<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[30666] 灰白世界の<魔人>たち【現代ファンタジー】
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2017/11/05 13:47
実験と、自分の中での男性主人公分の不足を補うために。
充足すると止まり、不足すると進みます。


小説家になろうとカクヨム、自サイトにも一応置いてみることにしました。



[30666] 「<魔人>は夜に蠢く・一」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/05/21 20:57



 奇妙な夢を見た。
 自分は巨大な狼だった。
 森を駆け、他の何ものも及ばないという誇りを胸に月に吼えていた。
 爽快。体毛の一本にすら力が漲る感覚。
 ところが心地よく吼えていたその時に、何の脈絡もなくドラゴンが現れた。
 自分などより遥かに大きな、まさに山のような存在。
 踏み潰された。それはもう呆気なく。
 そんな奇妙な夢を見て、桐生孝平は目覚めた。



 高校二年生、十六歳。身長176cm、中肉だが中学時代にサッカー部だったこともあり、まだ脚は筋肉質。
 特技は高い適応能力と、常にすっきりとした起床。
 その後者が災いした。
 最初に目に入ったのは見知らぬ人の顔だった。
「うどぅわぁぁぁぁあああああああ!!!?」
 自分の部屋である。自分の城である。両親が帰っているときでさえあまり入れない場所に知らない顔、というのはそれだけで怪談である。
 跳ね起き、壁に張り付く。止まるかと思った心臓はむしろ通常の三倍の拍子で踊り狂っている。
 部屋には電灯が点けられているが外は暗い。開け放たれた窓から夜風。孝平の頬を撫でる。
「ったく肝っ玉の小さい……」
 侵入者はふてぶてしく腕を組むと、鼻で笑った。
 その仕草は生気に溢れていて、心身ともに凍り付いていた孝平を少し溶かした。少なくとも幽霊の類ではなさそうだ。何ものであるにせよ、話が通じるならばなんとかなるのではなかろうか。
「お前……誰だ……?」
 問うた声はまだ掠れていたが、鼓動は通常の二倍にまで落ち着いた。
 観察する余裕も出てくる。
 目の前にいるのは、同じくらいの年齢と思しき少女だ。長身だろう。並んでみなければ判らないが、目測ではおそらく自分とほとんど変わらないように感じる。
 後頭部の高い位置で一つに括られた髪は、それでも肩の少し下まで達している。
 服装は、孝平の分かる範囲ではベージュのセーター、ミニのデニムスカート、ゼブラのオーバーニーソックス。ついでにデニムジャンパーを腰に巻いている。
「さてはて、どう答えたもんかしらね」
 少女は腕組みしたまま小首をかしげた。左耳にだけ着けられた菱形の小さなイアリングが揺れた。
 その間に孝平は息を整える。
 よく見れば、僅かに眉間を寄せた表情も勝気な少女は、魅力的だった。面立ちが整っていると言えば確かにそれもあるのだが、それ以上に存在感がある。目許や口許、挙措動作、すべてに力があり、だからこそ強く印象付けられる。
 きっと手入れを欠かさないのであろう桜色のくちびるが、やがて答えを紡ぎ出した。
「とりあえず、あんたのご主人様かな」
 酷い、というよりも訳が分からない言葉だった。
「いや待て。待て待て」
 引き寄せられかけていた心がまた離れる。
「何だよそのご主人様ってのは。俺が訊きたいのはあんたがどこの誰で、どうして夜中に俺の部屋に入って来たのかってことなんだが」
 すっかり呑まれていたが、考えてみれば警察に通報でもした方がいいのかもしれない。不法侵入だ。
 でも何か理由があるのだとしたらそれは可哀想か。
 でもご主人様とか言い出すあたり、やばいのかもしれない。
 でも通報すると自分も事情聴取やらで面倒なことになるのかも。
 でも背に腹は替えられないと言うか何と言うか、安全第一だろう。
 でもやはり。
 でもでもと逆接が連なるほど豪快に葛藤しながら唸る孝平を、少女は少し苛立たしげに見下ろした。
「うるさい、黙れ」
「無茶苦茶だな!」
 傍若無人というよりも、単純に理不尽。あまりのことに孝平は大きくため息をつき、そして思い浮かんだ単語がひとつ。
「……もしかして、あんた魔神だったりするのか……?」



 魔神という存在がいる。
 正確には、十五、六年ほど前に現れた自らを魔神と呼ぶ存在だ。人の女のような姿をして、人には至り得ぬ美しさを存分に見せつけ、人とは次元の異なる力を振るう。
 こと顕現数の多い日本においては、比較的近しい存在だ。社会に組み込まれていると言えるほどではないが、場合によっては道端ですれ違う可能性もないではない。
 少なくとも、インターネット上には特定の魔神のファンサイトがあったりもする程度ではある。
 そして、魔神というものは往々にして強引で理不尽らしいと孝平も聞いてはいた。
 だが。
「……いや、違うか」
 自らかぶりを振る。この不法侵入少女は確かに魅力的ではあるが、あくまでも可愛いクラスメイトくらいのものであって魔神には及ぶべくもないし、そもそも日本人にしか見えない。
 少し不機嫌そうにではあったが、少女もこくりと頷いた。
「『まじん』……まあ、普通に考えて魔神のことよね。確かに違うわよ。魔神に力を与えられた人間。『魔』に『人』って書いてね、<魔人>って呼ぶらしいわ」
「へえ」
 気のない返事になったのは納得してしまったからだ。孝平は魔神にどの程度のことが出来るのかを知らないものの、人に力を与えるくらいのことは出来るのだろうと。呼び名は紛らわしいが。
 しかし、彼女の正体が<魔人>という存在だとしても、それはこんな夜中にやって来て主人だと言い放つ理由にはならない。
「で、その<魔人>が俺に何の用なんだよ?」
「まあ、よくある話、<魔人>も色々いるのよ。元々人間だからね」
 窓を閉めてから、少女はちょこんとベッドに腰掛けた。
「手に入れた力で暴れ回るのがいれば、それを張り倒すのもいるわけ。ところがあたし、ちょっと失敗しちゃって。見た目はこう、何事もなく可愛いままなんだけど? 割と強烈にダメージ受けちゃっててね」
「……それで?」
 促す。可愛いと自分で口にしていることは指摘しない。実際に可愛いことは否定出来ないし、何よりも自分のベッドにそんな女の子が座っているという状況にどぎまぎして、あまりまともに頭が働かないのだ。
「つまりそのダメージが回復するまで何日か泊めて欲しいわけ。いいわよね? さっき気配探ったけど、この家には今あんたしかいないみたいだし」
「……まあ、出張中だからな」
 孝平の両親は共働きだ。今回は出張が重なって、二人とも明々後日まで帰って来ない。
 しかし、だからと言って泊められるわけでもないのだ。
「ホテルに泊まるとか駄目なのか? ってか、悪い奴取り締まるのなら仲間とかいるだろ、そっち頼れよ。あとさっき言ってたご主人様ってそれと何の関係があるんだよ」
「こっちにも色々あるのよ。あと、ご主人様ってのはノリよ」
 面倒な奴、とでも言いたげに彼女が溜め息をつく。
 面倒で無茶苦茶で理不尽で強引なのはお前だろうと思わぬわけもなかったが、孝平はその言葉を呑み込んだ。
「……明後日までだ。それ以降は駄目だからな。親父とお袋が帰って来る」
「あら、ほんとにいいの? かなり駄目元で頼んでみてたんだけど」
「頼んでるって感じじゃなかったけどな、正直」
 それでなくとも怪しいのだ、理性は泊めるべきではないと言っている。
 だが、だ。
「俺が見捨てたらどうなるんだ?」
「今日明日レベルでどうってわけじゃないけど、一週間もすれば十中八九、死んでるんじゃない? 敵も馬鹿じゃないもの、体力回復してない状態じゃ捌き切れない」
「それなら出来るわけないだろ。後味が悪い」
 自分が拒絶したがために死んだ、などとなれば寝覚めが悪いにもほどがある。
 この少女は面倒で無茶苦茶で理不尽で強引で、いくら魅力的であろうとも関わりたくないのが普通ではある。しかし、人命には替えられないのだ。
「一応来客用の布団もある。リビングでなら泊めてもいい」
「OK、交渉成立ね」
「俺、何か対価貰ったっけ?」
 交渉とは互いに何か得るものがなくてはならない。それは必ずしも正ではなく、負を清算する場合もあるのだろうが、今回は正真正銘何も得ていない。
 しかし少女はけらけらと笑った。
「こんな美少女と一つ屋根の下」
「別に彼女になってくれるわけでもないだろ」
 本当のところは、真っ当に欲望をもつ少年としてどきりとするものはあったのだが、それを押し殺す。
 が、無駄に終わった。
「考えてもいいわよ? こういう無茶を受け入れてくれる男の子は割と好き」
「……はいはい、考えるだけ考えるだけ」
 騙されない。騙されたくなるが、騙されてなるものか。
 明らかな動揺を浮かべながらも、孝平は煩悩を振り切る。
「とりあえずリビングに布団は出しとくから……」
「その前にお風呂どこ? シャワー浴びときたいんだけど」
 振り切れなかった。





「うーあー……」
 少女を送り出し、言った通りに布団を敷いて来てからパソコンを起動する。
 唐突にやって来た他人を泊めるとなると、さすがに寝られない。煩悩云々ばかりではなく、単純に見知らぬ相手が自分の居住空間にいるという事態に対する警戒の意味もある。
 それでも泊めることにしたのは、先ほど自分でも言った通り見捨てると後味が悪いということと、少年らしい無謀と背中合わせの冒険心のせいである。
 変わり映えのしない毎日にやって来た厄介事は、面倒だと思う以上に刺激的で、危険だからこそ心をくすぐる。
 そしてまた逆にだからこそ、だろうか。マウスを操る手は変わり映えのしない日常を求めるかのように、毎日訪れているサイトを開いていた。
 ハンドルネーム『甲乙』なる人物の運営する、さほど有名ではない魔神についてのファンサイトだ。
 まずは日記を見る。どこが更新されたかを確認するのにはそれが一番早い。
『クォレアーカ様のページを更新しました。着々と堅実に階梯を上げてらっしゃいますね。先日また契約者の方とお話しする機会があったのですが、以前お会いした時よりも綺麗になっておられてびっくりしました。正直、真正のモデルさんレベルですよー』
「うわ、クォ様のが来てる!」
 魔神クォレアーカ。<黄昏>のクォレアーカ。
 力量は可もなく不可もなくで、それだけならば『さほど有名ではない』どころかほとんど知る者のない魔神だったろう。
 だが、その存在を人々に知らしめる非常に大きな要素が一つある。
 孝平はクォレアーカの部屋をクリックした。
 現れるのは、不機嫌そうな表情をした少女の顔だ。
 人で言うならば、年の頃は十六、七というところだろう。驚くほど綺麗な蜂蜜色の長い髪と金色の瞳、すらりとした長身には幾重ものベルトの巻き付けられた赤のロングドレスを纏っている。
 クォレアーカは美しい。魔神というものは人外れて美しいものだが、その中でさえ群を抜いている。十本の指にならば、間違いなく入るだろう。
 その美貌はむしろ深窓の令嬢を思わせるのに、気に食わないものには狼のように牙を剥く野性味のある表情を見せる。
 言うまでもなく、一番のお気に入りだ。
 にへらにへらと笑いながら、新たに加わっていた画像を保存する。
 やはり、いい。写真だけで問答無用の魅力がある。
 躍動感、生々しさは管理人の腕もあるのだろう。しかし俗っぽいにもかかわらず決して触れられないと思わせる隔たりをも彼女は感じさせる。
 どのくらいそうしていたのだろうか。
 ノックもなく部屋のドアが開いた。
「何してんの? ……ってあんた魔神フェチ?」
「……別に、魔神自体が好きってわけじゃ……」
 こちらを見る半眼は生温くて、そのくせどこか冷ややかだ。言い訳の声はどうしても尻すぼみになった。
 彼女はすたすたと入って来ると、そのままベッドに腰掛けた。
「ま、いいけどね。彼女になって欲しいって言ってたくせにもう浮気するような奴だったって覚えとくだけ」
「アイドルみたいなもんだろ。というか、頼んでないし考えるだけなの見え見えなのに浮気も何も……」
 そう言いながら孝平は椅子の背もたれに肘を置きながら振り向き、絶句した。
 動揺も収まり落ち着いてしげしげと観察してみれば、彼女の格好は正直目の毒だった。
 見えているのは、どこから出して来たのか、ぶかぶかのワイシャツだけだ。ふとももが限界まで覗いていて、何かを穿いているのかどうかはよく分からない。
「ちょっとお前……なんつーかっこを……」
「ふふん、欲情したか」
 す、と彼女がシャツの裾をめくり上げた。
 目を逸らすべきだと孝平の理性は言った。しかし一瞬動かしただけで結局は凝視してしまったのは、やはり男のさがだろうか。
 しかし。
「ちゃんとショートパンツ穿いてるもんね。ねえ、期待した? 何期待してた?」
「……うぜえ」
「見つめてたくせに。うざいとか何それ、防衛反応? 照れ隠し?」
「心底うぜえ」
 今更ながらに顔を背ける。
 下着ではなくとも、瑞々しい太ももはむしろより生々しく意識に焼きつけられる。
「とっとと寝ろよ。体力回復してなくても明後日には放り出すんだからな」
 視線は画面に固定したまま、しかし内容は既に目に入っていなかった。自分の声が上ずっていることにも気付かない。
 くくくと彼女は笑う。
「可愛いわね、あんた」
「あのな」
鹿野かの瑠奈るな
 反論を封じるかのように被せて告げられた名をどう綴るのか、孝平には分からなかった。それでもそれがおそらくは彼女の名前なのであろうことは推測できた。
 少しだけ振り返り、名だけ呟くように告げる。顔は見ない。
「桐生孝平」
「じゃあそういうわけでよろしくね、こーへー君」
 何の迷いもなく彼女は笑みを含んだ声で名を呼び捨て、振り返る頃には既にドアの閉まる音。姿はもう見えない。
 いつベッドから立ち上がったのか、いつ移動したのか、孝平にはまったく感じとることができなかった。
 それはまるで彼女が幻であったかのようで、戸惑う。
「……面倒ごとに関わっちまったのは間違いないんだろうけどなあ……」
 キーボードの“M”を人差し指で叩きながらひとりごつ。
 自分が何を考えているのかも、実のところよく理解はしていなかった。
 ただ、妙に心が沸き立っているのだけは確かだった。
「とりあえずもう今夜は寝られねえな」
 時計の針は午前三時を差していた。
「……ってか、あいつのあの服、どっから出て来たんだ……?」







[30666] 「<魔人>は夜に蠢く・二」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/11/28 19:07




「今日は祝日だし、買い物に行きましょ?」
 朝食の席で、二晩だけの予定である居候がそう言った。
 彼女の前にあるのは炊き立てのご飯と卵焼き、それからわかめの味噌汁。さらに加えて食後のデザートに練乳のかかった苺。
 同じものは孝平の目の前にもある。
 これらはすべて、瑠奈が作ったものだ。一言も断りは入れてもらえなかったが。
 いや、それはいいのだ。考え方を変えれば、これはお礼なのだろうと解釈できる。むしろそう受け取るのが普通なのではないか。
「……買い物?」
 寝不足の頭は理解力が低下している。漠然と、おかしいとだけ先に思い、半呼吸してから理由に思い当たる。
「出歩いていいのか? 悪い奴らに狙われてるんじゃなかったっけか」
「昼間で人のいるところなら大丈夫。どんな<魔人>でも、人目につくところで仕掛けて来ることは滅多にないから」
 瑠奈の答えはあっけらかんとしたものだ。
「その証拠に、怪死事件とか聞かないでしょ?」
「……んー、まあ……確かに事故とか普通の殺人事件しか聞かないか。あと、火事だとかビルにトラック突っ込んだとか」
 記憶を掘り返すも、思い当たるものはない。
 現在、日本は平和である。世界に目をやれば<災>と呼ばれる怪物によって殺される人間が年間数百万人単位でいるらしいと聞いているが、それが何かの間違いではないかと思えてしまうほど、本当に日本は平和である。
 十年と少し前ならば日本でもそれこそ百万人以上が命を落としたという話も聞いたことはある。だが、では何故に今は平和であるのか、孝平は知らないし話題にも出て来ない。
「けど滅多にないってことは、あり得ないわけじゃないってことだろ?」
「まあ、たまに変なのもいるから」
 瑠奈は米と卵と味噌汁を恐ろしいまでの速さで平らげ、それなのに苺はゆっくりと味わっている。よほど好きなのだろうか。
「今回の相手なら、そのへんはすごく真っ当だから安心していいわ」
「できるわけねえだろ」
 今更ながらに後悔が湧いて来た。無論、今から昨夜に戻ったとしてもやはり泊めただろうが。
 あふ、と欠伸を噛み殺し、卵焼きを頬張る。
 不味くははないが格別に美味いわけでもない。何も言わずに頬張っていると、瑠奈が半眼になって言った。
「まさか、睡眠薬でも飲まないと寝れない性質だったりするんじゃないでしょうね?」
「別にんなこたねえよ。むしろ小さい頃から薬は嫌いだ」
 昨夜の自侭な様子からすると感想を言わないことに文句でもあるのかと思いきや、そんな内容で少し戸惑ったものの、正直に答える。
 別段苦い薬を処方された覚えもないのだが、なんとなく嫌いなのだ。異物を身体に入れるような、そんな感覚がある。
「ならいいわ。人間、自分の免疫力が一番よ」
 妙に上機嫌で、瑠奈。
 また着替えでもしたのだろうか、今朝は昨夜やって来たときと同じ服装である。
 その活力に押され、孝平は小さくため息をついた。
「薬に何か拘りでもあるのかよ?」
 それは何の気ない、尋ねる気すらなかった、ただの相槌の代わりだ。
 だというのに、瑠奈は表情を強張らせた。
 苺を咀嚼する動きが止まり、孝平を見つめ。やがて、張りのない笑みを浮かべる。
「<魔人>になる人間にはね、色んな理由があるの。あたしの場合、それが健康関連だってこと」
「……訊いたらまずかったか?」
「別に。ちょっとびっくりしただけ。ほら、男なんだからもっと早く食べなさいよ。これじゃ、あたしが大飯喰らいみたいじゃない」
 そう、また明るく笑うものの、今度はやはりどこか無理をしたもののように見えて、孝平も動揺を禁じ得なかった。
 しかしそれ以上を触れることも出来ずに話題を変える。
「……で、何買おうってんだ? 武器とかか? そこらに売ってるものじゃないだろ」
「武器なんか要らないわよ。持ってるもん。そんなものより服とか下着の替えとかの方が切実なの。別に好き好んでこんな昨日と同じカッコしてるんじゃないワケ」
「まあ……そりゃそうだろうな」
 気圧されつつも、やはり気になるのかと納得する。男である孝平でさえも、仕方なくならばまだしも好んで同じ服を着たくはないものだ。
 既に武器を持っているという部分は気にしないことにした。
「じゃあ、気をつけて行ってこい」
 さて今日はどうしようか。思案を巡らせる。
 どこかへ出るつもりはない。もしも瑠奈が先に帰って来たならば、一人でこの家に置いておくことになる。何かと迂闊なところのある孝平だが、さすがにそこまで無用心ではなかった。今日は月曜ながらも祝日だからいいが、明日の学校は休まなければならないか。
 クォ様画像集の整理でもするかと考えていたところで、瑠奈が心底意外そうに思いもよらぬことを口にした。
「何言ってんの、あんたも来るのよ」
「……なんで?」
 孝平も間の抜けた顔で視線を返す。服や下着を買うのに自分が必要だとは思えないし、そんなものに付いて行きたくもない。
 加えて、大きなデメリットまであるのだ。
「お前と一緒にいるとこを敵に見られたら、俺まで標的にされないか?」
 それは必ずしも怯懦のもたらした台詞ではない。
 無論のこと、もし狙われるとなったならば恐ろしいには違いない。しかしそれよりも重要なのは、自分が彼女の弱点になってしまうということだ。
「<魔人>がどのくらい強いのかは知らねえけど、どうせ普通の人間よりずっと上なんだろ?」
「ピンキリだけど、あたしなら指先一つで人間くらい木端微塵」
「ってことは敵さんもそのくらいできるわけだ。デコピン一発木端微塵にされろってのか、俺に。まさかお前、俺の命なんてどうでもいいとか思ってないよな?」
 ただでさえ互角以上である相手と、簡単に死んでしまうような人間を庇いながら戦えるわけがない。人目のある場所では仕掛けて来ないにしても、この家が分かれば今夜にでも襲って来ることくらいはできるだろう。そうなればもう終わりだ。
 彼女に自分を守る気があれば、だが。
「もちろん、あんたが狙われるようなことになれば守るわよ。でも今回に限ってその心配はないと思う」
 そう答えた瑠奈の表情はまるで苦笑のようで、そしてすぐに真顔になった。正面から孝平を見つめて告げる。
「今回の相手はね、なんていうか……硬派な職業暗殺者みたいなやつらなの。標的以外は誰も殺さない、傷も与えない、他人の物もあんまり壊さない。そういうポリシーを持ってるのね。あんたが標的にされることはないの。だからあたしはホテルとかじゃなくて、この家に上がり込んだわけ」
 その言葉の意味を咀嚼し、やがて理解した孝平は深い溜息とともに額に手をやった。
「…………なるほど、そういうことかよ。ある意味、お前は俺を人質にしてるわけなんだな?」
 巻き添えを出すことを敵が厭うのなら、一日中他人の近くにいればいい。
 ホテルならば人間自体は沢山いるが、そのかわり人に紛れて部屋に近付き、彼女しかいないところへ襲撃をかけることができる。多少の物が壊れるくらいで目的は達成されるだろう。
 それを防ぐためには襲撃を四六時中警戒しておかなくてはならない。あるいは人のいる場所に滞在し続けなければならない。肉体的にはまだしも、精神的に休めないのだ。
 対してこの家ならば、常に他人と一緒にいることができる。別々の部屋にいようとも、外からはどの部屋に誰がいるのか確信は持てないはずだ。徹底的に巻き添えを出すこと嫌うのなら確信なく手は出せない。
 孝平自身が言う通り、ある種の人質のようなものなのだ。
「つまり、俺を買い物に連れて行きたいってのも……」
「まあ、昼だから必要ない気もするんだけどね。途中で人通りのない場所通ったときのために協力してほしいわけ。怒った?」
「笑顔で訊くか、それを」
 やはり彼女は実に『いい』性格をしているようだ。
 だが、困ったことに孝平はこういうものが嫌いではなかった。胸の奥で疼く何かがある。
「乗りかかった船だからな、付き合うよ」





 デパート地下の一角、目立たぬように据え付けられたベンチに座り、孝平はぼんやりと人々の流れを眺めていた。
 隣には紙袋が二つ。このデパートに来るまでにもあちこちを散々連れ回された成果だ。瑠奈は充分な金を持っていたが、なぜか昼食は奢らされた。
 わいわいと騒がしい声が耳に入って来る。
 盛況だ。こういった場所に来ることが少ないのでよく分からないところはあるのだが、何かキャンペーンでも行われているらしく、歩き回るにも人が邪魔になりそうなほど混雑している。
 瑠奈には早々に置いて行かれた。まだ買うのかと呆れもしたが、服だの下着だのを買うのに付き合う趣味はないので今回置いて行ってくれるのは望むところではある。
 ただ、暇だった。もう一時間は経っているのだ。
 眺めているだけということもあり、人々の顔はあまりよく認識されない。暗さの中でぼやけている。
 暗いのだ。照明は充分なはずだが、外と比べればやはり雲泥の差だ。太陽の光というものがどれほど明るいのかがよく分かる。
 と、視界が更に暗くなった。目の前に男が一人、立っている。
 三十路か、それを少し過ぎたあたりだろう。長身だ。180cmは越えている。白いシャツに黒っぽいスーツを着て、地味なネクタイを締めていた。
 眼鏡の奥からこちらを見つめ、低く重い声で問うて来た。
「少々ものをお尋ねしたい」
 美声と言えるだろう。響きそのものは関西のものだ。
 孝平の背に悪寒が走った。瑠奈を狙う者が、自分に接触して来る可能性はある。目の前のこの男がそうではないとは言い切れない。
「……何でしょうか?」
 自分でも警戒の滲んだ声になったと思う。
 男も感じるものがあったのか、少し間を置いた。
「市立体育館へはどう行けばよろしいか」
「……目の前の国道を東へ道なりに行って、河を渡ったところで左に折れたらもう見えてますよ」
 警戒を深める。道など、わざわざデパートの地下で訊くようなものではない。
「市立体育館で何かあるんですか?」
 逆に質問する。道を尋ねるのが何らかの欺瞞であるなら、まともに答えられないはずだ。
 射るような視線を受けながら、男の表情は変わらない。捉えられぬ顔で、一拍置いてから答えた。
「市立体育館自体に用はありませんが、そこを目印に落ち合う予定でして」
 無難な回答だ。嘘だと断じることはできない。
「奥さんですか?」
「知り合いです」
 あくまでも淡々と告げ、男は小さく頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます。では」
 口調にせよ間にせよ、早くも遅くもない。ごく普通のものだ。ただ、低く重い声は耳に残った。
 このまま行かせていいのかと、立ち去ろうとする背に思わず声をかけそうになるが、すんでのところで堪える。
 怪しいと思ったのはただの勘だ。そう思えてしまうだけのことで、証拠はないのである。
 こんなところで道を尋ねることがおかしいくらいのもので、それも絶対に不可解であると言える要素ではない。ここに来てはいけない理由はないし、手近な誰かに道を訊いてはならないわけでもないのだ。
 過敏になっている自覚はある。伸ばしかけていた手を収め、大きくため息をついた。
 大丈夫だ。瑠奈の言っていた通りならば、この人出のデパートで襲われることはあり得ない。
 そう自分に、どのくらいの間、言い聞かせていただろうか。
「断言はしないが、君の感性よりも理性の方が正しい」
 先ほどの男とは異なる声がした。あそこまでの重さはない、少し若い声だ。
 びくりとして顔を上げれば、今度は青年がこちらを見つめていた。
 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。先ほどの男性と同程度である背丈も、日本人男性として長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
 むしろコートの方が目立つかもしれない。春だというのに色褪せたロングコート、それも右袖だけ異様に大きく広がった奇妙な仕立てになっているのである。
「……それはどういう……」
 無意識に腰を浮かせる。孝平は既に答えを得ていた。
 そして青年の言葉はその答えを肯定するものだった。
「君が警戒している相手は、おそらく僕だ」
 表情も声も無感動に、そう告げた。







[30666] 「<魔人>は夜に蠢く・三」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/11/29 19:06




 孝平は混乱していた。
 自分を標的にすることはないのではなかったのか、襲って来ないのではなかったのか。
 それは本当に、動揺から出た気の迷いだ。先ほどは自分から、道を尋ねただけの男をそうではないかと疑ったのだから。
 混乱が収まりきらぬまま、それでも問う。
「俺に何の用だ?」
「何を吹き込まれたのかは知らないが、鹿野瑠奈の傍にいるのは止めた方がいい」
 脅すような調子ではない。決められた台詞を愛想の欠片もなく、どこまでも事務的に告げているだけである。
 じとりと額に浮かぶ汗を、孝平は自覚せずにいられなかった。顔は熱いのに背と指先は冷たい。
 確かに襲っては来るつもりはないのだろう。が、纏ったロングコートが影を大きく見せ、そこに立っているだけで異様な圧迫感があった。
「……あいつを殺すのか……?」
 口の中がからからに乾き、声がかすれる。自分の口にした言葉にさえも恐怖した。
 孝平の感情は明らかに顔へと浮かび上がっていただろうに、それでも青年はどうにもやる気の見られない表情を変えなかった。
「仕事だからね」
 仕事だから。
 職業暗殺者のような、と瑠奈が言っていたことを思い出す。
 まさにその通りなのだろう。憎いわけでもなければ楽しいわけでもなく、ただ仕事だから殺すのだろうと納得できてしまう。
「それなのに俺は殺さないのか」
「ああ」
 必要ないから。あるいは、仕事のうちに入っていないから。言葉にしなかった部分まで聞こえて来るようだった。
 ちり、と。不意に腹が立って来た。
 人の生死をそんな無機質に語っても良いのか。そんな重大なことを、何の感動もなく為して良いのか。どうしてそんなことができる。
 無謀ではあるだろう。普通ならば、死を容易く語るような相手に向ける言葉ではない。
「……どうしてだ?」
「死は、その死を悼みたい者が悼めばいい。院生時代の恩師の受け売りだが」
 口にした問いは漠然として、正確には何を意図しているかなど判らなかったろうに、むしろ殺さない理由と勘違いしてしかるべきだというのに、青年の回答は孝平の心を読み取ったかのようだった。
 孝平の瞳を覗き込むまなざしは、強さなどまるで存在しない替わりに躊躇も見受けられなかった。
「君がなぜ彼女に入れ込んでいるのかは知らないが、それは忘れてこのまま僕と一緒に来た方が君のためではある。おそらく明日の朝には終わっている」
「あんたを信じられる理由がないだろ。俺の勘じゃ、あんたに付いて行くと碌でもないことになりそうなんだがな」
 自分でも不思議だ。よく舌が回るようになって来た。腹の底で煮え立った熱さのおかげだろうか。
 青年は仮面のような顔のままで呟くように言う。
「君はさっきのように理性をもう少し重んじてもいいと思うが」
「理性的に考えても考えなくてもあんたは怪しいだろ」
「いや、向けるべき対象は僕よりも彼女の方なんだが……まあいい。繰り返すが、僕とともに来た方が君のためだ」
「嫌だと言ったら……?」
 孝平には、この青年の言うことを聞き入れる気などまったくなかった。汗に濡れた掌を何度も開いては握りながら、今もってなお胸の奥で荒れ狂っている恐怖を押し殺して精一杯に睨みつける。
 会話を続けるのは、何か有益な情報を引き出せないかと考えたからだ。
「もしかすると時間がかかるかもしれない。逆に早く済むかもしれない。最終的な結果はおそらくほぼ変わらないだろうが」
「巻き添えとか気にせず、一緒に俺も殺してしまえば楽なんじゃないか?」
「君の命を僕が奪う理由はない。死んでしまうのはまた別の話としても」
 どこか奇妙な心持ちだった。表面の言葉は概ね噛み合いながらも何かがずれていると感じた。
 異常者と話しているからだろうか。
 殺すなどという言葉は虚構や軽口の中ではありふれていても、決して実行すべきではないことだ。それでも強い感情や追い詰められた立場があるならまだ分かる。しかし目の前のこのコートの青年はどこまでも事務的で。
 そのことに、どうしても憤りを覚えるのだ。
「とりあえず、あれだ……俺を死なせるのはあんた的にまずいわけだ?」
 自分の命を盾に取るなど実に無様な話だが、今は使えるものならば何でも利用したい。気に食わぬこの相手に口先だけでも一矢報いてやりたい。
 しかし、その目論見は一言で切って捨てられた。
「いや、構わないよ」
「は?」
「既に言ったろう。君のことは仕事に入っていない。君を殺す理由はない。だから僕は君を傷つけようとは思わないし、確かにその可能性のある状況では極力仕掛けないが、君の生死自体はどうでもいいことだ」
 変わらず、青年は淡々と告げる。
 が、そこでほんの少しだけ表情が緩んだ。苦笑が近いだろうか。
「……ああ、済まない。大事なことを教え忘れていた。鹿野瑠奈はある種の食人嗜好カニバリズムに冒されている。直接見たことがあるわけではないから、あくまでも『らしい』ということに過ぎないが」
「……蟹? カーニバル……?」
 聞き慣れぬ単語に、孝平は苛立ちを抱えながらも戸惑う。
 青年はもう既に元のやる気の見えない顔に戻っていた。
「カニバリズム。人間を食べる習慣や好みのことだ。その中でも、彼女は肝を食らうんだそうだ。被害者は判明しているだけで十七名、つけられたあだ名が<ダキニ>」
「ダキニ?」
 それも知らない単語であるに違いなかったが、わざわざそちらを訊き返したのは他に無視したい言葉があったからだ。
 だが青年は避けたところを無造作に踏みつけて来た。
「ダキニというのはインドの神話に登場する、肝を食らう鬼神、女神だ。僕も詳しくは知らないし、気にすることはない。重要なのは、現時点で少なくとも十七名の人間が彼女に殺され、その遺体にはことごとく肝臓が存在していなかったということだよ」
「……まさか」
 鼻で笑うも、息が震えていた。
 あり得ないともあり得るかもしれないとも思わず、ただただ嫌だった。発想自体が気持ち悪くて仕方がないのだ。
「どうして肝臓なんて食うんだよ? 意味ないだろ。それにそんなに殺人事件が起こってたら絶対ニュースになってるだろ?」
 今朝瑠奈と話していた通り、連続殺人や猟奇殺人のニュースなど知らない。
「肝を食らう理由は彼女に訊いてくれ。ニュースになっていないのは、死体が出ていないからだ。<魔人>の絡んだ件はすべてこちら側で処理をしている。表では単なる行方不明者だよ。年に何万人といるうちの一人になっている」
 孝平と違って、青年は人を食うということを口にしながら嫌悪すら見せない。何の興味もなさそうだ。
 やはりこいつはおかしい。そう孝平は思う。
 平静な口調だからもっともらしく聞こえるが、言っていることに裏付けは何もないのだ。
 無理矢理に笑みを浮かべる。強張った顔面の皮膚が引き攣るようだった。
「それで、あんたは殺人鬼を止めに来た正義の味方ってわけか?」
「善悪も今更だ。あまり興味はないんだが」
 精一杯の皮肉、それにさえ青年は心を動かさない。
「どうしても分けたいというのなら、僕は悪だ。無論、鹿野瑠奈も悪になる」
 気持ち悪い。
 背中に当たったのは壁だ。いつの間にか仰け反っていたらしい。
 苦労して声を絞り出す。
「……悪党の言うことなんか聞くわけねえだろ」
 惑いそうになる己を叱咤する。
 人は嘘をつくことができる。不安を煽り、動揺させ、自分を瑠奈から引き離そうとしているのだ。
「盗人にも三分の理という。僕の言うことにも道理が皆無というわけでもないんだが……」
 青年が再び苦笑にも似た僅かな表情を見せた。
「元々、独りでいる君を偶然見かけたからせめてもの忠告をしたに過ぎない。そうしたいならそれでいい。君の意思は尊重する」
 視界の中でロングコートが揺れた。
 いつしか、孝平の目に映っていたのは背中だった。褪せた色がぼんやりと薄れ、溶けてゆく。
 電灯の明かりが暗い。煌々と輝いているはずなのに、人々が影絵のようだった。







「ちょっと! ちょっと、こーへーどうしたのよ?」
 色が戻って来たとき、目の前にあったのは瑠奈の顔だった。あと少し近づければ口づけることが出来そうなほど近い。
 くちびるに視線が吸い寄せられた。甘い香りは、彼女の吐息なのだろうか。
 だが、まだ朦朧としたままであった意識は新たに鼻腔を打ち据えた匂いに強制的に覚醒させられた。
 香ばしい。
「ほんとにどうしたの?」
 明らかに心配そうな表情を浮かべている瑠奈。その右手には紙袋を二つ提げ、左手には肉を突き刺した串が四本。
「……お前の敵がここに来てた」
「えぇっ!? もう見つかったの? 絶対振り切ったはずなのに、いくらなんでも早過ぎる……どんなペテン使ったのよ……」
「……そういえば」
 ぞっとした。
 敵がやって来たということにばかり気を取られていたが、言われてみれば瑠奈の言う通りだ。彼女がやって来たのは今日未明のことである。まだ半日しか経っていない。だとというのに、もう自分のことまでも調べ上げたということになるのだ。
 自分は、話にならないほど敵を甘く見ていたのではなかろうか。そして驚くということは、おそらく瑠奈も。
「それで、大丈夫だった?」
「特に手は出されてない。それよりあいつ、お前のことを肝臓を食べる悪人だとか言ってたんだが……」
「……へ?」
 見つめると、返って来たのは怪訝そうな表情。自分の左手を見て、こちらをもう一度見て、また串に目をやって。
 それを差し出した。
「肝臓ってこれのこと?」
 焼き鳥かと思ったのが、よく見れば違う。全体的にのっぺりとして、匂いもやや生臭い。
「はい、あーん」
「む」
 言われるがままに口にすれば、舌の上に広がった味は予想通りのものだ。
 レバーである。
「確かにあたし、レバー大好きだけど……変なあだ名つけられたりもしたくらいだけどさ。え? 悪人って何?」
「十七人殺したとか言ってた」
「ちょっとまさか、あんた信じたんじゃないでしょうね? ってか、他に変なこと言ってたりしなかった? 知らないうちに濡れ衣着せられるとか勘弁してほしいんだけど」
 むっとした調子でまくしたてる瑠奈に、孝平はほっとした。やはりあの男の言っていたことは出まかせだと確信するとともに、青年の無感動な顔を彼女の豊かな表情が洗い流してくれる気がしたのだ。
「とりあえず、何か対策練った方がいいんじゃないのか? 半端じゃなさそうだぞ、あれ」
「そうね……っていうか、どんなのが来たの?」
「知ってるんじゃなかったのか?」
 標的以外は傷つけない職業暗殺者めいた奴とまで断定していた以上、知らないはずはないのにと思ったのだが、瑠奈は小さく肩をすくめてみせた。
「あいつら、組織なのよ。あたしが知ってるのはその組織が何を目的としてどういうポリシーを共有してるかってことだけ。そりゃ、昨日あたしがやり合った奴なんかは分かるけど、さっき来たのがそれと同一人物だとは限らないもの」
「お前ら、もしかしてかなりいい加減なんじゃないか? 情報洗い出したりしそうなもんだけど」
 半ば呆れつつも孝平は頷き、先ほどまでの姿を思い出しながら言葉にする。
「二十五歳とか、そのあたりの男だ。背は多分俺より高い。変なコート着てて……」
「変なコート?」
「春だってのにロングコートで、片方の袖がやけにデカいんだ。あとあいつ、なんかどう見ても気力が……」
 なさそうだった、と言おうとした言葉を呑み込む。
 見るからに瑠奈の顔が蒼白になっていた。くちびるも、震えているような。
 意味は分かる。
「……やばいのか?」
「…………正直、最悪かも」
 彼女の声までもかすれていた。
「それ、間違いなく<竪琴ライラ>の処刑人だわ。総合力じゃ日本の<魔人>の中でも屈指って話。どうしようか、こーへー?」







[30666] 「<魔人>は夜に蠢く・四」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/11/30 18:35





 リビングの白色光は落ち着く。
 今まで意識したこともなかったのに、今はしみじみと思われてならなかった。
 あの青年の姿はもうはっきりと思い出せない。意識の中で影絵の怪人に戯化されて、ただただ不吉さだけが強く残っている。
「ほらよ」
 麦茶を注いだコップをテーブルに置く。
「ん、あんがと」
 ソファの上、タオルケットに包まるようにして瑠奈は眉間に皺を寄せていた。
 敵の姿を教えてからずっと、表情が強張ったままだ。厄介な相手だとは言っていたが、むしろ口に出した以上なのかもしれない。
「なあ」
 応えないが、もう一度続けて声をかける。
「なあ、瑠奈」
 今度は名も呼んだ。初めてだが、向こうもこちらを呼び捨てているのだから問題はないはずだ。
 果たして、彼女は今度こそまなざしを向けて来た。
「何よ?」
「<魔人>って何なんだ?」
「魔神によって力を与えられた人間って説明した気がするけど」
 胡乱げな目つき。あんたには関係ないわよと言わんばかりだ。
 孝平もこれは想定していた。
「いや、まともな説明になってないだろ、それ。俺が知りたいのはそもそも<魔人>に与えられる力ってのは何なのかってことだ。敵が強いっていうけど、お前との力の差はどこで出たものなんだよ?」
 質問の内容そのものに大きな意味はない。それを聞いて自分にできることがあると思ってはいない。
 しかし、何かをしてやりたいと思ったのだ。何でもいいから<魔人>について話していれば打開策のヒントになるかもしれない。
 馬鹿なことをしているのではないかとは思う。本当に自分が狙われないのなら、すぐにでも彼女を追い出して後は知らんふりをしていれば終わるはずだというのに。
 とんでもない美人だというほどではなく、強引で横暴で傍若無人で、特徴を挙げてゆけばそれほど魅力的とも言い難いはずなのに、どうしても追い出す気になれない。
 いや、元からそうではあったのだ。心の一部で非日常を歓迎している自分がいる。異常の中にいる己を夢想してしまう。
 だが今は、それよりも彼女を手伝ってやりたいという気持ちの方が間違いなく大きかった。
「んー……いや、あたしもそんなによく把握してるわけじゃないんだけど……」
「分かることだけでいい」
「そぉお?」
 瑠奈は戸惑い気味に眉尻を下げた。
「まあ、いいか。<魔人>の戦闘能力の元になる要素は三つあるの。まずは人間だったときの身体能力とか、そういうのね。そんなに忠実にでもないんだけど、元々の腕力が強けりゃ<魔人>になっても馬鹿力になり易いわ。あと、身体能力だけじゃなくてエネルギーの塊みたいなのを飛ばせるような力もある。人間だと死にステータスになってるらしいけど、<魔人>になれば生かされるわね」
「妥当なとこだな」
 人間よりも遥かに高い身体能力を持っているにしても、それは人間であった頃の自分を基準に強化しているということだ。口にした通り、妥当で非常に分かり易い。
 瑠奈も小さく頷いた。
「そうね。で、正確には各能力に戦格クラスによる定数を掛け合わせたのが最終的な身体能力になるって感じかな。これが二つ目」
「クラスっていうと……戦士とかそういうやつか」
 この流れでまさか二年四組などという展開はあるまい。孝平もゲームの知識がないわけではなく、瑠奈の口にした内容を漠然とではあるが喩えとして誤りなく受け取っていた。
「そうね、そんな感じ。一から六までランクがあってね、二つのクラスを複合して持ってる<魔人>もそれなりにいるって話。ランク六を二つっていうのは世界中探しても一人か二人しかいないらしいけど」
「お前は?」
「<シノビ>と<トレイター>の双格並列デュアル。両方ともランク四で、一応上位クラスね。合計八っていうのは上から一割に入るんだから」
 自慢、であるはずの台詞だ。だというのに余裕が感じられないのは、やはり相手が日本でも屈指と謳われる<魔人>だからなのだろう。
「このランク合計はそれぞれの<魔人>で限界があるらしくってね、大体元のスペックに比例するの。これがどういうことか分かる?」
「二乗になるわけか」
 『人であったときの体力や運動能力』に比例して、更にそこへ掛け合わされるのが『人であったときの体力や運動能力に比例して強力であるクラス』となると、要するに加速度的に強くなるということなのだろう。
 つまり、人であったときに比べたよりも力の差が大きくなってしまうということに他ならない。
「……って、それ、女の方が圧倒的に不利じゃないか?」
 どう言い繕おうと、ヒトという種において筋力や運動能力は男性が上回っている。更に二乗されれば格差は歴然としたものにならざるを得ない。
 しかし瑠奈はかぶりを振った。
「そのあたりは大丈夫。どっちもその性別の中のどのくらいの位置にいるかで、しかもかなり大雑把に判定されてるっぽいから。性差に関しては公平にできてると思う。多分だけど……」
「なんかゲームみたいだな」
 クラスという概念といい、現実を無視した能力設定といい、規則の定められたゲームのようだと公平は思う。
 あるいは、本当にゲーム感覚で魔神は<魔人>を作り出しているのかもしれない。
「それで、敵のクラスは? なんか有名そうだし知ってたりしないか?」
「んー……確定情報としては知らないかな……とりあえず強いって時点で双格並列デュアルなのは間違いなくて、やたらタフで防御に長けてるから片方は<ガーディアン>だろうって言われてるわね。ランク五のクラス」
「なるほど」
 なんとなく納得できる。あの青年には線の細さなどまったく感じられなかった。ロングコートのせいで身体の線はよく分からなかったが、どちらかといえばがっしりとしていた印象がある。
「もう一方は?」
「よく分かんない。ただ、高位の<王の武具>クラウンアームズを複数持ってるらしいから、<アームズマスター>か<サウザンドアームズ>かもね」
「クラウンアームズ?」
 また知らない言葉だ。
 そこで瑠奈がにやりと笑った。
「強さの要素の三つ目よ。<王の武具>と書いて『クラウンアームズ』。どのくらいの格のを幾つ持てるかってのも、人間だった頃の何らかの能力の高さが関わってるらしいけど、これはよく分かんない。一応あたしも持ってる」
 軽く掲げた手に、一瞬にして何かが握られた。
 すべてが赤黒い。それでも金属めいた光沢をして、不吉に輝く。
 それは肉厚の短刀だった。刃渡りは30cmもないだろう。鍔も存在せず、幅が広いこともあってどこか鉈のようにも映った。
「『タイタンブレス』。見た目はちょっと微妙だけど、これでもBランク、高位の<王の武具>クラウンアームズ。一振りすれば崩壊の風を巻き起こすわ。これとかも合わせれば、あたしは上位5%に入る自信もある」
「へえ」
 思わず手を伸ばす。孝平も男だ、武器にはそれだけで惹かれるものがある。
 しかし、触れる前に刃は掻き消えた。
「駄目、普通の人間が触ったりなんかしたらどうなるか。消し飛んでも知らないわよ?」
「……そんなに凄いのか?」
「あたしならあんたを指先で木端微塵にできるって言ったでしょ? そのあたしの武器なわけ。無事に済むわけないじゃない」
 思っていたよりも遥かに近い位置、息のかかる距離に瑠奈の呆れたような顔。
「お、おう……」
 鼻白み、乗り出していた上体を引く。何となく気まずくて頭を掻いた。
 瑠奈の方に気にした様子はない。が、ふと思いついたように尋ねて来た。
「そういえば今さ」
「ん?」
「あたしの息、臭くなかった?」
「はあ?」
 自分でも随分と間の抜けた返事をしてしまったものだと思う。
 しかしよく考えてみれば先ほどレバーを食べていたわけで、臭いがしてもおかしくはない。
「特にそんなことはなかったと思うけど……女ってやっぱりそういうの気になるのか」
「まあね。というか、女も男もないでしょ、本来。気をつけてないと彼女できたときに大事なとこで雰囲気ぶち壊す破目になるわよ?」
「……そうかもな」
 それは、やはりキスだとかそういったもののときなのだろうか。異性と付き合ったことのない孝平としては動揺を禁じ得ない。
「そうだ、麦茶のお替わり要るか?」
「まだ飲んでもないわよ」
 その言葉を最後として沈黙の帳が下りる。
 瑠奈は相変わらずタオルケットに包まったまま、眉根を強く寄せていた。
 窓の外から射し込む光は既に赤みがかっている。照らされた横顔にも陰影は濃く、引き締められたくちびるを時折赤い舌が舐める。
 身じろぎによってタオルケットが彼女を締め付け、襟口から鎖骨の覗く様など視線を誘ってならない。
 視線を逸らすべきなのか否か、孝平には分からなかった。後ろめたいことはないはずなのだが。
 頬が熱くなって来る。
「……なあ」
 耐え切れずに声をかけた。
「なに?」
 瑠奈の応えは予想よりも遥かに穏やかなものだった。甘い響きこそなかったものの、壁のない、少なくとも見せない声だ。
 こちらを見て小首を傾げる。
 しかしさすがに用もなく声をかけたなどと答えるわけにはいかない。無理にでも質問をでっち上げた。
「勝ち目はあるのか?」
 彼女が気を悪くするかもしれないと、口にしてしまってから思い当ったが、もう遅い。
 案の定、瑠奈の視線が剣呑なものになった。
「だから勝てる方法を今考えてるんじゃない。とりあえず逃げるだけならなんとかなるんだろうけど……」
 やはり厳しいのか、と孝平も軽く唇を噛んだ。さすがに今度は口に出さない。
 考えてみれば当然だろう。瑠奈は自分の力を上位5%に入ると評し、一方であの青年のことは日本で屈指と言っていた。日本に<魔人>が何人いるのかは知らないが、表現を比べればどちらが上にいるのかは明らかだ。
「そもそも噂でしか知らないから、あんまり厳密なシミュレーションができないのが痛いのよね。パワー・ディフェンスタイプ。日本の<魔人>の中では屈指。高位の<王の武具>クラウンアームズを複数所持。任務達成率100%。通称<竪琴ライラ>の処刑人。他にもうひとつ何か呼ばれ方あった気もするけど。これだけでどうしろってんだか」
「100%とか、フィクションでしかあり得ないって聞いたけど?」
「知らないわよ、あたしが言ってるわけじゃないんだから。でも少なくともそういう噂が出るほどだってこと。ああっ、もう! なんでよりによってアレが出てくるかな!」
 自棄を起こしたように呻き、ごろごろと瑠奈はソファから転げ落ちた。ポニーテイルが床に大きく広がり、口許はへの字口だ。
 なんとなく可愛らしい仕種であるが迂闊に頬を緩めるわけにもいかない。
「大丈夫か?」
「……何がよ?」
 瑠奈はむくりと起き上がり、またソファによじ登る。
 どこか疲労を感じさせるのは、決して気のせいではあるまい。
「疲れてるっぽいぞ、お前」
 彼女はそれほど休めていない。買い物に行ったため、肉体的には特にだ。
 否定はなかった。瑠奈は苦笑した。
「……かもね」
「疲れた頭で考えてもいい案なんて出ないだろ。どうせ俺がいる間は襲って来られないんだ、割とのんびりしといて大丈夫なんじゃないか?」
「とは言っても、明日までなわけだけど?」
 それは当初の条件だ。両親は明後日に帰って来る。だから明日まで。
「……そうだな……」
 この条件は、変えたとしてもあまり意味がない。隠れさせたところで見つかる可能性は高い。両親に納得させることは不可能だろう。
 限界まで足掻いても、明後日の早朝である。
「とりあえず今は寝といた方がいい。対策なんて明日でいいだろ」
「……かも、しれないわね」
 しばし、睨まれていたような気がした。しかしそれはやがて緩み、こてんと瑠奈はソファに倒れ込む。
「いや、寝るならそこに布団あるだろ」
「いいじゃない、あたしの好きで」
「使わなかったら何のために敷いたのか分からないじゃないか」
 ちらりと振り返る。敷きっぱなしの蒲団は乱れて、今朝は使われていたことを示している。
 シーツに寄った皺やいい加減に放り出された掛け布団が妙に生々しくて、孝平はすぐに瑠奈へと視線を戻した。
「なあ……」
「しつこいなー……問題ないんだってば、あたし元々ソファで寝るの慣れてるんだから。煎餅布団より、柔らかいこっちの方が好きなのよ」
「いや、だからって……」
「そんなことより」
 瑠奈はどうしても言うことを聞こうとしない。タオルケットを身体に巻きつけたままソファの上で仰向けとなり、深く深く息を吸い、ゆっくりと長く吐いた。
「起きるまで、少なくともこの部屋にいてほしいの。ほんとに処刑人ならヤバいわ。同じ家にいるくらいじゃ、強攻してくるかもしれない」
「……分かった」
 孝平は頷いた。あのコートの青年を思い出せば頷かざるを得なかった。
 平坦な表情、事務的な口調、死を語ることに何ら感動を見せず、そして確かに巻き添えを出したくないと言いながら実はそれほど気にしていないのではないかと思わせてならない言葉。
 今でもじっとりと汗が浮いて来る。
「じゃ、お願いね、こーへー……」
 そう言って目を閉じるときに、瑠奈の睫毛が震えていたのは何故だろう。
 ふと、笑みが込み上げて来た。
 こんな我の強い女のために何をやっているのだろうか。同じ非日常でも、どうせならば魔神の契約者になる方が良かった。二年ほど前までは千人に一人しか生き残れなかったらしいが、今ならば随分と安全になっていると聞いている。
 しかしこれでいいのだろう。
 これでいいのだ。
 瑠奈の顔を眺めながら、孝平は高揚に声もなく肩を揺らした。











 瑠奈が目を覚ます。
 ぱちりと大きく見開き、眠気などまるで残した様子もなく上体を起こしてこちらを向く。
「今、何時?」
「夜の十一時。自分で勧めといてなんだけど、よく寝たな」
 漠然とした前兆には気付いていた。もうそろそろかとは思っていたのだ。
「とりあえずサンドイッチ食うか? 冷蔵庫に入ってたやつだから固いけど。あとコンビニのサラダ」
 ソファの前にあるテーブルには、言葉通りにサンドイッチを置いてある。
 起きそうだとは思っていたもののやはり確信は持てなかったので、温かいものは用意していない。
 瑠奈は無言で不思議そうに小首をかしげている。
「いや、貧相だけどさ、俺は料理とかまったくできないんだから仕方ないだろ」
「そうじゃなくて」
 見当をつけて言い訳をしようとする孝平を遮り、見つめて来る。
「まさかほんとにずっといてくれたのかな……って」
 その声は今までの彼女からは想像できないほどか細かった。
 甘えるような響きも、混じっているような。
「お前がそう言ったんだろうが」
「まあ、そりゃそうなんだけど、律儀に実行してくれるとは思わなかったから」
 瑠奈は、はにかむように笑う。
 それは誤魔化すこともできないほどに魅力的で、孝平は声を失った。
 そして彼女は笑みをどこか困ったようなものへと変えた。
「なんかもう、あと一押しでこーへー君に惚れてしまいそうだよ、あたし。たった一日なのにね。多分新記録」
「そんな冗談言えるようになったんなら、一応は回復したみたいだな」
 到底、彼女の顔を直視などできたものではなかった。目を逸らし、テーブルの上のサンドイッチを持って来る。
「とりあえず食えよ。腹減ってるだろ。美味くはないだろうけどな」
「……そうね、美味しそうだし、そんな頃合。これ以上はまずいかな」
「既に不味そうだぞ。冷たいし固いしパサついてるだろうしな」
「そうじゃなくて」
 瑠奈が立ち上がり、リビングを少し歩いてから振り返った。
 口許にはほのかに笑みの色が残されているが、瞳に浮かぶものは果たして何だろうか。
「なんていうか、あんたって根本的なとこで馬鹿よね」
 酷い言い種だが口調は柔らかい。
「でもこういう馬鹿は好き。あたしに温もりをくれる」
「お前……」
 一体何を言い出したのかと孝平は戸惑い、それでも最終的に言わんとすることは察した。
 思わず詰め寄る。
「出て行くつもりか? なにも夜でなくたっていいだろ、外にはもうあいつがいるかもしれないんだぞ? 明日の昼でいいだろ、それが一番安全だ」
「そうなんだけど、これ以上はちょっとね」
「巻き込むとか今更だろ?」
「反論は認めないわ。どうせ人間の腕力じゃあたしを力尽くで止めることなんてできやしないんだし」
 そのときの瑠奈の動きは、孝平には見えなかった。
 気がつけばぴたりとくっ付くような位置にいて、背伸びをした彼女のくちびるが頬に押し当てられていた。
 どうしてこんなことになっているのだろう。
 別れなど望んでいなかった。家に置いておけるのは明日までであるにしても、その後もまだ何か協力できることがあるはずだと、彼女の寝顔を見ながら考えていたのだ。
 胸は高鳴るよりも、ただただ痛かった。
「どうして……」
「これはご褒美。ありがとう。そして……さよなら」
 囁くような声。
 そして次の動きも分からなかった。
「永遠にね」
 吐息が右頬をくすぐる。先ほど口づけられた箇所だ。
 同時に訪れたのは、想像を絶する激痛だった。まともな声を上げることすらかなわず、引き攣ったような音を喉の奥に封じ込めるのみだ。
 あまりの痛みに意識を軽々と吹き飛ばされてしまったのはせめてもの僥倖だったのだろう。
「おかしい言動をいくつかしておいてあげたのに、気付かなかったの? それとも気付かなかったことにしておいてくれたの? 信じたいってきっと無意識に思っててくれたんだろうね。優しいね、馬鹿だね」
 瑠奈の右手が孝平の腹壁を貫き、肝臓を鷲掴みにしている。そのまま、繋がっている動脈や静脈、神経を手際良く引き千切り、大切な宝物のように腹から取り出す。
 それを見つめ、鹿野瑠奈は蕩けるようなまなざしで熱い吐息を吹きかけた。
「いい弾力、色も綺麗……素敵よ、こーへー……」
 その腕を血が伝う。噴出した鮮血がその身を染め上げ、滴り落ちたものは床へ広がってゆく。
 赤に浸りながら、彼女はくちびるをちろりと舐め、手にしたものに齧りついた。
 解放された孝平の身体が重い音を立てて血溜りに突っ伏す。
 無論、既に命は消え去っていた。







[30666] 「<魔人>は夜に蠢く・五」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/11/25 21:35




 月が綺麗だった。
 満月にはほんの少しだけ足りないだろうが、くらくらするほどに明るく、綺麗だった。
 桐生家の屋根に影を落とし、血塗れの服を纏った瑠奈は来訪者に笑いかけた。
「早かったわね。あるいは遅かったのかしら」
 桐生孝平の命を救うには遅いものの瑠奈が逃れる前には辿り着いている、そういう皮肉を込めて。
 しかし得られた応えはほとんどなかった。道の中央に佇む青年はロングコートの裾を僅かに揺らし、こちらを見上げて来ただけだった。
 構わない。瑠奈は笑顔のまま続ける。
「実際には遅かったんじゃないかな。肉の壁なら今からいくらでも作れるし」
 この辺りは一般家屋が立ち並んでいる。不意打ちでやられさえなければ、瑠奈の方から一般人を巻き込むのは容易いのだ。
 なるたけ目撃者を出したくないのはこちらも同じではある。
 人間社会に明らかに知られてしまった<魔人>は何ものかによって知らぬうちに消し去られてしまうという。消される危険があるのではない。逃れようもなく、必ず抹消されるのだ。それこそが<魔人>が人目につく場所で戦わない理由である。
 どこまで境界線を攻められるか、やりたくもない綱渡りだが、渡らねば死ぬとあっては致し方ない。
「あたし、そんなに悪いことしたっけ?」
「食人を慣習とする文化はある、少なくともあったはずだが、現代日本ではさすがに迷惑だろうね」
 飄々と、青年は答える。瑠奈を見上げる瞳には怒りの欠片も見られない。
 瑠奈は続ける。
「昼間、こーへーと会ったんだってね。そのとき力尽くで攫ってれば助けられたのに」
「そうして、次の獲物を見つける前に君を片付けられたかどうかは怪しいが」
「あいつ、あんたが殺したようなもんよ」
「殺したのは君だろうに」
 更に煽ってはみるものの、返って来るのは淡々とした指摘だけだ。怯むでもなく、逆上するでもなく、ただ事実を口にする。
 瑠奈のくちびるから小さく笑い声が漏れた。
 噂通りだ。
 <竪琴ライラ>とは、人間社会に明らかな害悪をもたらす<魔人>を葬り去ることを目的とした集団である。六つの派閥が日本の各地方に分かれてそれぞれ標的を抹殺しているという。
 そのうちの一つ、神官派に所属する<魔人>の一人こそが目の前にいるコートの青年だ。
 <竪琴ライラ>に所属するような<魔人>は、活動内容から分かるように平和や正義に対して何らかの自負がある。だからこそ、その自負を言葉で揺さぶることができるのだ。
 低俗で、下劣で、汚辱に塗れた言葉は強い。とても下らないが、善良さを手玉に取るには最適だ。相手の柱を揺るがし、惑わせ、あるいは逆上させる。<魔人>が人とは一線を画した力を持っていても、心はあくまでも人のままなのだから。
 並み程度に頭が回るならば、そこを突かない理由はない。
 善良な者ばかりではなく、むしろ虚栄心の強い者の方が多いくらいなのかもしれない。だが何の問題もない。いっそそちらの方がより容易く崩すことができる。
 ところが噂に聞くこの青年は違う。
「どうでもいいって顔ね」
「ああ」
 好きに喚けばいいと、お前の理など知ったことではないと、背景も感情も虚構上の設定に等しいと。いかな真理を告げようともお前の死という結果は変わらないのだと。
 処刑人というよりも、いっそ決められた言葉だけを喋る処刑機械とでも言った方が近いのではなかろうかと瑠奈は思った。ただ命を奪うだけの物体には侮辱も狡知も邪悪も通用しない。
「詰まんないわね、人形なんて」
「喜怒哀楽は充分に持ち合わせているし、人並み以上に我は強いつもりでいるんだが」
 その反応も、瑠奈の侮蔑に気を悪くしたわけではなく、事実を淡々と述べているだけなのだろう。
 のほほんとした日常の中であったならば、細かいことを言う男で済まされたのかもしれないが、全身を血に浸した少女を前にしてもこれなのである。
 分からない。気持ちが悪い。
 それでも喋らずにはいられない。恐ろしいのだ。
「まあ、いいわ。とにかくあたしは逃げさせてもらう。あんたじゃ追いつけるとは思えないし」
 話によれば、<竪琴ライラ>の処刑人は決して速くはないはずである。対して瑠奈は速度をこそ身上とするのだ。一心に駆ければ、一撃くらいは貰うかもしれないがひとまずは逃れられる。
 しかし、その思惑はやはり平坦な声によって破られた。
「いいや、君はもう逃げられない」
 一瞬だけ、視界がぼやけた。
 そしてその後に広がった光景は、灰色の一言に尽きた。
 街も、月も、夜空も、世界がことごとく白と黒の間にある濃淡だけで示されているのだ。
 いや、本当にすべてではない。瑠奈と青年にだけ色が残っていた。
「半径200mほどの独立閉鎖空間、とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ」
 ふわりと、青年が道を挟んだ向かい側の家屋の屋根に跳び乗る。
 いつしか、その右腕にはごつごつとした籠手がコートの大きな袖から突き出すようにして嵌められていた。手甲や前腕は無論のこと、指先から掌までも覆う代物だ。人の扱う金属であれば籠手そのものに邪魔されてまともに指を動かすこともできないはずだというのに、青年は固い拳を形作ってみせた。
 <魔人>の目、灰色の中であるからこそ、夜だというのに判るのだろう。それは海の色をしていた。珊瑚礁のような碧ではなく、陽に輝く紺でもなく、太古より人を呑み込んできた深淵の色だ。
「僕を殺さない限り、君はここから出られない。諦めてくれるとお互いに苦痛も面倒も最小限で済むんだが」
 無論、それは降伏勧告などではない。
 信じがたい光景に、瑠奈は笑うしかなかった。
「こんな真似ができる<魔人>なんて聞いたことないんだけど? こんなのがあるのなら、別に昼に仕掛けて来たってよかったんじゃない? それとも……」
 夜でなければ使えないのか、そもそもはったりなのか、あるいは。
「……用意するのに今までかかった?」
「僕にできるのは精々、目の前のものを殴ることくらいだ。これは、そういう道具があるんだと思ってもらえればいい」
 青年の言葉は、こんな真似の可能な<魔人>などいないはずだということに対する婉曲的な回答にしかなっていない。
 それでも瑠奈は自身にとっての正解を見出した。
「つまり、これを準備するためにこーへーを見殺しにしたわけだ? あたしをこの家に留めておくために」
「いや、元々は特に関係はないな。結果的に君の足止めにはなったが」
 二人の<魔人>が向かい合う。屋根の上と屋根の上、間合いは10m程度しかない。
 戦いが近付いている。両者とも既に準備は終わり、言葉を交わしながら機を計っているのだ。
「でも、一つだけ意外だったわ。割とよく喋るじゃない。処刑人とかいうんだから無言で殺して回るのかと思ってたのに」
「僕も無言で済ませられるならそれに越したことはないんだが、困ったことに喋るのも定められた仕事のうちでね。それに、必ずしも無意味というわけでもない。君も先ほど試みていただろうに」
 理解はできた。<魔人>の戦闘において相手の動揺を誘うのは定石である。
 そういう意味では青年の言葉は確かな効果を上げていた。
 瑠奈は胸の奥の苛立ちを否定することができない。
 左手の中にはとうの昔に『タイタンブレス』の柄が握られている。背を丸め、身体を撓めてまなざしは細く鋭く。
 勝機はある。
 上位戦格クラスはただ身体能力を増すだけのものではない。何らかの特殊能力を有している。
 瑠奈の持つ戦格クラスの片割れである<トレイター>は、自分よりも強い力を持つ相手からの攻撃に対し、弱いながらも減衰力場を形成する。処刑人相手ならば、間違いなく有効に働くことだろう。
 更に、向こうから提供してくれた要素もひとつ。
「自分の首を絞めたわね。本当にこの空間が自由に暴れ回ることのできる場所なのなら、あたしは遠慮する必要がなくなるもの」
 自らの言葉が終わらぬうちに屋根を蹴った。まがりなりもこちらの言葉を聞いているのであれば、その途中で仕掛ければ少しは虚を突くことのできる可能性があるのだ。
 魔神が人の知る法則など無視するように、魔神によって力を与えられた<魔人>も理不尽を行う。瑠奈の蹴り出しがもたらした速度は、秒速810m。大気中を伝わる音の速さの二倍を軽々と凌駕する。
 それでいながら、周囲にもたらした影響は瓦を一枚踏み割ったことと、弱くはない風を巻き起こしたことくらいのものだ。
 そして、理不尽は青年もである。
 『タイタンブレス』の刃を籠手の甲が正面から受け止めていた。腰も落とさぬまま、小揺るぎもしない。その代わりのように、『タイタンブレス』の吹き散らされた風が足元の家屋を崩壊させた。
 粉塵が舞い上がり、二人ともがその場を跳び退く。瑠奈は元の屋根へ、青年は道路へ。
 篠突く雨の如くに落ちる、重い音。すべてを拳大以下の瓦礫と変えられた家屋の断末魔だ。
 青年が構えをとる。右半身となり、籠手のある右腕を盾のようにかざして左腕は腰だめに。双眸は無感動に瑠奈を捉えたままだ。
 一方で、瑠奈は胸の前で刃を寝かせて再び機を窺う。瑠奈の持ち味は速度と縦横無尽の機動力だ。相手の攻撃を止めたり受け流したりするのではなく、間合いそのものを外すのだ。
 堅い。心中で呟く。先ほどの一撃は不意を突くことまではできなかったとはいえ、向かい合ってからの先制攻撃としては充分過ぎるほどの出来だったにもかかわらず完璧に防がれてしまった。
 おそらくは、向けられた攻撃を捌きながら相手が致命的な隙を見せるまで待つ流儀なのだろう。
 <魔人>らしからぬとは言える。少なくとも瑠奈が今までやり合ってきた中には一人もいなかった。誰もが速さを誇り、求め、その上で瑠奈には追いつけなかったのだ。
 無論、本来であれば追手には向かないはずのやり方だが、こうやって逃れられぬ状況での一対一を作り出すことができるのならば、なるほど、極めて有効だろう。
 逃すということが自らの死を前提とする以上、生きているからには誰一人として逃したものはないということであり、任務達成率100%というのもあながち誇張とも言い切れないのかもしれない。
 瑠奈は二手目を仕掛けない。性は横暴で享楽的と見えて、既に十を越える敵を葬り去ってきた手練れの<魔人>である。組みし易いと侮ってはくれぬ相手に、無駄な演技はしない。
 さて、どう攻めたものか。あの『盾』と『鎧』をどう攻略したものか。
 青年の纏うロングコートもまたクラウンアームズであることを、瑠奈は見抜いていた。この季節に身につけるものではないし、何よりもあの広がった右袖は籠手と同時に使用することを想定したつくりなのだとしか思えない。
 防具の役割を果たすクラウンアームズは、そのものだけが防御効果を持つのではなく、緩衝領域を発生させて全身を保護している。たとえ棒立ちのところへ目を狙ったとしても、切先が貫けるかどうかは威力次第だ。
 それでも狙うべきは目か首だろう。領域さえ貫けば大きな傷を与えることができる。
 しかし、青年の懐は深い。目や首を狙える位置とはすなわち、敵にとっての自在の間合いである。あの反応速度を見る限りでは、一方的な攻撃など望むべくもない。
 正面は駄目だ。既に詰んでいる。
 ならば。
「行くわよ」
 宣言をしても問題はない。瑠奈は声だけを残し、再び音を越えた速度の世界に達する。
 しかし青年へと斬りかかるわけではない。青年にとっての左、拳の届かぬぎりぎりの距離に着地、アスファルトを踏み砕き、方向を転換しながらも速さを保つ。
 次は青年の背後、大股一歩の距離。狙うはコートの襟の少し上、後頸部だ。
 背が見えていたのは刹那の十分の一にも満たぬ時間だった。左に降りた瑠奈を無視するかのように、意図を見抜いたかのように、青年は右へと回転していた。
 物々しい籠手に覆われた右の裏拳が、迫る瑠奈へと向けて打ち下ろされた。
 戦いの中における速さとは、敏捷性のみによってもたらされるものではない。移動速度や大きな動きでの回避ならば俊敏さに依るところは大きいだろうが、受け流しや見切りを支えるのは経験と広義での、技ならぬ業である。そして、攻撃に鋭さを与え威力を増すのもまた、業なのである。
 青年が行ったことは、左足を軸として右足を引くとともに方向を変え、その動きのおまけとして裏拳を放っただけだ。体勢はほぼ元と同じものにして、その『おまけ』は拳でありながら零れ落ちる光としか映らぬ剣閃の如くであった。
 瑠奈は右上から巨塊が押し潰そうとしてくる様を幻視した。それはすぐさま視界をほぼすべて覆うようで、為すすべもなく肉塊とされる己を思った。
 その上で、くちびるが凄惨な笑みを形作った。
 左下、僅かに残ったところを駆け抜ける。
 右腕が千切れ飛んだ。左耳のイアリング、クラウンアームズ『タイタンブリーズ』の形成する緩衝領域と<トレイター>による減衰力場の双方の防護を経てなお、耐えられなかったのだ。
 替わりに、突き出した刃は青年の額を抉っていた。そのままゆけばこめかみに突き立てるはずだったものを、首を捻ってかわされたのだ。
 狂おしい熱を宿す瑠奈の視線と、今もって事務的な青年の視線とが交錯する。
 弾かれた様に彼我の距離が開いた。
 瑠奈は大きく後ろへ跳び、先ほど崩壊させた家の更に後ろに並ぶ三軒を一気に越えてその向こうの通りに出ると、振り向きざまに『タイタンブレス』を振るう。
 敵の姿は見えないものの、存在しているはずの方角へと放たれた風が家屋を呑み込み崩壊させながら疾駆する。
 瑠奈は遠距離攻撃を得意としない。ほぼ『タイタンブレス』の能力に頼っている。あの青年には直撃を与えてすら僅かな傷も付けられまい。
 しかし、これはほんの少しの時間稼ぎだ。
 千切れた右腕を、生やす。
 <魔人>にとって部位欠損はそれほど意味がない。体力と生命力が戻らないだけで、形と機能はいくらでも復元することが可能なのだ。
 だから<魔人>の戦いにおいては小手狙いや脚狙いは一瞬体勢を崩し、生命力を削る程度のものにしかならない。大きく天秤を揺らすことができない。
 それでも腕一本は決して軽くない。瑠奈の頬には苦痛が浮かぶ。
 睨み据える先で家が破壊された。崩壊の風によるものではない。不可視の巨大な拳撃を飛ばしたとでもいうところだろうか。打ち据えられ散らされる風が、破壊をもたらしたものの形を感覚的に浮かび上がらせていた。
 さすがにむざむざと食らいはしない。ひょいと避けると、後ろの家を更に三軒壊してようやく消えたようだった。
 大きく息を吐く。今一度、頬に浮かべるものを笑みへと戻し、大きな歩幅でこちらにやって来る青年に声をかけた。
「女を殴るなんて、最っ低ね」
「それは性別による筋力の差から来た言葉だろう。まったく差の生じない<魔人>では成り立たない。そうでなくとも、他者を殴る時点で男女の別なく最低じゃないかと思うが」
 返答のあることは律儀と言ってもいいのだろうか。先ほど言っていたことを信じるならば、喋ることまで仕事のうちであるらしいが。訳が分からない。
 青年はどこまでも淡々と告げる。削れたはずの額も既に血糊すら残ってはいない。
「そもそも、君は僕と同じく自らの望みのために人であることを捨てた、文字通りの『人でなし』だ。まだ自分に人権があると思っているのか?」
「うわ、ヤな感じ」
 『タイタンブレス』を逆手に構える。
 片腕を吹き飛ばされた瑠奈と、額を抉られただけの青年と。先の一合、どちらが優勢であったかは明らかだ。
 期待もしていなかったがやはり油断はなさそうである。口にした言葉はそのまま自分自身に返るもの。にも関わらず自虐に聞こえない。そんなものはとうに腹に呑んでしまったということなのだろう。
 ただ、弱点も口にしていた。
 この何もかもがどうでもよさそうに見える青年にも望みがある。
 当然の話だ。本当に望むことが何もないのならば、そもそも<魔人>になっていない。なったからには、たとえ下らなくとも必ず望みがあるのだ。
 望みがあるならば、それは弱さになる。やはり処刑機械ではなく、処刑人なのだ。陥れることも可能なのだ。
 とはいえ、今からそれを突くのは不可能だろう。喋るまいし、この領域の中に持ち込むはずもない。ここはあくまでも、詰まらない仕事を行う処刑場なのであろうから。
 身体から力が抜けてゆく。
 諦めたのではない。これから正真正銘の全力を尽くすのだ。今までは使うわけにいかなかった手を、瑠奈はひとつ有している。
 ゆらりと崩れ落ちるようにしゃがみ込み、そこから跳び出した。
 駆ける。全速力で、逆手に構えた『タイタンブレス』による崩壊の風を撒き散らしながら、横へ。
 灰色の家を、電柱を、木々を、ことごとく崩壊させながら駆ける。
 半径200mならば、たとえ端から端まで横断しても半秒。一瞬にして境界まで辿り着けば今度はその境界に沿うようにして疾駆する。
 徐々に半径を狭めながら、更に加速しながら、円を描き続ける。
 ある種、滑稽な行動にも映るだろう。遊んでいるようにも見えるだろう。
 しかし風が風を超え始めるのだ。撒き散らされる崩壊の風が渦を巻き始めるのだ。
 無事な建造物などまたたく間に消え失せた。もしもこれを外で使おうものならば数百人、数千人、場所によっては数万人を虐殺し得る荒業である。
 崩壊の風が純化されてゆく。すべてを瞬時に風化させる風へと昇華されてゆく。
 作られたものは竜巻でも台風でもない。『タイタンブレス』を核として、今や瑠奈自身が一個の暴風と化していた。
 踏みしめた地点そのものが半球形に消し飛ぶ。だが、踏みしめるのは消え去るまでの僅かな時で充分だった。
 青年の左斜め後方、20m。防御など何も考えぬ、突進からの刺突。速度は最初の踏み込みの数百倍にも至る。
 対して、今まで微動だにせず待ち続けていた青年は、これにさえ反応して見せた。
 しかし右は間に合わぬと覚ってか、左腕だ。こちらに突き出すように。
 かつてない速度の中、瑠奈は自らと敵とを直線に繋ぐ死を見た。切先は緩衝領域を突破、掌から貫き、引き裂き、削り落し、その滓すらも風が消滅させる。
 勝てる。確信する。
 このまま纏う風を全て叩きつければ、いかな防護とて。
 視線が、合った。この期に及んで、青年は平坦に瑠奈を見ていた。
 右足の踏み込みにより体を替え、削られる左腕で瑠奈の速度を削ぎながら、籠手に包まれた右拳が動く。
 敵の攻撃を絡め取りながら、それと一体となって繰り出される一撃。交叉法、何の変哲もない人の技である。それを、<魔人>の戦闘能力をもって行うのだ。
 瑠奈は渦を幻視した。暗い暗い深淵へと引き摺りこむ渦だ。
 風が、喰らうのではなく喰らい込まれた。
 この期に及んで思い出す。
 <呑み込むものリヴァイアサン>。
 それが、<竪琴ライラ>の処刑人と呼ばれる青年の、もうひとつの異名だ。







