<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[31760] なでしこっ! (いぬかみっ!二次創作)
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/06 11:39
このSSは「もしなでしこが啓太に憑いていたら」というIF、再構成ものになります。

設定の改変や独自解釈があるかもしれませんが宜しくお願いします。



[31760] 第一話 「啓太となでしこ」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/02/29 03:14
「ん………」

まどろむ意識の中で俺は目を覚ます。同時に日の光が窓から目に飛び込んでくる。どうやらもうとっくに朝になってしまっていたらしい。だがまだ頭がはっきりとしない。今日は日曜日、学校が休みということで夜遅くまで借りてきた映画を見ていたのが原因らしい。頭かきながら床に敷いてある布団から起き上がる。Tシャツにトランクス一枚。それが今の俺の恰好。そんなとても人様には見せられないような姿のまま顔を洗うために洗面所へと足を運ぼうとすると


「あ、啓太さん、おはようございます」

そんな透き通るような声が掛けられる。同時に目の前に小さな少女が姿を現す。一言で言えば可愛らしい少女。栗色のウェーブがかかった髪。大きくつぶらな瞳。あどけない口元。だが決して子供っぽいというわけではない。自分にとっては姉というのが一番しっくりくるだろうか。

「おはよう、なでしこ。悪いな、寝坊しちまった」
「いいんですよ、今日は日曜ですから。それより早く着替えてきてください。風邪引きますよ。朝ごはんできてますから」

顔を少し赤面させながらそう告げた後、なでしこは早足に台所へと向かって行く。いつも目にしているはずなのにやはり恥ずかしいものらしい。そんな初々しさもらしいと言えばらしい。その姿もいつもと変わらない。割烹着の上にエプロンドレスという何ともアンバランスな、時代錯誤な服装。そのエプロンも食事を作っているから着けているのではなく、常時身につけている物。それにも理由はあるのだがそこは割愛。とにかく顔を洗って食事にしよう。大きなあくびをしながら俺は準備を整えていく。

それが俺、川平啓太の一日の始まり。そして俺の家族、そして犬神と呼ばれる化生であるなでしことの一日の始まりだった。


「「いただきます」」

二人で手を合わせた後、俺たちは朝食を食べ始める。小さなちゃぶ台の上には日本の朝に相応しい料理が並んでいる。ご飯に味噌汁、魚に卵焼き。これに勝る朝食があるだろうか。いや、ない! 加えて最も重要なのがその味付け。それはまさに非の打ちどころのないもの。日本全国にいる主婦の皆さまが裸足で逃げ出すに違いないほどの至高の味。それを今、俺は口にしているのだ! その喜びによって知らずその眼に涙が滲む。

「け、啓太さん……一体どうしたんですか?」
「いや……気にしないでくれ……どこか違う世界の俺の電波を感じ取っただけだから……」
「? はあ……良く分かりませんけど啓太さんがそう言うなら……」

俺の言葉に首をかしげながらもなでしこは静かに箸を進めていく。だがその当惑も当然だ。俺自身何を言っているのか良く分からないんだから。そんな支離滅裂なことを考えながらも俺たちは朝食を済ませていく。なでしこは食事をしながらも時折こちらの姿を、反応を気にしている。時折、視線が合うがそれを誤魔化すように微笑みを向けてくれる。その姿に思わずこちらも赤面してしまう。

その名の通り、大和撫子という言葉が形になったような少女。四年前から一緒に暮らしている少女、いや犬神。犬神とは何か。それは………ともかく置いといてまずは俺の名前。川平啓太。十七歳。高校生。それだけならごく普通なのだが一つ、特別な力を、職業を持っている。それは―――――


「啓太さん、今日はこれから買い物に行こうと思うんですけど、何か食べたい物ありますか?」

いつの間にか洗い物を片付け終わったなでしこが出かける準備をしながら話しかけてくる。どうやら知らない間に深く考え込んでしまっていたらしい。

「いや、なでしこに任せるよ」
「そうですか、じゃあ行ってきます。そんなに時間はかからないと思うのでお留守番お願いしますね」

優しい笑みを浮かべながら買い物袋を持ったなでしこが慣れた様子で部屋から出かけていく。そう、言い忘れていたがここはアパートの一室。本当ならもっと良い部屋を借りたいところだがいかんせん高校生ということ、情けないことに稼ぎが少ないことが一番の原因。まあそれは置いておいて

なでしこが買い物に出かけたことを確認した後、俺は迅速に動き始める。そう、まるで特殊部隊のごとく的確に、状況を整えていく。鍵を閉め、チェーンを掛け、カーテンを閉める。それはさながら秘密基地を作る少年のよう。だがそれこそが少年が一人部屋に残った理由。

少年は気づいていた。先程のなでしこの言葉。そこには一緒に買い物に行きたいという意志表示が含まれていたことに。流石に四年も一緒に暮していればそれぐらいは分かる。


すまない、なでしこ。それでも俺には果たさなければならない使命があったんだ―――――


一人、心の中で懺悔しながら啓太はそれを手に取る。鞄の中からそれが姿を現す。啓太にとっての、いや、男にとっての桃源郷が。アダルトなDVDがその姿を現す。それこそが啓太がなでしこの買い物への誘いを断った理由。昨日借りてきた映画もこのための布石。本当ならまだ年齢的に借りることはできないのだがそこは何とか誤魔化した。その返却期限もあとわずか。このチャンスを逃すわけにはいかない。

そんな面倒なことをせずに買えばいい、インターネットで見ればいいという声が聞こえてきそうだがそれは甘いと言っておこう。

まず一つ、そんなお金は家にはない。これが単純な理由。家の家計はなでしこが握っているので論外だ。

そしてもう一つが隠し場所。これが一番の問題。例えDVDや本を買ったとしてもその隠し場所がこの部屋には存在しない。元々狭い部屋。加えてなでしこは毎日、欠かさず掃除をくまなく行うためそれを欺くことは不可能。別になでしこはそういう物があったとしても怒ったりはしないのだが、勝手に片付けられたり、整理されたりするのは流石に俺でも恥ずかしい。まるで思春期の少年とその母親の高度な頭脳戦のごとき配慮が必要になるのだ。

そして最後。なでしこには口が裂けても言えないが俺も健全な男子。例え犬神とは、化生とはいえ、可愛い女の子と一つ同じ屋根の下で暮らしていれば直面せざるを得ない問題。契約したばかりの頃は怖いもの知らずだったのもあったが今は違う。

色々な事情はあるがまあとにかく準備は整った。まだなでしこは買い物に出たばかり。時間は十分にある。安堵と共にその手をパッケージに伸ばそうとしたその時


「啓太様、おいででしたか」
「わひっ!?」

どこか清らかさを感じるような声が部屋に響き渡る。啓太はいきなりの出来事に素っ頓狂な声を上げながら瞬時にその手にある物を再び鞄にしまい後ろに隠す。一瞬の早技に声をかけた青年も驚いたような表情を見せている。

「は……はけか……驚かすなよ! 入るときにはノックくらいしろ!」
「そうでしたね……鍵がかかっていたのでてっきりいらっしゃらないものとばかり……失礼しました」

啓太の言葉と姿でおおよその理由を悟った青年、はけはそう謝罪を口にする。啓太はどこか居心地が悪そうな様子を見せていたものの、一度大きな咳ばらいをした後平静を装いながら突然の来客と向かい合う。

はけ。それが目の前の青年の名前。白い着物姿、長めの黒髪が片目を隠している美しい青年。だがその気配からその者が間違いなくこの世のものではないことが分かる。それは鍵がかかったこの部屋にまるですり抜けるように入ってきたことからも明らか。はけもまたなでしこ同様、犬神と呼ばれる存在だった。


「ったく……で、何の用だ? またばあちゃんのお小言か?」

どこか拗ねた様子を見せながら啓太は尋ねる。はけは啓太の祖母の犬神。彼がやってくるときはほとんどがそれに関係した事柄。それが分かっているからこそ啓太はそんな態度を取っている。もっとも先の出来事の意趣返しが主な理由だったのだが。

「いえ、今回は私個人の用です」
「お前の? 珍しいな」
「はい、少しお聞きしたいことがありまして……啓太様、なでしことは上手くやっていらっしゃいますか?」
「なでしこと……?」

啓太はそんな予想外のはけの質問に疑問の声を上げる。てっきりまた本家や、宗家の面倒臭い事柄だとばかり思っていたからだ。だが何故そんなことを聞いてきているのか啓太には見当がつかない。

「まあ上手くやってるんじゃねえかな……なでしこにはいつも世話になってるし……」

はけの意図が掴めないまま啓太は素直な答えを口にする。なでしこは自分に初めて憑いた犬神。戦闘は行えないがその分、家事などのサポートを完璧に行ってくれている。それは一人暮らしの啓太にとってはこの上なくありがたいこと。間違いなく自分にとっては最良の、自分にはもったいないほどの犬神だろう。

「そうですか……」
「どうしてそんなこと今更聞くんだ?」
「……いえ、彼女も主人を持つのは初めての犬神ですからね。少し心配していたのですが杞憂だったようです」

はけの言葉に啓太は思い当たる節があった。それはなでしこはこれまで誰に憑いたことがなかったらしい。本人の前では言えないがなでしこはかなりの年齢らしい。そのため「いかずのなでしこ」と呼ばれていたとか。そんななでしこがどうして自分に憑いているのか見当がつかない。

まあ何にしてもなでしこには感謝してもし足りない。もしなでしこがいなければ自分は一匹も犬神が憑かなかったかもしれないのだから。

そんなことを考えていた啓太の目にはけの姿がふと映る。だがその姿はいつもと少し違う。まるで


「はけ……お前もしかしてちょっと疲れてるか……?」

その言葉にはけは虚をつかれたような表情を見せる。それは普段のはけなら見せないような姿。はけの驚き。普通なら気づかれないような小さな差異。それに気づかれてしまったことによるもの。やはり血は争えないもの。

「ええ……少し厄介事がありましてね。もしかしたら啓太様の力を貸してもらわなければならなくなるかもしれません……その時は力を貸してくださると助かります」

「俺の……?」

はけが自分に力を借りなければならないような事態などあるのだろうか。はけは犬神の中でもトップクラスの実力の持ち主。そんなはけが自分にそんなことを言うなんて一体何があるのか。

「それでは私はこれにて……なでしこにも宜しくお伝えください」

そんな疑問を残したままはけは再び天井をすり抜けながら姿を消してしまう。一体何だったのか。というかそれは不法侵入なのではないか。しばらく呆然としていた啓太だったがすぐに我に返る。

そうだ、こんなことをしている場合ではない。俺の宝物が今か今かと待っているのだから。啓太はその手にディスクを取り出し、プレイヤーの中に挿入する。やはりこの瞬間はいつになっても緊張するものだ。そしてついにその映像が流れ始めたその瞬間、突然けたたましい音が部屋に響き渡る。

「どあっ!?」

その音に思わず体がのけ反ってしまう。それは自分の携帯の着信音。いつもは聞きなれた音なのだが状況が状況なので体が反応してしまった。というかなぜこうも邪魔ばかりはいるのか。まるで見えない意志が働いているのではないかと疑いたくなるほど。仕方なくテレビを消音にし、携帯に出る。その画面には見知った名前が表示されている。

『仮名 史郎』

それを確認した後、どこか面倒臭気に電話を取る。

「はい、川平ですけど……」
『川平か、突然すまない。休みだとは思ったのだが急ぎの案件だったのでな』

携帯の向こうからは渋い男性の声が聞こえてくる。その主が仮名史郎。特命霊的捜査官と呼ばれる日本で起こる霊的な事件を解決することを任務としている人物。様々な経緯で知り合いになった人物。そんな間柄であったためその電話の内容もおおよそ察しが付く。恐らくは仕事の依頼だろう。なら無下にはできない。やはり政府機関だけあってその金払いはいい。ここで稼げれば生活費には余裕ができる。

「ああ、で案件ってのは?」

そう言いながら自分にとっての武器、商売道具である蛙の形をした消しゴムをその手に取ろうとした瞬間


『君に私と一緒に下着泥棒を捕まえてほしい』


啓太は一人、盛大に部屋の中で素っ転んでしまった――――――


「なんで俺があんたと一緒に下着泥棒を捕まえなきゃならんのだ!?」
『いや、相手もただの下着泥棒ではない。厄介なことに魔術書を持っていてな……』
「魔術書……どこかで聞いたような話だな……それでどんな力を使うんだ?」
『うむ、邪気を放った男性の異性の相手のブラジャーを盗むという力だ』
「どんだけ限定的な力なんだよっ!?」

もはや突っ込みどころがありすぎてどうしたらいいのか分からない。何よりも思い出す。それは先月のこと。その際にも自分は一度そういった手合いと戦っている。そいつは露出狂で下着泥棒ではなかったが。だがその脳裏に蘇る。それは露出狂の持つ魔術書によって全裸にされてしまった記憶。そして留置所へ送られてしまうという失態。極めつけはそれを迎えになでしこがやってきたということ。思い出すだけでも恥ずかしさと情けなさで死んでしまいそうだ。そもそもなぜこの短期間に似たようなことが続くのか。

「何で俺がそれに駆り出されなくちゃいけないんだ!? 仮名さんだけでも十分じゃないのかよ!?」
『いや……やはりああいう手合いは変態使……ごほんっ『犬神使い』である君に力を貸してもらうのが一番だと思ってね』
「今さらっと本音が聞こえたんですけどっ!? っていうか俺は変態じゃねえ―――!!」


電話越しとは思えないようなやり取りをしながらも啓太はそのまま部屋を後にする。例え気に食わない依頼でも生活のため。そして自分は変態ではないと証明するため。


『犬神使い』川平啓太は現場へと向かうのだった――――――



[31760] 第二話 「啓太となでしこ」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/02/29 18:22
人の往来が激しい通りで小柄な少女がその手に買い物袋を持ちながら歩いている。その姿もとても普通とはいえない物。割烹着にエプロンという外出には、いや屋内でもあっても着ている者はいないような格好。しかし、それを全く感じさせないような雰囲気がそこにはある。むしろこれ以上に少女に似合う服装はないと誰かなら太鼓判を押すだろう。それに加えてここは少女がいつも利用している家から近い商店街。そのため往来の人々も見慣なれているため少女が浮くようなこともなかったのだった。

「いらっしゃい、なでしこちゃん。今日は何を買いに来たんだ?」
「こんにちは。今日は玉ねぎと人参、あとじゃがいもをお願いします」
「はいよ、今日はカレーかい?」
「はい、少し日持ちがする物にしようと思って……」

いつもの常連である少女、なでしこが来たことで上機嫌になりながら商店街の八百屋の店主は次々に野菜を詰めていく。なでしこもそんな店主との会話を楽しんでいるようだ。もっとも店主は美人であるなでしこと話せることが嬉しいだけだったのだが。その証拠に知らず顔は赤く、鼻の下が伸び始めている。だがそれを責めることはできない。何故ならこの商店街の男性は皆同じ姿をなでしこの前では晒すのだから。だがそんなことなど露知らずなでしこはいつも通りの優しい笑みを浮かべている。そんな中

「ちょっとあんた。またなでしこちゃんに迷惑かけてんじゃないだろうね!」
「ば、馬鹿野郎! そんなことするわけねえだろ!」
「お、お二人ともそのぐらいに……」

いつのまにかやってきた店主の妻が慌ただしく詰め寄ってくる。その剣幕に店主は身をすくめながら言い訳することしかできない。何とかそれを収めようとするもののなでしこは苦笑いすることしかできない。それはこの光景がいつも通り、日常茶飯事であったから。

「全く、なでしこちゃんには啓太ちゃんっていう彼氏がいるんだからあきらめな!」
「あ……あの、わたしと啓太さんはそんな関係じゃあ……」
「今更何言ってんだい、夫婦って言われても驚きゃしないよ、あたしは」
「坊主もこんな器量良しもらって幸せもんだな。それなのにうちときたら……」
「何か言ったかい、あんた?」

「あ、あの、ありがとうございました。失礼しますっ!」

二人の言葉に顔を真っ赤にしながら脱兎のごとくなでしこは走り去ってしまう。普段の温和な姿からは想像もつかない程の速さ。残された二人は呆気にとられるしかない。

「ちょっとからかいすぎちまったかな?」
「いいんじゃないかい。満更でもなさそうだったしね。」

店主の妻はその後ろ姿を見ながらもどこか楽しげに笑みを浮かべている。確かにあの相手では苦労は絶えそうにはないがそれでもあの子は楽しそうにしている。ならそれを楽しみ、もとい見守らせてもらおう。二人はそんなことを考えながらも仕事に戻るのだった。



「はあ……」

何とか落ち着きを取り戻したなでしこは溜息をつきながらもいつもの足取りに戻る。だが赤くなった顔はまだ治ってはいなかった。その胸中にも先程のやりとりが残っている。

わたしと啓太さんの関係。恋人、夫婦。周りから見ればそういうふうに見えるのでしょうか。それは望ましいこと……ではなかった嬉しいことではあるのですが残念ながらそれは違います。

犬神使いとその犬神。それがわたしたちの関係。

もっともわたしたちのそれは他の犬神使いたちとは大きく異なるのですが。それはわたしの役目が主に啓太さんの家事、生活のサポートにあるから。啓太さんはまだ高校生であり、十七歳。その炊事、洗濯、掃除もろもろをこなすのがわたしの仕事。もちろんその家計も預かっています。家賃に学費、食費、光熱費、そして将来に向けた貯蓄と家の家計は火の車です。今月もまだ……と話しがずれましたがそれがわたしの仕事、役目です。それはわたしにとってはとてもやりがいがあり、何よりも楽しいこと。仕事が、というよりは啓太さんと一緒にいれることがですが。啓太さんも契約の時にそれは了承してくれています。もっともあの時は啓太さんもよく分かっていなかったのかもしれませんが。

でも、それでも思わずにはいられません。わたしが啓太さんの犬神でよかったのか。


「やらずのなでしこ」


それがわたしの二つ名。戦うことを棄てた、逃げたわたしを表す言葉。


「破邪顕正」 


邪を破り正しきを顕す。正義を行い、主と共に魑魅魍魎と戦うこと。それが犬神の本性、あるべき姿。それなのにわたしは――――――


そんなことを考えていると急に周りが騒がしくなっています。どうやら通りの表の方で騒ぎがあるようです。

「何かあったのかしら……?」

気にはなりましたがわたしはそのまま家に帰ることにします。家には啓太さんが待っているはず。それにいつまでも落ち込んでいては心配させてしまいます。啓太さんはそういうことには鋭いので気をつけなくちゃ。

なでしこはそのままアパートへと足を向ける。その騒ぎの原因が自らの主であるなど欠片も思わずに――――――




時同じくして二人の男がその光景に戦慄していた。一人は犬神使い川平啓太。もう一人は白いコートとスーツを身に纏い、黒い髪をオールバックにした男性。名は仮名史郎。特命霊的捜査官、まさに真面目が形になったような男だった。その手には光剣が握られている。それはエンジェルブレイドと呼ばれる使用者の霊力を剣へと変換する魔道具。同じように啓太もその手に自らの攻撃手段である蛙の消しゴムを手にしている。それはつまり今、二人は戦闘態勢であること。だが二人は身じろぎひとつせずただその光景に目を奪われていた。

それは人だった。一人の男が二人の目の前にいる。だがそれだけなら二人が戦慄する理由とはならない。

「なあ、仮名さん、あいつ空飛んでねえ……?」
「うむ、魔術書の力だろう。それが私が君に助けを頼んだ理由の一つだ」

どこか顔を引きつかせながらの啓太の言葉に仮名は茶化すことなく真剣な、真面目な様子で答える。仮名の攻撃手段は剣であるため空を飛ぶ相手には相性が良くない。そこで遠距離でも攻撃可能な啓太に助力を求めてきた。それが一つの理由。だがそんなことはどうでもいい。いや、どうでもいいことはないがそれはいいことにしよう。だがこれだけは、これだけは見逃すわけには、確認しないわけにはいかない。何故なら


「何であいつ……何も着てねえんだ……?」
「うむ、恐らくは奴の趣味だろう」


全裸だった。紛うことなき全裸だった。あえてまだ言おう、全裸だった。


いや、ただの全裸ではない。何故か黒のマントの様な物だけ羽織っている。だがそれは決してその裸体を隠すためには使われていない。その内側には盗んだのであろうブラジャーが貼り付けられている。そのせいでさらにその変態性に磨きがかかっていた。


「話が違うじゃねえか! 下着泥じゃなかったのかよ!?」
「下着泥であり露出狂だったのだろう……それよりも奴から目を離すな。既に戦闘は始まっているんだぞ」
「あんな奴から目を離せないくらいなら負けた方がいいわっ!!」
「いや、君なら奴のことを何とかできると私は信じている。同じ趣味を持つ者同士なら……」
「だから俺は変態じゃねえって言ってんだろうが!!」

あまりの言い草と騙されたことに激高する啓太を見ながらも仮名は全く自分のペースを乱すことなく武器を構えている。いくら言っても無駄だと悟った啓太は渋々再び戦闘態勢に入る。とりあえず言いたいことは山ほどあるがまずはあの変態を片付けてからだ。

だがどうも最近自分はこんな役ばかりな気がする。これまではこんなことはなかったのに。まるで何かを補うかのように、まるで神の見えざる力が働いているかのように。そんなことを考えている時、空を飛んでいる変態、下着泥と目があった。だが同時に妙な違和感が襲ってくる。しかし体には何の異常もない。一体何なのか。そんな疑問を抱いた瞬間

「貴様、貴様も女持ちなのか……おのれ……おのれ―――――!!」

突如下着泥が奇声を上げ始める。突然の事態に啓太は何が起こっているのか分からない。

「川平、奴は今、念視の様な物が使えるようになっている。どうやらその対象の近くにいる異性の姿が奴には見えるらしい。その異性からブラジャーを奪うのが奴の目的だ」
「あっそ………」

もはや突っ込みを入れる気力すらない。何故もっと凄いことに使えそうなことにその力を使わないのか。いや、あの下着泥にとってはそれが一番欲しい力だったのかもしれない。

「貴様などに俺の気持ちなど分かるまい……女の子と一緒に楽しく暮らしている貴様などに!!」

どうやらよっぽど啓太を通してみた映像が気に障ったらしく下着泥はそのマントを荒々しくたなびかせながら暴走し始める。その光景に周囲にいた人々はまるで蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていく。まるでその三人だけを残すように。仮名はまるで自分がこの二人と同類に思われているような感覚に襲われ冷や汗を流す。もっともそう思っているのは仮名だけで既に仮名はその仲間入りを果たしているのだが。


「てめえ……さっきから聞いてれば好き勝手言いやがって……」


言葉と共に啓太の空気が変わって行く。ついに戦闘が始まると察した仮名に緊張が走る。だが


「女の子と一緒に暮らすのがいいことばかりだとでも思ってんのか―――――!!」


それは啓太の怒号と共に霧散してしまった。


「お前に分かるのか、あの胸を、尻を前にして手を出すことができない苦しみが! 同じ部屋で寝る苦しみが! 部屋が狭いせいで隠れて一人でピ――することもピ――することもできねえんだぞ!? ちくしょう、ちくしょう……ちくしょう―――――!!」


それは啓太の心の声、嘆き。目からは血の涙が流れている。変なところで純情な十七歳川平啓太の心の叫びだった。


「お、落ち着け川平! 気持ちは分かるが気をしっかり持て! 奴の思う壺だぞ!」
「うるせえ! ピ――の仮名さんには分かんねえだろ!」
「ちょっと待て川平! 私は断じてピ――ではない! 誤解を招くような発言はよせ!」

二人はもみくちゃになりながら仲間割れを始めてしまう。互いが謂れ尚ない汚名をすすがんと躍起になっている。だがその光景は端から見れば間違いなくそういう趣味があるように見えるだろう。

「貴様ら……私を馬鹿にしているのか―――――!!」

流石に無視され続けて堪忍袋の緒が切れたのか下着泥はその魔術書の力によって光を、邪気を二人に向かって放ってくる。それはまるで雨のように二人に降り注ぐ。だが腐っても二人はプロ。すぐに我を取り戻して啓太と仮名はその邪気を避ける。だがその数は凄まじく攻勢に出ることができない。このままでは埒が明かない。啓太は決死の覚悟でその光に向かって突進していく。

「駄目だっ! 川平、その光に当たっては!」
「大丈夫だ、仮名さん! あの光は俺には通用しない!」

仮名の叫びを振り切りながら啓太は一直線に下着泥に向かって接近していく。この光は当たった者の近しい異性が身につけているブラジャーを盗む力を持っている。そう、ならば恐れることは何もない。何故なら――――――

光が、邪念が啓太を包み込む。その瞬間、下着泥の顔がいやしく歪む。馬鹿め。自分の女の下着が、ブラジャーが奪われるという恥辱を味わうが良い。そう勝利を確信した時、違和感に気づく。いつまでたってもその手にブラジャーが現れない。あり得ない。一体何故。それは


「なでしこは……ノーブラだ――――――!!」


その一言によって証明される。同時にその指にはさんでいた蛙の消しゴムが次々に下着泥に向かって放たれていく。まるで弾丸のように。それが啓太の力。霊能力者としての、犬神使いとしての力。


「白山名君の名において命じる……蛙よ、破砕せよ!!」


瞬間、蛙の消しゴムがまるで爆弾のように大きな爆発を起こす。下着泥は隙を突かれたことによって為すすべなくそれに飲み込まれていく。後には気を失った下着泥と魔道書があるだけ。


それを見届けた後、啓太は誇らしげにサムズアップをしながら仮名に笑みを向ける。まるで戦友に向けるように、どこか輝きすら見せる姿で。


仮名はそれに同じようにサムズアップするしかない。だが仮名は確信していた。自分の彼女、いや犬神のプライベートを公衆面前で叫んでいながら誇らしげな彼は間違いなく、紛うことなき、ヘンタイだと。


そして彼は気づいていない。それは先の光。あれにはもう一つ力があった。それは浴びたものの服を消してしまう力。


今、川平啓太はドヤ顔を見せながら全裸を晒している。それが川平啓太の生まれて二度目のストリーキングだった―――――――





「……ただいま」
「おかえりなさい、啓太さん……えっ!? ど、どうされたんですかっ!?」

なでしこは帰ってきた啓太の姿に思わずそんな声を上げてしまう。その姿はまるで疲れ切ったサラリーマンのよう。いや、そんな表現すら生ぬるい程の姿がそこにはあった。

「いや……ちょっと仕事が入って……でももう片付いたから大丈夫……」
「と、とにかく早く上がってください、何か飲み物出しますね!」

ぱたぱたと慌ただしくなでしこは台所へと走って行く。啓太はそのまま自分の座布団へと腰を下ろす。あの場に仮名がいたことで何とか事なきを得たがそれでも大切なものを失くしてしまったような気がする。とにかく気をつけなければ。まるで自分を狙うかのような悪意が存在している。もう二度と留置所には、いやなでしこに迎えに来てもらうようなことは避けなければ。そんなことを考えているうちになでしこが飲み物を持ってやってくる。その姿を見ていると家に帰って来たんだなという気分になる。


「………え?」

なでしこはそんな声を上げることしかできない。それは自分の頭。それを啓太が撫でている。無造作だが、それでもどこか優しさを感じる手で。撫でている啓太も特に他意はなかった。あえて言えばそうしたほうがいいと、何となく思ったというのが正しい。それが犬神使いが犬神使い足る、啓太が啓太である所以。なでしこは顔を赤くしながらも俯き、その頭を撫でてもらっている。どうやら満更ではないらしい。

だがふと、啓太はそれを目に捉える。それはテレビ。何もおかしいことはない。だが待て。その電源が落ちている。確か自分はここを出て行く時それを消しただろうか。いや、電話をしながら急いで出たためそんな暇はなかった。恐らくは買い物から帰ってきたなでしこが消したのだろう。

だが思い出せ。自分は仕事に出る前に何をしていたかを。知らず血の気が引いていく。冷や汗が背中を伝う。


「なでしこ……もしかして……テレビ……点きっぱなしだった……?」
「…………はい」

なでしこは耳まで真っ赤にしながらかすれるような声で答える。それが全てを物語っていた。


啓太は声にならない奇声を上げながら部屋を飛び出していく。なでしこも慌てながらその後を追うしかない。そんな二人の鬼ごっこはしばらく続く。


それがある日の啓太となでしこの日常だった―――――――



[31760] 第三話 「啓太のある夕刻」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/03 18:36
日が沈み、辺りが静けさに包まれつつある時間、啓太は自分の指定席、座布団に胡坐をかきながら新聞を読んでいる。今、時刻は夕刻。啓太は学校を終え帰宅し、夕食を済ませたところ。そのあと新聞を読みくつろぐのが啓太の日課。本当なら朝読むべきものなのだろうが如何せん朝には弱いためこんな形になっている。そしてそんな中、部屋には食器がこすれるような音が響いている。だがそれは決して耳に障るような音ではない。むしろ心地よさすら覚えるほどの物。

「啓太さん、お風呂が沸いてるので入ってくださいね」
「ん……いや、俺は後でいい。先に入っちゃってくれ」
「そうですか……じゃあ、お先に頂きますね」

台所で洗い物をしていたなでしこがこちらに振り向きながら風呂をすすめてくる。それを聞きながらも俺は新聞を広げたままいつも通りの答えを返す。なでしこはそのいつもどおりのやり取りをしながら笑みを浮かべ、洗いものに戻って行く。分かり切っていることにも関わらず毎回きちんと聞いてくるところがなでしこらしいと言えばなでしこらしい。俺はそのまま新聞を少しずらしながらその後ろ姿を眺める。

小柄ながらもテキパキとどこか楽しさすら感じさせる雰囲気を纏いながらなでしこは洗い物を済ませていく。それを俺は眺めているだけ。眺めていないで手伝えという声が聞こえてきそうだが何も俺はなでしこに洗い物を押しつけているわけではない。そんな亭主関白ではない、というか亭主ではなく主人、飼い主なのだが。いや、良く考えると同じようなもんか……まあそこは置いといて俺もなでしこと暮らし始めた当初は家事を手伝おうとしていた。いくら俺でもいきなり全てを押しつけるような真似はしない。だがなでしこは俺に家事をさせてはくれなかった、それも頑として。それは自分の仕事だと。いつもは温和ななでしこなのだが一度これと決めたことや譲れないことには頑なになるところがある。それが分かってからはなでしこが家事をしている時には手を出さないことが俺の中のルールになっている。

ふと、目に止まる。それはなでしこの服、いや身につけている物。エプロンドレス、そしてその首には蛙の形をしたアクセサリー、ネックレスが掛けられている。そのネックレスは自分となでしこの契約の証。犬神使いとその犬神の関係の主従の証だった。


(そういや、なでしこが家に来てからもう四年になるのか……)

そんなことに今更ながらに気づきながら思い出す。それは今から四年前、俺がまだ十三歳、中学一年の時。俺はなでしこと出会い、そして犬神使いとなった。できればあまりその頃のことは思い出したくない。

何故ならその頃の俺は何と言うか……エロだったから。もうエロが本体で俺が部品だと言えるぐらいエロだった。だがきっと分かってくれるはず。思春期の少年の頭の中はほぼ九割以上がエロでできていると! もっとも今も八割以上はエロなのだが。だが決して変態ではない。エロではあるが変態ではない! ここが一番重要だ。

まあともかくそんな俺だったわけだからなでしこが犬神になってくれた、家にやってきた時には狂喜乱舞した。今となっては正気を疑うが本気で夜伽をしてもらおうなどと妄想していた。完璧に黒歴史だ。


女の子がやってくることによって漫画やゲームの様なハーレム生活を送ることができる。そんな風に思っていた時期が俺にもありました……


舞い上がっていた俺はなでしこにあるものをプレゼントした。それはエプロン、今もなでしこが身につけているあれだ。主に家事をやってくれるなでしこには必要なものだろうということ、そして何よりも


裸エプロン


それをやってもらおうという魂胆。それが本当の理由。裸エプロン。それは全人類、いや全ての男の夢。男なら誰でも一度は妄想したことがあるはず。もししたことがない奴がいるとすればそいつは男ではないと断言できる。そしてあろうことか俺はそれをなでしこにお願いした、今世間ではそれがブームなのだと。今思えばどれだけ怖いもの知らずだったのかと戦慄する。それは思春期の男だからこそできること。決して俺が変態だからではない。

だがその当時の俺もそれを本気で考えていたわけではない。からかい半分、冗談半分のものだった。しかし次の日、俺は目にすることになる。

紛うことなき本物の、現実のなでしこの裸エプロンを。その光景はまだこの目に、心のアルバムに焼き付いている。


割烹着を着ている姿からは想像がつかない程のボリュームがある胸、巨乳。小柄なその体がその存在感をさらに引き立てている。まさにこぼれんばかりという言葉が相応しい。その足から太ももにかけてのライン、そして見えそうで見えないチラリズム。何よりもその表情。上目遣いと真っ赤になった顔。それが保護欲を、嗜虐心をくすぐる。そこには間違いなくこの世の全てがあった。


この時の感動を語っていけば四百字詰め原稿用紙十枚を優に超えるため割愛するがその破壊力は凄まじかった。特にまだ中学一年の俺には。まるで石器時代の人間に重火器をもって襲いかかる程の圧倒的戦力差。その前に俺は敗れ意識を失い、失血死寸前までの瀕死に陥った。なでしこがいたから九死に一生を得たがあのまま死んでも悔いはないと思えるほどの光景だった。だがそれを機に俺は悟る。なでしこに対してセクハラの類を行ってはいけないと。そうしなければ間違いなく自分の命にかかわると。そこで俺は命がけである能力を手に入れる。

身内フィルター

それがその名前。(もちろん俺が勝手につけた)その能力は単純。なでしこが自分にとって家族、身内だと思いこむこと。実際なでしこは俺の家族なのだがそれはそういう意味ではない。例え俺がセクハラをしなくともなでしこと寝食を共にするだけで俺の理性は崩壊寸前になってしまう。それを防ぐための自己防衛、自己暗示、いや現実逃避を発動させること。それが身内フィルター。

例えば下着姿でうろついていてもそれが母親や姉妹であれば全く気にしないようなもの。自分のムスコが暴走しかけた時に母親を思い浮かべれば鎮めることができるようなもの……いや、これはちょっと違うか。

とにかくそれを身に付けたことで俺はなでしこと生活ができるようになった。もっともそれでもかなりの綱渡りではあったのだが。


これがもし、なでしこが無意味に体を接触させてきたり、露出が多い、扇情的な格好でうろつくような奴だったならば例え身内フィルターを発動させたとしても敗れ去ってしまっただろう。なんだろう、何か変な電波を受信したような気がする。とにかく本当に俺の犬神がなでしこで助かった。


これで俺は自分の命を守ることが、そしてなでしこの信頼を失わずに済んだ。それが一番の理由。もしそんなことをしてなでしこに嫌われてしまえば、もし山に帰られでもしたら自分は間違いなく死んでしまう。この四年間によって俺は既になでしこなしでは生きていけない体になっているのだから。決してやましい意味ではなく文字どおりの意味で。

この生活に慣れてしまった今、以前の生活に戻れるわけがない。一度火を使い始めればそれを手放すことができないように。

これじゃあどちらが主人か分かったものでは……あれ? そう言えば俺は犬神使い。いわばなでしこの主人に当たるはず。なのにまるで自分の方が養われているのではないか。


今更ながらにそんなことに気づいた啓太の頭にある光景が浮かぶ。


首輪をつけた自分と、その綱を握っているなでしこ。なでしこはいつも通りの微笑みを浮かべている。


いや、あり得ない。なでしこはこんなことをするような奴ではない。なのに、なのにどうしてその姿に全く違和感を感じないのか―――――



「違うっ! 俺に、俺にそんな趣味はねえ―――――!!」
「け、啓太さん、どうしたんですか!? お、落ち着いてください!」

突如奇声を上げ、悶え始めた啓太に驚きながらなでしこがそれを何とかおちつかせようとおろおろしている。それがある意味いつも通りの二人の光景だった――――――



「ふう……」

一度大きな溜息を吐きながら啓太はおもむろに屈伸をし始める。まるで何かの準備運動のように。


俺としたことがつい取り乱してしまった。だがもう落ち着いた。あれはそう、気のせいだ。あのなでしこがあんなことするわけがない。全く……俺も疲れているのかもしれない。


一通りの準備運動を終えた後、啓太は一瞬で床へとへばりつく。そこには全く無駄ない。完璧な動き。そしてそのまま啓太は床を這いながら移動を開始する。それはまさにほふく前進。現役の軍人もかくやという動きを以て啓太は動き始める。


その目的地に向かって。そこは風呂場。そして今、なでしこがいる場所だった。


いや、俺は今、身内フィルターを使っているからやましい気持ちはない。これは明日の体育の時間の授業の予習だ。狭いこの部屋では進行方向は限られる。だからこれは決してのぞきではない。


そんな誰に対する言い訳か分からない物をしながらじりじりと啓太がその距離を詰めていこうとしたその時


「……何をされているのですか、啓太様?」


そんな聞き覚えのある声が聞こえてくる。その声の主の姿をゆっくりと啓太は見上げる。ぎぎぎ、という擬音が聞こえてきそうな動きで。そこにはいつものようにどこか清らかさを、優雅さを感じさせる雰囲気を纏った犬神、はけの姿があった。


「は、はけ……何でこんなところに……?」
「いえ……ノックもチャイムも押したのですが反応がなかったもので……」

そんないつも通りのはけの反応に啓太は冷や汗を流すしかない。というか、何だ。こいつは勝手に部屋に入ってきて俺を驚かす趣味でもあるのか。いや、以前言ったように確かにノックとチャイムはしたのだろうがそれでも中に入ってくるあたりこいつもどこかずれているのかもしれない。もし、はけが聞いていれば間違いなく啓太には言われたくないと思うだろうが。

しばらく無言の沈黙が二人の間に流れる。床に這いつくばっている少年とそれを扇を持ちながら見下ろしている着物を着た青年。そんな異次元空間が形成されている中

「……とりあえず立ち上がられてはいかかですか、啓太様?」

そんなはけの言葉によってそれはやっと解放されるのだった―――――――



「ったく……で、今度は何の用だよ?」

ひとまずちゃぶ台を間に挟んで啓太とはけは向かい合う。なでしこはこの場にはいない。なでしこはかなり長湯するのでしばらくは出てこないだろう。はけももう先程の件については口にするつもりはないらしい。内心安堵しながら啓太は単刀直入に切り出す。

「はい、実は啓太様に一つ、依頼をお願いしたいと思いまして……」

はけはそう言いながらどこからともなくファイルの様な物を取り出し、渡してくる。そこには依頼の内容が詳細に書き記されている。だがどうもその内容がはっきりとしない。憑き物であることは分かるのだが何の憑き物なのか、どんな被害が出ているのかも書いていない。それはつまり

「なんか隠し事か、やばいことがあるってことか……」
「はい、ですが相手は主の友人である寺の住職。無下にするわけにもいかずこうして啓太様にお願いに伺ったのです」
「うーん……」

はけの言葉を聞きながらも啓太は考えるような仕草をみせる。厄介な仕事ではありそうだがそれはある意味いつものこと。その報酬も悪くない。先日臨時収入があったとはいえお金はあって困ることはない。あの時の様な変態を相手する心配もない。何よりも―――――


「……分かった、この依頼受けるぜ。そうばあちゃんにも伝えといてくれ」
「そうですか、助かります。主も喜ばれると思います」


啓太の言葉にはけは微笑みながら礼を述べる。まあたまにはばあちゃんに借りを作るのもいいだろう。色々と面倒ないざこざもあるが一応、孫だしな。でもそう言えばしばらく直接会ってねえな。もう半年は会ってないのではないか。

「そういえば長いことばあちゃんに会ってねえな……そろそろ顔見せといたほうがいいか? なでしこも気にしてたし……」

何の気なしに啓太はそう口にする。あの祖母が体調を崩しているようなことがあるわけがないがそれでも高齢であることには変わりない。いい機会かもしれない。そんな思いつき。だが

「……いえ、それには及びません。主の方には私から宜しく伝えておきます」

それははけの予想外の言葉によって遮られてしまう。思わず啓太は驚いた表情ではけをみつめる。はけはそれに気づきながらもまるで気づいていないように振る舞っている。

『はい、主も喜ばれると思います』

それが啓太が予想していた答え。だがそれと全く正反対の答えをはけは口にした。それはいつものはけなら口にしないような言葉。それを問いただそうとするが

「……それでは私はこれにて。なでしこにも宜しくお伝えください」

それよりも早くいつかと同じ言葉を残しながらはけはその場から姿を消す。あっという間の出来事に啓太は呆気にとられるしかない。


「変な奴……」

お前が言うなと突っ込まれること請け合いの言葉を漏らしながら啓太はそのまま背伸びをし、再び新聞を読み始める。そんな中、慌ただしくも静かな夜が更けていくのだった――――――



[31760] 第零話 「ボーイ・ミーツ・ドッグ」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/04 08:24
これは今から四年前、川平啓太が十三歳だった時の話。

その運命が大きく変わった時。本来の道筋から大きく変わった全ての原因、そして始まり。



どこか歴史を感じさせる和室に三人の人影がある。一人は着物を着た老婆。大きな和室の中央にちょこんと正座し、手首には紫水晶の数珠をはめている。どこか威厳を感じさせる空気を纏っていた。

もう一人が着物を着た青年。清らかな空気を纏った美しいその姿。その手には扇の様な物を手にし、老婆の後ろに控えるような形で座っている。

そして最後の一人、それは少年だった。だがその姿は先の二人とは違いラフな格好、Tシャツにジーパンというもの。だがその様子はどこかそわそわしている。まるで何かを待ちきれないと興奮しているかのように体がしきりに動いている。誕生日プレゼントを、クリスマスプレゼントを待つ子供のよう。実際、まだ少年は子供だったのだが。

それが十三歳、今年中学校に入ったばかりの川平啓太だった。


「久しぶりじゃな、啓太。元気にやっとるのか?」

そんな啓太の様子を見ながらも老婆、啓太の祖母は一度咳ばらいをした後にそう尋ねる。それは久しぶりの孫との再会、そして落ち着かない様子の啓太を戒める意味を込めていた。だが

「なあ、ばあちゃん、もう行ってもいいか!? もう日も沈んだしいいだろ!?」

祖母の意図など欠片も気づかず、啓太は今にも飛び出して行きかねない勢いで祖母に尋ねる。その眼は期待と興奮で満ちている。もはや何を言っても耳には入らないだろうと悟るには十分なものだった。

「全く……気持ちは分からんでもないがもう少し落ち着きを身につけたらどうじゃ……?」
「そんなもん身につけられるならとっくに身につけてるっつうの! ばあちゃんだってそんなこと分かり切ってんだろ!?」
「自信満々にそんなこと口にせんでいい……情けなくなってくるわ……」
「主、いいではありませんか。主もあの時には随分はりきっておられたでしょう?」
「うむ……まあそうじゃったが……」
「お、流石はげ! よく分かってるじゃないか!」
「はけです。啓太様」

そんなコントの様なやりとりをしながらも祖母は改めて自らの孫、啓太を見つめる。本家の直系である血筋。間違いなく才能においては自分に匹敵、凌駕するものを持っている孫。だがいかんせんその性格、素行に問題がある。そのせいで本家からはいい目で見られていない。それを何とかしようと一人暮らしをさせて自立を促そうとしているがどうやら全く効果はないらしい。いや、むしろ悪化しているのではと思ってしまうほどだ。だがそれを覆せるかもしれない、挽回できるかもしれない機会が訪れた。


「では儀を始めるが……準備はよいか、啓太?」

それは儀式。もっとも儀式と言っても特別難しいことをするわけではない。一人、裏山に向かいそこで一晩を過ごす。ただそれだけ。しかし、そこには大きな意味が、理由がある。

自らの犬神を手に入れる。それこそがこの儀式の目的。犬神使いになるために避けることができない儀式だった。

川平家の人間は十三歳になればこの儀式を受ける。その裏山には犬神と呼ばれる人妖たちが住んでいる。彼らの品定めを受け、気に入られれば犬神使いになれるというわけだ。それは犬神使いを目指す者にとっては人生の大一番といってもいいもの。何故ならこの時に自分に憑く犬神によって己の人生が決まると言っても過言ではないのだから。にもかかわらず目の前の孫にはまったく緊張感というものが感じられない。まるでナンパにでも行くのではないかと思えるような有様だ。そしてその想像は正鵠を射ていた。

「あったりまえだろうが! 俺もはけみたいな便利な犬神もらえるんだろ? 一人暮らしだと色々大変でさ、早く犬神が欲しいってずっと思ってたんだよ!」
「お前……犬神使いをなんか勘違いしておりゃせんか?」
「とにかくもういいんだろ!? 行ってくるぜ、待ってろよ、俺の可愛い犬神ちゃーんっ!!」

もはや話すことはないと言わんばかりに啓太は大きな荷物を背負いながら凄まじい勢いで走り去って行く。その素早さに祖母は制止する暇すらない。あっという間に啓太の姿は見えなくなってしまう。元気が有り余っている年齢とはいえあの身体能力は人間離れしている。その理由も情けないものだが犬神使いとしては長所ではあるだろう。儀式においてプラスになるかは置いておいて。

「やれやれ……先が思いやられるわい……」
「心配することはありません。啓太様には犬神使いとしての才があります。それは私が保証しましょう」
「才があっても犬神が憑かんことには話にならんわい……」

自らの犬神であるはけの言葉にそう愚痴を漏らしながら祖母はそのまま裏山へと目を向ける。恐らく既に始まったであろう儀式を心配しながら――――――



「おーい、犬神ちゃーん! 隠れてないで出ておいでー!」

俺は森に響き渡るように声を上げながら森の中を走り続ける。既に日は落ちていて手に持っているライトだけが唯一の明かりだがそんなことは今の俺にとっては何の障害にもならない。なんといっても今日は待ちに待った日だからな。そう、やっと俺が犬神を持つことができる日なんだから! 

小さい頃からばあちゃんや親戚の連中が持つ犬神を見てきた時からこの日を心待ちにしていた。犬神が手に入れば、理想としてははけのような犬神がいれば俺の生活も一気に楽になる。何よりもそう、犬神の女の子には美人が多い。これが重要だ。いや、これこそがもっとも大切な要素だ。むさい男の犬神などより可愛い女の子の犬神の方がいいに決まっている。可愛い女の子と一緒に暮らすというまさに夢の様なシュチュエーションが俺を待っている。しかも人によっては複数の犬神が憑くこともあるらしい。そうなればハーレムすら可能。いかん、想像したら鼻血が出てきそうだ。

しかしなかなか出てこないな。もしかして恥ずかしがってるのか。まあまだ時間はたっぷりある。ゆっくり見つければいいか。

そんなことを考えながら啓太がさらに森の奥に進もうとしたその時


「きゃっ!」

そんな少女の声が聞こえてきた。


「ん?」
「あ………」

目を向けた先には一人の女の子がどこかびっくりしたような表情で俺を見つめている。まるで隠れているのを見つかってしまったように。もっとも女の子と言っても俺よりは歳上、お姉さんと言った方が良さそうだ。三つ編みのお下げをしたどこかおとなしめなカンジ。だが問題はそこではない。美人。それも間違いなくめったにお目にかかれないような美人だ。何だろう、犬神はこれが標準クラスなのか? だとすればまさに俺にとっては桃源郷だ……と、いつまでもこのままではいけない。俺は犬神を手に入れるためにここに来たのだから。

でもどうすればいいんだ? 急いできたもののどうやって犬神を手に入れればいいのか分からない。ばあちゃんが何か言ってたような気もするが覚えていない。もっとよく聞いとけばよかった。でもまあいいか、要はあれだ、ナンパみたいなもんだろう。


「あ、お姉ちゃん、可愛いね。どう? 俺の犬神にならない?」

できるだけ自然にしなければ。これぐらいならいいかな。あんまりがっついてるようだと引かれるかもしれないし。だが

「ご……ごめんなさい!」

三つ編みのお姉さんは一度頭を下げた後、そそくさと逃げるように森の中に消えてしまう。予想外の事態に後を追うこともできなかった。


うーん、ちょっとストレートすぎたかな……いや、待て。そうか。俺はなんて勘違いをしてたんだ! 俺は犬神使いのことを勘違いしてしまっていたらしい。そうだ、彼らが無償で働いてくれるわけがない。そう、いわば俺たちは犬神を雇う、雇用する立場にあるんだ。きっとばあちゃんもはけに給料を払っているに違いない。俺がいる手前そういう話はしなかったんだろう。

全く、危うく騙されるところだったぜ。だがそうと分かればこっちのものだ。俺はそのまま背負っていた袋を下ろし、中をあさる。そして取り出す。それは拡声器。こんな時のために用意していた物。最初からこれを使えばよかったのだが浮かれてすっかり忘れてしまっていた。それ以外にも寝袋や色々なものが入っている。準備は万端。では仕切り直しと行きますか。


「完全週休二日! ボーナス有り! 明朗会計の明るい職場にします! 時給は応相談! 来たれ、やる気のある犬神ちゃん!」

拡声器を使い俺は労働条件を連呼しながら森を駆け抜ける。完璧だ。これで隠れていた犬神達も出てくるだろう。まだ中学生なので給料は多く出せないがその辺りまたばあちゃんに相談しよう。今はともかく犬神を雇わなければ。そんなことを考えていると、どこからか大きな音が聞こえてくる。


「なんだ……?」

それはまるで何かが爆発したかのような音。同時にここから少し離れた場所から光が見える。だがそれは電気ではない。恐らくは火。火事だろうか。しかしそれは消え去ってしまう。

まるであれみたいだ……そう、狐火のよう。まあそんなもの見たことはないのだが。とにかく犬神の雇用を急がねば、気を取り直しながら俺は叫び続ける。だが


いつまでたっても犬神は俺の前には現れなかった。そう、ただの一匹も。


ただ無意味に時間が過ぎていく。犬神の気配も全く感じられない。まるで無人の山のように。そんなことはないはずなのに。


知らず冷や汗が背中を伝い始める。


あれ………もしかして……これって、やばいんじゃないの……?


今まで考えもしなかった事態に我に返る。そう、もし、このまま一匹も犬神と出会えなかったらどうなるんだ。てっきり簡単に犬神は手に入るんだとばかり思っていた。だって今まで犬神が憑かなかった人の話なんて聞いたことがない。それはつまり……


このままでは自分がその記録を塗りたててしまうということ。


「い、いや……まだそうと決まったわけじゃない……そう、まだ慌てるような時間じゃない……」


一人、自分に言い聞かせるように呟く。落ち着け。焦ったら負けだ。そうだ、誰かも言っていた。あきらめたらそこで試合は終了だと。これは試合ではないのだが似たようなものだ。そう俺と犬神の試合なのだ。まだ九回になったわけではない。時間はある。逆転は可能だ。

「あの……」

だが脳裏に浮かぶ。その光景が。一匹も犬神が憑かなかった自分。その後の惨めな生活。俺の夢が、希望が、ハーレムが遠ざかって行く。そんな……そんなのは……


「嫌だああああっ! せっかく誰が来てもいいように部屋を片付けたのに! 準備もしてきたのに!」
「あの……」

そうなのだ。この日のために部屋を片付け、色々準備してきた。なのに一人でそこに帰るなんて空しすぎる。一体どうすれば。あれか、やはり福利厚生について触れなかったのがいけなかったのか。しかし俺にはそこまでの知識はない。くそっこんなことなら真面目に授業を受けときゃよかった。

「なあ、あんたもそう思うだろ!?」
「は、はい……」

ほら見ろ。目の前の女の子もそう言っている。やはり俺の準備が不足していたらしい。かくなるうえは時給ではなく固定給にするしか……………あれ、俺、今誰に話しかけたんだ……?


ふと、目を向ける。そこは先程まで誰もいなかったはずの場所。そこに一人の少女がいる。どこか心配そうな表情を見せながら。


その姿に目を奪われる。その理由。可愛かったから。それが全て。


小柄な体。栗色のウェーブがかかった髪につぶらな瞳。だが決して子供っぽいわけではない。間違いなく自分よりは歳上。だがその可愛さ、美人さは先程の三つ編みのお姉さんを超えている。


間違いなく俺が生まれてから出会った中で一番可愛い女の子。それを前にして身動きを取ることができない。


「あの……大丈夫ですか……?」


それが俺となでしこの出会い、そして全ての始まりだった―――――――



[31760] 第零話 「ボーイ・ミーツ・ドッグ」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/04 17:58
「あの……大丈夫ですか……?」

目の前にいる少女がどこか心配そうに話しかけてくる。だが俺はそれに返事をすることができない。いや、できるはずもなかった。なぜなら完全にその少女に目を奪われていたから。それはまさに天使、女神と言っても過言ではない程の可愛さ。その姿の前にはもはや言葉は必要ない。そう悟ってしまうほどの衝撃的出会いだった。

しかし、このままずっとフリーズしているわけにはいかない。そうだ、俺はこの時のために生きてきたんだ! なら今度こそそれを成功させなくては。だがさっきの様な失敗は許されない。ここは慎重に動かなければ。これまで生きてきた中で間違いなく最高の緊張状態の中で俺は改めて少女と向かい合う。

歳は十六から十七と言ったところだろうか。もっとも見た目がそうなだけで実際の年齢は分からないが。はけもあの見た目で何百年も生きているらしいし。だがそんなことを女の子に聞くヘマなど犯さない! そしてその服装。どうやら割烹着の様なものを着ている。犬神達は山の中で暮らしており、その服装もかなり多様だ。基本的には着物を着ている奴が多いみたいだけど現代の服装をしている奴もいる。それを考えても変わった服装であることは変わらないが……と、いかんいかん、ともかく上手くこの女の子を勧誘しなければ。

「えっと……君、犬神だよね……?」
「は、はい……」
「どうしてこんなところに……?」
「え……いえ、ちょっと気になったので……」

俺の質問に少女はどこか恥ずかしがりながら応えてくれる。その姿に思わずこちらの顔が赤くなる。

なんだ、なんだこれ、可愛すぎるんですけど。その仕草が、上目遣いの視線がすっげえ俺の何かを刺激するんですけど。やばい、やばい。なにがやばいって何がやばいか分からないくらいやばい! ………はっ! お、落ち着け俺、これは最後のチャンスだ。まさしく九回裏満塁逆転ホームランを打てるかどうかの瀬戸際だ。俺の直感が告げている。これを逃せば次はないと。幸い彼女の感触は悪くないようだ。ならばやるのみ、何としてもこの少女を雇用して見せる!

「君っ! よかったら家で働かない!? 給料もできる限り相談に乗るよ!」
「え?き、給料ですか……?」
「そう!あ、でも今は時給しか出せないんだ……でも稼げるようになれば固定給にはできると思う。参考までにみんないくらくらいもらってるか聞いてもいい?」
「い、いえ……わたしたち犬神はお金をいただいたりはしないんですけど……」

「………え?」

少女の言葉に思わず言葉を詰まらせてしまう。え、まじで? でもそれなら何で犬神達は俺たちのために働いてくれるんだ? 全く見当がつかない。

「わたしたちは自分の意志でご主人様にお仕えするのが役目ですから……雇われてるわけじゃないんですよ」
「な、何だって……それじゃあ……」

お金をもらわずに主人のために無償で働いているだと……? とても信じられない。だが少女が嘘を言っているようには見えない。それじゃあ、それじゃあまるで……奴隷ではないか! 

なんてことだ、犬神ってのはそんなマゾな存在だったのか!? あ、侮れん。ああみえてじゃあはけもかなりの特殊性癖の持ち主だったのか、今度から近づくときには気をつけよう……ん? いや待てよ、ということは犬神であるこの少女もそんな趣味が!? 

いや、落ち着け俺! そんなことをこの場で想像すれば鼻血を出しかねん。何とか抑えねば


「あの……わたしも一つ、お聞きしてもいいですか……?」


そんな妄想に浸っていた俺に向かって少女が話しかけてくる。いけない、知らぬ間に考え込んでしまっていたらしい。だが少女の雰囲気が少し先程と変わり、どこか真剣なものになっている。

「い、いいけど、何?」

少し気圧されながらもそう答える。一体何が聞きたいのだろうか。やはり給料関係のことだろうか。一般的には無償で働くとしてもこの少女がそうとは限らない。できる限り要望にはこたえたいが限界はある。でもこんなチャンスは二度とない。何とかしなければ。そんなことを考えながら俺はその質問を待つ。そして


「あなたは……どうして犬神使いになりたいんですか?」


そんなよく分からない質問をしてきた。


「俺が犬神使いになりたい理由……?」
「はい……聞かせていただいてもいいですか?」

よく分からないな。どうしてそんなこと聞くんだ? だが少女はどこか真剣な様子で俺の答えを待っている。理由は分からないがとにかく素直に答えた方が良さそうだな。

「そうだな……楽しそうだからかな」

俺はそう答える。うん、それが一番の理由だな。じゃなきゃなろうなんて思わねえし。もっとも可愛い犬神が欲しかったのが半分以上の理由だがそれは言わぬが華だろう。

しかしそんな俺の答えを聞いた少女はなぜか驚いたような表情を見せている。まるで予想外の答えを聞いたかのように。おかしいな、俺、そんな変なこと言ったか? 普通のことだと思うんだが。そんな中


「ふふっ、面白い方なんですね」

少女はどこか我慢が出来なくなったように笑いを漏らす。その姿に思わず身惚れてしまう。か、可愛い。何だこれ、何でこんなに可愛いんだ? 何だが同じ女子でも学校にいる同級生たちとは月とすっぽん、いやそれ以上の差がある。同級生たちに聞かれればひどい目に会いそうだが。しかしどうやら俺の答えは少女のお眼鏡にかなったらしい。どのあたりが良かったのかはさっぱりわからんが。とにかく

「じゃ、じゃあ……」
「はい……よろしければわたしをあなたの犬神にしていただけますか?」
「ほんとに……ほんとになってくれるの……?」


その言葉に思わず聞き返してしまう。本当なら今すぐにでも返事をしたのだが何だか話が上手く行きすぎている気がする。何か見落としがあるのではないかという不安に駆られたからだ。だがそれは的を射ていたらしい。

「はい……ただ一つ、言っておかなければいけないことがあるんです」
「言っておかなければいけないこと……?」

少女はどこか申し訳なさそうに、言いづらそうに顔を俯かせながら告げる。だが一体何なのだろうか。お金のこと……ではないか。さっき自分はいらないって言ってたし。じゃあ何があるんだろうか。知らず緊張が俺を支配する。これが最後の正念場だと、俺の直感が告げている。そんな中

「実はわたし、戦うことができないんです………だから他の犬神のように一緒に戦うことができない……それでもわたしと契約してくれますか……?」

少女はどこか恐る恐ると言った様子で俺に尋ねてくる。断られてしまっても仕方ない。そんなあきらめすら感じさせる姿。だが

「当たり前じゃん。こんな可愛い子に戦わせるわけないし」

何でそんなことを気にしているのか俺には分からなかった。

「え……? その……本当にいいんですか?」
「ああ、でも他に何かできることはある?」
「えっと……家事なら得意なのでそれなら……」
「まじでっ!? いい! それで十分! いや、むしろそれが一番だ!」

少女の言葉に俺は狂喜乱舞する。そうだ、家事ができる。これが一番重要だ。今の俺にとって必要なのは間違いなくそれだ。戦うことができても家事ができない奴より、戦えなくても家事ができる子の方が良いに決まってる。

「俺が求めてたのは君の様な犬神だっ! 俺の犬神になってくれない!?」

もはや体裁を取り繕うことなく正直な自分の気持ちをぶつける。後になって気づいたのだがまるでプロポーズの様だった。そのせいで後日恥ずかしさで悶絶することになったのだがそれはまた別の話。

「……はい、ふつつか者ですが宜しくお願いします」

どこか楽しそうに微笑みながら少女は頭を下げる。やばい、なんてできた子なんだ。どうしてこんなにいい子が俺の犬神になってくれたのか分からない程。


「やった! やったぞ! やっほおおおおおっ!!」


もはや俺の喜びは臨界点を突破していた。天にも昇る気持ちとはきっとこの時のことを言うのだろう。俺はまるで犬のように少女の周りを飛び跳ねる。もうそうしなければ喜びを表現できなかったから。そんな俺の姿に面喰いながらも少女も笑みを浮かべている。やっぱりこの少女は……あれ、そういえば


「そう言えば、まだ俺、君の名前聞いてなかったよね?」
「……あ、そうでしたっけ」

そのことに気づき、お互い笑い合う。名前も知らずに契約だけ先にしてしまったのだから俺の抜け具合も大概だ。まあ、そうならざるを得ない程この少女に動揺していたからなのだが。

「なでしこ、それがわたしの名前です」
「なでしこちゃんか……俺は川平啓太って言うんだ」

互いに名前の交換を済ませる。なでしこちゃんか、姿だけじゃなくて名前も可愛いんだな。ともかくこれで俺はついに犬神を手に入れることができた。そう安堵した瞬間


「ケイタ様……ですか……?」


どこか言い表せないような雰囲気を纏いながら呟くようになでしこちゃんが俺の名を口にする。


「え……そうだけど……どうかした……?」

「…………」


思わず聞き返したのだが少女、なでしこちゃんはそのまま何故か黙りこんでしまう。そう、まるで俺の名前を聞いた瞬間に。


え? な、何で俺の名前を聞いた途端そんな雰囲気になるの? 俺たちは初対面のはず。こんな美人と会っていたら忘れるはずがない。ま、まさか俺の噂がここまで届いていると言うのか? いや、確かに学校ではいい噂はされていないだろうがここまで広まっているわけが……でもなでしこちゃんの様子は明らかにおかしい。まるで何かを間違えてしまったような、してはいけないことをしてしまったような。ま、まさか俺との契約がやっぱり嫌になっちゃったとか? そ、そんな………


天国から地獄、希望から絶望に落ちてしまったことで俺は顔面蒼白になってしまう。もしこの時、鏡があったなら俺はこの世の終わりの様な顔をしていたに違いない。なでしこちゃんはそんな俺の顔を見つめながら何かをずっと考え込んでいる。そんな永遠にも思えるような時間が流れた後


「……すいません、少し考え事をしてました。心配させてごめんなさい」


それまでの雰囲気を変えながらなでしこちゃんは再び俺に笑みを向けてくれる。それが俺の心配が杞憂であったことを現していた。俺は大きな溜息を吐きながらも安堵する。一体何だったのか分からないがとにかくよかった。寿命が間違いなく十年は縮んだだろう。

「そういえば啓太様、契約の証を頂けますか? それで犬神使いと犬神の契約は完了ですから」
「あ……そういえば……」

なでしこちゃんの言葉で思い出す。そう犬神と互いに持物を交換することで契約は完了する。だがすっかりそれを忘れてしまっていた。でも何か代わりになるようなものが……

「ごめん……今はこんなものしかないんだけど……」

俺はそれを取り出しながら差しだす。それは蛙の形をしたネックレス。申し訳ないが今の俺がなでしこちゃんに渡せるのはこんな物しかない。だが

「いえ、ありがとうございます。大切にしますね」

なでしこちゃんはそれをどこか大事そうに、愛おしそうに受け取ると今まで一番の笑顔を俺に見せてくれる。まるで花が咲いたかのようなその笑みにただ身惚れることしかできない。そして実感する。今、この瞬間、俺は犬神使いに、そしてなでしこちゃんが俺の犬神になったのだと。

「よし! じゃあさっさと行こう! 善は急げだ!」
「あ、あの啓太様、いいんですか? まだ儀式は終わってないんじゃ……」
「いいのいいの! なでしこちゃん以外の犬神なんてもういらないから! 早く早く!」
「は……はい……」

俺はなでしこちゃんの手を引っ張りながら山を下りていく。なでしこちゃんは何故か顔を真っ赤にしながらもその後を付いてくる。確かにまだ時間はあるがもういいだろう。なでしこちゃん以上に可愛い子がいるわけないし、その間にまたなでしこちゃんがさっきみたいなことになったら取り返しがつかない。そんなことを考えながら俺は一直線に山を下りていく。来た時と違い、二人、なでしこちゃんと一緒に。


それが俺となでしこの出会い。そして全ての始まりだった――――――






「あ、そう言えば忘れてた」
「? 何を忘れていたんですか、啓太様?」

山を下り、ばあちゃんとはけに報告しようと屋敷に向かいながら俺は思い出す。

「いや、俺、儀式の途中で珍獣捕獲用の仕掛けをしかけといたんだ」
「珍獣捕獲用……?」
「俺、ガキの頃一度それに失敗してさ。今回はそのリベンジをしようと思ってたんだ。餌のチョコレートケーキもあのときよりも増やしといたんだけど……」
「チョコレートケーキ……?」
「ま、いっか。もう一度戻るのも面倒だし。さ、行こう行こうなでしこちゃん! 早く挨拶済ませちゃおう!」
「は、はい!」


その時、何故か啓太には知らない少女の悲鳴が聞こえたような気がした。



啓太には知る由もなかった。その気まぐれの行動が自分の運命を大きく変えたことを――――――



[31760] 第四話 「犬寺狂死曲」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/08 08:29
「ん………」
「あ、起きられましたか、啓太さん?」

目を覚ますと同時にそんな聞き慣れた声が俺に向かって掛けられてくる。目をこすりながら改めて視線を向けるとそこにはいつもと変わらない割烹着とエプロン姿のなでしこがいる。だが違うところがあるとすればここが家ではなく電車の中だということ。

「悪い、ちょっと寝ちまってたみたいだ」
「構いませんよ、まだ駅までは時間がありますから」

なでしこは気にした風もなくいつも通りの微笑みを浮かべている。だが心なしかいつもより機嫌は良さそうだ。もっともなでしこが機嫌が悪いことはめったにないのだが……とそれは置いておいて、俺たちは今、電車に乗ってある場所へと向かっている。そこは大道寺とよばれるお寺。先日はけから頼まれた依頼を受けるためだ。俺が住んでいる場所からは距離があったため電車を利用していたのがつい居眠りをしてしまっていたらしい。だが懐かしい夢を見ていたような気がする。

四年前の儀式、なでしこと初めて出会った日のこと。きっとあの裏山と似た風景が電車から見えたのがその理由だろう。なでしこもどうやら同じことを感じているのか窓からどこか懐かしそうに風景を眺めている。

うーん、やっぱり山が恋しくなることもあるのだろうか? まあ長い間暮らしてた場所だしな……俺も何度か里帰りを勧めたことがある。いくらなでしことはいえ休暇は必要だと思ったからだ。だが

『ここがわたしの家ですから』

そんな男の母性本能、ではなかった父性本能? をくすぐる言葉を口にしながら断るだけ。その破壊力は推して知るべし。なでしこは天然っぽい所があるのか思わぬところで顔面右ストレート級の発言をするので油断できない。もしこれが計算づくなのだとしたら俺は既に引き返せないレベルまでその策略に落ちてしまっていることになるのだろう。まあそんな冗談はこのぐらいにして……ともかくなでしこは俺の犬神になって以来、一度も山には戻っていない。それどころかばあちゃん、宗家がいる屋敷へ行ったこともない。ばあちゃんに会うときは何故か俺一人だけ。流石に気になり何度か理由を聞いたことがあるが

『わたしが行くと宗家様とゆっくりできないでしょうから』

そうよく分からない理由を答えるだけ。それ以上聞いてもなでしこは笑って誤魔化すだけ。だがなでしことばあちゃんの仲が悪いわけではない。はけもそれは同じ。それなのに何故なでしこがそんなことをしているのかが俺の中の七不思議のひとつだ。

「でも啓太さん、本当によかったんですか? わたしがお仕事に付いてきても……」
「ん? あ、ああ! 当たり前だろ、なでしこは俺の犬神なんだから!」

なでしこの言葉に慌てながらも何とか答える。いかんいかん、余計なことばかり考えてしまっていたらしい。なでしこはそんな俺の姿を見てどこか心配そうな表情を見せている。その理由もまあだいたい想像はつく。なでしこは戦うことができない。それがなでしこが引け目を感じている原因。もっともそんなことは契約時から分かっていたことなのだがなでしこはどうやらまだ気にしているらしい。最近もそんな気配をちらほら感じた。そこで気分転換を兼ねてこうしてなでしこと一緒に仕事に向かっているというわけだ。まあ憑き物といってもそう大したことはないだろう。ま、いつも家にいたんじゃ気も沈むだろうし、なでしこはこうでもしないとどこかへ遊びに行くこともないので仕方ない。だが

「ふふっ、じゃあお供させてもらいますね、啓太さん」
「あ、ああ……よろしく頼む……」

そんなこちらの胸中などお見通しとばかりになでしこは告げる。自分を信頼しきっている、信じ切っているその姿に俺は身惚れながらも凄まじい罪悪感に襲われる。なでしこの気分転換、それが今回の依頼を受けた理由。それも間違いではない。だがそれ以上に俺を駆り立てるものがあった。

温泉。それが目的地の近くにあったから。しかも混浴、そう混浴! 大事なことなので二度言ってしまったがそれが一番の理由。依頼をこなした後に自然な流れでそこへ行くことが俺の真の目的。そしてそのまま旅館でしっぽりと……ではなかった、ゆっくりと過ごす。そんなプラン。だがなでしこはそんなこととは露知らずにこにこと俺に微笑みかけている。

その純粋な姿に後ろめたさを感じ、冷や汗を流しながらも俺たちは目的地、大道寺へと向かうのだった――――――




「よく来てくださいました、犬神使い殿」

そんな老人の、住職の言葉によって俺たちは迎えられる。本当なら笑顔でそれに応えたいところなのだが俺の顔は引きつってしまっている。それは住職の姿。長い白髭を除けば普通の住職なのだろうがその姿が異常だった。頭は何故か包帯でぐるぐる巻きになっており、その手には無数の絆創膏が張られている。その表情は疲れ切っており、疲労困憊と言ったところ。明らかに普通ではない。それに合わせるように寺の外は薄暗い雲と雨によって覆われ、時折雷の音が響き渡っている。どこか不気味な、おどろおどろしい雰囲気が俺たちの周りを支配している。


「啓太さん……」

なでしこはどこか怯えたような、不安そうな様子で俺に寄り添っている。本当ならその状況にキター! とでも喜ぶところなのだがそんな余裕すらない。俺となでしこの視線は住職ではなくその後ろにある扉の様なものに向けられている。そこから


カリ……カリ……


そんな何かで扉を引っ掻いているような音が聞こえてくる。まるで爪か何かで引っ掻いているような……ホラー映画顔負けの光景がそこにはある。だが住職はそれに気づきながらもどこか気まずそうに黙り込んだまま。しばらく長い沈黙が俺たちの間に流れる。だがいつまでもこうしているわけにもいかない。俺は犬神使いとしてここに来たのだから。そしてこの後俺には為さなければならないことがあるのだから。

「住職、俺達、ここに来るまでに苦労しました……何であんなに付近の人達に嫌われてるんですか……?」

俺はそう単刀直入に尋ねる。ここに来るまでに俺たちは付近の人に道を尋ねてきた。だがこの寺の名前を出した途端、凄まじい剣幕で怒鳴られ、追いかけ回されてしまった。さながら親の仇でもあるかのように。俺はなでしこを抱えながら何とかここまで逃げてきた形。まあ役得ではあったのだが……

「散歩がどうしても必要でして……近隣の衆には申し訳ないことをしました……」

どこかかすれるような声で住職はそう答える。だがその答えは全く答えになっていない。意味が分からない、伝わらないようなもの。俺となでしこは顔を見合わせることしかできない。どういう意味なのだろうか。そんな俺たちの様子を見て取った住職が意を決して何かを口にしようとした瞬間、一際大きな音が扉から響き渡る。それも何度も。まるで扉をこじ開けようとするかのような――――――


「あんどれあのふ、ダメじゃ―――――!!」


瞬間、時間が止まった。


マッチョだった。凄まじいマッチョだった。あえてもう一度言おう、マッチョだった。


しかもただマッチョではない。頭はスキンヘッド、しかもフンドシを身に付けた若い男。だがそれだけならまだ良かった。だが男は普通ではなかった。何故か四つん這いでそこにいる。そう、まるで犬のように―――――


次の瞬間、俺は床に押し倒されていた。もちろんその大男によって。その姿、そして力によって抗うこともできない。悲鳴を上げる暇もなく俺は大男にされるがまま。その舌によって舐めまわされ、そのたくましい腕と脚によってもみくちゃにされていく。誰かの声が聞こえてくるけどそれも上手く聞き取れない………



あれ? 俺何でこんなところにいるんだっけ……? ああ、でもほんとにすげえ筋肉だな……どんなに鍛えたらこんなになるんだ? でも知らなかったけど筋肉って結構手触りいいんだな。女の子とは違うけどこれはこれでいいかも……そういえば昔、俺もマッチョに憧れて鍛えようとしてたことがあったっけ……もっとも、なでしこにいい格好をしたいと思ったのがきっかけだったけど。でも結局断念したんだよな……あんまり筋肉つけすぎると身長が伸びないって言うから。それが本当なのかはわからないけど。あの頃はまだなでしこと背が変わらなかったから恥ずかしかったんだよな。今からでも鍛え直してみようかな。そうすれば俺もこの人みたいにマッチョに―――――



「あんどれあのふ、め―――――――!」


住職の声と共に大男、あんどれあのふは怒られたことに驚き、落ち込みながらとぼとぼと住職の元に帰って行く。まるで怒られてしまった子犬のように。後にはまるで抜け殻になってしまったかのような啓太が床に倒れ伏しているだけ。

「啓太さんっ! しっかりしてくださいっ! 啓太さんっ!」
「なでしこ……やっぱり俺、マッチョの方がいいかな……?」
「し、しっかり! 気をしっかり持って!」

なでしこは涙目になりながら啓太を抱き起こし、声をかけ続ける。啓太は目がうつろのまま訳が分からないことを口走っていたのだが次第に意識を取り戻していく。


………はっ!? お、俺は一体何を考えていたんだ!? 何だか開けてはいけない扉を開けようと、行ってはいけないところに足を踏み入れかけていたような気がする……あ、危ねえ……もう少し戻ってこれなくなるところだった……


「大丈夫ですか……啓太さん?」
「あ、ああ……あんまり大丈夫じゃないけど……」

何とか正気を取り戻し俺は改めてその光景を目にする。まるで犬のようにじゃれている大男とそれをなだめている住職。それはまるでこの世の物とは思えない程の異次元空間。流石のなでしこも引くことしかできていない。そして俺たちは住職から事の経緯を知らされる。

この寺、大道寺は犬供養を専門としておりペットブームも相まって栄えていたこと。しかし空手部の主将であるこの男が犬供養のための鎮魂岩を割ってしまったことで犬の霊に、魂に取り憑かれてしまったこと。

啓太となでしこはそれによっておおよその事情を悟る。確かにこんなフンドシ姿の大男が犬のように走りまわっては付近の人達も怒るに決まっている。さっきの散歩という言葉もそれが理由なのだろう。だがこれ以上被害を出すわけにはいかない。何よりもこれ以上自分の貞操を危険にさらすわけにはいかない。

「分かった……俺がきっちり引導くれてやる」

まるで地の底に響くような低い声を出しながら啓太はその手に蛙の消しゴムを構える。そこには一切の慈悲も容赦もない。まさに狩る者の姿。

「お、お待ちくださいっ! ち、違うんですじゃあ! わしは、わしはこのあんどれあのふをきちんと成仏させてほしいんですじゃあ!」
「成仏?」
「は、はい! この子は生前飼い主に遊んでもらえなかった子犬……どうかその無念を晴らしてやってほしいのです!」

子犬? こいつ子犬の霊だったのか……で、その無念を晴らす方法が一緒に遊ぶことってわけか……この大男と、マッチョとくんずほぐれつ、体を密着させながらさっきのように遊びまわるってわけか………………うん、ごめん、無理!


「白山名君の名において告げる……」
「お待ちくださいっ! どうか、どうかご慈悲を……!」
「やかましいっ! 俺にはこんなマッチョの男にかける情けなんかもっとらんわ!」
「男ではありません、子犬ですじゃ! 見てください! あんなに怯えたあんどれあのふの姿を!」


住職の言われるがままに俺はそこに目を向ける。そこにはうるんだ瞳で怯えるようにこちらを見ているあんどれあのふがいる。その姿に思わずひるんでしまう。確かにそこには子犬の霊がいた。

もっとも端から見ればマッチョの男が涙目になっているだけなのだが。

「啓太さん……」

どこか不安そうななでしこの声が聞こえてくる。その表情が俺の目に映る。それを前にしてこれ以上続けるわけにもいかない。なでしこがいなければ間違いなく、躊躇いなく成仏させたのだが仕方ない。だが正気のままこのあんどれあのふ(あえてマッチョとは触れない)と遊ぶことはできない。そんなことをすれば先程のように俺の精神に異常をきたしてしまう。ならば残された手は一つしかない。

「ふう………」

大きな深呼吸をしながら精神を集中させる。それはさながら精神統一。俺は身内フィルターと呼ばれる能力を持っている。それはなでしこを家族だと認識することで自分自身を自制させる能力。その応用を今、俺は為そうとしている。

あんどれあのふを子犬だと自分に思い込ませるために。

そう、あれは子犬なのだ。決してスキンヘッドでマッチョなフンドシ男ではない。

飼い主に遊んでもらえなかった可哀想な子犬。そう、子犬。

ならばそれを救うことは犬神使いの義務。今俺は犬神使いとしてここにいるのだから―――――――!!


自らへの洗脳を完了した啓太はまるでその合図のように脱ぎ捨てる。自らの服を。まるで邪魔なものを投げ捨てるようにあっさりと、一切の躊躇いもなく。後にはブリーフ一丁の啓太が仁王立ちしている。ドヤ顔を見せながら。もはや啓太の自制心は、常識は欠片も残ってはいなかった。

「おお! なんと!」

その光景に住職は歓声を上げる。住職は気づいていた。啓太の行動の意味。服を脱ぎ、裸になることであんどれあのふの警戒心を解こうとしているのだと。まるで未開の地の部族と接するかのように。もっとも啓太は本能で服を脱いだだけだったのが。ブリーフが残っていたことだけが啓太がまだ人である唯一の証だった。

なでしこは突然の事態に顔を真っ赤にしながらあたふたすることしかできない。当たり前だ。いきなり自分の主人が服を脱ぎ、ドヤ顔を晒しているのだから。もし誰かなら炎で焼き払いかねない光景がそこにはあった。


「来い、あんどれあのふ!!」


啓太の言葉と共にあんどれあのふが喜びの声を上げながら飛びついて行く。啓太はそれを優しくけ止めた後、スキンシップをし始める。あの胸を、頭を撫で、一緒に抱き合いながら床を転がり続けている。楽しそうな声を出しながらまるで子供のように啓太とあんどれあのふは遊んでいる。


「おお……何という労りと友愛……流石……流石ですじゃ! 犬神使い殿!!」


住職は歓喜の涙を流しながらその光景を見つめ続けている。住職の目には確かに映っていた。啓太と子犬が楽しそうに遊んでいる光景が、その微笑ましい光景が。これがきっとあんどれあのふが望んでいた夢だったのだと。なでしこはただその光景を見つめることしかできない。


確かに啓太さんは子犬であるあんどれあのふと遊んでいるのだろう。その仕草も犬と遊ぶためのそれ。まさに犬神使いの啓太さんだからこそできること。でも、どうしてもその光景を前にして顔を引きつかせることしかできない。そこには間違いなく裸の主人と筋肉質な大男が抱きつきあいながら転げまわっている光景がある。啓太さんが子犬の霊を救うために全てを捨てていることは分かる。でも、どうしても分からない。


何故裸になる必要があったのか。


そんな当たり前の疑問をなでしこが抱いた瞬間、突然、啓太とあんどれあのふの動きが止まる。いや、動きが止まったのはあんどれあのふだけ。

「あんどれあのふ……?」

どこか心ここに非ずといった風に啓太がその名を口にする。だがあんどれあのふはもうそこにはいなかった。そこには元のマッチョな男がいるだけ。そう、あんどれあのふはこの瞬間、満足し昇天したのだった。


「あんどれあのふ――――――!!」


啓太はあんどれあのふの体を抱きかかえながら絶叫する。


なんてことだ……もう、もう逝ってしまうなんて……もっと、もっと遊んでやりたかったのに……心残りがあっただろうに………


啓太は自らの心の純潔と引き換えにあんどれあのふを成仏させたのだった――――――




「ありがとうございました、犬神使い殿、流石ですじゃ……これであの子も悔いなく逝けたことでしょう」
「ああ………」

感動し号泣した住職の言葉をどこか引き気味に啓太は聞き続ける。もうすでに啓太は通常の状態に戻っている。ところどころ記憶があいまいだが思い出さない方がいいだろう。だが何故自分はパンツ一丁なのか。聞いてもなでしこは顔を赤くしたままで答えてはくれない。これ以上触れない方がいいだろう、互いのためにも。だがこれで依頼は完了した。そう安堵しかけた時

「これなら他の子たちもすぐに成仏できるはずですじゃ」

そんなヨクワカラナイ言葉を聞いてしまった。その理由を聞こうとした瞬間、先程あんどれあのふが出てきた扉から黒い影が次々に飛び出してくる。それは全てがマッチョな男たち。共通しているのは皆裸にフンドシ、そして犬の様な動きをしていると言うこと。

「実は主将の他に部員もおりまして……幸か不幸か部員も奉られていた犬も二十で数が合いましての」

住職の言葉に啓太の顔が絶望に染まる。それはつまり先程のあんどれあのふと同じ状態の男たちが十九人もいるということ。この数を前にしてどうすれば。自分は既に子犬フィルターを解除してしまっている。もう一度発動させるためには時間が必要だ。というかもう使いたくもない。しかし、ど、どうすれば―――――――


しかしその瞬間、驚愕が俺を襲う。それは犬達(あえてこう呼ばせてもらう)は俺を素通りしてしまったから。一体何故。だがその理由をすぐに悟る。何故なら


「なでしこ―――――!?」


犬たちは一斉になでしこに向かって襲いかかって行ってしまったから。予想外の事態に俺は反応が遅れる。なでしこもいきなりの事態に身動きができない。だめだ、ま、間に合わない! どうしようもない絶望に陥りかけたその時


「え?」


なでしこはどこか驚いたような声を漏らす。何とかなでしこを助けようとしていた俺も動きを止めてしまう。何故なら


犬たちはまるで順番を待つかのようになでしこの前でおすわりをしていたから。そう、まるで触ってもらうのを待っているかのように。それを感じ取ったなでしこがどこか恐る恐ると言った風に一匹の犬の頭を撫でる。するとその瞬間、その犬はまるで先程のあんどれあのふのように動かなくなってしまう。そう、その犬はなでしこに撫でてもらったことで昇天してしまったのだった。そしてそれはその犬だけではない。並んでいた犬たちもなでしこに撫でられることで次々に成仏していく。


「おお……何ということじゃ……あの子は女神さま……いや、観音様じゃ……!」


その光景に涙を、嗚咽を漏らしながら住職が感極まっている。住職の目には確かに見えた。少女の、なでしこの後ろから後光が差しているのが。その慈悲深い微笑みと共に迷える犬たちの魂を鎮めている姿が。

もっとも本当はどこか引き気味に、苦笑いしながらなでしこが空手部員たちを撫でているだけなのだが。

「は、はは………」

その光景に啓太は乾いた笑いを漏らすことしかできない。それは犬たちが成仏している理由を悟ったから。何のことはない、子犬たちは皆、オスだったということ。そしてなでしこは女性の犬神。自分と遊ぶことよりも可愛い女の子に触ってもらうことの方が犬たちにとっては嬉しかったと言うこと。ある意味で生物の真理。その証拠にあんなに時間をかけて一匹しか成仏できなかった自分とは違い、なでしこに撫でられた犬たちはすぐに昇天していく。身も蓋もない話だった。自分を捨てて、心の純潔さえも捧げたと言うのに………

まあ言いたいことは色々あるがとりあえずよしとしよう。あのままあの数の犬たちを相手にする必要が無くなったのだから。そしてついに最後の犬がこの世から去って行く。これで正真正銘依頼は完了。どうなる事かと思ったが何とかなった。なでしこに一緒に来てもらって本当に良かった。そんなことを考えていると

「あ、あの……」

そんななでしこの困惑したような声が聞こえてくる。いったいどうしたのか。ふとそこに目を向ける。そこには一人の男がなでしこに撫でてもらおうとするかのように座りこんでいる。だがもう既に犬たちは全て成仏したはず。まだ成仏しきれていない奴がいたのだろうか。そう思った瞬間、気づく。そう、そこには


犬のようになでしこに迫っている住職の姿があった。


「おい、あんた一体なにしてんだっ!?」
「おお、犬神使い殿! あなたもご一緒に! こんなチャンスはめったにありませんぞ!」


住職は一片の迷いなく、誇らしげに告げる。どうやら先程のなでしこの姿にやられてしまったらしい。だが端から見れば老人の住職が少女に触ってもらおうとしている異様な光景があるだけ。紛うことなきヘンタイだった。なでしこもどうしたらいいのか分からず涙目になっているだけ。


「白山名君の名において告げる……」


啓太は静かに告げる。その両手にありったけの蛙の消しゴムを握りながら


「蛙よ、爆砕せよ――――――!!」


その日、近隣の住民は寺から大きな花火の様な爆発音を聞いたという―――――――





「大丈夫ですか、啓太さん……?」
「ったく……とんでもない目にあったぜ……」

なでしこの心配そうな言葉に何とか疲労困憊ながらも応える。今、俺たちは帰りの電車の中。流石にあの後に温泉に行く元気はなかった。せっかくの機会だったが次までお預けだ。そんなことを考えているとなでしこはどこか楽しそうな笑みを浮かべている。まるで今日の出来事が楽しかったかのように。

「どうかしたのか、なでしこ?」
「いえ……でもよかったです。啓太さんの仕事のお役に立てて」
「あ、ああ……まじで助かったよ……」

それは心からの本音。もし俺だけだったならどうなっていたか想像もしたくない。そんな俺の姿を見ながらなでしこもどこか微笑ましく見守っている。どうやら気分転換という意味では成功したらしい。今度は依頼ではなく、旅行でも行くことにしよう。そのためにはもっと稼がなくてはいけないが。そんなことを考えながら俺となでしこの依頼は終わりを告げるのだった――――――――






「でも啓太さん……服を脱ぐのはやめてくださいね」
「………はい」



[31760] 第五話 「小さな犬神の冒険」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/09 18:17
「ふむ……美味いな、これは誰からの差し入れじゃ?」
「はい、確か薫様からだったかと……」
「なるほど、流石じゃな」

どこか味わうように着物を着た老婆、宗家は自らの前に出された湯呑を口に運び、お茶を楽しんでいる。どうやらかなり高級なお茶らしい。それをどこか見守るように宗家の犬神であるはけが控えている。今、二人は雑務を終え、休憩を取っているところ。川平家の宗家には色々とやることが山積みらしい。

「しかしそれに比べてあやつは何なんじゃ……酒にタバコ、とても祖母に差し入れるものとは思えん」
「啓太様らしいと思いますが……なんでしたら処分しておきましょうか?」
「い、いや……せっかくの孫の厚意を無下にするわけにもいかんしな……」

はけの思わぬ返しに少し慌てながら宗家は言い訳をする。はけはどこか楽しそうにその姿を眺めている。何だかんだで宗家のことを理解しているのは啓太なのかもしれない。そんな空気を変えようと一度咳ばらいをした後、宗家ははけに改めて向かい合いながら話を始める。

「そういえば、啓太に任せた依頼の方はどうじゃったんじゃ?」
「はい、依頼の方は問題なかったようで……住職様も喜んでおられたようです」
「そうか、あやつもやっと犬神使いらしくなってきたということか」

宗家はどこか溜息をつきながら言葉を漏らす。色々と問題がある孫だが依頼についてはきちんとこなしているらしい。以前はそれすら満足にできていなかったのだからそれを考えれば大きな成長と言えるだろう。もっとも、もう一人の孫である薫には到底及ばないが。

「やはりなでしこが憑いたのが良かったのかの……」
「はい、おそらくは」
「ふむ、なでしこが啓太に憑いたことにも驚いたが……まだ契約が続いておることの方が驚きじゃな」

宗家はそう言いながら思い出す。四年前の啓太の儀式。その際に啓太はなでしこと共に屋敷へと戻ってきた。その時には自分はもちろんはけも驚いた。何故ならなでしこはこれまで一度も主を持ったことのない犬神だったから。若い犬神であればそれも珍しくないがなでしこは年齢で言えばはけを超える犬神。その間に一度も契約がしたことのないなでしこが何故啓太に憑いたのか見当もつかない。一応なでしこにも確認を取ったがだがどうやら同意のもとらしい。まあ何にしても一匹も犬神が憑かないという事態だけは避けられたのだから胸をなでおろすことができたのだが。

「しかしここまで契約が続くとは予想外じゃったな……てっきりすぐに愛想を尽かされるかと思っとったんじゃが」
「啓太様はもちろん、なでしこも啓太様をお慕いしているようですから。なでしこも啓太様の犬神使いとしての才に……いえ、人柄に惹かれているのでしょう」
「ふむ……要するにダメな主を放っておけんというわけか」

そんな宗家の歯に衣着せぬ物言いにはけは苦笑いするしかない。宗家はすぐに啓太がなでしこに愛想を尽かされるのではないかと心配していたのだがそれは杞憂だったらしい。思った以上にあの二人は相性が良かったのだろう。特に生活面ではなでしこが憑いたおかげで啓太はかなりまともになっている。学校をさぼることもなくなり、酒やたばこにも手を出しそうになったらしいがなでしこが止めたらしい。もっともスケベなところは治っていないようだが。もっともそれもなでしこがいることで一応抑えられてはいるようだ。

「まあ、戦えん犬神であるなでしこの方が啓太にとっては良かったのかもしれんな」
「………」

犬神は本来主と共に戦う存在ではあるのだがああいう関係もいいものなのかもしれない。なでしこがいれば啓太もそう無茶をすることもないだろう。ただそうなるともう一つの問題の解決は難しくなってくるのだが。

「はけ、今、山の方はどうなっておる?」
「………」
「……? どうかしたのか、はけ?」
「……いえ、少し考え事をしていました、申し訳ありません。今は落ち着いています。ですがすぐにまた騒ぎが起こるでしょう」
「そうか……」
「一応啓太様にはこちらには来ないように伝えてはいますが啓太様はそういうことには聡い方です。いつまでも誤魔化すことはできないでしょう」
「全く……あやつはどうしてこう面倒事ばかりに巻き込まれるのか……」
「間違いなくあなたの血を受け継いでおられる証でしょう」
「むう……」

はけの言葉に宗家は返す言葉を持たない。確かに厄介事に巻き込まれる体質は自分譲りなのかもしれないがあの素行の悪さは自分譲りではないと、そう思いたいものだ。だがいつまでもこんな話ばかりしていても気が滅入るだけ。

「それはともかく……はけ、久しぶりにボール遊びでもするか?」

宗家はそう言いながらどこからともなくその手にボールを取り出す。はけは最近、働きづめ。そのストレス解消のためのもの。はけはそれを前にしてもその表情を変えることはない。いつも通りの清らかさを感じられる美しい姿。だが



その尻尾が凄まじい勢いで振られている。それがやはりはけも犬神である証だった―――――




「~♪」

どこか上機嫌に鼻歌を歌いながら歩いている少年の姿がある。それは川平啓太。その服装は私服、何故なら今日は学校が休みであったから。だがそれだけではここまで啓太が上機嫌になる理由にはならない。


(待ってろよ~俺の珠子ちゃん~!)

俺はスキップをしながら店へと入店する。そこはレンタルビデオ店。それが俺の目的地、そして俺がこんなにもテンションが上がっている理由。そう、今日は待ちに待った俺の天使、珠子ちゃんの新作が出る日なのだ! この日をどれだけ待ったことか……しかも今日は休みに加えてなでしこも家にはいない。何でも天地開闢医局という人間で言う病院での定期検診があり、そのため今日は帰ってくるのも遅くなるらしい。決してなでしこがいないことを喜んでいるわけではないがこれで前回の二の舞を演じずに済む。

しかし一体どんな検診をしているのだろうか。以前気になって聞いたことがあるのだが何故かなでしこは顔を赤くするだけで答えてはくれなかった。何だ、何か男が踏みこんではいけない領域だったのだろうか……まあ、気にはなるが仕方ない。今はただ己の為すべきことを為すのみ! 先日の依頼によって生活費にも余裕ができ、こづかいも増えた。依頼の内容は散々だったが得るものもあった。

俺は何食わぬ顔で店内へと入る。何故だろう、別に悪いことをするわけでもないのになぜこの瞬間は緊張するのだろうか。もはや男の本能といってもいいだろう。俺はごく自然にカウンターの店員に目を向ける。そこには男性の店員がいる。よし、第一条件はクリアだ。別に女性ならそれはそれでいいのだがやはりある意味セクハラになりかねないので配慮が必要だ。決して俺が恥ずかしいからではない。紳士の嗜みといってもいいだろう。それを見届けた後、その足を目的地へと向ける。そして一歩一歩確実にそこへ近づこうとした時、ふと、ある光景が目に映る。


そこにはしゃがみ込んだ小さな女の子がいた。歳は十一から十二、小学生だろうか。少女は座り込んだまま何かをずっと見つめている。気になった俺はそっとそこへと近づいてみる。少女は集中しているのか近づいた俺に気づく様子もない。一体何をしているんだ? 

俺はそのまま少女の手元を覗き込んで見る。そこには両手に小銭を抱えて悩んでいる少女の姿がある。それを見ておおよその事情を悟る。どうやらビデオを借りに来たらしいがお金が足りないらしい。ここは子供用のアニメのコーナー。辺りには親らしき人も見当たらない。恐らくは一人で借りに来たのだろう。

うーん、どうしたものか……別に借りてやってもいいのだが知らない子供にそんなことをするのもな……こんなご時世だし……そんなことを考えたその瞬間


「なっ!?」

俺は思わずそんな声を上げてしまう。何故ならその少女のスカートから尻尾の様なものが現れたから。いや、様な物ではなく間違いなく尻尾が。だが少女はそのことに全く気付かずお金とにらめっこを続けている。

ま、間違いない……こいつ、犬神だ! よく観察すれば気配を感じる。こんな子供の犬神は見たことなかったのでつい面喰ってしまった……じゃなくて! このままではまずい、公衆面前で尻尾を晒すなんて真似したら面倒なことになる。


「おい! お前、尻尾が出てるぞ! 早く隠せ!」
「え!?……あ、ほんとだ!」

できる限り小声で、それでも慌てながら俺は少女に声をかける。いきなりの声に少女はびっくりした様子をみせるものの、すぐに自分が尻尾を出してしまっていることに気づき、慌てて隠す。ふう、これでとりあえずは大丈夫か。

「気をつけろよ、俺だからよかったけど知らない奴が見たら大騒ぎになるところだぞ」
「は、はい。ありがとうございます! でも、じゃああなたはわたしたちのこと知ってるんですか?」
「ああ、俺は犬神使いだからな。お前も誰かの犬神なんだろ?」
「はい、あたしは薫様の犬神です!」
「カオル……川平薫のことか?」
「え? 薫様のこと知ってらっしゃるんですか?」
「知ってるも何もあいつは俺のいとこだよ」
「あ……じゃあ、あなたがけーた様ですか? 薫様から聞いたことあります! 面白い方だって!」
「あっそう……」

どうやら目の前の少女は薫の犬神だったらしい。しかし面白い奴か、いったいあいつどんな説明をしてるんだ? まあそれはおいといてこんな小さい子でも犬神として契約できるんだな。とても働けるようには見えないが。あいつもそんな趣味はないだろうし、まあどちらかというと面倒を見ているのかもしれないな。

「そういえば挨拶してませんでした、あたしは薫様の犬神、序列九位のともはねです!」
「ともはねね……ん、序列ってのは?」
「はい、薫様の犬神の中での序列です。あたしは一番小さいので九位なんです」
「九? ってことは薫は九匹も犬神を持ってんのか!?」
「? はい、そうですけど?」

ともはねのぽかんとした姿を見ながらも俺は驚きを隠せない。きゅ、九匹も犬神を持ってるだと? 確かに複数の女性の犬神と契約したとは聞いていたがまさかそれほどとは……あいつ、まさかハーレムでも作る気なのか。あり得るかもしれん、あいつああ見えてもSだしな……と、それは置いておいて聞かなければいけないことがある。

「そ、それでお前以外の犬神はその……美人なのか?」
「? びじんかどうかは分かりませんけどみんなきれいですよ」
「ほ、ほう……」

な、なるほど……まったくそんな犬神を八匹も持つなんてけしからん! まったくもってけしからん! これはぜひともお近づきにならなければ! だがいきなりではよくない。ここは将を射んと欲すればまず馬から、いやこの場合は犬からか。まあ将も犬になるわけだが。

「それはともかくともはね、お前お金が足りないんだろ?」
「え? は、はい……」
「そんな顔をすんな、ほれ」


思い出し、落ち込んだともはねに俺はそれを差し出す。紛うことなきお札、千円札を。


「いいんですか、けーた様っ!?」
「気にすんな、俺のおごりだ。その代わり、薫とそのお姉さんたちにくれぐれも宜しくな」
「はい! ありがとうございます!」

目を輝かせながらともはねはビデオを持ちながらカウンターへと走って行く。うむ、やはりまだまだ子供だな。だが今日は機嫌もいいしまあいいだろう。小さい子には優しくしなければな。決してやましい気持ちがあったわけではない。心からの善意なのだから。


さて、前置きが長くなってしまったがこれからが本番だ。目の前には入口がある。男にとっての聖域の入り口が。それを示すかのようにそこには暖簾がある。ここをくぐればそこはまさに異世界。空気も、時間の流れも異なる世界。だがその中に入れば男は誰でも紳士となる。すれ違う時には互いに道を譲り合うほどの、いわば紳士の社交場。


では行こう。いざ、珠子ちゃんの元へ! 


そう決意を新たに暖簾をくぐろうとした瞬間、ある違和感を覚える。それは人の気配。だが見渡しても人影はない。一体何故。そう疑問を感じた瞬間目の端に捉える。それはツインテール。まるで尻尾の様なツインテールが自分の後を付いてきている。


「お前……何してんだ?」


そこにはどこか楽しそうに自分の後ろについてきているともはねの姿があった。


「はい、けーた様の後に付いて行ってます!」
「何でそんなことしてんだ?」
「薫様が言ってました。お世話になった人にはちゃんとお礼をしなさいって」
「そうか……だが大丈夫だ。その気持ちだけで十分だ」
「そうですか……じゃあけーた様、ともはねと一緒に遊びましょう!」
「何でそうなるんだっ!?」

何とかともはねを振り払おうとするのだが予想外の切り返しに右往左往することしかできない。なんだこれは? 全く話が通用しない。これが俗に言う子供の無邪気さという奴なのか。その思考回路が理解できん。いや、理解できた方が問題があるのかもしれんが。

「薫様もせんだん達も忙しくて遊んでくれないんです。だから一緒に遊びましょう! きっと楽しいですよ!」
「そりゃお前は楽しいかもしんねえけど……悪いけど俺も忙しくてな、用事があるんだ」
「用事ですか……? もしかしてこの奥に何かあるんですか?」
「ばっ!? や、やめろ! 入ろうとすんじゃねえ!?」

どこか興味深々にともはねが暖簾の奥を覗き込み、あろうことか入ろうとする。俺は光の速さの反射神経と動きを以てそれを阻止する。いきなりのことにともはねは驚くものの俺の必死の姿がお気に召したのかさらに激しく暖簾をくぐろうと襲いかかってくる。まるで飼い主と犬のいたちごっこ。もっとも楽しいのはともはねだけで俺は全力、必死だった。こんなところにともはねを入らせるわけにはいかない。何よりもこの中にいるであろう紳士の皆さまに迷惑をおかけするわけにはいかない。しかし、そんな騒ぎのせいで次第に他の客の視線が俺たちに集まり始める。いや、正確には俺一人に。


そう今の状況。アダルトコーナーの入り口で小さな少女と騒いでいる自分。どっからどうみても変質者、ヘンタイに見られていることは間違いなかった。そのことに気づき、冷や汗が背中を伝う。もはや一刻の猶予もない。このままでは全裸になるよりも辛い仕打ちが待っている気がする。俺の危機察知アビリティがそう叫んでいる。


「分かった、分かったからもうやめろ! 家で遊んでやるから!」
「ほんとですか!? やったあ!」


息も絶え絶えにそう伝えるとともはねは目を輝かせながら喜んでいる。な、何とか助かったがこれからが思いやられる。すまない、珠子ちゃん……また来るからそれまで待っててね………


俺は心の涙を流しながら薫の犬神、ともはねとともに家に向かって歩き出すのだった―――――




「けーた様はあぱーとに住んでるんですか?」
「ああ……狭いからあんまりはしゃぐんじゃないぞ」
「はい! 任せてください!」

並んで歩きながら俺はともはねとともにアパートへと向かっていた。ともはねはあの後もずっとしゃべりっぱなしだ。どうやらよっぽど遊び相手が欲しかったらしい。まあこの年頃なら当たり前かもしれないが。聞いた話では他の犬神たちとはかなり歳が離れているらしいので無理もないだろう。だがこんな時に限って家にはなでしこがいない。きっとなでしこなら上手く子供の相手もするだろう。見たことはないが確信できる。乳母といってもいい雰囲気を持っているからな。もっともなでしこの前では口が裂けても言えないが。年齢に関しては絶対禁句だ。命にかかわる。そうだ、そう言えばこいつもちゃんと言っとかないとな。

「おい、ともはね、知らない人には付いて行くなよ。薫に習わなかったのか?」
「え? でもけーた様は知ってる人ですから大丈夫ですよ?」
「ま、まあそうだけど……もし俺が悪い奴だったらどうするんだよ?」
「けーた様、悪い人なんですか?」
「いや……そうじゃなくてな……」

そんな噛み合っているのかいないのか分からない会話をしながらもアパートに到着する。とにかく部屋に上がってからだな………ん、ちょっと待て、何か普通にともはねを部屋に上げようとしてるけどこれって端から見たら結構やばいんじゃね。男が見知らぬ少女、幼女を部屋に連れ込もうとしているように見えるんじゃ……い、いやそんなことはない。そんな趣味は俺にはない! そうだ、何も後ろめたさを感じることはない!

そう自分に言い聞かせながら部屋のドアを開けようした瞬間、


「ぬう……ぐう……」


そんな男のうめき声の様な物が部屋の中から聞こえてきた。


「けーた様……」


ともはねが怯えながら俺のシャツの裾を掴んでいる。俺はそんなともはねを庇いながらもドアノブに手をかける。やはり鍵が開いている。泥棒だろうか。しかもこんな真昼間から。知らず息を飲みながら俺は手に消しゴムを握りしめる。本来なら霊に対して使う物だがそんなことも言っていられない。俺はゆっくりとドアを開けながら中へと入る。次第に音がはっきりと聞こえてくる。まるで人間がうごめいているような音が。


「誰だっ!?」


意を決して俺は戦闘態勢のまま部屋に飛び込む。だが俺はその光景に言葉を失い、動きを止めてしまう。後から入ってきたともはねもその光景に目を奪われたまま。俺たちの視線の先には




両手を後ろにし、両足を海老反りの体勢で床を這いずり回っている仮名史郎の姿があった――――――



[31760] 第六話 「小さな犬神の冒険」 中編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/16 19:36
「おお! 川平、すまない。実は厄介な事態が起きてしまってな……」

白いコートとスーツ、黒のオールバックの男、仮名史郎が自分の目の前に現れた川平啓太に向かってそう告げる。その声はいつもと全く変わらない、どこか真面目さがにじみ出ているもの。特命霊的捜査官、仮名史郎の人柄が伝わってくる。聖職者でもある彼はその人柄ゆえに捜査官としての信頼も厚い。

「ん? 君は川平薫のところの……ともはねか?」

仮名はふと、気づいたよう啓太の隣にいる少女、ともはねに気づき声をかける。仮名は仕事柄、啓太だけでなく薫とその犬神たちとも面識があった。だがその顔に疑問が浮かぶ。何故薫の犬神であるともはねが啓太と共にいるのか。ここは啓太の家だというのに。まあそれはともかく

「さっそくですまないが川平、君の力を貸してくれないか?」

仮名は真剣な様子で啓太のそう切り出す。できれば自分一人で解決したかったのだが状況が状況。どうしても人の手が必要だ。かなり癖がある人物ではあるが腕は確かな啓太の協力が得られれば心強い。そう判断しての物。だが

「………川平?」
「………」

いつまでたっても啓太の返事は返ってこない。一体何故。仮名が疑問を抱くと同時に啓太はともはねを自分の方に向かせ、その耳を塞ぐ。その光景に仮名はどこか嫌な汗が背中に流れ始めていることに気づく。

その動きはまるで……そう、自分の姿を、言葉をともはねに見せないように、聞こえないようにするかのよう。


「仮名さん……俺、今まで言わなかったけど……仮名さんのこと結構尊敬してたんだぜ……」
「な……何を言っている、川平……?」

どこか哀愁に満ちた表情で啓太は仮名に語りかける。その眼はここではないどこか遠くをみつめ、かつての日々に想いを馳せているかのよう。その瞳が自分を見下ろしている。そう、床に這いつくばっている自分を。仮名はやっと気づく。今、自分が両手を後ろに回し、両足を海老反りの体勢であったことに。そして目の前の啓太がとんでもない誤解をしているのであろうことに。

「ま、待て川平! 君は何か大きな勘違いをしている! これは」
「いい! もういいんだ仮名さん! 俺は分かってる! 仮名さんだって人間だ……人に言えない趣味の一つや二つあってもおかしくないさ……」
「川平、少し私の話を……!」
「でもさ……いくら知り合いでも……他人の家でそんなプレイをするのはどうかと思うんだ……」
「けーた様、どうしてあたしの目と耳を塞いでるんですか?」


仮名が必死に言い訳をしようとするも啓太はそれをどこか憐れみの目で見つめているだけ。可哀想な人を見るような、そんな表情を見せながら。目の前にいる床を這いずり回っている男性の姿と言葉にこんな幼いともはねを晒すわけにはいかない。いったいどんな悪影響を与えるか分からない。そんなことになれば薫に会わせる顔がない。そしていくら知り合いだといってもしていいことと悪いことがある。プレイだけならともかく、人の家に不法侵入しての行為。間違いなく犯罪行為だ。親しき仲にも礼儀あり。ここは心を鬼にしなければ。

啓太はそのまま自らのズボンのポケットからあるものを取り出す。それは携帯電話。そして素早くそれを操作しどこかに電話をかけようとする。

「ま、待て、川平! どこにかけようとしているんだっ!?」
「え? どこって110番だけど」
「や、やめろ! これにはわけが……それに私は警察だ!」
「あ、そう言えばそうだっけ」
「けーた様、もういいですか? 早く遊びましょうよ!」
「と、とにかく起こしてくれ! 自分では起き上がれんのだ!」
「うーん……」

そう言えばこの人、警察だったな。まったく、こんな人が警察だなんて世も末だな。ここは一つ仮名さんにも留置場で洗礼を浴びてきてもらった方がいいんじゃねえかな。まだ自分がヘンタイだって気づいてないみたいだし。あそこならきっと趣味を理解してくれる奴らがいるだろう。現にそれっぽい奴を見たことあるし。そんなことを考えていると仮名さんがまるで芋虫のように動きながら俺に迫ってくる。どこか必死さを感じさせる形相を見せながら。

なにこれ……すごく気持ち悪いんですけど。これからは依頼を受けるのも控えた方がいいかもな………

訳が分からないカオスな様相を見せながらも何とか三人は落ち着きを取り戻し、改めて向かい合うのだった―――――




「で、そうなっちまった理由ってのはなんなんだよ?」
「ふむ、話せば長いことながら……その前にともはね、私を突つくのをそろそろやめてほしいのだが……」
「あ、ごめんなさい! つい……」

仮名は何とか身の潔白を証明しようとするのだがその前に自分をまるでおもちゃのよう突っついているともはねを嗜める。ようやくそのことに気づいたともはねは少し慌てながら二人と同じように正座をし、ちゃぶ台を挟んで向かい合う。だが仮名の姿は普通ではなかった。先程のように床に這いつくばってはいないものの両手を後ろにしたまま正座している。まるで両手を縛られているかのように。その光景に猜疑の目を向けてくる啓太を前に、一度咳ばらいをした後、仮名は状況を説明していく。

逃げたムジナを捕まえること。一言でいえばそれが今回の仮名の任務だった。

だが当然そのムジナは唯のムジナではない。それは元々天地開闢医局で捕獲されていたもの。それはそのムジナによる感染症が犬神にはあるため。その予防接種のために少しムジナの血を分けてもらうことが慣習になっているらしい。だが今回それが脱走し、医局の人間だけでは手が回らずやむを得ず仮名が駆り出されたという話だった。



「ふーん、じゃあなでしこもその予防接種に行ってるわけか……でもそれと今の仮名さんの状況が関係あるの?」
「き、君はまだ疑っているのか……と、とにかくそのムジナにはモノとモノをくっつける能力を持っているんだ。私も何とか君の部屋まで追い詰め捕獲しかけたのだがいかんせん素早くてな……取り逃がした際に情けないが両手と両足をくっつけられてしまったのだ……」
「それで俺ん家にいたのか……」

全くそうならばそうと早く言えばいいのに、人騒がせな人だ。もっとも不法侵入自体は間違いないのだろうがそれはまあ目をつぶろう。何よりも依頼、そしてなでしこの予防接種のためにも協力するしかない。

「分かった、手伝うよ。仮名さん。どっちみちその格好じゃあ動けねえだろ?」
「そうか、すまない。依頼料の方は色をつけておこう」
「そーいえば仮名様、そのムジナってどんなすがたをしてるんですか?」

いつのまにかともはねが身を乗り出しながら仮名さんに尋ねている。どうやら興味がわいてきたらしい。本当に子供だな、いや実際子供なのだが。

「ふむ、大きさは普通のムジナと変わらない。イタチのような姿で霊能力者に惹かれる性質を持っている。この部屋に逃げ込んだのも川平の霊力に惹かれたからだろう」
「へえ、じゃあまだこの部屋にいる?」
「恐らく。だが隠れてしまったのか見当たらん。手分けして探すしかないな」
「仮名様、そのムジナってこんな子ですか?」
「おお、そうだ。まさにそんな大きさのムジナだ。川平もよく見ておいてくれ」
「了解、じゃあしらみつぶしにベッドの下から………え?」
「……ん?」

まさに捜索を開始せんと動き出した啓太と仮名は同時に動きを止める。なんだろう、さっき何か見逃してはいけない違和感があったような……。二人は一瞬、硬直した後すぐさま振り返る。そこには

「どうしたんですか、お二人とも?」
『きょろきょろきゅ~』


さも当然のように鳴き声を上げている白いムジナを抱えたともはねの姿があった。


「と、ともはね、そいつどうしたんだ!?」
「え? えっと、いつのまにかひざの上に乗ってたんですけど……」
「よくやってくれた、ともはね! ムジナを私に近づけてくれないか」
「こうですか……?」

予想外の出来事に驚きながらもともはねは言われるがままにムジナを仮名へと近づける。その瞬間、まるで何もなかったかのようにくっついていた両手両足が解放される。どうやら捕まってしまったことでムジナの能力も解けたらしい。仮名はようやく拘束から解放されたことで大きな背伸びをしながら溜息を突く。どうやら海老反りの体勢はそうとうに堪えたようだ。

「ふう、何とかなったようだな」
「おお!」
「ほんとにくっついてたんですね!」
「君達……」

実は半信半疑だった啓太とともはねは興味深々にその光景に目を奪われている。仮名はまだ自分が疑われていたことに頭を痛めることしかできない。だがこれで一件落着。そう油断した瞬間

『きょろきょろきゅ~!』
「あ、だめ、ムジナさん!」
「なっ!?」
「いかんっ!」

仮名に気を取られたともはねの隙を付いてムジナがその手から抜け出し、再び逃げ出そうとする。ともはねは咄嗟のことに動くことができない。だが啓太と仮名は同時にそれに反応する。いくらヘンタイだとしても彼らはプロ。全く同時に二人はムジナを逃がすまいと飛びかかる。だがそれは一歩遅かった。いや、それが命取りとなってしまう。

「きゃっ!」

二人がムジナに向かって飛びついた瞬間、部屋が光に包まれる。それはムジナが能力を使った際に起こる光。それに驚き、目をつぶってしまったともはねは目をこすりながら慌てて部屋を見渡す。だが既にムジナの姿は見当たらない。どうやらまたどこかに隠れてしまったらしい。せっかく捕まえたのに逃がしてしまったことでともはねは意気消沈しながら二人の方向に目を向ける。だがいつまでたっても二人から反応がない。


「……けーた様? 仮名様?」


恐る恐るともはねは二人に近づいて行く。そこには


まるで恋人のように抱き合っている啓太と仮名の姿があった。



「な、なんじゃこりゃああ!?」
「お、落ち着け、川平! ムジナの力でくっつけられてしまったんだ!」

仮名は慌てながらも冷静に状況を啓太へと伝えてくる。だが啓太はそれどころではなかった。そう、ただくっつけられただけなら構わない。だがその場所が問題だ。自分たちがくっつけられてしまっているのは下半身。しかも紛うことなき股間が密着している。ズボンが間にあるため直接くっついているわけではないがそれでもその感触が伝わってくる。その事実に啓太の背中に冷や汗が流れ出す。このままでは取り返しにならないことになると。

「と、とにかく離れてくれ、仮名さん!!」
「痛たたたっ!! やめろ、川平これは力づくでは取れん! 落ち着くんだ!」
「落ちつけれるかーっ!? ピ――の仮名さんとこんな体勢でいられるわけないだろ!」
「なっ!? また君は誤解を招くようなことを!? 私は断じてピ――ではない! 私は女性が好きだ!」
「俺だって女の子の方が好きだ! なんで仮名さんと下半身押し付け合って抱き合わなきゃならんのだ!? そんなイベントはいら――――ん!」
「気をしっかり持て、川平! とにかく一旦落ち着くんだ、このままではどうしようもない!」
「あ、ムジナさん! 待って!」

啓太は両手を使って何とか仮名を引きはがそうとするのだがどうやっても叶わない。腰が、いや股間が離れない。だが啓太は必死だった。


何でだ!? 何で俺ばっかりこんな目に会うんだ!? というか仮名さんからの依頼ではいつも俺はこんなのばっかりな気がする。何だ、この人はそんな依頼ばっかり受けてるのか。特命霊的じゃなくて特命変態的捜査官の間違いじゃないのか!? と、とにかく早く離れないとあの時のあれが……トラウマが蘇ってくる……!! たくましい筋肉、ほとばしる汗、がっちりとした体格。記憶から消し去ったはずの悪夢が再び俺の中の開けてはいけない扉を叩き始めてしまう!!


「……っ!! そうだ、川平! これは私の時のように体がくっついているわけではない、ズボンがくっついているだけだ! 同時に脱げば離れることができるはず!」
「そ、そうか! さすが仮名さん!」
「待ってー! ムジナさーん!」

俺は息絶え絶えに落ち着きを取り戻す。既にマラソンでも完走したのではないかと思うほど体力を使ってしまっている。それは仮名さんも同じようだ。互いに息を切らせながらも打開策が見つかったことで俺たちの顔には安堵が浮かんでいる。


何だろう、こう言い表せないような感情が俺の中に生まれてくる。まるで長い間共に戦い続けてきた戦友の様な、この世で信じられるのは仮名さんだけのような……これがブラシ―ボ効果とかいう奴なのだろうか。まあとにかく一刻も早くこの状況から脱出しなくては!


