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[32444] 乳列伝 【完結】
Name: abtya◆0e058c75 ID:4bca1874
Date: 2015/11/22 19:20
撞土市北東部、八雲町。ニュータウン計画が予算不足で頓挫したその街の郊外には、今もまだ開発されずに残る森がある。
その森の暗闇の中で、二つの影が交錯していた。
双方ともに淡い光の粒子に包まれながら、一方の影は武者鎧のような意匠の無骨な甲冑に身を包み、もう一方は筋骨隆々の強靭な肉体をあらわにして、それぞれ刃と拳を振るう。
二つが激突するたびに光の粒子が飛び散り、大気は振るえ、木々はざわめき、大地が揺れる。
衝突に次ぐ衝突。だが両者共に一歩も退くことはない、膠着状態。
一進一退の攻防の中で、先に口を開いたのは鎧武者のほうだった。

「無手にて我が攻撃を凌ぐか」

荒々しい見た目に反した涼やかな声。明らかに男性のそれではなかった。

「それにこちらの動きを先読みしているかのようなその動き、一体如何なるからくりか」

鈴の音のような声を荒げ武者は問う。
『武器』も持たぬ相手に対し攻めきれない苛立ちが、その口調からは明確に読み取れることができた。
くつくつと笑いながら、もう一方の影は答える。こちらは明らかに男性と分かる、野太い声だった。

「胸だ、貴様の胸が全てを教えてくれる」
「貴様、相手の胸中が読めるのか!?」

女武者の問いに男は首を振るう。

「いいや違う。俺は相手の心中など読めん。俺が読むのは……」

男はゆらりと女武者の胸部を指差す。ただし二本指で、である。

「お前のおっぱいムーブメントだ」
「おい」
「我が拳術の流派は、肉の基点を読み相手の動きを完璧に予測する。お前の攻撃は斬撃、基点は胸部、すなわちおっぱいだ!!
鍛え抜かれた俺の内見力(インサイト)の前では貴様の甲冑などスケェールトゥン!!」
「ば、馬鹿かお前!?変態か!!」

女武者は思わず胸を押さえる。女性ならば当然の反応である。なにせこの男の言っていることは要するに、「俺の目にはお前マッパ同然だぜ」といっているようなものなのだから。

「変態ではない、拳術家だっ!
さぁ、貴様のその豊乳の揺れが!俺が次にすべきことを教えてくれるぞ!!」
「やめろっ、む、胸を見るな馬鹿者!!」
「行くぞ!いざ尋常に勝負也!!」

淡い光の粒子を放ちながら男が突っ込む。その視線は揺らぐことなく一途に真っ直ぐに、女武者の胸部に固定されている。
背中を駆ける悪寒。女武者は、今度は男を受け止めることなく、ただ大きく後ろへ飛びずさった。

「逃げる気か」

僅かながらに怒気をはらんだ男の問い。武者はすぐさまそれを否定する。

「しょ、勝負は預ける!」

逃げるわけではない。戦略的撤退である。というか、乳を見られて混乱している今の精神状態では、まともに戦うこともままならない。ここまで読んで自らの手の内を晒すようなまねをしたというのならば、この男たいした曲者である。
多分違うだろうが。

「だが覚えていろ、いずれ必ず『鍵』は貰い受けるぞ!!」

その言葉を最後に、武者の姿は闇に溶けて消えた。
男はそれを追うことなく、ただ静かに見守る。気配が去るのを確認すると、パンと一つ柏手を打った。


「……ごちそうさまです」




[32444] 0
Name: abtya◆0e058c75 ID:4bca1874
Date: 2012/04/02 17:21
『良いか沙耶、拳剛(けんご)。我が東城流拳術は乳に始まり乳に終わる。
そもそも東城流の技法は2本の柱に支えられておる。その一つが――――――』


(――――――またこの夢か)
目の前に2年前に他界したはずの祖父・源五郎がいることで、東城沙耶はこれが夢であると言うことを理解した。
見ていて夢だと分かる夢。いわゆる明晰夢という奴である。
しかもこれはただの明晰夢ではなく、かつて沙耶が幼い頃に実際にあったことの回想だ。

場所は多分、家の敷地内にある道場だろう。
道場の広さは大体30メートル四方で床は板張り。掃除が行き届いており塵一つ落ちていない。
沙耶と、沙耶の幼馴染の拳剛は、そのど真ん中で体育座りをしながら源五郎の話に耳を傾けている。
道場の正面には日の丸が掲げられており、その脇には門下生が入門してこなかった2つの原因のうちの一つである、「乳」の一字の掛け軸がかけてあった。
ちなみにもう一つの理由は師範、つまり沙耶の祖父本人の性癖である。


(これさえなければなぁ。
東城流は技術としては優れているのだから、道場だって廃れることもなかったのに)


祖父源五郎の死後、東城流を継ぐ者は沙耶の幼馴染である拳剛(けんご)一人になってしまった。
源五郎が逝去したとき拳剛は齢15。2年経った現在でもまだ17であり、道場の主を務めるには幼すぎた。そのためろくに入門希望者も来ないのだ。
つまるところ、東城流がつぶれるのも時間の問題であった。

夢の外を憂い、沙耶は夢の中で小さくため息を吐く。
実は東城家宗主の血は引くものの、沙耶自身は小学校に入る前に東城流を止めたため、一門の人間ではない。
とはいえ数百年の歴史を誇る一門の流れが絶たれてしまうのは、前当主の孫娘としては残念でならなかった。


『これ、聞いているか沙耶や』
『うん。ちゃんと聞いてるよお爺ちゃん。』


とはいえ、それを口に出すことはない。
これは脳内が眠っている沙耶に見せている過去の回想に過ぎないから、ここで何か発言しても現実に影響することはないからだ。それに、仮にこれが現実であったとしても、孫の忠告くらいで目の前の爺の乳好きが治るとは思わなかった。
孫娘の元気な返事に気をよくした源五郎はにっこりと笑うと、説明を再開する


『そうかそうか、じゃあ話を続けるぞい。
東城流の技法を支えるもう一つの柱が、『内視力』じゃ。』
『いんさいと?』
『何ですかそれは?』
『簡単に言えば、相手の内側を見る力のことじゃの。
内視力にもいろいろあるが、大別すると二つ。肉の動きを見るか、気勢の動きを見るかの二つに分けられる。』
『なんでそんなのを見るのですか?』
『相手の筋肉の基点の動きを見ることができれば、あるいは経絡を辿り気脈の中心である胸部の流れを読み取ることができれば、相手の次の動きが分かる。相手が次にすることが分かるのならば、それを制することなど容易い。気の先、という奴じゃな。
故に内視力を用いるわけじゃ。分かるかの二人とも』
『うーむ、ちょっと分からないです』
『難しいよ、お爺ちゃん』


当然だろう。気脈だの経絡だの、漢字もろくに読めないほど幼い二人に理解ができるはずがない。

(というか、気脈の中心は胸じゃなくておへその丹田じゃなかったっけ?
おっぱいが好き過ぎて耄碌していたのか、もしくは勝手に一門の技法を改ざんしたのか………おじいちゃんのことだから後者だろうなぁ)

畳の上で大往生を遂げるまで一回すらも物忘れがなかった祖父である。ぼけていたということは考えにくかった。
祖父の女性の胸部への飽くなき情熱に、沙耶は思わず嘆息する。
その半分でも道場運営にまわしてくれれば、東城流が廃れることもなかっただろう。
そんな沙耶の怨念も夢の中の祖父はどこ吹く風で、おっぱいをひたすら連呼していた


『ふむ、まあ要するに、おっぱいに逆らわず身をゆだねろということじゃ。』
『はい、わかりました!』
『いやわかんないよお爺ちゃん』
『むぅ、沙耶は女の子じゃから分かりにくかったかの。』
『多分そういう問題じゃないとおもうよ』

(というかそれ以前の問題だ)
心中で突っ込むが、しかし夢の中の3人は、というか祖父と拳剛はそんなことはお構いなしに阿呆な問答を続けていた。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、他人には絶対に聞かせられない会話。
けれどこうしていつまでも夢に見るということは、
そんな馬鹿らしい一時が、沙耶にとっては大切なひとときだったということらしい。


『だけど先生、男の人にはおっぱいはありません。こういうときはどうすればいいですか?』
『金玉蹴っちゃえ』
『はい!』

(その答えは武道家としてどうなのおじいちゃん、拳剛は拳剛で素直にうなずいているし)

『では先生、胸の小さい人にはどうしたらいいですか』
『胸に貴賎なし!鍛錬をきちんと積めば、バストが大平原だろうがマッターホルンだろうが相手の動きを読むことは可能じゃ!』

(おじいちゃんは女性の胸なら何でもいいんだもんね)

『分かりました先生!
けどそれなら男の人相手でも内視力は使えるのではないですか?』
『ワシ男のなんて視るのやだー!』
『おじいちゃんわがままー!』


(まったく、拳剛もおじいちゃんも、本当に――――――)

かつて確かにあって、しかし今はもうない光景を見ながら、沙耶は微笑んでいた。
できることならば、いつまでも時間に浸っていたい。だがそうも行かないらしい。
いつの間にか頭の中で鳴り響いていた、だんだんと大きくなるアラームの音が、夢の終わりを告げていた。
さぁ、目覚めの時間だ。

(また来るよ、バイバイ)

三人に小さく手を振るう。
そして夢の中の沙耶の意識は途絶えた。






無意識に伸ばした左手が、目覚ましのアラームを止める。

「さて、拳剛を起こしに行かなくちゃね」

沙耶の一日が始まる。



[32444] 1
Name: abtya◆0e058c75 ID:d092c0e5
Date: 2012/04/21 10:01
沙耶の一日は、寝ぼすけの幼馴染の拳剛を文字通り叩き起こすことから始まる。
海外出張で家を空けがちな彼の両親から頼まれた、重要任務である。

「起っきろー拳剛!朝だよー!!」

勝手知ったる幼馴染の家。
沙耶はいつものように拳剛の部屋へ突入すると、寝ぼすけの目を覚まさせるべくカーテンと窓を開け放つ。暖かい光が差し込み、次いで四月のまだ冷たい空気が部屋中を満たした。
一方、部屋の主の拳剛はと言えば、いきなりの光に呻きながら、身長2m、体重120kgの巨体を窮屈そうに縮め、頭から布団を被る。徹底抗戦の構えである。
自前の阿呆みたいな筋肉とふかふかの布団で守られた鉄壁の要塞。こうなればこの巨体はちょっとやそっとでは起きない。
沙耶はやれやれとため息をつきながら、とりあえず頸部と思しき部位に手刀を落とした。

「ぬがっ!?」
「おら起きろー」

ホールドが緩んだ隙に、沙耶はちゃっちゃと布団をはぎにかかる。
拳剛はうぬうぬと唸りながら抵抗を続けているが、そのたびに手刀を入れられ布団をはがれていく。ものの数十秒で掛け布団は完全に沙耶の手中に収まった。
肌を刺す冷たい外気。拳剛は残された敷布団の上で、その巨大な体をダンゴムシのように丸める。
だが侵略の手は止まらない。止めを刺さんと、沙耶は敷布団の端をしっかりとつかむ。

「お、お代官、どうかそれだけは……それを奪われてはもう眠ることができませぬ」
「じゃあ起きなよ、うりゃっ!」

お馬鹿なこと言う寝太郎を無視し、まるでテーブルクロス引きのように沙耶が敷布団を引き抜くと、上に乗っていた拳剛はゴロゴロと転がり、部屋の壁に激突した。
要塞崩壊。残されたのは畳で無残に転がる拳剛のみである。

「よし、終わりっと」

引き抜いた布団を手早く畳む。後は拳剛にチョップの一つでも食らわせて文字通りたたき起こせば、これでいつもどおりに任務完了である。
だがこの日はここからがいつもとは少し違っていた

「あれ、なんだこの傷?」

部屋の端の拳剛を見と、その寝巻きの下から傷がのぞいていることに沙耶は気づいた。
この無鉄砲な幼馴染が傷を負うこと、それ自体はそんなに珍しくない。実際、拳剛が武術の鍛錬で痣だらけになることなどしょっちゅうである。
だがこの傷は普段のそれとは様子が異なった。
近づいて寝巻きをめくってみると、拳剛の上体に幾条もの赤い線が走っているのが確認できた。まるで刃物に切られたような痕である。幸いどの傷も深くは無いが、数が多い。

「しかもこれ多分、最近できた傷だよね」

傷はかさぶたになるかならないかという状態だ。何週間も前にできたものとは考えにくい。少なくとも昨日か一昨日位のものだろう。
拳剛が何をしたのかは分からないが、しかし何かしたのは確実だった。それも刃物を相手にするような危険なことを、だ。
沙耶はびしりと寝ぼすけの脳天にチョップをかます。ついに観念して拳剛はまぶたを開けた。

「うむぅ、沙耶おはよう」
「うん、おはよう。ところで拳剛、この傷はなあに?」

沙耶の清清しいまでの超笑顔。その表情にただならぬものを感じたのか、拳剛の顔から冷や汗がたらりと垂れる。


「何した。吐け。」
「な、何のことだかさっぱりだな」

拳剛の目が盛大に泳ぐ。幼馴染のこの態度が、隠し事があるときのそれなのだということを沙耶は熟知している。
故に、彼女は切り札を切った。

「そっか、朝ご飯はいらないか」
「どうか話させてください」

刹那。その神速の反射神経を以って、拳剛の土下座が炸裂した。
健全な男子高校生にとって、朝ごはんとはすなわち生命線に等しい。それを握られている以上、彼にできるのはもはや無条件降伏のみだった。








そして朝飯中。

「えぇっ、道場破り!?」
「うむ、昨日ポストに果たし状が入っていてな、ちょっと仕合ってきた。」

飯を餌に事の拳剛から真相を聞きだしていた沙耶は、色々と想定外の答えに思わず素っ頓狂な声を出していた。ご飯茶碗持ったままピタリと固まる。

「なかなか腕の立つ武者殿だったぞ。あ、ご飯おかわり」
「あ、うん……ってあれ、『武者』?」

拳剛がずいと茶碗を差し出す。沙耶は我に返り、茶碗にご飯をよそって返そうとするが、寸前で再び止まる。

「もしかして、というかやっぱり。拳剛、武器相手に戦ったの?」
「うむ、いかにも。勝負はつかなかったがな、いい仕合だった。」
「あ、アホーっ!!」
「うむっ!?」

正面で満足げに頷く阿呆に、身を乗り出してチョップする。大して効いていない。というか思いのほか力を入れすぎて沙耶の手の方が痛い。
ひりひりする手をさすりながら、沙耶は目の前のお馬鹿に怒鳴りつける。

「いかにも、じゃないぞ馬鹿!だ、大丈夫なの!?」
「ああ。まあ多少傷は負ったがな、ほら、見ての通りピンピンしているだろう」
「そ、そっか、そうだね。良かったぁ」

ほっと胸をなでおろす。
確かに、拳剛はバットで殴るとバットのほうがへし折れ、トラックがぶち当たればトラックのほうが大破するような怪物である。
ある意味憂慮するだけ無駄というものであるが、それでも幼馴染としては心配なものは心配だった。

「にしても、武器使いが無手に勝負を仕掛けるなんて、畑違いもいいところじゃないか
それに、拳剛も拳剛だよ。何でそんな挑戦受けちゃうのさ」
「挑まれたのだから逃げるわけにも行かないだろう。
仮にも俺は道場を任されている身だぞ、責任というものがある」

えへんと胸をはる拳剛。が、沙耶がジト目で見つめると目をそらした。額に冷や汗が輝いているのを、沙耶は当然見逃さない。

「……本当は剣を使う人と戦ってみたかっただけでしょ」
「うむ。実はそれもある」
「この脳筋め」

俺よりも強い奴に会いに行く、を地で行く男である。もっともこの生真面目な幼馴染の性格からして、責任を感じていたというのも嘘ではないだろうが。

「しかし、その人はなんで東城流なんか狙ったのかな。
一昔前ならいざ知らず、今の落ちぶれたウチの看板なんか狙っても、価値なんかないだろうに。」

東城流もかつては全国に名をとどろかすほどの拳術の名門であった。
しかし時代の流れと共にその勢いは衰え、先代である沙耶の祖父源五郎の手によってがっつり止めを刺された結果、今や門人は拳剛一人。
新たに門下生が入門する気配もなく、道場の命運は文字通り風前の灯である。
このキングコングと戦って、得られるのがこんなちんけな道場の看板一枚だけなのだから、正直割に合わないと言わざるを得ないだろう。
だがそんな沙耶の言葉に対し、拳剛は頭を振った。

「いや、武者殿欲しかったのは看板ではない。俺が先生から受け継いだ、とある品だ」
「とある品?なにそれ」
「うむ?むむぅ、いやそれは……」

拳剛は、沙耶のその問いに今度は露骨に目をそらすと、おもむろにテレビのリモコンに手を伸ばし電源をつけた。
テレビでは丁度全国版のニュースが終わり、地方のニュースが始まっているところだった。拳剛はそれを見てわざとらしく大声を出す。

「やややっ沙耶よ、青南町の工事現場で足場が崩壊したそうだぞ。幸い工事は休みで怪我人はいなかったようだが。
それに浜崎通りの交差点で車の追突事故だそうだ。どちらもウチのすぐ近くだ、最近は事故が多くて怖いなぁ沙耶よ。」
「ねぇ」
「後はなんだ、八雲町郊外の雑木林の木が一晩のうちにまとめて吹っ飛んでいただと?あ、これは俺だな犯人」
「おい」
「お、沙耶見てみろ。このニュースキャスターなかなかの美乳だぞ。右おっぱいの黒子がチャーミングだな」
「おいコラ」
「こっちのコメンテーターのご婦人はと。……も、もしやこれはノーブラか!公共の電波でなんと破廉恥な!録画しておこう」

拳剛、いそいそと保存用と書かれたビデオテープを取り出すと、デッキに差し込み録画を開始する。
沙耶はフルフルと拳を震わせると、そのまま思いっきりテーブルに叩きつけた。拳剛の肩がビクッと跳ね上がる。

「うぅうむっ!?」
「おいコラ拳剛、乳を覗くな話そらすなっ!何よ、その品のことは私には言っちゃまずいの?」
「い、いや、そういうわけではない。しかし沙耶に話すのはちょっとな」
「なんでだよ良いじゃないか、教えてよ。
私のおじいちゃんから貰ったって言うなら、私にだって知る権利はあるだろ!」
「む……」

その言葉とその剣幕に、思わず拳剛は押し黙る。
沙耶には両親の記憶が無い。彼女がまだ物心つくよりも前に二人とも他界したからだ。それ故、彼女にとって血の繋がる家族とは祖父源五郎のみであった。しかしその源五郎も2年前に亡くなり、頼れる親族もいない沙耶は今や一人ぼっちである。
そんな沙耶なのだから、彼女が自分の唯一の肉親が遺したものが何かを知りたくなるのも無理はないだろう。
拳剛もそれを理解している。故に彼はため息を一つ吐いてから、重い口を開いた。

「…………先生が俺に託されたのは、とある『鍵』だ」
「鍵?それって、」

何の鍵と沙耶が続ける前に、拳剛は彼女を制する。そして彼にしては珍しい真剣な瞳で、まっすぐに沙耶を見据えた。

「なんのための鍵かは教えることはできん。
俺の手の内にある間は鍵の詳細については誰にも口外しないと、先生と約束したのでな」
「むぅー…………そっか、じゃあそれは聞かないよ」
「うむ。そうしてもらえるとありがたい」

拳剛は嘘を言わない。特に、今のようにまっすぐに視線を合わせているときは。よくも悪くも眼に出てしまう男なのである。沙耶は長年の付き合いからそれを理解していた。
だからその拳剛が話せないというならば、残念ではあるが、沙耶としてもこれ以上詮索する気は無かった。

「先生は、もしその鍵の存在を知り、なおかつそれを欲しがる奴がいたら。くれてやれと言っていた。ただし条件付だがな」
「それってつまり、拳剛に勝てばその鍵をもらえるって事?
だからその人は拳剛に勝負を挑んできたの?」
「そういうことだ。武者殿が何を思って『鍵』を手に入れようとしているのかは知らんがな。
……あんなもの、極々一部の人間以外には意味の無い物のはずなのだが」
「その人、また来るのかな」

沙耶の問いに拳剛は頷く。

「間違いなく来る。理由は知らんが、武者殿はどうしても鍵が必要なようであったしな。
決着がつかなかった以上、近いうちもう一戦交えることになるだろう」

拳剛は拳をぎゅっと握り締め、その巨体を震わせる。その表情はどこか嬉しそうだ。この男はよくも悪くも喧嘩好きなのだ。沙耶は武者震いする幼馴染のその姿に、少しだけ不安を覚えた。

「……拳剛が強いのはわかってるけどさ、あんまり無茶しないでよ。」
「心配してくれるのか」

拳剛は驚く。このしっかり者の幼馴染ががそういう言葉をかけるのは滅多に無いのだ。
沙耶は俯き、照れながら頷いた。

「そりゃあ、するよ。幼馴染だもん」
「そうか。ありがとう。
沙耶をあまり心配させないよう、俺も心を砕くとしよう」

妙な沈黙が流れる。

「……あっ、まずい!?」
「どうした」

時計見ると、もう学校に行く時間になっていた。話し込んでいて時間が過ぎているのに気づかなかったのだ。急いで家を出なくてはならない。
とはいえまだ家事も済んでいない。拳剛は思わずうなる。

「まだ掃除機もかけていないし風呂掃除もまだだというのに、難儀なことだ」
「時間がないからしょうがないって、家帰ってからやるしかないよ。ほら拳剛、カバン持って!」
「ううむ、仕方あるまい」
「あ、そうだ」

拳剛に向けカバンを放り、自分のカバンも手に取る。そのまま玄関へダッシュしようとした沙耶だったが、突然立ち止まった。忘れ物があったことを思い出したのだ。

「行く前にアレやっとかないと」
「うむ?どうした沙……」
「せいっ!!」

拳剛が言い終わるよりも早く。沙耶は先ほどのニュースを録画したテープをビデオデッキから取り出すと、裂帛の気合と共に踏みつけて粉砕する。

「よし、行くよ!」
「保存用ォ――――――ッ!!!?」
「あっはっは―――――!!」

絶叫する拳剛の手を取り、笑いながら沙耶は駆け出した。





もはや沙耶にはたった一人の肉親すらいない。
それでも彼女は、穏やかなこの日常を愛していた。
こんな日々がずっと続けばいいと、そう願って止まなかった。
だが沙耶は気づいていなかった。
二人の平穏を脅かす者が、すぐそこにまで近づいていることに。



とある場所。長い黒髪を後ろで一つに束ねた両胸チョモランマの少女が、深刻な顔をしている。
「龍脈の汚染が思ったより激しい。早く鍵を手に入れねば。だがそのためにはあの男ともう一度………………うぅ。
あ、もう登校の時間か。……クラスにはうまく馴染めるだろうか」



別の場所。噛ませ犬臭い金髪のイケ面が怪しく微笑む。
「なるほどね、鍵は東城流が守っていたか。龍脈の開放のためにその鍵、俺達が頂くとしよう。
……さて、そろそろ新しい学校に行く時間だね」



また別の場所、上体に起伏が皆無な金髪の女性が、静かに笑みを浮かべる。
「護国衛士さんが動いてくれたおかげで鍵の在処は分かった。後は手に入れるだけ。全ては我等が目的のために。
……あらもうこんな時間、早く行かくてはね。初日から遅刻してしまうわ」



更に別の場所。推定年齢40歳、ラスボス風味の髭面が高らかに笑う。
「革命の時は来た!!待っているがいい鍵よ。お前を必ず我が手中に収めてみせようぞ。
……おや、我が新たな学び舎へ向かう時間が来たようだな。ふふっ、いくつになっても新たな体験には心躍るものだな!」



鍵を巡る戦いが始まろうとしていた。
激突の時は、割と近い。



[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:d092c0e5
Date: 2012/04/28 10:05
大急ぎで家を出た二人は、沙耶は自転車で、拳剛はその鍛え抜かれた両脚で、学校へ向け疾走していた。
必死で自転車を漕ぎながら沙耶は腕の時計に目をやる。

「あっちゃー、まずいよ拳剛。このままじゃ遅刻しちゃう!」

時計は8時10分を示していた。
タイムリミット、すなわちクラスのホームルーム開始は8時30分。一方沙耶たちの通う八雲第一高校までは、自転車でもまだ40分くらいかかる。単純に計算しても20分ほど足が出た。
去年の4月に入学してから今まで無遅刻無欠席を通してきた沙耶としては、今更遅刻はしたくない。

「うーむ、仕方あるまい」

拳剛が急に立ち止まる。
そのまま拳剛が両手を合わせ瞑目すると、彼の巨体からうっすらと淡い光の粒が立ち上った。人間の全身を巡るエネルギーの道、すなわち気脈を操作することで身体能力の活性化を行っているのだ。東城流の基本技術である。
幼い頃に道場を辞めた沙耶はその仕組みまではよく知らないが、その効果は良く知っていた。この男の変態的とも言える身体能力は、本人の鍛え抜かれた筋肉にだけでなく、この技法に因るところも大きいのだ。

「あ、よっこいしょっと」

気を練り終えた拳剛はしゃがみこむと、その大きな両肩に沙耶と沙耶の自転車を担ぎ上げる。

「え、ちょ、拳剛!?」

予想外の行動に沙耶は思わずあわてるが、この図体のでかい幼馴染はまったく気にした様子も無い。

「沙耶の自転車に合わせるよりは、全部担いで俺が走ったほうが速いのでな」

沙耶の体重は(自称)50kg。この男は、50kg以上の重りをつけて、それでも尚自転車よりも速いと言う。常軌を逸した物言いであるが、そういう人間が実際にいるのを沙耶も知っていたので、それに突っ込むことはしない。
人間の枠から外れた力を持つというのであれば、例えば彼女の祖父 東城源五郎がそうであったし、『尻派(シリーズ)』・大番町も当てはまる。そういう人たちは確かに、(どういう理屈かは知らないが)この程度はやってのけることができるのだ。
とはいえ。自転車も自分も持たせるのは、拳剛とは知らぬ仲ではない沙耶でも、なんだかとても悪い気がした。

「お、重くない?」

沙耶が肩越しに覗き込むと、しかし拳剛は豪快に笑う。

「この程度軽い軽い!特に沙耶は胸にも尻にも肉が無いかr」
「目潰しなら拳剛にも効くかな………?」

申し訳なさは一瞬にして霧散した。
無表情でピースサインを作る沙耶に、拳剛は冷や汗を浮かべる。

「さ、さぁ行くぞ!しっかり捕まっていろよ!!」

その言葉と共に、拳剛は一気に走り出した。
景色が流線型に変形し、後ろへと流れていく。風圧で体ごと吹き飛びそうになる。とんでも無いスピードだ。
沙耶は拳剛の肩に必死で捕まりながら、ペシペシと力なく拳剛の頭をはたいた

「拳剛!速い速い速すぎ!」
「はっはっは、そうはしゃぐな!」
「違うわ!速すぎて眼が痛いの!スピード落とせ馬鹿ぁ!!」

ノーヘルでバイク乗っているようなものである。
バイクと違うのはトラックとぶつかっても大丈夫で、むしろトラックのほうがスクラップに成りかねない所くらいか。

「後、ナチュラルに車と併走すんな!目立つだろ!!」
「成程、つまり裏道へ行けということだな!人目に付かなければ本気で走っても問題なしと言うわけかッ!!」

――――――普通の人間は手ぶらの時だって車と同じスピードなんて出せないんだよ。
――――――だからちょっと速度を落としてね。
沙耶はそういう意味で言ったのだが。何をどう曲解したのか、お馬鹿はルートを変更して細い路地裏へ突入した。

「違っ!?スピードを落してって…………わ、わぁーーーッ!?」
「さぁーあ行くぞ!!」

音も置き去りにするのでは。そう錯覚するほどの超加速。もはや眼も開けていられない。拳剛がその豪腕でしっかりホールドしていなかったら、小さくて軽い沙耶など風圧で彼方まで飛んで行っただろう。

「ひ、人にぶつかったりしないでよ!」

あまりの速度に恐怖を覚える。と言っても自身の身を心配しているわけではない。拳剛が間違えて誰か、もしくは何かにぶつかることを恐れているのだ。こんなスピードで衝突事故など起こせば、大惨事になることは間違いない。
だが拳剛はそんな沙耶の心配はどこ吹く風で、いつも通り豪快に笑う。

「安心しろ、今走っているのは民家の塀の上だ!」
「いや、どこ走ってんのさ拳剛!!?」
「はっはっは!!細かいことは気にするな!俺にも、一応考えがあるのだ!
塀の上を走れば、間違って誰かを轢くことも無………」

拳剛が全て言い終わるよりも早く。
結構な衝撃が沙耶を襲った。
眼を開けると沙耶の目の前で、竹刀袋を持った制服の少女が空高く吹っ飛んでいた。推定高度10メートル。ふくよかな胸が宙で揺れる。少女は空中で二、三回クルクルと回ると、重力に逆らった奇妙な軌道で下に落ちていった。

「…………まあ、時にはあるかもしれんな」

大惨事である。

「えええっ!!?拳剛、は、早く救急車呼ばないと!?」
「いや、彼女は無事だ」
「何言ってるんだよ、そんなわけないでしょ!?」

120㎏(拳剛)+50㎏(沙耶)+α(自転車、カバン、etc)で重量およそ170㎏ちょい。スピードは最低でも時速60km以上は出ていた。要するに少女は車と正面衝突したようなものなのだ。無事どころか、下手をすれば生存しているかも怪しい。

「いや、大丈夫です。お気になさらず」

が、どういうわけか。
たった今空中をぶっ飛んでいたはずの女の子は、全くの無傷で沙耶と拳剛の目の前に立っていた。
拳剛がぺこりと頭を下げる。

「うむ、やはり無事だったか。いきなりぶつかって申し訳ない」
「いえ、こちらこそ不注意でした。まさか自分以外に塀の上など走る者が居るとは思わなかった」

少女も静かに頭を下げる。一方沙耶はといえば、目の前の展開に頭が着いていけなかった。

「……あのさ、今あなた拳剛とぶつかって十メートル位空に吹っ飛んでたよね?私の見間違いかな」
「いえ、見間違いではありません。ですが大丈夫、受身は取りましたから。ダメージはありません。」

受身で緩和できるレベルじゃないだろと思わず口から出かかるが耐える。どうやらこの少女は拳剛や祖父と同じ類の人間の様子だ。突っ込んだら負けである。
拳剛は少女の言葉に感心したように頷いた。

「うむ、見事な着地だった。そして見事なおっぱいの軌跡だった。あれならダンプに突っ込まれても無傷だろう」
「は、はぁ」
「乳は関係ないだろ、ナチュラルにセクハラすんな」

ガツリと拳剛のわき腹に肘鉄を叩き込む。下心が無い分、この男の下ネタ(本人は普通に会話しているつもりだろうが)は性質が悪い。

ふと、拳剛は女生徒の顔を覗き込んだ。そして顎に手を当て、一時何かを思い出そうとうんうんと唸った後、少女に尋ねた。

「……なぁお前さん、もしかして前にどこかで会ったことはないか?」
「え?」
「あれ拳剛、知り合い?」

拳剛の言葉を聞いて、沙耶も少女を観察する。
身長は女子の平均よりは少し高い位。ストレートの黒髪は後ろで一つに束ねて、腰までも長さのあるポニーテールにしている。切れ目が印象的な美人さんだ。
制服から同じ学校であることが分かるが、しかし沙耶はこんな美少女は見覚えが無かった。
じーっと覗きこむ二人に、切れ目の少女はびくりと震える。

「た、多分勘違いでしょう。では私は急いでいるので、これにて御免」
「む、ちょっと待……!」

拳剛が引き止めるのも聞かず、少女は脱兎のごとく駆け出した。拳剛に勝るとも劣らない速さで駆けて行き、その姿はあっという間に見えなくなる。
完全に少女が行ってしまったところで、拳剛は改めて首を傾げた

「うーむ、確かにどこかで会った気がするのだがな」
「気のせいじゃない?同じ学年じゃ見たことないし、上級生か下級生か。もしかしたら転校生かもしれないよ」

とはいえ今は4月が始まったばかり。転校生の線は薄いだろう。

「そうか?まぁそうかもしれんな
しかしそれにしても………いいデッパイ(※デッカイおっぱい)だった」
「目潰しっ」
「目が!?目がぁっ!!?」








沙耶と自転車を担ぎ上げた拳剛は、再び塀の上を疾走していた。思わぬところで時間を喰ったので急がねばならない

「もう間違ってぶつかったりしないでよ」
「大丈夫だ。今はちゃんと内視力を使っている。ぶつかる前に回避行動を取れるぞ!」

拳剛が笑顔でサムズアップする。とりあえず軽くチョップしておく。

「お馬鹿、できるなら最初からやってよ」

そう言って沙耶が頬を膨らますと、拳剛は申し訳なさそうに頭を垂れた。どうやら本気で反省しているようだ。

「うーむ、いやすまん。まさか犬猫以外に塀の上を走る者がいるとは思わなかったのだ、正直油断していた。
その上あの少女中々に気配を消すのが上手くてなぁ。
だが今は内視力で気脈から人間を探っているからな、滅多なことがない限り問題はない」

「滅多なことって、たとえば?」
「そうだな、例えば『俺やさっきの少女位の使い手が本気で気配を消して移動などして』いたら、接近に気付かず吹っ飛ばしてしまうかもしれないな。
しかしまぁ、そんなことは万が一にも無いだろうよ」
「そっか、それじゃ大丈夫だね」

更に拳剛は説明を続ける。

「後はそうだな。沙耶のように特殊な気脈の持ち主の場合、内視力が正常に動作しないこともある。
俺がお前の攻撃を全く避けられないのも、実はそのせいだしな」
「へ?それって、一体どういう……」

今、何か気になることを言った気がする。そう思った丁度その時、再びかなりの衝撃が沙耶を襲った。
だが周りを見渡しても、先ほどのように無残に吹っ飛んだ人間は見つからない。

「………あれ、今なんかぶつからなかった?」
「むむむっ?いや、気のせいではないか?俺の内視力には特になにも引っかからなかったぞ
もしぶつかっていたとしたら、それは相当な使い手だろうな。是非手合わせ願いたい。」
「……そう?じゃあ気のせいか」

沙耶も拳剛の眼力の凄まじさは知っている。
1km先からでも女性のバストサイズを言い当て、更には胸の黒子の位置まで見透かすその瞳は、乳関連だけに役に立つわけではないのだ。その拳剛がなにも無かったと言うなら、それは事実なのだろう。


だがしかし。
その背後で、拳剛たちとのすれ違いざまに吹っ飛ばされた小物臭い金髪のイケメンが居たことは、―――――皮肉にも彼の気配遮断スキルが高すぎた故に――――二人が知ることはない。



[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:d092c0e5
Date: 2012/04/04 17:31
塀の上での一本道全力マラソンを終えた二人は、学校付近の田畑エリアに突入していた。
そろそろ他の生徒に見られるかも知れないので、沙耶は拳剛から降りて自分の自転車に乗っている。
ここまで来ればゴールまではあと少しだ。田んぼの先にはもう、二人の通う八雲第一高校が小さく見えている。

「沙耶、今の時間は!?」

拳剛が時刻を尋ねる。沙耶はさっと腕時計に目をやった。

「8時20分!」

タイムリミットは8時30分。少々ロスはあったが、急げば今からでもまだ十分間に合う時間だ。

「うむ、では飛ばすぞ!」
「うん!」

拳剛に威勢よく返事して、勢いよくペダルを踏み込む。
丁度その時だった。沙耶の視界の端に何かが映った。加速していた自転車に急ブレーキをかける。
沙耶が止まったのを見て、拳剛もアスファルト削りつつ急停止した。

「どうした沙耶?」
「ねえ拳剛、あれ見て」

沙耶は前方、お地蔵様のある十字路の方を指差す。そこに、沙耶たちと同じ八雲第一高校の制服を着用した、しかし二人には見覚えのない女性がいた。
髪型は金髪のショートカットで、肌は透き通るように白い。少々遠いためちゃんと見えたわけではないが、おそらく瞳の色は青。どうやら日本人ではないようだ。
拳剛は、何かに気づいたようで、その女性をまじまじと見る。

「あの女性、まったく無いな。まるで沙耶のようだ」
「無いってなにが?気配とか?」
「いや、胸が…………ほぐあッ!!?」

無礼者に金的をかましておく。急所を打たれた拳剛は、一時の悶絶の後、完全に沈黙した。

「金髪で青目の人なんてここらじゃ全然見かけないけど、あの人ウチの制服着てる。転校生かなにかなのかな。」
「かもしれんな」

拳剛はそう言うと、何事も無かったかのようにむっくりと立ち上がる。変態的な回復力だ。もうちょっと強く蹴っておけばよかったかもしれない。小さく舌打する。

ふと、沙耶は女性がその手に何か持っていることに気づいた。

「あの人が手に持ってるあれ、もしかして地図じゃない?」
「むむむ?どうやらそのようだな。イチコウの制服を着込んでいるし、もしや彼女は学校に行くまでの道で迷っているのか?」
「まさか」

拳剛の言葉を沙耶は即座に否定する。
ここら一帯は一面田園風景だ。学校まではまだ多少距離があるが、一本道。もう学校も見えているし、普通には迷いようがない。

「けど………気になるな。拳剛、見に行こう!」
「合点承知!」

道に迷っているかどうかは分からないが、女性は困っているようであるのを沙耶は見て取った。
まだ、もう少しだけ時間に余裕がある。拳剛と沙耶は進路変更して女性の下へ向かう。
金髪の女性が二人に気づくと、拳剛はバッと手を上げた。

「えくすきゅーずみー!ぷりーず へるぷ みー!」
「それは尋ねる人が言うべき言葉だ、お馬鹿っ」

沙耶は横でぶんぶんと手を振るうお馬鹿の足をゲシリと踏みつける。踏まれた拳剛はといえば、その突っ込みに大げさに「Oh, my God!!」と頭を抱えていた。どうもこの男にとっては、欧米人というとアメリカがスタンダードらしい。
女性はそんな二人の様子をみてクスクス笑うと、その可愛らしい容姿に反してちょっとハスキーな声で、沙耶たちに話しかけてきた

「日本語で大丈夫よ。何か御用かしら?」
「えっと、お困りのようだったので少し気になって。何かありましたか?」
「いえ、少し道に迷ってしまったの。八雲第一高校に行こうと思っていたのだけど」

どうやら、この人は本当に道に迷っていたようだった。こんな人も居るのだなあと、ちょっと沙耶は驚く。無論表情には出さないが。

「それなら、この十字路を曲がってまっすぐ行けば着きますよ。」
「あそこに見えてるあれがそうだな。」

拳剛が学校を指差す。金髪の女性は、まぁ、と手で口元を覆った。

「本当、気づかなかったわ。」

そう言って、恥ずかしそうに笑う

「私、極度の方向音痴でね。初めて行く所だと大抵迷っちゃうの。教えてもらえなかったら学校に行けなかったかもしれない、ありがとう。
そうだ。助けてもらったお礼をしなくちゃね」
「いえ、そんなお礼なんて」

カバンに手を入れる女性に、沙耶はとっさに待ったをかけようとする。やったのはすぐそこの学校の場所を教えただけ。特に手間も暇もかからなかったのに、何かを貰ったりするのは、少々気まずいものがある。
だが女性は首を横に振った。

「そう言わないで、私の気が済まないの」

そう言うと、彼女はガラス瓶に入った何かを二つ、取り出した。ガラスには大きく『MILK』の文字が書かれている

牛乳だった。
紛う方無き牛乳だった。

「はい。いっぱい飲んで、大きくなりましょう!お互いに!」
「……え?」

そう言って彼女は牛乳を差し出すと、沙耶の手にそれを握らせた。
彼女の青い瞳が優しく沙耶を見つめる。正確には、沙耶の起伏のない胸部を見つめている。

「いや、あの……」
「あ、大丈夫よ。ちゃんと冷えているわ!今日絞ったばかりの産地直送、新鮮な牛乳よ」

そんなことは聞いていない。どうやらこの人はかなり天然が入っているようだ。
そしてその視線は、やっぱり沙耶の胸に釘付けである。

「お、本当だ。キンキンだぞ沙耶!うまいっ!!」

隣では、拳剛が受け取った牛乳とグビグビと一気飲みをして、口元を拭っている。

沙耶は耐えた。
どこから牛乳出したんだとか、なんで胸を見てるのとか、ていうか早速牛乳飲んでんじゃねえよ拳剛とか。
津波のごとく押し寄せる突込みを衝動を全力で耐える。突っ込んだらヤバイと、沙耶の鋭敏な第六感は告げていた。体がプルプルと震える。

女性はそんな沙耶を見て、ニコリと微笑んだ。無論、視点は胸固定である。

「――――――――あなたとは、いいお友達に
……いいえ、良き同志になれると思うわ。我等巨乳党、貴女ならきっとその一員に…………」
「え?」

そのつぶやきは小さく、後半は沙耶には聞き取ることができなかった。
女性はゆっくりと首を振るう

「いえ、なんでもないわ。それじゃあまた後でお会いましょう」

そう言って、彼女は手を振るった。
その瞬間、三人の間に一陣の春風が吹きぬけた。体ごと吹き飛ばされそうな強風に、沙耶と拳剛は思わず顔を覆う。
そして、風が止むと女生徒は消えていた。周りを見渡してもそれらしい人影はない。平坦な田園風景だというのに奇妙なことだった。

「ど、どこいったんだろあの人」
「さあな。しかしあの女性、沙耶といい友達になれるって言っていたな。
ちっぱい(※小さいおっぱいの意)が結ぶ友情か……………ほぐぁっ!!?」
「オッケィ、今度はジャストミート!」

再度悶絶する拳剛を見て、沙耶はガッツポーズをする。

ちなみに、貰った牛乳は普通においしかった





[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:d092c0e5
Date: 2012/04/28 08:42
疾走する沙耶と拳剛の正面に、ようやく校門が現れた。沙耶たち以外にも、チャイムが鳴る前に教室に滑り込まんとする生徒がまだ結構いる。皆が皆小走りで校門を駆け抜けていた。

「ギリギリか!」
「いやまだ後三分あるよっ、楽勝だね!」

校舎のてっぺんにある時計は8時27分を指し示している。沙耶と拳剛のクラスである2年A組は校舎の2階だが、教室は下駄箱正面の階段を上ってすぐの位置にある。なので、このまま行けば余裕でセーフだ。
正直今朝は色々あったので、沙耶としては早く教室で休みたかった。確かに、元々彼女は拳剛と一緒に居ることが多いため、面倒ごとに巻き込まれることも多い。具体的に言えば乳派vs尻派の抗争とかである。しかし今日はいつもにもまして精神を磨耗させる出来事が多かった。一刻も早く休息を取る必要があるのだ。自然とペダルを漕ぐ足にも力が入る。
と、そこで拳剛が何かに気づいた。

「うむむ?」
「どうしたの拳剛?」
「いや、校門の前の空間に妙な空白地帯が……」

沙耶も校門の前を見る。確かに校門の真正面だけ、人の流れが避けられているスペースがあった。
どういうわけかと思ったが、よく観察するとその理由が分かった。中心に男がいるのだ。それも普通の男ではない、誰もが一目見るだけで異常であると分かる、そういう類の人間だ。
推定年齢40歳。痩身だが拳剛に匹敵するほどの長身で、顎と口元に立派な髭をたくわえている。黒髪黒目でおそらく日本人のはずだが、顔の彫りは深く、ギリシャ時代の彫刻を思わせるような美丈夫だ。顔だけを見れば、ハリウッドに出ていても違和感はない。お城で玉座に鎮座する大魔王の役なんかが似合いそうな雰囲気である。
しかし異様なのはそこではない。

異常なのは、どういうわけかその男が、高校指定の学ランに身を包んでいると言うことだ。

高校生の制服に身を包んで、笑みを浮かべながら佇むラスボス風髭面男。
紛う方無き変質者だった。

拳剛の額に冷や汗がたらりと流れる。

「……あのおっさんはあれか、コスプレという奴だろうか?それともただの変質者か?」
「さ、さぁ。とりあえず近づかないようにしよう。これ以上なにかあったら、もう時間もないし、」

そして何より沙耶の理性が持たない。今日今までに起こった出来事だけで、もう既に沙耶の許容量を越えかかっているのだ。道場破りとか爆乳受身マスターとか乳無し牛乳お姉さんとか。
さしもの沙耶も、これ以上負荷がかかれば倒れかねないレベルだった。というか、普通の高校生であれば既に正気を手放しているだろう

「だな。」

長い付き合いの拳剛も、この(相対的に)小さな幼馴染が割と無理をしていることは見抜いていたため、その言葉に頷いた。
二人は目を合わせぬよう、校門の前に佇む髭面の横を通りすぎようとする。校門を抜け、その先の下駄箱に向け、足音を殺し歩く――――――
が、駄目だった。

「やあ。待っていたよ、等々力拳剛君、東城沙耶君」

変質者(仮)が、二人の名前を呼んでいた。

「………拳剛、呼ばれたよ」
「うむ、沙耶もだな」

二人とも聞こえたと言うことは、どうやら空耳や聞き間違いではないようだ。
よりにもよって変質者に名指しで呼ばれるとは。悪夢である。しかし残念ながら夢ではない。沙耶はこのまま昇降口までダッシュで逃げようかとも考えたが、

「やれやれ、面倒な」

と、拳剛が頭を搔きながら校門へ引き返すのを見て、踏みとどまった。

「い、行くの!?」
「ご指名だ、仕方あるまい。沙耶は先に行ってくれ、もうホームルームも始まるのでな」

珍しく、真剣な声色だった。拳剛は明らかに、あの髭面を警戒している。どうやら沙耶には分からない『何か』が、あの変質者(仮)にはあるようだった。
正直彼女からすれば、いい年して学ランを着込んだただの変態にしか見えなかったが。

「……いや。私も呼ばれてるし、行くよ」

変質者(仮)に、関わらなくていいならそれに越したことはない。だが昨晩の道場破りの件もあるし、沙耶はこの破天荒で危なっかしい幼馴染を放って行きたくはなかった。

「……そうか、なら俺の後ろを離れるな」
「う、うん」

沙耶はかばう様に前を歩く拳剛の袖を、ギュッと握り締める。
怒気をはらんだ声で、拳剛は髭面に問いかけた。

「何か御用か。時間も無い。正直、此方はお前のような奇奇怪怪な格好をした者とは、係わり合いになりたくないのだが?」

拳剛の射るような視線を受けてラスボス風髭面は心外そうに、だがその不気味な笑みは崩さずに、言う。

「おや、連れないことを言うのだね。私は朝からずっと君達が来るのを待っていたというのに。」

この瞬間。沙耶の中で目の前の髭面は、変質者(仮)から変質者(真)へと格上げされた。朝からずっと待ち伏せとか、ストーカー以外の何者でもない。多分110番通報しても問題ない。
拳剛はどうやら髭面を警戒しているようだったが、正直、沙耶はこの男がもうただの変質者にしか見えなくなっていた。

「それに、格好のことならば君にだけは言われたくはないのだがね」

まあ、それは確かにそうだ。
拳剛は身長が2mちょい、体重も120㎏を越える。こんな巨体に合うサイズの制服など無く、そのため拳剛の学ランは常にぱっつんぱっつん。今にも弾け飛びそうな様相を呈している。ちょっとアレな格好だ。
だが、髭面とは違い拳剛はれっきとした高校生。四十路で学ラン着込んでいるオヤジよりはよほどマシだろう。
飄々と構える髭面を、拳剛はギラリと睨みつける。

「御託は良い。用件を言え」
「そう構えないでくれないか。私はただ挨拶に来ただけだよ。かの鬼才、東城源五郎の孫娘と愛弟子にね。」

そう言って、ラスボス風髭面は微笑んで二人を見つめた。
背中に悪寒が走る。多分変態に見つめられたせいだろう、と沙耶は思った。

「………そうか、なら顔見せは済んだだろう、もう用は無いな。俺達は行かせてもらう」



「行ってしまうのかい?残念だな、例の内視力とやらをこの目で見たかったのだが」
「!?一門の秘伝である内視力のことを、何故貴様が知っている!?」
「そんなに驚くことはないよ。今は廃れたとはいえ、君の一門は良くも悪くも有名だ。正確には先代・東城源五郎が、だがね。
だからまあ、その程度の情報を得るのは容易い」

どうやら沙耶の祖父の名声(あるいは悪名)は、沙耶が思っているよりも世に知れ渡っているようだった。その一門の血を継ぐ最後の一人としては喜ぶべきことなのだろうが、知れ渡っている中身がアレなのであんまりうれしくない。

「ば、馬鹿な………」

拳剛は髭面の言葉に瞠目する。よもや、一門の奥義の情報が外部に漏れているなどとは思っていなかったのだろう
だが沙耶は知っている。秘伝とか言いながら、拳剛が喧嘩のたびに内視力のことを懇切丁寧に相手に説明していることを。
秘伝もなにもあったものではない。
驚愕する拳剛の表情を見て髭面は満足そうに笑みを深めた。

「まあ潰れかけの一門の技など、取るに足らないかもしれんがね」
「…………ならば試してみるか?」


一触即発。拳剛と髭面の間の空気が一気に張り詰める。沙耶はお空を見ている。

「ゆくぞ………!」
「来たまえ………!」

両者がまさに激突せんとする、まさにその時だった。

「―――――警備員さん!こっち、こっちです、そこに変質者が!!」
「あ、アイツ逃げるよ!早く早くっ!!」

「はいはい分かりました、ちょっと待ってねぇ」

生徒に呼ばれ、老警備員が参上した。八雲第一高校の愛と平和を守る正義の使者は、つかつかと髭面へ近づくと、その腕をがっちりホールドする。

「はいはいあなた、ちょっと話を聞かせてもらっても良いですかね」
「?なにかねご老体?」
「いやね、あなた早朝からずっと、その妙な格好で校門の前で立っているそうじゃないですか。困りますねぇ、生徒が怯えているんですよ。
敷地内じゃないとはいえ、こういうことされて学校側としても黙っている訳にもいかないんでねぇ。」

もっともである。むしろ警察が呼ばれなかっただけ、髭面は運がいいと言えるかもしれない。

「まったく、いい年したおっさんが学ランなんか着込んで。こんな田舎町にまで変質者がでるなんて、世も末だよ。」
「いや、私はこの学校の生徒なんだが。転校してきたのだよ。ほら見たまえ、生徒証も」

髭面はポケットから生徒証出す。どうやら、どういう訳か本物のようだが、しかし警備員は取り合わない。
四十路の髭面相手では、まあ当然であろうが。

「はいはいはいはい馬鹿言ってないで。ここは高校ですよ?高等学校。青少年が勉学に励む神聖な場なの。わかりますか?
話は警備室で聞きますからねぇ。まったく、家族が泣くよアンタ」
「いや、ちょ、待っ………」
「ほらキリキリ歩いて」

片手をがっちりホールドされ連行されて行く髭面は、自由な方の手をビシリと拳剛たちに向け、

「――――――また会おう、等々力拳剛、東城沙耶」

そしてそのまま警備室のほうへ連行されていった。


「強敵、だった。」
――――――それは強力な変態という意味だろうか。


なんとも、朝だけでどっと疲れた沙耶であった。






下駄箱で靴を履き替え、二人は教室へ向かう。

「も、今日は疲れた。」
「はっはっは、まあ今日は朝から色々あったからな。無理もない。」
「お願いだから、自分もその原因に多分に含まれていることを自覚して」

拳剛がその行動を自重してくれれば、沙耶の心労は8割削減されるのだ。

「うむむ?それは済まないな、ではクラスの皆と励ましてやろう!!」
「え?い、いや、それは――――――」

「それはいいよ」、と言おうとするが、時既に遅し、後悔先に立たず。
予想の斜め上を三段跳びしながらマッハで跳んで行くこの男と会話するには、常に慎重を期さねばならないのだということを、沙耶はすっかり忘れていた。
うっかりうかつなことを言おうものなら、予期せぬ形でカウンターを喰らいかねない。そしてそれは、まさに今がそうだった。

「よし、行くぞ――――――」
「いや、ちょ、待」

沙耶の制止むなしく。
拳剛はクラスの扉を勢いよく開いた。



「あっぱーい」

そして珍妙な掛け声を発しながら、拳剛が教室に入室する。

――――――いっぱい!

『教室の半分』がその挨拶に高らかに返す。
その大音量に、拳剛も負けじと拳を突き上げ、声を張り上げる。

「うっぱいっ!!」

――――――えっぱい!

拳剛の渾身の叫びに、今度は廊下の端から端まで届くような大音量で答える同志達。
その熱い思いに答えるべく、拳剛は全霊を振り絞り、叫ぶ――――――

「おっっっっぱい!!!!!!」

――――――YEAHHHHHHHH!!!!!!!!!!

拳剛の、そしてクラスメートの、乳を愛する者達の絶叫が。全校に高らかに響き渡る―――!!

『男子五月蝿いッ!!!!!』

そしてクラスの残り半分によって鎮圧される。

「ここが地獄か………」

沙耶に安息の地はない。






そしてHR。
若くて爽やかイケ面だが空気を読まないことに定評のある担任が教室に入ってくる。
手早く出席を取ると、担任は話を切り出す。

「えー、こんな時期だが転校生だ。しかも4人」

教室はざわつく。拳剛は寝ている。そして沙耶の額からは冷や汗が垂れる。
転校生というワクワクイベントで、嫌な予感しかしないのは何故なのだろうか。

「男子も女子も喜べ!転校生は全員かなりの美男美女だ!詳しくはその目で確かめろ
さ、4人とも入ってくれッ!!」

扉をくぐり、4人の転校生がその姿を現す。
竹刀袋を引っさげた、黒髪ポニテの爆乳受身マスター。
胸部に一切の余分の存在しない、金髪青目の牛乳お姉さん。
推定年齢40歳。警備員に捕獲されたラスボス風髭面。
後、イケ面だがどこか小物臭漂う金髪優男。


そして、沙耶は思考を放棄した。




嵐が、静かに、だが確実に、がっつりと、直撃コースで。そこまで迫っていた。





[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:d092c0e5
Date: 2012/04/20 23:26
目の前の光景に最早ついていけない沙耶は、普段と違う朝にざわめくクラスメート達をよそに、ぐったりと机につっぷしていた。

転入生とか、正直色々とありえないだろう。

まず時期が変だ。始業式が終わってしばらくしたこの時期に、こんな田舎の高校に転入してくるなど明らかにおかしい。
次に人数。別に一学年一クラスしかないわけでもないのに、同じ学年の同じクラスだけに同時に4人も転校生が編入するなど、言うまでもなく異常だ。学校側の正気を疑うレベルである。
そして極めつけはその面子、巨乳とヘタレ臭と貧乳と、そして髭。百歩譲って前の三人は良しとしよう。だが髭面を転入生と言うのは確実に無理がある。なにせ見た目は四十路のおっさん、老け顔とか言うレベルではない。明白な年齢詐称だ。一体どうやって学校に潜り込んだのか、沙耶には不思議でならない。

だがクラスメートはそこに疑問を抱く様子はないようだった。拳剛や『尻派』番町を筆頭に、奇人変人の多い八雲第一高校の生徒達にとっては、その程度のことは気にするまでもないということらしい。沙耶は思わず頭を抱えた。

「じゃ、端から自己紹介していってくれ!」

苦悩する沙耶と沸き立つクラスメート達をよそに、爽やかイケメンだが空気を読まないことに定評のある担任は、早速4人の転校生に自己紹介をさせていた。

「太刀川 怜です。」

シンプルな自己紹介の後、竹刀袋を肩にかけた受身マスターがぺこりとお辞儀をする。たわわに実った二つの膨らみがたゆんと揺れると、教室の半分がざわめいた。
いつの間にか目を覚ましていた拳剛も、鋭い目で太刀川を見つめている。
しばらく凝視していたあと、拳剛はカッと目を見開いた。「―――――F、だと!?」
お前は一体何を見ている。


「薄井 エイジだ、よろしく。」

噛ませ臭と言うかヘタレ臭というか。イケメンではあるが、どこか小物臭い雰囲気を纏った金髪の少年が、続いて軽く頭を下げる。今度は女子が騒ぐ番だった。近くの友人と共に、この辺りでは見ない垢抜けた感じの転入生を、思い思いに批評する。
もっとも、沙耶としては常識人であればどうでもよかったが。


「風見 クレアといいます。仲良くしてくださいね」

次に控えめな胸の牛乳姉さんがあいさつする。金髪に白い肌、そして青い目と、こちらもこのあたりではあまり見ない容姿である。名前から推測するに、おそらく白人とのハーフらしい。
男子が再び沸き立つ。拳剛は腕を組んでクレアをじっと見つめている。しばしの観察のあと、拳剛はうむむと唸った。「ふむ、小ぶりだが見事な型だ」
だからお前は何を見ている。


「私の名は黒瀧 黒典だ。よろしく頼む」

最後に髭面が自己紹介する。痩身長躯、日本人でありながら西洋人のように顔の彫りは深い。あごひげの素敵な、オトナの雰囲気漂うナイスミドル。
学ランを着ていて台無しだが。


沙耶は再び頭を抱えた。

「うぅー、もうやだ」
「あれ、テンション低いね沙耶」

沙耶の前の席に座る女生徒が、唸る沙耶の顔を心配そうに覗き込む。
だが沙耶がそうなるのも無理は無かった。なにせ頭痛の種が3つまとめて現れたのだから。
沙耶の変人キャパシティは拳剛一人でもう満杯である。

「さて、自己紹介は終わったな。皆仲良くしろよ!じゃあお前達の席はっと……」

担任が出席簿に張られた座席表を確認する。

「鈴木と田中の両隣が空いてるんだったな、じゃあそこに、」
「あの、すいません先生」

担任が四人に席を指示するのをさえぎって、クレアが手を上げた。

「うん?どうした風見」
「私はあの人の隣が良いのですけど」

そう言ってクレアは指を差す。差されているのが自分であると気づくのに、沙耶は少しばかり時間がかかった。

「東城か、知り合い?」
「ええ、迷ってるところを助けていただきました」
「お、そうか。じゃお前は東城の横な」
「え!?いやちょっ、先生!?」

さらっと決める担任を、沙耶は咄嗟に制止する。
クレアは悪い人ではなさそうだが、どこからともなくキンキンに冷えた牛乳を取り出す女性とは、正直沙耶としてはあんまり関わりたくない。

「っていうか!わ、私の隣は空いてないですよ!」

それは咄嗟に口から出た言葉だったが、確かにその通りだった。沙耶の席は教室のど真ん中で、周りは人で埋まっている。
隣どころか前後左右全てに、これ以上は入りようがない。

「むー、それもそうだな」

考え込む担任を見て、沙耶は小さくガッツポーズをする。
空気を読まないことに定評のあるこの若手教師であっても、さすがにこの状況を覆せはしないだろう。
しばらく考え込んだ後、担任はぽんと手を打った。

「じゃあ東城の隣の奴に移動してもらおう。遠藤、お前後ろの席行ってくれ」
「うーす」

担任固有スキル・空気読まないが発動!
爽やかスマイルで沙耶の横に貧乳を強制召喚、毎ターン沙耶の精神に100のダメージ!

