じるまでもなく彼らは情報収集の為の独立行動をとったと解釈できなくもない。
 だが問題はその次だった。ラース1が拉致しようとした兵士は嘗て彼がベルファストで起こした乱闘事件の加害者だった、そして彼はその兵士を見た瞬間に錯乱して規律のある作戦指揮が取れなくなったと言うのだ。普段の彼からは想像もできない変貌ぶりにダンプティは首を傾げ、しかしすぐに彼の表情の裏で見え隠れしていた狂気の正体がそれだったのだと言う事に気づいて今度は旅団の持つ根本的な問題に思い当たった。
 旅団はティターンズの特殊部隊と言う性格を得てはいるがその契約方法は実は外人部隊のそれに類似している。金銭での契約と引き換えに彼らの前科前歴素行素性など一切考慮しないそのやり方は拡大する作戦範囲と内容をカバーする為により簡素化され、現在では規律に仕様をきたすほど素行の悪い連中が増えている。そう言った連中を粛正する為に罰の厳格化が全体で斡旋されているのは先に作戦前の兵士を処刑した事からも窺える、いかなる場合に置いても旅団に加わった兵士は常に作戦行動中とみなされて犯した一切の罪を免除すると言う規則を味方にまで採用していると言うのはそれが理由だ。
 しかし手っ取り早い綱紀の粛清は同時に参加する兵士の履歴を軽視する方向に旅団全体の方針を加速させた。自分や他の隊の指揮官クラスならば把握しなければならない部下の情報も当人からの自己申告がなければ詳しく知る事が出来ないし、何より部隊の性格上ティターンズ本隊との交流すら一部を除いて禁じられている。加えてバスク・オムの直属と言う大きなステータスが交流が許されている一部の部隊からも敬遠される理由の一つになっている。
 常に高圧的な態度で全ての情報の開示を求める旅団本部に対して ―― あの准将のやり方ならば誰だってそう思う筈だ ―― 不愉快極まりないと言う抗議文がバスクの元に届く事は日常茶飯事の事で、その上奏もまた権力によって捻じ伏せられ泣き寝入りを余儀無くされる彼らが次第に疎遠になっていく事は致し方のない事だ。そうなれば相手から齎される情報量は激減して互いの連携を欠き、今回の様な騒動を引き起こす切っ掛けになったのだとダンプティは思う。
「彼らの行動は次の作戦を実施するにあたり、情報収集活動の為に行った陽動撹乱です。ですからその件に関しましては旅団独自の規約に照らし合わせても何ら問題のない物に思えますが」
「それで何か貴重な情報を手に入れたと言うのならばそれも認めてやる、だが貴様らのやり方は度が過ぎているばかりではなく我が旅団を危機に陥れる物だ ―― 見ろっ! 」
 腹立ち紛れに振りまわされた手が机の上に積み上げられていた書類の山を一気に薙ぎ払うと、おびただしい数の紙片が雪崩を打って机の下へと滑り落ちた。一面に広がる書類の吹きだまりに踵まで埋めながらダンプティは目の前で息を荒げながら顔面を紅潮させる准将の目を見つめた。
「この事実を隠蔽する為に司令部がどれだけの危険を犯したと思っている!? ジャブローに潜入させている諜報員が送られて来る全ての情報をこちらへと迂回しなかったら連邦軍全体が蜂の巣を突いた騒ぎになっていた所だ。それにもし万が一この事がジャミトフ閣下のお耳にでも届こう物なら我々の旅団自体が消滅するかも知れんのだぞ、それが我々にとってどういう意味なのか理解した上で貴様はそんな世迷言を吐いているのかっ!? 」
 隙間の開いた机へと思い切り両手を打ちつけて准将は勢いよく立ちあがる、恨みと怒りの入り混じった視線が射殺す様にダンプティを舐め上げた。
「この無能めっ! 貴様のようなジオンの残党がここでのうのうと息をしていられるのは誰のお陰だと思っている!? 作戦もまともに遂行出来ないどころかバスク閣下よりお預かりしたこの旅団を解散の危機に追い込んでおきながらその妄言はいかなる了見だっ! この期に及んでまだ自分達に罪は無いなどとほざくのなら今こそ旅団の倣いに従ってこの儂自らが過恨の根を絶ってやる、もともとこの旅団には軍法など存在せんのだからなっ! 」 
 机の引き出しを荒々しく開いて中を弄る准将の姿を冷めた目で眺めるダンプティ、取り出された護身用の拳銃の銃口が自分の眉間に突き付けられてもその表情には何の変化も見られない。元よりこの旅団に忍び込んだ時から自分の死は覚悟している、その為に必要な引き継ぎもとっくの昔にケルシャ―と済ませてある。ただ死ぬ場所が戦場の真っただ中で敵と切り合って死ぬのではなく、こんな地下の穴倉で迎えなくてはならないと言うのがダンプティの唯一の心残りだった。
 こんな事になるのならばやはりあの時少佐と一緒に ―― 。

「 ” いつから君が『殺人許可証』を手にする事を許されたのだ? 准将 ” 」
 独得のマシンボイスがダンプティの背後から聞こえて准将の手が震えた。反射的にダンプティは准将の背後に掛けられた世界地図の時計へを視線を向ける、視認性の良さから軍で未だに使われているアナログ時計の針は午後六時を少し過ぎたあたりだった。連動するモーターの微かな音と足音を聞けばそこに誰がいるのかがすぐ分かる、今までダンプティに向かって散々下卑た態度を取り続けた准将はその声を聞いた途端に慌てて銃を後ろ手に隠した。
「 ―― か、大佐カーネル。いつヒマラヤから戻られた? 」
 准将の額からいきなり冷や汗が吹き出して頬を伝う、愛想笑いを浮かべるにも一苦労しそうなほど青褪めた顔色で彼はダンプティの肩越しに現れた銀色の仮面に怯えた目を向けた。
「 ” 旅団構成員以外の基地内での銃器の使用は固く禁じている筈だ。まさか基地の責任者である君がその事を知らない筈があるまい? ” 」
「わ、私だってこの旅団の立派な構成員だ、それに旅団に対して重大な危機を齎した不届き者を粛正するのに何の不満がある? 」
「 ” 構成員、粛清 ―― ふむ ” 」
 動かない口から紡ぎ出される単語の一つ一つに独得の侮蔑の色が加わって、傍で聞いている者にはどこか他所の世界の言葉の様に聞こえる。大佐は暫し沈黙したまま右目のカメラでじっと准将を観察した後おもむろに言った。
「 ” そうか、それはどうやら私の認識が甘かったようだ。准将がその権利を主張するのならば私もそれ相応に君を扱わねばなるまい、次の作戦の現場指揮は准将にお願いする事にしよう。ただしモビルスーツの操縦が出来ない君には陸上部隊の指揮をブージャム1の代わりにお願いする事になると思うが、それでもいいかね? ” 」
「ば、馬鹿なっ! あんな連中と一緒に現場になど出られるものかっ! 非戦闘員をなぶり殺しにするのが趣味みたいな奴らとどうして私が一緒にいなきゃならん!? 」
「 ” だからその為の『殺人許可証』だ、言う事を聞かない奴らは片っ端から粛清してしまえばいい。そういう風にやりたかったんじゃないのか君は? ” 」
 准将の遥か高みでジジッと鳴るフォーカスモーターが静まり返った部屋の中に鳴り響く、まるで生まれたての小鹿の様にぶるぶると震えたまま油汗を垂れ流す准将から拳銃を取り上げた大佐はそのまま義手に力を込めた。何の抵抗もなく潰れていくそれをヒィ、と小さな悲鳴を上げながら見つめる彼に向かって大佐は言った。
「 ” それが無理なら黙ってこの穴倉で自分の役割を果たす事だ。もちろん今日の事はあの脳無しバスクに報告しても構わない ―― が ” 」
 掌から手形がくっきりと刻みこまれた鉄の塊がゆっくりと床へと落下する、落ちた衝撃でリコイルスプリングが外れて壊れたスライドが准将の靴を勢いよく叩いた。
「 ” 私は君と違って現場に出て指揮を執る立場の一人だ、故に殺人許可の権利を有する者の一人であると言う事を覚えておいてもらおう ―― この件に関しては私の方で預かる。それでいいな、准将? ” 」
 ばね仕掛けの人形の様に何度も頷く准将を横目で見ながらダンプティは心の底で微かな恐怖を覚えていた。『ウスタシュ』のコードネームを持つこの男は旅団の実質的な最高司令官であり、最も不明な過去を持つ佐官でもある。噂によると星一号作戦(ア・バオア・クー攻略戦)の際に重傷を負い、一命を取り留めた代償として右半身の殆どを機械によって補う事となったらしい。口さがない兵士の間では彼の強化外骨格はルナ・チタニウム合金製で、たとえ身体が粉々になったとしてもその頭だけは絶対に無くならないようにしてあるのだと影で囁き合っていた。
 しかしダンプティの恐怖の原因は彼の見た目ではなくその卓越した洞察力だった。自分達が立てた作戦のほんの些細な綻びも看破ってよりよい物に再構築したり、秒単位の矛盾を指摘して作戦自体の構成を変える優れた戦術眼は少佐をも凌駕しているかもしれない。そして今回に限ってこの作戦を彼の手に委ねる事だけは避けたかった。綿密に計画を練り上げたとはいえどこから彼に自分達の本来の目的を看破されるか予想すら出来ないからだ。
「 ” ―― さて中佐 ” 」
 僅かな抑揚に不明瞭な感情を乗せて ―― 機械の声はそこまで人の声を再現できない ―― ウスタシュはダンプティへと身体を向けた。顔を見上げて右手を掲げた彼は神妙な面持ちで静かに言った。
「申し訳ありません、旅団に対しこの様な危機的状況を齎してしまった事を陳謝いたします。つきましては作戦を再考の上、日時の延期を検討したいと思いますが」
「 ” その必要はない、むしろ私が君に提案したいのはその逆だ。作戦地域の状況から判断すると日時を繰り上げて決行するのが最も得策だと私は考える ” 」
「それは無茶だ大佐、今の状況が分かってるのか!? 」
 慌てて口を挟んだ准将は口角泡を飛ばして反論を始め、ウスタシュはまるでそれが当たり前だと言う風に何気なく顔を向けて顔を眺める。
「こんな騒ぎのすぐ後で旅団を動かす事なぞ馬鹿げているっ! 我々はその存在を絶対に他に ―― 自軍にすら知られてはならない特殊作戦群なんだぞ、それを衆目に晒す危険を冒してまで作戦を実行するなんて。ましてや決行日時を早めるなんて非常識も甚だしい! 」
「 ” 状況次第ではその非常識も常識たりえると言うのが、孫子以来の兵法の常道でね …… オペレーター、現在の地上連邦軍の勢力図を准将の部屋に転送しろ ” 」
 机の上で書類の下敷きになっているインターコムのボタンを押しながら大佐が命じると一瞬の間を置いて壁一面が白く輝いた。メルカトル図法で表示された世界地図の中から北米大陸の西海岸を指で大きく囲むとそこが拡大されて詳細な配置図が表示される、多くの赤い点がサリナスを中心としてごく小範囲に集まっているのが分かる。
「 ” 三年前に起こったジオン軍残党による紛争で成立した『テロ対策特別法』によって現在、キャリフォルニアベースに駐留している主力の殆どがサリナス周辺の捜索や警備に駆り出されている。従ってオークリーの後詰めに向かう戦力は今の本体には無い、加えて ―― ” 」
 今度は表示地域を少し拡大してオークリーとサリナスが一つの画面に入る様にする、衛星写真によって撮影された地形図を呼び出すとその二つの場所の間に大きな山並みが横たわった。
「 ” サリナスに展開している部隊がオークリーに向かうにはこの山を迂回しなくてはならない。空挺用のガンペリーとミデアにはジャブローから越境派遣の手続きを要請すればこちらの作戦に水を差す戦力はほぼいなくなる、それで作戦は支障なく完遂できる筈だ ” 」
 確かに、とダンプティは二つの意味で頷いた。一つは大佐の状況判断から導き出される戦略が理にかなっていると言う事 ―― 本作戦を立案する際に最大のネックとなったのは北米軍西海岸最大の拠点であるキャリフォルニアベースの存在で、ケルシャ―は作戦開始の前にオークリーの通信網をあらゆる手段を使って封鎖する段取りを取っていた。襲撃されても連絡さえ取れなければ元々離れ小島の様な位置に存在する基地なので夜明けまでに殲滅する事は容易い事だと思う。しかしだからと言ってモビルスーツを使って夜戦を行うのだから当然派手に爆発音はするし閃光は洩れる、ドイツの研究所は山奥の盆地の様な場所に置かれていたからそれを気にする事無く作戦を実行できたがオークリーは開けた地形で20㎞向こうには集落もあるから住人が通報しないとも限らない。
元々夜明けまでのタイトなタイムテーブルが更に制約を受けていると言うのは作戦を修正していたダンプティの素直な感想だった。
 だがキャリフォルニアの戦力が増援に来ないと言う保証があるのならば話は別だ、最大限の火力をふんだんに使ってより短時間に目標を制圧できればそれだけ部隊への危険が少なくなる。七分三分くらいかも知れないと思っていた彼の胸中に突然作戦成功への確かな裏付けが湧き上がってくる。
 そしてもう一つはケルシャ―と密かに立案した、部隊からの脱走にその状況がうってつけだと言う事だ。もぬけの殻になったキャリフォルニアベースに自分達が侵入する事は、容易い。
「 ” ―― どうした中佐? ―― ” 」
 その声がまるで自分の考えをリアルタイムで盗み見ている様に思えてダンプティは内心慌てた、神妙な面持ちだけを必死に保ちながら彼は大佐に向かって踵を鳴らした。
「大佐のおっしゃる通りです、確かにどう考えてもこれ以上の状況は考えられない ―― 現時点をもって第一分隊は直ちに『イーリオス』を発令、明後日の未明午前零時から作戦を開始します」
「 ” よろしい、存分に暴れたまえ。現地で保護している分遣隊の五人はサリナス南部に設置する前線本部付近での待機を既に命じてある、合流して共に作戦に当たらせろ ” 」
 大佐の言葉を聞いて二人はそれぞれ顔色を変えた。准将は自分や旅団をここまで追い詰めた張本人に対して何のお咎めもなく原隊へと復帰させようとする大佐の寛大さに対する疑問、そしてダンプティは大佐の人となりからそれは絶対にあり得ないと言う確信とその裏側にある言外の意図を探る。
 それぞれの顔を一瞥した大佐はまだ人の顔としての機能が残っている左側の口角を微かに上げた。そんな些細な変化でも右と左が釣り合わない人間の笑顔は悪魔の嗤い顔の様に見える。
「 ” 予備弾倉は必ず最後まで残しておく様に、下手に彼らに生き延びられたらボロゴーブでの焼却が面倒だからな ” 」

「 ” ―― ああ、それと中佐 ” 」
 二人の敬礼を背中に受けて退室しようとした大佐は何かを思い出した様に振りかえった。右足の義足が微かな音を立てて床の上を滑る。
「 ” オークリーの詳細な情報は私が手配した、多分今晩あたりに作戦部のアドレスへメールが送られて来るからそれを利用してくれ ” 」
「オークリーの情報が …… メール? 」
 軍の基地情報はたとえ最後方に位置するオークリーと言えどももちろん機密扱いの筈だ。なぜそんな重要な物がそんなに簡単に、しかもメールなどと言う一般的なやり取りによって送られて来るのだろうか?
「 ” 今日私はオークリーに行って内通者と直に会い、今回の件についての一切を打ち明けた。彼は私達が提示した交換条件を受諾して現時点でのオークリーのデータを全て送ると約束してくれた。得難い情報ゆえ取り扱いには十分に注意するように、終わったら抹消する事を忘れるな ” 」

                                *                                *                                *

 真っ暗な部屋の中のあちこちに点るLEDがカチカチと言う音と共に明滅を繰り返す。ワンルーム住宅のリビングほどの広さの空間にびっしりと詰め込まれた機械の群れが微かな作動音だけを洩らしながら次々に受け付けた命令を実行に移す、彼らを効率よく働かせる為に全開で動く旧式のエアコンの音が耳障りなほど部屋の中に鳴り響く。谷間の奥に座ったままの黒い影は彼を取り囲む雑音に気を止める事無くひたすら目の前の画面に映る何かと格闘を続けていた。
 時折失望した様に洩らす小さな溜息と舌打ちは彼の上体を僅かに揺らし、しかし彼はそれでも諦める事無く再びキーボードの前へと身体を進めて戦いの続きへと赴く。いつ終わるともしれないその繰り返しが突然変化したのは、モニターの片隅に赤い文字が点滅を始めた瞬間だった。影は目にも止まらぬ速さでコンピューターとの接続を切ると慌ててドライブスロットからディスクを取り出して懐にしまいこみ、音を立てずに立ちあがるとそっと出口へと足を進めた。
 鉄製のドアを少し開いて廊下の様子を暫し観察していた彼は人影のない事を確認するとそのまま何食わぬ顔で予備電算室の外へと足を踏み出した。ゆっくりと扉を閉めて後ろ手にレバーを回す、少し落ちかけた眼鏡を空いた手の中指で軽く押し上げた。

「チェン、そこで何をしている? 」
 その声は彼が迂闊にも注意を払っていなかった逆側の廊下からだった。慌てたチェンが振り向くとウェブナーが怪訝な顔で彼の様子を窺っていた。
「あ、いえ。まだやり残していた仕事があったのを思い出して、それで ―― 」
「仕事熱心なのもいいが勤務時間外に予備電算室を使うと言うのはいただけんな、どうしてもというのなら私の許可を取ればいいだろう? 」
「あ、す、すいません。いつもの癖で ―― 」
 頭を掻きながらペコリと頭を下げるチェンの姿を一睨みしたウェブナーは辺境基地の規律の緩みを憂うように小さく溜息をついた。
「こう言う事はこれから必ず私の許可を取る様に、もしそれがやり辛いのならば必ず司令部の誰かにその事を伝えてから電算室を使え。今後勤務時間外に無許可で電算室を使う事は許さん、いいな? 」
「了解しました、お心遣いに感謝します」
 念を押す様にチェンの顔を睨むウェブナーの顔から微妙に視線を逸らした彼は右手を軽く掲げて恭順の意思を示した。いつも通りの彼の態度に ―― 人と目を合わさない様にしている事も含めて ―― 頬笑みを浮かべたウェブナーは小さく頷く。
「分かったら今日はもう休みたまえ。どうせこんな辺境の基地だ、残りの仕事は明日でも十分間に合うだろう? 私もジャブローへの定時連絡が終わったら休もうと思う、お互い自分の健康管理には留意しないとな」
「まだ続いてるんですか、あの日記? 」
 チェンが日記と呼ぶ定時連絡はジャブローと各基地が一日の終わりに必ず交わす日報の事だ。連邦軍の基地の総数を考えればその数は膨大な件数にも及ぶのだが、かの基地にはどうやらそう言うお役所仕事の大好きな御仁が多くいるらしく「その日に起こった出来事は出来るだけ詳細に記載して報告する様に」とのお触れと共に各司令官は何事もない日常をつらつらと書き綴るだけの仕事を押し付けられている。どうせそんな数を一日で読む事など出来っこないのだから、とチェンならすぐさま他の基地の報告書をコピーしてそのまま送るのだろうがウェブナーはいかにも生真面目な気質が災いして毎晩、勤務の終わりにジャブローへの定時連絡へと勤しんでいるのだった。
「そのいい方にはいくら君が民間人といっても承服は出来んな。それにつつがなく一日を終えたと言う事をいかにジャブローに知らせるかと言う事もそれはそれで技術のいる事なんだ、密林の地下で退屈しのぎを常日頃から考えている彼らの興味を引かないようにな」 
 嗜めるよりも払われる労苦に対して気の毒そうな表情を浮かべたチェンに感謝をするように苦笑いを浮かべたウェブナーは軽く片目を閉じて小首を傾げた。
「いつの世もお役所仕事とは手間がかかる割に報われないもんですね。心から同情しますよ」
「よしてくれ。これでもこの基地の司令官だ、場所や規模は違っても中佐と言う立場に違いは無い。他の者より多く給料を貰っている分何かと厄介事を押しつけられる物なのだよ。君も歳を取れば、分かる」

 予備電算室へと姿を消すウェブナーを見送ったチェンはほう、と大きな安堵の溜息をつきながらそっと踵を返して自室へと足を向けた。頭の中で何度も痕跡を消したかどうかを確認しながら長い廊下を通り過ぎ、突き当たりの角を曲がった所でチェンは自分目がけて勢い良く駆けて来るアデリアの姿を見つけて思わず小さく手を振った。
「チェンっ、あんた今までどこに隠れてたのよ。タイムカードはまだ打ってないから基地のどこかにいるだろうと思ってあちこち探したんだからっ」
 廊下中に響く大声で自分の苦労を訴えるアデリアの姿を笑いながら出迎えたチェンは足を止め、ふくれっ面の彼女に向かって対照的な笑顔を浮かべた。
「さすがに毎日鍛えているだけあってタフなもんだ、怪我してるって聞いてたけど全然分からない」
「あたしはそうでもない、ひどかったのはマークスの方よ。 …… ところでもう仕事は終わったんでしょ? 今から時間空いてる? 」
 矢継ぎ早に尋ねて来るアデリアのただならぬ気配を察知したチェンは一瞬意地悪い笑みを浮かべ、かたやアデリアは次に彼の口を吐いて出る無意識の悪意を察知して片手でそれを制した。
「あんたが今言おうとした事と頭の中に浮かんでる妄想の全部が全然違うから。マークスがあんたに頼みたい事があるって」
「 ―― 軍曹が? 」
 彼女の申し出と依頼者の意外さに思わず表情を変えてしまったチェンの顔色を眺めながらアデリアはしてやったりと小さく拳を握り締めた。副業でも付き合いのある彼女にもこの天才肌のオペレーターが頬笑み以外の表情を浮かべた記憶など思い出せないし、チェンは出来るだけそうしない様に心がけていると言う事も暗に知っている。チェンは今晩のこの短い時間の間に二度も素顔を晒してしまった自分の醜態を隠す様に眼鏡の蔓を指で押し上げながら、しかしアデリアの勝ち誇った笑みに反撃を試みた。
「OK、アデリア姫の他ならぬ騎士様のお誘いとあらば下僕としては断る訳にもいきますまい。どこへなりともお供いたしましょう」
「 ―― あんた、それもう一回マークスの前で言ったら今度こそ本当にブッ飛ばすからね? 」

 男性士官の宿舎はちょうど女性士官の宿舎の並びにあり、壁で背中合わせに建った二棟のうち男性士官の棟からは南側にある滑走路が一望できるようになっている。本来ならば女性用にこの棟が宛がわれる予定になっていたのだが常に日差しが差し込んで来る住環境は決して快適とは言えず、加えて設置されたエアコンの性能の悪さからここを利用する女性隊員全員からの嘆願書 ―― 任務放棄を含む脅迫文にも近かったが ―― が軍の上層部へ送りつけられたと言う経緯を持つ。辺境の基地とは言え民間人からの直訴を受けたジャブローはこの事態を無視する事も出来ず、命令という形で男性と女性の棟を交換する旨を通達してからは男性士官からの苦情を無視する事で事態の鎮静化を計っているのが現状だ。
 アデリアは何度かチェンの部屋を訪ねてはいたのだが、マークスの部屋は今回が初めてだった。チェンの部屋は驚いた事にアデリア達が住む女性士官の部屋よりも快適で空調も最新式の物が設置されている。待遇の不公平をアデリアが口にするとチェンは自分が正式な軍人ではなく軍属だと言う事と、自室のサーバーを冷却する為にはどうしても高性能の物が必要であると言う事を兵站部へと懸け合ってこの環境を手に入れたのだと言う。そう言う所の抜け目のなさは自分が行っている副業の元締めとしても有能である事から一目置かざるを得ないのだが、それ以上の感情をアデリアは彼に対して持つ事は無い。それが自分の価値観と照らし合わせても決して同意できる物ではないからだ。
「 ―― 何をしてるんだい? 」
 自分の部屋にはノックもせずにずけずけと上がり込んで来るアデリアがなぜかマークスの部屋の前で異様なまでの躊躇を見せる仕草を見てチェンが尋ねる。声を掛けられた事で何かの答えを得た様に彼女は少しドアの前から後ずさりした。
「あ、あのね。あんたには悪いんだけどちょっとこのドアノックしてくれる? もし他の誰かの部屋だったら何かの誤解に取られると困るし」
「他の誰かの部屋って ―― 」
 チェンはそう言うとドアに張り付けられた名札を確認する、それはどこからどう見ても何語で読んだとしてもマークス・ヴェストという文字に間違いない。改めてアデリアの方を振り返ったチェンの目に映ったのはまるで女子学生の様にうつむきながらもじもじしているアデリアの姿だった。
「どこからどう見てもここは軍曹の部屋だよ ―― なに? まさか怖気づいたとでも? 」
「そっ、そんな訳ないじゃないってちょっと待ちなさいよあたしが何に怖気づいたっていうのよ!? あたしはマークスに頼まれてあんたを呼びに行っただけなんだから、べっ別にこの機会にあいつの部屋を見ておこうなんてこっ、これっぽっちも ―― 」
「 ” あいつ ”? …… そっか、やっと彼が好きだって事を自分で認める決心をしたんだ」
 それはアデリアも今まで見た事がない位に温かな笑顔だった。ネットでの評価も売り上げも他のモデルより圧倒的な人気を誇るトップモデルとして君臨する彼女の素顔は過去のトラウマに苦しむ対人恐怖症の少女だと言う事をチェンは知っている、そして彼女がマークスに好意を寄せていながらも頑なに自分の心を欺き続けて部下と上司という一線を必死で守り通していた事も分かっている。だがそれが知らずの内に彼女の本質を曇らせてどこか作り物のような印象を回りに与えていると言う事をチェンは今まで残念に思っていた、そこから勇気を出して一歩を踏み出すだけで本当に誰からも愛されるべき素質を持っていると言うのに。
「ばっバッカじゃないのあんたはっ!? 呼び方変わったくらいでどうしてそうなるのよっ、だいたいあんたは司令部付きのオペレーターのくせにどうしてそんな事がわかンのよ!? 」
「だってアデリアは分かりやすいもの、それにまだ告白も済ませてないって事も」
「のあっ!? 」
 変な悲鳴を上げてのけぞるアデリアの反応を愉しむようにチェンの笑顔が変化する。赤絵の具をぶちまけた様に真っ赤な顔でわなわなと震えだす彼女を憐れむように彼は切なさを満面に表した。
「人間っていざとなるととんでもない勇気が湧くって言うだろ? だから僕はてっきりアデリアが軍曹に告白を済ませたのかと思ったんだ。でもまあそんな調子じゃあ相変わらず君は今みたいなぬるま湯につかっている様な関係が心地いいと思ってる訳だ、せっかく軍曹が命がけで助けに来てくれたってのに何て甲斐のない」
 あっはっはと笑いながら彼女の意気地なさを詰るチェンの前で突然アデリアがうつむいたまま声を絞り出した。それは明らかに怒りを通り越して殺意さえ滲ませる。
「 …… えーっと、短い付き合いだったけど、言い残す事はそれだけかなぁ? 」
 ノーモーションで持ち上げられた膝が突然伸びて爪先を矢の様に奔らせる、空気を裂く音が一瞬前までチェンの頭があった空間を駆け抜けた。既に報復の前兆を察知していたチェンは笑いながらしゃがむ事でアデリアの渾身の一撃を回避している、ピルエットの様にその場で一回転した彼女は頭から湯気を吹きあげてがなりたてた。
「あっ、あたしとマークスはそんな関係じゃないわよッ、じょ、上司と部下で同僚でコンビで! とっとにかくあんたが思ってる様なイヤラシイ事なんか考えた事も無いんだからっ! 」
「それは重症だ、健康な男女二人が一緒にいてそんな事を考えた事もないなんてすぐにドクのカウンセリングを受けた方がいい。でも多分彼の事だからうんざりした顔で君に避妊具の束を直に手渡して「とりあえずこれ全部使ってから出直してこい」とか言うに決まってるけど」
「ひ、ひにっ!? こっこのエロメガネなんて事口走ってんだゴルァ!! 」
「 ―― 二人で部屋の前で何やってんだ、もう消灯時間はとっくに過ぎてるんだぞ? 」
 息まくアデリアの傍にあるドア越しにマークスの声が聞える。アデリアは突然の事に驚いて硬直し、チェンはその様をクスクスと笑いながら一しきり眺めてから静かな声で来訪を告げた。
「ルオ・チェン、あまのじゃくなお供を連れてただ今参りました。入室の許可を願います」

 たった二つしかない椅子を二人に使われて身の置き場に困ったアデリアは胸の鼓動を押さえながらそっとマークスのベッドへと腰掛けた。ひっそりとした室内の南側の窓のカーテンは開け放たれてオークリーの夜景が丸見えになっている、アデリアはそれが士官学校から続くマークスの癖だと言う事を本人から直に聞いていた。彼に対する理不尽ないじめは宿舎の中でも続き、就寝時に部屋の中へと侵入してきて謂われなき暴力を受けた事が何度もあると言う。それ以来彼はいつでも敵を迎え撃てる様に自室の窓を塞がない事にしたのだと教えてくれた。
「 …… どうした、アデリア? 」
 きょろきょろとあたりを見回す彼女にマークスが尋ねる、アデリアは一しきり彼の部屋を眺め終わった後にぽつりと言った。
「 …… あんたの部屋もニナさんに負けず劣らず何にもないわねぇ。ほんとに殺風景ったら」
「そうでもないさ、少なくとも木の股から生まれてない証拠くらいは置いてある」
 苦笑いをしたマークスが目でアデリアを誘導する。導かれるままに彼女が辿り着いた先には小さな写真立てが何枚か飾られていた。そのうちの一枚は自分の記憶の中にもある彼の家族の集合写真、そしてもう一枚はその時よりはずっと歳を経た両親だけが肩を並べて写っている物だった。
「? あれ、妹さんは? 」
「エリザベートとはここの所少し冷戦状態でね、ここしばらくは声も聞いてない。自分がいじめられた原因が全て俺にあったと言う事を知って、それで俺を憎んでるらしい。今は家を離れて全寮制の高校に行ったまま家にも帰ってこないそうだ」
 アデリアを気遣ってさりげなく話すマークスの口調にどこか寂しさが滲み出る、アデリアが思わず口ごもると彼女をフォローする様にチェンが口を開いた。
「『愛憎表裏』という言葉もあるぐらいですから妹さんもいつか軍曹の事を理解できる日が来るでしょう。今は駄目でも彼女が大人になった時きっと理解出来る、だって血の繋がった兄妹なんですから」
 マークスはチェンの励ましに感謝の笑みを浮かべ、しかしアデリアは彼とは全く正反対の表情でじっと部屋の隅を見つめていた。
 愛する事と憎む事はよく似ていると何かの本に書かれていた、そして自分を拉致したあのガザエフも同じ様な事を自分に言った。しかしその想いを晴らす為に大勢の人間を犠牲にし、揚句にマークスの命までをも奪おうとするその理由をアデリアは何度生まれ変わっても理解する事は出来ないだろう。単語や熟語だけでは言い表せない人の心の闇をそんな簡単な一言で万人に理解させようとする辞書の方が根本的に間違っている。
 人の業で最も救いようのない部分だ、その感情は。
「チェン、こんな遅い時間にわざわざ来てくれてありがとう。実は君のオペレーターとしての実力を見込んで一つ頼みたい事があるんだ」
 アデリアの表情が曇っていく事に気付いたマークスは慌てて話題を逸らして本題を切り出した。突然の改まった口調にチェンは二度ほど瞬きをした後、いつもの頬笑みを浮かべながらじっとマークスの色違いの瞳を見つめている。
「私に出来る事でしたらなんなりと。他ならぬアデリアの友人同士としてお話を伺いましょう」
「じゃあ遠慮なく。 …… 先ず君に聞きたい、君はどれくらいの規模のシステムにまでハッキングをかける事が出来る? 」

 マークスの瞳に映ったチェンの表情はほとんど変わらず微笑んだまま、だがたった一か所変化した場所があった。ガラスの奥に潜んでいる両目がすっと細くなってまるで何かを観察している様な雰囲気に変わる。
「僕の力を試したいと言うのならそれは御遠慮願います、これでも一応連邦軍の軍属なのであなたがたと同じ様に軍法には抵触出来ない決まりになってますので」
 やんわりと断ろうとするチェンにマークスの厳しい表情が向けられる、そしてそれを傍で見ていたアデリアにだけは分かっている。マークスがこんな顔をした時はてこでも後には引かないと言う事を。
「 …… 分かりました。僕はシステムと名のつく場所ならどこにでも潜り込む事が出来ます、企業・コロニー・軍事施設などネットに繋がっている場所にならどこにでも」
「例えばそれがジャブローのメインサーバーだとしても? 」
 マークスの言葉を耳にしたアデリアが目を丸くして驚く、だが当のチェンは何の感情も見せずに淡々と答えた。
「条件付きで。先日少しお話しましたが佐官が閲覧可能なアーカイブまでならウェブナー司令のパスを使ってこっそり覗く事ぐらいはできます、ただしそれが司令にばれたら僕は軍の諜報部の監視付きで一生過ごす事になるでしょうが」
「それは俺にも分かっている、でもそれ以上のリスクを君に承知して貰わなくてはならない …… 俺の欲しい情報は多分そんなありきたりの場所に置いてある代物じゃないと思う」
 アデリアが息を呑む、チェンは無言でじっとマークスの言葉の続きを待っている。マークスは少し視線を逸らすと小さく息を吐き、自分を落ち着かせるように再び息を継ぐとチェンに視線を戻して険しい表情をした。
「ジャブローメインサーバーのデータバンク、レベル5へのダイブを君に頼みたい」



[32711] friends
Name: 廣瀬 雀吉◆068209ef ID:41c9b9fd
Date: 2014/03/10 20:57
「お探しの物は? 」

 チェンの声を聞いた時マークスは動揺を押し隠すのが精いっぱいだった。尋常とは言えない申し出に対して全く表情を変えずにその先へと話を進めようとするとはマークスには思いもよらなかった、しかし目の前に座る彼は眼鏡の奥にある瞳をじっとマークスの色違いの目に固定して微動だにしない。心の底まで見透かされそうな ―― いやそれは多分本当にそうなのだろう、詭弁や弁解の類を許さないとするチェンの圧力にマークスは用意してあった全ての問答集を棄てて彼の目に対峙した。
「二つある。一つは『PI4キナーゼ・タイプⅣ』という薬品に関するデータ、そしてもう一つは『ヴァシリー・ガザエフ大尉』というティターンズの尉官の現在についてだ」
 びっくりしたアデリアが大きく眼を見開いてマークスに顔を向ける、マークスはチェンを呼ぶ理由を彼女には一言も話してはいなかった。初めて明かされたその真意は彼女にとっても望外の物で、しかしそれがどんな結果を齎すのかも十分に理解出来る代物だ。最高刑は銃殺というリスクを持ちかけるマークスにも驚いたがその内容が明らかに自分の為に設定された物だと言う事に彼女は言うべき言葉を失ってしまう。
「アデリアは彼の事を『元』だと言っていたが俺にはそうは思えない、スタンガンを発砲して来た男や俺を嵌めた男に関して言うなら傭兵やジオンの類ではなく同じ連邦軍の臭い ―― それもティターンズの匂いを感じたんだ」
「軍曹にそれが分かるのですか? 」
「俺はここに来るまでいくつもの基地を転々として来た、だから連邦軍の兵士の雛型と言うべき物は大体分かっているつもりだ。少なくとも敵に銃を突き付けられて唾を吐く様な根性の持ち主は今の連邦軍にはいない、みんな負け犬根性が染みついているからね」
「つまりあなたは敵のその態度にティターンズ特有の傲慢さを見た、と」
 小さく頷くマークスはアデリアをちらりと見た。彼女はまるで石像の様にベッドの上で固まったままじっとマークスを見つめている。
「もし彼が今もティターンズの兵士だと言うのなら上層部は直ちに彼を逮捕して、今後こう言った事が起こらない様に軍の綱紀を粛正する為の何らかの行動を起こすだろう。でも実際に行われた事は報道管制と改ざんした事実のリーク ―― あれだけの被害を出した事件の割には早いタイミングでそれが実行されている。これは事件を隠蔽しようとした部署が焦るあまりに勇み足を踏んでしまったのではないかと俺は考える」
「その部署がティターンズのどこかに設置された特殊部隊である、と …… 大胆な推理ですね、しかも確たる何の根拠もない」
「そう、これはあくまで俺の推理だ。だからチェン、その根拠を君に探してほしいんだ」

 それまで冷静にマークスを観察していたチェンの目が突然大きく見開かれて、そしてすぐさま普段の眼差しへと変化した。無茶な申し出を受けた彼としては相手の論法の矛盾を突いて何とかこの話を断ろう、そしてマークスにも思いとどまらせようという魂胆だったのだが逆にマークスの策略に引っ掛かった様な形になった。意外に手強い商談相手を前にチェンは呆れた様にクスクスと笑い始めた。
「さすがは士官学校幻の総代、どうやら僕は貴方という人間を見くびっていたようです。 ―― 確かにガザエフ大尉がティターンズに所属していると考えれば彼の行動を隠蔽しなければならない勢力が存在する、軍曹が考える通りそれが特殊部隊群だと仮定するならばその人事データはレベル5にしか存在しない」
「もし彼が特殊部隊に所属しているのならなぜ小隊規模の人数で民間人を巻き込んだ破壊工作をしてまでアデリアを拉致しようとしたのかが知りたい。アデリアは彼が正気を失っていたと言っていたけど少なくとも軍を動かす以上は何らかの建前が必要だ、特殊部隊が何の為に動いて彼らをサリナスに派遣したかが分かればその線上からアデリアの存在を外す事が出来る」
「偶然か必然かは分からないがそれさえ掴んでおけば彼女を無駄な争いに巻き込まなくて済む …… そう言う事ですか」
 チェンの言葉を聞いたアデリアが思わず声を上げて反論しようとする、だがマークスは彼女を横目で一睨みするとそれ以上の横やりを挟む事を禁じた。二人の間でしか成り立たない無言の意思の疎通を眺めていたチェンはデスクの上で両手を組んで上体をマークスへと傾けた。
「ではもう一つの『PI4キナーゼ・タイプⅣ』という薬品は何故? 」
 興味深々で尋ねて来るチェンに対してマークスは明らかにそれまでの強気な態度を失った。逡巡と葛藤が彼の声帯をこじ開けて今にもその答えを零そうとしているのが分かる、だがマークスは息と共にそれを一呑みするとチェンの方へと視線を戻した。
「 ―― それを今ここで君に教える訳にはいかない。ただある目的の為にその薬品の化学式と臨床データがどうしても必要なんだ」
「畑違いの資料を持って専門家に預ける …… さしずめドクも巻き添えにしようというところですか? 貴方の熱意には脱帽しますがそれは些か度が過ぎているのではないかと僕は思うのですが」
 チェンの忠告はマークスが掲げた目的の唯一の弱点だった。コウを犯し続ける薬品の正体を知った所で自分達に出来る事はそこまででしか無い、彼を完治させて元の通りにするにはどうしてもドクの協力が必要なのだ。そしてもしそのデータを渡したとしても彼がその魂胆に協力する保証は、無い。
「では僕からも軍曹に質問があります」
 口を噤んでしまったマークスに向かって真剣な目を取り戻したチェンが言った。
「僕は軍属として貴方がしようとしている事、そして軍紀違反に関して告発する権利があります。もちろん貴方もその事を十分理解した上で僕にその事を打ち明けたと思うのですが、なぜそうしようと思ったのですか? お互いが信用するには出会ってから間もないし、貴方は僕の事に関して知らなさすぎると言うのに」
「 ―― 誰よりもコンピューターに詳しい君だからこの話を頼んだ訳じゃない。俺はアデリアの友人である君を信用したんだ」

 チェンの眉尻がピクリと上がる、マークスの告白を聞いて彼が起こした唯一のリアクションだった。相手の心の底まで見透かす様な鋭い眼差しがマークスを襲う、だが彼はそれを跳ね返す瞳の輝きでチェンを見た。もとより心の底に隠しておける物など何も持ってはいない。
「アデリアが友人として認めている君だからこそ俺も君を信用する、俺は上官として彼女に降りかかるかもしれない身の危険から守る事と彼女の手が届かないその願いをどうしても叶えてやりたいと思った。君はアデリアの友人としてもし彼女がそう言う立場にいたとしたらどうしてやりたいと思う? 」
 手の内を全てさらけ出してマークスはじっとチェンの反応を待つ、彼は暫くの間無言でマークスを見つめていたが唐突に溜息を吐いて視線を逸らした。
「 ―― 商談の駆け引きとしてはあまり上手とは言えませんね。そんなに手持ちのカードを晒してしまっては相手の興味が薄れてしまうし自分の価値観を相手に押しつけるやり方は商人としては禁忌です、取引の落とし所を探ろうとする以前に御破算になる可能性すらある」
 チェンの辛辣な物言いで生まれるマークスの失望、思わずアデリアが「ねえ、チェン」と助け船を出した瞬間に彼は固い表情を崩してクスリと笑った。
「 ―― でも、真っ向勝負は嫌いじゃない」

 暗い表情だったマークスの顔に輝きが蘇る、安堵と喜びを隠す事無く面に表したマークスに向かってチェンはしょうがないと溜息をつきながら普段通りの笑顔で言った。
「友人をだしにされた事の是非はともかくとして貴方の言う通りアデリアの為になる事ならば僕は何でもしようと決めている、ですから今度もそれは変わらない。軍曹の依頼をルオ・チェン個人としてお引き受けしましょう、ですが ―― 」
 手を差し出そうとしたマークスの動きを目と言葉で牽制したチェンはゆっくりと上体を起こして椅子の背もたれへともたれかかった。既に彼の頭の中ではデータバンクへ忍び込む為の戦略が練り上げられ始めているのだろう、宙をぼんやりと眺めながら彼は言った。
「最低限レベル5へ無条件に入れるだけの資格を持った人物のパスを入手する必要があります、手を尽くしてはみますがそれには少し時間が掛かるでしょう。それに連邦圏最強のセキュリティ『サンダーバード』に挑む訳ですからそれなりの準備もしないと」
「『サンダーバード』? なにそれ? 」
 聞き慣れない言葉にアデリアがすかさず尋ねる、チェンはうつろだった視線を彼女の方へと向けると凄みのある笑いを見せた。それが隠してあるもう一つの顔であると言う事をアデリアは知っていた。
「メインサーバー全体を守護しているセキュリティの渾名さ、僕達ハッカーの間ではそう呼んでる。侵入者をありとあらゆる手段で追い詰め完全に破壊するだけでなく、その痕跡を追いかけて根こそぎ叩く。国際救助隊サンダーバードに追いかけられて無事だったハッカーザ・フッドはほとんどいない、だからこそ腕に覚えのある連中が挑み続けるんだけどね」
 事もなげに概要を説明するチェンとそれに聞き入りながら表情を曇らせるアデリアとマークス。本当に自分達はこんな事を彼にお願いしてよかったのだろうかと後ろめたく思う顔をチェンは交互に眺め、フウと鼻で息をつきながら静かに立ち上がった。
「軍曹とアデリアの働く場所が戦場だと言うのならそこネットは僕にとっての戦場です、ですからそんなに心配しないで。出来る限りの準備を整えてからやれるだけの事はやってみましょう。 ―― あさっての夜消灯後に管理棟一階の予備電算室に来て下さい、それまでには何とか」

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 手にした受話器を静かに戻しながら奇妙な笑顔を浮かべたハイデリッヒはそのまま顔を上げて、巨大な机の向こう側に立つ白衣の青年に向かって言った。
「どうやら彼は取引に応じたようだ。オークリーの全ての資料が連中の手に渡った事で作戦は滞りなく実行へと移される」
「しかし所長、それでは彼らの思うがままに事が運んでしまいます。大佐の思惑が彼女の殺害だとしてそれは所長の目的には反するのではありませんか? 」
 心配顔の青年をよそにハイデリッヒは悠然と腕を組んで笑った目を彼に向けた。
「それを阻止する為の準備と道具は既に手配はしてある、だがそれが100パーセント確実に機能するかどうかは神のみぞ知る所だ。それに間違って欲しくはないのだが私の目的は彼女を生き残らせる事ではなく彼女の中に眠る資質ニュータイプを覚醒させる事だ、形はどうあれ彼女が生命の危機に瀕する事は私にとっても歓迎すべき物なのだよ。それだけのお膳立てが揃っていながらなお覚醒しないと言うのであればそれは私にとってはただの『雌』だ、いっそのこと死んでしまえばいい」
 矛盾に満ちたハイデリッヒの回答に絶句した青年は小さく口を開いたままその場に立ち尽くして言うべき言葉を探す、だが彼の頭の中にある豊富な言語野から適切な語句を掻き集めるより先にハイデリッヒは言葉を続ける。
「生命の持つ大きな特徴を進化と定義するなら科学はまさにそれだ、そして被験者や科学者はその生命を進化させる為の要因ファクターに過ぎない。彼女が死んでしまう事で科学の進化は一時的な停滞を余儀なくされ、私の存命中に『究極』を完成させる事は難しくなるかもしれないがそれはいつかまた違う彼女と違う私の手によってきっと創り上げられる」
「それは科学者としての使命が為せる業だと言う事ですか? 」
 至高の硬直からやっと立ち直って言葉を捜し出した青年が尋ねるとハイデリッヒはまるで世界を嘲笑うように不気味な笑みを浮かべて小さく鼻白む。
「そんな綺麗事ではない、人が抱える原罪と度し難い業がそれをつき進めるのだ …… 『好奇心』という名の生命の本能が、ね」
 吐き捨てるように呟いたハイデリッヒはおもむろに立ち上がると青年に背を向けて白みかけた窓の外へと切れ長の目を向けた。僅かに覗く灰色の瞳が黎明の暁光をまるで穢れた物でも見る様に険しくなる。
「その輪廻を繰り返して人類はここまで辿り着いたのだ、そしてそれは種が死に絶えるまで繰り返される。たとえその果実が『禁断の林檎』であったとしてももぎ取って口にする誘惑を抑え切れない ―― だからこそ私はこの研究に酷く心惹かれるのだよ」
 その顔を見なくても青年は彼がどんな顔をしてその台詞を言っているかがよく分かる、笑っている、いや嗤っている。
 創世記以来人という存在が手にしたまま拭い去る事の出来ない原初の罪を嘲りながら。

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「 ―― うわっ、酒くせえ」
 聞き覚えのある声にコウは目を覚まして何とか起き上がろうと試みる、だがラッパ飲みしたテキーラの効果は思いのほか凄まじくこめかみを撃ち抜く様な激痛が彼の意思を妨げた。干した事のない湿ったシーツの海に意識ごと埋没しそうな自分の身体を無理やり引き剥がして上体をやっとの思いで持ち上げるコウの体たらくを笑いながら眺めるヘンケンは、テーブルの上に置き去られたままのボトルを目の前に翳して呆れた様に言った。
「全く、頼んでおいた俺の分まで飲み干しちまったのか? 人のうわ前まで撥ねるからそんな目に遭うんだ」
 内容とは裏腹にヘンケンの声には少しも非難の色が見えない、恐らく全ての事情を既にセシルから聞き及んでいるのであろう。しかめっ面でやっとベッドに腰掛けたコウは両手で頭を押さえながら床を見るのがやっとだった、その額にひやりとした感触が押し付けられてコウは反射的に顔を上げる。ものすごい激痛が目に映ったヘンケンの笑い顔の輪郭を滲ませた。
「痛うっ …… 」
 呻きながらコウはヘンケンの手からよく冷えたボトルを受け取る、こめかみにそれを当てると少し痛みが和らいだ ―― そんな気がした。
「セシルから昨日の夜の話は聞いた、あいつ怒ってたぞ」
 普段はどちらかと言えば天然で突拍子もない事をさらりと言ってのける彼女、しかし昨日一日だけに限定するならコウが知らない彼女の一面を見せつけられた様な思いがある。単身で敵が潜んでいるかもしれないショッピングセンターの地下まで下りて来る大胆さといとも簡単に解錠する手際、そして脱出路を予め探してある周到さ。その他怪我の治療からオークリーへの連絡の手筈まで ―― ニナが来た事はさすがに予想の範囲外だったのだろうが、それでも一連の行動がいつもの彼女の人となりからは全く予想のつかない物であると言う事には変わりがない。
自分に背を向けて迎えに来た車に向かうまでそんな素振りの一つも見せなかった彼女がヘンケンの前では怒っていたと言う事にコウは少なからず驚いた。返す言葉もなくやっと目を開いたコウはそのまま手の中のボトルへと目を落とす、コーラの瓶だった。
「『彼は心まで機械になってしまっている、そんな人が誰かと一緒に未来を歩こうなんて高望みもいい所だ』とか何とか。 ―― 宇宙軍時代からの付き合いだが個人の事に言及する事は少ないんだがな。だからと言って君を見捨ててる訳でもない、セシルはセシルなりに似合わぬ心配をしてるんだ。らしいっちゃあらしいんだけどな」
 心まで機械か、とコウは黙ってセシルの言葉を思い返す。それならばいっその事壊れてしまってくれないか、とも。心がまだ動くからこんなにも彼女の事を考えてしまう、二度と手にする事のない未来を夢見てしまう。彼女の為に必要な物を失ってしまった自分が彼女の為にしてやれる事は二度と会わない様にする事しかない、それを自分に無理やり言い聞かせる為に酒の力を借りなければならなくなるとは。
「 …… セシルさんにも謝らなきゃいけませんね、俺達の事でそんなに心配させて ―― 」
「『俺達』ねえ」
 意味深な復唱を返したヘンケンがふふんと笑いながら倒れたままの椅子を起こして前後ろに腰かけた。背凭れに両手を重ねて顎を預けた彼は彫の深い顔に少しの憐みと心配を覗かせながらコウの傷だらけの顔を眺めていた。
「未練がまだあるならそれに自分を委ねてしまえばいい。心をがんじがらめに縛って後悔をしないふりをしている ―― そんな卑怯さがセシルは許せないんじゃないか? あれだけの事を言いはなってこれだけ自分を傷付けて、それでもまだ彼女の事を忘れられない。本当に好きな物、かけがえのない物を忘れたり手放したりする事は人間には難しい、もちろん俺もだ ―― と」
 少しづつ険しくなっていくコウの表情を見たヘンケンはそこで言葉を止めた。後頭部をゴリゴリと書きながら自分の迂闊さに気付く、馬鹿めヘンケン、そんな事は当人達が一番知ってる事じゃないか。
「お説教なんて俺の柄じゃないしそんな資格もないな、悪かった。ところで罪滅ぼしと言っちゃあ何なんだが ―― 」
 言い含める様に話していたヘンケンがそこで何かを思い出して時計を見た。お気に入りのパネライの文字盤をじっと眺めていた彼はぱっと顔を上げるとものすごくうれしそうな笑顔でコウを見た。
「 ―― モビルスーツに乗れなくなったとしても、見たいよな? 」

 椅子から立ち上がったヘンケンは腰のポケットからツールナイフを取り出しとコウに手渡して、コーラの栓を開けるように促した。
「実はもうすぐ『トーテムポール』で面白いショーが始まる、それでウラキ君を誘いに来た」
「面白いショー、ですか。一体何が ―― 」
「オークリーのモビルスーツ隊とティターンズの模擬戦だ。今朝基地司令から電話があって「こんな事は二度とないかもしれないから近所の人と連れ立って観戦に来ませんか、軍の敷地内への入場は安全確保の為許可はできませんが」だと。どうだ、君も見に行かないか? 」
『トーテムポール』とはオークリー基地での演習に使われる『アイランド・イーズ』の残骸の事で、部隊では位置座標で示されるが地元ではその威容から別名を冠されている。『アイランド・イーズ』の落着によって大勢の命が失われた、それを弔う為の意味合いとして屹立する墓標柱 グレイブメイカーだがそこにはもう一つの意味がある。
 ―― 『辱めの柱《ディスクレジットポール》』 ―― 特定の個人、グループに対して償いを請求するために立てられた彫刻柱、辱める事で相手に義務の履行を要求する呪いの彫刻。コウがその意味を知った時あまりの皮肉な表現に思わず苦笑してしまった。
 言い得て妙な渾名をつけたどこかの誰かに言ってやりたい、まさにその通りだと。
「あ、いえ、俺は ―― 」
「と断っても無駄だ、俺はセシルから是が非でも連れて来るように頼まれてるんでね。もうすぐ収穫に入ればそんな暇はしばらくなくなる、組合員に派手な余興を提供するのも組合長の仕事って訳だ。という事でこれは組合長からのお触れだ、組合員は全員参加」
 有無を言わさぬその物言いにコウは思わず苦笑いをした後に再び痛みで顔を顰め、ツールを開いて栓の縁にかけてそれを跳ね上げようとした時コウはふとあることが気になってその手を止めた。
「 …… そう言えば、なぜコーラなんですか? 」
 少し首を傾げて手の中の瓶を見つめるコウに向かってヘンケンはさも当たり前の事の様に言った。
「なんだ、そんな事も知らないのか? 二日酔いにはコーラが一番だ、普段から愛用している俺が言うんだから間違いない」

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 水平線から登った朝日に舷側を染めながらティターンズカラーのミデアは悠然とカリフォルニアの空を泳いでいる。鳥たちのさえずりがかまびすしくなりつつあるオークリーは恐らく夜通し掛けて飛んで来たと思われるその機からの一報で一日の始まりを迎えた。コウが目覚める四時間前の事だった。

「 ” こちら連邦宇宙軍第三軌道艦隊旗艦オラシオン所属『ヘリオス13』、参謀本部からの物資の緊急搬送の為にオークリーに到着した。滑走路への着陸を許可されたし、繰り返す ―― ” 」
 すでに当直の隊員から機影接近の報を受けていた管制官はぼさぼさの頭で首を傾げながら、目の前のスイッチを押す事を躊躇った。航空機を使っての物資の緊急搬送は原則的に戦時以外は禁じられている、それがよりにもよって大本営のジャブローから ―― それも畑違いもいい所の宇宙軍所属旗艦から発進したミデアだと言うのだから訝しがるのも当たり前だ。昨晩からの申し送りの書類を ―― と言っても二枚しかない ―― ぱらぱらとめくってそれらしい記述を見つけられない管制官はとにかく事情を確認しようと意を決してマイクのスイッチを押しこんだ。
「こちらオークリーコントロール。ヘリオス13、もう一度貴官の来訪目的を述べてくれ。こちらではそういう報告は受けていない」
「 ” 了解、当機は昨晩参謀本部の緊急の要請によりジャブローに入港中のオラシオンより当該物資を積んで離艦、移送命令書は同乗した士官の手によってそちらへと届けられる手筈になっている。 …… 手順が大事だと貴官が思うのならジャブローへと問い合わせをしてもらってもいい、ただしこの時間じゃああのだらけ切った連中はまだ夢の中でお休みだとは思うけどな ” 」
 任務だとは言え徹夜でこんな辺境までの輸送任務を受け負わされた兵士の不満を聞かされた管制官はシニカルな笑いでその言葉に同意した。管制塔の窓から外へと目を向けると星とは違う小さな輝きが目に映る、明るくなった空の色に目を細めた彼はその光を凝視しながら苦笑交じりに言った。
「了解した、ヘリオス13。オークリー基地への進入を許可する。三番デッキに着陸後許可が下りるまで機内で全員待機しててくれ、全員蒸し焼きになる前には基地司令がそちらに出向くと思う」
「 ” なんてこった、こっちは宇宙暮らしで地球の環境には全く慣れていないんだ。乗員全員が地球嫌いになる前によろしく頼む ” 」
「それも基地司令に伝えて早くそちらに向かわせるから安心してくれ。 ―― オークリーコントロール、ヘリオス13のオークリー到着を歓迎する。繰り返す『ロスト・スミソニアン』へようこそ」

 大きく地面に描かれた『3』という数字の上に巨体を降ろしたミデアは静かに機関を停止した。アイドリングを続けていた三基のローターが停止するとミデアを覆い隠していた砂埃が晴れ、ようやくその特徴的な外観が露わになる。三脚の足が挟み込んだ巨大なコンテナの後部が金属のきしみを上げてゆっくりと開き始める、鈍い油圧の利きに業を煮やしたかのように人影が扉の縁まで走り出て眼前に広がる殺風景なオークリーの大地に目を細めた。
「 ―― なんだァ、どっかで見た光景だなぁおい」
 ティターンズの制服を着たその男は昔の記憶を辿りながらそう言った。たった一度しかそこには行かなかったが忘れもしない、そこから始まった何カ月もの戦いは彼のキャリアの中でも最も稀有で印象深い物だったからだ。扉が開き切るのを待ち切れなくなったその男はそのまま一気に地面へ飛び降りると乾き切った大地の上で辺りを見回し、しきりに建物の影を探している。
「大尉、パイロットに叱られますから余り勝手な事をしないで ―― というかもう怒鳴られてますけど? 」
 ハッチに姿を現したもう一人の男は浅黒い肌と彫の深い顔を苦笑いで歪めながらゆっくりとハッチのスロープを下って来る、その後から姿を現した金髪の男は彼と同じ心境を別の言葉で男に伝えた。
「モンシア、気持ちは分かるがそうはしゃぐな。ウラキやキース達は逃げやせんさ」

 三人がトリントンに赴任したあの日、基地はただの戦場だった。変わり果てた建物と撤去し切れない瓦礫の隙間に置かれたモビルスーツの残骸、痛いほど照りつける太陽の下でただ黙々と敗北の後始末を続けるその人々の中に彼らはいた。戦争が一体どういう物であるかを始めて知り、そして自分の大切な物がいとも簡単にそして理不尽に失われてしまう事の意味を噛み締めながら。確かに目の前に広がる光景はあの日のトリントンとは全く違って平和に見える、だがベイトはモンシアの言う通りその景色がやはりあの日初めて目にしたトリントンに重なり合うのだ。
 それは多分彼らがここにいるからなのかも知れない。心をよぎる郷愁はベイトの足を止め、懐かしさに知らず顔を綻ばせた彼の隣ではアデルが同じ顔で立っていた。
「ばっか野郎、そんな事わかンねえじゃねえか。こんな所でぼやぼやしてたらウラキの野郎はニナさんを連れてどこかに逃げだすに決まってる、そうなる前にあの日の決着をきっちりつけなきゃ腹の虫がおさまらねえってモンよ」
「全く。あの日の事をまだ根に持ってるんですか? それに『大尉』はあの時ウラキ中尉とニナさんの関係を艦隊通信で大っぴらに認めたんじゃなかったんでしたか? 」
「あン時ゃそうでも言わなきゃ埒があかなかったからそうしたまででぇ、それが恋の駆け引きってモンよ。それに『生きてる限り負けはない』ってえのが我がベルナルド家の家訓だ、一度や二度勝ったからってでかい面してるあンにゃろうに俺様の諦めがデラーズやガトーよりも悪いって事を骨の髄まで教えてやらにゃあよ」
「だからてめえの家は貴族じゃねえって言ってンだろ? それにその名前は禁句だ ―― 基地司令だ」
 ベイトがコンテナのハッチから地上へと足を降ろした時、滑走路の向こうにある管理棟の扉が開いてウェブナーが姿を現した。単身で三人の元へと歩き始めるその姿を見てモンシアは小さく口笛を、そしてその声を代弁する様にアデルが呟いた。
「なんと将官が随伴無しでお越しとは。それにあの居住まいと雰囲気、ただ者じゃなさそうですね」
「残念ながら腕のいい奴ほど出世しないってのが今の連邦軍の常識だ、アマゾンの奥地で世捨て人みてえにじっと縮こまってやがる臆病者達に彼の爪の垢でも煎じて飲ませてやりてえぜ全く」
 毒をはいて自分達を事あるごとに締めつけようとするジャブローの上層部に心の中で唾を吐くベイトに同意する様に肩をすくめるアデル、二人がモンシアに追い付いた所でウェブナーは三人の前へと歩み寄って流れる様な動作で軽く右手を掲げる。それだけで三人には彼がどれだけの戦火を潜り抜けてきたかが十分に分かった。肩を並べた三人がウェブナーの過去に敬意を表する様に同時に右手を額の横へと掲げる。
「連邦宇宙軍第三軌道艦隊旗艦『オラシオン』所属、モビルスーツ隊の指揮をしておりますアルファ・A・ベイト大尉であります。オークリー基地への滞在を許可願います」
「北米方面軍オークリー基地の指揮を任されておりますクリス・ウェブナーと申します。『博物館』へようこそ ―― 宇宙軍、ですか。またなぜ急にこの様な畑違いの場所へ? 」
 自分の疑問に果たして誰が答えてくれるのかとウェブナーは代わる代わる三人の顔を眺める、それもそのはず彼らの襟章は全て大尉の階級を表す物だったからだ。言外の問い掛けにいち早く気づいたベイトは隣に並ぶアデルとモンシアに視線を送りながら苦笑した。
「所属艦『オラシオン』は現在ドック入りの最中でありまして私達には特別休暇が与えられておりましたが、艦隊司令部からの緊急招集で今回の命令書を受領したのが昨晩の2100時。直ちに出立の命を受けてここに至っております」
 ベイトが差し出した封筒を受け取り、注意深く表裏へと目を走らせたウェブナーはおもむろに封を切って三つ折りになった紙面を開いた。視線の動きと速さがそれを眺めるベイト達にこの将官の出自が艦隊の幕僚であったであろう事を教える。
「モビルスーツ用試作支援火器の搬送及び基地戦力練成度並びに向上の為の視察とありますね …… 支援火器というのは? 」
「同乗したミデアのコンテナ内に格納してあります、何でも一年戦争時に試作された実包式長距離対物ライフルだと聞いておりますが諸元・概要共に未確認であります」
「今時実弾仕様の対物ライフルとは。またうちの整備班が小躍りしてイジリまくるでしょう、なにせうちの連中はそう言う物に目のない連中が揃っていますから」
 部下の喜ぶ顔をそのまま表情に表したウェブナーは開いた命令書を丁寧に折り畳んで再び封筒へと仕舞い込んだ。胸のポケットへとそっと忍ばせると日に褪せた帽子のつばを摘まんで角度を整える。
「貴官らの滞在を心から歓迎します。物資の搬出に関しては恐らくもう当直の士官から整備班に連絡が届いているでしょう、モビルスーツ隊の連中にも ―― 来たようです」
 ウェブナーが振り向いた先にあるハンガーの出口は既に人で溢れかえっていた。めったに来ない連邦軍輸送機の正体を確かめる為に飛び出してきた面々はティターンズ色の三人の士官の影に驚きを露わにし、その先頭に立つキースは一瞬お化けでも見たかのような顔を三人に披露した後慌てて滑走路をかけ出した。

 全速力で駆けてきたキースはウェブナーと肩を並べて三人の前に立つ、息も切らせずにすっと右手を掲げるその姿を見てベイト達三人はさも当然と言う顔で微笑みながら返礼した。
「当基地のモビルスーツ隊の指揮をとっておりますチャック・キース中尉であります、隊員を代表して皆さんの来訪を心より歓迎いたします」
「よろしく頼む。任務遂行の為の積極的な支援に期待する」
 形通りの挨拶を交しながらでもその表情に溢れる郷愁は隠せない、キースとティターンズの将校三人との間の深い因縁を悟ったウェブナーは果たしてそれを問い質す事無く何気ない口調で言った。
「では私はこれで。陸の個島ゆえに何かと不便かもしれませんが出来る限りの便宜は図らせて頂きます ―― キース中尉、あとは君に一任する」
 言い残してその場を立ち去るウェブナーの背中に向かって一斉に敬礼の姿勢を取るキース達、しかしその影がドアの向こうへと姿を隠した瞬間にウェブナーが感じ取っていた郷愁の正体が歓声となって爆発した。
「 ―― どうしてここにっ!? みんなお元気そうで! 」
 破顔してベイトの差し出した右手を思いっきり握り返すキース、その行動をきっかけに四人の距離は一気に縮まった。
「まっさかお前がここの隊長だったとはなっ、連邦の人材不足もここに極まれりってやつか!? 」
「まったくだ。手前のようなひよっ子が隊長だと部下が気の毒で仕方ねえ、何かと苦労が偲ばれるってモンよ、あァ? 」
 髪の毛をわしづかみにしてもみくちゃにするモンシアがキースの肩に手を廻す、アデルはベイトから引き継いだキースの右手をしっかりと握り締める。
「いえ、これもキース中尉の素質と努力の賜物です。あの戦いを自分達と一緒に生き抜いたのですからそうなってもおかしくない、自分はそう思います」
 まるで久しぶりに出会った友人同士が交わす会話と光景を遮る様に、嬉しさを隠しきれないモウラの声が華々しさを交えて鳴り響く。
「お三方ともお久しぶりです、随分とご出世なさいましたね」
「おお、『でっかい姉ちゃん』も元気そうで何よりだ。相変わらずキースの野郎を尻に敷いてのさばってんのか? 」
「 ―― 『でっかい姉ちゃん』だけ余計だ、こらァッ! 」
 怒鳴り上げたかと思うとずんずんと三人の前へと歩み寄るモウラ、だがベイトの差し出した手をしっかりと握った彼女はとんでもないほど朗らかな表情で笑った。アルビオンではベイトの機体を担当した主任整備士とパイロットが交わしていた挨拶だと言う事はその時そこに居合わせた者たちだけが知っている真実だ。
「一体どうしてここに? ここだけの話ですが私達の接触は禁じられている筈では? 」
 笑顔のままで辺りを憚る様に尋ねるモウラ、彼女が確認している事はデラーズ紛争が終結した際に連邦軍との間で交わされた宣誓書の最初にあげられていた禁則事項である。サインをした者はティターンズに編入されそうでない者は一生軍の監視下に置かれる、お互いが選んだ道とは言え隠蔽すべき軍の謀略を知る彼らが接触を果たすなどという事は通常ではありえない事だった。
「さてねぇ。俺達は軍人だから受領した命令は迅速かつ正確に遂行しなきゃならねえ、無論今回の事に関してもな。ま、あれから三年もたったんだ、どっかのボケた参謀あたりが人選を誤って発令しちまったんじゃねえのか? 」
「私達もせっかくのチャンスですからこの機会を逃す手はない、と大急ぎでミデアを発進させたのです。普段ではとても近づけない場所ですのでね」
 アデルが言葉の中に今のオークリーの立場を忍ばせながら言った。陸軍の一基地とは言え元々オークリーは反乱分子を隔離する為の施設である、大義名分がなければ補給の為にすら立ち寄れないのがアイランド・イーズ落着前から存在したオークリーの意義である。
「そう言う事だ、おおっと断っておくがなにも俺ァお前達と会うのを愉しみにしてた訳じゃあないぜ? 千載一遇のこのチャンスにウラキの野郎とあン時のリベンチマッチとしゃれこもうって寸法 ―― て、そういやウラキの野郎はどこだ? 」
 たった一人だけ見えない仇敵の影を探してモンシアが辺りを見回す、その言葉を耳にしたオークリー組の表情が一斉に曇ったのを見たベイトが笑顔を収めて真顔になった。
「おい、どうしたキース。ウラキに何かあったのか? 」
 尋ねるベイトの背後から心配そうな目を向けるアデル、しかしその目は不意に流れた柔らかな声によってキースの元から滑走路にぽつりと立つ人影へと向けられた。
「ウラキ伍長は一身上の都合で当基地所属の予備役に編入、既にこのオークリーから退去しました」

「 ―― おおっ! ニナさん! 」
 まるで吸い寄せられる様に駆け寄ったモンシアはいきなりニナの両手を握り締めると自分の胸の前へと引き寄せて自慢の髭を彼女へと近づけた。
「まさかこの様な辺境の地で再び貴方に巡り合えるとは何たる偶然、いやこれは神様が俺達二人に与えた恵みによる必然ッ! このベルナルド・モンシア、今度こそ貴方を悪の手から奪い返す為に参上つか奉りました。 ―― て、今何て言いました? 」
 不遜なモンシアの態度にも、そして質問にも動じることなくニコリと微笑むニナ。モンシアの後から歩み寄ったベイトが複雑な頬笑みを浮かべながらゆっくりと右手を差し出した。
「久しぶりです、ニナ・パープルトン。元気そうで何よりだ …… ウラキがこの基地にいないって、それも『伍長』ってどういう意味だ? 」
「『予備役に編入』ってどういう事です? それじゃあ退役軍人と同じ扱いじゃないですか」
「理由は彼にしか分かりません。そして現在どこに住んでいるのかも ―― ただ予備役の編入は本人の強い意志で申告された事で、ジャブローで審議された後いくつかの条件付きで認可されたと言う事です。彼と接触しない事もその一つです」
 淡々と事実だけを口にするニナの態度にベイトとアデルは絶句し、そしてキース達はニナの変化に驚いた。彼女の生きざまをここまで変化させた当人の名を何の動揺もなく平然と告げるその雰囲気にモウラは在りし日のニナの姿を重ね合わせる、そう。
 それはコウとまだ知りあう前のニナの姿だ。
「 ―― なるほど」
 ただ一人モンシアだけが声を発した。いつものにやけた笑いを険しく寄せた眉根で歪ませ、彼はじっとニナの頬笑みへと目を向けた。だがその声には心の底から湧きあがる怒りと無念がそこはかとなく滲み出している。
「そンじゃああン時の仕返しはもうできないって訳ですね? 」

 その声にキースは妙な違和感を覚えた。コウがいなくなった事はモンシアにとってニナとの間の邪魔者がいなくなったと言う事を意味する、喜色満面でニナに迫った所で誰に咎めだてされる物ではない。だが彼は目の前にぶら下げられたニンジンに飛びつくどころかコウに会えなかった事に対して憤慨し、その拳を振り上げた先はニナへと向かっているような気がする。「なぜあんたがここにいながら奴を手放したんだ」と。
 恐らくニナ自身もそう感じたのだろう、だが彼女は一つも表情を変えずにモンシアから視線を逸らして後ろを振り向いた。ハンガーの人混みからおっとり刀で飛び出して来る二つの影を目を細めて眺めながら呟く。
「キース中尉、彼らが来ました」
 呼ばれたキースは我に帰るとすぐにベイト達から距離を開け、ちょうどニナとの中間地点に移動した。直立不動の体制を取って彼らと対峙するとすぐさま遅れて駆け付けたアデリアとマークスが彼の背後に辿り着いて同じ姿勢を取る、興味深々の顔を浮かべるベイト達にキースは二人を紹介した。
「紹介します、オークリー基地のモビルスーツ隊の隊員で自分の部下です」
「マークス・ヴェスト軍曹であります」
「アデリア・フォス伍長であります」
 連邦軍のカーキ色の夏服をきっちりと着込んだ二人が形式通りに右手を掲げるとベイトとアデルは優しい笑顔で二人に臨み、同じ様に右手を掲げて小さく頷く。だがアデリアは解ける緊張も束の間迫り来る邪悪なオーラを肌身に感じ、ぶるっと身震いをしてその元凶となるいやらしい目を険しい目で睨みかえした。
「ふーん、坊ちゃんとお嬢ちゃんかい。男にゃ興味はねえンだがそっちのお嬢ちゃんは気になるねぇ」
 じろじろと値踏みをするようにアデリアの顔を眺めるモンシアを彼女は「それ以上寄ってくンな」とばかりにキッと舐めつけている、しかしモンシアはアデリアの憤りに委細構わず目尻を垂らし、彼女が飛びあがりそうなほどいやらしい口調で言った。
「どうでぇ、今晩俺達と一緒にブラジルに飛んでサンパウロの夜でも楽しまねえか? 俺ァこう見えても女の子の事にかけちゃあ百戦錬磨だ、お前さんを一晩できっちり仕上げる自信はあるんだがねぇ」
「ごっご厚意は心より感謝いたしますが辞退させて頂きます、自分は任務の為当基地を離れる訳には参りませんので」
 吐き捨てた途端にものすごい目つきがマークスへと飛んだ。「あんたもなんか言い返しなさいよ」と言う無言の圧力がマークスをたじろがせる、だがモンシアは強烈な拒絶の態度を示す彼女に対して全然怯む態度を見せない。
「そんなつれない事言うなよ、せっかく上官が誘ってンじゃねえか。こーんな埃臭え場所に閉じ籠ってたんじゃあせっかくの色気も台無しだ、たまには思いっきり羽目を外してストレス解消しねえと可愛いボディが干からびちまうぞ? 」
 じりっと。
 アデリアの足が少し開く、それは至近距離の相手に上段を叩き込む為の準備動作だと付き合いの長いマークスには分かる。相手の顔を見ない様に固く眼を閉じてわなわなと震えながら、それでも必死にハラスメントに耐えるアデリアをからかうようにモンシアは畳みかけた。
「んんー? 返事はどうなんだい? ここで言い辛れえッてンならあとで聞いてやってもいいんだぜぇ? なーに考える時間は今日一日ある、お嬢ちゃんさえその気になれば明日の今頃にゃ常夏のリゾートだ。一人で淋しいッてんなら隣の彼氏も含めてここにいる全員をご招待してやってもいい」
「 ―― この、クソ」

 決して女の子が口にしてはいけない四文字言葉が炸裂する前にマークスは二人の間へと身体を捻じ込んだ、葉巻臭いモンシアの髭が自分の顔を擦りそうになる。
「部下の非礼をお詫びします大尉殿、しかし彼女は現在病み上がりで体調がすぐれません。もしご都合がよろしければ後日、大尉の所属する部隊に書簡をもってご返答とさせて頂きたいのですがよろしいでしょうか? 」
「ああ? なんで手前がしゃしゃり出て来てンだ、よたよた歩きのくせしやがって。俺にゃあ坊やの方がよっぽど病み上がりに見えンだが、そんな事でこれから一日俺達とやりあえンのか? ―― キース中尉っ! 」
 突然マークスから顔を離したモンシアが大声でキースを呼ぶ、今までこの方一度も彼からきちんと呼ばれた事のないキースは驚いて姿勢を正した。人を喰った様な笑いは健在だがその目の光だけは真剣だ、そしてキースはこれと同じ目をトリントンで見た事がある。息を呑んでモンシアの言葉を待っているキースに、言葉を継ぎたすベイトが背後から肩をぽんと叩いた。
「俺達が持ってきた命令書には『基地戦力練成度並びに向上の為の視察』が目的と書かれてある …… つまりはそういう事だ」
 耳を疑ったキースが思わず振り向くとそこに嬉しそうな顔をしたベイトとアデルの顔がある、アデルが無言で頷くと今度はモンシアが彼独特の恩着せがましい口ぶりを披露する。
「言っとくがこれは模擬戦なんて手ぬるいモンじゃねえ、れっきとした『軍事教練』だ。こんな片田舎で身内同士せこせこやり合うしか能のねえひよっ子の手前らに宇宙軍きってのエース様が三人も胸を貸してやろうって訳だ、断りやがったら罰があたるぜぇ? 」
 思わぬ展開にきょろきょろと主役たちの顔を交互に眺めるアデリアとマークス、そこへ穏やかな笑顔のアデルがすっと近づいて二人の目を引き付けた。浅黒い肌の黒髪の男は三人の中では最もまともな人格の持ち主の様に二人には見える。
「失礼、フォス伍長。バシット中尉から後で話を聞いて頂いても結構なのですがこの人は昔からこうなんです。女性に対する挨拶だと思って聞き流して下さい ―― いい部下たちですねキース中尉、お互いの意思の疎通が実によく通っている。これなら面白い事になりそうです」
「 ―― ぜひお願いしますっ」
 事態が掌握できない三人の代わりに大きな声を上げて頭を下げたのはニナだった。前で手を組んで頭を下げる彼女の姿に和やかな雰囲気のベイト達は思わず彼女の姿を注視した。
「こんな機会は ―― 歴戦で鳴らした連邦のエースチームと模擬戦が出来るなんてここでなくても滅多にない機会です、当基地の技術主任として是非お願いします」
 そんな態度を取ったニナの姿の記憶はあの日に離れ離れになったベイト達の記憶には無い、ヒュウと口笛を吹いたベイトがキースへと視線を向けると彼はそこで初めてニナと同じ様に頭を下げた。
「過分な申し出ありがとうございます、是非胸を貸して下さいっ! 」
 声に合わせて思わず頭を下げるマークスとモウラ、アデリアだけは頭を下げながら凄絶な笑みを浮かべて拳を小さく握り締める。ベイトはそんな彼女の仕草を盗み見ながら苦笑した。
「礼なら後だ、終わった後に「やるんじゃなかった」と後悔するかも知れんからな。 ―― あの時みたいに手加減なしでヤルから覚悟しとけよ? 」

「ちょっとなによ、あれ」
 モウラとニナに連れられてハンガーへと姿を消した三人の背中に向かってアデリアは敵意むき出しの目を向けた。意見を求められたマークスは困惑顔、それに対してキースはいかにもと言った風情で頬笑みを浮かべている。
「あんなのがティターンズのエース様? って言うんならあたしの友達にちょっかい出してる野郎モデルの連中は全員歴博殿堂入りよ、ほんっとムカつくったら」
「自分の持ってるエースのイメージとはずいぶんと違います。どことなく凄みって言うか圧力みたいな物が少しはあってもいいんじゃないかって思うんですがあの隊長さん達からは ―― 」
 マークスの脳裏にコウの面影が浮かび上がった。規定交戦時間内撃墜記録保持者、連邦軍初のモビルアーマーを駆って『悪魔払い』の二つ名を欲しいままにした伝説のエース。温和な態度の影にちらつく暗い影と凛とした敬礼の仕草、そのどれをとっても今の三人とは全く違う。マークスが訴える様にキースを見ると彼はまるで二人の反応を愉しむかのように薄らと笑いを ―― それも二人が今まで見た事もない凄みを帯びた笑みを浮かべていた。
「彼らはあの一年戦争を全くの無傷で生き残った数少ない小隊のメンバーだ、『不死身の第四小隊』と言う通り名を聞いた事はないか? 」
 さすがにその名前を耳にして表情を変えない連邦軍の士官はいない。損耗率七割以上と言われた『チェンバロ(ソロモン攻略戦)』と『星一号(ア・バオア・クー攻略戦)』を一名の戦死者も出さずに生き延びた小隊は数えるほどしかいない、しかも最前線で最後まで激戦を繰り広げた彼らの名はある種の奇跡として畏怖をもって語り継がれているほどだ。コウと言い彼らと言い、自分達の周りにはどれだけの生きた伝説が闊歩しているんだと呆れる二人にキースの鋭い視線が向けられた。
「歴戦中の歴戦、そして全員がエース。確かに俺達が束になってかかっても勝てるかどうかは分からない相手だがこんなチャンスはもう二度と来ない ―― 」

 そうだ、こんなチャンスはもう二度とない。
 コウを失った自分がこれからここでできる唯一の事。甘えを捨て、誰にも頼ることなく生きていく為の目標。そして未来へのたった一つの希望。
 コウの代わりに与えられた若い二人の隊員を擁して見出した小さな光。まだ完全とは言えないけれど、それでも自分の思い描いた理想がどこまで彼らに近づいたのかを知る絶好の機会。
 アルビオンで追いかけた彼らの背中にどこまで近付けたのか。
 そして夢の中で自分の手を振り切って宇宙の闇へと姿を消すあの白い背中を今度こそ捕まえる事が出来るのか。

 言葉を止めてじっと三人の背中を追うキースの目に憧憬と羨望が入り混じる。自分達には一度も見せた事のない穏やかな表情を食い入るように見つめるアデリアとマークスの視線を受けた彼は小さく苦笑いをして、先行きへの不安を露わにした二人へと向き直った。
「こら、やる前からそんな事でどうする? 確かに勝つには難しい相手だが勝負はやってみなきゃ分からない、自分が今までやってきた事を全部相手に叩き付けるつもりでやるんだ。例え負けたとしてもそこから得る物は大きい」
「だってその口ぶりじゃああの三人がまるで隊長より遥かに強いって言ってるモンじゃないですか。あんなセクハラ野郎がそんなに強いなんてあたしは認めたくない」
「当たり前だ」
 憤慨するアデリアにもやはり昨晩のコウの面影が過ぎっていたのだろう、背後でハラハラしながら話を止めさせようとするマークスの慌てた表情と頬を膨らませたまま抗議するアデリアを見比べたキースは顔を大きく綻ばせて彼女の危惧に同意した。えっと言う表情で驚く二人を尻目に彼は再びハンガーへと姿を消そうとする三人の小さな影へと目を向けた。
「彼らは俺の元教官で」

 その言葉をもう一度口にする事が出来るとは。

「 ―― 戦友だ」

 僅かに洩らしたその言葉はアデリアとマークスが初めて知るキースの過去の一端、目を見開いて振り返った二人の視線はキースが向けた場所で再び一つに混じり合った。



[32711] Versus
Name: 廣瀬 雀吉◆068209ef ID:41c9b9fd
Date: 2014/11/13 19:01
 ハンガーの片隅で演習前のブリーフィングを続けるベイトを尻目にモンシアは自分に預けられたゲルググへと足を向けた。本来であれば格上の自分達が性能に劣るザクを使うのだが、なぜかキースは自分達にこの基地での主戦機種と思われるゲルググを割り当てた。「乗りなれた機体で自分達の力を試したい」という彼の言い分だったがモンシアはそこにニナの思惑が隠れている事をおぼろげながら察知している。
 だがだからと言って自分達の役割や目的が変わる事はない、彼らの力がどれほどの物かを試してその結果次第によっては ―― 。
 表向きはいつもと変わらない表情を浮かべながら内心では澱の様にわだかまるもやもやを吹き飛ばせずにいる、そんなモンシアを驚かせたのはそこにいる筈がないと思っていたニナの存在だった。バケットを上げてコックピットへと乗り込もうとする彼の視界にシートの前の空間へと身体を滑り込ませてキーを叩いている彼女の金色の髪が飛びこむ、モンシアは思わず全身を強張らせてまじまじとそれを見詰めた。
「 ―― これぁ、俺が乗る機体ですぜ? 」
 あの頃、ニナをめぐって繰り広げたコウとのいざこざは逆に彼女の心を遠ざける結果になってしまった事をモンシアは分かっている。恐らく彼女にとって最も忌避する生き方の自分の機体を当人が触っていると言う事にモンシアは驚きと疑念を隠せない。自分の両側に固定されているゲルググを振り返るとベイトの機体にはモウラが、アデルの機体には妙に色っぽい赤毛の少女がアデルと共に楽しそうにセッティングを続けている。
「別にニナさんがやらなくても、あの二人のどちらかでも良かったんじゃねえンですかい? それにどうせ積んであるのは汎用型の起動ディスクだ、俺ァとりあえず動きゃあひよっ子の三人ぐらい何とかなります」
「確かに大尉が今乗っているクゥエルと同じという訳にはいきませんが、それでも万全の状態で演習に臨んで頂きたいと言うキース中尉の意向です。そうでなければ私も困りますので」
 手を休める事無くモニターを睨んだままそう告げるニナの表情に嘘はない、やれやれといった表情で一つ溜息をついたモンシアは身体をコックピットへと乗り入れると遠慮がちにニナをまたいでシートへと腰掛けた。出撃前には必ず見られるこの光景もセッティングエンジニアが三人とも女性と言うのはお目にかかった事がない、モンシアは右側の機体で仲良く作業を続けているアデルとジェスへとシニカルな笑顔を向けた。
「全くさっきのお嬢ちゃんといいあのお嬢ちゃんといい。キースの野郎、隊長になったってンで浮かれて自分専用のハーレムでも作りやがったんじゃねえのか? ティターンズもこういうのをちったあ見習やあいいんだ」
「自分と同じ価値観を他人に適用する所はちっとも変ってないんですね、それにあの二人じゃどう見たって中のいい兄妹にしか見えないじゃないですか」
「それはそれで俺ァ十分いかがわしいとは思いますがね。頭に「義理」が付いただけで立派な恋愛対象だ、どう考えても俺にゃあ真っ当には見えねえ ―― と」
 軽口を叩くモンシアを遮る様にニナが肩越しにチェックリストを差し出す、既に前半部分にレ点が記入されている ―― どうやらニナが終わらせたらしい ―― 事を確認したモンシアはめくろうとしたファイル越しに見えるシステムモニターに釘づけになった。ニナが打ち込んでいる数値は紛れもなく自分のセッティング数値で、しかもそれはアルビオンで使用したジム・カスタムの物に間違いない。ニナの手元をきょろきょろと見回してそれらしいメモの片鱗すら見つけられなかったモンシアは思わず事実を呟いた。
「 …… 驚っでれえた、ほんとに覚えてるんだ。いつの間に? 」
 彼女と別れたのは三年前のあの日、それから今日まで一度も顔を合わせた事すらないと言うのに。それに彼女はガンダムにかかりっきりでこちらの機体の世話など絶対にあり得ないと信じていたのだが。
「これでも元アナハイムのSEですから一、二回いじればすぐ覚えます。あの頃はそれ位しか皆さんのお役に立てませんでしたから」
「一、二回、ねえ。それじゃあ当然キースのも」
 モンシアは視線をチェックリストへと戻して頭上へと手を伸ばした。トグルを弾くと電源車から供給された電力がコックピット内の計器を次々に点灯させる。
「 ―― ウラキの野郎のも覚えってるって訳だ」

 キーボードを叩き続けていたニナの指が止まった。モンシアは素知らぬ顔でリストに印をつけると次のスイッチへと手を伸ばす。
「 ―― ええ、もちろん」
 それはほんの少しの間をおいて絞り出される様に告げられたニナの声だった。モンシアは作業を続けながら言った。
「あんた変わったな、ニナさん。あン時とはすいぶん変わった。ここにいる事もそう、今声を詰まらせた事もそう。 …… 野郎と何があった? 」
 まるで尋ねられた事が切っ掛けだったかのようにニナが再びキーボードを叩き始めた。答えなど期待をしていないモンシアは彼女の反応などお構いなしに次々に作業を進めている。
「ま、キースとあの女ゴリラがいまだに付き合ってるくらいだ、男と女なんざどっちへ転ぶか。あの野郎と別れたってンならそれはそれでよくあることでさぁ、別にニナさんが気に病む事じゃねえ。それより、どうです? 」
 呼びかけたモンシアと呼ばれたニナが同時に手を止める。その仕草に脈ありと判断した彼は目尻を大きく下げてやにさがった顔でニナのうなじを眺めた。
「今の俺ならニナさんの傷付いた心を癒す事もできる。この演習お遊びが終わったら一丁近くの町にでも繰り出して一杯」
「残念ながらこの辺りには大尉のお気に召す様な華やかなネオンはありませんし、それに仕事は山ほど残ってますので大尉のお誘いに乗っている暇なんかありません」
「またまたそんな。じゃあ基地の中の酒保でもいいですぜ、二人っきりでお互いの未来について語り合うってのはどうです? 帰投予定は今日の夜だがそんな事構いやしねえ、ニナさんとの楽しいひと時の為ならこのモンシア、規則破りも辞さない覚悟でさぁ」
 捲し立てるモンシアの言葉にニナの肩がピクリと動く。これはいよいよかと一気に畳みかける勢いで口を開きかけた彼は次の瞬間に彼女の、いかにもつくづくと言う類の溜息を耳にした。
「熱烈なお誘いは本当にありがたいんですけど、やっぱり遠慮しておきます。だって『彼女』に悪いですもの」
 ニナはほんの少し後ろを振り返るとおもむろにブラウスの一番上のボタンを外した。真っ白な肌と鎖骨から伸びるなだらかな稜線がモンシアの目を釘付けにし、そこへと差し込まれる彼女の右手が彼の煽情をより一層掻き立てる。だが思わず身を乗り出したモンシアが次に見た物は、彼の浮かれ切った心を一気に奈落の底まで叩き落とすほど破壊力に満ちた武器だった。
 それに比べれば拳銃を突き付けられた方がまだましだったかもしれない、彼の眼は驚愕に見開き顎は大きく開いたままその位置でしっかりと固定された。
「 ―― マリーさん、でしたっけ。可愛い奥様を娶られたそうでおめでとうございます」

 三年前よりも大人びた容姿も、そこはかとなく香る色気もその一言でモンシアの眼前から霧散した。彼の眼に映っている物はただ一つ ―― そう、ニナがひらひらと振る一枚の写真だった。照れくさそうにそっぽを向くモンシアに抱きかかえられたマリーと言う名の少女はまるでこの世の幸せを束ねて解き放ったかのように笑っている。
 その写真の雰囲気と正反対の立ち位置にいるのが今のモンシアだ。彼は今までの人生の中でこれほどまでに驚いた事がない ―― 例えば戦場で敵の不意打ちを食らったとしても、だ ―― と思えるほど眼と口を大きく見開いたまま硬直し、顔色だけを蒼白と紅潮の間で行き交わせながら震える手でその写真を指差した。
「な、なんで …… そんなものをニナさんが ―― ! 」
 ニナがニヤリと意地悪く笑った瞬間にモンシアはその出所を理解した。昨今の自分の近況に精通してなおかつ最も有効な阻止手段を伝授する事が出来る人物 ―― どっちだっ!?
 膝の間にいるニナを気遣う様に、しかしものすごい勢いでシートの上に立ちあがったモンシアはすぐに仲間二人の居所を探す。ベイトはまだハンガーの片隅でひよっ子相手に講義の真っ最中だ、じゃあアデルの野郎はっ!?
「 ―― やっぱりてめえのしわざかっ! アデールっ! 」
 耳に忍び込んで来たクスクス笑いは確かに少女の物だったがそれがなぜ起こったのかはよく分かる。モンシアはコックピットの縁へとどっかと足を乗っけると隣に鎮座するゲルググのコックピットへ向かって怒りを向けた。怒鳴られたアデルは足元で肩を震わせるジェスをチラリと見た後に苦笑いを浮かべて両手を差し上げた。
「一体どういうつもりでニナさんにこんな物を渡しやがったっ!? てめえのおかげで楽しい一日がもう台無しになっちまったじゃねえかっ! 」
「どうもこうもありません、大尉はまだ新婚でしょうに。それにこれ以上大尉に好き勝手されると隊の風紀だけじゃありません、私が妻とマリーさんに恨まれますから」
「なーんでてめえがマリーに恨まれるんだあっ!? よその家庭の問題にまで首突っ込んでんじゃねえっ! 」
「そのよその家庭の新婦さんが家のやつを尋ねて来たんですよ、いつも酒ばっかりかっ喰らってなかなか帰ってこない新郎の事についてね。ま、大方の事はごまかしてはおきましたが私も嘘は嫌いな性分ですからこれ以上二人をだますのは心苦しいので、これから私達と一緒の時は出来るだけ大人しくしてて頂きます」
「かーっ! 浮気もできねえ意気地なしのてめえに男のロマンが分かってたまるかってんだあっ! 」
「 ―― 最低」
「 …… うわ、さいってー 」
 それはそこにいる二人の婦女子から同時に発せられた台詞だった。ニナは眉をひそめて敵意むき出しの視線でモンシアを睨み、ジェスはその代わりに迫力満点の言葉で虚言を弄するモンシアの声を封じ込めた。
「あたしがマリーさんだったら大尉のち○こもいじゃうかも」

「さっきから頭の上でやっかましいぞモンシアっ! いつまでもよそ様風びゅーびゅー吹かせて人様に迷惑かけてんじゃねえっ、とっととセッティング終わらせねえとニナさんが持ってるそのお札をデータにして連邦軍中の基地にばら撒くぞっ!? 」
「! てっめえもグルかベイトっ! このや ―― ! 」
 逆上まかせにコックピットから身を乗り出したモンシアの眼に映った物はその声とは裏腹にニヤニヤと笑うベイトがひらひらと振る一枚の写真、それがニナの持っている物と同じだと分かった瞬間に奥歯をギリリと鳴らしてそのままドスンとシートへと腰を降ろした。四面楚歌に苛まれながらそっぽを向いて状況の打開を模索するモンシアはとりあえずの打開策としてチェックファイルを取り上げる、そこにニナの追い打ちがかかった。
「それにしてもマリーさんて」
 顎を摘まんで写真を凝視するニナの雰囲気がおかしい、それはマリーを一目見た誰もが抱える疑問であり、それはモンシアに対する疑念でもある。モンシアの両手にすっぽりと収まる背丈にキラキラと光るその瞳の光はまるでまだ世間を知らない少女の様だ、そんな顔をしていた頃はいつ頃の自分だろうと思い悩んだニナは苦虫を噛み潰して黙々と作業を続けるモンシアに向かって疑惑の瞳を向けた。
「 …… ロリ? 」
「言うに事かいてニナさんまでそれかいっ!? 俺ァそんな趣味はねえしマリーも幼女じゃねえ、れっきとした24歳だっ! 」
「ふーん」
 そう言うと再び写真へと向き直ったニナは今度は頬に手を当てて小さく頭をふるふると振りながら、ほんの少しの揶揄とそれに乗倍する嫌みな声を操った。
「ああ、それにしてもモンシア大尉がどうして一生懸命私を誘って下さらないのかと思っていたら全然大尉の好みじゃなかったなんて、ショックです。これでも女ですから人並み以上の自信がありましたのに」
「くっそ、この ―― 」
 すっかり話のネタにされたモンシアはわだかまる憤りでもう真っ赤になっている、コックピットの天井を見上げた彼はわなわなと震える両手で自分の鬱憤を晴らす相手を想像しながら握り潰した。
「こうなりゃもうヤケだ、ニナさんにゃあ悪りいがこの腹いせにあの二人をギッタンギッタンに叩きのめさせて貰うぜえ! 泣いて謝ったって許してやンねえ、このモンシア様の顔を見ただけでブルっちまうぐらいに徹底的にだっ! 」
「それはもう、こちらから頭を下げてお願いしたくらいですから。ですが相手を舐めてかかると今度も痛い目に会いますよ? 」

 落ち着き払ったニナの声はどこか朗らかにモンシアは聞こえた。ハッとして彼女へと目を向けるとニナは既にセッティングを終えてモンシアの股の間からするりと抜け出してコックピットの縁へと足をかけている。微かな香水の残り香を漂わせてバケットへと飛び移ったニナはくるりとモンシアの方へと振り返ってポケットの中から三枚のディスクを取り出した。
「起動ディスク? …… どうやらただの、って訳じゃあないようですねぇ。それがあン時のウラキの代わりって訳だ、ですがそんなプログラムの書き換えだけであのひよっ子どもを俺達と同じ土俵に立たせる事ができるとでも? 」
 不敵な笑いを浮かべてニナを挑発するモンシアだがそのディスクの中身がただ事ではない類の代物になっている事は間違いない、なぜならそれを眼の前へと掲げている人物はかつて三機のガンダムの基礎理論を一から立ち上げた天才とも呼ぶべき驚異のプログラマーなのだから。
 そこに秘められた魔術がモンシアの予想の範疇を越えているのは確実だ、ゆえに彼の挑発は裏返せば得体の知れない脅威に立ち向かう為の一種の儀式のような物だった。しかしニナはモンシアの挑発に対して決して応じようとはしない、むしろそれを肯定する様に小さく笑った。
「とんでもない、生まれたばかりのこのシステムで連邦軍きっての古参エースに立ち向かおうだなんて。ですが皆さんが本気で戦えば戦う程このプログラムはその真価を発揮する、その一端を大尉達は午後に垣間見る事になるでしょうね」
 予言めいた一言を残し、ニナはくるりと踵を返してバケットへと乗り込んだ。パネルに近付いて昇降ボタンへと指をかけ、それを今まさに押し込もうとした時モンシアの静かな声が耳に届く。それはニナとモンシアの絡みの中で彼女が初めて耳にした色を帯びていた。
「 ―― なあ、ニナさん? 」
 
 ボタンを押そうとした指がなぜか止まる、モンシアに向かって本当にに素直な気持ちで振り返る事は彼女にとって初めての経験だった。モンシアは声をかけたニナに向かって目を向けるでもなくただひたすらパネルのスイッチを動かしながら起動の準備を続けている。
「俺ァニナさんが思ってる通り、どうしようもなく女にだらしがない男だ。だがそのお陰で他の野郎には無い取り柄が一つだけある ―― 何だと思います? 」
「さあ? 」
 カミングアウトには程遠い告白にニナは小首を傾げて応じる、モンシアはそんなニナに向かってほんの少し自嘲的な笑みを浮かべながら顔を向けた。
「『女を見る目』です。マリーは見ての通り幼い顔立ちをしてるが芯のしっかりした女でね、俺が他の女のケツばっか追っ掛けてるのを我慢して、黙って待っててくれやした。他人に都合のいい女と言われちまえばその通りなのかも知ンないが、それでもマリーは何時でも俺の帰りを笑顔で出迎えてくれる …… 俺がマリーと結婚したのは、多分その笑顔が見たいからなんだと今でも思ってます」
 人の本質へと思わず触れてしまったニナの顔が驚きへと変化する。
「ニナさんも知っての通り俺達モビルスーツ乗りってえのは他の兵隊の誰よりも一番「死」に近い場所で戦わなきゃならねえ ―― ニナさんがいなくなった後のアルビオンで敵味方どっちのか分かんねえ弾に滅多打ちにされながら何度駄目だと思った事か。でもそン時俺の頭の中にゃ他の誰でもない、マリーの笑顔しか思い浮かばなかったんでさぁ。もっかいここを生き延びて絶対マリーんとこに帰ってみせる …… そう思って死に物狂いでジムを動かしてた。ま、運よく生き延びて今ここにいるってのはただの結果論なんですがね」
「大尉の口からそんな台詞が出るなんて思ってもみませんでしたわ、もっと刹那的な生き方をしてる方だとばかり思ってましたから」
「刹那的、ねえ」
 自分に対するニナの評価に彼はククッと呆れたように笑い、しかし次の瞬間にはニナから目を逸らして遠い目をする。コックピットの遥か彼方にある対面のハンガーの壁面をぼんやり眺めながらモンシアは穏やかに言った。
「 ―― 本当は人一倍臆病なだけなんでさぁ。『あン』頃はここに座るたんびに手が震えて逃げ出したくてたまらない、こんな棺桶で死ぬのはいやだーっていつも心ン中で叫んでやした。でも無理やり船の外へと放り出されて敵と撃ち合ってる時には必ずマリーの顔を思い出すんでさぁ、絶対にここを生き延びて必ずマリーに会うんだって」
 モンシアの口から零れる血染めの告白が決して非道な物ではなく鮮やかな命の煌めきに感じるのはなぜだろう。戦争という建て前がなければ兵士はただの人殺しだ、だが命を獲り合う彼らのそれぞれに守るべき物と者があり、その為には是非のない一択を選ばなければならないのだ。例外などない、修羅へと身を投ずる者ならだれでも。もちろんあの時のコウも ―― 
「俺ァウラキの野郎は大っ嫌えだが、奴がニナさんを選んだ事には納得してる。 ―― それァあんたが俺の目から見て『いい女』だからだ、無論マリーには負けますがね? 」
「 …… 初めて会った時にそんな台詞を聞きたかったですわ、それなら私もひょっとしたらデートの約束をお受けしたかも知れませんのに」
「今までこんな話をした事ァなかったんですが今日はどういう風のふきまわしなんだか。ま、マリッジブルーに苛まれてる男のたわごとだと思って聞き流して下さい ―― と」
 シリンダーロックが外れる音と共にバケットへと乗り込んだニナの姿がコックピットの縁から沈んでいく、モンシアは彼女を見送る前にどうしても尋ねてみたい事があった。
「そう言えばどうして俺なんかの写真を胸元なんかに? お陰で目の保養と言っちゃあ何ですが ―― 」
 ドキリとするほどなまめかしいニナの胸元の映像が脳裏へと鮮やかに蘇る、思わずにやけるモンシアににっこりと笑いかけながらニナは言った。
「それなら何よりですわ、せっかく私達の為にデータを提供して頂くのに何の見返りもないと張り合いがないでしょう? それに大尉のカメラは私がほら、このとおり」
 パンツのポケットからストラップごと愛用のカメラを引っ張り出してぶら下げるニナの姿を渋い顔で見送りながらモンシアは、少しづつ小さくなっていく彼女の影に向かってぽつりと呟いた。
「やっぱりあんたは変わった、本当に変わったぜニナさん」

                                *                                *                                *

 金網のフェンスの向こうは連邦軍の敷地である、とご丁寧に書かれた錆だらけの注意書きは人だかりでコウの位置からは見えなくなっている。閑散としている様に思われたオークリーのどこにこれだけの人住んでいたのだろうと疑問に思わせるほど大勢の観衆が歓声を上げてオベリスクを見上げていた。距離にして500mほど離れた場所に立つそれは晴れ上がったカリフォルニアの空を切り裂く様に屹立して、その物体が過去にどのような厄災を齎したか等忘れてしまう程の存在感を示している。大声を上げて叱咤激励を繰り返す人々の声に耳を済ませたコウは、それがオークリー隊に向けられた声援である事に驚いた。
「そりゃ当たり前だ。誰だっておらが地元を応援するに決まってるだろう ―― 戦況は?」
「今のところ芳しくはありません。ティターンズ側の二戦二勝、この三戦目もどこまで持ちこたえられるか」
 双眼鏡でオベリスクの壁面を見上げるヘンケンにセシルが答える、日差しを遮る為に額に手を翳して目を細める彼女の言葉に彼は忌々しげに舌打ちした。
「ったくなーにやってんだぁ、俺に喰ってかかった時の威勢はどこ行っちまったんだ、おい。これが午前の最後なんだからちったあいいとこ見せて貰わねえと観客を集めた立場ってモンがだなぁ」
「いえ、これは相手が強すぎる」
 不満を小言でぶちまけるヘンケンに対してコウの声は驚きと興奮に満ちている。ヘンケンは思わず双眼鏡から目を離すと横に並び立ってセシルの双眼鏡で同じ場所を見上げているコウの横顔を眺めた。
「この三機を相手に何とか持ちこたえているキース達を褒めるべきです、すごい …… ティターンズの三人は全員エース級、宙間仕様から換装してあるあのゲルググをよくもここまで」

 威嚇と制圧を目的とした飽和射撃をかいくぐったデザートイエローのザクが外壁に開いた割れ目へとひた走る、その意図をいち早く察したアデルが背後をとって引き金を引くのとその機体が体を翻すのはほぼ同時だった。的中を示すペイント弾がザクのすぐ脇を掠めて壁面を青く染め上げ、殿を務めたその機体はアデルに対して一連射を放つとあっという間に外へとダイブを敢行した。
「すごいな、伍長。私の狙いをあのタイミングで躱すとは、今までの二回戦が嘘の様です」
「 ” 確かにな、お前がこうも容易く仕留め損なうなんて俺も見た事がねえ。あいつら本当に戦争未経験の士官学校上がりなのか? ” 」
 ベイトのゲルググが遮蔽物の影から立ち上がってマガジンをリリースする、空になったマガジンを入れ替え火器管制に浮かびあがる残弾数を見ながら彼は今の戦闘で見せた彼らのチームワークと動きに感嘆を禁じえなかった。1マグ撃ち尽くして成果は0、これも今までの二回戦にはなかった現象だ。
「軍曹は何度か地方紛争での戦闘経験があるとは聞いています。新兵を捨て駒にした残党狩りを生き延びたのですからそれなりの実力は持っているのだろうとは思ってはいましたが ―― 」
「 ” どうりで思いっきりがいい訳だ。キースについていく時の早さが尋常じゃねえ、生き残る道を本能で嗅ぎとってやがるって事か。平和なこのご時世に鉄火場上がりの下士官を抱えてるとは侮れんな ” 」
「 ” てめえら何悠長な事言ってやがるっ ” 」
 珍しく檄したモンシアの声にアデルは思わず首をすくめて驚き、そして次にまじまじとモニターの右はじに映っている彼のゲルググへと視線を送った。

 ニナの預言を耳にしたのはモンシアだけだ。最初は相手の余りの動きの悪さからニナの切り札を眉唾物だと舐めていたが、二回戦を戦った時から徐々にその言葉が証明され始めていると言う事を実感した。無論こちらの出方を知り尽くしているキースが指揮をしていると言う事もあるが、その要素を差っ引いても被弾率の低下が尋常ではないレベルで向上している。その原因が彼らのスキルにあるのではなく搭載したニナの起動ディスクによる物だと言うのは日を見るより明らかな事だ。
「キースにやられンならともかく新兵にやられたんじゃあ第三軌道艦隊旗艦付きの隊の名が泣くってモンだ、だが締めてかかンねえとほんとに奴らに喰われちまうぞ」
「 ” 何慌ててんだモンシア、てめえらしくもねえ。確かに奴らはよくできる、が予想以上という程じゃねえ ” 」
 ベイトの声に小さく舌打ちするモンシア、確かにニナはあの時ディスクに書き込まれたプログラムの事を「システム」と言った。つまりそれは製作者が想定した事象によって発動し、製作者の意図を反映する為に演算処理を続けると言う事だ。発動のきっかけは自分達との戦闘行為に間違いない、ではそのシステムの目的は?  それは恐らく自分達との戦闘で得た経験値を瞬時に我が物として利用する事だと思う、つまりこのシステムを搭載して戦いに臨むパイロットは起動ディスクと共に生き延びる限り延々と進化し続ける事になる。その行きつく先は ―― 。
「 …… 進化型の撃墜王育成システムか、ニナさんめ。とんでもねえモンを思い付きやがる」
 二人には聞こえない様に呟くとモンシアはフットペダルを蹴り込んで二人に背を向けた。彼女の積んだシステムがどういう物であるにしろ胸を貸す立場の自分達が引く訳にはいかない、それに今らさその事をベイトとアデルに話したとしても機を逸している。
 ならば自分の為すべき事は全力でそのシステムに対峙してニナや彼らの力になる事しかない、自分の持つ戦闘スキルの全てをここで盗まれてしまう事になったとしても。
「 ” おい、モンシア ” 」
「俺は南側の広間で奴らを待ち伏せする ―― 三方に展開して各個撃破で終わらせる …… そう言うつもりだったんだろ? 」
「 ” 元上官としては気が引けるがな、だが手加減はなしだ。相手がワルツからタンゴにステップアップするならこちらもせいぜいつきあってやる、それが年上の甲斐性ってやつだ ” 」

 外壁の割れ目から次々に飛び降りて来る機体を見つめながらヘンケンが毒づいた。
「チッ、もう逃げ出しやがった。なっさけねえなあ。流れが悪い時にゃあ逆目を張ってツキを変える、最近の若い連中ときたら勝負事の機微がわかってねえ」
「ですが三機とも無傷で脱出できたのは褒めてもよろしいのでは? 今までなら多分殿しんがりの一機は仕留められていたはず。戦力比が同じならば勝ち目がない訳じゃありません、あくまでひいき目に見てですけど」
 額に翳した掌の影からじっと壁面を降りて来る三機を眺めるセシルがチラリとコウを盗み見る、彼は一心不乱に双眼鏡を目に押しあてながら小さく空いたままの口を僅かに動かして呟いた。
「 …… 分のない賭けだぞ、キース。でもそれしか方法がない」
「ウラキ君、どういう事だ? 」
 コウの呟きを聞き咎めたヘンケンが興味深々と言った体で尋ねると彼は裸眼での目視へと状態を切り替えながら答えた。
「相手との実力差を埋めるのは地の利、キース ―― いやオークリーの隊長は恐らくその一点に賭けたのだと思います。相手を一番広いフロアの一角に集めての戦域離脱、そして間髪いれずに外部からそのフロアへと侵攻して包囲殲滅。多分彼らは地面に着地してすぐに降りてきたフロアの別の壁面を目指すはずです」
 コウの言葉に被せる様に辺り一面に轟き渡る爆音はバックパックから放出される逆噴射のブースター音だ。今となっては旧式のジムⅡが重力に逆らって地面へと降り立ったかと思うと急いで離昇位置へと走り出す姿が見える。
「な、るほど、どうやらその読みは正しい様だ。で、それで少しは勝ち目が出て来るのか、ナ?」
「相手が並みの …… そうですね、例えば地域紛争での制圧戦を経験した程度の経歴の部隊ならば何とかなるでしょう。あのフロアは宇宙港の中でも最も広い入渠スペースですから隠れる場所を探すのが難しい、おまけに床となるのが鉄製のエアロックですから歩けば大きな音がする。外から侵入する側からすれば相手の位置がまる分かりになるでしょう ―― ですが」
「ほう、詳しいな。まるであの中を見てきたかのようじゃないか」
 にやりと笑うヘンケンの忠告にコウは思わずはっとした。そう、これは彼なりの忠告なのだ。身の上を頑として人に語らない以上その人となりを彷彿とさせる発言は絶対に避けるべきだ、ヘンケンは思わず漏らしてしまったコウの素性の手がかりをあえて指摘し笑顔でそう諭している。
 確かにコウはあの中を使った事はない、しかしキースと演習場所について考えていた頃にこの場所を使う事を思い付いたのだ。考えてみればトリントンとここはコロニーが落ちた地という共通点があり状況もよく似ている、自分達が育ったあの環境がここにあると言うのならばそれを利用しない手はない。
 モビルスーツに乗れないコウは何かと理由をつけて徒歩による測量と調査を重ね、オベリスク内の詳細なマップを作る事に成功した。キースがアデリアとマークスを足場の悪い所へとおびき寄せる事が出来たのも、もとはと言えばコウの綿密な測量と調査からはじき出したデータのお陰だった。
 不思議そうな顔で少し硬くなった表情のコウを見つめるセシルの視線を避ける様に彼は再び双眼鏡を押し当てる、オベリスクの根元をジムの後を追って大股で走る二機のザクの姿がよく見える。
「ティターンズ側の三機はもし自分の見立てが正しければ歴戦中の歴戦です、多分全員がオークリーの隊長機よりも強い。三方に展開して各個撃破で来られたらオークリー側はまず敵わないでしょう。そして彼らは必ずそれを選択する」

 そして君の中にはそれに対応する為の策がもう用意されている訳だ、とヘンケンは心の中でコウの横顔へと語りかけた。相手を観察し状況を分析し勝利の為の方程式をひねり出す、連邦としては貴重な二つ名を戴く撃墜王としての才の一端がここにある。
 しかし彼がもうあの兵器に乗って戦場を乱舞する事はない、とセシルからの報告を耳にしてヘンケンはあの日保留した判断に自分なりのケリをつけた。サリナスで見せた身体の著しい変調、そしてニナ・パープルトンとの間で交わされた会話の一部始終、自分をモビルスーツの部品の様にしか考えていない ―― いやそう考える事で必死に自らの大切な物を諦めようとしている彼の悲しい生き様をヘンケンは肯定する。
 そうしなければ彼は自分の想う大切な人が幸せになれないと感じているから。
 そうしなければ彼は自分の思う大切な人を見守って生きていく事が出来ないと言う事を知っているから。
 酷い話だ、やり切れない。
 一人の男の生きざまをめちゃくちゃにした揚句にそんな風にしか叶えてやれない運命の歯車をヘンケンは憎み、そして繋がれたまま身動きのとれなくなったコウ・ウラキと言う兵士を哀れに思う。ゆえにヘンケンはセシルに対して自分の決心を吐露した。
 彼をもうこれ以上修羅の道へと誘ってはならないのだと。
 彼自身がそう望まない限り、絶対に。

「そうだキース、それしかない」
 コウが洩らした一人ごとで我に返ったヘンケンはコウの視線の後を追ってぶら下げていた双眼鏡を押し当てた。見るとオークリー側の三機はジム一機とザク二機に分かれて左右の壁を駆け昇ろうとしている、三機同時のバーニア音はまるで天高く花火が舞い上がる音に似ている。
「もし万が一にも勝てるチャンスがあるとしたらそのカギを握るのはあのザク二機です。分散して待ち受ける一機に対して隊長の乗るジムが牽制をかけて持ちこたえ、その間に二機が共同で敵の一機を墜とす」
「あの二人? 隊長機が敵を墜とす手段ではなく? 」
「残念ながらあのジムは先鋒向きではなくどちらかと言うと後衛向きのセットです、だからこそ打って出なければ暫くの間は何とかなる。数的優位に立ったその僅かな時間にあのザクが戦況を動かす事が出来るかどうか」
 むう、と唸りながらヘンケンは双眼鏡を降ろして肉眼で全体を俯瞰した。バーニアのパワーが足りない三機はいくつかの足場を頼りにするするとオベリスクの上部へと飛び上がっていく、二機のザクが遂にその割れ目へと取り付いて姿を消したのを確認してからヘンケンは尋ねた。
「わずかな、ね。ちなみにそれはウラキ君の見立てではどれくらいだ? 五分? 十分? 」
「そんなに時間はありません、交戦エンゲージと同時に決めないと敵に気づかれて台無しです。恐らく二分か、三分以内」

 互いの模擬刀が火花を知らして鍔迫り合いが始まる、パワーが上がったジェネレーターの排気熱が感じられるほど傍で対峙するジムに向かってベイトはにんまりと笑った。
「いい反応じゃねえかキース、旧式にしちゃよく動く」
 鬩ぎ合う均衡を力ずくで押し破る為にベイトがフットバーを踏みつけるとパワーに勝るゲルググはじり、とジムの各部のシリンダーに負荷をかける。だがその途端にそのまま後ずさりをするかと思われたジムは、手首のモーターをくるりと回すと今にも頭部に触れそうになっていた模擬刀を刃越しにいなしてそのまま体を入れ替えた。前のめりにバランスを崩したゲルググが事態を悟ってバーニアを吹かす、残像を切り裂く様にジムの模擬刀がその空間を縦に切り裂いた。
「おおっと、あっぶねえ。さっきの戦いで軍曹を仕留めた所をちゃっかり見てやがったか、隊長になって抜け目がなくなったなキース」
 元仲間の成長に目を細めながらベイトは振り向きざまに頭部を防御する。手にした模擬刀が額の位置にまで上がった所で更なるジムの斬撃が襲いかかり、モニターを一瞬輝かせる火花が視界を眩ませた。
「だが甘い、そこは振り下ろした勢いで下段から股の間を狙うんだ。でないと ―― 」
 ベイトは手慣れた動きでマニピュレーターを操作する、さっきのジムが見せた手首の返しよりも早いタイミングと速さでモーターが作動して、撃ちかかった機体はまるで支えを失ったかかしの様にそのままどう、と鉄の床へと叩きつけられた。ゴウンという大きな衝撃音がフロア全体に鳴り響く。
「敵にチャンスを与える事になる、午後からそこの所をもっと検討しておけっ! 」
 逆手に握り直した模擬刀の切っ先が隙だらけになったジムの背中目がけて振り下ろされる、しかし絶体絶命かと思われたジムはその姿勢から上体を翻して間一髪でその攻撃を躱した。鉄の床を突く音とジムが転がって逃げる時に発生した不愉快な金属音が二機の空間を埋め尽くす。
「 ―― やるじゃねえか、へっ。そうこなくっちゃな」
 歯ごたえのある相手に思わず親指を立ててシニカルな笑顔を向けるベイトの向こうでジムは素早く起き上がり、模擬刀を正眼の位置へと構えて徹底抗戦の意思を示した。

「 ” ベイト機、エンゲージ。北側の大回廊、どうやらキース単機で乗り込んで来たようです ” 」
「ちっ、こしゃくな所から乗り込んでくるじゃねえか。あそこは障害物が多すぎてここからじゃ弾が届かねえ、しかも掩護に行くにも迷路みたいに入り組んでる資材搬入通路を使わなきゃならねえから時間がかかる。 ―― しゃあねえ」
 モンシアは自分のペイント銃を隣のアデルに渡すと背中のハードポイントから静かに模擬刀を抜いた。
「ここは俺が引き受けるからお前はベイトと一緒にさっさとあんにゃろうを片づけてこい。各個撃破で完全勝利といきたかったが、地の利が向こうにある以上これ以上の冒険はできねえ」
「 ” しかしもし相手が二人がかりでここにやってきたら大尉一人では ―― ” 」
 アデルがモンシアの身を案じるのには理由がある、それは彼らが背にしたバリケードの向こうに広がる大広間だ。遮蔽物がほとんどない上に高低差もない、敵の攻撃を二次元平面上で受け切るには数の力が最も重要になる。
「確かにな。やつらはここの地形を熟知してやがる、だからここに俺達をまとめておびき寄せたんだ。かと言って今更しっぽを巻いて逃げだす訳にもいかねえ、こっからは力勝負でぇ」
 どこに潜んでいるかもしれない二機の姿を追うモンシアはふと、同じ状況に陥ったあの日の事を思い出した。三年前、場所はアフリカ・キンバーライト鉱山付近。まともに戦った事がない新米少尉を二人も連れて敵に包囲されかかったあの時。そういやあン時ゃウラキを焚きつけて突破口を開いたンだっけか ―― 
「 ” ―― 大尉? ” 」
 くすくすと思い出し笑いがモンシアの口を吐いて出る、それは隣のアデルにも聞こえるくらいに大きな声で。結婚のせいだとは思いたかぁねえがどうやら俺もヤキが回っちまったらしい、俺一人で坊主とお嬢ちゃんを抑える? とんでもねえ、あン時の野郎は一気に三機もノシちまったじゃねえかっ!
「心配すンな、ちょっと昔を思い出しちまってな。さ、早く行け。おめえが帰ってくるまでにゃあきっちり片をつけといてやる」
 モンシアが傍の瓦礫を手にするのと同時にアデルは踵を返してすぐ傍の搬入口への入口へと足を向ける。銃を油断なく構えたゲルググの後ろ姿が薄暗い通路へと消えた事を確認したモンシアは手の中の瓦礫へと視線を落として小さく溜息を吐いた。
「 …… さてと」
 意を決して右手のレバーを思いっきり引くとゲルググの右手は勢いよくその瓦礫を後ろへと放り投げた。宙を舞うその塊がどこか遠くの床へと落下して大きな音を立て、そこを目がけてペイント弾の発射音が鳴り響く。間髪いれずモンシアは脚部スカート内の補助バーニアまで起動して最大戦速でバリケードを飛び出した。
「おら、どうしたひよっ子っ! こっちだこっちだっ! 」
 モニターに映る火線の根元に向かって叫んだモンシア。囮を左に投げて自分は右に逃げるのは陽動の基本だ、自分を追いかけて銃を振ると開いた脇が銃の反動を吸収し切れずに照準が定まらなくなる。事実全速で滑らかな床を移動するゲルググの後を追って相手の弾が着弾するがその高さがまちまちだ。思惑通りの展開で狙った通りの場所へと辿り着いたゲルググは遮蔽物の壁に背中を預けて、そっと影から相手までの距離と景色を観察した。
「ぃよっしっ、これなら俺一人でもなんとかならぁ」

「ちっくしょう、あンのエロおやじっ! 超むかつくっ! 」
 憤慨したアデリアがフットバーから離した右足で思いっきり床を蹴りつけた。そこにいると言う事が分かっているのに予想外の音によって集中と自信を喪った身体は相手の放った子供だましに易々と引っかかってしまった。千載一遇だったかも知れないチャンスを逃したアデリアが悔しがるのも無理はない。
「 ” 構えろアデリア、援護する。すぐにここにやってくるぞ ” 」
「はいっ!」
 届いた声に軽快に応えると彼女は素早く銃を構えて遮蔽物の影から向こうを用心深く覗きこんだ。薄暗いフロアの最南端であるこの一角だけバリケード代わりの残骸が数多く転がっていて、恐らく向こう側の端に陣取っているモンシアのゲルググは見通せない。ならばこちらも少し相手との距離を縮めようかと思案している矢先、突然タービンファンクションのか細い悲鳴がセンサーから忍び込んで来た。
「 …… なに? 」
 それは恐らくアデリアの位置から三百メートルは離れていようかという場所、舞い上がる埃とセンサーが捉えた温度変化で彼女はモンシアがこれから何をしようとしているかに気づき、そして驚いた。
「そんな、こんな狭い所で高速機動ラピッドムーブを始めるつもりっ!? 」
 今ここでそれを行うという事はすなわち直滑降で林の中へと突っ込むようなものだ、時速100キロの速度で移動するあの巨体を本当にそこまで細かく操る事が出来るのか? 自分の発想が届かない事態にアデリアは疑心暗鬼にかられて緊張の糸をほんの少し緩める、途端に舞い上がった埃の中から目にも止まらぬ速さで赤く輝くモノアイが飛び出してきた。
「! マジでっ!? 」

 バックパックの出力を腰部と脚部バーニアへと振り分けてファンクションを極力絞り込むとゲルググの巨体は地面すれすれにふわりと浮かぶ。元々は重力が不安定なコロニー内戦闘の為に考えられた仕掛けだが、同じ重力下である地上でそれが使えない筈がない。しかし地上戦用に開発されたドム・トローペンやザメルのような熱核ホバージェットではないので操作が酷くデリケートなのだ。
 遊びがほとんどないハンドル代わりのフットペダルをミリ単位で調整しながらモンシアは、見通しの利かなくなった視界の向こうできっと驚いているであろう二人のひよっ子に叫んだ。
「さあ、いくぜっ! 」
 右足が動くか動かないかの内に機体は猛スピードで埃の中から抜け出した。モニターの景色が流れる中で彼の歴戦兵としての動体視力は反対側のバリケードの影で銃を構えたまま動かないザクの姿をはっきりと捉える。うろたえる様に銃口が動いた瞬間にモンシアはフットペダルをわずかに踏み変えて推力を逆方向へと向ける、襲いかかる猛烈な横Gはモンシアの視界を一瞬だけ眩ませた。
「っとお、嬢ちゃん遅っせえっ! 」
 アデリアの放った火線を横目に見ながらモンシアは次のバリケードの影へと身を隠す、今ので相手との距離は約三分の二に縮まった。もう一息だ、もう一息で相手の懐へと飛び込める。

「にゃろ、ここまで追い込ンどいてあっさりやられてたまるもんですか」
 モンシアが隠れたバリケードの端に狙いを定めたままアデリアは空いたもう片方の手で模擬刀を抜きだした。逆手に握って受け重視、接近戦になっても相手の一撃を受け切れば至近距離で一連射 ―― それで終わる ―― のに。
 自分の立てた手順のことごとくがこの相手には通用しない、それは不安となってアデリアの判断を狂わせる。綿密とはいかないまでもここまでは当初の予定通りに相手をひきつけて一か所に固め一機も欠ける事なく逆包囲に成功した、ここまでうまく事が運んでもなお彼女には勝利までの一本道が見つからない。いやむしろその逆でどこで、何が切っ掛けで大逆転されてしまうのか ―― そんな不安だけが大きくつのる。
「 ―― っ! しっかりしろアデリアフォスっ! あんたらしくもない、いつもみたく強気でクールにいくンだよっ! 」
 自分を鼓舞して親の仇を狙う様な眼でじっとモニター上のレティクルを見つめるアデリア、だがその瞬間十字の交点に飛び込んで来たのは灰色の小さな缶だった。くるくると回る物体の一部から細長いピンが弾け飛び、彼女が正体に気づいた時にはそれは作動していた。破裂する殻の中から溢れだす閃光が彼女のザクのモニターを白く焼く。
「しまった、フラッシュグレネードっ! 火器管制ダウン、緊急再起動っ! 」
 白く焼き付いたメインカメラの電源を落としてサブカメラへと切り替える、恐らく飛び出して一気に間合いを詰めて来るであろう見えないゲルググに向かって勘だけの威嚇射撃。復旧するまでの間頭を下げててくれればそれで十分!

 モンシアのルート選択は彼女の予想よりも辛辣かつ危険に満ちていた。閃光弾が破裂した時点で広間へと飛び出し一気にアデリアの懐へと飛び込んでもよかったのだが、彼自身が感じる危険予知がその選択を排除した。
 それは姿の見えないもう一機のザクの存在。キースが単機でベイトと交戦した時点でモンシアは三機が各個で分散して侵攻してくる可能性を除外した。なぜなら格上の相手に戦力を分散して当たった所で何の意味もないからだ、いくら地の利があると言っても待ち伏せ以外に彼らの勝利の可能性は、ない。
 ならばどうするか? キースを囮にして数的優位を作り出しモンシアかアデルどちらか一機を沈めれば戦況は変わる、つまりアデリア一機でここには来ないという判断だ。必ずどこかにあの坊主は潜んでモンシアの隙を窺っている、それは恐らく彼女に襲いかかる為に攻撃へと集中したその一瞬。
 グレネードを投げた反対側はすぐにそのフロアの壁、だがほんの少しだけ隙間がある。モンシアはバーニア全開でその隙間へとゲルググを捻じ込んだ。ほんの僅かな操作ミスが機体を削ってバランスを崩し、もしかしたら演習でやられるよりもひどい事になるかもしれない。だがそれでも。
「負けるのだきゃあごめんだぜえっ! 」
 流れる景色が不鮮明な線と化してもゲルググの速度は衰えない、微かに拾う銃声がモンシアの額を冷や汗で濡らす。だがその全てが行き止まりへと辿り着いた時モンシアは自分の勝ちを確信した。開けた景色にがら空きの背中を見せる砂漠色、自分の背負ったリスクに見合っただけの成果が得られた彼はそのまま一気にザクの背中へと突進した。
「嬢ちゃん、もらったあっ! 」

「! 接近警報、って ―― !? 」
 動態センサーがゲルググの動きを感知した時には手遅れだった。慌てて振り返った先にはもうモンシアのゲルググが突貫している、突き出された模擬刀の切っ先だけがレーザー発振の蒼い光を放ってモニターへと押し寄せる。
「こんちくしょうっ! 」
 罵声を放って右手に構えた模擬刀を必死で振り上げる、だがその全てが遅すぎる。交差する軌道は明らかに相手の方が早く、自分は遅れて相手の攻撃を遮る事しか出来ない。アデリアは苦渋の目で今にもコックピットハッチに届こうとしているその青い光を睨みつけた。

「! やっぱりこんな所に隠れてやがったのかっ!? 」
 それはモンシアの刀の切っ先がアデリアの機体に触れんとした刹那の出来事だ。突然横合いから躍り出た一筋の黒い影は彼の狙った軌道をさえぎる様に繰り出されるとそのまま捻り上げる様にして鍔元まで刀を身体ごと押し込んだ。オリーブドラブの頭部からモンシアを威嚇する様に輝く赤いモノアイ、急激に出力を上げた為に発生する熱排気が獣の吐息のように聞こえる。
 渾身の一撃を止められたモンシアが急いで間合いを遠ざける、それに合わせてマークスのザクはフェンシングの要領で切っ先を素早く繰り出す。二三合打ちあった所で二機のザクは自分達の不利を悟ったかのように体を翻して一気に広間の中央へと走った。
「ふん、さすがは鉄火場を生き残っただけの事はある ―― そうだ、今はそれが最も勝ち目のありそうな選択だ」
 モンシアは刀をぶら下げてゆっくりとバリケードを歩み過ぎる、もう焦る必要はない。数的には完全に不利だがこれで懸念となっていた問題を全て引きずり出す事が出来た、後は ―― 
「 ―― 力勝負といこうぜえ、お二人さんっ! どっからでもいい、かかってきなっ! 」
 雄叫びを上げたモンシアはぶら下げた刀の切っ先を真っ直ぐにマークスのザクへと突き付けた。



[32711] keep on, keepin' on
Name: 廣瀬 雀吉◆068209ef ID:41c9b9fd
Date: 2015/02/05 01:50
 コウの家からの道すがらセシルはヘンケンと一言も口をきかなかった。宇宙での生活以来久しぶりに見せる彼女の苛立ちにヘンケンは内心驚きはしたが、こういう時の彼女の取り扱いもよく心得ている。家に着き、リビングのソファーに腰を落ち着けて頭を抱えるセシルの前でヘンケンはよく使い古したハンドミルでゆっくりとコーヒー豆を挽く。豆が砕けてすり潰される音が小さくなった頃には彼女はじっとヘンケンの手元を見つめるまでに回復していた。宇宙軍時代から自室で使っていたパーコレーターに粉を入れ、野戦用携帯コンロの火にかけるとコポコポと音がしてガラスのつまみの裏側に褐色の液体が跳ね上がる。
「 …… 何があった」
 セシルのカップに淹れたてのコーヒーを注ぎながらヘンケンは静かにそう尋ねる。命令でもなく、質問でもない。静かに笑いながら彼女の自由意思に任せるその物言いと手の中にある温かさが彼女の心の中でわだかまる頑なな氷柱をあっという間に溶かしてしまう、そうしてセシルはいつもヘンケンに心の中の事を洗いざらいぶちまけてしまうのだ。
 それが「スルガ」で共にコンビを組んで以来、事あるごとに艦長室で開かれた二人だけの極秘会合の始まりだった。

 まるでコーヒーからたちのぼる湯気の様に一つの可能性が消えていく、ヘンケンの出した結論を耳にしたセシルは悔しさを露わにしながらじっとカップの縁を見つめていた。今晩の事を彼に話せばそうなる事は分かり切っていた、課せられた任務よりも人としての情を何よりも第一義に考えるヘンケンがコウの抱えた業を見過ごせる筈がない。ましてやそれが友人の事ならば、なおさら。
 後悔しても始まらない、とセシルは未だに心根でわだかまったままの名残惜しさを胸の奥底へと沈めて鍵をかけた。ようやく冷静な副官としての顔を取り戻した彼女にヘンケンは穏やかに笑いながらぽつりと語り掛ける、それは彼がコウに対して心からそうあって欲しいと望む事だった。
「それでもウラキ君は必ず、いつか必ずまたモビルスーツに乗り込むさ。もちろん民生用のもっと簡単な工作機械であれば、と望むが」
 まさか、と。セシルが語った今日の話の中で彼は建築用のパワーローダーにも乗れなかったではないか、その彼がどうやって無意識に起こる身体の変調を克服しようと言うのか?
「ならばなぜ彼は未だに機械から離れられずにいると思う? 退役軍人と違って彼は予備役だ、給料も他の兵士とそんなに変わらない額を貰っている。言っちゃあ何だがあんな年代物のバイクを買わなくてももっと新しくていい奴を変えるだけのご身分だ、それがどうして部品の一つにも事欠く様な代物を一生懸命手入れしてるんだと思う? 」
 確かに。彼の乗っているバイクはまだ人類が地球と言う名の井戸の底から抜け出せない頃に作られた、いわば骨董品だ。今のバイクと比較しても何の遜色もない調子の良さでごまかされてはいるが、博物館に展示されている物を除けば恐らくこの世界でたった一台しか存在しないものだろう。現役当時のコンディションを維持していると言う事は彼の腕の確かさだけで成し遂げられるものではなく、セシルはそこに彼の機械に対する執念のような物すら感じるのだ。
「 ―― 彼は、機械が好きなんだ。そしてその思いの果てにモビルスーツがある」
「連邦屈指の二つ名を持つ彼が、ただの「機械好き」 …… 彼に殺された兵士が聞いたらさぞやいたたまれないでしょうね」
「それはモビルスーツを操縦する事から派生した悲劇的な結果に過ぎない。戦争と言う非日常が彼にそういう選択を強制したんだ …… 彼の苦悩は、そして矛盾は多分そこから始まっている様に俺は思う」
 ヘンケンの言葉にセシルは眼を見開いた。戦争を生業とする自分のような職業軍人にとって自分達の棲む世界が「非日常」だとは考えもつかない、もちろんそれは戦争の中で名を上げたコウ・ウラキというパイロットも同じだと思い込んでいた。だがヘンケンの様に相手の立場に立ってほんの少し見方を変えるだけでこんなにも簡単に彼の抱える問題が浮き彫りになる。
「ウラキ君が抱えた「種」、それが一体どういう類の物なのか。お前の考える通りそれは彼の封じられた能力や主義主張にちなんだ物なのかもしれないし、あるいは全く別の物なのかもしれない。だがこれだけは俺ははっきりと言える ―― 彼はモビルスーツに乗る事を絶対に諦めない」
「中佐がそう言いきる根拠は? 」
 定石や論理を思考の要に置く彼女にとってヘンケンの発想は実に新鮮で刺激的だ。まるで物語のラストシーンを心待ちにする少女のような眼で尋ねたセシルに向かってヘンケンは少し苦笑いを浮かべた。
「だって誰だって好きな物をそんなに簡単に諦められる訳がないじゃないか」

 たとえて言うならそれは宇宙空間を突き進む戦艦の艦橋から突然海上のヨットへと居場所が変わった様な感覚、いくつもの情報を絶え間なく表示して全ての状況をリアルタイムで伝えてくれる様々な計器やパネルが一瞬で消え失せた様な心細さ。だがなぜだろう、それは案外悪くはない。不安と引き換えに得る清々しいまでの開放感がセシルの心に新しい風を吹き込む。
 そう、そうよね、あなた。
 セシルは心の底で密かにヘンケンへと呼びかけながら思わず笑った。物事を難しく複雑に考えるのもいい、でもこっちの方がもっといい。だって自分に置き換えれば、ほら。こんなにも分かりやすい。
 好きなものを諦めるなんてできっこない。そうね、たとえばその人がどんなに鈍感で「やぼてん」な人だと知っていたとしても。

 昨日までが嘘だったかのように目まぐるしく表情を変えるその背中が二人の笑顔を誘う。どんなに取り繕っても本心は隠しようがない、なぜなら彼はモビルスーツが好きだから。ヘンケンは普段のコウとは違う子供のような面影に満足な笑顔を、そしてセシルはその素顔を隠して全てを振り切ってでも自分の生き方を貫き通そうとする彼の不器用な生き方に呆れた様な笑顔を。だが二人はその心の底で同じ事を思う。
 やはり彼をここに連れて来てよかったのだ。
 昨日までの重苦しい過去を捨ててまた今日から新しい明日を始めればいい。人は何度でもやり直せる、それが許される生き物なのだから。そして今日のこの時が彼の未来を切り開く何かのきっかけになってくれれば。
 笑顔の後ろでそう望むヘンケンとセシルの視線の先でコウは何も知らずに、ただひたすら忌み嫌っていたはずのオベリスクをキラキラと輝く瞳で瞬きもせずに見上げていた。

                                *                                *                                *

「どうやらあっちでもドンパチ始まった様だぜ、キース。助けに行かなくていいのか? ―― もっとも」
 気合を入れてベイトがスロットルを押し上げる、パワーゲージは途端にミリタリーラインをゲインしてマックスへと手を伸ばす。ジェネレーターの唸りがコックピットを駆け巡ってヘルメット越しに耳をつんざく。
「行かしゃあしねえけどなあっ! 」
 重量級のゲルググとは思えないほどの素早い踏み込みは白兵戦に長けたベイトのスキルによる物だ、普通の兵士が最大出力で同じ事をすれば敵の懐どころかどこに飛んでいくか分からない。彼は持ち前のペダル操作の正確さで一瞬にしてキースのジムの懐へと飛び込んだ。まるで縮地のような突撃に後方へ飛んで距離を確保しようとするジムだがその隙間さえも埋め尽くすベイト、しかし多くの敵を屠ってきたその技から繰り出された模擬刀の先端をジムは肩口で受け止めて身体を反転させる。
「! 左手一本捨てて躱すか!? 」
 ピポットターンでベイトの傍をすり抜けるジムの頭部が妖しく光る、予測された動きに追随するメインカメラが確実にゲルググの姿を捉えている。通りすがる一瞬からジムの次の狙いを読み取ったベイトは上体をダッキングさせて脚部を反転させる、そのすぐ上を敵の刃が通過した事を知らせる接近警報がけたたましい勢いで狭い空間を埋め尽くした。
「やるなぁ、今ので仕留められなかったのはお前も含めて何人もいねえ。どういう訓練を続けてきたかは知らねえが ―― いや」
 振り向きざまに薙ぎ払った模擬刀をすぐ傍まで追い打ちに近づいていたジムの刀が受ける、手を読まれて足止めを食らったキースの機体がベイトの間合いを嫌って後ろへと飛び逃く。
「あの日の地獄がお前を変えた、新米少尉だったお前のスキルを歴戦の俺達のすぐ傍まで押し上げた。つまりはそれがお前の本当の力だったって事か」
 モニターの中心に青く光るメインカメラの輝きを追ってベイトが呟く。右手一本に携えた模擬刀の切っ先を突き付けるジムの戦意は明らか、恐怖や不利に屈しないその態度に彼は会心の笑みを浮かべる。
「そうだキース、とことんまでやろうぜ。それでこそ ―― 」
 脇に刀を引きつけて半身で構えるゲルググ、吶喊一突の戦法は彼の命を支えた生命線だ。躱されておいそれと変える訳にはいかない、相手の喉笛を喰いちぎるまで、何度でも。
「俺達の仲間だっ! 」

 パイロットの適性はそのままモビルスーツの戦術適性へと反映される、そういう意味ではアデリアは近接白兵戦闘を最も得意としていた。普段の演習は敵との遭遇戦を想定しているので主に中長距離での戦いになるのだが、たまに行われている近接戦闘訓練ではマークスはおろかキースにも後れをとった事はない。ならばなぜ今までキースに負け続けたのかと言う事になるのだがこれは至極簡単な理屈である、そういう相手は近寄ってくる前に墜としてしまえば、いい。
「くっそっ、さすがは歴戦の撃墜王ね。絶対にこの距離を不得意にしてる筈なのに」
 歯を食いしばってアデリアがモニターで大写しになるゲルググへと食い下がろうとする、彼女から見ればその体さばきや模擬刀の使い方からモンシアがこの距離を苦手にしている事がありありと分かる。だが彼の機体は持ち前のパワーと機動力で縦横無尽に動き回り、自分と相手を常に一対一の状態に持ちこんでいる。何とか二機同時に攻撃できる機会を演出しようとするアデリアだったが不慣れな戦いに巻き込まれているのはマークスのザクも同じだ、モンシアの攻撃から彼を護りながら仕留めるには力の差が大き過ぎた。
「 ” ほらほら嬢ちゃん、相棒をこのまま俺の傍に置いといていいのかっ!? もたもたしてっと ―― ” 」
「うっさい、エロおやじィっ! 」

 モンシアの刃を何とか受け止めたマークスのザクを庇う様にアデリアの機体が間に割り込む。二人の位置の出し引きのタイミングは絶妙でモンシアはそれで何度もひやりとさせられたが、タイミングが分かってしまえばあとはそれを利用すればいい。鍔迫り合いで一瞬のこう着を狙ったアデリアを嘲笑う様にモンシアは機体を後ろにずらして間合いを離す、未来予想を外された彼女に生まれた一瞬の思考の空白をついてゲルググは一気に彼女の機体の背後へと回り込んだ。そこには女に護られてのうのうと生き延びようとするもう一機のザクが油断満載で体勢を整えようとしているはず。
「女のケツに隠れて生き延びようってか? そんな腑抜けはここからすぐに出ていきなっ! 」
 虚を突かれてうろたえているザクに向かって一閃、その刃は確実に胸の真ん中にあるコックピット前面装甲を直撃する ―― はずだった。だがあろう事かマークスのザクは模擬刀を前にかざしてモンシアの渾身の一撃をすんでの所で防ぎきる、いや違う。これは完全に嵌められた。
「にゃろ、小生意気に小細工なんかしやがってっ! 」
 動きが止まった所へアデリアの攻撃、迷いのない剣閃がモンシアへと迫る。二機を相手にする状況へと誘い込まれた彼はそれを回避するために敢えてマークスのザクをフルパワーで押し返す、ぐらりと体勢を崩した瞬間にモンシアは脇を掠めてアデリアの背後へとすり抜けた。空振りするアデリアを尻目に再び体勢を立て直して二機へと向き直るモンシア、しかしその表情からはすっかり余裕がなくなっている。
「くそっ、ニナさんめ。冗談抜きでヤバいぜ、こりゃ」
 徐々に自分の機動に二人が追いつき始めている、それが二人の実力ではなく彼女が組んだプログラムによる物だと言う事はモンシアだけが知っている事実だ。理屈では起動ディスクさえ健在ならば戦闘経験がそのまま機体に反映されて徐々にレベルが上がっていくのだが、それは一度基地へと帰投して全てのシステムを再チェックしてからの事になる。しかしニナが考えたプログラムはそんなまだるっこしい事を必要としない、リアルタイムでシステムを更新し続けているのだ。戦いが長引けば長引くほど相手の手の内を読みとった機体は成長し、そしてその流れの中で相手を凌駕して撃破する。
「こんな物が普通に世間に出まわったんじゃあ撃墜王も商売あがったりだ、それこそ戦場での戦い方が変わっちまう」
 このシステムが標準装備された未来へと思いを馳せたモンシアの背筋に冷たい物がつっと走る。もしこの戦いが本物で彼らが本当に敵だったとしたらモンシアはどうしなければならないか、彼に許される選択は今後の憂いを立つ為の完全撃破、敵の素性や事情に関わらずの絶対の死。万が一にも生き残ってしまえば敵はこの戦いでの経験値を繰り越して再びモンシアの前へと姿を現す、そして更なる強敵となって彼の命を強烈に脅かす存在となるのだ。生き延びるための戦いが無意味となり殺す為の戦いが絶対要件となる、そんなストレスに一体何人の兵士が耐えられると言うのか?
 またしても彼女が戦争を変えようとしている ―― そんな苦い思いがモンシアの脳裏をよぎる。ガンダムしかり、このシステムしかり。コケティッシュな美貌や見た目とは裏腹な冷酷極まる創造力とそれを実現してしまう能力、目的の為には未来を省みない想像力の欠如は一介のSEの物とは思えない。むしろこのモビルスーツと言う物を開発した科学者に匹敵する能力を有しているのではとさえモンシアには思える。
「だが今度は負ける訳にゃあいかねえ、少なくともニナさんのお勧め品にゃあよ」
 決して彼女を否定している訳ではない。少なくとも今の連中にはこのシステムが必要なのだと心の底にある小さなしこりがモンシアにそう言い聞かせる。彼らが生き残るためにそれが必要ならばそれはそれでも構わない、しかしまだ自分は負ける訳にはいかない。
 ―― 俺に出来る事は今日の内に全部、連中に教えておきてぇ。

 自分のザクⅡと大尉のゲルググでは性能比は明らかだ。演習前のブリーフィングでベイト大尉が言っていた「決して俺達の乗るゲルググが全ての点でザクより上回っている訳ではない」と言う言葉は、嘘か真か?
 ある、たった一つだけ。
 それは一歩目のスタートダッシュ。
 重量級のゲルググが二足歩行で接近戦を戦うにはその巨体がネックとなる、これはその開発コンセプトがもともと重力下使用を想定していなかった事に起因する。ゆえに重力下戦闘の際にはさっき大尉が行った様に脚部のジェットをドムの様にホバーとして使用するのが基本だが、脚部スラスターがこれだけの重量を接地面から浮かせて移動するにはある程度のパワーゲインが必要になる ―― 飛行機の離陸と同じ理屈だ。反面ザクは一年戦争前に設計された機体でそう言った先進機能が何もない、ないから重力下戦闘には一日の長がある。自重と重力を味方につけた走行摩擦は比較的軽量な装甲とも相まって機体をゲルググよりも早くトップスピードへと持ち込む事が出来る。
「 ” アデリア、来るぞ。今度は仕止める ” 」
「了解っ! 」
 操縦桿から手を離したアデリアが気合い一発両腿を思いっきり叩いて渇を入れる、ギンと睨みつけるモニターの先には殺気に満ち溢れるモンシアのゲルググが既に宙へと身体を浮かせていた。遮蔽物のない空間を十二分に活用しての高機動攻撃、追いかけたら相手の思うつぼだ。敵の狙いを予想して仕留めるまでのプロセスを完全に組み上げて実行する、大尉の狙いは自分を墜とすと見せかけてのマークス機狙い。
「さあ来いっ! 今度こそぎゃふんと言わせてやるっ! 」

 小さくフットペダルを踏み変えながら左右の揺さぶりを続けていたモンシアが意を決して機体を横へと滑らせる、アデリアとマークスを中心に回り込む様な動きを見せたゲルググは徐々にその半径を縮め始めた。背中合わせで迎え撃つ二機はモンシアとの間合いを計りながら僅かに旋回方向とは反対回りに位置を変える、モンシアの攻撃のタイミングを少しでも狂わそうと言う狙いなのだが彼の動体視力はそんな事ではごまかせない。何度目かの出し引きを繰り返して二機の防御のバランスが乱れたその瞬間にモンシアはバックパックのスラスターに火を入れて一気にアデリアの眼前へと躍り出た。斜め方向から慣性を纏っての突撃は受けたアデリアの機体を大きく弾いて退かせる、モンシアの眼前には完全に虚を突かれたマークス機の背中が露わになった。
「! 一機目っ! 」
 勝利を確信したモンシアがアデリアを跳ね飛ばした刀をマークス機の背中に向かって振り上げる、マニピュレーターのレバーを前に倒すだけで彼の機体は背面のエネルギー供給ラインを絶たれて大破認定確実。それは後ほんの一秒足らずで起こる ―― モンシアにとっては今まで何度も繰り返したお決まりの作業、しかし。
「 ―― なにっ!? 」
 それはモンシアにとって信じられない光景だった。その刹那に近い時間の中で動き始めるバックパック、素早い足の組み替えによる重力下での超信地旋回。おまけにザクのアイカメラは赤い光を妖しく放ちながら確実にモンシアの姿を捉えている。ためらう事なく振り込んだモンシアの模擬刀がマークス機の纏った旋回力で掌から弾け飛んだ。
「ちいっ! 予備兵装っセカンダリィ! 」
 反対側の腰にあるハードポイントから予備のビームサーベルを抜こうとするモンシア、だがその動きをけん制する様に次の一撃がモンシアの腕へと迫る。何とか阻止しようと空いている左腕に仕込まれたマシンガンで牽制しようとする彼の思惑を嘲笑う様に、ザクは一瞬で体勢を落としてその手を刀で跳ね上げた。
「どういうこったっ!? こりゃあ ―― 」
 そんな馬鹿な、いくら彼女のプログラムが優れていると言ってもここまで本気になった俺の動きに対応できる筈がない。それに俺の手の内が完全に坊主に読み切られている、これじゃあまるで ―― 。
 使用不能となった左腕の被弾表示へと視線を向けて、そしてモンシアはそれが実現可能となる一つの手段に気が付いた。歴戦のエース部隊をここまでたぶらかす事の出来る戦術、そして周到に仕掛けられた罠の存在。ぎこちない動きも自分の攻撃を受けてうろたえる様も。
 全てはこの瞬間の為だったというのか!?
「てめえキースっ! まさか乗り換えてやがったのかっ!? 」

「さすがだ中尉・  ・、気がついたか。だがもう遅い」
 モニターの明かりに照らされながらキースがにやりと笑って、がら空きになったゲルググのコックピットのある胸部装甲を睨みつけた。

「ちょっと待て!? じゃあ俺が今まで相手してたのは ―― 」
 モンシアの通信を耳にしたベイトは愕然として目の前にいるジムを見つめた。自分が放つ必殺の一撃を何度もやり過ごしていまだ健在なその機体を操っているのがあの色違いの瞳を持つ新米軍曹だとは考えも及ばない、混乱する思考がもたらす一瞬の隙はマークスにとっての好機だ。片手一本で脇に引き付けた模擬刀をしっかりと抱えて彼は思いっきりフットペダルを踏み込んだ。
「そう、この僕です。大尉っ! 」
 脚部のジョイントを限界まで使ってマークスのジムはベイトとの距離を一気に詰めた。今教わったばかりの吶喊一突、その切っ先がよろける彼のゲルググへとひた走る。

 動きを止められたモンシアが体勢を立て直すために再びホバー機能を作動させる。もともとその機能が標準装備されているドムとは違ってその操作は酷くデリケートだが、並みの兵士ならば幾許かの時を要するそのセッティングを果たしてモンシアはあっという間に成し遂げた。機体が浮いた事を確認する間もなくモンシアはゲルググを後退させようとする、しかしそれがキースが目論んだ罠の最後の仕上げだった。
「アデリア、行けっ! 」
 二機の横合いで距離をとっていたアデリアの存在をモンシアが気づいていない訳がない、しかし対峙した相手がキースであったと言うショックと混乱が彼に隙を呼び寄せた。加えて最も近い距離にいるのが相手のエース機であると言う状況はモンシアに判断を誤らせる、反射的に真後ろへと機体を下がらせた事はすなわち敵の攻撃機ストライカーであるアデリアとの距離が変わらないと言う事。コンマ何秒かのミスが命に関わると言う事を身にしみて分かっていながらモンシアは自分が致命的なミスを犯したと言う事をアデリアの咆哮を耳にして知った。
「うおおおおおっっ! 」
 腹の底から発する気合と共に全力突撃フルアタックを敢行するアデリア、鍛え抜かれた男勝りの脚力がフットペダルを床まで踏み込んでバックパックの推進剤を全て使い切るほどの炎が尾の様に伸びてたなびく。劣勢を悟ったモンシアが一縷の望みを賭けて左腰のハードポイントから予備の模擬刀を逆手で抜きながらアデリアとの時間を稼ごうと試みるが、それには失った左手とその他すべての要素が足りなかった。あっという間に詰められる間合いは回避の選択を塗りつぶしてモンシアに有無を言わさぬ白兵戦を要求する。
「おもしれえ、このモンシア様に一対一の勝負を挑むたぁいい度胸だ。だが見くびってもらっちゃあ困る ―― 」
 逆手に抜いた刀があわやの所でアデリアの得物と激突した。自重の差で軽量なザクの突進はいとも容易く阻止される。
「こっちも引き出しはまだ空じゃねえっ! 」

 モニターいっぱいに広がるゲルググの影以上に大きな圧力、そして殺気。まるで搭乗者の意思を具現化する様な強いオーラがアデリアの肌を粟立たせて震えを呼び覚ます。
 これが、撃墜王。
 戦いの流れの中でアデリアは自分の方に利がある事を悟っている、しかしその分析を全く反古にしてしまう気迫がアデリアの闘志を侵食する。己を奮い立たせようと言う意思以上にそれは激しく、そして強くアデリアに訴えかけて来るのだ。
 お前が、俺に勝てるのか、と。
「 ―― っ! 負けるモンかっ! ここで負けたら一人で頑張ってるマークスに」
 顔向けできない。あたしがこいつを墜とさなければみんなが殺られる。軍隊なんて嫌いだ、戦争なんてもっと嫌いだ。でもみんなを守れなければあたしはあたしを嫌いになる。
「そんなの、ダメっ!! 」

 弾かれた刃を再び身体の正面に翳して前へと。踏みしめた床が彼女の気概を示す様に大きな音を立てて波紋を広げる。まるで刺し違えようとでもするアデリアの決意にモンシアは不敵な笑みを浮かべて迎え入れる。
「そうだっ! それでこそだ! 」
 戦いの醍醐味、心と命の削り合い。俺がお前達にただ求め、俺がお前達に伝えるべきただ一つの。
 弾ける火花は二つの正義の凌ぎ合いだと。勝ち負けなど論外だ、ただそこに生き残った者こそが次の正義を名乗れるのだと。その為に目の前の敵を沈めろ、蹂躙しろ、二度と立ち上がれなくなるまで徹底的に。
 体勢を崩したザクに向かって情け容赦のない一閃、しかしアデリアはそれさえも受け切って再び前へと。狭い範囲でのラピッドムーブを使った小半径旋回で背後を伺うがアデリアは怯まない、キースもかくやと思えるほどの信地旋回でモンシアの前から正面を外さない。
「 ―― 間合いをっ! 」
「終わりだ嬢ちゃんっ! 」
 降り注ぐ剣閃を振り払いながら致死の間合いへと足を踏み入れたアデリアを袈裟に薙ぎ払うモンシアの一刀には己の経験と誇りを賭けた重みがある、コマ送りの様にモニターへと迫る白灰色の鈍い光がアデリアの網膜から脳へと伝わる。敗北の予感、死への恐怖。
「まだあっ! 」
 何もかもを弾き返すアデリアの咆哮、振り下ろされる負けを睨みつける鳶色が閃光を放つ。回避か防御か、その選択すらもあやふやな状態で咄嗟に彼女はマニピュレーターを指先で弾く。そこから始まる一連のコマンドが手繰り寄せられる記憶の様に次々と彼女の四肢をコンマ秒の単位で順序よく動かした。入力が完成した瞬間に発生する機動はアデルの弾を背中越しに避けた偶然、ザクの身体が軸足を起点に半身になってモンシアのゲルググから僅かに芯を逸らす。
「しょおっ! 」
 気合一閃ダンパーを落として下半身を地面すれすれへと、転倒の危険を知らせるオートバランサーの叫びを無視して彼女はそのまま左足のコントロールをカットする。捻りの力を乗せた左足が鞭の様にしなって鉄の床を滑り込む、金属の放つ悲鳴と火花が弧を描いてゲルググの左足へと襲いかかった。
「! なんだとおっ!? 」
 渾身の袈裟斬りで重心を左足へと置いていたゲルググに彼女の水面蹴りを躱す術はない。脚部スカートを破壊するその勢いは宙に浮いていたゲルググのバランスをいとも簡単に崩して天を向かせた。轟音と長年積もった砂埃がモニターの視界を奪う、緊急時に発生するハーネスの緊迫とHANSの微細振動で我に返ったモンシアに叩きつけられる切っ先。
 ゴオン、という鈍い響きと共にコックピットの電源の全てが喪失した。ほんの僅かな空白の後に正面のモニターに点灯する『YOU LOSE』の赤い文字に目を瞬かせるモンシア、彼女が間髪をいれず止めを刺しに来た事を知った彼はほんの少しほっとした顔を浮かべた。
「 …… こんなこたぁ初めてだ。ウラキの野郎にもここまではやられなかったのによ」

 荒い息使いだけが耳に残る。
 それが自分だと分かるまでにほんの少しの時間が必要だった。目の前に突き立てられた模擬刀は確かに自分の物、足元に倒れたゲルググのコックピット装甲を抑え込んだまま動けない。現実と夢の境界をさまよいながらそれでもアデリアは自分が今何をしたのか、何をやり遂げたのかを瞬き二回で思い出す。
「か、勝ったの …… ? 」
 それでもまだ信じられない。大尉は最後の瞬間に撃墜王としての全てのプライドを叩きつけてきた、あたしはその時一体どうやってそれに立ち向かっていったの?
「 ” 降参だ、伍長 ” 」
 機体同士が接触した事によって開かれた回線からモンシアの声が流れて来る。足元で眠るゲルググの姿よりも、目の前で小さく点滅する『Good kill』の文字よりも彼に初めて『伍長』と呼ばれたその声がアデリアに現実を受け入れさせた。頭の芯がジン、と痺れて胸の奥に熱い物が込み上げ、それがたちまち塊となって口から大きな溜息となって零れ落ちる。
「ありがとうございますこのエロ …… じゃなかった大尉殿」
「 ” ケッ、上官に向かって何て言い草だ全く。止めまできっちり刺した事は褒めてやる、ウラキの野郎にゃできなかった事だ ” 」
「! 大尉は昔伍長とこういう模擬戦をした事があるんですか!? 」
 自分との比較に零れた思いがけないその名にアデリアは驚いて敬語を使う事すら忘れた。忌々しそうに吐き捨てるその口調とハンガーでの講義の最中に頭の上で繰り広げられた騒ぎから、彼と伍長がどんな関係だったかというのがなんとなく分かる。
「 ” ああ、もうずいぶんと前の話だ。野郎がまだ新米少尉だった頃にな …… 俺が撃破されたのは後にも先にも野郎と伍長の二人だけだ、これからもその調子でがンばンな ” 」
 先って、次は死んじゃうジャン? と心の中でモンシアの言葉尻を咎めながらアデリアは彼から褒められた事に笑顔を浮かべる。ありがとうございます、と今までのわだかまりを忘れて心の底からお礼を言おうとしたアデリアの機先を制する様にモンシアが呟いた。
「 ” おお、そういや俺を斃した褒美と言っちゃあ何だが、もう一個、伍長に大切な事をおしえてやる ” 」
「ほ、ほんとですか? 」
 仮にも一年戦争を生き抜いて撃墜王の称号を持つパイロットからその心構えを聞ける機会なんてここにはない。思わずコックピットから身を乗り出してモニターに横たわるゲルググへと目を向けた彼女は期待にその瞳を輝かせて耳を澄ませる、しかしそこへと飛び込んで来たのは ―― 。
「ひえっ! ろ、ロックオン警報っ!? 」

 躱す暇もなく次々に叩きつけられるペイント弾がアデリアの機体の左半身をくまなく染め上げる。断続的な衝撃と共に途絶える電源と撃破を示す赤い文字を呆然と眺める彼女に笑いを噛み殺したモンシアの声が届いた。
「 ” モビルスーツパイロットが最も隙だらけになるのは強敵との戦いに勝った瞬間だ。自分のねぐらに無事帰投するまでが戦闘、生き延びたかったらそこンとこをよーっく肝に命じておきな ” 」
「はあっ!? 何をいまさら上から目線でっ! そういう大事な事はもっと早く言っとけってのっ! この ―― 」

 左足の不自由なアデリアのザクが電源をカットされれば後はもう転倒しかない。最後の罵声を伝える事なくグラリと上体を揺らしてそのまま床へと転がる轟音と震動だけがコックピットの中で笑顔を消したモンシアに届いた。
「さ、キース。後はお前の師匠とのタイマンだ。アデルとお前じゃどう考えたって格が違う、そしてお前の手元にゃ銃がない。結果は …… 知れてる」
 ぽつりとそう呟くと彼は胸ポケットから細長いプラスティックケースを取り出した。蓋を外して頭だけが出た細身の葉巻を抜き取ると端をツールナイフで器用に斬り飛ばして口へと咥える、一緒に同封された細長いマッチを天井のパネルへと押し当てると彼は一気に擦り上げた。
 暗闇を仄かなマッチの明かりが照らす、この時代では貴重品とも言える最高級品のコイーバの先端へとその炎を近づけると真黒な正面のモニターに自分の顔が映った。ほんの少しじっとその顔を眺めたモンシアは苦々しい目を向けながら話しかける。
「何て顔してやがる」
 葉巻に火を灯してマッチを振ると再び暗闇が彼を包み込む、モンシアは大きく一口を吸って吐き出すとおもむろに頭を抱えてパネルへとうなだれた。汚染された空気をろ過する清浄機のファンが回り出す、まるでそれを誰かの声と重ねる様に彼は頭を振り、今まで苛まれ続けた心情を吐き出した。
「俺ァ …… いったいどうすりゃいいんスかねぇ、大尉」

                                *                                *                                *

 白熱した戦いは午後も含めて六回戦にも及び、しかしながらオークリー組が勝利する事は一度もなかった。しかし回が進むにつれて複雑になる内容と高度な展開は好事家と呼ばれる人種のみならず普通の観衆をも魅了し、そこに居合わせたコウの存在が更なる熱狂を呼びこんだ。双眼鏡を眺めながら隣にいるヘンケンとセシルに今後の展開を予想していたコウの言葉を小耳にはさんだ普通の人達がまるで足元へと寄り添う様に三人の元へと近づき、同じ様に双眼鏡を目に押し当てて塔の内外で行われる戦いの一部始終を理解した。その噂と光景を耳目に集めた周りの人々は先を争ってコウの元へと集まって来たのだ。
 それでも彼らの多くはコウと同じ組合に属する農夫でありその家族であり、従って彼の人となりをよく知る彼らはできるだけコウの邪魔をしない様に黙って耳をそばだてているに留まった。一試合が終わってコウが双眼鏡を降ろした時には三人を中心に人の輪が出来上がっているというありさまで、これにはさすがのコウも驚きを隠せなかった。
「なに、今考えればそれも彼が持つ本来の仁徳だったんだろう。彼自身がたとえみんなを拒んでもみんながそれを許さない、そういうカリスマ性は二つ名を貰う以前に持って生まれた彼の本質なのさ」
 とは後にラーディッシュの艦橋で非公式に取材を受けたヘンケンの述懐である。遠い目で艦橋の窓から星星を眺めながら彼はどこか嬉しそうな目でそう呟いたと言う事を取材した記者は自分の友人に語っている。
 徐々にその力を増すオークリー組の奮戦とコウの解説 ―― とは言え余りの人の多さに驚いたコウの声のトーンが下がって拡声機の役割を隣のヘンケンが請け負う始末ではあったが ―― によって盛り上がった観客は味方に届けとあらんばかりに大声を上げ、届くはずの無い声援に後押しされる様に彼らはティターンズのエース部隊と渡り合う。拮抗し始めた力はやがて戦域を狭いオベリスク内より外へと拡大し誰の目にも勝敗が分かる荒野での戦闘へと移行する、味方がやられた瞬間にはそこで観戦する全員が立てた親指を地面へと向けてブーイングを発するまでになっていた。

 祭りは日没を迎える前に撤収の運びとなった。オークリー組の0勝6敗、しかしその六回の間に敵機を三機撃破。こんな辺境のモビルスーツ隊の意外な活躍に観客はすっかり満足し、口々に思い思いの感想を語り合いながら家路へと急いでいる。周囲の人からお礼を述べられたコウが気恥ずかしそうに会釈を返す様をヘンケンとセシルは黙って見守っている。
「 ―― 今日は誘っていただいて本当にありがとうございます …… 本当に、楽しかった」
 オレンジ色の夕日に横顔を染めてコウが笑顔で頭を下げた。彼がこうなる以前にはきっとそんな顔を持っていたのだろうという晴れやかさに満足と切なさを同居させたヘンケンが、しかしそんな事をおくびにも出さずにゆっくりとコウの元へと歩を進めた。
「もう君が「あれ」に二度と乗れない事も忘れてか? 」
 それはセシルしか知らないコウの致命傷、しかしヘンケンはあえて彼を試す様に尋ねた。心に負った傷が深いからと言ってまるで腫れ物に触る様な行為はかえって失礼だ、それを共有し理解する事によって他人との関わりをより深く掘り下げる事が出来るとヘンケンは信じている。ヘンケンの言葉を受けたコウは確かに一瞬眉をひそめはしたが果たしてそのまま自分の殻へと閉じこもりはしなかった。借りた双眼鏡をそっとヘンケンに手渡すと、何かを思い出す様に西日に影を落とすオベリスクを見上げた。
「子供の頃を思い出しました、親父に連れられて地元の基地際に行った時の事。まだモビルスーツなんか影も形もなくて戦闘機のアクロバット飛行やいろんな出店とかたくさんあって。ちっちゃなお祭りでしたけどそれでも歩きまわって空を飛びまわる戦闘機を見るのがすごく楽しくて …… 乗れなくても見たいのはあの頃も今もそんなに変わりないんですね」
「そうか、ならよかった」
 色々な意味でそれがヘンケンの本心だった。自分が諦めた彼の未来を占う為の今日の賭けはどうやら勝ちに傾いたようだと眼を伏せたヘンケンが鼻筋を掻きながら思う。平和な世界で自分達が壊す未来の後始末を請け負う彼の姿を想像しながら、それでも必死で生きようとしている今の農夫の姿と重ね合わせてヘンケンはコウの未来に希望が満ち溢れている事を心のどこかで祈っている。
「そう言ってもらえると俺も誘った甲斐があるってモンだ ―― 実を言うとな、もし断られても首に縄ぁつけて引きずって来いってセシルに脅されたんだぜ? 旦那に向かって犯罪を強要する家内ってどう思うよ? 」 
「あなた」
 背後でヘンケンに呼びかけるセシルの声はにこやかだが異様な数の刺が混じっていた。ひっと首をすくめたヘンケンがそっと背後を伺うと、彼女は地面に敷いたシートを小さく折り畳みながら不吉な笑顔でじっと二人を見上げている。
「さあ片づけを手伝って下さいな。もし手伝っていただけないのならあなたもこのシートみたいにきれいに折り畳んで車の荷台に投げ込みますよ? 」

                                *                                *                                *

 宵闇の中を駐機場から離れた「ヘリオス13」は夜間照明の林の中をゆっくりとハンガーに向かって動き出す。帰隊時刻をとっくに過ぎたと言うのに一向に音沙汰がない三人に業を煮やした機長が実力行使に打って出たのだ。ジャブロー本部から派遣された機体がタービンを回して誘導路をこちらへと向かって来る姿をはらはらしながら見つめるオークリーの兵士達の心配をよそに、ベイト達はウェブナーとの挨拶を済ませて管制塔のある建物から出て来たばかりだった。「空軍の連中は融通が利かねえな、ったく」とぼやきながら兵士達が整列する前へと歩を進めた三人はそこで肩を並べて先頭に立つキースと向きあって敬礼を交わした。
「ではこれにて任務を終了する。第三軌道艦隊旗艦「オラシオン」所属、ベイト以下三名は現刻を持って原隊へと帰投、本日の任務遂行に際しての多大な協力と配慮に感謝する」
「こちらこそ貴重なお時間を割いての来訪と貴重なご教授、本当にありがとうございました。一同を代表して当基地モビルスーツ隊の隊長である私から、お三方に感謝の意を表します」
 言葉が終ると同時に全ての隊員が一斉に直立不動となって右手を翳す、一糸乱れぬ見事な動きにベイトは感心して小さく頷いて表情を崩した。
「礼には及ばねえよ。それよりこんな所でどうやってあの二人をお前が育てたのかっていう事の方に俺は興味がある ―― ウラキよりもお前の方が隊長に向いてるってバニング大尉に言った俺の眼は正しかったって訳だ」
「そうだな、特に ―― 」
 ベイトの隣に立つモンシアが突然列を離れてつかつかとアデリアの前へと歩み寄った。出会った時に見せたにやけ顔ではなく明らかに好意的な笑顔で近寄って来た事が逆にアデリアの警戒心を煽りたて、思わず後ずさりをした彼女に向かってモンシアはすっと右手を差し出した。
「キースの手助けがあったとはいえ正直ここまでやれるたぁ思わなかった、俺を墜とした時の気迫さえありゃそうそう死ぬ事ぁねえだろ。ま、戦争でも始まりゃ別だがな。 ―― あン時の手応え、忘れンじゃねえぞ」
 思わぬ人物に褒められて眼をパチクリさせたままのアデリアに向かって尚も催促する様にモンシアが右手を小さく振ると、彼女はやっと我に返って ―― しかし何か裏があるんじゃないかと勘繰りながら恐る恐るその手を握った。
「あ、ありがとう、ございます。その …… モンシア大尉? 」
「それよりどうだい、伍長? 」
 手を握った瞬間に変わった声音と表情にアデリアはひっと小さな声を上げた。
「これから俺達と一緒にラテンの港町でおしゃれなデートとしゃれこまねえか? 」
「 ―― やっぱりナンパかっ! このエロおやじっ!! 」
 怒鳴ったアデリアが思いっきりモンシアの手を振り払う、しかし彼は彼女の邪険な態度に何の意も介さずにぐるりと回りを見回した。
「フォス伍長だけじゃねえ、もしお前達が希望するならここのモビルスーツ隊の全員を地球連邦軍本部第十四番デッキに入渠している艦隊旗艦へとご招待だ、もちろん他の連中も交代で見学がてら休暇に来るといい。こんな砂漠のど真ん中じゃ休みっつてもどこにも行けやしねえだろ? 」
 モンシアの口から出た突然の申し出に居合わせた全員の口から思い思いの歓びが零れ出た。この基地に所属している隊員達は嘱託職員を除いて軍から何らかの制約を受けている、それが尉官階級とはいえ今最も強い勢力を誇るティターンズの所属軍人からお墨付きがいただけるとはありがたいことこの上ない。この機会を逃したらもしかして一生ここに軟禁されたままかもしれないと常日頃から思っている彼らにとってモンシアの申し出は天から垂らされた蜘蛛の糸の様に甘美で魅力的だ。
 その喧騒があちこちに伝播する中、彼の申し出の矛盾に首を傾げたのはキースとモウラそしてニナの三人だった。この基地に拘束されている理由が誰よりも極秘で過酷な自分達がその契約を破ってここから出られるとは思えない、そして何よりその事をよく知っている彼らが自分達に対してそんな申し出をする事など考えられない事だ。
 もしそうなったら自分達だけではない、彼らにだって咎が及ぶはずなのに。
 呆然としてモンシアの表情を眺めていたキースはその違和感の正体を追って他の二人へと目を向けて思わず息を呑んだ。にこやかにアジテーションを続けているモンシアへと苦々しい表情を向けているベイトと沈痛な面持ちのアデル。モンシアの申し出が少なくとも三人合意の物ではないという事を悟った彼は一瞬目を閉じて次善策を求める為に深く思考を奔らせた。
 どうすれば皆の先頭を走るモンシア大尉のこの申し出を断る事ができるのか?