 十代の少女が一人、肝硬変になった。
 理由は分からない。肝炎ウイルスに冒されているわけでもなければ心不全があるわけでもない。常用している薬もなければ法律通りに酒も飲まない。遺伝子疾患も栄養障害も否定されて、強いて当てはめるならば検査結果に疑問は残るものの自己免疫疾患が最も疑わしいと診断された。
 肝臓は様々な代謝を行う臓器である。その機能が大幅に損なわれることになる肝硬変のもたらす症状は多岐にわたり、食事の調整を含め細心の注意を払って最良の治療を受けてなお、予後の良いものではないのだ。
 それを聞かされた少女は、理不尽に与えられた茨の将来を、それでも呑み込んだ。泣きそうになりながらもそこからまた歩き出そうとしたのだ。
 事件とも言えぬ些細な一幕は、その直後にやって来た。
 部活の先輩が見舞いに来たのだ。ただの上級生ではない。異性の、憧れていた男子生徒だった。
 優しく明るく、少しばかり軽口の過ぎるきらいはあったが、それが気にならぬほどに心惹かれていた。
 無論、舞い上がった。楽しくおしゃべりをして、その中で先輩が言ったのだ。
『なんか息が臭いとは思ってたんだけど、病気のせいだったんだな』
 肝障害によって現れる症状の一つに、独特の口臭がある。血中メルカプタン濃度の上昇によって引き起こされるものだ。
 意地の悪い級友に言われたのであれば、膨れるだけで済んだのだろう。少女は靭い娘だった。決して長くは生きられないと聞かされても絶望を跳ねのけるほど、挫けぬ娘だった。
 しかし、その上に重ねられたこれだけは耐えられなかった。
 ずっと、臭いと思われていたのだ。憧れのひとに。
 顔だけは笑って繕った。誰にも泣き言は言わなかった。替わりに、心の奥底の大事な何かが少しだけ失われ、失われたままで歯車が噛み合ってしまった。
 食事の基本には、自分に足りないものを外へ求めるという要素がある。栄養学が学問として確立される遥か前から、血肉を食らって己が身体とし、生命を食らって己が命となす概念はあった。
 少女の歯車は、その概念をどこまでも推進した。自分の肝臓が悪いのならば、肝臓を食べて補えばいいのだと。
 最初はこっそり焼き鳥屋に寄ってレバーを買い込み、食べるだけだった。それだけでも身体には悪いのだ。衰えた肝機能でも処理できるように食事を調整しているというのに、そこへ大量の食物を加えてしまっては何の意味もない。
 しかし少女は己の行動を間違っているとは思わない。叱られても、止められても、すべての忠告は擦り抜ける。そして狂った歯車から導き出されたのは、生きた肝臓ではないから駄目なのだという結論だ。
 今度は、野良犬を殺して腹を裂き、生の肝を食らった。吐きながらも一心に食らい尽くした。寄生虫や細菌、ウイルスなどの病原微生物が存在する可能性にはついぞ気付かない。
 病状は致命的なまでに悪化した。肝性昏睡を起こして病院へ運ばれ、それでも朦朧とした意識の中で思うのは生き肝のことだ。
 やはり人でなくては駄目だ。人間の肝臓でなければ。
 願いは強く強く、それを面白いと思う魔神がいたことは幸運だったのか、不幸だったのか。
 少女は<魔人>となった。病など軽々と屈服させ、だというのにまだ望み続けるのだ。
 両親を襲い、生き肝を食らい、思い人を襲い、生き肝を食らい、そこでようやく身体が力に満ちていることに気付いた。
 肝臓が良くなったのは人の肝を食らったから。それは好意を抱く相手であるほどいい。しかし自分は食らい続けなければならない。そうしないとまた病気になって憧れのひとに臭いと言われてしまう。その妄想が少女にとっての真実となった。
 少女は決して、人を殺したいわけではない。生き肝を取り出せば当然の結果として人間は死んでしまうというだけのことである。
 <魔人>となったときに顔は変わり、名も鹿野瑠奈と変えて、少女は今も夜に蠢くのだ。
 青年は既にそれをすべて承知している。
 少女の心は壊れゆくのみだ。好意を抱いた相手の肝を食らわずにはいられない。その願いのために<魔人>となったのだから。
 少女の心は更に壊れゆくのみだ。愛したい、愛されたい、餓えるその思いで同世代の異性を求め、得ては己が手で死なせるのだから。
 少女の心はなおも壊れゆくのみだ。欲望と喪失の悲しみを天秤に載せ、食らう時期を量るまでになっているのだから。
 戦いが始まる前から少女はずっと、ぽろぽろと涙をこぼし続けている。既に自覚もないのだろう。そのままで笑い、会話し、戦っていた。
 その涙は毅かった少女の魂の、最後の抵抗であるのだろうか。
 それらのすべてを己が内に呑み込んで。
 青年の拳に、一切の容赦は存在しなかった。
 死した<魔人>の肉体は塵も残らない。滴り落ちた涙すら、地に落ちる前に消え去った。






[30666] 「<魔人>は夜に蠢く・エピローグ(プロローグ)」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/12/01 18:55




「――――実際の話」
 名和雅年は壁に目を向けたまま、独り言のように答えた。
「大腸癌で亡くなったうちの爺様が今際の際に何て言ったと思う? 『糠床を百個作ろう』だ。覚えてる限りでは漬け物なんぞ漬けたこともない爺様が何を思ったのかは知らん。百というのも意味不明だ。肝臓どころか脳にまで転移してたからな、その所為かもしれんが」
 質問は、人は死の間際に何を思うのだろうか、だ。その問いから最終的にどんな話へと持って行きたいのかは既に察していたが、あえてとぼける。
「まあともかく、最期に思い浮かべるのが人生の大事なものである必然性はなく、いっそ意味不明なものだったりすることも多いんじゃないかと僕は思う」
 そこでようやくちらりと視線を質問者に向けた。
 まだ十代と思しき少女だ。鬼も十八、番茶も出端。だが残念ながら雅年の趣味には合わない。
 拒絶されたのを察してか少女は鼻白み、小声で形式的に礼を言うが早いかそそくさと去って行った。
 それを見送ることもせず、雅年はまた壁を向く。
 此処は古びた喫茶店だ。コーヒーが美味いわけでもなく、洒落ているわけでもなく、したがって繁盛もしていない。ただ、おかげで静かではあった。
 雅年はその隅の席で壁に向かって座り、人を待っている。
 コーヒーを啜り、大きく息を吐く。思考はさすがに今の質問を向けられるに至った経緯に向けられる。
 常連の少女が古代超文明の戦士の生まれ変わりであり、仲間を探していようとはまったくの予想外だった。
 彼女の言うことを頭ごなしに否定する気はないのだ。しかし少なくとも自分はその戦士ではないと思う。
 もう一度、息を吐く。ただの呼吸には大きく、ため息には小さい。
 店に入ってもう一時間が経つ。今日は来ないのだろうかと待ち人のことを思った。
 約束があるわけではない。少女と同様の常連で、今日のような日曜の昼下がりに現れることが多いから、雅年はこの時間に待っている。そして壁を向いて座る、つまり入口に背を向けているのは、彼女が来たときに照れ臭くて仕方ないからである。
 携帯電話が震える。誰からのものであるかを確認した雅年は、眉根を寄せると不本意であることを隠そうともせずに伝票を掴んで席を立った。
 いつもと同じ金額を無愛想なマスターに無言で渡し、店を出る。ドアの高さが180cmしかないので、ちょうど靴底の厚みの分だけそれを越えてしまうことになる雅年は少し腰をかがめる必要があった。
 春の風がコートを揺らした。天気はいいが、どことなく空気が冷たい。
 歩き出す。往来を行く人々は早足だ。雅年に注意を払う者はない。
 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
 むしろコートの方が目立つかもしれない。右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
 と、その背に声がかけられた。
「あら、今日は入れ違いですか」
 待ち人の声だった。
 振り向けば、笑顔。今日はジーンズに薄手のトレーナーという飾り気ない出で立ちだ。しかしそれでもそんじょそこらの芸能人など敵うものかと雅年は思う。
 彼女のことならば、すべてとは言わないまでもとても多くのことを知っている。水上春菜という名前も、二つ年下の二十三歳であることも、誕生日も知っている。
 穏やかな気持ちで雅年は笑う。最初からこのくらいの距離にいれば照れはない。離れていると近付いて来る時間にどう行動していいか分からないだけなのだ。
「残念ながら用が出来て」
 本当に残念だ。呼び出されさえしていなければ、今からでも店へ取って返したというのに。彼女の身の回りの話を聞きたかったのに。
 せめてこのまま五分から十分ほど立ち話をとも思ったが、この風は気温から思う以上に身体に毒となりかねない。彼女が風邪でも引いては大変だ。
「そんなわけでまた今度にでも」
「はい、また」
 変わらぬ笑顔に見送られ、雅年は再び春菜に背を向けた。














 広大な空間に光が走る。
 輝きは近付き、ぶつかり合い、また離れる。一方は赤、もう一方は極彩色。それぞれの光の中にいるのは、少年だ。
 正確には、二人の少年が輝きを放つ武器を手にして戦っている。光そのものは弱いのだ。しかし薄暗い空間にあっては二人の姿を強く浮かび上がらせる。
 赤は長身痩躯、髪はごくごく短く刈り込まれ、鋭すぎるほどに鋭いまなざしが相手をねめつけている。赤い光に染め上げられたブレザーは激しい動きにも大きな乱れを見せていない。
 右手には幅のある1mほどの両刃の剣。左肩の斜め上、前方には小さな、後方には比較的大きな、緩やかに湾曲した楕円形の障壁。すべては赤く透けた硬質な外観を持っている。
 一方、極彩色は小柄な少年だ。引き締められた表情は凛々しさも感じさせはするものの、どうしても幼い印象は抜けない。少し長めの髪を大気になびかせ、敏捷で小刻みな動きによって切り結ぶ。
 両手にはそれぞれ細身の長剣。その代わりに障壁は一枚だ。小さなものが前後左右に動き回る。
 極彩色の足下で靴底がコンクリートと擦れる高い音。武島洸は縦横無尽に駆け、相手を翻弄することを旨とする。
 その速度は人のものではない。30mはあった距離が瞬きひとつの間に詰まる。双剣と盾の輝きが尾を引き、突進はさながら彗星の如く。
 振るわれる剣は同時に見えて、異なる。左は逆袈裟、右は僅かに遅く始動した刺突。効率的な流れに沿わぬ動きは左右ともに身の入り切らぬ浅いものとならざるを得ないが、遅かったはずの右が左を追い抜いて先に届くという欺瞞を成し遂げる。
 だが、そのどちらもが瞬時に軌道に割り込んだ赤の障壁に阻まれた。
 その奥から放たれようとするものを察知し、洸は大きく横に跳ぶ。視界の隅を赤が焼いた。1mほどしかなかったはずの剣身が今や軽く20m以上となり、くねりながら洸を追ってくる。
 華厳院雅隆は普段でさえ鋭すぎるくらいのまなざしを戦闘の高揚に研ぎ澄ませ、敵を見ている。動きを的確に追い、得物を的確に操る。
 全力ではないじゃれ合いのような二人の模擬戦の様子を、雅年は気の乗らぬ顔で見下ろしていた。
 この地球上のどこでもない空間は、闘技場だ。二人がやり合っている中央の舞台を底として、その周囲を観客席が埋めている。広さは相当なもので、舞台だけでも半径100mを越え、すべてを含めば端から端まで500mに達する。
 二人の動きは止まらない。一進一退、己を抑制しながら互角のやり合いを続けている。
「それで、今度は何の用だ?」
 その言葉は隣へと向けたもの。
 しかし問いに対する答えそのものはなかった。
「二人とも強くなって来ましたね」
 少女の優しげな澄んだ声。そしてその持ち主は声の印象に違わない。
 年の頃は十代後半に入った程度。短い栗色の髪と、褐色の瞳。華奢で小柄な体躯を幻想じみた白と赤の貫頭衣に包み、目に痛いほど白い両手を祈るかのように組み合わせている。
 可憐、まさにその言葉が相応しい少女だ。
「うかうかしていると追い抜かれてしまうかもしれませんよ、雅年さん?」
 悪戯っぽい響きで見上げて来る。
 しかし雅年はひどく冷えた声音を返しただけだった。
「どうでも構わない。僕の望みさえ邪魔しなければ」
 敵意はない。替わりに、少女への親愛の情もない。向けた視線もただただ冷淡で、繰り返された問いは事務的だった。
「僕を呼んだ用事は何だ、ステイシア?」
「……お仕事です、あなたを指定します」
 寂しげに少女は、<竪琴ライラ>神官派の中心であるステイシアは答える。竪琴を模した胸元のブローチをいじる仕種がどこか拗ねたようだった。
 男女を問わず胸を締め付けられるであろうその様にも雅年は眉一つ動かさない。
「わざわざ僕か」
「はい。わざわざ雅年さんです。ですけど、いつもいつもそんなに冷たくしなくてもいいじゃないですか」
「僕を呼ぶとき、よりにもよって日曜の割合が高いのは何故だ」
「それはわざとじゃないんです」
 宙から染み出すようにして現れた巨大な錫杖を右手に収め、ステイシアは自らの身の丈を越えるそれをしゃらんと鳴らした。
 憂えげに目を伏し、訥々とした口調で言う。
「今回の相手は、半年で十七名の人死にを出しています。さすがに社会への悪影響も考えられるでしょう。追っていた陣さんは返り討ちにあって……なんとか一命は取り留めましたけど」
「随分と強力だというのは分かるが……」
 深崎陣は高い戦闘能力を有する<魔人>である。彼を上回る力を持つ者など神官派三百八十七名の中にもそうはいない。
「単純な能力の高さもありますが、それ以上に……彼女は『本物』です」
「……そうか」
 意味は理解できる。<魔人>には、能力よりもクラウンアームズよりも重要な要素があるのだ。
「深崎君は無事か?」
 尋ねたのは、身体のことではない。<魔人>は死にさえしなければ半身が吹き飛ばされてもやがて完治する。
 答えるべき事柄をステイシアも間違えなかった。
「再起は難しいと思います。そして、他の誰を向かわせたとしても似たような結果になるでしょう。雅年さんしかいないんです。受けて……くれますよね?」
 そして見上げて来るのは、おずおずとしたまなざし。
 それでも、あくまでも事務的に雅年は頷いた。
「それが約束だ」


















「は~るなさんっ」
 ココアから立ち昇る湯気を追い、名前を呼ばれた春菜は読んでいた小説から顔を上げた。
 店内は暖かい。湯気などすぐに見えなくなる。
「なあに、梓ちゃん?」
「春菜さんって名和さんと仲良しですよね?」
「一応、仲良しでいいと思うけど……」
 水上春菜は現在、天涯孤独の身である。
 十八までは祖父母も生きていた。二十歳のときに母を事故で失い、二十一で父を病で失い、昨年兄を事件で失った。
 立て続けに家族を亡くしながら、傷ついた心はまだ挫けていない。ゆったりと流れる休日のこの時間は、支えてくれるものの一つだ。
 そしてこの明るく話しかけて来る少女、樋口梓も春菜にとっては心安らげる相手である。
「名和さんを説得してもらえません? あたしの感覚では、選ばれし光の戦士に違いないんです」
「……ええと」
 いい子なのだ。古代超文明さえ絡まなければ。
「そうなの……?」
「そうです! 絶対に戦士です!」
 梓は力説する。
「あのそっけなさ、それでいて決して馬鹿にはしない……自分を理解していながら何か理由があってそれを明らかにするわけにはいかない、きっとそうなんです。あたしを露骨に避けてますもん、後ろめたいんですよ」
「そう……なのかな……?」
 露骨に避ける理由は、春菜には心当たりがあった。
 十代にはさすがに濃すぎるのではないかと思える化粧を梓は施している。ところが雅年は濃い化粧が殊の外嫌いなのだ。父や兄もそうだったので春菜にとってはむしろ男性は化粧を嫌うような印象を持っていたくらいなのだが、梓には思いもよらないことなのだろう。
「梓ちゃん、お化粧は今の年齢ならもっと薄く、せめて目立たなくした方がいいかも」
「これは戦士に必要なものなんです。光の戦士は純粋な分、闇に染まり易いから化粧をすることで汚染を防ぐんです」
 それなら男性も化粧をしなければならない設定なのだろうか。そう思ってしまったせいで不意に雅年が白粉を塗りたくった顔を想像してしまい、吹き出しそうになるのを必死に堪えながら表面は取り繕って春菜は頷いた。
「そうなんだ……お小遣いとか、大丈夫?」
「きついですー……母さんったらひどいんですよ?」
「よしよし」
 嘘泣きをしながらじゃれついて来る梓の頭を撫でてやりながら、春菜は微笑む。
 可愛い子なのだ。もう本当に、古代超文明さえ出て来なければ。
「とは言ってもここには来ますよ? 名和さんの説得もありますし、春菜さんにも会いたいですしねー」
「私も梓ちゃんに会えないのは寂しいかな」
「ですよねー! お互いひんぬー同盟同士、がんばりましょー!」
「え、ええ……」
 水上春菜、二十三歳。
 胸がないのはほんの少しばかり気にしていたりもするのだった。





 緩やかに彼女の時は流れてゆく。
 夜に蠢く者どものことなど、知る必要もなく。







[30666] 「英雄の条件・一」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/01/17 18:47
『英雄に必要不可欠なものは何だと思います?』
 それはいつのことだったか。
 可憐な面立ちに得意げな表情を浮かべ、ステイシアが出題して来た。
 答える必要性もないとは思ったものの、少し考えて浮かんだ言葉を雅年は口にした。
 答えそのものは何ら難しいものではない。聞けば誰しもが頷くだろう。
 あるいは、反論するかもしれないが。
 ともあれ、それはステイシアが用意していた答えであったらしい。
 眉尻を下げ、彼女はしょんぼりと肩を落とした。
『どうして正解しちゃうんでしょう……折角頑張って考えたのに……』
 そんなステイシアを尻目に、雅年は立ち去ろうとする。
 そう、あれはちょうど日曜だった。
 日曜は、あの喫茶店に行かなければならないのだ。















 <竪琴ライラ>とは、人間社会に明らかな害悪をもたらす<魔人>に対応することを目的とした集団である。
 六つの派閥に分かれ、それぞれの拠点を中心として<魔人>の引き起こした事件を独自に解決している。
 その構成員数は、およそ二千名にも及ぶ。これは<魔人>の組織としては世界一の規模であり、それに次ぐ南米の<魔人>騎士団の二倍に相当する。
 その中のひとつ、神官派に所属する森河皓士郎もりかわこうしろうは拠点である<伝承神殿>のロビーに据え付けられたソファの一つに身を沈め、広大な空間をぼんやりと眺めていた。
 神殿という呼称ではあるものの、内装は豪奢なホテルを思わせるものだ。
 しかし此処は地球上のどこにも存在していない。<竪琴ライラ>に所属するほぼすべての<魔人>を<魔人>と成らしめた、魔神ハシュメールによって創り出された小さな独立世界こそがこの建物なのである。
 上に昇れば寝泊りのできる個室が五百を越え、全員の入ることができる講堂や食堂もあり、皓士郎は呼ばれたことがないが最上階となる二十階にはステイシアの私室もあるらしい。
 一方で下には闘技場がある。<魔人>がどれだけ暴れても客席の一つすら壊れたことがないという異様な場所だ。
 ただし最上階から闘技場に至るまで、窓が一つもない。壁を壊すこともできない。外がどうなっているのか好奇心が疼くことはあるものの、確かめようとした者はない。
 ロビーは常に賑わっている。神官派の大抵の<魔人>は此処に寝泊りしているのだが、どうにも娯楽に欠ける。神殿内にいるならば、闘技場で模擬戦でもするかロビーや食堂で世間話に耽るかくらいしかすることがないのである。あとは、外から娯楽を持ち込むか、だ。
 もっとも、そう暇というわけでもない。
 <竪琴ライラ>は秩序を乱す輩を抹殺して回る組織だと外部の人間には思われているが、実際には違う。殺すしかない、などという相手はごく一部だ。大半は制圧と説得で片がつく。
 だから常に半数以上が何らかの案件のために出張っており、しかし残る人員だけでもロビーを埋めるには十分なのである。
 たむろする<魔人>たちは、ことごとく若い。
 <魔人>には誰しもが成れるわけではない。素質が要るのだ。それは十代半ばから後半に入ったあたりで最も高いとされ、しかもその頃でさえ適格者は二割を切る。二十歳を過ぎたならば成ることができるのは五千人に一人、三十路など今のところ世界中を探しても一人しか存在していない。
 <魔人>そのものも爆発的に増えたのがここ二年足らずのことであり、したがって現在でも九割九分九厘までが十代なのである。皓士郎もそうだ。十六、七で中肉中背の姿をしている。
 歪な集団ではある。しかしその中にいる者にとってはこれが当たり前なのだ。
 だから、明らかに二十代半ばと見える姿は目についた。
 向こう側の見えぬ入口から滲み出るようにして現れたその容貌は、見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
 そして、年の頃と同様にコートも目立つ。右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
 <竪琴ライラ>神官派最強と噂される名和雅年を知らぬ者は、此処には新人だけだ。新人もすぐに教えられる。
 向けられる視線に好意的なものはひとつもない。明確な嫌悪が一握りで、あとは消極的な拒絶が占める。厳密には好意的に接する者が皆無なわけではないのだが、今この場にはいない。
 嫌われる理由は主にその言動だ。
 <竪琴ライラ>としての活動に金銭的な報酬はない。強いて言うならば、この<伝承神殿>で過ごしていさえすれば無一文でも寝食に困らないことが報酬と言える。活動の原動力は自分たちが秩序や人命を守っているという矜持であり、だからこそ<竪琴ライラ>の<魔人>たちにとって、あの事務的でやる気の見えない様子はひどく癇に障るのである。
 だというのに、強い。出張る頻度こそ少ないものの、一度の例外もなく確実に標的を、それも強力な<魔人>を葬り去っている。死をもってしか終わらせないということ自体も嫌悪の原因の一つとなっているのだろう。
 皓士郎にとっても、嫌いとは言わないがやり難い相手である。喋ったこともないのに既に苦手だと感じており、これからもできれば話したくない。
 だが、その願いもあえなく打ち砕かれる。双眸がこちらを向いてぴたりと止まった。
 そのまますたすたと歩み寄って来る。ロングコートの影が長身を更に大きく見せる。
 皓士郎は助けを求めるように辺りを見回すものの、助け舟を出してくれるどころか目を合わせた者すらなかった。
 最後の希望として、ただ方向が同じであっただけの別の誰かに用なのだと自分に言い聞かせてみても、結局は無情にも目の前で立ち止まった影を見上げるばかりだ。
「確か森河皓士郎君というのは、君でいいのかな」
「オ、オレに何か、よ、用ですか?」
 喋るのは昔から得意ではない。<魔人>となったときに一人称を『オレ』と変えてみたりなどしたものの、親しくない相手だと緊張して舌が巧く回らないことが偶にあるのは今でも変わらない。苦手な相手ならばなおさらだ。
 青年は嘲笑うでもなく、さりとて緊張をほぐすように笑いかけるでもなく、平坦に用件を告げた。
「伝言を頼まれた。赤穂君だ。今夜、いつもの場所に来て欲しいとのことだ」
「っ……赤穂……」
 少しだけ声が詰まる。
 赤穂裕徳あこうひろのりは、ほぼ同時期に此処へ来た、言わば同期のようなものだ。出会ってからというもの、ずっと親しくして来た。いつもの場所と言われただけでもそれがどこなのかは分かる。
 加えて、目の前の青年に好意的に接する数少ない内の一人でもある。
「ありがとござます」
「確かに伝えた。では」
 またも皓士郎の舌がもつれたことに気付いたのか否か。やはり事務的な表情のままで青年は背を向け、エレベーターの方へ消えて行った。
 もしかするとステイシアの私室に行くのかもしれない。皓士郎は思い、深い溜息をつく。
 羨ましい。
 自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。







 平日ならば、夜でもファミリーレストランは比較的空いている。
 いつもの場所と言っても何のことはない、初めて連れ立って来たこの場所である。
 相手は既に、オレンジジュースにストローを突き立てて待っていた。
「何の用なんだ?」
 皓士郎も裕徳には他の誰に対するよりも滑らかに喋ることができる。
 しかしそれも、慣れからそう繕えるだけだ。
「いや、そんな大したことじゃないんだけどな」
 向かいでのほほんと笑う少年は、今や皓士郎とは一線を画した存在だ。
 この半年で解決した事件、実に二十五件。毎週のように秩序を乱す輩を鎮める、<竪琴ライラ>神官派の誇る英雄ヒーローである。
 最強との呼び名こそ<呑み込むものリヴァイアサン>に譲るものの、皆からの信においては追随を許さない。
「最近会ってなかったからさ、どうしてるのかと思って」
 赤穂裕徳は屈託なく笑う。それもまた魅力の一つなのだろう。
 対して皓士郎は皮肉げな笑みだ。
「伝言に名和さん使うとか、怖いもの知らずだな。ぶっ殺されても知らんぞ」
「いや、別にそういうこと気にするような人じゃないだろ。あんまり入れ込まないだけでさ、平凡な状況ならかなり常識的で無害な人だと思うんだけど」
「何歳違いだよ。常識を言うならそんな年上を使い走りにするもんじゃないだろ。結構いい気になってないか、お前?」
 揚げ足取りにも近い指摘だとは自分でも分かっていた。おそらくは、もしも会うことがあったのなら伝えておいて欲しい、その程度のものだったはずだ。伝えられずに来なかったら来なかったで、そのまま夕飯を食べて帰っていただろう。決して傲慢な伝言ではない。
 だというのに、裕徳は気後れしたように頭を掻いた。
「そうだな、そうなのかも。名和さんにはまた後で謝っとく」
 その様が皓士郎にはやるせない。
 視線はメニューをなぞりながら、話を変える。
「……それにしてもお前、ほとんど神殿にいないよな」
「あそこさ、外の様子がまったく分からないだろ? ステイシアに頼まれるまでは事件が起こっても気付かないじゃないか。俺はそれが嫌なんだよ」
 裕徳は基本的に外で過ごしている。<伝承神殿>には寝に帰って来るだけで、朝早くに出かけ、夜遅くに戻る。帰って来ないことも多い。
 何をしているのかと言えば。
「あちこち回ってると色々見えてくるよ。人間の仕業にしてはおかしいってものがかなりある。事件の種が山ほど眠ってる」
 <伝承神殿>の出入口が通じているのは特定の場所だ。しかし乗り物と<魔人>の運動能力をもって、移動にそれなりの時間を費やせば極めて広い行動範囲を得ることができる。
 無論、活動に金銭は必要になるが、それはアルバイトで稼いでいる。背景を問わず、地獄のような環境でもいいから高い賃金をくれる一日限りの肉体労働がいい。人には厳しいものであっても<魔人>にとっては鼻歌を歌いながらこなせるものでしかない以上、拘束時間と人間関係以外の苦痛はあまりないのである。
 これが悪行に身を染めた<魔人>ならばいくらでも金を強奪することができるのだろうが、そんなことをしていてはそれこそ必然的に<竪琴ライラ>の標的と設定されてしまう。
 皓士郎は口を噤んだ。
 これは続けて欲しくない話題だ。他の誰かとならばまだしも、裕徳とは嫌だった。
 表情は変えぬままに必死で別の話題を探す。
「……彼女とかできないのかよ?」
「え? いや……特に興味ないかな」
 あからさまな動揺を裕徳は見せた。視線は落ち着きなく彷徨い、頬も少しばかり赤くなっているような。
 だから、ここぞとばかりに皓士郎は斬り込んだ。
「いやいやいや、嘘はいかんだろ、嘘は。そんないかにも何かありますって顔しといて」
「そんな立場じゃないだろ、ってかほんとにいないよ彼女なんて」
「だが気になる相手はいると見た」
「う……」
 言葉に詰まる裕徳。こういうものは、本当は口にしたいものなのだ。それ以上に照れ臭いから言わないだけで。
 皓士郎はそのことを知っている。自分にも当てはまる気持ちだからである。
「ほれ、誰なのか言ってみ? 相手によっては応援しないでもない」
 本当に、裕徳相手にはよく舌が回る。本当にこれが自分なのだろうかと、一年前までならば思ったことだろう。
 裕徳はばりばりと音を立てそうな勢いで頭を掻いた。
「無理だって! 競争率どんだけあると思ってんだ」
「なんだよ、アイドルにでも惚れたのか?」
 口にしながら既に血の気が引き始めていた。これも話題を間違えた。既に答えは推測できてしまっていた。
 果たして、ぶっきらぼうな口調で裕徳はその名を告げた。
「ステイシアだよ……まあ、<竪琴うち>の男が大抵かかる風邪みたいなもんだろ」
「……かもな」
 <竪琴ライラ>神官派の中心人物であるステイシアは可憐な少女である。十代半ばを過ぎた頃の、どの人種ともつかぬ優しげな容貌や華奢な体躯は生半なアイドルなど足元にも及ばぬほど。そして分け隔てなく優しく微笑むのだ。
 理想の妹、などと自分を誤魔化しておけるのはほんの少しの間だけだろう。神官派に所属する者の中で彼女に心奪われなかった男などほとんどいない。もう諦めたか、まだ諦めていないか、そのどちらかで分類できるくらいだ。
「……お前ならいけるんじゃないか? 二十階にも呼ばれたりしてるだろ」
 ステイシアは誰にでも優しいが、誰とでもまったく同じ接し方をするわけではない。よくロビーに降りて来ては皆と談笑しているが、最上階の私室に招くのはほんの一握りでしかない。裕徳はその一握りの中の一人なのだ。
「あれさあ、厄介な標的が出たときにその対処について話してるだけだからなあ……どう考えても俺への好感度が高いわけじゃないし」
「贅沢なこと言いやがる。一対一で話せるだけでも羨ましいっての」
「いや、二人きりもないなあ……いつも絶対他にも誰かいる。名和さんとか、江崎君とか」
「……江崎?」
 予想外の名前に、皓士郎は眉を互い違いにした。
 それほどよく知っているわけではない。あまり意識したこともない相手だ。
「俺もよく分からんけどさ、なんか割と名和さんと仲良さそうではあった」
「アレと!?」
 思わず大きな声を出してしまったこと、目上となるはずの相手を『アレ』呼ばわりしてしまったことに気付き、声量を落として言い直す。
「誰かと仲良い名和さんって想像できないんだが。お前にだって対応冷たいだろ? ってか、ステイシアにすら冷たくないか?」
「だから俺もよく分からんのだって。でもまあ、いいだろ。そういうこともあるさ」
 苦笑を浮かべる裕徳。
 皓士郎も曖昧に笑いながら、実のところ心穏やかではない。落ちつかなげに右手の人差し指に嵌めたくすんだ指輪を擦る。
 裕徳はあまり<伝承神殿>にいないとはいえ、最近の様子を訊くためだけに呼び出しなどするはずがないのだ。
 じっと見つめられていることに気付いたのだろう。裕徳も真っ直ぐに視線を合わせて来る。
「うん、本題に入ろう」
 何を言われるのか、まったく予想はつかなかったが皓士郎も心の準備はしておいた。
 その上で、打ち崩された。
「<竪琴ライラ>に所属してない<魔人>の知り合いが結構増えて来てさ、これを利用して外部にネットワークを作ろうと思ってるんだ」
 裕徳が語ったのは<魔人>による情報網の構築だ。<魔人>の起こす事件は、やはり一般人よりも<魔人>の目に留まり易い。情報を共有し合えばより事件解決が容易くなる。
「さっきも言った通り、神殿にいると碌に何も見えない。もっと広く世界を見ておかなきゃいけないと思うんだ」
「まあ……それはそうかもしれんけど……」
 窓のない<伝承神殿>を思い出す。確かに閉塞感を覚えずにはいられない場所だ。自分だけではなく、大抵の構成員にとってもそうだろう。
「けどいいのか、ステイシアに無断で動いて?」
「ネットワークを作ることに関してはもう言ってある。喜んでくれた」
 そう言って裕徳はまた照れ臭そうに笑った。
 思いを寄せる相手に喜んでもらえた嬉しさは皓士郎も知っているものだ。
「事件解決の方は大丈夫だろ。俺、今までにもやってるし。大事だったら神殿に持って帰るけど」
「……そうだったな」
 裕徳はたまたま近場で起こった事件に対し、迷うことなく動いて大事に至る前に解決したことが幾度もある。それで文句を言われていないのだから問題はないのだろう。
「それで、一体そのネットワークとオレに何の関係があるんだ?」
 問いを向けながら、皓士郎は答えを知っている。
 そして裕徳は告げた。首元で細い鎖が煌めいた。
「一緒にやろうぜ。連絡受けてさ、二人で動くんだ。英雄ヒーローになるってさ、出会ったときに二人で約束したじゃないか」







[30666] 「英雄の条件・二」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/12/12 08:07




 そこは殺風景な部屋だった。
 何もないわけではない。机を挟んでソファが二台、足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。
 ただ、前後左右、果てが見えない。薄闇がどこまでも続いて、眺めているだけで意識が遠くなってくる。もしも宇宙に放り出されたならば、似たような気分になれるのではなかろうか。
 そして、その中で虚空にぽつりと浮かんでいるドアが異様だった。
 この部屋はステイシアの私室だと噂されるが、実際には応接室、あるいは会議室と言うべきなのだろう。少なくとも気兼ねなく寛げる空間ではありえない。
「……何度来ても、凄い部屋だね。一体どうなってるんだろう」
 苦笑気味に裕徳が口を開く。
 ステイシアは祈るように両手を組み合わせ、どの人種ともつかぬ不思議な美貌で微笑んだ。
「我が主ハシュメールに伺いを立てないと分かりませんね」
 今日は飾り気のない水色のワンピースだ。華奢な身体にぴたりと沿ったデザインで、折れそうに細い腰や大きくはないもののふっくらと盛り上がった胸元の曲線を忠実に描き出している。
 短めに整えられたやわらかな栗色の髪は恥じらうように少しだけ頬へとかかり、小さなくちびるは桜の花びらを浮かべたよう。どこまでも優しげな瞳は呼び出された四人を穏やかに見つめている。
「そんなに気にすることでもないとあたしは思うけど」
 随分とさばさばした口調で言ったのは、ステイシアと変わらぬ年の頃と見える娘だ。
 小柄なのも同じだが、侵しがたい可憐さを持つ彼女とは異なり、背丈の割には充分な存在感を主張する胸元やミニスカートから太ももが覗く様にはあからさまな色香がある。
 肩に触れるほどの、やや癖のある髪。愛らしい『女の子』を強く感じさせる面立ちに、むしろぶっきらぼうとも言える表情を浮かべた彼女は姫宮瑞姫。<竪琴ライラ>神官派を代表する<魔人>の一人だ。
 ちらりと三人目に視線を走らせて同意を求める。
「江崎もそう思わないか?」
「今更と言えば今更だとは思うけど……」
 気弱げに笑ったのは江崎衛だ。
 男としては間違いなく小柄だろう。ステイシアや瑞姫よりは背丈もあるが、それでも裕徳の鼻程度までしかない。
 実のところ、裕徳も衛のことはあまりよく知らないのだ。自分を上回る格のクラウンアームズを有し、総合力ならば比較的上の方であるということくらいだろうか。
 皓士郎には分かったようなことを言っていたものの、裕徳自身も疑問ではある。彼を上回る力の持ち主は何人もいるだろうに、なぜこの中の一人として選ばれているのかと。
「それで、用は何だ、ステイシア?」
 そして、呼ばれた最後の一人、月に数度しか神殿に現れることのない名和雅年が無造作な立ち姿のまま、いつもながらの事務的な口調とまなざしで早々に問う。
 この四名こそが<竪琴ライラ>神官派の中核、果ての見えぬ部屋へ無条件に入ることを許された面々である。
 ステイシアはすぐには答えなかった。くちびるには微笑みを残したまま、向かいの豪奢な家具を品良く指し示す。
「どうぞ、ソファに」
 言われるがまま、裕徳を中央にして瑞姫は右、衛は左に腰を下ろす。雅年はその後ろに立ったままだ。
「雅年さん雅年さん、こっちにも座っていいんですよ?」
 ステイシアは自らの隣を示すが、その声は虚しく響くのみだ。
 雅年はかぶりを振ることすらせず、無言で冷ややかなまなざしを向けている。
「本当に、どうしてこんなに冷たいんでしょうか……」
 ほんの少しだけくちびるを尖らせて恨みがましく頬を膨らませてみたのも少しの間のこと、ステイシアはすぐに真顔となった。
「……用件に移りましょう。エリシエルさんからの情報提供が二つと、先日判明したことが一つあります。大きな問題となる対象が三種類、現れました」
「一気に三つなんて、多いんだね。初めてじゃないか?」
 瑞姫が目を丸くする。
 人は人と出会い、集団を作るものだ。人ならぬものとなったとはいえ、その心は人であった頃のままである<魔人>も同じことだ。
 そしてやはり、危険な集まりも現れる。これは日本であっても他の国であっても変わらない。
「一度にというのは、確かに初めてですね。まずは<ギルド>、<魔人>を傭兵として派遣する組織の中では最大手です。とうとう日本にもやって来てしまいました」
 日本は魔神の数が圧倒的に多い分、<魔人>の数も多い。むしろ比率で言うならば魔神よりも集中しているくらいである。だからこそ今までこういった<魔人>を貸し出すような団体は、需要の有無を慎重に探っていたはずなのだ。
「見切られたんだろう。力と速さに頼るばかりじゃなく、真っ当な戦いの行える人材なら売れると思ったんだろうさ」
 雅年が述べる。淡々としていながらも、どこか皮肉げな響きも潜んでいた。
 欧米では人々を殺して回る怪物、<災>の被害が大きい。それに影ながら立ち向かうのは<魔人>である。求められた場所に戦力を派遣する<ギルド>は、いっそ<竪琴ライラ>などよりも真っ当であるのかもしれないのだ。
 ただ、平和な日本においては評価が逆転してしまう。彼らはおそらく、秩序を乱す側にしか雇われることはないだろう。
 そして何が厄介と言って、<ギルド>そのものは決して敵ではないということなのだ。敵となる存在に雇われるまでは手を出すわけにいかない。
「大丈夫でしょうか……?」
「知らん。知らんが、仕事と言うならなんとかする」
「はい、お願いしますね」
 やはり素っ気ないにもほどがある声と表情だったが、ステイシアは揺るがぬ信頼とともに小首を傾げて微笑んだ。
 小さく息をつき、続ける。
「二つ目は国内で生まれたものです。<横笛>フルート、まるきり当てつけの名前ですね。ほぼ、私たち<竪琴ライラ>に対抗するために集まったと言っても過言ではないでしょう」
「分からないでもないけど……規模はどのくらいか分かるのか?」
 今度応えたのは裕徳だ。
 <竪琴ライラ>の名と目的は、日本の<魔人>のうちでは有名だ。標的にされる心当たりがあるのなら、意識せずにはいられまい。その結果がひとつの組織を構成するに至るのに何の不思議もない。
「現在、およそ三百名足らずというところでしょう。しかしまたたく間に膨れ上がるのは火を見るよりも明らかです」
「身も蓋もない話、下手すると日本にいる<魔人>の半分くらいは加入してもおかしくないだろうしね」
 くるくると髪を一房いじりながら、瑞姫が溜め息をつく。
 やはり好き勝手にやりたい<魔人>は多いのだ。下位戦格クラスをひとつ有している程度でも、それだけで人類の身体能力や耐久力の限界を越えている。対抗するには火器ではなく兵器が必要となるのだ。ただの人間など恐れることはないと気付いてしまえば、どうしても歯止めは利きづらくなる。そして刹那的な欲望に呑まれるとまではゆかずとも、監視する存在のあることが不快な者はなお多い。
 力で従わせられる<魔人>もきっと出ることだろう。数箇月単位で倍化してゆく可能性がある。
「そうですね、手をこまねいているうちに恐ろしい数になりそうです。たとえそのほとんどが<魔人>として最低限の力しか備えないとしても……」
「一般人にしてみれば、どんな手段をもってしても対抗出来ない相手だ。増えること自体を防がないと」
 裕徳が眉を顰める。
 数というものは恐ろしいものだ。<竪琴ライラ>の構成員の数はおよそ二千。こちらが受け身にならざるを得ないことを思えば、千を越えられてしまった時点で始末に負えなくなる。
「でも、仲はよくない……と思う」
 皆の様子を窺ってから、おずおずと衛が発言した。
 にこりと優しく、ステイシアが微笑みかける。
「そうでしょうね。ほぼ完全に個の集合でしょうから、少なくとも連携は取れないでしょう。ただ……」
「こちらも派閥同士の縄張り意識がある。その他あれこれを踏まえれば、向こうよりはまし、程度だろう」
 <竪琴ライラ>六派の足並みは必ずしも揃っていない。先ほど名を出したエリシエル率いる騎士派とならば互いに情報を密に交わせるかもしれないが、残り四つとは巧くはいかないと予想される。
 その他あれこれ、の説明はすることなく、雅年は続ける。
「とは言え、先の<ギルド>関連ほど後手に回ることはない。まともに統率できない以上、はみ出して来た輩は出る端から潰せる。うまくすれば情報も引き出せるかもしれない」
「あとはどうにかして中核を見つけて叩けば終了ってわけだ」
「早々に突き止められたのなら、それでいいんだが……」
 言葉では懸念を示しながら、口調と表情はいつもの平坦なものだ。
「折角こちらが分かれているんだ、六百も集まった時点で総力を結集して各個撃破を試みるかもしれない。<ギルド>からも雇った上で。神殿を力尽くで落とせるかどうかは知らないが」
 視線はステイシアに。
 意図するところを読み取ったのか、ステイシアは思案げに眉根を寄せた。
「普通なら入れませんけれど、絶対に不可能であるとは言えないでしょうね。分かりました、エリシエルさんにも伝えておきます」
 そこで、待ち構えていたかのように裕徳が身を乗り出した。
「そういうことならさ、俺が作ろうとしてるネットワークが稼働し始めたら色々探ってみるよ。結構役に立てるとは思う」
「本当ですか? ありがとうございます」
 ぱっと花開くようにステイシアが笑う。
 それを真正面から見てしまって、裕徳は照れたように視線を逸らした。
「いや、ある意味こういうときのために作ろうとしてたんだし……」
「あ、でも……すると最後の問題が大きくなってしまいますね……」
 ステイシアの笑顔はすぐに曇った。眉尻を下げ、最後の問題について語り始める。
「三つ目は、おそらくは単独の<魔人>です。<囁き>ウィスパーと呼ばれるこの存在は、わたしたちの管轄領域で<魔人>を唆しては事件を引き起こさせているんです。そこに統一性はなく、ちょうどその<魔人>の望みを果たさせている感じでしょうか」
「ふぅん……変なのが涌いたんだね。それこそ……<横笛>フルートだっけ、そこに所属してたりするんじゃないの? あるいは愉快犯とか?」
 瑞姫の疑問は当然のところだろう。無差別に混乱を引き起こすなどということを為すのは、個人であれば愉快犯くらいしかあるまい。そうでないなら組織立った何らかの目的のために行われるものであるはずだ。
「既に調べ始めてはいるのですが、<囁き>ウィスパー<横笛>フルートとの繋がりは今のところ見出せてはいません」
「それは分かったんだけど、俺のネットワークにそれが何か関係するのか?」
「彼が唆した<魔人>は、分かっている限りではすべて裕徳さんが対応して処理しているんです。少なくとも、改心してくれた人たちの話を聞く限りでは」
 戸惑い気味に言う裕徳を見詰め、ステイシアは答える。
「あそこまで重なると偶然とは思えません」
「つまり……」
 不吉な響きに裕徳は喉を上下させる。
「どんな意図があるのかは分かりませんが、標的は裕徳さんです。能動的に動こうとするなら、それに対応して何か仕掛けて来るかもしれません」
 眉根を寄せ、ステイシアは儚い声で告げる。
 そして雅年が補足するように繋いだ。
「君は戦場を作る性質だからな、後手は苦手だろう。気をつけておくことだ」







[30666] 「英雄の条件・三」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/01/23 18:56




 森河皓士郎は、誰かの意識に残らない人生を過ごして来た。
 何も得意なことはなく、かと言って他者から見てあからさまに苦手なことがあるわけではなく、格好良くもなければ悪くもない、そんなありふれた評価を高校まで受け続けて来た。
 しかしそれはあくまでも他人にとっての話である。人形ではないのだ、露わにしていないだけの偏った趣味の一つなど、誰しもが持っているものだ。
 皓士郎にとってのそれは、英雄ヒーローだった。
 英雄ヒーローになりたい。
 それは幼い子供が誰しも抱く願いだと言う。
 困った人のところに現れて、凄い力で悪を一撃粉砕。あるいは危機に陥っても一発逆転正義は勝つ。
 漠然とした喝采願望であり、同時にこれもまた漠然とした善への誘いでもある。
 英雄ヒーローになりたい。
 それは実のところ、より現実的に姿を変えながらも死ぬまで潜み続ける願いである。
 例えば不可能だと思われていた商談をまとめるであるとか、不治の病の治療法を見つけるであるとか。
 利潤を求めることも確かであろう、人を助けたいと思う気持ちも確かであろう。しかし同時にやはりどこかで、英雄ヒーローになりたい。
 皓士郎もその願いの実体を半ば忘れかけていた。形としては残しながらも、ただの娯楽と堕しかけていたのだ。
 しかし、顔も声も思い出せない魔神に問いかけられたとき、思い出してしまった。
 なれるのだ。<魔人>となれば、世俗の権力などもう無関係だ。力ある<魔人>となれば軍隊さえも凌駕する。
 なれるのだ、英雄ヒーローに。望む心と素質さえあれば。
 そして幸運にも、皓士郎は<魔人>となれるだけの天性を持ち合わせていた。二割にも満たぬ確率の中に入ることができた。
 もっとも、なったらなったで躊躇した。<魔人>は自分だけではない。所属する神官派だけでも三百名以上がいるのだ。馬鹿にされるのではないかと、そう思ったのだ。
 しかしステイシアは微笑んでくれた。冗談混じりに、棘さえ忍ばせて語った英雄ヒーローに、本当に素敵なものを見つけたような笑顔で同意してくれたのだ。
 棘は優しく引き抜き、両手をとって。
『頑張ってください、皓士郎さん。あなたの戦格クラスは<ヒーロー>ではありませんけど、英雄とはその心と行動によってなるものです』
 その瞬間から、皓士郎の英雄ヒーローになりたいという思いには迷いがなくなった。
「参ったな……」
 ベッドに転がって天井を仰ぎ、溜め息をつく。
 部屋のつくりはビジネスホテルめいている。ベッドがあり、机があり、ユニットバスとクローゼットがあり、狭いけれども窮屈なほどではない。これが<竪琴ライラ>の構成員に与えられる部屋だ。
 自室のベッドで仰向けになって、裕徳から持ちかけられた話を思い返す。二日近く経ったが、まだ答えを出せていない。
 客観的に考えれば悪い話ではないのかもしれない。戦闘スタイルの相性はいいのだ。裕徳の高速機動で翻弄し、動きの止まったところで自分の砲撃を叩き込む。あるいは自分の攻撃で牽制し、裕徳が制圧する。これは出会った頃に語り合ったことでもある。最近はそれほど会っていないが、互いにどことなく喋り方が似てしまっているくらいの友人とも言えるくらいだ。
 しかし、胸の奥にわだかまるものがある。
 裕徳は既に英雄ヒーロー扱いを受けている。比べて自分はその他大勢の域を出ていない。そんな二人が組むとなれば、まるで自分が情けをかけられているようだ。
 きっと悪気はないのだろうし、ある種の意地でもあるのだろう。こんな提案は己が劣るときには言い出せないものだ。もし立場が逆だったならば、おそらく自分から持ちかけていた。
 互角であればよかった。誰から見ても対等であれば、こんなことで悩みはしなかったろうに。素直にヒーローコンビとなれていただろうに。
 時計の針が上下一直線になる。十八時だ。
「……行くか」
 身を起こす。返事は十九時に一昨日のファミリーレストランですることになっている。
 答えが出ていなくとも、行くだけは行かなければ。
 靴を履き、薄い上着を羽織って、念のために姿見で髪を大雑把に整える。
 鏡に映っているのは、押しも押されもせぬとはいかないまでも整った顔立ちだ。
 <魔人>と成るときに、容姿は自分の想像を元にして作り上げることができる。あまり自在にとはいかない。たとえ絶世の美貌を望んだとしても、当のその姿を頭の中で具体的に構成できる者など皆無に近いからだ。
 頭の中に正面から見た顔と横顔の像がそれぞれあったとして、しかし大抵の場合において正面像から導き出されるはずの横顔と想像の中の横顔とは食い違っている。そうするとその食い違いを埋めるために、均されるとでもいうのだろうか、妥当になるよう、面影を残しながらも変化してしまうのである。
 そして結局は、このような並よりは良い、くらいの容姿にしかならない。身体全体についても同様だ。
 もっとも、皓士郎は今の顔についての不満はない。人だったときよりも間違いなく魅力的であるし、線の細い美形やあまりに男臭くなるのも元々嫌だったのだ。
 ただ、背丈を平均的にしてしまったのは迂闊だった。あともう少し高くしておけばよかったと今でも思う。
 また溜め息をつく。
 今更どうしようもないことだ。こんなことを考えるのは裕徳に会いたくない気持ちを誤魔化しているからだというのも自覚している。
「くそっ……」
 頭を振って振り払う。ここが自分の部屋だからいけないのだ。とにかく出てしまえばあとはもう行くしかない。
 歩き出す。ドアを開け、そこで気付いた。
 開くドアに引き摺られるようにして、封筒が足元に落ちていた。ドアの下の隙間にでも挟み込まれていたのだろうか。
 拾い上げる。表には『森河皓士郎様』と機械的に記された宛先だけがあり、裏には何もない。感触からは、中に入っているのはおそらく紙だろう。差出人が不明であること以外は何の変哲もない。
「……悪戯か?」
 封筒には碌な記憶がない。ただの高校生だった頃には偽物のラブレターを仕込まれるなどという古めかしい悪戯を受けたこともある。
 それでも一応は中身を確認してみようと破りかけてから、思いとどまった。今は重要な用があるのだ。おかしなことでこれ以上煩わされたくはない。
 後でいい。そう判断してベッドの上に放り捨て、今度こそ部屋を出た。
 かちりと鍵の閉まる音。
 封筒はそこにある。ただの封筒である。







 十八時五十五分。
 皓士郎は足早に街を行く。目的となるファミリーレストランは、ここから小さな公園を突っ切ればもうすぐそこだ。なんとか間に合いそうである。
 これほどぎりぎりになってしまったのは、神殿のロビーで新人の挨拶に捕まってしまったからだ。
 珍しいことに女だった。すらりと背の高い、おどおどとした雰囲気の。
 さすがに全員と顔合わせをしているわけではなく、案内役がこれと見た相手にだけ紹介しているようだった。
 ちなみに、皓士郎は『裕徳の一番の友人』として紹介された。
「……全力で走るわけにもいかんしなあ……」
 ほぼ黒に染め変えられた空へとぼやく。
 皓士郎は<魔人>としてはそう俊敏な方でもないが、それでもただの人間とは桁が違う。屋上を跳ねてゆく分には見咎められても錯覚だと思ってくれるかもしれないものの、万が一にも人前で止まってしまったら何処から現れたのかといぶかしまれることだろう。
 そんなことを考えながら公園へと足を踏み入れた、そのときだった。
 公園の端、木々の隙間の暗がりに不穏な光景が見えたのだ。<魔人>の目はこの程度の明度でも様子を克明に見て取ることができる。
 高校生くらいだろうか、二人の少年が剣呑な雰囲気で一人の少年を挟んでいた。金を脅し取ろうとしているようだ。
 こういうものは今でも『カツアゲ』と呼称するのだろうか。幸い皓士郎自身がこのような目に遭った経験はないため、このあたりの俗語事情には疎い。
 何にせよ、見てしまったからには放っておくわけにいかない。
「何してる」
 薄闇に紛れ、一呼吸の間も置かずに近くまで寄って声をかける。
「ぁあっ!?」
 少年たちは一斉に振り向いて、胡乱げな目付きを向けて来た。
 二人とも服装こそただの制服姿だが、表情は明らかに昔から嫌いだった類の輩だ。こんな顔ができるよう、練習でもするのだろうかと思うほどに画一的である。
 その一方で、被害者の少年の方は怯えの中に一筋の希望を浮かべていた。彼へと頷きを返し、皓士郎は続ける。
「何をしてるのかって訊いてるんだ」
 自分の声が落ち着いていることに満足する。
 恐れなどあろうはずもない。さらに一歩踏み出す。これは叩き潰すべき悪なのだ。
「なんだよ?」
 にやけた笑いを口許に張り付けたまま、一人が至近距離から睨めつけて来た。残るもう一人は被害者を逃さないように捕まえたままだ。
「え、もしかしてお前も金くれんの? やった!」
「その子を放せよ。もし今までにもやってたのなら脅し取ったものを全部返すんだ」
 戯言は無視し、皓士郎は告げる。
「……と言っても、聞くわけないんだろうな」
 一対二で、体格も向こうの方がいい。暴力を振るう、少なくともちらつかせることに慣れているという自信もあるだろう。まず聞き入れるとは思えない。
 溜め息が鼻で笑ったように聞こえたのだろうか、少年の形相が変わった。
「てめッ……!」
 握った拳が振るわれる。
 当てるつもりなのか、あるいは脅しなのか、皓士郎に判断はつかない。だが、どちらでもいい。
 右手でその遅すぎる拳を受け止めて掴むと、左手で少年の腕を無造作に払う。
 鈍い音がした。
「自業自得だ」
 皓士郎はそう呟いてから拳を放してやる。
 少年が絶叫した。ふらつくようにして倒れ、口から泡を吹きながら獣じみた何かを叫び続けている。不明瞭でよく分からないが、おそらくは痛い痛いと繰り返しているのではなかろうか。
 少年の右前腕は途中で九十度以上に折れ曲がっていた。橈骨も尺骨もへし折れ、骨折面が皮膚を破って突き出している。
「大ちゃん!?」
 明らかな異変に、もう一人の少年が被害者を放り出し、血相を変えて駆け寄った。そして腕を見ていっそう青ざめる。
「てめえよくも!」
「ガタガタぬかすな」
 掴みかかって来たところを軽く蹴り倒す。
 足の触れた場所、右の肋骨の半数が容易く粉砕されて肺腑に突き刺さる。
 皓士郎がさして身体能力の高い<魔人>ではないと言っても、ただの人間の肉体など可笑しいほどに脆い存在でしかない。
「お前らがみんなにかけて来た迷惑に比べりゃどうってことないだろ」
 喀血し、奇妙な呼吸とともに助けて助けてと訴える様を見下ろしながら、冷やかに突き放す。
 先ほどの溜め息を嘲笑と捉えた少年は間違っていない。皓士郎はこういった輩をこそ軽蔑している。
 明らかな悪を為しておきながら、大抵はさほど痛い目を見るわけでもない。その陰で理不尽に虐げられ、泣き寝入りする人々がどれほどいることか。
 報いは与えられなければならない。
「もう一回言っとくぜ、もし今までにもやってたのなら脅し取ったものをあの子に全部返すんだ。そして二度とするな。今度見かけたら腕と脚全部へし折るからな」
 少年二人が悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、成せない。一人は折れた腕を抱えてがたがたと震えるのが動かせる精一杯、もう一人は身を丸めながら血塗れの涎を垂らすのみだ。
 皓士郎は被害者に顔を向けた。正確には、いるはずの場所に目をやったのだが、既に姿はなかった。見回せばかろうじて逃げ出す遠い背中が確認できただけだった。
「……なんだかなあ」
 礼が欲しかったわけではないが、少し寂しくはあった。自分の英雄ヒーローになりたいという思いに喝采願望も確かに混じっていることは自覚している。
 まあいい、とりあえずこれで一つの正義は守られた。そう思ったときだった。
「何やってるんだ、皓士郎!」
 裕徳の声。それも、非難するような。
 姿もすぐに見えた。人間の範疇を出ない速さで駆けて来る。
 約束の時間はまだ過ぎていないはずだが、公園で起こっていることが見えてでもいたのだろうか。
「ちょっと恐喝を潰してたんだ」
 迷いが晴れたような気が、皓士郎にはしていた。自分はまだ英雄ヒーローになれる。何よりもまず悪を潰したい。裕徳の隣で戦えると思った。
 だから、裕徳の言葉はまったくの予想外だった。
「お前、自分のしたことが分かってるのか!?」







 救急車のサイレンの音が遠ざかってゆく。
 裕徳が呼んだものだが、到着時には二人とも身を隠しておき、付き添うようなことはしなかった。
「ほんとに……何やってるんだよ、皓士郎……」
 当初の予定を変え、近くにある閑散とした夜の海岸へ移動して最初に裕徳が口にしたのはそんな言葉だった。
 ここに来るまで互いに無言だったせいで、溜め息混じりの声が痛かった。
「いや、だから恐喝を止めてたんだが……」
「それ自体はいい。けど、止めるためにあんな傷を負わせる必要はないだろ?」
 それでようやく、皓士郎は裕徳が声を荒げていた理由を察することができた。
 だが、理解はできなかった。
「あるだろ。ああいう奴らはちょっと怖い目に遭ったくらいじゃ絶対懲りない。あれくらいでいいんだよ」
「あれくらいって……死ぬまではいかなくても明らかに重傷じゃないか。特に血を吐いてた方、肺が潰れてるかもしれないぞ?」
「だから意味があるんだろ。あの慣れた様子じゃ、どうせもう何回もやってる。その報いにはあれでも軽い」
 自分自身が標的にされなかっただけで、ただの人間であった頃は踏み込むことができなかっただけで、遠くから見ることならば何十度もあった。
 口頭での戒めや少しばかりの痛みなど、逆効果にしかならない。奴らはその下衆な考えと衝動をより大きなものにするのだ。
 しかし皓士郎が裕徳の言葉に納得しないように、裕徳も皓士郎の考えを否定する。
「恐喝してた方だって、悪いことしてるには違いなくても本質的には守るべき人間だろ? 俺たちが傷付けてどうするんだ」
「違う、あれは屑だ」
「お前は自分の好みで助ける人間と見捨てる人間を選ぶのか? お前はそんなのをヒーローだと思ってるのかよ!?」
 普段の温和な表情をかなぐり捨て、裕徳は荒げた声をさらに大きくする。
 背は裕徳の方が高い。見上げるようになりながらも、皓士郎は負けなかった。
「何の罪もない人と下衆を一緒に扱っていいわけないだろ! ってかそういう話じゃないよな。オレが言ってるのは、中途半端な止め方なんかしても奴らは絶対に懲りないってことだ」
「傷つけるんじゃなくて口で諭せばいいだろ? 俺たちが力を揮うと、手加減間違うだけで死にかねないんだぞ?」
「だから口でいくら言っても効かないんだよ。逆恨みと八つ当たりで被害がひどくなるのがオチだ。お前は……」
 悪を見逃しているに等しい、と言おうとしたところへ重ね、裕徳が思いを吐くように告げた。
「ヒーローってのはそんなもんじゃないだろ。みんなを守るものだ」
「このっ……!」
 頭に血が上る。昏い怒りが湧き起こった。
 思えば、ヒーローの在り様について確認したことはなかった。確認をする必要があるなど、ついぞ思ったことがなかったのだ。
「分かった風な口利くんだな。さすがは戦格クラス<ヒーロー>だ」
 皓士郎も裕徳も双格並列デュアルである。だが、皓士郎とは違い、裕徳の有する戦格クラスの片方は、その名も<ヒーロー>なのである。
 ランク四の上位戦格クラス。そして有する異能は限界突破リミットブレイクと呼ばれ、通常時にはランク二の戦格クラス程度の強化しかなされない替わりに条件を満たした状況下においては最高位戦格クラス並みの力を与えるのだ。
 裕徳の条件は、皆を守るための戦いであることだと聞く。だから模擬戦ではさほど強くはない。皓士郎もそれは知っている。
 なんとヒーローらしいことだろうか。
 あくまでも便宜上つけられた名称であることは分かっている。ステイシアの言うように、英雄とはその心と行動によってなるものなのだ。それでも、羨ましいことに変わりはない。
「お前の提案だけどさ、無理だよ。これから先うまくやってける自信、なくなった」
 敵意を込めて宣言する。
 裕徳は少しだけ辛そうな表情を浮かべはしたが、こちらもきっぱりと言ってのけた。
「そうだな。俺もさ、正直なくなった。この話はなかったことにしよう。みんなに訊いてみろよ、どっちが正しいのか」
「お前にどれだけ味方がいても同じだ。間違ってるのはそっちだよ。お前は自分の手を汚したくないだけだ」
 言い捨て、皓士郎は背を向ける。
 あり得ない。絶対にあり得ない。裕徳のやり方は間違いなくただの自己満足だ。決して誰も救われない、そのはずだ。
 白くなるほどに拳を握りしめる。
 皓士郎の夢見た英雄ヒーローは、そんなものではあり得ないのだ。







[30666] 「英雄の条件・四」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/01/27 19:07




「まあ、強いてどっちかを選ぶなら、赤穂サンの方スかね」
 人の姿が絶えないロビー。不快なほどににやけた顔で、ソファに座った少年が言った。
 <伝承神殿>に帰った皓士郎は手当たり次第に、自分と裕徳の考えについてどちらを正しいと思うかを聞いて回った。
 自分こそが正しいと言ってみたところで、やはり不安なのだ。他者などどうでもいいと本心から思うには諦観が足りない。
 そして、皓士郎に賛同した者はなかった。明確に裕徳の肩を持つ者もほとんどいなかったのだが、どちらなのかを択一で選ばせたなら、必ず裕徳を採るのだ。
 どうしてこんな馬鹿ばかりなのだろう。皓士郎は絶望的な思いが胸の内に広がってゆくのを押さえられなかった。
 暴力を用いることが褒められた手段ではないことなどとうの昔に承知している。自分よりも力に劣る相手に振るうならいっそうのことだ。皆が厭うのも分かる。
 しかし、自分では太刀打ちできない相手に出会った下衆は、今まで強さを武器にしていたはずなのに今度は弱さを理由にするのだ。そんな輩をこそ徹底的に排除しなくてはならない。
 そのためには、諭すなど話にならない。隙を見せてはいけない。甘い顔などもってのほかだ。戯言を吐く性根からずたずたにしなくてはならない。
 ここに集っているのは曲がりなりにも平和のために戦う者たちであるはずなのだ。なのに、誰も自分の手を汚したがらない。
 無意識に、やはりひどい形相をしていたのかもしれない。少年が口の端を歪めて言った。
「ああ、別に自分としてはどっちもどっち、アタマ悪ィなあと思うわけですけど? みんなそうでしょ、大半は日和見好きで過激なのより無難なのが好きなだけでしょうよ、典型日本人的な? なんつーか、赤穂サンがいいわけじゃなくて、アンタが『ない』わけですよ、森河サン……だっけ?」
 話しているだけで苛立って来る少年である。外見的にも少し下であると見えるし、ここへ来たのも少し前だったはずだが、挑発的な物言いといい表情といい、わざとやっているのではないかと思えるほど不愉快だ。
 それでも興味は湧いた。なぜ、自分が駄目だというのか。
 そんなわけはない、お前らの頭が悪いだけだと心中で悪態をついていた皓士郎だったが、続く言葉に凍りついた。
「クズはクズですからね、アンタの言うことにも道理がないわけじゃないと思うんスがねえ……アンタ、<魔人>になる前から同じこと言って同じことやってたのかよ? そうだったら味方してもいいけどよ、絶対見てただけだろ? 軽いんだよ、アンタの言うことは」
「…………昔のオ、オレのことなんて知らないだろ」
 ようやくのことで返した声はかすれていた。
 口の上だけでは否定することもできるが、事実は言われた通りなのだ。
 動揺は明らかに現れ、伝わってしまう。
「ハ……だろうねえ」
 失笑だろうか。もう興味はないとばかりに、あっちへ行けと手を振られる。
「力を手に入れていい気になってる……そんな典型にしか見えねえんだよ、森河サン。部屋帰ってアタマ冷やしたらどうスか?」
「お前っ……!」
 怒気を漏らしながらも、すんでのところで自分を抑え込む。
 目が回るようだった。血の気が引いているのか、頭に上っているのか、まるで分からない。
 気持ちが悪い。吐き気がする。
 逃げるようにしてロビーを後にした。
 擦れ違う者が皆こちらに目をやる。それは切羽詰まっているように映る誰かが現れたことによるいぶかしげな視線に過ぎないのに、今の皓士郎にはすべてが自分を嘲笑うものに思えた。
 自分の部屋に飛び込み、激情のままにベッドを一撃。抵抗らしい抵抗も感じさせずに粉々となった残骸に吠える。
「おおおおおおおおおおっ!!」
 自分でも分かっているのだ。
 英雄ヒーローになりたいのであれば、力などなくとも見過ごすべきではなかった。あるいは、力を手に入れられるかもしれないと分かっても望むべきではなかった。それは卑怯だと分かっていたのだ。
 だが、望んでしまったのだ。どうしても止められなかったのだ。英雄ヒーローである自分を、不当に虐げられる人々を救う自分を。
 今度は床を殴りつける。
 絨毯の敷かれた床は小揺るぎもしない。建造物、<伝承神殿>の一部であるからには<魔人>の力程度では傷一つつかない。
「オレは……間違ってない!」
 自身に言い聞かせるように全力で肯定する。
 間違っていない。卑怯だったかもしれないが、喝采願望だって確かにあるが、英雄ヒーローになりたいという思い、悪を打ち倒し善良な人々を助けたいという思いも本物なのだ。
「絶対に、カスどもに甘い顔を見せるべきじゃない……だってのに!」
 何か暗い過去でも持っていなければならないというのか。ただ人々を救いたいと思っただけでは駄目だというのか。
「ふざけるな……ふざけるな!!」
 たとえ見ていただけだろうが分かることなどいくらでもある。下衆はどこまで行っても下衆なのだと、皓士郎は確信している。何十と見たのだ。
 だというのに、どうしてこの真実を分かってもらえないのだろう。あんなにも明らかなことだというのに。
「どうしてあいつなんだ……あんな中途半端な」
 漏れ出すのは呪詛の声。それは、ずっと抑え込んでいたものだ。
 知り得る限り、<竪琴ライラ>神官派において英雄ヒーローになりたいと明確に口に出したのは、自分と裕徳の二人だけである。だからこそ友と呼び合うようになった。
 しかし今や、開いている差はどうだ。裕徳は実際に英雄ヒーローと呼ばれるようになったのに対して、自分はその一番の友人であると紹介される破目になっている。
 これが裕徳こそ相応しいというのなら諦めもつく。事実、相応しいのかもしれないと思って、二番手としてでもと諦めかけていたのだ。
 そう思っていてさえ押し隠した本心では妬ましかったものを。
『ヒーローってのはそんなもんじゃないだろ。みんなを守るものだ』
 耳の奥で裕徳の言葉が暴れる。
「その通りだよ、裕徳。みんなを守るものだ。一体お前に誰が守れるってんだよ……」
 呟いたとき、気付いた。
 ベッドの残骸の中に、封筒。後で読もうと思っていた、ドアの下に挟み込まれていたものだ。
 乱暴に封を切る。
 入っていたのは予想通りに紙が一枚だけだ。機械によって打ち出された無機質な文字で淡々と短い文章が綴られている。
 <手紙の書き方など知らぬもので、我流で失礼致します>
 そうやって始まる手紙は、まさに今の皓士郎の思いを後押しするかのような内容だった。裕徳のやり方の不備を指摘し、それでは駄目だ、皓士郎が立たなければと。
 <しかし赤穂裕徳がいるうちは無理でしょう。誰もが彼の味方をし、彼を称賛します。彼の影響力は強過ぎる。あなたのような真のヒーローが顧みられることはありません。ですから>
 殺してしまえ、と。
 かさかさと紙が鳴く。己が手の、目に見えるほど震える様に皓士郎は引き攣った笑みと途切れ途切れの吐息を漏らした。
「……いや、違うだろ、そうじゃないだろ……」
 そんなものは英雄ヒーローではない。そう判断できたのに、なぜか手紙を離せない。
 <迷うかもしれません。しかし大事なことを忘れないでください。彼の半端は新たな被害者を生み出すのです。それを救えるのは汚れることを厭わないヒーローであるあなただけなのです>
 手紙がただ嫉妬を煽るだけのものであったならすぐさま破り捨てることができたろう。承認欲求をくすぐるだけのものであれば振り払うことができただろう。被害者を救うのだと言われても、耐えることができたに違いない。
 だから裕徳を亡きものとすべきだ、という理屈はあまりにも短絡的だからである。他にとれる手段はいくらでもある。惑うことこそあれ、皓士郎の心根はあくまでも自分の求めた英雄ヒーローとなることを望んでいるのだ。
 しかし今は惑いがあまりにも強過ぎた。崩れかけていた心には動揺が大き過ぎた。
 ただの手紙に過ぎないものが、まるで呪縛のように心を捕らえる。
「……汚れることは怖くない」
 かすれた声、震える声。
 そして皓士郎は選択を成してしまった。