「よろしくね、東城さん。あ、これお近づきの印に」

沙耶の隣人だった遠藤君は教室の後方へ飛ばされ、その代わりに隣の席に着いたクレアは、再び沙耶に牛乳を差し出した。やっぱり冷えている。
どこまでも不思議ちゃんである。

「よ、よろしく」

冷や汗を垂らしつつ沙耶は牛乳受け取る。
担任のせいで思わぬ展開になったが、だが考えようによっては良かったかもしれなかった。無理やり隣に一人入れたのだから、これ以上転校生が沙耶の周囲に来ることはないはずだからだ。巨乳ちゃんやイケメン君はともかく、髭男のように濃いのが隣に来るのは、絶対に避けたかった。
まぁとはいえ、残りの三人がそろって沙耶の隣に来たがるなど、そもそもありえないことだろうが

「……ならば私も同様に」
「じゃあ俺は彼女の前がいいね」
「ならば私は後ろを希望しよう」

巨乳と、イケメンと、そして髭が。口をそろえて言った。

「はっはっは、東城モテモテだな。ちゃんと面倒見てやれよ。」

――――――期待とは往々にして裏切られるものである。

瞬く間に築かれた転校生包囲網を見て、沙耶はそんなことを考えていた。

「よろしくお願いします」
「東城っていうの?よろしくね」
「よろしくたのむよ」

髭と巨乳追加召喚で、沙耶に更に毎ターン200のダメージ!イケメンはどうでもいい!転校生包囲網が完成!
いちげきひっさつ!さや は めのまえが まっくらになった!!

「り、リセット、リセットボタン……!」

無論、そんなものは無い。






[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:d092c0e5
Date: 2012/04/12 17:03
沙耶の意識は形無くふわふわと漂いながら、その光景を見ていた。

――――――――ああ。これ、また昔の夢だ

場所は沙耶の家の道場。朝に見た夢よりも更に幼い、見た目3、4歳くらいの沙耶と拳剛が、源五郎に拳術を教わっている。
年端も行かない二人の幼子はたどたどしくも、だが必死に、先生の動きを真似ていた。源五郎は慣れない動きに四苦八苦する二人を見て、しわくちゃな顔を笑顔で更にしわだらけにしながら、優しく手ほどきする

「おじいちゃん、こう?」
「そうじゃそうじゃ、上手じゃぞ沙耶」
「こうですか、せんせい!」
「おお流石拳剛!いい筋をしておるなぁ」

沙耶も拳剛も拳術を習うにはあまりに幼く、その動きはとても見れたものではなかった。だがそれでも、源五郎は自分の動きをなぞろうとする小さな二人を見て、嬉しそうに目を細めた。

――――――――私もこのころはまだ、拳術を習っていたんだよね。

記憶からも消えかかっているこの古い思い出を、沙耶は懐かしむ。

――――――――けどなんか違和感があるなぁ、なんだろ

幽霊のようにふわふわ漂いながら、周りを見渡す。道場は相変わらず塵一つ無く掃除されており、変なところはなにも無いように思える。
だが何かがしっくりこない。

――――――――なんだろこれ、なんかウチの道場っぽくないっていうか

そもそも今見ている夢が奇妙だった。いつも見る夢は中学生の頃の記憶。古くたってせいぜい、今朝の夢ように小学生くらいのときの記憶だ。
だが今沙耶の意識が見てるのは幼稚園に入るか入らないかくらいのときの思い出だ。つまり、普段見る夢よりもはるかに昔の記憶なのだ。
道場を隅から隅まで、もっと良く観察する。そして沙耶はようやっと何がおかしいのかに気づいた。
道場の真正面にかけられている掛け軸の文字が違うのだ。

――――――――掛け軸の字、「道」になってる!?

沙耶の記憶では、掛け軸の文字はずっと「乳」だった。それが沙耶の目の前のそれの字は「道」。
あの祖父が、そんなまともな掛け軸をかけるとはとても思えない。ならばこれは沙耶の作り上げた勝手な妄想なのだろうか。だが彼女の冷静な部分は、これが確かにかつてあったことだと告げていた。

―――――――んんん? 一体どういうことだろ

訳がわからない。あの祖父にも、一時間に一回は「おっぱい」と口に出していた、おおよそ救いようのない乳狂いだったあの人にも、正気だったときがあったということなのか。夢の中の三人に意識を戻すと、丁度幼い頃の拳剛が掛け軸の文字について質問しているところだった。

「せんせい、あそこの文字はなんて書いてあるんですか?」
「「みち」じゃ」
「みち?あの車が走る「みち」?」
「まあそうじゃが、意味がちょいと違うの。」

幼い沙耶は首を傾げる。

「じゃあ、あの「みち」はどういう意味なの?」
「あれは、東城流の技法の在り方を示しておる。すなわち気脈と肉体を視る『心眼』にて道を読み、『通し(とおし)』にてその道を突く。
かつての東城流の当主たちはこの『心眼』と『通し』を用いて、無手で甲冑を身に纏う侍すらも制したと言う」

―――――――あれ、お爺ちゃんが言っていることも微妙に違うな

確か沙耶の記憶では、東城流の二本柱は『通し』と『内視力』だったはずだ。内視力と心眼では言っていることが微妙に違う。

「もっともこの心眼にも欠点は有っての。気脈の中心はへそに有る丹田、肉体の中心は胸の心の臓にあるので、気脈と肉体を同時に見切ることはできん。あちらを立てればこちらがたたず、と言うわけじゃ。
ここらを上手く改良できればよいのじゃが、まあまず無理だろうのぉ。」

―――――――拳剛の内視力は確か、胸だけを見て両方同時に見切れたよね。

つまり沙耶の祖父は、こんなことを言ってはいるが、心眼を改良したのだ。

「既に完成した技法の改善には、途方もない時間と労力が必要じゃ。じゃがワシくらいの年になると老い先短く体力もないから、それも叶わん。
命がけで、死に物狂いでやればあるいは可能かもしれんが、天下泰平の今の世でそこまでする理由など無いしのう。」

だが実際には『内視力』は開発された。それはつまり、命がけで、死に物狂いでそれを成さねばならない理由が、祖父にはあったと言うことだ。
だが沙耶にはその理由が思いつかない。

「東城流も、途絶えさえしなければそれでいいと、ワシは思っておるよ………とと、二人にはまだ、難しい話だったかの?」
「うん、よくわかんなかった」
「…………ぐぅ。」

幼い沙耶は素直に頷く。拳剛は寝ていた。

「おや拳剛、居眠りかの?まったく自分から質問しておいて、こやつという奴は」

そう言って源五郎は、優しく拳剛の頭を撫でた。
そこで夢の映像は途切れる。



夢と現のまどろみの中で、沙耶は思考する。

この記憶が正しければ、東城流が今の技術体系になったのはつい最近のことらしい。沙耶はてっきり祖父は真性の変態で、当主になってすぐに技法の改ざんを行ったのだと思ったが、どうやら違うようだ。
何か理由があるのだ。老いてなお、多大な労力をかけ、死に物狂いになってまで、東城流の技を変えなくてはならなかった、重大な理由が。
だが沙耶にはそれがわからない。

―――――――お爺ちゃんに、一体何があったんだろう?きっと何かあったんだ、私の知らない、覚えていない、なにかが。

それは一体なんなのか。たった一人の肉親に、何が起こったのか。それを沙耶は知りたい。
答えを探すため、より深く夢のなかへ潜り込もうとした―――――その時。







「おいコラ東城!起きろ!!一限から寝てんじゃねえ!!」
「は、はひっ!!?」

耳をつんざくような大音量によって、沙耶は夢の世界から引き上げられた。



[32444] 7
Name: abtya◆0e058c75 ID:2d32621c
Date: 2012/04/21 09:59
教室のスピーカーが4時限目終了のチャイムを鳴らした。待ちに待ったお昼休みである。
息苦しい授業から解放された生徒達は午後からの授業を乗り切るべく、各々栄養補給に動き出す。
ある者は学食へ、ある者は購買へ。カバンからお弁当を取り出す者もいれば、ちょっと離れたラーメン屋に自転車を飛ばす猛者もいる。

一方、一時限目から眠りこけてしまった沙耶はと言えば、
襲い来る睡魔を撃退しつつ二限以降は無難に過ごし、無事昼休みを迎えていたものの、
今は蓄積した疲労からうんうんと唸りながら、ぐったりと机に身を預けていた。
幸いにして沙耶は弁当組。学食組や購買組のように、戦場に向かう必要はない。
昼休みを思う存分だらけることができるのだ。

そんな沙耶の姿を見て、クスクスと笑う少女が一人。
肩まで伸ばしたウェーブの茶髪と、頬のそばかすが印象的なその少女。
名を山岸友奈と言う。沙耶の友人である。

沙耶は背後で笑う友奈に気付くと、むっとした表情で彼女を見た。

「もう、笑わないでよ友奈」
「ごめんごめん」

ウェーブのかかった頭髪をゆらゆらと揺らしながら、友奈はいたずらっぽく謝ると、

「けど沙耶がそんなにぐったりしてるの珍しくてさ。なんかあったの?」

ぐっと顔を近づけて沙耶の目を覗き込む。
この好奇心旺盛で知りたがりな親友に、朝から起きたことを片っ端から説明しても良かったのだが、残念ながらもうそんな体力はない。
だから沙耶は机に身をうつぶせながら、ひらひらと手を振るった。

「まぁ、色々ね」

友奈はそんな沙耶の気だるげな返答に、今度は苦笑する。
そして沙耶の机に近くにあった他の机をくっつけると、その上に自分の弁当をドンと置き。
ヘタりきった友人の背をドンと叩いた。

「ははっ、よくわかんないけどお疲れ様!さ、お昼にしよっ。」
「んむぅー……そだね。じゃあとりあえず、拳剛にお弁当渡してくるよ」

そう言うと沙耶は自分の学生カバンをガサゴソとあさり、朝食前に作っておいた弁当を二つ取り出す。
一つは可愛らしい花柄のナプキンに包まれた、ごく一般的な大きさの弁当箱。
もう一つは唐草模様の風呂敷に包まれた、2段重ねの重箱である。
前者が沙耶用、後者は拳剛用だ。
実は朝ごはん同様、お昼ご飯も沙耶が拳剛の分を作っているのだった。その代わり拳剛は家の買出しと、東城家等々力家双方の掃除を一手に担っている。


お弁当を渡そうと沙耶が拳剛を探すと、拳剛は丁度転校生の太刀川 怜に話かけようとするところだった。
太刀川冷、朝の巨乳受身マスターである。

「転校生、ちょっといいか」

拳剛がいつに無く真面目な様子で尋ねる。
注目の転校生(巨乳)に拳剛が声をかけたことで、ざわついていた教室は一気に静まり返った。
クラスメート達の視線が一気に二人に注がれる。

「なにか御用ですか」

対する太刀川は、身長2m、体重120kgの巨漢にいきなり話しかけられても動じることなく、凛とした身がまえを崩さない。
拳剛は他に漏れぬようそっと耳打ちする。

「『昨日』のことで、話がある」
「!?…………わかりました」

その言葉に、平静を保っていた太刀川の表情が一瞬揺らいだ。
二人のやり取りに、沈黙していた教室が打って変わって沸き立つ。

「乳大明神が動いたぞ!」
「拳剛てめえ、東城というものがありながら!」
「出遅れたッ!様子見していたのが仇になったか畜生!?」

「はっはっは、悪いな皆。早い者勝ちだ」

血の涙を流しながら吠える男子達に、拳剛は笑いながら手を振る。
だが沙耶だけは、拳剛の目がまったく笑っていないことに気づいていた。

「拳剛?」
「大丈夫、すぐ戻る」

心配そうに尋ねる沙耶に、拳剛はただ一言、そう言う。
言外に、これ以上訊くなと言っていた。

「………うん。」

故に沙耶は頷くほかない。
そして拳剛は、太刀川と共に教室を出ていった。

「お弁当、渡しそびれちゃったな」

机の上に乗っかった重箱を見て、沙耶はポツリと呟いた。



************************



場面は屋上へと移る。
太刀川と拳剛、対峙する二人。
両者の間にはただならぬ雰囲気が流れている。
少しばかりの沈黙の後、先に口を開いたのは拳剛だった。

「さて、腹を割って話し合いと行こうか。なぁ道場破りの武者殿よ」
「………いつから気づいていた。昨晩は甲冑で顔は見えなかったはずだが」

太刀川の口調が変わる。
その口調、そしてよくよく聞けばその声色も、昨日拳剛が戦った道場破りのそれと同じものだ。
刺すような視線で睨む太刀川に、拳剛は何でもないように言った。

「まぁ実を言えば、登校のときにぶつかった時点で疑ってはいた。あのような身のこなしの者など、そうそう居る筈はないからな。
だから朝の挨拶で確認させてもらったぞ。案の情、昨日の武者殿とお前のはぴったり合致したよ。」
「確認?合致した……まさか貴様」

太刀川の額に冷や汗が垂れる。
拳剛は、二本指で太刀川の胸をビシッと指した。

「乳の形状と、右乳の三つ並びの黒子だな。
あと専門家として言わせて貰えば、おっぱいに無駄な圧力をかけるのはよくない。さらしでなく、サイズの合ったブラジャーを使うことをお勧めするぞ。」
「ままっ、また覗いたのか!?このっ変態が!!」
「この世で沙耶の乳以外に、俺が覗けぬ乳はない。」

重苦しい空気は一気に霧散した。
拳剛は、ニコリと笑ってサムズアップ。一方太刀川は、その巨乳を拳剛から隠すように咄嗟に両手で胸部をガードする。
残念ながら、拳剛の眼力(インサイト)の前では全くの無意味であるが。
その端正な顔を真っ赤に染めながら、太刀川は拳剛を怒鳴りつける。

「胸を張るな親指立てるな!」

が、太刀川渾身の突っ込みスルーし、拳剛うんうんと唸った。

「沙耶の乳は『気』が強すぎるのか、眩しくてよく見えなくてな。ぱっと見は普通なんだが。
一番気になる乳が視れないとは、いや、なんともやり切れんことだ」
「いや別にそんなことはまったくもって聞いていない。」
「うむ?そうか、ならば本題と行こうか」

拳剛は太刀川に向き直る。

「お前をここに呼んだのは他でもない。
道場破りの武者殿が何故この学校に転校してきたのかを聞くためだ」

鋭い眼光が太刀川を射抜く。

「何故お前はここに来た。鍵が欲しいのならば改めて決着を着ければいいはず。
もし沙耶を、俺の友人達を巻き込むつもりならば。その時は容赦せんぞ。」

拳剛は拳をゴキリと鳴らす。

「さあ話せ、お前は一体何者だ。何を企んでいる」

再び空気が張り詰める。
僅かな静寂の後、太刀川は口を開いた。

「それを話す前に、一つお前に伝えねばならないことがある――――――」




*******************




拳剛と太刀川が去った教室は、再び元の落ち着きを取り戻していた。
教室に残ったクラスメート達は食事を再開する。
その中の好奇心旺盛な何人かは、ヘタレ臭漂うイケメン・薄井 エイジと、ツルペタ欧風美少女・風見 クレアに話しかけて色々訊いていた。
ちなみに、髭こと黒瀧黒典はハブられている。怖いもの知らずの高校生達も、流石に推定四十路のオッサンには絡みづらいらしい。

「拳剛君行っちゃったし、お弁当食べちゃおっか」
「あ、うん。そうだね」

拳剛が出て行った後しばらく固まっていた沙耶も、再起動し友奈の提案に頷いた。
あの様子だと、しばらくは帰ってこないだろう。先に食べちゃって問題ないはずである。

「じゃあ私もご一緒させてもらってもいいかしら、東城さん」
「え”っ」

いつの間にかクラスメートの質問攻めから抜け出した欧風美少女クレアが、二人の間に割って入る。
沙耶は一瞬言葉に詰まるが、友奈はその申し出を快諾した。

「いいんじゃない?あたしも転校生の話聞きたいしさ。
あ、あたしの名前は山岸 友奈ね。名前で呼んでくれると嬉しいかな」
「ありがとう、友奈さん。よろしくね」

クレアは二人にお礼を言うと、沙耶たちのところに机をドッキングする。
三人のやり取りを見て、隣にいた残りの転校生組・エイジと黒典も乱入する。

「なら私も仲間に入れてもらおうか、東城沙耶よ」
「俺も頼むよ。えっと、東城さんと友奈ちゃんだっけ?」
「おっしゃー、ドンと来―い!」
「え!?いや、ちょ、待っ……」


沙耶が止める間もなく。
友奈の許可を得たエイジと黒典は、そそくさと自分達の机をくっつけた。
そこで何か気に触ったのか髭面は、イケメンをじろりと一瞥する

「……私に便乗するとはいい度胸じゃないか」
「ひっ!?」

ぼそりと呟く黒典に凄みのある表情で睨まれ、エイジが震え上がる。
髭面は、自分も便乗犯というのは棚上げである。

「そうですよ。私と東城さんの、同志の語らいに水を差すとは、無粋ではないかしら」
「ひいっ!!?」

エイジが今度はクレアの視線にビビる。
どうやらこのイケメンは、雰囲気の通りにヘタレ、というかビビリであるようだった。多少過剰なくらいに。
沙耶にしてみれば、奇人変人であるよりもよっぽどありがたいが。

ちなみに、沙耶はクレアの同志になった覚えは全くない。

震え上がるその姿に溜飲を下げたのか、貧乳はエイジから視線をはずした。
そして自分のお弁当を学生鞄から取り出しながら、今度は沙耶の机の上を見やる。

「沙耶さんもお弁当なのね。あら、でも2つ?」
「見た目によらず大食漢なのかね?」
「ああ、違う違う。こっちのはさっき教室を出て行った大きい奴、等々力拳剛の分だよ」

沙耶は机の上に乗った重箱を指差しながら、クレアと黒典の言葉に頭を振るう。
ごく一般的な女子高生の胃袋しか持たない沙耶には、流石にこの30㎝四方二段重ねの重箱を完食する自信はない。
とっとと本来の持ち主のところに持っていってやらねばならないだろう。
なにやら巨乳ちゃんと内密の話をするようだし、拳剛にこの重箱を渡すのはもう少し後のことになりそうだが。
沙耶の言葉にイケメンが感心する。

「へぇあの巨漢君の分の昼食まで作ってあげてるのか、それだけの量を作るのは大変だろうに。」
「ううん、別にそうでもないよ」

拳剛の弁当は量こそ多いが、中身の八割は米。炊くだけなので、一人分作るのも十人分作るのも大差はない。
それに沙耶が炊事洗濯をする代わりに、拳剛には家の掃除と買い物関係をやってもらっているのでとんとんだ。

「俺なんか自分では作れないし、作ってくれる人もいないからね。昼はこの通り、パン食だ。
――――――誰か作ってくれたりしないかな」

そう言ってコンビニ袋を指差すと、エイジはやれやれと首をすくめ、沙耶と友奈を流し目で見る。

「学食行ったら?」
「え?あ、ああ、そうだね………」

だが友奈の一言に撃沈した。
クレアは不思議そうに首を傾げる

「あの大きな人、等々力君って言うのね。
確か朝、東城さんと一緒に登校していたわよね。二人はいったいどういう関係なの?」
「家が隣の幼馴染だよ。」
「そして内縁の夫婦なんだよね」
「いや、違うから。」

ニヤニヤと沙耶の言葉に付け足す友奈に、ビシリと突っ込む。
沙耶はぽりぽり頭かいて、小さくため息をついた。

「まぁ付き合いが長いのは認めるけどね。生まれたときからお隣さんだったし。」

物心付く前から一緒にいたのであるから、確かに長いことは長い。
だがこんな田舎町では友達は大抵小学校から高校までずっと一緒だ。程度の差こそあれ、付き合いが長いのは普通である。
今一緒に食事している山岸 友奈だって小学校の頃からの友人であるし、長い付き合いはなにも拳剛に限った事でもないのである。
沙耶の言葉に黒典は、ふむ、とその顎鬚を撫でる。

「だが君くらいの年頃の少女ならば、異性の幼馴染などは嫌になるものだと思うが。
なにせ自分のことを一から十まで全てわかっているような相手だ、疎ましくはならないのかね?」
「おお、黒瀧君オトナな意見」

推定年齢四十台。含蓄ある年長者の言葉に、友奈は感心し、沙耶は唸った。

「うー、まあ普通はそうなんだろうけど。―――――私達の場合、色々特殊だから。」

沙耶の拳剛に対する感情は、友人や恋人に対する類の物ではなく、どちらかと言えば家族に対するそれに近い。沙耶自身はそう考えていた
昔から拳剛の両親は出張で家を空けがちだったため、沙耶の祖父がまとめて沙耶と拳剛の面倒を見ることが多かったのだ。
だから普通の友人などより、一緒に過ごした時間がはるかに長い。
あるいは、沙耶の物心つくころには両親が他界しており、血の繋がった家族が祖父だけであったというのも、拳剛を家族と見なした理由の一つかもしれない。

とにかくそれ故に、沙耶は拳剛に対してだけは、恥も衒いも遠慮も無い。
そばにいるのが「当たり前」なのだ。

深く訊かれるのも困るので、そこまでは口に出さないが。

「そういえば黒瀧さんって、私のお爺ちゃんのこと知ってるんだっけ?」

そこでふと、髭面が朝、沙耶の祖父を知っているようなことを言っていたのを思い出した。
沙耶の問いに、黒典は頷く。

「東城源五郎のことか。ああ、彼は一部では有名だからね。知りたいのかい」
「あ、沙耶のおじいちゃんの話なら私聞きたい!沙耶も聞きたいよね」
「え?あ、うん、そうだね」

友奈の勢いに思わず頷く。だがこれはこれでいいかもしれない。
よく考えると、沙耶は祖父のことを直接的には知っているが、祖父が周りからはどのように思われていたのかはよく知らないのだ。
門下生が拳剛一人というところから、沙耶は祖父のことを潰れかけの一門の無名の主と勝手に思っていた。
だが「一部で有名」とか言っていた髭の口ぶりからすると、どうやら違うようだ。
そこら辺のところを知るためにも、第三者に聞けるいいチャンスだった。
相手がこの四十路学ラン男というのが不満だが。

とりあえず、一番気になっていることを尋ねる。

「そもそもおじいちゃんが有名って、一体どんな風に有名なの?」

やっぱり乳狂いとしてだろうか。
黒典は考え込むように顎を撫でる。

「ふむ、そうだな。東城流の先代はその実力もさることながら、おだやかで品行方正な人格者として知られていた。」
「まぁ、素敵なおじいさまね」
「誰だそれは」

沙耶は呆然とつぶやく。
品行方正とか、少なくとも沙耶の知る祖父を形容するのに使うべき言葉ではない。
彼には、煩悩の塊とか乳狂いとか、そういう類の言葉があっている。

「弟子らしい弟子もほとんど取らず、最低限流派の技さえ残ればそれでいいと、そういう考えだったらしい。
だがある時から、彼はまるで人が変わったかの様になってしまったそうだ」
「!?それって、女性の胸にしか興味を持たなくなったとか、そういう?」
「ああ、そういえば沙耶のおじいちゃんておっぱい好きだったよね」

小学校のころからの友人である友奈は得心行ったように頷く。だが髭首を振る。

「いや、そういう話は聞かんな。
私が知っているのは。それまで穏やかで争いなど好まなかった東城流先代が、ある時を境に次々に他流派へと挑みはじめ、その道場の看板を奪って行ったということだ。
奪われた大量の看板は、今も東城流の道場の蔵に保管されていると聞く。取り戻そうにも、蔵は頑丈な錠前で守られていて誰も手が出せないのだとか。
実際はどうなのかね?」

黒典は、口元に手を当てたままじろりと沙耶を見る。
沙耶は少々気圧されつつも頭を振った。

「さ、さぁ。道場のことは拳剛に任せてるから、私には分からないよ」

それは事実だ。今は拳剛が東城流の代表なので、沙耶にはわからない。
家の敷地に重厚な錠前のかかった蔵があるから、もしかしたらそこにあるのかもしれないが。

それよりも、沙耶としては祖父が道場破りをしていたことはという事の方が気になった。
沙耶も彼がそのような事をしていたとは初耳である。
少なくとも、祖父は二人の前では穏やかな人だったのだ。

「そのおじいちゃんが変わった時期って、大体いつごろなの?」
「大体13,4年前というところか。」

夢の中で、道場の掛け軸が「乳」でなかったときと一致する。
やはりあの記憶は間違っていなかったようだ。少なくとも13,4年前は、祖父はまともだったのだ。

「齢60を過ぎた老人が、次々と各地の名のある道場の看板を奪って行ったのだ。当然東城源五郎の名は瞬く間に世に轟いたよ。」

要するに。無名とばかり思っていたが、思ったよりも祖父の名は知られていたらしい。

「なんで沙耶のお爺ちゃんはそんなことしたんだろうね」

首を傾げる友奈の問いに、髭は首を振った。

「さてな。廃れ行く一門が惜しくなったか、はてまた己の持つ力を確かめたくなったか。
あるいは東城流の技をより高みに押し上げようとしたか」

多分そうなのだろう。心眼から内視力へと進化した技がそれを物語っている。
だがやはり、理由がわからない。何故祖父は変わってしまったのか。祖父に一体何があったというのだろうか。
記憶の箱をひっくり返しても、答えは見つからない。沙耶は思わず黙り込む。
微妙な沈黙。
静寂に耐えかねたのか、友奈は何か話題になるものを探しキョロキョロと周りを見渡すと、黒典とクレアのお弁当に目をつけた。

「ふ、二人のお弁当よくできてるね。誰が作ってくれてるの?」

友奈の言葉に、沙耶も二人のお弁当を見る。確かにどちらもおいしそうだった。
クレアのお弁当は洋風で、海老やらなにやらが入っていてかなり豪華である。
一方黒典のお弁当は出し巻き卵や煮物で占められており、家庭的な印象を受ける。

「シェフが」
「妻が」
「え?」

クレアと黒典の答えに沙耶と友奈は一瞬固まる。
シェフってなんだシェフって。というか髭面は妻帯者なのか。
口からでかかるツッコミを耐える。わざわざ藪を突く必要は無いだろう。
一方エイジは何事もないように二人の弁当のぞくと、

「へぇ、確かにおいしそうだ。一つもらいっと!」

卵焼きと海老を二人の弁当箱から奪取し、口に放る。

「お、やっぱりどっちも美味……」

そして言い終わる前に二つの拳が顔面にめり込み、エイジは目にも留まらぬ速さで後方へ吹っ飛んだ。

「汚い手で人の食事に触れないで下さいな」
「小物が、私の愛妻弁当に手をつけるな」
「き、厳しいね二人とも」

ぴくぴくと動くイケメン見て友奈が冷や汗を垂らす。
騒ぎをよそに、沙耶はちゃっちゃとお弁当を食べ終わっていた。

「じゃ、私は拳剛にお弁当届けてくるよ」

空になった自分の弁当箱を学生鞄に突っ込み、重箱を持って席を立つ。
拳剛が太刀川に何の用があったのかは知らないが、流石にもう話も終わっているはずだ。
さっさと弁当を持っていって、あの大食漢の胃袋を満たしてやらねばならない。
沙耶が席を立つと、殴り飛ばされたエイジもよろよろと起き上がる。
顔からちょびっと鼻血が出ていた。

「な、なら俺は保健室に行こうかな、思わぬ傷を負ってしまったからね。悪いけど東城君、屋上ついでに連れて行ってくれないか」
「え?うん、まぁいいけど」

一瞬の思案の後、沙耶は答える。
屋上に行く前に保健室に寄るだけなら、別にたいした手間ではない。
この男はヘタレでお調子者ではあるようだが、幸い髭の人とは違い普通の感性の持ち主のようだ。
断る理由はなかった。

「じゃあ行ってくるね」

黒典とクレアと友奈に別れを告げ、沙耶はエイジと共に教室を後にした。




****************




少し時を遡り、再び場面は屋上の拳剛と巨乳に戻る

「―――――沙耶が狙われている、だと」

巨乳の言葉に、思わず拳剛は眉をひそめる。あまりにも唐突で訳がわからなかった。
誰が、何の目的で、そんなことをしようというのか。
困惑まじりの拳剛の言葉に、巨乳が頷く。

「そうだ。正確には東城沙耶を筆頭とした、お前に関わりの深い者達が、だが」

淡々と言う巨乳に、拳剛は怒気をはらんだ声で問う。

「理由はなんだ、何故俺の周りの者を狙う」
「わからんのか、奴らの目的は私と同じだ。」

巨乳が拳剛一瞥する。一瞬の黙考の後、拳剛は正答へとたどり着いた。

「――――――――狙いは、鍵か!」




*******************



場面は、もう一度沙耶の下へ戻る。

クラスルーム前の階段を下り、目指すは一階の端の端、教室から離れた位置にある保健室だ。
昼休みももう残り少ないし、とっととエイジを届けて屋上に行かなくてはならない。
とはいえ何もしゃべらないのも気まずいわけで。

「そういえば薄井君って、なんでこの高校に転校してきたの?」

適当に話題を見繕って話しかける。エイジはというと、その問いに簡潔に答えた。

「仕事の関係でね」
「仕事?両親の転勤できたの?」

エイジの言葉に沙耶は首を傾げる。
妙な話だ。沙耶たちの住む八雲町ふくめ、この辺りはド田舎だ。近くに転勤で来るような大きな会社や工場は無いはず。
エイジは沙耶の言葉に首を振る。

「いやいや。仕事って言うのは、『俺の仕事』のことさ」
「え?」

学生の仕事は学業だろう。それともアルバイトとかのことを言っているのか。
どういうことか聞こうとする前に、エイジが先に口を開く。

「最近この辺り、事故多いでしょ」
「え?ああ、まぁそうだね」

確か今朝のニュースで工事現場の事故や車の追突事故のことをやっていた気がする。


「この一週間で20件」
「?」
「ニュースで取り上げられた、八雲町近辺で起きた事故の件数さ。報道されていないものを含めれば、その数はもっと増えるだろう。
――――龍脈の穢れの進行は、思ったより速いみたいだ。」

話の意図が良く掴めない。が、どうも雲行きが妙である。
沙耶の額に冷や汗が流れる。
もしかするとこの人も、ちょっとアレな人なのかもしれない。
そんな考えが首をもたげた。

「あの、保健室着いたよ?もう行っていいよね」

保健室の前に着いた沙耶は、エイジを置いてさっさと行こうとする。
が、去ろうとする沙耶の肩をエイジが掴んだ。
細身の彼からは考えられないほど、強い力。離すことができない。
危険を感じた沙耶が叫ぼうとすると、今度は空いているほうの手で口をふさがれ、無理やり壁に体を押さえつけられる。
助けを求めようにも、教室から離れたこの辺りに人通りはない。
エイジは抑揚のない口調で続ける

「だから急いで龍脈の鍵を手に入れなければならないってのに。
護国衛士に加え、目的もわからない第三勢力までが、もうこの高校まで乗り込んできやがった。
東城源五郎が唯一の弟子に託したあれは、何があろうと奴らに渡すわけには行かない。
――――――もう、待ってはいられないんだよ」

エイジの言葉は徹頭徹尾、沙耶には訳がわからなかった。
だが逃げなきゃ不味いということは判る。
沙耶は必死でもがくが、しかし強い力で壁に押し付けられ身動きができない。
ヘタレが何かをつぶやく。聞いたこともない言葉だった、もしかしたら日本語ですらないかもしれない。
まるで何かの呪文のような――――――

そこまで考えたところで、沙耶の意識はぷっつりと途切れた。





嵐が、今まさに二人を呑み込もうとしていた。



[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:0ed5d191
Date: 2012/04/27 08:43




等々力拳剛。東城流先代の唯一の弟子にして、東城流最後の門弟。
彼は先代の死に際して、一つの品を師から預かった。

その品は、奇妙な文字の羅列が刻まれた、細長い布切れにくるまれていた。
どういうわけかそのボロ布は、強力無双の拳剛の腕力を以ってしても、ほどくことも、千切ることもできず。受け取った拳剛自身にすら、布切れの中身を見ることはかなわなかった。

師の言葉によれば、そのボロ布の中身は『鍵』であるそうだった。
東城の家の敷地に古くからある小さな蔵の。その扉にかけられた頑丈な錠前の鍵。
それが拳剛の受け取った品だった。

鍵を託す際、師は幾つかの言いつけを拳剛に残した。
一つ。鍵を欲するものが居れば、鍵の守る蔵の中身と共に、それをくれてやること
一つ。ただし、鍵は拳剛を真剣勝負にて破った者にのみ譲渡すること
一つ。鍵が拳剛の手の内にある限りは、決して、何人にも、どのようにも、その鍵の守る物を口外しないこと。

拳剛は、この師の最期の言葉を、愚直なまでに守り抜いた。
言いつけ通りに、鍵を欲した太刀川 怜とは真剣勝負にて仕合い、師の唯一人の肉親の沙耶にさえ鍵の仔細は話さなかった。

そして拳剛はその言伝と同時に、蔵に収められている物についても聞かされた。
先代は蔵に眠るそれらを、「自らの業」と称した。
それは、ほとんどの人間にとっては無価値で、だが極一部の者達にとっては命にも代え難い品。


すなわち、拳剛の受け継いだ『鍵』が守る物とは。
東城源五郎が打ち破った、無数の道場の看板達である。


拳剛自身、源五郎の死の際まで知らなかったのだが、師は道場破り紛いのことをしていた時期があったらしい。
もっとも師本人は他流派の看板を奪うつもりなど毛頭無く、仕合はあくまで東城流の技を高めることのみが目的だったそうだ。
ならば自らの道場で鍛錬を積めば良いとも思えるが、師の場合はそうは行かなかった。
ろくに弟子も取らなかった彼には、対等に戦うことのできる相手が一門には居なかったのだ。
故に、あえて他流試合に臨んだのである。

師は看板を賭けたつもりは無かった。
だが源五郎に敗北した一門の者達にしてみれば、他流に挑まれ、その上真剣勝負で負けたとあっては、もはや看板を掲げることなどできはしない。
そのようなことは武の道を歩む者としての誇りが許さない。
看板を差し出すほか無かった。

そうして拳剛の師が手に入れた無数の看板達は。
燃やされることなく、砕かれることなく、東城の家の蔵に収められることとなる。


東城源五郎の死に際し、拳剛は師の遺志を、師の業を継いだ。
すなわち、看板を奪われた武術家達が最後の東城流を打倒し、その誇りを取り戻すまで、その鍵を守り続ける。
それが師が踏みにじった武術家たちへの礼儀であり、そして師に対する恩返しであると、拳剛はそう考えたのだ。



*************************




「目的は、鍵か。」

太刀川の話で、拳剛もおぼろげながら事の次第が見えてきた。
沙耶や、拳剛の友人達を狙っているという輩達の目的は、東城の蔵にある看板に違いない。鍵の守護者である拳剛に対し人質を取り、看板を手に入れようとしているのだ。
恐らく、かつて師に看板を奪われた一門の者達が取り戻しに来たのだろう。
太刀川の話に嘘が無ければ、の話であるが。
拳剛の言葉に太刀川は頷く。

「そうだ。奴らの目的は私と同じ、お前が東城流先代から受け継いだ鍵だ。」
「わからんな、鍵が欲しければ直接俺を狙えばいい。」

尋常な立会いの下、源五郎の手に渡った品である。取り戻したくば正面から拳剛に挑むのが筋と言う物だろう。
少なくとも、関係のない人間を巻き込むやり方は間違っている。

「ああ、そうだな。だが、」

太刀川も同じ意見だったようだが、しかし彼女は首を振る。

「だがお前を直接狙うより、人質を取って鍵を奪ったほうが簡単で確実だ。」
「……全く正論だな、反吐が出るが。」

少なくとも武を志した者のすることではない。
武道家にとって、看板とは誇りだ。
下種な手段で取り戻した誇りなど最早何の価値も無いということが、その輩達には分からないのだろうか。
拳剛は小さくため息をつく。

「太刀川、お前の言いたいことは分かった。お前の話が嘘か真かは分からんが、在り得ないことでもない。周囲には気を配ることにしよう。」

だが、と拳剛は続ける。

「肝心なことをまだ聞いていないぞ。お前は一体何者だ。何を企んでこの学校にやってきた。」

友人達が狙われているという話のインパクトに流されかけていたが、これを訊くのがそもそもの目的だった。
確かに、拳剛の周りの人間が狙われているのは看過できない。
だが『鍵』を賭けて真剣勝負をしたその次の日に、転入生としてやってきたこの女も相当なものだ。
自分の頭がよろしくないと自覚している拳剛にも、これが異常だということは分かる。見過ごすことはできない。
しばらくの沈黙の後、太刀川が口を開いた。

「私は護国衛士だ。」

ごこくえじ。
聞いたことのない名だった。
恐らくは流派の名称なのであろうが、少なくとも拳剛の記憶にはない。
だが昨晩仕合ったために、太刀川の実力が相当のものであることは拳剛も重々理解している。
もしかすると東城流同様、実力はあるがマイナーな一門なのかもしれない。
太刀川は続ける。

「そしてこの学校へ来たのは。
等々力拳剛、お前とお前の周囲の人間の警護のためだ。」
「?どういう事だ。いや、そもそも何故お前がそんなことをする必要がある。
俺達を助ける義理も理由もあるまいに」

その言葉に拳剛は眉を顰めた。
彼女の目的は『鍵』、正確には鍵の守る蔵にある看板のはずだ。拳剛やその周りの人間を手助けする理由は思いつかない。
だが太刀川は、拳剛の言葉に首を振った。

「それがそうでもなくてな。こちらには、お前を守る義理も理由もあるのだ」

思わせぶりな太刀川の言葉に、拳剛は首を傾げる。
巌のような大男がふくろうの様に首を傾げるのを見て、太刀川は小さく笑みを浮かべた。

「まず理由だが、これは単純だ。お前が人質など取られて『鍵』を奪われてしまっては、私たちも困るのだ」
「ああ、なるほど」

成程、もっともな理由だった。思わずポンと手を叩く。

「ならば義理のほうは何なのだ?」

再び疑問がわき、拳剛はまた首を傾げた。
護国衛士とかいう名も知らぬ流派に、少なくとも拳剛は借りを作った記憶はない。
そもそもつい先ほどまではその名すら知らなかったのだ。関わりすらない。
となれば、師・源五郎がなにかやったのだろうか。
拳剛の問いに太刀川は少しだけ口ごもり、そして言った。

「……これは言いにくいのだが。そもそもお前の周りの人間が狙われることになったのは、私達、護国衛士に原因があるのだ」
「?どういうことだ」
「東城源五郎がお前に託した『鍵』は、元を辿れば我々が彼に預けた物だ」

それは初耳だった。拳剛は『鍵』そのものを直接見たことはないが(肉眼では布切れが巻かれていて見られない)、東城の家の蔵にかかった錠前のほうなら見たことがある。確か、重厚な立派な錠前だったはずだ。
それを源五郎に貸し出したということは、護国衛士という流派にはさぞかし腕利きの鍛冶屋さんがいたのだろう。
拳剛のそんな内心をよそに、太刀川は説明を続ける。

「だから、『鍵』の在処を知るのは本来我々だけなのだが、昨晩の決闘でそれが他の組織にも知られてしまった。奴らは『鍵』の在処を知る護国衛士の動向を探っていたんだ。
それで、『鍵』が東城流・等々力拳剛の元にあるとバレてしまった」
「成程、それで俺の友人が狙われることになったというわけか」
「ああ」

つまり護国衛士という連中は、拳剛の周りの無関係な人間を巻き込んでしまったことに責任を感じ、それで警護を申し出たということらしい。
中々律儀な連中である。

と、そこまで考えて。
拳剛は、ちょっとだけ引っかかった。
太刀川の言った、『鍵が東城拳剛の元にあるとバレてしまったんだ』、のくだりである。
そもそも、そのバレた相手というのは、東城流先代・源五郎が奪った看板を取り戻しに来た連中のはずである。
ならば師が逝去した現在、その看板は最後の東城流である拳剛が所有していると考えるのが普通だろう。
だが太刀川の話によれば、その者達はどういうわけか、拳剛が『鍵』を持つことを、すなわち看板を守っていることを知らなかったらしい。
これは妙である。

拳剛は内視力を発動し、太刀川の胸部を注視する。おっぱいは、脈拍、鼓動共に変化がない。
太刀川は嘘を言っているわけではないようだ。
虚言ではない。だが何かが食い違う。
一体これはどういうことなのだろうか。

拳剛の混乱をよそに、太刀川は続ける。

「とりあえず、我々は他勢力の排除に専念する。時間も無いが、鍵を奪われてしまっては元も子もないからな。
再戦は、『龍脈の鍵』をかけた戦いは、その時まで持ち越しだ」


妙な単語が、聞こえた。


「太刀川よ、今何と言った?」

神妙な面持ちで聞き返す拳剛に、太刀川は怪訝な様子で返す。

「?護国衛士は他勢力の排除に専念すると……」
「いや、その次だ」
「戦いは持ち越しだと」
「……『何』をかけた戦い?」
「?まったく、今更何を言っている」

再び聞き返す拳剛に太刀川は、今度は呆れた顔で答えた。

「『龍脈の鍵』に決まっているだろう。それ自体が膨大な気の力の塊の、龍脈を呼び出すための依り代。
かつて護国衛士が門外協力員である東城源五郎に預け、守護を任せた鍵だ。」





「………えっ?」
「えっ?」
「あ、い、いや、なんでもないぞ!」


何を阿呆言っているか。
口から出掛かったその言葉を、拳剛は咄嗟に押し留めた。
龍脈の鍵。確かに今、太刀川はそう言った。
龍脈のことならば拳剛も師から聞いたことがあるので知っている。
人間の『気』などとは比較にならないほど強大な力を持つ、巨大な大地の気脈のことだ。
太刀川は、その龍脈の鍵を欲していると言う。

だが拳剛が先生から託された鍵は違う。東城の家の蔵の鍵だ。
先生が奪った看板を守る鍵だ。

拳剛の持つ鍵と、太刀川の持つ鍵は、『全く別の物だ』。

だが拳剛に、それを伝えることはできない。
鍵を託す際に、先生が遺した言葉。
『鍵が拳剛の手の内にある限りは、『決して』、『何人にも』、『どのようにも』、その鍵の守る物を口外しないこと。』
この言いつけが、拳剛に口を開くことを許さない。
これは先生の奪った看板を守る鍵ですよ、などと直接的に説明するわけにはいかないし、
同様にして、これは龍脈の鍵ではありませんよ、などと間接的に鍵の詳細を示すわけにもいかないのだ。


何故先生はこのような言いつけを遺したのか。
護国衛士たちが東城流先代の死後、拳剛に『龍脈の鍵』が渡ったと考えるのは当然のことだろう。
なにせ拳剛は東城源五郎唯一の弟子である。誰が考えたって、実力的にも師弟関係的にも『龍脈の鍵』とやらの守護を引き継がせるのは拳剛が適任だ。
そして実際、拳剛は師より『鍵』を託されている。
ただしそれは龍脈の鍵ではない。東城の家の蔵の鍵だ。
護国衛士たちが思い違いするのも当然だが、しかし拳剛にはその誤解を解くことができない。


先生の考えがわからない。
これではまるで、最初から拳剛が『龍脈の鍵』を持つと思わせることが目的のような――――――


そこまで考えて、拳剛はふと気付く。
拳剛の持つ鍵は、師の手に入れた看板を守る鍵だ。龍脈の鍵ではない。
ならば、師が預かったという龍脈の鍵は。


――――――――― 一体どこに行ったのか?




その時だった。ピリリという電子音が屋上に響いた。


「電話か?」
「俺のだな。む、沙耶からのようだ」

いぶかしげな視線でこちらを見る太刀川に、拳剛は頷く。
ポケットから取り出した携帯のディスプレイには、『沙耶』の二文字が光っていた。どうやら沙耶の携帯からのようだ。
何か用事ができたのかも知れない。拳剛はすぐさま電話に出る。

「もしもし沙耶か、一体どうした……」
『――――――やぁ、こんにちは等々力拳剛』
「!?」

だが携帯の向こう側から聞こえた声は沙耶のものではなく、聞きなれない男の声だった。
着信は確かに沙耶の携帯から。だが出たのは沙耶ではなく、何者かも分からぬ男だ。
ならば、沙耶はどうしているのか。
強く握り締められた拳剛の携帯が、ミシリと音を立てる。

「……お前は誰だ。これは東城沙耶の携帯のはずだが」

獣の唸り声にも似た重低音。
電話越しにでも感じるであろう、限りなく極限に近い拳剛の怒気を気にもせず、男は淡々と応えた。

『俺達は憂国隠衆。手短に用件だけ言おう。―――――東城沙耶は預かった。』
「!!?」
『彼女はお前の持つ鍵と交換だ。警察に連絡しようなどとは考えるな、人質の命が惜しいのならね。
―――――青南町の工場跡地で待つ。』
「待……!」

拳剛が制止の怒声を発するよりも早く。通話は切られた。
拳剛はすぐさまリダイヤルするが、今度は繋がらない。どうやら携帯の電源を切られたようだった。

「くそっ!」

怒りのままに携帯を床に叩きつける。象に踏まれても大丈夫がキャッチコピーだった拳剛の携帯は、見事に粉々に砕け散った。
様子を見ていた太刀川が、怪訝な様子で声をかける。

「何があった」
「沙耶が攫われた」

拳剛の言葉に、太刀川が目を見開いた。

「相手は?」
「分からん、『ゆうこくいんしゅう』とか名乗っていた」
「憂国隠衆!?馬鹿な、奴らもう動いたのか!」

敵の名前を聞いた太刀川が、あからさまに動揺する。

「早すぎる!くそっ、牽制のつもりでココに来たのが仇になったか……!」
「済まんが話は後だ。沙耶が危ない」

どうやら太刀川は敵の名に心当たりがあるようだった。
だが拳剛とって今はそんなことはどうでもいい。重要なのは、沙耶の身の安全だ。
相手は白昼堂堂人攫いなぞする輩達である。沙耶が大事な人質であるとはいえ、一体何をされるか分からない。急いで手を打たねばならなかった。
意を決した拳剛の表情を見て、太刀川が言う。

「鍵を渡すつもりか」
「……奴等が正面から挑んで来たのならば、それも良かったがな。人質を取ってコソコソ脅すような奴らに、先生から受け継いだこの鍵は渡せん。」

正直に言えば、確実に沙耶の安全が確保されるならば、拳剛は鍵を渡してもいいと思っていた。
だが今の状況では、相手の目的が蔵の鍵なのか龍脈の鍵なのか分からない。
仮に後者だった場合には相手の目的とは違う物を渡すことになってしまい、かえって人質である沙耶の身が危険にさらされることになる。
故に交渉には応じるわけにはいかなかった。

「策はある。まずは沙耶を助け出して、その後に奴らを叩き潰す。」

人質をとる上で敵は失敗を犯した。それは攫う相手に沙耶を選んだことだ。
あるいは他の人間を誘拐していれば、拳剛の策は使えなかっただろう。

「ならば私も連れて行け」

太刀川が申し出る。
彼女の力量は拳剛も身を以って知っている。敵地に乗り込むなら、数は多いほうがよかった。
しかしその言葉を素直に受け取ることは、今の拳剛にはできない。

「俺はまだお前が信用できん。妙な真似をすれば敵もろとも、地の果てまで殴り飛ばすぞ。」

岩石の様な拳をゴキリと鳴らしつつ、拳剛は言う。
確かに彼女の申し出はありがたいが、だが太刀川が誘拐犯の仲間ではないという保証はどこにもない。
彼女の性格上人質をとるような真似は好まないだろうが、彼女の仲間もそうとは限らないのだ。
騒動に生じて拳剛の持つ鍵を狙う可能性もある。油断はできない。
だが太刀川自身、そんな拳剛の心中は重々承知のようだった。

「ああ、そうしてくれ」

故に、太刀川は躊躇無く頷く。暫しの沈黙の後、拳剛が口を開いた。

「……敵が指定したのは青南町の工場跡地だ。急ぐぞ」
「ああ!」

淡い光の粒を纏い、二つの影が屋上を飛び出した。




[32444]
Name: abtya◆0e058c75 ID:0ed5d191
Date: 2012/05/01 23:39

屋上を飛び出した二人は、敵の指定した工場へ向け疾走していた。なるべく人目に付かないルートを拳剛が先導し、そのすぐ後を太刀川が追う。
走りながら拳剛が太刀川に尋ねた。

「太刀川。お前は敵のことを、憂国隠衆とやらのことをなにか知っているのか。奴らは一体何者だ」

つい先ほど、『憂国隠衆』の名を聞いた時の太刀川の態度を振り返る。あれは確かに、なにか知っている反応だった。
到着まではまだ少し時間が掛かる。集められる情報は集めておいたほうが良いと、拳剛はそう考えていた。
一方の太刀川はといえば、拳剛のその問いは意外であったらしく、少しばかり驚いたような表情になる。

「お前は龍脈の鍵の守護者だというのに、憂国隠衆のことを知らないのか。ということはもしや、護国衛士のことも先代からは聞いていないのか?」
「……ああ、俺が先生から託されたのは『鍵』だけなのでな」

拳剛はその問いに少しためらってから、多少ぼかしてて答えた。

太刀川は拳剛の事を龍脈の鍵の番人と勘違いしている。そのためかは知らないが、太刀川はどうも、拳剛が彼女達の事情を全て把握していると思っているようだった。
だが実際はその逆だ。拳剛は護国衛士のことも憂国隠衆とやらの事も知りはしない。
あるいは本来ならば、龍脈の鍵の守護者ならば知っていなくてはいけない情報なのかもしれないが、知らないものを知っているように振舞えるほど、拳剛は器用ではなかった。
とりあえず、太刀川相手には『龍脈の鍵を持っているが、それ以外の情報は知らない』というような形で振舞うことに決める。後者は真実、前者は大嘘だ。

先生が何故、周りが勘違いするような形で拳剛に『蔵の鍵』を託したのかはわからないが、わざわざそんなことをしたのならば、それにはやはり何か意味が有るのだろう。その真意が掴めるまでは、何とか誤魔化して行く他ない。
もっとも沙耶に言わせれば、拳剛は嘘がとことん苦手な男である。ちゃんと嘘を突き通せるかは甚だ疑問であったが。

拳剛のそんな内心をよそに、太刀川は得心が行ったかのように頷く。

「なるほど、どうやら先代はこちら側のことは何も伝えてはいなかったらしいな。守護者としての役目を果たせればよいと考えていたのか、あるいは……」

少しばかり無言で考えた後、太刀川は再び口を開いた。

「ならばまず、我々のことから説明せねばなるまい。
そもそも私達護国衛士は、古来よりこの国の霊的な守護を担ってきた組織の一つなんだ。」
「霊的な守護?」

科学万能のこの平成の世においてあまり常識的ではないその言葉に、拳剛は少しばかり眉を顰める。

「超常的な災厄、いわゆる妖怪変化や魑魅魍魎の類等に対する防衛のことだ。
もっとも現代では物の怪などはめっきり数が減ったから、そういった組織も随分と少なくなってはいるが。」
「……にわかには信じがたいが」
「まぁ、そうだろうな」

渋い顔をする拳剛に、太刀川は苦笑する。
拳剛はぽりぽりと頭を搔くと内視力を発動し、真偽を確かめるべく太刀川の胸を注視した。

「……妄言の類ではないようだな」
「どどど、どこを見て言っている!」

心拍数に変化はない。少なくとも太刀川本人には嘘を言っているつもりはないようだ。
が、肝心の憂国隠衆とやらの説明がなかった。

「で、それが敵の正体と関係あるのだ?」

拳剛が続きを促すと、太刀川は少しばかり言いにくそうに口を開く。

「……東城沙耶を攫った一団、憂国隠衆もまたこの国の守護を担う組織なのだ。
もっとも前線で戦う護国衛士とは違い、隠衆の活動は支援任務が主だが」
「つまりお前達は、奴らの仲間だと?」

太刀川の言葉に拳剛の声色が、僅かに怒気を孕んだそれに変わる。
その変化に気圧されることなく、太刀川は拳剛の言葉を静かに否定した。

「少なくとも今は違う」
「?どういう意味だ」

拳剛は、思わず首を傾げた。
どちらも妖怪退治が専門。更には片方が前線部隊で、片方は支援部隊だという。
ならば、二つの組織は協力関係あると考えるのが妥当だが、太刀川はそれを否定した。
そんな拳剛の困惑を見て取ったのか、太刀川は説明を続ける。

「最近この辺りで、よく事故が起きているのは知っているな」
「ああ、ニュースでやっていたな。」

今朝のニュースでやっていただけでも、青南町と浜崎通りでの事故の二つ。日を遡ればもう幾つか、この辺りで話題になった事故があったはずだった。

「だが、それがどうしたというのだ?」
「災厄の頻発には原因がある。龍脈に穢れがたまっているのだ。このまま穢れが蓄積すれば、事態は更に悪化するだろう。」
「具体的には?」
「天変地異が起こる」
「これまた……大仰だな」

天変地異。太刀川の口から出た発言に、拳剛は思わず瞠目する。
人間の場合、気脈が弱ると病になったりする。世界そのものの気脈である龍脈の場合は、大地そのものが危険な状況になるということらしい。
成程理に適ってはいるが、どうやら事は拳剛の思った以上に大事のようだった。

「大仰ではないさ、龍脈とはいわばその土地の生命線だ。それが正常でなくなれば、そのくらいは起こる。
だから、結局のところ護国衛士も憂国隠衆も目的は同じなんだ。つまり龍脈の浄化だな。そのために我等はお前の持つ鍵を必要としている」

そこまで聞いて拳剛は、おや、と思った。

「目的が同じならば、やはり協力すればいいのではないか」

太刀川の話を要約すれば、二つの組織はどちらもこの地の平穏のために戦っているという。
ならば結束して事に当たったほうが、効率がいいはずである。

「目的は同じだ。だがその方法で意見が対立した。」

そう言って首を振るうと、太刀川は指を二本立てる。

「龍脈の浄化する方法は二つある。
一つが龍脈を全開に解放し、濃度をあげることで穢れを『顕現』させて、穢れの『化身』を討つ方法。
もう一つは『化身』が『顕現』しないギリギリのレベルで龍脈を解放し、小規模な災厄を連発させることで徐々に浄化する方法だ。
我々は前者、隠衆は後者の手段を選び、そこで意見が対立した。」