「じゃあ仮名さん、タイミングを合わせて脱ぐぜ……」
「ああ、慎重にな……」


互いに頷き合いながら俺たちはズボンのチャックに手を掛ける。タイミングがずれれば上手くズボンを脱ぐことができない。慎重に、だが流れるように俺たちはズボンのチャックを下ろし、互いのズボンに手を掛ける。何故か緊張感によって大きく息を飲む。まさか男のズボンを脱がす日が来るとは思ってもいなかった。というか普通はあり得ない。だが仕方ない。このまま密着したままでは不測の事態が起こりかねない。色々な意味で。


だが啓太は気づいていなかった。いや、気付けなかった。ズボンを下ろすにしてもお互いのズボンを脱がせ合う必要はどこにもなかったことに。それは啓太が開けてはいけない扉に片足を突っ込みかけている証だった。場に流されているとはいえ仮名も同様だった。


そして二人はついにやり遂げる。同時に、絡むことなく互いのズボンを脱がすこと、そしてその呪縛から解き放たれることが。


「ふう……何とかなったな。助かったぜ仮名さん」
「いや、礼には及ばん」


啓太と仮名はどこかさわやかな笑みを互いに向け会いながら讃えあう。まるで何かを成し遂げたかのような充実感が二人を支配していた。そんな中、まるで何かの袋が落ちたような音が部屋に響き渡る。啓太は驚きながらその方向、玄関に目を向ける。そこには



どこか呆然とした様子で自分を、正確には自分たちを見つめているなでしこの姿があった―――――



その光景に啓太はただ目をぱちくりさせることしかできない。それはなでしこも同様だった。互いに言葉を交わすことすらできない。当たり前だ。

なぜならなでしこの前には何故かパンツを丸出しにした啓太と仮名が互いのズボンを下ろし合っている光景が映っていたのだから。加えて何故か薫の犬神であるともはねが何かを追いかけるように部屋中を駆け回っている。まるで現実とは思えないような異次元空間が展開されていた。


………あれ? わたし、部屋を間違えたのかしら……? そういえば買い物をしたはずなのにそれがない。忘れちゃったのかしら? いけない、ちゃんと買ってこないと……


なでしこはそのまま自分が買い物袋を落としたことにすら気づかないまま部屋を後にしていく。まるで夫の浮気現場に出くわし、現実逃避をするように。いや、この場合はまだその方がマシだったのかもしれない。


「ま、待ってくれ、なでしこ―――――!!」
「川平、とにかくまずはズボンを履くんだ」
「ムジナさーん、どこにいったのー?」


考えうる最悪の展開によって錯乱しパンツ一丁でなでしこを追って行こうとする啓太、それをあくまで冷静に嗜める仮名、一人本来の目的であるムジナを追いかけているともはね。


まだまだ啓太の受難の日は収まりそうにはなかった―――――



[31760] 第七話 「小さな犬神の冒険」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/19 21:11
「……というわけだ。悪いがなでしこ君も手伝ってくれるとありがたい」
「はい、それは構わないんですけど……」

ちゃぶ台をはさんで互いに向かい合いながらなでしこは仮名からおおよその説明を受けているところ。だがなでしこはどこか歯切れが悪い様子を見せている。その表情もどこか心配げなもの。その視線の先には

「俺は本物じゃない俺は本物じゃない俺は本物じゃない………」
「けーた様、ほんものってなんですか?」

部屋の隅っこで体育座りをしながらぶつぶつ独り言をつぶやいている啓太とそれに付き纏っているともはねの姿がある。何とか仮名の説明によって誤解は解けたものの様々な精神的ショックが重なり啓太は落ち込んでしまっているのだった。だがそんなことなどお構いなしにともはねは楽しそうに啓太にちょっかいを出している。なでしこはどうしたものかと思案するがおろおろすることしかできない。だが

「とにかく、まだこの部屋にムジナは隠れている。皆で手分けして探していこう!」

このままでは埒があかないと判断した仮名は場の空気を変える意味も兼ねてそう宣言する。その姿はいつもと変わらない。とても先程までパンツ丸出しだった人間とは思えない変わりようだった。

「あんなことの後でよくそんなに切り替えれるな……」
「仕事柄あのようなことは日常茶飯事なのでな」
「あ、あの……それはどうかと……」
「はい! ともはねもがんばります!」

さらりと爆弾発言をする仮名に啓太は呆れ、なでしこは顔を赤くし、ともはねはやる気を見せている。全く意志疎通ができていないでこぼこな四人組が再びムジナの捜索を開始する。ドアと窓にカギを閉めることでムジナに逃げ場はない。そしてここは狭いアパート。見つけるのにそう時間はかからないはず。

「くっそー出てこい! ムジナっ!」

四人の中でも特に啓太は必死の形相で捜索を行っている。それはある意味やつあたりに近いものだった。

何とかなでしこの誤解は解けたがひどい目に会った……おかげでもう少しで本物になってしまう危険すらあった、いやまじで。仮名さんは慣れた様子で割り切っているが断じて俺は仮名さんとは違って本物ではない! これからは半径二メートル以内には近づかないようにしなければ……それはともかく今はムジナの捕獲が最優先。いわばこいつが全ての元凶なのだから。なでしこがこんな時間に帰ってきたのもムジナが逃げ出したことで予防接種が延期になってしまったせいらしい。おのれ……俺がこんな目に会っているのも全部奴のせいだ、奴には依頼の報酬のため、なでしこの予防接種のため、そして俺の恨みのために犠牲になってもらう!

「おおおおおっ!」
「流石だな、川平。私も負けていられん」
「ともはね、わたしはこっちを探すからあっちをお願い」
「わかった、なでしこ!」

噛み合わないものの四人は部屋の中をくまなく探し続ける。元々狭い部屋に加えて物が多いわけでない。啓太だけの一人暮らしだったなら散らかっていただろうがなでしこは毎日くまなく掃除をするため部屋には埃一つない。またその関係で啓太にとって、男にとって見られたくない物もないため啓太は臆することなく捜索を続ける。そして

『きょろきょろきゅ~』

「あ、ムジナさん!」
「待て、このやろう!」
「落ち着け、川平! 取り囲むんだ!」


ついに追い詰められたムジナがその姿を現す。だが捕まるわけにはいかないとその素早さで部屋中を駆け回る。だが狭い部屋であることと四人という数によって次第にムジナは追い詰められていく。そしてムジナは四人の中では一番危険度が低いと思われるなでしこの近くへと逃げていく。

「え? あ、きゃっ!」

なでしこは思わず悲鳴を上げる。何故ならムジナが逃げ込んだのはなでしこのスカートの中だったから。そんなところに逃げ込まれるとは思っていなかったなでしこはどうしたらいいのか分からずあたふたすることしかできない。仮名とともはねもそんなところに手を出すわけにもいかず立ち尽くすことしかできない。だがそれを破ることができる例外がこの場にはいた。

「俺に任せろ、なでしこっ!」

そんな叫びを上げながら啓太は迷うことなくムジナに向かって、いやスカートの中に向かって手を伸ばす。それはまさに神業と言ってもいいほどのタイミングとスピード。だが彼のために弁明するなら間違いなく啓太にはこの時、やましい気持ちはなかった。それはまさに本能に近いもの。啓太はなでしこに対してはセクハラの類は行わないことを信条としている(あくまで本人基準)。だがどうしてもその根本は変わらない。それがこの状況にでてしまった。無意識の中でこの状況ならば不可抗力が、正当防衛? が成立すると。そしてそれが致命的だった。

『きょろきょろきゅ~』

啓太の手がまさになでしこのスカートの中に届かんとした瞬間、再びまばゆい光が部屋中を覆い尽くす。啓太達はそれを前にして身動きを取ることができない。それが収まった後には再びムジナの姿は見えなくなってしまった。先程の啓太と仮名の状況の焼き回しだった。だが違うところがあるとすれば

「………え?」
「………ん?」


啓太の手がなでしこのお尻にくっついてしまっていることだった。


「ちっ違うんだっ、なでしこ!? こ、これはわざとじゃなくって……!!」
「け、啓太さん、あ、あんまり動かさないでください……!」
「あ、わ、悪いっ!」

啓太は狼狽しながらなでしこのお尻から手をのけようとするのだが叶わない。しかし何とかしようとするたびに手が動き、なでしこのお尻を撫でてしまう。それをなでしこは顔を真っ赤にしながら耐えている。だが羞恥心によってなでしこは既に涙目だった。


な、何だ!? 何でこんなことになった!? こんなおいしい……じゃなかった、困った状況になってしまうなんて……。まるで俺が無理やりなでしこを襲っているみたいじゃないか。ち、違う! 俺は断じてそんなことはしない! 確かに俺はエロだがヘンタイではない! し、しかしどうすれば……俺は別にかまわないのだがなでしこのためにこの状況を何とかしなければ……だが動かせば動かすほどなでしこのお尻を撫でるような形になってしまう。なでしこは既に恥ずかしさで真っ赤になり涙目だ。一刻も早く何とか……そうだ! これは仮名さんの時と同じだ。直接手がなでしこのお尻にくっついているわけじゃない。ならそれを脱がせればこの状況を打破できる!


啓太はそう判断し、いざそれを実行に移さんとする。だがその瞬間ふと気づく。それは直感。混乱していたためそこまで頭が回っていなかった。


そう、今、自分の手にくっついているのは仮名のズボンではなく、なでしこのパンツであることに。


「うおおおおっ!?」

何とか寸でのところで俺は動きを止める。あ、あぶねえ……危うく普通になでしこのパンツを下ろすところだった。そんなことをすれば二度と俺はなでしこの前に立てないだろう。例えわざとではなかったとはしても完璧にヘンタイだ。し、しかしならどうすれば……このままずっと触っているわけないし、この状態ではムジナを捕まえることもできない。な、何か手は……

啓太がどうしようもない状況に頭を悩ませていると


「あ、あの……啓太さん、わたし目をつぶってるので……その……いいですよ……」
「………え?」

なでしこがそんなよく分からないことを口にする。だがその言葉の意味を理解し、啓太は固まってしまう。


え……それってこのままパンツ下ろしちゃっていいってこと……? だがそんなことを聞き直すこともできない。なでしこは既に目を閉じたまま何かを待っているような姿。それが何を意味しているかなどもはや語るまでもない。しかしいいのか? それは俺がなでしこをノーパンにするということだ。そう、ノーパンに。いや、それだけではない。なでしこはいつもノーブラだ。それはつまりなでしこはノーブラ、ノーパンになってしまうということ。そんな素晴らしい、ではないひどいことをしてしまっていいのだろうか。だがここで引き下がるのは男としてしてはならないこと。現になでしこも目をつぶったまま待っている。そう、ならば俺はそれに応えなければ!


啓太はそんな訳の分からない思考をしながらその手に力を込めようとする。だが混乱しているのは啓太だけではなくなでしこも同じ。本当なら啓太に目をつぶってもらうべきところを何故か自分が目を閉じているのだから。そしてついにそれが行われんとした時


「……ごほんっ。盛り上がっているところすまないがその辺にしておいてはどうだ。ここにはともはねもいるんだぞ」
「「……っ!?」」


どこか気まずそうに咳ばらいをした後、仮名は顔をそむけながら告げる。その言葉によって啓太となでしこは我に返る。そこにはどこかピンク色の空間を作り出している自分たちとそれを興味深そうに眺めているともはねの姿があった。

「……二人とも何をしてるんですか?」
「い、いや……それは……」
「そ、その……」

ともはねの純粋な疑問に二人はしどろもどろになるしかない。二人はまるで小さな我が子に情事を見られてしまった夫婦の様な反応を示している。仮名はあえて触れまいと明後日の方向をむいたまま。だがそんな四人の隙を狙ったかのようにムジナが再び動き出し、窓に向かって行く。そしてそのまま自ら鍵を開け、外へと逃げ出してしまう。

「なっ!?」
「そんなっ!?」

その光景に啓太となでしこは驚きの声を上げるしかない。まさかムジナが自分でカギを開けるなど思いもしなかったから。だが忘れてしまっていた。相手は普通のムジナではないということを。同時に気づく。このままムジナが捕まらなければ自分たちはずっとこの状態であることに。

「三人ともここに残っていてくれ、ムジナは私が必ず捕まえてくる!」

今の状態の二人とともはねではムジナを追うのは難しいと判断した仮名はすぐさまムジナの後を追って行く。その姿はまさに捜査官に相応しい貫録を備えたもの。二人はそのまま後のことを仮名に任せようとするが

「待ってください仮名様! あたしも行きます!」

「ま、待て! ともはね!」
「待ちなさい、ともはね!」

それを追うようにともはねも部屋を出て行ってしまう。啓太となでしこは何とか制止しようとするもともはねはあっというまに見えなくなってしまうのだった―――――



『きょろきょろきゅ~』
「く、くそ……何て素早さだ……!」

仮名は全速力でムジナの後を追いかけるがなかなか追いつくことができない。体力には自信があったのだがやはり野生の動物相手では分が悪い。自らの武器であるエンジェルブレイドも使用できない。使えばムジナを傷つけることになってしまうからだ。だがあきらめるわけにはいかない。これは元々は自分の任務。啓太達に頼ってばかりでは面目がたたない。しかし既にかなり人ごみの中に近づきつつある。道路や信号も増えてきた。このままではまずい。そう仮名が焦り始めた時、ムジナが突然動きを止めてしまう。どうやらムジナも度重なる追跡によって疲労しているらしい。ならばこのチャンスを逃すわけにはいかない。

「もらったあああっ!!」

仮名はまるで獲物にとびかかる獣のようにムジナへとせまる。だがそれはムジナの罠だった。ムジナは光を放つと同時に仮名の足元を通り抜けながら走り去ってしまう。その光によって一瞬動きを止めてしまうものの仮名はさらに追跡をせんとする。だが

「ん?」

仮名はその場を動くことができない。いや、正確には手が何かにくっついていて動くことができない。一体何が。仮名は自らの手に視線を向ける。瞬間、仮名の背中に冷や汗が滝のように流れ始める。そこには


巨大なダンプカーの後部にくっついてしまっている自らの右腕があった。


それが一体何を意味するのか仮名は瞬時に悟る。ここは道路。そしてこの位置では運転手は自分を見ることができない。まるで走馬灯のように思考が巡ったと同時にダンプカーが信号が青になったことで動きだす。そのまま仮名の手をくっつけたまま。


「ぬおおおおおおおっ!!」

「ムジナさん、待ってー!」

ともはねはそんな仮名に気づくことなくただ一直線にムジナの後を追って行く。仮名は凄まじい叫びを上げながら全速力でダンプカーと並走する羽目になったのだった―――――



街の中を凄まじい勢いで走り抜けていく人影がある。だがその光景に通行人達は目を奪われるしかない。何故ならそこにはなでしこを抱いたまま走っている啓太の姿があったから。

「け、啓太さん、大丈夫ですか……?」
「あ、ああ大丈夫だ、気にすんな……!」

顔を真っ赤にして恥ずかしがりながらも心配そうになでしこは啓太に声をかける。啓太はそんななでしこにそう答えるものの息も絶え絶え、とても大丈夫には見えない。結局あの後、啓太はムジナの後を追うことに決めた。正確にはそれを追っているともはねを。仮名さんがどうなっても知ったことではないがともはねに何かあってはいけない。一応遊ぶ約束をした上に薫の犬神でもあるのだから。だがそれを考えながらも啓太には違う深刻な問題が起きようとしていた。


まずい……マジでやばい! あの状況でなでしこのパンツを下ろすわけにもいかずそのままなでしこを抱きかかえながら(俗に言う御姫様抱っこ)走っているのだがそのせいで手に今まで以上になでしこのお尻の感触が襲いかかってくる。くそっ……こんな状況でなければ心行くまでこの至高の感触を堪能できるのだが今はそれどころではない。今まで抑えていた煩悩が溢れださんとしている。このままでは俺の理性が持たない! だ、だがこんなところで負けるわけにはいかない……そうだ! 身内フィルターの応用だ! これはなでしこの尻ではない……そう、これはかあちゃんの尻だ! そんなもの触ったこともないがとにかくそうだ! かあちゃんの尻、かあちゃんの尻、かあちゃんの尻………

そんなわけのわからない呪文の様な物を脳内で連呼していると啓太の目にともはねの姿が映る。かなり遠くだが間違いない。後は何とか追いつくだけ。そう安堵しかけた時


「おおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」


どこかで聞いたような声が横を通り過ぎていく。その声はまるで救急車のサイレンのように遠ざかるに連れ小さくなり聞こえなくなっていった。


「啓太さん……今のって仮名さ」
「気のせいだ、なでしこっ! とにかくともはねを追うぞ!」

なでしこの言葉を力づくで抑えながら俺はただ前に向かって走り続ける。


そうだ、あの仮名さんがあんなことになるはずがない。ダンプカーと並走するなんて訳が分からない光景なんて見えなかった。あれはきっと俺の心が生み出した幻だ。心のどこかで仮名さんに頼ってしまっていた俺の心の弱さだ。だから見ててくれ、仮名さん……俺はあんたの悲願を達成して見せる!


啓太は心の中で涙を流しながらただ走り続けるのだった―――――



「よいしょ……よいしょ……」

そんな掛け声を上げながらともはねは体を動かしている。その先にはムジナがいる。そこはともはねの頭上の方向。電柱のてっぺん。ともはねは電柱を登りながらその跡を追って行く。いつもならそれが危ない行為だと分かるのだがもはやともはねにはムジナ以外のことは頭になかった。

それは犬神故の特性。犬である彼らは何かを追いかける行為が大好きであり、それはある意味得物を追いかける狩りに通じるものがある。幼いともはねは特にそれに没頭してしまい周りが見えなくなってしまっていた。

だが既にムジナにも逃げ場はない。まさかムジナもここまで追ってくるとは思っていなかったからだ。そしてついにともはねは頂上まで辿り着き、ムジナをその両手で抱きかかえる。

「捕まえた、ムジナさん!」
『きゅる~』

満面の笑みでともはねはムジナを抱きかかえ、ムジナもどこか観念したような鳴き声を上げる。これで上手く行ったとともはねが安堵した瞬間、


「……え?」


ぐらりとその体が傾く。ともはねはその感覚にそんな声を出すことしかできない。両手を使ってしまったこと、その安心感から気を抜いてしまったことでともはねは電柱の頂上から落下を始めてしまう。その浮遊感が、恐怖がともはねに襲いかかる。それが何を意味しているのか幼いながらもともはねは本能で理解する。だがどうすることもできない。ただ目を閉じることしかできない。

その刹那、ともはねの脳裏に浮かぶ。それは自らの主人。いつも自分に優しい、助けてくれる大切な人。


(薫様………!!)


ともはねが目をきつく閉じながらその名を心の中で叫んだその瞬間、


「なでしこっ!!」
「はいっ!!」


そんな声が聞こえてくる。同時にどこか温かい感覚に包まれる。恐る恐る目を開ける。そこには自分を抱きとめてくれているなでしこ、そしてなでしこを抱きかかえている啓太の姿があった。


「うおおおおおおっ!!」


啓太は絶叫を上げながらそのまま勢いを殺しきれず地面を転がり続ける。それは全速力でともはねの元まで疾走してきた代償。まさに火事場の馬鹿力と人並み外れた身体能力をもつ啓太だからこそできたもの。だがすぐに止めることはできず転がり続けることでその勢いを相殺する。だがなでしことともはねには傷一つない。それを庇うことが啓太の意地だった。

「………はあ、何とかなったか……大丈夫か、なでしこ、ともはね?」
「はい、ありがとうございます啓太さん」

啓太の言葉になでしこは微笑みながら答える。そこにはまるで当たり前だと言わんばかりに雰囲気がある。それは自らの主を信頼している犬神の姿。そんな二人の姿にしばらくともはねは目を奪われぼうっとしている。だがすぐに我に返り

「あ、あのけーた様、ありがとうございます……それと……ごめんなさい」

そうどこか言いづらそうに、意気消沈しながら謝罪する。そんなともはねの姿に啓太となでしこは顔を見合せながらも笑う。

「おう、今度からは気をつけるんだぞ!」
「……はい!」

啓太の言葉でともはねは笑顔を取り戻し、いつもの姿に戻る。まあとにかく怪我がなくてよかった。そう啓太が安堵した瞬間、今までくっついていた手が離れる。そこにはともはねの頭に乗ったムジナの姿がある。どうやらもう逃げる気はないらしい。

「ふう……やっと取れたか……」

大きな溜息と共に啓太はなでしこを地面へと下ろす。個人的には残念だが色々問題がありすぎる。なによりもこれ以上面倒事に巻き込まれるのは御免だった。そんな中

「……あ……」
「……? どうかしたのか、なでしこ?」
「い、いえ……なんでもありません……」

なでしこがどこか変な声を上げる。一体どうしたのだろうか。だがなでしこは顔を赤くしたまま。それを尋ねようとするも

「じゃあけーた様、帰ってともはねと遊びましょう!」
「ま、まだ遊ぶ気なのか!?」
「はい、まだけーた様に遊んでもらってませんから!」
「分かった、分かった……とにかく家に戻るぞ……」

ともはねの言葉によってそれは遮られる。どうやらまだ遊び足らないらしい。もっとも今までのは依頼であり確かに遊びではなかったのだがまだそんな元気があるとは……やっぱり子供というのは侮れん。そのままともはねと一緒に家路につこうとした時、ふと気づく。なでしこが何故かその場にとどまり考え込んでいる。

「何かあったのか、なでしこ?」
「いえ……何か忘れているような気がして……」
「? 何かあったけ? 気のせいじゃないか?」
「そうでしょうか……?」
「二人とも、早くしないと置いていきますよー!」
「ま、思い出せないなら大したことないだろ。さっさと行くぞ」
「は、はい……!」


なでしこは少し慌てながら啓太とともはねの後を追って行く。その胸に何か引っかかりを覚えたまま――――――



[31760] 第八話 「なでしこのある一日」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/21 12:06
「じゃあ行ってくる。昼過ぎに帰るから昼飯は用意しなくていいからな」
「はい、お気をつけて」

啓太はそう言い残したまま足早に玄関から飛び出していく。だが今日は休日であり学校も休み。にもかかわらず急いで啓太が出かけていくのは仕事のため。今回ははけからの依頼らしい。いつも通りの慌ただしさの中、あっという間にその姿は見えなくなってしまう。そんな自らの主の姿をどこか楽しそうになでしこは見つめ続けていた。


あんなに慌てて大丈夫かしら……でも今回はそんなに大変な依頼じゃないそうだからあんまり心配しすぎてもいけないかも。でもこうやって啓太さんを送り出していると何だかまるで夫婦になったような気がします。もっとも恥ずかしいので啓太さんや人前では決して言えないけれど。

一応周りにはわたしと啓太さんは姉弟ということになっています。流石に犬神使いのことを知られるわけにもいかず、また高校生である啓太さんが女性であるわたしと同居しているのは問題があるのがその理由です。ですがもうほとんどそれも意味をなしていないような気もしますが……商店街の人達ももうわたしたちが姉弟であるということなど忘れてしまっているようです。わたしはそれでも構わないのですか……っといけないいけない! いつまでも考え事をしているわけにはいきません。啓太さんがいないといってもちゃんとやることはしないと。わたしは啓太さんの犬神なんだから!


なでしこはそのまま頭を切り替えながら部屋の中へと戻って行く。それがいつもと変わらないなでしこの一日の始まりだった。


「~♪」

機嫌良く鼻歌交じりになでしこは流れるような動作で部屋の掃除を行って行く。そこには全く無駄がない。男が見れば間違いなく身惚れてしまうような姿。割烹着にエプロンドレスというアンバランスな格好が今この瞬間、まるで一枚の絵画のように風景に溶け込んでいる。家庭的な女の子という男なら誰でも夢見る一つの理想がそこにはあった。

部屋の掃除が終わったなでしこは風呂掃除、洗濯と次々に家事をこなしていく。元々二人暮しであること、部屋もせまいことから家事もそれほど時間をかけることなく終了する。加えて今日、お昼は啓太も帰ってこないため食事も手のかかる物にする必要もない。自分ひとりなら余りものを使った簡単な料理をすることがなでしこの日課だった。

「ふう、こんなものかしら」

自分の仕事を終えたなでしこはそう呟いた後、一度休憩を取ることにする。一人分のお茶を用意し、テレビをつけたあと座布団に座り何の気なしに時間を過ごしていく。その視線が自分の隣、いつも啓太が座っている座布団へと向けられる。

(本当なら啓太さんと買い物に行きたかったんだけど……)

なでしこは少し残念そうな表情を見せながらそんなことを考える。啓太は高校生、学生であるため平日は家にはいない。そのため休日に啓太と出かけたり、触れ合うことがなでしこの大きな楽しみだった。啓太がいるのといないのとではこの部屋の雰囲気も全く異なる。いつも騒がしく、楽しい空気を啓太は作り、そこで過ごすことがなでしこの楽しみ。

だが仕事ならば仕方ない。本当なら自分も付いていきたいのだが戦えない、いや戦わない自分が付いて行っても邪魔になるだけ。先日の一件は自分を気遣ってくれた啓太の例外。なら自分は自分ができることを。それにお昼過ぎには帰ってくると言っていた。ならまだ買い物に一緒にいく時間くらいはあるはず。

そんなことを考えていた時、ふとなでしこは自分の身につけている二つの物に目を向ける。そこには二つの贈り物がある。蛙の形をしたネックレス、そして真っ白なエプロンドレス。啓太が自分に贈ってくれたとても大切な、自分が啓太の犬神である証。


(そうか……わたしが啓太さんの犬神になってからもう四年になるのね……)


なでしこはその二つの贈り物を見つめながら思い出す。四年前、啓太の犬神になってからの日々を。


わたしが啓太さんの犬神になってからすぐ、わたしは啓太さんと一緒にこのアパートにやってきました。ですがその時のわたしは緊張しっぱなしでした。なぜなら犬神として主に仕えるのは初めてだったから。ですがそんな緊張もすぐに吹き飛んでしまいました。そこにはあまりにもひどい部屋の惨状があったから。啓太さんの話ではこれでも片付けたと言うのですから驚きました。

わたしはまず啓太さんの生活環境と態度を整えることを第一に働き始めました。啓太さんはお世辞にも素行が良い人ではありませんでした。学校も頻繁に休み遊んでいたようです。遊びたい年頃なのは分かりますがこのままではいけないと心を鬼にしてそれを改めるように働きかけていきました。本当は嫌われても構わないと思っていたのですが啓太さんは予想に反してあっさりとわたしの言葉通りに学校に毎日通うようになりました。どうやら思ったよりも素直な子なのだとこの時わたしは気づきます。またこの時からわたしと啓太さんの関係が決まったような気がします。

姉と弟。どうしても手のかかる歳が離れた弟だと。この当時、啓太さんは中学一年生だったので当たり前と言えば当たり前ですが……。でもそれ以上に大きな、そして深刻な問題がありました。

それは啓太さんが……すごくえっちだったこと。

今でもえっちなことには変わりないのですがこの頃の啓太さんのそれは今の比ではありませんでした。思春期の男の子が女性と一緒に生活することになれば仕方のないことなのかもしれませんが……。とにかくこのままでは啓太さんのためにはならない。でもどうすればいいのか、そんな悩みを抱えている中ある出来事が起こります。

それは啓太さんがわたしにプレゼントをしてくれたこと。それが今わたしが身につけているエプロンドレス。いつも家事をしているわたしのために啓太さんが初めて買ってくれた物。そのときの喜びはまだわたしの中にあります。もっとも啓太さんはこれを使ってわたしに裸エプロンをしてほしかったのが大きな理由だったみたいですが。でもそれも今思えば啓太さんらしいと言えばらしいと思えるもの。そしてわたしは決意します。

このエプロンを使って啓太さんのえっちなところを何とかしようと。

短い付き合いでしたが直接注意してもそれが治りそうにないことはこの時のわたしにも何となく想像がついており、ならば逆の方法ならどうかと思いつきました。分かりやすく言うと押してダメなら引いてみる、という物です。今思えば当時のわたしもかなり焦っていたと思います。いくら啓太さんのえっちなところを治すためとはいえ裸エプロンを本当にしてしまったのですから。思い出すだけで顔から火が出そうなほど。もしこれが逆効果になってしまえば啓太さんには悪いけれど少し実力行使もやむなしと本気で考えていたのですがそれは杞憂に終わります。それ以来啓太さんはわたしに対してえっちなことを控えるようになってくれました。ですが鼻血を出し、大量の出血と共に意識を失ってしまった時には本当に焦りました。危うく自らの主を殺める犬神という前代未聞の事態になるところでした。しかしやりすぎてしまったのかもと最近思います。わたしに気を遣ってその……えっちなものを部屋には置かないようにしたり、どうやら見えないところで色々苦労をさせてしまっているみたいです。それでも時々わたしのお風呂をのぞこうとしているみたいですが……。

そして四年の月日の間にわたしの啓太さんへの気持ちも大きく変わってきています。啓太さんが成長し、男性へと変わってきたこと。そしてある時からそれは確信に変わります。

それはわたしたちの互いの呼び方。

最初の一年ほどはわたしたちは互いを『啓太様』『なでしこちゃん』と呼び合っていました。ちゃんづけというのは少し恥ずかしくはありましたがそれでも問題はありませんでした。様付けも犬神が主人を呼ぶ上では当たり前、当然のこと。それに疑問すら抱いたことがありませんでした。ですがある日、啓太さんは突然私に向かってこう言いました。

『その様付けって堅苦しいからさ……呼び捨てにしてくれない?』

その時、自分がどんな顔をしていたのか分かりませんがわたしはすぐにそれを断りました。自らの主人を呼び捨てにすることなどできないと。それは犬神としての、わたし個人としてもできないこと。ですが啓太さんはどこか不満そうにしています。でもこれだけは譲れない。そんなわたしの姿に呆れながら

『家族だからいいと思うんだけど……うーん、じゃあさ、せめてさん付けで呼んでくれない? 俺もなでしこちゃんのことなでしこって呼ぶからさ』

何でもないことのように啓太さんはそうわたしに告げました。でもわたしはその言葉に呆気にとられるだけ。

『家族』

啓太さんはわたしのことをそう言ってくれた。犬神としてではなく、わたしのことを家族だと。それは本来犬神使いとしてはしてはいけないことなのかもしれない。でもそれを啓太さんは口にしている。きっと今聞いても啓太さんはこの時のことを覚えていないかもしれない。それぐらい啓太さんにとっては当たり前のこと。でもわたしにとってはとても大切な思い出。思えばこの時からわたしの啓太さんへの気持ちが変わって行ったのかもしれません。

ですがそれからわたしたちの関係は進んでいません。裸エプロンの刺激が強すぎたせいか啓太さんの方からはそういったことはしてきてくださらない。殿方が積極的な女性に弱いものだと言うことは分かっていますがそれをして啓太さんに引かれたり、みだらな女だと思われるのが怖いためわたしのほうからアプローチすることのできず結局今のまま。ですがまだそれほど焦る必要はないかもしれません。

それは……あまり口にすることではありませんが……啓太さんは女性にモテないから。

学校や街中でもよくナンパの様な事をしているようですが全く上手く行っていないようです。上手くいっては困るのですが……と、それは置いておいて、わたしはずっと不思議でした。なぜあんなに啓太さんはモテないのか。たしかにえっちなところはありますがそれだけとは思えない程。しかしその理由をわたしははけ様から教えていただきました。


曰く、啓太さんはモノノケに対するように人間に接するのだと。


その気安さが嫌われてしまう大きな理由であると。そしてそれは人間だけではなくその素行や気安さが儀式においても犬神達の反感を買ってしまったそうです。


でもそれは全ての犬神ではありません。わたしはもちろん、はけ様とわたしたち犬神の一族の長、最長老様ならきっと啓太さんに憑こうとしたはず。はけ様がもし宗家様に憑いていなければ、最長老様がもっとお若い頃ならば。

それは確信。なぜならなら啓太さんは―――――



「けーた様ー! 遊びましょうーっ!」

そんな考え事をしている中、元気な声が聞こえてきます。わたしはその声の主をすぐに悟り、微笑みながらそのお客を部屋に迎えいれます。

「おはよう、ともはね」
「おはよう、なでしこ! けーた様は?」
「啓太さんは今お仕事で出かけてるの。お昼過ぎには帰ってこられるけどどうする?」
「じゃあ待ってる! いい? なでしこ?」
「ええ、ちょうどお昼を作ろうとしてたところだったから。ちょっと待っててくれる?」
「うん!」

元気な返事をしながら勝手知ったると言った様子でともはねは靴を脱ぎ捨て部屋の中に入って行く。それを嗜めながらもわたしはそのまま台所に向かいます。一人で食べても味気ないのでともはねが来てくれたのは良かったかも。ともはねはあの一件以来よく啓太さんと遊ぶために家にやって来るようになっています。めんどくさそうな態度を見せながらも何だかんだで啓太さんも楽しそうにともはねの相手をし、それを見守るのがわたしの新しい日課になりつつあります。

どうやらともはねは小さいがゆえに啓太さんの本質を見抜いているのかもしれません。まだ他の犬神の子たちは気づいていないようですが。でも構いません。薫様の犬神の子たちも幸せそうですが、一つ、確実にわたしの方が勝っていること。それは自らの主を独占できているということ。はけ様のように自らの意志ではなく、図らずもといったものではありますが。

「そういえばなでしこはどうしてけーた様に憑いたの?」
「え?」

料理をしていた自分に向かって突然、思いついたようにともはねが訪ねてくる。それはまさに子供の純粋さが滲みでているような質問。その意図が分からず、なでしこは思わず聞き返す。

「どうしたの、いきなり?」
「だっていままでなでしこ、誰にも憑いたことなかったんでしょ? せんだん達も言ってたの。どうしてなでしこがけーた様に憑いたんだろうって……」

ともはねはそう言いながら思い出す。それは四年前の儀式の時、今よりもっと小さかった自分でも覚えている。よく分からないことを言いながら山を走り回っていた啓太様の姿。本当はそれに興味を引かれて付いて行ってしまいそうになったのだが自分はそれを止めてしまう。それは自分の周りにいた犬神達の会話、姿のせい。どうやら啓太様に対するよくないことを話しているのが分かる。ならあの人は良くないひとなのだろうと思い、ともはねはそのまま啓太に連いて行こうとしたのをやめたのだった。

薫様の犬神になってからもせんだん達が啓太様のことをしゃべっているのを何度か聞いたことがある。落ちこぼれであるとか、素行が悪いであるとか、やはり悪いことばかり言われていた。でも何故か薫様だけは違っていた。薫様は啓太様の話をしているときは本当に楽しそう、嬉しそうだった。その理由が少しあたしにも分かってきた。でもなでしこはあの時、初めて啓太様に会ったはず。なのにどうして。

ともはねはそのままじっとなでしこの姿を見つめ続けている。だがなでしこは何かを考え込んでいる。いや、思い出しているよう。ここではない、今ではない四年前のあの日のことを。だがその表情から感情を読み取ることはできない。どこか不思議な雰囲気をともはねは感じ取る。


「……なでしこ?」
「……あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしちゃってた。すぐにご飯にするから待っててね」


なでしこは少し慌てながらお昼の準備に入ろうとする。ともはねがもう一度先程の質問をしようとしたその時、部屋の電話が鳴り始める。ぱたぱたと足音を立てながらなでしこはそれに対応している。

だがなでしこの様子はその電話によってさらに慌ただしくなっていく。何かに焦っているようなそんな雰囲気。ともはねはそんななでしこの姿を見つめているだけ。そんな中


「ともはね、わたしちょっと啓太さんを迎えに行ってくるから待っててくれる!?」
「え? じゃああたしも行きたい!」
「えっと……すぐ帰ってくるから! ともはねは部屋に隠れて啓太さんをびっくりさせてあげて、ね?」
「? うん……」


ともはねはどこか必死さを感じさせるなでしこの言葉に頷くことしかできない。なでしこはそのまま慌ただしく部屋を飛び出していく。


自らの主がいる留置場へ向かって――――――



[31760] 第零話 「ドッグ・ミーツ・ボーイ」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/23 19:19
「ふう……」

どこか安堵するような声を漏らしながらなでしこはゆっくりとその体を湯船へと浸ける。その一糸まとわぬ姿は男なら間違いなく身惚れてしまうほどのもの。なでしこはそのまま一日の疲れを癒すように体を伸ばし、入浴を楽しんでいく。

(そういえば啓太さん、大丈夫かしら……)

そんな中、なでしこはそうどこか心配そうな表情を見せる。その脳裏に蘇る。今日の出来事によって疲れ切ってしまった自らの主、啓太の姿。


どうやら依頼の最中にまた裸を晒してしまったそうです。詳しい事情は教えてはくれなかったのだけれど……。もし仮名様の依頼ならば誤魔化すこともできたかもしれませんが今回は仕方がありません。でもどうして啓太さんはいつも服を脱いでしまうのでしょうか……? 啓太さん自身に露出の趣味があるわけでもないのに、まるで見えない力が働いているようです。以前啓太さんも同じようなことを言っていましたがあながち冗談でもないのかも……どうやらそのせいで啓太さんは留置場に知り合いが多くいらっしゃるみたいです。

でもラオウとは一体どういう意味なのでしょうか? その人たちから啓太さんはそう呼ばれていました。どうやら啓太さんのあだ名のようですがその理由を啓太さんは決して教えてくれません。それ以上深く触れてはいけないと感じ取り、詮索するのはやめましたが……

しかしそのせいで啓太さんは疲れ切り、加えて今日はともはねも来ていたので啓太さんはそのままともはねとも遊ぶことになってしまいました。もはやヤケになったように全力で啓太さんはともはねの相手をし、そんな啓太さんの姿がお気に召したのかともはねもご機嫌で遊んでいました。ともはねがそのまま家に帰って行った後にはまるで燃え尽きてしまったかのような姿をみせているだけ。まるで休日のサラリーマンの様です。明日に疲れが残らなければいいのですが……

そういえば今日は啓太さんが覗きに来ている気配がありません。その元気も残っていないのかも……もっとも覗きといってもいつも実行に移す前に去って行ってしまうのですが……


「啓太さん、長くなってごめんなさい。どうぞ」

急いでパジャマに着替えた後、そういつものように啓太さんに声をかけます。お風呂はいつもわたしが先に入る形になっているから。どうしても長湯になってしまうので啓太さんには悪いことをしてしまっています。ですが

「………啓太さん?」

いつまでたっても啓太さんの返事がありません。いつもなら返事が返ってくるはずなのに。首をかしげながら部屋に戻って行くとそこには胡坐をかき、座ったまま眠ってしまっている啓太さんの姿があります。どうやらよっぽど疲れてしまっているみたい。でも無理もないかもしれません。お仕事にともはねの遊び相手、わたしの買い物にも付き合ってくれたのですから。ですがこのままでは風邪をひいてしまう。そう思い、毛布を掛けようとするのですが、ふとわたしはその動きを止めてしまいます。それはあることを思いついたから。

わたしはそのままきょろきょろとあたりを確認します。もっともわたしたちの他に人がいるはずもないのですが何となく。そして一度大きく深呼吸した後、わたしはしゃがみ込み、自分の頭をゆっくりと啓太さんの膝の上に乗せます。いわゆる膝枕というやつです。啓太さんが寝ている間に普段はできない触れ合いをすることがわたしの密かな楽しみです。起きている間にすればいいのかもしませんがどうしても恥ずかしくてできません。啓太さんもそれは同じ様で頭を撫でてくれることはあるのですがそれ以外のことはしてくれません。それだけでも凄くうれしいのですが……


でもこうしていると安心できます……啓太さんの匂いと温もりが感じられるから………でも、何だかわたしも………眠くなってきたかも…………


なでしこはそのまま啓太と共に眠りの中に落ちていく。そしてその夢の中へ。四年前の、自分の運命が大きく変わったあの夜へと――――――




日が沈み、月明かりだけが明かりを照らしている中、どこかいつもと違う雰囲気を纏っている山がある。その山は普通の山ではない。そこは犬神と呼ばれる人妖が住んでいる山。だがその雰囲気がいつもと大きく変わっている。どこか緊張を、興奮を感じさせるもの。まるで祭りが始まるのを待っているかのような空気が山を支配している。

だがそれは無理のないこと。何故なら今夜は犬神達にとって特別な夜。川平の人間が自分たちの元へとやってくる儀式の夜だったから。

それを証明するように多くの犬神達がどこか楽しそうに、期待に満ちた様子を見せながらおしゃべりをしている。さながら今からお見合いが始まるかのよう。だがそれはある意味間違いではない。何故ならもしかしたらこれからやってくる人物が自分の主になるかもしれないのだから。

人とは大きく違う時の流れを生きている彼らだがやはり人間と共に生きることはとても楽しいこと。だからこそ彼らは川平の一族と犬神使いの契約を長くの間続けてきた。そして特にまだ主を持ったことのない若い犬神達にとってはまさに一大イベントだった。


「今日はどんな人がくるのかしら?」
「僕は強そうな人だといいなあ」
「たゆねは単純だね。まあまだお子様だしね~」
「な、何だよ! ならいまりとさよかはどんな人がいいのさ!?」
「私達? そーねー」
「カッコイイ人かな?」
「ひ、他人のこと言えないじゃないか!」
「あなた達、もう少し静かになさいな。神聖な儀式なのですよ?」
「そんなこと言って、せんだんだっていつもよりめかしこんでるじゃん」
「そーそー」
「こ、これは儀式に臨むための当然の嗜みです!」
「なら僕はその縦巻きロールをどうにかしたほうがいいと思うけど……」


「あれ? ごきょうやちゃん、儀式に加わらないんですか?」
「……ああ。今回は私は遠慮しておく」
「なんでですか~? こんなに楽しそうなのに。フラノは寂しいです~」
「……フラノ、早くしないと儀式、始まるよ」


騒ぎたてながらも多くの犬神達が楽しそうに期待に満ち溢れながら儀式に加わろうと森の中に入って行く。だがそんな中、その輪の中に加わらず、どこか寂しげに皆の様子を眺めている少女の姿がある。

それはなでしこ。割烹着を纏ったなでしこは仲間である犬神達が楽しそうに騒いでいるのをどこか離れた所から眺めているだけ。もちろんそれは他の犬神達がなでしこを仲間はずれにしているわけではない。だが他の犬神達はなでしこを誘おうとはしない。何故なら彼らは知っていたから。

『いかずのなでしこ』『やらずのなでしこ』

それがなでしこの二つ名。犬神たちが川平家の使いとなってから数百年、いまだに一度も主を持ったことのない犬神。そして自ら戦うことのない犬神。それが分かっているからこそ彼らはなでしこをその輪に加えようとはしない。なでしこもそのことを分かっているからこそ、何も言わずそれをただ眺めているだけ。

それはなでしこ自身が決めていること。あの日、犯してはいけない間違いを犯してしまった時からの自らへの戒め。そのことに後悔はない。でも、それでもこの日だけはどうしても気分が落ち込んでしまう。

犬神として主に仕えること。それは犬神なら誰でも持っている至上の喜び。それを得ることができる他の子たちが羨ましいと、そう思わずにはいられない。でも戦えないこんな自分を犬神にしてくれる主などいるはずもない。そんな自己嫌悪を抱いていたその時


「……大丈夫ですか、なでしこ? 気分が優れないようですが?」
「っ!? は、はけ様っ!?」

いきなりいつからそこにいたのか、傍に立っていたはけがなでしこに向かって話しかけてくる。突然のことになでしこは驚きの声を上げるもののすぐに落ち着きを取り戻し、改めてはけと対面する。

「い、いえ大丈夫です。はけ様こそどうしてこちらに?」
「ふふっ、少し皆の様子を見たくなりましてね。やはり儀式の日はいつになっても騒がしい」
「ええ、みんな楽しみにしてますから」

そう言いながらなでしこは改めて仲間たちの姿を見つめる。だがそこにはやはりどこか寂しさが、悲しさがある。

「……そういえばなでしこ、あなたは今回の儀式には参加しないのですか?」
「わ、わたしですか……? それは……」

なでしこは予想外のはけの言葉に驚きを隠せない。何故ならはけは自分に近い歳を重ねてきた犬神。かつての自分を知っている、自分がやらずに、いかずになった本当の理由を知っている数少ない犬神。それなのにどうして今更そんなことを。

「様子だけでも見てくるといいですよ。今日来られる方は『面白い方』ですから……」
「え……?」

そんなよく分からない言葉を残したままはけは姿を消してしまう。なでしこははけの意図が分からずにただ立ちつくすことしかできない。一体何を自分に伝えたかったのだろうか。そんな疑問を抱いたのと同時に森が静けさに包まれていく。どうやら儀式が始まったらしい。本当ならいつものように里へともどっていくところ。

だがなでしこは知らず森の中へ、儀式が行われているであろう場所へと足を向ける。先程のはけの言葉。その意味を確かめたいと思ったから。そしてしばらく森の中をなでしこが進んでいくと、


ぼうっと、光、いや火の様なものが夜の闇に包まれた森の中で輝きを見せる。だがそれが何なのかをなでしこは知っていた。どこか慌てながらなでしこはその火が起こった場所へと急ぐ。息を切らせながらもなでしこはその場所へと辿り着く。そこには


「ようこさん……?」

そこには一人の少女がいた。抜けるような白い肌に流れるような長い髪。切れ目の瞳をしたどこか魔性を感じさせるような雰囲気。月明かりと纏っている着物がそれをさらに引き立たせている。

そんなようこの姿に目を奪われている中、誰かがその場から去って行く気配をなでしこは感じ取る。恐らくは犬神、でもそれが誰なのかまでは分からなかった。そして気づく。今の状況が何を意味しているのかを。

「ようこさん、一体何をしてたんですか……?」

なでしこは改めてようこに尋ねる。先程の火は間違いなくようこの技である『じゃえん』 きっとさっき逃げて行った犬神に使ったのだろう。でもどうしてそんなことを。

ようこはこの犬神の山でも特別な存在。だが自分はそんな中でも彼女とは親しい関係。だからこそ分からない。確かに昔は犬神との仲が良くなくいざこざはあったがここ最近はそんなことはなくなっていた。喧嘩をしたにしてもじゃえんまで使うことなど無いはず。

「………」

だがそんななでしこを振り切るようにようこはそのまま夜の闇を翻るように舞い、森の中に姿を消してしまう。まるでやっかいな奴に見つかってしまったと言わんばかりの表情を見せながら。なでしこはそんなようこの後を追おうとするもそれは叶わない。

(ようこさん……)

なでしこは難しい表情を見せながらも再び歩き始める。一体何があったのだろうか。でもその理由が分からない。しかしいつまでも悩んでいても仕方ない。今度はけ様に相談してみよう。きっと力になってくださるはず。なでしこがそんなことを考えていた時


「完全週休二日! ボーナス有り! 明朗会計の明るい職場にします! 時給は応相談! 来たれ、やる気のある犬神ちゃん!」

そんな騒がしい少年の声が響き渡ってきた。


「………え?」

なでしこはどこか心ここに非ずといった様子で声を漏らす。そしてその光景に目を奪われる。何故か拡声器を手にしながら、労働条件を連呼しながら森の中を走り回っている少年の姿。どうやら彼が今回の儀式を受けにきた人間らしい。だがその姿は今まで儀式に参加してきた人間たちとは明らかに違っていた。当たり前だ。どこの世界に労働条件を連呼しながら走り回る犬神使いがいるだろうか。


「何なの……あれ……」
「冗談にしても笑えないねー」
「ねー」
「一体儀式を何だと思ってるのかしら……」
「あ、ともはね! 駄目だよ、あんな人に憑いて行っちゃ!」
「え? どうして?」

犬神達はそんな啓太の姿を見ながら呆れたような、失望したような姿を見せながら去って行く。犬神は自らの主を判断する基準として性格や言動を重視し、潔癖な正義感であることが理想と考えている。その意味では啓太はまさに真逆の存在。そんな啓太に憑こうとする犬神などいるはずもなくただ時間だけが流れていく。


だがそんな中、なでしこだけはそんな啓太の姿に目を奪われていた。他の犬神達の言葉もその耳には届いていなかった。


知らず、自分の鼓動が跳ねているのが分かる。それが何故なのか分からない。でもその眼を離すことができない。森の中を走り回っている少年の姿に何故か胸がざわつくのを抑えきれない。


まるで恋に落ちてしまったかのよう。いや、これは恋や愛なんていう生やさしい感情ではない。もっと原始的な――――


わたしはこの感覚を知っている。


でもそれがいつだったか思い出せない。忘れてはいけない大切なものだったはずなのに。


知らずその足が動く。その少年に向かって。その姿が、仕草がはっきりと見えてくる。同時に自分の中の古い記憶が蘇ってくる。


そしてその正体をなでしこは思いだす。そう、これは数百年以上前、自分がやらずになった頃の記憶。わたしたちを救い、わたしたちが心奪われたあの方の―――――


「あの……」


気づけばその少年に声をかけていた。不思議と緊張はなかった。どこか懐かしい感情がわたしを支配している。少年はしばらくして驚いたようにわたしと向かい合う。


それがわたしと啓太さんの出会い。そして全ての始まりでした―――――



[31760] 第零話 「ドッグ・ミーツ・ボーイ」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/24 08:20
「あの……大丈夫ですか……?」

なでしこはそう目の前の少年に向かって尋ねる。だがそれは誤魔化しを含んだもの。何故ならなでしこは自分でも知らない内に少年の前に姿を現してしまっていたから。そのため何を話せばいいのか、言葉を発せばいいのか分からずそんな当たり障りのない質問をするしかない。だが目の前の少年もいきなり現れたなでしこに驚き、狼狽しているのが伺える。だが意を決したのか、少年がどこか緊張した様子でなでしこに向かって話しかけてくる。


「えっと……君、犬神だよね……?」
「は、はい……」
「どうしてこんなところに……?」
「え……いえ、ちょっと気になったので……」

わたしはそんな少年の質問に笑ってごましながら答えることしかできません。本当に自分がどうしてこんなことをしているのか分からなかったから。でも不思議と緊張はしていませんでした。それどころか心地よさを、安心を感じるほど。どこか懐かしい、郷愁の様な物が生まれているかのよう。


「君っ! よかったら家で働かない!? 給料もできる限り相談に乗るよ!」
「え? き、給料ですか……?」
「そう! あ、でも今は時給しか出せないんだ……でも稼げるようになれば固定給にはできると思う。参考までにみんないくらくらいもらってるか聞いてもいい?」
「い、いえ……わたしたち犬神はお金をいただいたりはしないんですけど……」

「………え?」

少年はわたしの言葉に心底驚いたといった様子を見せています。どうやら先程の労働条件の連呼は本気の物だったみたい。てっきり冗談かとばかり思っていたのですが……でもそんな少年の仕草が、言動がおかしくて思わず笑ってしまいそうになる。同時にある光景が脳裏に浮かぶ。それは

(慧海様……)

『川平 慧海』

川平家の祖であり、この山の犬神達と犬神使いの契約を結んだ人物。かつて慧海は大妖狐と呼ばれる妖怪によって危機に瀕していた里にふらりと現れ、その手腕で犬神達を操り、里を救ってくれた。その功績と偉大さは今も若い犬神達へも伝えられている程。だがあまり知られていないことがある。

それは彼がちょっとえっちでお馬鹿なタイプだったということ。

もちろんそれだけでなく他にも惹かれる要素があったのだが。その魅力はせっかく救ってもらった里を、山を捨ててまで当時の犬神達が去ろうとする慧海に憑いて行こうとしたほど。今はもう当時のことを知っている犬神はなでしこを含め、最長老、はけなど数少ないものの彼らの心の中にはまだその姿が、忠誠が焼き付いている。そしてそれはなでしこも例外ではなかった。


「わたしたちは自分の意志でご主人様にお仕えするのが役目ですから……雇われてるわけじゃないんですよ」
「な、何だって……それじゃあ……」

なでしこはどこかおかしなやりとりを少年としながらも見続ける。少年のしゃべり方、仕草、よく似ている。かつての慧海様に。知らず惹かれてしまう。今、自分が犬の姿なら迷わず付いて行ってしまいたくなるような、そんな雰囲気がある。なでしこは悟る。先程はけ様が自分へと残した言葉。

『面白い方』

その言葉の意味。間違いなくはけ様が今の自分と同じように、目の前の少年にかつての慧海様の面影を見ているのだと。

「あの……わたしも一つ、お聞きしてもいいですか……?」

わたしは意を決してその言葉を告げる。本当なら今すぐにでもこの人の犬神になりたい、なってみたい。そんな衝動を抑えながらわたしは一つの質問を口にする。


「い、いいけど、何?」

「あなたは……どうして犬神使いになりたいんですか?」

それがこの人に聞いてみたいこと。何故犬神使いになりたいのか。今更川平の人間に問うことなど無意味にも近い問い。だがそれを問わずにはいられなかった。

『破邪顕正』

それが犬神使いを目指す者なら間違いなく十人いれば十人答えるであろうもの。それは正しい。間違いなくそれが犬神使いに求められるもっとも大切な要素。

けれどわたしはその答えを期待してはいませんでした。それが間違っているわけではない。でも、もしかしたらこの人なら違う答えを返してくれるのではないか。そんな根拠のない期待を抱いた問い。

「俺が犬神使いになりたい理由……?」
「はい……聞かせていただいてもいいですか?」

少年はどこかぽかんとした様子を見せながら考え込んでいる。だが無理もない。そんなことを聞かれるなど思いもしなかったはず。しばらく少年は考え込み、わたしはただそれを待ち続ける。それはきっと十秒にも満たない時間。でもそれがわたしにはとても長い時間に感じれる。そして


「そうだな……楽しそうだからかな」


少年はどこかあっけらかんと、どうでもいいことのように自らの答えを口にする。だがその瞬間、わたしはただ息を飲み、目を奪われる。その言葉、答えに。それは同じだったから。

わたしはかつて慧海様に尋ねたことがある。何故自分たちを助けてくれたのか、何故流浪の旅を続けていたのにわたしたちの土地に根をおろしてくださったのか。慧海様はどこかげらげらと笑いながら

『あん? そんなの楽しそうだからに決まってんだろ?』

当たり前のようにそんな答えを返してくださった。

それと全く同じ答えを目の前の少年は口にした。その瞬間、抱いていた期待が、想いが確信へと変わる。


「ふふっ、面白い方なんですね」


わたしはこの人の犬神になりたいと。


「じゃ、じゃあ……」
「はい……よろしければわたしをあなたの犬神にしていただけますか?」
「ほんとに……ほんとになってくれるの……?」

わたしはその言葉を少年へと告げます。自分が口にすることはないだろうと思っていた、あきらめていた言葉。それを口にすることができる喜び。でも、どうしても避けて通ることができない問題が、障害がある。

「はい……ただ一つ、言っておかなければいけないことがあるんです」
「言っておかなければいけないこと……?」

「実はわたし、戦うことができないんです………だから他の犬神のように一緒に戦うことができない……それでもわたしと契約してくれますか……?」

それはわたしが他の犬神のように戦うことができないと言うこと。正確にいえば戦うことを放棄しているということ。どうしても破ることができない自分自身への戒め、鎖。かつて慧海様にもそんなことをする必要はないと言われたけれど、結局解くことがなかった封印。犬神としては致命的な問題。主と共に世を仇なす魑魅魍魎と戦うことが犬神の役目。その役目を自分はこなすことができない。でも、この人の犬神になってみたい。どうすれば。ですが

「当たり前じゃん。こんな可愛い子に戦わせるわけないし」

少年はそんなわたしの胸中など知らないと言った風に答えます。まるで何を気にしているのか分からないと、そんな顔を見せながら。


「え……? その……本当にいいんですか?」
「ああ、でも他に何かできることはある?」
「えっと……家事なら得意なのでそれなら……」
「まじでっ!? いい! それで十分! いや、むしろそれが一番だ!」


「俺が求めてたのは君の様な犬神だっ! 俺の犬神になってくれない!?」

その言葉に思わず涙が出そうになります。それは長い間、ずっと心のどこかで望んでいた言葉。自分を犬神として見てくれる存在。主となってくれる人からの言葉。


「……はい、ふつつか者ですが宜しくお願いします」

わたしは何とか涙をこらえながら頭を下げます。きっとここで泣いてしまえば目の前の少年が困ってしまうから。


「やった! やったぞ! やっほおおおおおっ!!」

ですが少年は叫びを上げながらわたしの周りを飛び跳ね始めてしまいます。どうやら犬神が憑いたことが、わたしが憑いたことが嬉しくてたまらないよう。まさかここまで喜んでくれるとは思っていなかったわたしはしばらく呆気にとられていたものの、思わず笑い始めてしまいます。こんなにも心の底から笑ったのはいつ以来だろうか。そんな騒ぎの中、少年が急に何かに気づいたように話しかけてきます。


「そう言えば、まだ俺、君の名前聞いてなかったよね?」
「……あ、そうでしたっけ」

思わずわたしは少年と顔を見合わせてしまいます。いけない。考え事ばかりしていてそんな肝心なことすらしていなかったなんて。でもそうしてしまうような何かがこの少年にはあった。

「なでしこ、それがわたしの名前です」

改めてわたしは自らの名を告げます。自分はあなたの犬神だと、そう宣言するかのように。そして少年もそれに合わせるように口にする。


「なでしこちゃんか……俺は川平啓太って言うんだ」


その聞き逃すことができない名を。


「ケイタ様……ですか……?」


どこか呟くように、わたしはその名を呟くしかない。そんなわたしをどこか怪訝そうに少年、いや啓太様は見つめている。でもそれすら今のわたしには目に入ってはいなかった。

『ケイタ』

その名をわたしは知っていた。いや、何度も耳にしていた。それはようこさんの言葉。ある時からようこさんはその名前の男の子の話をしきりにするようになりました。どうやら山の中で遊んでもらったのがその理由らしい。そしてそれからようこさんの様子は大きく変わります。

これまでのどこか冷たい、人を寄せ付けない雰囲気が次第に変わり、そして『犬神になりたい』と、そう口にするようになりました。それがどんなに困難なことか、茨の道なのかを全て分かった上で。他の犬神たちから蔑まれながらも、馬鹿にされながらも、それでも一生懸命に。それはきっと目の前の少年、啓太様の犬神になるため。


「え……そうだけど……どうかした……?」

「…………」

断らなければ。本当なら犬神使いは複数の犬神を持つことができる。それなら自分とようこさんの二人を啓太様の犬神にしていただくこともできる。でも今はそれができない。今のようこさんはまだ犬神として誰かに憑くことを許されていない身。

そしてなでしこはついに気づく。先程のようこさんの行動の意味。それが啓太様に憑こうとした犬神を妨害したのだということに。そう、かつてはけ様が宗家様に憑こうとした犬神達全てを排除したように。自らの主を独占するために。それなのに自分はそうとは知らず啓太様と契約をしようとしている。

いけない。わたしはそのまま顔を上げ、啓太様に向かい合う。だがその瞬間、その眼に映る。まるでこの世の終わりであるかのように、絶望してしまっている啓太様の表情。わたしに犬神になることを断られてしまうかもしれないという不安によるもの。それを前にしてわたしはそれを口にすることはできなかった。

いや、それは言い訳だ。

わたしはこの人の、啓太様の犬神になることをあきらめることができなかった。この人の犬神になればきっと楽しい日々が待っている。それは確信。山での、里での生活が嫌なわけじゃない、それはきっと安らかな日々。でも、それ以上に楽しい、心惹かれる日々が啓太様となら送れる。

もしこの機会を逃せば自分はもう二度と誰かに憑くことはできないかもしれない。今まで数百年、そうだったように。せっかく出会えたのに。心惹かれる人に、戦えないわたしを犬神にしてくれる人に。

それはわたしの我儘。未練。でもわたしはそれを抑えることができなかった。それがようこさんを裏切ることだと知っていながら―――――


「……すいません、少し考え事をしてました。心配させてごめんなさい」

それがわたしの決断。許されないかもしれないわたしのもう一つの罪。それをこの胸に刻みながらわたしは啓太様の犬神となった。

それ以来わたしは山には戻っていない。いや、戻れるはずもなかった。今更どんな顔をしてようこさんと会えばいいのか。

何よりも怖かった。もしようこさんと啓太様が出会えばどうなってしまうのか。

考えずにはいられなかった。わたしが啓太様の犬神で本当に良かったのか。ようこさんならきっと犬神としてわたし以上に啓太様の力になれるはず。

でも遠くない未来、きっとその時が訪れる。その時、わたしはどうすればいいのか。啓太様はどうするのか。それは予感。でも、わたしはそれを考えようとしない。いや、考えることを恐れていた。

それが決して避けることができない運命だとしても―――――




(あれ……わたし……?)

ふと目が覚めた。次第に意識がはっきりとしてくる。何だか昔の夢を見ていた気がする。でもそれが何だったのか思い出せない。一体何だったのだろうか。そんな中、気づく。自分が今、啓太さんの膝の上で寝ていたことに。知らず眠ってしまったらしい。わたしは慌ててその場を起き上がろうとするがそれができない。それは啓太さんがもう起きてしまっているのが分かったから。その状況にただ顔を赤くすることしかできない。


(ど、どうしよう……でも今更この状態から動くこともできないし……何とか誤魔化さなくちゃ……で、でもどうやって……)


なでしこがそう恥ずかしさに悶絶し、慌てていると


ぽん、とその頭に手が添えられる。それは啓太の手。それがどこか無造作になでしこの頭を撫で始める。まるで飼い主が犬の頭を撫でるように。どこか優しさを感じさせる手で。


なでしこはそのまま寝た振りを続けながらその手の温もりを感じ続ける。


今はただ、その温もりを感じていたいと、そう願いながら―――――



[31760] 第九話 「SNOW WHITE」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/27 08:52
どこか陽気な昼下がり、休日であるために人が多く行きかう商店街の一角に二人の人影がある。ラフな格好をした少年、そして割烹着にエプロンドレスをした少女。二人はきょろきょろとあたりを見渡している。まるで何かを探しているかのように。

「待ち合わせ場所はここであってんだよな?」
「はい、仮名様からはそう聞いてますが……」

啓太はそう改めてなでしこに確認した後、再び辺りを見渡し目当ての人物たちを探し続けている。だがその姿はどこか楽しげ、興奮しているのが伺える。だがそれは無理のないこと。何故なら今日、啓太達は薫の犬神達と会うことになっていたから。いや、正確にはその内の三人、三匹とだが。


ふふ……ついにこの時が来たか……この日をどれだけ心待ちにしたことか。それはともはねと出会ってからずっと。ともはねを除けば八人の美少女達。そんな女の子たちとお近づきになれるチャンスを逃すことなどできない。まあ、といっても今回は仮名さんの依頼を一緒にこなすことが本来の目的なのだが……。あの一件以来、どこか身の危険を感じた俺は依頼を断り続けていたのだが家計が苦しくなってきたこと、そして今回の依頼に薫の犬神達が参加すると聞き、仕方なく俺はその依頼を受けることにした。決してお金に目がくらんだわけでも、女に釣られたわけでもない。これはお世話になっている仮名さんへの感謝の気持ちだ!

と、それはおいといて、どうやら本当は薫が仮名さんと一緒にこの依頼をこなす予定だったらしいがどうしてもそれが難しくなり、代わりに俺が呼ばれたらしい。まったく薫の奴、面倒事を押しつけやがって……まあ、今回のところは仕方ないか。でもあいつも妙なやつだな……普通、自分の犬神を他の奴に預けるか? ともはねはまだ子供だから分かるにしても……といっても来る頻度がちょっと多すぎるような気もするが。それを一度ともはねに聞いたことがあるがどうやら薫はともはねが俺のところに遊びに行くことを喜んでいるらしい。訳が分からん……あいつ寝取られの属性までもってたのか?


そんなよく分からないことを考えている啓太の視界に三人の少女の姿が映る。啓太はそれが間違いなく薫の犬神達だと悟る。どこか人間離れした雰囲気を感じれたから。なでしこも同じようにその三人に目を奪われているから間違いないだろう。

一人は何故か巫女姿をした小柄な少女。だがどこか大人びた美貌を持ち、紫色のリップと星型の髪飾りがどこか不思議な雰囲気を作り出している。その表情はにこにこと笑っており、どこか楽しそうだ。

二人目は背の高いどこかひょろっとした少女。何よりも特徴的なのがその前髪。その長さのせいで目がほとんど見えず隠れてしまっている。何というか……巫女姿の子とは違った不思議な雰囲気がある。

そして最後の一人が小柄なショートヘアの少女。巫女姿の子が可愛らしいという印象を受けるとすれば、この少女からはどこかクールな印象を受ける。その服装もカーディガンの上から白衣の様な物を羽織るというよく分からない物。

何だろう……なでしこの割烹着といい、犬神は何か特別な、変な格好をしなけばいけないルールでもあるのか……? まあ、なでしこの前では言えないことだが。言えばきっと涙目になるのは間違いないし……それはともかく、確かにともはねの言ったことに嘘はなかった! 目元が見えない少女はよく分からないが、巫女姿と白衣の少女は間違いなくめったに出会えない程の美少女だ! だがすぐにがっつくほど俺は子供ではない。そんな地点は既に俺は通過している。断じて隣にいるなでしこが怖いからではない。そう、これは紳士の嗜みだ。決して隣にいるなでしこが怖いからではない。この時の為に俺は様々な布石を打ってきた。

それはともはねを通して俺のことを薫の犬神達に伝えてもらうこと。恐らく以前の儀式のことや噂のせいで俺の印象は彼女たちの中では悪くなってしまっているはず……それを払しょくするために俺はともはねに俺のことを上手く伝えてくれるように頼んできた。それが今、実を結ぶはず!


「よう、お前らが薫のところの犬神か?」

「はい、お初にお目にかかります、啓太様。薫様の序列四位、ごきょうやと申します。以後、お見知りおきを」
「同じく、序列六位のフラノです~♪ 宜しくお願いします~」
「……序列五位、てんそうです……」

「ごきょうやに、フラノ、てんそうね……」

俺の言葉に三人は合わせるように挨拶を返してくる。だがそれだけで三人の人となりが何となく分かる。白衣の少女、ごきょうやはともかく、後の二人は何と言うか……濃そうだ。キャラが。というか最初の第一声でそれを感じさせるなんてよっぽどじゃねえか? そんな俺の戸惑いを感じ取ったのか、隣にいるなでしこもどこか苦笑いをしている。

「そういえばともはねは一緒じゃねえのか? 姿が見えねえけど?」

ふと、そのことに気づき、尋ねる。確かに依頼自体はこの三人がこなす予定だったがあのともはねのこと。無理にでも付いてくるだろうと思っていたのだが姿が見当たらない。何かあったのだろうか。

「いえ、ともはねは今日は屋敷の掃除当番だったため留守番です。それでも付いてこようとして大変だったのですが……」
「なるほどね……」

ごきょうやがどこか困った表情を見せながら俺の質問に応えてくれる。だがそれだけで十分だった。涙目になりながら必死になって掃除をしているともはねの姿が目に浮かぶようだ。まあ、たまには犬神らしく働かなきゃな。いくら子供だといっても。そんなことを考えていると


「なるほど……やはり啓太様はお聞きしていた通り、ろりこんだったんですね♪」

「…………は?」


そんなヨクワカラナイ言葉をフラノが口にする。その瞬間、空気が凍りつく。もっとも凍ったのは俺となでしこ、ごきょうやだけだったが。

「フ、フラノ、失礼だぞ! 口を慎め!」
「な……何で俺がロリコンってことになってんだ……?」
「え……違うんですか? ともはねが言ってましたよ? お金をもらって家に連れていかれて遊んでもらったって」
「おまっ……何でよりによってそこだけ切り取ってんだよ!? もっとほかにも色々あんだろうが!?」
「? ろりこん以外にも何かあるんですか?」
「………ぺど?」
「ふざけんな―――!! 俺はロリコンでもペドでもねえええっ!!」
「け、啓太さんっ! あ、あんまり大声を出さないでください……!」
「……はっ!?」

謂れのない言葉によって激高し、大声を上げていた啓太はなでしこの制止の言葉によってふと我に返る。そこにはどこかひそひそ話をしながら俺達、正確には俺から距離を取りながらその場を去って行く通行人の姿がある。まるで蜘蛛の子を散らすように人が俺の周りからいなくなっていく。その光景に啓太は冷や汗を流しながらも何とか心を落ち着ける。このままではこの商店街でヘンタイ扱いされてしまう。それだけは何としても防がなければ。もっともそう思っているのは啓太だけで既に商店街の中ではそのことは周知になっているのだが。

何とか落ち着きを取り戻した啓太の代わりになでしこが事情をフラノ達に説明してくれる。ふう、やっぱりこういうときにはなでしこが一番俺の力になってくれる。しかしともはねの奴、一体どういう伝え方をしたんだ? もしかしたらフラノたちの受け止め方がおかしかったのかもしれないが……もしかして俺ってロリコンだって思われるぐらい評価低いわけ?

「それにしても久しぶりだな、なでしこ。元気にやっているのか?」
「ええ、あなたたちも元気そうね」
「え? みんな知り合いなの?」
「はい、同じ犬神同士、狭い山の中ですから」

どこか楽しそうになでしこはそう口にする。そうだったのか、まああの山の中だし、なでしこはかなりの歳らしいから知ってて当たり前か……っと歳のことは触れないようにしないと。二度とトラウマは御免だ。

「そうですよ~。でもなでしこちゃんがいなくなってからフラノはあのご飯が食べれなくなって残念だったんです~」
「……わたしも」
「それなら今日依頼が終わった後、家で食べて行ったらどうだ? せっかく久しぶりに会えたんだし」
「いいんですか、啓太さん?」
「ああ、たまにはいいんじゃねえか?」

その言葉によってなでしこはもちろんフラノとてんそう(恐らく)も嬉しそうな反応を見せている。ごきょうやもどこか苦笑いしながらも満更ではなさそうだ。まあたまにはいいだろう。なでしこの知り合いが家に来ることなんてめったにないし。まあともはねは例外として。そんなことを考えていると

じ~っという擬音が聞こえてきそうなほどじっと俺を見つめているフラノの姿があった。

「な、何だよ。いきなり?」
「……いえ、啓太様は面白い運命をお持ちなのですね~♪」
「う、運命……?」

いきなり訳が分からないことを言い出すフラノにどうしたらいいのか分からず立ち尽くすことしかできない。運命……? 一体何を言ってるんだ? 確かに天然、電波っぽいとは思っていたがまさか本物なのか? だとすれば早く近くの病院に、いや天地開闢医局に連れて行った方が……

「啓太様、フラノは未来視という力を持っていまして……視た人の未来を予言することができるのです」
「え……まじで?」
「はい♪ しかも百発百中ですよ~♪」

フラノはどこか楽しそうに体をくねくねと動かしながら告げる。全く信用ならないが隣にいるごきょうやの様子からどうやら嘘ではないらしい。だとすればそれって結構すげえんじゃ……たとえば宝くじを当てて億万長者とか。

「ですが残念ながらその視た人の未来を変えることはできません。できれば素晴らしかったのですか……」
「なので宝くじや競馬を当てることはできないのです~。残念でしたね、啓太様~」
「だ、誰もそんなこと言ってねえだろ!?」

まるで俺が考えていたことを見抜かれたようなフラノの言葉に思わず慌ててしまう。く……くそ、何故かこいつを前にするとペースが乱される。ともはねとはまた違うやりづらさだ。と、とにかく……

「それで、俺のどんな未来が見えたんだよ?」

とりあえずそれは聞いておかなくては。だが


「え……本当に知りたいんですか……?」

「ま、まあな……」

フラノはどこか引き気味に、躊躇するような態度を見せる。そんな予想外の反応に俺もどこか身構えてしまう。


え? 何? そんな言い辛いものが見えたの? もしかして何か病気になったり、事故したりするような……? そ、それなら聞かない方が……

そんな葛藤をしている啓太に全く気付くことなく


「そうですね~啓太様は近い未来、はけ様に愛の告白をして、全裸でなでしこちゃんを抱きしめることになります♪」


そんな予想の斜め上どこか一周回ってさらに裏返るような予言を口にする。その予言に啓太はもちろん、なでしこも呆気にとられるしかない。当たり前だ。一体どうなればそんな状況になるのか。


「ふざけんなあああ! 何で俺がそんな訳の分からんことせにゃならんのだっ!?」
「お気に召しませんでしたか?」
「あ、当たり前だ! 冗談にしても限度があるぞ!」
「そういわれましても~視えてしまったものは仕方ありませんので~。あ、あとこれは回避不可能ですので♪」
「余計たちが悪いわっ!!」

俺の必死の抗議も空しく、フラノはへらへらと笑っているだけ。なでしこは顔を赤くし、ごきょうやはどこか同情の目で見ている。


な、何なんだ!? こいつらは俺をおちょくりに来たのか!? 何で俺がはけに告白なんてするんだ!? 男の上にばあちゃんの犬神だぞ……ハードル高すぎるわ! しかも全裸でなでしこを抱きしめるだと……抱きしめるのは大いに構わないが何故全裸!? ヘンタイどころかドヘンタイじゃねえか! もう留置場じゃすまねえレベルなんですけどっ!?


そんな混乱の中、啓太は気づく。それは何かを書いているかのような音。それが耳に届いてくる。不思議に思い振り返ったそこには、どこから取り出したのか分からない大きなスケッチブックに何かを一心不乱に書いているてんそうの姿があった。

「お前、このどさくさにまぎれて何やってんの!?」
「………」

だが啓太の突っ込みに何の反応も示さないままてんそうはじっと啓太を見つめながらその手にあるペンでスケッチブックに絵を描いて行く。その速さと正確さは絵に詳しくない啓太でも分かるほど。

「てんそうは絵が得意なのです。きっと啓太様の似顔絵を描いてくれてるんですよ~」
「あっそ……」

どうやら目の前のてんそうは絵描きでもあるらしい。まあそれはいいのだがあの状況で、しかも本人の許可も得ずに描くのはどうなんだ? というか薫のところの犬神はみんなこんな奴らばっかなのか? 最初の期待してた、初心な俺の心を返してくれ……

そんな心の涙を流している間に似顔絵ができたらしい。そしてその出来に俺はもちろん、なでしこも感嘆の声を漏らす。そこに紛うことなき俺の顔があった。心なしか二割以上美化されていうような気もするが……

だがふと、啓太は気づく。それは

「おい、何で俺の上半身が裸になってんだよっ!?」

何故か上半身が裸になってしまっていた。まだ脱いでもいないのに。いや、脱ぐ予定があるわけではないのだが。

「それは……いぐさの資料にするため……」
「いぐさって誰だよっ!? っていうか何の資料っ!?」
「てんそう、フラノ、いい加減にしろ! 啓太様が困ってらっしゃるだろうが!」
「え~ごきょうやちゃん、姑みたいです~怖いです~」
「ふ、ふざけるな! わたしはそんなに歳は取っていない!」
「み、皆さん、落ち着いて! とにかく家に行きましょう、仮名様も来られるはずですから……!」

なでしこの必死の訴えのおかげで何とか落ち着きを取り戻した俺たちは貴重な時間を浪費したうえでそのままぞろぞろと歩き始めるのだった―――――



その道中も本当に賑やかなものだった。といってもほとんどフラノが騒いでいるだけだったのだが。でもこいつらで本当に依頼大丈夫なのか? 言っちゃ悪いが俺一人の方がいいんじゃ……まあ、フラノとてんそうはともかくごきょうやはまだ大丈夫そうだな。あの三人の中ではまだ話が通じそうだし……

そう思いながら何となしに後ろを付いてきているごきょうやに視線を向ける。だがその瞬間、ちょうど俺を見ていたらしいごきょうやと目が合う。

「……っ!」
「……?」

だがごきょうやは何故か慌てながらその視線をそらす。まるで何かを誤魔化すように。

何だ? 俺何かしたっけ? そういえば最初に会った時から何か変な視線を俺に向けてたな。一応初めて会ったはずなんだけど。まあ儀式の時にごきょうやの方から見られていたのかもしれないが。

「もう、ごきょうやちゃんったらだめですよ! ちゃんと啓太様にお話しなくちゃ!」
「? 話?」
「はい♪ 実はごきょうやちゃんは」
「や、やめろフラノ! 余計なことをするな!」

何かを言いかけたフラノをどこか慌てながらごきょうやが羽交い締めにし、口を塞ごうとしている。そんなごきょうやにもみくちゃにされながらもフラノも負けじと応戦し、てんそうはどこかんぼーっと空を眺めている。何が何だか分からないめちゃくちゃな状況。それに呆れかえっていると、どこか体が震えるような、冷たい空気が一瞬啓太を襲う。啓太は驚きながら振り返る。そこにはいつもと変わらない笑みを浮かべているなでしこの姿がある。

「……なでしこ?」
「はい、どうかしましたか、啓太さん?」
「いや……何でもない……」

啓太はそのまま何事もなかったかのように歩きだす。そうだ、きっと何かの気のせいだろう。うん、そうだ。俺は何も感じなかった。

そんなこんなでやっと啓太達一行はアパートまでたどり着く。ここに来るまでで既にそうとう疲れてしまったような気がするが……そして啓太がその手をドアノブに掛けた瞬間気づく。


何故かドアの鍵が開いていることに。


あれ……何だこの感じ。俺、これと同じことをつい最近体験したような気がするんですけど……そう、まるでデジャブの様な……


啓太は嫌な既視感を覚えながら部屋の中へと入って行く。だが心のどこかで確信していた。この状況。それが何を意味しているのかを。その証拠に、どこか異様な雰囲気が既に部屋から漂っている。

そのまま部屋から去りたい気持ちを何とか抑えながら啓太は恐る恐る部屋に足を踏み入れる。そしてそこには


白目をむき、仰向けに床に倒れている仮名史郎の死体があった―――――



[31760] 第十話 「SNOW WHITE」 中編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/03/29 08:40
啓太はその光景を前にして身動きできず、ただその場に立ち尽くすことしかできない。それは啓太だけではなくその後ろに付いて来ていたなでしこ達も同じ。何故ならそこには部屋の床に白目をむきながら仰向けに倒れている特命霊的捜査官、仮名史郎の姿があったから。


え……何、この状況? 何でこの人、部屋のど真ん中で倒れてんの? しかも白目をむいて。というか何でこの人また勝手に人の部屋に入ってんの? もしかしてわざとやってんじゃ……でもそれにしても今回はちょっとタチが悪すぎる。まるで死んでいるかのように倒れ込んでいる。流石にこれは悪ふざけにしても限度を超えてるぞ。


「おい、仮名さん! こんなところで何やってんだよ!」

俺はそのまま声を荒げながら倒れ込んでいる仮名さんへと近づいて行く。いくら依頼主とはいえ、捜査官とはいえやっていいことと悪いことがある。こんなだからいつも変な依頼ばっかり受けることになるんだ。今回はちょっとその辺のところをきつく言わせてもらわなければ。そう意気込みながら俺は仮名さんの目の前まで迫る。だが


仮名さんは俺の言葉に全く反応を示さなかった。


「仮名さん……?」


そう、まるで本当に死んでしまっているかのように。


え………あ、あの……全く反応がないんですけど……これ、どういうこと? いくら眠ってるにしても、気を失っているにしてもおかしくないか? というか、何だかそこはかとなく尋常じゃない気配を感じるんですけど……いや、生気を全く感じないんですけど……


啓太はどこか心ここに非ずといった風にその手を仮名の口元に近づける。そしてただ静かに時間が流れて行く。そんな啓太と仮名の姿をなでしこたちはじっと見続けている。そして啓太は一度大きな深呼吸をした後


「仮名さん……息してないんだけど……」


どこか顔を引きつかせながらぽつりと呟いた。


瞬間、ぱたりとなでしこがその場に倒れ込んでしまう。啓太は慌てながらそれを抱きかかえるもなでしこは気を失ったまま。だが無理もない。いきなり知り合いが自分の部屋で倒れて死んでいるのだから。というか気を失わない方がどうかしている……

っていうか何でこの人死んでるのっ!? いや、この際死んでいることはいいことにする。全然よくはないのだが百歩譲ってそれはいいことにしよう。でも何でよりによって俺の部屋で死んでんのっ!? 死んでまで俺に迷惑かけるなんてどういうことっ!? と、とにかく今は何とかなでしこをどうにかしなければ!

「なでしこっ!? しっかりしろ、なでしこっ!?」

俺は何度かなでしこに声をかけるが起きる気配がない。仕方なく俺はそのままなでしこを抱きかかえたままベッドへと寝かしつける。いつもなら役得だと思えるようなシチュエーションなのだが流石にそんな場合ではない。一刻も早くこの状況を何とかしなければ! 意識を切り替え、心を落ちつけながら振り返ったそこには

「仮名様、早く起きてください~もうお昼ですよ~!」

仮名の体に馬乗りになりながら往復ビンタをかましているフラノの姿があった。しかもそのビンタの勢いは普通ではない。もはやビンタではなく張り手の域に到達しかねない威力があるのがその勢いと音からあきらか。何も知らない人が見ればおかしなプレイを受けているのではないかと疑われかねない状況だった。

「フラノっ、お前何やってるんだっ!?」
「え? 何って仮名様を起こして差し上げようとしてるんですよ~」
「ふ、ふざけんなっ! とどめ刺してるようにしかみえんわっ!?」

俺の必死の訴えによってフラノはどこか不満そうな表情を見せながらもしぶしぶその理不尽なビンタをやめその場から離れて行く。いくら何でもやってることがむちゃくちゃだ。しかも恐らくフラノは気が動転してたわけじゃなく素でやってたに違いない。まだ会って数時間だが確信がある。こいつは事態を悪化させることに恐ろしい才能を持っている……このまま好きにやらせてしまえばどうなるか分からない。ここは大人しくしてもらわなければ……

だがそんな暇すら啓太には与えられない。啓太は既視感を覚えながら振り返る。それは半ば直感に近いもの。そこには先程と同じようにスケッチブックを手に絵を描いているてんそうの姿がある。そして、てんそうが何を描いているはもはや語るまでもない。

「お、お前、こんな時に何描いてるんだっ!?」
「いえ……仮名様の殺害現場の状況、残しておこうと思って……」
「そんないらんことせんでいい! っていうか殺害ってなんだおい!?」
「え? 啓太様がやったんじゃないんですか?」
「んなわけあるか―――! お前らと一緒に部屋に入っただろうが!?」
「………」

俺の抗議を受けながらもてんそうはもくもくとスケッチブックに絵を描き続けている。この状況だと言うのにこの二人のペースは全く変わらない。いやむしろ悪化してるんじゃないか!? このままではいけない、一刻も早くこの場を納めなければ……だが頼りになるなでしこは気を失ってしまっている。ど、どうすれば……そうだ! まだ俺の力になってくれる奴がいるじゃないか! この二人とは違い、常識的な(はず)のごきょうやが! 最後の希望を胸に俺はごきょうやへと目を向ける。そこには

「やはり脈はなし……呼吸もなし、心停止に近い状態だな……」

どこか救急救命士顔負けの雰囲気を纏いながら冷静に、いやどこか生き生きとした様子で仮名の状態を確認しているごきょうやの姿があった。

「ごきょうや、お前何でそんなに冷静なんだよっ!?」
「あ……いえ、すいません、つい……」

啓太の言葉によってふと我に返ったのかごきょうやはどこか慌てながらあたふたしている。どうやら診断に夢中になってしまっていたらしい。

確かに冷静に状況を分析してくれるのは嬉しいし頼もしい。伊達に白衣を着ているわけじゃないのだろう。だがそれが逆に怖すぎる! フラノやてんそうのようにふざけていない分(本人たちは至って真面目、ふざけているつもりはない)余計に今の状況の深刻さが伝わってくる……お、落ち着け俺……まずは深呼吸を……

「これでいいですか~てんそう?」
「もうちょっと、右」

そんな息継ぎすら与えないと言わんばかりに再び二人のやり取りが聞こえてくる。そこにはフラノによって両手を胸の前で合わせ、顔に白いハンカチをかぶせられた仮名とそれを描いているてんそうというわけが分からない光景が広がっていた。

「何やっとるんじゃお前らあああっ!?」
「仮名様がお亡くなりになったのできちんとしないといけないと思って~」
「冗談にも限度があるわ! てんそうもこんな縁起でもないもん描くのはやめろ!」
「遺影の代わりに……」
「どこに死んだ後の姿を遺影にする奴がいるんだよっ!?」

もはや突っ込みが追いつかない。マジでシャレにならないって! フラノは巫女姿だから余計やばい、絵になってる分冗談のレベルを超えてる。このままでは収拾がつかないと判断し、力づくで二人の襟元を掴みながらひとまず仮名さんから距離を取ることにする。



「と、とにかく……ごきょうや、仮名さんはその……本当に死んじまってるのか?」

一度大きな咳払いをした後、隣にいるごきょうやに尋ねる。ひとまず状況の確認が第一だ。この場で頼りになるのはごきょうやだけだ。もしごきょうやまで二人のようになってしまえば俺はもうこの現実から逃避するしかない。それほどの破壊力をフラノとてんそうのコンビは持っている。

「はい……呼吸も心臓も止まっています。間違いなく死亡しているはずです。ですが……」
「? 何か気になることがあるのか?」
「ええ、死後時間が経てば当然体は冷たくなるはずなのですが仮名様の体は温かいままなのです。死後、あまり時間が経っていないにしてもおかしいレベルです」
「それじゃあ……」
「はい、恐らくは仮名様は何らかの理由で仮死状態のようなものになっているのではないかと」

その言葉に一縷の希望が生まれてくる。そう、仮死状態だとするならばまだ仮名さんを生き返らせることができるということ。この訳が分からない異次元空間を脱することができるかもしれない。だが

「でも一体何が原因で……」

何が仮名さんを仮死状態にしているのか。それが分からないことにはどうしようもない。まさか自分で仮死状態になったわけではないだろう。いくら仮名さんがヘンタイだといってもそこまではできないはず。いや、できないと言いきれないところがあるのは事実だが……現にこんな状態を作り出してるわけだし……

「啓太様、これは憶測なのですが……仮名様が今回の依頼で封印しようとしていた魔道具に関係があるのではないでしょうか?」
「魔道具?」
「はい~♪ フラノ達はそれを封印するためにここまで来たんですよ~♪」
「……それが、薫様の命令」
「何でも複数の人手がなければ封印できない代物らしく、それでわたしたちが呼ばれたのです」
「なるほど! それで、それはどんなものなんだ!?」

啓太は身を乗り出しながらごきょうやに迫る。少し顔が近すぎたせいかごきょうやが赤くなっているがそんなことは啓太の頭にはなかった。もはや薫の犬神達と仲良くなるという当初の目的など消え去ってしまっている。曲がりなりにも人一人の命がかかっているのだから。もっともフラノ達の暴走のせいでそれどころではなくなってしまったのが一番の理由だったのだが。

「す、すみません……わたしたちもそれがどんな物かまではお聞きしていないので……」
「そ、そうか……」
「だいじょうぶですよ、啓太様~。それが原因ならきっとまだ仮名様が持ってるはずです~♪」
「おお、確かに!」

フラノの言葉によって絶望しかけた空気に一筋の希望が生まれる。そうだ、確かにそれが原因なら仮名さんがその魔道具を持っているに違いない。だからこそこの場に倒れていたのだろう。もっともやはり不法侵入であることには違いないが。とにかくそれを見つけ出さなければ。だがぱっと見ただけでは仮名さんは何も手には持っていない。とすれば後はポケットとかか……

「う~ん、特に見当たらねえな~」
「啓太様、仮名様は捜査官です。すぐに見つかってしまうような場所には持たないのでは……?」
「確かにそうかもな……」
「もっとくまなく探すしかないですよ、啓太様~」
「わたしも、そう思う」

そんなフラノ達の言葉に頭を悩ませる。確かにこのままでは埒が明かない。ここは思い切って一気に仮名さんの体中をくまなく探すしかない。本当ならお金をもらっても遠慮したいところなのだが状況が状況だ。涙を飲んでヘンタイの汚名を被る覚悟で俺は仮名さんの服に手を掛けんとする。だが

「じゃあフラノは上半身を探しますね~♪」

さも当然のように仮名のスーツをフラノはどこか慣れた手つきで脱がせていく。それに続くようにてんそうも加わって行く。

「え? お前らそんなことして大丈夫なの?」

一応女の子だろ。と言わんばかりの視線を啓太はフラノへと向ける。しかし

「だいじょうぶですよ~♪ フラノは十八禁きゃらですから♪」
「そ、そうか……じゃあそっちは頼む。俺は下半身を探す。ごきょうや、お前も手伝ってくれ!」
「え? あ、は、はいっ!」

何が十八禁きゃらなのかは分からないが手伝ってくれるならありがたい。てっきり変態扱いされるとばかり思っていたせいかどこか肩すかしを食らった気分だ。いや、それどころかどこか頼もしさすら感じてくる。何だかこいつらとならこの状況も乗り越えられると思えてきた。よし、なら犬神使いとしてこいつらに恥じない姿を見せなくては!

啓太は決意を新たに気迫を以て仮名のズボンを脱がしにかかる。もはや自分が何をしているかもよく分かっていない。度重なる異常事態と予測不能、理解不能のフラノ達の行動によって啓太の常識は既に遥か彼方に吹き飛んでしまっていた。

それは啓太だけではなくごきょうやも同じ。普段の彼女ならこの状況のおかしさに気づくだろうが仮名の状態、そして思うところがある人物である啓太と接していることでそれに気づくことができない。


それはさながら獲物に群がるハイエナ。無抵抗な相手を追い剥ぎしているかのような光景だった―――――



「おっかしいなあ……」
「変ですね~」

啓太達は首をかしげることしかできない。辺りには仮名が着ていたスーツの残骸が散らばっている。だが結局それらしいものは見つけることができなかった。もう探すところは残っていない。一体どうすれば。そんな中

「あの……」

どこか恐る恐ると言った声が啓太達に掛けられる。驚きながら振り返った先には先程まで気を失っていたはずのなでしこがいた。どうやら意識を取り戻したらしい。

「なでしこ、大丈夫なのか!?」
「は、はい……みなさんこそ、一体何をされてるんですか……?」

「いや、見ての通り仮名さんがこんなことになっちまった魔道具を探してたんだ」
「そうなんです。でも全然見つからないんです~」
「……みつからない」
「しかしこれ以上仮名様が隠し持てるような場所は……」

啓太達は顔を見合せながらも困り果てるしかない。やれるだけのことはやった。こうなってはもう打つ手はない。そんな空気が流れ始めた時


「あの……それってこの本のことですか……?」

「「「え?」」」


なでしこがその手にあるものを四人に見せる。そこには一冊の本がある。だがその魔力からそれが普通の本ではないことが一目瞭然。だが一体どこに。そんな疑問が四人の頭によぎるが


「仮名様が倒れていた近くのちゃぶ台上にあったんですけど……」


なでしこの言葉に四人は無言で互いを見つめ合う。その胸中は皆同じだった。だがそれを口に出す者は誰もいない。そのまま四人の視線は同じ物に向けられる。そこには



黒のボクサーパンツ、黒の靴下、そして裸の上半身に何故かネクタイをしたまま白目をむいている仮名史郎が倒れている。



なでしこはそんな光景を前に一度笑みを浮かべた後、再び意識を失うのだった―――――



[31760] 第十一話 「SNOW WHITE」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/02 17:34
「ん……」

俺は、ふと気づく。誰かが体を揺すっている。同時に俺を呼ぶ声が聞こえてくる。だがいつの間にか眠ってしまっていたのか頭がまだはっきりしない。よほど深い眠りだったらしい。このままでは学校に遅れてしまう。しかしこの睡魔には抗えない。

「うーん、なでしこ……もうちょっと……」

そう言いながら俺は自然に、甘えるような形で俺を起こそうとしているなでしこに手を伸ばす。それは俺の朝の密かな楽しみ。寝起きという状態を言い訳にし、毎朝俺はなでしことスキンシップをとっている。決してセクハラではない。その証拠になでしこも嫌がる様子を見せていない。もっとも恥ずかしいのか顔は赤くするのだがそれがさらにいい。だが

「………ん?」

そのさわり心地がいつもと違う。そのやわらかい、絹の様な触り心地ではない。それはどこかごつごつとした、たくましさすら感じさせるもの。なんだこれ? なでしこの奴、いつの間にこんなに鍛えたんだ? でも俺はこの感覚を知っているこれはたしか……

啓太はふとその眼を開ける。目の前には

「おお、川平、目が覚めたか!」


パンツ一丁でネクタイと靴下だけを身につけているほぼ全裸の仮名史郎の姿があった。


「ぎゃあああああっ!!」

啓太は絶叫する。当たり前だ。いつも通りの朝、なでしこが自分を起こそうとしているとばかり思っていたのに目を覚ませば目の前に、目と鼻の先に仮名がいたのだから。しかもその格好が尋常ではない。ほぼ全裸に近い格好、いやむしろ全裸の方がまだマシなのではないかと思えるような姿。倒れているだけでも凄まじかったそれが動いていることでさらにそのヘンタイさが増している。まさに悪夢の様な光景がそこにはあった。

「ど、どうした川平!? どこか怪我でもしているのか!?」
「く、来るな! 近づくんじゃねえええ!」
「大丈夫だ、川平! いきなりのことで混乱しているのは分かるがまずは私の話を」
「か、仮名さんっ! ここはわたしに任せてくださいっ!」

仮名は尋常ではない様子を見せている啓太を心配し、落ち着かせようとするも啓太はさらに叫びを上げながら逃げ回っている。仮名はその原因が自分であることに気づかずさらに啓太に近づこうとするためまるでいたちごっこの様な状態。それを見かねたなでしこが慌てながら二人の仲裁に入ることでやっと啓太は落ち着きを取り戻すのだった―――――



「……で、一体何がどうなってんだ?」

何とか落ち着きを取り戻した啓太は改めて仮名にそう尋ねる。その場には仮名となでしこだけでなく、フラノ達もいる。しかし明らかに異常なことがある。それは仮名の恰好……ではなく、今、啓太達がいる場所。それは全く見覚えがない場所。しかもどこか西欧風な建物があちこちにある。中世のヨーロッパのような光景だ。だが辺りには自分たち以外誰もいない。どこか現実感がない不思議な空間だった。

「ふむ、どこから話したものか……君は私が持っていた魔道書を見つけたのだろう?」
「魔道書……ああ、あれか!」
「その力のせいで私たちはあの魔道書の中に取り込まれてしまったのだ」
「マ、マジで!?」

驚きながら啓太はなでしこ達の方へ視線を向けるもなでしこたちもそれに頷き返すしかない。それが何よりの証。同時に啓太は思い出す。なでしこが魔道書を見つけた後、それをどうするかで話し合いをしていたのだが結局その本を開けてみるしかないという結論に達したこと。そこでまたひと悶着あったのだが結局事故に近い形でそれが開かれ啓太達は意識を失ってしまったのだった。

「マジだ。これは魔道書というよりは絵本に近い物でな。開いた者をおとぎ話の世界へと取り込んでしまう危険な代物だ。どうやら私たちはシンデレラの世界に取り込まれてしまったらしい」
「そんな危ないもん誰が作ったんだよ!? っていうか何でそんなもん仮名さんがもってるわけ!?」
「うむ……非常に言いづらいのだがこの魔道書……以前、君に手伝ってもらったものも全て私の先祖が作ったものでな……。優れた魔導師だったのだが……その、ヘンタイだったらしく、そいつが作った迷惑な魔道具を封印することが私の仕事の一つなのだ……」

「そっか……仮名さんは先祖の頃からヘンタイだったんだな……」
「ちょ、ちょっと待て川平っ!? 確かに私の祖先はヘンタイだが私は決してヘンタイではないっ!」

啓太の聞き捨てならない言葉に仮名は慌てながら抗議するものの、その格好から説得力は皆無。啓太となでしこはもちろん、ちゃっかり距離を取っているごきょうや達もその心境は同じらしく、どこか冷たい、軽蔑の視線が仮名に向けられている。仮名はそれを前に冷や汗を流すことしかできない。間違いなく現実なら通報されるような姿だ。

「ご、誤解するな、これは私の仕業ではない! 目が覚めた時には何故かこの格好だったのだ!」
「分かった、分かったからそれ以上近づかないでくれ!」
「す、すまない、つい取り乱してしまった……しかし何故私だけ……? 君たちは普通の恰好をしているというのに……」
「さ、さあな……魔道書のイタズラなんじゃねえ……?」
「え? それはフラノ達が」
「き、きっとそうでしょう……! それで仮名様、何故この魔道書を封印するには人手が必要なのですか!?」
「そ、そうだ! そもそも何で俺ん家で死んでたんだよっ!?」

フラノの言葉を遮るようにごきょうやが矢継ぎ早に仮名に尋ねる。そんなごきょうやのファインプレーに啓太は心の中でサムズアップしながら強引に話題を変えることにする。

「それがこの魔道書の厄介なところでな、四人以上の人数が集まらないとおとぎ話が始まらない仕組みになっているんだ」

仮名はそのまま事態を皆に説明していく。この魔道書を封印するには取り込まれた四人以上の者たちがおとぎ話を演じなければならないこと。それができなければ魂を奪われてしまうこと。仮名は偶発的に啓太の部屋で本を開いてしまい、魂を奪われたままになってしまっていたこと。

「何のためにこんなもん作ったんだよ……」
「どうやら大人数で遊べるものを作ったものの四人以上の友人がおらずそのまま廃棄されてしまったらしい」
「あっそ……」

もはや突っ込む気力すら湧かない。色々な意味で。だがともかく今はこの状況を何とかしなければ。このまま魂を奪われたままなんて怖すぎる。白目をむいていた仮名を見ているから尚のこと。

「あんま気が進ねえけど……やるしかねえか……」

そうあきらめと共に啓太が呟いた瞬間、目の前に先程の魔道書が現れる。どうやら啓太達の準備が整ったと判断したらしい。そして再び魔道書が開き辺りは光に包まれていく。こうして啓太達はヘンタイ魔導師が作り出した迷惑な魔道書を封印するため、おとぎ話を演じることになったのだった………



「ん………」

目をこすりながら啓太は意識を取り戻す。どうやら光は収まったらしい。だが一体演じるといっても何をすればいいのか。確か仮名さんはシンデレラの世界だと言ってたな……となると王子様役とか……まあそれならいいか。結構役得かもしれん。だがそんな啓太の淡い期待は一瞬で粉々に砕かれる。何故なら


「なんじゃこりゃあああっ!?」

啓太は紛うことなき女性の服装をしていたから。長いロングスカートのどこかみすぼらしさを感じさせる服装。間違いなく主人公であるシンデレラの恰好だった。


「ふざけんなっ! おい、出てこい魔道書っ!」

憤慨しながら啓太は辺りに巻き散らすも、魔道書は一向に姿を現さない。周りはどこかの室内。恐らくはシンデレラの家なのだろう。っとそんなことはおいといて……くそっ、何でよりによってシンデレラ役なんだよ!? 女性が四人もいるのに何故わざわざ男の俺が……間違いない、これは確信犯だ! 流石は仮名さんの先祖といったところかもしれない。普通のシンデレラの話を演じるとばかり思っていたのが大きな間違いだったらしい。ここからは気を引き締めて行かなければ……。しかしまさか女装をさせられる羽目になるとは。だがまだ服を脱がされるよりは良かったかもしれないな………


ん? いやちょっと待て。俺、今何か変なこと考えてなかった? お、おかしいだろう? 女装だぞ、間違いなくヘンタイな行為のはず。でもそれがマシだと俺はさっき本気で安堵してた。な、何かがおかしい……俺はヘンタイじゃないはず! それなのに何故っ!?


啓太は知らず知らず自分の価値観が、常識がおかしくなってしまっていることに気づき自己嫌悪に陥って行く。全裸よりマシという、つまり全裸になることが日常、当たり前になりつつあることに今更ながら恐怖を感じつつあったその時


「啓太様、大丈夫ですか~?」

そんなどこか気の抜けるような、陽気な声が啓太に掛けられる。頭を抱えながら蹲っていた啓太は何とか自分を落ち着かせながらも振り返るものの目を見開きその動きを止めてしまう。まるで信じられないものを見てしまったかのように。そこには


何故か黒のボンテージ姿になっているフラノの姿があった。


「ぶっ!? お、お前、なんて格好してんだよっ!?」
「これがわたしたちの衣装みたいなんです~。何でも継母役らしいですよ。お気に召しませんでしたか~?」
「い、いや、そんなことはねえんだが……」

どこかしどろもどろになりながらも啓太はその姿に目を釘付けになってしまう。小柄な体からは想像もできないような見事なスタイル。胸の大きさはなでしこには及ばないものの間違いなく巨乳。そのめちゃくちゃな言動ですっかり忘れてしまっていたが間違いなくフラノは美少女。そんな少女が何故かSMプレイに使われるようなボンテージを身に纏っているのだ。男としてそれに見惚れないわけにはいかない! し、しかしその破壊力が強すぎる……なでしこの裸エプロンには及ばないものの俺の理性を崩壊させかねない。こ、ここは一旦距離を取らなければ……!

「? どうしたんですか、啓太様? 具合でも悪いんですか~?」
「ば、馬鹿っ!? くっついてくるんじゃねえっ!?」

だがそんな啓太の動揺に気づくことなくフラノはそのあられのない姿で啓太にくっついてくる。その感触と扇情的な格好によって啓太の理性はまさに決壊寸前。啓太の中の本能が、煩悩が騒ぎ始める。なでしことの四年間の生活によって抑えてきたそれがまさに解き放たれんとしている。このままではこれまで築き上げてきたものが無くなってしまいかねない気配を感じ取り、啓太は脱兎のごとくフラノから距離を取る。予想外の行動だったからなのか、フラノはどこかぽかんとそんな啓太を見つめているだけ。だがようやく事情を悟ったのかにこにこといつも以上の笑みを浮かべる。

「そうですか、案外初心なんですね~啓太様♪」
「や、やかましいっ! お前こそちょっとは恥じらいを持てよ!?」
「大丈夫ですよ~フラノは十八禁きゃらですから♪ 他のおぼこな子たちとは違いますよ♪」
「だからその十八禁きゃらってのは何なんだよ!?」
「そのままの意味ですよ? フラノはあだるとなきゃらですから♪」

そんな噛み合わないやり取りをしながらも何とか啓太は落ち着きを取り戻す。だが何かをしでかしかねないフラノに油断することはできない。短い付き合いだがそれぐらいは理解できた。

しかし何でこんな恰好してんだ? いや、女装している俺が言えることではないかもしれんが……。しかも継母役で何故ボンテージ? ん、待てよ? さっきフラノが何か変なことを言っていたような……

違和感を覚えた瞬間、啓太はようやく気づく。フラノばかりに気を取られていたため気づなかったがその後ろにも人影がある。そこにはフラノ同様、ボンテージを纏ったてんそうとごきょうやの姿があった。

「お、お前達もかっ!?」
「はい……わたしたちも継母役」
「そ、そうか……でも、その……お前、恥ずかしくねえのか……?」
「……いえ、特には」

いつもまったく変わらないぼーっとしているてんそうに啓太は尋ねるもどうやら本当に恥ずかしがっていないらしい。へ、変な奴だとは思っていたがどうやら俺の想像を遥かに超えているらしい。スタイルはフラノに比べれば劣るものの間違いなく魅力的なもの。だがその雰囲気のおかげでまったくエロさが感じられない。ある意味凄いことなのかもしれない。だがそれとはまったく真逆の姿と雰囲気を持つ少女が隣にはいた。

「け、啓太様、こちらをあまり見ないでください……」

ごきょうやは恥ずかしさで顔を赤くしながらその両手で自らの露出した肌を隠そうとしている。だがそのすべてを隠しきることができずその白い肌があらわになっている。それは普段のクールな姿からは想像もできないようなもの。その破壊力は間違いなく先程のフラノを上回っていた。


や、やばい……! これがギャップ萌えというやつなのかっ!? さっきフラノに恥じらいを持てと言ったがそれは大きな間違いだったのかもしれん……いや、むしろ恥じらいを持っていた方がこの場合やばいのでは!? い、いかん、本当なら飛びついていきたいところなのだがなでしこや仮名さんがいるであろうこの状況ではそれもできない! 落ち着け、とりあえず素数を数えるんだ……え、えっと……素数っていくつだっけ……?


そんな訳が分からない思考をしている中。啓太は気づく。フラノ達三人が何かをその手に持っていることに。それが何なのか知っているものの、啓太は恐る恐るあえて尋ねる。

「フラノ……それって……」

「はい、鞭ですよ、啓太様♪」

そう、紛うことなき鞭だった。間違いなくそういうことに使われるであろう鞭だった。啓太の背中が冷や汗で濡れていく。それはこれから自らの身に起こることを本能で悟ったから。

「何でそんなもん持ってんだっ!?」
「そう言われましても~そういう台本になってるので~」
「台本っ!? ちょっとそれ見せてみろっ!?」

啓太はどこか必死さを見せながらいつの間にかフラノが持っていた台本を奪い取る。そんな物があるならさっさと言えっつうの! っていうか何で俺には台本がないわけ!? そんな疑問を抱きながらもページを開いた先には


『シンデレラが鞭でいじめられる』


そう一言だけ書かれているだけだった。


「ふざけんなあああっ!! どういうシンデレラなんだよっ!?」

啓太はそのまま叫びながら台本を床に叩きつける。ふざけんなよっ!? どこの世界にSMプレイのごとくいじめられるシンデレラがいるわけっ!? 子供が読んだらトラウマになるわっ! っていうか台本適当すぎるだろ! やっつけ感が半端ないですけど! だがどうやらこの指示通りに動かないと物語が進行しないらしい。それはつまり

「じゃあ啓太様、準備はいいですか~♪」
「……御覚悟」

フラノは満面の笑みを浮かべながら鞭をまるでバットの素振りのように振り回している。その勢いによってヒュンヒュンと風切り音が聞こえてくる。やる気満々だった。てんそうはいつもと変わらない姿を見せながらもその鞭をまるで機械のように動かしている。

「………申し訳ありません、啓太様」

最後の希望であったごきょうやも目を閉じ、あきらめたようにその手に鞭を持つ。もはや逃げ場はどこにもなかった。

「いやあああああああっ!!」

辺りには啓太の悲鳴と何かを叩くような乾いた音が響き渡るのだった―――――




「ち、ちくしょう……何で俺がこんな目に……」
「だ、大丈夫ですか、啓太様……?」
「あ、でも条件はクリアできたみたいですよ♪」

まるで何か大切なものを失ってしまったかのようにその場にうずくまっている啓太をごきょうやは心配そうに介抱している中、フラノとてんそうはマイペースに騒いでいる。どうやら条件はクリアできたようだ。もしできていなければ啓太の犠牲は全くの無意味になってしまうのだがそれだけは避けられたらしい。一部の者たちにとっては御褒美とも言えるようなシチュエーションだったのだが流石に啓太でもハードルが高すぎたらしい。

だが啓太はそんな心のダメージを振り払いながら立ち上がる。もはやもう恐れるものは何もないと、そう開き直るかのように。それはまさに戦いに挑まんとする男の姿。もっとも端から見れば鞭に叩かれた痕を無数につけた女装姿の危ない男だったのだが。そんな中、

「あ、あの……」

そんなかすれるような少女の声が啓太達に掛けられる。そこにはどこかもじもじした様子を見せているなでしこの姿があった。だがその姿に啓太はもちろんフラノ達も目を奪われたまま。

そこにはまるで魔女の様な帽子をかぶり、なぜか黒のビキニを着たなでしこが立っていた。


「なでしこ……お、お前一体……」
「そ、その……これが魔女の恰好らしくて……」

啓太の言葉になでしこは顔を真っ赤にし涙目になりながら俯いてしまう。だが啓太はそんななでしこの恰好に目を奪われたまま。どうやら水着のサイズが小さすぎるせいか今にもその巨乳がこぼれかねないような状態。しかもその表情がさらに啓太の本能を刺激する。いつもの割烹着を着ている姿からは想像できない程のスタイル。間違いなくかつての裸エプロンに匹敵しかねない桃源郷がそこにはあった。これだけに関しては魔道書に感謝せねばなるまい。思わず出そうになる鼻血を抑えながらも啓太は何とか踏み留まる。身内フィルターを全開にしてもこれには長時間耐えれない。早く何とかしなければ……!

「と、とにかくなでしこ……お前も何か役目があるんだろ?」
「あ、は、はい! わたしはシンデレラに魔法をかけるのが役目みたいです!」
「そうか、ならちゃっちゃとやっちゃってくれ!」
「わ、分かりましたっ!」

一刻も早くこの状況を何とかしたかったのはなでしこも同じだったのかすぐさまなでしこはその手に持っていたどこかで見たことがあるような不思議ステッキをふる。するとそのスッテキからまばゆい光が生まれ啓太を包み込んでいく。どうやら演出らしい。だがそこで啓太は思い出す。

それはシンデレラのストーリー。その中ではシンデレラは綺麗なドレスとカボチャの馬車をもらっていた。だがこのふざけた世界の中でそんな普通の事態が起こるはずがない。啓太は悟る。自分がどんな目に会うのかを。それはまさに直感と言ってもいい物。何度も同じ目に会っているからこそ。その光が収まった先には


「やっぱりか、ちくしょおおおおっ!?」


全裸を晒している啓太の姿があった。


啓太は慌てながらも両手で自らの象さんを隠す。まさに神業と言ってもいい手際を以てそれを成し遂げる。だがそれを前にしてフラノは爆笑し、てんそうはいつもと変わらない姿、ごきょうやは顔を赤くしながら目をそらす。なでしこは赤面しながらもどこかあきらめたような表情を見せている。もはや何かを悟ってしまっているかのように。

「何で全裸にされなきゃならんのだっ!? さっきよりひどい格好になってるじゃねえかっ!?」

啓太はここにはいない魔道書、いやその創造主に向かって慟哭する。もはやシンデレラのストーリーなどどこかに置き去られてしまっているようなむちゃくちゃな展開に叫ぶことしかできない。そんな啓太の元にどこからか一枚の紙が落ちてくる。そこには


『気にすることはない。人は皆、プライドという名の服を着ているのだから』


そんな一文が添えられていた。


「てめえの流儀に人を巻き込むんじゃねえええっ! いいから着る物をよこせっ!」

紙を破り捨てながら啓太は叫びを上げる。何がプライドという名の服を着ているだ!? 結局全裸なのには変わりねえじゃねえか!? これじゃあシンデレラじゃなくて裸の王様だっつーの! いや、そっちの方がまだましだ!

そんな啓太の姿を見かねたのかどこからか服が現れる。どうやらそれぐらいの慈悲はあったらしい。安堵しながら啓太はそれを手にするもそのまま固まってしまう。そこには


間違いなく、自分がなでしこに贈ったエプロンドレスがあった。


「………」
「………」

それを手にしながら啓太は無言でなでしこへと視線を向ける。なでしこも無言でそれに視線を返している。啓太は何度かなでしことエプロンを交互に見つめた後、再びなでしこに目を向ける。なでしこは目を閉じ、顔を赤くしながらどこか観念したように頷く。


その瞬間、啓太の裸エプロン、まさに誰得のシチュエーションが完成したのだった………




「啓太様~早く付いてこないと置いていきますよ~」
「早く、啓太様」

「うるせえ! いいからさっさと先に行け!」

フラノとてんそうの言葉に言い返しながら啓太は距離を置き、なでしこたちの後ろから付いて歩いて行く。今、啓太達はお城へと向かっているところ。どうやらそこがゴールらしい。そこで誰が待ち構えているかは想像に難くないがあえて触れまい。そして啓太がフラノ達から遅れて着いて行っているのはその姿、裸エプロンのせい。まさか男である自分が裸エプロンをするとは夢にも思わなかった。いくらなでしこにさせてしまった罰だとしてもひどすぎる。映像化できないほどの有様だ。それ故に啓太は前を歩くことができない。そんなことをしてしまえばその後ろから見えてはいけない色々な物がなでしこ達から見えてしまう。それだけは絶対御免だった。啓太はまるでどこかの殺し屋のごとく背中を見せまいという絶対の覚悟を以て歩いている。それが分かっているからこそなでしことごきょうやも何も言うことができない。そんなこんなでようやく啓太達は城へとたどり着く。そしてその中には


何故か死んでしまっているかのようにベッドに横になっている仮名史郎の姿があった。


「またか―――――っ!?」


啓太は絶叫する。間違いなくその場にいる全員の心の声だった。しかもその格好も出会った時のまま。裸にパンツ一丁、ネクタイと靴下のみというもの。もはや悪意しか感じられない。恐らくは王子様役のはずなのにこの有様。そしてその傍らにはどこか禍々しいリンゴの食べかけがある。どっからどう見ても毒リンゴだった。


「ちょっと待てっ!? これじゃあ白雪姫じゃねえか!? 話が別物になってんぞっ!」
「なるほど、王子様のキスで目覚めるんですね~♪」
「この場合……立場が逆……」

もはや啓太にはフラノ達の言葉も姿も届いていなかった。この状況が意味する物が何であるかなどもはや考えるまでもない。間違いない。これを作った奴はこれがやりたかっただけだ! 賭けてもいい! この役割分担も全てはこのためだったに違いない! いったいどんだけヘンタイな魔導師なんだっ!? だがこれだけは譲れない……俺の、俺のファーストキスを男に……しかも仮名さんに捧げるなんて絶対いやだ! 俺は……俺はなでしことしたいとずっと思ってたのに!


だがそんな啓太の心の葛藤など知らないと言わんばかりに仮名の様子に変化が起きる。いきなり体が震え始め、目は白目をむき、口からは泡を吹き始めている。明らかに死ぬ一歩手前の様な惨状だった。

「い、いけない! このままでは!」
「啓太様、早く仮名様を助けてあげてください♪」
「早くしないと、手遅れ」

ごきょうやはその状態に驚きながらもどこかあきらめたような、同情するような視線を啓太へと向けてくる。それだけで十分だった。もはや自分に逃げ場はないと。そう悟りながらも啓太はふと、なでしこへと視線を向ける。なでしこはそんな啓太の心境を察しながら


「………大丈夫です、わたし、何も見てませんから……」


目を閉じながら後ろを向いてしまう。それがなでしこができる精一杯の慈悲だった。


啓太はこの世の物とは思えないような絶叫をあげながら生まれて初めての唇を仮名史郎へと捧げるのだった――――――




「………はっ! わ、私は一体……?」

仮名は意識を取り戻しながら体を起こす。そこは啓太の部屋。そして今までの経緯を思い出す。どうやら自分たちは無事に魔道書を封印し、戻ってこれたらしい。だがその中での出来事が記憶にない。確か川平達と一緒に光に包まれたところまでは覚えているのだが。仮名はそのまま部屋にいる啓太へと目を向ける。

そこには何故か部屋の隅っこで体育座りをしながらぶつぶつと独り言をつぶやいている啓太の姿があった。

「一体なにがあったんだ……なでしこ君、何か知っているか?」
「いえ……わたしは何も……」

仮名の言葉にどこか顔を引きつかせながらもなでしこはやんわりと質問をかわすだけ。なでしこ自身も口に出したくないようだ。一体何があったのかは気になるが無理に聞かない方が良いだろう。仮名はそう判断し、この話題を切り捨てることにする。知らず自己防衛が働いていることに仮名自身気づいてはいなかった。

「大丈夫です、啓太様……あれは緊急時でしたから……その、数には含まれないかと……」

ごきょうやはあたふたしながら蹲ってしまっている啓太を慰めている。それはまるでぐずってしまった子供をあやす母親のよう。もっともそれはそう的外れの物ではなかったのだが。そんなごきょうやの慰めが少しは効いたのか啓太は疲れ切った顔を見せながらも

「ありがとな……お前はいい奴なんだな、ごきょうや」
「……え?」

その手でごきょうやの頭を撫でる。それは啓太としては自分を気遣ってくれた相手への感謝の気持ち。フラノとてんそうとは違い自分を案じてくれたことへの喜びだった。だがごきょうやはどこか呆気にとられた声を上げたものの、心ここに非ずといった様子でぼうっとしている。啓太は何故ごきょうやがそんな姿を見せているのか分からずただその頭を撫で続けている。そしてその瞬間、部屋に異常な緊張感が走る。


(これは……!?)