 <伝承神殿>二十階。
 エレベーターが停止し、目の前を塞いでいたものが横へと滑って視界が開ける。此処へと初めて足を踏み入れた皓士郎が目にした光景は、白だった。
 床も壁も天井もただただ白く、電灯もないのに眩いほど明るい。そして一直線に進んだ奥には、これもまた白いドア。
「……あの向こうに」
 ステイシアがいるのだろうか。
 既にロビーも闘技場も確認したが、どちらにも求める姿はなかった。もしかすると外出しているのかもしれないが、探すならばこちらが先だろう。
 大きく息を吸い、一歩踏み出したときだった。
 奥の扉が、音もなく開いた。
 向こうに見えたのは薄闇だろうか。皓士郎は現れたステイシアに気を取られ、気がついたときには既に扉は閉ざされていた。
 距離は少し離れている。少し声を張り上げただけで問題なく届くであろう程度だが、皓士郎は黙って待っていた。
 そしてステイシアも目の前に来るまでは何も言わなかった。
「ご用ですか、皓士郎さん」
 少しだけ不思議そうな色を交えながらも、小首を傾げて優しく微笑む。静寂に溶け込むほど透き通った声は儚く響くのに、信じられぬくらいによく通る。
 耳に心地好い。ずっと聞いていたいと、そう思える。
 <竪琴ライラ>神官派の男で、彼女に心奪われなかった者はほとんどいない。皓士郎も例外ではなかった。
 だから胸はどうしようもなく痛んだ。
「……頼みが、その……ある。<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームが欲しい」
「宝珠ですか……?」
 使用者が死ぬか、領域内に使用者のみとなったときに解除される仮初めの領域、閉鎖世界。そんなものを展開する宝珠を、ステイシアは作成することができる。標的を逃がさず、かつ周囲への被害を出さぬようにするため、必要なときに与えられるものだ。一度きりの使い捨て、しかも効果範囲を広くするほどに作成に時間を要する貴重な道具であり、強大な<魔人>以外に対して使われることはない。
 <魔人>の戦闘における前提を変更してしまうほどの代物だが、同時に諸刃の剣でもある。互いに全力で戦えるようになるという要素は決して一方にのみ有利にはたらくわけではないし、解除条件のせいで単独で戦うことを強いられる。標的に逃げられない替わりに、不利になったとしても自分も逃れられない。
 そして相手は必ず、強力な<魔人>なのである。
「あれは基本的に、使って欲しくないのですが……」
 ステイシアが眉を曇らせるのも当然だ。皓士郎の聞いた話では、宝珠を使用して今もなお生き残っているのはたった二人だけ。<竪琴ライラ>の処刑人こと名和雅年、そして英雄ヒーロー赤穂裕徳である。
「危険なのは分かってる。それでも欲しい」
「何に使うのでしょうか……?」
 疑問は想定していた。皓士郎も答えは用意してある。
「潰しておかないといけない奴、見つけた。オレに任せて欲しい」
 数ヶ月前に、裕徳がこう言っているところを見かけたことがある。真似をするのは癪だが、あのときはこれで通っていたはずだ。
 表情には何も出ていないことを祈る。この言葉は嘘ではないのだ。潰しておかなければ後々いくつもの悲劇を引き起こすであろうと皓士郎は確信している。
 果たしてステイシアは、可憐な面立ちを憂いに沈ませた。
「……本当に危険なのです。それが皓士郎さんの選択なのですか? そもそもそれを行うのは皓士郎さんでなければならないのですか……?」
 皓士郎は隠し事をすべて見透かされているように錯覚した。後ろめたい思いがあって、それがこんな気の迷いを起こさせるのだろうか。
 駄目だ。そんな弱気なことではいけない。
「けじめだから。オレがやらなきゃいけない」
 吹き払うために断言する。
「任せてくれ。絶対に成功させて来る」
「どんな相手なのか、教えてももらえないのですか?」
「ごめん。意地を通したい相手っているじゃないか」
 きっと悲しませることにはなるのだろう。ステイシアは裕徳を重用している。ことが終わった後に自分がどうしたらいいのかもよく分からない。
 それでも成さなければならないのだ。それが<竪琴ライラ>の将来のためにもなると今の皓士郎は疑わない。
「だから<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームが欲しいんだ、ステイシア」







「おや、赤穂サンじゃねえスか」
 ロビーの一角、三人掛けのソファを占領するかのように寝そべった少年が軽薄な笑みと声を向けて来た。
 裕徳にも、見覚えはあった。
「ごめん、名前出て来ない」
「半月前にはいたんスけどねえ? ま、これだけ数いる上にあんまり神殿にいないんじゃあ、しょうがないか」
 にやけた笑みがなんとも不愉快ではある。
 人当たりのいい裕徳も好き嫌いがないわけではない。大嫌いだと言っても過言ではない相手も、一人だけならばいるくらいなのだ。それはこの少年ではないが、やはり好意的には捉えられなかった。
「それで、俺に用なのか?」
「いや、大した用じゃねえんスけど、ひとつ宣言しとこうと思って」
 ごろりと転がってそのまま床に立ち上がり、少年は笑みを大きくした。
「アンタの英雄評価、そのうち自分のもんにしますんで。あと……名和サンでしたっけ? ソイツの神官派最強も」
 随分と大言壮語を吐くものである。
 それもまた不愉快だったが、浮かんだのは苦笑だった。
「名和さんに対する挑戦は本人に言ってくれよ」
「いや、言ったんスけどねえ、なんつーんですか、すんげえ詰まんねえ一般人パンピー用対応みたいなのされてムカつきまして」
「……分かるような分からんような」
 具体的にどんな対応をしたのかは分からないが、きっと興味のないことに返すお座なりな応えでもしたのだろう。
 らしい、と裕徳は思う。相対的にならばよく喋ることになるはずの自分にすら、親しみなどないただの知人としてしか振舞わないのだ。
「まあ、頑張れ。色々と」
「アンタもテキトーだな」
 そう言いながらも少年はにやけた顔をそのままに、また寝転んだ。
 口許に記された歪みがとてつもなく不気味に思えた。
「ああ、あとステイシア落として名実ともに神官派ごと貰うんでヨロシク」







[30666] 「英雄の条件・五」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/01/30 19:23




 <魔人>は夜に蠢く。
 満月の下でも三日月の下でもいい。上弦下弦も問わない。
 無論、今宵のような新月でも。
 土曜の夜だからか、近くの繁華街に繰り出す人の数は普段よりも多い。もっとも声までは此処へ聞こえて来ない。耳朶を打つのはあくまでも穏やかな波の音だ。同時に潮の香が鼻腔をくすぐる。
「お前の方から呼び出すってのは珍しいな」
 昨夜と同じ海岸で、裕徳が戸惑い気味にそう言った。
 決裂から丸一日も経っていないがための気まずさにか、呼び出しておきながら沈黙を守ったままの皓士郎の態度にか、見るからに居心地が悪そうだ。
 そんなことすら、今の皓士郎には歪んだ愉悦を呼び起こす。
「なあ、裕徳。オレはお前みたいに口上手くないから単刀直入に言うけどさ」
 今更舌戦を仕掛ける気などない。片手に収まるほどの大きさの、硝子玉と見える宝珠をポケットから取り出した。
 美しいが、どこか虚ろな珠だ。見ているとその空虚に意識を引き摺りこまれそうになる。
 無論、裕徳もこの宝珠を知っている。何をもたらすものなのかも知っている。
「何をする気だ……!?」
「死ぬべきだよ、お前」
 皓士郎は言葉とともに珠を握り潰した。
 抵抗など感じられなかった。確かに硬かったはずの宝珠は音もなく崩れ去り。
 そして世界が塗り替えられた。
 色褪せてゆく。自分と相手以外のすべてが灰色に置換され、戦場と化してゆく。
 逃さぬ替わりに、殺し尽くすか殺されるかしなければ脱出することは叶わぬ闘技場。<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクローム
「死ねよ、裕徳」
 いっそ囁くように告げる皓士郎の右手に光が灯った。
 赤だ。そして人差し指に嵌められた指輪が輝くと、光は膨れ上がった。
 後ろへと跳ぶ裕徳。しかし皓士郎は逃さない。膨れ上がった赤は、今度は面にまで収束、右手を突き出す動きとともに解き放たれた。
 刹那、赤い帯が虚空を割る。
「っ!?」
 舌打ちひとつ、裕徳は咄嗟に横へ跳ぶが、間に合わずに残された左の人差し指と中指が音もなく切断された。
 大きな傷ではない。即座に生やしつつ大きく跳び退り、裕徳は惑うように今一度悲痛な声を上げた。
「何のつもりなんだ、皓士郎!?」
「言ったろ。死ぬべきなんだよ、お前。迷惑なんだ」
 既に皓士郎の右手には赤光が復活している。不吉に明滅しながら徐々に強くなってゆく。
「正気か、お前!?」
「それはどういう意味なんだろうなあ、おい」
 口の端を歪ませた笑みと睨めつけるまなざしはどこか卑屈で、自嘲を思わせる。
「お前、自分を正しいと信じて疑わないのか? それともオレじゃお前に敵わないとでも言いたいのか、よ!?」
 解き放つ。
 赤の帯が伸びる。二つが四つ、四つが八つ。幾条にも分かれ、逃れる裕徳へと追いすがる。
 外れた一本が両断した防砂林の松が、ずり落ちるよりも早く燃え上がった。火の粉を巻き上げ、他へと燃え移る。仮初めのとはいえ、樹木を問答無用に炎上させたのである。
 これこそが皓士郎の得意とする攻撃だ。ただ力を弾や奔流として放つ大味な砲撃ではなく、収束して万物を切り刻む赤光の帯と成すのである。高熱は付帯する現象に過ぎない。
「逃さねえっ!」
「捕まるかよ!」
 裕徳が加速する。領域内からは出られないものの、境界までも足場にして縦横無尽に駆け巡る。
 速い。むしろ帯よりも。追い切れない。
 それどころか、張り巡らされた帯の隙間を掻い潜って皓士郎の背後をとることさえしてのけた。
「皓士郎っ!」
「読めてるよ!」
 皓士郎が吼える。振りかえらぬまま、下へと新たに放たれた輝きは地面に触れるよりも早く跳ね上がり、三十二に分裂して裕徳を襲った。
 貫いたのはそのうちの三つ。左の肩と脇腹と大腿。さすがに細くなっていたため大した傷にはなっていないが、大きく跳び退かせることには成功した。
 血が流れないのは傷口を瞬時に焼灼してしまうからだ。部位復元自体はいくらでもできる<魔人>に対しては、良くも悪くもあまり意味のないことであるが。
「オレが下だとでも思ってんのなら、バラバラになってから後悔しやがれ!」
 理解している。裕徳は高速機動を得意とする。その速さたるや<竪琴ライラ>神官派の中でも屈指、下手をすれば随一だろう。加えて、クラウンアームズも強力なものを二つ、それなりのものを一つ有している。
 対する皓士郎のクラウンアームズは右手の人差し指に嵌めた『バロールアイ』のみ。打撃や砲撃の威力を大幅に底上げしてくれる高位のものだ。だが、あくまでもそれだけである。決して身を守ってくれはしない。
 それでも皓士郎には勝算があった。
 裕徳の戦格クラスは<ヒーロー>と<ライトニング>の双格並列デュアルである。<ライトニング>はランク三の下位戦格クラスでありながら大幅な速度強化と高速戦闘を可能とし、そして<ヒーロー>は通常時にはランク二の戦格クラス程度の強化しかなされない替わりに、条件を満たした状況下においては最高位戦格クラス並みの力を与える。
 裕徳の強さ、<竪琴ライラ>神官派においてトップクラスと言われる速さは、あくまでも限界突破リミットブレイクの条件を満たしたときのものだ。裕徳の条件が皆を守る戦いであることならば、この戦いに発動するわけがない。速さ以外は並みの<魔人>、程度のものに落ちるはずである。
 加えて切り札もある。誰にも見せたことのない奥の手だ。
 無論、それらすべてを考慮してなお厳しいのだ。皓士郎の戦格クラスのランク合計は六、今の裕徳にも一段階勝るだけに過ぎないというのに、クラウンアームズは裕徳の方が確実に上なのである。しかも戦い方の相性まで悪い。
 だが、十に一つであっても勝算は勝算だ。これに皓士郎は文字通り命を懸けた。
「死ねよ。それが<竪琴ライラ>のためだ」
「訳の分からないこと言ってないで正気に戻れ!」
 さすがに裕徳も構えてはいる。それでもまだ迷いを見せていた。
 信じられないのか。そう皓士郎は小さく笑う。
 皆はこれが優しさに見えるのだろう。騙されるのだろう。
「オレは正気だよ。おかしいのはお前やみんなの方だ」
 だが迷いがあるならそれも利用させてもらう。
 皓士郎は右手に赤光を灯した。胸の内で荒れ狂う激情を映してか不規則に明滅し、灰色の世界が不吉に染め上げられる。
「壊れろ!」
 叫びとともに大きく踏み込んだ。
 さほど速くないとは言っても皓士郎も<魔人>である。ただの人間にとっては反射すら間に合わない領域にある。
 勿論、裕徳にとっては鈍いのだろう。だが皓士郎は裕徳の表情の僅かな歪みから、見事虚を突けたことを確信した。
 予想だにしていなかったに違いない。ただ帯を撃ち続けるだけが能だと思っていたに違いない。
 ざまを見ろ、ざまを見ろ。その慢心で足元をすくわれるのだ。
 裕徳の目前で赤光を解き放つ。後ろへ。
 それは十六に分かたれて弧を描きながら標的を取り囲むように殺到し、そのうちの一本が一拍遅れて回避行動に入った裕徳の左腕を切り落とした。
 真っ直ぐ正面から放っていたならばかわされていただろう。たとえ限界突破リミットブレイクの条件が満たされていなくとも、虚を突かれたとしても、その程度には速い。
 しかしその速さが命取りだ。<魔人>は理不尽を行うが、魔神には遥かに及ばない。一度動き始めたならば、速ければ速いほど制動は難しいのだ。避ける動きに入ったからこそ当てられた。
「オレを舐めてるだろ、お前。いいぜ、そのまま殺してやる」
 距離をとりつつ切り落とされた左腕を生やす裕徳へと、憎々しげに言い放つ。
 追撃はしない。既にかわされる間合いだ、無駄弾を撃つ余裕などない。可能ならもう一撃くらい入れておきたかったが。
 さすがにこれで裕徳の油断もほとんど消える。本番が始まる。だからこその宣言だった。
「お前……!」
 裕徳の周りに三つの光が現れた。両掌を合わせたくらいの大きさの菱形、半ば青く透き通って緩く曲面を描く盾だ。首飾り型のクラウンアームズ、『セレスティアルフレイク』の創り出した防御の要である。
 そして右手には両刃の短剣、『ウラヌストゥース』。これもまた青空を思わせる半透明の剣身を持っている。
 いずれも美しいと言っていいだろう。柄などの装飾は素朴なものだが、青水晶から削り出したような盾と剣身は武器というよりも芸術品のようだ。
「ようやく抜いたな。どうせオレかお前のどちらかが死なない限り、ここから出られないんだぜ?」
 赤光が明滅する。双眸に灯る憎悪のように。
 裕徳がまだ戦意を持ち切れていないことを皓士郎は見抜いていた。油断はしていない、していないつもりであるのだろうが、それこそが隙なのだ。ほとんど消えたからこそ残った部分を自覚できないのだ。
「で、死ぬのはお前でなきゃいけない」
 赤を撃ち出す。四つに分裂した帯はそれぞれ軌道と速さを異ならせ、空間を切り裂きながら音もなく迫り寄る。
 が、今度は裕徳も遅滞なく動いた。凄まじい速さで帯の合間をすり抜け、それでも追おうとした二つは青の盾が動いて打ち払う。
 ぶつかり合った赤と青が、紫ではなく白を作った。
 皓士郎の口許が僅かに歪む。
 赤い輝きはどうしてこんなにも不吉なのだろう。
 対して、青い輝きはどうしてあんなにも美しいのだろうか。清冽な水を思わせ、英雄ヒーローを表す色があるのならまさにそのうちの一つとして相応しいだろう。
 いつもは大して気にもしていなかった下らない、けれど紛うことなき嫉妬である。胸の内から染み出して、今は殺意を増幅する。
 続けて何度も赤を放つ。軌道もタイミングも変えながら観察し続ける。
 徐々に、かわし方に余裕が出て来た。
「もうよせ! 回避パターンを見極めようとしてるのかもしれないが、これだけ撃たれれば俺だってお前の攻撃パターンは見えて来るんだぞ?」
「馬鹿が!」
 嘲笑う。
 次に放った帯は三十二に分裂した。それでも正面からとなれば捉え切るのは難しい。
 帯のままで、あったならば。
 細い帯の形作る籠の網目を縫い、軽やかに裕徳が駆ける。的確に読み、的確に動いている。全方向に赤がちらついているというのに。
 皓士郎は帯の制御を手放した。途端に赤が膨れ上がる。収束されていた力が、裕徳の全周囲で荒れ狂った。
 避けることなど出来ようはずもない。耐えるか、最速で効果範囲を突っ切るしかないのだ。
 無論のこと、折角収束してあったものを拡散させたのだから威力そのものは激減している。高位の防御用クラウンアームズの形成する防御領域を貫けない可能性は高い。
 だが、裕徳の『セレスティアルフレイク』は通常のクラウンアームズとは異なると皓士郎は踏んだのだ。
 防御用クラウンアームズには大きく分けて二種類がある。一方は衣服や鎧のような形状をしたもので、クラウンアームズ自体がまず強固な防具としてはたらき、かつ周囲に防護領域も展開しているもの。そしてもう一方は装飾品の形状をしたもので、事実上防護領域としてしかはたらかないが、その代わり領域の緩衝力はより高くなっているものである。
 『セレスティアルフレイク』は形の上では後者に属する。しかし本質的には前者に近いのではないか、むしろ前者よりも極端なのではないかと皓士郎は推測したのだ。
 先ほど観察していたのは回避パターンではなく、三枚の盾の動きだ。あれは実によく動いていた。回避し切れない攻撃はどれほど細くとも防護領域に任せず、盾で受け止め、あるいは逸らしていた。おそらく、盾以外の部分の防護能力は極端に低い。
 なればこそ、通じる。拡散された弱い力でも貫通してくれるはずだ。
 皓士郎は更に、左手に新たな赤を収束させる。
 裕徳がその場で耐えることを選択するとは思えない。速いからこそ、その場を脱出しようとする。あとはこちらへ向かって来るか、この灰色世界の端まで退くか。
 来るならばこの左手の赤をカウンターで叩きつける。退くならば、その時こそ切り札の出番だ。
 定まるまでは刹那。薄れゆく光の中に、皓士郎は答えを見た。
「く……ははっ!!」
 賭けに勝った。遠ざかる裕徳へと、抑え切れぬ笑みを漏らす。
 退いたのは誤りだ。向かって来たらその時点できっと負けていた。泡を食っているなら当てることはできるかもしれないが、盾に受け止められる。それをも擦り抜けたとしても、『バロールアイ』による増幅のない左手の一撃では屠るに至らない。それで裕徳が本当にこちらを殺す気になれば、もう終わりだった。
 欲しかったのは距離と警戒心だ。距離そのものにはそれほどの意味はないが、何度も痛い目を見せられた上で可能な限り間合いを外した今、こちらが何をしようとしているのかを確認せずには動けないはずだ。裕徳がどれだけ速くとも、動かなければ意味がない。
 生み出される少しの時間が勝利をもたらしてくれる。

「“虚無の中には何がある”」

 名残惜しいとばかりに裕徳へとまとわりついていた赤がすべて消える。皓士郎はそちらへと残しておいた意識を完全に消し、右手にも新たに力を生み出す。
 口にするのは鍵だ。自らの身体をも破壊する、過剰なまでの力の収束を成し遂げるための言葉である。

「“破壊から創造に至るまでには何がある”」

 これに手が届いた理由は自分でも分からない。力を求めて、求めて、求めて、力を放って、放って、放って。気がつけば両腕が崩壊していて、替わりに桁外れの赤を得られた。

「“混沌の海に秩序は眠る”」

 つう、と口許から血が垂れ、ほどなくしてだらだらと溢れ出す。
 指が熟しすぎた果物の如くに腐れ落ちた。そして無為に費やされた命を喰らったかのように赤が膨れ上がる。

「“揺籃たる龍よ、目覚めよ”」

 裕徳が驚愕の表情を浮かべる。
 だがもう遅い。両腕が爆ぜ、しかし膨れ上がる赤は制御を失わない。『バロールアイ』が指のあった位置で虚空に浮き、手綱をとっているのだ。激痛も、気の遠くなるほどの高揚が掻き消した。
 裕徳が来るよりも早く、皓士郎は渾身の力と嫉妬と義務感とを乗せて赤を解き放つ。
 伝承は、ケルトからインドへ。



「<無限龍アナンタ>」



 まずは左だ。それは十度分裂する。
 一が二へ、二が四へ、四が八、八が十六、三十二、六十四、百二十八、二百五十六、五百十二、千二十四。
 いかに通常の力を凌駕するとはいえ、それだけ分かたれればもはや糸のようなものだ。<魔人>に対してはまともな殺傷力を持つまい。
 しかし、膨れ上がる。巨大化し続ける右の赤を喰らい、千二十四のそれぞれが大元の一本に匹敵する威を取り戻す。
 速さなど無駄だ。身を置くべき場所そのものが存在しない。赤の帯が一帯すべてを満たし、切り裂くのだ。
 アナンタとは、インド神話における千の頭を持つ龍の名である。世界の終焉から新たな創世まで、混沌の中心でヴィシュヌを守る永劫の存在だ。
 その名を、皓士郎は己が切り札につけた。
「ははははははははははあははははああははははははっ!」
 笑う。時折声を裏返してまで、狂ったように笑う。
「見たか! 見たかよ、裕徳! これがオレだ、オレの力だ!」
 防砂林が灰と化す。
 防波堤が瓦礫と崩れて海へと落ちたかと思えば、その海そのものが抉り取られて底が覗き、底さえも掘り返されてゆく。
 赤は皓士郎を中心としてありとあらゆる方向へ荒れ狂い、すべてを切り刻み、焼き尽くす。
 見る人あらば狂乱するであろう破壊の光景は、実際にはほんの僅かな時間のことだった。己自身の全力を凌駕する一撃だ、まともに維持し続けられるはずもない。
 しかしそれで充分だ。確実に倒したと皓士郎は判断する。
 胸の内の熱が不意に抜け落ちた。
 とうとうやった。やってしまった。
 身体が重い。崩れ落ちそうになるのを堪えながら、両腕を復元する。『バロールアイ』も元の位置に填まる。
 これからどうしよう。ぼんやりとそう思い、赤の消えた灰色の世界を見回す。
 灰色だ。灰色である。
 虚脱した頭がその意味に気付くにはたっぷり三呼吸は必要だった。
「……そんな馬鹿な……」
 青い光が浮かび上がった。裕徳のクラウンアームズの生み出す輝きだ。
「ありえない……ありえない!」
 あり得ないはずだった。裕徳の耐久力は、あれに耐えられるほど高くはない。絶対に耐えられるはずがない。
 それなのに、裕徳は今ゆらりと立ち上がって来た。
 皓士郎は自問する。裕徳を甘く見てはいない。威力も過大評価していない。軽々と屠れるだけの一撃であったはずだ。
「……お前は……」
 血を吐くような声で裕徳が言った。
「ここまでして俺を排除したかったのか。そんなに邪魔だったのか」
「どうして生きてられる!?」
「俺だけだったら死んでたさ。けどそうじゃない」
 その声に潜むのは怒りだろうか。
 しかし皓士郎は声ではなく台詞によって思い当ってしまった。
 この襲撃、すべては裕徳が限界突破リミットブレイクの条件を満たさないということを大前提としている。
「まさか……」
 蒼白になる。復元したばかりの手が震えた。
 強さが跳ね上がることなど大した問題ではない。いや、重大ではあるが、それが霞むほど大きなものが他にある。
 裕徳の条件は皆を守る戦いであることだと聞いている。だからこそこの戦いで満たされるはずがないと判断したのだ。甘さのせいで皆を危険に合わせるであろう裕徳を排除することは、少なくとも皆を傷つけることに繋がるわけがない。
 しかし今、条件が満たされているというならば、裕徳は守る戦いを行っているということに他ならない。
 ではその敵である自分は。
「……嘘だ……」
「いい加減にしろ、皓士郎。さすがにこれ以上は俺も手加減できない」
「嘘だ、嘘だッ!」
 慟哭のように皓士郎は咆哮する。
「あり得ない! お前のヒーローがオレのヒーローより正しいはずがないんだ!」
 英雄ヒーローになりたい。
 譲らない。譲りたくない。譲れるものか。
 ステイシアも微笑んでくれたのだ。
「お前が正しいはずが……!」
「ふざけるな!」
 裕徳の怒声も皓士郎に劣らぬ大きさだった。
「お前はいつも何をしてた? ステイシアから事件を割り振られるまで神殿に引き篭もって遊んでたのか? どうして街へ出ない? 根気よく些細な芽を見つけて対処していけば、あんな極端な見せしめなんかしなくても充分なはずだった!」
「そんなわけあるか! 下衆はどこまで行っても下衆だ!」
「お前がどれだけの人間を見たっていうんだ? 狭い視野で語るんじゃない」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れェッ!!」
 もはや皓士郎の頭の中は自分でも何も判らぬほど掻き乱されていた。
 他者の意見を容れるなどできようはずもない。縋りつくのは英雄ヒーローになりたいという思いと、あの儚く優しい笑顔。
「渡さない、絶対に……お前なんかに!」
 今一度、赤が収束する。自らの肉体を崩壊させるほど過剰に。
 しかも制御できていない。それ以上の言葉も忘れ、口から泡を吹きながらただひたすらに力を引き出してゆく。
 指が爆ぜた。腕が落ちた。限界まで見開いた目から眼球がこぼれ落ち、赤が燃え上がった。
 解き放つことなどできまい。まだ必要だ、もっと必要だ、もっともっとと集め続けるだけだ。そのまま見ているだけで自滅するであろうことは明らかだった。
 しかし裕徳は動いた。
「皓士郎!」
 一直線、最速の動きで反応すら許さず、一刀の下に斬り伏せた。
 皓士郎は最期に何と言ったのだろうか。
 長く伸びる怨嗟の声はそれでもやがて薄れて消えた。















 一晩が過ぎた。
「……許さない」
 そこは殺風景な部屋だ。
 何もないわけではない。机を挟んでソファが二台、足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。
 ただ、前後左右、果てが見えない。薄闇がどこまでも続いて、眺めているだけで意識が遠くなってくる。もしも宇宙に放り出されたならば、似たような気分になれるのではなかろうか。
 そして、その中で虚空にぽつりと浮かんでいるドアが異様だった。
 ステイシアの私室で裕徳が拳を震わせる。
 その様をステイシアは痛ましげに見詰め、雅年はいつものように事務的なまなざしで眺めていた。
 今ここにいるのはこの三名だけだ。皓士郎の部屋から見つかった手紙について、ステイシアから裕徳へと説明がなされたのである。
<囁き>ウィスパーの件は俺にやらせてくれ。必ず見つけ出してぶっ殺してやる」
「いいえ、駄目です。裕徳さんには任せられません」
 まるで人が変わったように相貌を歪ませる裕徳に、ステイシアはゆるゆるとかぶりを振る。
 その答えが余程意外だったのか一瞬だけ言葉を詰まらせ、しかしすぐにまくしたてた。
「どうしてだ? 俺は……皓士郎をこの手にかけることになったんだぞ? そいつさえいなきゃこんなことには……」
「……<囁き>ウィスパーを絶対に許せませんか?」
 細く、静かな声だ。それなのに不思議とよく通る。まるで諭すように響いた。
 しかし裕徳はそれを振り切る。
「絶対にだ。<囁き>ウィスパーは絶対に許さない」
「そうですか……」
 ステイシアが目を伏せる。この暗い部屋で、白く儚い美貌が浮かび上がるようだった。
「今日いっぱい、考えさせてください」
「できるだけ早い方がいいんだが」
「では日が変わったらお知らせします。それまでに気を落ち着けておいてください」
 やはりどこか痛ましげな色を残しながらも、ステイシアはそっと微笑んだ。







[30666] 「英雄の条件・六」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/02/03 19:24




 月のない夜に満天の星がいっそう輝く。
 とはいえ、この空が何であるのか、裕徳は知らない。
 ここは<伝承神殿>の屋上に相当する場所だ。ステイシアの部屋の脇に隠された階段から上って来ることができる。
 足元にはコンクリートのような感触の床が果てしなく続き、頭上には見覚えのない星々が煌めく。外と言っていいのかは怪しい。むしろステイシアの部屋と同様のものなのではなかろうか。
 くすんだ銀の、古めかしい懐中時計で時間を確認する。<魔人>に成ってからというもの、よく分からないがどうも時間の感覚がおかしい。時間を大切にする裕徳は時計を手放せない。
 日付けが変わって三分、虚空に浮かぶドアが無造作に開いた。
「待ってたよ、ステ…………名和さん?」
 顔を上げて笑顔で迎えようとして、予想外の姿に戸惑う。
 裕徳を上回る長身に、右袖が異様に大きく広がったロングコート。名和雅年である。
「どうしたんですか? って、普通に考えたら伝言ですね」
「落ち着いたか、赤穂君」
「ええ、さすがに」
 いつもの事務的な口調に、苦笑を返す。
「頭に血が上り過ぎてましたね。止められたのも分かります」
 <囁き>ウィスパーは人を唆す。冷静さを欠いてはいい的にされるだけ。そういう意味を込めて。
 雅年は首肯した。
「あれに関しては、君にしては性急に過ぎたな」
「……擦れ違いはしましたけど、皓士郎は親友ですからね。自分を抑えられませんでした」
 裕徳は中天を見上げる。星空と言ってもほとんどは黒だ。意識が吸い込まれ、眩暈がするようだった。
 小さくため息をつく。
「俺がいなきゃ、皓士郎は死なずに済んだんでしょうか」
「身も蓋もないことを言うなら、それ以外ないと考えるのが妥当だろう」
「きっついなあ……」
 この空間に風はない。春も夏も秋も冬も、ひんやりとした大気で満たされている。最も頭の冴える環境だと裕徳は思っている。
「でもその通りですね、その償いのためにも俺は<囁き>ウィスパーを斃したいんです」
「……これは院生時代の恩師の受け売りだが」
 少しの沈黙の後、そう言った雅年の口調と表情が少しだけ変化した。苦笑じみて感じられる。
「取り返しのつくものなど何もない、贖えるものなど何もない、すべてはただそう在り、そう在っただけなんだそうだ」
「よく分かりませんが」
「僕にも分かるような、分からないような。所詮、受け売りだ」
 そう言ったときにはもういつもの事務的な調子に戻っていた。
 しかしこの流れで口にしたならば、自然と今回の件に当てはめることはできる。
「いまさら俺が何をしても皓士郎が生き返るわけじゃないってことですか」
「先生が腹に呑んでいるのは別物だろう。僕としても含む意味合いは違う」
「禅問答は苦手なんですけど……」
 裕徳は困ったように頭を掻く。追求はせず、本題に入る。
「それで結局、<囁き>ウィスパーは俺に任せてもらえるんでしょうか?」
「そのことなら、君に自決権は認めないそうだ」
 不備のある書類を無情に突き返すように、雅年は無感動に告げた。あまりに自然で、裕徳は言葉の意味を理解できない。
 だが、目の当たりにしたのだ。そのコートの右袖が揺れ、物々しい籠手が現れるのを。
「犯人自身に犯人探しをさせるのは状況によっては見極めに使えるかもしれないが、もうそんな段階じゃない」
「何を……」
 裕徳は大きく跳び退る。
「何を言ってるんですか!?」
 背筋が凍る。冷や汗が浮く。先ほどからの会話の、雅年の台詞の意味がひとつひとつ変わってゆく。
 雅年は、籠手を顕現させたこと以外はそのままだ。やる気もなさそうに、無愛想に続ける。
「姿を見せないまま、組みし易い相手を煽り、暴発させ、自分の手で片付ける。強い相手を選ぶ場合は必ず、速度を生かせるように砲撃を得意とする<魔人>にする」
 果ての見えないこの場はどこまでも逃げられるように見えて、だからこそ駆け出すことを躊躇う。虚空のドアを見失えば永劫に彷徨い続けることとなる、そんな未来が見えてならないのだ。
 裕徳が堪えたのは、永遠への恐怖が半分以上を占めてはいた。
「解決できるのは当然だ。勝てる相手しか選んでいないし、説得に必要なのであろう要素もあらかじめ分かっているわけだからね。必要な敵を的確に作ってゆくことは戦略の基本だが、正直、見事なものだよ。よくあそこまで人を動かせるものだと思う」
 なおもじりじりと後ずさる裕徳を追い、雅年は無造作に足を進める。
 そして最後に残った曖昧さを打ちのめすように、名を呼んだ。
「君のことだ、<囁き>ウィスパー
「まさか俺が皓士郎を陥れたとでも言うんですか? 馬鹿にしてる、あいつは俺の親友だ!」
「もし本当にそう思っているのなら、君は悲劇のヒーローを演出するために親友を殺したということか」
 皮肉を言う口調ではない。嘲るわけでもない。靴音までが淡々と、ただ淡々と響く。
 処刑人が歩み寄って来る。
 裕徳の頭の中では幾つもの言葉が組み上げられようとしていた。今まで自分を支え続けて来たものだ。
 身体能力もクラウンアームズも、どれほど強力であったとしても結局はたかが知れている。本当に最も強いのは他者と通じ、動かす力なのだと裕徳は確信している。
 だからその力を、人間であれば誰にでもできることを揮おうとする。
 そもそも裕徳はただこの場を逃れればいいというわけではない。事実が露わになれば名声も信頼も地に墜ちる。まさに取り返しなどつかない。だから糊塗しなければならない。
 その際に重要なのはステイシアだ。その<竪琴ライラ>神官派の<魔人>に対する絶大な影響力を利用しない手はない。
 しかし現状では情報が足りないのだ。なぜ見透かされることとなったのかが分からなければ、ステイシアを説き伏せられるだけのものは組み上げ切れない。まずは目の前の雅年からそれを聞き出すことから始めなければならないのだ。
 むしろそれこそが最大の難関なのではないかと思ったのだが。
「どうして露見したのか、その顔を見る限りではもしかして思い当たる節がないのか」
「どうしてそんな勘違いをしたのかは教えてほしいですよ。本当に俺を馬鹿にしている」
 腸が煮えくり返るのをおくびにも出さず、あくまでも誤解を受けたがための不機嫌と見せつつ裕徳は言う。慣れたものだ。
 このまま調子に乗って喋ってくれるならそれが最上と、そんな思いも勿論見せない。
「少なくとも僕がおかしいと思った理由は、格別派手なものじゃない。まず、君は確か八箇月前に<魔人>となったわけだが、半年前からは一度たりともステイシアから案件を割り振られていない。すべて自分から任せろと言い出したものか、そもそも君自身が持って来た件か、既に解決したという報告だ」
「……何か問題があるとは思えませんけど」
 口にしたのは強がりではない。要は積極的、能動的であるということだ。それに文句をつけるのは、言われなければ動けない者のやっかみだ。そういう風に切り捨てられる。
 一般的に良いとされるものは実に便利だ。正論は強いのだ。
「むしろみんなの方が受動的すぎていけないんだと思います」
「僕としては能動的であることがもたらす弊害もあると思うんだが、この際それは置いておこう。それだけでは問題にはならないというのも賛成はできる」
「随分と含みのある言い方ですね」
 やはり一筋縄ではいかないのか、と裕徳は腹の底で唸る。拳での戦い方と同じだ。事務的なまなざしで標的を見据え、致命の一撃を放てる隙を窺っている、あるいは作り出そうとしている。
 喚き立てて来るだけであれば、出足を払ってやれば一息に挫けるのだが。
「次に、君の行う事件解決は定期的だ。少し調べてみたところ、森河君の件を含めたなら二十七週間で二十六件。数だけではなく実際に、一度の例外を除けば必ず週に一度だけ行っている」
「いや、いい加減なこと言わないでください。二週間くらい何もなかったこととか、二日連続とかありましたよ」
 苦笑を浮かべる。口にした台詞は嘘ではない。
 しかし雅年が次に告げたのは、嘘にはならないその理由だった。
「二週間くらいというのは月曜から一度日曜を飛ばし、その次にあたる日曜。二日連続は日曜と月曜。仮に月曜を週の始まりだと定義すれば、同じ週に二度ということはなかった」
「かなりこじつけ臭いと思うんですが」
「ちなみに一度あった例外は、君が申し出た案件をステイシアに却下された、今回までは唯一だった事例のときだ。なぜか君は、他にも案件があったのに申し出ようとはしなかったらしいね」
 淡々とした口調は、そこで一度止む。
 表情からも視線からも、やはり何も読み取れない。
「偶然そうなることが絶対にあり得ないとは言わない。僕から見たなら結局は、怪しくはあっても証拠はない、そんなところだったんだが……事実がどうなのか、まともに裏を取り始めるのには充分な理由になると思わないか?」
「いや、そりゃさ、確かにそう箇条書きみたいに言われると怪しく思えるのかもしれませんけど……」
「慌てるな赤穂君、逆だ。複合してこそ怪しさは増すんだろうに」
 風が吹いた。
 初めてのことだ。この場所でそんなことがあるとは知らなかった。
 コートの裾が揺れる。
 裕徳が身震いした寒さは、果たして風によるものだったか、目の前の男にもたらされたものだったか。
 一度は抑え込んだはずの焦燥が再び湧き出す。
 雅年はまだ、具体的な証拠を口にしていない。それが分からないうちは弁解を形成できない。口にした後で言い逃れを否定するようなものを出されては困るのだ。
「赤穂君」
「……なんですか?」
「<竪琴ライラ>神官派の<魔人>は管轄範囲内で起こっている各事件に速やかに割り振られる。解決するのに充分な能力と数をほぼ常に揃えてだ」
 一体何を言い出したのか、裕徳には理解できなかった。
 しかし雅年の口調は淀みない。気力には欠けていたが、裕徳を捉えた瞳に意思の欠落はない。
「面積にして六万平方kmもの範囲から<魔人>の関わる事件を見つけ出し、適切と思える人員を選ぶのはステイシアだ。どうやって成し遂げているのかは僕にも推測しかできないが、それだけの目から、どうして自分だけは逃れられると思った?」
「何を……」
「僕たちは目の前にあるものを潰すだけが能の、ただの<魔人>だ。しかしあれは違う」
 裕徳も知らないわけではない。
 ステイシア。ステイシア=エフェメラ=ミンストレル。<竪琴ライラ>神官派の中心にして、『神官派』という名称の理由。
 彼女は魔神ハシュメールを奉じる神官とでも言うべき存在なのである。
 だが、だ。しかしだ。だからと言って。
「三百七十九。それがこの半年で君の残した痕跡の数だそうだ。君という存在の残滓が手紙に残っていたと言われても僕には分からないが」
「……冗談」
 今度こそ動揺を抑え切れなかった。顔はともかく、声が震えた。
 考えられる限り、完璧にやったはずだ。無論、本当の完璧ではないにしても、可能な限りはやってのけたはずだ。
 だというのにその数は何なのだ。しかも理由が酷い。
「そんな超常能力、個人の主観でしか表せないものを証拠だとでも言うつもりなんですか!?」
「僕も理不尽だとは思う。ただ、仮に君がノックスの十戒に従っていたとしても、探偵役までそれに合わせる必要はないだろうね。第一、ここで君にとって重要なのは客観的な証拠じゃない。ステイシア自身が調べ、確信しているということだろう」
 雅年が更に一歩進み出た。
「そして万が一にも冤罪だったとして、僕にしてみればやることは変わらない。今回の仕事は、一応因果を含めてから君を殺すことだ」
 構えをとる。右半身となり、籠手のある右腕を盾のようにかざして左腕は腰だめに。双眸は無感動に裕徳を捉えたままだ。
 腰を落として重く床を踏む音こそが、本当の処刑宣告だった。







『お前は今日さえよければいいんだろう。もっと先を見るんだ』
 弁護士をしていた父親は、裕徳にそう言った。
『明日どうするか、来週どうするか、一年後、十年後を考えるんだ』
 中学生の頃のことである。ちょうど一般的には反抗期と呼ばれる時期、当然のように拒絶した。
 しかしあるとき、気付いてしまったのだ。
 暴力を振るう同級生、怯えるクラスメイト。見ていて不快ではあったが、身体能力で大きく秀でるのが俊足程度である自分に対抗する力はない。しかしどうしても許しがたかった。だから先を考えた。
 半年後のために計略を組み上げた。とは言っても単純なものだ。味方を増やす一方で敵の戦力と立場とを弱める、それだけのものである。
 些細な隙を見つけては標的の鎧を一枚ずつ剥ぎ取り、他愛のないことで自分の発言力を上げておく。標的に睨まれないよう、他に目立つ誰かを見え易い旗として仕立て上げておく。
 幸い、父親からの遺伝か幼い頃からの会話のおかげか、裕徳は弁が立った。時間をかけて少しずつ、面白いように状況は構築されてゆく。必ずしも思い通りになるわけでもなかったが、それでも確実に追い詰めてゆく実感があった。
 そして勝った。勝って、英雄ヒーローとなった。
 先を考えて動くということはこれほどまでに素晴らしいのだと思い知ったのだ。父への反発など跡形もなく消え失せ、感謝すらした。
 そして今、裕徳はかつてない不快を覚えていた。
 最悪だ。
 最悪と以外にどう言えるだろう。
 ステイシアに一切が露見し、見限られた。<竪琴ライラ>神官派の皆にも、あっという間に広がるだろう。今まで築き上げて来たものが全て水泡に帰すのだ。
 そして崩壊を待つまでもなく、目の前には名和雅年。濡れ衣であってさえ構わないとまで口にしたからにはつまり、どれほど神がかった論理であろうと狡知を尽くした邪悪な論理であろうと、いずれ雑音と変わらないということである。
 戦略的には絶望的とならば言い換えられるか。
 それでもまだ裕徳は諦めていなかった。力尽くででもステイシアをなんとかすればいい。まだ皆に知らされていなければ、自分の発言力はステイシアに次ぐはずだ。有耶無耶にすることも可能である。
 皓士郎に漏らしたステイシアへの恋心は決して嘘ではない。しかし裕徳は名声を失うことをこそより恐れた。
 そして望みを果たすためにまず行わなければならないのは、処刑人の排除である。
 『ウラヌストゥース』と『セレスティアルフレイク』を顕現させて不意打ちに備えつつ、声をかける。
「幻滅しました。随分と臆病なんですね。限界突破リミットブレイクしていない俺にさえ待ちの姿勢なんて」
「君の発動条件を知らない以上、僕には真偽を判断しようもないな」
 案の定、安い煽りには乗らない。しかし予想外の返事でもあった。
「何言ってるんですか、俺の条件は……」
「『皆を守る戦いであること』なら、嘘だろう。調べたことがある。あれはそんな汎用性の高い状況を条件にすることはできない」
 深淵の色をした籠手の向こう側から冷徹な瞳がこちらを見ている。まるですべてを見透かしているかのように、惑いなく。
 皆、すなわち仲間や何も知らずに暮らす人々を守る戦いというならば、<竪琴ライラ>が行うものは結果的にほぼすべてそうであると言っても過言ではない。
「結論として、あれは不都合な状況が少なくとも半数以上を占めるからこそ成り立つものだ。誰かを守ることを条件にするのなら特定個人が限度だよ。発動時と非発動時の状況を、察するに君はうまく言い換えたんだろうな。本当の条件も、週に一件ずつ解決して来たことを思えば推測はできる」
「あんまり狭い了見で語らないでくださいよ。あなたが知らないだけで実際には成り立つんです」
 裕徳も動揺は表わさない。小馬鹿にしたような表情とともに言ってのける。
 しかしやはり効果はない。返って来るのは淡々とした声のみ。怒りはおろか、軽蔑すら存在しない。
「一度は学者を目指したこともある。議論なんて苦手にもほどがあるけどね、だからこそ検証もせずに断言はしない。学問の本質を侮らないことだ」
 ぎり、と裕徳は奥歯を噛み締める。本当に不快で仕方がない。
 どうしてこんなにも旨くいかないのだろう。皓士郎を消したときもそうだ。あれほど追い込まれる予定ではなかったのに、あやうく命を落とすところだった。
「……もういい、ステイシアのところへ行かせてもらう」
 口調が変わる。繕うのをやめたのだ。
 月曜になっていたのは幸いだった。意識を集中させ、頭に言葉として響くほどの明確さで今週の『敵』を目の前の男に設定する。
 その途端に力が満ち溢れて来た。限界突破リミットブレイクのもたらす恩恵である。
 高揚する。今の自分は単純な力においても<竪琴ライラ>神官派屈指の<魔人>だ。そしてそれ以外の要素も含めたならば、あるいは最強であると自負している。
 軽薄な声をかけて来た少年に感じた嫌悪は不遜な宣言に対するものではなく、むしろ最強ではないのが当然であるという態度をとられたからだ。
 英雄ヒーローは最強でなくてはならない。
 処刑人と自分、実際にやり合ったことがあるわけでもないのに、なぜか向こうが強いことになっている。誰も彼もが、雅年のことを厭う者までもがそう言う。確かに相性は悪いが、実際には分からないではないか。
 それは理由のうちの小さなひとつでしかないものの、だから裕徳は雅年のことが嫌いだった。親しげに話しかける裏ではいつも嫌悪が溢れ出しそうだった。
 <夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームがなければ、一度たりとも事件を解決することなどできなかったであろうくせに、なのに最強と呼ばれているのが納得できない。
 <竪琴ライラ>神官派の英雄ヒーローは自分一人でいい。最強は自分であるのがいい。その邪魔となる者など要らないのだ。
「行くぞ」
 声を残し、裕徳は踏み出す。俊敏さにおいて並ぶ者はあっても越える<魔人>はない、神官派最速が戦闘に入る。
 裕徳は、今までこの状態でやり合ったことのある相手の大半に反応すら許していない。一気に制圧してしまうか、そうでなくとも一方的に翻弄して終わらせてしまう。
 しかし、行くと言いながら、確かに雅年の方へと駆けながら、本当の狙いは違う。見ているのは雅年の背後のドアである。
 裕徳のような縦横無尽に疾駆する戦い方にとって最もやり難いのは、ちょうど目前の雅年のようにじっと待ち構えて交叉法を叩き込んで来る相手だ。
 普通の生き物であれば、速いということはその速さを得るための筋力も備わっているということであり、必然的に重さも兼ね備えていることが多い。
 しかし<魔人>は理不尽である。今の裕徳は雅年の七倍以上の速度で駆けるが、その速度のすべてを乗せた一撃の威はおそらく雅年の拳の半分にも満たない。裕徳が軽いわけではなく、雅年が常軌を逸して重いのだ。
 速度に振り回されることなく、仕掛けて来る瞬間にだけ的確に反応して一撃ずつ叩き込んだならば、威力の差が結果として如実に表れることとなる。
 そんなものに付き合うことはない。まともにやり合ったとしても決して負けるつもりはないが、要はステイシアさえ何とかすればいいのだ。雅年が仕事だから立ち塞がっているというのなら、仕事そのものを成り立たなくしてしまえばいいのである。
 裕徳は雅年の二歩手前で斜めに跳ぶ。そして背中側を一気に抜き去ろうとする。
 ドアが迫る。手を伸ばして。
 視界が回った。
 激痛、眩暈、堅い床の感触が全身を舐めてゆく。
 何が起こったのかは気付けなかった。訳が分からぬままにも立ち上がり、改めて戸惑う。
 ドアは遥か向こう、雅年は遮るようにその前に構えてこちらを見据えている。だが、位置は変わっていた。裕徳の立ち上がった場所は、方角としてはドアの斜め裏側にあたる。
 雅年はただ、脇を行く裕徳へと大きく踏み込むとともに突き転がしたのだ。理不尽を行う<魔人>も、自分がどうなっているのか把握できなくては立て直せない。速さが仇となり、裕徳は復帰まで随分と転がる破目になったのである。
 しかし裕徳は、何かをされたのだということまでしか理解できなかった。
 何よりも、どうして間に合ったのかが分からない。反応されてしまうことは、裕徳にとってはこれも納得はできないものの、まだいい。だが、襲うと見せかけてそれを裏切ったはずだ。反応したとしても対応は遅れるはずなのだ。
「……どうして気付いた?」
 独り言のつもりだったが、声が来た。
「赤穂君」
 彼我の距離は300m以上に達する。声を張り上げてもいない。だというのに、この空間の特性ででもあるのか、向かい合って話しているかのように響いた。
「喋るのはともかく、手の内を晒せとは特に言われていないんだ。だが君は本当に受け身が苦手なんだな。どんな素晴らしいものにも弊害はあるものだが、見事にそれが出ている」
「ふざけるな!」
 裕徳は気付かない。雅年は予想外のことにも対応したのではなく、最初からドアを餌にしていたのだ。隙とは誘うために見せるものである。そのために<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームを使わなかったのだ。加えて、もしドアへ辿りつけたとしても開かないようにしてある。
 裕徳は気付けないでいることにも気付かない。今まで、あまりにも自分の思い通りに事態が動き過ぎていた。勝てる状況を作り勝てる相手を選ぶことで、実際の戦いではただの力押しでも勝利を得られてしまう。そのことが頭を鈍らせた。
 ドアを囮にするという発想など誰にでも思いつける単純なものだ。裕徳も立場が逆であったなら間違いなく仕込んだだろう。だが、それを自分に向けられた今、そんな単純なことにすら思い当たれないのである。
 そしてもう一つ。優位に立ち続けて来たため、優位に立たれることそのものが我慢ならない。
「苛つくんだよ、あんた……死ねよ、死ねよッ!」
 口汚く吠える。次を考えなければならない、今は繕わなければならないと囁く理性がとうとう跡形もなく吹き飛んだ。
「カスどもを使ったっていいだろ別に! あいつらは放っておいても問題を起こしてたはずだ、俺はそれを止めたんだよ、もっと大局を見ろよ!」
 対して、返って来たのは腹立たしいほど平静で事務的な声だった。
「君の心根はさて置き、確かにそれは言える。君は結果的に危険因子の炙り出しを行っただけという解釈はできる」
「だったら……」
「だが同時に、暴発の結果として本来なら平穏に暮らせていた人々に被害を与えさせたという解釈もやはりできる。あり得た今など語ったところでどうなるわけでもない以上、どちらの解釈でもいい」
 その内容は、冷徹で編み上げられている。いっそ裕徳よりも冷やかに世界を俯瞰している。
「法に委ねるのでないなら、こういうどちらでもありうるものは都合のいい方を選ぶんだ。無論、君の件なら君が益をもたらすのか否かが判断基準になる」
「利益になるに決まってるだろ!」
「だからステイシアは見極めることにした。君が人々や<竪琴ライラ>に及ぼすのはどちらの要素が強いのか。あるいはもう止めるのならそれで見逃してもいいとすら考えていたようだが」
 見ている。いつもの無感動なまなざしがこちらを見ている。
 雅年自身には裕徳への関心はないのだ。仕事だからここにいて、喋り、拳を握っているのだ。
「君は後手に回るのが苦手だろうから気をつけろ、と言ったのは覚えているかな。後手に回らざるを得ない<竪琴ライラ>でそんな評価が出ることをおかしいとは思わなかったか?」
「何を……」
 裕徳は記憶を辿る。そんな馬鹿なと思っていたが、確かに覚えがある。あのときは知った風な口をと内心苛立っただけで、それ以上は気にもしていなかったが。
「それに気付いていれば、その前のステイシアの台詞も裏に意味を持っていたことに気付けただろうに。状況を作るのが得意な君が腹芸は苦手だとは予想していなかった。申し訳ない」
「……おちょくってんのか、あんた。なあッ!?」
「昔から喋るのも人付き合いも苦手なんだ。そのあたりを酌んでくれるとありがたい」
 ちらりとだけ、そこで苦笑じみたものが浮かんだ。それがいっそう裕徳の怒りに油を注ぐ。
「それで、俺は害になるって? ふざけるな! 俺がどれだけ貢献して来たと思ってるんだ! 俺の代わりなんて誰に務まる!?」
「個人にとっての価値ならまだしも、社会的な立場において代わりがいないことは滅多にない。僕であれ君であれ、いないならいないでどうとでもなる」
 雅年は裕徳の熱など知らぬげに流す。喋りながらも、構えに揺らぎは生まれない。迂闊に飛び込めば一撃の下にその拳が撃墜するのだろう。
「森河君は少々物騒だが、真っ当な子だったらしいね。ステイシア曰く、侠気も決断力もある、逆境に踏みとどまり本当に弱い者のために戦える、今は未熟であってもやがて確固とした意思に至れる、あとは過激を諌めてくれるパートナーさえいればいつかきっとヒーローになれる。あの口調では、多分に贔屓目はあったのかもしれないが」
 その言葉を裕徳は笑う。
「それが理由だとでも言うのかよ? ステイシアも分かってない。英雄ヒーローなんか幻想だ」
 中学生のとき、英雄ヒーローでいられたのはほんの少しの間のことだった。
 いじめなど次から次へといくらでも起こる。期待されても処理し切れるはずがない。そして期待の分だけ失望は大きくなる。ヒーロー気取りとの陰口は、高校に上がってもまだ付いて来た。
 だから裕徳は最初からやり直すことにしたのだ。新しい顔と名と絶大な力で、自分を英雄ヒーローに仕立て上げる。偽物でもいいのではない。そもそも英雄ヒーローなどというものは実在しないのだと答えを得たのだ。
 人を思いのままに動かすのは楽しい。称賛されるのは心地好い。英雄ヒーローであると扱われる者。それが本当の、裕徳の思う英雄ヒーローなのである。
「この世界は優しくない。興味なさそうな顔してても知らないわけじゃないだろ。あっちもこっちも下らない。誰も彼も自己中心的だ。英雄ヒーローなんて成り立つわけないんだよ」
 口の端に滲んだ冷笑が心を映す。誰に向けられたとも知れぬ悪意が漏れ出していた。
 皓士郎はまだ、無辜の人々がいると思っていた。しかし裕徳にはそれすらないのである。
「君が何を見て、何を乗せてそう言っているのかは僕は知らないし、世界が優しいのかどうかも分からないが……」
 対して、やはり雅年の口調は淡泊だ。ただ淡泊に指摘するのだ。
「成り立たないというなら、だからこそ必要なんだろうに。それに、大袈裟に考えなければ実際にいくらでもいるだろう。ただ、それは君のことではないというだけで」
 その気はないというだけで、残酷な台詞である。仮にも英雄ヒーローと呼ばれる者へ向けた言葉として、これほどの嘲弄はあるまい。
 裕徳の肩が震えた。無論、怒りでだ。
 こんなことを言わせたままにはできない。絶対にだ。
「……ほんと、ここまで俺を否定するのはあんたくらいだよ」
 右手に構えた『ウラヌストゥース』の青く透き通った刃に左手を添える。
 雅年は動かず構えたまま。それが命取りだと裕徳は笑う。
 雅年の戦格クラスは、おそらくは<ガーディアン>と<サウザンドアームズ>だ。堅牢にも程がある防護能力と自ら高速機動を行うことを苦手とするのは<ガーディアン>の特徴そのままであり、自分を上回るクラウンアームズを有しているとなれば本来よりも多くのクラウンアームズを扱える<サウザンドアームズ>であるに違いない。
 今の自分とであれば戦格クラスのランク合計は九で対等、<サウザンドアームズ>の能力強化は他のランク四に劣ることを考慮すればこちらが有利。しかし相性が悪い。
 このように正面からはやりたくなかった。勝てるかどうか、賭けになってしまうから。

「“見上げよ”」

 始まりは命令形。
 口にするのは鍵だ。過剰なまでの力の収束を成し遂げるための言葉である。
 ただし、己の身体を破壊するわけではない。

「“蒼天は其処に在り、零れ落ちた欠片は我が手の内に在る”」

 皓士郎は自分だけの切り札だと思っていたようだが、それはとんでもない勘違いである。
 裕徳も会得しているのだ。それも、あのような荒削りなものではなく、より洗練されたやり方を。
 皓士郎も使えるのだとあらかじめ知っていれば、やらせはしなかった。放つところへこれを合わせて潰し、鮮やかな勝利を飾ったはずだった。

「“蒼天より下る雷鎚いかづちは邪なるものを打ち砕く裁きの光”」

 『セレスティアルフレイク』の形成する三枚の盾が、吸い込まれるようにして『ウラヌストゥース』の中に消える。
 裕徳は己自身を破壊するほどまでの過剰な力を作り上げることはできないが、替わりに防御の力を上乗せすることによって同等の威にまで到達した。

「“刮目せよ。其は苛烈なる闘神が神器なれば”」

 蒼い雷光が裕徳を包み込んだ。
 否、裕徳こそが肉体を蒼雷と化したのだ。
 伝承は、ギリシアからインドへ。



「<金剛杵ヴァジュラ>」



 文字通りの雷光が走った。
 それは無論のこと、物理的な雷ではない。
 古来より、雷は天の裁きであるとして人は意識した。それをなぞる、意味としての雷である。
 もはや速さに意味はない。天罰を避けることは許されない。たとえ光を越えて回避しようと、現実を覆して蒼雷は敵を撃ち抜くのだ。
 雅年は動かない。構えたまま、眉の一筋すら揺らがない。
 迫りながら、裕徳は己と己の術を信じる。
 これを出した時点で終わりだ。<金剛杵ヴァジュラ>はかわせない。耐えることはできるかもしれないが、これは並みの<魔人>ならば一撃で消し飛ばす。死ぬまで何度でも発動させ続ければいい。待ちからの交叉法は通常戦闘では厄介だというだけだ。これの前ではただの的となる。あとは向こうの命とこちらの力、尽きるのが早いのはどちらなのかを競う勝負だ。
 <竪琴ライラ>の実力者ならば一度は戦闘を想定したことがある。中でも最も厄介だったのが名和雅年だった。伊達に神官派最強とは呼ばれていない。力量と容赦のなさと相性の悪さ、三つ合わされば多少のアドバンテージを得たくらいでは勝てる可能性が皆無に近い。
 一番嫌いなのに、手を出せば返り討ちに遭う。これほど腹立たしい相手はない。なかったのだ、かつては。
 しかし<金剛杵ヴァジュラ>を得た今は違う。誰にも負けはしない。負けはしないのだ。
『おおおおおおおおおおおおおおおッ!!』
 今の裕徳は空気を震わせない。声は響かず、しかし雄叫びは世界に徹った。
 ロングコートの姿が近付いて来る。無感動な表情が、巨大な籠手が近付いて来る。
『終わりだ! 終わりだ! 終わりだ!』
 歓喜の雄叫び。雅年の姿がいっぱいにまで大きく映って。
 籠手が動いた。
 盾のように構えた姿勢から、打ち下ろした。
 本当はただ肘から先を動かしただけではない。芯は揺るがぬままに、足の裏から体幹、腕へと流れを通して放たれた絶妙の裏拳である。
 それは過たず、触れられぬはずだった蒼雷を叩き落とした。
 危うく意識を吹き飛ばされそうになるほどの衝撃。
 何が起こったのか、またも裕徳には理解できなかった。雷と化した今、根本的にあるはずのない痛みが、落ちてゆきそうな感覚が全身を襲う。それから自分が床に這い蹲らされていることだけは分かった。
『っ!?』
 思念を発する暇すらありはしない。景色が動いたかと思えば、裕徳は雅年の左手に首を掴まれて吊り上げられていた。
「……ああ、触れられないと思っていたのか」
 灼かれる左腕を即座に復元しながら、雅年のやる気の見えないまなざしが裕徳を捉えていた。まるで心を読んだかのように告げる。
「不思議なことじゃない。理屈ならきちんとある。君が納得するか否かは別として」
『待て……待てッ!?』
 ゆっくりと引き絞られる右腕、籠手に裕徳は恐怖する。
 あり得ないことだ。触れられるなど、おかしい。どうして雷を掴めるのだ。天罰の首を絞めるのだ。
 しかし現実に、ゆるりゆるりと喉に指が食い込んでゆく。
 触れられるのなら、その一撃をまともに受ければ死は免れない。万全の状態ならばまだしも、そもそも皓士郎に負わされた痛手も癒え切ってはいないのだ。
 死は名声を失うことと同等に恐ろしい。生きてさえいれば挽回できるかもしれない、逆襲できるかもしれないが、命を落とせばそこまでなのだ。
『……取引をしよう。<竪琴ライラ>の利益になることが重要なのなら、これから俺は……』
「すぐにでもとどめを刺せる状況で時間を無駄に使っているから交渉の余地があると思ったのか、君は。あるいは逆転できると」
 早口にまくしたてる裕徳を遮り、雅年は死を告げる。
「既に言ったが、今回の僕の仕事は因果を含めてから君を殺すことだ。もういい加減、因果なら充分に含めたと思う。茶番も終わりでいいだろう」
『茶番だと!? ふざけるな! ふざけるな、ふざけるなッ!! 納得できるわけがない、俺が、俺が……!』
 まったく興味もなさそうに茶番と言い切られたことに、裕徳は激昂する。<金剛杵ヴァジュラ>の効力が切れ、元の肉体が戻ったことにも気付かなかった。
 他者にとっての己の大きな価値、それこそが裕徳の深奥に最も強く根付いた望みだ。自分には常に価値がなくてはならない。生きていても、死ぬときもせめて、重要でなければならない。
 皓士郎はよかった。随分と苛立たせてはくれたが、最期に渾身の怒りを残して死んでいった。
 しかし名和雅年にとって、赤穂裕徳は有象無象のひとつに過ぎない。
 だからこそ何よりも許せない。だからこそこの世の誰よりも嫌悪するのだ。
「そんな顔で殺すのか、俺を! そんな下らない顔で殺すのか! 外道が、外道がッ!!」
「いかにも。方向性こそ違え、君と同様に僕は外道だとも」
 愉悦も自虐もなく、雅年は肯う。
 双眸は冷やかに裕徳を捉えたまま、喉どころか首を握り潰しつつ最後の一撃を放つ。
「しかしどうしても洒落た理由が欲しいというのなら」
 その右拳に一切の容赦はなく、防衛本能が動かした三枚の盾を呑み込み粉砕し、なお衰えを知らない。
 裕徳は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。
<囁き>ウィスパーは絶対に許さない、そう口にしたのは君自身だ」
 死した<魔人>は欠片すら残らない。断末魔さえ響く前に消えた。







[30666] 「英雄の条件・エピローグ」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/02/06 19:07




 果ての見えない世界で雅年はドアの脇に佇む。
 ロングコートの裾が荒れ狂う風に大きく揺れ、しかし雅年自身は微動だにしない。
 気圧の変化もなさそうなこの場所で、風がなぜ吹いているのかは分からない。来たのは三度目だが初めての経験だ。
 雅年はただ待つ。ドアはこちらからは開かない。破壊もできない。閉ざしておくことを進言したのは雅年自身だ。
 もしかするとずっと開かないのかもしれない。自分はここで立ち続け、やがて朽ち果てるのかもしれない。
 あるいは、開いて現れるのが自分に終わりをもたらすものであっても驚きはしない。
 好んで消えたいとはまだ思わないが、浅ましいこの身にはいずれ相応しい末路のひとつではあろう。
 どれほどの時が過ぎたのだろうか。<魔人>と成ってからというもの、時間の感覚が少々狂っている。自分自身の感覚を充分に制御できていないのだと、雅年は自覚している。
 比喩ではない。人であっても状況によって、受け取る情報量を絞る替わりに自意識における時の流れを遅く感じることができる。<魔人>はそれも大幅に強化されているのだろう。同じだけの意識の変化でも削る情報量は少なく、それでいて得る流れはより遅く。その相乗によって<魔人>は本来あり得ぬ速度で仕掛け、あるいは反応、迎撃することが可能なのだ。
 生き物の身体は賢い。もし身体の動かし方すべてを一から意識に刻み込むとなれば想像を絶する苦行になるであろうものを、最初からほとんど成し遂げられるようにできているのである。しかし自己内の時間は元々身体ほど絶妙な調整ができるわけではない。<魔人>に成ってもそれは変わらない。
 あくまでも修練や試合によってではあったが、人であった頃からそういった感覚に慣れ、意識していたからこそ、雅年は今も比較的時を捉えておけるのである。
 前兆もなく音もなく、ドアがゆっくりと開いた。
 現れたのはステイシアだ。華奢で小柄な体躯を幻想じみた白と赤の衣に包み、どこか悲しげな色を交えて儚く微笑む。
「……終わったのですね」
「ああ」
「裕徳さんは強かったですか?」
「いや」
 にべもなくかぶりを振る。
限界突破リミットブレイク時の力自体はこの間の鹿野瑠奈を上回っていただろう。実際、あれよりも少し速かった。だが……」
「やはり強いのは<ダキニ>の方でしたか」
「赤穂君に関しては、負けるのが彼の方だと言う方が正確だと思う」
 目的はともかく、赤穂裕徳のやり方そのものは理に適っている。始まるまでに勝てるだけの状況を整えておくというのは理想的だ。それだけを見るのであれば。
 彼の不幸は、その手法において対抗してくる敵がいなかったことだろう。容易く勝てる相手ばかりでは、やがて自分の力も他者の力も見えなくなってくる。なまじ掌の上で踊らせている自覚があるせいで、見えなくなっていることにも気付けない。
 魔神ではないのだ、敗北は必要である。好敵手か、あるいは足りないところを補ってくれるパートナーがいたならば、ああも容易くはなかったろう。
「……皓士郎さんは、一度戦いが始まれば読み間違いはしても油断はしません。足場が糸一本でもあれば、踏み止まるでしょう。力さえ同等なら、『本物』を相手にしても互角に戦えるであろうほどだったのですが」
 憂えげに、呟くように、ステイシアがくちびるを震わせる。
 言いたいことは分かる。赤穂裕徳と森河皓士郎が本当にパートナーとなり、何度もいがみ合って、それでも乗り越え高め合って行けたなら、呼ばれるだけでも望むだけでもなく、本当の英雄ヒーローになれたかもしれないのに、と。
「そうなる前におそらく瓦解すると思うが」
 少女の未練と感傷を、雅年は冷淡に切り捨てる。
 裕徳の腹の底は皓士郎にとって、おぞましいほどの悪だろう。決して存在を許すまい。
 しかしステイシアはゆっくりとかぶりを振った。
「変われます、いくらでも。『本物』ではないのですから」
「それだけを抜き出すのなら否定はしない」
 言う通り、人は変われる。いくらでも迷い、改めて異なる答えを出してゆくことはできただろう。変わること自体が難しく、変わった先もどちらを向くかは分からないとはいえ、それでも。
 しかし、変われると思ってなお、ステイシアは今回このような結果を選んだのだ。
「幾分腹黒いキャラクターになっているが、構わないのか?」
「よくありません」
 ステイシアは愛らしく小首を傾げてみせた。切り替えの早さは組織の中心人物として望ましい要素だ。雅年であれば不謹慎と謗ることもない。だが、神官派の皆が思うステイシアでもない。
「腹黒ではお嫁の貰い手がありません。だから雅年さん、貰ってくださいますか?」
「寝言は寝て言え」
 偶に仕掛けて来る類の冗談を、非難はせずとも雅年は今日も平坦に切って捨てる。
 <竪琴ライラ>とは、人間社会に明らかな害悪をもたらす<魔人>に対応することを目的とした集団である。六つの派閥に分かれ、それぞれの拠点を中心として<魔人>の引き起こした事件を独自に解決している。
 しかしその実、当然とも言えることながら必ずしも善ではない。理念に忠実に沿っていてさえ、万人に認められて存在しているわけではない以上、独善にしかならないのだ。
 だが、正義であるということにはしなければならない。
 <竪琴ライラ>はただ事件を解決するだけではなく、力を持て余した<魔人>を内側に取り込んで役目を与え、制御する役割も持っている。そのときに必要なのが、自分たちが正しいという保証である。
 欲望を抑えられずに悪事を為す人間は多い。やむにやまれぬ事情で悪事をはたらく人間もいる。けれど悪を為すことそのものを目的とする人間はほとんど存在しない。人は正しい立場にいることが好きなのだ。だから正義であるという保証は安心となり、そこから外れることには大きな不安を覚える。
 <竪琴ライラ>神官派はそれを利用する。あなたたちは、私たちは正義だ。武力も用いるが、疎まれることもあるかもしれないが、それでも正義なのだ、と。
<私>ステイシアは聖女でなくてはなりません。<魔人>による事件を憂い、人々を慈しみ、罪を赦す聖女という偶像でなければ」
 浮世離れした見目麗しい少女という存在はそれだけで人心を集める。たとえ独善であろうとも、ステイシアが口にしたならばそれが正義であると錯覚し易いのだ。
 特に<魔人>はほとんどが少年である。慕情も混じれば疑う心はさらに薄れる。
「半ば騙すようなことになっているのです、せめて私は聖女であり続けなければ……」
 儚い吐息。長い睫毛が震える。ステイシアは祈るように両手をそっと組み合わせた。
「……けれど聖女であってもなりません。この矛盾をどうしましょう」
 人には迷いも欲望もしがらみもある。<魔人>はしがらみをあまり持たない替わりに、己がただの人間など軽く捻り潰せることを知ってしまっている。集団となれば諍いも起こる。裕徳のような者も出る。
 純粋で優しいだけの聖女に組織の手綱はとれない。人の心を知らずに理想に向かって進むだけの聖女に人はまとめられない。狂信者の群れでもない限り、やがては崩れてゆく。
 ステイシアは上手くやっている。矛盾を為しながら矛盾と感じさせず、偶像と統率者の二足のわらじを履きこなしている。
 だが、行えないこともある。
「私にはあなたが必要です、雅年さん。衛さんは本当に靭いひとですが、とても優しいひとでもあります。瑞姫さんは言動に反して荒事自体を望みません」
 赤穂裕徳の所業は、白日の下に晒されたなら<竪琴ライラ>にとって致命的な要素になる。ただの構成員ならばまだしも、英雄ヒーローとまで呼ばれた少年が行ったとなれば、神官派に止まらず<竪琴ライラ>すべての演出すべき正義を揺るがしてしまう。
 もう止めるならばよかった。結果的には白とも黒ともつかぬ以上、もし疑われても都合のよい解釈で誤魔化すことは今ならばまだできた。少なくとも裕徳の名声には不利益を塗り潰して余りある価値があった。
 しかしこれからも続けるというのであれば、駄目だ。裕徳は信じがたいほど利口に立ち回っていたが、それでもやがて疑いは出る。今以上に増えてはもう、隠し切れるか否か分からない。
 裕徳は警告に気付かず、続けた。それも、形の上だけでも一番の友と呼んでいたはずの皓士郎を次の標的として。
 ならばせめて英雄ヒーローのまま、今のうちに消えてもらわなければならない。<囁き>ウィスパーは皓士郎を操り、皓士郎は死に至り、裕徳が仇を討つも己自身も息絶えた。それが今回の事態に与える筋書きだ。
 <竪琴ライラ>の崩壊だけはならない。人は極端から極端へ走るものだ。信じるものを壊された子らの多くは、今度は社会の平穏を脅かすだろう。その引き金となりうる要素はできるだけ排除しておかなければならないのだ。
 皓士郎の死は、ある意味ステイシアが裕徳に与えた猶予によって引き起こされたとも言える。しかし謝罪は口にしない。
「皓士郎さんの想いも裕徳さんの望みも踏み躙る嘘であるのでしょう。けれど私はこの嘘のために、あなたへ改めてお願いするしかありません」
 人をやめたとはいえ人であったものを殺す、そのような所業を為さねばならないことはある。さらにそれは、場合によってはいっそうどす黒く汚れていることもある。
 ステイシアも破壊の力を有していないわけではない。しかしそれを揮うのは、あくまでも聖女という立場においてのこと。
 だから処刑人が必要だ。たとえ昨日までの味方であろうとも惑わず、逃さず、容赦なく抹殺できる戦力が必要だ。
 処刑人は嫌悪されるほどにいい。忌まわしい存在だと思われるほどにいい。その分だけより安全に、聖女は偶像でいることができる。
「雅年さん」
 紡がれる言葉は恐れるよう。囁く声は畏れるよう。見上げて来るまなざしはほのかに揺れて。
 ステイシアは左手の甲に右手を重ね合わせ、やわらかに己が胸へと埋める。
「この灰色の世界で、私とともに堕ちてくださいますか?」
「……僕は外道だ。これ以上は堕ちるもなにもない気がするが」
 雅年はやはり、やる気もなさそうに答える。
 しかしどこか苦笑にも似た色は滲んでいた。
「それが約束だ。僕の望みが達せられるか、あるいは潰えるまでは付き合うさ」
 風が唸る。
 二人の言葉をどこへ運んでゆくのかは、魔神ハシュメールのみぞ知る。

