「どうせミデアの腹ン中は空っぽだ、なんなら明日非番の奴からってえのはどうだ? もう帰隊時刻も過ぎちまってるしそんなに長くは待ってやれねえ、休みを満喫する決心のついた奴からどんどんミデアに乗り込んじまいな。着替えや身の回りの物なんざジャブローに腐るほど溜めてあるから心配すンな ―― 」
「モンシア大尉」
 捲し立てるモンシアに向かってキースは厳しい表情を向けた。彼はほんの少し不愉快な表情と焦りの色を湛えた眼で振り返って煽るのを止めた。
「大尉のお申し出は我々にとって身に余る光栄だとは思いますが、この件はウェブナー司令も恐らくご存じない提案だとお見受けしました。もしそれが実現するのでしたら第三軌道艦隊司令の命で正式に当基地司令に通達されるというのが筋ではないかと思うのですが」
「ったく硬え事言ってんじゃねえ、そんなの明日でもいいじゃねえか。だいたいあんなお役所連中の手続きを待ってたらここの基地の全員がアカプルコの夜を満喫する頃にゃあ白髪になっちまわぁ、善は急げって言葉、知らねえか? 」
「ですがいきなり今日にここを出立するというのは当基地先任の立場に置いて納得できかねます。ここは後日、せめて艦隊司令からの許可をウェブナー司令へと伝えて頂いてから計画的に話を進める方が ―― 」
「今日じゃなきゃだめなんでぇっ!! 」 
 焦りを怒りに変えて爆発するモンシアの怒鳴り声。しかし今まで見た事もないその顔と声に戸惑いながらも冷静沈着な居住まいを崩さず、彼の豹変ぶりの原因は何なのかを暗に問いかけるキースの眼。モンシアはまるでその追求から逃れる様に背を向けると「ちっ、勝手にしろっ」と毒づいて皆の前から離れた。
「すまなかったなキース、こいつの思いつきでどうやらお前達を困らせてしまった様だ。「オラシオン」モビルスーツ隊の隊長として今の件について謝罪する、許してくれ」
 モンシアの態度に釈然としない表情を浮かべたキースに向かって、ベイトが仲間の落ち度を庇うように頭を下げた。昔のような三人のチームワーク? ―― いや違う。少なくともアルビオンで共に戦った彼らはそれぞれが独立していて自分の力を思うがままに行使する事でチームとして構築されていた、こんな風に相手を庇ったり思いやったりする必要がないほどに。
「頭を上げて下さい大尉、こちらこそそちらのご希望に添えずに申し訳ありません。ただあまりにも唐突な提案でしたので ―― 」
「今の件はお前の言う通り、艦隊司令に掛け合って必ず実現する様に努力してみる。実を言うと俺もお前達を俺達の船や部下に会わせたくてしょうがないんだ、今度はアマゾンの密林で模擬戦、なんてのはどうだ? 」
 キースの言葉を遮ってベイトが告げる、片目をつぶって差し出される手を握ったキースはそこに籠められた力に驚き、そして言外にある忠告を悟った。
 ―― これ以上何も言うなと。
「それに私は軍曹が気になります。貴方が中盤で頑張ったお陰で午後の作戦の大半は私達が想定した終了時間を大幅に越えてしまった、模擬戦の勝利条件が殲滅でなく時間制限を設けられていたのなら後半の戦闘は全部引き分けです。インターセプタ―としての貴方の才能は目を見張るものがあると私は思います」
 何食わぬ顔でマークスの元へと歩み寄るアデルにしても同様だ。言葉では気づかぬが通りすがりにキースへと向けられた視線には戦場で何度も見た暗い光がある。あの地獄の最中で生死を共有した仲間内での意思を確認したキースは背後の全員に気取られない様に眉根を寄せると微かに引き締まった表情をベイトへと向けた。
「できれば私達の隊に迎えたいくらいだ ―― 貴方がティターンズに参画する意思があれば、ですが。その調子でこれからもがんばってください」
 いつも一気に押し切られた印象しかなかったマークスは思わぬ賛辞を受けて驚いた。最後の一言はこの基地から出る事が出来ない自分に対する社交辞令かとも思ったが差し出された手を握り締めた時に初めて彼の言葉がお世辞ではなく本心から出ている事に気づく。少し照れくさそうに笑ってアデルの手を小さく振る彼の肩を隣のアデリアが誇らしげな笑顔を浮かべて小さく叩いた。

「おい、もう帰る時間だとよ」
 背を向けたままのモンシアがその先で待機しているミデアのコンテナを眺めながら不機嫌な声で告げた。チカチカと点滅するハンドライトのモールスを横目で眺めながらベイトはチッと舌打ちした。
「ったく本部の連中はどいつもこいつも空気ってものが読めねえ。いいかキース、くれぐれも言っとくがまかり間違っても絶対にジャブローなんかを希望すンじゃねえぞ。あんな穴倉に引きこもってたら物事の機微も分からねえバカになっちまうからな」
「ここの方がましですか? 何にもない砂漠のど真ん中ですけど? 」
「なに言ってンだお前、ちゃんとあるじゃねえか」
 そんなこともわからねえのかと呆れた笑顔でキースを見下ろしたベイトは既に満天の星がさんざめくオークリーの夜空を仰いだ。釣られて見上げるキースの眼に飛び込んでくるいつもと変わらぬ夜空、だがベイトはまるで眩しい物でも見る様に目を細めた。
「何にもなくても空がある。そしてお前は地上、俺達は宇宙、その二つを繋げているのもここにある。…… 忘れンな、これがある限り俺達は必ず繋がってる」
 ベイトはそう言うとキースの手を離してポン、と肩を叩いた。
「じゃ、元気でやるんだぞ。またいつか会おうぜ」

 ベイトの後ろ姿を追う様にアデルが手を振りながら続く、しかしモンシアだけはじっとその場に佇んで動こうとはしない。声をかけようかとキースが口を開いた刹那、彼はハッと大きな溜息をついて踵を返してキースの元へと歩み寄った。
「も、モンシア大尉も今日はありがとうございました。機会がありましたらまた胸を貸して下さい」
 モンシアの表情は硬い、キースはそれが午前中の最後の試合で画策した自分の策によるものかと思って緊張した。割と小さな事を根に持つ彼の性格からするとだまし討ちにも似たあの戦術は頭では理解していても心情には相容れないものかもしれない、辛辣な捨て台詞を覚悟して肩に力を入れたキースに向かってモンシアは小さく表情を崩した。
「おう、機会があったらな。 …… だからよ」
 いかったままの肩へとモンシアの肘が預けられて顔が近付く様をキースの眼が追いかける。モンシアは微かに笑いながら彼の耳元で小さく、しかし強く言い聞かせるように囁いた。
「 ―― 次合う時まで、絶対に死ぬんじゃねえぞ」



[32711] PAN PAN PAN
Name: 廣瀬 雀吉◆068209ef ID:41c9b9fd
Date: 2015/02/05 01:25
「衛星からの静止画像です」
 ケルシャ―はそう言うとダンプティの前に何枚かの写真を差し出した。オークリー侵攻の為に確保した海岸線の一角にある司令部のテントの中で彼らは最後の調整に当たっている、本部から送られて来た至急電は彼らに最も必要な情報だった。
「稼働機数は六機、旧式のジムを除いては全部我らの機体です」
「連邦の基地なのにか? しかもザクやゲルググ ―― せめてグフやドムの一機も持たされてないとはつくづく冷や飯を喰らわされてる部隊の様だな」
 オークリーのモビルスーツ隊の全力演習が行われるという暗号電文が届いたのが今朝の事、ダンプティは至急付近上空の通過を予定している監視衛星を全て押さえて撮影に当たらせた。軌道上から撮られた砂漠の上に屹立する巨大な宇宙港の残骸とその周囲に展開するモビルスーツの姿にダンプティは僅かながらに目を細めた。
「演習の相手はどうやら今入渠中の第三艦隊旗艦「オラシオン」のモビルスーツ隊の模様、大戦生き残りの腕利きですね」
「結果は? 」
 ダンプティの問い掛けにケルシャ―は隣の士官へと目配せする、彼はすぐにもう一枚の紙切れを取り出してケルシャ―へと預けた。その内容を一瞥した彼は「ほう」と感心したように呟いた。
「旧式のザクとジムで臨んだ彼らは一度も勝てず、されどトータルで三機撃破。 …… なかなかどうして「博物館」の警備員と侮る訳にはいかないようですな」
「機体の能力差を考えるとほとんど拮抗した実力の持主だという事か …… ラース1からの報告だとパイロットのうち二人はまだどちらも二十歳そこそこだという事だったのだがな」
「どうします? 相手の力を考慮してフォーメーションを変更しますか? 」
 作戦の立案に関してその全権を担う彼にとってみればこれは不測の事態である、押しつぶそうとした蟻塚から毒蛇が顔を覗かせたような物だ。しかし憂慮を声に滲ませるケルシャ―に向かって彼の上官は、そっと写真から目を外して小さく頭を振った。
「いや、最初の予定通り先鋒はラース1を除くサリナス組で行く。奴らとてこの隊に志願した腕自慢だ、数で勝っていればそうそう後れを取る事はあるまい。それに後れを取ったら取ったで」
 無表情な目がケルシャ―へと向けられた。
「督戦する機体の数は、できるだけ少ない方が楽だからな」

                                *                                *                                *

 全員が撤収した後になってもキースとモウラ、そしてニナはその場を立ち去ろうとはしなかった。彼らの遠くで翼端灯を赤く点滅させたミデアが轟音を上げて滑走していく、それは夜闇に敷かれた階を駆けあがるかの様に機首を上げるとするすると星の海へと消えていく。
「いやーしかし今日は大変だったわ。まあうちの機体をこれでもかっていうくらい使い倒してくれちゃって、お陰で整備班は持ち込まれた装備もほったらかしでてんてこまいだったよ」
「でもそれだけに十分なデータがとれたわ。後で整理してみないとわからないけど今日一日でみんなのスキルは格段に成長した、特にアデリアとマークスの数値と行動バリエーションは考えられないくらい …… これも全部出し惜しみせずにつきあってくれたあの三人のお陰ね」
「まあそれを言うならうちの連中も手持ちの工具だけでの野戦整備が試せた訳だし、言う事ないんだけどね。しっかしアデリアの奴、よりにもよってゲルググのスカートをべっこりへこましやがって。替えの部品がないんだから元に戻すだけでも気が重くなる ―― キース? 」
 三人だけの時のいつもなら普段の皮を脱いで会話に参加する彼が一言も言わずにじっとミデアの消えた夜空を見つめている、モウラはその原因が何かを推測して声をかけた。
「モンシア大尉の事かい? そりゃあたしだって驚くさ、だってあのスケベ親父がよりにもよって結婚だよ? しかも相手は年端もいかない幼女風の女性と来た、あたしゃそっち方面の趣味は絶対ないって踏んでたんだけどねぇ」
「いえ、それよりも」
 ニナの表情が硬くなる。この場にいる三人だからこそ口にできる話題と疑問は常にニナの脳裏につきまとっていた。
「なぜあの三人がこの基地へと赴く事ができたのか …… そうでしょ? 」
 彼女の問い掛けにもキースは答えない、背中を向けた彼の姿はじっと星空を見上げたまま自分の殻に閉じこもって必死に何かを考え込んでいる様にニナには見える。
「だからアレはベイト大尉が言ってた通り、あの紛争を知らないどっかのお偉いさんが間違って許可しちゃったんじゃないの? もうあれから三年も経つんだしあの事を知ってるのは連邦の中でもほんの一握りだ、そろそろそういう連中が上層部に顔を出してもおかしくないとあたしゃ思うがねぇ」
 モウラの指摘する可能性も無くはない。デラーズ紛争の存在自体が三年の月日を経て徐々に風化してきている事も事実だ、それは世間のメディアから未だに続く宇宙での戦いが報道されなくなってきている事と同じ様に軍による ―― 主にティターンズだろう ―― 隠蔽工作が完全に機能している事を示している。故にティターンズに未だに属さない連邦軍の上層部がそう言う命令書を発給してしまったとしても不思議ではない。
 彼女の推測は的を得ている、とニナは思う。だが何かが引っ掛かるのだ。もやもやとした得体の知れない不安がニナの胸中で明日の危険を囁く、モウラの言葉にも何の反応を示さなかったキースの肩が動いたのは整備班の一人が大きな声でモウラを呼びながらハンガーからここまでの距離を走って来た時だった。彼はそこに佇んでいる三人がモビルスーツ隊の中核を担う三人だと知って慌てて立ち止まった。
「どうした、何かライフルに不具合でも? 」
 彼はベイト達と共に搬入された試作ライフルの整備を担当していた。モウラに尋ねられた彼は整備用の繋ぎの胸ポケットから一枚の紙切れを差し出した。
「予備弾倉のチェックをしてたんですが、そしたら装填済みの弾の間にこんな物が」

 たった一行、三文字の羅列の繰り返し。携帯の機能であるライトに浮かび上がったその文字を読んだモウラがぽつりと呟く。
「 …… ベイト大尉の字だ、間違いないけど …… なんだろ、これ? 」
「見せてくれ」
 険しい表情で歩み寄ってきたキースが強い口調でモウラに告げる、彼女から紙と携帯を手渡されたキースは一目見るなりライトを消して表情を隠した。目の前にいるモウラにも聞こえないほどの小声で何かを早口で口走ったかと思うと、彼は引き締まった表情で真っ直ぐにモウラを見つめた。
「俺はこれから司令に会ってこの言葉の意味を伝えようと思う。モウラ、君はすぐに整備班と予備要員込みの搭乗員に「準臨戦態勢コンディション・イエロー」を俺の命で発令してくれ」
「え、ちょ、ちょっと、どうしたのキース? コンディション・イエローって ―― 」
 穏やかじゃない。それは警戒態勢を示すレベルの真ん中に位置して、基地が敵からの攻撃を想定して準備を始める段階を示す。モビルスーツパイロット及び整備班は全員ハンガー直近の宿直室へと移動して解除されるまで拘束される、もちろん全ての武装が完全装着である事は言うまでもない。
 慌てるモウラと豹変したキース、その原因が全てその一枚の紙切れにあると知ったニナはキースに無言でその紙を見せる様に促した。彼から手渡されたその紙には意味不明の言葉が繰り返し書かれているだけだ。
「PAN・PAN・PAN …… これは? 」
「『緊急ではないが差し迫りつつある危険』を知らせる大昔の航空用語さ。多分他の誰かが見ても意味が分からない様にベイト大尉が書いたんだろう ―― バニング大尉と一緒に戦って来た連中だけには分かる様に」
「じゃあ、これはバニング大尉が指揮していた小隊が使っていた符丁という事? 」
 小さく頷くキースの眼がニナとモウラに向けられる。こんな手の込んだ嘘をつきにわざわざあの三人が危険を冒してここまで来るとも思えないし、それに危険を承知で来たのだとしたらあの違和感も不思議な態度も全て説明がつく。
「 ―― 俺が最後に彼からこの言葉を聞いたのは、ガトーが核を発射する前」
 それは衝撃の真実、そしてこの言葉がどれだけの脅威を秘めているかの裏付けだった。あの観艦式の時にはバニング大尉は既にいなかった、という事は。
「それって、ちょっとキース、まさか」
 沸き立つ恐怖で鳥肌が立つ。過去の忌々しい記憶を思い出しながら彼女は必死に不安を悟られまいと言葉に力を込めた。
「そう、バニング大尉隊長が撃墜されたあの日 …… 戦艦バーミンガムの護衛に向かう途中だ」

                                *                                *                                *

「くそおっ!! 」
 それは機が離陸してから何度目の罵声だろう。モンシアの怒りと渾身の力で殴りつけた間仕切り板の残響音、既に彼の拳は腫れあがって痛々しいほどだ。だがそれを止めるはずの二人の表情には狼狽すら浮かんではいない、うつむいたまま何かを堪えるアデルに変わってとうとうベイトがモンシアの狼藉を止めに入った。
「やめろモンシア、これ以上は俺達にもどうする事もできん」
「 ―― てめえは涼しい顔でよくそんな事が言えるなっ、だからってこのままなンにもせずに黙って見てろってのか、あぁっ!? 」
 ベイトの同情に対して向けられたのはモンシアの逆恨みにも似た抗議だった。ガツンと一歩目を床へと叩きつけてベイトへと身を乗り出すモンシアを押し留めようとアデルが身体を割り込ませる、しかし彼は痛む右手でそれを押しのけながら更にベイトへと身を乗り出した。
「頼むベイト、この通りだ。今からでも遅くねえ、戻って奴らにこの事を伝えて俺達の船へと連れて来ちまおう。ほんのすこし ―― 二三日でいい、あそこから匿うだけでいい、そうすりゃその間に」
「何が起こっても関係ないって、か? 」
 懇願するモンシアの前でベイトがすっくと立ち上がるともう我慢できないとばかりに怒りの表情を突き付けた。
「てめえ今自分が何を言ってンのか分かってンのかっ!? てめえがやろうとしている事はな、立派な軍紀違反で味方に対する重大な妨害行為だっ! そんな事すりゃ俺達だけじゃなく艦の全員があらぬ疑いをかけられる事になるんだぞっ! そこらのガキじゃあるめえしそんな事も分かんねえのかっ!? 」
「だからどうだってンだっ! そんな事よりあいつらをみすみす失っちまう方がよっぽど重大事なんじゃねえのか? 俺達がそれぞれ一人づつ墜とされた ―― そんな奴らが殺されちまうのをこのまンま見過ごせって、てめえの正義はあの日の宇宙に置き去りかっ! 」
「失うとか殺されるとか推測で寝ごと言ってンじゃねえ、まだどっかの部隊がカリフォルニアの沿岸に拠点を築いたって情報だけじゃねえか。まだ連中の目標がオークリーと決まった訳じゃ ―― 」
「じゃあなんでうちの大将はあんな武器を俺達に預けてここに寄越したんだよっ! ここが目標だからって分かってンじゃねえのかっ!? 」
 どれをとっても今の時点では推測の域を出ないというのは当人達がよく知っている。平行線の議論に業を煮やしたモンシアは再び間仕切りの壁を痛む右手で力いっぱい殴りつけた。
「畜生、どこまでうちの大将は情報を掴ンでんだ。せめて奴らの戦力さえ分かればもっと他のやり方を思い付いたかも知ンないのによ、これじゃあ一体俺達ァ何しに来たのか分かんねえ」
「いえ、少なくとも彼らが今の自分達と十分に渡り合えるだけの能力を持ったパイロットだと分かった ―― それで充分じゃないですか。彼らの力ならばたとえティターンズの精鋭が来たとしても十分に渡り合えます、それに持ちこたえられれば親基地のキャリフォルニアから後詰めの部隊も来るでしょう。籠城戦に持ち込めば必ず何とかなります」
「てめえもあそこを見て分かったろ? あんなだだっ広い荒れ地のど真ん中でどうやって全周防御の砦を築こうってンだ、おまけに落着したコロニーの衝撃波で細かいアンジュレーションが出来てて遠くを見通す事もままならねえ。どでかい壁を立てたとしても気がついた時にゃ敵に懐を取られてる、戦術的にも戦略的にもあそこは俺から見ても最ッ低の土地なんだよ」
「それも含めて地の利は彼らにあります。攻城戦の常識とオークリーの戦力を考えれば二個小隊の戦力でもあそこは陥とせないでしょう。それにキースは私達の仲間で「不死身の第四小隊」の一員です、彼と彼の部下がむざむざと敵の手にかかるなんて自分には ―― 」
「 ―― アデル」
 モンシアの気を取り直そうと捲し立てるアデルの言葉を遮るモンシアの声。彼は睨みつけていた壁から視線を外すと失望に塗れた虚ろな目でアデルを睨んだ。
「そんな「慣用句イディオム」に奴らの幸運を求めンじゃねえ。第一俺達の知る第四小隊はもう不死身じゃねえ、その銘を持ってた俺達の上官はな ―― 」
 自分の手が届かない場所で死んでしまった恩人、そして彼らに全てを叩きこんでこの世を去った尊敬すべき上司。戦争が彼らに求めた代償はあまりに大きく、深く抉られた心の傷にアデルはそれ以上の言葉を失い、ベイトはじっと居住区の天井を見上げる。
「 ―― 宇宙のチリになって二階級特進だ、とっくの昔にな」
 議論の余地はない、もうできる事は祈る事しかないのだとアデルは眼を閉じて首を垂れる。しかしモンシアはそれでもなお必死に絶望と抗う様に、今度は両腕で大きく隔壁を叩いてそのまま壁へと額を預けた。まるで祈る様なその姿の影から、ベイトとアデルは悔しそうに吐き捨てる彼の言葉を耳にした。
「くそっ、ウラキのバカ野郎めっ! 」



[32711] On your mark
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:86a29af2
Date: 2015/08/11 22:03
「基地全体の方針としてそれを発令する事は難しい、キース中尉。理由は君も分かるだろう」
 机の上に置かれた紙きれへと視線を落としながらウェブナーはそう告げるとフッと小さく溜息をついた。基地の警戒態勢を上げるという事はすなわち有事へと繋がる可能性がある事案が発生しつつあるという事、しかしオークリーの置かれている環境や世界情勢・敵戦力の分布 ―― そんな物はもう殆ど地上には残ってはいないが ―― を鑑みてもそんな危機が近い将来にここへと襲いかかるという事など考えられない。理由付けがこの一枚の紙切れに書かれた文句だというのには無理があると言うものだ。
 しかしウェブナーは決してこの警告を鼻から信じていない訳ではない、とキースは思う。なぜなら彼は「基地全体の方針として」これを発令はできない、としか言わない。それはつまりモビルスーツ隊や一部の部署においては警戒態勢を移行する事に異存はないと言っているのだ。
「君はこの書面に書かれている事についてどう思う? 信憑性もだがどういう危機がこの基地に迫っているかの推測も込みでだが」
「自分にしか分からない符丁を使って、しかも送られて来た装備に紛れこませて届けられた事を見ても信憑性はかなり高いと思います。ですがそれがどのような形で自分達に迫ってくるかと言う事までは分かりかねます、それに言及するにはあまりにもデータが少ない」
 そうだな、と言う言外の同意を小さな頷きで表現したウェブナーは紙面から視線を上げてキースに向き直った。
「当面の間モビルスーツ隊と整備班は訓練と言う名目で第二警戒態勢の形を取った方がいいだろう、書面には残せんが武器庫の解放と備蓄燃料の基地地下貯蔵タンクへの移送は私が許可する。それと ―― 誰だっ? 」
 ウェブナーの声に釣られて振り返ったキースの視線の先には僅かばかりに開かれた扉の影が見える、廊下が真っ暗になっている所を見るとどうやら話しこんでいる間に消灯時間を過ぎてしまっていたらしい。しかしその暗闇に人の気配を感じて目を凝らした時、すっと扉の縁に手が伸びてその暗闇は扉の動きと共に大きく口を開けた。
「す、すいません。忘れ物を取りに来たら人の声がしたもので、つい」
「 …… チェンか」
 咎める視線を受けたチェンがいつものにこやかな表情で申し訳なさそうに頭を下げる、しかし振り向いて彼の顔を見つめるキースはその笑顔の中に出会った頃と同じ胡散臭さを感じずにはいられなかった。出会った相手の警戒心を解く為に神から与えられた贈り物と言ってもいいその柔和な笑顔の奥に潜む、決して笑う事の無い眼。羊の皮を被った得体の知れない何かの存在をキースは彼の中に感じていた。
「もうとっくに消灯時間は過ぎている。忘れ物を早く取って来て自室に戻れ、これは命令だ」
 顔を出すなと言わんばかりに強く叱ったウェブナーの言葉に切れ長の目から瞳を覗かせたチェンは恐れ言った様にすごすごと後ずさりすると、小さく敬礼だけを残して無言で部屋を立ち去った。それでもあの笑顔は変わらないのだな、と閉じたドアを見送ったキースの後ろでウェブナーはやれやれと溜息をついた。
「規範が緩いというのも考え物だな、こういう肝心な時に限ってすぐ邪魔が入る …… 当面の間中尉の方はそう言う方針で二三日過ごしてくれ、私はその間に自分のつてを頼ってそう言う動きがこの近辺にないかどうかを探ってみる」
「二、三日? 」
「それだけあれば十分だ」
 ウェブナーはそう言うと小さく笑ってゆったりと椅子の背に身体を預けた。
「こう見えても軍の内外にそう言った友人は多い、二三日もあれば香港のオフィス街を歩きまわるOLの下着の色まで特定する事ができるさ」

                                *                                *                                *

 一夜明けたオークリーには不思議な空気と光景が始まりつつあった。基地全体はいつもと変わらぬ日常を送っていながらそのほんの一区画に過ぎないハンガー周辺だけが慌ただしい空気に包まれている。弾薬運搬用のターレットが連結した荷台に木箱を満載して幾度も倉庫を往復し、下ろされた実包はすぐにありったけの弾倉へと押し込められた。倉庫の壁面にあるウェポンラックに固定されたマシンガンは弾薬装填済みの赤いピンがセフティをチェックした担当者の手によって引き抜かれ、すぐにも使用可能な状態で保管されている。非常用の発電機を回す為の軽油が滑走路の端に置かれた備蓄タンクからハンガー床下の貯蔵タンクへと移され、同時にモビルスーツ用の予備バッテリーがいくつも隙間へと丁寧に並べられた。
 だが全ての整備員が実戦さながらに走りまわっている中、一か所だけポツンとのどかな光景を見せている。完全武装状態へとセットアップを続けるモビルスーツの中でたった一機、稼働の手がかりもつかめないまま放置されているドムとその担当であるジェスがせっせと機体を磨き続けていた。ちょうど大きな腰のスカートの辺りに腰を降ろして息を吹きかけて乾いたウェスを動かす、それが反応炉がある場所に辿り着いた時に彼女は不思議そうな声で作業の進捗をチェックするアストナージに尋ねた。
「ねえアストナージ、これって何? 」
 あぁ? と言う表情で後ろを見上げる彼はジェスが安全帯もつけずに不用意にスカートへと腰掛けてる姿を一しきり眺めてから眉を顰めた。
「お前、何て格好だよ。その高さから滑って落ちたら骨折ったーじゃ済まないぞ? 」
「うっさいなあ、そんなドジ踏まないって …… ねえ、ここに何か取り付ける溝が切ってあるんだけど、何なの? 」
 モビルスーツの整備士は鳶職に似た所があってビルの四階建てほどの高さにあるモビルスーツの頭部によじ登って整備する事などざらだ、アストナージはこの小娘がどれだけの実力の持ち主かと言う事を推し量った上で彼女の示した位置にある溝付きのハッチを思い浮かべた。バケツほどの円筒形の内側にねじが切ってあるそれは緊急用に作られたシステムで連邦ジオンに限らず全てのモビルスーツに存在する。
「それか? それは野戦用のレーザーカートリッジを取り付ける穴だ。起動用電源を喪失した場合に備えてな」
「レーザーカートリッジ …… 何それ? 」
「停止状態の融合炉を起動させるにはプラズマを発生させなきゃならない、一番簡単なのは核爆弾を起爆させて発生させる方法なんだが南極条約で核の使用が制限されてそれも出来ない。それで本来はお前も知っての通り核融合炉を別室に持ち込んでプラズマ発生装置を使って起動させる訳なんだが、そう言った機械は基本的に設備の整った基地にしか置いてない。プラズマを発生させるのにちょっとした変電所を作んなきゃならないしな。で、万が一野営地やそう言った設備の無い基地で融合炉を交換した際に起動させる手段がこれだ」
「ほう」
 感心しながらも小首を傾げるという矛盾したジェスの態度を見てアストナージは自分の説明の無駄さ加減を知る。考えてみればジェスは現地民間人からの徴用で軍での特別な講習や理論を教わった事がない、つまりは彼女の知識はすべて現場での実践から得たものでしかないのだがそれでも他の整備員を凌ぐスピードと技術を手に入れている。ジェスにとっての整備と言う仕事がいかに彼女の才能に適しているかを図る、それが指標だ。
「使い方は? 」
「全部すっ飛ばしていきなり本題かよ、ったく。保管庫の中に入ってる筒をそこに取り付けて横から伸びてるプラグをコンセントに繋いでスイッチを入れて ―― コンセントが無ければ自動車のバッテリーでもいい、とにかく12ボルト以上の電圧があれば中のパルスレーザー発生装置が作動して封入してある希ガスが共振する。そして発生したエキシマレーザーが筒の先から融合炉内の核に照射されて点火するって仕組みだ」
「よく分かんないけど簡単そう。そんなに簡単ならC整備の時もわざわざ外して起動させずに取り付けてからそうしちゃえばいいンじゃん? 」
「残念だが一本の単価が高いうえにレーザーの出力が弱いから起動確率が五分五分、それに連邦軍は『物量作戦』が身上のお国柄だからいちいち壊れたモビルスーツを直して使うよりも新しい機体を補充した方が早いってンでそれを使った連中はあんまりいない。俺もオデッサで一回しか使ってねえ ―― って」
 そこまでしゃべったアストナージはジェスの特性に関して重大な過ちを犯した事に気づいた。ほんの何年か前まで一民間人でしかなかった若き少女がなぜこの短期間に熟練の整備兵と比肩する知識を手に入れたのか ―― 答えは簡単だ、自分の好奇心が満足するまで相手に湧き上がってくる疑問をぶつけ続ける。喰いついて来ると知っていながら不覚にも極上の撒き餌を振りまいてしまった彼はキラキラと光を放つ彼女の瞳から身を隠す様に帽子のつばをそっと引き下げた。
「ねえねえ、それでどうなったの? 」
 
 こうなってはもう止まらない。全身からワクワクを放ちながら手を止めて話の続きを待つジェスの表情をつば越しにちらりと見やったアストナージははあっ、と溜息をついて覚悟を決めた。第一そんな顔でじっと見つめられたらどぎまぎして変な勘違いを起こしそうだ。
「いや、ダメだった。連邦軍の融合炉は出力は高いけど重水素を使ってるから反応が鈍い、その点ジオンの融合炉はヘリウム3を使ってるから比較的低い出力でも反応が始まる。ま、元々はジオンのメーカーが開発した技術だから畑違いの連邦の機体が真似するにゃあちとハードルが高すぎるってね」
「へえ、ジオンの …… 」
 感心したようにぽつりと呟くとジェスはやおら何かに気づいた様に自分が取りすがっている機体を見上げた。
「じゃぁさ、同じジオンの機体ならそれくっつけたらこの子も動くんじゃないかな? 」
「お、いいトコに気がついたな、さすがジェス ―― と言いたい所だが残念ながらそりゃ無理だ。確かに炉に火は入るかもだがその後の制御ができねえ、つまりはアビオニクスの封印が外れない以上はこのドムは「ハンガークイーン役立たず」のままって訳だ」
「役立たず言うな、あたしの子になんて事言うんだ」
 ぷっと頬を膨らませてアストナージの物言いに抗議するジェスは年相応の表情を見せる。自分の担当する機体を我が子の様に思う所はいかにもベテランのそれだが見た目がそれに伴わない、アンバランスな整備の申し子の意固地な顔にアストナージは笑いをこらえた。
「ま、そうむくれンな。お前の誕生日までには技術主任が何とかしてくれるって言ってンだからそれまではピッカピカに磨いておとなしく待ってるンだな。いい子にしてないとサンタさんはいつまでたってもプレゼントを持って来ちゃくれないぜ? 」
 むーと両腕を組んで唸りながらジェスはじっとドムの頭部へと視線を送る。しかしふと何かを思い付いて真顔に戻ると再びアストナージの方へと視線を戻した。
「ねえアストナージ、起動用電源の代わりにそれ使うって言ったよね? …… じゃあもしそのレーザーカートリッジを起動させる為の電源も周囲になかったらどうなンの? もうお手上げ? 」
「結合部の反対側にレーザー起動用の炸薬を点火させる尾栓がある、それを叩いて点火させれば火薬の力で強制的にレーザーを発進させる事は出来る ―― ンじゃないか? あてにはなンねえけどな」
「叩くぅ? 」
「そ。あれで」
 アストナージの目がジェスの視線を導いた先にはモビルスーツのボルトを叩く為の巨大なハンマーが立て掛けられていた。長さにして一メートル強、重さは二十キロほどだろうか。固く喰い込んだボルトを衝撃で緩める為のインパクター代わりに使うのだが大の男でも振り上げるには力がいる、過去にジェスがそれを使っている人を見た事があるのはモウラかアストナージだけだった。きょとんとしてアストナージへと視線を戻したジェスの先で彼は剣道の面うちの要領で空の両手を振り下ろした。
「 ―― ガツンと」

「と、言われた所でこの老いぼれ藪医者にはする事がない。あると言えばせいぜい ―― 」
 そう言いながらモラレスはチェス盤に置かれた黒のナイトを摘まんでゆっくりと前方に置いた。餌に釣られて自軍を飛び出して来た白のクイーンに睨みを利かせるその一手は対面するグレゴリーの巨体を震わせるに十分な妙手だった。
 モビルスーツ隊が訓練の為に警戒態勢を一段上げたという話はとっくの昔にモラレスの耳には入っている、だがそれ以外の部署が現状維持に据え置かれた事で基地内には変な緊張と緩和が生じていた。医療班は当然その緊張の輪の外にあったのだがそれでも余計な事で怪我人が増えるのは好ましくないといつでも治療の体勢を取れる様に全員が待機しており、そこに昼の仕事を終えて休憩に入ったグレゴリーが訪れたという寸法だ。
「うおっ、ドク。それはちょっと ―― 」
「待ったなしじゃ。お前さんは強い駒をぞんざいに扱い過ぎる、クイーンはナイトの援護があって初めて生きる駒なんじゃぞ? それをのこのこポーンに釣られて飛び出して来るから罠にはまる。取られて負けたくなかったらさっさと持ち場に戻っとれ」
 叱責されてクイーンを元の位置へと戻すグレゴリ―、そこへ追い打ちを掛ける様に黒のビショップが前線へと現れる。これで白のクイーンは自軍に釘付けのまま動く事もままならない、むうと唸ったグレゴリーが顔を顰めて次の手を考えている最中にモラレスが尋ねた。
「お前さんの部署も大変じゃのう、慣れない仕事を押しつけられて。子分どもはどうじゃ? 」
「まあ、慣れたと言うか。元々自分は料理をする事には興味があったんで別に艦長にここへ行けって言われた時には抵抗はなかったんですけど、他の連中は苦労したようです。料理って世界はただの力仕事とは訳が違うって」
「力仕事、ね。確かにどでかい鍋釜を縦横無尽に操って基地全員の食事を作るんじゃ、ミサイルや弾を運んで装填するだけって訳にゃいかんじゃろうなぁ」
「ええ、まあ」
 ほんの少し上の空でモラレスの会話に応じたグレゴリーが劣勢の盤面を睨み付ける、事態の打開を図るべくグレゴリーが残ったビショップで打って出た。ポーンの陰に隠れて敵のルークを仕留め、敵陣奥深くから陣形の崩壊を狙った作戦はモラレスの放ったクイーンによって一瞬にして瓦解する。それどころかそのクイーンが自陣の奥深くまで潜り込んで左翼を壊滅させた瞬間に、グレゴリーは両手を膝について頭を下げた。
「ああ、参りました」
 モラレスは涼しい顔で笑いながら手の中の白駒をばらばらと盤の上へと零し、敗者となったグレゴリーは慣例となった後片づけを苦笑しながら始める。クリスタル製のそのチェスセットを一個一個大事そうに箱の中に並べて蓋を閉じて名残惜しそうにじっと視線を落とす。
 実はグレゴリーがチェスを始めたのはモラレスが持っていたそのチェスセットを見たいと思ったのがきっかけだった。今では基地内で五本の指に入る実力者となったグレゴリーも師匠となるモラレスには全然敵わない、勝てばこのチェスセットを貰える約束をしたにも拘らず未だに王手チェックもかけられないままだ。
「お前さんもこりんのう、そんなにこのセットが欲しいのか? 」
「仕事柄、狙った獲物はどうしても逃がしたくないんですよ。ましてやそれが相手の旗艦や宝物となると、もう ―― 」
「意地でも撃ちたくなる、と。そう言う欲深い所は『スルガ』の時から変わらんのう、砲雷長」
 にっこりと笑って差し出されたモラレスの手に駒の入ったビロードの箱を手渡すグレゴリー、モラレスはそれを背後にあるカルテの保管庫に仕舞って鍵を掛けた。
「じゃあ、この続きはまた明日の晩じゃ。今日はぐっすり眠って、明日の為の作戦を無い知恵絞ってじっくりと立てて来い」
 グレゴリーが大きな身体を折り曲げてペコリと頭を下げるとおもむろに立ち上がる、二メートル近い巨体が聳え立った事で出来る影の下で小さなモラレスはフフンと笑った。
「どうせまた、返り打ちじゃ」

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 遅い宵闇があたりをすっかり暗くして世界の輪郭を侵食する、ケルシャ―が覗きこんでいた時計から視線を外すと同時に傍らに立つダンプティは目の前でじっとその時を待つ先任士官に向かって短く告げた。
「作戦開始。イーリオス発動」
 灯火管制の始まった前線基地司令部のテントの中ではモニターの明かりだけを頼りに多くの隊員がリアルタイムの情報に目を光らせている。あらかじめ決められた役割を決められた時間の間は完璧にこなすという旅団のポリシーは闇の中でこそ真価を発揮し、既にオークリー上空で待機している監視衛星からは作戦地域の情報が静的動的要因を含めて着実に収集されつつあった。通信の傍受撹乱、欺瞞手段については複数のシナリオを各機関を通じて手配済み、最も警戒すべき親基地のキャリフォルニアには密かに通信封鎖の柵が張り巡らせてある。
 できる事は全てやった、後はいつものように、いやいつも通り以上に作戦を遂行すれば必ず成功する。ケルシャ―が周囲の状況を一瞥してから隣に立つダンプティに向かって小さく頷く、彼は暗闇の中で白い歯を覗かせながら薄っぺらく笑った。
「俺達もいくぞ、ト―ヴ1」
 意味深な笑いに秘められた言外の指示にケルシャ―は小さく笑って右手を素早く額にかざした。
 
 輸送手段として派遣された全ての機体に火が入り、磁気フェライトで塗りつぶされた黒のツインローターがゆっくりと闇夜へと舞い上がった。ブージャム1率いる地上部隊はオークリーの東側、正門の先にある丘の麓に展開し突入を待つ手筈だ。そしてその小さな機体が闇夜へと消え失せた頃に今回の本命とも言えるひと際大きな影が、両側にある翼代わりのジャイロを慌ただしく作動させた。総数四機、都合八基のローターが唸りを上げると周囲は舞い上がった砂埃で黄色い靄が立ち込める。
 普段はガンペリーを主体とする航空団を用いる事が出来なかった今回の作戦の規模と十機のモビルスーツを投入しての夜間強襲に、旅団はより大型の垂直離着陸輸送機・ファットアンクルを用意した。完全装備のモビルスーツを三機と予備兵装、補給用の弾薬を一気に作戦地域にまで運ぶペイロードを確保する為にジャブローから手配したとっておきの虎の子だ。誘導員マーシャラーが周囲の安全を確認して離陸許可を示す右手を上げると四機は全て同じタイミングで地面からふわりと浮き上がり、一斉に回頭するとまだほんのりと色身の残る西の空を目指して高度を上げる。オークリーの火力を制圧する為に彼らは基地の西側に布陣、ブージャム達の侵入を確認してから行動を開始する事になっていた。
 航空兵力の離陸を見送った後に勢いよく地面をかけ出す幾人かの兵士達は既にエンジンがかかっていた二台の装甲指揮車と観測用の大型望遠を荷台に設置したジープに分乗する。彼らは南側の高台で戦況を把握しながら情報を統制する役割を担い、状況が終了した段階での証拠隠滅手段「ホロゴーブ」を発進させる権限を持っている。最後の一人が飛び乗ってドアを閉めるか閉まらないかの内に三台は勢いよくタイヤを滑らせて、傍の斜面から頂上に続く山道へと飛び込んだ。空中機動部隊は東西に各戦力を降着後に作戦の為の展開を始める、観測員である彼らはそれが完了するまでに所定の位置を確保し基地周辺の状況を確認しなければならない。乾燥した気候で背丈の低い灌木しか生えないその丘を三台は赤いテールランプだけを麓に残して一気呵成に駆けあがって行った。

                                *                                *                                *

「やっぱりここにいたか」
 モウラは整備用モニターの前で彫像のように固まってるニナの背中を見て溜息と苦笑いを洩らした。既に基地は夜間用の照明に変化して整備士たちは第二種待機の為に早々と夕食を取りに出かけ、誰もいないハンガーでただ一人残ったニナは呼びかける周囲の声には全く耳をかさずにじっとモニター画面を走る十六桁の乱数を睨みつけていた。
「ニナ、ちょっと。あんたもういい加減にしないと晩ごはん食べそびれちゃうよ? 」
 背後からのモウラの呼びかけに肩をビクンと震わせて反応したニナはハアッと大きく息を吐いた後にがっくりと肩を落としてコクンと首を振った。
「ん …… わかった」
 ぼんやりと呟くとキーボードの上を華奢な指が跳ねまわり、彼女の手首から先だけが全く別の生き物のように動く様を背後から感心してモウラは眺めた。一流と言うものはその意思に関係なく自在に必要な物が必要なだけ動くと言う、技術者として到達すべき頂点にある者の姿 ―― それは自分にも言える事なのだ ―― を具現化する彼女の力にモウラは今更ながら畏敬の感を拭えない。
 煩雑なシャットダウンのコマンドが終わってモニターはプツッと音を立てて電源を切る、しかしニナはまだ名残惜しそうに何も映さなくなったその黒板を眺めたまま微動だにしない。
「ニナ ―― 」
 大丈夫、という問いかけをモウラが投げかける前にニナは後ろを振り向いてパチパチと二度瞬きをして彼女を見る、まるで初めて見たかのような驚いた顔を披露したニナはうっすらと笑って小首を傾げた。
「あ、何? 」
「なにって、ごはん食べそびれるってあたしの声聞いてなかった? 」
「ご、ごめんなさい。なんか遠くの方から聞こえてた気はするんだけどモウラの声だとは思わなかった …… やだ、ちょっと根詰め過ぎたかしら。まだ目の前でいろんな数字が回ってる」
 目頭を押さえて何かを振り払うかのように小さく頭を振る彼女の姿にモウラは少なからず驚いた。トリントンに降下する前から彼女とはいつも一緒に行動して来たがこんな素振りは一回たりとも見せる事はなかったのだから。
「ちょっとぉ、ほんとに大丈夫なの? 何とかジェスの誕生日に間に合わせようって意気込みは買うけどそんなンじゃあんたの身体が参っちまうよ。だいたい乱数法則の解析なんて軍のコンピューターでもできない事を自分の勘だけでやろうなんて ―― 」
「ま、それにはちょっと私なりの考えがあってね」
 ニナは少し笑うと目頭から指を離して心配顔のモウラを見上げた。
「こんな事話してもだれも信用してくれないだろうけど私ね、実はたまに何の意味もない数字や文字が繋がって見える時があるの。もう頭の中が煮詰まってどうしようもなくなった時に突然何かの拍子にそれが頭の中に浮かびあがって来て、それを順番に打ち込んでいくと自分がどうしても辿り着けなかった解や式がそこに現れたりして。今回もそれに賭けてみたんだけど …… やっぱりだーめ、もう歳ね」
「チョイ待ちっ」
 ビッとモウラが片手を上げてニナの言葉を制した。
「あんたが歳だって言うんならあたしはどうなるんだい? あんたと五つしか変わらない「まだ二十代」のあたしにとっちゃ聞き捨てならない発言だよ? 」
「ち、違う違う。そう意味じゃないわ。私達の様なシステムエンジニアは他の職業に比べて就業期間が異常に短いのよ。アナハイムのラボで働いてる子たちは大体二十歳前後で三十歳まで働いてる人はほんとに稀なの。私の歳でラボにいたならもう主任か係長クラスか ―― そうじゃなければ退職かって事になるわ」
「三十で退職って、あたし達じゃ一番脂の乗り切ったいい歳じゃない? 」
 余りの短さに驚くモウラ。確かに様々なプログラムを書き上げるシステムエンジニアの寿命が短いであろうと言う事は軍の開発部からの噂で耳にはしていた、しかし軍事技術の最先端を行くアナハイムまでもがその様な状況下にあると言う事は経験の蓄積を是とするモウラの眉を顰めさせる。まるで才能を使い潰して成り立っているブラック企業のようなやり方が自分達の根幹を支えていると考えただけでも虫唾が走る。
「でもそれは仕方がない事なの。技術は常に進歩を続けてそれに見合っただけのプログラムは必ず追随しなければならない、そうしないと道具はいつまでたっても人の手に余る凶器になりかねない。私達の仕事はそれを未然に防ぐ為に人が自由に操れるような物を作り上げる手助けをするの。アナハイムのラボが女性を多く使っているのはそういう繊細な気配りをプログラムの中に組み込みやすくするためよ」
「それが追いつかなくなった時に、退職ってわけか」
 いかにも非情な様だがその理屈は正しいとモウラは心の中で頷く。例えば今はモビルスーツの標準装備となっているオートバランサーだがそれを開発したのはかつてニナが所属していたアナハイムのクラブワークスであり、その理由はモビルスーツを操るパイロットのストレス軽減の為だった。多くの歴戦が余りの便利さにその効果を眉唾物で愚痴ってはいたが、今となってはそれなしには教導演習ですら成り立たないほど必要不可欠な物となっている。
 戦争が終わって時代が変わる、そして平和なこの時代に必要な物を生みだす為に消費される才能のどれだけが過去の物となって消えていくのだろう? 今目の前にいるニナ・パープルトンと言う人物もそのうちの一人なのかと思うとモウラは無性に悲しさを覚えた。
「そうねぇ、男の人だったら大体は管理職に上がるか子会社に出向、女の人はもうそれこそ「寿退社」って相場は決まってるわ」
「 …… そっかあ、結婚ねえ」
 腕組みをしたモウラがニナの言葉を受けて真剣に考え込む。彼女自身がその事を今まで意識しなかった訳ではない、むしろその逆だ。広義でニナと同じ技術者の範疇にある整備士も加齢による能力低下と言う運命からは逃れようがなく、ただ彼らは積み重ねた経験から派生するノウハウを小出しにする事で自分達の存在価値を上層部へとアピールする。だがそんな延命が長く続くはずもなく、恐らくはモウラもアストナージも次世代の若い整備士達 ―― それがあの小憎らしいジェスかと思うと反骨心を漲らせてしまうのだが、それでもいつかは取って代わられる運命にある、いやそうならなければならないのだ。
 もしそうなったら自分はどうするのだろう? もちろん先延ばしになっているキースとの結婚が第一選択なのだが、子供の頃からの憧れであるウェディングドレスもバージンロードも今のニナには見せられない。いやそうじゃない、彼女の境遇をだしにして自分は今のこの場所に留まっていたいのだ。恐らく彼と一緒になってからも続けるであろう機械いじりを今の自分から切り離して考える事など思いもよらない。
 眉間に皺を寄せて真剣に考え込むモウラを見上げてニナは少しおどけた様に笑って、小さくハアッと溜息をついた。
「そんなに悩むくらいなら私の事なんか気にしないでいっその事キースと結婚しちゃえばいいのに。こんな所でいつまでも機械相手に格闘してたら、そのうち彼みたいに ―― 」

 顔を見合わせていた二人が同時に表情を変える。しまった、と顔を背けたニナの横顔を見てモウラは目の前にそびえたつドムが来た日に見せた彼女の変貌の正体にようやく気づいた。それを口にする事が本当に正しい事なのだろうかと逡巡する前にモウラの口を吐いて出るキーワードはニナの表情を更に曇らせた。
「 …… あんた、コウに会ったんだね? 」
 まるで電流にでも当たったかのように大きく肩を震わせるニナ、誰にも悟られまいと無理を続けていた彼女の感情の外郭がぱらぱらと小さな音を立てて崩れ始めた様な気がする。
「そっか、あの二人はコウの家に匿われていたって事か。道理で二人ともあの夜の事を何にも言いださない訳だ …… コウは元気だった? 」
 ええ、と答えながらニナは明らかな作り笑いを浮かべて振り返る、その痛々しさにモウラの胸は切なさでいっぱいになった。初心者のクラウンでももうちょっとましな表情で観客を迎えるだろう、ひきつる頬で口角を上げ震える額で眉毛を上げる、でも何よりも感情を露わにする蒼い瞳はいい様のない絶望と諦めに塗れてうるうると濡れている。
「彼は元気だったわ。あの頃と何も変わってない、色が黒くなって髪が少し伸びて身体が一回りも大きくなってたかしら? 相変わらず頑固で意地っ張りで、でもとても優しかった。彼はもう ―― 」
 ポロリと。
 目尻から溢れだした彼女の叫びが頬を伝って膝の上に置いた掌へと零れ落ちる。その先の言葉がどうしても言いだせない、言ってしまえば本当に何か大事な物を完全に失ってしまう様な気がするから。声が出なくなった唇がしきりにもう、もう、と何度も同じ言葉を繰り返し、その度にニナの目尻からは大粒の涙が溢れ出る。自分の心に何度も刃を突き立てながら必死で決意を示そうとして果たせないそのいたたまれなさにモウラは思わず足を踏み出した。椅子に座ったまま捨てられた犬の様に震えるニナの身体をまるで温める様にモウラは彼女に覆いかぶさって強く抱きしめる。
「ニナ、もういい」
 分かってるんだ。どんなに強がってもあんたの気持のその全てが嘘だなんて事は。その事にあんた自身がまだ気が付いていないだけだって言う事も。あたしがキースを忘れる事ができない様にあんただってコウを忘れるなんてできっこない。だってあたしにとってのキースはあたし自身、あんたにとってのコウはあんた自身。
 自分を忘れる事なんて絶対にできる筈がないんだから。
 
 モウラの影から悲鳴のような泣き声が溢れてハンガーに流れ出した。大切な宝物を取り上げられた子供の慟哭がコウの名と共に、固く握りしめられたモウラのつなぎを引き千切らんばかりの凄まじい力が彼女の巨体を大きく揺さぶる。炸裂した絶望の奔流はニナの身体を狂った様にばたつかせ、今にもモウラの手枷を振りほどいて飛び出してしまいそうな勢いだ。モウラは自分の胸の中でもがき苦しむ友人の苦悶を和らげるために何度も何度も呟く事しか出来ない。
「もういい、もういいんだニナ。言えないんなら言わなくてもいい、あたしはあんたが間違ってないって知ってるから」
 幾度その呟きをモウラが繰り返したのか。何度もうちよせた大波がその勢いを失っていく様に彼女の悲鳴が嗚咽へと、そして荒い吐息へと変わっていく。身体に伝わる力が抜けていくのと同時にモウラはニナの身体を繋ぎ止めていた両手の力をそっと緩めて顔の下で震えたままの金の髪をそっと撫でた。
「あんたは ―― 本当に馬鹿だよ」
 優しく降り注ぐモウラの声にニナの肩がピクリと動く、まるで子供でもあやす様にモウラの掌は絶え間なくニナの頭を撫でている。
「世界中のみんながあんたのした事を間違ってるって言っても。世界中のみんながあんたをもし責めたって、あたしだけは絶対にあんたの味方だ。あんたが辛い時には今みたいに必ずあたしが傍にいる、だからあんたは一人ぼっちじゃない。頼っていい相手が必ず傍にいるって事、忘れないで」
「 …… キースも、いっしょに? 」
 子供の様な声で予想外の人物の名、モウラの鼓動が一度大きく高鳴って視線は恥ずかしさのあまり宙を泳ぐ。自分の傍らに彼女が置いてくれた最愛の人の名前に気恥ずかしさと照れくささと嬉しさが同居した複雑な表情のモウラがそこにいた。
「ん、キースも一緒。あたしだけじゃない、あたしたちだ。だからほら」
 モウラの作業着の内ポケットから取り出された真新しいハンカチを受け取ったニナは一しきり両頬を拭ってからためらうことなく鼻をかんだ。その様をやれやれと苦笑しながら見下ろすモウラの目を憚る様に小さく折り畳むと自分のポケットへと押し込む。
「ごめんねモウラ、変な事で心配かけちゃって」
「いいって。それよりあたしは食堂に行くからあんたはもう部屋に戻りな、出前頼んで届けてもらうから。何がいい? 」
「いいわよそんな。あたしも一緒に食堂に ―― 」
「 ―― 鏡がここにあったら今のあんたの顔、見せてやりたいわ」
 真っ赤に腫らした眼で不思議そうに見上げるニナにビッと指を突き付けてモウラは少し怒った様な顔をした。
「そんな顔でみんなの前に出てごらん? オークリー随一のクールビューティー、ニナ・パープルトン技術主任の身に何が起こったのかと野次馬どもに勘繰られるのがオチさ。今晩の所は大人しく部屋に引っ込んで気分切り替えて、また明日いつもの顔でみんなの前に出てくりゃいいジャン? 」
 どうやら自分は今相当に酷い顔になっているらしい、とニナは思わず自分の頬に両手を当てて火照ったままの顔の温度を掌で感じてみる。どうやらその熱量はモウラのいう通りすぐには冷めないものである事を確認した彼女はそっか、と小さく溜息を吐いて目の前でお姉さんぶる友人の顔を見上げた。
「じゃあお願い。ライ麦パンのスライスとレバーペースト、それとヒラメのバジル風味のフリッターとコブサラダ。スープはマンハッタンクラムチャウダーでトマト少なめアサリは多め、オレガノは効かせてね。それとデザートは ―― 」
「あ、や、ちょ、ちょっと待って」
 ニナの口からつらつらと零れ出す料理のリクエストの数々にモウラは面喰った。そんな細かいリクエスト職業メイドかギャリソンしか覚えらンないよと目で訴えながら慌てて手を上げて言葉を遮る。
「あんた一体どんだけ食べるつもり? いつもあたしと一緒に食堂にいる時はトレーに乗っかった分でも全部食べきンないくせに。いくらやけ食いだっつっても食べ物を粗末にするなんて ―― 」
「あら、ちゃんと食べるわよ」
 はあ? と顔中を疑問符だらけにしたモウラにニナは腫れた目で小さくウインクした。
「これでも残すの大変だったのよ、グレゴリーさんのお料理ってすごくおいしいから。でも自分一人で食べれるって言うのならあの罪悪感も感じなくて済むじゃない? 」

                                *                                *                                *

「 …… もう十分来るのが遅かったら部屋に帰る所でしたよ」
 人目をはばかる様に後ろ手でドアを閉めたマークスに向かって椅子に座ったままのチェンが言った。真っ暗な室内を占領する大きな電算機の壁は無数のLEDを点滅させて活動の時を今や遅しと待ち構えている、その中の何個かがチェンの眼鏡に反射して彼の表情を押し隠している。しかし言葉の内容とは裏腹に彼の声には微かな笑いが滲んでいた。
「悪い。準待機のお陰で仮眠所から抜け出すのに手間取った。特に今日の夜勤は隊長だから目を盗むのが厄介で」
「準待機? …… ああ、例の準臨戦態勢の事ですか。一体何でまたそんな命令が? 」
「さて、俺に思い当たる事があるというンならこの前の模擬戦の結果くらいかな? 丸一日同じ相手と戦って一つも勝てないンじゃあ隊長だって俺達に罰ゲームの一つでもやらせたくなるんじゃないか? 巻き添え食らった整備班には気の毒な事をした」
 やるせないと言った表情を浮かべて仮眠所で雑魚寝をしている整備班の不遇を慮るマークスの人の良さに、呆れたようにチェンは笑った。
「連帯責任とは言え中尉もなかなかSなお方ですね、負けた腹いせにそんな手を使うとは」
「ほんとだよ、ただでさえこっちは一昨日のダメージが抜けてないっていうのに。そこへ持って来てあんな狭いカプセルに押し込まれたんじゃあいつまでたっても ―― 」
 一しきり愚痴を続けようとするマークスの声が背中の衝撃で瞬く間に途切れた。慌てて振り返ると背にしたドアがほんの少し開いて彼の背中をぐいぐい押している、開いた隙間から苛立ったアデリアの小さな声が聞える。
「 ―― そこ、じゃま」
 振り返りながら一歩進んだマークスの目の前をまるで猫科のしなやかさでするりと忍び込んで来たアデリアが後ろ手でドアを閉めるとじっと彼を睨みつけた。
「ちょっと何やってンのよぉ。そんなトコにぼさっとつっ立ってて誰かに見つかったらどうすンのよ? 」
 アデリアの抗議に恐縮しながら頭を下げるマークス、階級の差などお構いなしにぶつぶつと苛み続けられるマークスを見かねたチェンがクスリと笑いながら助け船を出した。
「約束の時間に遅れて来たアデリアも悪いと僕は思うけど? そんなんじゃあせっかく誰かの為にかけた身だしなみも台無しになっちゃうンじゃない? 」
「ちょっ、ちょっとチェンっ! あんた何言ってンのよッ!? 」
 微かに香る香水の匂いはマークスには分からなくてもチェンには覚えがある、それは彼女が撮影の時ここぞとばかりに使うお気に入りのアナスイ。「秘密の願いシークレット・ウィッシュ」とはなんとも乙女チックな、とチェンは色々な含みを込めてクスクスと笑った。きょとんとするマークスと殺気だって顔を赤くしたままのアデリアが何かを言いたげに同時に口を開こうとする、それをチェンは笑いながら片手を上げて制した。
「ま、色々と言いたい事はおありでしょうがとにかくここからは本題へと移りましょう。その前にもう一度軍曹にお尋ねします ―― 本当にハッキングをかけても構わないんですね? 」
 しーっと人差し指を唇に当ててアデリアの激昂を制しながら彼女のつけた香水と同じ様に仄かに香る、しかしあまりにも危険な残り香をチェンは言葉の中に漂わせて切れ長の目をマークスへと向ける。声音の穏やかさと裏腹な真剣さにマークスは引き締まった表情で一つ頷くと、背後でやっと頭に上った血の気を収めたアデリアの方をちらりと見た。
「構わない。これは僕自身の個人的な好奇心から来たものだ、アデリアとは何も関係がない ―― 」
「はぁ? ちょっとマークス、あんた何言ってンの? 」
 
 マークスとアデリアは現時点の段階で公には上司と部下、そして僚機の関係だ。軍において採用されている「二人組ツーマンセル」というシステムは互助関係という役割の他に実は「相互監視」の意味を持つ。兵器と言う致死性の道具を扱う兵士には常に高いレベルでの倫理や理性が求められ、しかし「人」と言う不確実な存在がそれを扱う以上絶対的な信頼を寄せると言う訳にはいかない。ゆえに有史以来軍と名のつく集団では必ずこの行動単位が採用されている。
 マークスが何か事を起こしてへまをすればそれは必ずアデリアにも降りかかる、ましてや彼が今やろうとしている事は発覚すれば即軍法会議で有無を言わさぬ重罪が待っているという代物だ。マークスはそれだけは何としてでも避けたいと思い、あえて彼女をこの企みに参加させる事で最悪の場合の予防線を張るつもりだった。
 彼女の行動と反応は自分の立てた予想通り、マークスは何かを決意する様に短く息を吐くとすぐ後ろで予想通りに眉間に皺を寄せて睨みつけているアデリアの方へと向き直った。
「フォス伍長、君はもしこの事が露見したら犯罪の現場へといち早く押し入った第一発見者として当局に名乗り出ろ。そして俺が民間人であるチェンを脅して全ての企みを指示したと報告するんだ。そうすれば少なくとも君とチェンの無実は ―― 」
いやであります軍・曹・殿ネガティブ・サー
 階級と立場を楯にして放った絶対的な命令がアデリアのアッカンベーと言葉によってものの見事に弾き返される。何ともコミカルだが愛らしいその表情にドキリとしながらもマークスは慌てて説得の方針を変更した。
「ま、待てアデリア、頼むからよく聞いてくれ。今俺がやろうとしてる事は最高刑が死刑に値するほどヤバい事なんだ、俺のわがままにつきあって協力してくれる二人には言葉では言い表せないくらいに感謝している。でもだからって全部一蓮托生って訳にはいかないだろ? 」
「 …… ったくあんた、ホントにばか? じゃあ聞くけどさ、もしあんたとあたしの立場が逆で、あたしがあんたにそう言ったらあんたは大人しく従うっての? 」
 軍にとっての常識が二人の間にとっての非常識、ぐうの音も出ないアデリアの批判にマークスは言葉を失った。両手を腰に当ててしかめっ面で睨み上げる彼女と顔をひきつらせてのけぞる彼との立場はこの時点だけを切り取ってみればまるで正反対に見える。
「ほーれ見ろ。自分にできっこない事を人様に向かって強要するんじゃないっての。あんたがあたしの上官で。チェンがあたしの友達で。二人をだしに使ってあたしがのほほんとしてる性格だって言うんならベルファストくんだりからこんな所まで飛ばされてやしないわよ。あんたが身体を張るってンならあたしだってそうする、それが僚機バディだって言ったのあんたじゃなかったっけ? 」
「 ―― どうやら決着はついた様ですね」
 愉快なコントでも見ているかのような笑顔で二人のやりとりを眺めていたチェンの声は驚くほど落ち着いている様に感じる、マークスが振り返ると彼はその結果をさも当然だとばかりに小さく笑った。
「いつもなら理で勝る軍曹がたった一言でいい負かされる、その時点で彼女の勝ちです。ではこの件が発覚した時には運命を共にするという事でよろしいでしょうか? 」
 芝居がかった彼の言葉にマークスは内心首をひねりながらも頷くしかなかった。この時の言葉が後のちに訪れる二人の運命に大きな役割を果たしていると言う事など気づきもせずに。

 チェンはくるりと椅子を廻すと19インチの小さなモニターと向き合って何度か指を曲げ伸ばした。狭い予備電算室はとてもではないが三つも椅子を並べられない通路しかなく、二人は必然的にチェンの両隣りに立ってモニターを眺める事になる。
「ま、僕も軍曹の前で大風呂敷を広げてしまいましたから、ごめんなさい失敗しましたと言う訳にもいかない。出来る限りの段取りを準備していますので何とか最悪のケースだけは避けられる様に努力します」
 エンターキーを叩いた瞬間にモニターへと表示される世界地図、メルカトル表示の地球が何種類かの線描によって彩られている。
「今から世界中の僕の友達ハッカーが一斉にジャブローへのハッキングを開始します。防壁への全周囲攻勢をかける事で件の能力 ―― 見敵抹殺機能サーチアンドデストロイを漸減させて、その隙を突いて僕達は彼らが使用する様々なプロバイダを経由して一気にメインサーバへと侵入します。内部にいられるのは僕の友人達がサンダーバードに全て焼き払われるまでの間、ですがこれだけの人数が殺到すればそれなりの時間が稼げるはずです」
「これだけの人数、って? 」
「特Aクラスがざっと一万人、ウィザード級が約100人弱。犯罪者として指名手配されている連中も全部動員しました」
 平然とした顔で事実を告げるチェンの横顔をぎょっとした顔で見つめるマークス、今しれっとした顔で流したが彼の提案に乗っかってくる人数もさることながらその内容が実にいかがわしい。ネット犯罪を犯して指名手配されている連中と一両日中にコンタクトが交わせるこの民間人は一体どういう素性の持主なのか?
「軍曹の申し出は僕達がそれだけのリスクを背負わないと実現できなかった事だと言う事を御理解下さい、友達の氏素性に関係なく。大丈夫、彼らも素人じゃない。現場を特定される愚は必ず避けるしセフティも考えているでしょう …… 僕達がジャブローから離脱すると同時にサンダーバードの攻勢ウィルスは必ず後を追って来る、だが相当数のサーバーを破壊している間に僕達はまんまと逃げおおせると言う筋書きです」
「それだけの仲間を集めてそんな事を頼める君はいったい ―― 」
「軍に雇われた民間人のオペレーターですよ、それ以上の追及はこの際なしという事で ―― 始まったっ」
 モニターの隅にあるグリニッジ標準時を示す時計が午前零時を表示した瞬間にモニターを埋め尽くす赤い線が一斉にアマゾンへと集中する、余りの勢いに口を閉ざした三人はその成り行きをただひたすら目で追った。
 
                                *                                *                                *

「 ” どういう意味だっ! なぜ俺が後方待機にっ!? ” 」
 夜闇の中で既に配置を終えたWWW小隊は機上待機でのブリーフィングへと移行している。フェライト塗料で染められたケブラーシートの下でダンプティはその男が激昂する声を初めて聞いた。
「意味も何もない、ラース1は中盤で指揮を執る俺の代わりにハンプティの警護と弾着評価を行え」
「 ” ばかな、それがサリナスで仕出かした不始末の処罰かっ!? 俺のポジションは新兵の頃からずっとフロントトップだ、それ以外の事など頼まれてもお断りだっ! ” 」
「 ” 命令不服従かねラース1? それならば君もこの作戦が始まる前に処罰した「彼」の様になるだけだが。もちろん君の代わりは私が勤めよう、あの時も、今も、これからの事も ” 」
 すかさずケルシャ―が二人の会話へと割って入り、穏やかな声で旅団の常識を匂わせる。有無を言わせない無言の圧力と実績がラース1の反抗心を根絶やしにする ―― いや、そうではない。ふつふつと滾る彼の中の何かが毒々しい瘴気を伴って彼らのヘッドセットへと意味不明な音声を垂れ流す。まるで呪詛の様だ、とダンプティは心の中で呟いた。
「 ―― 復唱はどうした、ラース1? 三つ数える間だけ考える時間をやる。 …… ひとつ、ふた ―― 」
「 ” ラース1は命令通り後方で待機 …… ハンプティの警護と弾着評価を行う ” 」
 同時にガツンと固い物を殴打する大きな音が全員のヘッドセットからそれぞれの耳に届く。会話の成り行きを恐らくはらはらしながら聞いていたタリホー1が慌てて通信回路を開いて声をかけようとしたが、その時には既にラース1の通信は自閉モードへと移行していた。声をかける事もできずに ―― だが実際彼に何と声をかければいいのか ―― ただまんじりと真っ暗な夜景を見つめていたタリホー1の目の前でゆっくりとシートが持ち上がる。何十本もの刺が突き立った頭部とゴーグルアイ、サイケデリック・ジムの愛称を持つ黒塗りのクゥエルは辺りをはばかることなくその場で屹立すると右手のアサルトライフルを銃口から地面へと突き刺した。
 まるで誰かの墓標の様に幾何学的なシルエットが闇に残る。頭を垂れて眺めるラース1のクゥエルが意を決したように踵を返すと遥か向こうの丘の上へと顔を向けてゴーグル内に仕込まれた信号灯を点滅させると、同じ様な小さな輝きが二度点滅してすぐに消える。新しい任務を承諾した旨を告げる信号を発信したラース1はそのまま踵を返すととぼとぼと ―― その背中を見送る彼らには本当にそう見えた ―― 闇の中へと消えていった。

「 ” まさかとは思いましたが本当に作戦チームから除外するとは。どういう考えで? ” 」
 すぐ隣に位置して作戦開始の号令を待つト―ヴ1の手がダンプティの機体に触れてお決まりの内緒話が始まる。半ば呆れた様なケルシャ―の声に彼は苦笑いで応えた。
「『ハンプティ』には作戦終了と同時にラース1を破壊しろと既に命じてある。前線に出た奴の背中を撃つのは恐らく困難になる、後方に下げる事で戦意を喪失させ厭戦気分の状態に置いておけば突然の粛清には対処出来ないだろう」
「 ” 貴方はどうも嘘をつくのが昔から苦手なお方だ …… それに強い相手を見つけると敵味方の区別なく手合わせを願いたいと思う所も。なるほど動きの鈍いタンクなら初弾さえ躱す事ができれば彼の勝ちだ、その後戦域から離脱出来ればもしかしたら私達と同じ様に逃げ伸びる事ができるかもしれない。ですが今度は敵として彼と戦場で見える可能性などあまりにも低いとは思われませんか? ” 」
 どうやらお見通しか、とダンプティはククッと笑った。
「人の運命など俺達凡庸に分かる筈がない。あの「少佐」が死んだ事も、俺達が今ここでこうして連邦のモビルスーツに乗っていると言う現実もあの頃には想像だにしなかった。もし奴にそういう運命が用意されていると言うのならそれは必ず実現する、俺達はただその日の為に準備して待っていればいい」
「 ” …… そう言う人のあやを否定する気は毛頭ありませんが、やはりどんな者であれ我々の目的の障害たりえる可能性のある対象は機会を逃さず排除しておくべきでは? 後顧の憂いを絶つ事こそ達成の為には肝要な事かと ” 」
「すまんなケルシャ―、こればかりはどうにも止められん。もし宇宙へ帰って次のフェーズに作戦がシフトしたらその事はゆっくり考える事にする。だがとりあえずは目の前にある課題を一つ一つクリアせねばな」
 ダンプティの言葉に返って来たのはケルシャ―の深い溜息と交信終了を知らせる断絶音だった。機械音だけが微かに響くコックピットの中でダンプティはそっと腕時計へと視線を落とす、作戦開始までの時間を確認しながら彼は束の間の休息を楽しむ為に静かに瞼を閉じた。

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 あまりもの多方面からの攻勢に多分ジャブローの防壁は慌てふためいたのだろう、飽和するアクセス量によって一時的にではあるが排除される味方の数が少なくなったようにマークスには見える。そんな考えを見透かしたかのように今まで画面をじっと見つめていたチェンが椅子に座りなおしてキーボードに指を置いた。
「どうやら頃合いだ、では僕達も行きましょう」
 ジャブローに一番近いプロバイダで待機していた彼らのラインがその声を境に一気にジャブローへと接触する、突然立ち上がった連邦軍データサービスのウインドウが表示された瞬間に彼は恐ろしい速さでパスを打ち込んでエンターを叩いた。acceptの表示が出た事で画面を眺めていた二人はいとも簡単にデータアーカイブへと侵入できた事を知った。
「今のパスは? 」
「僕専用の疑似認証パスです。以前作って置いた『バックドア』の合鍵みたいなもので」
 バックドアという単語にすかさず不審の目を見せるマークス、それもそのはず『バックドア』とは一度侵入したハッカーが再び訪れた時の為に仕掛けて置くウィルスプログラムの様な物。いくらそういう方面に若干疎い彼でもそれくらいは分かる。
「サンダーバードができたきっかけっていうのは実は僕達のせいなんです。一年戦争の頃から軍に隠された戦争の真実を探り出そうって僕達ハッカー連中はありとあらゆる手を使ってジャブローのデータベースへと侵入した、でもその頃は連邦もジオンとの事で手いっぱいでどちらかと言うと僕達は放置されたままでした。兵士が一度の戦いで何千人と死んでいく、そんな物をいちいち処理していたらきりがないってね」
 チェンの突然のカミングアウトにマークスは目を丸くした、しかしアデリアはと言うと以前からその事を知っていたのか平然と聞き流して、チェンの肩越しにじっとモニターを見つめている。
「ですが一年戦争が終わってティターンズが軍の内部に芽吹いた瞬間にサンダーバードは突然データベースの外郭へと出現した。その威力を知らない大勢の僕の友達が逮捕されて今もどこかの刑務所で軟禁されている、生きているのか死んでいるのかも分からない完全隔離の状態で」
 淡々と語っているチェンではあったがその声音に悔しさが滲み出る。その話の後は聞かなくても何となく想像がつく、恐らくチェンの仲間達は彼らの情報を得る為にその攻性防壁へと果敢に挑み、そしてその悉くが敗れ去ったのだろう。「無事に帰ってきた奴は一人もいない」と以前二人に向かってチェンが言ったのはその事を指しての事だとマークスは理解した。
「でもさすがにこれだけの攻撃を受けるとさすがのサンダーバードも防御で手いっぱいらしい、ほんとはもっといろんな手を用意してあったんだけど勝手口が開いてるっていうンなら遠慮なく」
 エンターキーを叩くと画面の中央に立ちあがるウィンドウ、それが個人認証用のパスワードを打ち込む為の物だと言う事は三人とも知っている。自由に使用できるのは尉官以上、ゆえにアデリアもマークスも今の階級ではアクセス権限がない。 
 チェンはすかさずデスクの上にあったメモの走り書きへと視線を落とすと慎重な手つきでそこに書かれてある十桁の数字をテンキーで入力した。アステリスクで隠された数字の数を呟きながら数えた彼は小さく頷いた後にそっとエンターキーを押し込む。
「 …… よしOK、これさえクリアすりゃもうこっちの物です」
 ローディング中を示す小さな円がしばらく動いた後にパアッと明るさを取り戻すモニター、しかしそこに映し出された表示は今までマークスが見た事のある物とは趣を変えていた。真っ白な画面を埋め尽くす濃いブルーの文字列、数字で分類されるカテゴリー別の項目だけでも何十と存在する。
「これがこのデータベース内の大分類。ここからさらに中分類へと別れて小分類ともなるとそれこそ何万ある事か。そしてその小分類の中にただ一つ、レベル5に入るためのフォルダが隠されている」
「ちょっ、何万って。そんな物どうやって見つけるの? 」
「まあ普通じゃ難しいけど、あてがない訳でもない」
 困惑するアデリアにチェンは笑いながら答えると検索のポップアップを選択してそこにある単語を書き込んだ。
「 …… GPシリーズ、って」
「そうです軍曹、あのネットで見つけた小説の中に出てきた仮空の計画です。通称ガンダムプロジェクト、三年前に起こった紛争の発端とされる物。ちなみに今自分の使ったパスはグリーン・ワイアット大将という方が使っていた物で元ルナツー方面軍第二守備艦隊司令だった人物です。認識番号だけが残って対象者は該当なし、こういうケースは何らかの隠蔽される事件に関わって命を落とした人物にありがちな処理のされ方なんです」
 それが架空の話ではない事をアデリアとマークスはもう既に知っている、顔を見合わせた二人は思わずごくりと唾を呑みこんで再び視線を画面へと戻す。
「小説の中に出てきたルナツー方面軍の司令官の名がヴェルデ・ワイヤート大将、今はもう廃れてしまったヨーロッパの一地域で使われていた一言語での彼の人物の読み方です。僕はネットで調べるうちにこの事実にぶつかってあの話が実話であると言う確証を得た、その裏を取るとこの番号が出てきました。そしてあの小説が事実であると言う動かぬ証拠が ―― 」
 言った途端にまたしても画面が変化した。全ての検索手順を飛び越えて彼らは無機質なページへと入り込む、表示されているのは全て八桁の数字ばかり。画面を埋め尽くすその数を見てチェンは呟いた。
「 ―― これです」

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「中の様子はどうだ? 」
 オークリーの正面入り口から少し離れた場所にある窪地の中に身を潜めたブージャム1が傍らで双眼鏡に目を押し当てている部下の肩を叩いた。
「ゲートに歩哨は一人だけ。回りに人の気配なし …… 暢気なもんですね、これで軍の基地とは笑わせる。同業者相手だから少しは期待してましたが拍子抜けだ」
「博物館を管理するのに人数はいらねえ、在籍する陸戦(要員)も大した人数じゃねえしな …… こりゃドイツの方がもっと歯ごたえがあったかな? 」
 腰の鞘からグルカナイフを抜き出して刃を爪に押し当てて切れ味を試すブージャム1、軽く押し当てただけでナイフが動かなくなるのはそれだけ切れ味が鋭い証拠だ。現に彼の親指の爪にはそんな傷が無数に刻まれている。
「帰還率をそれだけ担保される事はありがたいんですがねぇ、いつもとおンなじじゃあ虫を殺すのと変わらねえ。ここは一つ連邦の意地ってやつに期待したい所ですねぇ」
 殺戮作業に対する希望的な観測をタール塗れの顔を歪めながら口にした部下の肩をにんまりと笑いながら小さく叩いた彼は傍に控える先任にそのままの表情で言った。
「OK、糞野郎ども準備はいいか? 俺達は内通者が基地の全電源を消失させた後に敷地内へと侵入する、あの能天気な歩哨は先任、お前の獲物だ。その後隊を二つに分けて二つの宿泊棟へと同時に侵攻、俺と何人かは内通者との交渉の為に管理棟へと向かう」
 くぐもった嗤いが低く当たりの暗闇にこだまする。復唱の代わりが嘲笑である事を暗に容認している所にこの部隊の性格が窺える。
「今回の作戦に目標はねえ、っていうか虱潰しに皆殺しにしていけば面倒な面通しをすることもねえ。絶対に皆殺しだ、ただの一人も明日の朝日を拝ませるなよ、いいか? 」
「 ” 0030を回りました、作戦決行予定時間まであと30分 ” 」
 無線兵のトランシーバーから流れてきた女の声に一斉に口を閉ざす地上部隊の面々、束ねるブージャム1は窪みの壁に背中をもたせ掛けながらふと星が散りばめられた夜空を見上げた。さあ、いつものショータイムはもうすぐだ、彼はじっと目を閉じてこれから殺す何人もの表情 ―― それも今回のターゲットに選ばれた恐ろしく美形な金髪美人が喉から血を噴き出して息絶える様を想像しながら愉悦に顔を歪ませた。

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「これは、また ―― 」
 チェンが絶句するのも無理はない。その画面に広がる膨大な資料の数々、連邦軍発足の準備段階から現在に至るまでのあらゆる極秘資料のファイルがそこにはある。門外不出を運命付けられた連邦の闇、そして隠匿されるべき事実の数々。確かに政事と言う物は清廉潔白なだけでは成立しないと言う事をチェンは商売を通じての経験で知ってはいる、だがそれでもこれだけ数多の資料を目の前にしてみると地球連邦と言う名の国家がどれだけ多くの陰謀の基に成り立っているかと言う事を改めて思い知らされる。
「これだけみると蛇頭(中国の犯罪組織)やマフィアとやってる事は変わりませんね、いや絶対的な権力を持っているという点では彼らよりたちが悪い」
 チェンの言葉にマークスもアデリアも言葉が出ない。自分達が正義と信じた組織の中核にこれほど多くの秘密や汚点が隠れていようとは思わなかった。もちろんここにある全てが犯罪や諸々の悪事に加担した証拠ではないのだろう、しかし声高に宇宙の平和を掲げて秩序を守ろうとする地球連邦の宣伝の影にこの様な闇が隠れている事を全ての人々が知ってしまったら、今ここにある不安定な平和の構造の全てが転覆してしまうかも知れない。それだけの破滅的な力をレベル5と言う情報の地下牢は持っているのだ。
 呆然と画面を眺める三人の間でどれだけの沈黙と時が流れたのだろう、しかしモニターの隅でカウントが続けられる味方の数は既に開戦当初から三分の二にまで漸減している。その現状を見て取ったチェンは気を取り直す様に腰の位置を治すとそっとキーボードの上へと指を置いた。
「さあ、ぐずぐずしてる暇はない、さっさと探して逃げましょう。 …… まずは『PI4キナーゼ・タイプⅣ』からです」



[32711] Laplace's demon
Name: 廣瀬 雀吉◆27b69bea ID:b07dcfae
Date: 2016/01/25 05:38
 聞きなれない音がコウを眠りの縁から現実へと引き戻す。目を開けても変わらぬ暗闇をぼんやりと照らしだす淡い光は傾いだテーブルの上に置かれた携帯から放たれている、コウはうつろな目で枕元の目覚まし時計を取り上げると時間を確認してそのままベッドの上へと放り投げた。
「 …… だれだ、こんな時間に? 」
 明日からはいよいよ本格的な収穫が始まる。一日二日の遅れがもろに品質へと影響するハードレットウィンター種は高値で取引されるがその分リスクと負担も大きい、ましてや自分一人の手で ―― それも機械を使わず全てを行うには他の仲間が想像もできない体力を気力を要するのだ。その為にレトルトではない充実した食事を摂り ―― あれほど嫌いだった人参も全てたいらげた、もちろんはちみつと月桂樹の葉を入れて十分に煮込むと言う調理法に限られるが ―― 早めに床についたのが午後八時を少し回ったところ、いわば最も眠りの深い時期に無理やり起こされてしまった。
 間違い電話だろうと彼の不機嫌な思考は一方的な無視を決め込んだ、しかしその決意を逆なでするかのように携帯の向こうにいる相手は一向に諦めようとはしない。頭に来たコウが腹立ち紛れに起き上がって乱暴に携帯を握り、見知らぬ番号かどうかを確認してから耳にかけて通話スイッチを押すまでそれは続いた。
「 …… はい、ウラキです」
 相手の声を聞いてからやり込めようと身構えたコウの声は不自然に低く小さい。しかし電話の向こうにいる相手はコウの予想を遥かに超える、しかも驚きの余りに目を覚まさざるを得ない一言を静かに告げた。
「 ” はじめまして、コウ・ウラキ「戦時中尉」 ” 」

 噴出したアドレナリンがコウの中に巣食う闇を目覚めさせて時の流れを滞らせる。額から吹き出した冷や汗がこめかみに届く僅かな時間に彼の脳は球が投げ込まれる寸前のルーレットのように激しく回った。何のためらいもなく、しかも確信に満ちた声で以前の自分の階級を語る声の主。それはティターンズ設立初期に在籍した、しかもあの「陰謀」に深く加担した人物に限られるはず。では ―― 
「だれだ、あなたは」
 誰もいない部屋の何かをはばかる様に小さく、しかし威圧する様に低い声で問い質すコウに電話の主は僅かながらそれを愉しむようなそぶりを声に滲ませた。
「 ” 名前など形而上個人を分類する為につけられた記号だ、この際どうでもいいだろう? どうしても私にそれを当てはめたいと言うのなら、そうだな …… 『ディープ・スロート』とでも名乗っておくとしよう ” 」
 ディープ・スロート、それは活動先の組織において要職に就き重要情報を漏えいさせるスパイという意味を持つ暗号名。大昔の巨大国家の一元首を失脚に追い込んだ禁句を事もなげに口にしたその男はまとわりつく様な声でその先を続けた。
「 ” 今日は君の人生に関して重要かつ重大な警告をして差し上げようかと思って電話をした訳だが …… ところで君は本当にコウ・ウラキ戦時中尉本人なのかね? ” 」
「そうだっ、だが今はもう戦時中尉じゃない。ただの予備役伍長だ」
「 ” これは失敬、私の手元には「当時の記録」しかないものでね。だが君の階級とか今の立場には全く興味がないのだよ、今私に必要な物は君があの紛争で残した幻の戦歴が私の目標に対して有益か無益かという事だけでね。現在の所それが比較的有益だと判断したのでとりあえず連絡をさせてもらった ” 」
 寒気のする様な台詞がコウの危機感を募らせる。その口調からは恐らくあの紛争の事実すべてを理解している事が垣間見える、ティターンズの秘密の中でも最大の禁忌を知ってなおその当事者に連絡を取ろうとするこの男の要件とは一体いかなるものなのか?
「用件があるのならさっさと言ってくれっ、こっちは明日から ―― 」
「 ” そうそう、その辺りは ―― オークリー農業特区は収穫の時期だったね。君達の作る小麦は私の所でも心行くまで堪能させてもらっているよ? 何かの才能に秀いでた者が作る作品はそれを手にする者を感動させる、創造者とはこうでなくてはならない ” 」
「俺の過去を詳しく知っているあなたには関係のない話だ、それよりもさっさと要件を言え。それと誰からこの電話番号を聞いたかという事も含めてだ」
 自分の電話番号を知っている者はヘンケンとセシル、そして後は身内の者だけだ。キースやニナ ―― 軍の関係者とみなされる者には一切教える事はできない、基地を離れる際の契約にはその条項も含まれていた。電話の向こうの男はふむ、と溜息交じりに呟き、ほんの少しの沈黙の後に静かに口を開いた。
「 ” ではまず後者の方から。君だけではなく私が必要とする人物の過去や経歴係累も含めてその全てを自在に手に入れる事のできる立場にある者とだけ言っておこう。断っておくが私は軍人ではない ―― ジャミトフやバスクと同列に並べる事だけは勘弁いただこう、あのような下賤な輩と一緒にされたくはないのでね ” 」
 なんと、とコウは自分の耳を疑った。民間人でありながら極秘も含めて欲しいだけの情報をありったけ手に入れられる人物などこの世に果たして存在するのか?
「 ” にわかには信じられないだろうが限られた人間にしか教えていない君の電話にこうしてかけているのがいい証拠だ、納得してもらえないと言うのであれば今から私の手元に集まっている電話番号の数々を声に出して読み上げてみるかね? 君の家族、親戚、友人 ―― ” 」
 コウの苛立ちを挑発するかのように電話口の向こうで男が微かに笑う、しかし苛まれる神経を理性の力で必死に抑えつけようとする彼のタガが外れたのは男の声音がある種の愉悦へと変化を果たした瞬間だった。
「 ” ―― それと「彼女」の電話番号も聞きたいかね? " 」

「貴様っ! ニナに何をするつもりだっ!? 」
 全身が総毛立つほどの怒りに我を忘れたコウが思わず携帯を自分の耳に押し当てる、しかし耳朶に忍び込んでくるその声音には彼の反応すらも愉しんでいる雰囲気がありありと窺えた。
「 ” 私は何もしないよ、私は、ね。 …… ところで今日はその事について君に耳寄りな情報を入手したんだが、興味はあるかね? ” 」
「もったいぶってないでさっさと答えろっ! 貴様一体何を知っているっ!? 」
「 ” せっかちだな、君は。それがあの紛争で連邦に二人しかいない二つ名を与えられたパイロットのする事かね? よくそれであの「ソロモンの悪夢」と遣り合って生き残ったものだ。 …… まあいいだろう、今から私の言う事をよく聞きたまえ ” 」
 男から発せられたその一言がもたらした物はカンカンになった頭からまるで冷や水でも浴びせられたように冷たくなる感覚、初めて宇宙でシーマと戦った時と同じくらいの恐怖がコウの全身を包み込んだ。
「 ” もうすぐオークリー基地が襲撃される ” 」

                        *                        *                        *

 下着の上から羽織った男物のYシャツは自分の手元にたった二つだけ残ったコウの物だ。ベッドの上へと倒れ込んで彼が残したもう一つの方 ―― 起動ディスクを手に取ってそっと襟を立ててすうっと息を吸う。どんなに辛くて苦しい時もいつも自分を慰めてくれた彼の残り香はもうすっかり消えてしまったが、追憶の果てに起こった奇跡が彼女の鼻孔へと懐かしい匂いを蘇らせた。安らぎとときめきを、そして生きる力を私に与え続けてくれた懐かしい彼の匂い。
 だがそれと同時に生まれいずる空しさと切なさが彼女を凍てつく世界へと誘った。もう二度と会えないのだと言う事実と会ってはいけないのだと言う自分の決意、似て非なる二つの現実が織り成す結末は現実味を増して彼女の手では届かない。寒さの原因を追い払うかのように彼女は手の中のディスクをナイトテーブルの上へと静かに置くとそのまま照明のスイッチへと手を伸ばした。一瞬にして包み込む暗闇から逃れる様に足元の肌がけをまくりあげて全身を覆い包む。
 一人で生きていく事を決め、そしてもう慣れたと思い込んでいた。でも違った。
 覚悟も。
 決意も。
 彼を諦めるための何もかもが致命的に足りなかった。そんな事は分かっていたのに気付かないふりを続けていた。
 偶然の出会いは、神様に与えられた罰だった。多くの、償いきれない罪を誰かと分け合おうとした愚かな自分に対する戒め。
 手放す前に気づけばよかったのだ、いなくなる前に話せばよかったのだ。「自分が貴方をこんな風にしてしまった」と。そうすればたとえ結果が同じでも心は慰められたのだ、それを告白した自分の勇気に。一人でそれらを背負って生きていこうとする自らの決意に。
 でも、もう遅い。
 失ってしまったものはもう二度と取り戻せない。なだらかに延々と続く終わりまでの空虚な上り坂をたった一人で、重い手足を引きずりながら登り続けるしかないのだ。
 
 その世界の冷たさがニナの頬を濡らした。耐え切れない辛さが胸を締めつけて固く閉じた唇の隙間から嗚咽となって闇へと零れ出す。夢も、希望も、人が生きていく支えとする大事な物全てが潰えたこの道のりを自分が歩むにはあまりにも辛すぎる。
 モウラも、キースも、アデリアも、マークスも。この基地で私を見守ってくれている大勢の仲間が多分私を支えようとしてくれる。助けると誓ってくれる。でも。
「 …… コウはもうどこにもいない」
 みんなはコウじゃない、彼の代わりにはなれない。引き裂かれたもう一人の自分の姿を思い出そうと瞼の裏に広がる暗い淀みに目を凝らす、しかし彼の姿の代わりに浮かんで来たものは姿ではなくモラレスが部屋を出ていく前にぽつりと告げた一言だった。

 ―― 明日という日が今までで一番いい日にならないと言う保障はなかろう?

 羊を数える様に何度も何度もその言葉を思い出しながらニナは浅い眠りにつく、いつの間にか規則正しくなった彼女の寝息はかけっぱなしの騒々しいエアコンの音に掻き消されてひっそりと部屋の隅へと追いやられた。

                        *                        *                        *

 戦慄の余りに時を忘れる。
 とりとめのない疑問とやり場のない怒りが幾度となくループを繰り返した揚句にコウは電話の向こうの相手がそれ以降一言も言葉を発していない事にやっと気がつく、エイプリルフールに吐く嘘並みにどう考えてもナンセンスなその発言はコウに乾いた笑いしかもたらさなかった。
「そ、そんなばかな。あんた何言ってるんだ? こんな夜更けにそんな与太話をするためにわざわざ電話をかけて来たのか? 人をびっくりさせたいんならもっとましな ―― 」
「 ” 信じる信じないは君の勝手だが私は事実だけを述べている。事実に関してどうこう言う程私は暇じゃないのでね ” 」
 無機質に告げるその声が妙にコウの癇に障った。逆上へとひた走ろうとする感情を総動員した理性で抑え込んでも声音の変化だけは止められない。
「じゃあその事実の根拠は一体何だ? だいたいあんな辺境の基地を攻撃してジオンに何の得がある、秘密兵器も何もないただの補給廠みたいな所なんだぞ」
 捲し立てたコウの勢いに押されたのかそれとも辟易したのか電話口の相手はほんの少しだけ沈黙を守り、しかしコウが息を整える絶好のタイミングで口を開いた。
「 ” …… まず事実を知る者として君の推測と認識に対して修正を加えよう。オークリーを攻撃するのはジオンやアクシズではない、ティターンズが極秘裏に編成した特殊部隊群でバスク・オムを総司令とする傭兵部隊だ。先ごろドイツの山中でMPIの研究所がテロリストに襲撃された事件を知っているかね? 立て篭もったテロリストと偽られた民間人を一方的に虐殺殲滅した彼らが今回の作戦の主役だ ” 」
「ふざけたでまかせを。あんたの言う事が百歩正しいとしても、なぜティターンズが味方を襲わなきゃいけないんだっ! 奴らの目的は一体何だっ!? 」
 コウにたった一つだけ心当たりがあるとするならばそれはデラーズ紛争に関与した人物の抹殺、しかし自分も含めてオークリーにいる四人は軍と交わした契約書のほぼ全ての条項を理不尽に思いながらも順守している。いわば彼らの為に手を貸している人物達を手にかけねばならないほど切迫した事態がティターンズ内部で発生しているのか?
 それともう一つ。それならば優先順位から言っても真っ先に自分が狙われるはずだ。アイランド・イースの中で首謀者の一人であるアナベル・ガトーと会話を交わし、その後にあの陰謀を画策した連中の一人であるバスク・オムへと銃を向けた。オークリーの四人のうち ―― いや、あの紛争で生き残った者の中では最も真実に近い場所に立っているのが自分なのだ。それを差し置いてオークリーへと刃を向けようとしているティターンズの目的とは、一体?
 瞬きするほんの僅かな間に脳内を駆け巡る推理と予測、しかし男から発せられた言葉は未来予測に長けている筈のコウの発想をも上回る物だった。
「 ” オークリーに在籍するニナ・パープルトン技術主任の消去、それが彼らの目的だ ” 」

 ―― 誰を、消去するって?

 頭の中で何度も繰り返す聴き取れなかったと思われるその名前、しかしそれはあぶり出しの文字のように次第に浮かび上がってコウの脳裏へとはっきり焼き付いた。同時に込み上げて来る怒りがコウの表情を一変させて、気配を読み取ったエボニーが急いでベットの下へと潜り込む。
「 ” 表向きでは彼女の拉致が目的なのだが恐らく彼らは彼女を必ず殺すだろう。彼らはオークリー基地ごと彼女を抹殺するつもり ―― ” 」
「ふざけるなっ!! 」
 これ以上こんな奴のたわごとにつき合っていられるか、と眩んだ頭で考えながらコウは通話ボタンへと指を伸ばす。しかし自分の中に隠れていたもう一人の自分の記憶 ―― そんな事が起こる訳がないと思っていた事がある日突然現実の物となった経験を持つ ―― がその指に力が加わる事を頑なに拒んだ。まんじりともせずにはけ口を失った怒りが通話ボタンに触れた指をぶるぶると震わせ、電話口の相手はまるで向かい側でその光景を見て楽しんでいるかのように言った。
「 ” どうやら思い止まったようだね、いや感心感心。 …… もしここで通話が途切れたとしても私の方から君へとかけ直すなどと言う親切はしないつもりだったのだよ。だが君の我慢と好奇心に敬意を表して君のもう一つの勘違いに訂正を加えてあげるとしよう ” 」
 煽るように続ける相手の居丈高な物言いにコウは何も言い返せない、いやむしろ彼はデラーズ紛争が起こる直前の光景を頭の中に思い描いていた。初めてみるペガサス級強襲揚陸艦「アルビオン」の雄姿、搭載されていた二基の試作ガンダム、そしてそれを開発したうら若きシステムエンジニア。突如として始まった非日常の出来事が実は地獄へと続く旅の始まりだったと言う事実。
 この世に起こり得ない事など存在しないと言う絶望という名の貴重な経験。
「 ” もしかしたら今君の頭の中では紛争ぼっ発前日の光景が広がっているのかもしれない。そう、君の認識は正しい。トリントンに運び込まれた試作ガンダム一号機と二号機、そして貯蔵されていた核兵器によって君の基地は敵の標的となった。秘密兵器と言う物 ―― 特に戦局を左右するほどの存在は時として人の運命を大きく変える力を持つ、君には十二分に理解できる事だ ” 」
「じゃあいつそれが持ち込まれたんだっ!? そんな物欲しい奴にノシでもつけてくれてやればいいだろうっ! だいたいそれとニナに何の関係があるっ!? 」
「 ” その秘密兵器は君がオークリーに着任するほんの数か月前に運び込まれた ” 」
 自分が着任する何カ月か前? じゃあ俺は何年もの間それに気づかずにいたって言うのか?
「 ” もちろんその事は私以外 ―― 当の本人にも分かりはしない。だが私の研究を成就する為には是非ともその存在が必要なのだよ。だからこの作戦を進言して今晩実行に移される、彼女を手に入れる為に、ね ” 」
 彼女? ニナの事か?
 自分の研究? 手に入れる? 何の話をしているんだ、この男はっ!? 
「 ” もういくら物分かりの悪い君にも分かっただろう。 …… そう、オークリーがずっと抱え込んでいた秘密兵器、それが「ニナ・パープルトン」その人物なのだよ ” 」

 駆け巡る怒りで頭の回路が焼き切れた気分だ。余りにも突拍子のない男の言葉は逆にコウの頭から熱を追い出して怖気にも似た寒気をもたらした。男の言葉を一つ一つ思い出しながら言葉の整合性を検証してみる、すると不思議な事にニナの名前以外の部分で矛盾する箇所がどこにもない事に気がついた。
「なぜ、彼女が秘密兵器なんだ? 」問い質すコウの声に力はない。男の言葉を現実の物として受け入れた訳ではない、しかし論理が破たんしてない以上はそれが露呈するまで黙って聞くしかない。
「 ” それは彼女が「ニュータイプ」だからだ。それも今まで現出した者とは一線を画する、極めて特殊な類の ” 」

                        *                        *                        *

 検索する度に行く手を遮る無数のポップアップをワイアットの認識番号でやり過ごし、いよいよ三人ともその番号をそらで覚えそうになった頃にやっと目的の場所へと到達した。途中何度か別の階層へと浮上していくつかのフォルダを光ディスクへとダウンロードしたがチェンは「この先どうしても必要なファイルだから」と説明しただけで素知らぬ顔をしている。医療関係に関連する秘密文章だからそう言う物も必要なのかも、と専門家ではない二人は納得して彼の行動を黙って見続けていた。
「さあ、じゃあいよいよ『PI4キナーゼ・タイプⅣ』の秘密とやらに御対面です。用意はいいですか? 」
 浮かれた口調でそう言うとチェンはキーを叩いた。検索画面が消去して新たなポップアップにその結果がファイル名で表示される、もちろん最もマッチ率の高いものが最上部から表示されるのだがマークスはその数の多さに驚いた。薬学関係でこれほど闇へと葬られたものがあるとは思わなかった、一体連邦軍はどれだけ非道な事を設立当時から続けてきたっていうんだ!
「軍曹」
 チェンの静かな声にマークスははっとして握り締めた拳の力を抜いた。
「正義も高潔もここには存在しません。むしろ人が正義を高らかに謳い上げるためにはそれを覆い隠すほどの闇が必要なのです、だから僕はそう言った連中ティターンズが大嫌いなんですけど …… 出ました」
 声に反応した二人がチェンと肩を並べて食い入る様に画面を見つめる、ドキュメントリーダーによって画面に展開されたそのファイルはその全てが文章である事を三人に教えた。
「『LAS患者に於ける脳内活性状況と個体差によるサイコミュ発生比率の頻度検証考察』 …… どうやら医学論文のようです、それも最近の物じゃない」
「どうして分かるの? 」
「今君もこの表紙に何と書いてあるか読めなかっただろ? つまりこれは公用語じゃなくAD世紀にある一民族が使っていた独得の言葉なんだ。付け加えるならジオン公国語の元になった言語、でも宇宙世紀に入ってからは全ての論文が公用語で提出されるようになっているはず。だからこれはAD世紀に書かれたものか、よっぽどその言葉にこだわりを持っている偏屈な研究者が書いたものだと分かる」
 チェンの分析に目を丸くして驚くアデリアを尻目に彼はスクロールバーを下へと動かす、恐らく何百ページもあるその論文を三人が理解する事は絶対に不可能だ。チェンは急いでダウンロードを実行すると一番最後のページまでバーを動かして、そこに記載されている著者の名前を表示した。
「内容に関しては後でドクに聞いてみるとして、今僕達にできる事は誰がこれを書いたかという事だけだ。 …… と、驚いた。今時直筆? 何とも驚きずくめだな。おまけにすっごい癖字だ、全然読めやしない」
「ンじゃあたしの出番だね? まかせて。こういうのは昔ものっすごく字のきたない子がいてね、あたしがずっとその子の答案の翻訳を任されてたんだから」
 片腕をまくりながら待ってましたとばかりに身を乗り出し、目を細めたり大きく開きながら何とか解読しようとするアデリア。「うわ、なんかもう字じゃないじゃん」などとぶつぶつ呟きながら、それでも何とかいくつかのアルファベットを読み取った。
「えーっと、最初が「F」でしょ? んで次が「L」 …… その後なんか波線が三つ続いて「G」、そのあとが「AN」。セカンドネームは「Lom」で間違いないわ。あたしの友達に同じ名前の子がいたもん」
「Fl・・・gan・Lom、てまさか、あの「フラナガン・ロム」博士の事か? ジオンのニュータイプ研究で有名な? 」
 アデリアの解読能力もさることながら自分の口から飛び出してきた意外な人物の名にマークスは驚いた。チェンは読み終えたアデリアと小さなハイタッチを交わしながら再び画面へと向き合って、共著に記載されている人物の名を読んでいる。
「なんとサイコミュの発見者にしてニュータイプ理論研究の先駆けとも言える方がこんな論文を提出していたなんて。それも共同執筆とは驚きだ、少なくとも当時のジオンにはこれに精通した人物が最低二人はいた事になる」
「エルンスト・ハイデリッヒ …… 聞いた事ないなぁ。共著の片方が有名になって片方はその名すら知られていない、そんな事ってあるんだろうか? 」
「そりゃここレベル5に名前が残ってるんだもの、なんか秘密があるんでしょ? でもあたしなんかこの名前、嫌い。だってすっごく気味悪い感じがするんだもの」
 音の響きで好き嫌いを言ってたらこの世の半分は嫌いになるぞ、と嗜めるマークスになによぉ、と言い返すアデリア。二人の小さな口げんかを尻目にダウンロードが完了したディスクを交換したチェンは再び画面へと向き直った。
「はいはい。わかったから痴話げんかはそれくらいにして、時間がないからさっそく次に進もう。 …… アデリア、君の探してる相手は『ヴァシリー・ガザエフ大尉』でいいのかい? 」
 揶揄された事に思わず顔を赤らめて反論しようとした事と、不吉な名前に反応して顔色を曇らせた事とはほぼ同時だった。心細げに小さく頷くアデリアを横目で見ながら、自分にとっての本題はむしろここからだと言い聞かせるマークス。
 明らかにアデリアを狙って来た相手の情報を掴んでおく事が彼女を守るための鍵になる。少なくとも相手の所属する部隊の位置や役割を把握しておく事で今後の対応は立てやすくなるはずだ、少なくともその接点を回避するだけでも結果はおのずと違ってくる。
 しかしマークスの密かな決意は予想外の形で画面へと現れた。さっきまであれほどしつこく立ち塞がってきたパスワード認証もなく、男の経歴は一枚の書類となって三人に差し出されたのだ。それもいかにも物々しい書式や形式ではなく自分達と同じごく普通の形で。
「なんかあっけないなぁ、特殊部隊ってのは探す場所さえ間違えなければこんなに簡単に検索できるものなのか? 」
「いえ、どうやらこれは人事部に保管されているただの経歴書のようです ―― ほら」
 チェンが画面の右上を指差すとそこには閲覧している書類がどこに保管されているかを示す番号が書かれていた。今の今まで見ていたフラナガンの論文は確かに最深下層を示す「5」が表示されていた、だが男の書類が示した数字は「2」。
「レベル2って …… それじゃあ尉官クラスが閲覧できるただのライブラリって事じゃないか。あれだけの騒ぎを引き起こしておいてすぐに隠蔽できる部隊にいる兵士がどうして ―― 」
「 …… なんで、死んでるって ――」
 わなわなと唇を震わせながらアデリアが呟く、マークスの立ち位置からはよく見えなかったがチェンの後ろに立つアデリアからはその薄い色がはっきりと見てとれた。書類の背景に薄らと浮かび上がる「KIA」 ―― 戦死の表示と最後の経歴。「ヴァシリー・ガザエフ大尉はサイド1・ケルン方面のジオン残党との小規模な戦闘において戦死」。
「そんな。 …… チェン、嘘じゃないっ。ほんとにあたしはこの目で見たのよ! 部下を何人も連れた彼があたしとマークスを拉致ってそれで ―― 」
「分かってる、大丈夫だよアデリア。君がそんな嘘をつく筈がないし、それじゃあ軍曹の傷の説明がつかない …… これはもっと厄介な話になってきたぞ」驚く二人とは対照的に、しかしチェンの表情からは笑顔が消えているようにも見える。
「 …… 『傭兵の中の傭兵オブ・ザ・グース』って知ってますか? 」

 正確にはマーセナリ―・オブ・ザ・グース。傭兵の中でも最も高額でやりとりされる連中の事だがその報酬と引き換えに文字通り命がけの過酷な任務に従事する。彼らは敵味方を問わずその痕跡を残さない為に戸籍の全てを抹消 ―― つまり死亡届を提出し、世の中の倫理とは全く外れた世界でただひたすら戦い続ける傭兵の総称である。
 何かの本で読んだ噂話を思い出してマークスはぶるっと身震いした。まさか自分の所属する連邦軍にそんな得体の知れない部隊が存在していたとは思いもよらなかった。特殊部隊の話は色々な基地でたまに耳にはしていたがそのどれもこれも正規に所属する連邦軍の一部隊で、マークスも実際にその中の何人かと会話を交わした経験がある。
「前科身元など全ての来歴を考慮せずに入隊可能で消耗品として働く事だけを目的とする特殊作戦群 ―― 残念ですがその一切のデータは絶対に閲覧される事がありません。あるとしたらそれは恐らくその部隊が本拠地としている基地の金庫に紙媒体で厳重に保管されている筈です」
「紙 …… 手書きってこと? 」
「もしも何かのきっかけで部隊の存在が明るみに出そうになった時のためさ。多分彼らの本拠地の地下には信管付きの核爆弾が実装されてるんじゃないかな」
 あっさりと不気味な事を言い放つチェンとは正反対の表情で青褪めたままじっと画面の男の顔を見つめているアデリア、そんな部隊に所属している男がまた自分の前に現れたらどうすればいい? もし自分を拉致する事がそんな部隊の立てた作戦の一環だったとしたら、その本当の目的って?
「そういう事ならもう大丈夫だアデリア …… そうだな、チェン? 」
 思いつめているアデリアが顔を上げるとそこにはほっとした表情のマークスがいた、そしてチェンもマークスの言葉に笑い顔を取り戻して頷いている。
「サリナスで騒ぎを起こしたのがこの男ならそれは「部隊の存在を明るみにしかねない」勝手な行動になる。そして君を拉致しようとしたのが何らかの作戦の一環だったのだとしたらその作戦は失敗した事になる、じゃあ部隊のお偉いさんはそんな不始末を仕出かした兵隊さんを一体どうするでしょう? 」
 おどけた口調で尋ねて来るチェンの言葉でアデリアはあっと小さく叫んだ。もし彼の所属する部隊がそういう性格の物だったとしたら ―― 。
「良くて終身禁固、悪けりゃ銃殺。それも裁判なしのおまけつきだ。少なくとも君に顔を見られた以上、彼が再び君の前に立つ事はありえないよ ―― まあこれで全てが一件落着、という事で」
 タイミング良く吐き出されたトレイからディスクを摘まみ上げるとチェンはそそくさとケースにしまい込んで画面へと向き直った。既に彼らの援護に回っているハッカーの数は当初の五分の一にまで減少し、しかしその五分の一が一騎当千に近い力の持主たちである事はカウンターの数値が一定のラインでせめぎ合っている事からよく分かる。
「ねえチェン、さっきなんで「厄介な話になってきた」なんて言ったの? 」ふと思い出したようにアデリアが尋ねるとチェンはふっと息をついて、しばらく何かを考えていた。
「 …… 今僕達が潜り込んでいる所はジャブローのデータアーカイブだって知ってるよね? つまりここには連邦軍の勢力が及ぶ範囲全てのデータが保管されている。つまり地球連邦に何らかの関与がある以上、絶対にここにデータがなきゃいけないんだ」
「でもそれって部隊の方針で紙媒体で保管されてるってことでしょ? なら ―― 」
「そうなんだけど実はもう一つ可能性がある。それは ―― 」
「部隊を構成する大本の組織が」二人の会話に割って入ったマークスの口調は重かった。
「 ―― 連邦軍じゃ、ない」

                        *                        *                        *

「 ” 君はあの時、自分の乗った機体に何の疑問も持たなかったのかね? ” 」
 咎める様に突き付けられた質問にコウは答える事ができない。確かにあの紛争の最中でも欠かさず続けていた練兵で自分は歴戦の師であるバニング大尉に勝ちはした、だがそれは彼が盛りを過ぎたパイロットであった事と機体性能に格段の差があった事が要因だ。もし彼の部隊が二つ名を頂いた星一号作戦の時に同じ機体で戦ったとしたら勝敗は目に見えていた。
「 ” 君の戦技レベルがGPシリーズに乗った事で飛躍的に向上した事は認めよう、しかしそれだけであの男に太刀打ちできるほど戦争という物は甘くない。その事は君自身が身にしみて分かっている筈だ ” 」
 得意げに滔々と語る男の声は拒絶しようとするコウの意思をこじ開けて耳朶の奥へと捻じ込まれる。
「 ” 君が今こうして私の言葉に耳を傾けられるのは全てあの機体のおかげだ。そしてその三機の基本コンセプトやオペレーションシステムをたった一人で作り上げたニナ・パープルトン ―― 彼女がいなければ君はとっくの昔に二階級特進を果たしていたと言うわけだ ” 」
「あの機体を作ったのはアナハイムでニナはあの機体を動かすためのプログラムを作っただけだ、一介のシステムエンジニアがソフトプログラムの構築に関わっただけでどうして彼女がニュータイプだといい切れるんだ? 」
 考えた末に唯一残った矛盾点がただそのポイント一つだった。何とか相手の論理を崩壊させようと頭をフル回転して突破口を見出そうと試みたが、辛うじて手にしたその可能性も男の吐いた小さな溜息によって霧散した。
「 ” 今さら君にニュータイプの定義を語ってもしょうがないのだが …… かつてこれを世に送り出したジオン・ダイクンは「お互いに理解し合い、戦争や争いから解放された新しい人類の姿」と彼らの事をごく曖昧に表現した。為政者と言う者は時には民衆を扇動して国と言う組織をまとめ上げなければならないし、その時期は特にサイド3への連邦の干渉が著しい頃だったから彼は反連邦の為の旗印として自分の考える「理想の国民の姿」を皆に求めたのだろう。だから彼自身、まさか本当にそんな能力を持った人間がこの世にあらわれるなどとは思いもよらなかったはずだ ” 」
「ジオンの創始者は …… ニュータイプの存在を知っててその宣言を発したんじゃないって言うのか? 」軍の教科書に書かれていた事実とは明らかに異なる話にコウは思わず喰いついた。
「 ” そもそも君達の知る『ニュータイプ』という人種がダイクンの提唱する者達とは大きく異なるのだよ。だいたい考えてみたまえ、一年戦争の時にその名を上げたジオンのシャア・アズナブルと連邦のアムロ・レイ。彼らが本当にニュータイプだと言うのならなぜ彼らは最後まで敵味方に分かれていたのかね? どうして分かり合えなかったんだね? …… さっき私が言った「今までの者」というのは少し語弊があってね、皆が知っているニュータイプという人種は実はジオンによってでっちあげられた能力者の総称だったりするのだよ ” 」
 なんと、とコウは男の言葉に愕然とした。男が例に挙げた「赤い彗星」と「白い悪魔」は戦場での戦意を左右するほど強大で、戦局に多大な影響を及ぼす二つ名だ。その二人が実はかねてから噂になっていた「ニュータイプ」であると暴露し、しかもそれは偽物だと言う。
「 ” ではお互いに理解し合い、理解し合って戦争から解放される人類とは絶対に実現できないのか? 人である限り神の言葉に書かれたとおりにいつまでも二つに分かれて争わなければならないのか? 私はそうは思わない。今まで大勢の指導者や教祖が声高に謳い上げる人類の平和は地球圏だけではなく人が版図を広げた太陽系全体の願いだ、そしてそれを常に叶えて来たものが「科学」という名の願望器なのだ。―― 彼女はそれを実現するために遂に現れた「ラプラスの悪魔」 ” 」
「ラプラス? あの衛星軌道上に放置されている残骸の事か? 」
「 ” もしかしたら当時の大統領だったリカルド・マーセナスはその意味を知ってあえてそう名付けたのかも知れんがね。…… ラプラスとは西暦の昔に生きていたフランスの科学者の名前だ、彼は数学の分野で様々な功績を残したが決定論者としても名高い。彼はその中でこれから起きるすべての現象はこれまでに起きたことに起因すると考え「ある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性」を持つ者が現れたとしたら未来を予測できるという結論を得た。それが「ラプラスの悪魔」だ ” 」

 狂気と知性が滲み出る男の声と言葉にいつの間にか耳を傾けている自分がいる、コウは戸惑いながらも男の話にもう少し付き合う決心をした。おとぎ話や夢物語の類ではない、リアルな実名と事件を交えて語られる事柄にはなぜか人を惹きつける力がある。紛争直後に全世界へと配信されたバスクのアジテーションやジャミトフの演説よりも。
「 ” もちろん今の彼女が本当にそうだと言う確証はない、ただその片鱗がそこかしこに見受けられると言う事だけでね。たとえばアムロ・レイが乗り込んで連邦を勝利へと導いたとされるかの「RX-78-2」プロト・ガンダムと彼女が考え出した次期後継機とされたGPシリーズではその性能差が段違いだ、単機でモビルアーマーを葬ったり戦域単位で敵を鎮圧する火力装備を発想するなど技術進化という人の理に真っ向から挑戦しているとしか思えない。まだ何者でもない一SEとしての彼女がこの世に送り出した物にそれだけの価値があるのならば、それを「ニュータイプ」と表現する以外のどんな言葉があると言うのか。 …… 特に君を守りたいが為に戦場で彼女が創り上げた「フルバーニアン」と「デンドロビウム」、その二つが残したデータこそが私にそれを確信させる根拠となった ” 」
「もしニナがそういうニュータイプだったとして、じゃあ彼女の命が狙われる理由はなんだ? それだけの貴重な人材ならばなぜ軍は彼女の保護に当たらない? 」
「 ” 私も君と全くの同意見だ。そして保護に当たるように努めてきた、今まではね。 …… だがどういう訳か今回は風向きがやや違う、彼女の存在が彼らにとっては取るに当たらないと判断されたからだろう。戦争を生業とする者達は私から言わせると実に短視的で今すぐ役に立たない人材は必要とはされないらしい、ただ表向きは彼らも働かなくてはならないのでね ” 」
 そんな理由で? 人一人の命を奪う為に ―― 。
「そんな理由でオークリー基地の全員をニナもろとも葬り去るつもりなのかっ!? 」
 そんな理不尽な話があってたまるか、とコウは声を荒げて男へと訴える、しかし帰ってきた男の声には何の動揺も見られなかった。
「 ” そう言ったものに同情や斟酌を与えないのが軍の作戦という物ではないのかね? それは私よりあの紛争で二つ名を得た君の方が詳しいと思うのだが …… ただ一つだけはっきりしている事は私と君の利害が一致していると言う事だ。お互いの思惑はどうであれ願う望みは変わらない、後は君の決断一つに係っているのだよ。コウ・ウラキ中尉 ” 」
「もし俺がここで貴様の申し出を断ったらどうなる? 俺は彼女に振られた男だ、いまさら自分を見限った女の為に命をかけるほど酔狂な男だと思うか? 」
 何の感情も見せずにただ語りかけて来る男の声にコウはいら立ちを隠せず、悔し紛れに電話口へと吐き捨てる。ほんの僅かに漂う沈黙が男の心境に何らかの ―― できれば今までの立場を交換するほどの動揺であってくれればいいと願った ―― 変化を与えたと思ったコウだったが、果たしてその後にコウの耳へと忍び込んで来たのは男の口から零れる忍び笑いだった。
「 ” ―― いや、なるほど。これは予想外だった、どうやらここにある君のデータと今の君とでは大きく違っているらしい。まさか君が彼女や友人を見殺しにできるとは思ってもみなかった。だが ―― ” 」
 明らかに嘲笑が止まって男の声が元の冷静さを取り戻す。まるでコウの心を見透かした様な冷淡さが部屋の温度を下げたようにも感じた。
「 ” 君の期待に添えなくて残念だが私はそれでも構わない。彼女を失う事で減速する人の進化はまたいつの日にか現れるであろう第二の彼女と第二の私の手によって再び元の道へとその足を踏み出すだろう、だが君は失う。 …… 君という存在を今まで支えて続けてくれた、全てを ” 」
 それは必ず帰着する事実であり、紛れもなく訪れる残酷な現実。目の前に突き付けられたほんの僅かな未来の姿にコウは息を呑み、声を失った。
「 ” 私は何も失わない、失う物が大きいのは君の方だ …… もうそろそろ彼らの攻撃が始まる頃だろう、だから私の話はここまでだ。後は君の好きにするといい。だが願わくば君と私の思い描く未来の近似値が共に同じ結果である事をここで祈る事にしよう、頼る神などいないがね ” 」
「 ―― 答えろっ、貴様は誰だ? 」
 振り絞る様に吐き出したと息と共にコウはやっとの思いでその台詞をひねり出す。その瞬間男の声には何らかの期待を滲ませる色彩を含んでいた。
「 ” もし君が彼女の命を守り通す事が出来たとしたらいつかどこかで会う日が来るだろう、自己紹介はその時にでも改めて交わす事にしよう。そして私は君の健闘を心から称えて彼女の身柄を丁重に預からせて貰う事になるだろう、科学と言う名の神が創り上げる新たな未来の為に ―― では ” 」
 まるで何かを確信したかのように断絶した会話の後に残る発信音、コウはその場に立ちすくんだままあの日の光景をその脳裏へと思い浮かべていた。トリントンの周囲で息を潜めていたであろうデラーズのモビルスーツ部隊、そして。
「 …… ガトー」
 アルビオンの格納庫で何食わぬ顔で挨拶を交わした、不倶戴天の好敵手となる男の素顔を。

                        *                        *                        *

 レベル5からの撤収作業は予定通り迅速に行われるはずだった、だがチェンの目は画面の右隅にポツンと置かれたフォルダに釘づけになっている。動きの止まったチェンの仕草を不審に思った二人は彼の視線の先にある離れ小島へと目を向けた。
「なんだ、このフォルダ? どうして整理がされてないんだ? 」
「っていうかフォルダ名が載ってないんだけど。「・・・」って三点リーダーの出来そこないみたいじゃない? 」一種異様な存在感を示すそのフォルダに向かって思い思いの感想を述べる二人を尻目にチェンは一つ頷くと、新たなディスクをセットしてトレイを本体へと押し込んだ。
「お、おいチェン。もう時間がないんじゃないのか? 早くここから抜け出さないと ―― 」
「大丈夫、みんなが頑張ってくれてるお陰でもう少しくらいの余裕はあります。それにダウンロードだけならどれだけ大きなフォルダでも数秒あれば事足りますし、何より僕のカンがこのフォルダーを無視しちゃいけないって呟いてる」
「まーたそんな事言って自分のやってる事ごまかしてる。いろんなとこ忍び込んでこそこそ盗み見ンのはいいンだけどさ、ほどほどにしないと後でこっぴどい目に遭うんだからね? 」
 ガザエフ中尉の件が落着した事で心に余裕ができたのか、アデリアの口調にいつもの調子が戻っている。明るさを取り戻したその声を背中で聞いたチェンがククッと嬉しそうに笑った。
「大丈夫、今までそんなヘマした事ないから。 …… さてと、この他から切り離されているフォルダの中身は、と」
 フォルダの上にカーソルが重なるとすぐさまダウンローダーが起動して中身の転送が始まる、進捗状況を表すゲージの推定時間を見たマークスが思わず呟いた。
「推定15秒って、ずいぶん厚みのあるフォルダだな ―― 」
 そう言いながら湧き上がる好奇心を抑えきれずにチェンの手から離れたままのマウスに指をかける、マークスの言葉についゲージへと目を移していたチェンがはっと気づいた時にはもう遅かった。マークスの指が左側を二度クリックすると同時に彼は叫んだ。
「ダメです、軍曹っ! まだウィルス防壁プロテクターを展開してないっ! 」
 今まで誰も聞いた事がない彼の大声にマークスも、そしてアデリアも全身を固くする、しかしチェンの油断で生じたコンマ何秒かの遅れが手遅れの結末を彼に教えた。弾ける様に画面が閉じると次の瞬間にはけたたましいブザーの合唱と共に敵に発見された事を知らせる「警告」の二文字が赤く点滅する。
「くそっ! 巡回ロボットに見つかったかっ!? 」
 冷や汗が吹き出す二人の真ん中でもう時間の猶予はないとばかりにキーボードへと取り付くチェン、しなやかな彼の指が焦りを伴って暴れるように跳ねまわった。



[32711] Welcome
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:c389eb39
Date: 2020/08/31 05:56
 キーの乱打から紡ぎだされるプログラムは恐らく最強のハッカーの一人であるチェンが考えうる最良かつ最強の対抗策カウンター。しかし彼が今まで積み上げてきた実績と経験を否定するかのように遠く離れた南半球のジャングルの地下で、数多の彼の同胞を葬り去って来た鉄壁のプログラムは構築間際のその策を青いウインドウの画面と共に一瞬で雲散霧消させている。
 息を呑むその攻防が何度も何度も繰り返される景色の中でマークスはふと画面の片隅に小さく置かれた大勢図の数値へと目をやった。処理速度という点に関してはほんのわずかチェン側のスキルに軍配が上がりつつあったがそれは相手がチェンと同等の能力をもったハッカーを何十人も相手取って戦っている事から生ずる利得にすぎない。そしてその優位性は時間の経過とともに徐々に失われつつあるようだ。
「ここいらが限界か」
 肩越しにチラリとサーバーへと目をやってため息交じりにつぶやくチェン、6台置かれたサーバーのうち3台が押し寄せる危機のプレッシャーに対抗するために自律起動を始めている。これ以上電力を消費すると異変に気がついた誰かにログを追いかけられかねない ―― 
“ 足がつくようなへまをするわけにはいかないからなぁ、今回だけは ”
「アデリア、よろしく」チェンが声をかける前に古くから彼を知る友人は行動を起こしていた。髪から抜き取ったヘアピンをトレイの下にある小さな穴に突き刺して強制解放させ、処理済みのディスクをいつの間にか手にしていたディスクと交換して無理やり元の位置へと押し込む。何秒かのローディング音の後に解凍されたプログラムはモニターの隅に幾重ものDOSVウィンドウを立ち上げた。
 プログラム実行、パージ。
 エンターキーを叩くと同時に消え失せるウインドウの束、同時に警報は解除されてモニターは元の静けさを取り戻す。呆気にとられたマークスが気付いた時にはすでにサーバーの一台は電源を自動的に落としていた。

「ふう、どうやらうまく喰いついてくれた」小さくため息をついたチェンは割と落ち着いた風情でアデリアからディスクを受け取るとトレイの物と交換する。
「今 …… 何をしたんだ?」
「今回ジャブローに侵入したプログラムのβ版をマスターとすり替えてパージしました、今頃攻性プログラムは替え玉とも気付かずムシャムシャと」物を食べる仕草を左手で真似ながらチェンは悪戯っぽい笑顔で答えた。「容量もデカイし内容も奴が喰いついた侵入プログラムとほぼ同じ、全部食べきるころには私はデータを持ってそっとおさらばっと」
「でもそのプログラムって今使ってるマスターの元プログラムだろ、そんな大事な物を ―― 」
「そりゃ大事な物ではありますが命と引き換えにできるものじゃない。ここが無事なら ―― 」チェンは自分のこめかみをコツコツと二度叩いた。「何度でも、それ以上の物も作れますから ―― 」
「えーっと、二人で盛り上がってるトコ悪いんだけど」 穏やかになりつつある薄闇にとげを忍ばせるようにくぐもったアデリアの声がした。
「チェン、サーバーから一向に出らンないんだけど」アデリアの細い指が何度もエスケープキーを叩き、それによって変化するはずの画面は微動だにせず。すなわち自分たちはいまだにレベル5の虜になっている事を示していた。

 チェンとマークスから笑顔が消失する、チェンはアデリアから操作を受け取るとウィンドウの上隅にあるXボタンをクリック。しかし画面はフリーズ。
「 ―― くそったれ、『ちょい見ない』間にあざとい知恵付けやがって。出口に外からカンヌキかけるとは小癪なまねを」
 雑な言い回しにマークスが驚き、アデリアがへえ、とチェンの横顔へと視線を送る。ここまで乱暴な物言いをする彼の姿をアデリアはここ何ヶ月かお目にかかっていない。「んじゃ、ここから出られないってこと? 」
 言葉の意味にマークスの背中がぞくっとする。出られないという事はいずれあの貴重なプログラムを喰い尽くした奴がここを突きとめて襲いかかり、同じようにプログラムの解体を始めると言う事。そしてその中にはチェンが不正に取得した彼の大将の認識番号やら経由したサーバーの痕跡やら何やらありとあらゆる指紋や足跡が残っているはず ―― つまりはこのオークリーに連邦軍のMPが大挙して押しかけるのは間違いないという結論だ。
 酸っぱい物をごくりと喉を鳴らして胃の腑へと収め、罪人の持つプレッシャーに押しつぶされまいとしたマークスが思わず口を開きかけるがそれよりも早くチェンはさっきよりも大きなため息を一つついてから、カチャカチャとキーボードを叩いた。
「まさか最後の最後にこの仕掛けとっておきを使うことになるとはねぇ」

 立ち上がったウィンドウは一枚、打ち込まれた10ケタの数字とY/N。チェンがYのキーを押した瞬間にモニターは侵入前のメルカトル地図へと描き変わり、それは三人がジャブローのメインサーバーからの脱出に成功したことを意味した。タネのわからない脱出ショーを目の当たりにして言葉を失うアデリアとマークス、彼らはモビルスーツを扱うという点で決してプログラムの素人ではない。だが熟練のサーファーよろしく危険な波をかいくぐってプカプカとネットの凪へと帰還を果たしたチェンの技を目にしてしまった後では自分たちの技量が子供だましのようにも思える。残ったものは ―― やはり子供じみた、好奇心。
「唯一無二の、バックドア」二人を制してチェンが口を開いた。「今までここを攻略しようとして負けたハッカー達の命懸けの罠です。レゴを組むように少しづつ、敵に気取られないように仕掛けた針の穴のようなプログラム。まさか僕が使う羽目になるとは」
「そんな貴重な物を俺たちのために ―― 」
「奴に勝つためです」かすかに声音を沈ませたチェンの目はじっとモニター上に表示されている大勢図へと注がれている。最後まで彼らを逃がすためにジャブローのサーバーへと攻撃を続けたハッカーは残り5人 ―― 1万人いた腕っこきがあれからの攻撃の間に、たったこれだけ。
「明日のお昼のニュースは多分今晩の事で持ちきりでしょう、『世界中のネット犯罪者、ジャブローを攻撃』っとか何とか。でも僕らが無事に帰りつけさえすればあの『サンダーバード』が無敵じゃない事を証明できる、彼らはそのために危ない橋を渡る事に同意してくれたんです」
 チェンの声にほんの少しの悲壮感がある、しかしマークスはその理由がなんとなくわかる。ここで敗れたチェンの仲間の大勢はこの何日かの間に当局の手で拘束され、そして行き着く所は重大な犯罪者が拘留される連邦軍アンデス刑務所 ―― 通称シャンバラ。
「それにこの無茶にはまだ望みがある。『サンダーバード』が無敵でなくなった理由は攻撃に参加した彼らや捕まっている仲間にしか分からない、もしかしたらそれを解明するために拘束されている仲間も含めて処断されない奴らが出るかもしれない。 ―― 軍曹やアデリアの希望とは別に僕には僕の目標があったんですよ」
「だからと言って君の仲間を大勢犠牲にして得るには、戦果が小さすぎるんじゃないか? レベル5にまで潜ったんだ、もっと連邦軍を告発するために効果的な証拠も握れたはずだろう? 」
 マークスの問いかけに対して返って来たのはチェンのうっすらとした笑みだった。薄闇の中に浮かぶそれは短い付き合いのマークスが寒気を覚えるほどの凄味がある。
 考えてみれば彼にはどこか不思議な気配がある。アデリアの友人とはいえいつも作られたような微笑みを張り付け、いともたやすく人を信用させるその人となり ―― 事実マークスも今回の事で彼を頼った ―― はマークスの危機管理の逆鱗をいつもどこかで逆なでする。加えて第一級犯罪ともいえる国家機密への不正侵入を図るために準備された手筈と世界中に散らばる協力者、そして脱出のために用意された様々な手段。
 ―― たった一人の人間にそれだけの物がこの何日かの間に用意できるものなのか?
「チェン、君は一体」


                       *                       *                     *

「 ”作戦開始まであと5分” 」
 カナル型のイヤホンから忍び込む観測車からの報告。ブージャム1は手にしたグルカナイフククリをそっとシースに収めながらおぞましい笑みを隣の通信兵へと向けた。
「内通者に連絡、パーティーまであと5分。手筈通りに。予定の変更はない」


                       *                       *                     *

「失礼」
 答えの代りに差し出されたのはチェンの右手と短い言葉だった。デスクの上に置かれた彼の携帯は着信を知らせる赤ランプが点滅している、チェンはそれをおもむろに取り上げると周囲をはばかるようにそっと情報ホログラムを展開し、今しがたまで浮かんでいた笑みを封印しながら耳にかけた。
「 …… 僕です、 ―― 5分後?」そう告げたままじっとモニターへと視線を向ける。「わかりました、ええ。 …… そちらも気をつけて」
 通話を終えたチェンの表情が硬い。いつも余裕綽々の笑顔しか見た事のない二人には、その電話の内容が今までに訪れたどの危機よりも深刻な物だという事を言外に察した。
「くそっ、どこのどいつだっ! とんでもないシステム作りやがって! 」眉間に険しいしわを寄せたチェンがデスクの上で両手を思い切り握りしめた。

 固唾を飲んで見守る二人に向かって告げた彼の声には明らかな怒りが混じっている。何が起こったのかは知らない、でもチェンが今どういう立場に置かれたのか、どんな気持なのかという事ははっきりとわかる。
――  これほどのスキルを持つ彼が自分の戦場で、あっさりと敗れたのだ。
「外でモニターしてる僕の友達からです、僕のプログラムに接触した時に、『銛』を打ち込まれました。撒く事は ―― いくつかの手段を除いて多分不可能です」
「5分後って?」アデリアが間髪いれずに問いかける。
「追手が僕の持ち出したデータに噛みつくまでの時間。ダウンロードが終了するかしないか―― 多分ほぼ同時」

 そこからのチェンの作業は多忙を極めた。少しでも時間を稼ぐためにありとあらゆる手段 ―― 帰投ルートを変更してより容量の多い回線を選ぶ、または分岐にデコイを放って敵の走査能力を分散させて速度を削ぐ ―― を試しはしたが一旦紐の付いた目標からよそ眼をくれる輩ではなかった。彼が言うには過積載のトラックが警察のヘリに追いかけられているくらいに深刻な状況なのだと言う。
 逃走を続ける自分たちのデータは青いライン、対して追いかけるサンダーバードの送り狼は赤いライン。いっそのことデータを捨ててはと提案したマークスだったが捨てたところでこの状況が変わらなければただの捨て損だと、いかにも商売人の論理でそれを一蹴するチェン。とはいえ後ろから追いすがる連邦軍の間の手はいよいよ指呼の間に迫りつつある。
 かくなる上はとチェンが実行した手はそれを手もなく眺めている二人の度肝を打つほど凄まじい手段だった。
「こうなったらしょうがない、僕と付き合いのある会社のサーバーを使わせてもらおう。何十社か使えばそれでなんとか少しは引き離せる」
「えっ? でもそんなことしたらその会社 ―― 」 聞きとがめたアデリアが尋ねるとチェンはふっと小さなため息を漏らした。多分その未来は二人の中で同調しているのだろう。
「ハッカー対策の防壁はもちろんあっという間に奴に喰い尽くされる、ベニヤかトタンほどの役に立たなくてもそれで何秒か稼げるなら御の字だ」

 果たして彼らの予想は正嫡を得ていた。世界中の主だった都市にあるアパレルメーカーやIT企業をかけずり回ってなんとか時間を稼ごうとするチェン、追いすがる送り狼の速度は確かにそれぞれの企業のサーバーに侵入したとたんにせき止められたようにもみえる。しかしその変化もつかの間の事にすぎない。自社の権利と極秘資料を決して外部に漏らさないように立ちはだかるその障壁を奴はまるで古代の肉食恐竜よろしくむしり取ってあっという間に咀嚼している。
「この一瞬で、会社の内部情報が、全部、まる裸? 」枯野の野火を思わせる圧倒的な突破力にアデリアは声を詰まらせた。それは声を失ってただモニターを見つめるマークスにしても同じ心境 ―― いや事の提案を持ちかけた当事者としては忸怩たる思いだった。自分の好奇心から始まった些細なミスがまさか世界中の企業の防壁を壊滅させることになるなどとは想像もしなかった。
「あと、一社。 …… 頼むぞ」つぶやきながらチェンが香港にある企業へと一目散に突っ走る。そこから先にもう都市は存在しない、広大な太平洋の海底奥底を突っ走る海底ケーブルが一直線にハワイを経由してキャリフォルニア基地へと続くのみ。純粋な時間との闘いが待っている。
 その会社はチェンが取引をする物の中でも特別なものだった、かすかな期待を込めたつぶやきと共に青いラインはその先端を迷わず南シナ海上へと吸い込まれる。後に続こうとする赤いラインは確かに他の物よりは長くそこにとどまってはいたのだが、チェンの予想よりははるかに短いものだったのだろう、再び動き出すその先端をねめつけながら彼は腹立たしげにつぶやいた。
「 …… ちぇっ、ベルトーチカめ。更新さぼったな。ちょっとは僕の苦労がわかればいいんだ、ったく」

「 …… これでもう打つ手は最後の手段しかありません」椅子の背もたれにドカッと体を預けながらチェンが言った。向けた視線の先 ―― すぐ手が届く所に大きなサーバーの筺体があり、彼はその薄闇にぼんやりと浮かぶ『緊急』と書かれた文字をじっと見つめている。
「みんなの尊い犠牲によってなんとか時間は稼げた、あとは僕たちが正体を眩ませればどうやら助かる」
 この期に及んでどうやって、などと言う野暮な質問はご法度だ。それはチェンの視線の先に目をやった二人にもなんとなく理解できる。「サーバーの電源を落とすだけで大丈夫なのか? 」
「ネットとの電気的接続が遮断されれば自動的に繋がってる紐も切れる、もちろん奴は跡を探してその辺をしばらくの間うろうろはするでしょうが。でもこの基地は地勢状奴のねぐらに比較的近いからすぐに帰り支度を始めるでしょう。そういう意味では連邦軍らしい淡白で傲慢な攻性プログラムだと思います …… まああくまで期待値込みですけど」
「チェン、本当にすまない。俺が余計な好奇心で触ったばかりに ―― 」
「まったくです」しかしマークスの謝罪を受け取るチェンの声には微塵の憤りも感じられない、むしろどこか楽しげなようにアデリアは思う。「いつか今日の恩返しは軍曹自らお返ししていただかないと。商売人から何かを借りるという事はそれなりのリスクを伴うという社会的通念をよく勉強していただきます」
「ねえ、チェン。マークスの事はあたしからも謝るわ、だからあまりひどい事しな ―― 」そこまで告げたアデリアの声がチェンの表情ではたと止まった。薄闇の中で向けられた彼の顔はとても穏やかで、しかもあろうことかウインクまで添付された極上品だ。そしてそれがどういう時に向けられるものかという事をアデリアは長い付き合いの中で知っている。
「 “ こんにゃろ、まさかまた何かあたしがらみでよからぬことを ―― ”  ―― あんたまさか」
「ま、それについてはここを解決してからゆっくりと考えましょう。時間を稼いだと言ってもほんのタッチの差だ。 ―― アデリア、カウントダウンよろしく」
 それはおそらく正しいであろう抗議を遮ってチェンはモニターへと視線を移す。すでに青と赤のラインはほんのわずかの差を残したままキャリフォルニアベースを通過したところだった。

                    *                    *                    *

「 “ 10秒前 ” 」
 声と同時にブージャム1は単眼仕様のスターライトゴーグルを額からずり下す。前回のドイツで使ったIR仕様ではなく周囲の光を増幅して像を捕らえる暗視装置を選択したのは基地の構造から判断したものだった。地下部分がほとんどなく上部構造物には窓が多い、たとえ人が感知できないほどの光でもそれが差し込んでくるのならばガリウム素子を組み込んだこのタイプが最も、人の姿を捉えるのに有効。
 今回の指令はめんどくさくなくてわかりやすい。対象は殺してからでも確認すればそれでいい。
「皆殺しだ」心の声を漏らすようにブージャム1がつぶやき、それに賛同するような忍び笑いが周囲に拡散する。

                    *                    *                    *

「5秒」
 アデリアの緊張。ダウンロードは終了してプログラムは最終処理に入っている。データの大きさから推測するに掛かる時間は多分1・2秒。
「4 …… 3」 処理終了。データをフォルダへと格納と同時にプログラムのシャットダウン。チェンが素早く緊急と書かれたレバーに手をかける。「緊急閉鎖、サーバーダウン」
「2」チェンがレバーを引くと同時にサーバーからは低周波の間の抜けた音が響き、それは点灯していたLEDの輝きと共にすっと小さくなっていく。
「 …… 1 …… ゼロ」真っ暗になった部屋の中にアデリアのかすれた声だけが流れた。

                    *                    *                    *

「 ”コマンド。『イーリオス』スタート、現在GMT0100 ” 」
「始めるぞ」ブージャムの声と共に夜間迷彩をまとった兵士はオークリー正門の正面にあるくぼみから音もなく立ち上がる。だがそこに隠れていると知っている人物が周囲にいたとしてもその姿を容易に見る事はできない。
―― オークリーはそのすべての明かりを失って漆黒の闇夜の中で沈黙した。

                    *                    *                    *

 真っ暗な予備電算室の中で小さなシュアファイヤがぽつりと点灯する。個人装備のそれから放たれる光で無機質に立ち並んだまま沈黙した機械の壁を次々に照らしだしながらアデリアが言った。
「うまく …… いった、の、かナ? 」
「検証はできないけど間にあったとは思う。そうじゃなければ今頃奴に権限を乗っ取られたサーバーが再起動して、こっちのコマンド全無視でわっさわっさと情報を吐き出しているはず ―― 何にせよここはひとまず解散してしばらく様子を窺ったほうがよさそうだ」チェンの提案にこくりとうなずくアデリアとマークス。
「チェン、今日は本当にすまなかった。君の大事な物を何から何まで使い潰させてしまって」神妙な声で頭を下げるマークスにチェンが、いつもの微笑みを浮かべた。
「まあ先行きどうなるかは不安ですが今日のところは無事に帰ってこれたというところで良しとしましょう。それに ―― 」デスクの上に鎮座するタワー型の筺体に目を向けながらチェンは言葉を続けた。「もしかしたら軍曹がパクッたこのデータがとんでもない代物かもしれないという可能性も無きにしも非ずで」
「あのデータが? 」
「レベル5にあったとはいえ仕掛けてあった迎撃システムが大げさすぎる。あんな『絶対殺すマン』な攻性防壁がもし今日みたいになんかの拍子に外部へと漏れたら、それこそ被害は世界中のインターネットへと拡大しかねない ―― 今日の損失はこれでも僕の考えられる最小限だったわけで」
 敵の性能を想定し、可能な限り考えられる最大の対抗策をとった結果が焼け野原。しかしもしこれが何の予備知識もなく民間のネット上へと放出されていたら今頃世界中のオンラインがすべて停止して社会的な空白を生み出す羽目になっていただろう。経済と言う命脈を絶たれた連邦がそれを復旧させるのにどれだけの時間と労力がかかる事か ―― そんな恐ろしい物が軍の最高機密とはいえ誰かが閲覧できる場所に仕掛けられているというのは、万が一にも危険すぎる。
 追いかけてきた敵のポテンシャルに背筋を凍らせながら言葉を失ったマークス、そのあとを引き継いだアデリアは沈滞する空気を吹き払う役を担う事に決めた。
「ま、それもこれもめんどくさい事は明日か明後日に考えましょ。宴もたけなわではございますが今日のところはこれにて中締め、と言う事で」

「えっ、何? 何事? 」予備電算室のドアを開いた、それがアデリアの第一声。夜間点灯している筈の赤色灯が灯っていない廊下 ―― すなわち真っ暗闇の空間を左右に照らしながら彼女は呟く。
「ねえチェン、あんたなんか余計なことやった? 」
「まさか。僕がしたのはただサーバーの電源を落としただけ、これで施設内の電源が全喪失するなんてこたぁない」怪訝な声で答えるチェンの声を背中で受けるマークス。「それにしても非常用の発電所も動いてないってのはどういう事だ? 」

                    *                    *                    *

 暗闇の中で自分の血に身を浸したその兵士は自分が今死んだ事にも気付いてないのだろう、とブージャム1は思う。先鋒を担う彼のククリは音もなく歩哨の兵士の喉笛を真一文字に掻っ切り、晒された喉笛から漏れるヒュウヒュウという呼吸と死の痙攣を体に感じながら彼は獲物からすべての力が失われるわずかなひと時を楽しんだ。
 一線を抜くまでは仕方ない、本当は刺した相手のみっともない死にざまや悲鳴を味わいながら進みたいのだ。しかし今回は今までと違って一応軍の施設、武器もあれば兵士もいる。油断は禁物。ある程度の損耗も視野に入れて慎重に行動しなくては ―― 
 残念、それも俺なりの建前か。
「 ”二手に分かれて展開。合図と同時にそれぞれの建物内に侵入 ―― 全部ぶっ殺せ ” 」ハンドサインで指示を送るブージャム1に操られるかのようにふわりと動き出す黒い影の塊。血に濡れたままのククリを元に収めながら彼は笑ったままの口の端をさらに釣り上げた。

                    *                    *                    *

「じゃあいくわ」そう言ってドアの向こうへと身を躍らせるアデリアに向かってチェンは言った。
「アデリア …… 気をつけて」含んだ声の重みに一抹の不安を感じさせるアデリアの間、しかし彼女は「ん」と答えながら予備電算室の重い扉を静かに閉じた。
 真っ暗になった室内でチェンはデスクの足元をごそごそとまさぐる。そこに隠してあった非常用電源のスイッチを入れるとデスク上の筺体とモニターは電力が供給されたことを示す青いLEDを光らせた。OSを立ち上げて彼はダウンロードしたばかりのファイルを用心深く展開する …… どうやらさっきのアラートセンサーはスタンドアローンの状況では機能しないようだ。
 何個かのコマンド入力でそこの部分だけを引っぺがしてさっさとゴミ箱へと投げ捨てたチェンは筺体のトレーのディスクをより容量の多いDVDへと交換した。閉じた途端にコピー開始を知らせるモーター音がほんの少し明るくなった部屋の中に鳴り響く。
 進捗状況へと視線を向けながら彼は机の上に置きっぱなしだった携帯を手に取った。再び情報ホログラムを展開して何回かのスクロールを繰り返し、お目当ての数字が現れたところでそれをクリック。チェンは相手が出るまでの間に携帯を耳にかけて、静かに席を立った。
「 …… はい、僕です。ええ、ちょっと気になる事が ―― 」入口のドアへと歩を進めるチェンは今までとは全く違う者だった。引きしまった表情と眼鏡の奥に見え隠れする鋭い眼光、もう隠す必要のなくなったその貌をたたえたまま彼はそっと予備電算室のロックを内側から閉じた。



[32711] To the nightmare
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/09/15 20:32
「ファーストフェーズの指揮は2に任せる、二人俺についてこい」配置についていた影がすべて建物の中に吸い込まれたのを見計らってブージャム1が言った。「15分で戻る」
「 “お楽しみそっちのけでどちらへ? ” 」
「 今後の展開を内通者と談判だ、もっとも奴の知らない間に決裂して今は暴力の出番だがな」

                    *                    *                    *

「整備班のだれでもいい、管制塔で調べてみてくれ」
 こんな辺境に急ごしらえで作られた基地なんぞに指令室などと言うこじゃれたものがあるわけがない。ハンガー内の照明が完全に失われた事を知ったキースはすぐさま隣の建物の最上階にある管制室へと人を向かわせて現在の状況を確認しようと試みた。何らかの故障が発生したとしても24時間の稼働が原則である航空管制のシステムまでもがダウンしている事など考えられない、基地内の送電システムに不具合が発生しているのならその箇所は何らかの形で管制室に上がってきている筈だ。
「場所が分かり次第修理の段取りするよ。アストナージは一応ディーゼルの用意、ジェスは電源車をこっちに回しておいて。電源が回復したらマニュアルに沿ってモビルスーツの起動準備」
 暗闇の中でもてきぱきと指示を出すモウラの声はよく通る。暗闇の中をひらひらと踊る懐中電灯の光を追いかけながらキースは仮眠室のデスクに置きっぱなしの携帯へと手を伸ばした。すでに自宅で熟睡しているウェブナーには申し訳ないが少なくとも現状だけは報告しなければ。
 しかしそれに触れるか触れないかの瞬間にキースは異変に気が付き、つまみかけた指先をはたと止める。着信を知らせる赤い点滅 ―― こんな夜中に?
 深夜の着信ほど不気味な物はない。自分の身内に何かよからぬ事でも起こったのかとキースは止まった指をあわてて動かして携帯を摘みあげ、すぐに情報ホログラムを展開 ――
「? 切れた? 何なんだ全く、この忙しい時に」発信主は誰なのかとホログラムを展開する、しかしそこに表示されたのは「非通知設定」という文字だった。間の悪いいたずらに小さく舌打ちしてそのままウェブナーの携帯の番号へと画面をスワイプ ――
「キースっ、まっずい事になったっ! 」あわてて飛び込んでくるモウラの声にキースの指が止まる。 “ うそだろぉ ” という疑問と “ やっぱりか ” という確信。頭の中で今後の展開を目まぐるしく想像しながらモウラから飛び出す次の言葉を無言で待つ。
「管制室の電気もついてないっ、地下の発電所も沈黙 ―― オークリーの全電源喪失っ! 」
「ディーゼルと電源車起動っ、警戒態勢を1へと移行っ! キース中尉から全部署に発令、第一種戦闘配備コンディションレッド。繰り返す、第一種戦闘配備っ! 」

                    *                    *                    *

「何と」
 暗闇の中に仄かに浮かび上がる小さな明かりとかすかに響くサイレンを耳にしたハンプティが最大望遠の双眼鏡を目にしたまま呟いた。額から一筋の汗がこめかみへと垂れていくのは解放されたままのハッチから忍び込んでくる生温かい空気のせいだけではあるまい。
「 “ 電源喪失から戦闘態勢に移行するまでの時間が恐ろしく短い …… 敵の指揮官の決断の速さは連邦軍離れしておりますな ” 」ハンプティのジムの肩に左手を置いて解放されたハッチから同じように様子を見つめていたケルヒャーが言った。
「全くだ。これも想定内だと本当なら言いたいところだが ―― 」そっと汗を拭いながら双眼鏡を顔から外してコックピットへと投げ入れる。「モビルスーツ隊に関しては予想以上に練度が充実していると考えざるを得ないな」
「 “ で …… どうします? ” 」促すようなケルヒャーの声。ダンプティは近未来に間違いなく発生する作戦の不具合にふっと鼻白んだ。
「できる奴ならとっくに他の部署とハンガーを分離して立てこもる準備をしているだろう、ブージャム達が突破できないとは思わないが掃討にモビルスーツが出てくると厄介なことになる」ハッチからシートへと体をずり下げた彼はそのままハッチの開閉ボタンへと手を伸ばす、後に続いてケルヒャーがモビルスーツの左手を肩から外した。
 闇の中で点灯したモニターが赤外線モードで遠い眼下に広がるオークリーの全景を映し出した。集音マイクからは基地から流れるサイレンの音だけ ―― モビルスーツの起動音は、まだ。
「残念だが作戦はセカンドフェーズに移行。地上部隊には悪いが俺たちは予定通り、敵モビルスーツ隊の殲滅を優先する。指令車、ブージャムに状況の説明を頼む ―― 全機コンバットオープン」
 狼煙を上げようとするハンプティに一抹の不安。なぜ敵の対応はこんなに早い? まさかどこかからこの作戦の概要が相手へと漏れていたのでは ――

「 『 あろうはずがないっ! 』 」

「 “ ―― 少佐っ! ” 」

 湧き上がってくる不安を無理やり呑み下してハンプティは言った。

「 『W .W .Wウィー・ウィリー・ウィンキー 』 ―― オンボードっ」

                    *                    *                    *

 明かり取りの天窓の下でコウは手の中の携帯に視線を落したまま微動だにしない。ホログラムは展開したまま、そこに何らかの変化を求めるように注がれる彼の視線をよそに携帯は何の反応も示さないまま、ただそこにいる。
 蚊の鳴くような小さな音が風に運ばれてコウの耳に届く。それがオークリーから発せられたものだと分かった瞬間に彼の表情は苦悶に歪んだ。
『ディープ・スロート』からもたらされた情報の正しさ、そして今あそこで起こりつつある事。命懸けで必死に戦う仲間 ―― そして昔に見たあの光景。怒り、嘆き、
…… そして絶望。
 湧き上がる吐き気に口を押さえながらコウは硬く目を閉じて壊れそうな自我を必死に取り戻そうと足掻いた。瞼の裏に浮かびあがったのはあの夜にここで偶然出会ったニナの顔。驚き、怒り、微笑んだ ―― まぎれもなく自分が心から愛している人の、生。
 それは突然ガラスのようにコウの目の中で砕け散った。言いようのない激痛がコウの体のどこかで弾け、内臓をまるごと押しつぶさんとする強い力が彼の体から大事な何かを奪い去ろうとする。床へと崩れようとする両の膝をコウは、くいしばった歯の間から洩れる息で支えようと試みる。
 必死に思考を巡らせても人を傷つける時にしか役に立たない脳味噌は何の答えも吐き出さない。苛まれたジレンマで全身を小さく震わせ始めた彼は救いを求めて声を振り絞った。
「俺はっ …… 一体どうすればいいんだっ」

                    *                    *                    *

「これは …… ちょっと予想外だな」
 眠っている男の額へと銃弾を撃ち込んだばかりのブージャム2は耳に忍び込んできたか細いサイレンを耳にして思わずつぶやいた。音の発生源は方角から考えて多分モビルスーツハンガーから、音が小さいのはだいたいどこの基地にも用意されているディーゼル発電機の出力が弱いから。
 ―― だが、しかし。
「 ” どちらもまだ全然制圧が完了してないのに、いきなりこれですか ” 」ブージャム2に随伴していた隊員がとっさに、しかしあくまで冷静な態度で静かに部屋の扉をゆっくりと閉じた。死の痙攣でびくつく被害者の足を片手で押さえつけてブージャム2はひっそりと現状を考える。
 軍の基地における非常態勢はそれすなわち全機能の覚醒を意味する。いかに辺境といえども軍の訓練や実戦を積んだ兵士は状況の変化を素早く認識し的確に対応するはずだ ―― 自分達と同じように。つまり隠密行動スニーキングによる宿舎の襲撃と言う手段は多いに封じられたという事だ。まだ予定の三分の一も終えていないというのに。
 室外の状況を確認するためにブージャム2がそっと体をドアに寄せてほんの少しの隙間から廊下の様子を窺う、シーツからぽとぽとと床にしたたる血の音すら煩わしい。明かりのない闇の中で狼狽しながら次々に開かれる宿舎のドア、おっとり刀で飛び出してくる人影。お互いに体をぶつけて罵声を飛ばしながら手探りで出口を求めてさ迷う、哀れな犠牲者の群れ。
 その全てをゴーグルの中に収めつつ、ブージャム2は後ろに控えつ隊員に静かに訪ねた。
「何分たった? 」

「 ―― ほら、誰かさんがあんたをお呼びだ。いいんだぜ、俺にかまわず出てやンなよ」延々と繰り返される呼び出し音と赤い点滅を男の肩越しに眺めながら、下卑た笑いを浮かべたブージャム1はさも嬉しげな口調で言った。「 ―― 出れるモンならな」
 彼の言葉に含まれる二つの理由。一つは自分の前に立っている男が今この時間にここにいる筈がない立場の人間であるという事、そしてもう一つは ―― 男の右わき腹に深く差しこまれたククリから床へと滴り落ちる、血。
「貴様 …… 最初からこうするつもりで」
「耄碌したな、おっさん。うちのお偉いさんがあんたに接触した時にわかンなかったのか? 何の苦労もなくヘラヘラと宇宙を飛び回ってたからだまされている事にも気付かない、能天気だなぁ」
 冷たい痛みで反射的に掴んだブージャム1の手との間から血がこぼれ出してしとしとと靴を濡らし、血だまりの広がりと共に失われる力はブージャム1が次に起こした行動を抑えられない。ぬるりと引き抜かれるククリの刃の上を滑った男の指が二本、ぽとりと床の上へと転がり、その後を追って男の体が床へと崩れ落ちた。広がる鮮血をゴーグルで見下ろしながらブージャム1は満足そうな笑みを浮かべて男の上へとしゃがみこむ。
「あんたが用意したこの基地の詳しい見取り図も、女の写真も。その全部がもう用済みなんだよ。俺たちはこれからその女も含めてこの基地の一切合財を殺し尽して焼きつくす、あんたは自分の部下がこの世から存在ごときれいさっぱりと消える様をここでおとなしく眺めてな。裏切り者にゃあそれがお似合いの末路ってモンだ」
「殺っ …… せっ。いっそひと思いに」
「ああ? 」苦しい息の下からやっと吐き出された男の言葉を耳にしたブージャム1は、小首をかしげて血まみれのククリを机の上に置きっぱなしになっていた基地の青写真でぬぐう。
「やるかよ、ばーか」
 刃の表裏に残る血のりの模様を確かめながらブージャム1は吐き捨てた。「今俺が刺した場所は死ぬにはとーってもいい場所だ。身動きしようとすりゃあそれはそれは気が狂いそうな痛みが走るし刃先でこじった肝静脈からの出血は絶対に止まらねえ。最期しまいにゃスーって意識がなくなって、気がついた時にゃ三途の川の船の上って寸法だ」ククリを鞘に納めてからブージャム1はおもむろに立ち上がった。
「ま、そんな憐れみをかけるなんざ俺の趣味じゃねえがティターンズのためにしっかりと働いてくれたあんたに送る最後の手向けだ、遠慮せずに受け取ってくれ」

 状況の変化は重い扉を通して届く耳障りなサイレンの音ですでに察しはついている。ブージャム1は彼の背後で外部からの敵の侵入に備えていた兵士の耳元でぼそぼそと何かをつぶやき、そそくさと室外へと姿を消した二人の背中を見送ってから横たわったままの男の影へと目を向けた。
「じゃあこのへんで俺たちはお暇するぜ、この後も何かと忙しくなりそうなンでな。ま、せいぜい無駄に長く生きた自分の半生でも振り返りながら死んでくれ」そう言いながらくるりと踵を返して半開きの大きな木製のドアへと足を向けた。
「あばよ、ウェブナー中佐 …… ああ、もうすぐ 『准将』か」

                    *                    *                    *

「だめだっ、全然指令につながらないっ」何度コールしても留守番サービスにすら繋がらない携帯を苛立ちと共に胸のポケットに押し込みながら、キースは仮眠室からハンガーへと飛び出した。非常灯の赤い光にぼんやりと浮かんだ五体のモビルスーツには整備班の手で順次火が入れられている。パイロットスーツに身を包んでヘルメットをひっつかんだマークスとアデリアがハンガーに駆け込んできたのは丁度最後の機体の起動確認が終了した時だった。
「おそいぞ二人ともっ! いつまでぐっすり寝込んでるっ!? 」
「はっ、はいぃっ! 申し訳ありませんっ! 」予想された怒声とあまりの剣幕に急ブレーキをかけた二人が直立不動で敬礼する。二人が駆け付けた時間は規定された標準時間よりもはるかに速かったのだが、基地の最高責任者といまだに連絡の取れないキースの苛立ちを増幅させるには十分だった。
「軍曹と伍長はザクに乗機したまま機体拘束具ガントリーロックを外してその場に待機。マルコとアンドレアは二人の予備機、バスケスは俺の予備のゲルググを使ってくれ」
「隊長、状況は ―― 」
「まだ分からん」マークスの問いかけに短く答えるキース、険しい表情はしているが声は冷静そのものだ。「現状としては基地の全電源喪失。しかし何らかの要因か工作でもない限りこれはあり得ない事だ。現在モビルスーツ隊は他の部署との行き来を物理的に遮断して第一種戦闘配備へと移行、事態の収束が計られるまで常時戦闘状態を継続する」
 キースの言葉でそこに立つ全員の顔色が変わった。訓練でもなく演習でもない、自分達の所属しているこの基地が前線から最も遠くに位置しているなどと言う言い訳は敵の前では通用しない。もし戦闘が始まれば相手との命のやり取りを否が応でも強制されるのだ。
「あー中尉、ちょっといいか? 」キースの予備機に乗ることが決まったバスケスが遠慮がちに右手を上げた。彼は一年戦争時に陸軍に在籍した古参兵でジオンが地球に降下した日からオデッサまでを身一つで戦い続けた強兵つわものだ、全身に残る大小の傷は数え切れないほどで顎に刻まれた傷を隠すためにうっすらと髭をたくわえている。多分キースよりも多くの絶望を味わったであろうその男は培った度胸と平常心を声に乗せた。
「緊急事態なのは分かるが俺やマルコやアンドレアはしょせん警備やら陸戦隊の人間だ、モビルスーツの操縦には慣れてねえ。用心のためって言うんなら予備役名簿のパイロット連中に連絡つけたほうがいいんじゃねえか? 」
 何を焦っているんだと言外に問いかけるバスケスにキースはシューティンググラスの奥の険しい瞳を向けた。
 用心のため? 

―― 冗談じゃないっ! ベイト大尉が書いたあの紙を見つけた瞬間からとっくに戦闘は始まってるっ! ジオンはとっくの昔にここへと狙いを定めていた、あの日の悪夢を俺の前で再現するためにっ!
 奴らがなぜここを狙うかは分からない、だがもし戦うためのきっかけがこの状況だとしたら ―― 誰かを呼んでいる暇なんか、もうない。

                    *                    *                    *

 自分の裏切りを嘲笑うあの男の声が途切れてからどの位経つのだろう、それは遠い昔の事の様にも思えるしつい今しがたの事の様にも思える。投げ出されたままの左手首で鈍く光るルミノールへと目を凝らす ―― 奴が出て行ってからほんの2・3分しか経っていない。
 床に広がる血の海をウェブナーはキャビネットまで泳ごうと試みるが、奴の言うとおり手足をほんの少しでも動かしただけで意識を断ち切らんばかりの激痛が体の芯で炸裂した。放たれる苦悶は吐き出される血の塊がとってかわる。
 20センチ足らずのその距離が今の彼には絶望的に遠い、眩む頭と霞む目がその気持ちに拍車をかける。少しづつ血が ―― 命が減っているのがわかる。
 だがヘンケンの傍らで常に戦火の真っただ中をかいくぐった彼にはどうしても譲れないものがあった。襲いかかってくるビームの束に直面して艦が削られていく時にした覚悟、ヘンケンやセシルと共に地球へと降り立ち自由な世界を奪おうとするティターンズを打倒するためにかわした誓い。
 蔑まれた屈辱と自らに刻まれた矜持がウェブナーに力を与える。激痛を凌駕する渾身の力で、何度も肘を血で滑らせながら彼は彼方の目標と捕らえたキャビネットへとなんとかたどり着いた。荒い息で何度もせき込みながら中の小さな扉を開くとそこには小さなキーが刺さった箱が仕込まれている。
 基地施設内の全電源を開閉するためのコントロールボックスだった。
 霞む視界と足りない指が突き出た金属をしっかりとつかみ、残った力の全てをその一点に注ぎこむ。

 連邦軍基地の電源を一元管理するシステムは任命された基地司令に与えられる特権の一つであり、どの基地にも例外なく設置されるそれは有事の際に一切のデータリンクを遮断する為に与えられた封印の鍵だ。全電源を喪失する事で外部からの有線通信そして基地のデータサーバーから送信されるリアルタイムの情報を最寄りの基地に転送する事を拒絶する、いわば万が一基地を占領された時にそこからジャブローへとウィルスを流し込まれない為の防護措置の為に作られた門番ゲートキーパーともいえる。
 閉じてしまいそうな景色の裏でウェブナーは歴戦故の経験から敵の装備を観察分析していた。個人装備・携行武器ともただの陸戦隊とはけた違い、基地の中でも比較的安全な奥にある司令官室まで何の騒ぎも起こさずに現れた機動力。
 影と見紛う隠密性 ―― 特殊任務を請け負う兵士として、完璧。
 だが。
 その暗視装置だけが貴様達唯一のおごりだ。

 地下4階にある変電所が再起動を始めた。外部から供給される正・副の電源ラインを復旧させた後に緊急用の発電機がアーク放電をまき散らしながら冷却用の送風ファンを回す。それぞれの電力低格が基準値を満たした事を確認したコントロールボックスは次に行わなければいけない安全確認用のプログラムを実行する。
 それは強制通電による全施設内のあらゆる電気設備の起動。

                    *                    *                    *

 ガコンと音を立てて元に戻るレバーの音に驚きながらチェンは息を潜めていたサーバーを見上げた。予備電算室の明かりが突然ともり6台のサーバーが間の抜けた音を立てて再起動を始め、デスクの上のモニターは今現在何が行われているかの情報を短い言葉で表示する。
「 …… 検査プログラムが起動しました。ええ …… 多分。来るならできるだけ早いほうが ―― 」

                    *                    *                    *

「! 全員ゴーグル外せっ! 」状況の異変に気付いたブージャム2が慌てて告げた時にはもう遅かった。イヤホンに届く何人かの兵士の短い悲鳴はゴーグルから侵入した光が何十倍にも増幅されて網膜を焼いた事に起因する。迂闊だと臍を噛んでバディに向かってシッと指を立てる彼はLEDの輝きで露わになった相手を一瞥して小さく舌打ちした。闇の中では無類の強さを発揮する夜間迷彩もこれでは。
「 ―― ちっ、きっちり止めを刺してくりゃよかったか? 」
 同じように舌打ちして気楽に部屋へと踏み込むブージャム1はサプレッサーから硝煙が漂う銃をホルスターに差し込んだ。「おとなしくしてりゃあまだ可愛げがあるのになぁ」
 この期に及んで損害を調べる野暮は無用、使えない奴は切り捨てる。多分隠密行動による基地要員の殲滅は難しくなった。 ―― とすれば。
「しゃあねえ、こうなったら仕切り直しだ。作戦をプランBゴリ押しに変更、一気にここと隣を制圧して橋頭保にする ―― 」ブージャム1が命令するなり自分達の物とは違う鮮やかな銃声が耳に届く。
「どうしてどうして」歪んだ性格を持つ者が弱者をいたぶるする時に浮かべる醜い笑いが彼の顔に貼りついた。
「敵もやる気マンマンじゃねえの。これはこれで楽しくなってきやがったなぁ、おい」

                    *                    *                     *

 突然点いた明かりで何人かが目をやられ、その救助に向かった幾人かの兵士と異変に驚いた敵が廊下で出くわしたことが事のきっかけだった。建物内での遭遇戦という状況は当然訓練という形で十二分に体に叩き込まれているつもりだったが、こと実戦においてはその経験値が不足していた。理由は分かっている、自分達と同じような訓練を積んで武器を手にした相手と五分の状況で対峙した事がないからだ。
 廊下に飛び出したうっかり者の何人かを無造作に撃ち殺したところまでは予想通りの展開だ、しかし今までなら予期せぬ加害者の出現に怯えて逃げ惑うであろう被害者達は寸暇を待たずに雑な防御態勢で自分達の侵攻に対して明らかな抵抗の意思を表した。
「どういう事だ、奴らずぶの素人じゃねえ」
 見せつけられる鮮やかな手際に毒づく別働隊の面々。それもそのはず彼らが侵入した建物は警備隊の宿舎であり、そして対峙している相手は一年戦争で最も甚大な被害を被った陸戦隊の訳あり連中だったのだ。目の前で仲間が撃たれて死んだ姿を見た彼らは今までの経験から状況を脊髄反射で判断し、すぐさま寝所に持ちこんでいた ―― それは明確な規律違反だ ―― 個人携行の小火器で反撃を始める。扉を開いてベッドを立てかけてバリケードを築き、おまけにツーマンセルのコンビネーションを駆使しながら徐々に建物外への撤退を試みようとしていた。
 威嚇と言うにはあまりにも精度の高い射撃に顔を出すことすらままならない、しかしこのまま敵をすべて逃がすわけにもいかない。何より一方的に蹂躙するはずの相手から強烈な平手打ちを食らった部隊の動揺は士気の低下を伴って隅々にまで浸透しつつある。隊員の損失は確認しているだけで8人 ―― 約1割だ。作戦遂行能力に支障はないが現状を打破するにはいささか数が足りない、それに多分多くの生き残りが別の棟へと逃げ伸びてさらに強力な反撃態勢を整えてくるだろう。そうなると地上部隊が『絶対』に達成しなければならない目的を完遂する難易度は、上がる。
 部隊のそばを掠める拳銃弾の高音に首をすくめながら別働隊の指揮官はある決断に迫られた。このまま敵の弾切れを待っていたところで結果は同じ、敵がいなくなればこの建物はブージャム1の命令どおりに橋頭保に使えるのだがむざむざと逃がした事への処罰は ―― 自分の命で償う事になるかもしれない。そういう男だ、奴は。
 どうすれば、いい? 派手好きの奴の溜飲が下がる、自分の損失を最小限に抑えるための最もいいアイデアは?

 意を決した男は喉に貼りけられた咽頭ストローマイクに指を押しあてた。
「3から1に要請、現在敵火力と交戦中。撤退する敵の足止めのための重砲支援を許可願います」
        
                    *                    *                      *

「あれ? 明かりがつきやがった」上を向いたアストナージの間の抜けた声に各々が天井を見上げると夜間照明の赤色を今にも侵食しそうな勢いで水銀灯が熱を入れ始めている。
「なんで?消灯時間はとっくに過ぎてンのに普通の照明が点くなんて今までそんな事あったっけ? 」強くなり始める光に目を細めながら不思議そうにアデリアが呟く、それは隣に立つマークスやマルコも同じ感想だった。時間に対する軍の規律は民間とは比べようもないくらいに厳しく、しかも正確を極める。やっつけ仕事で立てられた忘却博物館といえどもそれは他の基地とは変わらないはずだ。
 少しずつ広がり始めるざわめきと安堵をよそにキースは自分の足元で少しづつ濃くなる自分の影を睨みつけている。
「 ―― やばいな、こりゃ。」
 バスケスの言葉に反応して顔を上げたキースの大声がハンガー中に響き渡る。
「モウラっ! 管制塔に行った二人をすぐに呼び戻せっ! ハンガーの照明は全部消せっ! モビルスーツ各員はただちに搭乗して出撃準備、すぐに敵の攻撃が ―― 」

                    *                     *                     *

 夜のしじまをざわめかせる重い波。遠くで開戦を告げる鐘の音に似たそれは彼の記憶の中にもはっきりとあった。コウは手にしたままの携帯を何かに縋るかのようにギュッと握りしめる。
「120ミリキャノン …… ちくしょうっ、あの日と同じかっ! 」




[32711] Vigilante
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/09/27 20:09
「 “ ねえ …… ” 」ヘッドセットから聞こえるアデリアの声にマークスははっとなった。
「 “ あんた、怖くないの? ” 」

                    *                     *                      *

 キースの声をしのぐ大音声が頭上で炸裂したとたんにハンガーの床が大きく揺さぶられ、連邦規格の耐爆仕様を誇るハンガーの天井には大小のコンクリートの破片が降り注いだ。あまりの出来事に一瞬思考が停止した五人だったがかえってそれが功を奏したのか次の行動には躊躇がなかった。脱兎のごとく駆け出した彼らの足はそれぞれが受け持つモビルスーツの下へ、通常照明はすでに落とされて赤い光だけになった景色の中をただひたすらに駆けていく。
「モウラ、被害はっ!? 」
「敵の砲弾が管制塔を直撃、上がってたドーソンとディックはあんたのおかげで間一髪間に合ったっ! 」
「 ! 目と耳をもっていかれたかっ! 」搭乗用のバケットに足をかけながらモウラの報告を聞いたキースは過去の苦い記憶との類似点に思わず舌打ちした。あのトリントン時も強襲の初期段階で司令部が敵重砲によって沈黙させられ、レーダー誘導を失いアルビオンとの連携もちぐはぐなまま出撃した守備隊はたった三機のモビルスーツになすすべもなく蹂躙された。そのキルレートは ―― 15対1。
「 “ あの時はバニング大尉がいた、アルビオンもあった。 …… 今は、俺か ” 」

 軍のテストパイロットという職業は誠実という言葉とは全く無縁だった。来る日も来る日も仕事明けには街に繰り出して気の合う仲間や女子との合コン、訓練は厳しいが見返りは大いに期待できるというのがキースの現実であるはずだった。
 しかしガトーのガンダム二号機強奪という連邦始まって以来の不祥事は彼の日常を非現実な物へと変えた。はるか彼方より放たれた対地クラスターによって火の海と化すトリントン、阿鼻叫喚で埋め尽くされる昨日まで平和だった我が家。
 そして敵のヒートサーベルで出会いがしらに両断される、カークス。
 早く覚めてくれと必死に願いながら炎の柱をかき分けて、それでも突きつけられた悲惨な現実に自分の運命を疑い。二号機の追撃戦で機体は大破しながらも敵を仕留めて生き延びた幸運に胸をなでおろしたのもつかの間、コウの決意に引っ張られて乗り込んだアルビオンでの死闘。
 生き残るにふさわしい決心も、野心も、希望も。もしかしたら自分よりふさわしい者がいたのかもしれない、しかしそれらを持ち合わせていたであろう大勢の屍の上で自分は生き残った。
 何のために?