それにいち早く気づいたのは仮名だった。仮名はすぐにその緊張感を発しているのがなでしこであることに気づく。表情はいつもと変わっていないがその雰囲気はまるで違う。それに思わず仮名は身を振るわせるもののその原因が間違いなく啓太のせいだと悟る。仮名は犬神に詳しいわけではないがそれでも自らの主が他の犬神を可愛がっている? のを見れば面白くないに違いない。だが啓太はそれに気づいていない。このままではまずい。

「そ、そういえば川平、今回の依頼の報酬の件なのだが……」

一度咳払いをした後、仮名は自然な形で啓太が食いついてきそうな話題を振ろうとする。それはまさにお気遣いの紳士とも言える仮名のファインプレーだった。だが

「ごきょうやちゃんだけずるいです! フラノも撫でてください~♪」
「な、なんだっ!? うぷっ!?」
「きゃっ!?」

それはフラノの乱入という名の暴投によって粉々に打ち砕かれてしまう。フラノは勢いをつけながら啓太とごきょうやの間に割って入り、二人を巻き込んでもみくちゃになって行く。そんな空気を読んでいないフラノの行動に仮名は呆気にとられるしかない。

だがそれは間違いだ。フラノはきちんと先程の空気を読んでいた。だが彼女には空気を読んだ上でそれをぶち壊すという特技を持っている。要するに面白ければ何でもいいのだった。そしていつのまにかてんそうもその騒ぎに加わり、何故か啓太の足に寝技を掛けている。もはや何が何だか分からない状況。さらに


「あ、みんなずるい! わたしも混ざります!」

いつの間にかやってきたともはねもその騒ぎの中へと突っ込んでいく。ともはねは大急ぎで屋敷の掃除を終わらせやってきたところ。そんなところでこんな楽しそうな状況を見せつけられれば我慢できるはずもなかった。


「痛えええっ!? や、やめろ、噛むのは禁止っ禁止――――!!」

まるで野生に帰ったかのように本能のままともはねが啓太の二の腕にかぶりつく。そんなともはねに感化されたのかフラノとてんそうも啓太にかぶりつく。甘噛みとは思えない力によって噛みつかれ啓太は悲鳴を上げ、それを何とかしようとごきょうやも動くがもみくちゃにされたままどうしようもない。それはまるで飼い主に遊んでもらっている犬達。

それを前にしてなでしこも体がうずうずしてくる。さっきまでの焼き餅、嫉妬もどこかへといってしまった。ただ自分もあの中に混じって啓太と遊びたい! そんな犬神としての本能だけ。知らず普段隠している尻尾も姿を現していた。

「け、啓太さん、わたしも!」

いつもなら恥ずかしくてできないことだがこの状況がなでしこを突き動かす。かくしてなでしこも含めた五匹の犬神にもみくちゃにされるという状況に啓太は陥る。本当なら喜べる状況なのだが啓太にそんな余裕は一片もない。というか噛みつかれ、技をかけられ命からがらな、散々な惨状。


「まったく……困ったものだ……」


仮名はそんな啓太達の状況をどこか微笑ましく見守りながらも、何故か辺りに散らばっていた自分の服をもくもくと着直していくのだった―――――



[31760] 第十二話 「しゃっふる」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/04 09:01
「啓太さん、痛くはありませんか?」
「いや、大丈夫」

そんなのんびりとしたやりとりが啓太となでしこの間でかわされる。そこにはどこか熟年の夫婦の様な雰囲気がある。今、二人は部屋でくつろいでいるところ。具体的には啓太がなでしこに膝枕してもらいながら耳かきをしてもらっているところだった。

「はあ~、何かこうやってゆっくりするのも久しぶりな気がするな~」
「ふふっ、そうですね。最近は啓太さんもお忙しかったですから」
「まったくだ。休みなのに何で平日より疲れなきゃいけないんだっつーの……」

啓太はなでしこの膝枕をしてもらいながら大きな溜息を吐く。その脳裏には先日の仮名からの依頼が蘇っていた。あの時には本当に散々な目に会った……というか思い出したくもない。依頼だけでも疲労困憊だったというのに何故かやってきたともはねを含めて五匹の犬神の遊び相手までするはめになってしまった。しかもなでしことごきょうや以外は間違いなく本気でかかってくるもんだからたまったものではない。

確かに俺は薫の犬神達と仲良くなりたいと思っていたが決してあんなシチュエーションを望んでいたわけではなかった。仲良くはなれたのだと思いたいが……あいつらの様子を見てるとどうにも不安になってくる。まあとにかくそれを含めて最近は休日には依頼とともはねの遊び相手によってまともに休みを取れていなかった。まるで本当にサラリーマンになった気分だった。

「でも本当にいいんですか? わたしも休みをいただいてしまって……」
「いいのいいの! なでしこも働きづめだし今日はゆっくりしようぜ!」

どこか遠慮がちななでしこの言葉を強引に言いくるめる。俺を含めなでしこにも今日はゆっくりしてもらう。それが俺の目的。先日の薫の犬神達と遊んでいる中で気づいたのだが最近俺はなでしこをちゃんと構ってやれてなかったかもしれない。なでしこは性格上そういったことはあまり表に出さないし、恥ずかしがるので先日のように戯れることもない。だがなでしこは俺の犬神。ならその辺も何とかしてやらければ。もっとも自分はなでしこの主人、飼い主ではあるのだがあまりそんな意識は持てていないのが現状だ。だが仕方ない。契約した時にはなでしこの方が外見的には歳上だったのだから。

そして何よりも最近俺にはなでしこ成分が足りない! 最近何か見えない力が働いているかのように脱がされるようになってからこうしたまったりした時間が持てていなかった。なら今日それを補充する必要がある!

「分かりました。でも夕飯はどうされるんですか?」
「そうだな……久しぶりに寿司でも食いに行くか、依頼の報酬も入ったし!」
「あんまり使いすぎちゃだめですよ啓太さん。せっかく仮名様から多めにいただけたんですから」
「分かってるって! でも今日ぐらいは贅沢したって罰は当たらないさ!」

そう言いながら俺はなでしこの膝の上で寝がえりを打つ。なでしこはどこか苦笑いしながらも優しく俺の頭を撫でてくれる。

そう、これだ! これが俺の日常だったはず! やはりなでしこの膝枕は最高だ! この柔らかさと触り心地は安眠枕を軽く凌駕する。まさに男の夢の一つ。それを今俺は手に入れているのだ! ……っと、膝枕といえばそういえばちょっと前に何故かなでしこが俺の膝の上で寝てたことがあったがあれは一体何だったのか……まあ、あまり深くは聞けなかったが……。だが心なしかなでしこも機嫌が良さそうだ。いくらなでしこといっても犬神。スキンシップは必要だろう。もっとも俺がスキンシップをしたいのが一番の理由なのだか。

よし、決めた! 今日、俺は一歩も外には出ない! 今日は一日中なでしこといちゃいちゃ……ではなかった、スキンシップをする! 

そんな啓太の姿に少し呆れながらもなでしこが耳かきを再開しようとしたその時


「けーた様―っ! 遊びましょうーっ!」


チャイムの音と共に元気な子供の声がドアから響き渡る。もはやそれが誰かなど考えるまでもない。啓太の決意はわずか数秒で脆くも崩れ去ってしまう。なでしこも流石に掛ける言葉が見つからないようだ。だが無駄な抵抗だと分かっていながらも啓太は動こうとはしない。まるで何も聞こえていないと、そう自分に言い聞かせるかのように。


頼む……ともはね……今日は、今日だけはお父さんを休ませてくれ……最近ずっと働きづめで疲れてるんだ……だから頼む……お父さんではないのだがとにかく今日は勘弁してくれ……というか何でこんなに俺のところにばっか来るわけ!? お前薫の犬神だろ!? ならちゃんと薫に遊んでもらえっつーの、いい加減にしないと育児放棄で訴えるぞ!


「あ、やっぱりけーた様いるんじゃないですか!」

いつの間にか部屋に入ってきたともはねが嬉しそうな声を上げながら近づいてくる。加えてなでしこに膝枕をしてもらっているのを見て羨ましかったのか啓太に飛びつくようにのしかかっていく。いくら軽いにしても勢いを付けたそれはまるでボディブローの様な衝撃が啓太を襲う。

「ぐおっ!? い、いきなり何すんだっ!?」
「けーた様ばっかりずるいです! ともはねも混ぜてください!」
「だ、駄目だ! いくらお前でもここだけは譲るわけにはいかん……今日俺たちは忙しいんだ……あきらめて帰れ!」
「駄目ですよ! 今日、けーた様はともはねと遊ぶんです、きっと楽しいですから!」
「楽しいのはお前だけだっつーの!」

啓太とともはねはなでしこの膝の上でもみくちゃになりながら争っている。それは啓太の精神年齢がともはねとそう変わらないことを証明しているかのよう。そして啓太の抵抗空しく既にともはねと遊んでいるのと変わらない状況になってしまっている。やはり安息の休日は今回も訪れないらしい。そんな中

「啓太さん、あの……」
「ん? どうかしたのかなでしこ?」

何とかともはねを抱きかかえながら啓太がなでしこの言葉に疑問の声を上げる。そしてなでしこと同じようにその視線を玄関へと向ける。そこには


「取り込み中、申し訳ありません。お邪魔させてもらってもいいですか?」


二本足で立ち、服を着た三毛猫の姿があった―――――



「留吉じゃねえか! 久しぶりだな、元気だったか!?」
「はい、おかげ様で。啓太さんとなでしこさんもお元気そうで」

何とか落ち着きを取り戻した後、啓太達は三毛猫、留吉を家に招き入れていた。留吉は礼儀正しくちょこんと正座しながらちゃぶ台の上のお茶を啜っている。どこか様になっているのが逆に不思議な雰囲気を作り出していた。

「けーた様、お知り合いの方なんですか?」
「おう。ちょっと昔の依頼で知り合ってな」
「はい、その節にはお世話になりました」

興味深そうに尋ねてくるともはねに啓太はどこか懐かしそうに答える。それは半年程前の依頼での話。留吉は渡り猫と呼ばれる猫又であり、先祖からの遺言により、日本中に散らばってしまった仏像を探して回っていた。そんな中、啓太は留吉と偶然出会い、その仏像を探しに協力することになったのだった。

「あれから他の仏像も見つけられたんですか?」
「はい、おかげ様でいくつか見つけることが出来ました。もっともまだ全部には程遠いですが……」
「まあ、百八体もあるんじゃな……」
「そんなにたくさんあるんですか、大変なんですねー」

ともはねはそんな留吉の話に感嘆の声を上げる。小さいともはねでも何となくその大変さが理解できたらしい。同時にこんな友人がいる啓太のことを改めて見つめる。種族も違うのに啓太は全く気にすることなく留吉と楽しそうに談笑している。子供心ながらにともはねはなでしこや薫が啓太に惹かれているのはきっとこういうところなんだろうと悟る。

啓太には留吉のほかにもタヌキの知り合いもおり、偶然啓太が命を助けた恩返しにやってきたこともある。その際にはお礼として惚れ薬を持ってきてひと騒動あった。啓太はそれを使い、女の子にモテようとしたのだがおばさんや老婆、男に惚れられ追いかけ回され、一番の目的だったなでしこには惚れ薬は何の効果もなく、散々な目にあったのだが。

「それで今日はどうしたんだ? なんか手伝ってほしいって言ってたけど……」
「はい、実は啓太さんにこの仏像探しを手伝ってもらいたいんです」

一通りの世間話を終えた啓太が尋ねると留吉は持っていた袋の中から一体の仏像を取り出す。それは片手で持てるほどの小さな仏像。だが普通の仏像ではなかった。何故なら

「なんだこれ、光ってる……?」
「はい、これは双子の仏像の片割れなんです。不思議な力を持った仏像でもう片方の仏像が近くにあると反応するようになってるんです」
「じゃあ近くに同じような仏像があるっていうことですか?」
「はい。それを追って来たんですけどちょうど近くに啓太さん達の家があったので手伝っていただけたらと思って……お礼はしますので手伝ってもらえませんか?」
「それは構わねえんだけど……この仏像めちゃめちゃ光ってねえ?」

啓太はその仏像を手に取りながら呟く。その光りは凄まじくライトの様だ。留吉もそれに戸惑っている。まるですぐ近くに仏像があるようだと。そんな時


「あ、けーた様、あたしそれと同じ物持ってますよ!」


ともはねが思い出したようにその着ていたパーカーのフードの中からそれを取り出す。そこには間違いなく啓太が持っている仏像と瓜二つの仏像があった。


「と、ともはね、お前どこでそんなもん手に入れたんだっ!?」
「あたしじゃなくてマロちんが見つけたんですよ。ね、マロちん?」
『きゅる~』

どこか得意気なともはねの言葉に仏像と同じようにフードの中にいたマロちん、ムジナが鳴き声を上げる。先日の一件以来ムジナはともはねに懐き、行動を共にしているのだった。そんなともはねに啓太は呆れるしかない。

こいつ……落ちてた物を拾って来たのか。そんな犬みたいなことを、って犬だったっけこいつ。犬神だけど。まあとにかく良かった。偶然とはいえ留吉の探してた仏像を見つけれたわけだし。ともはねが持ってる仏像も俺が持ってる物と同じように光を放っている。間違いないだろう。

「よし、ともはねちょっとそれこっちによこせ。確かめてみる」
「わかりました、はい!」

一応並べて比べてみようと啓太がともはねから仏像を受け取ろうとした瞬間、

「だ、ダメです! その仏像をくっつけちゃっ!?」
「え?」

留吉が慌てながら声を上げるも間に合わず二つの仏像が触れ合ってしまう。同時に辺りにまばゆい光が広がって行く。啓太達はそれを前にして身動きを取ることができなかった―――――



「……ん」

啓太は目をこすりながら辺りの様子を見渡す。一体さっきの光は何だったのか。だが部屋の様子は特に変わっていない。だがさっきまで持っていたはずの仏像の姿がない。どこに行ってしまったのだろうか。

「ともはね、なでしこ、大丈夫か?」

俺はそう二人に尋ねる。怪我はないだろうが念のためだ。しかしさっきの留吉の態度は何だったんだ? 何かに慌ててたようだけど。だが留吉は何故か驚いているような、困惑したような表情で俺を見下ろしている。

「はい、大丈夫です。ともはねは?」
「うん、あたしも平気だよ」

なでしことともはねも互いの無事を確認し合う。ふう、どうやらみんな無事だったらしい。じゃあとにかく何故か無くなってしまった仏像を探さなければ。そう動きだそうとした瞬間、ふと俺は動きを止める。それは違和感。


あれ……俺、何でなでしこの膝の上に座ってるんだ? あと心なしか視線が低くなってるような気がするんですけど……。そういえばさっき俺、何かすごい女の子みたいな声出してなかった……?


啓太はどこかゆっくりと、静かに視線を自らの体へと向ける。そこには紛うことなき尻尾があった。まるでツインテールの様な可愛らしい尻尾。小さな手足。そしてツインテールに結ばれた髪。


どっからどう見てもともはねだった。


「なんじゃこりゃああああ!?」
「ど、どうなってるんですか!?」

啓太は驚きの声を上げることしかできない。当たり前だ。自分が何故かともはねの姿になってしまっているのだから。それはなでしこも同じ。啓太は気づく。自分の声が聞こえてくる。しかも何故かなでしこの口調で。その意味を悟り違う意味で冷や汗が流れてくる。そこには啓太の体になってしまったなでしこの姿があった。

「な、なでしこっ!? なでしこなのかっ!?」
「え? ともはね……じゃなくて、啓太さんなんですか!?」

啓太となでしこは互いの顔を見合わせる。その口調から間違いなくお互いが本人だと分かる。だがどっからどうみても姿が違う。啓太の口調でしゃべるともはねとなでしこの口調でしゃべる啓太。訳が分からない異次元空間がそこにはあった。

「啓太さん、それはさっきの仏像たちの力なんです! 仏像を合わせた時に触れていた人の中身を入れ替えるもので……」
「ふ、ふざけんなっ! 何でそんな大事なこと先に言わなかったんだ!?」
「ご、ごめんなさい! すぐに仏像が見つかってビックリしてしまってて……」
「啓太さん、とにかく落ち着きましょう……!」

慌てて謝罪している留吉の姿に気づき、何とか啓太は落ち着きを取り戻す。しかしなんだこの違和感は。自分の声で話しかけられるのってめちゃくちゃ変な気分になるんだけど……っていうかなでしこの、女口調でしゃべる自分が気持ち悪すぎる! 決してなでしこが気持ち悪いわけではないのだがやっぱり気持ち悪いもんは気持ち悪い! まるで俺がオカマになってしまっているように見える。もっともなでしこから見れば男口調でしゃべっているともはねも十分気持ちが悪い。これは一刻も早く解決しなければ大変なことになる、色々な意味で。

「留吉、仏像はどこにいったんだ!?」
「え、えっと窓から外に飛んで行っちゃったみたいで……」
「何で仏像が空を飛ぶんだよっ!?」
「僕が集めてる仏像の中には不思議な力を持ってるものもあるんです……ごめんなさい……」

もはや突っ込んでいる場合ではない。とにかく後を追わなければ! 啓太となでしこが顔を見合わせた後、部屋を出て行こうとしていると


「見てください、けーた様! ともはねの胸がこんなに大きくなっちゃいました!」
「ぶっ!?」


どこか興奮した、嬉しそうな様子でともはねが自分の胸、いやなでしこの胸元を広げ、自分で胸を揉みながら近づいてくる。啓太はそれをもろに目の当たりにする。白い二つの大きな桃、いやメロンがそこにはあった。その光景に思わず啓太はその場に倒れそうになってしまう。どうやらともはねの体になっても男であることには変わりがないらしい。だがそこでようやく気付く。ともはねがなでしこの体になってしまっているのだと。

「や、やめなさいっ! ともはねっ!」
「え? なでしこ? でも啓太様は?」

顔を真っ赤にしながらなでしこはともはねに迫り、そのあられもない格好を何とかしようとする。ともはねは事態が掴めていないのかポカンとした様子でされるがまま。


くそっ……ともはねのやつなんてことを……よくやった! だが残念だ。何故俺がなでしこの体になれなかったんだ……そうなっていればあんなことやこんなこともできたのに……! い、いや、落ち着け俺! そんなことしたら本当になでしこに嫌われかねない! それだけは絶対避けなければ! し、しかしともはねのようにしゃべるなでしこの姿も凄いものがある。ロリコンではない俺が見てもそれは凄まじい威力。まさにロリ巨乳爆誕! といった感じだ。っといかんいかん。とにかくこの状況を何とかしなければ!


何とか落ち着いたともはねを含めて改めて俺たちは話し合う。どうやらあの仏像たちは一度力を使うと逃げて行ってしまい、それをもう一度捕まえることができれば元に戻れるらしい。そうと決まればさっそく動くしかない。最近似たようなことがあったような気がするが気のせいだろう。そう思わなければやってられない。だが俺たちは自分ではない体。慣れていないこともあり一筋縄ではいきそうにない。特に子供のともはねになってしまっている俺は尚のこと。そんな中

「大丈夫です! 大人になったあたしに任せてください、けーた様!」

どこか自信満々にともはねが宣言する。どうやら大人に、なでしこの体になれたことがよっぽど嬉しかったらしい。だがそれは当然のこと。ともはねは薫の犬神の中でも最年少。それ故にできないことも多く、悔しい思いをしてきた。そんな中、偶然、なでしこの体とはいえ大人になれたのだから。そんなともはねに落ち着くよう啓太が一言告げようとした瞬間、


凄まじい音と衝撃が部屋中を襲う。


「…………え?」


啓太はそんな声を上げることしかできない。それはなでしこと留吉も同じ。そこにはまるで何か巨大な物が落ちたかのようにめり込んだ床があるだけ。ともはねの姿はどこにも見えなくなってしまっていた………



「ち、ちくしょう! ともはねの奴どこまで行ったんだ!?」
「は、早く見つけないと……!」
「ごめんなさい……僕のせいで……」
「き、気にすんな! とにかく何とかしねえと……」

啓太達は慌ててともはねの後を追うも完璧にその姿を見失ってしまった。一体どこに行ってしまったのか。仏像たちを追ったはずなのだがそれがどこに行ったのかも見当がつかない。そして既に啓太の息は上がってしまっていた。慣れない体に加えて子供であるともはね。犬神の体の使い方も手探りの啓太には余裕が全くない。幸いにもなでしこの方は啓太の体に慣れつつあるようだがそれでもどうしても人手が足りなかった。しかし、なでしこの胸中は焦燥に駆られていた。


(早くしないと、ともはねが……!)

なでしこは焦りで冷や汗を流す。それは自分の体を心配してのことではない。それに乗り移ってしまっているともはねと、それによって起こるかもしれない事態を危惧してのものだった。

『最強の犬神』

それがかつてのなでしこの二つ名。その力は里を襲って来た大妖狐を一人で追い詰めてしまうほどのでたらめなもの。だが今のなでしこはその力を封印している。二度と戦わないという戒めと共に。だがその力を封印した状態でもなでしこははけと同等の力をその身に宿している。だがなでしこはそれを表に出すことなく数百年過ごしてきた。

だがそれが今、ともはねの物になってしまっている。元々自分の体ではないことに加えてその力。幼いともはねにそれが制御できるはずもない。例えるならペーパードライバーがいきなりF1カーを運転するようなもの。どんな事故が起こるか分からない。だがそれを啓太に伝えることもできない。自分の力のことを、それがあるにもかかわらずずっと隠してきた、騙してきた自分を知られることが怖かった。でもどうすれば。


「どうかしたのか? なでしこ?」
「い、いえ……」

啓太がどこか様子がおかしいなでしこを心配したその時


「どうやらお困りのようですな、『裸王』」


そんな男性の声が啓太に向かって掛けられる。驚きながら振り向いたそこには三人の男の姿がある。だがそれを見た瞬間、啓太の顔が引きつり、固まってしまう。

一人は黒のタキシードにマント、シルクハットを被った男。どこか紳士的な雰囲気を醸し出している。

二人目はどこかの職人様な雰囲気を持つ大男。だがその格好は常軌を逸している。何故か頭に女物の下着を被り、胸にはブラジャーを付けている。

最後の一人はどこか小太りのサラリーマンの様な男。だが何故か亀甲縛りをされた状態で地面に這っている。

まさにヘンタイの見本市の様な光景。それを前にして啓太はもちろん、なでしこと留吉も言葉を発することすらできない。


『ドクトル』 『親方』 『係長』


今、吉日市が誇る変態三賢者が裸王こと川平啓太の危機を救わんと現れたのだった―――――



[31760] 第十三話 「しゃっふる」 中編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/09 13:21
「どうやらお困りのようですな、裸王」

そんなどこからともなく現れた男の言葉に啓太は呆気にとられ、声を上げることができない。だがその表情は驚愕に満ちていた。まるで認めたくない、信じたくない光景がそこにあるかのように口をパクパクさせるだけ。それは知っていたから。目の前に現れた三人の男たち、いやヘンタイ達のことを。

「お、お前ら……どうしてこんなとこに……」

かすれるような、絞り出すような声を啓太は漏らす。それは心からの疑問。何故こいつらがここにいるのか。というか決してこいつらは日中の往来を出歩いていいような連中ではない。何故ならこいつらは紛うことなきヘンタイ。留置場でお世話になることが当たり前のヘンタイの中のヘンタイ。もっとも彼らと面識がある時点で、留置場に何度もお世話になっている時点で啓太もまた間違いなく彼らの同類なのだが。


「啓太さん……この方たちはお知り合いなんですか?」
「い、いや……知らん! こんな奴らなんて全く一切これっぽっっちも知らんっ!」

留吉のどこか引き気味の質問に啓太は慌てながらも全力で否定する。どうやらモノノケである留吉から見てもあの三人の異常さは感じ取れるらしい。だがそれは無理のない話。シルクハットとタキシードを着た男はともかく後の二人の恰好はどうみても常軌を逸していた。

「水臭いこと言うなよ、裸王! 俺たちの仲じゃねえか!」
「そ、そうです、裸王! ぼ、僕たちはいつでもあなたの力になります!」
「そういうことです、裸王。我らは英雄であるあなたの助けになるべく馳せ参じたのです」
「なんじゃそりゃっ!? っていうかその名前で俺を呼ぶんじゃねえ――――!!」

どこか親愛を、忠誠すら感じさせる三人のヘンタイの姿に啓太は困惑しながらも突っ込みを入れる。いや、入れざるを得なかった。


こいつら何でこんなところにっ!? っていうかナチュラルにその名で俺を呼ぶんじゃねえ! 確かに俺は全裸になったことで留置場に送られているがそれは決して自分の意志じゃない、こいつらとは違う! なのにこいつらときたら何故か俺のことを英雄だの何だのと……ま、まじでやめてくれ……ここにはなでしこがいるんだぞ!? こんな奴らと知り合いだなんて知られたらどうすればいいんだっ!? い、言い逃れができなくなっちまう……まあ今は体が入れ替わってるから俺の姿なのだが………ん? ちょっと待て……そういえば……


「お、お前ら……俺のことが分かるのか……?」


啓太はどこか驚きながらそう三人に尋ねる。だがその驚きも当然。今、啓太はともはねの姿をしている。端から見ればただの少女。そして隣には啓太の姿をしたなでしこがいる。なら普通はなでしこに向かって話しかけるはず。だが三人は間違いなくなでしこではなく、啓太へと話しかけていた。

「当然です。例え姿が変わっても我らがあなたのことを見間違えるはずがありません」
「そういうこった!」
「僕たちはいつでもあなたの傍にいます、裸王!」

「お……お前ら……」

こ、こいつら……こんな姿になっちまった俺のことを分かってくれるなんて……やっぱりこいつらは俺のことを………


って違―――――う!! 落ち着け、落ち着け俺!? なんか流れに身を任せて感動しかけてしまったが待て俺っ!? ちゃんと気をしっかり持て! 俺はこいつらとは何の関係もない、そう無関係だ! 断じて俺はヘンタイの仲間ではない! 確かにちょっと嬉しかったがそれだけは認めてはいかんっ!

「だいたいお前らが何で俺たちの事情を知ってんだよっ!?」
「愚問ですな裸王。私は覗きのドクトル。あなたのことはいつも見ております」
「さらっと犯罪行為を暴露すんじゃねえ!!」
「紳士の嗜みです。そこにおられるなでしこ様の体を探せばよいのでしょう?」
「ま、まあそうだけど……あれ? お前、なでしこのことも知ってんの?」
「はい、お久振りです。マドモワゼルなでしこ」
「え……ええ……」

なでしこはどこか困惑しながらもその言葉に頷く。どうやら本当にドクトルはなでしこと面識があるらしい。

「何でお前がなでしこと知り合いなんだよっ!?」
「いえ、彼女は私の覗きに気づいた唯一の女性。故に親愛を込めて忠誠を誓っているのです。流石は裸王の伴侶となる方。心服しております」
「あ、あの……」
「やめろっ! それ以上なでしこを巻き込むんじゃねえっ!?」

啓太は必死の姿を見せながら何とかヘンタイ達がなでしこに絡んでいくのを阻止せんと動く。唯一の良心であるなでしこまでこいつらにこれ以上関わらせるわけにはいかにない。友人である留吉にも迷惑はかけれない。というかこんなことしている場合ではないのだがヘンタイ達を止めることは今の啓太にはできない。

「おお、 流石裸王! もう女を持ってるとは! じゃあお近づきの印にこのブラジャーをプレゼントするぜ!」

女性物の下着を頭にかぶり、ブラジャーを付けた大男、親方がどこからともなくその手にブラジャーを持ちながらなでしこに差し出している。なでしこはその光景に固まることしかできない。しかも傍目から見れば親方が啓太に向かってブラジャーを差し出しているさらに危ない光景がそこにはあった。


「な、なにをやっとるんじゃお前はっ!?」
「ん? 気に入らねえか? こいつは俺のお勧め、吸水性、着心地も最高の優れモノだぜ!」
「そういう問題じゃねえっ!? 何で下着泥のてめえからブラジャーをもらわなきゃなんねえんだっ!?」
「違うぜ、裸王。俺は下着泥じゃねえ……女性の下着を愛するランジェリーアーティストだ!」
「何もかわってねえっつーの! っていうか盗んでいる時点で犯罪だろうがっ!」
「堅いこと言うなって。それになでしこちゃんもブラ付けた方がいいと思うぜ。胸でけえんだろ?」
「余計な御世話だ! なでしこはノーブラだ! ノーブラじゃないなでしこなんてなでしこじゃねえっ!」


そう、そこが一番重要だ! 確かにブラジャーは素晴らしい。それは認めよう。だがしかしそれはなでしこには必要ない。何故ならノーブラという、ある意味もう一つの男の夢をなでしこは体現してくれているのだから! それだけは断じて譲れん!

「なるほど、流石裸王! そこまで考えてたんだな!」
「け……啓太さん……」
「……はっ!? ち、違うんだ、なでしこ! 今のはその……物の例えで……」

啓太の宣言に親方はどこか感心し、なでしこは羞恥心で顔を真っ赤にしている。そこでようやく啓太は自分がとんでもないヘンタイ発言をしていることに気づくも時すでに遅し。知らず周りにできていた人だかりからひそひそ話が聞こえてくる。心なしか冷たい視線が向けられてくる。まるで三人と同類を見るかのように。

い、いかん……このままでは間違いなく俺は留置場送りにされてしまう! 既に見物人の何人かが携帯を手にどこかに電話をかけている。間違いなく通報されている。そしてそれが何を意味するかなどもはや考えるまでもない。一刻も早くこの場を立ち去らなければ!だが


「ああ、もっと、もっと僕を蔑んでくださいっ! その冷たい視線で射抜いてくださいっ!」


そんな通行人に向かってどこか光悦とした表情を見せながら小太りのサラリーマン、通称係長が飛び跳ねていく。何故から係長は縄によって亀甲縛りにされ歩くことができなくなっているから。だがそれは決して誰かに強要されたわけでも、罰でもない。彼自身が望んでやっていることだった。その光景に通行人達は悲鳴を上げながら逃げ去って行く。まさにヘンタイ行為ここに極まれり、といったところ。なでしこと留吉はもはやその場に立ち尽くすことしかできない。それに対抗できるのは啓太のみだった。

「や、やめるっ!? 何でそんな恰好してんだっ!? それじゃあ歩けねえだろうが!?」
「し、心配いりません、裸王! この程度は僕にとっては何でもありません! む、むしろ力が湧いてくるぐらいです!」
「なに訳分からんこと言っとんだっ!? いいから早くその縄をほどけ!」
「裸王、あなたも分かるはずです! 僕には分かる、あなたは間違いなく天性のMです! 僕のMが保証します! SMプレイの素晴らしさをお教えします!」
「やかましい! あんなもん痛いだけで楽しくとも何ともないわ!」

啓太は何とか係長を止めようとするがともはねの姿ではそれもできずあたふたすることしかできない。だがふと気づく。ドクトルと親方は感心したように、なでしこと留吉は乾いた笑みを浮かべている。一体何故。だがすぐに気づく。その意味に。

「さ、流石です、裸王! もうSMプレイなどでは満足できないのですね!」
「俺たちの理解を遥かに超えてるとは……やっぱり裸王だぜ!」
「あなたは我らの誇りです、裸王」

「ち、違うっ! あれは事故みたいなもんで喜んでやったわけじゃねえ! な、なでしこ、違うんだ、これは言葉のあやで……」

あらぬ誤解を受け啓太は狼狽することしかできない。だが真っ向から否定することもできない。SMプレイをしたことがあるのは事実なのだから。不可抗力、自らの意志ではなかったとはいえそれは真実。だがそれでも自分がそういった趣味をもったヘンタイではないと啓太は己に言い聞かせる。

「裸王、あなたにはドSな女性も似合うはずです! きっと新しい世界が開けます!」
「うるせえっ! どこに燃やされたり脱がされたりして喜ぶ奴がいるんだよっ!?」

だ、ダメだっ! こいつらとずっと付き合ってたら埒があかない、っていうか何で俺がMってことになってんの!? ドSな女なんて絶対御免だ! ………ん? 俺今何て言った? 燃やされるとか脱がされるとか意味が分からん! 変な電波でも受信しちまったのか!? と、とにかく


「分かった! お前達にも手伝ってもらうからさっさと手分けして探すぞっ!」

「承知いたしました、裸王」
「そうこなくっちゃな!」
「ぼ、僕たちに任せてください! 裸王!」

啓太のやけくそにも似た号令によって三人は動き出す。その目的はなでしこの体になってしまったともはねを、もしくは双子の仏像を見つけること。この三人をこのまま放っておくほうが問題があると判断した啓太の苦肉の策だった。

「留吉はあっちを、なでしこは向こうを頼む!」
「わ、分かりました!」
「………」

啓太の言葉に合わせるように留吉が慌てながら探索へと走って行く。啓太もそれを見ながら自らも動き出そうとするもふと気づく。そこには何かを考え込んでいるなでしこの姿がある。

なでしこは焦りに囚われていた。ともはねの安否、そして自分の秘密を、力を啓太に知られてしまうかもしれないことに。何とか啓太に見られる前に、気づかれてしまう前にともはねを止めなくては。そんな中

「心配すんな、なでしこ。ともはねもお前の体もすぐなんとかなるさ」
「……はい」

啓太の言葉がなでしこに掛けられる。その姿になでしこは驚きながらも笑みを漏らす。そこにはともはねの姿だったため手が届かず、なでしこの頭を撫で損ねた啓太がいた。

啓太となでしこは互いに頷き合いながら散らばって行く。こんな事態になってしまった原因である仏像、そして危なっかしい小さな犬神を見つけるために―――――



「よっ! っと!」

そんな掛け声と共に一つの影が住宅街の上空を飛び跳ねて行く。だが人々はそれには全く気付かない。いや、気づくことができない。何故ならそれはまさに目にも止まらない程の速さで動いていたから。

(すごいっ! すごいっ!)

ともはねは心の中でそんな歓声を上げながら疾走する。まるで鳥が飛ぶような速さで屋根から屋根へ飛び移り移動していく。それがなでしこの体を得たともはねの力だった。

その感覚にともはねは驚き、そして興奮していた。まるで力がみなぎってくるかのよう。自分の体が自分の物ではないという違和感も最初はあった。力を持て余すかのように最初の内は上手く体を動かすことができず転んでしまうこともあったがようやく慣れてきた。ともはねは危なげなく、どこか華麗さすら見せながらなでしこの体を操っている。

それは決して慣れだけで為せるものではない。間違いなくともはね自身の力。その才能によるもの。

ともはねは薫の犬神の中でも最年少であり、最弱。故に序列も最下位。それがともはねの大きなコンプレックス。しかしそれはあくまで現段階での話。ともはねの潜在能力は薫の犬神の中では群を抜いている。それはなでしこ、はけにも匹敵、凌駕するほど。それが今、偶然なでしこの力を得たことで目覚めてしまっていた。

ともはねはそんな感覚の中考える。間違いなくこんなに力が湧いてくるのは自分がなでしこの体だから。それはつまりなでしこがそれだけの力を持っているということ。小さな自分でもこれが恐らくは自分が見たことのある中で一番強いたゆねを上回っていることが分かる。

でもそれなのになんでなでしこは戦わないんだろう? こんなに強いのに、力があるのに。どうして『やらずのなでしこ』なんて呼ばれているんだろう?

だがいくら考えても分かるはずもない。今は大人になれたことの喜びでともはねは一杯だった。早く大人になりたい。それがともはねの願い。それはずっと前から持っていた物。だが最近はさらに強くそれを意識するようになっていた。

啓太となでしこの関係。それを目にするようになってから。

啓太と知り合い、遊んでもらっている中で二人の関係をともはねは誰よりも近くで感じ取ることができた。それはまるで父と母のよう。互いを信頼しあっている関係。でもそれは自分たちと薫の関係とは何かが違う。それが何なのかまでは小さなともはねにはまだ理解できない。しかしどこかそれを羨ましいと感じ始めていた。自分もなでしこのように啓太と接することができれば。そうなればそれが何なのか分かるのではないか。そんなことを考えていると


「あ、仏像さん!」

ともはねはついにその姿を捉える。捕まえなければいけない二つの仏像。それはまるでダンスを踊っているかのように宙を舞っている。まるでともはねを挑発しているかのように。そんな仏像の姿にともはねの目に輝きが宿る。まるでおもちゃを見つけた子犬のよう。

「えいっ!」

ともはねは一気に飛び跳ねながら仏像へと手を伸ばす。それはタイミングも速度も完璧な物。ともはねはなでしこの体の動きをほぼ完璧に把握し、コントロールしている。まさに天賦の才とも言えるもの。だが

「あれっ!?」

その手は後一歩というところで空を切る。まるでともはねの動きを感じ取ったかのように仏像たちはひらりひらりとともはねの手をかわしていく。それは決してともはねが未熟なせいではない。双子の仏像の力。体を入れ替えた者の動きと思考を読み取る力によるもの。それを前にしてともはねは為す術がない。だがその目にあきらめはない。むしろ力がみなぎっているかのよう。

「よーし! 負けないよ、仏像さん!」

ともはねは一度体勢を整えてからその手を、人差し指を仏像へと向ける。それは構え。ある技のもの。幼いともはねが使うことができる攻撃手段の一つ。

「破邪走光、発露×1! 『紅』!」

それは犬神達が持つ攻撃手段、光線技。ともはねはそれを自らの指から仏像へと放とうとする。だがそれは仏像を狙ったものではない。そんなことをすれば仏像を壊してしまう。それくらいはともはねも分かっている。ともはねはその光線を仏像の気をそらすための囮として使うつもりだった。だが

「え?」

ともはねはそんな声を上げることしかできない。それは自らが放とうとしている攻撃。『紅』の力を感じ取ったから。その凄まじい力の奔流が辺りを襲う。その光景に、事態にともはねは為す術がない。ともはねはいつもの感覚で紅を使っただけ。だが決定的に違うことがある。

それはこの体が『最強の犬神』であるなでしこの体であったこと。

それは薫の犬神達全員で可能な最大必殺技、『煉獄』にも匹敵しかねないような力。それが一直線に仏像へ、そして住宅街へと迫る。ともはねはその力に驚き、制御することができない。ともはねが悲鳴を上げる間もなく光が全てを飲みこもうとしたその時


「破邪結界、二式紫刻柱」


突如、その光を遮るように紫の、まるで水晶の様な柱が姿を現す。その力によってともはねが放った紅は防がれ、霧散していく。まるで何もなかったかのように一瞬で。その光景にともはねは呆気にとられるしかない。



「なにをしているのですか、なでしこ?」



そこには白い着物を身に纏い、扇を構えながら鋭い視線を向けているはけの姿があった―――――



[31760] 第十四話 「しゃっふる」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/10 22:01
「ハアッ……ハアッ……!」

息を切らせながらもただ必死に駆ける少女。その勢いによってツインテールに結われた髪がぴょんぴょんと跳ねている。そのどこか微笑ましい光景にすれ違う通行人達は思わず笑みを漏らしてしまう。だがそれに少女は全く気付かない。いや、気づくことができる余裕すらなかった。

(くそっ……ともはねの奴どこに行ったんだ……!?)

ともはねの体を持つ啓太が内心でそう愚痴をこぼす。今、啓太は手分けしてなでしこの体になってしまっているともはねを探しているところ。本来なら仏像を探す方が重要なのだが今はそんなことをしている場合ではない。一刻も早くともはねを見つけないと面倒なことになりかねない。なでしこの様子からもそれは明らか。だが一体どこに行ってしまったのか。小さなともはねの体になってしまったことで走るだけでも一苦労だ。目線も体力も本当に子供のそれ。何とか慣れてきたものの不便であることには変わりない。早くともはねを見つけた後、元の姿に戻らなければ……

それは切実な問題。あえてなでしこの前では触れなかった問題。いや、恐らくはなでしこも気づいていたはず。それはなでしこが俺の体になってしまっているということ。そう、俺という男の体に。今はまだいい。体を動かすだけならなんの問題もないはず。だが時間が経てば間違いなくその問題に突き当たるはず。トイレという、逃れることができない問題に。それは間違いなくなでしこにとっての羞恥プレイになってしまう。いや、この場合には俺にとってのかもしれない。それだけは……それだけは何とか防がなくては! これが逆の立場だったなら全く問題ない、むしろ望むべきところだったのだが……

と、とにかく今は走り続けながらともはねを見つけなければ! 啓太がそう決意を新たにしたその瞬間、

「うわっ!?」
「きゃっ!?」

啓太はそのまま曲がり角で誰かにぶつかってしまう。いや、その勢いのままその人物に突っ込んでしまったと言った方がいい。どうやら声から女性らしい。

いてて……しまった、焦ってて前をちゃんと見てなかった。だが幸い怪我はせずに済んだらしい。ともはねの体を傷つけずに済んでよかった。どうやらぶつかった相手も大事ないらしい。まあぶつかったといっても小さなともはねの体だからな……ん? そう言えば俺、今何か握ってままになってる? 何だこれ? なんかすっげえやわらかいんですけど……

「もう、一体なんだよ……ん? ともはね?」
「え……?」

いきなりともはねの名前を呼ばれたことで啓太は驚きの声を上げる。顔を上げたそこには一人の少女がいた。

ショートカットの髪に丈の短いTシャツとホットパンツという露出の高い格好。どこかボーイッシュな雰囲気を纏っている。啓太はそんな少女の姿に目を奪われていたもののすぐに我に返る。ともはねを知っているということは恐らくは薫の犬神の中の一人なのだろう。明らかな人外の気配からも間違いない。だが自分がともはねではないことを分かっていない。ならそれを説明してこの少女にも協力してもらおう。啓太がそんな考えを巡らせていると

「ちょとともはね、いつまで僕の胸を揉んでるのさ?」

たゆねがどこか呆れ気味に告げる。その言葉でようやく啓太は気づく。今、自分が鷲掴みにしているのが目の前の少女の胸であることに。

「わ、悪いっ!? これはわざとじゃなくってっ!?」
「ともはね……?」

啓太は条件反射のように一瞬で目の前の少女から距離を取る。だが少女はどこか不思議そうな表情を浮かべているだけ。啓太はようやく思い出す。今、自分がともはねの姿であったこと。だからこそ目の前の少女は胸を触られても平気な様子であるのだと。

あ、あぶねえ……もし俺が今、元の姿だったらどうなっていたか……だが凄まじい大きさの胸だった。なでしこにも匹敵しかねない大きさだ。っていうか女の子の胸に触ったのは初めてだったがあんなに柔らかいとは……これはぜひとももう一度……じゃなくて!? ここは何とか誤魔化さなくては!? 今、自分がともはねじゃないことがバレたらまずい。確かともはねに聞いたことがある。それは薫の犬神達の話。先日会った三人以外の犬神がどんな奴であるかを俺は聞いていた。その特徴と目の前の少女は一致している。そしてその内容が脳裏に蘇り、戦慄する。

目の前の少女は薫の犬神の中では最も強い犬神。そして言葉よりも手が先に出るタイプ。まさに今の状況ではもっとも危険な相手。な、何とかやりすごさなくて……えっと……名前は確か……

「えっと……た……たゆね……?」
「? どうしたの、ともはね? なんか様子が変だけど……拾い食いでもした?」
「う、ううん、そんなことないよっ! た、たゆねこそどうしてこんなところに!?」
「ジョギングだよ。最近体がなまってるからね。ともはねも一緒に来る?」

よ、よし! どうやら名前は間違ってなかったらしい。助かった。でもともはねの口調を真似てしゃべるのは何かくるものがある。まるで幼児プレイでもしているかのよう。まあそんなものしたこともないのだが。っとそんなことよりも早くこの場を離れなければ! このままバレでもしたらひどい目に会う。俺の直感がそう告げている!

「ご、ごめん、あたし用事があるからっ!」

啓太はそう言い残した後、脱兎ごとくその場を後にする。そんないつもとはどこか様子が違うともはねをたゆねは追おうとするもその姿はあっという間に見えなくなってしまった。

「変な奴……」

首をかしげながらもたゆねは気を取り直しながらジョギングを再開する。彼女がその理由を知ることになるのはもう少し後のことだった………




「なにをしているのですか、なでしこ?」

はけはその手に扇を構えながら目の前にいるなでしこに対峙する。それはどこか優雅さすら感じられるほど。だがそんな姿とは裏腹にはけの胸中は穏やかなものではなかった。


今、はけがここにいるのは啓太へと依頼を頼むため。もっともいつもの様に宗家からではなく薫からの依頼ではあったのだが。そんな中で先程の光景をはけは目にする。なでしこが何かに向かってその力を放とうとしている光景に。もし自分が割って入らなければ街に被害が出ていたであろう規模の攻撃だった。それはまるでいつかの日の再現。はけはいつでも動けるよう、臨戦態勢のままなでしこを見据えている。それはまさに本気のはけの姿。そうしなければならない程の理由がなでしこにはある。

先程の攻撃。何とか防ぐことができたものの間違いなく煉獄レベルの攻撃。複数の犬神が合わさって初めて可能な程の威力。それをたった一人で、息を切らすこともなくやってのける。まさに最強の犬神の名に相応しい力。だがそれすらもその力の一端にすぎない。何故ならなでしこはその力の大半を天へと返しているのだから。それをしても尚、今の自分と互角以上の力を持っている。まさに怪物と言ってもおかしくない程の力。だがはけはそんななでしこを危険視することはなかった。なでしこは三百年以上前から戦うことを放棄していたから。それは今に至るまで決して破られることはなかった戒め。それなのに一体どうして。

だがいくら考えても仕方ない。ともかく今は目の前のなでしこを止めなくては。はけは思い出す。やらずになる前のなでしこの姿。普段の温和な、穏やかな姿からは想像もできない程の獰猛さ。それをなでしこは戦いの際に見せる。まさに戦闘狂、闘争本能をむき出しにした獣。ある意味、犬神という存在の原初の姿。もし、その頃に戻ってしまっているのだとしたらこちらも本気で立ち向かうしかない。天に返した力がない今なら自分でも足止めぐらいはできる。その間に啓太が来てくれればあるいは。

決死の覚悟と共にはけはその扇を構える。だが目の前にいるなでしこは先程から身動き一つ見せない。一体どうしてしまったのか。まだ自分はなでしこに攻撃も何もしかけてはいない。はけが訝しみながらも話しかけようとしたその時


「うわあああん! はけさまあああっ!!」

なでしこはその眼に涙を流しながら、泣きながらはけに向かって抱きついてくる。はけはそんななでしこにされるがまま。当たり前だ。あの状況からどうしてこんなことになると予想できるだろう。だがそんなはけの困惑に全く気付かないままなでしこははけに抱きついたまま泣き続けている。まるで子供のように。

「お、落ち着きなさい、なでしこ。一体どうしたというのです?」
「う、うう……あたし、あたし……」

そんななでしこの姿に一気に毒気を抜かれてしまったはけは呆れながらもあやすようになでしこに話しかける。だがなでしこは泣いてばかりで要領を得ない。一体何がどうなっているのか。はけがどうしたものかと途方に暮れていると

「おーいっ! お前らーっ!!」

そんな少女の声がはけの耳に響いてくる。目を向けたそこにはこちらに向けて大きく手を振っているともはねの姿があった―――――



「全く……ちゃんと人の話は聞けよ、ともはね」
「ごめんなさい……けーた様……」
「とにかく無事でよかったぜ……お前はとりあえずここでじっとしてろ。これ以上なでしこの体を使うのは禁止だ。いいな?」
「はい……」

ともはねは啓太の説教を受けながらしゅんとした姿を見せている。実際にはけがいなければ大変なことになっていたのだからともはねも返す言葉がない。はけはそんな二人の様子をどこか不思議そうに眺めている。一応啓太から事の経緯を聞いているため事情は理解しているのだがやはり実際に目にするとおかしなものがある。姿だけ見ればともはねがなでしこに説教しているように見えるのだから。


「よし……そういえば助かったぜ、はけ。さんきゅーな。お前がいなけりゃやばかったわ」
「い、いえ……それはいいのですが……」
「? 何だよ? 何か気になることでもあんのか……?」

啓太はどこか変な様子を見せているはけに首をかしげることしかできない。だがはけは何かに気づいていながらもそれを口に出していいものかどうか迷っているかのよう。一体何を気にしているのか。だがしばらくの間の後、はけは一度深呼吸し、真っ直ぐに啓太を見つめながら


「啓太様……あなたは……驚かれないのですか……?」


静かに、確かめるようにそんな疑問を口にする。それはどこか核心を隠した、誤魔化した問い。そこにはもし、啓太がそのことに気づいていないならば誤魔化せるようにというはけの意図が込められていた。

啓太はそんなあいまいな問いにどこかぽかんとした表情を見せている。それははけの言葉の意味がすぐに理解できなかったから。だがその意味に気づいたともはねがどこかはっとしたような表情を見せる。そんなともはねの姿を見ることでようやく啓太ははけが何を自分に尋ねているのか悟る。


「ああ、そのことか……二人ともなでしこには内緒にしといてくれよ。あいつ、俺には隠してたいみたいだし……」


啓太はどこかばつが悪そうに頬を掻きながら告げる。まるでまずいことをしてしまった、知られてしまったという姿を見せながら。はけはその言葉と姿で悟る。啓太がなでしこの力のことを既に知っていたのだと。

「啓太様……一体いつから……?」
「うーん……確か契約してから結構すぐだったかな……? まあなんとなくだったけど」

はけはそんな啓太の言葉に驚きを隠せない。てっきりなでしこがそのことを自分が知らぬうちに啓太に伝えたのかと思ったがそうではないらしい。

「啓太様は……なでしこに何も聞いてはいないのですか……?」
「まあな。あいつも俺には知られたくないみたいだし……まあ、いつかは話してくれるだろうから気長に待つさ」

全く気にした風のない啓太の姿にはけは呆気にとられるしかない。何故そんな態度を取っていられるのか。そう、自らの犬神に隠し事をされているというのに。それも普通ではない程の隠し事を。契約を破棄されても仕方がない程の秘密を。

「啓太様は、何故そこまでなでしこのことを……」

それは無意識に近いはけの問い。それは隣にいるともはねの問いでもあった。それを


「決まってんだろ、あいつが俺の犬神だからさ」


啓太は何でもないことのように、あっさりと、当たり前のように答えた。


その言葉にはけはしばらく驚き、呆然としながらもすぐに微笑む。まるで自らの孫を見るかのような、そんな視線を啓太へと向けながら。

「な、何だよはけ? 気持ち悪いぞ」
「いえ……なんでもありません」

はけは確信する。自分の心配など全くの杞憂だったのだと。この方には心配など無用なのだと。その姿にかつての主の、そして初代の面影が見えた。同時に安堵する。間違いなくなでしこが、最高の主に仕えることができているのだと。啓太が間違いなく、誰よりもなでしこのことを理解しているのだと。思わずその関係に嫉妬を抱いてしまうほどに。


「裸王! やっと追いついたぜ!」
「啓太さん、大丈夫ですか!?」

そんな中、騒ぎを聞きつけたなでしこたちが啓太達の元に集まってくる。どうやら皆無事の様だ。もっとも係長は親方に担がれ、ドクトルはその場にはいなかったが。

「ともはね、大丈夫!? 怪我はない!?」
「う、うん、大丈夫だよ、なでしこ」
「心配ありません、なでしこ。わたしが来た時には既にともはねは止まっていましたから」
「は、はけ様!? どうしてここに?」

ともはねを心配しているなでしこに向かってはけが説明を始める。無論、先程の話や暴走のことは隠したまま。啓太もそれを見過ごしながら改めてその上空に目を向ける。そこには自分たちの様子を観察しているかのように舞っている双子の仏像の姿があった。それを何とかしなければ事態は収まらない。だが今なら何とかなる。何故なら

「はけ、お前も手伝ってくれ!」
「承知しました」

ここには最も頼りになる存在、はけがいるのだから。偶然ではあるが本当に助かった。はけがいれば何とかなるだろう。だがはけがその扇を使い、力を見せようとしたその瞬間、


「いえ、それには及びません。裸王」


そんな聞き覚えのある声が辺りに響き渡る。その声に啓太達は驚きを隠せない。何故ならその声の主、ドクトルは上空に、双子の仏像のすぐ傍に姿を現したのだから。

「っ!?」

いきなりの事態に仏像たちも驚いたような動きを見せる。仏像たちは相手の動きを感じ取り、読みとることに優れた力を持っている。それは先程のともはねとのやり取りからも明らか。だがそんな仏像ですらドクトルが接近していたことに気付けなかった。はけもその気配を全く感じ取ることができず、驚きの表情を見せている。

それこそが覗きのドクトルの力。まさに神すら気づかせない程の隠遁術。もっとまともなことに使えば間違いなく世のためになるであろう力。もっとも本人は覗き以外に使う気はないのだが今回は自らの王たる裸王のためにその力を発揮したのだった。

ドクトルは一瞬でその手に仏像を手に取る。だが仏像の内の一体が間一髪のところでその手から逃げ出す。まさに意地とも言える動きを以て。流石のドクトルもその動きを追うことはできない。仏像はそのまま遥か彼方へと逃走を開始せんとする。

「や、やべえっ!」

啓太が焦りの声を上げる。ドクトルの活躍によって片方の仏像は捕まえることができたがそれだけでは意味がない。双子の仏像を両方捕まえなければ元には戻れない。このままでは逃げられてしまう。どうすれば。そんな啓太の不安を吹き飛ばす勢いの声が辺りに響き渡る。

「ここは俺たちに任せな、裸王!」
「やっと僕たちの出番が来ました!」
「っ!? 親方、係長っ!?」

啓太はその声に、そして光景に言葉を失う。それはまるで砲丸投げ。親方が係長の体を縛っているひもを持ちながら回転を始める。さながら砲丸投げの選手のように。その勢いは凄まじく、遠心力も相まってその亀甲縛りの縄が係長の体に食い込んでいく。ぎしぎしという効果音と共に。まさに正気とは思えないような危険な行為。啓太は慌てながらそれを止めようとするが

「だ、大丈夫です……裸王! これは僕にとっては日常茶飯事……むしろご褒美の様なものです!」
「何言っとんじゃ!? 明らかにやばい音がしてんだろうがっ!?」
「甘いぜ裸王! 係長はこんなもんじゃねえぜ! 行くぜ、係長!!」
「は、はい! お願いします、親方!!」

「どっせ―――――いっ!!」

叫びと共に親方はその手を離す。瞬間、まるで解き放たれたかのように係長が空に、天に舞う。それはどこか神々しさすら感じさせる光景。弾丸のように発射された係長は凄まじい速度で仏像へと迫る。その光景に仏像は身動きが取れない。当たり前だ。何故かサラリーマンの様なスーツを着た小太りの男が紐に縛られたまま、しかも光悦の表情を見せながら飛んできているのだから。加えてその思考。仏像たちの力である相手の思考を読み取る力。それははけが相手だとしても後れを取らない程のもの。しかしそれが今、何の意味もなさない。

何故なら仏像には係長の、いや変態三賢者の思考が理解できなかったから。むしろ理解できた方が問題なのだが。そう言った意味で仏像たちにとって彼らはまさに天敵とも言える存在だった。

「アイキャンフラ――――イ!!」

そんなわけが分からない叫びと共に係長がその唯一使える口で仏像を捕獲する。まるでパン喰い競争のように。そしてそのままの勢いで地面へと墜落する。それは逃れることができない物理の結果だった。

「か、係長―――――っ!?」

啓太は悲鳴を上げながらその墜落地点へと駆ける。その瞬間、啓太は気づく。それは自分の体。それがいつの間にか元の体に戻っている。どうやら係長が仏像を捕獲した時点で解除されたらしい。だが今はそれは後だ。今は一刻も早く係長を見つけなければ。っていうのか生きているのかどうかも怪しい。とても人間業ではないような光景だった。だが

「係長っ!? お前大丈夫なのかっ!?」
「と、当然です! 僕は痛みに対しては無敵です、裸王!」

そこにはボロボロになりながらもいつもと全く変わらない係長の姿があった。もはや人間であるのかどうかすら怪しいがとにかく無事でよかった。

「心配いりません、裸王。我らはあなたがいる限り永久に不滅です」
「そういうこった! これからも頼むぜ、裸王!」

「お、お前ら………」

いつのまにかやってきていたドクトルと親方がどこか誇らしげに啓太へと笑みを向けてくる。まるで長い間共に戦い続けてきた戦友のように。その光景に知らず啓太の胸が熱くなってくる。まさに自分への揺るがない信頼と忠誠がそこにはあった。


こ、こいつら……そんなにも俺のことを……なのに……なのに俺はこいつらのことをヘンタイだのなんだのと……! 俺が間違ってた! こいつらは確かにヘンタイかもしれない、でも間違いなく俺の仲間だ! 命を掛けて俺を助けてくれた……そう、まさに心友だ!


啓太がそんな心の涙を流しながら三人へと近づこうとしたその時


「君達、ちょっと署まで一緒に来てもらえるかな?」
「…………え?」

そんなどこかで聞き覚えのある声が傍から聞こえてくる。冷や汗を流しながら振り返ったそこにはお巡りさんがいた。紛うことなき警官がいた。それも知っている警官だった。何故なら

「またお前か、川平啓太! いい加減留置場じゃすまなくなるぞ! 他の連中もだ! さっさと付いてこい!」

それはいつも啓太がストリーキングで捕まる時にお世話になっているから。もはや啓太の存在は警官達の中では常習犯となっていた。

「ち、違うっ! 俺は何の関係もねえ! ほ、ほら、俺は服を脱いでもいないし、全裸でもないだろっ!?」
「おお、流石は裸王。我らと共に留置場まで来てくださるとは!」
「持つべきもんはやっぱ友達だよな!」
「やはりあなたは最高です、裸王様!」

「いやああああああっ!!」


啓太は叫びを上げながら思った。何故今に限って自分はともはねの姿ではないのだろうと。


それが啓太の記念すべき、ストリーキング以外での留置場送りの瞬間だった。



「い、いいんですか、啓太さんが連れてかれちゃいましたけど……?」
「相変わらず面白い方ですね……啓太様は……」
「ええ……」
「けーた様ー! またすぐ迎えに行きますねー!」

そんな啓太の姿をなでしこたちは見送るだけ。結局いつも通りの結果に落ち着くある日の休日だった―――――



[31760] 第十五話 「落ちこぼれの犬神使いの奮闘記」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/13 14:51
「はあ~っ」

何度目か分からない溜息を吐きながら啓太はとぼとぼとおぼつかない足取りで道を進んでいく。その肩には大きなボストンバックが掛けられている。まるでどこかに旅行にでも行くかのような格好だ。しかしそれならば何故こんな姿を見せているのか。

「なあ、なでしこ。やっぱお前だけで行ってくれねえ……? 俺、明日には修学旅行に行くんだし、別にいいだろ?」
「そ、それは……」

啓太はどこか縋るように隣に並んで歩いているなでしこに向かって話しかける。だがそんな啓太の言葉になでしこは苦笑いを返すことしかできない。啓太の言葉の理由も分かるがどうしようもない、申し訳ないと言った表情。二人がそんなやり取りをしている理由、それは今、二人が向かっている場所、川平薫とその犬神達が住んでいる屋敷にあった。

事の始まりは先日のはけからの依頼、いや正確には伝言。それは薫本人からの提案。その内容は要約すればお互いの犬神の交流を図りたいというものだった。啓太と薫はほぼ同時期に犬神使いとなったものの、犬神同士の交流はこれまで全くなかった。先日のごきょうや達との依頼が初めて。どうやら薫は他の犬神たちとも交流を持ってほしいと考えているらしい。そして啓太と薫は学校は違えど同時期に修学旅行があり、その間屋敷に遊びに来てはどうかという招待を啓太となでしこは受けたのだった。

「それに薫の奴、もう先に旅行に行っていねえし……屋敷には薫の犬神だけだろ? どう考えても俺が言っても邪魔なだけだし、お前だけでもいいんじゃ……」
「そ、そんなことないですよ! それにせっかく招待していただいたんですから……!」
「やっぱだめか……」

無駄と分かっていても抵抗をしていたのだが流石にあきらめがついたのか、啓太は肩をがっくりと落としながら薫の屋敷に向けてのろのろと歩みを進めて行く。なでしこはそんな啓太を宥めながらもぱたぱたとその後を追う。さながら落ち込んでいる弟を慰めている姉のよう。だがいつもの啓太ならこんな姿は見せないだろう。美少女である薫の犬神達の所に遊びに、泊まりに行けるという間違いなく喜ぶべきイベント。だがそれを素直に喜ぶことができない理由が啓太にはあった。

(ちくしょう……ともはねの奴……)

啓太は心の中でともはねに愚痴をこぼす。それは先日の体が入れ替わってしまった騒動の時のこと。その際、啓太は誤って薫の犬神のひとりであるたゆねの胸を揉んでしまうというアクシデントを起こしてしまった。もっともその胸を揉んでしまったのは啓太の本能といってもいい物だったので完全に事故とは言い切れないのだが。とにかく啓太はともはねの体であったためその場では事なきを得た。だが啓太は甘かった。

ともはねにそのことを口裏合わせしておくことをすっかり忘れてしまっていたのだがら。

啓太はそのことにすぐに気がついたものの時すでに遅し。体が入れ替わるという出来事をともはねが黙っているはずもなくその事実はたゆねにも伝わってしまった。つまりあの時、胸を揉んだのがともはねではなく啓太だとバレてしまったのだ。その後のことは詳しく聞いていない。いや、恐ろしくて聞くことすらできなかった。できればもう会うことがないよう願うしかない……そう思っていたのだがそう上手くはいかなかった。今回の招待によって啓太は否が応でもたゆねと顔を合わせなくてはいけなくなってしまったからだ。

「大丈夫ですよ、啓太さん。きっとすぐに仲良くなれますから」
「あ、ああ……」

なでしこの言葉に啓太はどこか顔を引きつかせながら答えるしかない。何故なら啓太はなでしこにはたゆねとのことを話していなかったから。それはなでしこの性格を知っているからこそ。普段の姿からは想像できないがなでしこはかなりの焼き餅焼きだった。特に女性関係については。それが特にひどかったのが二年前。四月一日、エイプリルフールということで啓太はある嘘をつくことにした。

それは『彼女ができた』というもの。

啓太としては(当時の啓太から見て)歳上のなでしこに少しマセたところを見せたいと言う見栄から突いた軽い気持ちの嘘。しかしそれによってなでしこは明らかに動揺し、不機嫌になってしまった。その姿は今でも啓太のトラウマになってしまっている程。加えていつも完璧のはずの料理や家事もおかしくなり、何もないところで転ぶなど散々な有様。すぐに誤解を解くことでいつものなでしこに戻ってもらえたのだがそれから啓太はなでしこの前で女性関係の話や話題は口にはしないと心に誓っているのだった。


ふう……何でこんなことになっちまったんだ……? ちょっと前まで俺は薫の犬神達と仲良くなることを楽しみにしていたというのに……まあ、たゆねの件は置いておいても、ともはね、ごきょうやたち以外の犬神達からはよく思われていないのは間違いない。実際フラノ達も最初は俺のことロリコンだと思ってたみたいだし……何だが思い出したら涙が出てきそうだ。また一から誤解を解いていかなきゃならないかと思うと胃が痛くなってくる。

本当なら家に残りたいのだがやっぱりなでしこだけ行かせるのも気が引けるしな……。明日から三日間修学旅行に行く間、なでしこは家に一人きりになってしまう。しかしなでしこは山には里帰りする気はない。そう言った意味では今回の提案は渡りに船と言っていいもの。そうだ! これはなでしこのためを思ってのもの! ならなでしこの主として、飼い主としてやるだけのことをやるしかない!

「とにかく行くか! ともはねも待ってるだろうしな!」
「は、はい! それに男性がいるだけでもみんな心強いと思いますよ。最近、その……覗きや下着泥が頻発してるらしいですから……」
「そ、そうか……」

なでしこの言葉に啓太は曖昧な答えを返すことしかできない。何だかもう全てを理解できてしまったような気がするがあえて口に出すまい。その胸中はなでしこも同じなのか黙り込んだまま。どこか気まずい雰囲気のまま二人は薫の屋敷まで歩き続けるのだった―――――



「すげえ……ほんとにここなのか……?」
「はい……ここで間違いないはずですけど……」

啓太となでしこは互いに顔を見合せながらもその光景に驚きを隠せない。そこには大きな屋敷、そして広大な敷地があった。敷地というよりはそこら辺一体の山と言った方がいいのかもしれない。屋敷も見た目は修道院に近いような雰囲気を持った物。話には聞いていたが実際に目にすると圧倒される物がある。まるで場違いな場所に来てしまったかのようだ。だがいつまでもこのまま突っ立っているわけにもいかない。啓太は意を決してその屋敷の玄関と思われる扉にあるチャイムを鳴らす。だがその姿はどこかおどおどしている。小市民丸出しの姿だった。なでしこも落ち着かないのかどこかそわそわしている。間違いなく二人が主従である証のようなもの。そしてすぐにその大きな扉が開かれる。どうやら自分たちが来るのを待っていたらしい。そして同時に一人の少女が二人の前に現れる。


「お待ちしておりました、啓太様。薫様の序列一位、せんだんと申します。以後お見知りおきを」


少女、せんだんはスカートの裾を持ちながら恭しく啓太達に一礼する。その姿に啓太は呆気にとられるしかない。それはせんだんの礼儀正しさ、優雅さにもあったが何よりもその容姿。

(すげえ……!)

啓太は思わずそんな声を漏らしそうになる。だがそれも無理のないこと。真っ赤な赤い髪、しかも凄まじいロールがかかっている。加えて上品そうなドレス。ここが日本なのかどうかすら怪しくなってしまうほどの西欧風な格好。人によってはコスプレにしか見えないだろう姿。だがこの少女、せんだんは違う。まるで西欧人形のようにその姿が、美しさがマッチしている。間違いなくベルサイユの○らに出てくるような雰囲気があった。

「お、おう……川平啓太だ、よろしくな。なでしこととは知り合いなんだろ?」
「はい、わたしたち薫様の犬神達は皆、なでしこのことは存じております。久しぶりね、なでしこ。元気そうでよかったわ」
「ええ、あなたも元気そうね、せんだん」

せんだんとなでしこは互いに微笑みあいながら挨拶を交わしている。心なしかなでしこもいつもより機嫌が良さそうだ。やはり同じ犬神の仲間と交流できるのはいいことかもしれない。だが啓太はどこか興味深そうに二人の姿に目を奪われている。


うーん……やっぱり端から見てると凄いもんがあるな……ドレス着ているせんだんと割烹着にエプロンドレス姿のなでしこ。なでしこに関しては見慣れているのもあるがそれを差し引いても訳が分からん光景だ。決して口には出せないが。やはり犬神には特別な、変な格好をしなければいけないルールがあるに違いない。ここは俺も負けないように何かコスチュームを考える必要があるかもしれん……今度はけにでも聞いてみるか。もしかしたらはけの着物もそういう類なのかもしれんし……


「立ち話も何ですからお二人ともお上がり下さい。食堂で他の者たちもお待ちしておりますので」
「あ、ああ……そういえばせんだん、今日は他の犬神達も全員いるのか……?」
「? はい、全員おりますがそれが何か……?」
「い、いや……何でもねえ……」

せんだんは啓太の質問の意図が掴めず首をかしげることしかできない。だが啓太は最後の希望がついえたことでがっくりと肩を落とす。何故こんな時に限って全員揃ってしまっているのか。前のように何かの依頼で留守であってほしかったのだがそう都合よくはいかないらしい。なでしこもそんな自らの主の姿に苦笑いするしかない。もっとも啓太となでしこの間には大きな認識の違いがあったのだが。

啓太となでしこはそのまませんだんに連れられながら食堂へ向かっていく。だがその広さに、廊下の長さに圧倒されてしまう。せんだんの容姿も相まって本当にどこかの宮殿にでも来たのではないかと錯覚してしまいそうだ。

「それにしてもほんとに広いんだな……薫の奴、いつの間にそんな金貯めてやがったんだ?」
「この屋敷は元々曰くつきの物件でして……それを薫様が格安でご購入なさったんです」
「格安っつってもなあ……こっちは狭いアパート暮らしだっていうのに……やっぱり稼ぎの差か……」
「そ、そんなことありませんよ! 今月はちゃんと貯金もできてますから!」
「そうか……いつも苦労かけて悪いな、なでしこ……」

くそう……何ていい子なんだ、なでしこ! だがやはりここまで差を見せられると羨ましいのを通り越して感心しちまう。一体どうやったらそんなに稼げるんだ? いくらあいつが天才だっつっても限度があるだろ。ちょっとそのあたり今度詳しく問いたださなくては! そしてあわよくばその恩恵を……

啓太がそんなどこか邪なことを考えている中、ふと気づく。そこにはまるで自分を観察しているかのような視線を向けているせんだんの姿があった。

「……? どうした、何かあったのか、せんだん?」
「……いえ、それよりお二人とも、もう食堂が見えてきましたよ」

不思議そうな表情を見せている啓太を見ながらも話題をそらすようにせんだんは視線を前方へと向ける。そこには大きな扉がある。どうやらそこが食堂らしい。それを前にして知らず、啓太は息を飲む。それは直感。ここをくぐれば自分は間違いなくロクな目には合わない。ここ最近の経験で得た悲しい直感だった。そしてその扉を開けた途端

「わ~い、けーた様っ♪」
「ぶっ!? と、ともはねっ!?」
「おそいですよ、ずっと待ってたんですから!」
「分かった、分かったからちょっと離れろ!?」

いきなりみぞおちに向かって突進してきたともはねによって呼吸困難になりながらも何とかともはねを引きはがす。まさか扉を開けた途端に特攻をかましてくるとはこいつ……日増しに俺を襲撃する術を学んでいるのでは!?

「ともはね、今日、啓太様はお客様としてお招きしているのですからもう少しお淑やかになさい」
「う……はーい……」

せんだんの言葉によってともはねは渋々俺から離れて行く。どうやらともはねも序列一位、リーダーであるせんだんには頭が上がらないらしい。流石といったところか。そういえば犬って結構序列というか上下関係に厳しいらしいし。まあ家にはなでしこしかいないから関係ないけどな! 決して複数の犬神がいる薫が羨ましいわけではない! 俺には……俺にはなでしこがいるんだから……!

啓太がそんなよく分からない心の涙を流しながらも改めて食堂へと目を向ける。その中央には巨大な縦長のテーブルがある。映画やドラマなんかでしか見たことのない大人数で食事ができるようなテーブルだ。それは薫を含めれば十人以上で食事をすることを考えて置かれている物。そしてその席に少女たちが座っている。その数は七人。今目の前にいるせんだんとともはねを加えれば九人。それが薫の持つ九匹の犬神、序列隊だった。

「啓太様♪ お元気でしたか~?」
「……どうも」
「お久しぶりです、啓太様」

そんな中、聞き覚えのある声が啓太に掛けられる。そこにはフラノ、てんそう、ごきょうやの三人の姿がある。その姿は以前と全く変わらない。フラノはにこにこと、てんそうは無表情に、ごきょうやはどこか静かに微笑みながら啓太へと挨拶をしてくる。ちょっと前に会ったはずなのだが久しぶりの様な気がするのはなぜだろうか。そう思わざるを得ない程ハードな日々だったのかもしれない。まあそれはおいといて

「おお、お前達も元気そうだな。」
「はい♪ フラノもずっと啓太様が来られるのを待ってたんですよ~。あの夜の啓太様が忘れられなくて~」
「お、おいっ! なに訳の分からんこと言っとんだっ!? 誤解を招くようなことを言うんじゃねえっ!?」
「気にしないでください、いつものフラノの冗談」
「お、お前らな……」
「と、とにかく啓太様、今日一日ですがどうかゆっくりして行かれてください……」


こ、こいつら……ほんとに変わらずマイペースな……ごきょうやの苦労が伝わってくるようだ。いや、きっとこいつら全員をまとめるせんだんはきっとこれ以上に大変に違いない! 今度来るときは何か土産で持ってきてやらねば……


そんなことを考えている中啓太は気づく。それは視線。だがそれは唯の視線ではない。どこか冷たさを、居心地の悪さを感じさせる視線が向けられている。間違いなく自分に向かって。啓太はその正体に薄々気づきながらも恐る恐る視線を向ける。


そこには不機嫌そうな顔をしながらジト目で啓太を睨んでいるたゆねの姿があった。


その態度と視線に思わず啓太は後ずさりをしてしまう。凄まじいプレッシャーが襲いかかってきているかのよう。見えない力が、壁が間違いなくそこにはあった。しかしそれはたゆねだけではない。その隣に並んでいる三人の少女達からもたゆねほどではないにしても明らかな拒絶のオーラが発せられている。一体何故。なでしこもそれには気づいているようだが事情が掴めず困ってしまっているようだ。ともはねもよく事情が分かっていないのだか楽しそうに啓太の腕につかまりながら遊んでいるだけ。

啓太を中心にして薫の犬神達の間に変な壁ができている。どこか楽しそうなフラノ達を中心とするグループとどこか不穏なたゆね達を中心としたグループ。そんな状況を、空気を感じ取っているであろうせんだんだが一度咳払いをした後、たゆねたちに向かって告げる。

「そういえば啓太様は彼女たちとは初対面でしたね……みんな、啓太様に自己紹介をなさい」

それを聞きながらも四人の少女たちはしばらくどこか不満そうな様子をみせながらもリーダーからの命令を無視するわけにはいかないとばかりにしぶしぶ挨拶を始めてゆく。

「序列三位……たゆねです、よろしく」

どこかぶっきらぼうに、不機嫌さを隠すことなくたゆねは挨拶をする。その姿に啓太は冷や汗を流すしかない。

ま、まずい……! 予想していたとはいえまさかここまで嫌われているとは……。だがこのままではよくない。ここは何か一つ話のきっかでも作っておかなければ……!

「た、たゆねか……そういえば」

啓太は何とか話題を作ろうと、会話のきっかけを作ろうとするが

「先日はお世話になりました」

そんなたゆねの言葉によってそれは粉々に砕け散ってしまう。それはまさに顔面右ストレート、完璧な急所を捉えた一撃。もはやカウンターを返すことすらできない威力の攻撃だった。

「啓太様、たゆねとは面識がおありで……?」
「えっ!? あ、ああ、そうだったかな! ちょっとド忘れしちゃってたみたいだ!」

啓太はどもりながら、冷や汗を流しながら弁明するも怪しさ満点、全く誤魔化せてはいなかった。せんだんもそれ以上聞くのはよした方がいいと判断し、次の犬神の紹介へと移ろうとしていく。だがそんな中、フラノはどこか楽しそうにその様子を眺めていた。

『何だか楽しいことが始まりそうですよ~♪』

そんな心の声が聞こえんばかり。傍にいるごきょうやはその付き合いからフラノの雰囲気を感じ取り溜息を突く。どうやらまた面倒なことになりそうだと。いや、既にそれは避けられない物だと啓太が来た時点から分かってはいたのだが。


「序列七位、いまりでーす」
「序列八位、さよかでーす」
「じょ……序列二位、いぐさです……」

たゆねの隣に並んで座っていた三人が続けて挨拶をしていく。双子の犬神であるいまりとさよかはどこか気の抜けたような、やる気のない声で自己紹介をする。そんな明らかな態度に啓太も顔を引きつかせることしかできない。

外見年齢はともはねより少し上ぐらいか? 確かに美少女ではあるのだが……言っちゃ悪いが完璧に幼児体型、俺の守備範囲外だ。っとそれはおいといて何でここまで俺嫌われてんだ? たゆねはまあ分かるにしても明らかに度を越している。いい噂をされてないにしてもここまで拒絶される覚えはないぞ!? 眼鏡をかけてるお下げの少女、いぐさにいたってはまるで怯えるような目で俺を見てる。お、俺ってそんなに危険な人物に見えるわけっ!? ……ん? そういえばこの子、どっかでみたことあるような……

そんなことを考えているとふと、その眼に映る。それは楽しそうにへらへら笑っているフラノと何か申し訳なさそうに目を伏せているごきょうや。それだけで啓太にとっては十分だった。あの二人がこの状況の理由を知っていると。

「悪い、せんだん! ちょっとこの二人借りてくぞっ!」
「え、ええ……構いませんが……」

啓太はどこか鬼気迫る表情を見せながらフラノとごきょうやを引きづりながら食堂を後にしていく。後には事情が分からないせんだんたちが残されただけだった………



「お前ら、どういうことか説明してもらおうか……?」

どこか低い声で啓太は二人へと問いかける。いや、正確にはフラノに向かって。それは確信。この事態の原因がこの少女にあるのだという直感だった。

「ひどいです、啓太様。フラノは何もしてません!」
「やかましいっ! じゃあ何であんなに俺は嫌われてんだよっ!? いくら何でも限度があるわっ!」
「啓太様……それは恐らくフラノが皆に話した先日の依頼の件が原因かと……」
「先日の依頼って……あの魔道書のかっ!?」

ごきょうやの言葉に啓太の顔が蒼白になる。それは事の発端が、そして原因を全て悟ったが故。奇しくも状況はたゆねの時と酷似していた。

「参考までに聞くが……フラノ、お前どんな内容をしゃべったんだ……?」
「? そのままのことですよ? 女装した啓太様とSMプレイをして~裸になった啓太様が仮名様とキスしたって」
「ふ、ふざけんなああああっ!! なんでよりによってそこだけ切り取ってんだよっ!? もっとほかにもちゃんと伝えるべきところがあるだろうがっ!?」
「? 裸エプロンの方がよかったですか~?」
「そういう問題じゃねええええっ!?」


何言ってんのこいつっ!? それじゃあ俺、完璧にどヘンタイじゃねえか!? あいつらがあんな態度取るわけだよ! まるで穢らわしい物を見るような、そんな視線を向けるはずだ、俺でもそんな奴がいたら同じ視線を向けるわ! 


ロリコンどころの騒ぎではない……今、啓太はたゆねたちの中で女装癖にSM、露出狂にホモまで加わった存在へと昇華されていた。まさに事態を悪化させるトリックスターたるフラノのファインプレーだった。


「も、申し訳ありません、啓太様! 後で何とか弁解しようとしたのですが既に啓太様の噂がたゆねたちの間には広がってしまっていて……」
「俺の噂……? それってどんな……?」
「そ、それは……」

ごきょうやは言葉を詰まらせながらもその内容を口にする。

曰く、ストリーキングでの逮捕歴は数えきれず、街のヘンタイたちは顔見知りであり、崇拝されているのだと。

その内容に啓太は言葉を失う。それはその内容に驚いたからではない。そう、それが間違いなく事実であったから。

あれ……? 俺ってもしかしてほんとにヘンタイ……?

そんな今更なことを啓太が考えていると


「ひどいです~啓太様~。フラノは一つも嘘は言ってませんよ~?」
「う、うるせえっ! お前のおかげで俺の評価がすげえことになってんだよ!」
「大丈夫ですよ~啓太様! これ以上落ちることはありませんから~♪ 後は上がって行くしかないですよ~♪」
「お前が地の底にまで落としたんじゃねえかっ!?」
「お、落ち着いてください、啓太様っ!?」
「けーた様―! 早くともはねとあそびましょうー!」

啓太は必死の様子でフラノの肩を両手で持ち揺すっているがフラノは楽しそうにへらへらと笑っているだけ。ごきょうやは錯乱している啓太を止めようするも待ち切れなかったのか後を追ってきたともはねがその間に割って入りもみくちゃになりてんそうがぼーっとそれを見ながらも絵を描いている。

「あなたは止めに行かなくてもいいの……なでしこ?」
「ええ、いつものことですから」

どこか心配そうな表情を見せているせんだんとは対照的になでしこはどこか慣れた様子で微笑みながらそれを眺めている。もはやなでしこにとってはこれぐらいは日常茶飯事になりつつある証拠。


こうして啓太は自らの汚名を挽回、いや返上するために動かざるを得なくなるのだった―――――



[31760] 第十六話 「落ちこぼれの犬神使いの奮闘記」 中編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/17 09:57
「けーた様、だいじょーぶですか?」

ともはねは少し心配そうな表情を見せながらその指で何かをつっついている。だがそれはそんなともはねに何の反応も示さない。いや、つっつかれていることにも気付けない程落ち込んでいるといった方が良いかもしれない。そこにはまるで燃え尽きたような、真っ白な灰になってしまったかのような犬神使い、川平啓太の姿があった。啓太は何かをぶつぶつ呟きながら部屋の隅っこで座り込んでいる。さながら受験に失敗した受験生といったところ。

「啓太様……」
「大丈夫です、啓太様♪ まだ時間はありますから、当たって砕けろですよ♪」
「うるせえ! 何が当たって砕けろだ!? 当たる前にお前が砕いたからだろうが!?」

どこか楽しそうなフラノの言葉に今までずっとふさぎこんでいた啓太が抗議の声を上げる。だがその必死さを前にしてもフラノは全く気にした風もなく、むしろ楽しそうですらある。ともはねはよく事情が分かっていないもののどうやらいつも通りの啓太に戻ったことだけは感じ取り、啓太の周りでうろちょろしている。てんそうは変わらずぼーっとしながらもその動向を観察し、ごきょうやは悩ましいとばかりに額に手を当てながら皆の姿を見つめていた。

今、啓太達は薫の屋敷の客間、啓太が今日泊まる部屋に集まっていた。今この場にはなでしこはいない。どうやらせんだんに誘われてどこかに行ってしまったらしい。そのため啓太を含めれば五人がこの場には揃っていた。その理由。それは言うまでもなく、たゆねをはじめとした四人の犬神達の誤解を解き、仲良くなるという目的を達成するための物。いや、正確にはそれに完膚なきまでに失敗した後だった。

「……確かに、そうかも」
「ほら、てんそうだってそう言ってんじゃねえかっ! お前がハードル上げたせいでこんな目に会ってんだからちょっとは協力しろっつーの!」
「ひどいです~啓太様~! フラノはちゃんと協力してますよ~?」
「やかましいっ! 余計な茶々入れてくるだけで悪化させるだけだったろうが!」

全く悪びれた様子のないフラノの姿に啓太は怒りを通り越してあきれ果てるしかない。先程の食堂に会しての親睦会。といっても歓迎されているとは思えないような光景を思い出し啓太はがっくりと肩を落とす。自分が嫌われている、避けられている理由を知った啓太はその後、何とかその誤解を解こうと奮闘した。だがそれはものの見事に失敗、玉砕する。

まず接触をしたのがたゆね。ある意味でもっとも手強く、早急に何とかしたい相手。だがその強力さは啓太の想像を遥かに超えていた。できる限りフレンドリーに、さわやかに話かけたのだがその全てを一言、二言であっさりと切り捨てられ、それでも何とか食い下がろうとしたのだがその凄まじい拒絶のオーラ、ジト目を前に啓太は為すすべなく撤退するしかなかった。

こうなっては他の三人を先にするしかない。啓太は持ち前の前向きさ(現実逃避ともいう)をもって双子の犬神いまり、さよかと眼鏡をかけた犬神いぐさと交流をはからんとする。だがそれも思うようにはいかなかった。いまりとさよかに関してはたゆねのように全く口を聞いてくれないわけではないのだがやはりどこか警戒したような様子を見せたまま去って行ってしまい、いぐさにいたっては話しかけた途端、まるで変質者に会ったような反応を示しながら食堂から逃げて行ってしまった。ある意味で一番ショックを受けた光景だった。そんな散々な結果に啓太の心は完全に折れてしまったのだった………


「ちくしょう……何でこんな目に会わなきゃならんのだ……」
「あきらめたらだめですよ~啓太様~! たゆねちゃんはつんでれですからきっと恥ずかしがっているんですよ♪」
「あれのどこかツンデレだっってんだっ!? デレなんてこれっぽっちもなかっただろうがっ!?」
「……きっと、フラグが足りなかった」
「なんじゃそりゃっ!? ってゆーかお前ら一体何の話をしてんだっ!?」
「けーた様、人気ないんですねー」

どうやらおおよその事情を悟ったともはねがどこか慰めるように啓太の頭を撫でてくる。いつもとは完全に立場が逆転してしまっている。だがその優しさが今の俺にとっての唯一の癒しだった。


くそう……何でこんなことになっちまったんだ……。相変わらずフラノとてんそうはマイペースだから当てにならん……しかし、あそこまで毛嫌いされているとは。フラノの噂(嘘は含まれていない)のことを差し引いてもそれが伝わってくるようだ。まあ里の犬神達に嫌われているのは儀式の時から分かっていたことではあったのだがやはり目の当たりにするときついものがある。今を思えば確かに労働条件の連呼はやりすぎだったかもしれない。恋人募集とかそういう方面で攻めるべきだったか……

しかしそう考えれば考えるほどどうしてなでしこが俺に憑いてくれたのか見当がつかん。現になでしこ以外は一匹も寄り付きもしなかったのだから。まあ、理由を聞いても教えてはくれないのだが俺の中の七不思議のひとつだ。


「け、啓太様、そんなに焦ることはありません。今はまだ会って間もないのですから……。もう少し時間をかけて交流をすればきっと啓太様が……いえ、啓太様の人柄を分かってくれるはずです」
「そ、そうか……?」
「はい。現にわたしたちは啓太様のことをお慕いしております」

目に見えて落ち込んでいってしまっている啓太を見かねたごきょうやがどこかあやすような口調で励ましの言葉を掛ける。それによって少しは気を持ち直してきたのか啓太の表情に明るさが戻って行く。実はごきょうやが『啓太がヘンタイではない』と言いかかったもののそれを言いなおしたことには全く気付いていないようだ。

「あらあらあららぁ~? それはごきょうやちゃん、啓太様に恋の稲妻ですか~?」
「フラノ、今度の定期検診はわたしが担当になるがそれでもいいか?」
「じょ、冗談ですぅぅ~!」

面白いネタを見つけたとばかりにフラノがごきょうやに絡むも、慣れた様子でそれを捌かれフラノは涙目になっている。フラノの扱いに慣れているごきょうやだからこそできる芸当だった。


やっぱりこいつらは掴みどころが分からんな……。まあ、ごきょうやが上手くまとめてるみたいだけど……そう言えばさっきのやり取りといい、以前の依頼の時といい、ごきょうやって何というか……なでしこに近い感じがあるな。もっとも容姿も雰囲気も全く違うのだが。なんて言うか……


「なんて言うか……ごきょうやって母親っぽいよな……」

啓太はどこかぽつりと、呟くように言葉を漏らす。それは特に他意はない自然な感想。だがその瞬間、ごきょうや達の動きが止まる。特にごきょうやは驚いたような表情をみせながら何故か顔を真っ赤にしている。それはいつものクールな姿からは想像できないようなもの。

「なるほど~。ごきょうやちゃんは啓太様の継母役を狙ってたんですね~♪」
「フ、フラノっ! 啓太様に失礼なことを言うな!」
「え~? でもごきょうやちゃんにはぴったりの役だと思いますよ~?」
「……? どういう意味だ?」
「それは」
「な、何でもありません、啓太様! それよりもこれからどうなさいますか!? よければ屋敷をご案内しますが!?」
「……ごきょうや……フラノが気を失いかけてる」

ごきょうやは瞬時にフラノの口を塞ぎながら矢継ぎ早に啓太に問いかける。だがその力が強すぎるせいかフラノが呼吸困難になり気を失いかけている。本当なら止めるべきなのだろうがまあいい薬だろう。そんな中

「けーた様! あたしお庭で一緒に遊びたいです!」

待ってましたとばかりに手を上げながらともはねが大きな声で宣言する。そんなともはねの言葉に啓太達は呆気にとられてしまう。だがともはねははしゃぎながら、期待に満ちた様子で飛び跳ねている。それがともはねの楽しみ。今日啓太が屋敷にやってくると聞いてからずっと考えていたこと。もちろんともはねは啓太の家で頻繁に遊んでもらっている。啓太が疲労で疲れこんでしまうほどに。だがやはり部屋の中では狭く、また公園でも人目があるため思う存分遊べなかった。しかし屋敷の庭ならその心配もない。思いっきり遊べることができるチャンス、それをともはねはずっと狙っていたのだった。

そんなともはねの提案に啓太は顔を引きつらせることしかできない。いつもともはねと遊んでいるのに何故薫の屋敷に来てまで同じことをしなくてはいけないのか。加えて明日から修学旅行も控えている。できれば体力は残しておきたい。だが

「楽しそうです~フラノたちも一緒に混ぜてください~♪」
「こ、こら、フラノ! 啓太様を困らせるんじゃない!」
「じゃあごきょうやちゃんは参加しなくてもいいですよ? フラノとてんそうちゃん、ともはねの三人で遊んでもらいますから♪」
「そ、それは……」
「ずるい! あたしが遊んでもらおうって言ったのにー!」
「みんな一緒なら問題ないと思う」

いつのまにかごきょうやの拘束を抜け出したフラノが中心になり啓太を置き去りにしたまま四人はもみくちゃになっていく。どうやら啓太の意志は全く考慮されていないらしい。啓太は溜息を吐きながらもあきらめる。どうやら結局家にいる時とそう変わらないことになりそうだと。

「とりあえずお前ら……遊ぶのはいいけど噛みついてくんじゃねえぞ。もう体中歯形だらけになるのは御免だからな」
「はい! 大丈夫です、ちゃんと我慢します!」
「心配いりませんよ、啓太様。フラノは嗜みのある淑女ですからそんな野蛮なことはしません♪」
「嘘つけっ!? 前散々噛みついてきたじゃねえかっ!?」
「……啓太様にとっては御褒美」
「おいっ!? さらっと誤解を招くようなこと言ってんじゃねえっ!?」
「申し訳ありません、啓太様……」
「じゃあ、あたしボールとフリスビーもってきますねー!」

いつもと変わらない、いやいつも以上の騒がしさの中、啓太は四人の犬神の遊び相手をするはめになったのだった―――――



啓太たちがそんな大騒ぎをしているのと同じ頃、屋敷のある一室で二人の少女が、犬神が向かい合って腰かけていた。それはなでしことせんだん。二人はその手に高級そうなティーカップを持ちながら紅茶を口にしていく。なでしこはもちろん、その容姿と相まってせんだんはまさに絵になっているといった様子。ここが日本であるとは思えないような空間だった。

「こうしてあなたとお茶をするのも久しぶりね、なでしこ」
「ええ、あなたも相変わらずのようね、せんだん」

どこか親愛を感じさせるせんだんの言葉になでしこもまた微笑みながら答える。今、なでしこはせんだんにお茶に誘われ部屋に招かれていた。少し啓太が心配ではあったがごきょうやたちも一緒だし大丈夫だろうと判断し、好意に甘える形でお茶をいただくことになったのだった。

「やはりこうして静かにお茶を飲める相手というのは貴重ね。家の子たちはお淑やかさが足りないところがあるから」
「ふふっ、でも賑やかそうじゃない。九人もいると色々と大変そうだけど」
「ええ、若い子たちが多いからね。でもいぐさやごきょうやが上手くフォローしてくれるから助かってるわ。そっちはどうなの、なでしこ?」
「わたしも問題ないわ。楽しくお仕えさせてもらってる」

そんななでしこの偽りない笑みにせんだんはどこか安堵する。どうやら本当に上手く、楽しくやっているようだ。実はかなり心配していたのだが。何故なら

「そう……それと謝っておくわ。たゆねたちのこと。悪気はないのだけれど、どうしても啓太様には失礼なことをしてしまっているわ」
「それはまあ……でも啓太さんも怒ってらっしゃらないから」

せんだんの言わんとしているところを悟ったなでしこは苦笑いしながらも紅茶に口を付ける。その味は市販のティーパックとは比べ物にならない。紅茶にそれほど詳しくないなでしこでもその違いは明らか。そんな中、なでしこは考える。

確かに自らの主である啓太に対して失礼なことを口にしたり、態度をとったりしているのは気分が良いものではない。契約した頃はそんな態度を取る相手に対しては敵意を向けていたのだがそれを当の啓太に止められてしまった。どうやら啓太自身はそれほど気にしてはいないらしい。まあ、全く気にしていないわけではないようだが。そして何よりも一つ、大きな理由がある。それは優越感。

『落ちこぼれの犬神使い』

それが啓太さんの二つ名。不名誉な、誇ることのできない烙印。川平家からも、犬神達からもそう啓太は見られている。実際それは当たり前のこと。その素行や行動からみれば当然といえるもの。

でもわたしは知っている。いやわたしだけが知っている。自らの主の本当の姿を、本質を。恐らくは『犬神使い』として最も大切なものをあの人は持っているのだと。それはある意味天才と呼ばれる川平薫とは対極の魅力。わたしだけがそれを知っている、独占できていることがなでしこの密かな優越感だった。もっともともはねは子供であるがゆえにそれに気づいているようだが。


「そう言ってもらえると助かるわ……。でもたまにはあなたも山に顔を見せなさい。お父様……最長老様も心配してたわよ」
「ごめんなさい、なかなか帰る機会がなくて……」
「まあ、わたしも最近は戻れていないのだけれど……どうやらお兄様は苦労されているらしいわ。」
「はけ様が……?」
「ええ、聞いていないの? 何でもあのようこが最近山で面倒事ばかり起こしているらしいの。それを納めるのに苦慮なされているらしいわ。全く……大妖狐といい、面倒事ばかり起こすのだから……」
「…………」

せんだんは困った表情を見せながら紅茶を手に取る。犬神になりたいと言いだしてから少しは大人しくなったとばかり思っていたのにどうやら元の鞘に収まってしまったらしい。父である最長老、兄であるはけも何故かようこには甘いところがある。何故封印してしまわないのか首をかしげるところだ。そんな中、ふと気づく。なでしこが先程からずっと何かを考え込んでいることに。

「……どうかしたの、なでしこ?」
「……いえ、何でもないわ。それよりも薫様はいつ戻ってこられるの? もう修学旅行にはいかれてるんでしょう?」
「ええ、あさってには戻ってこられるわ。啓太様よりは一日早くね。あなたもきちんと挨拶したことはないのでしょう?」
「そうね、何度かお見かけしたことはあるのだけど」

なでしこはどこか強引に話題を変えながらせんだんへと話しかける。その違和感に気づかないせんだんではないがあえて触れることなく話を続ける。それが序列一位たるせんだんの資格、力でもある。

「そういえばなでしこ、ずっとあなたに聞きたいと思っていたことがあるの……聞いてもいいかしら?」
「? ええ……?」

どこか気を取り直しながら尋ねてくるせんだんになでしこはぽかんとした表情を見せる。一体何なのだろうか。せんだんはそんななでしこを見ながら一度咳払いした後、尋ねる。


「あなたは……どうして啓太様に憑いたの……?」


そんな、なでしこにとって自らの主からも何度も聞かれたことのある質問を。なでしこは一瞬驚いたような表情を見せながらも改めてせんだんに目を向ける。そこにはいつもと変わらないせんだんの姿がある。だが彼女自身の好奇心が隠しきれていない。厳格な彼女にしては珍しい姿。それは薫の犬神達全員共通の疑問だった。それを感じ取りながらも

「……内緒です♪」

どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながらなでしこは答える。いつもと同じように。それがこの質問をされた時のなでしこの対応。そんななでしこの姿に呆気にとられていたもののせんだんはどこか一本取られたと言った風に苦笑いするしかない。

「そう……残念。ずっと聞きたかったのだけれど……」

せんだんはどこか誤魔化すように自らの部屋の窓に目をやる。だがその瞬間、せんだんの目にある光景が映る。そこには庭で遊びまわっている啓太とともはねたちの光景があった。

「……どうしたの、せんだん?」

そのまま何かを見つめたまま固まってしまっているせんだんになでしこは不思議そうに声をかける。だがせんだんはずっと何かに気を取られたまま。何かあったのだろうか。なでしこの位置からはそれを見ることはできない。だが

「いえ……少しあなたが啓太様に憑いた理由が分かったような気がしただけよ」
「?」

せんだんは一度目を閉じながら再びお茶を飲み続ける。そんなどこかおかしなせんだんに首をかしげながらも席を立つのも失礼だと考えなでしこも同じようにお茶を楽しむことにするのだった―――――



(ああもう、イライラする……!)

どこかイライラを募らせながら、不機嫌な様子を見せながら一人の少女が屋敷の廊下を早足に歩いている。それはたゆね。たゆねはそのまま一直線に屋敷の玄関に向かって行く。その不機嫌さの原因は言うまでもなく今日の来客、啓太にあった。元々怒りっぽい、子供っぽいところがあるたゆねだが誰かれ構わずこんな態度を取るわけではない。根はかなり正直、純粋なのだが天の邪鬼とも言っていい性格のせいでたいてい初対面の相手に対しては誤解を与えてしまうのが彼女の悩みの種だった。しかし、今回は事情が違う。何故なら相手はあの川平啓太なのだから。

神聖な儀式で労働条件を連呼しながら走り回るという前代未聞の行動。えっちでスケベ。ストリーキングで何度も捕まり、ヘンタイたちとも知り合いだと言う極めつけの変人。何故なでしこがあんな奴に憑いたのか理解できない。しかも自らの主である薫もどうやら啓太のことを慕っているらしい。ともはねはともかくごきょうや達もそれは同じ。訳が分からない。一体みんな何を考えているんだろう!? あいつは他人の胸を揉むようなヘンタイなのに! 僕は絶対にあんなやつに騙されない!

たゆねはそのまま靴を履き替え、玄関から外に出て行く。それは日課であるジョギングにでかけるため。本当なら時間ではないのだがこのイライラを解消するため、そして啓太から離れるいい口実ということでたゆねはそのままジョギングを始めようとする。だがそんな中、ある光景を目の端に捉える。

(あれは……?)

たゆねはその光景に思わず目を奪われる。そこには庭の中でフリスビーで遊んでいる啓太、いや啓太にフリスビーで遊んでもらっているともはねの姿があった。だがそれだけならここまでたゆねが目を奪われることはない。ともはねが頻繁に川平啓太の所に遊びに行っていることはみんな知っている。ならおかしいことはない。

だがともはねだけでなくフラノたちもその中に加わっている。何よりも普段はクールでそういった遊びの類には加わらないごきょうやまでが加わっている。それだけでもたゆねの興味を引くには十分すぎる物だった。たゆねはばれないように静かにその場に近づき様子を伺う。


「いくぞ、お前ら――――!」

大きな声を上げながら啓太は複数のフリスビーを次々に投げ放って行く。その姿はさまになっている。何だかんだ言いながら楽しそうなその姿はやはり啓太が犬神使いであることの証でもあった。

そしてその投げられたフリスビーに向かってともはねたちは駆けながらまるで犬の様にそれを口にくわえキャッチする。皆まるで野生に帰ってしまったかのような俊敏な動きを見せている。二足歩行ではなく、両手を使った本来の四足歩行でともはね達は庭を駆けまわり、いつもは隠している尻尾があらわになっている。ともはねに至っては尻尾だけでなく犬の耳まで現れてる始末。もっともごきょうやだけはいつも通りの姿でそれに参加しているものの、やはりその本能を隠しきることができないのか尻尾が現れてしまっている。

「けーた様―! 取ってきましたー!」
「よし、よくやったぞ、ともは……ぶっ!? や、やめろ!? いてええええっ!?」
「けーた様! 今すぐ狩りに行きましょう! きっと楽しいですから!」
「いいですね~♪ フラノもお供しますよ~♪」
「わたしも」
「お、お前達! やめないか!」

ともはねを皮切りにしてフラノ、てんそうもまるで山に帰ったかのように啓太に飛びつき、噛みついて行く。啓太はその痛みに悲鳴をあげて逃げ回っているがそれをまるで獲物のようにともはね達は追いかけ回し、ごきょうはそんなともはね達を何とかしようと奔走する。いつの間にかフリスビーではなく鬼ごっこになってしまっていた。もっとも追われているのは啓太だけだったが。


(ふ、ふん……みんなして子供みたいに遊んじゃって……)

心の中でそんな言葉を吐き捨てながらもたゆねはその光景に釘づけになってしまっていた。知らず体がうずうずし、尻尾が姿を現している。それは犬神としての本能。一緒にあれに混じって遊びたいというもの。特に若いたゆねはそれが強い。加えてたゆねは薫の犬神の中でも体育系、動くことを得意としている犬神。その証拠にたゆねはジョギングを日課にしている。

主である薫にもフリスビーで遊んでもらうことはある。だが薫の前であること、恥ずかしさからあまり本気はしゃぐことはできなかった。だが目の前のともはねたちは間違いなく本気で遊んでもらっている。とても楽しそうに。(実際楽しいのはともはね達だけ)その姿に思わず自分もあの輪に加わりたいという欲求が湧いてくる。だが天の邪鬼なたゆねにそれができるはずもない。何よりも相手はあの啓太なのだから。そんな中


「お前らいい加減にしろっ!! 鬼ごっこじゃなくてフリスビーだっつーの!!」


啓太が息も絶え絶えにその手にあったフリスビーをともはねたちに向かって投げる。だがすっかり啓太を追いかけ回すことに夢中になってしまっていたともはねたちはそれに反応することができない。そしてフリスビーがそのままあさっての方向に飛び去ってしまいそうになったその時


ぱく。


そんな音が聞こえてきそうな光景がそこに姿を現す。その光景に啓太はもちろん、ともはねたちも目を奪われ、動きを止めてしまう。そこには


フリスビーを咥えたたゆねの姿があった。


「…………」
「「「…………」」」


瞬間、空気が、時間が止まる。一体目の前の光景が何なのか分からないといった風に。だがそれはともはねたちだけではない。当の本人であるたゆねが一番この状況に驚き、固まってしまっていた。自分の方に飛んできたフリスビーを思わず咥えてしまった。それは本能、条件反射の様な物。犬神の悲しい習性だった。


「なにやってんだ……お前……?」


啓太がどこか呆れ気味に、ぽつりと口にする。啓太とすればどうしてたゆねがここにいるのか、というか何故フリスビーを咥えているのか理解不能だったから。


「~~~~~~っ!?!?」


瞬間、たゆねは声にならない悲鳴を上げながら脱兎のごとく森の中へと向かって駆けて行く。まさに一瞬の出来事。陸上選手もかくやというスタートダッシュ。だが啓太は思わず声を上げそうになる。それはたゆねの進行方向。その前には森の木々がある。だがたゆねはそれに気づかないようにまっすぐそれに突っ込んでいく。このままではぶつかってしまう。啓太は咄嗟にポケットにあった蛙の消しゴムを取り出そうとするが

たゆねはそのまま木々をなぎ倒しながら森のなかへ突込んでいってしまう。まるで暴走する機関車のように、木など無いかのように。その体に光を纏いながら。

「…………え?」

啓太はその光景に唖然とするしかない。後にはまるで戦車でも通ったかのように抉られてしまった地面となぎ倒された森の無残な姿があるだけ。とても現実は思えないような光景。

それは『破邪走行、発露×1 たゆね突撃』と呼ばれるたゆね専用の技。自らの霊力を体内で増幅し、相手をなぎ倒す一種の自爆技と言ってもいい物だった。


「きゃああっ!? たゆね、あんたまたやったのっ!?」
「これで今月三度目だよっ!? 直すあたしたちの身になってよっ!?」

音を聞きつけてやってきたいまりとさよかがその惨状に悲鳴を上げる。どうやら森の管理をしているのは彼女達らしい。だがその声も何のその。たゆねはそのまま遥か彼方、姿は見えなくなってしまった。

「相変わらず恥ずかしがり屋ですね、たゆねちゃんは♪」
「まったく、困ったものだ……」
「けーた様―! 早く続きをしましょうー!」

啓太はともはねに体を引っ張られながらも全く反応しない。どこか放心状態になってしまっていた。それは気づいたから。

もしあの時、自分がともはねの姿でなければどうなっていたか。

啓太は誓う。絶対にたゆねにセクハラの類は行ってはならないと。そんなことすれば命がないと。比喩でなく文字通りの意味で。

早くこの屋敷から出て行きたい。そう心の底から願う啓太だった――――――



[31760] 第十七話 「落ちこぼれの犬神使いの奮闘記」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/19 22:55
「ったく……結局前と同じことになっちまったじゃねえか……」

どこか恨めしそうな表情を見せ、体中に無数の歯形を付けた啓太がぼやく。服もボロボロになり、まるで獣に襲われてしまったかのよう。それはある意味真実だったのだが。

「ご、ごめんなさい、けーた様……」
「でも楽しかったですよ♪ 久しぶりに運動した気がします♪」
「楽しいのはお前らだけだろうがっ!? ちょっとはこっちの身にもなれっつーのっ!?」
「申し訳ありません、啓太様。後でちゃんと言って聞かせますので……」
「あ、ごきょうやちゃんずるいです! ごきょうやちゃんだって楽しんでたのに~」
「な、何を言っている!? わたしはそんなことは」
「ちゃんと尻尾が揺れてたの見たよ、ごきょうや」

そんな騒がしさを撒き散らしながら啓太達は屋敷の廊下を並んで歩いていた。庭でのフリスビー(途中からは鬼ごっこ)が一段落したため少し休憩しようという流れになったためだ。もっともともはねたちは特に疲労しているわけではなく、啓太の体力的問題が一番だったのだが。


まったく……結局散々な目に会ったぜ。何となく予想はしていたのだがやっぱりこいつらと遊ぶのは骨が折れる。ともはねの相手だけでいつも手一杯だったのだから当たり前っつーと当たり前だが……。しかし美少女達にもみくちゃにされるというある意味男の夢の様なシチュエーションだったはずなのに全くそんな余裕も感慨もなかった。まさしくこいつらが犬、いや犬神なのだと思い知らされたような気がする……まあ、マッチョな男たちにくんずほぐれつされるよりは雲泥の差だが………っといかんいかん!? あれはもう二度と思い出してはいけない記憶、トラウマだ! 心の奥に封印しておかなければ……! それはそうと


「そういえばたゆねの奴はどこ行っちまったんだ……? 結局帰ってこなかったけど」
「御心配には及びません。きっと山のふもとまで行ってしまったのでしょう。力を使い果たせば戻ってくるはずです」
「日常茶飯事」
「そ、そうか……でもあいつ一体何がしたかったんだ?」
「きっと遊びに加わりたかったんですよ♪ でも恥ずかしくて言えなかったんでしょうね~流石たゆねちゃん、つんでれです♪」
「あっそ……」
「つんでれってなんですか、けーた様?」

フラノの言葉に啓太は顔を引きつらせることしかできない。それが事実なのかどうかはさておきあの力は恐ろしい物がある。流石は薫の犬神の中で最強の犬神といったところか。もっともそれを使いこなせているかどうかははなはだ疑問だが。というか照れ隠しの度にあんなことになるなんて怖すぎる。ごきょうやたちは慣れた様子だったがその矛先が向けられかねない自分にとっては死活問題だ。決して冗談ではないレベルで。ちょっと本気で距離を置いた方がいいかもしれんな……スタイルは抜群なんだが命には代えられん。しかし収穫もあった。やはり少女の姿をしていてもこいつらは犬神、犬であるということ。ならば仲良くなるための方法もある。幸いにも状況からそれも可能だ。あとは

「あれ、啓太さん?」
「お、なでしこ? 今までどこに行ってたんだ?」

考え事をしながら歩いていると廊下の角でなでしことばったり出くわす。ちょうどよかった。今まさに考えていたところだ。だが一体どこに行っていたのだろうか。そんな疑問を抱いている中、なでしこの後ろから二人の人影が姿を現す。

「申し訳ありません、啓太様。わたしがなでしこを引きとめてしまっていたのです」
「せんだん? そっか、まあいいや。それよりなでしこ、ちょっと頼みたいことが」

そう言いかけたところで啓太は動きを止める。その視線の先にはなでしことせんだんの後ろに隠れるようにしてこちらの様子を伺っている少女の姿がある。それはいぐさ。どうやら二人と一緒に歩いていたらしい。だが啓太を前にすることでおどおどした様子を見せている。そんないぐさの姿に啓太はたじろぐことしかできない。明らかに自分がその原因であるのだから。だが不用意に声を掛けても先の繰り返しになってしまうの目に見えている。どうしたものかと考えていると

「申し訳ありません、啓太様。いぐさは少し男性を苦手にしていまして……気を悪くしないで頂けると助かります」

そんな啓太の様子を見かねたせんだんが助け船を出す。その言葉に啓太の表情に少しだが安堵が浮かぶ。どうやら本気で怯えられていたわけではなさそうだと。だが本当は啓太のヘンタイさがその八割以上の理由なのだがせんだんはあえてそのことには触れない。まさに気遣いができる淑女たる彼女の美徳だった。そんな中、ふと啓太が何かに気づいたようにいぐさの顔を凝視する。

「ひっ!?」
「………」

いきなり自分の顔をまじまじと見られたことでいぐさは小さな悲鳴を上げる。だが啓太はそんないぐさの様子に気づくことなくじーっとその姿を見つめ続けている。このままではよくないとせんだんが声をかけようとした時


「……やっぱりそうだ! お前あの時、森の中で会った女の子だろ!?」
「………え?」

啓太はどこか嬉しそうな声を上げながらいぐさへと近づいて行く。まるで喉に引っかかっていたものが、胸につかえていた物がなくなったかのように。そんな啓太の様子にいぐさはもちろん、その場にいた全員が呆気にとられてしまう。目の前の事態が全く理解できなかったからだ。

「あの……啓太様、おぼえてらっしゃったんですか……?」
「当たり前じゃん、こんな可愛い女の子なんて忘れるわけないし……でも眼鏡かけたんだな。あの時は掛けてなかったんで気づかなかったぜ。悪いな」
「い、いえ……」
「啓太様、いぐさとはお知り合いだったのですか……?」
「ん? まあ知り合いって程じゃないけど、儀式の時に偶然会ったことがあってさ。結局誘おうとしたんだけど振られちまって」
「あ、あの時はその……し、失礼しました……」

緊張によってどぎまぎしながらもいぐさは何とか啓太の言葉に応えていく。せんだんの後ろに隠れながらではあるが。懐かしさと思い出せたことによる喜びから啓太も次々にいぐさへと話しかけて行く。いぐさ自身もどうやら少しずつ慣れてきたのか一言二言ではあるが会話になりつつある。そんな二人の姿を興味深そうに皆見つめ続けていた。あの儀式の中でなでしこ以外に啓太と接触していた犬神がいたとは皆知らなかったからだ。その経緯もある意味啓太らしいものだったのだが。

(これは面白いことになってきましたよ~♪)

場をかき回すことに稀有な才能を持っているトリックスターフラノは楽しそうな笑みを浮かべながら二人の間に割って入ろうとする。だがその瞬間

「っ!?」

激しい痛みがフラノを襲う。その痛みはフラノのふくよかなお尻からのもの。悲鳴を何とか噛み殺しながらも振り返ったそこには目を閉じ、すずしげな表情を見せているごきょうやがいた。だがその手がしっかりとそのお尻をつねっていた。

『ひどいです~ごきょうやちゃ~ん』

涙目でそんな心の声を投げかけるもごきょうやは応じることなくフラノの行動を制止する。せっかく男性恐怖症の気があるいぐさがあそこまで啓太と会話できているのを邪魔させまいとする配慮だった。どうやら今回はあきらめるしかないと観念したのかフラノはしぶしぶその場から離れて行く。隠れたごきょうやのファインプレーだった。そんな水面下の動きがあったことなど気づかないまま啓太はさらにいぐさへと話しかけて行く。

「そういえばお前って序列二位なんだろ? なんでそんなに序列が高いんだ?」
「そ、それは……」

啓太は思い出したかのように尋ねる。それは序列のこと。薫の犬神達は皆序列を持っており、それはある意味力の優劣を現している。現にリーダーであるせんだん、力が強いたゆねなどは上位に位置しているのがその証拠。だが目の前のいぐさは言っちゃ悪いが全然強そうではない。強さじゃともはねの次ぐらいじゃないかと思ってしまうほど。それなのに何故。

「啓太様、いぐさは特殊な才能を持っていまして……それが彼女が二位である理由なのです」
「特殊な才能……?」
「はい。一言でいえば商才です」

自ら答えることができないいぐさに代わり、せんだんがその理由を啓太へと説明していく。

いぐさは元々コンピュータの操作、金銭感覚に優れていたところがあった。それを見抜いた薫がその才能を生かす場を与えたことでいぐさはそれを発揮。オンライントレードなどを通じて多くの利益を生み出した。いくら薫といえども今はまだ学生。九匹もの犬神を養って行くことは難しい。それができているのはいぐさが経済面でそれを支えているからこそ。まさに縁の下の力持ち、サポートの役目をいぐさはこなしているのだった。

「この屋敷もこの子のおかげで手に入れることができたようなものですよ」
「ま、まじかよ……」
「い、いえ……」
「お前そんなにすごい犬神だったのか……くそ、惜しいことしたな。なあ、今からでも俺んとこの犬神にならない!? ほんのちょっとでいいからさ!?」
「そ、それは……」

啓太のどこか興奮した言葉にいぐさは顔を赤くしながらもどこか満更でもないような表情を見せている。やはり自分をほめてくれたことが嬉しいようだ。啓太ももちろん本気でそれを言っているわけではない。どうやら会話ぐらいはできるようになったことが嬉しかったのがその理由。もっともいぐさの力のおこぼれにあずかりたいという魂胆もないわけではないのだが。

だがそんな二人のやりとりを眺めていたせんだんたちは突然、寒気を感じる。それは犬神の、いや女の本能の様な物。皆が一斉にそこへと視線を向ける。そこには


どこか黒いオーラを纏っているなでしこの姿があった。


その光景に彼女たちは戦慄する。なでしこの表情はいつもと変わらない。柔らかい笑みを浮かべている。だがそれが今、余計に怖い。本人は隠している気のようだがその不機嫌さがにじみ出ている。その理由はもはや語るまでもない。いつもはそれをネタにするフラノですら固まってしまっている。全く状況を理解していないのはお子様のともはねだけだった。

「け、啓太様、そういえば先程なでしこに頼みごとがあったようですが」

せんだんはこのままではよくないと瞬時に悟り、二人の間に割って入る。珍しく男性と話すことができているいぐさには悪いがこっちの方が事態が深刻だと判断したため。その行動によって一気に先程のまでの寒気が、緊張が霧散していく。ともはね以外の犬神達は心の中で大きな溜息を、安堵を漏らす。だが当の啓太は全くそのことには気づいていないようだ。もしかしたらなでしこは啓太だけには感じさせないような術を持っているのでは疑いたくなるほど。

「そうそう、すっかり忘れてたぜ。なでしこ、ちょっと手伝ってほしいことがあんだ」
「手伝ってほしいことですか……?」
「ああ、せんだんにもちょっと頼みたいことがあんだけど……」

啓太はそのまま先程思いついた策を実行に移すべく動き始めるのだった―――――




「たゆね、ちゃんと直すの手伝いなさいよ!」
「いい加減にしないと薫様にいいつけるんだから!」
「わ、悪かったって言ってるだろ!? ちゃんと僕も手伝うって!」

いまりとさよかの恨みすらこもった抗議の声にたゆねはたじろぎながらも謝罪することしかできない。いつもならもっとぶっきらぼうに対応するのだが今回のはどう考えても非は自分の方にあるため強く出ることができないでいた。もっともたゆねとしては納得いかない物があるのだが。

(う~~! 何で僕がこんな目に……)

たゆねはどこかぶすっとした不機嫌そうな様子でテーブルに突っ伏してしまう。今、たゆねたちは夕食前ということで食堂へと集まっている。既に自分を含めた全員が席についている。本当なら啓太がいるであろう場所へは近づきたくないたゆねではあったが流石に夕食抜きというのは割に合わない。育ち盛りでもあるのだがらなおさら。だが不満だけは晴れないらしい。あの後、たゆねは結局山のふもとまで駆け下り体力を使い果たしてしまいくたくたになってしまった。そのためその原因である啓太にさらに不満を募らせている。もっとも啓太からすれば逆恨みにも程があるのだが。本質的に子供っぽいところがたゆねの長所でもあり短所でもあった。そんな中

「あれ……?」

そんな声を知らずたゆねが漏らす。どうやらそれはいまりとさよかも同じらしい。三人とも同じようにきょろきょろとあたりを見回している。彼女たちはテーブルについている仲間たちの数を何度も数え直す。間違いなく自分たちを含めて九人。全員揃っている。だがそれこそがおかしい。何故なら今は夕食。自分たちの食事は当番制。そのため食事の際には何名かはその準備のために席をはずしている。それなのにこの場には全員がそろっている。確か今日はせんだんが啓太たちのために腕を振るうと言っていたはず。そんな疑問を口に出そうとしたその時

「いや~悪い悪い、久しぶりだったんでちょっと時間がかかっちまった!」
「皆さん、お待たせしました」

食堂の厨房から何故かエプロン姿(裸ではない)の啓太と台車を押しているなでしこが姿を現す。その光景にたゆねといまり、さよかは呆気にとられるしかない。だが他のメンバーたちは特に驚いた様子を見せていない。どうやら自分たちだけが知らなかったらしい。ともはねにいたってはどこかドッキリ、悪戯が成功したかのように笑いを抑えている。それに文句を言う前に啓太となでしこがその台車から次々に料理をテーブルに並べて行く。啓太はともかくなでしこの姿は様になっている。というか似合いすぎていて怖いくらいだ。そんなことを考えている間に夕食の準備が完了する。

「「「おお~~~!」」」

皆から同じように歓声が上がる。少女たちの前にはどこか本格的な料理が並べられている。見た目はどこか崩れているものもあるが間違いなく美味しそうな匂いが漂っている。これこそが啓太の狙い。いわゆる餌付けだった。情けない思考ではあるが犬でもある犬神にとってはきっと有効だろうという考えによるもの。

「せっかく招待してもらったんだしこれぐらいしねえとな。ちょっとなでしこにも手伝ってもらったけどほとんど俺が作ったもんだ。味はそこそこいけるはずだから食べてみてくれ!」

どこか自信満々な啓太の様子に隣にいるなでしこもどこか楽しそうに微笑みを浮かべている。どうやら本当に啓太が作った料理らしい。控えめに見ても料理ができるとは思っていなかった少女たちは驚きの表情を見せている。てっきりなでしこが作ってきたのだとばかり思っていたからだ。

だがそんな中、たゆねだけはまるで意地のように不機嫌な態度を貫いている。そんなことをしても自分はなびかないと主張するかのように。だが悲しいことに体は正直なのか空腹によってお腹が鳴り始める。幸いにも周りには聞こえていないようだが食べるものがこれしかないのだから仕方ない。そんなよくわからない言い訳を自分でしながらも皆がその手に箸を持ち食事を始めようとする。餌付けというシンプルな、古典的な手ではあるが思いのほか効果はあったようだ。

「「「いただきまーす!」」」

声を合わせながら薫の犬神達は一斉に料理に手を出していく。その様子を啓太は満足気に、なでしこは優しく見守っている。どこか子供たちが食事をしているのを見守っている夫婦の様な空気がそこにはあった。


ふう……久しぶりでちょっと心配だったが何とかなったか。まあ家ではなでしこがいるから作る機会がなかったがやっぱり体は覚えてるもんだな。一人暮らししてた時には作らねえとやっていけなかったし……少しなでしこに手伝ってはもらったが基本的には全部俺の料理だ。フラノやてんそうじゃねえがこれで少しでも好感度が上がってくれれば儲けもんだな。


そんな身も蓋もないことを考えながら啓太も料理に手を出そうとした瞬間、その手が止まる。何故ならそこには薫の犬神達全員がどこか驚いたような表情で箸を止めてしまっている光景があったから。なでしこもそんな皆の姿に驚き呆気にとられている。


「みなさん……どうかされたんですか……?」

なでしこがどこか不安そうに、恐る恐る尋ねるも少女たちは何故か固まったまま。まるで何かに驚いているかのように。

「な、なんだ……もしかしてそんなに不味かったかっ!?」


そ、そんなはずはっ!? 確かに久しぶりだったし、なでしこの料理には到底敵わないがそんなに固まってしまうほど味は悪くないはず。ちゃんとなでしこにも味見してもらったから間違いない! い、一体何が……!?