「あれは……確か小学校の低学年の頃だったかな。お兄ちゃ……兄と市民プールに行ったんですけど」
 春菜が穏やかな表情で言う。
 コーヒーの香り。格別に美味いというほどではないとはいえ、それでも喫茶店である。並程度でしかなくとも、やはり鼻腔を満たす香りは特別なものではあった。
「ほう」
 相槌を打ちながら、雅年は一年と少し前のことをふと思い出す。
 師と呼ぶ男、若き准教授の淹れてくれるコーヒーも美味くはあったが、やはり素人と玄人の差は大きいようだ。その真似をしてみた己の一杯など、話にもならない領域である。
「浮き輪があったせいで、うっかり足のつかない場所まで行っちゃったんですね、私。そしたら身じろぎした拍子にすっぽ抜けちゃいまして」
「大丈夫だったんですか!?」
 身を乗り出したのは梓だ。
 随分と大きな挙動だとも見えるのだが、一般的には少々大袈裟程度のものなのだろうと思い直す。
 今日も化粧が不必要に濃いであるとか、正直なところ邪魔であるとか、他にも色々と思ったものの、春菜が楽しそうなので気にしないことにした。
「うん、お兄ちゃんが凄い速さで助けに来てくれたから」
 話題そのものは非常に反応に困るものだ。春菜から視線を逸らすように、液面に視線を落とす。
 立ち昇る湯気。クリームがまだ渦を巻いている。
「そういえば名和さんってば、コーヒーはブラックじゃないんですね。邪道ですよ」
「知ったことじゃない。僕の勝手だ」
「でも、私もなんだかブラックで飲みそうなイメージがまだ抜けないんですよね」
「飲めないわけでもないんですけどね、ちょっと思い出の都合で」
「うわ何この対応の差。今ひどい差別されたよ?」
 静かな喫茶店の隅だけが三人の常連で喧しい。
 他に客がないからというわけでもないだろうが、マスターは何も言わない。
 日曜の昼下がりは穏やかに過ぎてゆく。
 そこには英雄などいるはずもない。凡人が憩っているだけだった。















『英雄に必要不可欠なものは何だと思います?』
 それはいつのことだったか。
 可憐な面立ちに得意げな表情を浮かべ、ステイシアが出題して来た。
 答える必要性もないとは思ったものの、少し考えて浮かんだ言葉を雅年は口にした。
『機会だろう』
 答えそのものは何ら難しいものではない。聞けば誰しもが頷くだろう。
 あるいは、反論するかもしれないが。
 才能があるに越したことはない。努力をするに越したことはない。頼れる仲間がいるに越したことはない。素晴らしい精神も、地位も、価値あるとされる大抵のものは、あればあるほど望ましい。
 だが、それらは不可欠ではない。才能もなく努力もせず卑劣で愚鈍で誰からも嫌われていたとしても、英雄になれないわけではないのだ。
 絶対に必要とされるのは機会だ。英雄と呼ばれる理由となる事件である。どれほどの力と特長を有していたとしても、一生をただ平穏に、凡庸に終えれば英雄にはなり得ないのだ。
 間違いではないが、捻くれた極論ではある。雅年もそのことは理解していた。理解して、素直な回答として発したのだ。
 ともあれ、それはステイシアが用意していた答えであったらしい。
 眉尻を下げ、彼女はしょんぼりと肩を落とした。
『どうして正解しちゃうんでしょう……折角頑張って考えたのに……』
 そんなステイシアを尻目に、雅年は立ち去ろうとする。
 そう、あれはちょうど日曜だった。
 日曜は、あの喫茶店に行かなければならないのだ。
 だが、呼び止められた。
『雅年さんは英雄になりたいですか?』
 ぴたりと足を止め、振り返る。
 ステイシアは両手を胸の前で組み合わせ、どこか遠くを見るようなまなざしでこちらを見つめていた。
 雅年は笑いも憤りもしない。ただ、冷やかに拒絶した。
『御免こうむる』
 万人のための英雄であれば機会など嫌でもやって来る。見回せばいくらでも湧いて出る。既にある機会に対して斜に構える趣味は雅年にもない。
 だが、雅年の望みはそうではない。
 自分が機会を得るということはつまり、道化と成り果ててでも守りたいと願った唯一のものが危険に晒されるということであるのだ。
 背を向けた雅年は気付かない。
 ステイシアは、本当に嬉しそうに微笑んでいた。







[30666] 幕間「無価値」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/10/09 19:20




 にやにやと笑う口、三つ。
 日は変わらぬまでも大いに更けた夜、薄汚れた陸橋の下でのことだ。
 打ち捨てられたごみが吹き抜けた風にからからと転がされ、足元にまとわりつくのも少年は知らない。意識の全ては恐怖に塗り潰されてしまっていた。
 背にした壁には卑猥な落書き、顔の右には圧迫するように腕、左にも腕。自らの両手は財布を差し出した形のまま震えるのみだ。
 塾の帰りに恐喝に遭っている。起きていること自体は、端的に言えばそういうことだ。
 少年は腕に覚えがある。あくまでも一般的な高校生の範疇に収まるものだが、そうそう喧嘩で負けるつもりはない。それでいて、何かあれば即座に逃げるつもりでいた。そして警察にでも駆け込めばいいと思っていた。
 しかし、相手が異常だったのだ。
 見た目こそ同年代、十代後半と思しき少年三人組である。だが一人は逃げようとした自分の頭上を軽々と跳び越えて先回りし、一人は行く手を塞ぐ大型バイクを片手で放り投げて見せた。おそらくは最後の一人も似たようなものなのだろう。
「二万か……しけてやがんな」
 中身を抜きとった財布を無造作に投げ捨てて正面の一人が言う。
「おいお前、明日十万持って来い。ここで、この時間に」
「そんな無茶っ……」
「腕とか折られてみたいの、お前?」
 反射的に出た言葉は即座に封じられた。
 三人はげらげらと笑い合う。
「折るんじゃ詰まんねーだろ。潰してみようぜ、骨とか全部グシャグシャにして」
「ねじ切るとかも面白そうじゃね?」
 普通であれば軽口の類にしかならないはずの台詞が、この三人だと本当に実行できるのだと思えて仕方が無い。
「いいな、十万だぜ? 別にそれより多くてもいいけどよ?」
「嫌なら親とか警察とかに言ってみたら? オレら柔道とか剣道が何段とか雑魚だし? 銃だって効かねーし」
「言った相手ブッ殺した後でお前も殺してやるから楽しみにしとけよ」
 にやにやと笑う口、三つ。











「すげえよなオレら!」
 二つの壁を上へとジグザグに跳躍することによって辿り着いたビルの屋上、三人は喧しく笑い合う。
 先ほど強奪した二万円は既に使い尽くしているが、気にしない。明日にはその五倍が手に入るはずなのだ。
「もう最強って感じ?」
 高揚に身を浸すのもむべなるかな。跳べば頭上に十メートル以上、走れば五分少々で十キロメートルを走破する。荒事にも顔を突っ込んだが軽く殴るだけで当たった部位が弾け飛び、こちらの身体は銃も刃物もまともに通さない。銀玉鉄砲で撃たれたくらいには痛かったか。
「軍隊に突っ込んだっていけるんじゃね? 一騎当千っつーかワンマンアーミーっつーか」
「だよな」
 はしゃいだ声は見た目相応の年齢を感じさせる。浮かれている分、口調はそれよりも幼いだろうか。
 彼らの力は、自らの才や鍛錬で得たものではない。
 魔神という存在がいる。正確には、十四年ほど前に現れた自らを魔神と呼ぶ存在だ。人の女のような姿をして、人には至り得ぬ美しさを存分に見せつけ、人とは次元の異なる力を振るう。
 その力のうちの一つが<魔人>の作成である。人に力を与えることによって成る<魔人>は、魔神には遥かに及ばぬまでも絶大な力を有するに至る。
 人の社会は魔神の存在を知っているが<魔人>のことは知らない。魔神がわざわざ知らしめることはなく、極めて稀に知る人間も意図あって伝えない。<魔人>自身も決してばらさない。
 その結果、ただ力を振るいたいだけの者にとって、<魔人>であることは人間社会における暴力のこの上ない担い手となれることを意味している。
 なればこそ、性根は透けて見えるというものだ。
「次はどうする?」
「どうするってのは?」
「こんなチンケなこと続けてたってしょうがねえよ。もっと別のすげえことできるだろ、オレら」
 三人は元から素行の良い人間ではなかった。しかしさほど腕力に秀でているわけでもなく、力ある者の腰巾着として虎の威を借りていただけだったのだ。
 だが、今や自分たちに敵う人間は存在しない。魔神か、同じく<魔人>であるかしなければ相手にならない。人を超えたという全能感がもたらす昂りは狂おしいほどだった。
 <魔人>となってまず行ったのは力の確認、そして負けることなどあり得ないと確信してからかつての仲間を訪ねた。鬱屈を晴らしに行ったのだ。どちらが上になったのかを思い知らせるために。
 やり過ぎて重傷者ばかりとなり、全員病院送りで支配下に置くも何もなくなってしまったのは誤算だったが、恐怖を叩き込むことはできたはずなので概ね満足している。
 <魔人>となろうとしたのは三人だけではない。二十名はいた。その中で成ることができたのがこの三人なのだ。
 だからこそ選ばれた者としての自負もあった。
「何がある?」
「最終的には裏社会を牛耳るとか、やりたいよな」
 語る希望。夢見るような瞳はどのような未来を幻視したのか。
 夢も希望も、他者にとって必ずしも素晴らしいものであるわけではない。
 だが素晴らしいと口にする者がいた。
「お見逸れ致しました」
 穏やかではっきりと響く声。少年たちは背後をびくりと振り返る。
 いつからそこにいたのだろう。二十代半ばと思しきひょろりとした青年が人好きのする笑顔で佇んでいた。
「お、おまえ誰……」
「素晴らしい。やはり<魔人>たるもの、それくらいの気概を持たなければ」
 絶妙の呼吸で誰何に被せ、青年は続ける。
「実はあなた方を見込んでお願いがあるのです」
「……なんだよ?」
 本来、どう見ても怪しい青年である。気配もなくそこにいて、笑顔で頼みごとがあるなどと言う。
 人であった頃なら、間違いなく拒絶していただろう。危険な存在を嗅ぎわけることくらいはできていた。しかし力を得た今、少年たちは疑いながらも話を聞こうとしてしまった。
 強者になったという自尊心が、警戒などという真似は格好が悪いと言う。加えて、三対一だからどうとでもなると判断したということもある。少なくとも三人自身は、だからひとまず聞くだけ聞いてみようと思ったのだと認識していた。
 少年たちは知らない。万人の警戒を解きほぐす笑顔というものがある。聞き取り易く、かつ威圧感を与えない発声と抑揚がある。それらは技術として後天的に身につけ得るものだ。
 たった二言三言のやり取りで既に術中にはまっている。しかし、気付けない。
「僕は高杉誠と申します。<横笛>フルートという組織に所属する<魔人>です」
「フルート? なんだそりゃ、楽器かよ」
 青年の与える腰の低い印象に気をよくして、一人が嘲るように鼻を鳴らした。
 無論、青年の穏やかな笑顔は揺るがない。
「一時的な互助組織ですね。現在、日本の<魔人>社会には非常に厄介な警察的存在がいましてね、それに対抗するためのものです」
「警察かよ……」
 少年たちは揃って、うげぇと言わんばかりの顔になった。人であった頃から暴力に親しんでいた身である。治安維持組織は敵だとしか思えないのだ。
 それでもすぐに、青年を馬鹿にするような表情に戻った。
「要するに、それを潰すために力を貸して欲しいってとこかよ」
「なっさけね」
「悪いけど、オレら十とか二十とか軽いから。割と強くたって各個撃破ってやつ? 一人ずつボコってきゃいいだけ」
 この三人がいれば充分。少年たちはそう思いこんでいた。
 さっさとあっちへ行けとばかりにひらひらと振っていた手が、しかし青年の次の台詞で止まった。
「二千ですよ」
「……は?」
「<竪琴ライラ>の構成員数はおよそ二千です。日本中どこにでも出没するものだから逃げ場もありません」
 飄々とした響きが三人の耳朶を打ち、思考に沁み込んでゆく。
「しかもこの地域を管轄している派閥の基本戦術は、一人に対して可能な限り安全に勝てるだけの人員を当てる、なんて代物ですから頭の弱いのが先走りでもしない限りはこちらが各個撃破されるのがオチなんですよ。まあ色々制約も出て来ますから状況次第で数にも限度がありますけど、一人に対して二十人ずつが同時に襲って来るなんてことは充分にあり得ます。その基本を崩すために<横笛>フルートは結成されたんです。数は力ですよ」
 少年たちは無言で目配せを交わし合った。
 彼らは自分たち以外の<魔人>の力量を知らない。ただ、銃すらまともに効かない<魔人>など他にはほとんどいないはずだと根拠もなく信じていた。そこへ青年が下手に出たものだから、自分たちは<魔人>としても強いに違いないと完全に信じ込んでしまったのだ。だから先ほどの言葉にはったりのつもりはなかった。
 それでも二十人を一度に相手取って下せるとまで極端な過信もしていなかった。
「んー、別にそれでも大丈夫っぽいけどなあ」
「まあでも、楽勝とはいかないか」
 そんなことを口にするのは侮られたくないからだ。虚勢を張りながら、向こうから頭を下げてくれるのを待っている。
 勿論、青年は少年たちの望む台詞をにこやかに口にするのだ。
「そこをなんとか。是非、あなた方の力を貸していただきたいのです」
「貸すのはいいけどさぁ、ちゃんとそれなりの待遇してくれるわけ? オレら贅沢よ?」
 にやにやと笑う口、三つ。
 当然、青年は揺らがない。
「実力に見合った待遇をお約束しますよ。それに、<横笛>フルートは強い奴が偉いというのがモットーですからね、気に食わない奴がいれば力尽くで従わせてしまえばいいんです」
「いいねえ……これ、ちょうどいいんじゃね?」
 一人がにんまりとする。
 その意図は紛うことなく残る二人に伝わった。
 組織を乗っ取ろうというのだ。日本全国に広がる治安維持組織に対抗しようというのであれば、<横笛>フルートもまた全国規模であることは想像に難くない。日本の裏社会のトップ、という地位は自分たちにこそ相応しいものに思えた。
「獲っちゃうよ? 獲っちゃうよ、天辺?」
「ええ、是非挑戦してみてください。心から応援しますよ」
 青年は人好きのする笑みをどこまでも崩さない。
「そうしたら是非、僕を重用してくださいね。『無価値』だとか呼ばれる身ですが、微力を尽くしますから」





 日が変わる。
 四人の姿はやがて屋上から消え去る。
 最後まで青年は一切の嘘を吐かなかった。
 嘘は、吐かなかったのだ。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・一」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/09/11 00:06



 灰色の世界に影が跳ぶ。
 色を失った廃工場の屋根を突き破り、<森林フォレスト>は大きく距離をとった。
 えも言われぬ不快感が胸に広がる。
 旨くいっていたはずだった。<魔人>となってからというもの、人に対して振るうには大き過ぎるほどのその力を用心棒稼業に用いて荒稼ぎし、これは意図せぬことではあったがやがて幾つかの街の暴力を掌握するまでに至っていた。
 たかが十代、されど携行火器など何も効かず、素手で軽々と人体を肉片にしてしまえるのが<魔人>である。守るべき弱点などというものも<森林フォレスト>には存在しない。あとは単純な力がものを言う。
 無論、その席に座っても注意はしていた。噂に聞く<竪琴ライラ>の標的として、自分は当てはまる可能性が高い。
 暴力を掌握した上でそれを治安維持にでも使っていたならば、あるいは見逃されたのかもしれない。しかしそんな気はなかったし、そんな流れにもならなかった。
 <竪琴ライラ>におもねるよりは、最近台頭して来た<横笛>フルートの傘下に収まる方がまだ合うだろう。今更誰かの下につくこと自体が不快であるためそちらからの誘いにも即答はしなかったものの、万が一にも二者択一を強制されることとなるならば答えは決まっていた。
 大仰な兵器を持ち出されない限り人に対しては無敵とも言える<魔人>だが、同じ<魔人>を相手にすれば勝敗は分からない。自分はそのの中でも強いという自信はあっても、上には上がいるものだ。
 慎重に情報を集めるうちに、果たして<竪琴ライラ>はやって来た。おそらくは一つくらいは年下であろうと思える少年が、投降を呼びかけながら。
 大した相手ではなかった。並よりは上、その程度だ。クラウンアームズも所持していない。
 鎧袖一触というほど容易くはなかったけれども、さして手こずることもなく葬り去ることができるはずだった。今は背後となった廃工場で、とどめの一撃を放ち、それで今回は終わりのはずだった。
 だというのに割り込まれたのだ。
「釣り出された……? いや、そんな馬鹿な」
 呟き、自分自身で否定する。逃げられないように誘き出すというのはいかにもありそうな手ではある。しかしそもそも廃工場へ引きこんだのは自分の方だ。
 選んだつもりが選ばされていたということも、ありえない話ではないもののさすがに考えづらい。
 一体何が起こったのか。そしてこの灰色の世界は何なのか。
 答えは背後から来た。
「半径100mほどの独立閉鎖空間、とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ」
 決まり切った文句を事務的に告げるかのような声。
 振り向けば、青年の姿が一つ。
 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
 むしろコートの方が目立つかもしれない。六月上旬には暑そうだというだけではなく、右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
「僕を殺さない限り、君はここから出られない」
「ならそうさせてもらうっ!」
 <森林フォレスト>に青臭い惑いなどない。相手の言葉に被せて攻撃を仕掛ける。
 その身の周りに顕現したのは、ちょうど掌と同程度の大きさの涙滴形の薄片だ。それが幾百も浮遊、次いで敵めがけて殺到する。
 緑の奔流。風に吹き散らされた葉さえもが侵入者を切り裂く、そんな魔性の森の洗礼だ。
 人などなすすべもなく刻まれて肉片となる。<魔人>であっても直撃を受ければただでは済まない。
 だというのに青年はその場を動かない。地を踏み腰を据え、巨大な籠手に包まれた拳を繰り出した。
 緑が歪む。薄片を正面から蹴散らしつつ、何かが来る。
 それに姿はない。だが絡みつく緑が形を浮き上がらせていた。
 拳だ。人の背丈ほどもあろうかという。
 <森林フォレスト>はやや余裕をもってそれをかわした。身のこなしにさほどの自信があるわけではないが、正面から撃ち返して来るのは想定していた反応の一つである。
 加えて、不可視の拳は音速にも達しない。充分に対応は可能だ。
 だが、そう易い相手でもないのだろうということも推測できた。
 背後、朽ちかけたロードローラーが硝子細工のように粉微塵になる。潰れるのでもなく、ばらばらになるのでもなく、指先にも満たない欠片へと一挙に砕け散ったのだ。
 とてつもなく重く、そして重いだけでは済まされない。破壊という意味を体現しているかのようだった。かすめることすら避けたいところだ。
 青年が構える。右半身となり、籠手のある右腕を盾のようにかざして左腕は腰だめに。双眸は無感動にこちらを捉えたままだ。
 背を撫で上げられるような感覚。ぞくり、と怖気が走った。
 それは勘だった。<魔人>であることとは全く関係のない、経験から無意識に導き出される答えだ。
 決して短くはない期間、一帯の暴力を掌握して来た<森林フォレスト>は、人間であれ<魔人>であれ力を頼みとする者をたくさん見て来た。
 だが、ここまで冷えたまなざしは初めてだった。力を振るうことに何の高揚も見せず、完全に自意識の支配下に置いている。その上で守りを重視する体勢なのだ、攻略は困難を極めるだろう。
 あくまでも勘である。<森林フォレスト>は過程を自覚せず、この相手は甚だ危険だとだけ結論付ける。
 しかし逃げられない。
 さらに大きく下がろうとすれば、とん、と背に当たるもの。目には見えぬ境界が確かにそこにある。
 戦うしかないのだ。
「深き森よ!」
 やはり迷いはしない。見に回ってくれるならば、即座に切っておくべき奥の手がある。
 主の声に、腕輪型のクラウンアームズ『ベリルラビリンス』が呼応する。
 まるで緑柱石でできたかのような柱が次々と聳え立ち、<森林フォレスト>の姿を隠すとともに、見る見るうちに偽りの葉をつけてゆく。足元では硬質の蔦が地を這い、機械じみた小鳥が梢から無機質な目を覗かせる。
 これら全てが剣であり盾。<森林フォレスト>たる由縁となる陣である。
 難点は完成までに少しばかりの時を必要とすることだが、成ってしまえば文字通りの必殺、一人たりとも逃したことはない。
 青年は微動だにしない。冷やかに観察するのみだ。
 そして今、緑の森は地の灰色を侵食し切った。邪魔されることなく、<森林フォレスト>は必勝の砦を築き終えたのだ。
 だというのに、身体の芯は凍てついたまま。どうしても悪寒が止まない。
 ちらりと確認するのは上方。層が薄く、最も突破され易い。今までの敵で足掻けた者は必ず空から来た。
 しかしそこには灰色の夜空と灰色の月があるだけ。敵はその場を動いてすらいない。
 確認したまさにその瞬間、意識の陥穽を読んだかのように青年が静から動へと移った。踏み込む足、その振動が襲い来る緑を破砕する。そして肘から先だけで虚空に放たれた裏拳が、巨大な不可視の飛拳として森を一直線に縦断した。
 それでもかわすことは造作もない。この森の中にある限り、<森林フォレスト>は視線が徹らなくとも相手の様子を完全に把握しておける。飛拳が蹂躙するであろう空間から己が身を外し、木端微塵になってゆく森を片っ端から復元する。
 元より持久戦の覚悟だ。攻略は難しくとも相性自体はいい。堅実にダメージを重ね、捉えられる前に削り切るのだ。
 そうして敵の傍の『蔦』を動かそうとして。
 間に合わなかった。
 青年が大きく地を蹴り捨てた。
 一旦は守りに入る姿勢を見せながらも、ついに状況を見切ったのだろう。この森の再建速度をもってすれば、その場に留まるような相手は封殺できる。
 <森林フォレスト>は薄く笑みを浮かべた。遅かれ早かれ誰しもが気付いたことではあるが、もう遅い。完成する前に潰すべきだった。
 そのはずなのに、それでも悪寒が止まないのだ。浮かべた笑みも強張っているのが自覚できる。
 さてここからが勝負だ。そう自分に発破をかけていられた時間は、一呼吸の間もなかった。
 『蔦』が間に合っていたとしても何の意味もなかったろう。
 青年が緑の森を引き裂いていた。
 盾のように構えた右腕、籠手が触れるもの全てを粉砕し、欠片や『蔦』は敵の緩衝領域すら突破できない。
「……っ!?」
 否、それだけでは済まされない。
 <森林フォレスト>は息を呑んだ。
 幻視のように意識へと叩き込まれたのは波だ。青年の背後が広く揺らめいていた。空を歪ませる無尽の波濤を引き連れ、進攻して来る。
 無論、海を呼び出したわけではない。言うなれば周囲の空間そのものが逆巻く波の如くと化しているのだ。
 もはや触れる必要すらない。近付くだけで森が呑み込まれ、青年の背後で微塵に砕かれ、<森林フォレスト>の制御下から外れてゆく。あれだけ厚かった森が、偽りの木々が、下草が、小鳥たちが、またたく間に崩れ落ち、還ってしまう。
 特殊な何かであるとは思わない。あまりにも巨大な海洋生物が大量の水を押しのけ荒ぶらせるように、ただの力と重さが周囲に波及している。そんなものが障害物を叩き潰し、押し流し、呑み込んでいるのだ。
 理屈の上では有利であることなど、正面から打ち砕かれた。
 波濤は何も残さない。逃れる場所がすべて削り殺される。<森林フォレスト>の見開かれた目と、青年の事務的なまなざしが直接交差する。
 繰り出された拳を、一撃だけは耐えた。耐えることに全力を注ぎ込んだ。<森林フォレスト>のように遠隔攻撃、操作を得手とするような<魔人>は内包する力が豊富で、それが影響してか存外生命力にも秀でるのだ。
 それでも胸部と腹部が半ば消し飛び、復元もままならない。
「……お前、あれだろ……さては<竪琴ライラ>の処刑人だろ……?」
 物理的には喋ることなどできないはずのこの状態でも問いかけられたのは、不可思議を行う<魔人>であるがゆえ。
 勝てないことを悟り、歯を食いしばりながらせめて己を殺す者の名だけでも確認しておきたかった。
「よくそう呼ばれる」
 青年は無感動にそれだけを告げる。
 <森林フォレスト>は壊れたような笑みを浮かべた。
 あまりに理不尽だと、そう思わずにいられない。
 強いこと自体はいい。自分が敗れるのもいい。この相手ならば必然だ。
 怨嗟の声を漏らす理由はただひとつ。
「なんでだよ……どうしてお前が、<呑み込むものリヴァイアサン>が……俺ごときのために出て来る!?」
「それに関しては別に君のせいではないんだが……」
 泡を吹かんばかりの<森林フォレスト>の嘆きなど知らぬげに、青年はもう一度拳を振るった。
「どうあれ僕は仕事をこなすだけだ」
 慈悲も惑いも、一片たりともありはしない。今度こそ<森林フォレスト>の生命は断ち切られた。
 死した<魔人>は塵も残らない。
 急遽入った予定外の依頼もそれで片付いた。







 いつか見たような光景だった。
 迫る緑の刃、それは満身創痍の自分の命を奪うに違いない破滅の奔流。
 死ぬのだと悟って生を諦めたのも同じなら、そこでロングコートの背が景色を遮ったのも同じだ。
 人物も同一、巨大な籠手を嵌めた拳を繰り出したことも、敵ともども姿が消えたことも変わらない。
 静寂とともに残った景色は、あちこちに無残な穴の空いた廃工場だけだ。
 ちょうど横顔を覗かせた三日月が冴え冴えとこちらを見下ろしている。まるで冷やかに嘲っているようだと神野修介かんのしゅうすけは思った。
 こつりこつりと、靴音。月下に可憐な姿が現れる。
「ご無事ですね」
 繊細な面立ちに明らかな安堵の色を浮かべ、ステイシアが微笑んだ。
 修介は声を詰まらせる。
 どうして、と問うてみても答えは判り切っている。自分を助けに来たに決まっているのだ。
「もう今回のような無茶はしないでくださいね。藍佳あいかさんも心配していましたよ?」
 優しい叱責が、だからこそ痛い。
「あいつは? 放っておいて大丈夫なのか?」
 斃そうとして、自分一人では敵わなかった相手。
 しかし問うてから愚問であることに気付く。
「大丈夫です」
 ステイシアは微笑んだ。信頼し切って穏やかに、こともなげに。
「雅年さんですからね」
 その答えと表情に嫉妬を抑えられない。
 しかしそれ以上に、自らの力不足を思わずにはいられなかった。
 今一度、月を仰ぐ。
 決して腰が抜けているわけではないが、今は立ち上がる力が湧かない。
 月の横顔は相も変わらず冷え冷えと、修介を見下ろしていた。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・二」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/09/18 19:40


 果てのない黒の中、スクリーンがあるわけでもない虚空に鮮明な平面像が映し出されている。
 二十歳ほどと見える、美しい娘の姿だ。複雑な意匠の凝らされた黒のナイトドレスも毒々しく、紫を刷いたくちびるに浮かぶ笑みはなお毒に満ちている。
 豊かに背へと流された髪も紫、人であれば自然にはない色だ。無論のこと、娘は人ではない。
「あはははははははははははははははははははは!」
 彼女の笑い声が虚空へ浸透してゆく。
 像と向き合うようにして、やわらかなソファにあっても姿勢良く背を伸ばしたステイシアは困ったように眉尻を下げた。
「笑いごとではありません、レヴィアさん」
「ふふふ、いえいえお言葉ですけどぉ、まさに笑うところじゃないですかぁ」
 語尾を甘く緩める物言いは慇懃無礼にすら届かない。レヴィアと呼ばれた娘の常だ。
 口調だけならば稚気を思わせるが、口許の笑みは嗜虐の喜びに溢れていた。
「こっちに組み入れられる可能性のあった<魔人>を無駄に死なせちゃうとかさぁ、何やってんですか? 神官サマは馬鹿なのぉ? しかもかなり有能っぽかったんでしょお?」
 うまくいけば戦力を増やせたのみならず、一人の<魔人>としての<森林フォレスト>も助けられたはずなのに。そういう皮肉だ。
「可能性はありましたが、ごく低いものです。断固として拒否されたなら、残念ながら最終的な結果は変わらなかったでしょう。それに、優先すべきはメンバーの命の方です」
「その判断にケチをつけてるわけじゃなくてぇ、あたしが問題にしてるのは暴走を許しちゃう体制なんですけどぉ?」
 <竪琴ライラ>魔女派を率いるレヴィア=ミンストレルは腕を組み換えた。しなるようなその仕種には蠱惑の色が滲み出ている。ステイシアが聖女として求心力を得るように、レヴィアの武器はこの色香なのである。
「どうせその暴走した子、まともな処分なんてしてないんですよねぇ? いいとこ謹慎くらい? そんな甘いことだから神官派は一握りの変なハイスペックと残りの雑魚に二極化しちゃうんですよ。それなのに破綻してないあたりが神官サマの手腕なんですかねぇ……あ、でも迂闊にきっつい処分なんてしたら聖女の化けの皮剥がれちゃいますもんね、大変ですねぇ」
「そろそろ本題に入りませんか、レヴィアさん」
 端々に毒の仕込まれたレヴィアの言葉を、ステイシアは困ったような笑顔ながらも穏やかに受け流した。
「あなたが直接連絡して来るなんて実に珍しいことです。何があったのですか?」
 魔女派は神官派とは最も疎遠だ。その気になればこのように容易く連絡をとれるにもかかわらず、前回話したのはもう半年も前になる。
 主な原因は、方針に大きな隔たりがあることだ。
 神官派、騎士派、剣豪派、財団派、鳥船派、魔女派。<竪琴ライラ>六派は担当地域が異なる他にも、運営の仕方そのものに差異の見られる部分がある。
 エリシエル率いる騎士派は<魔人>四名を一チームとして普段から構成しておき、事件の際にはそのチームで各事案に当たらせる。バランス良く作り上げられた各チームはどんな相手、どんな事態にもある程度対応できる。無論、一チームで足りなければ複数を動員する。
 平均的な力量や士気は高いものの、規律が厳しいため脱落してしまう者も少なくない。そういったときに主に受け皿となるのが神官派である。
 方針は比較的穏当で、制圧と説得を基本とする。単純に治安維持組織として見た場合、おそらくは最も適しているのが騎士派の在り方だろう。
 それと近いのがライラックの剣豪派だ。やはり制圧の後に説得という手段を採ることが多いが、騎士派ほどは我慢強くない。排除すべしと判断するに至る基準点が低いのである。
 剣豪派の最大の特色は個人戦闘能力の高さにある。その呼び名は伊達ではない。同数でやり合えば騎士派の連携を覆すほどの強者が揃っている。替わりに、脱落者は騎士派に輪をかけて多い。
 個人主義というわけではなく、やはり複数で事に当たりはするのだが、補い合うよりは己の長所を生かそうとするため、やや穴が発生しやすくはある。また、数が少ないせいであまりに事件が多くなると対応が追いつかなくなるおそれがある。
 逆に構成員数の最も多いのが、オーチェの統率する財団派だ。その数を生かし、所属する<魔人>が常に担当領域に散らばっている。そして事件が起これば手透きの<魔人>を応援に呼んで対応するのだ。対応の中身は担当者に一任されることになる。
 現地では主に学生としての身分と住居とを用意する。財団派とは、奨学生のための財団という仮面を被っていることから来た名称である。
 利点は多い。現地に溶け込んでいるため発見や対応を速やかに行うことができ、場合によっては未然に防ぐことさえ可能になる。
 ただし構成員の犠牲も多い。力量にはばらつきがあるのに応援が来るまで基本的に独りであるため、先手を取って狙われたなら凌ぎきれないことがあるのだ。
 それでも財団派が<竪琴ライラ>の中で最多なのは、一度は失ったはずの学生生活を求めている<魔人>がそれだけいるということでもある。
 鳥船派は拠点が特徴的だ。巨大な飛空艦船とでも言うべきものが、<伝承神殿>と同じく世界の裏側に潜航したまま担当領域内を巡回しているのだ。
 構成員数は決して少なくないにもかかわらず、大半が拠点内から出ないため小さな事件を見落とし易い。その点は大いに問題があるのだが、いざ標的を見つけたならば相手にとっては絶望的な事態になる。
 そのときだけは、中心であるケーニャ自身を始めとして半数近くの人員が降り立つのだ。五十名を軽く超える<魔人>に取り囲まれて逃れられる者など皆無に近い。ほとんどは戦う前に投降する。
 親密である騎士派を除くこれらの三派とも、神官派は関係が悪いというほどではない。問題となるのは構成員の縄張り意識であり、そう巧くはいかなくとも必ずしも協調できないわけではないのだ。それは、歩調は異なっていても同じ方向へと歩いているからである。
 しかし魔女派は違う。その在り様は下手をすれば<横笛>フルートの方が近い。秩序を維持するというより、逆らう<魔人>を暴力をもって排除しているだけなのだ。ちょうど<森林フォレスト>のような者が寄り集まっていると言えるだろう。
 <竪琴ライラ>は秩序を乱す輩を抹殺して回る組織だ、と外部に勘違いされる原因の大半は魔女派の所業によるものである。
「ま、状況が状況ですからねぇ……いくら気に食わなくたって連絡くらいはしますよぉ、偉い偉ぁい神官サマ?」
 レヴィアは頭の後ろに両手を回し、歪な笑みとともに告げる。
「敵さん、どうもかなりデキるのがいるみたいで。こっちが新しい<魔人>の存在を掴んだと思ったら、どうもとっくに籠絡されてるっぽいんですよねぇ。それも同一人物っぽいのに。敵は容赦なくフルボッコがモットーの魔女派うちだからまだなんとかなってますけど、そいつが神官派そっちとか財団派オーチェんとこ行ったら激烈にヤバいでしょお?」
「……そうですね」
 ステイシアは目を伏せる。
 神官派はまだなんとかなる。ステイシアの一声でほぼ全員に方向性を与えることができるのに加え、雅年がいる。神官派全体としての在り様は崩さぬまま、処断して回ることが可能だ。
 しかし財団派は本当に危険である。ただでさえ戦力が分散されている上、決断の多くが各個人に任されている。そこで非情な判断を迷いなく下せるような者は少ない。
「このこと、オーチェさんには?」
「聞かないでしょ、あの偏屈あたしのこと大っ嫌いだし。だから発言力のある神官サマに代わりに言っといてほしいわけなのですよぉ」
「……そうですね」
 頑固なオーチェも多くの被害が出れば自ら方針は変えるだろう。しかしそれでは遅すぎる。
 六派はそれぞれのやり方に口を出さないのが暗黙の了解だ。それでもこの期に及んで背に腹は代えられない。ステイシアは神官という立場によって他の五名より一段上に位置づけられる。進言を聞き入れてもらえる可能性は低くない。
「ありがとうございます、レヴィアさん。参考になりました」
「これくらい、別にいいけどぉ?」
 画面の向こうでレヴィアがにんまりと笑っている。
「ねぇねぇそんなことより神官サマ、雅年さん下さいよ。ほらほら、やっぱ<呑み込むものリヴァイアサン>は<レヴィアたん>の傍にいるべきだと思いません?」
「レヴィアさん」
 ステイシアがにこりと笑い返した。
 今までのどんな言葉にも、困ったような顔をしつつもやわらかで穏やかな調子を崩さなかったというのに、今、可憐な美貌に硬質な極上の表情を纏った。
「その駄洒落、心底詰まりません」







 神野修介と諸角藍佳もろずみあいかはいわゆる幼馴染だ。
 家は道路を挟んで斜向かい、同い年どころか誕生日も三日違い、物心ついた頃にはもう一緒に遊んでいた。
 とはいえ、あまり対等とは言えなかった。たった三日の差であるにもかかわらず、藍佳は己が姉であるものとして常に振る舞った。
 あれこれと世話を焼き、代わりに修介を支配下に置こうとする。
 それは今もまだ変わっていない。
「さて修ちゃん、何か素敵な言い訳はあるんでしょうね?」
 <伝承神殿>の藍佳の部屋。仁王立ちの彼女の前で修介は正座を強いられていた。
 何かの漫画で見かけて以来、藍佳は妙にこれが好きなのだ。迷惑なことである。
「言い訳というか、あー……」
 修介は言葉に困り、小さく唸る。今回の事態は弁解のしようもない。もっとも、たとえどんな理由があったとしても藍佳の感情の前には無意味なのだが。
 答えようが答えまいが怒り出すには違いないので無駄なのだと知りつつも、とりあえず無理に回答はしてみた。
「……俺独りでもいけるんじゃないかなあ、とか思って」
「そんなわけないでしょ! 本来五人で当たるはずだったのよ? 独りでどうにかできるはずないじゃない!」
「いや、そうでもない……と思ったんだけどな」
 確かに、修介と藍佳を含む五名で対処するようにと指示されてはいた。しかしそれだけのメンバーで当たるのは、標的の逃亡を防いだ上で極力誰にも危険が及ばぬまま片付けられるようにするためだ。単純な戦力だけで比べれば過剰にもほどがあるくらいのはずなのだ。
 だから自分独りでも成し遂げられるのではないかと判断したのだが、多少の無茶になる程度で済むという見通しはさすがに甘かったようだ。
「いやあ、悪い。調子に乗ってたみたいだ」
「まったく、どうやったら調子になんか乗れるかな」
 わざとらしいまでに深々とため息をつく藍佳。
 長身にタイトなパンツルック。上は白、下は黒。派手ではないが人ごみにあっても逆に目立つだろう。その中で、ベルトにひとつだけぶら下げた小さなお守り袋が不思議なアクセントになっていた。
「もう、分かってるの?」
 藍佳はきりきりと眉を吊り上げる。
 人であった頃も比較的整った顔立ちではあったが、<魔人>となった今では輪をかけて魅力的だ。
 ただ、全体的な印象は大きく変わっている。やわらかく可愛らしかったのが、今は妙に凛々しい。くせ毛だったはずがすっきりとしたショートカット。絶壁だった胸元も比較的豊かな方になっている。口にしなかっただけで、自分の容姿に色々と思うところはあったのかもしれない。
 以前の姿を嫌いではなかった修介としては何か大切なものを失くしてしまったような気もするものの、自分も変えているのだから文句は言えない。
「そんなに睨むなよ、藍佳」
 名を呼ぶ。
 ともに<魔人>となったときに姿と苗字は変えたが、下の名前はそのままである。だから呼び方は幼い頃からの慣れたものだ。
 藍佳は腕組みをして大きくため息をついた。
「ほんとに反省してるの? いい? 修ちゃんはあたしがいないと何にもできないんだから絶対無茶しちゃだめ」
 いつもの台詞だ。
 修介は応えない。腹の底で暴れるものを無理矢理鎮め、曖昧に笑う。
 それが癇に障ったのだろう。藍佳の眉の角度が更に上がった。
「あのねえ修ちゃん、分かってないでしょ!」
 始まる説教を右から左へと聞き流しながら顔だけは殊勝に、修介は鎮めた思いを転がす。
 今回の自分の暴走が何を引き起こしたかは把握している。本当であれば小さいながらも一勢力を丸ごと取り込めたかもしれないものを、ご破算にしたのだ。
 むしろ、何も分かっていないのは藍佳の方だろう。今も繰り返し口にするのは危険のことばかりだ。そして、自分がいなければ駄目なのだと続ける。
 どうして独りで行ったのかなど予想もつかないに違いない。気付いていれば触れるだろう。
 修介は口を堅く引き結んだ。
 やはりこのままでは駄目だ。収まらない。
 この場を、そして神殿を抜け出す手を考える。今回の暴走でステイシアからも謹慎を言いつけられているが、知ったことではない。
 修介も<魔人>である。
 <魔人>であるからには必ず、胸に秘めた望みが存在するのだ。
 たとえそれが、下らないものであるとしても。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・三」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/10/09 19:26




 小学四年生のときのこと。
 藍佳には内緒で、小さな空手道場に入門した。母親にも口止めをしておいた。
 そしてその一週間後。
『もう、しゅーちゃんってばかくしごとしちゃダメでしょ!』
 道着を着た藍佳がそこにいた。
 今から思えばそれほど不思議なことではない。同じ町内にある道場である。学校から帰って来た後で自分の姿が何度か見えなくなったのは不審だったろう。母親は約束通り藍佳にはばらさなかったかもしれないが、例えば近所の誰かには話したのかもしれない。彼女に伝わってしまう理由など幾つもあった。
 ともあれ、たった一週間でともに通うことになってしまった。
 藍佳はすぐに強くなった。寸止めだったので本気で喧嘩でもすれば勝負は分からなかったが、そんなわけにはいかない。少なくとも組手ではいいように翻弄されることが多かった。
 彼女はそれまでと変わらず世話を焼き、そして言うのだ。
『しゅーちゃんはあたしがいないとダメなんだから』



 道場には小学校を卒業するまでは通った。
 中学生のときにはまともに拳を握ることもしなかった。







 夜の街を行く。
 日中は雨が降っていたらしい。アスファルトが濡れ、蒸し暑い。
 修介は小さくため息をついた。
 身体を重く感じるのは憂鬱だからだろう。
 人波が鬱陶しくて、通りの表から裏へと入る。
 それでも暗闇とはならない。人工の明かりはどこまでも薄ぼんやりと夜を照らし出していた。
 息の詰まりそうな狭い道、やはり狭い空を見上げれば、昨夜と同じように細い月の横顔があった。
 その冷笑は昨日の敗北を思い出させる。
「……くそっ」
 抜けるような悪態が漏れた。
 手も足も出なかった。今更ながらに理解できる。あれは強さを比べる以前に、まともに戦わせてもらえていなかったのだ。
 巧く距離を維持され、屋内に誘い込まれて機動力を殺された。元々のただの廃工場のままであれば建物自体を壊しながらという手も使えただろうが、そこへ更に強靭な『蔦』が内部を這い、ことあるごとに動きを阻害して来たのだ。
 対して、勝利を収めて来た名和雅年は苦戦したようですらなかった。戦いの様子こそ見られなかったが、きっと苦手なタイプであったろうにもかかわらず、いつものやる気のなさそうな顔で帰って来た。
 どうして。口を衝いて出ようとした嫉みをすんでのところで呑み込む。
 感謝はしているのだ。かつて自分たちを救ってくれたことも、昨夜自分を助けてくれたことも。
 それでも気持ちは収まらない。どうしても好意的には見られない。
 わだかまる思いを持て余し、また青ざめた月を見上げたそのときだった。
 影がよぎった。
 人型だ。見間違いではない。<魔人>の視力は人を超えている。
 即座に修介も地を蹴り、一気に近くの家の屋根に跳び乗ってそのまま屋上を伝う。
 見えたのは一瞬だったが影の姿勢はよく目に焼き付いている。あれは跳躍だ。
 だから魔神ではないだろう。魔神であれば飛行する。跳ぶ必要がないのだ。
 勿論、人でもない。
 同じ<竪琴ライラ>か、逆に<竪琴ライラ>に敵する存在か、あるいはどちらでもない<魔人>なのか。
 <横笛>フルートなる存在が力を蓄えつつあることは<竪琴ライラ>すべてに知らしめられている。もしも彼の存在であるのなら放っておくわけにはいかない。
 <竪琴ライラ>であるのなら誰かを追っている可能性が高い。加勢するべきだろう。
 第三者であっても危険な人物ではない保証はまったくない。
 <魔人>は理不尽を行う。足音はほとんどない。僅かな振動だけを家屋に与えながら、修介はいかな暴風にも勝る速度で影を追う。
 人の視界に入る可能性はあるが、そのことでただの人間に見咎められることはまずあり得ない。街の明かりはあくまでも地上を照らすもの、その眩さが目くらましになる。空を見上げても蝙蝠か何かが過ったとしか認識できないのだ。ましてやこの速度では、錯覚だと結論付けるのが関の山だろう。
 前方、影がこちらをちらりと振り向いたかと思うと、更に加速した。
「後ろめたいらしいな」
 修介は口の中だけで呟き、こちらも速度を上げた。
 足には自信がある。今は亡き英雄ヒーローにも、限界突破リミットブレイク状態にないならば引き離されなかったくらいなのだ。
 眼下の景色が一瞬で後ろへ飛び去ってゆく。纏わりつかんとする大気の壁を突破、修介自身の感覚としては『擦り抜け』ながら標的を追う。<猟犬ハウンド>の異名は伊達ではない。チームで動く際の修介の役割は標的を追いたてること、あるいは追いすがり足止めすることである。
 ぐんぐんと背の迫る中、打ち破る風の残滓に血の匂い。標的の右手にぶら下げたものが詳らかになる。男の生首が、虚ろな視線を虚空へ向けていた。
 修介は密かに息を呑み、そしてぎりと歯を噛み締めた。
 消えてしまわないということは、あの首はただの人間のものだということである。絶対に捨て置けない。
 さらに加速する。自分で制御可能なぎりぎりの速度でもって一気に距離を詰めに行った。
 だが、思わぬ要素からその目論見は外されることとなった。
 不意に影がバランスを崩したのだ。反応が遅れた修介は全速であったことが災いし、失速して墜落する影を大きく追い越してしまった。
 それでもちょうどそこにあったビルの壁に着地すると、即座に蹴り離して影が落ちたはずの暗がりへと降下する。
 その中で、修介は見た。
 ふわりと広がるもの。夜の中でなお暗いインバネスコートを翼のようにはためかせ、横合いから現れた一人の男が前を行く。
 勿論、追っていた相手ではない。影が墜落した理由に関係があるのではないかと、易い推測だけはできた。
 降り立った場所は小さな公園だ。近年遊具の危険性が過剰に叫ばれたせいか、ベンチ以外には碌に何もない。芝が綺麗に刈られて手入れが行き届いているだけ、いっそう侘しさが滲み出ている。
 そんな場所で、ことは既に始まっていた。
 一人は逃亡しようとしていた少年。既に生首は投げ捨てて戦闘態勢をとっている。手にした短刀はクラウンアームズだろう。刃までも艶のない黒だ。
 そしてもう一方は割って入った青年。いつの間にか、両手が淡い黄金の輝きを滲ませる手袋に包まれている。
「逃さんぜ? 既に味わった後だろうがな」
「……この羽根はテメェの仕業か」
肯定だともアファーマティヴ
 憎々しげに顔を歪める少年とは対照的に、青年はいっそとぼけたと言ってよいほどの表情だった。
 修介も遅ればせながら気付く。二人の周囲には黒い羽根が浮いていた。<魔人>の目をもってしても判別が難しいほど夜に溶けていたが、手袋の光を遮るものがあることで存在が知れたのだ。
 無論、青年の創り出したものなのだろう。絡め取るのか、穿つのか、切り裂くのか。いずれにせよ、おそらくは<森林フォレスト>の『蔦』のように、相手の動きを制限するはたらきを持っているのではなかろうか。
「どうしてオレを狙う? テメェ、<竪琴ライラ>か?」
「いんや、少なくともそれは俺じゃあない。俺の仕事は主に復讐代行業さ。復讐されるような心当たりは……腐るほどあるだろ?」
 金色の二つがゆるりと揺れ、青年が構えを取る。左半身で、胸の前に軽く握った両拳は少し高さを違わせて。
 そしてそこからの踏み込みは無造作だった。構えたと思った瞬間、既に仕掛けていた。
「このっ!?」
 対して、少年の反応は僅かに遅れた。対峙しておきながら、警戒しておきながらなお虚を突かれたのだ。
 それでも身に秘めた敏捷性のおかげだろうか、あるいは経て来た場数が為さしめたのか、右手の黒の刃を敵の胸元へと滑り込ませていた。
 しかし青年の口許に浮かぶのは笑みだった。
 まるで待ち構えていたかのように左腕が動くと、向かい来る刃を握った手ごと上方へと弾き上げ、そのまま体を替えて右肘を胸の中央に叩き込む。
 少年は目を剥き、裂けよとばかりに口を開き、泡は漏れても声は出ない。
 そしてそこからは凄惨だった。
 まず繰り出されたのは左の拳。目にも留まらぬ一撃は、果たして打撃と呼んでいいものなのだろうか。
「……っ!?」
 鮮血が散る。
 身につけた技か、あるいは金色に輝くクラウンアームズの能力なのか。音もなく、少年の右肩が抉り取られていた。
 信じられない、と。少年の凍りついた表情はそんな思いが形作ったものか。
 無論、その一撃だけで止まるはずもない。そのまま少年に抵抗する暇も与えず黄金の双拳が降り注ぐ。いずれもが同じだ。流麗に繋げられた一打ちごとに少年の肉体が欠けてゆく。
 修介は声もなくその場に立ちすくんでいた。
 戦いと呼ぶことも憚られる、一方的な蹂躙。哀れな標的は悲鳴すらまともに上げさせてもらえず、引き攣った苦鳴が漏れるだけ。
 倒錯した感性を有していたならば、あるいは美しいと感じたやもしれない。だが修介にとってはただただ残酷に映る。
 その上でなお、魅せられていた。
 力だ。強さだ。有無を言わせぬ、其処に在るものだ。
 形はどうあれ、修介の求めるものだ。
 暴虐の光景の終わる時がすぐに来たのは、むしろ少年にとっても幸福だったのだろう。
 無論、何か望みはあったに違いない。しかしそれは無情にも力の前に叩き潰される。
「死ねない……オレはまだ死ねな……」
 喘ぎ、かすれるような声が断末魔代わりだった。
「……脆いな」
 最後となった一撃の姿勢のまま、青年が呟く。握った手の内から光が立ち昇り、次いで、にやりと笑った。
「そう思わんか、<竪琴ライラ>の」
 こちらを見てこそいないが、それは修介に向けられた台詞である。
 気付かれていたことに驚きはしなかったものの、返す言葉には困った。
 そうするうちに青年は、インバネスコートを翻して向き直った。
「さてどうするね。復讐代行業は<竪琴ライラ>としては黒か、白か」
 面白がるような口調だ。目まで笑っている。
 自分などどうとでもなると思っているのだろう。だから存在に気付いていながら目の前で堂々と殺してみせた。
 それでいながら、両拳のクラウンアームズを消してはいない。いつしか黒い羽根が、修介の前方以外を取り囲んでいる。少なくとも、油断はしていないらしい。
「答えてもらえるか? ことによっちゃ、もう一戦やらなきゃならんのでね」
「……それは……」
 修介は口籠る。
 白、ではない。個人的には限りなく黒に近い灰色だと思った。今回の標的こそ一般人に手を出した<魔人>だったのかもしれないが、次の標的がただの人間とならない保証はないのだ。
 本来であればステイシアの判断を仰ぐところである。しかしそれは許してくれそうにないし、何よりも修介自身が望んでいなかった。
「灰色ってことにしとく。何より俺じゃ、あんたには勝てなそうだ」
 それは正直な気持ちだった。決して弱いわけでもないであろう<魔人>の肉体を容易く抉る力、あらかじめ敵の退路を断っておく手際の良さ、何より常に崩すことのない余裕。処刑人と同様の、圧倒的な強者であることは疑いようもない。
 なればこそ、修介の胸の内にはひとつの案が湧き出していた。
「連絡もしないでおく。替わりにひとつ、頼みがある」
「ん? 復讐したい相手でもいるのか? 依頼料さえ払ってくれりゃ、俺は誰でもウェルカムだ」
 青年は営業用の笑みを浮かべる。
 しかし、修介の望みは違っていた。
 まっすぐに青年を見詰め、告げた。
「俺を鍛えてほしい」





















 小学四年生のときのこと。
 修介が自分に内緒で小さな空手道場に通い始めた。
 すぐに見つけ出した。修介よりも早く下校して、待ち伏せて尾行したのだ。そして入門した。
 母親には、見守ってあげればいいのにと苦笑された。
 しかし許せなかったのだ、修介と共有できない時間があることが。
 怖かったのだ、修介が自分を置いてどこかへ行ってしまうことが。
 後追いで入ったとはいえ、道場では必死に練習をした。むしろ修介よりもずっと頑張っていた自信がある。
 その甲斐あって、強くなった。『姉』の威厳も保たれようというものだ。



 なのにどうしてか、それから修介は暗い顔をするようになった。
 高校生になってもそれを晴らすことはできなかった。







 <伝承神殿>は夜を知らない。
 役目を割り振られていない者は好き勝手に時間を過ごしているため、ロビーや食堂には常に人がいる。そのせいか、時計を見なければまったく時間が分からない。
 午前八時。階段横の時計で時刻を確認し、五階の廊下を藍佳は行く。
 憂い顔で考えるのは、当然のように修介のことだ。
 一昨日の夜は明け方近くまで説教をした。神妙な顔をしてはいたが、あれはきっと堪えていない。
 年を経るにつれてだんだん可愛げがなくなってゆく気がする。小さい頃は何でも言うことを聞いてくれたものなのだが。
 しかし謹慎を命じられたおかげか、昨日の夕方に見に行ったときも大人しくしていた。
 怒ってばかりでは拗ねてしまうだろう。ここはひとつ、飴が要る。今夜は手料理を振舞ってもいいかもしれない。修介は昔から妙にカレーが好きなのだ。
 少しばかり心が浮き立っている。余計なものに心煩わされず、修介のことだけを考えていられるときはいつもそうだ。
 しかし、角を曲がったところで冷水を浴びせられた。
 目の前に、ロングコートの姿。<伝承神殿>は一年中快適な気温に保たれているが、それでも間違いなく暑いであろうに。
「……名和さん……」
 思わず呟く。
 名和雅年という男を<伝承神殿>で見かけること自体が稀だ。見かけるときもロビーか地下闘技場ばかりで、居住区で目の当たりにしたのは初めてだった。
 考えてみれば不思議ではないのだ。ほとんど<伝承神殿>にいないからといって、神殿内に部屋を持っていないわけではないだろう。
 だが、よりにもよって修介の部屋のある五階だということが不安を煽る。
 藍佳自身は苦手ではあっても嫌いではない。かつて人であった頃に助けられたのは忘れていない。
 けれど同時に、<竪琴ライラ>の処刑人と呼ばれる男であることも重々承知している。大失態を犯した修介の処分を独自に行ったとしてもおかしくはない。
 神官派内部における名和雅年の力は大きいと藍佳は見ていた。
 <竪琴ライラ>神官派を統率するステイシアは極めて温和である。だというのに冷酷極まりない雅年の所業が見逃されているのはおかしい。あるいはステイシアに匹敵する発言力を持っているのではないかと考えたのだ。
 ならば謹慎で済ませたステイシアの意向を無視してもおかしくはない、と思えて仕方がなかった。
「おはようございます……修ちゃんにご用ですか?」
 言葉を絞り出すと、雅年はわずかに眉を動かした。
「済まないが、それでは誰なのかよく分からない。おそらく違うとは思うが」
「えと……神野修介です。あたしの幼馴染の」
 違うという答えに半ば安堵しつつ、藍佳は堪える。
 それでも雅年は思い当たらないようだった。
「少なくとも、それが人間だった頃に使っていた名前でない限り、違うのは確かだ」
「そうですか」
 藍佳は残る半分の安心に胸を撫で下ろした。
 それと同時に、どうやら自分たちのことを覚えてくれてはいないらしいということも察した。
 無論、構わない。あの時とは顔も姓も異なるのだ。
「それじゃ、失礼します」
 ぺこりと一礼して擦れ違う。苦手な相手であっても表面上は如才なくあしらうことくらいはできる。
 足早に立ち去って、今度こそ修介の部屋の前に立つ。
「入るわよ、修ちゃん」
 ドアを開けたのは台詞の途中だ。
 もう起きているだろうと思っていたのだが、部屋は暗かった。
「寝てるの? もう、八時に来るって言っといたでしょ?」
 ほんとに修ちゃんはあたしがいないと駄目なんだから。そう呟きながら明かりを点ける。
「ほらほら起きた起きた……え?」
 そして揺り起すべくベッドの傍まで近付いて、初めて気付いた。
 掛け布団の膨らみ方がおかしい。潜り込んでいるにしても、頭の先すら見えないはずはない。
 無言で布団を剥ぎ取る。
 果たして、現れたのは丸めた毛布だった。
 修介は時折これをやることがあった。一番大事になったのは中学の修学旅行のときだ。ホテルを抜け出して夜の街へ遊びに出たのである。
 それでもまだ、笑っていられた。困った修ちゃん、で済んだ。
 しかし今、藍佳は蒼白になっていた。
「うそ……なんで? どうしていないの? 何のために?」
 一昨日はあやうく死ぬところだったのだ。それがまた姿を消したとあっては平静でいられようはずもない。
 しかも理由が分からない。標的はもういないのだ。外に出る意味が、藍佳には思い当たらなかった。
「……そうだ、またステイシアに言って探してもらえば」
 解決法として思い当たったのは、やはりステイシアだった。一昨日もどのような方法でか、極めて迅速に探し当ててくれたのだ。
 駆け出そうとして二歩、三歩。部屋を出る前に止まる。
 気持ちが悪い。それ以上はどうしても足が動かない。不意に浮かんだ神官ステイシアの儚げで可憐な姿が心をじりじりと焦がす。
 そしてもう一つ。先ほど出くわした名和雅年、<竪琴ライラ>の処刑人のことも思い出さずにはいられなかった。
「…………ううん、気晴らしに……うん、そう、気晴らしに出ただけだよね。あたしがさんざん怒っちゃったから」
 だから大丈夫。自分に言い聞かせるように、藍佳は繰り返す。
「ステイシアは凄く忙しいはずだし、あんまり邪魔しちゃ悪いし。あたしが探しに行けばいいことだよね」
 深呼吸。
「ほんと、修ちゃんってば世話を焼かすんだから」
 そうして藍佳は部屋を後にする。
 蒼白な顔のまま、震えを抑えるのも忘れて。















 雀が鳴いている。
 もう梅雨入りをしているはずの空は薄い水色に澄み切って、昨夜の凄惨さを洗い流すようだった。
 公園に異常は見えない。生首は青年がどこかへ持って行ってしまったし、血痕もまともには残っていない。
 二人はベンチに腰掛け、コンビニエンスストアで買って来た菓子パンを並んで頬張っていた。
 青年は、<クロウ>と名乗った。
 しかしおそらくは日本人だろう。それよりも、二十代半ばという年齢が<魔人>にしては非常に珍しい。
「もちろん本名じゃねえよ。通り名だな。<ギルド>は知ってるか?」
「……一応」
 修介は頷く。
 <魔人>を傭兵として派遣する組織は世界中に幾つもあるが、その中で唯一、本当に世界を股に掛ける規模であるのが<ギルド>だ。金銭を対価として、必要なところに必要な戦力を送り込む。
 その行動規範には善も悪もない。彼らが重視するのは信用と金だ。
 修介もそこに思うことがないわけではないが、灰色であるということにした以上は極力気にしないことにするしかない。
「その中でも俺は主に復讐代行を請け負ってるってわけだ。で、今回は依頼の都合で日本に帰って来ただけで、後片付けを全部済ましたら次の仕事に入るんだが……」
 <鴉>はきつく眉根を寄せた。
「教えられないってことですか?」
 修介も昨夜と口調は変えている。敵対しているわけでもない、ましてや教えを請うた相手に乱暴な口をきく趣味はない。
 突拍子もないことを頼んだ自覚はある。仮にも治安維持組織に属する者が職業暗殺者に、など前代未聞だろう。
 それでも修介は縋りつくしかなかった。
 気持ちが悪いのだ。自分を包む生温い空気が、どうしても落ち着かない。
 足踏みをしている。前へと進めている気がまったくしない。
 だから身を切るような冷たい風を求め、顔は仏頂面でいながら心は祈るようだった。
 そして<鴉>は眉を寄せたままパンを呑み込み、さらに缶コーヒーを立て続けに二本干して告げた。
「まあ、日本にいる間だけでよけりゃ構わんがね。ひとつ条件がある」
 こちらを見たそのまなざしは強く、心の奥底までも見透かすようだった。
 修介は気圧されたように無言、ただ喉を鳴らした。
「俺の言うことには従ってもらう。逆らった時点ですべておしまいだ」
 <鴉>の口調は決して脅すようなものではない。よく響きはするが、さほど張り上げているわけでもない。
 だというのに、胸が早鐘を打っていた。恐ろしいのだ。
 恐怖を振り払うように思考を巡らせる。
 たとえ理不尽だと感じても師の言葉に異を挟むことなかれ。そういった考えは現代ではあまり好まれないが、歴史の中ではよく見られたものだ。行住坐臥を修行の内に置き、良き師の薫陶を受けることができたなら、分かり易さをもって組み上げるよりも深く本質に触れることができる。
 その分危険ではある。任せ切ってしまうということは、師が碌でもなければ結果は散々なことになるだろうし、まともであっても潰れ易いだろう。
 迷いはした。弱音も過ぎった。
 しかし、その厳しさは自分を縛る温さを打ち砕いてくれそうに修介は思えた。
 だから頷いた。
「お願いします」
「分かった」
 <鴉>はにやりと笑う。張り詰めていた空気が緩んだ。
「なに、俺としても少し面白そうではある。手は抜かんさ。まずは面白い所へ連れて行ってやる」







[30666] 「この手、繋いだならきっと・四」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/10/30 19:07





 修介にとって、藍佳は不思議な存在だった。
 幼い頃から見るからに小さくて可愛らしい女の子だったのに、恐ろしいほどに気が強かった。
 いや、気が強いと言うと語弊がある。修介が大人しく言うことを聞いている限りは優しい『姉』であり、逆らったとしても強引なくらいで怖いわけではなかった。
 ただ、ちょっかいを出して来る同級生や上級生に対しては本当に苛烈だった。あの小さな身体で信じられないほどの気迫とともに誰も彼もを追い返したものだ。
 頼もしかった。



 小学校の高学年になる前くらいまでは無邪気にそう思っていられた。











 揺らぎを抜けると、眩い光が瞳を焼いた。
 高い高い、雲一つ見当たらない空の下、広がっていたのは清潔な街並みだった。
 六車線の道路の脇には瑞々しい街路樹が配置され、さらに歩道を挟んで喫茶店、ブティック、宝石店、銀行、その他諸々。少し外れたところには探偵事務所の看板まで見られる。
 胸いっぱいに吸い込む空気が清々しい。見渡す景色にごみなどひとつもない。ひとつだけ存在する不似合いな建物さえ除けば、すべてが煌めいていた。
「これは……」
 修介は圧倒されていた。
 <鴉>に連れられ、導かれるままにやって来たこの場所は、数秒前までは薄汚い路地だった。
 とはいえ似た現象に心当たりがないではない。<伝承神殿>に入るときと同じなのである。
 果たして、インバネスコートの背は告げた。
「驚くことはないだろ。<竪琴ライラ>本拠の同類だ。魔神、<天睨>のイシュが創り出した閉鎖世界だよ」
「驚きますよ。<伝承神殿>より間違いなく広いし、店屋とかもあるし」
 興奮した修介の声に対して、返って来たのは対照的な苦笑だった。
「<伝承神殿>の中がどうなってるのかは知らんが、まあ、広いのは広いだろうな。ただ、店なんざ全部偽物だし車も走ってないだろ? ほとんどのものがただの背景に過ぎんよ。あ、自販機はなぜか稼働してるが。ありがたいこった」
「……そういえば」
 言われて初めて気付いた。確かに、人の姿はまばらに見られるものの自動車の類はまったく見当たらない。自動販売機のことはともかくとして。
 そしてそう思ってみれば、汚れの見えない街は不気味なほど無機質に思えた。
「ここは、何なんですか……?」
「<闘争牙城>……知るものぞ知る、欲望と渇望に衝き動かされた<魔人>の遊び場さ」
 足を止め、肩越しに振り向いた<鴉>が太い笑みを見せた。



 <闘争牙城>とは<魔人>のための決闘場である。
 此処には、四つの規則が存在する。
 一、『決闘』は一対一に限る。
 一、『決闘』は両者の同意によって発動する。
 一、勝者は敗者に、意思無き物をひとつ要求し、奪うことができる。
 一、向上心のない者には死あるのみ。
 入って来たその目の前に高札よろしく立てられた掲示板にはそんなことが書かれていた。
「<天睨>のイシュが定めた、この閉鎖世界の法則おやくそくだな。まあ大体予想はつくと思うが、こんなとこに来る奴は大抵物欲に目が眩んでるわけだ。中には戦闘大好きなんてジャンクもいるわけだが」
 飄々と<鴉>は解説する。
 その横に並びながら修介は疑問を口にした。
「こんなところがどうして今まで<竪琴ライラ>に見つからなかったんでしょう?」
 初めて見る景色であるのはもちろん、こんな場所が存在するのを聞いたことすらない。
 どうやって逃れていたのだろうかと、そういう意図だったのだが、回答は予想外だった。
「お前が知らなかっただけで<竪琴ライラ>が知らんはずないだろ。ただ、どう考えても滅多に用なんぞないだろうからな」
「……でも」
「<竪琴ライラ>の基本は、人間社会に迷惑な<魔人>を排除することだろ? 正真正銘<魔人>同士が勝手に潰し合うだけのこんなとこに来るのは、標的が逃げ込んだときくらいだろうよ。特性上、そういうときでさえ入って来るかどうか怪しいくらいだ」
「でも……」
 知らされすらしないというのはおかしい。修介はそう思う。
 しかし<鴉>は笑うのだ。
「言っとくがな、ここにいる連中は欲望全開な分、容赦ないぞ? 性能スペック以前に物の考え方がえげつない。今のお前なぞ多分いいカモにしかならんレベルだ」
「知ってるからって、迂闊に踏み込んだりしません」
 馬鹿にされたような気がして、少し荒い口調で言い返す。
 反射的に出た言葉だった。
 だから、からかうような<鴉>の指摘に声を詰まらせた。
「いいや、するだろうな。現にお前は今、味方よりは敵に近いはずの俺の隣を歩いてるわけだ。模範的な<竪琴ライラ>とは言えんよ」
 反論できようはずもない。本来望ましくないことだと自身でも理解はしている。
 それでも胸にわだかまる思い、指の先まで焦がすに至った望みは止めようがなかったのだ。
「当たり前だが責めてるわけじゃあない。俺は<竪琴ライラ>じゃないからな」
「それは大体分かってますけど……」
 慰められても気は晴れない。<竪琴ライラ>である自分が嫌なわけでもないのだ。現状はあくまでも、背に腹は代えられぬと判断してのことだ。
 修介の思いを知ってか知らずか、<鴉>は朗らかに続けた。
「まあそんなわけで、ここなら<竪琴ライラ>に見つかり難い上に、存分に力も揮える。注意事項としては、絶対に『決闘』を受けないことだ。同意さえしなけりゃ成立しないからな。逆に、同意しちまったら俺が傍にいたって止められねえ。そいつがここのルールだ」
「はい」
 朝から今に至る数時間で分かったことがある。
 <鴉>は比較的親切だ。細々としたことには無頓着だが、大事なことには気を配ってくれる。
 不干渉ではなく、過干渉でもなく、むしろ小学校から高校までの教師たちに対するよりも、修介にとってちょうどいい塩梅だった。
 と、そこで修介はふと思い当たった。
「でもこれ、『決闘』以外に襲われることはないんですか?」
 『決闘』には同意が要るとはあるが、『決闘』でしか戦闘にならないという文言はどこにも見当たらない。
「……あー……可能性としてはないこともない。ただ、向上心ない奴は死ねって一文があるだろ? これ、別にネタで入ってるわけじゃなくてな、『決闘』でもないのに明らかな格下に喧嘩売ったら死ぬんだよ、洒落抜きで」
 <鴉>はひらひらと手を振った。
「外でもあるだろ、一般の人間社会に明らかに知られた<魔人>は消えるってのが」
「そう言いますね。見たことはありませんけど……」
 有名な話ではある。しかし修介は作り話ではないかと疑っていた。
 今の世界は十数年前から起こり始めた異常に慣れることによって、まだ揺れている天秤をつり合っているかのように錯覚しているのだ。その錯覚は何かあれば容易く崩れ去ることだろう。
 いかに魔神が社会に知られているとは言っても、人間を<魔人>などという存在へと変えることが出来るということまで広まってしまえば大きな混乱が起こる。
 なりたいと望む人間はきっと多い。おぞましいと非難するであろう者も間違いなく多い。煽る者もいるだろう。それはやがて、人の世界を崩しかねない。
 だから、それこそ<竪琴ライラ>の広めた嘘なのではないかと思っていたのだ。
 しかし<鴉>は修介の認識を正面から否定した。
「あれはな、正真正銘の事実だ。俺は同僚が消えるのを見たぜ。黒い何かに呑まれるんだ。白昼夢みたいな光景だったよ」
 口の端を歪め、続ける。
「だからここのも冗談抜きだ。一方的にやられちまうような相手に襲われることはない。まあ……抜け道もないわけじゃないんだが、お前独りを相手に実行するのは事実上不可能だ。逆に、お前が強くなりたいと思わなくなったら死ぬんじゃねえかな。知らんけど」
「……物欲満載って向上心なんですか?」
「イシュ的には向上心なんだろ。趣味は自由だ。俺たちはそれに反しないようにしときゃいい。っつーか魔神の感性は絶妙なところで人間とずれてるっぽいからな、同じだと思ってると痛い目見るぜ?」
 どこか投げ遣りな口調の<鴉>。
 そして話を戻すと宣言することもなく、前方を指差した。
「ああちなみに、ここから真っ直ぐ行った先に見えてるあのくそデカい建物が決闘場だ」
「……だと思いました」
 最初から、それは目に入っていた。
 コロセウムだ。それも、石造りで古びた雰囲気を醸して、綺麗な街とは極めて不釣り合いな。
 しかしだからこそ、話を聞いた今は生きて見えた。
 怒号のような歓声がここまで響いて来る。
 修介は腹の底から湧き立つ思いに身を委ねた。武者震いが止まらない。それは痺れるほどの快楽だった。
 口許に浮かぶ笑みは、隠そうとも思わなかった。