 繰り返される自問自答も、そのたびに沸き起こる煩悶もあの日の宇宙に置いてきた。自分の使命は ―― あの時の大尉と同じように部下を生き延びられるようにすることだ。決して予期していたわけじゃない、期待していたわけじゃない。ただこの世に生きる何億何十億という人の中にはそういう貧乏くじを必ずといってもいいほど引き当ててしまう人種もいるという事だ。そうなってからでは遅すぎる、そうならないようにするのではない。
 そうなってからどうするか。生と死の境い目はきっとそこにある。
「全員武器を装備しろ、主兵装プライマリーはマシンガン、副兵装セカンダリーはヒートサーベルだ。弾倉をありったけハードポイントに取り付けたらハンガー前に集合、急げっ」
 モウラにハーネスを手伝ってもらいながらキースはあの日のバニングを思い出しながら強い口調で言った。

                    *                    *                        *

 何と答えればいいのだろう。
 声を震わせながら尋ねてくるアデリアの声にマークスは言葉をためらった。見栄を張ったり強がったりは誰でもできる、むしろそうするのがほとんどだとマークスは知っている。何度も何度もジオンの残党の前へと追い立てられ、敵に喰われてしまった仲間は必ずと言っていいほど。
 使い捨ての駒、上官の盾。平和が訪れた世界にやって来た時代遅れの新兵など最前線ではお荷物でしかない、壊滅認定以上の損害を被った戦いでも自分が生き残った理由はいまだにわからない。ただあいつらの思う通りには絶対になるまいと無我夢中で戦場を駆け巡った末に手にした幸運だった。
「俺は …… これが初陣じゃないからな」
「 “ そう …… 初めての戦争ってどんなだった? ” 」
「ナメてかかって飛び出して、気がついたら敵に囲まれてて …… そこから先はよく覚えてない。医務室のベッドで俺を含めた先遣隊のほとんどが壊滅したって聞かされたのが次の記憶だ」
 寄せ集めの新兵の群れに協調性などあるはずがない、しかしチームとして行動する以上必要最低限のつながりは必要だった。奇異の目で見られながらも互いに命を預ける仲間として話をし、時には笑い、そして死んでいった。
 ジオンの残党 ―― すなわち熟練兵。技量に劣る連邦の陸軍パイロットが彼らを落とすためには的となる生贄が必要、働く場所がなくなったマークス達新兵はいつも軍の命令という建前でそうやってかき集められてはその役目を押しつけられて ―― 本人達には知らされないまま敵の眼前へと放り出されていったのだ。
 だから今オークリーを襲撃しようとしている敵の強さはよくわかる。怖気づきそうなほど、痛いほど。
「大丈夫だ、アデリア」
「 “ えっ? ” 」

「 “ 励ましじゃない、客観的な事実だ ” 」
 ヘッドセットから聞こえるマークスの声は穏やかだった。アデリアの手の震えがそれで、止まった。
「 “ あの演習で一番最初にエースを落としたのはお前だ、いろんな所でジオンの残党と戦ってきた俺だからわかる ―― お前は強い ” 」
「でもそれは模擬戦の演習だったから ―― 」
「 “ だからモンシア大尉たちは手加減していたか? 俺にはそうは見えなかった、知る限りでは完全に実戦モードだ。多分隊長たちがそうお願いしたんだろう ” 」
 彼女に残るあの時のイメージ。脚部油圧の強制カットによって繰り出された水面蹴り、仰向けにひっくりかえったゲルググのコクピットブロックに模擬刀の先端を叩きつけた時の感触。
「 “ 彼らはティターンズの現役だ、それを落としたお前はあの人たちにも負けない力がある。そして ―― ” 」
「あたしたちが束になっても一回も勝った事がない隊長が。一番、つよい」
「 “ ―― そういう事だ ” 」
 いつもそうだ。
 マークスの声で、言葉で。
 あたしの体に熱が入る。
「 “ いつも通りのお前でいい、それで勝てないまでも生き残るには十分だ ” 」
「OK、バディ」
 不敵な笑みはいつ以来 …… そういえばいつからだろう? こんなに自分に臆病になっていたのは。
 ベルファストであの男ガザエフを叩きのめした時か、彼女にののしられた時か、あの弁護士に自分の正義を否定された時か?
 もしそうだったとしてもどうでもいい。やっと気がついた ―― あたしはあたしだ、それ以上でもそれ以下でも。
 こんなボロボロのあたしを受け入れてくれた ―― 隊長やニナさん、モウラさんや …… ううん、基地のみんな。そしてかけがえのないあたしの相棒バディ
 生き残るぅ? そんな弱気じゃいつもの『ダメダメクラッシャーズ』だ、そんなモンじゃとうてい明日にゃ届きやしない。その全部を守るためにあたしはあたしのありったけで戦う。
 必ず、勝つんだ。

                    *                    *                    *

 突然点灯した明かりに、眠りの浅かったニナは目覚めた。瞼を透かして届くその輝きを不審に思う意識、思えば自分はこの所天井に設えられた大きな明かりを付けた事が無いはずだ。デスクで仕事をする時にはもっぱらその脇にあるデスクライトかベットの脇にある間接照明を使う ―― つけた事のない明かりが何で今になって?
 上体を起こして辺りをきょろきょろと見回しても別に変った事は無い。ただどういう訳か二十四時間稼働し続ける空調の音がいつもより小さくなっている。
「? 変ね、停電でもしたのかしら? 」
 しかしその疑問を基地の構造をよく知るニナは別の頭で否定した。モビルスーツを常駐させる基地には元々膨大な電力供給が必要だ、融合炉を動かす為のプラズマ発生装置だけでもちょっとした変電所を用意する必要がある。そしてその電力は地下深くに設置された専用の変電ユニット内で正・副の2系統に分かれて管理されている。基地が停電状態に陥る為にはそれらが同時にダウンしなければならず、相互監視を互いのAIが行っている以上その事態は人為的要因が介在しなければあり得ない。
 仮にその変電所へ電力を送る送電線網が破壊されても非常用のディーゼルが自動的に動き出し、基地内の電力は機能維持に必要な最低限のラインを確保する様に出来ている。故に完全停電状態に基地機能が陥る事はよっぽどの事がない限りあり得ず、そしてニナはその唯一の可能性に思い当たる事ができなかった。
 ベットを離れてデスクの上のパソコンの電源を入れる。ひょっとして何らかの情報が開示されてないかと言うニナの淡い期待はほんの僅かなタイムラグで表示される初期画面によって裏切られた。だが変化はその直後に発生する、いつもなら間髪入れずに接続されるメインサーバーへの入口がニナに対してパスワードの入力を要求してくる。
「 …… おかしいわね、そんな事、」
 ほぼ毎晩の様に使うAIがニナに対してパスワードを要求する事などあり得ないと思う。自分の家の鍵が突然付け替えられた様な不安に襲われたニナがそこに文字を打ち込む事無くじっと画面を見据えて考え込んだ。
 表示された事実は明らかにメインサーバのクッキー(HTTP cookie:Webサーバとウェブブラウザ間で状態を管理するプロトコル)が初期化された事を示している。自分の端末に異常が無ければサーバ側に何らかのトラブルが発生してその一切合財が初期化されたと考える方が自然だ。だがオークリーのAIは自分が手を加えて二台の間での自走診断プログラムが常時走っている、もしどちらかにトラブルが発生すればエラーを照合したもう一台がトラブルを起こした側を分離して機能を維持する仕組みになっている、一つの可能性を除いては。
「 …… やっぱり停電? そうとしか ―― 」

 それはオークリーに今いるすべての者が共有する轟音だった。一発はすぐそばで、二発目と三発目は敷地を大きく飛び越えて外へ。建物の崩落音と共に今までついていた明かりが突然消え、変わって非常灯がニナの視界を赤く染めた。
 トリントンにいた時にはそれが何だか分からなかった、でも今はあの時の自分じゃない。
「! 砲撃音っ! 敵っ!? 」条件反射で椅子の背もたれにかけてあるスラックスを手に取り、慌てて足を通すと靴をはくのと机の上のラップトップを手にするのは同時。コウのディスクを胸のポケットへと滑りこませると緊急時に流れる自動音声アナウンスが頭上のスピーカーより降り注いだ。
『 ―― 当基地に第一種戦闘態勢が発令されました。全隊員は直ちに戦闘配備に着いて下さい。全隊員は直ちに戦闘配備に着いて下さい。なお民間人は最寄りのシェルター及び避難通路へと退避してください。閉鎖まで後三分』
 多分ハンガーにいる誰かだろう、基地への攻撃が確認された時点でボタンを押したに違いない。明かりが消えたのは基地の外にある送電施設が破壊された証拠、今は緊急用のディーゼルが電力を供給している。簡単に状況を把握したニナは自分の部屋の向かい側にあるシェルター ―― いつもは誰かの逢瀬に使われるだけの空き部屋なのに ―― に逃げ込むべく急いで部屋を飛び出した。

 そこはもうすでにニナの見知った世界ではなかった。

 立て続けに空気が抜けるような音と乱雑に廊下に響く硬い靴音、酷く耳障りな叫び声に交じって聞こえてくる命乞いの声。それらが途切れたとたんに必ず響くドスンという鈍い音。ホラー映画を聞いているような嫌な気分は漂ってくる強烈な鉄の匂いでそれが現実だと分かった。
 全身に鳥肌が立って腰のあたりの力が抜ける、ひい、とこみ上げる叫びを必死に押し殺してとっさにドアの向かい側の壁へと背中を預けた。手がカタカタと震えて危うくラップトップをとり落としそうになる。何が起こっているんだと、自分の記憶や経験をさかのぼって模索するニナ。しかしデラーズ紛争を最後まで駆け抜けた彼女にもこんな ―― 。
 いや、あの音にだけは記憶が、ある。
 コウが、ガトーを、撃った時の、音。
 数え切れない疑問符が頭の中を駆け巡って。自分の置かれた状況を何度も確かめて。袋小路にある自分の部屋の不幸を省みて後悔を繰り返し。それでも自分の未来予想の是非を知るために背中を壁で滑らせながらそっと短い廊下の角までにじり寄った。だが震える目が焦点をぶらせて、赤い光の中ではなかなか輪郭が捉えられない。

「 “ 状況把握と未来予測はダイレクトに行わなきゃ、ニナ ” 」

 三号機のプレオペレーションの時にコウが言ったあの言葉がニナの頭に大きく響いた。一号機改フルバーニアンでバニング大尉に初勝利した後にニナが言った台詞を彼は迷う自分にそのまま返した、まるでそれが負けにつながると言わんばかりの勢いで。
 浮かび上がるコウの険しい表情と記憶に縋るように胸のポケットを硬く握りしめて乱れる呼吸をそのままに、ニナは開きっぱなしの瞳孔をそっと廊下の角から通路の先へと向けた。
『 ―― 民間人は速やかに最寄りのシェルター及び避難通路へと退避してください。閉鎖まで後二分』

                    *                     *                    *

「 “ キース。整備員は全員シェルター前に集まった、いつでも避難できる。ハンガー前から滑走路の端までは有視界だけどオールクリア、まだ敵の姿は見えない ” 」
 たった一人でハンガーの入り口から双眼鏡で周囲を観察するモウラ。それが部隊を預かる者の責任だと彼女は身をもって示す。「 “ 出撃するンなら今のうちだよ ” 」
 モウラの声にあからさまにいきり立つアデリア達。いつの時代も「出撃」という言葉は人の心の琴線を震わせる何か特別な力がある。きっかけ一つですぐにも飛び出して行きそうな彼らの最後尾はキースの乗るジム、しかし果たして彼は皆の思惑をよそにじっと動かない。
「 “ 隊長、出るんなら早くこっから出ましょう。このまンまじゃ敵の大砲にハンガーごと潰されっちまう ” 」
 一番経験の浅いアンドレアが声に焦りをにじませて外へと出ようとするその腕をバスケスのゲルググが掴んで押しとどめた。「 “ まあまあアンドレア、そんなに焦るな。こういう時はまず経験者の意見を聞く事が肝心だ ―― だろ? 隊長 ” 」
「どう思う? モウラ」
「 “ 何が? ” 」バスケスにではなく自分に投げかけられた質問に彼女は当然のように受け答えした。バスケスの言うとおり「経験者」という意味ではあのトリントン襲撃 ―― それは誰も知らない事だが ―― を体験した二人が最も適任だ。
「敵の砲撃がモビルスーツ部隊の侵攻に合ってない、それにこっちの気を逸らせるにはあまりにも散発すぎないか? 」
 確かに敷地内への攻撃は管制塔への一発のみ、二発目と三発目は頭上を大きく越えて行ったことから考えると多分送電施設だろう。ただ無駄弾なしで全部破壊したのなら敵の砲撃手は凄腕だ。モウラはそれ以降沈黙したままの屋外を睨みつけながらハンディのスイッチを押した。
「 “  砲撃のどさくさに紛れて一気に敷地内に侵入ってのが拠点侵攻のセオリーだから、いわゆるセオリー無視? ―― マークス、考えられる可能性は? ” 」
「 “ は、はい。連携を欠いているのは敵の練度が低いせい、または兵站等の準備不足。あるいは作戦要綱の予定よりも早く支援砲撃をしなければならない状況下に部隊が置かれた場合が考えられます ” 」
「 “ しなければならない状況って? 襲撃部隊ってモビルスーツだけじゃないってこともある? ” 」なにげないアデリアの言葉に八ッとするモウラ。同じように見えて違う状況、それは敵の目的があの時とは違うという事。トリントン襲撃の目的はあくまで二号機奪取のためだった、その証拠にかの機体を奪った後の引き際は襲撃された側もあっけにとられるほどあっさりしていた。もしあの時の目的が基地の制圧だったとしたら ――
「 “ ―― そういう ―― ” 」
 モウラのその言葉を最後に無線機はただ雑音を鳴らすだけのガラクタと化した。

「キースっ! 」振り返りながら大声で叫ぶモウラ、しかしモビルスーツ隊の面々もすでにその答えにたどり着いていた。「バスケスっ! すぐに陸戦隊に連絡を ―― 」すぐ前に立つバスケスの肩に手を当ててヘッドセットへと怒鳴る、モビルスーツ同士なら接触回線での会話も可能だ。
「 ―― 残念、一足遅かったみたいだ。まさか地上部隊まで投入とはここはどこのオデッサだ?」歴戦ならではのとぼけた口調でも潜む不安は隠せない。「おまけに広域ジャミングをかけてモビルスーツ間の連携を絶つとは戦争の玄人、それもかなり大規模な部隊だ …… 奴さん達、最前線に飽きて楽なトコから連邦の支配地域に入り込もうって腹かもな」
「プロの大規模部隊って。こっちゃあ素人に毛の生えた程度のが半分混じってるのに勝負になンのかねえ? 」それまで黙っていたマルコがキースの二の腕を掴んで言った。自分が死ぬなど露ほども思ってないこの大胆さが彼の強みでもある。「相手が歩兵ポーンを上げて来るンならこちらも歩兵をぶつけて盤面を整えるのが定石なんだけどね」
「なるほど、チェスか。さすがドクの一番弟子」マークスが一番前で屋外を警戒しながら後ろ手でマルコの肩を触る。ドクには若干かなわないがマルコは部隊で二番目のチェスの腕前を持ち、ドクのクリスタル製のチェスセットを狙うグレゴリーを煽って食堂の回数券を何度もゲットしたという逸話を持っていた。
「 ―― ちにしても …… ちょっとアンドレア、兵曹長バスケスのどっか触ンなさいよ。会話できないじゃない」マークスと相対する扉の影でアデリアがモノアイを背後のゲルググに向けるとアンドレアは慌ててバスケスの腰のスカートへと手を持っていく、勢い余ったそれはガンという音を立てて彼の機体を揺さぶった。
「 ―― ととっ …… そうだな、マルコの言うとおり数では及ばないまでも敵と同等の条件にまで状況を持っていくのが肝心だ、地の利はこちらに分があるからな」アデリアの言葉を言外に察したバスケスがそういうと背後のキースへと目を向けた。
「という事で初手はいいな? 隊長」

 モウラがシェルター前にたむろしている ―― 状況が気になって避難どころではないらしい ―― 何人かを連れてバスケスの機体に通信用のワイヤーを取り付ける。もともとは宇宙空間での近距離通信に使われるもので長さは2キロ以上、送受信感度はハイレゾに近いという優れものだ。キースの予備機であるゲルググマリーネを受領した時についていたものらしい。「糸電話とは古風だな」
「ミノフスキー粒子の濃い戦闘空域ではよく使われてるモンだ。古風つってもなかなかこれが」そういうとモウラがバンとボディを叩いて完了の合図をする。「よしできた、さあ話してみて」

「 “ ほう、これはこれは。なかなか。オデッサの時にこんなのがありゃあもうちょっと損害も少なくて済んだだろうに ” 」 
 敵味方の砲撃と乱戦によって相互の連絡が不可能になった連邦軍陸軍だけが一年戦争時のオデッサ攻略戦において甚大な被害を負ったのは軍関係者ならば誰でもが知る史実だ。あの時モビルスーツの大量投入がなければ今この時点で地球の勢力図はどうなっていたか。「 “ どうだ、隊長? ” 」
「よく聞こえる。 ―― すまないバスケス、本当ならスーツの扱いに慣れたマークスかアデリアに行かせたいところなんだが」
「あたしなら今から代わってもらっても全っ然おっけーですけどね」朗らかなアデリアの物言いにバスケスは思わず苦笑した。
「 “ 八ッ八ッ、伍長の申し出は大変ありがたいが謹んで遠慮させていただくよ。お前さんが行った日にゃ奴ら戦闘放棄して撮影会でもおっ始めかねないからな、結構俺たちの間じゃあ伍長は人気モンなんだぜ ” 」
 あら、と顔をほころばせるアデリア。副業でモデルという職業を生業としている彼女にとって「人気」という言葉ほど敏感に反応する言葉はない。えへへ、それほどでもとデレるアデリアだったがバスケスの次の言葉は浮かれた気分を一気に払しょくするカミングアウトだった。
「 “ 独身の連中なんかほとんどが伍長の写真をお守り代わりにしてるぐらいさ ―― 何だ、あの「フーターズ」の格好したヤツ ” 」
「!! …… チェンの、馬っっ鹿ヤローっっッ !! 」

                    *                    *                    *

 これは …… なに?
 赤い光の下でぼんやりと浮かぶ影。廊下の中ほどでもぞもぞと動くそれは黒い淀みを垂れ流しながらゆっくりとこちらへと這い寄ってくる、その向こうには同じように横たわるものがいくつか。漂う匂いも気にならないほどおぞましいその景色はニナの目を、その意思に反して釘づけにした。やがて湿り気をまとわせた足音が一つ、ゆっくりと奥の暗がりから現れたそれはこちらに近寄ってくる影の先端で足を止めるとニナには聞こえないような呪文をはいて手のものをつきつけた。
「 “ ! やめ ―― ” 」
 心の中で言い終わらないうちにプシュッと静かな音が耳に。突きつけたものの反対側から新たな黒い泥が勢い良く吹き出して更の廊下に新たなシミを生み出す。その時廊下の暗闇にやっと目が慣れてぼんやりしていた物がニナの網膜で実体を結び始めた。
 影だと思っていたのは全部、人。夜間迷彩のBDUをまとった完全武装の兵士たちが横たわった被害者の顔を一瞥して確認している。「 “ な、なに? どういうこと? なんでこんなところに陸戦兵が? ” 」
 確かな事は彼らは誰かを殺しに来たという事、そしてニナは直感的にそのターゲットが自分だという事が分かった。理由は分からないが思い当たる節ならばただ一つ、自分が ―― 多分ターゲットにはキースやモウラも含まれているかも ―― あの紛争の秘密に深く関わっているからに違いない。その秘密を追って秘密裏に消された幾人かのジャーナリストと同じようにティターンズがついに実力行使に出たんだ。
 目の前に近づいた圧倒的な死への圧力にニナの膝が大きく揺れて、新たに起こる全身の震えが止まらない。今まで経験した事のない、畑違いだと思っていた人の手による殺害現場を目の当たりにして彼女は過去に自分が果たしていた役割について不意に思いだしてしまった。
 あの兵士が持っている銃と私が作ったガンダムは同じもの、どちらも人を殺すための手段。 ―― なんて事っ! そんな事に今まで気付かなかったなんてっ! 
 コンペイ島の前哨戦からコウが荒れ始めたのはこういう事、私は彼とガトーの事に気をとられてその気持ちに気づいてあげられなかった!
 あそこで倒れている女性と同じようにここで死すべきではない命があったのかもしれない、でも私はそれを捻じ曲げてまで、自分のエゴでコウにそのための道具を与えてしまった。圧倒的な力を持つ一号機、改、そして三号機。
 一体何人の、何十人の兵士が私の欲のために命を落したんだ? 彼を生き延びらせる為に。 
 私は何人殺したっ!?

「 ―― 民間人は速やかに最寄りのシェルター及び避難通路へと退避してください。閉鎖まで後一分。以降通路は使用不能となります ―― 」

 犯した罪の重さに愕然とするニナの耳にカウントダウンを告げる合成音声のアナウンス、それが流れた瞬間に今しがた女性に止めを刺した兵士の気配がニナのいる袋小路へと向いた。慌てて顔を引っ込めるニナ、しかし兵士の姿が視界から消えた代わりに彼女が見たものはシェルターの入り口にあるランプが点滅する光景だった。緑色の光が数秒間隔で、それは赤い景色の中で強烈な存在感を放っている。
 ピチャッという音が消えて再び硬い音に靴音が変化する、自分の下へと迫りくる死の影で全身の力がすべて抜け落ちたニナは震えの収まらないままストンとその場にしゃがみこんだ。

                    *                    *                    *

「 “ じゃあ作戦は大まかにそんな感じで。俺が陸戦隊の連中と渡りをつけて必要ならば援護、もし敵のモビルスーツ隊と遭遇したら応援を要請する ” 」
「そうだな、今の状況でできる事といえばそれくらいだ。こちらもいつでも準備して待っている、頼んだぞバスケス」キースの言葉にゲルググのモノアイが点灯する、彼の機体がミリタリーモードに入った証だ。
「気をつけて兵曹長。まだ敵がどこにいるかわからないしあの重砲だって ―― 」
「 “ 心配すんな、マークス ” 」キースに繋がっている有線を通じてバスケスの声が全員の下へとはっきりと届いた。「 “ 俺はこう見えても元『ゴーレムハンター』だ、こいつの弱さも強さもよく知ってる。歩兵にとってモビルスーツは戦車以上の脅威だし仕留めるにゃ装備と手順が必要だ、丘育ちの短いジオンにゃそんなノウハウは持ってねえだろうからたどり着ければ楽勝だ。それに ” 」
 バスケスがハイタッチを通りすがりに全員と交わしながらアデリアの隣に立つ。「 ” 重砲とは距離がある。砲撃音さえ聞きゃあ少しばかり位置を変えただけで少なくとも直撃は避けられる、いくら腕っこきの名手でもな ” 」
 ふん、と気合を入れてバスケスが両のペダルを踏みしめる。「 “ じゃあな、軍曹。伍長もあとの事ァ頼んだぜっ! ” 」

                    *                    *                    *

「 “ ラース1からハンプティへ …… 一機出た ” 」
「見えてる、ラース1」いつもは最前線で敵と戦う様子をスコープ越しに眺めていた相手が隣でおとなしく観測任務についているのは妙な気分だ。「迎撃する、初弾APFSDS、次弾も同じ。装填」
 車体の下から台座固定用のアンカーが打ち込まれて上部の扉が開き、格納庫からマニピュレーターが砲弾を取り出して薬室に押し込むと尾栓が閉じる。装填完了の表示と当時にハンプティは砲身を下げて狙いを定める。
「目標、敵モビルスーツ …… ジオンのヤツだとやる気が出るねえ …… 照準よし、一番ファイア」

                    *                     *                   *

 バスケスの反応はとてもにわかとは思えないほど速かった。砲撃音が聞こえたらすかさず位置を変えるというセオリーは多分陸戦隊時代に過酷な戦場を回って身についた癖なのかもしれない、彼は音が聞こえるや否や左のフットペダルを踏みきって機体を右側にある倉庫の影へとふっとばす。掠めた音と着弾点をモニターで確認しながら叫んだ。「 “ 敵重砲6時方向っ! 多分西側の丘の上からだ、畜生。やっぱり出てくるのを狙ってやがったかっ!? ” 」

                    *                     *                   *

 ヒュウ、と小さく口笛。「 “ はずれ。なんだ口ほどにもない ” 」ラース1に非難されたが気分は悪くない。久々に骨のある相手だ。
「一番弾種変更、APHE(徹甲榴弾;遅延信管を備え、弾体が装甲を貫徹して、目標の内部に入ってから爆発するよう設定されている)。二番そのまま。AI、一番はヤツの隠れた倉庫屋根に照準。一番命中後二番発射のタイミングはこちらに回せ」
 命令を受領したシグナルがハンプティのかけた巨大なバイザーの裏側で点滅する。同じルーティンで違う形の砲弾が左の砲身へと押し込まれる。「言っとくがこのタンクの装填速度は今までに見た事もないくらい早いぜぇ …… 照準よし、一番ファイア」

                    *                     *                    *

「もう次弾かっ!」バスケスはそう叫ぶと機体を防御体制へとシフトした。一瞬の間ののちに盾にした倉庫の屋根に弾が着弾、しかしそれはさっきの弾とは違っていた。遅延信管が作動すると弾の内部に仕込まれた炸薬が爆発を起こし、彼が頼みとする倉庫は一瞬にして跡かたもなく消しとんだ。「な、なんだっ!? 」

「見えたぜ、あんたは仲間を釣り出す餌だ。 …… 二番、ファイア」

                    *                     *                    *

 それはあっという間の事だった。着弾との間を少し置いて爆発する機材倉庫、露わになるバスケスのゲルググ。コックピット内に充満する爆発音。何も聞こえない。彼に訪れた危機をなんとかしのげるようにとモニター越しに祈りながら見つめるアデリア。
 しかしそれは次の瞬間にあっけなくへし折られた。爆発の大音量に紛れて発射された次の徹甲弾は甲高い音を響かせてゲルググの右ひざを直撃する。膝から下を離断されてオートバランサーの加護をも失ったその機体は派手な金属音を響かせて敵から丸見えになったその通路へと横たわった。アデリアの悲壮な叫びが、つながった全てを通じて動けない留守番の全員に届く。
「 !! 兵曹長ォォッっ !! 」



[32711] Breakthrough
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/10/04 19:20
「 …… ずいぶん近いな」漏れたつぶやきが聞こえるほど近くに。
 早鐘のように打つ心臓の鼓動が周囲にまで漏れているんじゃないかというほど激しく大きい、全身を襲う震えが酷すぎて何も考えられない。
 ―― たすけて、だれか ―― 
 振り絞るような心の叫びだけが他の犠牲者と同じようにニナの全身を駆け巡り思わず外まで零れそうになる、しかし心臓を握りつぶす死という感覚が声すら漏らすことを許さない。時間の流れさえもがおろそかになった空間で何もすることがないまま、ただその瞬間を待つだけの小さな存在。もうすぐ消えてしまうだろう自分の命。
 なんて後悔の多い生き方だったのだろう、後悔をしないつもりで、誰かの役に立ちたくて選んだ生き方だったのにどこで間違ってしまったのか。覚悟を決めたつもりで見栄を張って、でも全然そんな事はなくて ―― 
 ―― くやしいっ! もう一度チャンスがあるなら ――

 足音がニナのすぐそばで止まる。ああ、もうおしまいだ。

 極限にまで高まった緊張で全部の感覚が薄れゆく中、彼女の耳だけが情報を送り込んでいる。角を回りこんでほんの二メートル後ろで止まった兵士はそのまま喉に手を当てて誰かと会話を始めた。「 …… は、はい。モビルスーツがこちらに?今迎撃中? 」
 
 流れ込んでくる小さな情報が死を受け入れようとしたニナを揺さぶった。怯えきったその顔は体の芯から湧き上がる何かで心ごとねじ伏せられて歪んだ景色をしっかりと見据える。早鐘のように叩き続ける鼓動はまだおさまらない、でもこんなものが人の耳に届くはずがないという事実は認識できる。
 ラップトップをしっかりと握りしめ、へたり込んだ自分の足をゆっくりと立てて今にも飛びかからんとする猫のように身構えたニナ。手に、足に力が戻っている。光を取り戻した空色の瞳がキッと目の前の廊下の角を睨みつけ、溜めた力をもうすぐ角から現れるであろう兵士にぶつけるために奥歯をギュッと噛みしめた。見えた瞬間に体当たりをカマして相手を怯ませてからすぐ先にあるシェルターへと駆け込む、あれはそのまま避難通路になっているから出口がある ―― そこはハンガーから二棟分手前の建物の一階だったはず。
 しっかりしなさい、ニナ・パープルトン! まだ終わってない、まだあきらめちゃいけない。
 私の仲間があそこで敵と戦っている限り、私がここであきらめちゃいけない。モビルスーツが出るというのならそこに私がいなくてどうする!?

                    *                    *                       *

「 “ 軍曹、アンドレアっ! 伍長をとめろっ! ” 」アデリアが動き出すのとバスケスが叫んだのはほぼ同時だった。擱坐寸前のゲルググに向かってハンガーから飛び出したアデリアのザクは外へと一歩を踏み出したところでマークスのザクに手を掴まれ、アンドレアのゲルググに肩を持たれてハンガーへと引き戻される、そして次の瞬間彼女のいた空間を高周波が駆け抜けてハンガーの向こうへと着弾して派手な火花と音を周囲へとばらまいた。
「だめだアデリア、ここから出たら狙われるっ! 」
「でも兵曹長がっ! このままじゃあ ―― 」
「二人ともちょっとそこあけてっ! 」もみ合うアデリアとマークスの間に割って入ったマルコが立て続けに二個のグレネードをバスケスのところに放り投げる。空中で発火して地面に転がったそれはたちまち猛烈な白煙を噴き出してバスケスの周囲を覆い隠す。「兵曹長っ! 20秒だ、なんとかそこから抜け出して ―― 」
 しかしマルコが言い終わらぬうちに次の砲撃、立ち込める煙幕の真っただ中に突っ込んだ弾頭は鈍い金属音だけを残して轟音を上げた。「 “ 左脚部被弾っ、被害レポ30パー突破、こいつぁ ――  ” 」
「赤外線暗視照準っ、くそっ! 」マークスが煙を睨みつけて言った。「兵曹長っ! もうムリだ、推進剤に点火してその場を離れろっ! 機外へ脱出すればなんとかなるっ! 」
「 “ 敵も同じことを考えてるだろうぜ、他の連中をおびき出す餌に逃げ出されちゃあ ―― ” 」
 次弾襲来。煙の中に突入したその弾は今度は大きな音を上げて爆発した。「バスケス、おいっ! バスケスっ! 」必死に呼びかけるキースだがバスケスの声はヘッドセットから飛び込んでくる轟音で埋め尽くされる、やがてしばらくの間をおいて聞こえてきた彼の声は途切れ途切れになっていた。
「 “ …… へっ、バックパック、とジェネレーターが損傷 ―― 畜生、破片が中を、飛びまわ、りやがった。いよいよだな ” 」
「兵曹長っ! ダメぇっ! 」冷静さを失ったアデリアが叫ぶ。「いまからあたしがなんとかするからっ! 」
「 “ なんとか、するっつっても、なあ。機体は死に体だしうつ伏せだからハッチも開かねえ、まあ、悔しいが、おれ、は詰んでる。 ―― こっからはマルコ、お前の、得意分野、だ ” 」ゴホッとせき込みながらバスケスは言った。
「 “ …… 陸戦、隊はもうあてには、できねえ。 この不利な、状況での最善、手をみつけろ。 …… それができるの、は今はお前だけだ ” 」

「 …… な、なんで俺 ―― 」託されたマルコは狼狽した。「俺なんかが隊長や軍曹を差し置いてそんな事できるわけない」
「 “ できるわけない、だって? …… 知ってンぞ、元参謀本部、の麒麟児。用兵の天才。お前がいたら、こまる、ってうとまれてここに送られたんだろうが。 …… もう逃げ隠れは無理、だから今、使え ” 」
「使えって、なにをっ!?」
「 “ 本当の、おまえの力 …… いま、使わなくって、いつ使う? おまえは、この、ままドク以外の奴に、負けてもいいの、か? ” 」

 有象無象の輩が跳梁跋扈するジャブローの作戦本部で若くしてその才能を余すところなく発揮したマルコ・ダヴー。チェンバロ作戦から参加した彼は第三艦隊を囮にしてソーラレイ照射の時間を稼ぐという荒技をそこに組み込み、星一号ではただ一人Nフィールドの隙をいち早く看破した男であった。しかしあまりにも人間味のない用兵と勝ちにこだわる姿勢から周囲や上官からつとにうとまれて、あっという間に島流し同然の僻地へと左遷される。そしてたどり着いた先で彼は、初めて自分を負かす事のできる老人と出合ったのだ。何物にも代えられないその事実は先祖代々『不敗』と呼ばれた彼の価値観を変え、世界を変えた。
 バスケスの言葉に迷ったのは硬く目を閉じた一瞬、再びそれを見開いた時には宿る光も表情も変化する。「 ―― 分かった、兵曹長。 …… 隊長、少し時間をください」

 赤外線暗視装置を使った高台からの攻撃、一撃目と二撃目の速さから敵の重砲は二連装砲、連邦のガンタンクタイプのジオンの新型。タンクを単独で置くわけがないからそこに観測と護衛兼用のモビルスーツが一機いる筈。
 では地上部隊は? モビルスーツと同じ方向には配置はされない。進行方向が同じだと足の遅い歩兵はモビルスーツの邪魔になる、南側の山からだとここまでの距離がありすぎて多分歩調は合わないだろう。それに管制塔砲撃前の妙な停電とその後の電力復旧は不自然すぎる ―― もしかしたら敵の地上部隊はもう敷地内にいるかも …… かもじゃない、すでに、か! 三発しか砲撃していないのはまず味方に対する援護を優先したに違いない、という事はこれからが牽制の本番。たとえ一機でも全力射撃をされれば状況は混乱して時間と共にこっちが不利になる。
 まず敵モビルスーツ隊の兵数の予測。攻城戦の常識は古今兵数十倍、しかしここは平地で大きく開けているから三倍もあれば十分だろう。こっちは六機だから三倍で十八機配備 ―― ありえない。ならわざわざなんで夜戦なんてまだるっこしい方法を選ぶのか? その数があれば普通に今のキャリフォルニア本隊といい勝負になる、目標は別にここじゃなくてもいいはず。しかしあえてここを選んで攻めると言うなら兵数はタンクを省いて十機程度。
 そうか、だから重砲。ハンデを補うために長距離での精密支援はかなり有効。二機も食えればパワーバランスは一気に常識内に収まる。ということはそれさえ潰せば拮抗状態へと持ち込めるという事。
 敵の重砲がやはりこの戦いの鍵、どうするかでこの戦いの主導権が決まる。
 そして圧倒的不利なこちらに残された勝利条件もわずかながらに見えてくる。

「 …… この際陸戦隊は無視します」その口調の変わりように驚く五人。「モビルスーツと行動を共にする以上その兵科特性は本隊に隷属します。重砲が動いたという事はすでに彼らの作戦は発動しています、夜に紛れて動くと言うなら地上部隊はもう敷地内へ入りこんでいる。地上部隊を安全に行動させるのならモビルスーツにここから出て行ってもらっては困るんでしょう、だから兵曹長はやられた」
「じゃあ、向こうの建物は圧倒的にピンチじゃないかっ! 軍人だけじゃない、民間人もいるって言うのにっ! 」
「 “ …… まあ、マークスここは …… だま、ってマルコの、考えを聞こう ” 」
「 …… 続けてくれ」落ち着いた声で先を促すキースの声にはただならぬ気迫がある。「陸戦隊、いや居住棟を見捨ててもいい理由は? 」
「理由は二つ。一つは敵の砲撃が送電施設狙いだったという事。破壊される前に一時的に明かりがつきましたが軍の施設で深夜に煌々と灯るのはおかしい ―― 原因は分かりませんが少なくともその状況を嫌った敵がメインの送電施設を沈黙させる必要があった、つまり対峙した敵がいたという事です」
「それが陸戦隊だって? 」アデリアの質問にはバスケスが答えた。「 “ ありえる、な。奴らははみだし、モンだが嗅覚は、たしか、だ。それで一年、生き延びた連中、だからな ” 」
「それが二つ目の理由です。僕は彼らが集団戦で遅れをとるとは思えない、ましてこれは ―― 彼らには申し訳ないですが、純粋な撤退戦です。そのノウハウも技量も絶対に並々ならぬ物を持ち合わせている」
「 “ や、れやれ。誉められてるの、やら、けなされてるのやら。『不敗のダヴー』に言われると複雑、だな ” 」

「戦略としては脆弱ですがこの状況を変えるにはやはり敵重砲の攻略という事になります。マップナンバー004を、基地西側の地形図です」演習用スティックを引っ張り出して計器盤中央の情報モニターに映し出された地図をどことなく懐かしげに眺めるキース。「重砲はこの高台に位置していると。ここからなら打ち下ろしになるし射程も延ばしやすい、しかもオークリーの敷地内がほとんど見渡せる。ただこの場所は足場が小さく周囲は崩れやすいガレ場になっています。ですからこの付近に残りのモビルスーツが配置されている可能性は薄い」
「じゃあどこに? 」尋ねたアデリアのマップ上にある赤い点がマルコの操作でスッと左上へと流れて止まった。「多分このあたり。それに射界を確保するために鶴翼で4・50メートル間隔。この配置なら重砲の狙撃を邪魔せずに戦闘移動速度で敷地内に入り込める、しかもうまくすればこちらを包囲して十時射撃の真ん中に置くことも」
「聞けば聞くほど絶望的だな。 …… で、こっからの逆転満塁ホームランはあり得るのか? 」マルコの分析もだが敵の布陣をみて改めて寒気がはしるマークス。確かに、こいつらは、強い。
「逆転、は難しいですね。ただ引き分けドローの線ならばかすかに ―― 髪の毛一本ほどの細さとハッタリと奇跡こみですが」
 マルコの言葉に驚く面々、特に不安で声も出なかったアンドレアは受信メーターの針が振り切れんばかりの勢いで叫んだ。「ほ、本当かマルコっ! 本当に助かるかも知れないって!? 」
「もちろん。ただちょっと、死ぬほどがンばンなきゃいけないけどな …… では戦術の説明をします。マップナンバー001を、施設全景です」
 
 改めてみると異様な地形だ、とマルコは思う。コロニー落着の衝撃波が作ったものとはいえ敵の重砲が布陣する西側の丘や正門前に広がる起伏に富んだ平原は自然が作ったものとは思えない不自然さがある。ただ滑走路の向こう側に稜線を残す小高い山だけがここに以前から存在する、正しい景色だ。そしてこの山こそが逆転への生命線となる。
「はっきりと居場所が分かっている重砲、ここに照準を絞ります。推測の範囲ですが奴は部隊の最後尾に配置されてこちらの様子を窺っている、おまけに管制塔という目と耳を潰されたのでこちらも相手の目を潰します」
「それができれば苦労はないんだけど …… どうやって? 」
「隊長のスキルと対物ライフル、そして付属していた『バンパイア小型夜間』照準器。そして極めつけは盾の裏に装備してある『Raufossルーファス MK411』、焼夷弾内蔵の対装甲被覆榴弾です。六発だけですが一発でも当たれば普通のモビルスーツなら爆散する。この前ライフルと一緒に搬入された弾倉の中にそれが混じっていたそうです」
 マルコの指摘にキースは左手につけられた小さな盾の裏側を見た。薬莢に塗られた赤い二本線はその弾が他のとは違うものであるという事を内外に示すものだ、しかしそんな聞いた事のないような対物弾がどうしてここに?
「僕も参謀本部時代に噂でしか聞いたことがありませんが、なんでもIフィールド対策用に作られたものの一つです。実弾の中で最も威力が大きく、個人携行ができるほど小さい」
「試作品という事か」キースの言葉に小さくマルコはうなずいた。「これで南側の山の上から敵重砲を叩きます」
「南の山って …… 」絶句するアデリア、その理由は簡単だった。山まで行くには滑走路を横断しなければならない、つまりバスケスが通ろうとした同じ道を抜けなければたどり着けないのだ。「ちょっとマルコっ! あんた簡単に言うけどどうやってそこまでいくのよっ! 隊長一人でそんなデカブツ持って出たら敵のいい的じゃないっ!? 」
「隊長一人じゃない」今度は他人事のように黙って聞いていたアンドレアが驚く番だった。「南へは主力の三人で行ってもらいます」

「えっ  …… ちょ、ちょっと、おいマルコ」
「僕とアンドレアはここに立てこもって残りの敵を足止めします、その間に隊長は重砲を潰してその後に陣取ってもらう ―― 奴ほど射程はありませんが少なくともハンガー前までの範囲はカバーできる ―― 」
「ちょっと待てって! 簡単に話すすめンなよっ! 」アンドレアの抗議にマルコは話を止めた。「たった二人の素人がどうやって数のわかンない敵を足止めできンだよっ! いくら隊長だってあの山登ンの結構時間がかかんだろォ!? その間に敵が来ちまったら ―― 」
「くれば、だろ? でも奴らはまだ来ない、いや来れないんだ」ある種の確信を持ってマルコは言う。「もし敵が力押しでって言うんならとっくにここは乱戦の中心になっているはずだ、でも重砲以外のモビルスーツが姿を現さないのは攻城戦の常識的なパワーバランスが整っていないからだ。兵曹長がやられて ―― 」
「 “ まだ、死んで、ねえっつーの ” 」
「 ―― 失礼、ゲルググが一機行動不能状態でも奴らの攻撃の主役はいまだ重砲頼み。ここの地形ならば敵はこちらの三倍の兵力があれば攻略できるはずだ、しかし出てこないという事はこちらの残機数の三倍より敵の機数が少ないという事だ。という事は単純に十五機以下、いやもっと少ない。多分十機ぐらい」
「という事はあと二機ほど重砲が喰わないと残りは出てこないってことになるのか? 」マークスの声にマルコはうなずく。「確信はありませんがよほどの事がない限り、多分。『ハンガーに敵が五機いる』という認識が敵の足を止めているものと考えます。ですからその誤認状態を維持しつつ、主力にはここから出撃してもらう」

「ハンガーの出口に整備班にも手伝ってもらってありったけの機材でバリケードを築きます。もちろん全員で運搬を手伝ってここで残りが籠城しようとしているふりをして、その姿を敵に見せつけます。バリケード構築ののちに主力はハンガーと管制塔の建物を繋ぐ連絡通路のそばにある非常用の出入り口から建物の裏を通って飛行機の駐機場へと抜けます。そこからほぼアイドリングの状態で、ゆっくりと」
「ねえ、アイドリングだとほんとに這うようにしか歩けないって。そンなンでほんとに敵に見つからずに滑走路を渡れンの? 見つかったら終わりなんでしょう? 」アデリアが詰問するとマルコは言葉を止めた。いや、止めたというよりは口ごもったと言うほうが正しい。
「 “ …… お前が言いたい事は、なんと、なく分かった。要、は出撃の、際に敵の目を引き付ける、何かが必要、ってことだ ” 」バスケスの声は徐々に弱弱しくなって、せき込む回数も増えている。
 ―― もう、時間がない ――
 苦しげな表情を浮かべていたマルコはカッと目を見開き、前面モニターの隅にぼんやりと浮かぶゲルググの影に向かって言った。
「兵曹長、すいません。僕は …… あなたを助けられない」

『用兵の天才』と謳われたマルコの読みは容赦がなかった。みんなはマルコがバスケスを救出すること込みの前提で作戦を立てているのだと思っていた、しかし彼の脳内の戦力の中にバスケスはいなかったのだ。「な、なんだよマルコ、何言って ―― 」
 何かの悪い冗談だと、そう思い込んだアンドレアの声が半笑いから始まる。「兵曹長、まだあそこにいるんだぞ? 生きてンだぞ? おまえがそんな有名人なら ―― 天才なら助けてやれンじゃねえのかよ! 今までさんざん世話になっていざとなったらそれかよっ! なんでそんな簡単に仲間を切り捨てられンだよ!? 」
「僕だって助けたいっ! でもどう考えても無理だったんだ! 僕とアンドレアは素人だ、敵を倒すための作戦になんか参加できない、今ある最大戦力ですごく小さな可能性を掴むためには ―― 隊長たちをここから無事に外に出てもらうためにはもう兵曹長に犠牲になってもらうしか、ないっ! 」
「ねえマルコ、本当に無理なの? なんならあたしとマークスが体を張ってもいい、なんとか兵曹長を助け出す事ってできない? 」アデリアの頼みにマークスが追いすがる。「敵はまだここにはやってこないんだろ? なら警戒しなきゃいけないのは敵の砲撃だけだ、敵の弾を避けるだけだったら兵曹長より俺のほうがうまくやれる。なぁマルコ、俺とアデリアが陽動をかける線でもう一ぺん考えてみてくれないか? 」
「そんなのもう最初に考えたっ! 考えたんですよっ! でも背負うリスクが大きすぎる、もしどちらかがやられてしまったらそれで僕たちも、この基地も全部おしまいだっ。敵に先手を取られた時点でもう勝ち目はない、だからせめて痛み分けのドローに持ち込むためには ―― 隊長と軍曹と伍長をどうしても無傷でここから出す以外に方法がないんだっ! 」
「もう、よせ」苦渋に満ちたキースの声、彼も本心はアデリアやマークスと同じ気持ちだったのだろう。しかし彼は誰かに代わってもらう立場ではない。「マルコ、ありがとう。どうやらお前の立てた作戦でしか生き残る望みはなさそうだ」
「 …… ぼくは、なんで」彼の声はいつの間にか涙まじりになっていた。「 …… いつもいつもこんなことしか …… できないんだ。ソロモンの時も第三艦隊にホワイトベースを組み込めばジオンは防御の弱い第二艦隊を全力で叩くにきまってる。囮に見せた第三艦隊を本当の主力部隊にして第二艦隊を被害担当にする ―― なんでぼくはそんな戦い方をいつも思いついてしまうんだ …… 」
「 “ 勝つ為なんだから、しょうがねえ ” 」

 涙でぐしゃぐしゃになったマルコの顔がバスケスの声でモニターへと向き直った。「バスケス ―― 」
「 “ お前とも、な、がい付き合い、だ。士官学校、入学、まえからの、な …… あン時の、レジスタンスが、ずいぶん立派に、なった ” 」ゴーレムハンター時代に肩を並べてジオンと戦った若き戦友。「 “ まさか、そんな有名になってるとは、ついぞや知らなかった、が。 ―― そうやって、いつまでも、うつむいてンじゃ、ねえ ” 」
「でもどんなに有名になったってっ! どんなに力があったってっ! 今の僕はあなたを助けることもできない、あの時僕を助けてくれたあなたをっ! もうあなたを殺して勝つことしか僕にはできないんだっ! 」
「 “ 俺ァ言ったぞ、最善手を、見つけろ、と。お前がそういうン、ならそれがそうなンだろ? じゃあ、しょうがねえ ” 」
「マルコ、バスケスの最期の仕事は? 」努めて冷静を装うキースだったがその手が白くなるまで力一杯に操縦桿を握りしめている。

「 …… 敵の砲撃で、疑問に思う事が一つ。なぜ敵は兵曹長の融合炉を狙わなかったのか」涙声だがしっかりとした口調でマルコが話し始めた。「もし融合炉が爆発すれば半径一キロの地域が焦土と化し、放出される中性子はその地域を13年間使用不能にします。僕が作戦参謀なら ―― 」
「その一撃で勝負を決める、って? 」アデリアの声に彼はうなずく。「勝つにはそれが一番手っ取り早い、普通なら。でも奴はそうせずにバスケスを餌に ―― して僕たちをおびき出そうとした」敵の非道な仕打ちにマルコの声が怒りで詰まる。「それだけの腕があるのに。なぜ? …… 隊長や軍曹がここを出た後、そこに僕たちの生き残る可能性があります」
 もうアンドレアの反論はない。命の恩人を助けられずに見捨てざるを得ない ―― そしてその他をどうにか生き残らせるための策を巡らすマルコにかける言葉がない、そしてそれは他の四人にしても同じだった。「バスケス、僕の合図と同時に融合炉を暴走させて。敵が赤外線暗視を使っているならその熱は必ず敵に探知される、奴らがその時どういう反応をするのかが見たい」
「 “お前にはもう、予想はついているん、だな? ” 」バスケスの声はさっきよりももっと弱く、途切れ始めている。「もし僕の予想が当たっていれば重砲は …… 必ずコックピットを狙います」

「敵の弾がコックピットを直撃すれば制御機能が停止して融合炉は即時停止しますが機体に残った推進剤はただの爆薬となります、バスケスの機体が爆発した時に発生する熱を目くらましにして隊長たちは一気に滑走路を横断してください。推進剤を使ってもその状況ならば敵は探知できないはずです」
「 …… それのどこが」ぽつりとアンドレアの声がした。「生き残る可能性、だよ? 」
「もし敵がここに押し寄せても彼らは絶対に融合炉への直撃は避ける、つまり僕たちは手足の一本がもげようともコックピットを直撃されないように、応戦 …… すればいい」
「 “ それで、こっちの勝ちというのは? ” 」バスケスの声にマルコの顔が再び変わる。ここにいた時の飄々とした笑顔でも、参謀本部で働いていた時の氷のような表情でもない。それはバスケスと ―― ゴーレムハンター達と縦横無尽に砂漠を駆け回って敵のモビルスーツを蹂躙していた時の、強い決意に満ちた顔。彼は顔を上げ、瞳に宿る強い光をモニターに横たわったままのゲルググに見せつけるように言った。
「夜明けです」





[32711] yes
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/10/17 22:19
 夜襲をかけてきたのなら夜明けは禁忌、だがそこがタイムリミットだとなぜマルコに分かるのか? 「モビルスーツの稼働時間です。多分この作戦は日が改まってからすぐに始まっている、という事は今日の日の出を6時として約五時間。モビルスーツの連続搭乗可能時間は普通で約三時間、不測の事態が起こった時でも四時間とされています。多分奴らは夜明けまでに作戦を完了させるつもりでこの時間を選んだんだと」
 そうなんだ、とキースは連邦のマニュアルに精通する彼の話に驚いた。あの紛争の時にはそれこそ時間が経つのも忘れてずっとキャノンのコックピットに缶詰にされていた、可能かどうかではなく生きるか死ぬかの瀬戸際でそんなおためごかしが何の役に立つのか?
「もちろん戦闘が長引けばそれは適用外です。でも長く搭乗すると運動能力や判断力は確実に低下し、そこまで凌げば今度は本拠地に陣取るこちらががぜん有利となります。それに朝になればここでの戦闘音が町や居住区まで届かないわけがない」
 いくら人のいない砂漠地帯とは言えほんのちょっと走れば政府が勧める農業地帯がある。これだけの騒ぎだ、音だけは確実に届いているだろう。頷きながらキースはその意見に同意する。
「こういう作戦を得意とする輩が一番恐れるのは相対する敵じゃなく、それを聞きつけた善意の第三者による戦闘状況の暴露。報道管制は敷かれているでしょうがネットでの流出は抑えられない、ここの騒ぎを聞きつけたどこかの野次馬が必ず何かの方法で映像をアップするでしょう。世間に公になった奴らは同じ手が二度と使えなくなって今後のの戦闘ドクトリンを変えざるを得ない」
「なる、ほ、ど。 ―― でももし私たちが生き残ったらそれはそれで奴らの存在は公になっちゃうんじゃない? ここまでやられて黙ってるなんてできっこないジャン? 」
「はい。だから痛み分けのドロー ―― 人的な損害を被る代わりに奴らのやり方を封印する。僕たちが夜明けまで生き残ればこれが奴らの最後の作戦になるという事です。ただ ―― 」
 作戦を構築していくうちにマルコは何となく敵の本質を理解し始めていた。自分の立てた戦略に敵を嵌めて楽に勝つのは実に痛快だ、それはかつての自分が求めていた理想。だが ―― 。
「 ―― 負けた事のない奴はそんな当たり前の事に気づかない。勝てないまでもせめて『相手の頬を張ったら自分の掌も同じくらい痛い』ってことをいやというほど思い知らせてやります」

 マルコの立てた作戦を実施するための時間の猶予は少なくなっている、バスケスがかろうじて動けるのはあと何分か? しかし逆転の目があるとキースから説明された整備班はシェルターにいた者も含めて全員がその作業に参加した。バリケードとして最も当てになりそうなモビルスーツの固定具などは真っ先の壁から引きはがされてガントリークレーンで屋外へと放り出される、その外側にありったけの予備の盾やらモビルスーツの装甲を立てかけて簡単な防護壁にする。「角度に気をつけて。打ち下ろしてくる敵の砲弾を受け流がせるように寝かして取り付けるんだ、角度が決まったら内側から全部溶接して」
 一夜城を思わせるその速さは運搬を手伝うアデリアやマークスの目をくぎ付けにする、それは流した血の多さですでに朦朧としているバスケスにとっても同じだった。モノアイを大きく振ってかろうじて作業の進捗を眺めている彼のつぶやきがヘッドセットを通じてモウラの耳に届いた。
「 “ しかしここの …… 整備班は、なんでもできる、なあ ” 」声は穏やかだがその色どりは深刻の度合いを増している。バスケスの状態を話しかけながら確かめているモウラにもいよいよの時が伝わる。
「あンがと。でもモビルスーツ五台分の仕事量も凄いモンさ、おかげでハンガー内が大掃除できてあたしとしちゃ」動かないドムと電源設備以外の一切がなくなった、ほぼスケルトンのハンガーを振り返って苦笑いした。どうも整備士の整理整頓というのはいつだって自分の使いやすいようにモノが置かれているというのが正しいようだ。「 ―― ちょっとさびしいけどね」
「 “ よくできる整備士のハンガーって、そんな、もんさ。 …… 色んな所回ったがこきたねぇトコほど仕事のできるヤツ、がそろってた。おれたちも安心してモビルスーツ、狩りにでかけたモンさ。こわれて、もスグ直してくれる、てな ” 」
「言うねえ、誉め言葉として聞いとくよ。ついでにちょっと自慢させてもらうと整備士ってのは戦艦の応急修理も受け持ったりするんだ、だから鉄骨組みとか装甲板の溶接なんざ年がら年中。目ェつぶってでもできなきゃ一人前とは言えないね」
「 “ 戦艦? …… そうか、班長は宇宙に上がった事が、あるんだ、なぁ ” 」
 バスケスのトーンが急に下がる。声の向こう側をなんとか確かめようとモウラが大きな声で呼びかける。「バスケスっ! おいバスケス!? 」
「 “ 大丈夫だ、まだ、だいじょうぶさ。 …… 俺たちは夜空でしか宇宙を見た事がねえからな、そこがどんなところか、見当も、つかねえ。 …… というか、俺たちには、その、勇気がなかった ” 」
「勇気って …… なんで肉弾戦であんな鉄の塊とやりあってたあんたがそんな ―― 」
「 “ オデッサが終わって ―― ” 」

 ゴーレムハンターとして各地を転戦した彼らに宇宙軍への編入が打診されたのはわずかな休暇を消化してのちの事だった。圧倒的に不利な戦況の中、ジープと対戦車バズーカだけで何体もの敵モビルスーツを潰した陸軍対機動兵器特殊作戦群はオデッサ作戦が終わった時点でその任を解かれ、ジャブローの作戦本部預かりの身の上となる。しかし稀有なスキルを持つ彼らをこのまま地上の警備や残党狩りに従事させるにはあまりにも惜しいとの声を受け、連邦宇宙軍は特例として彼らを特殊任務作戦群としての編入を要求した。
「 “ 悪い話じゃ、なかった。働く場所が地球から宇宙に ―― 変わるだけで、やる事ァいっしょだ。でもなあ、それを続けるにゃああまりにも、仲間が、死にすぎた ” 」
 オデッサ作戦終了時点での損耗率9割。凄まじいまでの死亡率はすでに作戦群としての体を失い、彼らは『生ける伝説』という確固たる地位を築きつつあった。伝説と言われれば聞こえはいいが、それはすなわち軍の中ではもう目立たない存在になってしまったという事だ。そんな寡兵の集まりが宇宙へ出て同じように働けるはずがない。
「 “ 教官として海兵を指導、してくれとも、言われたけど。ありゃ無理だ。 …… モビルスーツの、マシンガンがぽっかり口を開けた、真正面に飛び込んでく戦い方を、どうやって、人に教える? 並じゃねえ直感と、読みと怒りが、そこには必要だ。 …… だから俺たちは、その話を、断った ” 」
「そして、あんたはここに送られた? 」モウラの問いかけに無言で肯定の意思を示す。言う事を聞かない奴は島流し ―― そりゃあたしたちだってそうだ。キースもニナも、そしてコウも。あの同意書にサインをしなかったが故にあんたと同じ場所にいる。
「 “ でもなあ、俺はいつも思うんだ、ほんとは …… あそこに行くのが、怖かったんじゃないのかって。気がついた時にゃ何人も残ってなかった、ああ、今度は俺の番か、ってずっと思ってた。だからもし、宇宙へ行ったら。もう二度と地球には、戻れねえンじゃないか、ってな ” 」
 ぼんやりとした口調で心の内を明かすバスケスの声でモウラの顔がゆがむ、気を抜いたら泣いてしまいそうだ。
「 “ なあ、…… 班長。俺ァ ” 」
「な、なんだい? 」
「 “ もうすぐ死ぬだろ? ” 」かける言葉がない事に激しい胸の痛みを覚える。朦朧とする意識を必死でつなぎとめているだろう事が分かるだけにその決意が痛々しい。目の前に迫った死を得る為に生へとしがみつくバスケスに自分は何を言えばいいのか?
「 “ 死んだら、どこに行くンだろ? みんなは、ドコいったンだろうなぁ …… 俺もあんたや隊長みたいに、あそこを ―― みれるのか ” 」
「いけるさっ!! 」 モウラの視界が涙でゆがむ、抱えた悲しさをごまかすためにそう答えるのがやっとだ。「きっとあんたは宇宙に行けるっ! だからがんばれ、あんたの知ってる地獄はこんなモンじゃなかっただろっ!?  ―― これが最期になるってンなら今のうちに何でもあたしに言ってくれ、会いたい奴とか気になる奴とか。ハンガーの中だったら何でも言う事聞いてあげられるよ、なんだったらあんたらお気に入りのアデリア ―― 」
「 “ 最期に …… 会いたい? そうだなぁ ―― 伍長と ” 」バスケスの言葉を受けたモウラが慌てて作業を終えたばかりのアデリアのザクへと涙目を向ける、しかし彼から零れた次の言葉は今までになくモウラの心を深くえぐった。
「 “ …… 伍長に、あって、もう一度 ―― はなしが、したかった、なぁ ” 」

                     *                    *                       *

 息が苦しい。
 頭がくらくらして指の先がジンジンする。息の荒さで居場所を知られてしまうと呼吸を制限した事で現れた過呼吸の典型的な症状。それでもニナの目はしっかりとシェルターの入り口で点滅する緑のランプと、耳はいまだに姿を見せない兵士の足音を聞き逃すまいと研ぎ澄まされている。
「 はい、了解しました。これから敵のシェルターが閉じるのを確認してから ―― はい、そちらに ―― 」その時突然兵士の会話を遮るように大きなブザーの音が廊下中に鳴り響く。
『 ―― 現時点をもってこのシェルターは閉鎖されます、利用ができない基地職員は直ちに屋外へ避難を開始してください。尚この先使用出来る通路は管理棟A-2、ハンガー直通通路H-1 ―― 』
 ガコン、という金属のきしみと土埃をともなって大きな金属の壁が姿を現す、いつも通路を塞いでいる鉄の扉とは全く別物の耐爆仕様防護壁。それは強力な油圧ジャッキの力を借りてゆっくりとシェルターの入り口を閉ざし始める。ズズ、という鈍い音がその扉の莫大な重みを周囲に知らせた。
 多分その兵士は通路の角に姿を現して扉のほうに気をとられるだろう ―― 賭けに出たニナが大きく息を吸って固く口を閉ざして歯を食いしばる。全身のバネに全ての力をためてその一瞬をいまや遅しと待ちかまえる。 ―― お願いっ! あの扉が閉じてしまう前にっ!
 
 ゆっくりと閉じてゆく大きな扉と閉鎖開始を示す赤いランプの点滅へと目を向けながらその兵士は手探りで自身の残弾を確認していた。ベストには予備弾倉があと三個、拳銃はウエストベルトにあと一個と残弾が4発。ここが女性用の宿泊棟だった事が幸いだった、弾をそれほど消費する必要がなかった。しかし今交戦中というもう一つの分隊はそうもいかない、場合によっては自分達が合流して厚めの対応をしなくてはならない。
「なんにせよ俺たちは運が良かった。 …… さて ―― 」そう言いながら胸のポケットを探って思わず苦笑いを浮かべる。そうだった、夜間作戦中にはタバコは持てない約束だった。血なまぐさい仕事の後こそ一服して気持ちを切り替えたいんだが。
 まあいい、どうせ誰かが黙って持ちこんでるだろ。あそこが完全に閉じたらそいつから ―― 。

 今だっ!!

 背中に加わった突然の衝撃にすっかり油断しきっていた兵士の体はしたたかに向かい側の壁へと叩きつけられた。壁に当たった装備が激しい音を立て、額に上げていた暗視装置が外れて床へと転がる。苦悶の声を上げる男の脇を駆け抜けようとする金色の髪、とっさに捕まえようと伸ばした右手はわずかに届かない。
「まだいたぞ! 」叩きつけられた兵士が声を上げるよりも早く二丁のサブマシンガンが火を吹き、ニナの後を追って何発も壁をえぐり取る。よろめきながら必死に走る彼女の背中をあと一発が追いつこうとした刹那、必中の弾丸は当て身をくらった男の胴体へと集中した。うめき声をあげてニナの後ろでドウ、と倒れる兵士は被弾の衝撃に苦しみながら今にも閉じようとしている鉄の扉の隙間に体をねじ込む彼女の背中を悔しさがにじむ目で追いかけた。
 
 無骨なコンクリートの壁に埋め込まれた非常灯がいかにもシェルターという趣を漂わせる。扉をすり抜けてからほんの少し走ったところでニナの膝は限界を迎えた。緊張から解き放たれた全身から全ての力がぬけてへなへなとその場に座り込んでしまう。止めていた呼吸を解放して一気に酸素を肺へと送り込んで、そのとたんに今まで忘れていた震えがまるで高熱で浮かされた起こりのように蘇って彼女の全身へと襲いかかった。奥歯がカタカタ鳴って視線が定まらない、それはさっき部屋を出たとき以上に激しく、そして大きい。
 必死で呼吸を浅くして何とか過呼吸の症状を軽減しようと努める。酸素を少なくして二酸化炭素を多く体に留めて、そうする事でアルカリ性に傾いた血液を正常に戻すことができる。ドクから聞きかじった医学の知識を実践してその効果をわずかながらに実感するニナ。まず酩酊感が薄くなって、次に末端のしびれが弱まる。少なくとも何も考えられないという症状からは抜け出しつつある。
 そして彼女に与えられた選択肢も少ない。いまだに自分に連絡がないのはそれほど状況が切羽詰まっているという事だ、今は何としてもハンガーまで辿り着いてキースやマークス達の手助けをしなければ! 
 自分が今しなければならない事を肝に銘じて壁で体を支えながらゆっくりと立ち上がって出口のほうへと顔を向ける。しかしその時背後の鉄の扉を打ち鳴らすスズメバチのような羽音にニナは震えあがった。

「おい、大丈夫か? 」横たわったままの兵士にもう一人が手を差し出すと、彼は顔をしかめながらゆっくりと立ち上がった。「 …… ああ、防弾ベストの上からでも9ミリのつるべ打ちはけっこう効くゼ。 ―― 女は? 」 
「残念ながら取り逃がした。今何とか外側から開かないかといろいろ試してるんだが、こういうのは内からは開くが外からは開かない構造だからな。けっこう望み薄だ」頭を振りながら男が扉の方へと向き直ると悔し紛れなのか、扉に向かって発砲する兵士がいた。至近距離での直撃なのに跳弾がない。
「 ―― なるほど、そういうタイプの耐爆扉なわけだ」衝撃を跳ね返すのではなく吸収して和らげる、材質は鋼鉄ではなく軟鉄。どうりで重そうな音がする。となれば ―― 。
「おい、ありったけのC-4(プラスティック爆薬、粘土のように柔らかく形が作れる)を集めろ。誰かを他の分隊に回してそいつらの分の集めてこい」
「おいおい、いくらブージャム1の命令でもそこまでする事ないだろ? たかが女一人」助け起こした兵士があきれ顔でたしなめる、しかし男は脇を掠めて逃げ込んだ女の顔に見覚えがあった。整った顔立ちと背格好、肩まである金色の髪と ――。
 印象的な目の光。間違いない。
「それが対象αだったとしても、お前はそう思うか? 」

                    *                    *                    *

 逆L字型に作られた格納庫の短い棒の端、壁の一角を利用して後から作られたその出入り口は整備班から『勝手口』と呼ばれている。もともとは小さい部品や消耗品や個人調達品を運び込むための扉だったが、どっちにしても品物はトラックでハンガー正面から運び込むので現在は開かずの扉の様相を呈していた。久しぶりに使うその用途がまさか出撃口になるとは、とモウラは三機のモビルスーツの背中に敬礼を送る。
「 “ じゃあモウラ、行ってくる ” 」わずかに後ろを振り返って外部スピーカーで遠慮がちに声をかけるキースにモウラは小さく手を振った。少し離れた所から羨ましそうな視線を送るジェスにもお構いなしだ。
「頼んだよキース。あたしらちゃんとここであんたが帰って来ンの待ってるから、前みたく思いっきりヤッといで」巨大な対物ライフルを脇に抱えたキースのジムが小さくうなずいて出口をくぐると内側からゆっくりと扉が閉じられて機械仕掛けのかんぬきがかかる、これでもう外からはたとえモビルスーツといえども武器なしで通る事はできない。
「 …… さて、と。さあみんなもう一仕事おっぱじめるよっ! ここにあるありったけの武器と弾を大急ぎでバリケードの内側に並べるんだ、マルコとアンドレアが他にもモビルスーツが残ってると思わせるぐらい撃ちまくれるように何箇所かにばらけて。 ―― 急げっ! キース達が配置につくまでもう時間がないよっ! 」

 虎の子の有線ケーブルはマルコとバスケスが使っているので出撃したキース達との連絡はできない、昔ながらの手段だが全員で同時に時間合わせした腕時計を無言で見つめていたマルコは隣でバリケードの影に隠れるアンドレアにモノアイの光を向けて合図した。こくこくと二度うなずくゲルググは心なしか震えているように見える。
「時間だ。 …… じゃあ、バスケス。 ―― お願い」

 指先が冷たくなって感覚が、ない。呼吸が浅くて心臓は今にも止まってしまいそうだ、こうやってあいつの声を聞けるのもあと何分ぐらい、いやあと何言葉喋れるか。
 震えるバスケスの指があらかじめ設定しておいたタッチパネルへとゆっくり伸びる、反応炉に関する全制御 ―― ミノフスキー粒子への静電供給、Iフィールド、制御棒のコントロール、全てディザブル。 ―― 確認。
 実行。

 制御棒が一斉に抜ける音は座席の背中のあたりから。ほんのわずかな静寂ののちに生まれるかすかな振動が金切り声と共に大きく。それはバスケスのいるコクピット全体を震わせて止まりかけている彼の心臓を再び動かそうとしているようだ。耳をつんざく熱核炉の悲鳴は彼と共に最期を迎えようとするゲルググの断末摩、閉じていく視界と薄れそうな意識に抗うようにバスケスは残りわずかな全てを声につぎ込む。
「マルコっ! きこえているか、マルコ・ダヴーっ! 」

 ハンガーの全員総出でバリケードを構築する様は見事としか言いようがなかった、あっという間に作り上げられた堅牢な城壁を照準器で眺めながらハンプティは感嘆の声を漏らした。「すげえ、まるで魔法だな。ありゃ」
 試しに撃ってみようかとも思ったのだがどう考えても抜ける気がしない、あれを壊すためにはさっき使った徹甲榴弾を使うしかないのだがそれほど多く持ち合わせているわけではない。まだ作戦ははじまったばかり、無駄弾は極力避けなければ。
「 “ どうやら立てこもるつもりのようだな ” 」苦々しげに吐き捨てるラース1の声が耳に届く。どんな作戦でも常に敵との近距離戦を是とする彼にとってこのような消耗策は許し難いのだろう。
「このまま動かないというのならそれはそれでブージャム達がハンガー付近まで侵出するのを待つしかないな。やつらがにっちもさっちも行かなくなってこちらへ気が回らなくなったら ―― 」そこからが俺たちの出番だ、という言葉をモニター内の非常警報が押しとどめた。レッドアラート。作戦続行に重大な支障の発生する事案が発生。
「! 赤外線に感! ―― やろう、やけを起こしやがったかっ! ハンプティからトーヴ1へ、緊急事態っ! 」

「! 擱坐したゲルググの反応炉が暴走だとっ! 」ケルヒャーの驚きが腕を伝わってダンプティに届く。「どういうことだっ! まさか飛び回った破片が炉心でも直撃したのか! 」
「 “ それなら反応炉は停止するはずです、自分で操作するしかありえません! 判断を、もういくらも時間が―― ” 」
「撃破を許可する」冷たく言い放つダンプティだったがその眼には驚きと戸惑いが満ち溢れていた。自らを犠牲にして全てをご破算にしようというその勇気、決断力、連邦軍にそのような気骨を持つ者が? あり得ん!
 しかしその一方でこの作戦の難易度 ―― あのモビルスーツ隊を退けて目標を自らの手で確保するという目的が異様に難しくなったともいえる。飛び出してきた奴が一番の腕ききなのかもという事は考えられるが、もしそうでなかった場合に相手の実力がどれほどのものかを理解しなければこちらのリスクが大きすぎる。もしかしたらこちらの促成編成の新人たちでは対処できないかもしれない、そうなればこちらの立てた作戦は根底から瓦解する。
 失敗は絶対に許されないのだ、この作戦に関してだけはっ!
「コックピットを狙え、それで事態は収まるはずだ」

                    *                    *                    *

 たびたび揺れる膝を何度もたたきながらニナはゆっくりと、しかし確実に出口へと近付きつつあった。自分が前に進む理由はただ一つ、この基地に在籍する技術主任としてモビルスーツ整備の指揮をモウラと一緒にとる為。
 しかしその一方で彼女 ―― ニナ・パープルトンという一人の人間としてのその理由はひどくあいまいだった。理由は ―― 分かっている、自分が一度は手にした銃という代物がいかにたやすく、そしてあっけなく人の未来を奪ってしまうものなのかという事を知ってしまったから。分かっていたつもりで本当はその本質に気が付いていなかったという自分の浅はかさが彼女の足を、そして生きていく意味というものを確実に鈍らせていた。
 見知った顔が幾人もそれで命を絶たれた。そんなものさえなければ彼女も、マリアもきっとここで死ぬことはなかった ―― だが自分も少し前に同じような物を生み出してしまっていた。自分の手の届かない宇宙の闇の中を何千人という人を殺して突き進む三号機。戦争だから? 正義だから? そんなものはただの言い訳だ。大勢の人とそこに連なるもっと多くの人たちの未来を潰した事に代わりはない。そしてその連鎖はついに自分のすぐそばまでやって来た、私ひとりの命のためにもっと大勢の見知った顔が、殺される。もし自分がここにいなくて ――。 
 もしあの時宇宙で死んでしまっていたならこんなことは起こらなかったかもしれない。 …… 他人を巻き添えにしてまで自分に生きる価値は本当にあるのか?

  アイランド・イーズはまるで宝石の様な輝きを漆黒の宇宙に解き放った。救助された艦の艦長 ―― もう名前も忘れてしまった ―― は男達の魂の輝きなどと言っていたが私にはそうは見えない、もしコウがその輝きに巻き込まれて命を落としてしまったと言うのなら私はその光の中で死にたいと確かにそう願った。ルセットと最期に交わした約束を守ると言う事よりも、私自身のささやかな未来の希望さえもが閉ざされるその世界に生きる価値を見いだせないと思ったから。
 私が唯一生きてしまったその理由 ―― コウ・ウラキ。生きていた事を知った私は全てを捨てて彼を追った ――  過去を捨てて未来に賭けた。どんな茨の山でも私が彼を支えて杖となり、私が彼を繋ぎ止めて枷となり。彼の生きた証が即ち私自身の幸せ、そして二人が犯してしまった罪の償いになると信じた。
 でも私は全てを失った。私が望んだ小さな希望は大きな絶望に変わって私自身を裁いた。もう二度とコウと私が笑い、語らい、確かな絆を紡ぐ事はない。それは私が目を閉じ耳を塞いで知る事を拒んだ、私自身が彼の一生の幸せの為に選んだ道のはず。
 意味のない未来、一度はこの世との決別を覚悟した身の上。なのになぜコウを切り離して一人で罪をつぐなわなければならない私はこんなに死を恐れている? 生きる意味も何もかも、大切な物は全てなくなってしまったというのに。
 どうして? ニナ・パープルトン。

 集められたC-4は500グラムの包みが6個、男は包装紙を破るとむき出しになったオフホワイトの爆薬を何等分かにしてくさび型に成型し始めた。「手の空いてるやつは手伝え。200グラムぐらいの塊をこうやって作り直して、他の奴はできた爆薬を扉の継ぎ目にかぶせるようにセットして全部をつなげ」
「継ぎ目に埋め込んだほうがいいんじゃねえか? 」隣で手伝っている兵士に男はチッチッと指を振った。
「こういう奴は指向性を持たせたほうが効果が高い。窪ませることでモンロー効果の恩恵があるしな、それに3キロのC-4をそのまま爆発させたら俺たちまで吹っ飛んじまう」男は出来上がった爆薬を持って立ち上がると閉鎖された耐爆扉と壁の継ぎ目にかぶせるようにそれを押しつけた。可塑性のあるそれは雑なやり方でも十分その場に貼りつく。
「さあ急げよ。もたもたして対象αが逃げちまったら俺たちがブージャム1に検索しちゃいけない死に方を教わる羽目になるぞ」

 赤い夜間灯の中に浮かぶ向こう側の耐爆扉、ニナはネガティブにおちいる思考とそれに伴って鈍る足取りを叱咤しながらやっとの思いでそこに辿り着いた。手前の壁側に設置されたアクセス端末にゆっくりと ―― それでも彼女にとっては一生懸命だ ―― 近づいてテンキーを操作する、自分の認識番号を入力するとメインかサブ、どちらかのサーバーが登録されている所属情報を検索して合致すれば扉のロックが外れる仕組みになっている。
 もちろん全部の扉がそういう構造になっているわけではない。それぞれの建物に設置されている非常ハッチは一度閉じてしまえばその扉に対応する暗証コードが必要になり、サーバーにアクセスして不正な手続き ―― つまり、ハッキング ―― をとらない限り開ける事ができない。つまりニナはここから出られてもハンガーに辿り着くまでいくつもの非常ハッチを自分のラップトップを使って開けなければならないのだ。         
 ガゴン、という大きな音と共に扉がゆっくりと動き出す、向こう側に敵がいる事を恐れてニナはほんの少し顔を出して左右を見渡した。通路に人影はないが不穏な気配もない、体一つ分の隙間があいた所で彼女はそっと赤く染まったままの通路へとその足を踏み出した。

 仕掛け終わった爆薬は全て一つに繋がって扉と壁の隙間に覆いかぶさった。刺された雷管は二個、起爆に失敗した時の予備でスイッチは別の兵士が持っている。「全員壁にできるだけ寄ってかがめっ! 目と耳を押さえて口は開けておけ、この先も女の裸を拝みたいならなっ! カウントっ! 3、2、1 ―― 」

                    *                    *                    *

「 ―― バスケスっ!! 」コックピットに響くマルコの叫び、金切り声しか垂れ流さないヘッドセットから彼は確かにバスケスの声を聞いた。必死で耳をすませる、聞き違いじゃない、聞き逃しちゃダメだっ!
「 “ お前は、もう逃げるなっ! 俺のように ―― 絶対に逃げるんじゃないっ! 必死に生きろ、生きて、生き足掻いてっ! ” 」
 これが最期だというのに何も言い返せない、バスケス。あんたを宇宙に上げようとしたのは僕だっ! あんたと一緒にどこまでも戦いたかった、あんたがいればもっとすごい事ができる気がした。だから僕はゴーレムハンターを宇宙で働かせようとした。
 それがあんたをこんなに苦しめていたなんてっ!
「 “ 生きるのを楽しんだらのんびりこっちに来いっ! いいか、忘れンな! 俺ァお前と一緒にいてすごく楽し ―― ” 」

                    *                    *                    *

「 ―― 一番ファイア 」

                    *                    *                    *

 轟音と閃光はマルコとアンドレアのモニタースクリーンの照度を同時に下げた。それでもなお手をかざさないと目を開くことすら難しい激しい光は炎と黒煙をともなって夜空を焦がす。コックピットに充満する爆発音の中でマルコは必死に、遠くに行ってしまった友人へと許しを叫び続けた。

                    *                    *                    *

 張り裂ける轟音と通路から吐き出された巨大な空気の塊は炎と共にニナの背中へと襲いかかった。激しい衝撃に肺じゅうの空気が全部押し出されてそのまま息がとまる、なにが起こったのかを知る暇もなく壊れたコンクリートの破片が礫のように全身を打ちつけ、空気を取り込んで膨れ上がった炎の風船はニナが着たコウのYシャツを焦がす。そして膨大な空気のハンマーは華奢な彼女の体を宙へと飛ばしてそのまま廊下の壁へと叩きつけた。全身に走る痛みがニナの意識を根こそぎ奪う、しかし床へと放り投げられた反動で閉じかけた目が再び開き、朦朧とした視界をあざ笑うかのように巨大な鉄の塊が押し寄せる。慌てて頭を伏せたその髪を掠めて耐爆扉であったそれは壁を破壊して夜の屋外へと転がり落ちた。
 もうもうと立ち込める土煙と明かりの消えた廊下に横たわるニナには一体何が起きたのか分からなかった。息をしようにも背中の痛みで思うようにできず、それに比例するように意識と気力が遠のいていく。ただ分かっている事はこのまま自分はここで死んでしまうかもしれないという可能性。
「 “ ごめん、みんな。あたしはそっちに行けないみたい ―― ” 」
 心の中ではく弱音はこれで何度めだろう、一度は口に出して誰かに聞いてほしかった。あたしはそんなに強くない、本当は臆病で、卑怯で、愚かで。こんなあたしが誰かに助けてもらいたいなんて、とても ―― 。

 閉じてしまいたいと願う意識を空色の瞳が引き止めた。目の前の床に転がったままのラップトップ、そしてその先で無数の瓦礫に埋もれることなくリノリュームのタイルで小さな輝きを放つ、ひび割れたディスク。
 それを目にした瞬間ニナの目はかっと見開かれ、愛らしい唇を血がにじむほど力いっぱい噛みしめていた。震える手が胸のポケットを何度も触って、そこになければならないものがないと分かった瞬間にその手はまっすぐ前の床へと伸ばされる。半開きの口が浅い呼吸を繰り返し、零れていく涙は彼女の顎を伝って瓦礫を濡らす。
 それは決してなくしてはいけないものだ。何もかもなくしたと思っていた自分がたった一つだけ残してしまった、彼との記憶。シナプス艦長が命懸けで届けてくれた、絶対に失えない彼との絆。
 ラップトップを通り過ぎてニナの目は、手はそのディスクに注がれている。にじり寄る体が汚れてしまうのもお構いなしにカタカタと震える指先がついにそのディスクの表面へと触れた。

「 “ 生きるんだ、ニナ ” 」

 少し伸びた髪と宇宙に輝く星にも負けない強い光を宿す黒い瞳。あの日のコウがあの日と同じ声でニナに静かに呼びかけた。



[32711] Strength
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/10/22 19:16
 はるか地平線のかなたから聞こえる音と弱弱しく灯るオレンジ色の光、他の誰にも分からなくてもコウはそれが何かを知っている。たとえ場所は違っても空気がなくても意味するものはただ一つ、モビルスーツと共に誰かが。
 今、死んだ。

 ありありと蘇る過去と行方不明になった未来。眉唾な予言の通りに始まったその攻撃の全てはニナに向けられたもの、このまま何もしなければ遠くない未来に成就してしまう絶望の結果。全身にみなぎる怒りとさまよい続ける心が彼の目を突きつけられた現実から遠ざけ、拳を真っ白に染め上げる。
「こんなっ! こんなことがっ! 」あっていいのか、と強く訴えたコウは必死で瞼の裏に浮かんだ明日を想像した。多分何事もない夜明け、何事もない景色、でももうここにニナは ―― いない。世界中のどこを探しても宇宙の隅々まで追いかけても彼女はもう手の届かないところまで行ってしまう、そう考えただけでも体中の血が逆流して気が狂いそうだ。そんな事になるのなら、そんな未来が明日訪れるのなら自分がここで生きていく意味はなくなる ―― 。
 
 その瞬間コウは初めて自分がニナが生きているという事に甘えて今日まで生きてこられたのだという事を知った。

 それはとても大事なもの、多分自分よりも。失ってしまうと考えただけで恐ろしいほどの喪失感に襲われるくらいに、心のよりどころとして自分の中のどこかにいた最後の希望。軍に絶望して捨て鉢になった自分をもう一度正しい道へと導いてくれた小さな道しるべ。
 疑った事で辿り着いてしまった自分のわがままが彼女を傷つけ、笑顔を奪い、もしかしたら未来への希望までなくさせてしまったのかもしれない。彼女のために良かれと思って選んだ道が実は自分が逃げるための方便だと分かっていた。
 どうして信じてやれなかった。なぜわかってやれなかったんだっ! 彼女とオークリーの小道でもう一度出会った時に、なぜっ!

「うあああぁぁっっ!! 」激発した感情が声になってコウの口からほとばしり、握りしめられたままの左手が大きく宙をなぎ払う。そしてその腕はテーブルの上に置きっぱなしになっていたボトルを跳ね飛ばして水屋へと叩きつけた。割れたはずみで立てつけの悪い扉が大きく開いて中に置いてあった薬箱が床へと投げ出される、はじけた中身が打ち寄せた波のようにガラスの海へとばらまかれた。
 息を荒げて床の上の惨状へと視線を送るコウ、その時小さな音と気配が彼の耳へと忍び込んだ。そっと振り返ると彼のベッドの上で丸くなっていたはずのエボニーがいつの間にか上体を起こして丸い目で見上げている。

 彼とは麦畑の中で出会った。
 まだ幼い黒猫はコロニーの落着で親兄弟を全て失って、彼だけが奇跡的に助かったという話を農家仲間の人づてに聞いた。それ以来その子猫は誰にもなつくことなくたった一人で生きているのだという事も。
 だがなぜか彼はよくコウの畑にやってきた。畑を耕している時に、種まきの時に、草刈りの最中に。彼はほんの少しだけ距離を開けてずっとコウの作業を丸い目で眺めていた。手を出せば怯えたように逃げるのだがまたすぐに近寄ってきては同じように、コウが家路に着くまでの間、ずっと。
 二人の関係が大きく変化したのはその子猫がどこかの畑で機械に巻き込まれて大けがをした時だった。コウは慌てて彼をバイクに縛り付けて病院へと突っ走り、今日明日の命かもしれないからという医者からの安楽死の勧めも押し切って二日間寝ずに看病を続けた。彼を一人にしてしまったのは自分のせいだと言わんばかりの覚悟で。
 三日目の朝、看病疲れでうとうとしていたコウの頬を優しく舐める子猫がいた。おぼつかない足取りで、それでも何とか命の恩人に自分の気持ちを伝えたいと思ったのか彼はコウが目覚めるまで何度も何度もそれを繰り返して。

 足に残った大きな傷が消えることは二度と、しかしエボニーは何の不自由もなくコウのそばにいる。その彼があの時の目でじっとコウを見つめていた。
「 …… ごめんよ、おこしちゃったか」優しい顔でそうつぶやくとコウは足元に散らばったガラスの破片を拾い始めた。大きな破片を拾い終わって小さな破片をほうきで集め始めた時、彼は部屋の隅に転がっているガラス片に気づく。まだこんなところに、と何げなく拾い上げた時、それはコウの視線を思い切り縛りつけた。
 見慣れないバンドエイドは月の光にきらめくガラスの破片の下にある。そっと摘んで裏返すとそこには、絶対に忘れようのない文字で、小さく。
“ もう怪我しないで ”

 唐突に巻き戻されていく記憶。 ―― そう、あの日。
 たった一日、それもほんのわずかな時間。でも自分は確かにそこに安らぎをひしひしと感じていた。怒った顔、笑った顔、悲しい顔。くるくると変わる彼女の表情のその全てがたまらなく愛おしかった。
 そして ―― 。

 それに気づいた時コウははっと顔を上げて慌ててエボニーを探した。彼の姿はもうベッドの上にはなくニナが座っていた椅子の上にあった。くせのある座り方で前足を揃えた彼はじっと同じ目でコウを見上げる。
 誰にもなつかないはずの ―― ヘンケンにも、セシルにも。だがニナだけは違った。エボニーは確かにあの時、初めて出会う彼女の足に自分の顔をすり寄せたのだ。まるで昔から知っているような、本当の飼い主であるかのような仕草で。
 彼は、確かに。

 ―― 彼女はあなたの家族じゃないの? 彼はコウにそう言っている。気のせいなのかもしれない、気の迷いなのかもしれない。だが月明かりだけが差し込む静寂の中で啼くこともなく、じっとコウを見上げるその大きな瞳はコウの決断を後押ししようとしていた。まぶしいくらいにまっすぐな金色の目が。

 心の中で滞っていた何かがごうごうと音をたてて流れ始める、コウはじっと天窓に姿を現した月を見つめてほう、と大きなため息をついた。迷いもためらいも全てその一息の中に込めて吐き出した彼はじっとコウを見上げたままのエボニーに視線を戻して優しく語りかける。
「 …… ありがとう、エボニー」笑いながら一つうなずいたコウは優しくエボニーの頭をなでる、満足したように小さく喉を鳴らす彼に向ってコウは 、告げた。
「 …… 迎えに行って来るよ、ニナを」
 
 ベッドの上に戻ったエボニーに見送られてコウは出口を走り出る、明かりは消して扉の鍵は開けたまま。蒼い月明かりに浮かぶ麦畑はもうすっかり刈り取られてまるで原野のようだ、だがその景色がいつも見ていた物とは全く違っているのはなぜだろう?
 すぐ脇にある小屋へと飛び込んで雑にかけたシートを引き剥がすとそこにはいつもと変わらない輝きを放つコウの愛機が眠っている、キーを差し込んで思いっきり右に回すと獰猛なそれは目覚めたように赤いランプを光らせた。セルを回したとたんにうなり声を上げるそのエンジンはかつて大昔にその名を馳せた名門ドゥカティ、L型2気筒1100ccは後方へと延びるマフラーからその咆哮を存分に夜空へと吐き出す。
「頼むぞ、モタード」声をかけたコウの左足がギアを踏み込みリンケージが動いて一速に。クラッチを繋ぐとその獣は解き放たれたように小屋の外へと飛び出した。自重200キロを超える暴れ馬をコウはみなぎる二の腕と巧みなハンドルさばきで一気に荒野の中を貫く畔道へと導く。
 跳ね上がるタコメーターの針と跳ねあげる左足と。ギアが上がる度に本領を発揮するハイパーモタード。エヴォリューションの名を冠したそのマシンは重い車体をいとも簡単にコウの体ごと未曾有の領域へと運んでいく。タンクを彩る赤と白はそれがかつてカテゴリーの絶対王者であったという印、過去の誇りを証明するためにモタードは持てる全ての力を使って主人の今までの努力にこたえようとしている。
 だがその頑張りがコウの視野を徐々に変える、景色がゆっくりと流れて足元から響くエンジン音が低くなっていく。それは速度があっという間に危険な領域へと突入して命が危険にさらされ始めたという事と同時に自分の体のどこかに巣くっている『奴』がそれを察知して体を支配し始めたという事だった。だがコウはあえてそれに抗おうとはせず、むしろその恐るべき力に自分のすべてをゆだねたままライトの照らす先の闇を凝視する。荒れた路面に一本しかないリヤサスペンションの減衰はすでに限界へと近付いている、タンクを両膝でこれでもかと押さえつけて彼はパイロットとしての能力全開で今にも崩れそうな車体のバランスを保ち続けた。

 間にあうのならばどうなってもかまわない。俺がほしいのならくれてやる、そのかわりお前のその力を俺によこせっ! たとえこのまま人を傷つけるだけの獣になってもいい。でもあの時と同じようにこの右手だけは絶対に緩めないっ!
 そこに辿り着くまでは、ニナを取り戻すまでは。絶対にっ!

 光の矢のようにオークリーへの一本道を突っ走るコウのモタード、しかしコウの目ははるか彼方の暗闇に光る赤い点滅を捉えていた。地元警察の検問だと理解してブレーキを握るまでのわずかの間に魔力に支配された彼の脳は目まぐるしく次の手段を幾通りも模索する。強行突破か、それとも迂回か。
 強行突破を試みればその辺で同じように検問を張っている警官を呼び寄せてしまうだろう、しかし迂回路はオベリスクを大きく回って今の倍以上の距離 ―― 。
 いや、ある。たった一つ。でもその道は。
 
 迷っている暇はなかった。コウはハンドルを左に切ると脇へと伸びるもっと小さな畔道へとモタードを乗り入れる。ライトを切って月明かりだけで走るにはその道はあまりにも狭く危うい、だがそれでもオークリーに最速で届くその道を誰にも気取られずにたどり着くにはここを通るしかない。
 あの時のようだ、ガトーを探してたった一人で三号機のコックピットに座っていたあの時と。真っ暗な宇宙でかすかな星明かりを頼りに俺は必死で奴の居場所を探した。そこに辿り着くまでの道は細くて険しい一本道、なにも言わないモニターと悪戯に過ぎてゆく時間と。
 そんな時でも俺は彼女の声に救われた。ニナはそうやって何度も何度も俺に救いの手を差し伸べていたはずなのに、俺は。
 パトランプの光が遠ざかってコウの視界から消えたところで現れた十字路、彼は迷わず針路を右にとる。そのまままっすぐ行けば選択肢として除外したオベリスクの周回路に、T字路を左に曲がって少し行った先に目的の場所がある。
 そこはオベリスクの脇を通る軍関係者以外誰も知らない基地へのショートカット、ヘンケンがこっそり使うその道をコウは知っていた。だがアイランド・イーズ落下の爆心地であるそこは地形が大きくえぐれて波打ち、粉々になった岩が大小の瓦礫となってあたり一帯を覆い尽くしている。四輪駆動車ならともかくこいつで行くには ―― 。
「 ―― もう、ここしかない ―― 」曲がる事すら困難なグラベルを目の前にしてごくりと喉が鳴る、しかし彼はそのまま一気呵成にモタードを右へと傾けた。開きっぱなしの錆ついた門が道行きの険しさを暗示する、しかしコウはそのまま車体を滑らせながら猛然とその荒野へと突っ込んだ。ドリフトに長けたマシンといえどもグリップのほとんど効かない砂利の上を駆け抜けるのは至難の業、コウの視界が一気に左へと流れたまま止まらない。
「くそっ!つかめっ! 」空転する後輪が星空を覆い隠すほどの土煙を巻き上げて悲鳴を上げる、ここで倒れればおろし金で卸したよりも酷い事になるだろう。右側に迫る地面を身近に感じながらコウはアクセルを煽ってドリフトのコントロールを試み、そしてそれは間一髪成功した。前後に履いたミシュランのごついトレッドは石つぶての下に隠れたわずかな地面を思いっきり掴んで後方へと蹴り飛ばす。体勢を立てなおしたモタードから再び灯るヘッドライトが指し示す忌まわしいオベリスクの根元へと向かいながらコウはその先で見え隠れするほの明るい地平線を睨みつけた。

                    *                    *                     *

 ディスクを握りしめたニナが立てた膝に手を当てて渾身の力を込めた。こめかみがずきずきと痛んで全身の関節はきしんで動き辛い、でも。
 ―― まだ走れる。
 ラップトップを拾い上げたニナが思いっきり廊下を蹴った。何度も足がもつれて転びそうになりながら、それでも必死に通路の端を目指して瓦礫の海を駆け抜ける。逃げ切れる自信なんかない、生きる事はもっと。だけど。
 何でもいい、あたしが今日生きるための理由を。

 コウがマークスに譲ったシャツを彼に返すために、前へっ!

 男が仕掛けた爆薬の破壊力は彼が想定していたよりも強く激しいものだった。モンロー効果によって吐き出された衝撃波は確かに耐爆扉の破壊には成功した、が通路で圧縮された空気が出口側の扉まで吹き飛ばしてしまうとは考えてもいなかったのだ。照明ごと廃墟と化した通路内を彼らはハンディライトで照らしながら、そしてそこにあるべき女の死体を捜しながら出口まで歩かざるを得ない、その時間がニナがその場から逃げだすために役立った。
「いたぞっ! 」ポイントとして先行していた兵士の叫び声に導かれた分隊は渡り廊下を駆けていくニナの姿を見るなり一斉射撃を始める、しかし廊下のガラスが全部壊れるほどの弾で追い撃ちをかけても彼女の足を止める事は出来なかった。狩りの獲物になったニナはそのまま次の建物へと飛び込むと見せかけてすぐ脇の階段から上の階へと消えていく。
「ちっ、さすがに賢い」
 苦虫をかみつぶした男がそうつぶやいたのには理由がある、もし彼女がそのまま次の建物へと飛び込んだのなら自分達は壊れた壁から部隊の半分を送り出してそのまま挟み撃ちにできた。だが階上に上がった事で自分達は彼女の後を追わなくてはならない。なぜならその建物には階段が一つしかなかったからだ。
 もしかしたら撤退したこの基地の陸戦兵たちがこの上で待ち伏せしているかもしれない、その可能性を考えるとウサギ狩りよろしくめったやたらと獲物の後を追いかけるのは危険だ。
「こちらの動きは限定されるが追わない訳にはいかないからな。全員全周警戒で女の後を追うぞ、各階での敵のアンブッシュに注意しろ」

 つづら折りに各階に設置された階段はそこが本来のオークリーの格納庫であった名残でもある。今は増えてきた兵士の数に対応するために建て替えられて夜勤専用の仮眠所等にはなっていたがなぜか通路の構造はそのままになっていた。雨の日になると陸戦隊やらマークス達が混じってこの廊下を走っているところをみるとここを設計した誰かはこの建物を雨天用のトレーニング施設にしたかったのかもしれない。ゆえに五階まであるその通路を全力で走る事は普段運動していないニナには厳しかった、現に太ももはパンパンに張ってふくらはぎは今にも痙攣しそうだ。
 それでも彼女は一縷の望みをその出口に賭けていた。次の建物に通じる連絡通路は一階と五階、そこから次の建物に侵入してもすぐに非常ハッチが待っている。つまりメインサーバーにハッキングをかけてハッチを開けるまでの時間をどうしても確保する必要があった。一階ではその時間をあの状況で確保する事は難しかった、でも最上階まで登ればもしかしたらその時間が稼げるかもしれない。
 中央電算室の扉を通り過ぎてつきあたりの階段を駆け上がって五階の廊下に、そこからは出口まで一直線。
 顎が上がって息が苦しい、みぞおちの辺りが猛烈に差し込む。しかし残りわずかとなった体力が底を尽く前に彼女はなんとかそこに辿り着いた。古びたドアノブに手をかけて思い切り握りしめる。

 だがそこだけがニナの予想に反していた。今まで閉まったところなど見た事のないそのドアが、びくともしない。

 慌てたニナが何度も何度もドアノブを捻るがカチャカチャと音を立てるばかりで開こうともしない、全ての体重をドアに預けても薄っぺらな鉄の板は何の反応も示さない。おろおろと途方に暮れたニナがせめてどこかに隠れなければとあたりを見回した矢先にその声は聞こえた。「主任か!? 」

 すぐ脇のドアの陰から声の主は廊下へと飛び出してきた。軍服の上着の裾はズボンの外に出したまま、いかにも慌てて身支度した形の男はアサルトライフル片手に部屋のベッドをニナの前へと押し出した。
「トンプソン曹長!? 」びっくりしたニナが彼の名を呼ぶ、かつてコウが出て行くのを止められなかった門番の名を彼女ははっきりと覚えていた。
「俺がしんがりだと思ってたがまだ後ろがいたとはな。まだ誰か残ってるのか? 」そう尋ねるトンプソンにニナは小さく首を振る。「そっか。 …… ずいぶんと派手にやられちまったモンだ」
 淋しそうな口調で彼はそうつぶやくと急いで部屋の中へと取ってかえして小さな弾薬箱を持ってきた。スナップを外して鉄の蓋をあけると中には装弾された予備の弾倉が整然と並んでいる。トンプソンはそれを取り出してベットの影に並べた。
「しかし俺も逃げだそうと思ったら足元で大きな爆発がしてここの扉がこのざまだ。ま、それでも主任がここまで来れたのなら運がいいのやら、悪いのやら ―― チッ、もう来やがった! 」肩づけにしたライフルから弾が三発、反対側の通路の壁を削って火花を散らす。撃ち返してくる弾は拳銃弾にも使われている9ミリ、その弾ではこの鉄製のベッドは抜けない。
「曹長、このままじゃ ―― 」ぷすぷすとマットレスにめり込む着弾に頭を低くしたニナがトンプソンへと目を向けると彼は少し深刻な声でニナに訪ねた。
「主任、あんた銃を握った事はあるか? 」

 驚くニナの目の前に差し出された拳銃は彼女が見た事もない形をしていた。連邦の制式拳銃とは一線を画した無骨なフォルムと銃口の大きさ。蒼く光るスライドにはかすかにコルトの字が見て取れる。「こいつでドアの鍵を撃ち抜くんだ、ほんとは俺の仕事なんだが今回は主任、あんたに譲ってやる」
「でもその後は? いつまでもここで敵の足止めなんてできっこない」
「俺はC-4を三分の一だけ預かってる、あんたと俺が連絡通路を抜けたら向こう側からこいつでズドン」そう言いながらもトンプソンは正確な三点バーストで敵の頭を押さえている。「な? 簡単だろ? 」
 あっさりというと彼はライフルの引き金を引きながら左手でその拳銃をニナへと差し出した。ずっしりとした鉄の重みと冷たさに驚きを隠せない彼女に向かって鋭い口調で指示した。「セフティは外してあるからスライドを引いてっ! グリップは絞り込むように両手で握るんだ、手を伸ばして照準を合わせてっ! 絶対にひじの内側が自分の方を向かないように、45口径だから反動がすごいぞっ! 」
 まるで教官のような口調に「はいっ! 」と大きな声で答えてニナは彼の口調の手順通りに銃を構えた。「引き金はそっと、強く握るなっ! 」
「はいっ! 」

 こんなものを建物の中で撃っちゃだめだ、とニナは思った。

                    *                    *                    *

「一番二番、キャニスター装填。目標、敵施設任意」ハンプティの指示に従ってAIは忠実に命令を実行する、タンク後方の扉が開いて今までとは一風変わった弾頭が薬室へと送り込まれる。「どうやらブージャム達がハンガーに辿り着くまで彼らの援護ってところか」
「 “ ならば俺はここでは用なしだな ” 」今後の展開を退屈そうに予測するハンプティの耳にラース1の暗い声が届いた。「 “ じゃあここからは俺も時間つぶしをさせてもらう ” 」
「 ―― 明確な命令違反だな、そりゃ。ダンプティがお前に割り当てた仕事は俺の護衛と弾着観測、不測の事態に備えて指令車との連絡中継。それ以外の行動はぜーんぶ命令違反だ。違反を犯した者がどうなるかはお前が一番よく知ってるはずだろう? 」
「 “ 知っている。では ――  ” 」ラース1はするりと黒塗りのマチェットを腰のハードポイントから外すと瞬時に隣に立つガンタンク最上部のコクピットめがけてその切っ先を突きつけた。「 “ なぜサリナス組は生きてこの作戦に全員参加している? ” 」

 砲撃手はいかなる状態に置かれたとしても常に冷静沈着でなければならない、ハンプティはモニターに映り込んだマチェットの切っ先を横目で見ながら冷や汗を流した。「まさかそれで俺をズブリ ―― ってこたぁねえよな? 」
「 “ 見逃してくれるのならばそんなことはしない。だがお前は俺たちを最後に殺すためにこの丘の上に陣取った。全員の姿を常に射程の中に収めておけるこの場所をな ” 」
「ご明察。で、お前さんは俺に命乞いか? 」白状したハンプティの表情はAIと繋がる巨大なバイザーに隠されている、だが命令を下すためにむき出しになったその口が強がったように大きく歪んで笑った。
「 “ 無意味だな、俺たちはもう死んでいる。一人残らず ” 」

 崖を滑り降りる黒いクゥエルの背中を眺めながらハンプティはほっと溜息をついた。どうやら当面の間の命は保証されたらしい、だがこれからが問題だ。むざむざと命令違反を見過ごした自分の事をダンプティが知ったらどうなるか、多分この作戦が終わった後に自分もラース1と同じ裁定が下るだろう。それを回避するにはどうすればいいか? 最も確かな方法はどういう形であれ彼を撃破する事だ、だが自分を狙っているのが俺だと知ってしまった以上彼のスキルを超えて狙撃を成功させることは難しい。なんせ至近距離からの銃撃でも何なく躱すだけの技量と機動性能をあの機体だけは持っている。
「 …… 一応ダンプティには状況を説明しといたほうがいいか」

「どうも今回は予想外の事が多すぎますな」ハンプティからの通信を切ったケルヒャーがしみじみとこぼした。「ラース1が持ち場を離れるとは …… だから私は反対したのです。最前線でこそ持ち味を発揮する彼を最後方に置くなどどだい無理な話でした、それなのに貴方は ―― 」
「時間つぶしをする、と言ったのだろう? 奴は」ケルヒャーの訴えに答えるダンプティはにやりと笑った。「それでいい、奴をあそこに置いた甲斐があった」
「どういう事です? 」
「もっともらしい理由をつけてラース1をあそこに配置したのには他に訳がある。遠目から施設全体を見渡せる場所で初めて効果を発揮する、奴の持つもう一つのスキルが役立つ。ただどこに行くかまで教えてくれればよかったんだが」

 派手な爆発で照らし出された滑走路、炎を吹き上げるゲルググの陰から飛び出したモビルスーツの影を彼の夜目は見逃さなかった。一瞬だけ点火されたバックパックから伸びる炎、機種は分からないが機数は三。そして彼の勘がこうささやいた。
 後ろに続く二機のうちのどちらかが ―― アデリア・フォス。
 やっと、やっとっ! 誰にも邪魔されずに俺の望みがかなう時が来た。勝つにせよ負けるにせよ俺は今晩ここで死ぬ、だから最後の最後に訪れたこのチャンスを絶対に逃す訳にはいかない。あいつが俺を殺して俺をこの地獄から解き放ってくれる、そして俺はあいつを殺して俺の代りに背負った罪からあいつを解き放つ。そうしてベルファストから続いた俺の願いはやっと叶えられる。
 つらかったぞ、苦しかったぞっ! お前もそうだろうっ!
 だがそれも今晩で終わりにしよう、お前の正義がお前を全部焼きつくしてしまう前に、俺がお前を穢してやるから待っていろ。
 アデリア・フォスっ!

 ガンタンクの砲身が動き始める、仰角を大きく取ったそれは装填したキャニスターに仕込まれた子弾を最も効果的に散布できる高さに照準を固定する。「仰角よし。AI.高度100メートルで散布するように設定」
 命令を受けたAIから確認と調整が終了した緑のシグナルを目にしながらハンプティはさっきの通信を思い返していた。幾通りもの言い訳と対策を考えていた彼に肩透かしを食わせるダンプティの無関心な反応、まるでそうなる事をあらかじめ知っていたかのような返答に彼は一抹の不安を覚えた。命令違反を二つも見逃すなんていつもの隊長らしく、ない。
 もしかしたらラース1の反応こそが彼に与えられた本当の役割だったのか? じゃあ奴は俺の護衛と言う任務を放棄していったいどこへ向かったんだ? タンクを単機で置き去りにするなんて戦術の常道から大きく外れている、もしこんなところに敵が飛び込んできたりしたら ―― 。
「 ―― なーんてこと、ないない。来たら来たで返り討ちだ」すでに衛星使用の許可はもらった。これでどこから近づいてこようとすぐに敵の位置も粛清対象の位置も捕捉できる、奴の腕や勘に頼らなくても。
「一番先行、二番はその三秒後。キャニスター発射用意」

「全員に達する、敵のモビルスーツがどうやら動き出した」ダンプティに先行して傍らに立つトーヴ1のクゥエルに火が入る。「現在ラース1が迎撃のために会敵地点へと移動中、これに伴って敵の戦力は漸減したものと思われる。本隊は作戦をサードフェイズへと移行、敵敷地内前縁に布陣して突入準備に入る」
「いよいよだな」アイドリング位置からミリタリーまでパワーゲインしたダンプティが命令を終えたケルヒャーに声をかけた。「ここからが本当の作戦だ、うまくいけばいいが」
「 “ 予定外も含めてまだこちらの想定内です。ただこれ以上状況が悪くなるならこれはもう実戦経験による直感に従わなければならない ―― 大丈夫、頼りにしてます。そうなった時のための、貴方だ ” 」
「誰かの上官と言うのはしんどいものだな、これなら従っている方がよっぽど気楽でいい」ダンプティはそう言うと偽装用のケブラーシートを自らの手で払ってゆっくりと立ち上がった。

                    *                    *                  *

 こんな音は今まで聞いた事がない、バックパックを全開にしたってこれには遠く及ばない。
 真っ白になる視界と肩が抜けたかと思うほどの激しい反動、大きな銃口から吐き出された炎と金属が粉々に砕ける音、その全てが一瞬。銃を握った手が大きく持ちあがって尻もちをついたニナが目を白黒させて天井を拝む、通路と言うトンネルを席巻した射撃音は敵味方の交戦を一時的に中断させてしまったほどだ。
 耳がキンキンして音が聞こえづらい、しかし一時的に難聴になった彼女の耳に次に聞こえたのは硬い金属が床へと転がる音だった。素早くマガジンを交換したトンプソンがニナへと視線を送る。
「上出来だ、主任」くいっと顎でドアを示すとそこにはつっかえた物がなくなって大きく開いた鉄の扉があった。渡り廊下の向こう ―― 管理棟までの道は完全にクリアだ。
「さ、早いトコ行った行った。ここじゃ主任にゃ用事はないがあっちはあんたが来るのを今頃首長くして待ってるはずだ、ここの時間稼ぎは俺に任せて早いトコ渡っちまってくれ」
 ニナが小さくうなずくとトンプソンはにやりと笑って引き金を引く、三点からフルに切り替えた弾着が廊下の向こうで火花を散らす。「五秒っ! いけっ主任っ! 」
 連続する射撃音を背にニナが渡り廊下へと駆け出した。多分このワンマグを撃ち終えるまでに彼女はここを渡り切るはず、それから自分は ―― 。

 その時トンプソンの耳に昔嫌というほど聞いた恐ろしい音色が飛び込んできた。空の上から徐々に大きくなる笛の音、それは彼を、彼らを何度も窮地に陥れ大勢の仲間を一瞬で殺戮した、あの忌まわしいっ!
「! クラスターだっ! 主任、走れぇっっ!! 」



[32711] Awakening
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/11/04 19:29
 時間差で放たれた二個のキャニスターから軽やかに放出される何十個のも子弾、それ一つ一つの威力は小さくても人を殺傷し建物を破壊するだけの破壊力は有している。ドラムロールのような爆発音の連続とあっという間に煙の向こうへと姿を消すオークリーの建物を、登り始めた山の麓で歯ぎしりをしながら眺めるしかないマークス。
「畜生っ、 俺たちの家をよくもっ!」
 
 とうとう始まったか、と心の中でつぶやくキースにはこの後の展開が予想できる、この後に同じような飽和攻撃が続いて敵の火力が沈黙したところで本格的なモビルスーツの侵攻が始まるだろう。敵の心理にまで迫ったマルコの立てた戦略は現時点の戦力を考えると最適解だと思う、しかしそれは俺が重砲を仕留めるまで敵が動かなかったらという前提。
 何かのきっかけや手違いで万が一動き出してしまったら?
「マークス」キースはすぐ後ろに続いて山を登ろうとする緑色のザクに手を伸ばした。
「ここからは俺が一人で行く、お前はアデリアと一緒にマルコが予想した敵の配置地点へと向かえ」
 命令を受けて一瞬驚いたマークスだったがその意図はすぐに分かった。このどさくさにまぎれて敵が動き始めればこちらの守備隊はマルコとアンドレアの二機しかいない。いくら欺瞞を精いっぱい施したとはいえ交戦すればいずれその計略はばれてしまう、そうなる前に先手をとる。
「  ―― 敵の本体に横槍をいれて、できれば数を減らせってことですか」
「そうだ。ただし絶対に無理はするな、ダメージが10パーセントを超えたら交戦を避けてハンガーへ侵攻する敵に陽動をかけろ。それまでにお前たちが動きやすいように俺が重砲を仕留める」
「 “ どうやらそれが一番やりがいありそうですしね ” 」 マークスの背中に手を当てたアデリアが冷静な声で答えた。バスケスを失ったショックからどうやら立ち直った ―― いや違う。悲しみを埋め尽くしてもあまりある怒りが今の彼女の原動力だ。そしてこうなった時のアデリアは、手強い。
「 “ 重砲は隊長にお任せします。兵曹長の仇を ―― お願いします ” 」託す彼女の声が、震えた。

 山の麓から下る二人の背中を見送ったキースは少し登って見晴らしのいい稜線へと辿り着いた。そこで彼はライフルの銃身に備え付けられた単脚を下して ―― いかにも実戦的だ。三脚トライポッドでも二脚バイポッドでもなく単脚モノポッド。どういう体勢からでも銃身を固定させる事が可能だ ―― 静かに基地の方へとスコープを向ける。
 思ったよりもひどい有様だ、たった二発でここまで荒らされるとは。
 耐爆仕様のハンガーが無傷なのは当たり前だがその他の建物への被害は甚大だった。至る所が崩れ落ちて滑走路や正門前の道路は使用不可能な状態が遠目に見て取れるほどの大穴があいている。ガスに引火して炎を上げる士官宿舎を見つめながら、本当にこれで陸戦隊は持ちこたえられるのか? と嫌な疑問が頭をよぎった。その疑問の先にはもちろんニナの安否が最優先に存在する。
 やがて予想通りに彼の頭上を飛び去る砲弾の音が再び聞こえた。何のためらいもなくオークリーの敷地内へと向かったそれは上空でポスンという間抜けな音を発して半壊した建物へと落下する。その後を追って零れ落ちた子弾は散布された範囲にある一切合財をまとめてガラクタに変えてしまう、中央電算室のある建物と管理棟を繋ぐ空中回廊などは直撃を食らって大きく折れ曲がってしまったほどだ。
「くそっ! いったいどうすれば」
 自分がこんな立場でなければバスケスの役目は自分が買って出た。一目散にニナの下へ向かって安全を確保するべきなのにそれすらもできない、しかしここで戦列を離れてしまえばそれこそ本末転倒だ。オークリーは敵の手に落ちてしまってニナどころかモウラの命まで危うくなる。
 優先順位のつけられない二択を迫られてどうしようもなく焦りばかりがつのる。まんじりともせずただ自分の基地が壊れていく様を見つめていたキースはその時、突然この場面にそぐわない間抜けな音を耳にした。

 自分の胸ポケットから流れるとある行進曲、子供に大人気のアニメの主題歌なのだがこの緊迫した場面では怒りを逆なでされたように思える。
「誰だこの取り込み中にっ!? 」
 空気の読めない発信者にいら立ちながら、とり出した携帯を耳にかけてホログラムを展開するとそこにはアラート勤務の時に見た番号と同じ数字が並んでいる。どこの業者だと心底怒りながらせめて罵声の一つも浴びせてこのもやもやした気分を晴らしたいと思ったキースは発信ボタンを押して開口一番声を荒げた。
「どこのどいつだこんな真夜中にかけてくるバカはっ!? 」
 あまりの勢いに気圧されたのか電話の主は何も言わない、いよいよ頭にきたキースは次の一言でそのまま電話を切ろうと大きく息を吸い込んだ。
「 ―― キースか? 」
 絶対に忘れようのない遠慮がちのその声に彼はそのまま呼吸を喉に詰めてせき込んだ。

                    *                    *                    *

 足元全体で弾ける無数の花火が放つ衝撃波はニナが踏み込んだ空中回廊の床が大きく揺らし、一度は走る決心を固めた彼女だったが二十メートル上空にあるトラス構造の頑丈な造りがきしむほどその爆発は激しかった。床のうねりに足をとられて思わず手をついたその背中にトンプソンの催促が大きな声で叩きつけられる。「早くっ! すぐに次が来る、今のうちに向こう側にっ! 」
 思わず振り返ったニナの目に丁度被弾したトンプソンの背中があった。ジャムを起こしてリリースボルトを引いた彼の肩から血しぶきが舞い、わずかな隙も命取りになるその状況で彼はそれでも苦痛の声一つ上げずに再び引き金を引く。それでも彼がわずかに怯んだその間に全力射撃を試みた敵の銃弾はバリケードを乗り越えてニナのいる通路へと殺到した。壁を削って弾道を変えた弾がニナを掠めて次の建物の壁にいくつもの穴を穿つ。
「きゃあっ!」
「叫ぶ前に前を見ろっ! 這ってでもいいから先に進め、一歩でもっ! 」マガジンを二個掴んで敵の頭を何とか抑えたトンプソンから檄が飛び、決意したニナがトンプソンの背中から視線をそらせて再び前を向く。しかし彼女の決意をあざ笑うかのように、その音は再び二人の真上から始まった。
「早く行けっ! ニナ・パープルトンっ! 」
 甲高い音は銃撃の音を次第に凌駕してニナの耳を埋め尽くしていく。降り注がれる恐怖と闘いながら彼女は必死で回廊の床を蹴った。

 前傾姿勢を保ちながら必死で向こうの建物へとひた走るニナ。がら空きになった背中を守る為にトンプソンは手にした二個のマガジンをそのまま間髪いれずに撃ち切った。残弾は ―― 。
 その瞬間紙に穴でも開けるような音と気楽さで一個の子弾が通路へと飛び込んだ。左手で床に立てたマガジンを探しながら彼は背後で放たれる閃光と衝撃を予感しながら心の中でつぶやく。
 “ ちっ、ドアぐらい閉めときゃあよかったぜ ” 

 床に設置したと同時に炸裂した子弾は内部に仕込まれた鋼鉄製のカッターを四方八方へと吐き出して周囲の物を全てずたずたに切り刻み、回廊の基部を構成する鉄骨が切断されて小さな炎が外部へと噴き出した。爆風で背中を押されたニナが無数の破片と共に重力に逆らって向こうの建物まで吹き飛ばされ、その勢いは廊下を滑ってつきあたりの部屋のドアを背中でつき破るまで止まらない。
 すぐさま起き上がって残った痛みに思わず顔をしかめる。自分の状態を注意深く調べてみると体のあちこちから血が出ていたが、対人クラスターの及ぼす想定被害から考えればそれは奇跡に近い怪我だ。再び痛めつけられた背中を抑えながら立ちあがって部屋の外へと歩み出すと周囲の壁には無数の破片が深々と突き刺さっている。どうやら廊下へと滑りこんだ事で襲いかかる二次被害を最小限に抑えられたようだ。
 でも。

「 …… 通路が」
 自分が駆け抜けてきた回廊はすでに通路としては成り立たなかった。構造を切断された通路は鉄骨の重みでくの字に折れ曲がり、彼女の目の前にはボロボロに壊れた天井が視界を遮っている。「曹長っ! 」
 斜め下に向かって伸びる通路へと身を乗り出して叫ぶニナの声に返事はない。彼女はもう一度トンプソンに向かって叫んだ。
「曹長っ! 無事なら返事をしてっ! トンプソンっ! 」
「 …… どうやら主任も無事だったみたいだな、怪我は? 」とぼけたように帰って来たトンプソンの声にニナは安堵の笑みを浮かべた。「あたしは無事っ! 曹長、あなたも早くっ! 」
 まるでニナの叫びに反応するかのようにぐらぐらと揺れる、つり橋と化した回廊。折れた端で丁度向こう側の景色が遮られてよく見えない。だがその時明るい月明かりに照らされた向こう側の坂の上からつつっと流れてくる黒い筋がニナの視界に侵入した。悲鳴を上げそうになって思わず両手で口を押さえる彼女に向かってトンプソンの声が届く。
「さ、あんたは早くハンガーに向かってくれ。俺はどうやらここが終点だ」

 背中を血だらけにしたトンプソンは爆風と着弾の衝撃でベットに上体を預けたまま動けなかった。だが手にした最後の予備弾倉だけは手放さなかった、俺はツイてる。
「バカなこと言わないでっ! 今からあたしがそっちへ行って ―― 」おいおい、主任。それじゃあ ―― 
「バカはあんただ、そんなコトしたら俺はここでムダ死にじゃねえか。それにこの怪我じゃあもう俺は動けねえ、かまわねえから置いてってくれ」

 押し寄せる悲しみと噛みしめる無力さ。打ちひしがれるニナの両目から零れ落ちていく涙が目の前の床にしみを作った。助ける事も出来ない、助けも呼べない。ただ逃げることしかできない自分が関わる者を死へと追いやる厄災のように思えてならない。小さな嗚咽が回廊に流れ、それを打ち消すように再び銃撃戦が始まった。
「実を言うとな、最初から俺はここに残るつもりだったんだ、うそじゃねえ」
 トンプソンの告白にニナはうるんだ瞳を見えない向こう岸へと向けた。

                    *                    *                    *

 おい茂った森の斜面の中からその黒塗りのクゥエルはその先の稜線で匍匐したままの機体を静かに眺めていた。武装はデータベースにもない長距離対物ライフル、機種はセカンドロットのジム。遠距離タイプではないがどうやらパイロットはそのスキルに長けているようだ。
 ステルスモードで移動を続けているラース1がそのジムに背後から忍び寄って仕留めるのは至極簡単なように思える。ましてやそれがハンプティを撃破するために移動しているというのならなおさらここで見過ごすわけにはいかない。
 しかし彼はそのまま動かない。暗闇の中でじっと獲物の姿を眺めていた彼はやがて何かを思いついたようにそっとその場から離れて再び木々の間を静かに下り始めた。

                    *                    *                    *

「こ、コウっ!? 」自分の上げた素っ頓狂な声に自分が驚いた。そんなのここ最近した事がない。「ど、どうしたんだよこんな夜中に」
「 “ ニナは ―― 無事か? ” 」コウの言葉に二度驚くキース。どこにいるかも ―― いや、だいたいの場所はモウラから聞いて知っている ―― 分からないお前が何で電話でそんな事を俺に尋ねる?
「どうしたんだよ、一体? ニナさんなら今頃もう自分の部屋でぐっすり ―― 」
「 “ 嘘は言わなくていい、もうそっちの音が聞こえるところまで来ている。 …… ニナは無事なのか? ” 」
 来ている? こっちに向かってるってことか? なんで? 「おい、コウ。おまえ ―― 」
「 “ ―― 詳しく説明している暇はないからよく聞いてくれ。敵の狙いはニナを殺す事だ ” 」
 キースの口からもう何の声も上がらなかった、むしろ湧き上がってくる疑問。
 こいつ、本当にコウなのか?

                    *                    *                    *

 トンプソンとの会話と状況が次々にニナの脳裏によみがえる。彼がしんがりだったという事、爆薬を持っていたという事。この状況から逃げ出す算段をすでにしていたという事。
 あたしが銃であの鍵を壊さなくても彼は自分でできたはずだ。でもそうせずに敵をここで迎え撃ったということは ―― 。
「頭のいい主任ならなんとなくわかンだろ? そんなのが何人か手分けして時間稼ぎに回ってる。大分数は減っちまったが俺達ァ腐っても陸戦隊なんでね、ただ殴られっぱなしっつーのは性に合わねえ」
「だからってそんな ―― 」
「足止めに回った連中の仇は残った連中が必ずとってくれる、ンでもって。」カチャンと床に落ちる金属の音。
「あんたも、そうしてくれんだろ? 俺なんかのために」
 もちろんだ、というその一言が今のニナには言えない。励ますことすらできない自分にぎゅっと唇をかみしめる。「曹長、あたし ―― 」
 その声をかき消すように再び銃声が鳴り響き、緊迫した声のトンプソンが見えない向こう岸で叫んだ。
「さあもう時間切れだ、どうやら俺の弾が少ない事に敵が感づきやがった。主任は早くハンガーに行くんだ、間違ってもそこにいるんじゃねえっ! 」
「曹長っ! 」
「行くんだ、ニナパープルトンっ! 」名前で呼ばれたニナがビクッと身震いした。
「俺はあんたを死んでも一緒に連れてかねえ、それでもあんたはここで俺と心中したいってのか? そんな最期があんたの望みか!? 」
 トンプソンの叫びにラップトップをギュッと握りしめて彼女は精一杯の声を張り上げた。
「 ―― ありがとう、曹長っ! あなたの事は最後まで忘れないっ!! 」

 いい返事だ、と心の中でつぶやいたトンプソンは撃ち切ったライフルを放り投げて愛用の銃を握った。手に伝わるわずかなぬくもりに小さく微笑む。
 そういやさっき主任が使ったんだっけ、道理で。
 最後に会ったのがあんたでよかった …… 本当はあんたに謝りたかったんだけどどうも俺はそういう間が昔からいっつも悪くてなぁ。あの時せめて伍長を引きとめて最後にあんたに会わせてあげればもっと違った未来があったのかも知れないって今の今まで後悔してた。
 心残りだが今となってはあんたにできる罪滅ぼしといったらこんなことしか無え、だから必ず生きて。
 ―― 伍長にもう一度会いなよ、ニナ・パープルトン。
  
 45口径の生み出す強烈な反動ブローバックに血を失った体が大きくきしむ。しかしトンプソンはそれでもとりつかれたように引き金を引き続けた。油断して前に出てきた何人かは体をくの字に折り曲げてその場にうずくまったまま動きを止める。
 当たり前だ。
 いくら防弾チョッキ着てたってこの銃の前でそんなペラペラが役に立つものか。そういう事のために大昔に開発された銃なんだからな。
 何人もの道連れを生み出す守護天使の心強さに自然と笑みがこぼれる、それは全弾打ち切った事を教えるスライドロックが掛かってからも彼の表情を支配していた。鉄の塊と化したそれをベッドの縁に預けたままにやりと笑ったトンプソンは呟いた。
「 …… さあカンバンだ、お客さん」

 その声が届いたのかとたんに激しくなる銃撃は今までのうっ憤を晴らすかのように彼の下へと殺到して、その先鋒は力を失くした彼の手から年代物の銃を弾き飛ばして後ろのドアへと叩きつけた。はずみで外れたスライドがコロコロと音を立てて斜めになった回廊の床を転がり落ちていく。続けざまに突き刺さる何発もの銃弾はその衝撃で彼を仰向けに廊下の床へと押し倒した。
 今にも撓んでいきそうな意識を必死でつなぎとめたトンプソンはやっとの思いで背後に隠したC-4に雷管を差し込み、痙攣する手をそっとポケットの中に差し込んだ。あとは ―― 。
「この野郎、よくも手こずらせてくれやがったな」
 機関銃を構えて足元に立った兵士の姿へと視線を向けたトンプソンは、まだ何も知らない彼に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「 …… 残業、ご苦労さん。粗末なモンで悪いが、さしいれ、だ」

 閉じられた非常ハッチのすぐそばにあるアクセス端末にソケットを差し込んだ瞬間にそれは起こった。通路じゅうを照らし出すまばゆい光と衝撃、ニナの体を吹き飛ばさんばかりの爆風。体がよろけてドスンと非常ハッチへもたれかかるニナの目から大粒の涙がこぼれた。自分のそばで誰かが殺されるたびに湧き上がる感情、悔しさや憎しみや怒りが全てごちゃ混ぜになって絶望を上書きしていくその感覚は今までに味わった事のない痛みを彼女の細胞の隅々にまでいきわたらせる。
 細胞組織の賦活化が彼女の体温を上げて血流の勢いが変わる、そしてそれは心臓から脳へと到達した瞬間にトリガーとなって彼女が生まれてから今まで封印され続けてきたある因子を神経細胞全体へと伝達した。
 生物の進化とは決して喜びや楽しみから生み出されるものではない。
 そのすべては苦痛から始まるのだ。

                    *                    *                    *

「そういやお前、よく俺の携帯覚えてたな?」電話の主の真偽を計る為にキースの選んだ質問がそれだった。できるだけ普通を装って、しかし耳は相手の動揺のかけらも見逃さないように注意深く。
「 “ 当たり前だ。ナイメーヘンで無理やりお前が買わせただろ? 合コンの連絡に必要だからって ” 」間違いない、コウ本人だ。
「 ―― 疑って悪い。本当にお前から掛かってくるとはね。 …… で、なんでお前はそんな事を知ってる? 」
「 “ さっき俺のところへ匿名の電話がかかって来た。その相手が言うには今オークリーを襲ってるティターンズの特殊部隊の目的はニナの殺害だって言って ―― ” 」
「はあ? お、お前今何て言った? 」驚いたキースが思わずシートから立ち上がって天井のパネルに頭をぶつけた。「痛った。 …… ティターンズが、何? 」
「 “ 今オークリーを襲撃してるのはジオンの残党なんかじゃない、この前MPIのドイツ研究所で起こったテロ事件を鎮圧したティターンズの特殊部隊だ ” 」
「ちょ。ちょっと待て」 いきなりの展開にキースの頭が追いつかない。短い間に交わしたコウとの会話を思い返してみても何が何だか。
「コウ、お前大丈夫か? 言ってる事が全然わっかんねえしどう考えてもおかしい事だらけだぞ。だいたいなんでティターンズが何で俺たちを襲ってニナさんまで殺そうとするんだ ―― 」
 そこまで話してキースははっと思い当った。そうか、あの紛争の中核にいる関係者をジオンのせいにして抹殺するつもりなのか?
「 “ 今は言えない、でも多分今お前が考えてる事じゃない。もしそうなら奴らは真っ先に殺しやすい俺を狙ってきてる ” 」
 正確な状況分析と未来予測が奴の持ち味だ、とキースは電話の相手の正体により一層の確信を深める。と同時にその語り口が以前に会った彼とは全然違っている事に気がついた。かつてデラーズ紛争において自分が盾となる価値を見出したアルビオンの元エースパイロット。
 今のコウはあの時に戻っているようじゃないか。
「理由は、どうしても? 」困ったような、嬉しそうな微笑みがキースの顔に戻ってくる。今まで彼の代りに大きすぎる服を着続けたその見返りとしては十分すぎるほどだった。
「 “ すまない。もしこの戦いを生き延びる事が出来たら必ずモウラやニナの前で一部始終を話す。 …… 状況は? ” 」 
「予備役には話さなきゃな。マルコの分析だと敵は正門側と山側の両方向から敷地内に侵攻中、モビルスーツと地上部隊の両方だ。西の高台に多分タンクが陣取ってこちらを狙ってる ―― こちらの損失はゲルググが一機、バスケスが ―― 」
 言い終わる前に敷地内から大きな音が轟いた。キースのモニターに激しく損壊する情報処理棟と崩落する空中回廊が見える。
「 ―― 中央電算室が爆発した、どうやらあそこまで敵に入り込まれてるようだ」
「 “ ハンガーまであと建物四つ、か。ニナはどこにいるか想像できるか? ” 」
「多分ニナさんは避難トンネルを使ってハンガーを目指しているはずだ。それに陸戦隊もどうやら反撃に出ているらしい、もしそこに合流できれば彼女の身は安全だと思う」
「 “ そこに行ってみなけりゃ何も分かんない、ってことか ” 」

 推測や憶測でしか答える事が出来ないその状況が今のオークリーの窮地を物語っている。コウは不安定なガレ場の上を何度も飛び跳ねながら必死でキースの声を追っていた。湧き上がる不安と焦りがアクセルコントロールを徐々に荒くさせていき、その度に崩れそうなバランスを何とかギリギリのところで立て直す。
「わかった、キースはモビルスーツの方を抑えてくれ、ニナは俺がなんとかする」
「 “ 何とかするって、一体どうするんだコウ? ” 」
 尋ねられたところで具体的な、そして現実的なものは何もない。ただコウにはなぜかその確信だけが残っていた。根拠も理由もそれら一切を飛び越えて彼の心の中から生まれ出る、祈りに似た願い。
「俺が助ける …… 必ず、助けてみせる」

                    *                    *                     *

 重い体を非常ハッチから引きはがしたニナはトンプソンの最後の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返しながら目の前の壁にある端末へと指を這わせた。命をかけて救ってくれた彼のためにも自分はここで死ぬわけにはいかない、必ずハンガーに辿り着いてみんなの仇を ―― 。
 そこまで考えた時、急に頭の中で何かが弾けた。まるで脳の中で血が渦を巻くようにぐるぐると回っているような、そしてそこから枝分かれした火花のようなものが彼女を研ぎ澄ましていくような感覚。
「 “ なに、これ? ” 」
 そんな経験は生まれてこのかたした事がない。言ってみれば頭の中全体に電気の網がいきなり被せられたような感じだ。不愉快ではないがどことなく薄気味が悪い。脳震盪でも起こしたのかと小さくかぶりを振って何とか元の感覚を取り戻そうと試みるニナだったが一向に収まる気配すら見せない。
 これだけ人が死んでるのに今自分の心配をしてどうする、とあきらめた彼女は仕方なくもやもやした感じをそのままにして繋ぎっ放しのラップトップのキーを叩こうとした。
「 …… きゃっ! 」

 小さく悲鳴を上げたニナが開いている片手で頭を押さえた。スパークする思考が脳全体に広がって今にも零れそうなイメージ、頭の中のどこかがついに切れたんじゃないかと思うくらいの痛みが突然彼女に襲いかかった。ジーンとする痺れとくらくらする目の奥が異様に熱い、どこか深い所にあった何かが一斉に動き出して続けざまに繋がっていくのがはっきりとわかる。
「なに? …… あたし、どうしちゃったの? 」突然の変化に思わずつぶやいたニナの瞳孔が小刻みに震えている、このまま意識を失くして ―― いや、どうもそうじゃない。なぜなら。
 頭の中の全てが、クリアだ。

 宇宙空間のようにぽっかりと空いた隙間の中に突如として具現化した小さな球は超高速で回転して全ての情報を一元管理している。彼女の意思によって自由自在に動くその得体の知れないものは、彼女の自由意思でいつでもそこにある全ての答えをすぐに提示する事ができる。
 ここまではっきりとはしていないが彼女は以前にもこれと似たような事を体感した事がある。かつて自分が所属していたアナハイムのクラブ・ワークス。
 次世代機の構想概要とそれに付随する運用理論の構築、プログラミングの具象化と作成。GPシリーズ全機のOSの基本骨子となる基礎コマンドを一人で立ち上げた時にそれは起こった。ほんの一瞬だけではあったが彼女はアナハイムという巨大企業が誇るスーパーコンピューターの三分の一の処理能力をはるかに凌駕して瞬く間にとてつもない量の膨大な言語を書きあげている。追検算、デバッグも追いつかないその狂気はまだ若い彼女を一躍次期主力機動兵器の主任プログラマーへと押し上げる契機となった。
「始まりの言葉」として語り継がれるその事件を当の本人は何も覚えてはいない、ただそれが巷で言われる「ゾーン」という精神状態とは全く別物であるという認識はあった。時間も空間も意識すらもあいまいになってただ頭の中に浮かんだ言葉をそのまま書き連ねているだけの行為が結果的に完璧なものとして出来上がっていたにすぎないからだ。驚愕の目でその功績をたたえるオサリバンを前にしてもニナはうれしいとも何とも思わなかった。
 ただ不思議な体験をした、という子供並の感想しか思い浮かばなかったから。

 ずきんずきんとする小さな痛みを頭の芯に覚えながらニナはもう一度ラップトップのエンターキーへと手を伸ばす。一叩きすればこの中に仕込んだ暗証解析プログラムが動き出してあっという間にこの扉をこじ開ける魔法のワードを液晶に表示するはずだ。
 しかし彼女の頭の中では奇妙な事が起こっていた。一足先に小さな球から吐き出される何かが彼女の脳裏に文字を並べてこれ見よがしに提示している。数字とアルファベットの大文字と小文字が混在する6ケタ、それはいかにもこの扉を開くキーであると自分に教えているようだ。
「なに? なんでこんな事が ―― 」
 そう言いながらキーを叩くニナの前に、数秒の空白ののちに液晶へと表示された暗証コードは脳内に浮かんだ文字列と寸分違わずに一致した。

『コード認証確認、扉が開きます』
 無機質な合成ボイスと共に上へとせりあがっていくハッチの扉、呆然とそれを見送るニナが管理棟Cの廊下に姿を現した。



[32711] Encounter
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/11/28 19:43
『 ―― 『オピオイド』と呼ばれる脳内麻薬の分泌によって発生する精神の拮抗状態 ―― 『最期の救いラストサルベシオン』だと睨んでおる。つまり過剰かつ長時間分泌されるアドレナリンはこの麻薬様物質と拮抗し、伍長の体は異常に傾いたそのバランスを平衡に戻す為にそれを発生させる ―― 』

                    *                    *                    *

 宙を舞っている自分を納得させる確かな理由がコウには見つからない、今自分はグラベルを抜けて小高い丘を乗り越えようとしていたはずなのに、なぜ?

 青白い世界に投げ出されたコウの進路を照らし出した光は横滑りで穴へと落ちていくモタードが放ったヘッドライトから。刹那に垣間見た地面まではあと幾ばくもない。「 ―― ! 」
 声すら上げられないその時間で彼の体は反射的に保護姿勢を取った。両手を後頭部に回して衝撃に備え、全身の力を抜いて接地時の滑走距離をできるだけ抑える。大事な場所の骨さえ折れなければそれでいい。

 地面に叩きつけられたコウの体はもうもうと土煙を上げながらおよそ数十メートルを滑走し、小高い丘の上の傾斜へ乗り上げたところでやっと止まった。鍛え上げた強靭な肉体の持ち主とは言えその衝撃によるダメージが皆無という訳にはいかない、痺れを伴った痛みは体のあちこちから連鎖的に生まれてコウの表情を歪ませた。丘の斜面で仰向けに横たわりながらコウは打撲の衝撃と自分の視界が落ち着くまでじっと耐えるしかない事が分かっている、三半規管が極限まで揺さぶられた状態ではいくらそういう経験を繰り返してきたコウといえども動くことすらままならないのだ。光を帯びてとくるくると回る星が煌めく夜空を見上げながらコウは、いつか見た同じ景色をその時の憤りと共に思い出しながら ―― いやほんとはずっと心の中で抱え込んだままだった ―― もう二度と答えが出るはずのない疑問を口にした。
「 …… なぜ、ガトーはあの時俺を助けた? 」

                    *                    *                    *

 宇宙空間に浮かんでいる自分が実はまだステイメンの操縦席に座っているという現実を把握するのには数秒を要した。全天球モニターのあちこちが欠けているのに気がつかなかったらパニックを起こしていたかもしれない。
「ガトー …… 止めを刺さずに、行ったのか? 」
 ぼんやりと見上げながらつぶやいたコウは無駄だとは知りながら各機能のチェックを始める。ステイメンの動力で動いている以外の全ての機能がダウン、つまりオーキスは ―― 死んだ。
「ここまでして、何もできなかったのか …… ニナを失くして、大勢殺して。それでも奴には届かなかったのか」悔しさのあまりコウの目から涙がこぼれた。血まみれになった手を震わせながら彼はこの宇宙のどこかへと消えてしまった宿敵の言葉を思い出す。
 人殺しであるが故に大義を持つ ―― 奴は俺にそう言った。自分を殺してそれを成し遂げた時に俺の犯した罪は意味を成す。だがそれもできなかった。最後まで未熟者と怒鳴られながらあまつさえ命まで救われて俺はこの空しい世界に取り残されてしまった。
 こんな事になるのなら。こんな思いをするだけなのならいっそのこと隊長やケリーさんと同じ場所へと連れて行ってほしかった。自分がしでかしたこの重い罪を抱えて生き恥を晒しながら、それでもお前は俺に生きる事を強いるのか?
 たった一人で。
 
 バインダーロックを解除してオーキスとの接続を切ったステイメンは奇跡的に無傷のままだった。モビルスーツとしての全機能を回復したミノフスキーレーダーに映る小さな光点、すぐそばにあるそれに向かってコウは少しづつアポジをふかしながらゆっくりと近付く。待っていたかのように手に吸い込まれたそれはオーキスが彼のためにたった一つ残した携行装備ビームライフルだった。一度も使う事のなかったそれは残弾フルの状態でいつでも使用可能であることを火器管制パネルへと表示する。
 その時その隣にあるパネルが立ち上がって周囲の状況を探索するレーダーが作動した。彼のいる戦場 ―― そこはすでに動く者のない暗礁宙域だった ―― を中心に遠巻きに配置される多くの艦艇らしき影。味方の識別を示す青い点滅を見ながらコウはモニターの倍率を上げて顔を向ける、ほとんど無傷にも見えるその打撃群の中央にまるで王のように居座ったまま動かない、サラミス。
「あれは …… マダガスカル?  第一軌道艦隊旗艦がどうして」
 こんなところに、と言葉を繋ごうとしたコウの背筋に悪寒が走った。慌てて周囲の空へと視線を走らせる彼の眼に映る残骸の数々、ジオンの物だけじゃない、連邦軍の艦艇も。
 味方のジムまでっ!

 その配置が味方を救助する事ではなく、自分達が放ったソーラシステムの損害評価のための観察行動だと理解した瞬間に彼の記憶の中の欠片が全て一つに繋がった。観閲艦艇たるバーミンガムがあの宙域で敵のザンジバルと中途半端に砲火を交えていた事、その時撃沈したムサイの情報士官が星の屑の作戦要綱を持っていた事。ガトーが核を放った後に接近してきたコロニーを邀撃しようとした観艦式の残存艦艇が敵の罠にはまってコロニー落着に間にあわなかった事。
 そして阻止限界点の後ろで計ったように待ち構えていた無数の鏡。
 陰謀と言う名の恐怖がモニターに映るマダガスカルの背後で大きく黒い翼を広げる。だがそれに臆するどころか人としてありえない速度で次々にステイメンの機能を戦闘モードへと移行するコウ。炸裂する怒りが理性を焦がして善悪すらも凌駕する。無意識のうちではあるが彼はこの紛争の裏側で暗躍した真の敵の正体に辿り着いていた。
「許さないっ! 絶対に、お前たちがした事の償いは必ず俺が! 」

「大佐っ! ガンダム三号機がロックオン! 」けたたましい警報音がマダガスカルの艦橋を埋め尽くして航法士官はすぐさま回避運動の準備にかかる。しかし艦長席に座ったままのバスクは薄笑いを浮かべたままはるか前方にいる三号機を睨みつけた。「進路そのまま、ガンダムを回収する」
「えっ!? 」驚きのあまりそう聞き返すのがやっと。副官は彼の背後で凍りついたままカタカタと顎を震わせている。「 ―― 復唱はどうした、ガスティス?」バスクに促された彼は慌てて各部署へと命令を伝える。背後での混乱をよそにバスクは遥か彼方で銃を構えて命を脅かすコウに対して凄味のある小声でつぶやいた。
「 …… 小僧、できるものならやってみるがいい」

                    *                    *                    *

 遠い記憶が彼に再びあの日の怒りを呼び覚まして体の中に巣くったままの魔物が暴れ始める。血走った眼が夜空に隠れる敵の姿を追い求め、熱を帯びた両手の指が狂ったように地面をかきむしった。モタードを凌駕する獣の咆哮がコウの喉からほとばしり沈黙したままの荒野に響き渡って、次第に早くなる呼吸が横隔膜を痙攣させて鼓動は大きく胸を波立たせる。
 理性を失った殺戮機械の全貌を具現化したタイプⅣはそのままコウの脳を乗っ取って自らの意のままに操る為のプロセスへと移行を始めた。抗う彼の意思が無力化されて黒く塗りつぶされていく意識、自分がここにいる目的も何もかもを殺意に塗り替える圧倒的なその力は彼を変貌させるまであと一歩のところまで迫っていた。
 しかし冥くなる意識が閉じてしまう瞬間に一筋の光が瞼の隙間から彼の瞳へと忍び込んだ。青白く澄み切ったその輝きが彼の網膜から視神経を伝わって脳へと届いた時にコウはその光の持ち主の名を思い出す。
 月。そして吠えるだけの口から零れた、その名。
「 …… に、ナ」
 それを口にした途端に収まっていく動悸と呼吸、熱が彼女の名に吸い取られてそのままどこかへと消えていく。少しづつ元へと戻っていく視界の中央にぽっかりと浮かんだ青白い天体。
 それは彼女の生まれ故郷であり、そして二人にとって忘れる事の出来ない大事な場所。ほんの少しの間彼らはそこに留まって大きな悲劇を味わい、それと引き換えに大きな決断をした。こみ上げる無二の感情に導かれて放たれたその言葉が今の二人の始まりだった。そしてそれは今も続いている。
 あの日の二人が嘘じゃないという事を俺は証明しなくてはならないんだ、どちらかの命が尽きて全てが終わってしまうその前に。

 ふらつく足を何度も叱咤しながらコウはやっとの思いでモタードが滑り込んだ穴の淵へとたどり着いた。一番底で横倒しのまま眠っている愛機に向かって滑り降りて彼は労わるように傷だらけのタンクをそっと撫でた。
「すまない、こんな目にあわせて」ぽつりとつぶやいたコウがハンドルを掴んで一息で重い車体を引き起こす。ヘッドライト以外の全ての保安部品が吹き飛んでフェンダーに至っては前後ろとも根元からちぎれている、コウの怪我がほとんどない事の代償がそれだった。
 キーを戻してもう一度捻り、インジェクションをリセットしてからセルを回す。転倒時のマニュアル通りに操作するコウだったが果たしてモタードは何度かせき込んだ後に再びその鼓動を止めた。掛かりそうな気配はあるが押し掛けを試すには場所が狭すぎる、工具も持たない今これを動かす可能性は思い当たらない。
 キーを抜いたコウはそのままポンとタンクを叩いてモタードを後にした。穴を這いあがって再びオークリーのある西へと目を向ける、距離にしてあと10キロ強。40分もあれば ―― 。

 独特の野太い音と共に強烈な光源を持つ車が遠くの方からこちらへと向かっている。それを耳にしたコウははっと今来た道の方へと振り向いた。自分が吹き飛ばされた丘を乗り越える巨大な影、ライト全開で駆け下りてくるその光の強さに思わず目が眩んだ。
「頼む、止まってくれっ! 手を借りたいんだっ! 」慌てて両手を振りながら車の前に立ちふさがるコウだったが、そうするまでもなく車はあっという間に減速していた。彼のすぐ手前で停車した車は無骨なフォルムを持つ軍用の四輪駆動車、そしてコウはこの車に見覚えがあった。
「これは …… ヘンケンさんの」

 モワク・イーグルⅣ。人類が二十一世紀と呼んだその初頭から制作されたスイス製の軍用軽車両。アメリカ軍のM1151ハンヴィーと同じシャシーを持ちながら高出力のエンジンを搭載する事で防弾性・耐爆性と走行性能に置いて優位を示した当時随一の軍用四駆である。ヨーロッパの各国において採用されたそれは特に急峻な斜面を持つ山岳地帯で特に重宝された記録を持つ。
 コウのモタードほどではないがヘンケンのイーグルもそれなりに歴史のあるクラッシックカーで普段は納屋の奥にひっそりと収められている。よほどの事がない限り持ち出さないと言っていたこの車が走って来た事にコウは驚きを隠せない。
「ウラキ君? どうしたんだこんなところで ―― っと」 車の助手席から降りてきたヘンケンは言葉を止めてライトに浮かび上がったコウのなりをしげしげと眺めた。全身赤土塗れのいで立ちにできたての擦り傷の数々、そして傍らの穴の底に置き去りにされようとしている彼の愛車。運転席から降りてこようとするセシルを目くばせで止めたヘンケンがコウに向き直った。
「 …… オークリーに向かってるのか」 
「コウもオークリーに向かってるって? なんでまた」明るい声がヘンケンの背後からコウに向かって投げかけられる、その顔も農家を営む仲間としては見知った顔だった。
「パット。 …… それにキャンベルさんまで。どうして ―― 」コウに名前を呼ばれてにっこりと片手を上げた屈強な初老の男は農業組合の副組合長でヘンケンの下に当たる。歯に衣着せぬ物言いのヘンケンに対して温和な物腰のキャンベルが調整役を引き受ける、セシルがいない時の会合ではこの二人のやり取りが名物となっていた。組合の中で一番最初にコウが話しこんだ相手も彼である、機械好き同士の会話は他の人間が近寄れないほど専門的でカルトでマニアックな世界だった。
 キャンベルがヘンケンの視線を追って穴の底へと視線を向ける、そこでぽつんと立たされたままのモタードと深刻そうな視線を向けるコウとの顔を見比べた彼はぽつりと尋ねた。
「 …… 乗って行きたいのか? 」

 ワイヤーに繋がれて穴の底から引きずり出されたモタードをキャンベルがペンライトで丹念に調べる、その光景を背中越しに見つめながらコウはヘンケンに尋ねた。「なぜ、ヘンケンさん達がオークリーに? 」
「知り合いから連絡があってな、手を貸してくれって言われると断れない性分でね」
「か ―― 組合長、ライター」外したプラグを摘んだキャンベルがヘンケンに向かって禁断のアイテムを要求し、ヘンケンはセシルに見つからないようにと祈りながらこそこそとズボンのポケットからライターを取り出す。ライターの火で接点をあぶりながらキャンベルが言った。「多少フレームは歪んでるがエンジンはまだ生きてる。どうやらプラグが被っただけのようだな。とはいえ ―― 」不安な表情で見守るコウの顔を彼は見上げた。「それ以上の事はここでは分からん。一度昼間にもう一度 ―― 」
「かまいません、動けばそれで」希望に勇気づけられたコウの声が力強い。コウの言葉を聞いたヘンケンとセシルは驚いて顔を見合わせ、キャンベルはよし、と言ってコウの代りにセルを回した。三度目のトライで火の入ったエンジンからは再びあの獣の咆哮が暗闇へと轟き渡る。
「 ―― いい、エンジンだ。よく手入れが行き届いている、機械はこうでなくてはな」

 モタードに跨ったコウの脇にするすると近寄ってくるイーグル、運転席の窓が下がって顔をのぞかせたセシルの笑顔にはいつもの屈託さが微塵も感じられなかった。ちらちらと見え隠れする凄味がサリナスでの彼女の立ち振る舞いを思い出させる。
「こちらが先導します。ウラキさんは後からついてきてください。ただしあまり車に近づいたり左右の轍に寄らないように、跳ねた石で怪我しますよ? 」
「セシルさん、なぜみんなでオークリーに ―― 」コウの問いにセシルはそっと彼の口に指を当てた。
「その話は後で。今は時間が無いのでしょう? お互いに」言うや否や猛然と駆けだすイーグル、250馬力は伊達じゃない。あっという間に遠ざかっていくテールランプに慌てながらコウは再びモタードへと鞭を入れた。

「乗っけてあげりゃあよかったのに、こーんなデカい車なんだし詰めりゃああと一人ぐらい何とでも ―― 」後部座席から後ろを振り返ってモタードのヘッドライトを確認するパットにキャンベルが言った。
「お前は何事にも器用だがそこがダメだな。もっと人の機微というものを理解しないと良い航海士とは言えんぞ? 」やんわりと叱られたパットはいつものようにえへへと笑って場を和ませる。
「彼はあのバイクに乗って行きたいと俺に言った。もし俺たちが通りかからなかったのなら走ってでもオークリーに向かったとは思うが、彼は与えられたチャンスにそちらを選択した ―― 機械好きならば当然」
「どう思う、セシル? 」キャンベルの言葉を受けて尋ねるヘンケンの表情は真剣だった。手慣れたように真っ暗闇の荒野をいとも簡単に手なずけるセシルの表情もどことなく浮かない顔をしている。「彼に …… ウラキ君に一体何があったんだ?」
 自問自答を口にするヘンケンはじっとサイドミラーへと視線を向けていた。揺れながらただひたすらに追いかけてくるコウの姿を想像しながら彼の中で起こった劇的な心境の変化についてありとあらゆる考察を重ねている、しかしその答えは決してヘンケンが彼に対して望む未来ではなかった。どれ一つを取ってみても、だ。
「モビルスーツ、パイロット」
 ぽつりとつぶやいたセシルの言葉にヘンケンの肩がわずかに動く。「どんなに機体が壊れても彼らは掲げられた目標のために全力を尽くす。ボロボロに壊れて動かなくなるまで何度でも酷使して、死ぬまで」
「やめろ、副長」
「それが私の、いえ」憂いのこもった声だった。「あなたの出した結論です、艦長」

 そうなってほしくないと彼を諦めたあの日からずっと願っていた。平和な世界でつつましく、小さな建築用の機械を何とか操って多くの家を建て道路を作って未来を生きる。平凡ではあるが安らかな生活こそが過酷な戦場を生き抜いた彼に与えられるべき報酬であり、褒美だったはずだ。それがなぜこうならなければならない?
 それが彼の持つ運命だと言うのなら神様とやらの慈悲はどこにある? なぜボロボロの彼をこのままそっとしといてやれない? 彼の気が済むまで ―― 彼がどこかの戦場で死ぬまでこき使うつもりなのか!?

「あなたの気持ちはよくわかります、でも今は結論を出す時じゃない」友人の変化に心を痛めるヘンケンを宥めるようにセシルが言った。「ウラキさんが変わってしまった事が吉と出るか凶と出るか。それにそうなったからと言って私たちの目的は変わりません。そしてそれは彼の目指すものとは、違う ―― ただし」
 二人の会話がこれほど緊迫するのはスルガ以来だ、とキャンベル。パットは黙って後ろを向いたままモタードから放たれる光を見つめている。
「もし私たちの目的と彼の目的が重なったとしたら艦長はどうなさるおつもりですか? お互いに大事な者を救いたい、護りたい ―― それは戦況が悪くなるにつれて必ず重なり合う類の物だと思いますが」
「俺の何が聞きたい、副長? 」
「あなたの覚悟を。そうなった時にあなたはウラキさんを見捨てる事が出来ますか? 」

 軍人にとっての勝利は絶対の条件だ。それを達成するためならどんなことでもするというのがおよそ不文律となっている。時には敵を欺き味方を見捨ててでも勝ちをもぎ取らなければ意味がない。それはその為に散って逝った多くの命に報いる事が出来なくなるから。
 だがヘンケンはその考えに真っ向から反旗を翻す。そんなものはクソくらえだ、醜い勝ちにどんな意味がある? たとえ敗れても美しくあれという生き様だけが今の自分を支えてきた、それはこの先も変わらない。
 多分、死ぬまで。

「もし俺がそういう凡百の指揮官と同じ人間だったとしたら ―― 」ため息混じりに吐き出すその言葉には彼なりの強い決意がにじみ出る。「なんで今お前たちはこの車に乗ってる? 」
 聞き返された三人が小さく笑った。

                    *                    *                    *

「ミノフスキー粒子が戦闘濃度まで撒かれてるなんていよいよガチね」
 緊張した面持ちでつぶやいたアデリアが演習用モニターに表示される地図を睨みつける。マルコの読みではこの先の森を抜けたすぐそばに敵が布陣しているはずだ、敵に気づかれない距離を保ちつつ自分達は敵が突入するタイミングに合わせて後ろから突撃する。レーダーが効かないくらいまでミノフスキー濃度が上がっているのなら敵も自分達も索敵は目視に頼る事になり、そうなれば後ろから攻撃を仕掛けるあたしたちの方が断然有利だ。
「 “ できれば三機、少なくとも俺とアデリアで一機づつは最初に仕留めたいところだな ” 」横に並んだマークスが声を押し殺してそう言うが、いかにも慎重な戦果予想にアデリアは八ッと笑ってカメラを向けた。「不意打ちかけといてそれだけって。せめて半分は持ってかないと ―― 」
 その瞬間すぐ背後に浮かんだ影がアデリアの視界に忍び込んだ。反射的に彼女はマークスのザクを手で押しのけて自分はその反動を利用して反対側へと転がり、タッチの差で振り下ろされた大きな黒いマチェットが自分のいた場所に食い込むのが見える。「敵襲っ!?  いつ後ろに! 」

 いきなりアデリアにつき飛ばされたマークスは衝撃回避のシートベルトが肩に食い込んで思わず顔をしかめ、しかしその直後に目の前に落とされた黒塗りのマチェットに驚いた。「な、なんだ一体っ!? 」
 横転してて敵との距離を離した後にすぐさまマシンガンを構えて引き金を引いたが、マークスのロックオンポインターは遥かモニターの外へと飛んで行ったままだ。林の奥へと消えていく曳光弾の光跡を追いかけながら慌ててトリガーから指を離した彼は唖然としてつぶやいた。「うそだろ、たった今までそこに ―― 」
 言い終わる前に襲ってくる殺気が彼の目を自然にそこへと向けさせた。モノアイから投影されるモニターの中央、暗い林を背景にしてたたずむ棘だらけのクゥエルはマチェットを傍らにぶら下げたまま悠然とこちらを見据えている。黒塗りの連邦軍の機体など見た事がない、目が離せないプレッシャーに冷や汗が吹き出す。
「どっちが、アデリア・フォスだ? 」

 外部スピーカーで尋ねてくるその声をアデリアが忘れるわけがない。連邦軍の機体に攻撃された事よりもそっちの方が彼女にとって由々しき問題だった。「まさか …… なんであんたがっ!? 」
 語気を荒げて怒鳴るアデリアに驚いたマークスは二人と同じく外部スピーカーに切り替えて尋ねた。「お前の知り合いか? 」
「聞き方っ! 呑気すぎるっ! 」敵に放ったそのままの勢いで言い返されたマークスが思わず肩をすくめる。「ヴァシリー・ガザエフ大尉っ! あんたの体に穴開けた連中の親玉っ! ちょっとはムカつきなさいよ、全くっ! 」
「ああ …… へぇ」
 間の抜けた生返事で答えたマークスがそのままずい、と二機の間に割り込んだ。「マークス・ヴェスト軍曹、オークリー基地所属。貴官とは初対面でしたね? 俺の僚機バディが以前大変お世話になったそうで」
「あの時の銀髪の坊やか。いっそのことあの時にさっさと殺しておけば無駄な名乗りを聞くこともなかったのだがな」
「同感です、いっそのことあの時にさっさと殺しておけば」そういうとマークスは火器管制モードを近接戦闘へとシフトした。あの至近距離でマシンガンの連射を躱したのなら主兵装は役に立たない。「こんなところで恥をかくこともなかったでしょうに」
 ヒートサーベルを背中のハードポイントから抜いたザクはそのまま腰だめに構えた。ベイトの持ち技である吶喊一突、二の太刀いらずの捨て身技。
「ほう。変わった構えだ、それでこそこちらもやりがいがある。無抵抗のジムを後ろから一突きなんて勝ち方はつまらんからな ―― 」
「何? どういう意味だ? 」尋ねたマークスに向かってクゥエルの右手がすっと上がって黒いマチェットの切っ先がつきつけられる。「さっきこの山の上に向かっていたジムはお前たちの仲間じゃなかったのか? ぼんやりとスコープで景色を眺めていたところをとりあえず殺らせてもらった、どうせ重砲を狙いにでも行ったのだろうが俺が通りかかったのが奴の不運 ―― 」
 突然マークスの背後からものすごい排気音が轟いてアデリアのザクが躍り出た。モニターに陽炎だけを残して飛び去る彼女はあっという間にサーベルを引き抜いてその勢いのままクゥエル目がけて振りかざす。
「死ねっ!! 」

 怒声と共に叩きつけられた二本の刃から火花が散って夜空を染める。獣のようなうなり声を上げてクゥエルへと迫るアデリアの気迫はモンシア達と戦った時以上だ、全力で回るモーターとアクチュエーターの唸りに紛れてアデリアが吠える。
「ガザエフ、あんたはぁッッ!! 」
「そうだ、それでこそ俺を叩き伏せた『ベルファストの鬼姫』 」しかし明らかに押されているにもかかわらずガザエフの声には微塵の動揺もない。彼女の渾身の一撃が相手の掌下にあると悟ったマークスはとっさにバックパック全開で二人の下へと飛び込み、その勢いのまま腰だめにしたサーベルをクゥエルのわき腹目がけて突き出した。不意を突かれた二人がかりの攻撃にガザエフは後ろへ飛び下がって大きく距離を取り、いきなり掻き消えるように離れた支えは全力で押し込んだアデリアのザクをつんのめさせた。マークスの機体が地面に倒れこみそうになるアデリアを肩で支える。
「マークスっ! 隊長が、隊長がっ! 」
「分かってる、少し落ち着けっ! 」押しのけて突っ込もうとするアデリアを必死に止めるマークス、すでにパワーゲージはミリタリーを超えてマックスに近い。「ここで冷静さを欠いたら敵の思うツボだ、それに隊長が俺たちに与えた命令はこいつを倒す事じゃないっ。俺達までやられたら基地のみんなはどうなる!? 」
「 ―― 」言葉にならない彼女の叫びが接触回線のヘッドセットからマークスの耳へと流れ込む。だがそれでもマークスの言葉に理を悟ったアデリアの機体は少しづつ圧を下げながらマークスの背中に落ち着いた。相手との間合いを確かめながら彼は ―― それでも背後にいるアデリアの気配に気を配りながら ―― 外部の音を記録するためにレコードを開始する。
「一つ聞きたい、貴官はどこの部隊の所属だ? 」

 それは多分オークリーで今戦っている全ての兵士が聞きたがっている事だ。ジオンの残党が襲ってきていると思い込んでいた自分達に突きつけられた真実を彼は記録して、できる事なら生き延びてこの証拠を持ち帰る必要がある。「どうした、俺は名乗ったぞ? 貴官も兵士としてのプライドが少しでもあるのなら、ここは名乗りを上げるべきだろう? 」
 煽るように声を上げたマークスに向かって返って来たのは低い、嘲笑に似た含み笑いだった。「プライド …… プライドねえ。そんなものはとっくの昔にドブ泥の中に叩きこんできたのだが。まあ、いい。どうせ俺もお前たちもここで死ぬ運命だ、録音なんかしても無駄だぞ? 」挑発するマークスの意図を見透かしながらも敢えてガザエフはそれに乗って来た。
 なんて自信だ、寒気がする。
「俺はヴァシリー・ガザエフ元中尉。ティターンズ所属バスク・オム中佐直轄の特殊作戦群、通称マザーグース旅団。「W・W・Wウィーウィリーウィンキィ」中隊が部隊の名だ」
「俺も、と言ったな? なぜ貴官がここで死ぬ必要がある? 」
「この前サリナスでお前たちを逃がしてしまったからな、その失敗の責任を取る形で俺とその作戦に参加した連中は今晩粛清される。多分この作戦が終わった直後に目標以外のお前たちを全員殺したその後で、な。俺たちはそういう性格の部隊だ」 ―― チェンの読み通りだ、やはりそういう連中だったか。
「目的はなんだ? こんな最後方の基地にそんな部隊が、しかも味方に攻撃を仕掛ける理由は? 」殲滅戦と聞いてマークスは思わず震えあがった。対ジオンの残党狩りでもそんな無慈悲な作戦要綱は聞いたことがないし、加えて味方殺しは軍法に照らし合わせても極刑に値する重罪だ。そこまでする彼らの目的とは一体何なんだ?
「技術主任、ニナ・パープルトンの確保及び本部への護送だと聞いている」

「ガザエフっ! 殺すっ! 」怒号と共に再びアデリアの機体が圧を強めてマークスへとのしかかった。パワーゲージがレッドラインを超えるギリギリのところで踏ん張る彼の機体は足を地面にめり込ませるほど耐えている。「こらえろ、アデリア。 …… ティターンズが彼女を必要とするなら正式なルートで書面を使って徴用すればいいだろう。それだけの権力を持つ組織がなんでこんな短絡的な手段に訴える? 」
「そんな事は俺達の頭の上での話だ。作戦とはそういうもんだろう? 」
 思考も論理も全て一本筋が通っている。マークスはこんな士官がなぜサリナスのような大規模な破壊行動に打って出たのかが理解できない。それともう一つ。
「録音されていることが分かっていてここまでペラペラ喋ってくれるとは正直驚いた。その自信は貴官のどこから来るんだ? ヴァシリー・ガザエフ ―― 」マークスの挑発はそこまでだった。言葉を塗りつぶすような冥くて黒い笑いが彼の言葉をかき消して満天の星まで蹴り落とさんばかりに周囲を覆い尽くした。

「アーッハッハハハ ―― 」心の底から愉しくてしょうがないといった類の笑い ―― いや嗤い声だ。「そりゃしゃべるさ、だって俺には全っ然関係のない事だからなぁっ! 」
 二人の視線にさらされる事などお構いなしにガザエフは大きな声で、隙だらけで笑い続けた。その不気味さが逆に二人を惑わせる。「殲滅? 拉致? そんなめんどくさい事はどっかのだれかが勝手にやってくれ。もうそれどころじゃない」そう言うとマチェットの切っ先がデザートイエローのザクに向けられた。「やっと、やっと俺をこの地獄から解放してくれる奴にもう一度出会う事が出来たんだ! 」
「あんたの言ってる事はあたしには全然まったくわかンないわよっ! あたしにタマを蹴り潰されてとうとう頭までおかしくなったっ!? 」
「アデリア、言い方」それを女の子が言っちゃあ、とあまりの罵詈雑言に眉をひそめてたしなめるマークス。しかしガザエフは彼女の言葉に満足げにうなずくとスッとマチェットを地面へと差し込んだ。
「 …… ひとつ、昔話をしよう」

 暴走するテンションと落ち着いて話す時の振れ幅が異常に大きい、まるで二重人格者のようだ。
「その部隊は一年戦争終了後に発足した正規の精鋭部隊だった。目的はジオンの残党どもを操る司令部の背後へと秘密裏に降下してこれを叩き潰し、その後で本隊と前後から挟撃して殲滅すると言う戦術を主としていた。作戦の成功率、目標の達成率は当時の連邦軍全部隊中のトップ、彼らはジオンの出没する最前線へと常に赴いては味方の危機を幾度となく助け続けた」
「 …… なんてこった、ブラックウィドウ」マークスはその部隊を実際に戦場で出会っていた。それは初陣で敵に囲まれたあの時にどこからともなく現れて自分を救ってくれた迷彩塗装のジムの小隊。「だがあんたたちはその後の作戦で敵の罠にはまって全滅したと聞いたっ! そんな嘘を言ったところで ―― 」
「味方の、罠だよ」嘲るようにガザエフは吐き捨てた。「ある日情報部からもたらされた報告はなんの事はないただの小さな部隊だった、しかし精鋭ぞろい。俺達はいつものように敵の司令部を特定してその背後に降下、いつものように味方の前線がタイミングを合わせて挟み撃ちにする予定だった。だが俺達が降りた場所は大部隊で構成された敵陣のど真ん中だった …… 敵に包囲された俺達は何とか味方に連絡してこちらを援護するよう何度も要請した、しかし返事はなかったのさ。仲間は最後の伝令に俺を指名して、俺は仲間の犠牲でようやく前線の司令部へとたどり着いた …… そこで何を見たと思う? 」

 思わせぶりなセリフの後にガザエフは八ッと笑って後を続けた。「俺の前に出た伝令が殺されて埋められているところさ ―― 奴らは端から俺達を全滅させるつもりだったんだ。急に力をつけてきた俺達をやっかんだ連中がガセネタを掴ませてジオンの残党ともども皆殺しにしようと企んでいた。ただ計算違いだったのは、俺が『モビルスーツに乗ったまま』そこに乗り込んで来たって事だ」
 マークスにはそれが話半分の戯言だとは思えなかった。事実自分もそれと同じ目にあって何度も死にかけている。「前線の司令官は俺のマチェットで頭から真っ二つ、当然軍法会議にかけられた俺はなぜかお咎めなしの無罪放免。たった一人生き残った俺の戦歴を見たティターンズが救いの手を差し伸べたってわけだ」
「それとアデリアにつきまとう事とどういう関係がある!? 」
「ティターンズはとんだおせっかい野郎だ。俺は死んで皆のところへ行きたかっただけなのに」

「それから何度も俺は戦場で死のうと試した、だが死のうとする度に俺の仲間がどこからか出てきてこうささやくのさ、「ガザエフ、お前はまだ死ねない」ってな。勝手に俺の体が動いてあっという間に敵を斃して、気がついた時にはまた俺は仲間に置いていかれる。もう戦場で死ぬ事をいよいよ諦めようとしていた時、突然そいつは俺の前に現れて初めて命を脅かした」
「それはあんたがあたしの部下をっ! 」
「俺だけじゃない、『俺達』だ」言い直されてアデリアの怒りに火がつく。彼女が今まで解き放った事のない真の闘争心が燃えがって今にも全身を焼き尽くしそうだ。
「そうそう、その意気だ。その調子でもっと俺を憎んでくれ、あの時のお前じゃないと俺は絶対に殺せない。あの日お前は今までどの戦場でも先頭に立って斬り込んでも死ななかった俺をその一歩手前まで追い込んだ。俺の股間を狂ったように蹴り上げるお前の顔は俺を殺すに値する、実にいい顔をしていたぞ …… だから病院のベットの上で痛みと共に目が覚めた時にはお前がここにいない事を心の底から恨んだ」
 思い出と心情を吐露するガザエフの論理は正しいようで正常ではない。それはシリアルキラーにありがちな欲求不満を解消する理不尽な手段の正当化だ。
「お前に殺して貰えなかった事に絶望した俺は病院から出た後、今の部隊に志願した。自分の過去にも経歴にも何の興味も持たない傭兵集団だ、どこで死んでも覚えている奴も思い出す奴もいない。だから俺は今度こそ死ねるという思いでこの部隊の先鋒を務め続けた ―― それはお前が俺に『死ぬ』事の可能性を示してくれたからだ。仲間の呪いでどうしても死ねなかった俺が見た唯一の希望 …… それを教えてくれたのがお前だ、アデリア・フォス」
「そんな軽く意味不明な理由でなんであたしがあんたと心中しなきゃなンないのよっ、人に迷惑かけンじゃないわよ! 死にたいんならさっさと一人でおっ死ね! 」殺気がマークスの背中にビンビンと伝わってくる、話に集中するどころじゃない。
「なあ、アデリア・フォス。 …… お前はあの後どうなった? 」

「あんたにそんな事は関係ないっ! 」叫んだアデリアがついにマークスの制止を振り切って前に出た。バックパック全開でガザエフに斬りかかるその渾身の一撃が彼のマチェットによって再び押しとどめられる。「あんたがあたしの大事なものを全部奪っていくつもりならっ! あたしはあんたを絶対に殺してやる、死にたいんならあんた一人で地獄に行けっ!! 」
「どうしてお前を一人で置いていける? 俺を殺せば俺にかけられた呪いはそのままお前に受け継がれる、俺を救おうとしたお前が俺と同じ目に遭う事に俺が耐えられないっ! 」はじめて声を荒げたガザエフが思いっきりアデリアを跳ね飛ばした、クゥエルとザクⅡの出力差はスペック以上に大きい。危うく尻餅をつきそうになった彼女は右足を大きく後ろに下げて何とか踏ん張り、サーベルを眼前へと構えなおした。
「マークス、ここはあたしがっ! 奴の狙いは間違いなくあたし、だからあんたは早く他の奴の所へ行ってっ! 」
 怒りに飲み込まれながらもアデリアは冷静さの欠片をわずかに残していた。ここにこいつがいる限り自分達は前に進む事ができない、ならばここは自分が囮となってこいつを足止めして後顧の憂いを断ち切らなければっ!
「行ってっ、早くっ! 」
 覚悟を決めて叫ぶアデリア。しかし彼女が聞いたのは拍子抜けするほど冷静な彼の声だった。「この作戦の要はあくまで重砲の撃破、隊長が殺られたのならそれは俺かお前のどちらかが引き継ぐしかない」
 焦るでもなく、急ぐでもなく。いつの間にか歩み寄ってきていたマークスはぞんざいに二人の間合いへと割り込んだ。「ガザエフ中尉、俺からも大事な話をしよう」

 アデリアのモニターからクゥエルの姿を遮ったマークスはサーベルをぶら下げてじっと佇んだままだった。「俺は昔、あんたたちに助けられた事がある。ニューギニア戦線で作戦遂行中にたった一人で敵のど真ん中で孤立した俺は絶体絶命、でもあんたたちが来てくれたおかげで何とか生き残る事ができた」そう言うとマークスはゆっくりとサーベルを腰だめに構えてガザエフと向き合った。
「とても、いい、人たちだった。 …… 気さくで、明るくて。俺の見た目なんか全然気にしてなくて。 …… あの後この基地に辿り着くまで俺の周りにそんな人たちは全然いなかった、お前たちが今潰そうとしているのはそういう人たちが大勢集まった、俺にとっての楽園だ」
「何が言いたい? 」
「俺にもあんたを殺す理由ができた、と言う事だ」低く構えて突撃体制を取るオリーブドラブのジム。暗闇で鈍く光るサーベルが長さを縮める。
「なんだ、復讐か? そんなもので俺の邪魔をするというのなら道行にお前も殺して ―― 」
「違う」彼の言葉からにじみ出る辛さがアデリアには分かる、心の中でマークスは泣いている。

 もう恐怖も怯えもどこか遠くへ行ってしまった。俺がそうなりたいと願っていたあの人たちはもうこの世にいない、それが味方の裏切りによるものだったなんて。そしてただ一人の生き残りは俺と同じようにあなた達に憧れたが故にこんな姿になってしまった。
 基地も皆ももちろん大事だ。アデリアの言う事は間違ってない、でも俺はどうしてもやらなければならない。
 あの人たちが生き残れと願った彼の魂がこれ以上深く穢れてしまう前に ――。
「あんたの仲間 ―― 俺を助けてくれた人たちの名誉を守る為に」そう言うとマークスは一気にフットペダルを踏み込んだ。至近距離でのスーパーアタック。
「あんたを、殺すっ!! 」



[32711] Period
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2020/12/23 06:01
 いなしたはずの刃が重い。操縦桿を通して伝わる予想外の何かにガザエフの心はさざめいた。ドイツで遭った手だれも、他の戦場で手にかけてきた奴らも攻撃という手段の中に必ずと言っていいほど怒りとか怯えとかいう負の感情が混じっていた。そして相手がそれに支配されればされるほど自分は負ける気がしない、生に執着するあまりに普段通りの力が出せない相手は死を見つめている自分にとっての敵ではないと分かっていたからだ。
 だが今向かってきたものは一体何だ? 旧式のザクから繰り出された一本の突きがまるで装甲の奥にいる自分にまで届いたような気がする。純粋で、穢れがない。
 我に返ったガザエフは踵を返してマークスと正対した。今の自分にそんなものを向けられたところで何が変わると言うのだ、という憤りがガザエフの語気に怒りの火をともした。
「どういうつもりだ、坊や」 ガザエフのマチェットがゆっくりとマークスへと向けられた。たとえアデリアに背を向ける事になってもこれ程不愉快な相手を後回しにはできない。
「あくまでも邪魔をするというのならばまず貴様から血祭りだ …… 俺もお前のバディも後から行くから先に川のほとりで待っていろ」

                    *                    *                    *

 二枚目の非常ハッチの端末の前でニナは戸惑いを隠せなかった。どういうきっかけであの現象が発生するのか、それを確かめるために自分の一挙手一投足に意識を凝らす。ラップトップから伸びるUSBソケットをゆっくりと端末のスロットへと押し込み、その瞬間に発動する過程を無視した結果の表示。
「 …… 繋がった瞬間に動き出すのね。やだ、なんか」私がネットワークの一部に取り込まれてしまったみたい、と。再び頭の中に表示された6ケタを打ち込むとさっきと同じアナウンスと共に閉じた扉が動き出す。自分の中で起こった理解不能な変化に軽く嫌悪感を覚えるニナだったが、今はそれについて何かを考察している暇はない。ただふっと思い出したのはかつて二十世紀にその名を残した物理学の巨人、アルベルト・アインシュタインの伝記だった。
 まず答えありき。頭の中に浮かんだ数式が定義された問題に対する解であり過程は不明。自分に今起こっている現象とは比べようもないが、少なくとも広義においてよく似てはいる。論理的に考えるなら今まで培った知識が無意識のうちに膨大な過程を構築しそのゴールだけが明確な文字として導き出されている、それならば自分がガンダムを作った時に起こした「始まりの言葉」の現象もなんとなく説明がつく。
「仮説に答えを求めるなんてプログラマー失格だわ」
 ニナはそう言うと扉の向こう側にある大きなボタンを掌で叩いた。一度上がった非常ハッチが再び油圧の音を響かせてゆっくりと降りてくる。

 そんなはずがないだろう。物理学とはその対象が一体何であるかという事を自然界の法則に従って突き詰めて考える事だ、自分に今起こっている事をあてはめるなら「プログラムに従ってその解へとたどり着くこと」という事になる。メインコンピューターの能力だけではなくその思考ルーチンやプログラムまで完全に理解できる事など、人間のなせる業じゃない。
 創造者の予想を超えた動きを創造物はしないと言うのがニナの持論である、たとえどんなに予想外の動きをしてもそれは発想の限界値内に絶対に収まっていなければならない。ただ一つの例外はコウが初めて一号機でガトーと戦った時で、その時に記録された数値の振れ幅に驚かされはしたがそれはあくまで初見で乗ったという条件を加味しての事だ。ただし彼は戦いを経験するごとに自分が想定した機動限界値を更新して実際にプログラムを最適化する自分の頭を悩ませていた。
 故に作られた一号機改フルバーニアンの起動ディスク ―― あの日二号機と共に宇宙の塵と化した ―― はアデリアやマークスが今使っている『インテリジェント・レコード』のひな型になった物だ。アルビオンに帰還してからデータを解析して次に備えていたのでは間にあわないというジレンマを解消するための苦肉の策として考案した『リアルタイムデータ更新システム』は開発者としての自分の大きな転機となった。創造物の起こす様々なアクションを記録しながら上書きしてその過程と現状を創造者にフィードバックする、その繰り返しが積み重ねる未来への可能性は後に生み出されるであろう技術革新の先駆けとなってモビルスーツという機械の概念を一変させる。
 過去と現在と未来を一つに繋ぐための道しるべ、それはモビルスーツだけの世界だけではなく他の分野にも大きく貢献でき得る考え方だとニナは思う。ここから枝分かれする無数の分岐の先にあるそれぞれの未来、混在する正と誤の解があるのだろうがそれでもいくつかの淘汰を経ていずれは一つの帰結を見る世界がそこにはある。
 だがそんな未来でも自分という人間の発想から生み出された思考の範疇の中に存在する。「神は絶対にサイコロは振らない」のだ、結論は変わらない。

 それでもなおこの現象について考えるとしたら、それは膨大に刻まれた過去データから精査極まりない確度で類推されるピンポイントの未来予測。つまり何十兆もある分岐から解へと到達するたった一本の道を的確にたどる事ができるようになったという事。それはかの物理学の巨人と同じ領域に到達したという事になる。
「ばかばかしい、そんな事 ―― 」呆れたように呟くニナ。生まれも育ちも環境も何から何まで違う偉人と自分が同列に肩を並べるなんてそんな恐れ多い事考えるだけでもおこがましい。こんな小娘が自分と同じ人種だなんて思ったらきっと彼は一生枕元に立って長い舌で怒鳴り続けるに違いない。本当にユダヤ人は執念深いから ―― 。
 思わず緩んだ口元がはたと何かを思いついて小さく開く。 …… 何十兆もの組み合わせからたった一つのキーを拾い出す、もしそんな事が今の自分にできるのだとしたら? ―― いや、多分できる気がする。
 あのハンガークイーンドムの封印も一目で解けてしまうのでは?

