「ん………」
まどろむ意識の中で俺は目を覚ます。同時に日の光が窓から目に飛び込んでくる。どうやらもうとっくに朝になってしまっていたらしい。だがまだ頭がはっきりとしない。今日は日曜日、学校が休みということで夜遅くまで借りてきた映画を見ていたのが原因らしい。頭かきながら床に敷いてある布団から起き上がる。Tシャツにトランクス一枚。それが今の俺の恰好。そんなとても人様には見せられないような姿のまま顔を洗うために洗面所へと足を運ぼうとすると
「あ、啓太さん、おはようございます」
そんな透き通るような声が掛けられる。同時に目の前に小さな少女が姿を現す。一言で言えば可愛らしい少女。栗色のウェーブがかかった髪。大きくつぶらな瞳。あどけない口元。だが決して子供っぽいというわけではない。自分にとっては姉というのが一番しっくりくるだろうか。
「おはよう、なでしこ。悪いな、寝坊しちまった」
「いいんですよ、今日は日曜ですから。それより早く着替えてきてください。風邪引きますよ。朝ごはんできてますから」
顔を少し赤面させながらそう告げた後、なでしこは早足に台所へと向かって行く。いつも目にしているはずなのにやはり恥ずかしいものらしい。そんな初々しさもらしいと言えばらしい。その姿もいつもと変わらない。割烹着の上にエプロンドレスという何ともアンバランスな、時代錯誤な服装。そのエプロンも食事を作っているから着けているのではなく、常時身につけている物。それにも理由はあるのだがそこは割愛。とにかく顔を洗って食事にしよう。大きなあくびをしながら俺は準備を整えていく。
それが俺、川平啓太の一日の始まり。そして俺の家族、そして犬神と呼ばれる化生であるなでしことの一日の始まりだった。
「「いただきます」」
二人で手を合わせた後、俺たちは朝食を食べ始める。小さなちゃぶ台の上には日本の朝に相応しい料理が並んでいる。ご飯に味噌汁、魚に卵焼き。これに勝る朝食があるだろうか。いや、ない! 加えて最も重要なのがその味付け。それはまさに非の打ちどころのないもの。日本全国にいる主婦の皆さまが裸足で逃げ出すに違いないほどの至高の味。それを今、俺は口にしているのだ! その喜びによって知らずその眼に涙が滲む。
「け、啓太さん……一体どうしたんですか?」
「いや……気にしないでくれ……どこか違う世界の俺の電波を感じ取っただけだから……」
「? はあ……良く分かりませんけど啓太さんがそう言うなら……」
俺の言葉に首をかしげながらもなでしこは静かに箸を進めていく。だがその当惑も当然だ。俺自身何を言っているのか良く分からないんだから。そんな支離滅裂なことを考えながらも俺たちは朝食を済ませていく。なでしこは食事をしながらも時折こちらの姿を、反応を気にしている。時折、視線が合うがそれを誤魔化すように微笑みを向けてくれる。その姿に思わずこちらも赤面してしまう。
その名の通り、大和撫子という言葉が形になったような少女。四年前から一緒に暮らしている少女、いや犬神。犬神とは何か。それは………ともかく置いといてまずは俺の名前。川平啓太。十七歳。高校生。それだけならごく普通なのだが一つ、特別な力を、職業を持っている。それは―――――
「啓太さん、今日はこれから買い物に行こうと思うんですけど、何か食べたい物ありますか?」
いつの間にか洗い物を片付け終わったなでしこが出かける準備をしながら話しかけてくる。どうやら知らない間に深く考え込んでしまっていたらしい。
「いや、なでしこに任せるよ」
「そうですか、じゃあ行ってきます。そんなに時間はかからないと思うのでお留守番お願いしますね」
優しい笑みを浮かべながら買い物袋を持ったなでしこが慣れた様子で部屋から出かけていく。そう、言い忘れていたがここはアパートの一室。本当ならもっと良い部屋を借りたいところだがいかんせん高校生ということ、情けないことに稼ぎが少ないことが一番の原因。まあそれは置いておいて
なでしこが買い物に出かけたことを確認した後、俺は迅速に動き始める。そう、まるで特殊部隊のごとく的確に、状況を整えていく。鍵を閉め、チェーンを掛け、カーテンを閉める。それはさながら秘密基地を作る少年のよう。だがそれこそが少年が一人部屋に残った理由。
少年は気づいていた。先程のなでしこの言葉。そこには一緒に買い物に行きたいという意志表示が含まれていたことに。流石に四年も一緒に暮していればそれぐらいは分かる。