 陽光を切り裂いて疾駆する。
 重力など知らぬかのように身軽に跳躍し、窓枠程度を足がかりに急制動、まったく別の方向へと切り替える。
 視界に映る景色もめまぐるしく変化するものの、修介はそれを問題としない。
 <猟犬ハウンド>と呼ばれるのは速度や機動力だけが理由ではない。
 余程意表を突かれない限り、修介の五感は標的を一瞬たりとも失わない。常に意識の中心にあって追い続けるのだ。
 今回の標的は<鴉>。道路の中央に佇んでいる。
 黒のインバネスコートを纏ったその身は、油断しているようにしか見えない。構えもとらず、棒立ちなのだ。
 しかし修介に怒りは湧かなかった。きっとそんな状態からでも凌いでくれるのだろうという期待が膨らみ、胸を満たしていた。
 考える。どこから仕掛けようか。少なくとも前方からでは駄目だ。
 <鴉>を捉えたまま、周囲の地形を理解してゆく。立ち並ぶ店、街路樹、中央の道路。その中で、最適と思われる場所をついに見つけた。
 最後に踏んだのは<鴉>の真上の信号機。死角から下方へと己が身を蹴り出し、回転までも加えた肘打ちを脳天をめがけ叩き込んだ。
 <魔人>であるがゆえの異常なまでに引き伸ばされた時の中、標的が近付いて来る。
 <鴉>はその場を動かない。ただ、無造作に右手だけを上げた。
 絶妙だった。降下速度と肘打ちの速さ、位置。その全てを承知していたかのように、力が乗り切る前に黄金の手袋は修介の一撃を受け、そのまま斜め右へと流したのだ。
 身体の制御を失った修介はそのまま地面に叩きつけられ、息の詰まるような苦痛の中、為すすべもなく転がってブティックのショウウィンドウにぶつかって止まった。
「無駄に跳ね回るな。撹乱しているつもりなのかもしれんが、仕掛けて来る瞬間だけを待ってた俺にゃ何の意味もない」
 インバネスコートの裾を揺らし、<鴉>が歩み寄って来る。
「ま、スピードは大したもんだったがね。戦格クラスランク合計は六……いや、七ってとこか。これでもし<王の武具>クラウンアームズ持ちだったら神官派でも割と上位の性能スペックだったろ」
「……あんなにも見事に受け流されるとは思いませんでした」
 修介は苦痛を堪え、身を起こしながら応えた。速いと褒められてもあまり喜べない。
 それを聞いた<鴉>が苦笑を浮かべた。
「ああ、やっぱりお前の弱点はそこか。なに、簡単な話だ。四割くらいの確率で真上から来ると思っていたからな」
「え?」
「どうして俺の頭上に都合よく足場があったと思う?」
 からかうような調子が、今の固まった思考では駄目なのだと教えてくれる。
 一度頭を真っ白にしてから考え直せば正解は容易く出せた。
「わざわざ信号機の真下に立ったから、ですか?」
「自分の都合ばかり考えるなってことだ。性能スペックだけで勝てるもんかよ。相手の行動を誘ってコントロールすることも知らないようじゃ、どれだけ身体能力が高くても三流は抜けられんだろうさ」
 <鴉>は頷き、まだ尻をついたままの修介を見下ろす。
「しかしなるほどな。強くなれんってのは、まあ、そりゃそうなんだろうな」
 どこか感心したような表情なのが不思議だった。何を考えているのか修介にはまったく読めず、戸惑い気味に見上げるばかりだ。
 二呼吸ばかりの沈黙の後、<鴉>は続けた。
「神官派のやり方は聞いたことあるぜ。最適な役割に割り当てられて、ことを片付けるんだったな? 自分の得意なことだけ確実にこなしてりゃいい、しかもかなり安全とか、それでまともに力が伸びたら逆に驚きだ。神官派最強はその辺のこと、教えないのかねえ?」
「……あの人は神殿に顔を出すのすら月に数回くらいなのに、その上みんな怖くて近寄りませんからね」
 面白くない存在が話題に出たことで修介の口許が歪む。知らず知らずのうちに眉間にも皺が寄っていた。
 そのまま立ち上がり、不機嫌そうに促す。
「そんなことより、これで終わりじゃないですよね?」
「おいおい、本来ならカウンターで胸でもブチ破るところを手加減して転がすだけにしたとはいえ、それなりには痛かったはずだが」
 <鴉>がにやりと笑った。
 あからさまな挑発である。が、むしろ望むところだった。
「このくらい、当たり前でしょう」
 身体の方は、正直なところ万全とは言い難い。たったあれしきのことで体力がごっそりと削り落されている。
 逆に、気力はこの上なく充実していた。全身を鈍い痛みが走るたびに際限なく溢れだして来る。
「それでいい」
 <鴉>は笑みを太いものに変化させた。
「強さなんてなァ、血反吐を吐きながら身につけるもんだ。ま、<魔人>の能力は千差万別だからな。短い期間で俺に教えられるもんなんざ、心構えと身の置き方くらいか。そいつを身体に叩き込んでやるよ」
 一度、インバネスコートが大きく広げられた。
 <鴉>が今度は構えを取ったのだ。
 いつしか、二人は遠巻きにされていた。少なくとも三十名。街路樹にもたれかかっている者もいれば、ビルの屋上の端に腰かけている者もある。
 しかし、先ほど<鴉>が言っていた通り、手を出そうとする者はなかった。替わりに観察しているのだろう。巧く食えないか否かを。
「野次馬が湧いて来たが、いいよな?」
「もちろん」
 頷き、音もなく今度も修介から先に踏み出した。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・五」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/11/27 20:06




 鮮烈に覚えているものがある。
 炎だ。赤々とした、全てを台無しにしてしまう炎。
 その前において、人など無力だった。勝てるわけがなかった。恐怖を克せぬまま喚き、腕を振り回してみたところで蟷螂の斧にも及ばなかった。
 その忸怩たる思いを、修介は片時も忘れない。











凌駕解放オーバードライブ?」
 偽りの街並みに漂うのっぺりとした空気を破り、修介の声が響いた。
 人出が多くなるのは、せめて昼前からだ。早朝はまるで何もかもが死んでいるように思えるほど凪いでいる。
 <闘争牙城>で<鴉>に教えを受けながら、はや三日が過ぎ去っていた。
 <鴉>は一度見知らぬ少女と話し込んでいたとき以外は概ね、修介の相手をしてくれている。手合わせをして、休憩時には様々な知識をくれて、また手合わせをして。
 そして今朝一番の修練を終えた<鴉>が不意に言ったのだ。凌駕解放オーバードライブのことは知ってるか、と。
「知りません。なんとなくニュアンスは分かる気がしますけど」
 人間だった頃、英語の成績は悪くなかったし、小説や漫画で得られた観念もある。限界を越えた何かだと推測するくらいはできた。
「必殺技的な何かですか?」
「ま、そんなとこだ」
 畳んだ羽のようなインバネスコートを今日も纏い、冷たい缶コーヒーを片手に<鴉>が頷く。
「人間に限らず生き物ってのは大抵リミッターがかかってるもんでな、危険に出くわすとそいつが外れてとんでもない筋力を発揮したりするのが、俗に言う火事場の馬鹿力だ」
「ええ、聞いたことはあります」
 有名な話である。真偽を確かめたことはないが、一般的な成人女性でもコインを指で曲げられるのだとか、誰かが言っていた。
「あと、ある程度なら意図して外せるような人もいるとか」
「そいつに関しては、傍から見ててもよく分からんところはあるな。本当に意識してリミッター外してスペック自体を上げてんだか、絶妙にコツ掴んでるおかげであんまり力自体が要らんようになってんのか、はたまた相手に錯覚起こさせてんのか。まあとりあえず、<魔人>にもある種のリミッターはあって、外すこともできるってわけだ」
 <鴉>は比較的饒舌だ。喋り方は決して速くないのだが、言葉があまり途切れず、すぐに続く。おかげで相槌を打つのには少し苦労するのだ。
「それが凌駕解放オーバードライブですか」
 流れに沿えば<鴉>の言わんとするところは推測できる。そして、その凌駕解放オーバードライブとやらが自分にも使えるのだろうかと、胸が湧き立つのを抑えられなかった。
 そう都合よくいかないだろうと理性では分かっているのだが、強くなりたいと願う身に期待するなと言うのは酷である。
 しかし<鴉>は思いもよらぬことを口にした。
「お前にも使えるかどうかってぇのは分からん。ただ、使える可能性は充分にある。なにせ力量自体とは何の関係もないっぽいからな」
「関係ないんですか?」
 当然のように強者の証だと思っていた修介は目を丸くする。それなら自分にもできるかもしれないという希望が強くなり、同時にそれで意味はあるのだろうかという疑念も頭をよぎる。
 何を考えたのか手に取るように分かったのだろう。<鴉>が思わずこぼれたといった風な苦笑を漏らした。
「あくまでも、使えるかどうかにだけ注目すればだぜ? 人間だって火事場の馬鹿力は出すだけなら誰だって出せるだろ。まあそりゃ、強力な凌駕解放オーバードライブ使うのは強い奴ばっかだわな、大体は」
「ああ、それなら」
 納得はできる。だが次の疑問が湧き上がる。
「でも、だとするとどんな要素で決まるんです?」
「俺も知らん。精神的な何かがあるんだろ」
 <鴉>はあっけらかんとしたものだ。飄々と缶コーヒーを飲み干し、からからと笑う。
 それから、不意に静かな表情へと変わった。
「けどそうだな、たとえば……極めて強力な望み」
「はい」
 修介は居住まいを正した。
 <鴉>は時折、こういった顔を見せる。もう気配からして変わるのだ。普段の気のいい兄貴分という印象はなりを潜め、どのような困難でも独りでねじ伏せて行けそうな、圧倒的なまでの何かを感じさせる。
「強くなりたいという望みは誰にも負けないか?」
「はい」
 修介は迷いなく頷く。事実としてそうであるか否かは問題ではない。自分の思いの強さを肯定できるならばそれでいいのだ。
「なら、きっと使えるようになるさ」
 また、<鴉>は普段の顔に戻ってにやりと笑う。
 その手の中で缶がくしゃりと握り潰され、綺麗な弧を描いて屑籠に放り込まれた。
「ちなみになんで唐突にこんな話をしたかというとな、俺は今日、ちょいと人と会うことになってる。割と時間を食うかもしれなくてな、お前はその間に自分の凌駕解放オーバードライブでも模索しとけばいいんじゃないかと思ったってぇ次第だ」
「会うって誰とですか?」
 尋ねてから、思い当たった。あまり意識しないようにしているが、<鴉>は復讐代行を行う<魔人>だ。この<闘争牙城>は依頼人と会うのに便利なのではなかろうか。
 『決闘』に興味があるとは思えない<鴉>がこの場所に慣れている理由はそこにあると修介は見ていた。
「いや、碌でもない男だ」
 鼻から抜ける溜め息のような笑みとともにただ、そう言い残して<鴉>は背を向ける。最後に見えた横顔には本当に碌でもなさそうな色が浮かんでいた。











 そして二十代半ばと思しきひょろりとした碌でもない男は人好きのする笑顔で、決闘場へと入った所から大きく脇に逸れた位置に佇んでいた。
 殺風景な石造りの通路である。ところどころに階段が見られ、そこを上がれば『決闘』を見下ろす観覧席へと出ることができるのだ。
「やあ、お久しぶりです」
 周囲に人の姿は見られない。
 この決闘場は外から見たのと同様に内側も古めかしい。到底憩いの場には向かない。そんな悪環境でも<魔人>が集まるのは『決闘』によって得たいものがあるからである。
 だから、居心地が悪い上に戦いの様子を見られるわけでもない、このような場所に来ることはないのだ。皆、入口から真っ直ぐ階段を上ってしまう。
 とは言っても、誰にも聞かれない保証はない。堂々と話していれば存外に気付かれないものだが、少し注意されたならそれで聞きとられてしまう。
 これから行われるのは、余人に聞かせるべき話ではないはずである。気配を気にしておくに越したことはないだろう。
 あるいは、聞かせたいのかもしれない。この男がそのあたりのことでヘマをするとは思えない。
「お元気そうですねえ」
「そこそこだな」
 人懐こく笑う相手とは対照的に、<鴉>は口の端に笑みを引っかけただけだった。
「お前も無駄に元気そうだ」
「いやはや、それが意外とそうでもないんですよ」
 苦労してるんです、と言わんばかりの分かり易い表情で肩をすくめる男と<鴉>とは、同じ組織に所属しているもののあまり会うことがない。
 <鴉>もこの男も年中どこかへ出向いているから、というのが主な理由だ。
「ほう、そいつはなかなか。今回の出向先フルートはそれほど厳しいか」
「ええ、それはもう」
 情けない愚痴を言う、自然な顔。<鴉>とて、知らなければ騙されかねない。
 組織経営コンサルタント。そう、この男は自称する。そして実際に指導するのは敵対組織の潰し方だ。
「関わってみると、思っていたより遥かに手ごわいですね、<竪琴ライラ>は。あ、<竪琴ライラ>の基本知識くらいはありますよね?」
「当たり前だ」
 <鴉>もそのあたりのことは把握していた。<横笛>フルートはまだしも、<竪琴ライラ>のことは常に意識しておかないと日本では仕事などできたものではない。
「で、具体的にはどうなんだ?」
 続きを促すと身ぶり手ぶりを交えた解説が始まった。
「それがですね、一言で言い切れるものではなくて。<竪琴ライラ>六派で分けると、こっちが押しているのが財団派、やや優勢に進めていると見ていいのが鳥船派、泥沼になってるのが魔女派で押されてるのが騎士派。剣豪派と神官派は、なんかまったく巧くいかないので少し様子見です」
「二勝三敗一分け、しかも惨敗二を含む……か」
 この男が関わっているにしては随分と酷い戦況だ。
 もう一月は経っている。いつもならば調略によってまたたく間に敵対組織を内部から切り崩し、今頃はあらかた仕事を終わらせている時期である。
「世界最大規模を相手にするのは、お前でもやはり厳しいもんなんだな」
「規模が原因というよりは、当初の予測と違って構成員の帰属意識が異様に高いのが効いてますね。なんというのでしょうか、少年の熱狂と潔癖さとでもいうべきものを巧く発露させているようで、動揺まではしてもめったに裏切らない。さらに離反者に対しても戦意を削がれることなく、揺らぎが連鎖せずにすぐに引き締められる。もっと個人の背景にまで踏み込めればもう少しどうにかなるんですが、全体を見なければならない身としてはそこまでの暇もなく」
「熱狂、ね……」
 <鴉>は長い息を吐きながら、そう呟く。
 それを聞き咎めたのか、男がにこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「そういえば、ここ数日楽しく遊んでいるようで」
 当然のように、修介のことを知っている。
 <鴉>は口許を歪めた。
「念のため言っとくが、手を出すなよ? 一時的にとはいえ、ありゃ俺の弟子ってことになるんだからな」
「や、それは勿論ですけど」
 また男は肩をすくめ、話を再開した。
「それで、さっきも言った通り厄介なのは剣豪派と神官派ですね。剣豪派には個々の質で完全に負けてます。報告からはおそらく、ほとんどが戦格クラスランクの合計が六以上の双格並列デュアル、かつそれなりか複数のクラウンアームズ持ち。その辺の雑魚が束になったって、そりゃ勝てないですよ」
<王の武具>クラウンアームズ持ちってぇのはそんなにぽこぽこ湧いて来なかったはずだが」
 左眉を上げ、疑問を投げかける。
 記憶違いでなければ六人に一人程度のものであるはずだ。それもその半数は最低ランクのものを一つ有しているだけである。
「<竪琴ライラ>は派閥間での移動を割と抵抗なく行うようですからね。周囲に付いていけない子は他の五つに移っているんだと思いますよ」
「なるほどな。無駄に分裂してるわけじゃないってことだ」
「ええ、無理に合わせるよりは各々の合うところで、というのは割と良い手だと思いますよ。少なくとも、自分の居場所を選べることが帰属意識の高い理由のひとつではあるでしょうね」
「秩序の守護者という『正義』への自負ってぇ熱狂と潔癖に加えて、居心地の良さまであるわけか。抜けられんというか、抜けようとも思わんレベルだな。実に正しい餌だ」
 皮肉げに、<鴉>。
 人は苦痛とともに快にも弱い。それが安定しているとなればなおのことだ。
 しかしそこで、男が再び肩をすくめた。
「剣豪派に関しては、そんな簡単な評価はできませんけどね。彼らのメンタリティ、元日本人少年とは思えないくらい殺伐としてるというかタフというか」
「暴力慣れしてるってことか?」
 今、日本は平和である。<災>に数百万人もが殺されていたのはもう十五年以上前になる。だから十代半ばから後半であることの多い<魔人>はあの張り詰めた空気、理不尽を知らず、<鴉>などから見れば総じて甘く映る。
 それでも<魔人>となって荒事に携わっていれば徐々に力へと適応してゆくものだ。
 しかし、返答は予想を超えていた。
「いえ、そんな不良君のような中途半端なのじゃなくてですね。<剣豪派>とか呼ばれるのは伊達じゃないようで、あれは冗談抜きで武士団とでも呼ぶべき存在です。先ほど言ったカタログスペック的な要素も含めて、おそらくはそうならないと生存競争に勝ち残れない、あるいはそういうのが集まって来るんじゃないかと」
 恐ろしい話です、そう男は笑う。
 本当に恐れているわけではないのは、その顔を見れば明らかだ。やがてどうにかして捻り潰してやろうと思っているのだろう。強敵に屈辱を味あわせることを、この男は非常に好むのだ。
「続いて神官派ですが、これはもう本当に酷いですね。先手こそこちらのものですけど、そこから先は一方的に向こうのものです」
 声は滔々と流れ続ける。比較的喋る方であるはずの<鴉>でも軽く反応するのが精々だ。意見はおろか、相槌すら碌に必要としていないかのようだった。
 しかし<鴉>は知ってる。これが、この男の考えのまとめ方だ。全ての判断基準と発想は最初から己の内にあって、語ることで未来図が形成されてゆくのだ。
 それならば人形が相手でもよさそうに思えるが、その考えはあまりに浅い。あくまでも、下らなくともいいから言葉か表情に反応の出る相手でなくてはならない。
 とはいえ、些か奇妙でもある。さすがに、そんなことのためだけに自分とわざわざ<闘争牙城>で会うことにしたとは考えづらい。何か他の、特別な意図があるはずだ。
「神官派は<魔人>を最適な役割に割り当ててことを片付ける、と聞いてはいましたが……あの的確さは異常ですよ。まるで、軍人将棋で向こうだけが全ての駒の配置を知ってるみたいです」
「お前が読み負けるとはな」
 <鴉>にとって、その言葉は何の気なしに放ったものだった。
 しかし、いつもへらへら笑っている男が一瞬だけ焼けつくような覇気を漏らしたのだ。
「読み、じゃないですね。あれは何らかの、正真正銘のズルチートを使ってます」
 それは本当に、垣間見えただけだ。すぐにいつもの笑顔になった。
 初めて目の当たりにしたそれにも<鴉>は驚愕を押し込め、替わりにまた皮肉げに笑ってみせた。
「なるほど、確かに苦労してるようだな」
「ええ、それはもう。こっち側にも問題はありまして……<横笛>フルートというのは結局、アンチ<竪琴ライラ>というだけの集まりですからね。数が増えれば増えるほどにバラバラになっていくというのが実情でして。現状、数だけは多い集団ですね。内紛なんて贅沢なことはせめてれっきとした組織になってからやって欲しいものです」
「ま、そりゃそうだろうな」
 ほぼ全員が十代の少年少女では無理からぬところである。無論挫折の一つもしている者は多いのだろうが、さんざんに打ちのめされて我を通すことが面倒くさくなっている、あるいは当たり前のように笑顔の裏で刃を研いでいる狡い大人のようにはいかない。年を食っていればいいというものではないものの、やはり得られるものは確かにあるのだ。
 しかし逆に、年端もいかないからこそ一つにまとめられることもある。<竪琴ライラ>がまさにその典型だ。
「強力な<魔人>はそれなりにいるんですよ。割とカリスマ性もあったりしますし。ただ、そのせいで細かい派閥がぽこぽこ生まれてるんですね。<竪琴ライラ>の弱点は六派に分かれてることなのに、こっちは二十派くらいありまして、もうね、こいつらやる気あるんだろうかと思わずにはいられません」
「そりゃあ、実に素晴らしい展開だな」
 <鴉>は気のなさそうに抑えた声で相槌を打つ。先ほど飲んだばかりだというのに、もうコーヒーが欲しい。
「ただまあ、<魔人>になっても直らん人間の性分ってやつだろ。しかしそれでいいのかもしれんぜ?」
「どういうことです?」
 尋ねる形こそとっているが、男は既に答えを得ているだろう。これは<鴉>も同様に見るかという確認に過ぎない。
 試されているようで不快だが、臍を曲げるほどではない。
「窮鼠猫を噛むとは言うが、噛んだところで鼠はその後どうなるんだろうな?」
「ふむ」
 にこりと男が笑う。
「横から鴉が掻っ攫ったりはしませんか?」
 視線が正面から交差した。
 <鴉>は今、この説明臭い茶番の意味に理解が及んだ。
「それが俺に対しての本題か」
「ええ、充分乗っ取れますよ。既に強さによる序列を是とするシステムは根付かせてあります。そして、あなたに迫るカタログスペックを有していても、あなたに勝てる<魔人>は<横笛>フルートにはいない……」
 組織経営コンサルタントを自称する男の笑顔は相も変わらず人好きのするものだ。そして組織とは、たとえ頭を挿げ替えようと手足を入れ替えようと、全体の形を整えて目的を果たせばいいのだ。
 そんな顔でそんな揚げ足取りを、取り返しがつかなくなってから楽しそうに言ってのけるのがこの男なのである。この男に仕事を依頼した哀れな誰かは、きっと数箇月後にそんな台詞を聞くことになるのだろう。
「一つにまとめ上げられた<横笛>フルートは窮鼠ではなく、立派な猫になると僕は見ています。全力の番犬ライラを相手取っても勝敗は分かりませんよ」
「……効果を上げるという点で、お前の仕事は信頼できる。そう言うのなら、そうなのかもしれんな」
 <鴉>は最初と同じように乾いた笑みを口の端に引っかけた。
 口にした通り、この男の仕事は最終的な結果だけを見れば申し分ない。苦戦していることすら半分は予定の内だろう。
 ここで答えを迷う必要はなかった。
 一拍だけ置き、告げる。
「だが答えはノーだ。お前ほど信用できん男を俺は知らん。第一、組織の頭なんぞになったら俺の趣味が半分くらい無意味になるだろ。他を当たれ」
 同僚ではあるが、親愛の情など欠片もない。結果は信頼できるが人格は信用ならない。自分の趣味にもあまり沿わない。
 受け入れる理由が何一つとして存在しなかった。
「それは残念です」
 男は本当に残念そうな顔をする。その仮面の下で何を思うのかは<鴉>にも分からない。すぐに笑顔に戻ってしまったとあってはなおさらである。
「でも仕方ありませんね。そう言うなら別の人にしましょうか。そうですね……有望そうなのを一人、スパルタで育て上げることにしましょう。あ、それはそうと、気を付けてくださいね」
「何をだ?」
「三、四日前に神官派の管轄領域で仕事したでしょう? おそらく既に捕捉されていますよ。下手すると仕事前から見つかってた可能性もあるくらいです」
「えらく荒唐無稽だな」
 随分と楽しそうに言う男に<鴉>は大きく溜め息を漏らす。
 この男は基本的に、事実すべてを述べないことを好む。嘘をつくときも、九分九厘が事実であるものから全てが偽りであるものまで、自由自在だ。嘘つきであることにすら不誠実であり、信じられるのは手八丁口八丁で必ず目的を果たすことのみなのだ。
 無価値と呼ばれる由縁である。
「目撃者は一人で、そいつは手元に置いてるわけだが。それでも既に見つかってるって?」
「ええ。先ほども言った通り、神官派はズルチートを行っています。ここは<天睨>のイシュの領域であり、探査範囲外だから助かっているだけで、神官派領域に戻るとその瞬間にロックオンされるでしょうね」
「……本当だとすればめんどくさいことになるな」
 <鴉>は小さくぼやいた。
 この<闘争牙城>は日本各地に出入り口があるが、入る前の場所にしか出られない。距離の短縮に使うなどという真似はできないのだ。
 男が改めてにこりと笑う。
「思い直してこっちについてくれるなら、逃げる間の陽動をしてあげますよ?」
「要らんし思い直さん」
 本当に碌でもない男である。
 <鴉>は改めて思う。
 こちらに対する用件は先ほどの、乗っ取りへの勧誘でいいのだろう。だが断られることを予測していなかったはずはない。そして無駄足だけを踏みに来るわけもない。
 ならば果たして、何を得るためにこのような場所へ来たのだろうか。
 今は考えたところで答えを弾き出せそうになかった。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・六」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/12/11 19:19




 あれは五つのとき、ある寒い冬の日のこと。
 夕方だったはずだ。遊び疲れ、一休みとばかりに二人で炬燵に当たって寝転んでいた。
 そのうちに、修介が完全に炬燵の中へ入り込んだ。もちろん藍佳もそれに倣った。
 肌をじりじりと焼く赤い光、狭い中で、潜った途端に頬へ不格好なキスを受けた。
 まだ幼児である。十代も後半となった今ほどの意味は持たない、少し積極的な親愛の情の表れだ。
 ただ、わざわざ潜ったのは大人の目が恥ずかしかったからなのだろうけれども。











 神野修介と諸角藍佳が<魔人>となった原因は、いわば事故のようなものだ。
 家族ぐるみの付き合いであった神野家と諸角家がマイクロバスを借りて二泊三日の温泉旅行へと行った帰り道、異形のものに襲われたのである。
 人の背丈を越える体高の、全身から炎を吹き出す牛。後に<火炎牛>という名であると教わったそれはマイクロバスの横っ腹に激突、金属を粘土のように容易く千切り割って貫通した。
 藍佳はそれを、十数年前に暴れていたという<災>かと思った。しかし違うらしい。後で聞いたところでは、魔神の擁する戦力の内の一体が迷い出たのだとか。
 教えてくれた人のことはよく覚えている。半年前、修介の服を買いに行ったよく晴れた日のことだ。白いシャツに黒のスーツ、黒いネクタイの背の高い男性だった。重く低い関西系の響きで告げたのだ。バス待ちの間に世間話として出しただけで素性も分からないのだが、当然のことを口にしているだけといった口調の言葉には妙な説得力があった。
 ともあれ、事故に遭ったときはあまりの事態に藍佳はただ凍りつき、泣き喚いていただけだった。
 爆発、炎上。運転手もそれぞれの両親も、五体がばらばらになった上でまたたく間に炭化していった。
 修介と藍佳は奇跡的に助かった、わけではない。やはり身体が裂け飛んで、燃えて、痛みすらよく分からない中で死に至ろうとしていたのだ。
 だが間に合った。姿こそ見なかったが、魔神ハシュメールのお蔭で<魔人>と化すことによって生き延びたのだ。
 名和雅年を見たのはハシュメールに<魔人>となる提案を持ちかけられる寸前、まだ生きている者のあることに気付いた<火炎牛>が今度こそ確実に葬り去るべく突進して来たときのことである。そのまま<火炎牛>とともに姿を消してしまったものの、当然のように屠ったのだろう。
 それから二人はずっと<伝承神殿>にいる。住んでいた家はどのような経緯があったものか、どちらも既に他人のものとなっていた。
 修介を探しに行って得た成果といえば、そんな益体もないことの確認しかなかった。
 この三日、行きそうな場所は徹底的に探し尽した。かつての住居は勿論、時折使っていたファミリーレストランや駅、駅ビルに入っている各店舗、人間だった頃に旅行で行った場所。
 しかし見つからない。見たという者すら現れない。
 藍佳はついに、最後の手段を取らざるを得ないと認めた。
 <伝承神殿>二十階。
 そこにあるのは一直線の廊下と、その奥のステイシアの部屋だけ。そう、藍佳は認識している。
 鉛のような足で、わざわざ階段を使ってここまで上がっては来たものの、無機質な光景に心がくじけそうになる。
 選択肢は二つ。行くか、帰るか。
 ステイシアの部屋には選ばれた者しか入れないという。かつては四人、今は三人。
 来てはならないとステイシアが口にしたわけではない。しかし、惑ってしまうのだ。其処は神聖な領域であり、侵してはならないのではないかとまずは躊躇してしまうのである。
 無論、だからこそ好奇心を誘われてしまう者もいる。だが今度は、扉が開かない。
 それでも不満は出ない。最近こそ<横笛>フルートへの対応に追われてあまり下りては来ないが、それでも合間を縫ってステイシアはロビーで皆と談笑しているからだ。
 不意に身体が震えた。
 いっそ、この間のように最初から余計なことを考える暇もないほど切羽詰まっていればよかった。
 怖い。不安が膨れ上がってならない。それは決して、修介がいなくなったことに対してのものばかりではない。
 しかしこうしていても仕方がないこともまた、分かっていた。
 意を決して歩み出す。廊下に響く靴音はまるで他人のもののよう。近付いて来るドアは、今は閉ざされているというだけの顎に思えて。
 永遠に辿り着かなければいいのに、ほんの二十秒足らずで前へと辿り着いてしまう。
 簡素なドアノブに手をかけ、祈る。
 どうか開きますように。どうか開きませんように。
 矛盾する思いとともに、押す。
 そして扉は、音もなく開放された。





 そこはある意味殺風景な部屋だった。
 何もないわけではない。机を挟んでソファが二台、足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。
 ただ、前後左右、果てが見えない。天井も見当たらず、薄闇がどこまでも続いて、仰ぐだけで意識が遠くなってくる。もしも宇宙に放り出されたならば、似たような気分になれるのではなかろうか。
 そして、その中で虚空にぽつりと浮かんでいるドアが異様だった。
 広さは意識の温度を奪い去る。孤独という寒さに耐えられない人間は多い。巨大なホール程度ならば問題はなかったろうが、無限を思わせる空間はあまりに冷たかった。
「……なに、これっ!?」
「私にご用ですか、藍佳さん」
 引き攣れた悲鳴を上げて恐慌を来しかけた藍佳を救ったのは、穏やかな声だった。細いのに、なぜかよく通る。
 ソファから立ち上がり、傍まで寄って来てやわらかに微笑みかけて来た。水色のワンピースの裾がふわりと揺れていた。
「大丈夫、私はここにいます。遠くなんてありませんから」
 藍佳の右手を包んだ小さな両手は暖かく、確かにここにいるのだと教えてくれる。そのぬくもりが意識の中の世界を縮めてくれた。
 恐る恐る見下ろせば、いつもの可憐なステイシア。
「初めてこの部屋に入ったときに驚かなかったのは雅年さんだけです。でも藍佳さんも慣れれば大丈夫ですよ」
 優しく言い聞かせる語調は包み込むよう。やがて藍佳も落ち着いた。
「……入れないって噂、嘘だったんだ?」
「きちんとした用件さえあれば大丈夫です。悪戯や好奇心、世間話をしたいくらいでは駄目ですけど……どうしても寂しくて仕方がないときなんかも来てくれていいんですよ」
 短く整えられた栗色の髪が小さく揺れる。ゆるやかな微笑みを湛えるくちびるは瑞々しい果実のようで、同性である藍佳の意識すら引き込む。
 ずるい、と。この一瞬、何もかもを忘れてそう思う。
「藍佳さん……?」
「あ、えっと……」
 名を呼ばれ、我に返った。ここまで来てしまったのだ。もう引けない。
 用件を口にしようとしたそのとき、予想外の姿を見つけてしまった。
 ソファに座っているロングコート姿の横顔。こちらを見てなどいなくとも判る。この部屋に呼ばれる三人のうちの一人、名和雅年。
 <伝承神殿>には月に数度しかやって来ないはずだ。三日前に見たばかりだというのに、どうして今こんなところにいるのか。藍佳はそう思う。
「なんで……」
「雅年さんですか?」
 こぼれた呟きと視線の向く先から察したのだろう、ステイシアは的確に答えを返した。
「数日前……火曜深夜から水曜未明、<魔人>によって一般人が殺害されました。直接か否かまでは不明ですが、その件に第一級警戒対象の残滓が検出されています。いずれかの閉鎖領域にでも逃げ込んだのか現在は見失っていますが、再捕捉が成り次第対応するため、雅年さんには待機してもらっているんです」
 雅年さんですから大丈夫ですよ、と続けた言葉を藍佳は聞き流した。それよりも気になる単語があったのだ。
「第一級……警戒対象?」
 初めて聞く言葉である。無論、意味は推測できる。今まで自分たちがそんな相手に割り振られることはなかったから覚えがないのだろうということも。
 不意に、背筋に怖気が走った。
「……いやそれよりちょっと待って。さっき、いつって言った!?」
「火曜深夜から水曜未明です。それ以上細かくは測定できていません」
「……そんな……」
 ちょうど修介のいなくなった時間帯であることに気付かぬはずもない。
 人が死んで、処刑人を待機させなければならないほど危険な相手が関わっていて、修介の姿が消えた。巻き込まれたのではないかと考えるのは当然のことである。
 藍佳はステイシアに詰め寄った。
「お願い、修ちゃんを見つけて! いなくなっちゃったの!」
「修介さんがですか?」
 ステイシアは少しだけ目を丸くして、すぐに藍佳の焦り出したタイミングから背景を読み取ってのけた。
「……もしかして、同じ時間帯にですか?」
「そう……どこを探しても全然見つからないの!」
 なぜすぐに言わなかったのかと詰られると思った。しかしこの期に及んでそんなことを気にしてはいられない。
 そして、そんなものを恐れる必要もなかったのだ。
 ステイシアの双眸によぎったのは緊迫の色と、そして藍佳の何もかもを理解したかのような、悲しいほどのいたわりだった。
 藍佳は声を詰まらせた。叱責などいかほどのことだったろう。奈落に突き落とされたかのように思えた。
 罪悪感からなどではない。目も眩むような激情が意識を狂わせる。
 だが、それが露わになるより前にステイシアは静謐な面差しで告げた。
「分かりました。少々お待ちください」
 もう間に合わないかもしれませんが、とは口にしなかった。
 背後でドアが閉じた。
 その音に注意を引かれた一瞬で、ステイシアは目の前どころかソファよりも向こうに在った。
 装いも変化している。
 華奢で小柄な体躯を包むのは、今や幻想じみた白と赤の貫頭衣だ。目に痛いほど白い両手を祈るかのように組み合わせ、まなざしを伏せている。
 その姿は有無を言わせぬほどに『神官』だった。今まで握られていた手のぬくもりが幻であったような気がして、無意識に藍佳は両手を擦り合わせた。
接続アクセス…………『ハシュメールの<魔人>帳ミンストレル・ノート』」
 澄んだ声が虚空に響く。
 そして、薄闇に光が浮かび上がった。淡い輝きではあるが、それでも薄闇を黒にして完全な背景としてしまう。ちょうどスクリーンを見上げているかのようだった。
 人の姿と文字とが流れてゆく。映像は次々に切り替わり、一秒たりとも留まらない。よく見てみれば、隅には地図と光点も表示されていた。
 推し量るのは簡単だった。
 領域内の<魔人>とその情報、そして現在地。この三日間は一体何だったのかと思うほど速やかに、容赦なく暴き立ててゆく。
 藍佳の顔が光でまだらに染め上げられる。
 大きく息を吸い、吐けば少しは落ち着いて来た。
 今、大事なのは修介を見つけ出すことである。ステイシアに任せておけば間違いない、はずだ。たとえ気に食わなくても堪えなければならない。
 そう自分に言い聞かせながら待つうちに、やがて映像が動くのをやめた。
 映し出されているのは修介の姿だ。横に見えていた文字列が消えたのが最後の変化だった。
 そして、地図もない。
「どうやら探査領域内にはいないようです。既に外へ出たのか、あるいは閉鎖領域に入ってしまったのか……」
「役立たずッ!」
 すべてを聞き終わる前に、そんな罵声が口を衝いて出る。
 しかしステイシアはそれを真正面から受け流し、続けた。
「かくなる上は時間軸も加えた走査を行います。大規模な構成にならざるを得ませんので、雑音ノイズを極力除くため、お二人には部屋を出ていただけますか?」
 こちらを見詰める瞳は、やはり気遣いを含んだものだ。
 藍佳のくちびるが震える。言おうとしたことは声にならず、やっとのことで口にしたのは悪態にも近い言葉だった。
「……今度こそ見つけてよね!」
 何も考えていられない。思考が滅裂で、続かない。
 乱暴にドアを開け、藍佳は逃げ出すように部屋を後にした。
 遅れてロングコートの姿もソファから腰を上げる。
「僕も見たのは初めてだったが、構わないのか?」
 低く、小さく、それでいてステイシアには届くように。
 背を向ける直前、雅年がそれだけを問う。
 先ほど藍佳にも見せた光景は、ステイシアがその気になれば領域内にいる<魔人>の個人情報と居場所を調べ上げることができるということを示唆する。自分たちの情報を掌握されているのだと気付くのは難しいことでもない。反感を抱く者もいるだろう。
 それは、ステイシアにとって望ましい展開ではない。見せることで藍佳が安心を得るよりも、むしろあの時点で自分たちを退室させていた方がよかったのではないかと、雅年は言っているのだ。
「……是非もありません。なんとかします」
 ステイシアはその意図を正確に読み取り、微笑んだ。
「でも、あなたが心配してくれたことが嬉しいです……」
 消え入りそうな声は自身にしか届かぬほど儚く、果たして聞こえたのか否か、遠ざかるコートの背は何も応えなかった。
 ステイシアはそっと目を伏せる。微笑みは寂しげに移り変わり、けれど消えることもなかった。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・七」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/12/25 19:36




『神野さんと諸角君って付き合ってるの?』
 そんな問いを初めて受けたのは、中学二年のときだった。
 まさか実際に漫画みたいなこと訊かれるなんて、と笑いながら否定したものだ。修介は弟のようなものだと答えたものだ。
 格好良くなって来たとは藍佳も思っていた。女子に人気が出ることは誇らしくもあった。



 三人目には、もう笑えなくなっていた。











 白の廊下が眩い。
 部屋の外へは出たものの、ドアから離れることは藍佳にはできなかった。すぐ傍の壁に背を持たれかけさせ、深くため息を吐く。
 一方で、後から出て来た名和雅年もちょうどその向かいで足を止めた。こちらを見るでもなく、まるで置物のように前を向いたまま静止している。
 奇妙な空気が流れた。
 いや、そう思っているのは藍佳だけだ。
 心は不安で混然としている。しかし同時に<竪琴ライラ>の処刑人を恐れ、にもかかわらず沈黙に耐えられない。
「あの……」
 呼び掛ければ、雅年は無言のままではあるもののこちらに向き直った。
 まなざしは気力に乏しい。しかし堅く引き結ばれた口が示す鋼のような剛性にぞっとする。
 普段であれば藍佳も気後れして笑顔とともに誤魔化したろうが、今はそれだけの余裕もない。
「あたし、どうしたらいいんでしょう……?」
 そして一度堰を切ってしまえば、今度は不安と恐れを誤魔化すためにこそ、洪水のように流れ出す。
「修ちゃんはどこに行ったの? どうして出て行ったりしたの? わからない……あたしには分からない……!」
 金切り声。整った面立ちが歪み、振り乱した髪とも相まって幽鬼めいて映る。ぽろぽろとこぼれる涙が止まらぬ様は哀れでもあった。
 答えを欲しているわけではない。ただ、溢れ出そうとする感情をもう留め置くことができないのだ。
 しかし雅年は眉すら動かすことなく、平坦に、律儀に、問うた。
「まず……僕は君たちのことをよく知らない。さすがに顔と名前は覚えたが、そもそも君と神野君はどういった関係なんだ」
 しゃくり上げるばかりの藍佳を待つ間も表情は変わらない。気遣うでもなく、急かすでもなく、さりとて困惑もなく、ただ黙ったままで眺めている。
 しばらくして、外聞もなく涙を乱暴に袖で拭った藍佳は語り始めた。
「……幼馴染です……」
 物心ついた頃にはもう修介と一緒に遊んでいたこと。幼稚園の遠足のときに起こった事件。修介には自分がいなければ駄目だということ。
 小学生になって、他の乱暴な男子たちから守っていたこと。運動会の二人三脚のこと。修介には自分が必要だということ。
 高学年になって、一緒に空手道場に通ったこと。身体が大きくなっても修介は『弟』であり、世話をしてやらなければならないということ。
 そのあたりから時折暗い顔をするようになって心配だということ。それでも自分がついているのだからいつかは解決するだろうということ。
 最初はつっかえながらだったものが徐々に滑らかになり、終わる頃には藍佳は熱弁をふるっていた。
 雅年は一度だけ左の眉を動かしたのを除けばまるで停止したかのような佇まいで耳を傾けていたが、藍佳の言葉が途切れ、話がひと段落したらしいと踏んで口を開いた。
「最初に断っておくが、僕は残念ながら独創性に欠ける。大抵はよくある一般論しか口にしない。いや、恩師の魔神じみた考え方や友人の奇説珍説の受け売りくらいはできるが」
 相変わらず口調は淡々として、それでいて意思が欠落しているわけではない。
「ともあれ、あとひとつ単刀直入に尋ねよう。その『自分がいなければ何もできない』というのはまさか当人に対しても言っているのか?」
「だって修介はあたしが守ってあげないと。片付けだって下手だし、空手だってあたしの方が強かったんですから」
 何を言っているのだろう。藍佳はそんな思いを抱かずにはいられなかった。
 小さな頃からずっと一緒だったのだ。修介のことを一番よく知っているのは自分で、自分のことを最もよく承知しているのは修介なのだ。自分にさえ分からないものが他人に分かるわけがないのだ。
 藍佳はあくまでも、解答を欲しているわけではないのである。
 しかし雅年は頓着しない。
「……これはステレオタイプに当てはめての感想だが。君は役者だな。自分すらも騙している。女はすべて女優だと、誰が言ったんだったか」
 そしていつものやる気の見えない顔で、藍佳の心にささくれ立った木片を突き立てた。
「心理学は学部生のときの一般教養で受講していた程度だが、確かこれは投影と呼ばれるものだったような気がする。自分が望むものを相手こそが望んでいると思い込むことだ。この場合、君にとって神野君が必要であるところを、神野君にとって君が必要なんだと置き換えてしまっている」
「いい加減なこと言わないで!」
 反射的に藍佳は言い返していた。木片は息の詰まるような鈍い痛みを与える。その鈍さは不快感として何よりも強く残るのだ。
「あたしたちのことなんて何も知らないくせに! あたしさえいれば修ちゃんは……」
 叫び、そしてすぐに言葉に詰まる。
 藍佳には修介にも教えていない、できることがある。しかし怖い。それを実行することを思うと身体が凍りつく。
「そうだな、申し訳ない。先ほど断った通り、僕に言えるのは一般論くらいだ。ただそれだけに、誰に訊いても十中八九似たような見解を示すとは思う」
 雅年にも諭す気のあるわけではない。問われたままに感想を述べているだけで、破滅の色を濃く浮かび上がらせている藍佳を止めるつもりはなかった。
「実のところ、お前は何もできないと言われ続けて臍を曲げない男というのは、一部の例外を除けば二つに分けられる。本当に何もできない上でそのことに焦りを抱いていないか、あるいは逆に大抵のことを独りで片付けられるおかげでそんな言葉は笑って流せるか、そのどちらかくらいのものだ。神野君がどちらなのかは知らないが」
 それでも言葉の群れは藍佳を抉る。
 激昂しているときの藍佳は理屈など知ったことではないという性質ではあるが、言葉そのものまでも聞いていないわけではない。何もできないのか、何でもできるのか、修介はそのどちらであるのかと問われたならば反射的に答えを出そうとしてしまう。
 大抵のことはできる、そちらを選ぶわけにはいかない。それでは自分が間違っていることになる。
 しかし同時に、何もできない上でできるようになろうともしないなどという評価も選べない。修介はそんなに情けなくない。
 そして結局選ぶのは、最初から除外されていた残るひとつだ。
「修ちゃんは特別なんです!」
 それ以上は続けられない。矛盾することくらいは予感できていて、その上で自分の思いの方が大事なのである。
 話しかけたこと自体が間違いだったのだと痛感しつつ、これで話を打ち切るべく藍佳は身体ごと顔を背けた。
 雅年も苦笑すら浮かべることなく、また彫像のように佇んで時を咀嚼する。
 そのままで、どれほどの時が過ぎただろうか。
「ああ、そうだ。君にできることがあった」
 不意に、雅年が呟くように言った。
 藍佳はびくりと身体を震わせる。今更ながらに名和雅年という男が処刑人であったことを思い出し、先ほどの自分の態度がどう映っていたのか恐ろしくなる。
 しかし、続く声に怒りは存在していなかった。
「素直にステイシアを頼ることだ。あれは君たちの味方だよ。状況の許す限り妥当で安全な指示を出すし、決して軽蔑などしない」
 内容こそ皮肉めいて思えるが、やはり声は事実を指摘するだけの響きである。
 藍佳もすぐには応えなかった。緩慢な動きで乱れた髪を整え、それからようやくまた向き直る。
「……そうかもしれませんね、あなたさえ許容するくらいなんですから」
 怖さを誤魔化すための軽口は、むしろこちらこそが皮肉めいて。
 雅年は苦い、歪みのような笑みを口の端に乗せた。
「まさに。その通りだとも」
 それは藍佳が初めて目の当たりにした、人間味のある表情だった。
 しかし瞬きひとつの間に消え、残るのはいつもの平坦な顔。
 それでも藍佳の中の恐れが少しだけ消えていた。
 今度は社交のためでも激情のせいでもなく、話しかける。
「……ステイシアは敵ですよ、少なくともあたしにとっては」
「ほう」
「あたしのこの姿、どう思います?」
 藍佳は自らを示した。瞼は腫れぼったいまま、頬にも白い筋が残っているが気にしない。
 170cm近い長身にすっきりとしたショートカット。涼しげな面立ちにタイトなパンツルック。
「よくできている」
 雅年の批評は、正しさをもって藍佳の胸を鈍く裂いた。
 不自然な部分が自動的に補正されてしまうとはいえ、<魔人>の容姿は自身の想定した姿を基としている。男女を問わず比較的整った容姿となることが多い。
 だが、藍佳は頭一つ抜けていた。
「……ずっと憧れてたイメージがありましたからね」
 <魔人>として得たこの容姿を、藍佳は気に入っていた。
 明るく綺麗でスタイルがよくて、格好良い女。そんな、幼い頃から夢見ていた姿だ。
 何も恐れるものなどないはずだった。美女がどうした、モデルがどうした、そんなものにこの自分は負けはしない。
 そんな思いは、しかし初めてステイシアに遭った瞬間に崩れ去った。
 まさに、遭ってしまったと言うべきだろう。魔神でもあるまいに、こんな存在がいていいのかと思わずにいられなかった。
 綺麗だった。木漏れ日に目を細めて見上げる常緑の葉のように。
 愛らしかった。大人びてあどけない、そんな矛盾を倶に抱く姫君のように。
 優しかった。汚泥の中で煌めく宝石のように。
 そしてそのくせ、どうしてかほのかに艶めかしい。胸など今の自分の方が大きいのに、華奢な身が撓る様だけで色香が匂うのだ。
 勝てるわけがないと思ってしまった。自分を騙すことも強がることも忘れ、認めてしまった。
 いや、それすらも構わないのだ。修介の心さえ連れて行かなければ。
 けれど、ステイシアに耐えられる男がいるとは藍佳には信じられなかった。現に神官派の男ならば一度は恋心を抱くと言われているほどなのである。
 もしも修介が昔のままだったなら、これほど鬱屈した思いを募らせることはなかっただろう。素直に何でも言うことを聞いてくれて、こっそり頬にキスをしてくれた幼い頃のままだったなら、安心していられただろう。
 しかし修介は変わってしまった。距離を取ろうとしているのが分かる。暗い顔の理由も教えてくれない。
 だから修介をステイシアに関わらせたくない。
「男の人はいいんでしょうけど、こっちにしてみたらあんなに腹立つ存在ないんですよ。どれほど怖いか分かりますか?」
 いっそあれで嫌な性格だったらまだ許せただろうに、こちらの思いを慮って優しく笑うような少女なのだ。
「そうか」
 雅年は小さく頷いただけだった。
 相も変わらず興味がありそうには見えないが、先ほどの苦笑を見たせいか、藍佳はあまり気にならなかった。
 加えて、心に秘めていた浅ましい思いを吐き出してしまったせいか空虚が生じ、けれどそこはすぐに修介のことで満たされる。
 どうか無事でありますように。
 何に祈ったのかは自分でも分からなかった。





 やがて束縛からの解放のときが来る。
 白の中、音もなくドアが開いた。
 髪を僅かに揺らしながら姿を見せたステイシアの背後で、正体不明の光が幾つも煌めいている。
「ステイシア!」
 間髪入れず、藍佳は飛びついた。
「修ちゃんは見つかったの!?」
「はい」
 憔悴した顔で、それでもステイシアは藍佳を安心させようとほのかな笑みを浮かべた。可憐で優しくて、藍佳の敵となる笑顔だ。
「どこにいるのかは突き止めました。間接的にではありますが、おそらくは無事であろうことも確かめました。ですが……」
「どこ? どこにいるの!? すぐにあたしが行って連れ戻して来る!」
 興奮のあまりにステイシアを揺さぶる藍佳の両手は、しかしすぐに横合いから払われた。
 大きく広がった袖から突き出した右腕で二人の間を遮るようにして、名和雅年が割り込んだ。
「落ち着け」
「邪魔しないでください!」
 睨みつけるも効果のあるはずもない。雅年の無感動なまなざしは毫も揺るがなかった。
「ステイシアには言うべきことがまだあるようだ。急ぐならなおのこと、それを遅らせる必要はないだろう」
 淡々とそう告げる口調に、今となって藍佳の脳裏に不意の鮮明な声が思い出された。修介のことで頭が溢れそうなはずなのに、それすらも切り裂いて強く浮かび上がって来た。
 半年前の、<火炎牛>について教えてくれた黒いスーツの男性。
 背格好は似ているが顔は違う。声もあれほど重くはない。言葉のイントネーションも一致しない。そもそも自分たちが<魔人>と成ったときにはもう処刑人は<魔人>だったのだから、同一人物ではありえない。
 しかしただ二つ、遮る息合いと揺るがぬ物言いがそっくりだった。似ていたからと言ってどうなるわけでもないはずなのに、たったそれだけのことが藍佳の言葉を奪っていた。
「そうですね、ひとまず話が終わるまでは落ち着いて聞いていただけるとありがたいです」
 軽く咳き込みながらも困ったような笑顔で、ステイシアは部屋の中を示した。背後の光は既に消えている。
「心配要りません、藍佳さんにはすぐに向かってもらうことになります」
 そこで、ふ、と眉を曇らせた。
 そして藍佳にとっては初めて耳にする言葉を、儚い声で告げた。
「……いいえ、藍佳さんに行ってもらわなければならないのです。成功の保証はおろか、あなたの生還すら約束できないにもかかわらず。『奈落事件ケース・アビス』の再来は何としても防がねばなりません」







[30666] 「この手、繋いだならきっと・八」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2013/01/15 19:41




 泣いている。
 だから守ってやらなければならないと思った。
 泣いている。
 だから守ってあげないといけないと誓った。
 もう、何年前になるのだろうか。











 太陽が中天に至っている。
 この三日間、梅雨だというのにからりと晴れたままだ。
 その眩さのせいか、空は青よりも白としてより強く感じられた。
 この陽の光は<闘争牙城>に属するものなのだろうか、それとも外から取り入れたものなのだろうか。
 ガードレールに腰掛けたまま天を仰ぎ、修介は取り留めもない思考の流れの中でそんなことを思った。
 魔神の力は絶大だというが、具体的にどれほどであるのかは知らない。ただ、狭いながらもこのような<世界>を作れるほどであるのは確かなのだろう。
 不思議な気分だ。現在の日本において、人間と魔神の距離は近い。そうそう遇えるものでこそないが、インターネット上のファンサイトでならば彼女たちの人外れた美しさをいくらでも拝める。その距離感からは、これほどのものを創り出す力を有しているような気がしない。
 勿論、その違和感の方が間違っているのだ。人間に当てはめてみれば分かる。
 たとえば、巨大な建物を造ることは自分にはできない。しかし知識と技術を持つ誰かが何十人も集まって、同じく人が作り上げた機械を用いれば可能となる。では自分では到底成し得ないことをやってのける彼らが常人とは異なる言動を行うのかと言えば、そんなわけはないのだ。今日の昼飯は少し奮発して八百円くらいでだとか、最近娘が冷たいだとか、きっとそんなありふれたことを思うただの人間なのである。
 だから魔神が凄まじい力を有していることと意外と親しめることとは矛盾しない。
「……そういや考えてみたらハシュメールがどんな奴なのか知らないんだな、俺」
 ふと思い出し、呟く。
 <竪琴ライラ>の主、<吟遊>のハシュメールは構成員の前に姿を現したことがない。ファンサイトも見当たらなければ写真の一枚も見たことがない。<魔人>となる際に幻の中で会話らしきものをしたはずではあるが、それすら会話らしきものをしたとしか覚えがない。
 ステイシアという存在が偶像役を担っているせいなのだろう。神官派はそれで満足してしまう。他の五派も構造自体は似たようなものである以上、同じことである。
 そこに不満のあるわけではないが、疑問は胸に残った。
 ハシュメールは一体何をやりたいのだろう。何故<竪琴ライラ>を作り、野放図に振る舞う<魔人>を抑えるのだろう。
 この疑問への答えをステイシアは、あるいは処刑人は知っているのだろうか。
 修介は、ただ漫然と日々を過ごすことを望まない。可能な限り早く、得たい。
「……まあ、そのためにも力は要るか」
 立ち上がる。
 休憩は終わりだ。アスファルトを踏みしめ、車の通ることのない車道の中央へと進み出る。
 <鴉>の教えは短いながらも多岐にわたる。
 その中の一つに、自らの強さの形を見つけ出せというものがある。何をもって力と成し、いかな一撃を己の象徴とするのか自問せよというのだ。
 いかにも凌駕解放オーバードライブの鍵となってくれそうなこの教えについて、修介は思索を続けていた。
 構えを取る。教わっていた空手のものではない。いつしか自然と覚えていた、何もかもを撓ませたような姿勢である。踵を浮かせ、膝を曲げ、背を丸めて前傾姿勢となり、卵を握る程度に緩めた両手は胸の前に。
 傍から見てあまり格好の良いものではないのだが、迅いのだ、これは。即座の反応と加速を行うのに、少なくとも修介にとって最良の構えだった。
 十秒以上の時間をかけて息を吸い、二十秒近くにわたって吐く。苦しさは皆無だ。そもそも意図してそうしているわけですらない。
 深く己の内に潜り込む。
 力とは何か。それは既にあり得意とするものだろうか。それとも未だ持たぬ新たな何かなのだろうか。
 前者であるならば<猟犬ハウンド>と呼ばれるに至った捕捉・追尾能力だ。自負もある。ただ、これが己の最強なのだと断言するには迷いが残る。
 まさに後者への未練、自分を決め切れない。
 この惑いに朝から悩ませられていた。
 アスファルトを後ろへと蹴る。もし人に同じ蹴り出しを行えたならばその力だけで踏み砕きかねないほどのものだが、<魔人>は理不尽を行う。
 足音すら僅かに、旋風となって駆ける。
 速く、速く、どこまでも速く。背後へと流れてゆく景色に迷いを乗せて押し流せはしないかと。
 人の姿もある。正確には<魔人>か。こんなところへただの人間が来るわけがない。
 さほど気にも留めず、修介は駆け続ける。駆け続けようと、した。
 悪寒。
 理由もなく全身を襲ったそれに対し、修介は反射的に大きく右へと跳んだ。そのまま身を捻り、平屋のレストランの屋上に道路側を向いて四肢を突くようにして降り立つ。
 つい今の今まで駆けていた場所、車道を小さな光弾が駆け抜け、街路樹の一本に当たって弾けた。
「誰だ!」
 あの程度なら当たっても問題はなかったか。そう思いつつも誰何に淀みはない。まなざしも厳しく、全体を俯瞰する。 
 <魔人>の五感というものは、普段は人並みでありながら必要に応じて大きく鋭敏化するものである。それらしき人影はすぐに見出すことができた。右手三百メートル、車道の中央。<闘争牙城>に相応しからぬ怯えた表情の少年が一人。
 逃げ出そうとするが、遅い。駆け出そうとするのも遅ければ、足も<魔人>として最低限でしかない。<猟犬ハウンド>にとっては遊びにもならぬ獲物だった。
 何も考えずに追ったわけではない。先ほどの悪寒が攻撃を仕掛けられようとしたことによるものならば、この<闘争牙城>における条件から、少なくとも格上ではないと推測した上でのことである。そして、仕掛けられたときに格上が反撃できないなどということもおそらくない。格下のやりたい放題になってしまうからだ。
 捕らえたときにも、まだ大通りすら抜けてはいなかった。ちょうど、修介たちが入って来た出入り口のすぐ近くだ。
「何のつもりか教えてもらおうか」
 ガードレールに押し付け、見下ろす。
 少年は震えながら、喚き立てた。
「違うんだ! 恨みとかあるわけじゃなくて……あんたを倒せばオレだけは解放してくれるって言うから……!」
「誰に頼まれた? どうして俺だ? それからお前らは何人いる?」
 訊くべきことは幾つもある。<竪琴ライラ>として尋問に慣れているわけでもないが、この怯えようなら素直に喋ってくれるだろうと思えた。
 しかし、それは見通しが甘かったのだ。
 少年は目を血走らせ、逆に詰めよって来た。
「あんた<竪琴ライラ>なんだろ!? なら助けてくれよ! オレだけでいいからさ、あの糞野郎から自由にしてくれよ!」
「糞野郎? そいつは誰だ?」
 おそらくはそれこそが自分を襲うように命じた人物なのだろう。そう思って修介が更に詳しく聞き出そうとしたときだった。
「あの<…………あ?」
 言葉の途中で、少年の胸にぽっかりと穴が開いた。
 穴は底など見せずに急速に広がり、少年の肉体を食らい尽してゆく。
「なんだよこれ!? いやだ、いやだ、いやだいやだいやだたすけてたすけてたすけっ……!」
 悲鳴すら途中までしか許されない。少年は穴に食われ、穴も自らを食らうようにして焼失した。
 修介は何らかの行動を起こすことも忘れて、一連の異常を呆然と見送った。
 最初は、少年の裏側にいる誰かがやったのかと思った。しかしすぐに気付く。これはこの<闘争牙城>の掟なのだ。
 向上心を失くした者には死あるのみ。自分自身で足掻くのではなく、ただ救いを他者に預けてそれを乞うだけとなった彼には死が与えられたのだ。
 どっと脂汗が浮いた。嘔気も催す。理屈では分かっていたはずのことが今、実感として修介を襲っていた。
 それでも、恐怖を下せるだけの肝の太さが修介には備わっていた。
「……なるほど」
 一度大きく深呼吸して、誰に向けるともなく笑って見せる。
「なるほどな」
 もう一度呟く。
 心が折れたならば、きっと同じ末路を辿ることになるのだろう。
 だが、いい。安穏とした空間など元より望んでいなかったはずだ。現実的な死が見えているくらいで丁度いい。修練も進むというものだ。
 そう自分に言い聞かせたときだった。
「修ちゃん!!」
 よく知った声がした。





 ほんの三日やそこらだったはずだ。
 昔から聞き慣れていた声でもない。
 それでも、妙に懐かしく思えた。
「……藍佳」
 振り返り、姿を確認する。
 長身の、ショートカットの少女。人だった頃より身長を大きく伸ばしてしまったせいで<魔人>となってから一週間くらいは違和感に目を回していたことも覚えている。ベルトにひとつだけ吊るした御守りが揺れていた。
 どうして<闘争牙城>にいるのが分かったのかは疑問に思わない。むしろ、ステイシアに調べてもらったにしてはいやに遅かった気がするくらいだ。
 ほんの十メートルほどの距離を開けて対峙する。
「やっぱり来たのか……」
 最初に思わず漏れたのが心底面倒そうな溜め息で、自分でも滑稽だった。
 実際、来るだろうとは思っていたがいざ目の前に現れたならどう凌ぐかは考えていなかった。逃避していたと言ってもいい。
 本当に、やり難くて仕方がないのだ。
「さあ修ちゃん、帰りましょ。ヤバい奴が来る前に」
 藍佳は、それが当然といった口調でこちらに手を伸ばす。
 今度は苦笑が浮かんだ。彼女の傲慢を打ち砕かなくてはならない。もう思い通りにはならないのだと示さなければならない。
「俺はまだ帰らない。心配するな、別にどこかに行くわけじゃない。一週間か二週間すりゃ帰るさ。早けりゃ明後日あたりかもしれないくらいだ」
 きっぱりと拒絶するつもりであるのに極力穏やかな言い回しになってしまうのは、染みついた癖である。
 しかし、それでさえも藍佳には不満な模様だった。
「だめ、今すぐ帰るの。修ちゃんの傍に凄く危ない奴が来てるのよ。帰るの! すぐに!」
 つかつかと歩み寄って来て、こちらの手を掴もうとする。束縛の、証だ。
 その手を修介は無言で払った。
 肉を打つ軽い音。痛みなどないはずである。
 なのに、火傷でもしたかのように藍佳はその手を抱え込んだ。きっと無意識になのだ。表情は何が起こったのか理解できていないのであろう、呆けたものだ。
「……修、ちゃん……?」
「そこまで驚かなくてもいいだろ」
 小さく笑う。そういえば、手を払ったのは初めてだったか。中学生の頃でさえ、気恥ずかしくとも拒絶はしなかった。
「危険な奴ってのは……まあ、直接には知らないけど、ついさっきそれっぽい心当たりには出くわしたな」
「だから! 危ないの、すぐ帰らないと!」
「大丈夫だ、師匠もいるし、そもそもこの<闘争牙城>は格下に戦いを仕掛けられないようになってる。寝込みを襲うとかも無理じゃないかな」
 安心させようと修介は言葉を重ねる。
 瞳に映る藍佳の様子は、十数年の付き合いから判断するならば明らかに平衡を欠いている。極力刺激はしたくない。
「心配しなくていい。さっきも言った通り、少ししたら帰る。あとちょっとで掴めるかもしれないものがあるんだ。だから……」
「……修ちゃんは」
「いや、だから」
「あたしがいないと何もできないんだから、無茶しちゃだめなの!」
「っ!?」
 その瞬間、今まで宥めすかして来た鬱屈が粘つきながら鎌首をもたげた。
「……そんなことはないだろ」
 声が震えていることに腹が立つ。もう抑えられないことが頭に来る。
 だが、構わないのではないだろうか。藍佳がいなければ何もできないだなどという戯言も、排除しておくべき事柄の一つではある。だから抑える必要そのものがもうないのではなかろうか。
「そんなことあるわよ! 修ちゃんはあたしの言うことを聞いてればいいの」
 いつもと変わらず、藍佳はそう言う。
 やはり何も分かっていないのだ。ならばこの際、一度すべて断ち切ってしまうべきなのかもしれない。
 いや、断ち切るべきなのだ。
 長年溜めに溜め込まれたものが今、溢れ出す。
 握り締めた拳が震えている。口許は内心に反するかのように笑みに似た歪みを示して。
「……ふざけるな」
 最初はかすれた声で。
「ふざけるな!」
 繰り返しは怒りの滲む声で。
「ふざけるなよ、藍佳!」
 三度目は絶叫になった。
「なにが『何もできない』だ!? 俺はお前の人形じゃない!」
「どうして言うこと聞いてくれないの!? 早く帰らないとここは危ないって言ってるでしょ!」
 藍佳も負けてはいなかった。先ほどの拒絶には呆然としたものの、もう調子といつもの強引さを取り戻している。
「力尽くでも連れて帰るからね、修ちゃん!」
「……上等だ」
 構えを取る藍佳に、修介も牙を剥く。
 互いに弾かれるようにして、二人の距離は開いた。