そこまで聞いて、拳剛はようやく得心が行った。化身とか顕現とかはよく分からないが、つまるところやり方に食い違いがあったらしい。
目的は同じでも、そこに至る手段で意見がぶつかったというわけだ。

「だから仲間ではないと」
「ああ、我等は同じ目的を持つ敵同士というわけだ。納得したか」
「……まぁ嘘ではなようだな。」

再び太刀川の胸を見る。鼓動は平常、嘘は言っていないだろう。

「だ、だからお前はどこを見ているッ!」
「俺が見るのはいつだっておっぱいだ。……見えたぞ、目的地だ。」

拳剛が乳から目を離し指差す。距離500メートルほど遠くに、指定された工場があった。



「さて、まずは敵情視察と行かせてもらうか」
「どうするつもりだ?」
「『視る』」

そう言うと、拳剛は内視力を発動する。それを察した太刀川は咄嗟に手で胸を隠すが、レントゲンも真っ青な拳剛の眼力の前では残念ながら無意味である。
乳大明神の渾名に恥じぬ透視力により、太刀川はおろか、遠く工場内にいる者達の乳までが露になる。
おっぱいと男っぱい。その数30。
そして拳剛が更に内視力を集中すると、工場の真ん中で力強く輝く光が見えた。

「敵の数は30程だな」
「この距離でも見えるのか」
「無論だ、内視力を飛ばすのは乳への強き渇望。この程度ならばなんでもない。視る数が増えると、ココが少々疲れるのだがな」

そう言って拳剛は頭を指でコツコツと叩く。太刀川の額に冷や汗が一筋が流れた。

「渇望ってお前それ、性よ………いや、何でもない」
「敵は男のほうが多いようだな。太刀川の例もあるし、もっと女性比が高いものかと思っていたが、思いの他おっぱいは少ない」
「そ、そうか」

知らずの内に乳を覗かれている敵が少々不憫だった。
太刀川、少々顔を赤くしつつ拳剛に問う。

「さ、策があるといったな、どうするつもりだ。
衛士の仲間達も此方に向かっているが、頭数が揃った所で人質を救出しないことには手の出しようがないぞ」

その言葉に、拳剛少し間をおいて話始める。

「俺が、内視力を使うことによって人体の動きを先読みできるのは、前に話したな」
「ああ」

太刀川が頷いたのを見て、拳剛は続ける。

「例外的にそれができない相手がいる。沙耶がそれだ。あいつは乳周りの気脈が異形なので、内視力を使っても眩しくておっぱいが良く視えん。」
「それで?」
「が、逆に言えばそれは、それだけ沙耶の反応に特徴があると言うこと。
つまり、内視力の届く範囲であれば、どんな遠くからであっても沙耶の居場所を探知可能だということだ」
「……成程」

太刀川が頷く。
拳剛は木の枝で地面に簡単に、外から見える工場の概略図書くと、ど真ん中に×印つけた。続いて入り口の付近に丸を5つ描き、中心の×印を囲むように点を25個描く。

「沙耶は丁度工場の真ん中辺りにいる。敵の大半はそれを守るように囲み、数名が入り口の警備をしているといったところか」

拳剛、ぺけ印指差す。

「囚われている場所が分かっているのなら、話は簡単だ。
沙耶のいる場所へピンポイントにつっこむ。位置関係的に、天井を破って上から飛び込むのがベストだろうな。
拳の間合いに入ってしまいさえすれば、たとえ沙耶の首筋に刃が当てられていたとしても、俺ならば奴らのどんな動作よりも速く沙耶を助けだせる。
とにかく、近づけさえすればこちらの勝ちだ。救出し次第脱出する。」
「単純だな。それが策と呼べるのか」

呆れたように、太刀川小さくため息をついた。

「とはいえ人質の場所が正確にわかるのは、確かにアドバンテージだ。奪還はその方法で行くしかないだろうが……だが一つ問題がある」
「む、なんだ?」
「直接対決で前線部隊の衛士や、あるいはその衛士と張り合えるお前に勝てないことは、隠衆とて百も承知だ。迂闊に懐に入られ不意を突かれぬよう、対策くらいはしている。
工場の周りを良く見てみろ。何かあるのに気付かないか」

拳剛は目を凝らす。見難いが、光の粒子が膜を形成し、工場全体を覆っているのがわかった。

「何だあれは……壁?」
「結界という奴だ。侵入者を防ぐためのものだろう」

太刀川が工場の図に、全体を囲むように円を書き加える。

「見たところ、工場を囲むようにして張られているようだ。隠衆はそういった補助の術に長けているからな、あの守りを破って侵入するのは困難だろう。」
「結界か、面妖な技を使うな。破壊方法は無いのか」

拳剛の言葉に、太刀川は多少悔しそうに首を振るった。

「認めたくは無いが、ああいった類の術において隠衆は我々より遥かに優秀だ。相当堅固な結界のようだし、物理的手段では難しいだろう。
一番確実なのは術者を倒すことだが、当然結界の中にいるはずだ」

太刀川はそう言って円の中を指し示す。
それを見て、拳剛は歯噛みした。

「実質破壊は不可能、ということか。クソッ、手詰まりだ」

怒りのままに拳を地面に叩きつける。
拳剛にできるのは、忌々しげな瞳で沙耶のいる場所を睨みつけることだけだった。




***********************




時は少し遡り。
拳剛たちが到着するよりも僅かに早く、とある二人が工場の近くに到着していた。
学生服に身を包んだ男女。欧風貧乳美少女・風見クレアと、髭面こと黒瀧黒典である。
クレアは工場を見つめながらつぶやく。

「憂国隠衆は東城さんを人質に取りましたか」
「薄井エイジとか言ったか、まさか学び舎で事を起こすとはな。小物と捨て置いていたのが裏目に出たか」

黒典のその言葉に、クレアは深々と頷いた。

「東城さんを攫って学校を出るときも、彼は護国衛士はおろか私達にすら気取らせなかった。すばらしい隠行だわ。
先にアジトを掴んでいなければ私達も撒かれていたでしょう、流石は憂国隠衆ということかしら」
「格下と見なした相手には、誰しも油断し隙ができる。この私ですらね。奴はそこを突くのが上手い。
さて、どうするね『党首殿』」

黒典が笑みを浮かべクレアを見る。
クレアは僅かな沈黙の後、静かに口を開いた。

「巨乳党としては、護国衛士とも憂国隠衆とも事を構えるつもりはありません。少なくとも今はまだ」
「ならば静観かね」

黒典の問いにクレアは、いいえと首をふるう。

「東城さんは我等同志になれるやも知れぬ人。その彼女の危機を、黙って見過ごすことはできません。
けれど等々力君はともかく、衛士である太刀川さんとの共闘は難しいでしょう。ですから……」
「悟られぬよう援護する、というわけか。やれやれ骨の折れることだ。」

言葉を継いで、黒典は肩をすくめる。

「お願いできますか、『同志』黒典」

クレアが黒典の瞳をまっすぐに見つめた。
黒典はいつもの怪しい微笑を浮かべると、顎を撫でながら応える。

「ほかならぬ党首殿の頼みとあらば、断るわけにもゆくまい。幸い党首殿の『風』で二人よりも先回りできた、悟られぬように、やってやれぬことは無い。」
「ならば黒典さんは結界の破壊をお願いします。等々力君達もつい先ほど、此方に着いた様子。今は結界で足止めされているようですが」

そう言って、クレアが拳剛たちのいる方向を見やる。どういうわけか彼女は、拳剛と太刀川の動向を完全に把握しているようだった。
クレアの言葉に、黒典は好都合だとつぶやく。

「ならば丁度良い。結界の消失で奴等が浮き足立っている隙に、二人には突入してもらうとしよう。他の護国衛士の動きは?」
「太刀川さんから連絡を受け、ここへ向かっているようです。二人よりも少し送れて到着するかと」
「あまり長居すると、衛士に見つかる可能性があるということか」

黒典の言葉に、クレアは小さく頷く。

「ええ、ですから黒典さんは結界を破壊し次第、離脱してください。
私は気取られぬよう二人について行き、援護に回ります。」
「承知した」
「では、御武運を」

クレアがその別れを告げると同時、二人の間に突風が吹き荒れた。
そして風が止んだ後、そこにクレアの姿はなかった。さながら風が攫ったかの様に、そこに彼女のいた痕跡は全く残っていなかった。

党首を見送った黒典は、その怪しい笑みより深め、不敵に笑う。

「さて私が手を貸せるのは一度きりだ。機を逃すなよ、等々力拳剛。」

黒典の体から大量の黒い粒子が一気に吹き上がる。
淡い燐光に包まれながらも何故か中心はどす黒いその粒たちは、空中で一塊になると、工場を守る結界へと襲い掛かった。



***********************




「!?等々力、見ろ!結界が消えた」
「何だとっ!?」

突如として、工場覆っていた光の粒子が消滅していた。
突然のことに一瞬呆然とするが、拳剛はすぐに獣染みた笑みを浮かべる。

「好機か!」
「待て!罠の可能性もある」

今にも飛び出さんと筋肉を膨張させる拳剛を、太刀川が咄嗟に制止する。
だが拳剛は首を振った。

「構わん!どうせあの厄介な光の壁があっては救出は不可能だ。ならば罠を承知で行くしかなかろう!」
「……出来れば他の衛士たちと合流したかったが、仕方ないな」

太刀川はため息つくと、竹刀袋から刀を取り出す。
そのまま空いている片手で印組むと、太刀川の体は光の粒子で覆われた。粒が収束し昨晩の時の様な甲冑が現出する。ほんの数秒で、太刀川はセーラー服の女子高生から、昨晩と同じ鎧武者へと変貌を遂げた
特撮ヒーローの変身シーンのような珍妙な光景に、拳剛は思わず眼を見開く。

「これまた面妖な。手品か?」
「あの結界と同じような術だ。即席ゆえ、流石に強度は劣るがな。さぁ往くぞ等々力!」
「応!つかまれ太刀川!」

太刀川が肩を掴むと、拳剛はそのまま彼女を背中に乗せて疾走を開始する。僅か数歩で音の壁を越えると、拳剛はそのまま空高く跳躍した。
目指すは沙耶。導(しるべ)は彼女の輝くおっぱい。
距離にして500メートルを、走り幅跳びの要領で一気に詰める。

「沙耶アァァァァァァァッ!!!」

咆哮と共に、拳剛の拳が工場の壁をぶち破った




***********************




沙耶は夢を見ていた。
普通に見るあやふやなものとは違い、妙に鮮明なその夢は、どうやらまた昔の記憶の回想のようだった。
最近はよく昔の夢を見るなと沙耶思う。
意識だけが宙を漂って、俯瞰的に景色を見ている。幽霊のようにフワフワと浮かびながら、沙耶はキョロキョロと辺りを見回す。しばらく探すと、案の定昔の自分を発見した。

(……えっ!!?)

そして沙耶は息を呑んだ。そこにいた幼い自分は、胸から大量に血を流して倒れていたのだ。
幼い沙耶の胸部には、深い裂傷が見て取れた。その傷から常では無い量の血を流す昔の自分の横で、祖父が半狂乱になりながら何か叫んでいる。
胸からとめどなく流れる鮮やかな赤色の血液、傷が心臓に達しているのかもしれない。血の気が完全に引き、全く生気の無い幼い沙耶の顔。アレだけの血を流せば、どんなに急いで医者の下に行っても、いや、そこが病院であったとしても絶対に助からないだろう。

(なにコレ……!!?)

夢の中の沙耶の背格好から見るに、これは多分小学校に入る前後の記憶だ。
朝見たのは小学校の頃の夢、学校で居眠りしているときに見たのは幼稚園の頃の夢。だから今見ているのは、丁度その間くらいのときの記憶ということになる。
そういえば髭面さんによれば、祖父が変わったのも確かこの時期だったそうだが。


だが、沙耶にはこんな記憶はない。
第一、沙耶は『今も生きているのだ』。本当にこのような全身の血を流しきるような大怪我を負ったのだとしたら、沙耶が今も生きているのは理屈に合わない。
ならばこの夢は、嘘っぱちの記憶なのだろうか。だが沙耶の直感はそれを否定している。
覚えてはいないが、これは確かにあったことだと、心のどこかが告げる。

(一体、どういうこと………?)

もちろん、ただの夢という可能性も十分ある。
だが仮にもしこれが本当にあったことだとするならば。沙耶が助かった理由があるはずだ。あれほどの大怪我を負ってなお、生き延びることのできた理由が何かある。
だが沙耶に心当たりは無い。アレだけの血を流した、いわば半死人の様な者を生き返らせることなど、それこそ魔法でも無い限り不可能である。

(……魔法?)

と、そこで気付く。
魔法そのものは知らないが、それに近いものならば沙耶は知っているのだ。岩をも砕くパワー、鋼のような頑強さ、風のような俊敏さ、そういった人知を越えた能力を肉体に宿らせる力。
祖父や拳剛の使っていた、『気』だ。強い『気』の力があれば、このような大怪我を負っても生き延びることができるかもしれない。
と、そこまで考えて首を振るう。沙耶は拳剛とは違い気脈の扱い方を知らない。気の力で回復するのは不可能だ。
ならば一体これはどういうことなのだろうか。

(な、なにがなんだかさっぱりだよ)

突然のことに、沙耶は思考の迷宮に陥る。といっても答えなど見つかるはずもない。
知らないものは知らないし、分からないものは分からないのだから。

(あれ?ていうかそもそも、なんで私寝てるんだろう)

現在の記憶の紐を手繰る。
確か、学校でお弁当を食べて。
薄井エイジを保健室に届けに行って。そのエイジが何か変なことを言っていて。
そこで意識が途切れたのだ。

(薄井君になにかされて、それで気を失ったんだっけ)

そうだった。エイジに何かされ、それで沙耶は意識を失ったのだ。そこらへんのところは記憶があいまいだが、あるいは薬でもかがされたのかも知れない。
確か彼は『鍵』がどうたら言っていたはずだった。ほぼ間違いなく、拳剛の持つ鍵のことだろう。

(薄井君は鍵って言うのを欲しがっていて。その鍵は拳剛が持っていて。それで私は拳剛の幼馴染と………あれ、もしかしなくてもピンチ?
………………………………………………………お、起きなきゃまずいじゃん!!?)

そこまで思考が至り、沙耶は咄嗟に夢から覚めようとする。
が、どうやったらいいのか分からない。フワフワ漂う体で頬を抓ってみたり、あるいはビンタしてみたりする。が、一向に眼が覚める気配はなかった。

(あわわわわわわ、起きられないよ!!?どうしよどうしよどうしよ………)

抜き差しならぬ状況に、沙耶の焦りが頂点に達する。


まさにその時だった。
どこからともなく声が聞こえた。それは聞き覚えのある重低音。

(あ、この声……)

声はだんだんと大きくなり、沙耶の夢の世界の端から端まで響き渡るような大音量となる。
それは勝手知ったる大馬鹿者の、耳をつんざく大絶叫。



「沙耶アアアアァァァァァァァ!!!」




巨岩をぶち砕くような大轟音と共に、沙耶は盛大に夢の世界から引きずりあげられた。



[32444] 10
Name: abtya◆0e058c75 ID:4760e2f6
Date: 2012/06/03 21:29
夢から目覚めた沙耶がまず最初にしたのは、現状の確認だった。
(おもに拳剛との付き合いによって)鍛え抜かれた状況把握能力が惜しみなく発揮される。
まず最初に自身を確認。とりあえず、両手両足はがっちりと縛られていた。その上で身体はコンクリの床に無造作に放り出されている。おおよそ花の女子高生にするような仕打ちではない。訴えたら勝てるレベルである。
続いて周りを確認する。どうやら沙耶が今居るのはだたっ広い部屋のど真ん中のようだった。ドラム缶やらコンテナやらが乱雑に置かれているところをみると、どこかの工場の中なのかも知れない。
そしてその工場のど真ん中で転がる沙耶の周りを、黒子姿の者たちが囲っていた。各々がナイフや短ドスなどの何らかの武装をしており、その姿はさながら現代版忍者と言った風貌である。法治国家日本っぽくない光景だ。この人たちは戦国時代からタイムスリップでもしてきたのだろうか。逆戦国自衛隊か。

これはもう、ちょっと命の危機を感じるレベルでヤバい状況だ。沙耶の口から思わずため息がもれる。
しかしながら一方で彼女が、まぁなんとかなるんだろうなぁとか思っていたのも事実だった。

何故なら、アレがもうすぐそこまで迫っていたからである。



「沙耶ぁあああああああっ!!!」

絶叫とともに天井をぶち抜き空から飛来する影。拳剛だ。額に青筋を浮かべ、太眉を大きく吊り上げて、さながら仁王様のような憤怒の表情で沙耶めがけて落ちてくる。その横には一体全体どこの誰なのか、時代錯誤の甲冑を着込んだ鎧武者も一緒に付いて来ていた。

拳剛と鎧武者が沙耶の元へと一直線に突っ込む。
突然のことに不意を突かれたのか、黒子たちの身体は一瞬だけ硬直する。
それは瞬きするよりも僅かな時間であったが、二人にはそれで十分だった。コンマ零秒以下の交錯にて、拳で剣でしたたかに、ド突き、凪ぎ、殴打し、打ち据え。沙耶の半径3メートル以内に居た黒子を問答無用にぶっ飛ばす。
最後の一太刀を打ち抜きざま、鎧武者が叫んだ。

「一人そちらへ抜けたぞッ」
「ちいっ!」

そう、敵もただやられるだけではない。吹き飛ばされる黒子に隠れるように、撃破されなかった付近の黒子を走らせていた。黒子は交戦のわずかな隙を突き、転がる沙耶の元へ駆け寄ると、その身体を引き上げ羽交い絞めにし、ナイフを突き付ける。
すぐさま突っ込んで行こうとする拳剛を、黒子が沙耶を盾にするようにして制した。

「止まれ!人質がどうなっても……」

だが拳剛は聞かない。代わりに沙耶に向け一言だけ叫ぶ。

「動くなよ沙耶!」
「りょーかいっ!」
「おい、止ま」

拳剛は制止を意に介すことなく一息に間合いを詰めると、黒子がナイフを人質に突きたてるよりも速く、「沙耶の」胸部に掌打を叩き込む。
一瞬の後。沙耶ではなく、背後で沙耶を羽交い絞めにしていた黒子が、内側から爆ぜるような音とともに吹っ飛んだ。どういうわけか直接食らったはずの沙耶はケロリとしている
それが東城流の「通し」によって起きた衝撃の貫通だと理解していたのは、その場では拳剛と沙耶の二人のみであった。
「通し」とはすなわち、衝撃を与える対象を自在に取捨選択する技術である。かつての東城流の拳士はこの技をもって甲冑を着込んだ武者の臓腑を粉砕したというが、先代により昇華された技を以てすれば今沙耶と黒子にしたように、打点より離れた一点にのみ衝撃を集中させ、それ以外には全く負担をかけないという離れ業も可能なのであった。

拳剛は解放されて倒れそうになる沙耶をその分厚い胸板で抱きとめると、すぐさま彼女を縛るロープ引きちぎる。

「無事か沙耶!」
「うん、まぁ大丈夫」

パンパンと服に付いたほこりを払いながら、若干余裕を持って沙耶は答える。コンクリートの床で寝かされていた為少しばかり身体は痛んだが、怪我はなかった。
もっとも状況はさっぱりわからなかったが。一般的な女子高生と比較すれば、いわゆる荒事というものには非常に頻繁に関わってきた沙耶であったが、その彼女の経験を以てしても今の状況を十全に理解しきるには足りなかった。
無論拳剛の方も沙耶のその困惑は理解していたが、だがここは敵地。説明している暇はないのである。ゆえに沙耶が口を開くよりも早く、その華奢な体を担ぎあげる。

「わっ、ちょっ、拳剛!?」
「話は後だ、とにかく今は脱出する」
「先に行け等々力、殿は任せろ」

鎧武者は周囲を囲む黒子を牽制しつつ、厳つい外見にそぐわぬ涼やかな声で叫ぶ。

「すまん、頼んだ太刀川!」
「太刀川って……え!?転校生の!?」

最強巨乳受け身マスター。だが確かに言われてみればあんな声だった。なんつー格好をしているのか。沙耶は思わず目を疑った。
全身を緋色の大鎧に包み、手には真剣。職質を受けたら一発で捕まる恰好である。というか刀はともかく、鎧はどうやって持ってきたのだろうか。

「行くぞ、しっかり捕まっていろよ」
「う、うん」

沙耶の戸惑いよそに、拳剛は天井に空いた大穴向けて跳躍する。
黒子達がそれを追おうとするも、太刀川に牽制され動くことが出来ない。

その時どこからともなく声が響いた。

『逃がすと思うかい?』

その声にわずかに遅れて、何かに気付いたかのように太刀川が叫ぶ。

「!?まずい等々力、結界が復活した!!」
「ぬうっ!?」

忠告は、だが少しばかり遅い。
既に弾丸の如き速度で跳躍した拳剛は、光の粒子の壁によりその行く手を阻まれていた。うっすらと輝く半透明の壁が、紫電と火花を散らしながら拳剛の勢いを止める。
数秒の拮抗の後、完全に速度を殺された拳剛は沙耶もろともにはじき返され、地面へと叩きつけられた。

『まさか結界が破られるとはね。折角人質までとったっていうのにさ』

再びどこからか声が響く。
沙耶はその声に聞き覚えがあった。この状況の、おそらくは元凶であろうその人物。

「その声、やっぱり薄井君!」
「ウスイ…….転校生か!そうか、貴様も鍵を狙う者だったか!」

拳剛はむっくりと起き上がりあたりを見回すが、しかし声はすれど姿は見えない。少なくとも工場内に居るのは間違いないだろうが、内視力で捉えられないところをみると、どうやら薄井エイジは相当な隠行の使い手らしかった。

『そうだよ?ま、一手目は残念ながら失敗したけどね。
まさか普通に強襲して人質を奪還しようとするとは、こっちとしてもちょっと予想外だったよ。てっきり陽動作戦でもとるものかと思っていたけど、まさかただ上から突っ込んでくるとはねぇ』
「見事な作戦だっただろう?」
「そういうのは作戦とは言わないよ拳剛」

上から突っ込むとか、単なる突貫である。
というか、頭の切れそうな太刀川もいたのに何でそんな行動に出たのか。もしかして彼女も脳筋ということなのだろうか。沙耶の中で太刀川の分類が拳剛と同じところに配置された。本人が知れば不本意極まりないだろうが。
エイジは続ける。

『ま、人質は駄目だったけど、鍵を持つ君がこの場所に来てくれた時点でもう思惑通りではあるんだよね。下手に二手に分かれたりしなかった分、こっちとしては有難いぐらいだ。
………なんたって、後は奪うだけなんだからね』

その瞬間、場の雰囲気が一気に変わった。肌を刺すような空気があたりを包む。

『さて、おとなしく鍵を渡してくれれば怪我をしないで済むけど。俺あんまり血生臭いのは嫌いだしさ。どうする?』

言葉に合わせ、周囲を囲む黒子たちが一斉に沙耶たちに切っ先向けた。
だが囲む無数の刃に臆すことなく、拳剛は笑う。

「先生から託されたこれは、貴様らのような外道には渡せんよ。返り討ちにしてくれるわ」
『へぇ言うね。けどその余裕、一体どこまで続くかな?』

エイジのその言葉と同時に、突如辺りが暗くなった。窓から差し込む光すら消え、さながら新月の晩のような闇が部屋を覆う。
近くに居るお互いがなんとか辛うじて視認できるレベルの暗さ。全身黒づくめの黒子たちの姿など、もはやかけらも見えなくなっていた。
拳剛が、ふむと顎をなでる。

「光を消したか。しかしただの暗闇ではないな、どうも視難い。太刀川、これは?」
「おそらく隠行の効果を含んだ暗闇だ」
「隠行って、要するに姿を隠すってことだよね」
「ええ、そうです。ここで奴らの動きを察知するのはおそらく至難の業でしょう」

確かに、姿が見えないだけでなく、衣擦れの音や息遣いとか、そういった物も感じられない。黒子たちは数十人はいたはずなのに、これは奇妙なことだった。
突如三人の背後より風切り音が迫る。拳剛と太刀川は即座にそれに気付き、飛来した物体をはたき落とす。甲高い音を立てて、2、3の欠片が地に落ちた。
落下したそれ沙耶が拾い上げる。暗くてよくは見えないが、どうやら薄い鉄の板ようだった。

「あ、これ手裏剣か」

得心いったように沙耶が頷く。どうやら相手は本格的に忍者じみているようである。

「ほぉ、そんなものを投げてくるか。太刀川といい奴らといい古風だな」
「のんきなことを言っている場合か。奴らの獲物には大抵毒が仕込まれている、一発でも貰ったらそこで終わりと思え」
「む、それは物騒なことだ」

その言葉の割にのんきな様子で答えながら、拳剛は再度飛来してきた手裏剣を指で捕える。ついでに沙耶の方に飛んできた別の刃を掴んだ投剣ではじき落とす。さらに別の方向から沙耶と拳剛を狙った投擲を、太刀川の刀が叩き落とした。
闇の中から攻撃が矢継ぎ早に迫る。

「埒が明かんな」

そう言って、ふむと顎をなでると、拳剛はのっそりと歩きだした。
飛来する刃を迎撃しながら太刀川がそれを呼びとめる。

「!?おい等々力、どうするつもりだ!」
「このまま飛び道具で攻め続けられたら厄介だ、やられる前に一人ずづ直接叩く。沙耶は頼んだ」
「いや、ちょ、待……」

何を阿呆なことを言っているのか。太刀川は思わず絶句する。敵のフィールドでむやみに動くなど、正気の沙汰ではない。その上術の影響で視界も効かない。そんな中で不用意に突っ込めば、タコ殴りにされることは間違いないだろう。
太刀川は止めようとするも、しかし闇より迫る無数の攻撃の対処に手が離せない。
そうこうする内に拳剛の姿は闇に溶けて消える。

そして数秒後。絶叫があたりに響いた。続いてそれに重なるように野太い笑い声が続く。さらに轟音と、破裂音。そして最後にこの世の終わりにでも出遭ったかのような、断末魔の如き悲鳴が3回ほど聞こえると、音は止んだ。
数十秒の間、沈黙が辺りを支配する。

「等々力……?おい、等々力ッ!!?」

太刀川が叫ぶ。だが返事はない。良くない予感が彼女の脳裏をよぎる。

「まさかやられたのか……!?」
「いやぁ、多分大丈夫じゃない?」

額に汗を浮かべ真剣な表情の太刀川とは対照的に、沙耶はのほほんとしている。
そして沙耶のその言葉通り、拳剛は戻ってきた。

「無事かとどろ……え?」

安否を確認しようとした太刀川は、そこで目を疑った。
拳剛は黒子を5,6人まとめてずるずると引きずっていたのだ。しかも半数は股間が拳形に陥没している。

「あの、それは何だ?」
「隠れていた隠衆。案ずるな、峰打ちだ」
「峰とかないじゃん拳剛頭からつま先まで全身凶器じゃん」
「キレる十代だ」

もっとも峰だろうがそうじゃなかろうが、がっつり致命傷であろう者もいるのだが。主に男として。
太刀川が目を丸くする。

「見えるのか?」
「視界良好感度良し。おっぱいも男っぱいも、しっかりくっきり視えている。」

拳剛の内視力はおっぱいへのテンションによってその性能が上下する。どうやら美乳かつ巨乳の太刀川が横に居ることで、術による闇の中でも正常に機能するだけのクオリティになっているらしかった。
太刀川はと言えば、それを聞いて感心半分呆れ半分と言った様子だった。

「……敵に回すと厭らしいが、味方となるとこうも頼もしいとはな」
「そこは”恐ろしい”、と評するところではないか?」
「いやまぁあながち間違ってないよね」

拳剛は黒子を無造作に放ると、再び太刀川たちに背を向けた。

「さて、ではもう一回行ってくる。薄井は視えんが、まあその他の奴らは後2、3回もやれば片付…..」


「いいや、させないよ」
「!!!?」

何の予兆も前触れも、その息遣いすら感じさせずに、突如として薄井エイジが拳剛の目の前に現れた。内視力すら反応しないほどの穏行に気配が感じ取れず、拳剛はほんの一瞬だけ拳を振り上げるのが遅れる。だがその一瞬が勝負を分けた。
拳剛の迎撃より早く、エイジの指先が拳剛の額に触れる。

「おやすみだ、等々力拳剛」

エイジの指がこつんと拳剛の額を叩くと、拳剛のその身体は力なく崩れ落ちた。ドスンという音を立てて、体重120kgの巨体が地に横たわる。

「拳剛ッ!?」
「等々力っ!? ......チィッ!!」

太刀川が反応し、エイジに向かって神速の一太刀を放つ。
だが太刀川が抜ききるより早く、エイジは危なげなく太刀川の間合いから離脱する。そしてその姿は再び闇の中に溶けるように消えた。

「拳剛、ねぇ大丈夫拳剛!?」

沙耶は拳剛をゆすって起こそうとするが、しかし拳剛は一向に目覚めない。
外傷はない。薄井エイジにされたのも、額をこつんと小突かれただけ。だが拳剛は完全に意識を失っていた。

「太刀川さん、拳剛が起きないよ!?一体どうしちゃったのさ!!?」
「おそらく薄井エイジに術にかけられています!」

拳剛はもともと術の類に関しては全くの無知である。例えばこれが太刀川であったらそういうものに対する対策と言うのも把握しているため、こう簡単にはいかなかっただろう。だが拳剛はそういう対策を知らないため、あっさありとエイジの術中に嵌ってしまったのだ。

「そ、それって大丈夫なの!?」
「分かりません、術次第だとしか言いようが………!!」

焦る二人の会話を面白がるような様子で、どこからともなくエイジが笑う。

『安心しなよ、あの一瞬じゃそんな複雑なのには嵌められない。残念ながらね。ちょっと眠って貰っただけさ。』
「ちぃっ、目眩ましの類か!」
「目くらまし!?……ってなに!?」
「幻覚を見せられているということです!眠っているだけですが、術をとかねばずっとそのままだ!」
「ちょ、まずいじゃん!拳剛起きてよ!寝てる場合じゃないって!」

沙耶が拳剛の額をべしべしと叩く。だが拳剛は一向に起きる様子はない。

『無理だと思うけどね。今かけたのは、対象が心の底から望む幻を見せる術だ。自らの底にある純粋な願望を拒絶せねば眠りから覚めることはない。
その単細胞君にはちょっと難しいんじゃないかな?』
「望むもの……ああ、確かに無理かも」

沙耶には拳剛が見ているであろうもの即座に理解する。そして拳剛がそれを拒絶することなどできないだろうことも、容易に予想できた。

『さて、君たちの『眼』は潰させてもらった。この視界の効かない暗闇の中で、一体いつまで持つかな?』
「チィッ!!」

太刀川が舌打ちする。拳剛と違い、太刀川はこの闇で憂国隠衆の姿が見えていない。攻撃の接近に際する空気の揺れや風切り音でなんとか反応しているものの、かなり一杯一杯だ。
その上さっきまでは一人で一人を守っていたのが、今は太刀川一人で拳剛と沙耶の二人を守っているのだ。長く持たないだろうことは誰の目から見ても明らかだった。
闇の中から攻撃が間断なく迫り、太刀川の身体に目に見えて傷が増え始める。押され始めているのだ。このまま押し切られるのも時間の問題だろう。
加えて言えば黒子たちの目的はあくまで拳剛の持つ鍵。一度でも接近を許せば、鍵だけ奪われそこで終わってしまう可能性もあるのだ。
まさしく八方塞だった。

「拳剛!こら起きろってば拳剛!!」

沙耶の叫びが辺りにむなしく響いた。



*******************


拳剛は気づけば見知らぬ場所にいた。
さきほどまでは真っ暗な廃工場の中にいたはずだが、今彼がいるのは明るい青空の下の、広大な草原だった。

(薄井エイジと接触してからの記憶がない……)

拳剛は薄井に懐に入られたあたりから記憶が飛んでいる。なのでここが一体どこなのか、皆目見当もつかなかった。
とりあえず現状を把握せねばならない。
そう思った拳剛が状況確認しようと辺りを見まわした、まさにその時だった。

(な……!?)

拳剛の瞳が、驚愕からこれでもかというほどに見開かれた。
突如、どこからともなく現れた無数の人影が拳剛を囲んでいたのだ。
一体全体どこから沸いて出たのか、地平線まで続く程の人だかりが拳剛の周囲360度を埋め尽くしていた。
全員容姿背恰好はバラバラであり、とくに共通した特徴はない。しいて言えばほとんどが女性で、そして巨乳が多かった。

だが拳剛が驚いたのはそこではない。その地平線を埋め尽くすほどの数の人々。その一人一人が、内視力を使わずともわかるほどの美乳の持ち主たちだったのだ。
人に想像し得る大よそ全ての種類の超美乳が、拳剛の周りを埋め尽くしていた。

貧乳巨乳微乳超乳無乳白乳黒乳爆乳美乳魔乳奇乳男乳子乳凸乳凹乳偽乳垂乳牛乳細乳太乳歪乳乱乳揺乳剛乳柔乳 etc……

(ま......まずいっ!?)

見渡す限りの乳の群れ。
一体全体何故こんな状況になっているのか、拳剛には予想もできなかったが、だがそこは間違いなく乳の求道者にとっての楽園だった。しかしだがだからこそ、拳剛にとってこの状況は最悪なのだ。
とっさに眼を閉じる。が時既に遅し。絶世の美乳たちを認識した拳剛の体は、脊髄反射的に内視力を発動していた。

内視力は、乳への執念とも呼べるほどの強い渇望によってのみ開眼する。拳剛の理性を超えた部分で根付いたその本能が、本体の意思を離れ一人歩きするのも、無数の美乳に囲まれたこの状況に在っては至極当然と言える。
だが、今この状況このタイミングでのそれは、あまりにも危険だった。

何故ならば、『量が多すぎる。』

「がっ…….あ゛ッ!!!?」

乳への渇望が地平線まで行き渡り、拳剛の内視力が無限の彼方まで飛翔する。
無限とも言える膨大な数の乳のサイズから、形状、重量、色、匂い、肌触り、味、黒子の位置、果ては反発係数から弾力係数まで。無限の理想の乳の無限の情報が、脳の容量を全く無視して侵食する。
内視力の暴走。至高の乳たちに辿り着いた内視力は、今や主であるはずの拳剛の制御すら振り切り、乳を漁っていた。
無限とも言える量の乳の情報、人間の許容限界を遥かに超えたそのデータは、極限の超過負荷を拳剛の脳と身体に与える。
心臓が弾けそうなほどに脈拍を刻む。過剰に送り出された血流は過剰な圧力を伴い、身体の各部で血管を食い破る。
刃の前であっても怯まぬ拳剛の鋼鉄の肉体は、内部からの浸食によって崩壊を始める。

「がッ………ああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!?」

おびただしい量の鮮血が、晴天の空を赤く染めた。







[32444] 11 + なかがき
Name: abtya◆0e058c75 ID:79a04c9b
Date: 2012/07/07 01:46
憂国隠衆 VS 太刀川。暗闇の中での攻防は続く。

達人と呼んで差し支えない実力を有する太刀川ではあるが、視界の効かないこの状況では、その実力を十全に発揮することができない。
その上沙耶と拳剛(爆睡中)の二つのお荷物を守りながらの戦闘である。ハンデにしても少々重すぎるだろう。
加えて言うならば、敵・憂国隠衆の目的はあくまで拳剛の持つ『鍵』だ。別に無理に太刀川を倒す必要はない。
極論言えば、ちょろっと近づいて拳剛の懐から物だけ抜き取れればいいのだ。拳剛本人はぶっ倒れているから、近づきさえしてしまえばそれは容易である。

故に太刀川は360度より迫る敵を一人残らず近づけないようにしなくてはならず、そのうえここから脱出するためには結界張っている術者倒すために、敵を片っ端からド突き倒していかなくてはならない。
敵の勝利条件が緩いのに対して、太刀川の勝利条件はあまりに厳しい。

激烈なる攻防の中で、既に彼女の右腕はへし折れ使い物にならなくなっていた。今は左腕一本でなんとか抑えているが、このままでは押し切られるのは目に見えている。
となればこの状況を切り抜ける方法は一つ。

すなわち、薄井エイジの幻術によって眠っている等々力拳剛を叩き起こすしかない。
太刀川は攻撃防ぎつつ、拳剛を目覚めさせんと奮闘する沙耶に問う。

「東城さん! 等々力は!?」
「駄目、まだ目を覚まさない!!」

必死で声をかけ続け、ぺしぺしと拳剛を叩く沙耶であるが、それでも拳剛は一向に目を覚ます様子はない。

「急いで下さい、こちらはもう持ちそうにない……!! 」
「う、うん! 」

太刀川の様子に沙耶も焦る。
とはいえ、ゆすっても叩いても叫んでも踏みつけても一向に起きないのだ。一体どうやればいいというのか。沙耶は思わず唸る。

「……斜め35度から叩いてみるとか?」
「いや、昔のテレビじゃないんですからっ!!?」

どうにも抜けた発言をする沙耶に、太刀川の額にたらりと冷や汗が流れる。その脳裏に“任務失敗”の四文字が浮かんだのも、まぁ仕方のないことだろう。
無論、沙耶自身阿呆なことを言っているのは分かっている。しかし他に方法も思いつかない。
よって沙耶は高々と腕を振り上げ、

「てやっ!!」

拳剛の額斜め約35度からペシリと手刀を叩きこんだ。
そしてわずかな沈黙の後、拳剛は

「がっ……アアアアアアァァァァァァァアアアアア!!!!!!? 」

絶叫と共に全身から血を噴き出した。
微妙な沈黙が辺りを支配する。

「………や、やりすぎたッ!? 」

鮮血が宙を舞う。状況はまさしくオールレッドであった。


************************

幻術空間内。

青々と広がる大空の下に、無数の乳が集っていた。
地平線までも埋め尽くすほどの人の群れ。
古今東西、ありとあらゆる人種の、ありとあらゆる年齢層の、ありとあらゆるサイズの、ありとあらゆる形状のおっぱいが、一人の男を囲っている。

その男。等々力拳剛は、全身血まみれで地に伏せながら、八割ほど死にかけた身体で静かに考えていた。

乳を愛する者ならば、死ぬまでに地上に在る全ての乳をその目に焼き付けたいと思うのは至極当然のことだ。
だがそれを成そうとするには人の一生は驚くほど短い。普通は80年、長くても100年経たないうちに、大抵の人間はその生涯を終える。
仮に一日一回新たな乳との出逢いが有るとして、一生のうちに目にできる乳の数は高々数万程度だ。一日十回と考えても、数十万。内視力を用いればあるいは一日百回も可能かもしれないが、そこまでしても数百万にしかならない。
この地上に生ける数十億のおっぱいと比べれば、それはあまりに微々たるものだと言わざるを得ないだろう。
人の身に生まれた故に乳を求めたというのに、人の身で有るが故に限界を突き付けられるとは、何たる皮肉だろうか。

だが、と拳剛は考える。
だがここならばその制約を振り切って、それを叶えることが可能だ。

拳剛は馬鹿ではあるが愚かではない。この乳の世界が現実でないことは薄々気づいている。
だがそれがどうしたというのか。
ここは理想郷だ。願えば願うだけ乳と出逢うことができる。
寿命という枷から解放され、望むだけの乳を目にすることができる。
その代償が自身の死であるというのならば、拳剛はそれを受け入れるつもりだった。乳の求道者としての本懐を遂げて死ぬことができるのならば、それは本望であった。

「―――――ああ。いい人生だった、後悔はない」

誰に言うとでもなく、拳剛はつぶやく。
内視力の暴走によって、その身体はもはや限界に来ていた。全身のいたるところで血管が破裂し、流れ出た血液はトクトクと大地に滴り落ちていく。強制的に叩きこまれる乳の情報で脳味噌もパンク寸前だ。
もはや一刻も持たぬことは本人も承知していた。
今はただこの乳の海に包まれて眠ることだけが望み。拳剛は静かにまぶたを閉じた。

その時だった。

『本当にそれでいいのですか?』

さながら春のそよ風のように優しい音が、拳剛の耳を撫ぜた。
どこかで聞いたことのある声だ。だが拳剛にはそれが一体誰の物なのか思い出すことができなかった。
何故か牛乳とまな板が連想されたが、その理由は分からない。

『どうか起きて下さい等々力拳剛。
貴方には守らなくてはならない人が、迎えに行かなくてはならない人がいるのでしょう?』

たしなめる様でもあり、励ます様でもある、その柔らかな言葉が引き金となり、突如として拳剛の脳内に一人の少女の姿がフラッシュバックした。
ショートカットの黒髪、少し太めの眉にぱっちりの二重瞼。そして何より拳剛の“眼”を惹く、爛々と輝くその胸部。
もっとも長く拳剛と共に居た、家族同然の少女。東城沙耶の姿だった。
トクンと、死にかけの拳剛の身体が鼓動を刻む。

(俺は、大馬鹿か。俺はまだ――――――沙耶の生乳を見ていないッ!!!)

地面にぎりりと爪を立てる。砕けるくらいに歯を食いしばる。拳剛は己のあまりの滑稽さに怒りすら覚えた。
なにが求道者か。なにが大明神か。名前負けもいいところだ。
拳剛は十数年間ずっと傍らにいた少女の乳すら知らない。
色も匂いも黒子の位置も、そのサイズですら、拳剛は理解していないのだ。

「ああ、そうだ。まだ死ぬわけにはいかん………!! 」

もはや動くはずのない身体が、たった一つの執念に突き動かされ、甦る。
全身の筋肉の筋繊維の一本までもをギリギリと収縮させ無理やりに出血を止めると、拳剛は二本の足で大地を踏みしめ立ち上がった。
握りしめられた拳を、拳剛は天高く振り上げる。

「この眼に、沙耶の生乳を焼き付けるまではッ!!! 」

絶叫と共に拳剛は大地へと拳を叩きつける。
空間に亀裂が走り、虚構の世界は音を立てて砕け散った。




******************



「ぬっ……がああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

暗がりの工場の中に、獣じみた咆哮が響き渡る。
物理的な衝撃波をも伴う大轟音。沙耶も太刀川も憂国隠衆も、その場にいた全員が思わず耳を塞ぎ、眼を見開いた。
数十の視線が闇の中の一点に注がれる。降り注ぐ無数の視線の中心で、むせるような熱気を放ちながら、その男は立っていた。

『なんだとっ!?』
闇の中で、薄井エイジが瞠目し。

「来たかッ!!」
太刀川が笑みを浮かべ。

「ちょっ、拳剛声おっきい!!」
沙耶が苦言を呈する。

「――――――待たせたな」

そして、拳剛はニッと笑った。

『……まさか自力で“まやかし”を破るとはね。驚いたよ』

暗闇から薄井エイジの声が響く。その声色にはわずかながらも確かに驚愕の色が残っていた。
だが、続く言葉は嘲笑だ。

『まぁ、所詮は死にぞこないだけどね』

エイジがそう言い終わるのと、場が動いたのは同時だった。エイジ以外の全ての黒子が、拳剛に向け飛びかかる。
咄嗟に援護しようとする太刀川を、しかし拳剛は手で制した。

「おいっ等々力!? 」
「大丈夫だ、見ていろ」

数多の刃が獲物を抉らんと迫る。
その凶刃がまさに拳剛の身体を貫こうとしたまさにその瞬間、拳剛の上半身がぶれた。続いて、乾いた音が断続して響き渡る。
その音が、音速の壁をぶち破った拳撃によるものだと、気付けた者は一体その場で何人いたのか。
顎、鳩尾、人中、そして金的。一人頭平均4発。人外の怪力で以て人体の急所をしたたかに殴打され、飛びかかった憂国隠衆は一人残らず吹っ飛ばされた。
ある者は壁にめり込み、ある者は地面に埋まり、またある者は頭から天井に突っ込んでいる。

僅か一瞬。文字通り瞬く間に、薄井エイジ以外の敵が戦闘不能となった。
とはいえ吹っ飛ばされた側も、皆辛うじて息が有るのは流石と言ったところか。

『へぇ、やるね』

だがエイジは態度を崩さない。その言葉から感じられるのは恐怖や怯えではなく、確かな余裕だ。
人質を奪還され、更には自分一人にになってなお、目的を達成するだけの自信が薄井エイジにはあるらしかった。

一方拳剛はといえば、残心しつつも周囲を観察していた。

(結界は解除されない、か)

薄井エイジ以外の敵は倒したものの、結界はいまだ健在。工場は相変わらず暗闇に包まれたままだ。
太刀川の言によれば結界は術者を倒せば解除されるとのことだったはず。つまり、術者は薄井エイジと見て間違いないだろう。
拳剛の目的はあくまで沙耶の救出、そしてその身柄は既に確保している。あわよくばこのまま逃げようとも思ったが、しかし結界が残っている以上そういうわけにも行かない。
拳剛はやれやれとため息をついた。

「仕方あるまい、もう一仕事するとしようか」
「手伝おう」

太刀川が動く方の手で刀を構える。が、拳剛はそれを制した

「いや、どうも俺のヘマで随分と足を引っ張ったようだからな。後は任せて休んでいてくれ。」
「やれるのか」
「ああ、問題ない。後は奴だけだからな」

そう言って暗闇の一点見やると、拳剛は拳をゴキリとならした。

「さぁどうする薄井エイジ、残るはお前だけだ。尻尾巻いて逃げ帰るなら今しかないぞ」
『ははっ、言ってくれるね。そんなぼろぼろの身体でさ』
「それは認めよう。正直俺も立っているのがやっとというところだ」

事実だ。幻術内での内視力の暴走は、現実の拳剛の肉体もがっつり蝕んでいた。
出血こそ気合いと根性で止めたものの、その体躯は実のところ満身創痍。至る所で血管は破裂し、皮膚は破れ、筋肉は裂けている。既に流れ出た血液の量も半端なものではない。
その上さっき黒子をまとめて吹っ飛ばすために少々無茶をしている。いつ倒れてもおかしくない状況だ。

「あのわずかな交錯で我が内視力の弱点を見抜くとは流石だな。危うく死にかけたぞ」

自分は死にかけなのに相手は仲間こそやられたもののまったくの無傷。
正直拳剛としてもここまで一方的に追いつめられるのは初めてだった。思わず口から賞賛が漏れるのも仕方のないことと言えよう。

『え、あぁ、うん?こっちもまさかただの幻で死にかけるとは思わなかったけどね?』

もっとも薄井エイジにそんな意図があったのかと言えばそんなことはまったくないわけであるが。

「だが最早俺には通じん。沙耶の生乳を拝むまでは、如何なまやかしも俺を惑わすことはできんぞ」
『あ、ああ、そう……』
(この筋肉くたばった方がよかったかもしれない)

真剣なはずなのにどこか間の抜けた会話に、沙耶は思わず顔を覆う。真っ赤な顔には青筋が浮かんでいた。

「退かぬというならば、いいだろう。決着と行こう薄井エイジ。来るが良い」
『おや、さっきなんの反応もできずに俺に眠らされたことをもう忘れたのかい?次は眠るだけじゃ済まないよ』
「やってみなくては分かるまい」
『……やれやれ、喧嘩は好きじゃないんだけどね』

薄井エイジのその言葉を最後に、静寂がその場を支配した。緊張した空気が肌を刺す。
拳剛は動かない。両の拳を構えたまま、ただ静かに立っている。

そして。音もなく、匂いもなく、熱もなく、影もなく、空気の震えすら伴わずに、薄井エイジが拳剛の背後に現れる。
彼我の距離僅かに数メートル。沙耶も太刀川も拳剛本人すらも、反応することはない。
結界の闇と彼本人の卓越した穏行術は、薄井エイジの存在をその場から完全に消し去っていた。
エイジは歪んだ笑みを浮かべると、手に携えたナイフを拳剛の腎臓に向けまっすぐに突きだす。

だが、その刃が拳剛に届くことはなかった。代わりに拳剛の裏拳が鈍い音を立てて薄井エイジの顔面にめり込む。

「な……あ゛っ!?」

拳剛の剛拳により、華奢なエイジの身体が宙を舞う。
殴り飛ばされたエイジを困惑が支配した。穏行は完璧だった、気づかれなかったはずだ、と。ならば何故自分はぶっ飛ばされているのか。
動揺するエイジ。そのとき、エイジの視線が拳剛それと交錯した。

「“視えて”いるぞ」
「ちぃいっ!!? 」

拳剛は確かにエイジを見据えていた。先ほど幻術にかけたときとは違う。完全にエイジの位置を見きっている。
エイジは実のところ、戦闘そのものは得意ではない。だが穏行・潜伏に関してだけ言えば彼は他の追随をゆるさぬ実力を有しており、本人もそれを理解していた。
なおかつ今は気配を消す結界の中。本来ならば、万が一にも見きられるはずはない。
自陣に在って、何故動きを悟られたのか。エイジには全く理解できなかった。
激しく動揺しつつも着地してそのまま大きく退き、闇の中へと姿を溶け込ませる。

「どうした薄井エイジ。“所詮は死にぞこない”、ではなかったのか?」

拳剛がにやりと笑いながら言う。してやったり、と言わんばかりの表情だ。

『だっ、黙れ!! ままま、まぐれ当たりで調子に乗るんじゃあないぞ!! ………ま、まぐれだよね? ねっ!?』

闇の中からエイジが応える。だがそこに今までのような余裕はない。明らかに焦ってるのが分かる声だった。
その上、微妙にヘタれている。

「いいや、まぐれではない」

そう言うと拳剛は大きく膝を曲げ、天井へ向けて跳躍した。そのまま天井の梁を掴んでぶら下がる。

「ほれ、見つけた」

言葉通り、その視線の先には確かに薄井エイジがいた。まるで蜘蛛のように、工場の天井にへばり付いている。

見つかったことを理解し、エイジの双眸が大きく見開かれた。その体中から冷たい汗が噴き出し、股間がひゅんとなる。
次の瞬間、エイジは脱兎のごとく逃げ出した。

「な、んで……なんでだっ!? さっきは反応すらできなかったのに!! 朝の時だってそうだったろう!! 」

さっきまでの余裕はどこへやら、なかば半狂乱になりながらエイジが叫ぶ。
闇の中をトビグモのごとく縦横無尽に逃走するエイジを、拳剛が追いかける。

「朝の時? 何の事を言っているのか知らんが、少なくとも今はお前はがっつり視えているのだ!!」
「だから、なんでだぁッ!!!? 」
「内視力を飛ばすのは乳への渇望。あのおっぱいの幻術がかえって仇になったな。今や俺のテンションは最ッ高ッ潮だ!!
さぁ―――――――Let's 金的 time 」

そう言って拳剛は肉食獣染みた笑みを浮かべる。そしてそれを目にした瞬間、エイジは理解した。



“潰される(玉が)”。



「ひいいいいぃぃぃぃっ!? 」
「フゥーハーハーッ!!! 」

最早涙目になりながら、エイジは高笑いする捕食者から逃げる。捕まったら終わる。何がと言わないが終わる。
未だかつてないほどの速度で、エイジは疾走する。

「見事にヘタレたねぇ」
「ヘタれましたね」

絶叫を耳にした沙耶と太刀川が、半ば他人事のようにそんなことを言っていた。


己が相棒を守るべく、エイジが叫ぶ。

「お、落ち着け!! 暴力は止そう!! 話せばわかるっ!!!」
「そうか?」
「そうだとも! 人の歴史は対話の歴史だ! 心を尽くして語れば分かり合えないことなんて無……」
「拳で語れ!! 」
「言葉で頼むよ!? 」
「だが時すでに遅し! 」
「いや、ちょっ! 待っ……」

その瞬間、拳剛の大腿筋が一気に膨張し、爆発するように間合い詰めた。
ほとんど反射的に、エイジは両手で股間をガードする。だが無駄だ。どんな盾も、鎧も、城壁も。東城流の“通し”の前では、あらゆる防御は意味を成すことはない
拳剛の、鞭のようにしなる裏手撃ちがエイジのガードした両腕に直撃する。衝撃は防御をあっさりと貫通し、金的で爆発した。

きりもみ回転をしながらエイジは吹っ飛び、工場の壁に直撃する。
術者が倒れたことにより、結界が崩壊した。
闇が、晴れた。



「帰るか沙耶」
「うん、帰ろう拳剛」













なかがき

乳列伝をご覧下さりありがとうございます。
物語の半分が終了しましたので、なかがきを掲載させて頂きたいと思います。

本作のコンセプトは、“真面目に馬鹿をやる”です。
当事者達はとても真剣、しかし傍から見ると馬鹿馬鹿しいことこの上ない。といった類の物語にしていこうと思います。
ちなみにお気づきの方もおられるようですが、主人公の能力・内視力(インサイト)は某テニス漫画の跡部王国が元ネタです。あれでおっぱいが見えたら素敵だな、というのが本作作成の根本です。

本作はコメディではありますが、構成の練習も兼ね、前半部では細か目に伏線を張っています。無理に詰め込んだ部分があるため冗長になってしまった部分が多々あると思いますが、必要な分はあらかた張り終えましたので、後半部では伏線回収に努めたいと思います。

残り10話、長くても20話以内には完結予定です。9月一杯には完結させたいと思います。

感想、批評、お待ちしております。
後半もお付き合い下さるよう、どうぞよろしくお願いします。




[32444] 12
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/01/10 01:12
戦いが終わり。とりあえず一段落したわけであったが、代わりに拳剛が倒れた。立っているのが不思議な位の怪我である、無理もない。全身のあちこちに裂傷打撲。アバラは数本折れている。とくに酷いのが体の至る場所での血管破裂だ。最早全治何カ月などで表現できるレベルの怪我ではなく、どんな後遺症が残ってもおかしくない。そんな状態であった。

まぁ結局三日で治ったのだが。



「おっぱい揉ませてくれ」
「はい平常運転ッ!!」

騒動からきっかり三日後。家の布団で長い眠りから目覚めた拳剛の第一声に対し沙耶が返したのは、愛の篭った肘鉄であった。無論拳剛にはノーダメージである。沙耶の方が痛い。
沙耶は思わず赤くなった肘をさすった。

「うぅ、痛ぁー……身体、もう治ったみたいだね」
「うむ、全快だとも」

拳剛はぐっと力こぶ見せる。隆々たる筋骨は、三日三晩眠り続けた後も十分に壮健であった。

「よかった。流石にあんな怪我した拳剛見たのはじめてだったし、結構心配したんだよ。三日も寝込んでたんだから」

沙耶も、拳剛の理不尽な身体能力や回復力は知っていたものの、流石に今回は怪我の度が過ぎた。あの後太刀川の同僚だという医者に診てもらい、とりあえず(拳剛なら)大丈夫とのことだったので自宅療養させていたが、拳剛が寝ている間、沙耶はずっと看病をしていたのだった。目の下の隈が彼女の心配の度合いを物語っている。
拳剛はそれに気づいてポリポリと頬をかく。流石にばつが悪そうであった。

「すまん。心配をかけた」
「ううん、いいよ。それよりもごめんね、私のせいで一杯怪我させちゃった」
「謝るな、もとはと言えば沙耶がさらわれたのは俺のせいなのだからな。詫びるべきというなら俺こそが、そうすべきなのだ」

今回の件は拳剛の鍵を狙って起きた騒動である。沙耶は元々無関係だった。だから拳剛は沙耶に向き直り、頭を地に付けた。

「本当に済まなかった」
「わかった、じゃあ私は謝らない。けどお礼くらいは言わせてよ。
助けてくれて嬉しかった、ありがとう」
「む、そうか……」

奇妙な沈黙が流れる。だがなんとなく心地のいい静寂だった。
少しばかり後、少し頬を赤くしながら、沙耶が耐えきれなくなったように声を発した。

「よ、よーし、じゃあお礼に今日は拳剛の好きな物を作ってあげよう。何がいい?」
「食い物も良いがな。お礼と言うなら俺はおっぱいが揉みたいぞ、沙耶の。」
「はいはい。そういうのは言うべきことを言って、きちんと手順を踏んでからね」

ゲシっと拳剛に蹴りを入れてから、沙耶は拳剛の部屋を後にする。と、部屋を出る直前、思い出したかのように振り返った。

「そういえば拳剛が倒れた時、こんなものを拾ったんだけど……」

そういって沙耶が差し出したのは、拳剛には見覚えのある巾着袋だ。それは、師・源五郎から預かった鍵を入れておいた袋だった。

そう、入れておいたはずだったのだが。
巾着を沙耶から受け取った瞬間、拳剛は茫然とした。

「………中身がない、だと」

巾着の中からは、中身がすっかりなくなっていた。いや、無くなっていたというよりは、抜き取られたという方が正しいだろう。巾着の底は、鋭利な刃物で切り裂かれたかのようにバッサリと切れていた。
鍵は奪われたのだ。だが、いつ誰がどのようにして? 拳剛は確かめるべく沙耶に問いかける。