 ソケットを差し込んだ瞬間に頭の中へと流れ込んでくる文字を何気なく打ち込むニナ、しかし彼女はリターンキーを押す寸前にその衝撃で指を止めた。床を伝わってくる振動と今通り過ぎてきた廊下から聞こえる爆発音、それは自分が間近に味わった物とは程遠いほどささやかなものではあったが悪意に満ちているのが分かる。再び早鐘のように打ち出した心臓の鼓動が彼女の指を震わせて、しかし慌ててリターンキーを押して非常ハッチを動かす。開き切る前に体を屈めてくぐりぬけたニナは急ぐ通りすがりにバンと掌を閉鎖ボタンへと叩きつけた。

                    *                     *                    *

「俺の大事な子分をふっ飛ばした爆発は? 」 不機嫌なブージャム1は隣にいる兵士に尋ねた。
「被害の範囲は五階から四階、三階の一部まで。死体は全部は確認できませんが多分隣の棟へと制圧に向かった分隊全員かと」調べに行った兵士からの報告を静かな口調で正確に伝えるその兵士は、こういう時のブージャム1が実は一番安全だという事を知っている。窮地に陥れば陥るほど冷静な指揮官というもう一つの顔が彼の表情に浮かびあがる。
「ふうん、6人もいっぺんにもってかれたかぁ。 ―― 原因は? 」
「可能性としては援護のクラスターに巻き込まれたことから敵のブービートラップに引っかかった事まででおよそ四通り、ただし報告ではセムテックスの爆発臭がすると」
「C-4? さっすが軍基地、そんなものまで持ってやがるとはなぁ」とぼけたように呟くブージャム1だったが実はそうではない。軍の施設 ―― とりわけモビルスーツを扱っている基地であればそれぐらいの物は持っている、問題なのはそれを的確かつ正確に扱える人材がいたという事だ。
 確実に高脅威目標を壊滅できるだけの爆発のタイミングと自施設への損害を最小限に留めるだけの爆薬の量、もしあそこで起こった爆発がC-4による物だと仮定するならそこで一緒に吹っ飛んだ分隊長と同じだけの爆発物の取り扱いができたという事だ。敵の生死は分からないがもし生きているとしたら厄介な存在になる。
 どうする? と爪を噛みながらひたすらに思考を巡らせる。こっちの建物は予定通り前線橋頭保にはできたがあっちの方は一階の部分だけを掃討してそのまま隣の建物で全滅してしまった、その隙に残った階の連中は一気に後退して残存兵との合流を果たしているだろう。女といえども武器を手にすれば立派な戦力、それを侮って過去には手痛い思いをした事だってある。
「 …… どうします? 」
「足止め喰ってる連中は一旦後退してこっちに合流させろ、もう一度部隊を編成し直して今度はダンプティ達の侵攻に合わせて攻撃を始める ―― クソ、あののろまどもがっ! このツケは高くつくぞっ! 」
「了 ―― 隊長、調査に行った班から連絡」一斉通信でブージャム1の命令を発信しようとした隣の兵が片耳を押さえながら通信を無言で聞き取る。「爆発箇所の隣の建物から非常ハッチが開閉する作動音が聞こえるそうです、追撃許可を求めていますが? 」
「この状況で非常ハッチを上げ下げ? …… どういう輩だ? 」非常ハッチの仕組みは当然理解している。一旦閉じられたあれを勝手口よろしく好きに開けられる人物が一般兵にいるとは思えない。
「追撃を許可する。どうやらそいつはこの基地でも重要なポジションを任されている人物のはずだ、追っかけンなら必ず仕留めろ。終わったら指示があるまでその場で待機と伝えろ ―― アレは奴らに持たせてあるな? 」

                    *                     *                    *

 USBのソケットはターミナルに差し込んだまま、そして頭の中にはすでにあの数列が浮かんで打ち込まれる時を今や遅しと待ち構えている。しかしニナは指をテンキーに添えたままピクリとも動かない。自分の背後に迫っている敵に対して物音ひとつ聞かせる訳にはいかない、それはまるで駆逐艦に狙われた潜水艦の中で息をひそめる乗組員のようだ。しかしニナの努力も空しく背後の敵は彼女が想像もしなかった手段でその距離を縮めてきた。
 油圧ジャッキが作動する低い音と重い物が持ち上がる際に発せられる鈍いきしみ、それが非常ハッチの持ち上がる音だと察知したニナはすぐさまキーを連打して自分の前に立ちふさがったままの重い鉄の扉を持ちあげた。これでもかと姿勢を低くしてくぐり抜けた先にある閉鎖ボタンを思いっきり叩くとすぐに次の扉へと向かおうとして、だがその瞬間に脳裏を過ぎった危機が足をその場に張りつけた。
「どうして敵がここの非常扉の暗証を ―― 」
 ランダムに選ばれる暗証コードを見つけるには合法な手段では絶対にムリだ。自分のように自作の解読プログラムを使うか、または ―― 。
「まさか …… ここのマスターコードっ!? 」
 彼女の危惧を裏付けるように足の裏から振動が届く、フラッシュメモリの形状をしたそれは差し込むだけで全ての扉を開く魔法の鍵だ、この基地でそれの所持が許されているのはウェブナー指令とドクの二人だけ。
「うそ、そんな事が ―― 」その鍵はどちらの手から奪われた物か? ドクはまだこの先にある医務室で怪我人の治療に奮闘しているに違いない、では指令が ―― いや、それよりもそんな物を敵が持っているという事は。
 ハンガーまでの通路が全て敵の手に落ちたと言ってもいい。

 扉をくぐり抜けた先には階下へと通じる階段と次の建物に繋がる連絡通路を閉ざす最後の扉。だがニナは自分を追いかけて来ると言う望みに賭けて迷わず階段を駆け降りた。このまま敵をハンガーへと案内する訳にはいかない、なんとか引き付けて別の場所へと連れて行かなければ。
 たとえ自分がどうなってもそれだけは絶対にさせないっ!

                    *                    *                    *

 夥しい血の海に横たわったままの連邦軍の兵士。目を開いたままこと切れている兵士の顔をコウの手が撫でて消えた光を瞼で閉ざした。「レオン、どうして君が」
 見知った顔の冷たい体をいとおしむように眺めたコウが目を閉じてそっと掌を合わせるとその向こうからパットが手を血だらけにして歩いてきた。「向こうの歩哨もダメだった。喉から頸動脈までざっくりと斬られてる、あれじゃあ ―― 」
 医療の心得が少しはある彼でもその凄惨さは目に余るものらしい、険しい顔で拳を震わせながらキャンベルへと視線を向ける。キャンベルはすでに小さな聖書を片手にイザヤ書の一節を小さな声で朗読していた。エイメンという締めの言葉の後に訪れた沈黙を破ったのはやはりヘンケンだ。彼は燃え盛る炎に沈むオークリーへと目を向けた。
「モビルスーツだけじゃなく地上部隊まで投入されてるとは。こんな僻地にそんなに大勢で押し掛けて一体何が望みだ? 」
「敵は …… ティターンズ」

 絞り出すように呟いたコウの言葉に対しての四人の反応は驚くほどあっけなかった。「そういう連中だとはうすうす感づいてはいたが、いかんせん動きが早すぎる。こっちはまだ何の準備のできちゃないのに …… で、そのティターンズとかいう無法者の輩の目的は? 」キャンベルが後頭部を掻きながらため息まじりに尋ねる。
「ニナ …… いやニナ・パープルトン技術主任の殺害が目的だと。その為にドイツのMPI研究所を占拠したテロリストを鎮圧した部隊を投入したと」
「ウラキ君はその話を誰から? 」コウを慮るようにヘンケンが言った。彼を再び戦火の渦中へと飛び込ませる理由としてはこの上ない、彼女に訪れる危機が昔の彼を呼び覚ましたと言うところまでは百歩譲って容認してもいい。しかしその為の交換条件が慎ましい平和と穏やかな未来というのは彼の人生にとって等価だと言えるのだろうか?
「分かりません、聞き覚えのない声でした。ただ電話の相手は自分の事を『ディープ・スロート』と名乗っただけで」
「ハン、そんな古風な名前を持ち出して自分の罪を少しでも薄めようとでも言うのかしら? 」冷たく響くセシルの声。
「どうあがいても所詮は敵ということね。偽善者風情が何様のつもり? 」

「俺達は反ティターンズを目的として結成された組織の一員だ、まだ産声を上げたばかりの小さなモンだが」
 炎の揺らめきがイーグルのそばに立つ二人の横顔をゆらゆらと照らす。真っすぐに向けられたその瞳が放つ強い輝きを見たヘンケンはここが潮時だと感じた。これ以上彼に嘘をつき続ける事はできない、と。
「すまない、黙っているつもりはなかったんだが」
「どうして今になって? 」
「本当はイヤなんだよ、隠し事が。指揮官としてはあるまじきだがそんなバカがこの世界のどこかに一人ぐらいいても困らないだろ? …… で、ウラキ君はこれからどうする? 」
 本当の彼はとてもいい男なんだな、とヘンケンは思った。友達には辛い顔一つ見せずに、しかしその声には強い覚悟が少しだけ。
「ニナを探します。彼女は絶対にどこかにいる、だから必ず助けます」
「そうか、なら ―― 」どんな言葉も今の彼には無意味だ、と小さく笑ったヘンケンは腰に手を回した。「これを持っていけ」
 預けられた物にコウは覚えがあった。それはかつてガトーを撃った時と同じM71A1。「俺の私物だ、戦場に丸腰はいかにも心もとないからな」
「それとこれも」いつも間にか背後に歩み寄っていたセシルがコウの背中に手にしたタクティカルベストを背負わせた。素早く前に回るといくつかのスナップを留めて左右のベルトで固定する。「右の胸ポケットに予備弾倉が二個、左にはアドレナリンのインジェクターとモルヒネが入っています。防弾チョッキは差し上げられませんがこれはヘンケンは使わないので」
「そんな、ただでさえ貴重な装備を俺に ―― 」
「俺はそういうのが昔からからっきしでな、セシルの方がよっぽどうまく的に当てる。それに俺がそんなものを使った時点で ―― 」そう言うとヘンケンはセシルに着せられた防弾チョッキのジッパーを上げながら笑った。
「 ―― 負け戦だ」

「ではここでお別れだ」ヘンケンはそう言うとスッと右手を差し出し、握り返したコウはその掌の感触に彼の本当の姿を見た。ゴツゴツとしたいくつかのマメと硬くなった皮は彼が農夫という職業を全身全霊を込めていたと言う証で、決して自分達のカモフラージュのためにおざなりな気分で勤めていた訳ではないという事を教える。
「君は君の望みを果たせ、俺は ―― いや俺達は君がそれを叶えて生きて明日を迎える事を心から願っている」
「ありがとうございます …… ヘンケンさんも」
 おう、と言いながら踵を返してイーグルへと向かうヘンケンの傍でセシルが小声で指示を出す。その背中を眺めながらコウは初めて他人がうらやましいと思った。今まで夫婦と言われても何の疑いも持たなかった、たとえ上司と部下と言う関係であれその二人の姿は描くべき明日に向かって希望を持たせる。
 自分もニナとそうなりたいと願っているのだ、そしてきっと本当にあるべき未来を今日ここで取り戻して見せる。
「ウラキ君! 」モタードに跨ってセルを回そうとしたコウに向かってヘンケンが振り返った。
「このドタバタが終わったら明日は生き残りを集めて俺の家でパーティーだっ! この前買ったバーボン忘れンなよっ! 」
 拳を掲げて大声をあげるヘンケンに向かってコウは微笑みながら右手を掲げて応えた。

 灯火を消して基地の裏手へと立ち去るイーグルの後ろ姿を見送りながらコウはセルを回した。再び蘇る獣の鼓動は驚くほどスムーズだ、彼はタンクをポンと叩くと修羅場へと突入する前とは思えないほどやさしい声で腰の下で武者震いをする今の相棒へと声をかけた。
「いくぞ、モタード …… 覚悟はいいか? 」
 この世に一号機が生まれて以来見た事もない世界へと足を踏み出す恐怖、だがコウのモタードはゴウッと息吹を上げて主人の意思をくみ取った。 ―― そうだ、冷たい鉄の塊にも意思はある。コウはそれを何度も感じ、幾度となく助けられた。
 クラッチを繋ぐと音もなく路面を滑りだして鉄火場となった基地の敷地内へと前輪を乗り入れる、コウとモタードはそのまま敵に気取られないようにそっと最後の舞台へと足を踏み入れた。

                     *                    *                    *

 山頂まであと一息というところでライフルに接続されている夜間照準器バンパイアシステムの動態センサーが作動した。キースはそっと身を伏せてそのまま周囲の気配を探るが感知したのは近距離に迫った高脅威目標に対する反応ではなく、もっと遠くで動き出した物に対しての反応だった。
「あれは …… 敵? 」
 システムのセンサーがモニター上に赤い矢印で目標物の方向を示すとキースはスナイピングゴーグルを下して顔を動かした。システムが接続された機器とシンクロしたジムはそれだけの動作でもパイロットと同じ首の動きを再現する事ができる。
 スッと視線の右端から中央へと訪れる影、スコープのスターライト機能が反射するわずかな光を拾ってキースの目に確かな実体をもたらす。そこには殊のほかゆっくりと動き出す何機かのモビルスーツの影が映っていた。
「あれが、敵か」確かに連邦軍の機体、それも最新型のジム・クゥエル。だが全身を非反射属性を持つ黒で塗りつぶされて頭部には何本ものセンサーが突き出ている、美しいとは言えないがどう見ても夜戦特化型の機体でありキースはそんな物が連邦軍に配属されたという噂すら聞いた事がない。
 しかしそれにしても送られてきた対物ライフルの威力はすごい。この距離でセンサーが反応すると言う事は対象が確実に射程圏内にいる事を意味している。見てくれこそ個人携行装備だが性能は野戦重砲に匹敵する ―― もちろん特殊弾頭込みでの話だが ―― と言うのならこれ一丁でも十分に戦える。「三人に感謝、だな」
 だがスコープを見つめるキースには違和感があった。敵の部隊が動き始めれば当然そこにマークス達が突入して敵の進行を妨害撹乱していなければならない、その手筈なのになぜかそこに二人の気配はない。それは敵の部隊が全容を現して基地のフェンスを乗り越えて滑走路の敷地内に侵入しても変わらなかった。
「まさか。あの二人に何かあったのか? 」
 モビルスーツが二機とも故障 ―― いや、そんな事はうちの機体に限って一機たりとも考えられない。イエローコーションはあの電文を見た時から発動していたし、モウラの陣頭指揮で動き出したそれ以降の整備班がそんなヘマをする訳がない。いざとなったら自分が打って出るしかないのだが、それではこちらも重砲の餌食になる。自分が敵を射程に収めたのならここはすでに相手の射程内だろう、口径の大きさではこちらが断然不利だ。
 この作戦の成否はあくまで自分の奇襲が鍵になる、せめて二人の状況だけでも分かれば ―― 。

 スナイピングゴーグルを顔から外したキースの目に焦りの色がありありと浮かぶ。二人と連絡を取る方法、なにか …… 何か手段はないか? 二人とだけじゃない、もう一度無線を回復して基地全体のネットワークを繋げる方法は ―― 。
 ―― あ。 ―― 

                    *                    *                    *

「おいっ!そこの動けるヤツ、目の前の戸棚にある青いビンを持ってこいっ! 」モラレスの怒鳴り声が響くそこは最前線の野戦病院のようだ。黒いピンがつけられた兵士は黄色いピンをつけた怪我人が部屋の外へと運び出して、開いた場所には赤いピンがつけられた兵士が優先的に運び込まれる。だがドクの他には夜勤で待機していた看護婦が二人だけ、これでは押し寄せてくる怪我人のトリアージすら間にあわない。
「だいたい戦争でもないのにそんなにピンがある訳ないじゃろうがっ! 誰か動けるヤツっ! 向かいの部屋から段ボールを持てるだけここに持ってこいっ! 」怒鳴りながらも彼の手は着実に患部を覆う軍服にはさみを入れて斬り開く、今見ている兵士は重度の火傷を負ってはいるが歩行に支障がない。早急に治療を済ませて現場へと復帰させるというモラレスの判断だった。平時と違い戦時では治療の順番が逆になる、戦えそうな者を一番最初に治療してすぐに戦場へと送り返すのが野戦救急医療の常識だ、人命は優先しない。
「ドク、青いビンを持ってきた。 …… 悪い事は言わない、あんたも早くここから逃げたほうがいい。敵は恐ろしく腕が立つ上に容赦ない、ここだっていつまでもつか」
「おお、すまんな、と言いたいとこじゃが臆病風を治す薬はここにはないぞ? それに余計な心配するくらいならさっさと自分で赤チンでも塗ってとっとと敵と戦ってこい、また怪我したらお前さんが死ぬまで直してやるから。医者舐めんな」独特の罵声を浴びた男の右手首はきつく縛られたまま先がない。それでも苦笑いを浮かべたその兵士は右手を押さえながら看護婦たちの手助けに向かった。
「とりあえず皮下に麻酔してから感染症予防の抗生剤を塗って油紙じゃ、包帯を巻くから少し動かしづらいがまだいけるな? 」モラレスに治療を施されている男はニヤリと笑って頷いた。
「片手のない奴が赤チンで戦線復帰なら自分はまだ五体満足なうちでしょう、大丈夫。まだやれます」
「その意気じゃ、さすがに陸戦隊の若手じゃのう。覚悟が違うわい」包帯をクランプフックで止めるとその兵士はおもむろに立ち上がってすぐに医務室を出ていき、その背中を何とも言えない表情でモラレスが眺めて見送る。
 傷ついた兵士が簡単な治療で戦線に復帰しなければ現状を維持できないと言うのではすでに負けが目に見えている、そして今の医務室の現状にもモラレスは不安を覚えている。もしウェブナーが指揮を執っているのならこんな事は絶対にあり得ないのだ。
 自分のチェスの仇敵にして鉄壁の守備を誇る奴がここまで怪我人を輩出するような下手を打つはずがない。それは軍の救急救命部の部長から一介の船医として赴任してきた時からの彼らに対する評価だった。いまだにはびこる派閥制度に嫌気がさして戦艦に乗り込み、ルウム戦役の撤退戦中に奴らと出合い。たった二隻のサラミスで敵の真っただ中へと飛び込んで行ったかと思うと何事もなかったかのようにケロリとした顔で帰ってくる。常識外れの艦隊運動と防御に優れたあの二人が、たとえ片割れといえどもそうやすやすと敵にしてやられるとはどう考えても思いつかない。
「宇宙と地上では勝手が違うじゃろうが …… まさかウェブナーに何かあったんじゃあるまいな? 」

 嫌な気分に胸がざわめき始めた瞬間に突然彼の白衣のポケットから勇壮な音楽が流れてきた。「なんじゃ、もう片割れの方か」
 取り出した携帯から流れるフォイクトの『騎兵隊行進曲』を通話ボタンで消すとモラレスは人の悪い笑みを浮かべた。「なんじゃい、今頃のこのこと現れおって。大方キャンベルあたりを呼んでおっとり刀で駆けつけて来たんじゃろうが、戦況は取り留めもなく劣勢じゃわい」
「 “ 文句はチェンに言ってくれ。状況把握ができないままで「なんかおかしい」と言われてもこちらも対応に手間取る。ところでウェブナーは? ” 」
「まだここには来とらん。怪我はしとらんようだからいるとすれば管制塔の下の指揮所か前に喧嘩した司令官室か。最悪の場合機密書類を自分の手で破棄しなきゃならんからな」
「 “ わかった。じゃあ俺達はとりあえず司令官室の方に行ってみる、ウェブナーと落ち合ったらまた連絡する ” 」
「何を呑気な」はあっとモラレスがため息をつく。「そんな事言っとらんでお前さんが指揮をとればいいじゃろう? どうせセシルもそこにいるんじゃろうし。ここまで来てまーだ民間人と軍人の垣根を気にしとっても始まらん。ウェブナーだってお前が相手なら喜び勇んで熨斗つけて、はいどうぞと手渡すに決まっとる。時期が早いか遅いかの違いだけなんじゃから」
「 “ …… いや ” 」電話口の声がモラレスにはなぜか重く感じた。「 “ 現役を差し置いて「元」が口出しすべき事じゃない。それに『准将』からはカモフラージュの間はウェブナーに任せろときつく言われてるしな ” 」
「お前さんたちの派手目が裏目に出たんじゃろう、身から出た錆じゃ。謹んで受け取っとけ。 …… じゃあ早いとこウェブナーに会って医療班からの苦情を届けてくれ、このまンまじゃ医務室にキャンベルを十人ぐらい連れてきてもらわにゃいかんとな」
 さりげなく現状をほのめかしたモラレスだったが返って来たのはヘンケンの憎まれ口だった。どうやら「身から錆」の余計なひと言にカチンと来たらしい。「 “ よーかったじゃないか商売繁盛で。今までこんな僻地でぬくぬくとしてきたツケだと思えばそれくらいの患者、いっくらでも相手できるだろ? まあ俺だったら今のドクに見てもらうのは丁重にお断りするがね、リタイア寸前の腕利きの救命部長を信用しなきゃならないってシチュエーションがどうも。有無を言わさずそこに運び込まれた同胞兵士諸君に俺は心から同情するぜ ” 」
「おお、よう言うた。もし貴様が掠り傷を負って儂に泣きついて来たらハンマー持って出迎えてやるわい、ひと月ほどベッドの上で身動き出来んじゃったらその減らず口もちっとは静かになるじゃろうて」 携帯に向かって叩きつける物騒なモラレスの物言いに足元で横たわる兵士の何人かが苦しい息の下で微かな笑い声を上げる。悲壮感が蔓延する場所だからこそそんな軽口が僅かな心の慰めになる、モラレスは足元で笑う兵士の顔を見下ろして悪戯っぽい表情で笑い返した。
「じゃ、もう切るぞ? 早いとこウェブナーを見つけて何とかする様に言ってくれ。もし怪我をしているんなら儂がそこまで行って声の一つも出せる様にしてやるとな」
「 ” 分かった、ドクもくれぐれも用心しろよ。また後で連絡する ” 」

「誰からですか? 」ニヤニヤが止まらないモラレスに向かって横たわった兵士が尋ねる。彼の胸には赤いタグがつけられて呼吸も脈拍も生き延びるには心もとない、だがモラレスはその兵士の頭の傍にしゃがんでにこやかに笑いながらささやいた。
「援軍じゃ、それも一個師団に匹敵する」そう告げると兵士の表情にみるみる生気が蘇る。医療の限界と人の持つ可能性、その両方をモラレスは自分が生涯携わった生業の中でしみじみと噛みしめて来た。千の機械や万の薬をもってしても助けられないかもしれない患者がたった一言で死の淵から這い出して来るその光景を見て。
「生きて明日を拝むんじゃ。そうすればおもしろいモンが見られるかもしれんからな」

                    *                    *                    *

「これで ―― いいのか? 」ヘンケンは血の海から離れた場所まで引きずり出したウェブナーに声をかけた。顔色はすでに青を通り越して真っ白になって体のどこにも温かい場所がない ―― もう手の施しようのない事は誰が見ても分かった。
「ありがとう、ございます。これで …… ドクは治療に ―― 」声を遮って喉から湧きだす血の塊が上半身を抱き上げたままのヘンケンの胸元を真っ赤に染めた。始まりだした震えを抑え込むようにヘンケンの手に力がこもる。 
「私は、みんなを守りたかった。 …… 彼らは来たるべき時に備えて貴重な戦力となる為の大事な兵士、一人も欠けることなく万全の状態で『准将』の下へとお届けするのが私の役目。だから ―― 」
「敵との取引に応じたのか? ニナ・パープルトンの身柄と引き換えに基地への襲撃をやめさせるという」
 早口で呟かなければもう意識が持たないのだろう、震える唇が何度も言葉を紡ぎ直しながら必死で自分の心を伝えようと試みる。「たった一人の命と兵士たちを天秤にかける事は、私にはどうしてもできなかった。 ―― 中佐」
 ウェブナーの手がなけなしの力を振り絞ってヘンケンの二の腕を掴んだ。「私は間違っていたんでしょうか? 指揮官として、あなたの部下として! 私の選んだやり方はっ!? 」

 聖書を取り出そうとするキャンベルをセシルが小さく頭を振って押しとどめる。沈痛な面持ちでウェブナーの脈をとるパットは涙目をヘンケンに向けた。
「そんな事はない、お前は正しい事をしたんだ」ヘンケンの左手が二の腕を握りしめたウェブナーの手を覆った。少しでも自分の温かさが伝わればいい、と。「部下を預かる指揮官として。俺の部下として。 …… 間違ってなどいない、お前は正しいやり方を選んだんだウェブナー。いつも通りに」
 ヘンケンの言葉に子供のようににっこりと笑った ―― それがウェブナーの限界だった。力を失った手がヘンケンの二の腕から滑り落ち、表情からスウッと生気が抜ける。
「少佐っ! 」叫んだパットが慌てて腰のポーチから強心剤アドレナリンを取り出してアンプルの先をへし折った。震える手でシリンジを突っ込んで中の液体を吸いだし、命だけは何とか取り留めたいと二の腕を捲りあげたパットの手はそれよりも遥かに力のないウェブナーの手によってそっと押しのけられる。涙を溜めながら視線を送るにわかの救急救命士に向かって、かつての仲間は小さく頭を振って彼の願いを拒絶した。
「中佐、まだ、そこに …… いらっしゃいますか? 」開き切った瞳孔が宙を彷徨う。「あとの事を、お願い、しま …… す。みんなを ―― 私たちの部下を、たすけて …… くださ、い。夜明けには、敵の航空 ―― 機がここを爆撃します。そのまえに …… どうか」
 ふわふわと空に差し出された血まみれの手をヘンケンがしっかりと握りしめる。そのまま自分の額へと押しあてて硬く目を閉じた。「約束する。必ずの部下は俺達が助け出してやる ―― 必ずだ」
 
 ブージャム1が言った事に間違いはなかった。こと切れる最期の瞬間まで続く激痛がウェブナーを襲い、どこにそんな力が残っていたのかとヘンケンが思うほど激しくもがき苦しんだ。別れを惜しむ事が今の彼にとってどんなに残酷な事かヘンケンには分かっている、それでも握りしめた手がどうしても離せない。
 だがその葛藤に終止符を打つきっかけを作ったのは一番後ろに控えて立っていたはずのチェンだった。彼はデスクに近づいて引き出しの中から取り出したウェブナーの拳銃をヘンケンの目の前に差し出すと顔をそむけたまま小さくうなずいた。
「 …… ウェブナー、今楽にしてやる」
 握りしめた指を一本ずつ引きはがしてそっとウェブナーの体を床へと横たえ、苦渋に塗れた声と共に立ち上がったヘンケンは何度もためらいながら ―― だが遂にその決意を固めてゆっくりとスライドを引いた。かちりと撃鉄が上がる音が聞こえたのか、ウェブナーは最後の力を振り絞って敬愛する上官からの最後の情けを受け取った。
「 …… お手数、を、かけます。 ―― みんなに、謝っておい、て、くださ、い。無能な、指揮官で …… 申し、訳、なかった ―― と 」
 不規則に動く胸の真ん中へと狙いを定め、少しづつ右手の人差指に力を籠める。指の腹が白くなり始めた時に目の前で息絶えようとする戦友はにっこりと笑って呟いた。
「 …… うまれかわっても、また、あなたの …… したで、はたらきた、い」

 放たれた一発の弾丸がもたらす悲しい結末と一瞬の光芒。照らし出された参列者は去来する様々な感情をそれぞれの表情で表した。初老の機関長は聖書を取り出すこともなく弔いの言葉を呟き、助ける事が叶わなかった先任航海士は小さな嗚咽を決して広いとは言えない部屋の片隅に振りまいている。上官の希望を翻意させた東洋人のオペレーターはうつむいたまま眼鏡を押し上げて何かを呟き、そして彼を苦痛から解き放った上官とその副官は瞬きもせずにその一部始終を脳裏へと焼きつける。
 たなびく硝煙の下で穏やかな笑みを浮かべて一生を終えた戦友の顔を凝視したまま身動き一つしなかったヘンケンはギリ、と奥歯を鳴らすと振り向きざまにセシルへと拳銃を手渡し、そのまま足早に彼女の横をすり抜けると両肩を震わせながら目の前にある頑丈なドア目がけて怒鳴リ声を上げた。
「チェンっ! 」俯いていたチェンが見事な身のこなしでヘンケンの背中へと答礼する。「指令室以外にこの基地の全機能を乗っ取れる場所はどこだっ!? 」
「ハンガー直近に置かれた予備電算室、現在自分のパスワードで機能封鎖中。いつでも解除してすぐにでもこの基地の全機能を制御できます」
「キャンベルとパットは直ちにグレゴリーと合流して残存兵力を掻き集めろっ! 敵の地上部隊が息を潜めている今しか戦線を立て直す機会はない、籠城しながらカウンターの機会を狙うぞっ ―― 副長っ! 」
 敬礼をしたまま小さく頷くパットとキャンベルの前に立つセシルだけは手を身体の前に置いたままじっとヘンケンの背中を見つめている。「機能掌握までに反撃のプランを立案、以降のオークリーにおける全オペレーションをお前に一任するっ! 」
「艦長 ―― 」

 セシルにとってそれは大事なことだった。
 密命を受けてからこの三年間、仮初めとはいえ夫婦という幸せな役回りを頂いた彼女にとってそれは夢の終わりを意味している。
「軍務への復帰を …… ここで宣言なさいますか? 」
 
 彼女が放ったその言葉の重みにヘンケン以外の三人はビクッと肩を震わせた。それを口にしてしまえばもう後には戻れない、戦火に塗れながら誰しもが夢見たあの平和な日常がまた鮮烈で過酷な過去へと舞い戻る。復讐心に駆られていた彼らを落ち着かせるのにそれ以上の物はない。
 セシルにとってもそれは同じ。彼と共にこの先を歩むと言う事はその能力の全てを勝利のために残らず費やすという事、たとえそれがどれだけ非情な選択を迫られるような事であっても、だ。

「 …… あいつの願いを叶えるために今それが必要だというのなら、そうするしかない」背を向けたまま呟いたヘンケンがセシルの方を振り向いた。二人の顔に宿るかすかな悲しみとかつての光を取り戻し始めた両の目が、お互いにしか分からない様々な感情を行き来させる。
反地球連邦暫定政府A.E.U.G.宇宙軍所属、ヘンケン・ベッケナー中佐。地球連邦軍北米方面軍所属オークリー基地司令、クリス・ウェブナー『大佐』の遺志を継ぎこれより軍務に復帰する事をここに宣言する」
「艦長に、敬礼っ! 」
 
 戦いが、また始まるのだ。
 いつ終わるとも知れない歓喜と絶望に満ちたあの日々が。



[32711] Clue
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/01/07 21:17
 壁に張り付いたままのドムを見上げながら小走りで退避壕へと向かうアストナージは隣を同じように走るモウラへと声をかけた。「班長、どうせだったらアイツもバリケードに使っちまえばよかったンじゃないスか? 弾が当たったって爆発の心配はないんだし ―― 」
「あの装甲は役に立つって? そんな事ァあたしも百も承知さ」

                    *                    *                     *

 謎だらけのハンガークイーン。アビオニクスに関してはニナにその処遇を任せるとしてモウラは残ったハードの全てを解析する事に決めて、基地にあるありったけの整備用機材を用いて全身の隅から隅までくまなく調べていくうちに彼女はこの機体が自分が思っている以上の謎を秘めているという事実に直面した。その中でも特に装甲に使用されている金属素材。
 連邦軍に鹵獲されたジオン軍のモビルスーツのほとんどはその装甲が『超硬スチール合金』と呼ばれる ―― 主に炭素と鉄を無重力下で鍛造したジオン公国肝いりのインダストリーで作られたものを使用している。純度の高い『チタン』を大量に埋蔵するルナツ-を連邦軍に握られているジオン軍にとって、それに匹敵する硬質金属の開発は目前に迫った決起を控えての喫緊ともいえる課題だった。その活路を求めて大戦前に抑えたグラナダには残念ながら彼らが必要とする条件を満たすだけのチタンが存在していなかった事が本国での開発速度に拍車をかけた。
 装甲の材質が連邦軍に劣る ―― 連邦軍のモビルスーツが戦場にいずれ現れるであろう事を当時のジオン軍の中枢部は予期していた ―― 事はいかんともし難い事実であり、ならばルナツ-を奪取するまでの繋ぎとして何としてもそれに匹敵する長所を備えた素材を調達する必要がある。しかもすぐに手に入る身近な材料で。
 そこに現れたのがかの素材である。主材料となる鉄と炭素ならばどこにでも存在し、しかも価格も他の稀少金属とは比較にならないほど安い。硬度は確かにチタンとは比べようもないが取り扱いの良さ、加工の容易さという点においては断然有利であった。連邦軍と比較してジオン軍のモビルスーツのバリエーションが多彩なのは素材加工の容難による差であるという事が後の世の軍事評論家たちによって分析されている。

 装甲の材質強度を非破壊検査機で測定していたモウラはモニターに表れた数値が連邦軍のモビルスーツに近い事に気がついた。驚いて超音波による組成分析を行ってみると機体外郭を構成するパーツは全てチタン、コックピット周りにはなんとV作戦時に建造された試作機にしか使用されなかった「ルナ・チタニウム合金」が使われている。サバイバビリティだけで言うならあのGPシリーズ以上だ。
「ドンガラはジオンで中身は連邦、どうなってんだ、この子? 」
「すげえな、こりゃ …… 俺もジャブローで組成サンプルしか見た事ァねえけど数値は連邦のアレに近いモンですぜ。いよいよもって謎だらけですけど ―― 」
 当時分析結果のモニターを横で眺めていたアストナージがモウラに向かって呟いた言葉。
「 ―― なんで連邦はこんな機体をお払い箱に? 使えないとこだけでも変えちまえば十分エース機体になったかも知ンないのに」

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「でもあの機体はジェスの担当だ。担当者の許可なくこっちの勝手にはできないだろ? 」退避壕のドアの前で腕組みをしたままじっと壁を睨みつける赤毛の少女へと視線を向けたモウラが笑った。
「確かに、そんなことしようモンならどんな仕返しが待ってる事やら。あいつ、整備士よりそういった方面の方が向いてるんじゃないスか? 政治家とか活動家とか」
「やめとくれ、そんな勢いで労働組合でも作られた日にゃこっちがお手上げだ。管理職にとっちゃあああいうのが一番扱いづらい ―― 」本気でアストナージの冗談に反論したモウラの胸ポケットから音がした。しまってあった携帯を耳にはめてホログラムを開いて発信元を確認して、ぎょっとした彼女の足が止まる。
「! キース!? 」
 慌てて通話ボタンを押したモウラの耳に恐らく敵に肉薄しつつある部隊長からの大声が響いた。「 “ 携帯だ、モウラっ! ” 」

                    *                    *                    *

 機体性能の差は覆しようがない。どれだけの決意と気迫をこめてマークスが立ち向かったとしても一対一では明らかに分が悪い事がおいてきぼりにされたアデリアにはよくわかる。
 だが二人の間に踏み込む隙が見えない。自分よりは接近戦が苦手なはずのマークスが息を飲むほどの見事な立ち回りでガザエフの太刀を受け、いなし、かいくぐっては肉薄する。その度に機体の装甲が徐々に削られてはいるのだがそれでも彼は、やめない。
 外部スピーカーでの呼びかけにも答えず延々と切り結ぶ二人を前に何とかしなければと焦るアデリアの下に携帯の着信が入ったのは、今まさに無理やり間合いに飛び込もうとフットペダルに力を込めた瞬間だった。襟元に固定した ―― 副業のモデルの連絡が入る為、演習中の癖でそこにつけている ―― 小さな機械が自動的にホログラムを展開して発信元を表示すると、彼女はそこに映った名前を見て声を詰まらせた。
「! モウ、ラ …… さん? 」
 彼女はまだキースが死んだ事を知らないのだ。呼び覚まされた怒りと悲しみが再び彼女の視界をゆらゆらと歪ませる。だがアデリアの小さな機械は持ち主の葛藤もお構いなしに設定された指示通りに自動的に着信を通話へと切り替えた。
 まだ心の準備もできてないのにっ! なんて言おう、どうやって伝えればいい!?

「 “ アデリア? どうしたんだあんたらしく ―― まあ戦闘中だからしょうがないか、あたしもこんなこたぁ初めてだ ” 」何も知らずにいつも通りのトーンで話をするモウラの声が耳に痛い。「 “ いいかい、今からあたしの言う事をよく聞いて。今ホログラムに出たアドレスに繋いでチャットアイコンを押して。それでプロバイダのクラウドサービスが使えるから。今基地の主だった連中にもメールで送信して同じように繋いでる、基地全員とはいかないけれどもうすぐ通信が回復するから ” 」
 チャットで繋がるという事は自分の発信する情報がメンバーとの間で同時に共有できるという事だ、つまり ―― 隊長が敵にやられたことも全員に。
 軍人としてのアデリアの判断がそれを拒否した。自分達に不利な情報を味方に発信してはいけない、特にこの状況下は少しでも士気が下がる事はご法度だ。そのためには全員に繋がっていない今しか彼女に伝える機会はない。 
 なんとしても ―― 自分の悲しみ以上に聞かなければならない人にはこの事を伝えなくっちゃ。

「了解、しました。 ―― モウラさん」必死で絞り出す涙声が震えるのが自分でもわかる。「 “ ―― ちょっと、どうしたんだいアンタ? 泣いてンの? 一体そこで何があったって ―― ” 」
「隊長がっ! 敵に …… 」あふれる涙がそれ以上の言葉を紡がせない、嗚咽が体の奥からあふれ出てなんとか話さなきゃという彼女の意思を簡単に覆してくれる。二人の間に割り込もうという気力も気迫もなくなって泣きじゃくるアデリアの耳にモウラの声がとてつもなく大きく響く。「 “ えっ、なに? キースがどうしたって? ” 」
「敵に …… 撃破、されましたっ! シャーリー02、ロストですっ!! 」
「 “ ふーん? それっていつごろの話? ” 」思わせぶりなモウラの反応も今のアデリアには届かない。「 “ 聞くけど。あんたはその事実を自分の目で見たのかい? 戦場で一番大事な事は客観的事実を自分の目で見て確認して、正確に本部へと伝える事だ。あんたの目の前でキースは本当にやられたっていうのかなぁ? ” 」
「いえ、それは ―― 」
「 “ それともう一つ ” 」声の中にほんの少し混じっている怒りのエッセンスがアデリアの涙を止めた。本当にモウラさんは百戦錬磨だ、彼氏が死んだというのに平然と戦場での常識を口にしてあたしを叱っている。あたしには到底こんな事は ――。
「 “ あたしはたった今、死んだ彼氏からの電話を取ったってことなんでしょーか? ” 」
「 ―― はえ? 」驚いて飛び出た返事が間抜けだ。相反する情報が錯綜して混乱する彼女の思考を正すようにモウラの怒鳴り声が耳を突きぬけて頭の芯にまで届いた。「 “ いい加減寝ぼけてないでとっとと言われたとおりにアクセスしなっ! キースがあんた達のこと心配してるからっ! ” 」

「 “ 遅いぞ伍長っ! 今お前達どうなってるっ!? ” 」叱られている事がアデリアにはとてつもなく嬉しかった。いつも通りの厳しい声も、見え隠れするその優しさも。溢れる笑顔を濡らす涙を片袖で拭いた彼女はそんな自分の醜態を悟られないように必死で、努めて冷静ないつもの声で話そうと試みる。「申し訳ありません、現在重砲を護衛していたと思われる敵一機と遭遇、マークスが交戦中です」
「 “ そうか、 …… よかったぁ ” 」そういうところなのだ、私が。いや私たちがこの隊長を好きなのは。
 作戦が反故になっても不利になっても、決して非情にはなりきれないその人柄を私たちは知ってる。彼が私たちに厳しかったその理由も、その経緯も聞いてしまった今となっては「隊長」と心の底から尊敬して呼べる人は彼ただ一人。
 たとえコールサインが『02』のままであったとしても。
「 “ 敵は強いか? ” 」
「強いです、恐ろしく。二人がかりでも抑えるのがやっとです」
「 “ 了解した。では伍長と軍曹は二人で協力して何とかそいつをそこで抑え込め、そんな凄腕なら絶対に前に出す訳にはいかないからな。こっちは俺が一人で何とかする ” 」 
 そんな事は絶対にない。だってこいつはあたしが目当てでここまで出張ってきてるんだから。 ―― と言うモノローグを心の中で呟いたアデリアは恐ろしい笑みを浮かべた。「りょーかいです。お任せください」
「 “ 強敵だって自分で言ってたのにずいぶんと自信満々だな。まあいい、マークスにもモウラの電話の事を伝えて早く繋げるよう言ってくれ。できるな? ” 」
「はい、それはもう」消えていた心の焔が再び燃え上がる、ヘルメットを脱ぎ棄てて傍に置くのは本当にやる気になった表れだ。
「今メッチャやる気マンマンになりましたから」
「 “ お、おう。頼もしいな ” 」零れ出る根拠のない気迫に引き気味になるキースの声を聞きながらアデリアは長い髪をお気に入りのオレンジ色のシュシュでまとめながら言った。
「あたし、昔っから嘘つく奴って本当に大嫌いなんです。みんなの事は別ですけどね」思いっきり両手で腿の外側を力いっぱい張って渇を入れる。「ではこれよりフォス伍長、吶喊しますっ!!」
 吠えたアデリアが操縦桿を力いっぱい握りしめてフットペダルを男勝りの膂力で踏み切る、キースに繋がっていることもお構いなしに彼女は目の前にあっという間に迫る黒い機体に向かってサーベルを引き抜きながら怒鳴り倒した。
「こンの、ペテン師やろおっっッ!! 」

 至近距離での攻防と動体視力に絶対の自信を持つ彼女の突撃は絡んでいる二人を怯ませた。ねじ込んできた刃を躱すために体勢を崩したガザエフが後ろへ引いた瞬間に放たれるアデリアのマシンガンはクゥエルの右肘を掠めてアクチュエーターの一本を捻じ曲げる。ゴキンと言う音と共にはじけ飛ぶシリンダーの音を聞きながら彼女が外部スピーカーで叫んだ。
「マークスっ! 隊長生きてるっ! あんたは携帯でモウラさんに電話してやり方を聞いて。それで基地のみんなと交信できるからっ! 」
「残念、もうばれちまったか」
「うるさいっ! よくも今までだましてくれたわねっ!? 」含み笑いで事実を告げるガザエフに向かってアデリアの激怒が声となって炸裂した。
「あんたってやつは本当にクズのクズっ! ちょっとしたあたしの涙をかえせ、このバカっ!! 」

                    *                    *                    *

「センサーに感、おいでなすった」携帯の繋がったマルコがアンドレアに注意を促す。ゲルググの掌から伝わる振動の波形が直線から小刻みに変化するのをマルコはじっと見つめている。
「 “ ど、どどどうしようマルコ。敵が、いや味方が敵って、えーとと、とにかく俺達どうすりゃいいんだっけ? ” 」実戦経験のないアンドレアが慌てるのも無理はない、自分達が対峙している敵が実は連邦軍でしかも特殊部隊と聞けばマルコとて穏やかではいられない。
 敵の主力は最新型のジム・クゥエル夜戦タイプ、昔読んだ開発計画の資料では多少のパワーアップが図られてはいるが緒元その他に変更点はない。ただ頭部に設置されたクアッドタイプのセンサーと戦術的C4Iシステム(C Quadruple I system シー・クォドルプル・アイ・システム;指揮官の意思決定を支援して、作戦を計画・指揮・統制するための情報資料を提供し、またこれによって決定された命令を隷下の部隊に伝達する。すなわち、動物における神経系に相当する)を搭載した集団戦特化型ではないかという印象があった。数で力任せに押すジムの運用方法を見直し、トップダウンで相互連携を図って全体を能動的に機能させる。作戦を立てる側としてはモビルスーツの上げる戦果はどこかイレギュラーヒットな考え方があった、だがもしこのシステムが全てのモビルスーツに搭載されれば繋がった小隊なり分隊なりの火力単位が大きく変わって艦船と同単位の戦力として運用する事ができる。損害予想も立てやすい。
 ただ戦争が終わってからずいぶん経つ今頃になってこんな機体が開発、実戦配備されているとは。ティターンズとは本当はどういう集団なんだ?

「撃ってくる奴が敵で撃ってこない奴が味方。簡単だろ? 」レジスタンス時代に受けたドクトリンの一節を口にするマルコはセンサーの波形を注意深く数えていた。突起は八か所、つまり敷地内に侵入したのは八機。
 ―― 数が多すぎる。こっちは貴重な、本当に貴重な戦力を失ってまで目くらましを試みたのに大した時間稼ぎもできなかった。
「 “ じゃ、じゃあさ。もし敵が撃たずに投降しろって言ったら素直に従えばいいんじゃないか? それなら味方ってことだろ? ” 」
「あのなぁ、そんな紳士的な奴らが夜中にこっそり襲ってきたりするか? バスケスがどうやって殺られたのかもう忘れちまったのか? 」つい今しがた起こった衝撃的な光景を口にしたマルコの声音に怒気がはらんでいる。弱気を起こす兵士はどこにでもいる、そんな時に宥め透かすのは得策ではないという事を彼は戦場の空気から教わっていた。
「 “ …… そうだよな、も、もうやるしかないんだもんな。 …… ごめんな、マルコ。やな事思い出させて ” 」
「いいって。それよりそろそろ持ち場につくぞ。お前は右側、俺は左側。そっち側には重火器を目いっぱいばらまいてるから敵が顔を出したらガンガン撃ちまくってくれ。こっちに逃げてきた敵は俺がマシンガンでけん制するから」
「 “ わかった。 …… それで本当に勝てるんだよな、マルコ? ” 」

 順調にいかない事はよくあることだ。だが敵の戦力予想が根底から覆った事はマルコに頭痛をもたらしていた。主力の機種もそうだが高台に控えているのは間違いなくガンタンク、性能は一切不明だがそれなりの強化は図られているだろう。隊長の持つ対物ライフル一丁で間に合うかどうか。
 それに軍曹と伍長の動向も気になる。本当ならどちらか ―― または二機が敵の背後から襲いかかって数を減らしてくれるだろうと思っていた。だがそんな思惑を見透かしたように現れた一機の敵がこちら主戦力の一翼を見事に絡め取っている。しばらくは援護の期待ができない。
「 ―― さっきも言ったろ? 勝つには死ぬほどがンばンなきゃダメだって」自分に言い聞かせるようにマルコは言った。頭の中で昔バスケスに言われたセリフが蘇る。
“ そりゃどう考えたって死ぬ確率の方が高いさ、でも生き残る可能性がなくもない。じゃあ少しでもその可能性を高める為の努力ってのは必要だろ? 何にもせずにただやられっぱなしってのは無しだ ”

                    *                    *                    *

 処置室の隣にある手術室の無影灯に火がともる。黄色いタグをつけた重症患者のほとんどを凄まじい速度で片づけたモラレスは次に重症患者への処置へと入った。もっとも重篤で、しかしまだ助けられるかもしれない患者を優先的にベッドの上に寝かせて一時的な延命を試みる。人命は優先しないが助けられるのならできるだけ助けたいという、それはモラレスと言う名の救急外科医が持つ彼なりの矜持のようなものだった。
 この外傷で息があるのは幸運だ。横たえられた兵士の顔面は大きく抉られて左の頬骨がなくなっている、加えて左上腕部からの欠損と出血性ショックの症状。「リンゲルだけじゃ足りんわい ―― おいっ! 元気のあり余ってるA型のやつ! こっちに来て少し血を分けてくれっ!」 
 声はかけてみたもののそんな奴がこの部屋のどこに ―― といぶかしんだモラレスだったが以外にも二人の男が名乗りを上げた。「あり余ってる元気はないけど輸血ならなんとか」という声に力はないが、それでも外傷による出血量はそう多くない。十分輸血には耐えられるはずだ。
「おお、すまんの。ちょっとこっちに来てくれ」モラレスに手招きされて足を踏み入れた二人は目の前に寝かされている瀕死の兵士を見てぎょっとなった。「ちょ、こりゃあ ―― 」
「ドク、これで彼を助けられるんですか? 」傷の酷さに口を押さえて尋ねる兵士に向かって頑固医師の鋭い睨みが飛ぶ。「それをやるのが儂の仕事じゃ、びびっとらんで両側の台に早いとこ寝てくれ」
 促されて手術台の傍らに据えられた台に寝そべった二人に看護婦よりも手際よく輸血用の針を刺して、反対側をそれぞれ患者の頸動脈と手首に突き刺した。「頭がくらっとしたらそれが限界じゃ、すぐに輸血を代わるから儂に言ってくれ」
 うなずく二人から流れ込む血が少しづつ怪我人へと流れ込む、そうすると不思議な事に息も絶え絶えだったその兵士はわずかにではあるが顔を動かして無事な方の目の焦点をモラレスに合わせた。「ド …… ドク。お、れは ―― 」
「しゃべらんでええ。すぐに元どおりとはいかんが直してやる」そう言うと彼は患者を見下ろしながらマスクを装着した。
「お前さんの怪我は酷い、じゃが心配せんでもええ。儂はもっと酷い患者を治したこともあるからの」

                    *                    *                    *

 ペガサス級強襲揚陸艦ブランリヴァルに救助された乗組員と難民は遅れて来たヘンケンやセシルと共にサイド6へと到着する。だがその中でモラレスだけはただ一人港で連邦軍から直々の待機命令を受けた。何事かと一室で次の展開を待つ彼の下へとやって来たのは連邦軍の士官と彼の乗る一機の宙間用戦闘機、セイバーフィッシュ。
 「なんと青線入りリーダーか、それに複座カモノハシとは。 …… で、儂を一体どこへ連れて行くつもりじゃ? 」
 モラレスとは一切口を訊かないその士官が向かった先は隣のL3に置かれた連邦軍唯一の宇宙要塞ルナツ-だった。到着するなり用意されてあった白衣を身にまとった彼は ―― 道中で恐らくそんな事ではとあらかた予想はついていた ―― 老人へと足を踏み入れた年齢を感じさせないほどの速さで医療部門を訪ねた。
「Dr.モラレス。お待ちしておりました」
「挨拶は後回しじゃ、儂が看る患者はどこにおる? 」

 百人以上は収容できそうな集中医療センターをガラス越しに眺めながらモラレスはトラベレーターの上を小走りに駆け抜けるとその先にあるエアバリアーへと飛び込んだ。一通りの洗浄を受け、肩でスイングドアを押しあけるとその先で彼の到着を今や遅しと待っていた医療スタッフに大急ぎで指示を飛ばす。「一刻を争うんじゃろう? 患者の容体は手術室で直に見るから検査のデータは全部そこに回してくれ。X線とMRIの画像も忘れるな」
「レントゲンですか? いえ、それはまだ ―― 」
「ならすぐに撮影しろ、手間はかからん。外傷部分の全体像を把握するにはその方が分かりやすい」
 言うなり彼は隣の無菌室へと飛び込み衣服を全部脱ぎ棄てて紫外線ライトの下で看護婦が手にした手術用の衣服に袖を通そうとした。しかしモラレスはその時傍らの壁に連邦軍の制服のままで背中を預けている大柄な士官の姿に気がついた。
「なんじゃ貴様は? いつからこの中に入っておった、あんまり長くこの中におると目が見えんようになりかねんぞ? これ以上儂の余計な手間を増やさんでくれ」
「このゴーグルは特製でな」青い光の下でその士官がニヤリと不気味に笑う。「貴様がDr.モラレスか? 」
「自分から名乗らんような躾のなってない奴に誰が言うか。それに ―― 」士官の襟に光る階級章に横眼をくれながら彼は毒づいた。「佐官にもなるとそんなことも忘れてしまうモンかの? 」
 挑戦的なモラレスの態度が癇に障ったのかみるみる佐官の表情が怒りに歪む、しかし彼はそこで気を取り直して一つ咳ばらいをした後に丁寧な口調で告げた。
「私は作戦参謀本部長次席補佐、バスク・オム少佐。わざわざこんな所まで自ら赴いたのは貴様に頼みがあるからだ。 ―― これから貴様が治療する患者を必ず助けろ」
「名乗りはしたが口のきき方を治す気はない、おまけに畑違いの事にずいぶん上から物を言ってくれる。そんな事は儂が決める事じゃない、患者が決める事じゃ」
 看護婦が手にしたラテックスの手袋を目で拒絶して別の手袋を持ってくるように視線を送る。手術帽を被せられたその後頭部に向かってバスクの威嚇的な声が届いた。
「彼は一年戦争の英雄だ、それに今後の予定もある。だからこんな所で死んでもらっては困るのだ」
「 …… 英雄、ねえ」深い溜息とともにその言葉を吐き出すとモラレスは手袋をした両手を目の前に掲げたままバスクの方へと振り向いた。「人を上手に多く殺した者に与えられる、儂ら医術に携わる人間にとっては最も忌むべき蔑称じゃ。そんなもので人一人の矜持がどうにかなると考えてる所が苦労が足りん」
「貴様っ! 仮にも参謀本部を預かるこの俺の ―― 」
「騒ぐな、唾が飛ぶわい。お前さんとのそのくだらない会話と恫喝がお前さんの頼みをご破算にしかけてるって事がまだ分からんのか? 」頭二つも背の高い大男を老人が下から睨め上げる。「お前さんごとき部外者に言われるまでもない、儂は儂のベストを尽くしていつも患者に向き合っておる。今回もそうじゃ、約束はできんが彼は儂の全てを使って治療を試みる事だけは約束しよう」
「貴様ァっ! 」
「触るなバカ者っ!! 」バスクが振り上げた拳に背を向けたモラレスが裂帛の気合で恫喝した。背中から滲むその気迫に思わず大男の拳が宙で止まる。
「 …… そういや自己紹介がまだじゃったの。儂はスエルテ・モラレス少佐、お前さんと同じ階級じゃ。どうしても納得できないというのであれば今度は歳で話す事になるぞ? 小僧」

                    *                    *                    *

 顔の左半分を覆う金属の仮面を金属の手で押さえたウスタシュはもう一つの生身の目でじっと星空を眺めていた。
大佐カーネル、どうかしましたか? 」少し離れた隣で配置についている爆撃手が異変に気づいて声をかけるが、彼は普通に機械を通した声で静かに言った。
「 “ いや、何でもない。 …… 現在地は? ” 」
「高度21000メートル、ハワイ島の上空を通過した所です。 …… 向かい風がひどい、予定より若干遅れるかと」成層圏に吹く風は地上とは逆になる、巨大な翼を少し揺らしながら「ガルダ」と呼ばれる空中大型輸送機はゆったりと目的地を目指していた。カーゴベイには一発二トンのサーモバリック爆薬を使用した超大型爆弾が五発、最大搭載量を超えた重量が足を遅くしている事は否めない。
「 “ 間にあわないのなら代わるぞ? ” 」真ん中に座る操縦士に向かってウスタシュの不気味な声が届く、しかしシールドで覆われた顔を小さく左右に振って操縦士は答えた。「偏差データ入力、誤差修正 …… 少し燃料は余分に使いますが大丈夫です、時間に、なんとか」
 グンと背中にかかるGを感じながらウスタシュはゆっくりと背中をシートに預けた。「 “ そうだ、それでいい ” 」
「しかし大佐自らご搭乗になるとは思いませんでした。ドイツの時も本部においででしたから今回も、と思っていましたが」
「 “ たまには私も現場を視察せんとな、それに後始末をこの目で直に見てみたい ” 」

                    *                    *                    *

 突然照準器がその光に反応して覗いていたハンプティを焦らせた。てっきり自分に向かって放たれた何らかの噴射炎だと思った彼はとっさにAIに対して回避を指示する、が機械は生身よりも冷静に状況を判断していた。接近して来る脅威目標及び攻撃弾体なし、測定の結果は人為による光源発光。
「 …… おっどろかせやがって、全く」回避すると言っても自分が立つこの丘の上は足場が狭く移動範囲も限られている。本来なら重砲をそんな場所に設置する事は自殺行為にも等しいのだが、敵戦力にそれを迎撃する火力を持ち合わせていない事が判明しているので野ざらしのこの場所を配置ポイントとして選んだ。
 光学補正を赤外線からスターライトに変更して自分を驚かせたその光の正体を探るとそこは管制塔のある指令棟の二つ隣り、事前にインストールされた見取り図では管理棟に併設された三階建の小さな建物だが医療区画等の保全施設が集中している。「このドンパチでも全然気にせずに明かりをつけたところを考えると …… あそこが医務室か。AI、弾種榴弾。目標医療区画」
 どうせ皆殺しになるのだからそんな事をする必要はない、とお堅いトーブ1あたりに怒られるのかもしれないが医療部門を壊滅させる事は敵の士気を著しく低下させる。怪我をしても治療をしてもらえないという心理的な制約が敵の攻撃の選択肢から前向きなものを除外してしまうのだ。それに下手に治療を続けられて敵の戦力が漸減されないままになるのはこちらとしてもいただけない、平時と違ってこちらの行動時間には限りがある。
「勇気ある行動には素直に敬意を表したいところだが、これも戦争だ。悪く思うな」

                    *                    *                     *

 壁に沿って上から下へと延びる二本のパイプから突き出たレバーをゆっくりと下へと下げながらモラレスはマスクに繋がる途中に設けられた混合比メーターの数値を注意深く眺めていた。一応手術設備を備えてはいる ―― それもモラレスとウェブナーのゴリ押しによって本部から勝ち取った物だが ―― もののそれはあくまで応急処置的なものであり、手に負えない重症者はヘリでキャリフォルニアへと運ぶ段取りとなっている。だが無線も封鎖され、こんな夜中では携帯の相手も応答しない今となってはここでほとんどの救命措置を、限られた機材をやりくりして行うしかない。
 患者の胸の上に置かれた心電図モニターと麻酔代わりの笑気ガス、そして万が一の時のために保管してあった局所麻酔剤リドカインと自前の手術道具だけが頼みの綱だ。あとは自分の腕がさびついていない事を祈るのみ。
「つくづく医局を離れて現場に出といてよかったわい。あのまんまあそこにいたらこんな状況はお手上げだったの」
 上げ膳据え膳で先生さまと持ち上げてくる下の人間と人一人の命を運命に逆らってまでも繋ぎとめられるだけの機材と薬剤。便利になりすぎる日常が人を腐らせ、腕を鈍らせる。一介の医師として最後まで現場の最前線に立つ事はもしかしたら自分の寿命を縮めているかもしれないが、それでも常に新鮮な気持ちで患者と対峙する事の重要さを教えてくれる。
 無力ではない、と自分が自分に誇れるだけの自信と技術。それこそが今までのモラレスを、そして今の彼を支えてくれる。
「じゃあそろそろ始めるか。二人ともまだ血を貰うても大丈夫か?  …… もうちょっとの辛抱じゃ ―― 」
  
                    *                    *                     *

「AI、最後の榴弾だ。確実に当てろよ。 …… 一番、ファイア」

                    *                    *                     *

 戦場に出た物ならその音がどういう意味なのか瞬時に分かる、わからなかった奴はとっくにこの世にいない。突然大きくなる高い笛の音と窓ガラスをビリビリと震わせる空気の振動。
「至近弾っ! 」そう叫んだのは怪我人を見て一歩引いた方の兵士だった。モラレスが手にしていたメスを床へと投げ捨ててとっさに目の前に横たわった患者の体に身を投げると、さらにその上から両側の二人が自らの体を投げ出した。

 キャニスターから子弾を放出するクラスターとは違って榴弾から放出される弾はただの鉄球だ、それ自体が破裂して二次被害をもたらす事はない。だがそれゆえに破壊力は極めて暴力的でもある。砲弾の持つ終速をそのまま運動エネルギーとして目標へと叩きつけるその仕組みは巨大なショットシェルのゼロ距離射撃に等しい。
 勢いよく放たれた無数の弾が小さな医療棟全体へと突き刺さってコンクリートを豆腐のように破壊し、外壁を突き破って内部へと侵入した鉄球は物理法則の趣くままに内部構造を隅から隅まで蹂躙した。

                    *                    *                    *

「近くだな」
 足を止めずにヘンケンが呟くと先頭に立って歩くチェンは行く手の左に現れた鉄製のドアの鍵を開けていた。雷鳴のような炸裂音と建造物の崩落する振動が床を伝わって三人に届く、だがミサイルやビームの嵐に船体を削られながら戦場を駆け抜ける事に比べればどうという事はない。むしろそれが彼らにとってのかつての日常だ。
「しかしまさか携帯でこの状況を打開するとは。オペレーターとしてそれに気がつかなかった事は恥ずべきばかりです」そういうとチェンはドアを開いて後の二人を招き入れる。沈黙を守っていたはずの予備電算室は中央電算室の機能停止によってその機能を移管され、六台あったサーバーの全てに駆動状態を示すインジケーターが点灯していた。
「便利なものとはそういうもんだ、普段使っているから別の使い道があるってことにはなかなか気付かない」
「しかし考えましたね、クラウドサービスを使ってグループ会話を通信網に使う。確かに携帯の電波は変調波ですから盗聴はされにくいですし、それにここは僻地ですからどうしても最新鋭の通信サービスが採用されていない」
 感心するセシルが後ろ手でゆっくりとドアを閉める。「基地局のアンテナの本数はいま主流になっているサービスの半分以下、探して壊すにしても時間がかかる」
「通信容量は大したことないが会話だけならば問題はないという訳だ。で、チェン。お前はこの状況をどう利用する? 」
 訪ねたヘンケンの横を通り抜けてモニターの前に腰かけたチェンはすぐに電源を立ち上げてコマンドを打ち込んだ。「クラウドが使えるのならばファインディング捜索機能が使える、今僕の携帯と繋がっている全ての携帯を探すようにプロバイダに要求しました。これで全員の位置情報がこのモニターの見取り図上に表示できます」
 最初は北米地図上に置かれた赤い点の塊が拡大と共にその輪郭を広げて遂にはオークリー基地の俯瞰図上でまばらに分かれる。「これからも通話が誰かに繋がればすぐにその位置はここに出ます、そしてIFF(敵味方識別)の役割も果たす」
「味方に関してはそれでいい、だが敵の位置はどうやって見つける? 」
「携帯電波の周波数帯を除外してそれ以外の電波を探します、特にスクランブルの掛かっている周波数帯。多分敵の通信機にはCAS(限定受信装置)が組み込まれているでしょうからそれをデスクランブルしてしまえば相手の位置も自分達と同じようにこの見取り図上に ―― 」チェンがそういうとすでにいくつかの青い点が表示されている、すでに彼はその操作を終えていた。「表示されます」
 ヘンケンがニヤリと笑うと自分の携帯を耳にかけた。「こんな小さな普段使いの物が敵の戦術の一角を無効化するとはな、見落としてしまっても仕方のない他愛のないモンだが ―― 」
「アリの穴から巨大な堤防も崩れると言います …… もしかしたらこの事が完璧に見える敵の作戦を覆すアキレス腱になるかも」セシルはそういうと自分の携帯に流れ込んでくる多くの会話を聞き分けることに集中した。

                    *                    *                    *

 真っ暗になった手術室の瓦礫がかすかに動く、自分を抑え込んでいるコンクリートの塊をやっとの思いで押しのけたモラレスは沈黙する医務室の闇へと大きな声で呼びかけた。
「おおいっ! 誰か生きとるかぁっ!? 」だがその声は宙に飛んだまま遠くで虚しく消えていく。壁で仕切られていたはずの手術室と処置室、そして通路までの大きな範囲が基礎構造を残して素通しになった事を見ればそこがどれだけの被害を被ったかは明らかだ。むしろ今自分が生きている事の方が奇跡ともいえる。
 それでも少しでも息のある者を、とモラレスは瓦礫の山から這い出して座り込む。自前の道具の入ったカバンを探そうと周囲を見回す彼の目に飛び込んできた三人の兵士 ―― 四つん這いで近寄ってすぐに頸動脈に指を当てて命の痕跡を探し求めた。
「 …… バカもんが、こんな年寄りを庇いおって」
 温かいのに動かなくなった三人の両手をそれぞれに胸の上で組ませたモラレスはよろよろと立ちあがってゆっくりと処置室のある方へと足を向けた。天井から垂れ下がったままの蛍光灯が小さな火花を絶え間なく放って周囲の惨状をモラレスに教え、立っている者どころか動く者すらいなくなった部屋をぼんやりと眺めながら彼はここで自分ができる事はもうなくなったと知った。
「つくづく兵隊と言うのは楽な商売じゃな」
 呟きながら深くなる眉間のしわ。戦って大勢の人間を殺す事で成り立つ商売、それに引き換え自分たちはそこからが仕事のスタートライン。何度こんな目にあっても何度こんなものを見せられても決して後に引く事は許されない、因果な商売だ。
 たとえ自分の命が尽きてもこの輪廻は自分が生まれるはるか昔から延々と続いている宿業だ。互いが並び立つ隣人を認められないように人は、始まった時から憎み合うようにできている。いつになったら、どうやったらこれは終わるのか。過去に大勢の人間がそれぞれに考えて人道非人道を問わず様々な方法でそれを実現しようとしたのに。
「 …… 人と言う種が持つ、それが業と言うもんかの。何かとんでもないペテンか酷いカラクリでもない限り絶対に ―― 」

 からくり?
 自分の言葉に何かを閃いたモラレスは慌てて踵を返すと血の匂いが残る手術室へと乗り込んだ。バラバラになった機材と折り重なるように散乱するコンクリートの破片を跪いて、手袋をしたままの手でかき分けながら彼は急いで何かを探し始める。「 ―― ! あった。これじゃ」
 そう言って瓦礫の中から引きずり出したのは一冊の色褪せたファイルだった。めくった中には彼が今まで手掛けた患者の膨大な治療データがまとめられている。量が多すぎるために一冊のファイルの中に綴じられる人数はほんの数人、しかしモラレスはその患者の事ははっきりと覚えていた。
 さっきの兵士と同じような外傷を持つ患者。頭部半損壊と左腕離断というところも同じ、しかし当時連邦軍の最新鋭の医療施設でモラレスの手術を受けたその男は奇跡的に命を取り留めた。術後の経過やその後に行われた治療の内容など詳細に記された資料は主治医の特権として手にすることができた後学のための大事な記録。
「終わった後の事なんぞ全然興味が失せておったが …… あの義手を動かすのに確か ―― 」
 チタン製のマスクと視神経に接続された高性能CCD、そして失った声帯の代りにつけられた機械仕掛けの小型スピーカー。治療を終えたその患者に対して手渡された代替部品を緻密な神経縫合を繰り返しながら慎重に取り付けていくモラレスだったが『それ』に関しては謎のままだった。最後に手渡された義手は規格外の人工筋肉を内蔵していたとはいえ、筋電検出のための端子となる配線がどこにも存在していなかったのだ。むき出しの左の肩関節に金属ジョイントで接合はしたもののそれをどうやって動かすのかは明かされる事がなかった。
 主治医の権利を主張して何度も情報の開示を求めるモラレス。だが遂にその情報が手に入ったのは彼が医局を去る当日、玄関先で見送ってくれた最も仲のいい仲間の医師から手渡された餞別代りの封筒だった。
「くそう、どうも歳をとると物忘れが ―― 」そう呟きながら資料をめくる彼の手が最後のページに行き当たる前に止まった。三つ折りにされた封筒をそっと開いて胸ポケットのペンライトを紙面へと向ける。 

 医務室を破壊した榴弾の粒の何発かは壁面を貫通して外部へと抜ける、そしてそのうちの一発は外壁の内側を通るガスパイプに小さな穴を開けていた。しゅうしゅうと小さな音を立てながら建物へと侵入する可燃性のガスが少しづつ医務室内に充満し始め、それは患者の顔に装着されたまま引きちぎられたマスクから流出する笑気ガスと酸素の混合気と混ざり始める。

「これか、あの薬品の仕様は」体の痛みも忘れてモラレスが立ちあがった。確かチラリと聞いた話ではその義手を動かすのに薬物を使って意図的に脳波を活性化させる、と言っていた。 ―― 薬物っ。
 薬物を使って脳細胞を腑活化させると言うのであれば、しかもそれを恒常的に持続させるというのであればそれはコウに使われた物と特性がよく似ている。記載された成分概要に目を通しながらモラレスは呟いた。「 …… なんと、ジオン科学省の持ち物だったとは。しかしなぜそれを終戦間もないあのタイミングでこっちが手に入れてたのか ―― 開発者は、エルンスト・ハイデリッヒ? むう、聞いた事のない名じゃのう」
 次の髪をぺらりと捲って明かりを当てるとそこには明らかに違った字体で細かな化学式が記載されていた。イノシトールリン脂質に対する有効な酵素の検出、分析、プロテインキナーゼ経路の活性化による脳波の増大 ―― 。
「なるほど、元はガン細胞から抽出したもので作られておる訳か。しかしこれではまるで」

 モラレスの足元を埋めていく三つの気体の混合物はそっと天井から垂れ下がっている蛍光灯の端へと触れる。気まぐれな火花は思い出したように蘇ってガスの先端へと火をつけた。

「 ―― オーガスタの連中が何かを創ろうと関わって」

 モラレスの足元が真っ白に光って弾ける、NOSと呼ばれる混合気はガスと入り混じってその爆発力を理論値以上に押し上げた。酸素を過剰に供給された可燃気体は普段の1.5倍の破壊力で医療施設棟全体を炎と共に竜巻のように駆け抜け、あり余った暴風はあらゆる通路から捌け口を求めて巻き込んだ瓦礫を外部へと噴き飛ばす。そしてその一部は隣接する管理棟二つを繋ぐ空中回廊を一気に宙へとなぎ払った。



[32711] Boy meets Girl
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/02/01 16:24
 けた外れの爆発は追う物と追われる者との間に微妙な齟齬を産んだ。ニナの後を追う兵士たちはその爆発が味方の砲撃によるものだと信じて余波による被害を避けるために足を止めてやり過ごそうとするが、追われるニナはそんな事にかまっていられない。敵の目当てが自分だと分かった以上今度はみんなを守る為に必死で敵を曳きつけなければならなかった。敵との間隔を動き出す油圧の響きで判断して、距離を開けすぎて敵が追跡を断念しないようにギリギリの距離を探りながらハッチの開閉のタイミングを計る。
 だがゴールの見えないこの逃走劇をいつまで続ければいいのかニナにはわからなかった。唯一の望みであるハンガーを放棄した今となっては安全な場所に心当たりがない、せめて情報が。
 どこに向かえばいいのかを、誰かっ!
 幾度目かのいたちごっこを終えた瞬間に彼女のズボンのポケットが小さく震える。バイブレーション通知になっている携帯を取り出したニナは素早くそれを耳に差し込んで発信元を確認してから通話ボタンを押した。「モウラっ!? 」

「反応出ましたっ! 間違いない技術主任です! 」少し興奮した声で振り返ったチェンの肩越しに顔を近づけてモニターを見つめていたセシルが険しい表情になる。「追われているわね、それもハンガーとは反対側に逃げている」

「ニナっ!? やっと繋がった、あんた今どこっ!? 」モウラの叫びに整備班全員が色めきたつ。声の主がニナだとわかった瞬間にモウラはチャットアイコンの招待アイコンをクリックして無理やりグループ会話に相手をねじ込んだ。アストナージがモウラにスピーカーへの出力を手の仕草で要求し、全員が自分たちと背丈がそう変わらない整備班長の周囲に集まって耳を澄ませる。
「 “ いま …… 管理棟Bの二階あたり、敵に ―― 追いかけられて ” 」聞いた瞬間に何人かの腕自慢が脱兎の勢いで倉庫へと駆け込んだ。興奮した彼らが手にしていた物は装甲を仮止めするために使う高圧式のネイルガンや先の尖った巨大なバール、いずれも人に使おうものならただでは済まない。
「わかった、今からあたし達がそっちに行くからニナはハンガーの方に向かってっ! 大丈夫、ここからそこまではすぐに ―― 」
「 “ だめよっ!! ” 」
 てっきり助けを求めてくるものと意気込んでいた整備班の強者達が強烈な否定の言葉に固まったまま絶句した。
「 “ こっちにきちゃだめっ! 敵はここのマスターコードを持ってる、通路の非常ハッチが役に立たないの! だからあたしが敵を引き付けている間にハンガーのドアを溶接して入れないようにしてっ! ” 」閉鎖ボタンを叩きながら次の扉へと必死に走るニナの息が上がっているのがスピーカ越しにでもわかる。
「なっ ―― なに言ってんのっ!? そんなことしてあんたは一体どこに行くつもりっ!? 」
「 “ わからない、わからないけど彼らをそこには行かせられないっ! マリアもバーバラもみんな殺された、トンプソン曹長はあたしを逃がすために死んだの! もうこれ以上あたしのために誰かが犠牲になるのだけは、絶対にいやっ! ” 」
「ばかっ! あんた自分の事をなんだと思ってるんだっ!? 」怒鳴った隣にはジェスもいる。いつもと同じのほほんとした顔をしていると思いきや、彼女は伏し目がちにギュッとモウラの繋ぎの裾を握りしめている。
「今あんたがここにいなくてどうすンの!? キースもマークスもアデリアも、マルコやアンドレアまでモビルスーツで出てってるっていうのに肝心のあんたがいなかったらどうやってあいつらが帰ってきてからのデータの修正をやれっていうんだいっ!? 」
「 “ そんなことわかってるっ! わかってるけどあたしは絶対そこにはいかないっ! だからモウラ今のうちにドアをっ! ” 」
「 ―― このわからずやっ!! 」
 怒鳴ったモウラが人だかりをかき分けて通路のドアへと駆け出し、途中に立てかけてあったモビルスーツのボルトを締める巨大なレンチを手に取った。「いいかい、あたしはあんたが何と言ってもあんたを助けに行く。これはコウがいなくなった日からあたしが心に誓った事なんだ、あんたの都合なんか知ったこっちゃない! それが気に入らないってンならあんたはここまで ―― 」
「 “ およしなさい、整備班長 ” 」二人の間に突然割り込んできた女性の声はとても澄み切って、しかしどこか冷たい感じがした。

「頼むぞセシル、ウラキ君と繋がるまでなんとか時間を稼いでくれ」携帯を耳にあてたヘンケンがそういうとセシルは少し後ろを振り返って小さくうなずいた。ニナの位置がわかった時からそれを知らせようと何度もリダイヤルを繰り返すヘンケンだったがいまだに応答はない。
「まさか伍長、もうやられちゃったんじゃあ ―― 」チェンの言葉を一睨みで封じ込めたヘンケンはホログラムを展開してすぐにコウを招待できるようにチャットアイコンを表示した。

「だ、誰だあんたはっ!? 人の会話に割り込んで ―― 」
「 “ お気持ちはよくわかりますが敵はそんなに ―― あなた方が束になってかかっても叶う相手ではないと言っています。技術主任の身柄は私達の方で預かりますのであなた方はそこから一歩も外へ出ないように、いいですね? ” 」
 気丈夫なモウラが相手の声だけで押されている。昔に聞いた事のある、緊張をもたらすこれは間違いなく指揮官クラスの。「 …… あなたは、一体? 」
 一瞬の間合い、そして沈黙。だがセシルは確かに何かを決意して決定的なその事実を口にした。
「 “ 今の段階でその質問には答える事ができません、ですがウェブナー指令の『戦死』にともない当基地の指揮権を全委譲された者とだけ申し上げておきます ” 」
「 ! なんですってっ!? 」

 チャットで繋がっている全員がその事実に耳を疑った。一年戦争の最前線で戦い抜いた佐官にしては猛将然とした気配はなく、どちらかと言えば智将の雰囲気を漂わせるあの彼がこの基地のどこかで命を落とした。チャットで繋がった電波を埋める抗議の声や言葉。異口同音にセシルに向けられる非難の叫び。
 そんなばかなっ! ありえない、そんな出まかせをよくも ―― 。

「 “ シャーリー02、了解した ” 」好意的なものは何一つとして感じられないオークリーの怒りを振り払ったのはキースのその声だった。いつも通りの落ち着いた声でセシルを招き入れる彼に驚くモウラ。
「キース、あんた ―― 」
「 “ もし指令が生きているのなら絶対にこの戦況はあり得ない ―― 少なくとも俺達が一か八かの賭けに出るような作戦を立案しなきゃならない事にはな。 …… このチャットに繋がっている仲間はもう一度よく考えろ、誰がこんな不利な状況でみんなの命を預かりますって名乗りを上げれるんだ? ” 」
 冷静かつ客観的な洞察とその理由づけを一言で表した彼の言葉にオークリー全体が沈黙せざるを得ない、そしてすでに現実は個人の判断ではどうにもならないほど切迫したものになっていたのだ。
「 “ 誰かはわからないがありがとう。当基地は現在非常に厳しい状況に追い込まれている、だがウェブナー指令の遺志と言うのであれば喜んであなたの指揮下に入る。 …… ところで名前を名乗れないようだがあなたの事はなんと呼べばいい? ” 」

「さすが少佐の下で働いていただけの事はある。とてもいい指揮官だわ」チャットから一瞬退室したセシルはすぐ隣のチェンに目くばせをしてキースの情報をモニターへと表示させる。ナイメーヘンの士官学校を卒業後すぐにトリントン基地のサウス・バニング大尉揮下、モビルスーツ試験部隊へと配属。「 『不死身の』 …… どうやら腕も確かなようね」
 現状としてチャットに割り込んでくる見も知らずの人間を認める事など普通なら考えられない。しかし彼は敢えてそのリスクを冒してセシルを指揮官として認める事をモウラとの会話だけで判断し、誰よりも率先してその意思表示を行った。先任士官がそうする事でオークリーの基地に広まりつつあった疑心暗鬼が一気に解消されてこちらの仕事がやりやすくなる。自分の置かれた立場を正しく理解できている人物しかこの決断はできない。
 携帯で会話する事で途絶したネットワークを再び立て直した事といい、セシルは人を率いる才の持ち主との偶然の出会いに心の中で感謝した。もちろん信頼されたのならばそれなりの結果を出さなければ。
「ありがとうございます、02。私の事は …… そうですね、『バンディッド』。コールサインはバンディッドで結構です」
 そのコールサインを耳にしたヘンケンとチェンが思わず顔を見合わせた。

『バンディッド』のコールサインはもともとヘンケンのものだ。だが士官学校を卒業後一貫してエリートコースを歩いてきたセシルにとってその『山賊バンディッド』と言う荒い言葉は容認できるものではなかった。その他の大概の事には新参者として黙って目をつぶってもいい ―― そんなしきたりがあること自体が彼女にとっては驚きだったが ―― がそのコールサインを自分が使う事だけは、勘弁。
 ゆえにスルガ運用時に艦橋指揮を交代する際にはセシルは必ず『ホーライ』時代の自分のコールサインを使っていたという経緯がある。ヘンケンにとってはゲン担ぎの意味もあってそのコールサインを使ってはいたのだが本人の希望とあればそれをとやかく咎めるほど固執もしていない、そして戦局は改造輸送船からのわがままをいちいち気に留めている状況でもなかった。
 あれだけ嫌がっていたヘンケンのコールサインをどういう心境の変化で? と訝しがってセシルを見る二人と振り向いた彼女の視線がばったりと交差する。「 ―― バンディッドで。ええ、問題ありませんが何か? 」
 にっこりと笑うその眼と眉間に寄ったしわが彼女の葛藤を暗に物語る、そしてこれ以上の詮索は飢えた虎の口に手を突っ込むよりも恐ろしい結果が待っている事を二人とも知っていた。

 ―― 間違いない、あの時の女の人。
 コウのディスクを取り上げて顔色一つ変えずに自分を挑発した、たった一度の出会いでこれほど印象深い記憶を刻みつけた女性。普通の人ではないとあの時から疑ってはいたのだけれど。「 “ バンディッドから技術主任、聞こえますか? ” 」
「よく聞こえます、敵が私の後ろから扉一枚分の感覚で追ってきて ―― 」
「 “ 状況はこちらでも把握できています。今から対策を講じますので後一枚分敵との間隔を引き延ばして。そのまま三階の通路を全部使って四階に、つきあたりのドアから連絡通路を使ってA棟に入ってください。右手下方に見える別棟にドクがいますからそこまで辿り着けばそれ以降はマスターコードが使えるはずです ” 」

「チェン、今敵が使ってるマスターコードを無効化できる? 」セシルの問いかけにモニター画面を見つめて基地の全機能を操り始めたオペレーターは小さく首を振った。「無理ですね、サーバーとの接続を強制解除して単独で機能するものですから暗証も何も関係ない。できたとしてもドクのマスターまで使えなくなる」
「では物理で。彼女が通った後のハッチの給電量を減らして。モーターの速度を二分の一程度に落としてしまえば十分逃げられる。 ―― キャンベル、聞こえて? 」
「 “ A装備で準備できてる、人使いの荒い。今二人連れて出る ” 」
「A棟4階、対象をそこでエスコートの後医療棟に降りてドクを回収。よろしく」
「セシル」 背後で聞こえたヘンケンの声は深刻だった。何事にも動じた事のあまりない彼にしては珍しい、と彼女が視線を上げた先のヘンケンの手には携帯が握りしめられている。
「ウラキ君もドクも …… 携帯が全然つながらない」

                    *                    *                    *

 カーゴパンツのポケットの奥で幾度も震える携帯をそっと押さえつけたコウはほんの少し先に立つ巨大な影を見上げた。「黒塗りの …… ジム。新型か? 」
 表面を覆う塗装はベンタブラックのフェライト樹脂、可視光を99パーセント以上吸収するそれはそびえ立つ輪郭を見事に闇へと溶け込ませている。頭部から何本も突き出たアンテナは恐らくこの部隊特有の戦術に必要なセンサーの類だろう。自分がかつて操っていた一号機ゼフィランサスよりも多くの情報が収集できるに違いない。
「夜間専用のモビルスーツ ……  『うちの』ゲルググはマリーネの換装型だからせいぜいパッシブどまり、これじゃあ ―― 」
 そこまで言いかけてコウははっと口を閉じた。

 ばかな、一体俺はなにを考えている?
 敵の機体を分析したところでモビルスーツに乗れない俺に何ができる? 手元にあるのは借り物の銃とバイクが一台、最新鋭のモビルスーツとやり合える訳がない。戦力差以前の問題だ。
 俺は戦いにここへ来たんじゃない、ニナを探して無事に助け出すためにここまで来たんだ。コウ、間違っても ―― 。

 その時コウの目に滑走路の向こう側でいまだに燻っている残骸が飛び込んできた。原形を留めないほどズタズタに引き裂かれたゲルググ、しかしコウにとってそれは忘れる事のできない機体だ。連邦軍の拘置所から釈放されて言われるがままにここへとたどり着いた時に一番最初に出迎えてくれたキースが乗っていた、あの。
「 …… あれに、バスケスが ―― 」
 その名を口にした瞬間にコウの中で何かいいようのない悔しさが湧き上がった。飄々とした風体でいつも陸戦隊との仲介に立ち会ってくれた傷だらけの武人、『ゴーレムハンター』だった頃の思い出話をコウのせがむままに語ってくれた心優しき猛者。その彼が自分の大切な思い出と共に粉々に打ち捨てられたままそこにいる。
 バスケスの仇が取りたい訳じゃない、ただこのまま見ている事が我慢できない。手持ちの材料が何もなかったとしても今できる事が何かあるはずだ。装甲すら貫けない携帯バズーカとジープ一台で何体ものザクを地面に叩き伏せたゴーレムハンター。
 あの彼のように。

 ぐるりとあたりを見回して周囲の状況を確認するコウ、無駄にだだっ広い滑走路の脇に点在するのは整備用の機材や不要な資材を溜めておく小さな倉庫がいくつか。その中でも彼のもっとも手前にあって敵の死角に位置するであろう一つに姿勢を低くしたまま走って中へと忍び込む。
 扉の隙間から洩れる戦火の明かりを頼りに中を物色するとそこは不要な物を集めたような場所で武器になるようなものはなにもない。ただ片隅に置かれたままの細長く寄り合わせたワイヤーの束と誰かがそこに一旦置いたであろう草刈り用の鎌が一本、コウの使っていた物よりは小さめだが両手持ちのしっかりしたものだ。
 拾った二つを見比べながら扉のそばに近寄ってもう一度周りの景色を観察する、そして何かを思いついたコウはそっと外へと体を押し出すとワイヤーの端だけを持って全速力で滑走路の縁目がけて駆けだした。

                    *                    *                    *

 すでに双方の火器の射程内だ、しかし敵はなかなか撃ってこない。横隊の一番右に陣取って指揮を任されたトーヴ2は情報以上にしっかり統制されたオークリーのモビルスーツ隊の本拠地であるハンガーを、モニターの中心に収めながら難しい顔で眺めていた。
 戦争が終わって久しくこの世界から諍いという物がなくなり、もはや戦っている者はジオンの残党を名乗る者とそこに集中配備されたティターンズの精鋭たち。連邦軍の本流から外れたマイノリティ、それもこんな僻地に封じ込められた罪人同然の連中が一朝一夕で成り上がれるような優しい世界ではない。それとも自分が手にした情報が全てでたらめで本当は何かの訳ありでここに押し込まれた実力者なのだろうか?
「 …… 試してみるか。タリホー1、バリケード左側にバーストで牽制。無駄弾は極力使うな、相手の反応が見たい」
 すかさず向こうの端の倉庫の陰にいたジムが身を乗り出して三連射を放つ、バリケードに当たった弾は大きな音を立ててハンガーの屋根を飛び越えて夜空へと消える。

「 “ う、うわあっ!! う、撃ってきたあッ! ”  」
 照準も何もない。叫んだアンドレアが肩に担いだバズーカを目見当で撃ち返す。後方から伸びるバックブラストがハンガーの扉を焼いて初弾が噴煙を吹きながら滑走路の向こうへと飛んで行き、着弾。爆発炎の手前に浮かびあがる黒い影は確かにモビルスーツだ。
「いいぞ、アンドレアっ! そのまま撃って撃って撃ちまくれっ! 」 この期に及んで小細工など、とマルコは火器管制を通常モードへと切り替えた。夜闇と一体化したモニターを走る動態捕捉のグリーンマーカーがピンポイントで二つ、距離が測定される前にマルコは引き金を引いて相手の動きをけん制する。敵からのロックを示すイエローアラートが同時に鳴って今度はマルコのバリケードが着弾の衝撃で何度も震える。火花が飛んでモニターの調整が追い付かない。
 それがどうした。

 敵の反応は想定内、どうやら全員が全員それなりの戦闘レベルを有している訳ではない。牽制一連射でハチの巣をつついたように撃ち返してくるそれは新兵にありがちなトリガーハッピー。
 だが持っている武器がえげつない、とトーヴ2は臍を噛んだ。返って来た弾は連邦標準装備のハイパーバズーカ380ミリ、当たれば即座に戦闘不能だし悪ければ撃破されてしまう。試射を頼んだタリホー1が被弾しない事を祈りながらすぐに陣形を左右に展開する指示をハンドサインで繰り出した。大きく扇状に展開しながら目標範囲内を火力で飽和させる大昔の戦形、単純だが宇宙世紀になった今でも絶大な効果を生む理にかなった戦術だ。
 時間はかからない。配置についた時点でトーヴ2は一斉射撃の命令を発しようと息を継ぐ、しかしまさにそれを待っていたかのようにコックピットのアラートがロックオン警報を断続的なブザーで教えた。「おっと! 敵もなかなか ―― 」
 あわてて膝射の体制に切り替えた瞬間に頭上を曳光弾が駆け抜ける。狙いをつけようかというタイミングで襲いかかってくる90ミリの三点バーストはこちらのロックオンの機会を確実に減少させるだろう。
「こっちの奴の方がなかなか場馴れしてやがる。さて、どうやって敵の頭を引っ込めさせるか ―― 」

 その喧騒こそがコウが待っていた千歳一隅のチャンスだった。フェンスに立てかけてあったモタードに跨りセルを回すと、いつもなら地平の向こうに届くかと思うほど大きな雄叫びが銃撃音に紛れて自分の耳にすら聞こえない。フルパワーで後輪を回すモタードの前輪が軽く持ちあがってそのまま草地を駆け抜けた。背中に背負った草刈り鎌の柄に何重にも巻きつけられたワイヤーがその後を勢いよく追いかける。
 薬莢の落ちてくる数、そしてタイミング。スローに動く景色の中でモビルスーツの背後を取った彼の眼はただ一点に絞られている、それは完全に動きを止めて射撃姿勢を取るジムの左足。
 ショックアブソーバーを保護する鉄の覆いギリギリをハイアングルでターンするその機動力こそがモタードの持ち味だ、草を蹴散らしてドリフトする車体を肘と膝で支えながら定円旋回するコウの背中から伸びるワイヤーが大きく跳ね上がってジムのくるぶしにあるモーターへと巻きついていく。

「脚部センサー、なんだっ!? 」突然の反応に一旦射撃を止めるトーヴ2、一瞬対物地雷の可能性が脳裏をよぎったがそんな情報はどこからももらっていない。それに反応は足の裏からではなく脚前部に設置された障害物探知用のアクティブセンサーからの物。
「 “ トーヴ2? ” 」動きの止まったトーヴ2にすぐ隣のタリホー4が気づいて声をかける。「対物センサーに反応、そこから俺の足元に何か見えるか? 」

 三周目の終わりにコウは背中へと手を回す。担いだ草刈り鎌を左手に取るとジムの正面から足元目がけてアクセルを思いっきり引絞る。

「 “! 人が。いやありゃあなんだ、バイクか? なんか手に持ってるっ! ” 」タリホー4の驚きにトーブ2の目は追いつかない。ただ気がついたのは自分の足元目がけて何か小さい物が猛スピードで突進しているという事だけだ。

 アクセルを離して鎌を両手で持ったコウが思いっきり体をねじる。三角の頂点目指して股間を駆け抜ける刹那の中、コウが全力で振り抜いた鎌の先端は脚部対物センサーの強化アクリルをたたき割って内部構造へと食い込んだ。

「センサーダウンだとっ!? 」モニターアラートを信じられないという目で見つめながら驚くトーヴ2。左脚部対物センサー破損、しかも復旧不可のおまけつきだ。壊れたからといって機動力が落ちるとか歩行に障害が出るとか言った不具合が起こる事はないが、自分が今関わっている戦闘以外の原因で破壊されたという事が問題だ。
「一体何がどうなってる? 流れ弾? いや、何か小火器を撃たれたっていう事も ―― 」状況を把握しようと前方を警戒しながらそろりと立ち上がったトーヴ2はその時、景色の変わるモニターの下部からトコトコと中央へと進んでいく小さな物体を目撃した。カメラをズームして焦点を定めるとそこにはバイクに跨ったTシャツ姿の青年の姿が。「な、なんだぁ? 民間人 ―― 」
 だが彼はそこから先の言葉を忘れて思わず息を呑まずにはいられなかった。

 周囲を飛び交う流れ弾にも。
 地獄と化しつつある戦場の空気にも。
 炎の明かりに照らされたこの青年は怯まない。
 ただ自分を敵と見なしてその燃えたぎる怒りを叩きつけてくる。モニターの中央に居座った彼がバイクのアクセルを煽る度に聞こえてくる爆音、それはまるで心の底からほとばしる怨嗟の叫び。

「な、なんだこいつっ!! 」底知れぬ恐怖に駆られて思わず振り向けたマシンガンの銃口が、照準が正しくコウに向けられる。TADS(目標捕捉・指示照準装置)が反応してロックオン、それでもその無謀な青年は動かない。「くそっ! 撃てないとでも思ってんのかっ!? 」怒声と共に引き金を引く彼の目の前で地面が弾けて硝煙が視界を遮った。バカな奴だ、変に粋がるからこうなる。自分の軽はずみな行いをあの世で ―― 。
 だがトーヴ2は次の瞬間恐ろしい光景を目にした。土煙と硝煙がゆっくりと晴れて再び景色が元に戻ったその場所に。
 彼は一歩たりとも動くことなく、同じ目で自分をただ睨みつけている。

 バスケスは言っていた。自分に当たる弾は銃口が真っ黒に見えるものだ、それを見極めるためにはフラッシュハイダーの縁に見える影をよく観察するのだと。
 モビルスーツの射撃に照準器はあまり当てにならないという事をコウはガトーとの闘いの中で学んでいた。いくら狙いをつけても当たらないものは当たらない、それはモビルスーツとそれを操る人との構造上の問題だった。機械工学が発達してモビルスーツの動きが人に近づいてきたとはいえその関節の構造や材質までもが似てきた訳ではない、しょせんは人の動きを「まねて」動いているものなのだ。
 そしてそれを動かすのは生身の人間、マニピュレーターで動かす技術がない以上機械はその動きと異なった動作で指示される「コマンド」によって成立する。自分の肉体ではなく命令を介して行われる動作に精度を求めることには無理がある。
 ではなぜ、世に「撃墜王」と呼ばれる兵士がそれほど簡単に的に弾を当てるのか? それは仲介となる動作に違和感を感じなくなるからだ。たとえば右手を上げる動作に必要なコマンド入力を無意識のうちに行えるほど機械と一体化している感覚の持ち主、彼らは自分の手がモビルスーツの腕であり自分の眼がカメラとなる。だから照準器などにそれほど頼らなくても敵を確実に仕留める事ができるのだ。
 コウはマシンガンでロックオンされたその一瞬でこのパイロットの力量を見抜いた。機体は確かに最新鋭、しかしそれゆえにまだこの機体の扱いには慣れてない。
 ならばこいつをまず戦場から退場させる!

 地面を蹴立てて一気に加速するモタードの後を追って地面を穿つ90ミリ、揺れ動く緑の四角を追いかけながらトーヴ2は1と無線を繋いだ。「こちらトーヴ2、今戦闘を妨害撹乱しようと試みる民間人を捕捉、これより追跡して殺害する」
「 “ 民間人だと? 基地の人間ではないのか? ” 」さすがのケルヒャーの声にも驚きが混じる。無理もない、生身の人間が武器も持たずにこの機動兵器に挑もうなどとはまともな思考ではない。その対象が基地の兵士に割り当てられる事は常識だろう。
 だがトーヴ2はその青年が見せた胆力に恐怖した。人から見れば大砲にも等しいマシンガンの連射にも怯まないその度胸と自分に向けたあの眼光。そんな物を持った持ち主がただの兵士であるはずがない、いやそれより彼をこのまま見逃してしまったら。
「基地の兵士だとしても奴はこのまま見逃せない、きっと良くない事が起こる! 俺が奴を仕留めるまでラース2を俺の所に配置してくれ、ほんの4.5分で終わらせる」言うなり通信を切ったトーヴ2は ―― 。
「! …… なんて、奴だ」
 モビルスーツの構造や射撃の呼吸、そしてパイロットの心理。もしかしたら俺の心が読めるとでも? お前に出来る事は陽動と撹乱しかないだろう、なのになぜもっと遠くに逃げない?
 モニターの右隅、緑の四角が相手を捉える限界の位置に彼はいた。自分が追いかけてくるのを待つように、撃ってくるのを待つように。「くそっ! 」怒鳴りながら体を捻るその動作に合わせて再び走り出す小さなバイク、続けざまに放った連射でマガジンの弾が尽きる、ボルトが後退位置で固定されると同時に銃身の上部のマガジンが跳ね上がってリリース。

「トーヴ2! だめだ、そいつは ―― 」
 タリホー4はその青年の事を忘れてはいなかった。サリナスのショッピングモールの地下で出会った民間人と名乗る奴は俺達のサンドバッグになる事を選んだ、そして彼を一番殴った3は拳を痛め、斬りかかったラース1は一撃でのされた。しかしそんな物理的恐怖が印象に残ったんじゃない。
 その後に床に突っ伏した彼から放たれる咆哮はおよそ人が持ちえる類のものではなかった。獣や魔物 ―― 命を脅かし、喰らう連鎖の頂点に立つ者だけが持つ圧倒的な恐怖、命乞いなど役に立たない死を確実にもたらす絶対者。体の芯まで凍るおぞましい記憶がタリホー4の眼をトーヴ2の遠ざかる背中へと声にならない叫びと共に釘づけにした。
 そいつにかかわっちゃだめだ、間違いなく殺されるっ!!

 陣を構えるならば火力の間隔は等距離が正しい ―― 扇状横隊を構築するだろうと踏んでいたマルコの予想は的中した。しかし攻撃の本番はこれからで、間断なく撃ち込まれる弾を躱しながらどうやって敵を寄せ付けずに戦況を膠着させるか。幾通りもの可能性と戦術をジェンガの逆回しに組みたてながらモニターに映る全ての情報をかき集めようと目を配り始めたその時に異変は始まった。一番左端に位置して射界の密度を決定するはずの要となる一機が自分の予想の範囲を超えて外へと流れ始めたのだ。「 ! くそっ、それは俺の予想になかったっ! 」
 もしこの陣形から何らかのオプションが用意されているというのならそれも見極めて対応しなければならない、だが包囲を解いて一機だけが単独で行動することのメリットがマルコには見つからない。右翼の敵はアンドレアのバズーカに気を取られて動けないはずだし、そうなれば左翼からの包囲と火力の集中が最も事態を打開するのに近道のはず。だから自分がこの場所を選んだ。
 少ない弾数での効果的な牽制で敵は包囲陣形へと移行できない、そうなればかなりの時間稼ぎができるというのがマルコがはじき出した籠城の基本的方針だった。だがその戦術的優位を捨てて敵はどういう賭けに出ようと企んでいるんだ?
 距離の離れた二つの目標のおかげで照準がぶれる、だが離れて行く一番左翼の機体を示すグリーンマークが法則性のない動き方を始めてこちらから照準すらも外してしまった。訳が分からなくなった彼は状況の変化を知ろうとモニターの倍率を上げる。
 狂ったように回り続ける黒い影はくるくると、慣れないワルツを見えない誰かに踊らされていた。
「一体なにが …… 何やってんだ? 」

 モビルスーツでは到底追いつけない急旋回、急加速。発砲の瞬間をコンマゼロ何秒かで見切って躱すハンドリング。神業のような動きを追って機動力の全てを使いきっても捉えられない。すでにマガジン三つを使いきって残っているのはハードポイントに取り付けられた三個の予備マグのみ。
「半分使って滑走路の脇を耕しただけだって? この野郎っ! 」新しいマグを上からたたき込んだトーヴ2が再びコウの背中を追って動き出す、その時ジムの足元で異変が起こった。
 滑走路の脇の地面に埋め込まれた誘導灯が地中から引きはがされ、ガラガラと大きな音を立てながらジムの後ろを追いかけ始める。そこに繋がれた細長いワイヤーと共に。

                    *                    *                    *

「そう言えば技術主任、あなたの将来の夢は? 」モニター上の光点はこちらの指示通りに扉二枚分を開けて動いている、この分ならキャンベルが到着するまでにはもう一枚分間に挟む事ができそうだ。
「 “ …… なんですか、こんな時に? 今それどころじゃ ――  ” 」
「こんな時だからですよ。若い女の子がいつまでも建物の隅でくすぶってるなんてもったいない人生だとは思いませんか? 」
 無駄話のようでそうではない、セシルはこういう時の人間の心境と言うものをよく熟知していた。心身を損耗させるほどの緊張から解き放たれた人間は必ずと言っていいほどその反動で思考停止に陥る。今ニナが置かれている状況は確かに一息つけるとはいえ予断を許さない、何かほんのちょっとのトラブルでも起こればすぐにその優位性が崩れてしまうくらいに危うい状況。
 だからあえて本人の気分を逆なでするような質問でセシルはニナの緊張を解かないように試みる。大丈夫、エスコートが到着するまであと一分もかからない。
「 “ ずいぶんと人の仕事をバカにしているんですね、バンディッドは昔あたしのような業種の女性になにか嫌な目にでもあったとか? ” 」 ―― よし、喰いついた。
「他人の過去を詮索するつもりはありませんわ、振り返ったところで何かが変わるものでもなし。それよりもっと発展的な話をしましょう、こんな僻地で悶々としているシステムエンジニアの考える未来予想図なんて私にはとても興味がありますし」
 システムをいじりながら隣で聞いているチェンは気が気ではない、聞きようによっちゃあこれはただの女同士の口喧嘩だ。何とかセシルを諫めてほしいと振り返ったその先で上司であるヘンケンは手の中の携帯へと視線を落としている。多分コウが自分の着信に気づいて返ってくるのを辛抱強く待っているのだろう。
「 “ 未、来。 …… ですか ” 」ためらいがちなニナの反応にセシルはわずかに眉をしかめた。しまった、これは彼女にとっての禁忌だったか?
 しばらくの沈黙が流れた後に再び聞こえたニナの声。しかしそれは決してセシルに言い返すために考えられたものではなく、多分彼女の本心の欠片だったのだろう。  
「 “ あたし、普通のお嫁さんに、なりたかった ” 」

 呟いてしまった自分が滑稽で、不相応で。
 私が本当に ―― 自分の命よりも ―― 心の底から愛した彼はモビルスーツが好きだった。幼くて自分勝手で不器用で、でも真っすぐで優しい。意地悪もけんかもずいぶんとした、でも彼とモビルスーツの話で盛り上がってる時はとても楽しかった。泣いたり笑ったり喜んだり悲しんだり、でもそんな彼との触れ合いの果てに一生歩いていけるだけの自信がついた。どんな苦難が待ち構えていても二人で手を取り合って乗り越えて行けるであろう、強い。
 でも私が犯した罪は彼と二人で背負うには途方もなく大きく、とてつもなく辛い物だった。その重みに耐えかねた彼は私の元から離れて自分の未来も諦め、彼を諦めた私はその重荷を背負ったままで足を止めた。傍らを通り過ぎるモウラやキースの幸せを見送りながら、でも決して同じ道を辿れないのだと必死に自分自身に言い聞かせながら。
 それはとても不毛な生き方だとわかってる、できる事ならやり直したい。でもどこから? 
「 “ その歳で、過去形? ” 」なぜか生理的に癇に障る声が耳から忍び込んでくる。「 “ 何をどう拗らせたらそんな達観した考えに落ち着くのやら ―― とはいえ私もそんな人を一人知ってはいますが。自分の殻の中に閉じこもっていつまでもグジグジと悩んでも自分が納得できる答えなんか見つかる訳がない。なぜもっと相手と向き合う勇気を持とうとはしないのでしょうね? ” 」
 それがあの夜に答えをはぐらかしたままコウに背を向けたセシルの本心だった。後ろにいたヘンケンが携帯からセシルの背中へと視線を上げる。他の誰よりも長く共にいる相手だ、考えている事は声一つでもよくわかる。

 セシルの言葉に何も言い返せない、アデリアにも同じことを言われてなじられたこともある。でも彼女は勇気を出してあの夜にコウに向き合ったからこそ先へと足を進める事をためらわざるを得なかった。
 もしあの時彼の誤解が解けてもう一度やり直す事ができたと考えたら。見えない可能性じゃなかった、手ごたえがあった。でもそれが彼の破滅を引き起こすものだとしたら。
 ガトーと同じ世界へと踏み出すためのトリガーだったとしたら。

「 “ 向き合ってしまったから出せない答えもあります、バンディッド。寄り添って生きるだけじゃない、好きだからこそ離れて見守る事も一つの形だとあたしは ―― ” 」
「それではあなたは死ぬのよ、ニナ」ファーストネームを口にしてしまったセシルが思わず携帯を押さえる。だが昂った感情はどうにも抑えきれない、小さく首を振った彼女は再び手を離して話し始めた。「あなたと彼の間に何があったかなんて知らない ―― でもね、聞いて。もし彼を忘れて誰か他の人を見つけようなんて普通の感覚をあなたが持っていないのなら、あなたは彼がいなくなった時に間違いなく死を選んでしまうわ。でももしそうなりたくないと心のどこかで考えているのなら絶対にそんな生き方をしてはダメ」

 はっとしたニナが胸のポケットに入れたままの硬い感触を手で確かめる。そうだ、私はなぜ生きたいと思ってしまったんだろう?
 床の上に転がった起動ディスクから聞こえたコウの声、トンプソン曹長から求められた死の覚悟。誘われながら背を向けた揚句、私は今ここにいる。自分の一生を費やしても償いきれない大きな罪を抱えたままでまだ明日へとしがみついてる。
 わかってる、あたしはもう一度。
 コウに会いたい。

 ニナの眼に前にある最後の非常ハッチが音を立ててせり上がる、その向こうには次の棟へと続く鉄の扉が待っている。自分の心の中ではっきりと形になった目的に小さくうなずきながらニナはかすかに微笑んだ。
「そうですね、バンディッド。あなたの言うとおりです。もしかしたらあたしはもっとほかのやり方を考えるべきなのかもしれない。 …… ちょっと重い女でゴメンナサイ? でも ―― 」
 ニナはおどけたように言うと生き残る為の最後の扉を大きく開いた。

 誰にも気づかれないようにセシルはほう、と大きなため息をついた。これでよし、ウラキさんが覚悟を決めて昔の自分を取り戻しているなら彼女をこのままにしてはおけない。何とか生きる意志を植え付けておかなければこの戦火をくぐり抜けて出会う事など。
 だが彼女は私の言葉の中から正しい部分だけを抜き出してこの会話の意図を理解してくれた、後はウラキさんが彼女を ―― 。
「 “ ―― 残念です、やっぱり私はバンディッドの言う通りには生きられない ” 」携帯から届くニナのその声を聞いた全員が戦慄して目を見開いた。

 そこにあるはずの連絡通路は医療棟の崩壊とともに基部の一部を残したまま跡かたもなく。断崖絶壁と化した管理棟B棟の四階でニナは立ちつくしたまま呆然と向こう岸にある通路を見つめる、そこに駆けこんできた初老の男は驚いて何かを大声で話し始めた。
 
 足へと絡み始めた誘導灯へと視線を送りながらコウは必死で目的地へとクゥエルを誘導している。多分自分の記憶が間違ってなければこの先に電力減衰による不安定化を阻止するための施設がある、そこに辿り着ければこっちの ―― 
 その瞬間、首筋に鋭い痛みが走ってコウの集中を妨げた。顔をしかめて何事かと視線を変えたその先に映る施設棟B棟の粉々になった外壁、連絡通路が吹き飛ばされてむき出しになった外壁の四階の扉が突然開くのが遠目に見える。
「まだあんなところに人が ―― 」地面に残るクラスターの不発弾がときおり発火して光と共に夜空へと駆け上がる、その明かりに照らされる金色の髪が炎に煌めきながら大きく揺らめいた。ほんの一瞬ではあったがその姿を目に焼き付けたコウの喉から彼女の名がほとばしる。
「 ! ニナァァッっっ !! 」



[32711] get the regret over
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/02/22 22:58
「 “ 副長っ! 通路がなくなって ―― ”  」「チェンっ! 監視モニター、急いでっ! 」キャンベルの声にセシルの強い指示がかぶさる、チェンは即座に警備システムを立ち上げると数少ない生き残りの画像を探した。敷地内にはほとんどない、しかし敷地外から俯瞰で映すいくつかに炎に沈むオークリーが見える。
「副長 …… 」最大ズームで問題の個所を拡大したチェンが呆然とする。各階で二つの建物を繋いでいたはずの頑丈な橋げたがちぎれて向こうの景色が素通しだ。基礎は飴細工のように垂れ下がってそれぞれの壁にへばりついている。
「なんて、事」そう呟いたまま絶句したセシル。こうなる可能性は考慮しなければならなかった、でもまさかっ! よりによってこのタイミングでっ!
「バンディッドからグレゴリーっ! 大至急ロープブリッジ渡過の準備、A棟4階のキャンベルと協力して対象を確保っ! 急げ、もう時間が ―― 」
「ハウンド接近っ! 一つ距離を縮めてきた、接触まであと二分っ! 」
「モーターへの電力供給を最小にっ! それで何分稼げる!? 」一言もなくモニターを食い入るように見つめて対策を模索するセシルの代りにヘンケンが矢継ぎ早に指示を出す。「約五分弱、それで限界です! 」
「三分で現着、キャンベルは後の二名と共にグレゴリーの渡過を援護っ! 技術主任にその場で伏せるように指示しろ! 」
「 “ …… ありがとうバンディッド ” 」彼女の呟きだ。そのコールサインがどっちに向けられたものか ―― 多分ヘンケンとセシルにだろう、だがその声には二人が何度も耳にしたある種の諦観が混じっている。「 “ でももうあたしなんかのために誰かが傷つく事なんて耐えられない。 …… ここで敵に投降 ―― ” 」
「敵への投降は許可できない、ニナ。繰り返す、敵への投降は絶対にやめなさいっ! 」黙っていたセシルが突然鋭い声を上げた。デスクの上に置いた手が硬く握りしめられて白くなる。「逃げてきたあなたにその結果が分からないとは言わせない。あたし達の前でそんなのは絶対に許さない! 」
「 “ 誰も死なせずに自分が生き残れるかもしれない可能性はもうこれしかない、あたしを支えてくれたみんなには本当に感謝しています。だからもう ―― ” 」
「ふざけないで」見えない何かをなじるようにセシルの手がデスクに叩きつけられた。
「生きる事を諦めるな、ニナ・パープルトンっ! この意気地なしっ!! 」

                    *                    *                    *

 焼けた路面のせいですでにタイヤの表面はベトベトに溶け始め、地面を掴むはずのトレッドが崩れ落ちている。しかしそれでもコウは脛と肘に血をにじませながらより過激な挙動をモタードに要求し、彼の愛機は全力で応えた。ともすればハイサイドさえ起こしそうな姿勢変化を意図的なドリフトで抑え込み、躍起になって後を追いかけるクゥエルに何度も定置旋回を繰り返させては再び距離を置く事の繰り返し。一見無意味にも見えるその行動は果たして優位に立っているはずの黒い巨人をある場所へと導きつつあった。
 もし脚部のセンサーが壊れていなければトーヴ2は今自分に起こりつつある異変に気づいて何らかの対策を立てただろう、左足に食い込んだ鎌を覆い尽くす滑走路の誘導灯の束はすでにジムの踝にあるモーターに干渉してその動作を阻害しつつある。コウがセンサーを潰した狙いは確かに今の状況を気づかせないための物だったが実はその先に重要な目的があった。
 徐々に巻きついていく誘導灯から伸びる太い電線が突然滑走路の脇を外れて急ごしらえの小屋へと走り、中から少し大ぶりの箱を引きずり出した。地面に溝を穿ちながらクゥエルへと近付いていくその箱は進相キャパシタと呼ばれる蓄電器。滑走路の誘導灯のように長い区間を走る発光装置は電力減衰によって照度が不安定になる、それを防ぐために誘導路灯火定電流変圧器(Constant Current Transformer; CCT)が滑走路を保有する基地には必ず設置されている。力率の変化に対応するために常に放充電を行っているその箱はいわばその機能の心臓部。
 蓄えられた電力はヴァルヴァロのプラズマリーダーには全然及ばない、しかしモビルスーツの電子部品を破壊するだけの力はあるはずだ。それに ―― 。

「 …… だれか、いる」残った一機に牽制をかけながらマルコの眼は離れて行く黒い影に釘づけになっていた。不安定な輪舞の途中で時折放たれる銃撃、それでも見えない手で敵を振りまわす小さな影。しかしマルコはそれによく似た光景を過去の記憶の中に見た。
 思わず口をついて出る、あの日の。「 …… ゴーレム、ハンター」
 体の奥で眠っていた何かがマルコの体を駆け巡る、時間も場所もさかのぼって自分が立つその戦場で取り戻す勇気。「アンドレアっ! こっちにバズを一本、早くっ! 」

 コウの背後に迫る90ミリの脅威、敵の殺意と死の気配が濃密になったその瞬間に彼の体は即座に反応する。逃走ではなく敵との間合いを詰める事は自殺行為のように思われがちだがそうではない、マシンガンを持つ手が下がる事で起こる加重モーメントは手前に近づくにつれて振れ幅を大きくして照準の固定を難しくさせる。もちろんそんな事は火器管制AIも織り込み済みなのだがコウのモタードは想定されたプログラムの理論値をはるかに超えている。リード射撃すら無視して何の苦もなく懐へと入りこまれる醜態を演じるトーヴ2の苛立ちは頂点に達した。「くそっ! この野郎絶対に仕留めてやるっ! 」
 背後へと回ろうとする標的を追いかけてペダルを踏み替えてのピボットターン、しかし幾度となく繰り返したその一回がトーヴ2にとって最後のシークエンスとなった。繋がったままの三個の箱があっという間にクゥエルの足へと巻き付いた瞬間、触れた電極は自らの役割のために蓄えてあった電流を一気にそのボディへと放出した。
 大電流の流れるバン、という大音響と共に全てのシステムがダウンして一瞬で真っ暗になったコックピット。何が起こったのかわからないトーヴ2は自分に降り注いだ災難の正体を知る為に訓練で得た緊急動作手順を正確にトレースした。サーキットブレーカー回復、全電源初期化からのOS再起動。フェイルセーフ作動による回路保護のおかげで正面モニターに浮かびあがる連邦軍のロゴが暗闇を退けてトーヴ2に周りの様子を教える。「 ―― な、なんだこりゃ、いったいどうなって」
 惨憺たるありさまだった。基盤が組み込まれているボックスの蓋が全て開いて煙を上げている、作動を始めた換気システムの下で思わず振り返った先にある駆動系の配電盤からは破壊されたヒューズ ―― 断線などという生易しいもんじゃない ―― が溶けて他の配線にまで干渉している。どう控え目に見てもここからの戦線復帰は不可能だ。
「冗談じゃねえ、敵のど真ん中で擱座なんてっ! 」怒鳴るより早く座席の下から予備のヒューズが入ったケースを引っ張り出す、せめてここから後方へと移動するだけの機能は最低限確保しなければと手近なボックスから焼けた基盤を取り出して中を確認しようと ―― 。

 モニターが復旧してコックピットを照らす明かりが人工的な物から室外の炎へと変わった。臓腑が潰されるような圧に思わず外へと目を向けるトーヴ2の視線の先に彼はいる。衣服のあちこちが被弾の衝撃でちぎれて膝には血が滲んでいるのがはっきりとわかる、だが自分との戦力差を鑑みるならばそれは全くの無傷と言っていい。「くそっ、見下してンじゃねえぞ。万が一次にどこかで遭った時にゃ必ず俺が ―― 」
 しかしモニターの中央でじっとコックピットを見上げるコウに毒づいたトーヴ2はそこで出会った時とは確実に違っている、ある事に気づいた。背後にある怒りのオーラも物腰も変わってないのにその一点 ―― こちらに向けられたその眼の輝きだけが違う。射殺すような憎悪もなく燃え盛る炎のような気迫もない、その思いに取って代わったのは淋しさや悲しみ、そして憐れみ。
 勝者の余韻もなくコウに見送られているトーヴ2は自分にもう彼との次の出会いなど存在しない事を悟った。「まさか、この先の事まで全部仕組んでたって …… 事なのか? 」
 
 閃光と雷鳴、ロックオンマークの赤い四角の中でぼんやりと光る黒い機体を捕捉するには十分な距離と時間がマルコには与えられた。目標の足元で弾ける小さな火花がハイパーバズーカの簡易照準器を正常に作動させて命中に必要な全ての諸元をモニターに表示する。コウが与えた千歳一隅のチャンスにマルコの体は無意識に反応した。「 ―― バスケス! 」
 口をついて出た亡き友人の名と共に動いた指が硬い金属をグリップの奥にまで押し込んで強烈な反動を全身に伝える、ブラストの先端をハンガー内にまで届かせながらマルコのゲルググがわずかに反りかえった。

 モニターからすごい勢いで遠ざかっていく小さな怪物の背中を見送りながらトーヴ2は持ったままのヒューズをしっかりと握りしめた。入れ替わりに接近する黒い影と噴煙、そして接近警報。だが確実な死が約束された自分にできる事は、もうない。
「こりゃやべえや。俺たちゃとんでもないモンを相手にしちまったのかもしンねえぜ」誰にも伝えられない貴重な情報を苦笑いを浮かべながら呟いた彼の視界が、この世の終わりに真っ白に輝いた。

 突然の味方機撃破は敵を半包囲しつつある陣形を崩しかねないほど衝撃的で、しかもその対象がこの部隊を創設した時から在籍した「トーヴ2」であるという事実が部隊に動揺を招いた。地球連邦陸軍極東方面軍コジマ大隊所属の生き残りで最終軍歴は機動教導団所属アドバーサリー部隊の教官、アグレッサー部隊とは違う本物の仮想ジオンを演じた兵の一人だ。
 味方を包むかがり火に向かって移動を始めるラース2につられて半包囲の戦線が少しづつ綻んでいく、安否を確認したいのはもちろんだがそれだけのスキルを持った兵士がいかなる手段で破壊されたのか。それを ―― いやせめて手掛かりだけでも掴まない事にはここから先には安易に進めない。
「 “ 持ち場を離れるなラース2、速やかに元の配置に戻れ ” 」動揺著しいラース2を含む前線の崩壊を止める冷酷な声。絶対的な権限を持つダンプティと滑走路の端に姿を現した機体は全く同一で搭乗者だけが異なっている、悪い方向へと向かいつつある戦況をいち早く察知して自らの役割を統括から指揮へと変えたトーヴ1の銃口がピタリとラース2のコックピットに向けられていた。
「ロストはロストだ、諦めろ。それよりもたった一機の損失で戦線を瓦解させるような事はこの私が許さん、誰一人として」
 無慈悲な殺意と硬い決意がこもった恫喝が部隊にはびころうとしていた疑心暗鬼を一言で誅した。正規のメンバーとしてただ一人最前線に立つラース2はそれだけで自分のミスに気付いたのだろう、無言で一つうなずくとすぐに手でタリホー達に合図を送りながら元の配置へと戻っていく。元通りに収まりつつある戦況を五機が作る火線の後ろで眺めながらケルヒャーはおもむろに秘匿回線を開いた。
「中佐、当面の作戦の指揮権とハンプティの使用権を私に」
「 “ 許可する。とんでもなく敵は手強いな、正規軍より始末が悪い。 ―― 一気に制圧するつもりか? ” 」
「時間をかけるとこの後どんな事態が起こるか想像もできなくなりそうです、そうなる前に一気にハンガーを制圧してブージャム達より先に対象を確保します。 ―― ハンプティ、敵の配置と正確な数が知りたい」
「 “ 『Volga』到着まで二十分、アレをするンならそれからでお願いします ” 」
 とぼけた返事が心強い、戦況分析表を眺めながらケルヒャーは満足して小さく笑った。ブージャムは自分達がハンガーを制圧するまで橋頭保にした宿舎から出ないつもりだろう、ならばこの戦いの主導権は自分達が握っている事になる。向こうは対象を殺害するつもりでもこっちの考えは違う、その思惑の差が生み出すタイムラグこそこの作戦の成否の要。
 多分長い二十分になるだろう。味方にとっても、敵にとっても。
「全員聞け。ハンプティからの報告が届き次第『スレッジ・ハンマー』を開始する。二十五分後、各自時計合わせっ」
 
 背中で受ける熱と衝撃の嵐はコウの表情を少し曇らせた。あの時は無我夢中でなかなか感じられなかった自分の罪、今になってそれを数えたところで再び血に染めたその掌がもう綺麗になる事はないのだから。刻みこまれた戦士としての業を償わなくてはならない時がいつかは自分にも訪れる、あのクゥエルに乗っていたパイロットのように。
 ならばそれまでに ―― 自分がいなくなるその日まで自分が信じる正しいと思う事のためにこの命を使おう。大した事はできないかもしれない、みっともない事になるかもしれない。
 それでも穢れてしまった手が、汚れた指が欲しいと望むものがある。守らなければならない事、紡いでいかなければならない事があるのを俺はあの日から知っていた。だからもう手放せない。
 必ず。何があってもどんな事をしてでもきっと、そこにたどり着いたみせる。

 滑走路を疾走するモタードが大穴を躱しながら向かうその先、ニナの未来を遮った断崖の左側にある施設棟A棟。コウは迷わずその入り口へと愛機の前輪を向けた。

                    *                    *                    *

 聞き耳を立てていた整備班の人垣がニナの言葉に声すら失う。基地全員が共有するたった一つの願いを自ら切り離そうとする彼女の行いに誰もが黙り、そして呆然と宙を見上げた。
 だがモウラの両隣りに立つアストナージとジェスだけは明らかに気配の変わったモウラの雰囲気を敏感に察知した、それでも彼女の憤怒を前にして足がすくみあがる。「この、馬鹿ニナァぁっ!! 」
 言うなり前に立つ屈強な整備士を右手の一掻きでなぎ払う。ビブラムのソールを鳴らしながら通路のドアに突進したモウラはその勢いで超重量級の鉄板をこじ開けようと思いっきり上半身を叩き付けた。電気のアシストがなければ絶対に動かないはずのその扉がモウラの圧に屈してじり、と隙間を開ける。
「だめだ班長っ! もう間に合わないっ! 」金縛りを解いたアストナージが必死でモウラの腰にしがみついて足を踏ん張るが、それでも彼女は止まらない。「はなせっ! ニナが、あたしの友達がヤバいんだ! このまま黙って行かせろぉォッつ!! 」
 モウラの右手の一振りで腰に手を回したはずのアストナージが吹っ飛ばされる。涙まじりの両目で後ろを振り返った彼女が何かを振り払うように硬く目を閉じて再び鉄の扉を全力で押し込む。だがやっと開いた隙間に体をねじ込んで通路へと身を躍らせようとしたその時、自分の右手だけがハンガー側に残っててこでも動かなくなった。
「 ! 」ドアの隙間に残る右手の先に見える緑の繋ぎから差し出された小さな手が彼女の袖を握って離さない。「いかないでよ、班長っ ! 」
「ジェスッ!? 」今まで聞いた事のない彼女の叫びに驚いたモウラが思わず隙間越しにジェスの顔を見る。大粒の涙をポロポロとこぼしながら、それでも彼女は真っすぐにモウラを見上げて訴えた。
「なんでよ、班長っ! どうしていくの!? あたしたちほったらかしにしてどこいっちゃうのっ!? 」

 そんなつもりじゃなかった。本当は ―― 仲間になってしまうのが怖かっただけ。
 現場からのたたき上げで連邦軍の整備士としては異例の昇格を果たしたモウラ・バシットは地上軍での実績を買われて宇宙軍へと編入された。最初はルナツ-にある整備大隊、しかし戦いが佳境を迎えるにつれて激しくなった損耗のために彼女も遂に戦艦に乗り込んで最前線での補修整備を担う事になる。その時の経験が彼女の精神を強固な軍人へと作り上げ、しかし彼女の本質を歪な物へと本人も知らない間に変化させてしまっていた。
 昨日まで笑いながら酒を酌み交わしていた仲間が明日には宇宙のチリとなる。フィジカルもメンタルも崩壊寸前にまで追い込まれていく日常の中で彼女は自分の心を守る為に『誰もが模範とする連邦軍の整備士』と言う役を演じ続けた。どんな状況にも何事にも動じず、常に冷静的確な指示を出して味方の戦力を維持し続ける陽気な凄腕整備士という悲しい姿を。
 それが ―― そうあり続ける事が正しい事なんだと信じ続けてきたんだ、今の、今まで。

 右の袖を千切れんばかりに握りしめるジェスの両手を振りほどこうと必死になるモウラ、しかし大の男を一振りでなぎ払えるだけの膂力を持っているはずの彼女がその小さな手を振り払えない。これでもかと歯を食いしばり、両の足に渾身の力をこめて先へと進もうと試みるその一歩が動かない。
 ニナとオークリーに来て三年、一緒になって頑張ってきた自分がいた。だからあたしは今ニナの所に行かなきゃいけない、そうする事が自分にとっての正しい選択だと信じて疑わない。でも。
 こんな少女に引きとめられて動けなくなったあたしがいる、ニナの所へと駆け付けられないあたしがいる。
 ―― わかってる。あたしがそうしてしまったんだ。ここに吹き溜まってきたみんなをどこに出しても恥ずかしくない整備士にしてあげたいと一生懸命育てた事が強い絆を作り上げ、過ごしてきた日々がそれを断ち切ることができないくらいに強く、大きなものにしてしまった。
 これは ―― あたしの責任だっ。

「ねえ、モウラさんっ。お願いだから …… あたし達を置いていっちゃヤダよ、おねがいだから  ―― 」泣きじゃくるジェスを潤みきった眼で見つめながらぐっと唇をかみしめて必死に何かをこらえるモウラの耳に届く友人の声。
「 “ モウラ、みんなの傍にいてあげて。整備班のみんなにはあなたが絶対に必要なんだから ” 」
「ニナっ! だめっ!! 」涙声で叫ぶモウラの体が迫りくる喪失の恐ろしさに小さく震えた。心を通わせた数少ない友人の一人が告げる最後の言葉がモウラの表情をあられもなく壊していく。
「 “ ごめん、こんなことになっちゃって。でもほんとはこうするつもりだったの、最後にモウラと話せるなんて思ってもみなかったけど ―― あのね ” 」やめてよっ! そんな言葉聞きたくないっ!
 心の叫びは嗚咽に変わってモウラの口から零れて落ちた。「ニナ、だめだよ。ねえ ―― 」
「 “ モウラとならこの先ずっと生きていけるかもしれないって、おもってた。 …… でもね ” 」不意に電話の声がこみ上げて来た悲しみで揺らめく。「 “ あたしね ―― やっぱり、コウがいない、と …… ダメみたい ” 」

「 “ ダメええっっッッ!! ” 」不利になりつつある戦いを覆そうと二人がかりでラース1と刃を交え続けるアデリアの絶叫がまるで遠吠えのように全ての携帯から鳴り響いた。「 “ ニナさんっあきらめちゃダメだっ! アデリアが、モウラさんがオークリーのみんながニナさんの帰りを必死で待ってるんだっ! だからニナさんも最後まであきらめちゃダメだっ!! ” 」
 マークスの声がハウリングを伴ってアデリアの絶叫と一緒になってほとばしる。たまりかねたモウラが廊下へと崩れ落ちながら最愛の男の名を呼んだ。「 ―― キースっ !!」

 向こうの通路で大声を上げて自分の名を呼ぶ男達がいる、携帯から大勢の仲間が自分の名を呼ぶ声が聞こえる。しかしニナはそっと頬の涙をぬぐいながら微笑んで向こう岸にいる助けに向かって小さく手を振った。「モウラ、いつまでもキースと仲良く、ね? アデリアももっと素直になってマークスを大事にしなさい。あなたたちって本当にうらやましいくらいお似合いなんだから」ニナはそう言うとホログラムを展開して切断のスイッチへと手をかけて、少しためらいながら呟いた。
「バンディッド」 

 深い思考に全神経を巡らせながら敵の光点を睨みつけるセシルの奥歯がギリ、と鳴る。まだ ―― きっとまだ何か手があるはずだ。これくらいの窮地は何度も経験した、幾度も勝ちを拾ってきた。たった一人の人間を救う事くらい自分にとって造作もない、そう信じてここに立っているんじゃないのかっ。セシル・クロトワッ!? 
「 “ 本当にありがとうございました、みんなの事をよろしくお願いします。かならず、助けてください …… それと ” 」
「だめよニナっ! 私の言うとおりにしてっ、そこでおとなしく待つのよっ! ―― 」切羽詰まった状況の中で、それでもセシルはその名を口にする事を思わずためらってしまった。予備役とはいえ招集も受けていない民間人、ましてや彼は私達の友人。もしそれを敵に知られて万が一の事が起こったら自分は後ろに立って戦況を見守るヘンケンにどういう顔で謝ればいいのか。彼女を助けられないばかりか彼まで失ってしまったら、私はもうあの人の傍に立つ資格がない!
 彼の意思がいかなるものであろうともそれを軍人として戦線に復帰した自分達がおいそれと口にしてはならないと。セシルは基地の入り口でコウと別れたその時に決意していた。だが生きる事を諦めてしまったニナを前にしてもうそんな建前が通用しない。
 どんなことでも、些細なことでも。彼女の生きる力になるのならっ!
「 “ ウラキ伍長、いえ。 …… コウの事、よろしくお願いします ” 」
「そのウラキさんもここに来てるのニナっ! だから! 」叫ぶセシルをあざ笑うように通話が切れる。「 ―― 技術主任の、反応。途絶しました」ことさら事務的に告げるチェンの声が硬い、直接チャットに繋がらずにゲストとしてねじ込まれた彼女との通信を電話番号を知らない自分達が再び復旧させる事はできないのだ。何度もリダイヤルが繰り返される事を示す複数の呼び出し音を耳にしながらセシルが硬く目をつぶって唇をわなわなと震わせた。

「 “ …… コウ、どこかで聞いてるか? ” 」モウラの耳に突然飛び込んできたキースの声、あきれるほど静かな声にそれを耳にした誰もが ―― アデリアやマークスでさえも修羅場に挑んでもなお冷静な部隊長の豪胆さに驚かされる。だがモウラだけは ―― 彼と全てを交わした彼女にだけは分かった。
 キース、怒ってる。
「 “ ニナさんがあぶない。 …… お前、俺に言ったよな? 必ず助けるって。それなのにお前は今どこにいる? ” 」
 そんな声を彼女は今まで聞いた事がない。抑え込んでもなおキースの声に残る激しい慟哭がモウラの瞳に涙を誘い、全身の力を奪い去った。途端に扉の隙間から伸びる何本もの手が彼女の袖を掴んで力任せにハンガーへと引きずり戻す。
「 “ トリントンもコンペイトウも、アイランド・イースも。全部俺達は取りこぼした。あの時ひよっこだった俺達には運がなかった、力もなかった ―― 今でもそう思う ” 」今のオークリーではモウラしか知らないあの紛争を訥々と語る彼の声に涙が止まらない。コウがいなくなって残されたモビルスーツ部隊を強い義務感で担っていた事をモウラは知っていた。そしてコウと同じようにあの日々は彼の心にも大きな傷を残していた事を。
「 “ でもよ、俺達は全部なくしてしまったんじゃない。あの戦いは負けた俺達にも大事な物をくれた。 ―― この先、一生。自分の命を賭けても絶対に守らなきゃいけない大切な物を ” 」

 すでにキースのジムは南の山の山頂直下にいた。斜面に背中を預けたままでライフルのボルトを引いて虎の子のルーファスを薬室内へと押し込む。「なあ、コウ。俺達 …… また間にあわないのか? 」

                    *                    *                     *

 遅参を叱咤しようとしたキャンベルの脇を掠めてグレゴリーが滑り込む。「遅いぞっ! もう時間が ―― 」
「知ってるけどこれでもこっちは全力だ、文句は技術主任を助けてからいくらでも聞くぜ」言うなり彼は腰のポケットに差し込んである変わった形状の弾を抜き出して先端に部品をねじ込んだ。「携帯用個人装備の迫撃筒、大昔の代モンだが対戦車装備だ。一応予備の榴弾も ―― 」そう言うとたすき掛けにした麻袋をぽんと叩く。「 ―― 持ってきてる」
 滑り込んだ体勢のまま壊れた通路の端までにじり寄って迫撃筒の支柱を伸ばすとそのまま足の裏と左手で固定してからキャンベルに目くばせする。「ものすごい反動だから全員で支えてくれ、特装弾はこれ一発だ。 ―― 主任っ! 」
 野太いグレゴリーの大声は爆発音にも負けないほど力強くてよく通る。元々轟音と罵声だけが飛び交う部署でさんざん鍛えられた喉にこの程度の距離は無いも同然。「今からそっち側に綱渡り用のアンカーを打ち込むっ、あぶねえからドアを大きく開けて壁際に寄って体を小さくしててくれっ! 」
  今まで自分の指示が誰かに伝わらなかった事などない、それくらいグレゴリーは自分の声に自信を持っている。だが彼が発した指示の直後に見せたニナの行動は今までの経験を大きく揺るがす物だった。にっこりと笑った彼女がドアに手をかけると、あろうことかグレゴリーの指示とは反対に閉じようとし始めている。「主任! 何やってンだ!? そのドアを開けて壁際に寄るんだ、聞こえなかったのかっ!? 」
 焦りのあまり自分が間違ったのかとグレゴリーは自分の言葉を何度も頭の中で繰り返す。しかし自分が間違っていない事、そしてその言葉とは正反対の行動をとるニナを見てグレゴリーは彼女が今何をしようとしているのかを瞬時に悟った。
「主任っ!? 」激発する感情が彼から射撃体勢を解かせて、後ろの男達が大きくよろける。仁王立ちになったグレゴリーの全身から自ら命を捨てようとする者に対する怒りが陽炎のように立ち上った。硬く握りしめられた鉄の筒が膨れ上がった二の腕でつぶれそうだ。
「ここまで来てっ! こんな所で諦めちまうつもりかっ!? この大馬鹿野郎っ!! 」

 すりガラスを通して聞こえてくるグレゴリーの罵る声に背を向けたニナはゆっくりと赤い廊下を反対方向へと歩き出した。そう、自分は最初からこうしようと思っていた。ただその時が来てしまったというだけ。
 自分が囮となって敵を引き離している隙にハンガーを閉鎖して防御を固める ―― この基地にいる誰もが脛に傷持つ身の上だが元々は一年戦争を生き延びた猛者ぞろいだ、もしかしたら敵の侵攻を防ぐ事ができるかもしれない。その時間稼ぎにあたしの命が役に立つのなら ―― 。
 そう、心に決めたはず、なのに。
 目の前の一メートルが途方もなく長く感じる、それでも生きていたいと言う想いがニナの足にまとわりついて離れない。もう叶わない願いだと分かってはいても、それでも。
「 ―― コウ」
 かすれた声で呟くニナの手が胸ポケットの中にある記憶の欠片をそっと取り出した。今まで生きてきた人生の中で最も過酷な過去を記録したそれは間違いなく自分の犯した罪の結果、でもそれが今はたまらなく愛おしい。ラップトップを抱えた手の先が欠けた端から真ん中へと向かって走る皹をそっとなぞる。
 まるでコウとあたしのようだわ、やっぱり元に戻る事はなかった。でも最期にもう一度。

 ―― あなたに、あいたい。

「止めるなキャンベルっ!」手負いの熊のように暴れるグレゴリーを三人がかりでも抑えきれない。もともとミサイルを肩に担いで一人でハードポイントに取り付けてしまうような怪力の持ち主、命知らずで荒くれ者ぞろいの砲雷班を束ねる長がこの男だ。「あのバカの所に行って説教するだけだっ! 死にに行く訳じゃねえンだぞ!? 」
「お前の言ってる事が訳分からん事になってるからこうやって止めてるんだろうがっ! だいたいアンカーをどこへ打ち込むつもりだ、それ一発だけなんだろうっ!? 」
「知るかそんな事っ! とにかくあのドア目がけて撃ち込んでどっかに引っかかりゃあそれでいい、命を粗末にする奴だきゃあ俺は我慢がならねえんだ! だからお前らも黙って手伝えってのっ! 」
「そんなばかばかしい無茶についていけるかっ! これだから脳筋砲雷班は ―― 」始末に負えない、と言おうとしたその瞬間にキャンベルは今までと違った違和感を覚えた。グレゴリーの分厚い胸板に押しつけていた頭が力を失って後ろを振り返る。
「なんだ、このクソじじいっ! 俺だけじゃなく部下まで脳筋呼ばわりとはどういうつもりだゴラァッ! ―― 」「ちょっと黙ってろっ! 」
 それは暴れる猛獣をも黙らせる強烈な一喝だった。まるで自分に興味を失ったキャンベルの背中を目を丸くして見つめるグレゴリーと二人の仲間、そしてキャンベルは自分を振り向かせた違和感の正体を必死に探っていた。気配なのか、空気なのか。
 ―― いや。
「 ―― 音? 」

 目の前のハッチが自分が思うよりも早く開いて隙間からわらわらと三つの黒い影が這い出してくる。泥のようにしみ出してきたそれはむくりと起き上がると人の形をしてニナの下へと近付いてきた。赤い光の下で突きつけられた銃の鈍い光が彼女の視線を奪い、そして抑えきれない震えが始まる。
「 ―― ニナ・パープルトン技術主任? 」

「 “ 対象αを視認、本人と確認しました ” 」
 報告を受けた通信兵が傍らのブージャム1にその事を伝えると彼はマイクをもぎ取って嬉しそうに笑った。この目標一人のためにどれだけの貴重な戦力が今夜失われた事か、まるで疫病神のような存在感に地上戦力はこの作戦の主導権をあの忌まわしいデクノボウ連中に奪われたままだ。
 だがこれでこの作戦の要ともいえる大事な目標をやっと排除する事ができる、後の連中は命を奪わなくてもどこか手近な場所に監禁しておくだけで最後にボロゴーブが跡かたもなく焼き尽くす。あのMPI研究所の時のように。
「1から別働隊、よくやった。今晩の一番手柄はお前たちだな」踊るような声が周囲に集まる部下の表情を明るくする、上機嫌な彼がいらだち紛れに自分達に八つ当たりする危険が薄まるからだ。
「帰ったら准将に掛け合ってお前達の欲しい物をプレゼントしてもらおう、うん。ぜひそうしよう」そういうとブージャム1の表情に残忍な貌がかすかに浮かび上がる。「俺以外のな。 ―― 俺へのプレゼントはお前達が用意しろよ」
「 “ ―― と言いますと? ” 」
「1から別働隊に発令、女の息の根を止めたらその写真を収めて『必ず』原隊に合流しろ。それが俺へのご褒美だ。俺はな ―― 」
 醜い笑みがまるでこの世に二つとない美味な物を口にした子供のような蕩ける笑顔に変わる。「 ―― ああいう美人の死んだ顔が、本当に大好きなんだよぉ」

 通信を切ったその兵士はうつむいて小さく頭を振ると上官のあまりに下種な趣味に小さくため息をついた。彼につき従っている兵士の全てが同じ価値観を共有している訳ではない、部隊の大勢がそうなのかもしれないが少なくとも彼はその勢力とはかけ離れた信念を持っていた。
 対象の殺害はあくまで作戦の目標として。目標を達成するために立ちふさがる障害は徹底的に排除してこれを殲滅する ―― 純粋な特殊部隊としての在り方を追求するために入隊した彼にとって嬉々として人の命や尊厳を蔑にするブージャム1達のやり方は受け入れがたいものでもあった。だが上官が選べない以上それに異を唱えずに任務を遂行する事もまた特殊部隊としての心得でもある。
 隊の作戦に斟酌など存在しない。彼は胸のホルスターから拳銃を抜き出すと手にしたサプレッサーを銃口へとねじ込んだ。
「あなたには私の上官から殺害命令が出ている、理由はお伝えできませんが。これも軍の作戦の範疇だとご理解いただきたい」そう言うと両側でライフルを構えていた兵士に目くばせをして銃口を下げさせた。
「 …… 大丈夫、すぐに楽にして差し上げます。どうぞこちらに」

 死神の声とは何て優しいのだろう。その物言いを聞いた時ニナは素直にそう思った。
 かつて宇宙で聞いた怒号や喧騒とは違って、静かな赤い廊下をまるで神聖な物へと塗り替えていく低い声。誘われるがままに、促されるままに自分がそこへと歩を進めていく。現実味を失った意識が混濁して夢の中だと勘違いしてしまうほど、これから行われようとしている出来事に対する実感がない。「そこで結構です、そこに膝をついて。そうすればたった一度の痛みで済みます」
 言われるがままに廊下へと座り込むニナ、ラップトップを床に置いてコウのディスクをその上に。
 だがその瞬間猛烈な衝動がニナの奥底から突然湧き上がって全身を大きく震わせた。

 ―― いやだっ!!  ―― 
 
 静まり返っていた心の水面が激情ともいえる大きな波で荒れ狂った。それは自分を作り上げていた全ての過去や生き様の全てを粉々に叩き割って何度も何度も彼女に向かって訴えかける。

 ―― コウ、コウっ! コウッっっ!! ―― 

 吐き気をこらえて硬く結んだ唇の奥で今にもその言葉が飛び出しそうだ、かつえた心がどうしてもそれを欲しいと。ゆっくりと上がってくる拳銃の銃口を見たくない一心で瞳を閉じたニナの声が愛しさの全てをこめて零れ落ちた。

「 ―― あいたいっ 」

                    *                    *                    *

 それは自分の背後にいる、とキャンベルは急いで壊れた通路から顔をのぞかせた。絶え間ない発砲音と金属を叩く早鐘の音は間違いなくハンガーの方角から、時折建物を掠めていく流れ弾がコンクリートを削ってきな臭い匂いを一面に漂わせる。様々な音で満ち溢れているこの世界で、しかしキャンベルは確かに今までになかった音を耳にしたのだ。
「計器に頼らなければ機械の具合も分からないなどとは三流の言い草、一流の機関士は音を聞いただけですぐにわかる」と部下に言い聞かせる彼の耳は嘘をつかない。もしここに、今頃月のフォン・ブラウンでハンバーガー屋の店長をしているタカヤナギがいればその正体やら方角をあっという間に答えてくれるだろう。はなはだ残念ではあるが軍隊に入隊して機関士一筋に邁進してきた自分にはその機会を手にする事ができなかった。
 しかしそんな超一流のソナー手にも負けない特技をキャンベルの耳は持っている、それは『それがいったいどういう機関が出している音なのか』を正確に判別する能力だ。連邦軍ジオンを問わず戦車戦艦航空機果てはモビルスーツに至るまで戦場に投入された事のある全ての量産機の機関音をほんの少し耳にしただけで全てのスペックを言い当てる事ができる。もちろんその他の最新型であろうとも一度耳にすれば絶対に忘れる事はない。
 最近の連中からすればそれはほとんど特殊能力のように思えるかもしれない、しかし昔からこの仕事に携わって来て生き残ったロートルは必ずと言っていいほどみんなこれくらいの事はできる。それが時間を積み重ねた彼らだけが持つ「経験」という大きな財産なのだ。
 交戦の切れ間、ほんの少し沈黙が許されたその一瞬にキャンベルの卓越した聴力はついにその音を捉えた。建物を構成するコンクリートを震わせて伝わってくるその音はほぼ一定の間隔で、しかも微妙な高低を繰り返している。「おい、キャンベル ―― 」「しーっ、静かに」
 すっかり憑き物の落ちたグレゴリーが慌ててキャンベルの後ろから顔を出す、おずおずと二人の隙間から同じように外を見るあとの二人。外から見るとそれはまるで不細工に崩れたピラミッドだ。「 …… 聞こえる、なんだこの音? 」
 呟くグレゴリーをしり目にすでにその音を見つけていたキャンベルはその正体の解析に入る。幾度も繰り返されているその音の強弱は恐ろしいほど安定していて乱れがない、彼はそれが大昔に開発された内燃機関の作動音だと判断した。それもピストンの動きはトルク重視のロングストローク、しかも精緻を極める機械工学の粋を極めたモビルスーツの駆動モーターや油圧シリンダーに負けるとも劣らないほど正確に組み上げられてフリクションを徹底的に抑え込んだレーシングエンジン。
 記憶を掘り返すまでもない、この音はついさっき聞いた。ここに来る道すがらの砂漠で自分が火を入れ、そして息を吹き返した恐らく世界にただ一つの。

「 “ ―― 俺が …… いきます ” 」

 いきなり飛び込んできたその声に驚いたヘンケンが反射的に押したホログラムが表示した電話番号には確かに彼の友人の名が刻み込まれている、ヘンケンは宙に浮かんだゲストアイコンに指をかざしながら相手の名を思わず叫んでいた。
「ウラキ君っ!? 」

 今のオークリーで彼を知る者はもう数えるほど、しかしそこで働く誰もが一度は耳にした事のあるその名は稲妻のようにネットを駆け巡った。かつての彼を知る者は一様に驚き、突如として具現化したその姿を追い求めるように宙を見上げる。そして彼を知らない者はまことしやかに語り継がれた数々の伝説を眉に唾して聞き流していた事を心の底から後悔する。
 そして彼をよく知るモウラが、アデリアが。マークスが。
 ほんの一秒にも満たないその叫びに耳を奪われ体の芯が粟立つような興奮に身を委ねながらその声を待つ。絶望も諦めも幾度となく覆してきたその名を呼ぶ ―― それはかつて相棒として共に歩んできた彼の口にこそふさわしい。
「 “ コウッッっ !!  ” 」
 湧き上がる全ての感情を叩きつけるようなキースの声がオークリーに轟いた。

 だが予備電算室で状況を把握する三人はその後に示されたコウの位置情報を目にして更に驚いた。てっきりニナと同じ建物のどこかにいると思われた彼の反応はキャンベル達のいるA棟、それも屋上の一番奥でぽつんと輝いている。こんな肝心な時にたどり着く場所を間違えるとは、と苦渋の表情でモニターを睨みつけるヘンケン。しかしセシルだけは彼が描いた作戦のシナリオを瞬く間に理解し、そしてそのあまりの無謀さに思わず悲鳴を上げた。
「ウラキさんダメっ! そこからじゃ絶対に届かないっ!! 」

 焼けた空気が鼻腔をくすぐり炎の熱が肌に突き刺さる戦場と言う名の見知った世界。もう二度と巡り合うことはないと決別したはずの地獄がなぜか今はとても懐かしい。
 舞い上がる火の粉が星に紛れて次から次へと消えていく夜空を一度だけ見上げたコウは強い決意に満ちた目をゆっくりと正面へと向けた。漂う煙に映るヘッドライトのハイビームは何もない空間をまっすぐに貫いている、向こうの建物までの距離はだいたい二十メートル。
 ギアを踏んだ途端に後輪がキキッとかすかに鳴った。最大回転域で酷使した事によるクラッチの異常、そして駆動輪の限度を超えた損耗。満身創痍と化したそのモタードが満足に動ける時間はあと幾ばくもない。「 ―― ごめんなモタード …… これで最後だ、頼むぞ」
 クラッチを繋いだとたんにスプロケットがチェーンを噛んで死にかけの後輪を全力で回す、ゴムの放つ絶叫と黒いうねりを床に刻みつけながらコウの愛機は短い、そして最後の疾走に入った。不十分な加速と頼りない針路、しかし主のリクエストに応えるべくコウのモタードは屋上の縁に立てかけられた小さな鉄の板を目指した。

「まさかここを飛び越える気かっ!? 」はっきりと分かる音を耳に捉えた瞬間にキャンベルは叫んだ。土地勘のあるグレゴリーが頭の中で瞬時に距離と速度の相関関係をはじき出す、建物の間は二十メートル、助走距離はどう見積もっても百メートル弱。飛び超えるには三秒間で時速百キロ以上出さなければならない、そんな車がどこにある!?
「やめろぉッ!! 伍長ぉォっ! 」頭上にまで迫って来た爆音に向かって力の限りグレゴリーが怒鳴る、その瞬間にガン、と言う音を立てて黒い影が屋上の縁から空中へと躍り出た。
 祈るように空に浮かんだモタードを見上げる八つの瞳、しかし彼らの願いも空しくその車体は向こう岸に届かなければならない放物線を逸れて失速を始めた。重力に引かれて地上へと滑り落ちる車体の上で下を向いたコウが目を見開いているのがはっきりと見える。
「伍長ぉぉっッッ !!」

 モタードがこの距離を飛び越えられない事をコウは知っていた。それでも彼がここを目指したのはニナを見つけたと同時に飛び込んできた小さな情報から構築した最短距離を選択したからだった。
 彼女の命を担保するはずだった連絡通路、爆風で消し飛ばされたそれが壁面に残した強度の証。トラス構造と言う頑丈な造りでできていたが故に上部が破壊されても床面は最後までその衝撃に抵抗したのだろう、耐えきれずに最後の最後で壊れてしまったその床を支えていた基部の鉄骨がまるで壁から生え出ているように離断した状態で残っている。長さ一メートル、幅はタイヤの幅三本分にも満たない小さなハーケン、だがコウはニナを助けるためにその手掛かりを掴みにいった。
 目まぐるしく変わる景色と下から上へと流れながら迫りくる建物の壁、加速する世界が彼の中でコマ送りに変わる。足元に見えるマッチ棒のような目標へとコウはしっかりと狙いを定めた。

 もし彼がブージャム1のように偏執的な殺人狂だったとしたら彼女の呟きなど意に介する事もなく、即座にその引き金を引いていた事だろう。だがほんの少しためらったその一瞬が彼の周囲を劇的に変えようとしていた。彼女が来た方向の背後で閉じられたドアの向こうで聞こえる大勢の男の声 ―― よくあることだ。自分の逃げる距離を確保しながらこれから起こる惨劇に対して批判の声を上げる連中、そこまで言うならここに来ればいい。卑怯な手に訴えても自分を守りたいというのはまともな思考を持つ人として当然のことだ。そう言う輩を蔑みはするが一概には責められない。
 しかしその声がどんどん変化して叫び声になった時に男の危機管理が警鐘を鳴らした。女子供ならともかく大の男が発する声じゃない、そう思った時彼は男の怒声に紛れて聞こえるチェンソーの音を耳にした。大昔のホラー映画で殺人鬼が登場するシンボルにも似たその音がドアの向こうから。
 異変に対応するために選択せざるを得ない二者択一、任務をこのまま遂行するか。それとも音の正体を見極めるべきか?
 慎重な男は後者を選択した。殺人鬼といえどもしょせんは人だ、撃てば血を流すし不死身ではない。現にどのホラー映画でもそいつらは最後に必ず死んでいるではないか、任務遂行はそれを仕留めてからでも十分に間に合う。ニナの胸につけた狙いを外したその男が後の二人に目くばせをしてドアの方へと銃口を向けて構えた、その瞬間。
 廊下を揺るがす振動と共にドスンと降り立つ黒い影、煌々と光を放ちながらそいつは空からやって来た。

 着地に成功したその鉄骨が大きく撓む。全身の力を使ってなんとか消却しようと試みるコウだったがその代償は想像をはるかに超えるものだった。一本で全重を支えた後部サスペンションはコイルを全て縮めてからダンパーをへし折られて二度と使い物にはならない、さらに残る落下の衝撃はエンジンに直結されたトレリスフレームに何本ものひびを走らせた。鉄骨に接地した後輪は悲鳴と煙を上げながら空回りし、タイヤを構成する内部のナイロンコードが遂には弾けてちぎれ飛ぶ。
 危うい一本橋の上で歯を食いしばりながら必死でバランスを保つコウの目の前で基部を支えていた建物の外壁が耐久限界を超えて崩れ始める、しかしそれがコウがうった博打の成否だった。今にも地面へ引きずり落とそうとしていた加重がなくなりモタードの抵抗が始まる、オイルを噴き出しながら最後の力を振り絞って唸りを上げたL型ツインが重力と物理法則に向かって中指を立てた。
 ―― 行けっ!
 最後のグリップで鉄骨を掴んで前輪を持ち上げたまま一本橋を駆け上がったモタードは残った力の全てを目の前に立ちふさがる鉄のドア目がけて解き放った。

 猛烈な破壊音と共に飛び込んできた黒い塊が放つハイビーム ―― 5000ケルビムの光が赤い通路を真っ白に染め、それはナイトビジョン越しにはレーザーの直撃に等しい威力だ。増幅された光は一瞬で兵士達の網膜を焼き切って一生めしいとなる事を強制し、間違っても二度と銃など持てない体にした。脳を灼く痛みでゴーグルを跳ね上げながらよろめく人影、それでもニナに銃を向けた男は迫りくる音だけを頼りに引き金を引く。
 頬を掠める銃弾が刻んだ傷ごとコウの顔を苦痛にゆがめる、だがその眼はスローに動き続ける景色の中を目まぐるしく動いた。目を押さえながら自分に銃を向ける兵士、そしてその後ろでもがき苦しむ二人の姿。
 そして。
 跪いたまま硬く目を閉じて。
 肩にかかった金色の髪が光に照らされて眩しく。
 脳裏に焼き付いたまま一日も ―― ただの一度も瞼の裏から離れた事のない、彼女のっ!

「 ―― ニナぁっっ!! 」

 咆哮だった。コウの喉からほとばしる甲高い叫びが廊下をくまなく席巻して世界を揺るがす。

 二度目の銃声がこだましてニナの肩がビクッとすくむ。放たれた銃弾は間違いなくコウの胸を目指したがそれよりも彼の反応は早かった。走り込んだ勢いのまま車体を倒しこんだ彼の頭上を駆け抜ける9ミリパラぺラム、しかしコウは怯むことなくそのままの体勢で兵士目がけてモタードの底面を叩き付けた。三百キロの慣性重量がめり込んだ胸から肉のつぶれる鈍い音と骨が砕ける気持ちの悪い音がしてニナの命を断とうとした兵士はそのままエンジン下部にあるクランクケースに体を持って行かれる。ステップが火花を上げながら廊下を滑って、末期の悲鳴を上げながら回る事を止めない傷だらけの後輪が残った兵士の衣服を絡め取って地獄への道行に連れていく。異様な叫び声を上げる彼らを巻き込んだモタードをコウは足で蹴り飛ばしてそのまま廊下の先へと送り出した。
 勢いがついたままのコウの体が廊下の上を何度も転がる、しかしすぐに体勢を立て直した彼は膝立ちになって素早くベストのホルスターからヘンケンの銃を抜き放った。三人を掴んだまま赤い廊下を滑って行ったモタードが廊下の半ばを過ぎたあたりでついにその動きを止め、コウが構えた銃の前後の将星につけられた小さなルミノールの光がまるで居場所を知らせるかのように点滅するモタードの警告灯を真正面に捉えた。

 続けざまに放たれた三発の銃弾は確実に燃料タンクに命中する。その中の貫通した一発がシリンダーヘッドに命中して小さな火花を散らし、漏れた燃料に命を吹き込むその輝きは一瞬でタンク内を炎で満たして爆弾へと作り変えた。

 吹き飛んだ車体が巻き込んだ三人の兵士と共に廊下を炎の海原へと変える、しかし壊れた部品が銃を構えたままでその光景を呆然と見つめるコウの体のどこかを直撃する事はなかった。バラバラとコウの周りに降り注ぐパーツの多くがモタードと築いた信頼の絆、走馬灯のように流れていく今までの出会いと苦悩。彼との思い出を振り返りながら感謝で潤む目が炎から離れない ―― そして共に死線をくぐり抜けてニナの下へと連れて来たコウの愛機はまるでその体を気遣うかのように、炎の中でヘッドライトを瞬かせて安らかに息絶えた。



[32711] Distance
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/03/01 21:24
 耳をつんざく叫び声と追いかける爆発音 ―― 聞いた事がある。忘れもしない三年前、アクシズの戦艦グワンザンの艦橋で。
 命が、魂が。
 もし人の心に宿るのならその全てを吐き出してしまうような、絶叫。

 やっぱりあなたに会いたかった、とニナは少し気配の変わった空気の中でそう思った。瞼を透かして明るくなった目の前と頬に感じる生温かい風は自分が違う所に行ってしまった証拠。今でも信じられない ―― 信じたくない。もう二度と彼に会えないなんて。
 張り裂けそうな胸の痛みをなんとかこらえながらニナは、せめてこの先の事は自分の眼で確かめなければならない ―― 自分が作り出した物で死んでしまった大勢の兵士や自分のために命を落とした仲間が一体どこへ向かうのか、はからずも彼らの未来を奪ってしまったあたしはそれを見届けなければならない。
 一番後ろからでごめんなさい、と心の中で謝りながら硬く閉じたままの瞼をそっと開いた。

 目の前の廊下に深く刻まれた一本の深い溝、そして強い覚悟で閉じたはずのドアが蝶番をねじ切られて少し離れた所に歪んだまま転がっている。夢から覚めない瞳がぼんやりとその惨状を眺めてうろうろとあたりを彷徨い、やがて彼女はそこから自分に向かって伸びてくる小さな輝きを見つけた。
 粉々に砕けたすりガラスの破片が廊下のあちらこちら至る所に。自分の前を通り過ぎる星の屑のような光の流れは視線を奪ったまま上流へと自然に誘う、その源流にある大きな光へと。

 めらめらと燃え続ける紅蓮の炎があった。地獄の業火のようで、浄化の焔にもみえる ―― ただあまりにも現実味のある姿に彼女は瞬きもできずにその揺らめきを呆然と眺めている。放たれる熱が焦点の合わない瞳をあっという間に乾かして、焦げた匂いが鼻孔をくすぐって少しづつニナの意識を確かな物へと変えようとする。
 それでも夢と現実の狭間でいまだに迷う彼女の眼に飛び込んできた黒い影 ―― それは自分の命を奪いに来た兵士の物とは明らかに違う。背景となる炎にその輪郭を溶け込ませるほど朧げで、たった一人で炎と向かい合う人影は彼女の視線に気づいたようにゆっくりと後ろへと振り返った。
 ―― ガトーだとニナは思った。

 やっぱりあなただったの、私を迎えに来たのは。
 でももうあなたの助けはいらない、とニナはガトーを拒絶した。あの日あの時、その声を聞いた私は ―― あなたの最期を伝えられた私は涙を流せても後を追う事はできなかった。
 なぜなら私は彼と出会ってしまった。あなたよりも幼くて弱いかもしれない、でも本当の私にきちんと向き合って愛してくれた。
 だから私はそんな彼を誰よりも心の底から愛した。コウ・ウラキ ―― かけがえのない一人の男を。
 さようならガトー。もう私はあなたに手を引いてもらわなくても大丈夫、私はこの先もずっと一人で ―― 。

 心の中で静かにガトーへと別れを告げるニナの眼に映った男の顔が少しづつ変わっていく、それは少し収まった炎の輝きのせいかもしれない。銀髪だと思っていた髪は黒く、何よりもまだ塞がって間もない瞼の傷が彼女に影の正体を思い出させた。彼は踵を返すと険しい表情で彼女の名を口にした。
「 …… ニナ」

 どうして? 