 神野修介と諸角藍佳は互いのことをよく知っている。
 ただの人であった頃も、<魔人>となった今も、全てではありえないとしても誰よりもよく理解している。
 もちろん、力の程もだ。
「修ちゃん、まぐれくらいでしかあたしに勝てたことないよね」
 藍佳はやや右を引いた姿勢で、軽く開いた両手を豊かな胸の前に浮かせている。
 その両手はいつも、修介の打撃を見事に捌くのだ。
 修介と同じく、藍佳が用いるものはかつて教わっていた空手ではなく、そこから大きく変化させた我流である。それは純粋な技術としては理想の空手に及ばないが、人には不可能な芸当を易々と成し遂げる<魔人>の使うものとして、またそのような<魔人>に対するためのものとして磨き上げられた代物だ。
「別に、あれはまぐれじゃない」
 修介は全身を獣のように撓ませ、じり、と掌一枚の厚みの分だけ右足を前に出す。
 両者とも各身体能力における彼我の差は承知している。膂力と俊敏さ、いずれにおいても修介が二段階ほど勝る。
 しかし藍佳にはそれを補って余りある業があった。
 才によって開いた差ではない。道場での修練、藍佳に見つかってしまったことで早々に惰性へと堕ちてしまった修介と、修介に勝ろうと幼いながらに必死に積み上げた藍佳の差である。
 無論、藍佳も中学へ上がる際に修介とともに止め、それ以降は<魔人>となるまで鈍らせるままだった。
 だが<魔人>と成った際に増幅されるものは身体能力ばかりではないのだ。費やした時、流した血と汗は無駄とならない。鈍った業を磨き上げ、故障によって武への道を諦めざるを得なかった者へも再び武を与えてくれる。
 成って以来、修介も追いつこうとして来たものの、まるで届く気がしない。強過ぎる、速過ぎる肉体が、そして鋭敏過ぎる感覚が、脆弱な人としての業を新たに修得することを阻害するのだ。
 ただの動きの組み合わせとしての技や<魔人>として得た能力の応用ならば問題はない。しかしすべての根幹となる抽象的にしか語り得ぬ何か、非力がゆえに到達できるものはもう見つけられない。不可能ではないのかもしれないが、この手を擦り抜けてゆく度合いは人であった頃の比ではない。
 何かが見えていた上で<魔人>と成った者と見えていなかった者との間には、業において断絶にも近い差がある。大半の<魔人>は気付いていないが、あるいは<魔人>を構成する能力の中で最も残酷なのではなかろうか。
「来ないの、修ちゃん?」
 挑発。狙ってではない。有利不利を考えてではなく、少なくとも修介に対しては姉としての自負から先手を譲ろうとしているだけだ。
 しかし修介は迂闊に仕掛けられない。<鴉>に言われるまでもなく、落ち着いて待ち構えている相手が自分にとって危険であることは、昔からまさに藍佳で知っていたのだ。
 <鴉>が相手ならば、その上で突進してよかった。教えを請う側であり、小賢しく立ち回るよりは敗北を糧とするためにあえて不利に足を踏み込むことも有意義だった。
 けれど今は違う。意地を通し、勝たなければならない。
 怒りはまだ燃え盛っているが、先ほどの叫びで一部を吐き出したおかげか己を見失ってはいない。熱いものは鼓動とともに闘志へと変換されてゆく。
「俺を連れて帰りたいんだろ? ならお前から来るべきだ」
「言ったね」
 藍佳の眉がきつく寄せられる。
「いいよ、乗ってあげる」
 それもまた、姉としての矜持から来るものなのだろう。誘われていると理解した上で首肯した。
 その姿が一度ゆらりと揺れたかと思うと、ぐん、と大きくなる。三十メートルに開いていた距離が一歩、十八分の一秒で存在しなくなった。次いで不意に視界から消え去る。
 速い。修介よりも二段落ちるとは言っても、並みの<魔人>とは比べものにならない。
 だが当然ながら、修介の方が速い。俊敏に大きく後ろへ跳び下がっていた。それでようやく間に合った。
 地面を蹴った足のすぐ下を藍佳の鉞の如き蹴撃が薙ぐ。急速接近から力を抜いて身を落とすことにより、高さと印象の落差を用いて相手の意識から己を外して足元の死角に潜り込む、藍佳の得意技である。
 一連の動きを知っていたからこそ、迷いなく修介は下がれたのだ。
 もっとも、藍佳もそれで止まるわけではない。蹴りの勢いに流されることなく自らを制御、小さな一回転によって逆に加速の材料とする。
 いかに修介の方が速さで勝るとはいえ、後退が前進を突き放せるわけもない。二人の距離は再び急速に縮まる。
 舐めるな。俺を舐めるな。
 藍佳の瞳に浮かぶ色を見て、修介は内心で吼えた。
 懐まで入り込み、繰り出される掌底。それを避ける動きと次への移動を同じものとする。
 跳ぶ方向は、後方上。そのまま身を捻り、信号機へ下向きに着地する。
 外す不安はなかった。藍佳を上回ると自負するもののひとつ、標的と周囲を常に感覚に捉え続ける能力はこの場所を足場として確実に確保してくれた。
 再び視線が合う。
 ここから行うものは、<鴉>にも放った肘打ちだ。<鴉>は上からの襲撃を半ば予測していたから容易く捌いた。では今、驚愕に双眸を見開いた藍佳はどうか。
 答えを推測する余裕など双方ともに存在しない。
 流星のような右肘が幼馴染を襲う。
 しかし藍佳も即座に反応した。頭上に置いた自らの右手首に左の掌底を当て、修介の肘を真正面から迎え撃つような動きを見せた。
 迎撃する意味は薄いはずだった。速度に乗って打ち下ろされる肘とぶつかれば、なすすべもなく潰される。
 だから藍佳は迎え撃たない。破壊を為すはずの肘が触れたのは、藍佳の右手首の尺側わずかに下。それもほぼ擦れ違うように。
 けれど擦れ違いはしない。左手に支えられながら、藍佳の前腕は修介の肘を自然と外側へ誘導する。
 今度は修介が目を剥く番だった。
 直撃は言うに及ばず、迎え撃とうとすれば潰せる、遮ろうとしても腕をへし折れる。そのはずだったのに、藍佳は不意を打たれたにもかかわらず見事逸らしてしまったのである。
「く……」
 着地の後、即座にその場を離脱する。
 充分な距離を確保しながら振り向けば、藍佳もこちらに向き直ってはいたものの、追撃を仕掛けてはこなかった。
 その右腕はざくりと裂け、抉れ、鮮血が滴り落ちていた。さすがにあの一撃を無傷で凌ぐことは叶わなかったようだ。
 傷は巻き戻すようにしてすぐに消される。
 しかし藍佳の顔は蒼白だった。くちびるが小さく震えている。
「…………なんで…………?」
 やっとのことで絞り出した声もまた、震えていた。
「……ねえ修ちゃん、どうして……?」
 その表情、声の理由は流れた血でも痛みでもない。
「あんなのまともに入ったらただじゃ済まない……あたしなら死にはしないかもしれないけど、でも……本気で打ったよね……!?」
 <魔人>となってからも手合わせは幾度も行っていた。だがそれは修練だ。本気であっても、全力であっても、意味が違う。先ほどのように自分では止めようもないほど攻撃のみにのめり込むことはしない。殺しかねない一撃など使わない。
「そりゃ、本気だからな。耐えてくれる確信もあった。まさか捌かれるとまでは思わなかったけど」
 修介は獰猛に笑ってみせた。覚悟ならば先ほど済ませた。
 全身を撓める。まなざしを尖鋭に研ぎ上げる。
「無理矢理にでも理解させる。もうお前の指図は受けない」
 その宣言を、血の気を失ったまま藍佳は聞いた。ぎこちなく、ゆるゆると頭が横に振られる。
「……違う、あたし指図なんてしてない……」
「したさ。多過ぎていちいち挙げる気にもなれないけど」
「だってあたしはお姉ちゃんで!」
「幼馴染だ」
 鋭く遮り、それから修介は静かに繰り返す。
「俺たちはただの幼馴染なんだ。藍佳に命令権なんかないし、俺に従う義務はない。まあ別に、本当の姉弟でも権利や義務なんかないだろうけど」
「違うの……あたしそんなつもりじゃ……!」
 藍佳の整った顔が泣き出しそうに歪んだ。
 まだ理解したわけではないのだろう。時折発作のように小さな憤りも垣間見える。
「だって! 修ちゃんよく泣かされてたじゃない! だからあたし守らなきゃって……!」
「それが余計なんだよ!」
 幼い頃の随分と恥ずかしい記憶を思い出させられ、修介は不覚にも声を荒げていた。消してしまいたい事実の一つである。
「保護者気取りされるのはもう御免だ。俺を守る必要なんかない」
「だめ!」
 藍佳は拒否する。自分の理想の世界を否定するのは許さぬとばかりに、強く頭を振る。
 短く切り揃えた黒髪が乱暴に浮き、陽光に煌めいた。
「そんなのだめなんだから! 修ちゃんはあたしが守ってあげる、あたしはそのために強くなったの!」
 そんな藍佳を、修介はどこか透明な思いで見つめた。
 通すべきは意地だ。駄々をこねてはいけない。
「ああ、さすがにもう気付いてるさ、そんなこと。けどそれでも俺は今」
 自分に言い聞かせながら肯定し、そして万感の思いを込めて否定した。
「藍佳、お前を倒す」





 仕掛けたのは、今度も藍佳だった。
「そんなの許さない!」
 その声を残し、弾丸と化す。
 そして今度は、修介も踏み出していた。足を止めての近接戦闘では勝ち目は薄いが、速度と重さを活かし易いこういったぶつかり合いならば話は違う。
 加えて、自らに課した制約として、後ろへは退けない。前に進むか止まるかでなければならないと決めた。
 相対速度は音の三倍を超え、修介は拳、藍佳は掌。背丈の差、素直に打てる拳と体を入れなければ真っ直ぐに突き入れられない掌。射程が違う。交錯は修介の有利、に思われた。
 伸び切る寸前の拳に予定外の感触。藍佳の掌は修介自身を打つのではなく、拳に触れていた。
 失策を悟るも引ける勢いではなかった。藍佳は半身になりつつ拳を流したその腕で、修介の胸の中央へ肘打ちを叩き込んだ。
 両者にかかる力を一点に収束させたに近いその一撃は、先ほどの修介の奇襲の威力を凌駕する。声もなく吹き飛ばされた修介は向かいの喫茶店の窓硝子へと打ちつけられた。
 それが現実の建物だったなら、窓どころか家屋自体が崩壊していただろう。だが此処は<闘争牙城>、魔神イシュが創り上げた閉鎖世界である。<魔人>の力程度では壊れない。
 だから、修介は背の窓からも衝撃を叩き込まれることになった。
 苦痛のあまり視界が歪む。それでも声は意地にかけて上げなかった。
「うまくいくとでも思ってたの? 昔から修ちゃんはパワーとスピードばっかで防御がスカスカだもん、簡単だよ」
 藍佳は追撃をかけない。いつもの調子を取り戻して、澄まし顔で言ってみせる。
 しかし修介はそれが虚勢であることを見抜いていた。
「それは、どうかな。お前もただじゃ済まなかったんじゃないか、藍佳? あの瞬間、肘砕けてただろ」
 人間が人間に対して行うのであれば問題はなかったのだろう。人に出せる速度など客観的に数値を見れば大した差はないし、肉体の強度も高が知れている。余程の体格差がない限りは、あのような真似ができるだけの業を修めているのならば反動は巧く散らせる。
 しかし<魔人>は速さも強さも桁が違う。強靭な敵を正面から突き破るような一撃は、そこまでの玄妙に達しているか、あるいは自らも同等に強靭な肉体を有していない限り支えきれないのだ。
 藍佳の業が修介を大きく上回るとはいえ、あの反動を散らせるほどではない。
「パワーとスピードも馬鹿にしたもんじゃない。俺とお前、壊れ切るのはどっちが早いか……勝負だ」
 立ち上がった修介が即座に地を蹴る。
「何回やったって!」
 藍佳が反応した瞬間に、今度は横へ。次いで通りの向かいへ。一瞬たりとも留まることなく、宙空を翔け回る。
 自分の中に内燃機関があって、それが際限なく回転数を上げてゆく感覚。
 <鴉>には無駄に跳ね回るなと言われたが、裏返せば無駄でなければいいのだ。そしてもうひとつ。自分の都合だけを考えず、餌を置いて相手の行動を誘導すること。
 一度は修介に追随しようとした藍佳だったが、すぐに道路の中央に陣取って待ち構えた。全速で移動する修介に追いつくことは叶わないと知っているからだ。建物の壁を背にしないのは動きが阻害されるのを警戒してだろうか。
 ともあれ、藍佳は襲撃の瞬間を狙いながら意識は修介の動きを追っている。
 周囲で最も高いビル、その中ほどの壁を蹴り、修介は急降下した。藍佳の正面、斜め上方。
 信号機を足場としたときと似てはいる。ただ、距離は五倍近くあった。
 ミスではない。しかし藍佳はミスだと思い、その思いは油断となる。その場で無理に捌こうなどとするはずもなく、パンツルックの長身は軽く後ろに跳んで襲撃をかわした。
 着地は同時。前に出るのが早かったのは切り返さなければならない藍佳ではなく、今まで下へ向けられていた力を爆発的な前方への突進力と転化させた修介。
 否、転化したというだけでは済まされない。修介自身にも分からぬ力が身体の奥底から湧き上がり、その速度は今まで見せて来た速さを軽々と凌駕した。
 判断を誤ったのは自分なのだと気付く暇もあらばこそ、低い位置からの体当たりに藍佳の反応は間に合わなかった。しかも弾き飛ばされるのではなく、そのまま肩に引っかけられ、修介の突進も止まらない。
 そして来たのは鳩尾と背部への衝撃だ。不壊の壁にそのまま直接叩きつけられたのである。
「く、ぁあっ……!?」
 掠れた悲鳴が漏れる。全身が軋んだ。力の逃げ場がまったく存在しないだけに、受けた打撃は先ほどの修介にも劣らない。
 視線が交錯した。修介は一歩だけ退いて藍佳を解放したが、終わりとはしなかった。
 大気を切り裂いて拳撃が走る。
 苦痛の中、それでも藍佳は捌こうとするが、逆に弾かれた。触れるか否かの時点で修介が腕を引いたのだ。藍佳の手は惑い、震えた。
 藍佳の防御に穴はない。少なくとも修介の力量からすればないように思える。が、それを作り出す手段があることにも気付いていた。
 基本的に藍佳は、捌きから流れるようにカウンターへと入る。崩しを加えて相手の身体を泳がせ、そこへ一撃を入れるのだ。
 しかし、どんな攻撃に対してもその流れへと持ってゆけるほど卓越しているわけではない。浅く軽く速い、引くことを優先した手数重視の打撃には本来の力を発揮し切れないのである。
「おおおおおおおおおおおおっ!!」
 連打。己の肉体の限界に挑むように、ただ打つことと引くことだけを思いながらひたすらに両の拳を繰り出す。
 すべて受けられてはいる。時折絡みつこうとして来る手を跳ねのけ、引き剥がし、咆哮する。
 泥臭いにも程がある。技術も何もなく腕を振り回すのに近いものがある。
 しかし藍佳は確かに、混乱を隠し切れなくなりつつあった。
 まともな状態で受けていたならば、それでも苦もなく捌けただろう。速いだけ、多いだけでまともな拳撃とは呼べない。
 しかし苦痛のせいで身体を正確に動かせない状態から始まったこの連撃は、動きそのものが回復して来た今となって藍佳の拍子を完全に狂わせてしまっている。
「やだ……やだ、やだ!」
 むずがるように藍佳は小さく頭を振る。修介の一撃一撃が自分を否定するようで、膨れ上がってゆく恐怖がすべての精彩を奪ってゆく。
 やがて、受けるべき手の動きを大きく外した。その隙を修介は見逃さない。
 ぴたりと拳が眼前で止まる。合わせて何もかもが停止してしまったようだった。
「……俺の、勝ちだ」
 荒い息の中での勝利宣言。
 目を見開いた藍佳は背を壁に預けたままずるずると崩れ落ち、力なく膝から先を外側に放り出してへたり込んだ。
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、幼い子供のように泣きじゃくる。
「やだ……やだよぅ……」
 それは、修介にとっては稀に見ることのあった姿だ。藍佳自身は気付かれないよう陰でこっそりと泣いていたつもりだったのだろうが。
 自分が泣かせているのだと思うと胸が痛い。だが、それでも勝たなければならなかった。そうしなければ前へ進めなかった。
 しかしこれが最後だ。最後にしなければならない。
「置いてかないで……あたし、頑張ったよ……? 精一杯美人になったよ? 胸だっておっきくしたよ……?」
 悲痛な声。縋るように伸ばされた手が震えている。
 その手を取り、修介は名を呼んだ。
「……藍佳……」
 それから、どこから話そうか少しだけ迷った。
「あのとき……<火炎牛>に襲われたとき、俺は何もできなかった」
 戦車をも正面から容易く粉砕し、生半な<魔人>では何十人集まろうと突き破られ蹴り殺される、今の修介でさえおそらく勝てない、そんな存在にただの人間が敵うはずもない。
 やったことと言えば半狂乱で喚いて腕を振り回しただけ。<火炎牛>にとっては痒みにすらならず、纏う炎によってこちらが燃えただけ。
「お前が泣いてるのに何もできなかった」
「……できるわけない……仕方ないよ……だって、もう身体が千切れて、燃えて……」
 あの恐怖を思い出したのか、藍佳の震えがいっそう強まる。
 しかし修介は奥歯をぎりと鳴らした。
「それだけじゃない!」
 確かに身体も動かなかった。火炎に侵され、意思から切り離されてしまっていた。死まで秒読みだった。だが、そんなことは何の言い訳にもならないのだ。
 修介は己を呪い、顔を歪ませる。
「俺はあのとき……最後の最後で諦めた! お前を守ることを諦めたんだ!」
 そしてそれなのに助かったのだ。<火炎牛>は名和雅年が葬り去り、自分たちは<魔人>と成る素質に恵まれたことで生き延びた。
 感謝はしている。だがそれ以上に妬ましかった。
「……俺が守りたかった。どうして俺じゃなかった? どうして俺は諦めた……?」
 逆恨みもいいところなのは理解している。それでもこの気持ちは止められなかった。
 たとえ諦めなかったとしても、藍佳を救えたわけではない。力が伴わなければ自己満足にしかならない。
 だから強くなりたかった。藍佳を害するものをすべて跳ねのけ、自分の弱い心を叩き殺してくれるほどの強さが欲しかった。
 できることならもっと大きく構えることのできる男ではありたかった。過去に囚われず未来を見ることのできる人間でありたかった。それでも、卑屈な気持ちから出ているのだとは思っても、力が欲しかった。
 溢れ出た激情、弱い自分への憎悪を押し込め、やがて修介は穏やかに笑った。
「俺はお前を守りたい。守られるなんてもってのほかだ。そのために強くなりたいんだ。だから……絶対に置いてなんか行くわけない」
 その言葉の意味を理解できたのだろう。徐々に藍佳の顔に笑顔が灯ってゆく。
「……ほんとにどこにも行かない……?」
 訥々とした、幼げな口調。今の凛々しい容貌とは不釣り合いで、だからよりあどけなく思える。
 けれど、本当に明るいものとなる前に、横合いから声がかかった。
 心底、詰まらなそうな声だった。
「やれやれ、がっかりだ」







[30666] 「この手、繋いだならきっと・九」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2013/01/22 19:43




 欧州に小国が一つあった。
 歴史は浅い。<災>の大量発生による混乱に乗じて建てられた国であり、そのため元々所属していた国からは勿論のこと、周辺諸国にも真っ当な国であるとは認められていなかった。
 それでも彼らは団結をもって国たることを維持していたのだ。
 そんなある日のことである。
 菓子屋の男が死んだ。女性へのストーカー行為の果て、直接的な接触に及ばんとして反撃に遭い転倒、頭部を強打したのだ。即死でこそなかったものの、適切な処置が遅きに過ぎた。
 その死は事故として扱われた。女性の落ち度はすぐに救急車を呼ばなかったことくらいであり、状況や精神状態を鑑みてもそれを求めるのは酷だと警察は判断した。
 しかし男の妻は違った。殺されたと思った。
 被害者、あるいは加害者の女性は国の有力者の娘だった。だから不当な扱いになったのだと思った。
 事実、そういった要素がまったくなかったわけでもない。けれども菓子屋の妻以外には納得できる結果だった。
 怒り狂う妻。しかし望みは果たされない。
 そんなときに、東洋人らしき男が現れて言ったのだ。お前さんの気持ちは分かる。悪は裁かれなきゃあならん。俺が殺してやろうか。
 そうして妻の願いは果たされた。

 次に悲嘆に暮れたのは、娘の首をねじ切られた有力者である。下手人の足取りはまったく追えず、時間だけが過ぎてゆく。
 そんなときに、東洋人らしき男が現れて言ったのだ。お前さんの娘を殺させたのは菓子屋の嫁だ。理不尽だな、実に理不尽だ。俺が殺してやろうじゃないか。
 そうして有力者のせめてもの溜飲は下げられた。

 次に胸を掻き毟ったのは、菓子屋の妻の兄だった。
 彼の前にも東洋人らしき男が現れる。権力者ってのは恐ろしいもんだ。しかしお前さんじゃあ手も足も出せんだろう。俺が代わりに殺して来てやるよ。
 そうして死と恨みとが連鎖する。

 まことしやかに噂が流れる。
 姿なき暗殺者がいる。
 そいつは憎い相手を殺してくれる。
 そいつはどんな相手でも殺してくれる。
 男も女もない。大人と子供もない。軍人も民間人もない。ただ粛々と一人ずつ、怨讐を匂わせながら人が死んでゆく。
 恨みは、あるいは重大であったり、またあるいは下らなかったり、逆恨みであったり、濡れ衣であったり。
 そのうちに東洋人の男は要らなくなった。人々が自ら殺人に手を染め始めた。何もかもが狂い、狂気が正気となって、その正気にこそ安心を求め始めた。

 地獄が作られた。



 <災>には精神を直接破壊する能力があるのではないかと他国に誤解せしめた、『奈落事件ケース・アビス』の顛末である。










「幼馴染が擦れ違いから殺し合う……悪くないシチュエーションだ」
 前を開けた黒のインバネスコートが揺れている。地面に落ちた影もゆらゆらと。
 歩み寄って来る足取りは暢気、しかし確実に。そしてそこに音はない。
「一応期待はしながら見てたんだが……まあ、最初っから痴話喧嘩にしか見えんかったからな、当然の帰結か」
「……師匠?」
 よく分からないことを言っているが、<鴉>である。多少けれん味ある物言いをするのは偶にあることだ。<鴉>一流の諧謔なのだと修介は思った。
 藍佳の手を離して背を伸ばし、向き直ろうとする。
「もう用事は終わったんですか?」
「だめ、修ちゃん離れて!! 逃げなきゃ……!」
 しかし今度は藍佳が腕を掴んで引っ張った。
 その切羽詰まった様子に戸惑う。
「いや、あの人は俺に色々教えてくれた人で……」
「最初に言ったじゃない、凄く危ない奴が来てるって! それがあいつなの、あたし写真まで見せてもらったんだから!」
「あー、いや、その……危なくないとまでは言えないけど……」
 <鴉>の仕事が復讐代行業であることを思い出し、少し言葉を濁しつつも修介は続けた。
「<ギルド>の人で、通称<クロウ>……」
「違うの! <ギルド>なんかじゃないの!」
 藍佳が揺さぶって来る。あまりの剣幕に修介も戸惑いを隠せない。
 藍佳は思い込みが激しいため、言うこと全てを鵜呑みにすると碌なことにならないのだ。だから何が正しいのか取捨選択しなければならない。
 そして今回、口にしたのは突拍子もない内容だった。
「あいつは<金星結社パンデモニウム>の幹部なの!」
 修介も知っている名だ。
 <金星結社パンデモニウム>。
 それは主に魔神リュクセルフォンによって成った<魔人>たちによって構成された集団である。
 リュクセルフォンは、“<反逆>の”と枕詞を置かれる。体制や秩序、強者へ反逆しようとする者を非常に好むのだ。そのため彼女が<魔人>にするような人間はその大半が事実上のテロリストと化すのである。
 そして<金星結社パンデモニウム>とはその最も純粋な結晶だ。三百名余りを擁し、世界でも十指に数えられる規模の存在が秩序崩壊のためにはたらいているのだ。
 人間社会へ明らかに知らしめてしまった<魔人>は消滅する、その法則に阻害されていなければ、あとは個々で好き勝手に動くことが多いという欠点がなければ、人類を阿鼻叫喚の地獄に叩き落としていたことだろう。
 活動域は欧州を中心に西アジアと北アフリカまで広がり、構成員も大抵はそのあたりの出身だ。とはいえ、元は日本人であった者も十名に足らぬくらいはいる、とは聞いたこともある。
 しかしだ。
「そんな、まさか……」
 修介の頬に軽く浮かんだ笑みは、信じたくないという思いの表れ。
 そしてその思いを後押しするように<鴉>がひらひらと手を振った。
「いやいや、俺は<ギルド>の<クロウ>で間違っちゃねえぜ? <ギルド>のデータベースにもきちんと登録されてる」
 一呼吸。
 修介は頷き、藍佳は否定しようとし、しかし<鴉>は僅かに早く続けた。
「ただまあ、そっちは表向きの顔でな。本来の所属は<金星結社パンデモニウム>だわな」
 ごく軽い調子だ。どうでもいいことを言い忘れ、補足した程度のものである。
 担がれているのか。最初はそう思った。しかし藍佳の手に籠もった力、震えが逃避を許さない。
 <鴉>を見て、藍佳を振り向いて、また<鴉>に向き直って。
 まさか、という思いを殺す。不思議ではない。<鴉>は元より、飄々と殺しを行う危険な男だったではないか。
 事実が何であるのかを、修介は理解した。
 喉まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込む。
 <鴉>は嘘を吐いたわけではない。すべてを語らなかっただけである。しかも出会ったときにわざわざ近付いたのはこちらなのだ。
 自分が目を曇らせていただけで、決して不条理な事実ではない。
「騙された、とは言わんか。悪くない。泣き事垂れるだけが能の坊ちゃんクソガキとは違うようだ」
 修介の心を読んだかのように<鴉>は薄く笑った。
「しかし実にいい顔をする。必死に歯を食いしばる、素晴らしいつらだ。思ったより懐いていたのか、お前」
「……否定はしません」
 この三日、ともに過ごしたことを修介は忘れていない。教わったことを忘れてはいない。
 <鴉>は紛うことなき兄貴分だった。どこか憧れるところもあった。
 暴れ出そうとする胸の内を抑え込み、その力を視線へ乗せてゆく。
 うろたえてはならない。藍佳を守るというのなら、逆上して突っかかってゆくような真似は決して行ってはならないのだ。
「ああ、いや。否定、しない」
 言い直したのは、<鴉>と<鴉>に心を残す己へ決別を告げるためだ。
 今をもって敵対するのだ。
 その意図を察し、<鴉>は見栄を切るようにインバネスコートを翻してみせた。風に吹かれた木の葉の如くにぶわりと広がる黒、周囲を埋め尽くしたそれは羽根だ。
「改めて自己紹介しておこう。<金星結社パンデモニウム>が頭首たる<明星>ルシファー、その背にあって奴を羽ばたかせる十二の翼がひとつ、<闇鴉>アンドラス。そいつが俺だ」



 アンドラスとは、ソロモン七十二柱にも数えられる大悪魔である。
 その姿には諸説あるが、一つ挙げるならば黒い鴉の頭部をして魂も震えるほど鋭利な剣を持ち、黒い狼に騎乗する天使の姿を取るとされる。侯爵、あるいは公爵であり、三十の軍団を率い、不和を撒き、殺戮を好む。
 この世界に神話や伝承に語られるような存在はなく、人の想像力が創り上げたものでしかない以上はその情報もただの設定に過ぎない。しかし無意味というわけでもまた、ないのだ。
「なに、性格から安直につけられただけで、設定上の格だとかソロモン王だとか地獄の宮廷だとかはまったく関係ないから安心しろ」
 <鴉>、もとい<闇鴉>アンドラスはとぼけた調子でからからと笑う。
 修介はアンドラスという響きに聞き覚えがあるだけだ。どのような悪魔とされるのかなど知らない。それでも碌でもないものなのであろうことくらいは予想がついた。
「何が目的だ? さっきの奴もあんたの差し金なのか?」
 じとりと脂汗が浮く。黒の羽根は既に周囲を覆い尽くし、逃してくれそうにはない。藍佳が逃げようと言ったときに従っていれば間に合ったのかもしれないが、もう遅い。
 <闇鴉>アンドラスは口許に笑みを引っかけたまま答えた。
「さっきのは同僚の……ま、趣味も兼ねての実験ってところだろ。どうせお前にとっちゃ大した意味はない。でもってお前を教えたのは正真正銘、下見のついでに暇潰しをしただけでな。特に敵意も悪意も持ち合わせてないんだが……まあ、あわよくばお前を<竪琴ライラ>の敵にでも仕立て上げられんもんかと思っちゃいたがね」
 修介は無言のまま、強張るほどに硬く口を引き結んだ。
 いつものままの雰囲気に戸惑いを伏せ切れない。ともに過ごした記憶が邪魔をする。
 <闇鴉>アンドラスは飄々と続ける。
「だが正直、仕立て上げるにも興は乗らなかった。なぜならば、どうやらお前は<竪琴ライラ>が好きで堪らないわけじゃあない。憎悪は愛情が裏返ってこそ輝く。裏切りは信頼があってこそ素晴らしい。ただ罵り合い、殺し合うだけではあまり美味くない。あるいは、もしも<竪琴ライラ>がお前を裏切ったなら、お前に宿っただろう憎悪を自覚させてやるところだったが」
 その様は修介に種々の知識を伝授していたときとまったく変わらない。さほど早く喋るわけではないが、ほとんど途切れず割り込めない。
 表情からも、何を考えているのかを察するのは難しかった。
 今、このときまでは。
「だがやはり日本はいいな。魔神が現れる前と変わらんくらいに平和だ」
 口の端が大きく吊り上がる。太く大きな歓喜の表情。纏う気配は闘志。覇気溢れる雄々しい顔で、続けて口にしたのはおぞましいまでに邪悪な言葉だった。
「壊し甲斐がある。気も狂わんばかりの憎悪を露わにさせてやりたい。子が泡を吹きながら母親を殺すんだ。父親が醜い顔で子を殺すんだ。すべての尊い約束は破壊され、狂わねえ警官がいたなら、そいつは慈悲のために絶望しながらも気丈に人々を射殺して回る。そんな未来だ」
 堪えようもなく、修介の身体が震えた。藍佳もいっそう強く腕を握って来る。
 <闇鴉>アンドラスがいかにも狂って見えたなら、これほど恐ろしくはなかったろう。
 三日間で時折目にしていた、独りで何もかもを薙ぎ倒して望みを果たしてしまいそうな顔で、<闇鴉>アンドラスはただひたすらに憎悪と争いを称賛する。それは異質であるはずなのに、万人の心に宿る破壊欲求をくすぐる。
「お前にも感じるところはあるだろう。幼い頃にものを壊すことを好むのは誰しもが通る道だ。それは消えるわけじゃあない。人間の基幹を作る一つだからな。当然、<魔人>も同じだ」
 <闇鴉>アンドラスは、お前も来いとは言わない。替わりに、愉快そうに修介を観察している。
「反論は、まあ、あるだろう。言わなくていいぜ、聞き飽きてる。今は小難しいことを考えるより、隣のを気にかけとくこった。守るんだろう?」
「……ああ」
 広く戦場を形作るように周囲を埋め尽くす、黒い羽根。それは道路の向きを長軸とした楕円を為し、半球状に上空すら覆っている。<闇鴉>アンドラスに二人を逃すつもりは、やはり欠片も見られない。
 同時に、道を指し示してくれる師としての響きが残っているとも思える。
 しかし違うのだろう。次の台詞を、修介は予測することができた。
「そして引き裂くんだな」
「俺は平和も絆も大好きだ。そいつがあるから壊すことができる。喪失の陶酔は愛してこそだ。現状、お前たちが美味いかどうかは……まあ正直怪しいもんだが、割と胸は躍るね。仮初めにとはいえ、お前は俺の弟子だ。それが、狂わんばかりに俺を憎むようになるかもしれんわけだ」
 <闇鴉>アンドラスは悠然と構えた。もうお喋りは終わりにするつもりということだ。
 だが、解せない。
「俺たちに手を出したらまずいんじゃなかったのか?」
 <闘争牙城>内で格下を襲えば死ぬ。それは<闇鴉>アンドラス自身が口にしたことだ。嘘だったにしては、先ほどの一件を除けば実際に誰にも襲われていない。
 腹の底が冷たい。<闇鴉>アンドラスから逃れることなど、果たして可能なのだろうか。せめて藍佳だけでも外へ出さなければ。
 慄く修介を<闇鴉>アンドラスは師の顔で眺める。
「抜け道があると言ったろ? どうして確かめなかった? そうすれば教えてやったのに。雛のように口を開けて待ってるだけってぇのはいかんな」
 悪態をつく余地もなかった。
 要は今も、何もかもが足りていなかったということなのだろう。たった三日で掴めるものなど、強さの中のほんの僅かでしかなかったのだ。
 だからといって諦められるわけがない。
「修ちゃん……」
「安心しろ、お前を守るって言っただろ」
 嘘ではない。成し遂げられるか否かは別として。
 藍佳がどんな顔をしているのかは判らなかった。振り向く余裕はない。一瞬たりとも<闇鴉>アンドラスから視線を外すわけにはいかない。痛いほどに腕を掴む力が、捉えられる藍佳のすべてだった。
 しかしその手もゆっくりと離させる。
 全身を撓める。速さを求め、力を溜める。
「さあ、その誓いを事実にしてみせろ」
 謡うが如き愉悦の響きとともに、<闇鴉>アンドラスが地を蹴った。
 ふわりとした動きで、するりと距離を詰めて来る。
「言われなくても!」
 それに対し、絶望的な思いとともに修介は正面から迎え撃った。
 後ろへは下がれない。横へもかわせない。そんなことをすれば藍佳への道を作ってしまう。
 その場に止まるのも愚策だ。修介が<闇鴉>アンドラスに勝るのは速度のみ、唯一の武器であるそれを殺してしまうわけにはいかない。
 だが、消去法で選ばれたに過ぎないこの行動に勝利への道筋など見出せなかった。
 そしてぶつかり合うまでに浮かぶわけもない。修介の拳はあえなく空を切り、<闇鴉>アンドラスは容易く懐へ入り込んでいた。
 あとは貫かれるだけだと修介は思った。あの金色のクラウンアームズに抉り殺されるのだ。
 しかしそれは同時に最大のチャンスでもある。<闇鴉>アンドラス本人さえ押さえておけば、藍佳は羽根を突っ切って逃げられるかもしれない。勝てないならば、これがせめてもの方策だった。
 刹那の空白。
 襲いかかったのは衝撃。
 比喩ではなく、全身に浸透するかのような。
「っ!?」
 為すすべもなく修介は吹き飛ばされ、今度は戦場を括り出す羽根が背を切り裂きながら絡め取る。
「修ちゃん!?」
「この程度で!」
 駆け寄って来たのか、すぐ傍に藍佳の悲鳴。修介は崩れ落ちる前に踏み止まった。
 加速した意識の中、ともすれば霞みそうになる両目を叱咤、今一度<闇鴉>アンドラスの姿を捉える。そこに、自分が貫き抉られなかった理由を見つけた。
 素手。光がない。
 あの金色のクラウンアームズを、<闇鴉>アンドラスは使用していない。
「……そうか」
 格下に仕掛けるための抜け道があると<闇鴉>アンドラス言った。それは当然、格上が不利になる要素を含んでいなければならないはずだ。
 おそらくはクラウンアームズなのであろうインバネスコートがそのままであることを思えば、少なくとも攻撃に用いることができないという制約を負っているのかもしれない。
 目が出て来た。勝てはせずとも、稼げる時間は増えた。
「修ちゃん?」
「羽根を突っ切って逃げろ、藍佳!」
 伸ばされた手を振り切り、そう言い残して修介は再び急加速する。隅に追い込まれて機動力を生かせなくなってはおしまいだ。
 一方で<闇鴉>アンドラスは動かない。動きを観察するように僅かに目を細め、両手の位置を僅かに変えた。
「ちっ……」
 待ち構えられることを嫌い、修介は途中で制動をかける。とにかく時間さえ稼げばいいのだ。あちらから来ないならば無理に仕掛けることはない。
 妥当なつもりで下した、その判断が間違いだった。
 動きが止まろうとした瞬間、絶妙な呼吸で<闇鴉>アンドラスが静から動へと移った。
 修介ほどに速くはない。しかし停止することに力を費やし切った状態からでは即座に対応することは不可能だった。
 再度の衝撃。網膜に焼きついた<闇鴉>アンドラスの顔は、やれやれとでも言いたげに薄い笑みを張り付けていた。
 上下左右が分からなくなる。地面を散々に転がり、また背中を羽根に裂かれる。
 藍佳もただ見ていたわけではない。修介の背に隠れつつ、停止しようとしたときに追い越して襲撃を加えていた。しかし<闇鴉>アンドラスは藍佳を避ける動きを修介を吹き飛ばす動きとし、その後で藍佳の脇腹に脛を叩きこんだのだ。
「中途半端はいかんぜ、弟子よ。抜かば斬る、抜かずば斬らぬ、決めとけよ。お前の戦り方は動き始めた時点で鞘走らせてるようなもんなんだからな」
 飄々と、<闇鴉>アンドラス。悠々と語り、それから思い出したように藍佳についても批評を加えた。
「ついでに小娘、いい鋭さだ。不意打ちになってりゃかわせんかったかもしれんが……読まれてたんじゃあちと無理だ」
 追撃は来ない。<闇鴉>アンドラスは少し下がって二人ともを視界に入れ、相変わらず薄く笑っている。笑って、そのくせ戦闘が始まるまでと違い、堅実に動いている。
 羽根は逃げ道を塞いでいるだけではない。左右の建造物をも覆って足場となる場所を排除している。これでは得意の多角攻撃は選択肢に入れることも難しい。
 強い。頼りなく震える脚を自ら軽く打ち、修介は改めてそう思った。
 力強い。ただしそう極端にではない。
 それなりに俊敏でもある。しかし自分ほどではない。
 藍佳よりも業に長けている。けれど絶望的な差があるわけではない。
 <闇鴉>アンドラスは、言うなれば総合的に強い。攻略できそうに思える箇所は幾つもある。しかしそのいずれもが堅牢なのだ。
 核となっているのは、おそらく経験である。<金星結社パンデモニウム>、あるいは<ギルド>の<魔人>として戦い続けて来た、否、殺し続けて来た経験の結晶が、<闇鴉>アンドラスという男の力の中核を担っているのだろう。
 やはり、どう考えても勝てる気になれない。
 だから叫ぶのだ。
「逃げろって言ってるだろ!」
 <闇鴉>アンドラスの左手からじりじりと背後へ回ろうとしている藍佳へと。
 藍佳が逃げてくれなければここで足掻く意味がない。
 しかし、返って来たのはきっぱりとした拒絶だった。
「修ちゃんを置いて逃げられるわけないでしょ! こうなったら戦うしかないんだから!」
 藍佳は滑るような足取りで動き出す。弧を描くように、<闇鴉>アンドラスの死角に入りこもうと。
「しかないってことはないだろ!」
 修介もそれを放っておくわけにはゆかない。こちらからも攻撃を加えなければ容易く対応されて藍佳が危険に晒される。
 前後からの挟撃。けれど呼吸は合わない。<闇鴉>アンドラスまでの距離は、修介の方が倍以上ある。
 <闇鴉>アンドラスは修介を無視して即座に藍佳へ向き直った。
 何が起こったのか、修介からはよく分からなかった。ただ、藍佳が真上へと打ち上げられたのだけが目に映った。
 動きのとれない空中、あとはどうとでも料理できる。
 間に合ってくれ。声ならぬ叫びとともに修介は跳躍、藍佳へ右手を伸ばす。
 下からは得体の知れぬ、ざらりとした気配。藍佳の手首を掴んでそのまま掻っ攫おうとした瞬間、掴んだその腕が断ち切られた。
 痛みを感じている余裕などなかった。右腕を復元しつつ咄嗟に左腕で抱きかかえ、なんとか着地する。
「何やってるんだ!?」
 よろめきそうになるところを踏み止まり、修介は掴んだ藍佳の肩を力の限りに揺すった。
「俺が守るって言ったじゃないか! お前が傷つくのなんて見てられないんだよ! 俺はそのために<魔人>になったんだ!」
 それは願いだった。いつしか持ち始めた願いだった。
 揺るぎなかったわけではない。だから不貞腐れもした。それでも胸の奥にずっと息づいていた想いだった。
 息絶えようとしたとき、自分が死んでしまうことよりも、守れなかったことを悔やんだ。もし機会が与えられるならば、今度こそこの手で守りたいと切望した。
 幼馴染。勝気な女の子。<魔人>となって姿は変わってしまったけれど、この気持ちは変わらない。
「だから藍佳……」
「やだ」
 お願いだから逃げてくれ、その言葉は口にするまでもなく切って捨てられる。
「修ちゃん、死ぬ気でしょ。嘘ついてもだめよ? あたし判るもん」
「俺の力は見せただろ……?」
「勝てるとは思えないし、そもそもそんなの関係ない」
 黒い瞳が見詰めて来る。強引な物言いはいつものものだ。理屈など無視して、藍佳は決まり切ったことのように想いを告げる。
「あたしだって修ちゃんが傷つくのなんて見たくない。あたしはそのために<魔人>になったんだから」
 まるで鏡写しのようだった。互いが互いを守りたいと、そう言うのだ。
 藍佳が小さく笑う。くちびるが僅かに震えていた。
「……奇跡みたいなものなんだよ、あたしたち。願いが叶う可能性なんてほとんどなかったのに」
 <魔人>と成れる素質を持つ者は五人に一人もないという。二人ともが助かる可能性は高く見積もっても二十五分の一。奇跡とまで呼ぶのは大袈裟かもしれないが、現実としては絶望的な数字である。
「……分かるよ? 男の意地とかそういうの、よく分かんないけど分かる。でも諦めないで」
「俺は諦めてなんかない!」
 あの事故のことを思い出し、修介は強くかぶりを振った。今度こそ守り抜くのだと。
 しかし藍佳は静かに告げる。
「違うよ、諦めてるからあたしを逃がそうとするの。勝てないと思ってる」
「それは……」
 図星である。確かに、勝てるわけがないと修介は判断していた。
 しかしこの判断は間違っていない自信もある。自慢にはならないが。
「勝つ気だけじゃ勝てないんだ、藍佳。勝てるとは思えないってさっきお前も言ってたろ?」
「それは修ちゃんだけだったらだよ」
「お前が加勢したって結果は変わらない。そんな甘い相手じゃない。連携だとか、そんなもので攻略できる相手じゃないんだ」
 ぶつかる意思は、傷つけ合うわけではない。諸角修介を神野修介、神野藍佳を諸角藍佳へと、照れながら入れ替えた苗字のように絡み合う。
 強気な言葉とはうらはらに、藍佳のまなざしは縋るような揺らぎを湛えて見上げて来た。
「……絶対に置いて行かないって修ちゃん言った」
「…………確かに言った、けど……」
 修介は言葉を濁す。突き放さなければならないと理性は告げ、勿論離したくはない。
「けど、だな……」
「あたしは奇跡を諦めない。修ちゃんとあたし、二人揃ってないと意味ないもん。でも、あいつほんとに強い。だからステイシアの言う通り……やっぱりこれしかない。勇気、出す」
 囁くように、藍佳。
 見詰めて来るまなざしは、いっそ熱に浮かされたように潤んで。
「諦めないで。怯えないで。勝ちたい、でいいんだよ。あたしをあげる。勝たせてあげる。修ちゃん……あたしの修介……」
 その足元から蒼い光が溢れ出し、周囲を染め上げた。
 しかし驚いている暇はなかった。藍佳の両腕が伸ばされ、修介の首筋を捉えて逃げることを許さない。
 少しの背伸び、くすぐる吐息、そしてやわらかな感触。
 幼い頃の仕返しのよう。だが今、触れ合うのはくちびるだ。
 押し付けるだけの口づけに、鼓動が一度だけ、痛いほどの強さで跳ねた。
 異様な感覚。何かが体内で暴れ回っているような。
 藍佳が修介の胸をそっと押した。離れてから、もう一度囁く。
「……ずっと怖かったんだ。もしも失敗しちゃったら、修ちゃんが受け入れてくれなかったら、あたし、どうしていいか分からなかった。だからできなかった」
「藍佳、これは……」
 言葉の意味も、身体を満たす力も、理解し切れぬままに修介は幼馴染の名を呼ぶ。
 藍佳は屈託ない笑顔を見せた。
「それは資格。契約の証。あたしの戦格クラスが持つ特殊能力の」
「資格……?」
 断片的に示された答えと藍佳の戦格クラスの名だけでは、修介にはよく理解できなかった。
 しかし自分の中に新たに息づいたものが行うべきことを教えてくれた。
 自然とゆるやかな笑みが浮かぶ。
 藍佳も強く頷いた。
「あたしたちは決して強くはないけど」
 差し出される右手。甲を上にして、エスコートを求めるように。
 修介は力強く受け、引き寄せた。
「この手を繋いだなら、きっと誰にも負けはしない」
 溢れ出して来る。互いのぬくもりがすべての惑いを溶かし、無限の勇気を与えてくれる。
 抱かれた藍佳が<闇鴉>アンドラスへと視線をやった。
 インバネスコートの男は手出しする様子もなく、面白そうに笑っているだけだ。圧倒的な強者として。
 藍佳はまなざしも鋭く、最大限の敵意を叩きつけた。
「あんたなんかにあたしの修ちゃんは負けない、絶対に!」

 そして次に口にするのは、名乗り。厳かに、誇らしげに。

「“剣乙女・疾風式ブレイドメイデン・ゲイルが一振り、天剣『藍佳』”」

 そして受けて続けるのは修介。短く鋭く、想いの全てを込めて。

「……抜剣リバレイト!」

 眩いほどに膨大な蒼の光が埋め尽くす。
 あるいは物理的な圧力をもっているのではないかと思わせるほどに重い輝きだ。
 その中に浮かび上がる人影は今やひとつ。
 一振りの剣を手に、消えゆく光の残滓を振り払い、修介が力を纏う。
 美しい剣だ。背丈の半ばを越える剣身は鉄色の中にもほのかに青みがかり、そのものが光を放つよう。拳四つ分もある柄には褐色の皮らしきものが巻きつけられている。そして御守りが一つ、鍔のすぐ下で揺れていた。
 『藍佳』から、言葉ならぬ意思が流れ込んで来た。ステイシアがどのような指示を行ったのか、この力がどういったものなのか。
 一度、口許が泣き出しそうに歪んだ。
 修介は左手で剣の腹にそっと触れた。
「……行こう、藍佳。勝とう」
 できるはずだ。
 この手、繋いだならきっと。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・十」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2013/02/19 08:26




 <魔人>の戦格クラスは二十三種を基本とする。
 基本中の基本となるランク二が一種、傾向付け程度のランク一が四種、能力の方向性を比較的大きく異ならせ始めるランク三が四種。以上九種を下位戦格クラスとする。
 ランク四は十二種、いずれも特殊能力を有する。ランク五は存在せず、最高位のランク六は二種。以上十四種が上位戦格クラスと呼ばれる。
 しかし、これだけではないのだ。魔神によっては独自の戦格クラスを与えることも可能なのである。
 <吟遊>のハシュメールは<魔人>の作成において他の魔神の追随を許さない。ランク三と下位でありながら特殊能力を有する<ライトニング>、特定条件下において絶大な能力を発揮する<ヒーロー>、初のランク五であり力と防御能力に長ける<ガーディアン>、本来よりも扱えるクラウンアームズが多い<サウザンドアームズ>、高位となる<アームズマスター>。その他諸々、計二十を下らぬ戦格クラスをハシュメールのみが与えられる。
 その中でも最も特異なのが<ブレイドメイデン>シリーズだ。女性の<魔人>のみに与えられる戦格クラスであり、本人の定めたパートナーの手の中で武器へと化身することができる。
 武器としての破壊力、緩衝領域の展開、生命の共有など、与える能力は多岐にわたり、複数のクラウンアームズで身を固めるのと変わらない恩恵をもたらす。
 替わりに制約も強い。パートナーはクラウンアームズを有していてはならず、また強い絆を結んだ相手でなければならない。前者はともかく、後者は一朝一夕には成らないのだ。命を捨てられる必要まではないが、命を賭けることのできる関係であることを求められる。口先だけではなく、思い込みでもなく、本当に心の底から想い合っていて初めて契約は成る。
「ほう、噂に聞いたことはあったが……剣化<魔人>ブレイドメイデンか。まさかこんなところで見られるとはな。待った甲斐があるってもんだ」
 <闇鴉>アンドラスが感嘆の声を上げる。皮肉の響きはない。純粋な称賛だ。
「随分、余裕だな」
 修介は改めて剣を両手で構え直した。
 分かる。らしきものすら体育の剣道でくらいしか知らなかったはずなのに、どう扱えばいいのかが既に身体に染みついているのが自覚できる。藍佳の徒手の業が価値をそのままに剣の業へと変換され、修介と共有されているのだ。
「<金星結社パンデモニウム>ってのはそんなことでいいのか?」
「足元をすくわれる、か。組織としては、ま、よくはないわな。だが、そうだな……」
 <闇鴉>アンドラスは薄い笑みを口の端に引っかけ、両手を胸の前に掲げた。
「たとえば俺が不用意に情報を漏らしたとしよう。そしてそれが原因で<金星結社パンデモニウム>が崩壊する。我の強い奴らだ、きっと相争い殺し合う。阿鼻叫喚だ。<処刑官アラストル>なぞは死刑だ死刑だと俺をなじることだろう。そうしたならば、俺はこう言うしかない」
 笑みが大きくなる。雄々しく、覇気に溢れて。
「『素晴らしい』」
「……あんたは……」
 修介の背筋にじとりと汗が浮く。
 <闇鴉>アンドラスが、人の姿をしているだけの怪物に見えた。どうあっても相容れない、異質な存在に映った。
「仲間すら餌に過ぎないのか!?」
「立場上そうそう味わえんという意味では、最上の珍味かもしれんな」
 <闇鴉>アンドラスの両手が金色の光に包まれる。使えないに違いないと修介が判断していた、すべてを貫き、抉るクラウンアームズだ。
 息を詰まらせる修介の様子に<闇鴉>アンドラスは肩を揺らした。
「何が起こるのか楽しみだったのは本当だがな、別に甘く見てるわけじゃあない。俺がこの『タナトスクロウ』を使わなかった理由を勘違いしていたな? 仕方のないところだとは思うが」
 虚空に記される残光は、眩い昼の中でなお眩しい。空間すら削られているように錯覚されてならない。
「面白いものを見せてくれた褒美に教えてやろう。格下に喧嘩を売る方法だ。一言で言うなら、斃されるべき敵役になればいい」
「……意味が分からない」
 修介は唸る。口にした通り、理解が及ばない。敵役になるとはどういうことだろうか。そしてそれが、なぜ格下に戦いを仕掛ける手段になるのだろうか。
 <闇鴉>アンドラスは悠々と構えを取り、解説を続けた。
「主役はお前らだ。お前独りじゃあ不足だったが、誂えたような小娘が加わったからな。ああ、期待以上に立派なヒーローとヒロインぶりだった。擦れ違い、和解し、強敵を相手に力を合わせる。さすがに理想的なとまではいかないが、現実だということを考慮すれば出来過ぎなほどだ。そして俺はお前たちに斃される役として、こちらから手を出したとしても存在を許されるのさ。実に茶番だが、やってみるとこれが案外難しくも楽しいもんでな」
「……それだけじゃないな?」
 ゆっくりと、修介の頭にこの機構のつくりが染み込んで来た。
 <闇鴉>アンドラスが言うように、冗談のような手段だと思う。しかし元々、この<闘争牙城>の規則そのものが茶番じみている。一対一の『決闘』、上を見ることを止めた者へ与えられる死、いずれも<天睨>のイシュの嗜好に従って作られた規則だ。ならば、その好みに合わせることで制約を抜けられてもおかしくない。
 そしてそうだとするならば、おそらく斃されるべき敵役というものを最後まで演じる必要はない。最終的に負けなければならないのでは抜け道の意味がないからだ。
「その通りだ。ようやく頭が回り始めたか? 敵役がすべきなのは、主役を最上の状態へ持っていくまでだ。結局は力及ばず死ぬってぇのも立派な結末さ。つまり……」
「今までは手抜き、これからは本気。そういうことか」
 <闇鴉>アンドラスが金色の手袋を使わなかったのは、加減を少し間違えるだけで殺してしまいかねないから。
 修介と藍佳が度々見せていた大きな隙を見逃していたのは、単純に興味があったという理由以外にも、途中で殺してしまっては役割が果たされないため。
 思えばこの三日間の手合わせでも、<闇鴉>アンドラスがまともに攻撃を仕掛けるときは手袋を外していた。あれは己自身の危険を遠ざける意味もあったのかもしれない。
 <闇鴉>アンドラスへも、この閉鎖世界へも、怒りが湧き上がって来る。
 恐ろしい形相を、自分はしていたはずだ。なのに当の<闇鴉>アンドラスはどこ吹く風。
「本気、か。出させてみろ、弟子よ」
 けれん味ある抑揚もそのままに、にやにやと笑っている。
 思えば不思議はない。人が憎み合い、殺し合う姿を素晴らしいと言う男にとって、敵意や悪意など心地好いものでしかないのだ。すべては快のため。すべてが愉悦のため。
 今なら理屈だけではなく感性でも分かる。絶対に、こんな男を野放しにしてはならない。
 修介は<竪琴ライラ>が好きなわけではない。そう在ることに不満こそないが、そもそもそれ以上の選択肢が存在しなかったがための消極的な選択でしかなかった。平和を守ると気炎を吐くのをどこか冷めた目で見ていた。
「藍佳……」
 幼馴染へと呼びかける。明確な言語としての返答はないが、応えは感じられた。
 それは修介を肯定していた。どんな思いも全力で叶えてあげる、と。
 荒れかけていた心に真っ当な力が戻って来る。
<闇鴉>アンドラス、俺はあんたが怖い」
 少し、血迷った。
 考えてみれば、ただ藍佳を守るだけならどこかで隠遁生活でも送っていればいいのだ。<魔人>であればなんとかなる。危険が迫ったなら逃げればいい。そうしてずっとやってゆけるかもしれない。
 そんな風に血迷った。
 しかし<闇鴉>アンドラスは、社会そのものを密やかに破壊するだろう。もちろん、逃げる先もすべてだ。
 こんな<魔人>がいるのだ。何もかもを台無しにしてしまう、本当にただ壊すだけの。
 許してはならない。誰だって大事なものを壊されたくなどない。
 藍佳を守りたい。どんな状況でも守れるくらい強い自分でありたい。その思いはそのままに、もうひとつの理由が加わる。
「だからあんたを斃す。未来を守る。前より<竪琴ライラ>が分かった気がする。少しだけ好きになったよ」
「それは何よりだ」
 <闇鴉>アンドラスは腹が立つほど朗らかに頷き、そのままの顔で告げた。
「さあ、殺し合おうぜえ」





 翔ける。
 天剣『藍佳』を右手に、空を踏んで。
 剣乙女ブレイドメイデン五種の中でも疾風式ゲイルのみが有する能力だ。自在にとまではいかずとも大気を足場とし、虚空を行く。風の流れもまた味方、僅かなりとも背を押してくれる。
 今や修介の全方位攻撃は周囲の建造物を必要とせず、滑らかさをも手にしていた。
 跳躍から天を蹴って頭上で左右に揺さぶり、斬撃を加える。
 無論、<闇鴉>アンドラスはその程度のことで攻略できるような相手ではなかった。小さな一歩で的確に避け、あるいは金色の手袋が剣閃を逸らしてゆく。
 得物の不利などまったく存在しないかのようだった。薄い笑みを引っかけたまま、愉快げにある。
 いや、実際に不利などではないのだ、と修介は思う。長さで勝るこちらに対して、あちらは数で勝る。破壊能力も、どちらが上なのか分かったものではない。ただの人間が素手で刃物を相手にするのとは根本が異なる。
「どうした、俺を斃すんじゃあなかったのか? いつまで手品で遊んでるつもりだ」
「手品かどうか自分の身体で確かめてみろ!」
 <闇鴉>アンドラスの挑発に咆哮を返し、修介は敵へと向かい螺旋に翔ける。
 自分にとっての天地が常に移ろい続けるこの疾駆は、突然得たならば<魔人>であろうとも大抵の者は意識を眩ませられ、自滅してしまうだろう。しかし常に周囲を捉え続けることを得意とする修介にとっては、さすがに難度が高い、という領域に留まる。
 今や剣を上下左右に囚われる必要はない。担いだ刃を一直線に振り下ろせば、この瞬間ならそれが<闇鴉>アンドラスにとっては斜め切り上げとなる。
 あらゆる剣閃の中で、それは屈指に対応しづらい軌道を描く。受けるにも武器というものは手にあるものであるからには遠く、かわすにも地面を蹴らなければならない以上は上体よりも斬撃に近い脚が最後まで残ってしまう。であるにもかかわらず、修介はただ振り下ろすという最速の行動でその斬撃を放てるのだ。
 だが、敵は音に聞こえた<金星結社パンデモニウム>が幹部、<闇鴉>アンドラス。斬らせてはくれなかった。
 インバネスコートの姿が黒の羽根を撒きつつ、剣閃に逆らわずにふわりと浮かぶ。回避に選んだ方向は、上。
 好機。知らず、修介のまなざしが鋭く細められる。もう半回転してから的確に地を踏み、身を翻しながら行き過ぎた距離を取り戻すべく跳躍する。
 修介の感覚は一旦背を向けても<闇鴉>アンドラスの存在を喪失してはいなかった。脇構えの形で宙空の影を捉える。
 いかに<魔人>といえど、足場がなくては動きが限られる。その一方で修介は大気を踏むことができるのだ。
 声はない。何もかもを斬撃に乗せる。
 瞬閃。薄蒼の燐光を残し、刃が裂いた。
 身代わりのような、黒の羽根だけを。
 目を見開く暇もあらばこそ。
 羽根を踏み、更に上へと跳躍していた<闇鴉>アンドラスは、立て続けに幾枚もの羽根を足場として修介の横に移動していた。
 蹴撃が背に叩き込まれる。苦し紛れに振り回した刃は金色の手袋、『タナトスクロウ』によって容易く弾かれる。
 しかし修介も、息を詰まらせながらも墜落を着地に変えてみせた。『藍佳』の展開している緩衝領域が衝撃を大きく殺してくれたおかげだ。
 息が、乱れた。
 己が見通しの甘さに臍を噛む。
 空中で動けるのは自分だけではなかったのだ。しかも、<闇鴉>アンドラスは羽根を踏まなければならないはずだというのにこちらよりも滑らかな機動を行っていた。
「ま、仮にも渾名に鴉と入ってるわけだ。三次元機動が苦手じゃあ、格好がつかんだろうがよ」
 こちらも地に降り立った<闇鴉>アンドラスがひらひらと手を振る。人を食ったような調子は揺るがない。自分はまだ敵たりえていないのだと修介は思い知った。
 柄をきつく握り締め、それから程良い強さに戻す。湧き上がりかけた怯懦は即座に消えてなくなった。
 とはいえ次の手まで浮かんだわけではない。何らかの手段によって虚を突かなければ<闇鴉>アンドラスには通じないだろう。
 小さく息を吐いた瞬間だった。
 金色の手袋が霞んだ。
 彼我の距離はおよそ二十メートル。<闇鴉>アンドラス自身が動いていない以上は間合いの外、そう反射的に判断しかけ、総毛立った。
 自分の腕は一度、遠間から切り落とされたはずだ。
 判る。不可視の何かが迫りつつある。かわすには始動が遅すぎる。間に合わない。
 しかし動揺する意思を外れ、既に身体が動かされていた。『藍佳』が滑らかに虚空を一閃、一拍遅れて何か鋭いものが全身を浅く切り裂いた。
 派手に血飛沫が舞いはしたものの、微傷だ。
 藍佳がステイシアから伝えられた知識のひとつ、伝承に曰くアンドラスは魂も凍るほど鋭利な剣を持つという。今のものは、その斬撃を飛ばしたとでもいったところだろうか。傷自体は浅いといえ散らされてなお緩衝領域を突破したのだ、直撃したならどれほどだったことか。
「藍佳……?」
 奇襲に反応したのは修介ではなく藍佳である。言葉としては聞こえないが、やっぱり修ちゃんはあたしがいないとだめなんだから、そう言われているようだった。
 強く反発した台詞であるはずだ。だが、この期に及んでは小さな笑みしか浮かばなかった。
「ああ、そうだな」
「ふむ」
 そして<闇鴉>アンドラスも小さく声を上げた。
「美しいなあ」
 感じ入るような称賛なのに、今となってはこれほど不吉な言葉もない。
 インバネスコートがゆらりと揺れた。右足を軽く引いて半身となり、指を緩く曲げた手は右を大きく引いている。
「その手は離すんじゃあないぜ。絶対にな」
「言われなくたって!」
 足元から蒼い光が修介の全身を這い上がる。それはどこか、これは自分のものだと少女が抱きつく様に似て。
 心身ともに漲り、それでも修介の眉間には深い皺が刻まれている。
 足を止めては敵わない。空中戦でもおそらくは及ばない。距離を開ければあの斬撃が来る。こちらも風を使えると藍佳が教えてはくれるが、元々遠距離攻撃は二人とも苦手なのだから、競り合えば負ける。いずれも同じ土俵では勝てないのだ。
 となれば、上手く噛み合わせて隙を突くしかない。
『隙なんてものはいくらでも出て来る』
 脳裏に響いた言葉は、皮肉にも目の前にいる斃すべき相手、<闇鴉>アンドラスから聞いたものだ。
『例えば右の拳打を真っ当に放ったとしよう。そのときには必ず右脇が空くわけで、そいつは隙に違いない。突き難いってだけでな。お前の場合、攻撃に意識が行き過ぎて攻め放題なんだが……まあ、<魔人>なんだし、むしろそれでいいだろ。変に防御なんて考えたらお前の長所が死ぬ』
 そんなことを言っていた。だからこそ藍佳の業を力と速度で突破する気になれたのだ。
 果たして、<闇鴉>アンドラスにも隙は生まれるのだろう。だが突かせてくれるのだろうか。駆け引きで上を行くことなど可能なのだろうか。
 突破口があるとするならば、おそらくは一つ。
 限界を越えること。凌駕解放オーバードライブ
 修介は踏み出す。ここから先は理屈を捏ね回しても無駄だ。
 怖くはない。藍佳がいる。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!!」
 咆哮。尾を引き、響き渡る。
 駆ける。
 心当たりがあった。凌駕解放オーバードライブを、自分は一度成し遂げているかもしれない。藍佳との闘いの終盤、あれを再現する。
 跳ぶ。跳ね回る。
 黒の羽根に邪魔をされて周囲の建造物を足場にすることはできないものの、替わりに大気を踏んで<闇鴉>アンドラスの周囲を三次元的に駆け巡る。全力の上に全力を重ね、修介は蒼い旋風となる。
 視界が回る。世界の中で己を捉え切れる限界へと行かんとする。幾枚か羽根の遮ることがあるが、その程度であれば『藍佳』の緩衝領域が貫かれることはない。
 <闇鴉>アンドラスは動かない。ここへ来た初日のように、静かに待ち構えている。
 どこから仕掛ければ死角を突けるのか、修介は考えなかった。ただ最高の瞬間に解き放つことだけを思った。
 鼓動が強くなる。己の内の力が増してゆくのが判る。今度こそは手の内に掴んでいた。
 踏んだ地面は<闇鴉>アンドラスの背面、十メートル。得られた速度は通常の五倍。
 身体の全てを斬撃とするかのようにして、旋風は今、流星と化した。並みの<魔人>であればこの一太刀でまとめて数人を両断する。
 対して、<闇鴉>アンドラスも淀みなく動いた。左向きに振り向きつつ、万物を切り裂き貫く金色の手刀で迎撃する。
 交錯は刹那にも満たない。
 二人の刃はそれぞれ相手を捉えて、行き違う。
 <闇鴉>アンドラスに外傷は見えない。しかしインバネスコートの下の左肩を砕いた手応えが修介にはあった。
 しかしそれを噛み締めていられる余裕はなかった。
 早かったのは紙一重で<闇鴉>アンドラス。そのせいで修介は十全な威を発揮できなかったのだ。
「……く、がはっ……!?」
 腹部の左半分をごっそりと持ってゆかれ、無様に転がる。
 『藍佳』から悲痛な気配。そして柄から生命力とでも呼ぶべき何かが流れ込んで来て、失われた肉体を復元してくれる。自分だけだったならばそのまま死に至っていたかもしれない。
 それでも苦痛まですぐさま消え去ってくれるわけではなかった。跳ね起きたものの、足元はふらついた。
 絶望感に力を奪われる。僅かに開いた唇が震えた。
 だが、奥歯を強く噛み締めた。口角を吊り上げ、笑みの形を作ってみせる。
 打つ手がなくなったくらいではまだ、崩れ落ちるわけにいかない。
凌駕解放オーバードライブすら通じないなんてな」
「いいや、違うな」
 対して、<闇鴉>アンドラスはやれやれとばかりに小さく頭を振った。
 そして続く言葉は、修介にとってまったくの予想外のものだった。
「お前が今やったのは『チャージ』だ。突撃チャージであり充填チャージでもある。概念的な能力でな、高速機動によって『速さ』を蓄え、一気に解き放つって代物だ」
 今もまだ<闇鴉>アンドラスは師の顔を見せる。その理由を修介はもう理解できる。この男にとって、敵であること、殺し合うことは他のすべての人間関係と矛盾せず成り立つからだ。
「訊いたことはなかったが、お前の戦格クラスの片割れ、察するに<ナイト>だろう。その異能だ。まあ、<ナイト>による強化項目の傾向上、使う奴は滅多にいないんだが……さすがに自分の戦格クラスのを把握してないのはまずいな。今更だが、まさかそこまで<魔人>の知識が欠けてるとは思わなかった」
 <ナイト>はランク四のひとつである。大きく強化されるのは主に膂力で、速さは最も強化率の低い項目となる。だというのにその異能である『チャージ』は速さを要するのだ。
 そのあたりのことも、もちろん修介は知らない。返す言葉もなかった。
「お前、座学を下らんと思ってないか? 詰まらん訓練こそ重要だ。もしも俺から逃れることができたら一から知識を鍛え直した方がいい」
「……っ」
 反射的に否定しかけて、すんでのところで堪える。
 何を否と言えたものか。羞恥に身を震わせる。『藍佳』から伝わって来る、労わるような気配がまた痛い。
 <魔人>となってから、必死に生きて来たつもりだった。だが、どれほどの空回りをしていたのだろうか。
 藍佳を守りたいと願いながら、藍佳を傷つけることでしか前へ進めなかった。力を求めはしても独りよがりだった。
 『藍佳』を『抜刀』したときに伝わって来たステイシアの様子。成さねばならないこと、負わねばならない責任を抱えたままで、それでも案じてくれていた。
 自分はなぜあんなにも頑なだったのだろう。もっといいやり方があったはずだ。神官派の皆、未熟同士でも高め合えはしたはずだ。相談できる相手もいたはずだ。恐ろしくとも、処刑人に教えを請うことができたはずだ。
 望みが純粋であれば、そうできたはずなのだ。
「……俺の望みは嫉妬で歪んでたのか」
「そのあたりのことは知らんがね、いいんじゃないか。言ったろ、強さなんざ血反吐吐きながら身につけるもんだ。無様は明日への糧さ」
 <闇鴉>アンドラスは揶揄しているわけではない。嗜好さえ除けば本当にいい兄貴分だった。
 分からない。理解の及ばぬ怪物であり、道を示し背を押してくれる仮初めの師であり、斃すべき敵であり、もう自分の中で何もかもが分かち難い。
 今も恐ろしい。絶対に放置してはならないと思う。それでも、どうしても嫌いだと思うことはできなかった。
「こんな俺でも付いて来てくれるか、藍佳?」
 『藍佳』から返って来るのは全肯定の意思だ。善悪なんかどうでもいい、修ちゃんの望むことがあたしの望み、と。
 修介は穏やかに笑った。
 自分に足りないものは藍佳が補ってくれる、守ってくれる。そして藍佳に足りないものは補おう、守ろう。
「俺たちは中途半端で弱いけどな、<闇鴉>アンドラス
 構え直す。敬服すべき男にして唾棄すべき害悪である敵を、透き通った気持ちで真っ直ぐに見詰める。
 気後れなど、あるわけがない。
「それでも勝つ。勝って、今度こそなりたい自分を間違えない」
 未来がある。
 それがいかに険しかろうと、たとえ月のない夜だったとしても、この手にはぬくもりがある。藍佳がいる。
 勝ちたい。心から思う。
 守りたい。心から想う。
 彼我の位置と建物を把握する。
 加速を始めれば、口から自然と言葉の群れがこぼれ始めていた。
 そして唱和するように、『藍佳』も剣身を震わせて明瞭な言葉を発した。

「“それはただひとつの光を追い続けるもの”」
『“それはただひとつの光を追い続けるもの”』

 神野修介の力は何か。
 自覚しているのは、余程のことがない限りは的確に標的を捉え続ける能力。

「“それは狂おしいまでに求め続けるもの”」
『“それは狂おしいまでに求め続けるもの”』

 しかし果たしてそれだけだったろうか。
 駆けるとき、何を思ったろうか。

「“それはただ、先駆けとなるためだけに”」
『“それはただ、先駆けとなるためだけに”』

 食らいつく。
 速く、もっと速く。この身が削がれようと、顎ひとつとなってでも食らいつく。

「“喰らうは太陽、導くは神々の黄昏”」
『“喰らうは太陰、導くは神々の黄昏”』

 駆け廻る。
 まだ遅い。ならばもっと速く。もっともっと速く。

「“見よ、陽の消えゆくを”」
『“見よ、月の消えゆくを”』

 この身が足らぬと言うならば、空を縮めればよい。そう、“擦り抜ける”ようにして。
 捉えるのだ。捕らえるのだ。
 絶対に逃してはならない。すべてを懸けて。
 伝承は、北欧へ。



「<日蝕スコル>」
『<月蝕ハティ>』



 修介の身が掻き消えると同時に、身体三つ分先へ現れる。
 次は五つ分先、その次は一つ分、更に次は右へ逸れた後で進行方向を逆さまにして湧き出す。
 既に切り返しなど行っていない。修介はただひたすらに真っ直ぐ行くのみ、それでいながら羽根の内側に限定された空間を縦横無尽に駆け巡っていた。
 無論のこと速度は落ちない。もはや、幾十もの神野修介が同時に存在し、無軌道に暴れ回っているかのように映る。
 スコルとハティは北欧神話において太陽と月を呑み込み、神々の黄昏ラグナロクの先触れとなる狼だ。その時が来るまで決して諦めずに追い続ける。
 もはや修介を<魔人>の速度で振り切ることは叶わない。足りぬ分は空を削り、曲げてでも喰らいつく。
 連続性が失われた機動は純粋な異能としての予知でもなければ読み切れず、<闇鴉>アンドラスをして反応速度が全てとならしめた。
 独りでは成しえなかっただろう。本当はまだ、凌駕解放オーバードライブに至るには足りない。しかし修介と藍佳はまさに比翼の鳥となり、飛翔してのけたのだ。
 修介は今、<闇鴉>アンドラスの目の前にいた。『藍佳』の切先を、身体全てで押し込まんとする。
 それでも金色の手袋は反応してのけた。修介の右肩が抉られる。
 しかし今度こそ、早かったのは修介だった。インバネスコートは前を開かれている。その隙間を通り、刃は<闇鴉>アンドラスの胸の中央を貫いた。
「おおおおおおおっ!」
 止まらない。空を縮めては<闇鴉>アンドラスごと位置を跳躍しながら一直線に疾駆する。
 建物が行き過ぎる。立札が視界の後ろへ吹き飛んでゆく。
 止まらない。まだだ、まだ止まれない。
 そして、景色が変わった。
 左右をビルの無機質な壁に挟まれた暗い路地裏。どこまでも吹き抜けた空だけは穢れを知らぬように青い。<闘争牙城>を脱したのだ。
 地面へと斜めに縫い留めることで突進を止めたのは、凌駕解放オーバードライブを維持できなくなりつつなったのと、これ以上は社会の目に触れてしまうことの両方の理由からだった。
 幸いにも人の姿はない。鋭いまなざしで至近距離から睨めつけ、荒い息をつく。
「これで……終わりだ!」
 熱い。全身が燃え出しそうだ。喉がひりつく。
 しかし気を抜くわけにはいかないのだ。
「……なんとも、やるもんだ。この焼けつくような痛みは久しぶりだなあ」
 <闇鴉>アンドラスは口の端に笑みを引っかけた。この期に及んでも声は飄々としていた。
 苦しげではあるのだ。だというのに、なぜか捉え切れない。
「まあいい、最後の授業だ。戦いにおいて、<魔人>とただの人間の間にある絶対的な違いは何だと思う?」
 何を言い出したのかと戸惑った。しかし<闇鴉>アンドラスは頓着しない。回答すら待たなかった。
「破壊力か、スピードか。確かに人間とは一線を画する。だがノーだ。それはあくまでも相対的なものに過ぎない。技能のある兵士が兵器を持ち出せば、ある程度までは埋められる。勝てるかどうかは相手次第だろうがな」
 何かを教えようとしてくれているのであろうことは分かる。
 けれど最終的に何を意味することになるのかは読めなかった。
「分からんか? 答えは戦闘継続能力だ。闘志だとかそんな問題じゃあない。人間は脆い。肉体が千切れるどころか筋や腱を深く切られるだけでもう、機能を十全には果たせなくなる。出血は体力を奪い、酷ければ意識を朦朧とさせる」
 刃を伝い、<闇鴉>アンドラスの血が流れ落ちる端から薄ぼんやりと消えてゆく。
 引き抜けば、おそらくは一気に噴出するのだろう。
「だが<魔人>は違う。機能を失うのは、それこそ傷を受けたそのときだけだ。命さえ尽きていなければいくらでも復元できる」
 不安が湧いた。直感が、何かを間違えていると喚き出す。
 『藍佳』も震えた。その勘は修介よりも鋭敏である。
「以前も言ったように、お前は下手に守りへ意識を割くより喰らいつけ。死ぬ前に殺れ。そいつは<魔人>の特性を活かした、真っ当な戦術だ」
 飄然と、<闇鴉>アンドラス。まなざしも悠然と、気負いなく語り続ける。
 間違いなく、おかしい。修介はようやく違和感を確かなものとした。
 台詞は遺言代わりの教えを与えるかのようだが、いくらなんでも喋り過ぎてはいまいか。これは死にゆく者の様子ではありえない。
「……本当に、人間は脆い。だから先に大きな負傷を与えた方が圧倒的に有利で、逆にたった一刺しで逆転もできる。けれども、だ」
 刃は胸の中央を貫いている。心臓も半ば断ち割っているだろう。
 だが、そう、そもそもこれは致命傷なのだろうか。
 人間であれば生きていられるわけがない。しかし<魔人>は<闇鴉>アンドラスの言うように負傷の意味が人間とは根本的に異なる。
 そこまで思考を至らせて、修介はこの語りの真意に理解が及んだ。
 最後の授業とはすなわち、自分たちの最後なのだ。
「<魔人>はそうじゃあない。単に喋り難いだけで、俺はまだまだ死なんよ。足りんのだ、まるでな」
 困った奴だと言わんばかりの小さな、けれど明確な笑みを<闇鴉>アンドラスは浮かべた。
 焦燥とともに修介は『藍佳』を引き抜き、後方への離脱を試みる。
 しかし遅かった。元より<闇鴉>アンドラスは、いつでも殺せたところを修介が気付くまでわざわざ待っていたくらいなのだ。
 右手、金色の手袋が滑らかに動く。『タナトスクロウ』が『藍佳』の腹を手刀で打った。
 音はなかった。呆気なく、綺麗に真っ二つになっていた。
「藍佳!!」
 伝わって来る藍佳の苦悶。
 同時に、足元が崩れ落ちそうなほどの寒気と眩暈に襲われた。
 二人の生命は共有されている。それは一方的に『藍佳』が修介の命を補うということではない。修介の命を吸い、剣身はすぐさま元通りに復元されていた。
 だが、それで終わりだった。
 蹈鞴を踏む。一瞬のことだ。肉体は不足ない。十全に戦える。一歩で最高速度まで加速できるだろう。何時間でも標的を追い続けられるだろう。
 だから、震える手は心のもたらしたものだ。
 命の灯火が吹き散らされる寸前であることが判る。あと一撃、まともに受けたならば死ぬことが理解できてしまう。修介も藍佳も互いに補い合えるような余裕はもう、ない。
「藍佳……」
 かすれた声で呟く。応えはあまりにも弱々しい。
 そして、<闇鴉>アンドラスが動いた。黄金が美しく瞳に焼きついた。
 己が何を思ったのか、修介には分からなかった。
 恐しさだろうか、悔しさだろうか。諦め、反発、戦意。いずれもあるような気がするし、いずれでもない気もする。
 すべてが混然一体となる中、『藍佳』を抱き締めるようにして庇う。意味はないのに、修介の死は藍佳の死でもあるのに、そうすることに疑問は抱かなかった。
 奇跡は起こらない。
 起こったのは、予定されていたことだけだった。