「沙耶、これを拾ったのは、あの工場で、あの戦いのすぐ後か?」
「? そうだよ、薄井君達をやっつけて拳剛が気を失った後、拳剛のぽけっとから落ちてきたんだ」
「そうか」

沙耶の答えに、拳剛は思考を巡らせる。つまりあの戦闘終了直後には既に奪われた後だったと言うことだ。つまり鍵は戦闘中に抜き取られた。拳剛にそれを悟らせず、こっそりと。こんなことができる人物など、拳剛には一人しか思い浮かばない。

「薄井エイジか……!!」

おそらく奪われたのは最後の一騎討ちの時だろう。最後はキッチリとどめを刺したから動けるはずもないし、一騎討ちより前に取られていたならば、隠衆たちはその時点で退いていたはずだからだ。
まったく驚くべきことに、拳剛に気圧されヘタれたと思われたあの時、薄井エイジは自らの役目を果たしていたのだった。

「してやられた、と言う訳か」

苦々しくつぶやく拳剛を、沙耶は訳が分からずに、ただ不思議そうに見つめるのだった。


その後拳剛は太刀川と落ち合い、事の顛末を説明した。鍵が敵勢力に奪われたとあって護国衛士も隠衆の捜索に協力してくれることになったが、実際は見つかる可能性は非常に低いとのことだった。何せ相手は隠密、潜伏、後方支援を主な任務とする部隊である。前線での戦闘が主な任務である脳筋集団では、見つけ出すのは不可能に近い。
しかしほぼ絶望的に近いその状況は、なんと当の隠衆によって破られることになったのだ。





[32444] 13 乳列伝
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/01/12 01:21
「鍵、返すよ」
「なん……だと……!!?」

ひょっこりと拳剛の家に現れた薄井エイジは、そう言って、拳剛に鍵を手渡した。
丁度、太刀川と今後のことについて話し合っている、まさにそのさなかだった。理由はわからないが明らかに狙ってきたとしか思えないタイミングに、思わず二人は身構えた。

「どういう風の吹きまわしだ」
「まあこっちにも色々と事情があるのさ………いや待て待て待て、ちゃんと話すからその拳を収めて下さいどうかお願いします」

思わぬ状況に拳を握り締める拳剛に対し、エイジは“もう半分しかないんだよぅ”と内股になる。見事に拳剛を出しぬいたというのに、やはりあの時のことはトラウマとなっているらしい。少々哀れである。
仕方なく拳剛は拳収めた。だが言葉こそないものの、その視線は「とっとと話せ」と脅しかけている。
今にも獲物を食い殺さんとする野獣のような視線に半ばビビりつつ、エイジは話を切り出した。

「結論から言うとだ、その鍵じゃ龍脈は開けない」

その言葉を聞いた時の2者の反応は、ある意味対照的だった。太刀川はびっくり。そして拳剛はドッキリである。
拳剛自身すっかり忘れていたものの、元々盗られた鍵は龍脈の鍵ではないのだ。まさかばれたのか。動揺する拳剛の内心など知らぬ太刀川は、いぶかしげに尋ねた。

「どういうことだ?」
「鍵には封印が施されてたんだ。いや、此方としてもそれくらいは予測してたんだがね、
思ったよりモノが強力でさ、指定の手順を踏まなきゃ解除できないらしい。
いや、まぁ時間をかければできないこともないのかも知れないが、龍脈の汚染の進行度合いを見る限り、残念ながらそんな時間はないようだからね」

この三日で、龍脈汚染が原因と思われる事故が10以上だ、とエイジは語る。このまま進めば、天変地異云々の前にこの街が滅びるかもしれない、と肩をすくめた。

「で、参ったことにその封印が有るかぎり、鍵はまともに機能しないんだなこれが。もうお手上げさ」

エイジがやれやれと首を振る。どうやら鍵が別物だとばれた訳ではないらしい。だからと言ってこの状況がどうにかなるわけではないのだが、とりあえず拳剛はほっと一息ついた。
一息ついでに、気になったことについて尋ねておくことにする。

「封印?だったか。それはなんだ」
「鍵にぐるぐる巻きにされてたぼろ布があったろ。それがそうだ。龍脈の鍵が効力を発揮しないようにしているらしい。龍脈の鍵は高密度に圧縮された気の塊のはずなんだが、その気配すら感じ取れない」
「ああ、そういえばあったな、そんな布切れが(8話参照)。妙に頑丈だったし、やはりただボロではなかったのか」

拳剛は納得した様子で頷いた。太刀川が補足する。

「解除の条件は、おそらく等々力を負かすことだろうな」
「“持ち主の手元に鍵が有ること”とか“一対一の”、他にも細かい条件は有るみたいだけど、まぁ大雑把に言ってしまえばそうだろうね。
つまるところ、守護者が負けない限り龍脈の鍵は安全に保管され続けるわけだ。当然と言えば当然の処置ではあるね」

龍脈は大地の気脈、膨大なエネルギーの塊だ。そう簡単に扱えないよう、二重三重の防護が施してあるということらしい。もっとも、実際はその鍵は別のものである公算が高いのだが。
そしてここからが本題だが、とエイジは続ける。

「ここまで言えばわかるだろうが、現状、憂国隠衆に鍵の封印を解くことはできない」

鍵を手に入れたは良いものの、時間がないので力づくで解くことはできない。決闘に勝利して正々堂々鍵を手にいれようにも、戦闘能力の低い隠衆には拳剛から真正面から挑んで勝てる者はいない。
太刀川が成程と頷く。

「だから鍵を返しにきたわけか。まぁ尋常な一対一の決闘と言うことであれば、等々力を打ち負かせるのは護国衛士にしかできないだろうがな」

お前らでは無理だと遠まわしに言われたエイジは、しかしそれを否定する。

「いやいや、君たちの中にだって等々力拳剛を倒せるような人間はほとんどいないだろ。
少なくとも今この件にかかっている衛士の中では、その可能性のありそうなのは太刀川怜、君くらいの物だっていうのは、こっちは把握してるんだよ。
その君にしたって僕らとの戦闘で負傷して、完全に調子が戻るにはもうちょっとかかる。こう着状態なのはなにも僕らに限った話ではないよ。多少こちらが不利であるのは認めるけどね」
「ならば何故、鍵を返す」

拳剛が尋ねる。隠衆が不利だと感じるなら、それこそ鍵を返す必要はない。かえってじり貧になるのではないか。拳剛にはそう思えた。
そんな拳剛の言葉に、エイジは我が意を得たりとばかりに話しだす。

「そこさ、俺が話したいのは。」

しばらく間をおいてから、もったいつけるようにエイジは語り始めた。

「実はこの均衡を崩せる奴らがいる」
「まさか、例の第三勢力のことか?」
「第三勢力?」

太刀川の言葉に、拳剛は首かしげる。頭に疑問符を浮かべる拳剛に、太刀川が簡単に説明をする。
要するに、護国衛士と憂国隠衆の以外の良く分からん集団が鍵を狙ってる、ということらしい。
先に説明されてしまったエイジは、少々つまらなそうに後を引き継ぐ。

「俺が説明したかったんだけどね、まあ概ねそこの衛士の言う通りだよ。
最初はどこの馬の骨とも知らない烏合の衆だから、まぁ対して警戒はしてなかったんだけどね、この前のことでちょっと事情が変わった」
「この前?」
「……そうか、あの時のことか」

指示語的な言い方のために拳剛はわからなかったが、太刀川は理解できたらしい。
おそらくは隠衆との戦闘の時のことを言っているのだろうが、拳剛には何故それで“均衡が崩れる”ことになるのかわからない。
拳剛の疑問に応えるように、エイジが口を開いた。

「あの時、隠衆があの工場の周りに結界を張っていたのは覚えているかい? 」
「ああ、あの薄いもやっとした壁のことだろう?」

数日前の事を回想する。工場に侵入するとき、そして脱出しようとするときに拳剛達の行く手を阻んだ、みょうちくりんな壁が思い出された。

「壁ね、まぁ見た目はその通りだが。
だが“結界”なんて一言で言ってしまえば簡単だが、あれはそんな生易しいものじゃあない。こっちの事情に疎い君には分かりにくいかもしれないが、あれはいわばちょっとした城塞みたいなものなんだ。」
「城塞とは、これまた大仰だな」
「いや、薄井の言っていることは事実だ」

拳剛にして見れば随分な誇張表現に聞こえたが、実際はそうでないらしく、太刀川が説明を加えた。

「本来あれを破壊しようとすれば、綿密に準備をしてからしかるべき手順で、相当の時間をかけて行わなくてはならない。その間の敵の妨害を加味すれば、確かにあれは城塞と言ってさしつかえないだろう」
「だが、結局はあっさり崩れたぞ」
「問題はそこなんだよ」

エイジは再び我が意を得たり、というように頷き、そして今度はこめかみを押さえた。

「本来崩れるはずのない結界が、まるで紙風船のように消し飛ばされた。
恐らくやったのは、対結界・封印用の能力を有する人間。それもかなり高いレベルで、だ」
「衛士には、そのような人物はいないな」
「ということは、そいつはその第三勢力とやらの人間というわけか」
「その通り。その第三勢力が何故あの時等々力達の味方をしたのかは気になるが、重要なのはそこじゃない。
それほどの能力が有るということは、おそらくその人間は鍵の封印も解くことができる。それが問題なんだよ」

こう着状態は、あくまで結界が破られないという前提のもと成り立っているに過ぎない。まっとうにやれば拳剛が負けることはないと、太刀川にしろエイジにしろ妙な信頼をしているからだ。
だが第三勢力が封印を無理やり解ける以上、鍵を奪えば敵の目的は達せられることになる。
これは非常にまずかった。なにせ、拳剛は一度、エイジに気付かぬうちに鍵をとられたという“実績”がある。尋常な決闘ならともかく、相手が手段を選ばないならば、拳剛から鍵を奪うことはおそらく可能だろう。
つまり、衛士と隠衆は、なんとしてでも鍵が盗まれることだけは避けなくてはならない。

「一番最悪なのが、奴らの目的は龍脈の浄化ではなく、その力の利用に在るということだ」

龍脈の力は大地の力、星の力だ。その力は絶大である。そんな危険なものを、得体の知れない連中に、それも私利私欲のために使おうとするような輩に渡すわけにはいかないのだった。
だが、とエイジは続ける。

「第三勢力はどこの馬の骨とも知れぬ連中だというのに、相当な力を持っている。正直今の隠衆ではキツイのさ。」

もっとも衛士だって同じことだろうけどね、と先ほどの意趣返しのようにエイジは付け加えた。
太刀川は青筋を浮かべつつ、エイジの言わんとすることを理解した。

「なるほど、つまり護国衛士と憂国隠衆で手を組めと」
「ああ、そうさ。正確には隠衆と衛士、そして等々力拳剛の同盟だ。」
「? すまん。お前達が何を言っているのかさっぱりわからん」

しかし拳剛は付いていけない。エイジが説明するには、つまりこういうことだった。

衛士と隠衆どちらも第三勢力に鍵を渡したくない。そこでは利害は一致。
故に、今回のような不意の襲撃に備え衛士と隠衆が共同で拳剛及びその周囲を護衛、そしてなるべく早急に鍵の封印を解き(=拳剛を倒し)、龍脈を解放・浄化する。

拳剛を倒す役は衛士が担うことになるらしい。隠衆は性質上ガチンコで拳剛に勝つのは難しいためだ。
そうなると衛士に鍵が渡ってしまうことになるが、隠衆としては鍵の封印さえ解けてしまえば、後々衛士から奪うこともできるので構わないそうだ。仮に奪えず衛士が龍脈の封印を解いたとしても、龍脈を第三勢力に私的利用されるという最悪の事態だけは避けられる。
まぁそこらへんのことは、鍵が拳剛の元から離れてからの話であるので、ぶっちゃけ関係ないわけではあるが。

とまぁそんなことをさらっと説明された。拳剛も納得である。

「なるほどな、まぁ俺としても尋常な決闘での結果で有れば、鍵を渡すのはやぶさかではない
先生はほしい奴にくれてやれ、と言っていたわけだしな」

一方の太刀川はやれやれと言った様子だ。

「お前がここに居るということは、もう本隊同士では話がついているとみて良いのだな」
「そゆこと。と言っても同盟が決まったのはついさっきだけどね。
ここに来たのは単純にそれを知らせに来たってわけさ。後は等々力拳剛、君次第なんだけど」

「ああ、そういうことなら良いだろう。受けさせてもらおう」

拳剛のやることと言えば決闘することのみである。立ち会いするのは元々そのつもりなので、実質ほとんど何もしなくていいということになる。受けない理由はなかった。

「OK、じゃ俺は本隊にその旨を伝えてこよう」
「私も自陣に戻って確認をとってこよう。立ち会いの日程は追って伝える。ではな」

そういって二人とも拳剛の家から退出したのだった。




思わぬ方向にことが転がり出した。第三勢力の台頭。衛士と隠衆の一時休戦。そして拳剛と護国衛士との再戦。
鍵をめぐる戦いは、少なくとも拳剛の周りでは収束するかに見えた。だが拳剛は知っている。拳剛だけが知っている。事はまだまだ解決しそうにないということを。

(俺の持っているのは、実際はただの蔵の鍵なのだものなぁ………)





布切れに包まれた“鍵”をいじくりながら、思いにふける。

太刀川の言によれば、龍脈の鍵とはそれそのものが膨大な気の塊であるらしい。
なので仮に拳剛の持つ鍵が龍脈の鍵で有るとするならば、内視力で見たときに光ったり、輝いたり、多少なりとも“気の塊”っぽいものが見えなくてはおかしいのだが、そんなことは全くと言っていいほどなかった。
薄井エイジの言うには、鍵をすっかり覆ってしまっている布切れは鍵の封印であるとのことだったから、それに阻まれて内視力が作動しないのかとも思ったが、それにしたってここまで何の反応のないのも妙だ。なにせ拳剛の内視力は先日の戦いで、結界内部の人間の気脈までも捉えることができたのだから。

だからやはり、拳剛の鍵は龍脈の鍵ではないのだ。無論、勘違いである可能性もないわけではなかったが、とりあえずはその仮定のもと、拳剛は考えることにした。

(そういえば先生は何故、“鍵の守るものを口外してはならない”などと言ったのだろう)

ずっと気になっていたことではあった。拳剛が先代から言いつけられたことは三つ。
「鍵はそれを望むものに与えよ」、「ただし尋常の立ち会いにて勝った者にのみ与えよ」、「鍵の詳細を口外するな」。
このうち前の二つは極々自然なことである。一般に、道場の看板も似たようなものだからだ。

ただし最後の一つが分からない。
鍵が守る物が何なのかを語ることができなければ、何か勘違いが起きかねない。というか、今まさにそれが起きていた。
得体のしれない三つの勢力に、龍脈の鍵を持つ者として狙われている真っ最中であるのだ。

(これではやはり、俺が龍脈の鍵を持つ者と勘違いさせることが目的だったとしか思えん)

いつぞやに導きだした結論に、拳剛はもう一度至った。
では何故、師はそんなことをしなくてはならなかったのか? 拳剛は思わずううむと唸った。さっぱりわからない。理由を考えようにも手掛かりが少なすぎるのだ。
だから拳剛は切り口を変えることにした。

(俺の持つ鍵が龍脈の鍵の偽物の役割を担っているというのなら。ならば本物の龍脈の鍵はどこにある?)

龍脈の管理保全に必要な品だというのならば、そのような貴重な物をまさか捨てるようなことはないだろう。すなわちそれはいまだにどこかに存在することになる。
太刀川の言によるならば、鍵はそれ自体が膨大な気の塊であるらしい。人体の気脈を光の明暗の如く見切ることができる内視力で強力な気の塊を見れば、それは何より爛々と輝いて映るはずである。

(……探してみるか)

長い思考の末に、拳剛は重い腰を上げたのだった。







「家探しさせてくれ」
「帰れッ!!」

家に来るなり爆弾発言を投下した拳剛に対しての沙耶の返答は、顎部への流れるようなエルボーであった。無論効かないが。

「なんでったって、いきなりそんな馬鹿なことを言い出すんだよ?」

沙耶は最近突っ込む回数が増えたな等とぼやきつつ、一応理由を尋ねる。拳剛は底なしの阿呆であるものの、訳もなくこんなことを言うような男でないことは沙耶自身良く理解していた。
沙耶の問いに拳剛はあからさまにうろたえる。太い眉がピクピクと動き、額からは冷や汗が流れ、眼はあらぬ方向を向いた。

「ししし思春期の男と言うものは、気になる女の子の事は何でも知りたい物なのだ。たとえ家探しをしてでもな」
「それはただの犯罪者だ」

咄嗟に出した言い訳がこれかと、沙耶は思わずため息をついた。この幼馴染の嘘の下手さ加減はどうにも筋金入りのようである。
日ごろから互いの家を行ったり来たりしているのだ。黙って覗けばいいものの、どうにもこの男の愚直さには果てがない。その割には素っ頓狂な言い訳を口にするのだから、これではどうすればいいのかと沙耶の方が困ってしまう。ちゃんと訳を話せば、ちょっと家を探させるくらい構わないというのに。
しばらく拳剛をジト目で見つめたあと、だから沙耶は再び大きなため息をついた。

「……まったくもー、仕方ないな」
「い、いいのか?」
「不本意だけどね。どうせホントの理由は話せないんでしょ。」

理由は話せない。だが嘘の理由をでっち上げてでも、どうしてもやらなくてはならない。
拳剛はどうせ譲らないのだから、ならば沙耶には見せてやるほか選択肢はないのだ。
もっとも、ここ最近の騒動に関係することなのだろうとは沙耶も薄々勘付いてはいたが。

「済まん、恩に着る!! 大丈夫だ、部屋のエロ本には触らんぞ!!」
「女の子の部屋にそんなもん有るわけないだろっ!!」





こうして拳剛による、東城家大捜索が始まった。とはいっても何のことはない。一部屋ずつ扉を開けていって、ちょっと覗くだけである。特に何かを物色するわけでもなくただ部屋の入り口でじっと中を見つめるだけなので、沙耶の方がかえって拍子抜けしてしまった位だ。
一部屋にかかる時間は数分もなかったため、ものの30分もしない内に家探しは終了した。

当てが外れたらしい拳剛はその後、居間で出されたお茶をすすりながらうんうんと唸っていた。沙耶も拳剛の隣にちょこんと座る。

「探し物は見つからなかったみたいだね」
「む、まぁな。しかしこの家に無いとなると、他には見当も……」

拳剛は一応応えはしたものの、後半の方はほとんどひとり言のようだった。どうやらそうとう真剣に悩んでいるようだった。だから沙耶は提案する。

「一回で見つからなかったならさ、もう一回全部探してみたら?」
「……そうするか」

沙耶に促されて拳剛は再び部屋探しを開始する。中の物を漁りこそしないものの、今度は先ほどより入念に、部屋の中を何往復もしながら探していった。
沙耶も一応付いて行ったものの、あまりに沈黙が長い。何か話題を振ろうと考え、ちょうど拳剛に聞きたいことが有ったことを思い出した。

「そういえば、この前薄井君にさらわれた時に夢を見たんだよね」
「夢? 一体どんな夢だ? ………あ、済まん沙耶、そこちょっとどいてくれ。胸が眩しくて視えない」
「あ、ごめんごめん。えっと、どんな夢だったかっていうとね」

沙耶は、その時見た夢をかいつまんで話した。夢の中で幼い自分が大けがをしていたこと。死に至るような深手だったこと。それがもしかしたら本当にあったことかもしれないということ。しかしそれが本当にあったならば、自分が生きているはずがないこと。
全て話終わってから一息ついて、沙耶は拳剛に問いかけた。

「私はちっちゃい頃大怪我した記憶なんてないんだけどさ。この夢を見ると確かにあったことのような気もしてくるんだよね。拳剛なにか覚えてない?」
「沙耶が覚えていないなら、俺が覚えていることはないだろうな。あ、済まん沙耶、一歩右に移動してくれ。眩しい」
「あいあい」

だが、と拳剛は続ける。

「心臓からの大出血だろう? 普通なら即死だろうし、仮に生き残れたとしても心臓に疾患が残るんじゃないか。やはりただの夢だろう、それは」
「うーん、やっぱりそうなのかな。実際私は心臓が弱いとかそういうことはないわけだし。むしろ健康すぎて困っちゃうぐらい。
一応聞きたいんだけど、拳剛みたいに“気”の力を使えれば、そういう大怪我でも助かったりするの?」

沙耶が気になっていたのはそこだ。薄井エイジとの騒動の際、拳剛は命にかかわるような深手だったのにもかかわらず、数日であっさり全快していた。それが自身の気脈の力を使えるためだというのは、沙耶も知っている。故に、あの時自身が助かったのはなんらかの方法で“気”の力を使ったからではないのかと沙耶は考えたのだった。

しかし、拳剛の答えはそれを肯定するものではなかった。

「大怪我でも助かる、というのは正しいがな、流石に心臓が傷ついてしまえば、生存は不可能だろう」
「なんで?」

「単純な話でな、回復する前に死んでしまうからだ。
沙耶の言うような状況で助かろうとするにはまず心臓の傷を癒さなければならないわけだが、人間の扱える気の総量では、死に至るような重傷を一瞬で治癒するには出力不足だ。
気の力といえども、万能ではない」
「なるほど、考えてみればそうだよね……」

確かに拳剛の言うとおりだった。ほぼ人外の彼でさえ、あの時の騒動の負傷から完治するのには3日を要した。それでも常人と比較すれば驚愕するほか無い回復力ではあるが、しかしそれでも数日は療養が必要だったのだ。心臓が血を流しきる前にその傷を塞ぐなど、到底不可能なことだろう。

「まぁ出力不足ということはだ、逆に言えば“気”の強度が十分であれば、そのような傷を負っても回復することができるだろうな」
「でも、人間の力じゃ不可能なんでしょ」
「ああ、そういうことだ。まぁ机上の空論と言う奴だ。済まん沙耶、左に寄っ、て……」

そのとき拳剛の動きがピタリと止まった。鬼のような形相で、その視線は微動だもせずに、ただの一点を見つめる。
突然の沈黙と思わず沙耶は戸惑った。何か彼を怒らせてしまったのかと思った。

「ど、どうしたの、拳剛? 私そんなに邪魔だった?」
「見つけ、た」
「え?」

だが実際は沙耶の予想は外れている。拳剛は探し物を見つけたから、止まったのだ。
いや、見つけたというのは正しくない。何故なら拳剛は、ずっと前からそれを目にしていたからだ。
その時、拳剛は全てを悟った。

「そうか、そういうことだったのか………だから先生は……!!!」
「ちょ、拳剛!? どうしたのさッ?」

それはずっとそこにあったのだ。自身は気付かずとも、拳剛はそれを既に、およそ記憶の残るより前の遥か昔から、見つけていた。
内視力に、太陽よりもまばゆく映るその光。


そう、龍脈の鍵は―――――――――沙耶の胸にあったのだ


*************************



こうして二人は再び激動の最中へと巻き込まれることとなる。
2度目の嵐は暗雲をかき消し、全ての真実を白日のもとに曝け出した。
すなわちこの戦いが、乳を望む者が、乳を滅ぼす者が、乳を守る者が、たった一つの少女の乳を求めるためだけのものであることを。
故にこの物語は、こう称されるべきであろう。

―――――――――――――――すなわち、乳列伝






[32444] 14
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/03/17 00:25



その時、拳剛の中で全ての歯車が噛み合った。


ずっと不思議に思っていた事ではあった。内視力で見たときに、何故沙耶の乳だけが太陽の如く輝くのか。
だが考えてみればすぐわかることだったのだ。拳剛の内視力は肉体と、そして気脈を見切る心眼なのだから。少なくとも、太刀川に龍脈の鍵の話をされたときに気付くべきであった。
だが拳剛はその鈍さ故に気付けなかったのだ。己が愚鈍さを拳剛は呪った。

ふたを開けてみれば実に単純なことである。
つまり、沙耶の乳が内視力で見れなかったのは、彼女の中に高密度の気の塊である龍脈の鍵が有ったからだったのだ。沙耶の胸の太陽のような輝きは、龍脈の鍵が放つ強力な気の力の発露だったのだ。

どういう経緯で沙耶の中にそんな代物が入れられているのか。拳剛にはわからないので想像することしかできない。しかし先ほど沙耶の話しを聞いて、大体の予想はついた。
つまり、なんらかの不慮の事故で命にかかわる怪我を負ってしまった沙耶を救うために、拳剛の師であり沙耶の祖父である源五郎が龍脈の鍵を沙耶の中に埋め込んだのだ。
鍵はそれ自体が、拳剛の内視力が潰されかねないほどのエネルギーを持つ強大な気の塊。その力を以ってすれば人一人の命を救うことなど容易である。

さて、鍵を孫娘のなかに取り込ませてしまった源五郎はその後、おそらく困ったはずだ。
なにせ龍脈の鍵は彼が護国衛士から預かった品で、龍脈の力を管理するために必要なもの。勝手に孫娘のなかにぶち込んだりして良い物ではない。まぁ天下泰平のこの世で龍脈のような過剰な力が求められることは少ないだろうが、それでも龍脈には汚れが溜まる物だそうだから、おそらく何十年か何百年かの周期で龍脈は浄化作業をされなくてはならないのだろう。
つまりその時になれば沙耶の中の鍵を使う必要が出てきてしまう。

そもそも龍脈の鍵は、太刀川の言によれば龍脈の力を呼び出すための依り代であるということだった。
一般に依り代とは神霊が『憑く』ための対象物である。そして龍脈の鍵は今や沙耶の一部、血肉となっており切り離すことはできない。
では仮にこの状態で、沙耶の中の鍵を用いてその力を呼び出せばどうなるか。おそらく沙耶自身が力の依り代となってしまうであろうことは容易に想像ができる。
ただの気の力であっても、その膨大なエネルギーは何の訓練もされていない唯の小娘である沙耶にとってはかなりの負担となるだろう。その上、今の龍脈は天変地異をも起こしかねないほどに膨大な穢れが溜まっている。そんなものが何の防備もない唯の少女の一身に降りかかるのだ。間違いなく沙耶は無事では済まない。
龍脈の穢れを浄化する時が来れば、鍵その物となった沙耶の身が危険にさらされてしまう。師・源五郎がその可能性に思い至らないはずがない。
故に彼は龍脈の鍵を、それを狙うものから隠したのだ。

死に際にただの蔵の鍵を弟子である拳剛に与え、さながらそれが龍脈の鍵であるかのように欺むいた。鍵を託された際に言いつけられた最期の言葉「鍵の詳細を明かさずに鍵を護れ」とは、つまり拳剛の鍵を龍脈の鍵であるようにそれを狙う者達を錯覚させ、本当の鍵の持ち主である沙耶を隠すためだったのだ。
もしも沙耶が龍脈の鍵そのものだと知られてしまえば、沙耶は龍脈の力を狙う者達に絶えず狙われることになるだろう。だが龍脈の鍵を持つのが拳剛だと思わせれば、少なくとも沙耶が直接狙われることはなくなる。そうすることで、東城源五郎は孫娘の身を守ろうとしたのだった。

だがそれも結局は一時しのぎにすぎない。
龍脈の鍵は穢れを祓うためにいずれ必要となるもの。もしも護国衛士や憂国隠衆達、その他龍脈を求める者達の眼を欺き続け、鍵を使わせなかったとしても、穢れが限界を超えて蓄積されればいずれ天変地異が起きてしまう。
そうなれば多くの人が死ぬだろう。沙耶とて命を落とさないという確証はない。それでは意味がないのだ。孫娘の命を守り抜くことこそが源五郎の願いなのだから。

つまり龍脈の穢れを祓い、沙耶の命を守る。この両方を成し遂げる必要がある。そして『その手段』は既に拳剛の手の中にあった。源五郎が老いてなお老骨に鞭打ち、数多の道場の門を叩き勝負を挑み、その無数の戦いのなかで高みへと導いた技の数々は、ただ一人の弟子であった拳剛に確かに受け継がれている。かつて師が行っていたという道場破りは、確かに意味があったのだ。
全ては唯一人、愛する孫娘を救うため。ただそれだけのために東城源五郎は命を懸けたのだ。


師・源五郎が何故真実を話さなかったのか、何故騙す様な真似をして鍵を拳剛に守らせたのか。今となってはその理由を知る由もない。
しかし拳剛には大方の予想はついていた。源五郎は選択肢を与えたのだ。

もしも拳剛に全ての真実を話せば、拳剛は唯々諾々に師の言葉に従っただろう。なにせ源五郎を実の父の如く敬愛していたのだから。
だがそうなれば拳剛は一生、沙耶を守るために戦い続けなければならなくなる。拳剛にとって、沙耶は単なる幼馴染、赤の他人である。少なくとも今はつながりがあろうとも、それが未来永劫続くとは限らない。
いずれ切れるやもしれぬ縁のために命を懸けさせるような真似を、源五郎は愛弟子にさせたくはなかったのだ。だが拳剛が戦わねば沙耶はいずれ死ぬ。それは源五郎には断じて許容できることではない。

故に源五郎は拳剛に何も告げなかったのだ。
最後の最後、真実に辿り着いたときに、師の言葉でなく、拳剛自身の意志で選択をできるように。
安穏の道とただ一人の少女のために戦い続ける修羅の道、そのどちらも選べるように。
師は選択肢を拳剛に遺したのだ。

源五郎は。孫娘である沙耶を愛するのと同じく、たった一人の弟子である拳剛もまた愛していた。



拳剛の選択は、既に決まっていた。

全ての点は、互いに結び付き線となり、拳剛の鈍い脳内ではっきりとした形を成した。同時に自分のすべきことも、既にその眼には視えていた。






******************





翌日。
その日の八雲第一高2-Aは荒れに荒れていた。

「服飾の観点からって言うんならよぉ、貧乳にメリットはないだろう」

向かい合うように机を並べて二分された教室の片側から、坊主頭の少年が体育会系らしい重低音で言い放つ。

「巨乳ってのは包まれる服の素材でその様相を千変万化させる。セーターに締め付けられたおっぱい、ブラウスを押し上げるおっぱい、水着からこぼれおちそうになるおっぱい。服の種類だけ、着衣巨乳の形が有るわけだ。」

「さ、さらには個々人での型の違いも巨乳なら顕著に表れるよね。しししかも一般におっぱいの形とは本人の生来の資質だけでなく後天的な影響、例えば姿勢やブラのサイズや形によっても変化するからね。そ、そういう意味で巨乳の形状の可能性とは、まさに無限大と言っていいだろうね。」

そう言ってオタク気味の小太り少年が続くと、二分された教室の半分では拍手が巻き起こり、そしてもう半分からは反発の野次が飛んだ。
しかしそんな罵声など意に介さぬように発言が継がれる。

「けど貧乳にはそれがないわ。形なんて大同小異な貧乳じゃあ、どんな服を着ようが同じこと。締め付けられても貧乳、うっすら見えても貧乳、露出しても貧乳、縛られても貧乳。
故に、服飾の観点から言えば巨乳こそが正義なのよ!!」

最後に熱弁をふるった、胸に【巨乳派代表】ワッペンを付けた三つ編み眼鏡の少女は、そう言うとビシリと黒板を指差した。
指差した先には【本日の議題:服飾における巨乳貧乳に関する考察】という明らかに学び舎にふさわしくない文字が、これでもかというほどでかでかと、チョーク4色を使ってカラフルに書かれている。
そして縦に2分割された教室の正面ど真ん中では、【議長】の立て札が立てられた席に、圧倒たる存在感を放ちながら等々力拳剛が鎮座していた。

「異議あり!!」

突如として、教室の反対側から怒声が上がった。クラスのいわゆる優等生の少年が、顔を紅潮させて手を挙げていた。

「貧乳派、発言を許可する」

拳剛はそれを見て簡潔にただ一言だけを言う。
先ほど発言していたのとは逆のグループ―――貧乳派の一人は、議長である拳剛の許可を得ると憤慨した様子で口火を切った。

「服の種類だけおっぱいの形が有るのは、それは貧乳も同じことだ! いや、巨乳はその膨大な体積ゆえに着用可能な服の数が制限されることを考えれば、貧乳の方がレパートリーは多いとすら言える!」

理知的な顔を憤怒に歪ませ、その優等生風の少年は吠えた。

「それにアンタら貧乳には形のバリエーションがねェなんつってるけどよォ、そりゃ勘違いも良いところだ。貧乳には巨乳にはない細やかな造形がある。その繊細さを楽しむこそが貧乳の神髄だ。」

続いて不良風の少年が、荒々しい見た目に反して乳の繊細さを語る。
そしてその言葉の勢いに乗るかのように、【貧乳派代表】のワッペンを付けた長身おかっぱ少女が畳みかけた。

「最後に、服飾の観点から考えるのであれば、例えば本来有るべき場所に有るべきものがないというのだって十分大きな特徴・ワンポイントといえるでしょう。まぁそういう、いわば逆ベクトルの発想というものは、単純馬鹿の巨乳派の人たちには分からないかもしれないけどね」

言い終わると、今度は巨乳派の方から猛烈なブーイングが飛ぶが、長身おかっぱの少女は澄ました顔である。
巨乳派代表の少女がいきり立った様子で喰ってかかる。

「貧乳派代表、その理論はおっぱいを主としていないわ!
『おっぱいwith衣装』か『衣装withおっぱい』であれば、我々乳を愛する者達は当然前者のスタンスを取らなくではならないはず!! けれど貴女のそれは乳以外の物を引き立てるために貧乳というファクターを使っている!!
それでは乳が従となってしまうじゃない!! 神聖不可侵であるおっぱいへの冒涜よ!!!」

「そんなつもりで言った覚えはさらさらないわ、勝手に解釈を取り違えないで。
私は“無い”という“おっぱい”の特徴を、服飾の上でのメリットとして語っただけ。どちらが主でどちらが従かというのならば、それは間違いなく乳の方が主に決まっている。
冒涜と言うのならば、大雑把な外形にのみ囚われる貴方達巨乳派の方がよっぽどでしょう」

そうして貧乳派代表が三つ編み眼鏡の詰問を一笑に付したのを皮切りに、それぞれのグループのメンバー達は殺気立ちはじめた。

「んだよその言い方は!! 揉む部分もない貧乳を愛でる変態どもの癖によぉ!!」
「オイオイそりゃ今の議題には関係ないだろうがッ!! 取り消せサル野郎!! ドタマかち割んぞ!!!」
「や、やるのかな? やるんだったら容赦しないよ?」
「良いだろう、眼鏡のつるの錆にしてくれる……ッ!!!」

バットにスタンガンに広辞苑、眼鏡に鉄パイプにバレーボール、その他もろもろ、各々が凶器を出し始めたのを見ると、拳剛は大きくため息をついた。どうにも今回の議論には熱が入りすぎたようだった。教室内はまさに一触即発といった様相である。
無論拳剛は議長であるので、きちんと議論の場が保たれるようにしなくてはならない。
場を沈めるべく拳剛は立ちあがろうとした。だがその時、一人の男によってそれは押しとどめられた。

「この場は私に任せてくれたまえ」

男はそう言ってほほ笑む。ラスボス風髭面ダンディこと、黒瀧黒典であった。教室の端で傍観者として議論を眺めていた彼は、いつの間にか拳剛のもとに近寄り、その肩を叩いていた。

「さて議長殿! 私はただの傍観者だが、中立の立場の者として発言しても構わないか!!」

そのよく通る声で、教室に響き渡るように高らかに黒典が問いかけたその瞬間、拳剛は彼の意図を理解した。故に、拳剛は一言だけ告げる。

「黒瀧黒典の発言を許可する!!」

一瞬。僅かに一瞬だけ。拳剛の重低音に反応して、教室の中の沸騰は静まり返った。
それは星の瞬きのように微かな時間であった。コンマ一秒後には再び殺気立った教室に戻ったに違いない。
だがそのわずかな刹那を逃すことなく狙いを定め、黒瀧黒典は己という存在を確かにその空間に捻じ込んだ。



「諸君! おっぱいが好きか!!」
『大好きさぁ!!!!』



一言。
己がアイデンティティを直接揺さぶるかのような黒典のたった一言の問いかけに、その時教室に居た者全てが応じた。それはもはや本能的な反応であった。その瞬間、周囲を覆う殺気は熱気となって一気に黒典へと集中する。

「貧乳が好きか! 巨乳が好きか! 素晴らしい、実に素晴らしい!! だが今の諸君らは唯のクズだ! 妄執にとり憑かれた凡愚でしかない!!」

向かい来る熱量の奔流を悠然と受け止めながら、黒典の演説は続く。

「おっぱいとはその大小や形状にかかわらず、それぞれが無限の価値を持っている。無限より大きな無限はなく、無限より小さな無限はない。つまり全てのおっぱいは等価だ。
だが仮にその無限に優劣をつけるものが有るとするならば、それは一人一人の信念のみ」

「ならば否定してはならない。たとえその信念が自分とどのように相いれないものであろうとも、否定して思考停止してしまえば世界はそこで収束する!
その先に成長は無い! 栄光は無い!!」

「なによりその否定はおっぱいへの否定。天に唾するかの如く、乳の求道者にあるまじき許されざる行為である!!」

言葉の一つ一つが強い覇気を纏いその場にいた全員の心に直撃する。確固たる意志を込められた重々しい叫びは、容易にクラスを支配した。貧乳巨乳どちらが上で有るかなどの取るに足らない問題はもはや欠片も頭に残っておらず、少年少女達はただその言葉に耳を傾けるのみである。

「若者よ、夢多き者よ! 諸君らは切磋琢磨せねばならない! 闘わねばならない!!
だがそれは、他者を認めないことであってはならない!! 相反する思想は糧とせよ!! 栄光への礎とせよ!!
真に乳を愛する者になるためには、それこそが必要だ」


「ダンディだ……!」
「大人だ……!!」
「オッサンだ……!!!」

その場にいた全員が感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。黒典の烈火の如き情熱に、彼らは深く感銘を受け、そして強く共感した。
拳剛はといえば、黒典のさながら帝王かのような堂々たる弁舌に内心舌を巻きつつ、今後のために熱が冷めぬ内にクラスメートたちに釘をさす。

「御教授感謝する、黒瀧黒典。
皆、彼の言うとおりだ。何故我々がこの場を設けているのかを忘れたか。
ここはあくまでより乳の求道者としての高みを目指す場。己が信念を曲げる必要はないが、他者の思想を否定してはならない。そういう理念のもとにこのディスカッションは行われていたはずだっただろう。
議論に白熱するのは良いことだ。だが何が我々の根幹となっているのかだけは、何があろうと忘れてはならないぞ」


――――すまねぇ議長俺達が間違ってたぜ
――――やっぱ貧乳もいいよね
――――巨乳は揉みがいあるよね俺彼女いないけど

初心を取り戻したクラスメートは議論を再開する。
喧々諤々思い思いの意見を述べる生徒達を満足げに見た後、黒典は拳剛を見つめた。

「等々力拳剛、君は若いというのに良い美学を持っている」
「そちらこそ、だ。お前もまた真に乳を愛するものだったか」
「男なら、いや人間ならだれでも当然のことだ。乳によって育まれた者の心の底の原風景にあるのは乳なのだから」
「違いないな」

互いに示し合わせた訳でもなかったが二人は自然に手を差し出し、そして力強い握手をしていた。まるで生き別れた兄弟に出逢ったかのような不思議な親近感が両者を包んでいた。

「君の師は大した人物だ、なにせ君のような若人を育て上げたのだから。東城流は単なる廃れかけの一門などではなかった、以前の非礼を許してくれ」
「いいさ、その言葉が聞けただけで十分だ。」
「そうか、感謝する等々力拳剛。
君とは一度二人で話してみたかった。よければ今からでもどうかな」
「いいだろう。だがここでは少し騒がしい、場所を変えよう」

そうして、二人は教室を後にしたのだった。

************



教室を出た二人が向かったのは校舎の屋上だった。着いてからしばらくの間沈黙が続いていたが、先に口を開いたのは黒典であった。

「とりあえず、幼馴染のお嬢さんを無事助け出せたようでよかった。おめでとうと言っておこう」
「そのセリフからすると、やはりお前は例の第三勢力の人間だったか」

拳剛も予想はしていたことだった。
護国衛士である太刀川との決闘の晩の次の日に転校してきた4人。こんな辺鄙な田舎町の高校に4人も転入生が来ること自体が珍しいが、その中の二人が龍脈の鍵を狙う者だったのだ。ならば残りの二人、すなわち黒典と風見クレアもまたそうであると考えるのは、至極当然のことである。そして彼らは衛士でも隠衆でもないと太刀川とエイジは言っていた。ならば導き出される答えは一つしかない。
黒典の方も既に気付かれているのは重々承知であったようで、拳剛の問いに特に驚くこともなく頷いた。

「いかにも、私は君の鍵を狙う組織の一員だ。まぁ今更だがね」
「ならば戦るか、同じ志を持つ者と戦うのはあまり本意ではないが、おれとて鍵は渡せぬのでな」

師から預かった鍵を守り、そしてそれにより鍵を狙う者から沙耶を守る。それこそが拳剛が自身に課した役割である。たとえ相手が誰であれ退くことはできなかった。
しかし、身構えようとする拳剛を黒典は手で制した。

「勘違いしないでくれ、私は純粋に君との会話を楽しみに来ただけだ。それに、君を打ち負かし龍脈の鍵を手に入れるのは私の仕事ではない、それは彼女が直々にやることなのでね」
「彼女? それはもしや……」
「そう遠くない内に分かる、待っていたまえ」

分かり切った答えを、あえて黒典は口にしなかった。言うまでもないことと考えたのか、あるいは今話してしまうのは無粋だと考えたのか。拳剛には分からなかった。

話は変わるが、と黒典は切り出す。

「等々力拳剛、さきほど君は私の言葉を肯定したな。すなわち全ての乳は等価であるが、仮にそれに優劣をつけるとすれば、それは単に個々人の思想によるものに過ぎない、と」
「ああ、その通りだ」

黒典の言うことは、まさに拳剛の思い描いている乳の道の理想形であった。そのような思想を持つ者を、拳剛は今まで師と自分以外には知らなかった。それゆえに先ほどは黒典に対して十年来の友にあったかのような親近感を抱いたのである。
頷いた拳剛を満足げに見て、黒典は問うた。

「ではそれを踏まえて君に訊こう。君は巨乳派か、それとも貧乳派か」

黒曜石の如き漆黒の輝きを放つ光が拳剛を射抜く。その視線にひるむことなく、拳剛は答えた。

「お前の言うとおり、全ての乳は等価だ。だが……」
「だが?」
「それでもあえてその2つどちらかに分けるというのならば、俺は巨乳派に分類される人種なのだろう」
「……そうか」

黒典は拳剛のその答えに満足そうにほほ笑んだ。

「それを聞けてよかった、等々力拳剛。やはり我らは同じ歪みを抱えた者同士だったらしい」
「歪み?」

黒典の奇妙な物言いに、拳剛は思わず聞き返す。

「気づいていないのか? いや気付かぬふりをしているだけか」
「一体何を言っている?」
「分からなければそれでもよい。戯言と聞き流してくれ」
「むぅ……」

そう言われてはこれ以上聞くこともできない。仕方なく拳剛は話題を変えることにした。

「ときに黒瀧黒典よ、お前は巨乳貧乳どちら派なのだ? 俺にだけ言わせるというのは少々意地が悪いというものだ」

拳剛は嗜好を晒したのだ、黒典だけが教えないのは少しばかり卑怯言うものである。
黒典はその言葉に答える代わりに、無言で写真差し出した。写真には黒典と巨乳の美人、それとまだ幼稚園児くらいの少女が映っている。

「これは?」
「我が最愛の妻と娘だ。私にとってこの世で最も大切な二人だ」
「そうか、妻か。……でかいな」
「ああ、でかいだろう」

何が、とは言わない。二人にとってはあまりに分かり切ったことだったからだ。

「……さて、質問の答えはこれでよいかな」
「なるほどそういうことか。ああ、十分だ」

黒典の意思を理解し、拳剛は頷いて写真返した。
巨乳美人の嫁さんがいて、その写真を見せてきたとなれば、黒典は巨乳派なのだ。

黒典は写真を受け取り、丁寧にしまう。
心地いい沈黙が流れる。しばしの後、髭面が口を開いた。

「等々力拳剛よ」
「なんだ、黒瀧黒典」
「ほんの数分、あまりにも短い間ではあったが、今此処で我らは友誼を深めた。少なくとも私はそう考えている。これは私の独りよがりだろうか」
「そんなわけはない! お前と俺は今此処で、たしかに一つの信念のもとに交わった。」

互いの秘めたる想いをぶちまけたのだ。最早黒典を心友と呼んでも差し支えないとすら思っていた。

「ならば我らは友か」
「ああ友だ」

だから拳剛はその問いに大きく頷いた。力強い答えに、黒典はわずかにほほ笑む。

「……ならば友人として忠告しよう。これから君が戦うであろう敵達は、目的のためならば手段を選ばない。心することだ」
「敵達? それはお前達第三勢力のことか。そもそも目的とは言うが、お前達の目的は一体何なんだ」
「すぐに分かる、次の戦いが幕を開ければな」

黒典のその言葉を最後に、それきり、その場で二人の言葉が交わされることは無かった。


****************


同時刻、別棟の屋上にて。
例の会議が始まるよりも前に教室から逃げ出した沙耶と太刀川とクレアは、活気づいた教室上から覗きつつ会話していた。

「毎週毎週飽きずによくやるよ、本当」
「女子には少々、いえかなり居づらい空間でしたね。普通に参加していた娘もいましたが」
「太刀川さん、なんでも例外っていうのはあるんだよ……」

太刀川のセリフに思わず遠い目になる沙耶に、今度はクレアが訪ねた。

「あれはいったい何なのかしら? 皆随分楽しそうだったけど 」
「変態どものサバト、通称・乳会議でござい。2-A教室にて毎週水曜お昼休み開催。参加、観覧自由、議題はおっぱいに関することならなんでもOK。
ちなみに言うまでもなく発案者は拳剛です」

おのれ変態!! 沙耶は拳を振り上げて悪態付く。その様子を見て太刀川は思わず苦笑いした。

「大変ですね東城さんも。このクラスは疲れそうだ」

真昼間から破廉恥なディスカッションを神聖な学び舎でやるような連中が大半を占めるクラスである。沙耶のように常識的な人間にはあの混沌空間は相当に耐えがたいものであろうというのは、自身も常識人側である太刀川には十分感じ取れた。

「あら、そうかしら」

そのセリフに否定を投げかけるのは、常に冷えた牛乳を持ち歩く、どちらかと言えば変人側に属する少女・風見クレアである。

「私は素敵だと思うけど。共通の関心事があって、それに対してああやって互いの意見をぶつけ合う場が有るっていうのは。ディベートは人の思想を柔軟に成長させるのよ」
「議題がおっぱいオンリーのディベートは一体どんな風に人を成長させるのか、気になって仕方がない今日この頃。みんな拳剛みたいになっちゃったりするんだろうか」
「地獄絵図ですね」

乳を覗く変態筋肉が量産された光景を思い浮かべ、太刀川は思わず震えた。四六時中女性の胸ばかり覗く、あのような人間が増えれば世の女性はまともに外も歩けなくなってしまう。
もっとも、そんな会議に嬉々として参加してしまう時点で、クラスメートはもう精神的には8割方拳剛みたいなものなのであるが。内視力が発現してしまいそうな勢いである。

「……しかし、胸かあ」

おっぱい関連の話が出たことに何か思うところがあったのか、沙耶は自身の胸に手をやりつつ太刀川のデカパイをじっと見つめる。あまりにもまじまじと見つめる、いつもとは違う様子の沙耶に太刀川は冷や汗を垂らした。

「あ、あの、東城さん?」
「太刀川さん、胸ってどうやったら大きくなるの? そのモンスターバストは一体どんな努力をしたら手に入れられるのさ」

眼が据わっていた。その形相に太刀川ちょっと、いやかなり引く。

「い、いやこれは、その努力とかでなったものではないので……」
「あら、何もないっていうことはないんじゃない? 太刀川さんの胸はちょっと尋常じゃない大きさですもの。何か普通の人とは違うことをやってるからそうなったのではなくって?」
「そうだそうだ、なんかあるはずだー! でなければこんな格差は許されない!!」

クレアの追撃に沙耶も乗る。乳が大きくなる方法など本人にしてみれば突拍子もない質問にも程があったが、しかし生真面目な太刀川はしばし考えてから答えた。

「う、腕立て伏せとかですかね。大胸筋が発達した、みたいな」

沈黙が流れる。数秒後、突如として沙耶が太刀川に飛びかかり、太刀川の豊満な胸を揉みしだいた。

「ひゃうっ!!? ちょっ、ととと東城さん!!?」
「こんな柔らかい筋肉があるかー!!! ちくしょー!!」

実に切実な咆哮である。

「いやっ、あのっ!!?分かりましたからっ、胸揉まないでッ!!?」
「こんちくしょー!! 所詮貧乳は貧乳なのかよーぅ!!」
「ひゃんっ!!?」

「はいはいどうどう」

あらん限りの貧乳の嘆きををぶつけて太刀川の乳を揉み続ける沙耶を、クレアが止める。引き離された沙耶は己が胸の大平原を呪いがっくりとうなだれた。一方の太刀川はと言えば、服を整えつつ沙耶の真剣さに本気で不思議がっていた。

「そんなにいい物でしょうか。こんなもの」
「それは持つ者だけが許される、強者の感想だよ太刀川さん」
「そうね、私も無いよりは有る方がいいと思うわ」
「だよね、風見さん!!」
「そういうものですか、激しい運動の時には正直邪魔なだけなんですが」

剣術少女である太刀川にはどうも大きな胸を羨ましがる理由が分からない。その程度の重さなど物ともしない超人的な身体能力を持っていても、やはりその贅肉の塊は邪魔であるのだ。拳剛が聞けば憤死しかねないセリフではあるが。

「やっぱり小さい胸の奴は、一生小さい胸のままなのかぁ。流石にへこむよ」
「東城さん……」

太刀川との圧倒的な戦力差を突き付けられうなだれる沙耶。その姿をじっと見つめてから、クレアは意を決したように口を開いた。

「もしもよ? 小さいことが運命られている人でも胸が大きくなれるとしたら。東城さんはどうするかしら?」
「整形手術的な?」
「いいえ、そういうものではなくて、例えば魔法のような力があったとして、その力でそれができたら」
「魔法?」
「ええ、魔法。例えば私が魔法使いで、貴女の胸を大きくしてあげると言ったら、東城さんは受け入れてくれる?」



「NOです」

即答だった。
予想外の反応だったらしく、一瞬クレアは言葉に詰まった様子だった。

「……理由を聞いても良いかしら」
「理由か。うーん難しいなぁ、なんとなく答えただけだしさ」

沙耶はむぅと唸りながら考える。考えが纏まるにはしばらくの時間がかかったが、沙耶は解答を導き出した。

「やっぱりあれかな」
「あれっていうと、なにかしら?」
「やっぱり、好きな人にはそのままの自分を見てもらいたいじゃない」
「…………!」

その言葉にクレアの瞳は大きく見開かれた。
一方沙耶はと言えば、最後の言葉を言うと同時にだんだん赤面していき、遂には顔を覆ってごろごろ転がり始める。口に出してみてから思いのほか恥ずかしい台詞だったことに思い至ったのであった。

「ごめん、やっぱり今の忘れて。東城沙耶渾身の黒歴史だ、あのときの自分ごと闇に葬りたい気分だよ」
「いいえ。素敵な答えだったわ、きっと忘れない」
「なんという死刑宣告」
「……ただちょっとだけ、残念だったけれど」
「残念?」

そう言って沙耶を見つめてほほ笑むクレア。それは確かに笑顔のはずなのに、その表情にはどこか陰が差しているように沙耶には感じられた。

「……風見クレア」

しばしの間傍観者に徹していた太刀川だったが、クレアの雰囲気が変わったことを察し、竹刀袋を片手ににらみつける。風見クレアは護国衛士である太刀川や憂国隠衆である薄井エイジと同時にこの学校に転入してきた。当然、彼女が拳剛の鍵を狙う第三勢力の一人であることは容易に想像がつく。
故に、もしもクレアが東城沙耶に手を出すつもりならそれを阻止するのが太刀川の任務である。
クレアも太刀川の様子が変わったことから察したのか、申し訳なさそうに弁明した。

「ああ、そういえばもう私の事は知られていたのよね。」
「お前が東城さんの友人で居続けることは止めはしない。だが彼女に手を出すつもりならば覚悟してもらおう」
「大丈夫よ太刀川さん。私は東城さんに、自分の大切な友達に危害を加えることは決してないわ。確かに振られちゃったのは残念だけどね」

「あの風見さんに太刀川さん、どうしちゃったの? なんか雰囲気ちがうよ?」

先ほどまでの和やかな雰囲気とは打って変わって漂い始める剣呑な雰囲気に、沙耶は敏感に反応する。
不安げな瞳を向ける沙耶に、クレアはただ悲しげなほほ笑みを向けるだけである。

「……ごめんなさい、私少し席を外すわね」
「何処へ行くつもりだ」
「東城さんには断られてしまった以上、私にすべきことはもうあと一つしかないわ」

そのセリフを最後に、ほほ笑みをたたえたままクレアはその場を後にした。儚げな彼女の背中を、二人はただ見つめていた。



*********************




沙耶と太刀川の前から去ったクレアが現れたのは、拳剛と黒典の前だった。

「やぁ党首殿、東城沙耶はどうだったかね」

黒典の問いに、クレアは心底残念そうに答える。

「断られてしまいました、残念です。ですがこうなった以上もう心残りはありません。本来の目的に集中することと致しましょう」

そう言ってクレアは拳剛を真っすぐ見つめる。その瞳は太刀川や薄井、黒典と同じ、強い意志を持つ者の瞳だった。

「改めて自己紹介をさせて頂きます、等々力拳剛君。
私はクレア、巨乳党が党首、風見クレア」
「巨乳、党……!?」
「我らが目的は唯一つ。龍脈の神気を以て貧しき乳に祝福を与える―――――すなわち人類巨乳化計画の遂行!!」
「!!?」


「最後の東城流、等々力拳剛。私は巨乳党が党首として、貴方に決闘を申し込みます!!!」







[32444] 15
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/05/19 16:18

「人類巨乳化計画、だと……」

あまりに荒唐無稽。だがクレアと黒典、二人の瞳が、その言葉が本気である事をまざまざと物語っていた。

「如何にも」
「龍脈の力は絶大です。その力を以ってすれば、人を司る運命にすら干渉する事ができる」

運命に干渉する。さながら神の如き行いである。天に唾するが如き、と言い換えてもいい。途方もなさ過ぎて拳剛には想像もつかない。
だが龍脈は地球の生命力そのもの。あるいは可能なのかもしれない。
拳剛の頬を冷や汗が伝う。

「自らの運命を捻じ曲げる気か」
「捻じ曲げるのではありません、打ち砕くのです、」

クレアは拳を握りしめる。爪が白磁の肌を食い破り血が滴り落ちた。

「――――この呪われた運命を、自らの力で」

百戦錬磨の拳剛が一瞬たじろぐほどの壮絶たる形相。拳剛は、クレアの覚悟が生半可なものではないことを理解する。

「いいだろう、その決闘受けて立つ」

故に拳剛はクレアの問いに是と答える。
敵の首領自ら拳剛に勝負を挑んできたのだ。考えようによっては好機と言えた。ここでクレアを下せば、後顧の憂いを一つ潰す事が出来る。沙耶を守るために拳剛がこれからしようとしている事を考えれば、不安要素は少ない方がいい。
そんな考えはおくびにも出さず、拳剛はギラギラとした瞳でクレアを睨む。

「師から受け継いだこの鍵、易々と奪えると思うなよ」
「負けられないと言う訳ですね。ですが此方も同じ事。
同志のため、私自身のため。鍵は必ず手に入れます」

拳剛とクレアはそれぞれの思いを胸に、一歩も退かずに視線を交わす。

「……後ほど迎えの者を寄こします。それでは」
「ではな、等々力拳剛」

しばしの対峙の後、一礼してクレアと黒典はその場から去るのだった。


二人の背中が階下への階段の扉へと消えるのを見届けると、拳剛は陰で一部始終を見ていた者の名を呼んだ。

「薄井エイジ、いるのだろう」
「あらら、ばれてた」

そう言って屋上の陰から薄井エイジはひょっこり現れた。隠れていた事がばれていたというのに驚いた様子は無い。内視力持ちの拳剛に見つかっているのは、最初からエイジ自身織り込み済みであるからだ。彼にしてみれば、自分の役割さえ果たせればどうでもいいのだった。