「ち、違います啓太様。とても料理はおいしいのですが……」
「うん、美味しいんだけど……」
「これって……」

どこか慌てたせんだんの言葉に続くようにいまりとさよかがどこか要領を得ない言葉を口にしながらある方向に、いやある人物へと視線を向ける。それに続くように他の犬神達も同じ人物へと視線を向ける。そこには


「ごきょうやの料理の味だよね……?」


どこか言い表せないような難しい表情を浮かべているごきょうやの姿があった。


「確かに、わたしもそう思ったんだけど……」
「ごきょうやちゃん、啓太様達を手伝ったんですか~?」
「え? でもごきょうやはあたしたちとずっと一緒にいたよ?」

皆同じことを思っていたのが分かり、どこかざわざわした雰囲気が食堂を支配していく。どうやら薫の犬神達は皆、啓太の料理がごきょうやの料理の味付けとそっくりだったことから驚いてしまったらしい。だが啓太には何が何だか分からない。

「えっと……何がどうなってんの……?」

そんな啓太の様子、そして周りの仲間たちの姿に一度溜息をつきながら、どこかあきらめをみせながらごきょうやはいつもどおりのクールな姿でそれに応える。


「……似ていて当たり前です。啓太様の料理はわたしの料理の味付けと同じなのですから」


その言葉に皆首をかしげることしかできない。だがそんな中、なでしこだけは何かに思い至ったのかはっとしたような表情を見せている。だが当の本人の啓太にはさっぱり理解不能だった。

「ごきょうや、啓太様に料理をお教えしたことがあったの?」
「え? 俺、ついこの間までごきょうやと会ったことすらなかったんだけど……」
「そうです。わたしが料理をお教えしたのはあなたのお父様、宗太郎様です」
「え!? 親父の!?」
「……ええ、わたしはかつてあなたのお父様の犬神だったのですよ、啓太様」

ごきょうやはどこか感慨深げに、目を閉じながら告げる。その表情からごきょうやの感情を読み取ることはできない。だがその言葉によって啓太はおおよその事情を悟る。

(そういうことか……)

どこか納得がいった表情を見せながら啓太は考える。川平宗太郎。今はイギリスで啓太の母と共に暮らしている父。啓太はその父から料理を教わっていた。普通は母から教わるのだろうが啓太の母は家事がからきしできない仕事人間。宗太郎はそんな母をサポートする主夫のような立場だった。そして宗太郎は啓太が物心ついた頃から既に一匹も犬神を持っていなかった。それを不思議に思っていた啓太だったがやっとその理由に気づく。

それは母の存在。啓太の母は一言で言うと嫉妬深い。犬神とはいえごきょうやの様な女性の犬神がいることを許せなかったのだろう。そして宗太郎はそんな母の言葉にはきっと逆らえなかったに違いない。だがこれで合点が言った。何故ごきょうやが初めて会った時に妙な視線を自分に向けていたのか。さっきのフラノの言葉の意味も。


「………」
「………」

どこか気まずい沈黙が二人の間に流れる。何か言わなければいけないと思う啓太だったが咄嗟に言葉が出てこない。いや、出てきたとしてもこんな全員の前で言うのも何だかはばかれる。ごきょうやも目を伏したまま。そんな中

「と、とにかくみなさん、料理を召し上がって下さい。冷めてはいけませんから」
「そうね。せっかく啓太様が作ってくださったんだからいただきましょう」

このままではいけないと判断したなでしことせんだんがその場の空気を変えるため皆に告げる。その言葉で何とかいつも調子を取り戻した犬神達は次々に料理に手を出していく。啓太もその流れに身を任せることにする。そんなこんなでサプライズである夕食はあっという間に過ぎて行くのだった―――――



「うーん……」

夕食後、自分の部屋に戻った啓太はどこか真剣に、ずっと何か考え事をしているかのような顔を見せながら唸っている。その真剣さは普段の啓太からは想像できないような深刻なもの。それほどの理由が今の啓太にはあった。それは先程のごきょうやとのこと………ではなく、お風呂のこと。決してごきょうやとのことをないがしろにしているわけではないが今すぐそれを何とかしようとしても無理が出るだろう。現にごきょうやは内緒にしていたかったみたいだし……まあ、それは日を改めるとして。

とにかく今は風呂! それが一番重要だ! 夕食後、俺はせんだんにお風呂を勧められた。なんでも温泉を引き込んでおり、ガラス張りの温室、大きなプールの様な豪華な風呂らしく、薫からもぜひ堪能してほしいと伝言があったらしい。確かに聞いただけでその凄さが、素晴らしさが伝わってくる。だがそれだけではない。きっと薫の奴も分かっているに違いない。

そう、今夜なでしこはもちろん、他の犬神達もそこに入るであろうということ。

それこそが一番重要だ! 男としてそれを見過ごすことなどできない! むしろ覗く……ではない見過すことの方が彼女たちに失礼だろう、決して俺がヘンタイだからではない。こう……なんていうか、川平啓太としてこれは避けて通れない儀式のようなものだ!

そんな訳が分からない理論を展開しながら啓太は静かに彼女たちの入浴時間を探るため動きださんとする。だがその瞬間、閃光のように啓太の脳裏にある光景が蘇る。それは

今日見たたゆねの暴走によって破壊しつくされた森の惨状だった。

その瞬間、啓太はまるで飛び跳ねるようにその動きを止める。まさに獣様な動きだった。


あ、あぶねえ――――っ!? 俺、今何考えてたんだっ!? 死ぬ気か俺っ!? なでしこだけならともかくたゆねにそんなことしたらどうなるか想像したくもない……っていうか間違いなく死ぬ! いや、助かったとしても間違いなく全身包帯姿になるのが目に見えてる。これは予想ではなく確信だ! ふう……マジで危なかった……危うく悪魔のささやきに身を任せるところだった……俺が紳士でなければ命がなくなっていただろう……

啓太が冷や汗を流しながら一人でぶつぶつ独り言をつぶやいていると

「けーた様! 一緒にお風呂はいりましょー!」
「ともはね? 一緒にって……俺とか……?」
「はい! けーた様一人だけじゃ可哀想ですから!」
「そ……そうか……そうだな! じゃあ一緒に入るか、ともはね!」
「はい、みんな一緒の方が楽しいですよ!」

啓太は何故か心の涙を流しながらともはねと一緒にお風呂へと向かって行く。ともはねは啓太と一緒に入浴できるからか上機嫌だ。そんなともはねの姿をどこか感慨深げに啓太は見つめている。


うう……ともはね、なんていい子なんだ! 一人で入る俺のために誘いに来てくれるとは! ついさっきまで邪なことを考えていた自分が恥ずかしい。心が洗われるようだ。よし、ここは明日の修学旅行に備えてともはねと一緒に薫の家の風呂を堪能させてもらうことにしよう!


啓太は気分を切り替え、上機嫌にともはねとともにお風呂へと向かって行く。そんな啓太の雰囲気を感じ取ったのかともはねもはしゃぎながらその後についていく。だが啓太は気づいていなかった。それはともはねの言った『みんな』という言葉。その意味。ともはねは幼いころから女性だけの犬神の中で生活してきた。そして薫とも一緒にお風呂に入っている。そのため男と女が一緒にお風呂に入ることの意味をよく分かっていなかった。純粋な子供であるが故の無知。いつもの啓太ならそのことにも気づいたかもしれない。だがフラノ達と遊んだことで体力的に、たゆね達とのことで精神的に疲れていた啓太にはそれができなかった。

そしてその結果がここにある。


「………え?」


その声は果たして誰のものだったのか。だがそんなことすら啓太の頭にはなかった。それは目の前にいる少女達も同じ。ただいつもと違うところがあるとすれば………互いに一糸まとわぬ姿、全裸だったこと。

啓太はただその光景に目を、言葉を奪われてしまっていた。そこにはまさにこの世の全て、桃源郷がある。もはや言葉は必要ない。いや、言葉で表すことなどおこがましいと、後の啓太は語る。それでもあえてそれを為す。透き通った肌、美しいライン、大小様々な胸、もはや大きさなど何の意味もないと思えてしまうほどの光景。風呂上がりのせいで普段よりも蒸気した頬も素晴らしい。今ここで死んでも悔いはない。そう思えるほどの光景。鼻血を出すことすらできない衝撃だった。

そんな啓太の突然の登場に少女たちの顔が驚きと羞恥に染まる。唯一状況が分かっていないともはねだけがぽかんとしている。そして少女たちの甲高い悲鳴が響こうとしたその瞬間、


「啓太さんっ!! 今すぐ出て行きなさいっ!!」


そんな鬼気迫った、いや鬼よりも恐ろしいかもしれない声が響き渡る。その衝撃によって悲鳴を上げようとしたせんだんたちですら驚き、動きを止めてしまう。そこには普段の温和な、穏やかな姿からは想像もできない、本気で怒っているなでしこの姿があった。もしその矛先が自分に向けられていたから間違いなくトラウマに、泣いてしまうほどの迫力だった。そして


「ご、ごめんなさ―――――いっ!!」


その声にまさに光を超える速さで反応し、脱兎のごとく啓太は走り去ってしまう。まさに悲鳴に近い絶叫をあげながら。その光景にせんだんたちは呆気にとられるしかない。ついさっき裸を見られてしまったことすら忘れてしまうほどの衝撃だった。だがそれを向けられた啓太は自分たちの比ではないだろう。そしてそれは当たっていた。

まさに啓太にとって忘れることができないトラウマ。一緒に暮らし始めて唯一、啓太が本気でなでしこを怒らせてしまった記憶。それと同じ姿を、声を聞いてしまったことで啓太はまさに本能のまま逃げ出してしまったのだった。それはたゆねですら可哀想なのではと思ってしまうような光景だった。


「な、なでしこ……何もそんなに怒らなくてもよかったんじゃなくて……?」

どこか恐る恐る、まるで爆弾でも触るかのようにせんだんが皆の意見を、総意を伝える。知らず皆息を飲んでいた。それほど先程のなでしこの姿は恐ろしいものだった。普段怒らない人が怒ると怖いと言うがそんな次元を遥かに超えたもの。できれば夢だと思いたいほど。そんなドン引き、怯えている皆の姿に気づいたのか、


「い、いえ、その……みなさんの裸を見られてはいけないと思って……!」


慌てていつもの調子戻りながらなでしこは何とかその場を誤魔化そうとする。なでしこ自身どうやら反射的にしてしまった行動らしい。自分でも驚いているのかぱたぱたと落ち着かない様子。いつものなでしこに戻ってくれたことでせんだんたちも安堵のため息をつく。文字通り生きた心地がしなかった。だがそんな中、ふと気づいたようにいまりが疑問を口にする。


「あたしたちのって……じゃあなでしこは見られてもよかったの……?」


それは先の言葉から感じたいまりを含めた全員の疑問。それはなでしこは自分の裸を見られたことを怒っていたのではなく、啓太が自分たちの裸を見たことを怒っているかのようだったから。


「え? あ、あの……それは……その……」


なでしこは自分の言葉の意味を思い返し、真っ赤になりながら顔を両手で隠し、いやんいやんと首を振っている。どうやらいまりの言葉は正鵠を射ていたらしい。そんな恋する少女のようななでしこの姿にせんだんたちは呆気にとられるような表情を見せるだけ。もはや啓太に裸を見られたことなど微塵も頭に残ってはいなかった。あるのはただ一つ。


『このバカップル、早く帰ってくれないかなー』


それが全員の心の声。それが薫の犬神達(ともはね除く)が初めて心の底から一致団結した瞬間だった―――――



[31760] 第十八話 「結び目の呪い」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/20 09:48
ある休日の昼下がり、大きなショッピングモールの中にある一つの店の前に一つの怪しい人影があった。その人影はどこかそわそわした様子で店の前を行ったり来たりしている。時折、店の中を覗くようなそぶりを見せるものの中には入ろうとはしない。周りから見れば完全に不審者のそれ。だがその人影はそんなことにも気付かない程何かに焦っているかのよう。そしてその店内から女子高生のグループと思われる集団が楽しそうにおしゃべりをしながら出て行く。人影はそれを確かに見届け、店内に他の客がいないことを確認するとまるで忍者の様な素早さで店内へと侵入、いや来店する。そんな怪しさ満点の人影に店員も呆気にとられるしかない。そしてその人影はお目当ての物を見つけたのか瞬時にカウンターにそれを差しだし、会計を済ませて脱兎のごとく店を後にしていく。まるで秘密の取引をしている犯罪者のように。

その人影、川平啓太はそうして自らの目的を果たすことに成功したのだった。



「ふう~、何とかなったか……」

大きな溜息と共に啓太は休憩場所であるベンチに深く腰掛ける。まるで一仕事終えた職人の様な雰囲気がある。もっとも啓太にとってはそれに等しいことを先程為し遂げてきたところ。その手には包装された小さな箱がある。それこそが啓太の目的、なでしこへのプレゼントだった。

きっかけは先日、薫の家へ遊びに行った時のこと。薫の犬神達との何気ない会話の中でのこと。それは薫が休みの日や誕生日に一緒に遊びに出かけたり、プレゼントをしてくれているという話。しかも九匹いる犬神達全てに対して。その事実に啓太は大きなカルチャーショック、いや衝撃を受けた。まさに出来る男の見本のような振る舞い。悔しいが同じ男として見習わなければならない。加えて何故か焦りによって、冷や汗が流れるのを抑えきれなかった。

何故なら啓太はこれまでそういったことをほとんどなでしこにしたことがなかったから。

単にそこまで気が回らなかったということもあるが、それ以上に恥ずかしさがその理由。ずっと一緒に暮らしているからこそ何だが気恥ずかしく、どこか純情なところがある啓太はそれをこれまで実行に移したことがなかった。だが流石に薫の犬神達の話に焦りを感じたのか啓太はなでしこにプレゼントをすることを決意する。幸いにも明日はなでしこの誕生日……ではないのだがなでしこと契約した日。ちょっと強引ではあるがまあいいだろう。さっさと行動に移さないとまたタイミングを逃しかねない。


しかし……やっぱりああいった店に男一人で入るのは堪えるものがあるな……なんていうか、初めてアダルトビデオを借りようとした時の、初心な自分に戻ったかのような感覚だった。いや、ある意味それ以上の恥ずかしさだった。薫ならこういった場所へも躊躇いなく入れるのだろうがあいにく俺にはそんな度胸はない。そんなことを考えながら啓太は自分の手にあるなでしこへのプレゼントに目をやる。

『リボン』

それが啓太が先程のいわゆる女の子の店で買ったなでしこへのプレゼントだった。

それは啓太が悩みに悩んだ末の選択。啓太ははじめは何かシャレた服でもプレゼントしようと考えていたのだがすぐにそれを断念する。自分にはそういったセンスがないこともだがそれ以上に恐らく服を贈ってもなでしこはそれを着ないだろうと想像がついたから。きっともったいないとか、汚れるからと言って大事にしまいこんでしまうのが目に見えている。それはそれで嬉しいのだがやはりプレゼントを贈る以上は身につけてくれた方がいい。なら一体何がいいのか。改めて啓太は思い返す。

蛙のネックレスとエプロンドレス。

それが今まで自分がなでしこに贈った品。ネックレスは契約の時、そしてエプロンドレスは自分の邪な欲望のためとまともな理由で贈っていない物ばかりなのが胸に痛むがそれはこの際おいておくとして……これらと一緒に身につけても違和感のない物。なおかつ俺の小遣いで購入可能なもの(これが一番重要)でなければならない。そして悩みに悩んだ末がこのリボンだった。まあこれならきっとなでしこもそれほど気にせず身につけてくれるだろう。どうしてもダメなら多少強引でも結んでやることにしよう。

啓太はそう気合いを入れながら立ち上がる。今はなでしこは買い物に出ているところ。その間に抜け出してきたので帰ってくる前に戻らなければ。この後にははけからの依頼も控えている。プレゼントをするのはその後でいいだろう。どこか上機嫌に啓太が帰路につこうとしたその時

「あ、けーた様♪」

そんな聞き覚えのあるお子様の声が響き渡る。もはや考えるまでもないが振り返りながら啓太はその声の主に目を向ける。そこには片手にアイスクリームを持ちながら楽しそうに自分へと近づいてくるともはねの姿があった。どうやらショッピングモールに遊びに来ていたらしい。

「よう、お前もお遊びに来てたのか?」
「はい! 今日はたゆねと一緒に遊びに来てたんです!」
「たゆねと……?」

その言葉に何故か思わず声が震えてしまう。別に悪いことをしたわけでもないのに。もはや条件反射のようなもの。啓太の体に染みついている危機察知アビリティによるものだった。

「おーい、ともはね! どうしたのさ、そんなに慌てて……あ」
「よ、よう……」
「たゆね♪ けーた様を見つけたの♪」
「………どうも」
「お、おう。久しぶりだな、今日はどうしたんだ、珍しいじゃねえか。お前がともはねと一緒に出かけてるなんて」
「……今日は僕がともはねの面倒を見る係なんです。せんだんが啓太様にばかりともはねの相手をさせてはいけないって言うので……」
「そ、そうか……」
「ひどい! あたしはちゃんとひとりでできるもん!」

自分のことを悪く言われていると思ったともはねが抗議の声をあげているもののたゆねは慣れた様子でそれをいなしている。こうして見ていると歳の離れた姉妹の様だ。まあこの二人は薫の犬神の中では一番歳が近いので当たり前と言えば当たり前かもしれないが。

「啓太様はどうしてこんなところに? なでしこは一緒じゃないんですか?」
「あ、ああ。ちょっと野暮用があって……」
「? けーた様、それ、何を持ってるんですか?」
「や、やめろともはね! それは……!」

啓太が持っている小箱に気づいたともはねが興味深そうにそれを見つめている。たゆねも同じように視線を向けている。そんな二人の視線に誤魔化すのは難しいと悟った啓太は観念して事情を話すことにする。まあ明日には渡すし、しゃべっても問題ないだろう。何よりも誤魔化してこのまま付き纏われる方が厄介だ。

「なでしこへのプレゼントだよ。この前お前ら言ってたろ、薫にプレゼントもらってるって。それでちょっとな……」
「ふーん……啓太様でもそういったこと気にされるんですね……」
「お、お前な……」

たゆねのあんまりな言葉に言い返そうとするも事実であるので黙りこむしかない。先日の一件以来、少しは態度が軟化してきたかと思っていたが大きな勘違いだったらしい。フラノ達によればツンデレらしいがこいつにはツンしかないんじゃないかと思えるほどだ。もっとも口に出せばひどい目に会うのは分かり切っているので黙っているしかないのだが。

「何をぷれぜんとするんですか、けーた様?」
「ん? ああ、リボンだよ。あいつ遠慮がちだから強引にでも結んでやるしかないかもな」
「なるほど~、でもいいな~。けーた様、ともはねにも何か買って下さい!」
「何でそうなんだよ……お前は薫からもらってんだからいいだろ?」
「む~」

そんなどこか不満そうな、羨ましそうな顔を見せているともはねに呆れるしかない。どうやらまだまだ子供らしい。まあ俺も小さい頃はこんなもんだったろうから他人のことも言えないが。だがそんな中、気づく。

「………」

それはたゆねの姿。それが先程までと明らかに違っている。何かを考え込んでいるような、何かに気づいたような表情。

「な、何だよ? お前まで何か買ってほしいなんて言わねえだろうな?」

どこかその雰囲気にのまれそうになりながらも啓太は冗談交じりに話しかける。だがたゆねはそれに全く反応することなく

「啓太様、それ、意味が分かっててしてるんですか……?」

そんなよく分からないことを訪ねてきた。その言葉に俺はもちろん、ともはねも首をかしげるだけ。一体何を言いたいのだろうか。

「……? 何の話だ?」
「……分からないなら別にいいです。僕には関係ない話だし……」
「それよりもけーた様、これから一緒にともはねと遊びましょう!」
「お、お前さっきの話聞いてなかったのか!? 今日はたゆねが遊んでくれるんだろうが!?」
「だからけーた様も一緒にあそびましょう! みんな一緒の方が楽しいですから!」
「そ、そうかもしれんが悪いな……今日はこれからはけからの依頼があるんだ。遊ぶならまた今度な」
「依頼ですか……? じゃあともはねもお手伝いします!」
「お、お前な……」

既にやる気満々のともはねにもはやかける言葉すらない。こうなってしまってはどうにもならないことを啓太は嫌というほど思い知っている。このまま無視しようとしても無理やり付いてくることは確実。運が悪かったとあきらめるしかない。まあ大した依頼じゃなさそうだから大丈夫か。

「ったく……でもちゃんと大人しくしとくんだぞ。一応仕事なんだからな」
「はい! 約束します!」
「よし、じゃあそういうわけだからともはね借りてくぞ、たゆね」

そう言い残し、啓太はともはねとともに家へ向かって歩き出す。まあここで会っちまったのが運の尽きと思ってあきらめるしかねえか。せんだんのおかげでともはねも他の犬神達と遊ぶようになってきてるみたいだし今回は大目にみることにしよう。だがそんな中、気づく。それは気配。先程から人の気配が後ろを付いてきている。振り返ったそこには

どこかもじもじとした様子のたゆねが啓太達の後をついてきていた。

「どうしたんだ、たゆね? 忘れ物か?」
「え、えっと……僕も啓太様の依頼をお手伝いしてあげてもいいかなって……」
「お前が? 何で?」
「それは、その……本当は今日は僕がともはねの面倒をみる係なので! ともはねが迷惑かけちゃいけませんから!」
「お、おい……俺は別に」
「二人とも、早く行きましょうー!」

啓太の言葉を聞くことなくたゆねはずかずかと先に歩いて行ってしまう。まるで何かを誤魔化すかのように。その様子に呆気に足られるものの啓太もその後を追って行く。本音としてはたゆねには付いてきてほしくない。確かに犬神の実力としては申し分ないが一応薫の犬神であること(ともはねについては例外)連れて行けば恐らくはなでしこが焼もちを焼いてしまうこと。そして何よりも自分自身の身の危険が一番の理由。

最近の啓太にとっての依頼はその解決よりもいかに全裸にならないかの戦いだった。結局ほとんど惨敗しているのだが……そんなところをなでしこやともはねはともかく、たゆねに見られでもすればどんな目に会うか分かったものではない。最悪命を落としかねない。もはや全裸になることが当たり前になっている啓太の切実な問題。だがどうやらたゆねも本当に付いてくるらしい。これからの自分の運命を悟ったかのように啓太は肩を落としながらも二人の後を追って行くのだった―――――



「ふーっ! ふーっ!」

そんなどこか興奮したような、荒い息遣いが部屋に響き渡っている。それはともはねのもの。だがその姿はまるで小さな子犬そのもの。ともはねは背中を下にしてまるで縮こまるように丸まった体勢から手と口だけを使い、啓太の手にあるボールを奪おうと必死にあがいている。それを啓太は絶妙のタイミングとバランスでともはねをいなし、てまりのように転がしながら相手をしている。それが啓太とともはねの遊びの一つ。狭い部屋の中でもできる遊びだった。一見単純そうに見えるがかなり難しい遊びであり、ともはねが特に好んでいる遊びだ。もっとも啓太はあまりやりたくないものではあったのだが。そしてそんな二人の様子をどこか興味深そうにたゆねは眺めている。ずっと話には聞いていたもののともはねが啓太と遊ぶところを見るのは先日のフリスビー以来だったからだ。

「そういえばたゆね、他の奴らは元気にしてんのか?」
「………」
「おい、聞いてんのか、たゆね?」
「………」
「……もしかしてお前もやってみたいのか?」
「えっ!? な、何言ってるんですか、僕がそんな子供の遊びするわけないでしょ!?」
「じょ、冗談だって……そんなに大声出すなよ……」

どこか慌てながら騒いでいるたゆねに啓太は圧倒されてしまう。どうやら触れてはいけないことだったらしい。まあやってみたいと言われてもどうしようもないのだが。しかし何を話しても突っかかって来る奴だな。話してて飽きないと言えば飽きないがやはり精神的には疲労してしまう。もしセクハラまがいの失言でもすれば間違いなく病院直行コースという、まるで何かの企画の様な状況。しかもそれが冗談ではすまないのだから余計タチが悪い。だが黙ったままでも無言の圧力をかけてくる。ここは覚悟を決めて何か話題を振るしかないか。

「そ、そういえばお前、いつもその格好だけど寒くないのか?」
「余計なお世話です。僕達犬神は暑さも寒さも平気ですから」
「そ、そうか……」

ばっさりである。全く容赦も慈悲もない会話のキャッチボール、いやクロスカウンターだった。もう心が折れそうだ。何でこいつここにいるわけ!? 俺を追い詰めるためか!? やはり胸を揉んだことをまだ根に持っているのか……確かにあれは素晴らしい感触だったが……とそれは置いといて早くなでしこ帰ってきてくんねえかな。ともはねは野生に帰って転がってるだけだし、今はなでしこだけがこの状況を打破できる救世主だ。だが救世主は遅れてやってくるものらしい。何とか間を持たせなければ……っていうか何で俺自分の部屋でこんなに気を遣わなきゃいけないわけ?

「そういえばお前、スカートとか履かねえの? それしか持ってねえわけじゃねえんだろ?」
「い、いいんです! 僕はこの格好が好きなんです、女の子っぽい格好は嫌いなので……」
「ふーん、似合いそうな気はすんだけどもったいねえな」
「ふ、ふん! そういうことはせんだんにでも言ってあげて下さい!」

どうやらあまり触れてほしくない話題だったらしくたゆねは明らかに不機嫌になりながらそっぽを向いてしまう。流石にそれが照れ隠しであることは分かる。一瞬、あの悪夢のような光景が蘇ったのだかどうやらそこまではいかなかったらしい。もしそうなればこの部屋は木っ端みじんになるだろう。路頭に迷うのだけは勘弁してほしい。

「そう言えばさっきお前が言ってたことなんだけど……ってぎゃあああっ!?」

啓太がずっと気になっていたことをたゆねに尋ねようとした瞬間、それまで床を転がりまわっていたともはねがついに我慢できなくなったのか啓太の二の腕にかぶりついてくる。どうやら今回も自制できなかったらしい。これが啓太がこの遊びを忌避している理由だった。たゆねはどこか呆れた様子でそれを眺めているだけ。啓太は涙目になりながら野生に帰ってしまったともはねを振り払おうと部屋中を駆け回るはめになったのだった………



「全く……何で依頼の前にこんなに疲れなきゃなんねえんだ……」

啓太はぶつぶつと愚痴をこぼしながらうなだれる。今、啓太はトイレの中。何とかともはねを振り払った後、ずっと先程の様なやりとりをたゆねと繰り返すことに限界を感じ、一時的に安全圏に退避してきたのだった。自分の部屋のはずなのにトイレだけが憩いの場とか悲しすぎる……っとそれは置いておいて今はもっと深刻な問題がある。

それはなでしこへのプレゼント、リボンのこと。

あの後、何とかたゆねからその真意を聞きだすことができた。たゆねは何故か渋っていたのだが俺の必死さが伝わったらしく、不機嫌そうにしながらもその理由を教えてくれた。だがその内容に頭を抱えるしかない。まさかリボンを結ぶことにそんな意味があるなんて知らなかった。一般的にではなく魔術的にらしいが。そして間違いなくなでしこはそのことを知っているだろう。ああ見えてかなりの年齢だし。例え結ばなくても渡すだけでそういう意味で捉えられてしまうはず。

だが流石にそれは早すぎるような……いや、嫌なわけじゃないのだが心の準備が……それに俺、まだ学生だし、そもそもなでしこが俺をそういう対象として見てくれてるかどうかも確信が持てねえし………うーん、仕方ない。残念だが今回は見送ることにしよう。流石にリスクが大きすぎる。今度またリボン以外のものを探すことにしよう!

啓太がそんなことをトイレの中で考えていると

「ただいま……あれ、ともはね? それにたゆねも……?」
「おかえり、なでしこ♪」
「おじゃましてるよ」
「二人ともどうしたの? 啓太さんは?」
「ショッピングモールで偶然啓太様に会ったんだよ。それでともはねが遊びに行きたいって言うから……」
「ショッピングモール……? どうして啓太さんがそんなところに?」

そんな聞き慣れた声がトイレの壁越しにも聞こえてくる。どうやらなでしこが買い物から帰って来たらしい。とにかくさっきまでのことは忘れていつもどおりにしないとな。意識すると面倒なことになりかねん。そのまま啓太が立ち上がりパンツとズボンを上げようとしたその時

「それはけーた様がなでしこに」
「ちょっと待てえええええ―――――っ!?!?」

啓太は絶叫を上げながらトイレから飛び出していく。まさに今、ともはねから出そうになった言葉を止めるために。流石はお子様、全く先程の話の意味を理解していなかったらしい。そんな全てをぶち壊しかねない行為を何とか止めることしか今の啓太の頭にはなかった。そう今の自分の状況、姿がどんな物かすら分からない程。


「…………え?」

啓太はどこか心ここに非ずといった風に声を漏らすことしかできない。何故ならなでしことたゆねがじっとこちらを見ていたから。いや、ある一点を見つめたまま固まってしまっている。そのショックで言葉すら出ないかのように。啓太もゆっくりとその二人の視線を辿る。

そこには紛うことなきもう一人の自分がいた。今、映像化されていれば間違いなく象さんのモザイクがかかるであろう姿だった。そして数秒後


「うわあああああっ!!」


目に涙を浮かべ、悲鳴を上げながらたゆねの鉄拳が啓太を吹き飛ばす。むしろこれで済んでよかったと思えるものなのだが啓太にはそんなことなど考える余裕はなかった。その威力によってまるでボールのように啓太は窓を突き破りながら宙に舞う。その瞬間、啓太は思った。

ああ――――人間って飛べるんだな、と。

そんなどこかの哲学者のような遺言と共に啓太は落下していく。飛べば落ちる。その絶対の法則によって。だが啓太はそのまま地面に落ちる前に何かにぶつかり、落下を免れる。痛みに悶絶しながらも啓太は何とか体を起こす。人間離れした啓太だからこそ耐えうること。並みの人間なら間違いなく病院送りだっただろう。そして啓太は気づく。自分が落下したのが車の真上だったことに。しかもただの車ではなく高級な外車。そのことに冷や汗を流しているとふと気づく。それは二つの人影。

一人は筋肉質な大男。しかもタキシードの様なものを着ている。まるで執事のよう。

もう一人は小柄な少女。恐らくは中学生、いやもしかしたら小学生かもしれない。癖のあるウェーブのかかった髪、どこか高級感が漂う服装。その腕には熊のぬいぐるみがある。間違いなくどこかの令嬢だと分かるような少女だった。

だが少女は何故かその場に固まってしまっている。それは啓太が空から降ってきたことに驚いてではなく、その目の前に見慣れない物体があったから。少女の小さな身長のせいでそれがまさに目と鼻の先にある。それが何であるか理解した瞬間、


「いやああああああ――――――!!」


少女の悲鳴が辺りに響き渡る。それが啓太と今回の依頼主、新堂ケイの出会いだった――――――



[31760] 第十九話 「時が止まった少女」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/24 17:31
「ゴホンッ!……はじめまして、自分はセバスチャン、新堂家にお仕えさせていただいている執事であります」

スキンヘッドにチョビ髭の執事服を着た大男、セバスチャンが一度、大きな咳ばらいをした後、頭を下げながら挨拶をしてくる。今、啓太達は部屋の中のちゃぶ台を間に挟んで向かい合っている。唯でさえ狭い部屋に加えてこの人数のせいで息苦しさすら感じるほどだ。だがそれは人口密度のせいだけではない。

「「………」」

それは二人の少女の放つ雰囲気、オーラのせい。その力のせいで重苦しい、居心地が悪い空間が形成されていた。

一人はセバスチャンと共にやってきた小さな少女。身なりからかなりのお金持ち、令嬢であることが分かる。だがその姿にはやる気が、生気というものが見られない。だがそれは少女のいつもの姿。しかしそれに加えてどこか嫌悪感を持った、恨みを込めたような視線を、殺気をジト目で放っている。まるで変質者を見るかのように。

もう一人がたゆね。たゆねは明らかに不機嫌な、拗ねたような態度を見せたままジト目である人物を睨みつけている。まるで親の仇であるかのように。その頬が羞恥により赤く染まっているがそれ以上に怒りの方が上回っているらしい。

その二人の視線を一身に受けている少年、川平啓太は正座したまま、ただ顔を引きつらせながら冷や汗を流すことしかできない。まさに針のむしろ状態。蛇に睨まれた蛙そのものだった。


(ち、ちくしょう……どうしてこんなことに……)

心の中で涙を流しながら啓太は先程までの経緯を思い返す。やむを得ぬ事情で下半身を露出したままトイレを飛び出し、それを目撃したことで悲鳴を上げながらたゆねによって吹き飛ばされ……えっと、ここから記憶がちょっと定かではないのだがどうやらその姿を目の前の少女、今回の依頼主に見られてしまったらしい………うん、今の自分は紛れもない変質者、ヘンタイだった。

って違――――――う!! 確かに今回は弁明のしようもないかもしれんがそれだけは……それだけは認めるわけには……! し、しかし最近本気で恐ろしい……まさか依頼の前に露出する羽目になるとは……流石の俺も想定外だ。これまでの最速記録を大きく塗り替えてしまった。まじで俺、何かに呪われてるんじゃねえ……? ま、まあそれはおいといて何とかこの状況を誤魔化さなくては。主に目の前の少女とたゆねを。なでしこはどこか恥ずかしそうに目を伏しながらもどこか慣れたような、あきらめたような姿。ともはねは全く気にした風もなく好奇心旺盛にきょろきょろしている。流石はなでしこ! こんな状況にも対応できるとは……持つべきものは主人想いの犬神だ! 何だか悲しくなってくるがそうでも思わないとやっていけない! 


「お、おう。俺は犬神使いの川平啓太だ! お前達がはけの紹介してきた依頼人なんだろ!?」
「は、はい、ぜひ犬神使いの川平さんのお力を貸してほしいのです! ほら、お嬢様もちゃんとご挨拶してください!」

どこか慌てながらの啓太の言葉にセバスチャンも合わせてくる。どうやら先程の出来事をなかったことにするという意図が二人の間に交わされたらしい。とても初めて会ったとは思えないような意志疎通だった。そんな二人の姿に少女は溜息を吐きながらも付き合うことにする。もっとも少女としてもさっきのことはなかったことにしたいだけだったのだが。

「……新堂ケイ。それがわたしの名前よ」
「新堂……? 新堂ってあの財閥のかっ!?」
「……ええ」
「? ざいばつって何ですか、けーた様?」
「凄いお金持ちってことだよ、ともはね」

少女、新堂ケイの言葉に啓太達は驚きを隠せない。当たり前だ。新堂財閥と言えば日本でも有数の財閥。新聞に載らない日はないほどの超がつくお金持ち、VIPだ。世俗に疎いなでしこやたゆねですら知っているのだからその凄さは推して知るべし。だが

「何でそんな財閥のお嬢様が俺んとこに?」
「………」

啓太が不思議そうにしながら尋ねる。確かに自分は霊能力者ではあるがそれほど名が売れているわけでもない。他にも依頼する場所や人物は山のようにあるはず。なのに何故。なでしこたちもその胸中は同じらしい。だがそんな啓太達の疑問を感じ取りながらもケイは難しそうな、言いづらそうな表情を見せながらそっぽを向いてしまう。

「それについてはわたしがご説明します。ですがその前に……川平さん、申し訳ないがあなたの実力を試させていただきます」
「は?」

そんなよく分からないセバスチャンの言葉に啓太は呆気にとられるしかない。だが啓太の様子などお構いなしにセバスチャンはすっくとその場に立ちあがる。どこか慣れた、あきらめをみせながらケイはその場からそそくさと移動している。そして次の瞬間


「ぬうあああああああっ!!」


叫びと共にセバスチャンのタキシードが次々に破れ去って行く。そのたくましい筋肉の力によって。まるで漫画の様な、悪夢のような光景。その膨れ上がったマッチョなボディがあらわになる。しかもただのマッチョではない。何故か下半身には黒ビキニを装着している。それが恐ろしいほど絵になっている。まるでレスラーの様だ。だが間違いなく少女たちがいる前でいきなり黒ビキニ一丁になる時点でヘンタイそのものだった。なでしことともはねはその事態と光景に声を上げることすらできない。だがそれは啓太も同じ。いや、啓太の方が何倍も深刻だった。

啓太の表情に恐怖が浮かぶ。体が震え、額には脂汗が滲む。それはトラウマ。忘れ去ることができない、消し去ることができないマッチョの記憶、恐怖だった。だがそんなことなど知る由もないセバスチャンはそのまま戦闘態勢へと入る。

「行きますぞっ!!」

セバスチャンはその鍛え上げられた体躯を以て啓太へと襲いかかる。彼のために弁明するならそれは全て主のため、啓太の実力をはかるためのもの。決して邪な気持ちはなかった。もっとも黒ビキニになる必要はどこにもなかったのだが。そしてついにセバスチャンが啓太へと襲いかからんとした瞬間


「いやあああああっ!!」

たゆねの悲鳴が部屋中に響き渡る。当たり前だ。先程の啓太に続いてさらに新たなヘンタイが目の前に現れたのだから。しかもそれが突進してくるという悪夢のような状況。まさに条件反射、いや自己防衛だった。そして


セバスチャンはその瞬間、生まれて初めて空を飛んだ―――――



「ゴホンッ!……はじめまして、自分はセバスチャン、新堂家にお仕えさせていただいている執事であります」
「それはさっき聞いたっつーの……」

何事もなかったかのように仕切り直し、テイク2を始めようとしているセバスチャンに突っ込みを入れながらも啓太は溜息を突く。どうやら大事はなかったようだ。頭は少し打ったかもしれないがきっと大丈夫だろう。どうやら鍛えていたのは伊達ではないらしい。二階の窓から吹き飛んで行ったのにこうして戻ってきたのだから。たゆねはまだ警戒しているのか距離を取りながら威嚇している。こいつがいる前ではヘンタイはことごとく吹き飛ばされてしまうのだろう。気を付けなければ、決して俺はヘンタイではないのだが気を付けなければ。それはともかく

「それで、何であんなことを……?」
「はい、どうしても川平さんの実力を見させていただきたかったのです。ですがその必要はもうないようですな」

セバスチャンはそのままその視線をたゆね、そしてなでしことともはねに向ける。ケイも同じようにどこか興味深げに三人へと視線を向けている。

「まさか彼女たちが川平さんの犬神だったとは……ただのお嬢さんだとばかり……いや、失礼しました」
「いえ、皆さん最初は驚かれますから」
「まあ、確かにどうみても普通の人間だからな」

セバスチャンの言葉に微笑みながらなでしこが答える。だがセバスチャンの驚きも当然。犬神と聞いてそれが人間の少女の姿をしているなど想像できるはずもない。まあバレないように変化しているだけではあるのだが。ともはねについては変化しきれず尻尾が出てしまうことがあるので分かりやすいかもしれん。しかしそれを身を以て体験することになったセバスチャンには同情せざるを得ない。同じ体験をした者同士として。そして啓太はふと視線を感じる。

「………」

それは自分の後ろに控えているたゆねのもの。どうやら啓太の犬神扱いされているのに思うところがあるらしい。だがややこしいことになるのでこのままで行かせてもらう。というかそっちが勝手に付いてきてんのに何でそんなことまで配慮せにゃならんのだ!? 文句があるんなら帰れっつーの!

「ケイ様、そのぬいぐるみはいつも持って歩いておられるんですか?」
「え、ええ……そうだけど……」
「可愛いですね! あたしもマロちんといつも一緒なんです。ね? マロちん?」
『きょろきょろきゅ~』
「そ、そうなの……仲がいいのね……」

そんな騒ぎの中、ともはねがどこか楽しそうにケイへと話しかけている。どうやら自分と同じぐらいの少女に出会えたことで興奮しているらしい。まあ同年代の友達がいないともはねからすれば嬉しいに違いない。どこか押され気味になりながらもケイもともはねの相手をしている。

「よかったな、ともはね。友達ができて。同じぐらいの歳の友達は初めてだろ?」
「はい! 嬉しいです!」
「でもともはね、ケイ様は依頼主様ですからちゃんとしなさい」

どこか興奮気味のともはねをなでしこが優しく諭している。依頼主にあまり馴れ馴れしくするのはいただけない。まあ俺も他人のことは言えないのだが。

「まあ友達ができたのはいいことだな。中の人的にもぴったりだろ」
「……? あなたが何を言っているのか分からないけれどもう少し歳上の人間へは敬意を払いなさい。あなたたちと比べればわたしは一番年上なのだから」


「「「…………え?」」」


瞬間、時間が止まった。いや、正確には俺となでしこ、たゆねの三人の時間が。


俺たちは互いに顔を見合せながら再びケイへと視線を移す。そして改めて何度もその頭のてっぺんから足の先までを見返す。何度も、何度も。………うん、間違いなく中学生、いや下手したら小学生にしか見えん。

「全く、冗談もそこまでいくと笑えねえぞ。ちなみにいくつって設定なんだ?」
「………十九歳よ」
「そらすげえ! おい、セバスチャン、お前も何とか言ってやれよ。お前のご主人様だろ?」
「いえ……その……お嬢様は本当に十九歳なのですが……」
「え……?」

セバスチャンのどこか笑いをこらえるような、必死にそれでも抑えながらの言葉に呆気にとられるしかない。そしてどうやら事態を悟ったケイが顔を真っ赤にしている。なでしことたゆねは固まり、ともはねだけは事情が理解できていないのかぽかんとしたまま。

「お、お前……本当に十九歳なのか!? そ、その冗談じゃなくて!?」
「さ、さっきからそう言ってるでしょ!?」
「いや……どう見ても中学生……せいぜいともはねに毛が生えた程度かと……」
「わ、悪かったわね! どうせ幼児体型は母親譲りよ! で、でもあなた達よりは歳上なんだから! ちょっとセバスチャン、何であんたまで笑ってんのよ!?」
「も、申し訳ありません、お嬢様……つい……」

衝撃の事実に俺は言葉を失ってしまう。まさか本当に十九歳とは……世の中広いな。ある意味犬神が少女の姿をしている以上の驚きだ。これが俗に言う合法ロリというやつか……一部の人達には需要はあるかもしれん、まあ俺にそんな趣味はないが。それは置いといて一つ間違いを正しておいてやろう。あまり偉そうな態度を取られても面倒だからな。

「お前が十九歳なのは分かったがあんまり調子に乗るんじゃねえぞ。俺たちの中で一番年上なのはなでしこなんだからな! 俺たちとは桁外れだ!」

啓太はどこか誇らしげに、胸を張って宣言する。まるで背比べをしている小学生のように。精神年齢の点では間違いなく小学生だろう。どうやらなでしこの、自分の犬神の自慢をしたつもりらしい。そう、啓太にとっては。


瞬間、部屋が凍結する。その空気が、空間が。一人の少女、なでしこを中心に。


その気配に、オーラに皆、声一つ上げることができない。啓太だけがまるでロボットのようにぎぎぎ、という擬音と共に恐る恐る振り返る。そこには鬼がいた。間違いなくこの状況を作り出している鬼を超えた鬼、いや犬が。


「啓太さん、少しお話しましょうか……?」


いつも通りの微笑みを浮かべながらなでしこは啓太へと死刑宣告を告げる。瞬間、啓太の顔が絶望に染まる。なでしこにとっての禁句、タブーを口にしてしまったかつての記憶が、トラウマが蘇る。啓太は声にならない悲鳴と共にその報いを受ける。


女性の歳を口にしてはならない。そんな教訓を文字通りその身に受けながら―――――




「よし、こんなもんか!」

啓太は自らの身なりを鏡で確認した後、どこか上機嫌に部屋を後にしホールへと向かって行く。今、啓太達は新堂家の屋敷へと案内されていた。窓が突き破られた啓太の部屋、咥えてこの大人数では話しづらいというセバスチャンの提案によるもの。流石は新堂財閥の屋敷。薫の屋敷を遥かに超える豪華さだ。少し疑っていたのだが事実だったらしい。だがそうなれば否応なしに期待は高まる。この仕事を成功させればそれ相応の報酬が手に入るはず。恐らくはこれまでの依頼とは比べ物にならないであろう程の報酬が。それがあれば生活が楽に、なでしこにもっと楽をさせてやれるはず! ここはいっちょ気合を入れていかなければ! 

そんな所帯じみたことを考えながら啓太は颯爽とケイ達が待っているホールへと向かう。だがその姿はいつもとは大きく違う白のタキシード姿。それはこの屋敷の雰囲気に合わせて……のものではなく、道中のある事故のため。一言でいえばケイが車の中でゲロったため。それはもう盛大に。これ以上は口にしたくもない。そこで啓太達は着替えをせざるを得なくなったのだった。だがその姿も結構様になっている。黙っていれば一応かっこよく見える啓太だった。

「すまねえ、遅くなっちまった」
「いえ、わざわざこちらまでご足労いただいたのですからお気になさらずに」
「………」

ホールに現れた啓太に向かってセバスチャンが笑いながら出迎えてくれる。その姿は先程までと変わらない黒のタキシード。どうやらスペアをいつも持ち歩いているらしい。自分で服を破くことを前提にしているのだろう。これからは自分も見習った方が良いかもしれない。

そんな中、啓太はその視線を席に付いている少女、新堂ケイに向ける。だがケイは顔を俯かせたまま。全く啓太を見ようとはしなかった。まだヘンタイ扱いされているのかとも思ったがどうやら違うらしい。ケイは屋敷に近づくにつれて目に見えて態度が落ち込み、沈んでいった。一体どうしたのだろうか。そんな中

「けーた様! 見てください、ドレスですよ!」
「おお、似合ってるぞ、ともはね。どうしたんだ、それ?」
「はい、ケイ様のドレスを貸してもらったんです!」
「そ、そうか……」

ピンクのフリフリが付いたドレスを身に纏ったともはねが興奮した様子で啓太へと近づいてくる。まあまだ早いような気はするが本人は気に入ってるようだ。サイズがケイと同じという時点で突っ込まざるを得ないのだが先のこともあり、あえて触れないことにする。条件反射に近い啓太の処世術だった。そしてふと気づく。それはもう一つの人影。だがそれは何故か柱に隠れるように姿を現そうとはしない。

「……何やってんだ、たゆね?」
「け、啓太様っ!?」

こそこそしている不審者の様なたゆねに呆れながらも啓太が話しかける。どうやら全く気付いていなかったのかたゆねは飛び跳ねるような反応を見せる。それをからかってやろうとした啓太だったが思わず動きを止めてしまう。なぜなら

「な……何ですか、啓太様……?」

そこにはオレンジ色のドレスを身に纏ったたゆねがいたから。その姿に啓太は目を奪われ、動きを止めてしまう。それはその姿見に惚れてしまったから。普段の色気のない格好(ただし露出は高い)ではなく、本当に女性らしい格好を啓太は初めて目にした。そのギャップのせいで余計新鮮味がある。加えてそのスタイル。元々分かっていたことだがまさにモデルと見間違えない程の見事なもの。普段はしない化粧を薄くではあるがしていることもあって別人のようだ。もっとも口にすればひどい目に会うのは目に見えているので飲みこむことにする。

「へえ、やっぱりそういう格好も似合ってるじゃん。いつもそういう風にしてりゃいいのに」
「い、いいんです! 僕はこういう格好は苦手なんで! こ、今回は着替えもないのでその、本当に仕方なくなんですから!」
「分かった、分かった……」

ったく、褒めてやってんのにやりづらい奴だな。もう少し素直になりゃ可愛げもあるっつーのに。いや、それはそれで怖いものがあるかもしれん。主にある人物の焼き餅によって。そういえばなでしこの奴はどこにいったんだ? 本当ならなでしこは依頼には連れてこないのだがたゆねがいる手前そういうわけにはいかなかった。まあ、たまにはこういうのもありだろう。そんなことを考えながら啓太がきょろきょろとあたりを見渡していると


「ご、ごめんなさい、サイズが見つからなくて遅くなっちゃいました……!」

どこかぱたぱたと慌てながらなでしこが姿を現す。だがその姿に啓太はもちろん、たゆね達も釘づけになってしまう。そこには黒のドレスに身を包んだなでしこの姿があった。

啓太はその姿に思わず息を飲む。黒のドレスというある意味啓太の中におけるなでしこのイメージとは全く真逆の色。だがそれが驚くほどマッチしている。どこか魔性を、色っぽさを感じさせるほど。そしてその胸元にはこぼれんばかりの巨乳がある。啓太は悟る。間違いない、そのせいでサイズを探すのに時間がかかったのだと。やはり慣れない格好のためかどこかもじもじと恥ずかしそうにしている。だがそれがさらになでしこの可愛さを引き立てている。まさに裸エプロンに勝るとも劣らない光景がそこにはあった。

「ど、どうですか、啓太さん?」
「え? い、いや、似合ってんじゃねえかな、うん……」
「あ、ありがとうございます。啓太さんも格好いいですよ」
「そ、そうか……?」

何故か緊張でどぎまぎしながら啓太はなでしこのドレス姿の感想を述べる。それが照れ隠しであることはなでしこにも一目瞭然だったため、なでしこは嬉しそうに笑みを浮かべながら微笑んでいる。そんな二人をともはねは楽しそうに、たゆねはどこか不機嫌そうに見つめていた。

「あ、啓太さん。ネクタイが曲がってますよ」
「ん? そうか?」
「ちょっとじっとしててください……はい、これでよし!」

なでしこはどこか慣れた様子で啓太の曲がったネクタイを直していく。その光景にケイ達も目を奪われる。まるで夫婦の様な光景がそこにはあったから。ともはねもそんな二人の雰囲気がお気に召したのか上機嫌になっている。だが

「っ!? 痛ええっ!? 何すんだ、たゆねっ!?」
「すいません、僕、こういう靴履き慣れてないんで……」
「嘘つけっ!? 絶対わざとだろうがっ!?」
「なでしこ、あたしのドレス、どう!?」
「ええ、可愛いわよ、ともはね」

そんな空気を壊すかのようにたゆねのハイヒールのかかとが啓太の靴に突き刺さる。まるで狙ったかのようなタイミングで。なぜか不機嫌そうな表情を見せながらたゆねはそっぽを向いてしまう。どうやら自分のドレス姿を見た時との反応の違いが気に食わなかったらしい。そんな謂れのない理由で足を踏まれた啓太は怒りながら抗議するのだがたゆねは全く聞く耳を持たない。そんな中、ともはねはまるで母親に見せびらかすようにドレス姿を見せ、なでしこは優しくそれをあやしている。

「………」

そんな騒がしくも楽しそうな四人の姿に新堂ケイはただ目を奪われる。それはまるで見たことのない物を、いや、欲しくても手に入れられなかった物を羨むように。だがすぐに我に帰ったのかケイはそのままいつもの薄く閉じたような瞳と無気力そうな表情をみせながら俯いてしまう。

(お嬢様……)

そんなケイの姿と胸中を察しながらもセバスチャンには掛ける言葉はない。いや、言葉など何の意味も持たない。自らの主を救うためには何よりも強さが必要なのだから。



「……で、そろそろ依頼の内容教えてくれねえ? ここまでもったいぶってんのには何か理由があるんだろう?」

豪華な夕食を終えた啓太達は改めてケイ達へと向かい合う。先程までまるで戦争のように料理を奪い合っていた者たち(なでしこ除く)とは思えないような変わり様。それに一抹の不安を覚えながらもセバスチャンがどこか重苦しい雰囲気で話し始める。今回の依頼の内容を。


新堂ケイの命を守ること。


それが今回の依頼の内容だった。その原因はケイの祖父にまでさかのぼる。新堂家はその祖父の代で家が途絶えてしまうほどの困窮に陥ってしまった。そして祖父はある契約を結んでしまう。決して手を出してはならない人ならざるものとの契約。それによって祖父は、新堂家は巨万の富を約束され、再興することができた。逃れることができない大きな代償と共に。


新堂家の者は二十歳の誕生日に必ず命を奪われる。


それが契約の代償。それに加え、新堂家の者は誕生日のごとに恐怖が与えられる。まるでもうすぐお前は死ぬのだと、そう宣告するかのように。その姿を楽しむかのように。

もちろんそれを黙って受け入れていたわけではない。名のある霊能力者、格闘家を雇い、何度も立ち向かおうとした。だがその全てが通用しなかった。唯のかすり傷一つ、負わすことすら叶わない。それがこの世ならざるもの、死を司る神。

「死神……それがわたしの命を狙っている奴よ」


ケイはそうどこか他人事のように、呟くようにその名を口にする。だがそこには間違いなく恐怖が、絶望がある。どうあがいても自分は死ぬのだと、そう悟ってしまっている死を待つ老人の様に。

「死神ね……」

『死神』

たしかかなり厄介な奴だとばあちゃんから聞いたことがある。かなりいい加減に聞き流していたので詳しくは思い出せないがどうやら話通りらしい。きっともう頼る相手がいないことが自分を頼ってきた理由なのだろう。

「明日がわたしの二十歳の誕生日……今まではあいつも本気じゃなかったから誰も殺されたりはしなかった……でも今度は違う。間違いなく明日、あいつは本気で来るわ。だからあなたたちはこれで帰りなさい。セバスチャン、送ってあげて」
「お、お嬢様、何を言っているのですか!? 川平さんは由緒正しき犬神使いの直系の血筋の方、きっとあいつを倒してくださります!」
「無駄よ……あいつには誰も敵わない。それはセバスチャン、あんたが誰よりも知ってるでしょう……?」

どこか確信に似た言葉にセバスチャンは言葉を返すことができない。それは分かっていたから。死神が誰も敵わないような圧倒的な強さを持っていることを。それでもあきらめるわけにはいかなかった。まさに藁をも掴む思いでセバスチャンは犬神使いである啓太に最後の希望を託しているのだった。

「なあ、まだ小学生ってことで明日見逃してもらうわけにはいかねえの? 何とかなりそうな気がすんだけど」
「あ、あなたね……いい加減本気で怒るわよ。確かにあいつは馬鹿だけどそこまでじゃないわ……うん、多分だけど……」
「多分なのかよ……」

冗談で口にしたのにどうやら本気でその手が通用しかねない程その死神は馬鹿らしい。ほんとにそんな奴が強いのかどうかは疑問だがまあそれは置いておいて


「ま、任せとけって。飯もおごってもらったし、タダで帰るわけにはいかねえからな」


啓太はそうどこか自信満々の笑みを浮かべながらケイのその小さな頭を撫でる。その感触と姿にケイはどこか呆気にとられた姿を見せるだけ。だがその笑みにはそれを信じてしまえるような不思議な力があった。


「ふん、そんな悪い奴、僕がやっつけてやるよ!」
「はい、ともはねもがんばります!」

そんな啓太に続くようにたゆねもその拳を合わせながら宣言する。なし崩し的に付いてきたたゆねだがその正義感は薫の犬神の中でも一番と言っていい。そんな彼女がこんな話を前にして尻尾を巻いて帰るなどあり得ない。何よりも薫の犬神の中で最強という自負もある。ともはねもそんなたゆねと同じようにやる気満々だ。幼いともはねだが初めてできた友達を助けたいと言う気持ちは譲れないらしい。


「あなたたち……」

「そういうこった、とにかく辛気臭い話はこれぐらいにして酒でも飲もうぜ! 十九歳なんだし、飲めないことはねえだろ。なでしこ、今日ぐらいはいいだろ?」


話はまとまったとばかりに啓太はなでしこへとお伺いを立てる。未成年であることでお酒を禁じられているが今回ぐらいは大目に見てもらおう。たゆねもまあ、飲めないことはなさそうだし、犬神には関係ないか。だが


「…………」

「……なでしこ?」

なでしこはいつまでたっても返事をしない。どこか真剣そうな表情で何かを考え込んでいるだけ。今まで見たことのないような姿だった。そんななでしこの姿に皆の視線が集まる。一体どうしたのだろうか。そ、そんなにお酒を飲むのがダメだったとか……? そして長い沈黙の後


「啓太さん……」


なでしこが意を決したように何かを啓太に告げようとした瞬間、


『レディース、アーンド、ジェントルメン!!』


どこからともなく男性の声が響き渡る。まるでマイクか何かを使ったかのように。加えてテーマソングの様な音楽まで流れ始める。何かの催しが始まる前の余興のように。そのどこか馬鹿馬鹿しさをにじみさせる声と状況に啓太達は呆気にとられるしかない。ケイ達の用意した余興か何かだろうか。だがそれが間違いであることを啓太はすぐに悟る。何故ならそこには


恐怖に顔を歪ませている新堂ケイの姿があったから。


そしてそれは姿を現す。黒いローブの様な物を頭まで被っている怪しげな人影。


『さあ、約束の時間だぞ。準備はできたか、新堂ケイ?』


死神、『暴力の海』が今、啓太達の前にその姿を現した―――――



[31760] 第二十話 「絶望の宴」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/25 21:39
「さあ、約束の時間だぞ。準備はできたか、新堂ケイ?」

ローブを身に纏った怪しげな人影がどこか楽しげにステップを踏みながら目的の少女に向かって近づいて行く。その手には何故か小さなラジカセがある。どうやらこのふざけたテーマソングはそこから流れているらしい。だが本人はいたって真面目。これが相手に恐怖を与える効果を果たしていると思い込んでいた。

「久しぶりだな、ケイ。一年ぶりだが全く姿は変わっていないな。だがもうそれも関係ない。汝は今日、ここで死ぬのだからな!」
「……おい」

人影、死神は高らかに笑いながら少女に向かって死刑宣告を告げる。一年ぶりの、待ちに待った瞬間を前にしてテンションが上がりっぱなし、笑いが止まらないようだ。そのローブの中に見え隠れする怪しげな瞳が少女を捉える。二十年間、少女に恐怖と絶望を与え続けた無慈悲な瞳が。だが

「……ん? どうした新堂ケイ? いつもの怯えきった顔はどうした? もう恐怖でそれすらできなくなってしまったか……まあそれもいいだろう」
「……おい」

いつもとは様子が違う少女の姿に戸惑うものの死神は気を取り直しながらその身に纏ったローブを脱ぎ捨てる。まるでここからが本番だと宣言するように。いや、これで終わりだと宣告するように。その姿があらわになる。金髪に銀色の瞳、白い肌をもったまるで吸血鬼の様ないでたち。その身には黒いマントを纏っている。それが死神の、「暴力の海」の真の姿。

「さあ、この『暴力の海』がお前に最高の恐怖と絶望を与えてやろう! くはくは、くははははははっ!!」

もはやテンションは最高潮、ボルテージマックス。最高の演出ができたことに満足しながら死神はまさに無慈悲にその目的を達成せんとしたその時、

「おい、聞いてんのか、てめえ!?」
「ん?」

死神はやっとその声に気づく。そういえば先程から何か雑音のようなものが聞こえていたがどうやらラジカセの故障ではなかったらしい。振り返ったそこには男らしき者の姿が見える。だがはっきりしない。ぼやけているかのようだ。そこで死神はようやく自分が眼鏡をしていなかったことに気づく。まったく視力が悪いことだけが我の欠点だ。もっともそんなことなど些細なこと。すぐさま眼鏡を掛けるとそこには見たことのないタキシードを着た少年の姿がある。いや、それだけではない。その背後には見たことのない少女たちの姿もある。加えてその者たちが人間ではないことも分かる。どうやら無駄な悪あがきをしようとしているらしい。

「ふむ……なるほど。どうやら今回も悪あがきをする気の様だな! いいぞ、新堂ケイ、そうでなくては面白くない! さあ、名乗りを上げるがいい、我は『暴力の海』! どこからでもかかってくるがいい!」
「んなこたあどうでもいいんだよ! お前、さっきから誰に話しかけてんだっ!?」
「ん? 汝こそ何を言っている? そこにいる新堂ケイに決まっているではないか……?」

少年、啓太の言葉によって首をかしげながらも改めて死神は先程まで話しかけていた少女に目を向ける。そこには

「……?」

どこかぽかんとした表情をみせているともはねの姿があった。


「………」
「「「………」」」

言いようのない気まずい沈黙が全員を支配する。いや、死神以外の者は皆、どこかあきれを通り越してしまっているかのよう。ともはねだけが事情がよく分かっていないのかきょろきょろしているがそれが余計この状況の間抜けさを現していた。

「……なるほど、影武者を用意していたとはな。少しはやるではないか、新堂ケイ」
「んなわけないでしょ!? あんたが勝手に間違えただけよっ!?」

まるで何事もなかったかのように話を進めようとしている死神にケイは顔を真っ赤にしながら突っかかって行く。本来ならあり得ない行動なのだが流石にともはねと間違えられたことには納得がいかないようだ。いくら眼鏡を掛けていなかったとしてもあんまりだった。そんな死神の姿に啓太はどこか呆れた様子を見せるしかない。


確かに馬鹿な奴だとは聞いていたがここまでとは……本当に小学生だから見逃してくれと言っても通用しかねないレベルの馬鹿だ……。一応死神ということで警戒していたのだがいらない心配だったかもしれない。たゆねも呆れきっていて話しかける気にもならないようだ。ただなでしこだけは何故か心配そうな、不安そうな表情を見せているが。だがまあ依頼は依頼だし、ちゃっちゃと退治するとしますか……


「おい、死神! いつまでも馬鹿やってねえでさっさと始めようぜ、一日早いけどここで引導渡してやるよ!」
「ほう……どうやら命知らずの馬鹿らしいな。一応名前を聞いておいてやろう」
「犬神使いの啓太だ! 覚悟しな、きっちり退治してやるぜ!」
「ふん……イヌガミツカイか、話には聞いたことがあるが戦うのは初めてだ。少しは楽しませてくれよ、人間。さあ、新堂ケイ、見ているがいい、お前の最後の誕生日に新たな生贄が加わるところをな!」

死神はどうやら先程の失態を誤魔化せたことで調子が戻ってきたらしい。いつまでも馬鹿やってられても困るのでまあこれはこれでいいのだが、どうしてもちょっと聞いておかなきゃならんことがある。それは

「そういやお前……どうして今日出てきたんだ? ケイの誕生日は明日だろ?」

そんな当たり前な、素朴な疑問だった。最後の誕生日の前だし、何か特別な理由でもあったのだろうか。でもケイ達は何も言ってなかったし。

「……え? 明日?」

だがそんな啓太の疑問はあっさりと氷解する。死神のあまりにも素っ頓狂な、驚きの言葉によって。そんな予想外の答えに啓太は顔を引きつらすことしかできない。先程までの緊張した、戦闘前の空気も霧散してしまった。死神はどこか慌てながらきょろきょろと周りにいる人物達へと視線を向ける。皆が同じようにどこか憐れむような、生温かい視線を返すだけ。どうやら本気でケイの誕生日を間違えてきてしまったらしい。


あの……俺、帰ってもいいかな……?


「啓太様、あんまり言っちゃ可哀想ですよ、きっと本気で間違えてたんですから……」
「あ、ああ。でもあいつどんだけ馬鹿なんだ……っていうか暴力の海って……どんなネーミングセンスだよ。今時中学生でもそんな名前つけねえぞ……」
「きっとそういう年頃なんですよ」
「啓太様、たゆね、一体何のお話してるんですか?」

ひそひそ話をしているところに興味をひかれたともはねもやってくる。そんな会話の内容も聞こえているのか死神は羞恥心で顔を真っ赤にしている。もはや死神の面目丸つぶれだった。元々そんなもの登場の時点から皆無ではあったのだが。

「ご、ごほんっ、では始めようか。前夜祭の始まりだ。かかってくるがいい、ケイの命を守らんとする者たちよ!」

何事もなかったかのように死神は再び戦闘態勢に入る。どうやら前夜祭ということで乗り切ることにしたらしい。もはや引っ込みがつかなくなっただけだったのだが。まあ何にせよちょうどいい。明日まで待つ必要もなくなったんだしな。


「いくぜ、死神! ここできっちり引導渡してやるぜ!」

啓太はそのままタキシードのポケットに手を突っ込み、自らの武器、蛙の消しゴムを構える。それこそが霊能力者である川平啓太の力、攻撃手段。同時にそれらがまるで拳銃の弾丸のように次々に発射されていく。その数は四つ。それは一瞬で死神までの距離をゼロにする。死神はその速度に対応することができない。そして


「白山名君の名において命ずる、蛙よ、破砕せよ!!」


言霊と共にその全てが凄まじい爆発を起こす。その威力によって部屋は爆音と爆風に包まれる。死神は為すすべなくその力に飲み込まれていく。タイミングも完璧。直撃コースだった。その光景にたゆね、セバスチャン、ともはねが歓声を上げる。誰の目にもそれで勝負がついたことは明白だった。新堂ケイですらその顔に驚きをみせている。それほどの攻撃。啓太自身も己の勝利を確信する。だがそんな中


「啓太さんっ! まだですっ!」


なでしこだけが鬼気迫った表情で啓太へと叫ぶ。その声によってすぐに啓太は気づく。目の前の光景。そこにあった爆風が次第に晴れて行く。それが消え去った後には


「ふむ、この程度か。がっかりさせるなよ、人間」


傷一つ、息一つ乱していない死神の姿があった。まるで何も起こっていないと言わんばかりの姿。だが間違いなく先程の攻撃は直撃したはず。その証拠に死神の足元はその爆発によって吹き飛んでいる。それなのに。


「これが死神の黒衣という物だ。その程度の霊符などいくら使っても通じぬよ」


死神がそうどこかつまらなげに言い捨てるのを待たず、啓太は瞬時に次の攻撃を仕掛けんとする。だが


「遅い」
「っ!?」


それよりも早く先程まで遥か先にいた筈の死神が目の前に現れる。まるで瞬間移動したかのように。そのスピードの前に啓太は驚きの声を上げる暇すらない。ただ本能のまま手にしかけた蛙の消しゴムを投げ捨て、体得している中国拳法による肉弾戦を挑まんとする。しかしそれを仕掛けるよりもはるかに早く死神の拳が啓太の胸へと突き刺さる。まるで杭を打ち込むかのような威力と衝撃をもって。


「がっ!?」


啓太はその前にただ悶絶することしかできない。呼吸困難に陥ることで思考が定まらない。反撃を、回避を、戦う際の思考を行うことができない。だがそれでも啓太は体を捻りながらその足で死神の首に向かって蹴りを放つ。まさに本能、体に覚え込ませていたが故にできる条件反射。しかしそんな神業に近い反撃すら死神はまるで埃を払うのかのように、片手で受け止める。そこからはもはや戦闘ですらない、ただの蹂躙だった。

ひざ蹴りによって啓太の体はまるでボールのように天井まで飛び跳ね激突し、落下と共に再び蹴りによって宙に舞う。まるでサッカーのリフティングのように為すがまま、全く抵抗も、受け身もとることもできないまま、ただ蹂躙される。

それが何度繰り返されたのか、死神はまるで飽きたと言わんばかりに一際大きな蹴りを放つ。それが容赦なく啓太の腹部へと突き刺さり、そのまま遥か後方の壁まで吹き飛ばされる。その衝撃によって啓太は悶絶し、そのまま地面へと蹲り、動かなくなってしまった。それは時間にすれば一分にも満たない時間。

それが川平啓太が死神に敗北した瞬間だった―――――


「………え?」


それは一体誰の声だったのか。残された者たちはただその光景を前に身動き一つとることができない。まるで何が起こったのか分からないかのように。一瞬。一瞬で勝負がついてしまった。ケイとセバスチャンでも分かる。啓太は決して弱くなかった。いや、きっとこれまで挑んでいった者たちの中で間違いなく最も強かったはず。それが一瞬で、呆気なく敗れ去ってしまった。なでしこはその光景に顔を蒼白にし、ともはねは何が起こったのかのさえ分かっていない。皆がただ立ち尽くすことしかできなかった。唯一人の例外を除いて。


「あああああっ!!」


咆哮が、雄たけびが部屋を切り裂く。まるで犬の遠吠えの様な叫びを放ちながらたゆねは凄まじい速度を持って死神へと肉薄し、その拳を振り下ろす。それはさながら断頭台の刃。受ければ間違いなく相手は一撃で再起不能になるであろう威力が込められていた。それは死神の隙を狙ったもの。たゆねは今、怒りに支配されていた。先程まで啓太が闘っていたのを傍観してしまっていた自分への、そして啓太を傷つけた死神への。だが


「やれやれ、野蛮なイヌガミさんだ」


どこか呆れたような、馬鹿にしたような態度を見せながら死神はその振り下ろされた拳を一歩、体をずらすことで難なくかわす。まるでその動きを見切っているかのように、あっさりと、危なげなく。空を切った拳が地面へと突き刺さり、地面が崩壊していく。とても少女の拳とは思えないような人智を超えた力。それが犬神の、たゆねの力。その力は犬神達の中でも五指に入る程のもの。


「このっ! 調子に乗るなあああっ!」


すぐさま体勢を立て直しながらたゆねはその拳を、爪を以て死神を倒さんと突進していく。その速度はまさに疾風。放たれる拳はまさに弾丸。かすっただけでもダメージは免れない程の威力。それが息を突かせぬほどの速度で、数で死神へと降り注ぐ。そこに一切の手加減はない。たゆねはその性格から本気を出すことはほとんどない。それは相手のことを心配してしまうから。本気を出せば相手が唯ではすまないと知っているから。だが今のたゆねにはそんなことはこれっぽっちも頭にはなかった。目の前の相手には手加減など必要ない。いや、手加減できるような相手ではないと。先程までの馬鹿にしていた慢心は一切ない。にも関わらず


「ふむ、イヌガミツカイサンよりはマシなようだが優雅さが足りないな」


唯の一撃も当てることができない。それどころか息一つ乱してさえいない。その光景に、事実にたゆねの心に焦りが、そして恐怖が生まれてくる。それは犬神の、いや犬の本能。この相手には挑んではいけない。勝てない相手に挑んではいけないという動物の本能。それが心のどこかで自分へと警鐘を鳴らす。だがたゆねはそれを力づくで抑え込む。

認めるわけにはいかない。僕は犬神。破邪顕正を為す存在。例え主がここにいなくとも、目の前の死神を、悪を前にして退くことなど許されない!


「破邪走行、発露×1! たゆね突撃!!」


一瞬で死神から距離を置き、たゆねはまるでクラウチングスタートのような体勢を取る。同時にその凄まじい霊力が増幅し、たゆねの体を包み込んでいく。それがたゆねの切り札。自らの肉体を霊力によって強化し、相手を打ち砕く必殺技。岩すら砕く威力を秘めたもの。

その爆発的力を解き放ちながらたゆねはまるで砲弾のように一直線に死神に向かって突進する。その速度は先程までの比ではない。瞬きすら許さない程の一瞬で光の少女が死神へと襲いかかる。まるで戦車が通ったのではないかと思えるような爆音と爪痕を地面へと残しながらその衝撃が響き渡る。まさに相手を轢殺せんばかりの光景がそこにはあった。だが


「………え?」


たゆねはそんな声を上げることしかできない。当たり前だ。自分の最高の攻撃が、岩すら砕く攻撃が決まったはず。なのに、それなのに


「なかなか悪くなかったぞ、イヌガミの少女よ」


死神はその片手を持ってそれを防いでいた。まるで見えない力が働いているかのようにたゆねの攻撃は届いていない。死神からすれば自分に防御を取らせたことだけでも十分称賛に値するのだがたゆねにとっては知る由もない。たゆねはただその場に立ち尽くすことしかできない。

己の全力、会心の一撃を片腕で、難なく受け止められてしまったのだから。もはやたゆねに残された手はなかった。いや、その心が折れてしまいかけていた。そして


「気に入った、汝には恐怖をくれてやろう」


死神の指がたゆねの額へと触れる。瞬間、たゆねは恐怖に囚われた。


「うわああああっ!? やめて、やめてよおおおおっ!!」


たゆねはその顔を苦痛に、恐怖に歪ませながらその場にうずくまってしまう。その体ががくがくと震え、まるで痙攣をおこしているかのよう。それこそが死神の、暴力の海の力。相手の恐怖を覗きこみ、そこに相手を陥れる力。まさに反則に近い能力。その力によってたゆねは自らの恐怖、幽霊によって襲われている夢を永遠に見せられ続けている。それによってもはや戦うことはおろか、身動きすら取れなくなってしまっていた。


その光景にケイの表情が真っ青に染まる。何故ならそれは毎年自分が受けている仕打ちと同じ光景だったから。そんなケイの姿が気に入ったのか死神は邪悪な笑みを浮かべながらケイへと近づいて行く。もはや自分を阻むものなど存在しないと誇示するかのように。


啓太とたゆねをまるで子供扱いし、息一つ乱すことなく、まだ本気すら見せていない。まさに悪夢のような、冗談だとしか思えないような圧倒的な力。それが死神『暴力の海』の実力だった――――――


「夢は覚めたか、ケイ? 我に敵う者など存在しないとまだ理解していなかったのか?」
「………」


死神の言葉にケイは何も言い返すことができない。できるはずもなかった。そう、最初から分かっていた。こんなことをしても無駄だと。傷つく人が、巻き込んでしまう人が増えるだけだと。それなのに、それなのに自分はまた――――


「うおおおおおっ!!」
「っ!? やめなさいっ、セバスチャンっ!?」


そんなケイの絶望を振り払わんとするかのように隣に控えていたセバスチャンが絶叫を上げながら、決死の覚悟でその拳をもって死神へと立ち向かって行く。決して敵わないと分かっていながら、それでも逃げるわけにはいかないと言う絶対の意志をもって。


「またお前か、セバスチャン。負け犬の分際でよくもおめおめと……」


それをつまらないと吐き捨てながら、まるで道端の石ころを蹴るかのような手際で死神は振り払う。セバスチャンはまるでその体躯が何の意味も持たないかのように軽々と吹き飛ばされ、意識を失ってしまう。最後まで己が主の身を案じながら。その光景にケイは声を上げることすらできない。そして改めて死神がケイへと近づかんとしたその瞬間、まばゆい光が死神を襲う。だがそれは黒衣の前にあっけなく霧散し、力を失ってしまう。そこには

怯えながらも決して希望を失っていない瞳を持ったともはねの姿があった。その人差し指が死神へと向けられている。それは先程の光、紅を放った証。


「これはこれは、可愛い援軍だな。喜べ新堂ケイ。どうやらお友達も一緒に付いて行ってくれるらしいぞ」
「だめっ! この子は関係ないわ! だから……!」


そんなケイの制止など全く聞く耳を持たないまま死神は無造作に手を払う。その瞬間、まるで見えない力が襲いかかったかのようにともはねが吹き飛ばされる。悲鳴を上げる間もなく、一瞬で。まるで小の葉を吹き飛ばすかのように。


「ともはねっ!!」


ともはねが地面へ叩きつけられる前に間一髪のところでなでしこがそれを抱きとめる。だがその衝撃でともはねは気を失ってしまっている。どうやら大きなけがはないようだが安心はできない。早く手当てをしなくては。だがそんななでしこの前に死神が近づいて行く。一歩一歩、どこか楽しさすら見せながら。


「どうした、イヌガミよ。お前は向かってこないのか? それとも臆病風に吹かれてしまったか、そんな小さなイヌガミが向かって来たというのに」
「…………」


死神は笑いながらなでしこに向かって挑発する。だがなでしこは何も言葉を発しないまま。ただ真っ直ぐに死神を睨み返しているだけ。そこには間違いなく怯えが、恐怖がある。だがそれが自分に対するものではないことに気づく。恐怖を司る死神だからこそそれが分かる。故に不可解だ。この状況で何故自分以外の何かに怯え、恐怖する必要があるのか。


「……? 汝、一体……」


死神がそれを問いただそうとした瞬間、凄まじい勢いで何かが飛んでくる。瞬時に死神はそれを片腕で見えない力を張るかのように受け止める。そこには先程受けたものと同じ蛙の消しゴムがあった。


「お前の……相手は、俺だろうが……無視してんじゃ……ねえよ!」


絞り出すような、それでも変わらない闘志を以て啓太が死神へと慟哭する。だがその声とは、気迫と裏腹に体は満身創痍。膝は震え、立っているのがやっとなのが一目瞭然。だがそれでも啓太はその手に消しゴムを構えながら死神と対峙する。その瞳にはその姿が映っている。

自分のために怒り、犬神として向かって行ったたゆね、敵わないと分かっていながらも怯えることなく向かって行ったセバスチャン、幼い体で、それでも誰よりも強い勇気で立ち向かったともはね。いつも自分を心配してくれているなでしこ。

そして自分より年上の小さな少女のために


「俺は……絶対てめえには負けねえ!!」


川平啓太は絶対負けるわけにはいかない。


「くっ……くくく、くははははははっ!! 面白い、面白いぞ人間! こうでなくてはここまで来た甲斐がない!! ならば見せてもらおう、汝のあがきを! この天と地ほどもある力の差を見せつけられても尚、向かってくる勇気があるならな!!」


心底面白いと、侮蔑と嘲笑を高らかに叫びながら死神はその口を大きく開く。


「さあ、絶望が奏でる歌を聞けえええええっ!!!」


瞬間、凄まじい声が、いや、振動が部屋を、屋敷を包み込んでいく。この世の物とは思えないようなまさに悪魔の声。禍々しい、凄まじい霊力を纏った息吹が全てを無に帰していく。部屋を、屋敷を、そして希望さえも飲みこみ、絶望へと変えて行く。


後には崩壊し、跡形もなくなった屋敷だったモノと、倒れ伏している仲間達。そして月明かりだけ。


それがこの絶望の宴の終わり。そして川平啓太の生まれて初めての完膚なきまでの敗北だった――――――



[31760] 第二十一話 「破邪顕正」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/26 20:24
『ねえ、どうしてわたしにはパパもママもいないの?』

それが小さな頃のわたしの口癖、疑問だった。どうして自分には父も母もいないのか。周りの友達にはみんないるのに、どうしてわたしだけ。でもそれにセバスチャンは困ったように誤魔化すだけ。それがずっと不思議だった。でもすぐに、大きくになるにつれてその疑問もなくなった。

わたしの、新堂家の人間の逃れられない運命を知ったあの日から。

初めからそれを信じていたわけではない。そんなお伽噺、いや、悪い冗談のような話があるわけがない。そう言い聞かせていた。だがそれが間違いなく真実だと思い知らされた。

誕生日の度に現れるアイツ。その姿、存在、力によって。恐怖を植え付けられる自分。自分を救うために戦いを挑み、敗れ、傷ついていく人々。それを見るのが辛かった。自分が傷つくのはまだいい。怖いけど、辛いけど何とか我慢できる。でも他人が、自分に近しい人が傷つくのは耐えられない。

だからわたしに友達はいない。いるのはこの腕の中にある、くまのぬいぐるみだけ。いつも自分と一緒にいてくれた、わたしのたった一人の友達。

でも怖い。どんなに言い聞かせても、あきらめようとしても、死ぬことが怖いのを誤魔化すことができない。誕生日のたびにまるで十三階段を登って行くかのような感覚に。

どうして母はわたしを生んだんだろう。わたしがこんな思いをすることを、誰よりも分かっていたはずなのに、どうして。新堂家を途絶えさせないため? そんなことのためにわたしは生まれてきたの? でも答えてくれる人はもう誰もいない。 わたし、生まれてきてよかったのかな……?


『死にたい』


それが彼女の、新堂ケイの口癖。生きることに絶望した、あきらめの言葉。


だがそれは違う。その言葉の本当の意味。ケイですら気づいていないその答え。


少女はその心の叫びを乗せ、歌い続ける。誰ひとり届くことのない、自らの本当の願いを抱きながら――――――





朝日がまばゆい光が次第に夜の闇を照らし始めている中、一人の少女が屋敷の中を、いや屋敷であった跡を歩いている。それはなでしこ。なでしこは沈んだ表情を見せながら、どこかあてもなくその惨状を歩いて行く。かつてのきらびやかな、優雅な屋敷の面影はどこにもない。ただの廃墟と化してしまった屋敷。まるでミサイルでも落ちてしまったかのような惨状。それが死神の力だった。

だがそれだけの力を行使したにもかかわらず自分たちは誰ひとり命を落としていない。それは今日が、いや昨日がケイの誕生日ではなかったから。その契約によって死神は誰ひとり命を奪うことはなかった。つまり、この惨状でさえあの死神にとっては手加減をしたものだったということ。

今、新堂ケイとたゆね、ともはねはこの場にはいない。

新堂ケイは死神が去った後、啓太に何かを言い残した後、去って行ってしまった。まるで自分たちを巻き込まないように。

たゆねとともはねは既に天地開闢医局へと連れて行かれた。事態を察知したはけによって。恐らくは大きな怪我もなかったので大丈夫だろう。

啓太は廃墟と化した屋敷の二階で一人佇んでいた。まるで何かを考え込んでいるかのように。なでしこはそんな啓太に掛ける言葉を持たなかった。いや、言葉を掛けることなどできるはずもなかった。今の自分にそんな資格などあるはずもないのだから。

そしてなでしこはその人物を見つける。そこには


「おお、なでしこさん、どこに行かれていたのですか?」

ボロボロのタキシード姿で何故かダンベルを使ってトレーニングをしているセバスチャンの姿があった。

「セバスチャンさん、一体何を……?」
「トレーニングです。日課になっておりましてな。はははは!」

困惑気味ななでしこの問いにセバスチャンはどこか楽しそうに笑いながら答える。だがそれが何かを誤魔化すような、無理をしているものだということは誰の目にも明らかだった。

「セバスチャンさん……」

なでしこはどこか目を伏しながらも、そんな痛々しい姿を見ながらもあえてその言葉を告げようとする。

そんなことをしてもあの死神には勝てないと。

その絶対に覆すことのできない真理、現実を。


「……いいんですよ、なでしこさん……わたしも分かっています。自分では例え命を捨てたとしてもアイツに勝てないことは……」

なでしこの気遣いに感謝しながらもセバスチャンはその言葉を口にする。自分では勝てないと。その事実を、現実を知っている、分かっているのだと。その言葉と姿になでしこの目が見開かれる。

「それなら……どうして……?」

知らずそんな疑問を口にしていた。いや、聞かなければならないと、今、自分はその理由を知らなければならない。そんな確信めいた何かがなでしこを突き動かす。そんななでしこの戸惑い、姿に気づくことなくセバスチャンは口にする。


「自分はもう……臆病者になるのは嫌なのですよ……」


それは告解、いや懺悔だった。犯してはならない間違いを犯してしまった自分への、そしてかつて救うことができなかった少女への。

二十年前、プロレスラーだったセバスチャンは新堂家に雇われた。かつての新堂家の当主、新堂ケイの母を守るために。セバスチャンには自信があった。自らの強さに。それを以て死神など一蹴してみせると。だがそれは無残に終わりを告げる。

戦うことすらできないまま。恐怖を、手足を何度も折られる痛みを流しこまれ、悶絶することしかできなかった。いや、これだけならまだよかった。ただの臆病者だと、罵られるだけで済んだだろう。だがセバスチャンは犯していけない、許されない罪を犯してしまう。それは


『汝はこの娘を守る者か? そうならば殺す、違うのなら生かしてやろう』


悪魔の、死神の囁き。決して耳を傾けてはいけない、禁断の二択。


セバスチャンは選ぶ、いや選ばざるを得なかった。その選択を誰が責めることができるだろうか。だがセバスチャン自身がそれを許すことができなかった。もしこの時、守ろうとしたケイの母に、少女に恨みを言われていればどんなによかったか、だが


『いいんですよ』


それが少女がセバスチャンに掛けた言葉。自らの死がそこまで迫っているにも関わらず、笑いながら、まだたった二十歳の少女はそう言ってセバスチャンを許した。心から、気にすることはないと、優しく。


それがセバスチャンの罪。例え少女に許されたのだとしても、誰よりも自分自身が許すことができない、決して消えることない咎。


「あれから自分がずっと許せなかったっ!! 悔しくてっ……悔しくてっ……!! どれだけ鍛えても、何回やってもアイツに敵わないっ!! お嬢様をお守りすることすら……あんなに小さな少女を守ることすらできないっ!! 自分は……自分はっ!!」


慟哭しながら、涙を流し、嗚咽を漏らしながらセバスチャンはその拳を地面へと叩きつける。その手が血に染まりながらも、何度も、何度も。自分の無力さを呪うかのように。そんなセバスチャンの姿をなでしこはただ見つめ続けるだけ。今の自分にはセバスチャンに言葉を掛ける資格など無いのだと、そう悟ったから。


自らの主を守るため。


それがセバスチャンが戦う理由。決して敵わないと分かっていても、命を落とすと分かっていても決してあきらめない心。それは同じだった。自分たち、犬神が持つべき心のあり方、信念と。


その信念に、誇りにたゆねも、あの小さなともはねでさえ従い、立ち向かって行った。恐れを持ちながらも、それを上回る勇気を以て。例えその力が及ばないと知っていても。


だが自分は何もできなかった。いや、『何もしなかった』


自分にはある。あの死神ですら簡単に葬れるような、まさに神のごとき力が。セバスチャンが、これまであの死神に立ち向かって来た、命を奪われてきた者たちがいくら求めても、求めても手に入らなかった、手が届かなかった『力』が自分にはある。


でも、自分は何もしなかった。自分勝手な、本当に自分勝手な理由で。三百年前から続くやらずの戒め。それを破ることができなかった。いや、それは言い訳だ。きっとそれだけであったなら自分は先の戦いで禁を破っていただろう。でも自分には、今の自分にはそれができない。例え命を落とすことになっても。それは恐怖。死神へでもない、戦うことへでもない。たったひとつの、それでも自分がずっと望んでいた、願っていた夢のために。


なでしこは静かに視線を落とす。そこには二つの大切な、かけがえのないものがある。自分が自分である意味。証。それを強く、強く握りしめながら、なでしこは自分たちを照らし出す朝日へと顔を上げるのだった――――――




「啓太様……」


廃墟と化した二階へと一人の青年がまるでいきなり現れたかのように姿を見せる。それは白い着物を着、長い髪をした犬神、はけ。はけはそのまま自らに背中を見せたまま立ち尽くしている啓太へと目を向ける。いつもとは違うタキシードに身を包んでいるものの、それはボロボロで見る影もない。啓太は振り返ることなくどこかへ視線を向けている。啓太が何を見ているのかははけには分からない。その腕にはボロボロになったくまのぬいぐるみの様な物が抱えられている。その光景にはけはどう話を切り出すべきか思案する。だが


「はけか……ともはねとたゆねはどうだった?」
「はい……二人とも大事ありません。今は二人とも眠っています」
「そっか……悪いことしちまったな……」


啓太は振り返らぬまま、ぽつりぽつりと言葉を口にする。そんないつもとは違う啓太の姿にはけは目を奪われる。得も知れない感覚が体を支配する。これは何なのか。まるでそう、津波が来る前の海岸に立っているかのような、そんな感覚。


「申し訳ありません、啓太様……わたしがもっとよく調べていれば……ですが、これは酷い。これはかつて、わたしと宗家が倒した死神を遥かに超える強さです」


それが何なのか答えが出ないまま、はけは改めてその惨状へと目を向ける。そこにはとてもこの世の物とは思えないような規模の破壊の跡があった。その霊力は間違いなくかつて自分が幼い宗家と共に倒した死神を遥かに上回っている。

死神。それは川平家の、犬神にとっての天敵と言っても過言ではない程強力な存在。だがその中でも恐らくはこの死神は群を抜いている。これだけの破壊を行いながらも誰一人殺していない、すなわち手加減するなど。間違いなく自分を遥かに上回る力。これを超える存在をはけは二人しか知らない。今は封印されている大妖狐、そして―――――


「確かに化け物だったぜ……まあ、馬鹿だったけどな……」

「………啓太様?」


はけは思わず聞き返してしまう。先程まで考えていた内容もどこかに吹き飛んでしまった。何故なら啓太の言葉には全く恐れも、恐怖もなかったから。そんなことがあり得るのだろうか。これだけの力を、力の差を見せつけられたというのに。まさに天と地ほどもある絶対の壁を、理不尽を。なのに、なのに、何故―――――


「でも俺、もうあいつに絶対負けるわけにはいかねえんだ……はけ、俺、今、凄く怒ってるんだぜ」


そんな楽しそうな笑みを、ケモノの瞳を見せているのか。


「―――――――」


はけはただその姿に目を奪われていた。いや、見惚れていた。息は止まり、体は震えている。思考が定まらない。まるで獣に戻ってしまったかのように。


その言葉の意味。

啓太は怒っている。死神へ。その理不尽に、その残酷さに、恐怖を、絶望を振りまく存在に。

何よりもそれを倒すことができなかった自分自身に。


瞬間、蘇る。それは記憶。忘れることなどできない、自分にとっての始まりの記憶。


かつて幼い宗家が儀式を行う年齢よりも早く里へと訪れた日。奇しくも今と同じ、友人に取り憑いた死神を倒すために自分たちの力を貸してほしいと助けを求めてきた日。だが犬神達は誰もそれに応えなかった。契約の年齢に達していないこと、何よりも死神という自分たちにとっての天敵が相手。無理のないことだった。だが少女、宗家は恨み事一つ言わずその場を立ち去って行く。

知らずはけはその後を追っていた。それは単純な興味。

『あなたは何故そうまでするのですか?』

何故戦うのか。怖くないのか。どうして友人のためにそこまでするのか。それに


『決まってんだろ、友達のためだ! それが破邪顕正だからだ! オレが胸を張って生きたいからだ! だからだ! 文句あるか!?』


少女は一切の迷いなく、胸を張って、不敵な笑みを見せた。それにはけは目を奪われる、いや見惚れていた。心奪われていた。

『面白い』

この人間は面白い! こんな人間がいるとは! いや、自分はずっとこの時を待っていたのだと!

それがはけが生まれた瞬間、いや生まれ変わった瞬間だった。そして今、自分はそれと同じ光景を、感覚を感じている。

かつての宗家の笑みと、啓太の笑みが重なる。性別も、歳も異なるにも関わらず、間違いなくそれは全く同じもの。いや、それだけではない。

それはまさに原初の記憶。かつて大妖狐によって絶体絶命の危機に陥った時、誰もがあきらめ、絶望し、それでも心の、魂の底から叫びを助けを求めた時、あの方は現れた。

『呼べば来る者』

それが初代、川平慧海。誰かが魂の底から助けを求めた時、彼は必ず現れた。

はけは確信する。啓太が間違いなくその魂を受け継いでいるのだと。啓太がその叫びを、死に魅入られた少女の叫びを感じ取ったのだと。


「……? はけ、お前何で泣いてんだ……?」


啓太はどこかぽかんとした様子ではけへと向き直る。そこには両目から涙を流しているはけの姿があった。だがはけはそのことに気づいていないかのようにただ啓太へと視線を向けている。涙には不釣り合いなどこか誇らしげな笑みを浮かべながら。


「いえ……ただご命令を、そう申し上げたかったのです、啓太様」


そう言いながらはけは膝を突き、首を垂れる。それは忠誠の証。かつての初代、そして宗家以外には決して見せたことのない、心からの忠誠。自らの主足る、そう認めた者にしか見せない姿。


はけは悟る。何故自分がこの方に目をかけていたのか。それは川平の直系だからでも、その容姿がかつての宗家と似ていたからでもない。


そう、全てはこの瞬間のため。



「はけ……お前の命、俺にくれ!!」


はけはただ頭を下げているだけ。もはや言葉は必要ないと。そう告げるかのように。


今、啓太の生まれて初めての本気、命を賭けた戦いの、反撃の狼煙が上がった―――――



[31760] 第二十二話 「けいたっ!」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/04/29 09:43
その日、運命の日。五つの人影がある。だがそこは地上ではない。空の上。真っ赤に染まった夕日を浴びている大きな機械の中、飛行船の中に啓太達はいた。その中の一際大きなスペース、広場で啓太はどこか自信に満ちた、やる気に満ちた表情で体を動かしている。まるでこれから試合を控えている選手のように。どこか楽しさすら見せる表情で。

「さんきゅーな、セバスチャン! これで心おきなくやれるぜ!」
「いえ、お気になさらずに。このぐらいどうってことありません」

にかっという笑みと共に啓太は目の前に入るセバスチャンに向かって礼を述べる。今の状況、それは啓太が死神、暴力の海と戦うために依頼したもの。『完全に外界から隔絶された状況』それをセバスチャンが用意してくれた。まさか飛行船まで用意してくれるとは流石新堂財閥といったところ。思わず驚きに目を見開くことしかできなかったがこれならば何の問題もない。むしろこれで状況は予定よりも完璧になったと言えるだろう。

セバスチャンもそんな啓太の姿にサムズアップしながら答える。どこか誇らしげな、自信を感じさせる姿で。実はセバスチャンはこの状況を作るために少し、いやかなり無理をしていた。この後には裁判所通いをしなければならない程の。だがそんなことなど全く問題ない、気にしていないとばかりの姿。今のセバスチャンにあるのは戦えない自分の代わりに、文字通り命を賭けて戦ってくれる啓太のためにできる自分なりの全てを成し遂げたと言う達成感だけだった。

そんな啓太とセバスチャンの姿を見つめている三人の姿。一人ははけ。はけは少し離れた所からそれを見守っている。目を閉じ、その手に扇を持ったまま。いつもと変わらない、清らかな、流麗な雰囲気を放ちながら。だがはけを知る者ならその違いに気づいただろう。はけがその閉じた瞳の下に、確かな、隠しきれない程の高揚を、闘志を秘めていることに。

もう一人がなでしこ。なでしこはどこか沈んだ、暗い表情で目を伏しながら自らの主の姿を見つめている。まるで何かを言いたい、伝えたいにも関わらずそれができない、言えないかのように、そんな自分を押し留めているかのように。その両手が自らのエプロンドレスを握りしめている。その感情を、悔しさを、情けなさを滲ませるかのように。

そして最後の一人、新堂ケイはそんな啓太の姿をただ黙って見つめ続けている。だがその瞳には陰りしか、絶望しかない。そう、今日は運命の日。生まれてきたその日から決まっていた、自らの命が奪われる日なのだから。でもそれだけであったならここまで沈み込むことはない。確かに死ぬのは怖い。それはどんなに誤魔化しても、言い訳してもなくなることはない。でもそれ以上に怖いことがある。それは


「これは何の冗談なの、川平君……?」


自分のせいで誰かが傷つき、命を落とすこと。


「ん? どうしたケイ? 心配しなくてもいいぞ。お前とセバスチャン、なでしこにはアイツがきたらすぐに脱出してもらうことになってるから」
「……っ! そんなこと聞いてるんじゃないわっ! あなたは一体何をする気なのかって聞いてるのっ!」

ケイは声を荒げながら啓太へと詰め寄って行く。その表情に鬼気迫るものを、怒りを見せながら。これまで見せたことのないような必死さを見せながらケイは啓太を問い詰める。もはや問うことすら意味がないほど明確な理由を。だがそれを聞かないわけにはいかなかった。だが


「決まってんだろ、あの馬鹿にひと泡吹かせてやるのさ」


まるで当たり前のことのように、ちょっとそこまで行ってくるような気軽さで啓太はその答えを口にした。その言葉に、姿にケイは思わず我を忘れてしまう。そうしてしまうような何かがそこにはあった。だがそれでもケイは歯を食いしばりながら、唇を噛みながら告げる。

「正気なのっ!? あなただって分かってるでしょう、アイツの強さを! 勝てっこないわ! 今度は怪我じゃ済まないわ、間違いなく殺されるのよっ!? なんでこんなことするのよっ!?」
「な、なんでって……そりゃそういう依頼だし……」
「嘘よっ! あなたなら分かってるんでしょう!? この依頼に意味なんてないことが! 例えあなたが勝ったって得る物が何もないことぐらい!」
「そ、それは……」

ケイの言葉に啓太は思わず黙りこんでしまう。何故ならケイの言葉の意味を知っていたから。新堂財閥は死神の力によってその富を、栄光を得てきた。もし、死神が倒されればそれは全て消え去ってしまう。そうなれば約束している報酬も全てなくなってしまう。それでは依頼が成り立たない。もっとも啓太がその事実に気づいたのはちょっと前だったのだが。それを持ちだされると啓太としてもどう答えていいものか分からずあごに手を当てたまま考え込んでしまう。そんな啓太の姿を見ながらもケイは叫び続ける。


「もう放っておいてよっ! わたしは早く死にたいの! ずっとこの日が来るのを待ってたのっ! 生まれた時からそう決まってたの! あんたに分かる、わたしの気持ちがっ!? お前は死ぬぞってずっと言われてきた、呪われてきたわたしの気持ちがっ!? だからもうやめてよっ! もうこれ以上わたしを苦しませないでよ! ねえ、お願いだから……わたしを……わたしを死なせてよおおおおお!!」 


まるでこれまでの自らの心を晒け出すかのように。形振りかまわず、泣きじゃくりながら、親に泣きつく子供のように。支離滅裂に、ただ心のままに。それが二十年間、誰にも言えず抱えてきた小さな少女の、新堂ケイの心の叫びだった。

そんなケイの叫びになでしこもはけも何も答えることができない。いや、答えることなどできるはずもなかった。その苦しみを、嘆きを知らない自分たちには。しかしそれを知るセバスチャンが初めて怒りの表情を見せながらケイへと声を上げようとする。だがそれは止められる。他でもない啓太の手によって。


「なあ、ケイ、勝負しねえか?」
「………え?」


それはあまりにも場違いな言葉だった。啓太の言葉にケイはどこか心ここに非ずといった風に、ぽかんとしたまま啓太へと顔を上げる。当たり前だ。そこにはまるで自然体の、いつもと変わらない啓太がいる。あんなにひどいことを言ったのに、八つ当たりをしたのに、何でそんな風に入られるのか。一体何を言っているのか分からない。そんな混乱しているケイをよそに啓太は告げる。自らの戦う理由を。


「もし俺が死神に勝ったら、お前の言うこと何でも一つ聞いてやるぜ」

「――――――」

その言葉にケイは文字通り声を失う。それはその言葉の馬鹿馬鹿しさ。何故自分が勝ったのに命令されることになるのか。普通は逆なのではないか。だが


「俺からの誕生日プレゼントだ、ケイ」


その意味を、ケイは知る。それが自分は絶対に死神には負けないという誓い。そして、自分の二十歳の誕生日への、彼からの誕生日プレゼントなのだと。

『生きたい』

少女の、新堂ケイの本当の願い。それを聞きとげた啓太からの誕生日プレゼントだった。


瞬間、ケイの瞳から涙が流れ出す。先程までの絶望の、悲しみからのものではない、喜びからの涙が。今までずっと恐れていた、呪うしかなかった誕生日。その本来の意味、祝福される日。


「う、うああ、うわあああああ―――――――――――!」


ケイはただ涙を流しながら、嗚咽を漏らしながら啓太へとしがみつく。まるでこれまでの全てを吐き出すかのように。ただ、力のままに。今までの全てが救われたと、もしこのまま命を落としたとしても悔いはないと、そう思えるほどに。


それがケイの生まれて初めての誕生日、そしてその魂が救われた瞬間だった――――――




「悪いな、はけ。付き合わせちまって」
「いえ、これはわたしが決めたことですから」
「そっか……でも後が怖えな、ばあちゃんになんて言われるやら……」
「ふふっ、それは啓太様にお任せしますよ」

二人きりになった啓太とはけがどこか冗談交じりのやりとりを交わす。とてもこれから戦いを、命のやりとりを前にしているとは思えない程二人は落ち着いていた。いや、もしかしたらそれを前にして感覚がマヒしてしまっているのかもしれない。既にケイ達の姿はここにはない。セバスチャンと共に脱出した後。後は海岸で待機してもらっている薫達に任せれば大丈夫。だがなでしこだけは自分もここに残ると言い張り残ろうとした。だが悪いが戦えないなでしこはこの戦いでは足手まといでしかない。今回の相手を前にしてなでしこを庇う余裕は一片もない。少し可哀想だったが強引にセバスチャンに連れて行ってもらった。この埋め直しは帰ってからだ。ただ今は


「ほう、本当に逃げなかったとは驚いたぞ。イヌガミツカイ」


目の前の死神を倒すだけ。


「ふん、てめえこそまた日付を間違えるんじゃねえかと思ってたぜ」
「減らず口は変わっていないようだな。どうやらケイ達はこの場にはいないようだが……まあいいだろう、それよりもいいのか? どうやら新しいイヌガミを連れているようだが一匹だけで? なんなら仲間を呼ぶまで待ってやってもいいぞ」
「余計なお世話だ。それよりも自分の心配をしたほうがいいと思うぜ。お前は今日、ここで倒されるんだからな」
「くく、くははははは! お前が!? 我を!? もう忘れたのか、昨日の戦いを!? お前は我の前に為すすべなく敗北したであろう! たった一日で何が変わったというのだ!?」


先日と同じ、馬鹿馬鹿しいテーマソングを流しながらも死神は心底おかしいと笑い続ける。だがそれは正しい。啓太は先の戦いで完膚なきまでに敗北した。一日経ったとしてもその強さが大きく変わることはない。そんなご都合主義は決してあり得ない。だが一つ、大きな間違いを、勘違いを死神はしている。それを見抜いているかのように、啓太の隣に控えているはけの纏っている空気が変わっていく。その霊力が、気配が、まるで破裂する前の風船のように高まって行く。それを感じ取った死神の表情に変化が生じる。それと同時に

「確かにあの時はあれが俺の全力だった。でも今は違うぜ……」

啓太がその口元を歪める。それは笑み。まるで狩りを行うケモノのような、楽しげな笑み。その姿に死神が思わず目を奪われる。その気配に、雰囲気に。まるで先日とは別人のようなその姿に。


「言っただろ……俺は『犬神使い』だ!!」


宣言と共に、『犬神使い』川平啓太の戦いが始まった。



「っ!?」

その驚愕は死神のもの。目の前の光景が死神の予想外だったからに他ならない。そこには真っ直ぐに、ただ愚直に自分に向かって疾走してくる啓太の姿があった。だがその速度に驚いているわけではない。確かに人間にすれば驚異の速度ではあるが自分なら簡単に対処できるもの。驚きはその行動。

死神は自分に向かってくるのはあの白い着物を着た犬神だと思っていた。犬神使いという名の通り、あの犬神を使役してくるのだろうと。一見しただけだがその力は確かに凄まじい。先日のイヌガミの少女を上回っているのは間違いない。だがそれでも自分には遠く及ばない。それだけで自分に勝てると思った人間の思い上がりを正してやるつもりだった。だがどうやらあの人間はただの馬鹿らしい。自ら突っ込んでくるなど、思い上がりもはなはだしい。虚を突かれたのは確かだが子供だましにもならない。


「どうやら我の買いかぶりすぎだったようだな……すぐに終わらせてやろう!」


つまらなげに履き捨てた後、死神は突進してくる啓太に向かってその拳を以て迎え撃つ。それは先の戦いの焼き回し。徒手空拳、格闘戦の流れ。だがそれでは啓太には勝ち目はない。まさに大人と子供ほどの力の差が、技量の差が二人にはある。歴然とした差。それは今も変わっていない。だが

それを埋められる、覆せる者を、力を今、啓太は手にしていた。


「――――なっ!?」


驚愕は死神だけのもの。何故なら啓太にとってはそれは狙い通りの、分かり切ったもの、光景だったから。

紫の結晶。

それが突如死神と啓太の間に現れる。まるで狙い澄ましたかのような、完璧なタイミング、死神の拳を受け止める、啓太を守る位置へと。死神の拳、攻撃はその結晶の前に受け止められる。その強度に死神は驚愕する。自分の拳は決して簡単に止められるようなものではない。霊力を込めたその拳は岩すら簡単に粉々にする程の力がある。先日はケイの誕生日ではなかったことで手加減をしなければならなかったが今は違う。全く手加減なく、殺すつもりで拳を放ったにも関わらずそれが防がれている。死神は瞬時に悟る。これがあの白い犬神、はけが張った結界であることに。

『破邪結界 二式紫刻柱』

それがこの結界の名。自らの主を守ってきたはけの絶対防御の結界だった。


「はあっ!」


そんな死神の隙を突くかのように啓太の凄まじい蹴りが放たれる。突然の、予想外の事態によって死神の反応が一瞬遅れる。だがそれでも驚異的な身体能力によって死神はそれを躱し、後方へと跳ねる。しかし避けきれなかったのか、啓太の蹴りが、足が死神の纏っていた黒衣を巻き込み破り去る。それに舌打ちしながらも死神は一旦体勢を立て直そうとする。だがまるでそれを阻むように、死神の後方に先程と同じ結界が次々に生まれ、その逃げ道を塞いでいく。この勝機を、状況を逃さないかのように。


「っ! こんな子供騙しなどっ!!」


焦りながらも死神はその霊力を使い、結界を破壊せんとする。確かに強力な結界だが自分の力ならそれを破壊することもできる。加えてこの結界には大した攻撃力はない。どうやら防御に重きをおいた結界らしい。なら何も恐れることはない。そう判断しかけたその瞬間、


「よそ見してる暇があんのかよっ!?」
「っ!?」


それをまるで待っていたかのように、啓太の拳が死神へと放たれる。まさに霊力を放たんとしていた死神は虚を突かれながらそれを何とか受け止める。だがそれによって結界を破壊することができない。まるで思うように動けない状況にいらだちを募らせながらも死神はまずこの人間を葬るのが先だと判断し、再び近接戦を挑む。犬神使いである人間を倒せば犬神を倒すのも容易い。そう判断してのもの。啓太の放った拳を払いながら自らも拳を、蹴りを放って行く。だがそれは唯の一つも啓太の体に届かない。全てが完璧に、一寸の狂いもなく次々に生まれてくる結界によって阻まれる。まるで啓太がそれを行っているかのような、その結界を纏っているのではないかと疑いたくなるほどの光景。だがそれを前にしても啓太はただ真っ直ぐに死神だけを見据え、攻撃の手を緩めることはない。その光景に死神は初めて驚愕する。啓太とはけの神業と言ってもいい連携に、そしてまるでこの場を支配しているかのような展開に。


今、はけはただ一つの感情に支配されていた。

『楽しい』

そんな命を賭けた戦いを行っている中ではおよそ考えられないような感情。ましてや相手はこれまで戦ってきた中でも間違いなく一、二を争うほどの難敵。だがそれを前にしてもまったく恐れも恐怖もない。ただあるのは凄まじい、怖いほどの高揚感、昂ぶりだった。

前衛が啓太で後衛がはけ。

それが啓太が命じたこの戦いの布陣。それは犬神使いを知らぬ者から見ればあり得ないと思うような配置。誰でも犬神使いが後衛で、犬神が前衛を務めるのだと、そう思うだろう。故に犬神使いと戦う者は必ず同じ間違いを犯す。犬神使いを潰せば犬神も倒せると。犬神使いは後方支援であり、司令塔だと。だがそれこそが間違い、いや犬神使いの狙い。

犬神使いになる者が何故皆、強靭な肉体を作るのか。何故死ぬ思いをしてまで自らの肉体を、技を磨くのか。その答えがここにある。

死神は後方支援に徹するとばかり踏んでいたがために虚を突かれ、接近を許してしまった。

啓太を潰せば犬神も潰せると思い攻撃を加えようとするもその全てを阻まれ、体勢を立て直す暇も与えぬ接近戦によって翻弄し、追い詰められている。

全てが啓太も思惑、掌の上。

もし最初から霊力による戦い、遠距離戦ならばいかにはけといえでも防ぎきれず、また啓太達も有効な攻撃手段を持たないため勝負にすらなかっただろう。

これが啓太の戦う者としての、司令官としても力。


そしてもう一つが『犬神使い』としての力。

まるで神業の様な結界による防御。だがそれは決してはけだけの力によるものではない。確かにはけは犬神達の中でも最強に近い存在。その技量もずば抜けている。その真価は防御、絶対とも言える守りの力、結界術によるもの。

圧倒的な攻撃力を持つ本来の主、宗家と共に矛と盾、その役割を持った時、二人は最強の一対となる。だがその盾の力も宗家の存在があってこそ。その連携がなければ力は半減してしまう。

だが今、はけはそれを感じ取っていた。

まるで自分の力が際限なく引き出されていくような、そんな信じられないような感覚。歳が若返って行くかのような、そんな荒々しい、猛るような感情が自分を支配している。こんなことは生まれて初めてだった。だがそうではない。かつて自分はこれと同じ感覚を覚えたことがある。

そう、初代の下で大妖狐と戦ったあの日。それが今、時を超えて蘇っている。


見える。聞こえる。啓太の心が、意志が。その命令が、声が。


『一心同体』 『以心伝心』

それが犬神使いと犬神の極致。互いの心と体が一つとなることで初めて可能になる到達点。

啓太は全ての防御を、回避を頭から消し去り、ただ攻撃に専念することで死神との技量差を埋め、攻勢に出ている。だがそれだけではない。その指先で、体のゆらぎで、目の動きで、攻撃のタイミングを、防御のタイミングを、命令をはけへと伝えている。死神はそれに全く気付かない、いや気づくことなどできないほどの動き。だがそのすべてをはけは感じ取りその意を酌み取る。本来ならあり得ないこと。

契約した主と犬神は霊力を共有することでその感情を感じ取ることができる。それが連携において大きな役割を果たす。だが啓太とはけの間にそれはない。だがそんなことなど関係ないかのように。いや、そんなものなど必要ないほどの力が、犬神使いとしての才が啓太にはある。

これまで一度も使われることのなかったその天賦の才が呼び起こされていく。その片鱗が、はけを魅了する。はけは何十年振りかに咆哮を上げる。その力に呼応するかのように。


それが『犬神使い』川平啓太の真の実力だった――――――



「調子に乗るなああああっ!!」

激高と共に死神がその霊力を力まかせに振るいながら矛先をはけへと向ける。死神は認めざるを得なかった。確かに自分はこの人間を侮っていたのだと。間違いなくこれまで自分が葬ってきた中でも一番の強者だと。だがそれでも地力の差は変わらない。その格闘技術も確かにあるがこの程度の打撃を一撃や二撃受けたところで問題ない。ならばそれを受けながらでもあの後方に控え、扇を使いながら結界を張っている犬神を排除する。それができれば目の前の人間も為す術がない。狙うべきはあの犬神だったのだと気づき死神はその力をはけへと向けんとする。

だがその瞬間、得もしれぬ感覚が死神を襲う。それが何なのか分からない。だが自分はこれを知っている。いや、誰よりも知っている。何故なら―――――


瞬間、啓太の右腕が死神に向かって放たれる。その絶対に躱せない、完璧なタイミングで。まるで狙い澄ましていたかのように。そう、この瞬間こそが啓太が待ち望んでいた瞬間。


何故初めの一撃で死神の体ではなく、黒衣を狙ったのか。

何故今まで一度も蛙の消しゴムを、霊符を使わなかったのか。

そして、何故これまで一度も右腕を使わなかったのか――――


「白山名君の名において告ぐ――――――!!」


啓太はその右の拳を強く、強く握りしめる。その掌の中にはある。自らの霊力を限界まで込めた自らの霊符、蛙の消しゴム達が。

かつて修行した地でできた友達から得たかけがえのない力。

自分には祖母程の霊力はまだない。はけに釣り合うほどの矛とはなりえない。だからこそその持てる力を全てこの一撃に、直接右手に込めた一撃に賭けるしかない。

限界以上の霊力を扱うことによって右手に激痛が走る。その痛みで意識が遠のく。ちょっとでも気を抜けば気を失ってしまいそうなその痛み。なんで自分がこんなことをしているのか。そんな疑問を抱いてしまうほどのもの。それを感じながらも、歯を食いしばりながら、全ての力を、最初で最後の一撃を振りかぶる。


ケイとした約束を守るため。


そしてもう一つ、破るわけにはいかない約束のために。


本当なら、本当なら俺はなでしこに共に戦ってほしいと告げるべきだったのかもしれない。

俺は知ってる。なでしこがきっとあの死神に匹敵するほどの力を持っていることを。だからこそなでしこはずっと、何かに悩み、ずっと後悔したような姿を見せていたのだと。そんなになってまで、戦えない理由があるのだと。

なら……はけの力を借りる形になったけど、それでも俺はなでしこを戦わせるわけにはいかない。


浮かぶのはあの夜の日の光景。月明かりが照らしていた、一人の少女の姿。


『実はわたし、戦うことができないんです………だから他の犬神のように一緒に戦うことができない……それでもわたしと契約してくれますか……?』


どこか恐る恐る、それでも縋るように、祈るようにそれを告げた少女。その約束を守るために。そして


好きな女の子の前でいい格好を見せたいという、譲れない意地のために


「蛙よ……爆砕せよ――――――――!!」


俺は絶対に負けるわけにはいかない―――――――


瞬間、凄まじい爆発が、爆風が巻き起こる。啓太の放った一撃によって。その直撃を受けた死神が叫びを上げる暇もなく吹き飛ばされる。自らの防御である黒衣を失っている死神は啓太の全ての霊力を込めた一撃によって為すすべなく地へと這いつくばる。それほどの規模の攻撃。まさに一撃必殺と言ってもいい一撃だった。だがそれを放った衝撃と霊力の消費によって啓太もその場に膝を突き、今にも倒れそうな姿を見せる。それが死神を倒した一撃の代償だった。

「啓太様っ!!」

それを見て取ったはけが慌てながら啓太の元へと駆け寄って行く。この作戦を聞いた時から覚悟はしていたものの、肝が冷えっぱなしだった。確かに今の自分たちにとっては最善の策、いや、これ以外の手はなかっただろう。だがそれでも危険は十分あった。もし最初から死神が遠距離戦を仕掛けてくれば、もしはけではなく啓太の身を狙われ、右手の切り札を看破されていればどうなっていたか。だがそのすべてを啓太は乗り切った。いや、勝ち取った。間違いなくこの戦いは川平啓太の勝利だった。そう、この瞬間までは。


「―――――はけっ!!」
「っ!?」


瞬間、はけは知らず動いていた。今まで一度も自分に向かって直接声を掛けることがなかった啓太が何故声を荒げているのか。そして今、自分が何を為すべきなのか。はけはその姿を捉える。そこには


凄まじい憤怒の形相を見せながらこちらに向かって歩いてきている死神の姿があった。その姿はとても先程までと同じ人物とは思えないようなもの。口からはとめどなく血が流れ、肌は黒く焼け焦げている。その服は敗れ、もはや元の服装がどんな物であっったかすら定かではない。だがその霊力が、その力が全く衰えていないことを示していた。


「やってくれたな……イヌガミツカイよ……貴様だけは楽には殺さん……そこのイヌと一緒に八つ裂きにしてくれる……!!」


それまでの役者ががったしゃべり方ではなく、狂気と怒りに染まったち地の底から響くような声が飛行船の中に響き渡る。だが既に啓太に戦う力は残っていない。右腕は動かず、霊力はゼロ。いや、例えあったとしても今の死神を前にしては通用しないだろう。だが啓太の目にはあきらめはみられない。そのことに気づいた死神がそれを問いただそうとした瞬間

死神は再び結界に閉じ込められる。だがそれは先程までの紫色の結晶ではない。四方を囲むような結界。


「破邪結界一式『弧月縛』」

はけがその名を口にする。それが啓太の策。張った者以外を絶対に通さない、瞬間的な力では決して破れない結界だった。

だがそれを前にしても死神は全く恐れをみせない。それはその結界の特性を理解したから。


「なるほど……確かに厄介な結界だがいつまでもは持つまい。それに我を封じておける内はいいがその後はどうするつもりだ。無駄な時間稼ぎだぞ。く、くはは、くはははははっ!!」


死神は高らかに笑う。嘲笑する。無様だと、無意味だと。例え一時的にここに自分をとどめておけたとしても何の意味もない。死ぬまでの時間がほんのわずか伸びたにすぎないのだと。だがそれを聞きながらも啓太とはけの表情は変わらない。いや、むしろ先程よりも決意を感じさせるようなもの。何故そんな表情を、姿を見せているのか。状況は何一つ変わっていないと言うのに。まるで何かを待っているかのような。援軍でもあるのか。いや、そんなものがあるなら初めから呼んでいるはず。一体何故。そしてついに死神は気づく。

それは今、自分達が立っている場所。そこは飛行船。ケイが自分から逃げるためにこんなことをしたのだとばかり思っていた。だがその間違いに死神は気づく。今、この場には自分たち以外誰もいない。なら一体誰がこの飛行船を操縦しているのか。その意味。