「よく耐えた」















 いつか見たような光景だった。
 迫る金色、それは満身創痍の自分たちの命を奪うに違いない破滅の一閃。
 しかし輝きはロングコートの背によって遮られる。人物も同一、巨大な籠手を嵌めた拳を繰り出したことも、敵ともども姿が消えたことも変わらない。
 静寂とともに残った景色は、薄暗い路地と惚けるほどに青い空。
 違っていたのは、声のあったこと。
 よく耐えた、と。
 神野修介は名和雅年のことが気に食わない。助けてくれたことには感謝しているが、藍佳は自分が守りたかったのにと、今もやはり思ってしまう。
 嫉妬であることは理解している。それでも止められないのだ。今後も決して好きにはなれないだろう。
 だがその上で、神官派最強の男の言葉はなぜか涙が出そうなほど嬉しかった。
「……修ちゃん?」
 人の姿に戻った藍佳が、ぴたりと身体をくっつけたままで顔を覗き込んで来る。
 修介は小さく、笑みを乗せながら皮肉げな口調で応えた。
「どうせまたやる気なさそうな顔で帰って来るんだぜ、腹立つよな」
 <闇鴉>アンドラスは強い。自分と藍佳が力を合わせてなお、まるで敵わなかった。それなのに、処刑人が負けるとはまったく思わなかった。
 嫌いだからかもしれない。敵は自分自身で倒したいものだ。だからその時まで負けないで欲しい、最強であって欲しいと思ってしまうのだ。
 そして、いかに気に食わなかろうと処刑人の強さだけは確信していた。
 しかし今はもうそれも置いておいていいだろう。
 繋いだままの手を引く。
「……生き残った」
「うん」
「一緒に行こうな」
「うん!」
 藍佳は嬉しそうに微笑み、握り返した。
 ぬくもりがじんわりと広がる。
 明日、何が待っているのかは判らない。それでも大丈夫だと思える。この手を繋いだなら、きっとどんな困難でも越えて行ける気がした。
 月の横顔は、まだ見えるはずもない。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・十一」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2013/02/26 08:22




 かつて少年が一人、欧州の片隅で天涯孤独になった。
 原因を求めるならば、両親の愚かしさに因ると言うほかないだろう。<災>が現れ始めて間もない時期のことだ。日本でも猛威を振るってはいたが、それでも結果的にはましな方であったものを、己の帰属する場所を貶めることが知性の証であるという思春期じみた妄念を継続していた彼らは、不確かな情報に踊らされてわざわざ国外へ脱出したのだ。
 死に至る過程は何の変哲もなく、ただ<災>が目の前に現れ、逃げ遅れただけである。助けようとしてくれた者はほとんどいなかった。しかし、迂闊な異邦人よりは家族を守りたいと思うことを責められはすまい。
 かくして孤独となった少年はまだ大使館を頼るという知恵もなく、そして最も近くに居合わせた人間が悪かった。<災>という災害のような存在のある中でも、その混沌とした状況をこそ利用して同じ人間を敵とするような者はやはりいる。人はいがみ合うことをやめないのだ。
 少年は銃とナイフの扱い、人の殺し方を教わった。<災>の殺し方はない。国軍の最寄りの部隊が駆けつけるまで、ありったけの人数でありったけの火力を叩き込むか、あるいは逃げるかしかない。その頃でも、魔神が気紛れに潰してくれることはあったが。
 ともあれ少年は殺しの術を身につけた。
 そして、所属する集団を崩壊させた。
 二十名余りの皆は、善人ではない。しかし優しい母親のような女はいた。厳しい父親のような男もいた。女にだらしないお調子者や無口な老人がいた。善人ではないが、まったくの悪人でもない。それは人間だった。生臭く、様々なものを抱えた人間だった。血こそ繋がらないが、親愛なる新たな家族だった。
 だから壊した。
 誰もが仮面を被っていることを、十を幾つも越えぬ少年は自覚なく洞察していた。それが必要なものであることも理解していた。剥げばどうなるかも予測はできていた。
 ゆえにこそ、素顔を露わに殺し合う姿は美しかろうと思ったのだ。
 少年は歪められていない。少年に不幸はない。少年は、発揮する機会を持たなかっただけで元からそうであったのだ。
 少しずつ背を押してゆく。最初は老人の消し切れぬ劣情、次いでは男の失った娘への悔悟と政府への憤怒。醜くも美しい素顔を晒させてゆく。
 銃を用いることもあった。刺されもした。そもそも誰もが少年よりも熟練した戦闘技術を有していた。
 それでも生き残った。少年は人間の脆さとしぶとさを洞察し、経験によって誰よりも確かなものとしていたのだ。相貌を歪めて殺し合う皆の最後の生き残り、自分を拾った軍隊上がりの男の喉笛を掻き切り、血の海の中で独り歓喜に震えた。
 『素晴らしい』と呟いた思いは一切の偽りなく、少年は自らの好みを自覚した。
 理解できる人間など皆無に近いだろう。それはヒトという種を断絶へと至らしめる嗜好だ。しかし同時に、ただの多様性の一つでしかない。少年は紛れもなく人間であるのだ。
 時は過ぎ、少年はやがて青年となる。殺しの腕はかつての仲間を凌駕し、周囲では常に人が争い合っていた。
 その上で二年前に<魔人>となったことは大した問題ではない。
 <ギルド>に所属して復讐代行業を営んでみたなら次から次へと依頼が来たのは嬉しい限りだ。
 <金星結社パンデモニウム>に勧誘されて幹部ともなったが、そのときに思ったのは組織に属すると敵に不和をもたらすか味方を破滅させるかのどちらかに偏ってしまってよろしくないということだった。やはり自由がいい。
 とはいえ申し出を受けてしまった以上は不義理も美しくない。
 <闇鴉>アンドラスは今日も争いを、己の思う美しさを求めつつ、気侭に二足の草鞋を履きこなしている。本質は<金星結社パンデモニウム>の方に近いため、<ギルド>を表、<金星結社パンデモニウム>を本来の顔として。
 行う破壊は、本当に密やかに始まる。
 最初は一件の殺人事件。そこから連鎖を始める。
 一本道ではない。自分のところで憎しみを断ち切る者がいようとも、それ以上に幾重にも分枝して繋がってゆく。
 人々は<闇鴉>アンドラスによって憎悪を暴かれ、不思議とその憎しみを預けてしまう。
 <闇鴉>アンドラスは己が連鎖の原因であると明かさないこと以外は、決して騙さない。美しい憎しみによる復讐の手助けを、心から提案する。
 最後の最後に人を動かすのは真心である。人は<闇鴉>アンドラスの偽りない真心に応じるのだ。
 三件目、四件目、くらいならばまだなんとかなる。しかし精々がそこまでだ。それ以上になれば爆発的に増え始め、やがて<闇鴉>アンドラスを必要としなくなる。
 そうなればもう、元凶を葬っても<竪琴ライラ>には止められない。警察の、前代未聞の大仕事である。
 だから<竪琴ライラ>にとって、<闇鴉>アンドラスは可能な限り早く葬り去らなければならない存在だ。大きく事態が進んでしまったなら、その時点で敗北に等しいのだ。
 絶対に、逃すわけにはいかないのである。







 青年の姿、一つ。
 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
 むしろコートの方が目立つかもしれない。この季節には暑そうだというだけではなく、右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
 とは言え、<闇鴉>アンドラスも似たような出で立ちであるからには、その力を量る以上の興味は引かなかったが。
 半径五十メートルほどの灰色世界では、既に紛い物の建造物の大半が瓦礫となっていた。
 突然の闖入者があろうが景色が変わろうが、何の動揺も見せずに<闇鴉>アンドラスは即応したのだ。
 流れるように放たれた飛斬を、闖入者は巨大な籠手を嵌めた右腕で真横から打ち払い、砕かれた斬の余波が左右の建物を崩壊せしめた。それでいて本人にはかすり傷のひとつもない。
 連続で斬を飛ばすも同じこと、淡々と潰され、壊れるのは物ばかり。人の息吹は皆無であった。その事実から、<闇鴉>アンドラスはこの灰色世界では社会の目を気にする必要はないのだということを読み取った。
 闖入者もただ身を守るばかりではない。飛斬の合間を縫い、不可視の巨大な拳が虚空を翔けて迫り来る。
 それは音の速さにも届かない。打ち据える範囲こそ大きいが、かわすのにさしたる苦労は要らない。
 その上で、<闇鴉>アンドラスは飛斬をもって迎え撃った。相手の正体は既に予想がついている。折角なのだからここはぶつけ合わせるのも面白かろうと思ったのだ。
 果たして、飛斬は飛拳を断ち割った。収束度の差が如実に表れた。しかし分かたれた力は破壊の礫となって周囲を均してゆく。己が身に降り注いだものもあるが、<闇鴉>アンドラスはインバネスコート『ニュクスヴェール』の裾を払い、叩き落した。
 一方で飛斬はまたも呆気なく打ち砕かれる。標的にも傷はない。
 だがこれからが本番だ。
 跳躍した<闇鴉>アンドラスの身に燐光が纏わりつく。飛斬を放つ際、収束し切れなかった力の欠片だ。それを捕らえ、次なる飛斬に上乗せする。
 戦格クラスの片割れである<ストライカー>の有する異能である。威力が際限なく上昇するわけでこそないが、確実に底上げされる。
 羽根を踏み、軽く跳び回りながら、縦に横に斜めに、二連三連休みなく。弧を描いて襲いかかる一撃もあれば、並べて後ろへ隠すようにした五連撃もある。そのいずれをも巨大な籠手が破砕してゆく。
 無駄であろうと承知はしていた。ロングコートの青年は、噂に違わぬ防御能力を有していた。
 次いで<闇鴉>アンドラスは左右の斬を合わせる。連撃ではなく、斬中に更なる斬を重ねた一撃である。
 飛斬は有効射程内において、人の扱う物質であれば断てぬ物はない。散らされてすら分厚いコンクリートを寸断する。広がる光景の半分がその証左だ。
 そして、重ねられた斬はその比ではない。
 比ではなくとも、なお結果は変わらない。見えざる厚みのない刃を正確に見切り、肩幅の分だけ左へ寄りながら巨大な籠手が横から潰すのだ。壊れた飛斬は百の刃となって球状に標的を覆い尽くすが、ロングコートの裾を払えば纏わりつくことさえ許されず、跡形もなく消え去った。
 かくして、一帯は瓦礫の山となったのである。
 <闇鴉>アンドラスは地に降り立ち、構えを崩さぬまま飄然と声をかけた。
「ああ、そうか。あの小娘が持ち込んだ役目は、俺を<闘争牙城>から押し出すことか。で、外ではお前さんが待っていたというわけだ、<呑み込むものリヴァイアサン>。逢ってみたかったぜえ?」
「彼女の行動と移動が早過ぎて、あやうく遅れるところだったが」
 <竪琴ライラ>の処刑人、名和雅年も飄々と返し、言い飽きた文句のように続けた。
「ここは独立閉鎖空間とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ。僕を殺さない限り、君はここから出られない。諦めてもらえるとお互いに面倒がなくて助かる」
「なんとも情れない口上だ。俺たち<金星結社パンデモニウム>はお前さんに敬意を表して<海神>レヴィヤタンの称号は空けてあるくらいだってのに」
「僕の知ったことじゃない」
「ま、違いねえな」
 <闇鴉>アンドラスは口の端に笑みを引っかけ、再び仕掛けた。
 語るべきことなど何もない。気侭に軽口を叩く程度でいい。
 不和を撒くことは好むが、それはあくまでも本音を見つけて軽く押し、よろめかせることによって成すものだ。<無価値>のように大がかりな梃子を使ってでも転がしてみせるというのは心躍らない。諍いは欺瞞ではなく魂の叫びに因るべきだと<闇鴉>アンドラスは考えている。
 目の前の男は重い。狡知を尽くした言葉を踏み潰しながら歩むだろう。足元を掬うべく引かれた敷物など、そのまま千切れるだけだ。千切られるのですらあるまい。そのことを<闇鴉>アンドラスは天性の洞察力で見抜いてのけた。
 そもそもその目的地が分からぬ限り、心に触れようとするのは無粋であるし、おそらくは無意味だ。美意識に合わない。
 愛憎のない殺し合いはさして好きではないとはいうものの、嫌いなわけでもない。それはそれで別の楽しみ方もできるのだ。
 インバネスコートを大きく広げれば無数の羽根が舞い上がり、灰色世界を黒が侵食する。それはまさしく『夜の帳』ニュクスヴェール。満たす羽根の一枚一枚は非力でも、集えば敵のあらゆる行動を阻害する。
 偽りの世界に重ねた更なる偽りの夜を引き連れ、<闇鴉>アンドラスはするりと迫る。両手を覆う金色の手袋は穿孔の貫手と指突、斬撃の手刀を純粋に強化する。当然、虚空を飛ばすよりも直に貫き断ち切る方が遥かに強い。
 そして雅年も動いた。素手の左が前、巨大な籠手は脇に引き絞って。背負う空が大きく揺らめく。景色がどうしようもないほどに歪む。 
 激突に先んじて襲いかかったのは羽根の群れだ。それはロングコートの姿を包みこもうとして、触れる前に虚空を歪める波濤に呑み込まれた。押し潰され、消し去られる。
 <闇鴉>アンドラスは僅かに右手へと進路をずらす。背側へと回ろうというのだ。そうすればあの右の巨拳は使い難い。
 それは本当に僅かな変化に過ぎなかったはずだ。だというのに、作ったはずの差は即座に修正されていた。見切られたのだ。
 距離がなくなる。
 <闇鴉>アンドラスの右の手刀は急所である首筋を狙い、しかし即座に雅年の左手に捕らえられる。捻りながら引き込もうとするのは、それでも<闇鴉>アンドラスの予定の内ではあった。
 使うのは手首から先だけ。己を捕らえる敵の左手をほんの僅かな動きで切り落とす。生身の部位としては常軌を逸した強度だったが、<闇鴉>アンドラスの斬はそれにも勝った。
 けれども、予定の内であったのは雅年も同じだった。引き込み崩せるならばそれでよし、もしこの左手を破壊するならば、そのことによって得られた僅かな時間を使うだけ。
 右の踏み込みによって体を替え、巨拳を繰り出す。遮ろうとした手刀、左腕ごと粉砕、緩衝領域を突っ切って左胸を大きく陥没させた。
 それは本来であれば胸板を完全に貫くはずの一撃だった。だが<闇鴉>アンドラスは雅年の左手首を切り落とした時点で即座に後ろへ跳び、そのおかげで完全に潰されることまでは防いだのである。
 雅年にしてみれば逃げられた、<闇鴉>アンドラスにとっては間に合わなかった、そんな攻防だった。
 己とは比べものにならないと量った神野修介の見立ては、それでもなお、まるで足りていない。全力の<闇鴉>アンドラスは少年の予想を遥かに越えて強い。
「やるもんだ」
 距離を取り、左を再生した<闇鴉>アンドラスは口の端に笑みを引っかける。
 直前に連想していたのは同僚の一人である<烈震アガレス>だ。左右の違いこそあれ、片腕に嵌めた巨大な籠手で破滅的な一撃を繰り出す様はよく似て映った。
 だから拳撃が強大であることは予測していた。外れたのは鋭さ、滑らかさだ。この身に届くのが早すぎる。いつ体を替えたのかすら分からなかった。
 単純な威力だけならば怪力を誇る<烈震アガレス>の方が僅かに上だろう。しかも面状の衝撃を伴うせいで完全にはかわしにくい。
 だが、もしも<烈震アガレス>が<呑み込むものリヴァイアサン>の相手をしたならば、確実に敗北する。
 防御能力が段違いだ。クラウンアームズばかりではない。先ほどの右手、<烈震アガレス>にならば捕らえさせはしなかった。首の半分か、せめて左腕一本はもぎ取った。
 そしてもうひとつ。
「お前さんの能力は、空間制御ってとこか? 厄介だねえ」
 揺らめく虚空が羽根を呑み込み、潰してしまったことを<闇鴉>アンドラスは忘れていない。
 ロングコートの姿は、今度こそ右腕を盾のように前に構え、腰を落としていた。籠手の向こうから無感動な双眸がこちらを観察している。答えもまた、平坦だった。
「特にそういうわけでもない」
「そうかい」
 <闇鴉>アンドラスは気にしない。あくまでも殺し合いに色を添えるだけの軽口である。この味気ない灰色の世界ではとみに欲しくもなろうというものだ。
「それじゃ、まあ、次へ行こうじゃあないか」
 またもふわりと、無造作に。無論、そう見えるだけだ。彼我の間合いを量りつつ侵略する。
 拳を握る。それでも行われるのは打撃ではない。金色の輝きが尖鋭な像を形作る。
 顔面へと流麗に突き入れられた拳撃は、巨大な籠手の絶妙な動きによって遮られた。
 それでいいのだ。籠手そのものは貫けなくとも、纏わりつく黄金が放たれてその左右を回折する。当然、この輝きは標的を断ち割るものである。
 雅年の眉間が割れ、鮮血が鼻筋を伝った。
 しかしそれだけだ。冷徹なまなざしは毫も揺るがない。
 やはり生身すら強靭に過ぎると<闇鴉>アンドラスは砕けた拳を瞬時に復元しながら密やかに笑う。雅年はただ防いだだけではなく、激突の瞬間に籠手をこちらへ僅かに打ち出すことによって打撃を兼ねたのだ。
 素晴らしい。歓喜に震える。戦いとは痛みでなくてはならない。剥き出しにした憎悪が己すらも傷つけるように、苦悶しなければならない。
 その間にも黄金は止まらない。上下左右、拳も手刀も交えながら流水の如く滑らかに連撃を加える。
 そして、そのいずれもが阻まれるのだ。のみならず、甲で受ける瞬間に回し打ち、侵蝕しようとする黄金を吹き散らす。いつしか周囲の虚空がまた揺らめき、呑み込んでゆく。
 ならば、と<闇鴉>アンドラスは金色の輝きを増した。霧散しようとする力を拾って更に身に纏わせる、飛斬のときと似た能力だ。しかしこちらはもう一方の戦格クラスである<グラップラー>の異能である。
 揺らめく空ごと切り裂いて黄金が走る。それはついに雅年の身まで届き始めた。
 血煙。裂傷が生じては即座に閉じてゆく。
 <闇鴉>アンドラスも無事に済んでいるわけではない。一撃ごとに自身も壊れてゆく。
 双方ともに表情は変わらない。<闇鴉>アンドラスは笑みを引っかけたまま、雅年は平坦に口を引き結んだまま、ぶつけ合う。
 静謐だった。純化された破壊と殺しがただ行き交う。<闇鴉>アンドラスは透明な感性によって、雅年は冷ややかな意思によって、破滅を敵へと叩き込む。
 この相手に限っては、心を動かす必要などまったくない。動かないと互いに判るのだ。僅かずつ命を削り、削り、ひたすらに殺し合う。
 <闇鴉>アンドラスの業は<魔人>として決して超絶の域になどない。紛うことなき熟練ではあるが、その程度のものだ。しかし、少年であった頃からより巧みな者たちを屠って来た。
 <闇鴉>アンドラスは幾つもの矛盾をそのままに並立させる。嗜好とは別物として、殺すこと、死に対して純粋である。だから自由だ。どう殺してもいい、どう死んでもいい。囚われぬ意識は日常と殺し合いを切り替える必要すらなく、相手を屠る知恵も何の苦なしに湧き出してくる。そして知恵は編み上げられて知識となる。水が高きより低きへ流れるように、すべては自然なことだった。
 この場においても、黄金光の回折による斬撃は、こういうことも可能であろうと行っただけのものだ。即座に対応されてしまったものの、それすら愉快だった。
 あの反応の速さは、知っているのだ。少なくとも考えたことがあるのだろう。己の業を打ち砕くものの正体を<闇鴉>アンドラスは洞察していた。
 砕き合う。確実にあるはずの苦悶も見せず、殺し合う。
 無粋なものなど何もない。己と敵とが在り、ただそれだけで成り立つ。美しいものすら、この場には要らない。
 それでも均衡はいつか崩れ去る。
 大きく動きを変えたのは雅年だ。身を沈め、まるで自らの右手を潜るようにして踏み込むとともに左の掌底を突き上げた。
 <闇鴉>アンドラスが咄嗟に放った双手刀はどちらも籠手に食い止められる。しかし掌底もまた、標的を捕らえ損ねていた。右の拳撃より遅く、余計な軌道を描いた分更に遅くなっていたからだ。
 羽根に乗り、見事に後退した<闇鴉>アンドラスは十メートルほどの距離を置いて悠々と着地する。
「さて」
 そこで呟き、懐から黄昏色の小さな球体をひょいと取り出した。
 大きな隙である。しかし雅年は動かない。突くべき隙とは動作ではなく意識に生まれるものだ。
 誘いを兼ねてはいたのだが乗ってはくれなかったことで、<闇鴉>アンドラスは小さく肩をすくめた。
「ここまでだな。役立つ日が来るとは思わなかったが」
 そして砕く。
 音もなく、灰色世界に皹が入った。<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームがまたたく間に崩壊してゆく。景色がぼろぼろと剥がれ落ち、現れるのは薄暗い路地と眩い青空。現実だ。
「こいつはリュクセルフォンからの支給品でな、閉じ込められたものを解放する。ま、らしいわな」
 <闇鴉>アンドラス自身は違うものの、<金星結社パンデモニウム>の構成員はほぼ全てが<反逆>のリュクセルフォンによって<魔人>となった者である。だから手助けをしてくれることがある。この宝珠はそのひとつである。
 <魔人>では逃れられない<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームも、魔神の力によってならば抜けられる。
 今までの戦いと周囲への被害を思えば、現実へと還ってしまえば<呑み込むものリヴァイアサン>は事実上、戦闘継続が不可能だ。人気がないとはいえ、まともに戦えばどれほどの建物が壊れることか。ましてや今はまだ昼である。人も大勢死ぬ。隠し切れない。
「今から本拠まで帰るのは正直めんどくせえし、正直お前さんと最後まで殺り合いたかったんだが……ま、こいつも仕事でね」
 少しばかり憂鬱そうに<闇鴉>アンドラスは呟き、軽く後ろへと跳んだ。
 <ブレイドメイデン>のことや<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクローム、<呑み込むものリヴァイアサン>の力の程など、持ち帰るべき情報が山ほどできてしまったのが残念だった。
「おさらばだ、まだ逢おうぜ<呑み込むものリヴァイアサン>」
 それは<闇鴉>アンドラスが初めて洩らした、誘いではない本物の隙だった。
 雅年は左半身に居り、右腕を脇で引き絞っている。盾のように前へと出された左腕、肘から先が何かを引くかのように不意に小さく寄せられた。
「いいや、もう二度と会わないとも」
 その声は、目の前でした。
 一瞬にして景色がずれ込んだことに<闇鴉>アンドラスは気付く。空中にいたはずが、地面を踏んでいる。
 状況認識は極めて迅速だった。雅年が目の前に来たのではなく、自分こそが空間を転移するかのように引き寄せられたのだと瞬時に把握し、唐突な変化に対して惑わされることもなかった。比肩しうる<魔人>など皆無に近いであろう、常軌を逸した早さだ。
 しかし、それだけの時でさえも雅年には充分だったのだ。
 <闇鴉>アンドラスは渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。
 反応は許されない。またも左腕ごと胴の中央を、右拳が今度こそ貫通していた。
 それでも<闇鴉>アンドラスは死なない。苦鳴すら上げない。笑うのだ、楽しげに。
「……おいおい。こんなことやっといて、空間制御じゃあないと言うわけか?」
「ああ、特にそういうわけでもない。ただの手品のひとつだ」
「そうかい」
 至近距離で視線がぶつかる。互いに揺らぎはない。
 本当のことを言っているのならば、と<闇鴉>アンドラスはひとつだけ得心する。
「お前さん、俺より<魔人>をよく知ってるのか」
「そういうことになる」
 こうも断言できるからには、何らかの唐繰りを心得ているということだ。<魔人>について、自分や<軍王パイモン>よりも深い知見を有しているということだ。自分の感性と知恵を超える知識である。
 ならばこの結果も仕方がない。
 <闇鴉>アンドラスはただ話しているだけではない。逃れようとはしている。
 だが動けない。今も幻視する渦に引き摺り込まれ、肉体を壊されてゆくのだ。死に至らないのは生命力を補填してくれるクラウンアームズ『ヒュプノスアミュレット』のお蔭である。それも無尽ではない。
 無事な右の手刀を繰り出すもことごとく左手で捌かれる。ある程度の傷を負わせることはできても、どちらが先に死ぬかなど考えるまでもない。
 実のところ、先ほどの引き寄せは予想外だったものの、この結末自体はある程度予測できていた。
 <呑み込むものリヴァイアサン>がなぜ<闘争牙城>へ入らずに外で待っていたのか、理由を考えれば難しいことではない。
 激痛が存在の髄までも侵す。これが<呑み込むものリヴァイアサン>、此処が終焉の地か。心躍った。
 なれば今こそ使わねばなるまい。
 <闇鴉>アンドラス凌駕解放オーバードライブを一度たりとも使用したことがない。しかしどういったものになるかは以前より推測、確信していた。
 今、すべてを注ぎ込む。
「さあ、最後の最後まで殺し合おうぜえ」
 戦いは痛みである。殺し、殺されるのだ。
 準備は必要ない。自分自身の死という対価がすべてを補って余りある。
 死をもって死を与えるのだ。
 <闇鴉>アンドラスの肉体が完全に砕かれる。死した<魔人>は欠片すら残らない。
 だが、最後の言葉だけは不吉に響き渡った。



「<殺戮女神アナト>」



 溢れ出すのは至上の破滅。
 死すら殺してのける『死』の意が雅年を冒そうとする。
 だが冒すまでもない。渦が雅年の内へと『死』を呑み込んでゆく。
 変化は急速だった。
 左の袖からぼとりと腕が落ち、霞となって消え去る。コートの下では果たしてどれほどおぞましい光景が繰り広げられているのか、どす黒い濁った液体が足元に大きく広がってはこれも消えてゆく。
 <闇鴉>アンドラスの透明な精神と死とを対価とした<殺戮女神アナト>。受けて生を保つことのできる<魔人>など、正真正銘片手にも足りない。
「……元より<魔人>は妄執で動く死人のようなものだ。こと、僕は」
 さしもの雅年の口許も、動いた。苦痛を押し潰すように、歪に笑ったのだ。
「死人は死んでおくべきだとは僕も思うが……浅ましさついでだ、まだ消えるつもりはないとも」
 そうして『死』を干した。
 再び口が引き結ばれる。ロングコートの裾を揺らめかせ、ゆっくりと歩き出す。左腕も復元し、今にも次の敵を捉えられる。
 やがて取り戻した足取りに、一切の惑いはなかった。
 ほどなくして、路地より姿は消える。
 望みを果たすか、あるいは朽ちるときまで、名和雅年は倒れない。







[30666] 「この手、繋いだならきっと・エピローグ」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2014/01/17 00:50



 日曜。
 まだ梅雨は抜けていないはずだというのに、よく晴れていた。
 日差しは厳しいものの、もう傾き始めている。街を行き過ぎる風が湿気を払い、比較的心地好いと言ってもおかしくはない。
 諸角藍佳は歩道を歩きながら大きく伸びをした。手には紙袋が一つ。修介の服を買って来たのである。
 当の修介は<伝承神殿>だ。本当に買い物が大嫌いなのだからどうしようもない。
「まったく……修ちゃんってばあたしがいないとなんにもできないんだから」
 上機嫌で、藍佳。
 この言葉に元より悪意はない。何でもしてあげたいという気持ちの表れである。そのためには何もできないでいてくれた方がいいわけで、少なくともそういうことにしておきたいのだ。
 自分には修介が必要だ。処刑人が言ったことはまったくの間違いでもないと藍佳は今になって思っていた。今なら大抵のことは素直に受け入れられそうな気がした。
 こうもすっきりした気分なのは、やはり想いを確かめ合ったからだろう。好きだと互いに言ってはいないが、ある意味それ以上のことは口にしたし、何より剣乙女ブレイドメイデンの契約が成されたという事実が揺るがぬ証拠となる。
 これからどうしよう。一緒に行きたいところはたくさんある。<横笛>フルートの件が片付くまでは忙しいかもしれないが、それが終わりさえすれば時間はたくさんあるはずだ。
 ひとまず計画だけは立てておいてもいいかもしれない。暇ができたならすぐにでも行けるように。平常運転に戻りさえすればステイシアが何かを言うとは思えないことであるし。
 しかし、どこへ行くにしても費用がかかる。<魔人>の身であからには、そこそこの距離であれば密かに走って行けないこともないだろうが、それでは雰囲気も何もあったものではない。
 やはり、たとえば二人向かい合って列車に揺られながら、移り行く景色に他愛もない話をするのだ。どうせ修介はすぐに飽きるだろうけれど、そこで自分が文句を言って、不承不承ながらも修介もまた口を開いて。
 遊園地。行きたい。
 海。行きたい。
 山奥の清流なんかも雰囲気があるだろう。
 泊まりで温泉。恥ずかしいけれど、それも行きたい。
 しかしいずれにしても先立つものは必要である。女の身では日雇いの力仕事というのも目立ち過ぎて行きづらいので、ごく普通のアルバイトになる。そうなると身許を何とかして誤魔化さなければならなくなることが少なくない。
 修介にも少しは稼いでもらおう。二人の時間、思い出を作るためなのだからそれが当然のはずだ。今までは強くなることばかり考えていたのだろうが、これからは自分が剣として力を貸せるのだし、余裕は持てるはずである。
 足取りは軽い。腰の後ろで吊るした御守りが揺れる。
 明日が煌めいている。こんなに幸せでいいのかと思わずにはいられない。
 鼻歌とともに緑豊かな公園に入る。少しだけ近道になるのだ。
 何日も青空が続いているとはいえ、蒸し暑いのは変わりなく、人の姿はない。
 いや、ひとつだけあった。二十代半ばと思しき青年が一人、携帯電話で話をしながらこちらへと歩いて来る。営業か何かだろうか、清潔そうで爽やかそうで、笑顔が好ましい。
 少し、修介にも見習ってほしい。いや、修介はあれでいいのだけれども。
 買って来た服を見せてもどうせ感謝などしてはくれないのだ。
 小さく、どこか笑みの混じった溜め息をつく。
 距離が近づいて青年の声がはっきりと聞こえるようになった。
「ん……あ、切りますね。本格的な報告は帰ってからということで」
 そう言って携帯電話を仕舞い、擦れ違う。
 否。
 擦れ違うことはついになかった。















 弱い冷房が頬に触れる。
 いつもの喫茶店で、いつもの面々。マスターも相変わらずの仏頂面だ。
「最近、手相に凝ってるんです」
 うずうずとした顔で、春菜がそんなことを言った。
「へー! 先生とかいるんですか? それとも本?」
「ん……本、かな。いくつか組み合わせてみたりして。梓ちゃんにも貸してあげようか?」
「ほう」
 横から顔を突っ込んで来る喧しいのは置いておいて、雅年は穏やかに頷く。
 手相に関する知識はない。系統としては統計学が近いのだろうが、果たしてまともに調べられたことがあるかどうか。経験則を軽視するつもりはないものの、素直な気持ちとしてはあまり信じる気になれない。
 しかし凝り過ぎなければ構いはしないだろう。特に注意をするほどのこともない。
「そうだ、見させてもらえませんか?」
「どうぞ」
 だからその頼みも二つ返事で承諾した。
 春菜は差し出された雅年の無骨な手をとり、生命線が感情線がと難しげな顔で嬉しそうに呟き始める。
 その様子を雅年は目を細くして見守る。ピアノを弾いていた長い指の這うのが少しばかりこそばゆい。
 幼い頃、この世でただ一人、自分が守ってやることのできる存在なのだと思った。自身よりさらに小さな手をとれば、何とでも戦えるような気になれた。
 いつかは離すべきとき、離さなければならない日は来る。そうでなくとも、本当であれば既に分かたれていたものを、こうして浅ましくしがみついているだけなのだ。
 しかしいずれにせよ、まだ先のことであるようだ。だからその瞬間が来るまではこうしていてもいいだろう。
 願いの果たされる、その日までは。















「今回の諸々の交渉や検証により、様々な利益と知見を得ることができました。実に喜ばしい。え? 僕が勝手に動くのはいつものことじゃないですか。<闇鴉>アンドラスさんだって好き放題ですよ?」
 青年が語る。
「ともかくですね、まずは<闘争牙城>のチャンピオン以下血気溢れる六名、もはや『決闘』を受けてもらえなくなってしまった彼らを<横笛>フルートの仲間に加えることができました。皆さん一応、上位戦格クラス双格並列デュアルかつ高位のクラウンアームズ所持者ですよ。何より戦闘経験豊富だ。我は強いですけどね」
 朗々と語る。
「次に<闘争牙城>を一時的な避難場所にできるか否かですが……止しておいた方が無難でしょうね。樽鱒君の尊い犠牲により、逃げに走ると死んでしまうことが実際に証明されました。前向きに心を置いていれば大丈夫かもしれませんが、仮にも逃げ込むという行為をいつまでも<天睨>のイシュが見逃してくれるはずもありません」
 滔々と語る。
「そういえば<闇鴉>アンドラスさんがやられてしまったのだけは予想外の予定外の想定外でしたが、まあ、<呑み込むものリヴァイアサン>の戦力を見直すきっかけにはなりますか」
 本当に淀みがない。
「最後に神官派のズルチート。以前よりの観察によって得られた分も考慮しますと……まず、神官派領域内に限られ、かつ対象は<魔人>のみでしょうね。ただの人間を目標として動いた形跡は一度たりとも見かけられませんでしたし、普通の探偵を雇って行った情報収集にもまったく反応しませんでした」
 割って入ることすら難しい。
「次に、どんな条件で捕捉されるのか。神官派領域内に入ったら? 違いますね、それなら初手から神官派の一方的展開になっているでしょう」
 青年は独り言を言っているわけではない。
「更に一定の期間が必要? これも違います。領域内に入って早々に事件を起こせばあちらも早々に確実な対応をとって来ますし、何ヶ月も住んでいる<魔人>を暴発させてもやはり初手だけは後手に回ります」
 携帯電話に模した特製の連絡装置に語っているのだ。
「では引鉄トリガーは何なのか。事件を起こす? 抽象的で曖昧、いまいちですね。閾値を越えて大きな力を使う、あたりが無難なところではないでしょうか」
 その相手も辟易したように唸るのみだが。
「とはいえ、それだけとは限りません。条件が複数存在している可能性は高い。怪しいのは……接触でしょうか」
 しかし青年は気に留めない。
「既に補足済みの<魔人>との接触……は考えにくい。それならあっという間に次から次へと捕捉できてしまいますからね。あるとすれば、神官派メンバーとの接触」
 笑っている。
「他にも色々考えられるのですが……それこそ向こうさんに答えてでももらわないことには、除外はできても確定はできない。いけませんね、これは僕にとって実によろしくない」
 優しく朗らかな、人好きのする笑顔だ。
「僕のような凡人は判らないことがあると不安に怯えてしまう。あるいは甘えが生じて、事実ではなく自分の信じたいものを信じてしまう」
 声も聞きとり易く、誰しもが好ましいと思うだろう。
「そこで考えたのです。どんな条件によって捕捉されるのか判らないから困るのです。既に捕捉されていると判っていれば解決するのですよ。ん……あ、切りますね。本格的な報告は帰ってからということで」
 青年は装置を仕舞うと、魅力的な笑顔のまま、擦れ違おうとした少女に宣告した。
「そんなわけで死んでください。神官派領域内で構成員を殺せば、いくらなんでも大丈夫ですよね」
 同時に、炎を宿した左手を少女の腹に突き入れる。人気がないとはいえ火柱など上がっては困るので、確実に貫いたと確信した時点で火は消したが。
 少女はきょとんとした表情を見せた。凛々しい顔立ちだが、可愛らしいものだ。
 そして苦悶に歪み、抗おうとして、すぐに絶望へと染まる。
 <闇鴉>アンドラスによって死ぬ寸前まで追い込まれていたのだ、そこからたった二日でこの不意打ちに耐えられるほど、この少女が回復していないであろうことは経験から知っている。
「幸せでしたか? でも残念、<闇鴉>アンドラスさんが言っていたでしょうに。絶対に手を離してはいけない、と。あなたたちが悪いのですよ?」
 二人揃っていても勝てる。けれど、ほんの僅かにだけ粘られてしまう可能性も出て来る。そうすれば加勢が現れないとも限らない。となれば狙わなかったろう。青年はそういう男である。戦わず、陥れ、嘲笑い、殺すだけ。
 しかし今、少女の死は確約された。されると分かっていたから、こうやって殺しに来た。
「やだ……やだ……」
 ぽろぽろと涙をこぼしている。
 悔しいだろう。希望に満ち溢れていたに違いない。分かり合い、想いを確かめ合い、明日を信じて疑わなかったに違いない。
「やっとなのに……これからなのに……」
 死した<魔人>は欠片も残らない。既に消え始めている。
 即座に、ではないのは情念のせいだろうか。
「助けて、助けて修ちゃん…………助けて……!」
 震えながら伸ばした手は、そのずっと先にいるはずの愛しい幼馴染に向けたもの。
 その手を青年は叩き潰す。幻想に縋るだけの希望であっても踏み躙らずにはいられないのだ。
「では諸角藍佳さん、さようなら。せめて神野修介君も早めに死なせてあげましょう」
 僕って慈悲深いでしょう? そう言わんばかりの優しい笑顔でもう一撃。
 それがとどめとなった。燐光となって、少女は消えた。
 ほんの二十数秒のこと。見る者もない。
 しかし光すらも消えた後、御守りだけが孤独に地面に落ちていた。
 <魔人>となるよりも遥か以前からの持ち物だったのだろう。そういった物品は<魔人>の消滅に巻き込まれることなく残ることがある。
「おやおや」
 人好きのする微笑みとともに御守りを拾い、折角なので中身を検める。これで捕捉されたに違いない以上は可及的速やかに神官派領域を逃れなければならないのだが、嗅覚が愉しそうな匂いを嗅ぎつけた。
 入っていたのは折り畳まれた一枚の古い紙。幼子のつたない字で願いが記されている。
 さすがに堪え切れなかった。
「……イヒ」
 青年は、<無価値ベリアル>は声を裏返して笑った。
「ひひひひひ、うひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!!」
 およそ人にこれほど邪悪な笑顔ができようとは、一体誰が思うだろう。かつてこれほど歪んだ歓喜の表情を描くことのできた芸術家などあるまい。
 狂ったように笑い転げ、やがて<無価値ベリアル>は握り潰した紙を空へと放り上げた。
 音を立て、発火する。
 幼けない願いが焼き尽くされてゆく。
 色のない、陽だまりに身を預けた午睡のような、あどけない願いが消されてゆく。



『しゅうちゃんとずっといっしょにいられますように』



 もう、決して叶うことはない。







[30666] 幕間「建国前夜」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2015/01/18 21:17


『そろそろ<竪琴ライラ>の領域に穴を穿ちましょうか』

 あの男はそう言った。
 朗らかで優しげな男だ。きっと誰もが心惹かれる。
 一目見て頬を染めはせずとも、幾度も話すうちに陥落する女は多いだろう。自分にとっては男というだけで嫌悪すべき対象だが。

『領域を丸ごと奪うのではなく、その中の一部。最低でも市、できれば県ひとつを支配下に置きたいですね』

 ともあれ、あの男はそう告げたのだ。

『狙うのはもちろん、財団派です。各地に構成員が散らばっていて戦力集結に時間がかかりますし、そのおかげでそもそも戦況自体こちらが有利ですからね。最も容易く成し遂げられるでしょう』

 本から顔を上げて夜空を見上げれば、西に細い月。紫にたなびく雲を切り裂く刃のようなそれが無性に眩くて、<夜魔リリス>は目を細めた。

『ああ、奪うと言っても、そもそも財団派の拠点っていうのは強いて言うならメンバーの在籍している高校とかですからね。城を落とす、的なものではありません。その区域の<竪琴ライラ>をすべて排除し、こちらの人員を常駐させることによってイニシアティブをとる。それで第一段階成功となります』

 美しい娘だ。<魔人>は比較的整った顔立ちであることが多いとはいえ、彼女は群を抜いている。
 二十歳か、それには少し足りぬ程度だろうか。ほんのりと赤み差すすべらかな頬も、すっと通った鼻筋も、綺麗に梳られた肩までの黒髪も、ひとつひとつが精緻に形作られ、調和してそれ以上のものとなる。

『効果ですか? まず、<竪琴ライラ>に追われている人を保護できますね。そして何より<竪琴ライラ>の威信を低下させられる。今までの小競り合いとは異なる明確な敗北です。日和見している<魔人>の心はこちらに傾くでしょう』

 肢体もまた、同様だ。決して長身ではないものの、すらりとした印象と蠱惑の陰影を両立させている。
 身を飾るのは鮮血のようなカクテルドレス。前面は白い太ももの半ばまでを覗かせながらも波打つ側面から後方は膝下に届く仕様。胸元も大きく切れ込んで、撓む膨らみを半ば露にしており、背に至ってはほぼ剥き出しだ。

『そもそも日和見という時点で<竪琴ライラ>に従いたくないという気持ちが確実に存在しているのです。彼らは正確には、潜在的な反<竪琴ライラ>なのですよ』

 そこに立っているだけで男を蕩かす様は、まさに<夜魔リリム>か。
 否。美貌に浮かぶ、すべてに苛立ち見下しているかのような表情はただ夜の享楽を運ぶだけの存在とは映らない。
 ゆえに<夜魔リリス>と、いつしか娘の呼び名は変わっていた。

『秩序というものは、どんなに混沌とした場所でも自然とそこに合った何らかの不文律として出来上がっているものです。陰中の陽、陽中の陰。混沌は秩序を内包し、秩序は混沌を懐に抱く。それは必然なのですよ。だというのに自分のルールを押し付けるならば、力が要ります。<竪琴ライラ>とは力を示すことで秩序の守り手を名乗る存在です。だからこそ、その力を大したものではないと示すことは大きな意味を持つ』

 風が髪を揺らし、まだ手にしたままであった本のページをめくる。
 夏の生ぬるい、ねっとりとした大気だ。心地よいとは言いがたいがそれでも僅かに涼しさはある。
 小さな山の中腹、少しばかり開けた場所。<災>によって命を落とした人々の慰霊碑を背に、視線を落とせば煌く人工の光。
 
『奪取だけならば、今まででも十分可能ではあったのです。しかし厄介なのはそこからだ。なにせ、即座に取り返されてしまっては何の意味もない。守り抜かなければならない。それは正直、至難の業であろうと予測されていました。しかし貴女が来てくれた、<夜魔リリス>』

 男の声、口調は魅力的でありながら、それでも<夜魔リリス>の嫌悪を乗り越えるほどではなかった。
 計画に乗ったのは利害が一致したから、それだけのことに過ぎない。

『<竪琴ライラ>の強みは数、一人に対して五人、十人、二十人を投入できることにある。単純ですが実に恐ろしい。しかしこれには落とし穴があります。五人に対して二十五人は使えても、五十人に対して二百五十人は向かわせられない。なぜならば規模が大きくなりすぎる。社会の目に留まらないようにするのは至難の業だ。だからこそ貴女なのです、<夜魔リリス>』

 確かに、自分以外には不可能だろう。<夜魔リリス>は冷たく笑う。
 笑って、男の声を忘れることにする。あの人を安心させるような音、口調は不愉快だ。
 替わりのように耳朶を打ったのは、記憶ではなく今ここにある現実からの声。
「あ、んずる、な」
 かすれた、まるで知りもしない異国の言葉を無理に喋っているかのようなたどたどしい声。
 横に並んだのは枯れ木のような男だった。
 本当に骨と皮だけなのではなかろうかと思わせる風貌だ。半ば開き通しの口からは涎が垂れ、落ち窪んだ眼窩で双眸だけが爛々と輝いている。年など推測しようとするだけ馬鹿らしい。
 身にまとうのは、おそらくはシャツとズボンの残骸であろうと思われる襤褸。辛うじて形は保っているだろうか。
 人であったならば、きっと既に死んでいるに違いない。死体が歩いていると言われても違和感を覚えない。
 何を好き好んでこんな姿をしているのか、<夜魔リリス>には理解できなかった。
「何ひとつとして、心配などしていないわ、<妖刀ムラマサ>」
「そ、か」
 歯茎を剥き出すのは笑ったのか、ただそうなっただけか。耐え難い悪臭の漂ってきそうな見てくれに反して、臭いはおろか気配すらない。何から何までもが亡霊じみている。
「やることは分かってるんでしょうね?」
「あんず、るな、と、いってい、る」
 ゆうらりと<妖刀ムラマサ>は揺らめく。
 ふらついたのではない。揺れたと思えば、宝石のような地の星々を背景として<夜魔リリス>へと正面から向き直っていた。
「きさまの、きさまのぅ、か、て。かて。にんぎょ、うをのこし、ふ、ひひ……斬ればよい。斬ればよいのだろう」
 『斬る』と、そう口にするときだけ、ぞっとするほどに舌が滑らかだ。
「きし、どもに、は……ちゃんぷ。やつは、ははっ、やつら、をくぅぎ、づけ。せいこ、す、するとも」
「……<王者チャンプ>、ね……」
 この作戦は、ただ<夜魔リリス>が財団派から支配域の一部を奪い取るだけのものではない。同時に、残る五派のうち騎士派、魔女派、鳥船派にも攻撃を仕掛けることになっている。
 まずは陽動、次いで刃をちらつかせることによって戦力をこちらへと向けさせないようにする役割を果たす予定だ。
 いずれも中心となるのは<夜魔リリス>たちと同じく引き抜かれてきた<闘争牙城>の常連、そして騎士派を担当するのが<王者チャンプ>と呼ばれる男である。
 <王者チャンプ>とはすなわち『<闘争牙城>王者グランドチャンピオン』。決闘を挑み、それを受けるという形式で<闘争牙城>は成り立つため、挑んでこなかった相手とは戦ってはいないが、それでも彼こそが<王者チャンプ>であるとして扱われる。
 しかし<夜魔リリス>は小さなため息をつくのだ。
「あれ、<闘争牙城>で一番の馬鹿じゃないの。大丈夫な気がしないのだけど」
「ひひ、そうさ、なぁ……その、その、とぉり、さぁ……ひひひ、しか、し……わから、んか。おんな、にゃ、わ、からん」
 ひひひと<妖刀ムラマサ>は笑ったかのような気配。相変わらずのたどたどしい口調からは、嘲っているのか否かも判別できない。
 ただ少なくとも、女には、と言われたことは気に障った。
「分かりたくもないわ。あなたたちに合わせるとこっちの頭まで悪くなりそう。どうでもいいのよ。私が何とかする。だから何も心配なんてしてない。ねぇ?」
 背後を振り向く。
 そこには二十名にも及ぶ少年たちが控えていた。二十対の瞳が<夜魔リリス>へと熱のこもった視線を集中させている。
 しかし一様ではない。ただ一人を除き、半数は媚で、残る半数は煮えたぎるような憎悪を向けているのだ。
 そのどちらをも<夜魔リリス>は愛しげに嘲笑する。
「この子たちと未来の奴隷が蹂躙する。だから状況を整えるまで斬ってくれさえすればいいの、<妖刀ムラマサ>、<斬撃卿ムラマサ>、<斬撃狂ムラマサ>」
 その笑みは底なしの沼のよう。その奥底に澱むものを推し量ろうとするだけで薄ら寒くなる。
 証明であるかのように、控えた少年たちの顔がそれぞれに歪んだ。
 変わらないのは<妖刀ムラマサ>のみ。ひひひと揺れる死体である。
「あん、び、ば、れん、つ」
 来るべき時刻まで暇を潰すべく、手にした本に再び目を落とした<夜魔リリス>の耳に届いたのはそんな言葉。
 これ以上付き合う気はなかった。無視をする。
 読み返しすぎてよれよれになった短編小説、その文章をまたもゆっくりとなぞってゆく横顔は愛憎入り混じりつつ。





 高空で、ごう、と鳴った。
 彼方から流れ込む気流がひゅるると唸る。
 行われるであろう惨劇から顔を逸らすように、月がその横顔を雲の後ろへ隠してしまう。
 それでも<夜魔リリス>は文字を追うことをやめない。もう諳んじることさえできる作品にのめり込む。
 知っている展開、知っている結末。何度繰り返そうと新たに溢れ出る感情をとどめ置くことができない。
 ただ一つだけ自分を痛ましげに見つめるまなざしのあることを、気づくことができない。






[30666] 「せいくらべ・一」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/05/03 22:54
 <竪琴ライラ>騎士派は戦隊チームでもって、ことに当たる。
 至近距離での削り合いを得手とする白兵方クラブ
 高速機動で標的を捉え翻弄する疾駆方ダガー
 遠隔攻撃による牽制もしくは撃墜を行う砲撃方ボウ
 いずれにも偏らず、その全てを行う央ノ要オールラウンダー
 C、D、B、A、この四名を一組とする。
 しかし本質的には、いずれも央ノ要に近いのだ。得手不得手はあるにしてもどの役割もこなせなくはない、そのように訓練する。
 ゆえに騎士派の上位者は穴のない強力な<魔人>なのである。





 紫電を纏い、巨大な戦鎚が唸りを上げる。
 擂り鉢状になった闘技場の底へと歓声が降り注ぐ。
 空を切った、そう見えて攻撃は終わらない。戦鎚は端から目を奪うが役割、そこから解き放たれた二筋の紫電が獅子の顎の如くに標的を挟み込む。
 虚実で不意を突き、上下で惑わせる。我流雷鎚術<双爪牙>。小技ではあるが並の<魔人>であればこれだけで終わる。
 しかし紫電は打ち払われるのだ。
 雷の上顎と下顎をまとめて叩き潰したのもまた、戦鎚。
 瞬閃の後、そのまま右肩に担ぎ直し、敵が笑う。
「小手先でどうにかできるなんて思っちゃねえだろう?」
 二十歳よりは少し下だろうか。しなやかな筋肉によって引き締められた長身にパーカーを羽織った、堂々たる振る舞いの男だ。
 面構えも視線も姿勢も、声も口調も台詞も、すべてが自信に満ち溢れている。片手で鎚を担ぐなどという隙だらけの体勢を取っていながら、攻める余地がないと錯覚させるほどの威圧を顕していた。
 実際の年齢が見た目どおりであるのなら五つほどは下となるはずなのに、背伸びした印象などまるでなく、すべてが板についていた。
 相対して、少しばかりとはいえ技も交わして、やはりこの相手は伊達ではないのだと徹は思わずにいられなかった。
 兼任徹かねとうとおる砲撃方筆頭マスターボウの称号を受けた、騎士派を代表する<魔人>の一人だ。
 この戦い、もはや本意ではない。それでもやらなければならない。勝たなければならない。
 歓声が鼓膜を劈く。見物人が闘技場の観客席を埋め尽くし、二人の戦いに声を枯らせている。
「来いよ、全力でこの俺を墜としてみせろ」
 敵は悠然と挑発する。
 そして徹は乗った。
 溢れ出した力を瞬時に収束させる。周囲に雷球とでも呼ぶべきものが五つ浮かび上がり、螺旋を描いて標的へと襲いかかる。
 これもまだ牽制の意味合いが強い攻撃だ。しかし徹は砲撃方筆頭マスターボウ、同じく小技に分類される攻撃であっても先ほどの<双爪牙>を上回る。
 その上で、やはり通用しない。
「はははっ」
 五つを迎撃したのは六つ。見せつけるかのように一つだけ多い雷球が敵の戦鎚より放たれ、五つは相殺、最後の一矢がその中央を駆け抜けてくる。
 長い長い手による槍撃の如くに伸びてくるそれを、視界の端に収めながら徹は斜め前方へと跳躍。ぎりぎりの間合いで直撃をかわし、勢いのまま駆けながら次々と紫電を投射。
 敵は、避けない。あくまでも迅速に正対しながら戦鎚による撃墜を行う。視線は常に正面からこちらを見据え、口元の笑みは消えない。
 しかし互いに無傷ではないのだ。<魔人>の扱う雷は、物理学に捉えられるものではなく、むしろ神話や伝承のものに近い。雷とは天罰であり、逃れえぬもの。完全に相手を上回らない限り、無傷はありえない。
 それほど強力な力であるだけに、逆に言えば徹の力量をもってしても未熟な雷しか扱えていないということでもあるが。
 だというのに。
「……雷電まで使うかよ、貴様」
 一度大きく跳び離れ、徹は低く唸った。
 この敵は、三日前の試合では疾駆方筆頭マスターダガーを相手に高機動戦闘を行っていた。大鎌などという、扱い難いにも程がある武器で。
 その前は火炎の応酬、さらにその前は長剣を手にして真っ向から剣技を競った。それ以前の仕合も、一つとして同じはない。
 戦うたびにその戦闘スタイルは変わる。正確には、その時の相手と同じ戦い方をする。それでありながらすべてに勝利してきたのだ。
 そして今回に至っては、難度の高い雷撃を使いこなしているということなのである。
 もはや、引き出しが多いなどという形容で済まされる限度を越えていた。
「使うさ。使えないわけがない」
 敵は我が意を得たりと、朗々たる声で宣言した。
「なぜなら俺は<王者チャンプ>!」

 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!

 歓声が闘技場を埋め尽くす。
 <王者チャンプ>、と口々に目の前の男を称える。
 此処は<闘争牙城>、欲望に駆られた<魔人>の合い争う場。
 観衆はその利用者、すなわち我欲を力で満たそうとする者たち。
 そのはずの彼らが、この男に熱狂している。

 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!
 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!
 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!

王者チャンプには挑戦者チャレンジャーを受け止める義務があるッ!」
 それは雷電を使える理由にはなっていない。
 だというのに、<王者チャンプ>の咆哮は砲弾のように意識に叩き込まれた。
 指先まで痺れが走る。声が出なかった。油断とすら映る威風堂々とした佇まいは、まさに王者のものだと思えてならなかった。
 しかし。
「……違う」
 惑いそうになる心に鞭を打ち、目覚めさせる。
 そんなはずはない。これしきのことで挫けそうになるはずがない。自分にはやらねばならぬことがあるではないか。
 そう、今一度自らに言い聞かせ、戦鎚を構え直した。
 おかしいのだ。
 この<王者チャンプ>と呼ばれる男は何もかもが型からはみ出している。そもそもこの戦いは事前に充分な情報を集めてから臨んだものだ。ここ数戦など、直接観戦していたくらいなのに。
 これほどの砲撃戦能力を有しているのであれば、疾駆方筆頭マスターダガーとの仕合でもっと効率よく戦えたはずだ。高速で動く標的を捉えるのは難しいにしても、ばら撒いた雷は動きの幅を狭める。要は使いようなのだ。
 だというのに、真っ向から速度と機動力の競い合いをしていた。騎士派で最もそれを得意とする疾駆方筆頭マスターダガーを相手に何を考えているのか。
 無論のこと、こんな不可思議なやり方をすると知ってはいた。だがそれは隠れ蓑だと思っていたのだ。重要な何かをそれで誤魔化しているに違いないと。
 けれど蓋を開けてみれば<王者チャンプ>はどこまでも賢明さとは程遠いやり方しかしなかった。
 徹はあくまでも妥当性を軸に作戦を立てた。だからそれは<王者チャンプ>の不合理な戦い方を前に、碌に機能しないでいる。
 むしろそれ以前の問題か。砲撃方筆頭マスターボウが砲撃で上をいかれては、何をするにもやりづらくて仕方がない。
「ありえない」
 口の中だけで呟く。
 騎士派は突出した能力よりも不得手を持たないことを重視するとはいえ、それでも最高峰が揃ってこうも容易く凌駕されるなど、異常だ。
 おそらくはやはり、何かはあるのだろう。唐繰り仕掛けが、何か。
 と、そう考えたところで一つの噂を思い出した。あまりに荒唐無稽で、耳にしたときは戯言と一笑に伏した内容の代物だ。
 その噂は確かにこの状況、これまでの流れを説明できはするのだが。
 ここに至ってなお、そうであると信じられはしなかった。
 大きく後ろへ跳び退る。<王者チャンプ>はやはり、追撃などかけてこない。
 敵があくまでもこんな戦い方を貫くというのならば、採れる手がある。普通であれば悪手にしかならないけれども、悠々と待ってくれるというのならば話は別だ。
 不安がよぎり、それでも圧殺する。
 徹が信じると決めているものは三つ。今はそのうちの一つ、自身の力を信じて勝負をかけるしかない。
「おおおおおおッ」
 腹の底から吼える。
 雑念を振り払い、ただ目の前の敵を打ちのめすことだけを今は心に満たす。

「“我が姫よ、我らが姫よ、どうかこの一撃に祝福を”」

 祈りのように響く言葉は、切り札への導入の役割を持つ。
 戦鎚が一際眩い輝きを放った。

「“私は御身に降り注がんとするすべての災厄を打ち払いましょう”」

 地から天へと上る金色の雷の柱。
 闘技場から大きなどよめきが上がった。

「“それがたとえ世界取り巻く蛇だとて、この鎚で打ち砕きましょう”」

 そこに秘められた威を悟った者は、巻き添えを食ってはかなわぬと逃げ出す。
 此処が<闘争牙城>だとて、怯懦を禁忌とする場所とて、それを責められはすまい。

「“その果てに終わりが待とうとも、この一撃に何の惑いがありましょう”」

 ごく一握りの<魔人>のみが手にすると言われる凌駕解放オーバードライブ
 その者の強さの果てを体現する一撃など余波すら受けたくはあるまい。

「“私は呼ぶ。幻想の神を。我が名とともに”」

 <王者チャンプ>も動いた。
 不敵な笑みはそのままに、こちらも黄金を纏ったのだ。
 徹が雷の柱であるならば、<王者チャンプ>は雷雲と化し、紫電を放射する。
 だが大きいのは徹だ。凌駕解放オーバードライブをもってすれば遥かに勝ることができる。
 それを確認し、徹は力を解き放った。

「“私は喚ぶ。その武器を。我が名において”」



 収束した雷光が短い柄と全長2メートルにも及ぶ鎚頭を模る。
 伝承は北欧へ。



<轟雷>ミヨルニル



 北欧神話において雷神トールが有する鎚はひとたび投げ放たれれば過たず数多の巨人を打ち砕き、手元に返ってくるという。
 世界を取り巻くヨルムンガンドすら屠ってのけたそのミヨルニルにこそ、徹は強さの果てを求めた。
 トールと名乗り、雷を使い、ついには凌駕解放オーバードライブにまで達した。
 それでなお、欠けている。
 投射された<轟雷>ミヨルニルは神話に語られるような必中能力を持たない。速くはある、大きくはある、追尾程度ならばしてくれる、しかしかわせてしまうのだ。威力に拘りすぎた結果、あるべきものが失われてしまった。
 だから、二段構え。
 徹は即座に紫電を左手に現し、放った<轟雷>ミヨルニルの後を追う。右か左か上か、避けようとした先で討つ。
 彼我の距離、<轟雷>ミヨルニルの速度からすれば、判断は一瞬。引き延ばされた時間の中で徹は見極めようとする。
 右か。
 左か。
 それとも跳ぶか。
 いずれでもいい。動いた先で捕らえさえすれば、追って来た<轟雷>ミヨルニルと挟み撃ちにできる。
 そして徹は見た。
 <王者チャンプ>が笑った。ふてぶてしく、本当に楽しそうに。
 黄金と紫電とを纏ったまま動いた方向は、前。
 正面から<轟雷>ミヨルニルに突撃したのだ。
 一切の惑いを持たない一直線。纏う雷で相殺してなお容易く焼き焦げ炭化する肉体を、即座に復元しながら強引に突っ切ってくる。
 苦痛でないはずはない。笑みの形に剥き出した歯は食いしばっているからこそだ。
 すべては刹那の出来事。虚を衝かれた徹が失ってしまった時間はそれよりも長い。
 <王者チャンプ>は目の前にいた。
 今度は彼こそが雷の鎚を手にして。



 雷光が徹を貫いた。

「行きがけの駄賃に掻っ攫ってきたお前の雷の欠片だ」

 その声は後から聞こえてきた。

「誇れよ。その痛みはお前自身の強さの証だからな」





















 闘技場の中央に<王者チャンプ>が立っている。
 最初と同じように自信に満ち溢れて、悠々と。
 崩れ落ちそうになる膝を堪えながら徹は彼を見ていた。
 <王者チャンプ>が声をかけてきた。
「まだやるかい? 続ければもう、そうは保たんだろう」
 言われたとおり、命は大幅に削られている。蓄積されたダメージが大きすぎた。生命と活力を補填してくれるクラウンアームズ、『ヘリオスエンブレム』にも限度がある。
「死ぬまでやるなら付き合うぜ。王者チャンプには挑戦者チャレンジャーを受け止める義務がある」
 勝てない。認めざるを得なかった。
 <騎士姫>のために、騎士派のために勝たなければならないのに。自らの不甲斐なさが悔しくて仕方ない。
 それでも死んでしまっては本末転倒だ。
「……負けを認める」

 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!
 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!
 <王者チャンプ>! <王者チャンプ>!! <王者チャンプ>!!!