すまない、なでしこ。それでも俺には果たさなければならない使命があったんだ―――――
一人、心の中で懺悔しながら啓太はそれを手に取る。鞄の中からそれが姿を現す。啓太にとっての、いや、男にとっての桃源郷が。アダルトなDVDがその姿を現す。それこそが啓太がなでしこの買い物への誘いを断った理由。昨日借りてきた映画もこのための布石。本当ならまだ年齢的に借りることはできないのだがそこは何とか誤魔化した。その返却期限もあとわずか。このチャンスを逃すわけにはいかない。
そんな面倒なことをせずに買えばいい、インターネットで見ればいいという声が聞こえてきそうだがそれは甘いと言っておこう。
まず一つ、そんなお金は家にはない。これが単純な理由。家の家計はなでしこが握っているので論外だ。
そしてもう一つが隠し場所。これが一番の問題。例えDVDや本を買ったとしてもその隠し場所がこの部屋には存在しない。元々狭い部屋。加えてなでしこは毎日、欠かさず掃除をくまなく行うためそれを欺くことは不可能。別になでしこはそういう物があったとしても怒ったりはしないのだが、勝手に片付けられたり、整理されたりするのは流石に俺でも恥ずかしい。まるで思春期の少年とその母親の高度な頭脳戦のごとき配慮が必要になるのだ。
そして最後。なでしこには口が裂けても言えないが俺も健全な男子。例え犬神とは、化生とはいえ、可愛い女の子と一つ同じ屋根の下で暮らしていれば直面せざるを得ない問題。契約したばかりの頃は怖いもの知らずだったのもあったが今は違う。
色々な事情はあるがまあとにかく準備は整った。まだなでしこは買い物に出たばかり。時間は十分にある。安堵と共にその手をパッケージに伸ばそうとしたその時
「啓太様、おいででしたか」
「わひっ!?」
どこか清らかさを感じるような声が部屋に響き渡る。啓太はいきなりの出来事に素っ頓狂な声を上げながら瞬時にその手にある物を再び鞄にしまい後ろに隠す。一瞬の早技に声をかけた青年も驚いたような表情を見せている。
「は……はけか……驚かすなよ! 入るときにはノックくらいしろ!」
「そうでしたね……鍵がかかっていたのでてっきりいらっしゃらないものとばかり……失礼しました」
啓太の言葉と姿でおおよその理由を悟った青年、はけはそう謝罪を口にする。啓太はどこか居心地が悪そうな様子を見せていたものの、一度大きな咳ばらいをした後平静を装いながら突然の来客と向かい合う。
はけ。それが目の前の青年の名前。白い着物姿、長めの黒髪が片目を隠している美しい青年。だがその気配からその者が間違いなくこの世のものではないことが分かる。それは鍵がかかったこの部屋にまるですり抜けるように入ってきたことからも明らか。はけもまたなでしこ同様、犬神と呼ばれる存在だった。
「ったく……で、何の用だ? またばあちゃんのお小言か?」
どこか拗ねた様子を見せながら啓太は尋ねる。はけは啓太の祖母の犬神。彼がやってくるときはほとんどがそれに関係した事柄。それが分かっているからこそ啓太はそんな態度を取っている。もっとも先の出来事の意趣返しが主な理由だったのだが。
「いえ、今回は私個人の用です」
「お前の? 珍しいな」
「はい、少しお聞きしたいことがありまして……啓太様、なでしことは上手くやっていらっしゃいますか?」
「なでしこと……?」
啓太はそんな予想外のはけの質問に疑問の声を上げる。てっきりまた本家や、宗家の面倒臭い事柄だとばかり思っていたからだ。だが何故そんなことを聞いてきているのか啓太には見当がつかない。
「まあ上手くやってるんじゃねえかな……なでしこにはいつも世話になってるし……」
はけの意図が掴めないまま啓太は素直な答えを口にする。なでしこは自分に初めて憑いた犬神。戦闘は行えないがその分、家事などのサポートを完璧に行ってくれている。それは一人暮らしの啓太にとってはこの上なくありがたいこと。間違いなく自分にとっては最良の、自分にはもったいないほどの犬神だろう。
「そうですか……」
「どうしてそんなこと今更聞くんだ?」
「……いえ、彼女も主人を持つのは初めての犬神ですからね。少し心配していたのですが杞憂だったようです」
はけの言葉に啓太は思い当たる節があった。それはなでしこはこれまで誰に憑いたことがなかったらしい。本人の前では言えないがなでしこはかなりの年齢らしい。そのため「いかずのなでしこ」と呼ばれていたとか。そんななでしこがどうして自分に憑いているのか見当がつかない。