「やれやれ、覗き見とは趣味が悪いな」
「まぁそう言うなよ、これもお仕事なんでね」

苦笑する拳剛に、エイジはヘラヘラと笑いながら答える。龍脈の鍵を狙う第三勢力、その一員と思しき黒瀧黒典を監視するのが、現在のエイジの役割だった。何か動きがあり次第、直ぐに対応するためだ。
現状、拳剛が第三勢力に鍵を奪われてしまうだけで、衛士も隠衆も、それぞれの目的達成が不可能になる。警戒するに越したことは無い。

「しかし巨乳党か、イカれた連中だな。まさか胸をでかくするためだけに龍脈の力を使おうとするなんてね」

どうかしてるぜ。先ほどの一部始終を思い返し、エイジはそうぼやいた。
衛士と隠衆を越える勢力を持ちながら、その名前も目的も一切が不明であった第三勢力。監視ついでにその正体が明らかになったのは思わぬ幸運であったが、しかしクレアらが語った話はあまりにも突飛過ぎた。よもや胸部の脂肪を得るためだけに、地球の気脈である龍脈の力を使おうとするなど。
太刀川怜同様、割と常識人寄りのエイジからすると、信じられないのも無理は無いだろう。しかし拳剛はそうでもないらしく、むしろエイジのその言葉に小首をかしげている。

「? 気持ちは分からんでもないと思うがな」
「……おおぅ。そういえば君はそういう奴だったね……」

まるで、お前の方こそおかしい、とでも言いたげな拳剛に、エイジは頬をひきつらせる。一般的な感覚からずれているのは自分か相手か。どうか相手であって欲しいと願わざるをえない。もっともマジョリティが一般性というものを決定するのならば、この学校に限って言えば、エイジの方が異端となってしまうだろう。
思わず冷や汗を垂らすエイジに、拳剛は懐から取り出した包みを放った。

「薄井、これを」
「ん?これは……ああ、そういうことか」

一体何事かと思ったが、包みを受け取って中身を見たエイジは得心した。中にあったのは拳剛の持つ鍵であった。
一応同盟を組んだとはいえ、つい先日までその鍵を巡って争っていた相手にあっさりそれを渡すと言うのは中々思い切った行動である。しかし拳剛とて、意味もなくそんなことをしたのではない。
これから拳剛は巨乳党との戦いに赴く。全ての動きを見通す内視力を持つ拳剛の懐から鍵をかすめ取るのは容易ではないが、絶対に不可能という訳ではない。現に薄井エイジは、満身創痍になりながらも拳剛に気付かれずに鍵を奪い取ったのだ。万が一、ということがある。
よって、不意の盗難を防ぐために、薄井エイジら衛士・隠衆連合軍に拳剛の鍵を預けるわけだ。少なくとも初めから拳剛の手元になければ、拳剛が鍵を盗まれるという困った状況は起こり得ない。拳剛にしては珍しく、至極道理にかなった行動であった。

ちなみに、鍵を守る理由は拳剛とエイジたちとでは大きく異なる。
衛士や隠衆の場合は、巨乳陽に龍脈の力を不正に利用させないため、という理由が大きい。国の霊的防衛を担う集団である彼らにしてみれば、特定個人もしくは集団が、私的に龍脈の力を使用するのを看過することはできないのだ。特に『胸に脂肪の塊を付着させるため』などという俗物極まる理由で使われたりなどした日には、国の護衛者としての面目丸潰れである。それだけは何としてでも防がなくてはならなかった。実際は拳剛の持つ鍵は龍脈の鍵ではないので、この心配は杞憂というものなのだが、エイジたちがそんな事を知るはずもない。
一方拳剛の場合は、鍵を奪われる事それ自体は特に問題はなかった。困るのは、鍵が奪われた後で、その鍵が本当は龍脈の鍵ではない事がばれてしまうことだ。拳剛の持つ鍵が偽物だとなると、必然的に本物はどこにあるかということになる。そうなれば、源五郎の唯一の肉親である沙耶にその疑いが行くのは避けられないだろう。場合によっては、沙耶の中に本物の鍵があることがばれてしまうかもしれない。沙耶の安全のために、それだけは避けなくてはならない。幸い衛士と隠衆は拳剛の鍵の封印は解けないので、その鍵がただの蔵の鍵であることは気付く事は無い。エイジたちに預かっていてもらえば、当面問題はないのである。もっとも、本当の事を話す事はできないので、拳剛は後ろめたさはひしひしと感じていたのだが。

「……鍵と沙耶を頼んだ」

罪悪感を押し殺しつつそう言う拳剛に、エイジは鷹揚に笑った。

「任せな。鍵も君の周りの人間も全部、守ってやる」
「ありがたい。ついこの前、その周りの人間をかどわかしたばかりの人間が言う言葉とは思えんな」

敵対していた時とは正反対の台詞を吐くエイジに、思わず拳剛は苦笑する。現金な奴もあったものである。だがエイジは悪びれる様子もなく目を細めた。

「任務だったからさ。そしてお前の友達を守るのも任務だ。俺達に課せられた役目だ。
役目は必ず果たす。俺も、俺の仲間も、太刀川達もだ。俺達に任せろ。
だから勝てよ、それがお前の役目だ」
「ああ、任せた。だから任せろ。必ず勝つ」

二人の拳が力強くぶつかる。昨日の敵は今日の友。大切なものをその友に預け、拳剛は屋上を後にした。
風見クレア、黒瀧黒典、そして龍脈の穢れ。全ての困難に自らの手で決着をつける事を誓いながら。


**********


拳剛の元に風見クレアからの迎えがやってきたのは、それからほどなくしてからのことだった。

「等々力拳剛様、お迎えにあがりました」

さながら執事のように黒のスーツを着こなした妙齢の女性が、そう言って優雅に一礼する。その隣には黒塗りの長くて高級そうな車が停められていた。片田舎の高校に来るにはそぐわない類の車である。

「そうか、よろしく頼む」

思わぬ出迎えではあったが、この程度のことで動揺するほど拳剛は常識的な人間ではない。執事風の女性に頭を下げ、次いで女性の胸部を視ると、車に乗り込んだ。
女性は内視力で確認する必要もないほど貧乳だった。おそらく巨乳党の一員で間違いはないだろう。あれほどの堂々たる態度で決闘を申し込んだクレアがよもや卑怯な罠など仕掛けるとは思えないが、何事も油断は禁物である。最大限の警戒をしつつ、拳剛はどっかりとシートに腰を沈めた。

結局心配は杞憂に終わり、車は特に何事もなく拳剛を目的地に運んだ。八雲町市街地から山間部に入り、そこから一時間近い走行の後に到着したそこは、採石場の跡地らしき場所だった。

「お待ちしておりました、等々力拳剛」

車を降りた拳剛を迎えたのは、風見クレアただ一人。ただ一人が、悠然とその場に佇んでいた。ただし服装は学校に居たときのものとは異なっている。学校指定の制服ではなく、黒のローブに身を包み、手には杖を携え、さながら魔女のような装いだ。

「ああ待たせたな。で、ここはどこだ」
「我が風見家の私有地です。近くに民家はありませんし、万が一のために結界も張り巡らせています。ここでなら、貴方も私も存分に力を振るえるはず」
「それはありがたい、周りに気兼ねしていては全力が出せんからな。
とすると、お前一人しかいないのもそのためか」

薄井エイジいわく、巨乳党は衛士と隠衆をも上回る勢力を持つ集団らしい。その党の悲願が達せられると言うときに、メンバーが一人もいないと言うのはおかしな話だ。だがそれも、決闘の余波に巻き込まれるのを防ぐためであるというならば得心がいく。
案の定、クレアは拳剛の言葉を首肯した。

「ええ、巨乳党には腕利きも数多くいますが、貴方と私の全力戦闘の付近にいて無事でいられる者はそう多くないのです。
故に黒瀧黒典を含め、同志達には離れたところで私の勝利を祈ってもらっています」

要するに邪魔だから下がってもらっているということだ。それも無理のない事だろう。
多少鍛えた程度の人間では、音の速度領域で戦闘を行う拳剛に対して、自分の身の安全すら保証することはできない。拳剛自身も本気で闘っているときに外野を気にかける余裕は無い。近くに人間がいれば、うっかり轢いてしまうかもしれない。敵とはいえ、単なる不注意で倒してしまうのは気がひけた。
そういう意味で、周りに人がいないのは拳剛としてもありがたかった。

そこまで考えて、拳剛はクレアに言い忘れていた事があったのを思い出す。

「そういえば、以前助けてもらった礼を言っていなかったな」
「礼?」
「まやかしの術にかかった時、俺に呼びかける声が聞こえた。アレはお前だろう」

拳剛が言っているのは、先日の隠衆との戦闘の時の事である。不覚にも薄井エイジの幻術にかかってしまった拳剛は、無限の乳に囲まれる夢を見ながら眠っていた。その時幻術の誘惑を断ち拳剛が目覚められたのは、その声に叱咤されたからである。
拳剛の言葉が予想外だったのか、クレアは意外そうに眼を丸めた。

「お気づきでしたか」
「屋上で決闘を申し込まれた時、あの時の声とお前の声が同じだと気付いた
あの時はお前の言葉に助けられた。礼を言う」
「感謝にはおよびません。あれは私の都合でやったことなのですから。」

クレアの言葉は謙遜でもなんでもない、ただの事実である。
巨乳党としては、あのとき他の勢力に龍脈の鍵が渡るのは都合が悪かった。特に隠衆は隠密に長けた集団であり、そのため鍵を持って雲隠れさればクレア達巨乳党には打つ手がなかったのだ。クレアが拳剛を助けた背景には、そういった事情があった。
もっとも、鍵には封印が施されていたため、拳剛を助けようと助けまいと関係はなかったのだが。
更に言えば、実際はその鍵も偽物だ。本物の鍵は沙耶の心臓と同化している。
隠された真実があるとは露も知らず、クレアは拳剛に尋ねた。

「それで、今鍵は何処に?」
「衛士と隠衆に預けてある、俺に勝てばお前のものだというのは奴らも納得済みだ。」

仮に拳剛が負ければ、拳剛の鍵は速やかにクレアに譲渡される手はずになっている。拳剛が負けるはずがないと衛士も隠衆も思っているからこそのことなのだが。

「随分と信頼されているのですね。少々申し訳がない気がします」
「なにがだ」
「貴方に、彼らの期待を裏切らせてしまうことが、です」

そう言うと、クレアは壮絶なほほ笑みを浮かべる。この少女はただの華奢な娘ではない。肉食獣のような覇気を全身から放っている。
太刀川怜や薄井エイジ同様、クレアが自分を打倒し得る存在だと、拳剛は改めて認識した。

「闘う前にもう一度聞かせろ、何故龍脈の力を求める」

全身から闘気を立ち上らせ拳剛が問う。だがその言葉は単なる確認に過ぎなかった。既にクレアの覚悟が確固たるものである事は拳剛自身確信している。
その確信を裏付けるように、拳剛の圧にひるむことなくクレアは凛として答える。

「この世に満ちる不平等、それを少しだけなくしたい」
「貧乳を巨乳にすることでか」

拳剛の言葉をクレアは首肯する。
この世の乳は貧乳と巨乳に分けられる。両者の間に明確な境界はないが、だがそこには確かな隔たりが存在する。持つ者と持たざる者。クレアはその隔絶をなくしたかった。
ただ、とクレアは続ける

「どうか思い違いをしないでください。私達は貧乳を否定したいわけではないのです。
豊乳の祝福を与えるのは、巨乳を渇望し、そのために命を賭して共に闘い抜いてきた同志達にだけだと、お約束します」
「なるほど。巨乳党とは、その名の通り己が胸に豊満なる乳を求める者たちだというわけか」
「如何にも。無論例外もいますが」
「黒瀧黒典、だな」

黒瀧黒典は男性である。自身の豊乳を望むはずはない。

「ええ、彼は巨乳を愛する者として我らに協力してくれています。巨乳を望みながら、貧乳である不幸な人間が少しでも減るように、と。
ご存知ですか等々力拳剛、彼の奥様はそれは見事な巨乳の持ち主なのですよ」
「ああ、知っているさ」

拳剛は黒典に見せてもらった写真を思いだす。流石にプリントされた画像に内視力は発動できないが、そんなものを使う必要がないほどに、黒典の妻が天然巨乳であることは明白であった。
けれど、とクレアは言葉を継ぐ。

「我らは持たざる者。運命に見捨てられた者。彼女や太刀川さんのような与えられた者とは違います。努力ではどうにもならない、超えることのできない“壁”を課せられているのです
その壁を乗り越え運命に打ち勝つ。私達はそのためだけに集い、そして今日まで闘ってきました」
「今の龍脈は穢れている、まともに使えんと思うがな」

拳剛が忠告する。だが既に知っていたのか、その事実にクレアがひるむ様子は無かった。

「鍵を手に入れた際は私達が責任を以て浄化を行います。命を落とすこととなるやもしれませんが、己が野望のために龍脈を使う対価としては足りないくらいでしょう。」
「そうか……」

クレアの巨乳への執念は、命が危険にさらされる程度で折れる物ではない。拳剛はそれを再確認した。

「止めても聞かんのだろうな」
「無論。同胞のためにも、なにより自分自身のために」
「……最早言葉を交わすことに意味はないか」

そういうと、拳剛は拳を構えた。一方クレアも無言で杖をかざす。
一陣の風が両者の間を吹き抜けた。

「東城流、等々力拳剛」
「巨乳党が党首、風見クレア」

『参る』



********

戦いの火蓋が切って落とされる。その瞬間、両者がとった行動は対照的であった。かたや拳剛はその筋力を以て敵までの距離を一息に詰めようとする。そしてかたやクレアは……

「これは……面妖な」

開始早々に起こった目の前の予想外の光景に、拳剛は思わず茫然となった。
愕然とする拳剛に、クレアが言い放つ。

「等々力拳剛、私はあなたを過小評価していません。貴方の剛腕を以ってすれば私など瞬きする間に叩き伏せられてしまうことでしょう。ですから私はこうするのです」

クレアのその言葉は、比喩でもなんでもなく、遥か上から投げかけられた。
拳剛は天を仰ぐ。その視線の先には風見クレアがいる。遥かな天空の中に彼女はいた。
クレアは空を飛んでいたのだ。鳥のように翼があるわけでもないのに、彼女は当たり前のように空中に浮いている。普通の人と比べると、奇奇怪怪な場面と出くわすことは数多くあった拳剛であったが、人が空を飛ぶのは初めて見る光景であった。
現実離れした光景に驚愕しつつも、一方で拳剛はクレアの行動に感服してもいる。

「なるほど、実に理にかなっている」

拳剛の拳は文字通り一撃必殺である。『内視力』で以て敵の肉体と気脈の虚実を見切り、『通し』で以てピンポイントに急所を破壊する。拳剛が師・源五郎から教わったこの技法は、人体に対してはあまりに威力過多である。よって普段は『内視力』と『通し』を同時に使用することは無い。しかしながら気の力で爆発的に強化された拳剛の筋力とその技法のどちらか片方でも併用すれば、それだけで拳剛の拳は強力無比の兵器と化すのだ。
つまり拳剛は、基本的に当たりさえすれば一撃で決まる。しかし逆に言えば、攻撃が当たりさえしなければ怖くは無いのだ。つまり、拳剛の間合いの外に逃げてしまえばいい。
そう言った意味で、クレアのとった行動は至極当然のもので、そして拳剛を相手取るにあたって最も効果的であった。流石の拳剛といえど、間合いの外で天高く飛翔する相手を捉えるのは相当な困難を伴うのだ。無論その絶大な筋力でクレアの元まで跳躍することは可能である。しかし空中では方向転換は困難なため、一直線で突っ込んで行くしかない。直線的であるということは、相手に動きが完全に予想されてしまうということである。迎撃を喰らうのは必至である。少なくとも相手の手の内がある程度わかるまでは、突っ込むのは悪手だろう。
いきなり窮地に立たされた拳剛は、内心の動揺を隠しつつ、頬をゆがめる。

「驚いたな風見クレア。お前は妖術使いだったのか」
「ええ、その通りです。一つ訂正すると、これは妖術ではなく魔法ですが」
「魔女というやつか」

成程、黒のローブに樫の杖、まさしく今のクレアの様相は西洋の魔女そのものだった。

「卑怯者と罵ってもらって構いません。ですが私は負けるわけにはいかない。ここまで同志達のためにも、絶対に龍脈の力を手にしなくてはならない」

そう言うと、クレアは天高く杖を掲げた。

「どんな手を使っても、です。――――――『散れ』」

クレアが拳剛に杖を差し向け、そして命じた。
それが一体『何』に対する命令だったのか。拳剛が疑問に思う間もなく、息苦しさと身体の内側から沸きあがる違和感に全身が支配される。これは危険だ、動物的勘が警鐘を鳴らす。拳剛は咄嗟にその場から飛び退った。
離脱すると同時に息苦しさは消える。

「今のは……?」
「『散れ』」

拳剛が今の現象について考えを巡らせる間もなく、クレアが追撃する。
『何か』に対する命令とともにクレアが杖を振るうと、それにわずかに遅れて、再び先ほどの息苦しさが拳剛を襲う。拳剛は再度その場からの離脱を図るも、今度は息苦しさは消えなかった。
にぶい拳剛といえども、ここまでされれば流石に理解する。

(これは真空か! )

真空中では息ができないだけでなく、体液は沸き立ち気圧差で肉体は破壊される。真空と大気圧ではそこまで気圧差がないため丘に上がった深海魚のように内側から爆発することは無いが、それでも人体が活動できる環境でないのは間違いない。気で強化された拳剛の肉体とはいえども長時間真空にさらされるのは危険であった。

だがタネさえ分かればどうということはない。

拳剛はその瞬間、両足に全力込めた。大腿筋が膨張し、そのエネルギーで以て拳剛は跳躍する。僅かに一足で音速に達し、今度は先ほどよりも遥かに遠くに離脱する。

「『散れ』」

攻撃から逃れた目標に対し、クレアは命令と共に再び杖振るう。再び拳剛の周りが真空と化すが、その時には拳剛既にその範囲外に離脱している。
どうやらクレアが真空にできる領域はそう広くないようだった。その上、真空化までは僅かにタイムラグがある。そこまで分かれば、攻撃を回避するのは拳剛にとってそう難しい事ではない。

そしてクレアの攻撃を回避しつつ、拳剛は別の事にも考えを巡らせていた。クレアの魔法についてである。
拳剛は魔法使いなどという非常識ものがこの世に存在するのは、今の今まで知らなかった。普通の人間からすれば拳剛もよっぽど常識から外れた存在であるのだが、今はそれは置いておく。拳剛は魔法使いを知らない、よってクレアがどのような攻撃を繰り出すのかは全く予想がつかない。クレアが拳剛の能力を把握しているであろう事を考えれば、これは大きなハンディキャップである。よって、敵がどのような能力を保有するのか予測するのは、今の拳剛にとって至上命題であった。

(今のところ風見クレアが使ったのは飛翔と真空、この二つだけだ)

敵の攻撃を掻い潜りながら拳剛は思案する。拳剛は勘は良くても頭は良くないので、クレアの力に明確な説明をつける事はできない。しかしなんとはなしに予想はつく。
その予想を確かめるために拳剛はカマをかけてみる。もっとも、無駄とは分かっていたが。

「なるほどお前は風を操るわけか」
「ええ、その通りです」

しかし以外にもあっさりと、クレアはそれを肯定する。拳剛としては少々肩すかしを喰らった感じである。そんなにあっさり手の内を明かされるとは思っていなかったからだ。能力がばれても問題ないと考えているのか、奥の手が有るのか、それとも両方か。
しかしそれでも、攻撃手段が風だと分かったのは拳剛にとっては行幸である。無論クレアは他にも攻撃手段が有るのかもしれないが、それでも一つでも敵の攻撃が分かっていれば、勝率は大きく変わってくる。

「真空化で倒せればそれが一番良かったのですが、やはりそううまくはいかない物ですね。手法を変えることといたしましょう」

そう言うとクレアは攻撃の手を止め、杖を後ろに大きく振りかぶる。

「時に等々力拳剛、貴方は風の本当の速度を知っていますか?」
「?」

突然の質問にいぶかしむ拳剛をよそに、クレアは続ける。

「風というのは空気分子の流れのことですが、普段はその流れには様々な方向へ飛び交う分子が混在しています。その速度をお互いに相殺し合い、最終的に残ったエネルギーが風の流れの速度を決定するのです。ですから、風の粒子の本来の速度を知るには、温度・質量・速度の変数から成るエネルギーの方程式を解かなくてはなりません。
仮に全ての分子が同一の方向に進む場合、この方程式より求まる風の速度は」
「おい、悪いが俺は劣等生だ。科学の授業なら余所で…………」

突如始まった科学の講義に、拳剛は思わず突っ込みを入れる。いっそこの隙に間合いを詰めてぶん殴ってやろうかとも思ったが、その機会はクレアの言葉によって失われた。

「―――――秒速500メートル」
「……な」
「『突撃せよ』」

その言葉と共にクレアが振りかぶった杖を打ちふるう。瞬間、拳剛の身体大きく吹き飛ばされた。突風と呼ぶのも生ぬるい、超絶なる圧力を伴った大風。音速を超えた暴風が全身を貫き、拳剛は岩壁に叩きつけられる。

「がッあ……!!?」
「音速戦闘を可能とする貴方の身体能力は確かに脅威です。しかし私の攻撃はそのスピードをも超える。如何な等々力拳剛とはいえ避けきれるものではありません」

音の速度はおよそ秒速340メートル。クレアの攻撃は、音の速度をも大幅に上回るのだ。
だが拳剛は怯まない。むしろその顔には笑みが浮かんでいた。

「避けられない、だと?」

拳剛の両拳が岩を砕き、拳剛は岩壁から這いずり出る。

「ならば、突っ込むまでだッ!!!」

予想外の攻撃ではあったが、かえって好都合であった。この場面でクレアが能力を出し惜しみする理由は無い。つまり彼女の攻撃は基本的に風だけだと考えていいのだ。
確かに音速をも超えるクレアの魔法は脅威である。しかし風は炎のような激しさは無く、水や土のような重さもない。そんな『軽い』攻撃では、いくら速度があがったところで拳剛を打ち倒すことは不可能だ。
相手の底が見えたと察した拳剛は、一気にクレアに向かって駆け出した。

「『突撃せよ』」

突進する拳剛を迎え撃つべく、クレアが再び超音速の風の壁を拳剛に放つ。拳剛は一切のためらいなく、腕をクロスしてそのまま突っ込んだ。

「ぬおおぉっ!!」

最早研ぎ澄まされた刃とかした風に全身ずたずたにされるも、拳剛は怯まずに突破する。予想通り、風のような『軽い』攻撃では拳剛の強靭な肉体の肉は切れても骨を断つことはできなかった。
瞬間、遥か上空浮かぶクレア向けて拳剛は跳躍する。

「勝機!!!」
「『集え』」


彼我の距離数十メートル。このまま突っ込めば勝てる、拳剛は勝利を確信した。たとえ風の壁が来たところで、今の拳剛の勢いならば十分に突っ切る事ができる。
一方クレアは、迫りくる拳剛に対して僅かにも動揺することは無かった。目標を迎撃すべく、淡々と杖を構え、新たな呪文を唱える。

それは、瞬きをするほど僅かな時間であった。そのとき極限まで凝縮された時間の中で、拳剛は確かに見た。
クレアの言葉に呼応するかのように、杖の先が空気を喰っている光景を。
いや、それは正しくは喰っているわけではなかった。何千何万リットルという周囲の空気が、杖の先端へと集中し圧縮されているのだ。

(不味いっ!!?)

拳剛は本能的に危機を察知する。しかし空中では回避は不可能。咄嗟にガード体勢をとる。

「『突撃せよ』」

直後、クレアの杖から放たれた超音速の圧縮された空気が、超絶たる質量を伴い拳剛を直撃し、そして『炸裂した』。轟音を伴ったその爆発は拳剛の身体を芯から砕く。全身で骨の砕ける音を鳴らしながら、拳剛は地面に叩きつけられた。

「が……っ、はッ…………」

拳剛は辛うじて生きていた。だがその身体は至る所で悲鳴を上げている。幸い戦闘続行は可能だ。拳剛はよろめきつつも立ち上がる。
拳剛が未だ人の形を保っているのを確認すると、クレアは大きく眼を見開いた。

「本当に頑丈ですね。普通であれば今ので腕は飛び、足は捥げ、全身の肉という肉が抉れているはずでしたが」
「頑強さだけが取り柄でな……!!」

拳剛は強がるものの、実際は非常に危険な状況であった。今の攻撃をあと数発も喰らえば間違いなく倒れる。精神論ではなく、骨が砕け筋が裂け腱がちぎれ、物理的に立てなくなるのだ。
拳剛は情報を整理する。

(奴の杖の先に、馬鹿みたいな量の空気が集っていた。空気を圧縮したのか……?)

圧縮された空気はただ重いだけではない。
例えばガスボンベというのは、物にもよるが大気圧よりも遥かに高い数十メガパスカルでガスが封入されている。このボンベに一点穴を開ければ、ボンベはさながらミサイルのように飛んでいく。圧縮された空気というのはそれほど強い力を持つ。下手な爆弾よりも強力なのだ。
しかも空気は無色透明。視認ができない。実際は圧縮された空気は大気圧の空気とは屈折率が違うため、見える事は見える。がそれは陽炎のように微かなもので、見極める事は不可能に近い。
こんなものが超音速で飛んでくるのだ。要するに不可視のミサイルというわけである。凶悪な事この上なかった。

(多少速度があろうが、単に空気の壁を叩きつけられるならば大してダメージは無い。問題はあの圧縮空気だ)

不可視の、それも炸裂するミサイルだ。一番良いのは炸裂する前に迎撃し、はじき返すことだが、空気弾そのものが視認できない以上それは不可能だ。
幸い、風の壁の場合と異なり、圧縮空気弾を放つのには空気を収束させる必要があるはず。よって放たれるタイミングさえ分かれば、射線から離脱して攻撃を回避することは可能だ。

絶望的なこの状況で、拳剛はたった一つ光明を見出していた。

(勝機はある。『その時』がくるまで、俺が立ってさえいれば……)

拳剛の脳裏を幼馴染の少女の姿がよぎる。師の遺志を継ぐためにも、そして彼女を守るためにも、拳剛はここで倒れるわけにはいかなかった。
よろめく身体で以て、クレアに向かって叫ぶ。

「どうした風見クレア、俺はまだ立てるぞ。
さぁ来い、鍵が欲しくば俺を打倒してみろ! この肉体を完膚なきまでに粉砕してみろ!!」
「――――『集え』」

拳剛の挑発に応えるかのように、クレアが天高く杖を掲げる。今度こそ確実に、敵を破壊するために。

(今だけでいい、後は如何なってもいい。だから、もってくれ俺の身体、せめて『その時』までは………!!)

拳剛は待つ、肉体と精神と命を削りながら。
『その時』が来るのを、ただひたすらに待つ。






***************










拳剛がクレアとの死闘を繰り広げていたのと同刻。
等々力拳剛の鍵と東城沙耶を守護する護国衛士・憂国隠衆連合軍の元に、一人の招かざる客が訪れていた。

「己が信念を偽るのももう終わりだ。全てはこの時のため、私は長い雌伏の時を耐えていたのだから」

宵闇の中、不気味な笑みをたたえて佇立するその男の名は、黒瀧黒典といった。

「忠告したはずだ等々力拳剛。君の敵『達』は、目的のためなら手段は選ばぬと」

そう言って、全身からどす黒い粒子を立ち上らせながら、黒典は不敵に笑う。


今、もう一つの死闘の火蓋が切って落とされようとしていた。



[32444] 16
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/06/06 01:22
決闘開始から数十分が経過した。
クレアは拳剛の間合いの遥か外から間断なく攻撃を続けている。しかし攻勢一方の彼女の内心は以外にも、焦りに蝕まれていた。思った以上に戦況が膠着していたからだ。
風の弾幕が一面に降り注ぐ中、拳剛は一向に倒れる様子は無い。当たっていないわけではない。むしろ当たってない攻撃の方が少ない。ノーモーションで放たれる『風の壁』で足を止め、そこに広範囲に高威力で爆散する『圧縮空気弾』を叩きこんでいるのだ。直撃こそしないものの、その余波は確実に標的である拳剛にダメージを与えている。だが致命傷には至らない。
そして拳剛はただひたすら避け続ける。攻撃をしようとするそぶりすら見せない。

(こちらを挑発しておきながら、結局逃げるだけ。一体何を考えているのか。いっそ一気に畳みかけてしまえば……
いや、焦る必要はないはず。私の攻撃は確かに効いているのですから)

クレアは指を噛む。逸る自身を痛みによって落ちつかせる。
避け続けているとは言っても、拳剛の動きはだんだん衰えてきているのだ。この状況がいつまでも続くことはない。

(あるいは疲労で私が隙を見せると思っている?ならばその認識は甘いと言わざるをえません)

拳剛と違いダメージが蓄積していないクレアは、あと半日くらいは楽に戦闘続行が可能だ。拳剛が倒れるまで弾幕を降らす程度の余裕は十分ある。クレアが隙を見せるよりも、拳剛が倒れる方が先だろう。
だがそれでも、仮に拳剛がその隙を狙っているのだとすれば、クレアは慎重にならなくてはならない。

(此方が間合いの内に居ない以上、彼に攻撃の手段は無い。そしてこのまま攻撃を受け続ければ如何な等々力拳剛とはいえ戦闘を続けるのは不可能。
ならばこのまま圧し潰すが上策。無為に危険を冒す必要はない)

ゆっくりとに、だが確実に。クレアは獲物を仕留めるべく杖を握り直した。


**************


ここで、クレアは大きな判断ミスを犯した。彼女は今、多少無理をしてでも一気に畳みかけるべきだったのだ。実は拳剛は攻撃を避けるのも一杯一杯なのだ。物量で無理矢理押し切ったのならば、確実に戦闘不能にできた。クレアはリスクを負ってでも止めを刺しにかかるべきだった。
風見クレアは聡明な女性だ。普段の彼女であればこんなミスはしなかっただろう。さながら狩人のように、どのようなプロセスで獲物を追い詰め仕留めるかの正しい判断が下せたはずだ。それができなかった原因は二つ。悲願達成のために絶対に負ける事が出来ないという巨乳党党首としての責任感の重圧。そして挑発しておきながら逃げ回るだけという拳剛の意味不明な行動。この二つである。この二つに押しとどめられて、クレアは機を逃した。
実のところ、先ほどの挑発になにか隠された拳剛の思惑があった、などと言うことはまったく無い。基本単細胞の拳剛がそんな駆け引きができるはずもない。さきほどのアレは、プロレスで言うところの「どうしたオラ全然効いてねェぞゴラァッ!!?」という台詞の意味くらいしかない。要するにただの強がりだ。だがクレアはそれを深読みしてしまった。何か策があって、それでクレアの大技を誘っているのだと勘違いしてしまった。拳剛の意図を読み違えたのだ。

拳剛は別にクレアの隙を突こうと思っていたのではない。だが無意味に避け続けていたわけでもない。
拳剛はひたすらにクレアの乳を視ていたのだ。乳を視、肉の動きを視、気脈の流れを視て、クレアの一挙一動を視ていたのだ。
何故、拳剛は攻撃をすることもなくひたすらにクレアの乳を視ていたのか。それは拳剛が魔法使いという存在を今日まで知らなかったからだ。クレアとの戦闘は、拳剛にとっては文字通り未知との遭遇の連続だった。その未知なる敵が放つ未知なる攻撃は、無敵の内視力を以ってしても対応ができなかったのである。それゆえ、『内視力』をクレアの攻撃に対応させるため、拳剛は魔法という現象を理解する必要があった。どのような肉体の動き・気脈の流れを伴い魔法という事象が発現するのか。そのプロセスを把握しなくてはならなかったのだ。
未知なる現象の理解には時間が必要だ。風の弾幕の中、拳剛は自分が倒れるよりも早く、解析を終える必要があった。これは賭けだった。とても分の悪い賭けだった。何故なら既に拳剛の肉体は先刻のクレアの攻撃に依り深く傷ついており、更に現在進行形で傷は増え続けていたからだ。
実際、拳剛はこの賭けに負けるはずだった。内視力が平常モードであったのならば、魔法と言う現象を理解するよりも早く、拳剛は力尽きているはずだったのだ。だがそれは覆された。原因はほかならぬ風見クレア自身である。
クレアが類稀なる美乳であったことが、拳剛の幸運であり、クレアの不運だった。内視力を拓くのは乳への強き渇望。稀代の美乳を前に、拳剛のテンションは最高潮に達していたのだ。そのため、解析は予想よりも遥かに早く進んだのだ。

そして今、拳剛は賭けに勝った。
圧倒的なリビドーを伴い、内視力はアップデートを遂げる。


****************



「『突撃せよ』、『集え』――――――――『突撃せよ』」

クレアは『風の壁』で拳剛を足止めし、ほんの僅かの後、『圧縮空気弾』を発射する。
膨大な質量を伴い、風の弾丸が拳剛へ飛来する。肉を抉り骨を粉砕する魔弾だ。だが拳剛はもう動かなかった。
微動だにしない標的を確認し、とうとう拳剛に限界がきたのだと、クレアは勝利を確信する。『圧縮空気弾』は着弾と共に広範囲に炸裂する。迎撃しても大ダメージを喰らうのだ。大きく避ける以外に逃れる術は無い。

だが弾丸が着弾する、まさにその瞬間だった。予想を覆す光景がクレアの視界に飛び込んできた。
拳剛の繰り出した拳の一撃が、無造作に風の砲弾を弾き飛ばしたのだ。
弾き飛ばされた遥か先で、風の砲弾が大爆発を起こす。

(『弾いた』……ッ!?)

『音速を遥かに越え』飛来する『空気の塊』を、単なる拳撃で対応された。その上、大爆発するはずの砲弾は、どういうわけか弾かれた瞬間に炸裂することはなかった。想定外の事態にクレアが一瞬硬直する。茫然自失に動きが止まる。
それは拳剛にとって、ひたすらに狙い続けた機が来たことを意味していた。この隙を逃す拳剛ではない。
拳剛の大腿筋が、常人の五倍ほどにも膨れ上がる。次の瞬間、拳剛の姿はソニックムーブを残して地上から消失した。衛星軌道に突き進むロケットのように、天空高く舞うクレアに向け突貫する。耐えに耐えに耐えて、ようやっと巡ってきた好機だ。迎撃される危険など気にしている余裕はない。

「ッ、『廻れ』ッ!!!」

拳剛の跳躍に一瞬遅れてクレアが反応する。選択した行動は防御。クレアの呪文に応えるかのように、超音速の風の渦が、彼女を守るかのように包み込む。
だがそれは悪手だ。東城流の『通し』の前には、どんな盾も、鎧も、城壁も。あらゆる防御は意味を為さない。
拳剛は大きく剛腕を振りかぶり、突撃の勢いをそのままに、『風の障壁ごと』クレアを打ち抜く。拳が標的の横腹に着弾し、太陽が爆発四散したかのような轟音が響き渡った。

「かあっ……は……ッ!!!」

とてつもない衝撃に、クレアの身体が更に天高く放り飛ばされる。

「くッ!!」

一方拳剛は、激しく回転しながら吹き飛んでいくクレアの姿を見て表情を歪めた。
思いのほか拳撃は浅かった。おそらく戦闘不能とまでは行かないだろう。戦闘で負った傷は、拳剛に十全の力を発揮することを許さない。
あるいはこれが地上であれば踏み込んで追撃ができたが、空中だとそうはいかない。拳剛は、跳躍の運動エネルギーを全て使いきり、重力にしたがって地上に落下する。

地面に着地すると、予想通りクレアは空中で体勢を立て直していた。だがそこに先ほどまでの余裕はない。顔面を蒼白にし、額からは大量の脂汗をたらしている。

「空気の塊って、殴れるものなのですね。はじめて知りました」

クレアは微笑を浮かべ、はっきりとした言葉で語る。相当な負傷のはずだが、それを態度にはまったく見せない。すさまじい精神力である。
しかし戦闘を一時中断しわざわざ話しかけているのは、時間稼ぎにほかならない。

「別にその程度は難しくない。」

だが拳剛は、明らかに時間稼ぎとわかっているその会話にあえて応じる。平然と立っているように見えても、拳剛にもダメージは蓄積されているからだ。数十分にわたり風の砲撃を喰らい続けていた事を考えれば、拳剛の方が損傷は大きいかもしれない。体勢を整えさせてくれるというのならば、乗らない手は無かった。

「東城流の二本柱の内の一つ、『通し』。これは殴る物を取捨選択する能力だ。つまり俺は、固体だろうと液体だろうと気体だろうと肉体だろうと気脈だろうと、殴りたい物を殴りたいように殴ることができる」

要するに拳剛は、衝撃の伝播を操作できるのだ。この能力を以ってすれば、人質ごと殴って敵だけを制圧したり、超音速で乱回転する気流ごと中の人間をぶっ飛ばしたり、ヘタれ男の金玉の片方だけを粉砕することなど朝飯前である。

「とはいえ、殴れようとも的が視えなくては意味がないのでな。視えるようになるまで避け続けていた」
「……なるほど、深読みしすぎましたか」

ここで、クレアは先ほど拳剛が逃げ回っていた理由を理解する。すなわち、拳剛の挑発にはまったく意味がなく、逃げ回っていたのは内視力をクレアの攻撃に慣らすまでの単なる時間稼ぎだった、ということをである。

「では、弾が炸裂しなかったのは」
「それも『通し』だ。」

先ほどクレアの『圧縮空気弾』を打ち返した時、拳剛は刹那の内に2度拳撃を放っていた。初撃で圧搾するように衝撃を伝播させることで空気弾の炸裂一瞬止め、弐撃目で遥か彼方までぶっ飛ばす。これにより、圧縮された空気を暴発させることなく爆発の範囲外まで殴り飛ばしたのだ。

「成程。お見事です、等々力拳剛」
「お前こそ、だ。風見クレア。まったく、最近はあっさり俺を追い詰める輩が増えたな。太刀川にしろ薄井にしろ、お前にしろ。今までそんな奴は先生か、あるいは尻狂いの番町くらいしかいなかったんだがな」
「あら、自分よりも強い人がいるのは嫌ですか?」
「いいや、大歓迎だ」
「……ふふ」

しばらくの沈黙のあと、二人は無言で構えた。クレアはしっかりと杖を握り直し、拳剛は腰を落として拳を構える。
張り詰めた空気の中、最後に拳剛の口から出たのは、好敵手への賞賛の言葉だった。

「お前は、いや、お前たち巨乳党は凄いな」
「凄い?」
「たかが脂肪の塊のために命を懸けようとしている」
「それを貴方が言うのですか、等々力拳剛。」

拳剛の冗談めかした物言いに、クレアはクスリと笑う。

「私たちにとって、巨乳になることは命よりも重かった。ただそれだけです。貴方にとって全ての乳がそうであったように」
「……きっと、お前たちは巨乳となるために、壮絶な努力をしてきたのだろうな。お前の乳は、気高く美しい」
「えっ……!」

クレアの頬が朱に染まる。
拳剛の内視力はクレアの乳をしっかりと捉えていた。それは彼女の努力の結晶、人生そのものだ。この世に存在するありとあらゆる手段を用いて磨き上げられたその胸部は、拳剛をして驚愕せざるを得ないほどの美しさであった。一体どれほどの研鑽を積めばそれほどの乳となるのか。拳剛ですら理解の及ばない階位まで、クレアの乳は到達していた。
おそらくは、この世で最も気高い乳。飽くなき精錬の果てに届いた乳の境地。
しかし、だからこそ。

「だからこそ、俺には気に喰わんのだ。それほどまでに気高いお前が、龍脈の力などに縋って、運命を捻じ曲げてまで願いを叶えようとするのがな」
「……!!」

拳剛の瞳に、怒りの炎が宿る。

「知っているか、乳は揉むと大きくなるのだ」
「……それは、嘘ですよ」
「腕立て伏せも効果てきめんだ」
「…………大胸筋が付くだけです」
「牛乳飲んでバストアップ」
「…………………………私はッ!!!」

拳剛の言葉をさえぎるように、クレアは叫んだ。

「私は全て試した!! 胸を揉むのも腕立て伏せも、クリームもサプリも乳酸菌も豊乳マシーンも牛乳もっ!!」 

その時、彼女から巨乳党の党首という仮面は完全に剥がされた。そこに居たのは、己が運命を呪うただの無力な一人の少女だった。

「だけど大きくなんてならなかった!! 壁は私では打ち砕けなかった!!! 人の力では、貧乳のバストアップなんて不可能なのよ!!!」
「できないなどと誰が決めたァッ!!!!」
「!!!」

少女の悲痛な叫びを、その拳剛は一喝する。

「医者か? 科学者か? それとも神か? 違うな、決め付けたのは…………お前自身だ」

だから拳剛は気に喰わない。クレアが今までの自分自身を否定してしまった事が。極地まで精錬されたその乳を否定した事が。

「元よりこの決闘、負けられない理由が俺にはある」

愛する少女を守るため。そのために拳剛は万難排し突き進む。そのためには絶対に負けるわけにはいかなかった。それは鉄の決意だ。何よりも硬い鋼の誓いだ。
だが今それとは別の、燃え盛る炎の如き想いが、拳剛の内に湧き上がっていた。

「だがそれ以外にもお前を負かしたい理由ができたぞ。俺はお前のその乳を、今までの努力を、決して否定はさせん!!」

それは、全ての乳を愛する者の、心の底から発された願いだった。たぎる想念が拳剛の全身に満ち、ボロボロに傷ついた肉体と気力を再び蘇らせる。

「運命など変えさせん。たとえお前自身が拒もうとも、お前の乳をなかった事になど、させてやるものかッ!!!」

大気を揺らす拳剛の、魂の底からの絶叫。クレアの頬には、知らずの内に温かい雫が一筋流れていた。

「ありがとう、等々力拳剛」

その口から出たのは、己が信念を全力でぶつけてきてくれた目の前の無骨な男に対する、感謝の言葉だった。とめどなく溢れるそれを拭うことなく、クレアはほほ笑む。

「貴方の言葉は、今の私を真っ向から否定する。だけど、かつての私を、ただ純粋に未来に思いを馳せ、夢を追いかけていた頃の私を真っすぐに肯定してくれた。貴方のそのたった一つの叱咤は、幾万の賞賛よりも暖かい。だからこそ……」

そして少女は涙をぬぐう。再び顔を挙げたとき、そこに居たのは最早ただの少女ではなく、一人の戦士だった。

「だからこそ、私は全力で貴方に応えます!!!」

クレアが天高く杖を掲げる。瞬間、空は混沌たる渦に包まれた。拳剛と、その遥か上空に浮かぶクレアの周りを囲うように風が吹きすさぶ。いや、それは風と言うには余りに強く鋭く凶悪だ。
刃にも等しいその大風は、拳剛とクレアを取り囲んだまま天までも伸びる。

「竜巻だと!!?」
「超音速の風の刃の束。触れば肉どころか骨まで断ち、遥かな天空まで獲物を巻き上げます。 如何な等々力拳剛と言え耐えられるものではありません」

上空遥か彼方まで続く風の柱。先ほどまでの攻撃とは規模も威力も段違いだ。まさかこれほどの奥の手を残していたとは。拳剛の頬を冷たい物が伝わる。
だが、これほどの魔法をここまで使わなかったことを考えれば、おそらくこれはクレアにとってもリスクが高いのだろう。実際宙に浮かぶクレアは、先ほどまでの比ではないほどに呼吸が乱れ、顔面は色を失い、手足は力なく垂れさがり、尋常でなく消耗している。これを耐えれば勝機はあるのだ。だんだんと半径を狭める竜巻に、拳剛は如何にして対処するか思考を巡らせる。
だが、そんな拳剛の内心を見透かしたように、クレアは告げる。

「これは貴方を討つ刃でなく、貴方を閉じ込める檻。あくまで動きを封じるためのものです」
「なに?」

拳剛の疑問に答えることなく、クレアは杖掲げる。

「『集え』『集え』『集え』『集え』――――――」

震える身体で掲げた杖の先が、歪んだ。超圧縮された空気が、視認できるほどにまで屈折率を変化させているのだ。先ほどまでの『圧縮空気弾』とは比較にならないほどの空気がクレアの杖の先端に集中している。

「今度は、着弾の前に炸裂させます。先ほどのように弾けるとは思われないよう。そして、竜巻に囲まれたあなたに最早これを避ける術はありません。」

先ほどの比ではない空気を圧縮した弾丸。当然炸裂範囲も先ほどの比ではない。つまり、なにをしようが爆発に巻き込まれる。竜巻に囲まれた拳剛に為す術は無かった。

「これで決着です」

クレアが杖を振りおろす。超圧縮された空気の砲弾が、超音速で発射される。瞬間、大地を揺るがすほどの大爆発が巻き起こった。
爆発の余波で土塊が空へと巻き上げられ、突風を伴い土煙が撒き散らされた。

数十秒後、土煙が晴れ、爆心地が顕わになる。クレーターのように大きく抉られたそこには、しかし拳剛の姿は無かった。

「ッ!!?」

クレアの表情が驚愕に染まる。
肉片も残さぬほどに吹き飛ばされたのか。いや、拳剛の肉体強度を考えればそれはありえない。腕の一本は転がっているはずだ。だがそれすらない。
つまり拳剛は、攻撃を回避したのだ。

(上方は圧縮空気弾、周囲は超音速の竜巻、ならば地中に逃げた?
いや、地面に潜ったところで空気弾の爆発からは逃れられない。ということは……!!?)

それはあり得ないことだ。考えられないことだ。だが可能性はそれしかない。己が予想を確認すべく、クレアは咄嗟に天を仰いだ。

その予想は的中していた。

「風見、クレアァアアアアッ!!!!!」

その男は、等々力拳剛は、空から降ってきた。全身から血を滴らせ、妙な方向に捻じれた左腕を力なく垂れ下げながら、血走った目でクレア目がけて一直線に突っ込んでくる。

拳剛は自ら竜巻に呑まれていたのだ。圧縮空気弾をあのまま喰らっていれば間違えなく死んでいたから。無論竜巻に巻き込まれてもただでは済まない。が、しかし竜巻は上へ上へと渦巻いている。つまりあの大渦は、クレアに通じていた。
難しい事ではない。座して死ぬか、一歩でも敵に近付いて死ぬか。その二択で、より前のめりの方を選んだだけの事。
生きてるか死んでるかでいえば、拳剛の身体はほぼ死人だ。それを動かしているのはただ二つ。沙耶への想いと、乳への想い。その二つの想念だけが、死に体の男を突き動かす。

切り刻まれズタぼろになった身体で、拳剛は唯一使える右腕を振り上げる。撃てるのは一発。たった一発。だが拳剛にはそれで十分だった。
天空からの襲撃者に気付いたクレアは咄嗟に圧縮空気の竜巻でガードしようとするが、しかし遅い。圧倒的意志を以って突撃する男を止めるには、防御などでは遅すぎる。

「ガあァァアアアああああああっ!!!!!」

クレアの防壁が出現するより速く、咆哮する拳剛の拳がクレアに叩きこまれる。圧倒的筋力で以て、その華奢な身体が吹き飛ばされ、地面へと叩きつけられる。

拳剛の勝利だった。


*********************


拳剛とクレアの死闘は、拳剛の勝利と言う形で幕が下りた。
互いに死力を尽くした二人の戦士、風見クレアと等々力拳剛は、一人は力なく戦場に倒れこみ、もう一人は片膝をついて息も絶え絶えに座り込んでいる。

と、突如、拳剛とクレアしかいないはずのその場に拍手が響き渡った。拳剛が音の元を探すと、そこには、いつの間にか現れた一人の男がいた。黒瀧黒典だった。黒典は微笑を浮かべて静かにたたずんでいる。

「見事だ等々力拳剛、まさか風見クレアに勝つとは」
「黒瀧黒典、」

お前が何故ここに、と言う前に、拳剛は黒典が何かを担いでいることに気付いた。
それは拳剛もよく知っているものだった。そしてこの場にはいるはずのないものだった。
黒典が携えていたもの、それは等々力拳剛最愛の少女

「ッ沙耶っ!!?」

護国衛士と憂国隠衆に守られているはずの少女が、そこに居た。
驚愕する拳剛をよそに、黒典は表情を変えずに淡々と告げる。

「等々力拳剛、龍脈の守護者よ。真の龍脈の鍵は頂いた」
「貴様ッ、一体何を!!!?」

事態の展開に、拳剛の思考は追いつかない。何故沙耶がここに居るのか。何故黒典がここいるのか。何故黒典は沙耶を抱えているのか。何故黒典は―――気づいているのか。
混乱する頭では、口から出せるのは意味のない言葉だ。目の前の男を止めることなどできはしない。

故に、黒瀧黒典は高らかに宣言する。

「そして今こそ名乗ろう!全ての偽りを剥ぎ取り名乗ろう!!
私はたった一人の軍勢。全ての乳を滅ぼす者。すなわち我こそは―――――――『虚乳党』」



戦いは、最終局面を迎えようとしていた。



[32444] 17
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/06/23 23:40
時は拳剛とクレアの決闘が始まる時刻にまで遡る。

沙耶は、現在自分がおかれた状況に困惑していた。

(なんだこれは)

学校が終わり、ちょっと用事があるので一緒に来てくれないかと太刀川に誘われたことがそもそもの始まりだった。ここ数日で太刀川と仲良くなった沙耶には断る理由はない。快く了承して付いて行くと、連れてこられたのは先日の誘拐騒動を思い出すような廃工場えだった。
中には沙耶をさらったエイジと現代風忍者が再び集結していた。今回は全身甲冑姿の侍衆も増えている。その数、総勢60名程度。全員が何らかの武装をしており、さながらどこぞの事務所に殴りこみをかけるかのような緊張した雰囲気だ。この前エイジに誘拐された時を思い出す様な光景であるが、そのときよりもカオス度が遥かに増している。

その混沌たる状況の中で、現在沙耶は甲冑姿の太刀川とお茶をしている真っ最中だった。
また何か厄介事に巻き込まれたのだろうか。そんな不安が沙耶の脳裏をよぎる。しかし今回はエイジと現代風忍者も、前回の時のように沙耶を簀巻きにして地面に放り出すというような暴挙には出ていない。むしろ客分として丁重にもてなされている。
よってそこまで心配することは無いのだろうが、しかしこの状況でのほほんとしていられるほど、沙耶の肝は据わっていない。

「へいへい、どうした東城君、リラックスリラックス」

エイジが落ちつかない様子の沙耶を見て、緊張をほぐしにかかる。だが刃物携えた筋骨逞しい男達に囲まれて緊張するなという方が無理な話である。薄井のおちゃらけたその様子に、沙耶は軽く眉をひそめて尋ねた。

「薄井君、これはどういうことなの?」
「ひ・み・つ」
「片玉潰すぞ」

茶化す様な態度をとるエイジに、慣れない状況に少々緊張気味の沙耶が、思わずドスの効いた声を出してしまったのも仕方のない事だろう。

「お、おおぅ。最早片方しかない玉を躊躇なく粉砕宣言……流石は等々力拳剛の相方」

内股になって顔を青くするエイジ。どうやら悪意があるわけではないらしい。沙耶は思わずため息をつく。

「もう一度聞くけど。なんで私はこんな場所に連れてこられたの?」

今度は甲冑姿の太刀川を見つめて言う。沙耶の口調に、太刀川は申し訳なさそうにあやまった。

「いきなり連れてきてしまって申し訳ありません。実はあなたの身に危険が迫る可能性があるのです。ここに来てもらったのは、その危険から東城さんを守るためなんです」
「危険?」
「ええ、詳しくは話せないのですが。」
「ああ、そうかそういう。わかった、なんとなく予想はついた」

恐らくは拳剛関連だと沙耶は当たりをつけた。どうやら太刀川とエイジ達は好意で沙耶を保護してくれているようだった。エイジだけならばまた悪意を持ってさらわれたのだと考えるが、太刀川がいるならばそれはないだろうと考える。太刀川との付き合いは短いが、沙耶としては友人と呼べる程度には彼女を理解できたつもりであった。

「そっか、助けてもらってるのに失礼な事言っちゃった。ごめん」
「まぁ一度は誘拐されたわけだし、そうなるのも無理はないと思うよ」
「さらった張本人がそれを言うな」

太刀川が刀の柄でエイジを小突く。

「まぁほんの数時間で終わるからさ、ちょっとだけ待っててよ」

やはりおちゃらけた様子で、エイジはそう言うのだった。






*************






「そろそろ、等々力と風見クレアの決闘が始まるころかな」
「仕掛けてくるとなれば今だろうな。気を抜くなよ薄井エイジ」
「分かっているさ、任務は果たす」

太刀川の諫言に、言われるまでもないとエイジは頷いた。このミッションが護国衛士、憂国隠衆双方の目的達成の命運を握っているということは、エイジ自身重々承知している。

これから等々力拳剛と風見クレアが行う、龍脈の鍵をかけた決闘。その決闘に拳剛が勝てば龍脈の鍵は守られるが、クレアが勝てば鍵の封印は解けて彼女達の手中に堕ちる。しかし、拳剛の実力を知る太刀川や隠衆の者達は、拳剛の敗北はまずないだろうと考えていた。
むしろ太刀川達衛士・隠衆連合軍が恐れていたのは、決闘以外の方法、例えば強奪、あるいは人質を取っての恐喝などによって鍵が奪われることだ。現状、巨乳党には対結界・封印の能力を持つ者が少なくとも一人はいることが確認されている。つまり敵は、わざわざ正式な手順を踏んで鍵を手に入れる必要はないということだ。無理に拳剛との決闘に勝たずとも、無理矢理奪って鍵の封印を解いてしまえばそれで事足りる。
よって現在、連合軍の最重要任務は巨乳党による鍵の奪取を防ぐことだった。そのために拳剛から鍵を預かり、更にはもっとも人質として狙われる可能性の高い東城沙耶を護衛している。

「鍵と東城沙耶は死守するぞ」
「ああ」

太刀川とエイジが己の任務を確認しあう。そこに、先日まで争っていた者同士のわかだまりなど存在しない。方法は違えど、衛士と隠衆は共に護国ために行動している者達であるからだ。
二人は無言でこつんと拳を合わせる。

まさにその瞬間だった。突如として工場内に爆音が響き渡った。とてつもない衝撃がその場にいた全員に襲い掛かかる。
それと同時に工場を覆っていた結界が消失したことを、術者であるエイジは察知した。それは先日の隠衆対拳剛の戦いのときに起こった結界消失とまったく同一の現象だった。

「総員、戦闘態勢」

突然の襲撃に、しかし連合軍が揺るぐことはない。第三勢力による襲撃は想定通りの事態だ。巨乳になるという目的だけで衛士や隠衆を越える一大勢力を築いた者達が、よもやその悲願を達成するための保険をかけておかないはずがない。むしろ何もしないという方が考えにくかった。
太刀川の号令に従い、その場の人間は警戒態勢から臨戦態勢にシフトする。それぞれが得物を鞘から抜き放ち、抜き身の刃を構えた。

「等々力拳剛に連絡は?」
「この前携帯を壊していたから無理だろう」

エイジの問いを、太刀川は軽く首を振って否定する。拳剛の携帯は先日エイジが沙耶の携帯から電話をかけてきた後に本人によって衝動的に粉砕されている。よって携帯電話による連絡は不可能だ。もっとも時間的に考えれば決闘が始まっている頃であるので、携帯が無事であったとしても連絡をとるのは不可能であっただろうが。

「東城さんは?」
「大丈夫だ、予定通り隠し部屋に案内した。少なくとも戦闘に巻き込まれる心配はないよ」
「そうか」

その会話を最後に、エイジと太刀川はそれぞれ苦無と刀を構え、爆煙の向こうから来るであろう者達に備える
敵は巨乳党。その規模は護国衛士、憂国隠衆のいずれをも凌ぐ。一体どれだけの数の襲撃者が来るのかはまったく予想がつかなかった。100か200か。あるいは1000人を超える大軍勢ということもありうる。連合軍の緊張は否応なしに高まった。

だが以外にも、爆発の黒煙の中から出てきたのはたった一人の男だった。長身痩躯、八雲第一高校の指定学ランに身を包み、顎と口元に立派な髭をたくわえたその男。
黒瀧黒典である。