 そんなはずない。彼は今頃あの小屋で。
 あたしが死んだ事なんて知らずにまた明日を夢見ている。
 もしかして、これは気まぐれな神様があたしに見せている、ただの幻なの?

 コウの方へと座り直しながらそれでも現実を受け止めきれない彼女の眼は焦点を失ったままその影へと注がれた。動き出したコウの足がひそやかに廊下を踏みしめ、一歩一歩ニナの下へと近付いてくる。眉間にしわを寄せたまま肩を震わせて歩み寄る屈強な体は傷だらけになっている。

 ううん、幻でもいい。
 あなたにちゃんと謝りたかった。
 もしあなたにあの時出会わなければこんな事にはならなかったのかな? あたしは今でも月にいて、あなたは今でもモビルスーツに乗って。大事な物を何もあきらめずに済んだのかな。
 ごめんなさい、コウ。
 もしもう一度生まれ替わる事ができたなら、今度はもっと平和な所に二人で ――。

 無表情なままで乾いた目をコウへと向けるニナ、わずかな時を経てコウはニナの目の前に立つと静かに膝をついてじっとニナの顔を覗き込んだ。溢れてくる強い ―― そして様々な感情がコウの眼を堅く閉じさせて、傷だらけの両腕が彼女の体を包み込む。

 あ。

 触れ合った肌から伝わる熱と確かな鼓動 ―― 忘れていたその感覚と記憶がニナの瞳にかすかな光を灯した。身動きもできないほど硬く閉じられた輪の中で体ごと捕らえられたニナの両手が、確かめるように何度もコウの背中を叩く。

 何と言えばいいのだろう、今。
 君をこの手に取り戻したその喜びを。
 もう二度と手放せないこの思いを。

 「 ―― そばに、いてくれ」

 肩に乗せられた彼の口から零れた声がそっと彼女の耳に忍び込む。ほんの一瞬の間をおいてニナの脳裏に蘇る月での記憶。
 恩人と繰り広げた殺し合いの果てにたどり着いた二人の答え。
 月の砂漠を漂うあたしに差し出された彼の手を、自分は確かに握りしめてそれを誓った。
 巨人が見守るあの丘で。

 探していたニナの両手がコウの背中に触れたままパタリと止まる。コウは両腕に力をこめ、体の底から絞り出すように今まで言いだせなかったその一言を呟いた。

「 …… たのむっ」

 痺れたように力が抜けた。
 訳の分からない感覚と感情と感動と感激。次にどうなったかすら分からない。はっきりしているのは自分がワアワアと大声を上げながらコウの体にしがみついている、ただそれだけ。
 あっという間に景色が揺れて見えなくなった。もっと彼の顔が見たいのに。どうして。
 ―― あたし、泣いてるの?
 もう一生分泣いたと思った。
 もう泣く事なんかないと思った。
 早くコウの顔が見たい。
 早くあなたと話したい。
 でも止まらない、止め方が分からないの。どうしよう、コウっ!

 子供のように泣き続けるニナの声が赤い世界を取り戻した廊下を駆け抜けて溢れる涙がコウの肩を大きく濡らす。大きく息を継ぐたびに頬をくすぐる金色の髪の感触を右手で確かめながら、彼は彼女の命を救ってくれた全ての存在に感謝した。
 そして彼女が背負った運命も。
 自分が背負うべき宿命も。
 今この瞬間だけは忘れていたいと震え続けるニナの体を精一杯の思いをこめて強く抱きしめた。



[32711] ZERO GRAVITY
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/04/17 18:03
 ニナの泣き声を耳元で受け止めながらコウはそっと彼女の背中へと視線を落とした。多分彼女の性格でシミ一つなかったであろう真っ白なシャツが焼け焦げて裂け目さえある、そんな事には無縁だった彼女がこの一晩でどれだけの苦難や困難に直面し、どれだけの悲惨な光景を目にしてしまったのか ―― そう考えただけで抱きしめる両手に力がこもる。「すまない、もう少し俺が早く ―― 」
「 …… ばか」声を詰まらせながらコウの耳元でニナの声がした。金色の髪がコウの手をすり抜け、コウの顔を笑顔で見つめるニナが同じように視線を落とす。「あたしも …… あなたもボロボロだわ。でも、生きてる」
 彼の背中に加わった力が自然とニナの顔を胸板へと近付ける、昔よりも遥かに分厚くなったそこに頬を押しつけた彼女は囁くように言った。「ありがとう、コウ。どうしてもあなたに …… あいたかったの」

 ドンッという大きな発射音と共に廊下に撃ち込まれた弾が深々と天井へと突き刺さり、抱き合ったまま振り向いた二人の目の前にそこに繋がれたロープを伝って大きな黒い影が現れた。猿のように慣れた身のこなしでそこから降りた男は口に咥えていた明かりの光を二人に向けて照らす。「 ―― お邪魔、だったかな? 」
料理長チーフ! 」小首をかしげて片目をつぶるグレゴリーに向かってコウが嬉しそうな声を上げた。まだ足元のおぼつかないニナに肩を貸しながら彼の下へと歩み寄ったコウは差し出された大きな手をしっかりと握りしめる。「ごぶさたしてます」
「おお、ずいぶんと久しぶりにお前さんの顔を見た。しっかしちょっと見ない間にうちでも働けそうないい体つきになりやがって、ついでにやってる事がここにいた頃と同じというかあいかわらずのむちゃくちゃだ。 ―― なつかしいなっ! 」
 近づいて来たコウの胸板をドンと小突いて、しかしそれでもよろけもしない彼の反応を見てニヤリと凄味のある笑みを浮かべた。「そういや『チーフ』って呼び方も久しぶりに聞くなぁ、そう言ってくれる連中があと何人生き残ってる事か。そう考えるとどうにもやりきれんのだが ―― 主任」
 ニナに向けたグレゴリーの眼つきが突然険しくなった。睨まれる事に心当たりのあるニナはコウの後ろで姿を隠したまま小さくなっている。「さっきのアレはどういうつもりだ、自分の命を粗末に扱うなんて」
 ニナの取った行動はいかなる理由があろうともヘンケンの下で働く者達にとって許される事ではない、たとえ目の前に死の瀬戸際が大口を開けて待っていたとしても最後の最後まで生きるための手段を探し求めなければならない。そのポリシーが有効な事は星一号作戦の際、戦闘宙域で撃沈されたスルガの乗組員が全員ほぼ無傷で帰還した事が証明している。
「今晩、仲間が大勢死んだ。みんな明日を生きようとして叶えられなかった、だから生き残った俺達はそいつらの分まで精一杯生きなきゃいけないんだ。たとえどんな理由があったとしても ―― 」
 ニナの瞳に涙が浮かんだ事でグレゴリーはその先の言葉を止めた。彼らの死に対して自分が報いるものは何もない、と思い込んでいたニナの脳裏に浮かぶトンプソンの叫び ―― 彼と一緒に死ぬ事を選べなかった自分の決意を思い出した彼女はグレゴリーの前に進み出ると俯いた。
「 ―― 曹長にも、そう言われました」
「そうか。 …… じゃあ尚の事助けてもらったその命、大事に使わにゃあトンプソンにも恨まれる ―― と」グレゴリーの耳につけられた携帯の着信を示す赤いランプが点滅する。通話に切り替えた彼が驚いたようにイヤホンを外すとスピーカーに切り替えるまでもなく、ヘンケンの大声がその場にいた三人の耳にまで届いた。「説教はここまで。どうやらここにいる三人の携帯がどれも繋がってなかったみたいだ。 ―― 伍長」
 グレゴリーが自分の耳をポンポンと指で二回叩いてコウに携帯を繋げと促した。「艦長がお前さんの声を聞きたがってるぜ」

「! ウラキ君!? 」
 再び繋がったコウとの回線に齧りつくヘンケン。最後に聞いたのは輻輳する阿鼻叫喚と爆発音 ―― 不吉な予感しか残さなかった終わりにやきもきしながらせめて身の安全だけでも、と祈る彼の耳に届いたコウの声。それは彼がなし得た戦果の大きさとは全く無縁に思えるほどあっけなく、そして彼の小屋で酒を酌み交わしながら話す時と同じ声だった。
「 “ たった今ニナ ―― いえ、パープルトン技術主任を無事に保護しました、助けていただいてありがとうございます ” 」

 ほんの一瞬の静寂の後に訪れた爆発する歓喜とわき起こる歓声。
 降リかかって来た悪夢によって失われていく仲間を何の手もなく見送ったオークリーにもたらされる希望。誰もが奇跡を待ち望み、しかしそんな事が起こる訳がないと絶望をかこつしかなかった彼らに訪れた突然の福音。見えなくなった明日をもう一度取り戻せるかもしれない可能性がそこにある、俯いたままの顔を再び上げるには十分すぎるほどの光明。
 それはかつてのコウと一番深くかかわっていた整備班が最も派手に表れた。スーパーボウルの残り二分での大逆転劇に湧く観客を思わせる興奮は勝ち鬨となってハンガー中に響き渡る、泣きながら飛び上がったジェスが下で待ち構えるアストナージと全力でハイタッチを交わして抱きかかえられる。ピョンピョンと飛び跳ねながら彼はまだすぐそばに座り込んだままのモウラへと視線を向けた。
「班長、伍長が ―― 野郎、帰ってきやがったっ! ちっくしょう、なんておいしいタイミングだぁっ! 」

 整備班の全員がその知らせに最も喜んでいるだろうと信じる彼女はその歓喜の輪の中には存在しない、誰よりも屈強でタフだと整備班全員から思われていたモウラはただその場にうずくまって泣いていた。幾重にもわだかまる複雑な感情 ―― 絶望から歓喜、緊張から安堵。正反対へと舵を切ったその思いを表現するのは人にとって同じ物でしかない。長く作り上げてきた虚像が剥げ落ちた後に現れた素顔のモウラを取り囲んだアストナージが、そして彼女を引きとめたジェスが大きなモウラの肩を抱いて思いっきり揺さぶる。そして口々に降り注ぐ祝福の言葉がさらにモウラの涙を誘った。
 まちがって、なかった。
 ニナの下へと駆けつける事ができなかった自分はなにもまちがってなかった。
 そして彼らを捨てて死に向かおうとした自分の間違いを誰一人咎めるものはいない、その優しさこそが発足当時から不遇な身の上に抗い続けたシャーリー隊の強さの証だとモウラは改めて思い知った。

「 “ ―― よしっ ” 」
 短い言葉だがそれだけで十分だ。キースの声を聞いたマークスは動作不良を起こし始めた右手をなんとか操って目の前へと迫ったマチェットを受け流す。気の利いたセリフなんて思い浮かぶ状況じゃないほど追い込まれてる、でも ――。
「 “ なによぉあいつっ! あたしン時の二番煎じじゃないの、ほんともったいつけちゃって。でっきるンなら最初からやってくれっつーの! ” 」
 脇からラース1へと肉薄するアデリアの憎まれ口、でも彼女らしい感謝の表現にマークスは声を上げて楽しそうに笑った。

「 …… 艦長、申し訳ありません。私にはどうする事もできませんでした、もしウラキさんがいなければ ―― 」
「まさに『悪魔払いエクソシスト』だな」ヘンケンはコウにつけられた二つ名を感慨深げに呟いた。彼女の置かれた状況を想像した誰もが悲嘆にくれてただ見送るしかなかった、それをたった一人でものの見事にひっくり返して見せる超人を先人達は何と呼んできたのだろうか?
「俺達は何度もこんな目にあって来た、その度に誰かに何とかしてほしいと願っては叶えられなかった。 …… いるんだな、本当にこんな奴が」ヘンケンはそう言うとそっとセシルの肩を叩いてから抑えたままの携帯を手放して口を開いた。「礼を言うのはこちらの方だ、俺達のミスをよくカバーしてくれた …… すまない、もう少しで彼女を死なせてしまうところだった」
 小さく頭を下げるヘンケン、どんな立場でもどんな相手でも犯したミスに対して素直に頭を下げられる所がこの艦長のすごい所だとセシルもチェンもそれぞれに思う。しかし助けてもらった相手に礼を言えること自体が素晴らしい幸運なのだ。自分達がしでかしてしまった事で窮地を迎えた味方がどんな結末を迎えてしまうのか、それを考えれば謝る事など取るに足らない。
 死んでしまえば謝ることすらできないのだから。
「 ” いえ、そんな。俺の方こそ礼を言います ―― あ、えっと ” 」口ごもったコウの傍で小さくニナが「バンディッドよ」とささやく。些細な事だったがそれで二人の繋がりは以前とは違う物になっている事に気づいたセシルは小さく笑った。
「 “ ―― 『バンディッド』。助けていただかなければ今頃二人ともどうなっていたか。本当に ―― ありがとうございました ” 」
「こちらこそ、と言いたいところだが改めてそれを言うのはお互い明日の朝日を拝んでからにしよう。現在の状況を考えるとこれをひっくり返すのはなかなかに至難の業だ」
 仕切り直しを促すヘンケンの声がセシルの顔を引き締める。動き出した生体戦術電算機は現状から予想される分岐を瞬時に想定して最も有効だと思われるケースを選び出す。「キャンベルと二人はそのまま元の道筋から食堂に戻って敵の迎撃の準備。グレゴリーはキャンベルから武器を受け取った後にその場から離脱、医療棟にいる怪我人をできるだけ多くこちらに誘導して。ウラキさんと技術主任には助かったばかりなのに酷ですが今は人手が一人でも必要な時です、砲雷長のお手伝いをお願いします」
「 “ キャンベル了解、ただちに食堂に帰還して迎撃準備に入る。 ―― だがポイントはどちらかというとグレゴリーの持ち場だ、奴も早めに戻してくれ。その方が何かと手っ取り早い ” 」
 セシルが立てた戦術にはグレゴリー率いる砲雷班の存在が欠かせない。緊急時における対人邀撃のスキルと知識、そして何より常日頃からそこで働いているという地の利。明日の仕込みのためにほぼ全てのスタッフが今だに厨房に残っていたという事はこの戦況を覆すセシルに与えられた唯一の僥倖だった。
 しかしキャンベルの声にグレゴリーの返答がない。「グレゴリー? どうしました? 」
 よほどの事がない限りあの偉丈夫が会話に参加しないなどとは考えられない、この作戦の要ともいえる砲雷長の異変に耳をそばだてたセシル。しかし次に聞こえてきたのはグレゴリーではなくコウの声だった。
「 “ バンディッド。医療棟が ―― 敵の砲撃で完全に破壊されています ” 」

 四階から垂直降下で下に降りようとロープを垂らした時に目に飛び込んできたその景色は衝撃的だった。まるで薬品で溶かされたかのようにぐずぐずになった外壁と所々崩れ落ちた床が建物の輪郭を幾何学とは縁遠いものに変えている。暗闇に沈むその惨状は豪胆で鳴らすグレゴリーですら言葉がない。
「 “ バンディッドからグレゴリー …… お前から見て生存者がいる、可能性は? ” 」

 ヘンケンの声が震えている。戦場でまれに発生するメディカルアタックは人非人の所業と言われている。戦えなくなった兵士は民間人と同じ扱いとなり連邦ジオンを問わず戦闘艦においてもその医療区画はバイタルパートのほぼ中央に位置しており生存率を最も高い確率で保全している、敵はそこを医療棟と知らずに撃ったのか? ―― いや。
 ドイツでの戦闘結果が奴らによって引き起こされたものだというのならば、奴らは間違いなく狙った。
 そこに大勢の怪我人がいると知りながら。
 非戦闘員しかいないと知っていながら奴らは、撃った。
 冷静さを失いそうになるヘンケンの体から炎のようなオーラがめらめらと立ち上る。「艦長、まだだめです」
 爆発しそうな気配を感じたセシルが後ろを振り返って小さく、しかし鋭い声で制止を求める。その時二人の耳に意気消沈したグレゴリーの声が聞こえた。砲雷撃を生業とするグレゴリー、経験則を駆使しての損害評価は絶対だ。
「 “ …… ありません。もしこの連絡通路を壊した爆発が医療棟に起因するものならば内部は完全に ―― ” 」
「 “ 俺が行きます。バンディッド、生存者捜索の許可を ” 」
 コウからの突然の申し出は予備電算室にいる三人には藁にも縋る物だった。だが今しがたまで死線を渡り歩いていた彼に自分達の都合を押しつけていいものか? コウの声で我に返ったヘンケンが小さくため息をついた。
「ありがとう。だが君は予備役とはいえ招集を受けてない以上あくまで民間人だ、ここから先の作戦に深くかかわる事は賛同しかねる。生存者がいる可能性がないのならグレゴリーと共に速やかにそこを離れるべきだ」
「 “ ですがバンディッド ――  ” 」
「 “ あたしもコウと一緒に生存者の捜索に当たります。バンディッド、許可を ” 」
 コウの反論すらも押しのけて告げられるニナの言葉に予備電算室はそれぞれの思いで絶句した。チェンは同僚として知る技術主任はこんな風に強くふるまう人だっただろうか、と。そしてヘンケンは今の今まで命を脅かされていた人間とは思えないほど力強い声に。そしてセシルは自分の作戦能力に挑みかかるような彼女の言葉に。
 彼女は暗に自分に求めている、『民間人二人が戦場の真っただ中で生存者を捜索するための必要な手順』を今この場で『すぐに』提供しろと。
 グレゴリーの見たてに外れはない、彼がそう言うのならばそこにいた大勢の負傷者やドクも含めて多分そうなのだろう。仮に誰かが生き残っていたとしてもそれを助ける事でかかるリスクは? 口元を手で覆いながら目をつぶって必死に手立てを考えていたセシルが辛そうな顔で一つ頷いた。「分かりました、では十分間だけ捜索を許可します」
「セシル、お前 ―― 」驚きのあまり思わず彼女の名前を呼んでしまったヘンケンに振り返って唇の前に人差し指を立てる彼女の眼には明らかな苦渋があった。「ただしそれが限界です。 ―― 恐らくそこでの事はもう士官宿舎に待機している敵の本体にも察知されています。ドクの …… マスターコードを手に入れたらすぐに医療棟を離れてハンガーに向かってください。グレゴリー、あなたは外で敵の動きに目を光らせて。辛いでしょうがここは二人に任せて」

「 …… 了解した、俺はこれから二人の援護を引き受ける。通信終了」そう言うとグレゴリーは胴体に巻きつけてあったロープをするすると解くと器用な手つきでその先端に輪を作った。「俺より副長の方が辛そうだったな、無理もない。 ―― ドクはみんなの親父代わりみたいな人だったから」
「まだ死んだと決まった訳じゃない。それにまだ他に生き残っている人がいるなら ―― 」言い抗うニナの体を輪の中へと潜らせながらグレゴリーは肩を一つ叩いた。
「もちろんだ、生きてる奴がいるんなら必ず俺達が連れて帰る。 ―― 二人の事は必ず俺が守る、だから …… マスターコードだけは忘れるな」

                    *                    *                    *

 ジェットコースターのように上下を繰り返す戦況にブージャム1の苛立ちは最高潮に達していた。たった一人の女を追いかけて今まで手塩にかけて育てた陸戦部隊の約半数があの世逝き ―― たとえばそれが元特殊部隊工作員でしかも伝説の何某等という肩書を持っているのならさもありなんと今の状況を素直に受け入れる事もできるだろう。しかし彼らの目標はたった一人の民間人上がりの軍属でしかも技術系のエンジニアだ、荒事や修羅場の対岸に位置する人種にいともたやすくこちらの兵士が屠られるなどとは悪夢であり、最大の屈辱だ。
 そしてそのイライラは意外な形で配下に伝播した。指揮官の一挙手一投足に常に敏感に反応してなんとかその場をやり過ごそうと試みる ―― 明らかに自分の身を守る為の保護行動であり動物としての本能からは逃げられない。群れとして成立する地上部隊はその連動性において類まれな攻撃力を発揮するがそれは同時に隠れた弱点をも内包していた。
 頂点に君臨するブージャム1の意思決定がそのまま配下にまで反映する、裏返せば彼がもし誤った判断を下した場合には一網打尽にされる危険性がある。だが負けた事のない彼らにはその事が分からない。マルコの分析結果は実はモビルスーツ隊だけの物ではなく、この部隊全体が持つアキレス腱だった。
「チッ、前も後ろも死に放題ってわけか」舌打ちしたブージャム1が鞘からククリを抜き出して血に曇った刀身に視線を落とす。選択肢は二つ、勝利か、死か。
 時間までに作戦を終えなければ後始末を一手に担うボロゴーブが迷わずここに件の爆弾を落として全てを灰燼に帰す。ここに連邦軍の基地があった事など関係ない、それだけの証拠を隠ぺいできるだけの情報操作と力を半身擬体の大佐は持っているのだ。「同じ死ぬなら前に出て少しでも生き残る道を探すしかねえ」
 決心したブージャム1はおもむろに立ち上がって周囲で息を潜めたままの隊員達を見回した。「これから全員で一気に敵本拠地の中枢まで侵攻する。ダンプティ達を当てにしている暇はねえ、こうしてじっとしている間にも敵はどんどん逃げてっちまう。そうなる前に俺達の手でけりをつけるぞっ! 」
 檄のような指示が出てからの彼らの反応は早かった。装備を身につけて銃把にマガジンを叩き込む時間はブージャム1がククリを元の鞘へと収めるまでと同じで、全員が整列する影に一瞥をくれた不機嫌な指揮官は口元をひきつらせた。
「よくわかってンじゃねえか、さすがは俺の子分たちだ …… 2、てめえの持ってる対戦車ミサイルスパイクのセフティピンは外しておけ。いつでも ―― どこでも、誰にでも使えるようにな」

                    *                    *                    *

 見たくもないその景色を再び目にする羽目になったコウは過去の記憶に思わず表情を曇らせる。ガトーの奇襲によって壊滅したトリントンは瓦礫の山と化し、生き残ったコウ達は崩れた建物の下から数多くの仲間の遺体を運び出さなければならなかった。あの日の事を思い出すたびにそれが戦争の真実なのだと自分に言い聞かせて割りきったつもりでいても納得はできない。
「ニナ ―― 」行く先である三階へと続く道のりへとライトの光を向けて後ろを振り返ると、そこには暗闇に沈んだ被災地へと目を向けたまま立ちつくしたニナがいた。
 そこはこの基地の中でもニナの一番のお気に入りの場所だった。待合室と受付を兼ねた小さなスペースだったが整然と並べられたソファはふかふかでいつも誰かが寝転んで午後の惰眠をむさぼっている。彼女はそんな彼らの邪魔にならないように少し離れた場所に置かれた小さなテーブルでラップトップを広げる、誰かの寝息や楽しそうな話声をBGMがわりに何かを考える事がこんなにもはかどる事だなんて考えもつかなかった。
 ソフトの改良のためにいろいろなインスピレーションを得たあのテーブルも瓦礫の下でいろんなものと一緒にぺしゃんこだ。そう思っただけで胸の奥に灯ったどす黒い何かでむかむかする。「なんて、むごい」
「急ごうニナ、もうあまり時間がない」自分の持っている彼女の姿とは違う雰囲気を感じ取ったコウがニナの手を取って先を促し、彼女は視線を暗闇に向けたままその導きに従った。遠ざかる思い出からそっと目を背けて先を歩くコウの背中へと視線を向けるニナが小さな声で彼に問う。「これが …… 戦争?」
 足を速める彼は声もなく。しかし彼女の言葉に前を向いたまま小さくうなずいた。

 三階は逃げ場のない地獄だった。外壁は全て剥がれ落ちて屋外に漂う戦場のきな臭さがそのまま吹き込んでいる ―― それだけではない、大方の天井が吹き飛んでなくなっている。少し離れた場所にある滑走路で繰り広げられているモビルスーツ同士の銃撃戦が耳元で鳴る鐘の音のように騒騒しい。
「そんな …… 一体何発撃ち込まれたって? 」コウは思わず処置室があったであろう内部へと光を向けた。内壁もなく鉄骨だけがむき出しになったスケルトンの大部屋に積み重なるコンクリートの瓦礫とその隙間から突きだされた何か ―― 。「 ! 見ちゃダメだ! 」
 わずかに遅れたコウの声を振り切ってニナが黒焦げになって宙へと突きだされたその手を見てしまった、誰もが目を背けるであろう枯れ木のような人の残骸が光の中だけでもあちらこちらに数多くある。しかしコウの動揺とは裏腹に視線を向けたニナは決して怯まなかった。口元を手で覆っても目に焼き付けるように光の向こうを睨みつける彼女の瞳が怒りに燃える。「 ―― 探そう」
 短くそう告げるとコウの脇をすり抜けて先に地獄へと足を踏み入れる。肉が焦げた甘ったるい匂いと死をかき分ける彼女の背中に秘めた覚悟はコウの足を引きずるようにその地獄へと誘った。

 多くの死者がいた。形ある者無くなった者、瓦礫という墓石の下で理不尽な死に対して恨みを向けるように。コウが瓦礫を持ち上げニナが一つ一つ中を確認する、ライトの明かりを向けるたびに彼女の動きが止まって胸の前で手を合わせては次へと。一度も欠かす事のできなかったその行為がここで命を落とした者の数を見る事ができないコウに教えた。
 瓦礫の重み以上にのしかかる辛さがコウの体力を気力ごと奪っていく。彼はこの死者が ―― いや今夜命を落とした者達が『何のために』犠牲になってしまったかを知っている、その事を絶対に目の前にいる彼女には告げられない。それは多分自分の墓にまで持っていかなければならない秘密なのだ。
 でももしかしたらいつか彼女にこの事を話さなくてはならない時が来るかもしれない。ニュータイプという特異点に向けられる悪意の願望はこれから幾度となくどんな手を使ってでもニナを求めてその手を伸ばしてくるだろう、今日ここで起こった事の真実を語って彼女を自暴自棄にするという手段を使わないという保証はない。事実自分は今夜の出来事を得体のしれない男から予言のごとく聞かされたばかりなのだ。その時に。
 自分は誰よりも先んじて彼女にその事を告げる事ができるのだろうか? 彼女を陥れようとする輩をことごとく退けるだけの力が、覚悟が。
「あとはここだけ …… 大丈夫、コウ? 」全身汗まみれになって息を上げるコウをいたわるようにニナが優しく声をかける。
 ―― 何を恐れている、いまさら後ろを振り返れないだろう。
 ニナのこの気持ちを、あの笑顔を守る為に。取り戻すために俺はもう一度ここに戻る決心をした。たとえそれが修羅の道行であったとしても引き返すことはできない ―― そこに未来がなかったとしても。
 護るんだ、コウ。彼女を全ての苦痛から、苦難から。
「大丈夫さ、ありがとう」
 自分のために気丈にふるまう彼女をねぎらうように、コウは笑った。
 
 そこがこの惨事を招いた爆心地である事は二人にも一目でわかった。頑丈な天井が一枚板で床に置かれたその周囲には何もなく、多分設置されていたであろう全ての機材は壁ごとはるか彼方に吹っ飛んでいる。あちこちに光を走らせて何か変わった所はないか、可能性はないかと探すコウ。だが野ざらしの部屋から走る光は無情にも次の建物の外壁を照らすだけだ。
「これじゃあ、ここにいた人は ―― 」
 探す事を諦めたコウがニナへと声をかける、しかし傍らで立っているはずの彼女はその場にしゃがんで今まで宙を照らしていた明かりを床と天井との間へとねじ込んでいた。ドリンクベンダーのアルミ缶でさえ潰れてしまいそうなわずかな隙間にニナは耳を近づけ、大きく目を見開く。「コウっ! 誰かまだ生きてるっ! 」
 条件反射でニナの傍らにしゃがみこんでその大きな縁に手をかけて渾身の力を込め、コウの隣で彼女が続く。しかし今まででも一番大きなその瓦礫は二人の全力をもってしてもピクリとも動かない。大きく息を荒げたコウがニナの手助けを断って携帯の通話ボタンへと手を伸ばした。
「チーフっ、すまないっ! 三階の一番奥に生存者、瓦礫が大きすぎて持ち上げられないっ。手を貸してくれっ! 」

 スルガの乗組員たちから「人間重機」と呼ばれた異名はここで二人に披露された。全身の筋肉が膨れ上がって見た目を一回り大きくしたグレゴリーがその縁に手をかけるとコウの手助けも借りずに一息でその塊を床面から引きはがす。すかさずニナが明かりを向けると男は様々な瓦礫やロッカーの残骸に囲まれた中央でへこんだ床の上に奇跡的に横たわっていた。「ドクっ! 」
 昔と変わらない一張羅の白衣に少し禿げあがったその頭を見間違えるはずがない、コウが駆け寄るとモラレスは小さくせき込みながら俯いたまま言った。「誰かは知らんが儂の体をできるだけ動かさずに運び出してくれ、エコノミー症候群の恐れがあるでの。 …… ? なんじゃ? こんな時にここにいる筈のないモンの声が聞こえるとはいよいよ儂も年貢の ―― 」
「しっかりしてドクっ、コウが助けに来てくれたの、分かる!? ウラキ伍長よっ! 」 コウに抱えられて外に運び出されたモラレスにニナが寄り添う、背後で瓦礫を落としたグレゴリーがその余震の収まるのも待たずにニナの肩越しで彼の表情を窺う。
「伍長? …… ほう、そりゃまた」そうつぶやくと自分の肩に添えられたままのコウの手を触ってフン、と笑った。「パイロットじゃった過去も感じんくらいごつい手じゃ …… 農家っつうのはセシルが言っておったよりもよっぽど難儀な仕事のようじゃのう」
「ドク、しゃべっちゃだめだ。とりあえずここを離れてみんなが立てこもってる所まで行こう。痛む場所があるなら言ってくれ、何か必要な物は? 」
「そう言うのを『釈迦に説法』というんじゃ、自分の体の事くらい自分が一番解かっとるわい。 ―― というても爆発で吹き飛ばされてここにはなーんも残っとらん、そうじゃの …… とりあえず」心配するコウをよそにモラレスは隣の部屋の反対側の壁にひっくりかえった小さな戸棚を指差した。「あそこのなかに小さな赤いアンプルが入っている、一本だけでも持ってきてくれると助かる。それとグレゴリー」
 上目づかいにニヤリと笑った彼を見たグレゴリーが分かってるとばかりにうなずいた。「あそこから、アレを持ってきてくれ。ここで捨ててしまうのは惜しい代物シロモンじゃからな」

「おお、こりゃ楽でええわい」グレゴリーに背負われたモラレスが彼の頭越しに楽しそうな声を上げた。「こんな事ならチェスのたんびにおねだりするべきじゃったかのう? 」
「勘弁してくださいよ、それじゃあ俺は毎日ドクの自家用車になっちまう。それにまだ戦闘中なんだから声はもうちょっと押さえて」苦笑いしながらグレゴリーがたしなめるとモラレスは返す刀を構えて振り下ろす。「なーに言っとる、こんな時じゃから気勢を上げにゃあいかんじゃろう。それにこんな騒ぎ、チェンバロや星一号に比べりゃあ蚊トンボの鳴き声じゃ ―― おっと、そこを右じゃ」
 モラレスの指示通りに先頭をいくコウが一階の廊下の角を曲がると頑丈な鉄の扉と端末があった。「医療関係者専用の秘密の扉じゃ、ここから地下通路を通じて基地の中のどこにでもすぐ出れるようになっておる。 ―― ニナさん、儂の頸にぶら下ってるマスターコードを取ってくれ」
 後ろに続いていたニナがグレゴリーの隣に立つと頭を下げたモラレスの頸からそれを抜き取る。フラッシュメモリーに似た形状のそれがこの基地の全ての暗証を解除するマスターコードであり、ウェブナーの持っていたそれがコウのモタードと共に吹き飛んだ以上ここにあるのが最後の一つだ。「それを差し込めばすべての扉がまるでド田舎の家の勝手口みたいに開けごまじゃ ―― 」
 ニナが端末に走ってそれを差し込んだ瞬間に外れるロック、一度も開いた事のないきしむ扉をコウが開くと地下に通じる階段があった。「ここを閉じてしまえばそうそう奴らも追ってはこれンじゃろう。入ってしまえば中は迷路じゃ、知ってるモンにしかどこに出られるかは見当もつかん ―― とりあえず伍長はハンガー、儂らは食堂というところか。途中までは一緒じゃな」

 トンネルの電源はまだ生きていた。建物一個分のまっすぐな通路をゆっくりと歩く ―― 怪我人を揺らさないように ―― グレゴリーの背中からモラレスの声がした。「して伍長。お前さんハンガーへ行ってこれからどうするつもりじゃ? 」
「とりあえずは足がなくなったんで代わりを探します。バイクがあれば一番いいのですが、なければトラックでも電源車でも ―― とにかくここからニナを連れて基地の外へ」
「もしそれがなかったら? 」畳みかけるモラレスの問いにコウは声を詰まらせたまま何も答えない。「 …… 答えないのが答えじゃのう。 ―― じゃがモビルスーツは全部出払っててハンガーには多分一機もない、それにあった所でそれに乗ってどうするつもりじゃ? 指一本動かす事もできんお前さんが」
「ドク、俺は ―― 」
「死ぬぞ? 」間髪をいれずにモラレスの口から放たれた言葉は諫めるなどという物ではない、ただの脅しだ。しかしそれが真実である事を知るニナだけはモラレスの背後で視線を落とした。「儂が言わんでもお前さんはその事をとうに自覚しておるはず、それでも ―― いや聞き方を変えよう。 …… なぜ今になってそんな事をする? 」
「守りたいんだっ」
 問い詰められる圧力に耐えきれなくなったコウが振りかえりざまに小さく叫ぶ。「今まで俺はなにも ―― 誰も守れなかった、助けられなかった。いや違う、助けようとしなかったんだ。仲間だけじゃない、ケリィさんやルセットさん ―― もしかしたらもっと大勢の ―― 自分に何かを期待してた人たちを裏切リ続けてきた。あの戦いで自分の中に生まれた何かに脅えてそれを知られるのが怖くて、ニナやモウラやキースを騙してでも自分は昔と変わりないんだって思わせたかった。だけどできなかった、俺はまたできない自分に言い訳をしてあの日みんなを裏切ったんだ」
 声を荒げて吐き出すコウを見つめる六つの瞳がそれぞれの思いで優しく揺らめいた。彼の抱え込んだ業が人並み以上に大きく、酷いものだという事にグレゴリーは気づいていた。恐らく戦争という名の殺し合いに参加した全ての兵士や人々が抱える矛盾は彼よりも小さいが同じものだと思う、しかし大方の人が代わりに手にする幸せでうまく忘れ去ることができる物を彼はただ矛盾は矛盾のままとして自分の心に抱え込んでいた。
「でもそれじゃだめなんだっ! たとえ自分がこの先どうなったとしても大事な物は手放しちゃいけない、それを守るためならどんなことでもする。そのためにもう一度モビルスーツに乗らなきゃいけないというのなら必ず乗ってニナを ―― 護って見せる。 …… 俺は自分の家族エボニーにそう誓ったんだ」
「家族、とな? 」コウの言葉を聞いたニナが口を開こうとするのをモラレスの声が止めた。見上げるとグレゴリーの背中で彼はニナの方を振り返ってにっこりと笑っていた。「結婚しとったのなら早よ言わんか、それはそれでめでたい事じゃ」
「いえ、あのそれが …… 家族といっても家で飼ってる猫なんですが」大言壮語を吐くにはあまりに脆弱な理由づけに我に返ったコウが思わず視線をモラレスから外す。しかしモラレスはそんなコウに優しく声をかけながらじっとニナの目を見つめている。
「猫、ねえ。それでも家族には変わりゃあせん、お前さんはその猫に感謝せにゃならんの ―― どうやら覚悟はできとるというわけか。ならばもう儂が止めても聞きゃあせんじゃろう、好きにすればええ。…… じゃがのう、儂は今の伍長の話を聞いてちょっと安心した」

 コウの体で起こっている変調と原因は想像とはいえある程度の分析ができて、そしてその秘密を共有するモラレスとニナは彼の行きつく先にある結末をあの夜に予想した。絵空事といえども連邦の医療関係者の間で必ず名前の挙がる実力者の見立てが全然的外れだという事はあり得ない。
 だがその予測を立てたモラレスの眼はニナに何かを伝えようとしている、破滅へと向かう彼の決断を真っ向から否定したあの夜のドクとは ―― 違う。
 彼は私に何か別の事を伝えようとしている。 

「守る為に戦うというのなら簡単には死ねんという事じゃ、お前さんが運命に抗おうというのならそれはお前さん自身が生きる目的を見つけたという事  …… 体つきだけじゃなく、心根もあの頃とは変わったのう。じゃがこれだけは言うておく、心して聞け」
 グレゴリーの背中から聞こえる強い口調にコウは顔を上げてモラレスを見た。「たとえいかなる事情があろうともお前さんは気軽にモビルスーツに乗ってはいかん、もし乗るのだとしたらそれは最後の手段じゃ。万が一乗ったとして何の不具合が自覚できなかったとしても『今の』伍長がモビルスーツに乗る事を儂は絶対に認めんからな。遺言がわりにしっかりと心にとめておけ ―― さて、と」
 力強くうなずいたコウを見届けてから大きなため息が一つ。「 …… もうこのへんで、ええじゃろう。そろそろ下におろしてくれんかの? 」
「ドク? 」振り返ったグレゴリーにとって小柄な老人の体など羽が生えたくらいにしか感じない、しかし口元からつつ、と流れおちる一筋の血を見た瞬間にその重みは鉄の鎧をまとったように増した。「ドクっ! どうした、しっかりしろっ! 」
 驚いてしゃがんだグレゴリーの背中から駆け寄ったコウがモラレスの体を抱きとめてそっと壁際へと運ぶ、誰もそんな事に気づかなかったが彼の息はとても弱く、小さな物へと変わっていた。「おい、冗談だろっ! 今まで俺の耳元でぎゃあぎゃあ騒いでたんだろがっ! 」
「 …… 最期までつき合わせてすまんかったの、チーフ。じゃがどうやら儂もここまでのようじゃ。言うたじゃろう、自分の体の事は自分が一番よく知っとると …… 見た目は火傷だけじゃが内臓をひどくやられてのう ―― 残念ながら出血が止まらん、止める手立ても、ないわ」
「いやっ! そんなドクらしくもない事言わないでっ! せっかくコウとあたしが二人揃ってドクに会えたっていうのにっ! 」悲鳴を上げたニナが泣きそうな顔でモラレスの体にしがみつく。「なんか手はないのかドクっ! あんた連邦で指折りの救急救命医なんだろうっ!? なにがいるんだ、必要なモンは今すぐ俺がここに持ってきてやる、だからこんな所で死ぬんじゃないっ! 」
 狼狽するグレゴリーの傍から体を差し込んだコウが二人の叫びを背中で受け止めながらベストのポケットからインジェクターを抜き出すとモラレスの左腕へと突き刺した。親指の力と共に流れ込んでいく強心剤が今にも止まりそうだった彼の心臓を再び息をするに足る最小限の位置にまで押し上げる。
「 …… 何とも便利な物をもっとるのう、伍長。これで儂もアンプルを使わんで済んだ。気休めにしかならんが、それでも ―― 」いつもは生気に満ち溢れるその表情には力がない、しかしかろうじて微笑んだモラレスはグレゴリーに言った。
「奴らに別れの挨拶くらいはできそうじゃ …… ここに呼んでくれ。どうせ近くにいるんじゃろう? 」

 胸元を真っ赤に染めたヘンケンを見上げたモラレスが呟いた。「 …… それはウェブナーのか? 」瞬きもせずにしっかりとモラレスを見下ろしたヘンケンが無言でうなずく。「そうか …… 先を越されたのう。せめてお前だけは順番は守れとあれほど口を酸っぱくして言うておったに」
「ドクっ! 」コウは叫ぶと手の中にある赤いアンプルの先をへし折ろうとする、しかしモラレスは視線一つでコウの試みを挫いて見せた。「やめとけ伍長、それは明日を見れそうな者にしか使ってはならんモンじゃ。 …… たぶん、ウェブナーもそうしたじゃろう? 」口の中にたまった血を吐き出してせき込むモラレスの前にヘンケンが近付いて膝をついた。
「 …… ドク、今まで。 ―― 世話になった」
「ほっ、この期に及んでお前らしくもない。殊勝な物言いをしても儂は絶対に騙されんぞ? そうやってお前は ―― 」
「やめてくれっ、ドクっ …… せめて。せめて最期くらいはっ」
 冷たくなったモラレスの手を取ってヘンケンは顔を伏せた。ぽろぽろと滴り落ちる大粒の涙が彼の足元を濡らす。ふふっ、と吐息まじりに笑いながら頭を垂れたままのヘンケンを見つめた彼は思い出を探すように赤い天井へと目を向けた。
「 …… そうじゃのう、お前とセシルには何かと」言葉に上がったセシルが思わず両手で顔を押さえて小さく震えた。指の隙間から涙がこぼれる。「 ―― 泣かされたが …… じゃが、楽しかったぞ? お前達のおかげで儂は最後の最後まで一介の医者でいられた、ありがとう。礼を言う」
「 …… ドク」泣きながら近付いてきたセシルの翠色の髪をなでながら優しく笑う。「あんまり無理をしすぎんようにな。たまにはこの唐変木にも働かせろ、そうでもせんとお前のありがたみがちっともわかりゃあせんからの ―― チェン」
 呼ばれたチェンが眼鏡を外したままモラレスの前に跪いた。「親父さんによろしく伝えてくれ。それと儂の代りにヘンケンの事を頼むと。 …… そう言えばあいつは分かるじゃろう。約束を違えんのが華僑の誇りじゃ」
 冷静を絵に描いたようなあの若い東洋人が目を真っ赤にして泣きじゃくりながら何度も頭を振った。
「グレゴリー …… もうチェスで勝ってお前のおごりを楽しめんのが心残りじゃ。あのセットはお前にやる、それでたまには儂の事を思い出してくれ」
「やめてくれドクっ! あれはあなたに勝って俺の物にするんだ、だから死なないでくれっ! 」
「大の男が …… ピーピー泣くな、見送るのはこれが初めてじゃなかろうに。あんまり下のモンに厳しく当たるな? それじゃなくてもお前は見てくれが怖いンじゃから」

 死の痙攣が少しづつモラレスの体に押し寄せて泣きながら彼を取り囲む全員にその時が間近に迫っている事を教える、誰もがその瞬間を恐れながら、しかしそれでも彼の姿をこの目に焼き付けようと瞬きすら忘れて見つめる中、モラレスはニナに視線を送った。慌てて近寄る彼女に向かって小さく唇だけを動かすモラレス、ニナはそっとその口元へと耳を近づける。
「 …… エルンスト …… ハイデリッヒ」
 それはまるでラビアンローズの時の焼き直しだ。あの時はルセットの言葉を最後まで聞くことはできなかった、でも今度だけは、絶対にっ!
 全ての神経を聴覚に向けるニナの耳朶に忍び込むモラレスの最期の伝言。「その男を …… さがせ。たぶん …… そいつが伍長の ―― アレの。何かの手がかりを …… もってる」

 コウの結末を予言した彼がその持論を翻した理由。耳にしたニナが驚いて顔を上げると瞳孔の開きかけたその老人は笑いながら一つうなずくと今度はコウの方へと顔を向けた。「伍長、いや …… もっと二人の顔をよく見せてくれんかの? 儂が二人に送る、ささやかなお祝いじゃ。うけとって、くれ」
 ニナの隣に慌てて肩を並べるコウの目の前に差し出された震える掌がゆっくりと開かれる。その上に乗せられた二個の飴玉、包んだセロハンがかすかに光を放つ。
「ええか。同じ時、に …… 同じものを見て。同じ、ものをたべる。それ、が夫婦円満の ―― コツじゃ。お互いに、しんじろ、 …… きっと、でき ―― 」

 支えを失くした右手ががくりと落ちて床を叩いた。跳ね上がった飴玉がまるで彼の遺志を示すかのようにコロコロとコウとニナの膝下へと転がる。ヒッと喉を鳴らしたグレゴリーがモラレスの亡骸を壁から引きはがすと床に横たえて馬乗りになった。必死の形相で両手を組み、みぞおちへと押しあてた掌で何度も何度も彼の心臓をノックする、しかしその度に口から零れだす血が召された彼の背中へと流れ落ちていく。
「だめだ、だめだドクっ、まだ逝くなっ! まだなんにもちゃんとあんたに言えてないっ! 返せてないっ! だから待ってくれ、お願いだっ!! 」
「やめろ砲雷長っ!! 」
 ヘンケンの恫喝が大男の狼藉を止める。一晩で二人の戦友を失ったかつての指揮官はその立場にあるにもかかわらず、人目をはばかることなく泣いていた。
「もういい、もう彼を …… ドクを、楽にしてやってくれ。今の俺達にできる、それが …… 最期の手向けだと思う」
 嗚咽が鳴りやまない中、ヘンケンはモラレスの最期に立ち会った全員に視線を送って見送りの儀式を始めると促した。力を失くした両膝を両手で支えながら立ち上がった彼らは頼りない足取りで、それでもモラレスの前に一直線に並ぶとそれぞれの胸に去来する悔しさを胸に、穏やかに横たわったままのモラレスへと視線を落とした。
「すまん、ドク。作戦中だからあんたを連れてはいけない …… 慣れ親しんだオークリーがあんたの墓標だ、ここから俺達をいつまでも見守っていてくれ」
 そう告げるとヘンケンは直立不動の姿勢で右手を掲げた。「敬愛する我がスルガ付き軍医、スエルテ・モラレス少佐に ―― 」その声で全員が右手を掲げてヘンケンに続く、声を詰まらせそうになっても全てを振り払おうとする彼の声は地下通路の隅々まで響き渡った。
「 ―― 敬礼っ!! 」



[32711] Lynx
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/05/04 20:07
 コウとニナの後ろ姿を見送るヘンケンの眼にもう涙はなかった。

「ウラキ君、ニナさん。一緒にドクを見送ってくれてありがとう …… これから君はどうする ―― 」
「艦長、彼はハンガーを目指します」失った悲しみからまだ立ち直れないグレゴリーが呟くようにその事を告げると、ヘンケンとセシルはぎょっとしてコウへと目を向けた。敵の侵攻の最終目標、いわばオークリー失陥の象徴とも言うべきその場所は鉄火場寸前の状況下にある。武器も持たない二人がそんな所に飛び込んで行ってどうするつもりなのか?
 確かにここから逃げ出すのには早い足が必要だ、しかし彼女を助けるためにそれを使い切ってしまった彼が考える事。「ウラキさん、あなたまさか ―― 」「ウラキ君」
 目的の場所で選ぶ事の出来る選択肢は乏しく、その中には当然モビルスーツも含まれている。しかしコウが考えている事はサリナスでその症状を直に見たセシルにとって自殺行為としか思えない。止めなければと口を開いた彼女の声にすかさずヘンケンが割り込んだ。
「今のうちならハンガーはまだ敵の砲火に持ちこたえられる、だから急いで向かってくれ …… 一刻も早くオークリーから彼女を連れだすんだ」
 口調と声音に含んだ力が耳にしたセシルを驚かせる、それは彼が戦場へと赴くときにだけ見せる硬い物だ。「基地から遠ざかったなら必ず連絡をくれ、そこから俺達が一気に戦局を動かす」

「行ったな」ぽつりとつぶやいたヘンケンが胸ポケットから煙草を取り出すとセシルの眼も気にせずに火をつけて深々と吸い込んだ。吐き戻された煙は空気の流れが弱い赤い通路の空間でゆっくりと天井へと向かっていく。「彼の前ではまだいい兄貴分でいたいからな」
 そう言うとヘンケンは火のついたままの煙草をぐしゃりと握りつぶした。わなわなと震える拳の間から紫煙がにじみ出る。「方針を変えるぞセシル」
 唸るように告げるヘンケンの声を三人は久々に聞いて身震いする、一撃必殺の爪と牙をひた隠しにしてきた獅子は自分に降りかかった火の粉を振り払うためにその真の姿をついに現した。
「ウラキ君からの連絡が入り次第モビルスーツ隊は全機撤退。残存戦力はハンガーを放棄して食堂へと集合の後に通用門で敷地外に脱出 …… 対象がいなくなれば敵もこの場所に固執はできまい、夜明けまでには撤収せざるを得なくなる」
「分かりました、ですが敷地外へ出る際に地上部隊の攻撃を受ける事は必至です」
「奴らは生かして帰さん、誰一人として」
 モラレスの亡骸をものすごい形相で見つめるヘンケンの口からほとばしるどす黒い感情。「彼が逃げおおせるまでの間に必ず一人残らずぶち殺す …… 殲滅だ、いいなセシル。グレゴリー」
 粗野な表現しかできなくなったヘンケンの怒りは凄まじい。烈火のように燃え上がる恨みの炎を間近に見た三人は目を細めてうなずいた。

                    *                    *                    *

 ほんの一瞬の静寂が漂うその雰囲気にマルコは師であるモラレスの言葉を思い出した。寝る暇も惜しんでありとあらゆるシミュレーションを頭の中で繰り返して、これ以上ない戦略と戦術を駆使して初の一勝をもぎ取ろうとしたその刹那。
「ほほう、なかなかこれはよく研究してきたのう。スラブ・ディフェンスからメランヴァリエーションとは昔の記譜をよく勉強してきたもんじゃ、黒殺しにこれ以上ない戦術 ―― じゃが」
 モラレスの手が静かにクイーンの頭を摘むとそのまま一気に四段目にまで押し上がった。本来であればそのマスは白のビショップが睨みを利かせていたはずだったが流れをいち早く看破したモラレスが針路上にポーンを招き入れてマルコの手を一手遅らせる、それで十分だった。
 全方位へと睨みを利かせる黒のクイーンを止める手段はない、あっという間に前線が崩壊していく様を頭の中で想像しながら手にできなかった勝利をため息で見送るマルコにモラレスが忠告した。
「優位な時ほど見落としや隙が生まれる、必ず全てのコマから目を外すな。戦況が変わる何十手か前にはその前兆が現れておる、それを見逃さずに常に先手を打っておく事が戦いに勝つ為の秘訣じゃ。よーく覚えておけ」

 間違いない、これは変化の前兆 ―― 空気が変わった。今まで盤面を動かしてきたプレイヤーが変わる。
「アンドレア、残弾は? 」
「 ” バズは残りあと二本。90ミリはまだいっぱいあるけど ――  ” 」
 絶えず続いていた敵との銃撃戦でかすり傷一つ負ってないという事は戦闘が初めてのアンドレアにも余裕を生んでいる、自分の状況を冷静に判断できるようになったのはいい傾向だが「今まで通りにやっていれば間違いない」という思い込みが怖い。状況の変化が起こった時に絶対に対応できずにパニックを起こす。もしかしたら、敵の狙いもそれか?
 敵の立場であらゆる戦術を模索するマルコの頭痛が収まらない、起こりうる可能性に対する対抗策を全部弾き出しながら考える事だけはやめられない。それが途切れるときこそオークリーに死が訪れる。「バズの弾はいざという時まで温存しときたい。アンドレア、武器をマシンガンに切り替えてくれ」
 とりあえずいざという時のために最大火力の温存は必須、敵はこれ以上の損害を望まないはずだ。もし万が一敵が後一機失ってしまったとしたらこちらの欺瞞がばれない限り戦況を膠着せざるを得なくなる、そう考えるとあの一機をバズの一撃で墜とした事は大いに効果があった。
「 “ えー? やだよ俺、バズだから敵が近寄ってこないかもしれないのにいきなり撃ってもないマシンガンに切り替えるなんて ” 」
「バズは敵を確実に殺れるって時に使いたいんだ、だからそれまで辛抱な。それにマシンガンだって使い方によっちゃあバズと同じくらい敵の足を止められる、こちらには敵よりも弾がいっぱいあるんだ ―― モウラ班長」
 ちぇっと呟きながら足元に散らばったバズーカの空砲身をバリケードの隙間へと押し込むアンドレアをモニターで確認しながらマルコはモウラを呼びだした。「聞いての通りです、90ミリの補充を。アンドレアはいっぱい持ってるけどこっちはあと3マグしか残ってない」
「 “ その事なんだけど悪い知らせだ ” 」喜怒哀楽の荒波をやっと乗り越えて元の服をきっちりと着こんだモウラにさっきまでの動揺は見られない。「 “ 流れ弾でセンターホイストがやられたみたいなんだ、予備の弾倉を釣り上げてあんたの近くにまで持ってけない ” 」
「どこにあります? 」
「 “ あんたの真後ろ、通路のどん詰まりの壁際 ” 」
 間が悪い時には間が悪い事が重なるものだ、様子を窺っている敵の目前でどちらかが後ろへ下がる事は敵に付け入るすきを与える事になる。それに自分はモビルスーツの素人、弾の詰まった何トンもあるコンテナを持って帰ってくるまでに何秒かかるだろう? その時間があれば敵が一気にハンガーまでの間合いを詰める事ができる。
 切迫した問題 ―― 今の状況をできるだけ変えずにどうやって予備の弾薬を取りにいくかという難題。演習用モニターをスクロールしながら周辺の地形図を見つめていたマルコの眼が南の山山頂付近にある青い光点の上で止まった。
「 ―― 隊長、聞こえますか? 」

「話は聞いていた、何か考えが? 」
 狙撃ポイントについたキースは何度かバンパイアを使ってガンタンクの居場所を探っていたが、距離が遠すぎる上に夜間迷彩ではさすがに姿を捉えられない。しかも下手に長く顔を出して敵にこちらの居場所を知られては長射程を誇るあの120ミリで狙い撃ちにされる。何か敵の居場所を掴むためのいい方法はないかと考えていた矢先に届いたマルコからの通信だった。
「 “ ルーファスを一発だけ使って敵の前線の前に撃ち込んでください、怯んだ隙に僕が弾を取りに行きます ” 」
「 “ マルコっ! あんたそんなことしたらキースの居場所がばれて狙い撃ちにされちゃうじゃないの! そんなことしなくても整備班全員でなんとかあんたン所までパレットを押し出すから ―― ” 」
「モウラ、いいから。それはマルコも分かっている …… 狙いは? そこまで派手にやるんだ、時間稼ぎだけじゃないんだろう? 」
 この作戦の大前提を自ら覆す発言でキースは内心ドキドキだったが、それでもバスケスに「用兵の天才」と謳われた男の事だ、きっと何か突破口があるに違いないとキースはモウラの抗弁を退けた。ふう、とイヤホンの向こうでマルコのため息が聞こえる。
「 “ 自分達も待ったなしですが敵も後がない、後一機でも稼働不能機が発生すれば作戦の達成はかなり難しくなります。だからそんな威力のある弾丸で背後を押さえられているという事実を無視は出来ないでしょう ” 」
「そうなるとハンガー攻略どころじゃなくなってまずこっちの脅威を沈黙させる事を優先させる ―― 手っ取り早いのはタンクの火力をこちらに集中させる事か」
「 “ はい ” 」ほんの一瞬の間がある、キースはそれがどういう意味なのかに気づいていた。「 “ 班長の言った通り隊長はそれでタンクの標的になります、ただ直接照準ができない以上120ミリを使う事はないと思います。曲射するには距離が近すぎるしすでにかなりの弾数を使っています、こちらのバズと同じでいざという時のために極力セーブしたいでしょう ” 」
「 …… まだ使ってない40ミリミサイルの飽和攻撃、か」

 マニピュレーターを装備しないガンタンクにとっての唯一の近接戦闘武装が両腕に取り付けられた40ミリ4連装ポップミサイルだ、一斉射で約八発、目標付近で散開して敵にダメージを与える。120連射が可能なそれが全部自分の下へと殺到するのかと思うとぞっとしない。
「 “ ここからは僕からの提案になります …… 隊長、もし。できる事なら敵のその攻撃範囲内にとどまって狙撃ポジションを確保してもらえないでしょうか? ” 」
 さすがのキースもこのマルコの言葉には思わずえっ、と耳を疑った。多分雨あられと降り注ぐ敵のミサイルの散布界のど真ん中で果たして無事に生きていられるものだろうか?
「 “ 敵はバスケスの機体の変化をかぎ取って攻撃を加えました。という事は赤外線照準を使っているはず ―― 今の状態でそのライフルを撃てば ” 」
「照準調整を済ませてないこいつでもし外せば銃口に残った熱でこちらの正確な位置を知られてしまう …… だがもし敵のミサイルがばらまかれた中で無事でいられたのならこちらの位置を敵が知ることはできなくなる。なるほど、一切合財込みでの敵へのけん制ファーストアタックという事か」
「 “ あの重砲をできるだけ早く排除するためには賭けに出るしかありません、ぐずぐずしてると状況はもっと悪くなる …… どうですか? ” 」
 むう、とモニターを見つめながら考え込むキースだが確かに敵の位置が目視できない以上それ以上の案はないようにも思える。それになにもバカ正直に敵のミサイルの到達をじっと待ってる必要はない、一旦散布界の外ギリギリまで回避してもう一度ここの位置にまで戻ってくれば済む話だ。ただその境界線が自分の勘と神頼みというだけで。
「 ―― 一度敵の攻撃範囲の外に出てから戻るのもアリだよな? 」
「 “ 大丈夫だと思います。ただしルーファスの予備を取り付けてある盾には気をつけてください、熱や衝撃で爆発したら隊長のジムは木っ端みじんです ” 」

                    *                    *                    *

 地上部隊が対象の確保に失敗したという報はほんの一瞬のタイムラグを置いてダンプティ達にももたらされた。その事実をひた隠しにするという選択肢もあったのだが、作戦によって被った被害とこれからの作戦方針を伝えない事には同士撃ちになる可能性もある。ブージャム達が自分達とは別に受け取っていた「対象の殺害」という極秘命令をあからさまにした事で時計の針を無理やり進められたケルヒャーは自然と行動の前倒しを余儀なくされた。
「ハンプティ、『Volga』はどうだ? 」
「 “ 上空到着まであと五分。もうちょっとで全部準備が整うってのに待ってられないのかよ、あのバカども ―― 失敬 ” 」
「今日は敵も味方もこちらの思惑通りには動いてはくれんようだ、まあそんな日もある …… ダンプティ、『スレッジ・ハンマー』を開始します。作戦許可を」

 タンクの後方の弾薬扉が開いてユニックが二発の砲弾を釣り上げる、砲身に挿入されたそれは建物に隠れたバスケスを追いだすために使われたHESHだ。堅牢に作られた敵本拠地への砲撃と内部破壊を目的としたそれはこの作戦の開幕を飾るにふさわしい弾。
「スレッジ・ハンマー」とは文字通り鉄製の大槌の事、力づくでぶっ叩いて何もかも粉々に破壊するための象徴として古来より使われている。そしてその名を冠する作戦も同じ意味が込められている、MIP研究所と同じシチュエーション ―― 立てこもる敵高脅威目標を本拠地から一気にあぶり出すというのならこれより適した作戦はあるまい。
「装填終了、弾種粘着榴弾。左右同時射撃、目標敵ハンガー ―― 撃っ」

 明らかに弾速の遅い砲弾がこちらに迫ってくるのをマルコの耳は拾った。徹甲弾は音速を超えるため着弾の後に発射音が聞こえるかほぼ同時、しかしこれは ―― 。
「ハンガーっ! すぐに一番奥の退避壕に逃げろ、榴弾が来るっ! 」マルコが叫ぶと同時に前面に置かれたバリケードがとてつもない打撃音で震えた。突然始まる敵の全力射撃、どこにこんな弾数があったのかと自分の判断を疑ってしまうほど激しい攻撃にさらされた二人は思わずバリケードの影に頭を引っ込めるしか手がない。奇しくもハンガーの入口へと目を向けたマルコのモニターに映る閃光は一瞬彼の視界を白く染め上げた。
 着弾した榴弾が起こす二次爆発の衝撃でハンガーの耐爆コンクリートの内壁がはじけ飛ぶ。そしてその威力は壊れて動かなかったホイストクレーンのレールをいともたやすく天井から引きはがしてそのまま床へと叩き落とした。歪んだ鉄の塊が轟音を上げてマルコの行く手を遮る。「隊長、今ですっ! 」
 声をかけるなりマルコはコンクリートの降り注ぐハンガーの奥へと一目散に駆け出した。

 キースの夜間照準器バンパイアは確かにタンクの発射炎を捕捉した。得意げに放つその一斉射が実は奴の命取りになるであろうその機会をものにすることができない事が悔やまれる、もしこの対物ライフルが届いたその時にせめて試射だけでもしておけば。
 できなかった事を後悔しても仕方がないとそれ以上の韜晦を打ち切ったキースは照準を滑走路へと向けた。滑走路を挟んだハンガーの対岸で動き出す黒い影、障害物があるにもかかわらず包囲円から斜線陣への移行は見事な物だ。その動きを上から見ただけで彼らがただ者じゃない事がよくわかる、統率のとれかたが今まで見たどの部隊よりも ―― 元不死身の第四は除いて ―― 洗練されている。
 接続されたモニターに浮かびあがる赤い十字の下の端に一番左端に位置するクゥエルを置いてキースは引き金に手をかける、当たれば儲けもので外してもそう離れた場所に着弾する事はあるまい。バンパイアの先端から放たれた距離測定用レーザーが射程範囲外であることを示す赤い数字をモニターの隅に踊らせる、しかしキースは構わずにグリップを握りしめた。
 夜闇を引き裂く轟音。先端に設置されたマズルブレーキから吹き出す燃焼ガスの噴煙がモニターを陽炎のように揺らめかせる、クルップ社製102ミリ腔旋ライフリング砲身から吐き出された特殊弾頭の反動はキースの体をいともたやすくシートから持ち上げた。
 
 ハンプティの声を聞いた最前線がケルヒャーの指示で時間差で動き出す、まるでどちらかが後ろに下がる事を予期していたかのようなそのタイミングは恐らくマルコの予測を一瞬上回っていた。しかし最も山側に位置していたタリホー1は音響センサーが捉えたわずかな違和感に気がついて、援護射撃をしながらその足を止めた。「何か来る、早 ―― 」
 言い終わらないうちに超高速の光の矢が彼のクゥエルを掠めて滑走路へと ―― その角度で撃ち込まれたのなら確実に跳弾で空へと向かうはずのその弾は彼らが見た事もない現象を引き起こした。コンクリートを大きく抉った弾頭がその場で大きな火柱を上げて爆発する、機体に加わった衝撃と熱はハイパーバズーカの弾頭から発せられるものと何ら変わりがない。「な、なんだ一体っ!? 」

 その爆発過程は反対側に位置するケルヒャーからもよく見えた。弾速は超高速で破壊力は炸裂弾、しかも弾が接地した瞬間に爆発したという事は信管の感度が敏感であるという事。モビルスーツが携行できる小型弾頭の中でその性質を有する物は火器に精通するケルヒャーにとっても思い当たるものがただ一つしかない。
「バカな、Raufoss Mk 411が何でこんな所に置いてある? 」
 旧東ヨーロッパの小さな兵器メーカーが対物ライフルに最大の破壊力を持たせようと開発したHEIAP(High Explosive Incendiary/Armor Piercing Ammunition;焼夷徹甲炸裂弾)、ありとあらゆる破壊要素をその一発に詰め込んだ凶悪極まりないその弾頭はしかし、1868に締結されたピーターバーグ条約で使用と開発が禁止されていたはずだ。噂ではIフィールド対策のために密かに開発されているかもしれないと聞いてはいたが ―― 。
 ――  まさか実戦配備とはっ! こいつらどれだけ有事に対して周到に準備していたというんだ!?
「全機止まれっ! 散開して南の山頂から見えない遮蔽物を探して退避しろっ! ハンプティ、敵の狙いは貴様だ。頼めるなっ!? 」

 復唱もないままガンタンクの上半身が旋回して両手が空へと突きだされた。音響測定、赤外線探知、そのどちらとも同じ場所を示している。敵のポジションはズバリ向かい側の山の山頂 ―― 。
「AI、自動防御システム作動っ、目標右山頂付近、40ミリ三斉射っ! 」
 ハンプティの命令と共に両手のランチャーから撃ちだされる八発のミサイルが炎を上げて夜空に舞いあがる、立て続けに上がる24発の散弾ミサイルは大きな放物線を描いた後にキースが陣取る南の山の上で分裂してその散布界を大きく広げた。
 損害を確認するまでもなくハンプティは固定用のアンカーを外し、駆動転輪を接地させるや否や一気に丘を下って次の段差へとタンクの巨体を滑り込ませた。ブレーキ代わりのアンカーが再び地面へと撃ちこまれて重い車体はあっという間に狭い踊り場に固定される。「弾着っ! 」
 ハンプティの掛け声とともにミサイルの着弾した山の山頂が一気に燃え上がる、それはオークリーのどこからでも見てとれるほどはっきりと、そして破滅的に鮮やかな光景だった。

 舞い上がったミサイルの光跡をしり目に必死で山の斜面を駆け降りるキース。マルコの忠告が正しければ回避に盾を使えない、となると自分の機動力頼みとなる。しかし自分の背丈ほどもある対物ライフルを抱えて林の中を駆け抜けるのは想像以上に困難だった。狭い木々の間を縫ってのスラロームで移動速度は極端に下がり、焦る気持ちにはお構いなしに彼の背後で第一波が弾着する。
「くっ! 早いっ! 」吐き捨てた声をかき消すように叫び始めた接近警報は頭上に迫った第二波によるものだ。直撃だけは避けてくれと祈るキースの周辺に舞い散るミサイルが周辺の木々をなぎ倒しながら大きな火柱を上げて行く手を遮ろうとする。経験とスキルの全てを使ってジムの駆動系をコントロールしてなんとか第二波の攻撃を躱しきったと一息つく暇もなく、今度は前方に光の雨が降り注いだ。ここまで逃走経路を先読みされるとはキース自身も思っていなかった、多分敵の持つすべての能力が自分を、超えている。
「くそおぉっッッ! 」叫びながら立ちはだかる炎の壁へと機体を滑り込ませるキース、立ち止まったら敵の思うつぼだ。ならばほんの少しでも生き残る可能性がある前へっ!

「隊長、隊長っ!? ―― アンドレア、状況はっ!? 」
 床の転がっているホイストクレーンの残骸を蹴り飛ばしながら大きな木箱を引きずって来たマルコがバリケードの影へと滑りこむ、アンドレアのゲルググは攻撃の収まった滑走路へと90ミリの銃口を向けながらモノアイだけを右の山へと向けている。「 “ わっかんねえ、わっかんねえけど …… 山が燃えちまってる ” 」「くそっ! 」
 演習用モニターでキースのジムの位置を確認するマルコ。光点は山の斜面に残ってはいるが果たしてどれくらいの損害があるのだろう、もし戦闘不能という事にでもなればそれだけでゲームオーバーだ。「隊長っ! マルコです、たった今弾薬の補充に成功、元の配置に戻りましたっ! 無事ですか、無事なら応答をっ! 」
 彼の声に耳を澄ませているのはマルコだけではない、そこに繋がっているオークリーの生き残り全員が彼の無事を願っている。ウェブナーを失った今となっては先任士官である彼だけがこの基地の精神的支柱なのだ。
「 “ ―― 02からマルコ、なんとか敵の砲撃は躱しきった …… いやあ、今のはヤバかった ” 」

 メインカメラから見上げる山肌はいまだに赤々と燃え盛っている、よくもまあこの弾幕の中をさしたる被害もなく潜り抜けられたもんだとキースは安堵のため息を漏らした。自分が隠れていた山頂からここまでまるでスキー場のゲレンデのように一つ残らず障害物が取り除かれている。どうやらツキはこちらにあるようだ。
「02はこれより予定通りに元の位置に戻って敵重砲の排除にかかる。マルコ、アンドレア。もう少しの間持ちこたえててくれ」

「敵の狙撃手をポイントから排除する事に成功、ただし撃破したかどうかは不明」赤く染まる山の稜線を見つめながら淡々と告げるハンプティの耳元で何かを知らせるピッピッという音が飛び込む、モニターの隅に浮かびあがる『Volga』の赤い文字を見つめた彼は小さく笑ってケルヒャーへの報告につけ足した。「お待たせしました、たった今『Volga』が上空に到着。損害評価及び敵高脅威目標の分析を開始します」

                    *                    *                    *

「キースがまだ頑張ってくれてる、今のうちだ」コウはそう言うとハンガーへと続く通路の途中にある地下通路からの出口を開いた。入り込んでくる外気に混じった火薬の匂いと熱が戦場の真っただ中に出た事を二人に教え、それが今までモラレスとの思い出に後ろ髪を引かれ続けていた表情を引きしめる。
 不思議な事にあれだけ激しかった銃撃音は収まっている、先頭に立ったコウはニナの手を引いて忍び足で半開きになったハンガーの扉へと近付いた。モウラがニナを助けに行こうと力づくで開けたそれは閉じられることなくそのままになっている、だが事情を知らない二人はもうそこまで敵の手が及んでいるのかと思わず壁に背中を押しあてた。
 ニナに動かないように手で指示してからコウはドアの向こうを覗いた。非常照明に照らされた懐かしい景色、自分がいた頃と少しも変わらない大きな空間の中をコウの眼が異変を求めてさ迷う。「 …… 誰もいない? 」
 無意識のうちにハンガーの中へと踏み込もうとする彼の手をニナがぎゅっと握りしめた。「ねえ、コウ。 …… やっぱりあたしみんなを置いて一人で逃げるなんて ―― 」
「みんなのために俺達は逃げなきゃいけないんだ」ニナに止められたままハンガーへと視線を向けるコウは何かを確信していた。
「俺達がここを無事に逃げだしたらヘンケンさんは必ず連絡をくれと言った、そこからこの戦況をひっくり返すって。どんなやり方かは分からないけどこれだけ不利な状況を変える手立てをあの人はまだ持ってる。だから俺達はその言葉を信じてそうするべきだと思う」
 いくら辺境とはいえ連邦正規軍の基地の全機能をあっという間に掌握して隊員達の状況を逐一掴む事に成功したあの手腕を見れば、彼らが告げる言葉に嘘はないのだろう。そして自分が今ここに生きているという事がその言葉の証明でもある。「わかった、コウ。あなたがそう言うのなら、そうする」
 昔より少し背の高くなったコウの顔を見上げて答えるニナに、彼は笑って小さくうなずいた。

 足を踏み入れたハンガーの中には何もなかった。壁面にあるはずのモビルスーツはすべて取り除かれて建物の柱も何本かなくなり、入口から内部へと重量物を運ぶためのセンターホイストは天井から外れて床の上に無残な姿を晒している。敵の攻撃を受けて天井から降り注いだコンクリートの内壁はまるでここから逃げようとする二人の思惑を遮るように大小取り混ぜて床一面にばらまかれていた。
 しかし何よりもコウの眼を引いたのはすぐそこに置かれたままの電源車と繋がったままのシステムモニター、そして壁に張り付いたままの重モビルスーツだ。「MS09-Fドムトローペン? …… いや違う」
「なんでこれがまだこんな所に? 」思わず立ちつくしたコウの隣で同じように足を止めて見上げるニナ。「どうせ動かないんだったらバリケードの芯材にしか使い道がないはずなのに」
「動か、ない? 」
 防塵用の黒いケブラーシートに包まれたままの巨体を見上げたコウの顔色が見る見るうちに白くなっていく。

                    *                    *                    *

「ええっ!? 基地から持ってきたジムじゃないんですか、俺の乗るのって!? 」トリントンを離れたアルビオンのブリーフィングルームでその事実を聞かされた時、最も驚いたのは当事者のキース本人だった。無事だったのはコウの乗る一号機とC整備中でハンガーの一番奥に格納されていたジム改の二機のみで、彼はてっきりジムに乗るものだと決めつけていたのだ。ちなみにバニングの乗るジム・カスタムはすでに同機種新品が用意されている。
「うっせいひよっこ、じたばたわめくんじゃねえ。おめえがそれに乗るのか、それとも予備要員として俺たちの小間使い ―― もとい雑用係になるのかをこれから決めようって言うんだからよ」
 椅子の背もたれに両手を乗せた不機嫌そうなモンシアが吐き捨てるように言った。「まーおれはそんな事しても無駄だって言ったんだがなぁ、大尉の言う事には逆らえねえ。でもよぉ、俺も身の回りの世話をしてくれるってのが野郎だとどうもこれからの作戦に身が入らねえなぁ」
「こらモンシア、いつまでも後輩をいじめてるんじゃない …… もちろんトリントンにあったジム改は予備機としてアルビオンに接収してはある、だが敵はあのガトー率いる腕利きのジオンの残党だ。あそこに配備してあった機体で奴らと互角に渡り合えるのかどうかは実際に戦ってみた貴様らが一番よくわかっているはずだ」
 左足をギブスで固めたバニングが椅子に座ったまま二人を交互に見る。もちろんそんな事は分かっている、あの基地にいたモビルスーツ部隊で生き残ったのは ―― ここにいる三人だけ。
「かといって俺のジム・カスタムを貸してやってもかまわんのだがいざという時になって変な癖がついていたんじゃ俺も困る。 …… で俺の昔の部下の三人の要望でこういう集まりになったというわけだ」
「コウのはもう決まってるから ―― 」
「馬っ鹿野郎まだ決まってねえっ! 一時俺の奴を貸してやってるだけでぇっ! ウラキィ、てめえ借りてる間に俺の壊しやがったらただじゃおかねえからなぁっ! 」
「まだ言ってるんですか? 往生際の悪い。 …… そうですね、ウラキ少尉は一号機に決まっているので残るのはあなただけになります、キース少尉。でいろいろあなたのデータを見させてもらった上で私がいくつか質問をしたいと思いまして、大尉にお願いしたのです」
 ため息をついたアデルが怒りに震えるモンシアを一言でたしなめると、いつもの柔らかい口調でキースの前に立った。
「ではまず一つ目に質問です、少尉は今まで行った多くの演習で自分が一番気持ちよく戦えるポジションをどこだと自覚していますか? 」
「 …… 中盤から後ろ、バックアップの位置です」迷わず即答した事にアデルとバニングは満足したように小さくうなずいた。「理由は? 」
「コウとカークスはよく動き回るので戦況が掴みづらい、だから大尉やアレン中尉と戦う時にはいつもそこを突かれるんです。自分は二人の後ろで状況を見ながら大体どこから敵が現れるのか ―― どこを抑えられたら負けるのかという事を考えながらフロントの位置を起点にして動いていました」
「でも一度も俺たちに勝った事はなかったな? それだけうまく立ち回れて、どういう事だ? 」ニヤリと笑ったバニングが尋ねるとキースは照れ臭そうに答えた。「フロントがあまりに早く動くので自兵装の射程外に飛び出していくんです、持たされてたのはマシンガンだったので」

「分かりました、では二つ目」アデルがそう言うとベイトが立ちあがって部屋の電気を消した。壁面にプロジェクターから放たれる四角い光が浮かび上がる。「今から君達に二枚の写真を五秒間ずつ見てもらいます、その後にどこが違っているのかを教えてください ―― では」
 おもむろに壁に映し出された二枚の写真は何の変哲もない風景写真だった。それもパッと見には同じようにしか見えない。暗闇の中で食い入るように見つめる十秒が過ぎると再び明かりが灯って、バニングを始めとする「不死身の第四小隊」の面々が二人の答えを興味深々と言った体で待ち構えている。「では同時に二人で答えをどうぞ? 」
「五個です」
「七個ありました」何気なく答えたキースの言葉にコウが驚いた。「え? どこ? 」
「キース少尉が正解です」アデルはそう言うと今度は二つの写真を並べて壁面に表示した。「恐らくウラキ少尉が指摘した五個はこことここと ―― ですね。三つはすぐわかりますが後の二つはなかなか見つけづらい、それだけでも十分に観察力に優れていると言えます。付け加えるとウラキ少尉とモンシア中尉は同じ数です」
「けーっ! ウラキの野郎と同じなんて俺もヤキがずいぶんと回っちまったもんだなあ、おいっ! 」
「モンシアくーん、みんなのお邪魔になるようだったら君だけ他の部屋でおとなしく結果だけ待っていようか? 」ニヤニヤと笑いながら後ろからモンシアの肩をがっちりと掴んだベイトが猫なで声で話しかけた。「君もずいぶんと積極的だったじゃなーい、今日の集まりには」
「うっるせえな、わかってンよ! 」そう言うとさらに不機嫌になったモンシアが腕組みをしてそっぽを向いた、しかし目だけはじっと二人を見つめている。「では『ひよっこ』少尉さんと同じ数しか見つけられなかったベテラン中尉さんの事は置いといて …… 後の二個、まず一つ目はここ」アデルが指をさした先にある林の中の一本の立木の根元。こんもりとした茂みは一目見てもそれが何だか分からない。
「ここに敵のザクが偽装網を被って隠れていました。 …… 言っておきますがこれは実際に一年戦争の時の戦闘中にガンカメラで撮られた映像から抜粋したものです、一枚目から二枚目までの間はほんの数十分しか経ってません。戦場ではそんな短い時間でこれだけ状況が変わってしまいます」
 それをつい二日前の戦闘で体験したコウとキースはごくりと喉を鳴らした。「じゃ、じゃあもう一機はどこに? 」コウが尋ねるとアデルの代りに隣のキースが答えた。
「この撮影をしている機体の後方、山の上だよ」

「お見事、正解です」嬉しそうにアデルがそう言うと写真の端に指を置く、背後からの日の光を受けて鮮やかに刻まれた山の稜線の影。そこに不自然に盛り上がったこぶが一つ。「この撮影の直後彼は背後から敵の狙撃手によって撃破されました。 …… もしこれに少尉が乗っていたら返り討ちにできたという事ですね」
「おっめでとう、キース少尉。これで君は晴れて俺達の背中を守る新型の支援機に乗る資格を得た訳だ …… 断っとくがなァ、間違っても背中を撃つンじゃねえぞ、このひよっ子っ! 」ぱちぱちと厭味ったらしく手を叩いたモンシアがフンッと鼻を鳴らして今度は本当にそっぽを向いた。「あ、あの。 …… 新型? 支援機って、その ―― 」
「キース少尉には私と同じ機体に搭乗していただきます。いいですね大尉? 」
 小さく頷いて許可するバニングとアデルの笑顔を見比べながら、言われた事の意味をもう一度頭の中で整理する。アルビオンへの着任と共に運び込まれたアデルの機体は確かにジム・キャノンとは名ばかりの今まで見た事も無い機体だった。両肩に付けられた二門のキャノン砲はビーム式に変更されているし、なによりも大きな違いは機体全面をボリュームをアップさせている装甲板の厚みだ。試作型ガンダムNT-1アレックスに採用されていたチョバム・アーマー(Ceramics Hybrid Outer-shelled Blow up Act-on Materials、セラミックス複合外装による爆発反応材質)とスナップロック方式を兼ね備えた複合装甲板は年鑑に記載されているモビルスーツが携行出来る弾種の殆どを相殺できる。それに専用のライフルも、今までキャノンには採用されていなかったビームサーベルも標準装備だ。
 支援型のモビルスーツとしてはほぼ完成形とも言われているジム・キャノンⅡに、自分が?
「キース少尉、あなたは自分でも気づいてないでしょうが私と同じく『狙撃手』としての技量を有しています。敵を見つける優れた索敵能力と観察眼」
「前方に展開する部隊の動向、敵の動きと各部隊員の適性を読み取って配置する能力 ―― 狙撃手は最後尾に位置するが故に様々な能力が要求されるし誰でも出来ると言う物じゃない。だからアデルが認めた以上貴様は奴と同じ機体に乗らなければならない …… これは命令だ、キース少尉。お前は明日からアデルと同じ機体に乗って完熟訓練を行え。整備班にはすでに機種変更の通達を出してある、いまさら嫌だと言ってもお前の乗る機体はもう他にはないぞ? 」
 アデルから言葉を引き継いだバニングがニヤリと笑ってキースを見る。くる日もくる日も必死でみんなの背中を追いかけてきた自分が持つ、自分が知らない能力。誰かの役に立てるかもしれない ―― 足手まといにはならないかもしれないという希望はキースの表情をほころばせた。だが次の瞬間ある事実に気づいた彼ははっと表情を変えて正面にいるバニングにおずおずと尋ねた。
「で、でも大尉。まだ機体もないのに明日からってどういう ―― 」
「だから明日からはアデルとタンデムで演習に参加しろ。ジャブローに申請した貴様の機体が届くまでキャノンの特徴と操縦方法をじかに教われ …… キース、貴様はツイてる。アデルは一年戦争の頃から俺の小隊のキャノンライダーだ。こんな教官に恵まれる事はそう滅多にあるもんじゃない」
「おまけに他ではめったにお目にかかれないキャノンの『撃墜王エース』様だしな」
 お前なんかにアデルの代わりが務まるもんかとばかりに嫌味な目つきで睨みつけるモンシアをしり目に、縮こまるキースの肩を一つ叩いたアデルがにこやかに笑った。「ではキース少尉、明日からよろしくお願いします。厳しくいきますから覚悟しといてください」
 そう言って差し出された手を握りしめたキースは彼のその言葉が決して冗談や誇張の欠片一つも混じっていないという事を知った。見た目の穏やかさや礼儀正しさとは全然異なる硬い掌、幾重にも重なった大きな肉刺の数がキャノンを操るという事の難しさをキースに教える。
「よ、よろしくお願いしますっ!! 」慌てて大声になるキースにアデルは破顔一笑で答えた。「よしましょう、あなたと私は同じ階級ですからそんなかしこまった言葉づかいは。それとあの人たちがいくら威張り散らしていたってビビる必要はありません。いざとなったら『間違って』後ろから撃っちゃえばいいだけの話ですから」
「ちょ、待てコラっアデルっ!! 手前ぇいっつもそんなこと考えながらキャノンに乗ってやがったのかっ!? 」
 ウィンクをしながら冗談を飛ばすアデルに向かって血相を変えた二人が立ち上がる。アデルは笑いながらモンシアとベイトの抗議を受け流してキースに言った。
「とりあえずですが、少尉。 …… 『山猫リンクスの世界』へ、ようこそ」

「大尉、残念ですがあなたのようにはうまくいかないかも」焼け野原になった山の斜面をにじり登りながらキースはぽつりとつぶやいた。褒めてもらった索敵能力、認めてもらった戦術眼。今まで培ったスキルや経験が目の前の敵に通じないかもしれない。これだけ特殊な任務についている部隊の構成員だ、多分一年戦争 ―― いやそのもっと前から戦場で生き延びてきた兵に違いない、それに引き換え自分はその頃 ―― 。
「! しっかりしろ、キースっ! お前だってそんな連中が一山で死んじまうくらい酷い戦いをくぐり抜けたんだろう!? この前の演習でお前は大尉から何を教わったっ!? 」
 あのオベリスクでの三対三で戦闘のなんたるかを教わったのはマークスとアデリアだけではない、自分も大尉と一対一で対峙して個人スキルの重要性を体に叩き込まれたはずだ。機体の性能、技能、経験 ―― 相手より力が劣ると認識する事が勝ちをもぎ取る第一歩、そこから今の自分に何ができるかという事を数少ない引き出しの中から探し出して組み上げる冷静さ。
「 …… 落ち着け、今さらない物ねだりをしてもしょうがない。考えろ、自分と敵の機体の何が違う? 」

                    *                    *                       *

「きゃあっ! 」再び始まった敵の銃撃にハンガーの空気が揺れる、悲鳴を上げたニナが驚いてコウの手を握ったまま全身をこわばらせた。肌に伝わる衝撃と耳をつんざく打撃音は医療棟の三階から聞いたものとは臨場感が違う、今まで自分がコックピットの装甲板越しに聞いていた物は生身にはこういう風に聞こえるものなのか。
「コウ、どうしたの? しっかりして」立ちすくんだままの彼の手を強く握って反応を確かめようとするニナは、しかし彼の意識がモビルスーツの方へはむいていない事にすぐ気がついた。敵味方が織りなす激しい銃撃と携帯を通じて飛び交う様々な声は混じり合いすぎて雑音とノイズの塊だ、しかし彼は宙を見上げたまま驚くべき集中力で一人の声だけをただひたすら追いかけている。
「 …… キース、がんばれっ」

                    *                    *                       *

 やっとの思いで辿り着いた山頂直下でキースは再びハンガー方向で始まった銃撃の音を耳にした。焼けた山肌を登って来たおかげでコックピットの中はちょっと気のきいたサウナだ、額から吹き出す汗を吹く暇もなく彼は次のルーファスを盾の裏から抜き取ろうとした。
 だがそれを待ち受けていたかのように対岸の方向から立て続けに起こる発射音が聞こえる。「くそっ、これも読まれてたのかっ!? 」
 マルコの立てた作戦のことごとく上を行くタンクの攻勢にキースは再び立ち上がり、今度は斜面を横方向に駆けだした。見えてない以上敵は何らかの手段を使ってこちらの位置を特定している ―― どうやって? まさか敵は噂に名高いニュータイプとか言う超能力者か?
 しかし自分がまだ生きているという事実はその可能性を疑った。もし漏れ伝わっている噂話が本当だとしたらそういう能力を持った兵士は無駄弾を使わない、それこそ自分が稜線から頭を出した瞬間に120ミリでこちらを撃ち抜いているはずだ。
 では現実的に考えて姿の見えない敵をレーダーなしで捕捉する方法は?
「 …… 音響探知か、ドローンでの画像探知か」
 キースはすぐに後者を選択した。麓で響く交戦音は山肌に反響して山彦のように周囲へと伝わっているだろう、という事は音響探知ではノイズが多すぎて正確な位置を測定する事は難しい。となるとドローンによる目標捕捉が一番現実味を帯びてくる。爆撃での余波を考えると高度50メートルくらいの所でじっとこちらを観察しているはずだ。
 その場で仰向けになったジムがすかさず腰のハードポイントから通常弾のマグをはぎ取って装填する、槍のような対物ライフルの銃身が見えない敵を求めて夜空をさまよう。
「どこだ、どこにいる? 」
 夜空に埋め尽くされたモニターいっぱいに広がる星の輝きが宇宙で戦っていた頃のあの気持ちをキースに思い起こさせる。何もない静寂が一瞬のうちに生死を賭けた喧騒に変わる戦場という名の究極、研ぎ澄まされていく感覚が彼の鳶色の瞳と瞳孔を大きく広げてスナイパーとしての能力を次々に覚醒させた。
「 ―― いた」
 静かに呟いたキースの手がそっとトリガーに触れた。北斗七星の尾から伸びて春の大曲線を描く途中にあるうしかい座の一等星、アルクトゥールス。夜空にひときわ目立つその星の輝きが途切れた瞬間に彼の眼はそこに浮かんだ小さな飛行物体を捉える。音もなく夜空に浮かぶ漆黒のドローンは自分に向けられた銃口に動揺するように機体を二度三度と揺らして方向を変えようと試みた。
「逃がすか」
 静かに告げる声をかき消す対物ライフルの発砲音が夜空に轟くと同時に放たれた102ミリ被覆鋼弾は、やすやすとドローンの中央を貫通して夜空の向こうへと飛び去った。

「凄腕だ」
 ドローンの映像が途絶えた瞬間にハンプティはそう呟いて嬉しそうに笑った。画像から得た情報では相手は第一世代のジムで当然スナイパー装備などない、しかし星の光だけで夜間迷彩を施されたこちらの戦術ドローンを瞬く間に叩き落としたのだ。しかも熱源探知が困難なように通常弾へと装填し直して。
 久々に歯ごたえのある相手に出会った。こういうポジションについているとなかなか敵と直に交戦する事は少なくなる、支援車両はどうしても部隊の後方に配備されているからだ。しかも味方が戦線を持ちこたえられずに瓦解すれば一番真っ先に敵の餌食になるのも自分達だ。ガンタンク専門に扱う事のできる兵士が激減しているのはその有用性を疑われて製造終了になりかけている事も一つの理由だが、実は運用に精通したエキスパートが先の大戦で大勢失われたという事に起因している。
「久々にやりがいのある相手だ …… トーヴ1の言うとおりこいつは俺に任せてもらおう。AI、リフティングウィンチ準備。丘向こうの林の中に目標設定」
 ハンプティの命令を受けた制御用AIが車両前部に取り付けられたアンカーディスペンサーを素早く動かして、最初に布陣していた丘の上目がけてその先端を向けた。



[32711] Determination
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/06/16 05:54
“ MOVEうごけっ  ” 
 心のどこかで叫ぶその声に押しだされるジムが山の斜面をさらに真横に走る。ミサイルの送り雨が背後を荒れ地に変える衝撃に足を取られながらも次の目的地とおぼしき馬の背に滑り込む。「バカスカ撃ちやがって! こっちもやられっぱなしじゃない、貴様の位置はだいたい掴んだっ! 」
 モノポッドを地面にめり込ませて固定すると向かいの丘の坂の中腹にバンパイアの距離測定用レーザーが走る。丘の陰から見える巨体はまるで斜面にへばりついているようだが120ミリの主砲だけは真っすぐにこちらを向いている ―― なんて奴っ! お見通しかっ!?
 躊躇はできない。撃てっ、キース! 
 排煙機から煙を噴き出して放たれた102ミリ被覆弾頭は音よりも早く一直線に目標へと向かう。

 声にならない歓喜の叫びと衝撃波がほぼ同時、頭上を過ぎ去る稲妻に痺れる間もない反撃の一発。俯角を取る為に右の砲身は使用不能だが旧式ごとき片方で十分っ! 「目標、敵狙撃手っ! APFSDS(離脱装弾筒付翼安定式徹甲弾)えっ! 」
 ラインメタル社製120ミリの砲口から長く伸びた炎が周りを赤く染め上げる。空中に放り出された途端に外側の殻が外れて細長い劣化ウランの弾芯がむき出しになり、鋭い先端が空気を切り裂く金切り声を上げながらキースのすぐそばに着弾した。まだ人類が宇宙を地表から見上げていた時代から作られ、進化し続ける単純で野蛮な打撃は暴力的な破壊力で山の稜線を根こそぎえぐり取る。

“ BREAK!にげろっ ” 
 貫通した弾頭がジムのすぐ真横を掠めて飛び去る、ライフルを抱えたまま横っ跳びで直撃を避けたキースはそのままの体勢で転がった後にすぐさま体勢を立て直して回避運動を試みた。真夏の夕立のように追いかけてくるミサイルの雨はその破壊力でジムの機動力を何とか奪おうと躍起になっている ―― さすが腕利きの砲手だ、タンクとモビルスーツの利点欠点をよく熟知しての波状攻撃とは。
 爆撃孔に飛び込んで防御姿勢を取りながら降り注ぐ破壊の雨をなんとかやり過ごしたキースはすぐに状況を整理する。火力に関しては範囲という点を除いてほぼ五分、どちらも一発当たればタダでは済まない火砲を持っている。それでもここまで追い込まれているのは敵に主導権を常に奪われているからだ、ドローンを墜とした事で物理的捜索は不可能 ―― という事は純粋に射角の移動時間の差。敵は一か所に留まったままこちらへの照準を最短時間で準備できる、その動きを止めない限り勝ち目の糸口すら見つからない。
「まずは敵の読みを撹乱しないと …… 時間の有る無しだけがイーブンか」 ―― こんな事を繰り返していてもらちが明かない、なんとか突破口を見つけなくてはっ!
 意を決したキースは安全地帯から飛び出して一気に斜面を駆け上がった。相手にない機動力を使って陽動とかく乱に専念する、それでどれだけ敵の眼を欺くことができるか? こちらの思惑通りに相手が乗ってくれればそれで勝機が開ける。
 敵の近接兵装ポップミサイルはまだ半分残っている、全弾撃ち尽くした時が唯一のチャンスだっ!

 超高速で飛来するライフル弾を躱す盾は持っていない、しかしだからといってこんな小さな踊り場に縮こまっていられるほど悠長な事も言ってはいられない。今までの経験則からその弱気が自身の破滅を呼ぶ事をハンプティは知っている。応戦ではだめだ、常に相手に先んじて狙撃ポイントを読み至近弾を撃ち続ける。それを繰り返す事で心理的優位を確保して敵に焦りを産ませる事ができる。
 しかし現状はどうだ?
 敵はあの旧式を恐らく自分が出会ったどこの誰よりもうまく操っている、多分あれが本来のジムが持つ機動性能なのだろう。おかげで両門を使った時間差射撃という必殺技が使えない、もし外してしまえば装填時間の長さがこちらの致命傷になる ―― 奴はその隙を絶対に逃さない。
「焦ってんのはこっちかよ …… そこかっ!? 」AIが候補に挙げた五か所の狙撃ポイントを全く無視してハンプティは山の影目がけて引き金を引く、同時に鳴り響く打撃音がハンプティの心を凍りつかせた。敵のライフル弾が車台上部に命中、運がいい事に避弾経始のための傾斜装甲に弾かれて損害は軽微。
「先に当てやがるとは ―― 盛り上げてくれンじゃねえか、この野郎っ! 」今のが例の弾だったら一発で終わりだったがそうじゃなかった所にまだ運がある、今度はこちらの番だとばかりにハンプティは両手のミサイルを向かいの狙撃ポイント目がけて一気に撃ち放った。

「当た ―― ヤバっ! 」
 敵に命中させた事で一瞬気の緩んだその隙をついて飛来するミサイルの瀑布に気づくのが遅れる、慌ててライフルを抱えて斜面を駆け降りる頃には周囲はすでに散布界の中心だった。屹立して行く手を遮る爆炎と土柱を突っ切って一目散に麓を目指す、夾叉きょうさという言葉がぬるく聞こえるほど炸裂する至近弾のただ中を駆け抜けるキースは果たしてその道中で突然方向を変えて山の斜面をもう一度駆けあがった。命からがら敵の爆撃をくぐり抜けた境い目でボルトを引いて装弾すると空になったマガジンが軽い金属音を立ててライフルの機関部から派手に耕された地面へと突き刺さる。
「最後の一発っ ―― しくじるなよ、キース」

 装甲板が一か所へこんだだけで損害はない、だが精神的なダメージの方が大きい。タンクを操る自分が敵より優れているとは思わないが、それでも様々な実戦経験を経て完成したこのモビルスーツが旧式に劣るとは思わない。先に当てられたのは多分 ―― 自分より敵の方が、強い。
 だがここで自分が沈む訳にはいかない、敵にこのポジションを明け渡してしまえばそれはそのまま味方の危機になる。「AI、『Volga』とのリンクを接続。望遠最大で当該地域の探知を ―― 」
 それは彼がこの危機に対処するために頼ったがために生まれた油断による物だった。モニターの中央で光る発砲炎と同時に発生する衝撃、回避のために回るキャタピラが大きな金属音とともに外れて丘の斜面を滑り落ちていく。「被弾、だと?左起動輪損傷っ! AI、全力射撃っ! 」
 ガクンと傾いた車体を無理やり転輪のエアサスで持ち上げたタンクが残りの四十ミリを全弾正面の林へと叩き込む、ほぼ曲射の必要のない距離を一瞬で駆け抜けたポップミサイルはその破壊力で全ての木々を焼き払った。オークリーへの攻撃が始まって以来最も派手な爆音と炎が南の山を焼き尽くす。

 モニターに表示される損害レポートに目をやりながらキースは汗まみれになった顔の汗をぬぐった。左脚部離断、バックパック作動不能。その他の損傷は大小かぎりない。だがまだ動く、まだ狙える。
 轟々と延焼を続ける山の上で狙撃ポイントから退避もせずに伏射の体勢を維持するジムがいた。コックピットの環境維持システムは被弾の影響で停止して外部の熱がそのまま伝わるコックピットの中は灼熱状態に変わりつつあるが、それでもキースはゆっくりとレバーを動かしながら奇跡的に生き残っているバンパイアへのシステムを繋いでスコープを目の前へと持ってきた。
 それは体を張った賭けだった。今までとは違うタイミングでのターン、そして爆撃範囲内での狙撃点保持。盾が使えない状態でどこまで敵の攻撃に耐えられるか ―― 現にバックパックと左足は持って行かれた、だが何とか敵への攻撃を継続できるだけの機能を維持している。もちろんもう一発も外せない、今度の弾で確実に敵を撃破しなければ後はない。盾の裏から引き抜いたルーファス、その一発で全てが決まる。
 動きの鈍い右手がボルトを引いて薬室内に最後の一発を押し込んだ。蓋が閉じて射撃可能のサインが点灯した事を確認したキースはクロスヘアの中心に浮かぶ黒い巨体を静かに睨みつける。

 そんな事は性に合わないと何度も言った、でもお前は絶対に首を縦には振らなかった。俺が隊長? 冗談じゃない、俺がバニング大尉やベイト中尉みたいに誰かを育てる事なんてできっこないよ ―― だってそうじゃないか。
 俺はいつもお前の後ろにいた、遠ざかっていくその背中を追いかけることしかできなかった。隊長やアデル少尉に言われたとおりそこが俺に一番向いているという事も知ってる。
 でもそれでも俺は。
 お前と肩を並べて戦いたかったんだ。どっちが上か下か、前か後ろかじゃなく隣に並んで。
 急にいなくなった時の俺の気持ちが分かるか、コウ? お前がいなくなったってだけで俺はずいぶん淋しかった、一人ぼっちでどうやってこの先ここを守っていけるのか頭を抱えて眠れないときもあった。一番ひどかったのはマークスとアデリアが二人一緒にこの基地に来た時だ。
 どこからどう見ても才能の塊、俺たちの同い年の時とは段違いだ。お前だったらこの二人の才能をどういう風に導いただろう、どういう風に育てただろう? それに引き換え俺にはそんな気量も知識もない、できる事と言えば ―― 俺の知ってる誰かのように自分がなって見せる事。お前のように、ベイト中尉達のように、隊長のように。
 どんな不利な状況に追い込まれても臆することなく立ち向かって生き残るという決意と経験と生き様と。みんなのように自分がなる事 ―― 向き不向き、できるできないじゃない。今度は自分が彼らの前に立って背中でその名で呼ばれる事の責任と重みを教えなければならない。
 だからこの一発は絶対に外せない、明日からも ―― これからも俺が彼らの前でそうあり続けるためには。

                    *                    *                    *

 セイレーン宙域と航路図に表示されるその場所はティターンズの管理の下現在では全ての艦船が許可なく侵入する事のできない聖域 ―― そこはかつてデラーズフリートがその志を遂げて壊滅した場所だ。多くの亡骸や残骸が静かに大気圏へと吸い込まれて跡かたもなく消え去るのをただ待つだけのその宙域で、ひと際大きな戦艦の破片にひっそりと隠れるようにして地上で繰り広げられる死闘を見守る存在があった。
 目立たぬようにティターンズカラーで塗られたそれは誰かがここへと接近した時に有無を言わせず排除するために設置された迎撃衛星インパクターのうちの一機、コールサイン『Volga(死の歌)』。衛星上部に据えられた二基のコンポジットミサイル ―― バッテリーと呼ばれるランチャーは合計四十門のサイロを星空へと向けながらここに迷い込んでくる全ての者を威嚇する。
 そして彼は本体下部に設置されたいくつかのレンズを何度か回しながらその倍率を上げようと試みた。この迎撃衛星群に与えられたもう一つの役割 ―― 地上への光学監視を実施するために。やがて最も大きなレンズが望遠筒の前に収まると彼はそこから見える全ての画像をリンク元であるハンプティのモニターへとリアルタイムで送り始めた。

                    *                    *                     *

 驚嘆と畏怖。
 短時間で焼き払った林は業火を上げて延焼を続け、所々で火災旋風の兆候すらあるというのに奴はまだそこにいた。はるか上空から最大望遠で捉えるジムの姿 ―― 左足は脛からもぎ取られて装甲板は所々欠けている、バックパックは内部構造がむき出しでもう使い物にはならないだろう。爆発しなかったのが不思議なくらいだ。
 だがその姿をハンプティは決して死に体だとは思わなかった。むしろ今までの攻撃の全てがこの一撃を成功させるための布石 ―― 炎で煽られる映像の中で巨大なライフルを構えたまま動かないジムは絶対にこちらへとその銃口を向けているに違いない。アクティブシュートの禁忌を犯してまで目標を仕留めようとする執念はまぎれもなく歴戦中の歴戦 ―― こんな奴がまだ連邦に眠っていやがったのか。
 射撃シュートアンド回避ブレイクを繰り返す事でこちらの意識は確かにパターンへと陥っていた、事実ミサイルを撃ち尽くした時には次の奴の出方を元の山の山頂だと踏んでいた。もしこの映像が送られてこなければ俺は次の弾で確実に仕留められている。
「AI、アンカー射出。敵に気取られないように。合図で一気にウインチを巻け、俺には一切構うな」
 命令を受けたAIが速やかにディスペンサーを動かして先に取り付けられたアンカーを指示のあった丘の上目がけて撃ち出した。するすると伸びたワイヤーが後を追って丘の斜面を駆け上がる。

「 ―― 当たれぇッ!! 」
 渾身の気迫をこめたその一撃が音と煙を追いこして銃口から目標目がけてひた走る。逃れようのない必中を予感したキースの口元が小さく歪んだ。

「巻けっ!! 」ハンプティの怒号と共にエンジンへと直結された機械式ウィンチは瞬時にして八十トン以上もあるガンタンクを坂の中腹まで跳ねあげた。敵との間合いと呼吸の読み合い、恐らくスキルやスペックにおいて劣っているであろう彼が唯一キースに勝っていた点はそこだった。撃たれてからでは間に合わない、その刹那のタイミングを捉えた機体を掠めてルーファスは背後へと消えていく。背中を叩く爆発の衝撃に歯を食いしばりながらハンプティは凄まじい速さで射撃ルーティンを開始した。

 ばかな、という声にならない叫びがある種の予感と共にキースの心中を駆け巡る。モニターに映る景色が突然スローに映りだして途轍もない悪寒が背筋を貫いた、呑まれてはだめだと本能が叫ぶ。今までに味わった事のないこれは ―― 絶対にヤバいやつだっ!!
 訓練と経験の集積と本能が彼の手足を限界以上に動かして次発装填へと移行する。ボルトを引いた途端に飛び出した空薬莢がモニターを横切る、盾の裏からルーファスを抜いてチャンバーへと押し込んでボルトを戻して撃発位置へ。スコープの向こうでリンクしているバンパイアが様々な数値を目まぐるしく回転させながら姿を消したタンクの影を追いかける。「 ―― どこだっ!? 」
 早く、と急かす声が耳の奥のどこか深い暗闇から聞こえてくる。何度も左右に振る銃身の根元に取り付けられたバンパイアのレーザーが消えた敵影を追って向かいの丘を駆けまわる。その甲斐あってキースは素材の異なる物体のかすかな反応を受け取る事に成功した。今度こそ、とスコープを睨みつけながら逸る気持ちを抑えてクロスヘアの中心へとその物体を誘う。
 そしてキースは自分の運命がすでに決した事を悟った。

「一番二番同時射撃っ! 撃てえっ! 」

 ロックオン警報が鳴り響くのと両肩に乗っている砲門からの輝きはほぼ同時、スコープに映り込んだ絶望的な画像を盾で隠したのはかつてあの地獄を生き延びた時に身につけた経験による回避行動。せめて跳弾回避を、と願うキースの体を襲う凄まじい衝撃と金属音 ―― だが金属が引き裂かれる音とともに周囲の計器盤が一瞬にして赤く染まった。ガンカメラをもぎ取られて予備のカメラへと切り替えるために明滅を繰り返す正面のモニター、しかし最後にそれがキースに見せた物は機能停止したコックピットを真っ白に染め上げる破滅の閃光だった。
「 ―― コウッ、すまない。あとは ―― 」

 南の山から天へと吹き上げる巨大な火柱とバスケスのものよりも大きな爆発音がオークリーの空を覆った。

                    *                    *                    *

 首筋に走った鋭い痛みにモウラは思わず顔をしかめて押さえた。何かいたずらでもされたのかとあたりを見回すがそばには訝しげな顔でモウラを見つめるジェスしかいない、後の連中は退避壕の中で思い思いの場所に座り込んだままもっぱらコウとニナの救出劇について思い思いの想像を語っている。「どうかしました、班長? 」
 あの泣きじゃくっていた顔はどこへやら、ジェスがあっけらかんとモウラを見上げながら訪ねてきた。どうやら最近の子というのは一つ一つの出来事に対する感情の切り替えをスイッチのように切り替える事ができるらしい。「や、なんでも。そういやあんたは向こうに混じンなくっていいのかい? 」
「別っつにぃ。自分の失恋話を楽しそうに話されたって腹立つだけだしぃ」そう言うと車座になって笑いあう整備士連中の人だかりを忌々しげに横目で見つめる。生き死にの懸っているこんな状況でも平然と俗事を口にするこの少女のずぶとさにモウラはあきれながらも感心した。
「そっかそっか、失恋しちゃったか。でもあんたなら大丈夫、そのうちだれかが拾ってくれるって」にっこりと笑いながらジェスの肩をポンポンと叩くと当の本人はそれでも不満そうな顔でモウラを見上げた。「あたしは猫か? …… そりゃ班長はいいですよ、あんないい男が彼氏で。 …… あーあ、あと残ってンのはお調子者のアンドレアと神経質そうなマルコだけって、選択肢狭くないですか? 」
「なんであんたはそうパイロットにこだわるンだ。他にも大勢男がいンだろ? 整備士連中とかコックとか」
「だからぁ、前にも言ったじゃないですか。自分が手をかけた子に乗って出ていくのを見送るのがあたしの夢なんです、アストナージじゃ百年たったってそんな器用なまねできっこないですモン」
「アストナージじゃって …… 一応あいつも先任だぞ? そんなかわいそうな言い方 ―― 」
「ねえ班長」ジェスが突然真顔になってじっと前を見つめた。退避壕の頑丈な扉は円形のハンドルでしっかりロックがかかっていてハンガーの音も携帯の電波も中には届かない、だが彼女はその先で起こっている命の削り合いを辛そうな表情で見透かしている。
「心配じゃないですか? 」不安そうな声で呟くジェスが自分の両膝を思いっきり抱え込む。それが何の事を指しているのか、なぜジェスがそんな表情で尋ねてくるのかモウラは正しく理解した。どんなに平静を装っていても戦争という名の不条理を受け止められるように心はできてはいない。
「大丈夫さ、キースなら」そう言うと彼女は傍らで固くなる彼女の赤毛をポンポンと叩いた。「ああ見えても一応百戦錬磨だ、そう簡単に墜とされるようなタマじゃない。必ず敵のタンクをぶっ潰して無事に帰ってくるって、だからあたし達はその後の事を考えておかなきゃ」
「ならいいンですけど …… 」モウラの励ましもジェスの固さをほぐせない、不安そうな表情でジェスはその姿勢のままじっとハッチのハンドルを眺め続けていた。

                    *                    *                    *

「04から02っ! 」アデリアの悲痛な叫びがコックピットの中を駆け巡る。「隊長、聞こえたら応答をっ! 隊長っ! 」
 聞き間違えるはずがない、現にマルコとアンドレアはいまだに耳元で何かを吠えながら応戦し続けているのが聞こえる。突然の爆発音とともに途絶えた反応 ―― 退場したのは自分達の部隊でただ一人単独行動で動いているその人。
「マークスっ! 隊長からの応答が途絶っ! どうしたら ―― 」
「 “ ここはいいっ! お前はすぐに隊長の所に行けっ! ” 」その異変は恐らくマークスも知っていたのだろう、ひと時も休むことなくラース1と切り結びながら耳に届いたその絶望。機体を染めるオイルに塗れながらも自分が今持てるだけの全部を使って無傷にも等しい敵からの斬撃をかろうじて拾い続けている。「 “ ずいぶんと余裕があるじゃないか、だがそろそろお前の力とやらも品切れなんじゃないか? それにどちらかというとここに残ってほしいのは ―― ” 」
 ガザエフのクゥエルが鍔迫り合いで動きの止まったマークスを思いっきり蹴り飛ばすとすかさずアデリアとの距離を一息に詰めた。眼前に迫った黒いマチェットの刃を体のひねりで躱しきるとすかさず通り過ぎようとするその背中に追い撃ちをかける ―― それでは奴を仕留められない、何度やっても奴との間合いが掴めないっ! 「 “ ―― お前の方なんだがなあ、アデリア・フォス? ” 」
「だめだマークス、あたし達はどっちも隊長の所に行けないっ」奥歯を音が出るほど噛みしめながらアデリアが剣の向こうでゆっくりと振り返るクゥエルを睨みつける。「悔しいけどあいつはあたし達二人がかりでも止めるのがやっとだ、行けば残った方は必ず殺られる」
「 “ 俺の事はいい、お前だけでも早く ――  ” 」
「よくないって言ってンのよっ!! わかってンならさっさと立ちなさい、マークスっ! 」アデリアの背後で傷だらけの機体をゆっくりと持ち上げた ―― それは多分マークス自身のダメージでもある ―― ザクが再び体制を整えてサーベルを構える。
「隊長のところにはこいつを斃した後で行く、そこで何が起こったのか ―― タンクが生きていようといまいとあたし達はその結末を見届けて伝えなくっちゃいけないんだ」心の中に渦巻く不安と生まれ出ずる弱音をねじ伏せるように彼女は言った、さっきモウラに言われた言葉をもう一度頭の中で繰り返しながら。
「 ―― だからもうここでは絶対に死ねないっ! モウラさんに今度こそ、ちゃんとほんとの事を伝えなくちゃいけないんだからっ! 」

                    *                    *                    *

 その声だけが耳の奥に焼き付いた。そんなはずはないと何度も自分に問いかけながらコウは雑音の渦の底に引きこまれた言葉の続きを追いかけようと試みる、しかしその飢えにも等しい彼の願いがかなう事はなかった。自分の名前を呼んだ後に途絶えた親友の通話、それが意味するもの。
 キースが最後に自分に託した、事。

「コウ、大丈夫? 」自分に背を向けたまま立ちつくしているコウの背中にニナは声をかけた。突然変わった彼の雰囲気に彼女はただ事ならぬ予感を覚える、しかし敵との砲火が一時的に弱まっている今を逃して脱出の機会はない事ぐらい素人である彼女にも分かる。「早くここから出ないと。あそこにある電源車を使って今のうちに ―― 」
「 …… どうして、こいつ、は動かないんだ? 」 “ こいつ ” から目を逸らしたままコウがニナに尋ねる、目を凝らすと彼の手が小刻みに震えている事がわかる。「どこかに致命的な ―― 損傷、とか」
「解析不能な暗証によるアビオニクスの封印シール ―― 全機能が凍結されている以上これはただの鉄の塊 ―― 」そこまで答えたニナがはっと何かに気づいた。「 ―― コウ、どうしてそんなこと聞くの? 」

 心に立てた誓いがあっという間に折れそうになる。頭ではわかっているのに、心はそう叫んでいるのに体は全く別の方へと動いてしまう。それに乗るという事、それを使うという事が自分に何をもたらすのか。
 震えが止まらない。怯えてるんじゃない。
 純粋にそれを拒んでいるという事。
 エボニーに背中を押されてドクに励ましてもらって自分はやっとここまで辿り着いた ―― それなのに。

 「 …… あいつが困ってるんだ、助けに行けないはずないだろう ―― コウ・ウラキっ! 」

 思わず口から零れた心の叫びにニナが驚きと確信を露わにする、そしてコウは彼女が思った通りの顔と声でその面を壁際に張り付いたままの黒い巨人へと振り上げた。「電源車を起動する、ニナ」
 眉間にしわを寄せながら激痛に耐えるその表情がニナには痛々しい、しかし真っ白になった額に噴きだした大粒の汗を拭う事すらせずに彼は告げる ―― だろう。
「暗証解除を手伝ってくれ …… 俺が、これを、つかう ―― 」
「いやよ」
 途切れ途切れになるコウの声にニナが答える、自分でも驚くほどその声は冷たかった。

                    *                    *                    *

「02ロストです」自分では冷静に報告したつもりだったが現時点での最大戦力が失われた事への恐怖は隠せない。声音の大きくなったチェンの報告を受けてセシルが背後で戦況を見守るヘンケンへと振り向いた。モビルスーツ戦でのこう着状態の合間にコウとニナがここを抜け出して、敵に追いつかれない状況になった所で一気に風呂敷を折りたたむというのが大まかな戦略方針だった。しかし背後の押さえとして敵を睨んでいたキースがいなくなったのでは敵の侵攻を阻む物がいなくなる ―― 砦を守るのが二人の素人では。
「正念場か。あの二人でどれくらい持ちこたえられそうだ? 」
「弾は十分にありますから恐らく小一時間、もし二人が今抜け出してくれていたのなら多分作戦の実行に支障はないかと」
「 ―― かわりにモビルスーツ隊を全部見捨てる事になる、か」
 ヘンケンの声を背中で聞いたチェンの表情が思わず曇った。自分の身の上を偽っていたとはいえそこで戦っているのはまぎれもなく友人たちだ、それを見捨てるという決定に何の異論もなくうなずく事なんてっ!
「艦長? 」腕組みをしたままじっとモニターを睨みつけたままのヘンケンにセシルが声をかけて答えを促そうとする、即断即決が身上の彼にしてはこの反応は珍しい。あの星一号の時でさえあっさりと自艦を放棄する決断をしたというのに。
「状況は現状のまま待機 ―― チェン、電力システムはまだこちらの制御内だな? 」
「は? は、はい。いつでもここで操作が可能です」
「じゃあ少しでも時間稼ぎをしてやろう。生き残ってる全ての照明に通電命令、闇夜のカラスを真昼間の滑走路に追い出してやれ」そう言うとヘンケンはニヤリと笑った。
「ですがそんな事をしてもすぐに敵に潰されて ―― 」チェンがキーボードを叩きながら尋ねる声をセシルが押さえた。「明かりを嫌って外部の送電網を破壊したのなら今度は明かり自体を破壊するしかない、または地下四階にある非常用発電所を壊すか。でもこれだけ銃撃戦を続けているのなら敵の残弾はそれほど大盤振る舞いできないくらいには減っているはず、兵站を確立してないのが彼らの弱みよ」
「今までそんな必要がなかったんだろうな、奴らは。電撃戦とは派手で聞こえはいいがこうやって消耗戦に持ち込まれるとその弱点を露呈する、それに奴らはこの戦いに勝つ事が最終目的ではない ―― ニナさんの殺害にこだわればこだわるほど戦術の選択肢は狭くなる」
「そうやって次々と手を打って敵の出足を鈍らせるって事ですか、なるほど」味方を絶対に見捨てないという彼の根元が変わっていない事にチェンは嬉しかった。キーボードを叩く指にも力がこもる。
「だがこちらの手もそう多くはない、できればここいらで次のフェイズに移りたいところだが ―― 」
「了解です。すぐに ―― あれ? 」
 チェンの指が突然止まった。思わず振り返った先にある六台のサーバーに向かって次々に鋭い視線を投げかける。「チェン、何かあった? 」
「 …… 命令拒否コマンドリジェクト …… サーバーが全部? 」そうつぶやくと彼はその原因を探る為にサーバーへと回答を求め、その答えは鐘が鳴るように素早く返ってきた。「サブコンピューターへ基地内からアクセス。ハンガー内のシステムモニターを技術主任が操作中、論理領域の殆どを使って ―― 乱数解析を行っています。 …… 何してるんだ? 」

                    *                    *                    *

 何かに憑りつかれたかのようにシステムモニターに向き合うコウにかける言葉がなかなか見つからなかった。その熱意と気迫にほだされて自分の認識番号とアクセスコードを渡しはした、しかしそこから先の事を手助けできるはずがない。
 彼をこれに乗せる訳にはいかない。いまは、まだ。
「無理よ、コウッ! こんな小さなサーバーで自動更新される乱数パスを探し当てるなんて不可能だわ! それにそんな事続けてたら論理回路が焼き切れてこの子もだめになっちゃうっ! 」
 表示されている文字形式はおよそ四種類、その組み合わせだけでも天文学的な数に及ぶだろう。そして一つの文字に設定されている共通鍵の暗号は恐らくジオンのAES(Advanced Encryption Standard;新暗号規格)で作られたものでその鍵長が何ビットでできているのかもわからない、自らの経験からそれは32ビットの倍数であろう事は予想はできるが全部が全部同じじゃない。コウの試みは実はニナが最初に行った作業でしかもその時には主電算室が生きていた、でも。
「あなただってそんな事できっこないってわかってるはずよっ! そんな奇跡に頼ったって ―― 」
「奇跡は …… おきない。起こすものなんだ、ニナ」
 真っ白な顔に脂汗をにじませながらコウはそうつぶやいた。再演算のリクエストに応えるこの基地のサブコンとメインサーバーはどちらも官給品とはいえニナが直々に手をかけた代物だ、キャリフォルニアにある物と比較しても何の遜色もないだろう。
 だが言語の簡素化と省略によって演算速度を極限にまで高めたそのカスタムをもってしても最初の一桁を表示するのが精いっぱい、アビオニクスを封印する暗証はすぐに次の乱数モードへと切り替わっている。
 それでも彼は決して諦めようとはしない ―― それがニナにはわかりすぎるほどわかってしまうのだ。定められた死を、運命を自らの手でひっくり返したコウが口にする『奇跡』。
 その言葉が正しいという事を ―― 必ず起こしてしまうであろう事をあたしはよく知っている。だからその奇跡が今起きてしまう事が怖い。

 ―― 怖いのよっ、コウッ!

 まるで彼の動きに呼応するかのように頭の片隅に潜んでいた黒い球体が目覚めたようにくるくると回りだす、自分の出番を待ちわびているような冥い聲が彼女に呼び掛ける。非常ハッチの前で唐突に思い浮かんだその発想が真実だという事をその球体は彼女に教えているのだ。
 解き放つのだ ―― 今がその時なのだ、と。
「届かないはずの手が …… 叶わないはずの願いが今ここにある。俺が、奇跡を、信じるには十分すぎる。だからもう一度」
「戦うというの? これに乗れなくなっているあなたが? 」コウがひた隠しにしてきた真実を思わず口を滑らせる形で咎めるニナ、驚いたコウが思わず彼女へと視線を向けた。
「ドクから聞いたわ、あなたはもう二度とこれには乗れないんでしょう? 乗れば必ず具合が悪くなる、続けていればいつか死んじゃうってっ! なのにどうして」
「 …… 守りたいんだ」
 苦しい息の下でかすかに微笑んだコウはそう告げて、再びシステムモニターと向き合った。「君だけじゃない、君が向き合った全ての仲間、全ての人 ―― 君が望む世界の全てを俺が守りたい。たどり着いた先に“ こいつ ”がいた事、これに乗る事が俺に与えられた宿命だと言うのなら。だから俺は ―― 絶対にあきらめない」

 また、あたしはそうしなければならないのか? 
 せっかく取り戻した彼との絆をまた自分の手で断ち切らなければならないのか?
 守りたい、あたしも。
 あなたの世界を、あなたの未来を、あなたの命をっ!
 あなたを確かめたあの喜びを、あの感激を泡沫の夢物語にしてまでも、たとえ自分がどんなに悲しみの淵に落とされたって。
 コウ、私もあなたを守りたいっ!
 あなただけをっ!
「やめて、コウ」

 キーボードに置かれた自分の手を握りしめながら彼女の放った声にコウはいつかの制御室を思い出す、しかしその時と変わっていたのはニナの声が異常に冷たい物ではなくまるで何かを懇願するような悲しみに包まれていた事だ。事実振り返った視線の先にある彼女の顔にはこの世のありとあらゆる苦悩が刻みつけられていた。
「あたしはあなたがそうなってしまった理由を知っている。あなたがあの三号機デンドロビウムに乗った時にシートの下にあった三本のインジェクター、二つのOSを同時に機能させるために操縦者の神経系統を過剰活性させるために打つことを義務付けられたそれは今でもあなたの体を確実にむしばんでいる」
 なぜその事を、とコウは思わず目を見開いた。操縦席のシートに置かれたルセットからの伝言をコウはニナに黙って投げ捨てた、もしそれが本当なら彼女は絶対に自分をそれに乗せる事はないとわかっていたから。
「それは操縦者を確実に三号機の機能を最大限に発揮する歯車にするための戦闘薬の試作品。それに言及したのは ―― 言い出したのはあのプロジェクトの全部を考え出したあたしの提案なのよっ。あなたをモビルスーツに乗れない体にしてしまったのは ―― 」
 吐き出す吐息がたまらなく熱い。未練も後悔も何もかも全てここにぶちまけなければ彼を救えないというのなら。
 私は喜んで彼に憎まれよう。
「あなたからモビルスーツをっ! 大事なもの全てを奪ってしまったのはこの私なのよっ! あなたの体に二度と消えない絶望を刻み込んだのは他の誰でもないこのあたし ―― あなたが命懸けで助けたニナ・パープルトンなの! だからっ! 」
 
 ガラガラと音を立てて心の中にある何かが崩れ落ちる。嵩を減らすごとに失われていく過去の思い出を掬い取る事もできずにニナは思わず目を閉じた。もう彼の顔を正面から見る事はできない、自分の犯した罪を ―― その真実を彼に告げてしまった以上。
 はじめからこんな奇跡が台無しになる事は分かっていた、それをご破算にするだけの罪をあたしは抱えたまま生きてきたのだから。それでも彼を守れるのならばその等価交換は私には十分に納得のいく取引だ。
「 …… あたしを助けるためにあなたがそんなになる事はない、あなたが命をかける資格なんて ―― そこまでしてもらえる資格なんて、あたしにはないのよ」
 ニナの掌から彼のぬくもりが消えていく。瞼でできた暗闇の中にあるハンガーの床がことごとく崩れ落ちて自分の体が呑まれていくようだ、ああ。
 このまま堕ちてしまいたい。あたしはこの暗闇の底で、たったひとりで ―― 。

 不意に奈落の底へとひた走る彼女の体を抱きしめるものがあった。強く、広く、そして暖かい。あの廊下で自分を抱きしめた同じ感覚に驚いたニナが思わず瞼を開くとシステムモニターの前にあった彼の姿がない。
「 …… あるんだよ、ニナ」
 優しく耳元で囁くコウの声にニナの瞳からまた涙があふれ出た。何度も頭を振って彼の言葉を否定しようとして ―― でも、声が出ない。
「君が考えたその薬がなければ俺はガトーと戦えなかった。そして今日、俺は君を助けられなかった」息がつまるほど抱きしめられた痛みがどうしようもなく、たまらなく。
「奇跡は、やっぱりあるんだよ」
 戒めを解いてそっと体を離したコウの顔は今までになく晴れやかだった。
「君が俺にしてしまった事とか、俺がモビルスーツに乗れなくなった事とか。そんな事はもうどうでもいい、俺はただ君を守りたい。そう望んだからここにいる」
「 …… 乗れば死んじゃうかも ―― ううん、ドクがいつか必ず死んじゃうだろうってっ! そんなこと ―― 」
「ドクがそう言ったんならそれは絶対にそうなんだろう。もうそれがいつどこで起こるのかは誰にもわからない」今も心の表層で漂っている老医師の死にざまに心を痛めた彼の顔が悲しげに歪んだ。
「でもそれがもし今日になってしまったとしても俺は必ず君を守る、エボニーとの約束が果たせなかったとしても、君だけは。必ず」

 そうだった。
 あたしが守りたいと全てを捨てたコウ・ウラキとはこういう人だった。
 気弱なふりをして誰よりも頑固で。負けず嫌いでお人好しで。でも立ちはだかる困難や理不尽にはその全身全霊で挑みかかって必ず何かを勝ち取って見せた、たとえそれが負け戦であったとしても。
 その鋼のような彼の意志に、あたしはあこがれたんだ。
 世界なんてどうなってもいいじゃないとアデリアはあたしに言った。
 コウの代りに守って見せるとモウラはあたしに誓ってくれた。
 でも彼の代りなんてこの世界のどこにもいないって事をあたしは身にしみて知っている。あたしの犯した罪すら赦して手を取ろうとする彼はもうあたしの全てだ。
 今この時も。
 そして明日という日を望めるのならそこから先に続く限りある未来のたどり着くその瞬間までも。

『彼が死ぬのなら、あたしも生きてはいない』

 あの日あたしはガトーにそう言った ―― そうよ、ニナ。
 コウがそう思うのなら、あたしも覚悟を決めなきゃ。
 彼を死なせたくないと願うのならば。
 彼と共に終わりを迎えたいと望むのならば。
 あたしが選択すべき道は ―― 。

「あたしが、パスを開けるわ」



[32711] Answer
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/06/30 21:35
 頬を濡らした涙を袖で拭った彼女が呟くその言葉にコウは驚きを隠せなかった。たとえ小さくとも人には全く届かない領域で演算を行う供給端末サーバー、果てしない進化を遂げる人類の英知の塊にも解析できないその暗号を彼女は家の鍵でも開けるかのように言う。
 しかしコウはそれが嘘偽りや出まかせの類のものではない事を知っている。他の事ならともかくプログラムやシステムに関して職人として携わってきた彼女が嘘をつく必要はない。モビルスーツの運用に一切の妥協を許さなかった自分と同じように彼女もまた専門職としてのプライドがあるのだ。
 そんな彼女が自分に向かって口にした『開ける』 ―― 『手伝う』でも『試す』でもない、つまりニナはこの暗証を自分の力で即座に開くことができると言っている。それを実現するための様々な可能性を脳裏で思い浮かべるコウ、正当な物から邪な物まで数々立ち並ぶ中で彼はすぐにその文言へとたどり着いた。
『 ―― 彼女が『ニュータイプ』だからだ。オークリーが抱えた秘密兵器、それがニナ・パープルトンその人なのだ』
 電話の向こうに立つその男から聞こえてきた不愉快な言葉。一企業に勤めていた、他の人よりほんのちょっと才能があるシステムエンジニアのどこかで眠ってきた神秘の力 ―― 誰もが夢物語だと思いながらもうつつに現れたならと思い焦がれる、世界を変えていく力。
 本当に? ニナが?
「でもそのかわり条件がある」涙を拭き終えたニナは眩しいくらいの輝きに溢れるその蒼い瞳を真っすぐにコウへと向けた。「あたしがあなたと一緒にこの機体に乗り込む。それが条件よ」
「ばかなっ! 君は自分で言っている事がわかっているのか!? 俺がいつどうなるかもわからないのにそんな事っ」
「だからだわ」そう言うとニナはそっとコウの体に両手を回して自分から抱きしめた。耳を押しあてた分厚い胸板の下で彼の鼓動が速くなっていくのが聞こえる。初めて自分から手にしようと望む、愛する者の命の営み。
「あたしがそこにいる限り、今日のあなたは死ねない」
 彼女が放った覚悟にコウの体が頭の先までしびれた。それは命をかけるというよりも命を共にするという、重い ―― 。
「 ―― 今日だけじゃない、あたしがあなたの傍にいる限り、あなたは死ねない …… あたしがあなたを、死なせない」

 あの日fateful day,
 オークリーのあぜ道で自分自身に誓ったあの言葉をあたしはもう一度、心の底からあなたに誓う。
 あたしはあなたの ―― 本当の枷になる。

                    *                    *                    *

 スカイブルーの制服に身を包んだ彼女は誰よりも真剣で自分が目指した目標に対して貧欲だった。一号機以下の試作機全ての基礎理論を構築したアナハイムのシステムエンジニア、そして二号機奪還作戦に帯同するためにアルビオンへと乗り込んだただ一人の民間人。ガトーになすすべもなく退けられた事への劣等感と仲間を殺された復讐心で一号機に乗り込んだ自分を体のいいテストパイロットとして利用した彼女 ―― コウはその事を知っていた。
 だが一号機の運用試験という名の実戦を通じて繋がる彼女の本当の姿は決して冷淡冷酷な責任者ではなく、人も機械も共に同じ次元のものだと平等に愛情を注ぐ博愛精神に満ちた物だった。次々に降りかかる難問や障害 ―― それはコウがシーマに宇宙で一方的に袋叩きにされた時も含めて ―― を乗り越えて必ず最適解を導き出す、そこに至るまでのアプローチがどんなに苦しくても歯を食いしばって這い上がろうとするあり方。そしてこれ以上ない最高の答えを探そうとするその生き方がコウにはとても眩しかった。どこかあいまいな覚悟で物事をやり過ごそうとする自分とはまったく対極にある彼女の生きざまは彼の人格を、戦い方を時と共に変貌させていく。
 それが彼女の影響であると分かった瞬間にコウは彼女に惹かれた。

 コウはその全てを落着直前のアイランド・イースで失った。傷を負ったガトーと共に自分の目の前を通り過ぎるニナ、ハッチの向こうへと消えていく二人の背中に手を伸ばす事さえできずにただ理不尽を嘆くだけの自分。不甲斐なさを噛みしめて彼女が心変わりした理由を自分の内へと自問自答する日々は、あの小道で出会う瞬間まで続いた。
 作り笑いを浮かべながら自分の下へと駆け寄ってくる彼女は自分が憧れたニナではなく、最後に出会った時の彼女のままだった。そして彼女が頼ったガトーはもうこの世にはいない。
 変わってしまったニナを見てなんとか元の彼女に戻ってほしいと願い、しかし自分の拙い人生経験ではどうしていいのかもわからない。唯一できる事と言えば ―― 。
 モビルスーツに乗る、と彼女に言った。

 あんなに強がりだった彼女が自分に向ける愚かしいまでの優しさと一途な思いやり、出会った頃には知らなかった彼女の内面に触れた自分に訪れた突然の病。モビルスーツに乗ってもう一度あの日の彼女を取り戻したいと思う願いも誓いも全てがだめになったと思い知らされた時にコウは存在価値を見失った。彼女の世界に加わることすらできなくなった自分の居場所はもうどこにもないのだと ―― そして何よりも自分の価値を値踏みされてしまう事が怖かった。対等であったはずの天秤が大きく傾いてその惨めさを押し隠すためにいつも喧嘩に明け暮れる自分を支え、慰めてくれるニナ。
 苦痛と屈辱の日々 ―― 逃れるために選んだ予備役、それが二人のために一番正しい道だと信じて。

 その全てが間違いだったのだとコウは腕の中にいるニナを抱きしめて気づいた。
 自分の決意も覚悟も、それら全てをねじ伏せる強さを掲げる彼女こそコウが取り戻したいと願ったあの日のニナ・パープルトンだった。大海原で波頭を切り裂き目的の港へと突き進む巨大で優雅な大帆船ブリガンテイン、邪魔しようとする何もかもを蹴散らしてひたすら突き進む彼女がそこにいる。代償として二人が支払う物は ―― お互いの命。

 突然脳裏に浮かんだその閃きはあまりにも眩しく、コウは思わず目を閉じた。それでも瞼の裏にひとりでに書き綴られていくあの一節。
“ 一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにて在らん、もし死なば多くの実を結ぶべし。おのが生命を愛する者はこれを失い、この世にてその生命を憎む者はこれを保ちて永遠の生 unless a kernel of wheat is planted in the soil and dies, it remains alone. But its death will produce many命に至るべしnew kernels. ”。

 枯れた麦の穂を手にしてからそれを知りたいと思い、しかしどうしてもわからなかったその言葉 ―― ヨハネという伝道者の手で人々へと伝えられた福音は三年にも及ぶ彼の過ちを優しく静かに解き明かす。
 未来こうふくを得るという事はすなわち自らを犠牲にしてこそ初めて手にすることができる報酬である、と。

                    *                    *                    *

「頼む、ニナ」
 その声に、その言葉に何の迷いもない。コウの声にはっと顔を上げたニナは心の底から嬉しそうな笑顔で応えた。長い睫毛の下から見上げる青い瞳は光を放ってコウの瞳を貫き通す、間違いない。あの日のニナだ。
 ニナは力強くうなずくとコウの体を解き放ってすぐにシステムモニターへと近づいた。最初に見た時と変わらない十六文字の認証コードは今も激しくモニターの上を踊り狂っている、だがそんな物にはなんの意味はない。もうラップトップを使わなくても ―― USBを差し込まなくたって答えは頭の中にある。
 黒い球体から次々に吐き出されて並べられる文字列を、あたしはその通りに打ちこんでいくだけ。

 電卓のキーを叩くように何の迷いもなく次々に文字を打ち込むその姿にコウは圧倒された。何の脈絡もないアルファベットの羅列が正しいと認められた時に浮かびあがる真の認証コード ―― それが一体何を意味しているのか興味深々でニナの肩越しから窺うコウ。
 しかし第一認証である最初の八ケタが合致した瞬間に組み変えられる文言を見た瞬間に二人の顔色がサッと変わった。
 忘れる事のないその言葉、二人の未来を変えた道標。
『STARDUST』

 第二認証のパスワードとして現れる八桁の数字をコウは見る事ができなかった。いや、見る必要もない。
 真っ暗になる視界と遠ざかっていく意識の底に刻まれるその数値はもう決まっている。心の趣くままに蹂躙し、その命をことごとく握りつぶしてもなお血を欲するように戦い続けて全てを失った ―― あの日。
 00831113。
 
「コウッ!? 」糸の切れた人形のように背後で崩れていくコウを慌てて抱き止めようとしたニナがもろともに床へと倒れ伏した。必死で名前を呼び掛けながら何度も体を揺さぶる彼女の背中に向かって、その日の最後に誰かの手によって設定された難攻不落を誇る暗号認証は回答者の健闘を称えるかのようにその文言を誰も見ていないモニターへと書き記す。
“ 認識番号、000124。パイロット、エギーユ・デラーズ本人と確認。 ―― お帰りなさい、大佐殿 ”

                    *                    *                      *

 深く、深く。底知れぬ暗闇。
 強い決意も、必死に手にしようとする望みですらもかき消してしまう冥い深淵が彼を包み込んだまま離さない。
 それはコウ・ウラキという人格をコウ自身が否定した事による意識の喪失だった。兵士とは命令一つで人の命を奪う可能性のある職業だと士官学校でも常に教わってきた事でもあり、デラーズ紛争の際には実際に自分の掌下で目の当たりにしてきた事実だ。しかしあの日、敵とは比較にならないほどの強大な力を手に入れた彼は自分の預かり知らない領域でそれを存分に駆使し、ガトー以外の命を害虫でも駆除するかのようにもろともに捻り潰した。
 連邦初のモビルアーマーに連邦軍で一番初めに搭乗したパイロットであるコウ・ウラキ戦時中尉。しかし初めてであるが故に運用方法を説明する事はできてもそれに『乗る』という事がどういう意味を持つのかという事を誰も彼に教える事ができなかった ―― 『戦闘時間単位における総撃破数』もその為につけられた二つ名も彼にとっては名誉ではなく、自分につけられた『罪状』。
 だから彼は紛争の後に行われた軍法会議で検事に向かって口を閉ざした、自分の犯した罪がそんなあやふやな物ではなくはっきりと『殺人』だと告げてくれた方がどんなに楽だった事か。

 心に深く刻まれたその傷跡、極めつけの衝撃。一瞬で人事不詳の領域まで誘うそれがコウの不退転の決意に立ちふさがる最後の、そして最強のトラウマだ。自らを英雄ではなく殺人者と認めて生き続けてきた彼にとってあの日の出来事こそが原初の罪。
 だが今にも昏りに落ちそうな意識の底で必死に抗おうとする何かがある、まるでパンドラの匣に残された希望のように強く彼の心に呼び掛ける、何か。

「貴様はどちらを選ぶんだ、コウ・ウラキ? 」

 それは彼が忘れようとしても絶対に忘れられない、懐かしい聲だった。

                    *                    *                      *

 照りつける日差しと無機質なコンクリート以外何もなく、そして誰もいないトリントン基地。その声の主は穏やかな微笑みを浮かべてコウから少し離れた場所で腰に両手をあてたまま立っている。
「 …… が、トー …… 」
 じかに出会ったのはたった二度、二号機強奪の直前とあのソロモン。だがたとえ連邦軍の制服に身を包んでいても彼にはそれが誰だかはっきりとわかった。そして驚くことに他の全てを置き去りにしてまで自らの心を埋め尽くしていた妄執の焔がどこにもない。
「久しぶりだな、コウ・ウラキ」
 驚いたコウは反射的に直立不動になって右手を額へと押しあてる、その光景を見たガトーは思わず声を上げて笑った。「おいおい、俺は貴様の上官でもないしむしろ敵だった男だぞ? 貴様の礼を受けておいそれと返礼する訳には ―― 」
「いえ。それでも …… 今はっきりとわかりました。自分とあなたは敵同士ではありましたが、自分はどこかで …… あなたの事を尊敬していたのだと」
「おまけに敬語とはな。いつぞやの貴様とは全然違う ―― いや、むしろそれが本当の貴様だという事か」そう言うとガトーは緩やかに右手を額へとかざした。
 
「自分はどうしてもあなたにお聞きしたい事がありました」自販機から転がり出たコーラの瓶を投げて寄越すガトー、コウは冷たく冷えたそれを片手で受け取りながら真剣な眼差しを彼の背中へと向けた。ん? という表情で振り返りながらガトーは胸ポケットから取り出したツールで器用に蓋をこじ開けるとそれをコウにも投げ渡した。
「むう、地球圏のこれはどうにも合成物が多すぎる、ジオンのやつはもっとスパイシーで体に優しい感じがするんだが」一口飲んでこぼす感想にコウの表情が思わずほころぶ。「ま、今さら体に優しいどうこう言える身の上ではないがな ―― で、聞きたい事とは? 言っておくが俺もここに長くいられるわけではない。士官ならば尋ねる事は手短に、その一言で真意を自ら解き明かせ」
 やはりこの人は指揮官として本物だ、と心の中で呟いたコウは胸襟を正してその表情を引き締めた。
「 ―― どうしてあなたはそれほど誇り高く立っておられる事ができるのですか? 『ソロモンの悪夢』とまで連邦に二つ名を名づけられるほど多くの兵士を殺してきた、あなたが」
 それを聞く事は敵国の教本にまで記載された撃墜王 ―― ジオンにとっての英雄に対して不敬である事は十分に承知している。『英雄と殺人者の違いは戦争かそうでないか』という事はコウ自身もよく理解しているが、しかしそれはあくまで当事者ではない人々からの評価であり当の本人はその事についてどう思っているのか? 「俺の手は血まみれです、どんな理由があったってその事に変わりはない。自分さえいなければそこで死すべきではない多くの命もあったはず、降りかかる火の粉を払うだけならあれほど大勢を殺す必要さえなかった。自分はどうすればよかったのか ―― これからどうすればいいのかさえもわからないんです」
 苦脳に満ちて視線を落とすコウの表情をガトーは優しく、ただ見守っている。「できることならば自分に教えてほしい、あなたとの違いを。英雄であるあなたと人殺しでしかない自分との違いは何なんですか? 」

「貴様は正しい」ガトーはそう言うと嫌がっていたコーラを一口飲んでから笑った。「ジオンにも深紅の稲妻やら白狼やら二つ名持ちが幾人かいるが皆必ず貴様と同じ悩みで苦しんだ、そして俺も例外ではない」
 えっ、と驚くコウが顔を上げた先にある彼は少しはにかんだ表情をしている。「驚くことはない、俺も貴様も国や主張は違えども同じ人間だ。触れ合う魂の距離が近くなればなるほどその悩みは深くなるのだ、命が軽い戦場では特にな ―― では俺からも尋ねよう。もしそれを選ばなければ貴様は俺に届いたか? 」
 答えるまでもなくNOだとコウが頭を振る。「命が惜しければ立ちふさがらなければいい、逃げる選択も彼らにはあった。だが貴様と同じく自分のせいで命を落とした連中は決してそうしなかった …… 貴様も逃げる奴らを背中から討つ趣味はあるまい? 他の奴らは知らんがな」
 俺とおまえは同じなのだと含みを持たせて告げる彼の言葉にコウは深くうなづいた。
「俺と貴様の手、どちらも血で染まっている。しかしその違いは明確だ、自分が進むその道の先にある夢を語れるかどうか ―― それが英雄と殺人鬼の違いだ。誰はばかる事のない信念がある行いに人は頭を垂れて命を賭けてつき従い、卑劣な行いには唾を吐きかけ背を向ける …… だがな、そうして皆の先頭に立つ者を『英雄』などと美辞麗句で他人はもてはやすが本当は違う」
 強い眼差しだった。コウはガトーの本当の強さが技量などではなくその精神に由来するものだと知った。
「自分やその世界、未来に危害を及ぼそうとする理不尽に立ち向かおうとする者全てが英雄だ、その栄誉ほまれは先頭を行く者が志半ばで倒れた後に次の者へと受け継がれていくのだ」
 文言は違えども彼の言葉が意味するものと同じ言葉をコウは月での戦いで耳にした記憶がある。
「矜持、ですか? 最期にケリィさんが教えてくれました。あなたに近付くごとにそれを持った仲間が立ちふさがる、と。それでも自分が間違っていないと信じるのならそれを貫き通せとも」
「今の貴様と同じ事で悩んでいた時にそう言って励ましてくれたのも、あいつだ」
 そう言うとどこか懐かしそうな表情を浮かべて青く澄み渡った空をガトーは見上げた。
「だから前を向け、コウ・ウラキ。過去の罪に囚われるな、自分の選ぶ道が間違っていないのだと心の底から信じるのならば」

                    *                    *                      *

 泡の弾けるような音と共に世界は元の暗闇へと戻った。ただ違うのはそこにある意識が少しづつ上へと浮きあがっていくような感覚。
 “ どんな強者にもどんな偉人にも等しく与えられるもの、それが死だ ” 目の前にある深い闇の底から彼の声が耳に届く。 “ ならばそれまで与えられた生をどう使う? …… 背を向けて力尽きるその時まで逃げ回るのか、それとも自分がそうでありたいと望む物を守る為に、戦い続けるのか ”
 全身の感覚が戻ってくる、耐え難い苦痛と共に自分の名を呼ぶ彼女の声が水面から。
 “ 貴様はどちらを選ぶんだ、コウ・ウラキ? ”

 どうしてあたしはパスワードなんか解いてしまったのだろう、と体の下で震えるコウの体を掻き抱きながらニナは後悔した。白眼を向いて口角から泡を吹く、てんかんの症状をこれ以上なくひどくしたその様を見て彼を苛んでいた不調の正体に自分の想像力のなさを思い知る。機能停止ハングアップなどとは次元の違う、これではまるで生死にかかわる症状ではないか。
 どうしてもっとドクにいろいろ教わらなかったのか、連邦屈指の救急救命医の傍にいながら自分が教わった事は傷の手当だけ。他には何もなかったのかと膨大な記憶の中から使えそうな項目を拾い出そうとしてもそのアーカイブにある物は乏しかった。焦った彼女が思わず掴んだ知識はまるで見当違いの代物 ―― 二つのOSの統合による矛盾の解消、火器管制の制御に於ける命令系統の単純化、各状況下に最適な武装の自動選択プログラム、そんなのどうでもいいっ!!
 あたしが今欲しいのはそんなんじゃないっ、人を ―― 彼を助ける知識なのよこの役立たずっ!! 消えてしまいそうな命を目の前にして何もできない無力な自分が疎ましい、それはトンプソンやマリアの死を見送った時と同じだ。人の命を奪う事は簡単に思いつくくせに助ける事はできないなんてなんて酷い!
 あまりの悔しさにニナの眼からまた涙がこぼれおちる、それでも何とかコウを助けたいと願う彼女の眼は一心不乱に震え続けるコウの姿を捉え続けた。彼の背中に置かれた手が蘇生を求めて何度も往復を繰り返して声は幾度となく彼の名を呼び続ける、頬を伝う涙が顎の先から真っ白になった彼の頬にぽとりと滴り、小さなしみを作る。
 
 その変化は突然に訪れた。
 今までニナの体さえも震わせていた強烈な痙攣が急に収まってコウの眼が何度かの瞬きを繰り返して大きく開く、そのあまりの変わりようにニナは彼の体を大きく揺さぶった。
「コウッ! しっかりしてっ! 」叱咤にも似た彼女の声に体の下のコウは何度か浅い呼吸を繰り返す、それでも動き出した瞳はゆっくりと動いて泣き顔を晒したまま覗き込んでくるニナをはっきりと捉えた。「 …… ニ、ナ …… 」
 息も絶え絶えで彼女の名を呼ぶコウの両手が床に倒れたままの体を起こそうとしている、慌てたニナは彼の体にしがみついてその先へと進む事を押しとどめようと必死で叫んだ。「だめよコウッ! あたしの事はもういい、もういいからっ! 」
 しかしそれでもコウの腕は止まらない、こんな死に体のどこにそんな力が残っていたのかとニナが驚くほど圧倒的な膂力が体を床から引きはがす。ペタンと床に尻餅をつくニナを置き去りにしたままコウは震える両ひざに手を押しあててそのまま一気に立ち上がった。
「コウッ! お願いだからもうこれ以上はやめてっ! そんなことしたらあなたが ―― 」
 よろよろと再びシステムモニターへと歩を進めるコウの背中を追いかけてニナが立ち上がる、その彼女の眼の前で弱った体を支えるようにパネルへと両手をついて支えた彼はじっと目の前のモニターを見つめたまま呟くように言った。
「もう、大丈夫だ …… たぶん、やれる」

 あなたの言うとおりだ、ガトー。
 俺はもうとっくに選んだ、彼女の未来を守る為にこの命を使い切ると。

「ニナ、この機体の全部のデータを呼び出してくれ。操作マニュアルと …… スペック一式、そして操縦系統の、セッティングデータをプリントアウト」

 少しづつ戻っていく生気にニナは驚きながらもすぐさまコウの言うとおりにモニターへと取り付いた。よろけるコウに肩を貸してキーボードへとコマンドを打ち込むニナの耳にコウの嬉しそうな声が忍び込んでくる。
「夢の中で …… 彼に会ったよ」
 ニナの手が思わず一瞬止まった。コウに気づかれないように平静を装う彼女、しかしその眼は遂にその日が来た事を知って悲しみに打ち震える。
「選べ、と言われたよ。 …… いい人なんだな、彼」

 そうよ、コウ。
 彼はとてもいい人、
 でも今のあたしにとっては彼はこれ以上ない最悪の相手。
 あなたが「彼」によって目覚めてしまったというのなら。

 ニナはガトーの手で撒かれた種が、ついにコウの中で芽吹いた事を知った。



[32711] Assemble
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/07/23 10:48
「 …… アイドリングの音がする」唐突に呟いたジェスがまるで猫のような身のこなしで立ち上がるとそのまま足早にハッチへと近付く、一瞬あっけにとられたモウラだったが彼女がロックハンドルに手をかけた所でやっと我に返った。
「ちょっ、なにやってんのあんたっ!? 」
「ハンガーでエンジンの音がする ―― 間違いないよ、だってあたしが直したやつだモン」今にもロックを外そうとするその手をやっと抑え込んだモウラに向かってジェスはあっけらかんと答える。確かに彼女はここに手伝いとして入った時に腕試しとしていくつかのエンジンを整備させた事があり、そして驚いた事に彼女が手掛けた物は他のベテラン整備士が手掛けたどれよりも故障が少なく安定した性能を維持し続けていた。当然調子の悪くなったエンジンは次々に一番実績のある整備士に回される訳で、いつの間にかオークリーの実働機械の約半分が実は性格にひと癖もふた癖もある小娘整備士の手で仕上げられた物に変わっていた。
「エンジン、てあんた ―― 」「あれか? ハンガークイーンに繋いだままの電源車の事か? 」部屋の隅で他の仲間と話しこんでいたアストナージが何事かと近寄って来てすかさず二人の会話に割り込む。
「ハンガークイーンって言うなって言ってンでしょう? あれはあたしのなンだから」ギロッと睨んだジェスが訂正しろとばかりに憤慨するが、痛いほどの視線も慣れっことばかりアストナージは二人の傍を通り過ぎるとそのままハッチの扉へと耳を押しあてた。
「 …… 間違いねえ、電源車のエンジンだ。一体だれが ―― ? 」
「まさかここまで運良くたどり着いた誰かがそれでここから逃げ出そうって? 」頬に手を当てて小首をかしげながら最も信憑性が高く物騒な予測をジェスが呟くと、思わず顔を見合わせたモウラとアストナージは異口同音に同じ言葉を吐いてハッチのロックを思いっきり回した。「そんなの自殺行為じゃんっ! 」
 勝手口を溶接して閉じてしまった以上ハンガーへの出入りはマルコとアンドレアが固めている正面しかない。だがその場所は今やこの戦いの最前線、とても鈍重な電源車など抜け出せるはずがないのだ。「急いで止めるよ、アストナージっ! 」扉を開いていち早くハンガーへと飛び出すモウラを追ってジェスが続こうとするが、あと一歩のところでその襟首を捕まれた。「ちょっと、なにすンのよっ!? 」
「お前はここでお留守番だ、興味本位で大人の喧嘩を覗きに行くんじゃねえ。 ―― デニスっ! ここ任せたっ! 」
 すっかり思惑を見透かされたジェスが悔し紛れに舌を出してやり返すとニヤリと笑ったアストナージはその勢いのままハッチを閉じてモウラの後を追いかけた。

 入口から吹き込んでくる硝煙と激しい震動が起こす砂埃で視界が悪い、それでもモウラの眼は置き去りにされたままの電源車の輪郭と荷台で光る赤いランプを捉えた。一体だれが、と運転席へと視線を移動する彼女だったがそれを見つけるより先にシステムモニターの前に立つ二人の人影に気がつく。
「ばっかやろうっ! てめえらなに考えてやがるっ!? 」モウラが声を出すよりも早く背後のアストナージの怒声が飛びだして、それに反応して振り向いた人影は輪郭しか分からない。だがその両肩で大きく揺れた頭髪がモニターの光を受けてかすかに金色に煌めいたのがモウラの眼にははっきりと見えた。
「 …… に、な? 」
 呟いた声が頭の中を真っ白にする、でもそんな力がどこから湧いてくるのだろう? 全力の先にある得体のしれないなにかが両の足に漲ってモウラの両足を懸命に回し、もうすぐ肩を並べる所まで追いついてきたアストナージを一気に置いていった彼女は夢なら覚めるなとばかりにその人影へと飛びついて思いっきり抱きしめた。
「ニナぁっ!! 」
 きゃあ、という驚きの声ごと胸に掻き抱いたモウラがまた子供のようにオンオンと泣きわめく、滴り落ちてくる涙と両手にこもった力のなすがままにニナは体を預けてモウラの背中へと手を回した。「ごめんモウラ、ほんとに ―― ごめんなさい」
「やだぁ ―― もうやだよぅ、なんであんなことあたしにいうんだよぅ? あたしほんとに …… ほんとにあんたと死のうと思ったんだからぁ。今度そんな事言われたら、あたしもう ―― 」
 嬉し泣きに震えるモウラの背中をニナの手がまるで子供をあやすようにポンポンと叩いている。思わぬ形で出くわした感動の再会シーンにアストナージが思わず鼻をすすりながらもう一人の人影へと話しかけた。
「くそう、ああいうのはいくつになっても涙腺にきやがるっての …… さ、あんたもよくここまで生き残った。ここも安全たァ言えねえが俺たちと一緒に退避壕で ―― 」
 声に反応してゆっくりと振り返る人影を見たアストナージは思わず息をのんでその先の言葉を失った。背格好が同じというだけで袖から覗く筋肉は繊維の塊、胸板はここを出ていった時より遥かに分厚く髪は無造作に伸びている。しかしそこに立っているのはかつてこのオークリーで甘酸辛苦をともに分かち合った、彼だ。
「やあ、アストナージ …… 変わってなくてうれしいよ」弱弱しく答えたコウに気づいた彼はすぐに心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべて頼りなくふらつくその体に肩を貸した。「 …… 伍長は少しやつれましたかね? ほんとは敬礼しなきゃなんだけど肩をお貸ししますからその代わりという事で」
「コウ」
 モウラの声に顔を向けるとそこにはなんとか泣きやんだ体のモウラが立っていた。「この前は、ほんとにごめん。あたしじゃあんたの代りはできなかった …… ニナにもそう言われたよ」
 差し出された右手をコウは迷う事なく握りしめた。あの時は心の底から忌々しく思った肉刺だらけの掌が今はこんなにも心強く感じる。「そんな事はないよ、今までありがとう ―― 俺もすまなかった」
「なんかみんな謝ってばっかりだ、中坊じゃあるまいし …… それより早くあたし達と退避壕に非難しよ? ごらんの通りハンガーはすっかりもぬけの殻だし、後は「バンディッド」さん達の手腕にお願いするしか ―― 」

 そこまで話した時モウラは自分の見る景色に強烈な違和感を感じた。退避壕へと非難した時と同じ景色、同じ配置 ―― しかしどこかが変わってる。
 なんだろう? …… そう言えばなんでこの二人が揃いもそろってシステムモニターなんぞ覗いてた? 恐らく連邦でも何人といない最新鋭機の開発システムエンジニア、方やもう一人はそれを操って二つ名まで戴いた『幻の撃墜王』、それがどうして動かないハンガークイーンに繋がれたままの ―― 。
 もやもやと漂う胸騒ぎが目の隅にぼんやりと映るモニター画面に向かって彼女を歩かせ、なにげなくその表示に視線を落す ―― しかし次の瞬間にモウラの眼はそこから離れなくなっていた。表示されている文字と文章、はっきりと読めるがもはや理解はできない。
「な、なんでこの機体の封印がっ!? アクセス許可、起動ディスクのデータアップロードってどういう事っ!? 」
「は …… はいぃっ!? 」
 素っ頓狂な声を上げたアストナージがコウに肩を貸したままその画面をモウラの脇から覗きこむとそこには確かに判読可能で理解不能な文字が整然と並んでいた。過程を全て飛び越えて現れた不可解な結論はアビオニクスに直結するモノアイが点灯する事でセットアップが可能になった事を眼下の四人に教えている、頭上で怪しく光る赤い輝きを見上げたアストナージはぽかんと開いた口を動かした。
「 …… 今夜は奇跡の大安売りか? どういう事なんだ、全く」
「詳しい話はあとよ」

 背後で響くその声と言葉は今までともに長く付き合ってきたモウラとコウにしか分からない ―― いや、コウはもうとっくに知っている ―― 変化を秘めていた。多くの出来事の中にうずめられた遠い遠い過去、だけどどんなに世界が変わったってどんなに歳を取ったってその日の事ははっきりと覚えているだろう。
 間違いない。他人に有無を言わせぬこの物言いと込められた気迫。あたしは何度もそれを聞いた、リバモアで、トリントンで、そしてアルビオンの艦内で。
 肚を決めた時のニナの、声。
「この機体を今から実戦に出します。技術主任として整備班に要請 ―― モウラ、整備をお願い。アストナージは整備班の中から有志を募って」
「! 主任そりゃ無茶だっ! 動き出したっつっても何年動いてないかもわかンねえし慣熟だって怪しいンですぜ!? そんなのいきなり鉄火場に放り出すなんて」
「無茶も無理もいつもの事、でももうそんな事言ってられない。あたしはコウとこの機体に乗り込んで細かい微調整は戦闘中に行うつもりです、だからみんなはこれを動かしてくれればそれで ―― 」
「ちょっと待ちなよニナッ! 」
 一度言い出したら聞かない。でも無駄だとわかってても言わずにはいられない。「あんた今の状況を考えてみなよっ! ハンガーのすぐ外が最前線でマルコとアンドレアもしょせん時間稼ぎだ、それにアビオニクスが動いたって言うだけでこいつの炉は消えたまま。火を入れようにも非常用の電力だけでどうやってプラズマを ―― 」 
「 ―― これ、使いますぅ? 」

 空気を読まない能天気な声の主は赤い髪の毛に穏やかな ―― 来た時から知っているモウラとアストナージには分かる、こいつがこんな声をだした時は絶っっ対にまともな事を言わない ―― 笑顔を張りつけてトコトコと現れた。後ろ手に引いた運搬台車には彼女の背丈ほどもある大きなカートリッジが乗せられている。
「壊れてるわけじゃないんだし炉に火さえ入ればそれでだいたいオッケーってことでしょ? ちょうど電源車も動いてンだしラッキーって感じ? 」
「あ、あんたっ! 退避壕でおとなしく ―― アストナージこらあっ! 」
「まあまあ。先任叱っちゃかわいそうですって」そう言うとジェスに向かって何度も口をパクパクさせるアストナージに片目を閉ざしながらペロッと舌を出して応える。まるでそれが合図であったかのように逮捕壕のハッチが開いて中から大勢の男達が飛び出してきた。
「それに有志って話でしたけど …… 全員でも? 」

 あっという間にシステムモニターの傍へと列をなす総勢三十人の仲間。呆気に取られてただその光景を見つめるしかないモウラとアストナージに向かってジェスはその歳に似合わぬ凄味のある笑顔で言った。
「あたしの子が最後の可能性なンでしょ? じゃあそれに賭けましょうよ、ここでしり込みするような臆病者は班長の下には誰もいないそうです。ね、班長? 」

 ” 本当に。心の底からこいつが労働組合を立ち上げなかった事に感謝するよ。この小娘が本気を出したらルナツ-の大所帯でも一つにまとめかねないんじゃないか? ”

「こんな時にあんたみたいな子がここにいたって事も今夜の奇跡の一つなンかね? …… 恐れ入ったよ、ジェシカ・アリスト『ニ等兵』」
 モウラが告げたその呼び方に思わず瞳を輝かせるジェス。「お? 階級つきます? お給料上がって? 軍属扱いのお手伝いさんじゃなく? 」
「ばーか、有事における戦時階級だ。仮にも正式に軍用機を任せるんだ、民間人のままだといろいろ都合が悪いだろ? ―― アストナージっ!! 」
「ったく、どいつもこいつも命を粗末にしやがって」内容とは裏腹にニヤリと笑った彼は帽子の庇を後ろに回すともう一度深く被りなおした。「いいかっ! こっからは軍の命令も縛りもねえ、ただのボランティアでおまけに命の保証もねえ。それでも俺と班長についてくるってバカは姿勢を正して右手を挙げろっ! 」
 アストナージの号令一下に無言で掲げられる整備班全員の右手 ―― だがそれを確認する前にアストナージは彼らに背を向けた。そんなの確認しなくてもジェスの言った事が自分も含めてこの整備班全員の総意だ。「整備班全員、班長と主任の無茶にお供しますっ! 中尉、ご指示をっ! 」

 全員から立ち上る気迫に圧倒されるコウとニナ、思わず息をのむその光景の前に仁王立ちで大きく胸を張ったモウラは二人の方へと振り返った。「みんなであんたらの無茶についてくってさ。一体どこの誰がこんな所に集まってきた半端者達をこんな風にしちまったんだろうねぇ? ―― みんな、覚悟はいいかいっ!? 」
 モウラの渇で一斉に上がる鬨の声がハンガーの空気を大きく揺らす。「キースとアデリアの班は機体右、マークスと予備機の班は左側だ! 伍長と主任がコックピットチェックを始める前に全ブースターと駆動系の点検を終わらせろっ! サスペンションとシリンダーは油量・油圧・劣化度を調べて危ないと思ったらすぐに新品と交換、数が多いけど絶対に見逃すなっ! ―― ジェスっ! 」
「アイ、マムっ! 」
「技術主任と一緒にコックピットで火器管制及び操作系の全部をチェック、主任が調整に入る前にお前は電装系を担当しろっ! この機体の一切の責任は担当者のお前にかかってる、絶対にミスを犯すなっ! 」
「もっちろん。いいだしっぺの名に賭けてこの子をきっちり仕上げて見せますよ」モウラの檄をさらりとかわして落ち着いた声で応えるジェスだがこういう時の彼女こそ最も完璧だという事をモウラとアストナージはよく知っている。直近では壊れたアデリアのザクをきっちり6時間で仕上げて見せたあの手腕、『オークリー最速』は伊達じゃない。
「たく、あんたは ―― アストナージっ! 」「ヤー」
 彼の返事を受けたモウラが思わずニヤリと笑う。それはかつて宇宙軍に所属していた整備兵同士が交わした挨拶だ。合わせた視線が震えているのがよくわかる、怖いのか? ―― いや。
 臨戦態勢下での整備なんていつ以来だろう、高まる緊張と共に昂る高揚感で今にも動き出しそうな体を理性が必死で押しとどめている。まったく、何度痛い目に会ってもあの日々の事を忘れないなんてどうしようもない。
 あたし整備士って種族は。
「融合炉及び動力系、モーター関係のシステムチェックはお前の得意分野だ、全部一任する。それと野戦カートリッジの取り付けと点火リモコンの設定もだ! 」
「ヤー、マム」すっと上げた右手の何気なさが幾度も修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の証。小さくうなづいたモウラが同じように右手を掲げてから整列した仲間に大声で叫んだ。
「さあ、やるよっ! 日ごろ鍛えたあんたらの腕を久しぶりに帰ってきた伍長によっく見せつけてやンな! 」

 蜘蛛の子を散らしたように走り出した彼らが自分の道具を手にとって一機のモビルスーツへと取り付くさまは圧巻だ、だがその集団の中で最も上位に位置する担当者であるジェスはまず道具を取りに行こうとするその首根っこをモウラに掴まれてそこに置いてきぼりになってしまった。「ふえ? 」と思わず振り向いた彼女の顔にモウラが小声で尋ねる。
「あんた、なにやった? 」「え? なにって ―― 」
 しらを切って視線をそらしたジェスの首にモウラの渾身の力がこもると「いたた」と言いながら彼女は顔だけをこちらへと向けた。
「とぼけるな。いくらなんでも全部が全部自分から出てきた訳じゃないだろ? あんたがなんかしたのはお見通しだってーの」
「いやー、だって二人で出てってなかなか帰ってこないなぁーって思ってたら電源車の傍でなんかやってるじゃないですか。『あーあたしの機体どうにかするんだぁ』って思ったからそのままカートリッジ取りに行って ―― 」
「ていうかあんたぜんぜん退避壕の中にいなかったんじゃないかっ! ―― あたしが聞いてるのはその後あんたが皆になんて言って連れてきたかって事。そりゃ全員でかかれば整備はすぐにできるけど今は臨戦下だ、なんかあった時には犠牲が出る。あんたの事も含めてあたしにはその責任があるんだ」
 いつにもまして深刻な表情で尋ねる真剣なモウラを見たジェスははあ、と小さなため息をつくと観念したように白状を始めた。「いや、だからぁ。あたしの機体を動かすのにみんなの力を貸してください、って」
「そんな言い方してないだろっ? ―― まあいい、それから? 」
「いっちばん頑張ってくれた人に …… あたしのだいじなひ・み・つ・を ―― おしえてあげるって! 」
「はあっ!? 」

 びっくりしたモウラの手の力が緩んだ隙にジェスはするりとぬけだして距離を置いてから振り向いた。小悪魔どころか詐欺師もここに極まれりの突拍子もない言葉に驚きが怒りへと変わる。「あ、あんたって子はぁっ! 」
「えー? だって男の人ってそういうメールが来るとすぐ返信しちゃうんでしょ? んじゃああたしもやってみようかなぁって。みんなやっさしいからすぐにおれもおれもって …… ちょっと嬉しいかも」
「てへぺろじゃないっ! そんなの未成年のあんたが覚えてどうすンだあっ! それにあんたの大事な秘密って ―― 預かってるご両親にあたしはどんな顔で謝れってっ!? 」
「しーんぱいしなくってもあたしはそんなに安っぽい女じゃないですよー、これでもいろいろかんがえてるんですからぁ」
 どこがっ! と怒鳴りつけようとしたモウラの前にアストナージが割り込み、差し出した左手でそれ以上の怒鳴り声を押さえた。「あーいいぞジェス、時間がないからさっさと終わらせてこい。コックピットが終わったら俺の方を手伝ってくれ、めったに見らンないモンをおがませてやる」
 やったっといいながら飛び跳ねるジェスを乗せたバケットがすぐに上昇してコックピットへと向かうが、怒りの収まらないモウラはその矛先を途中で止めたアストナージへと向けざるを得ない。「アストナージっ! まだあたしの話は ―― 」
 憤懣やるかたない表情で睨みつけるモウラの視線を真横から受けたアストナージはやれやれと言った顔で、コリコリと手にしたボールペンの尻で額を掻く。手の中にあるファイルはニナがシステムモニターへとダウンロードした整備マニュアルのコピーだ、それに目を落としながらアストナージが溜息をついた。
「いちいちアレのやり口にカッカしてたら身が持ちませんぜ、それにジェスよりそんな小娘の口約束にまんまと乗せられた連中のほうが悪い。ま、俺に言わせりゃあいつのほうが一枚上手だったとは思いますがね」
「冷静な意見をどうも。いつもコンビを組んでる相方については自分の方がよく理解をしてるとでも言いたげだね? 」
 皮肉たっぷりにそう告げるモウラの眼の前でアストナージの表情が変化した。恥ずかしそうな、それでいてどこか黄昏たような切ない笑顔を浮かべた彼はぽつりとつぶやいた。
「 …… もうとっくに、俺で実験済みなンすよ」

 壁面を走る整備用のベランダは丁度モビルスーツの肩口の高さに当たる。急いで駆け上がった何人かの整備兵は肩に担いだロープを手すりに何箇所も縛り付けると次々にドムの肩越しに階下へと投げおろした。整備用のホイストが使えない状況ではこのロープが彼らの命綱となる。
 ハンガーの床まで垂らされたその綱の端に整備士の中でも身軽な連中が取りついたかと思うとあっという間にするするとドムの胸部装甲のあたりまでよじ登って、かけられたままの防塵用のケブラーシートを一気に引きはがした。今ではなかなか見られなくなったMS-09は戦史に残るその威容を赤い光の下へと現す。
「形式番号、MSー09 …… F? 」ニナと共にシステムモニターを見つめるコウが思わず呟いた。「トローペン? …… いやそれにしては形状が違いすぎる」
「ドム・フュンフ、制式採用された初番から数えて五番目に開発された試作機ね」すぐにスペックデータを開いて素早く目を走らせるニナ。「噂ではコロニー内戦闘を想定したマルチロール機じゃないかって。宇宙空間で使用するバーニアパックやアポジを重力下でも制御可能なアビオニクスが搭載してあるとか ―― ごめんなさい。年鑑にも隅の方に記載があっただけで正式な発表はなにもされてないの」
「乗ってみなけりゃ何も分からないってことか」血の気の戻らない顔で見上げたコウの目の前でドムのメンテナンスカバーが一斉に開いた。むき出しになった内部機関を保護するトラスフレームがあちこちで鈍い光を放つ。「補強構造も複雑だな、フレームは全部ハニカム構造か。耐爆性はともかく強度だけならキャノンよりも頑丈かもしれない」
 素早く各部の造りへと目を走らせるコウの眼が輝きを取り戻している、その顔を下から見上げながらニナは彼との最初の出会いを思い返していた。思えばアルビオンのハンガーで初めて出会った時もこんな顔をしてたっけ。
「コウ、これを」ニナはそう言うとプリンターの出口にたまった紙の束をバインダーで止めてからコウに手渡した。掌にずっしりと重みを感じさせるそれがこの機体に関する操縦マニュアルとチェックリストだと確認したコウはニナが待つバケットへと足を踏み入れると扉が鉄のきしみを響かせながら閉じられた。振り返った二人が電源車の傍に立つモウラに向かって親指を立てて合図する。
 もう後には戻れない。
「バケット上げろっ! パイロットが搭乗する、道を開けろっ! 」