そう、それは自分もろとも地上にこの飛行船を墜落させるためだと。


「貴様っ!? 正気かっ!? 心中などとそんなバカげたことをっ!?」
「お、気づいたのか。馬鹿なお前の割には気づくの早かったじゃねえか」
「ふ、ふざけるなっ!? 今すぐここから出せ! 殺されたくなければさっさとしろおおおっ!!」

啓太達の姿にそれが冗談ではないことを悟った死神は断末魔の様な声を上げながら結界を破ろうとあがく。だがその結界を破ることができない。霊体であれば飛行船の墜落など問題ない。だが今の自分は実体を晒している。加えて結界に捕えられているこの状況では墜落に耐えられない。今、死神は初めて死の恐怖を感じることになったのだった。


そんな死神を見つめながらもはけはその結界を維持しながら啓太へと近づいて行く。啓太はふらつきながらも何とかはけへと向き返る。どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべながら。


「悪いな……はけ。やっぱこうするしかなかったわ……」
「いいえ、これはわたしが決めたことですから……。啓太様が気に病むことはありません」

そんな謝罪の言葉にはけは微笑みながら答える。そこには一切の迷いも恐れもない。それは覚悟。啓太と共に死神をこの世から消し去るという。その命と共に。結界を維持しなければ死神はすぐにでもこの場から逃げ去ってしまう。そして間違いなくその牙は新堂ケイに、そしてそれを守らんとする川平家に向くだろう。なら一体何故、それを恐れ、悔いることがあるだろうか。

だが啓太だけならこの場を離脱しても問題ない。はけは当初そういう予定でこの計画を立てていた。もっとも、啓太もその計画を立ててはいたものの言いだせなかったようだが。そして啓太は共に残ることを選んだ。元々は自分の依頼、戦い。それにはけを巻き込んでおき、命を賭けてもらいながら自分だけ逃げるなどあり得なかった。


「ちぇっ、惜しいな。はけ……お前が女だったら間違いなく惚れてたのによ……」
「奇遇ですね。わたしもあなたが女性であったなら求婚していたかもしれません」


そんな冗談とも本気とも取れないやり取りを交わしながら二人はその時を待つ。飛行船の行先。終着点。誰もいない土地。そこに向かいながらはけは思う。恐れはない。この方と一緒ならば。もしこの方を見殺しにすれば自分は一生、宗家に顔向けできないだろう。これはいずれ来る別れ。それが少し早まっただけ。ただ違うのは先に逝くのが自分になったということ。その時の主の顔が見れないのが少し心残りではあるが。そんな穏やかな空気が辺りを支配しかけたその時


「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


それはまさに断末魔だった。この世の物とは思えないような音、振動が全てを支配する。瞬間、その衝撃によって飛行船は大きく揺れ、床が崩壊し、爆発が起こり始める。

「啓太様っ!!」

はけが一瞬で啓太の前に出ながら扇を振るい、己の全力で結界を展開する。先程まで死神を閉じ込めていた結界の維持を切り捨てて。いや、それは既に意味をなしていなかった。結界は死神の力によってもう壊されてしまっていたのだから。

何者も敗れるはずのない結界。だがそれすらも覆す。まさに死を司る神たる者の力。

はけは悟る。自分が、いや自分達がその力を見誤ってしまっていたのだと。だがもはやそれは遅かった。はけは何とかその霊力を受け流そうとするも叶わず、一気に吹き飛ばされる。後ろにいる啓太を守り切ったことだけがその最後の意地とも言えるものだった。


そこには影がいた。まさに黒い影そのもの。まつで実体のない架空の、虚構であるかのようなその姿。元の美青年の様な風貌はもはや影も形もない。あるのは純粋な殺意と呪われたように邪悪な霊力だけ。


それが死神、暴力の海の真の姿だった。


「おいおい……ちょっとは空気読めよな……」


どこか呆れ気味に、笑いながら啓太はぼやく。だが死神はまるで何も聞こえていないと言わんばかりに啓太へと近づいて行く。一歩一歩確実に。死神に相応しい、死の足音を立てながら。


だが啓太はその場を動くことができない。立っているだけでやっとだった。そして今にもその意識が途切れんとする。


まったく……どうなってんだ……主人公ならもっとこう……大逆転があるんじゃねえのかよ……? ちきしょう……やっぱここまでか……慣れないことするもんじゃないな……。シリアスはダメだな……俺ってやっぱ、服脱ぎながらでも馬鹿やってる方が性に合ってるのかも……まあ、今更気づいても仕方ねえけど……


薄れ行く意識の中で啓太はそんなことを考えながら笑みを浮かべる。どうやら俺は何だかんだ言いながらあのはちゃめちゃな毎日が楽しかったらしい。だけどできることならもうちょっとそれが続けたかったと、そんな愚痴をこぼしながら啓太はその目を閉じ、倒れ込む。だがその瞬間



温かい何かが啓太を包み込む。


啓太は目を開けることすらできず、それが何なのか見ることはできない。


でもすぐに分かった。それが何なのか。


当たり前だ。自分はそれを知っている。いつも自分はそれを感じていたのだから。



愛する少女の温もり、それを確かに感じながら啓太は意識を失った――――――




そう、川平啓太は犬神使い。

その犬神が今、三百年の時を超え、再び目覚めるときが来た――――――



[31760] 第二十三話 「なでしこっ!」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/01 19:30
闇に包まれた海岸に一つの灯りがある。それは松明。その炎が、きらめきだけがその場を照らし出している。そしてそれを頼りに二つの人影がやってくる。それは新堂ケイとセバスチャン。二人は啓太達に後を任せ、共に飛行船を脱出しこの海岸までやってきたところ。ここに向かえば自分達は安全だという、啓太の指示、命令に従って。ケイとセバスチャンはその言葉のままにその場所へと辿り着いた。


「お待ちしておりました。啓太様からお話は伺っています。後はわたしたち序列隊が命を賭けてお守りいたします。どうかご安心を」


赤毛のドレスを着た少女、せんだんが恭しくお辞儀をしながら二人を出迎える。その雰囲気に戸惑いながらもケイは気づく。せんだんの後ろにも多くの人影がある。それは六人の少女達。せんだんを加えれば七人の少女がその場にはいた。ケイは悟る。それは気配。普通の人間であるケイだがその様々ないでたちの少女達が人ならざる者であることが分かる。恐らくはなでしこたち同様、この少女達も犬神と呼ばれる存在なのだろう。だからこそ啓太は自分たちをこの場へと逃がしたのだと。

だがケイはそれでのその表情に陰りを見せる。いや、焦りと言ってもいいかもしれない。だがそれは啓太を心配してのものではない。確かに啓太の安否は心配だ。だがそれでもケイは信じていた。きっと啓太が死神を倒してくれると。そう確信できる言葉と約束を交わしたのだから。ならそれを信じることが自分の役目。だが


「ごめんなさい……なでしこだけがあの場に残ってしまったの……どうしても説得できなくて……」
「なでしこが……?」

ケイがその顔を俯かせながら告げる。あの時、セバスチャンと共に飛行船を脱出する時、ケイ達はなでしこと一緒に脱出する予定だった。しかし、直前になってなでしこはその足を止め、この場に残ると言いだした。ケイ達は必死に説得した。この場に残っても啓太達の邪魔になるだけだと。自分達は啓太の言葉に従うべきだと。だがそれを聞きながらもなでしこは決してその場から動こうとはしなかった。

そしてケイ達は見た。それまでのどこか沈んだ、落ち込んでいるような姿ではない。何かを決意したような、力を宿したその瞳を。それが何なのかを悟ったセバスチャンは尚も説得を続けようとするケイを強引に抱きかかえたまま飛行船を脱出した。ケイはその事実をせんだんたちに伝える。このままではなでしこに、それに加えて啓太達に危険があるのではないかと。


せんだんはそんな事情に手に持った扇を口元に近づけながら思案する。なでしこの行動。恐らくは死地へと赴く主に付いて行こうとするもの。その気持ちは痛いほど分かる。自分も同じ状況なら同じ行動を取るだろう。だが自分となでしこでは状況が異なる。何故ならなでしこは戦うことできない。だからこそ啓太はなでしこを逃がそうとしたのだろう。言葉は悪いが足手まといになる可能性があるからこそ。しかし、なでしこはその場に残ってしまった。それによって不測の事態が啓太と、そして共に残った自らの兄、はけに起こらないとも言いきれない。

それを悟ったのか他のメンバー達もどこか不安そうな表情でせんだんを見つめている。動かなくていいのか、助けに行かなくてもいいのかと。それはこの命令を、話を知ってからせんだん達がずっと抱いていた気持ち。死神、しかも間違いなくその中でも最強クラスの相手。いくらはけが憑いているとはいえ危険な戦いであることに変わりない、なら。そんな想いがその場を支配しかけたその時、


「大丈夫、心配はいりませんよ」


どこか場違いな、楽しげな声がそれを振り払う。同時に松明の向こう側から一人の少年が姿を現す。知らず、ケイはその少年に声を上げそうになる。一瞬、その少年が啓太に見えたから。だが松明の光が照らすその姿は啓太とは大きく異なっている。


どこか清らかさを、流れる風を連想させるような雰囲気。大きく、優しげな瞳。だが確かな存在感。まさしく美少年と言っても風貌。その両手には左薬指以外の全ての指に銀のリングがはめられている。


「薫様……」

せんだんはどこか困惑した表情を見せながらも自らの主、川平薫へと視線を向ける。ケイ達はもちろん、他の犬神達もその姿に目を奪われる。何故そこまで確信を持って言えるのか。確かにはけが憑いている、加えて啓太も決して犬神使いとして劣っているわけではないことはせんだんたちも知っている。だがそれでも厳しい戦いであることには変わりない。それなのに何故。


「啓太さんは……いや、あの二人は絶対に負けない。だから僕たちは僕達のやるべきことをしよう」


薫は微笑みながら告げる。それは信頼。啓太に対する絶対の信頼。そしてその犬神への。そんな薫の姿に皆が目を奪われている中、静かな海岸に大きな、誰かが走ってくるような足音が響いてくる。一体誰が。せんだん達が緊張を以てそれを迎え撃とうとした時

「たゆね……!?」

せんだんがどこか驚いたような声を上げる。そこには息を切らせながらも懸命にこちらに向かって走ってきている少女、たゆねの姿があった。だがせんだん達は驚きを隠せない。なぜならたゆねとともはねは死神との戦いで負傷し、天地開闢医局に入院していたはずだから。だがたゆねは病み上がりとは思えないような姿で一直線にこの場へと辿り着く。よっぽど急いでいたのか息は上がり、体中は汗にまみれている。

「たゆね、どうしてこんなところに!? まだ安静にしていなさいと言われたでしょう!?」
「そうそう、後はあたしたちに任せときなって」
「無理は、よくない」

せんだん達は驚きながらもたゆねをなだめようとする。きっと自分だけがのけ者にされて悔しかったんだろうと、負けてしまったのか悔しかったのだろうと。だがたゆねはそんな仲間たちの言葉を全く意に介しないまま


「……薫様っ! 啓太様を……啓太様達を助けに行きましょう!? じゃないと……じゃないときっと……啓太様は……!!」


目に涙を浮かべながら、声を荒げながら薫へと縋りつく。まるで子供のように、人目をはばかることなく。その光景にせんだん達は驚きを隠せない。確かにたゆねは子供っぽい、泣き虫なところがある。だが今のたゆねの姿はいつもとは全く異なる。鬼気迫るような、一片の余裕もない、必死な姿。

たゆねは決して自らが敗北したことで臆病になっているわけではなかった。それは犬神としての、戦う者としての本能。直接あの死神と戦ったたゆねだからこそ分かるもの。いくら啓太様でも、はけ様でもアイツには勝てない。それは確信に近いもの。それを仲間たちは感じ取る。自分達の中で一番強いたゆねの言葉に、姿に。それほどまでに啓太達が戦っている死神は規格外、怪物なのだと。

そんなたゆねを優しく抱きとめ、あやしながらも薫が言葉を告げようとした時、


「大丈夫ですよ、たゆねちゃん。啓太様は絶対に負けません!」

「え………?」

そんな明るい、自信に満ちた声が響き渡る。たゆねは涙に濡れた、泣きはらした顔でその声の主を見つめる。ケイ達も同じように、どこか呆気にとられるようにその人物へと視線を向ける。そこには


満面の笑みを、まるでこの場の空気を一瞬で変えてしまうほど楽しげな笑みをみせているフラノの姿があった。


そんなフラノの姿に皆、呆気にとられているだけ。当たり前だ。何故こんな状況でそんな笑みを浮かべていられるのか。いつもの空気が読めない行動なのだろうか。そんな中、三人だけがフラノの言葉の意味を悟る。一人は薫。薫はフラノと同じように優しい笑みを浮かべている。もう一人がてんそう。だがその表情はその前髪によって伺うことはできない。

そして最後の一人、ごきょうやはそんなフラノの言葉にある日の光景を、言葉を思い出していた。今のフラノの言葉、そしてその姿。それはまさしく確信。そう、未来視を持っているフラノだからこそもてるもの。ごきょうやは思い出す。それは自分達が啓太様と初め出会ったあの時。

そう、あの時、フラノは啓太様に何と言ったのか―――――


「………そういうことか。まったく、フラノ、そうならそうと早く言え」
「え~~? でもそれじゃあ面白くないじゃないですか~~?」

どこか呆れ気味のごきょうやの言葉にフラノは楽しそうに体をくねらせながら笑っている。

『嘘は言っていませんよ~♪』

そんな悪戯が成功した子供の様な笑みを見せながら。

事態が掴めないたゆね、そして他の者たちはその光景に呆気にとられるしかない。事態を分かっている薫とてんそうだけがそんなごきょうやとフラノのやりとりを楽しそうに見つめているだけ。ごきょうやはそんな皆の戸惑いを感じ取りながらも、一度大きな溜息を突き


「啓太様となでしこは絶対に負けない。そういうことだ」


どこか不敵な笑みを見せながら、今は光しか見えなくなった二人がいる飛行船へと視線を向けるのだった――――――




崩壊が始まり、終わりの時がすぐそこまで近づきつつある世界で、はけはその光景にただ目を奪われていた。もはやここがどこで、自分が何をしていたのか思い出せない。それほどの、目を離すことができない、犯しがたい光景がそこにはあった。


そこには少女がいた。小柄な、その身に割烹着とエプロンドレスという時代錯誤な姿をした少女、なでしこ。今、この場にいるはずがない少女。なでしこはただ、優しく抱きとめている。一人の少年を。その体は満身創痍、意識も既にない。それでもなでしこは優しく、それでも力強く啓太を抱きしめている。その表情をここから伺うことはできない。啓太にとどめを刺さんとした死神もいきなりのなでしこの乱入、そして目の前の光景に固まってしまっていた。


なでしこはそのまま自らの主の顔を見つめる。戦い、傷つき、それでも全ての力を以て戦った啓太の顔を。なでしこの手がその頬を撫でる。優しく、愛おしい者を想うかのように。慈愛を持った、聖母の様な微笑みを見せながら。その目から涙が流れ落ちる。これまでの、そしてこれからの啓太への想いを現すかのように。


わたしはまた犯してはいけない過ちを犯してしまうところだった。


自らの主を見殺しにするという、許されない間違いを。


『本当の自分を知られるのが怖かった』


そんなちっぽけな、自分勝手な願い、我儘のために。


それがわたしが戦えなかった理由。もし、啓太さんがいなければ、見ていなければわたしはきっと、あの時、既に禁を破っていただろう。でも、できなかった。それだけは。啓太さんの前で本当の自分を、今までずっと隠してきた自分を見られることが、晒すことが。


これまでの思い出が蘇る。えっちで、ちょっとお馬鹿な、楽しい主との生活。


裕福ではなくとも、騒がしく、賑やかな、あきることない時間。


初めて得た、そして初めて恋した人とのかけがえない時間。


本当に夢のような、奇跡のような日々。かけがえのないわたしの宝物。


それを壊してしまうのが怖かった。無くなってしまうのが怖かった。何よりも啓太さんに知られるのが怖かった。嫌われてしまうのが怖かった。怯えられてしまうのが怖かった。捨てられるのが怖かった。


そうなってしまうのなら例え自分は死んでも構わない。例え戦えなくとも、無抵抗に殺されても構わない。そう思ってた。でも違った。


例え啓太様に嫌われても、捨てられても、それでも、譲れないものが、許せないものがある。


あの日、セバスチャンが涙しながら、己の無力さを呪いながらも、決して譲ることのなかった理由。それは――――――



「啓太さんをお願いします……はけ様……」

「なでしこ……あなたは……」

なでしこはそのまま啓太を抱きかかえながらはけへと自らの主を託す。最後まで啓太へその微笑みを見せながら。啓太の前では決してそれを崩すまいとするかのように。はけはそんななでしこに言葉を掛けようとするも叶わず、啓太をなでしこから託される。そして


「ありがとうございました、はけ様……それと……ごめんなさい」


なでしこは申し訳なさそうに、それでも涙に濡れた微笑みを見せながらはけへと最後の言葉を告げる。はけは悟る。その言葉の意味。


それは自分の代わりに、自分が果たすべき役割を果たしてくれたはけへの感謝。そしてそうさせてしまった謝罪。

そして

三百年に渡る戒め。やらずの戒めを、禁を破ってしまうことへの謝罪。


なでしこはそのまま振り返る。自らが果たすべき役目を、役割を果たすために。その動きがまるで止まっているかのようにはけには見えた。走馬灯のように、そう、まるで消えゆく者が見せる最後の輝きのように。


『ふん……誰かと思えばあの時の臆病者か……今更雌犬一匹増えたところで何ができる?』


暴力の海が心底つまらないといった風にはき捨てる。どうやら目の前の犬神は自分と戦うつもりらしい。先日臆病風に吹かれて何もできなかった負け犬の分際で。だがまあいいだろう。余興だと思えばいい。それに誰一人逃がす気もない。新堂ケイはもちろん、あの犬神使いに縁の者まで皆殺しにする。そうしなけば自分の気が済まない。ここまでコケにされた報いを与えなければ。


「そうです……わたしはただの雌狗、許されない罪を犯し、そしてまたそれを犯そうとしている愚か者です」


そんな死神の言葉を、侮蔑を受けながらもなでしこは表情一つ変えることなく、自らのスカートの裾を持ちながらお辞儀をする。そのあまりにも場違いな行動、姿に死神は呆気にとられる。それはまるでダンスを申し込むかのよう。あまりの恐怖に気が触れてしまったのだろうか。


だが知らず死神は息を飲んでいた。体はそれを前にして動かない。まるで金縛りに会ってしまったかのように。だが死神には分からない。それが何なのか、今、自分の身に何が起こっているのか。


「〈破壊の槌よ。全てを滅ぼす万物の力よ。わたしは再びたった一つのことを望みます〉」


それは言霊。自らを縛る戒めを、鎖を解き放つもの。そしてなでしこはその右腕を天へとかざす。ゆっくりと、静かに、だが確かな意志を以て。


瞬間、光が全てを照らし出す。凄まじい青白い光が、いや霊力が。そのかざした手の先にある、崩壊しかけた船の天井から垣間見える夜の星から降り注ぐ。天に返した力。かつてなでしこは強大過ぎる自らの力をその星へと、天へと返していた。その力が今、再び三百年の時を超え、本来の持ち主へと帰って行く。圧倒的な力を以て。その光によって崩壊しかけた船にさらなる振動が起こる。それはまさに地震、天変地異。空という、それとは無縁のはずの場所にすらその力は及ぶ。


その光景にはけは目を奪われる。啓太を庇いながら、距離を置きながらもそれを見続ける。かつて一匹の犬神がいた。小さな少女、穏やかな、優しい少女。だがその真の力を、姿を自分は知っている。もうほとんどの犬神が知らないその姿。彼女が今、再び目覚めようとしている。たったひとつの望みのために。


―――――――自らの主を守る、ただそれだけのために。


『お前は……一体……?』


ただそう口にすることしかできない。いや、それしかできない。目の前の光景が何なのか死神には分からない。ただ口にしただけ。お前は誰だと。何者だと。そんな死神の姿になでしこは一瞬だが、たしかに見せる。それは笑み。まるで獲物を見つけたかのような、そんな笑み。


―――――わたしはこの後、死にましょう。もう生きている意味はないから。


それは宣誓。


―――――だけどあなたも殺しましょう。生かす価値がもうないから。


それは宣告。


―――――教えてあげましょう。わたしは犬神。『落ちこぼれの犬神使い』川平啓太の犬神。破邪顕正を胸に、世に仇為す邪悪と戦う者。


それは宣言。



「では始めましょう。罪深い者同士。許されぬ死の舞踏を……あなたに本当の『暴力』を教えて差し上げます」



―――――――お前だけは絶対に許さない。



この瞬間、『最強の犬神』なでしこが復活した。



[31760] 最終話 「いぬかみっ!」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/01 18:52
「…………あ?」

そんな声が聞こえてくる。それが誰の声なのか分からない。何が起こったのか、自分が誰なのか。ようやくその声が自分の漏らした声だと言うことに気づくのにどのくらいの時間を要しただろうか。混乱した意識の中で何とか立ち上がろうとするも叶わない。足に力が入らない。こんなことは生まれて初めて。まるで生まれたばかりの小鹿の様だ。そんなことを考えながらも何とか立ち上がる。震える足を支えにしながら。だが同時に凄まじい激痛が襲ってくる。その痛みの前に声を、叫びを上げることすらままならない。一体どうなっているのか。途切れそうになる意識を、歯を食いしばりながら支えながら、死神は考える。そう、確か自分は誰かと対峙していた。そう、あれは―――――


瞬間、息を飲んだ。


顔を上げた先、その視線の先にソレがいた。それは少女、いや犬神。先程まで自分の目の前にいた存在。愚かにも自分に戦いを挑もうとした哀れな雌犬。そうだ。そうに決まっている。だが、その姿が、雰囲気がそれまでとは全く異なる。


その瞳にはおよそ感情というものが見られない。ただまっすぐに自分を見ているはずなのにそこには何もない。いや、違う。あれは自分を見ている。ただ自分を見下しているだけ。まるで虫けらのように、道端の石ころのように。


それを前にして死神は感情に支配される。だがそれは怒りではなかった。ならこの感情は一体何なのか。この状況で怒り以外の何の感情を覚えることがある。自分を見下す存在などあり得ない。そんなことを許すわけにはいかない。


だがその眼が捉える。それは少女の力。少女の体の周りにまるでオーラの様なものが立ち昇っている。そう、まるで蒸気のように。それが霊力であるということに死神は気づき、戦慄する。あり得ない。霊力がここまではっきりと見えるなど、攻撃をしているわけでもない、ただそこに立っているだけで霊力が立ち昇っているなど。だがそんな戸惑いを証明するかのようになでしこの放つ霊力の力が飛行船を、大気を揺らしている。その無感情な、無慈悲な視線を向けたまま。


そして死神はようやく気づく。自分が先程、なでしこに殴られたのだと。その倒れていた場所に目をやる。そこにはまるで隕石が落ちたかのようなクレーターができていた。その事実に死神の顔が引きつる。全く見えなかった。かろうじて感覚だけが覚えている。自分は殴られたのだと。


そう、ただ殴られただけ。技術も何もない、ただ力任せに。それだけにも関わらず自分は立つのがやっと。そうなってしまうほどのダメージを受けてしまっている。まさにただの暴力。単純な、そして絶対の力。自分が持ち得る、自分だけが持ちうる力。許すわけにいかない。自分がその力に敗れるなど。こんなわけのわからない雌犬ごときに。そう、これはただの偶然。まぐれに過ぎない。


こんなことがあるはずがない。自分が誰かに『恐怖』を覚えるなど、あってはならない―――――!!


「あああああああああああああああああああ!!」


それはまさに断末魔だった。力加減も容赦も微塵もない、傷ついた自分の体への反動も顧みない全力の咆哮。その咆哮に持てる霊力の全てを込めて死神は絶叫する。自分を見下しいるなでしこへ向かって。その無慈悲な、絶対の暴力が迫る。避けることなど叶わない、不可避の死が。だが


それはあっけなく、何でもないかのように弾かれ、あさっての方向へと吹き飛ばされてしまった。


「―――――――」


その光景を前に死神はただ目を見開くことしかできない。声を上げることも、動くことも。当たり前だ。先程のは自分の全力、正真正銘、全身全霊を込めた攻撃。こんな飛行船など跡形もなく消し飛ばして余りあるほどの威力を持つもの。なのに、それなのに目の前の犬神はそれを片手で弾いた。


まるで埃を、虫を払うかのように、無造作に、つまらなげに。


その弾かれた攻撃が、霊力が飛行船の天井を崩壊させる。もはやいつ墜落してもおかしくない状況。だがそんなことなど死神の頭には一片もなかった。ただあるのはたった一つ感情。それは『恐怖』目の前の存在への、犬神への。その絶対的な力の差。まさに天と地ほどのある力の差によるもの。


「ひっ!?」


知らずそんな声が、悲鳴が漏れる。同時にその口からとめどない血が流れ始める。それは傷ついた体で先程の攻撃を放ってしまった代償。だが死神はそれを拭うことすらなく、ただ後ずさる。生まれて初めて感じた他者への恐怖によって。


今まで自分は数多の人間達に恐怖を与えてきた。それこそが自分の存在価値。生きがい。死を司る神たる自分の特権。弱肉強食。その絶対の摂理によるもの。だが死神は知らなかった。


自分もまたその理の中にいることを。


絶対的強者の前には自分もまた同じなのだと。自分も刈り取られる側になりうるのだと。そしてその報いが、終わりを告げる者がここにいる。


「驚いた、お前みたいな奴でも血は赤いのね」


ぽつりと、まるでどうでもよさげになでしこが呟いた瞬間、死神は宙に舞った。その拳によって。力任せの拳。だがその速度と威力の前に死神は反応すらできない。死神はただ自分が殴られたことしか分からない。それを躱すことも、反撃をすることもできない。いや、そんなことは既に死神の頭にはなかった。ただあるのは恐怖だけ。なでしこへの、そしてすぐそこまで迫っている自らの絶対の死への。


トラックに激突されるような、いやそれを遥かに上回る力の拳が死神の腹部、その一点に向かって容赦なく、無慈悲に突き刺さる。なでしこはその感触から死神の内部を完全に破壊したことを悟る。間違えるはずがない、忘れるはずがない。これは相手を、獲物を破壊した時の感触。


そのまま死神は吹き飛ばされる。その上空に向かって。飛行船の天井を突き破って余りある威力で。もはや死神に意識はなかった。そんなものは既に先の一撃で刈り取られてしまっていた。だが


「お前は簡単には殺さない」


宣言と共にその先になでしこが先回りする。吹き飛ばされた死神を遥かに上回る速度を以て。同時にその足から蹴りが放たれる。それは華奢な、少女の細い脚。だがその蹴りによって死神はまるでピンボールのように吹き飛ばされ、再び地面へと、床へと突き刺さる。同時に凄まじい衝撃が飛行船を襲う。その威力によって、激突によって辺りが粉塵にまみれて行く。それが収まった先には


もはや真の姿を維持することもできなくなった、白目をむき、口から血を流している無残な死神の姿があった。


それがなでしこの力。『最強の犬神』と呼ばれた少女の力。かつて大妖狐をあと一歩まで追い詰めた存在。その力の前には死神ですら全くの無力だった。

そしてここに勝敗は決した。誰の目にもそれは明らかだった。だが


「なでしこっ!?」


その光景にはけが声を上げる。そこには地面に倒れ伏した瀕死の死神に向かってまるで弾丸のように急降下しながら拳を振り下ろさんとするなでしこの姿があった。はけの言葉が届くことなくなでしこは再びその拳を死神へと振り下ろす。既に意識もない、ただの抜け殻のようなその体に。


なでしこはそのまま馬乗りになりながらがらその両拳で死神を殴り続ける。その拳を振り下ろし続ける。それはそう、まるで獲物を嬲る獣のように。


「やめなさいっ!! なでしこっ!! もうそれ以上はっ!!」


その光景にはけは顔を蒼白にしながら叫ぶ。それは知っていたから。今のなでしこの姿を。三百年前、やらずになる前のなでしこの姿。戦う時に見せる獣の姿。このままではいけない。このままでは取り返しのつかないことになる。そんな確信に襲われながらもはけはその場を動くことができない。既に先の戦いで霊力はほとんど消費し満身創痍。加えて今は傍らにいる啓太を守り抜かなくてはならない。この崩壊を始めている船の中を。故にはけはその場を動くことができない。できるのは必死に制止の声をあげること。それがなでしこに届かないと分かっていても。


なでしこはそれを振り下ろし続ける。拳を。暴力を。相手が死に至らない手加減をもって。自らの体が軋みをあげる。三百年ぶりの全力の力によって。その負荷が容赦なくなでしこの体を蝕んでいく。だがなでしこは止まらない。いや、止まることができない。

拳が真っ赤に染まる。獲物の血によって。

エプロンドレスが染まっていく。その返り血によって。大切な、汚してはいけないものだったはずなのに。


「は」


知らずその頬に涙が伝う。だがそれは悲しみからではない。


「あは、あはは」


それは喜び。相手を、獲物を嬲り、その喉元を喰い破れるという喜び。犬神が、獣が持っている原初の姿。隠すことができない、失くすことができない黒き血、その本性。その本性が、今まで抑えてきたそれが喜んでいる。


「あはは、ははははははは!」


ただなでしこは笑い続ける。その衝動に、自らが行っている、晒しているその姿に。


そう、これがわたしの本当の姿。今はもう数少ない犬神しか知らない、わたしの本性。


戦いになると周りが見えなくなる。ただ戦いにのみに没頭し、相手を倒し、嬲ることしかできない穢れたわたし。


そのせいでわたしは犯した。三百年前。大妖狐がわたしたちの里を襲ってきた時。それをわたしは迎え撃った。里を守るために、その近くに住む人間を守るために。


でもわたしはそれができなかった。それどこかわたしはただ楽しんでいた。今まで戦ってきた中で最も強い相手に。自分の全力を以て尚、倒しきれない獲物に。わたしはただ没頭し、極大の攻撃を放った。その攻撃が何をもたらすかを、巻き起こすかに気づかないまま。もしあの時、大妖狐が身を呈してその攻撃を受けてくれなければ、わたしは人間の村を滅ぼしてしまっていただろう。


それがわたしの罪。犯してはいけない過ち。それがわたしがやらずになった理由。もう二度と同じ過ちを繰り返さないために。そして自分自身への戒めのために。なのに


「ああ……」


なのに自分はまた同じことをしようとしている。それをやめるために三百年間、戒めを守ってきたのに。なのに自分はあの時から何も変わっていない。


「あ、ああ………」


『タノシイ』 その感情を抑えることができない。それはケモノのわたし。切り離すことができない、消し去ることができないもの。


『カナシイ』 その感情を抑えることができない。それはヒトのわたし。これまで守ってきた、大切なものがなくなっていくことに耐えられない。


「あ、ああ、あああ………」


二人のわたしがせめぎ合う。もう顔は涙でぐちゃぐちゃだった。泣いているのか、笑っているのか、もうわたしにも分からない。ただ分かること。それはこれがわたしなのだということ。


どんなに取り繕っても、誤魔化しても、決して変わることのない愚かなわたし。


だがそんなわたしでも、こんな中でも消えないたった一つの想い。


こんなわたしを犬神にしてくれた、信じてくれた、最初で最後の主。


愛する男性を守りたい。


「ああああああああああああああああああ――――――!!」


それだけは、絶対に、守って見せる。


なでしこはその最後の拳を放つ。たったひとつ、本性に、本能に飲み込まれながらものそのたった一つの願いを胸に。


それがこの永きに渡る戦いの、なでしこが贖罪の三百年の末に得た、答えだった―――――




全てが崩れ去って行く。機械でできた、鉄の塊が元の姿に戻って行く。わたしはただその地面に倒れ伏しているだけ。体中が痛い。天に返した力を、全力を出した代償だろう。今はもう目も満足に開くことができない。でも、どうやらこれがわたしの最期らしい。

きっとこれがわたしの運命。三百年前の過ち、そして一人の少女、ようこを裏切ってしまったわたしへの罰。


地面が崩落していく。冷たい夜風が、辺りを吹き荒れる。そんな中、ふと手を伸ばした。まるで何かを探すかのように。手を握ってくれる誰かを探すかのように。


こんな血に塗られた手を握ってくれる人など、いるわけないのに。


なでしこは途切れゆく意識の中で、それでも確かに見た。



「―――――なでしこっ!!」


自らの手を取ってくれる、愛する少年の姿を――――――





「……………え?」


ふと、目覚めるとともになでしこはそんな疑問の声を上げる。それは戸惑い。今の状況への。自分は確かに命を落としたはず。死神を倒し、飛行船の崩壊と共に。にも関わらず自分は生きている。

もしかして夢だろうか。それともあの世というものだろうか。だがそのどちらでもないことがすぐに分かる。それは痛み。体中が痛みで悲鳴をあげている。それは限界以上の負荷をかけたための痛み。だがそれが今、自分が間違いなく生きている証拠。そして


「お、目が覚めたか。なでしこ?」


目の前の少年、川平啓太がいることが何よりの証だった。


「っ!? け、啓太さんっ!?」
「おい、あんまり動くなって。体中怪我してんだろ?」


突然の事態に混乱し、その場を立ち上がろうとするも、なでしこは啓太の手によってそれを制止される。それによって何とか落ち着きを取り戻したなでしこは改めて辺りを見渡す。そこには静かな、夜の海岸がある。波打つ海の音だけが辺りを支配している。そこでようやくなでしこは思い出す。


自分が落下する寸前、啓太によって救われたのだと。その証拠にはけがどこか安堵した様子で自分達の様子を見守っている。きっとはけが運んでくれたのだろう。


啓太はそのままなでしこに手を伸ばし、ゆっくりと起き上がらせる。なでしこはされるがまま。だがその表情には驚きが、戸惑いがあった。


あの時、啓太は自分を助けてくれたと言うこと。それはつまり、あの時の自分を、隠していた、本当の自分の姿を見られてしまったということ。


血にまみれながら、ただ本能のままに暴力を振るうケモノの姿を。


なのに、なのにどうして。そんななでしこの気配を感じ取ったのか啓太はどこか言いづらそうに、いや照れ臭そうにしながら


「悪いな、なでしこ。結局お前に戦わせちまって……約束、破っちまった」


そう告げる。その言葉の意味をなでしこは悟る。そう、啓太は初めから知っていたのだと。自分の力のことも、自分が戦いたくない理由も。その言葉によってなでしこは思わず涙を流しそうに、泣き出しそうになる。だが済んでのところでそれを堪える。それは覚悟。


「啓太さん……わたしは……」


ずっと自らの主を偽ってきた、騙してきた自分への。そしてその命を危険にさらしてしまった自分へのけじめ。それを口にしようと瞬間。


「………え?」


何かが自分の頭に掛けられる。それが一体何なのか、なでしこには分からない。だがそんななでしこの姿を見ながらも啓太はそれを手に取りながら結ぶ。その髪を。その手に持った物によって。


それは『リボン』


今の啓太に残った、たった一つの物だった。


その行動に、リボンになでしこはただ驚愕するしかない。それは知っていたから。リボンを結ぶ。その意味を。


『結び目の呪い』


結び目の呪いには特別な力が宿ると言われている。呪いとはすなわち契約の儀。誓いと共に相手の束縛も意味する。互いを想う心を糧にして交わされるそれは――――


なでしこは自らの頭に、髪に結ばれたリボンに触れながら、真っ直ぐに、啓太へと視線を向ける。そこにはまるで恥ずかしさを隠しきれないように、顔を真っ赤にしながらも、満面の笑みを浮かべている啓太の姿があった。なでしこは悟る。啓太がそのリボンの、リボンを結ぶことの意味を知った上で自分へとそれを贈ってくれたのだと。


それは、二人だけの世界、愛を誓う 『エンゲージ・リボン』


「なでしこ、俺の犬神になってくれねえ?」


啓太は照れくさそうにしながらもその言葉を口にする。瞬間、なでしこの瞳から大粒の涙が溢れだす。それはさっきまでの涙ではない。歓喜の涙。


ちょうど四年前の今日。幼かった目の前の少年が言ってくれた言葉。そしてそれが今、再び自分に向けられている。その時とは違う、もう一つの契約の意味を込めた言葉。


「………はい。ふつつか者ですが、どうか宜しくお願いします」


なでしこは涙を流しながらも花が咲いたかのような笑顔でそれに応える。いつかと同じ言葉で。夢にまで見た、叶わないと思っていたもう一つの夢が叶った喜びを見せながら。


二人は抱き合う。互いの温もりを感じながら、それを決して離さないと、そう誓うかのように。


その姿をはけと、いつの間にかやってきたケイ達が見守っている。朝日が照らし出している二人の姿を。皆の胸中は全く同じだった。





何故、啓太は全裸なのだろうか、と―――――



それが啓太となでしこの物語の終わり。そして新たな始まりだった――――――



[31760] 【第二部】 第一話 「なでしこショック」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/04 14:48
「じゃあ行ってきますね、啓太さん。夕方には戻ってきます」
「おう、行ってらっしゃい」

どこか真新しさを感じさせるアパートの玄関で啓太は出かけようとしているなでしこを見送っている。その姿はいつもと変わらない。割烹着にエプロンドレス、首に蛙のネックレス、だが一つ、それに加わったものがある。それはリボン。その頭には白いリボンが結ばれている。なでしこはいつも以上の笑みを見せ、そのリボンを跳ねらせながら上機嫌に部屋を後にしていく。そんな自らの犬神の姿が見えなくなるまで啓太はずっと見送る。いつもなら学校や依頼で出かけるのを見送ってもらう立場なのでかなり珍しい光景だった。

「…………」

啓太はなでしこが見えなくなったことを確認した後、どこか静かに、ゆらりと部屋へと戻って行く。その表情はどこかいつもと違う、シリアスなもの。そしてしばらく啓太は部屋の中心で立ちつくしたまま。それからいくらかの時間が流れた後


「はあ~~~」


大きな溜息と共に、啓太はまるで糸の切れた人形のようにベッドへと倒れ込む。まるで残業を終えたサラリーマンの様な、疲れ切った姿を見せながら。顔から枕に突っ込んだまま微動だにしない。それが啓太がいかにこれまで神経を使っていたか、ストレスをためていたかを物語っている。体力的ではなく、精神的に疲れてしまっている。その理由。それは言うまでもなくなでしこにあった。


(どうしてこうなった………)


啓太は思い返す。今から一か月前。死神と戦い、そしてリボンをなでしこへと贈ったあの日からの出来事を―――――



死神との戦い。それは啓太にとって生まれて初めての本気の戦い。まさに命を賭けた戦いだった。結果としてはなでしこに頼ってしまったのだが犬神使いである啓太の勝利であることには変わりない。それによって新堂ケイも無事に誕生日を迎えることができた。

しかしあの時のセバスチャンには本当に参った……号泣しながら全力で抱きついてくるんだからな……っつーかマジで死ぬかと思った。死因がマッチョな男による抱擁とか死んでも死にきれん。しかもあの時の俺はその……うん、全裸だったから絵的にもやばい状況。何故全裸だったのか、いつから全裸だったのかすら定かではないが。

そしてどうやらケイも抱きついてこようとしていたようだが呆気にとられてしまったようだった。その後、ケイは何度も謝ってきた。巻き込んでしまったこと、怪我をさせてしまったこと、そして報酬を払うことが、お礼をすることができないことを。それは死神を倒してしまったことによる影響。これまで新堂家はその力によって富と繁栄を得てきた。だが死神が消え去ったことでそれは全て水の泡。株価は暴落し、資産は次々になくなり、結果新堂家財閥は事実上崩壊してしまった。まあそれは最初から分かってたことなので仕方ない。命に比べれば安いものと言えるだろう。

ケイも財閥自体には全く固執などしていないようだったがやはりお礼ができないことが申し訳なかったようだ。俺の誕生日プレゼント(といっても物ではなく、思いつきのもの)もお礼をしてから使わせてほしいと言って来た。俺としてはさっさと使ってくれてよかったのだがまあいいだろう。あまり期待せずにお礼を待つことする。ケイは会ってからの中で一番の笑みを浮かべながらセバスチャンと共に去って行った。その笑みは確かに二十歳の少女、女性のものだった。そんなこんなで事態も収まりめでたしめでたし、その時の俺はそう思っていた……そう、そんな甘い展開など俺に待ち受けているはずもなかったというのに。


それは死神の呪い。死神を倒してしまったことによる代償が俺、正確には俺たちへと降りかかってきたのだった。

もちろんそのことは既にはけに戦う前から聞かされていた。どうやらはけもばあちゃんと一緒に死神を倒した時に同じ目に会ったことがあるらしい。そのためはけはその対策に呪いを防ぐ札を俺に渡してくれた。それがあれば死神の呪いから身を守ることができるらしい。まさに準備は万全。このまま俺の犬神になってほしいと本気で思ってしまうほどの万能ぶりだった。

だがそれは無残にも破れ去る。文字通りの意味で。いつそうなったかは分からないがなでしこを助け出した時には既に俺は全裸、残っているのはリボンだけという訳の分からない状況。せっかく用意してくれたはけの苦労を水の泡にしてしまったのである。まあ、全く無駄ではなかったらしい。その札の力が少しは残っていたからか、長期間続くはずだった呪いは一カ月ほどで収まったのだから。だがそれでも呪いの力は凄まじかった。

なでしこと一緒に戻ってみるとアパートは既になく、焼け野原。なんでも火事になり、全て焼け落ちてしまったらしい。原因も不明、表向きには放火ということで落ち着いたようだ。まあ怪我人が一人もいなかっただけが救いだったのだが、俺達には救いはなかった。住居、全財産、通帳印鑑、カードもろもろ全て失ってしまった。しかも他の場所へ行こうとしてもその呪いのせいで不幸がおこり、生活費を稼ごうと仮名さんに依頼を斡旋してもらおうとしたのだが何だかんだと言い訳をされ、断られてしまった。何でもこの呪い、不幸は人にうつるものらしい。しかしその薄情ぶりは許せん! 今まであんなに手伝ってやったというのに……今度会ったら覚えとけよ……っとそれは置いといて。

そんなこんなで俺となでしこは仕方なく川辺でテント暮らしを余儀なくされることになったのだった。まあ生活自体は大して問題なかった。料理や家事もろもろはなでしこがしてくれたし、食料も魚を釣ったり、山から山菜を取って来たりの自給自足で乗り切ることができたからだ。だがこの頃、俺はある病に悩まされていた。


そう、シリアスという名の病に。


それは慣れないシリアスをずっと続けていた代償、反動。ぶっちゃけて言えば筋肉痛、後遺症の様なもの。目つきが鋭いまま、思考もどこか真面目なものになってしまうという恐ろしいものだった。死神との戦いによって俺は間違いなく人生におけるシリアスの半分以上を消費してしまった……これ以上消費する時には細心の注意を払わなければ! じゃねえともう俺にはシリアスを乗り切ることができなくなる! まあ結局最後はしまらなかったわけだが………と、とにかく俺はわざと馬鹿やったり、騒いだりしていつもの感覚を、自分を取り戻そうとしたのだか結局時間の経過を待つしかなかった。

もっともなでしこは『それはそれで……』とかよく分からないことを口走っていたが聞かなかったことにした。もうシリアスは御免だった。

そんなこんなを乗り越え一ヶ月後、俺達は建て直されたアパートへと戻ることができた。まさに感無量だった。だがその日、俺はそれを体験することになる。


後に『なでしこショック』と呼ばれることになる(啓太の中だけ)事件である。


何とか引っ越しを終えることができた啓太は上機嫌、鼻歌交じりでいつものようになでしこが入った後に入浴を満喫していた。まさに心が洗われるような、生き返るような至高の感覚。これまでは銭湯を利用していたのだがやはり我が家の風呂が一番だ! そしてこの後には温かい布団が俺を待っている。そう、自分の部屋で自分の布団で寝ることができる。そんな当たり前のことがこんなにも嬉しいとは知らなかった。しかもアパートは新築になっているので気分も一新! これまで呪いに、不幸に耐えてきた甲斐があったと言うものだ! そうと決まれば善は急げ、これまでの疲れをしっかりとることにしよう! 


ひゃっほーという叫びをあげんばかりの勢いで俺はそのまま着替えを済ませ、部屋へと戻っていった。既に気分は最高潮。ノリノリで入浴を終え、戻った瞬間


俺の時間は止まってしまった。いや、そんな生易しいものではない。その時、間違いなく俺はこの世にはいなかった。もはやその魂がどこかにように。啓太の見開かれた瞳の先には



何故か着物姿で、三つ指をついて、一つの布団の上で頭を下げながら俺を待っていたなでしこの姿があった。



え……? 何この状況……? っていうか何が起こってんの? ここって俺の部屋だよね? うん、間違いない。なでしこがいるし、それはそうだ。ここは俺となでしこの部屋だからなでしこがいても何もおかしくない。でも何かがおかしい。いや、何もかもがおかしい様な気がするが何がおかしいかすら分からない。俺、もしかしてのぼせっちゃったのかな……?


そんな俺の姿に、戸惑いに気づくことなくなでしこは『どうかよろしくお願いします』とかよく分からないことを口にしている。うん、何だかよく分からんが何をお願いされているのかは何となく分かる。だってこんな光景を、シチュエーションを何かで見たことがある。それは何だったか……そう、確か時代劇か、それともドラマだったかで。うん、間違いない、これはあれだ。まるで昔の新婚夫婦が初夜を迎える時のような状況だ。そうか、なるほど、全くそうならそうと言ってくれないと………



ってちょっと待て――――――!?!? なんか納得しかけてしまったがちょっと待て、俺!? なんなのこれ!? 何!? やっと我が家に帰ってきて、風呂に入ってさあ寝ようと思ってたら俺の犬神が何故か準備万端で待ってるとか何の冗談!? 新手のドッキリか!? だがなでしこは真剣そのもの。いや、いつも以上の色っぽさでそこにいる。風呂上がりのせいで、そしていつもは着ていない着物のせいでそれが余計際立っている。思わず息を飲んでしまうほどの光景。え……この子一体何やってんの? っていうかそんな着物どこから持ってきたの!? 俺、そんなもの一度も見たことないんですけど!? 誰か、誰かっ!? スタッフ――――っ!?


混乱の極致、もはやパニック状態になっている啓太はそんな訳のわからないことで頭の中が一杯だった。表面上はただその場に突っ立ているだけだったのだが啓太の中では極限までに凝縮された時間が経過している。もはや走馬灯に近い思考回路だった。


その時の俺はどうしてこんなことになっているのか分からなかった。だが思い返せばその兆候は確かにあった。それは一カ月のテント生活。その中でなでしこが少し以前とは違う仕草や態度を見せていたことに今になって啓太は気づく。

何故かご飯のときに自分だけ一品料理が増えてたり、一緒に買い物に行った時に何故か自分の少し後ろを付いてきたり。その理由をついに啓太は知る。


そう、なでしこはまさに嫁、いや妻のような立ち振る舞いを見せていたのだと。


そのきっかけは言うまでもなく先日の一件。啓太からの告白、エンゲージ・リボンを贈られたことにあった。啓太もその意味を理解したうえでリボンを贈った。そこに嘘はない。多少その場の勢いがあったことは確かだが本当になでしこを愛しているからこそ。だが啓太は知らなかった、いや甘かった。なでしこという少女、いや女がどんな存在であるかを。

そこにはわずかな意識の違いがあった。啓太にとっての告白は恋人に対してのものに近い。もう少し進んで結婚を前提に付き合って下さいと言った方が正しいかもしれない。だがなでしこにとっては違っていた。そう、なでしこにとってはそれは紛うことなきプロポーズ、求婚だったのだ。

突然であるがなでしこは古い女である。言い変えれば尽くす女である。今では珍しい古風な恋愛観、貞操観念を持っている。三百年以上生きているなでしこにとってはそれは当たり前の価値観。啓太もそれは何となく分かっていた。だがその本質は啓太の想像を遥かに超えたもの。女は男の三歩後ろを歩くを地で行うレベルのものだった。

今までもなでしこは自ら主である啓太に想いを寄せていた。いや、惚れていた。その証拠と言えるものが啓太の助けた狸によって起こった惚れ薬騒動。啓太はその惚れ薬を使ってなでしこに自分を惚れさせようとした。だがなでしこはそれを飲んでも全く変化がなく、啓太は薬が効かなかったのだと落胆してしまった。だがそれは大きな勘違い、間違い。何故ならなでしこは既に啓太に惚れていたために全く効果がなかったのだから。

そんななでしこだがいくらなんでも普段ならこんな行動はとらない。しかし、先日の一件はまさになでしこにそうさせてしまうほど、彼女にとっては衝撃的な出来事だった。


生まれて初めての、文字通り初恋。四年間思い続けた相手。今まで隠していた自分の秘密も全て受け入れてくれ、しかも命を賭けて自分を救い、夜明けの海岸という場所で、愛を誓うリボンを贈ってくれた。


なでしこにとってそれは心を射止められる、いや例えるなら直球ストレート、時速百六十キロ以上の剛速球がどストライクをかましたぐらいの衝撃だった。啓太が全裸であることすら何の問題でもない程。(実際なでしこはこの時啓太が全裸であったことを覚えていない)今まででも十分、これ以上ないくらい啓太に惚れこんでいたのがさらに上の次元までに到達し、メーターを完全に振り切り車を常に二百キロオーバーで爆走しているような状態になってしまっていた。だがこれまでは死神の呪い、テント生活を乗り切ることを優先していたためそれが表だってでることはなかった。だがそれが終わり、新居というなでしこの心を鷲掴みにする状況によってついにそれが臨界点を超えてしまったのだった―――――



ちょと、ちょっと待ってなでしこさん!? 何がどうなってそうなったのか知らないけど何か色々飛ばしすぎてません!? 俺たちまだキスもしてないんですけど!? なのにいきなり!? AもBもすっとばしていきなりCっすか!? いや、確かに昔の感覚では結婚するまでは清い付き合いを、だったのかもしれないけど今は違うから!? と、とにかく落ち着いて……


啓太は何とかこの状況を収めようとするのだが既に臨戦態勢に、自分の世界に入り込んでしまっているなでしこにどうしたらいいのか分からない。同時にその扇情的な姿が、状況が啓太の煩悩を刺激する。もうこのまま押しきっちゃってもいいんじゃないか、そんな囁きが頭の中を駆け巡る。まあ年齢的に少し早いような気もするが今時そう気にすることもないのかも、加えて今までずっと四年間我慢してきた、耐えてきた。ならもういいんじゃないか、ゴールしてもいいんじゃないか。啓太がそのまま勢いに身を任せようとした瞬間、


彼には見えた。それはまるで予知夢、いや、フラノの未来視に近いものだったのかもしれない。


そこには俺となでしこがいる。だがその姿は少し異なる。どうやら今よりも歳をとっているようだ。恐らく二十歳前後だろうか。今よりもさらに落ち着きがあるなでしこが何かを抱えている。それは小さな男の子。どうやら俺となでしこの子供らしい。そして


『ぱぱ~♪』


そんな声と共に小さな女の子が俺へと駆け寄ってくる。なでしこが抱いている男の子と同じくらいの女の子。そうか、双子だったんだな。そんなことを考えながら俺は女の子を抱き上げる。うむ、なでしこの面影がある可愛い女の子だな。俺に似なくて本当に良かった。そんなことを考えていると何かふさふさしたようなものが俺の手に当たっている。何だろう、でも俺、これと似たような感触を知ってるんだけど……


そのまま俺は何気なく抱いている女の子のお尻に目を向ける。そこには



小さな、それでも紛れもない尻尾があった。


そう、俺はモノノケのパパになっていたのだった――――――




「うおおおおおお――――――っ!?!?」

啓太はそのまま現実に返りながら脱兎のごとく部屋から逃げ出していく。なりふり構わず、まるで現実から逃げ出すかのように。というか現実逃避以外の何物でもなかった。彼のために弁明するならまだ十七歳の少年にとっては大きすぎる衝撃だった。

「け、啓太さんっ!? ま、待ってください、どうされたんですかっ!?」

なでしこはそんな啓太の姿に驚きながらも慌ててその後を追って行く。結局いつもと同じ展開。だがその姿でようやくなでしこが自分が何をしていたのか、暴走していたのかを悟り、顔を真っ赤にするしかなかった。恋する少女、恋は盲目とはよく言ったもの。なでしこにとっては恋と言うよりは既に夫に対するような感情だったのだが。


こうして『なでしこショック』は何とか収まり、なでしこもいつもどおりに戻った(と思いたい)のだった――――――



ふう……まあ、何とかなってよかった。これからのことはもう少ししっかり考えてからにしよう。うん、家族計画含めて慎重に。なでしこも出かけてくれたので少し気持ちの整理ができるな。

しかしなでしこの奴、最近よく出かけるようになったな。天地開闢医局に行ってるらしいが一体何してんだ? 最初は戦いの後遺症を治すためかと思ってたがそうではないようだ。っていうか通ってる頻度が以前より明らかに多くなっているのはどういうわけだ? 聞いても何故か恥ずかしがって教えてくれないし……。

なんだろう……何か言いようもない不安が、外堀を埋められているかのようなヘンな予感がある。うん、今度ごきょうやにでも聞いてみよう。あいつ医者希望みたいだし何か知ってるだろ。


そのまま啓太は背伸びをしながら立ち上がる。なでしこは夕方まで帰ってこない。だがこのままずっと部屋にいるのも退屈だ。ちょっと出かけるとしようか。そうだな……この隙にDVDを借りてきてしっぽりいくというのも手だが生憎俺は同じ間違いは犯さない。既にそんな罠に引っ掛かるところは通過している。もうなでしこにその現場を見られるなんて間抜けは晒さない! 

というわけで薫の家にでも行くか。ともはねとたゆねに死神とのことで謝っとかねえといけねえし。特にともはねは死神の呪いのせいで遊びにこれなくなり(それでも来ようとして説得するのが大変だったのだが)ずっと我慢していたようだからな。はけにも礼を言わなきゃならんのだが今からばあちゃんのところに行くのも時間がかかるし、また今度でいいか。


啓太は自分が未然に不測の事態を避けることができたと上機嫌に薫の家に向かって出かけて行く。結局面倒な事態に巻き込まれるのに気づくことなく。ある意味それが啓太らしさの最たるもの。


心機一転しながらもこれまでと変わらない騒がしい川平啓太の一日が始まるのだった―――――



[31760] 【第二部】 第二話 「たゆねパニック」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/07 09:16
「ふう」

大きな溜息と共にショートカットの少女がゆっくりとその体を湯船へと浸ける。同時に溢れたお湯によって辺りが湯気に包まれる。しかし湯気に隠れてもなお、その少女のプロポーションは隠しきれていない。引き締まったウエスト、豊満なバスト、スラッとした脚線美、まさにモデル顔負けの肢体。それが薫の犬神、序列三位、たゆねだった。

今、たゆねは日課であるジョギングを終え、ひと汗流しているところ。運動が好きな彼女にとってこの瞬間は満足感と解放感に浸れる楽しみな時間だった。だが

「う~~」

たゆねはどこか不機嫌な、いや何かを気にした素振りを見せながら口元まで湯船につかる。だがたゆね自身それが何なのか、何故自分がこんな気分になっているのか分からないと言った風。たゆねはそのままぶくぶくと口元から泡を出しながら考える。そう、彼女も心の中ではそれは何なのかは分かっている。それは


(啓太様……大丈夫だったのかな……)


川平啓太。その存在が気にかかっているからに他ならなかった。

たゆねにとって啓太は近づいてはいけない、変質者、ヘンタイだった。当たり前だ。神聖な儀式で労働条件の連呼という前代未聞の珍事を起こし、ストリーキングで何度も留置場送りになり、街のヘンタイ達と知り合い。何よりも自分の胸を揉まれるというえっちでスケベな男。それがたゆねにとっての啓太だった。故に彼女は啓太とは決して交流を図ろうとはせず、そっけない態度を取り続けていた。それはツンデレでいうツンですらなかった。ただ単にお近づきになりたくなかっただけ。だがそれが少しずつ変わっていったことをたゆねは思い出す。

きっかけは啓太となでしこが薫の、自分達の屋敷に泊まりに来た時、ともはね達と一緒にフリスビーをして遊んでいるのを目にした時、『あれ?』と思ったのがきっかけだった。ともはね達が楽しそうに遊んでもらっているのが羨ましかった(本人は頑として認めていない)のもあるがそれ以上にその時の啓太の姿に興味を抱き、惹かれてしまった。それはまさに犬を扱う者の姿。その仕草、笑い方、扱い方、全てが間違いなく犬を従えさせ、懐かせるに相応しい魅力があった。しかもどうやら啓太は全く意識せず、無意識にそれらを行っているらしい。犬神使いの儀式においても犬神達は山を歩いている人物のそれらの要素を見定め、その器量を、実力を感じ取る。そういった意味でたゆねは目の前で遊んでいる啓太が凄まじい才能を、器を持っていることを感じ取った。(もっともこの時のたゆねはそれはきっと何かの勘違い、気の迷いだと思っていた)

その仕草も自らの主である川平薫とよく似ている。だがそれは正確には違う。たゆねには与り知らぬことだが薫の仕草に啓太が似ているのではなく、啓太の仕草を薫が真似て、自分の物にしているのだった。だがそんなことなど知らないたゆねにとっては興味をひかれるには十分なものだった。


ちょっとお近づきになってみよう……これは仲良くなりたいんじゃなくて……そう! いぐさ達に危険がないかどうか調べるために! 決して僕が興味があるわけじゃない!


そんなツンデレの見本、鏡のような言い訳を自分自身にしながらたゆねはその機会にめぐり会う。ともはねのお世話係をしている時に偶然、啓太に出会うことができた。どうやらなでしこへのプレゼントを買いに来ていたらしい。しかもリボンを。その意味を知らないままに。別にその理由をすぐに教えてあげてもよかったのに何故かたゆねはそれをしなかった。その理由をたゆねは後に気づくことになるのだがそれはまだちょっと先の話。


そんなこんなで僕ははともはねと一緒に啓太の依頼に同行することになった。表向きはともはねの面倒をみるためという理由で。どうやら啓太様は僕には付いてきてほしくなかったみたい。誤魔化してたけどバレバレだった。それがちょっと頭に来て色々いじわるをしてしまった。少しやりすぎてしまったかも。でも啓太様と話していると不思議と楽しかった。もっとえっちな話題やセクハラをされるかと思ってたけどそうではないらしい。そう思った瞬間に下半身を露出すると言うヘンタイ行為を見せられたんだけど……っといけない! もうあの時のことは思い出さないようにしないと!

そして僕たちは新堂ケイという女の子の屋敷へと招待された。そこで僕は本当に何年かぶりにスカートを、いやドレスを着ることになってしまった。着方自体は知っていたので問題なかったけど。(せんだんによって小さい頃よく着せさせられていたため)でもやっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。全てはせんだんによって植え付けられたトラウマ……というのは大げさだが忌避感によるもの。でも啓太様は僕のドレス姿を褒めてくれた。それがお世辞ではなく心からのものであることが分かるほどに。素直になれずに反発しちゃったけど、褒められるのはやっぱり嬉しい。


うん……まあちょっとなら今度スカートを履いてみようかな。啓太様に見せるためじゃないけど……そう! 薫様にみてもらうために!


だけどそんな気持ちもすぐに吹き飛んでしまう。後からやってきたなでしこのドレス姿に見惚れている啓太様の姿によって。その態度の違いは明らかだった。いや、それはドレスによるものじゃない、もっと根本的な違いによるものであることに僕は知ることになる。


そう、あの死神との戦いの後に。


僕はあの死神に負けた。完膚なきまでに、手も足も出せないまま。確かに慢心が、油断が全くなかったと言えば嘘になる。でもそんなことなど何の意味もないほどに死神の強さは圧倒的だった。その力の前に啓太様も為すすべなく敗れた。あの力の前ではきっと誰も敵わない。そう絶望してしまうほどの力の差だった。


でも啓太様は臆することなく再びあの死神に戦いを挑んだ。はけ様が憑いてくださっていたけど、それでも敵わないかもしれない程の戦い。文字通り命がけの戦い。そして啓太様は勝った。自分が手も足も出なかったあの死神を倒したのだった。一人の少女を救うために。


たゆねは強い者、存在に憧れを持つ、惹かれる性格を持っている。加えて薫の犬神達の中でも特に正義感が強い。そんなたゆねにとってその時の啓太の行動はまさに心にどストライクのもの。加えて今までの啓太に対する評価が最低(だいたいフラノのせい)だったこともあり、そのギャップのせいでさらにそれはうなぎ上りになった。そしてそれと共に脳裏にこびりついて離れないもの。それは


(あの時のなでしこ、ほんとに嬉しそうだったな……)


戦いの後に海岸で啓太からリボンを贈ってもらったなでしこの姿だった。それを贈られて目から涙を流している、喜んでいるなでしこの姿は本当に綺麗だった。思わず羨ましいと思ってしまうほどのもの……全裸だったのだけは認められなかったが。たゆねはそのまま自らの指にはめられた銀のリングに目を向ける。それは薫との契約の証。とても大切な贈り物。でもなでしこがもらったあのリボンはきっとこれとは全く違う意味を持つ物。好きな相手に自分の想いを伝えるための物。女の子っぽいことは嫌いなたゆねですら羨ましい、嫉妬してしまうほどの光景だった。でもそれ以上に何か胸にもやもやするものがある。それが何であるか少女は気づいていない。だが心では理解していなくても知らず行動には現れてしまっている。


それはジョギングのコース。それが啓太が死神を倒した日から変化していた。川辺に沿って走るコースへと。それが何を意味をするかなどもはや語るまでもない。もっとも結局一度も会えてはいなかったのだが。


(う~~! このままずっともやもやしててもよくない……うん! 今度ともはねと一緒に会いに行こう! もうすぐ呪いが解けそうだってはけ様から聞いたし……お見舞いとしていくことにしよう、それなら問題ないよね!)


たゆねは湯船から上がり、バスタオルで髪と体を拭きながらそう決断する。きっと一度会えばこのもやもやも消えてなくなるだろう。自分は啓太を心配しているだけなのだから。そう決めれば何だかすっきりしてきた。何かに悩んでるのは僕の性に合わない。そんなことを考えているとホールの方から何か大きな音と叫び声が聞こえてくる。ここまで聞こえてくるなんて相当の騒がしさだ。今は自分とともはね以外はみんな出かけてるから必然的のその犯人は一人だけ。その証拠に近づくにつれそのやかましいテレビの音とともはねの大声が聞こえてくる。どうやらまた大音量でテレビゲームをしているらしい。その騒がしさはいつもせんだんの頭を痛めさせている程のもの。いくら自分以外いないとしても騒ぎすぎだ。


「ちょっとともはね! もうちょっと静かにしなよ、風呂場にまで聞こえてきてるぞ!」


たゆねは頭をバスタオルで拭きながらともはねに向かって声を上げる。いつものように、人目を気にしない乱れた格好のまま。そして


「………え?」


たゆねはそんな声を上げることしかできない。何故ならそこにはいつもならあり得ない人物、先程まで考えていた存在、川平啓太がいたのだから。啓太はともはねの隣に座ったまま。どうやらともはねと一緒にゲームをしていたらしい。そんなともはねはたゆねの言葉に気づいていないのか一心不乱にゲームに夢中になっている。だが啓太はそれに気づき、たゆねの方に振り返ったものの口を開けたまま固まってしまっている。その視線がたゆねの服装へと釘づけになってしまっている。


風呂あがりで赤く上気した肌、いつも通りのホットパンツに丈の短いTシャツ。だが誰もいないと思っていたためそれはいつもより乱れ、下着も露わになっている。いわゆる破廉恥な格好。家族の前でしか見せないような格好だった。しばらく啓太と無言で見つめ合い、ようやく自分の姿に気づいた瞬間


「いやあああああああ―――――っ!?」

「お、おい!? どこ行くんだ、たゆね――――っ!?」


悲鳴と共にたゆねは光に包まれ、脱兎のごとく壁を破壊しながら逃げ去ってしまったのだった――――――




「ほんとに大丈夫なのか……お前……?」
「だ、大丈夫です! ちょとびっくりしちゃっただけで……」
「けーた様、このケーキもう一つもらってもいいですか?」
「一人一個ずつしか買ってないから我慢しろって……」
「む~、は~い……」

啓太はともはねの言葉をあしらいながらも大きな溜息を吐く。今、啓太達はテーブルでお茶をしているところ。目の前には買ってきたケーキが並んでいる。もっともともはねは既に食べ終えてしまったため他の物に手を出そうとしているが仕方ない。薫のところは大所帯のためにお土産を買うのにも一苦労だ。間違いなく今月の小遣いは厳しいことになる。元々死神のせいで困窮しているのでなおのことだ。しかし残念ながらともはねとたゆね以外は皆出かけてしまっているらしい。まあ休日だしな。お目当ての二人がちょうど残っていてくれたのが救いだ。これで誰も居なかったら目も当てられない。しっかし最近薫の奴とほんとに会わねえな……一番最近会ったのが前のバレンタインの時か。もしかして俺、避けられてるんじゃねえ?と勘ぐってしまうほどのすれ違いっぷりだ。それはともかく


啓太はその光景に目を向ける。そこには外まで続いている壁の穴があった。言うまでもなくたゆねの突撃によって開けられた穴である。その威力は全く衰えていない、いや増しているのではないかと思えるほど。


今回はどうやらたゆね自身、自分に非があるせいか逃げ去る方に矛先が向いたが、これがもし俺が風呂を覗いたり、セクハラをすれば間違いなく矛先はこちらに向いていたはず。その事実に背中に冷たい汗が流れる。せっかく死神の呪いが解けたのに病院生活とか冗談じゃない。下手すりゃ告白してすぐになでしこを未亡人(結婚しているわけではないのだが)にしちまうところだ。マジでこいつと会うときには細心の注意を払わなければ……。


「いいのかよ、あの穴そのままにしといて……?」
「い、いいんです! 後で僕が直しておくんで!」
「たゆね、直すの得意なんですよ、けーた様!」
「そ、そうか……」

どうやらたゆねのことを褒めているつもりらしいともはねの言葉に苦笑いしかできない。たゆねもそれは同じ様だ。それはつまり器物破損の常習犯だということ。それが人身事故をおこさないことを願うしかない。主に俺の身の危険という意味で。


「そ、それよりも啓太様。今日はどうされたんですか? いきなりいらっしゃるなんて……」
「ああ、やっと死神の呪いが解けたんでな。ちょっとお礼とお詫びに来たんだよ」
「オワビですか?」
「お前ら巻き込んじまったからな。怪我とかはねえとは聞いてたんだけど一応な。呪いのせいで直接会えなかったし、たゆねは大丈夫なのか?」
「はい! ともはねは元気いっぱいです、けーた様!」
「お前はもう聞いたっつーの……」


いつも以上の元気を振りまいているともはねに溜息を吐くことしかできない。どうやら一ヶ月間俺と遊べなかったのを取り戻さんばかりにはしゃいでいるらしい。ある程度予想はしていたのがそれを遥かに超える元気さだ。まあ怪我がなかったのは良かったが。


「ぼ、僕も平気です! 元々怪我はしてなかったんで……」
「そっか……でもアイツに何かされてたろ? 確か相手の恐怖を蘇らすとかいう技。それはなんともなかったのか?」
「え!? えっとそれは……」


俺の言葉にたゆねは何故かあせり、誤魔化そうとしている。やはり何か後遺症でもあったのだろうか。だが


「けーた様、たゆねはユーレイに襲われる夢を見せられたんですよ」
「……? 幽霊?」
「こ、こらっ! ともはね、余計なことは言わなくていい!」


そんな心配はともはねの暴露によって吹き飛ばされてしまう。たゆねは顔を赤くしながらともはねを追いかけ回し、言ってはいけないことを言ってしまったという風にともはねもそれから逃げ回っている。まさに犬の追いかけあいっこ、鬼ごっこ。もっとも犬神であるためその騒がしさは犬の比ではないのだが。

しっかし、幽霊ねー。以外と言えば以外だな。そんなタイプには見えないんだが。むしろその強さを見れば幽霊の方が尻尾を巻いて逃げ出すんじゃないか。もっとも口には出せないが。


「……何か言いたそうですね、啓太様?」
「い、いや、気のせいだろ? ははは……」


ともはねを捕まえて逆さ吊りにしているたゆねがジト目で睨んでくる。どうやらこちらの心の声が態度に出てしまっていたらしい。き、気を付けなければ……病院送りだけはマジで勘弁してほしい。


「ふん、全然元気そうですね。心配して損しちゃいました」
「え? お前心配してくれてたの?」
「あ……い、いえ、啓太様に何かあるとその、なでしこが可哀想ですから!」


思わずポロリと言ってしまったかのようなたゆねの言葉に驚きを隠せない。どうやら本当に心配してくれていたらしい。めちゃくちゃ嫌われてると思っていたのだがどうやらそのぐらいは心配してくれるらしい。まあそれでも嫌われてることには変わりないようだが。その証拠に会ってからずっと態度がそっけない。フラノによる誤解(大半は真実)のせいでがもはや弁明するのもあきらめているので仕方ない。できる限り気に障らないように接するようにしなければ。俺自身のために! そんな中


「けーた様! あたしすごい薬作ったんですよ! お部屋にあるので見に来てください!」
「薬? 何の薬だ?」
「強くなれるお薬です! これがあればもう死神にだってともはねは負けません! 今度こそけーた様の役に立って見せます!」
「そ……そうか。でもお前、そんな趣味があったのか。知らなかったぜ」
「はい、ごきょうやにも手伝ってもらってるんです! でも今回のはあたし特製の薬ですからもっとすごいですよ!」


それはもっとヤバイの間違いではないのか。そう突っ込みたいのだがあえて口にしなまま啓太はともはねによって引っ張られていく。まあやばそうだったら止めればいいか。九割方そうなるような気がするが。そんな中


「け、啓太様、その……僕も……」


たゆねがどこかもじもじしながら何かを言いかけた瞬間、けたたましい着信音が鳴り響く。それは啓太の携帯からの物。突然の出来事に驚きながらもすぐさま啓太はそれを取る。一体誰だろうか。


「もしもし……」
『久しぶりだな、川平。休みのところすまない。実は急ぎの』


ブツンッと啓太はその通話を断ち切る。それはまさに電光石火。目を見張るほどの早技、相手に全く用件を言わす暇を与える隙すらないものだった。


「よし、じゃあたゆねも一緒に行くか。ともはね、さっさと案内してくれ」
「え? けーた様、さっきの電話よかったんですか?」
「いいのいいの。ただのイタズラ電話だったから。ほら、たゆねも行こうぜ」
「は、はい……」


啓太は何事もなかったかのように歩き始める。その姿にともはねとたゆねは首をかしげることしかできない。だがすぐさま啓太の携帯が再び鳴り始める。啓太はそれに出ることなくずっと放置している。まるで何も聞こえていないと言わんばかりに。それでもやまない携帯を何度も切りながら啓太は歩き続ける。しかし着信音は何度切られてもあきらめることなく鳴り続けている。掛けてきている相手の執念が滲みでてくるかのようだ。ついにそれに根負けしたのか啓太が一度大きな溜息をついた後、再び電話に出る。


「もしもし……」
『か、川平! 少し落ちついて話を聞いてくれ! 私だ、仮名だ! 仮名史郎だ!』
「仮名……? どちら様ですか? 俺、そんな人知らないんだけど?」
『な、何を言っている!? 特命霊的捜査官の仮名だ! いつも仕事を依頼しているだろう!?』
「ああ、そんな人も居たっけ。死神の呪い以来全然連絡が取れなくなって、音信不通になってたんですっかり忘れてたわ。で、その薄情な仮名さんが今更俺に一体何の用?」
『ぐっ……す、すまない。それはどうしても仕事柄やむを得ず……あ、ああ、待てっ!? 落ち着け、川平、悪かった、悪かったから話を聞いてくれたまえ!? 依頼料にも色を付ける!』
「……なんだか釈然としねえけど分かったよ。で、どんな依頼なんだ。あんたのヘンタイ魔道具の封印ならよそを当たってくれ」
『っ!? い、いや……今回はその類ではない! あとそれは私の魔道具ではない! 私の先祖が』
「どっちだって同じようなもんだろ。さっさと話を進めてくれ」
『か、川平……そうとう根に持っているようだな……』


啓太のあまりにぶっきらぼうな対応に仮名は冷や汗を流すことしかできない。電話口からでもその恨みが伝わってくるかのようだ。だがそれも無理のない話。生活に困窮し助けを求めたにもかかわらず無視され、呪いが解けた途端に依頼をしてくるのだから。もっとも啓太も本気で怒っているわけではない(ある程度は怒っている)ので一通り恨み言を済ませた後、改めて依頼の内容を聞くことにする。何だかんだいって先立つものがないと生活できない。今はなでしこが貯めていたへそくり(という名の啓太の学資)で生活している。何とかそれを脱するために背に腹は代えられない。金が溜まったらしばらく仮名の依頼は受けないことにしようと考えながらも啓太はその内容を聞かされる。


『ごほんっ!……今回は君となでしこ君に力を貸してほしいのだ』
「なでしこにも? なんで?」
『うむ、少し事情があってな。女性の犬神の力が必要なのだ。そう言った意味で君たちはうってつけ、いやこれ以上にない依頼相手だ。もちろん依頼料はその分出そう』
「それは構わねえんだけど、なでしこは戦えねえぞ? それに今は出かけちまってるし……」


少し考え事をしながら啓太はそう答える。仮名はなでしこが戦えることを知らないはず。薫の犬神達もそのことは知らない。たゆねも死神を倒したのは俺とはけだと思ってる。もっとも未来視をもっているフラノとその予言を聞いていたごきょうや、てんそう、そして一度なでしこの体になったことがあるともはねはそのことには気づいているようだが。俺もよっぽどのことがない限りなでしこを戦わせる気はない。


『何? ……そうか。戦ってもらう必要がない依頼だったのでなでしこ君にも頼めると思ったのだが……そうなると、そうだな……川平薫のところの犬神の誰かに手伝ってもらうしかないか……』
「……? よくわかんねえけど、俺、今薫の家にいるぜ」
『何っ、本当かっ!? 誰か犬神はいるか、ともはね以外の子だ!』
「ともはね以外の……? 今はたゆねだけだけど……」
『うむ、悪いがたゆね君に手伝ってもらえるように頼んでみてくれないか? 川平薫の方には私から話を通しておく』
「あ、ちょっと待て、仮名さん! たゆねはちょっと……」


仮名の言葉に啓太が思わず声を上げる。流石に昨日の今日でまたたゆねを巻き込むのは気が引ける。もうないとは思うが以前のようなことがあれば大変だ。何よりももしまた全裸にでもなれば俺の命が危ない。いや、もう全裸はあきらめるにしてもそれだけは。だが


「だ、大丈夫ですっ! あれからちゃんとトレーニングしてますから、もう前みたいなことにはならないですっ!」
「ずるい、あたしも一緒に行きたいです、けーた様!」


仮名との電話の内容を聞いていたたゆねが何故かやる気満々の姿で宣言する。なぜここまでやる気になっているのかは分からないがどうやら本気でまた付いてくる気らしい。何故か除外されてしまっているともはねも納得がいっていないようだ。こうなっては収拾がつかない。気は引けるが仮名さんも付いてるし……まあ大丈夫か。


「分かったよ……で、依頼はどんな内容なんだ?」


啓太はあきらめの溜息を吐きながらそれを尋ねる。それに


『うむ、今回は除霊だ。最近被害が増えていてな。では待ち合わせ場所はメールで送っておく。宜しく頼んだぞ!』


仮名はそう言い残したまま電話を切ってしまう。それから何度も掛け直しても繋がらない。どうやら車にでも乗っているらしい。


「「…………」」


そのまま俺とたゆねは無言で見つめ合う。状況がよく分かっていないともはねが不思議そうに俺とたゆねを見比べている。俺はたゆねを見つめ続ける。その顔が引きつっている。先程までのやる気に満ちていた姿は一瞬で消え去ってしまった。


『除霊』


その聞き逃すことのできないフレーズによって。


それでもあきらめきれないのかたゆねはやせ我慢したかのような表情で啓太を見つめている。まるで捨てられまいとする子犬のような哀愁がある。だがそれを見ながらも


「………まあ、無理すんなって」


啓太はそう慰めるように告げた後、仕方なくそのまま一人で仮名との待ち合わせ場所へと向かうのだった―――――




「ただいまー!」
「誰もいないのー? ……ってなにこれええっ!? たゆね、あんたまたやったのっ!?」
「薫様が戻ってくる前にちゃんと直しなさいよ!」


外出から戻ってきたいまりとさよかがホールの惨状に悲鳴を上げながらもその場にいたたゆねに声をかける。だがいつまでたっても返事が返ってこない。いつもなら売り言葉に買い言葉。言い返してくるはずなのに。


「……どうしたの、なんかあった?」
「そういえばともはねは? 家で留守番してなかったっけ?」


「…………知らない」


たゆねは何故か部屋の隅で体育座りをしたまま拗ねるように、落ち込んだまま。事情が分からない双子はそのまま顔を見合わせ、立ちつくすことしかできないのだった――――― 



[31760] 【第二部】 第三話 「いまさよアタック」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/10 17:35
「おお、川平、待っていたぞ!」

そんな聞き慣れた、渋い声が俺を出迎えてくれる。そこにはいつもと変わらない白いコートとスーツを身に纏った男、特命霊的捜査官仮名史郎がいた。今、俺たちは待ち合わせに指定された公園にいる。連絡を受けてからすぐに来たのだがどうやら待たせてしまったらしい。恐らく依頼した手前遅れるわけにはいかないということなのだろう。性格の真面目さがにじみ出ている、仮名さんらしさだ。まあそれだけなら尊敬に値するのだがいかんせんこれまでの前科があるので油断はできない。


「久しぶりだな仮名さん。元気そうでほんとによかったぜ」
「う、うむ……そこはかとなく恨みを感じるが君も元気そうで安心したぞ。死神相手に大立ち回りをしたと聞いた時には耳を疑ったが」
「それはもういいっつーの……で、今回の依頼は? 確か除霊とか言ってたけど」
「そうなのだが……川平、たゆね君はどこに? 一緒ではないのか?」
「ああ……それなんだけどさ……」


仮名さんの言葉に俺は事情を説明することにする。たゆねが幽霊を苦手にしていること。そのため除霊の依頼には連れてくることができなかったこと。ともはねは除外とのことだったのでともはねも置いてきたこと。もっとも、ともはねは着いてこようとしたのだがたゆねの手前悪いが今回は遠慮してもらったのだった。


「そうか……しかしそうなると別の方法を考えるしかないか……」
「よく分かんねえんだけど……俺と仮名さんじゃダメなのか?」
「いや……うーむ……」


俺の言葉に仮名さんはあごに手を当てながら何かを考え込んでいる。まるでそれを俺に伝えていいものかどうか思案しているかのように。そしてその時点で俺の第六感が、危機察知アビリティが感じ取る。この依頼がまともなものではないということを。既に電話の時点からそれはうすうす感じてはいたのだが。そもそもなんで女性の犬神の協力がいるのか。しかも俺とセットで。ともはね以外で。明らかに不自然だった。

そんな俺の猜疑の視線についに観念したのか一度深く目を閉じた後、仮名さんが話し始める。今回の依頼の内容を。


「今回の除霊相手は栄沢汚水と言う男の霊でな。生前は売れない小説を書いて生計を立てていたのだが……まあそれはいいとして、奴はカップルを、羨望を通り越して死ぬほど妬んでいた。その恨みの念のせいで悪霊と化し、カップルに被害を与えているのだ。何人かの捜査官が挑んだのだが返り討ちにされてしまい、今回私に任務が来たと言うわけだ」
「……何かどっかで聞いたような話だな。でもただの悪霊がそんなに手強いのか? 仮名さんだけで十分だと思うんだけど」


呆れかえりながらも一応尋ねる。まあそういう手合いだろうとは思ってたのでそれぐらいでは驚いたりはしない。この人からの依頼がまともだった試しがないし。でもそんな仮名さんでも実力は本物。それが俺に助力を求めるほどとなるとただの悪霊とは考えづらい。俺のもっともな疑問にどこか顔を引きつかせながらも仮名さんはその答えを口にする。それは


「うむ……実は非常に言いづらいのだが奴は私の先祖の魔道具を手に入れていてな。それと……その……奴の趣味はストリーキン」
「帰る」


俺を一瞬でこの依頼から手を引かせるのにあまりある事実だった。


「ま、待て!? 待ってくれ川平!? 黙っていたことは謝罪する、だがどうしても君の力が必要だったのだ!」
「やかましいっ! 何が除霊だ!? ただのヘンタイ退治じゃねえか!? そんなもんあんた一人で何とかしろ! 俺は帰る!」
「お、落ち着け川平! 奴はその怨念と魔道具のせいで魔王と成り果てている! その強大な力を打ち破るには私一人では……! それに君ならああいう手合いの扱いは詳しいだろう? 裸王と呼ばれているらしいではないか!」
「うるせえ―――っ!! 結局ヘンタイの後始末をさせたいだけじゃねえか!? あと次その名前で俺を呼んだら本気で爆砕すんぞ!」


仮名さんのヘンタイ魔道具にストリーキングのヘンタイ。まさに悪夢のような組み合わせ。ウルトラCじゃねえかっ!? ふざけんなよっ!? もう俺が全裸になる未来しか見えねえわ!? これは未来視どころのレベルじゃねえ、確定事項だ! 間違いない! 元々は自分の責任なんだから後始末ぐらい自分でしろっつーの!


「君はヘンタ……犬神使いだろう!? 正義を為すことが使命の君だからこそ頼んでいるのだ!」
「ちょっとは本音を隠せよあんた!? 喧嘩売ってんのか!? そんな正義は持っとらんから離れろ―――!?」


だが帰ろうとする俺の体に仮名さんが縋りつきながら止めようとしてくる。何とか振り払おうとするのだがそのたくましい肉体の力によって振りほどくことができない。何でこんな場所で、しかも昼下がりに仮名さんとくんずほぐれつせにゃならんのだ!? やっぱりこの人はピ――に違いない! 一刻も早く脱出しなければ! 俺は、俺はノーマルだ! 俺には、俺にはなでしこがいるんだあああ!

そんな心の声を上げながらも啓太はその状況から脱出することができないまま、人だかりができてくる。当たり前だ。昼下がりの公園で奇声を上げながら抱き合っている二人組の男たちがいるのだから。啓太は自らの運命を呪いながらも仕方なく仮名の依頼を受けることになるのだった―――――



「……ったく、それで何で女性の犬神の協力がいるんだよ?」
「うむ、奴はかなり神出鬼没でな。だが必ずカップルをターゲットにしている。そういった意味で君となでしこ君が適任だと思ったのだが……」
「あっそ……」


もはや突っ込む気にもならない。どうやらこの人は俺となでしこに囮捜査をしてほしかったらしい。ともはね以外の犬神と言ってたのにも納得がいった。ともはねと一緒に歩いてても兄妹にしか見えないだろうし。だがそんなヘンタイをおびき寄せるためになでしこを協力させる気だったとは……なでしこが出かけててほんとによかった。たゆねも連れてこなく正解だったな。ただでさえ幽霊が苦手なのにそいつがヘンタイとか最悪すぎる。そんなの目の前にしたらきっとトラウマになり、気を失ったであろう光景が目に浮かぶ。しかしこのまま男二人で考え込んでても仕方ない。何とかしなければ。一応依頼だし。報酬も弾んでもらえることにはなった(これまでの前科も消してもらえる)のでやることはやらなければ。


「さて、どうしたものか……」
「もうその辺でナンパでもするしかねえんじゃねえ?」
「ナンパ?」
「そう。ここでじっとしててもしょうがねえし、仮名さんなら警察だから協力してくれる人もいるんじゃねえ?」
「うーむ……確かにそうかもしれんがナンパか……そういった行為はどうも……」
「俺も手分けして探すからさ。捜査なんだし気にすることねえって!」
「そうだな……背に腹は代えられんか。よし、なら君は向こう側を頼む。一時間後にここに集合でいいか?」
「了解。じゃあ頼んだぜ、仮名さん」


なし崩し的ではあるが仕方ない。しかし仮名さんはどこか緊張した、ガチガチの後ろ姿を見せながら去っていく。やはりこういったことには耐性がないのだろう。まあ、彼女がいれば俺たちに依頼してくることもなかったんだし、当然といえば当然か……

おっとこんなことばっかり考えてる場合じゃない! 俺もナンパに……と言うと語弊があるが協力者を探しに行かなければ! だが心なしか興奮している、楽しんでいる自分に気づく。うん! 何か久しぶりだけど俺って元々こういうキャラだったよな! 最近めっきり真面目になっちまったような気がしていたのでいい機会だ! ここらでいっちょ勘を取り戻すとしますか。見れば可愛い女の子も結構目につくし、これは期待できるかも。俺、モテ期がきてるような気もするし、案外あっさりいけるんじゃねえ? よし、これは浮気じゃない! 仮名さんからの依頼をこなすためのミッションだ。やましい気持ちは何一つない。ではいざ、ナンパへ―――――!



啓太はよく分からない言い訳をしながらも、上機嫌に走り出し―――――そして撃沈した。



その過程すら描写する必要がないぐらいばっさりと、容赦なく振られまくった。啓太は勘違いしていた。なでしこと結ばれたことで自分がてっきりモテるようになったのだと、そう錯覚していたのだった。しかし少年の儚い、短い夢はものの一時間で消え去った。啓太はトボトボと、背中に哀愁を漂わせながら待ち合わせ場所へと戻って行く。


なんてこった……俺は……俺はなんて勘違いをしてたんだ……うん……きっと調子こいてたんだな。いや、罰があたったのかも。なでしこという女の子がいるのにナンパに浮かれてた俺への天罰に違いない。でも……でも、やっぱり悲しい。やっぱり男として一人の女性に縛られるのは抵抗がある。決してなでしこをないがしろにしているわけではないのだが、やはりそこは男のロマンだ! でも……うん、叶わないからロマンなのか。ちょっとなでしこにおみやげでも買って帰ろうかな。主に俺の精神衛生上の理由で。


まあそれはとりあえず置いておくとしてどうすっかな……そういえば仮名さん上手くやったかな。黙ってればいい男なんだし、警察だって言えば協力者の一人や二人捕まえられるか。ほんとにあれでも警察なんだし。


そんなことを考えながら待ち合わせ場所についた啓太を



「川平、遅かったな。どうだ、協力者を見つけることはできたか?」


どこか誇らしげに、一人で仮名史郎が出迎えてくれた。間違いなく失敗したであろうことが伺える状況だった。結局二人揃って誰一人捕まえることができなかったらしい。もっともヘンタイをおびき出すために協力させられる女性もたまったものではないのだが。


「か、仮名さん!? 一人も捕まらなかったのか!?」
「ああ。話しかけたのだが皆すぐに逃げて行ってしまった……やはり初めてだからか? 何が悪かったのか……」
「ちゃんと警察だって言ったのかよ!? そうすりゃ話ぐらい聞いてもらえるだろっ!?」


悩んでいる仮名に向かって啓太は詰め寄って行く。自分も誰一人捕まえることができなかったのはとりあえず置いておいて突っ込まざるを得ない。仮名は自分とは違いちゃんと警察であるというアドバンテージ? がある。なのに話すらできずに逃げられるなんてどう考えてもおかしい。一体どうして。だが


「うむ。女子高生ぐらいの少女たちに極秘の依頼として頼んだのだが……報酬を提示したのがいけなかったのだろうか?」


仮名の言葉が全てを物語っていた。その言葉に啓太は口を開けることしかできない。だがすぐに我を取り戻し、仮名へと追及していく。


「なんだそりゃっ!? なんでよりによって女子高生ばっかりに声かけてんだよ!? 他にも女性がいるだろうがっ!?」
「? 何かおかしいのか? 君の相手なのだから女子高生が相応しいと思ったのだが……?」
「おかしいことだらけだろうが!? あんたが女子高生に声掛けまくったら逃げるに決まってんだろう!?」


この人何考えてんの!? 確かに俺に合わせれば女子高生になるかもしれんが自分がそれに声かければどう見えるか、思われるか分かってねえのか!? コート着た怪しいおっさんが怪しい仕事で報酬くれるとかどうみてもピ――かピ――にしか見えねえわ!? いくら警察だって言っても信じてくれるわけねえ! 普通に余計なこと言わずに警察として同じぐらいの歳の女性に声かけりゃいいだけなのに何やってんのこの人っ!? 間違いなくヘンタイだっつーの!? しかもまだ理由が分かってないみたいだし、ほんとはこの人馬鹿なんじゃ……


もはや間違いを正すこともしたくないとばかりに啓太は大きな溜息を吐きながら頭を抱える。こういったことにはどうやら仮名さんは当てにはならないらしい(自分のことはとりあえず置いておく)。 どうしたものかと啓太が途方に暮れかけた時


「「お困りのようですね、啓太様! 私たちがお力になりますよー!」」


そんな甲高い、ハモった声が啓太達に向かって響き渡る。もうそれだけで声の主の性格が分かるような、お気楽そうな、はちゃめちゃな雰囲気がある。啓太と仮名はそのまま声の主、いや主たちへと振り返る。そこには瓜二つの、双子の少女の姿がある。左右で髪を結んでいる違いがあるがそれ以外は全く同じ容姿。入れ替わっても絶対に分からないであろうほどのそっくりさがある。


「君たちはたしか川平薫のところの……」

「はい! 序列七位のいまりと」
「序列八位のさよかでーす!」


仮名の言葉に続くようにいまりとさよかが元気よく、楽しげに自己紹介をする。仮名は突然の二人の登場に驚き、戸惑っているようだ。それは啓太も同じ。だが啓太はそのまますぐにジト目で、訝しむような表情でいまりとさよかを見つめ始める。まるで何かを疑っているかのように。だがそれを知ってか知らずか双子はいつものペースを崩さない。仮名はどこか様子がおかしい啓太の姿に気づき、しゃべらない啓太の代わりに代表して事情を聞くことにする。


「そ、そうだったな……ところで君たちはどうしてこんなところに?」
「たゆねに聞いたんですよ、啓太様が依頼で困ってらっしゃるって!」
「だから私たちが頼りないたゆねの代わりに啓太様のお手伝いに来たんです!」


仮名の言葉に迷うことなくいまりとさよかは答える。そこにはおかしいところ何もない。少なくとも仮名には感じられない。だが啓太はやはり変わらずどこか怪しむような、冷たい視線を二人に対して向けたまま。明らかに疑ってかかっている。流石に気づかないふりは難しいと感じたのか、双子もどこか居心地が悪そうな様子を見せている。そんな沈黙がしばらく流れた後


「……で、一体何しに来たんだ? 何か魂胆があるんだろ?」

「えっ!? な、何言ってるんですか、啓太様!?」
「魂胆だなんて、そんなものあるわけないじゃないですか!? 私たちは啓太様の力になりに来たんですから!」


啓太がぽつりと、だがどこか低い声で双子に向かって問いかける。その言葉にいまりとさよかはギクッという反応を示すものの、何とか平静さを装いながらそれを誤魔化さんとする。だがどっからどうみても怪しかった。きっと小学生でも騙せないようなしらばっくれだった。啓太はそのままじ~っと二人を見つめ続ける。当たり前だ。いまりとさよか。この双子の犬神は薫の犬神の中でも自分を嫌っていた犬神。それがいきなりフレンドリーに、しかも依頼を手助けに来るなどありえない。怪しさ満点、これを信じるくらいなら自分は間違いなく頭の病院送りになるだろう。どうせろくでもないことを考えてるに違いない。それは確信に近いものだった。

そんな啓太の視線に、態度に観念したのかいまりとさよかはあちゃ~という表情を見せた後、かしこまった態度をやめ、いつもどおりの雰囲気に戻っていく。悪戯好きな子供の様な無邪気さがある姿へ。


「ばれちゃいましたか。これを見破るとは流石啓太様!」
「やかましい! わざとらしすぎんだよ!? あんだけ露骨に嫌ってたのに一体どういう風の吹き回しだ!?」
「え、えっと、それは~その~」
「……そう! 今私たちの間では啓太様がブームなんですよ!」
「ブーム……?」


何言ってんだこいつら? 頭おかしくなったんじゃねえか? フラノもびっくりの天然になっちまったのか……可哀想に。一刻も早くごきょうやに、いや天地開闢医局に診てもらった方がいいんじゃないか?


そんな啓太の内心を知ることなく、いまりとさよかは白状する。それは一か月前。啓太が死神を倒してからのことだった。

それまで薫の犬神の中には二つのグループがあった。川平啓太を慕っているグループと嫌っているグループ。元々自分達は全員啓太に対してマイナスのイメージしかもっていなかった。儀式の珍事もそうだが、落ちこぼれ犬神使いとして川平家では問題児扱いされていたのだから。だがそんな中、少しずつ変化が生じてくる。

まずともはね。偶然知り合いになってからともはねは何故か啓太に懐き、遊びに行くようになった。だがともはねは小さな子供。そういうこともあるのだろうぐらいにしか双子は思っていなかったのだがごきょうやたち三人が啓太と一緒に依頼をこなしてからそれが大きく情勢が変わってきた。ごきょうやは元々啓太に関しては良くも悪くも言っていなかったのだが、フラノとてんそうもどうやら啓太のことを気に入ったらしい。それによって勢力はほぼ半々となった。せんだんは中立に近い立場だったので除外。残りは自分達とたゆね、いぐさ。

だがそれも啓太となでしこが屋敷に泊まりに来たこと、そして今回の死神の一件で激変してしまう。いぐさは元々男性恐怖症の気が強かったのが大きかったのだが、啓太が自分のことを覚えていてくれたこと、褒めてくれたこと、そして死神という存在を倒したことで認識を改めたらしい。もっともおどおどしていることには変わりないが。極めつけがたゆねだった。あれだけ散々悪口を言って嫌っていたにもかかわらず、ここ最近の変わりようはもう凄まじかった。お前本当に同一人物か、ツンデレにも程があるぞってぐらいの変わり身。面と向かっては言えないが。(裏切り者~!と言いながらからかったらたゆね突撃で追いかけ回されてひどい目に会った)そしてふと双子は気づいた。

あれ……? いつの間にか自分達だけ取り残されてるんじゃない? 他の子たちはどこか楽しそうにしながら啓太のことを話題にしたり、交流を図っている。なのに自分達はその輪に入っていけない。

いまりとさよかは基本的にお調子者であり、楽しいことが大好きである。その点ではフラノに近い。それに加え、流行にも敏感だった。みんなが知っていること、やっていることは自分達も加わらないと気が済まない、好奇心旺盛な性格。だが自分達は啓太と全くと言ってもいいほど接点がない。

このままではいけない! 何とかしなければ! そう思いながらもなかなか機会に恵まれず、今日ついにその機会(めちゃくちゃ強引なもの)を得ることができたのだった。


「だから啓太様、ちょっと私たちと仲良くなって下さいよ~!」
「私達も流行に乗りたいんです~!」
「なんじゃそりゃっ!? お前ら俺を何だと思ってんだよっ!?」


何なんだこいつらっ!? 人のこと何だと思ってんだ!? 現金すぎるにも程がある、というかそういうことを本人の前で言うんじゃねえ!? ある意味フラノを超える騒がしさ、はちゃめちゃさだ! しかも全く悪びれていないのがさらにタチが悪いっつーの!?


「ねえケイちゃん、ちょっと私たちを指揮してみてくんない? ちょっとだけでいいからさ~」
「そうそう、私達も若返ってみたーい!」
「だれがケイちゃんだっ!? っていうか何の話だ!? なんで俺が薫の犬神のお前らを指揮せにゃならんのだ!?」
「いいじゃないですか~減るもんじゃないし! はけ様は指揮したんでしょ~?」
「だから私達も、ねえいいでしょ~?」
「いいから離れろっ! うっとうしいんだよ!」


啓太は左右から纏わりついてくるいまりとさよかを振り払おうとするが二人は巧みにそれを躱しながら啓太をもみくちゃにしていく。


二人がここまでやってきたのは啓太とお近づきになるためもあったがもう一つ、大きな理由があった。それは啓太の指揮を受けてみたいという狙い。

きっかけは先日、屋敷にはけ様がやってきた時のこと。その際、啓太様の話題が、死神との戦いの話題が上がった。やはりみんなそのことは気になっていたらしい。あの時、啓太様にははけ様が憑いていた。だが今になって思うとそれは本来あり得ないこと。何故ならはけ様は人嫌いであり、宗家様以外の主を持ったことのないほど、宗家様に心酔している犬神。そんなはけ様が宗家様以外の誰かに一時的とはいえ憑くことなど前代未聞だった。そしてはけ様の話もいつもとは違っていた。端的にいえばベタ褒めだった。まるで宗家様のことを語る時のように啓太様のことをベタ褒めしていたのである。その光景にあのせんだんですら呆気にとられていた程。それがいぐさやたゆねが啓太様に対する認識を改めた大きな要因の一つになったのは言うまでもない。だがいまりとさよかにとってはその内容にこそ興味を惹かれた。

それは啓太様の指揮、犬神使いとしての力。はけ様の言葉によればそれはまさに神ががっており、まるで若返るかのような凄まじい感覚だったという。

いまりとさよかは外見こそ幼い(本人たちは認めていない)がその年齢は百歳を超えている。犬神の中ではそれほど歳をとっているわけではないのだがそれでも『若返る』というフレーズには興味を惹かれないわけにはいかなかった。そこで依頼の手伝いにかこつけてそれを体験してみたいと言うのが双子の企みなのであった。


「私達が啓太様の恋人役をすればいいんですよね? 任せてください! 両手に花ですよ、啓太様!」
「……え? 花? どこに花なんてあんの? 俺そんなものこれっぽっちも見えないんだけど?」
「またまたそんなこと言ってー! ほら、目の前にいるじゃないですかー!」


本気で困惑している啓太に向かっていまりはその胸元を広げ、さよかはそのスカートを見えそうで見えないところまでまくりあげ、セクシーポーズをとる。啓太を悩殺せんばかりの勢いを以て。だが


「どうする、仮名さん? ナンパ続ける? それともなでしこが帰ってくるまで待つ?」
「そうだな……しかしそうなると時間がいつになるか……」


だがそんな二人の姿にまったく意識を割くことなく啓太と仮名はこれからのことを相談している。まるで木でも見ているかのような視線を向けながら。


「ちょ、ちょっと啓太様!? 無視しないでください! ほら、こんなに際どいポーズをとってるんですよ!?」
「そうです! 煩悩の塊の啓太様なら失神ものの姿ですよ!」

「いや……別に何とも……」


まるで反応を示さない、いやあきれ果てている啓太の姿にいまりとさよかは驚愕し、戸惑いを隠せない。彼女たちにとって啓太は煩悩の塊。少しサービスすればころっとお願いを聞いてくれるとばかり踏んでいたからだ。啓太からすればともはねに毛が生えた程度の二人のそんな姿を見せられても嬉しくとも何ともなかった。二人以外の犬神ならば話は違っていただろうが。


「そんな……これに反応を示さないなんて……啓太様、やっぱりピ――だっていう噂は本当だったんですね……」
「ということは……なでしこも可哀想に……結婚早々ピ――になるなんて……」
「おいっ!? てめえら何好き勝手言ってんだっ!? 俺はピ――でもピ――でもねえええ!!」


啓太は勝手に勘違いし、さらに凄まじい誤解をしていく二人に向かって叫ぶが二人は我知らずとひそひそ話をし始める。その騒ぎと会話によって周りの人々が遠ざかって行くのだがそれに気づいているのは仮名だけ。


こいつらなに好き勝手に言ってくれてんの!? っていうかそんな言葉をぽんぽん使うんじゃねえ! その容姿でそんな言葉を平然と使われると危なすぎるわ! 年齢でいえばおかしくないもかもしれんが端から見ればヤバすぎるっつーの!


啓太がそんなめちゃくちゃな二人に振り回されながらもこれからどうしたものかと悩み始めた時



「けーた様―――!」


そんな少女の声が啓太達の間に響き渡る。だが皆、その声に呆気にとられるしかない。何故なら皆、その声に聞き覚えがなかったから。だが啓太様という呼び方をする以上それは薫の犬神であるはず。だがその声はその中の誰にも該当しない。そのまま啓太達は視線を声の主へと向ける。

そこには一人の少女がいた。慌てながらもこちらに向かって走ってきている。歳は十七、八程だろうか。だがその服装が普通ではない。ホットパンツに丈の短いTシャツ。まるでたゆねのような格好。だがそれはたゆねではない。

胸の大きさは恐らくはたゆねと同じぐらい、だが手足はたゆねよりも長く、すらっとしている。そして長い髪をツインテールにし、それを揺らしながらこちらにむかって走ってくる。間違いなくなでしこに匹敵するほどの美少女だった。だが啓太はそんな少女に全く心当たりがない。こんな美少女なら会っていれば忘れるはずがない。なら一体。そう困惑した瞬間


「見てください、けーた様! こんなに大きくなりましたー!」
「ぶっ!?」


啓太はそのまま突っ込んできたツインテールの少女によって抱きつかれる。まさかそのまま突撃してくるとは想像もしていなかった啓太はそのまま地面に押し倒されてしまう。いや、それだけではない。少女は興奮したように啓太にのしかかりながら抱きついてくる。その露出が多い格好によって胸の感触が、肌の感触が、匂いが啓太へと襲いかかる。啓太はそれにされるがまま。ショックでフリーズしたまま、身動きを取ることができない。


「川平……なでしこ君という女性がありながら、ふしだらな……」
「これって修羅場って奴? 私初めてみちゃった……」
「告白してすぐに浮気なんて、やっぱり啓太様は……」

「ちょ、ちょっと待てお前ら!? 好き勝手言ってないで何とかしろっつーの!!」


どこか引き気味に事態を眺めている三人に向かって啓太が息も絶え絶えに反論するもその少女の抱きつきから脱出することができない。それは決して啓太が非力だからでもその感触を味わっているからでもない。少女の力が明らかに人外のものであるため。その証拠にそのお尻から尻尾が生えている。頭のツインテールのように二つに分かれた尻尾が。


…………ん? あれ? 俺、この尻尾、どこかで見たことあるような気がするんだけど……そういえば、この女の子の顔、何かどっかで見たことあるような……


啓太は改めて目と鼻の先にある少女の顔を凝視する。大きな瞳、整った顔立ち。だがそこに面影がある。そう、いつも目にしている小さな少女の確かな面影が。


「お、お前………もしかして……?」


「はい! ともはねですよ、けーた様!」


少女、ともはねはその大きな胸を張りながら自信満々に返事をする。瞬間、啓太達の時間が止まる。凍りつく。まるで信じられない物を見たかのように。いや、実際にそれを目の当たりにしたことによって。長い沈黙の後



「「「えええええええええ―――――!?!?」」」


公園に四人の絶叫が木霊する。


ともはね(推定十七歳)の乱入によって啓太はさらなる混乱へと巻き込まれることになるのだった―――――



[31760] 【第二部】 第四話 「ともはねアダルト」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/13 18:54
時は遡り、啓太が一人で仮名の依頼へと出ていってしまった時、場所は薫の屋敷。

一人の小さな少女がどこか不機嫌そうに、頬を膨らませながらもぱたぱたと自分の部屋へと向かっていた。それはともはね。彼女が怒っている、いや不機嫌になっているのは言うまでもなく先程の一件。啓太が一人で依頼へ行ってしまったことに関連していた。


(む~、けーた様のばか……)

ともはねは自室の戻り、部屋をあさりながら今はいない川平啓太に悪態をついてた。悪態と言っても軽い愚痴と言ったほうが正しいかもしれない。せっかく一カ月ぶりに遊べたのにそれがすぐに終わってしまったこと……もあるがそれ以上に自分を連れて行ってくれなかったことがともはねが不機嫌になっている理由。その意味では啓太ではなく仮名にこそ文句を言うべきかもしれない。だがともはねもその理由を理解していないわけではない。

最年少の、序列最下位、小さな子供の犬神。それが今の自分だということはちゃんと理解している。

他の子たちはみんな賢く、強く、そして綺麗だった。女性らしい容姿を、雰囲気を持っている。(例外もあり)それが羨ましいとずっと思っていた。でもこればかりはどうしようもない。時間の流れだけを頼りにするしかない問題。だが理解できても納得はできなかった。

その最たるものが先日の死神の一件。そこで自分はまったく役に立つことができなかった。啓太様やたゆねがやられるのを助けることができなかった。

『小さいから』

それがいつも他の子たちに言われる言葉。あたしにとっての免罪符。でも、それでも悔しかった。啓太様の力になれなかった自分が。それ以上に羨ましかった、なでしこが。あんなに強いなでしこが。啓太様に好きだと言ってもらえたなでしこが。そのことを考えるとなんだか胸がもやもやする。前からあったものだが最近はそれが強くなっているような気がする。それが何なのかは分からないけれど。

そしてともはねは作り出した。自分の趣味である薬作り。それによって自分を強くしようと言う試み。とにかく強くなれればきっと啓太様の役に立てるはず。自分を見てくれるはず。他の子たちも自分を見直すはず。そんな子供じみた発想。だがともはねにとっては本気も本気、一世一代の挑戦だった。そしてともはねはそれを取り出し、意を決して薬を飲み干す。それが何をもたらすかを知らないまま―――――



今、一つの衝撃が、奇跡が啓太達の前に姿を現していた。それを前にして誰一人言葉を発することができない。いや見惚れていた。当たり前だ。

そこにはまさしく絶世の美少女がいた。

めったにお目にかかれないレベルの、間違いなくなでしこに匹敵するレベルの美少女。そのプロポーションも冗談じみている。トップモデルも裸足で逃げ出しかねないバランスと美しさ。すらっとした足。美しい肌。ある意味なでしことは違うもう一つの女性の理想、究極形。それが今の、大人にまで成長したともはねの姿だった。


「お、お前……本当にともはねなのか……?」
「はい! そーですよ、けーた様!」


啓太の言葉にともはねは嬉しそうに、元気よく返事をする。その姿に確かにともはねの面影がある。口調も確かにともはねのもの。だがいきなりの事態に啓太はショック状態、パニック状態だった。


え? 何がどうなってんの? いきなりうちの(正確には薫の)ともはねが大きくなってるんですけど。しかも超がつくほどの美少女に。ちょっと見ない間に大きくなって……やっぱり犬神は人間と違って成長が早いんだな……って違――――うっ!? いくら何でも限度があるわっ!? いつのまにここは魔法少女の世界になったんだ!?


「お前、一体何がどうして……と、とにかく何でそんなにでかくなってんだよっ!?」
「お薬のおかげです! あたしが作った強くなるお薬を飲んだら大きくなれたんです!」
「薬って……さっき屋敷で言ってた奴か!?」
「はい! 大成功です! おかげでともはねは強くなれました!」


ともはねは大きくふんぞり返り、腰に両手を当てながら自信満々の姿をみせている。まさしく子供その物の行動。だがその容姿が美少女であるために余計に訳が分からない光景がそこにはある。


強くなれたって……大きくなっただけじゃねえか!? いや……こいつにとっては強くなることと大きくなることは同義なのかもしれんが……。しかしほんとに中身は子供のままなんだな。体が大人で中身が子供なんてどっかの名探偵とは正反対だ……っとそんなことは置いておいて


「ともはね、お前何でそんな恰好してんだ!? その服、たゆねのだろ!?」


それをとにかく聞いておかなければ。啓太はどこか慌てながらともはねに問いただす。それはともはねの服装。ホットパンツに丈の短いTシャツ。間違いなくたゆねの服だ。だがそのせいでへそは丸見え、胸元は露わになってしまっている。ボーイッシュな雰囲気を持っているたゆねならいざ知らず、今のともはねが着ているとそのエロさが、破壊力が桁外れだ。容姿と服のアンバランスがどこか背徳的ですらある。


「……? はい。服が小さくなっちゃったんでたゆねに借りたんです。何かおかしいですか?」
「い、いや……おかしくはねえんだが……その、何でたゆねの恰好なんだ?」
「それは……」


ともはねは何故か顔を赤くしている啓太を不思議に思いながらも語り始める。それは薬によって大きくなったことに気づいた時。今まで着ていた服が縮んでしまったことが原因。(正確にはともはねが大きくなってしまったせい)ともはねは今まで生きてきた中で一番の興奮状態に陥った。あわわわ!という声にならない声を上げながら。その視線が自分の胸元に、そこにある二つのふくらみに向けられていた。

そう、おっぱいに。

たゆん、たゆんとゆれる二つの物体が自分の胸元にある。しかもかなり大きい。それを何度も何度も触って、揉んで確かめた後


『やったあああ――――!!』


ともはねは歓声を上げながら走り出す。それは歓喜。今まで他の子たちが持っていて自分が持っていなかった女性である証、称号をついに手に入れることができたのだから。それがどういう意味を持つのかは知らないが啓太様がこれを好きなことは知っていた。啓太様がなでしこの胸を見ているのを何度も見たことがあったから。これがあればきっと啓太様も自分を見てくれるはず。

だがこのままではいけない。服を探さなければ、いや、その前にブラジャーを探さなくては! 


『ブラジャー』


それはともはねにとっての憧れ、未知の領域だった。そこに踏み入れる喜びでともはねはまさに絶好調、テンションマックスで脱衣所へと突撃する。真っ裸のままで。もしその場に啓太がいれば間違いなく失神ものの光景だった。

だがともはねは悪戦苦闘する。それはブラジャー選び。手当たり次第に他の犬神達のブラを身につけてみるのだがどれも小さすぎて合わない。(特にいまりとさよかの物は論外だった)だがともはねはあきらめきれない。こんな機会二度とない! なんとしてもブラジャーを着てみなくては! そんな願いが通じたのかついに自分に合う物が見つかる。それはたゆねのスポーツブラだった。どうやら自分はたゆねと同じぐらいの胸の大きさらしい。それはつまり薫の犬神の中で一番大きいということ。そのことに狂喜乱舞しながらともはねはホールに蹲っているたゆねに向かってお願いをする。


『たゆね! ちょっと服貸してくれない!?』


それは服を借りるため。自分と同じ、近いスタイルを持つたゆねの服ならきっと大丈夫だろうという狙いだった。(もっともその時には屋敷にはたゆねしかいなかっただけでもあるのだが)たゆねは呆気にとられるしかない。当たり前だ。いきなり見たことのない少女が、しかも何故か自分の下着を身に付けた下着姿のままで現れたのだから。その衝撃は推して知るべし。

だがそんなたゆねの戸惑いなどなんのその。ともはねは矢継ぎ早に状況を説明するとそのままたゆねの部屋へと突撃し、服を奪った後、風のように去って行ってしまった。たゆねはそんなともはねの姿に呆気にとられ、口を開けたまま立ち尽くす。それはともはねの大きくなった姿に目を奪われたから。同じ格好をしているにもかかわらずその雰囲気は全く違っていた。いや、はっきり言えば女として何もかも負けていた。女らしさなど気にしないと豪語している彼女でさえ自分が完膚なきまでに敗北したと認めざるを得ない程の衝撃。

たゆねはしばらく立ち尽くした後、再びホールで体育座りをしたまま先程までとはまた違う意味で落ち込み続けたのだった―――――



おおよその事態を理解した啓太は改めてともはねへと視線を向ける。確かにスタイルで言えばたゆねに近い。だがその雰囲気は大きく異なる。何と言うか……女らしさ、色気がある。や、やばい……何なんだこれは!? 初めてなでしこに出会って以来の衝撃だ。これはぜひともお近づきにならなければ………


ってちょっと待て―――――!? ちょっと待て俺っ!? 俺今何考えてたっ!? お近づきになる!? 何言ってんだっ!? 相手はともはねだぞっ!? そう、あのちんちくりんの、お子様のともはねだぞっ!? いくら大人になったからってそれは変わらない! そう、これは何かの気の迷いだ! まだシリアスの病が治ってなかったに違いない!


そんな訳が分からない思考をしながらも啓太はそこに視線を奪われる。大きく広げられたともはねの胸元に。無造作に、無防備にさらされている聖域に。それは悲しい男の性だった。だがそれを感じ取ったともはねは


「そうだ、けーた様! 見てください、おっぱいもこんなに大きくなったんですよ!」



さも当然のように、Tシャツをまくりあげ、ブラの片方を外し、そのおっぱいを啓太に向かって晒した。



「……………え?」


啓太はそんな声を上げることしかできない。いや、自分が声をあげていることすら気づいていない。そんなことなど彼に意識にはこれっぽっちも残っていなかった。あるのはただ目の前にある光景。おっぱいだけだった。


美しい。その言葉でしかそれを表現することはできないだろう。それは女性の神秘、奇跡。男であるなら逃れることはできない呪いの様な物。それが今、俺の目の前にある。

大きさはなでしこには及ばない。だがその形、大きさはまさに美乳と呼ぶに相応しい。もうひとつの完成形だと言えるだろう。

その本来なら届くことのない、見ることができない奇跡が今、目の前にある。

白い肌。柔らかさを感じさせるもの。そしてその先端には桜色の――――



「……? どうしました、けーた様? 触ってみます?」


せっかく喜んでもらえると思っていたのに何の反応を示さない啓太の様子にともはねは近づきながらその胸を啓太へと差し出す。いつもなでしこやたゆねの胸をずっと見ていたので見たいのだとばかり思っていたのだが違うのだろうか? それとも触ってみたいのだろうか? 


そんなともはねの疑問に気づくことなく、啓太は自分の目の前に差し出されたそれに目を奪われる。目と鼻の先にそれがある。しかもめったにお目にかかれない美乳が。それを前にして何を迷う必要がある。そう、男ならいってやれ、だ! 

そのまま、まるで見えない力に引き寄せられるようにその手が、そこに向かって伸びようとしたその瞬間


なでしこの微笑みが、どこか背中にどす黒いオーラを纏った微笑みが垣間見えた。


「うおおおおおおおお――――――っ!?!?」


瞬間、啓太は絶叫をあげながら、獣のようにその場から瞬時に離脱する。それはまさに神業、死神との戦いを遥かに上回る動き。それを以て啓太は寸でのところで死地から脱出する。まさに紙一重の差だった。


あ、あぶねええええっ!? 俺今何しようとしたっ!? 死ぬつもりか俺っ!? っていうか走馬灯が見えたわっ!? 相手はともはねだぞっ!? 気をしっかり持て!? こ、このままではいかん、そ、そうあれだ! 久しく使ってなかったが身内フィルターを全開にするんだ! じゃなけりゃ俺の理性を、本能を抑えきれん!