「やぁ、ごきげんよう。この国の守護者たちよ。龍脈の鍵を頂きに参上した」

黒典は薄笑いを浮かべ、芝居がかった様子で頭を下げる。想定外の事態に、まず口を開いたのはエイジだった。

「黒瀧黒典か。まさか君一人かい」

その問いはその場にいた全員の内心を代弁していた。護国衛士と憂国隠衆は、国の霊的防衛を担う戦闘集団である。故に、方向性の違いはあれどメンバー全員が超人と呼ばれるにふさわしい実力を有する。その衛士と隠衆の連合軍の元に、黒瀧黒典はただ一人で殴り込んで来たのだ。狂気の沙汰以外のなにものでもない。
だが黒典はエイジの言葉を肯定する。

「ああ、一人だとも。これは巨乳党とは全く関係のない行動なのだから、当然だろう」
「関係がない?」

黒典の言葉は、太刀川達の意表をついたものだった。

「まず、風見クレアの名誉のために言っておこう。彼女は決闘で負けたならば龍脈からは手を引くと決めている。無論、党員達も了承済みだ。故に彼らは風見クレアと等々力拳剛の決闘に、いかなる形であろうとも横槍を入れるつもりはない」
「へぇ、そりゃ潔いことだ。だけど君の行動はまるっきり矛盾していないかい」

黒典は巨乳党に属する人間のはずだ。巨乳党が鍵を拳剛との決闘以外の方法で手に入れるつもりがないというのならば、黒典が鍵を狙って連合軍を襲撃するのは理屈に合わない。黒典は行動と言葉が完全に食い違っていた。
そんなエイジの皮肉を、黒典は小さく首を振るって否定する。

「いいや、矛盾していないさ。私は既に党を脱した」

まぁ無断ではあるがね、と黒典は付け足す。

「私が巨乳党に属していたのは、龍脈の鍵の在り処を知るためだ。それが明らかになった以上、私にあそこに残る理由は無い。最早、我が信念を偽る必要は無いのだ」
「なるほど、アンタ鍵の在り処を知るためだけに風見クレアに与しているフリをしてたのか。案外狡いな」

エイジは理解した。つまり最初から黒典は龍脈の鍵の在り処を知り、それを手に入れるため巨乳党の同志のフリをしていたのだ。

「卑怯者の謗りは甘んじて受け入れよう。だが我が宿願を果たすためなら私は手段を選ばない。雌伏の時は既に過ぎた、今こそ我が信念を貫かせてもらおう」

黒典の全身から漆黒の粒子がほとばしる。それは工場の屋根を突き破って大気を揺らしながら天まで立ち上り、爆散し、四方八方へと降り注いだ。

「改めて名乗ろう。我が名は黒瀧黒典。全ての乳に虚ろなる平等を与える者。すなわち我こそは―――――虚乳党」

空間がどす黒く染まるほどの圧倒的存在感。衛士と隠衆という一級の戦士達と唯一人で相対してなお、黒典の表情には欠片のおびえも恐怖も存在しない。その瞳にあるのは、今にも喉笛を喰い千切らんとする肉食獣の如き危険なきらめきのみである。
その場にいた全員が、黒瀧黒典という男が只者でないことを理解した。太刀川とエイジ、そして衛士隠衆連合は、その怪物に圧される事なく武器を構える。

「貴様の信念などに興味はない。だが鍵を狙うというのならば容赦はせん」
「多勢に無勢で悪いけど、数の暴力で押し切らせてもらうよ」
「数の暴力?」

太刀川とエイジの言葉に、黒典は大きく唇を歪めて嗤う。

「覚えておくといい少年少女よ。有象無象がいくら纏まろうが、絶対的な力の前には無意味であるという事を」


その言葉を皮切りに、戦いの火ぶたが切って落とされた。
まず真っ先に動いたのは憂国隠衆であった。エイジを含む数人の男がそれぞれ印を組み、戦場に無明の闇を生み出す。それは、先日の拳剛の戦いで使用されたものと同一のものであった。すなわち、敵である黒典のみの視界を奪うまやかしの妖術である。
突如として視界の一切を奪われた黒典だが、それによってその口元から余裕の笑みが消える事は無かった。

「ほう、めくらましの術か。なかなか良くできているが、残念ながら」

黒典が指を鳴らす。同時に、彼の全身から立ち上る暗黒の粒子がまやかしの闇を喰らい、結界は雲散霧消する。

「私には通用しない」
「やはり結界は効かないか」

あっさりと先制攻撃が無効化されたエイジだが、それは予想していたことだ。あくまで今の術は確認作業に過ぎない。すなわち、黒瀧黒典の能力が、連合軍が今最も危惧している結界・封印破壊能力であるということを確かめるためだ。

「これで奴が結界破壊の能力者で間違いないな」
「ああ、確定だ。つまりコイツさえ倒してしまえば、もう鍵の封印が強引に解かれることは無いってことだ」

ここで黒瀧黒典を排除しておけば、たとえ龍脈の鍵が強奪されたとしても鍵を守る封印が解かれることは無くなる。連合軍の第一目標が、『鍵及び東城沙耶の死守』から『黒瀧黒典の排除』へとシフトする。

「奴さん龍脈に相当ご執心みたいだし、退く気はないだろうね。丁度いいからここで袋にしてやる」
「奴の能力を考えれば小細工は逆効果だ。正面から斬り伏せる。」
「了解だ。サポートする、行け太刀川怜」

太刀川をはじめとする護国衛士が、黒典目がけて一気に間合いを詰める。全ての攻撃が一撃必殺であり、獲物の命を刈り取る牙。その牙が黒典の全方位から同時に迫る。
黒典が動こうとする。その瞬間、迫り来る衛士たちの陰から無数の鎖分銅が伸び、迎撃せんとする黒典の両腕を絡め取り・拘束する。隠衆の支援攻撃だ。今度はエイジが笑みを浮かべる番だった。

「捕まえた」

衛士達の僅かな隙間を通すように分銅を飛ばすことで、肉の壁で攻撃を隠し、寸前まで黒典に反応させなかった。先日の拳剛との戦闘では様々な要因が重なったため真っ向からの殴り合いとなりその力は十分に発揮されなかったが、本来彼らが戦闘において得意とするのはこういった支援行動である。故にその本領は、前衛部隊である太刀川怜ら護国衛士と組んではじめて発揮される。

「ほう、良いコンビネーションだ」

喜色すら混じる声色で黒典が言う。両腕を封じられ、回避も防御も不可能。この絶体絶命にも思われる窮地にも黒典は泰然自若なる態度を崩さない。

「終わりだ」

太刀川の言葉と共に、黒典の肉体を裂き・突き・抉り・削ぐために、数多の白刃が繰り出される。神速を以って繰り出されるその刃全てをただ無防備に受けることしかできない黒典は、肉体の型すら留めず鮮血と共に絶命する、はずだった。

だが振り下ろされた刀身は、黒典の身体にたった一つの傷すら負わせることはなかった。全ての攻撃は確かに黒典の肉体に直撃したが、しかしその一つとして、黒典の皮一枚も斬り裂くことはできなかったのである。
衛士達の表情が驚愕に染まる。

「終わり、かね?」

射殺すような黒典の眼光に、咄嗟に太刀川は飛びずさる。次の瞬間、黒典は自身を拘束していた鎖を無造作に引きちぎり、周りに群がっていた男達にむけて拳を繰り出した。それは型もなにもない出鱈目な突きだった。しかしその拳速は衛士達の斬撃すらも凌駕する。そしてその攻撃に直撃した衛士は例外なく、堅守を誇る甲冑ごと肉体を拳で穿たれ、工場の端まで吹き飛ばされた。
ギリギリのところで回避した太刀川の背中を冷たいものが伝う。

「成程、言うだけの事はある」

ただ一度の交錯。それだけで、百戦錬磨であるはずの衛士の3割は地に伏していた。

「うげぇっ……なんだよあの堅さとパワーは」

目の前の惨状に、エイジは思わず顔を青くした。真っ向勝負を得意とする衛士の攻撃をものともせぬ防御力、気で編まれた甲冑ごと獲物を粉砕するパワー。いずれもが異常極まりない。おそらく、剛力無双を誇る等々力拳剛ですら、単純な肉体強度では黒典の足元にも及ばないだろう。黒瀧黒典という男は、想像以上の怪物であった。
冷や汗を流しつつ頬を引きつらせるエイジとは対照的に、太刀川は冷静に敵の力量を分析する。

「気の力が桁違いだな」

黒典は拳剛のように筋肉がおおいわけではない。むしろ細身だ。だというのにこの剛力。これはつまり、黒典の気脈の出力が途轍もないということの証拠だった。事実、立ち上る気は物理的な圧力すら伴って場の人間を威圧する。
太刀川やエイジだけでなく、連合軍の誰で一人として、これほどの気脈を持つ人間は見た事がなかった。

「だが逆に言えばそこに隙がある」

つまるところ、黒典はただの馬鹿力だ。そしてその動きは素人同然。ならばいくら速かろうが強かろうが、『武』を修めた太刀川達ならば対応することは可能だった。それに、気の力で刃が通らないと言っても全身がそうであるわけがない。気脈による身体の強化は、身体の本来の能力を強化する形で行われるからだ。瞳や口といった、元々脆い部分には攻撃は通る。
勝算は十分あった。

「突き崩すぞ」

太刀川の号令に従い、再び連合軍の攻撃が開始される。
黒典は驚異的な身体能力を持つ。迂闊に密集すればまとめて倒される。よって、先ほどのように全員で同時に決めに行くことはしない。連合軍は人数で勝る事を盾に、一撃離脱を断続的に繰り返す。狙うのは攻撃の通るであろう部位のみである。両眼、口、あるいはうなじや金的といった、元々の肉体強度が低い急所だ。
連合軍は黒典を囲うように陣形を取り、全方位からヒットアンドアウェイを繰り返す。

一方黒瀧黒典はあえて積極的に攻勢に出ることなく、防戦に徹していた。間断なく襲い来る攻撃の全てをその超絶たる反応速度を以って回避する。眼球を抉らんとする切先を首だけで避け、腱を断とうとする一閃を踏みつけて受け止め、喉元を抉らんとする刺突を両の指で受け止める。歩法もなにもない無茶苦茶な動きであるが、それでも太刀川達の攻撃はかすりすらしない。それどころか、離脱が遅れた者には甲冑ごと肉を抉る怪力で力任せに殴りつけることさえしてみせる。そこには多対一の状況で追い詰められている様子など欠片も見当たらなかった。その余裕たるや、この死闘を楽しんでいるようにさえ思えるほどである。

「どうした諸君、これでは私を打倒することなど永久に出来はしないぞ」

黒典が哂う。その言葉が示す通り、戦いが始まってから黒典は一つも傷を負っていない。一方連合軍は最初の一合で味方が数多く削られ、現在も黒典の反撃により一人また一人と倒れていっている状況である。
しかし黒典の嘲笑に、逆に太刀川は不敵にほほ笑んだ。

「いや、そうでもないさ」
「強がりかね、それとも何か策があるのか」

太刀川と会話する黒典に衛士の一人が背後から這うように迫り、その金的目がけて太刀で斬り上げる。しかし、黒典は超速反応を以ってその攻撃をたやすく感知し、あっさりとその斬撃を足で受け止めた。

「背後から襲ったところで意味もないのは、もはや分かり切っているだろうに」
「片足、浮いたな」
「なにを言って……」

黒典が太刀川の言葉を聞き返すより速く、今度は別の衛士が黒典の膝裏の関節部に斬撃を叩きこむ。その攻撃自体で絶大な気の力で守られた黒典の肉体が傷つくことはない。故に黒典はその攻撃を感知しつつも、防御も回避もしなかった。しかし膝の稼働方向に加えられた衝撃によって、片足立ちだったその身体は大きく後ろへとのけぞることとなる。

「ぬっ」

そのとき、初めて黒典は連合軍の狙いに気がついた。だがすでに遅い、嵌める型は既に完成している。
今度は正面から、4名の衛士が黒典向けて突貫する。黒典は迎撃しようとするが、片足で後ろにのけぞった状況では、いくら超絶なる膂力を持とうともまともな攻撃ができるはずもない。拳を繰り出すも、撃破できたのは突っ込んできた内の2人のみ。辛くも迎撃から免れた残りの衛士二人は、黒典の首に両サイドから腕を回し、そのまま敵の大きく反った上体を全力で地面に叩きつけた。同時に倒れた黒典の両腕を抑え込み、動きを封じる。
地が陥没するほどに強かに背面を打ちつけられ押し倒されたた黒典だが、やはりその肉体にはダメージはない。また、両腕を屈強な戦士に押さえつけられていようとも、一瞬あればそれ以上の剛力でその拘束を外すことは黒典には可能であった。
拘束を外し、立ち上がり、迎撃の体勢を整える。わずか一瞬有ればそれが適う。だがその一瞬を太刀川が与えるはずがなかった。

「黒瀧黒典、覚悟ッ!!」

神速の跳躍で間合いを詰めた太刀川が、黒典の眼球向けて太刀を突き下ろす。
太刀川の一閃は黒典が拘束を解くよりも速く、その頭蓋を穿つだろう。両腕の拘束を外さねば脳が貫かれ、拘束を外しても脳が太刀川の攻撃を回避できずに貫かれる。
よって、黒典のとった行動は至極単純だった。すなわち、回避と迎撃を同時に行ったのだ

「ぬぅん!!」

裂帛の気合いと共に、黒典は両腕の衛士を力任せに太刀川めがけて叩きつけた。太刀川の刃の切先は黒典の眼球を貫く代わりに、二人の戦士の肉を抉り、さらに彼女の身体は二つの肉塊をぶつけられたことにより大きく体勢を崩した。

「しまっ……!!?」
「惜しかったな、太刀川怜」

その刹那の間に体勢を立て直した黒典は、拳を大きく振りかぶる。その腕にこめられた気の力は、二人の衛士と太刀川をもろともに粉砕してなお余りあるほどのものだ。太刀川の脳裏を死の一文字がよぎる。

「さらばだ、護国の刃」

黒典の全身全霊を込めた一撃が、太刀川向けて振り下ろされる。
まさに、その瞬間だった。

「ああ、さよならだ。ただしお前がな」

音もなく、匂いもなく、熱もなく、影もなく、空気の震えすら伴わずに、薄井エイジは黒瀧黒典の背後に現れる。
これがさきほどまでの黒典であれば、なんなく反応してエイジは肉塊と化していただろう。しかし今黒典は、太刀川という己が命を脅かした脅威に向け全神経を集中させていた。その差が、黒典の反応を僅かに鈍らせた。

「ッ!?」
「おやすみだ、黒瀧黒典」

黒典が回避行動に移るより速く、その頭部をエイジの指が叩く。
瞬間、黒典の意識は幻にとらわれた。その全身が脱力し、再び大地へと倒れる。
薄井エイジは触れさえすれば相手を幻の中に落すことができる。そしてこの幻術は結界や封印と異なり、相手の脳内に直接作用して効果を発揮する。黒瀧黒典の結界・封印破壊能力では、この術を解くことは不可能だった。
とはいえ、等々力拳剛のような例もある。幻術にかけたからといって安心はできない。止めはきっちり刺しておく必要がある。

「太刀川怜」
「わかっている」

エイジと太刀川はそれぞれの得物を構え、力なく倒れる黒典の眼球めがけて刃を振り下ろした。



そしてその刃が黒典の瞳を抉らんとしたその瞬間、黒瀧黒典の全身からどす黒い粒子が噴出した。
すさまじい闇色の粒の奔流は、物理的な衝撃を伴い二人の戦士を弾き飛ばす。

「くっ!?」
「なッ!!?」

宙高く弾きあげられた二人は、すぐさま空中で体勢を立て直し着地する。おのおのが今起きた現象を確認しようとするが、しかし黒の粒子が辺り一帯を覆い、視界が開けない。

「一体、なにが……?」
「太刀川、右だっ!!!」
「ッ!!?」

太刀川のすぐ横で、黒の靄の中で僅かに動いた影を確認したエイジが即座に叫ぶ。だが太刀川がそれに反応する前に、黒の粒子を突き破って現れた拳が、太刀川の鎧を貫いて鳩尾に抉り込まれる。
肋骨が粉砕する音を感じながら、太刀川は工場の端まで殴り飛ばされた。

「見事だ、護国の刃達よ」

漆黒の粒子の織りなす巨大な柱に包まれながら、目覚めた黒瀧黒典がゆっくりと姿を現した。
それはありえない光景だった。エイジの顔から色が失われる。

「おいおい、まさかあの極僅かな時間で幻術を解いたのか」

エイジは確かに黒典を幻術に落した。それは間違いない。そして、黒典に止めを刺す刃を振り下ろすまでは十秒も間はなかった。つまり黒典は、その僅か数秒の間でエイジの術を破ったということになる。これはあり得ないことだった。
エイジの困惑を見透かすかのように黒典は頬を歪め、そして訂正した。

「解いた?違うな、『浸食』したのだ」
「浸…食?」
「そうだ」

茫然と聞き返すエイジに、黒典は満足げに頷く。

「諸君は私の能力が『結界破壊』と『超出力の気脈』の二つだと思っているようだが、それは間違いだ。私が有する能力はたった一つ。『気の浸食』だ。
私はこの力を『黒』と呼んでいる。あらゆる気脈はこの黒の粒子に浸食され、我が支配下に置かれる」


『気』は生けとし生ける者全てが持つ力、生命エネルギーの発露だ。人間だけにとどまらず、草木や獣、あるいはこの星自身も宿している。そのポテンシャルは絶大だが、実際に運用できるのは自分自身の気脈のみである。他の生命体の気力を自分の物として扱うことは非常に難しい。
この原因は気の力がその生命体固有の形質を持ってことに由来する。気はそれぞれ固有の波長のようなものを持っており、自身の気脈の波長とは異なる形質を持つ気脈は扱うことができないのだ。
だが黒典はそれに当てはまらない。彼の能力は他者の気の波長を自分の気の波長に合わせる事ができ、それによりこの世にあふれる気の力を無制限に使用することができる。更に、妖術や魔法等といった気から構成される術も自らの支配下におけるわけだ。

(はっ、理不尽極まりないな)

エイジは怯えるのを通り越してあきれ果ててしまった。要するに黒典は燃料タンクがガソリンスタンドと直結したF1カーのようなものだ。フルパワーハイパワーで永遠にエンジンを駆動し続ける事が出来る。その上あらゆる術や魔法を無効化し、自身の気力に変換することができる。まさしく無敵の能力。魔王とでも形容するのが相応しいか。

「主力は堕ちたが。まだやるかね諸君」
「誰が、堕ちたと?」
「ほう」

黒典が声のした方を見やる。太刀川がよろめきながら立ちあがっていた。黒典は笑みを深める。

「私の攻撃を受けてよく立ったものだ。だが無理はしない方がいいな。先日の隠衆との戦いでの負傷はまだ完全には癒えていないのだろう?全快していればあるいは、私に手傷程度は負わせることができたかもしれないがね」

黒典の言葉に太刀川は否定を返し、エイジもそれに続いた。

「我らは護国の刃。この程度で退くわけがあるまい」
「流石に腕の一本ぐらい落としとかないと、奴に面目が立たないかな」

衛士と隠衆の士気は下がったが意志は折れていない。元より国の守護に命を捧げた者達。絶対に敵わぬ敵と相対した程度で今更怯むはずもない。
黒典の唇が吊りあがる。

「その意気やよし」

そして、勝敗の定められた戦いが始まった。





*********





「傷を負うのは、久しぶりだな」

自分以外に立っている者がいなくなった工場内で、黒典は誰に言うでもなく呟いた。数十名の戦士たちは、今は全員力尽き地に倒れ伏していた。
戦いの中で、黒典の右腕には鈍い痛みが蓄積していた。ダメージともいえぬそれを、賞賛の意をこめてあえて『傷』と言った。

「天晴れだ、護国の刃達」

その言葉を最後に、黒典は目的の物があるであろう場所へ向けて歩き始める。

黒典の『黒』は先ほどの戦いで周囲に広く拡散されていた。それを通して、黒典はこの付近にあるものを大まかに把握している。例えば、この工場内に窓がいくつあるかだとか、出入り口は何か所あるかだとか、あるいは隠し扉がどこにあるかだとか。

「ここか」

黒典は工場の端にある廃材の置かれた区画に着いた。よく見れば、廃材の下に鋼鉄製の扉があることがわかる。黒典は無造作に床を踏みつけた。轟音と共に床は粉砕され、その下に隠されていた地下への階段が顕わとなる。
階段を下っていくと、頑丈な鋼鉄製の扉で閉ざされた部屋があった。再び黒典は扉を蹴破る。
部屋の中に居たのは、黒典も知っている少女・東城沙耶だった。

「あれ、髭面さん。何でこんなところに……」
「悪いが眠っていてもらおう、東城沙耶よ」

沙耶が言葉を言い終わるより速く、黒典の手刀が沙耶の意識を刈り取る。意識を失った沙耶は、力なく床に倒れ伏した。
黒典部屋の中を見回すと、部屋の端に金庫があるのを見つける。重厚な扉によって守られたそれを黒典は拳撃によって粉砕し、中におさめられていた物を取りだした。古びた巾着袋の中に入れられていたそれは、拳剛が連合軍に預けていた鍵である。

黒典は無言で『黒』を発動させ、拳剛の鍵に施された封印を解除にかかる。おびただしい量の黒の粒子が封印へと吸い込まれ、そしてそれを破壊する。鋼の引きちぎれるような音と共に中から現れたのは、龍脈の鍵などではなく、小さな鉄の鍵だった。

「やはり、な」

だが黒典は驚いた様子はなく、むしろその事実にかえって納得した様子であった。黒典は、最初から拳剛が龍脈の鍵を持っていないことに気づいていたのだ。
黒典の能力『黒』は、あらゆる気の力を察知し浸食する。それ故、黒典は拳剛の内視力ほどではないにしろ、気脈の流れを感じ取ることができる。故に、拳剛の持つ鍵の中に、気の力が存在しないことはいち早く察知していたのだった。
そして黒典には、本物の鍵がどこに存在するのかも大よその予想が付いていた。

「等々力拳剛の鍵は偽物だった。しかし東城源五郎に龍脈の鍵を託せる様な人間は他にはいない……ただ一人を除いては」

黒典が再び『黒』を発動させる。黒の粒子が襲い掛かったのは、沙耶の胸部だった。
黒典は拳剛の鍵に気の力がないのに気付くとほぼ同時期に、東城沙耶の胸に何らかの隠蔽用の封印が施されていることに気づいていた。その封印を黒典の『黒』が浸食する。
無数の暗黒が沙耶の胸に吸い込まれ、鉄の鎖が軋むような音を上げる。数秒後、封印は完全に浸食され砕け散った。
それと同時に、まばゆく輝く光が沙耶の胸に現れる。それは、実体化するほどに超高密度に圧縮された、気の力の結晶であった。


「ようやっと見つけたぞ、龍脈の鍵よ」


少女の胸に秘められた秘密が今、白日のもとに晒された。






**********






そして時刻は再び、拳剛とクレアの決闘が終了した時刻に戻る。

「沙耶を離せッ!黒瀧黒典!!」
「我が悲願を叶えるための鍵、手放すとでも思うか?
……忠告したはずだ、我が友・等々力拳剛。君の敵達は手段を選ばぬとな」

その言葉に、拳剛は黒典が全てを知っている事を理解した。拳剛は絶句する。

「何故だ。何故、気づいた」
「私も君ほどではないが気の力には敏感でね。君の持っていた鍵の中身が龍脈の鍵でない事は最初から気付いていた。君が鍵の持ち主でないとなれば、おのずと答えは決まるだろう。
君と風見クレアの決闘までは、義理を立てて行動は起こさなかったがね」
「沙耶さんが、本当の龍脈の鍵だったのですね」

いつの間にか起き上がっていたクレアが、茫然とつぶやいた。黒典の言葉で、クレアもまた全てを察したようだった。

「おや、随分と落ちついた様子だが『党首殿』。いいのかね、等々力拳剛は君を騙していたのだぞ?」

その台詞に、拳剛は顔を伏せる。黒典の発言はあまりに正鵠を射ていた。拳剛は唯の鍵を龍脈の鍵を偽っていた。もちろん負ければすべての嘘は明るみに出て、消去法的に沙耶が本物の鍵を持っていることは判明していただろう。だがそれで偽りが許されるわけではない事は拳剛自身が重々承知していた。
だがクレアの答えは淡々としたものだった。

「私は負けたのです。龍脈の鍵を懸けた戦いで、鍵の守護者と全霊を以って戦い、そして敗北した。本物の鍵がなんであれ、最早私に龍脈の力を手にする資格はありません。
私には本当に許せないのは貴方です、黒瀧黒典」
「何に怒る。私が真実を隠していたことにかね?」
「いいえ、それは違います。黒瀧黒典、信念の在り様はどうあれ、貴方は巨乳党のためにその力を尽くしてくれました。貴方は同志では無かったかもしれませんが、少なくとも私たちの仲間ではあった。だから、貴方が信念を偽っていたのは赦しましょう。貴方にも貴方の事情があったのでしょうから」

瞬間、クレアの表情が憤怒に染まる。

「私が許せないのは、あなたが我らの決闘を穢したことです。横から鍵を奪い去り、我らの信念の死闘を茶番劇に仕立て上げた。到底許せる事ではありません」

決闘の勝者である拳剛の手に収まるべき龍脈の鍵。それが今、一人の男によって奪われた。命と信念を懸けて戦ったからこそ、クレアにはそれが許せない。

「黒瀧黒典、私は巨乳党党首として貴方を断罪します」

クレアの台詞に黒典は唇を歪めてほほ笑んだ。

「やめておいた方がいい。二人ともまともに動けるような身体ではないだろう?よもや、そのような満身創痍で私に勝てるなどとは思ってはいまい」

黒典から黒い粒子が立ち上る。闇色の粒は、囲に拡散し、再び黒典の身体へと収束する。同時に黒典の全身から突風を巻き起こすほどの途轍もない気がほとばしる。
その波動を肌で感じながら、満身創痍の二人は杖と拳を構えた。

「等々力拳剛。彼は、黒瀧黒典は他人の気を喰らいます。気を放出さえしなければ、少なくとも自分の気を浸食されることはありません。内気を練って対応して下さい」
「成程、それが奴の能力か」
「ええ、凶悪な力です。気をつけて下さい。彼の本気は私にも……」

その瞬間、クレアは一瞬にして間合いを詰めた黒典に殴り飛ばされる。ゴム毬のようにバウンドしながら弾き飛ばされたクレアは、岩壁に叩きつけられてそのまま意識を失う。拳剛との決闘でのダメージは、黒瀧黒典を相手にするにはあまりにも重すぎた。

「おしゃべりとは随分余裕だな。」
「風見クレアっ!!?」
「次は君だ、等々力拳剛」

黒典の猛攻が拳剛を襲う。それは単なるがむしゃらな突きの連打だった。だが速い。左腕が折れ、片腕だけで受けているとはいえ、内視力による先読みをする拳剛が対応しきれない拳速だ。
黒典の拳撃の嵐に拳剛は遂に一撃を受け損ねる。轟音を立てて衝撃波を伴い、拳剛の腹部に黒典の拳がめり込んだ。拳剛の口が鮮血を吐きだすのを見て、黒典は哂う。

「まだやれるかね?いいのが入ったが」
「入ったんじゃない、入れさせたのだ。」

瞬間、拳剛は腹筋を以って腹部に刺さる黒典の拳を締め上げる。そして残った手を左腕で押えこみ、黒典の両腕を封じた。

「これで動けんな」
「やるな、肉を切らせて骨を断つというわけか」
「貴様は骨が断たれる程度で済むと思うなよ」

拳剛の右腕が唸る。『通し』を伴う無数の拳打が黒典の全身を襲う。その一撃一撃が必殺の拳。標的の肉を抉り骨を砕き内臓を爆発させる魔弾だ。常人が喰らえば人の形すら残らないだろう。
拳剛の唯一の誤算は、黒瀧黒典は常人ではなく、怪物だったということだ。

(効いていない……ッ!!?)

拳剛の表情が驚愕に染まる。拳剛の必殺の拳の連打に対しても、黒典はほぼ無傷だった。傷らしい傷など、頬に一筋鮮血が垂れているのみである。

「見事な連打だった。少し効いたよ―――次は私の番だな」

その言葉と共に、押さえつけられている黒典の両腕が膨張した。拳剛が抑えきれないほどのパワーによって、即座に拘束は外される。

「そら行くぞ!!」

無造作に放たれた黒典のアッパーが拳剛の顎を抉った。ただ一発の突きによって、拳剛の120kgの巨体が軽々と宙を舞う。

「さらばだ等々力拳剛。私は私の道を往く」

黒典のその言葉を最後に、拳剛の意識は闇に沈んだ。
愛する少女を守れなかった絶望をその胸に溢れさせながら。

「さ……や……」



[32444] 18
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/07/14 00:39
己が野望を阻む者を全て排除した黒典は、八雲町の山奥に鎮座するとある神社に来ていた。龍脈の鍵である沙耶も一緒である。意識を失っている沙耶は黒典の肩に担がれている。

「ここが龍の顎(あぎと)……」

一見何の変哲もない古びた社にしか見えないが、黒典はそうでないことを理解していた。境内には大地の底から湧きあがる気が満ち満ちている。この神社一帯が龍脈の力の噴出口なのだった。その場所を指して『龍の顎(あぎと)』と呼称する。

「では作業に移るとしようか」

ここが目的の場所であることを確認した黒典は、龍脈を解放すべくただちに行動を開始した。

龍脈を使用するには、まず龍脈の地上への通り道を塞ぐ『蓋』を外し、次に『龍脈の鍵』を以って大地深くに眠る龍脈の本流を呼び寄せる必要がある。本来ならば『蓋』自体が強力な封印であり、それを解除するのにも多くの手順を踏まなくてはならなかったが、黒典の能力を以ってすればその手順はスキップすることが可能だ。

まず黒典は『黒』を周囲にばらまき、大地から噴き出る力の中心の探索を開始した。『蓋』の正確な位置を確認するためである。おびただしい量の黒の粒子が辺り一帯にしみこみ、周囲の気を浸食していく。
龍脈の通り道を塞ぐ『蓋』とは、物理的なものではない。術によって創りだされた概念的な結界の一種である。術によって構成されているのならば、黒典の『黒』の能力を使えば探し出すのは容易い。ものの数分で、黒典は目的の『蓋』を発見した。
黒典はすぐさま『黒』を使い、『蓋』の封印の浸食を開始する。地の底から吹き出す力を塞ぎ、覆い隠すための堅固な結界であるはずの『蓋』は、漆黒によって染め上げられ、そしてあっさりと崩壊した。
龍脈の噴出口を封じていた『蓋』が排除され、押しとどめられていた力が一気に解放される。瞬間、先ほどまでとは比較にならないほどの力が境内一帯に噴出した。噴き出した高密度の気は金の粒子となって空に立ち上り、さながら天を貫く柱の如き様相をなす。
天空に伸びる柱を見上げ、黒典は思わず感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。

「すさまじいな。さてその力、如何ほどのものか試させてもらおう」

言い終わると同時、黒典は立ち上る龍脈の気を浸食すべく、『黒』を発動する。
天を貫く黄金の柱は無数の黒の粒子に取り憑かれ、次第にその輝きを失ってゆき、最後には柱自体が漆黒の粒子と化した。どす黒く染まった柱はついには崩壊し、主である黒典の肉体へと収束される。

「ぐッ……!!」

染め上げられた粒子を己が身体に取り込んだその瞬間、黒典は全身の体液が沸騰するかのような錯覚に陥った。あまりに強すぎる気を一気に体内に取り込んだため、肉体が一瞬拒絶反応を起こしたのだった。だがそれも直ぐに収まり、膨大なエネルギーは完全に黒典の支配下へと置かれる。唯の草木や動物の気を『黒』で喰らって強化したときをも遥かに超えるエナジーが体中を駆け巡った。

「なるほど、これが龍脈の力……」

その恐るべき力に、黒典は知らずの内に唇を吊りあげる。だがこれですら、龍脈の力の極一部に過ぎない。
大地の奥深く眠る龍脈は、そのままでは地上に現出するのは微々たる量だ。龍脈が本来持つ、『世界の理すら歪めるほどの力』には程遠い。黒典の目的を為すためには、龍脈の本体を使う必要があった。流石の黒典の『黒』も、大地の奥深く押しとどめられている力に干渉するほどの射程はない。よって、同種の気の力を呼び水として龍脈の本流を地上に導く必要がある。
同種の気の力、すなわちそれこそが、今回の騒動の中心となった物。沙耶の胸部にある龍脈の鍵である。

黒典は龍脈の顎の中心に、鍵である沙耶を置く。その刹那、沙耶の胸がまばゆいほどの閃光を放った。その閃光に呼応するかのように天は震え、地は鳴動する。沙耶の胸に埋め込まれた鍵にいざなわれ、大地深くに眠る力が目を覚ましたのだ。

そして、地上に存在する全てのエネルギーすら及ばぬほどの圧倒的な力が、沙耶めがけて地下深くから地上へ向けゆっくりと上昇を始める。同時に、黒典の『黒』すら霞むほどのどす黒くおぞましい何かが、その流れに混じって地上へと這いずりあがろうとしていた。





****************




時を同じくして。

「う……ぁ」

全身に走る激痛によって、等々力拳剛の意識は覚醒した。
超音速の竜巻による切創、爆発で飛び散ったつぶてによる割創、圧搾空気弾による挫傷と裂創、そして黒典の拳による座創など、およそ人体が負い得るあらゆる創傷に全身を蝕まれていたために、拳剛は意識が混濁してほとんどまともな思考ができない状況であった。だが命の危機に瀕して、拳剛は反射的に周囲を確認する。その視界に最初に飛び込んできたのは、倒れ伏す自分の傍らに、杖を片手に佇む風見クレアだった。

「気がつきましたか、等々力拳剛」

そう言ってクレアは拳剛の顔を覗き込むと、手に持った杖を拳剛の傷口にかざす。すると杖はまばゆい光を放ち、その光を浴びた拳剛の傷がゆっくりと回復を始めた。

「風見、クレア……お前何、を……?」
「じっとしていて下さい。今、術で治療しています。」

クレアに制されるまでもなく、満身創痍の拳剛の身体は倒れたまま動くことはできなかった。
混濁した思考の中、拳剛は記憶を辿る。エイジに鍵と沙耶預けて決闘に臨んだ事。死闘の末限界ぎりぎりでクレアを倒したこと。そして現れたのが―――――

「……黒瀧、黒典」

瞬間、拳剛の脳裏にその時の光景がフラッシュバックする。現れた黒典、あっけなく打ち伏せられたクレアと拳剛、そして連れ去られる沙耶。
全身の血が沸騰する。拳剛は腹の底から湧き出る憤怒に身を任せ、動かないはずの身体を無理矢理に動かし、立ち上がろうとする。身体の至る所が肉の千切れる音と骨の軋む音を響かせるが、しかし今の拳剛にそんなことはどうでもよかった。

「沙耶ッ!!!沙耶はどこだっ!!!!」

起き上がろうとする拳剛を、クレアの細腕が無理矢理に抑えつける。

「動かないで!貴方の身体は生きてるのが不思議な位の重傷なのですよ!治療が終わるまで大人しく……」
「早く、助けに行かねば……!沙耶が、沙耶がっ!!」

だが拳剛は制止を振り切りなおも立ち上がろうとする。
刹那、拳剛のアゴをクレアの裏拳が打ち抜いた。脳幹を揺さぶる思わぬ衝撃に、拳剛の巨体は力なく崩れ落ちる。

「冷静になりなさい等々力拳剛、その身体で黒瀧黒典を追ってなにができるというです」
「だが、だがッ!!」
「一時の感情に身を任せ、全てを失うつもりですか」

クレアの言葉で、拳剛の中の熱は冷水をぶちまけられたかのように一気に鎮まった。
黒典は強い。少なくともクレアの細腕の攻撃程度で倒れる今の拳剛では、足止めにすらならない。黒典にとっては路傍の石程度にも感じないはずである。そんなことでは、沙耶を助けることなど夢のまた夢だろう。
ぐうの音も出ない正論に、最早拳剛は反論することはできなかった。

「……すまん」
「じっとしていて下さい。時間がないので全快とはいきませんが、せめて戦闘可能なレベルまでは治して見せます」

そうして、拳剛の治療が再開された



数十分後。クレアの懸命な治癒により、拳剛の身体にあった無数の傷はあらかた癒えていた。

「施術完了です。身体の調子は……」

クレアの治療が終わったことを知らせるよりも速く、閉じられていた拳剛の双眸が見開かれる。
拳剛はそのまま全身の筋肉を躍動させて飛び起きると、剛腕を大きく振りかぶり、そして裂帛の気合と共に全力の拳を大地へと叩きつけた。『通し』を伴う拳撃は、衝撃を爆散させて地盤を粉砕し、大地に巨大な地割れを生じさせた。
咄嗟に空中へ飛翔することで難を逃れたクレアは、拳剛の拳撃の痕を見て苦笑を浮かべた。

「問題、ないようですね」
「十分だ、有難う風見クレア」

試し撃ちで自身の傷が十分に癒えている事を確認すると、拳剛はクレアに礼を言う。
クレアの魔法の効果はすさまじいものだった。あれほどの大怪我を追っていたはずの拳剛の身体は、八割方回復していた。流石に全身のところどころに鈍い痛みが残っているものの、戦闘に支障をきたすレベルではない。

「俺はすぐに黒典を追う」
「待って下さい等々力拳剛、鍵を使って龍脈の力を呼び出せる場所は限られています。彼奴が向かったのはおそらく……」
「場所なら分かっている、最短経路で走破する」

拳剛の内視力は既に沙耶の乳を捉えている。黒典によって結界から解き放たれた沙耶の乳の気が放つ鮮烈な光は、遥か彼方にいる拳剛の眼に届いていた。追跡は容易い。
大地に両手を突き、クラウチングスタートの構えを取る。全身の筋肉が膨張し爆発せんとする、その時。

「待って下さいと言っているでしょう」
「ぬおっ」

突風が拳剛の行く手を阻んだ。クレアの『風』だ。思わぬ妨害に、拳剛は思わずいきり立った。

「何をする風見クレア!」
「等々力拳剛、『最短経路』では遅すぎます。『最短距離』を行きましょう」
「おい、それはどういう」

クレアの発言の意図を拳剛が尋ねようとしたその時、拳剛の身体が柔らかな風に包まれ、宙に浮かんだ。まるで重みがないかのように筋骨隆々な拳剛の身体が空を漂う。

「ちょっと苦しいかもしれませんが、我慢して下さいね」
「……なるほどな。よし頼む」

クレアが何をしようとしているのかを理解した拳剛はニッと笑いを浮かべる。
合意を得られたクレアは、高らかに杖を掲げた。強くしなやかな風が拳剛に絡みつく。寸分の狂いなく巨塊の筋肉を固定するその風の渦は、巨大な大砲の砲身だ。

「射角よし!方角よし!」

クレアは杖と呪文を操り、風の大砲の目標を調整する。着弾点は『龍の顎』。砲弾は、拳剛。

「風向きよし……ぐッ……」

術を行使するクレアの口から鮮血がこぼれた。足元に血反吐をぶちまけながらも、手に携えた杖を支えに、クレアは必死に倒れまいとする。

「風見!」
「大丈夫、行けます」

クレアは口元を拭い、拳剛の叫びにはっきりと答える。だが実際、その言葉は空元気でしかない。拳剛の治療をするために、クレアは自身の治療は必要最低限しか済ませていなかったからだ。本来ならば術を行使することはおろか、動くことすら許されぬ身体である。立っているのさえ不思議なほどだ。それでもクレアは倒れない。今この状況で自分が倒れるということがどういうことか、クレアは十分理解していた。
その瞳から彼女の意志の固さを見てとった拳剛は、出かかった言葉を咄嗟にこらえる。額に大粒の脂汗を浮かせながらも、クレアは気丈に頬笑みを浮かべた。

「等々力拳剛」
「なんだ」
「黒瀧黒典は、自らを虚ろなる乳の党と名乗りました。彼奴はこの世から全ての巨乳を消し去るつもりです。
この世から巨乳が無くなれば、ありとあらゆる貧乳は夢を追うことはできなくなる。そこにあるのは絶望だけです。どうかあの男を止めて下さい」
「ああ、任せろ」

風の砲身に全身を固定されながら、拳剛は力強く頷く。

「そしてこれは巨乳党の党首としてではなく、東城沙耶さんの友人としてのお願いよ。拳剛君、どうか沙耶さんを助けてあげて」
「無論だ」

言うまでもないというような拳剛の答えに、クレアは満足そうにほほ笑みを浮かべた。

「では、行きます!」
「応!!!」
「『発射せよ』!!!」

号令が下され、拳剛の身体は竜巻の大砲により超音速で打ち出される。同時にクレアの魔法によって龍の顎まで超音速の気流の道が形成され、筋肉の塊を一気に目的地へと運んだ。

拳剛の姿が夕暮れの彼方へと吸い込まれるのを確認すると、クレアは力なく地面に両膝をつく。そして今にも倒れそうになる身体を杖でなんとか支えながら、口を開いた。

「楓」
「ここに」

党首の呼びかけに応え、その場にいた唯一の巨乳党の党員が姿を現す。一見男性かと見間違うほどに凛々しい容姿のその女性は、拳剛をクレアとの決闘の場へ送り届けた例の執事だった。主に呼び出されたその女性・楓は、淡々と現状を報告する。

「全員、事の顛末はモニターで確認しています」
「そう」
「党首、命令を」

そう言って楓が差し出したレシーバーを受け取ったクレアは、少しの間沈黙した後、その党員への直通連絡回線へむけて宣言する。

「総員、戦闘態勢。目標、龍の顎(あぎと)」

そして万感の思いを込めて、クレアは呼びかける。

「同志たちよ。私をまだ党首だと思ってくれているのならば、どうか共に闘って下さい。全ての乳を守るために」


乳を愛する者たちが立ち上がる。



******


ほぼ同刻。衛士・隠衆連合軍の本拠地にて。
太刀川は全身の痛みと共に目を覚ました。混濁する思考で周囲を確認すると、隠衆の術師によって治療されている最中であった。

「状況は、どうなった……」

治癒術者の制止も聞かず、太刀川は立ち上がる。
視界に飛び込んできたのは倒れ伏す仲間たちの姿。それを目にした太刀川は、自分たちが任務に失敗したのだということを理解する。
愕然とする太刀川へ、一人の男が声をかける。薄井エイジだ。

「おう、起きたかい太刀川」
「薄井、鍵は」

結果など聞かずとも分かっているというのに、太刀川はそれでも聞かずにはいられなかった。太刀川の予想通り、エイジは首を横に振る。

「奪われたよ。隠し部屋はもぬけの殻だった」
「もぬけの殻?」

隠し部屋とは、拳剛の鍵と東城沙耶を隠していた地下室のことだ。エイジの言葉に太刀川は首をかしげる。もぬけの殻と言うことは、つまり黒瀧黒典は鍵を奪っただけではなく、同時に沙耶もさらっていったということだ。
黒瀧黒典の目的はあくまで龍脈のはず。東城沙耶という一般人の少女などは等々力拳剛に対する人質程度にしか使えない。なのに、何故黒典は沙耶をさらったのか。
太刀川の疑問に、エイジが答えを提示する。

「東城沙耶が、龍脈の鍵だったんだよ。いや、正確には彼女の中に鍵が埋め込まれていた、かな」
「!?どういうことだ」
「隠し部屋に設置しておいたカメラに映像が残っていたのさ。東城沙耶の胸部には、視認できるほどの密度の気の力が封印されていた。あれは間違いなく龍脈の鍵だ」
「そんな、まさか沙耶さんが……」

愕然とする太刀川。だがよくよく思い返せば思い当たる節がなかったわけでもなかった。最初に拳剛に龍脈の鍵の話をした時の彼の奇妙な反応は、つまるところ彼の守る鍵が龍脈の鍵ではないということに他ならなかったのだ。先代の鍵の守り手、東城源五郎が鍵を託せる人間が拳剛以外に居ないという思い込みから、そのときの太刀川は真実に気づくことはできなかったが。
エイジはやれやれと肩をすくめる。

「まぁ等々力拳剛に一杯喰わされたってわけだ。東城沙耶を守るために、必死で真実を隠し通そうとしたってことだろうね。もうバレたわけだけど。
そして、その先でアイツが何をやろうとしていたのかも、東城源五郎の晩年の行動を考えれば大体予想がつく」

龍脈の鍵の真実が明るみになった今、かつて年老いた東城源五郎が道場破りまがいのことをしていた理由は、エイジも太刀川も既に察しがついていた。

「これからどうするのだ」
「言うまでもないだろそんなことは。東城沙耶が龍脈の鍵だったとして、結局やることは変わらない。龍脈を守り、そして穢れを祓う。戦える者を連れてすぐに出るぞ」
「おそらく、我々は負けるぞ。それでも行くのか」

黒典の力は強大だ。自陣ので、かつ完璧な布陣で臨んだにも関わらず、たった一人に圧倒されたのだ。再び挑んだところで結果はわかりきっている。
だがそんな太刀川の言葉を、エイジは鼻で笑った。

「おいおい似合わないぜ太刀川、そう言う小物な言葉は俺が言うべきセリフだろうに」
「薄井」
「行くさ。任務は果たす。龍脈の鍵を、東城沙耶を奪還するぞ。でないと、もうひとつの玉まで潰されちまう」

そう言って青い顔で内股になるエイジに、太刀川は笑みを浮かべる。

「そうか。そうだな。行こう、龍の顎へ」

護国の刃が立ち上がる。

********


場面は、再び龍の顎へと戻る。

ゆっくりと地上へと迫る龍脈の力。その顕現を待っていたその時、黒典の感覚が天空より飛来する物体を感知した。
黒典は咄嗟にその方角を確認する。そこには、西に沈まんとする太陽があった。真っ赤に燃える夕日が黒典の瞳を灼く。その灼熱の中に黒の点が一つ。点は見る間に大きくなり、ぼやけた点から次第にはっきりとした形へと姿を変える。
すさまじい速度で迫るそれを視認しながら、黒典は自問する。

「鳥か?いや、鳥にはあのような無骨な両腕などはない、丸太のような両脚などありはしない。
そしてなにより、鳥は少女の名を叫ぶことなどありはしない」

迫る影は、鼓膜を破るような大轟音で絶叫しながら黒典向けて一直線に落下する。
黒典の脳裏に、一人の男の姿がよぎる。その姿が、次第に大きくなる夕日を背負った影と重なった時、黒典はその名を叫ばずにはいられなかった。
三日月形に歪んだ唇が、堂々たる重低音でその男の名を紡ぐ。

「等々力、拳剛!!!」

「沙耶ぁあああああああああああああっ!!!!!」

少女の名を声の限りに叫びながら、拳剛が着弾する。秒速500mで地面に激突した筋肉の砲弾は、爆風を伴ってその衝撃で大地を陥没させ、地盤を粉砕した。
そしてもうもうと立ち上る土煙りの中から、拳剛は姿を現した。

打倒したはずの拳剛が復活し、そして今自分に立ち向かってきている。そのことに黒典は、何故か歓喜の表情を浮かべるのを止める事ができなかった。唇を笑みに大きく歪めながら黒典が問う。

「私とやり合おうというのか、等々力拳剛!!勝てぬ戦いだとわかっているだろうに、何故そこまで必死になる」
「全ての乳のため。そして、ただ一つの乳のため」

ほとんど反射的に、拳剛は答えを返していた。

「行くぞ黒瀧黒典。貴様の野望、粉砕してくれる」

龍脈の守護者としての、友としての、そして一人の男としての。その全ての責務を果たすべく、拳剛は己が両拳を構える。黒典が高らかに叫んだ。

「来たまえ、等々力拳剛!龍脈の守護者よ!!今度こそ本当の決着と行こうではないか!!!」

二人の男の、信念を貫くための戦いが始まる。



[32444] 19
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/07/21 12:50
二人が動いたのは、まったく同時だった。
大地にひびを入れて跳躍する拳剛。地盤すら粉砕し飛ぶ黒典。両者は一気に間合いを詰める。
繰り出したるは拳打と手刀。拳剛の巨砲の如き拳と、黒典の雷光の閃きの如き貫手が交錯する。
両者は必殺の一撃を繰り出すと同時、迫りくる敵の必殺をかわさんとする。拳剛の東城流が内視力と、黒典の超気脈による超反応。軍配が上がったのは内視力だった。
黒典の顎を拳打がかすめる。一方、手刀は紙一重で拳剛の頬の横を抜けていく。万象を見通す乳の眼は、閃光の速度の一撃すらも見切ってみせた。

しかし、鮮血をぶちまけたのは以外にも拳剛の方であった。回避したはずの拳剛の頬に一筋赤い線が奔るやいなや、真紅の血が噴出する。
驚愕するほかない。黒典は、手刀の衝撃の余波だけで鋼の強度を誇る拳剛の皮膚を斬り裂いたのだ。
その上黒典は、『通し』を伴う拳剛の拳を喰らっても痣一つできてはいない。一部とはいえ龍脈の力を取り込んだことにより、その肉体強度は最早人類の域を遥かに超越していた。

状況はあまりにも絶望的だ。敵の攻撃は一撃必殺。そして己の一撃は敵に毛ほども通じない。
だがそれがどうした。拳剛は歯をギリと喰いしばる。
敵の攻撃が一撃必殺ならば、余すことなく避けきればよい。自身の一撃が毛ほども通らないのならば、千の拳を打ち込めば良い。
絶望的。その程度の言葉で、今の拳剛を止められるはずがない。

「らぁあああああああっ!!!」

獣の如き咆哮と共に、拳剛の両腕から無数の拳打が放たれる。千の弾丸の弾幕にも匹敵する拳の嵐が黒典を襲う

「無駄ァッ!!!」

黒典は迫りくる拳のほとんどを反射神経のみで回避し、あるいは受け止める。処理しきれない攻撃が幾つかあるが、高々数発攻撃が直撃したところで、今の黒典は毛ほどの痛みも感じはしない。そして回避と同時、黒典は拳の壁を縫うようにして手刀の刺突で反撃する。それは形も何もない無茶苦茶な攻撃だが、その一撃一撃の全てが触れるもの全てを断ちきる魔弾だ。

眼にも止まらぬ乱打の応酬。手数はほぼ互角、そして当たった攻撃の数は拳剛が遥かに勝る。しかし劣勢に立っているのは拳剛だ。黒典の閃光の如き手刀は、その全てをよけようとも、纏う衝撃波だけで拳剛の肉体を抉り、裂き、切断する。
己が身を斬り刻まれながら、拳剛は問う。

「黒典、何故お前ほどの者が巨乳を駆逐しようとする!あの時の言葉は嘘偽りだったのか!」

全ての乳は等価。差をつけるのは個々の信念のみ。その言葉は、乳の求道者たる拳剛の心に深く響いた。だからこそ拳剛は解せない。その言葉を口にした男が一体何故、乳の理を歪めようとするのか。
だがそんな憤怒を孕んだ問いも、黒典にとっては何の意味もない物だった。

「嘘ではないさ、だから私は私の信念に従い、乳を滅ぼす」

あまりにも淡々と、黒典はそれを言ってのけた。
乳を滅ぼす。その台詞に、拳剛はかつて黒典が見せた一枚の写真を思い出した。巨乳美人と幼い少女の写真。あの時拳剛は、その写真によって黒典が巨乳派なのだと勘違いした。だが黒典が本当は巨乳派ではなく貧乳派だというのならば、あの写真の持つ意味はまったく別の物となる。

「あのときお前が言っていた俺とお前が持つという『歪み』は、つまりそういうことか」

黒典が写真を見せたときに言っていた言葉が、拳剛の中で思い起こされた。
つまり、黒典は貧乳派でありながら、巨乳の女性を愛してしまったのだ。

「だからお前は龍脈の力を使うのだな。愛する者の乳から、一切の脂肪を消し去るために」
「……いいや、違うさ」

拳剛の言葉を抑揚のない口調で否定すると同時、黒典は己が掌で拳剛の拳打を絡め取る。すかさずもう一方の腕でボディブローを叩きこもうとする拳剛であったが、それすらも黒典のもう片方の腕に捉えられてしまう。

「チィッ……!」

拳剛は両腕の拘束を解こうとするが、万力で締めあげられたように拳剛の腕は動かなかった。そして拳剛の両腕を完全に抑え込んだ黒典は、静かに告げる。

「一つ、訂正しておこう。私の願いは巨乳を駆逐することではない」
「何…!?」

その言葉に拳剛は混乱する。
黒典は貧乳派だ。だが巨乳を消し去りたいわけではない。ならば龍脈の鍵を使ってまで為したい悲願とは何なのか。
その疑問の答えは直ぐに黒典自身の口から語られた

「私の願いは、この世から全ての乳を滅ぼすこと。すなわち、この世界から『乳』という概念そのものを滅ぼすことだ」

そう言って歪んだ頬笑みを浮かべる黒典に、拳剛は戦慄せざるを得なかった。
『乳』の概念が消失するということは、単に世界に貧乳が溢れるというだけではない。貧乳も巨乳も普通乳も、全ての乳が等しくこの世から消えさる事を意味する。
黒典は貧乳すらも滅ぼすつもりなのだ。拳剛には眼の前の男が何を考えているのか理解ができなかった。

「何故だ!」

口をついて出た絶叫と共に、拳剛はその健脚を以って黒典の金的を蹴り上げる。黒典は咄嗟に拘束していた腕を解放し、危なげなく攻撃を回避した。そして互いに攻撃間合いから距離を外し、両者は対峙する。

「何故お前ほどの男がそのようなことを……!!」

拳剛は全身を震わせながら、絞り出すように言葉を放つ。黒典の願いを前にして、怒り、哀しみ、恐れ、様々な感情が拳剛の思考の中でない交ぜになって、嵐の様に荒れ狂っていた。

「……少し、昔話をしようか」

そう言うと黒典はどこか遠い目をして、ゆっくりと、そして静かに語り始める。それは黒典と黒典の妻の物語だった。

「私と妻は幼馴染だった。丁度君と東城沙耶のような、ね
家族同然に暮らしていく中で、いつしか私は彼女を愛していた。そして彼女もまた私を愛していた。二人の愛は、あの煌めく太陽の様に不変だとすら思えたよ」

そうして黒典は、大よそ黒瀧黒典と言う男には似合わない、清んだ笑みを浮かべる。あるいはこの笑顔こそが黒典の真なる本質なのかもしれない。どうしてか拳剛にはそう感じられた。

「だがある日、私のそんな恐るべき事件が起こってしまった」
「事件だと?」
「―――彼女の胸が、膨らみ始めたのだ」

その瞬間、黒典の顔から一切の表情が消失する。

「その変化に最初に気付いたのは、彼女が15の時だった。それまで完全なるまな板だったはずの彼女の胸が、僅かながらに傾斜を帯びるようになっていた」

虚ろな瞳を拳剛へと向けながら、黒典は続ける。

「油断がなかったと言えば嘘になる。中学三年生という、第二次性徴も終盤に差し掛かってなお、彼女の胸が膨らむ兆候はなかったからだ。だから私はその乳が脂肪に覆われる日が来ることは決してないと思い込んでいたのだ。
愚かなことだよ、この世界に不変なものなど何一つとして存在しないというのに。
私は傍観すべきではなかった。貧乳の信奉者として、己が持ち得る全ての能力を彼女の乳を維持することに注力すべきだったのだ」

無色だった黒典の表情が次第に激しい色を帯び始める。それは烈火の如き憤怒の赤だ。

「だが、後悔したときには既に遅かった。高校に入る頃には彼女の胸は肉まんサイズになっていた。一年が過ぎるとそれはメロンパンへと変貌し、そして高校3年の夏、彼女の乳はついに、ミサイル弾頭と化したのだ」

口調も次第に激しさを増す。最初は今にもかき消えそうな小さな声だったものが、だんだんと音の大きさを増し、今や辺り一帯に響き渡る大音量なっていた。

「貧乳から巨乳になった。その程度で私の彼女への愛が揺らぐはずがない。
私は彼女の胸を好きになったわけではないからだ。私は、彼女自身を愛していたのだ」

黒典の表情に再び笑みが浮かぶ。だがそれは先ほどの様な清らかな笑みではなかった。見る者全てに恐怖を湧き起こす、歪んだ笑みだ。

「だが一方で、私がどうしようもなく貧乳派だったということも否定のできない事実だった。
私は貧乳を説き、貧乳を拝し、貧乳に命を捧げていた、貧乳教徒だったのだよ。さながら神に仕える修道女の如く、魂の一片にいたるまでを貧乳に献じていたのだ」

その言葉の通り、今の黒典はまさに狂信者の如き様相だった。漆黒の髪をかき乱し、瞳に狂気を宿しながら、一つ一つ言葉を拳剛に叩きつけていく。

「だんだんと肥大化していく彼女の胸に、私は真綿で首を絞められるような恐怖と絶望を感じたよ。どうしようもなく彼女を愛しているのに、どうしようもなく彼女の乳を愛することができない」