まあ何にしてもなでしこには感謝してもし足りない。もしなでしこがいなければ自分は一匹も犬神が憑かなかったかもしれないのだから。
そんなことを考えていた啓太の目にはけの姿がふと映る。だがその姿はいつもと少し違う。まるで
「はけ……お前もしかしてちょっと疲れてるか……?」
その言葉にはけは虚をつかれたような表情を見せる。それは普段のはけなら見せないような姿。はけの驚き。普通なら気づかれないような小さな差異。それに気づかれてしまったことによるもの。やはり血は争えないもの。
「ええ……少し厄介事がありましてね。もしかしたら啓太様の力を貸してもらわなければならなくなるかもしれません……その時は力を貸してくださると助かります」
「俺の……?」
はけが自分に力を借りなければならないような事態などあるのだろうか。はけは犬神の中でもトップクラスの実力の持ち主。そんなはけが自分にそんなことを言うなんて一体何があるのか。
「それでは私はこれにて……なでしこにも宜しくお伝えください」
そんな疑問を残したままはけは再び天井をすり抜けながら姿を消してしまう。一体何だったのか。というかそれは不法侵入なのではないか。しばらく呆然としていた啓太だったがすぐに我に返る。
そうだ、こんなことをしている場合ではない。俺の宝物が今か今かと待っているのだから。啓太はその手にディスクを取り出し、プレイヤーの中に挿入する。やはりこの瞬間はいつになっても緊張するものだ。そしてついにその映像が流れ始めたその瞬間、突然けたたましい音が部屋に響き渡る。
「どあっ!?」
その音に思わず体がのけ反ってしまう。それは自分の携帯の着信音。いつもは聞きなれた音なのだが状況が状況なので体が反応してしまった。というかなぜこうも邪魔ばかりはいるのか。まるで見えない意志が働いているのではないかと疑いたくなるほど。仕方なくテレビを消音にし、携帯に出る。その画面には見知った名前が表示されている。
『仮名 史郎』
それを確認した後、どこか面倒臭気に電話を取る。
「はい、川平ですけど……」
『川平か、突然すまない。休みだとは思ったのだが急ぎの案件だったのでな』
携帯の向こうからは渋い男性の声が聞こえてくる。その主が仮名史郎。特命霊的捜査官と呼ばれる日本で起こる霊的な事件を解決することを任務としている人物。様々な経緯で知り合いになった人物。そんな間柄であったためその電話の内容もおおよそ察しが付く。恐らくは仕事の依頼だろう。なら無下にはできない。やはり政府機関だけあってその金払いはいい。ここで稼げれば生活費には余裕ができる。
「ああ、で案件ってのは?」
そう言いながら自分にとっての武器、商売道具である蛙の形をした消しゴムをその手に取ろうとした瞬間
『君に私と一緒に下着泥棒を捕まえてほしい』
啓太は一人、盛大に部屋の中で素っ転んでしまった――――――
「なんで俺があんたと一緒に下着泥棒を捕まえなきゃならんのだ!?」
『いや、相手もただの下着泥棒ではない。厄介なことに魔術書を持っていてな……』
「魔術書……どこかで聞いたような話だな……それでどんな力を使うんだ?」
『うむ、邪気を放った男性の異性の相手のブラジャーを盗むという力だ』
「どんだけ限定的な力なんだよっ!?」
もはや突っ込みどころがありすぎてどうしたらいいのか分からない。何よりも思い出す。それは先月のこと。その際にも自分は一度そういった手合いと戦っている。そいつは露出狂で下着泥棒ではなかったが。だがその脳裏に蘇る。それは露出狂の持つ魔術書によって全裸にされてしまった記憶。そして留置所へ送られてしまうという失態。極めつけはそれを迎えになでしこがやってきたということ。思い出すだけでも恥ずかしさと情けなさで死んでしまいそうだ。そもそもなぜこの短期間に似たようなことが続くのか。
「何で俺がそれに駆り出されなくちゃいけないんだ!? 仮名さんだけでも十分じゃないのかよ!?」
『いや……やはりああいう手合いは変態使……ごほんっ『犬神使い』である君に力を貸してもらうのが一番だと思ってね』
「今さらっと本音が聞こえたんですけどっ!? っていうか俺は変態じゃねえ―――!!」
電話越しとは思えないようなやり取りをしながらも啓太はそのまま部屋を後にする。例え気に食わない依頼でも生活のため。そして自分は変態ではないと証明するため。
『犬神使い』川平啓太は現場へと向かうのだった――――――