「何で逃げるんですか、けーた様? もっと大きくないとだめですか?」
「や、やめろっ!? とにかく早くそれをしまえっ!! それは凶器だっ! それ以上見せびらかすんじゃねえ!! おい、お前らも手伝えっ!!」


尚も近づいてこようとするともはねを力づくで説得しながら啓太は何とかその場を収めようとする。だがともはねはどこか納得できないような、不機嫌そうな表情を見せている。助けを求めようとするも誰も啓太に加勢する者はいない。

仮名はどこか気まずそうに視線をそらし、背中を見せたまま。まさに紳士たる対応だった。もっとも全てを啓太に丸投げしているだけとも言えるが。

「そんな……こ、こんなことが……」
「このままじゃ……私たち……」

いまりとさよかはがっくりと、その場に座り込みながら何かに絶望している。もはや啓太達の状況など微塵も目に入っていなかった。パワーバランスが、序列が、と訳の分からない言葉をまるで夢遊病のようにぶつぶつと呟いているだけ。


「お前らあああっ!? ちょっとは手伝えっつーのっ!!」


誰の助けもない、孤立無援の状況で啓太はいろんな意味でアダルトになってしまったともはねを止めるために奮闘するのだった―――――




「ごめん、まった? けーた?」
「いや、今来たところだ。ともはねこそそんなに急いでどうしたんだ?」
「だってけーたとのデートなんだもん。遅れちゃいけないとおもって」

ともはねはどこか顔を赤くしながら啓太へと告げる。その仕草も相まって本当にデートを楽しみにしていたことが伺える。啓太はそのまま微笑みながらともはねの乱れた髪をやさしく梳く。そんな二人を照らし出すかのようにまばゆい陽の光が差す。まるで二人を包み込むかのように。


「そんなに急がなくても俺はどこにもいかないさ」
「ほんと? ほんとにどこにもいかない?」


啓太は不安そうなともはねの頬に優しく手を添えながら、囁く。嘘偽りない、自らの本音を。愛を。


「ああ……俺は……お前のことが……す……す……」

「す?」

ともはねがどこかポカンとした様子で黙りこんでしまった啓太を覗きこむ。だが啓太はそんなともはねに気づくことなく


「だあああああ―――――っ!? こんなんやってられるか――――っ!? どこの世界にこんなセリフ吐く男がいるんだっつ―――のっ!?」


叫びを上げながら、抗議を上げながら一直線にある人物の元に走って行く。そこには一人の男がいた。名は仮名史郎。だがその雰囲気はいつもとは異なる。メガホンと台本を持ち、インカムの様な物を身につけている。どっからどうみても怪しいカメラマン、いや監督だった。


「主演男優、そんなセリフはないぞ! それに役に入り込めていない! もっとともはねを見習ったらどうなんだ!」
「やかましい! こんな役に入り込めるわけねえだろ!? 演じるだけで鳥肌が止まらんわ!?」


全く動じる様子のない仮名に向かって啓太は迫って行く。それもそのはず。今、啓太達はターゲットであるヘンタイをおびき寄せるためにカップルを演じているところ。だがその内容がひどすぎた。どこの三文芝居か分からない程のベタなラブコメ。今時小学生も描かないであろう程の内容。穴があったら入りたいを実演しかねないほどの惨状だった。


「……そんなにおかしいか?」
「おかしくないところがないぐらいおかしいわ!? 一体何をしたらこんな台本作れるんだよ!?」
「いや……妹が読んでいた少女漫画を参考にしたのだが……そんなに変か?」


仮名は本気で悩むような様子を見せている。どうやら本気で、ネタでも何でもなくこの台本を作ってきたらしい。というか少女漫画にも失礼な出来だった。というか


「仮名さん……そんな趣味があったのか……」
「っ!? な、何を言っている!? 私ではなく妹が……!」
「分かった分かった。そういうことにしとくからとにかく台本何とかしてくれ」
「けーた様! 早く続きをしましょうよー!」


どもりながらも抗議の声をあげている仮名を無視している啓太に向かってともはねが嬉しそうに、上機嫌に走り寄ってくる。どうやらともはねにとっては台本の内容などどうでもいいらしい。既に主演女優になりきっている。その光景に溜息を吐くことしかできない。


ともはねを相手にしてのカップル大作戦。

それが仮名さんによって発動されたミッションだった。色々な経緯があったが見た目で言えば啓太とカップルに見えるであろうともはねが現れたことでそれは始まった。もちろん、いまりとさよかは反発した。自分達が先に来ていたのにその役を奪われること、何よりも大人になったともはねへの警戒心が一番だともろバレだった。だが監督である仮名の決定は覆らず、今、いまりとさよかはともはね用のカンペと反射板をもって雑用をこなしている。哀れすぎる。というか数年後の未来の二人の姿が見えるかのよう。


啓太はそのまま自分の目の前に入るともはねに目を向ける。いまりとさよかはその容姿にショックを受けているようだがそれだけでないことが啓太には分かる。

それは犬神使いとしての力。

それが感じ取る。信じられない程の力をともはねが持っていることを。恐らくははけを凌駕するほどの凄まじい力を。元の姿の時からともはねの潜在力が並はずれていることは何となく分かっていた(恐らくは薫も)がまさかこれほどとは。それが大人になった影響なのか、薬の力なのかはまでは分からないがなんにせよあの双子には絶望しかないだろう。序列最下位になるのがどっちになるか今から決めておいた方がいいんじゃないか?


「ちょっと啓太様! ちゃんとやって下さいよ!」
「そうそう! 早くこんなの終わらせて下さーい!」
「うるせえ! こんな恥ずかしいことできるわけねえだろっ!?」


ぶーぶーという双子からのヤジを受けながらも啓太は負けじと言い返す。ただでさえ演技なんてしたことないのにこの台本。いやがらせとしか思えない、もはや罰ゲームだった。


「えー? でも啓太様も十分恥ずかしいことやってるじゃないですかー?」
「そうそう!」
「ど……どういう意味だよ?」
「ごほんっ! 『なでしこ、俺の犬神になってくれねえ?』」
「なっ!? お、お前っ!?」
「流石でしたよ、啓太様。みんなの前であんな恥ずかしいことおっしゃるんですから♪ しかも全裸で♪」
「う、うるせえ! あ、あれはその……その場の勢いというか……その……!」
「え? 勢いでなでしこに告白したんですか? なでしこもかわいそー」
「ち、違う! お前らいい加減にしねえとマジで容赦しねえぞ!?」
「君たち、いつまでもやっていないで持ち場に戻りたまえ!」


触れられたくない、なかったことにしたい自らの一世一代の告白を馬鹿にされ、顔を真っ赤にしながら啓太は蛙の消しゴムを手に持ちながら双子を追いかけ回す。今思い返せば自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたのか分かる分、タチが悪い! しかも恐らくはフラノにも同じようにからかわれるのが目に見えている……くそっ……あの時の俺に早まるなと警告できれば……! 

と、とりあえずとっととこの三文芝居を終わらせなければ、というかほんとにこれでターゲットをおびき寄せれるのか? これで何の意味もなかったら俺たち一体何してたんだってことになる。公衆面前で恥晒してるだけじゃねえ? 普通に手でも繋いで歩いてるだけでいいんじゃ……


そんな今更の、当たり前のことに気づき声を上げようとした瞬間



「けーた様……けーた様はともはねのことどう思ってますか……?」

「………え?」


そんなどこか真剣なともはねの声が啓太に届く。啓太はどこか間抜けな声を上げながらそんなともはねの姿に目を奪われる。そこには顔を真っ赤にし、瞳を潤ませた一人の少女がいた。まるで恋する乙女のような、犯しがたい空気がそこにはあった。それに啓太はもちろん、仮名と双子も目を奪われている。そのことからともはねのセリフが、姿が演技ではないことが分かる。


え? 何? 何がどうなってんの? これって演技だよね? だとしたらすげえ。ともはねの姿はさっきまでとはまるで違う。なんか生の迫力が、凄味がある。もしかしたらほんとに女優になれるんじゃねえ?


啓太はどこか冷や汗を流しながらそう思考する。だが彼自身心のどこかで気づいていた。それが現実逃避であることを。目の前のともはねの姿が、行動が演技ではないことを。


「ともはねはけーた様のこと大好きですよ」


ともはねはどこか戸惑いを見せながらもその言葉を口にする。だがその顔は真っ赤だった。ともはねはどきどきしていた。どうして自分がこんなにどきどきしているのか分からない。ただ啓太様が好きだと、当たり前のことを言っただけなのにどうしてこんなにどきどきするのか、顔が熱くなるのわからない。なんだが頭がぼうっとしてくる。まるで熱が出ているかのよう。

今、ともはねはある感覚に囚われていた。まるで心と体が一致していないかのような、そんな感覚。それは幼いともはねの心が、精神が知らず、大人になった体に、肉体に引っ張られつつある証。

そしてともはねはゆっくりと啓太へと近づき、その腕を掴む。まるで啓太を逃がすまいとするかのように。そんなともはねの姿に啓太は目を奪われたまま、されるがまま。その胸中はたった一つ。


『可愛い』

ただそれだけだった。


な、何だ? 何だこれ? マジでヤバいんですけど? 何がヤバいって何がヤバい分からないくらいヤバいんですけど!? その視線が、うるんだ瞳が俺の何かをすっげえ刺激するんですけど!? い、いや!? お、落ち着けけ俺っ!? 目の前にいるのはともはねだ! そう、あのともはねだ! ともはねが俺を好きだって言ってくれてるだけだ! 何を焦ってるんだだ!? 


そうともはねだ。ともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねともはねとも……


啓太の中のともはねがゲシュタルト崩壊を起こしながらもその状況から啓太は逃れることができない。まさに絶世の、なでしこに匹敵する美少女が自分に迫ってきている。それは未来のともはね。今から数年後のともはねの姿。

ならいいんじゃないか。ちょっとぐらいなら。あれだ!光源氏計画みたいなもんだ! そんな煩悩が溢れださんとする。だが同時に啓太の理性が、道徳がそれを寸でのところで喰い止める。

今、自分がアンモラルな、そう例えるなら禁断の果実に手を出そうとしているのだと。もし手を出そうものなら自分は社会的に、いや物理的にも抹殺されるであろうことが目に浮かぶ。

その壮絶な争いは紙一重の差で善性に軍配が上がる。それは人としても啓太の最期の意地だった。そして啓太が何とかその場を脱出しようとするが


「……あれ?」


動かない。自分の体が。いや、違う。これは動けないのではない。捕まっているのだ。啓太はその視線を自らの両腕に向ける。そこにはともはねの手がある。それが自分の腕をしっかりと掴んでいる。まるで獲物を逃すまいとするかのように。その力はまさに人外のもの。それを振り払うことは啓太にはできない。いや、その力の前にはたゆねですら敵わないだろう。


そしてそのままともはねがゆっくりと啓太へとその顔を近づけてくる。瞳を閉じながら、その顔に向かって。啓太はそれをただ黙って見ることしかできない。もはや声を上げることもできない。

仮名たちもその光景に身動きすらできない。まるで時間が止まってしまっているかのよう。

ともはねも自分が何をしようとしているのか分かっていない。まるで発情してしまった犬のように。その本能のまま、それが為されようとした瞬間



『そこまでだ! 公序良俗に反したカップル、愚者どもよ! この露出卿、栄沢汚水が成敗してくれる!』


そんな男性の声が辺りに響き渡る。一際大きな風と共にその姿があらわになる。黒いマントに黒い頭巾で全身を覆っている人ならざる者。紛れもないヘンタイ。ヘンタイの中のヘンタイ。


その乱入によって混沌と化した公園はさらなる混乱に、ヘンタイに包まれることになるのだった―――――



[31760] 【第二部】 第五話 「けいたデスティニー」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/16 11:51
『そこまでだ! 公序良俗に反したカップル、愚者どもよ! この露出卿、栄沢汚水が成敗してくれる!』


高らかに、どこか満足気に黒ずきんとマントを身に纏った男、栄沢汚水は目の前のカップルと思われる男女に向かって宣言する。まるで時代劇の主人公のような立ち振る舞いをもって。だがそれは栄沢にとっては当たり前のこと。栄沢は本気で人前でいちゃつくカップルに天誅を下すことが自分の役目、正義だと信じている。もっともその理由は単にカップルが、恋人達が羨ましい、妬ましいだけ。ようするに単なる逆恨みだった。そんな栄沢から見て目の前に入る二人のカップルはまさに粛清の対象だった。堂々と公衆面前でキスをしようとするなど言語道断。しかも女性の方はめったにお目にかかれないような美少女。そんな羨ましすぎる、もといみだらな行為を許すわけにはいかない! 

そんな栄沢の思惑通りにカップルたちは自分の姿に釘づけになっている。カップル以外のコートを着た男と双子と思われる少女もいるがまあいいだろう。さあ、世に仇為すカップル(特に男)に天誅を、天罰を下してやろう! テンションを上げながら栄沢がその本性を、真の姿を現そうとする中、気づく。

それはカップルの男。その男は何故かどこか慌てたように自らの彼女から一瞬で距離を取っている。まるで逃げ出すかのように。同時にどこか安堵しながら、まるで自分に感謝するようなよくわからない視線を向けている。分からない。どうしてそんな視線を、態度を見せているのか。これまでのカップルたちは皆、自分が現れたことである者は恐怖し、ある者は憤怒していたというのに。そう、目の前にいるツインテールの少女のように―――――


―――――瞬間、栄沢の意識はこの世からなくなった。



「………え?」

それは誰の声だったのか。だが啓太はそれが間違いなくこの場にいる全員の声だと確信した。それは一瞬の光景だった。それは今回の目標、ターゲットであるヘンタイの幽霊、栄沢汚水が現れた瞬間だった。何故か黒ずきんにマントというまさしくヘンタイに相応しい意味不明な格好。間違いなく本人であることが分かる。だがその時の俺は感謝していた。心からそのヘンタイに、いやその登場に。ヘンタイに感謝することなどもう二度とないだろうと思えるような状況だったのだ。

それはともはねによる拘束。それだけならまだいいがあろうことかともはねはそのまま俺に向かってキスをしようとしてきた。間違いなく本気で、躊躇いなく。普段なら絶対にあり得ない恋する乙女のようなオーラを発しながら。それを前に啓太は文字通り身動き一つすることができなかった。


あれ……? 俺、もしかしてすっげーヤバいんじゃない……?


啓太はまるで走馬灯のように思考する。もしこのままともはねとキスしてしまえばどうなるのか。それは文字通り死亡フラグ。バッドエンド直行になりかねない選択肢。後先にも絶望しかあり得ない、己の身の破滅を確定するであろう禁断の果実。それを今、自分は口にしようとしている。いや、正確には口にさせられようとしている。啓太の第六感が危機察知アビリティが最高レベルの警報を発するも物理的に捕えられてしまっている状況からは逃れることができない。そしてついにその一線が越えられようとした瞬間、救世主が現れた。

ヘンタイという名の救世主が。

その登場によってともはねの意識が逸れる。その瞬間、万力のようなその拘束に一瞬の隙が生じる。そしてその光明を啓太は見逃さなかった。


「ぬおおおおおっ!?」


現役ラグビー選手もかくやという気迫を以て啓太はその拘束から逃れ、脱出する。まさに一世一代の、九死に一生を得るかのような動きだった。


あ、あぶねええ―――っ!? ほ、本気でヤバかったわっ!? 死ぬかと思ったわっ!? まだなでしこともキスしたことないのにそんなことしたらどうなるか考えただけで背筋が寒くなるわっ!? ファーストキスはなでしことって決めてるんだっ! っていうかともはねのやつ一体どうしたんだっ!? なんか様子がおかしいぞ、薬の影響かっ!?


実は既にファーストキスの相手はすぐ傍にいるのだが啓太はそのことには気づかない。というか啓太の中ではなかったことになっているらしい。忘却という人間の偉大な機能によって。トラウマと言い変えた方がいいのかもしれない。そんなことを考えながらも啓太が改めてともはねの様子を伺おうとした瞬間、


凄まじい爆音が辺りに響き渡った。


まるで爆弾が爆発したかのような爆音と衝撃が公園に響き渡る。その衝撃に啓太たちは呆気にとられるしかない。一体何が起こったのか。啓太達はその場に立ち尽くすことしかできない。煙が収まった場所にはまるでクレーターのような破壊の後が残っているだけ。何も残っていない。そう、そこにいたはずの栄沢汚水の姿も塵一つ残っていなかった。


「「「…………」」」


啓太はもちろん、仮名といまり、さよかも口を開けたままその場に立ち尽くすことしかできない。それは目の前の光景。そしてそれを起こしたともはねの姿をはっきりと目にしたから。


『破邪走行 紅蓮』

それがともはねが栄沢に向かって放った攻撃。ともはねが手を振るった瞬間に九本の深紅の衝撃波が放たれた。それは薫の犬神達が全員揃って初めて可能になるレベルの攻撃。それをともはねは難なく使用し、一瞬で栄沢を撃破したのだった。

仮名はその光景にただ呆然とするだけ。手には自らの武器である光剣、エンジェルブレイドを構えようとしたのだがそのままの体勢で固まってしまっている。当たり前だ。ターゲットが現われたと思ったら次の瞬間には撃破されてしまったのだから。というか死んだのではないのだろうか? いや、元々死んでいたのでその表現は当てはまらないかもしれないが。

いまりとさよかは体を震わせ、互いに顔を見合せながら口をぱくぱくさせている。それはともはねの力を目にしたが故。容姿だけでも既に絶望的だったにもかかわらずその実力も桁外れ。間違いなくたゆねを大きく超えている程のもの。もはや自分たちに勝ち目は、未来はない。逃れようもない絶望が双子を包み込んでいた。


「けーた様、お待たせしました! 続きをしましょう!」


何事もなかったかのようにともはねがそのツインテールと大きな胸を揺らしながら啓太へ向かって駆け寄ってくる。その姿は純粋そのもの。だがそこに確かに垣間見える。それは女としての本性、本能。先程のともはねの行動。それは自分の恋路を邪魔する者を排除する無意識の行動。言うならば独占欲。普段は出ることがないともはねの深層意識。大人の体になったことで知らずそれが表に出てきてしまっていたのだった。


啓太はそんなともはねを前にして何故か顔面を蒼白にしていた。それは先程のともはねの行動。凄まじい爆発と自分を束縛するかのような言動。それらが啓太の中の深層意識を刺激していた。


それは予知夢というべきものだったのかもしれない。最近、啓太は夢を見るようになっていた。一人の少女の夢。長い翠の髪。どこか魔性を、妖艶さを感じさせるつり目。大きな尻尾。それだけならなんでもない。むしろ喜ぶべき夢だろう。だがその内容がめちゃくちゃだった。何故か炎によって黒こげにされたり、見えない力によって服を脱がされたり、およそ考えられないような内容。夢とは自分の深層意識が現れるという。ということはそれらは自分の隠れた願望なのだろうか。

かつてヘンタイ三賢者の一人である係長にも言われたことがある。自分は天性のMだと。自分にはドSの女性も合うのだと。そんな恐ろしい、ある意味フラノの未来視にも近い予言が啓太の脳裏に蘇り、戦慄する。その夢の中の少女と今のともはねの姿が何故か重なる。雰囲気は違うのだがそのスタイルが、何よりもまるで自分を狙っているかのようなその視線が啓太の何かを恐怖させる。それはまさに本能。ここではない違う世界の自分の警鐘だったのかもしれない。


そんなことなど知る由もないともはねが再び啓太へと抱きつこうとした瞬間


『ぬおおおおおっ!! 我はっ、我は不滅なり――――!!』


息も絶え絶えの絶叫を上げながら消え去ったはずのヘンタイ、栄沢汚水が再び姿を現す。まるで光が集まるかのように、再構成されていると言った方が正しいかもしれない。その光景に流石のともはねも驚きを隠せない。確かにとどめを刺したずなのに。


「おじさん、まだいたんですか?」
『あ、当たり前だ!? 登場してすぐに退場してたまるかああっ!!』


あまりにも無慈悲なともはねの言葉に心が折られそうになりながらも栄沢は耐え忍びながら最後の意地を見せる。それはその手に持つ本。魔道書。その力によって栄沢はまさに魔王に相応しい力を手にしているのだった。


「そこまでだ、栄沢汚水! 貴様の悪行、もはや許すことはできん!」


復活した栄沢がその本を開くことを許さないとばかりにその手に光剣を持った仮名史郎が一瞬でその距離を詰めながら斬りかかる。栄沢はその動きに対応できず、そのまま一刀両断される。それはまさに一瞬。特命霊的捜査官の実力だった。


「おお! ナイス、仮名さん!」
「やった!」
「すごい!」


啓太たちはその光景に歓声を上げる。だがいまりとさよかはともかく啓太は結構割と本気で驚いていた。まさか普通に仮名さんが活躍するとは。今まで俺との依頼の中でまともに役に立ったことがなかったのでちょっと実力に疑問を抱いてたんだが一応大丈夫そうだな。

そんな身も蓋もない失礼なことを考えていると、突然異変が生じ始める。それは切り裂かれたはずの栄沢の体。それが一瞬で元の姿に戻って行く。まるで何もなかったかのように。いくら霊体とはいえあり得ないような事態だった。


「これは……!?」
『残念だったな! 我は不死身の露出卿、栄沢汚水! どんな攻撃も俺には通用せんのだ!』
「そ、そんなんありかよ!?」


仮名と啓太はその事実に驚愕する。そう、今の栄沢にはどんな攻撃も通用しない。その強力な思念と魔道書の力によってまさに魔王に相応しい不死身の体を手に入れてしまっていた。それが先程のともはねの攻撃を受けても無傷でいられた理由だった。


「む~、じゃあ今度はもっと強く……」
「や、やめろ、ともはねっ!? これ以上公園を壊すんじゃねえっ!?」


どこか不満げに再びその手に霊力を込めようとしたともはねに向かって慌てながら啓太が制止の声を上げる。確かにともはねの力は凄まじいが、強力すぎる。まだ未熟なともはねがそれを使い続ければ以前、なでしこの体になってしまった時のようなことになりかねない。それを思い出したのかともはねは落ち込みながらもその手を下ろす。同時に栄沢も大きな安堵の声を漏らす。どうやら不死身と言ってもともはねの攻撃は恐怖するには十分なものだったらしい。まあ塵一つ残さず吹き飛ばされたのだから当たり前かもしれない。

しかしどうすればいいのか。物理的な攻撃手段では通用しない。後考えられるとすれば成仏させること。だが啓太も仮名もそれを専門にしているわけではない。霊的な力でも通用しない相手にどう立ち向かえば。


『どうした、来ないならこちらから行くぞ―――!!』


宣言と共に栄沢がそのマントを脱ぎ捨てる。まるで真の姿を晒すかのように。いや、まさにその通り。そこには何もなかった。ただあるのは裸。紛うことなき全裸だけ。もはや語ることも必要もないほどのストリーキング、ヘンタイの姿がそこにはあった。


「いやあああ――――っ!?」
「きゃあああ――――っ!?」


その光景にいまりとさよかは悲鳴を上げることしかできない。当たり前だ。目の前にマントを着た全裸のヘンタイが現れたのだから。はっきり言ってトラウマものの光景だった。だがそんな中、啓太と仮名は表情一つ変えることなくそれと対峙している。あまりにも自分たちとは対照的な反応だった。


「ちょ、ちょっと啓太様!? 何でそんなに落ち着いてるんですかっ!?」
「そうですよっ! ……はっ!? ま、まさか……やっぱり啓太様も同じ趣味が……」
「ち、違うわ――――っ!? 何で俺がそんな趣味もっとるわけねえだろっ!?」
「だっていつもストリーキングで捕まってるんでしょっ!?」
「あ、あれは……その……」
「しっかりしろ川平、戦闘は既に始まっているんだぞ。奴から目をそらすな」
「わ、分かってるっつーの!」


いつかと同じやり取りをしながらも啓太は改めてヘンタイ、栄沢汚水と向かい合う。というかほんとなら向かい合いたくもない。


何が悲しくてこんなヘンタイの裸体を凝視せにゃならんのだっ!? いくら依頼だからって限度があるわっ!? だがこれに慣れつつある自分が怖い……というか仮名さんは既に慣れてしまっているようだが俺はまだその領域には踏み入るつもりはない! 俺は仮名さんとは違ってヘンタイではない! だが目を逸らすわけにはいかない。恐らくは奴の攻撃が始まるはず。それも絶対に当たるわけにはいかない攻撃が……


予想ではなく直感、いや予知に近い確信。それはこれから相手が間違いなく自分達の服を脱がす攻撃を放ってくるであろうこと。これまで数多のヘンタイ達と遭遇し、そして戦って来た、ヘンタイを統べる王たる裸王だからこそ分かるものだった。


『さあ、覚悟しろ! 貴様らもこちらの仲間入りをさせてやる!』


宣言と共に栄沢の持つ本から光が放たれる。それはピンク色のもやのようなもの、邪気の塊だった。だがそれに触れれば間違いなく身につけている服が消されてしまう。それを啓太と仮名は本能で感じ取る。そしてそこからまさに芸術とも言えるような神業が展開される。

『何っ!?』

栄沢は驚愕の声を上げる。そこにはまるで信じられないような光景があった。雨の様に降り注いでいる自分の攻撃、邪気。逃げ場など無いほどの圧倒的な物量。だがその隙間を縫うように、そして避けきれない物はその剣で、霊符で防ぎながらそのすべてを回避している二人の男の姿があった。それはまさにダンスを踊っているかのような優雅さがあった。その光景にいまりとさよかも呆気にとられるしかない。だが当人たちにそんな余裕は一片もない。あるのは唯一つ


『全裸になりたくない』


そんな情けない、だが切実な想いだけだった。


だがその想いの強さは不可能を可能にする程の物。その証拠に一発も邪気は二人を捕えることはない。まさにプロの技。それがヘンタイを相手にするためのものでなければ誇ることができる技術だった。だが啓太達にはそれを避ける以外に栄沢に対する対抗手段がない。このまま受けに回っていてはいずれ力尽きる。その時が自分たちの最期(いろんな意味で)となればやはり栄沢を成仏させるしかない。だがどうやって。そんな思考を巡らしている啓太と仮名の顔に変化が生じる。それは自分たちが避けた邪気。それが自分たちの後ろにいるいまりとさよかに向かって飛んで行ってしまう。位置関係から逃れることができない事態だった。


「ちょ、ちょっと嘘でしょー!?」
「いやあああ――っ!?」


いきなりの事態に双子は悲鳴を上げることしかできない。いきなり全裸になったヘンタイに、怪しい邪気による攻撃。それに目を奪われていた二人はそれに対応することができない。というか何で自分達がこんな目に合わなければならないのか。ちょっと啓太様とお近づきになろうとしただけなのに、ともはねには完璧に敗北し、ヘンタイの裸体を見せられ、今度は全裸にされんとしている。まさに踏んだり蹴ったりな状況。そんな現実に絶望しかけた時


「うおおおおおおっ!!」
「させるかあああっ!!」


二人の漢が二人の目の前に現れる。文字通りその身を盾にするために。それはまさに決死の覚悟。絶対に犯させるわけにはいかない領域を、事態を防ぐために献身。例え自分達の服が失われることになろうとも。その邪気が啓太と仮名を直撃し、身に纏っていた全てが消し去られていく。だが不思議と啓太の心は穏やかだった。


『ああ、やっぱりこうなるんだな』


そんなどこか納得したような、さわやかな気持ちが啓太を支配しようとした瞬間、


まばゆい光が辺りを包み込んだ。そう、まるで自分たちの姿を覆い隠すかのような救いの光が。それは


「か、仮名さんっ!?」
「か、川平! 今の内に何とかするのだ!」


仮名の光剣、エンジェルブレイドから放たれている光だった。その輝きがまるで太陽のようなまばゆい光を放っている。そう、全裸になってしまった二人の姿を隠すかのように。それによっていまりたち、そして一般人からはまだ啓太達が全裸になっている姿は見られていない。それは紳士たる、ヘンタイになることを認められない仮名史郎の最期の悪あがきだった。


「い、急いでくれ……川平……もう……長くはもたん! ぬ、ぬうううううっ!!」
「わ、分かった! 任せろ、仮名さんっ!」


か、仮名さん……! あんたって人は……! 役立たずのヘンタイだと思ってたが……間違いなくあんたは漢だ! 任せろ! あんたの犠牲は無駄にはしない! あんたが作ってくれた最後のチャンス、掴み取って見せる!



自らの全ての霊力を賭けて全裸のまま光剣を輝かせている仮名の魂の叫びを聞き届けた啓太は光で霞む目を何とか頼りにある物へと手を伸ばす。


それは黒いボストンバック。啓太が依頼を受けた時に一緒に持ってきた物だった。そしてその中にはある物が入っている。そう、替えの服が。それはこういった事態を予測した備え。かつてセバスチャンが用意していたのを見てから計画していた啓太の秘策。それが今、日の目を見る時が来た。(無論、来ない方が良かったのだが)


啓太はそれを手にしながらも霞む視界の中、仮名の元へと駆けて行く。己の役目を、約束を果たすために。


「仮名さああああん!!」
「川平ああああああ!!」


二人の男の叫びと共に、辺りを包んでいたまばゆい光が収まって行く。どうやら仮名の霊力が底をついたらしい。辺りは静寂に包まれる。まるで時間が止まってしまったかのように。いまりとさよかは目をこすりながらも自分たちを庇ってくれた二人に礼を言おうとする。だがそこには



何故か仮名のパンツに手をかけている全裸の啓太と、啓太にもたれかかるように抱きついているパンツ一丁の仮名の姿があった。


「きゃあああっ!? 何やってるんですかっ!? 啓太様っ!?」
「ま……まさか……本当に仮名様と啓太様は……これはいぐいぐに報告しないと……」
「ちょ、ちょっと待てお前ら――――っ!? これは違うんだっ!? 俺は仮名さんを助けようとして……なあ、そうだろ、仮名さん!?」
「………」


冷や汗を滝のように流しながら全裸の啓太が仮名に向かって助けを求めるが仮名は全く反応を示さず、その逞しい肉体で啓太に抱きついたまま。ピクリとも動こうとしない。自らの霊力を全て使いきった代償だった。


ちょ、ちょっと何なのこの人っ!? せっかくパンツを穿かせてやったのに自分だけ力尽きるとか!? 今回は電球の真似事しただけで退場っ!? どんだけ使えねえんだよっ! っというか俺も一体何してんだ!? まず自分から服着ればいいのにわざわざ仮名さんのパンツを穿かせるのを優先するなんてどう考えてもおかしいだろっ!? 場の空気に流されてしまったのがいけなかったのか……結局全裸晒しちまったっつーのっ!? てかおい!? そこの双子、まるで汚物を見るような目で俺を見るんじゃねえ!? お前ら庇ってこうなったんだから少しは感謝しろよっ!?


だが啓太はそのまま両手を使って自らの秘部を隠すことしかできない。自分に抱きついてきている仮名を振り払うこともできず、その場に立ち尽くすだけ。もう生きているのが嫌になるほどの惨状だった。


『思い知ったか……この俺を止めることなど誰にもできない! ははははははっ!』


自らの勝利を確信し、栄沢は高らかに笑いを上げる。自分は不死身、負けるわけがない。これで男二人は戦闘不能。残るは双子とツインテールの少女のみ。だが双子の少女は自分の姿の前に恐怖し、身動きすら取れない。もはや手を下すまでもない。そう確信した瞬間、


じ~っという擬音が聞こえてきそうなほど自分をじっと見つめているツインテールの少女の姿があった。


「………え?」


栄沢はそんなともはねの姿に呆気にとられるしかない。当たり前だ。何故裸体を晒している自分に向かってそんな視線を、態度を取ることができるのか。普通は悲鳴を上げ、恐怖し、逃げ去っていくかその場に座り込んでしまうというのに。そこにいる双子の少女のように。だが栄沢は気づく。


そう、ともはねは自分が全裸を晒してからも全く動じる様子を見せていなかったことを。


知らず、栄沢の背中に冷や汗が流れる。もう生身の体ではないにもかかわらず。それほどの寒気が、悪寒が体を支配する。それはともはねの視線。それが間違いなく自分の体の一点を見つめていた。紛れもない男の証を。全くためらいなく、自然に、それでもしっかりと。


同時にともはねがその視線を啓太へと向ける。いや、正確には啓太が隠しているその場所へと。再び、ともはねは栄沢へと向き直る。そして刹那に近い間の後


「小さいんですね」


なんでもないことのように、ぽつりと、死刑宣告を告げた。



「「「―――――――」」」


瞬間、声にならない衝撃がその場にいる者たち(男だけ)に駆け抜けた。まるで電流のように、いや、雷のような激しさをもって。


それはまさに男にとっては死刑宣告。その言葉は全ての男にとってはその存在を、価値を否定されるに等しい言葉、いや凶器といっても過言ではないもの。しかもそれが美少女によって、しかも間違いなく嘘偽りない、心からの感想。その無邪気さが残酷さが、逃れることができない絶望を栄沢へと与える。その心を完全に破壊してあまりある一撃、オーバーキルだった。


いまりとさよかは何故栄沢がそんなにショックを受けているのか分からず困惑している。だが霊力の枯渇によって意識を失いかけている仮名ですらその衝撃に体を震わせていた。もし今の言葉が自分に向けられていたら。想像するだけで寿命が縮む思いだ。

それは啓太も同じ。いや、それ以上に違う意味で啓太は戦慄していた。

それは今のともはねの反応。それは普通の少女ではありえない。全裸の男を前にしてまったく動じず、そのとどめを刺すような言葉を言い放つなど。いや、ともはねとしてはそんな気は毛頭なかったに違いない。ただ思ったことを素直に言っただけ。だが男の全裸に対して、その秘所に対して全く羞恥心がないこと。それがもっとも恐ろしいこと。いくら小さいとしてもあり得ない。だがその原因が何であるかなどもはや語るまでもない。


そう、それは間違いなく、紛れもなく、川平啓太のせい。

その裸体を、ストリーキングを何度も目にしているため。それがともはねの反応の理由。啓太はその逃れることのできない、自分の罪を自覚しながらも思わずにはいられなかった。それは仮名も同じ。


ともはね……恐ろしい子……!


その瞬間、栄沢はまるで魂が抜けたかのような、どこか安らかな顔で光に包まれていく。天に召され、そして昇天されていく。まるで憑き物が取れたかのように。少女のたった一言によって魔王にまで化した魂が召されていく。それが栄沢汚水の最期だった―――――




「ただいま、啓太さん。あれ……?」
「おう、おかえり。なでしこ」

なでしこはその手に買い物袋を下げながら部屋に帰ってくるなり驚きの表情を見せる。それは部屋の中。それが出てくる前よりも片付けられ、清掃されている。帰ってから掃除をしようと思っていたのにそれが終わってしまっていることに驚きを隠せない。だがそれだけではない。

「啓太さん、一体どうしたんですか……?」
「いや、たまには俺も料理しないといけないと思ってな。さあ、夕食にしようぜ!」

啓太はそのままエプロンを付けたまま台所から料理を運んでくる。どうやら夕食も作ってくれていたらしい。だがなでしこは首をかしげることしかできない。確かに啓太が料理をするときはあるがそれは自分に許可を取ってから。それは家事は自分の仕事だと啓太が知っているからこそ。なのにどうして今日に限って。

「……何かあったんですか、啓太さん?」
「な、何言ってんだ? とにかく早く食べようぜ! 冷めると不味くなるからな!」

啓太はどこか慌てながらも、それを誤魔化すようになでしこの背中を強引に押しながら部屋の中へと押し込んでいく。そんな啓太の姿を見ながらなでしこは思った。


まるで浮気を誤魔化そうとしている夫の様だと―――――



日が暮れかけた薫の屋敷。その一室、ともはねの部屋で大きな音が何度も響き渡っていた。それはまるで大掃除でもしているのではないかという騒音。その音は広い薫の屋敷でも他の者が気づいてしまう程騒がしい音だった。

「何をしているんだ、ともはね? 部屋にまで聞こえてきているぞ」

どこか呆れ気味に頭をかきながら白衣を着た少女、ごきょうやが現れる。だがともはねはそんなごきょうやに気づくことなくせわしなく、焦りながら部屋をあさり続けている。まるで自分の住処を作ろうとしている犬の様だ。その姿はいつもと変わらない。小さな子犬のような雰囲気を感じさせるもの。といっても年齢から言えば子犬なのだから当たり前といえば当たり前だが。

「……ともはね、何をしているんだ? 探し物か?」
「え~ん! はいごうひょうが見つからないよ~!? あれがないと大きくなれないよ~!? せっかくけーた様に見てもらえたのに~!」
「配合表……?」

涙目になりながらよく分からないことを呟いているともはねにごきょうやは首をかしげることしかできない。ともはねはあきらめきれないのかさらに部屋の中をひっくり返しながらそれを探し続ける。あと一歩のところで薬の効果が切れてしまい、慌てて部屋に帰ってきたものの置いてきたはずの薬の配合表が見つからず、ともはねは大捜索を行っているところ。だが事情が分からないごきょうやはそんなともはねにどうしたものかと途方に暮れている。そしてそんな二人の姿をドアの近くで覗き見している二つの影があった。それはいまりとさよか。その手には小さな紙が握られている。


二人は罪悪感を覚えながらもその場を後にする。自分たちの地位を守るために。

結局数年程度の時間稼ぎにしかならないことに気づかないまま―――――



[31760] 【第二部】 第六話 「りすたーと」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/18 15:43
夢を見る。

懐かしい、それでもどこか悲しい夢。

かつて、大好きな主人と一緒にいられた時の、楽しかった日々。もう戻らない過去の日々、思い出。なのに

どこにいても、何をしていても

あの人の匂いや仕草を無意識に探してしまう

それが最近、増えているような気がする。でも分かっている。その理由。わたしは――――



多くの書籍や雑誌が溢れかえっている本屋。その店内に一人の少女の姿がある。だがその姿は普通ではない。何故かカーディガンの上に白衣を纏うというよく分からないもの。そんな奇妙な少女の姿にすれ違う他の客や店員が目を奪われる。だがそれはその格好だけではない。少女の容姿。間違いなく美少女と言ってもおかしくない程の顔立ちに小柄な体。しかしそこには間違いなく女性の美しさが、魅力がある。加えて少女の纏っている雰囲気はどこかクールさを感じさせる。その全てが相反することなく融合され、形作られている少女。

それが序列四位、ごきょうやだった。


(よし、これで全て揃ったか……)

自分が多くの視線を集めていることなど露知らず、ごきょうやはお目当ての雑誌を見つけ、それを脇に抱え込む。そこには既に何冊もの本がある。だがそのジャンルはめちゃくちゃだった。医学書から何故か少女漫画までおよそ一人の人物が読むとは思えないようなちぐはぐさ。それは今、ごきょうやが薫の犬神達の購読している雑誌をまとめて買いに来ているから。薫の犬神達はその年齢も趣味もまさに多種多様。加えて一人ひとりが好き勝手に買い物をすればいくらいぐさが収入を得ているといえ宜しくない。そこで個人的ないわゆるおこづかいとは別の必要経費としての共有費が設けられている。その一つが本だった。そして今週はごきょうやがその役目となっている。

ごきょうやは全員分の本を見つけ、カウンターへと向かおうとする。もう時間は十六時を回ろうかというところ。そろそろ帰らなければフラノ達も心配する。つかつかとまるで医者が廊下を歩くかのような音を立てながら歩いている中、ふと、ごきょうやの目にある光景が映る。それが本屋の窓から見える。

楽しそうに会話をしながら散歩をしている夫婦とその飼い犬。

ごきょうやは知らず、足を止めその光景に目を奪われる。同時に何か、言葉に表すことができないような、そんな感情が自分を支配していることに気づく。それが何なのか。無意識ながらもその答えに思考が至ろうとした時


「お、ごきょうやじゃん」


そんなどこか懐かしい声がごきょうやに向かってかけられた。


「宗太―――!」


瞬間、ごきょうやは思わず声を上げながら振り返る。いつもの冷静さも、クールな立ち振る舞いもそこにはなかった。いや、そんな余裕など今のごきょうやにはなかった。それはまさに反射に近い反応。そう、まるで飼い主が帰ってきたのを出迎える忠犬のごとき反応。いや、それ以上の感情がごきょうやの体を突き動かす。その振り返った先には


「け、啓太様……?」


どこか不思議そうにこちらを見つめている学生服を着た川平啓太の姿があった。


「久しぶりだな、ごきょうや。一カ月ぶりか? こんなところで何してんだ?」


啓太は突然振り返ったごきょうやに一瞬驚きながらも興味深そうに近づいてくる。その視線がごきょうやが抱えている本の束に向けられる。どうやら自分が持っている本を気にしているらしい。ごきょうやは慌てながらも一度咳いをし、自分を落ち着かせる。いけない。どうやら昨日見た夢を引きづってしまっていたらしい。幸いにも啓太様は先程の言葉には気づいていないようだ。ならきちんといつも通りの自分を演じなければ。


「お久しぶりです、啓太様。今月分の皆の本をまとめて買いに来たのです」
「へえ、それでそんなに大荷物になってんのか。ちょっと見せてくれねえ?」
「は、はい。構いませんが……」


啓太様がどこか楽しそうに自分が持っている本へと手を伸ばす。その笑顔につい目を奪われてしまうものの、啓太様はそれに気づくことなく興味深げに本を眺めている。どうしたのだろうか、確かに突然の啓太様との接触には驚いたが自分の行動、心の動きがおかしい。これではまるで


「しっかし……すげえ品ぞろえだな。医学書からともはねのな○よしまで……これを出された店員、目を疑うんじゃねえ?」
「………」
「……ごきょうや? どうかしたのか?」
「い、いえ! 確かにそうですがもう慣れましたので……そういえばどうして啓太様はこんなところに? 見たところ学校はもう終わられているようですが……」
「ん? ああ、ちょっと本を立ち読みしようと思ってさ。お前も知ってんだろ。うち、死神の呪いのせいで困窮しててさ。まあこないだの依頼でちょっとは足しができたんだけど……」


どこか哀愁を感じさせる顔を見せながら啓太が自らの近況を愚痴のようにこぼす。まるで疲れ切ったサラリーマンのよう。とても十七歳の高校生とは思えないような雰囲気。それを前にしてごきょうやは苦笑いすることしかできない。どうやらこの方の生活は相変わらずらしい。


「そうですか……そういえばこの間、ともはねたちがご迷惑をおかけしたようですが……」
「え!? あ、ああ! ちょっと色々あったけど大丈夫だったから心配すんな!」
「……? そうですか、啓太様がそう仰られるなら……」


何故か焦った様子を見せながら啓太様はその話題を終わらせようとする。何故かともはねやいまり、さよかに聞いてもそのことは要領を得なかったため何か迷惑をおかけしてしまったのではないかと思っていたのだがあまりこの話題には触れない方が良さそうだ。

ごきょうやはそのまま改めて啓太へと視線を向ける。同時に思い出す。それは一か月前、啓太様となでしこが屋敷へと泊まりに来た時のこと。その場で自分は啓太様に知られてしまった。自分がかつて啓太様の父、宗太郎様にお仕えしていたということを。できれば知られたくないことだった。

それは完全に自分側の理由。それを知られることでこれまでのように啓太様と接することができなくなるのを避けたかったため。だがどうやら啓太様はそれを気にはされていないようだ。今の会話もいつも通り、いや、フラノ達がいない分、幾分かまともなやりとりができているような気すらする。いや、きっとそれは気のせいではない。今、自分は楽しんでいる。この時間を、会話を。その中にかつての時間を感じることができているから。そんな中


「お、悪い悪い、引き留めちまったな。また今度遊びに行くからさ。フラノ達にも宜しく言っといてくれ」


じゃあな、という言葉と共に啓太様が振り返りながら立ち去って行く。何気なく、自然に。だが


―――――あ


そんな声が漏れそうになる。いや、心の中で。思わずその笑みに、後ろ姿に目を奪われてしまう。今、何か懐かしい空気が胸をかすめたような


恋とか愛とかそんな生やさしい感情ではない。もっと原始的な



「じゃあな」

そう言い残したまま啓太は足早に店内を後にしようとする。思ったよりも時間をくってしまった。今日は早く帰れそうだとなでしこに伝えてたし、急がねば。最近はちょっと家を開ける時間が増えてしまっているので今日ぐらいはさっさと帰ることにしよう。

だがこんなところでごきょうやに会うなんて思ってもいなかった。やっぱりあいつらでも街で買い物とかするんだな。当たり前と言えば当たり前かもしれんが。ちょっとごきょうやと話したいこともあったがまた今度でいいか。さっきも俺のこと親父と間違えかけてたみたいだし、ちょっと間を置いた方がいいかも。できる限りいつもどおりに接したつもりだけど大丈夫だったかな。あいつ、どっかなでしこに似てるところがあるし、察しがいいから誤魔化せたかどうかは怪しいが。ま、もうちょっと時間がたってからでもいいだろ。

ん~、という背伸びと共に啓太は大きなあくびをしながら店から出て行く。だがふと気づく。それは気配。自分のすぐ後ろを誰かが付いてきいるような。不思議に思いながら振り返ったそこには


どこか心ここに非ずと言った風に自分の後ろを付いてきているごきょうやの姿があった。


そう、まるで主人の後を付いて行こうとする犬のように。


「ごきょうや……? どうかしたのか?」
「っ!? あ、い、いえっ! その……!」


ごきょうやは俺の言葉で我に返ったのかどこかあたふたとしながら混乱している。まるで自分が何をしていたのか分かっていないかのような焦りっぷり。普段のクールな姿からは想像もできないような姿。


「ちょと落ち着けって……それにその本、まだ買ってねえんじゃねえか?」
「は、はい。申し訳ありません」


何とか落ち着きを取り戻しつつあるごきょうやが慌てながらも店内へと戻って行こうとする。ふむ、案外こいつもドジっ娘なのかもしれんな。だがそんな属性を持っていない俺からしてもその破壊力は凄まじい。何というかギャップが凄かった。珍しいもんも見れたし、改めて帰るとしますか。

だがそんな中、店内の戻ろうとしたごきょうやがふとその足を止める。まるで何か忘れ物を思い出したかのように。そんなごきょうやの姿を不思議そうに眺めているとごきょうやはどこか顔を赤くしながら再び俺の前まで戻ってくる。何か忘れ物でもあったのだろうか。だが


「……啓太様、宜しければ少しお時間を頂けないでしょうか?」


ごきょうやはそんな予想外の言葉を俺に向かって告げてきたのだった―――――




「よし、こんなものかしら」

台所で料理を終えたなでしこがどこか上機嫌に一人、宣言する。目の前には二人分の夕食ができている。心なしかいつもよりも豪華な食事が。何故なら今日は啓太が早めに学校から帰ってくる予定だから。死神を倒してからどうやら学校では受験に向けた補習が始まり、啓太は帰ってくるのが遅くなり、休みの日にも学校に行くようになった。それは来年受験生である啓太にとっては仕方ないこと。だがやはり寂しさは誤魔化せない。特に最近は。

なでしこは片づけを終わらせた後、ちゃぶ台の前へと腰を下ろす。同時にふと辺りを見渡す。そこにはいつもと変わらないが、どこか真新しい自分達の部屋がある。

一カ月ぶりに帰ってきた我が家。

やはりこの部屋に戻ってくるとほっとする。橋の下の川辺での生活も大変でありながらも楽しかったがやはりここが一番落ち着く。もっともあの時の自分は舞い上がってしまっており、とんでもない行動をしてしまった。今、思い出すだけでも顔から火が出そうだ。きっと啓太さんの驚きはそれ以上だったに違いない。何とか以前の関係に落ち着いたが最近ちょっとそれだけでは物足りないような、そんな感情が湧いてくる。

もっと啓太さんと触れあいたい、一緒にいたい。

今までもあったその気持ちがずっと強くなってきている。でもその理由は分かっている。


なでしこはそのまま自らの頭に、髪に結ばれている白いリボンに手を当てる。自分にとっての宝物。夢にまで見た証。自らの想い人から贈ってもらえた愛の証、エンゲージ・リボン。


「~♪」

なでしこは上機嫌に、顔をにやつかせながら手鏡を目にし、何度もリボンを結んでは解き、結んでは解きを繰り返す。そしてそれを結んだ自分の髪を何度も何度も、角度を変えながら覗き見る。まるで子供のように、いや恋する乙女のように。啓太がいない時にリボンをいじりながら幸福に浸るのがなでしこの最近の日課、隠れた楽しみだった。誰かに見られればドン引きされかねない程に惚気きっている。そんな中


「何をしているのですか、なでしこ?」


そんなどこかで聞いたことのあるような声がなでしこの背後からかけられた。


「~~~~っ!?!?」


なでしこは突然の出来事に声にならない悲鳴を上げながらその場を飛び上がりながら振り返る。そこにはいつもと変わらない清らかな雰囲気を纏った犬神、はけの姿があった。もっともどこか呆気にとられているような表情を見せてはいたが。


「は、はけ様っ!? いつからいらしてたんですかっ!?」
「いえ……何度もチャイムとノックをしたのですが反応がなかったもので……」


顔を真っ赤にしながらあたふたしているなでしこの姿にはけはどうしたものかと途方に暮れる。なでしこは突然のはけの来訪、そして先程までの自分の姿を見られていたであろうことで混乱状態。まともに話ができそうもない。まるでいつもの啓太様のよう。やはり主従であれば知らずその仕草や行動も似てくるのだろうか。そんなことを思いながらもはけはなでしこが落ち着きを取り戻すまで静かに待ち続けるのだった―――――



「落ち着きましたか、なでしこ?」
「は、はい。失礼しました」

何とか落ち着きを取り戻したなでしこがちゃぶ台の前に座っているはけの前にお茶を差し出す。色々と思うところ、言いたいことはあるがなでしこはさっきのことはなかったことにする。幸いはけも先程のことは蒸し返す気はないらしい。それでも恥ずかしいところを見られてしまったことには変わらないが。


「ですが元気そうで安心しました。体も大事ないようですね」
「ええ、御心配おかけしました。本当ならお礼に伺わなければいけなかったんですけど……」
「気にすることはありませんよ。啓太様にも言いましたがあれは私が自分で決めたこと。気に病むことはありません」
「はい、ありがとうございます」


なでしこはどこかほっとしたような表情を見せる。なでしこが気にしていたこと。それは言うまでもなく死神との戦いにはけを巻き込んでしまったことにあった。本当なら自分が果たすべき役割を、役目を負わせてしまったこと、自分のせいで危険を負わせてしまったことをなでしこはずっと気にしていたのだった。


「それに私はむしろあなたが怒っているのでないかと心配していたのですよ。あなたの大切な御主人様を横取りしてしまうようなものでしたから」
「は、はけ様っ!?」


どこか楽しげなはけの言葉になでしこは顔を真っ赤にすることしかできない。どうやら先程の自分の姿はしっかり見られてしまっていたらしい。穴があったら入りたいほどの恥ずかしさだった。


「失礼、少しからかいすぎましたね。ですが上手くいっているようですね。死神の呪いも解けたと聞いて安心しました」
「はい、おかげさまで。そういえばどうしてはけ様はこちらに? 啓太さんならもうすぐ戻ってこられると思いますけど」
「……いえ、今回はあなたに用があって伺ったのです、なでしこ」
「わたしに……?」


はけの言葉になでしこは首をかしげることしかできない。はけがここを訪ねてくるのはいつも啓太に依頼をするため、もしくは宗家に関連したもの。それなのに何故。だがなでしこは気づく。

それははけの雰囲気。

先程までの清らかな、優しげな雰囲気が変わりつつある。どこか真剣さを、いや、戸惑い、躊躇いを感じさせるような雰囲気。その表情も目を伏したまま。その扇を自ら顔の前に広げ、何かを思案している。まるで言いづらいことを、何かを口にすることを躊躇っているかのように。それでもそれを口にしなければないという覚悟をもって。


なでしこは自分の心臓が止まったのではないかと思えるような感覚に囚われる。言い様のない不安がなでしこを支配する。それは直感。いや、確信。それはこれまでずっと感じながらも、先送りにしてきた、逃れることができない、自らの罪。


「はい……単刀直入に伝えます。ようこのことです」


はけは静かに、それでもはっきりと言葉を口にする。この四年間、決してなでしこの前では口にしなかったその名を。


今、本来の未来が、運命が再び動き出そうとしていた―――――



[31760] 【第二部】 第七話 「ごきょうやアンニュイ」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/27 11:04
どこか優雅な音楽が流れている喫茶店の席に二人の人影がある。一人は白衣を着た少女、ごきょうや。ごきょうやはどこか慣れた様子で自分の前にあるコーヒーを口に運び、嗜んでいる。様になっている、いや絵になっていると言ってもいい。とても見た目通りの少女とは思えないような落ち着きに、優雅さに満ちた振る舞いを見せていた。

そしてそれとは対照的なのが学生服を着た少年、啓太。啓太はどこか落ち着かない様子で店内をきょろきょろ見回している。まるで落ち着きがない、小市民丸出しの姿。もしなでしこがいれば恥ずかしさで顔を真っ赤にしてしまうほどの挙動不審っぷりだった。だが無理のない話。いきなりごきょうやに誘われて場所を移したものの、まさかこんな所に連れてこられるなどとは想像だにしなかった。

ここはこの辺りではかなり有名な喫茶店。その雰囲気からマダムやOLなどが主に利用しているという啓太にとっては全く別次元の、まさに聖域と言ってもいいほどの場所。男性お断りといった雰囲気が漂う女の園。言うならば女子校に男が一人放り込まれたようなもの。いや、それならば啓太にとって喜ぶべきところなのだがともかく今、啓太はとんでもなく居心地が悪い周りからの視線と雰囲気を感じ取り、挙動不審になってしまっているのだった。


「啓太様、どうかされたのですか……?」
「い、いやなんでもねえ! それよりもどうしたんだ、急に話がしたいなんて……」
「い、いえ……こうして啓太様と二人きりでお話できる機会など滅多にないので。ご迷惑でしたか……?」


そんな啓太の胸中に気づくことなく、違う勘違いをしてしまったごきょうやがどこか申し訳なさそうな表情を見せながら啓太へと尋ねてくる。どうやら無理して連れてきてしまったかと不安にさせてしまったかのようだ。


いかんいかん、とにかく落ち着かなければ……何だか予想外の展開に振り回されてしまったがここは心を落ち着けるんだ! しっかし訳分からん状況だ。白衣を着たごきょうやと制服姿の俺。店員も俺たちを見た時にはどこか呆気取られていたが無理もない。俺もそんな客がこんな店に来たら目を丸くするに違いない。どうやらごきょうやは結構この店を利用するらしくまったく気にしていなかった。もっともそう言う視線には慣れっこなのかもしれんが……


「そ、そんなことねえさ! 確かにお前、いつもフラノとてんそうと一緒にいるし、俺もちょっと話したいこともあったからちょうどよかったぜ」
「そうですか、そう言ってもらえると助かります」


ほっと溜息をつきながらごきょうやが笑みを見せながらそう呟く。その姿に一瞬ドキッとしてしまった。うむ、やはり普段クールなごきょうやのこういう姿は何か新鮮だ。しかも一対一という普段ならあり得ないような状況。大体ごきょうやはフラノ達と行動を共にしてるし……そう考えれば貴重な時間と言えるかもしれん。何か最近すっかり忘れてしまっていたが俺って最初は薫の犬神たちとお近づきになろうとしてたはず。様々なアクシデントや、その犬神達の個性によってすっかりそんなこと忘れてしまっていたがここはいっちょ初心に帰るとしますか……

ん? でもこれって端から見たらもしかしてデートに見えるのか? いや、俺の場合、なでしこがいるからもしかしてこれって浮気になるの……?


…………い、いや! これは浮気なんかじゃ断じてない! そう! ただ偶然会った知り合いと話をするだけだ! うん! 俺は決して疾しいことはしてない……はず。


そんな一人で百面相をしている啓太の姿にごきょうやは呆気にとられたまま。しかも大体何を考えているか何となく分かってしまうあたりが啓太らしいと言えば啓太らしい。まるで我が子でも見るかのような感覚を覚えながらもごきょうやは自ら話題を振ることにする。


「そういえば啓太様、お体の方は大丈夫なのですか? 死神との戦いで負傷されたと伺っていましたが……」
「え? あ、ああ! 怪我はもう何ともねえよ。大した怪我でもなかったしな……そう言えばお前達にも礼を言っとかねえとな。ケイ達のこと。薫と一緒に守ってくれたんだろ?」
「いえ、私達は何もしていません。ですが一番啓太様のことを心配していたのはたゆねでしたから。今度会った時にはたゆねにも声をかけて差し上げて下さい」
「たゆねが……?」
「はい。必死に啓太様を助けに行こうと訴えていました。もっともはけ様となでしこがいる以上、その必要もなかったのですが……」


まじで? あのたゆねがそんなに俺のこと心配しててくれたなんてどうにも信じられん。確かにそんなことを前会った時に口走ってたがまさかそこまでとは。うむ、これがフラノ達が言っていたツンデレという奴か。思ったことをそのまま口にできないなんてなんかの罰ゲームみたいだ。これからはあいつの言葉は全部逆に捉えなきゃならんということか? いや、面倒だからそれはやめとこう。そんなことしたらどんな目に会うか分かったもんじゃない……ん? そういえばさっき、何か違和感があったような……


「あ、ああ……ん? そっか、お前はなでしこのこと知ってんだったな」
「はい。フラノはもちろんですがてんそうも知っています。恐らく薫様も気づいていらっしゃたのではないかと……」


ごきょうやはコーヒーを飲みながら自分達の状況を啓太へと伝える。本当はともはねも気づいているので四人ではなく五人になるのだが。


「まあ当たり前か。しっかしフラノの奴、むちゃくちゃな予言しやがって……分かってたんならちゃんとそう言えっつーの……」


啓太も注文したコーヒーを飲み、大きな溜息を吐きながら愚痴をこぼす。ここにはいないフラノに向かって。正確にはフラノの未来視に対して。啓太はフラノに初めて会った時に予言を受けていた。だがその内容がむちゃくちゃだった。冗談としか思えない、人をからかっているのだろうと思わざるを得ない内容だったため、啓太もそのことはまったく気に留めていなかったのだが死神の一件が終わった時にやっとその本当の意味に気づいた。結果としては確かに嘘は言っていなかったのだがどうかんがえても悪意のある、いや悪意しかない取捨選択された内容だったため啓太は怒りを通り越してあきれるしかなかったのだった。



「フラノは必ずしも未来を本人に告げるわけではないのです。伝えない方が良い場合には特に。まあ、あの時は面白そうだからというのが半分以上の理由だったようですが……」
「半分どころか百パーセントだろ、絶対……」


ごきょうやはテーブルに突っ伏している啓太の言葉に苦笑いすることしかできない。間違いなく啓太の言うとおりであるため。だがフラノのために一つ弁明するならフラノもあの出来事は啓太となでしこにとって重要な出来事であるため、伝えない方がいいと考えていたのは本当だ。その証拠にフラノは最初、啓太に予言を告げるのを躊躇っていたのだから。なんだかんだで一応空気は読めるフラノだった。もっともそれをぶち壊すことの方が圧倒的多いのは事実だが……


「じゃあなでしこのことを知ってんのはお前ら三人と薫だけなんだな?」
「はい、おそらく。私もそのことは全く知らなかったので驚きましたが……」
「ああ。ばあちゃんも知らなかったみてえだし……知ってたのははけと最長老のじいちゃんぐらいじゃねえかな……」


それはつい最近知ったこと。なでしこのことは宗家、啓太の祖母ですら知らなかったらしい。そう考えると本当になでしこは長い間やらずを貫いてきたことになる。結果的には自分のせいでそれは破られてしまったのだが。そのことに啓太の表情に陰りが見え始めた時


「ですがなでしこもこれで救われたでしょう。何よりも啓太様と結ばれたのですから」
「ぶっ!?」


ごきょうやの言葉によって啓太は思わず噴き出してしまう。それはその内容もそうだが、双子やフラノではなく、ごきょうやがそんなことを言うとは全く予想していなかったため。


「け、啓太様っ!? 大丈夫ですかっ!?」
「だ、大丈夫……でもお前もいきなり不意打ちかましてくるんじゃねえよ……」
「も、申し訳ありません。そんなつもりはなかったのですが……」


慌てながらもごきょうやが差し出してくるおしぼりで後始末をしながらも啓太はまだむせ込んだまま。加えて騒ぎのせいで他の客たちの視線も集まりまさに針のむしろ状態。穴があったら入りたい程。


ち、ちくしょう……まさかごきょうやからもそれをネタにされるとは……いや、ごきょうやの場合は双子たちとは違ってからかう意図はなかったみてえだけど……ん? ちょっと待てよ……ってことはつまり……


「……ちょっと変なこと聞くんだけど……お前からみてさ、やっぱりあれってプロポーズみたいに見えたか……?」
「……? はい。違うのですか……?」
「い、いや……」


意を決して尋ねた啓太だが全く躊躇うことないごきょうやの答えに頭を抱えることしかできない。薫の犬神の中で常識人であるごきょうやから見てもそう見えたということはもはや言い逃れはできないと言うこと。いや、言い訳をする気はないのだがそれでもまだちょっとは猶予が欲しい、心の準備が、色々と覚悟を決めたいというのが啓太の本音。特に家族計画については慎重に。もっともそんなことをごきょうやに相談するわけにはいかないが。どう考えてもセクハラになりかねない。年齢でいえば自分を遥かに上回っているがそれでも少女であることには変わらないのだから。だが


「……成る程、なでしこが舞い上がって困っているのですね……」
「え!? な、何で分かんだっ!?」


そんな啓太の悩みを全て見透かすかのような言葉が返って来る。それは間違いなく啓太の、そしてなでしこの今の状況を理解した上での言葉だった。同時にごきょうやは静かに目を閉じる。まるでここではないどこかに想いを馳せているかのように。そんなごきょうやに啓太はただ目を奪われる。その表情を、雰囲気を啓太はかつて見たことがある。それはなでしこと一緒に薫の屋敷に泊まりに行った時。そう、それは


「……私となでしこは似ています。自らの主に想いを寄せている者同士ですから」


かつてごきょうやが自分の父、川平宗太郎の犬神だったと知った時。そして啓太は悟る。ごきょうやが自分を引き留めて話しかったことがやはりそのことだったのだと。


「ごきょうや……お前……やっぱり親父のこと……」


どこか気まずそうにしながらも啓太は尋ねる。なでしこと同じ、それはつまり


「はい、私はあなたのお父様、宗太郎様のことをお慕い申し上げていました……いえ、それは今も……」


目を伏せながら、腕を抱きながらごきょうやは独白する。かつての自分、そして今の自分の気持ちを。本当なら啓太に知られたくはなかった事実を。啓太には何の関係もない、自分勝手な理由を。


「そっか……やっぱ俺って親父に似てんの……?」
「……はい、間違いなくあなたはあの方の血を引いておられます。少し怖いぐらいに。さっき本屋であなたが帰ろうとされたのを追ってしまうほどに……」


ごきょうやはどこか言いづらそうにしながらも啓太を改めて見つめる。その容姿はまさに若かりし日の宗太郎。だが容姿だけではない。その仕草も、笑い方も、雰囲気も。見れば見るほどそれが見えてくる。思わずその後を付いてしまったほどに。その懐かしさが、切なさが自分を包み込む。それを振り切って新たな主、薫様に憑いたというのにわたしは――――


「悪かったな……ごきょうや……」

「え?」


突然の言葉にごきょうやは呆気にとられた声を上げるだけ。その言葉もだがそれは温もりのせい。自分の頭に啓太の手が乗せられている。それが自分を撫でている。それは忘れることなどできない、大切な主との思い出。


「俺が言うのもヘンかもしれないけど、親父のこと。そんなに好きだった親父に捨てられたんじゃ……ずっと悲しかったし、悔しかったろ? 親父の代わりに謝らせてくれ。ごめんな」


『よくやったな、ごきょうや。お前は主人想いのよい犬神だ』


自分をほめてくれる、一緒にいてくれた、かつての宗太郎の姿だった――――



「い、いえっ!? 啓太様が謝られることなどありません! これは私の都合なのですから……ただ知られてしまった以上はきちんとお伝えしなければと……」


しばらくぼーっとしてしまったものの、ふと我に返り、ごきょうやは慌てながら告げる。そう、これは自分と宗太郎様の問題。その子供である啓太様には何の責任もない。こうなってしまうのを嫌ってずっとこのことを隠していたのだから。


「そっか、親父ってその、お袋一筋だし、お袋はすっげえ嫉妬深いから……お前みたいな犬神がいるのをきっと許せなかったんだと思う」
「はい……ですが仕方がないことでもあったのです。奥様からすればいい気持ちがするはずもありませんから……」


仕方がないと言っているごきょうやだがやはりその姿には哀愁が、寂さがある。だが当たり前かもしれない。例えるなら俺がなでしこを捨てた様なものなのだから。もっともなでしこの場合はそんなことになれば身を投げかねない。


親父の奴、ほんとにお袋一筋……って言うかべた惚れだからな。ちょっと引いちまうぐらい。加えてお袋はすっげえ嫉妬深い。きっとなでしこ以上に。そんなお袋からすればごきょうやの存在を認められなかったに違いない。お袋に逆らえない親父もきっと泣く泣くごきょうや達を手放したんだろう。それが良いか悪いかは自分には言いきれないが。


「……でもそれはもう終わったことです。今は新しい主人である薫様と新しい仲間たち、それにこうして啓太様とも出会えたのですから。ですからこれからも今までどおりに接していただければ……」


ごきょうやはどこか笑みを見せながら啓太へと告げる。先程までの姿を見せまいとするかのように。だがそれでもどこか晴れやかな、ふっ切ったような雰囲気を見せながら。どうやら少しは役に立てたらしい。


「あったり前だろ! ……よしっ! じゃあさ、何でも言ってくれよな! 俺でできることなら何でもしてやるよ!」
「け、啓太様……何もそこまで……」
「いいっていいって! 親父の代わりにはなれないけどさ、お詫び代わりってことで」


ごきょうやはテンションを上げながら迫って来る啓太の姿に圧倒されるしかない。やはりこの方はこういう姿が一番似合っている。初めて会った者や形式を重んじる者たちには受けが悪いようだがそれを知っている者からすればこの気安さは、騒がしさは何ものにも勝る味方に、救いになる。


「やはり啓太様は面白い方ですね……なでしこが選んだ理由が分かった気がします。少し羨ましくなってしまうぐらいです」


もし、あの儀式の日、自分も参加していれば。

そう思ってしまうほどに。


「お、おいおい。冗談でもなでしこの前でそんなこと言わねぇでくれよな……どうなるか分かったもんじゃねえ……」
「ふふっ、大丈夫です。そんなことは決して。ですが啓太様も気を付けなければいけませんよ。女の嫉妬は怖いですから。何でも言うことを聞くなんて軽々しく口にしないように。本気で捉えられても言い訳できませんよ」
「だ、大丈夫だって! そんなこと誰にでも言うわけねえだろ! ははは……」


まるで母親のように、嗜めるようなごきょうやの言葉に啓太はどこか冷や汗を流すことしかできない。今のごきょうやにはまるで乳母のような雰囲気を感じさせるものがある。というかその忠告が心のどこかに警鐘を鳴らす。


まったくそんなこと誰かれ構わず言うわけねえだろ……うん、多分。なんだろう……何か俺、最近同じことを誰かに言ったような気がするんだけど……うん、気のせいだよな。思い出せないんだからきっと大丈夫。そもそもそんなことを気にすることなんてない。言ってて悲しいが俺ってモテないし……それがつい最近証明されたばっかだし……女って怖いな、うん。……っとそうだ!


「その、さ……答えたくなかったらいいんだけど……お前、今でもお袋のこと……恨んだりしてんの……?」

ちょっとこれは聞いておかなくては。親父のことは話してたけどお袋のことをどう思ってんのかまだ聞いてなかった。やっぱりまだ気にしてんのかな。

ごきょうやはそんな啓太の質問に一瞬、驚くような表情を見せる物の、すぐに笑みを見せながら



「そうですね……目の前にいれば紅を放ってしまうほどには」



何でもないことのように、何だか恐ろしいことを口にした。冗談かと思ったがその目は笑っていない。心なしか空気が張り詰めているような……い、いやきっと気のせいだろう! うん、俺は何も見てない、聞いてない! 


啓太はそのままその数秒間を記憶の中からなかったことにする。それはまさに防衛本能、逃避。自分の心を保つための、ごきょうや像を守るための本能だった。


「………そ、そうか……あー、その……そうだっ! お前に聞きたいことがあったんだ!」
「聞きたいことですか?」
「おう! お前って医者希望なんだろ? だったら天地開闢医局のことに詳しいんじゃねぇかと思って……」


それが啓太がごきょうやに聞いてみたかったこと。なでしこが一体何をしに天地開闢医局に行っているのか。医者希望のごきょうやならきっと何か知っているはず。そう思い、啓太は事情をごきょうやへと説明する。これでやっと長かった疑問がなくなる。そう安堵しているとふと気づく。それはごきょうやの姿。いつまでたっても返事が返ってこない。一体どうしたのだろうか。だがごきょうやはしばらく何かを考え込んだ後


「啓太様、以外とえっちなんですね」


頬を赤く染め、上目遣いのままそんなよく分からないことを口にした。


なっ!? なんだそれっ!? 一体どういうことっ!? やっぱ男が聞いちゃいけないことだったのか!? っていうかごきょうやの破壊力が半端ないんですけど!? 何これ!? 事情を知っちまったせいか何かアンモラルな、禁断の魅力があるんですけどっ!? まるで未亡人の様な(親父は死んじゃいないが)こ、これはまずい! せっかくいい感じにまとまりかけてたのにここでぶち壊しにするわけには……


「も、申し訳ありません、啓太様っ! 決して啓太様をからかっているわけでは……ごほんっ、とにかくそれはなでしこから直接お聞きしたほうが良いと思います。決して啓太様にとって良くない話ではないはずです………恐らく」
「なんだよ最後の恐らくってのはっ!? 逆に気になって仕方ねえんですけどっ!?」
「それはまあ……啓太様、どうかご自愛ください」

そんなよくわからない混乱と共に啓太達は喫茶店を後にする。既に時間も十九時を回ったところ。辺りもすっかり暗くなってしまっていた。


「おお、暗くなっちまったな。送って行こうか、ごきょうや?」
「いや、お気持ちだけでかまいません。それよりも今日はすいませんでした。こんなに遅くまで……」
「い、いや……気にすんなって。俺も楽しかったし……」


そう言いながらも啓太は冷や汗を流し始める。それは今日、早く帰るとなでしこに伝えていたことを思い出したから。なのに自分は早くどころかいつもよりも遅くなってしまっている。一体どう言い訳をしたのものか。そんな会社帰りのサラリーマンの様な切実な窮地に追い込まれてしまっていた。そんな啓太の姿に思わず


「啓太様、ではここで。早く帰らないとなでしこが……奥さんが心配されますよ」

「なっ!? ごきょうや、お前……!?」


ごきょうやがどこか悪戯をするように告げる。まるで全てお見通しだと言わんばかりに。少女でありながら悠久の時を生きている、矛盾した存在だからこそ持てる魅力を発しながら。そんなごきょうやの姿に啓太は呆気にとられるしかない。胸中は唯一つ。


『女は怖い』


それが今回の啓太が得るべき、決して忘れてはいけない教訓だった。



ごきょうやはそのまま慌てながら走り去っていく啓太の後ろ姿をじっと見つめ続ける。その姿のとなりにいないはずのなでしこの姿が見える。同時に思い出す。リボンと共に告白をされた、結ばれたなでしこと啓太の姿。犬神使いと犬神。その主従を超えて結ばれた二人。それは自分が叶えることができなかった夢。それを今、なでしこは手にすることができた。それが本当に嬉しかった。確かに羨ましいと思う気持ちもあったがそれ以上に喜びがあった。きっとあの二人なら大丈夫。色々と困難はこの先ありそうだが(特にたゆねにとっては)自分はそれを見守らせてもらおう。まるで乳母のよう。これでは以前フラノに言われたことも否定できない。そんなことを考えていると


「あ! ごきょうやちゃん、やっと見つけました♪」
「どこにいってたの?」


ぱたぱたと騒がしい音を立てながらフラノとてんそうが近づいてくる。どうやら自分が遅くなっていたので迎えに来てくれたらしい。


「ああ、すまない。偶然啓太様にお会いしてな。お茶に付き合っていただいたんだ」
「え~? 啓太様と一緒ですか? ずるいです、ごきょうやちゃん! フラノもご一緒したかったです~!」
「私も」
「すまなかった。お詫びに何か買って帰ろう。何がいい?」
「え、ほんとですか? でしたらでしたらフラノはぜひ新しくできたお店のケーキが……」
「フラノ、あんまり食べたらまた体重増えるよ」
「ひ、ひどいです、てんそうちゃん! それは内緒にしてくれる約束だったのに~」
「まったく……とにかく行くぞ。あまり遅くなりすぎるとみんな心配するからな」
「は~い♪」
「わかった」


いつも通りの賑やかさに包まれながらごきょうやは歩きだす。かけがえのない仲間と共に、大切な主の元へと。失ってしまったものは取り戻せないけれど、それでも今の自分にはあの時にはなかったものが、大事なものがある。


たまには手紙でも書いてみようか。


正直まだ胸は苦しくてたくさんは書けそうにないけれど……今の私を届けてみてもいいかもしれない。


遠い異国の地にいる私のかつてのご主人様へ―――――



[31760] 【第二部】 第八話 「ボーイ・ミーツ・フォックス」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/27 11:21
和やかな雰囲気を感じさせる大きな庭園に、年代を感じさせる木でできた大きな屋敷。そこは川平家本家。犬神使いとして由緒ある家柄を示すかのような厳かさ、威厳を現すかのよう。その近くには大きな山がある。それこそが人ならざる者、人妖である犬神と呼ばれるモノノケ達が住んでいる山。この場所、屋敷こそが川平家が三百年以上の永くに渡り犬神達と共に生きてきた証でもあった。そしてその屋敷の中の一室に二つの人影がある。

一人は小柄な着物を着た老婆。だがその年齢とは裏腹に衰えを全く感じさせない程の生き生きした雰囲気を纏っている。もう一人が長い前髪で片目を隠した青年。まるでこの世の物とは思えないような優雅さを持っている。知らぬ者が見れば孫ほども歳が離れているのではないかと思えるだろう。だが二人の間には全く違和感が、矛盾がない。まるで共にいることが当たり前であると、当然であると言わんばかりに。それが川平家宗家、川平榧とその犬神はけ。現川平家で最強の犬神使いとその犬神、主従だった。


「お疲れさまでした、みな滞りなく終わりましたね」
「うむ……全く、いつになっても会合はめんどくさいのう。電話かパソコンでやり取りしたほうが手っ取り早いというのに……」
「そうですね……ですが皆が皆、機械に強いわけではありませんから」
「ふん。頭が固い奴が多いのは今も昔も変わらんわい……」


大きな溜息と共に体を動かしながら宗家は愚痴をこぼす。それは先程まで行われていた霊能力者たちによる会合のため。霊能力者の集団としても大きな勢力でもある川平家はことあるごとに様々な集まり、会合などに出席、またはその場を設けなければならない。川平家宗家である務めの様なもの。だがそれでも宗家にとっては煩わしいことこの上ないらしい。

宗家はその年齢からは考えられない程好奇心旺盛であり、パソコンやテレビゲームを趣味にしているほど。生涯現役、あと五十年は生きると本気で宣言しているほどだった。はけはそんな自らの主の姿に苦笑いしながらも楽しそうに見守っている。それははけが宗家が十三歳になった時、契約した時からずっと変わらない光景。例え年月が経とうと、その容姿が変わろうと、はけにとって宗家は可愛い子供のようなもの。犬神という、悠久の時を生きる者だけが持つ感覚だった。


「ま、そんなことはどうでもいいわい。それで……ようこのことはどうなったんじゃ?」


一度大きな溜息をもらしながらも宗家の雰囲気が変わる。川平家宗家としての姿へと。同時にそれと合わせるようにはけの雰囲気も真剣なものに変わる。まさに以心伝心という言葉が形になったかのようなやりとりだった。


「はい、なでしこにはもう既に了承を得ています。かなり迷っていたようですが……」
「ふむ……なでしこには無理を言ってしまったようなものじゃからな。だがこの状況をいつまでも放っておくわけにはいかん。今は良いが後々面倒なことになりかねん」
「ええ。できればなでしこを……啓太様を巻き込まずにすませたかったのですが……」
「気にするでない。お前はよくやってくれた。後は本人たちに任せるしかないわい。結末がどうなるかは別にしてな。お前からすればどっちの心情も分かる分、やりづらかったじゃろう。それが四年間……そろそろ決着をつけんとな……」


宗家はどこか気落ちしているはけをねぎらいながらこれまでのことを思い出す。そう、啓太になでしこが憑いてからのようこのことを。一言でいえば凄まじい。ただその一言に尽きる。怒り狂い、その力でようこは森の中を暴れまわった。何とかはけがそれを抑えることには成功したがそれでも怒りが収まったわけではない。結界のせいで森から外に出ることができないため、必然的にそのストレスは森の中、その犬神達に向けられてしまう。それを抑えることがこの四年間のはけの大きな役割の一つ。大妖狐のように封印してしまえばいい。そんな意見が出るのに時間はかからなかった。だがそれでもはけはそんな当然の意見を聞こうとはしなかった。それはようこの心情をはけは誰よりも理解していたから。

自らの主を独占するために他の犬神達を排除する。それはかつての自分と同じ。だがそれは失敗に終わり、主は他の犬神に取られてしまった。その悔しさが、無念がどれほどものか。ようこにとって啓太の犬神になることは生きる目的と同義だった。それを失くした、奪われてしまった。そしてその原因は自分にもある。

なでしこに儀式に参加するように促したのは他ならぬ自分なのだから。

それは決してようこのことを無視した行動ではなかった。三百年間、誰にも憑くことなく、やらずを貫いてきたなでしこ。だがはけは知っていた。なでしこが本当は自らを欲してくれる主を求めていることに。三百年という長い間。はけはそんななでしこに向かって提案した。啓太の儀式に参加してみてはどうかと。それは啓太の素質を、人柄を知っているからこそ。啓太ならもしかしたら……そんな期待。もしそれが無理でもなにかのきっかけになってくれれば。だが予想外の事態が起きてしまう。それはなでしこをようこが妨害しなかった、いやできなかったこと。それによってなでしこは啓太の犬神となる。

はけは悩みながらもどこか甘く考えていた。ようこが犬神として誰かに憑くことが許されてから、啓太になでしこと共に憑けばいいと。そうようこにも言い聞かせてきた。ようことしてはとても納得できるような内容ではないのだがそれでもそれ以外に選択肢もなく、その時を待つことを了承する。その間は比較的ようこは大人しく過ごしていた。騒ぎを起こしてそのチャンスをなかったことにされるのは避けたかったため。だがようこにも、そしてはけにとっても予想外の事が起こる。

それはなでしこ。

はけは見誤っていた。それはなでしこの啓太への感情。それが主とその犬神、主従を超えるほどの感情を持っているのだと気づくことができなかった。だが四年間の内にそれは決して変わらない程のものへとなっていた。そんななでしこにようこのことを伝えることができるはずもなかった。三百年、誰にも憑くことがなかったあのなでしこが初めて誰かに憑き、そして恋をしている。それを壊すことなどできない。

だがようこは約束の期限を過ぎても啓太に引き合わせてもらえないことについに我慢の限界を超え再び暴れ始めてしまう。このままではいくら自分でももう他の者たちの意見を無視することもできない。何よりも体力的にも限界が近かった。

しかし転機が訪れる。啓太となでしこが結ばれるという出来事。ある意味でようこにとってもっとも残酷な結末。それを前にしてはけは決意する。結果がどうであれ、ようこを啓太に引き合わせるべきだと。

その時が今、目の前にまで迫っていた。


「主はようこと啓太様を引き合わせることには異論はないのですか?」
「仕方なかろう……これも啓太の運命じゃったんじゃろ。丸くおさまってくれれば助かるが……まあ、そう上手くはいかんか」
「はい……おそらく。啓太様はともかく、ようこがどう動くか……一応釘は刺しているのですが啓太様を前にすればどうなるか……」
「それはまあ……何とかなるじゃろ。あやつ、体だけは頑丈じゃからな。ちょっとやそっとじゃ死にはせんわい」


宗家の冗談とも本気とも分からない言葉にはけは苦笑いすることしかできない。確かに啓太なら何があっても大丈夫だと思えるような何かがある。もっとも啓太からすればたまったものではないのだが。


「それで啓太にはいつこちらに来るように伝えるんじゃ?」
「いえ、まだ日付の方は……啓太様も最近忙しくされていますので」
「忙しい? あやつが? またどこかにナンパにでも行っとるのか?」
「いえ……実は啓太様は」
「何、俺がどうしたって?」


はけが何かを言いかけた瞬間、まるで当たり前のように、ごく自然に聞きなれた声が割って入る。二人はしばらくの間それに気づかない。だが同時に驚きながら振り返る。そこにはラフな格好をし、どこか楽しげな表情を見せている川平啓太の姿があった。


「よ! ばあちゃんもはけも久しぶりだな!」

「啓太!? いつから来とったんじゃ!?」
「いや、ついさっきだけど……何? また俺の愚痴でもこぼしてたのか? 相変わらずばあちゃんもあきらめが悪いぜ」
「自信満々にそんなことを口にするでない! まったく……久しぶりに顔を見せたと思えば……全然変わっとらんようじゃな、啓太」
「あったりまえだろ! ほい、酒とたばこ。そろそろ少なくなってんじゃねえかと思ってさ」
「お、お前な……」


突然やってきたにもかかわらず、全くいつもと変わらないペースで振る舞っている自らの孫の姿に宗家は呆れかえることしかできない。直接会うのは半年ぶりだが中身は全く変わっていないらしい。


「そうそう、はけにはこれな。安物だから戦闘には使えねえだろうけど」


そんな祖母の姿に気づくことなく思い出したかのように啓太が持ってきた袋からあるものを取り出す。それは扇子。今はけが持っているものとは対象的な色合いの物だった。


「私にもですか……? ありがとうございます。ですが何故……?」
「それはあれだ、死神の時には世話になったからな。そのお詫びってこと」
「そうですか……ではありがたく頂きます。啓太様もお体に大事はなさそうですね」
「おうよ! 元気ビンビンだぜ!」


はけは驚きながらもそれを受け取る。それが間違いなくかなりの品であることは明らか。普段、宗家以外から贈り物をされることなどほとんどないためかはけは心なしか上機嫌な姿を見せていた。だがはけはふと気づく。それは視線。宗家がどこか恨めしそうな視線を自分に向けている。これまで五十年以上仕えてきた中でも見たことのないような視線だった。


「ど、どうかしたのですか……主?」
「いや……やっぱり若い方がいいのかと思っての。もう老い先短い身じゃからな。捨てられても仕方ないか……」
「な、何をおっしゃっているのですか、主!? 私はあなたのことを捨てたりなどは……」
「いいんじゃ……もうわしのことは気にせず、啓太に憑けばよかろう……」
「あ、主っ!?」


すっかりいじけて、拗ねてしまった宗家にはけはあたふたすることしかできない。こんなことは初めてだったためはけもどうしたらいいか分からず混乱してしまっている。普段の姿からは想像もできない狼狽ぶりだった。だが


「はははははっ! ばあちゃん、そのぐらいにしねえとほんとにはけの奴、身投げしかねねえぞ!」


ついに我慢できなくなったと言わんばかりに啓太が腹をかかえながら大笑いを始める。同時に顔を伏せていた宗家も笑いをこらえ切れなくなり笑い始めてしまう。そんな二人の姿にはけは呆気にとられるものの、何とか我に返りながら二人に詰め寄って行く。


「ど、どういうことですか、主?」
「いや、なに。こういう風にお前をからかえることなど今まで一度もなかったからな。ちょっと試してみたかっただけじゃよ。本気にするでない」


いよいよ誤魔化すことができないと観念した宗家はネタばらしをする。


「驚いたのはほんとじゃよ。まあお前がわし以外に憑くとは思っとらんかったからな」
「そうそう、ばあちゃんにも謝っとかなきゃなと思ってたんだよ。悪いな、ばあちゃん。勝手にはけを借りちまった」
「ふむ……本当なら怒らなければならんところじゃが……まあ今回は大目に見てやるわい。だが今度からはわしにも伝えるんじゃぞ。はけ、お前もじゃ」
「はい、申し訳ありません」
「おう、分かった」


宗家の言葉にはけと啓太は同じ様に頷く。結果的にはよかったようなものの綱渡りに近い危険な戦いであったことには変わりない。自分の犬神であるはけをそれに巻き込む以上は当然の指摘だった。もっともあの時は啓太もはけも精神的に高揚していたためそこまで頭が回らなかったのが大きな原因だったのだが。


「それはともかく啓太、お前にとってはいい薬にもなったじゃろ。死神、しかもわしらが戦った奴よりも格上のじゃったらしいの」
「う……ま、まあな。確かに桁外れだったよ。はけがいなけりゃ手も足も出なかったし。結局なでしこに全部やらしちまったからな……」
「なでしこに関してはわしも知らんかったからの……まあ、犬神も含めてお前の力であるからそこまで気落ちすることはないが、それでもやはり修行が足らん。大体お前は普段から……」
「ああもう、分かった、分かったからお小言は勘弁してくれ! 大体修行とかどう考えても俺の性に合わねえっつーの!」


ある意味予想通りの祖母のお小言が始まったことに啓太は辟易した表情を見せる。これがあるから気軽の遊びに来ることができない。まあ、祖母が元気である証拠ではあるのだが。


「全く……そういえばお前、何で急にやって来たんじゃ? 連絡ぐらいしてこんか」
「いや……確かに死神の呪いも解けたし一度来ようと思ってたんだけど、最近よく声を聞くように……じゃなかった、夢をみるようになってさ」
「声と夢、ですか……?」
「おう。誰かが俺を呼んでるような夢。それが何となくばあちゃんの家らへんからするような気がしたんだよ。声は前にも……ケイの時にも似たようなことがあったんだけどさ」


啓太は何でもないことのようにそれを口にする。もっとも啓太自身もそれが何なのか分からない。フラノの未来視のようにはっきり何かが見えるようなものでもない。でもそれが引っかかっている。ケイの時にははっきりとそれが聞こえたのだが今回はそれがあまり聞きとれなかった。一体何なのだろうか……もっとも祖母とはけにいっても何を言っているかわかるわけもない。笑い話だと笑われるのがオチだろう。だが


「「………」」


そんな啓太の予想とは裏腹に二人はどこか難しい顔をしたまま黙り込んでしまう。


「何、どうかしたのかよ、二人とも黙りこんじまって。何かあったのか?」
「啓太様……今日こちらに来ることはなでしこには……?」
「ああ、伝えてきた。あいつ、何故かいつもここには付いてこないし……ただなんか様子がおかしかったんだよな……よく分かんねえんだけど……」


啓太は顎に手を当てながら思い返す。自分を見送る時のなでしこの姿。明らかに何かおかしかった。一体あれは何だったのか。今まで見たことのないほど不安そうな表情だった。危険な依頼に行くわけでもないのに。


「……啓太、お前に一つ、大事な話がある。はけ、お前は山の方を」
「……はい、承知しました」
「……?」


宗家は考え込んでいる啓太に向かってどこか真剣な様子でそう告げる。同時にはけにも何か命令している。詳しい内容を口にしていないにも関わらずはけはそのまま姿を消してしまう。啓太はそんなどこか物々しい雰囲気に圧倒されているだけ。


な、何だ? いきなり話とか……俺、何もやってねえぞ。うん、ストリーキングの情報はこっちまでは流れてきてないはず……


そんな見当はずれな心配をしながらも啓太は改めて祖母と対面する。心なしか祖母の様子がいつもと違うような気がする。なんて言うか……まるで儀式のときみたいな……


「で、話ってのはなんなんだよ、ばあちゃん。お小言ならこれ以上は御免だぞ」
「たわけ。真面目な話じゃ……啓太、お前、もう一人、犬神を持つ気はあるか?」


瞬間、啓太は口を開けたままぽかんとした表情を見せる。まるで祖母が何を言ったのか分からない。そんな姿。だがそうなってしまうほどに祖母の言葉は啓太にとっては予想外、頭の片隅にもない話だった。


「犬神をもう一人……? 俺が? 何で?」


混乱しながらも啓太にはそう返すのが精いっぱい。いや返事をできただけでも奇跡の様な物だった。


え……? 何がどうなってんの? てっきりまた説教でもされるかと思ったら今度は何かの冗談か? さっきのはけへの冗談に比べたらちょっとレベルが低すぎねえ? 大体何でそんな話になるわけ? なでしこになにかがあったわけでもねえのに……薫への話の間違いじゃねえのか?


「うむ……実は四年前、お前が儀式を受けた時、なでしこの他にもう一人、お前を気に入った犬神がおったんじゃ。だがその当時、その者はまだ未熟でお前の許にはこれなんだのじゃ。今、その者の禁も解けての。ぜひお前の犬神になりたいといっておるのじゃ」


ま、まじで? そ、そんな奴がいたのかよ!? ま、まさかなでしこ以外に俺の犬神になりたいって奴がいるなんて!? ち、ちくしょう、そうならそうと早く言えっつーの! さっそくそれについて詳しく……ってちょっと待て!? 落ち着け俺! ここで慌てたり騒ぎたてるわけにはいかん! まずは慎重に……


啓太ははやる気持ちを何とか抑えながらできる限り平静を装う。だがそんなことなど祖母にはお見通し。伊達に血がつながっているわけではなかった。しかしあえてそれには触れないことにしたらしい。


「い、いや……それは、まあ嬉しいけどさ……でもいいのかよ? 犬神を儀式以外で増やすなんて聞いたことねえぞ」
「むう……確かに本来なら許されることではないのだが少し事情があっての。今回は特例じゃ。それで、どうなんじゃ? その気があるのか、ないのか」

あるに決まってんだろうがっ!!

そんな心の、本能の声を上げそうになるものの啓太は寸でのところでそれを押しとどめる。それは啓太の理性と言ってもいい物。いや良心と言った方が良いかもしれない。それが訴えかけている。自分の今の状況を。それから導き出される結論を。


「そりゃあ……本音を言えばないことはないけどさ……でもやっぱいいわ。俺にはなでしこがいるし。大体他の犬神なんて憑いたらなでしこがなんて言うか……」


そう、今の自分にはなでしこがいる。もし誰も憑いていなければ迷わず飛びついたかもしれないが。加えて自分はなでしこにリボンと共に告白している。薫とその犬神達とは事情が違う。もし他の犬神を連れて帰ったりしたらどうなるか……いや、想像したくもない、というか想像するまでもない。本音としては少し残念な気もするが仕方ない。うん、責任は取らないとな……男として……

そんなよくわからない心の涙を啓太が流している中


「……その心配ならいらん。なでしこは既に承知しておる」
「え?」


祖母の言葉が啓太を現実へと引き戻す。いや、それによってさらなる混乱に。当たり前だ。あり得ない言葉をあの祖母から聞いてしまったのだから。


「ばあちゃん……冗談ならもう少しマシな冗談つけよな……とうとうボケが始まったのか?」
「たわけっ! 茶化すでない! 冗談でも何でもないわい。なでしこにははけから話が通っておる。疑うなら後ではけに聞くといい」
「え……ま、まじなの……?」


どどどどういうことっ!? え、ほんとになでしこが認めたっての!? 他の犬神をもつことを!? い、いやいやありえんだろ!? だってなでしこだぞ!? 本人の前じゃとても言えないがあの嫉妬深いなでしこだぞ!? 何かの間違いに違いない、じゃなきゃなでしこに何かあったに違いない! は、早く天地開闢医局に連れて行かないと!


「ふう……確かにいきなりこんなことを言われても答えられんか。啓太、とりあえず今晩、山に入ってこい。そこでその犬神と会い、それから決めるのじゃ。その者をどうするか、お前自身でな」


そんな啓太の混乱をすることもなく、宗家はそう告げた後部屋を後にしていく。そう言われてしまった以上帰るわけにもいかず、啓太はただ呆然とその場に座ったまま日が暮れるまで待ちぼうけを食らう羽目になったのだった―――――



「う~ん……」


啓太はそんな声を上げながらも出かける準備を整えた後、屋敷の玄関から山へと続く夜道へと進んでいく。既に日は暮れ、辺りは暗闇に包まれている。どうやら約束の時間には間に合いそうだ。だがそれでも疑惑は晴れない。一体この状況は何なのか。何だか自分の与り知らないところで見えない力が働いているかのよう。だがここまでくれば後はどうとでもなれだ。取って食われるわけでもなし、気楽に行こう。そんなことを考えていると


「啓太様」

「おわっ!? はけかっ!? いきなり話しかけんじゃねえよ!?」


いきなり目の前にはけが現れながら声をかけてくる。それに思わず啓太は飛び上がってっしまう。当たり前だ。夜の、しかも山へと続く道の最中に突然人が現れたのだから。やはりこいつは俺を驚かす趣味があるに違いない。


「申し訳ありません、ですがどうしても啓太様にお話したいことがあったのです」
「話って……これから俺が会いに行く犬神のことか?」
「はい……その者は故あって長い間、他の者と隔離されていました。まだ犬神としては半人前。その意味ではなでしこには到底及ばないでしょう」
「はけ……?」


啓太は思わずはけへと声をかける。それははけの姿。それは今まで見たことないようなもの。どこか言葉に表すことができないような、言い難い雰囲気を纏っている。それを前にして啓太はそれ以上言葉を続けることができない。


「ですが、どうかその者をきちんと見てやってほしいのです。本来私が伝えるのは許されることではないのですが……あの者は心からあなたの犬神になりたいと思っております」


はけはそんな啓太に気づきながらも告げる。自分が伝えるべき、そして啓太が知るべきこと。何よりも


「そして、他でもない啓太様自身に決めていただきたいのです。その者をどうするかを。私や宗家、そしてなでしこではなく、あなたに」


自らのもう一人の妹であるようこのために。


「では私はこれにて。どうか宜しくお願いします」


深く頭を下げた後、はけは霧のように姿を消していく。音もなく、元からそこにはいなかったかのように。後には夜の静寂が残されただけ。


「何なんだ……一体……?」


頬を掻きながらも啓太はそのまま山へと、その入り口である鳥居へと向かって行く。だがそんな中、啓太は考えていた。今の自分の置かれている状況が一体何なのかを。

おかしい。いや、おかしいことしかないぐらいおかしい。

まずなでしこのこと。俺に他の犬神が憑くこと認めたということ。やっぱりどう考えてもあり得ない。それは四年間一緒に暮らしてきた俺だからこそ分かる。そんなことは絶対に……い、いや……一つだけあり得る。それは三行半、つまり俺が愛想を尽かされてしまったと言うこと。言うならばお暇をいただきますということ……い、いやそんなはずは……確かに稼ぎも少ないし、甲斐性もあるとは言えんがそれでもそこそこ上手くやってたはず……現にプロ……じゃなかった告白も受けてもらえたし、となるとあれか……やっぱあの時に襲わなかったのがいけなかったのか? だ、だがしかしそれだけで……やっぱり何かおかしいな。

というかちょっと待て? なんかなでしこのことばっかに気を取られてたけどまず前提からしておかしくねえ? 何でこんな時に俺の犬神になりたいなんて奴がいるわけ? どう考えてもおかしいだろ? 儀式からもう四年以上経ってんのに。しかも、うん、自分で言うのも悲しいが俺の犬神になりたいなんて奴、なでしこ以外にいるわけないだろ。実際、俺、儀式の日には総すかんをくらったわけだし。その証拠に薫の犬神達も最初はめちゃくちゃ俺のこと嫌ってたし。今は少しはマシになったと思いたいが……っとそれは置いといて。そう考えるとやっぱりこの状況自体が疑わしい。現にばあちゃんもはけもどこか様子がおかしかった。よそよそしいというか、何かを隠しているかのような……はけのさっきの言葉もまるで俺を試しているみたいだったし……ん? 試す?


瞬間、啓太の中である閃きが、衝撃が走る。その思考が一つの結論に至る。


それはこの状況が自分を試す罠、いや試験なのだと。恐らくは他の犬神の誘惑を退け、今の犬神を選ぶことができるかどうかの。そう、いわば裏試験の様なものだと。


そう考えれば全てに説明がつく。なでしこが俺に他の犬神が憑くことを認めたことも、何故か不安そうに俺を見送ったことも。ばあちゃんとはけがどこかおかしかったのにも。


な、なんてこった……あ、危うく騙されるところだったぜ。恐ろしいドッキリを、いや試験を考えやがる。その設定も凄まじい。っていうか冷静に考えればどう考えてもできすぎてんだろ。ずっと四年間俺を待ってるとかどこのドラマ、小説の話だっつーの。ま、まあそれに騙されかけていたのは事実だが……


「ごほんっ! よし、じゃあさっさと終わらせるとすっか!」


啓太は疑問が氷解したこと、そしてそれに挑まんと意気込みながら入口の鳥居をくぐり、山へと入って行く。四年ぶりに犬神達の世界へとその足を踏み入れる。本来なら儀式以外立ち入ることが許されない聖域へと。自分が的外れな勘違いをしていることに全く気付くことなく。ある意味一つの対応としては正しくはあるのだが。


啓太はどこか懐かしい気分になりながらも目的地へと進んでいく。まるで四年前の儀式が再び蘇ったかのよう。山の姿は四年前と全く変わっていない。もっとも自分はあの時よりは大人になったが。今思えばあの時の自分は完全に黒歴史、思い出したくもない。ある意味トラウマと言ってもいい。だがそれでもあの時の出会いがあったからこそ今の自分がある。そんな柄にもないことを想いながらも啓太は辿り着く。


そこには古い、荒れ果てた寺があった。そこに例の犬神がいるらしい。その寺も確か何かしら由緒がある、由来がある建物らしいが啓太にとってはどうでもいいことだった。というか話もろくに聞いていないだけ。月明かりと自分が持っている懐中電灯の明かりだけを頼りに啓太はその寺の中へと足を踏み入れる。


―――――瞬間、啓太の時間は止まった。


それは一人の少女。月明かりだけによって照らされている着物を着た少女がそこにはいた。正座をし、どこかお淑やかさを感じさせる佇まいで。暗がりで顔ははっきりとは見えない。だがそれで十分だった。暗がりですらその美しさを隠しきれていない。月明かりのみの灯りによってどこか幻想的な雰囲気が辺りを支配している。まるで月の加護を受けているかのように。


「お前は……」


知らず啓太は問いかけていた。その少女に。無意識に。だが違和感はなかった。ただそうするべきだと思っただけ。それが啓太の男としての、いや犬神使いとしての本能。


「初めまして。ようこと言います」


そんな啓太を見据えながらも少女、ようこは鈴の様な声と共にその名を告げる。啓太には知る由もない。その言葉に、文字通り少女の万感の思いが込められていることに。


月明かりの中、一人の犬神使いと犬神が向かい合う。


それが川平啓太とようこの出会い、いや再会だった―――――



[31760] 【第二部】 第九話 「ボーイ・ミーツ・フォックス」 中編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/05/28 06:25
「初めまして。ようこと言います」

「―――――」


目の前の少女、ようこはそう告げながら正座をしたまま啓太に向かってお辞儀をする。全く淀みなく、流麗さすら感じさせる仕草。だが啓太はそれに全く反応を示さない。それに応えることも、声を出すことも。まるで時間が止まってしまったかのように。だがそれは決して間違いではない。そう、間違いなくこの瞬間、川平啓太の時間は止まってしまっていた。目の前の少女、ようこに目を奪われてしまったことによって。

翠の髪。それが腰元まで、まるで絹のように流れている。そのスタイルも桁外れ。胸の大きさはなでしこには劣るものの、間違いなく美乳であろうことが分かる。その切れ長の瞳が、身に纏っている紺の着物と相まって魔性の美しさを感じさせる。この荒れ果てた寺の隙間から入り込んでくる月明かりが少女の抜けるような白い肌を照らし出す。それはまるで一枚の絵画のような幻想的な光景だった。


あれ……なんだ……これ? めちゃくちゃ美人なんですけど……これ、どういうこと? 確かに美人だといいなあくらいには思ってたよ? うん、ドッキリにしてもやっぱりどうせなら美人の方がいい。でもまさか……いや、ここまでとは!? 間違いなくなでしこに匹敵する超が付く程の美少女だ! だが雰囲気はなでしことはまるで違う。そのスタイルもだが纏っている雰囲気が全く別ものだ。なでしこに可憐とすればこの少女、ようこは美麗という言葉が当てはまるかもしれない。なんというかもう一つの女性の究極の形といってもいい。これは……そう、大人になったともはねの雰囲気に近い! ま、まさかこれほどの美少女がまだ犬神にいようとは……犬神ってマジで可愛い子しかいないのか!? いや、きっとその中でもこのようこはトップレベルに違いない! よし! じゃあさっそく契約を


「って違――――うっ!?」
「きゃっ!?」


ちょっと待て!? ちょっと待て俺っ!? 何普通に、ナチュラルに契約しようとしてんだ俺っ!? 落ち着け、落ち着け俺っ! これは公明の罠だ! いや、公明ではなくばあちゃんとはけの罠なのだがとにかく心を落ち着けるんだ! 確かになでしこ以外の、こんな可愛い娘が俺の犬神になってくれるなんてあり得ないようなシチュエーション! ハーレムという俺の、いや男の夢が目の前にある! だが、だがそれは罠だっ! 俺はもう気づいている、これがばあちゃんたちの仕業、もとい俺がなでしこの主人に、犬神使いに相応しいかどうかを試すための試験だということを! 

くそっ……何て残酷な試験なんだ……これほどの誘惑……嘘だと分かっていても心にくるものがある。しかし……それでもこれを乗り越えられなくてはなでしこに合わせる顔がない! あんな不安そうな姿を見せていたなでしこに胸を張って会えるようにここは男を見せなければ!


「あの……」
「え? あ、ああ! 悪い悪い! 驚かしちまったな!」


どこか恐る恐ると言った様子で着物を着た少女、ようこが話しかけてくる。どうやらさっきの俺の叫びで驚かせてしまったらしい。いきなり大声をあげてしまったのだから当たり前か。悪いことをしてしまった。だがもう取り乱したりはしないぞ。うん、めちゃくちゃ残念ではあるがここはびしっと決めないとな! というかミスったらどうなるか想像したくもない。特になでしこの反応が。


「ごほんっ! あー、その……ようこだっけ? お前が俺の犬神になりたいって奴か?」


まずはそこから始めなくては。設定は大切にしないとな。初めからこっちが気づいている気配を気取られるわけにはいかない。しかし自分でやってて悲しくなってくる。確かに俺、山の犬神たちに嫌われてるのは分かってるけどだからってこんな美少女に監査役をやらせることないだろう。というか俺だと分かってるからこその人選なのかもしれんが。

啓太がそんなことを考えていると、ふと気づく。それはほんの些細な、見逃してしまいそうなほど小さな空気の変化。同時に


「………覚えてないの?」


そんな、消え入りそうな声がかすかに聞こえたような気がした。


「……え? 何か言った?」
「………いえ、何でもありません。ケイタ様のおっしゃる通り、わたしがケイタ様の犬神になりたいとお願いさせていただきました。どうかわたしをあなたの犬神にしていただけないでしょうか?」


ようこはどこか一瞬、深呼吸をしてからそう俺に向かって懇願してくる。その姿はまさに真剣そのもの。とても演技とは思えないようなものだった。これがプロの仕事というやつか……恐ろしい。もし俺が真実に気づいていなければあっという間にやられてしまっていただろう。マジで危なかった……だがやっぱり心の涙が止まらない。俺の犬神になりたいなんてなでしこ以外に言ってくれる奴がいるわけないのに……。


あ、なんか無性になでしこに会いたくなってきた。もういいだろう。さっさとクリアして家に帰ることにしよう。俺にはなでしこがいるんだ! これは……その……決して、決してやましい気持ちを持ってしまったからではない! 


「そっか……うん、そっか……」
「……? あの……?」
「ああ、悪い悪い。ちょっと考え事しちまってた……ごほんっ! 悪いけど、俺、君を犬神にすることはできないわ」
「えっ!? ど、どうしてっ!?」


俺が答えを口にした瞬間、ようこは目を見開きながら、驚きの声を上げる。まるで告白を断られてしまった少女のように。その姿はまさに小さな子供のよう。先程までのお淑やかな雰囲気はどこかに消え去ってしまっていた。というか、え? 何これ? まるで別人なんだけど、あれか、二重人格って奴か? 見たことないけど。


「ねえっ!? どうしてっ!? どうしてダメなのっ!? ちゃんと大人しくしてたのにどうしてっ!?」


どこか必死さを感じさせる表情と勢いでようこは俺に向かって迫ってくる。何だか今にも泣いてしまいそうな勢いだ。というか何でここまですんだっ!? ちゃんと断れたんだから合格でいいだろっ!? まさか不合格にしないと監査役として面目が立たないとか? だがこれ以上押し問答をしてても時間の無駄だし、ちょっと気は引けるけどははっきり言うか。


「いや、悪い。もう俺、これがドッキリ、嘘だって分かってるからさ。もうそんなに演技しなくてもいいって」


啓太はどこか参ったと言うポーズを取りながらネタばらしをする。それはこれ以上嫌いな自分に向かって演技をしなければならないようこを思っての行動でもあった。そう、あくまで啓太にとっては。


「嘘……?」


ぽつりと、心ここに非ずと言った風にようこが言葉を漏らす。だがその瞬間、啓太は感じ取る。それはまさに本能。これまで幾多の危機を乗り越えてきた啓太だからこそ感じ取ることができるもの。その正体に啓太が気づかんとしたその瞬間、何か凄まじい感覚に啓太は襲われる。だがそれが何なのか分からない。いや、理解できない程にその感覚がマヒしてしまっている。それは自らの右手。そこから何かこれまで感じたことのない様な感覚が襲いかかってくる。そう、まるで手が火に炙られているかのような……


「………え?」


啓太はふと、そこに目を向ける。そこには光があった。いや違う、火の玉が。そしてそれによって燃やされている自分の右手が。


「わちゃ! あちあちあちいいいい――――!?」


啓太は突然の事態に驚く暇もなく、そのまま燃え盛る右手を何とかせんと辺りを駆け回る。だがその場には水もなにもない。だがいくら振り払おうとしても炎は全く勢いが無くならない。ただ啓太は混乱しながら走り回るしかない。


「みず、みず、水――――っ!?」


なんじゃこりゃあああっ!?何でこんなところに火があんだよっ!? 意味が分からんっ!? しかも何で俺の右手にっ!? 一体何故……じゃなくてとにかくなんとかせにゃ火傷じゃすまねえっ!? どうするどうするどうするどうす……


「はい、水♪」


瞬間、啓太の視界はふさがってしまう。何かが自分に突然降ってきたことで。だがその感触が、冷たさがそれが水であることを伝えてくる。その量も尋常ではない。溺れてしまうのではないかと思ってしまうほどの水が突然、文字通り啓太に降ってきた。その証拠に地面は水浸し、服はずぶぬれ、先程まで燃えていた右手の火もすっかり沈火してしまっていた。


な、何だ……? 一体……? 何がどうなってるわけ? いきなり右手が燃えだしたかと思ったら水が、しかも洪水みたいな水が降ってくるなんてありえんだろっ!? 夢でも見てんのかっ!? でもいくら頬を引っ張っても痛みがある。何よりもさっきの熱さと冷たさは間違いなく本物だ。じゃあ……


「くす、くすくす……」


啓太が何とかこの状況を理解しようとしている中、どこか楽しげな笑い声が聞こえてくる。それは少女の声。まるで悪戯が成功した子供の様な、無邪気な笑い。啓太がふりかえったそこには


「寝言は寝てから言おうね、『ケイタ様』♪」


どこか楽しげに、そして妖艶さを感じさせる笑みを浮かべている少女、ようこの姿があった。だがその足は床に着いておらず、宙に浮いている。まるで風船のように宙を舞っている。どこか啓太を馬鹿にしているかのように、いやその姿を楽しんでいるかのように。


「お、お前……」
「ケイタが悪いんだからね。嘘だとか演技だとかふざけたことばっかり言うんだから」


目を細め、不機嫌そうにしながらもどこか邪悪な笑みを浮かべたままようこは啓太へと近づいていく。まるで空を滑るかのようにスライドしながら。月明かりも相まってまるで啓太の周りでダンスを踊っているかのようだった。だが啓太はそんな姿に目を奪われたまま。当たり前だ。

それはようこの姿、その豹変。はっきりいってまるで別人。月とすっぽんどころの騒ぎではない。本当に二重人格ではないかと思えるほどの変わり様。だが啓太は悟る。目の前のようこ。それこそが本当のようこの姿であると。だからこそ先程『大人しくしていたのに』と口走っていたのだと。知らずその背中に冷や汗が流れる。女の猫かぶりの恐ろしさに、いや、それにあっさり騙されてしまった自分の間抜けさに。


「何訳分かんねえこと言ってんだっ!? これは試験だろうがっ!? っていうかさっきのはお前の仕業かっ!?」
「もう、そんなに大きな声出さないでよ。シケンとかはよく分かんないけど、さっきのはわたしだよ。ちゃんと言われた通りに水を出したでしょ?」
「ふ、ふざけんなあああっ!? どんだけ出してんだよっ!? そもそも火もお前の仕業ってことじゃねえかっ!?」
「そうそう♪ よくわかったね、ケイタ♪」


こ、こいつ……一体何なんだっ!? その変わり様が尋常じゃねえ……っていうかただの悪戯好きの子供、お子様じゃねえかっ!? いや、これはお子様であるともはねに失礼かもしれん程のひどさだ! ほんとにこいつ犬神なのかっ!? 変わり者だらけの薫の犬神達ですら直接的に力を振るってくることなんてなかった(たゆねを除く)のにこいつは平然としてやがる。しかも全く反省してねえし、明らかに退治される側の存在じゃねえのか!?


啓太は事ここに至ってようやく気づく。自分が何かとんでもない思い違いをしていたということに。これは試験などではないということに。そして結果的にいえば勘違いしていたことによって自分が救われたであろうことに。


「お前、一体……」


啓太がそう口にしかけた瞬間、何かが自分の頬にあてられる。どこか冷たさと温かさ、矛盾する二つを感じさせるもの。ようこの両手が、その白く細い指がそっと、それでもしっかりと啓太の頬にあてられている。そう、まるでキスをする時のように。


「予定は狂っちゃったけど……まあいっか。することは変わらないんだし……」


いきなりのことで固まってしまっている啓太をよそにようこは一度溜息をついたあと、そのまま啓太を真っ直ぐに見つめる。その瞳で。その瞳の奥に見えないはずの何かが見えてしまうのではないかと思える程の感情を秘めたまま。啓太はそれに魅入られる。知らず息を飲む。まるで蛇に睨まれてしまった蛙のよう。ようこは口元を妖しく釣り上げる。それは笑み。長い間ずっと、ずっと待ち続けていた獲物をついに目の前にしたかのような高揚感がようこを支配する。ぞっとする程の妖艶さ、魔性を感じさせる笑みを見せながら


「ねえ……わたし、あなたのものになってあげる」


そんな誘惑を、呪いを告げた。


「………え?」


啓太はそんな声を漏らすことしかできない。何を言われたのか分からない。いや、言葉が分からないかのように間抜けな顔を啓太は晒し続ける。事実、啓太にはようこが何を言っているのか全く分からなかった。それを感じ取ったのか、ようこはさらに顔を、本当に唇が触れあいそうな距離まで近づけながら続ける。


「わたしがあなたの犬神になってあげる……本当ならこのようこ様が人間相手にそんなことするなんてありえないんだけど……あなたは特別。あなたが望むならわたし、何でもしてあげる」


囁くように、誑かすかのように啓太に向かって、その顔を近づけたまま。


え……? こいつ何言ってんの? 俺のものになる? 何で? どうして? そもそもどうしてこんなことになってんの? 試験を受けにきたと思ったら何故か燃やされ、水をかけられ、しまいには告白ですか。いや、これはどっちかって言うと服従、奴隷になると宣言してるようなもんだよな。だって俺のものになるって、どう考えてもこいつ、そういう表現でそう言ってるよな? その証拠にさっきからエロスが半端ないんですけど。というかめっちゃ俺今、誘惑されてねえ? 改めて見てみるとこいつ、ほんとに美人だな。いや、間違いなく今まで生きてきた中でトップスリーに入る美少女だ! それが俺のものになってくれるって言ってるんだぞ!? おい、これどういうこと!? この唇を、胸を、お尻を好きにできるってことっ!? 男にとっての夢が、桃源郷が目の前にある。なら、ならそれを前にして何を迷うことがある!? ここまで女の子に言われて恥をかかせるわけにはいかない! いざ―――――!!


啓太が走馬灯の様な。極限にまで圧縮された思考を巡らせながらも、その本能に、煩悩に導かれるままに唇に、言葉に応えようとする。だがその瞬間、ある光景が見えた。


焦土と化してしまった我が家と、巻き添えになってしまった啓太だったモノ。


これ以上ないバッドエンドだった。



「ふ、ふざけんなあああああ―――――っ!?!?」
「きゃっ!?」


啓太は奇声を、叫びを上げながらようこの両手を振り払いながら一気に距離を取る。まさに鬼気迫った、命のやり取りをしているかと思えるような気迫を以て啓太はその誘惑を、地雷を振り払う。それは啓太の最期の良心、いや、死にたくないと言う生物が持っている最も強い本能だった。


あ、あぶねえええええ―――――!?!? 今まで生きてきた中で一番危なかった!? 死神との戦いが子供騙しに思えるほどの核地雷踏むとこだったわ!? 落ち着け俺っ!? 相手はともはねじゃねえんだぞっ!? マジで死にかねん! っていうか俺よりもなでしこが死にかねん! 心中なんて結末絶対御免だっ!! とりあえず冷静になるんだ! 今日知り合ったばかりの女の子にこんなこと言われるなんてどう考えてもおかしいだろ!? それにこいつは人を燃やしたり、水浸しにして楽しんでるような奴だぞ、このまま言いなりになったらどうなるか分かったもんじゃない! 


「ちょっといきなりなにするのよ!? びっくりしちゃったじゃない!」
「やかましい! ビビったのはこっちだっつーの! これ以上付き合えるか! 俺はもう帰る!」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!?」


俺は水浸しのまま足早に荒れた寺を後にし、夜の森を進んでいく。その出口である鳥居に向かって。これ以上ここにいると危険だと俺の直感が告げている。何よりも流石に俺の堪忍袋も限界だ。こんな訳分からんことにいつまでも付き合ってられるか!