そして黒典は自らの手で己が喉元を締め上げる。

「そのとき私は歪んだのだ。どうしようもなく歪にねじ曲がったのだ。理想と愛の狭間で信念を貫けなくなった私は、最早正気ではいられなかったのだよ」

拳剛は言葉を発することができない。ぶつけられる黒典の狂気を、無言で以て受け止めることしかできなかった。

「狂気に呑まれた私は、この歪みを正す方法を考え続けた。そしてある時、たった一つの解へと辿りついたのだ。
全ては乳によって引き起こされた。ならば、乳が消えてしまえばいいのだ。ありとあらゆる乳がこの世から消失すれば、私の歪みは歪みではなくなる。私のように、己が信念の狭間で運命を捻じ曲げられるものはいなくなる」

そして、黒典は叫んだ。

「だから乳を滅ぼすのだ。全ての乳に虚ろなる平等を与える。今こそ、私は革命を成す!!」

叫喚に、木々が折れ、大地が揺れ、天が震えた。それはさながら黒瀧黒典と言う男の行き場のない怒りが発露したかのようだった。

「故に等々力拳剛、邪魔をするというのであれば君とて容赦はせん。私を止めたくば、命を懸ける覚悟をせよ!」

それは黒典の拳剛に対する決別の言葉だった。友となった男に、たとえ恨まれようとも、疎まれようとも、憎まれようとも、最早黒典は止まるつもりはない。全ての乳を無に帰すまで、その狂気が止まることはあり得ない。

だが拳剛の顔に浮かんでいるものは、己を裏切った黒典に対する怨嗟でも忌避でも憎悪でもなかった。
黒典は目を疑った。拳剛は泣いていたのだ。たった一つの音すらも発さずに、ただ静かに涙を流していた。

「何故泣く、等々力拳剛。よもやこの私を哀れんでいるのかね」

黒典の心に、穏やかならぬ感情が影を差す。
怒気をはらませた声で問う黒典に、しかし拳剛はただ首を横に振った。

「違う、違うぞ黒典。俺は、俺はただ悲しいのだ。この想いの理由すらも分からぬというのに、ただひたすらに悲しいのだ、どうしようもなく悲しいのだ」

とめどなく流れる涙の理由は、拳剛自身にすらわからなかった。
その理由も分からぬ感情の中で、ただ一つだけはっきりと理解できる、曲がらぬ想いを拳剛は口にする。

「黒典、俺はお前を止めるよ」

拳剛は敵としてではなく、友として、この男を止めたかった。

「出来はしない、君の力ではな」

断ずる黒典の言葉は、まったくもって正しい。
時間にして数分、攻防の数にして数万。その戦いの中で、黒典はまったくの無傷であり、拳剛だけが全身を鮮血に染めている。
拳剛は負けるだろう。遠からぬ内に、その身をバラバラに引き裂かれ、愛する少女も守れぬまま倒れ伏すこととなるだろう。ほかならぬ拳剛自身が、その事を理解していた。黒典との戦闘は時間にしてみれば本当に僅かなやり取りであったが、彼我の戦力差を測るには十分であった。
拳剛と黒典の戦いは、言ってみれば歩兵と戦車の戦うにも等しい。パワーもスピードも耐久力も、全てのスペックの差は歴然としている。唯一拳剛が勝るのはテクニックだが、小手先の技で挽回できるようなレベルではない。

『このまま』では、絶対に勝つことはできない。拳剛は覚悟を決めた。
全ての乳を守るため、愛する少女を守るため、そして狂気に染まった友を救うため。
拳剛は掟を破ることを決意する。

「東城流には、絶対に破ってはならぬ『禁』がある」
「……?」

かつての東城流、つまり先代・東城源五郎が技法を改ざんする前の東城流は、『心眼』と『通し』からなる『対人戦闘』の武術だった。その技法を以ってすればたとえ鎧武者相手でも容易にねじ伏せられるという、強力な武術だ。
源五郎によって基本技法が『内視力』と『通し』の二本柱に代えられてからも、建前上はその流れを受け継いでいた。だがそれは本当に建前でしかない。昇華された今の東城流が想定する相手は、『人』ではない。

『龍脈』である。

正確に言えば、龍脈の穢れに対抗することが現東城流の真の目的だ。故にその殺傷能力は人を死に至らしめる程度などはとうに超え、龍を屠るレベルまで高められている。
だからこそ、東城流は対人戦闘において破ってはならぬ『禁』があるのだ。東城流の力を十全に振るわせぬための『禁』があるのだ。龍脈の穢れと言う天変地異を相手取るために過剰なまでに高められたその拳は、全力を出せば人間の肉体など拳撃だけで爆発四散させてしまうからだ。もともと一撃必殺の東城流にそれ以上の殺傷能力は必要がないどころか、まったくの無意味だ。

「この技は、先生がたった一人の少女のために創り上げた。俺自身もこれを沙耶のため以外に使うつもりはなかった」

拳剛は静かに構えを取る。両脚を大きく広げ腰を低く落とし、片腕を前方へ、もう片腕の拳を握り腰に据える。

「だが、今こそその禁を破ろう。全ての乳のため、沙耶のため、そして我が友を救うために」

真っすぐと見つめる拳剛の言葉を、黒典は嘲った。

「技の制限を無くした程度で、この戦力差を覆せると思っているのか」
「できるさ」
「面白い、ならばやってみせるがいい!!」

再び、拳剛と黒典は眼の前の敵めがけて走り出す。拳剛が跳び、黒典が飛ぶ。

「ぜぁっ!!!」
「ぬうん!!」

交錯と同時に撃ち交わされる拳と手刀。拳剛の筋肉が脈動し、黒典の気脈が爆発する。僅か一合の間に千を超える撃ち合いを経て、二人はすれ違うように通り過ぎ、そして着地する。
拳剛の両腕が、真っ赤な鮮血を吹きだした。


それと同時、黒典の口が帯びただしい量の血を吐き出す。


「がぁッ……!?」

黒典の鳩尾に鋭い痛みが走っていた。地面が赤く染まるほどに血反吐をぶちまける。
龍脈の力を以って超強化されたはずの黒典の肉体の防御力を、拳剛の拳撃が超越したのだ。
久しく感じたことのなかった激痛に喘ぎながら、黒典が拳剛を睨みつける。

「一体何をした」
「同時に使っただけだ。東城流の二本の柱、『内視力』と『通し』を」

手刀の余波によって刻まれた両腕の血を拭いながら、拳剛が淡々と答える。だがその答えは到底黒典を納得させるものではなかった。

「馬鹿な、『先読み』と『衝撃の伝播』を同時に発動したところで、このような威力が出るわけが―――」
「内視力の極意は先読みなどではない。そんなものは付随する一つの能力に過ぎん。内視力の本質とは、『虚実』を見切る事にある」

生命活動の全ての事象には虚と実がある。例えば息を吐く時、肉体には力が満ち、実となる。逆に吸えば力は失せ、虚となる。
内視力はその虚実を、肉体と気脈を両面で同時に見切ることができる。それはすなわち、相手のもっとも『虚』となる『機』を見切ることができる。ということだ。
超絶なる力持つ黒典であっても、虚と実は存在する。気の虚、肉の虚、それらは複雑に絡み合い、普段は隠されている。だが拳剛の内視力は、肉体と気脈を完璧に読み切る最強の眼は、その虚を見逃さない。

「『内視力』にて乳を読み、その乳を『通し』によって撃つ。これすなわち東城流の最大の禁にして最大の奥義なり」

つまるところ、拳剛は『内視力』と『通し』を同時に全力発動することで、拳撃の破壊力を飛躍的に高める事が出来るのだ。
だがこれは裏を返せば、ただ攻撃の威力が上がるだけに過ぎない。スピードが上がるわけでも、防御力が高まるわけでもない。そもそも『通し』自体が超絶なる威力を誇るため、対人戦闘においてはこの奥義はまったくの無意味だ。
だが黒典に対してだけは、これほど有効な技はない。

拳剛は歩兵で、黒典は戦車だ。歩兵を戦車に勝たせるならば、歩兵にミサイルを積めば良い。
至極単純な発想で、拳剛は己が牙を黒典に突き立てた。

「はッ、ははッ、はははははははははははははははははははははははっ!!!!!!」

血反吐に染まった両手を狂気の瞳で覗きながら、黒典は高らかに笑う

「素晴らしい!素晴らしいぞ等々力拳剛!!!
これで我らは対等!!たった一つの隔ても存在しない!!互いを粉砕し得る矛と矛となった!!!さぁ、今こそ信念の決着といこうではないか!!!」

黒典が全身から圧倒的な気を立ち上らせる。そのあまりに恋密度の気はそれだけで衝撃波を生み出し、周囲の木々をへし折りなぎ倒す。
暴風の様な気の波動の中、拳剛は思考する。黒典の言っていることは間違いだ。彼我の戦力差は対等などではない。拳剛はようやっと黒典に攻撃が通るようになっただけに過ぎない。結局のところ、パワーもスピードも何もかもが黒典の方がはるかに勝っている。
禁を破り挑んだところで、結局拳剛の敗北は揺るがない。少なくとも、これが唯の殺し合いであるならば。

拳剛に僅かでも勝機があるとすれば唯一つ。これが信念のぶつかり合いだということ。


拳剛と黒典は、再び肉薄し、己が肉体を激突させる。ぶつかり合う度に、肉が爆ぜ飛び、抉れ、削がれる。
せめぎ合う肉と肉の狭間で、二人の男は絶叫した。

「黒典、お前の言うとおり乳は千差万別。そこには色々な価値観があるだろうよ。
貧乳が好きな者もいるだろう!巨乳を愛する者もいるだろう!!普通のが良い奴だっているだろう!!」
「そうだ!その価値観の中で私は歪んだ、愛する人と愛する乳の狭間で信念を捻じ曲げられた!!」

突き出された黒典の手刀が拳剛の脇腹を僅かにかすめる。超超音速の刃はその刀身に纏う衝撃波を以って、標的を大きく削り取った。
腹部を穿たれた拳剛の口から、おびただしい量の鮮血が零れる。傷口からはらわたを僅かに覗かせながら、しかし拳剛は止まらない。

そして――――

「だがな、男なら!!男なら、一番好きな乳は誰だって一緒だろうが!!!」
「何を馬鹿なッ―――」

―――――己が信念を黒典に叩きつける。

「惚れた女の乳が一番に決まっているだろうが!!!」
「!!!」

その瞬間。
一瞬とよぶにも満たない、あまりにも短い時間。黒典の肉体はその一瞬よりも遥かに短い刹那の間、制止した。黒典からすれば若造の戯言でしかないはずの拳剛のその言葉で、動きを止めた。それは瞬きするよりも短い、音が耳に届くまでよりも短い、星の瞬きよりも短い、流星が消えるのよりも短い、そんな僅かな時間だった。
その隙とも呼べぬ隙に、拳剛は己が全身全霊を抉りこむ。

「ぜぁあああああああっ!!!!!!」

赤熱するほどの速度で打ち出された拳が、螺旋を描いて黒典の腹へと直撃した。叩きこまれた衝撃は黒典の全身に伝播しながらその超超人的な肉体を粉砕し、爆発する。轟音と共に遥か彼方まで吹き飛ばされ、そして大岩に叩きつけられた。
そのまま地面に倒れた黒典はなんとか立ち上がろうとするも、最早身体が言うことを聞かなかった。東城流の奥義は、黒典の身体を完膚なきまでに打ち負かしたのだ。

黒典が小さく言う。

「……惚れた女の乳が一番か。まったく青臭い言葉だな、拳剛」

あまり大きな声ではなかったが、その言葉は離れたところで片膝を突く拳剛にはっきりと伝わった。

「俺はまだ若いからな。お前のようにひねてはいないのだ、黒典」
「真っすぐな男だ。だがその一途さに、私は敗れたのか」

黒典に負ける要素は無かった。だが負けた。拳剛のあまりにも真っすぐな信念に、黒典は貫かれたのだ
不思議と悔しさはなかった。晴れ渡る青空のように澄み切った想いが、今の彼の中には溢れていた。

「東城沙耶を連れていけ、私はもう龍脈を求めない。――――――お前の勝ちだ」




**************



「また助けられちゃった。いっぱい怪我もさせちゃったし……ごめん拳剛」

拳剛によって起こされた沙耶は、開口一番深々と頭を下げた。沙耶自身も自分を取り巻く状況をよく理解していなかったが、拳剛が助けてくれたことくらいは分かっている。
隠衆の時といい今回といい、傷だらけになって自分を助けてくれる拳剛に自分が何もできないことが、申し訳ないやら情けないやらで、沙耶はとても落ち込んでいた。
そんな沙耶の頭に、拳剛はぽんと掌を置く。

「謝るな沙耶、俺が好きでやったことだ」
「好きで、って……喧嘩が好きなの?」

尋ねる沙耶の言葉に、拳剛は静かに首を振った。

「違う。確かに喧嘩は嫌いではないがな、それだけでここまでするわけがないだろう。
よく聞け沙耶。俺が好きなのは、恋してやまぬのは……」
「う、うん」

二人の心臓の鼓動が高鳴る。互いに聞こえそうなくらいに大きく脈動する。
そして

「――――ッ!!!?」

それは、沙耶自身にも説明がつかない行動だった。ほとんど本能的な行動だった。沙耶は、拳剛を突き飛ばした。
普段であればびくともしないが、今は黒典との命の削り合いで足元もおぼつかない状態。拳剛はあっさりと弾き飛ばされる。

「沙耶、何を……ッ」
「拳剛、逃げてッ!!!」

拳剛が問うより早く、沙耶が叫ぶ。沙耶自身自分が何故そんな行動をしたのか理由は分からなかった。『東城』に流れる武人の血が、大切な者の命の危機に際して内視力すら越えて警告したのか。

瞬間、どす黒い何かが大地からあふれた。黒典の黒よりも遥かに黒い闇色の汚濁の奔流が大地の底から吹き出し、形を成し、沙耶めがけて襲い掛かる。
瞬きするよりも短い間だった。拳剛は手を伸ばすことすらできなかった。その一瞬で、沙耶は汚濁に完全に呑みこまれる。




「―――――――――――ッ沙耶ああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

拳剛の絶叫だけが、辺りに響き渡った。



[32444] 20
Name: abtya◆0e058c75 ID:598f0b11
Date: 2013/09/29 12:05
恐怖、嫉妬、怨嗟、悲嘆、哀愁、憎悪。
あらゆる命の放つ負の感情は、重く淀んだ気となって大地深くへと沈んでゆく。その淀んだ負の気はどこまでも落ち続け、最後に辿り着く場所は世界の根源、龍脈である。そして負の気は龍脈に蓄積し、長い年月をかけてより濃く、より密に、より巨大になり、最後にはヘドロの如き『汚濁』となる。
『汚濁』は龍脈を浸食する。大地の気脈たる龍脈をどす黒く染め上げ、穢し、喰らい、世界に禍をもたらす。
その『汚濁』こそが、太刀川とエイジ達が祓わんとしていた龍脈の穢れである。

その『汚濁』が、世界の穢れの化身が、今まさに地上へと現出せんとしていた。それは黒典によって呼び出された龍脈の流れに乗って地上へと上昇し、己と同種の気を持つものへ迫る。
同種の気とはすなわち龍脈の鍵。そしてその鍵が収められているのは東城沙耶の胸部である。世界をも穢す『汚濁』は、たった一人の少女の乳を目がけて進んでいた。

そして、その時がやって来る。

突如として大地にどす黒いものが溢れた。地下から湧き出たそれはボコボコと蠢いたかと思うと、直ぐに無数の触手を噴き出した。汚濁の触手は目にもとまらぬ速度で沙耶へと絡みつき、悲鳴をあげる間すらも与えずにその華奢な身体を完全に包み込む。汚濁は際限なく溢れ続け、触手へと姿を変えながら沙耶を包み込む。無数の触手の群れによって形作られたそれは、次第に繭の様な形を成してゆく。
瞬きする間に、沙耶の身体は巨大な汚濁の繭の中に収められた。だが、なおも穢れの噴出は止まらない。それどころか勢いを増し、沙耶を包む巨大な繭を突きあげるように噴出する。噴出する汚濁は柱となって繭を天高く突きあげる。
そして僅か数秒で見上げるほどの巨大な柱がその場に出現した。

それは、さながら邪神を象った偶像の如き禍々しき様相だった。闇夜の天を突く巨大な闇色の柱。あるいは邪神そのものだったのかもしれない。
この世のあらゆる陰を内包したそれは、常人であれば眼にしただけで正気を失い発狂するだろう。



「チィッ、もう『穢れ』が顕現したか」

想定よりも遥かに早い時刻での『穢れ』の出現に、黒典は思わず舌打ちする。まさに最悪のタイミングだった。命を剥き出しのまま削り合うかの如き死闘を終えたばかりの今、戦いの敗者である黒典だけでなく、勝者である拳剛ですらも満足に動くことすらできない。
せめてあと一時間でも穢れの『顕現』が遅ければと悔やむも、それはあまりに遅すぎる後悔だった。黒典が拳剛との決闘を受けた時点で、こうなることは確定していたのだ。
もっとも、それを知っていたところで二人の戦いは避けることはできなかっただろうが。

「沙耶っ!!」

一方の拳剛は、そんなことを考えている暇はなかった。何故なら、拳剛の内視力は沙耶の胸部の気が徐々に弱まりつつあるのを捉えていたからだ。。
今、内視力に映る沙耶の気、すなわち龍脈の鍵の気は、普段のような太陽の如き煌めきを放っていない。それどころかゆっくりと輝きを失っていっている。高密度の気の塊である龍脈の鍵が、『穢れ』に汚染されていっているためだ。
龍脈の鍵は今や沙耶の心臓そのものである。完全に汚染されきれば沙耶の命は無い。

最早拳剛に躊躇っている余裕などは無かった。一刻も早く、穢れの化身の内に囚われた沙耶を救い出さなくてはならない。目の前にそびえ立つ天を突く汚濁の塔を目がけて拳剛は一直線に走りだす。

「待て拳剛、先走るなッ」
「時間がない、このままでは沙耶の命が持たんのだ!」

制止する黒典を振り切り拳剛は駆ける。師が託した願いを叶えなくてはならない。なんとしてでも沙耶を救わなくてはならない。今の拳剛はただ盲目に、その思いだけに支配されていた。

黒典は逸る拳剛を助けに入ろうとするが、しかし身体が動かなかった。龍脈の力の一部を『黒』で喰らい、超人を越える超人となったとはいえ、黒典が拳剛から受けた傷はあまりにも深い。動けるほどに回復するにはいま少しの時間が必要だった。
そしてその少しの時間ですら今の拳剛には待っている暇は無い。そびえ立つ穢れの柱へ向け一直線に駆け抜ける。目指すは柱の天頂に座す汚濁の繭だ。

拳剛が汚濁の柱の足元まで到達しようとするその瞬間、柱がうごめいた。表面をボコボコと泡立たせたかと思うと、そこから無数の触手を放つ。触手は放射状に拡散し、弾丸の様な速度で敵を串刺しにせんと迫る。実体をもつほどの超高密度の気の塊だ。その汚濁の槍に当たれば、拳剛の身体ですらひとたまりもないだろう。
だが拳剛は止まらない。

「邪魔を、するなッ!!!」

間断なく襲い来る無数の触手。拳剛はそれら全てをいなし、かわし、そして打点をそらして迎撃する。圧倒的突進力を誇る触手を、正面からではなくその横面を叩くように拳を打ち込み、破壊する。全てを見切る『内視力』と衝撃を自在に操る『通し』を全力発動している今、拳剛の拳に粉砕できない物は無い。迫りくる触手の猛攻を退けて巨大な柱の根元まで辿りつくと、拳剛は天頂へ向けてその柱をよじ登り始めた。

触手を掻きわけて巨大な黒の柱を昇る。汚濁に爪立て昇る。触手を握りつぶし昇る。時に、柱から沸いて出た触手が拳剛を叩き殺さんと振り下ろされるが、それすらも足場にして拳剛は昇る。沙耶のいる汚濁の柱の天頂を目指して、拳剛はひたすらに進み続ける。
そして猿のように軽妙な動きで一気に柱を昇り切り、拳剛は沙耶のいる柱の天頂まで辿りついた。そこでは汚濁で形作られた巨大な繭が鎮座し、沙耶を完全に包み込んでいる。

後一歩。あと一歩で全てが終わる。拳剛は握る拳にしっかりと力を込めた。そして直径100mはあるであろうその巨大な汚濁の繭に向け、大きく拳を振りかぶる。
その時、繭に変化が起こった。それはまるで拳剛の敵意に反応したかのようだった。突如として汚濁の繭は泡立ち、膨張し、爆発したのだ。いや、実際にはそれは爆発ではなかった。爆発の如く見えたそれは、実際は繭が無限にも思えるほどの数の触手を一気に噴き出した姿だった。
先ほどまでとは比較にならない量の触手が、拳剛を迎撃する。圧倒的な数の暴力。攻撃が己の肉体をかすめるだけで、砲弾の爆発に巻き込まれた様な激痛がはしる。肉が爆ぜ骨が砕ける。龍脈の超高密度の気の攻撃は、今まで体感したどんなものよりも速く、堅く、鋭く、重い。直撃などしようものならば拳剛の肉体は爆発四散し、塵も残らないだろう。

「おおおおおおおおおっ!!!!」

だが拳剛は一歩とて退くことはない。圧倒的な物量と質量と速度で以て迫りくる触手。その全てを、内視力と通しをフル稼働し凌ぎ切る。己に向けられた攻撃を余すことなく粉砕し、沙耶へ向けて前進する。
僅か数秒にて無限にも思える触手を打ち砕き、そして拳剛は最後の一歩を踏み出した。

「今、助けるぞ」

そう言って、拳剛は繭に向けて拳を大きく振りかぶる。


瞬間。


まばゆい光が辺りを包んだ。煌めきが拳剛の視界を僅かに阻む。よく見ればそれは、いつのまにか繭から頭を覗かせていた触手が、その先端から放った光であることがわかった。
数秒遅れて、拳剛は自分の身体が大きく揺らぐのを感じた。脇腹が焼けるように熱い。咄嗟にそこに触れた手が、鮮血で真っ赤に染まる。腹部に直径数センチの風穴があいていた。触手が放ったまばゆい光は、レーザーの如き光線となって拳剛の肉を焼き切り貫いていたのだ。内視力の先読みを以ってしても、攻撃に気付くことすらできなかった。

「ぐ……ぅッ………!」

拳剛はがくりと膝を突く。立ちあがろうとするが、だが力が入らない。
僅かに一撃。たった一撃。ただそれだけで、拳剛の肉体は立ちあがることすらできなかった。度重なる戦いの果てに、拳剛の肉体は命を繋ぎとめることすら困難なほどに、深く傷ついていた。

「くそ、くそっ、くそ……ぉッ……!!!」

あと一歩、たった一歩。だがその一歩が届かない。拳剛はあらん限りの怒りを篭め、怨嗟の表情を繭に向けた。
だが触手はその怒りにも何ら反応を示すことなく、ただ無慈悲に拳剛へと砲口を向ける。

「沙耶…………ッ!!!」

幾条もの光線が放たれる。反応することすら許さずに拳剛の肉体に無数の穴を穿つ。その身体は宙を舞い、柱の天頂からはじき出され、そして遥か下の地面に向けまっさかさまに落下した。

全ての希望を失い、男は絶望へと堕ちてゆく。
そしてそれきり、地に堕ちたその男が立ちあがることはなかった。



****************



無数の光の筋に貫かれ地へと落ちた拳剛。そこへ止めを刺すかのように、汚濁の塔が蠢いた。無数の触手を生成し射出する。おびただしい量の触手の槍が無抵抗の拳剛へと迫る。

「拳剛っ!!!」

即座、黒典は脱兎の如く駆けだした。拳剛が龍脈の穢れと拳を交えている間、その短い間で、黒典の身体は戦闘可能なレベルまで回復を完了していた。拭いきれぬ鈍い痛みは全身に残るが、今はそれよりも拳剛の命を救うことが先決である。拳剛の力がこれからの戦いに必要となると、黒典は理解していたのだ。

(拳剛を失う訳にはいかん。奴の技は絶対に必要だ、東城沙耶を救うためには……!)

龍脈の穢れを祓うだけならば、それは護国衛士や憂国隠衆でも可能である。衛士達の任務は元来、そういった魑魅魍魎を相手取るものだからだ。
あるいはその衛士・隠衆連合軍を上回る戦力を有する巨乳党であっても、同様に龍脈の穢れを滅ぼすことは適うだろう。
そう、単に滅ぼすだけならばそれは不可能なことではない。

だが東城沙耶を助けようとするならば話は別だ。
龍脈の穢れを祓い、かつその穢れの核となった少女を救うことは、衛士にも隠衆にも巨乳党にも、あるいは黒典自身にすら不可能だ。
それができるのは、『今』の東城流の技を修めた者のみ。そして先代当主である東城源五郎がこの世を去った今、この世で唯一人、等々力拳剛のみが東城沙耶を救い得る。

黒典は最早東城沙耶を犠牲にするつもりはない。あるいは決闘の勝者となっていたのならば、黒典は沙耶を見捨てて己が悲願を果たしていただろう。しかし今は違う。黒典は負け、その歪んだ信念は拳剛の拳によって粉砕された。
故に今の黒典に願いがあるとするならば唯一つ。等々力拳剛の行く末を見届ける。ただそれだけである。そしてそのとき拳剛の隣には、彼が命懸けで守り抜いた少女がいなくてはならない。拳剛が勝ち取った命をこのような形で失うことを、黒典は認めるつもりはないのだ。

故に、今ここで等々力拳剛を失う訳にはいかない。わずか一息の間に黒典は拳剛の元へと辿りつき、迫りくる触手の前に立ちはだかった。

「掃き溜めのゴキブリ風情が、舐めるなよ」

黒典は『黒』を発動し、迫りくる触手を喰らう。ありとあらゆる気脈を浸食する黒典の能力の前に、気の塊である触手は僅か一合で喰いつくされた。

そのわずか一合の間に汚濁の塔は黒典の危険性を認知する。気の浸食の力。放置すれば自身の消滅を招くやもしれない。それを本能的に理解した龍脈の穢れは、死にかけの拳剛から、その前に立ちはだかる黒典へと標的を変更した。

黒典は右腕を天に掲げる。掲げた腕から漆黒の粒子が立ちのぼり、一つに収束し天を突く巨大な刃となる。それは超圧縮された『黒』の粒子の集合体だった。直接的な殺傷能力は無いが、その長大な刀身は触れるだけであらゆる気脈の力を一瞬で浸食し、貪る。

「黒に呑まれよ」

言葉と共に黒典は右腕を龍脈の穢れめがけて振り下ろす。本体に近づけまいと、汚濁の柱はおびただしい量の触手を放出し迎撃に回る。だがそれらは全て、黒典の『黒』の刀身に切り裂かれ、浸食され、消滅する。
そして黒典の振るう巨大な刃は易々と汚濁の柱にめり込んだ。

だがそこで黒典は顔色を変える。振り下ろした黒の刃は、汚濁の柱にめり込みはしたものの、それ以上はまったく喰い込まなかったのだ。
汚濁の放つ触手を尽く切り裂いたその刃も、汚濁の本体を傷つけることは適わなかった。龍脈の穢れの本体は、枝葉末節の触手とは比べ物にならない密度の気によって形作られていたのだ。
その密度の高さに『黒』を以ってしても浸食ができないのである。

「『黒』を以ってしても喰らいきれぬだと……!?」

黒典の表情が驚愕に染まる。龍脈の穢れの力は黒典の予想をも遥かに超えていた。

だが退くわけにはいかない。ここで退くことはすなわち、東城沙耶の死を意味する。それはすなわち、拳剛と黒典の決闘の意味を無にすることに他ならない。

黒典は咄嗟にもう片方の腕からも『黒』を放出する。そして右腕同様に巨大な漆黒の刃を生成し、汚濁の柱にむけて一閃する。だが『黒』が汚濁の柱を浸食することはない。渾身の力を込めても、穢れの化身に僅かの傷すらも付ける事はできなかった。

「ぐッ……」

全身全霊の『黒』すら通用しない。八方ふさがりの状況に、黒典は思わず歯噛みする。

一方黒典の攻撃を完全に耐えきった龍脈の穢れは、目の前の敵が攻撃の手を緩めるのを見逃さなかった。
その巨体を一様に蠢かせ、次の瞬間全身から触手を放つ。気の遠くなるような量の触手たちは、矢の如き速度で黒典へと迫る。

「ちぃッ!」

黒典は咄嗟に両腕の『黒』の剣を解除する。長大な二本の刃が消えさり、それによって生まれた余剰の『黒』が黒典の周囲に渦巻いた。『黒』の粒子の竜巻は、迫りくる触手を余すことなく浸食し、攻撃を完全に遮断する。

完全に攻撃が遮断されてなおも、龍脈の穢れは攻撃の手を緩めない。刃のように研ぎ澄まされた触腕で喉元を狙い、あるいは巨大な触手を生成し押しつぶさんとし、またあるいは糸のように細くなった触手で締め千切らんとする。
そのいずれもを、黒典の『黒』は防ぎきった。

そして突如として、龍脈の穢れは攻撃を止めた。

(攻撃をやめた……?一体何故だ)

突然の事態に黒典は一瞬当惑するが、すぐにその理由を理解した。
すなわち。龍脈の穢れは、自らに対して有効な攻撃手段を持たない黒典を、脅威にならないと判断したのだ。無論、龍脈の穢れの方も黒典に有効打を与えることはできない。しかし黒典がどう足掻いても自身を傷つけることができない以上、放置しても問題ないと判断されたのである。

取るに足らない存在と断じられた。怒りと屈辱に黒典の拳が震える。
だが彼我の戦力差は認めざるを得ない。本来ならば、龍脈の穢れは黒典一人で十分祓える筈だった。だが負傷しているとはいえ『黒』でも触手程度しか喰らいきれない。
想像以上に穢れが濃く、そして多すぎる。人知を越えた力を持つ黒典ですら、一人ではこの世界の汚濁には到底敵わぬだろう。

戦力が必要だった。この状況を打開するためには、強い力が必要だ。それも一つではなく、多くの力が。
だが今それはこの場所にはない。黒典は、一人で戦わなくてはならないのだった。


そして、龍脈の穢れは次なる行動に移る。己の障害となる者は既に排除した。故に、次に龍脈の穢れが取る行動は一つ。世界の汚濁が取る行動は一つ。己が身を構成するありとあらゆる負の想念に従い、穢れが遂行するのは。
『破壊』である。

龍脈の穢れの本体である汚濁の柱が、その頭頂部を大きく蠢かせた。蠢いた頭頂部は徐々に肥大化し、そして枝分かれして成長する。
瞬く間に、汚濁の柱の頂点に3本の巨大な角が生成された。
そしてその角の先端に、ゆっくりと光が収束していく。

「まさか」

その光景を目にした黒典は、汚濁のしようとしている事を理解し背筋を凍らせた。
龍脈の穢れは光線を放つつもりだ。先刻拳剛を貫いた、あのおぞましくも圧倒的な破壊力を誇る光線を。だがその規模は先ほどとは比べ物にならない。先ほど拳剛を貫いた光は、稚児の腕ほどの太さの触手から放たれた。だが今、光が収束しているのは鉄塔の如き巨大な砲台だ。それが放つ光線は街一つを容易に消し飛ばすだろう。

「させんっ!!」

巨大な汚濁の柱からのびる角に向け、黒典は『黒』を放つ。
だが汚濁の角はあまりに大きくあまりに密であり、触手のように簡単には消え去らない。
もてる全ての気力を費やす黒典。一本、二本、汚濁の柱から生えた角が砂のように崩れ去り、黒典の力として還元される。
だが足りない。汚濁の角の最後の一本は健在のまま、その時が訪れた。

汚濁の柱からのびる角が爛々と輝く。それは高密度に圧縮された気が放つ閃光だった。太刀川にもエイジにもクレアにも黒典にも、そして拳剛すら。どのような人間にも放つことはできない、強い光。目もつぶれる様な輝きは、絶望そのものだった。

その絶望が収束し、そして放たれた。黒典の『黒』は間に合わない。耳をつんざくかのような轟音と激震と共に、濁った光の一閃が奔る。方角は八雲町。拳剛達の街へ死の光が迫る。



だがその光が街に届くことはなかった。
汚濁の放った光線は、突如出現した光の壁により、辛うじて防がれたのだ。黒典は眼を見開く

「結界!?まさか」

龍脈の穢れの一撃を、瞬間的にとはいえ防ぎきるほどの堅固な結界。そんな術を扱える者はそうはいない。だが黒典には、そんな並はずれた者達に心当たりがあった。
黒典が背後より気配を感じると同時、そこから黒典も見知った人物達が現れた。

「間に合ったか!」
「いや、手遅れだろこれェ」

太刀川怜、薄井エイジ、そして衛士と隠衆の連合軍だ。どうやら龍脈が解放されることを見越して駆けつけたらしい。
だが数は黒典と戦った時と比べて半減している。治療を施した上で動ける者だけが来たようだ。

太刀川は状況を確認すると、即座に連合軍に指示を飛ばす。連合軍のメンバーを配置させ、穢れの化身の攻撃に備える。

「あーあ、穢れが『顕現』したか」

一方その横でエイジは頬を引きつらせていた。
龍脈の穢れ。その圧倒的な陰の気が一所に凝縮し、物質世界に実体を持って出現すること、それを以って穢れの『顕現』と称する。『顕現』した穢れの力はまさしく天災に等しく、放置すれば国を滅ぼすほどであるという。
隠衆は、この怪物と戦わないために龍脈の鍵を手に入れんとしていたのだった。龍脈の穢れは一点から現出させれば『顕現』してしまい、天災として猛威を奮う。しかし国中に張り巡らされた龍脈を伝い、各地で分散して穢れを放出させれば、穢れを顕現させることなく祓うことができたのだ。もっともその場合、穢れは放出された各地で大なり小なりの禍を呼び寄せただろうが。

しかし隠衆の思惑がどうであれ、事態は既に引き返すことのできない域まで達していた。最早ここにきては、衛士と協力して龍脈の穢れを討つほかない。
エイジは大きくため息をついて思考を切り替えると、今度は黒典へと目をやった。

「しかも黒瀧黒典が等々力を守ってる?どういう状況だいこれは」
「話は後だ、ぼさっとするな!第二射が来るぞッ!」

黒典は首をかしげるエイジに檄を飛ばす。エイジが状況をわからないのも無理はないが、今は説明をしている暇はなかった。増援は来たものの、今回の穢れの化身に対してはおそらく焼け石に水だ。ここで時を浪費しているような余裕はない。

一方その隙に、龍脈の穢れの本体である汚濁の塔は次なる行動に移っていた。
黒典の『黒』による浸食によって崩壊した2本の角を再生成し、再び3つの巨大な砲台を形成する。
そして柱を中心に、ヘリのプロペラのように3本の角を回転させ始めた。超高速で回転しながら、汚濁の角は歪んだ黒い光を貯めてゆく。

龍脈の穢れのその行動を見て、その場にいた全員が顔色を変えた。

「おいおい冗談だろっ、見境なしにやるつもりか!?」

汚濁の塔は先ほどの光線を無差別に放つつもりだ。おそらく先ほどの一撃を連合軍の結界に阻まれたからだろう。一点集中ではなく全方位に砲撃をばらまくことにより、光線が結界に防がれる確率を下げるつもりだ。

「ドーム状に結界を張れ!」
「無理だ!あれほどの出力の攻撃を全方位で防ぐような結界は張れん!!」

黒典の咄嗟の言葉を太刀川が否定する。
結界を張る下準備も十分な時間もなく、更には黒典との戦闘によってその戦力を半減させた衛士と隠衆達。そのような状態では、世界そのものの気脈である龍脈の穢れを封じ込めるほどの強固な結界を張ることは到底不可能である。
首尾よく行っても、穢れの攻撃のタイミングに合わせて一方向に結界を張る事位しかできないだろう。
太刀川の返答から、黒典は現状の戦力を把握する。

「ならば一つでいい、あの角を破壊しろ!他は私がカバーするッ!!」

龍脈の穢れが光線を放つにはチャージが必要だ。黒典の『黒』ならばそのチャージの間に砲台である汚濁の角を2本までは削ることができる。それでも角の一本は残るが、それは連合軍に任せるほかない。

汚濁の塔の巨大な砲台を削るべく、黒典は『黒』を発動しようとする。だがその時、黒典の視界がぐらりと揺れた。

(ちぃ、まだダメージが……)

拳剛との戦いの傷は未だ癒えきってはいない上に、更にはその状態で『黒』を幾度となく全力発動したために、黒典の肉体は再び限界を迎えようとしていた。
ふらつく身体を気力で以て制し、黒典は『黒』を汚濁の角へと走らせる。だが限界の近づくその身体では、『黒』の出力は思うように上がらない。
黒典の『黒』が汚濁の角の一本目を浸食し破壊する。ついで太刀川の刃が2本目の角を破壊し、そして最後の一本へ向けて黒典の『黒』が放たれる。

だが黒典の『黒』が汚濁へ浸食を開始するよりも速く、既に汚濁の柱はチャージを終えていた。出力の落ちた『黒』では、汚濁の角を完全に浸食するには至らなかったのだ。あるいは黒典が万全の体調であったならば3本の角をまとめて喰らい尽くすことができたのかもしれないが、それは無意味な想定であった。
汚濁の角の最後の一本に、歪んだ光が収束される。網膜を焼き切るほどの強い光が一点に集中し、そして解き放たれた。
どす黒い光が360度全方位を破壊しつくさんと走る。その時、突如として天まで昇る大竜巻が出現した。

「『逆巻け』!!」

天から降る叫び声と共に、天を突く竜巻は触手の砲口を上にぶちあげる。触手から放たれた歪んだ光線はそのまま天へと放たれ、大気圏を突破し空の彼方へ消える。

「今のはッ!?」

周囲を確認する太刀川の耳に、響き渡るプロペラの旋回音が飛びこむ。空を見上げれば、いつのまにか無数のヘリが上空に現れていた。同時におびただしい数の武装した兵がパラシュートで降下を開始する。よくよく見れば、兵は全員が女性であることが分かっただろう。
この状況で来る兵力など、太刀川には一つしか思い浮かばない。

「まさか、巨乳党!?龍脈を解放したこのタイミングを狙ってきたか!」
「おいおい冗談だろ、百や二百じゃきかないぞアレ」

1000人近い兵が落下してくるのを見て、エイジは顔を青くする。衛士・隠衆連合軍の現在の戦力は三十余名。この人数でも龍脈の穢れを相手取るのにも人手が足りないというのに、この上自分達の数十倍近い敵を相手取るだけの余裕があるはずもない。仮に巨乳党と龍脈の穢れを同時に相手取ることになれば、黒瀧黒典が連合軍に加勢したところで全滅は免れないだろう。
そんなエイジの絶望的な予想を、空から降りてきた声が否定した。

「安心して下さい、私たちは味方です」

その言葉と共に、風見クレアは風に乗って天からゆっくりと降り立つ。手には長大な樫の杖を携え、黒のローブにその身を包んでいる。

「巨乳党総勢1053名、推参いたしました。穢れを討つため、微力ながらお力添えをさせていただきます」

そう言うと、クレアは壮絶な頬笑みを浮かべた。

「それでは反撃と参りましょう」

その時。まさにその瞬間。
護国衛士、憂国隠衆、巨乳党、そして黒瀧黒典。龍脈の鍵を求めた争った全ての者達の目的が一致した。

そして、反撃の狼煙は上げられる。





******************************





拳剛は、気づけば川の前に佇んでいた。
記憶にあるのは、龍脈の穢れに全身を貫かれたところまでだ。それ以降の記憶は無く、気づけば拳剛はこの川の岸辺に居た。
一体どういう経緯で今此処に居るのかは拳剛には分からなかったが、だが痛みすら感じないというのは妙なことだった。ここはどこなのかと、拳剛は思わず周囲を見回してみる。
よくよく見れば、ところどころに船で川を渡る人影があることに拳剛は気が付いた。ただし全員が、拳剛がいる側の岸から向かい側の側の岸へと向かっている。向かい側の岸から此方の岸へ渡って来るものはいない。
その光景を見て、拳剛は自分が今置かれている状況を理解した。

(おれは、死んだのか……)

とうとう三途の川を拝むことになったかと、拳剛は他人事のように考えていた。
恐怖や哀しみよりも不思議と納得の度合いのほうが大きい。全身を光線に貫かれハチの巣にされた。生きている方がおかしいだろう。

(結局、俺は守れなかった。)

無力感に苛まれながら、拳剛は膝を抱えて座り込む。そこに、どこからともなく声がかけられた

「やれやれ、こんなに早くここにきてしまうとは。何たる師父不孝者か」
「………その、声は」

拳剛は耳を疑う。いや、ここが冥府の入り口だというのならばある意味納得はできた。だが驚愕を禁じ得ない。
声は、川の対岸に佇む人物が発したものだった。その人物は拳剛もよく知った男だった。
かくしてその男とは。拳剛の師、東城源五郎その人であった。





[32444] 21
Name: abtya◆0e058c75 ID:548583c5
Date: 2015/11/08 22:29
「穢れの討伐」
「災厄の回避」
「東城沙耶の救出」
「等々力拳剛の理想を見届ける」

護国衛士、憂国隠衆、巨乳党、そして黒瀧黒典。
顔を合わせた4つの勢力の代表者たちは、簡潔に、各々の目的を確認し合う。
現在、龍脈の穢れは巨乳党が展開した結界に一時的に閉じ込められていた。おそらく一分程度しか持たないが、意思確認には十分な時間である。
協力か、敵対か。
僅かな沈黙の後、口を開いたのは薄井エイジであった。

「オーライ、一部よく分からないのも有るが…別段協力できないって程でもない。えり好みできる状況でもないしね。
いいだろう、共同戦線と行こうじゃないか」

その言葉に、全員が無言で頷く。
おのおの目的は違えど、目の前のバケモノが邪魔なのは満場一致。そしてその目的も、少なくとも相反するということはなさそうである。ならば協力のメリットはデメリットをはるかに上回る。手を組まない理由はない。

「アレを倒すとして、問題はそのやり方だな」

次に口を開いたのは生粋の戦闘屋である太刀川である。
共同戦線を張るとなれば、それに応じた作戦が必要となる。なにせ人数も戦闘スタイルも指揮系統も異なる者たちが同じ戦場で轡を並べるのである。
戦闘の大方針だけでも決めておく必要があった。

「当初の想定よりはるかに穢れが濃そうだ。あれを正面から削っていくのは得策ではないだろう
一番良いのは、沙耶さんから穢れを引き剥がすことだと思うが」
「ええ。龍脈の穢れは沙耶さんを核として顕現しています。ならば核である沙耶さんから切り離せば、穢れは実体を保てずに自壊するはず」

太刀川の提案に賛同するクレア。が、そこにエイジが待ったをかける。

「あのデカブツの一番上まで登って、そこにいる東城沙耶を助け出せって?それはちょっとばかり面倒だと思うんだけどねぇ。
東城沙耶が核だってんなら、それをぶっ殺すほうが早くない?助けるよりも殺すほうが取れる手段は多いし、楽だと思うんだけど?」
「二つの理由から、それは止めておいたほうがいい。」

忠告するのは黒瀧黒典である。

「まず一つ。東城沙耶を殺害した所で穢れを滅することはできん。重要なのはあくまで彼女の心臓部の龍脈の鍵だからな、彼女の生死自体は奴に影響しない。
むしろ東城沙耶が死ねば核となっている彼女の抵抗がなくなり、かえって力を増すだろう」
「なるほどそれは厄介。で、もう一つの理由ってのは?」

その瞬間、黒典の全身から黒の粒子が立ち上る。殺意こそ無いものの、その場の全員が一瞬身構えるほどの圧倒的なプレッシャー。

「東城沙耶が等々力拳剛の元へ帰る以外の結末を私は認める気はない。
故に、お前達が東城沙耶を殺すと言うのならば――――まず私がお前達を叩き潰す」

単なる脅しや駆け引きのための台詞ではない。たとえこの場の全員を敵に回そうと、黒瀧黒典という男は東城沙耶に害するものを排除するだろう。
そう思わせるだけの鬼気が、その言葉にはこもっていた。

「正しくは『私達』です、黒瀧黒典」

そう付け加えて冷たい眼差しをむけるクレアに、黒典は肩を竦める。

「…だ、そうだ」

仮に東城沙耶に手を出そうとすれば、勢力的強者である巨乳党と、実力的強者でである黒典を敵に回すことになるわけである。こうなれば護国衛士・憂国隠衆に選択肢はない。

「そりゃ怖い。それじゃあ何が何でもお姫様を助けなきゃってわけだ」

黒典にならいわざとらしく肩を竦めて、方針に同意する。

「ご協力感謝します、隠衆の御方」
「ま、元からそのつもりだったしね。感謝されるようなことでもない」

頭を下げるクレアに、エイジはひらひらと手を振る。エイジとて、護国衛士と憂国隠衆だけでは戦力不足であることは理解しているのだ。
しかしながら一応はお国に仕える身。巨乳党や黒瀧黒典のような、ある意味でアウトローである者たちと協力するにはそれなりの建前が必要なのである。

「…玉ももう一個しかないからなぁ」

そして仕事とはいえ、拳剛に張り倒されるようなことをするつもりはないのであった。
そんなエイジの内心の焦りをよそに、太刀川は淡々と話を詰めていく。

「大方針はそれで決まりか。となると後は具体的な手段だが、どうする?
相手は天災も同然。数頼みだけでは心もとないぞ。我々は手負いばかりなのだから、なおさらだ。」
「餅は餅屋だ、何事も適任というものがある」
「等々力拳剛か」
「その通り」

黒典の言葉に太刀川は「やはりか」とつぶやく。
東城流の『内視力インサイト』と『通し』。これを用いれば、一撃で東城沙耶と龍脈の穢れを分離することが可能となる。東城源五郎によって東城流が改竄された理由が、今この時のためであることを、その場にいた全員が理解していた。
故に、この戦いには等々力拳剛の復活が絶対不可欠となる。

「等々力君の治療は私に任せてください。皆さんはしばしの間、時間稼ぎをお願いします」
「急いでくれよ、長くはもたなそうだ」

そうクレアに答えるエイジの額には冷や汗が浮かんでいた。視線の先には、硝子を鉄の爪でかきむしるかのような音とともに、今まさに結界を破壊せんとする龍脈の穢れの姿があった。

「ゆくぞ」
「ほどほどにね」
「御武運を」
「派手にいこうではないか」

VS龍脈の穢れ。第2ラウンドの火ぶたが切って落とされようとしていた。
敵は人知の及びえぬ怪物。単なる時間稼ぎですら、成功の目は薄い。それでもその場の誰もが、ただの一歩さえ退くことはしなかった。
拳剛が立つことを疑わぬがゆえに。




**********************************************



場面は変わって三途の川(仮)へと移る。
川の岸辺で打ちひしがれていた拳剛の前に現れたのは、死んだはずの師匠、東城源五郎であった。
源五郎が生前と寸分たがわぬ声で、拳剛をしかりつける。

「こんの馬鹿弟子が! 儂の1/4も生きずに三途の川入りとは、何たる師父不幸者よ。」
「お久しぶりです、先生。よもやこうしてまた会えるとは。
先生がここにいるところを見ると、やはり俺は死んでしまったと見える」

拳剛の師、東城源五郎。彼は既に数年前にこの世を去ってる。それが今目の前にいるということは、つまりはそういうことなのだろう。
後悔と諦観の入り混じる笑みを浮かべる拳剛に、源五郎は「いやいや」と首を振る。

「お前はまだ死んではないぞ。ほれ、後ろ見てみぃ」

源五郎が拳剛の背後を指さす。
そこには、「お帰りはこちら」「またのお越しをお待ちしています」とでかでかと書かれた看板を引っさげた、朱塗りの門が鎮座していた。

「あそこから帰れる」
「出口!?」

死人の国的サムシングだと思っていたのだが、普通に出口があっていいのだろうか。
呆然とする拳剛に、源五郎は何を当たり前のことをと言わんばかりに口を開く。

「お前のいる側は、いわば生者の岸じゃからのう。そら出入り口ぐらいあろうよ。」
「お、俺は戻れるのですか?」
「儂のいる死者側の岸に来なければな。こっちには出入り口はないし、基本そっちからこっちへの一方通行だもんでのう。こっちに来てしまうとさすがに現世には戻れん。」

源五郎の説明を聞いて、拳剛に俄然やる気が戻ってくる。
戻れるならば、あるいは沙耶を助けられるかもしれない。
東城沙耶を助けることは、師の悲願。東城流が今の東城流へと作り変えられた理由。
ならば、その想いを託された自分が、最後の東城流がこんなところで燻っている理由はない。

「すみません先生。俺は戻らなくては…!」

別れの挨拶もそこそこに、拳剛は門をくぐろうとする。が、それを源五郎が引き留めた。

「まあ待て待て。その前にここに来た理由くらい教えとけい。一応お前の師なんじゃから、アドバイスくらいはできようぞ
一体何があった?地割れにでも巻き込まれたか?それとも溶岩流にでも飲み込まれたか?あるいは竜巻とか巨大隕石の追突とか」

死因のチョイスが天災規模なのは、そのくらいのことが起こらないと拳剛や源五郎は死なないからである。

「戦って負けました」
「ほう?負けたとな」
「次は勝ちます」
「ふん、勝算はあるのか?」
「…」

拳剛は答えられない。敵は強大。たとえ一撃必殺の拳を有する拳剛でも、勝ち目はほとんどゼロに等しい。
追い打ちをかけるように源五郎は問いかける。

「勝ち目はないと。なら何故戦う」
「託されたものを守るために」
「なるほど、な」

拳剛のその返答に、源五郎は得心いった様子だった。
拳剛は川の対岸にいる源五郎に一礼すると、踵を返して門へと進む。

「時間がない。先生、俺は行きます」
「ウェーイトウェイウェイ。ちょっと待て待て」
「待ちませ……ぬぅっ!!?」

流石にもう話してはいられないと、師の静止を無視して門をくぐろうとする拳剛。
だがその行動は、物理的な圧力を以て妨げられた。
対岸、師曰く『死者の岸』にいたはずの源五郎が突如として『生者の岸』にいる拳剛の背後に現れ、その両肩をがっちりホールドしていたのである。
拳剛の額にタラリと冷や汗が伝う。

「む、向こう岸からこちらへは来れないのでは?」
「基本的にはの。とはいえ拳剛や。良く考えてみぃ。基本とか原則とか常識とか、そんなもので儂を縛れるとおもうか?
今の東城流を作ったの、ワシよ?」
「あぁー…」

そう言われると、思わず納得しかけてしまう。東城源五郎は、確かにそういう人間であった。

「というわけで、そおいっ!!!」

掛け声とともに源五郎は、拳剛を現世への出入り口とは逆方向にブン投げる。
突然の不意打ちに拳剛はなすすべもなく放り投げられ地面に激突しかけるが、危ういところで受け身を取って事なきを得た。
そんな拳剛の様子を源五郎は鼻で哂う

「ふん、この程度もいなせんとは、やはり随分鈍っているとみえる」
「ぐぅっ、いきなり何を…」
「お前が何と戦っているのかは知らぬがな。その腑抜けたツラを見れば一目瞭然。どうせ今のお前では戻ってもまた力不足でおっ死ぬだけよ。
ならばこのままここで朽ちさせてやるのが、師としての優しさというもの!」

そう言って源五郎はズンと門の前に陣取ると、門を潜ろうとするものを排除すべく戦闘態勢をとる。
流石の拳剛も、ここに来て穏やかな対応はできなくなった。こうしている間にも沙耶の命脈は尽きようとしているのだ。

「時間がないと、言っている!沙耶の命が危ないのです。退いてもらえぬならば…」

こうなっては最早問答ではらちが明かない。実力行使で押しとおる他に道はなかった。拳剛は覚悟を決める。

「先生といえど叩き伏せる!」

大地を踏み割り拳剛が源五郎へと跳ぶ。
一撃で片を付ける。必殺の意志を込め衝撃波を伴い目標へと肉薄し、上段突きを繰り出す。

「叩き伏せるゥ?今のお前にゃそんなこたぁ―――」

だがそんな拳剛の思いをあざ笑うかのごとく、源五郎はきっちり薄皮一枚で拳剛の拳撃を回避し、

(しまっ、内視力インサイト…ッ!?)

「無理無茶無謀の三拍子よ!!」

逆に拳剛の鳩尾にカウンターの拳を叩きつけた。
臓腑全てが口から飛び出るような衝撃と共に、拳剛が吹き飛ばされる。

(読み、負けたッ!?)