 腹の位置で上下に開いたコックピットハッチが迫ってくる、今までよりも低い位置にあるコックピットで発生するGや不具合を頭の中でシュミレートするコウの目の前に見慣れないコックピットが広がった。アビオニクスの封印が解けたおかげで外部電源だけでは作動しなかった全ての計器に火が灯り、割と広めな室内の様子が二人にも見て取れる。そして操縦席の後ろで二人に背を向けたまま何やらごそごそと作業を続ける少女とおぼしき人影も一緒に。
 モウラとやり合っていた一部始終をコウは驚きの眼で、ニナは「またですか」という諦めの眼で眺めていた。しかし鼻歌まじりでいそいそと作業を続けるその背中は間違いなく一人前の整備士だ。
「お、いらっしゃいましたね? おじゃましてまーす。もうすぐ終わりますから伍長はシートに、ニナさんは伍長の膝の上にでも座っててくださいね? …… これでよしっ、と」
 最後の基盤をテスターで測り終えたかと思うと素早く元に戻したジェスはパタンと蓋を閉じてからニナの横をすり抜けてバケットの柵から上体を乗り出した。「デニスさーん、アレお願いっ。ついでに20口径のリベットガンとタッピングアンカー6本っ! 」
「もう終わったの? 」ジェスの無茶なリクエストを聞くわけにもいかず、居場所のないニナはバケットの端に佇んだままジェスの背中に尋ねた。
「基盤の数だけならゲルググとそんなに変わりないです、でも今まで見た事がないくらい複雑で。新品だから熱損耗の心配はないですけどとりあえず劣化が怪しい所はゲルググの予備と交換したのでたぶん大丈夫だと思います」
 ニナの質問に理路整然と答えながら飛んできたロープの端をパシッとキャッチしたジェスはそのまま一気にたぐり寄せ、小柄な体に似合わぬ力で持ち上げたロープの先には真っ黒なバケットシートがぶら下がっている。シートにくくりつけられた包みともどもコックピットへと運び込んだ彼女はそれらを丁寧に操縦席の後ろへと置いた。
「ニナさんも一緒に乗るんじゃシートがなきゃ。ミカの車についてたレース用のバケットシート、お古でちょっと硬いけど五点式のシートベルトはつけられるし ―― 」
「HANSもつけられるのか? 」マニュアルを見ながら最初のトグルに指をかけたコウが尋ねるとジェスはさっすがあ、という表情でにっこりと笑った。「もっちろん、そこに気づくところが一流ですね。それと班長がニナさんにって」そう言うと包みの中からパイロットスーツを取り出してニナの手に渡した。
「パイロットスーツ。アデリアの予備だからたぶん大丈夫だとは思うけど ―― 」しげしげとニナの体を上から下まで眺める。「 ―― ちょっと胸がきっついかも?」
 訓練も受けていない普通の人間がモビルスーツに乗り込む事はそれなりのリスクが伴う。特に機動時にかかるGは地球上にあるどんな乗り物よりも多彩で激しく、ましてや戦闘機動ともなるとそれだけでも気を失ってしまう新兵がいるほどだ。オークリーに所属する正規パイロット ―― キースとマークスとアデリアには軍から支給されたパイロットスーツの着用が義務化されておりそれは耐Gスーツの役割も担う最新型だ。
「こんなの渡されたってどこで着替えるのよ?」
「あたしが出てってからハッチを閉めればいくらでも。いまさら伍長に見られたって、ねえ? 」何とも意味深な言葉にあたふたする二人をしり目にジェスはシートを操縦席の後ろへと置くと位置を決めて一気にリベットを撃ち込んだ。座席部分を何度もゆすってしっかりと固定された事を確かめた彼女は小さくうなづいて立ちあがるとコウに向かって右手を差し出す。
「おかえりなさい伍長。この機体を担当するジェシカ・アリスト『二等兵』です、まだ赤ん坊ですけどこの子をよろしくお願いします」くるくると目まぐるしく変化する彼女の雰囲気に翻弄されながらコウはジェスの手を握り返して力を込める。
「こちらこそ。よろしく頼みますアリスト ―― 」
「ジェスでいいですよ、それに伍長は初めてでもあたしはお会いするのは二度目で。この前のシュミレーターの調整はあたしが立ち会ったんですから知らない仲じゃないです ―― そうですね、主任に飽きたらいつでも言ってください。ちなみにあたしはニナさんの二号さんでも全っ然オッケーですから」
 パチンと思いっきりウインクをして目いっぱいコウを煽ったジェスはその後の展開を察知して素早く道具をひっつかむと急いでバケットへと飛び乗った。すれ違いざまに彼女の言葉の意味に気づいたニナが思わず血相を変えて少女の方へと振り返る。「ちょっとジェスっ! 今のはどういう ―― 」
「じゃ、おりまーす」
「きゃあっ! 」
 間髪をいれずに動き出したバケットの床面からコックピットへと飛び乗るニナと慌てて彼女の体を抱きとめるコウ、二人の姿を見上げながらにこにこと手を振るジェス。「もうっ! 後で覚えときなさいよ!? モウラにきっちり叱ってもらうんだからっ! 」
 眼下へと消えていく小悪魔に向かって雷を落した彼女をまじまじと見つめるコウの眼に気づいたニナは顔を真っ赤にしてそそくさとコウの前へと体を滑り込ませた。ふう、と小さく息を吐くと気を取り直してコンソール下に固定されているキーボードを引っ張り出す。いよいよ作業開始だ。
「まずはFSCインレット、セットアップのデフォルトを表示 …… やっぱり各レバーの抵抗値が異様に小さい、この機体が地上で使われた事がない事の証明ね」そうつぶやくと頭の中にあるコウの最終設定値へと次々に修正していく。アビオニクスは間違いなくアナハイム製なのだが機体重量や稼働域は彼が最後に乗ったステイメンとは全然違う、それでも初期設定のまま動かすよりははるかに扱いやすくなるはずだ。
「アストナージ、バックパックの調整に移るわ。作業を止めていったん離れて ―― バーニア調整。一番コンマ2・二番コンマ0.4・三番フリー・四番コンマ3 …… AI、センターに指示値で固定開始 …… コンプリート」
 バックパックとスカート内に隠された推進用バーニアが機体の正中線で指示された値で固定された事を示す青ランプが点灯する。何らかの事情で休眠状態、もしくは新規の機体には気候や環境の変化や前任者の癖など様々な要因で数値が変わっている事がまれにある。今行われているニナの作業 ―― セットアッパーは現使用者に合わせてそれらの数値を完全に調整していく事なのだがその項目は多種多様でしかも多岐にも及び、限られた時間内で人間でいうところの神経回路をどれだけ正確に繋ぐ事ができるか ―― そこに彼女が請け負う作業の難しさがあり、しかし最もエンジニアの能力が試される所でもある。
 操縦席の正面にある小さなインフォメーションパネルをやりくりしながら次々にセットアップを完了させていくニナの手際は素人眼から見ても見事というほかはない。「コウ、スタートアップレディ? 」ニナの声に彼は天井パネルのトグルスイッチを次々にオンにした。パチッと言う音と共に次から次へと点灯していくLEDの光はやはり彼をいつも緊張させる。
「OKよ、続けてチェックリスト」膝の上にあるファイルへと視線を落とすとそこには試作ガンダムと同じくらいの項目がびっしりと並ぶ。「1から120までの動力系項目は省略、操縦系と火器管制に絞ってチェックして。炉が動かない限りは必要がないものだから」
「わかった …… ニナ? 」頭越しに聞こえてきたコウの声にニナは思わず手を止めた。どことなく笑いをかみ殺して零れてくるその声は彼女もあまり聞いた事がない。「ジェス ―― あの子っていつもあんな感じなのか? 」
「そうね、それがどうかした? 」さりげなく答えたニナだが言葉じりがきつくなっているのが自分でもわかる。「 …… すごい度胸だな。俺はトリントンが初陣だったけどあの時俺の周囲であんな風に平然としていられたのはバニング大尉だけだったと思う。まるで歴戦の整備士みたいだ、まだ若いのに」
「若いから怖いもの知らずっていうかふてぶてしいって言うか。目上や立場に関係なく人に接するっていう所はどうかと思うけど、整備の腕が天才的だから誰も文句がつけられないのよね」
「そういやモウラもアフリカの時ベイト中尉と喧嘩してたっけ …… そういう所はやっぱり似るんだな」
「ねえ、コウ? 」突然くるりと振り返ったニナがコウの足の間で昔に見せたあの意地悪い笑顔を見せた。肘を腿につきながら上目づかいでにっこりと笑う。
「あなたモウラの前でそんな事口にしてごらんなさい? 本気の彼女に二度はのされるから」

                    *                        *                    *

 降下するバケットのアームをケージ内で操作して機体の左後方へと向かうと、果たしてそこにはアストナージがカートリッジと一緒にジェスを待っていた。「さぁていよいよかぁ、どうやってやるのか実は興味あったんだ」
「だろうな」アストナージがカートリッジを肩に担いでバケットへと足を踏み入れるとジェスがすかさずアームを上昇させる。ちょうど腰のスカートの根元にある取り付け位置で止めると乗り込んだ側とは反対側の柵を開いて作業場所を確保した。
「でもさ、炉心にレーザーを当てるって事はそこまで筒抜けになるってことでしょ? …… だいじょぶ? 」
「カートリッジをしっかりねじこんどきゃたぶん問題ない、なんかのショックで抜けた時もあるにゃあるそうだが ―― まあ、戦争だから」
「あー。じゃあアストナージよろしく。あたしは後ろで祈ってる」
 おい、と言いかけて後ろのジェスへと振り返るとにっこりと笑いながら両手を組むジェスの姿が飛び込んでくる。こいつといいアデリアといい、どうしてこの基地にはこうも外面のいい連中が集まってくるのだろう? 類友という言葉の意味を信じている訳じゃないがこうもサンプルが出そろうとどこかの偉い学者さんが統計学上の結論として後世に残したマーフィー的なものなのかと勘繰りたくなる。
 ―― じゃああの二人が『友』だってンなら、『類』って、だれだ?
「伍長、アストナージです。現在野戦カートリッジの取り付け場所にて待機中、チェックリストに入ったらエマージェンシーシステムの電源だけ先に入れてもらえますか? 」
「 “ 了解した ” 」
 コウの返事がするなりすぐにハッチの下でロックの外れた音がした。「 ―― うそだろ、もうチェックリスト始めてンのか? 」
 始まっているどころかそこに電源が届いているという事はチェックリストがすでに半分以上終了している事になる。ここの整備班の作業速度はアストナージが知る限りでも一線級 ―― そう言う風に育て上げたつもりだ。その連中が束になってかかっている整備作業よりも二人で行うセットアップの方が早い? 普通なら半日はかかる作業をこの短時間にこなすなんて一体どんな魔法を使ってるってンだ?
 驚きながらもすぐにパネルへと手を伸ばした彼はすぐに装甲板をスライドさせて内部構造を点検した。超硬スチール合金で固められた前室と底にある丸い蓋、それがジオンの規格である事を確認したアストナージはカートリッジを持ち上げてその先端を蓋の周囲に切られた雌ネジに押し当てた。
「ジェス、俺が位置を固定してるからお前が回せ、時計回りだ」すぐにジェスの手が伸びてアストナージの脇からきりきりと筒を回し始め、先端の雄ネジの部分が本体に隠れる頃にはカートリッジはびくともしないほど頑丈に固定される。
「ふう、これでとりあえず被ばくの心配はなくなった ―― 次は機体側の前室にある蓋を外して中のレバーを手前に引け」
「 ―― ネジ固った …… こんなの三つも四つもやったら腱鞘炎になりそう」ネジ止めしてあるパネルを開いてジェスがレバーを引くと油圧の音がしてすぐにレバーが元の位置へと収納される。「これでさっきの丸い蓋が開いて炉心とレーザーが直通状態になる。ハードのセッティングはこれで終わりだ」
「けっこう手間がかかるんだね、もっと簡単かと思ってた」
「これでもジオンの奴はかなり楽な方だ、連邦のはこの下にもう一枚蓋があってそれを外すのに専用の工具がいる ―― だから新品を寄こすんだよ。前線での整備なんてそれじゃなくても不具合が多いのにこんなモン使ってたら事故が発生した時の被害が大きすぎる、だから本拠地から出張ってきたジオンの方がやむを得ずこれを使う機会が多かったって訳だ。そういう意味ではこの機体とカートリッジの相性はいけると思うんだがな」
「そっかぁ …… いよいよなんだね、この子が動くのも」嬉しそうなジェスが全ての作業を終えてそっと頭上を見上げる。出会いの瞬間を頭の中に思い浮かべながら優しい笑顔を浮かべる彼女をしり目にアストナージは、カートリッジの横に飛び出た電源ボックスを開いて中から太めのケーブルを取り出し電源車の方へと放り投げた。
「セット終了っ! 動力(三相200V)スロットに差し込んだらブレーカーを上げてくれ、通電確認するっ! ―― さてここからが肝心だ、ボックスの奥に細長いリモコンが刺さってる。通電するとそのリモコンにあるLEDが赤く点灯する」二人の視線の先にあるボックスの奥で小さく灯る赤い光。「確認したらそのリモコンを刺したままサイドにある小さいボタンを押せ」
 恐る恐るジェスが手を伸ばして万年筆くらいの太さの棒をなぞるとそこには確かに小さなでっぱりがあった。「こう? 」押した途端に赤い光は緑色へと変化する。
「緑に変わった事を確認したらそれをそのまま引き抜け、そうするとLEDは緑から赤の点滅に変わる。リモコンと本体がWi- Fiで繋がった証拠だ、点滅しなかったらもう一回それを差し込んで同じ動作を繰り返すんだ。接続範囲は直線で約100メートル以内、わかったな」
 手のひらに収まる程度のリモコンの点滅とカートリッジ本体とを交互に眺めながらぽつりとつぶやく。「 ―― これで、完了? 」
「跡はこのリモコンのケツにある赤いボタンを押すだけ ―― 融合炉の起動がAIで確認されるとカートリッジが強制排除されて本体側の蓋が自動的に閉まる仕組みだ。あとは」
「 …… あとは? 」
 小首を傾げてリモコンを手渡してくるジェスに向かってアストナージはニヤリと笑った。「これ以上の厄介事と関わらないよう一目散に逃げだすだけだ」

                    *                    *                    *

「あたし脚部のスラスター手伝ってくるっ! 」そう言い残すと彼女は降り切る前のバケットから身を躍らせてハンガーの床へと降り立った。「アストナージは大腿部のオイルラインを手伝ってあげて、少し遅れてるみたいだから! 」
「 …… やっぱりたいしたタマだな、よくこれだけの時間であれだけ全体を把握できるもんだ」息も切らさず一目散に右足へと走る天才少女の背中を眺めながらアストナージはかつての自分を重ね合わせていた。初めて任された自分の機体 ―― 最初は基地間を繋ぐ連絡用の軽飛行機だったが、それでも絶対に不具合の出ないように毎日毎日一生懸命にいろんな所を整備してたっけ。汚れ一つ埃一つないようにピカピカに磨き上げたそいつが大空に飛び上がった時の緊張と喜びは体が震えあがるほどだった。
 だから本当は前途有望で性格気性ともに難アリの彼女にもその感動をもっと平和な形で味あわせてやりたかった。たった一回しかないその体験がどれだけ自分の未来に希望と光を与えるのか、たとえどんなにつらい事があったとしてもその日の事を思い出すだけで耐えられる。そんな記憶を焼き付けてこれから起こりうる苦難を耐えていってほしいと心の底から祈るのだ、同じ整備士としての道を先に歩いている先輩として。
「さて、と」バケットが完全に折りたたまれた事を確認したアストナージは頭の中の感傷を奥底に押し込めてバケットの扉を開いて床へと降り立つと傍の整備員に声をかけた。「バケットはまだ使うかもしれないからそのまま機体の陰に置いたままでいい、手が開いた奴は俺と脚部のオイルラインを ―― 」

 先任として発した彼の指示をかき消す轟音と床を震わせる猛烈な振動。その原因を捉えた運のいい何人かの叫びが必死の形相と共にドムの整備にあたっている整備班へとほとばしる。「タキシングラインから離れてっ! 急げ、いそげぇっ! 」
 突然起こったその異変はハンガー内の全員に状況の変化を教えた。視界を曇らせていた硝煙を吹き飛ばすほどの熱風が空気を掻きまわして逃げ場のない閉鎖空間の室温をあっという間に上げ、ロケットの打ち上げのような噴射音は容易に全員の音を奪い去る。帽子が吹き飛ぶのもお構いなしにドムの右足へと駆け寄ったアストナージはそこでタキシングラインの方をみつめたまま固まるジェスを抱きかかえて頭を押さえた。
 全員が思い思いの防御態勢を取り終えた瞬間に姿を現した変化の正体 ―― モウラも、コウやニナも見守る中でタキシングラインに滑り込んできたのはゲルググの巨体だった。肩のマーキングには04の文字、アデリアの予備機という事は ―― 。
「アンドレアっ! ばっか、バーニアを止めろ、早くっ! 」アストナージが携帯に向かって思いっきり叫ぶ。接地部分から火花を散らしてハンガーを滑っていくゲルググのバーニアはいまだに長い炎を伸ばしたままだ、そんな勢いで耐爆防護壁にぶつかったら ―― 。
 誰もが予想するその悲劇の光景はその数瞬後に訪れた。推力61トンを誇るバーニアの炎は全開のまま収まることなくその巨体を存分にハンガーの壁面へと叩き付け、衝撃で特徴的なその頭部を木っ端みじんに粉砕した。飛び散る破片がまるで石つぶてのように整備班の隠れるケージの周辺にまでばらまかれる。
「だめだ、全員その場で動くなっ! 」
 身近にいたニナも驚くほど鋭い声がコウの口から飛び出すと助けにいこうとしたその場の全員の動きが凍りつく。そして次の瞬間。
 40トンの重モビルスーツが一瞬浮き上がるほどの炸裂音と閃光が突っ伏したままのゲルググと床の間から周囲へとあふれ出た。



[32711] Nightglow
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/09/14 07:04
 爆薬の残り香と煙の中に沈んだままの大きな影に向かって幾人もの整備員が工具を手にして駆けだした。状況は明らか、敵の投げ込んだ手榴弾の爆発からハンガーを守る為にアンドレアが身を挺して防いだ。だがそのかわりに ―― 。
「手のあいた奴全員いけっ! 機体を起こしてアンドレアをコックピットから引きずり出すんだ、早くっ! 」ドムの足元でアストナージが血相を変えて指示を出す。彼が今まで辿ってきた戦場でも何度かその現場に出くわした事はある、しかしその全てのケースに置いてパイロットが無傷で運び出された事は、ない。
「 “ アストナージっ! アンドレアが中に突っ込んでった、何がどうなってるっ!? ” 」発砲音まじりのマルコの悲痛な叫びが彼の耳に届く。「 “ 敵は手榴弾の届く距離まで肉薄してきてる、もし無事ならすぐに戻るように言ってく ―― ” 」その時彼の声が炸裂音と共に一瞬途絶えた。次に聞こえてきたのは損傷を示す盛大な警告音。「マルコ、おいっ!? 」
「 “ くっそ、敵の手榴弾で右脚バーニア損傷、俺一人じゃ止めるだけで精一杯だ、なんとかアンドレアを早くっ! ” 」
「 “ ―― わかった、マルコ。すぐ戻るから ” 」そのつぶやきが聞こえた途端にタキシングに突っ伏したままのゲルググは両手で上体を持ち上げた。「 “ ああ、超痛え。俺はこんな目にあったのに機体は頭が潰れただけかよ、ほんと無駄に頑丈な機体だな ” 」
 今にも機体に取りつこうとしていた整備員が愕然として足を止め、腹の下で爆発を受け止めたゲルググが再び立ち上がろうとするさまをなすがままに見送る。「お、おいアンドレアっ! お前大丈夫なのか? 怪我は ―― 体は何ともないのかっ!? 」そんなばかな、と不審な顔で煙の向こうに浮かびあがる大きな影へと目を向けるアストナージに向かってぼんやりとした声が返ってきた。
「 “ ぶつかったショックで頭がふらふらする以外は、なんとも。メインは潰れちゃったけどサブカメラで外の様子もばっちり、火器管制も問題なし ” 」
「アンドレア上等兵」
 外部スピーカーを通じて呼び掛ける凛とした声にアストナージは頭上を見上げた。「自分はコウ・ウラキ予備役伍長だ。君の機体はパイロットを含めて現状重篤な損傷を負っている可能性がある、速やかに機を止めてコックピットから降りて先任の指示に従うんだ」
 立場的には上官、そしてこの隊の創設者たる彼の命令にアストナージは従うものと期待し、ぴたりと動きを止めたゲルググを見て誰もがそう確信する。だが彼はそのままじっとハンガーの出口を向いたままで呟いた。「 …… コウ・ウラキ伍長、ですか? 自分はアンドレア上等兵であります、兵曹長からあなたのお話はよく ―― 」
「アンドレア、ニナ・パープルトンよ。『ハンガー・クイーン』は現在最終調整に入っているわ、もうすぐ発進する。だからあなたはすぐにコウの言う事を聞いて機体から降りて。機体のチェックにそんなに時間はかからないから」
 コウのヘッドセットに顔を近づけて暗に戦線離脱を呼びかけるニナの眼が険しくなる。チェックに時間がかからないなんてただの言葉のあやだ、もし私の推測が正しければ、アンドレアはもう ―― 。
「 ―― マルコが呼んでるンで、行きます」外部スピーカーでそう言い残したアンドレアの機体がゆっくりと足を前へと踏み出した。

「 出るんじゃないアンドレアっ! いくら切羽詰まってるったってあんたは ―― 」「 “ モウラ ” 」その一部始終を電源車のそばで見届けながらコウやニナと同じ見解を共有している ―― それは歴戦として長く戦場を渡り歩いてきたアストナージも同じだ ―― モウラの耳にニナの声が届いた。アストナージと同時に見上げたコックピットの縁から差し出されたコウの左手がコックピット閉鎖のサインを送っている。
「コックピットを、閉鎖? 」確かに敵の攻撃がハンガーのすぐそばまで近づいているのなら退避壕とモビルスーツのコックピットが一番安全だ、しかし外部機構の最終点検をパイロットが確認もせずにコックピットハッチを閉鎖するケースはごくまれだ。敵との最前線で砲火を交えるサラミスの簡易ハンガーで応急修理をする時ぐらいしかモウラの記憶にはない。
「 “ アビオニクスの調整終了、現時点を持ってこの機は待機状態へと移行する。モウラ、融合炉の起動を急いでくれ ” 」

「コウ ―― 」
 傍らに寄り添ったままタキシングを歩いていくゲルググの背中を見つめるニナの声が救いを求めるようにコウへと向けられる。だが彼は彼女の予感が正しい事を小さく首を振って肯定した。
「コックピット前面の装甲は全て削り取られていた。多分床に滑り込んだ時の摩擦と至近距離で起こった手榴弾の爆発によるものだろう …… 彼は、もう長くは持たない」
 唇をかみしめた彼女の眼の前でまた仲間が一人、死んでいく。
 やり切れない思いと助けられない悔しさと、自分の世界を削るようにむしり取っていく敵に対する怒りがもたらす熱。震える声はそれを吐き出さなければどうにかなってしまいそうだという心の発露によるものだ。「アンドレアを、よくもっ」
「彼の命を。託した思いを俺たちは無駄にはできない、だから ―― 」
 ニナと並んで煙の向こうへと消えていくアデリアの予備機を睨みつけながらコウは握ったままの操縦桿を力いっぱい握りしめた。

                    *                    *                    *

「左側の奴はハンガーに引っ込んだっ! タリホー1・2、そっち側の火力が薄くなったはずだ、一気にバリケードに突っ込めっ! 」トーヴ2のいなくなった最右翼で前線を指揮するラース2がマルコの威嚇射撃から身を隠しながら怒鳴ると、モニター上のIFFを示す光点が一斉に動き始める。長く膠着していたこの戦いにもようやく終結のめどがついたと安堵のため息を漏らした彼の平穏は、その瞬間に背後から差し込んでくる膨大な光によって再び緊張を強いられる羽目になった。
「な、なんだ一体っ!? 」
「 “ トーヴ1よりハンプティ、敵の管轄する照明が全て点灯している。砲撃を持って速やかに排除せよ、滑走路を照らしている分だけでもいい ” 」
「畜生っ! ブージャム達は何やってんだっ!? もう地上施設は占拠してる筈じゃあねえのかよっ!? 」即座に毒づくラース2の眼に再び元の位置まで後退するタリホー達の光点が映る。「 “ ハンプティからトーヴ1へ、命令は受領するが鉄塔を潰すためにはHESHを使用しなければならない、何発か残して予備はなくなるがそれでもいいか? ” 」

「これで敵は照明塔を全部破壊するまで身動きが取れない。少しでも時間稼ぎになればいいが」モニターに表示されるインフォメーションを見ながらヘンケンが呟くとすかさずセシルが今後の展開を訪ねてくる。「通電した個所は6か所、敵が重砲を使ったとして約二分、その後は? 」
「まず山向こうで戦っている二機を何が何でもハンガー前まで撤退させる、敵の背後から牽制しながらそのまま最短距離で進めるルートが最も効果的だ。バリケードまで戻ってきたらこちらの作戦完了まで敵のモビルスーツを足止め ―― なんなら一機が外に残って敵に1ON1をしかけてもいい、敵との戦力比はかなり拮抗するからな。牽制込みで守備を固めたこちらの反撃で敵が縮こまってる間にこちらはハンガーを放棄して食堂に集合 …… 大まかな段取りはそんなところか」
 そう言うと彼は携帯のチャットへと指を伸ばしてアクセスした。敵への陽動と誘導も含めて時間的にはそろそろだと思う、荒事に関しては専業とは言えないまでも決して引けを取らない砲雷班の長に向かってヘンケンは尋ねた。「バンディッドからグレゴリー、そちらの進捗を訪ねたい。こっちはそろそろ手詰まりになってきた、合流する段取りを ―― 」
 突然黙った上司の反応に指揮を続ける二人の耳だけが傾いた。話好きの彼が戸惑ったように息を詰まらせるその反応に二人は思わず息を潜めたが、その後口をついて出たその言葉は耳を疑うものだった。
「 ―― ウラキ君が …… モビルスーツに? 」

                    *                    *                    *

「ばっか野郎っ! アンドレアお前持ち場を離れて何やってン ―― 」マルコはそこで言葉を失った。ズタズタに引き裂かれた腹部の一次装甲板、裂け目からは絶え間なくオイルが吹き出しているし伝達パイプは隙間から引きずり出されて外部にだらりとぶら下っている。何よりもコックピット前面にある最も頑強な装甲は全て削れて真っ白な緩衝剤だけが明かりに照らされて浮き出たように見える。まだ動いているのが、動けるのが ―― 信じられない。
「 “ 悪りい、マルコ …… でも何とかなった、もう大丈夫 ” 」

 体から生え出たようにいくつもの大きなくさびがアンドレアの体をシートに縫いつけている。頭につけていたはずのヘルメットは割れて両脇に転がっていた。零れてくる血が彼の両頬を真っ赤に染めて胸元からくさびの付け根へと流れていく。
 痛みのかわりに絶え間なくしびれが。
 寒気とともにものすごい睡魔が。
 なんでこんな事になっちゃったんだろう、明日の予定も昼間のうちにしっかりと組んでたのに。どうして俺はあの時、ハンガーに投げ込まれた手榴弾なんか追っかけて行っちゃったんだろう?
 ばかだなあ。知らないふりをしとけば、こんな、事には ―― 。

「 …… みんなが、そこに、いたんだよ」

 途切れ途切れに聞こえてきた彼の言葉がマルコから声を奪い、そして彼に残されたわずかな時間と示された運命を受け入れた。こみ上げた涙が彼の頬を一筋つたって汗とともに顎からしたたる。
「 ―― そうだよアンドレア、みんながそこにいるんだ。俺たちがみんなを守らなけりゃ …… だからもうちょっとだ、もうちょっとがんばれっ! 」叫ぶ声の向こうで足元のバズーカを拾い上げる首なしがいる、彼は硝煙弾雨が降り注ぐバリケードの上に機体を乗りあげるといきなり初弾を吐き出した。火柱を上げるブラストの向こうへと消えるアンドレアの声だけが涙をぬぐって再び正面を睨みつけたマルコの耳に届く。
「 “ ―― まだ、しんで、ないから ” 」

                    *                    *                    *

「調整終了、修正値を全適用」早口でニナが呟いてエンターキーを押すとOSは再起動のために小さく唸って画面を閉じた。キーボードを元の場所へと押し込んで立ち上がろうとする彼女の体をコウの両手が支える。
「ありがとうコウ、後ろへ行くわ」
「すぐにパイロットスーツに着替えて …… コックピット閉鎖、出撃準備」声とともにシートの横にあるハンドレバーを引くと油圧の抜けた重い装甲板がゆっくりと上下に閉じてからメインスクリーンが立ち上がる。徐々に消えていく外の光と入れ替わるように点灯するモニターはニナの要求したカスタマイズが正しく認識された事を示していた。「アストナージ、あとは融合炉の起動だけだ。そっちの状況は? 」
 はやる気持ちを抑えて尋ねるコウの眼の前のモニターが点灯して外部の状況を映しだしたがそこに彼の姿は見当たらなかった。「モウラ、どうなってる? 」
「 “ ベランダにいる奴は防塵用のケブラーコートを機体にかけてから急いで退避しろっ! もう敵はすぐそこまで迫ってる ―― 悪いコウ、もう少しかかりそうだ。今アストナージとジェスがトラブルシュートに入ってる ” 」

「なにをもたもたしてンだっ! さっさと終わらせて避難しねえと敵の攻撃がすぐそばまで来てンだぞっ!? 」
「脚部のスラスター閉鎖バルブがどうしても開かねえンだっ! 向こう側は回ったがこっちは硬くて回らねえ、今ジェスがバールを持って潜り込んでるっ! 」怒鳴り返すデニスの腕は小さなハッチに体を滑り込ませたジェスの繋ぎを渾身の力で握りしめている、ロドニーは足の裾を引っ張ったままアストナージへと振り返った。
「先任は早く避難してくださいっ! もうここだけなんだっ、ここさえ終わりゃあこの機体の整備は完了します。俺たちもすぐ後を追っかけますからっ! 」
「下のモンに言われてはいそうですかとケツ捲る責任者がどこの世界にいるっ!?  ―― ジェスっ! あとどれくらいで終わりそうだっ!? 」
「 ―― あと半回転っ! もうちょっと ―― 」そう叫びながら足をじたばたさせて奥へと潜り込もうとする彼女の体を後の二人が歯を食いしばって必死で抑え込む。「もうっ、なんでこんなにかたいのよおっ!? 」

                    *                    *                    *

「ハンプティ、そろそろ頃合いだ。一気に敵の本丸を落しにかかる ―― 特殊弾頭は残してあるか? 」戦況を見つめていたケルヒャーはもう恐らく照準のど真ん中にハンガーの屋根を納めているタンクに向かって問いかけた。煌々と光を放っていたオークリーじゅうの投光器は彼の見事なまでの精密射撃によってことごとく朽ち倒されて無残な姿を野に晒している、多分これで敵が披露する手品も品切れだろう。
「 “ HESHは残弾2、あと虎の子のAPIが一発。通常弾は残り30パーセントという所ですか ” 」
「これで一気に使い切るぞ、作戦ルーティン通りに目標へと叩きこめ」

「1番HESH、次弾API。装填」ハンプティが命令すると台車後部の弾薬庫が開いて左右のユニックハンドが指示された弾頭を掴みあげた。最初の弾に比べてまるで腫れ物でも扱うかのようにそろりと持ち上げられた2発目は大口径弾としては破格の破壊力と殺傷効果を持つ徹甲焼夷弾、キースが持っていたルーファスの役割の半分を担う特殊弾頭だ。
「装填、完了 …… しかしいいんですか? こんなの使わなくても敵の出城は十字砲火のど真ん中、それにもしハンガー内に人でも残ってたらただじゃ済みませんぜ。その中にもし対象が混じってたとしてもこっちは忖度のしようがない」
「 “ かまわん ” 」その時耳に聞こえてきたのはケルヒャーではなく常勝無敗を誇る特殊戦隊の総指揮をとるダンプティの声だった。「 “ ここまで俺たちと真っ当に渡り合える連中が民間人である彼女を最も危険な最前線に置いておくとは考えにくい、もしかしたら裏をかいて置いている可能性もあるかもしれないがそれはそれでこっちにとっては好都合だ。少なくとも彼らは彼女を戦火に晒すような事だけはしないはずだ、敵ながらその点だけは信用できる ” 」
「壊滅させるだけで俺たちは彼女の身柄を確保しやすくなる、と ―― いいでしょう、信用しましょう。中佐の読みのおかげで俺たちは今まで生きてこられたんですから」
 ニヤリと笑ったハンプティの眼がヘッドセットのバイザーを通して映しだされるハンガーの屋根を睨みつける。中央にある小さな三角はもうとっくに目当てを終わらせていた。「では始めます。AI、射撃準備」

                    *                    *                    *

 喧騒に紛れて遠くで轟いたその発砲音をアストナージは直感で直撃弾だと判断した。「直撃弾っ! 全員退避、間にあわない奴はハンガークイーンのそばに隠れて耳を塞げっ! 」
 地上戦でモビルスーツの整備のために数多くの戦場を渡り歩いてその全てを目の当たりにしてきた古参の整備士は久々に耳にした甲高いその音に背筋を凍らせずにはいられなかった。仲間の間での隠語として使われる『墓場鳥ナイチンゲール』、その声を聞いた連中の多くがあの世へと連れて行かれた。エルアラメインでは味方の誤射で野戦ハンガーの一棟が整備士もろともに丸々吹き飛ばされ、オデッサでは捨て身で突撃してきたジオンの陸戦部隊に壊滅寸前にまで追い込まれた自分達をそれが救ってくれた事もある。二つは相反する状況と結果をアストナージにもたらしたが共通している事実はたった一つだ。
 どちらも自分の命が助かっているという事と、砲撃跡には退避用にしつらえた頑丈なタコつぼ以外に何も残らなかったという事。
「先任、こっちだっ! 」ドムの陰で必死に手を振るモウラに向かって駆けだしたアストナージは彼女を庇うように背中で覆うとすぐに耳と瞼を両手で押さえて爆発の際の急激な気圧の変化に備えた。同じような態勢を取って頭を小さくする彼女も同じ事を考えているだろう。あとは神様に必死で祈るしか、ない。
 しかし祈りの言葉を思いつく前にそれは来た。タキシングラインの屋根の上で響く、いくつもの空のドラム缶を一気に叩きつぶしたような音。
 
 屋根へと張り付いた弾頭に仕込まれたC-4がその勢いごと指向性破壊をコンクリートの屋根へと叩き付ける。だが連邦軍の規格で定められた耐爆構造は想定される内外での爆発被害を最小限にとどめるために特殊セメントの粗骨材にセラミックを練り込んだモルタルで鋼板を挟み込んだ建築材を使用している。500キロ爆弾の直撃やタンクの徹甲弾すら弾き返すそれはMPIの研究所を襲った時とは異なり、確かに重砲の放った弾頭の効果を表面上は防ぎきった。
 だがその後で叩きつけられた爆薬の威力を殺すには素材そのものが持たなかった。ひび割れた鋼板の隙間目がけて吐き出された破壊の息吹は内壁をいとも簡単に吹き飛ばして大小の石片を研ぎ澄まされた刃物に変え、無秩序に荒れ狂うそれらは手当たり次第に行く手を邪魔しようとする全てを根こそぎになぎ払った。
 
「うわわっ! 」
 耳鳴りのような高音と周囲で響く残響音、その次に自分を引っ張っていた力がなくなって体が奥へとずり落ちる。慌てて体を支えるためにバールを掴んだとたん、今まで頑として動かなかったバルブが突然開いて正常位置で固定された。「!? やったっ! 」
 だがそこからが問題だった。真っ暗な脚部フレームの中をきょろきょろと見回しながら額につけたLEDで照らしてどこかに自分の体が支えるものはないかと探すが、とりあえず手が届きそうな所にあるのは銀色の太いパイプが一本だけ。それを伝って上体だけを上げればサブフレームのハニカム構造が見える、なんとか自力でも上がれそうだ。
「 …… てかデニスさんとロドニーどうしたのカナ? 声ぐらいかけてくれてもよさそうなモンなんだけど? 」こんな狭くて暗い所に若くてピチピチした女子を一人でおいてっちゃだめでしょ、とほんのちょっと不満を覗かせながらよっこいしょと目当てのパイプへと手を伸ばす。余裕なようでいて腰から下を支えている両足は足首だけでハッチの縁に引っ掛かっているのでほんの少し気を抜いただけでも滑り落ちそうなのだ。
「よいsy ―― ひゃあっ! 」掛け声とともにそのパイプを掴もうとしたジェスの手はいきなり足を引っ張られた事で見事に空を切る、そのままハッチの縁までずるずると引っ張りだされた後に見えたのは彼女の相方の顔だった。
「バカヤロ、それは液体水素の送管路だ。もし掴んでたらお前の掌はそっくりそのまま張り付いてたところだぞ? 」彼女より上背のあるアストナージは険しい顔でジェスを睨みつけるとそのままメンテナンスハッチに上半身を差し込んで内部をライトで照らした。「バールは? 忘れモンはないか? 」
「持ってるからだいじょぶ。バルブも完全に開いたからこれで整備は完了っと …… あれ? デニスさんとロドニー ―― 」そう尋ねてあたりをきょろきょろと見回したジェスの視界に人だかりが目にとまった。何人もの整備士が輪を作って口々に何かを大声で叫び、その中央には衛生兵のミカが、いる?
「ねえ、なにかあったの? 」押し寄せてくる不安が彼女の声を曇らせ、それに応えようともしない彼の態度がそれに一層拍車をかける。思わず握ったままのバールを手放して立ち上がろうとするジェスの肩をアストナージの手ががっしりと掴んだ。
「 …… 見るんじゃ、ねえ」
 
 ガシャンというバールの音とともに輪になって集まっていた整備士たちが一斉に振り向き、人垣の隙間から血まみれで横たわっている二人の姿が見える。「ね、ねえ。なんで二人ともそんなトコで寝てンの? さっきまであたしの体を一生懸命 ―― 」
 心の底からこみ上げる得体のしれない気持ち悪さに脅えるように全身を震わせて口元を押さえるジェスの背後でアストナージが悔しそうに呟く。「敵の攻撃で飛び回ったコンクリートの破片からお前を守る為に、あいつらは逃げなかった」
「敵 …… 攻撃、って」そういわれて彼女は初めて見慣れたハンガーをゆっくりと、怯えた目で見回した。見慣れたはずのその建物の屋根は大きく欠けて、思い出がしみ込んだ壁や柱はまるで痘痕のように無残な傷跡を晒して。変わり果てた我が家を映し出す残り少ない照明の光に泣き顔を向けたジェスはあふれる慟哭を声の限りにほとばしらせた。
「なんでよぉっ!? 」
 絶叫する彼女にそこにいる全ての仲間の目が ―― それはコックピットでモニターから状況を見つめている二人もだ ―― 同情をこめて向けられた。
「もしハッチに潜り込んでるのがあんたじゃなくても。もしそれを支えてるのがデニスやロドニーじゃなくても …… ここにいる誰もが、多分二人と同じことをしたさ。それが ―― 」二人の枕元で跪いたままじっと頭を垂れるモウラはそうつぶやくとそっとジェスに向かって手招きをし、呼ばれるがままにふらふらと歩きだした彼女がモウラのそばへとたどり着くとそこには血まみれのまま穏やかに笑って息絶えている二人の亡骸が見えた。
「 ―― あんたの知ってる、あたしらだ」

 ごめんなさい、と大声で何度も繰り返しながら二人の遺体へと体を投げ出して泣きじゃくる少女をそっと見守りながらモウラの大きな手が彼女の乱れたままの赤い髪を撫でつける。「見てみな、ジェス。二人とも笑ってるだろ? …… きっとあんたなら最後までやり遂げるってデニスは言い残して笑って逝ったよ。多分ロドニーもさ …… だからあんたは二人のために最後まできっちりやり遂げるんだ、二人の期待に応える事が、今日からのあんたに課せられた宿題だ」

                    *                    *                    *

「モウラ ―― 」悲劇を目の当たりにして気のきいた言葉の一つも思いつかないコウはそのまま押し黙ると、その耳にモウラの声が流れ込んできた。
「 “ ロドニーはアストナージが直々に目をかけていろいろ鍛え上げてきたいい整備士だった、デニスは ―― あたしがルナツ-にいた頃にいっしょに働いた …… 仲間だった ” 」
 自分の知らない戦争のさなかから今日に至るまでにどれだけの仲間を彼女は失ってきたのだろう。ドムの足元でじっとタキシングラインへと目を向けるモウラにいつもの陽気な整備士の姿はない、だが部下を失った事への悲しみをこらえながら、こちらの都合などお構いなしに次々と押し寄せる難局ともたらされる悲劇にも敢然と胸を張って立ち向かうその姿こそ彼女の強さなのだと二人は思う。
「 “ 幸いな事に電源車はまだ生きてる、次の攻撃を食らう前にカートリッジを作動させる。あんた達はあたしの ―― いや、シャーリー隊の名誉にかけてかならずここから送り出して見せるから ” 」
「もう十分だモウラ。ここから先は俺とニナだけで何とかする、起動リモコンを渡してくれれば俺が中から ―― 」
「コウ」 
 必死でモウラに訴えるコウのそばで苦渋に満ちたその表情を眺めたニナが小さく首を振って彼の提案を却下した。その言葉がどれだけ彼女の決意に対して水を差すものであるか ―― そして誇りを蔑にするものであるかという事を彼女は無言で彼の目に語りかける。
「 ―― なにか、他に俺が手伝えることはないのか? 言ってくれればすぐにここから出てなんでもするから」
 ニナに諭されてもなお収まりがつかないコウはモニターへと身を乗り出して画面の隅に移るモウラに向かって問いかける。画面の向こうでじっとたたずむ彼女は何かを思いついたかのように腕組みを解いてヘッドセットに手を当てた。
「 “ …… できる事、あるよ ” 」
「なんでも言ってくれ、俺は何を手伝えばいい? 」コウの視線の向こうでモウラはタキシングラインから視線を外すと吐き出すようにその言葉を口にした。
「 “ ―― 勝ってくれ、コウ ” 」

 何かを気遣うようにそっと視線を上げてコックピットを見つめる彼女の瞳に浮かぶ、一度は兵士として生きてきたコウにしか分からない悲しみの色。
 ―― まさか、モウラももう。
「 “ 誰かの仇を取ってくれなんて言わない、それにあんたのブランクを考えると無茶な頼みだって事もよくわかってる。命を落とすのは戦争の常識、だから今日まであたしはその日の覚悟を決めて生きてきた、つもりだった ” 」

 ―― キースの事を、知っていたのか …… その事を知っていて、そんなそぶりをおくびにも出さずに。
 あえてみんなのために知らないふりをしていたのか。

「 “ でもこんな無理はあんたにしか頼めない ―― もうみんなの命を救えるのはあんたしかいないんだ。だから …… 頼む ” 」
「わかった」
 傍にいるニナには決して悟られないように ―― だがその一言に万の気持ちをこめてコウは強く頷いた。
「約束するよ、モウラ。必ずここに二人で帰ってくるから」心を締め付けられるような悲しみを押さえてコウが答えると彼女は視線をタキシングへと戻してから再び腕組みをした。
「 “ ―― ありがとう …… 二人の遺体を収容次第、融合炉の点火に移る。ニナ、リアクター制御の値をミニマムに。そのままの状態で稼働すると初爆で起こる過電流でジェネレーターが焼き切れるかもしれない、安定に時間はかかるけどその方が安全だ ” 」
「わかったわ。こんな闘い早く終わらせてまた四人で飲みましょう。コウも飲めるようになった事だし」
 なんとか元気づけようと殊更に明るい声で希望を口にするニナの前でモウラはかすかに肩を震わせながら無言で頷いて踵を返した。

「班長、早くっ! 」全力で退避壕を目指すモウラの眼の前で気ぜわしくアストナージが手招きを繰り返す。硬いソールがいくつものコンクリートの破片を踏みしだき、目視での最終点検を終えた整備班の責任者はその勢いを一気に殺して先任の肩を叩きざまに後ろを振り返った。「最終チェックOK、退避完了 ―― さあここからが正念場だ。アストナージ、もしあれで動かなかった時の対策は? 」
「作動不良を含めてそこの壁に交換用の予備が二本、でももしこれで動かなかったらよっぽどの事がない限り二の矢はないと思ってください。オデッサでも何回かやってみましたが一度も正常に起動した試しがない」
「どっちにしても再装填の時間はない、きっと動くさ …… そう信じよう」
 肩を叩いて退避壕へと下がるモウラを見送ったアストナージは再び仄かな光の中で屹立する大きな黒い影へと視線を向けた。怪しげな経歴を携えてこの忘却博物館へと送られてきたハンガークイーンが今夜起こったいくつかの奇跡によって遂に蘇る、不可能だと思われたそれを可能にしたという事実に彼は今まで味わった事のない深い感慨に包まれていた。このボタンを押すだけであの巨人は動き出し、そしてこの部隊の創設者であり二つ名を持つ撃墜王が再び彼らの前にその姿を現す。その瞬間を思い浮かべるだけでも整備士冥利に ―― 。

 ドン、という鈍い音が再び。
 それが重砲の発砲音だという事も、ここを狙って放たれたという事も彼の頭の中では分かっている。だが ――
 “ 体が、動かないっ? ”

 頭の中でリフレインするさっきの出来事、デニスとロドニーの亡骸。見た事もないジェスの泣き顔と大きな叫び声。過去に見たいくつもの悲惨な光景が走馬灯のように脳裏を過ぎる。
 それはもしかしたら自分に起こりうる未来の景色だったのかもしれない、誰かが代わりに犠牲になっただけで、本当は ―― 。

「なにやってるアストナージっ!? 次が来る、早く起動ボタンをっ! 」死の恐怖に囚われた彼の背後で異変を察知したモウラが大声で叫ぶ、しかし背中を押されて我を取り戻しかけた彼の体を再び硬直させたのは今まで聞いたこともない音 ―― 大きな鉄の板をハンマーで殴りつけたような異様な打撃音。
 その砲弾こそが『スレッジ・ハンマー』の作戦名を象徴する必殺の一撃だった。

 APIという略号で呼称される徹甲焼夷弾は被覆された先端部が目標に命中すると弾芯部に仕込まれた三種類の可燃性粉末が混じるように設計されている。フッ素とマグネシウム ―― 二つのナノ粉末にRDXと呼ばれる爆薬、それは点火された瞬間にテルミット反応を起こして対象物の内部へと噴き出す。
 天井の一角から吐き出される強烈な熱と炎が一瞬にしてハンガー内部の酸素を食らい尽くして地獄絵図へと変えていく。凍りついたアストナージが死の拘束のくびきから逃れる事ができたのはまさに彼らの命運を握る命綱ともいえる電源車が炎の渦に呑まれた瞬間だった。脳が命令を発して親指が動き出すまでの刹那の刻、しかし。
 彼の眼の前で希望に満ちたはずの未来は絶望に塗り替えられた。

 炎の中で翻弄される電源ユニットに破片が直撃してランプが消え、燃料タンクから漏れた軽油が気化して車体を内部から粉々に引き裂く。狂ったように何度もボタンを押しこむアストナージの眼に最後に映ったのは断線して宙を舞う、起動カートリッジのケーブル。
「! アストナージっ ―― 」
 背後のモウラが渾身の力でアストナージのベルトを掴んで室内へと引きいれようと試みた。ありったけの酸素を贄として自らを肥大化させる焔に取り込まれる空気によって閉じられようとする内開きの扉を何人もの男達が渾身の力で固定する、だがその勢いは宇宙空間で与圧が破れた時に匹敵する、何秒も持たない。
「 ―― こっちに、来いぃっッッ !! 」
 叫んだモウラの上腕が一気に膨れ上がって袖がはち切れそうになる。だがその力は一瞬だけ物理法則を凌駕して彼の体を中へと引き込むことに成功し、そこで扉を支えていた整備士たちは力尽きた。引きずられたアストナージの足先を掠めるように轟音を立てて閉じた扉はそれ以上の空気の流出を遮断し、分厚い設えは外で荒れ狂う炎の奔流から全員を守る。
「アストナージ、起動はっ! 」
 一息つく間もなく呆然と座り込んだままのアストナージの両肩を揺さぶって必死の形相を向ける、だがモウラの声に顔を上げた彼は次に手の中に握りしめられたままのリモコンへと視線を落とすと硬く目を閉じて全身を震わせた。
「 …… なんて、ザマだ。俺の …… おれの、せいでこんな ―― 」
 ふらりと立ち上がって部屋の隅へととぼとぼと歩いていくアストナージに憐れみの視線を向け、それでも責任者として事態の復旧を画策するモウラは耳に飛び込んできたコウの声に耳を済ませた後に強い口調で全員に告げた。
「全員聞けっ、伍長と技術主任は機体を放棄しないと言っている」
 絶望に打ちひしがれそうな彼らの心を奮い立たせるその言葉に全員の顔つきが変わった。「炎の勢いが弱まり次第、もう一度点火作業を開始する。起動用の電源はここから引く、電源ドラムをハンガーの倉庫から ―― 」
「だめだ、班長」
 それは焼けた扉の取っ手を繋ぎの袖で覆いながら回して外の様子を覗いた整備士の声だった。「火の勢いが弱まりそうにない、多分電源車から漏れたオイルのせいだ。とてもじゃないが倉庫まではたどり着けそうにないし、行けた所でそこからどうすりゃいい? あんな細いのすぐに熱で焼き切れちまう」
「それに」
 その声は部屋の片隅で佇んでいるアストナージからだった。「あのカートリッジの定格は220V、そもそもソケットの規格が合わないし仮に変換ソケットを使っても非常用電源の出力であれが正常にレーザーを発振できるかどうか …… 申し訳ありませんがその提案は却下です」
 続けて彼の足元で鳴ったドスン、という鈍い音でモウラはアストナージの計画を悟った。「これは仕事を任された自分の責任です、電源を喪失した以上起動する手段はひとつしかない ―― 自分が、いきます」
 手にした20ポンドハンマーを肩に担いで思いつめた表情で人だかりをかき分けて進むアストナージを止めたのは扉の前で立ちはだかったモウラだった。驚いて顔を上げる彼に向かって彼女は言った。
「あんたをここから先にはいかせられない、それはあたしの役目だ」
 抗う目を向けるアストナージを厳しい表情で彼女が見下ろした。「あたしはあの二人に必ず出撃させると約束した ―― 整備責任者としてあんた達の身の安全も含めてそれらを守る責任があたしにはあるんだ」
 そう告げると彼女は右手をアストナージの前へと差し出した。「さあ、それをあたしによこせ。これは命令だ、先任少尉」

 みんなに取り囲まれた輪の中心でアストナージの頭が静かに垂れ、誰もがそのハンマーの行方に注目した瞬間に突然決意に満ちた叫び声が響いた。「 …… すんません、班長っ! 」
 全体重をかけたショルダータックルに不意をつかれたモウラの体がよろけて、その間隙をついたアストナージが外に駆けだそうとするのをすんでの所で何人かの手が阻止した。幾人とのもみ合いを振り返ったモウラが大声で怒鳴る。「全員止めろっ! 絶対に先任をここから出すなっ! 」
「やめろお前らっ! 黙って俺をいかせてくれ、じゃないとデニスやロドニーにどんな顔で謝れって ―― 」まとわりついてくる大勢の手をかいくぐって必死の形相で出口を目指すアストナージは退避壕の出口の縁へと手を伸ばし、もう少しでハンマーを持つ手がそこに届こうかというタイミングでモウラの手がそうさせまいとハンマーの頭をがっしりと掴んだ。
「班長っ!? 頼むから俺にやらせてくれっ! なんで止めるっ!? 」
「あたしがここを出たらお前はみんなを連れてここを放棄しろっ! 『バンディッド』に指示を仰げば必ず助けてくれる、それはあたしがいなくなった後のお前の任務だアストナージっ! 」
「それはあんたがやってくれ、俺はっ! 絶対に何があってもちゃんとやり遂げるって事をあいつに教えなきゃ ―― 」

 言い争うわずかな ―― ほんのわずかな隙だった。
 二人の脇からすり抜けた小さな影がまるでひったくるようにその柄を掴むとあっという間に二人の手からハンマーを奪い去る。一瞬の出来事にびっくりした二人や整備士たちが影の飛び去った方向へ目を向けると、その人物はあろう事はすでに退避壕の外でハンマーを肩に担いで穏やかに微笑んでいた。
「これは …… あたしの仕事だよ? 」
「「 ジェスッ !? 」」



[32711] Moon Halo
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2021/10/08 21:52
「あの筒の蓋を開けて尾栓をこれで思いっきり叩けばいいンだっけ?」その言葉を耳にしたアストナージは愕然とした。誘われるがままに話した野戦カートリッジ起動のための最終手段、今まで幾度となく交わした他愛もない会話のたった一言にしか過ぎないその内容を彼女がはっきりと覚えていた事に。
「そ ―― そんなンおまえがやるこっちゃねえ、アレの起動を任されてンのはこの俺だっ! お前はおとなしく ―― 」
「あの子の担当は、あ・た・し」

 背後の炎に浮かびあがる細身のシルエットの輪郭が儚く揺れる。
 おどけたように告げるその言葉の正しさで彼女以外の大の大人が声を失い心を挫かれた。そこに集う誰にも同じようにそれを行使する資格もあるし彼女の代りにその役目を取って代われる権利も持っている、だが彼女以上にそれを『しなければならない』義務を持つ者は、どこにもいない。
「じゃ、いってくる」
 そう言って炎目がけて踵を返すその少女を止めるすべはなく、それでも誰もが自分の心の中の葛藤と戦って呼びとめようと口を開こうとした。彼女が今から向かおうとする場所はまさに死地、紅蓮の先にあるその場所はすでに敵の手が及んでしまった。無事でいる事も ―― 生きて帰れる保証など、さらに。
「それでもあんたを行かせられない、ジェス」
 
 先頭へと進み出たモウラだけが彼女に対して唯一声をかける事ができたのは彼女の上官で、彼女の素質を見出してこの隊へと招き入れた責任感からによるものなのか?
 違う。

「敵はハンガーの物理破壊を始めた、いつまた砲撃が襲ってくるかもわからない。そんな所にあんた一人で ―― 」
「でも伍長とニナさんはまだあきらめてない。きっとあの子をなんとかしてくれるって、信じてる」振り返りながらモウラに向けるその目をアストナージは生涯忘れる事ができないだろう、いたわりや慈しみ、あきらめと悲しみ ―― 言葉では表現すら届かない相反する様々な別れの要素を湛えた瞳を向けるその少女に秘められた強い決意に彼は。
 驚き、喜び。
 しかし同時に自分がこんな風になるまで育て上げてしまった事を後悔した。
「それでも ―― あんただけは絶対にっ!! 」
 モウラの口から悲鳴がほとばしった。

 母親だ。
 誰もがそう思った。
「いかせられるわけないだろう、あたしらみんなが死んだってあんただけはっ! 」

 理不尽で傲慢。公平も善悪も建前すらも全部かなぐり捨てて自分の欲するままに叩きつけるその感情は誰しも覚えがある母親の姿だ。「なんであんたがあたしらに付き合わなきゃならない!? あれを動かさなきゃならないのはあんた以外のあたしたち『軍人』だ、民間人で一番ひよっこのあんたがどうしてっ!? 」

 今日はなんて日だ。
 どうしてあたしの大事な物が次から次へとこんなにひどい目に会うんだ? 
 もし神様がいるっていうんならせめてこの子だけは止めてくれ。
 もうこれ以上、なにも失いたくはないんだ。

 こみ上げる涙とともに心の奥で泣きわめくモウラはその事に気づかなかった。ジェスは困ったような顔で笑いながら小さくため息をつくとトコトコとモウラの下へと歩み寄り、そっとモウラの顔を見上げた。
「 …… きょうは。泣き虫なんだね、モウラさんは」
 そう言うと彼女はモウラの両頬の涙をそっとぬぐってそのまま両手で彼女の体を、そのぬくもりを確かめるように抱きしめた。
「 …… だいすきだよ、モウラさん」
 
 抱きしめたくなる衝動を。
 手放せなくなるその思いを。
 モウラは涙を流しながら必死でこらえた。
「もうあたしの目の前で知ってる誰かが死ぬのはイヤ、なんだ」
 知ってる。
「あんたはあたしを止めたくせに …… どうしてあたしは」あんたを止められないんだ?
「たぶん、それでいいんだよ」

 あたしがあんたを止められないのは。
 あんたなら必ずやり遂げるってわかってるから。

 誰かが声を上げられないのは。
 みんながあんたの事を愛してるから。
 あんたの身を案じるよりも。
 あんたの意志を。
 あんたの決意を大切にしたいというみんなの優しさがそこにあるから。

「あたしが最後までやり遂げるって信じてくれた二人のためにも。必ずそうするって決めたあたしにも嘘つけない …… だからあたしがやンなきゃ、だめだよね」

 ジェスはそう告げるとモウラを解き放ってゆっくりと後ずさりする。彼女を見つめる全員の眼に涙があふれて止まらない、彼女はもう一度困ったような笑顔を浮かべて小首をかしげながらそっと呟いた。
「アストナージ」
 呼ばれた彼女の相方だけはその眼に涙の欠片すらも浮かべてはいなかった。ただ無言でじっと、彼女の姿を瞳に焼き付けるかのように凝視している。
「 …… あたしがもしだめだったら、あとよろしく。それと ―― 」
 それはいつもの、人懐っこいジェスの笑顔だった。ニッと笑った彼女は手にしたハンマーを肩にかつぎながら言った。
「心配しなくても、大丈夫。アストナージがやろうとした事はもうみんなから教わってるから」

                     *                    *                     *

 炎の向こうへと走り去る少女の背中にすすり泣く声が追いかける。自分達が育てた若き天才の顛末を見届けることなくただ手をこまねいているしかない自らの身の上に不条理を感じながら、しかしただおろおろとこみ上げる悲しみに打ちひしがれる事しかできない自分達の弱さに歯ぎしりしながら。
「 …… ヤロ、餓鬼ぃ。ふざけた事いいやがって」
 震える声でそうつぶやいたのはモウラの後ろで拳を堅く握ったまま仁王立ちになったアストナージだった。「なに手前勝手に突っ走ってやがるっ! お前に教えた事なんぞ小指の先ほどもねえってンだ、バカ野郎がっ! 」
 炎に向かって吠えまくるアストナージを慰めるように振り返るモウラ、だがそこで怒りに震える先任士官は吐き捨てた言葉の通り、これっぽっちも諦めてはいなかった。「班長、次のカートリッジの準備を。野郎が勝手にするってンならこっちも勝手にやらせてもらう、このままおっ死なれたんじゃあ俺ァ末代までの恥っさらしだ」
「アストナージ、あんた一体どうする ―― 」
「俺は奴の相方です、たとえ奴のおかげでハンガークイーンが動いたって単独行動なんて許さねえっ! ―― 誰かっ! 消火ホースをありったけ持ってこいっ! それとカッターとケーブルタッカーっ! 」

                    *                    *                     *

「コウ、あそこっ! 」炎の海をジグザグに躱しながらハンガークイーンの下へと駆け寄ってくるジェスの姿を先に見つけたのはニナだった。十文字に開いたドムの顔面で目まぐるしく動くアイカメラがやっと少女の姿を捉えた時、コウは操縦桿につけられたトグルを操作してその姿をモニターへと大写しにした。「アリスト二等兵、君ひとりで来たのかっ!? 」
「 “ んー、その呼び方なんか固っくるしいなぁ。やっぱジェスでいいです、反論はなしで。今からカートリッジを緊急作動させます、もうすぐ動くようになりますからちょっと待っててくださいね ” 」
「緊急作動って …… ジェスっ、あなた一人じゃ危険だわ。誰か他の人も呼んでから ―― 」
「 “ だったらなおさら早く動かさないと。それにこの子の担当はあたしですからあたしが責任もってやるってのが筋ってモンでしょ? ” 」
「それはそうだけど、もしあなたに何かあったらあたしはモウラになんて ―― 」
「 “ ―― ねえ、ニナさん ” 」
 なんとか彼女を引きさがらせようと説得するニナがその声を耳にした途端に言葉を詰まらせた。画面の中に映る少女はハンマーを肩にかついだまま今まで見た事もない真剣な表情でじっとドムの顔を見上げている。
 懇願ではない、不退転の意志をありありと映しだすその瞳が分厚い装甲を貫いてニナの下にまで届く。
「 “ …… おねがい ” 」
 眼力に押し切られそうになりつつも戸惑うニナがコウへと助け船を求めるように目を向ける、だが彼は瞬きもせずにその表情を見つめると厳しい表情のままで口を開いた。「わかった、アリス ―― いや、ジェス。緊急作動の実行を許可する」
 状況は最悪に近い。重砲だけではなく地上部隊がこのハンガーへと押し寄せたらどれだけの損害が発生するのか? そうなったらもうモビルスーツ云々の話ではない、自分が立てた誓いすらも守れるかどうかも怪しくなる。千載一遇のチャンスを逃してしまった自分達の命運はたった一人でここまで辿り着いたこの少女に委ねられたのだ。
「最後にもう一度確認する、ジェス …… やれるな? 」
 短く尋ねるコウに向かってその赤毛の少女は、吹き付ける熱風に目を細めながらしっかりと左手を大きく掲げてうなづいた。

 一目散にバケットへと駆け込んだジェスの右足が操作盤のパネルを蹴りあげて羽目板を外すと中から手動操作用のロッドが飛び出した。両手でそれを掴んで回し始めると複雑に絡み合った歯車がかみ合って、彼女の乗ったバケットをゆっくりではあるが確実に持ち上げていく。
 はやる気持ちを空回りさせないように大きく深呼吸を繰り返すジェスはかすかに笑みを浮かべて自分の頭上に見えるステンレスの筒を見上げる、近付いてくる銀色の輝きに胸をときめかせながら叶えようとする願いは、二つ。
 一つは自分が大好きな人を乗せるこの子を戦場へと送り出せるという事 ―― そしてもう一つ。
 自分の大好きなみんなをこの子が守れる、という事。

                    *                    *                    *

「トーブ1からハンプティ、弾着延焼をこちらでも確認した。だが燃焼程度が予想以上に弱い」
 MPIのモビルスーツハンガーに撃ち込んだ時は建物の出口にまでその火が吹き出したほどだった。しかし虎の子を一撃を喰らったにもかかわらずこの基地のハンガーはその燃焼範囲をハンガー内の一部分に留めている。
「 “ 命中部分の破壊口が思ったよりも小さいようです、ですから外部の酸素がハンガー内に十分に引き込めなかったんじゃないかと。ひなびた所とはいえさすがは軍基地、敵の攻撃に対する備えは怠っていなかったって事ですか ” 」
「こちらの読みが甘かった事は作戦立案者の俺としても十分に反省すべき点だ、だがこのまま手をこまねいている訳にもいかない ―― エキスパートの意見としては? 」
「 “ そうですね …… 通常弾の精密射撃でAPIの開けた穴を広げるくらいしか現状手はないです。それでも空気の流入量は上がりますし、被弾衝撃でもろくなった部分が崩落するかもしれない。対象の安全な確保を優先するなら最後のHESHを使うよりもより効果的で確実だと思いますが ” 」
「了解した、貴様の意見を採用しよう。ただちに射撃の準備にかかれ」

                    *                     *                    *

 上るごとに熱くなる空気が中から体の温度を上げ、いよいよ空気が取り込めなくなって彼女の意識を薄めようかという頃にとうとうバケットは目的地へと到達した。酩酊しつつある脳を再び活性化させようと息を荒げながら、しかし動きはとても酸欠の初期症状を見せ始めた人間とは思えないほど素早い。自分の眼の高さにあるカートリッジの天辺へと素早く視線を送ると彼女の手は腰にぶら下げたツールベルトからラチェットを引き抜いてポケットから一個のソケットを選び出した。先端に取り付けて蓋を固定してあるボルトへと嵌めるとそれを一気に回しだす。
「今カートリッジに到着、これからヘッドを開けてボルトの撃針を露出させます」
「 “ 急ぎなさい、ジェス。いつまた敵の砲撃が ―― ” 」焦るニナの声を耳にしたジェスがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あたし伍長の二号さんになるの諦めてないですからそんなに心配しなくてもだいじょうぶですよーだ。もしこの子動かせたら後でなんかご褒美おねだりしちゃいますから覚悟してて ―― よし、開いたぁ」10本のボルトを瞬く間に外し終えた彼女の手がステンレスの蓋を持ち上げてそっとバケットの床へと下す。急いで中を覗き込んで機構の仕組みを把握しようとする彼女の耳に、聞きなれた相方の声がここぞとばかりに飛び込んできた。
「 “ …… カバーが開いたら中央に炭素芯の突入ボルト、右端の方にダイヤルがある事を確認しろ。融合炉の型番によってレーザー放出の出力を調整する摘み、数字は3。重モビルスーツならそれが最適値だ ” 」
「ナイス、アストナージ。ありがとね」
 いつもぶっきらぼうだが要点を的確に告げるその声にジェスはにっこりと笑いながら摘みへと手を伸ばす。「実は今中見て、ちょっと困ってた」
「 “ 気持ち悪いから礼なんかやめろ、それよりとっとと終わらせてさっさと戻ってこい。帰ってきたら班長と俺でこっ酷い目に遭わせてやっから覚悟しとけっ ” 」
 えへへっと笑いながら摘んだダイヤルを電話の声の通りに合わせたジェスは指をさしながら全ての工程をチェックして、床に置きっぱなしのハンマーを取り上げた。
「起動準備完了。今から ―― 」

 南の山でこだました重くて鈍い音は誰の耳にもはっきりとわかった。

「ダメっ! ジェスすぐにバケットから降りてっ!! 」血相を変えたニナが画面の端にかろうじて映り込んだジェスに向かって叫び声を上げる、しかし歯ぎしりをしながらニナと同じ目線で彼女を見つめるコウの視線の先で。

 彼女は微笑みながらハンマーを振りあげた。

 神様。
 これが最後のチャンスなんだ。
 あたしとおんなじみなし子だったこの子のために。
 あたしの好きなみんなのために。
 ―― おねがい。

「 ―― っつ! いっけえぇぇっっ!! 」
 
 ハンプティの放った徹甲弾は寸分の狂いもなくAPIの残した被弾跡の小さな隙間をこじ開けてハンガー内部へと侵入した。突入角度のずれによって生じたわずかな針路変更、劣化ウランの切っ先は今まさにハンマーを振りおろそうとする少女を目指す。

 インパクトの瞬間に巻き起こる轟音と噴き上がる土煙がモニターに映っていたハンガーの景色を全て覆い隠す。至近弾による衝撃圧の数値と積極的回避を文字と音でパイロットへと知らせるAIの警告も無視して二人は必死にモニターの隅を凝視し続け、やがてその煙が薄れ始めたその時。

「 ―― ジェスっ!? 」

 バケットの縁から宙へと投げ出された掌からゆっくりとハンマーが零れ落ちて抉れたばかりのハンガーの床へと横たわる。口元から少女の物でしかない真っ赤な血を流しながら、しかし彼女はうつろな目で天井を見つめながらぽつりとつぶやいた。
「 …… へへっ、手ごたえ、ありィ 」



[32711] Dance little Baby
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/02/15 17:07
“チェックじゃ、マルコ ”
 対戦の度にさんざん聞かされたそのセリフは『常勝無敗』を是とする家訓を書き変えた貴重な恩師の言葉、絶対的な危機の到来を感じた彼の視線が向かう先は自分の右側に立つ相棒の背中だ。だがそれをはっきり捉えようとした矢先に着弾の衝撃が視界を揺らした。断絶して砂嵐に変化する寸前にモニターがかろうじてマルコへと伝えたのはバリケードの頂上で突っ伏したまま動かなくなったゲルググの姿。
「アンドレアっ! おい、アンドレアっ!! 」メインカメラを破壊されたゲルググがとっさにバリケードの隙間からマシンガンを引き抜いて腰だめに構えたまま後ずさり、ハンガー外壁に背中を押しあてて両手持ちの銃口を左右へと向けた。
「03、04っ! 05がロストっ! アンドレアがやられた、どちらか救援に ―― 」

 最悪の事態。
 想定していたシナリオのバッドエンドを回避するための唯一の方法をマークスはすでに決めていた。損傷率3割を超えた自分の機体があのクゥエルに勝つ事はもう、ない、だが彼女をハンガーへと戻すための足止めくらいにはなる。
 二人の切り結ぶ火花を見定めた彼は自分から意識の外れたその瞬間を見計らって全力で二人の間合いへと飛び込んだ。
「ま、マークスっ! なにをっ!? 」アデリアの悲鳴をよそに彼のザクはラース1の利き腕を掴んでねじ上げようと試みた。寸断されたラインにかかる油圧の負荷で一気に噴き出したオイルが右手を真っ黒に染める。「お前はハンガーに下がれっ! こいつの足止めは俺一人で十分だっ! 」
「そんなの聞けないって何度も言ってんでしょうっ!? 何回言えばわかンのよこのわからず屋っ! 」
 モニターに映った彼の機体はもうズタボロだ、しかしアデリアはそれが自分を守る為に要所要所でラース1の攻撃を引き受けた代償だという事を知っている。だから彼が今、マルコの叫びを耳にしてどういう選択をしたのかという事も。
「このとうへんぼくっ! っざっけんなぁっ! 」
 
 決してっ。Never
 その決意がまるで黒い波となってアデリアに覆いかぶさった。深い藍色の瞳が燃え上がるような緋に染まり、くいしばった歯の間から洩れる吐息は焔の熱だ。世界が収束して真っ赤に変わる。漲る力と殺意のままにサーベルを振りあげて決殺の一撃をラース1へと叩きつける、しかし二人がかりの攻撃もこの黒い化け物はいとも簡単に受け止めてみせた。
「いいぞ、アデリア・フォスっ! 分かるかその世界がっ!? 」悦びに溢れた嗤いとともに夜闇へと放たれる狂気、アデリアの渾身を弾き飛ばして手首をくるりと回す一挙動でマークスの右手が宙を飛ぶ。衝撃で切り口から吹き出す褐色のオイルが一瞬でクゥエルの顔面を茶色く変えた。
「まだ分からんのか小僧っ、お前では役不足だという事にっ!? これだけ戦って傷ついても、それでも分からん脳なしがっ! 」よろめくマークスに殺意をまとったマチェットが光を放つ、だがそれが振り下ろされる寸前に雄叫びを上げたアデリアが気迫とともに全身で刃を叩きつけた。
「ガザエフっっッ!! きさま殺してやるっ!! 」
「 ―― きたきたきたっ! これだ小僧っ! アデリア・フォスにあってお前にないもの、これがない限りお前が俺を殺す事などありえんっ! さあ、もっと狂え。もっと狂ってとことんまで俺を楽しませろ、そして殺し合おうっ! その為に俺はいままで生き延びてきたんだからなっ! 」

 再起動したモニター上で左右に目まぐるしく動くロックオンマーカーを追いかけながらマルコは必死で引き金を引く。絶体絶命ともいえるこの状況を何とかして打開しようと思考を巡らせようとする彼だが事態は加速度的に進行している、そしてそれは彼自身へと襲いかかる弾数で分かる。
 ガシャンという大きな音と吐き出されるマガジン、リロードを要求する火器管制に従って腰の予備へと手を伸ばすがその瞬間。
「うわっ!? 」
 被弾した事を示すアラートがありとあらゆる形で危険を知らせ、ダメージレポートが一瞬で頭部を赤く塗りつぶす。側頭部から侵入した敵の弾が頭部保護外殻を貫通して情報統合プロセッサを完全に粉砕し、その勢いで頸部ジョイント付近にある火器管制サーバまで根こそぎ持っていく。反対側に開いた射出孔から様々な電子部品を吐き出しながらそれでもマルコは迫りくる敵に向かって恐怖と闘志が縒られた目を向けた。

 まだだ、ドクっ! まだ負けてないっ!
 ポーンもルークもビショップも敵に取られたままかもしれない、でもまだ僕には武器が残ってる。それを使い切るまでは ―― !

 頼みの綱だったマーカーは消え失せ、狙いの定まらない右手を振りあげてマシンガンを構えようとするマルコに向かって殺到する容赦ない銃撃。十字砲火の交点に立たされたゲルググの装甲板はそのほんの数秒で見るも無残にていく。激流に翻弄されるような衝撃の中で一つづつ消えていく明かりに苛まれながらもマルコは、身近に迫った死の影に向かって抗うように絶叫をほとばしらせた。

                    *                    *                    *

 遠のきそうになる意識を繋ぎ止めたのはステンレスの円筒から零れ始めた甲高い音だった。レーザー発振が始まった事を知ったジェスは鉛のように重たくなった瞼をこじ開けながら、筒の側面に設けられたインジケーターをぼんやりと眺めてその進捗を声にする。緊急作動という非常事態を担った彼女にとっての最後の仕事は今の状況を正しく、そして詳しく使い手に伝える事だ。自分が死んだ時以外に例外はない。
「カートリッジ、点火 …… かくに、ん。機体側、のアクセス、ゲート、オープン。レーザー …… 作動、最大出力まで ―― あと、2 …… 」

 モニターの隅に横たわったままの少女の姿を食い入るように見つめる二人の視界が突然かすれて薄くなる、思わぬ事態にコックピットを見回すコウはそれが全体に広がりつつある現象だという事に気づいた。電源車を失った事で内蔵電源へとリソースを移した機体が十全に能力を発揮するにはその充電時間はあまりにも短すぎた。
「くそっ、こんな時にっ」「だめよっ、コウ」
 彼女の安否が分かるまでなんとかモニターを維持しようと緊急救命エマージェンシーシステムを作動させて最後の電力をカメラへと振り向けようと操作するその手をニナが掴んだ。思わず顔を上げたコウの眼に映る彼女の顔が苦悩に歪んだまま暗闇へと溶けていく、スタンバイ状態へと移行したコックピットに灯るのはインフォメーションを表示する小さなモニターだけだ。
「その最後のバッテリーだけはもう使えない。炉が起動した時にスタンドアローンで制御棒を差し込むための力は取っておかないとこの子はあっという間に臨界を突破して核爆発を起こすわ ―― 正常に融合炉が動いてジェネレーターに電力が供給されるまで、もうあたし達にできる事は何もない」
 悔しさをこらえたニナの声だけが闇と同化したコックピット内に響き渡る。今や戦場での主戦を担う機動兵器、よほどの事がない限り戦場に投入されないケースはないとさえ言われる汎用性と火力を兼ね備えたそれが唯一無防備と化す瞬間に立ち会ったコウは今まで自分が当たり前のように使っていた兵装の持つ危うさを知った。そして彼らパイロットを戦場へと送り出すためにニナやモウラを始めとする整備班が日々どれだけの研鑽と緊張を重ねてきたかという事も。
「 “ …… いち、―― イグニッション ” 」
 その全てを一身にまとってカートリッジへとたどり着いた少女の声が二人の耳へと忍び込んだ瞬間にコックピットの床が小さく振動を始め、高周波の音が徐々に大きくなっていく。炉心を直撃するレーザーがプラズマを発生させて燃料であるヘリウム3を一気に爆縮、足元で始まる小さな太陽の誕生。
「45 …… 50、60.尚も上昇中、臨界まであと40」レーザーの悲鳴が大きくなるに従って伸びる数値をコウは祈るように読み上げ、それは隣に立つニナの脳裏に大きなイメージを作り上げる。大昔にロシアと呼ばれた国の科学者たちが考案したトカマク式核融合炉で起こるプラズマ、エナジーゲイン・ファクターは15を越えて尚も上昇中。自律稼働領域まであと十秒足らずで届くはずっ!
「 ―― 90突破っ、臨界までのカウントダウン開始っ! 」

                     *                    *                   *

 ここにたどり着けた事こそ疑わしい、とバリケードの前縁へとへばりついたタリホー2は疑心暗鬼の眼を周囲へと巡らせた。吶喊をかけようとする度に出鼻をくじくかのごとく放たれる敵の対抗策 ―― 一度目は見た事もない榴弾の援護射撃、二度目は制圧したはずの基地機能を使っての照明点灯。三度目は死に体かに見えた敵モビルスーツからのバズーカ。
「 ―― ほんとにもう何にもないだろうな? これでバリケードを越えたとたんにブービートラップドカンなんて御免だぜ」祈るように吐き捨てた彼は後を追ってきたタリホー1に手で合図するとゆっくりと顔をバリケードに押し当ててわずかに開いた隙間から中の様子を探りにかかる、モニターに映った景色にはハンガーの壁に背中を預けてうずくまった穴だらけの重モビルスーツの姿があった。十字砲火の交点、着弾数は二ケタを数えながらそれでも形を残している所が名機の証だ。
「タリホー2、敵防衛線の境界に到着。高脅威目標は完全に沈黙、今から内部へと侵入したい。実行の許可を」
「 “ トーヴ1からタリホー2、速やかに敵勢力範囲内に侵入。1の到着は待たなくていい、できる限り速やかにASAP ” 」
 2とてこの隊では新参者だがそれなりに戦歴も地位もあった兵士だ、その言葉の意味くらいわかる。要はポイントマンとして敵の反攻を一手に引き受けろという事だ。簡単に言ってくれるぜ、と心の中で毒づきながら彼は動態センサーの感度を最大にまで上げるとそのままバリケードの縁へと手をかけて一気に上へとよじ登った。
「すげえな、こりゃ」中を見下ろしながら呟く目の前に広がる空薬莢の海と波間に捨てられた火器の数々。彼のすぐ左手でバリケードにのしかかった首なしも入口を挟んだ向こうの壁で座り込んだ機体もこちらの動きには反応しない。まさに一基地が所有する全ての実弾を使ってこちらを必死に足止めしていたという事がその光景だけで理解できる。
 たった二機だけで。
「ったく、さっさと降参すりゃあこんな酷い目にも遭わずに一発で息の根止めてやったってのに。どうしてこう世間知らずってのはこう無駄な努力をしたがるんだろうねぇ ―― 」
 シニカルな笑いを浮かべながら骨組に足をかけてゆっくりとバリケードの内側へと降り立とうとする。だが地面に足をつけようとしたその瞬間に突然近接警報がコックピット中に鳴り響いて2の緊張と血圧を一気に極限にまで上昇させ、慌ててモニターの片隅に映る動態センサーの表示へと視線を走らせる彼の眼はその道行でとんでもないものを視界へと収めた。「なっ! なにいィっ!? 」
 それは紛れもなくモビルスーツの、それも連邦のものではない掌の影。視界を覆い尽くしたその手は一気呵成にクゥエルのカメラをバイザーもろとも叩き割った。バランスを崩して鉄骨の破砕音とともにバリケードの裏側へと落ち込む機体の衝撃を感じながら2は反射的にフットペダルを踏み込んで姿勢制御を試みる。「くそっ、一体どこからっ!? 近接警報には何も ―― 」
 その時サブカメラへと切り替わった映像がモニターへと飛び込んできて2はその正体に驚いた。自分がそばを通り過ぎてもピクリとも動かなかったあの首なし ―― 近接警報が鳴らない訳だ、奴はそのセンサーの間合いの内で動いたのだ。
「! こ、こいつっ! なんて奴だ、今の今まで死んだふりってかっ!? 」

「 “ …… ま、まる、コっ、マルコっ ” 」携帯から忍び込んできたその苦しげな声にマルコは暗闇の中で目覚めた。聞き覚えのある声 ―― 聞き違いか? だって彼はもう ――
「 “ マルコっ! は、はやくっ お、おれの ―― ” 」朦朧とする頭の芯に響いたアンドレアの声でがばっと起き上がった彼はエマージェンシーを立ち上げてOSを再起動させ、生きている最小限の機能だけでせめて周囲の状況だけでも知ろうと試みた。欠けた連邦軍のロゴが消えてつぎはぎだらけのモニターへと浮かび上がる外の様子、左の隅に映る猛烈な砂埃ともつれあう黒い影。「あ、アンドレアっ!? 」
「 “ ―― お、おれがし、死んじゃう、まえにっ ! ” 」叫びながら振り上げたこぶしがクゥエルの顔面に振り下ろされて顔の半分を道連れにして木っ端みじんに砕け散る。
「 “ に、にげてっ! ” 」

「 “ 頭部左側火器全損使用不能、センサー類の一部に重篤なダメージ、機能不全 ―― ” 」「だまってろっ!! そんなこたぁ言われなくてもわかってるっ!! 」無機質なAIの声に向って怒鳴りながら2は必死で体勢を入れ替えようとありとあらゆる方法を試みたが、馬乗りになったゲルググと自分との重量差や出力の差は覆せない。加えて損傷も顧みずに繰り出される徒手攻撃は徐々にクゥエルの機能にダメージを蓄積させる。
「くそがっ! マウント取ったからっていい気になってんじゃねえ、この死に損ないがっ! 」吐き捨てた彼が引き金を引くと生き残っていた右側のバルカンが火を噴いた。至近距離での発砲は跳弾被害の可能性が高いがそんな事に構ってはいられない、このままではジリ貧だ。吐き出される薬莢がガンガンと装甲に当たって早鐘の音がコックピットに充満する。

 至近弾を喰らって肩のアーマーから胸部装甲までが次々に欠けて宙を舞う、その様をモニターで見たマルコは必死で携帯に向かって叫んだ。「やめろッ!アンドレアもういい、もうやめろッ!! 」脳裏に浮かぶ昨日までのアンドレア、楽天家で能天気で悩み事なんか何にもないとばかりに朗らかに笑って冗談ばかり飛ばしていた、仲間であり家族であり友達。
「お前がそんな死に方しちゃだめだっ! 昨日まで戦争を知らなかったお前がそんな死に方を選ぶんじゃないっ! アンドレアっ! 」
 何度も何度も。
 張り裂けんばかりの悲鳴を上げるマルコの声をかき消す銃声と金属と金属がぶつかって砕ける音のカノン、しかしその喧騒が最後に選んだのはゲルググの背面から空へと突き出た明るい光の筋だった。一瞬で戻る静寂と止まる影、それがなにを意味するのかを知った彼は欠けたモニターに向かって大声で叫んだ。
「! やめろおぉぉぉっっッ!! 」

                    *                    *                    *

 これが、彼女?
 至近距離で繰り出される斬撃を舞いを舞うかのようにひらりとかわして得物を繰り出す、反応速度も威力もけた違い。その動きや姿はまさに彼女につけられた『二つ名』を彷彿とさせるものだ。それをモビルスーツで可能にしたのはオートバランサーを切って今まで蓄えたモーションデータを瞬時にパターンへと取り込んで活用するニナさんの開発したOS ―― ついに二つの歯車がかみ合った彼女のザクはもしかしたらあの日の隊長に勝つ事ができるかもしれない。
 でも。
 この男には絶対勝てない、とマークスの心のどこかで誰かが静かに告げた。
 こいつは言ったんだ、あの時のアデリアに殺されて、そのアデリアを俺が殺すと。だからこいつは少なくともこの先にある彼女の究極すら予想して勝つ自信があるんだ、だから。
 根拠のない確信、そして後に続く猛烈な焦燥。マークスの口が無意識のうちに心の声を垂れ流す。
「 …… だめだアデリアっ、やめろっ」 

 だめだだめだ これじゃあのときとおんなじだ。
 ベルファストとなにもかわらない あンときのあたしとおんなじになっちゃう このさきにふみこんで そしてあたしはなにもかもなくしてカラッポに なった。
 これじゃだめだ かてっこないってわかってる でもほかのやりかたが わかんない。
 だれか ―― あたしを。
 とめて。

                    *                    *                    *

 コウが呟く希望への秒読みをはやる気持ちで聞きながら、しかしその心は氷のように冷たく事態を冷静に把握している自分がいる。開発者としてプロトタイプも含めていくつもの機体に関わってきたスペシャリストとしての性はこの土壇場でもいかんなく発揮され ―― 不意にニナは暗闇の中でカッと目を見開いて周囲を見渡した。変な所はどこにもない、変わった所はなにもない。でも。
 ―― なに、これ ――
 黒い球体が頭の中で生まれた時にも感じた違和感、それは彼女の第六感のようなものだった。たとえばそれは昔から彼女の中に存在して、もしかしたらそれは今晩に起こった未曾有の出来事のことごとくを見届けて生まれた黒い球体の陰で息を潜めていたなにかなのかもしれない。だが確実なのは彼女の頭の中にある数多くの経験値が今起こりつつある最後の希望に対してジャッジを行おうとしている。それも、極めて不吉な。
「 ―― コウっ!? 」
 ニナの放った叫びとレーザーの音が弱まったと感じたのはほぼ同時だった。コウの手がパネルをバン、と叩いてわなないた。
「! なんでだっ、だめだっ! とまってくれっ! 」吐き出されるコウの祈りに逆らってなおも小さくなる高周波の音、そして傍らから覗き込んだニナの眼に映る数値。100を示す直前で突然下がり始めたそれはすでに50を切っている、止まらないっ、どうして ―― 。
 声もなく、なすすべもなくただその終焉を見送る事しかできない二人の前で炉の臨界量を示す数値はあっという間にあっけなく、そして冷酷に『00』を表示して止まった。目の前に突きつけられた現実を呑みこめずに呆然とするニナの横でコウは悔しさに塗れた声で携帯に向かってその結果を口にした。
「 ―― 起動 …… 失敗っ! くそっ! 」

                    *                    *                   *

「 …… どう、して? 」もの言わぬ空っぽの筒へと焦点の合わなくなった視線を投げかけながらジェスが呟いた。「 ―― そんな、は、ず。 …… ないよ」
 床に張り付いたままの体を震える両手が支えて上体を引きはがす、流れる時間に取り残された彼女の体はゆっくりと ―― とてもゆっくりと動くことしかできないのに。「ねえ ―― 」引きずる体の重みでバケットの床がぐらぐらと揺れる、その縁を踏み外せば炎に染まる奈落が大きく口を開けている。
「あたし …… しんじてる、ン、だ」彼女の後を追うように刻まれる赤い帯が少しづつ床へと広がる。「あんたの、こ、と …… みんなが、待、って ―― る」
 そこへと至るほんの数十センチがどれだけ果てしない道のりなのか。だが彼女は何度も力を失って床へと突っ伏しながら手を休めない、その努力はハンガーの熱で少し温まったフュンフの装甲板に青白い頬が押しあてられる事で報われた。緩やかなカーブを描くスカートに上半身を預けた所で力尽きたようにもたれかかる彼女の瞳は次第に長いまつ毛の下へと隠れていく。
「 …… あたしの ―― こども、だもん。あきらめちゃ …… だめ、だよ」
 かすかに震える唇がほんの少し開いて熱い空気を体の奥へと引き込んで。力のない両手がそっとスカートの表面をなぞってそのまま大きく抱きしめた。

                   *                     *                   *

 目に焼き付けられた仲間の死に声も出せず、ただ成り行きを見守るマルコは闇の中でぐらりと倒れ伏す大きな塊の亡骸を見つめた。生き返ったOSがそのまま外で続く絶望をコックピットへと引き込む。「 …… たく、とんでもねえ連中だ。もうちょっとで俺がトーヴ2の次に殺られる所だったじゃねえか」頭を半分潰されて上半身をボコボコにへこまされたクゥエルがモーターをきしませながら上半身を起こした。「さ、お前もそんななりじゃもう何にもできないだろ? 仲間がさびしがってる、すぐに後を追わせてやるから喜んで死に ―― 」
「待て、タリホー2」そう言ってバリケードの縁から上がってきたのはマルコがさんざん足止めを続けてきた左翼側の一機だった。アンドレアを殺したサーベルを握りしめてぎこちない足取りで歩んでいた2はまるで自分の楽しみを奪われてぐずる子供のように大声を上げて抗議した。
「なに言ってやがる、こっちは危うく死ぬところだったんだぞ!? 助けにも来なかった奴がなに偉そうにどの口でほざきやがるっ!? 」
「そんな苦情はお前の後衛に言えよ、こっちはこっちなりに手いっぱいだったんだ」そう言うとタリホー4はバリケードを乗り越えて用心深く地面へと足を下ろし、油断なく銃口をマルコへと向けながら敵意とは違うある種の感慨をこめていった。
「 ―― こいつのおかげでな。 …… ゲルググのパイロット、どうせ生きてるんだろ? ならよく聞け。今この時点でお前の死亡は確定している、だが最後に一つ提案したい。 ―― 俺たちの仲間になる気はないか? 」

 通信を聞いたケルヒャーは驚いて声を上げそうになり、しかし4の真意を汲み取った瞬間に開けた口を固く閉じて腕組みをした。確かにこの部隊はその性格上おいそれと補充がきかない、それに失ったのはトーヴ1の代りに前線指揮を司る任務を負っていたトーヴ2だった。最前線で実働する前衛以上にその人材を見つける事は困難だ。
 次点としてラース2を昇格させることも考えてはいたがさっきまでの状況を鑑みてもそれは一目瞭然だ、まだ物足りない。となると自分の立てた戦術に寡兵で対抗したこの兵士はここで殺してしまうには ―― 。
 ふと気がついて意識を向けたモニターの向こう、いつの間にかダンプティがこちらへと視線を向けている。彼はケルヒャーの考えをくみ取ったかのように小さくうなづき、そしてケルヒャーは事の成り行きを4の手にゆだねる事に決めて静かに傍観者を決め込んだ。

「簡単だ、イエスかノーか。イエスならばお前は生き延びて俺たちの仲間になる、ノーなら今日ここで死んだお仲間と地獄行きだ。 ―― だが俺が思うにお前は『こっち側』の人間だ」
 なにを、と歯を食いしばって欠けたモニターに映るクゥエルを睨みつけるマルコ、だが ―― 何も言い返せない。
「作戦の立案者が最前線で戦う事はごくまれだ、なぜなら突発的な事態に対応するために頭は最後の最後まで残しておく必要があるからな。察するに今の状況からだと今回の肝はお前という事になる」そう言うとクゥエルは彼の背後でいまだに燻っているモビルスーツの残骸へと目をやった。
「あの二機は、お前の仕業だ ―― 味方を犠牲にして状況をかく乱させ、どういう手を使ったのかは分からないがうちの正規兵をみごとに仕留めた …… 圧倒的に不利な状況から冷徹かつ合理的な判断を下して実行する能力は間違いなく『まとも』じゃあない」

 怒りで全身がふるえる。

 好きでそうした訳じゃない、好きでそうなったわけじゃないっ。チェンバロの時も星一号も、そして今日も。勝たなければ明日はないと。みんな守らなければならないもののために命を落とすしかなかったというのに。
 それをこいつは ―― こいつらはっ!
 なにも知らずに分かろうともせずにっ!
 ただ結果だけで俺にそんなレッテルを張るつもりかっ! このくそバカ野郎どもっ!
「 …… だれが、てめえらのいいなりなんかに」

 震える手がサイドパネルに張られたプラスチックのカバーを押し破る。封印が解かれた瞬間に点滅する赤いボタンは機密保持のために備えられた自爆ボタン。マルコの指がゆっくりとそれに押しあてられ、今まさに押し込もうとした ―― その刹那。

                    *                    *                    *

「「「「 …… 歌 …… ? 」」」」

                    *                    *                    *

 “ 可愛いちびちゃん 踊りなさい ママはここよ 心配しないで ”

 真っ暗なコックピットに流れ込むその歌をニナは知っている。
 ナーサリー・ライム。子供に聞かせる子守唄の中でもマザーグースの呼称で分類された何十曲のうちの一つ。
「 …… 『Dance little Baby』? 」
 装甲に伝わるかすかな振動が接触回線を通じてジェスの声を届けている、とても小さくか弱い。でも。

 “ キャッキャといったり 跳んだりはねたり あっちのほうへも いきなさい ” 

 その歌声が闇の縁でよろめくアデリアの襟首を掴んで一気に現実へと引き戻す。爆ぜるような勢いでラース1との間合いを離した彼女は何度も荒い呼吸を繰り返し、憑依しかけたあの日の『鬼』を振り払うかの如く大きく頭を振ってモニターへと視線を送った。見つめる瞳に狂気はなく、そして胸いっぱいに取り込んだ全ての空気を吐き出すかのように大きな声で携帯に向かって歌姫の名を呼ぶ。
「ジェスッ!! 」

 “ 天上に上ったり 床に下りたり 前後左右に 回りなさい ”

 か細く響く彼女の子守唄を聞きながらアストナージは消火ホースとノズルの境目に巨大なカッターを入れて両断すると切り口を胴体に回して歯を食いしばった。「いいのか先任っ!? 装甲板の仮止めに使うステープルなんかでこいつ止めたらなんかのはずみであんたの体にも刺さっちまう! 」
「かまわねえっ! ここで四の五のぬかしてる時間はねえ、それにどうせ刺さってもすぐには死にやしねぇっ! いまのあいつよりゃずっとマシだっ! 」アストナージの気迫に押された整備員が切り口を合わせて巨大なケーブルタッカーでゴツい金属を打ち込むと彼は炎の向こうで意識を失いかけている、見えない仲間を睨みつけた。

 “ あなたと一緒に ママも歌うわ 石炭くべながら ジャン ジャン ジャン ”

 忍び込んでくるその小さな音が。
 消え入りそうなかすかな歌声が。

 怒りと絶望に塗れたマルコの心から全てを押し流す。
 命を賭してでも守らなければならない、彼らがまだそこにいる。

“ ―― お前は、もう逃げるな ”
 バスケスの声に導かれた彼の指がそろりと自爆ボタンから離れてゆっくりと顔を覆う、屈辱しか与えようとしない敵の声から耳を。
 目を。
 全てを閉ざして彼は再び知略の海へと最後のダイブを敢行した、ほとんど残ってはいないだろう大逆転の手掛かりを掴むために。

                    *                   *                     *

 それは突然始まった今夜最後の奇跡、核物理の偶然。
 自分の可能性を解き放てずにふわふわと漂う、小さな小さなヘリウム3の粒が同じように自分の役目を見失って彷徨うレーザーの残滓と巡り合う。互いに引かれ合うたった二つの粒子がぶつかり合って生まれるかすかな光。
 だが。
 生まれ出ずるいくつもの輝きがそれぞれに「重力」という名の力を得て、まるでそれが当り前であるかのように求めあい ―― 邂逅を果たしては、また繋がり。
 連鎖する光の粒は少しづつ ―― 次第に大きな光になって。

                    *                   *                     *

 地鳴りと振動のアンサンブルがコックピットを揺らして異変を伝える、しかしその音は二人にとって最も心地よく、死ぬまで決して忘れる事のないコンチェルトの始まりだった。反射的に目をやったインフォモニターの数値がケタ違いの速さで上昇してあっという間に100を指す。
「 …… 融合炉、点火っ。臨界確認っ!! 」驚きに目を見開いたまま叫ぶコウの声と同時に残されていた最後の電力を使って制御棒底部のモーターが一斉に駆動した。バッファと呼ばれる鞘からハフニウム製の金属が格納容器内にねじ込まれ、出力のコントロールを掌下に収めたと判断した融合炉付きの小さなコンピューターがジェネレーターへのメイン回路を遂に開く。ジャッという音とともに全てのリレーが連動して解放状態の電極を挟み込んで道が繋がる。
「ジェネレーター起動」
 思わぬ展開に我を忘れて立ったままのコウに代わって冷静な声でコンソール上のスイッチを動かし始めたのはニナだった。電源が落ちた事で一度閉じてしまった機器類をもう一度チェックリストの状態にまで復帰させようとする彼女の意図を察したコウが後に続いて天井のスイッチを操作し始める、それはまるで腕利きピアニスト二人が奏でる連弾だ。モニター上に点灯するジオン公国のマークも無視して作業を続ける二人の顔が計器の復旧に伴って徐々にはっきりと浮かび上がる。
「セットオーバー、システムノーマルっ! アビオニクスへの電力供給正常値で固定っ! 」
 コウの声にニナの右手の親指が上がる。「駆動系への回路、開くわ」コウの足元で身をかがめたニナがパネルの奥で固定されていたレバーをリリースすると機体の各部から小さな悲鳴が上がり始めた。熱核炉から直接取りだされる電気とジェネレーター発電のジオン謹製ハイブリットシステムが駆動系へと伝えられてコイルが発熱し始め、長く眠りについたままだった彼女に熱を与える。

 それは圧巻ともいえる光景だった。
 全てが蘇った瞬間に訪れる光の奔流。
 コックピット内の全てのLEDが一斉に点灯して二人の全てを色とりどりに染め上げる。思わず立ち上がったニナがわき上がる輝きに目を細めながら、天を見上げて呟いた。
「 …… 彼女が。目を、さます」



[32711] Godspeed
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/04/16 21:09
 もし熱核炉の励起があと10分早かったとしたらその反応は高台から戦況を見守るハンプティに確実に察知されていたはずだ、しかし彼はそれをハンガー内で起こる誘爆の熱量だと勝手に誤認した。戦場を支配するのはあくまでも人、故に起こるヒューマンエラー、ケアレスミステイク。
 理由はただ一つ、今まで経験した事のないプレッシャーからの解放による気の緩み ―― 軍施設への夜間強襲、予想外の反撃、そして敵の凄腕との直接対決。幾多の苦難を経てやっと敵の本丸へと突入する先遣部隊の背中を精密射撃用のスコープで眺めながら彼は極秘に与えられた任務の準備に取り掛かっている。その思考の切り替わりを突くように一瞬灯ったその警告を、勝利の予感に酔いしれて早合点してしまった事が後の後悔へと結びつく事などこの時思いもよらなかった。

                    *                    *                    *

 びりびりと全身へと伝わるその振動が彼女が手にした最高の戦果、立てた誓いを守りきった事に満足したジェスは力なく ―― それでも精一杯の力で頬笑みを浮かべて装甲板をパタン、と叩く。果たしてその見返りは酷く理不尽なものだった。
 アストナージの言葉通りに役目を終えたカートリッジは機体側から自動で切り離され、支えを失った金属の筒はそのままスカートにもたれかかったままの彼女目がけて転がり落ちてくる。この機体を蘇らせた功労者の肉体をしたたかに叩いたそれはそのままバケットの床で大きくバウンドして炎が燃え盛る床へと消えていった。
 
 次々に計器盤へと表示される数値やグラフには目もくれずにコウは慌ててシートに腰掛け、ベルトもせずに操縦桿を握ると傍に立つニナに鋭く言い放つ。「ニナっ、しっかりつかまって! ―― モニター回復っ、ジェスはっ!? 」
「まだバケットの上に …… いやぁっ! 」ニナの悲鳴と交錯するコウの視線の先にあるバケット ―― ジェスはまだ確かにそこにいたが、カートリッジの直撃を受けた彼女の体は弾んで床の縁まで投げ出されて今にも滑り落ちそうだ。
「胴体部のジョイントを固定、左腕だけでなんとか彼女を拾い上げられないかっ!? 」
「無理っ! 左腕の位置がバケットの前にあって肩を動かしただけでも彼女が落ちちゃうっ! ―― ジェスっ、起きなさいっ! 急いでそばの手すりにつかまって、はやくっ!! 」懸命な叫びにジェスの体が反応したのをニナは見逃さなかった。
「生きてるっ! あの子まだ生きてるっ! 」
 時間がない! コウは目にも止まらぬ速さでパネルのスイッチを操作しながら超近接モードに操作系をセットした。「信地旋回でジェスをモニターの正面に捉える、右手で掬いあげるからグリップをしっかり掴んでっ! 」
「!? だめよコウっ、そんなことしたら彼女 ―― 」「わかってるっ! でもこのままなにもできずに見ているだけなんてだめだっ、 もうあんなのは ―― 」彼の脳裏に蘇るサリナスでの痛恨、助ける事ができなかった不甲斐なさを奥歯ですり潰してコウはスロットルをミリタリーまで押し上げ両足のペダルを踏み変えた。急激なGで視界が揺れる。
「俺はいやなんだっ! 」

 大丈夫だ、コウ。
 初めて乗った機体でお前はアルビオンのハンガーで同じようにできたじゃないか、だから彼女は今お前のそばにいる。
 あの時できた事が今のお前にできないはずがない。
 絶対に、やれるっ! 

 左足を軸にした猛烈なピポットターンで目の前の景色が線のように流れる、ニナの眼にはそうとしか映らなかったモニターが突然停止して体が逆方向へと持って行かれるのを渾身の力で繋ぎとめるといきなりバケットが倒壊する絵が現れた。倒れていく支柱の先でふわりと浮かんだ少女の体 ―― まるでスローモーションだ ―― が炎の海目がけて投げ出されているのが見える。
「いやあぁっッッ! ジェスっッ! 」悲鳴を上げたニナの横でコウは信じられないスピードでマニピュレーターのボタンを叩き続ける、だが差し出された右手の速度とは裏腹に右手の指は思うように動かない。AIのエラーメッセージとリコマンドを要求する末端の操作が彼の意思を反映しないのだ。「くそっ! 頼むからっ! 」
 時間の止まったコックピットで業を煮やしたコウが指一本を動かす事だけに集中する、すると彼の眼の中で牛歩のごとく動き出した中指が少しづつ伸び始めそれが伸び切らないうちに先端がやっと落下する彼女の体を引っかけた。だがほっとするのもつかの間今度は機体の旋回によって発生する慣性モーメントで、せっかく捕まえたジェスの体をそこへとしっかり収める事ができない。

 その瞬間コウは気づいてしまった。彼女を自分が助ける事ができない、という事にではない。
 自分とこの機体の間に途轍もない欠陥が存在しているという事に。

 指の先に乗った不出来なやじろべえを睨みつけるコウの胸に湧き上がるニナにも言えない圧倒的な絶望、だがその時コウの耳にずいぶん昔に聞いた叫び声が飛び込んできた。
「 “ 2秒だっ、伍長っ! ” 」

                     *                    *                    *

 いつまでも仲互いの止まない陸戦隊とモビルスーツ隊を仲裁するためにバスケットの試合で決着をつけようといいだしたのは、彼らをまとめるバスケスだった。陸戦隊が勝てば今のご時世やこの基地ではほとんど不必要だと思われるモビルスーツ隊の予算をそっくりこちらに渡してコウが起こした今までの不祥事の慰謝料とする事、かたやモビルスーツ隊は彼らのまとめ役であるバスケスを人手不足で困り果てたモビルスーツ隊員に臨時として所属させることが条件だった。
 基地全員を巻き込んでの異様な盛り上がりの中 ―― 当然ながら賭けが成立している事も一つの要因だ ―― で行われた最初で最後の試合ファイナルは一進一退、持ち前の動体視力と未来予測で相手の密集をかいくぐってぺネトレイトを敢行するコウに瞬発力とチームワークで対抗する陸戦隊。トラッシュトークとボディチェックで徐々にこちら側の戦意を喪失させ、それでもコウ一人が気を吐いてなんとか持ちこたえるという展開が第4ピリオドの終盤まで続く。
 それはシュートクロックが試合終了のタイマーと同期した残り10秒の事だった。2点のビハインドで迎えた恐らく最後の攻撃で陸戦隊はコウにシュートをさせないためにゾーンディフェンスを引いて待ち構える、コウはせめて延長を狙って果敢に敵ディフェンスの間をかいくぐろうと試みる。しかし何度も見せられた攻撃をここで許してしまうほど彼らはヤワではなかった。
 あっという間に敵の壁に囲まれて進退きわまる彼とモビルスーツ隊の誰もがこれで終わりかと思った瞬間。大きな声が会場となったハンガー中に響き渡って焦るコウの耳朶を叩く。
「2秒だ、伍長っ! 」
 その声を聞いた彼の手は信じられないほど繊細な動きで今にもボールへと触れようとするディフェンスの手をかわし続けた挙句に背後へとノールックでパスを送る、そしてそこには声の主が今や遅しと待ち構えていた。
「グッジョブっ伍長! あとは任せろっ! 」
 3ポイントラインの後ろから放たれたそのシュートはこの日を境に始まるオークリーの団結を決定づける見事な放物線となって試合終了のブザーとともにリングを揺らした。

 諦めかけた彼の心を奮い立たせるその声に体は反応した。右の操縦桿につけられた微調整用のトリムに親指を押しあてると全神経を集中して操作する ―― モニターの向こうで今にも落ちてしまいそうな少女の体を永遠とも思える2秒間で乗り切った後に迎える限界。
 再び空中へと投げ出されるジェスの姿を口を押さえて目を見開くニナ、だがその横でコウはモニターを睨みつけながらあの日のヒーローの名を叫んだ。
「アストナージっ! 」

 奇しくもその瞬間に同じ記憶を共有したアストナージは背後に引きずる消火ホースの重みに抗いながら瓦礫だらけの床を一直線に駆けてくる。幾重もの炎の壁を真っすぐに突き破ってきた彼のつなぎは所々が焼け焦げてズボンの裾にはすでに火が燃え移っている、だが彼はそんな事は一切お構いなしに宙に浮かんだジェスを見上げた。
“ くそっ、あんたの最後のパスってのはどうしていつもこう ―― ”
 落下地点を予測して彼女が落下してくるまでの時間と自分がそこに到達するまでの時間 ―― 際どすぎて背筋が凍る。おまけに受け止める体制を整えるだけの時間すら。
 いちかばちかとアストナージは視線を切ってただ全力で駆け抜ける事だけに全神経を集中させた。落下地点は敵の砲撃でささくれだった床の跡地、まるで彼の到着を邪魔するように大小の破片が行く手を遮る。
“ のるかそるかの大博打みたいなのばっかなんだっ!? ”
 ままよとばかりに足から滑りこんで両手を広げながら瓦礫の上へと滑りこむ ―― 大小の瓦礫が彼の背中を激しく連打、ラッシュの隙間から覗き込むように走る冷たいしびれはホースを止めたステープルの先端が確実に脇腹へと突きたてられた証拠だ。だが命へと迫る全てをねじ伏せるアドレナリンが彼の口から絶叫となってほとばしった。
「! 届けぇぇっッッ!! 」

 わずかに下になった赤毛をとっさに抱えて自分の胸元へ押しつけたとたんに喰らう落下加重の衝撃に腹筋が悲鳴を上げて肋骨から嫌な音がする、さらに背中に感じる痺れは唐突に気持ち悪い感触へと変化した。痛いを通り越してこみ上げてくる吐き気を必死に呑み込んだアストナージが固く目を閉じて抱きとめたジェスの体を渾身の力で抱え込む。
「引けえっッ! 」
 アストナージの口から放たれる怒声が消火ホースの根元へと伝わった瞬間に二人の体はまるでゴム仕掛けのように後方へと弾け飛んだ。彼が駆けてきた道をそのままトレースして炎の壁を突っ切った果てにたどり着いたのは退避壕のまん前、整備班の力自慢総出のリワインドは行きよりも早く二人の体を彼らの下へと連れ帰る。
 後ろ向きで滑り込んできた二人を出迎えるように消火器が盛大にふりまかれてアストナージのズボンの裾を焼いていた火を一瞬で消し止め、すぐにモウラがぐったりしたままのジェスを受け取ると真っ白になった彼がすかさず尋ねた。「班長、あいつは!? 」
「いいからあんたはそこでおとなしく寝てろっ! ―― ミカっ、はやく来てっ! 」
「大の男がいつまでもおろおろしてんじゃないわよっ、さっさと道を開けてっ! 」モウラの呼びかけに応えた衛生兵のミカが二人の周囲にたかっている仲間を押しのけて三人の下へとたどり着き、横たわったジェスのそばへとひざまずくと即座に医療キットの蓋を開いた。「手の空いてる奴は先任の怪我の具合を見てっ! ステープルが深く刺さってんなら絶対に抜いちゃだめ、こっちが終わってからあたしが処置するからっ! 」
「ミカっ、ジェスのつなぎが血で ―― 」
「落ち着きなって班長っ! 今バイタル取ってから調べるから! 」平常心を失いつつあるモウラを一喝した彼はジェスの手首にデジタルメーターを巻きつけるとボタンを押して小窓を睨みつける。「軽度のシェルショックの兆候 ―― モルヒネ投与」
 そうつぶやいてカバンの中から小さな薬嚢入りの小袋を破ってジェスの二の腕へと突き刺す、全員が固唾をのんで治療を見守っているその中でミカの険しい表情が疑惑へと変化した。つなぎを染める血の跡をじっと追いかけながら彼は閉じた瞼をこじ開けてからペンライトの光を当てて、それから顎を掴んで口の中へと光を向ける。
「お、おいミカ。ジェスは ―― 」
「 ―― 気ィ失ってる、だけ」

 ミカの言葉を聞いた全員が目を丸くして声を失う。敵至近弾の殺傷範囲下で任務をこなして5メートル以上の高さから落下した彼女が ―― 全くの、無傷?
「この子たぶん全力で奥歯かみしめてたんだろうねぇ ―― ほら」そう言うと空いたジェスの口の中から歯の欠片をつまみだしてモウラに見せた。「破片が暴れまわって口ン中ズタズタになってるけど …… つなぎに付いてンのはそン時の血だわ、ほんとに運が強いったら神様級だね」
 ほう、とため息をついたミカとは裏腹に整備班全員が全員総立ちで吠えた。それは自分達が下した決断を後悔せずに済んだという安堵と仲間の健闘を称えようとする感情の爆発だ。野太い雄叫びと鳴き声が入り混じる中、両手を床についてさめざめと泣くモウラの傍をすり抜けてアストナージがジェスの下へと這い寄った。
「おいジェスっ! しっかりしろ、目ェ開けてこっち見るんだっ! 俺が見えるかっ!? 」
 安否を気遣って声を荒げながら肩をゆさぶる彼の背後でミカが背中の穴を麻酔もなしで縫いつけている。どこもかしこもボロボロであちこちが痛んでいるにもかかわらずアストナージは何度も何度も自分の相方を呼び続け、やがて彼女はおとぎ話の主人公が目覚めるようにゆっくりと瞼を開いて必死の形相へと目を向けた。
「ジェス! 分かるか俺が誰だかっ!? 分かったら返事してくれっ! 」シェルショックを薄めるために投与されたモルヒネで酩酊しているジェスはぼんやりしながらぽつりと呟いた。
「  …… 天使の、お、じいちゃん? 」
「ちがっ、バカっ! おれだ、アストナージだっ! こんな時まですっとぼけた事言ってんじゃねえっ! 」消火器の粉で真っ白になった顔をやっと喜びで埋めながら彼は瞼を閉じてジェスの傍らにうずくまった。視線だけで周りをきょろきょろと見回しながら、ああ、と小さなため息まじりに呟いた彼女の口が嬉しそうな声を出す。「 ―― いきてる、あたし」
「このっ! バカ娘っ!! 」泣きながらにじり寄ってきたモウラが吐いた怒声ごとジェスの体を抱き上げて二度と離すもんかと渾身の力をこめる。いてて、と言いながら彼女はモウラの耳元に向かって、彼女の部下として絶対にしなければならないセリフを口にした。
「 …… 班長、ドム・フュンフの起動を確認。作業終了 …… しました」
「よくやったっ! ほんとによく戻ってきた、それでこそあたしの部下だっ! ほんとによく ―― 」それ以上は声にならなかった。包み込むように抱きしめられたモウラの腕の中で痛みに顔をしかめながら、しかしジェスはふと何かを思い出したかのように小さな抗議の声を上げた。
「  …… 『こっ酷い目』って …… これ? 」

 携帯から届く歓喜の声を耳にしたニナの膝から力が抜けてそのままへなへなとその場にへたりこみ、コウはパネルに突っ伏して大きなため息を一つ。
「「 …… よか、ったぁ 」」
 お互いの口から洩れた安堵の言葉に思わず顔を見合わせクスクスと笑って張り詰めていたコックピットの空気が一瞬だけ和む。「 “ ―― コウ、ほんとに今日は …… ありがとう。もうあんたにゃ何と言っていいか ” 」
「礼なんて …… それよりアストナージの具合は? 」立ち上がったコウはニナのパイロットスーツの肩のあたりを引っ張ってしわを治した。ほんの少し着崩しただけでも耐G機能は半減する、モビルスーツパイロットの候補生が士官学校で一番最初から最後まで厳しく躾けられる事柄の一つだ。取るに足らない些細な不注意でも戦闘ではそれが命取りになる事が往々にしてある。
 ありがと、と唇だけで感謝を表現したニナが急ごしらえのコパイシートへと足を向ける。「 “ ジェスを受け止めた時に肋骨が何本か持っていかれてわき腹に少し穴が開いた、あとは両足のふくらはぎにⅡ度のやけどってとこ。命には別条ないけど ―― ” 」
「 …… そうだな、モウラ」少し深刻な声でコウは答えるとバケットに腰掛けたニナのシートベルトを手伝った。ハーネスを回して腹の上にあるバックルに一つ一つ固定すると『WILLANS』と書かれた肩パッドの位置を少し上下に動かす。「 “ これでうちの資源と資産は全部使い切った …… あとは二人に、託すわ ” 」
 コウがニナの両肩に取り付けたHANSの具合を確認すると彼女はすぐにラップトップから伸びるコードを脇のスロットへと差し込んだ。画面上には機体の全ての状況をリアルタイムで表示するテレメトリーが表示され、加えてそれを補うかのようにニナの頭の中で例の黒球が緩やかに動き始める。気持ち悪さに少し眉をひそめたが、とりあえず無視する事に決めた彼女が固い口調で言った。
「機体情報の双方向互換システム接続、表示正常。端末問題なし」
「熱核炉出力デフォルト、ジェネレーター稼働率98パーセント。各部油圧正常範囲内、リアクションホイール三軸駆動中、ジャイロポジティブ。機体制御はローカル」
「 “ 確認したコウ ―― これがここでのあたしの最後の仕事だ。インフォメーション、始めるよ ” 」モウラの声を聞いたコウの顔が引き締まる。そっとスロットルを押し上げた ―― それは月でニナに指摘された時からずっとそうしている ―― 彼はペダルを踏み変えると機体を出口へと続く通路へと向けた。
「オールシステムアクティベート、コンディショングリーン。MS-09Fドム・フュンフ、始動」

 エバリューションモニターもシステムモニターも電源車ごと吹き飛ばされて目の前のパネルには演習用のモニターもない。戦う事に必要なものしかない操縦パネルを眺めながらコウは心のどこかでこの機体に乗れた事を嬉しく思う ―― いつか、どこかでこんなのに乗ってみたかった、戦争という徒花が生んだ『初期の機動兵器』というやつに。
「 “ 専用武装は背面のハードポイントに取り付けてあるロングビームサーベル一本、予備はなし。火器管制と直結する掌面コネクタはユニバーサル規格外で使用不可、ただし握って撃つ事はできる ” 」
 頭の中に浮かんだフュンフの三面図に文字を書き加えながらコウは小さくうなづいた。
「了解した、拾った武器でも至近戦や威嚇に使えるなら問題ない」
「 “ 推進剤はフルペイ、ただしバーニアスラスターは全部ジオンの『土星エンジンロケット』だ。推力はうちにあるザクⅡの六倍 ―― ニナ ” 」
 モウラに促された彼女がすぐにラップトップを叩いてアビオニクスの情報を呼びだす。「操作系のシステムは現在重力/コロニー下モードに自動設定。給排気及びパワーカーブはクロスレンジで固定、出力特性はMS-09F/TROPドム・トローペンに少し似てるわ。それでもかなりピーキーだけど」
「 “ と、いうこと。今まで地上戦に投入されたどのドムよりもこいつは足が速いってことさ ―― まあ今のコウなら大丈夫でしょ? こんなこと初めてじゃないんだし、さっきもあれだけ動かせたんだから ” 」
「 ―― 俺を買いかぶりすぎだ、モウラ」

 シートの背もたれから届く本気の声にニナの指がキーを連打する。彼を不安にさせている要素が一体何なのかを探る為にデータをウィンドウへと立ち上げるがそれらしい物は見当たらない、機械的な不具合ではないとしたらその原因は ―― 。
「大丈夫よ、コウ」
 基地を離れて二年、しかも自分が提案した薬のためにモビルスーツに触ることすらできなかった症状を奇跡的に克服しての戦線復帰。だがブランクから来る不安は決して拭えるものではない、あたしにできる事は ―― 。
「どんな不具合もトラブルもあたしが必ず直して見せる、これでも一応元『クラブ・ワークス』のメンバーだったんだから。だからあなたは前だけを見て」
「 …… 夢の中で彼にも同じ事を言われたよ」
 シートの向こう側でそう告げるコウの声が穏やかに変わる。「ありがとう、ニナ。君が傍にいてくれるだけで心強い ―― でも一つだけ頼みがあるんだ」
「なに? 」

 両の掌にある固い操縦桿の感触を確かめるたびに少しづつ取り戻すあの日の感覚、それは決してコウにとって喜びや感動に満ち溢れた物ではなく屈辱と敗北に苛まれた末に手に入れたものだ。二度と踏み込めないと思っていた修羅の道へ今の自分が立ち戻るためには。
「 …… 戦ってる時の俺を、見ないでほしい」
 絞る出すように告げた言葉の最後にキーを叩いていた彼女の指が止まった。ほんのわずかな沈黙と幾度かの呼吸の後に紡がれた彼女の言葉はとても静かで、しかし力強い。
「もう二度と ―― 目をそらしたりしない。あたしはあなたについていくわ、コウ」
 伝わるその決意にコウの目が大きく見開く。「たとえあなたがどんな道を選んだって私はもう迷わない、だってあなたは絶対にガトーと同じ道を選ばないって信じてるから。それでももしあなたが間違っていると他の誰かが言うのならあたしは絶対にその誰かと戦うわ。だからあたしは今ここにいる」

 どうして。
 他人の思いを背負う事がこんなにも重く。
 そして胸を焦がす熱さがこんなにも心を滾らせるなんて。

「 …… わかった」覚悟を決めたコウが操縦桿を握りしめてモニターに広がる炎へと視線を向け、それでもやりきれない思いを口にする。「それでもやっぱり、今日の俺を見られたくなかった」
 そう呟くとマスターアームのスイッチをパチンと上げた。背中のハードポイントに取り付けてあるたった一本の兵装が低い耳鳴りを響かせながらぼんやりと光り出す。
「俺は ―― あの日の俺に、戻る」

                    *                    *                    *

「 “ バンディッドから06、まだ生きてますか? ” 」
 耳元で聞こえる静かな女性の声がマルコをダイブから引き戻す。「かろうじて。機体は損傷が激しくてもう動けませんが」
「 “ もうすぐハンガークイーンが発進準備に入りますが、もう少しの間敵の注意をそらす必要があります。手段は問いません、時間を稼いでください ” 」
 セシルの言葉に驚いた彼の視界が現実へと帰還した。絶対に動かないはずのモビルスーツが発進準備に入っている、パイロットは ―― 語るに及ばず。
 敵味方とも想定外と言える変化が勝ちに繋がるかどうかは分からない、予備役の彼がどれだけの実力を持っているのかも不明だ。だがこの携帯の向こうで作戦指揮を執っている女性が時間を稼げというのなら何らかの策が用意されている。それに ――。
「了解です、バンディッド」 
 指揮官らしいいい命令だ。こちらの生死も何も関係なく、ただ『手段は問わない』 ―― おかげで作戦の選択肢が広がるなんでもアリだ
 マルコは小さく答えるとすぐに外部スピーカーのスイッチを入れて目の前に対峙する黒塗りのクゥエルを忌々しげに睨みつけた。「『まともじゃない』、か …… 確かにな、あんたの言うとおり正規の部隊の服は俺には窮屈すぎる。元々は日陰で戦ってきた俺だ、元の世界に戻ってみるのもいいかもな」

                    *                    *                    *

「 “ バンディッドから整備班長へ、状況を ” 」グループチャットを使って立て続けにセシルの声が全員に伝わる。「 “ 最後の仕事、とおっしゃいましたがそれはこの後ハンガーを放棄するという決定をしたという事で間違いありませんね? ” 」
「ハンガーからバンディッド、その通りです。現在ハンガークイーンはインフォメーションを終えて出撃待機中、機体発進の後に整備班全クルーは現場を放棄します」
「 “ 了解しました ―― ではこちらも状況管制を終了して次のフェイズに移行します。ハンガーを離れたら通路右の予備電算室までお越しください、そこで合流後迎撃準備にあたっている本隊と合流します ” 」
「 ―― 予備電算室って …… ここのすぐとなりじゃないか、そんな所に今まで? 」
 本来作戦指揮と言うのは最前線から離れた後方で行うものと相場は決まっている、それがまさに最前線のすぐそばで行われていた事にモウラはウェブナーの代理を名乗る者達の胆力を垣間見た。どれだけの修羅場をくぐり抜けて彼らが戦い生き延びてきたのか ―― そして惜しくも志半ばで散ってしまった我が基地司令がどれほどの実力を持っていたかと言う事も。
 それに本隊 ―― 迎撃準備ってそんなものが一体どこに? まだ勝つ見込みがあるって?
「 “ まだとことん追いつめられているわけではありませんからね、事実ここからがこの戦いの本番です ―― では彼の出撃手順ローンチ・シークエンスはこちらで引き継ぎます。その前に ” 」

                    *                    *                    *

 それを聞いてしまえば彼の歩むべき未来を認めた事になる、それはあの人が想像した中で最も最悪なシナリオだ ―― 今ならまだ間に合う。
 思わずためらうセシルが後ろを振り返るとヘンケンはじっと腕組みをしたまま彼女の視線を受け止めた後、固く目をつぶって痛恨の面持ちで一つ大きく頷いた。

                    *                    *                    *

「 “ 彼のコールサインは? ” 」

 それはコウがこの基地でモビルスーツ隊を立ち上げた時から決まっている。彼が部隊名を白鷺シャーリーと名づけ、キースがその番号を割り当てた。
「 ―― 01。シャーリー01」

「 “ ―― 戦隊長の戦線復帰を心から嬉しく思います ” 」ほんの少し彼女が開けた空白が一体何を意味するのか、ただモウラは決して彼女の言葉がそのまま額面通りの心境だとは思えない。取り返しのつかない後悔と苦悩を押し殺して呟かれたように感じる。どうしても気になったモウラがその真意を問いただそうと口を開くがそれを制するようにセシルの声が続いた。
「 “ では残念ですが現在基地隊員の最上位にいるのが貴官あなたです、あなたの口から施設の放棄と今後の方針について全員に向かって宣言をお願いします。軍基地のハンガー失陥は一時的に混乱と戦意の低下を招くでしょうが ―― ” 」
 指揮官と呼ぶにはあまりにも冥く、深い闇を思わせる聲。幾度も修羅場を乗り越えたはずのモウラの肩が思わず震える。
「 “ 彼の持つ『二つ名』はこの状況を覆すのにはうってつけだと、あなた。 …… そうは思いませんか? ” 」

                     *                    *                    *

「 ―― 達するっ! あたしはオークリー基地モビルスーツ整備中隊所属、モウラ・バシット中尉だっ! 」住み慣れた家を失う悔しさが声の大きさに表れる。それは彼女を取り囲んで神妙な面持ちで聞く整備員にしても同じだ。ジェスとアストナージは粗末な担架に横たわったまま首だけを持ち上げてモウラの顔を見ている。
「残念だが敵の攻撃によって当基地の整備部門はその機能を完全に喪失した、これより整備中隊はハンガーを完全放棄して順次撤退を開始する ―― 補給・修理のためにハンガーへと帰還する事はできないっ、繰り返す、補給修理はもうできないっ!」
 その宣言はモビルスーツ隊にとって ―― とりわけいまだに戦っているアデリアとマークスにとって強烈なプレッシャーになるだろう。まさに背水、二人がかりでも止めるのがやっとの難敵を相手に兵站を失うというという事はそれを意味する。
 それでも、もうあたし達は選べない。
 手元に残ったこの一本、その矢に賭けるしかないっ! 
「03・04は独自の判断で継戦の後にオークリーを放棄っ! 」

                     *                    *                    *

「ちくしょうっ!」
 モニターを睨みつけたままマークスが思わずパネルを叩いて叫んだ。手が届かずに守り切れなかった悔しさが彼の表情を歪ませる。「 “ 待ってモウラさんっ! 今マークスをそっちに帰す、だからそれまで持ちこたえてっ! ” 」
「 “ いいからあんた達はそっちで頑張ンな。だけど絶対に死ぬんじゃない、全部終わったら必ず生き延びて緊急時の集合場所に来るんだ。もし誰かが生き残っていたのなら必ずそこに味方がいる、あんた達は彼らをまとめてできる限り遠くに逃げちまえ ” 」
「そんなっ!? だめだモウラさん、そんな言い方 ―― 」
「 “ 言い残してるみたいだって? だーれが ” 」マークスの悲痛な訴えとは裏腹にモウラの声には不敵な笑みが混じっている。「 “ 心配しなくてもあたしらも必ずそこに行く、って言うか絶対に勝つ。この命令はあんたらに逃げろっていうか、どっちかって言うと邪魔になるから戻ってくンなって意味さ ” 」
 基地の主機能たるハンガーを墜とされてもなお溢れる余裕にさすがの二人も耳を疑い、驚いた二人をさらに煽るようなモウラの力強い声が二人の弱気を揺さぶった。
「 “ さあ、分かったら二人とも目の前の戦いに集中しなっ! こっちも今から最後の切り札を出すっ! ” 」

                     *                    *                   *

「 “ 01、応答願います ” 」セシルの涼しい声とキースに押し付けられた部隊長のナンバーを耳にしたコウは少し困ったような表情を浮かべ、しかし次の瞬間には周囲の計器へと次々に視線を走らせながら応答に必要な情報を集めている。
「こちら01、感度良好」
「 “ 状況を説明します、敵高脅威目標9機に対してこちらは01を含めて3機。03中破04軽微、06大破、なお02・05・07は撃破された模様 ” 」
「! キースがっ!? そんな ―― 」その事実を初めて知ったニナが後ろで叫ぶ、しかしコウは静かな声で ―― それは動揺しそうになる自分を務めて落ち着かせるためなのかもしれない ―― 呟いた。
「あいつがそんな簡単に死ぬもんか」
「 “ 彼はとても貴重な存在です、その片鱗をこの戦いで私達に示してくれた ―― ぜひとも生きていてほしいものです。タキシングラインに移動の後戦闘速度での進発を推奨、出口付近の高脅威目標2機は自力での排除を要請します ”」
「01了解、ファーストオピニオン承諾」
 炎の床を踏みしめてゆっくりとフュンフが動き出す、防塵のためにまとったままのケブラーシートをひらひらとはためかせながらタキシングラインの最奥へと歩を進めて壁を背にして出口へと機体を向ける。
「 “ 01、聞こえるか? ” 」
 それはヘンケンの声だ。思わず返事をしそうになるコウに向かって彼は矢継ぎ早に言葉を続けた。「 “ 返事はしなくていい、そのまま聞いてくれ …… 俺は、こうなる事を多分。心のどこかで恐れていた ” 」

 その声をセシルとチェンは背中で聞いていた。自分達が命を預ける指揮官がおよそ軍人とは思えないほどヒューマニスティックで情け深い人物であるがゆえにどれだけ多くの傷を心に負い続けていたか。
「 ―― 友人である君を再び戦いの場へと引き出す事が正しい事なのかどうかは分からない ―― 多分間違っているんだろう。それはいつか君にも話した事だったな」
 コウに相談を持ちかけられて去り際に呟いたその言葉をヘンケンは覚えていた。「それに君の体の中で起こっている全ての異常を俺はドクから聞いて知っている、そしてそれがどんな症状を起こすかという事も、だ …… 君が今操縦桿を握っているという事はそれらを何らかの形で克服したという事の証なのだろうが、それは同時に君が ―― 」

 俺は今晩。
 何人の友を失ってしまうのだろう?

「 ―― ドクの、予言した未来へと足を踏み入れた事に他ならない」

 その言葉をコウとニナは神妙な面持ちで聞いていた。連邦軍が誇る救急医療の権威、Drスエルテ・モラレス。その経歴と実績を前にして彼が残した言葉はほぼ神託にも近い、覆す事など不可能だ。
 だがニナはそれを書き換える事のできる人物の名を直接ドクから告げられた。 ―― エルンスト・ハイデリッヒ。
 コウを救うためにもあたしは今ここで死ぬわけにはいかない、必ず生きて。
 ―― 彼に、会うんだ。

「 “ だが君がそれを承知したうえであえて戦いに赴くというのであれば。俺はこの基地の指揮権をウェブナーから預かり生存者全員の命を守る事を約束した奴の上長として、予備役である君に命じなくてはならない ―― バンディッドから01に発令 ” 」
 それは聞いていた二人がほれぼれするほど見事な切り替わりだった。兵士の惰気を討ち背中を押して戦意を高揚させるために必要な物を全て兼ね備えている、見事だ。
「 “ 当基地に侵攻した全ての高脅威目標を完全に排除せよ、繰り返す ” 」
 まなじりを決したコウの目が力強い光を放つ。
「 “ ―― 残らず、蹴散らせ ” 」

 ニナの全身を貫く電撃とカタカタとなる奥歯、それは宿舎で敵に狙われた時に起こったものと似て非なる。なにが?
 答えは心の中にある。わき立つ興奮と昂る感情 ―― そうか。
 これが武者震いと言うやつか。

「01、発進位置」
「 “ 最終確認、機体の状況を速やかに報告 ” 」
「油圧電圧正常、関節部のストレスは全て基準値。推進剤ABともにフルペイ、アビオニクス・統合AIおよび火器管制全て異常なし」
「 “ 了解。現在タキシング上に障害物なし、針路080に固定 ―― 注意コーション。その機体からジオン公国軍の所属ビーコンが検出されました、IFFの使用不可 ” 」
「01からバンディッド、次善の方法は? あの二人が万が一この戦域へと紛れこんだ時の認識手段は? ” 」
 この機体が敵に唯一勝っているものは恐らく速度だ、ハイスピードバトルになれば一瞬の判断が要求される。そんな所にもし踏み込んできたらはずみで巻き添えにしかねない。だがそんなコウの心配をよそにセシルはシニカルな笑いを含みながら答えた。
「 “ バンディッドから01、敵は『連邦軍ティターンズ』。あなたがそう言いましたが? ” 」
 セシルの放ったブラックジョークに二人は思わず苦笑いした。コウとニナではセシルに対する印象が違う、コウはあれだけかいがいしくヘンケンの世話をする彼女のどこからこんなセリフが? ニナはどこか好戦的で人を見透かした冷徹なあの女性からどうしてこんなセリフが出るのか?
 だが最後にたどり着いた二人の結論は同じだった ―― こんな強い毒を吐く人だとは思わなかった。「01了解、すべて問題なし。繰り返す、全て問題なし。発進準備完了」
「 “ ではローンチシークエンススタート。アイゼンロック ” 」
 
                     *                    *                     *

「 ―― ちょっと待てよ、04っ」マルコの言葉を聞いたはずの02は不自由な機体でたたらを踏みながらバリケードに腰をかけたままの04に強い口調を向けた。「もしこの野郎がお前の言うとおりおつむのいいヤツだったとして、こうやって俺たちと話してる間にもなんか企んでるってこたぁねえのか? 」
 さすが特殊戦、なかなかに鋭いじゃないか。「あんたの言う事にも一理ある、要するに手土産もなしで仲間を裏切るっつってもいきなりはいそうですかと受け入れる訳にゃあいかねえだろうなぁ …… そうだな」
 会話の間に作る一瞬の間合い、人を騙すにはこれが重要なファクターだ。言葉にタメを作る事によって相手はその人物が自分に対して何の準備もなく話しかけているのだろうという錯覚を起こさせる ―― もちろん詐欺師はその次の会話をとっくに用意しているというのに。「たとえばあんた達が探している対象の居場所を俺が教える、なんてのはどうだ? 」

 声もなく凍りつく敵の姿、風向きを変えるその質問こそまさに掣肘。今夜の戦いを自分の中に蓄えたありとあらゆる戦略と照らし合わせて導き出した、それが結論だった。それが物か人なのか定かではないが少なくとも自分の部隊を危険にさらしてでも手中に納めたがってる事まではわかる。
「こっ、こんな奴の言う事なんか信用できるかっ!? 口から出まかせで時間を稼ごうったって」
「あんたはとても正直でいい奴だな、そのうろたえっぷりだけで十分だ …… さあどうする? 何ならあんたらの上に掛け合うまで待ってやってもいい。こっちにゃあ時間が ―― 」
 マルコがいかにも余裕たっぷりな口調で告げたその時だった。突然ハンガー中に開いた穴と言う穴から猛然と黒煙が噴き出して業火が立ち上がる、それは急激な気圧の変化でハンガーの空間内に強制的に酸素が循環した証拠だ。暗闇を煌々と照らし上げる炎の脇で壊れた目を向けながらその煤けたゲルググはクゥエルに向かってぽつりと告げた。
「 ―― たっぷりあるからな」

                    *                     *                     *

 ハンガー前の光景を監視していたハンプティにとってそれは青天の霹靂、突然噴火したハンガーに驚いてセンサーを立ち上げるとそこには信じられないものが映っていた。「! ハンプティーからトーヴ1っ! ハンガー内に熱核反応! 」

「こちらトーヴ1っ、どういう事だっ!? 言っている意味がわからん! 」
「 “ こっちにも何が何だか ―― ですがこれは間違いなくモビルスーツの反応、報告にない七機目ですっ! ” 」究極の想定外に唖然とするケルヒャーを置き去りにしてダンプティの鋭い指示が無線を駆け抜ける。
「 “ ダンプティからハンプティ、すぐに最後のHESHをハンガーに撃ち込めっ! そいつをそこで止めるんだ! ” 」
「中佐っ! そんな事をしてもし、かの ―― いや対象がそこにいたら安全が保障されません! あまりに危険ですっ! 」
「 “ わからないのかケルヒャーっ! ” 」そんな叱責を聞いたのはあの日以来だ。終焉の地として選んだ地球衛星軌道上、三すくみの大乱戦となった連邦との最終決戦。大勢の仲間が命を落としたその場所で彼だけが正しかった。
「 “ あれはダメだっ、絶対にそこで潰せ! でないとこっちがやられるぞ!! ” 」
 
 肌をひりひりと焦がしながら戦場を席巻するただならぬ気配、自分はかつてこの空気をまとった人物の下で存分に働いた。姿も見えず正体も知れず、しかしわき上がる不吉な予感だけが確信となって忽然と現れたそのモビルスーツへと警鐘を鳴らす。
 ―― 少佐っ! 

                    *                     *                     *

 前傾姿勢を取ったフュンフのバックパックの炎があっという間にハンガーの外壁を抜いた。対流する空気を養分とする焔がまるで地から湧きだした魔物のように行く手を塞ぐ。「 “ スラスターパワー50パーセントを維持、脚部ホバーユニット起動スタンバイ。アイゼン格納と同時に同期解放、タイミングはAI ” 」
  ニナの位置からコウの姿はよく見えない、しかし背もたれの縁から見え隠れする彼の動きやそれに追随して叩かれるキーやスイッチの音でその速さがどれだけ驚異的な物を知る。始めて操縦する機体にもかかわらず何の躊躇もなく次々に指示通りの操作を行うコウを感じながら、ニナは三号機のシミュレーションに没頭する彼の姿を思い出していた。多分あの機体はこれよりももっと複雑で、しかも精密かつ繊細な操作を要求されていた。それをあの短時間で実戦領域まで会得してしまうコウの才能は未だに健在だ。
「 “ 出力、ミリタリーからマックスへ。発進と同時にエンゲージ、武器の使用を許可 ” 」
「01了解」
 冷静な声のやり取りの後に轟く背中の雄叫び、今にも飛びださんとする機体を繋ぎ止めるアイゼンがギリギリと足元で悲鳴を上げて抵抗する。あまりの緊張にニナがラップトップを抱え込んで歯を食いしばった ―― その時だった。
「 “ …… ウラキさん、ニナ・パープルトン ” 」
 二人の名を呼ぶその優しい声音はやっぱり二人が知るどのセシル・クロトワとも違っていて、それはヘンケン達が知る彼女の素の声だ。
「 “ かつて私は何度もこうして多くの仲間を戦場へと送り出しました …… よもやもう一度この言葉を告げる事になるなんて夢にも思いませんでしたが ” 」
 生まれたほんの少しの息継ぎが。
 まるでその行間を読むかのように彼女の心を二人へと知らしめる。

「 “ ―― どうか、よい旅をgodspeed you ” 」

「弾種HESH、目標敵ハンガータキシング ―― いけえっ!! 」遠く南の丘で吠える120ミリ、肩にそびえる砲身が機体全身を揺らして最後の榴弾を敵の本拠地へと爆炎ごと弾き出す。

「 “ 01、発進っlaunch! ” 」

 セシルの声とともに収まるアイゼンがフュンフを狩り場へと解き放つ。猛烈なGと目が眩む加速、収束する世界の頂点を目指して飛ぶ機体。乖離していたコウの過去と現在いまが合致を果たしたその瞬間。
悪魔払いエクソシスト』と呼ばれた幻影は遂に修羅の戦場へと帰還した。



[32711] Game Changers
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/06/19 23:44
 大勢の声が飛び交って雑音にしか聞こえないグループチャットをかき分けるようにして放たれたその言葉はまるで矢のようにアデリアとマークスの耳へと飛び込み、その数字の意味を知る二人は口々に驚きの声を上げた。
「01っ!? 」
「01ってなにっ!? 欠番じゃなかったのっ!? 」

 直撃弾の衝撃とものすごい轟音で全身を揺らしながら電源の落ちた闇の中でセシルが凄味のある嗤いを浮かべた。「残念ね。もう遅いわ、ノロマさん達」

 シートにめり込む感触も全身に伝わる激しいバイブレーションも何もかもがコウには懐かしかった。ありし日に得た記憶の再現に少しづつ高まる熱量、そしてその一方で冷めた自分が囁く小さな声。
 “ ニナ、大丈夫かな? ” 
 出口までの距離はアルビオンの発進カタパルトの半分以下だ、時間にして一秒あるかないか ―― だが一瞬でその世界へと足を踏み入れた彼は支配権を要求する件の力を気力で退けて感覚遅延タイムディレイの恩恵だけを巧みにコントロールした。わずかな時間の中で起こる様々な出来事を次々に把握して解析、対策と実行手段の選択から行動に移すのは言うに易く行うには難い。
 “ 天井で爆発 ―― 敵の重砲? ” 
 駆け抜けざまに酷くゆっくりと爆発する天井へと視線を走らせながらコウはこの後に発生する効果へと思考を巡らせ、その爆風が機体をさらに加速させると結論した。すでにタキシングの半分を過ぎて炎の壁の向こうにうっすらと黒い影が映り込む。 
 “ 行動予測、対応手段選択 …… 主兵装はもう間にあわない、他に使えそうなものは? ”
 少しづつ鮮明になりつつあるハンガー出口の様子を視線で追いかけながら彼はいくつかの物をピックアップする、ぶちまけられた空薬莢の海と崩れ落ちたバリケード、仰向けに転がったゲルググの亡骸。まるで生体FCSのように目まぐるしく動く漆黒の瞳は瞬時に彼の脳へと情報を送り、この一幕だけのシナリオを即座に作り上げた。その口火を切るために最もふさわしい物は入口に立ちふさがったままの敵の足元に転がっている。
 “ あれは ―― ”

 ハンガーの屋根を直撃したHESHは再び暴力的な破壊力でタキシング内部に目がけて盛大に破片を吐き出し、そしてその衝撃は高熱のおかげで脆くなっていた構造材に軒並み亀裂を走らせて一気に崩壊へと導いた。押し潰される空気の勢いでハンガーの出口から吐き出される炎を横目で見ながらマルコは、果たしてその攻撃が無為に終わるであろう確信を持っている。
 もし今までこれだけの策を練って戦線を維持してきたのが『バンディッド彼女』一人の力だというのならこうなる事はお見通しだ、それをわかっている彼女がここで彼にまともな出撃手順を示唆するはずが、
 ―― ない。

 ハンガー崩落と共に噴き上がる炎と土煙が横目で見るタリホー2へと襲いかかり、焦った彼が不自由な足を動かして少しでも距離を取ろうとしたその瞬間が運命を決めた。ゴウッという異様な音と甲高い叫び声が絡まる炎の奥から吐き出された黒い影が赤い光を道連れに彼の懐へと飛び込んだ。半壊した顔面を右往左往したカメラが最後に捉えた赤い色に彼の目は瞳孔ごと大きく見開く。

“ 重量差、敵の損傷 ―― 体当たりで敵を飛ばして ”
 コウは左半身の体勢を取るとそのまま腰を落として右手を差し出した。彼の視線の先にあるのはブラッシュ社製380ミリハイパーバズーカ、マルコがトーヴ2をしとめた時のものだ。撃ち切った事を示す赤いピンが飛び出していない ―― まだ使える。握った瞬間に伝わる強烈なバックラッシュを鍛え上げた筋力で押し返してトリガーガードに人差し指を差し込む。
“ コックピット ”

 重モビルスーツのショルダーアタックで吹き飛んだクゥエルがわき腹で折れ曲がり、HANSが外れるほどの激しい衝撃はパイロットの生存確率を上げるために備えられたエアバッグの火薬に火をつけて一瞬でタリホー2の視界を奪い取った。展開した白い幕に全身を拘束された彼が必死で事態の打開を図ろうとすぐさま操縦桿を動かすが機能に障害を帯びた機体が応えられる事は少なく。
 それでも死中に活路を求めてもがき苦しむ彼の耳にゴンと言う金属がぶつかる音が鳴り響き、それが晩鐘の鐘の音だと気づいた時にはすでに白い光の中へと魂が引きずりこまれた後だった。

 宙でくの字に折れ曲がったクゥエルに向かって差し出されたバズの砲口がコックピット前面へと添えられた途端に火を噴き、パイロットごと爆砕した炸裂弾頭の残火が機体を真っ二つに引き裂いて夜空へと走り抜ける。物理を蔑ろにした一連の攻撃に混乱したタリホー4は反射的に立ち上がってマルコに向けていた銃の引き金へと手をかける、だが威嚇のために発砲準備を整えていなかったその行為が彼にとっての命取りとなった。ロックオンマーカーの赤い点滅の中でくるりと回った黒い影がまるで幽霊のようにカメラの視界から掻き消え、次の瞬間には景色が突然断絶してNO SIGNALの文字が点滅した。被弾衝撃も何もないままでの突然の異変に彼はすぐさま機体の不具合を悟ってパネルのインフォへと視線を走らせると、ダメージをリアルタイムで表示するそこには信じられないレポートが赤い文字で書きこまれる。
「! 頸部損傷、離断だとぉっ!? 」

“ 盾を使って ”
 コウは空いた手で地面に落ちているゲルググの盾を掴むと振り向きざまにクゥエル目がけて投げつけ、くるくると勢いのついたその縁はモビルスーツで最も弱いとされる頸部構造を一気に刎ねた。特徴的なピンヘッドがバリケードの縁に当たって転がり落ちるその一瞬でコウは相手との間合いを一気に詰める。生き残っている相手の火器管制がパイロットの意思を反映して背中のバックパックへと手を伸ばし、ビームサーベルの柄を掴んだその手を左手で抑え込んだフュンフは右手の得物をコックピットの装甲へと押しあてた。
“ 終わりだ ”

 アンドレアの命を奪って勝者の余裕を漂わせていた敵のあっけない最期、零距離射撃で弾ける閃光を欠けたモニターで見つめながらマルコは驚きを隠せない。
 コウ・ウラキ予備役伍長 ―― 彼はいったい何者なんだ?
 一時は本社ジャブロー勤めだったとはいえレジスタンスとして活躍していた頃は事あるごとにモビルスーツ掃討の任に就き、その中で何度もモビルスーツ同士の戦いは行われて自分はその光景を見ながらゴーレムハンターとの連携を取っていた。人型を模した巨人族同士の争いは決して素早いものではなく鈍重で、自分はその中で何度も勝機を見出して何体もの敵を行動不能へと導いたものだ。いくら高性能の機体と言ってもそれが人の予想を超える事はないはずだ。 
 …… いや、伝え聞いた話ではそれを実践できる者が連邦にもジオンにも何人かは存在したという。だったとしても一瞬で二機の最新鋭を葬り去って空のバズを投げ捨てている ―― 彼は。
 いったい何者なんだ?
「パイロット、怪我は? 」ケブラーシートをはためかせながら振り返るその姿はまるで黒騎士。「ああ、いえ。おかげ様で …… 助けていただいてありがとうございます。自分はマルコ・ダヴー曹長」
「曹長、でしたか ―― 失礼しました。差し出がましいようですがその機体はもう動けません、すぐに脱出してハンガーの奥にいる整備班と合流してください」
 階級を聞いた途端、相手の歳に関係なく敬語になるのは倫理観がしっかりしている証拠でもある。マルコは悪魔のような戦闘能力と機体の中の人物像とのギャップにクスリと笑った。「お言葉に甘えてそうさせていただきます ―― ですが伍長はこれから? 」
「受領した命令は当基地に侵攻した敵戦力の無力化です、難しいですが」そう言うとフュンフは背中からスラリと大太刀を抜き放った。ブン、という唸りを上げるIフィールドがたなびく煙を斬り裂いて煌々と赤く輝く。
「 ―― あと七機」

「 “ …… は、ハンプティからトーヴ1。2と4をロスト ―― な、なんだあれは ” 」「 “ …… 中佐、あの、機体は ” 」
 驚きのあまり途切れ途切れになる二人の声を聞きながら、ラース2から送られてくる望遠カメラの映像を声もなく見つめるダンプティ。戦場の風にあおられてするするとほどけていくケブラーシートの下から現れたのは紛れもなく過去に自分が乗っていた物と同系機 ―― しかし。
「なぜ、奴らが …… あれを持っている? 」シルエットはツヴァイとほとんど変わらず、むしろ自分が乗っていた物は実戦経験を経て改良が施された最終型で頭部の形状がほんの少し丸みを帯びている。だが肩のショルダーアーマーが赤く塗られたドムは自分が知る中ではただ一機。
「おのれ、連邦の外道どもめっ! よくも墓を暴くような非道な真似をっ!? 」あの機体は最後までグワデンに残されていたはずだ、それをっ!
 閣下の機体を、よくもっ!!
「ダンプティからトーヴ1に発令っ! どんな手段を用いてでもあの機体をぶち壊せっ! これ以上閣下の無念を連邦のいいようにさせるんじゃないっ! 」
「 “ おっしゃられなくてもそのつもりです、冗談にも限度があるっ ―― ハンプティっ、残弾を教えろっ! 命令変更だ、あの機体の撃破を最優先っ! ” 」

                    *                    *                    *

「だからぁ。01はお前がつけなきゃだめなんだって」
 唇を尖らせて抗議するキースの手にはできたばかりの部隊章 ―― 空を思わせるセルリアンブルーの下地に白い鳥がジオンの紋章を加えて羽を広げ、泥を跳ね上げて沼から飛び立つその意匠は四人で一生懸命考えたものだ。「またその話か? いい加減に諦めろよ。01って戦隊長だぞ、伍長が戦隊長って部隊がどこにあるんだ? 」
「だってガチのバニング大尉に勝ったのってお前だけじゃん? それに階級だって元中尉だし。俺なんかいいとこモンシア中尉にボコられて最後の最後までひよっこ扱いだぜ? 絶対お前が01つけなきゃ」
「でも立派なエース様だろ? キースだって名乗る資格はあるんじゃ ―― 」「あのさぁ」
 なおも言い逃れようとするコウに向かってキースは不満顔を近づけた。「本当は俺が隊の名前をつけたかったんだぞ? せっかくいいの考えてたのに。その権利をお前に譲ってやったってのに俺の頼みは聞けないってか? 」
「あ、いや。それは ―― 」
「ほーら、なーんも言い返せないだろう? そりゃそうだよな、正義はわれにありィ」勝ち誇ったように笑うキースを見ながらコウは半ばあきらめたように小さなため息をつく、それは士官学校時代に初めて出会った頃からいまだに変わらない二人の儀式だった。
「 …… 全く。能天気だな? 」
「ポジティブだって言えよ。模擬戦じゃコウには敵わないんだ、だったらせめてこういう所で帳尻くらい合わせとかないと不公平だろ? …… じゃあ01の件、よろしくな」

                    *                     *                    *

“ 01、発進! ”
「! コウっ、だから戦隊長はお前が ―― ! 」怒鳴りながら目覚めたキースは持ち上げようとした上半身を両肩のベルトでシートへと叩きつけられた。忍び込んでくる夜風に混じる焦げた匂いと息の根の止まったジムのコックピットを照らし出す星明かりがまだ意識がぼんやりしているキースの周りを取り囲む。
「あれ、ここは …… なんで俺コックピットに ―― ? 」ぼんやりと呟きながら腑に落ちない表情であたりをきょろきょろと見回してから使い古したヘルメットをむしり取るとその勢いでかけていたサングラスがぽとりと膝の上へと落ち、仄暗さに透かしてしげしげと眺める彼の目はライフルの直撃にも耐えると評判のレイバンのひび割れたレンズを見つけた。
「ちょっ、まじかよ? これ以外と高いんだぜ、またモウラに怒られる ―― 」
 情けない声をこぼしながら自身のトレードマークを拾い上げ、しかし頬を撫でる不自然な風を感じた彼の顔がゆっくりと頭上へと向けられて言葉を失う。満天の星星とかすかに夜空を染める朱色でコックピットの天井がなくなっている事に気づいたキースはあっという間に直近の記憶を取り戻した。
「直撃、弾だった …… まだ生きてるのか、俺? 」脳裏へと次々に浮かび上がるスライドショー。この世にまだいる事を確かめるように自分の両腕を抱いて、怖気づいた心がもたらす震えをなんとか止めようと試みるのだが歯の根が壊れたおもちゃのように鳴り続ける。粉々になった勇気の欠片を拾い集めて自我を取り戻す為に必要な事 ―― 先任としての役割と心得を何度も何度も心の中で唱えながら彼は自分を目覚めさせた要因がなんであったのかという分析だけに専念する。
 落ち着けキース。考えろ、何か大事な事があったはずだ。なんであんな夢を見てた? さっき聞こえた言葉って何だった? 単語、慣用句 …… いや、数字 ―― 。
「 …… そうだ、01. ―― コウっ!? 」言葉が口をついて出たとたんに彼の目が光を取り戻してすぐに体が動き出す。反射的にベルトを外してシートの下からレスキューキットを引っ張り出したキースは慌てて屋根の抜けた天井から外へと踊り出た。

 巨大な腕を伝って地面へと降り立った彼が見た現実は想像を遥かに超えていた。ジムの下半身は熱核炉付きで山の斜面の下まで吹き飛ばされ左腕はどこにも見当たらない、コックピットのある胸部と繋がった右手 ―― 握りしめたままの対物ライフルだけが無傷でそこにある全てだ。
「 ―― す、げえ。まったくもってバラバラじゃないか、これでよく」
 積み重ねた経験値でとった防御姿勢のせいで盾の裏に装備してあったルーファスの予備が誘爆した結果がこのありさまだ、だがその一方で彼はこれが不幸中の幸いだという事にも気づいていた。もし敵の重砲が普通に直撃したのならこんなものでは済まない。
「 …… 予備が爆発反応装甲リアクティブアーマーみたいに敵の弾を弾いてくれたのか」
 敵の狙いは正確に頭を狙っていた、直撃すれば120ミリの徹甲弾はペラペラの盾など即座に抜いてコックピットまで届いていただろう。だがモビルスーツを一発で破壊できるだけの炸薬が反作用でその砲弾を吹き飛ばし、大きな代償を支払う代わりに自分の命を守ってくれたのだ。すぐそばに腰かけていた死に思わず身震いしながら、しかし彼はすぐそばに見える稜線の境い目目がけて駆けあがるとレスキューキットから双眼鏡を取り出してハンガーへとレンズを向けた。
「! ハンガークイーン? どうやってあれを …… ニナさんもお手上げだって言ってた ―― 」
 言い終わる前に闇に轟く記憶に生々しい砲声がキースの本能を支配する。反射的に目を向けた対岸の麓に見える爆炎と特徴的な黒いシルエットは紛れもなく自分を屠った怨敵、慌ててフュンフの安否を求めて視線を戻すと回避機動の慣性でよろめく機体の影が飛び込んできた。コウの実力をかつての紛争で知るキースにとってはそれは当り前な事なのだがそれでもやはり大きな安堵のため息が漏れてしまう。
「さっすがコウ。この距離からじゃあどうあがいても仕留められっこない …… でも」
 その懸念は隊を指揮する者としては当然の帰結だ。圧倒的な戦力差があるのならそれを生かすのが当然の事、敵はコウを包囲して火線の中央へと追い込めばあとはどうにでもなるだろう。至極当たり前な戦術展開を予測して事態を見守るキースの眼下ですでにその気配は広まりつつある。
「 ―― ちくしょうっ! 」
 自分には親友の危機を助ける手立てもない、地面を拳で叩いてこみ上げてくる怒りを吐き出しながらそれでも彼は必死に今自分に何ができるかを考えた。今から反対側の山まで駆け上ってあのタンクに肉薄して ―― そのためには破壊力のある武器が必要だ。レスキューキットの中にある物で何かないか? 混ぜれば発火する類のものでもいい、それとどこかに転がってるライフル弾の火薬を使って ―― ?

「 …… ライフル、弾 ―― ? 」
 被弾する瞬間までの記憶をキースははっきりと思い出した。外したと同時にボルトを引いて空薬莢を飛ばして盾の裏から次のルーファスを抜き出して装填する、ボルトを押し込んで ―― 。
 弾けるような勢いで残骸へと駆け寄ったキースは敵の視界に入らないように注意深く携帯のライトを操作してチャンバー内を覗きこむ、そして彼の記憶とスナイパーとしての習性は正しかった。真っ暗な薬室内でまっさらな薬莢の底部が鮮やかな輝きを放ちながらそこにいる、息を潜めたまま役目を失った最後の一矢を凝視しながらキースは携帯のホログラムを展開した。
 至近距離での爆発でそのほとんどの機能を失われているのは予想通り、だが緊急事態に使う通話機能だけは電磁波から保護されて生き残っている。赤く表示されたキーパッドを見てほっと溜息を吐いた彼は体が覚え込んでしまったその番号を一息で打ち込むと祈るように呟いた。
「頼む …… 出てくれっ! 」

                    *                    *                    *

 着信音が鳴った瞬間にモウラは石像のように固まって閉じようとした退避壕の鍵を取り落とした。足元で鳴るカチャンと言う音で異変を察した最後尾の整備兵が振り返って何事かと何度も尋ねるのだが彼女は真っ白な顔でなにも答えず、ただゆっくりと右手を動かしてそっと携帯のホログラムを展開した。緊急通話を知らせる赤い表示とそこに刻まれた番号を瞬きをしながら幾度か確認して震える指が通話ボタンへと添えられる。
「キースっ!? あんた今まで何やってたの、生きてンならちゃんと連絡ぐらい寄こしなさいよ、このバカっ!! 」
 点火と同時に口から飛び出す、嬉しさを一周した怒声と内容に今まさにハンガーを後にしようとしていた避難の列はガラガラと崩れてモウラの周りにそそくさと集まった。

「悪りィ、こっちはこっちで何かと立てこんでてさ ―― ところで状況は? 」苦笑いを浮かべて鼓膜の痛みに耐え忍ぶキースに向かって追撃の矢が突き刺さる。「 “ 悪りィってあんたたったそンだけっ!? あたしが一体どれだけ心配してたかわかってたってのかい!? コウもあんたもパイロットって人種はどれだけ人の気持ちに鈍感にできてンだ、少しはしおしおと形だけでも反省して見せなさいって! ” 」
「わ、わかったから落ち着いてくれ。今山の上からハンガーを見てるんだが …… あれにコウが? 」
「 “ そうだよっ! ―― まったく明日になったら覚えてなよ、あんたが心の底から謝るまでいやって言うほど説教してやるからねっ! ” 」わだかまりを全て吐き出した事で何となく溜飲が下がった彼女の声はすでにいつもの調子を取り戻していた。「 “ 何のはずみか例の封印が解けてコウとニナが一緒に乗ってる、ハンガーはそこから見てもわかるだろうけど完全に破壊されて放棄したわ。アデリアとマークスには全部事情を伝えてあたしたちはこれからバンディッドの誘導で避難場所に向かうとこ、あんたも無事なら早くこっちに戻って ―― ” 」
「コウとニナさんが一緒に乗ってるって? 邀撃に出たって事か? 」ハンガーを放棄したという事は基地の防衛機能は完全に失われたに等しい。「コウの動きに何か変わった事は? 」
「 “ マルコからの報告だと手持ちも使わずにあっという間に二機潰したって。久しぶりの実戦でそんなことできるなんてあたしにゃ想像もつかないね、変わった事って言やそれくらい ” 」
 その戦果に大概の者は希望を抱き、賞賛を持って褒め称えるのかもしれないがキースは違った。多分コウは最初の一手で自分の力を誇示して残りの戦力を自分へと引き付けるつもりだ、単機で多数を撹乱しながら配置の乱れを突いて一機づつ仕留めていく ―― モビルアーマーに乗ったガトーが連邦軍の艦隊相手に使った手によく似ている。
 だがそれはあくまでコウ『だけ』が操縦している場合だ、軍属とはいえ民間人でしかも戦闘未経験の素人を乗せてそれがどこまで続けられるのか? 「 “ こっちはもう避難を始めてる、あんたも早くあたしたちと ―― ” 」
「そうしたいのは山々だがモウラ、実はお前に ―― いや整備班に頼みがある」
 ―― 急がないと。

「はあ? あんた何言ってンの? 」期待値込みで色のいい返事を確信していたモウラが思わず宙を見上げて携帯から流れてきた言葉を反芻して ―― それでも混乱だけが彼女の頭に残る。
「 “ 直撃弾を受けたルーファスのおかげで俺は無傷だけど機体は完全にバラバラだ、下半身は熱核炉込みで山のふもとのどこかに消えて左手と頭は切り取られたみたいにスッパリとなくなってる。でも右手とコックピットの操作パネル、対物ライフルは無傷で銃身は対岸のタンクの方を向いている ” 」
「だからあんたはなに言ってんのよっ! できるわけないじゃない、そんな状態でどうやってライフルを撃つって!? 電源がないモビルスーツなんてただの鉄クズだ、そんなの使ってまだなんかしようなんてあんた絶対どうかしてるっ! 」
「 “ どうかしてるさ、だって俺は『不死身の第四小隊あの人たち』のたった一人の生徒だぜ? こんなことで挫けてたらあっちでバニング大尉に怒られちまう ” 」 
「だめなモンはだめだってっ! モビルスーツがダメになったパイロットは戦線離脱が鉄則だ、そんな事はあんたが一番よく知ってる事じゃないかっ! 頼むからあたしの言う事を聞いてっ! 」

「 “ なあモウラ …… 俺はどうしてもコウを助けたいんだ ” 」

 絶対に言う事がわかっていながら絶対に聞きたくなかったその言葉にモウラは絶句するしかない。様々な複雑な感情が一通り彼女の表情を通り過ぎ、今にも噴火しそうな息遣いを口角から何度も吐き出しては吸い込んで。無言の抗議を幾度か繰り返した後に黙って返事を待つキースに向かってモウラは言った。
「 ―― 約束、しなよ」
 その言葉を捻りだすのにどれだけの葛藤と決意を必要とするのか。「絶対に、いきて …… あたしの所に帰ってくること。もうあんな、思いは …… したくない」

                    *                    *                   * 

「ジェスと先任以外でまだあたしとこの場に残ろうって物好きな奴っ! 通路の倉庫からジムと隊長の持ってった対物ライフルの青写真を持ってきてっ! 」キースとの通話を切った途端に上がるモウラの命令に彼女の周囲へと群がっていた整備兵たちはざわざわと騒ぎ出した。「は、班長? どうしたんですかいきなり、設計図って ―― 」
「隊長から連絡が入った。彼はまだ生きて反撃の手段を探してる」知らせを聞いた彼らが今夜何度目かの喜びに打ち震えた刹那、果たしてモウラの厳しい声が飛んだ。「騒ぐんじゃない、事態は深刻だ。隊長のジムは敵の砲撃を受けて戦闘不能だ、現在全ての電源を失ってる。それでもライフルの中にはまだルーファスが一発だけ残ってる」
「 ―― 班長まさか」尋ねたのは火器整備を担当しているラドウィックだ、あの夜にキースの下へとベイトの伝言を携えてきた兵士でもある。恐る恐るモウラへと視線を向けた彼を鋭い眼光が睨みつける。
「そのまさかさ。肘関節と人差し指のアクチュエーターを動かして照準器を作動させるだけの電力を鉄クズ同然のジムから探し出す、それにはプロフェッショナルとしてのみんなの知恵が必要だ ―― いいかい、こっからはオークリーモビルスーツ隊全員の戦いだ。なんとしてでもそれを探し出してあたしたちの力であのタンクをぶっ潰すっ! さあみんな、あたしとキースに力を貸しとくれっ! 」     
            
                    *                    *                    *

 副官モードでの彼女はめったな事で表情を変えない ―― これでも今夜は感情の大盤振る舞いをしてしまっているが、モウラからの連絡を受けたセシルは今夜初めて見せるであろう驚いた顔で後ろに立つヘンケンへと振り返った。
「整備班から連絡 …… どうやら怪我人と搬送する整備兵を除いてまだハンガーに残るそうです」
「? 放棄したんじゃなかったのか? もう宣言もしちまったし、まだ何か ―― 」
「02がまだ生きているそうです」 彼女の言葉に今度はヘンケンが驚く番だった。「彼は破壊されたジムを使って敵タンクの破壊を試みると。連絡を受けた整備班がただいま手段を検討中との事です」
「怪我人以外誰一人逃げることなく、か? 」尋ねられて小さく頷くセシルの目の前でヘンケンの表情が変化した。呆けた表情が次第に喜びと悲しみの入り混じった顔へと変わる。「ウェブナー、お前は一体どうやってこれだけの人材を集めたんだ? まったく」そう言うと後ろからセシルの両肩を軽く掴んだ。籠められた熱と溢れる喜びが彼女の肩に届く。
「許可する。これだけの逆境を跳ね返すオークリーの底力、この目でしっかりと見せてもらおう。だが絶対に死ぬなと伝えろ、事が済んだら退避通路から食堂方向へ向かうように」
 予備の電源を使ってサーバーの機能封鎖後片付けを続けているチェンを見ながら命を受けたセシルが小さく笑って呟いた。「こんな人たちがまだ残っていたなんて。連邦軍になんか絶対にあげられませんね」
「あたりまえだ、もう絶対に渡さん」そう言うと彼女の肩から手を離して腕組みをしながらニヤリと彼は笑った。「今晩生き延びた奴全員、俺が必ずグラナダまで連れてってやる」

                   *                     *                    *

 照明を落として真っ暗になった厨房は不気味な静けさを漂わせている、複雑に導線の入り組んだ機器の奥 ―― 次の特別な部屋へと繋がるドアの陰でひと際大きな巨体が辺りから身を隠すように座り込んでチャット先の相手と話をしていた。「は、 …… 敵はこちらの陽動に引っかかってもうすぐキルゾーンに着くところです、ですからこっちにはまだ来ない方がいいでしょう。そのまま怪我人と一緒に通路にいてください、多分そこが一番安全です」
 野太い声を潜めてひそひそと呟くグレゴリーの耳に遠くで連続する射撃音が聞こえてきた。何かに突き刺さる鈍い音と叫び声が闇の中で彼の顔を曇らせる。「 …… 陸戦隊はよくやってくれました、今ので八人目 …… そうですね、彼らの犠牲を無駄にしない為にも ―― ええ。ではこれより掃討を開始します、通話終了」
 通話を切ってホログラムをしまった所に彼の部下が駆け寄った。「チーフ、敵がラウンジに侵入しました。残りは14人、全員夜間装備ですが最後尾の一人は対戦車ミサイルを持ってます」
「陸戦の報告の通りか ―― 生き残りに伝えろ、これ以上の陽動は必要ない。速やかにこちらへ退避しろ ―― ご苦労さん、とな」グレゴリーの言葉に小さく頷いた部下がすぐに持ち場へと取って返す、闇へと消える後ろ姿を見ながらグレゴリーはチャットを展開した。「グエン、準備は? 」
「 “ 仕込みは万全、いつでもどうぞ ―― あいつらほんとに特殊部隊ですか? よくあんなに騒々しく動けるモンだ ” 」 
「戦争が終わったころにできた寄せ集めだろうからな、勝ちに目のくらんだ兵士なんてそんなもんだ ―― 手筈通りに動いて奴らをここに誘い込め、そこで一気に殲滅するぞ」
 背にしたガラス張りのドアに目くばせしながらグレゴリーが凄味のある声で言った。「俺たちのお客様を奪ったツケ、今ここで存分に払ってもらおうじゃないか」



[32711] Pay back
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/08/25 20:06
 無念の表情で息絶えた敵の兵士の頭を蹴りつけながらブージャム1は前方へとひた走る兵士の背中に向かって委細構わず罵声を浴びせた。「おらぁっ、何をぐずぐずしてやがるっ! とっとと中に入って敵を皆殺しにしちまうんだよっ、バカみたいにこそこそ隠れてンじゃねえ! このグズがっ! 」
 今にも発砲しかねないほど高まる苛立ちは強烈なプレッシャーとなって配下の兵士へと襲いかかり、押し出された最前列が通路の終点にあるラウンジの扉を逃げ込むかのように蹴破って勢いよくなだれ込む。暗闇の中で沈黙を守っていた兵員食堂の巨大なラウンジはストレスが極限に達した兵士たちの手によって次々に椅子やテーブルがひっくり返されて、さながら無法者が暴れまくった西部劇の酒場へと姿を変えた。
「どうやらここには誰も ―― 」「ったりまえだっ! こんなとこで俺たち迎え討ったって返り討ちにあうだけだ、ボケがっ! そんなに脳みそ俺にぶちまけられたいかっ!? 」
 部下からの報告を食い気味に遮ったブージャム1が手にしたククリの切っ先でラウンジの奥にある金属の扉を指し示す。「奴らが俺たちをどうにかしようってンならこんなだだっ広い場所じゃなくて間違いなく調理場だ、侵入口は限定されるし中の構造は入ってみなきゃ分からねえ。俺たちが貰った見取り図にゃあそこまで書かれてねえからな」
「そこにキルゾーンが設定されてるって事ですか? 」自らを招き入れようとする虎口の存在にごくりと息をのむ兵士、だが得体のしれない恐怖が彼の臆病を刺激する前にククリの柄が頭に飛んで殴りつけた。「なに怖気づいてやがるっ! しょせんはど素人が作ったにわか作りの罠があるだけだ、とっとと中に押し入ってさっさと全部終わらすンだよ! 」

 調理場の出入り口は目の前にある大きなアルミ製のスイングドアと食器返却口のある直通式のステンレスカウンターの二か所のみ。内部の様子を探る為に先行した二人がカウンターへと駆け寄って観測用のファイバースコープをするすると引き延ばした。
 あたかも小さな蛇が鎌首をもたげてゆっくりとステンレスの上を這いまわり、先端にある極小のCCDやセンサーが捉えた映像やデータは全て手元にあるカメラへと反映される。「室内は間接的に青白い光で照らされています …… 室温、40度? 」
「暗視スコープ対策か。青白い光の正体は? 」状況を見守る分隊指揮を任された男が尋ねると探査モードを変えた観察兵がギョッとして答えた「! 99%紫外線。長い時間見つめれば裸眼でも障害が出ます」
「光学機能はアウト、赤外線モードも使えない …… 1にゃあ悪いがただの素人じゃねえぞ、こいつら」
「どうします、正面は諦めて裏手から攻めますか? 業者搬入用のヤードが使えれば ―― 」だが傍らにいた兵士が進言した時それは起こった。突然ドンと言う炸裂音とともに水柱が上がってモニターが白煙を噴きながら吹き飛び、今まで索敵を続けていた兵士が呆気に取られながら呟く。
「バカな、シンクにほんのちょっと浸かっただけなのに」
「つまりそこも侵入口としては使えないってことだ …… シンクに貼られた水の中には多分高圧電流が流れてる、しかもブレーカーを外して電源を直結 ―― 仕掛けは全部終わってるってか」
 こういう場合本来ならば敵が想像もつかない場所にC-4を仕掛けて開けた壁面からの突入が最も有効なのだがそれは先に全滅した先発隊がすべて持っていってしまっている。残る選択肢は ―― 。
「ここまで周到に準備してる連中が後方のヤードを無防備にしているはずがない、多少気味は悪いがここは普通の侵入手順で正面から内部へと侵攻する。Aの四人はポイントで先行、俺たちは後から時間差で突入。うまく入り込めたらすぐにツーマンセルで真横に展開、相互援護で前周警戒しながらラインで押し上げて敵の反撃に各個で対処 …… くれぐれもブービートラップには注意しろ」

 ゴムのクッションで目張りされたスイングドアをほんの少し押しあけただけでも中の熱気が肌へと伝わり、先発を任された四人は暗視ゴーグルを額にあげてできるだけ姿勢を低くして素早く内部へと押し入った。青白い間接照明に照らされた調理場とかすかに響く機械音、洗浄機の電源コードがシンクの中へと引き込まれているのを横目で確認しながら四人は唯一異質な明かりがともる通路にテーブルをはさんで二手に別れた。すぐ後から同じように侵入を果たした指揮官とハンドサインで合図をしながら各導線の入り口に陣取った彼らはほんの少し顔を上げて周囲の観察を始める。
「 …… 室温が高いのはあれのせいか」 
 紫外線灯とは違う黄色い光が壁に置かれた巨大な機械の内部から外へ漏れ出ている。人一人がすっぽり入れそうなそれは一度に大量の調理を可能にしたスチームコンベクションオーブン、敵は扉を開けはなったまま全力運転を行使しているのだ。
 合図を無言で受け取った二人の兵士がすぐに移動してオーブンの前にたどり着くと後方の兵士が銃を肩づけにして周囲を窺い、もう一人は傍らの台に銃を置いて巨大な取っ手に手をかけた。無理な体勢から閉じる分厚い扉はなかなか言う事を聞かず、閉じ切るだけでも額に汗がにじむ。それでも何とかその重労働を終え、ラッチがわりのハンドルを引き下げた時に噴き出していた熱気と庫内灯は息を潜めた。
「 …… やれやれ、これで赤外線モードだけでも」
 額の汗をぬぐいながら援護していた兵士に合図をして、台の上に預けてあった銃へと手を伸ばす ―― しかしグリップを掴もうとしたその手が猛烈な熱で焼かれた事に驚いたその兵士が向けた視線の先で、弾倉が真っ赤に焼けている。

 バンッ! という強烈な爆発音とともに吹き飛ぶ兵士の右手と顔面、事切れた肉体が床へと投げ出されるより早く生きている全員が手榴弾のピンを口にくわえて身構えた。「A2,状況っ!? 」
「 “ わかりませんっ! A1の火器のマガジンが突然破裂してA1死亡、敵の攻撃では ―― ” 」そこまで報告を聞いた途端に突然全員の視界が闇に包まれる。紫外線灯に晒された目がしばらく回復しない事を悟った分隊の指揮官はそこでやっと敵の意図を理解し、できるだけ小声で無線機に向かってまくしたてた。
「やられた、全員その場で待機したまま全周警戒維持っ! どんな気配も音も聞き逃すな、敵の罠にまんまとはまった! 」
 肝心の視力が低下してしまえば暗視ゴーグルの性能や機能など二の次、裸眼戦闘ならばそれを画策していた方に分がある ―― そして地の利も奴らのもの。
 だが、なぜだ!?
 どうして何もない所でマガジンの中の弾が暴発したりしたんだ!?