「どうして帰るの!? わたしがあなたの犬神になってあげるって言ってるのに!?」
「余計な御世話だ! お前みたいな常識知らずな奴をどうして俺の犬神にせにゃならんのだっ!? これ以上付いてくんじゃねえ!」
「………」


森を出て行こうとする啓太に並行して飛んでいたようこだがふと、そのまま立ち止まり、姿が見えなくなってしまう。啓太はどこか呆気にとられたかのように振り返るもその姿は見当たらない。先程までの騒がしさが嘘のように森は静まり返ってしまう。


ちょっと言いすぎちまったかな……い、いや、俺は何も間違っていないはず! とにかく一旦森から出よう。詳しい事情をきっとはけは知っているはず。だからこそあんな意味深なことを言ってたんだろうし。もし言いすぎだったならまたその時謝りに来ればいいだろ。


啓太はそう考えながら森の出口の鳥居、人と人ならざる者の住処の境界線を越えて宗家の屋敷へと戻ろうとした瞬間、


「おかえり、ケイタ♪」


目の前に満面の笑みを浮かべたようこが出迎えてくれた。


「…………え?」


啓太はいきなりの事態に驚愕し、しばらく固まったまま。だがすぐに我を取り戻し、辺りを見渡す。そこはついさっき、ようこの姿が見えなくなった場所、森の中。だがおかしい。さっき俺は間違いなく森の出口。鳥居を通ろうとしていたはず。なのにどうして


「どうしたの、やっぱり考え直す気になった?」
「ふ、ふざけんなっ! 誰がそんなことするかっ! 何でお前がこんなところにいるんだよ!?」
「さあ? どうしてでしょう?」


どこか笑いをこらえきれないような表情を見せながらようこが楽しげに、謎かけをするように啓太へと話しかけてくる。だがそれを頑として無視しながら啓太は凄まじい勢いで再び森の出口まで一直線に下り、再び鳥居をくぐろうとする。だが


「あ、早かったね、ケイタ♪」
「なっ!?」


再び啓太の前にようこが現れる。まるで最初からそこにいたかのように。だがようこは汗一つかいていない。自分を先回りしているわけではない。一体何がどうなっているのか。だがこのままでは気が済まない。こいつに負けるのはどうしても気にくわない。


「おおおおおおおおおっ!!」


そんな感情によって啓太は全速力で再び山を下り、鳥居へと向かって行く。その速度はとても人間とは思えないようなもの。啓太の常人離れした身体能力の為せる技。だがそれでも鳥居をくぐろうとした瞬間、再びようこの元に、元いた場所に戻ってしまう。啓太は理解不能の事態に混乱しながらも必死に抗い続ける。このまま屈することなどできないという子供のような理由で。その点ではある意味二人は似たもの同士とも言えなくもなかった。

啓太は走り続ける。まるで同じところをぐるぐる回り続ける犬のように。文字どおりの意味で。その光景にようこは楽しそうに笑っている。まるで待ち望んだおもちゃを手に入れた子供のように。そのせいで余計意地になり啓太は走り続けるもそのエンドレスランは終わらない。先に根を上げるのはどうやっても啓太だった。


「ハアッ……ハアッ……! ど、どうなってんだ……一体……?」
「あはははは! 面白い、やっぱりケイタは面白いね♪」
「お、お前……一体何してやがんだ……?」
「知りたい?」
「あ、当たり前だ!? いくらなんでもおかしすぎるだろうが!?」
「そっか。じゃあ教えてあげる……『しゅくち』♪」


ようこがその人差し指を振るった瞬間、見えない力が啓太を襲う。それが収まった後には


「な、なんじゃこりゃああああっ!?」


一糸まとわぬ、紛れもない全裸になってしまったいつも通りの啓太の姿があった。


「くすくす……これがわたしの力、『しゅくち』 ある程度の距離にあるものを何でも持ってくることができるの。こんな風にね」


自慢げに、楽しげにようこはその手に持っているものを啓太へと見せびらかす。そこには先程まで啓太が着ていた衣服がある。そう、ようこは啓太の衣服だけを瞬間移動させたと言うこと。啓太は悟る。さっきから森を出られなかったのはようこが出口を通る寸前に自分を瞬間移動させていたのだと。信じられないほどめちゃくちゃな、でたらめな力だった。


「て、てめえ、他人をおもちゃにしやがって! いいから早くその服返しやがれ!」
「え~? じゃあ服返したらわたしを犬神にしてくれる?」
「ふざけんなっ! それじゃあ完全に脅迫じゃねえか!?」
「ふ~ん、じゃあ返さない」
「お、お前な……マジで容赦しねえぞ!?」


啓太は怒りをあらわにしながら吠えるも両手で秘部を隠したままでは威厳も何もあったものではない。負け犬の遠吠え以下だった。それをようこは満足気に見つめている。その瞳が輝いている。楽しくて楽しくてたまらない。クリスマスとお正月、誕生日がまとめてやってきたばかりの喜びっぷりだった。


「やっぱりケイタは面白いね! ねえ、ケイタ! わたしとずっとここで遊ばない? それならいいでしょ? ちゃんとケイタの犬神にもなってあげるから!」
「何がどうなったらそうなるんだっ!? いい加減にしろっ! 俺にはもう犬神なんていらねんだよ、なでしこっていう犬神がもう憑いてるんだっつーの!」


ついに堪忍袋が切れた啓太が怒鳴り声を上げながらようこに叫ぶ。自分が他の犬神を持たない一番の理由。一応ようこのことを考え最後まで口に出す気はなかったがここまでめちゃくちゃな目にあわされ、からかわれたままでは収まりがつかない。あまり言いたくはなかったがこれを知れば流石にようこと言えど納得するしかないだろうと。もうすでに自分には犬神がいると。確かに複数の犬神を持つことも犬神使いはできるがそれをする気はない。第一それをするなら儀式の日に行うべき。一度儀式を終えた犬神使いが犬神を増やすなど聞いたこともない。何よりも嫉妬深いなでしこと契約している自分がそんなことできるわけがない。はけの話ではなでしこは了承しているとのことだがどう考えてもあり得ない。いいかげんこの状況を何とかしたいと言う啓太の判断だった。だがその瞬間



「なでしこ……?」


世界が冷気に包まれた。そう啓太は感じた。だが違う。それは冷気ではなく熱気。だがようこが発する熱気の様な霊力、殺気が啓太に熱さを通り越して寒さを感じさせる。あり得ないような感覚。そうさせてしまうほどの明確な殺気をようこは発している。間違いなく先程の自分の言葉。


『なでしこ』という言葉によって。


ようこの顔から一瞬、表情が消える。先程までも子供のようにはしゃぎ、興奮していた少女はもうそこにはいない。いるのはただ一匹のケモノだった。どこか冷徹さを感じさせる瞳をようこは啓太へと、啓太が今、思い描いているであろう、ここにはいないケモノに向ける。


「……逃がさない。絶対に、二度と渡さない。ケイタはわたしのものだもん……」


知らず、啓太は息を飲んでいた。まるで自分がこれから狩られるのだと、そう体が感じ取ったかのように。その姿に目を奪われる。


月明かりを背中にし、自分を空から見下ろしている少女。その瞳が光っている。だがそれは犬神のものではない。その瞳の光がいつか見た光と重なる。


そう、それはまるで四年前、儀式の日に見た、狐火のよう。



「力づくでも……わたしのものにしてあげる、ケイタ」



宣誓と共に笑みが浮かぶ。ケモノの、女の本性を隠しきれていない笑みが。



今、最初で最後、落ちこぼれの犬神使い川平啓太と金色のようこの戦いの火蓋が切って落とされようとしていた―――――



[31760] 【第二部】 第十話 「ボーイ・ミーツ・フォックス」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/06/05 06:13
月明かりだけが頼りになるほど暗く、静けさに包まれた森の中。その中でも一際大きな木の頂上に一人の犬神の姿がある。それははけ。はけはいつもと変わらぬ優雅さと共にその手に扇子を持ちながらどこかをずっと見つめている。普通なら何も見えないであろう程離れた場所。だが人ならざる、犬神であるはけには見える。そこで何が起こっているか。いや、何が起ころうとしているのか。


「やはりこうなりましたか……」


溜息と共にはけは一人愚痴をこぼす。そう、こうなることは分かり切っていた。ようこが啓太を前にすればどうなるか。それは火を見るよりも明らか。ようこの啓太に対する想い、執着がどれほどのものか、それを自分は誰よりも知っているのだから。恐らくは自分が宗家に抱いている想いに匹敵、あるいは凌駕するもの。いや、比べること自体が間違っているのかもしれない。ようこが啓太に抱いているのはただの独占欲でも忠誠でもない。それはなでしこと同じ、一人の女として恋慕、そして嫉妬。その前では自分の宗家への想いすら霞んでしまうほどに激しく、凄まじい。だがそれでも釘は刺さなかったわけではない。それは啓太と引き合わせる際のようことの取り決め。


『決して無理やり啓太に自分を犬神にするように強制してはならない』


それは犬神であるなら決して破ってはならない決まり、掟。自分達犬神は犬神使いに仕える身。あくまで犬神を選ぶのは犬神使い自身であり、その逆があってはならない。それを何度も自分はようこに言い聞かせ、そしてようこもそれを了承した。それによって自分はようこに啓太を引き合わせた。いや、正確には引き合わせざるを得なかった。それはようこの言葉。約束の期限を超えても啓太に引き合わせてもらえず、我慢の限界を超えた証。


『これ以上約束を破るんなら……オトサンに言い付けるんだから』


それはようこにとっての最後通告、今まで決して切ることのなかった切り札。それを口にすれば今まで自分を庇ってくれていたはけすら敵に回しかねないもの。だがようこにはそれに全く恐れることなくそれを口にした。本気で、命を賭けて。もしこれ以上約束を破るのなら許さない、と。例え封印されても構わない、心中しても構わない。狂気にも似た炎を秘めた瞳を前にはけは冷や汗を流すことしかできなかった。

今のようこは実力以上に怖い。もし戦えば自分もただでは済まない。いや、最悪相打ちになりかねない。そしてそんなことになれば封印されている大妖狐がどうなるか。今は封印されている大妖狐だがそれを力づくで破ってしまいかねない。それほどに大妖狐は娘であるようこを溺愛している。故にはけはようこを啓太へと引き合わせざるを得なかった。元々引き合わせなければならないと考えていたので問題はなかったのだがそれでも間違いなく寿命が百年は縮んだだろう。なでしこもそんなこちらの事情も汲み取ってくれたに違いない。

そして今、ようこは恋い焦がれた、待ちに待った啓太との再会を果たした。だがやはりそれによって我を失いかけてしまっているらしい。もはやなりふり構わず啓太を手に入れんとしている。本当ならこの時点で割って入るべきなのだろう。約束を破ったようこを戒めるために。だが他人の恋路を邪魔する者は……の言葉が表す通り、今のようこには 何を言っても聞かないだろう。ならば後は啓太に任せるしかない。全てを押しつけるのは忍びないが結局のところこれはようこと啓太の問題。ならば啓太に全てをゆだねるしかない。もう自分にできることは何もない。賽は投げられたのだから。どんな目が出ようとそれを受け止めるだけ。自分が与り知らぬところで面倒事に巻き込まれるあの方の不幸に同情は禁じ得ないが仕方ない。


「やはり女心というのは難しいものですね……」


願わくば、ようこの悲願が成就されるように。大妖狐の娘としてではなく、犬神としてでもなく、一人の少女として。ようこの幸せを願いながらもはけは山の中で一際大きな光を放つ狐火を眺め続けるのだった―――――




「力づくでも……わたしのものにしてあげる、ケイタ」


どこか狂気すら感じさせるようこの言葉と姿に啓太は身動き一つできない。できるのはただその光景に目を奪われることだけ。そうせざるを得ない程の魔性がそこにはある。そこにいるのは先程まで子供のようにはしゃいでいた少女ではない。それはケモノの姿。犬神という人ならざる者、いや犬神とさえ思えないような圧倒的な存在感。啓太は何とか混乱しながらも今の状況を振り返る。


えーっと……うん、まずは落ち着こう。落ち着かなければ。ふう……よし、全然よくはないがまずはよし! まずは本当に最初から。俺はこれが試験だと思ってた。でもそうやらそれは間違っていたらしい。目の前の……えっと……そう、ようことかいう犬神の反応からもそれは間違いない。じゃあ一体この状況は何なのか。というかこいつの俺に対する態度は一体何だ!? 明らかに自分の主人になってもらいたい人に対する態度ではないだろっ!? なのに何でこんなに俺の犬神になることに固執してんの!? 訳が分からん、一度も会ったことないのに……いや、俺が気づいてないだけで儀式の日にあいつからは見られてたのかもしれんが……


それにしてもやってることがむちゃくちゃだ! というかこの豹変ぶりは何だ!? 目がイッちゃってません!? さっきまでの猫かぶりとは全然違うんだけどっ!? なんて言うか……本性が出てきていると言った方がいいのかもしれない。死神との戦いでみたなでしこの姿に近いものを感じる。 そう、そしてこいつは間違いなくさっきその言葉に反応した。なでしこという言葉に。


「お、お前……一体何言ってんだ……? 冗談にしても笑えねえぞ……?」
「冗談なんかじゃないよ。ケイタはわたしのものだもん。だからここからは逃がさないってだけ」
「な、なんじゃそりゃっ!? 何で俺がお前のものなんだよっ!? 普通は逆だろうが! 犬神が犬神使いのものになるんだよ!」
「知ってるよ。でも、ケイタはわたしを犬神にしてくれないんでしょ……?」
「そ、それは……仕方ねえだろ? 俺にはもう」


瞬間、凄まじい殺気と霊力が啓太を襲う。啓太はそれによってそれより先の言葉を口に出すことができない。いや、口に出すことを許されなかった。啓太はその姿に息を飲む。そこには先程の以上の鋭い釣り目で、眼光で啓太を射抜いているようこがいた。啓太は悟る。なでしこという言葉。それを自分が口にしたために、そして口にしようとしたためにようこがそんな姿を見せているのだと。まさしく自分が地雷を踏んでしまったのだと。


何!? 何なんだ一体!? 一体俺が何したってんだっ!? っていうか俺が何でそんな目を、獲物を見るような視線を向けられなきゃならんのだっ!? それに殺気もだけどこの霊力、マジで半端ないんですけど……本気のなでしこには到底及ばないけどはけに匹敵するんじゃねえのか!? おかしいだろっ!? はけはなでしこ除けば最強の犬神のはずなのに……


「だからしょうがないよね。ケイタをわたしのものにするしかないんだもん。逃げようとしても無駄だよ。わたしにはしゅくちがあるから。この山から出れないようにしてあげる」

「ふ、ふざけんなあああっ!? 何で俺が閉じ込められなきゃいけねえんだ!? そ、それにそんなことしたらお前だってずっとこの山から出られねえぞ!?」


啓太は冷や汗を流しながらも何とかようこを説得しようとする。何故なら啓太は感じ取ったから。ようこが間違いなく、本気でそれを口にしていると言うことに。その瞳が、声が、それが嘘でも冗談でもないことを何より如実に物語っている。


「いいよ。どうせずっとここからは出られないんだし……でもケイタが一緒ならそれでいいもん……ねえ、ケイタ、もう一度だけ聞くよ。わたしのものにならない? もしなってくれたらわたし、何でもしてあげるよ。 ケイタが望むこと、何でも」


それはようこの最後通告、いや誘いだった。最初に口にした言葉とは全く逆の意味の言葉。犬神使いと犬神。その関係を全く無視した契約の誘い。だがそれはようこにとっては些細な違い。ようこにとってはそんなことどうでもよかった。自らが望むこと。その結果が得られるのならどちらが上かなど問題ではない。ようこは己の差し出すこと、渡すことができる全てをもってそれを告げた。


え……? こいつ、本気でそんなこと言ってんのか……? それって俺を下僕にするってこと? いや、この場合、俺が飼われることになるのか? しかも何でもしてくれるって……やっぱりそう言う意味ですよね? だってさっきから殺気と共にエロスも半端ないし、明らかに誘惑されてるぞ、俺。何でここまで俺に固執してんのかはさっぱり分からんが……だが、しかし、マジでこれは半端ない! ここで頷けば俺は間違いなくある意味、一つの理想郷を手に入れることができる。俺の直感が告げている。そう、これを選べば俺は―――――


啓太はその光景が見えた。何故か自分の首に首輪が付けられている。まるで飼い犬のように。その鎖を目の前の少女、ようこが嬉しそうに握っている。まるでいつか見たなでしこと自分の姿。だが間違いなく、俺はようこに飼われていた。まさにSとM。いやドSとドMの組み合わせ。それが恐ろしく絵になっている。それはヘンタイ三賢者の一人、係長が告げた予言が現実となった光景、未来だった―――――


「ち、違――――う!?!? 俺には、俺にはそんな趣味はねえええっ!?」


啓太は絶叫を上げながらようこの言葉を拒絶する。というかもはや現実逃避に近かった。それは本能。数多の危機を乗り越えてきた啓太だからこそ持てる第六感とも言える物。それは正しい。もし、あのままようこの誘いを受けていれば、間違いなくその未来が、いや、それを超える凄惨な未来が訪れていたのだから。だが


「そう……じゃあ仕方ないよね。ケイタの気が変わるまでずっとこのままにしてあげる」


その代償として、乗り越えなくてはならない試練が啓太に目の前に立ちふさがる。ようこはどこか優雅さを感じさせる動作でそのまま山の木の枝に腰を下ろし啓太を見下ろす。まるで啓太を見下すように。いや、自分がその命運を握っているのだと誇示するかのように。その挑発的な態度に、そして次から次に起こる理不尽な状況に流石の啓太も我慢の限界だった。


うん……もういい加減いいよな? というか何で俺、こんなにこいつに気を遣わなきゃなんねえわけ? 犬神って言うのは主人に仕える存在だろうが! それが何だっ!? 燃やされ水をかけられ、訳分からん力で走りまわされた揚句、最後は脅迫ですかっ!? いくら俺でも我慢の限度っつーもんがあるぞ……


「てめえ……さっきから下手にでてりゃあ調子に乗りやがって……いい加減にしねえと容赦しねえぞ!!」


啓太はようこの視線に霊力に抗いながら徹底抗戦の姿勢を見せる。その眼がぎらついている。啓太の胸中はもはやたった一つ。


この目の前にいるふざけた犬神を調教し直す!(決してエロい意味ではない)


ただそれだけだった。


「ふん、そんな顔したって怖くなんてないもん」


べーっと舌を出しながらようこは啓太を挑発する。全く啓太のことを恐れていないと、そう誇示するかのように。それが最後の分かれ目だった。啓太は悟る。もはや言葉は通用しない。犬らしく、どちらが上か思い知らせなければようこは止まらないのだと。


「上等だ……後になって後悔しても遅えからな!!」
「くすくす……やっと面白くなってきた……遊んであげるね、ケイタ♪」


戦闘態勢になりつつある啓太を前にしてようこは緊張するどころか目を輝かせる。先程までの冷たい、凍てつくような雰囲気と霊力も薄れていっている。先程までみせていた悪戯好きな少女へと戻ってゆくかのように。啓太はそのことには気づかない。そしてその理由にも。


互いの思惑がかみ合わないまま、それでもたった一つの単純な答え。どっちが強いのか。そんな子供の様な理由によって川平啓太とようこの戦い、いや勝負が始まった―――――



「いくぜ、この馬鹿犬がっ!」


啓太はそのまま全速力でようこに向かって突進していく。だがそんな啓太をようこはどこか馬鹿にしたように木の枝に座ったまま見下ろしている。全く自分を警戒していないかのように。


こ、こいつ……とことん人を馬鹿にしやがって。いいだろう、人間様の恐ろしさをたっぷり教えてやる! その後にあんなことやこんなこと……じゃなかった、きっちり躾をしたやらねば!


そんなまるっきり悪役のようなことを考えながらも啓太はその場所に辿り着く。そこは先程までようこがいた場所。そこにある物を取り戻すことが啓太の狙い。啓太は一瞬でそれらを手に掴む。蛙の消しゴム。啓太が持つ力、霊符だった。


啓太はそのままそれを指の間に挟みながらその矛先をようこへと向ける。本来なら使うべきものではないが仕方ない。同時にそれらがまるで弾丸のように射出されていく。その力を以て相手を倒さんとするために。


一応手加減はするが犬神なんだし大丈夫だろ。というかそれ以上にひどい目にあわされてるんだからこれはそう……正当防衛、何も遠慮することはないはず!



「白山名君の名において告ぐ……蛙よ、爆砕せよ!」


言霊と共に啓太はその力を解き放つ。その瞬間、蛙の消しゴム達は大きな爆発を起こし、ようこを巻き込んでいく。絶対に避けられないタイミング。啓太は勝利を確信する。少し大人げなかったがこれであいつもこっちの話も聞く気になったはず。そう啓太が安堵しかけた時


「残念、外れでした~♪」


啓太の背後から楽しげなようこの声が響き渡る。啓太は驚きながら振り返るしかない。そこにはあごを手で支えながら優雅にこちらを見下ろしているようこがいた。全く無傷で、息一つ切らすことなく。


「なっ!? お、お前、どうやって……!?」


啓太は慌てて振り返り、構えながらも混乱する。当たり前だ。先程の攻撃は間違いなく避けることができない完璧なタイミングだった。にも関わらずようこは何のダメージを受けていない。そんなことがありうるのか。死神の黒衣のような力があの着物にあるのか。だがそれは間違いだとすぐ啓太は悟る。それはようこの位置。それが自分の背後になっている。それも一瞬で。まるで瞬間移動したかのように。そう、ようこが持つしゅくちと呼ばれる力。それによってようこが自分の攻撃を文字通り消えて躱したのだと。まさか自分まで移動させることができるとは思っていなかった啓太は唖然とするしかない。本当にでたらめな力だった。


「ふーん、思ったよりも力があるんだね。しゅくちにも気付いたみたいだし、ちょっとは見直してあげてもいいよ」
「や、やかましい! 二度も同じ手が通用すると思うなよ!」


まるで遊んでいるかのようなようこの態度に翻弄されながらも啓太は再び霊符を放つ。だがその手には既に次の霊符が用意されている。例えしゅくちによって再び避けられても、もしくは自分が、霊符が瞬間移動させられたとしても対応できるように啓太は身構える。どんなに便利な力でも使えば隙は生じる。加えてようこの霊力も無限ではない。なら持久戦、根競べに持ち込んでやる。それが啓太の狙いだった。だが


「じゃえん♪」


言葉と共にようこがその人差し指を振るった瞬間、それは現れた。炎。あり得ないはずの現象が巻き起こる。夜の闇を照らし出すかのように炎が現れ、そしてまるで生きているかのように放たれていく。その炎弾が啓太の霊符をまとめて焼き放っていく。だが啓太もそれを黙って見ていたわけではない。瞬時に霊符の力を発動させ、炎に対抗しようとしたがまるで歯が立たない。炎をかき消すどころかその力を弱めることすらできない。全ての霊符を難なく焼き払った後、ようこは人差し指の先にライターの様な灯を見せながら啓太に笑みを向ける。まるで勝ち誇るかのように、いや、自らの力を自慢するかのように。


「な、なんだそりゃっ!? それもしゅくちってやつかよっ!?」
「そういえば言ってなかったけ? これは『じゃえん』 わたしが使える霊力の内の一つで炎を作り出すの」


啓太の戸惑いをよそにようこは人差し指をタクトのように振るうと炎が大きく、そして縦横無尽にダンスを踊る。まるで手品のように。だが間違いなくそれは本物の炎。いや霊力によって生み出されたそれは普通の炎を遥かに上回る力を持っている。それを前にして啓太は呆然とするしかない。


こ、こいつ……まだそんな力もってやがったのかよ!? しゅくちだけでも反則なのにどういうこと!? しかもその力も桁違いだ。間違いなくはけレベルの力の持ち主。犬神の力が犬神使いを上回ってるのは当たり前だがそれでもここまで力の差があるとは……ち、ちくしょう……悔しいが今の俺じゃあ逆立ちしたって勝てる相手じゃねえ。死神程じゃねえけどまともにやりあうなら犬神使いとしてじゃなきゃ勝負にすらならねえ……


はあ……ほんとはひと泡吹かせてからにしたかったんだけど仕方ねえか……


啓太が予想外の事態に方針転換を決意しかけた瞬間、


「じゃあ、今度はわたしの番♪」


キャッチボールをするかの様な気軽さでようこはじゃえんを啓太に向かって放ってきた。容赦なく、間違いなく直撃コースで。


「どわあああっ!?」


啓太は思考を切り捨て、なりふり構わずその場から飛び跳ねる。まさに本能による回避。優雅さも何もあったものではない、純粋な反射だった。それによって何とか炎を回避するもその余波だけで火傷をしかねない程の力。そして地面は抉られ、炎はそのまま森へと着弾し、火事が起こり始める。そう、まさに山火事が。次々に火が燃え移り、その明るさが辺りを照らし出していく。まるでキャンプファイヤーのように。


啓太は絶句する。その光景に。いや、力に。もしあれが直撃していたからどうなっていたか。間違いなく黒コゲになってしまっただろう。いくらギャグ補正があるにしても限度があるレベルの攻撃だった。


「よく避けたね、ケイタ。当てるつもりだったのに」
「ふ、ふざけんなあああっ!? 殺す気かっ!? っていうかどうにかしろっ!? 山火事になっちまうだろうがっ!?」
「もう、そんなに怒らないでよ。ちゃんと手加減してるんだから」


え……? 今こいつなんて言ったの? 手加減してる? これで? いや、マジで? はは、冗談ですよね。だってさっきの攻撃、間違いなく複数の犬神じゃなきゃ出せない威力だったはずなんだけど……


「じゃあ今度はもうちょっと本気で行くね、ケイタ♪」


啓太はその言葉を顔面を蒼白にしながら聞くことしかできない。いや、もう啓太にそれを聞く余裕などなかった。ようこが再び人差し指を振るった瞬間、先程と同じ炎が、それ以上の勢いと速さを以て次々に啓太に向かって放たれる。無慈悲に、容赦なく。ようことしてはちゃんと手加減しているもの、その姿も無邪気といえるものなのだが啓太にとってはそんなこと何の意味もなかった。


「ぬおおおおおおおっ!!」


自分の生命が危機にさらされている。その事実だけ。啓太はひたすらに山の中を逃げ回る。駆けまわる。およそ人間とは思えない速さで、体力で。並みの人間なら最初の一撃すら避けられなかっただろう。それが啓太の常人離れした身体能力の為せる技。かつて天界での修行でセクハラばかりし、天女による折檻を耐えることによって得られた肉体の強さだった。


「あはははは! すごいねケイタ! こんなにわたしのじゃえんを避けれるなんて!」
「ちょっ、ちょっと待て!? このままじゃ死んじまうからマジでやめろっつーの!?」


ようこは夜の山の中を楽しそうに、縦横無尽に飛び回りながら啓太の後を追っていく。まるで鬼ごっこのよう。もっとも自分は鬼ではなく犬神、いや妖狐なのだが。


「えー? じゃあ降参してあたしのものになる?」
「な、なるわけねえだろうが!? これじゃあほんとにただの脅迫じゃねえか!?」
「む。脅迫じゃないもん。これは勝負だって言ったでしょ。わたしに勝ったら逃がしてあげる。でもわたしが勝ったらケイタはわたしのものだからね♪」
「ち、ちくしょう……!」


ようこは興奮しながらもじゃえんを絶えず逃げようとする啓太に向かって放ち続ける。それを何とか紙一重で回避しながらも啓太は為す術がなく逃げ回るしかない。鬼ごっこではあるがあまりにも鬼が強すぎる。暗闇にまぎれようにもじゃえんの光によってそれもできず啓太は全速力で走り続けるしかない。


「ふふっ。やっぱりケイタは面白いね」


ようこは啓太には聞こえない程の声でそう言葉を漏らす。その人差し指が唇に触れる。妖艶さと子供の無邪気さ。あり得ない要素を合わせもちながら。その瞳が捉える。自分から必死に逃れようとしている一人の少年の姿。

川平啓太。

ずっと、ずっと待ち続けた想い人。本当は不安もあった。自分がケイタに会ったのはケイタが子供の頃。もしかしたら自分が惹かれたケイタではなくなってしまっているのではないかと。だがそれは杞憂だった。間違いなくケイタはケイタだった。おかしくて、面白くて、楽しい。あの日、わたしが惹かれたままの、ううん、それよりもずっと魅力的な男の子になっている。

楽しい。こんなに楽しいのはいつ以来だろう。本当に初めてケイタに会って以来かもしれない。ずっと、ずっと待ってた。この日が来るのを。この時間が来るのを。ただ、ただそれだけを待っていた。そのためにずっとこの山の中で、結界の中で暮らしてきた。ケイタの犬神に、ケイタと一緒になるために。今、わたしはケイタと遊ぶことができている。本当に楽しい。

しかもケイタもわたしが思っていたよりもずっと強い。初めは偶然だったみたいだけど今は間違いなくこっちの動きを読んで攻撃を躱してる。そして隙があれば反撃をしてくる。初めはもっと簡単にあしらえると思ってたけど大きな間違いだった。ちょっとでも気を抜けばミスをしかねない。だからそろそろ終わりにしよう。ちょっと残念だけど、でも仕方ない。


もう二度と同じ間違いを犯さないために。もう二度とあの泥棒猫に、犬にケイタを渡さないために。


「………え?」


啓太はどこか間の抜けた声を上げる。それは影。自分の足元に影が現れたから。だがそれ自体はおかしいことではない。今は夜だがようこのじゃえんのせいで辺りは灯りに包まれている。だから影ができても何もおかしくはない。そう、それが自分の影ならば。


啓太はそのまま自分の頭上へと、上空へと視線を向ける。まるで月を見上げるかのように。だがそこには月はなかった。あるのはただの巨大な木、いや木の群れとでも言うべき影。それが自分の頭上に浮いている。だが違う。それは浮いているのではなく、ようこのしゅくちによって飛ばされてきているのだった。


「そ、そんなんアリかああああ!?」


絶叫と共に啓太は為すすべなくその木の雪崩に飲み込まれる。その質量と重量の前にはいかに啓太といえど敵わない。凄まじい落下音と衝撃が山を襲う。それが止み、煙が収まった後には無残に粉々になった木の破片があるだけだった。


「あれ……? もしかして死んじゃった……?」


全く気にした風もなくようこがぽつりと呟く。だが内心、ようこは焦っていた。しゅくちによる森の木々を使った足止め。それがようこの作戦だった。もっともじゃえんだけで十分だと思っていたのでこの方法を使う予定はなかったのだが。だが啓太の予想外の強さ、そして頑丈さを前にして使っても大丈夫だろうと判断したのだがやりすぎてしまったのだろうか。ようこが少し慌てながらもその場に近づこうとした瞬間


「こ、殺す気か、お前っ!?」


啓太は息も絶え絶えに、瀕死の様子で木の残骸の中から這い出して来る。何で生きているのか分からない程の惨状だった。間違いなく啓太以外であったなら命を落としかねない大惨事だった。そう言った意味では既に啓太は既に人間を超えていると言えるかもしれない。だがそれを見ながらもようこはどこか楽しそうな笑みを浮かべる。その笑みに啓太は戦慄する。それはそう、まるで待ちわびたおもちゃを前にした子供のよう。


「ほんとに頑丈なんだね。なら、これでも大丈夫だよね……」

「え? ちょ……お前何を」

啓太が恐怖に顔を引きつかせながらも制止しようとするもそれよりも早く


「だいじゃえん!」


ようこの叫びが響き渡る。瞬間、極大の炎によって全てが吹き飛ばされていく。それが金色のようこの力。そして二人の戦いの幕引きだった―――――




辺りは既に焼け野原と化していた。一体が焼き払われ、炭と焼け焦げた匂いだけが充満している。まるで戦争でもあったのではないかと思えるほどの荒れ具合。もっともある意味戦争に近いものではあったのだが。


そんな中に一人の人影がある。それは啓太。だがそれは既に啓太かどうかすら定かではない。その姿は黒コゲ。だが間違いなく息がある。それは一応ようこが手加減していたからこそ、そして何よりも啓太だからこそ為し得る一つの奇跡だった。


「ちょっとやりすぎちゃったけど……でも、これでもう勝負はついたでしょ? これでケイタはわたしのものだからね♪」


ようこが笑いをこらえきれないように告げる。それは勝利宣言。この鬼ごっこの、勝負の決着がついたことを意味した言葉。ようこは月を舞うように宙を飛びながら嬉しそうに啓太へと近づいて行こうとする。啓太は何とか体を起こしながら体中についた煤を払う。同時にせき込んでしまう。あれだけの爆発に巻き込まれたのだから当たり前。むしろそれだけで済んだという事実の方が驚きだったのだが啓太にとってはめちゃくちゃな目にあわされたことには変わりない。啓太はそのまま大きな溜息を吐き立ち上がりながら


「はあ……悪いけど、この勝負は俺の勝ちだ」


そう、ようこに向かって自らの勝利を宣言した。


「……? 何言ってるの、ケイタ? まだ勝負続ける気なの?」


ようこはどこかぽかんとした様子を見せながらも問いかける。もしかしてまだ戦う気なのだろうか。あんなにボロボロになっているのに。何度やっても結果は変わらないと分かる程の力を見せつけたのに。負け惜しみなのだろうか。だがようこは気づく。それは啓太の姿。そこに嘘がないことに。啓太が本当に自分に勝った気になっているのだと。


「そう……じゃあもう少し遊んであげる♪」


ようこが気を取り直しながら再び啓太に向かってじゃえんを放つ。その威力を抑えながら。もう啓太に戦う力が残っていないことは一目瞭然だった。そしてそれが啓太に届こうとした瞬間


それはまるで何もなかったかのように消え去ってしまった。


「………え?」


ようこはそんな声を漏らすことしかできない。目の前で起きたことが理解できない。自分の放ったじゃえんがかき消されてしまった。それも一瞬で。だが啓太は身動き一つしていない。霊力を使った様子も、何か道具を使った様子も見られない。一体どうして――――


瞬間、ようこの息が止まる。その目が見開かれる。その瞳が捉える。それは鳥居。それが自分と啓太の間にある。そう、この山の出入り口である鳥居。その向こう側に啓太がいる。

それこそが啓太の真の狙い。ようこを倒すことではなく、この山から、ようこが追ってこれない、手を出すことができない山の外まで脱出することだった。

啓太は初めからそれを計算して動いていた。きっかけはようこのしゅくちによって山の中を走りまわされた時。あの時、ようこは自分が鳥居をくぐる前に必ずしゅくちを使っていた。初めは偶然かと思ったか何度繰り返してもそれは同じ。加えてようこの発言。この山から出られない、自分をここに閉じ込めるという内容。それらから啓太は推測した。ようこは何らかの理由でこの山の結界を抜けることができないのだと。

ようこの力が自分では手に負えないレベルであることを悟った啓太はすぐにようこを倒すことではなく、本来の目的、山からの脱出に切り替えた。それに気取られないようにするためにわざとようこを煽り、攻撃を加え、この状況までもってきた。

それが啓太の実力。霊力の強さだけではない、戦う者としての、犬神なしで四年間戦い続けた中で身に付けた力だった。


ようこは戦慄する。この状況に、何よりもこの状況を作り出した啓太に。自分が初めから踊らされていたのだと。知らず、この場所まで、そして自分が油断する瞬間を待っていたのだと。全てが啓太の掌の上。ようこは忘れてしまっていた。啓太が紛れもない犬神使いであったことを。


「っ! しゅ、しゅくちっ!」


ようこはすぐ我に返り、その力を振るう。啓太を自分の傍にまで瞬間移動させるために。だがいくら待っても啓太はやってこない。その力が届かない。手を伸ばせば届くほどの場所にいるのに。


「しゅくちっ! しゅくちっ! しゅくちっ!!」


ようこは何度も、何度もしゅくちを使おうとするもそれは結界に阻まれ、啓太に届くことはない。そんなことは分かっている。この山に三百年間封じられていた間、数えきれない程試したこと。自分はこの山を越えてはしゅくちもじゃえんも使えない。覆すことができない、絶対の境界。だがそれが分かっていてもようこは力を振るい続ける。まるでだだをこねる子供のように。その表情には先程まであった余裕は全くない。ただ焦り、息を荒げている少女の姿がそこにはあった。


「ったく……酷い目にあったぜ……」


そんなようこの姿をどこか呆れ気味に一瞥した後、啓太は大きな溜息を吐きながら歩き始める。川平本家の屋敷への道へと。既に体中ボロボロ、いつ倒れてもおかしくない程。死神との戦いよりも重傷とか何の冗談だ。だが一体何だったのか。あれよあれよという間に巻き込まれてしまったが何一つ事態が掴めん。分かることは間違いなく俺が人生で一、二を争う危機を迎えたこと。そしてそれを何とか乗り切ったことだけ。内容としては散々だったが。勝負に勝って試合に負けた……いや、試合に勝って勝負に負けただったっけ? まあどっちでもいいか。何とか脱出できたわけだし。あのまま閉じ込められるなんて絶対御免だ。しかも炎によって燃やされると言うおまけ付き。何かの罰ゲームかっつーの……とにかくばあちゃん家に帰るとすっか、文句を言ってやらねば!


どこか恨みを感じさせる様子を見せ、啓太がそのままその場を去ろうとした時


「ま、待って、ケイタ!」


ようこのどこか鬼気迫った声が啓太に向かって響き渡る。そこには鳥居の入り口を通ろうとするも、まるで見えない壁に阻まれるかのようにその場から進むことができないでいるようこの姿があった。


「何だよ? 勝負なら俺の勝ちだろ。確かにお前は倒せなかったけど勝ちは勝ちだぜ」
「っ!? そ、そうだけど……ちょっと待って、ケイタ! わたしまだケイタと話したいことが一杯あるの! だから戻ってきて! もうしゅくちもじゃえんも使わないから……!」


啓太はまるで捨てられる子犬のような姿を見せているようこに圧倒されてしまう。まるでさっきまでとは別人だった。その瞳には涙が滲んでいる。必死さが、鬼気迫っているかのような気配が結界越しでも伝わってくるかのよう。


う、うーん……何だか可哀想な気もするが……まあ仕方ないか。もう一度山に入って閉じ込められたら同じ手は二度と通用しないだろうし……それにもしかしたらこれも演技かもしれん。最初、俺も猫かぶりにあっさり騙されちまったし、女は怖いとごきょうやに習ったしな。まさかこんなにも早く体験することになるとは思わなかったが。それにどっちにしろこれ以上この子には関わらない方がいいだろう。なでしこがどう言ったかは知らないかやっぱなでしこ以外の犬神を持つのは問題あるだろ。何よりも確信がある。こいつとなでしこは相性が悪い。さっきの反応からも何か因縁があることは間違いない。それに俺、こいつをコントロールできる自信もないし……


「……悪いけど、俺行くわ。お前ももう少し大人しくなればきっと新しい主人が見つかるって。じゃあな」


啓太はどこか罰が悪そうな表情を見せながらもそのまま踵を返し、山を後にする。そのまま啓太は来た道を戻って行く。犬神達の世界から人間の世界、外の世界へと。


「っ!? 待って、ケイタ!? 違うのっ! わたしはケイタの犬神になりたいのっ! 他の人間の所なんて……!」


その事実に、姿に一瞬呆然としてしまっていたようこだがすぐに結界に張り付きながらも懸命に訴える。自らの気持ちを、本当の想いを。だがそれを聞きながらも啓太はその足を止めることもなく立ち去って行く。だがそれは無理のないこと。狼少年。今のようこはそれに近かった。先程まで散々啓太をからかい、力を振るってしまった自分の言葉には啓太を止めることができる力がない。


「あ、あ……ご、ごめんなさい! あ、謝るから……! ちょっと悪戯がしてみたかっただけなの! ケイタのことが嫌いだからしたわけじゃないのっ! もう、もうしないから……」


声を震わせながらも、しどろもどろになりながらもようこは必死に訴える。たどたどしい言葉で。だがそれ以外に言葉が出てこない。こんな時になんて言えばいいのか分からない。だって言えるわけなかった。

ケイタのことが好きで、でもそれを言うのが何だか恥ずかしくて意地悪をしてしまったなんて。

自分のことを忘れてしまっていたケイタに少し悪戯をしたかっただけなの。ケイタと話すのが楽しくて、遊ぶのが楽しくて、それが本当に嬉しくて……


「だから……だから行かないで……ケイタ! わたし、わたしずっと待ってたの……ケイタが来るのを……会えるのを……」


三百年前、オトサンが封じられてしまってからの日々。何もない、ただ時間だけが流れて行く日々。生きているのか、死んでいるのかすら分からないような灰色の日々。でもそれに一筋に光がさした。それがケイタとの出会い。もう全てにあきらめて、死んでしまおうと思った時に現れた小さな人間の男の子。その子と遊ぶのが楽しくて、わたしはあの時、きっと初めて笑ったんだと思う。

あの子と一緒にいたい。

わたしは生まれて初めて、心から何かを願った。

でも、それは叶わなかった。盗られてしまった。奪われてしまった。全部、全部、全部。

やっと、それを手に入れれるかもしれない。そう思ってたのに。どうして。


「ケイタ……待って……」


どうしてまた失敗してしまったのか。もう二度と失敗しないように。そう思ってたのに。もうケイタの姿は見えなくなってしまった。後には何もない、いつもどおりの静かな、夜の闇だけ。三百年間、ずっと変わることない世界。わたしにとっての檻。決して逃れることのできない呪縛。そう、何も変わらない。今までと同じ、灰色の日々。それに戻ってしまっただけ。


「置いてかないで……もう……もう嫌だよ……」


でも、もうきっと耐えられない。だって知ってしまったから。その温もりを、楽しさを。それを忘れることなんてできない。火を使い出せば、決してそれを手放すことができないように。わたしはもうきっと、今までの日々に耐えることができない。一人ぼっちなのはもう……


「う、うう……うああ………」


もう、何も分からない。自分が涙を流しているのも、その場に蹲ってしまっていることも。ただ悲しかった。ケイタにもう会えないことが、一緒にいられないことが。たったそれだけの、でもわたしにとっては何よりも大切なこと。


「ああ……ああああ……」


ただ泣き続ける。人目をはばからず、子供のように。誰にも聞こえるはずのない泣き声と共に。冷たい夜風の中。そのまま全てに絶望しかけた時



「……ったく……これじゃあ俺が悪者みたいじゃねえか……」


「………え?」


そんな声と共に確かな温もりがわたしの頭に乗せられる。冷え切ったわたしの体がそれだけで温もりに包まれてしまうかのような温かさかがその手にはあった。ようこは涙によってぐちゃぐちゃになった顔を上げる。だがその涙に濡れた瞳で確かに捉える。どこか呆れかえった表情で自分の頭を撫でているケイタがそこにいた。


そう、鳥居を超えて。自分が越えられない境界を、何でもないことのように超えながら。


「ケイタ……? どうして……?」
「まあ、その、なんだ……俺もちょっとカッとなっちまったからな。そのお詫びだ。でもこれ以上は謝らねえからな。半分以上はお前のせいなんだからな」


啓太はどこか恥ずかしそうにしながらそっぽを向いてしまう。それが啓太の精一杯の妥協点。流石に犬神とはいえ、女の子を泣かしたままというのは宜しくない。なんだかんだで結局甘い、ある意味啓太らしさと言えるものだった。


「うっ……ううっ……ケイタ……ケイタああああっ!!」
「お、おい! ちょっとお前、離れろって!?」
「うあああああん! わあああああん!」


ようこはまるでせきを切ったかのように泣き叫びながら啓太に縋りついてくる。本当に親に縋って来る子供のようだ。もっともその姿は少女のそれだが。だがいくらあやしても一向に泣きやむ気配がない。あまり気は進まないがいつまでもこのままではいけない。啓太は一度、大きな深呼吸をした後、


「おーいっ! はけっ! どっかで見てんだろっ!? いい加減出てきたらどうだっ!?」


そう、自分達を見守っている、もとい覗き見ているであろう存在に向かって声を上げた。


「気づいておられたのですか、啓太様……」


その声に応えるようにすうっと突然実体化したかのように啓太とようこの前にはけが姿を現す。その姿にようやく自分の状況に気づいたのかようこは慌てながら涙を拭いながらはけに対面する。どうやらはけの前では醜態をさらしたくないらしい。やっと解放されたことに安堵しながらも啓太はどこか非難の目をはけへと向ける。


「当たり前だろ。覗きが趣味のお前が俺とこいつを残したままなんて考えられねえからな」
「………」


啓太の刺がある言葉にはけは何も言い返すことができず、背中に嫌な汗が滲むのを抑えることができない。ある意味、啓太が言っていることは事実なのだから。やはりこの方には敵わない。


「とにかく、事情を聞かせてもらうぜ。俺だけ何も知らないのはおかしいだろ?」


異論、反論は許さないとばかりの不敵な笑みを見せながら啓太ははけへと迫る。まるで一本取ったといわんばかりの喜びようだった。だがようやく落ち着きを取り戻したようこは何故か顔を赤くしている。まるで恥じらう乙女のように。


……何だ? 何でそんな反応示してるわけ? 確かにずっと泣いてたのは恥ずかしかったのかもしれんが明らかに様子がおかしい。一体何が……


啓太は困惑しながらも事情が分からず、首を傾げたまま。そんな啓太の姿にはけは一度改めて目を向けた後、


「とりあえず……啓太様、まず何か着られてはいかがですか……?」


そういつもと変わらない鈴やかな声で進言する。啓太はその言葉の意味が分からず一瞬フリーズしてしまう。それが解凍された後、啓太は改めて自らの体を見下ろす。


そこには生まれたままの、しかも煤によって黒ずんでしまっている自分の裸があった。


「………」
「ケイタ……その、ごめんね……」


放心状態になっている啓太に向かってようこがこれまでで一番申し訳なさそうに謝罪する。そこでようやく啓太は思い出した。


自分がしゅくちによって服を取られてからずっと全裸であったことを。


それが啓太とようこの出会い、再会。そして四年前の続きの始まりだった――――――



[31760] 【第二部】 第十一話 「川平家の新たな日常」 〈表〉
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/06/10 00:17
「ん……」

もぞもぞと布団の中でうごめいていている一人の少年の姿がある。それは川平啓太。その理由はもはや語るまでもない。朝日。温かくも眩しい一日の始まりを告げるそれがカーテンを超えて啓太に向かって降り注いでいる。だがそれを前にしても啓太はまるで抵抗するかのように布団から出ようとはしない。というか徹底抗戦の構えだった。今日は平日。悲しいかな学生の身分である啓太は登校するという勤めから逃れることができない。それが分かっていながらも啓太は自ら起きようとしない。そう、起きれないのではなく、起きようとしない。そこがポイントだった。

「う~ん、なでしこ……」

寝がえりをうち、半分寝ぼけながらも啓太は本能のまま、いつものように隣に寝ているなでしこに向かって手を伸ばそうとする。それは啓太の日課。寝起きという状況を利用してなでしことスキンシップ(啓太基準)を図るもの。見ようによってはセクハラに見えかねない行為。だが困った様子を見せながらもなでしこはそれを受け入れてくれる。何だかんだでなでしこも満更ではないらしい。もっとも寝起きという状況を利用しなくてもなでしこはそういった行為を拒むことはないのだが啓太はそれを行ってはいない。以前は嫌われてはいけないという理由、言い訳があったが今は単純に気恥ずかしさが勝っている。ヘンなところで純情、ヘタレな川平啓太、十七歳だった。


ふう……やはりこの瞬間は最高だ。考えてもみてほしい。朝起きてすぐに好きな女の子の温もりを感じることができる。これほどの至高があるだろうか、いやない! いつもは恥ずかしがるなでしこもこの時には少しは羞恥心が薄れるのかスキンシップをとってくれる。これによって俺は一日の英気を養うことができるのだ! しかし、女の子と並んで寝ながらも紳士でいれる自分に恐ろしさすら感じてしまう。四年前は緊張と興奮から一睡もできなかったこともあったのだが慣れというのは恐ろしい。もっとも意識しすぎるとこっちの身が持たないと言う切実な問題があったからこそ。

だが最近、少し様子が変わってきたような気がする。告白してから、正確には新しいアパートに住み始めてから。何故か起きるとなでしこの方が俺に近づいてたり、心なしか色っぽい仕草をみせていたり、床にしている布団の位置が近づいて(くっついて)いたり……うん、まああまり気にしない方がいいだろう。と、とにかくスキンシップをはかることにしよう! 決して疾しい気持ちではなく、犬神使いとして、犬神と触れ合うために! 


そんなよくわからない言い訳をしながらもいつものように啓太がその手を伸ばそうした瞬間、


ふにっ


そんな何か柔らかいものをその手が掴む。そう、まるでマシュマロのようなものを。


……ん? 何だこれ? 俺、今、何触ってんの? いつもの感触とは違うんですど。うん、まるで肌を直接触っているかのよう。いつもはパジャマ越しの柔らかさを、温かさを、匂いを感じるのに今日は違う。というか……これって……もしかして……


啓太がどこか不穏な空気を感じ取りながらも再び自らの手に力を込める。その掴んでいるものに向かって。まるで条件反射のごとく。瞬間


「あん♪」


そんな色っぽい、艶めかしい少女の声が啓太の耳に響き渡る。いつもは聞くことのない、それでも聞いたことのある少女の声が。啓太はフリーズしながらも、まるでロボットのようにギギギという効果音が聞こえんばかりの動きで閉じていた目を開け、自らの状況を確認せんとする。もう八割がた何が起こっているのか頭の中では理解できていながらも、その現実を受け入れられないかのように。その視線の先には


「もう、ケイタったらえっちなんだから♪」


どこか楽しげに笑みを浮かべている全裸の少女とその胸を揉んでいる自分の右手があった―――――



「どわああああああっ!?!?」


啓太は絶叫、悲鳴を上げながら一瞬でその手を離し、床をはいずり全裸の少女から距離を取る。それはまさに神業と言ってもいい早技。この手際をもってすれば死神にすら後れはとるまいと思えるような絶技だった。


「どうしたの、ケイタ? もっと触ってもいいのに♪」


そんな啓太の狼狽した姿を見て悪戯が成功したような笑みを見せながら全裸の少女、ようこがくすくすと笑っている。そんなようこの姿に啓太は目を奪われ、口をぱくぱくさせることしかできない。いやその目が釘付けになってしまっている。ようこの体に。何も着ていない、どこも隠していない、紛うことなき全裸だった。

透き通るような白い肌。形のいい胸。なめらかな腰つき。完璧とも言って言いプロポーション。この世の物とは思えないような美しさ、理想郷。まさになでしこの裸エプロンに勝るとも劣らない、いや、ある意味それを超える衝撃がそこにはあった。


「お、お前……何でこんなところにいるんだっ!?」
「え? ひどい、わたし、ケイタの犬神になったからここにいるのに」
「そういうこと聞いてるんじゃねえ!? 何で裸で俺の布団の中にいたのか聞いてんだよっ!? お前、ベッドで寝てたはずだろうがっ!?」
「え~? だってケイタと一緒に寝たかったんだもん」


何とか混乱を抑えながら啓太が目の前の少女、ようこに向かって問い詰めるも、ようこは全く気にした風もなく楽しそうにしているだけ。全く反省もなにもあったものではない。その証拠にようこは啓太が自分の姿を直視しているにも関わらず、まったく自らの裸体を隠そうとしない。いや、むしろ見せつけているのではないかと思えるほど。


こ、こいつ……一体何考えてやがるんだっ!? 思春期の、いや年頃の男の布団にも入り込むなんてそんな素晴らしい……じゃなかった危険なことをっ!? むしろばっちこいなのだが……って落ち着け!? 落ち着け俺っ!? 思考がおかしくなってんぞっ!? ……ふう、まずは深呼吸だ。まずは心を鎮めなければ……って落ち着けるか―――――っ!? 何なのこれ!? 朝起きたら自分の布団の中に真っ裸の女の子が寝てるとかどこのラブコメだっつーの!? いやラブコメでもそんな展開ありえないだろ!? 夢か!? 俺、どんだけ欲求不満なわけ!? だ、だが間違いない、これは現実だ……こいつなら何でもやりかねない! だがまさかここまでめちゃくちゃをしてくるなんて、一体どういう教育してたんだ!? し、しかし……すげえ……これが女性の魅力という奴か……もはや言葉では言い表すことができん。感無量といったところ。しかも俺、さっきまであの胸を、おっぱいを掴んでたんだよな? あ、思い出したら鼻血が……


人生の中で一、二を争う混乱状態に陥りながらも啓太がただようこの裸体に目を奪われている中


「何をしてるんですか……啓太さん……?」


パジャマ姿のまま向かい合っている啓太とようこの光景に呆然としているなでしこの声が部屋に響き渡った。瞬間、部屋の時間が凍った。いや、正確には啓太の時間だけが。まさに絶体絶命、穴があったら入りたいどころではない。もし目の前に崖があったとしても飛び込みかねない程の状況だった。


「ち、違うんだ、なでしこっ!? これは……その……不可抗力というか……!」


目を泳がせながら、声を震えさせながら啓太は何とかこの状況を説明しようとするも、震える体と滝のように流れる汗、動悸を抑えることができない。というかどう見ても浮気現場を見られた夫の反応そのままだった。


な、何だこれ!? 一体何がどうなってんだ!? っていうか何で俺、こんなに焦ってんの!? 俺、何も悪いことしてねえだろ! うん、間違いない。こいつが勝手に脱いでるだけで俺は何も悪くない! ここはびしっとこいつに言ってやらなければ……


啓太が意を決してこのまるで修羅場のごとき状況を打破せんと、身の潔白を証明せんとした瞬間、


「わ~い、ケイタがわたしによくじょーした!」


ようこの言葉によってそれは無残にも砕け散った。木っ端みじんに、跡形も、塵一つ残らない程の勢いで。ようこはもちろん、啓太、そしてなでしこの視線もそこに集まる。啓太の、男が男である証へと。トランクスによって隠れているそれがまさに天を突くかのごとくそりたっている。その光景に啓太は顔面を蒼白に、なでしこは羞恥によって顔を真っ赤にするしかない。抑えることのできない、逃れることのできない男の悲しい性だった。


「ち、違うっ! これは違うんだ!? これは……そう! 朝の生理現象の様なもんで決して疾しい気持ちがあったわけでは……!」
「嘘言っちゃだめだよ、ケイタ。ちゃんとみてたもん。ケイタのここ、わたしを見てから大きくなったもん!」
「ぶっ!? や、やめろ!? その格好で抱きつこうとすんじゃねえ!?」


啓太の言葉が気に障ったのか、ようこは頬を膨らませながら啓太に向かって飛びついて行こうとするも啓太は何とかそれを寸でのところで回避する。啓太の本能であればこちらから飛びついて行きたいところだがそんなことをすればどうなるか。今の啓太の中には恐怖しかなかった。


「だ、だめです! ようこさん、そんなはしたない格好……!」
「ふん。わたしがどんな格好しようとあんたには関係ないでしょ? ケイタは喜んでるもん」
「そ、そんなことありません! それに殿方とは適切な距離を置くもので……」
「嘘。わたしちゃんと見てたよ。あんた、夜中にケイタの方に近づいて行こうとしてたでしょ」
「っ!? そ、それは……」


何とかようこを制しようとする啓太の恐怖の対象兼最後の砦であるなでしこだがようこの予想外の反論によって顔を赤くしたまま言い返すことができない。もっともそのこととようこが裸で啓太に迫ることには何の関係もないのだがそれを見られてしまっていた恥ずかしさでなでしこもあたふたすることしかできない。二人の少女、犬神はそれでも譲れないものがあるかのように押し問答を繰り返している。もっとも聞き分けのないようこをなでしこが嗜めようとしている、といったところ。だが


「分かったからいい加減服を着ろ―――――!!」


いつの間にか蚊帳の外に置かれている啓太が我慢の限界に達したかのように怒号を上げる。安らかな覚醒を妨げられた怒りと自らの貞操の危機を救うために。


それが川平家の、ようこという新しい住人が加わった初めての一日の始まりだった―――――



「「「いただきます」」」

何とか落ち着きを取り戻し、ようこに服を着せた後、俺たちは三人でちゃぶ台につき朝ごはんを食べ始めた。元々広い部屋ではないことに加えて小さなちゃぶ台であったため余計窮屈に感じる。まあ元々二人暮しをしていたのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。ある意味ようこという新しい住人がやってきたということを現しているのかもしれない。

ちらりと横目でようこの様子を盗み見てみる。ようこはこちらの視線には全く気付くことなく一心不乱に朝ごはんにかぶりついている。どうやらお気に召したらしい。まあなでしこの料理だから当然か。俺も初めてそれを口にした時は驚きを通り越して感動してしまった。まさか同じ料理でもここまで違いが出るのかと。もう俺は他の料理を食べれなくなってしまうのかもしれない程餌付けされてしまっている。恐らくはようこも……っと話が脱線してしまった。その料理を作ったなでしこも俺と同じようにちらちらとようこの様子を観察している。だがそれはどこか恐る恐るといった、後ろめたさを感じさせるかのように見える。普段おろおろすることはあるなでしこだが明らかにおかしかった。だがその理由を、訳を既に俺は知っている。いや聞き及んでいた。


(なでしこの奴……やっぱ気にしてんだな……)


啓太はどこか難しい顔をしながら思い出す。二日前、ようこと出会った夜。そしてその顛末を。


騒動も何とか一息ついた後、俺ははけとばあちゃんに詳しい事情を聞かされた。いや聞き出したといった方が正しいだろう。初めは渋っていたのだがやはり後ろめたさはあったのか主にはけがそれを説明してくれた。だがその内容に頭を抱えることしかできなかった。

それはようこのこと。何でもようこは俺の犬神になるために四年前の儀式の日に俺に近づこうとした犬神を排除しようとしたらしい。それが俺になでしこ以外全く犬神が寄りつかなかった本当の理由。もっとも大半は俺自身のせいだったらしいが……っとまあそれは置いておいて、その行動は話に聞いていたはけと同じ。はけもばあちゃんの儀式の時にはばあちゃんを独占するために他の犬神達を全て排除したらしい。まさに宗家マニアといってもおかしくない程の溺愛、いや忠誠、独占欲だった。もっともようこの場合はその時にはまだ犬神として誰かに憑くことができなかったというのも大きな理由だったようだ。だがようこの思い通りにはいかなかった。理由は分からないがようこは俺に憑こうとするなでしこを妨害できなかったらしい。その結果、俺にはなでしこが憑き、ようこはそのまま山の中に残されてしまい、今に至る。

それを聞かされてようやく納得がいった。何故あんなにもようこが俺に執着しているのか、何故あんなにもなでしこに敵意を向けていたのか。だが分からないこともいくつかある。

一つ、どうやらようこは俺のことを儀式の前から知っていたらしい。はけの言葉からもそんな様子が聞きとれた。しかし一体いつ会ったのか心当たりがない。こんな奴にあったら絶対に忘れそうにないのに……

もう一つがようこの力。勝負という名の一方的な蹂躙の中で確信があった。あの力は明らかに犬神のものではない。確かに犬神はその個人個人で力の強さも大きさも異なる。その証拠になでしこはその力が、はけは結界術に秀でている。だがようこの力は明らかに異質だった。何か根本的に違うのではないかと思えるような違和感があった。そのことをはけとばあちゃんに尋ねてみたものの、はぐらかされ答えてくれない。どうやらそれについてはようこに直接聞けということらしい。もっともまだそれは聞けていないのだが……うん、それは聞いてはいけないと俺の直感が告げている。例えるなら……あれだ。なでしこのやらずと同じだ。あれと同じ、不用意に触れてはいけないことなのだろう。あえて地雷を踏もうとは思わない。踏むにしても相応の準備が必要だろう。主に俺自身の身の安全のために……


とにかく何だかんだではけとばあちゃんは俺とようこを引き合わせることにしたらしい。知らない間に巻き込まれていたのは勘弁してほしいがまあそれはこの際どうでもいい。どうでもよくはないのだがいいことにしよう。それを遥かに超える大きな問題があったのだから。


それはようこをどうするかということ。


俺としてはようこを自分の犬神にすること自体は構わないと思っている。めちゃくちゃで常識知らず、はたして制御、扱うことができるのかどうかに大きな不安がある(というかできそうにはない)のだがそれでも俺の犬神になりたいという想いは間違いなく本物だった。四年間ずっとそれを待っていたことからもそれは疑いようがない。何よりもあれ以上泣かせたままというのはあまりにも可哀想だった。決して疾しい気持ちがあったわけでは……うん、まあ確かに美少女だったのも理由の一つではあったのだが、それは割愛。そんなこんなで問題はたった一つ。


なでしこをどうするか。それに尽きた。


ようこを俺の犬神にするということ。それはつまり、なでしこと共に、二人の犬神を持つことを意味している。持つだけなら何の問題もないのだが、いかんせんそう簡単にはいかない。それは当然、ようこを含めた三人で生活をすることを意味しているのだから。生活費やもろもろの問題もあるがそれはこの際度外視する。一番重要なのはなでしことようこ。二人の関係、相性だ。間違いなく犬猿が、龍虎が共に暮らすようなものだと容易に想像はつく。もっとも本人達の前では口が裂けても言えないが……特にようこについては明白だ。あの時、なでしこのことを口にした時のようこの姿はトラウマものだった。思い出しただけで背筋が凍る。となれば問題はなでしこがようこをどう思っているのか。はけの話ではようこを受け入れることを承諾したらしいが……とにかく一度話してみる必要がある。

俺はそのまま一度家に戻り、なでしこと会うことにした。その際にようこが凄まじい駄々をこねた。ようこからすればこのまま置いて行かれるのではないかと不安になってしまったのだろう。何とか説得し、はけに後を丸投げした後、俺はなでしこと話し合った。正確にはなでしこの本心について。


『本当にいいのかよ、なでしこ? 無理してるんだったら別に……』
『……啓太さんが決めたことなら……いいえ、これはわたしの決めたことでもあるんです。こうなることはあの時からもう分かっていましたから……』


なでしこはどこか悲しさを、無理をしている様子を我慢しながらもそう告げる。そこにはようこに対するなでしこの引け目、後ろめたさが、そして後悔があった。

四年前のあの日、なでしこが啓太に憑いたこと。なでしこ自身が啓太に惹かれ、そして契約をしたこと。そこに嘘は、後悔はない。何よりもあの儀式は犬神が自らの主を見定めるものでもある。言うならば主の争奪戦。だからなでしこの行動に非はないと言ってもいい。三百年間、いかずだったとはいえ、なでしこが誰に憑こうと問題はない。だがそう割り切れない事情がなでしこにはあった。

それはようこが啓太の犬神になりたがっていたことを知っていたこと。そしてようこが犬神として誰かに憑くことを許されていないことを知っていたこと。

前者についてはまだ言い訳はできる。現になでしこは契約をする直前までその少年が啓太であることを知らなかったのだから。だが後者が問題だった。もしようこがこの時、啓太に憑くことができたのならなでしこも迷うことなく二人一緒に啓太の犬神にしてもらおうとしただろう。(ようこがそれを許したかどうかは別問題)しかし、その時はそれができなかった。だからこそなでしこは悩んだ。このまま啓太に憑くか、それともようこに遠慮して身を引くか。その結果が今の状況。宗家やはけだけではない。これはなでしこ自身の問題、罪。それを知りながらも、自分勝手な理由で避けてきた、逃げてきたもの。


自らの、唯一のトモダチと言ってもいいようこを裏切ってしまったなでしこの贖罪。


そんななでしこの事情もあり、啓太は悩みながらも決断する。それはようこと仮契約を結ぶこと。期限を一週間とした見習いとして啓太はようこを自分の犬神にしたのだった。表向きは半人前であるようこが上手く啓太に憑くことができるかどうかの試験というものだったか実際はようこがなでしこと上手くやっていけるかどうかの意味合いが大きかった。確かに最終的にようこを犬神にするかどうか決めるのは啓太ではあるが一緒に暮らすようになる以上、それは避けては通れない問題。それをこの一週間で啓太は見極めようと考えていた。実は期限を設けたのにはもう一つ理由があるのだがそれはまあ置いておくとして


『まあ、そういうわけだからお前も無理すんなよ。別にお前だけが悪いってわけじゃないんだから』
『は、はい……あ、ありがとうございます』


確かに問題がなかったわけではないがそれでもなでしこが憑いてくれて俺は感謝している。もしなでしこが憑いてくれなければ俺には一匹も犬神が憑かなかったはずなのだから。そうなっていたらどうなっていたか想像もしたくない。間違いなく川平家を勘当されてしまっていただろう。犬神が一匹も憑かなかった犬神使いなんて前代未聞だしな……


俺の言葉に頷きながらもやはり気にかかるのかなでしこはそのまま俯いてしまう。うーむ……なんだろう……別に俺が何かしたわけじゃないのにどうしてこんなに居心地が悪いんだろうか。何かこう、胃が痛くなるような、まるで二股をかけようとしているかのような罪悪感がある。い、いや! これは二股なんかじゃない! そう、もう一人犬神が増えるだけだ! 何もおかしいことはない。複数の犬神を持ってる犬神使いはたくさんいるし、現に薫の奴なんかは九人もいやがるんだ! でも今になってその非常識さが分かってきた。自分は二人の犬神を持とうとしているだけでこの騒ぎ、慌てようなのにそれを九人だと!? あいつの精神は一体どうなってやがるんだ……これが甲斐性の差という奴か……今度会ったらちょっと相談してみようかな……


『あ、あの……』
『ん? どうかしたのか?』

考え事をしてしまったため気付けなかったのだがなでしこがどこかもじもじと、顔を俯けたまま俺に近づいてくる。だが俯いていてもその顔が真っ赤に染まっていることが見て取れる。一体どうしたのだろうか。啓太が不思議に思いながらも声を掛けようとした瞬間


『そ……その、わたしのことも可愛がってくださいね……』


なでしこの不意打ち、顔面右ストレート級の発言が俺に襲いかかってきた。恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも上目遣いで、自分以外の犬神が来ることへの、そして自分が構ってもらえなくなるのではないかという不安を含んだお願い。


『あ、当たり前だろ! お前は俺の犬神なんだからな……!』


ここで俺の女、彼女とでも言えれば完璧だったのだがいかんせんそこまではできん。ちくしょう……それにしてもなんて可愛さだ、こんちくしょう! ああ、可愛がってあげますとも! お願いされるまでもないっつーの! 本当なら今すぐにでも抱きしめてやりたいのだが気恥ずかしさでできん……というかそこで止まれるがどうかが怪しい。あれ? もしかしてようこが来たら俺、なでしこといちゃいちゃできなくなるんじゃ……ま、まあその辺は何とかなるだろ……多分、いやきっと。


そんなこんなでとりあえず一週間の期限付きでようこが家にやって来ることになったのだった。もっとも初日の朝からこんなことになるなんて……先が思いやられる……


「ったく……じゃあ行って来るわ。後はよろしく頼む」
「はい、行ってらっしゃい、啓太さん」

頭をかきながら啓太が学生服に着替え、そのまま玄関へと向かって行く。本当なら残りたいところなのだが流石にずっと学校を休むわけにもいかない。何よりも本契約をするならこれが毎日続くことになる。流石にそこまで面倒は見切れないのだからここは仕方ない。

……あれ? 犬神って本当は主の面倒見てくれるんじゃなかったっけ? これじゃまるっきり逆じゃねえ? もしかして今まで俺が勘違いしてたのか?


「え~? ケイタ、がっこーよりもわたしと遊ぼうよ! わたしね、とうきょうたわーに行ってみたい! あとちょこれーとけーきも食べたい! それからそれから」
「だーっ! むちゃくちゃ言ってんじゃねえ! 今日は平日、学校あるんだっつーの!」
「じゃあわたしもがっこーに行く、それならいいでしょ?」
「どこかだっ!? もっとダメに決まってんだろ!?」
「よ、ようこさん、それ以上啓太さんを困らせちゃだめです!」
「む~、ケイタの意地悪!」


宙を飛びながら纏わりついてくるようこを何とかなでしこが抑え、啓太は息も絶え絶えに家を後にする。だが啓太は後ろ髪をひかれる思いだった。いや、これはそんな生易しいものではない。啓太は心から願った。


自分が帰ってきた時に、アパートがありますように。


決して冗談でも何でもない、心からの願いだった―――――



[31760] 【第二部】 第十二話 「川平家の新たな日常」 〈裏〉
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/06/10 12:33
嵐のように騒がしい朝が終わり、部屋の、そして自分達の主である川平啓太は慌てながら学校へと出発していった。それは当たり前の日常の始まり。いつも通りの日常。だがいつもとは違うことがある。

なでしことようこ。

二人の犬神が、少女だけが後には残されてしまったということ。これまではなでしこだけだった時間に、世界にようこという新しい住人が加わった。その危険性を啓太はもちろん分かっていた。いや、正確には分かった気になっていた。だがそれは間違い。啓太は甘く考えていた。二人の間にある確執を、正確にはようこのなでしこへの感情がどんなものであるかを。


「「………」」


啓太が部屋を出て言った瞬間、部屋の空気が変わる。いや正確にはようこの空気が。先程までの騒がしく、無邪気な子供の様な空気は一瞬で無くなってしまう。あるのはどこか冷たい、緊張感を、息苦しさを感じさせるほどの雰囲気。そう、まるで縄張り争いをしているケモノのような。

なでしこはそんなようこの変化に気づきながらも声をかけることができない。いや、かける言葉など思い浮かぶはずもなかった。それは分かっていたから。ようこの態度の変化が何を意味しているか。それは自分に対する敵意。初めてこの部屋に来た時から、四年ぶりに再会した時から感じ取っていたもの。今までは啓太を気にしていたから抑えていたそれが今、二人きりになってしまったことで表に出てきているのだと。

なでしこはエプロンドレスを両手で握りしめ、俯いたまま。ようこはどこか感情を感じさせない表情でそれを見つめているだけ。そのまま時間だけが流れる。それは時間にすれば一分にも満たない時間。だがまるで時間が止まってしまったかのように二人の少女、なでしことようこは向かい合う。もしこの場に啓太がいれば間違いなくストレスによって胃に穴が空いてしまっただろう。だがこのままではいけない。ずっとこんな状態でいてはよくない。


「あ、あの……」


意を決して、再会してから、初めてなでしこは啓太を介さずようこと会話、話をしようと試みる。何を話せばいいのか。だが頭が真っ白になってしまったかのように思考が定まらない。当たり前だ。一体何を話せばいいのか。

これまでのこと? これからのこと? 謝罪? 懺悔?

考え出せばきりがない。だが間違いないこと。それは自分がようこと正面から、本気で、包み隠さず向かい合わなければならないということ。これまでできなかった、いや逃げてきたその事実に。

だがようこはそんななでしこの姿を一瞥した後、そのまま後ろを向き玄関へと向かって行ってしまう。まるで話すことは何もないと、そう告げるかのように。


「よ、ようこさん……どこに行くんですか!?」


そんなようこの姿に慌てながらぱたぱたとなでしこがその後を追って行こうとする。それはようこのことを心配してのもの。ようこは長い間、山に封じられていた。まだ現代の生活には、仕組みには疎いはず。一人で出歩くのは危険もある。なによりもようこ自身、悪戯好きな、子供の様なところがある。もしそれで誰かの迷惑になるようなことになればまた最悪、山に連れ戻されてしまうかもしれない。なら自分も一緒に。しかし


「わたしがどこに行こうとあんたには関係ないでしょ? それにわたしがいたらあんたもやりづらいだろうし、ほっといて」


ようこは静かに、だがはっきりとなでしこに振り返ることなく拒絶の言葉を告げる。自分に付き纏うな、付いてくるな、と。


「で、でも……まだこちらにきたばかりですし、一人で出歩くのは……」


それを感じ取りながらもなでしこは胸に手を当てながらあきらめず話しかける。だが知らず、なでしこは悟っていた。きっと今のようこには何を言ってもダメなのだと。いや、今の自分とようこの間には、自分が思っている以上の隔たりが、距離があるのだと。


「しつこいわね……心配しなくても暴れたりしないわよ。ケイタにはオカネってのもらってるし、そんなことしたらすぐに連れ戻されちゃうから」


ようこはどこか面倒臭そうな様子を見せながらなでしこに向かって振り返りながら答える。その手には啓太によって渡された財布が、お金がある。元々ようこは啓太に会うこともだがそれと同じぐらい外の世界に、街に行ってみたいという望みがあった。それが目の前にあるのにじっとなどしていられない。本当なら啓太と一緒に行きたかったのだが仕方ない。あまり我儘ばかり言っては嫌われてしまう。一応自分の立場がどんなものかはようこ自身理解しているからこその行動だった。だが


「それに慣れ慣れしくしないでくれる? あんたとわたしは敵同士なんだし」


それだけは変わらないと、はっきりとようこはなでしこに対して宣戦布告をした。


その宣言と姿になでしこは目を奪われたまま身動き一つすることができない。そうさせてしまうほどの力が、真剣さがそこにはあった。それは犬神としての、女としての本能。ようこはそのまま、再会してから初めて真っ直ぐに、その瞳でなでしこを捉える。

いかずの、やらずのなでしこ。

それが自分が知っているなでしこ。もっとも既にいかずではなくなってしまっている。四年前のあの日から。だがその容姿は変わっていない。犬神は人間とは違い、何百年もの寿命をもつ存在なのだから。その割烹着という自分達犬神の中でも珍しい格好もあの時のまま。しかしその上にエプロンドレスを纏っている。聞いていた話では家事をすることがなでしこの犬神としての役目らしい。それが形になったかのような姿。その髪には白いリボンが結ばれている。自分が知らない時間を、啓太と共にいた時間の差をなでしこの姿の変化に感じ取る。自分に遠慮しているのだろうがその中でも、たった一日でもはっきりと感じ取れた。なでしこの変化を。


本当なら、本当ならそれは自分が手に入れるはずだったのに。それなのに―――――


「よ、ようこさん……わたしは……」
「本当ならここであんたとやりあってもいいんだけど、そんなことしたらケイタに嫌われちゃうし……ケイタの前では今まで通りにしてあげる。それでいいでしょ?」

ようこはその瞳に確かな炎を、闘争の炎を宿しながらもそのまま踵を返し、玄関から出て行く。啓太の前では今まで通り、でもそれ以外では慣れ合う気はない。その意志を伝えるかのような後ろ姿を見せながら。同時にその姿はまるで霧のように消えてしまう。はけのように。そのまま人目に付かないようにようこは屋根を飛び跳ねながら街へと姿を消していく。なでしこはそんなようこをただずっと眺め続けることしかできなかった。


「ごめんなさい……ようこさん……」


届くことのない、謝罪の、後悔の言葉を漏らしながら―――――




「はあ……」

大きな溜息と共に鞄を肩に担いだ啓太がとぼとぼと、おぼつかない足取りで歩いている。今、啓太は授業を終え、下校をしているところ。その証拠に周りには自分と同じように学生たちが楽しそうにおしゃべりをしながら下校している。だがそんな中で明らかに啓太は浮いていた。その背中がとても高校生とは思えない哀愁を漂わせている。その理由。言うまでもなくそれはこれから帰る我が家の、いや自らの犬神達への不安のせいだった。


はあ……マジで思いやられる。授業もまともに頭に入らなかった。もっとも普段からそんなに真面目に受けているわけではないのだが今日はその比じゃない。まるで家に爆弾でも置いてきた気分だ。しかも核爆弾級の。いや……言い得て妙かもしれん。爆発すればマジで部屋どころではなく街が焦土になりかねん。なでしこはともかくようこはマジでやりかねん。昨日から来たばっかだが明らかになでしこに敵意を向けていた。どうやら俺の前だからかなのか隠している気のようだがバレバレだった。

まあ最初からこうなることは分かり切ってたことではあるのだがやはり目の当たりにすると心臓に悪い。物理的にやりあわないだけマシだがそれでも精神衛生上宜しくない。このままではストレスで俺の胃に穴が、頭がハゲかねん。一週間以内に何とかしたいところなのだがどうしたものか……直接俺が仲良くするように言っても意味がない。っていうか余計状況が悪化するだけだろう。例えるなら二股をかけている男が二人の女に仲良くするように言うようなものなのだから。後ろから刺されても文句は言えん……い、いや! 決して俺は二股をかけているわけではなく、あくまで例えとして! だ、だが何だろう……状況としてはほぼ同じような気がするのは気のせいか……? 

しっかしマジでどうしたもんか……いっそ荒療治でもするしかないか……あんまり気は進まねえけど、ようこの場合、言って聞くようなタイプじゃないし……相談しようにもそんな都合のいい相手がいるわけ……


「……ん?」


啓太はそこでふと気づく。それは自分が歩いている道の先。そこにどこか見覚えのある人影がある。今までずっと考え事をしていたため気づかなかった。まるでジョギングをするかの様に走っている少女。ショートカットの、ボーイッシュな雰囲気を持った少女。


「おーいっ! たゆね、たゆねじゃねえか!?」


薫の犬神、序列三位、たゆねがそこにはいた。


「っ!? け、啓太様っ!?」


声を掛けられたことによってたゆねはびくっと体を反応させるものの、足を止め振り返る。だがその反応の速さに思わず啓太の方が驚いてしまう。確かに大声を出したのは自分だがそんなにも大げさに反応するほどのことだろうか。いつかのたゆね突撃による惨状がふと頭によぎり、体が震えるも何とか誤魔化しながら啓太はそのままたゆねへと近づいて行く。


「よ、よう。久しぶりだな。ジョギングしてたのか?」
「は、はいっ! け、啓太様こそどうされたんですか? 学校の帰りですか?」
「まあな……しっかし、こんなところまでジョギングに来てるなんてほんとに運動好きなんだな。薫ん家からここまで結構距離があるだろ?」
「だ、大丈夫です! 僕、体力には自信があるんで……!」


どこかしどろもどろになりながらたゆねは啓太の言葉に応えるものの、どうにも落ち着きがない。啓太はそんなたゆねの姿に首を傾げるしかない。


何だ……? 何でこいつそんなに慌ててるわけ……? そんなに驚かせるような声を出した覚えはないんだが……そう言えば前、家に遊びに行った時もこんな感じだったな。いや、今はそれ以上だが。やはりまだ嫌われて、いや慣れていないのだろうか。フラノや双子のようにまでとは言わないがもう少し気楽に接することができればいいのだがいかんせん、そう上手くはいかない。こいつの前では細心の注意を払わなければ。もしヘンタイ的な行為を取ろうものなら間違いなく酷い目にあうだろう。(物理的に) ごきょうやの話では俺のことを心配してくれていたらしいが……うむ、あまり鵜呑みにしない方がいいだろう。女は怖いしな。ここ最近、それが身に染みて分かってきたような気がする……まさかごきょうやにもフラノの様な未来視があったんじゃ……


啓太がそんなことを考えているなど露知らず、たゆねは何とか落ち着こうとしながらも挙動不審になることを抑えることができなかった。だがそれは突然啓太に話しかけられたからではない。


(お、落ち着け、僕! やっと啓太様に会えたんだから……ヘンに思われないようにしないと……!)


それはようやく待ちわびた瞬間に、状況に至ることができた喜びからだった。そう、今のこの状況。それは偶然ではなく、たゆねが作り出したものだった。


啓太が家に遊びに来た時、たゆねは除霊ということでその依頼に付いて行くことができなかった。それがたゆねにとっては悔しくて仕方なかった。その際に大人になったともはね、そしていまりとさよかがそれを手伝ったことを聞いたのも大きな理由。自分も啓太の依頼を手伝いたかった、いやそれ以上にもっと触れ合う機会を逃してしまったことが一番の理由〈本人は認めようとはしないが〉

それ以来、たゆねはジョギングのコースを啓太が通う学校を経由する道へと変更した。言うまでもなく下校してくる啓太と会うために。もちろん偶然を装って。直接啓太の家に行けば話は早いのだが恥ずかしさと何よりもなでしこがいることがその理由。たゆねも啓太がなでしこと結ばれたことを知っているため、あえてそこに割って入ろうなどとは思っていない。ただ一番でなくてもいいかな、なんて思っているところがあった。それを見抜かれいまりとさよかには愛人体質だとからかわれてしまうほど。(もちろん二人はその後、たゆね突撃で追いかけ回された) もっともたゆね自身はまだ自分が啓太に惹かれているのを認めきれてはいなかったのだが。

そんなこんなでジョギングコースを変更したものの、たゆねは啓太に会うことができなかった。下校時間に合わせて、何度も往復するという怪しすぎる行為までしながら。そのせいで学校の生徒の中では下校時間にジョギングをしている美少女として噂になってしまうほど。幸か不幸か啓太の耳には入っていなかったのだが。だがたゆねはやっと気づく。それは自分が正門の方からの道しか走っていなかったこと。もう一つの出入り口、裏門のことを忘れてしまっていたことに。啓太は裏門の方から登下校をしていたためにたゆねは一度も啓太に会うことがなかったのだった。

そして今日、やっとたゆねは人知れない努力の末に悲願を達成したのだった。しかしたゆねはどうしたものかと右往左往しているだけ。会うことばかり考えて何を話すかを、何をしたいかを考えていなかったのがある意味たゆねらしさと言えるものだった。


「そうか……そういえば他の奴らは元気にやってんのか? 最近姿を見ねえけど……」
「え? あ、み、みんな元気ですよ! フラノ達が言ってましたよ。また遊びに来てほしいって! 何でも色々楽しいことを思いついたって……」
「あっそ……あいつらも相変わらずみたいだな……」


たゆね言葉に啓太は呆れた溜息を漏らすことしかできない。どうやらいつも通りらしい。もっとも今はようことなでしこのことで手一杯なのでその機会はまだ先になりそうだが。そんなことを考えていると


「……? 啓太様、もしかして疲れてるんですか……?」


たゆねがふと気づいたように尋ねてくる。会った時から気づかれないようにしていたつもりだったが誤魔化しきれなかったようだ。


「ま、まあな……ちょっとたてこんでてな……」
「そうなんですか……あんまり無理したらだめですよ」
「分かってるって……心配しなくても死神の時みたいなことにはならねえよ」
「っ!? し、心配なんてしてませんっ! これは、その、なでしこやともはねが心配したらいけないと思って……!」


うむ、これが噂に聞くツンデレというやつか。フラノ達が言っていた意味が少し分かったような気がする。もっともそれをからかえばどうなるかは火を見るより明らかなのであえて口には出さないが。だが心配してくれていたのはどうやら本当らしい。逆を言えばたゆねに心配されてしまうほど今の俺は疲れ切っているということ。まだ初日だと言うのに。しかしたゆねも含めて九人も犬神を持っている薫は本当にどういう精神をしているのか。ん……? そうだ! その手があったか!


「たゆねっ! ちょっとお前に頼みたいことがあんだけどいいかっ!?」
「えっ!? あ、あの……はい、僕ができることなら……」
「今度薫に会いに行くからさ、それを薫に伝えてくれねえ!? あいつ、いつも出かけてるからさ!」
「か、薫様にですか……? い、いいですけど……何でまた?」
「え? い、いや、その……ちょっと相談したいことがあってな……とにかくよろしく頼むわ! お礼に何か奢るからさ!」


啓太は痛いところを突かれたかのように顔を曇らせながらも何とか誤魔化さんとする。ようこのことを話せばそれは間違いなく薫の犬神達に伝わってしまうだろう。せんだんやごきょうやは問題ないだろうが他の連中がどう動くか分かったものではない。特にあえて名前はあげないが何人かは間違いなく面白がってちょっかいをかけてくるに違いない。ただでさえギリギリのところで綱渡りをしているようなところに棒で突つきに来るようなもの。そんな事態だけは絶対に御免だった。だが


「お、お礼ですか……?」

たゆねはどうやら相談の内容よりもそちらの方に興味が湧いたらしい。確かこいつ、前の時も料理はもくもくと食ってたし、それなら上手く誤魔化せるかも。


「お、おう! 何か食べたいもんがあるなら奢ってやるぜ! ま、まあ……あんま高いもんは厳しいが……」
「わ、分かりました……僕はどっちでもいいんですけど、啓太様がどうしてもって言うんなら……」
「そうか、恩にきるぜ! じゃあ宜しく頼んだぜ、たゆね!」


素直に食べたいと言えないのか、と心の中で突っ込みを入れながらも啓太はどこか満足気にそのままたゆねにお礼を告げた後、走り去ってしまう。まるで悩みが解決する糸口を見つけたかのように。


うん、薫の奴にちょっと相談してみよう! 複数の犬神を持ってるって言う意味ではあいつの方が先輩だし、何かコツのようなもの、心構えがあるに違いない! それに最近、あいつに会えてなかったしいい機会だろ。男同士でなきゃ話せないこともあるし、付き合ってもらうことにしよう! よし、そうと決まれば気持ちを切り替えながら我が家に帰るとしますか! うん、大丈夫だよな……? いくら何でも初日からアパートが無くなってるなんてことないよね、うん、きっと……多分、恐らく……


啓太はそんなシャレにならないことを考えながらも、それを振り切るように走りながら家路につく。故に気づなかった。


自分を遥かに超える程の勢いでその場を駆け去っていくたゆねの姿に。自分がまた一つ、新たな地雷を踏んでしまったことに―――――



[31760] 【第二部】 第十三話 「どっぐ ばーさす ふぉっくす」
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/06/11 14:36
日が沈み、辺りもすっかり暗くなった中、灯りがともったアパートの一室がある。それは犬神使い川平啓太の部屋。一か月前、立て直しが行われたその部屋は真新しさを失っていない。だがその生活までは何一つ変わっていない。

朝起き、そのまま朝食を済ませた後、学校に行き、帰ってきた後に夕食を済ませ、そのままのんびりとした後、また眠りにつく。

そんな当たり前の日常。四年前、なでしこが自分の犬神になった時からずっと続いてきた生活。今、啓太はちゃぶ台の前で胡坐をかきながら新聞を読んでいる。それは夕食後の啓太の日課。朝は忙しくなかなか読むことができないためゆったりとしたこの時間にそれを読むことが啓太の密かな楽しみだった。だが啓太はなぜか難しい表情を見せたまま新聞と睨みあっている。まるで何かを必死に振り切ろうとするかのように、食い入るように新聞を凝視している。だがその内容は全く啓太の頭には入っていなかった。何故なら


「それでね、今日はいっぱい街を探検してきたの! ちょこれーとけーきもちゃんと買えたんだよ、すごいでしょ!」


自分の周りを飛び回りながら纏わりついてくる一匹の犬神がいたから。それは言うまでもなく啓太のもう一の犬神(見習い)ようこ。どうやら今日、街で出かけたことがよっぽど楽しかったらしくそれを矢継ぎ早に自分に向かって告げてくる。まるで初めてお使いにでもいってきた子供のよう。それはある意味間違ってはいないのだろう。現にようこはこれまでずっと山に封じられ、外に出たことがなかったのだから。そんなようこにとっては街に行くことは本当に楽しみだったに違いない。だから多少騒がしくても構わない。いつもならゆったりとした時間を過ごしたいところだが今日ぐらいはいいだろう。自分もそこまで子供ではない。だがどうしても見逃すことができない、無視することができないことが、事態が二つある。それは


「ちゃんとケイタの分も買ってるから! それとね、こんなもの見つけたの! ゆうえんちってところがあるんだって! わたし、ここに行ってみたい! ねえ、いいでしょ?」


近いのである。もう近いというかくっついている。宙を漂いながらもようこは後ろから啓太を抱きしめるように手を回しながらもたれかかってきている。全く遠慮なく、恥じらいなく。そうするのが当然だと言わんばかりに。それによって啓太の背中に柔らかい二つの物体が押しつけられ、その感触が伝わって来る。それだけではない。その息づかいが、女の子の匂いが襲いかかって来る。だが啓太はそれを感じ取りながらも必死にそれに耐えていた。それは啓太にとってまさに拷問に近い責苦だった。


あの……これ、一体何なんですか……? 何で俺、こんな状態に陥ってんの……? 何とか学校を終えて帰ってきて、家の無事に安堵して、夕食を済ませて一安心と思ったら何でこんな訳分からん状況に陥ってんだ? いや、うん、正直おいしい。確かにめちゃくちゃなところが多いが間違いなくようこは美少女。そのプロポーションも並はずれている。本当ならこっちからちょっかいを出したいところだ。しかしここまで露骨に密着されると逆に裏を疑ってしまう。その証拠にようこはどこか楽しそうにこちらの反応を伺っている。自らの体を押しつけながら。間違いなく確信犯だった。

ち、ちくしょう……! こ、こいつ、俺を弄んでやがる、いや、誘ってやがるのか!? なんて素晴らしいことを、じゃなかった、けしからんことを……! よ、よし、こうなったら一つ、躾をしてやるとしますか! うん、犬神使いとして犬神の躾はしっかりしないとな!


心の中でそう自分に言い聞かせながら、啓太がその誘惑のままようこに向かって手を伸ばそうとした瞬間、


ガチャン!


一際大きな音が台所から響き渡る。その音によって啓太の体はまるで条件反射のようにびくっと震え、動きを止めてしまう。啓太は思わず息を飲む。知らず背中に嫌な汗が、冷や汗が滲んできている。そのまま手に持っていた新聞に隠れるようにしながらも恐る恐る啓太は覗き見る。台所にいるもう一人の犬神、なでしこを。


「………」


なでしこは今、夕食後の洗い物を片付けているところ。それはいつもどおり、なにもおかしいことじゃない。うん、だが心なしかその洗い物の音がいつもより荒々しいような気がするんですけど……あの、なでしこさん、明らかに何か黒いオーラが後ろ姿から、背中から滲みでてるんですけど!? ちょっと、ちょっと待てっ!? ヤバいって!? ヤバいって何がヤバいか分からんぐらいヤバいって!? 表情を伺えないのが逆に怖すぎるんですけど!? 間違いなくなでしこが爆発しかけている! 今までようこに遠慮してたようだがどうやら今の状況は許容範囲を超えちまったらしい! な、何とかしなくては……!


「ねえ。聞いてるの、ケイタ? わたし、今度ゆうえんちに行ってみたいの! ねえってば!」


そんな啓太の心境を知ってか知らずかようこは啓太に肩車した状態でぽかぽかと啓太の頭を小突いてくる。そのふとももで啓太の顔を挟み込みながら。もはや狙ってやっているにしてもやりすぎだった。瞬間、ピシッと何かが割れるような音が聞こえてくる。もはや一刻の猶予ものこされてはいなかった。


「だ―――っ!? いい加減にしろっつーの!? これ以上纏わりつくんじゃねえっ!?」


啓太は新聞を放り投げ、叫びを上げながら自分に肩車されているようこをそのまま後方のベッドに向かって振り落とす。なりふり構わず、まさに今この場でなでしこという名の爆弾が爆発することを防ぐため。爆発物処理班顔負けの気迫が、もとい必死さがそこにはあった。


「きゃっ!? もう、いきなりなにするのよ、ケイタ!」
「そりゃこっちのセリフだっ! 暑苦しいんだよっ!」
「そんなこと言って、ケイタだって喜んでたくせに♪」
「なっ!? んなわけねえだろっ!?」
「ふふっ。いいじゃない。犬神ってすきんしっぷっていうのするんでしょ? それと同じだもん」

だがそんなことなど露知らず、いや恐らくはそれを知った上でようこは楽しそうに啓太に向かって絡んでくる。いくら追い払っても離れようとしない。くすくすと笑いながら啓太となでしこの反応を楽しんでいるのが傍目から見ても明らかだった。


こ、こいつ……間違いない! 間違いなく狙ってやってやがる……! なでしこが自分に強く出れないことを分かった上でちょっかいをかけてくるとは……恐ろしい奴! というかただ単に構ってほしいだけなのかもしれんがとにかくこのままではまずい! 主に俺の精神的な意味で、さらに最終的にはこの部屋の安全的な意味で……。ち、ちくしょう……誰だ、ハーレムが夢なんて言った奴は!? 夢どころか悪夢、天国どころか地獄なんですけどっ!? しかも一人増えただけでこの惨状……マジでしゃれにならん……くそっ……今からでも遅くない、過去の俺に馬鹿なことは考えるなと警告できれば……じゃなくて!? とにかくこの状況をなんとかせねば……


啓太が定まらない思考の中でも何とかこの修羅場を乗り越える策を必死に模索していると



「啓太さん、お風呂が沸きましたけどどうします?」


いつの間にか洗い物を終えたなでしこが笑いながら俺とようこの元に近づいてくる。いつも通りの笑顔で、雰囲気で。だがそれが逆に怖かった。これならまだ不機嫌な様子を見せていてくれた方がマシだと思えるような不気味さだった。だが啓太は顔を引きつかせながらも思いつく。ある意味で渡りに船ともいる状況が生まれたのだから。


「そ、そうか! じゃあようこ、お前先に入って来い! 今日は出かけてたんだろ?」
「む……」


強引にようこを引きはがし、押し出すように啓太はお風呂を勧める。うむ、こういえばようこも引き下がざるを得ないだろう。マジで助かった。これで一息つきながらもなでしこのご機嫌も取れる。まさに一石二鳥の策だった。もっともそれはなでしこの狙いでもあったのだが啓太は知る由もない。だがようこはそのまま何かを考え込んでいる。お風呂場と啓太、なでしこを何度も見比べている。啓太もなでしこもそんなようこの様子に首をかしげることしかできない。もしかしてお風呂の使い方が分からないのだろうか。そう思い、啓太は口を開こうとした瞬間


「じゃあ一緒に入ろ、ケイタ♪」


ようこはさも当たり前のようにその場で上着とスカートを脱ぎ捨て啓太に迫ってきた。そう、紛れもない下着姿で。そのあまりに突飛な、そして常識はずれな言動と行動に啓太はもちろんなでしこも固まってしまう。というか何をようこが言っているのかしばらく二人には理解できないほどだった。


「お、お前、何言ってんだっ!? っつーかここで脱ぐんじゃねえ!? 脱衣所があんだろうが!?」
「そ、そうです、ようこさん! そんな恰好しちゃいけません!」


それでも何とか我に返った啓太となでしこは慌てながらもようこに向かって制止の声を上げる。なでしこに至ってはまるで手のかかる子供に諭す母親の様な有様。もっとも外見年齢でいえば変わりはないためそれが余計不思議な光景を作り出していた。啓太もなでしこに続くようにようこを嗜めようとするもその視線はようこの下着姿に釘づけだった。

見えそうで見えない谷間。なめらかな腰つき、ライン。全裸とはまた違う魅力が、美しさがそこにはあった。分かっていても逃れられない悲しい男の性だった。なでしこにそれがばれていないのだけが唯一の救いだったと言えるだろう。だがそんな二人の制止を受けながらもようこはどこか不機嫌な、不満げな様子を見せている。


「わたしがどんな格好しようと勝手でしょ? そんなに気に入らないならあんたも一緒に入ればいいじゃない」
「そ、それは……」
「おい、待て!? 何で一緒に入ることが前提になってんだっ!?」


そんなむちゃくちゃなようこの反論に啓太は必死に異論を唱えるもようことなでしこには届かない。もはや訳が分からない事態の連続でなでしこも冷静な判断ができなくなってしまっているらしい。というかまず啓太が一緒に入ることが既に確定事項になっていることが一番の問題なのだが既にそんなことはなでしこの頭にはなかった。既になでしこはその内容を妄想し、顔を赤くしてしまっている。恋する乙女そのままの姿。


「ふーん……分かった! あんた身体に自信がないんでしょ? だからそんなに怒るんだ!」


だがそんななでしこの姿を勘違いしたようこはどこか勝ち誇りながら、自信満々で告げる。その美しい肢体を見せびらかしながら。それは優越感。家事という面ではどうやっても敵わないことは分かっていたがこっちの面では負けてはいないと、勝っていると言わんばかり。


「ち、違います……! そういうわけじゃなくて、その……」


なでしこはそんなようこの言葉に反論しようとするも流石にそういう話題を啓太の前ですることが恥ずかしく、黙りこんでしまう。ある意味で羞恥プレイのようなもの。古い貞操観念をもつなでしこにとっては当たり前の反応だった。だがそんななでしこの様子にようこはどこか妖しげな、楽しげな表情を見せる。まるでいいことを思いついたかのように。


「ふふっ、いいよ。じゃあ確かめてあげる♪」


ようこはそのまま楽しそうに笑いながらその指を振るおうとする。なでしこはそんなようこの動きに気づかない。それが一体何を意味しているのか。


「や、やめろ、ようこっ!?」


それを瞬時に理解した啓太は咄嗟にようこを止めようとするもそれは間に合わない。啓太はそれによって起こる事態を悟ったが故に凄まじい必死さを見せているもようこはそのまま無慈悲にその力を振るう。その瞬間


「………え?」


そんなどこかぽかんとしたなでしこの声が漏れる。一体何が起こったのか。フリーズしてしまったかのようになでしこはその場に固まってしまう。だがすぐに気づく。自分がどうなってしまっているのか。そこにはようこ同様、服が無くなってしまっている自分の体が、下着姿あった。

ようこの力の一つ、しゅくちによってなでしこは割烹着とエプロンドレスを奪われてしまったのだった。


「きゃああああっ!?」
「ぶっ!? な、なでしこ大丈夫かっ!?」
「け、啓太さん……そ、その、あんまり見ないでください……」
「え? あ、わ、悪い!? そ、そんなつもりは……」


そんななでしこの姿に思わず鼻血を出しそうになりながらも啓太は何とか耐える。しかしその視線が釘付けだった。ある一点に。それを感じ取ったのかなでしこは顔を真っ赤にし、両手でそれを隠そうとするも隠しきれていない。そんな二人の姿とは対照的にようこはその場に固まってしまっていた。だがようこはなでしこを下着姿にするためにしゅくちを使った。なのに何故固まってしまっているのか。それは


「あ、あんた、何でノーブラなのよっ!?」


何故かなでしこがノーブラだったから。そう、何も付けていなかったから。誰がそんなことを想像できるだろうか。確かに胸が小さければ付けていない女性ももしかしたらいるかもしれない。だがそれはあり得なかった。大きかった。もうそれ以外の言葉が出てこないぐらいデカかった。間違いなく超がつく程の巨乳。その両手で隠そうとするもこぼれでしまうほどの巨大な二つのメロンがそこにはあった。なのに何故ブラを付けていないのか。

冗談にも程がある事態にようこは驚愕し、口をパクパクさせることしかできない。恐ろしく着やせするなでしこに、そして間違いなく自分の胸を、おっぱいを凌駕するなでしこに戦慄していた。


「え!? そ、それは……その……」


なでしこはようこが言わんとしていることを理解するものの、それを口にすることが恥ずかしいのかそのまま視線を啓太へと向ける。自分がブラを付けていない理由へと。啓太はそんななでしこの視線に、そして同じように自分に視線を向けてくるようこによってその場に固まってしまう。そう、啓太はなでしこがノーブラであることを知っていたからこそ必死にようこのしゅくちを止めようとしていたのだった。


「っ! じゃあわたしもノーブラにする! ケイタはノーブラが好きなんでしょ!?」
「よ、ようこさんっ!?」


ようこは何度も啓太とノーブラのなでしこを見直した後、凄まじい勢いで自らのブラを外し、啓太に向かって晒してくる。大きさはなでしこには及ばないものの間違いなく美乳であるそのおっぱいを。啓太はとうとうその光景に鼻血を吹きだしてしまう。当たり前だ。何故かなでしこだけでなくようこまでその胸を晒してきているのだから。本当なら気を失いかねない程の絶景だった。


ちょっと、一体どうなってるわけ!? あれよあれよと間に何故か俺の犬神達が半裸になってるんだけど!? っていうかなでしこさん、何普通に俺のせいでノーブラにしてるんですっていう表情を見せてるわけ!? これじゃあ俺、自分の犬神にノーブラを強要してるみたいじゃん!? 完璧にどヘンタイじゃねえか!? い、いや……確かにノーブラは素晴らしいが決して無理やりやらしていたわけでは……っていうかお前、初めから付けてなかっただろう!? ノーブラの趣味、性癖なんてもっとらんっつーの!?


「な、何を訳の分からんこと言っとんだっ!? っていうか前を隠せっ!?」
「何でよ!? こっちの方がいいんでしょ? それともなでしこぐらい巨乳じゃないとダメなの!?」
「よ、ようこさん、落ち着いてください!」


そんな啓太の混乱など何のその。ようこはなでしこへの対抗意識でブラを外し、啓太へと迫って行き、なでしこはそんなようこを何とか抑えようと必死になっている。啓太はそんな二人に挟まれたままもみくちゃにされるしかない。傍目からも見れば羨ましいことこのうえない状況だったか巻き込まれている啓太にとってはそんなことなど関係なかった。


「なんでそうなるっ!? とにかく服を着ろっ!? こんなところ誰かに見られでもした……ら……?」


啓太が息も絶え絶えにその場を脱出しようとした瞬間、ふと気づく。それは玄関。先程まで誰もいなかったはずのその場所に人影がある。見覚えのある人影が。いつもとかわらない白い着物を着た犬神、はけがそこにはいた。


「「「………」」」


そのことに気づいたなでしことようこも動きを止め、はけへと視線を向ける。半裸のまま。啓太を間に挟んだもみくちゃの状況のままで。はけはそれをしばらく見つめ、そして深く目を閉じた後


「失礼しました。私はこれにて……」


そう静かに告げた後、すうっとその姿を消しながらその場から立ち去って行く。まるで何事もなかったかのように。まさに気遣いができるはけだからこそ可能な見事なスルーっぷりだった。


「ちょ、ちょっと待て、はけ――――っ!?!?」


啓太は絶叫を上げながらはけの後を追って行く。というか追いかけざるを得なかった。当たり前だ。新しい犬神を持った途端にこんな状況を見られたのだから。こんなことが祖母にバレたらどうなるか。最悪勘当させられかねない。なでしこはようやく自分が何をしていたのか気づいたのか慌てて服を着直している。ようこはそのままどこか不満げに啓太の様子を見つめているだけ。まるでいいところで邪魔が入ってしまったと言わんばかり。啓太は頭を抱えながらも必死に夜道の中、はけの後を追って行くしかないのだった―――――



(ったく……酷い目にあったぜ……)


啓太は心の中で愚痴をこぼしながらも電気を消し、自らの布団にくるまる。時刻は既に十二時を回ろうかというところ。明日、学校の啓太はそのまますぐ横になる。そして思い返す。散々だった今日一日の内容を。


あの後、何とかはけを見つけ、誤解を解いた後、再び啓太は家にはけと共に戻ってきた。どうやらようこのことが心配で様子を見に来たらしい。それ自体は嬉しいことなのだがいかんせんタイミングが悪すぎた、ある意味完璧だったといるのかもしれん。もうこいつは俺を驚かすタイミングでしか部屋に入ってこないに違いない。とりあえず俺もはけと話したいこともあったのでそのままようことなでしこを同時に風呂へ放り込んだ。有無を言わさず。ようこが何かずっと文句を言っていたが全て無視してやった。その間に俺ははけと話しあった。今の現状とこれからのこと。簡潔にいえばこのままではようこを俺の犬神にはできないということ。別に俺にちょっかいをかけてくる分には構わない……いやよくはないのだがまあそこはいいとしよう。だがやはりなでしことの関係は見過ごせない。今は表面化はしていないものの、二人きりの時にはどうなるかは分からない。それにいつまでもなでしこも我慢はできないだろう。最悪、二人とも潰れてしまいかねない。その前に俺がストレスで死にかねない。後一週間以内に何かしらの決着、妥協案を見つけない限りようこには悪いが山に戻ってもらうしかない。はけもそのことは了承している。元々そうなってしまう可能性は考えていたとのこと。同時にはけから伝言があった。それは薫からのもの。どうやらたゆねがちゃんと伝言を伝えてくれたらしい。薫からは明日の夕食に招待された。もっとも相談が本来の目的なのだが。何かいいアドバイスをもらえることを願うしかない。


啓太はそのままふと目を向ける。その両隣りにはなでしことようこがそれぞれの布団で横になっている。どうやらもう寝てしまっているようだ。本当なら女の子二人に挟まれて寝ると言う夢のようなシチュエーションなのだがもはやそんな余裕などないほど啓太は疲れ切ってしまっていた。啓太はそのまま深い眠りにつく。それがもう一つの戦いの狼煙になることに気づかないまま―――――



静寂があたりを支配している。時計の音だけが時間を刻んでいる闇の中、音もなく動き始める一匹のケモノがいた。ケモノはそのまま完璧に気配を消したまま、布団から姿を現す。


(ふふっ……やっと寝たみたいだね、ケイタ♪)


ケモノ、金色のようこはその名の通り、その両目に金色の光を宿しながら自らの主、いや獲物へと妖しい笑みを浮かべる。その目的を果たすために。そう、ひと言でいえば夜這い、もっと直接的に言うなら啓太を寝取るために。ある意味でもっとも単純かつ、確実な方法。

どうやらなでしこはそういった行為は啓太とはまだしていないらしい。奥手ななでしこらしいといえばらしい。ならそこに自分が付け入る隙がある。なでしこにはない積極性が自らの長所であり、武器であることをようこは知っていた。そしてきっと啓太はそうなれば責任を取ってくれるはず。ちょっとずるいような気もするが仕方ない。もともとあっちが先に抜け駆けをしたのだからおあいこだ。なでしこも寝てしまっている今が最大の好機。


ようこはそのまま自らの寝巻をはだけさせながら啓太へと距離を詰める。扇情的な、妖艶さを感じさせる姿を見せながら。知らず、ようこは息を飲む。体が昂る。震える。それは女の、ケモノの本性。雄を前にした雌の姿。


(いただきます♪)


ようこが抑えきれない本能のまま、啓太へと襲いかからんとしたその瞬間


「へぶっ!?」


ようこは何かに足を掴まれ、そのまま宙から地面、布団へと叩き落とされてしまった。顔面からヘッドスライディングをかますかのように。ようこはしばらくそのまま何が起こったのか分からないまま悶絶するもすぐに体を起こし振り返る。そこには


どこか言いようもない圧迫感を、必死さを見せているなでしこの姿があった。その手がしっかりとようこの足を掴んでいた。決して離さないと言わんばかりの力を以て。

その姿にようこは圧倒されてしまう。それは今まで見たことのないような姿。どこか自分に遠慮しているかのようないつものなでしこの姿ではない。ようこは悟る。なでしこがこうなることを分かった上でずっと寝た振りをしながら自分を監視していたのだと。いつもの姿からは想像もできない程の深謀遠慮ぶり。なでしこの本質を垣間見た瞬間だった。だがこのまま黙って引き下がるわけにはいかない。


『ちょっと、離してよ。これからいいところなんだから!』


ようこはどろんとそのお尻に大きな狐の尻尾を出し、それと共に身振り手振りをしながらなでしこへと話しかける。一言も言葉を発することなく。それは犬語と呼ばれる物。犬神たちは尻尾や、身振り手振り、表情の変化で声を出すことなく会話をすることができる。人間で言うならば手話に近い物、だがその内容は手話を大きく超えるもの。ケモノであるがゆえに可能な伝達手段だった。啓太を起こさないようにするためにようこはそれによってなでしこへと話しかける。自分の邪魔をするなと。


『駄目です、ようこさん! 啓太さんが寝ている間にそんなこと!』


なでしこも自らの尻尾を現しながら犬語によって反論する。そこにはいつもの遠慮がちな姿は全くない。絶対に譲れない、見過ごすことができないラインを越えようとしているようこへの対抗心だった。


『なによ、あんただって昨日ケイタに近づこうとしてたじゃない! それと同じよ!』
『そ、それとこれとは話が違います! それにようこさんだってずっと啓太さんといちゃいちゃしてたじゃないですか!』
『ふん、だったらあんたもすればいいじゃない。今までずっとそうしてたんでしょ? いい子ぶっちゃって』
『そ、それは……でも……』
『そのお化けみたいな巨乳で迫ればいいのにしなかったのはあんたでしょ? わたしはわたしのやりたいようにするから邪魔しないで』
『お、お化け……!?』


犬語によって激しく言い争いながらも二人は平行線のまま。身動きが取れない。端からみれば少女二人がよく分からない動きをしあっているようにしか見えないのだがその中では譲ることができない女の戦いが、応酬が行われていた。だがこのままでは埒が明かないとしびれを切らしたのかようこが実力行使に出ようとする。


『ああもう! うるさい! ちょっとどっかに行ってて!』


ようこが我慢の限界を超え、そのまま指を振るいながらその力、しゅくちの力を振るう。服を脱がせるためではなく、なでしこを遠くへと飛ばすために。その間に目的を達成しようと言う狙いだった。だがその瞬間、凄まじい霊力がなでしこを包み込む。


『なっ!?』


その光景にようこは驚愕する。なでしこの霊力に。かつて三百年前、自らの父と戦った時以来にみるなでしこの霊力だった。だがその力に戦慄する。そう、なでしこはその霊力によって力づくでしゅくちを払いのけたのだった。普通ならあり得ないような事態だった。まさになでしこの執念が、女としての執念が形になったかのような事態。それに気圧されながらもようこは必死に啓太へと迫ろうとするも、同じく必死にそれを阻止せんとするなでしこ。

そんな自分を、自分の貞操を巡る攻防が繰り広げられているとは露知らず啓太は眠り続けている。だが本能でそれを悟っているのか、どこか辛そうな表情をみせながらうなされている。どうやら悪夢を見ているらしい。恐らくはこれまでの日常と変わらないであろう悪夢を。


結局その攻防は日が登るまで続き、啓太が起きたことでようやく終わりを告げる。その際、何故か両目の下にクマを作ったなでしことようこに啓太が驚愕することになった。一体何があったのか。何となく想像はつくものの、啓太は結局それを聞くことはできなかった。


余談だが、この日を境に啓太が寝ている間には手を出さないという休戦協定が二人の間に結ばれたのだった―――――



[31760] 【第二部】 第十四話 「啓太と薫」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/06/13 19:40
手入れの行き届いた大きな廊下を一人の少女がつかつかと歩いている。だがその姿は様になっている。豪華な廊下にも引けを取らない雰囲気を、気品を感じさせる所作。何よりも目を引くのがその容姿。宝塚顔負けの豪華な、煌びやかなドレス、そしてそれに合わせるかのような赤い縦巻ロールの髪。西欧の婦人かと見間違うほどの容姿とそれに相応しい美貌を合わせ持った少女。それが薫の犬神、序列一位、せんだんだった。

せんだんはどこか慌てた様子で、足早にどこかに向かって行く。だがそれでも端から見ればいつもどおりに見えるように振る舞っているのが彼女らしさ、序列一位、リーダーであるせんだんらしさと言えるだろう。その向かう先は屋敷のホール。そしてそこにいる他の仲間、犬神達がいるであろう場所だった。今は夕食前。この時間帯はいつもは自室などで好き勝手に過ごしている仲間達も食堂に近いホールに集まるようになっている。もっとも学校から帰ってくる自分達の主人である川平薫を出迎えることが一番の理由ではあるのだが。

だが普段なら主人が戻って来る喜ぶべき時間帯、状況であるはずにもかかわらずせんだんの表情はどこか難しいもの。まるでこれから何か面倒なことが起こることを予感させるようなもの。それは彼女がこれから起こることを、起こるであろう事態とその対応に頭を悩ませているからに他ならなかった。いや、それ事態は構わないのだがそれによって起こる他の仲間たちの騒ぎに憂慮せざるを得ない。そんなことを考えているうちにせんだんはホールの入口までたどり着く。せんだんはそのまま一度深呼吸をした後、それまでの思考を切り替え、いつもの厳格な態度を、雰囲気を纏いながらその扉を開く。そこには


「えいっ! えいっ! がんばれともはね! がんばれともはね! えーーいっ!」
「ねえこの辺りでいい、いまり?」
「いーんじゃない? あんまり奥だとまた運ぶのが大変だし」
「それでフラノは思うのです。やっぱりここは一つ、イメージチェンジを図るべきではないかと!」
「それ以上キャラを変えたら誰も付いてこれなくなるぞ」
「え~? そんなことありません! きっと需要はあると思います! そうこのいぐさちゃんから借りた本にも書かれていましたから♪」
「それは、ごく一部の話」
「あ、あの……その……」


自分を除く八人の犬神達が好き勝手に騒ぎ、めちゃくちゃになっている光景、ある意味いつも通りの光景が広がっていた。


「はあ……」


せんだんは額に手を当てながらも頭を振り、改めてその惨状に目を向ける。一人ひとりが自分がやりたいように自由に、思うがままにくつろいでいる。それ事態は構わない。ここは自分達の家の中。その中では好きに過ごしても何の問題もない。だがあまりにも自由すぎだった。


「えいっ! とうっ! ああっ!? うああああっ!?」


その中でも一番騒がしく、やかましいのがともはね。ともはねはその手にゲームのコントローラーを持ちながらテレビに向かい、大声を、奇声を発し続けている。まさに拡声器顔負けの大音量で。メガホンでも使っているのではないかと思えるほどの騒音。だがともはねはゲームに熱中しているため全くそれに気づいていない。その声にはいつも文字通り頭を痛めている。一日一時間と決められているにも関わらずこの被害。もっとも他の犬神たちは既に慣れてしまっているのかさほど気にした様子をみせていない。自分が繊細なのかそれとも他の犬神達が図太いのかは分からないがどっちにしろ何度言っても直らないので仕方がない。


「そういえばごきょうやちゃん、例のラブレターはもう出したんですか?」
「ラ、ラブレター? な、何の話だ?」
「もう、とぼけったってダメですよ♪ フラノは知ってるんですから、毎日郵便受けを覗きに行ってるいじましいごきょうやちゃんを♪」
「そ、それは……! ご、ごほんっ! それよりもフラノ、わたしが買っていたプリンがなくなっているんだが心当たりはないか……?」
「え? フラノは何も知りませんよ? そんなゼリーなんてこれっぽっちも知りません!」
「語るに落ちているぞ、フラノ」


ともはねから少し離れた場所でごきょうやとフラノが言い争っている。もっとも言い争いというよりはじゃれ合っていると言った方がいいかもしれない。元々は冷静な、クールなごきょうやだがやはりそれでもフラノを前にすると少女らしいところが出てしまうらしい。そんなごきょうやの姿がお気に召したのかさらにフラノは楽しそうに話しかけていく。自分もリーダーではあるがフラノやてんそうの扱いに関してはごきょうやに任せている部分が大きい。そう言った意味ではごきょうやは副リーダーに近いと言えるかもしれない。


「やっと実ができたねー。でもどうする? これ、食べれるのかな?」
「一応食べれるはずなんだけど……うーん、ちょっと見た目が怪しすぎるよねー、どうしよっか? ともはねにでも毒見してもらう?」
「そだね。ちゃんと加熱すれば大丈夫だよね、じゃあ準備しよっか!」


端から聞けば危険極まりないやり取りをしているのが双子の犬神、いまりとさよか。どうやらまた訳の分からない植物を栽培し、持ちこんだらしい。双子には植物の栽培という稀有な才能があり、薫にもそれを認められているのだがいかんせん暴走しがちである。しかも双子、二人分の行動力があるためその迷惑さはある意味ともはねを大きく上回る。せんだんの頭を悩ませる大きな割合を占める原因だ。


「進み具合はどう、いぐさ?」
「うん。このまま行けば何とか期日には間に合うと思う……でもやっぱり資料が少なくて……」
「そう……やっぱり協力してもらうしかないかな」
「うう……できればご迷惑はおかけしたくないんだけど……」


他の者たちとは違い、騒ぐことなく交流しているのがいぐさとてんそう。絵という共通の趣味を持つ二人はよく交流を図っている。ここ最近は特にそれをよく見かける。他のメンバーに比べればお淑やかな、常識的な組み合わせと言えるだろう。だがそれでもその趣味についてはやはり余人には理解しがたい物なのだがそれは割愛。


「………」


そして最後の一人、たゆねは騒ぎを、おしゃべりをしている他のグループに加わることなくホールの中をせわしくなく歩きまわっている。同じところをぐるぐると。犬のように。だがそれはいつものたゆねの姿ではない。たゆねもこの時間帯になれば他の犬神達同様、騒ぎ、おしゃべりを楽しんでいる。だが今日は明らかに様子がおかしい。他の犬神達もそれに気づき、話しかけるもたゆねは心ここに非ずと言った風に要領を得ない。だが歩きまわりながらもちらちらとホールにある時計を何度も見直している。どうやらたゆねも自分と同じ案件を気にしているらしい。もっともその理由は全く別のものなのだろうが。


「みなさん、お伝えしたいことがあります! 少しお静かに!」


一度大きく深呼吸し、手を叩きながらせんだんがホールにいる全員に向かって声を上げる。いつも通りの、厳格な、序列一位に相応しい風格と共に。並みの犬神ならその声を聞いただけで本能で従ってしまうほどのカリスマとも言うべきものがあった。だが


「ちょっとたゆね、さっきから何してんのよ?」
「そうそう、何そんなにそわそわしてるの? トイレならさっさと行きなさいよ」
「ちっ、違う! 僕はトイレなんて我慢してない!」
「あ~ん、ごめんなさい、ごきょうやちゃん。今度ちゃんとお返ししますから~」
「ダメだ。これで何度目だと思っている。今回は流石に誤魔化されんぞ、フラノ」
「どうする? 私が連絡してもいいけど」
「うん……悪いけどお願いしてもいい、てんそう?」
「うわあああん! やられちゃったよおおおっ!?」


全くそれを意に介すことなく、彼女たちはさらに激しく騒ぎ続ける。せんだんの声など全く聞こえていないのかのように。自由奔放、協調性のかけらもない有様。恐ろしいほど個性的な薫の犬神達からすれば当たり前の反応、光景ではあるのだがそれをまとめる役、リーダーであるせんだんからすれば頭を痛めるしかない。自信の力量不足もあるだろうがそれ以上に他の犬神達の個性が、キャラクターが濃すぎるのがその原因。もっとも他のメンバーからすればお前が言うなと言われること請け合いだが。主である薫が自分達の自主性を重んじてくれているのも理由の一つだがいつまでも言い訳はしていられない。せんだんはストレスからぷるぷると手を震わせながらも平静を装いながら


「静かになさい! これから啓太様がお越しになられるのですよ!」


先程よりもさらに大きな声で用件を告げる。それがせんだんがホールまでやってきた理由。夕食に招待した啓太をもてなす準備を整えるため。どうやら薫に会いに来るのが本当の目的のようだがそれでも夕食に招待する以上、不始末を見せるわけにはいかない。もっともこの惨状ではそれも難しいことは間違いない。だがその瞬間、


ホールはまるで水を打ったかのような静けさに包まれた。先程までの騒ぎが嘘のように。一瞬で。そしてしばらくの静寂の後



「「「えええええ―――――っ!?!?」」」



それまで以上の騒がしさの、驚きと歓声にも似た叫びがホールに響き渡る。合唱団も顔前の見事な調和、シンクロぶり。それまでの協調性ゼロの姿からは想像もできないほどの一致団結ぶりだった。そんな現金な、ある意味分かりやすい仲間たちの姿にあきれ果てながらもせんだんは自らの役割を果たすべく動き始めるのだった―――――



「ふう……」


大きな溜息を吐きながら、犬神使い川平啓太は一人、大きな屋敷の前に辿り着いていた。そこは自分のいとこである川平薫とその犬神達の家。学校の帰りでそのまま寄ったため学生姿のまま。啓太はそのまま屋敷の入り口、扉の前へと向かって行く。だがその姿はどこかそわそわしている、落ち着きがない物だった。


うむ……一度来ているとはいえ、やっぱこの屋敷のでかさには圧倒されるな。何度来ても慣れそうにはないが。そう言えば前来た時はなでしこも同じように委縮してたっけ。何だかすげえ懐かしい気がするな。あの時はここにくるのが嫌で仕方がなかったんだっけ……主にたゆね関係で。加えて他の犬神達にも嫌われてたし……何だか感無量だ。もっとも今はそれよりを遥かに超える難問が、難関が俺の身に降りかかっているわけだが……あれ、なんか涙が出てきそうなんだけど……何で俺、こんな目にばっかあってんだろう? 考えたら何か悲しくなってきた……ダメだ! 弱気になるな、俺! 気をしっかり持て! それを何とかする手掛かりを得るためにここまで来たんだから! 他人任せだという声が聞こえてきそうだがそれでも構わない! 事は一刻を争うのだから! ではいざ!