二転、三転。全身を強かに打ちつけながらも即座に体勢を立て直した拳剛は、動揺しながらも今起きたことを分析していた。
乳への渇望こそが内視力の、ひいては東城流の強さの根源。同じ内視力で読み負けたということは即ち、拳剛の渇望を源五郎のそれが上回っているということに他ならない。

「一度や二度死んだぐらいで、我がリビドーが衰えたとでも思うたか?甘い甘い。
虎柄パンツっ娘の乳に囲まれていた儂に、死角はないっ!」

老いてなお、死してなお、その執念衰えることを知らず。これが鬼才、東城源五郎。

「ここで、こんなところで、躓いているわけにはいかないのです!たとえあなたが相手でも!!」
「ほざけ小童!貴様には無理よ!!」

怒号と共に両者が駆ける。

「退けッ、東城源五郎!!」
「退かしてみせよッ、等々力拳剛!!」

師弟対決の火蓋が切って落とされた。





**********************************************




「結界組は絶対に街へ攻撃を通すな!一撃でも抜かれたら終わりだと思え!肉盾組!他の班員を体を張って守れ!敵の攻撃は可能な限り初動を読んで叩き潰せ!」

一本の黒い尾を引きながら戦場を縦横無尽に駆け巡る影。
棍棒のような触手を斬り落とす。刺突せんとする触手を斬り落とす。光線を吐こうとする触手を斬り落とす。
自分を狙う無数の攻撃を掻い潜り、刀の届く限り、敵の攻撃を初動から妨害する。作り上げられる安全地帯。この戦場において、初速で彼女に勝る者はいない。
太刀川 怜。その働きぶりはまさに鬼神と称するにふさわしい物であった。

「陽動チームは奴の的を俺たちに絞らせるぞ!奴の意識を街からそらす!
効かなくても良い、絶対に攻撃の手を緩めるな!
鬱陶しい邪魔者が足元にいる事をこのデカブツに知らせてやれ!
感知チーム、お前たちは戦闘の要だ!敵の動向を逐次報告しろ!他の奴らもヤバイ時には指揮系統を無視していい!各々の判断で感知チームに従え!
!」

戦場全体に向けてそう叫ぶのは薄井エイジである。太刀川ほどの派手さはないが、こちらもまた獅子奮迅の働きをみせていた。
幻術でのかく乱により相手の狙いをかき乱しつつも、感知術式で戦場の状況をリアルタイムで把握しながら指示を飛ばす。その掌握領域は戦場全体に及ぶ。
急ごしらえの共同戦線が曲がりなりにも集団として機能しているのは、彼の状況把握能力と指揮能力によるところが大きいと言えた。

だがこの戦場でもっとも目覚しい活躍を見せていたのはやはりあの男であった。

「太刀川!2時の方向、光線来るぞ!」
「了解!」

エイジの警告に太刀川が走る。敵の攻撃の中でも特に脅威度の大きい光線攻撃は、放たれる前に砲台を破壊する必要がある。
太刀川が目標めがけ一直線に跳躍し、大上段に構えた刀を振りぬこうとしたその時だった。

「しまッ、分裂……!!?」

カノン砲の如き太さだった触手が一気に千本以上に分裂した。太刀川は渾身の一太刀を触手に浴びせるも、切り裂けたのはそのうちの1割にも満たない。
即座に二の太刀を打ち込もうとした太刀川であったが、無情にも分裂した砲台はチャージを終えていた。まばゆい光が戦場を照らす。

「!クソッ間に合わ…」
「問題ない」

最悪の事態が太刀川の脳裏をよぎったその時、男の声と共に、千に迫る触手が一気に消失する。
エイジ同様に攻撃を感知していた黒典が、いち早く『黒』を飛ばしていたのだ。ありとあらゆる気脈を食らう黒典の『黒』は、分化した砲台を一気に喰らい去った。
いつも通りの悠然とした態度のままで、黒典は戦場に向け叫ぶ。

「我等の優位は頭数のみ。的が多いほうが敵もてこずろう。全員、生き残る事を最優先に考えるぞ。無茶をする必要はない。
案ずるな。感知も陽動も結界も肉盾も、足りぬところは私が全てカバーする。
全霊以って生き延びよ!」

周囲への被害に対する対処、敵の攻撃を引き受ける壁役、龍脈の穢れに対する陽動、そして敵の攻撃の感知とその対応。この戦場において、黒典は文字通り八面六臂の活躍をみせていた。なにせ相手は高密度の気の塊。黒典にしてみればこれ以上に戦りやすい相手もいないだろう。
高笑いしながら周囲の触手を『黒』で貪っていく黒典を見て、エイジは呆れた顔を、太刀川は笑みを浮かべる。

「なんでもアリだなあのオッサン」
「頼もしい限りだ。とは言え……」

腕組みをしたまま黒典は龍脈をじっと睨みつける。

「やはり押される、か」

黒典の感知網が確かならば、もうすでに戦力の3割近くが削られている。相手を考えればこれでもまだ善戦している方だといえるだろう。とはいえ、これでは戦線を維持できなくなるのも時間の問題だった、

「風見クレア!等々力拳剛はまだ起きないのかッ!」
「傷は八割がた治療しました!ですが……」

黒典の怒号を受けたクレアは小さく首をふるう。気丈な彼女にしては珍しく、ひどく焦燥した様子であった。

「もう起きてもおかしくはないはずなのに、まるで誰かが彼が起きるのを邪魔しているかのような…」
「急げ!抑えておくのも最早限界に近い!」
「俺たちがミンチになる前に頼むぞっ!……ホントに頼むよっ!?」

太刀川とエイジの言葉は戦況を正しく伝えている。残された時間は少ない。



***************************************************



場面は再び三途の川へと移る。
現世へ戻らんとする拳剛と、それを阻まんとする源五郎。両者の対決は既に決着を見ていた。

源五郎の拳が鈍い音とともに、拳剛の鳩尾に深々と突き刺さる。

「ぐ…ぁァ」
「やはりこんなもんか。他愛のないのう」

内臓が全て飛び出るかのような腹部への衝撃に、糸の切れた操り人形のように力なく倒れ落ちる拳剛。打撲による無数の内出血と、いくばくかの骨折。もはやその体にはまともな部分を探すほうが難しいほどである。
一方、仁王立ちでそれを見下ろす源五郎には一切傷らしい傷はない。
戦闘開始からわずかに数分。あまりにも圧倒的に、源五郎は拳剛を打ち伏せた。迫る拳剛の拳をことごとくに叩き落とし、無防備となった拳剛の体に残酷なまでに拳を浴びせる。一切の反撃も許されぬまま、拳剛は地に倒れ伏したのだった。

「拳剛や。何故こうも、手も足も出ぬかわかるか。」

源五郎は、倒れた拳剛の襟首を強引に引き上げ、その体を無理矢理に立たせる。

「今のお前には『芯』がない。あるいは『自分自身がない』と言い換えてもいい。
お前を突き動かすのはなんじゃ?戦う理由はなんじゃ?憐み?義務感?あるいは約束?」

ギラギラと、老人とは思えぬ源五郎の眼光が拳剛の瞳を射抜く。

「実にぬるい!そんな脆弱な心で!『お前自身』を忘れた志で!」

そういって源五郎は片手で、120kgの巨躯を誇る拳剛の体を放り投げた。なすすべもなく、拳剛の体が宙を舞う。

「東城流を成せると思うな!!」

そんな無抵抗の拳剛に対し源五郎は容赦なく回し蹴りを見舞う。肉の潰れる音と骨の軋む音、そして地面にたたきつけられる音。辺りの石ころに皮膚と肉を削られながら、拳剛は地面を転がった。

「さて、そろそろとどめとしようか。愛弟子に長く苦痛を与えるのは儂とて本意では無いからの」

ゴキゴキと拳を鳴らしながら、源五郎が拳剛へと迫る。

ゆっくりと歩み寄る師の姿を見ながら、薄れゆく意識の中で、拳剛の思考は目まぐるしく回転していた。さながら走馬灯のように、超スピードで思考が流れていく。

(……いや、正直)
(正直割に合わないだろう、これ。いや、というか絶対におかしいだろう)

そしてその思考は、この状況に対する愚痴という、普段の彼からはほど遠いものだった。
だがこの状況下においては至極当然のものでもある。

(先生のことは尊敬している。俺を乳の求道者として導いてくれた)

常人からすればそれは感謝したり尊敬したりするポイントになるのかは不明だが、少なくとも拳剛にとってそれは恩義を感じるに十分なことであった。

(だがその結末がこれなのか)

その結末。すなわち、『師との約束を守ろうとしたら、その師匠本人から三途の川でフルボッコ』、ということである。流石にこれは、いかに実直一途な拳剛と言えども文句の一つや二つ言いたくなるものであった。

(先生の遺志を継ぎ、沙耶を助けようとした。その結末が、こうして先生にトドメをさされることならば)
(ならばなぜ俺は戦ってきたのだ、いったい何のために…)

拳剛の胸が悔しさに締め付けられる。頬に一筋、熱いものが流れた。

死にあって更に死なんとす。極限を越えた極限状態を迎えたことにより、拳剛の脳内で映写機を巻き戻すかのように、今までのことが思い返される。
心の友との信念の激突、魔女っ娘貧乳との決闘、武士爆乳との月下の果し合い、同志達との語らい、番長との派閥争い、師匠との修行の日々。

そして、最愛の少女の金色の乳。

届かなかった少女の胸部に思いを馳せ、拳剛はゆっくりと瞼を閉じる。

(沙耶。お前の乳は…)
(…柔らかいのだろうか、固いのだろうか。温かいのだろうか、冷たいのだろうか。
沙耶は色白だから、色は白いのだろうな。あるいは【検閲削除】だけ極端に黒いという可能性も……いや、アリはアリだができれば白いほうが良いなぁ)

妄想が妄想を呼んで爆発的に溢れ出し、途切れることなく流れてゆく。

(匂いはどうだろう。こう、うわさに聞く女子の体のように、ミルキーな感じなのだろうか。それとも普通に汗臭いのか。
いやそもそも。小さいのか、大きいのか。見た目は明らかにまな板だが、以外と着痩せする可能性も……
ああ、乳の事ならなんでも知っているはずなのに。お前の乳だけは、俺は何も知らない
……知りたいな)

それは願いだった。拳剛自身が、拳剛自身のために抱いた願い。好きな少女の乳への切なる想い。誰に託されたわけでもない、誰かに願われたわけでもない。義務感でも使命感でもない。
100%純粋な拳剛の渇望がそこにあった。

(知りたい。見て、聞いて、触れて、感じたい。沙耶、お前の乳を……!)
(………おっぱいを!!!)

煮えたぎるマグマのような欲望が拳剛の中に満ち溢れる。その瞬間。
最早指一本すら動かせないと思っていた体躯に、一気に力がみなぎった。全身を襲う痛みが嘘のように引いてゆく。
拳剛は拳をギュッと握りしめた。

(ああ、そうか、俺は初めから)
(『戦う理由』……先生、そういうことなのですね)

いつだってそうだった。拳剛が戦うのはいつも乳のため。東城流は、等々力拳剛は。乳のためでなければ戦えない。
師との約束を守ること。託された遺志を継ぐこと。それはきっと立派なこと、美しいこと。
だが無意味だ。
乳があるならばそっちが優先されるのだ。東城流にとってそれは天地が上と下に分かれているくらいに自明のこと。
拳剛は強すぎる理性でそれを抑え込んでいた。幼馴染がピンチになってるのに乳優先なのはどうなのだ、と。常人ならば非常に正しい思考。だがそれは東城流としてはあまりに歪。
そのような歪な志で、勝てるはずもない。
乳への渇望ことが内視力インサイトの根源なれば。
世のためでもなく人のためでもなく、あくまで乳のために。それこそが東城流。

(俺が、俺が戦う理由はッ…………!!!)

その瞬間、拳剛は拳剛を理解した。




「グンナイ 拳剛 フォーエヴァー!!」

咆哮と共に源五郎が跳躍する。狙うは拳剛。その右腕に恐るべき密度の気が収束し、拳剛を穿たんと迫る。
だが拳剛には視えていた。その拳がこれから辿るであろう軌跡が。着弾点が。その速度とタイミングが。
ならば対処は容易い。拳剛は発条のようにその巨体を縮める。

「まだ眠るわけには、いかんのです!!」
「な、にぃっ!!?」

刹那、突きだされた源五郎の拳にすれ違うように、拳剛の蹴りが源五郎の顔面へと炸裂した。吹っ飛びつつもすぐ受け身を取り、片膝立ちになる源五郎。その機を逃さずすかさず拳剛も立ち上がり、拳を構えた。
構えなおした拳剛の顔を見て、源五郎がふふんと笑う。

「顔つきが変わったな。ならば今一度問おう。お前は何故戦う」
「沙耶の乳が見たい。理由などそれで十分だ!」
「見るだけ?」
「できれば揉みたい!故に!」

拳剛が源五郎にまっすぐ拳を向ける。その姿は今までにない覇気が充ちていた。

「必ず生きて戻る。そこを通していただきます、先生」
「ふふん、多少はマシになったようじゃな。我が拳継ぎし者としてはギリ及第点といったところかの」

拳剛の叫びに応えるように、源五郎も構える。

「とはいえ我が孫沙耶ちゃんと不純異性交遊宣言とは見逃せん。やっぱここでくたばっておけぃ拳剛!!」
「丁重にお断りしますっ!」

その言葉を皮切りに、両者は一気に距離を詰めた。間合いを切った両者が打ち出すは拳と拳。それはさながら鏡写しの像を見ているかのようであった。至極当然。対する二人はいずれも東城流。世に二つとない狂気の拳を使う者同士であれば。

「らぁッ!!」
「ぜぁあッ!!!」

拳を打ち抜くと同時、迫る敵の拳撃。いなす拳剛、躱す源五郎。
気脈使い同士の全力の一合、常人の目には最早移ることすらないであろう速度の攻撃。だが当たらない。掠ることすらもない。予め決められた形をなぞっているのかと錯覚するほどに、あまりにもあっさりとその一撃は互いの体をすり抜ける。
実際にそれは予定調和であった。内視力インサイトにもたらされる先読みにより、自身の初手が躱され、あるいはいなされることを既に承知していたのだ。初手だけではない。次の手もその次の手も。既に両者は内視力インサイトによって百手千手先の攻防を視野にとらえていた。
二人の脳内に樹形図のように未来予想図が展開されていく。より確実な未来は太く、不確定な未来は細く。その樹形図を辿った先には、拳剛が倒れ伏せる結末もあれば、源五郎が叩き伏せられる未来図もある。その枝葉の中で自らの勝利につながる道を選択し続けていくことこそが、東城流同士の戦いなのだ。

乳の修羅と化した二人が、その巨体と巨体をぶつけ合う。
拳剛が敵の鳩尾めがけ拳を繰り出すと、源五郎はそれを絡め取りねじあげることで逆に拳剛を投げ飛ばそうとする。拳剛は分かっているとばかりにねじ上げられた腕を起点に自ら回って跳んだ。置き土産に蹴りを放つと、源五郎もまた危なげなくそれを躱す。

流れるような攻防。100回ほども互いを投げあい、200回を超えて蹴りを交わし、300を数える突きを打ち合っても、なおその勢いは不変。互いの動きを読み切っているがゆえに、その速度が緩められることはない。緩急は不要。ただ自身の最大戦速で敵を砕かんと拳をふるう。無数に枝分かれした運命の岐路を選択し続け、自身の勝利へと続く道を、その拳撃で以てたどり続ける。

師と弟子の全身全霊の戦い。この師弟、『心技体』の『技』は師に分があり、『体』は師弟で互角。ならば戦いは師に軍配が上がるのか。
否。断じて否。東城流の根幹は『心』にあり。乳への渇望こそが内視力インサイトの根源。『心』を以て単なる肉を『体』へと変じ、『心』と『体』以て『技』を成す。それはつまり、『心』の強さこそが戦いの終着を左右するということ。
なればこそ。たとえ師が相手であろうとも今の拳剛が負けるはずもない。惚れた女の乳という最高最強の乳を目前にして、その渇望が何者に打ち破れるというのか。

人中めがけて繰り出された源五郎の上段突きを、拳剛の手刀が打ち払う。ぐらりと、源五郎の体が大きく崩れた。
ごくごく単純な攻めと、ごくごく単純な受け。平時の源五郎であれば揺らぎすらしないであろうそのやり取り。だが1000を超える攻防の中でわずかに偏らされた重心、揺らがされた身体の軸、ずらされた突きの照準。戦いの中で歪まされていった体の全てが、源五郎に体勢を立て直すことを許さない。
拳剛の右拳が唸る。

「破ぁッ!!」

烈風を伴いながら源五郎の脇腹に向け突き刺さる拳撃。めきめきと音を立ててめり込んでいくそれを、拳剛は力の限り振りぬいた。粉塵が巻き上がる。
きりもみ回転しながら吹き飛んでいく源五郎。巨大な水柱を上げながら、背後にあった三途の川へと着水する。飛沫が夕立のように辺り一帯に降り注いだ。
体を濡らす雫を意に介すことなく、拳剛は構えを解かない。残心、というだけではない。


(完璧にはいったはず、だが…)

一抹の不安が頭をよぎる。相手は東城源五郎。何が起きても不思議ではない。
そして、拳剛のその不安は的中した。

「……今のはまあまあじゃったの」

降り注ぐ飛沫によって水煙をあげる川面から、ゆっくりと源五郎が姿を現した。
悠然と歩みを進めるその姿からは、先ほどの拳剛の拳によるダメージは一切見受けられない。

「が、儂を倒すにはまだまだ足りんぞ。さて、試合続行と行きたいところじゃが」
「…?」

緊張を高める拳剛をよそに、源五郎はどすんと地面に倒れ込んだ。そして腰に手を当てると大仰に表情を歪めて喚き出す。

「かー!腰痛キツイわー!立ってられないくらいキツイわー!
腰痛くなかっならなー!もう100ラウンドぐらい余裕だったんだけどなー!かー!腰が痛くなければなー!」
「先生…」

拳剛は構えを解く。どういうわけか知らないが、どうやら源五郎にはもう戦闘続行の意思はないようだった。
源五郎が拳剛を追い払うかのように手をヒラヒラと煽る。

「そんなに戻りたいならもう止めやせんよ。好きにせい。じゃが戻ったところで、またおっ死ぬだけかもしれんぞ」
「そうかもしれません 」
「きっと痛いぞ、苦しいぞ、辛いぞぉ。」
「多分、そうでしょう」
「…だったら無理せんで戻らんでも、ここに居ればいいんではないかの?
少なくとも生き返るよりは、ここに居るほうが苦しみは少ないぞ
あるいは生きかえってから逃げ出すのもアリじゃ」
「いえ。決めたのです、誰かに託されたわけでもなく、誰に望まれたのでもなく。」

拳剛は拳を握りしめ、じっとそれを見つめる。戦う本当の理由を今の拳剛は掴んでいた。

「俺は俺自身の望みのために戦います」
「…ふん、ならば好きにせい」
「はい。…先生、お達者で」
「馬鹿たれ、死んでるのに達者も何もあるかい。」

源五郎に深々と礼をすると、拳剛は現世へと繋がる門に向って歩き出した。その歩みを止める者はもういない。
拳剛の姿が門へと消えてゆく。源五郎はその後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見つめ続けていた。
完全に門へと拳剛が消えたことを確認すると、源五郎はすっくと立ち上がる。

「……『先生』か。こんな愚かな師は、三千世界を見渡しても儂ぐらいのものだろうよ」

ゆっくりと空を見上げる。三途の川も空は青い。
誰もいない虚空へ向かって、源五郎は口を開く。

「すまぬ拳剛。
弟子を死地に追いやる我が外道を恨んでくれ。何も言わずお前に託した我が卑劣を憎んでくれ。願いをお前に賭けることしかできぬ、我が浅ましさを蔑んでくれ。
辛ければ逃げていい、苦しければ退いていい」

「だが、できることなら……どうか沙耶を、頼む。」

言葉はただ、空へと消えてゆく。




**************************************************************


「来たかッ……!」


『それ』にいち早く反応したのは黒瀧黒典であった。最早自軍戦力の八割近くが欠けた状態。戦場に全身全霊を傾けてなお黒典が一番最初に気付いたのは、その男の復活を彼が最も強く確信していたからに他ならない。

「……お帰りなさい」

次いで気付いたのは風見クレア。死の淵にいた『それ』を癒し、その後も龍脈の穢れの攻撃に巻き込まれぬよう守り続けてきた彼女は、今や満身創痍。けれど痛みも辛さもおくびに出すことなく、彼女は『その』手を引き上げた。

「寝坊しすぎだ、貸しは高くつくぞ」
「遅いっ遅いっ!ほんとにミンチになる!!?」

ずたぼろになった太刀川とエイジが気づいたのは同時であった。このギリギリの時まで起きなかった『それ』に対して、太刀川はあきれたような笑みを浮かべ、エイジは割と本気の焦りの叫びを投げかける。

謝罪。懺悔。感謝。『それ』が言いたいことは山ほどあった。どれほど言葉を尽くしても言い切れない。だが言いたいことが多すぎるので、とりあえずたった一言だけ言うことにした。おそらく一生の中で、一番色々な思いがこもった一言を。

「待たせたな」

『それ』こと等々力拳剛が、立ち上がった。



「おはよう拳剛!お姫様はあそこだ。君の手で取り返してきたまえ」
「柱の天頂まで我が『風』にて飛ばします。ご準備を」

黒典とクレアの言葉に頷くと、拳剛は龍脈の汚濁を見据えた。天までそびえるその巨大な塔の上に、沙耶は居る。
ゆっくりと体勢を沈めていく拳剛の体に、クレアの『風』が絡みついてゆく。

「血路を開く、ゆけ!等々力!」
「お前は穢れの核にだけ集中しろ!後は俺たちが何とかするから!」

拳剛に迫る触手たちを打ち払いつつ、太刀川とエイジが叫ぶ。拳剛はその声に、拳を上げて答えた。
全身に気を張り巡らせ臨戦態勢に入る拳剛。その体躯を囲うように渦巻く風はより強く吹きすさび、東城沙耶までのルートを形成する。

「行きます!」
「思いっきり頼む!!」

拳剛が応えるが同時、クレアは手にした杖を地面に打ち付ける。瞬間、拳剛の体は砲弾の如き速度で射出された。疾風従え、目指すは穢れの天頂。いとしき少女のいる場所へ。

無論、穢れとてそれを黙って見過ごすわけはない。拳剛が射出されるや否や、巨大な本体が無数の触手を放ち、敵をを殴打し、串刺し、磨り潰さんと迫る。
だがそのこと如くは、流星の如き白刃に斬り伏せられた。

「その男には、手を出させんよ」

その戦場の誰よりも速く、太刀川の刃が拳剛を守る。見惚れるような刃の舞の後には、拳剛が通るべき道が形作られていた。

しかしその程度で諦めるような相手ではない。近接攻撃がダメならば遠距離だといわんばかりに、無数の砲台が龍脈の穢れから生え、天へと迫る拳剛へと照準を向ける。まばゆい光が拳剛を照らす
だが次の瞬間、おびただしい量の黒の粒子が、全ての砲台へと襲い掛かる。

「男が本懐を遂げようとしているのだ、邪魔するのは無粋というものぞ!!」

黒典の『黒』が、気によって構成された砲台を蝕み、喰らっていく。もはや出し惜しみはない。過剰な気の吸収に己の身が爆ぜそうになるのを堪えながら、黒典は拳剛を狙うものを片っ端から喰い尽くす。
だがその『黒』にもすぐに限界が来た。無理もないことである、これまで戦線が耐えきれたのは、黒典が戦場全域を全てにおいてカバーしてきたからに他ならない。その負担は他の誰よりも大きかった。

だがその隙を穢れが見逃すはずもない。無防備になった拳剛向けて、無数の砲台が光線を放つ。
拳剛の全身が光に貫かれ、そして

「残念そいつは”まやかし”だ」

ぽん、と音を立てて消失する。光線に貫かれたのはエイジの幻術によって形作られた”偽拳剛”。
突如として消え去った拳剛に、一瞬龍脈の穢れが混乱する。目を逸らせたのは僅かに一瞬。だがそれで十分。

その隙に本物の拳剛は、既に穢れの天頂へと到達いる。

「受け取れ龍脈の穢れよ!これが、これこそが!!」

銀に煌めく月を背に。双眸と右腕を爛々と輝かせ。拳剛が穢れの核、東城沙耶へと迫る。

その瞬間、龍脈の穢れは初めて恐怖した。矮小な人間相手に死を幻視した。あの小さな右腕が己の滅びであることを、直感的に理解したのだ。
ただ無作為に破壊をばらまくのみだった存在が、己の存在の消滅に際し、恐怖という感情を覚える。湧きあがる自己防衛本能。無数の殻が穢れの核たる沙耶に覆いかぶさり、その存在を守り抜こうとする。

だが無駄だ。どんな防御も、鎧も、城壁すらも。東城流の前には意味をなさない。
内視力インサイト』以てその命脈見切り、『通し』以て命脈貫く。
それこそが東城流、龍殺しの拳。

「乳に捧げた我が拳だっ!!!」

叩きつけられた拳が衝撃を生み出し、幾重にも張り巡らされた殻を伝播する。沙耶の乳へと、迷うことなく、一直線に。
龍脈の穢れにとっては、蟻の一噛みにも等しいその拳撃。だが、それはただの一噛みではない。心臓をもえぐる一噛みだ。
衝撃が沙耶の胸へと到達し、弾けた。東城沙耶の気脈と肉体、その双方に複雑に絡みついた龍脈の穢れが、いとも簡単に引き剥がされる。

次の瞬間、ガラスが砕けたような爆発音とともに、沙耶を覆う殻が弾け飛んだ。拳剛は迷うことなくそこへ突っ込み、沙耶の体を抱きとめると、そのまま宙へと身を投げた。まっさかさまに大地へと堕ちてゆく拳剛と沙耶。
その時、穢れが一気に崩壊を始めた。硝子が崩れるかの如く、汚濁の塔が砂となって散ってゆく。核である『龍脈の鍵沙耶の乳』と分離されたことにより、肉体を保つことができなくなったのだ。
落下していく拳剛は、ただ茫然とその光景を見つめていた。

(消えていく、全て……)

崩れていく砂上の楼閣は、全てが終わったことを拳剛に告げていた。先生の遺志も。自分の願いも。今、全てに決着はついたのだ。

(最後の一仕事は、なんとか沙耶を傷つけずに着地することだが……)

ここでしくじるわけにもいくまい。
そう思って体勢を整えようとした拳剛を、風が優しく包み込む。風はゆっくりと、ゆっくりと、まるで空中散歩をするかのように、二人の体を地上へと導く。

そのとき、拳剛の腕の中で眠っていた沙耶が目を覚ました。

「あ…れ…、拳……剛?」

うっすらと目を開ける沙耶に、拳剛はにっこりとほほ笑んだ。

「おう、おはよう沙耶。ちょっと、おっぱい見せてくれ」
「……ばーか」

呆れたのか、あるいは照れ隠しなのか。そういうと沙耶は顔をそっぽに向けてしまう。なんとはなしにその顔が赤かったようにも見えたが、きっとそれは月の光のせいだろう。
内視力インサイトに映った沙耶の胸は、空に浮かぶ月よりもなお明るく、二人を照らしている。

「かえろっか、拳剛」
「ああ、帰ろう。沙耶。」

二人の少年少女の冒険は、こうして幕を閉じた



[32444] 22(完)+あとがき
Name: abtya◆0e058c75 ID:548583c5
Date: 2015/11/22 19:19
時はゴールデンウィーク。
一面に田植えが終わったばかりの水田が広がる。その若い緑の中をを縫って一台のバスが走っていた。
田んぼに挟まれた小道にぽつんと佇む停留所で、バスが停車する。ドアが開き、降車してきたのは一組の男女だった。高校生くらいのショートカットの少女と、筋骨隆々の見上げるような巨漢。異色の取り合わせの二人はバスの運転手に小さく一礼すると、あぜ道をのんびりと進んでゆく。

「それじゃあ結局、太刀川さん達は帰ったんだ」

少女、東城沙耶が口を開く。

「ああ。エイジや風見、黒典たち含めて、衛士も隠衆も巨乳党も今はこの町から引き上げている」

沙耶のその言葉に、隣にいた巨漢、等々力拳剛が頷いた。

龍脈の穢れとの戦いから既に一カ月近くが過ぎていた。
既に拳剛は、沙耶に今回の一連の事件について説明をしていた。もはや言い訳の効かぬくらい巻き込んでいるし、何より龍脈の鍵は未だ沙耶の胸の中にある。沙耶はそれと、それが引き起こす事件に向かい合って生きていかねばならない。いつまでも事情を隠しているわけにも行かなかった。

拳剛が説明を続ける。

「彼らもこの町でやるべき事後処理がいろいろあったようだが、それももう片付いたからな」

事後処理というのは主に、龍脈関連で破壊したもろもろへの処理や、各勢力間での和解などである。

前者に関しては、今回の一連の騒動による被害がほとんど物的被害のみで人的被害はほぼなかったため、割とあっさりと事が済んだ。が、厄介だったのが後者の各勢力間での交渉である。
特に龍脈を私的利用しようとした巨乳党に関しては、護国衛士と憂国隠衆の総本山の方で相当強い糾弾があったらしい。それこそ党員のこらず一切征伐せよ、などという意見があがるくらいにである。
が、結局衛士も隠衆も巨乳党に対して無罪放免を言い渡すことになった。龍脈の私的利用が未遂で済んだことと、龍脈の穢れ討伐への尽力が表向きの理由だが、実際のところは巨乳党の規模がでかすぎで、隠衆・衛士の総本山が組んでも迂闊に喧嘩を売れないから、というのがエイジの言である。とりあえず穏健路線に移行したようだし、いたずらに刺激して厄介なことにするよりは、静観して現状維持に努めることにしたらしい。
本人いわく隠衆の中でも中間管理職的な立場にあるエイジは、勢力間の調停役として抜擢されていたとのことだ。しかしながらこの穏便な落としどころへと各勢力の意見を調整するには相当苦労したらしく、この前拳剛と会った時の彼はいっそ哀れなくらいにやつれていた。どこの世界にも苦労人というものはいるものである。

なお、龍脈の鍵を東城源五郎が孫娘に移植していた件についても不問とされた。結果的にとはいえ、ほとんど被害なしに穢れを祓うことができたこと、そしてそれが源五郎の弟子である拳剛によってなされたことが大きい。そして何より罰されるべき張本人たる東城源五郎が既にこの世にはいない。故に、三勢力それぞれが東城流に貸し一というところで東城源五郎に関することは決着を見た。

「というわけで、衛士と隠衆の連中は総本山へ事後報告に行ってる。風見も今後の方針を話し合うとかで党員達と元々の拠点に戻るそうだ。黒典も一緒らしい」
「そっか、騒がしい人たちだったけど、いなくなると何だか寂しいなぁ」

沙耶は複雑そうな表情を浮かべる。
正面衝突したり牛乳貰ったり攫われたり攫われたりと色々あったが、振り返ってみるとそう悪い思い出ばかりでもない。彼らの変人ぶりにも慣れてきたこともあり、安心半分寂しさ半分といったところだろうか。
そんなことを考えていると、ふと、横から自分を見つめる拳剛の視線に気づく。

「どしたの拳剛」
「ああ、いや何。体の方はもう大丈夫そうだな、と」
「うん、もう問題ないよ。元々ちょっとだるいぐらいだったからね。」
「そうか、よかった」

ぐっとガッツポーズをして見せる沙耶に、拳剛は安堵の笑みを浮かべる。
あの戦いの後、沙耶数日寝込んでしまった。単なる疲労以外にも、穢れに憑かれたことも原因があるようだった。だがきっちり穢れを落とし切れたのが良かったのか、幸い後遺症もなく、現在は全快している。

「個人的にはそっちより、胸が光って止まらなくなったことの方が修羅場だったけどね。私は特撮ヒーローか何かかと」

冷や汗を額に浮かべながら、沙耶は自分の胸を撫でる。沙耶の言っているのは、彼女の胸に埋め込まれた龍脈の鍵のことだ。心臓と一体化している龍脈の鍵は超高密度の気の塊である。あまりにも高密度すぎるため、物理的に発光するという問題があったのだ。
以前までは隠蔽用の結界が張ってあったので問題なかったが、残念ながらそれは黒典によって完璧に破壊されていた。仕方なしに、今は隠衆が心臓付近に結界を張ってその存在を秘匿している。

そうこうしている内に二人は目的の場所へと到着する。

「やっと着いたな。何カ月ぶりだ?」
「最後に来たの春休みだし、そんな経ってないよ。精々1カ月ちょいってとこじゃない?」
「確かにそうだな。もう一年以上は前のことに思える。」
「まぁ濃い一カ月だったからねぇ」

拳剛と沙耶が来たのは、東城源五郎の墓だった。一連の騒動が決着を見たので、こうして二人で師の、祖父の墓前に報告に来たのだった。
そそくさと、かばんの中から雑誌の束を取り出し墓前に供える拳剛。花束を花瓶にさす沙耶は呆れ顔をする

「お供え物に水着グラビアはどうなのよ」
「流石にヌードはちょっとなぁ」
「違うっての。乳関連の物を止めろってことだよ。また次来るまでずっと残ってるんだぞ、そのグラビアが」
「いやいや、前にも同じような物をこっそり供えたが、次来た時には無くなってたぞ」
「再利用されてんのかい」

水をかけながら下らない雑談をする二人。
簡単な掃除を済ませ、墓前で手を合わせる

「何を伝えたの?」
「全部終わりました、と。そういう沙耶は?」
「……お礼と文句」

沙耶はぶっきらぼうに答える。拳剛はその返答に首をかしげた。

「礼はわかるが、文句は何故だ?」
「私には内緒で、拳剛にぜーんぶ押し付けて逝っちゃったから。鍵のこととか私自身のこととか。その挙句、私を助けるために拳剛は死にかけたんだから」

腕を組み、静かに憤る沙耶。拳剛が頭を掻く。
自分の祖父が師という立場を利用してその弟子を無理矢理に戦わせたことを、沙耶は怒っているのだろう。が、実際は拳剛は拳剛の意志でやったことなのだ。無論第三者から見ればそうは見えないことは拳剛とて重々承知ではあったが。
しかしそれ故に、沙耶の言葉になんと答えればよいのかが、当の拳剛にも難しいところである。
少しばかり考えてから、拳剛は口を開いた。

「先生の名誉のために言っておくが、あの人は一言だって、お前を助けろとは言っていないぞ。全部俺が勝手にやったことだ」
「その『拳剛の勝手』は、結局お爺ちゃんの思惑通りだったんでしょ。なら尚更タチが悪いよ。私は、口に出さないで想いだけ託すのは、卑怯だと思う」

そこまで言って、沙耶は表情を暗くする。

「…ごめん。助けてもらっておいてこんな事言うなんて」

沙耶が本気で源五郎を糾弾しているのでないことは拳剛にも分かっていた。
沙耶にとって祖父・東城源五郎はたった一人の肉親だった。だから沙耶は、その祖父が自分に何も言わずに逝ってしまったことがどうしようもなく悲しいのだ。そしてそれが他でもない自分のためだったからこそ、その悲しみをどうしていいかわからずに持て余している。
自分も似たような想いを抱いていたがゆえに拳剛にも沙耶のその気持ちはよくわかった。沙耶の肩にポンと手を置いて、小さく首を振る。

「いや、気にすることはない。実際俺も、先生が何も言わなかった事に思う所がないわけではないからな」

だけどな沙耶、と拳剛は続ける。

「それは先生なりの優しさだったのだと、俺は思うよ。」
「伝えないのが優しさって、どういう事さ」

発言の意図が読み取れなかった沙耶は、むっとした表情で拳剛をにらみつける。適当な言葉でけむに巻くのはNG、という沙耶なりの意思表示だ。
本人としては精一杯の怖い顔なのだろうが、いかんせん二人の間には身長差がありすぎる。そのためどうしても上目遣いで睨まざるをえないため、拳剛から見るとその表情は怖いというよりはむしろ可愛らしいという感じだった。
ほころびそうになる口元を抑えて、拳剛は目の前の少女に誠実に応えるべく、言葉を選びながら口を開く。

「選択する権利を俺にくれたのだと思う。沙耶を守るのか、自分を守るのか、その選択権を。
先生に沙耶を守れと言われたならば、俺は必ずそうしただろう。だが言われなければ、想いを言葉にされていなければ、逃げることもできる。考えすぎだと一笑にふして、気付かないふりも出来たのだ」
「気付かないふりなんて、馬鹿真面目で頭のかたい拳剛に出来るはずないじゃん!選択する権利なんて言うけど、お爺ちゃんの遺志に気付けば拳剛がそれを無視できないのは、当のお爺ちゃんもわかってたはずだよ
だったらそれは選んだんじゃない、お爺ちゃんに選ばされたってことじゃないの?義務感とか責任感、そういうので戦わされたんじゃないの?」

責めるように言う沙耶に、拳剛は小さく首を振る。

「いや、最初がそうだったという事は否定はしないがな、最後はやっぱり自分の意志だったよ。今沙耶がこうして無事にここにいる事、それ自体がその証拠だ。
東城流の強さは想いの強さ。いくら先生を慕っていたとはいえ、義務感で戦っては勝てるはずもないからな」

沙耶を助けたいと心から願う事が、 それを成す唯一の道だった。
もし最初から源五郎に全てを聞かされていれば、その責務の重圧に押しつぶされ、役目を果たす事しか考えられなくなり、拳剛は己が心のままに拳を振るう事はかなわなかっただろう。そうなれば龍脈の穢れどころか、太刀川やエイジ、クレア、黒典との戦いで既に拳剛は敗北を喫していたのは間違いない。彼らのようなまごう事なき強敵と対等以上に戦う事が出来たのは、あくまで乳への愛あっての事なのだ。
そういう意味では、源五郎は拳剛に何も伝えるわけにはいかなかった、とも言えるのかもしれない。

「先生が何も言わなかったのはだからきっと、そういう事なんだと思う。」

沙耶は拳剛の言に多少は理解を示しつつも、やはりまだ完全に納得はいかないようだった。口を尖らせる。

「言いたいことはわかるし、話の筋も通ってるさ。でも、それはあくまで拳剛の予想でしょう。あんまりにも希望的観測が含まれすぎてるよ」
「否定はしない」

沙耶の言葉を拳剛は首肯する。
拳剛自身も、それがあまりに都合の良い解釈だというのは重々承知であった。状況だけ見れば、拳剛は源五郎に騙されて無関係な戦いに巻き込まれ、ついには命を落としかけたのには違いないのだから。
それでも。「だが」と拳剛は首を振る。

「だが少なくとも俺たちの知る先生は、自分の弟子や孫娘が傷ついて喜べるような人ではなかった。同様に、二人を天秤にかけてどちらかを選べるような人でもなかった。そうだろう?」
「……うん」

複雑そうな表情で沙耶は俯く。拳剛の言う通り、源五郎は単なる弟子とは思えぬ程に拳剛を可愛がっていた。男同士でしかできないような話をしている時には、それこそ実の孫である沙耶が嫉妬するくらいであった。
あのとき源五郎が拳剛に見せていた笑顔が嘘だとは沙耶には思えない。
うつむく沙耶を横目で一瞥すると、拳剛は天を仰いだ。

「沙耶。本当のところがどうだったのかは、今はもうなにも分からん。今まで話したのだって全部憶測に過ぎんのだ。
だからお前の言う通り、実は先生は俺を都合よく利用し、嬉々として死地に追いやっていたことも十分ありうる。だが同時に、苦渋の決断の末に断腸の思いで願いを託したということも、決してありえないことではないだろうよ。
ただ一つ確かなことは、先生の真意を知ることはもはやかなわないということだ。ならば俺は、俺が信じた先生を信じたいんだ」

拳剛のその言葉は、拳剛自身すらもそれが正解かわからない、未だに迷いを含むものだった。だがだからこそ、その言葉は沙耶の胸にすとんと収まった。

「そっ……か。確かにそうかもしれない」

沙耶は静かに瞳を閉じる。
少なくとも、二人の知る源五郎は、彼らにとって良き師、良き祖父であった。素行にやや難ありだったとしても、だ。だが東城源五郎はもういない。
ならば、もはや真実は沙耶自身の、拳剛自身の胸の内にしかない。ならば、在りし日の祖父を、師を。信じることは、きっと間違ってはいないはずだ。

沙耶は空を見上げる。晴れやかに澄み渡る青空はもう赤く染まり始め、黄昏の訪れを告げていた。冷たい空気が頬を撫でる。

「もう日も暮れる、そろそろ帰ろうか」
「……うん」

二人は源五郎の墓前を後にし、バス停へと歩き出す。並んで歩く拳剛と沙耶。だんだんと朱色にかわりはじめた夕焼けが二人を照らす。
そして不意に、沙耶が立ち止まった。拳剛もそれに気づいて歩みを止める。振り返った拳剛の目に映ったのは、何かを決意したかのような表情で自分を見つめる、小さな幼馴染の姿だった。

「ねぇ、拳剛」
「どうした沙耶」

大きく息を吸い込んでから、沙耶は言葉を紡ぐ。

「ありがとう。何度も、何度も何度も、私なんかのために戦ってくれて。
きっと一杯痛かったのに。すごく苦しかったはずなのに。それでも拳剛は諦めないでくれた。
どれだけ言い尽くしても、ごめんなさいも、ありがとうも、全然足りないや」
「詫びも礼も不要だ。言ったろう、俺が好きでやったことだと。これと決めたことに命を懸けられるならば、男の子には本望というものだ」

ニヤリと笑う拳剛に、沙耶もまたほほえみを返す。

「本望、か。拳剛、なんで……」

そして一瞬、躊躇うように口をつぐむ。わずかな逡巡の後、覚悟を決めた表情で顔を上げて、沙耶は再び口を開いた。

「なんでそこまで……命を懸けてまで、私を守ってくれたの?幼馴染みだから?それとも……」

そこまで言って沙耶は首を振る。

「ううん、こう言う言い方は卑怯だね。私から言わなきゃズルだ」

大きく深呼吸してから、自分を見つめる拳剛の瞳をまっすぐに見据えて、沙耶は言葉を吐き出した。

「あのね拳剛。私はね、貴方の事が―――」



「沙耶の乳が見たかったからだ」



時間が止まった。沙耶の額を冷や汗が伝う。
前後の会話の流れを完膚なきまでにぶった切るような言葉が聞こえたが、これは聞き間違えか、あるいは幻聴だろうか。幻聴だろう。そうに違いない。いやそうであってくれ。
一瞬の逡巡ののち、沙耶は何も聞かなかったことにすることにした。
再度深呼吸をして気を取り直し、己が想いを伝えるべくもう一度口を開く。

「わ、私は拳剛の事が」
「俺が戦ったのは、沙耶の乳が見たかったからだ」

気のせいではない。しかもこいつは気付いた上で潰しにきてやがる。沙耶は確信する。
タメるのはダメだ。最速のワードで、最強のインパクトを以って、一気に畳み掛けなければ勝機はない。
にらみ合う両者。勝負は一瞬で決まる。拳剛が息を吐いたその瞬間を見逃さず、沙耶は一気に畳み掛けるーーー!!

「アイラブy……」
「おっぱいとかァ!見たかったからァ!!」

完敗。完膚なきまでの敗北。全身から力が抜けるのを感じ、沙耶はがくりと膝をついた。
もはや主導権は沙耶の手の内にはない。あってももうこの空気はどうにもならない。沙耶にできるのはこの理不尽に対する行き場のない怒りを、元凶たる拳剛へと叩きつけることぐらいである。

「流したのに言い直さないでよっ!?」
「流されたから言い直したのだ!!」
「私今すごい大切な事言おうとしてたじゃん!」
「俺のだって大切だ!」
「どこがだよ!」
「全部だ!いいか沙耶、何度でも言うぞ!」

腕を掴み、腰に手を回して、拳剛は沙耶をぐっと抱き寄せる。交差する視線。相手の心音すら聞こえてきそうな距離で向かい合う二人の、その瞳の中には、己をまっすぐに見つめる互いの姿が映っていた。

「我が全てを賭してでも、お前の乳が見たかった――――俺は沙耶が大好きだからな!!」

呆気にとられたかのように、沙耶の瞳がまん丸に見開かれる。予期せぬ告白に一瞬その思考がフリーズする。
そして思考停止していた彼女の脳が拳剛の言葉の意味を理解すると同時に、その顔は温度計のようにしたから順に赤く染まってゆき、ついには夕焼けのように真っ赤になった。嬉しいような、困ったような、残念なような、それでもやっぱり嬉しそうな表情で、沙耶は叫んだ。

「リ、リ、リ……リアクションに困るわっ!」
「俺のことは嫌いか?」
「そんなわけないでしょ私もあなたが大好きです!……うわあぁぁ結局こうなるのか!畜生もうちょっとで普通に告白できたというのにっ!!」
「俺も男だからな。こういうのは自分から言いたかったのだ」
「そこにおっぱいのくだりは必要だった!?」
「最重要事項だ」
「乳狂いがっ!!」

一切ブレない幼なじみの答えに、しゃがみこんで頭を抱える沙耶。

「うぐぐぐぐ なんてこった選択を誤った 最初からストレートで告白すべきだった そもそも拳剛に会話の主導権を与えたのが間違いだった 斜め上を来るのは分かりきっていたのに いやしかしあの雰囲気が一瞬で覆ると予想できようかいや出来ないてぁあばばばばば…」

確実に乙女がしてはいけないであろう表情でブツブツと呟く。目が座っていた。
近年稀に見る発狂っぷりを見せる沙耶に、さしもの拳剛も思わず冷や汗をかく。

「あー、いや、その……なんか、すまん沙耶」
「悪いと思うなら記憶を失えっ!そしたらもう一回やり直すから!あるいは私にタイムリープさせるのでも可!」
「無茶言うな」
「出でよ龍脈 我が願い叶えたまえっ」
「呼ぶな呼ぶな」

天高く両手を掲げて叫ぶ沙耶を、どうどうと拳剛が落ち着かせる。鍵の存在を自覚している今の沙耶はガチで龍脈を呼べるのでシャレになってない。
なだめられる沙耶は、もうどうにもならないと理解しがっくりと膝をつく

「うううう……乙女の、一生に一度の、メモリアルイベントがぁ…」
「悪かった悪かった。ほら」

拳剛、手を差し出す。沙耶、一瞬呆気に取られるも直ぐに握り返す。
とても無骨で岩のようにゴツゴツしたその掌は、けれどとても暖かかった。
その手に引かれて、沙耶はゆっくりと立ち上がる。

「…ん」

一つになった影法師を背後に落として、夕焼けに向かって二人はゆっくりと家路を歩んでゆく。







*****************************************************************






それから二日後。
週が明けて、本日からまた学校が始まる。いつも通りに拳剛と二人で登校し教室に入った沙耶の目に飛び込んできたのは

「おはようございます、東城さん、等々力」
「よっす、お二人さん。いやぁ休み明けは学校来るのダルいねぇ」
「おはよう、沙耶さん、等々力君」
「御機嫌よう盟友よ。連休はゆっくりと過ごせたかね」

太刀川、エイジ、クレア、黒典。
自分の席を囲むように集結している、相変わらずの濃ゆいメンツであった。

「へっ?あれ、なんでっ!?」
「おうみんな、おはよう」

4人に対し特に驚くこともなく挨拶を返す拳剛に、沙耶は物言いたげな視線を向ける。

「……みんな帰ったって聞いたんだけど?」
「帰ったぞ?」
「そこに全員!一人も欠けずに!いらっしゃるんですけど!?」
「そりゃそうだ。ゴールデンウイーク利用して帰ってただけだしな。学校始まれば戻ってくるだろうよ。」
「あれ転校じゃなくて出張的な意味合いだったの!?」

動揺する沙耶。その横でエイジが頬杖を突きながらヘラヘラと笑う。

「まぁ仕事はともかく、俺たち一応学生だしね。そうポンポン転校してられないって。受験だって割とすぐよ?」
「 おぉう、そこら辺は妙に現実的なのね」

沙耶としては、「薄井君 定職持ちじゃん受験関係なくね?」と思わないでもない。
実際その感想は正しい。というのも、太刀川とエイジがここに居る理由については、衛士と隠衆には東城沙耶及び等々力拳剛の監視・護衛というのが本当のところであるからだ。龍脈の鍵が不逞の輩に奪われないようにするための処置であった。
なお、クレアと黒典の場合は単なる友情と興味である。

「あ、そういえば沙耶さん。等々力君と付き合い始めたんですって?おめでとう」
「な、何故それを……!」

思い出したかのように言うクレアの言葉に、沙耶はその顔を赤く染めると同時、苦笑いを浮かべる。
恥ずかしいから秘密にしておいたというのに、一体どこから情報が漏れたというのだろうか。
その疑問は、次の太刀川の言葉であっさりと氷解する。

「ここにいる四人には、等々力からメールが来ましたから」
「等々力拳剛にしては珍しくはしゃいだ文章だったね」
「あらあら」
「沙耶嬢と付き合えたことがそれだけ嬉しかったのだろうよ」

「……全員メル友かよっ!!!」

知り合ってからもう一か月ぐらいは経つのだから、連絡先の一つや二つ交換しているのはおかしくはない。龍脈のあれこれで色々相談していたのだからなおさらだ。
だがいつの間にそんなプライベートなことまで報告するような仲になっていたんだお前ら。
思わず突っ込みそうになるのを、しかし沙耶は堪えた。というのも、そんなことよりもはるかに深刻な事態が起きうる可能性が発生したからである。

(拳剛と付き合い始めたことがこの四人にバレているということは、つまり―――!)

つまり、この四人より付き合いの長いクラスの皆には、その事実が確実に知れ渡っているはずということだ。そうなれば弄り倒されることは不可避。沙耶の額に冷や汗が流れる。

(どこだ、いったいどこから来る……!?)

警戒心をあらわに沙耶はキョロキョロ辺りを見渡す。だが普段と変わったことはない。好奇の視線に晒されているとかそういうこともない。教室は、あまりにもいつも通りの教室である。
これはどういうことだろうかと沙耶が疑問に思ったその時、教室のドアをがらりと開けて、沙耶の友人である山岸友奈が現れた。

「おー、沙耶おはよう」
「お、おはよう」

何事もないかのように挨拶をして、友奈は普通に席に座る。なんのリアクションもないことに固まる沙耶。沙耶の態度が普段と違うことに友奈も気が付き、その姿を不思議そうに見つめる。

「どしたのよ沙耶」
「あ、いや、肩透かしを食らったというか。もっとこう、盛大に冷やかされるものかと。……もしかして何も聞いてない?」

漠然とした沙耶の質問に、友奈は一瞬何を言っているのかと怪訝な表情をしたが、すぐにその意図を理解してポンと手を叩いた。

「聞いてないって……あぁ、もしかして等々力と付き合い始めたってこと?知ってる知ってる。とはいえ、まぁ今更のことだしねぇ」
「えっ、なに今更って。イヤ弄られないのは嬉しいけども。私達付き合い始めたのつい数日前だよ?」

友奈の思わぬ返答に、沙耶は目を丸くする。

「アンタら二人は付き合っても特に変化ないのは分かりきってるしね」
「いやいやいや、単なる幼馴染と恋人じゃ色々違うでしょ?」

幼馴染は単に付き合いが古いだけの関係である。だが恋人はそうではない。場合によっては一緒に生活をしたりもするし、もしかすると、ひょっとして、生涯を共にしちゃうかもしれないような、そういう男女の深い、ふかーい関係なのだ。
とてもではないが同一視できるようなものではないだろうと、沙耶は詰め寄る。それを見て友奈はやれやれと肩をすくめた。

「色々ねぇ。じゃ聞くけど、付き合ってない頃の二人は休日何してた?」
「えーと、二人で炊事洗濯掃除買い出しする以外は……二人で居間でゴロゴロしてたり、拳剛が鍛錬してるのを私が横で眺めてたり、かな」

(なんで付き合ってない二人が家事を分担してるんだろう)
(夫婦かな?)

横で二人のやり取りを聞いていた太刀川とエイジの額に冷や汗がながれる。

「じゃあ付き合い始めてからの休日は?」
「二人で居間でゴロゴロしてたり、拳剛が鍛錬してるのを私が横で……あれ?」

続く友奈の問いに沙耶はよどみなく返答し、そして硬直した。その姿を見て友奈が突っ込みを入れる。

「ほら、付き合う前と変わってないじゃん」
「いや、えーっと……ほら!墓参りの帰りに手をつないで帰ったし!!」

(小学、生………?)
(極端なのねぇ)

太刀川たちと同様に横で話を聞いていた黒典は、顎に手を当てながら首を傾げる。一方クレアはほほえましそうにその光景を見守っている。
苦し紛れの反論を返した沙耶を、友奈は鼻で笑った。

「手繋いだら恋人だってなら、体育祭のフォークダンスは婚活パーチーかなんかなのかしらね?」
「うぐぐぐ」
「ということで、周りから見ると二人の関係は特に変わってないというわけです。おわかり?」
「な、なんてこったい」

友人によって完全無欠に論破された沙耶は、クラスメートの態度に納得すると同時に、非常に焦りを感じ始めた。これでは恋人同士になった意味がない、と。
あんなこっぱずかしい告白だったのだから、もっと恋人っぽいことしないと割りに合わない。
そこまで思い至った沙耶の次の行動は、まさしくド直球であった。

「拳剛デートだ!デートしよう!そうすれば多少は彼氏彼女っぽくなるに違いない!」
「おおう、肉食系だな沙耶」

いつもは突っ込み役に徹しているはずの恋人兼幼馴染の奇行に、珍しく拳剛がたじろいだ。困ったように頭をかく。

「とはいえ俺は逢引などしたことがないぞ、何をしたものかわからん。なあエイジ。お前はどう思う?」
「デートねぇ、ショッピングモールでウィンドウショッピングとかどうだい?」

とりあえず拳剛はこの場で一番、「そういったこと」に慣れていそうな男に救助を求めた。
突然話題を振られたエイジだったが、一瞬だけ考え込むとすぐに答えを返す。高校生のデートとしては模範解答に近いその回答は、さすが雰囲気リア充といったところか。
ただ一つ残念なことは、その提案が拳剛たちの地理的条件を考慮していない点である。

田舎に、ショッピングモールは、ない。

「つまり商店街をぶらついて、駄菓子片手に晩飯の材料を買い漁れと」
「それデート違う!いつもの下校風景!もっとこう男女交際っぽいのがいいの」
「まぁ晩飯の買い物じゃデートにはならないねぇ」

本当はそういう意図で言ったわけではないのだがと、エイジが乾いた笑いを浮かべた。
どうしようかと悩む沙耶と拳剛に、今度はクレアが提案する。

「図書館デートなんてどうかしら」
「良さそうだけど、拳剛が何分起きていられるか……」
「3分でケリがつく」
「たしかに、等々力君は活字弱そうだものねぇ」

困ったような表情をするクレアの横から、今度は黒典が助言する。

「プールか、あるいは海か川はどうかね拳剛?」
「プール…水着、おっぱい!? 流石だ黒典! 慧眼極まるな!」
「うーん、ここら辺はプールはないからなぁ。となると海か川だけど……まだ五月半ばだし」
「ふむ、確かに沙耶嬢の言う通り、まだ時期尚早か」
「ぐっ、この上ない案に思えたのだが……」
「乳から離れよう拳剛」

両の目を『乳』の字にしながら欲望をたぎらせる恋人を、沙耶が落ち着かせる。

「太刀川ァ!こうなればもはやお前だけが頼り!」
「よ、よりによって私に振るか。私も色恋沙汰には疎いからな、うーん」

最後の最後に話を振られた太刀川は、責任重大だと真面目に考え込む。もっとも彼女自身の言の通り、太刀川も男女交際の経験はない。しばらく考えた後、太刀川はゆっくりと口を開いた。

「……こ、公園で、手を繋いでのんびりする、とか」

本人も言ってて恥ずかしくなったらしく、最後はボソボソと蚊の鳴くような声だった。大正時代かと間違うようなセンスである。
が、沙耶だって似たような感性の持ち主であるのだ。

「……それだ!」

故に、太刀川のその提案を沙耶が諸手を上げて賛成するのは、当たり前と言えば当たり前であった。






**********************************************************






放課後。通学路から少し外れたところにある小さな公園で、沙耶と拳剛は手を繋いで、木陰にあるベンチで座っていた。特に何をするでもない、時々短く会話を交わしながら、ただ二人でボーっとしているだけである。
木々の合間から漏れる暖かな陽光に目を細め、沙耶が笑う。

「んー、いいねこういうの。時間がゆっくり過ぎるっていうかさ。」
「よかったのか?結局墓参りのときと大して変わらんぞ。手を繋いでるだけだしな」
「いいじゃんいいじゃん。よく考えたら、無理に普通の彼氏彼女っぽいこととする必要もないしね。
私たちらしいやり方で男女交際してけばいいんじゃない?」

もとより普通の恋人よりもずっと距離の近かった二人である。確かに、わざわざ『普通』に合わせる必要もないのかも知れなかった。
満足そうな笑みを浮かべる沙耶を見て、拳剛も安心したように微笑んだ。

「そうか。まぁお気に召したなら何よりだ。太刀川には後で何か礼をしないとな」
「他の3人にもね。私はそもそも命を救われてるし、お爺ちゃん関連の後始末とかも色々やってもらったんでしょ?足向けて眠れないよホント」
「ああ。返し切れない借りができてしまった」
「まぁ、あせらず地道に返していこうよ。どんな形でかは、まだわからないけどさ」
「だな」

もしかしたらいずれ拳剛の力が必要になることもあるかもしれない。その時は拳剛は協力を惜しむつもりはない。命を以て救われたのだ。ならば命を懸けて答えるのが筋だろう。
が、それはきっとまだ先のことだろう。拳剛は頭を切り替える。いつまで続くかはわからないが、それでもやっとつかんだ平穏だ。楽しまないのはあまりに勿体ない

そこで拳剛はふと思い出す。

「そういえば沙耶。以前お前はおっぱいを揉ませるなら『言うべきことを言ってから』と言っていたな」
「あ~、そんなことを言った気もするね」

沙耶の額に冷や汗が流れた。そういえば、具体的にはエイジにさらわれた少しあとくらいに、そんなことを言ったような記憶がある。
沙耶の肯定に拳剛の瞳が爛々と輝いた。

「今の俺はまさに、その『言うべきこと』を言った状態だと思うのだよ。だからおっぱい揉ませてください」
「え、エッチは駄目だからねっ!……まだ」
「馬鹿を言うな当たり前だ!子作りは結婚してから!」
「え、あ、いや、別に大学入ったくらいでもいいんだけども……というか、エッチ成分抜きにどうやって胸を揉ませろと」
「こう、気合で?」
「どんな無茶ぶりだよ」

とんでもない無茶苦茶を言う拳剛に沙耶の頬がひきつる。真面目なのか、エロなのか、あるいは真面目なくせにエロなのか。拳剛の乳への愛は、沙耶を以てしても未だに測りかねるところがあった。
沙耶は呆れたように、そしてあきらめたように、苦笑いをしながら溜息をつく。

「仕方ないなぁ。揉むのは無理だけど、ちょびーっと、薄布越しに見せるぐらいならいいよ。
ってわけで、7月くらいになったら川に行く?」
「水着かっ水着だなっ!谷間が見える奴を頼むっ!ビキニ推奨也!」
「私の胸に谷間はないんだよなぁ……って、なに言わせんの」

鼻息を荒くする拳剛に沙耶がデコピンする。弾かれた鼻を指でこすりながら拳剛がニッカリと笑う。

「いやぁ、楽しみだな。春夏秋冬、歳月を経て変わりゆく沙耶の乳をこの目で見届けられる。これほどの幸せが他にあろうか」
「アホ。恥ずかしいこと言わないの」

沙耶が繋いだ手をギュッと握りしめた。ごつごつとした掌からだんだんと温もりが広がっていく。

「好きだぞ、沙耶」
「ん。私もだよ。拳剛」

ゆっくりと互いに体重を預ける。五月の心地よい日差しが、二人を照らしていた。







*************************************************************







こうして二人の冒険は幕を閉じた。
だがそれが二人のお話の幕引きというわけではない。
等々力拳剛が東城沙耶の隣に在る限り。東城沙耶が等々力拳剛の隣に在る限り。
乳の物語はいつまでも続いていくのだから。

故に―――――――――乳列伝は、終わらない。











****************************



あとがき

乳列伝をご覧になってくださいまして、まことにありがとうございます。
このお話をもって、この物語は完結となります。
ご意見ご感想をお待ちしております。

なお、完結に伴い、今までいただいていた感想に関して返信をさせていただきたいと思います。
感想を書いてくださった皆様につきましては、今まで返信をしなかったご無礼をお詫び申し上げます。


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