「全開の業務用IHヒーターの上に金物置きゃあすぐにそうなる。ま、表示板はガムテープで隠してあっから点いてるかどうかなんて剥がしてみなきゃわかんないけどな」置物のように動きを止めた敵を作業台の陰に隠れたグエンが気の毒そうに笑った。「と言う事で今まで経験した事のない罠に引っかかっちまったってわけだ。何不自由なく敵を血祭りにあげてきたあんた達にゃあ子供だましに見えるかもしれないが ―― 」
 そう言うと彼は握った二本のロープで先に繋がった鉄製のコックを一気に引き切る。「台所おさんどん預かってる人を怒らせるとおっかないってのは古今東西どこでもおんなじだぞ? 」

 パイプからほとばしった大量の液体が潜んでいた二人の兵士に襲いかかり、暗闇を引き裂くような断末魔の悲鳴が響き渡る。フライヤーに設定された最高温度 ―― 発火限界300度にまで熱せられた食用油はあっという間に二人の兵士の全身を侵食して筋肉の奥深くまでを完全に焼き焦がし、痙攣収縮を始めた指が本人の意思とが関係なく引き金を引いた。吐き出された銃弾はうつ伏せに倒れ込んだ彼らの体の下で跳ね返り防弾チョッキごと体を蹂躙する。
「! な、なんだっ!? 」「敵の罠ですっ! A3と4が行動不能っ! 」
 わずかに離れた場所で始まるデスゲームであっという間に3人、しかもどういうトラップが発動したのかさえもわからない。前に出る事も後ろへと下がることもできない彼らはただじっと息を潜めて視力が回復するのを待つしかない。だがそれを黙って見逃す奴らでもないっ ! 
「全員天井に向かって一斉射っ! 紫外線灯を全部破壊して室内を荒らせっ、立て直す時間を稼ぐんだ! 」
 号令一過無傷の五人から一斉に撃ち込まれる9ミリが天井をズタズタに引き裂いてそこにある照明を軒並み破壊し、先端につけられたサイレンサーから洩れるくぐもった銃声と小さな火が吐き出される度に降り注ぐ構造物は整理整頓の行き届いた調理場を無残な姿へと塗り替える。だがその瞬間に音もなく闇を走る閃光がスチームコンベクションの陰で発砲を続けていた兵士の胸へと到達した。
「 ―― ? 」
 体の奥にまで届く衝撃と冷たさに思わず視線を落とした先にある異物、まるで体から生え出たように見える金属を目にした瞬間に兵士の体から力が抜けてグニャリと床に横たわる。突然に始まる死の痙攣を閉じる意識で感じながらそれでも彼は自分に何が起こったのかを知ることもできなかった。

「これで四人目」
 調理台の陰にぶら下げられた包丁ケースからスラリと次の獲物を抜き出しながら浅黒い顔をした男が呟いた。彼らの装備している防弾チョッキが軽量強度に特化したアラミド繊維でできているのは陸戦隊からの報告で推測できる。確かに小火器程度の衝撃や防刃には優れた効果を示すのだが、唯一貫通力にだけは弱点を露呈する。
「俺たちの使ってる防刃手袋も同じ素材だからな。切り傷は防げるがなんかのはずみで刺しちまうと痛いのなんの ―― それにしても」そう言うと男は手にした刃渡り30センチもあろうかという牛刀の先端をウェスで摘みながらしげしげと眺めた。
「さっすがゾーリンゲン、バランスも切れ味も申し分なし」

「A隊が …… 全滅」
 その報告は分隊指揮をしている男にとっては悪夢だ。突入してわずか5分足らずで半数が敵の手にかかり、しかも状況は何の活路も見いだせない。次々と斃されていく恐怖に心臓を掴まれながらそれでもこのまま何もせずにやられる事だけはできない、死と隣り合わせの訓練や実戦をかいくぐって今まで生き延びてきた意地と実績は分隊指揮を任された能力の一端を垣間見せた。「やむをえん、A隊は放棄。残りはこっちの端の通路に集まって一列縦隊で一気に向こう側まで突破を図る、正面火力の差で圧倒する」
 幸いな事に少しづつ視力は戻りつつあり後方には無傷の1の部隊が控えている。警戒するのはニ方向だけで済むはずだ。「頭は絶対に台の上を越えるな、ここからは速度を優先する。1が来るまでにこの戦況をひっくり返すぞ ―― 」
 単純かつ明快な方針と強い声音で息を吹き返すB隊の面々がお互いの顔を見合わせて小さくうなづき、すぐに配置について吶喊の体勢を整える。だがその決意をグエンの書いたシナリオは許さなかった。油を吐き出し続けるフライヤーの中程でいまだに加熱するヒーターが周囲にへばりついた油を発火させ、それは小さな爆発を伴って閉じていたステンレスの蓋をボン、と噴き飛ばす。
「今度はなんだっ!? 」耳障りな金属の落下音と暗闇に生まれた小さな明かりに思わず視線を向けた先で立ち上がる火は一瞬で柱へと変化して調理場の隅々まで光と熱をまき散らし、そのおかげで取り戻した視力がはるか向こうにある調理台の陰で動く人影を捉えた。
「! 敵視認っ! 12時一人10時に二人っ! 」訓練で備わった脅威の条件反射が四人の体を射撃体勢へと導く、しかし銃に取り付けられたダットサイトが敵の影を捉えた瞬間に今まで経験した事のない異常事態が始まった。

 世界中の大規模な給食施設には必ず設置する事を義務付けられている自動消火装置 ―― 天蓋ダクトの奥に仕込まれた鉛が熱によって溶ける事で発動するそれはタンクに仕込まれた化学火災専用の粉末を調理設備の上にある小さな吐出口から一気に火元へ向けて噴射する。一瞬でフライヤーの火を消し止めた消火粉末は役目を終えたにもかかわらずなおも余力の続く限りありったけの中身を調理場内へとまき散らし、黄色い霧が景色を隠して1メートルも視界がない状況に凍りついた4人。そこに目がけて前方から何かが滑り込んで来た。
 はっと気づいて狙いを音のする方向へと銃口を向けるが明かりのなくなった調理場は再び漆黒の闇に変わっている、その先頭に立つ兵士の足にぶつかったそれは派手に金属音を鳴らしてツン、とくる異臭を周囲にばらまいた。「! 状況、ガスっ!? 」
 反射的に袖で口と鼻を押さえて事態の把握に努めようとするがそんな暇は与えないとばかりに次の手鍋が床を走ってまたしても4人の周囲に液体をばらまき、今度は自分達の軍用ブーツのソールが床に張り付いたまま動かなくなる。

「はやく逃げねえとガスにやられて気ィ失うぜ? 」手にしたトイレ用洗剤と漂白剤を手鍋にドボドボと注ぎこみながら男が呟く。混合する事で発生する塩素ガスは強烈な毒性を持ち長時間吸い続ければ相手を死に至らしめる。加えて2発目に敵に放った鍋には油汚れ専用の強アルカリ性洗剤がたっぷりと入っていた、ゴム製のソールなどあっという間に溶かして足を床に張り付けるのだ。
「状況が状況だ、半数をやられて本当なら撤退して仕切り直しってのが妥当なんだが ―― さぁどうする? 」うそぶきながら男が渾身の力で三つ目の鍋を床へと滑らせた。

「前二人は前方の敵に吶喊っ! 急げっ、早くしないとここで全滅だ! 」三個目の鍋が足元に当たってひっくり返った時に指揮を執る男は慌てて作戦を変更した。「後ろは回り込んで隣の通路から前を目指す、部屋の向こう側で合流した後に一気に連中を殲滅するっ! 」
 一刻も早くこの地域から離脱しなければ明らかに有害なガスに囲まれ、しかも靴の裏は劇薬とおぼしき液体で床に張り付きつつある。このままジリ貧に追い込まれるならば一か八かまだ動けるうちに何とかしなければならない。
 小さくうなづいた四人が溶けたソールで張り付いたブーツを引き剥がして一斉に二手に分かれて走った。前方の二人は互いの銃で前方上下の空間を油断なく狙い、後方はそのまま全力で回りこんで隣の通路を同じ体勢で突き進む。途中フライヤーの横で倒れたままの二人の兵士の息がある事を確認して再び前方へと視線を上げた時、消火剤が落ち着いて元の景色を取り戻しつつある部屋の向こうで確かな銃撃音が響いた。

「後退はしない、と …… やっぱ砲雷長の予想通りか ―― 敵の分断に成功、フェイズ2」鍋を滑らせていた男がそう告げると勢いよく立ちあがって踵を返すとそのまま一目散に駆け出した。「二人は俺が誘い込む、後は頼むぜグエン」
「 “ 了解だ、間違っても敵のうろたえ弾になんか当たンじゃねえぞ ” 」
 笑いながら答えようとする男の背中へと追いすがる殺意をひしひしと感じながら、彼は敵より優位に立った機動力を生かして目的地に向かってひた走った。

 べたつくソールに足を取られながらもなんとか前方で霧の中へと溶け込みそうになる敵の足元に向かって幾度も威嚇の引き金を引くがなかなか狙いが定まらず、それでも二匹の猟犬は全力で影に向かって足を速める。やがて底が一皮むけて普通の歩調を取り戻した二人が相手との差を詰めようと速度を上げたその時、不意に前を走る敵の影が右側へと回って大きく開いた扉に中へと駆け込んだ。
「バカが、そんなとこに逃げ込んでも無駄だっ! 」逃げる事に窮した獲物はえてしてそういう暗がりや狭い通路へと逃げ込む習性がある、それは生き物である限り逃れられないDNAに刻みこまれた太古からの業と言ってもいい。事実今まで行った作戦においても必ずそのケースは幾度も発生していたのだ。
 手慣れた手つきでバックアップにサインを送った兵士はすぐに扉の傍へと身を隠し、すぐ後ろでもう一人が肩に手を置いて合図を待つ。一瞬の間を置いて胸元に取り付けられた小さな缶をむしり取るとピンを抜きざまに扉の向こうにある暗がりへと放り投げた。幾秒かの沈黙の後に突然眩いばかりの閃光と壁が震えるほどの大音声が轟いて扉から吐き出される。
 スタングレネード。非殺傷兵器ではあるが破裂と同時に放出される光と音は対象の身体機能を一時的に麻痺させ、それは狭い場所であればあるほど効果を発揮する。「いくぞっ! 」後ろの兵士が肩を叩くと同時にグレネードを放った兵士が光の収まった暗がりへと即座に飛び込んだ。

 銃の先端に取り付けられたライトの光が二筋、暗闇のあちこちを照らして目的の物を探し求める。だが絶対にそこにあるはずの敵の姿 ―― 痙攣して横たわっている ―― を見つける事ができない。「どこだ、絶対にここに逃げ込んだはず ―― 」
 いない焦りで手が震えて光が揺れ、その瞬間まるでその動揺を見透かしたように闇の向こうで何かが軋んで閉じられる音が聞こえた。思わず振りあげる銃口の先でカチンと響くラッチ音とともに巨大な扉が閉じられ、頭の上で重低音を鳴らしながらモーターが回り始める。
「な、なにが ―― 」「ここはヤバいっ!早く戻らねえと ―― 」
 怯えた口調で告げる兵士の勘は正しかったが間にあわなかった。踵を返した彼らの目の前で今しがた潜った巨大な扉が勢い良く閉じられてさっきと同じラッチ音が聞こえる。閉じ込められた事に気づくと同時に扉へと体当たりを喰らわせ、それでもびくともしないと悟った彼らは扉の一角に向けてありったけの弾を撃ち込んだ。

「そんな豆鉄砲で冷凍庫チャンバーの壁が抜けるもんか」扉に手を当ててレバーの穴に砥ぎ棒を差し込んだグエンはほくそ笑んだ。「枝肉を冷凍保管するために特別にあつらえた代物だ、あっという間に庫内はマイナス40度まで下がる。おまけにあんたらの叫び声も通話も外には聞こえない ―― よかったじゃねえか、死ぬまでゆっくり眠れるぜ」
 中からの体当たりでドアのレバーがガチャガチャと鳴り続けるがグエンはお構いなしにゆっくりとドアの前を離れると壁際の暗がりへとひっそりと体を沈めた。
「 …… さて、あと二人」

 突然途絶えた銃口と二人の気配に思わず無線を使って安否を尋ねる男だがすでに雑音ばかりで応えはない、代わりに背後のドアが開いて強烈なプレッシャーとともに背筋も凍る怒声があたりかまわず轟いた。「おらあっ! てめえらなにをもたもたしてやがる、このクズどもがっ! 」
「不用心ですブージャム1! 敵のトラップがまだあります、11時の方向に敵がいる ―― 」
「撃て」
 舌打ち混じりで苦々しげに告げられる命令と同時に最後尾の兵が抱える対戦車砲が火を吹いて、室内で使うにはあまりにも威力がありすぎるそれは偶然にも二人の兵士を閉じ込めたばかりの冷凍庫の扉に命中して炸裂した。部屋中の什器を根こそぎなぎ倒す衝撃波と爆風と砕けた中身が調理場中に飛散する。「けっ、これで敵もビビって動けねえだろう。虎の子の一発使わせやがって」
 ブージャム1が愚痴りながらつかつかと歩いてあっという間にフライヤーの前に倒れたままの二人に向かって引き金を引いて止めを刺した。「これ以上手間取らすんじゃねえ、さっさと行けっ! もしできなかったら次は次はてめえらがこうなる番だからなっ! 」

「短気で残忍 …… まあ戦場じゃあ頼りになるタイプの指揮官だが」そう呟くとグレゴリーは携帯のチャットを開いた。「グエン、無事か? 」
「 “ まあ予想はしてたんで。 しかしむちゃくちゃしますねぇ、自分で味方の数減らしてどうすんだ? おかげで手間は省けましたが ” 」
「最後のフェイズに移る。前衛の二人を始末したらこの場から撤退して後方に下がれ、あとはこっちの仕事だ」
「 “ 了解 ” 」

 完全に破壊された冷凍庫の残骸を横目に見ながらブージャム1に脅された二人はさらなる暗がりへと足を速め、背後に揺らめく残火のおかげで自分達が進もうとしている場所が長い廊下だと知ることができた。そしてその先のつきあたりで一人の男が佇んでいることも。
「いたぞっ! 」
 声と同時に構えるマシンガンの狙いは決して外さない、一秒の半分以下で発砲にまでいたるその過程は過酷な訓練と実践を積んだ者にしか与えられない技術だ。だがその人差し指が引き金を落とす寸前に男の影がふらりと動いて残り少ない闇の波間へとかき消え、逃すまいと追う二人が角を曲がって耳を澄ませると暗闇の向こうでキイ、と言う音がした。
 反射的に発砲する事で生まれる火花が周囲の状況を教え、放たれた弾丸が連打する残響が鉄のドアの存在を知らせる。間違いなく敵が逃げ込んだそこへと駆け寄った先頭の男は扉をわずかに開くなりピンを抜いた破片手榴弾を投げ込んでドアに肩を押しつけた。「これでも喰らえッ! 」
 バン、と言う鈍い音と激しい衝撃が彼の肩越しに伝わる、だが勝ちを確信した彼は中の様子を確認するまでもなく扉を引いていきなり中へと押し入った。

 真っ暗なその空間全体に響き渡る重低音に飛び込んだ兵士は眉をひそめ、細い明かりで周囲の状況を探り始めた。幾重にも立ち並ぶ金属のパイプと手榴弾の破片で穴が開いたままぼんやりと灯る配電盤、何よりも音の発生源である巨大なポンプがこれだけ被害を受けた基地施設の中でいまだに動き続けている事への違和感が拭えない。
「な、なんだここは? 」思わず呟いた男の鼻腔を異臭がつついた。手榴弾の硝煙が収まると同時に入れ替わって漂うある種の、匂い ―― 腐臭。思わず口を押さえて再びあたりを捜索しようとする男の頭上で突然何かが ―― ギィ。
「うわっ ! 」
 背中を突き飛ばされて反射的に受け身を取る男の足元の床が、なかった。

 同時に飛び込むべきだったのかもしれない、と指揮を執る男は扉の向こうで聞こえた仲間の短い叫びに後悔しながら彼とは対照的な行動を取らざるを得なかった。そっとドアノブを掴んで音を立てないようにゆっくりと回して ―― 素早く中へと滑り込むと生臭い匂いと液体を派手にかきまわす音と男の叫び声が仄暗い空間に充満している。「おいっ、どこだっ!? 」
「こ、こっち …… た、たすけて ―― 」
 情けない声を頼りに明かりを向けると通路の全面に広がる大きな穴があり、縁に駆け寄った男が見たのは水面で必死に手を伸ばす仲間の姿だった。それもずいぶんと深い。
「くそっ、こんな子供だましに引っかかりやがって ―― ちょっと待ってろっ! 」床面よりもずいぶんと下に位置する男へ向けて彼は銃のセフティをかけるとサイレンサー側を握って銃床を差し出した。
「いいか、しっかりと掴め。一気に引っ張り上げるぞ」かけた声にうなづいた男の手が銃を掴んでホッと安堵のため息を漏らしかけたその刹那、彼は愚かにも失念していた事柄に驚き恐怖におののいた。

 追っていた奴は ―― どこだ?

 振り返った瞬間に視界に飛び込む男の影。憐れむように笑うその表情を目にした途端に彼の体はバランスを崩し、仲間と繋がった命綱もろとも深い穴へと落下した。

「味方に気ィ取られて俺の事忘れちゃダメでしょ? 」ため息交じりに穴の縁から汚水の表面に浮かぶ二人を見下ろすと同時に水面から持ち上がった銃口が胸元を狙うが、グエンはすっとしゃがみこんで人差し指を振った。「あーダメダメ、もうあんたらの銃器は使えないよ? どっぷりと水ン中に浸かっちゃったからバレルん中に油が入りこんでる、引き金なんか引いたらそれこそミスファイアか暴発か」
「油 …… だと? 」男が水面の表面を掬うとそこには一塊になった浮遊物が残った。「そ、油。サラダ油やらラードやら牛脂なんかの油と洗剤の混合物 ―― ちなみにあんたらが落ちてるのはうちの調理場から出る汚水の一次濾過装置、いわゆる『グリストラップ』 っていう設備さ。生ゴミと油と水分はここで比重ごとに分けられて送水管の詰まりを防ぐために一時的に貯留される ―― この基地の水質維持システムへ送る為の第一段階」
 グエンの説明を聞いた二人がはっとして壁へと手を伸ばす。もしここに浮かんでいるのが全て油だというのなら ―― トラップの壁面を触れた二人の顔色が瞬時に変わった。「あんたらの浮かんでる水面から底までは約3メーター、ずいぶん深いだろ? そして壁は油をできるだけ弾くためにつるつるのステンレスで覆われている、落ちた人間が自力で脱出する事はほぼ不可能」
「俺たちをどうするつもりだっ!? 」
「? 面白い事を聞くねぇ、それが最期の言葉でいいのかい? 」グエンはそういうと二人から視線を外して配電盤に埋め込まれた赤いデジタルへと目を向けた。それは常に正確な時を示す時計で表示は午前三時を示そうとしている。
「じゃあこれからあんた達に起こる事を教えとこう ―― この基地は砂漠のど真ん中にあって供給される資源は限られてる、その中でも最も深刻なのは水だ。で、この基地では水の節約のために戦艦と同じ浄水プラントが設置されてる」
「回りくどい事をっ、さっさと教えろっ! 」吠える男に向かって二ィ、とグエンは嗤った。「汚水は一か所に集められて分離、濾過、殺菌の行程を経て今度は飲み水や風呂の水以外の様々な所へと供給される。たとえば基地の冷房システムとか便所とか ―― その前に」
 突然二人の足の下からボコリ、と大きな気胞が上がって眼前で弾けた。「一次濾過装置としていろんな所に置かれてるタンクは一日に一度深夜にある作業を開始する ―― それはタンク内に溜まった不純物を水分と混ぜてプラントへと送りやすくする為の撹拌工程だ」
 次々に弾ける泡は表面の油の層を破壊して怒りに歪む二人の顔をぬらぬらと舐めまわす、しかし二人の怒りを恐怖に変えたのは直後に起こった体の変化の方だ。
「! な、なんだっ!? 体が沈むっ!? 」
 彼らが身につけているタクティカルベストは万が一に備えてわずかな浮力が付与できるように小さなフロートがついている、事実この会話の間にもほんの少し足を動かすだけで水面へと浮かんでいた上半身が泡の増大とともにズルリ、と水の中へと引き込まれていく。
「気胞が発生すると浮力がなくなる。浮力のなくなった不純物は全部混ざり合って汚水に溶け込んで新しい水と入れ替わるんだ ―― この『ばっ気』作業の後に吸い込まれた『ゴミ』はプラント内で全部細かく粉砕されて沈殿槽に送られる」
「や、やめろッ! こんな死に方 ―― 」なんとか水面の泡をかき分けて必死にもがく男の顔を憐れむようにグエンが眺める。
「あんたらが今晩殺した …… いや今まで殺したみんながきっとそう思っていたさ。あんたは自分だけは死に方が選べる ―― そんなバカな事を本当に信じていたのかい? 」

 泡の中へと引きずり込まれた手を確認したグエンがゆっくりと立ち上がって計器盤のボタンを押すと、処理槽のシャッターがするすると吐き出されてぽっかりと空いた床の穴を元どおりに塞ぐ。「砲雷長、グエンです ―― フェイズ2完了、全員始末しました。残りお願いします」
 ホログラムを閉じて再び訪れた静寂と小さな明かりの中で彼はシャッターへと視線を落としながらポツリと呟いた。「死に方なんざ誰も選べねえ …… かわいそうだけどごく一部の人間を除いてはな」

                    *                    *                    *

 退避壕へと取って返した整備班の面々の前に広げられた連邦軍初の量産型モビルスーツ・ジムの設計図がモウラの握った赤いサインペンで次々に赤く染まる。書き込まれているのは彼の機体が被った損害の状況、しかし30%を超えれば大破認定されるその指針を凌駕するそれはとうに完全撃破というレベルだ。通話を終えてホログラムをしまったモウラや他の面々の前に残った図面は何枚もない。
「さあ、これで全部だ。ここからあのジムを動かす電力を絞り出すんだ。時間がない、各々の得意な分野でアプローチにかかれっ! 」
 モウラの檄とともに一斉に図面を取り囲んで喧々囂々の議論が始まった。ある者は残った油圧を人力で動かそうとする手段を模索し、その一方で電気系統に詳しい連中が残った部品のコンデンサや無傷で残っているいくつかの内蔵バッテリーの配線を組み替えて機器を動かそうと考える。
 だが双方とも同じ問題に突き当たってそれ以上の答えが見いだせないでいる。苛立ちと苦悶の悲鳴が異口同音の言葉で退避壕を埋め尽くす ―― 『無い』。
 物理手段を行使するには道具が「ない」。
 アビオニクスは動かせても巨大な肘のモーターを動かす電力が確保でき「ない」。
「あきらめんじゃないっ! なんか手があるはずだっ、わかんないならもう一度一から考え直せっ! 絶対に答えはあるっ! 」
 諦観と弱気が蔓延し始める空気を振り払うようにモウラが叱咤し、それに応えるかのように血走った眼で図面を眺める整備班の面々。考えつく限りのありとあらゆる可能性に言及し、床へと打ち捨てられた図面を拾い上げては裏側に手書きの作業工程を殴り書く、だがやはり結果は変わらない。
「だめだっ! どうしても、どう考えても肘と指を動かすだけの電力が足りねえっ! あとバッテリー四個分で事足りるのにっ! 」
「機体の周りのどっかに落っこってないのかっ!? 麓に転がってる下半身のそばとか ―― 」
「バカ野郎っ! 融合炉がむき出しになってるかも知ンねえんだぞっ!? そんなとこに生身の人間を行かせられるかっ! 」
「ちくしょうっ! 」出口の見えない堂々巡りに男が思いっきりテーブルを叩いて再び元の白けた空気を取り戻す、だがモウラはそれでも必死であるべき答えを探し続けた。

 コウとニナがあの機体を動かせたんだ、あたしにだってできない事じゃないっ!
 今までにこんな事は経験した事がない、でもきっと似たようなケースは絶対どこかにあったはずだ! 考えろ、考えろっ! どんな小さなことでもいい、あたしの機械いじりの記憶と経験を全部ひっくり返してなんとしてでも ―― !

「バッテリー …… 四個分でいいんですか? 」
 おずおずとそう尋ねる声に全員が振り返ると肩身が狭そうに最後尾で進捗を見守るラドウィックが遠慮がちに右手を上げていた。切迫した議論に水を差された男は苛立ちを隠そうともせず彼に罵声を叩きつける。「ああそうだよっ! だからなんだってンだ、いくらお前の持ち場が無傷だからって肝心の指が動かなきゃどうにも出来ねえ! 専門外はそこでおとなしく ―― 」
「あ、ご、ごめんなさい。でもそれ ―― 」
 その時振り向いたモウラとラドウィックの視線が交錯した。彼の瞳の中に宿る確信とそれを求める彼女の脳裏に奔る閃光。同時に言葉となって吐き出された回答に一同は目を見張った。
「 ―― ありますよ、多分バンパイアシステムかっ!? 」



[32711] Trigger
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/10/07 00:09
 敷地内を縦横無尽に駆け抜けるフュンフが敵の前衛として居残ったタリホー達をかく乱する。それは彼らだけの仲間意識なのだろうか、指揮を執るラース2の命令もそこそこに陣形が乱れるのもお構いなしに追いかける1と3の反応を近接レーダー上で確認しながらケルヒャーは再度殲滅のための方策を練り続けている。しかしそのチャンスが見つからない。
「なんて速さだっ、重力下配備のドムでこんなのは見た事がないっ! 」
「 “ 元々閣下の機体は試作機だ、ゲルググ配備前にマルチロール機としての特性を持った汎用機として開発されたリックドムの最終形態 ―― しかし ” 」多分同じようにダンプティも彼の機体を見ているのだろう、だがその声音にはさっきほどの激昂が見られない。
「 “ …… よくあれを使いこなしている、あんなのは今までどこにもなかっただろうに。どんな奴が乗ってるんだ? ” 」

 旋回時のGに揺さぶられながらもニナは必死でモニターを追いかけている、目まぐるしく変化する数値とグラフの値を何度も確認して機動パターンでの限界値を修正してはOSに送りこんで反映させるその繰り返し。しかし成果として感じられるほど彼はこの機体を操りきれてはいない。
 ハンガー前での最初の一戦で彼女は自分の頭の中にあった既存コウのセッティングデータが全く役に立たないことが分かった。マニピュレーターの入力・ペダルの踏み込み・スロットルの開け閉め・加重に対するAMBAC制御、そのどれもが彼女の想像をはるかに超える ―― その要因がすべてこの三年間で鍛え抜かれた筋肉のなせる業だと気づくのにはほんの少しの時を要した。いままで様々なパイロットに接してきたニナだったがこれほど規格外な肉体を持つサンプルに出会ったことがなかったのだ ―― だが今さら後には戻れない。
 ニナは頭の中にある今までの概念を残らず抹消して新たなサンプルを構築する、それは重力下で常に過酷なトレーニングによって仕上げられたトップアスリートがモビルスーツを操ったらどうなるかというありえそうであり得ない空想予測。神経伝達・反射係数を常人の倍近くにまで引き上げられた肉体がもたらす動作効果。
 その予測が正しい事はフュンフの動きが彼の操作に追随し始めている事ですでに実証されている。機動時の姿勢制御も制動時の体勢変化も滑らかになり、ホバーユニットの加減速もメリハリが収まった。数値の変動もグラフ変化も最初の時よりは自分の想定内へと収まりつつある。
 ―― でも、なんだろう?
 予想される万全をもってしてでもいまだに拭えない違和感 ―― 不安といってもいいだろう、顕在する影がニナの心を捉えて離さない。根拠は時折シートの向こうから聞こえるコウの苦しげなうめき声と必死にボタンを叩いてコマンドを入れ直す音、コマンドディザブル無効の表示は彼が起こしたアクションの数だけニナのラップトップへと刻まれ続けている。
 “ だめだわ、これじゃコウはいつまでたっても攻撃に移れない。なんとかしてこの子の制御をコウの手元に置かないと ―― でも、どうして? ”
 予想される原因を頭の中に羅列してはそのデータを読み出して検算をし ―― ウィンドウなんてまだるっこしい、DOS/Vから直接入力 ―― そしてなにもない事を確認するその不毛な行為。しかしどこかにこの不具合の原因があるはずなのだ。これほどOSに精通した自分でも見つけられないのならあとは機体そのもののハードのどこかに何か致命的な欠陥が ―― 。

 その衝撃は唐突だった。機体が何かに叩きつけられてニナの全身を覆うパイロットスーツが一気に加圧した。

                    *                    *                   *

「随分な隠し玉を用意してあったようだな」
 フフン、と含み笑いをかみしめながらラース1はまだそれほど傷を追っていないデザートイエローのザクにマチェットを構える。「俺の仲間を一瞬で二機撃破とは ―― なかなかやるじゃないか」
「そお? あんたのお仲間がめっちゃ弱かったからじゃないの? そンくらいなら今のマークスだってお茶の子さいさいでやっちゃうんじゃない? 」
「もう満足に動くこともできそうにない、その機体でか? 」

 裂傷の数知れず。オイルラインも寸断されてパーツのあちこちを黒く染めたオリーブドラブのザクは立っているのがやっと。ニナのOSがかろうじて現状での戦闘行動をサポートしてはいるがいかんせんそれにも限界が近づきつつある。ほとんどの傷を引き受け続けたアデリアの盾は今にも壊れてしまいそうだ。
「あいにくだな、まだあんたとくらいなら余裕だ。それよりこんなところで俺たちとやりあっててもいいのか? ボッとしてるとお仲間が全部喰われちまうぞ? 」
「へらず口を叩く中身はまだ元気そうだな、それはよかった。だが ―― 」
 それは今まで見た事もない ―― いや見せなかったのだ。風を巻いて地を疾るクゥエルの得物がマークスのコックピットを目指す。その切っ先が装甲板へと突き立てられる寸前にアデリアのサーベルが追いつき、あわやのところで押しとどめた。
「マークス動いてっ! 今すぐこの場から離れて、はやくっ!! 」刃からじかに伝わる気配にアデリアは背筋の芯まで凍った。今までの戦いが児戯に思えるほどの殺意と意思。
「さすが同類、俺の企みにやっと気づいたか」嗤いながら素早くアデリアの間合いから離れたラース1は今までとは全く違う見た事のない形で構えた。

「サリナスで俺が言った事を覚えているか? お前がなぜ俺と同じ境地へと至らないのか、なぜ人然ひとぜんとしたまま今日を謳歌し続けているのか ―― お前をあの日のお前へと戻さない為の鎖、それがその男の存在なのだと」

 迂闊だった。
 アデリアはてっきりマークスが自分を庇って手傷を追っているものだと思っていた、いやそう思っても仕方がない ―― それほど奴の手口は巧妙で、しかも鮮やかだったのだ。奴は常にアデリアを避けながらマークスの側へと攻撃力の大半を割き続けていた。二機の間にある損傷の差はその結果 ―― そしてもう一つ恐ろしい事実がそこにある。
 奴の強さの底が、見えない。

「今のお前を最も効率的にあの日へと立ち返らせるためにはその男が邪魔だ、だから先に始末させてもらう ―― 小僧、嬉しかったぜ。俺の仲間達を覚えてくれてて」
「マークス動けっ!! 今すぐここから逃げなさいっ! 」
 刹那の遅れも瞬時の迷いも許させない超速の刃がマークスの眼前で交わり火花を散らす、気を抜いたら一気にもっていかれるっ! その瞬間にマークスは死ぬっ! 失う恐怖でガタガタ鳴る奥歯をねじ伏せてマークスを執拗に狙うラース1のマチェットを必死で弾いて近接機動のルーティンをもう一度繰り返して ―― くっそっ、ペダルを踏み込みすぎて足がつりそうだっ! ダメっ、もっと集中しないと ―― 。
「アデリアっよせっ! 敵の挑発に乗るんじゃないっ! 俺の事は自分でなんとかするからっ! 」
 外部スピーカーとイヤホンの両方から聞こえる彼の声、脳内でリフレインするその音色が思いに置き換わって彼女の心に執拗に問いかけ続ける。
 それがなくなるなんてだめだっ、絶対にだめだっ!

 自分を庇いながらラース1と斬り結ぶアデリアの背中を追いかけながらマークスはダメージコントロールを再起動して戦闘に必要な機能を取り戻そうと試みている、幸いな事に末端のラインはほとんど機能不全を起こしているがジェネレーターから直に動かすモーター類にはまだ息がある。使えなくなったオイル経路を封鎖して残りを生きてるダンパーに全てつぎ込めばまだ何とかなる、少なくともここからハンガーまで戻れる程度には。
 だがそこからどうする? 彼女の指示に従って戦域から離脱するべきなのか?
 
 否。
 それこそ奴の思うつぼだ、味方の損害を気にも留めずにここに留まっている理由は奴の目的がアデリアとの心中にあるからこそなのだ。そしてアデリアが単独で奴に勝つ可能性はかなり少ない。
 それはラース1の攻撃を一身に追い続けたマークスだけに分かる事実だ。操るパイロットの延長線上にあるのがモビルスーツであり、故にパイロットはその能力を上げるために自らの体を鍛え上げる。その点でいえばアデリアの近接戦闘のセンスは数多のパイロットと接してきたマークスの目から見ても天才的であり、多分ガザエフよりも上。
 だが操縦技術や細かな駆け引き、そして実戦経験の差はそれを補って余りある実力差として二人の前に横たわる現実。
「くそが、何でもお前なんかの思い通りに」
 モニターでダメコンの数値を確認したマークスがアデリアの陰で跪きながら、残った左手に握りしめられたサーベルを腰だめに構えた。ベイト譲りの吶喊一突、全ての余力で放つその一撃がたとえ敵を仕留められなくてもどこかに当たれば奴の機動力は激減して流れはアデリアに傾く。
 こいつと決着をつけるのはもう俺じゃない、アデリアの方だっ!
 激しく動く彼女の背中の向こうでちらちらと見え隠れする黒い影、彼女の剣圧が偶然にも黒い機体をわずかに跳ね飛ばした瞬間をマークスは見逃さなかった。踏み込んだ両足のペダルが推進剤に火をつけ、叩きつけられるように押し込まれたシートの上で歯を食いしばりながら両足のペダルと左手の操縦桿を目いっぱい押し込む。絶妙のタイミングで彼女の残像を突き抜けるように現れた剣先は一直線にクゥエルの影を目指した。

                    *                    *                    *

バンパイア夜間照準システムは本体と有線接続して火器管制と同期はしていますが、実は単体でも駆動できるような設計がされています」ラドウィックはそう言うと丸めていた設計図を机の上に広げた。
「スタンドアローンで動かすためのバッテリーは本体の横の電源ピットにリチウム4個搭載、出力はあわせて120AH ―― これでどうですか? 」
「十分だっ! でかしたラドウィックっ! これで ―― 」
「 ―― ただし」喜びの雄叫びをあげかけた男に水を差すように彼は悩ましげな表情を浮かべた。「バンパイアはそれで終わります、あとは通常火器管制での裸眼照準 …… 闇に紛れた敵のタンクをそれで狙えるかどうか」

「お前から見てもこれしか手はないんだな? 」携帯から流れてくる整備班が必死で考えた起動手順をメモ書きしながらキースは尋ねた。「弾は一発、やり直しはきかない。お前たちのスキルが弾き出した最善策がこれしかない? 」
「 “ ああ ―― ” 」本来ならばもっと万全の策をモウラの立場では提示したかった、しかしどう考えても今の材料ではこれしかできないという悔恨が彼女の声を曇らせる。「 “ OSと火器管制だけは機体に残っているバッテリーだけでなんとか。でも腕のモーターはバンパイアのバッテリーだけではどう考えても一回だけ、それ以上動かすとマニピュレーターに回す電気が足りない ” 」
「わかった ―― 他に気をつける事は? 」
「 “ 一番最初に立ち上げるOSは必ずセーフモードで。立ち上げた瞬間に電流計が動くから、それが10ミリアンペア以下なら火器管制は問題なく使えるはず。もし他に通電個所があったらそのスイッチは火器管制を動かす前に全部落として、使用電力が3アンペアを越えたらブレーカーが働いて全部一からやり直しだ ” 」
「了解した …… モウラ、ありがとう。整備班にもそう伝えてくれ」
「 “ あんたが生きて帰って直にみんなにそういいな、そうじゃなかったらあんたを一生恨んでやるから …… じゃ、がんばれ ” 」

                    *                    *                    *

 HANSをしていなければ首がどうにかなっていただろう。ラップトップを抱きかかえたニナが固く結んだ瞳をこじ開けるとシートの端から覗くモニターには照明塔の鉄骨が激しく折れ曲がった映像が映り、加えて鳴り続ける不気味なピープ。間隔が短くなっていくのは敵が近付いている証拠だ。「コウっ! 敵がすぐそばまで ―― 」
 先に彼女の警告に反応したのはフュンフの方だ。足元でアイドリングを続けていた脚部ジェットが轟音を上げて体を残骸から引きはがし、そのままフル加速へと移行する。「だ、大丈夫かニナっ!? 」
「あたしは平気。それよりコウ、一体何があったのっ!? 」そんな声は彼がデラーズ紛争に巻き込まれた最初のころ以来聞いた事がない。明らかに何かにうろたえている。
「い、いや何でもない。少し操作をミスっただけだ ―― くそっ! これじゃいつまでもらちが明かないっ! 」
「ミスって ―― 」

 そんなことが、あるの?
 
「コウ、本当に一体何があったの? 」彼は明らかに嘘をついている、ニナは問い質すように強い口調で尋ねた。「昔からあなたを見てきたあたしの目はごまかせない、確かに初めての機体かもしれないけどそれくらいの事であなたが操作ミスなんてする訳がない ―― 教えて、今何があったの? 」
「 …… 意識が、一瞬 …… 飛んだ」

“ 彼は敵を全滅させるまでの10分間の間に少なくとも3回、全身の機能が完全に停止した事を示す『ハング・アップ(hung up)』を記録しておる。不随意筋によって行われる生理機能以外の全てが無反応になるその状態は僅か10秒程に過ぎんのじゃが、その間ウラキ伍長の意識は一切の外的要因に関しての反射を失った ―― 彼がモビルスーツに乗り続けて戦場へと向かえば間違いなくこの症状は彼を死に至らしめる ”

 あの夜に下したモラレスの予測が正しかった事にニナは鳥肌が立った。いくら彼の意志が強くても体内で起こる生理現象には耐えられない、戦いが長引けば長引くほどその回数は多くなって敵にチャンスを与える事になる。
“ 落ち着いて、ニナパープルトン。起こってしまう事は仕方がない。ならばあたしがその対策を考えなければ ―― どうしてそんな事が起こってしまうのか ”
 ニナははっとして思わず腕時計へと目を落とした。出撃してから今まで約4分、ドクはあの時『十分間で三回』ハングアップが発生したと言った。と言う事はまた4分後以内には同じように彼が意識を失うという事、ならばあたしがその時間を計って彼が意識を失う前に教えればその前になにか対策は立てられる。
“ でもそれで夜明けまで敵を撹乱し続ける事ができるのだろうか ―― いえ、そんな甘い敵じゃない、きっと ”

 思考を巡らせるニナに突然のGがのしかかる。急激な針路変更と姿勢変化で重心を崩すフュンフのすぐ脇を音が掠めて地面を抉る。「少しでも気を緩めるとすぐに重砲が飛んでくるっ! ニナっしっかりつかまってっ! 」

“ だめだわ、このままじゃいつかは敵に追いつめられる。その前になんとかあたしができることを ―― ”
 ニナは再び思考を巡らせ始めた。こればかりは頭の中でもぞもぞと動く黒球も頼りにはならない、奴はあくまで解答だけを表示するものであってその答えに至るまでの過程を辿れるような器用な代物ではないのだ。それは自分の力で解き明かさなくてはならない。
 畑違いの原因追求にニナの思考は混乱の極致にある、だが彼女は頭のどこかで何かがひっかかっていた。シミュレーターと現実で起こった同じ意識喪失ラストサルベシオン、しかしあの時ドクは何と言っていた? リアルに起こった拒絶反応、克服した後に始まるコマ送りタキサイキアに似たなにか。それは全て脳内で分泌される麻薬によって引き起こされ、超人的な能力を使い切った果てで拮抗状態に持ち込もうとするアドレナリンが精神に働き掛けて心の凪が起こる ―― 簡単な話だ、そのアドレナリンの分泌する量を減らせれば彼の意識喪失の間隔は長くなる。

“ 以前と違ってコウの理性は強くなってる、少なくとも意識喪失が発生するまでは破壊衝動を抑え込むことができていた。でももっとだ、もっとアドレナリンが分泌する量を少なくして彼が戦える時間を私が作らなければ ”

 でもどうすれば、いい?
 シミュレーターでの模擬訓練と戦場に立つ現実はコウに同じ症状をもたらす。二つの違った環境で交わる因子。
 コウに対する二つの状況の共通点って、なに?
 
                      *                    *                    *

「 “ 買いかぶりではないですかな、中佐? ” 」接触回線を通じて聞こえてくるケルヒャーの声を聞きながら、それでもダンプティはじっと敷地内を所狭しと駆け巡るフュンフの軌道を無言で眺め続けている。
「 “ フルパワーで操縦ミスをするなんて少なくともベテランじゃあない、ましてや彼が『少佐』に匹敵する脅威だなんて私には到底考えられませんが ” 」
「だが奴は一瞬で最新鋭二機をあっさりと沈めた …… 偶然では片づけられんぞ? 」今しがたに見た戦慄の光景が頭を過ぎる。その体捌きと速さや手際の良さはまさに彼の生き写し、言い伝えや噂ではなくその眼で直に見た事のあるダンプティにとっては操縦ミスなど警戒を解く理由にもならない。
「 “ もちろんです、幸か不幸か殺られた二人はレギュラーメンバーじゃない。どちらかと言うと手間を省いてくれてありがたいというべきですかな …… ですが ” 」
 トーヴ1がダンプティの前へと進み出て盾となり、前線で網を張ろうと待ち構えるラース2に向かって回線を開く。「 “ ラース2、カラコール陣形で敵を徹底的に引きずりまわせ。奴の得物はロングサーベル一本、機動力が落ちた所で一気に包囲して十字砲火で仕留める ” 」

                      *                    *                    *

「おいおいおいおい、てめえら一体何やってんだっ!? 」激怒したブージャム1は腰から拳銃を引き抜きざまに足元の床へと連射した。防水コンクリートに食い込んだ弾丸が破片を周囲へとまき散らす。「そろいもそろってクソ間抜けどもっ! 足手まといになるってンなら今すぐ俺がここでブチ殺してやろうかっ!? 」
 それが脅し文句でない事をよく知る側近たちは一斉に周囲へと飛び散って前方を窺いながら歩を進める、がその時厨房内によく通る男の声が全員の耳を引き付けその足を止めた。
「おいおい指揮官、いくらなんでもそりゃまずいだろう? あんた一人しか残らないんじゃあこっちも仇のとり甲斐がない」
 周りを見渡す必要などない、一番端の壁に持たれた黒い影は不敵な笑みを浮かべて腕組みをしながら上目づかいで真っすぐに部屋の対岸にいるブージャム1と対峙している。「先に入ってきたあんたらの部下は全員ここで犬死にだ、当然あんたらも生きて返す気は毛頭ない。そういう命令を上司から受けてるんでね ―― 悪いがここで死んでもらう」
「ほほう」ブージャム1が口角を引きつらせながら凄惨な笑みを浮かべて呟いた。「随分な自信じゃねえか。仮にも無敗を誇ったWWWの地上部隊もずいぶんと甘く見られたモンだ、てめえもここの指令みたいにざっくりとはらわた割いて苦しみながら死んでもらおうか」
「 …… 少佐を殺ったのは、やっぱりお前か」

 威圧する怒りのオーラが見えるようだ。
 大男の背後から立ち上る陽炎がびりびりと空気を震わせて全員の恐怖を煽る、肉食獣を思わせる死の気配でブージャム1を含めて全員の心が凍りついた。「グレゴリー・ヘンゲル、今からお前たちを殺す男の名前だ …… よくかみしめてあの世に行け」
 そう言うとまるで煙のように掻き消えた男の影、我に返って慌てて視線を走らせる全員の目にキイと閉じていく扉が映る。「豪勢なタンカきりやがって、どうせならありったけの捨て台詞でも吐いてけ。一瞬でもビビらせてくれたお礼にてめえだけは一番苦しむ掻っ切り方をしてやる」

 ガラス戸ににじり寄った残り少ない前衛がそっと扉を開くと今度は肌寒いほどの冷気が彼らの影へとまとわりつく。真っ暗な室内から外部へと漏れだしたそれは体感でも10度を下回るだろう。相反する環境差に本来ならば内部を観察する必要があるのだがすでにファイバースコープは手元になく、しかも悠長に悩んでいる時間もない。
「さっさと中に入れってンだっ! あんなトーシロの脅しにビビってんじゃねえこのバカどもがっ! 」ついに激昂の極みに到達したブージャム1が味方の背中に向けて発砲した。防弾ベストによって怪我こそないが着弾の衝撃に蹴とばされるように空間へと転がりこんだ兵士は背中の痛みもそのままに暗視ゴーグルを装着した。
「 …… なんだ、ここは? 」
 所狭しと立ち並ぶ棚から放たれるいくつもの輝き、兵士が傍らの光へと手を伸ばして掴んだものは丁度掌へとすっぽりと収まる大きさの瓶だった。「 ―― ワイン? 」
「身の程知らずな連中だな、こんな僻地にワインセラーなんぞおっ立てやがって」ずかずかと兵士の後から踏み込んできたブージャム1が手を伸ばして棚から一本ぬきとった。「 …… ラザフォード? 聞かねえ名前だ。どうせこんなとこにあるワインだ、中身も大した事ァねえんだろう」
 ラベルに一瞥をくれるとすぐさま床へと叩きつけ、中身と破片が盛大に周囲に散らばる。その背後から遅れてきた4人が彼の周囲を守るように展開して辺りを見回した。
 
 部屋の広さはかなり広い、およそ600平米ほどだろうか。部屋の一角に鎮座する巨大なステンレスのタンクは多分普段使い用のデーブルワインを保管していくための物でそれ以外はワインラックに整然と収められている。天井にあるいくつものルーバーは温度管理のための空調、生きていることを示すシュウシュウという音が間断なく続いている。
「どうせ反対側の出入り口から抜け出したにきまってんだ、さっさと進んで生き残りをとことんまで追い詰めるぞっ! 」ブージャム1の檄で一斉に各通路へと散らばる兵士たち、全滅した先鋒の連中とは違って一人が一本の通路へと侵入するあたりが戦歴の違いを物語る。残った兵士の一人一人がそれだけ自分の対人スキルに自信を持っているという証だ。
 闇に溶け込む鵺がしとしとと足音すら立てずに長い一本道を足早に駆ける、かすかな光を取り込むゴーグルが映し出す世界はまるで宇宙に浮かぶ星星のようだ。銘銘が一つの目的に向かって進む時の集中力は平時であれば何者も圧倒するプレッシャーとなって彼らの侵攻に寄与するだろう。
 だがその異変は彼らが通路の中ほどまで進んだ時に突然起こった。獣の大きな唸り声が聞こえたかと思うといきなり天井から真っ白な煙が噴き出して、立て続けに部屋の片隅を起点に巨大な何かが倒壊して耳障りできらびやかな音を一斉にまき散らし始めた。

                    *                    *                    *

 今日一どころじゃない。
 今までで一番手ごたえのある一撃を放った。

「 ―― いい突きだ」
 スピーカーから流れ出たその声には今までのような嘲りの影もない、ただ純粋に相手の技に対する称賛に溢れていた。渾身の一撃を放ったその左腕を右脇に抱えながらクゥエルのバイザーが怪しく輝く。
「もしお前が万全の態勢で ―― アデリア・フォスの盾になろうなどと考えずに一対一で俺と向き合ってたなら、もしかしたらいい勝負になってたかもな ―― 残念だ 」
 抱えた腕の先に握られたマチェットがモーターで旋回する手首に従ってザクの胸部装甲へと切っ先を押しあてた。
「マークスっっ !? 」叫んだアデリアが慌てて左手を伸ばす。

「じゃあな、楽しかったぜ ―― 向こうで先に待ってろ」「! やめっ ―― 」
 そう言うとクゥエルの刃は一気にマークス機の胸部を貫通して背中まで突き抜けた。届かない腕の先でがくりと跪き、アデリアのモニターの中で消失する赤いモノアイ。
「 …… 俺たちもすぐに後から逝く 」



[32711] fallin' down
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/10/25 23:39
「◎*X ―― #」  なんて言っているのか、わからない。
 目の前で突っ伏した大きな黒い影に向かって呟いた、なにか。

 まもれなかった、なにも。
 なくなっちゃった、なにも。

 もしかしたら思い出も未来もあたしにとってはもったいなくて、ほんとうはこうやっていつまでも誰かと殺し合っているのがおにあいなのかも。お姉ちゃんが死んだ時にないたこともニナさんを助けてあげられないとないたことも、嘘。
 だって、ほら。

 涙が、でない。

                    *                     *                    *

 うつ伏せになったザクを弔うかのように傍らに立つ明るい機体、だがガザエフはその全身を覆い始めた異形を確かに感じた。足元から湧きあがって体へと巻き付くどす黒い触手はあっという間に彼女であった者のことごとくを犯し尽して嬲りつくす。果たしてそれがすべて終わった瞬間に夜空へと解き放たれた咆哮はもう、人ではない。

「やっと ―― やっとか、アデリア・フォス」
 心地よいその音色を聞きながら。
 世界を凍らせる死の気配に体中を浸しながらガザエフは嗤う。

 これで、やっと ―― 死ねる。

                     *                    *                    *

状況の変化を察知した時に取る二択 ―― 前に進むか後ろへ下がるか。全滅した前衛が前者を選択したのに対してブージャム1を含めた側近たちは後者を選択し、それは違った結果を産んだ。次々にドミノ倒しで倒壊するワインラックと続けざまに砕けるワインの瓶に追いかけながらも彼らは誰一人欠けることなく入り口側の壁へ取りつくことに成功した。轟音を上げて脇を掠めるきらびやかな雪崩に視線をくれながら一人の兵士が思わず感想を口にする。
「ヤロ、ばけモンかぁ? どうやってこんなモン一人で倒せるって? 」
「そう思わせとくのがこのトラップの肝だったのかもな。実際ほんの少しでも反応が遅れればあっという間に棚の下敷きになってガラスの破片とサンドイッチだ、そうなりゃあとは跡形もなく吹き飛ばされるまでここでじっと待ってるしかねえ ―― 隊長」
 次の指示を仰ごうと男が顔を向けるとブージャム1は明らかに殺意に目を血走らせている、脇の鞘から自慢のククリを抜き出しながら吐き捨てるように言った。「どうせ奴らもここでネタ切れだ、急いでここから出て奴らの後を追う。たどり着いたところを奴ら全員の墓場にしてやる! 」
 刃をきらめかせておもむろに立ち上がった1が壁際に残った通路を真っ先に駆けだす、いつもは一番後ろから前を煽る指揮官とは思えないほど突飛な行動に残った連中は装備の確認もそこそこに慌てて立ち上がった。全員がその場を離れるわずかの間に先頭を走る指揮官は部屋の角にまで到達している。
「おらっ、グズども何をしてやがる屠殺だ屠殺ゥッ! さっさと来ねえとおめえらの分まで俺が豚どもを皆殺しにしちまうぞっ!? 」
 たまりにたまった自分のうっ憤を晴らす方向が定まって、醜さの欠片もない晴れ晴れとした表情で駆けるその視界をエアコンから吹き出した粉末が少しづつ覆い隠す。
「悪あがきを、どうせさっきと同じ目くらましで時間を稼ごうなんて二番煎じがこの俺様に通用するとでも思って」

 それは快感に溺れた心が生み出した油断。
 いつもならば部下を先に進ませて自分が後から押し出す ―― それで全てがうまくいっていた。だが彼の露払いを担う兵士たちは残忍な一面を持つ彼を刺激しないために絶えず周囲に気を配り、特に前方に仕掛けられたトラップに対して十二分な注意を払っていたのだ。今もしも後ろからついてきている部下の誰か一人でも彼の前にいたのならそれは必ず避けられた。
 だがブージャム1が踏み出したその足に引っかかったワイヤーは彼の欲望の赴くままに引き延ばされ、端に繋がっていたピンが勢いよく弾け飛んで仕掛けられた雷管に火がついた。

 白リン手榴弾。ウィリーピート
 殺傷能力の低い、現代では発煙筒として利用される携行兵器で容器の大半に充てんされた白リンが燃焼を始めると炎と煙を同時に発生させる。トラップとして仕掛けるならばもっと破壊力のある物を仕掛けるべきとの部下の進言を押し切ってグレゴリーがこれを最後の仕掛けに選んだのにはきちんとした理由があった。
 まず白リンの出す煙が『赤外線を阻害しない』事。
 暗視ゴーグルのセンサーが不具合を確認したらそれだけで敵は周囲の異変に注意を払う。いかなる状況でもなにかが起これば即座に対応できるのがプロというものでグレゴリーは決して彼らの実力を見くびってなどはいなかった。彼らの能力をきっちり分析しきったうえでなおかつ心理の虚と実を突くために選択した携行武器、緊張の後に来る安堵は多くの兵の判断を狂わせた。
 次に白リンの燃焼時間。
 雷管点火約五秒後に発火、以降一分間化学反応によって燃焼し続ける間は一切の消火行為を受け付けない。たとえ酸素がなくても、燃える。
 その一分という時間が、とくに重要。

 トラップが作動した事を認知した全員が各々ガラスまみれの床へと突っ伏してその瞬間を待った。破片手榴弾なら爆発物に対して足を向けた伏臥の状態で頭を抱えればある程度の損害 ―― 致命傷以下という程度だが、それでも行動不能は避けられる。それぞれが心に抱く神と神ではない者に祈りながら息を殺して待つ五秒という時間、だが缶を潰すような破裂音も爆風も起こらない事を不思議に思った誰かが勇気を出して面を上げるとそこにはただもうもうとした白い煙が立ち込めているだけだった。
「不発か? ―― いや」目をしばたかせながら煙の根元へと視線を送ると、そこにはラックに縛り付けられたプラスティックの円筒がある。武器に精通している彼らにはそれが一目で何であるかが分かった。「 …… なんだ? 発煙手榴弾なんか仕掛けてどうしようって」
「ただの足止めだろ」 続けて起き上がって事態を知ったもう一人が忌々しそうに吐き捨てた。「そんな子供だましでも十秒くらいは稼げンだろ ―― だがバカな連中だ」
 ゴーグルを額にあげてつかつかと歩み寄った兵士が目を細めてしゃがみこむ。「これじゃあ手持ちがなくなってますって俺たちに教えてるようなモンだ、これで奴らもMPIの連中見たくなぶり殺しが確定したってわけだ …… と、それより急ぐぞ」立ちあがった男がほんの少し先で起き上がろうとしているブージャム1の影に目を向けた。
「これ以上あンな状態の隊長に先走られたんじゃあどんな厄介事を背負いこむかわかンねえ、そうなる前に俺たちで露払いだ」
 周囲を覆う白い霧は次第に濃くなっている、今まで見えていた1の影ですらこの短時間で薄らいでしまうほど、早く。
 仕掛けられた筒が放つ強い光で網膜がやられないように目を背けながら装備を確認した彼らがもう一度追撃にかかろうとその一歩を踏み出した時、突然背後で輝いた閃光が自身の影をくっきりとセラーの壁に焼きつけた。

 その白い霧が消火剤などではない事を仕掛けたグレゴリーたちは知っている。「うちの艦長が直々に育てた製パン用の強力粉だ、お前らのために捏ねてる暇はねえが」
 グレゴリーが外通路の窪みの陰で耳を覆って頭を押さえる。計算上の理論値では十分、だがそんな事をいまだかつて誰も試した事はない。ぶっつけ本番の大仕掛けに一体どれだけの威力があるのか?
「とくと味わえ、バカ野郎」

 可燃性粒子・酸素・着火点・浮遊拡散・空間的制約。五つの要件を全て満たした時に起こる爆発的な燃焼効果 ―― 粉塵爆発。ウィリーピートによって点火された強力粉はそのグルテン含有量の低さから小麦粉の中で一番長く空中に浮遊する、加えて作動するエアコンがワインセラー内の空気を対流させて粒子密度の高い空間を作り上げる。一瞬で炎と化したその雲はセラー内の空気の体積を膨張させて外壁にひびが入るほどの圧をかけた。逃げ場を求める空気が炎とともにセラーの扉を両側とも粉々に吹き飛ばす。
 さらに部屋全体に一瞬蔓延した火球は揮発していたワインに火をつけて延焼を促す。暴走する上昇気流は火炎竜巻となって部屋中を席巻してありとあらゆるものを渦へと巻き込み取り込まれたワインボトルの破片という不可視の凶器が、爆発で吹き飛ばされて身動きのとれなくなった兵士の全身をこれでもかと言わんばかりにズタズタに斬り裂いた。

                    *                    *                    *

 それは今までに向き合ったどのモビルスーツとも違っていた。
 両手をぶらりと投げ出してふらふらと歩む無形の型、一見隙だらけでどこからでもいけそうに見える。だが。
「 …… すごいな。至る所のジョイントがルーズだ、しかも動き回っている」思わず感嘆のつぶやきを漏らすガザエフ、それほど彼女の動きには無駄がない。可動部の関節は油圧が解かれてぶらぶらしているがモーターだけは乗り手の意志を反映して絶えず動き、それが彼に対するフェイントの役目を果たしている。
 格闘技で言うところの『脱力』 ―― 近接に長けた彼女ならではのセットアップ。しかし攻撃の際にはそれが大きな効果を発揮する。
“ ―― 来るっ ”
 念じた瞬間に間合いの外にいたはずのザクが一気に懐まで飛び込んでくる、無拍子で繰り出される剣閃は見た事もない速さで彼のマチェットと火花を散らす。機体の持つポテンシャルではなく下半身と腰を連動して動かす上半身のねじれによって振られる右手は、早い。
「うおっ! 」そのサーベルに乗せられた全体重が彼の体をのけぞらせ、今度は腰のひねりを逃すために回った上半身が下肢を捩って加速をかける。振り上げた左足がまるで鞭のようにしなってクゥエルの側頭部へと直撃した。衝撃で砕け散るバイザー、むき出しになったカメラがフォーカスモータを駆使して敵の姿を追いかける。
「ちっ、こんな動きが骨董品にできるとはなっ! 」パワーをミリタリーにまで上げたガザエフが残心途中のアデリアに向かって剣を振る、しかしそんな腰の引けた剣撃でこの鬼を仕留める事などできない。遅れてきた左手でマチェットの平を叩かれたガザエフが上半身をぐらつかせると、一回りしてさらに加速した右手のサーベルが横薙ぎに襲いかかる。
 クゥエルの足裏のサスが跳ねて間一髪のところでそれを躱したガザエフだが、劣勢であることを自覚したうえでもその表情には絶えず嗤いが張り付いている。
「やるな鬼姫っ! それでこそだっ! 」大きく吠えたガザエフがマチェットを逆手に握り直して腰だめに構えた。一見逆手持ちは自分と相手との間合いを縮めるために危険と思われがちだが近接戦闘が得意な相手には特に有効な戦術だ、敵の攻撃を受けるのは刃の側であり、受けイコール攻撃へと直結する。
 
 なにそれ。
 能面のアデリアがモニターに映ったクゥエルを見て唇だけで呟いた。コックピットの中はすでに各関節のストレスが限界を示すアラートで姦しく、しかもニナの作ったOSまでもが常識外れの機動に警告を示している。だが何も響かない。
 油圧を落としたのはそうした方がいいと思ったから・関節を動かしたのはそうした方がいいと思ったから・腰のひねりも後ろ回し蹴りも相手の武器を叩いたのも。
 全部そうしたほうがいいと思ったから。
 時折こみ上げてくるどうしようもないなにかが口をついて飛び出してくる・はきださないとどうにかなっておかしくなりそう・くるしいのかきもちいいのかもわからない・どうしていいのかも何もかも。
 ただ。
 あいつは。
 あいつだけはこわしてしまいたい。

 再びゆらゆらと肩を揺らしながら動き出したザクを見ながらガザエフは徐々にセッティングを変えている、いくつもの摘みを動かしてモーターの負荷を高速側にシフトして再び真見えるための準備。パワーは落ちるが全ての機動力を限界以上に高めて相手の攻撃を速度で上回る、受けに弱いそのセットは全部この日のために彼が用意してあった奥の手だ。
 モーターコンプレッサーのマグネットクラッチがカチカチと作動してセットが変わり各関節のバランスが不安定になる、揺れてどうしようもなくなる機体。だがこの不安定さがすなわちこの戦いの鍵となる。不安定であるが故に生まれる反作用は返しの速度を各段にあげる、それはカウンターを取った時に自分の攻撃が相手の攻撃を上乗せして放たれるという事だ、パワーはそれで補える。
 
 ゴウ、という音が夜闇に響いてザクの体が跳ねるように飛んでくる。今度は歩法ではなく推進剤を使っての間合い潰しにガザエフはぶれたように一歩下がって着地を狙うが、それを読んでいたかのように降下途中のザクはバーニアの二度噴きで距離を伸ばした。袈裟がけに振り下ろされる彼女のサーベルを逆手の刃で受け止め、その勢いを上乗せして反発した右腕ごと刃を滑らせてザクの顔面を狙う。
 さすがのアデリアも首の関節までルーズにはできない、無意識に首を振ったその脇を掠めたマチェットが動力パイプに食い込んでオイルを噴き出させる。だが狙い通りとほくそ笑んだガザエフの心の隙を突くようにアデリアの左掌底がクゥエルの操縦席を直撃した。装甲板を叩く轟音とともに芯に入った衝撃波が機能のいくつかの息の根を止める。
「! 器用な奴だ、そんな事をする奴は初めて見たっ! 」
 一筋縄ではいかぬ返礼にガザエフは再び距離を取った。恐らくショートレンジでの攻防は自分にとって分が悪く、アウトレンジで攻めるには手持ちがない。そうなるとミドルレンジでの攻防という事になるのだが果たして主導権が握れるや否や?

 ダメージレポートが大騒ぎをしながら自機の損傷が深刻なものであることをパイロットへと伝えるが彼女の反応はひどく無機質なものだ。モニターを一瞥した途端に起こしたアクションは流体チューブの損傷に繋がるバルブを遮断して油圧の低下を防ぎ、他の個所に影響が及ばないようにする ―― ただ、それだけ。
 対応自体には何の問題もなく教科書通りで士官学校や訓練で教わるものではあるがここでの処置は間違っている。実戦経験のない彼女と何度も死地を乗り越えたマークスとの差がここで如実に出た。
 ザクの両頬に取り付けられた動力パイプは誰の目にも明らかな機体の弱点だ、そこを破壊されればこの巨大な機動兵器は徐々に駆動力を失っていく。士官学校で教わるその際の措置はあくまで後退するために必要最低限のもので決して継戦のために取られるものではない、動脈を傷つけられた剣士が傷口ごと手足を縛って戦っているようなものなのだ。
 もしアデリアが冷静な判断 ―― 演習においてはそれは彼女の役目だった ―― ができていればもっと他の事を考えていただろう。例えばバルブを完全に遮断せずに流量を調整してそれ以上の機動力の低下を防ぐとか、もっと有効な対策を思いついて実践したに違いない。しかし。
 今のアデリアに、理性はない。
 本能のままに動き、操る ―― 稀有な才能を磨きあげられ、それをサポートする随一のOSを搭載した二つ名持ちは過去に同じ事態に陥った幾人かの先人と同じ道を歩み始めようとしていた。

                    *                    *                    *

 目の前で起こった爆発の凄さに砲雷長として幾度もジオンと砲火を交えたグレゴリーも驚きを隠せない、もうもうと黒煙を吐き出し続けるセラーの出入り口をあっけに取られて眺めながら声もない。そしてそれはヤードで立てこもっていた基地の生き残りの者達も同様だった。あまりの衝撃に何が起こったのかと次々にグレゴリーの後ろへと集まっては感嘆のため息を漏らす。
「しかしなんというか …… 俺たち以上に危険な仕事はないと思っていたが主計業務も侮れんな」我を取り戻したグレゴリーが思わず感想を呟きながら辺りを見渡すとそこには砲雷科の面々が集まっている、殲滅戦の最後の締めくくりに満足そうな笑顔を浮かべた彼らの後ろから果たして諭すように冷静な男の声が投げかけられた。
「まだまだ油断はするなよ? 今の奴らの姿は侮ったが故の必然だ、いつそれが俺たちの身に降りかからんとも限らん」
「機関長は慎重ですね、だーいじょうぶ。これだけの爆発の中で生き残ってる奴なんて ―― 」脇に立っていた男が軽口を叩きながら背後で銃を構えるキャンベルの方を振り向くと突然グレゴリーがその男の前に腕を差し出した。勢いよく飛んできた小さなナイフが彼の無骨な掌を貫通して切っ先が手の甲から生え出る。

 顔中が壊れそうな狂った笑いを張り付けたブージャム1が自分の投じた暗器の顛末に額を押さえて高笑った。「あひゃひゃひゃっ、残念。せめてもう一人くらいは道連れにと思ったんだがなぁっ! 」セラーの出口から黒煙を纏ってふらふらと出てきた彼は全身血まみれでくまなくズタボロだ、だが。
「 ―― 貴様、部下を盾に使いやがったな? 」
 大きく深呼吸したグレゴリーが怒りの趣くままに掌からナイフを引き抜いて地面へと放り投げる。死ぬ最後の瞬間まで生存の可能性を探し求めるという事はすなわち助けようとする側も同じこと、ヘンケンの部下として長く勤めてきた彼にとって仲間や部下を蔑にするなど禁忌中の禁忌だ。その決断が下せるのは自分にとって二人しかいない。
「俺はついてたぜぇ、もうだめだーって思った瞬間にどっかのバカがボロボロになって走ってきやがってな。俺の体を掴んで外に出やがろうとしやがるから俺は奴の首に手を回して、こう」背後から裸締めの要領で手を組みながら嬉しそうに状況を再現する様を軽蔑して睨みつける一同。
「と、いうわけで部隊は俺一人になっちまって助けも呼べねえ。どちらにせよ死ぬことに変わりないんならせめて一人でも旅の道連れにしようと思ってよ」そう言うと彼は血まみれの手に握られたククリを目の前へと翳しながら凄惨な笑みを浮かべた。
「いいぜえ、旅。誰か俺と一緒にお花畑見ながら川下りを楽しんでくれる奴はいねえかぁ? なんならそこでおとなしくしてくれンなら一人づつ楽ーに逝かせてやるぜぇ? ここの基地司令みたくひどくはしねえから ―― 」

「ウェブナーを殺ったのはそいつか、砲雷長? 」

 彼らの背後にいつの間にかヘンケンとセシルが立っていた。

 部下を率いる立場として同じ立ち位置にいるブージャム1はその声と自分と対峙する敵との反応で、その持ち主が彼らの最上位にいる者だと分かった。「おお、奴のほかにまだお偉いさんがいるとはなぁ。こんなだらしない恰好で申し訳ねえ、WWW中隊特殊作戦群中佐、ロド ―― 」
「特殊部隊が名など名乗るな、俺も仇に教える名などない」一喝したヘンケンがセシルを前にキャンベル達が開いた道から前へと歩み出る。すぐさま両脇に展開した小銃の銃口を一瞥しながらブージャム1はにやけ面を持ち上げた。「ははあ、『仇』 …… あんたと奴はとっても大事な仲間同士だったってわけだ。くっだらねえなぁ」
 心の底から軽蔑するようにケタケタと笑う彼を前に殺意の壁が取り囲み、静かに上げられたセシルの手がそれを済んでのところで押しとどめる。「仲間ァ? 部下ぁ? そんな物ァ自分のための道具だ、役に立たなきゃ捨てっちまえばいくらでも代わりなんかあるじゃねえか。そんなおままごとみたいなぬるま湯にどっぷりと肩までつかっちまってるからあんな裏切り者が出ちまうってわっかんンねえか? 」
「だがお前はその『おままごと』の連中に、負けた。そしてお前も今ここで死ぬ」銃を構えたキャンベルがヘンケンを代弁するかのように宣告しながらセシルの合図を待つ、横目で見た彼女の表情はひどく落ち着いているように見えるがあげた右手だけがもう待ちきれないとばかりにぶるぶると震えている。

「なあ、セシル」
 後ろからかけられた静かな声に彼女の震えが止まった。あまりにも不吉な予感に思わず後ろを振り返った彼女の視界に腕組みをしたまま目を閉じていた彼がゆっくりと瞼を開く光景が映る、冥府の底からこみ上げてくるような憤怒を声に滾らせながらその猛獣は彼女に問いかけた。
「もう ―― 我慢しなくっても、いいよなぁっッ!! 」

 隣で掌の治療を受けているグレゴリーですらたじろぐほどの殺意の熱はそこに居合わせたブージャム1をセシルを除くすべての人間の心を震え上がらせる。唇をギュッと噛みしめたセシルが周囲へと視線を送ると処刑のために構えられていた銃が戸惑いの声とともに一斉に下を向き、彼女の脇から両腕を解いたヘンケンがずい、と前へ進み出た。
「だめだっ! 艦ちょ ―― 」思わず制止の声を上げたグレゴリーを蒼ざめたセシルの手が押しとどめ、爪が掌に食い込むほどきつく握りしめられた拳に変わる。万が一の時のために下す決断に躊躇をしない、それが彼女の覚悟の表れ。
「ほっ、あんた物好きだナァ? こんな死に損ないの趣味につき合ったっていい事ァねえってのに、わざわざ道連れを選ぶたぁ …… ま、せっかく名乗り出たんだ、じっくりと楽しませてもらうぜぇ」
 死を覚悟した今のブージャム1にはどんな威嚇も恫喝も通用しない、享楽の笑顔で最後の舞台へと降り立った彼は怪我の痛みも感じさせない動きで一本のククリを左右の手でもてあそんだ。「さあ殺ろうぜ、あんたの武器はなんだ? ナイフか銃か、どっちを選んだ所であんたが俺と一緒に死ぬ事には変わりねえ」
「どっちもいらん、お前を殺すのに ―― 」そう言うとヘンケンは左腕を軽く前に出して右半身の構えを取った。徒手近接格闘術でもっとも一般的に使われる基本形。
「 ―― 武器など必要ない、この体だけで …… 十分だ」

 氷のような緊張の中で対照的な表情の二人が一足長の距離で対峙したまま動かない、固唾をのんで見守る彼らの誰かがこらえきれずに瞬きをしたその時、光が動いた。短い吐息と共に繰り出される刃物の切っ先が相手との距離を測るために差し出された左手首に向かって奔る ―― 避けようと手を引けばさらに間合いを詰めて体の各部にある急所を狙う算段。
 だが彼の予想に反してヘンケンは間合いを詰めて刃の軌道の内側へと左手を差し込んだ。くの字に曲がった刃が届く前に彼の手の甲がブージャム1の手に触れ、返す手首が魔法のように切っ先の向きを遠ざける。勢い余ったブージャム1の左手が牽制のための中段突きを狙うがそれを右手のひらで抑え込んだヘンケンは大きく右足を踏み込んで肩口から1の胸へと当て身をくれた。
 震脚からの靠撃コウゲキ ―― 遥か大昔の中国、呉鐘が起こした『槍神』八極拳の一。跳ね返されたブージャム1の体が毬のように後ろへと吹き飛ぶ。
 背中から床に叩きつけられたブージャム1は胸に手を当てて苦しそうな息を吐きながら呟いた。「な、なるほど。中国拳法の使い手かよぉ、それじゃあ武器はいらんわな」それでもすぐに上体を起こしてニヤリと笑う男にヘンケンが言った。「肺を片方潰してまだ喋れるのか、あきれた耐久力だな」
「残念だがこれを着込んでるんでな」ボロボロの上着を引き千切って中身をさらけ出すとアラミド繊維で織られた防弾チョッキが顔を出す。「これのおかげで打撃も銃も俺には効かねぇ、確実に殺すにゃここ」そう言うとククリの先端でコツコツとこめかみを指示した。「 ―― やられるまでにあんたを含めて何人友達できるかナ? 」
「そうか」無表情に答えたヘンケンが再び構えをとって男が立ちあがるのを待つ。「せっかくのチャンス、追い撃ちもかけないとは随分と自信ありげな大将だ ―― その余裕がいつまでもつかな? 」背後に隠してあった小型のナイフを左手で抜いて二刀の構えをとるブージャム1、どちらの手でも致命を狙える備えに慌てて銃を構える幾人か。
「やめなさい」
 セシルは厳しい声で彼らを制するとその眼を彼の背中へと戻した。「まだ艦長が戦っています、指示があるまで手出しは許しません」

 ブージャム1の両手にある得物を見たヘンケンの構えが変わった。今度は右手を逆手に前へと突きだして左手は添えるように肘の傍へ、右脚を引いてはいるが上半身は男に正対する。
「さあ懺悔の時間だ、準備はいいか? 」
「 ―― なんの準備ッ」吐き捨てながら一足飛びに近付いた男の両手が宙を舞う、旋風のように閃く両手の刃は不規則なようでいて隙間がない。体幹移動と筋肉のしなりを組み合わせて敵を切り刻む決死の技だ、歩法と防御技術を駆使して躱すヘンケンだがその嵐を前に無傷とはいかない。まるで削られるように少しづつ切創が上半身に刻まれ、よけきれなかった頬に開いた傷から一筋の血が流れ落ちる。
「あひゃひゃひゃっッッ!! どうしたどうした『艦長』殿ッ!? 手も足もでねえようだなぁ、そんなんじゃあ懺悔じゃなくってあんたが後悔する時間になっちまうぜぇっ! さっさと部下を盾にしてこのクソ殺しちまえばよかったってなぁっ! だいたい拳法ごときで俺のヤッパに立ち向かおうってのがそもそもの ―― 」
「 ―― 見切った」

 敵の刃の嵐に両腕を差し込むヘンケンを見て周りを取り囲む全員が悲鳴を上げた。一瞬であれだけの手傷を負わせる敵の技のただ中に踏み込むなど正気の沙汰とも思えない、誰もが心の中の信用を失い悲劇の結末を予感させる彼の行動。だが次の瞬間ブージャム1も含めた彼らは信じられないものを目にした。
“ な、なんだこいつっ! どうして ―― ”
 その光景を間近で見たブージャム1が心の中で最も驚きの声を上げた。構えられていた右手が間合いに入った途端に生き物のように自在に動いて左右の手の動きを巧みに封じ、それに連動した左手が刃の方向をあさっての方へと向け続ける。それは回数を重ねるごとに乱れて自身ですら制御できない。
 琉球空手。首里手しゅりてと呼ばれる系統に伝承される内歩進ナイファンチからの『夫婦手めおとて』はとくに攻防一体の技とされ、そこを起点として世界中の徒手格闘技に様々な形で伝播を果たした独特の技。
「くそおッ! このいかさま野郎がぁっ! 」業を煮やしたブージャム1がわずかに間合いを外してヘンケンの手癖から逃れる。このまま続ければ制御不能になった自分のククリがいつ自分に刃を向けるかもわからない、手数がダメなら威力で敵を制圧するのが最も有効な戦術だ。そして彼のこの選択は正しい。
 ただそれに頼るにはあまりにも心が乱れていた。冷静さを失った刃は柔軟性を欠き、余分な力が速度を殺す。そしてそれはヘンケン自身が彼に仕掛けた罠でもあった。苦し紛れに差し出した右手のククリを上体の振りだけで躱したヘンケンが彼の腕を掴んで上半身を捻ると腰に乗ったブージャム1の体がふわりと宙へと浮き上がる。
 それはオベリスクの根元で彼がマークスにかけた柔道の技であった。
 
 突然に起きた視界の変化にブージャム1の思考がついていかない、情報量の変化はそれを解析するためにいくらかの時間を必要とする。それはいくら訓練を受けているとしても人間という生き物を名乗るならば誰でも同じだ。左手のナイフを密着した相手に刺す事も忘れて、彼はその景色がどうして起こったのかについての理由を頭の中で解き明かそうと躍起になる。
“ どういう事だ、なんで、おれ ―― ” 逆さになってる?
「 ―― 向こうで 」耳元で響いた敵の声でやっと自分の体が投げられている事に気づき、左手のナイフを使おうと頭の中で命令を発した途端にがくんと目の前が大きく揺れた。
「 ―― あいつに土下座して、あやまれ」



[32711] last resort
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2022/11/11 00:02
「ちくしょう、今度はどこだっ!? 」電源の落ちたコックピットでパネルを拳で叩いて悔しがるキースは再び整備班から示された手書きのマニュアルを見ながら再起動へと逆戻りする。彼らからの指示は的確でとてもシミュレーションなしに組み立てた物とは思えないほど簡潔にまとめられている、だがモウラが最後に言った注意点の中の一節だけがどうしても解消しきれない。
 元々機体の電源が落ちた時に全部のセッティングを初期化する『ショット・オフ機構』は大戦後期のモビルスーツからジオン・連邦の双方で採用され始めた仕組みだ。重篤な損傷を受けた際に熱核炉の暴走を防ぐために考えられた最終安全装置MVBは戦域での核汚染を格段に減少させるという効果を得た、実際にコウが今操っているフュンフでも電源が喪失した際に全てのスイッチが元の位置へと戻っている。
 だがキースが使用したオークリー唯一のジムはできる限りのバージョンアップが施されてはいるが基本的には初期型で、当然そんな便利な物が装備されているはずがない。加えて至近距離で受けた爆発による電磁波の影響で通電を示すLEDのほとんどは断線している。
「くっそお、全部手探りかよぉっ! 」
 幸いな事に連邦軍の機体はパイロットの相互互換をスムーズに行うためにスイッチの配置はほぼ同じだが、経験と記憶を頼りに全てのトグルを元に戻したつもりでも真っ暗なコックピットの中ではどうしても見落としが起こる。平時に開発される航空機や船舶のように一列に配置されていない戦時下の急造仕上げの仕様は彼にとんでもない試練を与えたようだ。
「これで無事生き延びられたら絶対上層部に意見書と改善要求送りつけてやるっ、だめなら組合作って労働争議モンだっ! 」
 愚痴りながらも手を休めないキースが今夜何度目かの砲撃音を耳にし、その度にコウとニナの無事を案じている。間隔が短くなっているのは敵が少しづつフュンフの動きを捉え始めたか、それとも策を講じて罠へと誘い込んでる最中か。
「あっせンな ―― 焦んなよキース。とにかく今は」
 自分に言い聞かせるように呟いた彼の手がいくつ目かのエラーを見つけて閉じてからOSの起動スイッチを押しこんだ。「こいつを何とか動かさないと」

                    *                    *                      *

 かつてその技に名などなく。
 日本最古の武術と言われる竹内流から端を発した鎧組討よろいくみうちは甲冑に守られた敵をいかにして仕留めるかに特化した殺人術、やがてその技は悠久の時を経て嘉納治五郎という一人の男の手により「一本背負い」という名を与えられて人々の袂に伝播を果たした。
 だが「弾み」によって勝ち負けを決めるはずのその技と、この男から繰り出されたものは全く違う。
 それは技にかかったブージャム1が一番よくわかる、死に体になった体をどうにかしなければと踠いた瞬間に走る痺れと激痛は一瞬で彼を技のくびきに取り込んだ。肩から先の関節を全て逆に極められた自分にここから逃れるすべはなく、しかも両膝を地面につけたその高さは自分に受け身を取らせないという決殺の意志。
 中国拳法と空手 ―― そして柔術に似た殺人技。
 異なる三つの格闘技を組み合わせて使うこの男の本性、地面に叩きつけられる刹那にブージャム1はその格闘技の名に思い当たった、そして自分は絶対にこの男と戦ってはいけなかったという後悔とともに。

 クラヴ・マガ。
 20世紀という戦火に溢れる時代の前半にイスラエルという小国で生まれた徒手近接格闘技。ユダヤ人であるイミ・リヒテンフェルドによって創始されたこの技は主に護身術のしての性格を色濃く持つがただ一つ、他の近接格闘術とは違う側面を有している。
 それはこの格闘技自体が常に進化を続けているという事。
 自らが割り込む形で国を勃興したイスラエルにとって周囲を敵に囲まれたその土地を維持していくのは容易な事ではない、幾度も血で血を洗う戦争に立ち向かいながら数多の戦略と外交を駆使して難を逃れ続ける彼の国はいつしか強大な軍事国家を名乗りカナンの王として君臨し続けた。だがそれで周辺の脅威が収まったという事ではない、彼らは彼らの国を守るためにさらなる努力と犠牲を払い続けなければならない。
 そんな中で誕生したクラヴ・マガという格闘技は軍隊のみならず広く民衆の中にも浸透していった。兵の総数ではるかに劣る自らの国が他国に蹂躙された時に国民を総動員して対応できるシステム ―― それはイスラエルという国家において必要かつ不可欠な仕組みともいえる。
 その中で考え出された戦略の一つとして「兵役を終えた兵士の海外赴任」のシステムが存在する。任期を終えた彼らを世界中に派遣して各国の文化や科学・武道を必ず一つ修めて帰国するという特殊任務でもちろん赴任先は世界中に散らばり大使館の次に治外法権が認められた「ユダヤ教会」。使用人として登録された彼らは定められた任期の間に各国の格闘技や最新技術を習得して本国へと帰国し、その知識を様々な開発に役立てるという役割を持つ。
 世界中の武道や格闘技が常に融合していく戦闘術、それは決して表に出せるような性質のものではない ―― なぜなら。
 ―― 古武道と同じく、それは人の命を奪うためだけに進化したものだから。

 頭蓋の砕けるいやな音が周囲に響いて頭部が半分に縮んだブージャム1の体が逆さに直立し、全身を冒す死の痙攣が両腕に掴んだままの凶器をふるい落として乾いた音を立てるまでヘンケンは投げの姿勢を崩さない。やがて全身の力がほどけて下半身がぐらりと倒れる力に任せて構えを解いたヘンケンは横たわったブージャム1の亡骸を一瞥すると、まるで体の奥の憑きものを祓うかのように大きな吐息を一つ吐き出して静かに目を閉じた。
「キャンベル、すまんが」
 彼の呼びかけを予想していたキャンベルがすでに聖書を片手に傍へと歩み寄っている、顔の下半分を不気味な笑みで埋めた死体の傍で詠唱を始めた即席牧師に背を向けたヘンケンは後ろで穏やかな表情で立つセシルと向き合った。
「 ―― 気が済まれましたか? 」
 静かにそう問いかける彼女に向かって頷こうとした瞬間、突然セシルの右手がヘンケンの左頬を思い切り張って振り抜いた。今しがた人一人を素手で葬るという絶技を披露した達人に向かっての暴挙に一同は息を呑み動きを止める。
「もう二度と」
 俯き加減でわなわなと震える手を握りしめた彼女が声を絞り出した。「 ―― こんな事は許しません、すくなくとも私の目の黒いうちは」
「 ―― すまなかった、副長」そう言うとヘンケンは彼女の肩に手を置いて小さく頭を下げた。「俺のわがままにつきあわせて」

 その通信は丁度セシルがヘンケンの頬に開いた傷に絆創膏を貼ろうかという時だった。切迫したニナがコールサインを呼ぶ声を耳にしたセシルはすぐに手を止めて携帯を開いた。「こちらバンディッド、01どうしました? 」
「 “ 01からバンディッド、今動けますか? ” 」なんとも奇妙な問いかけに通信を聞いた一同が一様に首をかしげる、正面に座ったままのヘンケンへと視線を送った彼女は彼が頷くと同時に言葉を返した。「こちらの作戦は無事終了しました、あとはモビルスーツ隊の帰還を待ってここから脱出する手筈を整えるだけですが」
「 “ ―― お願いがあります …… 今から機体を滑走路南端の任意の位置で駐機します、その際敵機から少しでも姿を隠すための手段を講じていただきたいのです ” 」
「01、君は何を言っている? 今そちらは戦闘の真っただ中にいるはずだ、一体何事だ? 」慌てたヘンケンが自分の携帯で会話に割り込む、だがその声に応えたのはニナではなくコウの方だった。「 “ 01からバンディッド、現在当機の形勢は極めて不利、この局面を打開するための手段として技術主任と02の提案を戦隊長である自分が承認しました。どうかご協力願います ” 」
 苦しげな呼吸を繰り返しながらもはっきりとした口調で返答する彼の言葉に嘘偽りは感じられない、それにセシルは彼が言った文言の一節に意識を止めた。「01、今『02』と言いましたか? その作戦にキース中尉も一枚噛んでいると? 」
「 “ 肯定です、彼は現在南側の山頂で敵タンクを狙撃するための最終調整に入りました。ですが確実に狙いを定めるために測的レーザーを使わせる必要があるとの事、自分が囮となってタンクがそれを使った瞬間に02が目標を撃破します ” 」
「随分と切羽詰まった戦術ですが、確かに。現状タンクの破壊手段として最も確率の高いものではありますね …… 了解しました。うまくいくかは分かりませんがとりあえずこちらで必要な手段を考えます、それで身を隠す時間は10秒、それとも20秒? 」
「 “ バンディッド、敵から身を隠す時間は最低でも約1分 ” 」ニナの告げたその言葉に周囲が大きくざわめいた。戦場の真っただ中で味方の援護もなく、ただの真っ平らな開けた場所に1分間も静止するなど自殺行為だ。「01、今『1分』と言いましたか? 敵のレーザー照射にそれほど時間はかからないと ―― 」
「 “ 今からやろうとする事にどうしてもその時間が必要なんです。その間に ―― ” 」

 敵の戦術が変わった事にコウとニナは気づいている。渦の中心へと誘うように遠目から牽制射撃を繰り返す二機のジムを近接レーダーで捉えながら、それでもこの螺旋から逃げ出すのは至難の業だ。しかも刻々と次のタイムリミットの時間が迫りつつある。強烈な横Gに体を翻弄されながらニナは強い口調で言った。
「あたしがフュンフこの子のプログラムを全部書き換えます」

                    *                    *                    *

 ニナの指示によって遮蔽物へと身を隠しながらその時をやり過ごすコウの身にあの時のような意識障害は起こらない、だがその事が徐々に状況を悪化させている事に二人は気づいていた。三度目を回避した後の四回目、ニナが再び指示を与えようとした瞬間に突然フュンフは信地旋回のままコウのコントロールを離れてそのまま廃墟と化した兵員宿舎の壁へと激突した。
「! きゃあっ!? 」
 モニターに映った瓦礫の破片と体を襲う衝撃に思わず目を閉じて自分の計算ミスの原因を追求するニナ。どうして? ちゃんと時間は余裕を持って計っていたのにっ!
「コウっ!? しっかりして、コウっ! 」ベルトのバックルに手をかけて外そうとした瞬間に鳴り響く接近警報と銃声、至近弾とともに何発かがフュンフの装甲をガンガンと叩く。恐怖に目を硬く閉じて全身を強張らせたその時、機体は突然跳ね上がって元の起動を取り戻す、しかもあろうことかその進路は真っすぐに射線の根元を目指している。
「シートから離れるなっ、これから一機墜とすっ! 」せき込みながら叫ぶコウの声が尋常じゃない。シートの脇から見える景色が線のように見えるのは対地速度がすでにマックスに近い証拠でテレメトリーは時速300を超えている、彼我の距離を一瞬で詰めようとするフュンフに向かってばらまかれるマシンガン。
「!? だめだっ! 」毒づいたコウが軸をずらして針路を変えた瞬間に足元で炸裂する徹甲弾が滑走路の破片と火花を散らして二機との間に見えない防壁を瞬く間に築き上げ、振り向いた次の瞬間にはもう相手は体勢を整えている。付け入る隙を失ったコウは再びペダルを踏み込んで背を向けながら加速する。
「くそっ、とにかくあの重砲をなんとかしないとこのままじゃ敵の罠にはまるっ、どうしたらいいんだっ!? 」
 一定の距離を保ちながら追走を続ける二機のジムの動きが変わった事は知っている、そこに何らかの意図がある事は明らかだ。だがそれが分かった所で今の自分には逃げるしか手段がない、仕掛けられた罠を食い破る為の繊細な動きも機動力も十全に発揮できない事には。
 でも ―― それでも。
 一度でもその胸にウイングマークを刺した者が選り好みなど許されない、それが初めて乗る機体でもポンコツだったとしてもそのポテンシャルをすべて出し切って敵に挑むのがパイロットという人種の宿命。だからどんな状況に陥っても自分はその思い一つでどんな相手とも向き合ってきたじゃないか。
 やるんだ、コウ。
 たとえこの機体と自分の間に埋めようのない大きな溝があったとしても。

 どうしても打開できない状況にニナの頭は混乱している、ただ一つはっきりしているのはこのままじゃいずれは何もできなくなるという事だけだ。“ なぜ時間が短くなったの? ドクが言っていた『10分間に3度』というのはもしかしてランダムに起こるという事なの? ”
 では意識喪失がランダムに起こるというには必ず因果関係があるはずだ、もっとも考えられるのは戦場でパイロットが直面する状況の変化。“ 戦場での状況の変化で一番の要因は接敵の有無、敵が現れればそれだけで誰でも昂奮する ―― アドレナリンの分泌量が上がるわ …… でも ”
 敵がのべつ幕なしに現われるなんてよほど濃密な戦域でなければ ―― たとえば今では『セイレーン宙域』と呼ばれる紛争最後の激戦域でもなければ考えられない。少なくともこうして逃げているだけならそれほど分泌は上がらないはずなのだ。“ シミュレーションはあくまで戦闘を主眼に置いてプログラムされるものだからアドレナリンが増加してそうなってしまうというのはわかるわ、でも今は圧倒的な機動力で敵から距離を離していて、時には身を隠す時間を作ることさえできている。いくらリアルな戦場とはいえ同じ現象が起こるという事は考えにくい ”
 では、何だ? 
 コウのアドレナリンを常に吐き出させる原因とは一体?

 ラップトップのモニターをぼんやりと眺めながら一人考えるニナ、その間にも画面は絶えずエラーの文字を打ち込み続けている。一秒間に何度も微調整と再入力を繰り返しながらこれだけの高機動を続けるのは至難の技で、自分が知る限りコウ以外には見た事もない。
“ 一秒の間にこれだけコマンドを入れ直すなんてやっぱり彼はすごい、もし他のテストパイロットだったらそれだけでもストレスで訴えられる所だわ ―― ”
 
“ ―― 私今 …… ” 「 …… なんて、言った? 」

 まるで閃光。
 その文言はまるで天の啓示であるかのようにニナの脳裏に焼き付いたまま離れない。そして唇から零れた心の声が彼女の深思考に拍車をかける。
“ ストレス …… ストレスっ! そうだ、それならばアドレナリンの量が二つの違った状況で発生する事もつじつまが合う。じゃあそのストレスの原因は ―― ”
 まるで溢れそうになっていた澱みが堰を切って流れ出すかのように考えが一つにまとまっていく。“ 自分の思い通りにモビルスーツが動かないこと、じゃあそれが治れば彼が今抱えている問題は解消される。でも、どうやって? ”
 モビルスーツに搭載されている統合AIの仕組みはジオン・連邦そしてシミュレーター共に、いくつかの違いはあるがほぼ変わりない。加えてアビオニクスも同様、ではコウのストレスの原因は絶対に解消されない事になるのだが。
“ かんがえて、考えてっニナっ! 絶対にそこに何か答えがあるはずなのよ、もうすぐそこまで出かかってる、なにかあたしの見落としているものがきっと ―― ”

                     *                    *                    *

 コウはその答えに最初から気づいていた。この機体と自分の間にある致命的な障害。
 それはこの機体が「エギーユ・デラーズ」のものであったが故の不具合が起こっているという事。メモリに残っているデータは恐らくこれに何度か乗ったであろう彼の機動記録で、モビルスーツを動かすために必要な起動ディスクから送り込まれたそれらはある大事な役目を果たしている。
『普通の』起動ディスクと統合AIには相互の認証コードがありパイロットが操縦する際にはメモリに残された記録と照合して動きを決定する、もしその時に矛盾や不備が発生した際にはAIは即座にパイロットからのコマンドをキャンセルして再入力を命じる。当然そこにはパイロット側に著しい負担とコマンドタイムラグが生じることになり、いわゆるそれが他人がやすやすと機体を持ち出せない『縛り』にもなっていた。星一号の際にこの機体に乗り込もうとしたガトーをデラーズが止めた事、予備役のパイロットに対して汎用の起動ディスクが用意されている事、そして今現在コウがコントロールに苦しんでいる事も全てそれが原因だ。
 ではどうすればいいか? 答えは明確だ。アビオニクスの封印が解けた今それを書き換える事は可能、だが不可能。
 実行するためには起動ディスクを抜いてアビオニクスを停止させ、中に残っている彼の記憶を全て消すか書き換えるかしなければならない。そして今となっては全て手遅れ、自分にそんな技術も時間もない。せめてこの機体に最後に乗り込んだパイロットがエースクラスであったのならばここまで操作に苦しむこともなかったのだが、事ここに至っては。
 突然の事態に手段を選べず無理やり動かした事で支払う代償はあまりに大きく、ニナに先んじて感覚でその事を理解したコウは勝ちを握るための大きな可能性を失ってしまった ―― だから何としてでも彼はこの機体で、この状態のまま最後まで戦い抜かなくてはならない。
 ひたひたと背後に迫る黒い殺意にこの身を全て委ねてしまったとしても。

 青い瞳が足元の暗闇を見つめて右の手が胸元を目指す。パイロットスーツに隠された胸のポケット、明らかに異質な固い物は命懸けで自分が守り続けてきた、絆。
 触れた瞬間に彼女の指は小さく震えてその感触を確かめる、偶然だと思っていた事が実は全ては必然だったという思いがけない一致にそこに繋がる全ての記憶が蘇る。
 初めて乗り込んだフュンフのコックピット、目の前に置かれたアナハイム製の旧式のアビオニクス ―― そして。
 最近ではすっかり見なくなっていた大きめの起動ディスクの、スロット。

「 “ コウ、聞こえる? ” 」
「聞こえてる」
「 “  …… あたしのこと、しんじる? ” 」
「急にそんなこと …… そうだな、もしかしたら ―― 」
 なにかを思い出すように一拍の間。

「 “ …… アルビオンで最初に出会ったその時 ―― 君にすごい剣幕で叱られた時から俺は君を信じてた …… そんな気がする ” 」
「お願いがあるの」最悪の二人の出会いを思い出しながらニナがそれ以上の言葉を遮った。彼の口から告げられた本当の気持ち ―― あたしもそう。

「 “ 今からどこでもいい、敵との交戦を1分間だけ避けれる所を考えて。その間にあたしがこの子を全部書き換える ” 」

 その言葉には何のためらいもなく。
 コウの心に湧き上がる様々な疑問を封じ込めるだけの言霊がそこにはある、彼が何日もかかってやっと中途半端な代物しかできない事を一分間でできると、彼女が言えばそう。でも。
「一分間でどうやって? いくら君でも機体のプログラムを全部書き換えるなんて ―― 」
「 “ あなたに、黙っていた事があるの ” 」

 ニナはパイロットスーツの胸元を開けると懐へと手を差し込んでそっとそれを包みこんだ。「あなたが最後に使った起動ディスク ―― 三号機のものをあたしが持っている」

 その告白はコウを十分に驚かせた。あまりの事に狼狽した両手両足がフュンフのコントロールを狂わせて猛スピードで滑走路のフェンスへと突っ込ませそうになる、あわやの所で何とか回避したコウはらち沿いに機体を走らせてそのまま元の回避行動へと復航する。
「なぜ君が …… どうして? 」
「 “ シナプス艦長の奥様がある日突然基地にいらっしゃって、あたしにこれを ―― 艦長からの遺言だそうよ ” 」
 同じ日に軍事法廷で裁かれた彼と自分、罪の重さで言えば遥かに自分の方が重いはずなのに彼は処刑されて自分は無罪放免となった、その理不尽。だがこの世に存在してはならないあの日の唯一の証拠をどうして艦長が ―― そして家族を巻き込んでまで命懸けでニナに託した?
「 “ このディスクの規格は多分この子に使える、だから一度アビオニクスを初期化してこのディスクの内容を読みこませる。もちろんプログラム自体は全く違う機体の物だからデバッグはしなきゃだけど基本的な部分にまでは手をつけなくてもいい、だから1分 ” 」
 それが一体どういう結果を生むのか? だが恐らくニナと自分の考えている事が同じならば間違いなく操作性の改善は絶対だ ―― いやそれどころではない、名実ともに自分はあの日に立ち返ることになる。
 自分が知らぬ間に二つ名を得た、あの戦域に。

 コウが自分の意志を伝えようと口を開いたその時突然耳元の携帯が緊急回線での通話を知らせる、開いた赤いホログラムには忘れる事のできない友人の携帯番号が表示されていた。

                    *                    *                     *

 十何度目かのトライでやっとアビオニクスをセーフモードで立ち上げることができたキースは、自分の根気強さを称賛する事もなく喜ぶ暇も忘れて次の作業へと移った。急いで外に飛び出してバンパイアのメインユニットへと取り付くとすぐにサイドカバーをレンチでこじ開けて中を露出する、端子で繋がれた四個のバッテリーはいずれも巨大な物だ。感電しないように手袋をつけ、慎重に端子のナットを緩めると直列で繋がれているプラスとマイナスの二個だけを外してため息をつく。
「これでよし、後は ―― 」言いながら次の目的地へと顔を向けたその背後で砲撃音と光が闇を照らす。
 それが止まないという事はまだコウが健在だという事。だがいつまでものんびりしてはいられないとキースは地面に投げ出されたジムの肩口へと走り寄って、あらかじめむき出しにしておいた巨大な二本の動力ケーブルを両肩に担いでバッテリーへと取って返した。

 ケーブルの被覆をサバイバルナイフで苦労しながら剥いた彼はそれをバッテリーの端子に巻きつけてから手頃な布で外れないようにぐるぐる巻きに固定する。接続にどこも異常がない事を携帯の明かりで確認した彼はユニットの外部パネルを開いて電源レバーを思いっきり上へと持ち上げた。ヴン、という低い音とともに通電が始まった事を知らせるモーターの駆動音がキースの耳へと忍び込む。
「よしっ! これであとはっ! 」零れる会心の笑みを道連れにそのままコックピットへと飛び込んで体の固定もそこそこに照準器を覗き込む。夜間照準器が使えなくてもこれだけ闇に慣らした夜目と光学レンズならば敵の姿は捉えられる。

「 …… くそっ、焦点が」
 ぼやけて映る輪郭にキースの口が苦渋に歪む。ライフルのスコープは確かに敵の姿を捉えてはいるが電源を失った機器はその全ての機能を失った、最後にタンクを狙った距離で止まったフォーカスモータは爆発の衝撃で位置を変えた照準レンズを動かす事も出来なくなっている。
「どうする …… 」呟きながら携帯の計算アプリを展開すると火器管制に表示された射撃データをそのまま撃ち込んで目標との偏差を計算する、だが答えが出た所で像がはっきり結ばなければ確実には狙えない。
「この一発しかないんだ、どうしたら ―― 」奴に自分の位置を発信させることができ …… 。

 タンクが狙っているのはフュンフただ一機、だからもう答えは出ている。
 でもそれを実行する事はすなわち親友を囮に使うという事。しかもその考えが自分の思い通りに進んだ所で確実に狙撃が成功するという保証は全然ない、そんなあやふやな賭けに二人の命を巻きこむ事になる。
 そんな事が許されるのかっ!?
 なんとか自力で奴を狙えないか? 発砲炎を頼りに奴の胴体の場所を推測して狙いを ―― だめだ、発砲炎自体一瞬で消えてしまう。少なくとも狙いをつけられる何秒かの間、目印になる物が必要だ。
 奴が必中の一発を放つために使うであろう、側的レーザーの赤い光が。

 葛藤に苦悶するキースの手がかきむしっていた頭髪を離れて耳元へと向かい、何度かためらっていた指が遂にホログラムを開いて親友の番号を静かに打ち込んだ。

                  *                    *                    *

 後ろに座っていたニナが驚くくらい普通の声で会話を終えたコウが携帯を閉じておもむろに話しかけてきた。「キースからだ」
 さりげなく告げる思いがけない名前にびっくりしたニナが思わず手の中のラップトップを取り落としそうになる。「重砲の直撃を受けて機体は大破、でも本人はぴんぴんしてるって …… 相変わらずの悪運持ちだな、それでもあいつまだやる気だ」
 こみ上げてくるうれしさに水を差すコウの言葉はまだ続く。「整備班の協力でなんとか一発撃てるだけの用意ができた、これを確実に決めたい」「こっちに囮になれって? 」
「タンクの残弾ももう少ない、こっちが停止すれば確実に当てるために側的レーザーを使うだろう。キースはそれに賭けてる」「その賭け乗ったわ」
「 …… 怖い、の意味」
「全然? それにコウだって乗るつもりなんでしょう? だったら断る理由なんて …… 」
 嫌な流れを断ち切るために与えられたチャンスはとても危うくて儚い物に見える、だがかすかな不安を抱えるコウに対してシート越しのニナには強い確信があった。
「それに、あなたがいないこの三年間の間に彼がどれだけ力をつけたか ―― 」ニナはそう言うと携帯のチャットを開いてグループへの会話をサーバーに申請した。
「パイロットとしてのキースの事は、あたしが一番よく知ってる」

                    *                    *                    *

「1分、ですか」彼女の実力を最もよく知り認めているチェンですらそのセリフに疑惑と畏怖のため息が混じる。「技術主任がそういうのならなにか勝算あっての事だとは思いますが、でも ―― 」
「なんだ? うちきってのSEのお前さんがそんな弱音、珍しいな」常にクールな姿勢を崩さず何事も飄々とした態度でやってのける若者の言葉を聞いたグレゴリーが驚いた。
「褒められて悪い気はしませんが、だからその作業がどういうものか分かるんです。僕には無理」
「どっちにしても」治療を終えたヘンケンがすっくと立ち上がって周囲を取り囲む全員の顔を見回した。「彼らは絶対にやる気だ、そして俺達も」
「彼らが1分間滑走路のど真ん中で身を隠す方法を考えます、誰でも ―― 」セシルが声を放った時、囲みの後ろで担架に乗せられたままのアストナージが上体を起こして手を上げた。
「さっき『砲雷長』って言いましたよね? という事は艦砲に精通したユニットが何人かいるって事ですか? 」
「ああ、アストナージ」グレゴリーが強面を向けて小さくうなづく。「調理場全員がかつての砲雷班全員だ」
「でしたら ―― 」

                    *                     *                    *

 今度こそハンガーを後にして合流ポイントへと向かおうとしたモウラの足をまたしても止めたのは先に避難していた先任からの声だった。「 “ 班長、アストナージです。まだハンガー近辺にいますか? ” 」
 危機が去った事で少し気持ちに余裕ができたのか、モウラは何とも言えない表情でチャットへと割り込んだ。「 …… どうもここのハンガーはずいぶんとあたしの事がお気に入りのようだね。どうした? 」
「 “ 局面打開のために01が囮になって02がタンクを狙撃します、でなんとか1分間滑走路のど真ん中で身を隠そうって無茶なんですが ――  ” 」
「なんだろ、あんたのそれ聞いてなんとも思わなくなっちまったってのはもういい加減コウとキースのやり口に麻痺してきたって事なのかね? それで? 」モウラがやり切れなさを表情に現しながらポリポリと後頭部を掻く。
「 “ 確か倉庫にアデリアとマークスのザクを受け取った時のアタッチメント、しまってありましたよね? ” 」
「脚部ミサイルポッドかい? あるよ」そう言うとモウラが全てを察してニヤリと笑った。
「発煙弾は何発用意しときゃ、いいんだい? 」



[32711] a minute
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/01/16 00:00
 夜闇に響く絶叫と咆哮、歓喜と高揚。
 狂乱の超接近戦。互いの振るう刃がそれぞれの機体の傍で火花を散らして弾け飛び、残り火を纏って円を描く。踏み込む足が地面を抉って限界速度で機体を動かし、互いの間合いを潰しながら何度も何度も遂げられぬ殺意をぶつけ合う。
「うわあああっっッ!! 」
「あははははっッ! そうだ、それだっ! もっと俺によく見せろ、本当のお前をっッ! 」
 徐々にレスポンスが悪くなる右半身を引きずりながらそれでも本能で急所への斬撃を繰り出すアデリアを困らせるガザエフの受けは不安定だ、時折クゥエルに食い込むサーベルが彼の持つ問題を露呈している。だがそこから始まるカウンターが彼女の回避本能を凌駕してザクのあちこちを抉り取る、時間とともに増えていく警告灯の赤い色が狂気に吠えるアデリアの顔を赤く染めた。
「どうした!? うごけコラァっッ!! 」左右に大きく揺れるコックピットで長い髪を振り乱しながらガンガンと何度もレバーを叩き込む彼女のグローブの間から鮮血が滴り落ちる。まめが破れた痛みもお構いなしで攻撃を続けようとするアデリアの執念、モニターへと挑みかかるように前傾する気持ちの表れが切望する撃滅。ペダルを踏み込む両足はもう痙攣している、感覚も怪しくなっている。

 それが、なに?

                    *                     *                     *

「 “ …… ダンプティ ” 」ケルヒャーのそんな低い声を聞くのはあの空域を離脱した直後以来だ、そしてそれは決してよくないという事を彼は長い付き合いで知っている。問いかけることもなく無言で先を促しながら覚悟を固めるダンプティ、それでもその後に彼から告げられた報告は指揮官としてのあり方を揺るがせた。
「 “ 前線本部より至急電 …… ブージャム ―― 地上部隊からの音信が途絶しました ” 」
 そんなばかな、という言葉を必死にこらえて別の文言を探そうとするがどうにもなかなか見つからない。「それは ―― 確かなのか? 」
「 “ 全員のバイタルが消失したとの報告が。損耗率は今までで一番激しかったようなのですがまさか全滅とは …… いかがしますか? ” 」
 その最後の言葉は作戦を立案したケルヒャーと自分の複雑な心境を表している。この作戦の表向きは基地に在籍するSEの確保が最優先かつ唯一でそのためには地上部隊の存在が欠かせない、だが彼らは恐らく彼女の暗殺を命じられている。そうなる前に自分達だけで彼女の身柄だけを確保しなければならず、ゆえにモビルスーツの部隊全員には建前だけを伝えて作戦を実行した。自分達がハンガー付近を中心に制圧を開始したのも彼女が地上部隊に追われた揚句にそこへと逃げ込むであろうと予測したうえでの計画立案で、運を天にゆだねたようではあるがそれは ―― そこまでは多分自分達の思惑通りに進んでいたのだろう。
 だが地上部隊全滅の一報を彼は全く想像していなかった。そして彼らが全滅したという事はその実力経験をはるかに凌駕するユニットがオークリーに顕在している事を示している。外道なやり方を是とし、自分は決して相容れない連中ではあったが作戦の遂行率・達成率ともにマザーグース旅団では三本の指に入るほどの戦術ユニット ―― 密かに立案された裏の作戦において自分が最も警戒した最強の敵を屠り去った相手をどうやって機械化部隊だけで無力化できるのだろうか?
「 “ いっそのこと私たちの真の目的を相手に話して共にここから逃げ出す事も可能性としては ” 」
「 ―― いや」

 自分とケルヒャーの本当の目的。
 この世界の裏で暗躍して全てを牛耳ろうと企てる『ASRA』という謎の組織、そして少佐が最後に残した『クレイドル』という言葉。隣に並び立とうとする人を否定し殺し合う事でしかその存在価値を証明できなかった人類という種を新たな階層へと導くための大きな手掛かり。欲に踊らされ続ける全てにもたらされるであろう福音を見つけるために自分はあえて手を汚し続けることを彼に誓った。
 きっと自分がそうなってしまった事を彼は許さない。
 だがそうであっても、こうする事でしか彼の想いに報いられない。
「そうするには俺は彼らの仲間を殺しすぎた、きっと信じてはもらえまい。今さら善人面など ―― 」
「 “ ならば最後まで常勝部隊としての立ち振る舞いに徹しますか。高脅威目標の排除を最優先、その後ハンガーへと侵入して件の目標を確保する事に注力しましょう。その後の事は ―― ” 」
「 “ こちらタリホー3、逃げる敵の様子がおかしい ” 」訝しげな声で割り込んできたその通信に漂う不吉がダンプティの顔を曇らせる。何ごと? 「 “ タリホー3、トーヴ1だ。情報が少なすぎて報告の意味が理解できない。きちんと説明しろ ” 」
「 “ 敵が予定軌道を逸脱して別のルートへと針路変更、なおも増速中。このままでは基地外へ逃走されても追いつけません ” 」
「 “ いちいち焦るな、お前たちはそのまま敵の後を追え。ラース2、敵の進行方向へと先回りして頭を押さえろ。絶対に敷地外に出してはならん ―― ” 」
「 “ ハンプティよりトーヴ1っ! ハンガー前で発砲炎を視認っ! ” 」 

                    *                    *                    *

「全弾発射っ! 」グレゴリーの号令一閃、ハンガーの壁にもたれかかったままのマルコのゲルググの腿に無理やり取り付けられたミサイルポッドが火を噴いた。衝撃音とともに空中へと飛び出す発煙弾の航跡を追いながらモウラは開いたままの携帯へと叫んだ。「作戦開始10秒前っ、やるよキース! 準備はいいかいっ!? 」

「ポイント視認っ! 衝撃に備えてっ! 」叫び声と同時に全身の各所にあるアポジが一斉に火を噴きフュンフの巨体は急減速を開始する。まるで全身の液体という液体がすべて体の前半分へと持っていかれるかと思うほど激しいマイナスGに目の前が真っ赤に染まる、しかしコウはその状態から償却しきれない速度を抑え込むために信地旋回を開始した。鍛えられた2本の足が襲いかかる慣性ごと踏み抜くように3本のフットペダルを操るとフュンフはまるでスケーターのようにひらりと舞ってセシルが指定したポイントの真上で停止する。「ポイント到着っ、防御姿勢で待機を始める! ―― ニナっ! 」
 バイタルパートを保護するために体の前で腕を組んで立て膝の姿勢を取るフュンフに目がけて六発の発煙弾が降り注ぎ、地面へと着弾した瞬間に弾頭が割れて真っ白な噴煙が一斉に立ち上る。すぐに操作系の全てを初期位置にまで戻したコウはパワーゲージのLEDがアイドリング状態になったことを確認するとアビオニクスの電源を落として起動スロットのイジェクトボタンへと手を伸ばした。隣には後席を離れたニナがあのディスクを手にしたまま小さく震える。

 もし、このディスクがうまく動かなかったら。

 そう考えただけで怖気づく。このディスクが全ての鍵を握るアイテムだと分かってはいても今まで自分のパソコンでしか閲覧した事のないプログラムを、果たしてこの見た目だけが旧式だというハードに読み込ませることができるのだろうか? それにこのディスクは今晩あたしと一緒にとてもひどい目に遭ってきた。幾多の銃撃と爆発に巻き込まれて何度も叩きつけられ、データを保持する環境としては最悪に近い。もしロードの最中にエラーでも発生すればとても一分なんて ―― 。
「 ―― ユー・ハブッ!たのんだっ 」

 コウの叫びがニナの心に命じる。見開かれた青い瞳が弱気をねじ伏せ、震えの止まった右手がコウが抜き取った後のスロットの細い穴に向かって導かれるように割れたスロットを差し込んだ。
アイ・ハブッ!わかったっ  」 

                    *                    *                    *

「止まっただとっ!? 」苛立ちを隠そうともしないケルヒャーの怒声がマイクへと向けられ、それを意にも解さないハンプティが努めて冷静な声で状況を伝える。「 “ 場所は滑走路の南側 ―― 今トーヴ1のいる場所から建物はさんで真反対です。さっきの砲撃は煙幕弾で弾数は6、駐機位置と着弾点はほぼ一致 ” 」
「そんなだだっ広い所で欺瞞手段を弄した所で何の役に立つ!? 全機そのまま敵に追いついて四方を固めろ、絶対に変化を見逃すなっ! 猫の子一匹逃すんじゃないっ! 」
「 “ ダンプティからトーヴ1 ” 」
 接触を解いて通常回線で流れてくる彼の声にケルヒャーははっとして横を振り向いた。すでにダンプティの乗るクゥエルは携行していたマシンガンを手にとってボルトへと手を添えている。「 “ 俺たちも前へ出るぞ。何となく予感がする ―― これがこの戦いの分水嶺だ ” 」

 一瞬の静寂。
 かすかなドライブ音がするまでのその間が何と長く感じる事か。だがディスクモーターが回り始めて光学レンズが動き出し、アバンタイトルとも言えるアナハイムの社章がシステムパネルに浮かびあがった瞬間に彼女は迷わずコウの足の間に腰を下ろしてキーボードを引きずりだした。計器パネルの上に置かれたラップトップがプロンプト画面に切り替わった途端に始まる黒球の高速旋回、まるでその渦に取り込まれるかのように意識を呑みこまれた彼女は上から下へと流れ出す文字の羅列に負けない速さでコマンドを割り込ませていく。
 彼女の背後でその作業を見守るコウにとってその光景は神業だ。秒でスクロールを続けるソースコードに対して一瞬のうちに文字数列を打ち込んでいくそのスピードは常人では考えられない、照明が落ちたコックピットの中で響くキータッチのトレモロは彼にその正確性を疑わせるほどだ。体の周囲に幕を張って隔絶した世界の中でただ一心不乱に戦いを挑むその背中がとてつもなく大きく感じる。
“ これが本当の彼女の力 ―― ニュータイプとして覚醒したニナの姿 ” 

 ―― ニュータイプ、だって?
 今の彼女をそんな陳腐な言葉で言い表せるものか。人の次元を凌駕して圧倒的な能力を発揮する頭脳、それに追随する指先が紡ぎだす新たな世界。もしこの先に ―― 彼女の先に未来があるのだとしたら。
“ 叡智の女神ソフィア ―― 生み出すのは輝かしい人類の幸福か、それとも未曾有の不幸か ? ”
 
「 “ 発煙弾機能停止まであと10秒っ! 敵のハウンド三機が01の周りに集結中 ―― ” 」
「状況観察はもういいっ! 早くそこから降りてこちらに合流しろっ! 」着弾観測のために破壊された管制塔へと上がったグエンに向かってグレゴリーは声を荒げて撤退を勧める、だが意に反して返ってきた言葉にこもる不敵な笑い。
「 “ 冗談。戦況を見守るのにこれ以上の特等席はありませんぜ、それに ―― ついに姿を現しやがった ” 」
 廃墟と化した管制塔の瓦礫の影から双眼鏡を振り向けた先に映る二つの影。それは闇に紛れる特殊塗料を使っていてもはっきりと見分けられる距離に出現した。

「どうやら敵の大将自らお出ましのようです、幕僚随伴一機とはなかなか。見るからに凄腕ですぜ、ありゃ」

                    *                    *                    *

「ラース2、状況を」ケルヒャーを従えて滑走路の敷地内へと姿を現した指揮官はいつものように一言しか語らず、しかしその威厳に当てられたかのように指名を受けたラース2はすぐさま報告を始めた。「 “ 煙幕の範囲は対象を中心に半径100まで拡散、ミノフスキー粒子を含む欺瞞素材で赤外線・電波を含む全てのセンサーが無効化されています ” 」
「 “ 動態センサーにも反応なし、敵は煙幕の中心で完全に沈黙 ” 」
「 “ ダンプティ、指示を ” 」タリホー1の報告を受けてケルヒャーが指示を求める。彼が動いた以上この戦場での指揮権は自動的に自分の手から離れて彼の手に委譲される、それはつまり自分には想像もできない何らかの兆しがダンプティには見えているという事だ。
「タリホー1と3は煙幕を中心に交差射撃の準備、ラース2は二人のバックアップに入れ。周辺の警戒は俺とトーヴ1が務める ―― 配置が完了次第すぐに射撃を開始しろ。ハンプティ、そこから射角はとれるか? 」
「 “ 煙幕が晴れない事には正確には照準取れないです。ご命令とあらばとりあえず中心に向けて撃っては見ますけどね ” 」
「十分だ、ハンプティは装填状態のまま待機、命令があり次第発砲しろ」「 “ ―― 了解 ” 」

「 “ 敵が01の周囲に展開、交差射撃の準備に入りましたっ! 作戦終了まであと40秒っ! ” 」戦況を伝えるグエンの切迫した声にハンガー前に集結した一同が息を呑む。ただ一人セシルだけが時計を睨みながら後ろで携帯ホログラムを展開したままのモウラへと声をかける。「整備班長、あの機体は敵の90ミリにどれぐらい耐えられますか? 」
「今の煙幕の範囲外ならいくらか傷はつきますが貫通までは防げます。特にバイタルパートはガンダリウムで保護されていますのでへこみもしないでしょう ―― ですが」
「やはり敵が最後に使うのはタンクからの精密射撃 …… それぐらいで済めばいいのだけれど」
「なにか引っかかるのか? 」セシルにしては珍しく判断に迷う物言いにヘンケンが尋ねるとセシルは手首の腕時計へと視線を送った。「私の予想より敵の展開が十秒ほど早い、多分敵の指揮官は恐ろしく勘が鋭いようです。私の単なる杞憂に過ぎない事を願ってはいますが ―― 」
「 “ 敵ハウンド発砲っ! ” 」
 自分の予測が正しかった事にチッと舌打ちするセシル、浮かんだ険しい表情が口調を変える。「おまけに考えるより先に手が出るタイプかっ! 」

「セレクト3バーストで交互斉射っ、交点ずらしてソナーがわりに使うつもりだ! おかわり早くっ、座標修正+0.2、上下角-0.3っ! 」煙幕の範囲を広げようとグエンは双眼鏡を覗き込みながら着弾点の修正を指示する、間髪いれずに撃ちあがる三本の火矢が闇夜に光る。「 “ 在庫はそれで打ち止めだっ、もう俺たちにできる事は残ってないっ! 早くそこから退避しろ、グエンっ! ” 」
「らしくないですぜ、砲雷長っ! 誰も見てない試合になんて価値なんかねえっ、誰かが見ててやんなきゃ絶対にだめなんですっ! 」狙い通りの場所に落ちた煙幕弾から吹き出す煙を見ながらグエンが吠える。
「それが大逆転のシーンだったら、なおさらだっ ―― 01から被弾音っ! 」

「 “ キースっ! 奴ら側的レーザーを使わずに狙撃するつもり ―― ” 」
「わかってる」そう声を出すのがやっとだ。食いしばった歯の間から零れる言葉が熱を帯び、瞬きできない瞳がからからに乾く。それでも血走った眼はただひたすらにぼやけたままの黒い輪郭を追い続けていた。この状況に誰よりも焦り、ともすれば引き金を引いてしまいそうになる指を痙攣させながら意志の力で抑え込む。それが無駄になってしまうかもしれないという恐怖と後悔に苛まれながら。
“ あいつは、凄腕だ ”
 大破する寸前に奴が見せた動きをよく覚えている。こちらの射撃のタイミングを正確に見抜いて必中弾を躱して返り討ちにする、その手際や手管どれ一つとってもきっちりと計算されつくしていた。それだけの経験と技量を持つパイロットが偶然や他力本願に頼って相手を仕留めようとするだろうか?
 “ 奴はその機会があれば絶対にそれを使うはずだ ”

 それはお互いを狙撃手スナイパーとして認めているが故の奇妙な信頼感。薬室チャンバーに送りこんだ一発に命を賭ける世界に生きる者同士の信念。

                    *                    *                    *

 全ての機能が眠りについている今、外の状況を知ることはできない。だがセンサーが使えなくても今機体に襲いかかっている激しい震動と音の連打の正体くらいはわかる。目標に集まってきた敵が煙幕の外から自分に向かって撃ってきている。
 兵站を持たない敵の残弾は少ない、だからむやみやたらと手持ちを消費する事はできないだろう。煙幕の中に飛び込んで近接戦闘を挑もうとしても相手はさっき一瞬で仲間が葬られた事がどういう事かを理解しているから二の足を踏む。小火器を使っての撃破が困難であると判断した時点で彼らはきっと一撃必殺を選択するだろう、そこにキースの付け入る隙が生まれる。
 だがどこまでこの機体が持ちこたえるのだろう?
 これはコウにとっての苦渋の選択だった。自分はニナを助けるために戦場へと戻る決心をしたというのに今は彼女の命を危険にさらしている、しかし重砲の存在はこの局面では非常に重要で自分は敵に追われて渦の中心に追い込まれた揚句に全方位一斉射撃の的になるしかない所だった。自分の体の状況を考えても多分その殺し間から抜け出す事は難しかった。
 でも本当にこれしかなかったのだろうか、とコウは自分の足の間で憑りつかれたようにキーを叩くニナの影へと目を落とす。外的要因や刺激にすら何の反応も見せずに数式と向き合う彼女の肩が揺れている。自分と同じく限界ギリギリの戦いに挑む自らの半身に、コウは愛おしさを感じて思わずその両肩へと手を置いた。

 膨れ上がるイメージはニナの視界からコックピットの状況をあっという間に消し去った。フュンフを叩き続ける着弾音と衝撃に一瞬気が削がれたものの、それすら遮断して彼女を包み込んでしまったのは煌めく星星に似た数式の瀑布。
 “ これは …… 黒球のイメージ? ”
 音のない世界に取り残された彼女を守るかのように次々と天上から降り注ぐ光の洪水 ―― 何の知識も持たない者には意味不明な文字の羅列に過ぎない、だがプログラムの知識を持つニナにはそれがどういう類の物であるかという物が分かる。オブジェクトを構成するコンパイラとビルドの境界はひどく曖昧でブートストラップによる変換障害ですらコンマの単位で修正される、鉄と歯車で構成される機械をいかに人のように動かす事ができるかという先人達の苦悩と工夫が詰め込まれたロボット工学の粋。
 そこにつぎ込まれる彼女の新たな意志、次々に書き換えられる数列と割り込みで補完されていくコマンド。それは時が進むにつれてどんどん膨れ上がって時間という概念すら飛び越えて速度を上げた。与えられた時間はたった一分、だが永遠に続くとも思われる悠久の濁流は留まる事を忘れてニナの周りを駆け抜ける。
 どのくらいたった?
 あと残りのプログラムはどれくらい? どれくらいの時間が残ってるの?
 押し寄せる焦りが指と頭を鈍らせそうになる、何千何万という文字が飛び交う風船の中で澱む事なく紡がれる様々な言語 ―― 考えてはダメだっ、感じろっ! だがそれでも置いていかれそうになる流れに向かって必死に手を差しのばす。
 その時だった。

 温かな感触が彼女の両肩から直接脳に届く、その瞬間彼女を取り巻いていた全ての障害がなりを潜めた。心をざわめかせていたあの焦りはどこかへと消え失せて落ち着きを取り戻し、そして周りを取り巻いていた数式の奔流はまるで彼女を慕うかのようにニナの周りにまとわりつく。思わず差し出した両の掌を見つけるとそこが安住の地であるかのようにくるくると渦巻きながら小さくまとまった。
 “ コウ …… ありがとう ”
 心の中で感謝したニナが掌の数式をゆっくりと包み込むと、果たしてそれは指の隙間から漏れだすほどの強烈な光を放って球体の周囲へと弾け飛んだ。彼女の支配を受け入れたプログラム達がそれまでの無秩序を詫びるかのように思い思いの流れを止めて規則正しく整然と、しかし速度だけは今まで以上に激しく球体の外縁部をなぞって滑り落ちる。
 “ もうすこしっ! ” 

                    *                    *                    *

 十字射撃の成果は思わしくない。それは煙幕の中で響く被弾音で理解できる。ジオン軍のモビルスーツの装甲に使われているのは超硬スチール合金、ドムに関しても同じ物が使われているがザクやグフなどの先行型とデザインが違うのは被弾率と跳弾効果を重視したデザインになっているからだ。そしてあのフュンフについては指揮官機であることから装甲も量産機の物よりは分厚く、硬い。
「ダンプティからトーヴ1、射撃データを各ユニットに開示。もっとも反射係数の高い角度から敵機体の位置を割り出せ」
「 “ それは可能ですがそれだけでは正確な位置を特定できません、できればあと何度か角度を変えて ―― ” 」
「これ以上は弾と時間の無駄だ、それにいたずらに時を費やせばどんな反撃を受けるかもわからん。ここからは力で押し切る」
「 “ 分かりました。しかし本当に最後まで小癪な連中でしたな、まさか煙幕を焚いてこちらの十字砲火の威力を弱めるとは予想もしませんでした ” 」
「だがそういう兵だったから彼女を最後まで守れた ―― むしろハンガーに生き残りがいた事は俺たちにとっての幸いだ。こいつを仕留めたら一気にハンガーを制圧する」
 予期せぬ出来事も予想外の抵抗もこれで終わりだと実感したダンプティの口元が少し綻ぶ、最後の敵を遂に崖っぷちに追い詰めた彼はそのひと押しをためらわない。「ダンプティからハンプティ、いよいよ大詰めだ。精密狙撃で敵を速やかに排除せよ」

 転送されてきたデータをそのまま火器管制に読み取らせて自動で照準を合わせるハンプティ、両肩の砲身はすでに装填済みだ。「ハンプティ了解。第一射APFSDS、第二射同じ ―― えっ! 」

 スコープを照らす発砲炎を睨みつけたキースが唇をかみしめて全身を強張らせる。たった一本残った右腕を動かすための準備は整っている、硬く握りしめた利き手のレバーを動かせばいい ―― くそっ!
「 ―― 外れろっ 」

「 “ タンク発砲っ! 第一射来るっ! ” 」マッハ5を超える弾頭の先端が発する甲高い叫び声はグエンの声と共に来る、一斉にハンガーの外へと振り向く全員をよそにセシルが顔を落としたまま硬く目を閉じて険しい顔で呟いた。
「 …… 外れてっ 」

 薄闇に響き渡る絶叫と今までにない激しい衝撃はほぼ同時、轟音の反芻と共に機体がふわりと浮くのが分かる ―― 直撃弾。
 慣れるものではない、何度受けても。本能から来る怖気に全身を硬直させて表情を歪めるコウだがその視線をニナから背ける事はしない。そっと肩に置いた手をそのままにじっと彼女の作業が終わるのを待っている。

 信じている。
 自分の命を託した彼女がきっと、必ずこの苦難も乗り越えてしまうだろう事を、そして。
 彼女の未来がここで潰えるのならば自分の未来も ―― いらない。

                    *                    *                    *

「ハンプティ、どうなってる!? 」直撃はしたものの長年の経験から音だけで損傷を判別できるケルヒャーの耳は確かだ、恐らく軽微であろう事を確信した彼は当の本人に確かめた。「貴様らしくもない、理由はなんだっ!? 」
「 “ 目標までの敷地内から発生する熱で起きた上昇気流に安定翼が影響を受けた模様。ただちに誤差修正、第二射いきます ” 」

「 “ 初弾命中っ! くそっ、どっかの装甲が吹っ飛んだみたいだ ” 」
「先任っ、01の様子はどうだっ!? 」焦りを隠せずにグレゴリーがチャットに怒鳴る、セシルは瞬きもせずにじっと時計の秒針だけを追いかける。「 “ だめだ、まだなにも動きが ―― 第二射発砲っ! ” 」
「あと20秒っ」
 セシルが口にするその残り時間 ―― なんて長いんだ。ヘンケンが険しい表情で組んだ両腕に力を込める。

「 “ キースっ!! ” 」モウラの叫びが耳に突き刺さる、上あごと下あごが噛み締めすぎて割れてしまいそうだ。敵を牽制するために失敗覚悟で撃つ手もある、一時的にでも敵の目をこちらに引きつければ ―― 。
 違う、そうじゃない。
 ここで失敗したらコウとニナさんの覚悟の意味がなくなる。
 モウラや整備班たちが苦労した意味がなくなる。

 俺がここで生き残っていた事の意味が ―― なくなるっ。

 そんな衝撃はコンペイトウ宙域でガトーと刺し違えた時以来だった。機体全体を襲う真正面からの衝撃でフュンフが防御姿勢のままずれた。耳をつんざく至近距離での衝突音と引き裂かれる金属の悲鳴、眼下の彼女をとっさに庇おうとするその両手をコウはかろうじて押しとどめる。

「第二射直撃っ!! 」双眼鏡を当てたまま実況を続けるグエンの目にその距離からでもはっきり分かる物体が煙幕の雲を突き破って外へと飛び出した。勢い余って滑走路上を転がっていく黒い物体、静止するまで追いかける両目。
「 ―― 01、左腕損傷ぉっ! 」

「硬いな、さすがに」地面で煙をたなびかせるフュンフの残骸へとカメラを向けるダンプティは彼の機体のスペックを頭の中で読み込みながら呆れたように呟いた。「重砲直撃で腕一本とは、な」
「 “ 恐らく敵は防御姿勢でコックピット周りを守っているものと。ですがこれで ―― ” 」
「狙う照準点は確定したな ―― ダンプティからハンプティ、今の直撃で敵の防御は半減した。次の一撃で決めろ」
「 “ ハンプティ了解 ―― ” 」

 すぐにAIに次弾装填を命じるハンプティ、とはいえもう弾種は選べない。背後のユニックが動作して残り少ない弾倉から2発の砲弾を取り出して装填完了の合図を待つ。ガコガコと耳障りな機械音が鳴り響いてクレーンが指示されたとおりに砲身へと弾を送り込むが油圧がかかる度に機体が左右に動いて姿勢がうまく定まらない。しかも装填作業の度にどんどんひどくなっている。
 原因は敵スナイパーとの戦いで失った左部駆動機能のせいで、ガンタンクという超重量級を支えるための油圧サスが機能不全を起こしている。次の一発をどうしても外せないハンプティは即座に足元のアンカーを作動させて巨大なペグを斜面に向けて撃ち込んだ。ガン、という衝撃と共に機体の揺れは収まってスコープ内の映像は再び平衡を取り戻す。
「ハンプティからダンプティ、射撃準備完了。これより ―― 」

「 “ 敵高脅威目標を破壊するが照準の正確を期すために側的レーザーを使いたい、使用の許可を ” 」



[32711] one shot one kill
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/01/22 00:44
 はるか先にかすかに灯るその赤い星をどれだけ待ちわびた事か。
 ギリ、と鳴る奥歯と裏腹にそっと操作レバーを動かすキースの右手が火器管制を通じて射撃体勢へと導くと、ジムの欠片は残ったシリンダーとモーターを回してゆっくりと右腕を持ち上げた。肩づけにされた銃床を起点にして無傷のクルップ社製88ミリが先端の特徴的なマズルブレーキを対岸の斜面へと向ける。

「 …… きたっ」双眼鏡でフュンフの観測を続けていたグエンは煙幕の島にぽつんと浮かんだ赤い点からゆっくりと中空へとそのレンズを向けた。本来ならば出力と大気での減衰で不可視であるはずのレーザーが戦場に棚引く砲煙によって所々に赤い線を結んでいる。
「きたきたきたっ! 奴さんとうとう使いやがった、隊長が言った通りだっ! 」

「 “ 側的レーザー視認っ! ロックオンまで推定5秒っ ” 」
「あと10秒っ」ミッションタイムのカウントダウンもせずにヘンケンの副官である彼女は険しい表情と祈る心でじっと手首を睨みつける。タイムラグとして突きつけられる5秒を埋めるためにこちらが打てる手立てはなにもない、なんて事だっ! 私ともあろう者がこんなところで全ての結末を運や偶然に頼るしかないなんてっ!
「副長、どうしたっ!? カウントダウン始めろっ! 」真っ暗な空を睨みつけて歯を食いしばり、両腕がちぎれそうなほど握りしめたヘンケンが傍らの彼女に檄を飛ばす。電流に触れたように一瞬震えたセシルは手首のパネライを親の敵のように射殺いころしながら小さな秒針が指し示す時を口にする。
「 ―― 8っ! 」

 ゴールは突然訪れた。数式の嵐が収まって訪れる凪の真っただ中でニナの意識はあのコックピットへと舞い戻り、目の前に置かれた液晶が表示するY/Nだけが彼女に全ての終わりを教える。「デバック終了っ、変更適用っ! 」勢いよく叩かれるエンターキーがニナの意志を伝えてリロードを促し、ひとりでに電源の入ったアビオニクスがかすかな産声を上げながらまたたき始める。

 最後の力で射撃データを表示していた火器管制の数値がキースの目の前から闇へと溶ける、力尽きた彼の続きはそのままキースの頭脳へと引き継がれた。脳裏で目まぐるしく動く数字とレティクルの残像が指し示す標的、十字の交点があった場所に置かれた赤い星。
 それが彼の所作なのだろうか、まるで全てが終わったかのように全身から力がほどけて表情すら穏やかに変わる。射撃の名手がその一瞬前に必ず見せるという賢者の目が一度、瞬きをした。
 静かに引き金に加えられる力は、とても優しく。

 それはコウとニナがオークリーで最初に作った物だ。ライフルのグリップを握った手から伸びる人差し指がキースの意志を受けてゆっくりと動き、まるで愛おしい物を包み込むかのようにそのトリガーを引き切った。

                    *                    *                    *

 ロックの外れた撃針が雷管を叩いた瞬間に発生する爆発は弾頭を薬莢から弾き飛ばしてバレルへと叩き込む。12インチ進んで1回転するライフリングは秒速1000メートルを超える速度で長い銃身を駆け抜ける彼に絶対的な直進力を与える。追いかけてくる炎と熱と音とを全部置き去りにしたルーファスという名の切り札はマズルブレーキでせき止められる彼らに見送られながら黎明の闇へと飛び出した。
 斜面から滑り落ちて消えていく彼の主の姿など顧みもせずに。

 銃声が轟いた瞬間に鳴る近接警報、 ―― ロックオン警報が鳴らない …… 裸眼照準!?
 その事実を認めることはできないが理解はできる ―― 奴が、生きていた? あの状態で?
 押し寄せる死の予感に全身の毛穴が開いて冷たい汗が全身を濡らす、だがハンプティは照準を諦めない。火器管制AIが機体の地面固定によってほんのわずかに狂った照準を取り戻すまであと2秒 ―― 1秒。
「早くしろっ」毒づく彼の目の前に表示される01の表示がなかなか先に進まない、業を煮やしたその指が触れる引き金が重く感じる。壊れちまったんじゃねえのか、これっ!? 時間が、全部が止まって見える。焦りに塗れたその目が充血して景色が染まる、必死でこいねがう時の流れは彼の期待になかなか応えようとはしない。
「っつ! ダンプティっ! あとはっ! 」
 思わず叫んだその瞬間、カウンターは遂に1の文字を崩して次へと進む。耳に響く甲高い警報音はロックオンか、接近警報か。
 間髪をいれずに引く引き金、しかし着弾を示す衝撃で彼の全てが歪んだ。

 レーザー発振機目がけて寸分たがわず命中したルーファスはその推進力と貫通力の全てでタンクの胴体から内部へと侵入する、そして弾頭部の信管はその瞬間に点火して暴力的ともいえるその性能を彼の体内で存分に披露した。先端の焼夷剤が発火して着弾部周囲にある機械を焼き始め、その後ろに控えているジルコニウムが弾芯にあるRDXに火をつける。それは奇しくもハンプティがハンガーに向けて放った「徹甲焼夷弾虎の子」と同じ構造。
 一瞬で燃焼した弾頭が爆縮現象によってタンクの上半身をくの字に折り曲げ、そこから解放された破壊力には見る者全てに命を頓挫させるだけの説得力がある。歴戦のタンクパイロットとして長く部隊に貢献してきた彼が最期に必中を期して放った徹甲弾があらぬ方向を向いた120ミリから炎と共に天空へと打ちあげられた途端に、その機体は残った砲弾の炸薬と共に全身を炸裂させて消しとんだ。
 
「 ! なんだっ!? 」その衝撃は味方の砲撃を待ちわびるダンプティ達やその結論を覆すために全てを使い切ったヘンケン達双方に訪れた。はるか南の方角から響き渡る轟音と夜空を真っ赤に焦がす巨大な火柱はこの戦いの結末を予兆するかのように生き残った者全ての目を引き付ける。

「だ、ダンプティっ! ハンプティ撃破ロストっ! 」
 聞いた事がないケルヒャーの悲鳴を耳にした途端に彼の腹は決まった。もしかしたら心のどこかで自分は閣下の機体を操るこのパイロットと話がしてみたい、できる事なら ―― などと甘い期待を持っていたのかもしれない。
 だがそれも。
 全て叶う事のない夢物語。
「全機抜刀っ、煙幕中央に向けて最大戦速で吶喊っ!! 命を惜しむなっ、敵と刺し違えても絶対に仕留めろっ! 」
 
「 “ タンク沈黙っ! 02敵タンクの破壊に成功っ! ” 」固唾を呑んで敷地の向こう側から轟いた爆発音の正体を知りたいと気をもんでいたヘンケン達に届けられる吉報に思わず大歓声が上がるハンガー前、だが険しい顔を崩さないセシルに成り替わって隣に立つヘンケンが鋭い声で一喝を放つ。「騒ぐなっ、まだ作戦は終わってないっ! 」
「3っ! 」
「 “ やべえっ! 敵モビルスーツが全機抜刀っ、一気に突入して刺し違える気だっ! ” 」
「2っ! 」セシルの声が一気に沈黙を取り戻したハンガー前に鳴り響く。

 どうした、ニナ・パープルトン!?
 あの時、私に見せた気迫は偽物っ!? 
 嘘だというのならもう一度私にそれを見せてみなさいっ。
 あなたが本当に守りたいと願った者が今、
 あなたのすぐ傍にいるのだからっ!! 

「 “ だめだっ、包囲の三機が一斉に突入! ” 」
「1っ!! 」
「ウラキ君っ!? 」



[32711] Reviver
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/02/18 12:57
 かつて一年戦争のおり、何隻も艦を乗り換えて常に最前線でジオンと砲火を交えてきたグエンにはわかる ―― その攻撃は間違いなく相手に当たると。煙幕の中へと消えていく三つの影を断腸の思いで見送るしかない自分の無力さに視界が揺れ、耳元で鳴る大勢からの問いかけにも答えることはできない。それくらい突入のタイミングが完璧だった、改めて敵の指揮官の鋭い指揮能力に舌を巻かざるを得ない。
 煙の中で響くゴウンという音とビリビリと鳴くハウリングは刃に貼られたIフィールドがこすれあって反発を始めた証拠、多分01の機体を差し貫いたそれぞれが機体のど真ん中でせめぎ合っている。遂に幸運の女神に見放されたのだと言いようのない絶望だけが彼の脳裏で渦を巻く。
「 ―― くっ、ここまできて」
 思わず口をついて出た彼の無念が景色を変える、それはIフィールドが持つ斥力によるものだった。幾重にも連なる磁界が周囲の磁場に影響して凪いだ大気に風を呼び、それはまるで砂の楼閣を突き崩す波のように一息で煙幕の島を押し流した。
「 …… え? 」

 その光景にダンプティは目を見張った。
 同時に三方から突入した三機が互いのサーベルで鍔迫り合いをいしたままその場で動けず、そして彼らが刺し貫いたはずのフュンフが少し離れた場所で防御姿勢のまま跪いている。「 “ な ―― これは一体? まさか座標を見間違った ―― ” 」「いや」
 ケルヒャーの呟きを言葉短く否定して、彼はじっと動かぬままのフュンフへと目を凝らす。右肩の肩アーマーはちぎれ飛んで頭部は全ての装甲がはぎ取られて内部構造がむき出しだ、そしてバイタルパートを保護していたと思われる左腕は肘から先がない。つまり奴は三機が刃を交えたその場所に間違いなくいたのだ。
「 …… ヨー・スライド」
 
 ダンプティの口を吐いて出た魔法の正体にケルヒャーは戦慄した。宙域戦闘で敵の弾を避ける時に使われる特殊機動で普通の回避運動と違って正面を変えない事で相手との交戦機会を失う事がない、だが実弾と違って宇宙でのビーム戦闘には相対速度という概念がない。従ってそれを実現するためには常人離れした勘と未来予測という能力が不可欠 ―― 自分が知る限りそれをなし得たのは二つ名を冠された撃墜王の中でも一握りの者だけ。しかも。
「 …… 重力下で …… それも片膝立ちで? 」
 全てのアポジとスラスターを駆使して初めて完成するその技は姿勢制御が最も難しくいまだにそのモーションを再現するプログラムは実装されていない、並のパイロット ―― 自分も含めて ―― では制限付与のない宇宙ですらくるくると回ってしまう高等技術だ。それをこの難しい状況 ―― 地球重力下で不安定な姿勢のまま。
「左足のホバーだけで …… なんて  ―― っつ!? 」
 その時ケルヒャーはもっと信じられない事実を目にして言葉を失った。骨組がむき出しになった頭部の中心を十字に走るカメラレール、その交点に置かれたモノアイが ―― 点灯して、いないっ!? 
「まさか! 見えてないのかっ!? 」

 アビオニクスが動き始めた瞬間にコウが真っ先に選択したのは駆動系の復旧だった。真っ暗なモニターの向こうから伝わってくるひしひしとした殺気、この後に敵が取るであろう攻撃手段を持ち前の未来予測で確信した彼は膨大なモーションデータの中から下半身の機能だけをアイソレーションして実行に移す。しかし全てが終わった時にこの場で一番驚いていたのは敵ではなくフュンフを操作したコウ自身だった、両足でニナの体を固定したまま強烈な横Gをやり過ごした彼は刃が交わる不気味な悲鳴を真横で聞きながら思わず呟く。
「 …… すごい、なんだこれは」
 今までの苦労が嘘のように動く、しかも思い通りに。プログラムをロードする毎に一つづつ灯るLEDの明かりに照らされた彼の眼が手元の操縦桿へと移動すると握ったその手が震えている。だがはっと我に返ったコウはすぐさまインテグラルソケットのスイッチをオンにして全ての機能を統合する、途端にモニターが外の景色を映し出した。

 グポン、という独特の作動音と共にフュンフのメインカメラが赤く光り、その音が合図であったかのように鍔迫り合いをしたまま固まっていた巨人の彫像が動き出す。外部の音を拾ったそれぞれのAIがそれぞれのパイロットに異変を知らせ、各々が各々の思いを込めて傍らにあるうずくまったままの黒い影へと視線を向ける。
 魅入られたかのように。
 衝撃によるストレスで各部にゆがみが生じているのだろう、だが重砲二発の直撃に耐えきったその重モビルスーツはギリギリと合わせ目の装甲をすり減らしながらゆっくりと立ち上がった。頭蓋骨の中央で怪しく輝く赤い眼が彼らを睨みつけ、背中のハードポイントへと格納されていたロングソードを無傷の右手が掴んで抜き切るまで。
 そこに集った全ての者が動けない。

                    *                    *                    *

 果てしなく続く超至近戦はアデリアとガザエフの双方から等しく全ての力を奪い取る、気力体力集中力それに付随するもろもろの力のありったけをつぎ込んでもこの戦いは終わらない ―― かに思われた。だがそのゴールラインは気まぐれな何かと蓄積された不注意によって距離を突然縮めた。
「! あああっ! 」
 彼女のその声を最後に被せるような警報音がコックピットに鳴り響き、彼女の分身は遂にその動きをギクシャクとしたタタラを交えて停止した。夢から覚めたように我を取り戻した眼がインフォモニターへと注がれ、点滅する赤い文字を凝視する。
「右側全機能、不全!? 」

 リザーバーのオイルもすべて使い切ってしまったモビルスーツなど全ての血が流れ出てしまった生き物のようなものだ。それでも枯れた井戸から水をくみ出すかのように操縦桿を動かして必死で状態復帰を試みるが、すでに油圧の抜けた右半身のダンパーが彼女の願いに応える事はない。
「 …… 残念、もう終わりか」
 拾った外部からの声に意識を向けたアデリアの視界に映る黒いクゥエル。「だが俺はもう十分だ、ここまで本気で俺がやりあえる相手なんか今まで一人もいなかった ―― 満足だ、礼を言うぞアデリア・フォス」

 動きが変だ。
 遭遇した時に見せた滑らかな動きではない重い足取りでマチェットをぶら下げて歩み寄る影、かすかな光を受けてむき出しになった金属が放つ光。自分の放った攻撃が決して無駄ではなく相手を追い詰めていたという事実とギリギリ届かなかったという結果。
「うるさいうるさいうるさいっッ! あたしはまだ負けてないっ、まだ、まだぁっ! 」
「 …… それでこそ俺が愛した女神様、うれしいよ ―― 」そう言うと無造作に間合いへと踏み込むガザエフ、気合いもろとも薙ぎを入れたアデリアの右手を造作もなく掴んでそのまま背後へと投げ捨てた。バランスを取ることすらできずにそのまま地面へと倒れ伏すザクの手からヒートサーベルが飛んでいく。
「あうっ! 」投げ出されそうになる体をベルトでシートに固定されるアデリア、締めつけるテンションで漏れる苦痛の声に勝ち鬨がわりの声が覆いかぶさる。
「そんなお前と一緒に俺の全部が清算できるなんて」

 おぞましさで全身に悪寒が走る。
 勝つか負けるか、命を賭けて戦う事で得られる結果ならその結末にも納得がいく。でも …… あんたと心中? 「だれがあんたなんかとっ! 」
 動く方の手足を動かしてなんとかガザエフとの距離を取ろうとするが思い通りにいかない。「そんなに死にたいのなら一人で逝けって何度も」「それは今のお前が言う台詞じゃない」言葉を遮ったガザエフがアデリアのザクへと歩み寄るとその背中を踏みつけて地面へと押し潰した。
「明日をどう生きて、どう死ぬか。それは勝った者にしか選べない ―― 負けた者には死を選ぶ権利もないんだ、アデリア・フォス」
「ふざけンなあっッ!!  」
 言葉の暴力で嬲られる頭の芯に火花が走る、垂れ下がった長い髪の影で浮かべた憤怒が手足に飛んでペダルとレバーを動かすと彼女のザクは背中の圧力に抗って再び左の半身を持ち上げる。だが踏みつけていた足を離したクゥエルはそのまま彼女の左側へと回り込んでガラ空きのわき腹を蹴りあげた。強烈な衝撃にエアバックが開いてアデリアの目の前でまとわりつき、再び引っ込んだと思った瞬間に機体は仰向けにもんどりうつ。今度はシートからじかに伝わる衝撃で息が詰まった。
「かはっ! 」
 一瞬で飛びそうになる意識を気迫でねじ伏せて乱れた呼吸をせき込みながら復旧してモニターを睨みつける彼女の前に映るクゥエル、まるで悪あがきを憐れむかのようにガンカメラを向けた機体はその気配とは全く違う早さでザクの左手を踏みにじった。
「だからお前の最期は俺が決める ―― 一緒に、逝こうぜ 」
 腰につけていた予備のマチェットを外して無理やり開いたザクの左手に持たせ、拒絶するその手を自分の手で包みこんでしっかりと固定する。

「ちくしょうちくしょうちくしょうっ!! 誰があんたの思い通りになんかっ! 」
 髪を振り乱しながら絶叫して左側の操縦桿を動かそうと試みるが絶望的にパワーが足りない、迫りくる死にも抗えなくなった彼女の目から知らない間に涙が零れた。自分の選んだ道の正しさを証明できないまま過去の因縁に殺される ―― じゃあ自分は今まで何をしてきたのかと心の中で問いかける。理不尽に押しつぶされたまま終わってしまう短い命、こんな終わり方を迎えるためだけにあたしは生きてきたっていうのかっ!?
「違うぞ、アデリア・フォス」
 諭すように告げるクゥエルが彼女のマチェットの先端を自分のコックピットの真上へと押しつけ、そして自分は彼女の正面へと。モニターの裏で硬い物が当たる音がかすかに聞こえた。「お前が今まで生きてきた事にはちゃんと意味がある ―― それが今日という日だ」
 恐怖で震える歯をかみしめて悔しさをむき出しにしたその眼が涙を流しながら目の前の死神を睨みつける。「お前はその狂気を …… 振るえばきっと自分も他人も傷つけてしまうその罪を」

 AIが致命に至る異変を察知して緊急脱出を知らせるアラートをコックピットに解き放つ ―― もう逃れられないっ! だけどっ!!

「跡形もなくこの世から消し去る為に」

 あんたの思うとおりになんか絶対死んでなんかやらないっ!! 
 涙があふれる鳶色の瞳をカッと見開いて全身全霊で瞼を閉じることを拒むアデリア、最期の瞬間までこいつの姿を目に焼き付けて ―― 。

「俺と一緒にここで」

 地獄の底で必ずマークスの仇を取ってやるから待ってろっ!
「 ―― っつっ、ヴァシリぃーっ・ガザエフぅっッ!! 」

 死と解放、今の俺にとってなんと甘美な響きだ。
 恍惚を浮かべて組み敷いたザクのモノアイを眺めながら彼は自分へと押しあてた刃の位置を確かめる、コックピットに鳴り響くアラートの素敵な歌声を耳にしながらそれが途切れた時こそが最高のエクスタシー。自分の望むとおりに生きて死ねる事のなんと幸せな事か、と彼は心の中に巣くっている悪魔の姿をした神に心からの感謝を述べながら両手の操縦桿を思いっきり手前に倒した。

 アラートを吹き飛ばす凄まじい轟音と金属同士が激しくぶつかり合った後の残響、そして視野を震わせる衝撃がアデリアを襲った。たとえあの刃に裂かれても絶対に最期まで見届けようとする不退転の決意に水を差したそれは彼女の一瞬先にあった未来を疑わせるものだ。ほんの一瞬前まで自分を見下ろしていたはずのクゥエルのバイザーが大きな影へととって代わり、全開稼働直後のバーニアノズルが淡いオレンジをモニターへと焼きつけて残火が漁火のように彼女のザクを照らし出す。
 アデリアのザクを飛び越えて渾身のショルダータックルをお見舞いしたその機体は不意をつかれて弾け飛んだクゥエルに向かって滲み出る怒りを吐き出した。
「 …… 俺の僚機になにしてやがる、このクソやろう」

 衝撃吸収のエアバックが自動的に吸収されて取り戻す現実と予想外の結果に唖然とするガザエフ。俺は確かにこの手で全てを終わらせた、そのはずだっ! なのにっ!
 絶頂の瞬間に横槍を入れられた不満が激情となってガザエフに憑依く、信じられないという想いよりも邪魔をされたという事実が彼から冷静という名の理性をはぎ取った。「この死に損ないの出来そこないがっ! まだ生きてやがったのかっ!? 」
「生憎だったなぁ、クソやろう」 そう言うとマークスはアデリアの手からマチェットをむしり取って彼女の前に立ちはだかった。「でもあんたが操縦席を直接狙ってくるのはわかってた、あんたは特に俺を殺したがってたからなぁ」
 ゆっくりと得物を構えながら今まさに立ち上がろうとするクゥエルに切っ先を向けるオリーブドラブのザク。「あんたの腕は確かだ、だから外しっこねえ ―― だから避けるのは簡単だった」

 大きな亀裂の入った正面モニター。
 装甲の破片が内部で跳ねまわって左右モニターの画角のいくつかは欠けている。済んでのところで躱しはしたものの刃はマークスのヘルメットを切り裂いて頭の上を掠めていった。おかげで頭の天辺についた傷からはまだ出血が続いている、闇にも明るい銀髪は鮮やかな赤に染まって顔半分も血まみれだ。左目に血が入って周りが見づらい、損傷率は見なくても分かる。
 でも、まだなんとかなるっ。
「出来そこないを仕留めそこなった気分はどうだ、ああ? じゃあ仕切り直しと行こうぜぇ」声もなく殺意のオーラを燃え上がらせるガザエフを徹底的に煽るマークス …… まだだ、まだ。もっと頭に血を昇らせろ。
 俺しか目に入らなくなるくらいまで。
「アデリアの眼の前で俺を殺さなきゃなんも始まンねえんだろ? 殺れるモンなら殺ってみろ、女にタマぁ潰された下種野郎」

 咆哮を上げながらマークスへのザクへと挑みかかるクゥエル、二機が絡み合うシルエットを呆然と眺めながらアデリアは呆けたようにただそれを眺めている。それもそのはずアデリアにはあのザクを操っている人間が自分の知っているマークスとはどうしても結びつかない。
 あの機体はマークスの機体で、声も間違いなく彼のものだ。でも知りあってから今の今まであんなやさぐれた言葉づかいを聞いた事がない。え、ええ? とあまりのマークスの変貌ぶりに戸惑って思考が定まらない、その彼女の耳に突然飛び込んできたのが聞き慣れた彼の声だった。
「 “ ―― アデリア、聞こえるかっ? ” 」

 種類が。
 感情が変わっても涙は涙だ。目じりを伝って髪をぬらす思いを拭いもせずにアデリアは声を詰まらせた。「 …… マーク、ス。マークスっ、どうして ―― あたしっ」
「 “ 悪い、説明は後にしてくれ。今眼が覚めたばっかでちょっとくらくらする、それにそれほど余裕もない ―― 手短に言う、まずダメコンを解除して動力パイプの閉鎖を解け。オイル管理の項目からルートを選んで右側のオイルラインを少し開くんだ、動力パイプから少しオイルは漏れるけど流量を制限すれば一時的に右半身の機能は回復する ” 」
「りょ、了解っ! もう少し辛抱してっ、動けるようになったらあんな奴あたしが ―― 」
「 “ いや、お前はそのまま俺の後ろで待機。こいつはこのまま俺が相手する ” 」

                     *                    *                    *

「 “ 01再起動っ! 作戦完了ミッションクリアっ! ” 」
 グエンの報告を受けたハンガー前は再び歓声を取り戻して湧きかえり、ヘンケンは両手の拘束を解いてセシルは大きくため息をついてうなだれる。歴戦であろうこの二人をここまで緊張させたこの作戦がいかに綱渡りだったのかを思い知らせる仕草だと後ろで見ていたモウラは思った。
「これで俺たちがここでできる事は全て終わった ―― セシル、撤収準備」穏やかな声でそう告げるヘンケンに向かってセシルが尋ねる。「モビルスーツ隊にもその旨は伝えますが …… 03と04がまだ敵と交戦中です」
「あの二人なら大丈夫だろう」
 事もなげにそういうヘンケンに向かって一瞬驚いたセシルだったが、アデリアの性能を知る彼女はすぐに根拠が脆弱である事を咎めた。「フォス伍長ですか? 確かに彼女の戦闘能力は素晴らしいとは思いますがそれも生身での事、モビルスーツの操縦ではまだここへ強襲してきた敵には到底 ―― 」
「お前の言うとおりだ ―― モウラ中尉、すぐにここにいる全員をまとめて裏のヤードに向かってくれ。先頭は警備に残しておいた二人、グエンは上官の命令不服従で殿を務めろと伝えろ」セシルの言葉を聞き流したヘンケンは矢継ぎ早に指示を出してグレゴリーへと視線を送る。
「艦長? 」動き出す集団へと視線を向けながら彼女が尋ねると彼は意味深に少し微笑みながら言った。
「確かに最大火力では彼女の方が高いが、俺が言ってるのはもう一人の方だ」
「あの ―― 頭が銀色のボクですか? 敵に脇腹撃たれたくらいで気を失ったままウラキさんに助けられた意気地なし? 」
「 …… なにに怒っているのかは知らんが酷い言われようだな。だがそうだ、俺が言っているのは彼の方だ …… マークス・ヴェスト軍曹。彼についていた士官学校時代のあだ名、憶えてるか? 」刺々しい物言いに苦笑しながらヘンケンが尋ねた。
「確か『魔女のマークス』、でしたね。見た目を揶揄して生徒同士のいじめに使われたと資料で読みましたが」
「確かに内面を見ずに見た目だけで人をからかうなんてけしからん話だ、そう言う奴らが戦争では早く死んじまう。連邦の未来を憂うのもむべなるかなという心境になる …… が、それは生徒が彼につけたものじゃない」
 え? と表情だけで尋ねる彼女に向かってヘンケンが笑った。「そのあだ名をつけたのは士官学校の教官、それも実技教習を担当する連中だそうだ」

                    *                    *                    *

「すまないな、いろいろ忙しいのにこんな事頼んで」ヘンケンがそう言うと灰色の髪をしたその若い男は手にした資料の束を手渡しながら、歳に似合わぬシニカルな笑いを浮かべた。
「まあこっちもジャーナリスト志望なんでね、これくらいの事はもののついでというか ―― ところでなんで俺なんかを? 」公園のベンチで二人並んで腰かけながらヘンケンはその男にたばこを勧めると、彼は一本ぬきだしてポケットからライターを取り出した。
「一年戦争の英雄達、とりわけホワイトベース出身者という肩書なら軍も弱いと思ってな。君がその名前を出すだけで頭を下げる連中も多い」
「やめてくださいよ、そういうの。それに俺の素性を知ってる貴方の方こそよっぽど一声かけりゃあそンくらいの情報集まってくるでしょうに」そう言うと男はライターで火をつけたタバコを美味そうに一口吸った。「ヘンケン・ベッケナー中佐 …… まだ連邦軍、でしたっけ? 」
「君には教えてなかったんだが ―― なるほどな。だがそこのところは想像にお任せする、どっちにしても俺は大っぴらには動けん身の上だからな …… ところで、彼の事だが」
「ああ、例の首席」宙を見上げながら何かを思い出すように男が呟いた。「今オークリー博物館にいるんでしたっけ? かわいそうにねぇまだ若いのに。俺なんかよりよっぽど才能あるんだからちょーっと我慢すればなんとでもなっただろうに」
「そう、そこだ」ヘンケンが思わず男の横顔へと視線を向ける。「撃墜王の君から見てもそう思うか? 」
「士官学校卒業後出撃回数二ケタ、しかも全部残党狩りの先鋒で犬槍部隊捨て駒だ。生存確率は全部隊合わせて3パーセント以下、生き残ってる方がどうかしてる」資料に記載できそうもない裏情報を ―― それは独自に調べ上げたものなのだろう ―― 呟く男の横顔をまじまじと見つめるヘンケンの視線に気づいた男はニヤリと笑って言葉を続けた。 
「というわけで彼の士官学校時代の印象を聞きこんでみたんですが、おもしろい証言がありましてね ―― 実技の実戦教習で彼、教官相手に二度負けなかったそうですよ」

「二度負けなかった? 」
「そう。俺は士官学校なんて行ってないからよくわかんないんですけどね、実技教習っていろんな状況作って実戦形式で行うんですって? 生まれたてのひよっこをそんな所に掘り込んだらどんなに才能がある奴だっていいように手玉に取られてやられちまう、でも彼に関しては二度目がない。絶対に互角以上に渡り合ってきたそうです ―― ちなみに士官学校の実戦教官と言えば」
「大戦時のベテランかテストパイロット上がりだ …… そんなの相手に? 」眼を丸くしたヘンケンから視線を外して男はタバコを携帯灰皿へと放り込んだ。「どういう理屈かは知らない、ただ仲のよかった同級生が言うには彼はいつも負けた後に一人でシャドーを繰り返してたそうです」「シャドー? イメージトレーニングじゃなくてか? 」
「そんな生易しいモンじゃないって。その日に立ち会った教官の全ての動きを記憶して操縦桿で再現する ―― エアーでそれを繰り返す彼の集中力は凄かったそうで、教官の機体が後ろで見ている友達にも見えたそうですよ。だからイメトレじゃなくて、シャドー」
「相手の動きをコピー、なんて …… もしそんなことが可能なら」
「相手の動きに対応する操作をうみだす事もできる ―― 言うのは簡単ですが命の賭かってない所で行うのもなかなか。戦場でなら俺も経験ありますがなんかのはずみで出来ちゃったりすることもあるけど学生が使うスキルにしちゃあ物騒すぎる、でも教官たちは彼と再戦した時あまりのしぶとさに恐怖を感じたそうですよ。ついでに自分達のプライドもへし折られちゃって、やっかみ半分につけたあだ名が ―― 」
「 ―― “ 魔女のマークス ” 」

「ありがとう、よく調べてくれた」そう言うとヘンケンは右手を差し出し、男はニヤリと笑いながらその手を握る。「報酬は例の口座に、また何か調べたい事がありましたら俺でよければいつでも。事務所借りなきゃだからここンとこ何かと物入りで」
「なあ、ところで ―― 」自分が今までこの男に頼んだいくつかの調査は決して簡単な物ではない、だがその度に短期間で的確にレポートを上げてくるその手腕は目を見張るものがある。もしかしたら連邦にある一端の諜報機関よりも遥かに安価で確実かもしれない。新たに立ち上げる組織にとってこういう情報収集能力を持った人材はのどから手が出るほど、欲しい。
「俺、仲間 ―― って言うか友達? がいましてね」
 ヘンケンが口を開くより先に男は少し視線を宙に飛ばしながら口を開いた。「みんないいヤツなんだけどどうにも真っすぐすぎて俺からしたら見てらンねえんです。あいつらがやろうとしてる事は間違ってもねえしどっちかって言うと正しいとは思う、だから止めらンないんですけど。でもそれなら俺はあいつらと違う道を歩いてやろうかなーって」
「 …… 」
「もしかしたら俺が選んでンのは臆病な事かもしれない、でもそれでももしあいつらになんかあった時にそれが役立つ時が来るんじゃないかって ―― バカだからどうもうまく言えないんですけど」
「わかった」やはりこの男は本物だ、本物であるが故に決して曲げられない信念に基づいて行動している。そう思った瞬間にヘンケンは誘いを諦めて手を離した。
「もしかしたらこの先、どう転ぶかはわからんが ―― できれば君の友達とは戦いたくは、ないな」
「そう願います、俺も自分のお得意さんとはあんまりそう言う事したくないモンで …… じゃあまた」そう言うと男は踵を返して暮れなずむ公園の出口を目指す、が何かに思い当たったのかふと足を止めて振り返りながら言った。
「もしかしたら例の首席の彼、とんでもない掘りだしモンかもしれませんぜ? 俺の友達アムロには敵いそうにないけど」

                    *                    *                    *

「あのボクにそんな才能が …… ? 」どうやら一度つけられたレッテルはなかなか剥がせるものではないらしい。疑惑と信用が入り混じった顔で呟くセシルを見ながらヘンケンは小さくうなづいた。「俺がその調査を依頼したのが去年の秋、士官学校を卒業してから三年弱。そのあいだに軍曹はどれだけの戦いに参加してここまで生き残った? もしその間そのスキルを常に磨き上げ続けているとしたら」
「実力は『ジャック・オー・ランターン』 …… 今のジャックやアダムとほぼ同等」
「それもこれも明日まで生き残れれば、の話だがな」そう言うと彼はいまだにかすかに疑惑の念を浮かべる副官を眼で退避路へと導く、ゆっくりと後を追いながらヘンケンは出口で立ち止まり、ついに最終局面を迎えたオークリーの空へと視線を向けた。あと二時間弱で夜が明ける、白み始めるほんの少し前に夜空が見せる漆黒の闇。
「 …… だが軍曹一人の力だけでは勝てない、伍長だけでも無理だ。戦略戦術技術経験全て優れた相手から勝ちをもぎ取るには ―― 」祈るような視線を一瞬だけ向け再び出口を目指す、背中で手向ける彼のオーラがまるで後光のように山の向こうで命を賭ける二人の背中を押す。
「 ―― 二人でやるんだ、『クラッシャーズ』」



[32711] Crushers
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/03/31 22:11
 なんだこいつッ!?
 それが最初の一撃を受け止められた正直な感想だった。確かにアデリア・フォスとの戦いでの損耗は深刻でダメージも大きい、だがそれでも死に損ないの旧式に後れを取るほど落ちているはずがない。振るったマチェットの刃先は間違いなく相手の刀を押し込んで先手を取るはずだ。
 だがその一撃がいとも簡単に押しとどめられただけではなく同等の力で拮抗する ―― 右手首から先を失ってオイルを滴らせたままの、こんなポンコツにっ!?
「くそっ、このガキっ! 」吠えながらフットペダルを踏み込んだガザエフの前から突然姿を消すマークス、止めた刃を体ごといなして位置を入れ替えた彼のマチェットがすかさずよろけるクゥエルの背中を襲う。がら空きになったバックパック目がけて繰り出される斬撃が届いたと思った刹那、果たしてクゥエルは素早く地面へと転がって重篤な損失から逃れ切る。
「ハッハアッ! どうしたクソ野郎、みっともねえなぁ! はじめのころの威勢はどうしたっ、さっさと殺ってみろって! 」
「言わせておけばこのガキっ! 今度はお前をそこから引きずり出してあの女の眼の前で真っ二つにぶった切ってやるっ! 」
「やれるモンなら ―― 」上半身を起こしたガザエフに向かって無造作に詰め寄るザクの眼が闇にも赤い。
「やってみろっ! 『魔女』なめンなコラァッっ!! 」

 外部スピーカーで敵を煽りながら互角に渡り合うマークス、だがその操作は煩雑かつ綱渡り極まりない。すでに大量のオイルを流出させてしまった彼のザクに連邦の最新鋭とやり合うだけの力は残ってはいない、だがそれでもたった一つだけ ―― ほんのわずかな間敵と拮抗できる手段を彼は思いついていた。
 それは手動操作によるオイル管理。
 攻守の際に最も負荷のかかる部位に対してオイルの流入量を増加させてダンパーやシリンダーに通常時と同じパワーを、そのほかには駆動に必要な最低限の量を流して稼働状態を維持する事でこちらの損傷率を敵に錯覚させる。それが有効なのは奴が当初の目的を忘れてこちらの撃破に躍起になっていることからも分かる。
 だが敵の次の動きを完全に読み切ってラインを操作するのは尋常じゃない集中力が要求される、しかも正面のモニターは大きく切り裂かれて戦車のキューポラ程度しか視界がない。なんとか敵に悟られないように左右のモニターを使って相手の動きを捉えようとするのだが、もしアデリアが奴をここまで削ってくれてなかったらこんなハッタリは通用しなかったかもしれない。それと。
 “ …… これが、ニナさんのプログラムの真髄、か? ”
 起動ディスクに搭載されたインテリジェント・レコードは戦場で得たデータをリアルタイムで更新してすぐに各システムへと反映する。ガザエフの攻撃を一身に受け続けた結果マークスの機体には彼の戦闘パターンが残らず記録されている、傷つけられた機体と同じ数のデータが刻み込まれたニナの『ギフト』は主人の意志に従って機動パターンの最適解を構築し続けていた。
 “ もしこれがまともな状態だったら …… じゃあもしかしたらアデリアも? ”
 その可能性に行き当たったマークスが思わずサイドスクリーンの端でいまだに横たわったままのザクへと眼をやり、心配する彼の視線を感じたかのようにアデリアの怒鳴り声が響いてきた。
「 “ な、なに言ってンのよあんたっ! そんなボロボロの機体じゃそいつに勝てっこないわよっ、まだ寝てンの!? ” 」
 いかにも彼女らしい物言いにマークスの口元が綻んだ。

 マークスの指示が決して教科書通りじゃない事は同じ士官学校で学んだアデリアも知っている、だがそれが彼が今まで積み上げてきた経験則に基づいている事に気づいた彼女はすぐにダメコンを解除してインフォメーションの項目を呼びだした。これで事態が復旧できるという事はそこまで損傷率が高くないという証拠、オイルが右半身に回ればまだ戦える。
「オイルが戻れば今のあんたよりはよっぽどマシに動けンのよっ! いいからあたしの言う事聞いてっ! 」
 それはもう二度と失いたくないというアデリアの懇願だ、オイルプレッシャーの数値を真っ赤な目で睨みながらこみ上げる想いを口にする彼女だが説き伏せられる側の彼の声は冷静だった。「 “ こんな一時しのぎで勝てるほどあいつは甘くない ” 」「ならっ! ―― 」
「 “ でもお前だけでも多分勝てない ―― 違うんだ、アデリア ” 」

 それは二人の戦いを俯瞰して気づいた違和感の正体。今のままでは勝てないと告げた心の声の根拠。
「伍長の秘密を知ったあの夜、俺たちはニナさんになんて言われた? 」

 彼女の生き方が間違ってると自分のエゴをぶつけて互いに罵り合ったあの日。
 偶然に開いてしまったコウ・ウラキという幻のデータを前にして彼女はあたしたちになんて言った?
 どうなってほしいと望んでたの?