啓太が己の中の葛藤と戦いながらも意を決して扉の呼び鈴を鳴らすと


「お待ちしておりました。ようこそ、啓太様」


時間を置くことなく、扉が開くと同時に恭しく頭を下げながらいつかと変わらない姿でせんだんが出迎えてくれた。なでしこがいないことを除けば初めてお呼ばれした日と同じ光景がそこにはあった。


「おう、久しぶりだな、せんだん。元気そうだな」
「はい、啓太様もお変わりないようで。大したもてなしはできませんがどうかゆっくりして行かれてください」
「あ、ああ……そうさせてもらうぜ。そういえば薫の奴は? もう帰ってきてんのか?」
「いえ、薫様はまだお戻りになられていません。ですがじきにお戻りになると思いますので」
「そっか……じゃあ先に上がらせてもらうぜ」
「はい、ではご案内いたします。どうぞ」


俺はそのまませんだんに言われるがままに屋敷へと案内される。むう……やっぱり何度見てもすげえ……ほんとに同じ世界の人間、いや犬神なのだがそれでもその格好は凄まじい。違和感バリバリだ。似合ってはいるのだがやはり前にするその存在感が半端ない。かつらでも被っているのかと思ったがどうやら地毛らしい。これではけの妹だってんだから訳がわからん。突然変異か何かなのか。あまり詳しくははけも教えてはくれなかったし。心なしかはけが嘆いていたような気もするが……触れない方がよさそうだな……


「そういえば啓太様、なでしこは元気にしているのでしょうか?」
「えっ!? あ、ああ! なでしこね、うん、元気にやってるぜ、あはは……」


考え事をしている最中に話しかけられてしまった啓太はどこか慌てながらもそれに応えるも、やはり動揺を隠しきれてはいなかった。それはその内容。それ自体に嘘はない。確かになでしこは元気にやっている。むしろある意味で元気すぎるほどに。こっちの胃がストレスで穴があきそうなほどに。


「そうですか……やはりようこが迷惑をかけているのですね」
「えっ!? お、お前どうしてそのこと知ってんだっ!?」
「そのことについては兄から……はけ様から伺っています。ですが御心配なさらずに。そのことを知っているのはわたしとごきょうやだけです。他の者たちに知られればご迷惑をおかけしかねないので……」
「そ、そっか……悪いな。助かるぜ」


思わぬせんだんの返しに焦るものの、何とか啓太は安堵の声を漏らす。


マジで助かった……せんだんとごきょうやなら口を滑らすことも言いふらすこともないだろう。流石はリーダー、序列一位と言ったところか。気配りといい、他の犬神達のことといい完璧に把握しているらしい。家にぜひ欲しい……い、いややめとこう。大人数ならともかく今の状況でリーダーなんて作ったらどうなるか考えたくもない。新たな火種を作るだけだ。っていうかこれ以上犬神を増やすなんて出来るわけない。自殺行為にも等しいだろう。


「では今はなでしことようこだけで留守番を……?」
「いや、今日ははけに後を任せてきた。日中は仕方ないけど今日は遅くなりそうだったからな」
「そ、そうですか……」


せんだんはそんな啓太の言葉に苦笑いすることしかできない。なでしことようこの間に挟まれた兄の、はけの姿が目に浮かぶようだ。ストレスによって兄が倒れないことを祈るしかない。


そんなこんなで啓太達はホールの前までたどり着く。思ったよりも長く話しこんでしまっていたらしい。だがいつまでたっても啓太はその扉を開けようとはしなかった。


「………」
「啓太様……?」


そんな啓太の姿を訝しみながらせんだんが話しかけるも啓太はそのドアノブを持ったまま動こうとしない。一体どうしたのだろうか。だが啓太の表情は真剣そのもの。その気迫にせんだんはそれ以上話しかけることができない。そしてついに啓太が扉を開けホールに入った瞬間


「わ~い、啓太様っ♪」


喜びの声と共にともはねが凄まじい速度で啓太に向かって突進してくる。まるで久しぶりに帰ってきた主人を出迎える子犬のよう。だが小さな少女であるともはねの突撃の威力は子犬の比ではない。しかし


「おう! 久しぶりだな、ともはね!」


それを難なく啓太は受け止める。まるでそれを待っていたと言わんばかりに。ドヤ顔を晒しながら。完璧なタイミングと手際によって啓太はその洗礼を受けきった。


ふっ……甘いな、ともはね! 同じ手が何度も通用するとでも思ったか! 男子三日会わざれば刮目して見よの言葉通り、俺はもうあの時の俺ではない! 同じ手はもう二度と俺には通用しない。残念だったなともはね、今回は俺の勝


「お久しぶりです、啓太様~♪」
「「いらっしゃいませ、啓太様―!!」」
「ぐぼあっ!?」


啓太が自らの勝利を確信した瞬間、背後から、左右から新たな刺客であるフラノ、いまり、さよかが奇襲を仕掛けてくる。まさか追加攻撃が、奇襲が全方位からあるとは欠片も思っていなかった啓太は為すすべなく悲鳴を上げながら吹き飛ばされる。フラノ達にとっては抱きつきながら出迎えたつもりなのだがその力はラグビーのタックルにも引けを取らない程のもの。彼女達が人外、犬神である証でもあったのだがそんなことなど啓太には関係ない。啓太はそのままともはねを含めた四人によってもみくちゃにされてしまう。以前よりもはるかに酷い有様だった。


「ひどいです、啓太様! フラノはずっと啓太様が来られるのを待っていましたのに~」
「いいところに来てくれました、啓太様!」
「ちょうど新しい果物ができたところなんです、ぜひ毒……じゃなかった味見してみてください!」
「啓太様、ともはねと遊びましょう! あたしでんぐり返しができるようになったんです! 見てください!」
「ま、まて……お前ら……分かったからちょっと離れろっつーのっ!?」


都合四匹の犬神によってもみくちゃにされながらも啓太は息絶え絶えに脱出しようとする。だがその力に抗うこともできずにされるがまま。窒息死しかねない状況だった。本気でしゃれにならないレベルに啓太が意識を失いかけんとした瞬間


「あなたたち! いい加減になさい! 啓太様に失礼ですわよ!」


まるで犬の遠吠えのようにホール中にせんだんの怒号が、命令が響き渡る。同時に啓太を襲っていた四匹に犬神達はまるで号令がかかったかのようにその場におすわりをしてしまう。まさに犬の条件反射その物だった。後にはまるで追い剥ぎにでもあったかのようにボロボロになってしまった啓太の残骸があるだけだった―――――



「ったく……酷い目にあったぜ……」
「申し訳ありません、啓太様。後できつく言っておきますので……」
「えー? ずるい、リーダーばっかりいい子ぶっちゃって!」
「そうそう! きほんてきじんけんのしんがいだー!」
「お黙り! どうやらまだおしおきが足りないようね!」


きゃーという声を上げながら双子がせんだんをからかいながら逃げ回っている。どうやらせんだんも頭に血が上ってしまっているのかそれを追いかけまわしている。はけ同様苦労が絶えない生活をしているのが目に見える。ある意味俺の苦労を一番理解してくれるのはせんだんなのかもしれない。


「応急処置は終わりましたがまだ痛むところはありますか、啓太様?」
「いや、大丈夫だ。さんきゅーな、ごきょうや」
「いえ、お気になさらずに」
「では改めまして啓太様! ぜひフラノと一緒にバカンスに行きましょう!」
「バカンス……?」
「はい♪ とってもえぐいビキニを着ますよ~きっと啓太様も気に入ってくれるはずです♪」


ごきょうやの応急処置を終えた俺に向かってフラノが何か訳が分からんことを言いながら近づいてくる。うむ、全く天然、電波っぷりは変わっていないようだな。何を言っているか何一つ分からん。もしかしたら以前よりも悪化しているのかもしれん。


「すいません、啓太様。フラノは今、夏の女というものに影響されていまして。何でもイメチェンをしたいのだとか……」
「それとバカンスに何の関係があるんだよ……」
「細かいことは気にしたらいけませんよ、啓太様! 楽しければ何でもいいんです! さあ、一緒にフラノと温水室へいきましょう! さーびすさーびすしますよ♪」
「ぶっちゃけすぎだろっ!? っていうか場所がこの屋敷の中かよ!?」


へらへらと笑いながら腕を引っ張って来るフラノに呆れかえることしかできない。もはや何をしたのかも分からないが、どうやら俺に遊んで、いや俺をおもちゃにして遊びたいらしい。何とかごきょうやがそれを抑えてくれているがいつまでも持ちそうにない。というかこいつら、以前よりも酷くなってねえ? っていうか俺、今日は遊びに来たんじゃなくて薫に用があってきたんだけど……


「けーた様! それよりもともはねと一緒に遊びましょう! このゲームが難しくてクリアできないんです!」
「あらら、ダメですよ、ともはね。啓太様はこれからあだるとな遊びをされるんですからお子様は禁止です♪」
「むー! あたしだって大人になれるもん!」
「お前達、もう少し大人しくしないか! 啓太様が困ってらっしゃるだろう!」
「年増なんてほっておいて私たちと行きましょう、啓太様! 新しい果物をぜひ食べてみてください! きっとおいしいですから!」
「そうそう! ぴっちぴっちの私達がご案内しますよー!」
「だ、誰が年増だっ!? お前達と百歳も離れていない!」
「あ、あの……啓太様……よかったら絵のモデルになっていただけませんか……?」
「ぜひ。悪いようにはしない」

「だ―――――っ!? いっぺんにしゃべるんじゃねえええっ!? 訳がわかんなくなるだろうがああああっ!?」


啓太がついに堪忍袋の緒が切れたかのように絶叫を上げながら薫の犬神達を振り払おうとするもその数が多すぎるために対応しきれない。一匹ずつでも手を焼くのにそれがこれだけ。聖徳太子でもなければ対応できないような状況。改めてこれだけの数の犬神を持っている薫に尊敬の念を抱いてしまうほど。もっとも彼女たちの薫と啓太への接し方は大きく異なるので一概には言えないのだが。


「う~~っ!」


そしてそんな啓太を中心とした騒ぎの輪の中に入っていけないたゆねはぐるぐるとその周りをうろついているだけ。本当なら割って入りたいところなのだが羞恥心がそれを許さない。でもやっぱり気になって仕方ない。昨日の夜からずっと楽しみにしていたのにまさかこんな事態になるとは思っていなかった。このままではまともに話すこともできない。でもどうすれば。素直になれないツンデレの悲しい宿命だった。


そんな騒ぎを少し離れた所から呆れ気味にせんだんは眺めている。もうすでに騒ぎを収めることはあきらめてしまったらしい。せんだんはそのまま改めてその騒ぎの中心である啓太へと目を向ける。

川平啓太。

川平家の直系であり、自らの主、川平薫のいとこにあたる人物。落ちこぼれの犬神使いという不名誉な扱いをされている存在。

以前までの自分達ならこんな風に啓太に接するなど想像もできなかっただろう。自分達は啓太に対してマイナスのイメージしかもっていなかったのだから。儀式の珍事、信じられないような噂に、事件。およそ破邪顕正を志すべき犬神使いとしてあるまじきあり方。だがそれが今、嘘のように犬神達に懐かれている。それは恐らくは死神の一件もあったのだろうがやはり犬神使いとしての才が為し得ることに他ならない。

一度、父と兄、最長老とはけに聞いたことがある。何故啓太にそこまで目をかけるのか。二人は皆が落ちこぼれとして啓太を見下している時から、その前からずっと啓太に目をかけているかのような言動を見せていた。それが気になったからこそ。そしてその理由を知る。かつての初代、川平慧海。その人柄と雰囲気に川平啓太は似ているのだと。二人とも全く同じ理由を教えてくれた。自分達は初代がどんな人物だったかは知らない。だが直接会ったことのある二人がそう言うのだからそれは真実なのだろう。同時に思い至る。それはなでしこ。恐らくはなでしこもそれと同じことを思ったであろうこと、そしてきっとそれがなでしこが啓太に憑いた理由なのだと。

その理由も最近分かってきたような気がする。次第に惹かれて行く仲間たちの姿が何よりの証。もっとも全裸になることだけは理解できないが。そしてもう一つ、気にかかっていることがせんだんにはあった。

それは薫と啓太の関係。かたや十年に一人の天才と称されるほどの犬神使い。かたや落ちこぼれの烙印を押された犬神使い。同じ川平の直系でありながらあまりにも対照的な二人。血筋で言えば次期当主を争う定めにある二人。だが二人がどういう関係なのかは全く知らない。何度か交流はしているらしいが自分達は一度もその場に居合わせたことはない。だが薫は啓太のことを慕っているらしい。それは啓太のことが話題に上がる際の様子からも明らかだった。啓太のことを話している薫は本当に楽しそう。自分達と一緒にいる時は見せない表情を、感情を感じてしまうほど。それ故にせんだんはこの機会に薫と啓太の関係をその目で見てみたいと思っていたのだった。

そんなことを考え込んでいる間もまだ騒ぎは収まりそうにない。流石にこのままでは収拾がつかないと判断し、溜息を吐きながらもせんだんがそれを収めようとした時、


「急いで帰って来たんだけど、もう始まっちゃってたみたいだね」


そんな心地いい、聞きなれた声が響き渡る。まるで透明な大気を、空気を思わせるような声。静かさの中に確かな存在感を感じさせる少年の声。


それによってそれまで騒ぎたてていた薫の犬神達は一斉にその動きを止め、振り返る。その声の主の元、そして自らの主の元へと。やっと解放された啓太もよろよろと立ち上がりながら自らのいとこ、友人へと向き直る。


「ただいま、みんな。それにお久しぶりです、啓太さん」


楽しそうな雰囲気を隠しきれないように優しい笑みを浮かべながら屋敷の主、そして犬神達の主である川平薫が啓太へと挨拶を告げる。


それが犬神使い、川平啓太と川平薫の久しぶりの再会だった―――――



[31760] 【第二部】 第十五話 「啓太と薫」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/06/28 15:49
「ったく……やっと解放されたぜ……」
「お疲れさまでした、啓太さん」

げんなりした様子の啓太をどこか楽しそうに見つめながらも、川平薫はねぎらいの言葉をかける。だがそんな薫の姿に不満があるのか啓太は不機嫌そうな表情を見せるも薫には嫌味は通用しないと悟ったのか溜息を吐きながら用意された椅子へと腰掛ける。それに合わせるように薫も向かい合わせに用意された椅子へと腰を下ろす。今、二人は夕食を終え、庭にある小さな椅子とテーブルに着いたところ。既に日は沈み、辺りは電灯と屋敷の明かりだけが照らし出している。だがその光がその手入れされた庭の美しさを一層際立たせている。どこか幻想的な雰囲気を感じさせる空間だった。

「まったくだ。何でお前と話に来ただけなのにこんな疲れなきゃなんねえんだ? 俺、一応来客のはずなんだけど?」
「そうですね。でもみんな啓太さんに会えて嬉しかっただけですよ。いつもはあんなに騒がしくはないですから」
「やっぱ今日ほどじゃなくてもいつも騒がしいんだな……」
「ええ、それはもう。毎日楽しいですよ」

薫の言葉の遠回しな意味に気づいた啓太は改めて肩を落とす。同時に先程までの夕食の光景が思い出される。まるで戦争でも起こったのではないかと思えるような大騒ぎ。せんだんやごきょうやが何とか収めようとするもなんのその。騒ぐ勢力の方が圧倒的に優勢である以上どうしようもなくほとんどバイキング(争奪戦)のような有様だった。しかもその騒ぎに俺まで巻き込むのだからたまったものではない。どさくさにまぎれて噛まれ、追いかけ回され散々な有様。その飼い主であるはずの薫も笑いながらそれを見ているだけで助けようとしない。結局いつもどおりの結末に落ち着く羽目になったのだった……


「まあいいさ。とりあえず久しぶりだな、薫。元気そうでよかったぜ。最近全然会ってなかったからな」
「すいません。最近忙しくて……」
「ああ、なんか仮名さんと一緒に依頼をこなしてるんだろ? そうならそう言えっつーの。もしかして俺、避けられてるのかと思ったぜ」
「そんなことありませんよ。啓太さんもなかなか本家の方に顔を出していなかったのもありますし」
「うっ……そういやそうだったな……」

薫の言葉に啓太は思わず言葉を詰まらせる。それはある種の後ろめたさ。啓太はなでしこが憑いたことで何とか犬神使いとしての対面は保ててはいるもののやはり周りからは落ちこぼれとして見られているためよっぽどのことがない限り本家の方には顔を出していなかった。その間はその代理として薫が様々な行事や仕事をこなしてくれていたらしい。そのことに思い至ったのか啓太はどこか顔を引きつかせながら罰が悪い表情を見せるものの、薫自身はそれをいつも通りにこにこと眺めているだけ。まるで全てお見通しと言わんばかり。このままではいけないと啓太は強引に話題を変えることにする。

「ごほんっ! そ、そういえばまだ礼を言ってなかったな。さんきゅーな、薫。死神の時には助かったぜ」
「いえ、僕たちは何もしていませんから。それにお礼を言いたいのは僕の方ですよ。あの出来事のおかげであの子達も随分成長しましたから」
「……? なんだかよく分からんがそう言ってもらえると助かるぜ。ともはねとたゆねには悪いことしちまったからな」
「あれはともはね達が進んでしたことですから。本人達も反省してるからおあいこです。でも僕もあれから聞いてみたかったことがあるんです。聞いてもいいですか?」
「ああ、何だよ?」

何故か改まったように尋ねてくる薫の様子に啓太は呆気にとられる。だが同時に激しいデジャブに襲われる。そう、自分は何度もこの感覚を、展開を味わったはず。だがそれが何だったか思い出せない。それが喉に出かかった瞬間

「なでしことはあれからどうなったんですか?」
「ぶっ!?!?」

結局啓太はいつかと同じように噴き出すことしかできなかった。もう何度も聞かれたことなのだがやはりいきなり、しかも薫にまで聞かれるとは思っていなかった。

「い、いきなり何の話だっ!?」
「いえ、あの日からずっと屋敷では噂で持ちきりなんですよ。啓太さんとなでしこがどうなってるんだろうって。死神の呪いのせいでみんな会いに行けてなかったから気になって仕方なかったみたいなんです。もっとも僕もその一人なんですけどね」

むせ込みながらも何とか平静を取り戻そうとしている啓太を微笑みながら見つめている薫。そんな薫の姿に啓太は思い出す。やっぱりこいつはどSだと。そして間違いなくこいつがあの犬神達の主なのだと。

「ったく……犬神も犬神なら飼い主も飼い主だな……薫、お前、しばらく見ない間に性格悪くなったんじゃねえか?」
「そんなことは。でも安心しました。なでしこが憑いてからは啓太さんはめっきり真面目になっちゃったって聞いてましたから。やっぱりいつも通りの啓太さんでよかったです」
「悪かったな……どうせ俺は誰が憑いたって根本は変わんねえよ。お前だって相変わらずみたいじゃねえか……よし、じゃあ今日はいっちょ付き合ってもらうぜ!」

薫と話しているうちに段々とペースを思い出してきたのか、啓太は上機嫌になりながら庭に出た時から担いでいるクーラーボックスをテーブルの上に豪快に乗せる。それは啓太が屋敷にやって来る時から持っていた物。食堂に入る前にせんだんに案内してもらった倉庫に置いてきたのだった。

「啓太さん、それは?」
「見りゃ分かんだろ、ビールだ! 今日は相談がメインだからな、アルコールでも飲まなきゃやってらんねえっつーの! お前も飲めねえなんてことないだろ? 川平の血を引いてんだからさ!」

満面の笑みを浮かべながら啓太は次々にテーブルにクーラーボックスから缶ビールを並べて行く。だがその量が尋常ではない。とても二人で飲む量とは思えない量。だが啓太はさも当然だという雰囲気。どうやら本当にこれを全て飲み干すつもりらしい。

「それは……でもいいんですか? 確かなでしこに止められてたって聞きましたけど……」
「うっ……そ、それはそれ、これはこれだっ! 今日ぐらい飲んだってバレやしないさ! お前だってたまには男と飲みたい時があんだろ!? 久しぶりに会ったんだし付き合えっつーの!」
「やっぱり啓太さんには敵わないな……分かりました、お付き合いしますよ。でもおばあ様達には内緒ですよ」
「当たり前だ! 例えなでしこであっても今の俺は止められん! これからは男の世界なんだからな!」

既に酔っ払っているのではないかと思えるようなテンションで啓太は騒ぎたてている。それもそのはず。ここに来たのは相談もだがそれ以上に薫と酒を飲むのが一番の目的だったのだから(家ではなでしこがいるため飲めないのが真相ではあるのだが)そんな啓太に圧倒されながらも薫もどこか楽しそうな表情を見せている。どうやら満更ではないらしい。普段の薫なら見せないような表情、態度が知らず現れている証だった。


「そうですね……じゃあ少し失礼して……」


薫は一度その手にどこからともなくタクトのようなものを手に持ち、まるで指揮者のように一振りする。その瞬間、薫達がいる場所から少し離れた場所にある茂みがどこからともなく吹き荒れる風によって大きな音を起こす。同時にどこか甲高い悲鳴のようなものが辺りに響き渡る。その声に驚きながら啓太が振り返るがそこには誰の姿もない。影も形もなかった。一体何だったのか。薫は先程までと変わらない笑みを浮かべているだけ。

「……? どうかしたのか、薫?」
「いえ、何でもありません。じゃあ乾杯しましょうか。早くしないと冷えたビールが台無しですから」
「お! 分かってんじゃねえか、薫! じゃあさっそく始めるとしようぜ!」

一体何が起こったのかは気になるがまあいいだろう。月も出てきた絶好の雰囲気。家ではこうはいかない。やっぱり酒は気心がしれた奴と飲むに限る。薫と飲むのはこれが初めてだし、ここは潰れるまで飲み明かすとしますか!


啓太と薫。二人の犬神使いはその手にあるビールを掲げながら、久しぶりの再会を祝した乾杯と共に初めての酒を交わすのだった―――――



「ふう……やっぱ外で飲むビールは最高だな! お前もそう思うだろ、薫!」
「ええ。たまには外で飲むのも悪くないですね」
「お、やっぱ普段から飲んでたんじゃねえか! ずりーよな、お前、外見はほんとに優等生だもん……ちょっと俺にもコツを教えてくれよ!」
「そんなことありませんよ。僕は啓太さんを手本にしてるんですから」
「お前な~そこまで謙遜すると嫌味にしか聞こえねえぞ、ちくしょう~! 大体何で九匹も犬神持ってんだよ!? どんな手品を使ったんだっ!?」

啓太はまるで酔っ払いの親父のように顔を赤くしながら薫に向かって絡んでいく。というか酔っ払いそのものだった。既に開けた缶の数は薫の二倍以上。明らかにオーバーペース。どうやら久しぶりの酒であること、そして日ごろのストレスのせいらしい。薫もそのことを悟り、苦笑いしながらも啓太の愚痴に付き合っている。もっとも薫もアルコールによって既に普段とは比べ物にならない程テンションが上がっているのだが啓太のせいで全くそうは見えなかった。

「手品だなんて……ただ山でピアノを弾いただけですよ」
「ピアノ……? ピアノってあのピアノ? 何でそんなもん弾いてんだよ?」
「……そういう気分だったんですよ。それのどこが良かったのかは僕にもよく分かりませんけど……」
「ふ~ん……まあいいや! それよりもどうなんだよ、薫? 九人の犬神……じゃなかった女の子に囲まれるハーレム生活は!? ちょっと一人ぐらいよこせっつーの! そうだな……じゃああいつ! いぐさをちょっと貸してくれよ! 聞いたぜ、薫。あいつのおかげで儲かってんだろ?」

げらげらと笑いながら啓太は薫の肩を抱きながら言い寄る。男が集まると女か車の話になるというが啓太もその例に漏れないらしい。というか啓太の場合は女の話しかないと言った方が正しい。元々煩悩の塊である啓太がアルコールによってタガが外れかかってしまっているらしい。別にそれはそれで構わないのだがこのままでは本当にいぐさ達がいる屋敷に突っ込んでいってしまいかねない程の勢い。薫はそれを抑える意味、そして少し啓太の酔いを覚まさせる意味でそれを口にする。


「そうですね……じゃあ、なでしこを貸してくれるんならいいですよ」


瞬間、騒いでいた啓太の動きがまるでフリーズしてしまったかのように固まってしまう。それほどの威力が、衝撃がその言葉には込められていた。

「お、お前……それ、冗談じゃねえな……」
「はい。僕の犬神を貸すんなら啓太さんの犬神を貸してもらうのは当然でしょう?」

どこか顔を引きつかせながら啓太が薫に尋ねるも薫も酒によって紅潮した頬をみせながら華麗にそれを受け流す。どうやら薫も相当酔いが回っているらしい。既に常人なら酔いつぶれておかしくない程の量を飲んでいるのだから無理のないこと。だがそれでも優雅さを感じさせるのが薫の薫たる所以だった。

「ったく……一気に酔いが冷めちまったっつーの……そういやなでしこってモロお前のタイプだもんな……すっかり忘れてたわ」

啓太は冷めてしまった酔いを取り戻そうとするようにビールを口に運びながら思い出す。自分と薫は小さい頃からよく遊んでいた。最近でもバレンタインデーにはもらったチョコの数を競い合ったりしている。故に従兄として男友達として互いの女の子の好みも知り尽くしている。

そういった意味ではなでしこは薫の好みにどストライクだろう。支えてくれる、尽くしてくれるタイプが好きだしな、こいつ。だが残念だったな……なでしこはやれん! お前になでしこはやらん! なんだろう、なんか娘を嫁に出すまいとする男親の気分だ。ん? 俺、何言ってんだ? なでしこは俺の嫁だろう? あれ? 俺がなでしこの嫁だったっけ? まあどっちでもいっか

「でもお前だって九匹も犬神いるんだから一匹ぐらいそういう奴がいるんじゃねえのかよ? せんだんとかお前のこと心酔してるみてえだけど……」
「そんなことありませんよ。確かに主として尊敬、忠誠を誓ってはくれていますけど、せんだんは公私は分けるタイプですし。それにせんだんはああ見えて世話がかかる男性がタイプなんです。本人は隠してるみたいですけど」
「へえー」

あのせんだんがねー。どっちかっていうときっちりしてるような男がタイプかと思ってたんだけど。歩くベルサイユ宮殿みたいな奴だし、王子様願望でもあるのかと勝手に想像してたんだが。やっぱ飼い主だけあってよく見てんだな。ここが俺と薫の差なのかもしれん。俺、なでしこの胸とか尻ばっか見てるしな。

そんななでしこが聞いていれば涙目に、ようこが聞いていれば消し炭にされかねないことを考えていると


「僕はむしろ啓太さんの方が羨ましいです。二人の犬神から、女性から求愛されているんですから」


薫の口から目下自分が悩んでいる、そして核心を突く内容が告げられる。どうやら酔いも回り、本題に入ってもいいだろうと薫も判断したらしい。

「そ、それは……その……」
「啓太さんは顔にすぐ出るんですから誤魔化してもだめですよ。それが今日僕に会いに来た理由なんでしょう?」
「……ああ。お前に遠慮してても仕方ねえな……お前、ようこのこと知ってんのか?」
「はい。はけからおおよその経緯は聞きました。名前やどんな子であるかはせんだんたちから何度か聞いたことはあったんですが……」
「そっか……じゃあ話が早えわ。実は……」

どこか観念したように啓太はこれまでの事情を簡潔に説明していく。多少主観は入るが出来る限り客観的に。薫にきちんとしたアドバイスをもらうために。もう約束の一週間の期限まで時間はそう残されてはいない。それまでに結論を出さなくてはいけない。そんな啓太の雰囲気を感じ取ったのか、薫も真剣にそれを聞き続けている。そして、ようやく状況説明が終わり、一度二人はビールを口に運ぶ。同時にそれを飲みほした後、改めて二人は向かい合った。

「そうですか……」
「九匹も犬神を持ってるお前なら何かいいアドバイスをもらえるんじゃねえかと思って……なんかいい方法ねえか? このままじゃあどうしようもなくてさ……」

がっくりと肩を落としながらも、どこか縋るような様子で啓太は薫の言葉を待つ。情けないことこの上ないがそこまで追い詰められてしまっている、啓太の心の叫びだった。だが


「残念ですけど……僕からできるアドバイスはほとんどありません」


その最後の望みは呆気なく、跡形もなく崩れ去ってしまった。一瞬で、ノータイムの、これ以上ないほどのスピードで。


「えっ!? ま、マジで!? な、何もないのかよっ!?」
「す、すいません。でも僕と啓太さんとでは状況が全然違いますから。僕は確かに数の上では啓太さんよりも犬神を持ってますけど、みんな僕に対しては恋愛感情は持っていません。でも啓太さんの場合は二人とも恋愛感情を持ってますから。前提からして全く別物なんです」
「そ、そうか……」

薫の言葉によって啓太は納得するような、あきらめるような返事をすることしかできない。そう、それは分かっていた。人数は多くても自分と薫とでは状況が大きく違うことに。だがそれでも女にモテる薫なら何か凄いアドバイスをくれるのではないかと、そんな甘い期待をしてしまっていた。そんな都合のいいものなどあるはずなどないのに。

「なあ、やっぱようこって……俺に恋愛感情持ってんのかな……?」
「ええ、間違いなく。話を聞いただけでも簡単に想像できますよ」
「だよな……」

やっぱそうだよな。流石にあれだけ露骨にアプローチしてるんだし、当たり前か。ちょっとあからさま過ぎて疑ってた時期もあったんだが間違いないようだ。でもそうなるとますますどうすればいいのか分からない。やっぱここはきっぱり断るべきか。でもそうなるとあいつ、山に戻されちまうわけだし、でも二股なんてしたらなでしこがどう思うか、というか俺が生きているかどうかが怪しい。

「でもいいんじゃないですか? 啓太さん、ずっとハーレムが夢だって言ってたじゃないですか」
「た、確かにそうなのだが、その、現実は甘くなかったというか、むしろ夢で終わらすべきだったのではないかとかやっぱりその通りだったというか……」

何だろう……俺、今もしかしてかなり最低なことばっかり考えてない? い、いや! そ、そんなはずは……でもこれじゃあまるでほんとに浮気を、二股をしてるみたいじゃ……

そんな自分の中の良心の呵責という名の袋小路に啓太が迷い込んでいると


「でもようこって啓太さんのタイプじゃないですか」


それを一気に破り捨てて尚、余りあるほどの衝撃を孕んだ発言が薫の口から飛び出してきた


「っ!?!? おっ、おまっ!? お前っ!? それは……!?」


啓太はその言葉に口をパクパクさせることしかできない。だが薫はそんな啓太の姿をどこか楽しそうに見守っている。まるで全て分かっていると言わんばかりの、慈悲すら感じさせる微笑みを見せながら。啓太はそれに何も反論できない。何故ならそれは真実だったから。

そう、ようこの容姿はまさに啓太のタイプ、ど真ん中なのである。

なでしことようこ。二人はまさに絶世の美少女。雰囲気や、タイプは違えどそこには優劣はない。まさに男ならすれ違った瞬間、間違いなく振り返ってしまうほどの容姿。それは啓太も例外ではない。

だが、だがそれでもやはり男には好みが存在する。それは本当に、本当に紙一重と言ってもいいほどの、あってないほどの差、だがそれでも、それでも、どうしても優劣をつけるとするならば……啓太にとってはようこの方が容姿という点ではタイプだった。

もちろん容姿という限定的な点で。だがそれは女性にとっては天と地ほどの差がある問題。それはまさに啓太にとっては地雷中の地雷。踏んだ瞬間に身体が蒸発してしまうほどの核地雷。墓にまで持って行くつもりだった程のトップシークレット。パンドラの箱。それをあっさりと見抜かれてしまったことに啓太は顔面が蒼白になってしまっていた。


「今更隠しっこなしですよ、啓太さん。心配しなくても誰にも言いませんから。僕の好みは啓太さんも知ってるんですから」
「あ、ああ……」

啓太は滝のような汗を流しながらも薫の言葉に安堵する。既にあれほどあった酔いは全くなくなってしまっていた。それほどの衝撃が先程のやり取りにはあった。


マ、マジで死ぬかと思った……冗談抜きで三途の川が見えたわ! これだけは、これだけはマジで誰にも知られまいと思ってたのに! というか知られたら俺はもう遠いところに行くしかないレベルの地雷だっつーの! さ、流石は薫といったところか……まあ俺もこいつの好みは知ってるし、当たり前っちゃあ当たり前だが心臓に悪いすぎる! 寿命が間違いなく十年は縮んだわ! ほんとにこの場に薫しかいなくて助かったぜ……他の奴らに知られたらもう俺の人生終了だったわ……冗談抜きで。


そんな啓太の胸中を知ってか知らずか、薫は最後の締めとして、出来る限りのアドバイスを告げる。


「だけど……そうですね……とにかくやっぱりこれはなでしことようこの問題だと思います。恋愛の、男女の関係と犬神の主従はまた別の問題ですから。結局は二人が解決するしかないと僕は思います」
「やっぱそうなるか……」

啓太はその言葉に頷くことしかできない。そう、これは結局なでしことようこ。二人の問題。女の子同士の問題に男が割って入ってもろくなことにはならない。その男が問題の中心人物なのだからなおさらだ。それはすなわち、自分ではどうしようもないことを意味していた。啓太は深いため息をはくものの、どこか悟ったような表情を見せるだけ。それを再確認できただけでも来た意味はあったと。そんな仏の様な姿になった啓太をしばらく薫は眺めた後


「……そういえば啓太さん、ようこは啓太さんがなでしこに告白したことは知ってるんですか?」


そんなもう一つの啓太にとって地雷を貫いてきた。


「い、いや……それはまだ知らねえはずだ……」


啓太は頭を抱えながらもそう答えるのが精いっぱいだった。ある意味先程の地雷を遥かの超える地雷、いやこれは核弾頭と言ってもいいかもしれない。本当なら最初の時点で言うべきだったことなのだがなでしこの名前を出しただけであれだけの反応を示したようこに向かってそれを告げることなどできるはずもなかった。恐らくははけも伝えていないはず。伝わっていたら物理的な、街が焦土となる争いが、戦争が起こるのは目に見えている。薫に言われたことでそれも思い出し、啓太は既に四面楚歌、どうしようもない事態に魂が抜けかけてしまっていた。

「そうですか……」
「……? どうかしたのか、薫?」
「いえ、何でもないです。とにかく今日はゆっくりしていってください。力になれなかったお詫びに朝まででも付き合いますよ」

薫はそう言いながら新たな缶ビールを啓太に向かって差し出してくる。それがその言葉が真実であることを証明していた。

「そうか……うう……やっぱ持つべきものは男の友人だよな! 女は怖い! やっぱ男が一番だ! 男最高――――!!」
「け、啓太さん……あまり叫びすぎるとまた誤解されますよ」
「いいんだ! 今日は無礼講だ! よし、仮名さんも呼ぶぞ! あの人こそ男の中の男! 本物のピ――なんだからな! やっほおおおおおっ!」

そのまま何かが吹っ切れたように騒ぐ啓太を薫が楽しそうに見つめながらも宥めてるというある意味バランスが取れた、息があった飲み会は結局明け方まで続き、べろべろになって家に帰った啓太はなでしこに迎えられることになる。その背後に鬼が浮かんでいるなでしこに。その姿にようこでさえ、震えあがったほど。啓太はそのまま本気のなでしこに怒られる羽目になったのだった―――――



「本当に嵐のような方でしたわね……」

啓太を見送った後、せんだんがどこか呆れながら言葉を漏らす。その言葉通り、本当に嵐そのもの。先程までの騒がしさが嘘のように静まり返ってしまった。しかも犬神達相手でなく、薫相手でもこれなのだから啓太の騒がしさは間違いなく本人の資質によるものだろう。もっともそれがあの方の魅力なのだと自分も理解できるようにはなったのだがやはり服を脱ぐのだけは勘弁してほしい。酒を飲んでいたとはいえやはりあれは本能によるものなのだろう。

「うん、やっぱり啓太さんは面白いね。久しぶりに僕もハメを外しちゃったよ。悪かったね、せんだん。みんなを任せちゃって」
「いえ、リーダーとして当然の務めです」

まだ酔いが収まっていないのかいつもより赤い顔をしている自らの主がねぎらいの言葉を贈ってくれる。自分はずっと他の犬神達が薫様と啓太様の邪魔をしないように抑えていた。隠れて覗いていた何人かは薫様の風で追い返されてしまったようだが。あの子たちはもうすこしお淑やかさを身につけれないのだろうか。

そんなことを考えている中、せんだんはふと気づく。隣にいる薫が何かを考え込んでいることに。いや、そうではない。それはまるでここではないどこかに想いを馳せているかのような表情。まるで先を見通している指揮者のような視線

「……薫様、どうかされましたか?」

せんだんの言葉にも薫は答えることなく、ただ去って行った啓太の跡を追うかのように立ち尽くしたまま。そして


「そういえばせんだん、一つ伝えておきたいことがあるんだ。いいかな」


薫はいつもと変わらない笑みを浮かべながら、一つの命令を、予言をせんだんへと告げるのだった―――――



[31760] 【第二部】 第十六話 「カウントダウン」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/07/06 01:40
「う~ん、おいし~♪」


そんな満足気な、上機嫌な少女の声が辺りに響き渡る。それはようこ。ようこは自らの前に運ばれてきたチョコレートケーキを次々に口の中に放り込んでいく。まるでスナック菓子を食べるかのような勢い。ようこはおもちゃを手にした子供のように至福の表情を見せながら一心不乱にチョコレートケーキを平らげて行く。放っておけばいくらでも食べてしまうのではないかと思ってしまうほどの光景がそこにはあった。


「ほんとによく食うよな……そんなにチョコレートケーキが好きなのか?」
「当たり前でしょ!? こんなにおいしいんだもん! ケイタも食べる?」


ようこはそのまま自らの前に置かれているチョコレートケーキをフォークで切り取り、そのまま啓太に向かって差し出してくる。いわゆるあーん、という奴だ。啓太はそんなようこの姿に圧倒されながらも呆れるしかない。その顔はどこか引きつっている。だが無理のない話。子供のようにチョコレートケーキに夢中になっているようこもだが、それ以上にそのせいで自分達に集まっている視線の方が啓太にとっては居心地が悪くなっている原因だった。

今、啓太とようこは街にあるファミレスにいる。今日、啓太ははけからの久々の依頼を受け、それを解決するために出かけてきた。死神の呪いが解けたとはいえまだまだ家の財政事情は火の車。加えてまだ一時的とはいえようこという新しい住人も増えたこともあり、渡りに船の依頼。いつもなら啓太一人で請け負うのだが、今、啓太にはようこという新しい犬神(見習い)がいること、そして何よりもようこ自身が自信満々にやる気を見せながら手伝うと騒ぐため、啓太はようこと共に依頼を行い、その帰りに(主にようこの希望によって)街に寄ることになったのだった。


「いや……俺はいい。お前もそんなに食ってると太るぞ」
「うっ……啓太のいじわる! ちゃんと運動してるし、今はいらいの後だからいいの!」
「あっそ……」


太る、という啓太の言葉に一瞬怯むような表情を見せるも、ようこはどこか必死さを見せる形相でそれに反論する。口調とは裏腹にその目は笑っていない。乙女の尊厳を汚されたが故の怒りがそこには秘められていた。この話題に触れれば燃やされかねないと悟るには十分すぎる物。そのことを本能で悟った啓太は内心冷や汗を流しながらも自らの発言をなかったことにし、そのまま自分が注文したコーヒーを飲み始める。どこか非難めいた視線を、ジト目を向けながらもようこはそのまま再びチョコレートケーキに夢中になってしまう。本当にともはねの相手をしているのではないかと思えるような騒がしさだった。


まったく……ほんとに世話が焼ける奴だな……まあそんなことは出会った時から分かり切ったことではあるのだが如何せんそれにずっと付き合わされるこっちの身にもなってほしい。しっかしこいつ、ほんとにチョコレートケーキが好きなんだな。見てるだけでこっちも腹いっぱいになりそうな食べっぷり、喜びっぷりだ。でもなんでこいつ、チョコレートケーキなんて知ってんだ? 山の中にずっといたんだからケーキなんて食う機会あんまなさそうなもんだけど……前に聞いた時もなぜかはぐらかされたし。あれだ、なんかなでしこが俺の犬神になってくれた理由を教えてくれない時と似たような雰囲気があった。きっと不用意に聞いちゃやばいことなのだろう……俺の危機察知アビリティもそう告げている! 

まあそれはともかく、今日は初めてようこ一緒に依頼を行った。そういえばそういう流れになることをすっかり忘れていた。犬神って本来そういう存在だった。なでしことずっと一緒に生活してたからそんな当たり前のことを失念してしまってた。きっとはけもそれを考えて依頼を持ってきたんだろう。ようこはやる気満々、今にも飛び出して行きかねない勢い。それを何とか宥めながらも俺はそのまま依頼へと向かった。その際になでしこと視線が合い、少しどうするべきか悩んだものの、そのまま俺は目くばせをした後そのまま留守をなでしこに任せた。

それは俺となでしこのルール、いや暗黙の了解と言ってもいいもの。依頼、仕事は俺が、そして家のことはなでしこが行うという今の価値観で言えば古臭い関係。だがそれがこの四年間ずっと続いてきた俺となでしこの生活。

以前はなでしこが戦えない、いや戦わないやらずであったのが大きな理由であったが、今は違う。なでしこはやらずではなくなったがそれでもその関係は変わらない。まあ俺自身の意地というか、なでしこに戦わせ、家事から何まで全部やらせたら完璧にヒモだ。一応一家の主として稼ぎぐらいは自分で……っと話が脱線したが、とにかく俺はようこと初めて依頼を行った。よく考えれば犬神使いとして戦うなんて死神の時以来。よし、ここはいっちょ犬神使いとしての実力をみせてやろう! そんな珍しくやる気を見せたのだが……


ものの数秒で依頼は終わってしまった。ようこたった一人で。俺が何もすることなく。


今回の依頼は蛇女と呼ばれる女の怨念が形になった魍魎を退治すること。蛇女は魍魎の中でもかなり厄介な部類に当たる相手。だがそんな蛇女をようこはしゅくちで翻弄し、じゃえんで一気に薙ぎ払ってしまった。息一つ乱すことなく。傷一つ負わずに。まさに規格外の強さ。以前の森の中での勝負で分かった気になっていたがそれでもここまで圧倒的だとは。間違いなく実力で言えばはけレベル。それが自らの犬神であることの意味を改めて俺は認識した。同時に気づく。そう、自らの祖母である宗家や、薫はこんな恵まれた環境の中で依頼をこなしていたのだと。


ち、ちくしょう……まさかこんなに差があったとは……こっちが汗水たらして全裸を晒して必死に依頼をこなしているというのに……! もっと早くそれに気づいていれば……い、いや、決してなでしこに文句が、不満があるわけではないのだがそれでもここまで差があると驚きを通り越して笑いしか出てこない。あれ? でも俺、何もやってなくね? せめて指揮位する気だったのにその間もなかったんですけど……


啓太は大きな溜息を吐きながらテーブルに突っ伏す。そこには疲れ切ったサラリーマンの様な哀愁があった。だが啓太は今回の依頼では何もしていない。体力も使っていない。なのに何故そんな姿をみせているのか。それは


「どうしたの、ケイタ? もしかしてまださっきのこと気にしてるの?」
「あったり前だろうがっ!? もう少しで捕まるところだったんだぞっ!?」


紛れもなく、目の前にいるまるで他人事のような態度を見せているようこの仕業によるものだった。


「え~? だってケイタが悪いんだよ? せっかく手伝ったのに全然見てくれなかったじゃない?」
「だからってしゅくちで全裸にする必要がどこにあるんだよっ!?」
「おしおきだよ。犬神はちゃんとしつけをしないといけないんでしょ?」
「それじゃ立場が逆だろうがっ!? 俺が、お前の躾をするんだよ!」
「も~、どっちでもいいでしょ? それにわたし、りゅーちじょーってところに行ってみたかったの! はけから聞いたよ。ケイタ、よく裸になってそこに行ってるんでしょ?」
「ふっ、ふざけんなあああっ!? 行きたいなら自分で行けっ! 俺を巻き込むんじゃねええっ!?」


啓太は身を乗り出しながらようこに食って掛かるがようこはまるで自分は悪くないと言わんばかりに頬を膨らませたまま。ようこは依頼を済ませた後、蛇女を倒した後、すぐに啓太に褒めてもらおうと上機嫌に近づいて行った。だが肝心の啓太はそんなようこに気づくことなくきょろきょろとまるで不審者のように、挙動不審な動きを見せているだけ。何度も声をかけても反応がない。それは啓太が見えない力を警戒しているが故の行動。啓太にとって依頼とは全裸になるかどうかの戦いでもある。もはやそれ自体に疑問の余地はない。だからこそこんなに簡単に依頼が終わってしまった以上、その分反動が来るのではないか。そんな不安と恐怖によって啓太は挙動不審に周りを警戒していたのだった。だがそんなことなど知る由もないようこはそのままいつまでたっても自分の相手をしてくれない啓太に向かってお仕置きを実行する。


しゅくちによる全裸という、ある意味お約束とも言えるお仕置きを。


啓太はそのまま結局、ようこが満足するまで全裸で衆目の元に晒され、警官と鬼ごっこを演じることになったのだった……(結果は啓太の逃げ切り、現在二勝十八敗)


く、くそう……やっぱこうなっちまうのか……俺は全裸になる運命からは逃れられないのか!? しかもこれからはようこのしゅくち、じゃえんというまさに俺を裸にするためといっても過言ではないような力がある。今まで以上に全裸を晒す危険性が上がっちまったんじゃ……い、嫌だ!? なでしこだけでなく、ようこも一緒に留置場に迎えに来てもらうなんて……どんな羞恥プレイだっつーの!? な、何とかしなければ……


「ねえねえ、ケイタ! わたし、ちゃんと役に立ったでしょ? 犬神らしくしてたでしょ?」
「ま、まあな……助かったぜ……」


そんなことを考えているうちに、ようこがまるで初めてお使いをしてきた子供のように目を輝かせながら、興奮しながら詰め寄って来る。思わずその勢いで後ろにのけぞってしまうほど。


「ふふっ、わたし、強さにはちょっと自信があるの! 今までケイタ、ずっと一人でいらいしてたんでしょ? これからはわたしが手伝ってあげる!」
「そ、そうか……」


まるで勝ち誇ったかのように胸を張りながらようこは高らかに宣言する。どこか自信に満ちた表情で、態度で。そんなようこの姿に啓太は圧倒されっぱなしだった。


な、なんでこいつ、こんなにやる気になってるんだ? 確かに犬神として初めて役にたった訳だから分からないでもないが……あ。


啓太は瞬間、ようやく気づく。ようこがここまで自信満々に、上機嫌になっている理由。


(そういえばこいつ……なでしこがやらずじゃなくなってんの知らねえのか……!)
 

それはやらずであるなでしこの代わりに自分がその役割を独占できると思っているから。なでしこに対する優越感があるからだということ。その事実に啓太の背中に嫌な汗が滲み始める。ようこは勘違いしている。なでしこがやらずであるから啓太が一人で依頼をしているのだと。確かに一か月前まではそうだったが今は違う。啓太が頼めばなでしこは既に犬神として戦うこともできる。しかもその力は天に返した力がなくともはけやようこと互角、いやそれ以上。だがそれを今のようこに告げることもできない。新たに踏んではいけない地雷が増えたようなもの。だがいい加減それも限界に近付きつつあるような気がする。というかいつまでも誤魔化すことができるはずもない。この件もだが、それ以上に自分となでしこの関係。それを伝えなくてはいけない。もう期限の一週間の内、五日が過ぎている。もう時間は残されていない。いろんな意味でカウントダウンが始まっている。爆発までのカウントダウンが。比喩でも何でもなくガチで。

そしてなでしことようこの関係もよくなっていない。いや、むしろ悪くなっていると言った方が良いかもしれない。特にようこの方。俺の前ではいつもどおりに接しているようだが俺がいないときはやはり険悪なままらしい。この前、薫の家に遊びに行っている間を任せていたはけから聞いたから間違いない。心なしかはけが今にも消えてしまいそうなほど疲れ切っていたような気がするがきっと気のせいだろう。心労で白髪にならないことを祈るしかない。なったら妹のせんだんのように赤毛にするのもいいかもしれないな。ほんとは他人事ではないのだが……


とにかく、そろそろ腹をくくらなければ……くそっ、男同士なら川辺で殴り合って、その後夕日を背中に互いを讃えあう、なんて展開もありうるのだがそんなことをすれば辺りが焦土になりかねんし、だいたいそんな都合よくいくわけもない。とにかく出来るだけのことはしなければ! そして後は天に任せるしかない! できれば俺が死なない方向性で……


「ねえ、ケイタ、わたし達って今、恋人みたいにも見えるのかな?」
「ぶっ!? い、いきなりなんだよ!?」
「だってこういうのって『でーと』って言うんでしょ? ねえ、わたしケイタの犬神じゃなくて恋人になってあげよっか?」
「なっ!? お、お前、何言って……」
「くすくす……ケイタってえっちなのに純情だよね♪」
「………」
「もう、そんなに拗ねないでよ、ケイタ。じゃあ今度はあそこに行ってみよう! げーむせんたーって言う所! 前行ってみたんだけど遊び方がよく分からなかったの!」


そう言いながらようこは啓太の腕を取りながらも強引に走り出す。啓太はどこか心ここに非ずと言った風にされるがまま。もはや啓太の胸中はたった一つ。


俺、死ぬしかないかも……


そんな今更の感想だけだった―――――




「う~ん……」


ようこはそんな声を漏らしながらもごそごそと部屋の中を漁っていく。まるで犬のように。もっともようこは犬ではなく狐なのだがそれは置いておいて。


「やっぱりないなー、ケイタ、えっちな本とかもってないのかなー?」


ようこはようやくあきらめたかのように溜息を吐きながらその場に座りこむ。だがその表情はどこか不機嫌そうなもの。絶対あると思っていた物がみつからないことが納得いっていないが故のものだった。


今、ようこは一人、部屋で留守番をしているところ。部屋には啓太もなでしこもいない。今日は休日ということで啓太と遊べると思っていたのだが啓太は学校へと出かけてしまった。何でも補習というものがあるらしい。休みの日まで学校に行かなければならないとは思っていなかったのでようこも駄々をこねたのだがどうにもならなかった。そんなに学校という所は楽しいところなのだろうか。今度こっそり付いて行ってみようと心に誓いながらもようこは渋々啓太を見送ることにする。あまり我儘ばかり言ってはいけない。もうすぐ期限の日が来るのだからそれまでは出来る限りいい子にしていなくては。何よりも慣れた様子で啓太を見送っているなでしこへの対抗心がほとんどだったのだが。

だがそうなると部屋にはいつものようにようことなでしこ。二人だけが残されてしまう。ようこは初日の宣言以来、啓太がいないときにはほとんどなでしことはしゃべっていなかった。何日かはなでしこの方から話しかけてきていたのだがようやくあきらめたのかここ数日はしゃべりかけてくることもなくなっていた。しかし


『あの……ようこさん、よかったら一緒に買い物に行きませんか?』


意を決したようになでしこがようこに向かって話しかけてくる。ようこはそれに一瞬驚いたような表情を見せる。まさかなでしこがまだ話しかけてくるとは全く思っていなかったから。だがようこはそのままそれを聞き流す。まるで聞こえていないかのように。なでしこはしばらくようこの返事を待っていたものの、ついにあきらめたのか落ち込んだ顔を見せながらそのまま一人で買い物へと出かけて行ってしまう。そんななでしこの姿に少し罪悪感を覚えるものの、ようこはそれに付いて行こうとはしない。あくまでもようこにとってはなでしこは恋敵、そして自分を裏切った存在。もはや意地にも近い感情だった。


そんなこんなでようこは珍しく、というか初めて部屋に一人きりになった。今まではほとんどなでしこが家にいたため、ようこはその間街で遊び、啓太が帰って来る頃に帰って来る生活だったため。ようこは改めて部屋を見渡した後、考える。それは今の自分の状況、そしてこれからのこと。


啓太との関係。これはきっと悪くない。確かに多少我儘を言ってしまってはいるがそれでも啓太は受け入れてくれている。何よりもやっぱり一緒にいて楽しい。啓太がそれをどう思っているかは分からないが、嫌われていないのは間違いない。だから問題は啓太にどうやって好かれるか、いや惚れさせるかにかかっている。もちろん、犬神としての本分も忘れてはいない。だがこの点では自分はなでしこにはないアドバンテージがある。

『やらずのなでしこ』

それがなでしこの二つ名。その名の通りなでしこは戦うことができない。オトサンとの戦い以来なでしこは自ら戦うことを禁じている。だからこそその役割を自分が独占することができる。家事ではどうやっても敵わないがその点では負けていない。破邪顕正を志している犬神にとってはむしろそちらの方が重要だろう。そういった意味ではこの時点では少なくても自分となでしこは五分五分。ならば後はいかに啓太の好みの女性になれるかにかかっている。


「む~」


ようこはそのまま両手で自らの胸を、おっぱいを何度も揉んで確かめる。その大きさを、形を。そして同時にその尻尾をスカートから現す。ふりふりとそれを振りながらも胸と同じようにそれを撫でまわし、そのまま鏡の前まで移動し、くるくると自分の容姿を確認する。その脳裏にはライバルであるなでしこの姿があった。

なでしこは美人だ。それは認めざるを得ない。美人というよりは可愛いらしいと言った方が正しいかもしれない。だがそれでも自分がそれに劣っているとは思っていない。ようこは自分の容姿が優れているという自負がある。それは自意識過剰でも慢心でもなく客観的なものとして。タイプは違うものの、なでしこにだって負けていない自信がある。

胸、おっぱいに関しても同様だ。確かに大きさという点については負けを認めざるを得ない。あの後、風呂場に一度突撃し、敵情視察を済ませたから間違いない。そこはきっちりと認めるしかない。だが自分の胸も決して小さいわけではない。むしろ大きい部類に入るはず。なでしこが規格外なだけだ。おっぱいお化けといってもいいだろう。だが形の点では自分の方が勝っているはず。なでしこに負けないようにノーブラにもした。尻尾もあっちの方が細くて綺麗だがそもそも啓太は尻尾には興味はないらしいから除外。となればやはり問題は一つ。


啓太の好みがどうであるか。その一点に尽きた。


胸が大きい方がいいのか、小さい方がいいのか。
お尻が大きい方がいいのか、小さい方がいいのか。
背が高い方がいいのか、低い方がいいのか。
スラっとした方がいいのか、ふっくらした方がいいのか。
髪が長い方がいいのか、短い方がいいのか。


それこそが一番重要な、ようこが知りたいこと。それに合わせて容姿を変えようと考えていたのだが啓太に聞いても応えてくれなかった。もっとも啓太からすればなでしこもいる状況でそんなことに応えられるはずもないのだが。(加えて容姿という点ではようこの方が好みのため)

ようこは悩んだ挙句、あることに気づく。答えてくれないなら啓太の趣味、嗜好を別の所から知ればいいのだと。そう、男が必ず持つというえっちな物からそれを調べようとようこは考えたのだった。そしてその結果がこの散らかりきった部屋の惨状。足の踏み場がないほどにぐちゃぐちゃになってしまった状況。なでしこが見れば涙目になってしまうこと間違いなしの光景だった。


「ふう」


ようこはそのまま座りこんだまま何の気なしに天井を見上げる。これだけ探しても見つからないと言うことは啓太はもしかしたらえっちな物は持っていないのかもしれない。あんなにえっちな啓太からすれば信じられないがそう考えるしかない。本人がいればえっちではないと否定するかもしれないが自分やなでしこの胸やお尻ばかり見ているのでバレバレだ。もっとも手を出さないところが純情な啓太らしいところであり、自分にとっては悩みの種なのだが。あれだけアピールしているのに一度も触ってきてくれないのは女の沽券に関わる。まあそれはなでしこも同じなのだが。


ふと、ようこは気づく。もう自分が山を出てから、啓太の犬神になってから五日が過ぎている。本当にあっという間の出来事、そして今までと比べ物にならない程楽しい日々だった。四年間、ずっと待ち続けた甲斐があると思える程の日々。なでしこという邪魔ものはいるものの、それを差し引いても楽しい時間だった。


でも、なんだろう……最近、ヘンな、おかしな感覚を、違和感を覚えることがある。この部屋にいると、いや啓太となでしこと一緒にいる時に。

何か言葉にできないような異物感のような、意味もなく不安になるような感覚。

初めてここに来た頃には全く気付かなかったのに、ここ最近はそれが強くなってきたような気がする。それが何なのか。でも心のどこかで警鐘が鳴る。それに気づいてはいけないと。気づけば取り返しのつかないことになると。無意識の自分がそう訴える。でも、でもそれを感じながらもその正体が何なのか探ろうとした時


ピンポーン


そんな大きなチャイムの音が部屋に響き渡り、ようこの意識を現実へと引き戻す。どうやら誰かが訪ねてきたらしい。だがこの部屋の主である啓太はおらず、まだいつもは留守番をしているなでしこもこの場にはいない。どうするべきか。


ピンポーン、ピンポーン!


だがそんなようこの迷いなど知ったことではないと言わんばかりにチャイムは激しさを増していく。もはや居留守を使うことなどできないほどの連打。流石にこれを無視できるほどの図太さをようこは持ち合せてはいなかった。


「ああもう、うるさいわね! 今開けるわよ!」


ようこはイライラを隠しきれないままそのまま一気にドアを開ける。このぶしつけな来客を出迎えるために。もしろくでもない奴だったらしゅくちで飛ばしてやろうと思いながら。だがその考えは一瞬で消え去ってしまう。


「「………え?」」


二人の少女の声が重なる。一人は言うまでもなくようこの声。そしてもう一人の少女。


そこにはぽかんとした表情を見せたツインテールの髪と尻尾をした犬神、ともはねの姿があった―――――



[31760] 【第二部】 第十七話 「カウントダウン」 後編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/09/17 06:04
休日ということでいつもより多い人通りの中を騒がしく歩いている集団がいた。それは十人ほどの女性の集団。だがその集団はまるでアイドルグループのような注目を周囲の人々から集めていた。それは彼女たちの容姿のせい。一人ひとりが間違いなくアイドルに間違われてもおかしくない程の美貌の持ち主。それが十人近く。しかもその服装も普通ではない。まるで貴族のようなドレスを着た女性もいれば、白衣、巫女服など多種多様。コスプレと思われてもおかしくないようなラインナップ。これで人目を集めない方がおかしいと思えるようなおかしな集団。それがせんだんをリーダーとする川平薫の犬神達、序列隊の姿だった。


「見てください、新しいお店がまたできてますよごきょうやちゃん! これはぜひとも潜入してみなくては!」
「これで何度目だフラノ。いい加減少し落ち着いたらどうなんだ」
「フラノにそれは無理。できるのならとうの昔にやってる」
「てんそうちゃんの言うとおりですよごきょうやちゃん♪ という訳でフラノは一足先に」
「それとこれとは話が別だ、フラノ」
「あ~ん、ひどいです~!」


自分達がそんな周囲の視線を釘づけにしていることなど露知らず巫女姿の少女、フラノが楽しそうにしながら通りを行ったり来たりしている。まるで興奮した子供のよう。もしかしたら子供の方がまだ大人しくしているのではないかと思えるほどのはしゃぎっぷり。それを見ながらもどこか慣れた様子で対処しているのが白衣を着た少女、ごきょうや。てんそうとともに暴走がちのフラノをコントロールすることが序列隊におけるごきょうやの大きな役割の一つだった。ごきょうやは慣れた手つきでフラノの服の襟元を掴みながら引きずり、てんそうはぼーっとしながらその後に続く。家の中でも外でも変わらない光景がそこにはあった。


「まったく相変わらずフラノは騒がしいよねー」
「ほんとほんと。ちょっとは私たちみたいに落ち着きを持ってほしいよねー」


そんなごきょうや達の姿を見ながらどこか優越感を、余裕をみせている二人の少女がいる。彼女たちは双子の犬神いまりとさよか。二人は小さい胸を張りながら自分達の方が上だと言わんばかりに騒いでいるフラノの様子を眺めている。もっとも序列で言えばフラノよりも下、年齢はともかく容姿では完全に中学生、下手すれば小学生にしか見えない二人の姿は端から見れば微笑ましいものでしかないだろう。少なくとも端から見ている分には。


「そう……じゃあその手に持っている物はなんなのかしら……?」


双子の背後からそんなどこか怒りが滲み出ているような、震えるような声が響き渡る。瞬間、いまりとさよかの背筋がびくんっと動く。それはまるで条件反射。おすわりを命じられてしまった犬そのもの。恐る恐る振り返ったそこには笑みを浮かべながらも背後に鬼を背負っている序列一位、リーダーせんだんの姿があった。


「せ、せんだん……これは、そのー」
「そう、あれだよ! お店の人がどうしてもって言うから仕方なく……」


しどろもどろになりながら弁解しようとするも既に手遅れ。双子は咄嗟に手に持っていたものを背後に隠そうとするが無駄な抵抗だった。そこにはいつのまに買ったのか大きなパフェが握られていた。しかもご丁寧に口元にはクリームが残っているというおまけ付き。ある意味フラノ以上に厄介なトラブルメイカーだった。


「嘘おっしゃい! まったく油断も隙もない……もっと真剣になりなさい。これは薫様からの指令なのよ」


好き勝手をやっている双子を叱責しながらもせんだんは改めて自分達の役目、任務を伝える。今、せんだんたちが揃って街中を歩いているのは何も休日を楽しむためではない。

街中の見回りと有事の際の対処。それがせんだんたちが今日と明日の二日間に渡って命じられた指令。そのためせんだんたちは休日の人ごみの中、パトロールと言う名の見回りを行っていたのだった。もっとも既にフラノや双子たちは飽きてきたのか好き勝手し始めてしまっていたのだが。


「ぶー、分かってるって。でもしょうがないじゃん。暇なんだもん」
「そーそー。もう長い間見回りしてるけど霊も妖怪も全然いないじゃん。何で見回りなんかが必要なのかな?」
「で、でも……きっと薫様の仰ることだから何か訳があると思うんだけど……」


せんだんもいぐさの言葉を聞きながらも考える。

確かにいまりとさよかが言うことにも一理ある。何よりも今回の任務には具体性がなさすぎる。討伐、もしくは対処する相手も目的も不明。場所も街中と曖昧なもの。そして二日間という時間の制約。いつも正確で無駄のない計画を立てる自らの主、川平薫らしからぬもの。だがその理由を尋ねようにも薫はこの場にはいない。今日明日共に薫は仮名と共に特別任務に入っている。その間の指揮、統率は自分に一任されている。ならばその責務を果たすことが自分の役割。いぐさの言う通り何か理由があるに違いない。もっともそれが何であるかは見当がつかないままだった。


「いぐさは真面目だねー。ま、そこがいぐいぐのいいところなんだけどさ」
「薫様も一緒に来て下されば良かったのになー。ほら、あそこに出来たお店。カップル専用のメニューがおいしいって評判なんだって。今度薫様に連れて行ってほしいなー」
「お、いいね。今度のお休みにお願いしてみよっか?」
「あ、あなたたち……」


あまりにも緊張感がないお気楽な双子の様子にせんだんは頭を痛めることしかできない。もはや怒る気すら失せてくるほど。確かにせんだんは几帳面であり堅物すぎるところが欠点でもあったが双子の自由奔放さには敵わない。とにもかくにもまだ任務の初日。初めから飛ばしすぎれば体が持たないと判断しせんだんは溜息を吐きながらも先頭で先導しながら見回りを続けて行く。いぐさはそんなせんだんに苦笑いをしながらも付いて行き、ぶーぶー文句を言いながらも双子もその後に続く。何だかんだ言いながらも長い間共に生活してきた者同士といったところ。だがそんな中、一言も言葉を発するとことなくあるお店をずっと見つめている少女がいた。


(カ、カップル専用か……)


それはボーイッシュな格好をした少女、たゆね。たゆねは騒がしい仲間たちの様子に気づくことなくじっとその店を見続けている。その胸中はあることで一杯だった。

それは啓太との約束。何でも好きな食べ物を奢ってもらうという約束だった。


(ど、どうしようかな……何でもいいって言ってたしならあれでも……い、いやこれは決してカップルになりたいからじゃなくてあくまで美味しいっていう料理を食べるためなんだから……!)


誰も突っ込んでいないにも関わらずたゆねは脳内で言い訳をしながら妄想にふけっていた。まさにツンデレの鑑のような姿。ある意味さよかたち以上に単純な、そして実は誰よりも女の子らしいたゆねの姿だった。


「どしたのたゆね? さっきからずっと黙りこんじゃって?」
「え!? な、なんでもない。ちょっと考え事を……」


だがあまりにも静かなたゆねの姿を不思議に思ったいまりが話しかけてくるも一人妄想世界に浸っていたたゆねは咄嗟に反応できずにおたおたとするだけ。だがもはやそれだけで十分だった。目は口程に物を言うというがもはやそんなレベルではない。いまりとさよかはどこか楽しそうな、それでいて邪悪な笑みを浮かべながら


「ほほう、それはもしかして愛しの啓太様のことですかな?」


たゆねの心の中を一直線に貫いた。あまりにも直球な内容、そしてビンゴな言葉にたゆねは言葉に詰まり赤面するしかない。顔から火が出ているのではないかと言うほどの赤面ぶりだった。


「なっ、何でそこで啓太様の話が出てくるんだよっ!? か、関係ないだろっ!」
「ふっふっふっ……私たちが何も知らないと思っていたのかな、たゆね君? 知ってるんだよ、たゆねが啓太様の学校に行く道にジョギングコースを変えてるってこと」
「なっ!? そ、それは……!」
「もうたゆねったら分かりやすいんだから。これはもうなでしこに報告するしかないかもねー」
「お、お前達! い、いい加減にしないと本気で怒るぞ!」


涙目になりながら追いかけてくるたゆねをからかいながら双子は縦横無尽に駆け回り鬼ごっこが始まる。いつもならたゆね突撃を使って追い詰めるのだが今は公衆面前であるためそれができずたゆねは二人を捕まえることができない。双子もそれが分かっているからこそたゆねをいつも以上にからかい楽しんでいる。もはや任務などなんのその。いつも屋敷にいる時と変わらない調子だった。


「あななたち、ここは街中なのよ! もっとお淑やかになさい!」
「あ、あの……せんだん。いつの間にかともはねがいなくなってるんだけど……」
「なんですって? 一体いつから?」
「すまない。少し目を離している間にどこかに遊びに行ってしまったようだ」
「ダメですよごきょうやちゃん。ちゃんと面倒見てあげないと」
「どうやら本当に私の検診を受けたいようだな、フラノ……」


次々と起こる好き勝手な事態に苦慮しながらも序列隊(ともはね除く)は当てもなく街中を歩き続けるのだった―――――




「それでね、けーた様はまたりゅーちじょーってところに連れて行かれちゃったの!」
「ふーん……」


狭いアパートの一室で二人の犬神がちゃぶ台を間に挟みながらおしゃべりをしている。一人はともはね。ともはねは興奮しているのか身振り手振りを加えながら一生懸命に話し続けている。まるで楽しかったことを必死に伝えようとする子供のよう。そしてそれを黙って聞いているのがようこ。明らかにアンバランスな、でこぼこな二人組だった。

何故こんな状況になってしまったのか。ようこは内心溜息を吐きながら思い返す。それは数時間前。ともはねが突然訪ねてきたことから始まった。どうやらともはねは啓太と知り合いらしくよく遊んでもらっていたらしい。最近はそれができていなかったため他の犬神たちの目を盗んで遊びに来た、というのがおおよその事情。もっともお目当ての啓太は学校の補習に出かけてしまっているため留守。ようことしては追い返してもよかったのだが意気消沈しているともはねの姿に仕方なく家に上げることにしたのだった。

だがようこはどこか飽き始めているかのような態度を見せながらともはねの話を聞いていた。もっとも最初からこうだったわけではない。初めは自分が知らない啓太の話を聞くことができ興味深くはあったのだが次第にそれに飽きてきてしまった。それはともはねの話が長いこと、要領を得ないこともあったのだがそれ以上にあることに気づいてしまったから。

それはともはねが話している内容は全て自分が知らない間の出来事。つまり啓太となでしこが一緒にいた時間の出来事であるということに。

話の中に出てくるのはなでしこと一緒にいる啓太の姿。

自分が知らない、知ることができなかった啓太の姿。

それを見せつけられているような、そんな心がざわつくような感覚がようこの中に生まれてくるもののようこはそれを何とか表に見せないようにしながらともはねの話を聞き続ける。啓太もまだ帰ってくる気配はない。この際なでしこでも構わない。なでしこにともはねの相手を任せて外に遊びに行こうと考えていると


「でもいいなーようこ。けーた様の犬神になったんでしょ?」


ともはねが思い出したかのようにようこに向かって問いかけてくる。一通り啓太の話をし終えて興味が別のことに移ったかのよう。ともはねは興味深々、目を輝かせながら身を乗り出してくる。


「まあね。でもあんたも誰だっけ……何とかって人の犬神になったんでしょ?」


それに圧倒されながらもようこはそれに応えることにする。もっともまだ見習い、本当の犬神になったわけではないのだがちょっとした見栄だった。同時にようこは思い出す。それはともはねの主。確か多くの犬神が憑いた犬神使い。山の中でちょっとした噂になっていた人物だったはず。


「薫様だよ!」
「そう、そのカオルって人の犬神になったんだから別に羨ましがることないんじゃない?」
「それはそうだけど……うーん、やっぱりいーなー……けーた様と一緒にいると楽しいから!」
「あっそ。でも確かあんた、ケイタのこと嫌ってなかったっけ?」


ようこは少し驚きながらともはねに聞き返す。それは啓太のこと。確か啓太は犬神達に相当嫌われていたはず。儀式のときもなでしこ含めて二人啓太に憑こうとしていたがそれ以外の犬神は見向きもせず落ちこぼれだのなんだの好きたい放題言っていた。そんな啓太に憑くのだからけなされたり馬鹿にされることはあっても羨ましがられることになるなどようこは全く想像していなかった。もしかしたら小さな子供のともはねだからなのだろうか。


「え……? そういえばそうだっけ? でもたゆね達は最近までずっとけーた様のこと嫌ってたよ。今はみんなけーた様のこと悪く言わなくなったけど」
「………」


きょとんとした姿を見せながらもともはねはそう答える。自分が啓太のことを悪く思っていたことなど既に覚えていないかのよう。

どうやら本当に啓太は薫の犬神達からは今は忌避されていないらしい。自分が山に閉じ込められている間に何かあったのだろう。そう、自分が知らない間に。

まただ。

また自分が知らないことが出てくる。まるで浦島太郎になってしまったかのよう。

自分だけが、自分に一人だけが取り残されてしまっているかのような感覚。

そう、まるで―――――


「ところでさ、ケイタとなでしこって普段どんな感じなの?」


そんな想いを振り払うかのようにようこは話題を変えることにする。だがようこ自身無意識に気づいていた。それが何であるかを。でもそれと向き合うことをようこは恐れていた。それに気づけばきっと自分はここにはいられなくなってしまう。そんな予感。

ようこはそれを頭の隅に必死に追いやりながらともはねに尋ねてみることにする。それは啓太となでしこの様子。一緒に暮らし始めて六日になるがやはり啓太となでしこは自分に遠慮しているのかそこが今一つ分からない。第三者であるともはねならきっと知っているだろうという狙いだった。


「けーた様となでしこ? うん、すっごく仲が良いの! 何かお父さんとお母さんみたいな感じがする!」
「お父さんとお母さんね……」


言い得て妙かもしれないとようこは納得する。確かになでしこは歳も歳で乳母のような雰囲気がある。加えてともはねのように小さな子供から見ればそう言う風に見えてもおかしくないだろう。だがあまり参考になる情報ではない。


「あとけーた様はいつもなでしこの胸を見てるの。けーた様はなでしこのおっぱいが好きみたい」
「う……お、おっぱいね……」


たじろぐような様子を見せながらもようこは何とか踏みとどまる。どうやら啓太は胸に関しては大きい方がいいようだ。というかともはねにもバレているなんてどんだけ見ていたのだろう。きっとなでしこも気づいているに違いない。誤魔化そうとしても男性が胸を見ているかどうかなんて女性から見ればバレバレなのだから。

だがとにかく胸についてはやはり一歩譲るしかない。あの巨乳には流石に敵わない。だが自分も決して小さいわけではない。これから成長する余地も十分残っている。絶望的な戦力差ではないはず。


「でもケイタは大変なんじゃない? 依頼を一人でしなきゃいけないんだから。なでしこは戦えないし、犬神としては致命的よね」


ごほんっと空気を変える意味で咳ばらいをした後ようこはどこか自慢げに宣言する。それは自分がなでしこと比べて勝っている点。犬神としての本分。破邪顕正。主と共に戦うことができるというアドバンテージ。ちょっと大人げないと思いながらもその長所をともはねに向かって告げるもののそれは


「え? なでしこはもう戦えるようになってるよ?」


ともはねの予想外の言葉によって粉々に砕かれてしまった。


ようこは息を飲みながらともはねに視線を向ける。まるで信じられないことを聞いたかのように。

当たり前だ。

『やらず』『いかず』のなでしこ。

それがなでしこの二つ名。

いかずではなくなったもののやらずであることは変わっていないはず。何故ならそれはなでしこが三百年以上前、大妖狐と戦った時から一度も破られたことのない戒め。なでしこにとってそれがどれだけの意味を持つかをようこは誰よりも知っている。なのに、それなのに―――――


「なでしこが……? いつから……?」


知らず、声が低くなりながらようこはともはねに問いただす。だがともはねはそんなようこの様子の変化に気づくことなく、隠すことなく自らの知ることを吐露していく。


「えっと……確か一カ月くらい前かな? その時すっごく強い死神とけーた様がはけ様と一緒に戦ったの。でも負けちゃってそこをなでしこが助けたんだって……あ! これ言っちゃいけないだった……ど、どうしよう!? よ、ようこ……みんなには内緒にしててくれる!? バレたらごきょうや達に怒られちゃうの!」


子供の無邪気さそのままに。それがようこにとってどれだけ残酷なことか解さぬまま。


「……ようこ?」


だがいつまでたっても返事を、反応を示さないようこの姿にようやくともはねは気づき話しかける。だがようこはそれが聞こえていないかのように黙り込んだまま。どこか俯きかげんに。その前髪によって表情を伺い知ることはできない。


「……なんでもない。それよりもあんたのご主人様……カオルって人のこと教えてよ。確か天才って騒がれてたけど」
「うん! 薫様はすっごく頭がいいの。それに優しいしみんな薫様のことが大好きなんだ!」


ようこが不自然に、強引に話題を変えたことに気づかないままともはねは気を取り直しながら楽しそうに答える。自らの大好きな主の話題。喜ばない理由などあるわけもない。


「みんな……? そう言えばカオルには何人犬神が憑いたんだっけ?」
「あたしを入れて九人だよ」
「九人? そんなに憑いてたんだ……それじゃあ色々めんどくさそうね……」
「そんなことないよ! みんな仲良しだし、薫様もみんなと遊んでくれてプレゼントもちゃんと全員にくれるもん! ほら、みてみて! この指輪がけーやくの指輪! あたしのは親指なんだ!」
「そ、そう……よかったわね……」


興奮しながら契約の証である指輪を見せびらかせてくるともはねにようこは圧倒されるしかない。すっかり毒気を抜かれてしまうほど。だが九人も憑いていたとは思っていなかった。流石に誰が誰に憑いたかまで全て把握しているわけではないので驚くしかない。ようこの中の薫像が凄まじいことになっていく中ふと気づく。

それは契約の証というフレーズ。

犬神使いと犬神の契約の証であり繋がり。

自分も啓太の犬神になればそれがもらえるのだろうか。

でもなでしこは既にそれを持っているはず。一体何をもらったんだろう。

ようこは思い返す。それは今のなでしこの姿。その中で自分が知っている、山の中にいた時の姿との違いを。ようこの頭の中に真っ先に浮かんだもの。それは


髪を結んでいる真っ白なリボンだった。


それが思い浮かんだのは見た目で目立つからだけではない。

いつか自分が外から帰った時になでしこがリボンを大切そうにしていたのを偶然見たことがあったから。


「そっか……そういえばなでしこがいつもしてる白いリボンがケイタとの契約の証なのね」


自分が持っていない物を持っているなでしこへの嫉妬を抱きながらもようこはそうぽつりと言葉を漏らす。

だがそれでも構わない。まだ自分がなでしこに追いつけないことは分かり切ってる。

時間の差。それを埋めることは容易ではない。啓太となでしこの間にある信頼関係、絆とでも言うべきもの。それをこの六日間でようこは身を以て味わっていた。

でもまだこれから。これからもっと頑張って、啓太に認めてもらえればきっと―――――


「ん? 違うよ。なでしこのけーやくの証はあの蛙のネックレスだよ?」


そんなようこの思考を断ち切るようにともはねが告げる。

告げるべきではないこと。

告げることによって全てが終わってしまう事実を。


「そうなの? じゃああの白いリボンは……?」


ようこは問う。

問うべきではないことを。

知るべきではない、それでも知らなくてはいけない残酷な事実。


「あれはけーた様がなでしこにぷろぽーずした時にプレゼントした奴だよ」


今までの、そしてこれからの自分を壊してしまう真実を。




「ようこ……?」

ともはねはどこか心ここに非ずと言った風にようこに向かって話しかける。それは感じ取ったから。小さな子供であるともはねですら感じ取れるほど今のようこの様子はおかしかった。まるで永遠にも思えるような時間の後


「それ……どういうこと……?」


その瞳にぞっとするほどの狂気の炎を秘めたようこが顔を上げる。既に空気が凍てついてしまったかのような霊力が、力が溢れている。その意味を、理由をようやくともはねは悟る。自分が犯してしまった間違いに。


今、四年前から定められていた運命の時へのカウントダウンが終わりを告げようとしていた―――――



[31760] 【第二部】 第十八話 「妖狐と犬神」 前編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/09/21 18:53
それは突然訪れた。既に時間は夕刻。日も傾き、徐々に街も夜の姿へと変わろうとしていたその時。それは起こった。

炎。

まるで紅蓮のような炎がどこからともなく街に生まれてくる。次々とあちこちに。とても普通の火事とは思えないようなもの。人々は驚きながらも必死に逃げまどい混乱しながらもその場から去っていく。しかしさらに信じられないような事態が起こる。いきなり大通りに様々な物が宙から降ってきたのだ。椅子や机、電化製品、果ては自動車まで。とても人の力では動かせないような巨大な物体までまるでいきなり現れたかのように大通りに現れる。まさに天変地異。この世の出来事とは思えないようなでたらめな事態。だがそれは当たり前だ。何故ならこの事態を引き起こしているのは正真正銘、人ならざる者。まさに天災を起こすほどの力を持った神に近い存在である大妖狐の血を受け継ぐ少女。


「ふふっ、あーおもしろかった♪」


ようこは楽しげな声を漏らしながらどこか上機嫌に宙を舞う。だがその姿は普通の人間には見ることができず、この事態がようこによって引き起こされていることに気づくことはできない。そんな慌てふためいている人間の姿が楽しいのかようこはくすくすと笑いながら空高く舞い一際大きなビルの屋上、そこにある看板の上にちょこんと腰を下ろす。一度大きく深呼吸した後改めて眼下に広がる街の姿に目を向ける。そこにはようこの力、じゃえんとしゅくちによってめちゃくちゃにされてしまった街の姿があった。まるでおもちゃ箱をひっくり返してしまったような光景にようこは自分の奥底にあるものが喜んでいることに気づく。高揚感とでも言うべきものが今のようこを支配していた。その顔には笑みは浮かんでいるがそれは決して邪悪なものではない。むしろ純粋そのもの。無邪気な子供のそれだった。


「こんなに暴れたのはいつ以来かなー。やっぱりたまには運動しないとね」


誰に向けてでもなくそんな独り言をつぶやきながらようこは大きく背伸びをする。だがそこには全く疲労した様子も見られない。これだけでの力を振るいながらも。何故ならようこにとってこれぐらいは朝飯前。むしろまだ手加減を、遠慮をしていると言ってもいいくらい。だがそれでもようこはどこか満足したような雰囲気を見せている。まるで日ごろのストレスを発散したかのように。

そう、今のようこにとってこれはただのストレス解消、遊びに過ぎなかった。自らの内に荒れ狂う力を発散するための行為。例えるなら運動、遊びの類。それはようこが生まれた時から持っている本能のようなもの。言うならばなでしこが持つ戦闘本能に近いもの。だがこの五日間、ようこはそれを表に出すことなく過ごしてきた。

それを抑えてでも、ストレスをためることになっても、本当の自分を隠すことになっても成し遂げたいことが、欲しいものがあったから。

川平啓太。

初めて会った時から心惹かれた人間の子供。めちゃくちゃで、えっちで、でも一緒にいると楽しい男の子。自分の初恋の相手。啓太と一緒にいること。啓太を自分のものにすること。それがようこの願い。四年間、ずっとひたすらに待ち続けたもの。そのためにようこはずっと我慢してきた、隠してきた。自分の本当の姿を、ケモノの本能とでも言うべきものを。

でももうそれを隠す必要もない。もうそんなことをする意味も、理由もなくなってしまったのだから。

ようこはただじっと看板に座り込んだまま。ぴくりとも動こうとしない。だがその様子が先程までとは大きく違っていた。無邪気な子供のように喜んでいた少女の姿はそこにはない。そこには無表情な、冷たさを感じさせるような雰囲気を纏っているようこの姿があった。表情も感情も読み取ることができないまるで人形のような姿。だがそれは間違いなくようこ。知る者が見れば分かっただろう。それはまるで小さな頃のようこそのものだということに。

幼い頃のようこは今のようことはかけ離れた性格だった。表情に乏しく、泣くことも怒ることもなく何かが燃える時に薄く笑みを浮かべるような子供。それが幼いようこ。いやようこの本質と言ってもいいもの。だがそれが変わったのが、変えてくれたのが川平啓太という存在。面白いという感情を教えてくれた存在。今のようこがあるのは全て啓太のおかげと言っても過言ではなかった。

彼と再び出会うこと、そして共にいることがようこの願い。生きる意味だった。そのためにずっと結界に閉じ込められながらも待ち続けた。

本当なら自分は十年以上前、山から逃げ出した時に死ぬつもりだった。何もかもが嫌になって、自暴自棄になっていた自分をあの時啓太が助けてくれなければ。啓太と遊んだ記憶。それは今も変わらず胸の中にある。啓太が覚えていなくても私はずっと覚えてる。


「う~ん、おいしい~♪」


ようこはどこからともなく手の中にあるものを頬張り嬉しそうな声を上げる。それはチョコレートケーキ。しゅくちによってお店から取り出した品。そしてようこにとっては啓太と遊んだ証。その絆を形にしたもの。だがその言葉とは裏腹に表情には喜びが見られない。

何故ならようこはもう知ってしまっていたから。

全てを。啓太となでしこの関係を。そして自分がこれからどうなるかも。

ともはねからようこは全てを聞き出した。啓太となでしこの関係を、その絆を。自分がどんなに頑張っても、努力しても超えることができないところに啓太は、いやなでしこはいる。

愛を誓うエンゲージ・リボン。それを贈ってもらっているなでしこ。そんななでしこに自分がどうやっても勝てるわけがない。たった一週間でそんなことができるわけがない。

四年間。それが自分となでしこの差。果てしなく遠い、覆すことができない壁。それを自分は感じ取った。この一週間の間にそれを何度も。二人の会話の中に、雰囲気の中に。まるで自分が異物であるかのように感じるほどに。

でも、それでもあきらめられなかった。啓太を想っていた時間は、強さは決してなでしこにも負けていない。最初に啓太に恋をしたのは自分なのに。それなのに。

なんのことはない。最初から決まっていたのだ。自分がなでしこに勝てないことは。はけもそのことを知っていたに違いない。だからこそ自分を啓太に会わせたのだろう。あきらめろと、そう現実を自分に突きつけるために。なのにずっと舞い上がっていたわたし。笑ってしまう。馬鹿みたいだ。きっとなでしこもそんなわたしを見ながらおかしくて笑ってたに違いない。


「うぅっ……ぐすっ……」


知らず目から涙が溢れてくる。ぽろぽろと次々とまるで雨のように。いくら拭っても止まらない。

おかしいな……どうして涙が出るんだろう? 大好きなチョコレートケーキを食べているのに。思う存分暴れて楽しかったはずなのに。どうしてこんなに胸が痛いんだろう? 結界の、山の外に出たらしたいと思ったことなのに、それなのに全然楽しくない、面白くない。

でも分かってる。何でこんなに悲しいのか。それはもうケイタに会うことができないから。約束の期日は明日。それが過ぎれば自分は山に戻されてしまう。そうなればもう二度と外に出ることはできないだろう。封じられているオトサンと同じように。遠くに逃げることも考えたけどあきらめた。きっとそんなことをしても無駄なことは分かってる。何よりもそんなことに意味なんてなかった。

もうケイタと一緒にいられない。それが分かった以上もう何もかもがどうでもよかった。

ようこは涙を流し、チョコレートケーキを食べながらもただ街の様子を見下ろし続ける。自分の力によって起こした光景を。だがようこは既にそんなことなど頭の中になかった。それはまさに子供のそのものの願い。

ケイタに来てほしい。

ただそれだけ。

街で騒ぎを起こしたのも全てそのため。今の自分を見たらケイタはどう思うだろうか。怒るだろうか。幻滅するだろうか。嫌いになってしまうだろうか。でも、それでも自分に会いに来てほしい、見つけてほしい。そんな駄々をこねることで、悪戯をすることで親の気を引こうとする小さな子供。いや恋する少女の最後の、儚い願いだった。

ようこが何とか収まった涙の痕を拭った後、再び人差し指に力を、炎を灯そうとした時


「やはりあなただったのね。ようこ。」


そんな女性の声がようこに向かってかけられる。ようこはそんな声に一瞬ぴくっと反応したもののどこかゆっくりと視線を向ける。そこには美しい赤毛と煌びやかなドレスを身に纏った犬神、せんだんの姿があった。


「これはどういうことなの、ようこ? 何か言い訳があるならおっしゃいなさい」


せんだんはどこか威厳を感じさせる所作を見せながらようこを問い詰める。今、せんだんは宙に浮いた状態でようこと対面していた。それは大きな霊力を感じ取ったこと、そしてこの惨状が原因。薫の命令通りに見回りを続けていた矢先にこの事態。せんだんは心のどこかで悟っていた。恐らくは今の状況。自分が、自分達がようこと相対しているこの状況こそが薫が自分達に街の見回りをさせていた理由なのだと。


「………」


だがそんなせんだんを前にしながらもようこはそのまま黙りこんだまま。視線は既にせんだんから外れどこか遠くを見つめている。まるでここではないどこかに想いを馳せているかのよう。どう対応するべきか。何故こんな事態になっているのかせんだんが頭を働かせんとしていると


「ちょっとリーダー! 一体どうしたの!? いきなり飛んで行っちゃうなんて……!?」
「お、お前……ようこ!?」
「何であんたがこんなところにいるの!? 山の結界は!?」
「そ、それより……この騒ぎって、や、やっぱりようこの仕業なの……?」
「どうみても、そう」
「街が燃えちゃってますよ! フラノのお気に入りのお店も無くなっちゃってます~!」


せんだんの後に続くように次々と他の序列隊も集まってくる。彼女たちもこの事態を感じ取り先程まで人々の避難と救助を行っていたところ。そして彼女たちは目の前にいるようこの姿に驚きを、戸惑いを隠せない。何故ならせんだんとごきょうや以外の者はようこが山から一時的に出ていることを知らなかったのだから。そして目の前の事態。落ち着いてられるはずなどなかった。


「みんな、落ち着きなさい。ようこは今一時的に山から出ることを許されていたの。これは宗家様もお兄様も承知のことよ」

「本当なの、リーダー!?」
「何でこんなやつを出しちゃったのさ!? ようこがどんな奴かせんだんだって知ってるだろ!?」


せんだんの言葉にいまりとさよか、そしてたゆねが大きな驚きと抗議の声を上げる。当たり前だ。彼女たちからすればようこは山を襲った大妖狐の娘であり、騒ぎばかり起こす厄介者。何度も衝突してきた相手。それが何故か結界の外に、しかも街で騒ぎを起こしているのだから。たゆねたち程ではないにせよ他の犬神達もその胸中は同じだった。


「きゃんきゃんうるさいわね……あんたたちに用はないの。さっさとどっかに行ってくれる?」


どこか冷たい目をしながらようこはどうでもよさげに言い放つ。無視を決め込むつもりだったのだか流石にこれ以上耳元で騒がられるのは御免だった。何よりも今はせんだんたちに構っている暇など無い。そんな気配が滲み出ている態度はたゆねたちにとっては火に油を注ぐようなものだった。


「何だって!? お前こそさっさと山に戻れよ! ここはお前がいていい場所じゃない!」
「そーそー。それにこんなことしちゃって今度は閉じ込められるだけじゃ済まないよ。封印されちゃっても知らないんだから!」
「そーよそーよ!」
「み、みんな……ちょっと落ち着いて……」


今にも襲いかかって行きそうなたゆねたちをいぐさが必死に抑えている中、せんだんはこの場をどうするべきか決めあぐねていた。そもそも何故こんなところにようこがいるのか。しかもこんな騒ぎを。ようこは啓太の犬神見習いとして外に出ることが許されていたはず。その期日の間に問題を起こすなど考えてもいなかった。そんなことをすれば連れ戻されてしまうことは火を見るよりも明らか。それが分からないようこではないはず。それなのに何故。


(これは……まずいな……)


まさに一色即発の空気、混乱の中、ただ一人冷静に目の前の事態に向き合っている犬神がいた。それはごきょうや。ごきょうやだけは目の前の事態が、ようこがどういう状態なのかを見抜いていた。ごきょうやはせんだん同様ようこが啓太の犬神になるために山を出てきていることを知っていた。だがせんだん以上にごきょうやはようこの事情を察していた。恐らくはようこが啓太に恋心を抱いていることを。しかもおそらくはなでしこに匹敵するほどの。同じく主に想いを抱いていたごきょうやにはそれが手に取るように分かる。そしてその先も。

ごきょうやは見て取る。それはようこの姿。目に残った涙の跡。そして今にも崩れてしまいそうな、爆発してしまいそうな気配。恐らく思いつく限りで最悪の展開になってしまったのだろう。かつて自分も失恋した際には同じような状況に陥ったことがあるからこそ分かる。今のようこには何を言っても無駄だと。ようこが待っているのは自分たちではなく啓太。啓太の言葉でなければ今のようこには届かない。ようこを止めるには力づくか、啓太の力を借りるしかない。なんにせよこのまま悪戯にようこを刺激するのは危険すぎる。爆発寸前の爆弾の傍で火遊びをするようなものだ。


「せんだん……ここは一旦引いた方が良い。まずは啓太様を探すことが先決だ」
「……そうね」


ごきょうやが小さな声でせんだんに向かって提案する。思いつく限りで最善であろうと思える案を。せんだんも鬼気迫ったごきょうやの言葉に頷きかけたのだが


「? どうしてそこで啓太様が出てくるんですか~?」


そんな会話をよりにもよってフラノに聞かれてしまう。瞬間、せんだんとごきょうやは固まってしまう。場をかき乱すことに定評があるフラノ。だがまさかこんなタイミングでそれがやってくることは二人も思ってもいなかった。だがそれは既に手遅れだった。


「そ、それは……」
「啓太様? 何で啓太様の話が出てくるのさ? ようこと何の関係もないだろ?」
「どういうことなの、せんだん?」


啓太という予想外の言葉が出てきたことによってたゆねたちはさらに混乱しながらせんだんに詰め寄って行くもせんだんは言葉を濁すことしかできない。ごきょうやだけでなくせんだんも既にようこの今の状況が普通ではないこと、そしてその理由が恐らくは啓太に関連したことであることに気づいていた。しかし


「いい加減にしないと力づくで追っ払うわよ……わたしはケイタを待ってるの。あんたたちなんかに用はないんだからさっさと消えて」


ようこがどこか怒りを込めた声で警告する。その瞳に確かな炎が灯っている。狂気と言う名の炎が。これ以上自分の邪魔をするなと。だがそれに気づかないたゆねたちはさらにようこに向かって食ってかかって行く。それはようこへの対抗心と犬神としての正義感が合わさったもの。目の前の光景を起こしたようこを見逃すわけにはいかないという思い。


「何でお前が啓太様を待ってるのさ? お前と啓太様になんの関係がある?」
「……わたしはケイタの犬神だから。それだけよ」


たゆねの疑問にようこはどこか寂しげに答える。まるでそう自分に言い聞かせるように。それだけは譲れない。あきらめきれない想いが滲み出るような言葉。


「お前が啓太様の犬神っ!? な、何でそんなことになってるんだよ!?」
「あんたには関係ないでしょ。それにあんた達はケイタのこと嫌ってたんだし何でそこまで怒ってるのよ?」
「うっ……そ、それは……」


たゆねはようこの反論に声を詰まらせることしかできない。ようこの言う通り自分達はつい最近まで啓太のことを忌避していたのだから。だがたゆねにとってはそれだけではなかった。たゆね自身は認めていないがたゆねにとって啓太は気になって仕方ない存在。想い人と言ってもいい存在。そんな啓太の犬神にようこがなっている。せんだんやごきょうやが否定しないことからそれが真実なのだと分かる。それがたゆねにとっては面白くなかった。一言えば羨ましかった。決して薫の犬神であることに不満があるわけではないがそれとはまたベクトルが違う恋する乙女としての嫉妬だった。


「それにあんた達はカオルって奴に憑いてんでしょ。わたしが誰に憑こうとほっといて。どうせ甘やかされて調子に乗ってるんでしょ?」


ようこはそう吐き捨てる。それはたゆね達の態度。啓太に対する態度はともかく自分に対しての態度が山にいた時よりも大きくなっている。何度も自分にやられたことがあるくせにそれを忘れてしまったのだろうか。カオルという主人に甘やかされているうちに調子に、天狗になっているに違いない。そして何よりもこれ以上付き纏われたくない。そんな意味を込めた言葉。だがそれはたゆねだけでなく、他の犬神達にとっても聞き逃すことができない言葉だった。



「ようこちゃん、いくら何でもそれはフラノも怒っちゃいますよ?」
「……私も」
「ちょっとあんた。カオル様のこと悪く言うなんて許さないよ」
「そーよ、大体何よ。えらそうにしちゃってさ。あんたが犬神? 本気で言ってるの? 大妖狐の娘のあんたが? 冗談もほどほどにしてよね」

「………」


ようこはただ黙ってそれを聞き続ける。いや、それがようこの耳に届いているのかどうかも定かではない程ようこの空気が変わりつつある。それは馬鹿にされたから。自分がずっと夢見てきて、それでも叶わなかった夢を。

ケイタの犬神になる。

たったひとつの、それでも大切な誓い。


「お、お前達! もうよさないか!」
「ごきょうやの言う通りよ! とにかく落ち着きなさい! これは命令よ!」


せんだんとごきょうやが焦りながらも皆の収拾を付けようと奮闘する。だがそれはもはや手遅れ。自分達だけならいざ知らずその主まで馬鹿にされてしまったことにたゆねたちは怒りが収まらない。自らの主への忠誠心。犬神が犬神たるためのもの。それが汚されてしまった以上彼女たちはもはや止まることはできない。そしてたゆねによってその最後の一線が越えられる。決して触れてはいけない一線。ようこが分かっていながらも逃避し続けたこと。

今の自分がこんな目に会っているその元凶。その正体。


「お前が啓太様の犬神になれるわけないだろ! 啓太様にはなでしこが憑いてるんだ!」


『なでしこ』


その言葉が放たれたことがようこにとっての我慢の限界だった。


瞬間、世界が静まり返った。まるで時間が止まってしまったかのよう。ゆっくりとようこがその場から立ち上がる。顔を俯いたまま。その表情が前髪によって隠れたまま。だがその動きだけでその場にいるものは全てを悟った。もはや言葉など通用しないのだと。


「……いいよ。そんなに死にたいなら殺してあげる。いい加減我慢するのも馬鹿らしくなっちゃたし……どうせ明日には連れ戻されちゃうからもうどうでもいいや……」


ようこはまるで見下すかのような視線をたゆねたちに向ける。その瞳に知らず体が震える。まるで獲物を見つけたケモノのような瞳がそこにはあった。ぞっとするような冷たさの中に怒り狂う業火を秘めた瞳。街を焼いている炎がその笑みを照らし出す。

この世の物とは思えないような妖艶さと狂気を併せ持った表情をみせながらようこは告げる。


「思い出させてあげる。このようこ様の力をね」


今再び三百年の時を超え、妖狐と犬神の戦いの火蓋が切って落とされようとしていた―――――



[31760] 【第二部】 第十九話 「妖狐と犬神」 中編
Name: 闘牙王◆53d8d844 ID:e8e89e5e
Date: 2012/10/09 04:44
日も沈み、夜の姿へと変わりつつある街。だがその様子はいつもとは大きく異なっていた。それは炎。ライトアップではない光、炎によって街は照らされ人々は混乱の中にある。その理由を人々は知ることはできない。何故ならそれは人外、物の怪によって引き起こされた事態なのだから。故に人々は知らなかった。その上空。月明かりと星の輝きによって照らされている夜空で今まさに物の怪による争いが起こっていることを。


「じゃえん!」


長い髪をたなびかせながらようこはその人差し指を振るう。瞬間、人差し指から炎が生まれその指し示す方向に向かって放たれていく。それこそがようこの力の一つ。炎を生み出し、それを自在に操るその名に相応しい力。それは並みの妖怪なら一撃で倒してしまえる程のもの。それをようこは放つ。狙いは自分の一番近くにいる犬神、たゆね。だがたゆねはそれを前にしても怯むことなく宙を舞いながら紙一重のところで躱す。ようこはそのままたゆねが自分に向かって反撃してくるのを予想し楽しげな、挑発的な笑みを浮かべながら待ち続けるもたゆねはそんなようこを振り切るかのように背中を見せながら逃げ去っていく。たゆねだけではない。その周りにいる他の犬神たちも同じようにようこと一定の距離を取りながらも攻撃を仕掛けてくる気配がない。


「どうしたの!? もう尻尾を巻いて逃げるだけ!?」


ようこは速度を上げ、追いかけながらせんだん達に向かって声を上げる。さっきまでの意勢はどうしたのかと。侮蔑にも似た感情を込めた言葉を。だがそれが聞こえているにも関わらずせんだん達はそれまでと変わらずようこから逃げ続けているだけ。それが先程からのようことせんだん達序列隊のやりとり。

ようこはそんなせんだん達の予想外の行動、そして展開にいらだちながらも同時に訝しんでいた。あれだけの啖呵、言い争いを行った上でのこの状況。自らの主を侮辱された犬神達は怒りのままに自分に向かってくるのだとばかりようこは思っていた。せんだんやごきょうやならまだ分かる。だがたゆねやいまり、さよかまでそんな行動をしてくるなど想像していなかった。てっきりそのまま自分に向かって襲いかかって来るだろうと。そしてそれを返り討ちにしてやるつもりだったというのに。そんな自分の予想外の展開とたゆね達の姿にようこは怒りによって煮えたぎっていた頭が冷えていくのを感じ取る。それはケモノの本能。決して怒りが収まったわけではなく、ただ冷静に相手を、獲物を狩るものの思考。それによってようこはようやく悟る。せんだん達の不可解な行動、逃亡の意味を。


「そう……そういうことね」


どこかつまらなげにつぶやいた後、突如ようこがその場から姿を消してしまう。まるで消えてしまったかのように。その光景にこれまで何の反応も示さず、まるで作業のように動いていたせんだん達の動きに戸惑いが生じる。それはようこを見失ってしまったから。しゅくち。一定の距離のあるものを瞬間移動させることができるようこのもう一つの力。それはようこ自身ですら例外ではない。


「これでいいんでしょ? いつまでも鬼ごっこじゃつまんないし」


ようこは腕を組みながらせんだん達を見下ろすような位置に浮かんでいる。それはせんだん達が逃げようとしていた、いや誘導しようとしていた場所。そこにようこはしゅくちによって先回りしていた。せんだん達はそんなようこを見据えながらも油断なくようこと対面する。


「……いつから気づいていたの?」
「ちょっと前からかな。だってあんたたち全然攻撃してくる気がないんだもん。でもちょっと感心したよ。わざわざあたしを街から遠ざけようとしてたんでしょ?」


せんだんの言葉にようこは淡々と、それでもどこか感心したように答える。ようこを街から遠ざけること。それがせんだん達の狙い。あのまま街の中で戦闘になってしまえば被害は免れない。それを防ぐためせんだん達はわざとようこを煽り、街から郊外、裏山の上空までおびき出そうとしていた。だがまさかようこの方からその場所に向かって移動するとは思っていなかったせんだんはそのまま静かに扇子を持ったまま思考する。

ようこの行動は想定外だったがこれで街への被害を心配することは無い。最低限の条件は満たされたと言ってもいいだろう。そしてようこの様子。どうやら先程までは違い落ち着きを、冷静さを少しは取り戻しつつある。もっともそれがプラスになるかマイナスになるかは分からない。そして自分達序列隊の状態。自分を始め他の犬神達は既に臨戦態勢。戦闘はやむなしといった構え。特にたゆねといまり、さよかは今にも飛び出して行きかねない勢い。この場所にようこを誘導するというせんだんの命令に従っていたものの度重なるようこの挑発によって我慢の限界に達しつつある。これ以上事態を先延ばしにはできないと悟ったせんだんは告げる。


「そう……そこまで分かっているのなら話は早いわ……ようこ、最後の忠告よ。騒ぎをやめて山に戻りなさい」


それは最後通告。せんだんとして、犬神として譲ることができない最後の一線。このまま矛を交えずに穏便に事態を収めたいというせんだんの配慮。だがせんだん自身、それがもう不可能であると半ば悟っている選択肢。


「勘違いしないでくれる? あたしがここに来たのは降参するためじゃない。さっき言ったでしょ。あたしの力を思い出させてあげるって……」


そんなせんだんの言葉を嘲笑うかのようにようこは告げる。もはやそんな選択肢は無いと。自分の誇りを、誓いを汚された怒りは決して収まりはしないと。それだけではない。それは今までの封印されていた日々。その恨み。今までずっと我慢してきた、耐えてきた所業。犬神という存在への。


「あんた達の言う通りだよ。あたしは犬神なんかじゃない……あたしは妖狐、大妖狐の娘。ならもうやることは決まってるじゃない。あんた達が大好きな破邪顕正ってやつの通りあたしを退治すればいいのよ」


できるものならね、という言葉を加えながらようこはその瞳と人差し指に炎を宿しながら宣言する。どこか自虐的な気配を、泣きじゃくる子供のような気配を滲ませながら。そしてそれ以上の業火の怒りを身に宿しながら。せんだん達は気づかない。気づけない。ようこの言葉の意味を。その姿の本当の意味に。それを見抜ける、救うことができる者はこの場にはいない。

月明かりが少女達を照らし出す。一匹の妖狐と八匹の犬神。一対八という数の上では圧倒的に不利な狐はそれでも不敵に笑う。何故ならそれだけの力が、強さが狐にはあるのだから。犬達はそんな狐を見ながらも動じることなく向かい合う。そして


「そう、仕方ないわね……ならもう容赦はしないわ。金色のようこ。主、川平薫の名に賭けて私達序列隊があなたをここで止めて差し上げます」


せんだんが一度目を閉じた後に扇子を振るいながら宣言する。犬神として目の前の存在を止めるために。瞬間、三百年の時を超え再び妖狐と犬神の戦いの火蓋が切って落とされた―――――


「っ!?」

その驚きはようこだけのもの。それは目の前の光景。八人の犬神達。戦闘が始まればその数に物を言わせて一斉に攻撃を仕掛けてくると考えじゃえんを用意していたにも関わらずせんだん達はそのまま再び後方へと下がって行く。まるで先程の焼き回し。まさかこの期に及んで腰が引けたのだろうかとようこが訝しんだ瞬間


「はああああっ!」


叫びと共に一匹の獣が拳と共にようこへと突進してくる。ようこは一瞬反応が遅れるもののそれを躱しながら体勢を整える。その視線の先には闘志によって霊力をたぎらせている序列三位たゆねの姿があった。


「へえ、あんたがあたしの相手? 他のお仲間と一緒じゃなくてもいいの?」
「うるさい! お前なんかに僕達は負けない!」


ようこの言葉に反発しながらもたゆねは凄まじい速度でようこに肉薄しながら拳を放って行く。だがその拳は全て見切られているかのようにようこの身体に触れることは無く空を切って行く。それは決してたゆねが弱いからではない。たゆねは薫の犬神の中では最強、山の犬神達の中でも五指に入る程の力の持ち主。特にその身体能力は群を抜いている。だがそれを難なくさばく程の力がようこにはある。およそ一対一ではようこが犬神に後れをとることはあり得ない。はけかなでしこレベルの相手でなければようこには敵わない。


「ふーん、でも残念。そろそろおしまいにしてあげる」


ようこはたゆねの攻撃の隙を狙い、力を解き放つ。じゃえん。全てを燃やし尽くす邪炎。攻撃に終始しているたゆねはそれに反応し、対応することができない。肉弾戦のみならたゆねにも勝機は存在するもののようこにはそれ以外にもじゃえんとしゅくちという力がある。それは今のたゆねだけで覆すことができない力の差。だが


「破邪結界、二式紫刻柱!」


瞬間、まるでたゆねを守るかのように紫色の結晶が現れじゃえんを受け流す。突然の事態にようこは咄嗟の反応ができずにそのままたゆねの拳をその身に受けてしまう。


「うっ……!」


その馬鹿力とも言える力をまともに食らってしまったことで苦悶の声を漏らしながらもようこは距離を取りながらもその結晶に目を向ける。その表情は苦悶と共に驚きに満ちていた。何故ならその力をようこは知っていたから。

『破邪結界 二式紫刻柱』

はけが得意とする結界術。また結界の中では特に防御に優れた力を持つもの。だがそれはかなりの高等術のはず。それをせんだん達が使ってくるなど想像していなかったようこは驚きを隠せない。だがそれだけではない。先程の結界は間違いなくたゆねが張ったものではない。そんな暇も隙もたゆねにはなかった。

ようこはそのままたゆねの背後にいる他の犬神達に目を向ける。そこにはまるで群れを作るかのように二つのグループに分かれている序列隊の姿があった。一つがごきょうや、フラノ、てんそうの三人のグル―プ。ようこは悟る。先程の結界がその三人によって張られたものだったのだと。そしてもう一つがせんだんといぐさの二人組。ごきょうや達よりもさらに奥に控えているような形でせんだんは扇子を持ちながらようこを、戦況を見据えている。その姿はまるで軍師そのもの。そんな自分の想像もつかない事態にようこが戸惑っている中


「よそ見してる暇があると思ってるのか!?」


先程よりもさらに速度を増しながらたゆねが猛攻を繰り出してくる。その拳で、蹴りで。ようこは圧倒されながらもそれを捌き続けるもその鋭さに、重さに次第に劣勢になっていく。それはようこの速さにたゆねが慣れてきたこと、そして戦いながら成長していく若い犬神であるたゆねだからこそできること。


「……っ! 調子に乗るんじゃないわよ!」


これ以上たゆねを調子づかせるわけにはいかないとようこはそのまま一瞬で後方に飛びながら再びじゃえんを放たんとする。先程のように結界がたゆねを守ろうとも第二撃によって不意をつかんともう片方の手にじゃえんを準備したまま。だが


「私達を!」
「忘れてもらっちゃ困るよ!」


そんなようこの狙いを見抜いていると言わんばかりに二つの影がまるで鏡合わせのような動きを見せながらようこに襲いかかって行く。それは双子の犬神、いまりとさよか。二人はその人差し指から光を放つ。『紅』それがその技の名前。犬神が持つ攻撃手段の一つ。二人の紅はようこのじゃえんには遠く及ばない。だがそれでもまともに受ければようこもただでは済まないためようこはたゆねに放たんとしたじゃえんで紅を迎撃する。しかし


「そこっ!」
「ぐっ……!」


代償としてたゆねの蹴りを迎撃することができずようこはそのまま吹き飛ばされてしまう。咄嗟に両手で受け止めたものの衝撃を殺しきることができない。腕がその威力によって軋みを上げる。


「まだまだ!」
「これから!」


そんなようこを嘲笑うかのように二つの流星が紅を放ちながら、その蹴りによってようこを翻弄しながら舞っていく。双子だからこそできる完璧なコンビネーションによって。悪戯好きな二人の特性である俊敏性によって捉えられることなくいまりとさよかは戦場を荒らしていく。ようこはそんな双子を排除せんともがくも完璧とも言えるタイミングで現れる結界によって阻まれ、そしてたゆねの一撃必倒の攻撃によってダメージを負わされてしまう。全く思った通りに動けず、まるで動きを読まれているかのような展開にようこは混乱するしかない。だがそんな中でようやく気づく。それは戦場の一番奥に控えているせんだん。それこそがこの戦いの、戦場の支配者なのだと。

集団戦。それこそがせんだん達の、序列隊の強さ。

せんだん達は悟っていた。それは個人としての力。それで自分達がようこに大きく劣っていることに。もちろんせんだん達は犬神として劣っているわけではない。だがようこは規格外と言ってもいい力を持っている。山の中で生活している中でせんだん達はそれを何度も目の当たりにしてきた。だが以前のせんだん達ならそれを認めることは無かっただろう。自分達全員でかかればようこなど敵ではないと。だが今のせんだん達にその慢心は無い。

それは川平啓太と死神の戦い。その影響があってこそ。

それによってせんだん達は痛感した。自分たちよりも遥かに上の力を持つはけですら敵わない、苦戦する相手がいることに。特に実際に戦ったたゆねとともはねはそれを誰よりも肌で感じることになった。そして気づく。自分達が強くなったと思っていたその理由。それが自らの主、川平薫の力によるものであることに。自分達の真価が集団戦にあるのだと。だがそれは天才と言われる犬神使いである川平薫がいてこそ。故にせんだん達は模索した。主だけの力ではなく、自分達で強くなるための術を。それがこの布陣。

前衛、中衛、後衛。三つのグループに分かれ、連携するスタイル。

前衛はたゆね、いまり、さよかの三人。中心となるのは最も力のあるたゆね。圧倒的突破力を持つたゆねが先鋒となり、トリッキーな動きとコンビネーションが可能ないまりとさよかがそれを補助する。

中衛はごきょうや、フラノ、てんそう。中心となるのはごきょうや。いつも行動を共にしているがゆえにこの三人は統率、意志疎通が優れている。役割は前衛のサポート。結界によって前衛の補助を行うことが主な役目。場合によっては紅によって援護を行う。

後衛はせんだん、いぐさ、そして今はこの場にはいないがともはね。役目は戦場全体のフォロー、そして何よりも司令塔の役割を果たすこと。序列隊のリーダー足るせんだんだからこそできる役割。

もちろんせんだんの指揮は主、薫に及ぶものではない。その点においては足元にも及ばない。だがそれでもせんだん達はこの一ヶ月間ただ己を磨いてきた。

例え主がいなくとも自分達の役目を果たすために。そして何よりも自分達の主に相応しい犬神たるために。

それが成長した、今の序列隊の力だった―――――



ようこは悟る。侮っていたのは自分の方だったのだと。例え一対八であっても自分の力なら負けるわけがない。でも違っていた。それは山の中にいた頃の話。もしその時のままだったなら勝負は自分の圧勝だったろう。でもそうならなかった。自分が知らない四年間。その間にせんだん達までもが変わっている。なでしこのように。自分は何も変われていない。その事実を突きつけられるような感覚。それは今のようこにとって認められない、認めるわけにはいかないもの。


「……っ! なめるんじゃ……ないわよ!」


たゆね達の攻撃の一瞬の隙を突き、ようこはしゅくちによって瞬間移動する。それは後衛、せんだんといぐさがいる場所。それはせんだんこそが序列隊の要であると見抜いたから。加えて他のグループに比べて後衛は二人組。そしてせんだんは指揮にため動くことができずもう一人は序列隊の中でともはねを除けばもっとも弱いであろういぐさ。ならばせんだんを撃破し、混乱したところを各個撃破する。それがようこの狙い。ようこはその手に力を込める。それは先程までの比ではない。だいじゃえん。ようこの最高の攻撃。もし結界を張られてもそれごと消し飛ばせるほどの力を込めた一撃。だがようこは知らなかった。

指揮をする者を倒せば犬神を止められる。それこそが間違い、罠。犬神使いと戦う者が必ず犯す間違いをまた自分も犯してしまったことを。

ようこは目を見開く。それは目の前にいるせんだんではなくその隣にいる犬神、いぐさ。取るに足らないと判断し視界にすらいれていなかった存在。だが今まさにだいじゃえんを放たんとした時にようやく気づく。それはいぐさの拳。そこに凄まじい霊力が込められている。とても今の瞬間溜めたとはおもえない規模の霊力。それこそがいぐさの役目。要たるせんだんを狙ってくるようこを迎撃するためにいぐさは戦闘が始まったその時からずっとその霊力をため続けていたのだった。いぐさの力を知っている、侮るであろうことを見越した上での奇策。


「はああああっ!!」


いぐさの拳から霊力が放たれる。それはただの紅とは比べ物にならない威力。いかなようこといえども直撃すればただでは済まない。


「ちっ……!」


ようこはだいじゃえんを咄嗟に引っ込めながらしゅくちによって間一髪いぐさの攻撃を躱す。あの状況でそれができるだけでようこがまさに戦闘においてずば抜けた力を持っていることを証明している。だがそれはようこにとっても精一杯、限界の動き。故にようこは対応することができなかった。この瞬間を狙ったせんだんの最後に一手に。

それはまさに閃光だった。凄まじい霊力の塊が光のままにようこに向かって迫る。先程のいぐさの一撃を遥かに超えるまさに一撃必殺の切り札。


「破邪走行、発露×1! たゆね突撃―――――!!」


霊力を爆発させながら相手に突撃するたゆねの必殺技。それこそが序列隊の切り札。そこにつなげることがこれまでの布石。ようこは声を上げる暇もなくその直撃を受けそのまま真下にある裏山に向かって吹き飛ばされる。凄まじい勢い、そして落下音と共に。

それがようこと序列隊の戦いの決着だった―――――





ふと、目を覚ました。

ようこはどこか虚ろな意識のまま辺りに目を向ける。それはまともにその場を動くことができなかったから。体中が痛みで軋んでいる。満足に身体を動かすこともできない。同時に思い出す。自分が先程まで犬神達と戦っていたことを。そしてそれに敗れ、地面に倒れ伏しているのだと。


「ねえ、これからどうするの? 一応結界は張ってるけど……」
「そうだな……ひとまずはけ様をお呼びした方がいいだろう。この件に関してははけ様が深く関わっておられる」
「そうね……いぐさ、悪いけれど山まで行ってお兄様を呼んできてもらえる?」
「え? は、はい……!」


誰かが走って行く音が聞こえる。どうやら話の内容からはけを呼びに行ったらしい。擦れた視界に捉える。それは結界。自分を囲むように四方に張られている。そんなことしなくても自分は立つことすらできないと言うのに。念の入ったことだ。

でも、そうか。もうこれで終わりなんだ。はけが来たらもう自分の力ではどうしようもない。一対一なら刺し違えるぐらいできるかもしれないけれどこの場にはせんだん達もいる。いや、それどころか自分はせんだん達にすら勝てなかった。結局は三百年前と同じ。オトサンが負けて、封印されてしまったように。自分もまた犬神に封印されるだけ。本当に封じられるのか、また山の中に閉じ込められるのか分からないけれど。でもどっちでも変わらない。またあの日々が待っている。それだけ。


「でもせんだん、ようこが啓太様の犬神になるって言ってたの本当だったの?」
「それはフラノもずっと気になってました~ほんとなんですかごきょうやちゃん?」
「それは……」
「……本当よ。ようこは啓太様の犬神見習いとして山を出てきていたの」


そっか……前と一緒じゃない。

もう、ケイタに会えないんだ。

もう二度と会うことができない。

街で騒ぎを起こしたあたしをはけはもう山から出すことは無いだろう。だからこれでおしまい。

でも楽しかった。一週間だけだったけど……ケイタと会えて、しゃべって、触れ合って、遊んで、みんな、みんな楽しかった。でもそれももうおしまい。だから……もう……


「なんでそんなことになってんの? 啓太様にはなでしこが憑いてるのに?」
「なでしこがそれを許したの? プロポーズまでされてるのに」
「そ、そうだよ。どうしてなでしこがいるのにようこが啓太様に憑こうとしてるのさ?」


瞬間、ようこの瞳に光が宿る。そこに何が映っているのか。それはようこにしか分からない。

そうだ。

このままあたしは山に返されてしまう。二度と出ることができない牢獄に。

なのに。

なのにあいつはここに居続けるんだ。

ケイタと一緒に。これまでもそうだったように。

笑いながら。楽しそうな笑みを浮かべながら。ケイタと一緒に生き続けて行く。

それはあたしが手に入れるはずだったのに。あたしが最初に見つけたのに。

なのにみんな、なでしこのことばっかり。

どうしてあたしじゃないの?

なでしこが全部奪ったのに。

あたしの欲しかったものを、時間を、楽しみを、ケイタを。


なのに。何で。何で何で何で何で何で何で―――――――


「ああああああああああああああ―――――!!」


少女の叫びが響き渡る。それはまるで泣きじゃくる子供の泣き声。果てしない悲しみとそれと同じぐらいの怒りが込められた慟哭。同時にこの世の物とは思えないような力が、霊力が溢れ出してくる。

犬神達は声を上げる暇もなくその場から弾き飛ばされる。決して中から破壊することができない結界がまるで何もないかのごとく消し飛ばされてしまう。


犬神達はただその光景を前に立ち尽くすことしかできない。まるで隕石が落ちてしまったかのようなクレーターの中心にそれは存在していた。


夜の闇の中にあってなお輝きを放つ巨大なケモノ。鋭い爪と牙を持つ一匹の狐。ようこがこれまで決して見せることのなかった本性。その二つ名の通り金色に輝く毛と魔性の瞳をもつ妖狐。


『金色のようこ』


彼女達はまだ知らなかった。いや知るのが遅すぎた。決して手負いのケモノを侮ってはいけないことを。そして自分達が決して触れてはいけないケモノの逆鱗に触れたことを―――――


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.35783791542053