「 …… 隊長の …… パート、ナー 」
「 “ そうだ ” 」

 まるで頭の中を覆い隠していた黒い霧が一気に晴れるような勢いで今までの記憶が鮮明に蘇る、何度も繰り返した隊長との演習。その後に言われたみんなからの忠告。
“ 実力的には全く歯が立たないエースでも相手は所詮一人、1対1では敵わなくても3対1ならばもしかしたら生き残る事が出来るかもしれない。その為に隊長は自分の持ってる技術の全てを全部隠さずにあんた達に使ってるんだ ”
“ だからこそ私達は貴方達に生き残って貰いたい。その為には私達の持ってる全てを継ぎこんででもそのやり方を教えるわ ”

「 “ 俺たちは一人で戦うやり方を知らない、みんなはそう教えてこなかった ―― 分かるか? ” 」

 相手の存在の大きさに呑みこまれて忘れてしまった本質、オークリー基地に所属してマークス・ヴェストという相手の下で働くアデリア・フォスであるための根源。ここにきてから今までいろんな人に支えられて手にしていた新しい、力。
 ―― あたしたちは。

「どうすればいい? 」

 離れた場所でリンクする不敵な笑みがかつての絆を取り戻す ―― 『クラッシャーズ』は健在なり。

「OKアデリア、俺が奴の動きを止める。その後お前がこいつを仕留める …… 簡単だろ? 」忙しなく両手を動かして肉薄してくるクゥエルをキューポラの隙間で捉えながらそっけなく告げるマークス。
「 “ ちょ、作戦それだけ? ほんと大雑把なんだから、もうちょっとこまかい指示とか ―― ” 」
「周りを見てみろ、お前と奴がやり合ったおかげでずいぶんと基地から離れちまったが ―― 」林を抜けた所から始まったクゥエルとのバトルはいつの間にか山間を抜けて開けた場所へと迫りつつある、闇に溶け込んで景色は見えないがそこには砂漠へと続く猫の額ほどの草むらが点在している。「 “ ここって ―― ” 」

                    *                    *                    *

 これが本当のドム・フュンフこの子
 瞬間に発生した一挙動だけでニナはこの機体の持つ潜在能力を理解した。重モビルスーツにカテゴライズされたドムという機種をいとも軽々と動かす瞬発力、そして圧倒的なパワーは多分一号機にも匹敵する。一年戦争初頭に基礎設計が考えられた旧式とは思えない機動力に彼女は、先人達の発想に畏敬の念を抱くとともに戦争という舞台が持つ恐るべき進化の力を思い知った。
「大丈夫か、ニナ? 」頭上から降り注ぐ穏やかな声と共に自分を固定していた足の力が緩んでモニターが点灯して、正面に映り込んだ黒塗りのクゥエルが振り向く姿を視界に収めながらコウの指がマスターアームのスイッチを入れる音がする。
「今のうちに後ろへ下がって。シートベルトはしっかり固定してHANSも忘れずに ―― これから激しくなる」コウに促されたニナが素早く足の間を抜け出して後部シートへと体を納める、シートベルトをバックルに差し込んで首の固定をしっかりと確認した後に彼女は再び手の中のラップトップを開いてテレメトリーの数値を確認した。
「フュンフ再起動 ―― 全機能アクティベート、システムオールグリーン …… とはいかないわね。左腕欠損部の応急処置開始、左腕オイルラインを上腕部でバイパス。動作異常なし」
「了解。01からバンディッド、これよりオーダーを続行する。繰り返す ―― オーダーは続行」
 スロットルをミリタリーに押し上げるとキュイイという音と共にジェネレーターが唸りを上げる、ロングソードを抜き放って敵に正面を向けたフュンフを目にして初めて彼らは自分達に狙いをつけた手負いの獣へと刃を向けた。

                    *                    *                    *

 一度息の根を止めたはずの相手が再び立ち上がって自分と会い見える、だがさっきまでの奴と今では全くの別人だ。受けこそ不安定だがそこから派生して繰り出される斬撃は鋭くて速い、これでは ―― あの女と対峙した時の俺ではないかっ!
 理解できない現状が恐怖を産み、それをねじ伏せるために怒りを増幅させる。自分の持てる技術のことごとくをコピーして挑んでくる格下に後れを取る事など許されない、傷つけられたプライドがガザエフから理性をはぎ取って本性を露わにする。「くそっ! 貴様のせいで、きさまなんかにっ! なんできさまはいつもおれの邪魔をしやがる、きさまがいなければおれはきもちよく! 」
「キショいんだよクソ野郎っ! そんなに気持ちよくなりたきゃ一人でやってろってんだ、思春期のガキかてめえはっ!? 」嘲りながら渾身の打ち込みを受け止めて放つ火花と共に切っ先へと受け流す、互いに欠けまくった刃はすでに切れ味を失い装甲を深く抉る事すら困難だ。原初の殴り合いの様相を呈してきた打ち合いを続けながらマークスは少しづつ周囲の地形を確かめる。
“ 場所を間違えるな ―― 俺が引っかかったら全部台無しだ、勝ち目どころか絶対に二人とも死ぬ ”
 そこへと敵を誘い込むには演技が必要。互角以上の戦いを少しづつ控えながら徐々に前進と後退を繰り返す。奴のプライドをくすぐりつつ決して気取られないように煩雑な作業にのめり込む彼に向かって頼もしい相棒からの待望の一報が届く。
「 “ マークス、こっちの右半分の機能は回復。でもやっぱり機体各部のダメージが酷くて長い間の至近戦は無理っぽい ” 」

 自分にもあんなスキルが使えたら、とアデリアはモニターの向こうでクゥエルと渡り合うザクを見て思う。右半分の機能は回復したもののガザエフとの戦いで相応のダメージを追った機体の機能は予想以上に低下している。マークスのように機械工学に優れた者ならば何らかの手立てを思いつくのだろうが自分にそこまでの知識はない ―― 流石『幻の首席』。
「 “ 上等だ。お前の仕事はただ一つ、あいつに止めを刺す事だからな。それよりちゃんとヒートサーベルは拾っとけよ? いざという時に得物がないんじゃシャレにもならない ” 」
「わ、わかってるわよそんな事くらいっ! そっちこそいざって時にへましないでよっ!? あんたと心中ってンなら構わないけどもれなくオマケがついてくンだから! あたしやだよ? あんなのといっしょにあっちに行くのはっ! 」
「 “ お、おお。わかった ―― もうちょっとでポイントだ、すぐに準備にかかってくれ ” 」
 何とも微妙な反応を残してマークスからの会話が途切れる、状況とは相反する緊張感のなさに思わず憤慨したアデリアだったがガザエフに悟られないようにそっと機体を動かした瞬間。
“ …… あたし。今、なんて …… 言った? 『あんたと心中』 、って ”
 自分でも思わず口にしてしまった告白にアワアワしながら顔を真っ赤にして全身を震わせ、急激な心拍数と血圧の上昇を確認したスーツの生理管理システムが警告音を上げて体調の異常を知らせる。驚いたアデリアがそのままの顔色で外部スピーカーのスイッチを閉じて、外に聞かれないようにコックピットの中で大声を上げた。
「うるさいうるさいうるさいっ! そんな事自分で分かってンだからあんたは少し黙ってなさいッ! 」

 幾度も通った見慣れた地形を目で追いながらマークスは自分が決戦の場に選んだポイントへとガザエフを誘う、脳が焼き切れ指先から腕まで攣りそうな痛みに耐えながら必死で刃のやり取りと駆け引きを繰り返しながらやっとの思いでもう少しの所まで辿り着いた時突然クゥエルの動きが止まった。
「!? 」
 不吉な予感に煽り文句も止めてキューポラからクゥエルの様子を眺めるマークス、額から落ちる大量の汗が乾いてこびりついた血のりの上を滑って床へと滴る。
「 ―― このガキ、よくも」
 
 機体をあの女との戦いで傷つけすぎた、長い間コックピットに座りすぎた、体力を使いすぎた ―― クソがっ!! くだらねえ!
 あのクソ忌々しいくそガキ一人ぶち殺すのに何を四の五の言い訳してやがるヴァシリー・ガザエフ、てめえがもたもたしてやがるからあんなのをつけあがらせちまうんだ!
 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せッ!! さっさと、すぐに、はやくっ!
 真っ二つにして引きずり出してぐちゃぐちゃに踏み潰してそこらのゴミに変えてやれっ!!
 
「 …… うわ」
 殺気などという言葉が安っぽく思えるほどどす黒くておぞましい気配がクゥエルの全身から湧きあがりマークスを震え上がらせる。今すぐお前を引き裂いてやると言わんばかりの闇の現出、むき出しになった無数の刃が生え揃った絶対死の顎。戦い方や殺法に奥義などはなく唯一魂に込められたポテンシャルの優劣だけが全てを決するという奴なりの答え。
「 …… これを、まってた」
 圧倒される恐怖を上書きするように凄絶な笑みを浮かべたマークスが歯をむき出しにして左手のマチェットを構える、切っ先を正面に突きつけたまま圧に屈したかのように少しづつ後ずさりを始めるザク。逃げる事など許さじとじりじりと距離を詰めにかかるクゥエル。
「も、もうダメだ。か、かくごしろガキっ ―― いま、いまおまえをここでま、まっぷたつにぶったぎってあのおんなにみせつけて、そ、それっそれからっ」
 これが本性、一人の人間が妄執の果てに辿り着いた羅刹。
「も、もうもうすぐもうっすぐっおまえのっはらわたであのおんなァ ―― ころっ、ころ殺してぇェェっッ!! 」

 その領域に一度足を踏み入れた彼女はそれがどういうものだか知っている。
 自らを阻む者を誅殺せずにはいられない欲望と命も含めて一切の事にこだわらない執着と迎える結末に目を背ける無謀。魔とはいつも心の傍にいていつでも取って代われるようにその牙を研いでいる、そしてひとたび現出すればそれを止める術など持たない。狂化バーサクとはそれほど甘美で頼りがいのある禁断の依代なのだ。
 見過ごせないとばかりにスロットルをミリタリーまで上げて参戦を決意するアデリア、ジェネレーターが唸りを上げて各部のモーターへと電力を供給し始め再起動。だがそこで彼女はマークス機に起こった変化に思わず声を上げた。
「まっ、マークスっ!? あんたなにする気っ!? 」

 操作パネルの隅に置かれた縞模様のレバーを倒した途端にフロントモニターの周囲で鳴る炸裂音、フロントハッチに仕込まれた爆砕ボルトが全て点火して正面装甲をパージする。緊急脱出装置が作動したコックピットは示された手順通りにパイロットの脱出経路を確保したが、暗洞の真ん中でシートに座ったままの銀髪の青年士官は顔半分を自らの血で赤く染めたまま嗤笑の極みとも言うべき表情をクゥエルへと向けた。
 吹き込んでくる生温かい戦場の空気はコックピットという殻の中に閉じこもっていた自分とはまったく無縁のものだった、だが今全身にまとわりつくそれは心のどこかに潜んでいた残忍な感情を解放する。
「こんな出来そこないにからかわれて悔しいかぁ? ガタガタいい訳考える前にさっさと殺ってみろよ、この三流まがいの下種野郎ぉッ!! 」
 
 理性の箍が飛んだ音が聞こえる。
 その瞬間にガザエフの頭の中から全ての目的が弾け飛んで手段だけが生き残る、手にした刃を思う存分に振るってあの生意気な口をズタズタに引き裂いてやりたい。いやそれだけじゃ生ぬるい、三途の川の畔に立ってあの女の前でそのそっ首掻き切って川面を全部真っ赤に染め上げてやりたいっ!
 ザクの胸に開いた空洞の中で高笑いしながら吠えかかる出来そこないなどに俺の高尚な世界を語るのも汚らわしい、今すぐ地獄に送ってやるからそこでおとなしく嗤っていろっ!


 気合いともつかぬ嬌声を上げながら飛ぶように迫る黒い影、ただ一点へと収束する殺意の穂先は人外の領域にある猛禽の嘴。命を求めて殺到するマチェットの切っ先が高々と振り上げられて一瞬先に控えた絶死の境界を易々と踏み越える。


 刹那に下した判断に本能が介入する余地はない。マークスの思考回路はその一瞬に全ての台本を書き終えて勝ちへの道筋を構築する ―― それは彼が他を圧倒するほど熾烈な戦いを見せたアデリアとガザエフに示す否定だった。
 論理ロジック
 欲望や本能に身を委ねて力を振るえば勝敗を決する要因は力の優劣でしかない。より力のある者が勝ち、届かなかった物は一敗地に塗れて命を失う。だがそれでは戦場での偶然は説明がつかない、自分のように経験の浅い新兵が生き残って歴戦が死ぬ事の因果が成り立たない。
 それを『運』の一言で片づければいいだけの話 ―― だがマークスは自分が今まで生き延びてきた理由を考え、いつも追い求め続けてきた。
『負け』に不思議がないというのなら『勝ち』にも不思議がある訳がない、と。

 
 接近警報がヒステリックに泣きわめくコックピットの上でマークスは頭の中で構築していたイメージをすぐさま形にして手足を動かす、まずは左手。


 それはマークスへと視線を注いでいた二人にとっても予想外の出来事だ、少なくとも攻守の要であるマチェットを自ら手放すとは。掌から飛んでいく刃の軌跡を追いながらアデリアは声にならない悲鳴を上げて思わず立ち上がり、ガザエフはその気配にほんの少し意識を割かれる。わずかに残った兵士としての本能が脅威からの距離を計って危険がない事を判断する ―― 。


 モニター越しでは気づかないわずかな変化。むき出しになった五感が伝えるガザエフの正気にマークスの手足が備えを始める。
 もしアデリアが隣にいたのならそれはあの日、基地の食堂で人の話も上の空で繰り返していた動きだと一目でわかっただろう。左手を前に翳して構える左自然体、送るオイルは最小限。ほとんどは次の行動のために下半身へと集中している。ダメージアラートが点滅して遂にオイルの総量が行動限界の下限を越えた、全身を動かせるのはあと一回が限度。
 ―― 上等っ!
 黒い影が間合いを越えて大上段に振りあげられた刃が天からなだれ落ちてくる、その瞬間マークスの両足が左右のペダルを思いっきり床まで踏み抜いた。

 
 まるで当て身の勢いで迫るザクの構えが瞬時に右自然体へと変化してガザエフの目の前へと迫る、再びのショルダータックルを思い出した彼はマチェットの刃を確実に当てるためにサスペンションが悲鳴を上げるほどの勢いで急制動をかけ、そしてそれはアデリアが思わず奥歯を噛み鳴らしてしまうほど完璧に成功した。慣性を下半身全部で償却しながら正中線を崩すことなく一直線に胸部目がけて落ちてくるボロボロの刃、だが生身一つ引き裂くには十分な威力。
 だが彼の思惑とマークスの狙いは違った。接触しそうになった肩アーマーがさらに内側へ、そして最終的にクゥエルの機体へと接触したのは背面のバックパックだった。ぐしゃりと潰れる空っぽの箱があげるいやな音と予想外の事態に仕切り直しを試みようとするガザエフ、だが。
「!? 腕が!? 」


 三本のペダルを順序良く踏み変える超信地旋回、だがマークスが最初の一本を踏んだ段階でニナのソフトが後の二本を自動的に動かした。人には不可能な領域速度でのコマンドに脚部のモーターが悲鳴を上げて膝関節のシリンダーがバキリと折れる、だが旋風の如く翻した背中がクゥエルの胴体に接触する寸前に彼は下半身のオイルを全て残った左腕へと送り出していた。泣き叫ぶブザーと共にザクの機能が瀕死に陥った事をAIが伝え、しかし聞く耳を持たないマークスは油圧が抜けて崩れ落ちようとする腰から下に最後のアクションを要求する。
「踏ん張れぇっ! 」
 手ごたえのない最後のペダルを渾身の力で踏みつけ、無理やり回したモーターが過熱して煙を上げる。潰れた間合いに降り注いできた右手を肩でしっかりと受け止めてから手首を掴んで ―― 。


 彼女がそれを忘れるはずがない。受け止められた右腕を肩に担がれてふわりと浮き上がるクゥエルはあの日のマークス、オベリスクの根元でいとも簡単にあしらわれたあの時の。
「あのエロおやじのっ!? 」
 独りでに伸びた背筋が相手の体を乗せて自由を奪い、掴んだ右手を最後の力で自分の体へと巻き込むように引き付ける。鮮やかに投げ飛ばされるクゥエルの軌跡を見た瞬間にアデリアは両のペダルを踏み込んで一気に前へと駆け出した。

 
 今まで出会った事のない重力変化にクゥエルのAIは焦って当てずっぽうのアラームを断続的に流し始める、だがガザエフは自分の置かれた状況に驚くほど冷静な対処を始めていた。至近戦を生業として負けなしの彼にとってこの程度の苦境は稀ではあるが経験があり、それへの対策はすでに織り込んでいる。鍵は地面へと激突した瞬間の衝撃への対処とその後の体勢復帰、背中のバックパックが潰れることである程度のGは吸収できるし後は手足のダンパーを全部ルーズにすることで叩きつけられた時の衝撃を相殺すれば事足りる。
 空中転回をするコックピットの中でそれらの作業を続けざまに完了できる彼の能力は撃墜王を名乗るのにふさわしいスキルだ、そうして地面へと叩きつけられたところで全ての機能を回復して油断している相手に止めを刺す。過去の戦場を振り返りながらガザエフは地面へと叩きつけられる勝利の瞬間に全てを備えた。


 草むら目がけて背中から叩きつけられるクゥエルの姿を生の至近距離で見つめながらマークスは即座に相手の右手を掴んだマニピュレーターをロックしてこの後にきっと来るアデリアの攻撃を援護する。ひしゃげるバックパックに残った推進剤に火がついて彼の顔を明るく照らす ―― 無駄な動きをせずにおとなしく投げられるその様を見てマークスは相手がすでに反撃の体勢を整えている事を信じている ―― やはり。でも全てにおいて自分達を上回る技量をもつ相手を嵌めるには意表をついた手段しかない。
 そのためにこの場所を決戦の地に選んだ。外界から隔絶された忘却博物館で働く人間しか知らない情報、取るに足らない些細な事だが今はそれがこの屈強な相手を仕留めるための最後の切り札。


 その違和感。
 いくら対策を施したとはいえその高さから落とされれば相応のダメージを受ける事は必至、耐ショック姿勢を取りながらその時に備えていたガザエフは予想外の柔らかな衝撃に驚いた。それはまるでふかふかのクッションへとダイブした時に味わう奇妙な安心感 ―― だがそれは戦場において死に直結する最も忌むべき予兆。
「な、なんだっ!? 」一瞬で我に返ったガザエフが思わず手足の機能をリコネクトして体を支えようとする、だが大地を掴むはずの手も踏ん張るはずの足もぐずぐずと崩れる地面へとめり込んで思うとおりに動かない。「ここはっ!? 」
「オークリー名物、野兎達のコロニーだ」
 今まで煽りに煽ってきた目の前の男とは思えないほど落ち着いた声音が彼の耳へと忍び込む。「この一帯は特に巣が多い場所でね、あんたが寝転んでる場所は昔からここを住処にしてる彼らが何層にも穴を掘って暮らしてるんだ。彼らには申し訳ないが ―― 」
「こっ! こんな子供だましで俺をっ! 」
「思ってない」短く告げたザクの体が全ての機能を失ってゆっくりと沈んでいく。「俺に出来るのはここまで。でもあんたは忘れてる ―― 」その時ガザエフのモニターに空から舞い降りてくる大きな影が映り込んだ。

 これが最後の推進剤だっ!
 アデリアが目いっぱいバーニアを吹かすとミスファイアを起こしながらカーキ色の機体が宙に舞う。サーベルを逆手に構えて切っ先を真下に向けたそのザクは緩い放物線を描きながら一直線にクゥエル目がけて迫りくる。思わず迎え撃とうと動かす右手のレバー、だがそれはびくとも動かない。「! こ、このガキっ!? 」
 役目を終えたオリーブ色のザク、だが彼の左手だけはクゥエルの右手のマチェットごと体に巻きこんだまま離さない。「 ―― 俺たちは」

「うわああああっっッッ!! 」コックピットの中で逆立つ髪と大きく見開かれた鳶色の瞳が悲鳴と共に空を駆け、モニターの中央に浮かんだピパーが大きく映し出された黒い影の中心へと狙いを定める。目まぐるしく変わる数値もグラフも関係ない、アデリアの全てはただ一点へと注がれている。
 それは自分の過去の全てをここで断ち切るため。
 決して先は見えないけれども明日という未来を。
 いつも隣に立っているマークスと見続けるために!
「いやだっ! 俺だけ死ぬのは嫌だ、お前は俺と一緒に向こうへ行かないとお前が俺のように穢れてしまうっ! だから俺は ―― 」踠きながら放たれるガザエフの絶叫が周囲の木々を震わせて夜空へと響き渡る。九分九厘手にしていた切望を取りこぼして一番望まない形での結末を迎えようとしている不運 ―― 一体何をどう間違った。
 おれはどうすればよかったんだぁっ!?

「 ―― 『クラッシャーズ』だ」

 どちらが先に届いたのか?
 着地とともに巻き上がる泥土の隙間から垣間見える赫光がクゥエルの装甲を貫いて深々と根元まで突き刺さり、その瞬間地面に潜っていたはずの左手が高々と差し上げられて切断されたザクの動力パイプを掴んで思い切り引き寄せる。サーベルを掴んだまま渾身の力でガザエフの遺志に抵抗するアデリア、拮抗する力はやがてそのパイプを根元から引きちぎって欠片だけをその手に残して終わりを告げた。コックピットを破壊した事で起こる全動力の喪失を確認したアデリアがクゥエルの上にへなへなとへたり込む。
「 …… お、わ、ったぁ」
 何度も喘ぎながら精も根も尽き果てたとばかりに力なく呟いて大きな呼吸を繰り返すアデリア、緊張から解放された事で始まる全身の痙攣と生きている喜びに溢れてくる涙を抑えることもできずに彼女はじっとモニターの中で沈黙するクゥエルとインフォモニターを眺めている。損傷率は実に5割を超え特に下半身の各部は内部機構の損傷が著しい、もはや立つことも怪しくなったザクに向かって彼女は微笑みながら言った。
「最後までよく頑張ったね、勝てたのはあんたのおかげだよ。ほんとに …… ありがと」
 まるでその声に答えるかのようにヒューンとジェネレーターの出力を落とす機体、彼女は前面のパネルから起動ディスクをイジェクトするとすぐに胸ポケットへと収めてコックピットのハッチを開けた。生温かい戦場の風に長い髪をたなびかせてアデリアはすぐに地面へと飛び降りる、まだそこにいるであろう頼もしい相棒を出迎えるために。

「マークスっ! 」
 ぐずぐずになった地面をよろめきながら駆けあがってくるアデリアを見つけたマークスは疲れ切っていながらも微笑んで彼女を出迎えた、だが遠目には見えなかったその傷を見た彼女の血相がみるみる変わる。「ちょっ! どうしたのその怪我っ、顔半分血みどろじゃないのっ!? 」
「ああ」緊張の糸が切れたのはマークスも同じだった、慌てて走り寄った彼女の体に思わず寄りかかってしまう。彼の体を抱きとめたアデリアはそのままその場へと座り込んだ。「やっぱり無理してたンじゃないっ! そンなンだったらやっぱりあたしがあんたと変わっとけばよかったっ! 」
「 …… そうだった、かもなぁ ―― そんなにひどいか? 」
「色男がすっかり台無しよっ! ちょっとそこで待ってなさい、救急キットとってくるからっ! 」

 応急処置を終え頭を包帯でぐるぐる巻きにされたマークスがぼんやりと黒いクゥエルを眺めている。手の中にある起動ディスクを何度かポンポンと叩きながら隣に座っているアデリアに言った。「 …… 勝った、んだな。俺たち」
「うん」
 どこか誇らしげに小さく頷くアデリアへと目をやると同じように顔を上げた彼女と視線が合った、思わずドキッとして慌てて視線をそらす二人。「そ、そういえばさ」なんとか微妙なこの空気を変えようとアデリアがマークスに尋ねた。
「あんた、ずいぶんあいつの事罵ってたけど今まで一度もそんな言葉遣いした事なかったじゃない? 一体どこであんなの覚えたの? 」
「 ―― モンシア大尉」
「はい? 」意外な人物の名が上がった事に思わず振り返るアデリア。「 …… や、あの時の演習を思い出してなんとか大尉の言葉遣いを真似てみようって思ったんだけど ―― ダメだったか? 」
 なんともばつが悪そうに答える彼の姿を見たアデリアが思わず爆笑した。「あっははははっ! なによそれっ!? ダメもダメ、大ダメよっ! あれじゃまるで大尉が町のチンピラみたいじゃないのっ!? 」
「もしどこかで本人に会っても絶対に言うなよ? どんな目に会うか分からないんだから」
「さーって、どーしよーかなー? 」悪戯っぽく笑いながら立ちあがって踵を返すアデリアと困った顔で口をパクパクさせるマークス、その時アデリアの足がピタリと止まって耳へと手をやる。
「やっばーい、モウラさんからだ。連絡入れるのすっかり忘れてた」

「あんたたち無事っ!? 何度呼んでも返事しないからこっちはどうしようかって心配してたんだよ、終わったンなら連絡の一つもさっさと寄こしなっ! それでも軍人かいっ!? 」キースの事は棚上げにして二人を猛烈にしかり飛ばすモウラだったが、チャットを介して二人の戦況を把握していたのはチェンのおかげだ。ただ明らかな苦境に立たされ続けた事をおくびにも出さずに淡々と事実だけを伝え続けたこのオペレーターが、勝ったと分かった瞬間に小さく拳を握りしめた事をセシルは見逃さなかった。
「 “ ご、ごめんなさい。04は無事、03は頭部裂傷の軽傷ですが応急処置は済ませました。ただ03・04ともモビルスーツは行動不能、パイロットは自力でこの場を脱出します ” 」
 勝利の報告に避難待機するヤードが再び歓声に包まれる、周囲の空気に逆らうように大きくため息をついたモウラに向かってヘンケンが笑いながら自分の携帯を叩いて通話の交代を求めた。
「バンディッドから0 ―― 」言いかけたヘンケンが何かを思い出して言い直す。「 ―― クラッシャーズ、よくやった。君達二人の健闘をたたえてこちらから迎えに行きたいところだが」

 幾度かの返答とわずかな抗議を繰り返した末にチャットから抜け出したアデリアの表情は冴えない、不審そうに見つめるマークスに向かって彼女が尋ねた。「ねえ、あんた ―― 走れる? 」
「へ? 」思わず声を上げたマークスに向かって彼女はいかにも納得がいかないという体で頭を振った。「基地の生き残りはこれから避難用のトラックに乗って緊急集合場所に向かうンだって。あたしたちは夜明けまでにそこまでなんとしてでもたどり着けって」
「夜明けって」思わずマークスが腕時計へと視線を送ると時刻は午前4時を指そうとしている。「 …… あと一時間もないじゃないか、なんでそんな」「さあ? 」
 そう言うとアデリアはポンポンと自分の両腿を叩いてストレッチを始めた。「でもまあいいんじゃないの? あン時の事考えたら片道だけなンだし、なんとかなるでしょ」
「あの時だって結果的には片道しか ―― 」「つべこべ言わない、軍人でしょ? 」
 そう言うとアデリアはやれやれと肩を落とすマークスに向かって満面の笑みで振り返ってその手を差し伸べた。
「さあ、帰ろう? 『家』に」



[32711] This is what I can do
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/05/01 16:09
 ガザエフと戦っている最中には手も足も痙攣するほど酷使してきた体が今は飛ぶように軽い。状況が終了した事で得た情報はどれもこれも耳を覆いたくなるほど悲惨な物だったがその中にも吉報が一つ、キースが生きていてしかも敵のタンクを撃破したという物だった。自分達と同じように身一つで集合場所へと向かっているとのモウラの言葉に今までの疲れが吹き飛んで、はやる気持ちが二人の足を無意識のうちに速めてしまう。
 だがアデリアにはどうしても心に引っかかる懸念材料があった。「なんでニナさんそんな無茶な事をっ! よりにもよってモビルスーツに同乗するだなんて! 」
 01のコールサインを持つウラキ伍長が出撃して一瞬で二機を血祭りに上げた所までは百歩譲ってよしとしても彼女が乗っているとなると話は別だ、非戦闘員を乗せたままの状況開始など非常識もいいとこだ。そんな所でもし何かがあったとしても今の自分達じゃ助けに行けないではないか。
 憤懣やるかたないという風情でなおも走り続ける彼女の隣で歩調を合わせるマークスが遠目に見える基地の方向へと心配そうな視線を送る。「基地での戦闘はまだ続いてる、騒がしいのが伍長達の無事を保証してるって事だけど ―― 」
「わかってる」悔しさをかみ殺したアデリアの口調が重い。「でも覚悟なんてできない。もしニナさんが死んじゃったって言うんなら絶対に許さない、あたしがいつかあいつらも伍長も全部まとめてぼこぼこにしてやるんだから」
「 ―― 手伝うよ」

                    *                    *                    *

「全機散開っ! 」
 凍りついた空気を振り払うようにケルヒャーが怒鳴ると三機のクゥエルは弾けるように三方へと飛んだ。ハンガー前で一瞬にして2と4を墜とした腕が本物なら一塊になる事こそ危険だ、一瞬で取って喰われる。「奴の武装は長物一本だけだ、中近距離からの銃撃で攻撃しろ。近接戦闘は絶対にするんじゃないっ! 」
「 “ トーヴ1、各機の残弾が残り少ない。銃を使っての攻撃にも限界があります ” 」露呈する小隊の弱点に思わず舌打ちをするケルヒャー、まさかこんな時間いっぱいまで敵に粘られるとは思いもしなかった彼は予備携行の弾薬をいつもより少し多くの量しか用意していなかった。ハンガー攻略の最中に底をついたコンテナはすでに滑走路の脇へと投棄して残りは各機のハードに取り付けられている数だけ、多く見積もっても各員4マグ80発。
「タリホー1と3はツーマンセルで奴を追いたてろ。ラース2はキルゾーンを敵の予想針路上に設定、先回りしてアンブッシュを仕掛ける。いいかラース2? 」
「 “ 了解 ” 」
「たとえ討ち取れなくてもお前は必ず敵をそこで釘づけにしろ、1と3はラース2ごとありったけの弾を敵に撃ち込め。必ずここで奴を仕留めるんだ、いいな? 」

 三機が弾けた瞬間にコウは各機の速度を見ながら最も効果的で残酷な順列をつけている、だがその結果を判定するより先に後席から彼女の声が聞こえた。「高脅威α・β・γ 等間隔に散開、移動速度αマイナス2・βプラス0.5・γマイナス3。脅威度β・α・γ」
「 …… 凄いな、合ってる」
「三年も軍の基地で演習の手伝いやらデータ解析をしてたらいやでも身に着くわ、この三年で変わってしまったのは ―― 」そう言うとニナは次のウィンドウを立ち上げて戦域範囲のデータをシミュレートする。「貴方だけじゃないってことよ、コウ …… ついでに今なに考えてるか当てて見せましょうか? 」
 悪戯っぽくそう告げるニナの言葉に思わずどきっとするコウ。この機体の自分へのセットアップが終わった時点でその役割は終わっている、だから敵のマークを外した後にどこかヤードに近い場所で彼女を下ろしてヘンケン達に頼むつもりだった。思わず口ごもってしまう彼をよそにニナは素知らぬ顔で言葉を続ける。「 …… やっぱりね。でも無駄よコウ、あたしはまだここを離れるつもりは全然ないの。バンディッドが指揮を終えて現場を離れた以上あなたのサポートをできる人間はあたしだけ、言ってる意味分かる? 」
「 …… 」
「だからみんなの所へ帰るのはどっちか一人じゃない、必ず二人で帰るのよ。いい? 」

 敵を三方から等距離で取り囲むトリニティ・シージ、完成すれば中央の敵目がけて射撃を行っても味方には絶対に当たらない射角を維持できる陣形。そして出来上がるまでにさほど時間がかからないという簡易包囲網なのだが、そのわずかな時間にフュンフはその持ち前のスピードで一辺を切り裂くとそのままの速度で一気に包囲の外へと躍り出た。
「! は、速いっ! 」
 煙幕が晴れてからどことなく雰囲気の変わった敵の動きにある種の不気味さを感じながら銃口を向けるタリホー1だが、彼の狙いを外した敵の背中が見る見るうちに遠ざかる。「 “ 1、後ろを頼むっ! 俺が先鋒で奴を追うからラース2との調整をしてくれっ! ”  」
 敵の後を追って走り出す二機の背中を見送ってもう一機のクゥエルがくるりと後ろを向くと別の方向へと全速で走りだす、放った猟犬が追いたてる獲物の先回りをして罠を仕掛けるつもりだろう。課せられた自分の役割を忠実に果たそうとする息の合ったその動きはまさに特殊部隊ならではの見事な連携と言える。
 だがその姿を目で追いながら幕僚とも言えるケルヒャーとダンプティはそのまま今いる場所から離れない、少し離れた輪の外側でまるで傍観者のようにただ戦局を見つめている。その二つの集団に生まれたある種の温度差 ―― 可視化する思惑。
 それはラース1撃破の一報がもたらされてから始まった。

 基地を完全制圧した後に目撃した生存者を全員抹殺してその場を立ち去る ―― ドイツでの作戦とは結末が少し異なるがそれが今回本部へと提出した作戦要綱の全貌だ。だが立案したケルヒャーとダンプティが描く絵面は少し違う、対象の女性を確保した後味方ともども全員が相打ちになった体を装って基地を後にし、あらかじめ準備した脱出手段を用いて地上から遠く離れた宇宙の『とある場所』まで逃亡する手筈になっていたのだ。
 ハンプティが墜とされた事でタリホー達新兵を粛正する手段は失われたが代わりにラース1がいなくなった事で向後の憂いはなくなった、そして敵に自分達の思惑を理解してもらう事ができない以上作戦の継続と達成は絶対条件でありそのためにはフュンフを操るパイロットの力がどうしても必要だ。三機とやり合って消耗しきったところで自分達が生き残りに止めを刺す、およそ真っ当とは言えないが現状の手札でこの戦いを勝ち切るにはそれしか手段がない。
「この際変なプライドは捨てましょう。一番大事な事は彼女を連れて港へと向かう事、償いはその後 ―― 少佐の思いを継いでからでも遅くはない」
 自分より悲惨な現場を駆け抜けていながらいまだに武人の魂を心に刻む ―― それは少佐と共に長い旅を続けてきたからなのかもしれない ―― 秘匿回線で司令官の背中を押しながらケルヒャーはセンサーの感度を全開にして味方の航跡を追いかける。上空から戦況監視をしていた『Volga』はすでに戦域を離脱し、手元にあるのはあらかじめインストールされていた基地内の見取り図だけ。すっかり景色は変わってしまったけれどそれでもフュンフが正門方向へと針路をとっている事だけは間違いなかった。
「ばかな、あのスピードのある機体でわざわざ障害物だらけのこんな場所に逃げ込むなんてっ! どこかに引っかかったらそれだけで集中砲火を浴びるぞっ!? 」どちらの味方をしているのか分からないケルヒャーの言葉に被せるように背後から肩に手を置いてダンプティが口を開いた。
「 “ 自信が、あるのさ ” 」

 ハンプティの支援砲撃によって無残な姿と化した正門付近Aエリア、癒しのために点在していたナツメヤシの木々も痛ましい残骸と化してあちこちに打ち捨てられている。荒廃極まるその場所へと迷うことなく一直線に走り込んだフュンフの足がわずかに鈍ったのを見て後を追うタリホー3は歓喜の声を上げた。「バカがっ! ホバー移動主体の機体でこんな入り組んだ地形がこなせるものかっ、どこかにひっかかったらそれで終わりだってのによぉっ! 」
「 “ 浮かれてる場合じゃないっ、そのまま敷地外に飛び出して逃走する可能性だってあるんだ! 正面右に3バースト二斉射、針路を左へと変えさせろっ! ” 」

「対地センサー作動、ホバーシステムオートに切り替え」ニナがそう言うとモニター画面に無数のポインターが走りまわる。同じ『F』でもトローペンと違う所はこのフュンフが『マルチロール』機であるという事、その中にはコロニー内戦闘を想定した障害物回避システムが実装されている。機動力の低下を最小限に抑えながら施設建造物を傷つけないというAI主導型のプログラム、ホバー走行に慣れていない彼に今最も必要な機能なのだが。
「対気速度毎時120、オブストラクションまであと10。針路を左に変更 ―― ニナ、ファンクション比を7対3に。主導権を俺に回して」
「了解、AIをサポートへ。スロットルと操縦権限をパイロットに」
 モニターの右側を飛び去る曳光弾を眼で追って機体を左へと傾けながらコウは後席へと指示を出してニナがそれをアビオニクスへと伝え、複座における後席の役割 ―― システムオフィサーとしての役割を担った彼女の指が絶えずキーの上を踊りまわって刻々と変化する状況にフュンフを対応させる。双方向パラレルで行うコマンドとフィードバックの繰り返しが少しづつこの子と彼を同化させてシンクレートは現時点で70を超えた。
 すでに三号機という強大無比なオペレーションシステムを意のままに操っていた彼にとってはこの程度の事は朝飯前なのかもしれない、でもあの頃は少し違う。委ねる所は委ねて押さえる所は確実に押さえて自分の意のままに機体を操る、どこか強引に機体を扱っていた昔と今ではそういう見えない所が変わったと画面に上がる全てのデータが教えてくれる、おかげでこっちは大忙しだ。
 この三年の間病に苦しんだ彼がどうしてこんなに進化したのかニナにはわからない、だがコウ本人は無自覚にその理由を知っていた。あの日の自分を取り戻したからこそわかる過去の失敗 ―― 殺意の渦に身を投じたまま敵を屠り続けた挙句に負けてしまったからこそこの力が無敵ではない事を知っている。過信やうぬぼれ ―― 見失わせる高揚が自分の中にある可能性に目を閉じていつか窮地へと追いやるという事をあの宙域とガトーから学んだ。
 戦いに投じる熱量をそのままにどこか頭の芯の小さな部分に凍えきった冷たさを ―― 今の自分ができる最善を選ぶために必要なスキル。
 それを伝えてくれる人が今俺のすぐそばにいる。

「 “ ラース2、敵の速度が落ちないっ! このまま敵の後を追うのでキルゾーンの設定を早くっ! ” 」切迫したタリホー1の通信に耳を傾けながらラース2は手にした対物閃光地雷を通路へと放り投げる。空中で二つに分かれたそれの尾部から小さなモータの炎が噴き出すと二手に分かれて地面へと突き刺さった後にリンクした事を示す青い点滅が静かに始まる。
 サイケデリック・ジムの特徴 ―― C4Iシステムの鍵となる全ての情報は作戦を立案したトーヴ1の中にある、ラース2はそこから見取り図を引っ張り出して全ての情報を戦術AIに送った後に最も効果的な方法と場所を算出した。女性士官の宿舎と次のエリアを結ぶ連結点、建物の損壊状況や敵の速度や兵装を考慮したうえで確実に敵を仕留められる場所はそこだ。
 ラースのコールサインを持つ二機のクゥエルは接近戦を主戦場とするコンビだが至近距離での肉弾戦に特化した1と違って2は中近距離でのマルチタスクを得意とする。左右に持つ攻撃距離の違う兵装を巧みに使って敵を仕留める技は連邦・ジオンのパイロットを総更えしても見つける事の出来ない稀有な才能で、派手さには欠けるが戦闘機会あたりの撃破率と損傷数の少なさは1を遥かに凌ぐ数字を残している。次点の番号を持つ彼はすぐにサーベルを抜き出して瓦礫の影へと身を潜めながら閃光地雷の合図を待つ ―― しかし。
「 “ ら、ラース2っ! ” 」
 思いがけずに耳へと飛び込んできたタリホー3の絶叫、あまりの声に彼は思わず立ち上がって壁の影から身を乗り出して視線を向けた。

 一挙動ごとに伝わる振動で内臓までかき回されているようだ。
 両方のペダルを踏み抜いてパワーはマックス、それでもじりじりと遠ざかる背中に焦りを禁じ得ない。狙おうにも足を止められないジレンマにタリホー3は苛立ちの極致にある。「くそっ、なんで奴の足は落ちないっ!? どんなマジックを使ってやがるっ! 」
「 “ 落ち着け、俺たちはあくまで追い子だ、仕留めるのはラース2に任せろ ” 」
「いいのかよそんなんでっ!? 考えてもみろ、俺たちは2と4の後衛で援護射撃ばっかりだ。このまんまじゃ何のスコアも上げれずに戦闘が終わっちまうぞ、一機ぐらい墜としとかねえと報酬にも関わってくる。それでもいいのかっ!? 」
 傭兵としてのあり方と存在意義を問う3の言い分は正しい。味方が次々に落とされた分だけ成功報酬の額は跳ね上がる、それは生き残った隊員の頭割だからだ。しかし一機も撃破できなかったとなるとそれぞれの報酬額にも多少の斟酌が加わるだろう。地上部隊は全滅しモビルスーツ部隊も半分以下でまともに戦える敵機はこいつだけ、最後で最大の手柄を上げるための貴重な獲物だ。もしだめなら作戦の完遂を優先してとりあえずはどこかに隠れている生き残りを探して対象の居場所を吐かせてそれから ―― 。

「ニナ、耐ショックっ! 浮力最大フルリバースっ! 」機体前面の全てのスロットが開いてアポジが火を噴く、全身に力を込めて足を踏ん張ったニナの体を強烈なマイナスGが襲いかかる。耐Gスーツの圧力がまるで全身で血圧を計っているように彼女を締め上げる。薄眼を開けて計測される重力係数は10G近く、こんな環境下でも彼の操作速度は変わらない。噴射量を各部位で個別に調整しながら慣性による姿勢崩壊を防いでいる。
 ―― なんて人だ。「γ接近、β射程内まであと8」

 そんな急制動を今まで見た事がないタリホー3はあっという間に迫ってくる大きな背中に慌てて引き金を引く、だが自身のかけた急制動の激しい震動と火器管制の調整だけでは照準もままならない。「ら、ラース2っ! 敵が急制動、これより回避するっ! 」
 このまま進めば自分は奴の右手にあるサーベルの間合いだ、なんとしてでもブレイクを果たそうと彼は腰から下を振って機体を進行軸から大きく逸脱させる。オートバランサーが目まぐるしく下半身の各部に働きかけて転倒こそ免れたものの機体はそのまま脇の壁へと激突して崩壊しかけた建物をさらに深く抉った。敵機の目前で機体の自由を奪われたタリホー3が必死で復旧しようと踠くコックピットに鳴り響く接近警報、最後のあがきとばかりに構えるマシンガンのロックオンマーカーがモニターの端へと飛ぶ。
 だがその不吉な赤い光は彼の前を一気に走り去って一瞬で消えた。後進一杯だった体勢をくるりと反転させた敵の意図に気づいて慌ててマイクに怒鳴る。「タリホー1っ!! 」

 凄まじい姿勢変化の果てに自分へと迫りくる脅威は、なぜかタリホー1にはひどく遅く見えた。油断をしていた訳じゃない、ただほんの一瞬敵との距離が離れていく事にどこかほっとしている自分がいた事も事実だ。だがポイントマンが盾の役目を失って自らが矢面に立たされた瞬間に適切な対応が思いつかない。
 接近警報と自動防御が泡を食ってけたたましく鳴り響き、モニターの上のマーカーが敵の影を追って左右に走り回る。迎撃システムがひとりでに腕を持ち上げて引き金をがく引きするがロックオンの成立しない連射が敵の影を捉える事なく向こう側へと消えていく。「ちくしょう、最初から俺を狙って ―― 」
 空になったマグがひとりでに銃から離れて抜け落ちていく、再装填の暇はない。近接戦闘を選択してビームサーベルへと手を伸ばす彼の目の前に迫る赤い光。
 ―― タリホー1にはその時脳裏で結びつく一つの光景があった。あの日のサリナス、ショッピングセンターの地下。
 床へと何度も頭をぶつけながら必死に何かを押しとどめていた男の姿と、地の底から溢れだすような唸り声。触ろうものならすぐに死へと導きかねない絶望的な畏れ。
「ま、まさか ―― 」
 そんなバカな、と思いながら。しかしその瞬間、モノアイの輝くスケルトンの顔とあの日に見た男の顔が重なり合った。

 なぎ払ったヒートサーベルの輝きが闇をも切り裂いてクゥエルへとめり込み、放たれる熱が装甲を侵食する。だがその勢いは胴体を両断する前に機体を後方へと吹き飛ばした。くの字に折れ曲がった胴体に入ったヒビが大きく裂けて蒸発したコックピットが外気に晒され、上半身と下半身が分断された機体は癇癪をおこした子供がおもちゃを投げ捨てるように地面へと転がっていく。
 見た事もない仲間の死に方に呼吸が止まって血の気が引く。一年戦争では隣にいた多くの仲間と向かい合った多くの敵が自分の周りで死んでいった、だがこんなに一方的で理にかなわない殺られかたは見た事がない。何の落ち度も手ぬかりもないのに力の差だけで刈り取られる ―― これではこっちが獲物のようだ。
「ひ、ひいっ! 」恐怖のあまり悲鳴を上げた3の体が硬直して思考が止まる、真っ白になった頭の中を駆け巡る接近警報はあっという間に大音量へと変わった。呆然と見つめるモニターの中のコマ送りは、壊れてる。きっと。

「ちいっ、3はダメか」舌打ちをしたラース2はこれからの段取りを頭の中で組み立て直す。追い子がダメになった以上奴らの役割は囮に変わる ―― 元々粛清対象の兵士だ、こちらの役に立って死んでもらえるのならありがたい。「トーヴ1、タリホー1ロスト。これより3を囮にして奴に攻撃を仕掛ける、もしダメなら自分がそちらに誘引するから何か策を考えて ―― 」
 通路に仕掛けたトラップを迂回して奴の死角へと回り込んでマシンガンで足を壊す、機動力を失ったトローペンがあのオデッサでどんな目に会ったのかをよく知っているラース2はテキスト化したその手順を実行するためにアムニッションインフォメーションを確認する。パネルに埋め込まれたモニターに表示される残弾とハードポイントに取り付けられた予備の弾倉は?

 モニターから視線をそらした瞬間にその異変は起こった。一瞬で真昼へと塗り替えられる廃墟、輝きと闇の境界がくっきりと分かれる幻想的な景色は火器管制の手を煩わせながらスクリーンへと投影される。
「? トラップ …… 作動? 」
 ばかな。判断を下してから一、二秒の間にそれが作動したという事は3は囮にもならなかったのか? 仮にもW・W・W小隊に入ることを認められた戦歴のパイロットが、そんな ―― 。

 封入されていた鉄球が一斉にばらまかれて真昼の廃墟を突き崩し、噴き上がる粉塵と鳴り響く轟音と不吉な予感はラース2の視線をモニターへと誘導する。その目を追い抜いて建物の影から飛び出した巨大な影に彼は現実を失って思わず呟く。「? え? 」
 逆巻く塵芥と硝煙が入り混じった翼をたなびかせながら彼女を傷つけようとした何者よりも早く駆け抜けるフュンフの姿は彼が幾度となく夢の中で見たヒーローだ、幻想に引きこまれて一瞬だけ我を忘れたラース2の前から消失した敵機目がけて火器管制が警報を鳴らす。「! し、しまったっ! 奴はっ!? 」

「左敵機視認っ! 離脱速度最大 ―― 」
「ニナ踏ん張ってっ! 針路反転スラップターンっ! 」叫ぶと同時にスラスターのスイッチを跳ね上げて足元の小さな補助ペダルを踏みきるとむき出しになった右肩関節の上に取り付けられていたノズルが猛然と火を噴いた。姿勢制御に使うアポジよりも推力の高いスラスターを利用しての急速転回はかつてフルバーニアンでも使った離れ技だ、300キロを超える速度のまま小さな半径で弧を描くその超絶機動はまさしく平手打ちスラップ

 矢のように突進してくるフュンフに対してコックピットの警報音が凄まじい、だがラース2の現状復帰はそれにも劣らないほど速い。一年戦争を生き延びた歴戦にとってこの程度の事はかつて日常茶飯事、ミサイルの雨霰の中に突入したア・バオア・クーに比べればこんなものっ!
「AI,迎撃準備っ! トーヴ1、カウンターで奴と刺し違えるから後を頼むっ。照準を全て敵コックピットへっ! 」回避勧告をものともせずに火器管制へと強制するパイロットの命令に統合アビオニクスがすぐさま反応し、ロックオンマーカーが点灯してあっという間に狙いを定める。相対距離はケタ違いの速さで詰まっていて表示される数字も読みとれない、ここからは経験と勘の勝負だっ! 
 左手のマシンガンを真っすぐ構えて右手のサーベルを体の影に隠して半身に相対するクゥエル、徹甲弾すら跳ね返したあの装甲を小火器で貫くには心もとない、ゆえに残弾全て牽制に回して敵が怯んだ隙に本命の右手で止めを刺す。衝撃吸収のエアバックなんぞ今さらっ! 
 アクティブセフティを全てオフにして襲いかかる死の恐怖を喰い裂きながらフュンフの輪郭を睨みつけるラース2、すでに狙いは定まってロックオンの悲鳴が甲高くコックピットへとこだまする。捨てた命で引く引き金にためらいはなく、放った弾丸は一瞬で敵の影へと殺到する。
 だがそのコンマ一秒にも満たない必殺の間合いの中で彼は恐ろしい物を見た。「! 消えっ ―― 」閃光地雷の残照が残る景色に浮かんだフュンフが突然モニターから消失、ロックオンマーカーが狂った様の画面の上を探し回る。「どこだ、一体っ」

 ヨースライドで進行方向をずらすフュンフは正面からなら消えたようにも見えるだろう、全身を絶えず締め上げるパイロットスーツの圧力にニナは苦悶の表情を浮かべながらそう思う。規格が合わない事で火器管制を全く使わないフュンフのモニターは常にクリアで敵の様子がよく見える、超高速からの横移動によって敵の火器管制は戸惑い、そして中のパイロットは一瞬状況を見失う。「このまま右側の通路に侵入一秒後にホバーシステム全カット」
「了解、ホバーストップ同時にアイゼンロック。タイミングAI」コウの機動予定を耳にした彼女がすぐにその意図を察知してコマンドを補う。テレメトリーに表示される数値と入力パターンを検索する起動ディスクによって彼がやろうとしている事はすぐに後席へと伝えられる、プログラムの最奥部で眠っていたあの日のコウの力の記録が今日の機動データとミックスして新たな世界を生み出し続ける。
 その異常さに思わずニナは目を見張る。

 逆巻く風とドップラー探知でラース2は火器管制が指し示す方向へと視線を走らせるが、捉える事ができたのは背後のバックパックから洩れる残り火の残像だけ。異常な機動を続けるフュンフに対してクゥエルの動きは常に後手に回ってしまう。「くそっ! 旧式がちょこまかと逃げ回りやがってっ! 」
 建物を挟んで反対側の通路へと走り込んだ意図を模索する時間はない、もしかしたらこのまま大きく回り込んでもう一度タリホー3を仕留めるのかもしれないしこのまま逃げ出す事も ―― 。
「それはない」
 小さく呟いたラース2はフュンフが基地から逃走する可能性だけを否定してペダルを踏んだ。逃げる機会なら恐らく今までに幾度もあった、しかしそのことごとくを投げ捨ててでも自分達に立ち向かってくる事の持つ意味はただ一つ。
「たった一機で俺達を全滅させるつもりか、だがわかるぜぇ ―― あんたも俺たちの世界に棲む住人なんだってな」
 期せずして巡り合った強敵の存在は彼の表情を歪に変えた。命をすり減らして戦いに挑む事などとうの昔に忘れていた、だが自分が本当に求めていたもの ―― 生を拾い上げて生きている事を実感する相手に巡り合った事の僥倖がラース2を嗤わせる。
「生き残るのはあんたか俺か、とことんまで」

 ホバーカットとアイゼンによる急制動、両足を保護するスカートが地面へとめり込んで派手にアスファルトをまき散らす。つんのめりそうな姿勢を中腰とアポジで償却したフュンフは突然すべてのバーニアを開いて上空高くへと舞い上がる。

 ニナは疑問に思っていた、どうして彼がここまで重力下で戦えるのかと。
 この機体を今制御しているのは三号機のディスクでそこには宙域戦闘でのデータしか記録されていない、無重力下での機動バリエーションならほぼ無限とも言えるストックがあるのだが重力下戦闘での記録は全て一号機改フルバーニアン二号機サイサリスとともにソロモンで持っていってしまった。だから今新たに書き込まれている戦闘記録はすべて新規のもので検索ヒットするのも今日の戦闘データからのミクスチャーだ、それでもこれだけの敵を圧倒する事ができるのは彼自身が持つ戦闘スキルのなせる業 ―― そんな力を彼はどこで?
 ハードを回し続けるラップトップへと視線を送るニナ、心の中で生まれた素朴な疑問とその画面がフラッシュバックを起こして彼女をあの日のあの場所へと送り込む ―― 三年前のトリントン。
 あの時には気づかなかった。
 コウはその時トリントン基地に在籍するテストパイロットで、しかも常に格上の相手とザクで模擬訓練を行っていた。イフィッシュが落着したシドニー湾のすぐそばに置かれたトリントン基地での訓練場はオークリーによく似て起伏が激しく、しかもコロニーの残骸が乱立する人為的に造られた場所。
 当然戦闘訓練は平野での野戦などはなくもっぱら山岳地帯での戦闘に近く、走行技術よりもバックパックバーニアやアポジを使っての立体機動による戦闘訓練が主となる。空中での姿勢制御や方向転換、足場がない中での射撃姿勢の保持などどれも他の隊やまともな基地ではできない事だ。ゆえにニナも一号機ゼフィランサスに取り付けるバックパックの先行試験をあの部隊にお願いしたわけなのだが。
 
 彼が撃墜王としてのスコアをマークしたキンバーライト攻防戦、記録されたデータではバーニア全開で空中へと飛び出した後にメインとセカンダリーの両方でそれぞれに敵を撃破したとある。実戦に出てまだ間もないパイロットがそれをやれるという事はすなわちすでにそれが身にしみついているという証拠 ―― 彼にそれを叩き込んだのは部隊の隊長であり戦技教官でもあったサウス・バニング『中佐』、コウとキースの師。

 夜空高く浮かんだフュンフが鳥のように滑らかに移動を始める、ほんの束の間現実を忘れてしまうほど快適な空中浮遊を披露した後にコウは突然バーニアを閉じて降下へと移る。建物の屋上を遥かに超えた高さから睥睨する基地は人道の欠片も見当たらないただの激戦地だ、そして離れた場所で戦況を見守る残りの二機の姿も見える。
 だがそれも一瞬。自由落下を始めたモニターの景色が流れて体が上へと持っていかれる。「コウっ! バーニアリバースっ! この高さからじゃ足が壊れるっ」
「歯をくいしばれっ! 耐ショックっ! 」重力に引かれる巨体を操りながら建物の外壁へと先のない左腕を指しのばす、先端が触れたとたんに走る強烈な衝撃と振動、急減速と ―― 。
「敵機直下っ! ホバー始動、衝撃に備えてっ! 」

 雨のように降り注ぐ大小の欠片と降りしきる土煙でクゥエルの視界は奪われ、アビオニクスが必死で全てのセンサーを駆使して原因を追及しようと試みるが頭部に集中して設置された感知部は落石によってそのほとんどが潰された。次々に断絶していく情報にラース2は戸惑い、そしてこのケースで最も大事な原則すらも失念する。
 一刻も早くこの場所を動かねばならない、回避をするという当たり前の事を。
 石礫とともに降ってくる黒い巨体から繰り出されるロングサーベルがクゥエルの頭頂部から股間に至るまで一直線に貫通し、串刺しになった機体の両膝が折れて地面へとへたり込んだ死に体の頭をフュンフの拳が叩きつぶす。飛び散るオイルに火がついてめらめらと炎を上げるクゥエルからサーベルを引き抜くコウ、支えを失った残骸がどう、と音を立てて地面へと横たわった。
「 …… あと3機」

「お、おいだれか」パニックの収まらないタリホー3が恐る恐る呼びかけるが誰からも返事はない、コックピットの中からも分かるほど沈黙した闇に身を震わせながら彼は声を振り絞った。「1? ラース2 …… どうしたんだ頼むから返事してくれ、なあ」
 怯えながら繰り返す呼びかけが虚しくコックピットに響き、それが幾度か続いた頃に奴は来た。変わらぬホバー音を響かせてモニターの向こうからゆっくりと近付いてくる赤い光、敵である事を教えるアビオニクスの悲鳴が鳴り響くが戦意を薙ぎ刈られた彼の体はもう動かなかった。
 大きく見開いた瞳孔以外。
「クゥエルのパイロット、俺を追ってきた分隊は君で最後だ」
 ああ、わかってる。こんな一瞬でお前は俺の仲間をいとも簡単にあっけなく殺しちまったんだな。もうすぐ俺もあんたが殺しちまうんだろう?
「 ―― 選べ」
 ロングサーベルの切っ先が真っすぐにコックピットへと向けられる。「ここで死ぬか …… 逃げるか」

 スケルトンの顔面の中央を下まで降りて見下ろすフュンフを凝視するタリホー3の瞳にわずかな感情が浮かび上がる。それは死に喘ぐ地獄の底へと下された一本の蜘蛛の糸、生への渇望。
 タリホー3の手が無意識のうちにハッチのロックを解いて前面装甲を解放すると、その眼前には大きな金属の塊が据えられている。うつろな目でそれを見据えた彼がシートベルトを解いてスロットルをゆっくりと押し戻すと、クゥエルはその一切の機能を停止した。
「そのままどこにも触れるな、起動ディスクも置いていけ …… さあ、出ろっ! 」コウの厳しい声が放たれたと同時にタリホー3の体が弾けるように動きだした。冷たいサーベルの先端へと手をかけて体を支えながら胴体に足をかけるとそのまま表面を伝わって地面へと滑り下りる、恐怖で固着した歩様で何度も地面に躓きながらそれでも走り去って行く後ろ姿を見届けたコウはそのままマスターアームのスイッチを入れてサーベルをコックピットへと突き刺した。
「コウ」
「戦えない者は殺さない …… 道具は手段であって人を傷つけ殺すのはやっぱり人だ、それがなくなったのなら俺には彼を殺す理由がない」

 ニナの目からひとりでに零れ落ちる涙。
 多くの命を奪った道具を作ってしまった自分の後悔に対する彼の答えは、決して自分に対する身びいきではなく純粋な救済。
「彼がこれからどうなってしまうのかは分からない、運がなければ死ぬだろう。でもそうじゃないと誰かが言うのなら彼はきっと生き延びる …… 俺たちみたいに」
「そうね、きっとそうだわ」零れた涙をそっとスーツの袖で拭ったニナが言う。「でも敵はあと二機 …… 彼らは多分今の人とは違う」
「ああ」うなずくと静かにクゥエルからサーベルを引き抜いて通路の先で待ち構えているであろう最後の二機の影を睨みつける、それを越えなければ自分とニナに明日はない。
「でもあたしたちなら、やれるわ。絶対」力強くそう告げたニナの指が再びキーボードの上で踊る。ラップトップを介して構築された新たな機動パターンをフュンフ側のディスクへと送り込んだ彼女はそのインストールを確認してからコウの背中を言葉で押した。
「帰るのよ。みんなの所へ必ず」

                    *                    *                    *

「どうやらお芝居もここまでのようです」



[32711] Ark Song
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/05/14 21:53
 ケルヒャーはそう告げるとマシンガンのボルトを引いて一歩前へと踏み出した。「 “ 私が時間を稼ぎます、大尉はここから離脱を ” 」
「それができるかどうかわからないお前じゃないだろう ―― むざむざとここで死ぬ気か? 」
「 “ はい ” 」
「それを俺が許すとでも? 」
「 “ はい ” 」

 ケルヒャーとダンプティの機体 ―― 指揮官機にだけ搭載されている情報統合モニター、パネルの片隅にあるその液晶に点滅する『NO SIGNAL』の文字にケルヒャーはチラリと視線を送った。「前線本部とのリンクが切断されました。つまり我々が負けたという情報を彼らはウスタシュに送って撤退したという事でしょう …… あなたがここで逃げたとしても誰もそれを知る者はいない」
「 “ 俺に逃げろと? お前を置いて? ” 」
「そうしていただかなくては困るのです。私は作戦立案者としてここで散っていった全ての命に責任がある、その最期の責務を是非とも果たさせていただきたい」
「 “ それを承認したのは俺だ、お前一人の問題じゃない ” 」

「 “ あなたは少佐の後を継ぐ責務がまだ残されている ” 」
 きっぱりとそう告げるケルヒャーの声がダンプティの胸に突き刺さる。「 “ 宇宙で待つ同胞たちはあなたの帰りを心待ちにしてる、アクシズから離反して再び集ってくれた彼らを少佐が目指した目的地にまで運べるのはあなたしかいない ” 」

 それはお芝居を止めようと言ったケルヒャーの言葉ゆえだったのか、今まで一切の感情を見せなかったダンプティが初めてシートの肘かけを渾身の力で殴りつけた。わなわなと震える拳が彼自身の持つ葛藤。
「 “ お気づかいいただきありがとうございます。小官も紛争以来のお付き合いでしたが大尉と一緒にずいぶんと価値のある生き方をさせていただきました、後の事はよろしくお願いします ” 」
 敵とダンプティの間に立ちふさがるように真っすぐ歩き始めるクゥエルの背中が闇へと溶け始める。ダンプティの傍らで常に作戦を立案し現場指揮を一手に担ってきた戦友はその刹那にチラリと後ろを振り返った。
「 “ 必ず『クレイドル』を我らの手に …… 大尉なら必ずできます ” 」

                    *                    *                    *

 その相手はコウにとって過去の戦いを思い起こさせる者だった。
 大切な物を守るために命を賭して立ちふさがろうとするその気迫 ―― キンバーライトで、ソロモンで、そしてあの限界阻止点宙域で。機体を壊され腕をもがれ、首を刎ねられてもなお最期の瞬間まで戦いを挑んできたその相手のコックピットを貫いた彼の額には冷たい汗がにじんでいた。
「どうして …… なんでこんなパイロットが」
 こんな事に加担したんだ、と地面へと崩れ落ちるクゥエルに向かって問いかける。疾しさの欠片もない眩いばかりの大義を体現した彼の振る舞いは命尽きるその瞬間まで鮮やかで羨望すら感じる、そしてそれは一つの事実をコウに告げる。
 あそこに立っているクゥエルも、このパイロットと同じか。

 近付いてくるその光景に思わず目を疑い息を呑む、それは後席でモニター画面をラップトップへと映しているニナも同様だった。
「敵機機能停止 …… コックピットハッチ解放」それはモビルスーツ乗りの間での暗黙の了解として降伏を意味するものだ。ハッチの縁から垂らされたラッタルの袂に佇み、ヘルメットで顔を隠したその男は身じろぎ一つせずにじっとフュンフの到着を待っている。コウはゆっくりとスロットルを絞るとできるだけ相手の傍に近寄るように、しかし罠を警戒して注意深くフュンフを駐機させてコックピットハッチを開いた。
「ニナはそこに座っててくれ、俺がじかに ―― 」ハッチの縁に手をかけて相手の姿が見えるまで身を乗り出した時、まるでそれを咎めるように細いコードが彼の眼前を掠めてハッチの縁へと張り付いた。それが有線回線用のコードだと気づいた時に、とても敵とは思えないほど穏やかな声がコックピットの無線から中へと忍び込んでくる。「 “ 聞こえるか、フュンフのパイロット ” 」

 ヘルメットの中からコックピットを見上げたダンプティは上半身だけ出したその姿を見てなるほどと確信した。自慢の部隊のほとんどを一瞬のうちに壊滅させた恐るべき撃墜王、しかも機体は恐らくほとんど動いた記録もないプロトタイプ。決定的に自分に不利な状況でありながらそれをものともせずに全てを覆す能力 ―― 彼のまとっているオーラは『少佐』と同じものだ。
「奴にはここから逃げろと言われていたのだがな …… どうしても最後に君と話がしたかった」
「 “ 俺と? ” 」
「あいつは …… 手強かったか? 」

 手強い、という言葉が生易しく感じるほど怖い相手だった。互いの間にある技量の差を駆け引きとトリックで相殺するその手管はコウを十分に翻弄して幾度も窮地に陥れた。もしニナのサポートがなかったのなら今ここにこうして彼と向かい合っているのは自分ではなくあのパイロットだったかもしれない。「とても。彼のような兵士と自分は昔戦った事がある …… 二度と、ごめんだ」
「 “ そうか。君にそう言ってもらえるなら奴も本望だったろう、戦ってくれて心から礼を言う ” 」仲間の死を悼むのではなく死に場所を作ってくれた事に感謝を述べる ―― 強者故の心のゆとりは誰でもが身につけられるものではない。コウはどうしても尋ねたいと口を開きかける。「なぜ。あなたや彼のような兵士が ―― 」
「 “ ニナ・パープルトンは今どこにいる? ” 」

 突然の問いかけにコウは一瞬言葉を失い、しかし頭の中は高速回転して相手の言葉の意図を探る。この状態からまだ作戦継続の意図があるのか? だが彼は機を止めてコックピットから降りている、という事は継戦の意思はないという事だ。何かの策がある可能性も考えてはみたもののその手の類の卑劣な手段を企図するような輩とは思えない。
 少なくともさっき戦ったパイロットと同類というのであれば。「 …… 安全な所で身柄を確保している、もうこの近辺にはいない」
「 “ 何よりだ。今日の所は、だがな ” 」
「どういう意味だ? 」

「彼女はこれからも恐らく狙われ続ける …… そういう意味だ」これだけの損害と唯一の戦友を失ってなお自分達の目的が達成できなかった事にダンプティは臍を噛みながら結論だけを口にした。どういう命令系統だかは定かではないが一度狙った相手は絶対に逃さない、マザーグースとはそういう事に特化した軍旅なのだ。「理由はわからない、それは君も元軍人だからわかるだろう。末端の兵士にできる事は作戦の遂行のみ、そこから派生する面倒な事は全て上層部の思惑だ ―― ただ」

 「 “ この一件だけじゃない、俺たちが関わった全ての作戦には恐らくティターンズとは違う何かが絡んでいる ” 」
 ダンプティの言葉にコウの中で何かが繋がったような気がした。それは言うまでもなくあの電話の主 ―― ディープ・スロート。「 “ 『ASRA』 …… この世界の裏で暗躍するそれが一体何なのか ―― 思想なのか宗教なのか組織なのか、それすら掴めないが彼らが何らかの目的のために大勢の優秀な頭脳を必要としている事だけは今まで行ってきた作戦から分かる ” 」

 その名称を聞いた瞬間にニナは愕然とした。
 限界阻止点を超えたアイランド・イースの片隅でガトーから聞いたその名前を再びここで耳にしてしまうなんて ―― ううん、それよりもっと大事な事が。
 彼は。
「 …… コウ、振り向かずに聞いて」無線機に拾われないように小さな声でニナはコウの背中に向かって告げた。「彼は、元デラーズ・フリート」

 瓦解しそうになる冷静を必死で支えるコウだが心の中では激しい嵐が吹き荒れる。なぜあの時の残党がティターンズの特殊部隊の長としてここにいるのか、デラーズ紛争の当事者でありながら自分達の目的を遂行するために命を投げ出して戦い続けた誇り高き兵士の末裔がなぜここやMPIの研究所のような極悪非道に手を染めたのか。それは夢の中で出会ったガトーの信条とは真っ向から対立するものだ。
 そんな事より。
 ニナはどうしてその事が分かった? 「あなたはこれからどうするつもりだ ―― なぜ機体を降りた? 」
「 “ ここから逃げる以外の何がある? 作戦は失敗、味方は全員殉職ときたらそれ以外の選択肢はなかろう? 特殊部隊の末路なんかどこも一緒だ、味方に証拠隠滅されるのが落ちだからな ” 」

 そんな事があるものか。
 彼が元デラーズ・フリートだというのならそんな事こそあり得ない、同胞の死に心も傷めずただ自分の私利私欲のために動く事など。

 ハッチの縁から無言で見下ろす彼の眼はどこか似ている。
 こちらの心根を全部見透かして嘘をよしとしない、だがそれを咎める事なくただひたすら先頭を走り続けたあの人に。
 そういう人だからこそ私は。
 私たちはあの日。
 彼の下へと集い。
 彼亡き今もその遺志を果たすべく全てを犠牲にして今も戦い続けているんだ。

「 …… まだ私にはやらねばならない事がある」
 観念して告げた本音はダンプティという仮初めではなく自らの心が紡いだ真実だ。「それが何かを君には教えられない、だが君が彼女を守り通すというのならそれは私達の目的達成のためにほんのわずかな手助けになるのかもしれない」
 
 これほどの戦士が。
 彼女を守るために傍にいるというのなら自分が出る幕はないのだろうと。
 ダンプティは心のどこかで一つの重荷を下ろしたように深いため息を漏らした。「彼女 ―― ニナ・パープルトンの事は君に預ける、私達がその目的を達成するまで必ず守り通してほしい」
「 “ あなた達がその目的を達成したと、俺がどうやって知るんだ? ” 」
「必ず分かる。それは君だけじゃなくこの世界に住む人々すべてにはっきりと伝わり ―― 」

 それは予言ではなく強い崇信にも似た確信。静かな声音に秘められた彼の声はコウの耳朶に刷り込まれるように焼きついた。
「 “ 世界が、変わる ” 」

 自分に言える事はここまでだとダンプティはバイザー越しに微笑みながら自分の頭上に立つ男へと視線を向ける。もうすぐ夜が白み始めてそれを待たずにあの男はここを全てまっさらに変えてしまうだろう ―― 全ての希望が失われる、その前に。
「ではこれで君とはお別れだ …… 縁があったらまたどこかで会う事があるだろう。その時は今日の恨みを晴らしてもらってもかまわない、いつでも私にはその覚悟がある」
「 “ 無抵抗の者を殺す趣味はない、自分の身に降りかかる火の粉を払うために敵と戦う ―― 命のやり取りはその結果にすぎない ” 」
「いい答えだ。私のかつての上官と同じ事を言う …… 覚えておこう、その言葉を口にした君の名は? 」
「 “ 連邦軍オークリー基地所属予備役、コウ・ウラキ伍長だ ” 」

                    *                     *                    *

「 “ まだ生きていたか ” 」
 無線機からでも苦痛に耐える彼の様子がはっきりと聞き取れる。「少佐、ここはお下がりをっ! もうすぐ敵に完全包囲されて逃げ場がなくなります、その前に少佐だけでもグワンザン ―― いえアクシズへっ! 」
「 “ これを ” 」そう言うと傷だらけのノイエ・ジールは大事そうに抱えたコア・ファイターをそっとリック・ドムの手へと手渡した。「 “ この女性を必ずグワンザンまで送り届けろ …… この人はただの民間人だ、俺たちの戦いに巻き込まれた傍観者を犠牲にする訳にはいかない ” 」
「 しかしそれではっ! 」
「 “ 行くんだ。俺の戦歴を傷つけたくないと望むのなら ” 」
「ならば少佐がお連れください、自分の小隊を護衛にお付けします。もう一刻の猶予もありません、殿は自分が務めますのでお早くっ! 」
「 “ だめだ、その意見具申は却下する ” 」
「少佐っ!! 」

 走馬灯のように蘇るあの日の記憶、忘れない。
 あの時交わした彼との最期の一言一句。

「 “ お前は残りの戦力を引きつれてこの戦域を離脱しろ、殿は私と閣下の近衛で務める ” 」
「他の者にお命じくださいっ! 私を共に連れていくとどうしておっしゃっていただけないのですっ!? 」血を吐くような思いで抵抗する彼に向かってノイエのモノアイが静かに動く。「 “ ―― そうだ ” 」

 どうして。
 なぜ少佐はあの時自分に生きろと。

「 “ 貴様にはどうしても頼みたい事が残っている ” 」

                    *                    *                    *

「 “ コウ …… ウラキ ” 」
 そう呟いた眼下の男は手首を翻して有線のラインを引き戻すとラッタルへと足をかけてスイッチを押した。撒き上がる先端に乗ったその男が自分と同じ高さに届くまでほんの十秒足らず、行動が理解できずに戸惑うコウの前で彼は軽やかに身を翻すとコックピットへと姿を消す。「なにをするんだっ! 一体どういうつもりでっ!? 」
 向かい側へと大声で怒鳴ったコウが慌ててシートに腰をかけてハッチを閉じた。再び点灯するモニターの向こうで同じようにハッチを閉じるクゥエルの姿が浮かび上がる。

                    *                    *                    *

「 “ もしいつか、どこかで ―― コウ・ウラキという男に出会う事があったなら ” 」
 その男の名は今回の出撃の前に一度聞いた。ソロモンの悪夢と呼ばれて大勢の連邦兵士をその手にかけてきたジオン屈指の撃墜王、彼の口に上がる事がどれほど名誉な事か。意外な名前に思わずはっとした彼の耳になおも告げられる ―― 遺言。
「 “ お前がその男を導け ―― 手段は、まかせる ” 」

                    *                    *                    *

 あなたの下で生き延びた自分だから。
 あなたに背を向けて生き延びた自分だから。
 こんな不器用なやり方しか思いつきませんでした ―― お許しを、少佐。「私と戦え、コウ・ウラキ」

「なぜだっ! 俺があの紛争であなたの仲間を大勢殺したからかっ! 答えろ元デラーズ・フリートっ! 」激昂しながらコウはスロットルをミリタリーにまで押し上げてマスターアームのスイッチを入れる、フュンフの機体が浮き上がったと同時に背後のハードポイントからロングサーベルが引き抜かれる。

「なぜだろうな ―― そうだな、強いて言えば」フュンフとの間合いを計りながらヘルメットを取るダンプティ、褐色の肌に栗色の髪が特徴的なその男の眼はまるで光を放つかのようにじっとモニターの中のフュンフへと注がれる。
「ほんの気まぐれだ ―― 急に君と戦いたくなった、それだけだ」

「やめてくれ、あなたはそんな理由で戦う人じゃないっ! あなたがあの紛争で生き延びた兵士だというのならそれだけは絶対にあり得ないんだ、だからっ! 」必死で説得を続けようとするコウの眼の前でそのクゥエルはバックパックからビームサーベルを抜きだした。八双に置くその構えを見てコウはロングサーベルを正眼に構えて対峙する。
「本当の訳を知りたいか? ならば私と戦え、もし君が勝ったらその理由を教えてやる」外部スピーカーから流れてくるその声には一分の隙も乱れもない。相手の本気をひしひしと感じたコウは苦悶の表情を浮かべたまま、それでも何らかの突破口を探して更なる会話を試みる。「せめて名前を教えてくれっ! あなたの名はっ!? 」

 理不尽に死合いへと引きずりこまれた相手の訴えにダンプティの心は大きく揺れた。
 その名はこの部隊に入隊する時に捨ててしまった。代わりに与えられたダンプティというコールサインだけが俺を示す記号。
 だが彼には俺の名を覚えておいてほしい ―― 本当の名を。
 彼を導くために路傍で朽ち果ててしまう、名もなき石像のごときであったとしても。

「私の名は …… カ ―― 」
 一瞬の逡巡は確かにコウとニナの下へと届く、しかしその漆黒のクゥエルは大きくため息を漏らした後に強い口調で言った。
「いや …… ジョン-ドウ」
 彼がその名を口にした瞬間にコウとニナは全てを諦めるしかなかった。立ち上がる陽炎のような靄 ―― 二人があの日に幾度も見せつけられた殺意のオーラが彼の背後で触手を伸ばす。
「そうだ、私の名はジョン-ドウ …… ただの『ジョン-ドウ名無し』だ」



[32711] Men of Destiny
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/06/11 01:10
 達人同士の戦いはお互いの間合いを保ったまま相手の隙を窺って斬り込むのが原則だ、従ってその切っ掛けを掴むまでは互いに動かないまま時間が経過する事が多い。だがその先 ―― 人を殺める事を是とする悪性に関してはその理屈は通らない、無造作に間合いを詰めて互いの刃が届く位置で技の駆け引きをやり取りする。
 くぐり抜けてきた修羅場の数、生き残るために培った技量。双方ともに自分をはるかに上回る存在だとコウはずんずんと歩み寄るクゥエルを見て理解した。押し寄せる殺意からもたらされる恐怖と相反する狂奔に呼び出される魔性を理で押し戻しながら彼はこの戦いの大義を思い出す ―― なぜ自分は再びこの世界へと舞い戻ったのか。
 シート越しにテレメトリーを見据えながらカチャカチャとキーを叩く音がする、彼の命を守るために自分が考えつく全ての対策をフュンフへとフィードバックさせるシステムオフィサー ―― そうだ。たとえ彼にその全てが追い付いていなかったとしても俺は彼女の未来を守るためにここに来た。それは自分の命がこと切れるその瞬間まで変わらない。

 迫りくる死の匂いと決殺の境界を睨みつけたコウは誘われるようにペダルを踏みこんで、クゥエルが待ち構える間合いへと無造作に飛び込んだ。

                    *                    *                    *

「もっと近寄れないのかっ、これでは戦況が全然掴めんっ! 」
 ノートパソコンの画面をチェンの肩越しに見つめるヘンケンが催促するが民生品のドローンではこれが限界だ、山二つ向こうにあるオークリーの様子を探るのならばもっと性能のよい軍用でないと。だが焦るヘンケンの心情がよくわかる彼はそのまま無言で出来る限りのズームを試みた。時折弾けるIフィールドの火花だけが切り結ぶ二人の存在を証明する。
「くそっ、もう時間がない! 」
 軍用基地に強襲してきた部隊だ、それなりの実力を持っている事は予想していた。だが彼があまりにもあっけなく敵を鏖殺した事でその実力差を見誤ってしまった ―― まさか今の彼に匹敵する手だれが二機も最後に控えていたなんて。
 もうじき夜が明ける、そうなれば敵はその前に全ての証拠を隠滅すべく重爆による爆撃を敢行するだろう。使う爆弾はもしMPIでのデータが本物だとしたら間違いない、核を除けば現兵装の中では最大の破壊力を誇るサーモバリック爆弾 ―― 通称『MOAB Ⅲ』。
「 …… 来た 」
 少し離れた所で佇んでいたキャンベルがポツリとつぶやいて目を閉じた。はるか南の空の彼方から木々の葉擦れの音に紛れて囁く小さな音、だが彼の耳はごまかせない。「超高高度、熱ジェット10発 …… 間違いない、『ガルダ』だ」

 すでに勝敗は決した。
 地上部隊が全滅した時点で彼らは彼女を確保する手段を失い最後の手として力技で生存者を殲滅するためのモビルスーツも後一機、作戦失敗の咎を負うべき敵の指揮官が今やっている事はただの悪あがきだ。今さら彼を道連れにする事などただの自己満足にしか過ぎないというのに、なぜこの期に及んでまだ戦おうとする?
「副長、ここを頼む」「! 艦長っ! だめですっ! 」ヘンケンが放つ強い口調に全てを悟ったセシルが思わず悲鳴を上げて手を伸ばす、だがその指をすり抜けるように駆けだした彼は全員が注視する真っただ中でモワクのドアノブへと指をかけた。「 ―― 俺が、行かなきゃ」
「待った。そりゃあたしの仕事だわ」

 驚いたヘンケンが振り返るとそこには同じ背丈の青年が立ってドアの縁を片手で押さえていた。緑色のつなぎに金髪、両耳につけられたプラチナのフープピアスが特に目を引きつける。「君は …… 整備班? 」
「そ、あたしは整備士兼衛生兵のミカ・アシュレイ。お偉いさんがたった一人で前線に乗り込もうなんて感心しないわね、それにもし伍長が怪我してたら治療しなきゃいけないでしょ? だからそれはあたしの仕事」
「待ってくれ、君は非戦闘員だろう? そんな立場の人間を現場に送り込めるほど俺はできた軍人じゃない」
「ねえ、そこの耳のいいおじさま? 」ヘンケンの言葉に耳も貸さずにミカはキャンベルを見る。「あの野暮な敵の飛行機がここに来るまであと何分? 」
「そ、そうだな。音の大きさからしてまだ地平線の向こう側だから …… あと8分かからないってところか」
「この場所から基地まで往復でだいたい30キロ、平均時速は200キロ以上必要。そんなドン亀で間にあうわけないじゃない …… 嫌いな車じゃないけどね」そういうと彼は足元の大きな黒い鞄を肩がけにしてヘンケンに背を向けた。しなやかな足取りで歩を進めるその先で闇にも白いボディのスポーツカーが浮かび上がる。
「でもこれなら多分間にあう ―― だからあたしが行くわ」

 見た事もない流線形のフォルムにボンネットへと取り付けられた四連のドライビングランプ、荒れ地を走る為に鍛え抜かれたラリー仕様の車だとは分かるがその正体を知る者は基地の中では皆無だった。だがヘンケンの記憶の中にはおぼろげながらありし日の雄姿が残っている。「これは …… たしかフォードRS、か? 」
「さすが旧車好き、ご名答。疑問符なのもOKよ ―― これはコンペティションモデルだから」
 フォードRS200E ―― かつて自動車レースの最高峰F1マシンよりも速いタイムを叩き出し、そのあり余る暴力的なパワーでヨーロッパ中の悪路を席巻したWRCグループB。しかし人の力では制御しきれない車体で埋め尽くされたカテゴリーの末路は大勢の観客と幾人かの優秀なドライバーの死を持ってわずか5年の短い生涯を終える。この車はアメリカの名門フォードがその覇権をアメリカへと持ち帰るために当時の総力を結集して制作された唯一無二のモンスターで、その性能は当時のどの車にも勝るとも劣らぬポテンシャルを掲げて世界ラリーの歴史を塗り替える事を期待されていた。
 だが様々なボタンの掛け違いと運命のいたずらによってRS200Eは表舞台に立つ事なくその役割をひっそりと終えた、この車がモスボール状態で残っている事はヘンケンのモワクやコウのドゥカティよりも奇跡なのだ。
「わかった、君に任せる。そのかわり俺を君の手伝いに同乗させて ―― 」
「ないわよ、助手席。ジェスが持ってっちゃったから」おどけた声で申し出を一蹴したミカはFRPの軽いドアを開け放つと助手席のあったスペースに鞄を放り投げてシートへと腰を下ろした。トグルを上げると同時に赤いボタンを押しこむとミッドシップにおかれた直4コスワースに火が入る、キャンベルがほれぼれと見つめる中でミカは小さな窓をスライドさせてドアのすぐ外に立つヘンケンを見上げた。
「じゃ、みんなはここで待ってて。すぐに伍長を連れて帰ってくるから」
「違う、今残っているのは伍長と技術主任の二人だ。彼らを ―― 」
「ああ、あのおまけ? 心配しなくてもちゃんと連れて帰ってくるわよ」なんともぞんざいに言い放つ彼の言葉に驚いて目を丸くするヘンケン。「ばかねえ、これはあたしの好意じゃない。平たく言えば義務ってトコ ―― 」
 ミカがニヤッと笑ってシフトレバーに手をかけた。「あんないい男を死なしちゃったんじゃああたしたち業界人の恥ってモンだわ」

                    *                    *                    *

 MS-09ドムというシリーズがなぜ地上戦においてこれだけ圧倒的な戦果を発揮できたのか ―― それは運用方法の違いにある。ジムを初めとする連邦軍のモビルスーツにはホバー駆動を採用した機体がなく、高機動を誇る彼の機体に追随できなかった事が要因として挙げられる。時速300キロ近くで移動する物体を目視で照準して当てる事など至難の業、重力下で何不自由なく暮らしてきた種族と無重力下で自らの創意工夫によって生き延びてきた種族との多様性の違いは戦線投入初戦において明確な差異として表れた。
 だがオデッサにおいて連邦軍は恐らく戦線に配備されるであろうこの切り札に対してある種の秘策を用いて封じる事に成功した。それはモビルスーツ各個を目標とするのではなく一集団を面という概念で制圧するというサプレッシング・サーフェイスメソッド。足の速いドムの集団が前線へと抜け出した瞬間に一気に想定範囲内へと制圧飽和射撃を行うといういかにも物量任せな連邦軍の戦術だが、これが予想外に功を奏して投入されたジオンの精鋭部隊はあっという間に壊滅寸前へと陥った。ここで連邦軍はこの最新鋭の機体が持つ意外な弱点に気づく。
 それはマンマッチでのクロスバトルに意外と弱いという事だ。
 脚部に損傷を負ったドムが押し寄せるジムの集団に片っ端から喰われていく、ホバー機構に全ての機動力を全振りした機体はそれを喪失した瞬間にグフやザクよりも鈍重な標的へと成り下がる。そしてそれは個別戦闘において一撃離脱を封じてしまいさえすれば優位に戦えるといった対ドム戦闘ドクトリンを連邦へ残す事となった。

 大戦中からデラーズ紛争終結まで何種類ものドムを操ってきたダンプティにとってその弱点は身に染みて理解している、遠い間合いから最高速で接近するならいざ知らず至近距離での打ち合いならば地面にしっかりと接地する事が前提のクゥエルに分があるはずだ。だがフルパワーでの振り下ろしを二度受け止められただけで彼はその優位さが存外に小さい事に驚いた。
「この短時間の運用でそれに気づくかっ!? 」
 思わずほころぶ口元から零れる驚嘆の声、応力変化による体勢の崩れを小刻みにホバーの出力を変える事で防ぐ ―― 何年も乗ってやっと会得するそのテクニックを彼はほんの一時間足らずで会得している。ホバーを潰せなければこちらの不利は必然、しかしっ。
「だがまだ甘いっ! 」踏み込んだ右足がフュンフのアンクルガードを蹴り飛ばして地面へとめり込む。

「左バーニアティルトっ!? 復旧まで二秒っ、凌いでコウっ! 」衝撃で作動するセフティーロックをプログラムでキャンセルしながら後席のニナが叫ぶ、たたらを踏んで姿勢を崩したフュンフ目がけて迫ってくる光の刃をコウは下半身のルーズジョイントによるダッキングで躱しきる。モニターに映る地面に映る自分の影を睨んで落ち切る前の下肢を制御して再び体を起こすその目の前に、信地旋回を果たした上半身ごと薙いで来るサーベルの光跡が。
「くっ ―― 」受けが間に合わずに先のない左腕で刃をいなすフュンフ、装甲が焼けただれた焦げ臭い匂いが空調を通してコックピットへと流れ込んだ。
 ガトーが速度を生かした変幻自在の打ち込みで相手を一撃で仕留めていたのとは違い彼にそれほどの速さはないが、その一刀一撃が自分の急所へと正確に飛んでくる事実は常にプレッシャーを与え続ける。基本に忠実であることを極限にまで砥ぎ澄ませる事で昇華を果たす必殺コンボ。
 弾かれるビームを眼で追いながらコウの手足が独立して動きを早める、では相手の力量を見せつけられた自分が手も足も出ないのか? ―― 違う。
 復旧したホバーを操りながらコウは一瞬だけクゥエルとの間合いを離した、振り抜かれて伸び切った右手の呼び戻しによる薙ぎ払いを躱すための動作 ―― 誰もがそう思うだろう。だが彼は迫りくる切っ先に目がけて一気に機体を押し出した。まるで自ら刃に体を晒すような無謀、しかしコウはその間合いをセンチの単位で見切るとがら空きになった胴体目がけて渾身の突きを繰り出した。各関節モーターやシリンダーによる慣性償却がその容量の少なさでどうしても遅れがちなジムシリーズの特徴、量産機ゆえのコストダウンによる影響は見た事もない夜戦型のクゥエルにも引き継がれている。
「やるなコウ・ウラキ、それでこそだ。私は君の機体の弱点をよく知っている、そして君も。お互いの性能は五分と五分 ―― 勝ち負けを決めるのはそれを操る『ライダー』の優劣という事だ」
「もう止すんだ、あなたとの優劣も機体の事も今の俺達には関係ないっ! どうして一度は見逃したあなたが戦うっ!? 」
「降りかかる火の粉を振り払うために戦い続けるというのなら理不尽な事もあるだろう、君はそれをあの宙域で ―― 」言葉を切ったクゥエルが一気に間合いへと飛び込む、輝くIフィールドが彼の魂を現す焔のようだ。
「学んだはずだっ!! 」

 戦場で震える空気に身を浸すコウの魔物が鎌首を擡げて相手の命を狙っている、二股に分かれた舌をチロチロと伸ばして彼の理性を犯そうとしている。凌げなくはない、躱せなくはない、殺せなくはない。だがそのどれか一つでも破れば自分は勝利の代りにまた大切な物を失ってしまうような気がする。削っていくような生易しい方法では埒が明かない、迫りくる刃を遮るサーベルの影からコウは必死で相手の機能を一撃で奪う急所を探る。今まで自分が培ってきた機械工学の知識を総動員してクゥエルの構造を、材質を、理念を、摂理を求める。
「くそっ! どこにあるんだっ!? 」機械というならば必ずどこかに弱点がある、たとえそれが針の穴よりも小さい一点だったとしても自分は必ずそこを突く。突かなくては ―― コックピット以外のその場所をっ! 
「諍いの最中に考え事とは随分とナメたまねをする、コウ・ウラキっ! そんな余裕が命のやり取りに必要かっ!? 」コウの迷いを見透かしたダンプティが許さないとばかりに猛攻を仕掛ける、突き薙ぎ払いのどれもが装甲を掠めてフュンフの警告ランプを点滅させる。「損害軽微、でも敵は明らかに推進剤のラインの継ぎ目を狙ってるわっ! 」
「その機体の弱点は知っていると言ったぁっ! 」叫びながら繰り出される突きの速さが尋常ではない、当たりを覚悟したコウが左腕を差し出して針路を塞ぐとその先端は装甲を溶かしながら易々と二の腕を貫通してなおも本命へと迫る。「左腕パージっ! 」
 爆砕ボルトの作動に激しく揺れるコックピットと吹き飛ぶ左腕がクゥエルの切っ先を道連れにして外へと弾かれる、体勢が崩れたその隙にすかさずロングサーベルでクゥエルの左腕を狙うコウだがその目論見は逆手で抜きだされた小柄によって阻まれた。「!? 二本持ちっ!? 」
「データだけが全てと思うな旧式っ! 最新型ならそういう所は全部アップデート済みだっ! 」

「ダメージっ! 左腕全損左肩スラスター損壊っ、使用不能! 」戦場で見せる弱気がすなわち即命取りになるのはよくわかっている、わかっていながらどうしてもそれに縋ってしまう自分の甘さに歯噛みをする。肩越しに聞くニナの叫びを聞きながらハイドロゲージへと目をやるコウ、加圧率は約75パーセントに低下。「左腕オイルラインカット、ジェネレーターと炉のシナジー効率を上げてくれっ。それでパワーの低下を補填するっ! 」
「了解っ! 」ニナのコントロールとともにジェネレーターが唸りを上げて電圧計が跳ね上がる、左腕喪失の埋め合わせはリスキーだが全身のモーターに負荷をかけて作動速度を上げるしかない。「応急処置だけで私を凌げると思うなっ! そんな甘さでよく少佐から生き延びたものだなっ、この未熟者っ! 」
 双剣持ちとなったクゥエルの攻めは容赦なくフュンフの装甲を削り取る、二刀を受けるたびに襲いかかるバックラッシュをこらえるのが精一杯で精緻なディフェンスに神経を割く暇がない。それでもコウは長い刀身を生かしてなんとか相手の攻撃のリズムを崩すとすかさずホバー全開で側面へと回り込んだ。クゥエルが自分に向き直るその一瞬で視界に飛び込む背面構造、連邦軍のモビルスーツでは標準採用となるバックパックからのパワーアシスト。
「 …… そこしかっ! 」 ないのかっ! 最も狙いにくい背面にあるわずかな隙間、だが当たれば一撃で戦闘不能へと導ける致命的なウィークポイント。かつてバニング大尉もシーマ・ガラハウに表からそこを傷つけられて落命した。
 しかしそれが分かった所で。
 これだけの力を持つ相手の正面からそこを狙うやり方が分からない、さりとて自分の乗った機体を知り尽くす相手に背後を取る事ができるのか? それはこれだけ何度も切り結んでたった一度しか背中を見る事ができなかったことからもはっきりとわかる、至難だ。
「 ―― それでも」なんとか片腕だけで隙を作ってそこまで踏み込むしかない、ならば ―― 。

 ゾクリと走る寒気がニナの首筋に痛みをもたらす。それを感じたのは過去に一度だけ ―― アイランド・イースの管制室。
 コウを見た瞬間にあたしは思った、そこに立っている彼は『彼』ではないと。
 湧き上がる泥のような殺意に全てを委ねた哀れな化物。必要とあらば味方までも犠牲にしかねない、目を背けたくなるような強烈でおぞましい腐臭。モニターから思わず目を上げたニナの眼に映るものに何の変化もない、ただ苦しげにうめき声を上げて敵の攻撃をさばき続ける彼がいるだけだ。
 だがどこでこんなパスが通じたんだろう、今の彼 ―― コウ・ウラキが自分の下へと流れ込んでくる。絶対領域から這い寄る抗いようのない原罪、禁忌を犯す悪魔の呼び声。今コウが呼び起こそうとしているものの正体。
「コウっ! 」
 ―― 闇へと身を沈めていく彼を。
 ガトーが撒いた種を宿したコウ・ウラキという最後の望みを。
 あたしは正しく導けるのかっ!?

 これが彼の本性か。
「 …… 少佐、あなたは」 
 知っていたのですか?
 そこに立つのは夢にまで見た『ソロモンの悪夢』。
 圧倒的な力で敵をねじ伏せ全てを根こそぎ奪って戦場に君臨する闘いの申し子。シャア・アズナブルやシャリア・ブルのような特殊な力を何も持たずにただ人の力のみで蹂躙を果たした英雄、敵にとっての悪鬼羅刹。いつかどこかで戦いたいと願って果たせず。戦う事などあり得ないとその背中を追い続けた過去の幻影。
 今の自分と過去の少佐と。「 ―― そうだ」
 どちらが強いのかを。
「私は。試して、みたかった」

 だめだだめだだめだっ!
 コウはあたしのために自分を地獄へと嵌めこもうとしている、魔境を住処とする人外としてこの先の未来へと足を踏み出すつもりだ! なんとしてもとめなきゃっ!
 でもどうしよう、どうやって彼を取り戻したらいい? 
 このままじゃコウはきっとガトーよりも酷い事になっちゃうっ! あたしがなんとかしなきゃっ!! 

 ニナの取った行動はおよそ彼女らしくない短絡的な方法、彼女はラップトップを閉じるといきなり前席の背もたれを渾身の力で蹴っ飛ばして絶叫した。「しっっかりしなさいコウ・ウラキっ!! この軟弱者っ!! 」

 その声と。
 背中に伝わる強烈な痛みと。
 さっき見た彼女の子供のような泣き顔が。

「ニナっ!? 」
「困ってるのならどうしてあたしに聞かないのっ!? またひとりでどっか行っちゃうつもりっ!? 」涙ながらに怒鳴り飛ばす彼女の声が繋ぎ止めていた枷を引き千切って戦場のリアルへと呼び戻す。「二度とそうなりたくないからあなたはあたしを助けに来たっ、そしてあたしがここにいるのならあなたはあたしを頼るのよっ! あなたとあたしが見失った明日は二人で必ず見つけなきゃっ、そんな事がなんでまだ分からないのっ!? 」

 ニナの口からほとばしるあの夜に叩きつけられたアデリアの切なる願いが。
 言葉の影に隠れる彼女のひしひしとした愛情が。

「 ―― ジムの弱点はバックパックからジェネレーターへと引き込まれるAPUだ、新型になって露出部分は小さくなってるけど少しだけラインが見えている。相手の背後を取ってそこをピンポイントで狙いたい」
「背中をっ!? 」

 立て続けに襲いかかる斬撃の嵐を次々に受け止めては跳ね返すコウだがダンプティが意図的に紛れこませたその一刀が魔法のようにフュンフの刀身をすり抜けて一気に肉薄し、虚をつかれてモニターを焼き尽くす大きな光に彼の魔性が突然目覚めた。頭の芯を貫く激しい頭痛とともに躍動する全ての神経が景色を止め、ナノセコンドで駆動する脳細胞が自らをすり潰しながら対応策を実行する。目にも止まらぬレバー操作に乖離する挙動、それでも穏やかに迫りくる光の束が消えた瞬間に発生した衝撃でフュンフの上体は大きくのけぞって時間が戻った。
「! 右肩スラスター破損っ! 」慌ててラップトップを開いた後席のダメージレポートを聞きながらコウは間合いの利を生かしてカウンターを放つ。

 初見殺しを見切っただけではなくすぐに対応してくる敵の姿にダンプティは戦慄した。相手の刀と接触する瞬間に一瞬サーベルの動力を落として再起動するトリックムーブ、『影抜き』と呼ばれるこの技をほぼ無傷で逃れたものはこれで二人目。もう一人はもちろん自分の上官だった銘持ちの撃墜王だ。反撃にうろたえる暇もなくロングサーベルの切っ先が迂闊にも留守になった右脇腹へと奔る、体勢が崩れるのも構わずに下半身を捻った事でなんとか致命傷を免れたもののその勢いはクゥエルの右腰のスカートを貫いてそのままジョイント部から引きちぎった。
「強いっ! 」
 感嘆の叫びと綻ぶ口元、死の恐怖に抗うためではなく心の底から自分の最期を飾るにふさわしい相手と巡り合わせてくれた偶然に。すっかり忘れてしまった神々からの贈り物ギフトに。

 激しく揺さぶられる機内でニナは必死に打開策を模索する。ヒントがない訳ではない、それはあの日のトリントン襲撃事件における一つのモデルケース ―― 一号機と二号機の戦いにおいて。
 どちらの機体のデータも頭の中に入っているニナにとって二人の戦いの結末は明白だった、武装は同じでも装甲・パワー・機動力において頭一つ抜けている二号機の方が絶対的に有利。一号機に残されたたった一つの利点は機体重量の差による瞬発力の優位性だけだった。近接戦闘に持ち込みさえすれば懐の狭い二号機は繰り出す手数を捌けずに力を出し切れないまま終わる、そこにわずかな勝機を見出して新米少尉さんを乗せたまま一号機を戦場へと送り出した訳だが。
 翻って今の戦いはどうだ?
 こっちは重装甲型で相手は駆逐型モビルスーツ、ちょうどあの時と反対の立場にある。だが現状あの日の理想の戦いは相手の手の内にあり、主導権を握るべき立場のこちら側は守勢に回ってしかも手負い。あの日のコウと今の相手との力量は比べるべくもないが彼の戦い方はニナが描いた方程式に近い。
“ もっとパワーがいる ”
 全部を総括した彼女の下した、それが結論。あの日の二号機にフュンフが成り代わるためには今のままじゃだめだ、失ったパワーを遥かに凌駕する力が必要だ。しかもこの強兵の背後を取るために意表を突かなければ勝ち目がない。

 脳裏に閃く問いへの解、と言うかもはやこれしか手段はないっ! 「コウっ! 一度敵との間合いを取って、あたしの話を聞いてっ! 」
 傾聴を迫るニナの叫びにコウの全身が即座に反応した。せめぎ合う一刀足の間合いから全身のアポジを使って逃れた彼はまるで大きく肩で息を吐くかのように機体の姿勢を前傾のままで待機する。

 高揚する命の削り合いに水を差すようなフュンフの動きにダンプティは内心不平不満を垂れ流し、しかし一瞬で変化したその雰囲気に警鐘を鳴らす。今までガトーの生まれ替わりかと見紛うほどの動きと技を披露してきた相手とは思えないほどどこか落ち着いて静かな気配、だがそれがより一層彼の心の中にどこか得体のしれない波紋を呼んでざわざわと騒がせる。
「どういう事だ …… 何か仕掛けてくるつもりか? 」
 恐らくそうなのだろうと。そうでなければこの流れに棹差してまで間合いを広げる意味はない。油断なく訝しげにモニターの中央で鎮座する黒い影へと目を凝らすダンプティ、しかし次に起こった目覚ましい変化は彼が今まで体験した危機管理の経験則から感じる異常な現実だった。
 音もなく凪いだ空気を突然に震わせる高周波の絶叫、悲鳴を上げて身もだえするフュンフが痙攣したままのその一歩を前へと踏み出す。

                    *                    *                    *

「この子のモードを宇宙戦用に切り替える」ニナの提案にコウはニの句も告げずに驚く。ラップトップを開いたニナがアビオニクスのプロテクトを破っていきなり核心部のバイナリーデータへとアクセスする。「今と比べて出力は約二倍に跳ね上がる、この機体を支えている推進装置 ―― 熱核『ロケット』のポテンシャルを100%使い切らないと彼はだしぬけない」「わかった、じゃあ ―― 」
「まだ話は終わってない」急かすコウをたしなめる様にニナの深刻な声音が続く。「そこまでは多分相手も対応できる可能性がある、だから彼が想像もつかないような方法でその一撃を放つ」
「一撃? 」
「そうよ、チャンスはたったの一度だけ」言葉を切ったそのわずかな沈黙がコウに向かって覚悟を求める。「今からこの子の炉を臨界にまで持っていく」

「 …… ばかな、君はなにを」自殺行為だ、危険すぎる。メリットが ―― ない。
「わかってる。臨界状態の炉は一歩間違えば取り返しがつかなくなる、でも誰も言わないけど本当はそこがモビルスーツとして理論上最大の出力を発揮できる領域なの」自分も含めて多くのモビルスーツ開発者が挑み続けて倫理の問題から決して認められなかった禁断の領域。あえて踏み込む彼女の手が熱核炉の制御プログラムを掴みだす。「制御棒を抜いた炉のヘリウム3が自己崩壊を起こすまで多分十秒もない、でもあたしがその状態の炉をダイレクトコマンドでコントロールするわ、ただしどんなに持ちこたえても四、五秒が限度 ―― あなたはその間見た事もないパワーを扱わなければならない」
「そしてこいつはそこで終わる」
 たとえ核爆発を押さえられたとしても熱核炉が暴走すれば全ての制御ユニットがお釈迦になる、果たして未曾有の出力にジェネレーターや推進剤の供給ポンプが耐えられるか?
 コウの予想を無言で肯定するニナの気持ちがよくわかる、いくら兵器とはいえ自分が手掛けた子供のような存在を自らの手で殺してしまう事に技術者として断腸の思いがあるのだ。何より命懸けでこの子を戦場へと送り出したジェスに向かって俺たちはどんな顔でまみえればいいのか?
 でも。
 彼女の犯す罪が正しいあり方だと信ずるに足るというのなら。
「 ―― ありがとう」
 自ら手を汚したニナの決断に報いるべきたった一つの言葉をコウはポツリと口にした。
「ニナ …… やっぱり君がここにいてくれて、よかった」

制御棒抜去ロッドリリースっ! 出力臨界へっ! 」
 気炎万丈、気迫一閃。背水で臨むコウの手が熱核炉のハフニウムを全部引き抜くとそれを咎めるように抵抗するアビオニクスのリミッタ-が警報音と警告のオンパレードで無謀を企てる二人の主を出迎え、プログラムの深奥に介入するニナの指が次々に危険を唱えるシュプレヒコールを封殺して人類が生み出した最も野蛮な機械の真の姿を露わにする。足の下で鳴り響く破滅の予兆と世界を切り裂く鳴き声が全ての装甲を震わせて外界へと流れ出る。「カウントダウン、10テンセコンドっ! 」
 ニナが叫びながら険しい目で画面に流れる文字数列を睨みつける。「暴走まであと9っ! 」

 ぎこちない歩みと震える機体がただならぬ気配を匂わせる、だがそれを不具合だと決めつける根拠は何もない。むしろそれは「 ―― いよいよ大詰めか、コウ・ウラキ」
 不敵な笑みを浮かべて操縦桿を握り直したダンプティがモニターを見つめる目の焦点を緩めて全ての景色を俯瞰する。擦りガラスの向こう側に映った景色のように全ての輪郭があやふやになるが目の前に起こる全ての違和感と変化に最も素早く対応するための乱戦経験者だけが持つ事の出来る術理の一つ。
「 ―― こいっ! 」左手の小柄の切っ先を前に翳して右手を体側へと引き付ける『崩れ正二刀』、この型を知るものならば必ずそこにたどり着く守攻堅牢の構え。受けた瞬間に攻撃へと転じるための下半身の溜めで各部のモーターが発熱する。

「ジェネレーターが理論値を超えるっ! 脚部モーターコイル温度上昇、オーバーロードっ! 」秒単位で厳しくなる状況にコウの叫びが熱を帯び、当たり前だといわんばかりにニナの声がカウントを読む。「8っ! 」押し出されるように膨れ上がるパワーは機体の制御をどんどんセンシティブな物へと変えていき、ペダルを少しでも踏み込めばフュンフはあっという間に空高くへと舞い上がってしまうだろう。そうなっては全てが水の泡、相手を出し抜く前にこちらの命運が尽きる。
 だが追い込まれていく状況とは裏腹に感覚として得る事の手ごたえがコウの表情にかすかな笑みをもたらした ―― なんて、凄い。
「7っ! 」

 それはこの戦いにおいて初めて二人が対峙したまま費やした時間だった。何かのタイミングを計るかのように三歩進んだまま足を止めたフュンフから零れる悲鳴は終わりかけた戦場の静謐を掘り返して阿鼻叫喚をまき散らし、しかしクゥエルは彫像のように動かないままその瞬間を待っている。距離にして相手との間合いはほんの三刀足、全ての決着が一秒以内で決まる距離。
 はびこる緊張にのどの渇きを訴えたダンプティの本能が思わず上唇を舐め、しかしその瞬間に全ては始まった。悲鳴に隠れて動き出すホバーの作動音とバーニアの噴射音、全部置き去りにするフュンフの全速。

「2っ! 」「行くぞニナっ! 」コウの叫びに全身を強張らせながらラップトップの両側を握りしめるニナ、弾ける慣性が彼女の体をレカロのシートへとねじ込んで身動きもとれない。いきなり加圧するスーツにのど元を締めあげられながらも彼女は彼女の仕事を果たす。「い、ちっ! 」

 スローが意味を持たない刹那の光芒。クゥエルは微動だにせず迎撃の構えを解かない、不退転の覚悟を目の当たりにしながらコウは全部の神経を隅々にまで張り巡らせてその瞬間に備える。彼女から与えられたその四秒に自分の全てを費やして明日へと臨む ―― 負けられないっ!!
「ゼロっ! 熱核炉暴走スタンピードっ!! 」
 コックピットに充満した絶叫に負けないほどの大声で叫ぶニナの声とタイピングの硝煙弾雨バラージを聞きながらコウは指呼の距離にあるクゥエルの影に向かって全てのコマンドを解き放った。

 フュンフのその戦術が全く正しく、間違っていない事をダンプティはすでに認めていた。重量差を生かした体当たりによる攻撃はこの状況では最も有効かつ合理的ではある。だが。
 全身の関節から煙を上げ。
 頸部を貫く動力パイプから息吹の様な熱を吐き出しながら自分の下へと押し寄せるそれは果たしてモビルスーツなのか?
 異形と化したフュンフの速度は自分の経験でも空前絶無であり、それを迎え撃とうと試みる自分の力量の有無すら疑う。考えるより先に動かす手足は今まで命を拾った闘いの中で生み出された経験を依り代にして生まれる技量の奔流。
 しかしそのスキルを余す所なく披露したとしても彼の命のあるなしをもう自分が斟酌できない事は分かっている。
 自分は今までの全てを賭けて彼を量ろうと心に決めた、もしここで命を落としてしまうようなら彼は絶対に少佐の代りにはなれない。
 たとえあの人が彼を心の底から認めていたとしてもっ!! 

 超至近距離にまで迫ったフュンフに向かって小柄を差し出すと同時に右手のサーベルを袈裟に落とすクゥエル、絶対に避けようのない距離で放たれたその一撃は猪突してきたフュンフの胴体へとひた走る。「勝ったっ! 」
 勝利の凱歌とともに操縦桿にロックがかかるまで捻り込む右手が喜びに打ち震える、だがダンプティはモニターに映るその景色が幻のように一瞬で掻き消えた事に目を見張る。
「なんだとっ!? 」

 けた外れの速度で行使したヨースライドがベイパーコーンを引き起こしてフュンフの残像を空間へと刻みつけ、コックピットのガンダリウムを抉った切っ先が火花を散らして遠ざかる。メインバーニアだけでは足りない転回推力をコウは全てのアポジに求め、果たしてフュンフは彼の要求通りの力を発揮して重い機体をクゥエルの背中目がけて吸い寄せた。息つく暇もなく逆手に構えたロングサーベルを自分の脇から背中越しに当たる硬い感触目がけて一気に突き通す。

 重篤な損傷を知らせるアビオニクスの悲鳴が聞こえるまでダンプティには何が起こったのか分からなかった。ただ結果だけが彼の耳目を奪ってその事実だけを見せつける。「 …… なんて、奴」
 コックピット脇の隔壁から伝わる熱は明らかにロングサーベルから放たれているもの、貫通した刀身は恐らくこの機体唯一の弱点であるAPUのエネルギー供給ラインを断ち切ってジェネレーターのメイン回路を破壊した。いくら炉が動いていても電源を断絶されたモビルスーツが動く事は、永久にない。

「熱核炉緊急停止スクラムっ! 」 叫んだコウが慌てて操作パネルの隅にある赤いボタンをカバーのプラスティックごと叩き割って抑え込む。際どい所でニナの手によってなんとか制御されていた暴走はその手綱を引き千切る寸前に差し込まれた制御棒のおかげで元の沈黙を取り戻した。冷えていくサーベルの刀身から放たれる金属の収縮音と荒い息を吐く二人の息遣いが響くコックピットの中でコウはモニターに映る闇の世界へと目を凝らす。
「 …… や、やったのか? 」
「 “ どうやらそのようだ ” 」
 通信機から接触回線で流れてくる声にはどこか憑き物が落ちたような朗らかさがある、だがそれは紛れもなくダンプティ本人からの通信だった。



[32711] Calling to the night
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/06/18 01:03
「 “ 時間がない ” 」短いその一言が事態の深刻さを二人に伝える。「 “ 君に渡したいものがある、すまないが降りて来てもらえるか? ” 」

 黎明を示す蒼穹の遷移と共に浮かび上がる思い出の亡骸、失った過去の残滓に思いを馳せていられるのはラッタルの先端が地面に触れるまでのほんのわずかな時間だけ。着いた途端に駆けだした二人はまるでそれらから目を逸らすように擱座したクゥエルの前へと回り込む。突き出たサーベルの先端が隠す青黒い空とさらにその向こうにあるシルエット、開いたコックピットハッチの縁に腰掛けたその男はほんの少し明るくなった気配に苦笑いを浮かべながら硬い表情の二人を出迎えた。
「なるほど、この世で君の傍ほど安全な場所はないな …… 近くにいないというのは嘘っぱちだったようだが」

 その笑顔をニナは忘れない。
 自分が持ち出したコア・ファイターごと混迷極めるあの宙域からアクシズの戦艦にまで連れ帰ってきてくれたデラーズ・フリートのパイロット、そして自分が地球へ戻ると決意を告げた時に自らの身の危険も顧みず大気圏の傍までエスコートをしてくれた ―― 彼の名は。
 
 思わず飛び出しそうになったその言葉をニナは口にする事はできなかった。ダンプティはそっと自分の唇の前へと立てた人差し指を差し出すと静かに、諭すように二人へと告げる。「あの音が聞こえるか? 」
 静謐の漂う焼け野原に届く低い音、それが航空機のジェット音だと理解するのに時間はいらない。「 …… 爆弾を積んだ重爆だ。もうすぐここはこの世界のどこにもなかった場所になる ―― その前に」
「俺がっ」
 時間がないのはわかっている。
 でもどうしてもコウは彼に聞かなければならない事がある。「勝ったら戦った理由を教えてくれる約束だったなっ」

 小さな箱を手にとってコウを見下ろしたダンプティはとても満足そうで気恥かしい笑顔を向けている …… ニナにはそう見えた。
「ちょっとした嫉妬、かな? …… でも私はどうして君が少佐に選ばれて私が選ばれなかったか、その理由を知りたかったんだ ―― 私のわがままで迷惑をかけた君 …… いや、君達にはとてもすまないと思っている」潔く頭を下げる彼の人となりに二人は唖然として見上げる。
「大勢の人を殺してしまった、多くの仲間を死なせてしまった …… それでも私は君の力が知りたかった、私達の未来を託すに値するのかどうか。そしてその鍵となるかもしれない『ニナ・パープルトン』という女性をこの先守りきれるのかどうかを」
「あたしが …… 鍵? 」
 思わずコウの隣へと歩を進めたニナが胸に手を当てて聞き返すと、彼は小さくうなづいた。「やあお嬢さんフロイライン。声が聞けて嬉しいです …… あなたが私達、いや『マザーグース』の標的に名を連ねてしまった事を私はとても心苦しく思います、でも一度そうなってしまったからには彼らは絶対にあなたの事を諦めない。これからどんな手を使ってでもあなたを狙ってくるでしょう ―― 私とケルヒャーは」
「それはニナがっ ―― 彼女が『ニュータイプ』だからかっ? 」

 抑えきれなくなって飛び出したコウの問いかけはそこに残された二人の顔色を変えた。ニナは自分でも訳が分からないこの力の正体をコウがすでに知っていたという事、そして。
「 …… 君はその話を誰から? 」ダンプティの表情から笑顔が失せて訝しげな眼に変わる。対象の持つ価値を知りえるのはもっと上位に位置する連中、すなわち。
「身内以外知らないはずの俺の携帯にかけてきた男から聞いた、あなた達が今日ここを襲うという作戦の事も」「驚いたな」
 今まで見せた陽気な気配が消え失せて深刻な面持ちへと変化する。「君はどうやら俺たちでも掴めない『ASRA』の誰かと接触できていたという事か …… そして君がここにいるという事も、奴らに」

 その轟音は大空から鳴り響くジェットの騒音をかき消すほど大きく敷地内へと響き渡る。全開で回るレーシングエンジンの爆音と矢のように近付く白い影へと目を向けたダンプティは何かを振り払うかのようにフルフルと小さく頭を振って、再び眼下の二人へと優しい笑顔を向けた。「君のフュンフが動けるかどうかが唯一の気がかりだったが …… お迎えが、来たようだな」
 ダンプティの膝の上から滑り落ちる小さな箱がすっぽりと手の中へと収まる、受け取ったコウが上を見上げると彼ははっきりと聞こえるようにゆっくりと、大きな声で言った。「キャリフォルニア基地の北にあるメア・アイランド。そこのシップヤードに今から三日後の夜、中型の船が停泊する ―― それを見せれば彼らは必ず君達を乗せる。待遇はまあ、想像にお任せするが」
 箱のふたを開いたコウの目に飛び込むとても大きな青いダイヤモンドとボロボロに擦り切れた小さな襟章。「 …… 君がアフリカで墜としたビッタ-大佐から少佐へと手渡されたものだ、それが君達の身分を保障する。絶対になくさないように ―― 間違っても売ろうなんて考えないでくれよ? その手の宝石には嫌な逸話が多いからな」

 四輪を滑らせながら凄まじいスキール音を響かせてRSが停車すると、運転席から飛び出したミカはすかさず二人に向かって大声で叫んだ。「あんたたちっ! 無事なのっ!? 」
 声の主に向かって振り向いた二人に優しい声が降り注ぐ。「さあ、もう行くんだ。私はここで ―― 」
「お願いですっ、あなたも一緒にっ ―― ! 」縋るように叫んだニナを優しく見守るダンプティだったが、瞳の奥に映るその決意が変わる事はない。「 ―― 行きなさいフロイライン、あなたの未来に幸あれゴット シュッツェ ディッヒ …… 月並みではあるのですが私は本当に …… あの時からそう願い続けていたのですよ ―― さあ彼女を連れて行け」
 その声の鋭さがガトーを彷彿とさせる、仰ぎ見るコウに向かって彼は強く言い放った。
「もし君が彼女を守りたいと望むのなら。私と同じ事を彼女に願うというのなら! ならば君は何としてでも。どんな手を使っても」
 空を目指す彼の眼に映る夜はもう宇宙ではない、だがダンプティは光に塗れたその天空の一点目がけて愛執と憂いのこもった眼を向けた。「 …… 『茨の園』を目指せ、コウ・ウラキ。そこに彼女が狙われる理由 ―― 俺たちが探している『Credle』の概要が記されている」

 空から鳴り響くジェット音が迎えの車のエンジン音と同調する、すでにガルダが超高高度から爆撃コースへと降下を始めた証だ。「さあもう時間がないっ! 彼女を連れて急いでここから離れるんだっ! 」
 一切の反問を許さないとばかりに鋭い声で一喝したダンプティの声に全ての無駄を悟ったコウが、後ろ髪を引かれる思いでニナとともにクゥエルから背を向ける。ミカが開いたドアから助手席のないスペースへと乗り込むと、彼は外側からバタンとドアを閉めて運転席へと乗り込んだ。ギアを一速に入れ空ぶかしをして背中の音を確かめながら ―― 。
「 …… ミカ? 」
 じっとハンドルへと目を落としたまま動かなくなった彼を不思議そうに見つめるニナ、だがミカはおもむろにギアをニュートラルへと戻すと驚く二人をしり目に再び運転席のドアを開いて外へと飛び出した。「 ―― ねえっ! 」

 じっと車が動くのを見守っていたダンプティはその運転手が外へと飛び出して声をかけてきた事に驚きの目を向けた。もう時間がないというのに彼は ―― 一体?
「乗らないのっ!? 」

 恩讐を超えて。
 思いがけなく投げかけられたその優しさが彼らを取り巻く未来と絆の深さを自らの胸へと刻みこむ。でもだからこそ。

 にっこりと微笑み返して感謝と拒絶を無言で示したダンプティに向かってミカは、その誇り高き志に目を潤ませながら大声で尋ねた。
「あなたのお国の敬礼ってっ! どうやるのかしらっ!? 」
 
 促されるように立ちあがって右手を胸の前へと差し上げ、ア・バオア・クー陥落以来一度もする事のなかったジオン式の敬礼を微笑みながら披露するダンプティ。それを見ながらミカは自分の右腕を同じように胸の前へと掲げてカツンと踵を鳴らして直立不動の体勢を取った。
「 …… いってらっしゃい」

 それは誰にも聞かれる事のない、小さな手向けの言葉だった。

                    *                    *                    *

「あたし、あの人を知ってる」
 全力で飛ばすRSのロールバーとニナの体を抱きかかえたコウが耳にした小さな声の彼女の告白、全力で回るコスワースとロードノイズでかき消されそうなその言葉をコウは確かに耳にした。「今ここにこうしているのも、間違いなく彼のおかげ。なのにあたしは」
 彼の事も救えなかったと。
 自分の無力さに苛まれるニナの体を抱きしめる手に力がこもる ―― それは自分の同じなのだと。抱きしめるコウの手をなぞりながら肩を震わせる彼女に向かってコウは優しく問いかけた。「 …… 彼の名は? 」
「 …… カリウス・オットー …… ガトーの部下で彼の古くからの戦友だった人」

                    *                     *                   *

「今日は死ぬのにもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している ―― 」
 “ Good day to die か? ”
 心に留めていた詩編を思い出しながら口にしてその時を迎えようとするカリウスの耳元で囁く懐かしい声、振り返る事もなく彼はそれを受け入れて破顔した。「 ―― どうでしょうか、うまく彼を導けたでしょうか? 」
 “ 不器用な貴様にしては、なかなかよくできた方じゃないか? ”
「そうでしょうか? 」
 こんなやり方ではなくもっと他にやりようはなかったのかと自問自答をするカリウス、だが彼はその全てを見透かした上で静かに説いた。“ 光は、光を導けない。貴様が闇へと落ちたからこそ彼は光として闇を照らした。貴様はよく自分の役目を果たしたのだ ”
「 …… いつまで。この嵐は続くのでしょうか? 少佐にあの日その事を告げてからちっとも収まる気配がない。それを鎮めるためにクレイドルが必要なのだと閣下はおっしゃいましたが、果たしてそれは人の手で扱えるものなのか ―― 人の手に余る代物だったとしたらどうすればいいのか? …… 私は、彼にとんでもない責任を押し付けてしまったのかもしれません」
 “ だが私は、そして貴様はそれを彼に託した。コウ・ウラキという一人の青年に ”
「ええ。確かな事は何一つない …… でも私に分かる事は ―― 」そういうとカリウスは地平線へとついにその姿を現した巨大な機影へと仁王立ちになって待ち受けた。
「コウ・ウラキという男が、すでに少佐と同じ領域に立つ戦士であるという事 ―― 彼が必ず私たちの遺志を継いでくれる事に」
 “ こちら側で、期待しよう ”

 白んだ空にぽっかりと浮かぶ黒い花が五つ。先んじて通過するガルダの腹に開いた爆弾倉が閉じていくのを見上げながらカリウスは空高く掲げた時計へと目をやって、じっくりと時間を確認してから忌々しげに呟いた。
「ちっ、ウスタシュの野郎っ」
 毒づく彼に向かって緩やかに降りてくる巨大な影が次第にその輪郭を露わにする。落ちてくる消滅を満面の笑みを浮かべて出迎えながら、彼は雲一つない大空に向かって心の底にわだかまる最後の言葉を叩きつけた。
「 ―― 二分遅刻だっ! ざまあみやがれっ!! 」

                    *                    *                    *

 世界を震わせるその振動が、神々しいまでに破滅を現すその輝きが。
 大気を。
 大地を。
 全てを溶かして無へと導く。
 
                    *                    *                    *

 五感を研ぎ澄ませて山道を疾走するミカにその変化はすぐ伝わった。ハンドルが軽くなって思うようなラインが狙えない、地面を蹴立てる後輪の接地感が薄くなる ―― 空気がものすごい勢いで車体を後ろから押している。「くっそっ! もうちょいがんばれ、RSっ! 」
 全身全霊を込めて操作する希代のラリーカーはそのポテンシャルのありったけでミカの期待に応えようと奮闘する。オイルも水温もすでにレッドに踏み込んでアクセルレスポンスも心もとない、だがそれでもブライアン・ハートという伝説的なチューナーが手掛けたギャレット製ターボチャージャーは過給圧が許す限りシングルタービンをブン回す。
 背後に迫る衝撃波がビリビリと背中を震わせて彼の恐怖を逆撫でる、いよいよ剣が峰かと覚悟を決めた彼の目に飛び込む先の途切れた直線。「体固定してしっかり奥歯噛んでっ! 緩めてると舌噛むよっ!! 」叫びながらアクセルを床まで踏みこんで最後の力を要求するミカ、インジェクションポートが赤く焼けて放たれる熱がコウとニナの顔まで届く。

 そこに届く事がミカの賭けだった。曲がりくねった山道の中にたった一か所だけ存在する直線の先にあるジャンピングスポット、全速で飛べばどれだけの飛距離が出るかわからないがその高低差を利用して爆発時の衝撃波を回避する。「飛ぶよっ!! 」
 ミカが叫ぶと同時に接地感がなくなり車体が宙に浮いた事を示す頼りない感覚が三人を襲う、だが全てのパワートレインを車体底部へと配置したRSはその低重心のおかげであっという間に地面へと舞い降りた。すかさずハンドルを切ったミカが意図的に起こしたスピンで車体は数え切れないほど旋回して道の真ん中にその白い横腹を晒す。
「伏せてっ! 」
 彼の声に全身が反応してニナの体を必死で抱きかかえるコウ、そしてその二人を意地でも守ろうと覆いかぶさったミカの両手がロールバーを渾身の力で握りしめた。



[32711] Broken Night
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/06/30 01:40
 まるで何事もなかったかのような青空と明るい日差しは車列の輪郭を砂の大地へと焼きつける。渋滞したまま動こうともしないコンボイの先頭に立つモワクの助手席からヘンケンはすれ違う多くの車をぼんやりと眺めていた。
「 …… やっぱり報道関係の車が多いですね」運転席に座るパットが呟く。セシルはさすがに疲れたのだろう、後部座席でシートに深く腰掛けたまますやすやと寝息を立てている。
「そうだな、あとキャリフォルニアのMPの車もさっきすれ違ったな …… どこもかしこもてんやわんやだ」
「そりゃそうでしょう、後方の補給線とはいえ駐屯基地が一個一瞬で消えちまったんですから。本体の連中も大変だ、事実隠蔽にどれだけ資産を使う事やら」
「どうだかな」
 そういうとヘンケンはラジオのスイッチを入れて地元のラジオ局の周波数へと目盛りを合わせた。「 “ ―― 軍関係者からの情報によりますと今朝発生した連邦軍オークリー基地での巨大な爆発は地下変電所での火災が原因で、施設に貯蔵されていた弾薬庫が誘爆を起こした事による事故の可能性が高いと ―― ” 」
「MPIの時と同じにすでにシナリオができ上がっているというわけだ、知っているのはこの作戦を実行した旅団の連中とティターンズのほんの一握りの上層部。後の連中は奴らが垂れ流す嘘の情報を鵜呑みにするだけだ」
「俺たちが騒いだところでゴシップ誌の囲み記事程度に眉唾ものの作り話扱いにされるってわけですか …… さっすがティターンズ、そういう所は抜かりがない」
 ラジオから流れるまことしやかな作り話をBGMにヘンケンはいずれ戦う事になるであろう敵の実力に深刻な表情を隠せない、そして自分達の読みがいかに楽観的で誤っていたかを実感させる一晩でもあった。ウェブナーが苦労して集めた新組織のための構成員と幕僚二人を失い、振り出しに戻った人材発掘を今度は自分が自ら行わなくてはならないという義務と責任にいつもの楽観的な発想も湿りがちになる。
 それに ―― 。
「で、どうするんですか? 艦長」
 会話の流れに乗って『ある事』を問いただそうとするパット、だがヘンケンはその一言を聞くなり饒舌な口を閉じて再び対向車線の車の群れをぼんやりと眺め始めた。

                    *                    *                     *

 そこにキースがたどり着いた時には出迎えたモウラが涙で顔を濡らしながら渾身の力で抱きしめて、彼は万力のように締め上げるその力に全力で対抗しながらなんとか感動の再会をやり過ごす事に成功した。アデリアとマークスがボロボロになってなだれ込んだ時にはかつての仇敵とも言える整備班全員が駆けだして崩れ落ちそうになる二人の体を支えながらキースの前へと連れていき、感情が破裂して思わず飛び付きそうになるアデリアの機先を制して彼女の僚機は震える膝を意志の力で抑え込んで右手を額の傍へと翳した。それを見たアデリアが自分の間違いに気づいて一歩下がって同じ姿勢で、自らが認める上官へと敬意を込めて礼をする。
「シャーリー03・04。任務を終えて帰還しました。機体は損傷甚大のため現地にて放棄、アデリア・フォス伍長並びにマークス・ヴェスト軍曹両名とも軽傷は負いましたが無事です」
「よろしい、任務遂行ご苦労。二人ともよく帰ってきた」
 威厳に満ちた笑顔と優しい声のコンボで思わず涙腺が緩む二人だがマークスは見栄でそれをこらえてアデリアはサングラスのないキースの顔を見てそのイケメンっぷりで何とかこみ上げる物を押しとどめる。「 ―― ところで隊長」
 自分達が二つ目の山を越えた所で起こった眩い閃光と爆発音、そして木々にしがみ付かなければ吹き飛ばされてしまうほどの猛烈な突風。不安に苛まれた二人が顔を見合わせて稜線から吹き飛ばされる木々を眺めて出した結論の答え合わせ。「 …… オークリーは。俺たちの基地うちは」
「なくなった」
 短く告げるキースの一言にマークスの顔が歪んでアデリアの目に怒りが灯る。握りしめる二人の拳が白く色づく。
「 ―― この世界から …… そこにそれがあったという事実も含めて、全て」

 最後にたどり着いたRSを出迎えたのはそこに集っていた全員だった。爆発の余波による電磁波で全ての通信手段を奪われた彼らが取った手段は全員総出での山狩りで、到底その無謀を看破できないヘンケン側の人間はグレゴリーとキャンベルが先頭に立って説得しなければならなかった。だがそれでも整備班やキースをはじめとするオークリー側の生き残りは捜索の必要を主張し、彼らの熱意に危うく折れそうになったヘンケンとセシルはそれを許しそうになった矢先のことだ。
 フロント部分を大きく欠いてストラットごとメンバーがむき出しになった白い車体がまるで矢のような速さで林の中の一本道を駆けてくる。頭上をかすめた衝撃波で何回も横転を繰り返して立木へと激突したミカの愛車は決して過去の同類と同じ轍を踏む事なく、満身創痍になりながらも無事に彼らの下へと帰還を果たした。
 運転席から滑り出たミカがもみくちゃにされながらも助手席側へと回り込んでドアを開くと彼の手に引かれたニナが困惑した表情で外へと降り立ち、人垣を波のようにかき分けて飛び込んできたモウラとアデリアが二人同時に彼女の体へと抱きついた。緊張の糸が溶けて泣きだす二人と感動の再会に万雷の拍手で祝福する人だかりの影でコウがそっと抜け出して車の傍から離れようとする。
 だがそれを見逃さない人影が一人。「お疲れ、コウ」
 驚いたコウが視線を向けるとそこにはキースが待っていた。昔と同じ笑顔を携えた彼が掲げる右の前腕は昔アルビオンで無事に帰ってきた時によく交わした挨拶。
「 …… ああ、ただいま」
 疲れ切った笑顔を浮かべたコウが同じように自分の右腕を掲げて、軽くぶつけた。
 
 オークリー基地在籍582人のうち生存者はわずかに51名。基地司令及び医療部門、警備部門と民間徴用した軍属のほとんどが戦死。
 在籍リストに照合して表れる悲惨な現実は一度は再会の喜びに打ち震えた彼らの心を再び悲しみの淵へと叩き落とした。そこにいるほぼ全員が仲間や友人を必ず失い、明確に存在する仇に対して憤怒と呪詛を慟哭とともに吐き連ねる。だがそれと同時に今の自分達には何もできないという失望感が明日への希望を見失わせる、複雑な感情の積層に押しつぶされる彼らを見てヘンケンはもう少しの間そこに留まる決断を下した。理由はこれだけの事件が起こったエリア内を移動する事にかかるリスク ―― 公に何らかの関わりがある存在だと推察される事を避けるために、より大勢の人員が展開した所でそれに紛れて脱出を図るという方針を固めたという事と ―― 。
「 …… こういう時に一番必要なのは、時間だ。泣くにせよ怒るにせよ …… 何でもいい、自分の思い出に別れを言う時間がいるからな」
 腹心二人を失った歴戦の雄は彼らを慮ってわずかながらの猶予を与え、そして元主計課の砲雷班は基地から持ち出したレーションを温めて一人一人に声をかけながら手渡しで配った。人はどんなに悲しくても辛くても腹は減るのだと言う生前のドクの忠告を心に刻み込みながらグレゴリーは一心不乱にその作業へと没頭した。

                    *                    *                    *

 集団から少し離れた場所でコウ達四人を含めたヘンケン達幕僚の生き残りはオークリー襲撃に関する情報をまとめていた。その動機と目的、真相に関してコウやニナの口から語られる事実はヘンケン達を驚かせ、そして今まで漠然と持ち続けていた敵の知られざる闇に新たな警鐘と危機感を抱かざるを得ない。
「 …… そんな輩がティターンズのバックに、ついているなんて」全く持ってノーマーク、そして看過できないその情報は本来ならば今すぐにでもブレックス准将に報告しなければならない重要案件だ。もしそれだけの戦力を維持できるだけの資金がある組織を相手にするというのなら現在の資金力では到底相手に及ばない。 ―― だが。
「でも変ですね。ティターンズというのは独立した軍隊ではなく主義主張を同じくした連中が集まった連邦軍内の一派閥、世界を裏で動かすほどの力があるのならそれこそ連邦軍全てに資金供与を申し出てもおかしくない」
「 …… それは俺たちが知らないだけなんじゃないか? もしウラキ君やニナ君の話が本当なら奴らの目的は全人類圏のリスクマネージメントだ、ひょっとしたらすでに各コロニーの独立連邦やアクシズにも裏で ―― 」
 セシルやキャンベルが活発に意見を交わす中、黙っていたヘンケンが胡坐をかいていた両膝をパチンと叩いて言葉を遮った。
「ここで推論を交わしていてもしょうがない。それに政治的な話は現場の俺たちにはできない相談だ、月に持ち帰って准将の決断を仰がなきゃだ …… それより」
 全てを吐き出してもなお深刻な面持ちで目を伏せる二人の主役。隣に座る彼らの身内は自分達も預かり知らなかった事実に今だ困惑の色を隠せない。ヘンケンは恐らくこの場でいま最も理不尽で困難な明日へと足を踏み出さねばならない二人に向かって尋ねた。
「君たちはこれからどうする? 」
 その問いかけに思わず顔を上げる二人、そしてセシルはざわざわと胸の奥から湧き上がるある種の予感に驚いてヘンケンの横顔をまじまじと見つめた。

「なんとも近寄りがたい雰囲気」
 遠巻きに人の輪を眺めながらアデリアが最後まで取っておいたレーションのデザートへと手を伸ばす。どんな果物で出来ているかもわからないカチカチのフルーツゼリーだが疲れている時に必要な糖分は全身に染み渡るようだ。口元をほころばせる彼女の笑顔を見たマークスがやっぱり自分の分のデザートまで彼女のトレーに乗せると突然不満そうな表情になったアデリアがいつもと違う対応を取った。
「なによぉ、あんたも食べなさいよ」そういうと自分のフォークでゼリーを指してマークスのトレーへと差し戻す。「あんたの方がめちゃめちゃ疲れててメチャメチャ血が出てるんだからちゃんと食事はとンないと。いつもだったらありがたくもらっとくけど、今日はダメ」
 まるで世話女房のような口っぷりに思わずあんぐりと口を開けたマークスだったが、それでもなお睨みつけてくる彼女の目力に降参した彼はおずおずとゼリーの切れ端を口に運んだ。実はこの手のデザートは戦場で何度も食べているのだがその度に添加された香料に辟易していつしか口にもしなくなっていたのだ。だがこの期に及んでそんな言い訳が通じるはずもなく。
「 …… あれ? 」勇気を出して噛みしめた口の中に広がる甘味は今までにない味わいで、もちろんあの匂いは気にはなったがそれ以上に染み透るような旨みが舌の上どころか体全体へと広がっていく。びっくりして思わず残りのゼリーへと目を落とすマークスを見てアデリアが嬉しそうに言った。「どお? おいしいでしょ? 」
 思わずコクコクとうなづいて次の一口を切り取る彼を見て満足そうに笑っていた彼女だったが、彼女を挟んで反対側に座ったままラップトップを開いているチェンを振り返ってそのトレーが少しも減っていない事を目ざとく見つけたアデリアがすぐそばまで近づいた。「ほら、チェンも食べ ―― ちょっと、なに見てンの? 」

 いつもは慎重なチェンらしからぬ失態。
 作業に没頭していた事で彼女の声にも気付かずひたすらにドラッグアンドドロップを繰り返していたのは、それが彼にとってとても大事な物だったからだ。肩越しに覗いた彼女がその内容を把握する瞬間までその事に気づかなかったチェンが慌ててモニターを閉じようとした時にはもうすでに遅い。「! ちょっ、あんたそれっ!? 」
 一瞬でラップトップをひったくってチェンが伸ばした手の先で再び開いた画面に映るサムネイル、凝視したアデリアがそのうちの一枚を開くとそこには彼女がモデルとして携わっていたネット広告のための試し撮りの写真が大写しになった。「なんでこれがここにあンのよっ!? あんたのサーバーはあいつらの爆撃で基地ごとなくなった  ―― あ? 」
 そこまでまくしたてた時に彼女はチェンが以前に吐いた憎まれ口を思い出した。『フーターズ』の写真を消せと自分が言った時に彼はそれらの元データがここには存在しないと言った事 ―― あの時は悔し紛れの戯言だとタカをくくっていたがそれがもし事実だったとしたら?
「あーみつかっちゃったかぁ」棒読みでお決まりのセリフを呟きながら彼女の手元から自分のラップトップをそっと取り上げるチェンだったが言葉以上に悪びれた様子がない。「これは消しちゃダメだよ? 正真正銘これがマスターデータなんだから」
「マスターって、ちょっと待ッちなさいよっ! 一体今までどこに隠して ―― 」
「 …… まさかとは思ってたけど」アデリアの興奮を遮ってもぐもぐとゼリーを頬張るマークスが何かに思い当たった。「 …… ほんとにジャブローのメインサーバーをデータベースに使ってたとはね」
「 …… ええっ!? 」
「ビンゴ、軍曹」
 サーバー最深部に潜り込む直前にチェンが繰り返していたファイルの回収、自分達の目的のためには不必要だと思われていた作業も実はチェンにとっては最も必要でやらなくてはならない事だったのだ。なぜならマークスの企みに同意した時点で今まで積み上げた全ての裏工作が連邦軍が誇る鉄壁の攻勢防壁でおじゃんになる事は予測済みだったからである。「この世界で最も安全な保管庫はあそこだけだったんですよ、だから僕は大事なデータを全部あそこに隠してあった …… でも僕にとってアデリア親友のお願い以上に大事な事なんてない、だからリスクを承知であそこに潜り込む決断をしました」
 なぜだろう、今ここにいるチェンはあたしが今まで知っていた彼とは違う。もっと自己中心的で損得をまず考える華僑の庶子だと思っていた認識は自分を見つめるその真剣な眼差しによって大きく覆されてしまった。びっくりしているアデリアに向かってチェンはモニターの画面に映ったサムネイルを見せながら言った。「ここには君だけじゃない、僕が関わった全てのモデルの成長記録が入っている ―― もちろん誰からも許可は取ってない。でももし君がこれを消すべきだと言うのなら僕はためらわない、自分に益を与えてくれる人のためにはその要望に必ず応えなくてはならない ―― これは僕だけじゃなく『ルオ家』に生を受けた男子が絶対に守らなければならない鉄の掟だ。君が決めてくれ」
 清廉潔白を是とするアデリアが許しを得ない盗撮まがいの記録を認めるはずがないとマークスは思う、だが彼はここ何日かにおける彼女の体験からくる価値観の変化に気づいてはいなかった。チェンの言葉に怒りを納めてほんの少し俯いたアデリアは何かを切望するようなか細い声で呟いた。
「 …… 消さなくて、いい」
 
「 …… あんたがその写真で儲けようって考えてるンだったら消すべきだって思うんだけど …… そんなことこれっぽっちも考えてないんでしょ? 確かにあたしの写真が陸戦隊の人たちに渡ってたってのは恥ずかしいとは思うわよ、でも ―― 」ポロリと彼女の目から涙が零れた。
「そんなモンでもみんな喜んで、みんなそれ持って戦って死んじゃったんでしょ? あたしはそれをなかった事にはできない …… しちゃいけないんだよ」
 話に聞いていた敵対関係にあった部署に所属する、どこかやさぐれてて暗い影のある元陸戦隊の兵士たちはそんな事を微塵も感じさせないほど自分達には優しかった。演習がうまくいかなくて食堂でヘコんでる自分達に真っ先に声をかけてくれたのも彼らだ、脳裏に浮かび上がる数々のシーンと彼らの笑顔を思い浮かべる度にこみ上げてくる涙が止まらない。
「 …… だから消しちゃダメ、なんだ。 あたしはそんなみんなの事を絶対に忘れたくない、あたしもその写真を見てきっとみんなの事を思い出すから ―― あ、でも」
 思い直して涙をぬぐったアデリアが慌てて言った。「これからそういうのを残す時はちゃんとあたしたちに許可取ってからするのよ? 今の世の中肖像権とかコンプライアンスとかいろいろうるさいんだから、もしばれたらモデルの誰かから訴えられちゃうかも知ンないんだから」

 戦争の持つ様々な力。
 チェンはそれを父親から寝物語のように聞かされて理解をしているつもりだった、でも。
 彼らから頼まれてほんのちょっと起こした出来心でこっそりと渡したアデリアの写真、他愛のない事だと思っていたそんな事が戦争という名の悲劇を通して絶対に変わらないと信じていた一人の少女の価値観を覆して、今まで許した事のない不正にも寛容を示してしまう。人類が変わろうとする決意も、数多の屍を踏み越えて明日を目指さなくてはならなくなった苦しみや悲しみの中から生み出されるのだと。
 父親がいつも最後に締めくくった言葉の現実が今ここにある。
 「 …… そうするよ。ありがとうアデリア」
 溢れてくる涙を何度も袖で拭くアデリアを優しく見つめながら彼は言った。

「ところでチェン」
 大団円を迎えたいざこざ話の終焉を見届けたマークスがおずおずと尋ねる。「そこに君の全てのデータが収まってるって事は、あの時俺が開こうとしたフォルダもそこに? 」
「ええ …… 実は今それを開こうかどうしようかと迷っていた所をアデリアに見られた訳で。もう仕掛けの類は全部駆除して安全なはずですからいつでも閲覧可能なんですが ―― 」チェンがくるりとラップトップを回してマークスへと正面を向ける。
「どうします? 」
「あんたはもう触っちゃダメだからね」間髪をいれずにアデリアの声が飛ぶ。「ニナさんの時といい昨日といい、あんたがパソコン触るとロクな事にならないんだから。そういうのはプロに任せてあたしたちは見てるだけでいーの」
 左右に陣取ってモニターを見つめる二人の圧に苦笑しながらチェンはマウスパッドを二度叩く、圧縮されていたフォルダはすぐさま回答してその中にある項目をウインドウへと展開した。見た目に不規則な数字とアルファベットの羅列だが内容を示す拡張子とデータ量はほぼ一定の数値だ。
「各ファイルとも全部画像データですね …… さて」一番上にあるファイルを展開すると四分割の画面に写真が表示され、ぼやけて不鮮明な部分は自動的にフォトショップが起動して出来るだけ詳細になるよう加工が施される。「どこかのハンガーの全景、かな? それにしても奥行きが ―― 」
「すご。うちの何倍くらいあるんだろう」感心した声でアデリアがじっと見つめる。数は定かではないが壁面に据え付けられたモビルスーツラックには何体もの機体が、そして所狭しと置かれた見た事もない戦闘機やら戦車やら。「この細長いのなんてなんだろう? 宇宙戦闘機かな」
「まるで博物館ですね、見ようによってはうちより戦争博物館スミソニアンだ ―― 他のファイルは」次のファイルをクリックするとそれは明らかにジムの系統に分類されるモビルスーツの写真だった。真っ白な機体に特徴的な頭部。「なんだこいつ、いかついジムだなぁ。ヘルメット被ってるわよ」アデリアが目を引かれた頭部は明らかにジムの物とは一線を画する。額には二本の通信アンテナらしきものと左右の耳の部分にあるブリスターダクト、そして。
「なにこのカメラ、二つついてるじゃん。こんなンで回り見えンのかなあ? 」人で言う目の部分に備えられた二つのアイカメラが特徴的な顔を見たチェンが呟いた。
「 …… へえ、『ガンダム』だ」

 彼の言葉に驚いた二人が画面を食い入るように見つめる。
『ガンダム』というコードネームは連邦軍に所属する兵士全てが何らかの形で知っている、だが軍機に相当するその機体の写真は一枚もなくましてや実際に出会った者は非常に数が限られている。噂でしか聞いた事のない実物の写真を初めて見る二人はまるで子供のように笑顔を浮かべながら目をキラキラさせる。「これが、ガンダムかあ。すごいなあ、一回でいいから傍で見たいなぁ」
「ちょっとマークス、ちっちゃい子みたいな事言うんじゃないの。聞いてるこっちが恥ずかしいじゃない …… でもこれが全機動兵器のトップコンテンダーシリーズかあ ―― 形式番号とか、ないの? 」
「肩の部分に貼ってある部隊章は剥がされてるね …… 装甲があちこち剥離してるから実戦上がりの機体だとは思うけど」そういうとチェンは機体の左肩の装甲部分をズームアップした。「だいたいどの機体もこのあたりに小さく形式番号がきっちり記載されてる ―― お、あったあった」

 装甲の隅に遠慮がちに書かれたその番号は。
 それを聞いた事のある三人の頭を真っ白にした。冷静で鳴らすチェンの指が思わずパッドを離れて中空でぶるぶると震えたままだ。
 ―― 『RX-78GP03S』

「あ、ッデリアっ!! 三号機っ!! 」
「 …… うそ」
 我に帰る間もなく反射的に立ちあがったアデリアが思わず車座の中に紛れたままの二人に向かって大声で叫んだ。「伍長っ!、ニナさんすぐこっち来てっ! 」

                    *                    *                    *

 それは長く連邦軍で働いていた面々にとっても驚くべき資料だった。上層部の間で噂になっては立ち消えた幻のような存在、兵器や武装の試作品の数々がそのフォルダの中に全て収められている。「 …… 確かにステイメン ―― デンドロビウムのコアユニットに間違いありません」
「しかも俺が衛星軌道上で回収された時のままだ ―― こんなところに保管されてたとは」
 それはまるで昨日の事のように。
 マダガスカルに拿捕された後コックピットから強制的に引きずり降ろされたコウはそのまま独房へと叩き込まれて軍事法廷が開廷するまでの間、一切の外界的な刺激から完全隔離されてたった一人で自分の罪を清算し続けた。禁断症状のように時折襲いかかる強烈な自傷衝動は彼が初めて外へと出る事を許された図書館で『あの本』を見つける時まで延々と続く。
「場所はどこだと思う? 」ヘンケンが尋ねると傍にいたセシルが白い指で顎を摘みながら言った。「恐らくジャブローのどこかでしょう。これだけ大きな規模の格納庫は地球には二つしかありません、そのうちキリマンジャロは現在ティターンズの本拠地となってますから彼らの情報が外部へと漏れている可能性は低い」
「だが俺たちは何度もあそこに勤務して基地の中身は隅から隅まで知っているつもりだ ―― こんな所どこにもないし案内板にも描かれてない」
「 ―― あの基地の底が、まだあるのか? 」キャンベルとグレゴリーがジャブロー配属当時の記憶を思い出しながら、しかしグレゴリーはある事に思い当たってその名を口にした。
「おおいっマルコっ! 悪いがちょっとこっちに来てくれっ! 」

「 …… これを一体どこから」
「おおっと、硬い事は言いっこなしで頼むぜ。参謀本部にいたお前さんならこれがどこか分かるかもしれないと思ってな」グレゴリーの分厚い手が怪我をしているマルコを気遣って、それでも促すようにドンと背中を叩くと彼は痛みにいててと呟きながらしかめっ面で画面を見た。
「確かにこれはジャブローにある非公開の格納庫です。存在を知っているのは幕僚長を初めとする軍の最上層部と参謀幕僚のみに限られますが立ち入りは当時から著しく制限されていたはずです、それが写真で内部の様子を残してあるだなんて」
「君だけじゃなくてここにいる偉そうな連中は皆本社勤務ジャブロー経験者だ、だが誰一人として ―― かつて一時期だが宇宙軍幕僚に名前があったセシルですらこの場所の事を知らない。なぜだ? 」
「宇宙軍幕僚 …… レビル将軍にはこの事をお知らせしてはいなかったのです。これはあくまでも地球から人類を統括しようとした連邦軍の幕僚が考えた、事実隠蔽のための匣だったからです」
「事実隠蔽の、匣? 」不穏な言い回しにセシルが呟いてその言葉の裏を読みとった。「つまりこの場所は …… 自爆用核爆弾設置エリアの、真上? 」
 上目づかいで見る彼女に向かってマルコは大きくうなづいた。

 自爆用核爆弾どころか自らの不注意で自爆してしまった当の二人は全員が肩を寄せ合う人垣から離れた一番後ろで事の成り行きをしおしおとした態度で見つめていた。
 三号機のありかを偶然手に入れた事は殊勲に値する事なのだが問題はその出どころだ、明らかに第一級反逆罪に値する機密情報へのアクセスは本来であれば裁判抜きの銃殺刑に処せられても文句の言えない大罪である。しかも現役の兵士がそれを犯すのは入隊の時に誓った連邦軍憲章にも背く事になる。
 唯一の頼みはラップトップを操作しているチェンが何食わぬ顔で各ファイルを展開して開示している事とフォルダの説明をしている事だ、どこか掴みどころのない人物だとは思っていたがまさかヘンケン達の部下として基地に潜り込んでいたアンダーカバーの一人だとは思いもしなかった。
「 …… 軍曹と伍長がこの機密をどこで手に入れたかは問うまい、というかチェンを巻きこんで命拾いをしたな。もしこれが君たち単独だったら俺はただちにキャリフォルニアのMPに身柄を引き渡す義務が生じる、引退した身の上とはいえ一応元連邦軍だからな」
 人垣を割って二人の下へと歩み寄ったヘンケンが厳しい声でそう告げるとマークスとアデリアはまるで電気に打たれたような勢いで深々と頭を下げた。
「もうしわけありませんっ! この不始末に関しましては僚機ともどもどんなご命令でも拝領する覚悟でありますっ! 」「ふうん」
 嬉しそうな声で二人を品定めをするセシルの声だ。「 …… ずいぶんと大きく出ましたね? でも一度口に出したらもう二度と言い訳は聞きませんよ? 特にこの私の前では」
「 …… ねえ、言う相手間違ったんじゃないの? 伍長の小屋で少し目が覚めた時に思ったんだけど、あの人超絶ヤバい人だよ? 」「はいそこ、私語は慎んで」
 マークスに向かってぼそぼそと呟くアデリアを一喝したセシルはヘンケンの方へと視線を送り、受けた彼は笑いながら小さくうなづく。自分達のモビルスーツ部隊にとって稀有な才能にあふれた人材が入隊するというのならこれほど頼もしい事はない、一年戦争で多くのパイロットを失った今となっては彼らのような若い力は特に貴重だ。
「どうやら伍長の乗ったフュンフもここから出てきた可能性がありますね」チェンはそういうと過去データを引っ張り出してその部分だけを表示した。日付ははっきりとはしないが多くの履歴の最上部に『MS-06F』の文字が描かれている。「なんで? 確か受領時の説明では倉庫に収まりきれなかったからここに送られたんじゃないかって」
「そういう名目だったのかもだが実際は違う …… ほら」記憶を頼りに当時の様子を語るモウラにキャンベルがモニターを指差す。「しかし『搬出キャリー』じゃなく『出荷シップ』 …… そんな物を自由自在に出し入れとは、やはり伍長と技術主任の話は白昼夢の類ではないようですな」
 ううむ、と腕組みをしながら深刻な声でそう話すキャンベルだが当のヘンケンはまるでその話を聞き流していた、というか彼はコウの話を全く疑うそぶりも見せない。自分が友人だと認める彼の発言にこれっぽっちの嘘も偽りもあろうはずがない。
 そんな事より ―― 。「 …… 副長、ここ見てみろ」
 その不可思議な声に誘われた彼女が思わずモニターへと視線を送るとヘンケンはチェンに指示してそのファイルを開かせた。表示された資料と乾ドックへと上げられた船体の写真、そして名称。「 …… っつ! 艦長、これって ―― 」
 あまり物事に動じないセシルをして思わず驚愕の声を導き出すそのオブジェクト、ヘンケンはニヤリと笑いながらなんとも言えない声でその感想を口にした。
「まさか本当の話だったとはな …… ところで動くのか、これ? 」

                      *                    *                    *

 ガタゴトと揺れる荷台の上で彼らはつかの間の夢を見る。
 ディーゼルエンジンが奏でる機械音と振動がまるで揺りかごのように長い夜を生き延びた彼らを安らかな眠りへと誘い、日差しを遮る幌が彼らの人生を変えてしまった悲劇を労わるように照りつける日差しを柔らかな明かりへと変えていく。その中でグレゴリーとマルコだけがなぜか隣り合わせで荷台の最後部から遠ざかっていくオークリーの方角へと視線を向けていた。
「 …… グレゴリーさん」おずおずとそう尋ねるマルコに彼は黙って視線を落とした。応急処置でいろいろな所に巻かれた包帯が痛々しい。「 …… ドクの、チェスセットは? 」
「 ―― 埋めてきた」短く告げるその一言にマルコはなぜか納得して小さくうなづいた。それは多分自分が彼と同じ立場だったとしても同じ事をするだろうと。
「あれは勝ったらもらう約束だった …… 一度も勝てなかった俺にそれをどうこうする資格なんてない」
「そうですね、誰も一度も勝てなかった」その頭脳も才能も死んでしまえば全てがまるで夢のように消えていく、マルコは自分が立てた作戦で失った大勢の兵士の存在に憐憫の祈りを心の中で捧げた。参謀本部時代に『不敗のダヴー』ともてはやされた自分の足元に眠る万骨が持っていたであろう未来の可能性、その芽を摘んでしまった事は本当は自分のエゴなんじゃないかと後悔の念が先に立つ。
「お前さんはよくやった …… 悔む事なんてないぞ、マルコ」その思いをくみ取ったグレゴリーが労わるように声をかけた。「バスケスも、ドクも俺たちの隣にはいなくなっちまったがちゃんとどっかで見守ってくれている。それに ―― 」

 振り返ったグレゴリーの視線の先にはコウとニナ、キースとモウラ。そしてアデリアとマークスがまるでお互いを確かめるかのように手を繋いだまま眠っている。「 ―― もしお前さんがそれを後悔しているのなら今度はそれを教えにしてもっと多くの仲間を救えるよう考えろ。俺は敵に砲弾を叩き込む事しか脳のない人間だ、砲雷班なんて皆そんな事しかできない」
 数々の修羅場をくぐり抜けてきた現場の言葉にマルコは打ちひしがれて肩を震わせる。足りないものばかりだと実感させられた今夜の出来事は彼に多くの課題を突きつけた、もし機会が訪れるのなら今度こそそれら全てに答えを出さなくては。
「 …… お前さんなら、それはできるんじゃないか? 」

 わき道にそれた所で車線は二つになり、それに伴い車の流れも少なくなる。元々取材や調査に来ている連中は沿岸部の大都市から来ている連中だ、内陸に向かう車はこのあたりでも数えるほどしかいない。
 車の影がなくなり今度は広大に開けた景色をぼんやりと眺めていたヘンケンはパットに尋ねられたその一言について思いを巡らせていた。
 ―― これからどうするか。
 昨晩の出来事は人的損失も含めて全てブレックス准将へと報告する義務がある。だがどこまで?
 立ち上げようとしている組織は反地球連邦組織であるが括りとしては連邦軍内の一派閥 ―― 立場的にはティターンズと同じ。
 だが二人が言う所の『ASRA』という存在がもしティターンズという組織を利用して何らかの陰謀を企てているというのなら、それに対してはどんな手段を講じればいいのだろうか? この発足に先立ってすでに各方面へと手を伸ばして様々な対抗策をシミュレートはしてきた、だが事態は完全に自分達が想像もしなかった方向へと動きつつある。
 もしこのままティターンズを野放しにしていれば奴らは必ず自らの理念に基づき地球至上主義の確立とスペースノイドの排斥を強硬に推し進めるだろう、だが彼らの話では『ASRA』の目的は要約すれば戦争シェアリングであり、それをコントロール下において様々な利益を享受する事が目的のようにも思える。ならばどうしてそれが今最も強大な軍事力を誇るティターンズに肩入れをしているのだろう?
 それともう一つ ―― 『Cradle』という名の存在。
 それを手に入れる事ができれば世界が変わるほどの何か。
 敵対する陣営同士がなんとか手に入れようと命も惜しまず躍起になって探しているそれはこの戦いの帰趨を決する切り札のようにも思える、しかしその正体は誰も知らない。確かな事は敵が言い残した『茨の園』へと赴いてその全貌を知る必要があるという事。
 恐らく進捗的には『想定した』ティターンズに対抗できるまであと一年、その間に敵の力を少なくとも元へと戻すという意味でもここで俺達が ―― 。

「だめですっ! 艦長っ!! 」
 突然セシルの恫喝が後部座席から鳴り響いてヘンケンとパットは慌てて首をすくめた。パットは後ろを確認するために恐る恐るバックミラーへと視線を送って、名指しされたヘンケンはまるで背後に迫った危険を確かめるかのようにそっと肩越しに後ろを見る。
「「 …… なんだ、寝言かよぉ」」
 自分の考えを読まれたのかとドキドキしながらパットと同じセリフを吐いて大きくため息を吐くヘンケン。「副長も気苦労が絶えませんねぇ、夢の中まで艦長を叱ってたんじゃあ一体いつお休みになるのか」
「そういうお前こそしっかり運転しろよ先任操舵手。事故りでもしたらまた昔みたいにセシルに両肩蹴っ飛ばされながら運転する羽目になるぞ? 」
「あーあれですかぁ? …… あれだけはちょっと勘弁 ―― 」
「ねえっ! ちょっとぉっ! 」

 助手席側の窓から聞こえる大声にヘンケンは窓を大きく開けて声の主へと顔を向ける。恐らく自分の座面ほどの高さから小さな窓を開けて見上げるミカがガムテープだらけのRSを運転しながら尋ねてきた。「あなたの事なんて呼べばいいのかしらっ!? 艦長さん、って呼ぶのもアレだし ―― 」
「組合長でいいぞ、今の俺なんてそんなモンだ ―― で? 」
「そろそろあたしの車限界なんだけどっ! メンバーのどっかが割れてて真っすぐ走るの大変なのっ! 」言われてヘンケンがRSのハンドルへと視線を送ると真っすぐ走っているはずなのにミカの右手は大きく左右に動いている、よくこれでついて来れるもんだと彼の運転技術に感心しながら笑った。「それで? 」
「あたしたちどこまで行くのっ!? 」

 荒野のど真ん中に立つ巨大なオベリスクへと目を向けたヘンケンの口元が何かを悟ったようにニヤリと歪む。
 いちいち細かい事を考えるのは苦手だし思い悩んでいても仕方ない。俺の座右の銘は『当たって砕けろゴー・フォー・ブロークン』。
 ならばここまで生き残ってきたやり方なんて変えられない。「ああ、そうだな ―― 」

                    *                    *                    *

 それが夢の中だと彼女は知っていた。
 自分が立つ見た事もない戦艦の巨大な艦橋、かつて自分が艦長を務めたホーライよりも大きい。所狭しと並ぶ操作パネルといくつかのアイランド、それらより一段高い所に立つ自分の隣にある艦長席。座っているのはもちろん彼。
 窓の外に広がる広大な星の海へと手にした煙草を燻らせながら鋭い視線を投げかけているヘンケンはいつものように帽子を斜に被って自分の声を待っている、舵を握ったまま後ろを振り返るパットが艦長席の後ろ上方にあるオペレーターへと手を上げてリンとマヌエルが各部署へと指示を送る。
「艦長」
 夢の中の自分が直立不動のまま声を出す。「両舷前進微速、赤黒なし。当座標より前方200海里までオブジェクトなし、針路クリア ―― 指示を」
「わかった」
 煙草を携帯灰皿でもみ消したヘンケンが帽子をきちんと被りなおして肘かけのマイクを取り上げる。「 ―― 全乗組員に達する、本艦はこれより ―― 」

 わかっている。
 自分が本当に求めていたもの。
 彼と一緒にいる事だけでもだめだ。
 平和な世界で穏やかな人生を満喫する事でもない。
 彼と一緒にこの星の海で様々な困難や危険に立ち向かってそのことごとくを乗り越えていく事。
 
 それが私。
 セシル・クロトワが本当に心の底から欲しがっていた、未来。

                    *                    *                    *

「 ―― とりあえず、オベリスクの向こうまでだ」
 ヘンケンの言葉に目途をつけたRSが速度を落としておとなしくモワクの後ろへと下がっていく、窓から顔を出して笑いながらそれを見送ったヘンケンは再びシートへと座りなおして大きく迫るオベリスクへと視線を向けた。とりあえず組合の事務所を拠点にして旅支度をして、それから希望者を募ってここに残る者とウラキ君についていく者とを分けて ―― 。
「 ―― その先は? 」
 明日からの計画を思い描いて浮かれていたヘンケンはぼんやりと聞こえてきた声に何気なく応える。「そうだな、とりあえずは月のタカヤナギと連絡を取って准将との会議の場を設けなきゃな。三日後にはウラキ君の言う船がメア・アイランドに停泊するからそれに何人乗れるかを調べて、乗れなかった連中は後便を手配 ―― 」

 パットの声だと思っていたのは間違っていた。
 何気なく運転席へと視線を送ったその先にはしきりに首をブンブンと振って、会話の相手が自分じゃない事をゼスチャーで主張する怯えた操舵手の姿があった。キョトンとして見つめた後に思わず口を吐いて出る驚きの声。
「え」
 油の切れた頸椎がギシギシと音を立ててなおも後ろへと軋み上げるとそこには薄眼を開けてヘンケンを眺めるセシルがいた。「せ …… せ、シル? 」
「 …… 『副長』です、艦長」言いなおしを要求する訳でもなく、ただ仏頂面でじっと見つめる彼女に対して彼はまるで睨まれた小動物のように動けない。ただ声にならない言い訳を唱えようとする喉の奥だけがカラカラに乾いて変な音を立てている。
「 …… まったく」
 ほう、と一つため息をついたセシルはなぜか微笑んで静かに目を閉じ、決して快適ではない後部座席にゆったりと背中を預けて言った。
「 …… しょうがないですねぇ」



[32711] intermission
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:6649b3b3
Date: 2023/07/03 19:04
「 “ 私だ ” 」
 成層圏を丸い地平に沿って航行する空中要塞ガルダの指令官室、受話器を取った彼は生身の耳へと押しあてた。
「 “ ご苦労さまでした、大佐 ―― 気分は? ” 」薄っぺらな労いの言葉に無表情で彼は機械式の声帯を動かす。「 “ 貴重な戦力を失いました、あなたの予定通りに ” 」
「 “ 科学が暴力を鎮圧した証拠を見てどう思う? ” 」
「 “ 生まれ出ずる者があなたのご要望の品物なら重畳 ―― ではこれで ” 」
「 “ 恩人を灰にした気分は? ” 」

 それが彼の感情を表すシグナルなのだろうか、左目の部分にあるカメラがしきりに点滅を繰り返す。「 “ 彼が君を助けなければ彼はそこで死ぬ事はなかった …… 私は思うのだよ、人の因果とはどうしてこうも不条理にできているのかと。そんな過ちの繰り返しが人類を未来へと送り込むというのならきっとその先には ” 」
「 “ 彼は恩人などではない ” 」ざらつく音をマシンボイスが吐き出した。
「 “ もし彼があの時私を助けなければ私はこんな生き地獄を見る事はなかった、この先もっと大勢の人が死ぬこともないだろう。彼はこんな化け物を生み出した罰を負っただけだ …… 罪人にかける容赦が過ちだというのなら私はそれを正すまで ” 」

「 “ …… いつも通りの大佐で安心したよ、もしかしたらそんな事でもなにか変ってしまうんじゃないかと危惧していた所だ ―― ところで “ 」
「 “ 次は? ” 」

 暗い所長室の電話にハイデリッヒは薄笑いを浮かべながら囁いた。
「司令部をルナツ-に移す準備をしてくれ、そこまではお仲間の連邦軍に頑張ってもらおう。彼らの次の行き先は ―― 」
 そういうと壁にかかった世界地図へと目を向けた。たび重なる戦争と環境破壊ですっかりみすぼらしくなってはいるが、それでもいまだに世界最大の熱帯雨林である事に変わりはない。

「ジャブローだ」

                                                                      <第一部 了>


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