 観客たちの歓声が上がった。<王者チャンプ>を称える声が嵐のように響き続ける。
 だというのにそれを貫き、<王者チャンプ>の言葉はこちらにはっきりと届いた。
「お前の最大の敗因は俺を最後まで信頼しなかったことだ」
 歓声に応えながら、彼はにやりと笑う。
 堂々と、恐れるものなど何もないかのように。
挑戦者チャレンジャー凌駕解放オーバードライブを出したんだぜ? それを正面から破らずになにが王者チャンプだ」





 <王者チャンプ>はここに、<竪琴ライラ>騎士派からの七人目の刺客を退けたのだ。







[30666] 「せいくらべ・二」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/04/20 00:48



 天空の巨大庭園。
 白い雲の切れ端、その只中に浮かぶ緑の領域だ。
 円形。直径は2キロメートルにも及び、傍目には美しい公園と映る。
 いや、美しい公園であること自体に間違いはない。噴水もある、遊歩道もある、芝生は綺麗に刈り整えられ、豊かな葉をつける木々は木漏れ日とともに涼を与える。
 建物もある。少し古めかしい、欧州風の家屋だ。南中の太陽に正対した一つの巨大な屋敷に傅くかのように、ずらりと立ち並んでいる。
 人の姿もある。ほとんどが十代後半と思しき青少年だ。いずれも引き締まった表情をして、あるいは歩みながら言葉を交わし、あるいは剣を交えている。
 外壁はこれも欧州の古城めいた石造り。人に十倍する跳躍力を持つものであれば一足で上に立つことも可能だろう。
 しかしそこから外を見下ろせば恐怖に囚われずにはいられまい。
 まばらに散る雲が見える。
 それ以外には何もない。下には青から黒に移り行く奈落が開けているだけなのだ。
 此処は地球とは言えない。中天の太陽も、太陽のように見えて太陽のように移動し、この空間に昼と夜をもたらすだけの装飾品に過ぎない。
 作り手は魔神<吟遊>のハシュメール。
 この領域こそは<竪琴ライラ>騎士派の本拠、<空中庭園>である。





「無様だな」
 屋敷の一室、豪奢な装飾の施された窓から<空中庭園>の今を見下ろしながら徹は自責の声を上げた。
 さほど長身ではないもののがっしりとした体躯だ。人であったころと同じ体格にしてある。
 窓枠を掴む指に力が込められる。が、魔神の手による逸品は軋みもしない。
 ため息とともに会議室を振り返れば、徹が纏う以上に空気が重苦しい。窓に似合いの精緻さで描かれた壁の紋様が呪いのようにすら映った。
「済まん。奴はオレとやったとき、オレでも競り合える程度の砲撃戦能力しかなかったはず……だったんだが」
 部屋にいる他の二名の片割れ、疾駆方筆頭マスターダガー東山一輝ひがしやまかずきが小柄な身を更に縮めている。いつも切り裂くような鋭い口調をした少年が、今は力なく項垂れていた。
 そう、そのはずだった。彼を一回り強くした能力であるはずだった。それは、総合的に見れば徹のことも上回っていることを意味するが、分かっていればやりようがある程度だった。
 しかし徹が戦った<王者チャンプ>は、むしろ自分自身の一回り上であるように感じられた。前の仕合で見せていた縦横無尽の機動などまったく見せず、こちらと同じ戦い方で負かしてきた。
 相手に合わせることは分かっていた。身体能力や砲撃能力がその都度違って見えることも聞いていた。不可能ではない。要は手加減をすればいいだけだ。全ての分野に極めて高い実力を持ち、大きな力量差があれば為しえることだ。
「……奴は手加減なんかしてなかった」
「私にもそう見えたよ」
 一輝との仕合において<王者チャンプ>には、行動の選択は賢明に遠くとも行動の内容に手抜きはなかったはずだ。加減をすればやはり分かる。
 全力だったと思ったからこそ、その能力を元に徹は対策を立てたのだ。
「だが一筋縄ではいかなかった」
 最後の一人、白兵方筆頭マスタークラブの称号を拝する市中聡司いちなかさとしがぼそりと言う。
 ぼさぼさの前髪の奥の双眸は暗い。
「……噂は」
「まさか」
 最後まで言わせず、徹は否定する。
 否定してから、口先だけであることを自覚する。
「……まさか。本当にその、まさか……だというのか……?」
「財団派を抉った<魔人>も相当理不尽だそうだぜ。こっちのだって同等以上でおかしくない。してやられたな」
 聡司の言葉は、もはや<竪琴ライラ>すべてが知る事実だ。
 一月前のことである。
 財団派領域において何者かが大規模襲撃をかけてきた。そして連絡用拠点四つを制圧、一帯から<竪琴ライラ>を排除し、<帝国>エンパイアを打ち立てると宣言したのだ。その代表者は<夜魔リリス>と名乗った。
 何者か、とは言っても、その実体が<横笛>フルートであったのは間違いない。<闘争牙城>の実力者を何名か<横笛>フルートが抱え込んだという情報はその時点で既に入っていた。<夜魔リリス>はそのうちの一人だ。
 しかしそれだけでは終わらなかったのである。ほどなくして<帝国>エンパイア<横笛>フルートに叛旗を翻した。
 以来、その地区では三つ巴の戦いが続いている。
 財団派にとっても<横笛>フルートにとっても、当初は<帝国>エンパイアなどすぐに片付けられる存在であるはずだった。名前こそ大仰だが、自ら孤立無援となった彼女らは奇襲に成功しただけの弱小勢力に過ぎない。
 その考えを改める破目になったのは、元々その一帯を担当していた<竪琴ライラ>の<魔人>が敵として立ちふさがったときだ。
 <双剣ツインソード>と通称される相馬小五郎。財団派の中でも屈指の剛の者だ。消息不明となっていた彼が、仲間とともに<帝国>エンパイアの兵として現れた。
 理由は分からない。剣を使う者として財団派随一の地位を得られなかったことが鬱屈した思いを呼んだのか、または裏切るだけの報酬を示されたか、あるいは弱みでも握られたか。ともあれ、苦渋の色を浮かべながら、彼はかつての同胞にその双剣を振るった。
 それどころか、彼らに打ち倒されて連れて行かれた者たちも、その次には敵として刃を向けてきたのである。
 戦力を奪われてゆくことになると気づいたときにはもう、<帝国>エンパイアは自らの領域を守るのに充分な力を揃えてしまっていた。
 無論、総力を注ぎ込めば陥とすことはできるだろうが、決して衆目を集めるわけにはいかない以上は少数精鋭で臨むしかない。そして迂闊に仕掛ければ敵が増えるだけの結果に終わるのだ。
 今は<剣王>ソードマスターや、ここ一月で頭角を現してきた<三剣使いトライアド>が中心となって、<横笛>フルートと小競り合いを繰り広げながらも機を窺っている。
「……もう本当に、財団派を手助けするどころではないな」
 徹は右目を覆う。唇は苦々しく引き結ばれていた。
 <横笛>フルートと五分の状況にあると言われていても、その実騎士派には余裕がある。領域内の事件を捌きながらも常に予備要員は確保しており、いざというときには彼らを動員すればいいのだ。
 一時的に手を減らしてでも財団派の苦境を救うことは<竪琴ライラ>全体の益となる。<騎士姫>エリシエルと、徹たち幹部四名の意見は一致した。
 しかし結局動くことはできなかった。
 <帝国>エンパイア樹立宣言とほぼ時を同じくして、騎士派には招待状が送られてきた。
 <闘争牙城>の頂点である<王者チャンプ>より、我こそはと思う者あらば誰の挑戦でも受け入れる、と。臆病風に吹かれたならば皆して逃げるも自由、と。
 これが他の五派であったなら問題にもならなかっただろう。反応し、挑戦する誰かはいても、それはあくまでも個人に過ぎない。
 だが、此処は騎士派だったのだ。
「ケイの意見に従うべきだったんだろうか」
 騎士派はその名に従って騎士道を規範として結束している。
 正確には、過去に実在した本物ではなく現代日本人が騎士道であると思い込みがちな空想上の代物だ。
 だからこそ凄まじい。強きをくじき弱きを助け、常に正々堂々と障害を打ち崩してゆく。分かりやすく、どこまでも正しい正義が出来上がるのだ。
 ともすれば馬鹿にされがちだが、率先してその道を行く<騎士姫>の愚直な姿は斜に構えた少年たちの心を動かし、やがて一つにした。それが騎士派の強さの源となった。
 けれどもやはり弊害は生じるのだ。
 良くも悪くも人間である。気高くあれと己に課す心は、善き誇りとともに自尊心を過剰に肥えさせる。
 <王者チャンプ>の招待を、挑発であり侮辱であると受け取った者は多い。そして騎士たるもの己自身や大切なものへの侮辱を看過してはならないと考える。加えて、逃げたと見られれば非所属の<魔人>たちに侮られるのは必至だった。
 これを見過ごしては内外に示しがつかないと、あの日<空中庭園>は一つの言葉に震えた。
 徹たちはおろか、エリシエルも賛同した。財団派への援護はこちらを片付けてからでいい。ことによると半日で終わる。そんな風に間違えたのだ。
 あのときはまだ、ただ財団派が手痛い一撃を受けただけで今のような泥沼のような状態ではなかったため、さほど急がなくともいいと油断してしまったということもあった。
 当初は希望者が続出した。その中から、まず小手調べとして送り出したのは中堅の一人。
 彼が敗れ、それなりには強いが自分ほどではないと判断した者たちが次に手を挙げた。
 それも敗れ、少々見誤っていたかと思いつつもならば自分こそがと名乗り出た者が数名。
 あと少しで勝てるはずと錯覚しながら賭け事にのめりこんでしまうかのような流れが続き、前回は疾駆方筆頭マスターダガーが、そしてとうとう砲撃方筆頭マスターボウである徹まで敗北するに至ったのだ。
 見え透いた罠を踏み潰すつもりで、見事に引っかかってしまった。
「……わざわざ戦力を小出しにして貴重な時間を費やした。傍から見ればまったくの馬鹿だな、私たちは」
「もはや引くに引けんぞ。士気はほぼ底を這っている上、チンピラどもにも間違いなくなめられ始めている。奴ら、こそこそと隠れなくなった」
 試合の間に領域の様子を軽く見回りでもしていたのだろう。聡司が苦々しく告げる。
「なんとしてもあの<王者チャンプ>に勝たないと、碌でもない事態に陥るぞ」
「そうだな」
 『割れた窓理論』というものがある。
 窓が割れたまま放置されているような地域では犯罪が増える。秩序の根幹を成すのは抑止力だ。悪行を働けば制止されると思い知らせることで未然に防ぐのである。
 許されるのであればいっそ、今からでもなかったことにしてしまいたいくらいだ。徹はその言葉を心中に留める。騎士派最年長として、そこまでの泣き言は吐けない。
「次はお前が行く……というわけにも、もういかんか」
「あんたで勝てない以上、俺じゃあまず無理だな。奴はきっと、俺の一回り上として立ちはだかるんだろう」
「そうかもな」
 徹は苦々しく頷く。
 あの嘘くさい噂が本物であると仮定せざるをえない。
「<王者チャンプ>は対戦相手に合わせて、それを少し上回る力を得る。それで説明がついてしまう」
「……勝てるわけないだろ、そんなの! どうしろってんだ……」
 一輝が吐き捨てるように言う。拳を叩きつけられたテーブルが大きく鳴った。
 気持ちは三人とも同じだった。
 でたらめな異能だ。ありえるはずがないと判断するのが妥当だろう。
 しかし、そうだとしか考えようがなくなっていた。そのくらいに<王者チャンプ>は理不尽だった。
 空気が棘のようだった。
 虚空を睨む聡司、床を見つめたまま顔を上げない一輝。
 やらなければならないことはある。しかし次への意見のひとつも出ることはない。仕方がないと自分で言いたくはないが、状況がほぼ詰んでいる以上はどうにもならないと思える。
 気迫と活力に溢れていた騎士派の幹部が、今はこのざまだ。
「……無様だな」
 口の中だけでもう一度呟いた、まさにそのときだった。
 壊れそうな勢いでドアが開け放たれた。
 光とともに風が吹き込んできたように思えた。
 反射的にそちらを向いた三人の視線を一身に受けるのは、二十歳過ぎと見える女だ。
 美しい。
 碧眼とは異なる、最上級のエメラルドの如き瞳。長く波打つ髪は艶やかな白金。白い、しかしいずれの人種ともつかぬ凛々しい面立ちは一分の狂いもなく整っている。
 背丈は徹をわずかに上回り、その身は軽く武装されている。まず纏うのは飾り気ない、白いワンピース状の防護服クロスアーマー。その上には艶のない鉄色の胸甲、籠手、脚甲、長靴。細い腰から広がるスカートは幾重にも重なり、それもまたある種の装甲であることを感じさせる。
 そして右腕には少年、左腕に巨漢を抱え、あるいは引きずり、騎士派の奉じる絶世の美女たる<騎士姫>エリシエル=ミンストレルは、への字口でドアを蹴り開けた姿勢のまま大きくため息をついたのである。
「仮にも幹部が揃いも揃ってこの世の終わりが来たような顔をするな」
 薄赤いくちびるを割って出たのは低めの、心臓まで染みとおる声。張り上げているわけでもないのに覇気に満ち溢れている。
 部屋に踏み込む一歩ごとに鬱滞した空気が蹴り飛ばされてゆく。張り詰め、引き締まり、そして曙光が差したかのようにぬくもりが満ちてゆくのだ。
「行くぞお前たち、下を向いて愚痴を垂れている暇があるなら鍛錬だ!」
「……姫、両脇のは?」
 尋ねる徹の視線と、抱えられた二人の目とが合う。少年は最近目をかけている砲撃方ボウで、巨漢の方は徹よりも古株だ。
「死にそうな顔をしていたからな、鍛え直してやる。あと姫はやめろ」
「しかし姫、言いたいことは分かりますが……」
「やめろというのに」
「言いたいことは分かりますが、さすがに現在最優先ですべきなのは<王者チャンプ>への対策かと」
 エリシエルは実に真っ直ぐである。困った誰かがいたなら見捨てることなどできず、常に正面から突撃、罠があれば踏み潰し、勝てないなら鍛えればいいと言う。
 真っ直ぐ過ぎて困るのだ。猪突猛進ではどうにもならないことなどいくらでもあるというのに。
 だから誰かが手綱を握っておかなければならない。普段なら筆頭騎士マスターナイトがその役を担ってくれるのだが、不在にしている今は徹が務める必要がある。
 それでなお効率は悪い。要らぬ苦労を背負い込むのは毎度のことだ。
 しかし、である。
「頭など、身体が疲れ果てた後に使え。お前たちは無駄に怯えている。下らん堂々巡りをしているよりは剣を振れ。それであの男を倒せなかったとしても、自縄自縛で自滅するよりはましだ」
 エリシエルは惑わない。
 そして彼女を前にした者は自らの小賢しさを知るのだ。
「立派な男ではないか。あの男を倒すならば、より強く在り、死闘の果てに成し遂げねばならん」
 <騎士姫>は、あるいは騎士たちを戦の館ヴァルハラに送る戦乙女ワルキューレ、死神であるのかもしれない。
 だからこそ魅せられる。賢しらに生きるよりも誇りと信念のために死ね、と言わんばかりの彼女は少年たちには眩しく、憧れてしまう。
 彼女が間違おうと誰も恨みはしない。転げ落ちた底から問答無用で駆け上がってゆく背を追いかけるのみである。
 少なくとも、騎士派に在籍している者はそうだ。着いてゆけないならば、神官派に移籍している。
「それは……そうかもしれませんね」
 徹は一輝と聡司に目配せを送る。
 二人も既に表情へ精彩を取り戻していた。
 まずは聡司が、ぱんと自らの左掌に右拳を叩きつける。
「よし、今日こそ決着をつけましょうよ、姫」
「ふん……では今日こそ叩きのめしてやろう。あと姫は」
「もう無理だ。諦めは肝心だな、姫」
 そして一輝がくっくと、笑みを混じえながらもいつもの鋭い語調で言葉をかぶせる。
 これだ、と徹は思わずにいられなかった。本当に自分たちはどうして、こんなにもあっさりと乗せられてしまうのだろうか。
 無論、望ましいには違いないのだが、怖ろしくもある。
 それは恐怖ではなく、畏怖だ。
 究極的にはきっと、彼女さえいれば騎士派は大丈夫なのだろう。
「どうした徹、お前も来い」
 両脇に二人を抱え、後ろに二人を従え、部屋から足を踏み出したエリシエルがこちらを振り返る。
「了解です」
 徹は素直に頷いた。
 信じるもの三つのうちの一つ。だからこそ凌駕解放オーバードライブの言葉は彼女に捧げられている。
 温かな思いで後に続こうとしたところで、脇に抱えられた二人とまた目が合った。
 そろそろ助けて欲しいと訴える視線に思わず吹き出した。







[30666] 「せいくらべ・三」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/05/03 22:49




 少女が一人。
 目の前に少女が一人、現れる。
 それは夢なのだろうか、それとも目覚めたままで同じ記憶ばかりが再生されているのだろうか。
 いつも、少女の行く手を遮るところから始まる。そして夜を舞台に戦いが始まるのだ。
 速度を恃みとした戦闘はいつしか場所を移し、やがて街中から郊外の河川敷に至った。
 ちょうど日の変わった時限。橋も遠く、人の目はない。だから互いに行っていた加減もほぼ除き去られた。
 無論、それでも自分は砲撃を控えざるを得なかったし、向こうも凌駕解放オーバードライブは使えない。
 人の目になど留まるはずもないほどの、超高速。少女は<竪琴ライラ>でも屈指の敏捷性を持つ自分と互角だった。
 それでも、互角だった。互角にやり合えていたはずだった。
 なのにどうして、押されていたのだろう。追い込まれていたのだろう。そもそも一進一退になることすらおかしいのだ。相手がどのような戦い方をするかを自分は一方的に承知していたのだ。
 理由ならば、本当は分かっている。
 目だ。
 あの透き通るような、赤子のように純粋なまなざしが、どうしようもなく恐ろしかったのだ。
 痛みには慣れたはずだった。戦いがあるいは死をもたらすものであることなどとうに覚悟していたはずだった。
 なのにどうして、あれほどまでに恐ろしかったのだろう。
 目なのだ。まなざしなのだ。
 視線が自分を狂わせる。何もかもがおかしくなってしまう。
 穢れなく無邪気に求めるあの視線は、なんと美しいのだろうか。











 深崎陣みさきじんはベッドから跳ね起きた。
 不規則に息が弾む。唇が震えている。身体もまた、震えている。
 シーツを固く握りしめ、顔を隠すように再び力なく倒れ込んだ。
 あの日、自分が行くと言ったとき、ステイシアは止めた。『本物』だから危険過ぎると。
 その意味をすぐに問い質すべきだった。いや、そうするまでもなく説明してくれたのだろう。自分がすぐにその場を出て行きさえしなければ。
 侮られたと思ったのがひとつ。
 そしてもうひとつは。
「ぐ……」
 胸が抉られるが如き幻痛に目を剥く。息を詰まらせて耐えること数秒、幻であるそれは痕も残さず消え失せた。
 もうひとつは、果たして何だったろうか。
 思い出せない。今の痛みとともに消えてしまったのか、あるいは最初からそんなものはなかったのか。
 その疑問すらも、雪のひとひらのように溶けて見えなくなる。
「ここは……」
 白い部屋だ。よく病室をそう評するが、そのような生易しいものではない。10畳程度の、一応は洋室になるのだろう。白い壁にあるのは白いドアだけ、床も天井も白く、ベッドがその中心に位置している。
 それなりに広いはずだが、閉じ込められたかのような圧迫感が陣を襲った。
「……ああ、そうか」
 この部屋のことは知っていた。
 <伝承神殿>の隠し階層、心を壊された<魔人>を寝かせておく部屋だ。
 壊れた<魔人>が暴れたとしても被害が出ないよう、たとえ昏睡したままだとしてもその姿が他の<魔人>の目に入ることによって士気を下げぬよう、隔離されるのである。
 無論、最初はいなくなったこと自体が意識されるだろうが、残酷なことがら記憶は薄れてしまうのだ。慣れてしまうのだ。
 ステイシアの部屋に無条件に立ち入ることができるほどではなかったとはいえ、陣は確かな実力者として神官派の中枢近くにはいた。だから決して理想を絵に描いたような組織ではないことも承知している。この階層について知ったときも驚きはしなかった。
 ベッドを下りた。薄い青の手術着にも見える衣を纏ったまま、素足のまま床を踏み、ドアへと向かう。
 開けた先も白い空間だった。三十以上の白いドアが並び、電灯もないのになぜか明るい。
 ドアの脇には名札があった。空白であることが多いものの、幾つかは名が記されている。
 出て来た部屋には『深崎陣』、隣の部屋には『神野修介』。
 誰だったろうか。どこかで聞いた名であるような気はするが。
 考えているだけの時間は、しかし与えられなかった。
 廊下の端の白い壁、継ぎ目の一つさえ見えなかった場所が音もなく左右に開き、暗闇の中から可憐な姿が現れた。
「お帰りなさい、陣さん」
 そう告げたステイシアの表情はなぜかひどく悲しげで、なのに微笑んでいることがいっそう痛々しく、だからこそ胸を締め付けるほどに心を奪う。
 何も言えずにいるうちに、小さなくちびるがもう一度囁くように動いた。
「付いて来てください。目覚めた以上、この場所にはあまり長居すべきではありません」





 果てのない夜。
 ステイシアの部屋に入るのは、陣にとっては三度目の経験だった。
 上にも左右にも視線はやらない。不意の恐怖に身を震わせてしまいかねないからだ。
 向かいのソファに姿勢良く座るステイシアをただ見つめている。
 静寂。ありもしない星の、ありもしない瞬きの音さえ聞き取れそうな気がした。
 珍しくも、ステイシアはしばらく何も言わなかった。労わるようなまなざしで、言葉を選んでいるようだった。
 やがて桜色の小さなくちびるが言葉を紡いだ。
「よく帰って来てくださいました」
「……裏返すと危険な、そんなに危険な状態だったのか」
 陣の方もどんな顔をしたものか分からずにいた。情けなくもあり、申し訳なくもあり、素直に喜ぶ気持ちもあって、そのくせ説明のつかない虚脱にも見舞われている。
「あの状態から復帰できたのは…………陣さん、あなたが初めてです。可能性そのものはありましたが、それを掴み取れたのは初めてなのです」
 続くステイシアのその言葉にも驚きはしなかった。というよりも、なぜかあまり興味が湧かなかった。
 替わりに、尋ねるべきことがあった。
「『本物』、ホンモノ……そいつは一体全体何なんだ?」
 あのときに聞いておくべきだったこと。今更であっても、まだ価値はある。
「『本物』だから危険、強い。強い…………なぜ強い?」
「まず、定義からお答えしましょう」
 ステイシアの返答に淀みはない。予想できていたのかもしれない。陣の瞳を見つめたまま、そのまなざしはどこまでも静謐で、だからこそ思いを読むことは叶わない。
 そして語り始める。
「『本物』とは、自らの望みに呑まれてしまった<魔人>です。己のために望みがあるのではなく望みのために自分がある、そんな存在です」
「……逆、ということか」
 生き物にとって、すべては自分のためにある。そうしたいから、そうしなければならないと思うから、行うのだ。たとえそれが本来望まぬことであっても、その方が無難と妥協したから行うのである。
 しかし『本物』は、行うことが大前提として確定していて、その前提を満たすように思考が流れ、自我が形成され、欲求が作り出される。
「強力である理由ですが、まず……<魔人>の身体能力は人間だったときを基準にして強化されているということはご存知ですか? 『本物』はその基準が甘くなります。たとえば十名の同性内で一番足が速い、その程度で最速クラスの評価になってしまいます。<魔人>としての上限を超えはしないのでそこで頭打ちにはなるのですが、連動してより高位の戦格クラスまで得られるようになるため、最終的な能力は跳ね上がります」
 そこでステイシアは一度言葉の流れを切り、少しだけ迷いを見せてから続けた。
「……雅年さんが言うには、基準が甘くなるのは真っ当な自我を望みの贄とした対価なのではないかと。私も同じ見解です」
「……なるほど」
 陣は小さく頷いた。漠然とした道理のようなものとしては納得できる。
 だが同時に疑問も浮かぶ。
「能力が高いだけ、ではないだろ? あれはそんなものじゃあなかった。それだけなら強いだけで怖くはない」
 あの少女の眼差しが恐ろしくてならなかった理由を知りたかった。
 果たしてステイシアはその答えも知っているようだった。
「恐ろしいとともに強い理由が、まだあります。『本物』は行動に一切の惑いがありません。情動がないわけではないんです。恐怖もしますし、愛情も抱く、そこは普通の人間です。けれど、恐慌を起こしたままでありながら冷静なときと同じ判断を瞬時に下し、身体が震えたままでありながらいつもどおりに動き、愛する相手を迷いなく殺すんです。望みのために自分がありますから、それを果たすことが何よりも優先されてしまう」
 揺れる双眸が、陣の奥深くまで覗き込んでくる。
「……見たはずです。<ダキニ>は」
「泣いて、いた……な」
 不意に思い出した。透き通るように無垢なまなざしで、容赦なく他者を破壊する連撃を行いながら、時折笑いもしながら、まるで涙だけが別の意思によるものであるかのように流れ続けていた。
 その光景はあまりにもちぐはぐで、だから陣の意識の底に封じ込まれていた。
「……哀れだ」
 ぽつりと漏れた言葉に、ステイシアは何も言わない。頷くでもなく、咎めるでもなく、ただ長い睫毛を伏せた。
 大きく息をつき、沈黙のうちに陣は『本物』の情報を頭の中でまとめ直す。
 まず単純に、身体能力が高い。
 これはいい。ただ、より強くなり易いだけだ。『本物』ではなくともそれ以上の相手はいる。
 厄介なのは二番目に告げられた方だろう。どんな精神状態にあっても、当人の本来の思考能力で導き出せる最善を、ごく当たり前の調子で、己が望み以外のすべてを平然と犠牲にして行える。
 それはつまり精神的な弱点が存在しないということを意味する。だというのに表面的には動揺しているように見えることもあるというのだ。
 狂っているには違いあるまい。しかし安易に想像されがちな狂気や強迫観念の有様からは、明らかにずれた位置にある。
 知らずに戦えば、あるいは説得しようとすれば悲惨なことになるだろう。
「……最悪だな、『本物』ってやつは」
「強いて挙げるなら、望みをうまく使って誘導することは可能です。たとえ願いに関わることであっても洞察や思考力自体はごく普通に働いていますから、そう容易くは引っかかりませんけれど……あくまでも普通に、でしかありませんので」
 そしてステイシアは、陣の最も知りたかったことを告げた。
「最後に、これは純粋に恐ろしい理由ですけれど……『本物』は、その望みを前面に出したとき、<魔人>の心を侵します。心は元来曖昧なもの、そしてすべてを含有するもの。狂気と相対しているうちに自らのうちの異常を呼び起こされ、引きずられてしまうことは一般の精神医学でもよく知られた事実です。ただでさえそうであるものが、『本物』は<魔人>を構成する力でもって他者を直接侵してしまう。結果として、相対した<魔人>は自分が自分ではない何かになってしまうことに恐怖を抱く」
「ああ……」
 なるほど、とまずはそれだけしか浮かばなかった。
「異質への恐怖と、恐怖したはずのものに成ってしまいそうな恐怖、か」
「はい。とはいえ無条件に受けてしまうわけでもありません。どの程度まで耐えられるかは人によりますが強靭な自己による抵抗は可能ですし、干渉してくる力をそのまま打ち払えるなら何の問題もありません。極端な例を挙げてしまうなら、『本物』が『本物』に侵されることはないのです」
「けれど普通の<魔人>は壊される?」
 自分のように、との言葉は口にしなかった。
 今になって思えば、美しいと感じてしまったことがもう引きずり込まれていたのだろう。そして己自身と異物が同時に存在することによって仕切りが緩み、それを起点として壊された。
 こくりとステイシアは頷いた。
「まともに触れ合ってなお無事でいられた人はほとんどいません。神官派うちでは雅年さんと、おそらくはという人も含めるなら衛さんも耐え抜いてくれるでしょう。あとは…………いなくなってしまいました」
「いなくなった……?」
 少し気になった。考えてみれば、死んだか、生きているが抜けたかだろうと分かるのだが、違和感を覚えたのである。
 もっとも、違和感の理由にもまもなく辿り着いた。
 メンバーの死も離脱も、神官派とはほぼ無縁のものだったはずなのだ。ステイシアの言うとおりにしていれば全てうまくいく、それが神官派だったはずなのだ。凄惨な話が聞こえても、そのほぼすべてが処刑人が誰を殺したというものだったはずなのだ。
 いや、今ある違和感というならば他にも色々と思い当たる。
 ステイシアの印象が少しだけ異なる。神官派にも異常が起こっているように思える。あとは、『本物』。
「ちょっと変な質問かもしれないんだが」
「はい」
「『本物』って呼び方、なんだかおかしくはないか?」
 要は狂気に冒された<魔人>である。それをなぜ『本物』と呼称するのだろうか。
「本物の狂人、ってな意味なのか?」
「半分はそれで正解、と言ってもいいのかもしれませんけれど……」
 ステイシアは小さく手を動かした。
 するとその動きに呼応するように、虚空に世界地図が浮かび上がった。淡く輝くその中で、一際光る点がある。
 位置は南米、密林のただ中。
「<魔王騎士>のことはご存知でしょうか」
「一通りは」
 <竪琴ライラ>に次いで世界第二位の規模を持つ、<魔人>騎士団。その長の称号だ。
 あらゆる能力において<魔人>の限界を極め、大アルカナの名を持つ至高のクラウンアームズのうち三つまでも有する最強<魔人>。同時に、世界初の<魔人>でもある。
 長とはいうが、実際に統括しているのは副団長であり、<魔王騎士>はただ<災>を屠るのみだともいう。
「最高位の魔神の一柱である<魔王>アズィカムーイヤーナ。その居城である虚空宮殿へ辿り着いた彼は<災>を屠る力を求めました。己の全てを対価としてでも力が欲しい、と」
 画面に一人の青年の姿が現れる。浅黒い肌の鍛え上げられた肉体と、擦り切れてなお異様な輝きを放つ双眸が印象的な男だ。
 ステイシアの声は囁くよう。憧れるようでいて、憂うようでもある。
「彼の意思を気に入った<魔王>は彼の全てを代償として存在の変換を行い、どうなるかすら分からなかった実験は一応の成功を見ました。それが初めての<魔人>の誕生です。以来、彼は<災>を屠り続けています。名も自我も、過去も未来も……すべて捨て去って、<災>を葬り去る機構システムへと成り果てたのです。最強と呼ばれるのは当たり前、全ての能力が限界を極めているのも当たり前。なぜなら……」
「…………『本物』か!」
 ぎりと奥歯を鳴らし、陣は吐き捨てるように言った。
 先ほどステイシアが語った在り様そのままだ。むしろそれを極限まで突き詰めた姿である。
 小さく頷き、ステイシアは続ける。
「<魔人>とは本来、そのような存在なのです。今でこそ<魔人>作成技術の向上によって普通の人間であった頃と同じ心を保てますが、『本物』の<魔人>とは己を望みに捧げてしまった存在のことだったのです。その名残ですね、『本物』という呼称なのは」
 少し野暮ったいとは私も思いますけれど、と呟きながらステイシアが手を外側へ振れば、現れたときと同じように世界地図が消える。
 陣は自らの動悸と、じっとりと滲む汗とを意識せずにはいられなかった。
 もしかすると、あのとき美しいと感じたのは憧憬からなのかもしれない。<魔人>として本来の<魔人>への憧れが胸を焦がしたのかもしれない。引きずられるとは、あるいはそういうことなのではなかろうかと思う。
 だが、陣は己の動揺を押さえ込んだ。まだ訊くべきことはある。
「……初めて聞いたが。どうして秘密にしてある?」
 問いながら、これは半ば答えを察していた。確認のための質問という意味合いが強い。
「『本物』はその望みを露わにするまで、ごく普通の言動を行います。裏を返せば、自分の談笑している相手がそうではないという保証はありません。もし『本物』がどのような存在であるかを知ってしまえば、果たして疑心暗鬼に陥らずに済む人はどれほどいるでしょう」
「始まるのは魔女狩り、か……」
 杞憂だなどとは言えたものではない。いかに人を超えた肉体と破壊の力を手に入れようとも、心は変わらない。荒事と痛みに慣れてしまった分、いっそより短絡的に暴力を用いてもおかしくないくらいだ。
 陣は荒い息をついた。汗も動悸も治まらない。
 自分は今、正常だろうか。自分は人として妥当な反応をしているのだろうか。普通の思考と感性というものは、この感覚でよかっただろうか。
 自分はかつて、こんな喋り方をしていただろうか。つい先ほどとすら違っている気がしてならない。
 夏の日、不意に自身の存在自体を疑ってしまうように、他人の目を借りて世界を盗み見ていると錯覚するように、惑いが心を蝕んでゆく。
「……訊きたいことは、まだあるでしょうか?」
 静かで優しい声。本当にかすかな笑みを小さなくちびるに浮かべ、落ち着かせるようにステイシアが覗き込んでくる。
 やはり、印象が少しだけ違う。
 ステイシア=エフェメラ=ミンストレルは神官派の中心だ。争いを憂い、それを解決すべくメンバーを集めて頼みごとをする。方針と方策を伝える預言者にして、守ってやらなければならない姫君とでも言うべき存在である。
 今、目の前にいる少女も、いつもの可憐なステイシアではあるのだ。ただ、どことなく知性の冷たさが肌に触れる。果たして守られる必要などあるのだろうかと思えてしまう。
「俺は、まともなのか……?」
 声はかすれていた。
 ステイシアは肯定も否定もしなかった。
「今はしばしの静養を。確たることは言えませんが……」
 薄闇がどこまでも続いて、意識を希薄にしてゆく。
 陣は底抜けに透き通った湖に沈んでゆくような浮遊感に包まれた。
「陣さん、あなたは少なくともご自分の望みとそれに関する記憶を失ってしまっているようではあります。そうでなければきっと、<ダキニ>を哀れとは言わなかったでしょう」















 意識を失いふらりとソファに倒れこむ陣を、まるで最初からそこにいたかのようにステイシアは隣で支えた。
 そしてゆっくりと陣の身体を横たえさせると、頭をそっと膝の上に受ける。
「……思い出す必要も、ないでしょう」
 応えるものなどないと知ってステイシアは虚空に呟く。
「陣さん、あなたはお兄さんの命を奪った<ダキニ>への復讐のために<魔人>になりました。そして願いがそのままであったなら、私はあなたを止めはしなかった」
 眠れる陣の眉間には深い皺が刻まれ、唇も痙攣するように時折ひくついていた。
 過ぎるほどに傷ついてきたことを、ステイシアは知っている。それは忘れた今も陣を苦しめるのだ。
 幼子にするように、やわらかく陣の髪を撫でる。すると苦しみの色がするすると解け、不思議なほど穏やかな表情になった。
「憎悪は『本物』に対する守りとなる。願いが復讐のままであったなら、相手の手の内が分かっている以上は十中八、九、あなたが勝てる。けれど、自覚もなかったのでしょうけれど、あなたは変わってしまっていた」
 語りかけるような独白。
 ステイシアは陣の髪を撫でる左手はそのままに、右手をそっと胸元へ埋めた。
「憎しみさえもやがて飲み込む人の業……強い、弱い、勝った負けたの背比べ。それが必要なものなのだとしても、どうか」
 決して叶わぬ祈りを世界に捧げる。
 己こそが痛苦の手助けをしているのだと知ってなお、願うのだ。
「どうかこれ以上、誰も傷つかぬよう……」







[30666] 「せいくらべ・四」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/06/07 16:56




 誰が最も強いのか。
 誰がそれに次ぐのか。
 力量を的確に評価し、順位をつけることは難しい。
 全ての対象を実際に競い合わせ、その内容、勝敗から弾き出すことができるならば妥当にはなるだろうが、尋常な労力ではないしそもそも機会すらない。
 ゆえに、強いとされる者は実績とそこからもたらされる印象とで決まる。贔屓も入れば恐れも影響する。
 語られる強さとは、このようにいい加減なものなのだ。
 <闘争牙城>王者という大きな肩書きを持つ存在を騎士派が侮っていたのは、そもそも<闘争牙城>自体を軽く見ていたことに原因がある。切磋琢磨する自分たちに対して、ゴロツキが力比べをしているに過ぎないと無意識に信じ込んでいたのである。
 一度頭の中の何もかもを消し去り、零から積み上げ直さなくてはならないと徹は思った。そうでなくては守れない、と。
 金属の打ち合わされる甲高い音が偽りの蒼天に鳴り響く。
 <空中庭園>中央、噴水の傍らで二つの剣が交錯しているのだ。
 一方は騎士派の主、<騎士姫>エリシエル。もう一方は白兵方筆頭マスタークラブ市中聡司。軽口めいた試合の約束が今、そのままに果たされている。
 呼びかけたわけではないが、いつしか周囲に騎士たちが集まり、二人を遠巻きにして円を形作っていた。
「はははっ!」
 聡司が笑う。普段はどちらかといえば静かな雰囲気を纏う彼だが、剣を握ると双眸が爛々と輝き始める。
 得物は波打つ諸刃の大剣フランベルジュ。切っ先から柄尻までを測れば、実に身長に匹敵する代物だ。
 それを楽しげな笑みとともに双腕で振るう。
 大気が悲鳴を上げる。
 速い。そして強い。小細工などない、敵をまとめてなぎ倒してゆく剛剣だ。荒削りではあるが一撃一撃がすべて命に届く剣閃を、畳み掛けるように繰り出す。
 対するエリシエルも大剣である。
 その剣筋は力強くも鋭く美麗、と<騎士姫>の称号から人は想像するだろう。しかし事実はまるで異なる。
「まだ軽い」
 朱唇からこぼれたのは、よりにもよってそんな感想だった。
 剛を迎え撃つは更なる剛。聡司の斬撃を盾のように受け止める大剣、しかもその柄を握るのは右手のみ。それどころか、そこから上体の力だけで強引に跳ね飛ばしてすらみせる。
 体を崩した聡司へと豪快に打ち込まれるのは左拳だ。
 しかし聡司もむざむざ食らいはしない。即座に飛び退って距離を置く。
「……姫は相変わらず洒落にならん馬鹿力だな」
「こればかりが取り柄でな。だから、らしくないから姫はやめろと言っているだろうに」
 麗しき彫像の如き真顔で、エリシエル。
 言葉通り、<騎士姫>の流儀スタイルに優雅さなど欠片もない。俊敏さもなければ技は荒削りにも届かない。
 ただ、膂力がひたすらに恐ろしい。振るわれる剣がかすりでもすれば肉を爆散させ、掴まれでもすれば屈強なはずの聡司の肉体をも引き千切るだろう。
「今度はこちらから行くぞ」
 白金の髪とスカートがふわりと広がった。
 相変わらず右手だけで大剣を肩に担ぎ、エリシエルが突撃する。
 付け入る隙はいくらでもある。打てる手も、幾つも浮かぶ。
 しかしそれが天然の罠になっているのだ。
 地を踏む寸前の足を払おうとした者は、わずかによろけさせることには成功したものの、捕まえられて終わった。
 背後に回りこんだ者は、振り向きざまの薙ぎ払いで危うく胴が上下に泣き別れるところだった。
 後退しながら遠距離攻撃に徹しようとした者は、攻撃という攻撃を受けながら平然と突撃を続けるエリシエルに外壁まで押し込まれて降参した。
 もちろん、正面から力で対抗しようとしたならば単純に捻じ伏せられる。
 <魔人>の戦いは人間のものとは異なる。ほとんどの騎士にとって<騎士姫>は、膂力と耐久力だけでどうしようもないまでの強さを発揮する存在なのだ。模擬試合をするのにも命がけになる。
 しかし聡司は白兵方筆頭マスタークラブである。エリシエルさえ除けば騎士派最強の肉体と、上位の疾駆方ダガーに匹敵する敏捷性を誇る。容易くは捕らえられないし、剛撃を正面から受けられないわけでもない。
 エリシエルの次の剣筋は読める。片手による担ぎ構えから放たれるのは不器用で素直な一撃だ。
 大剣と大剣、互いの間合いはほぼ一致する。
 剣を動かしたのはエリシエルの方が先だ。
 斬撃が咆哮を放つ。溢れる力が抵抗を生み、そしてその力で抵抗すべてを捻じ伏せながら叩きつけられる。
 純粋な剣技ではなく、<魔人>としての力も織り込まれた技。エリシエル自身は名などつけていないが、騎士たちはこう呼ぶ。
 <狼鳴斬ハウリング
 不可視の力が剣の周囲で荒れ狂う。刃に触れなければいいというわけにはいかない。回避するのであれば、大きく避けなければ巻き込まれる。
 そこを、聡司は左への最低限のサイドステップでかわして踏み込んだ。
 抉られるような痛みは気のせいではない。右の顔面から腕にかけて、幾筋もの裂傷が生じていた。だが問題ない。エリシエルは恐るべき怪力で切り返しを行ってのけるが、それよりも聡司の方が速い。
 左の脇構えから切り上げる。
 斬撃が咆哮となるのはエリシエルばかりではない。フランベルジュの形状が大気を唸らせるのだ。
 白兵方クラブには独自の<魔人>剣術体系とでも呼ぶべきものがある。先代白兵方筆頭マスタークラブが作り上げたものだ。
 それは、剣理としては人間が磨き上げてきた剣術に到底及ぶものではない。エリシエルの<狼鳴斬ハウリング>のような<魔人>としての能力を生かした攻防技術であり、強さ、速さ、多彩さはあっても、極められた武のもたらす根幹の玄妙はない。
 しかし<魔人>と成って改めて強さを得るならば、誂え向きであるのだ。
 フランベルジュが輝きを放つ。剣が、そこから加速した。
 狙うは右の肩口。これが実戦であったなら、いかに復元できるとはいえ一瞬でも右腕の機能を奪えばそのまま畳み掛けることができる。
 己が身を削られながら、近すぎず遠すぎず、ぎりぎりでかわしつつ踏み込めたのは今回が初めてだ。動きは留まることなく流れるまま剣を振るうことができている。
 この立会いこそいけるか、と思っていられたのも刹那のこと。
「ふ」
 鋭い吐息一つ。エリシエルの視線がフランベルジュを捉えるとともに、虚空から染み出すように現れた黄金の光が盾を形成、波打つ刃を正面から受け止めていた。
 焦りなど欠片もない。平然とそれは行われていた。
 対して、弾かれた反動と初めて目にする防御手段への動揺を、聡司は力ずくで押さえ込む。そして次の行動へ移ろうとした瞬間には既に、エリシエルの大剣が構え直されていた。
「やるではないか」
 こちらを振り向きながらの、豪快極まりない横薙ぎ。
 エリシエルは確かに速くも巧くもない。しかし戦闘経験が段違いなのだろうか、あらゆる行動が常に連続、複合している。そのことが聡司を阻んでいるのだ。
 なんとかフランベルジュで受けたものの、そのまま吹き飛ばされる。
 巻き添えを食ってはかなわぬと人壁が割れた。
 聡司も倒れはしない。空中で体勢を整え、見事足から降り立つと即座に地を蹴った。
「まだまだ! これからだ!」
 仕合は始まったばかりだ。





「もう互角と言ってもいいのかもしれないな」
 並んで観戦する一輝に半ば同意を求めるように徹は感想を漏らした。
 騎士派に来たばかりの頃、聡司の力の使い方はエリシエル以上に大雑把だったものだが、先代の教えを受けることで荒れ狂う力をうまく制御することができるようになった。そして白兵方筆頭マスタークラブの称号を受け継いだ今もなお、僅かずつ上達し続けている。
「そうなんですか?」
 応えたのは一輝の更に隣にいた砲撃方ボウだ。先ほどエリシエルに抱えられていた少年でもある。
「姫はまだ全力出してない気がするんですけど」
 少年は、何と言うのだろうか、縦社会めいた色の強くある騎士派にいて、あまり畏まらないところがある。それでありながら諍いを招くことがほとんどないのは、丸っこい顔の愛嬌と素直な人柄によるものだろう。
 徹が目をかけている理由のひとつではある。別に上位者が正しいと限ったわけではないのだから、行き過ぎなければいい方向にはたらくはずだと考えたのだ。
 なお態度とは別に、エリシエルを含めてすら三名しか女性がいない騎士派であるにもかかわらず事実上の恋人がいることでもやっかみを受けているようだが、そちらはさすがに関知していない。
「確かにまだ全力ではないだろう。あの盾は久しぶりに見たし、あれで終わりというわけではないことも知っている。しかし市中も全力というわけではない。仕合以外での彼の戦いを見たことはないか?」
「市中さんとは接点がほとんどなくて」
「……ああ、まあ、さすがにそうか」
 チーム単位で行動することを基本とする以上、同じチームか同じ砲撃方ボウでなければ密に接することはない。新入りながらも強い力を持ち、何かと話題に上る少年ではあるのだが、聡司と個人的に親しいということまではなかったらしい。
「あのフランベルジュは高位の<王の武具>クラウンアームズだ。『ヴァルカンブレス』と言ってな、本来は剣自体が炎に包まれる。そこへさっきのように力を上乗せすれば、あの盾では防ぎきれなかっただろう。ただ、あくまでも修練の一環でしかない手合わせにそこまでは要らない」
「でも、それだと姫に並んでる理由にはならない気がする」
「そうだな」
 徹は静かに頷いた。
 実のところ、徹にしてもエリシエルの力の全てを把握しているわけではない。
「ただ、先代白兵方筆頭マスタークラブは優位に仕合を進めていた。現状、市中はいいところまで達していると考えていいとは思う」
「……あの人は凄まじかった」
 間に挟まれていることもあって、話を聞いてはいたのだろう。今まで無言で観戦していた一輝が、視線は外さぬままにぽつりと溜息めいた呟きを漏らした。
「初めて見たときは違う世界の住人に思えたもんだ」
「そんなに強かったんですか」
「強いさ。なにせ要するに現財団派最強、<剣王>ソードマスター新島猛にいじまたけるだ」
 一輝が口の端にだけ軽く笑みを乗せる。
 それを聞いた少年が大きく目を見開く。呆けたように口まで開いていた。
「……<剣王>ソードマスターって、<九本絃>ナインストリングスの中でも上位って言われてる人じゃないですか! いや、当たり前なのかもしれないけど……」
 <九本絃>ナインストリングスは<竪琴ライラ>内での戯言だ。最強の九名を決めようと、ほぼ噂ばかりから作られた代物である。
 ただ、これが存外に馬鹿にできるものでもない。いい加減なようでいて、評価に容赦がないのだ。
「あれは半年前くらいか、当時財団派には切り札と呼べる<魔人>がいなかった。まさに<九本絃>ナインストリングスに一人も名前がなかったんだ。あの頃の財団派だと<双剣ツインソード>が代表格だったが、足りなかった。それで引き抜かれたのさ」
「それも随分と急な話で、てんやわんやになった。姫と財団派のオーチェとで大いに揉めたが、結局は姫が折れたと聞いた」
 一輝の説明を少しだけ補足し、徹はその記憶を掘り起こした。
 財団派は構成員が広く散らばり、素早い対応ができる替わりに各地の戦力がどうしても脆弱にならざるを得ない。そこで、応援要請に応えて急行し一切合財を片付けられる鬼札ジョーカーを欲したのだ。
「彼がまだ騎士派に残っていれば……いや、ないものねだりはよくないな」
 思わず漏れた本音。
 しかし一輝がそれを聞きとがめた。
「勝てる、と思うか?」
 研ぎ澄まされた剃刀のような声、そしていつしかこちらに向けられていた視線。
<剣王>ソードマスターなら奴に勝てるのか?」
 泣き言ではない。この期に及んで未知と言う方が相応しい<王者チャンプ>の力量をどれほどと推し量っているのか、と問うているのだ。
 すぐには答えられなかった。まだ考えがまとまっていない。
「姫の言うとおりではあるな。私たちは影絵の大きさに怯えていたのかもしれない」
「それで?」
 装飾は下らぬと言いたげに、一輝の声が低くなった。
 徹は小さく溜息をつき、眉を互い違いにした。
「まず、<王者チャンプ>は対戦相手を上回る能力を持っている、というのを前提にしよう」
「そうとしか考えられんしな」
「では、それはどこまで上がるのか。魔神さえも超えるか? まさか」
 取っ掛かりはそこだった。<魔人>とは、あくまでも魔神に力を付与された存在だ。そこから更に高めることができるとはいえ、隔絶した力量の差を除外するとしても少なくとも異能一つで、むしろ与えられた異能だからこそ超えられるわけがない。
 そして魔神を引き合いに出すまでもないのだ。
「<魔人>には上限がある。始まりにして究極の<魔人>たる<魔王騎士>を凌駕する方法は、私の知る限り存在しない」
「並ばれるだけでどうにもならんがな」
「茶々を入れるな。とにかく私が言いたいのは、いくら能力が上がると言ってもどこかの段階で頭打ちになるということだ」
 このように考えてみれば、少なくとも絶対に勝てない相手ではない。
「そして重要なのはその上限がどこにあるか、だ。しかしこれも推測はできる。私たちよりは上なのだろうが、それほど大きく離れているわけではないと思う」
「なぜだ?」
「奴が仕掛けて来たのが騎士派うちだからだ。なるほど確かに、騎士派の性格上、私たちは挑発に乗り易くはある。だがそれだけを狙ったわけではないということだよ。私たちが目指すのはどんな状況でも戦える万能であって、その分突出した一芸はほぼ持たない。それは、敵の能力を上回るという異能にとって十全に力を発揮できるということを意味する」
 これも思い当たってみれば簡単なことだった。今<横笛>フルートを事実上動かしているのは<無価値ベリアル>と呼ばれる悪辣な男であるという。挑発し易いというだけで<王者チャンプ>を割り当てたとは考えづらい。発見されたばかりの、それなりの数がいるだけで行き当たりばったりだった<横笛>フルートではもうないのだ。
「なるほどな。だが所詮推測だ」
 一輝はそう冷ややかに言う。否定したいわけではないのだろうが、そういう役割を自らに課している節があった。
 いつもながらの刃のような口調に、徹は小さく笑った。
「少なくとも<王者チャンプ>は凌駕解放オーバードライブを模倣できない。もしそれまでのように一回り上の<轟雷>ミヨルニルなど返されていたら、私は消し飛んでいただろうよ」
 そもそも凌駕解放オーバードライブとはその<魔人>にとっての望みや強さの形。雷撃などとは根幹を異ならせる、絶対にも近い固有能力なのである。
 現騎士派223名中、扱えるのは徹と筆頭騎士マスターナイトの2名のみ、もしエリシエルが使えるのだとしてもそれでようやく3名。呼称は伊達ではない。限界以上を引き出し、行使するからこその凌駕解放オーバードライブだ。
「それでも凶悪極まりない能力であることには違いない。ただ、だからこそ付け入る隙はある。特殊性の高い異能は<ヒーロー>のように何らかの条件がなければ成り立たないはずだ」
「……なるほどな」
 今度こそ一輝も頷いた。
「そこであの人か。なんというか、鼻も利いたからな。初見の相手でもどこが弱いのかすぐに見抜いていた節がある」
「攻めの新島、守りのケイ。こう言ってしまうのも情けないが、不動の双璧だったと思うよ。と、市中が聞いたら怒り出すか」
「どうだろう」
 先代を敬愛し、いつか超えると言って憚らない聡司は<剣王>ソードマスター新島猛こそ最強であると信じている。同列に誰かを並べると、寡黙ながらも不機嫌になるのが分かるほどだ。
「ともあれ、いないものは仕方ない。私たちが何とかしなければ」
 危機感が徐々に膨れ上がってゆく。考えれば考えるほどに、あの<王者チャンプ>を放っておいてはならないと恐怖にも近い感情が湧き上がって来る。
 胸の不快感を握り潰せでもしないかと徹は右手を固く握り締め、仕合に意識を戻せば聡司とエリシエルは一進一退、互角の戦いを続けていた。
 どちらも攻め切れない印象だ。エリシエルは聡司をまともに捉えられない。仕合そのもの作っているのは聡司の方である。動き続ける限り、速さに劣るエリシエルは後手に回らざるを得ない。
 その上で聡司も刃を届かせられない。力、速度、先代の教えのすべてを足し合わせてもまだ、エリシエルの圧倒的な出力を超えられない。
 しかし聡司の横顔は楽しそうだった。難しいことを忘れ、好敵手を今日こそ下さんと剣を振るう姿は、白兵方筆頭マスタークラブとしての寡黙よりもよほど自然に映った。
「……私がなんとかしなければな」
 仕合は今回もまだ、引き分けに終わるだろう。
 徹は偽りの空を見上げた。偽物といえど赤みを帯びて、既に夕方が近いことを示している。
 今宵は<騎士姫>から命令を受けている。騎士派と神官派、財団派、魔女派の四者間で持たれる緊急会合において、<王者チャンプ>に対する見解を述べるよう、出席を要請されているのだ。
 とりあえずステイシアの知恵を拝借だ、と<騎士姫>は言った。少なくともそこで何らかの糸口を見出したいと徹も思っている。
 こんな異常事態は早く脱出したいものだ。
 多少のいざこざはあっても概ね平和な毎日。それが今の徹の望みだ。守りたいものだ。
 得た、使命なのである。







[30666] 「せいくらべ・五」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/07/05 13:56




「あらぁ」
 紫の髪の美女が、虚空で艶然と笑う。
 見た目は二十歳ほどか。腰など折れそうに細いくせに、ナイトドレスの半ば露わになった胸元が内側からの圧に耐えかねて今にもこぼれそうだ。
 見せつけるように揺らし、流し目をくれた。
「お久しぶりぃ、騎士ドノ。壮健そうで何よりですわ?」
 語尾を甘く緩めた口調は凄艶とともにどこか幼さを匂わせる。相反するはずの二つが男を狂わせるのだ。
 投影された映像であるが、まるでそこにいるとしか思えぬ存在感があった。
 徹が呼ばれたのはエリシエルの私室であるはずの質素な部屋だ。館そのものの豪奢こそあれ、私物と思しきものが何一つとしてない寂しい部屋だった。碌に使ってもいないのではなかろうか。
 そして今、部屋の三方に浮かぶ姿こそが会合の相手である。
「そちらこそ。ご機嫌麗しゅう、魔女殿」
「んふふふ、分かりますぅ?」
 エリシエルが静かに返せば、魔女派の主レヴィアは鈴を転がすような笑い声を上げた。
「一体どんなツラ下げて来るのかあたし物凄く楽しみにしてたんですよぉ」
 エリシエルは何も聞かなかったようにその言葉を流した。だから徹も何も言わなかった。
 ただ、これだけでも魔女の性格の悪さは知れた。
 そして二人の代わりのように、いや、レヴィアの嗤いはそちらに向けられたものでもあったのだろうことから、その向かいの映像が苦い声を出した。
「此度の会合、まさか嫌味を言うためだけに加わったのではなかろうな、貴様」
 エリシエルも男性的な喋り方をするが、それでも声音に潜むやわらかさを隠せてはいない。しかしこの声は鋭く直線的で、針が時を容赦なく刻む音を思わせた。
 一方で出で立ちもまた、完全に男装である。男物のスーツにネクタイを締め、鮮やかな翠の髪を後ろだけ無造作にくくってある。
 レヴィアよりも幾つか上と見える美貌は決して見劣るものではないが、怜悧なまなざしも引き結ばれたくちびるも中性的、ただ薄く刷いた紅だけが女を主張していた。それが逆に奇妙な色香となっている。
「性悪のお守りをしてやれるほど暇ではないのだがな」
「あら、いい音色。負け犬の遠吠えが心地いいですわぁ? ま、うちの子たちは有能ですし? この違いは致し方ありませんわねぇ」
 挑発に次ぐ挑発。魔女派が他の五派のいずれにも友好的とは言いがたいことは徹も承知していたが、率いるレヴィアからこの調子なのでは、なるほど、うまくゆくはずもないだろう。
 そして魔女派と最も仲が悪いとされるのが財団派であり、それを統括するのが男装の麗人オーチェ=ミンストレルである。
「そう気楽でいて構わんのか? そちらは<銃林弾雨ガンスミス>に何人かやられたそうだが」
「聞くところによると<闘争牙城>砲撃系最強、ですわねぇ」
 レヴィアはゆるゆると頭を振ると、悲しげな作られた声で溜息をついた。
「虚空から突き出す数多の銃口。黒色火薬銃あり、対物ライフルあり、粗悪な拳銃も名突撃銃もぞろぞろ揃って合計百以上。それはもちろん本物ではなく、<銃林弾雨ガンスミス>の創造した偽物。けれど威力は本物以上かつバラバラ。分間、万の弾丸をばら撒き、とどめはミサイルも真っ青の種子島。なんとも外連味あふれる<魔人>ですわぁ」
 謡うような口調で語られるそれは、徹も聞いたことはある内容だった。<王者チャンプ>の力の程を思えば、彼もまた自分が思い込んでいたよりも遥かに尋常ならざる相手なのだろうと推測はできた。
 しかしそこでレヴィアは、にぃ、と嗤ったのだ。
「ああ、いけない。そう、なんとも外連味あふれる<魔人>でした、わぁ? 昨夜うちのサラが消滅させてくれましたけど」
「……<お人形マリオネット>か。随分いいように使っているようだな」
 吐き捨てるように、オーチェ。
 神官派に処刑人あれば魔女派には殺戮人形あり。そう恐れられているのが御堂沙羅である。手には<塔>の名を持つ砲を持ち、凍てついた表情でレヴィアの言うがままに敵対者を抹殺してゆく少女だ。
「駒を操るのは楽しいか、レヴィア?」
「駒だなんて酷い言い方。あたしは皆を愛してますよぉ? 魔女派ファミリーは喧嘩もするけど仲良しなんですぅ」
 レヴィアはあくまでも嘲笑を崩さない。ゆったりと椅子に腰掛けたまま、くちびるを右手の小指でなぞる。
 その仕種の意味は徹には分からなかったが、きっと挑発の一つなのだろうとは思えた。
 だがなぜだろうか。本当に不思議なことに、あまり敵意が湧いてこない。直接悪意をこちらへ向けているわけではないということもあるだろうが、この人を食った言動の中に徹はカリスマ性とでも呼ぶべきものを感じていた。
 それはオーチェに対しても同じことだった。レヴィアを睨む鋭い眼差しに気品がある。会話の流れからは押されているはずなのに、そんなことは微塵も感じさせない強さがある。
 エリシエルの持つ、人を惹きつける空気をそれぞれ姿を変えながら有しているのだ。
 そして。
「お二人とも、そこまでにしてください」
 困ったように、それでもふんわりと言ったのは正面の映像の中の姿だった。
 神官派を統括するステイシアは目に痛いほどに白いワンピースにほっそりとした肢体を包み、後ろに黒い影を従えて姿勢良くソファに座っている。
 その瞳がこちらを向いた。
 微笑んだ。
「兼任徹さんですね。初めまして、ハシュメールの<神官>を務めます、ステイシアです。今日はご報告を下さるとか。どうかよろしくお願いいたします」
 徹は少しの間、言葉を失った。何のことはないありふれた挨拶に心がゆらめく。社交辞令的なものに過ぎないと、理性では理解できるのに。
 華奢で儚げな容姿、澄んだ声。清流の畔にひっそりと咲く白い花を見つけてしまったような心持ちが消せない。
「……いや、こちらこそよろしく……お願いします」
 よろしく、で止めかけて、エリシエルと同じかそれ以上の地位であるのならばまずいかと思い直す。
 不自然な返しになってしまったものの、ステイシアはただ微笑みを人懐こいものにしただけだった。
 それとともに、触れてはならぬ危うい存在から可憐で愛らしい少女へと印象が変わった。
 どうしようもなく湧き出してくるのは、守ってやらなければという思いだ。それを宥めるのにまたしばしの時を要した。
 断ち切るために、もう一つの姿へと視線を移す。
 移して、後悔した。
「……後ろはもしかして」
 ソファの後ろの影。見た目は自分と同い年あたりと思われる長身の青年だ。ロングコート姿とまるでやる気の見えない顔で、石像のように突っ立っている。
 写真を見たことすらなかったが、特徴から推測は容易だった。額と背にぶわりと脂汗が浮くのが分かった。
「……<呑み込むものリヴァイアサン>」
 処刑人の数ある冷酷な噂を思い返しながら呼んだあだ名は、硬い声になった。
 嫌悪はある。しかしそれ以上に身体が冷たい。続く言葉が出なかった。
「名和雅年さんです。何か意見を頂けたらと思ってお呼びしました」
 救いはステイシアの声だった。やわらかなままに紹介する、鈴を転がすような声が徹に温もりを戻してくれた。
 小さく頭を振る。悪名高い処刑人といえど、言うなれば同格の存在に過ぎないのだ。気後れする必要などない。
 自分にそう言い聞かせ、ちらりと確認すればエリシエルにもオーチェにも動揺は見られない。レヴィアが妙に楽しげではあったが。
 自分が来ることをステイシアが把握していたように処刑人が参加することも伝えられていたのだろうと程なくして結論づけ、徹は思考を切り替えた。
 大事なのは騎士派の置かれている状況を可能な限り早く打破することだ。使えるのならば毒でも使えばいい。
 徹のその思いを知ってか知らずか、ステイシアがそっと促した。
「それでは早速聞かせてください。<闘争牙城>王者がどれほどのものであるのか」
「ええ」
 徹は頷き、頭の中でまとめておいた解説を始める。
 自分が出るまでの経緯。戦いの様子。凌駕解放オーバードライブに対する敵の挙動。一輝に語った推測も何もかもを語った。
 こういった説明に慣れているわけでもない。自分でも不恰好だとは思ったが、誰も笑いはしなかった。途中で爪の手入れを始めたレヴィアのことはこの際気にしないでいいだろう。聞かせる相手はステイシアである。
「なるほど。ありがとうございました」
 思案げな顔で聞き入っていたステイシアは、徹が口を閉じると労いとともにまた一度微笑み、それから小さく眉根を寄せた。
「思っていたよりも遥かに厄介ですね」
「その分ではそちらでもまだ情報をまったく得られていないのか。それほど期待をしていたわけではなかったが」
 同じく眉を曇らせ、エリシエル。
 ステイシアは首肯を返す。
「元々<闘争牙城>の外で何かをしたという話を聞いたこともありませんからね。ノートにも記されていないままです。少々、不思議な方ではあります」
 そこへレヴィアが割って入って来た。
「ねえねえ? えっとぉ……お前、そうお前。なんて言いましたっけぇ?」
「……兼任徹ですが」
 この投影された映像がどのような機序ではたらいているのかはよく分からないが、ともあれ享楽優先と口ほどにものを言う彼女の視線の向く先が自分であることを覚り、徹は名乗る。
 覚えてくれていないことには腹は立たない。興味のない相手には極力労力を割かない、いかにもそのような人柄であろうと既にもう見切っていた。
 しかしだからといって無視するわけにもいかない。何か有用な示唆をしてくれぬとも限らないのだ。
 そして淡い期待は、やはり見事に裏切られる。
「<王者チャンプ>っていい男ぉ?」
「……精悍ではありましたね。勝気というか、自信に満ち溢れています。好みかどうかは知りませんが」
「この馬鹿の戯言たわごとなど無視して構わない」
 正直に答えてみれば、今度はオーチェが鼻を鳴らした。ぎろりとレヴィアを一度睨んでから、こちらへと向き直る。
 瞳の色もまた、エメラルドのような翠だった。厳しい、けれど冷たくはない、レヴィアとやりあう姿が思わせるより深みあるまなざしだ。
「覚えがある。砲撃方筆頭マスターボウだったな。しかし悪いが私にアドバイスできることはないだろう。強き者には更なる強さをもってあたる、が我が方針だ。敵の上限を超えてゆけとしか言いようがない」
「エリスといいオーチェといい、脳筋で困りますわねぇ。だから追い込まれるのよ」
 やれやれとわざとらしく、レヴィアが頭を振ってみせる。
 それから、今度は逆の方向に流し目をやった。
「雅年さんはどう思いますぅ? 攻略法、あります?」
 先ほど徹に話しかけてきたときはお前呼ばわりだったのが、こちらはささやかながら敬称までついている。
 しかし当の本人はレヴィアを一顧だにせず、相も変わらず気力に乏しい表情で五つ数えるだけ沈黙を続けてから口を開いた。
 言葉を向ける相手は徹だ。
「今の話からしか判断できないが。まず、上限があり、それほど高くはないということには同意する。<魔人>の限界を超える方法は現在一種類しか確認されていない。その上で当てはまらない」
 おかしな一言が混じっていたが追求は間に合わなかった。
「しかし君の期待している弱点はおそらく存在しない」
「それは妙だろう。あれだけの規格外の異能、相応の条件限定か対価がなければ成り立つとは思えない」
 徹は今度こそ間髪入れず反駁した。
 胸に奇妙な棘がある。呼ばれ方が自分と違うことを妬んだのとは違う、えも言われぬ敵意が巣食っている。それはちょうど、<王者チャンプ>に対する気持ちに近い。
 この男はむしろ<竪琴ライラ>の敵なのではないかと自分は疑っている、そう徹は自己分析した。
「だから弱点はある。それは一体何なのか。奴の力の上限はどこにあるのか。おかしな推測ではないはずだが?」
 正論を言っているはずだ。なのに処刑人は眉筋一つ動かさない。淡々と述べるのみだった。
「思うに前提が逆なんだ。彼は相手よりも一回り強い力を得られるわけじゃない」
「何を……」
「<ヒーロー>の亜種と考えればいい。ランクに対して大幅な能力強化が為される替わりに、相手より少し強い程度の力までしか発揮できないんだろう。そう解釈すれば、メリットとデメリット、力の上限が明確に示される」
 その説明を飲み込むのにはたっぷりと十秒を必要とした。
 あり得るのか、と自らに問い、あり得るとしか返って来なかった。
「なぜ、そう思う?」
「<魔人>は君が思っているより遥かに詰まらない存在だ。答えの側から見れば割と単純にできている。僕が今言ったのはあくまでも個人的な推測であって、正解かどうかは知らないが……<魔人>に限った話ではなく、事実は脇の茂みよりも道の上に落ちていることが多いと思う」
 飄然と告げる口調は嘲ることも勝ち誇ることもなく、徹を慮ることも当然のようにない。
「しかし相手を上回るという時点でそれはデメリットになるのか? 不利になどなっていないだろう?」
 徹は食い下がる。
 一回りとはいえ明確に上回っているのならば、楽には勝てないにしてもそうそう負けることなどあり得ない。それでは何も失っていない。そう考えたのだ。
 処刑人の表情はやはり変わらない。
「一戦だけで評価するならそうだろう。問題になるのは連戦だ。本来なら傷ひとつ負うことのないはずの相手にさえ苦戦する、それでは何戦保つんだろうね」
「む……」
 不意に思い当たった。<王者チャンプ>は数日に一度しか戦ってはいないはずだ。頻度としてはむしろ高いくらいなのだが、処刑人の言葉を裏打ちしているようにも思える。
 <闘争牙城>では事実上、自分が不利なときに望まぬ戦いを強いられることはない。強者の弱っているところを弱者が闇討ちするなど、主である<天睨>のイシュが許さないのだ。
「奴はうまく自分の弱点を守ってある、ということか」
「どうだろう」
 肯定はせず、処刑人は続けた。
「そしてもう一つの戦格クラスだが、<シャドウ>だろう。相手の表現型をコピーする異能がある。<魔人>の戦い方は千差万別だ。いくら身体能力や出力で上回っても、その全てを真似ることは極めて難しいだろうからね」
「ああ、そうか……そういうことか」
 正直に認めてしまえば、相手を上回るということに気をとられて同じ戦い方をすることへの注意を失っていた。正確には、前者と後者を一つのものとして扱ってしまっていたのだ。
 しかし二つの戦格クラスの異能を組み合わせて作り上げた欺瞞であるならば、すっと胃の腑に落ちてくる。それが処刑人のもたらしたものであることだけは不愉快ではあるが。
詐術ペテンか」
 徹のその言葉が部屋に響いたのを最後に、部屋を沈黙が覆った。
 エリシエルとオーチェは得心の顔、レヴィアは楽しげな笑顔を浮かべ、ステイシアは思案げにまなざしを伏せた。
 そして破ったのは処刑人だった。
「どうだろう」
 先ほどと同じ言葉。意味合いとしては徹に対する消極的な否定といって構うまい。この結論は処刑人自信の考察から導き出されたものだというのに。
「<王者チャンプ>は自分の能力をうまく組み合わせて<闘争牙城>の頂点に君臨している。しかしそれは敵を上回る力と複写の異能によってもたらされたもの。ただコピーしただけでは本家に敵わないところを、基本能力で上回ることで強引に突破する。それでいいんだろう?」
 そんな詐術ペテンにいいようにされていたのかと思うと腹立たしくて仕方がない。
「徹」
 短く、エリシエルが名を呼んだ。
「どうした、何をそう苛立っている?」
 美しい、いつもの真っ直ぐな表情だ。凛々しいがため分かりづらいが、いぶかしげであるとともに心配そうでもある。
「大丈夫です、姫。勝機が見えました。能力に驕るなら、そこに付け入る隙があります。そんなことに気づけなかった自分が不甲斐ない」
 守らなければならない。あのような男は排除しなければならない。それが自分に課せられた使命なのだから。
 答えが出たとあればぐずぐずしてはいられない。
「それでは私は失礼します。これから対策を……」
「少しお待ちください」
 逸る気持ち、動きかけた足を止めたのは鈴を鳴らすようなステイシアの声だった。儚い声だというのに、掴まれたかのように動けなくなっていた。
 静謐にまなざしは伏せたまま、今度は処刑人へと呼びかける。
「雅年さん、彼に驕りはあると思いますか?」
「おそらくないだろう」
 処刑人はそう答え、徹は歯噛みする。
 どうしてこの男はことごとく自分の不愉快を掻き立ててゆくのだろうか。
「根拠は何だ?」
 向けた声は自分の耳にも喧嘩腰にしか聞こえなかった。
 それでもやはり、処刑人は淡々と告げるのだ。
「彼が<闘争牙城>の王者として認められているからだ」
「理由になっているようには思えないな。相手を上回る力も複写も、言ってみれば借り物だ。奴自身はどこにある? それなのに自分は強い、自分は王者だと宣言するような奴に驕りがないとは、私には考えられない」
 敵意がまた膨れ上がる。勘が、敵だと告げてならない。
 馴れ合うことはできる、妥協することもできる、けれど決して容れきってはならないと、自分の中の何かが絶叫しているのだ。
「<魔人>の力は元から借り物みたいなものだと思うが。それはともかくとして、彼の二つの能力はイシュにとっては非常に詰まらない代物だ。それだけで、あそこに入ることさえ許さないだろう。だが彼は王者となっている」
 処刑人の視線には温度がない。徹を見ているようで、何も見ていないようでもある。
「君は一つ忘れている。詰まらない能力を持ちながらイシュが王者として認めている。余程、彼の精神性が好みなんだろう。彼自身はそこにあるんだと思う」
 その視線ですら恐ろしい。あれが熱を帯びたとき、果たしてどうなってしまうのだろうか。
「自分の身に備わったと想定してみれば、彼の能力は不便だよ。相手に合わせて身体能力が変化するということは、譬えるなら戦いごとに片脚が動かなくなったり腕が上がらなくなったりするようなものだ。やりにくいだろうね。どれほど戦闘訓練を積んでいても、それを充分に活かせることはない。複写にしても、初見の相手に使えばどうなるか、予測しきれない。一回り強いくらいでは必勝は約束されない。あれだけ戦っているのなら、一分野で自分の上限を超える対戦相手もいただろう。そんなあらゆる恐怖を意思で捻じ伏せながら自分は王者だ、最強だと嘯く姿は彼女イシュの好みに実に沿う」
 沈黙していたときが嘘のように、処刑人は滔々と喋る。
 内容は、一応は頭に入ってきてはいるものの、徹はそれよりも己の中の敵意を宥めすかすのに手一杯だった。
 普段の自分でいられない。
 大きく息を吸う。こんなことでは駄目だ。流されてはならない。自己をしっかりと持ち、そして皆を守らなければならない。
「なるほど。私の考えが甘かったようだ。それではどうすればいいと思う、<呑み込むものリヴァイアサン>。正面から呑み込めとでも言うのか? それができれば私はここにいない」
「僕は君の話から自分なりの分析を述べただけだ。当たっているのかどうかすら保証はしかねる。君たちのことも知らなければ細かい対策は語りようもないが、ただ、倒すだけなら難しくはないだろう」
「ああそうだろうな。<闘争牙城>の外で闇討ちするなり連戦を申し込むなりどうとでもなる。だが、そんな真似ができるものか!」
 本当に<王者チャンプ>が己の言動を貫くならば、挑戦は全て受けるはずだ。それが息をつかせぬ連戦であろうとも、<闘争牙城>外での決闘だろうとも、受け入れるはずだ。
 だが人の口に戸は立てられない。どれほど慎重に隠蔽しようとしても、騎士派はなりふり構わず<王者チャンプ>を葬ったと騒ぎ立てられることだろう。
 それ以前に騎士派の皆の誇りが耐えられるかどうか。
 ならばどうするか。
 守らなければならない。この自分が。
 口を引き結んだその瞬間、そこでステイシアが静かに告げた。
「申し訳ありません」
 なぜそんな言葉から始まったのか、徹は戸惑った。閃きかけた怒りが行き場を失って燻る。
 そして絶句した。
「<王者チャンプ>は正面からの挑戦で真っ当に撃破するか、それが不可能であるのなら迂闊に手は出さないようにしてください」
「わお、神官サマってば残酷ぅ」
 レヴィアの入れた茶々も聞こえていなかった。
 一度失った言葉が一挙に溢れ出す。
「……このまま我々に苦汁を嘗め続けろと言うのか! 皆、屈辱に耐えているんだ。領域内の抑えも利かなくなりつつある。これ以上侮られることになどなれば外と内から崩壊するぞ!?」
 徹は一輝や聡司ほどは<空中庭園>から出ない。どちらかと言えば育成に力を注いでいる。
 だから皆の顔から精彩が失われてゆくのを間近に見ていた。
 筆頭騎士マスターナイトの不在も痛い。大きめの事件を単独で解決しに向かった後、次々と連鎖的に起こる騒動を収め続けて未だに帰って来られない。
 今、騎士派が耐えられているのはエリシエルがいるからだ。騎士姫在る限り、騎士たちの最後の支えはなくならない。
 それでも、支えがあってなお崩れる者は出るだろう。
 だから徹は今、怒らずにはいられなかった。
「ふざけるな! 我々は役目を果たすだけの蟻ではない。助言を請う立場ではあるが、譲れないものはある!」
 騎士派の主はエリシエルだ。これは出すぎた真似である。
 しかしエリシエルが制止することはなかった。
 そしてステイシアは徹の怒声を静かに受け止めた後、微笑んだのだ。本当に嬉しそうに笑ったのだ。
「ありがとうございます、徹さん」
 虚を突かれ、徹はまたも声を失った。
 ステイシアの表情に宥め諭すような色はない。ただ純粋だけがあった。
「それだけ騎士派の皆とエリシエルさんを守ろうと、必死になって下さっているんですね」
 だがそこで不意に眉を曇らせる。
「けれど徹さん、先ほどこっそりご自分が手を汚せばいいと考えたでしょう」
「……いや」
 否定は嘘だ。決めこそしなかったが頭の中でちらりと候補に上げはした。
 ステイシアはその嘘を咎めない。
「<竪琴ライラ>の大前提を、どうか忘れないで欲しいのです。私たちはあくまでも秩序の守り手、逆らうものを討ち滅ぼすのが目的ではありません」
「あらぁ、ひどい言い種」
「それはつまり……」
 まさに逆らうものを叩き潰す魔女派への批判ともとったのかレヴィアが頬を膨らませるが、そんなものにかかずらわってはいられなかった。
「<王者チャンプ>は倒すべき相手ではないと?」
 根本を覆す見解だ。
「それは奴が我々に与えた損害を知っての言葉でしょうか?」
 徹は先ほどまでのように激昂してはいない。それでも視線に乗せた力はかなりのものだ。
 ところがステイシアはやわらかに受け流してのけた。
「はい。逆にお聞きしますが、<王者チャンプ>は何か後ろ暗いことはしたでしょうか?」
「それなら」
 早速挙げようとして、止まる。
 分かっている範囲で<王者チャンプ>が行ったことといえば、招待状を送りつけてきたことと挑戦者を返り討ちにしたことくらいだ。考えるまでもなく後ろ暗くはない。
「自業自得、自縄自縛か。なるほどな」
 代わりに頷いたのはエリシエルだった。元々立派な男だと評価していたこともあってすんなりと受け入れたようだった。
「しかし<横笛>フルートに所属している時点で捨て置くわけにもいかないだろう」
 何の気ない台詞。積極的にか消極的にかは分かれるとしても肯定するしかない事実であるはずのもの。
 だというのに、ステイシアは囁くような声で自信なげに小首をかしげたのだ。
「先ほどの人物像予測を聞くまで私もそう思い込んでいたのですけれど。もし雅年さんの見解が正しいのであれば、彼は本当に<横笛>フルートに協力しているのでしょうか」
「どういう意味だ?」
「自らを強いと宣言し、有言実行しようとする<王者チャンプ>が誰かに従うでしょうか。彼の地位は<横笛>フルートの首魁である<奏者プレイヤー鏡俊介かがみしゅんすけよりもいっそ高いと言っていい。誰かに阿る必要はありません。それでは王者たりえませんから」
 言われてみればまさにその通りだろう。<闘争牙城>の参加者が何人いるかは知らないが、徹はあの地響きのような歓声を総身で感じている。あそこにいたような<魔人>ならば、天秤にかけたとき<横笛>フルートを裏切ってでも<王者チャンプ>につくだろう。
「人質とか、そぉいうのはありません?」
「困難を与えられたならなおさらです。立ち向かい、決して屈服はしないと考えられます」
 レヴィアの指摘にもさらりと返し、ステイシアの澄んだ声は徐々に確信を得始めていた。
「そもそも<横笛>フルートが取り込んだというのはどこからもたらされた情報だったのでしょうか。私はエリシエルさんから聞きましたけれど」
 今までと違った意味で空気が張り詰める。
 エリシエルも徹もオーチェも居ずまいを正した。レヴィアでさえ些か神妙な顔になり、変わらないのは気力に欠ける雅年だけである。
「私は……そうだな、いつの間にかそういうことになっていた覚えがある。当たり前のように語られていたから意識しなかった。徹は覚えているか?」
「あれは……」
 記憶を辿る。最初に聞いたのは目をかけていたあの少年だった。しかし彼自身も誰かから聞いたと言っていたような。
 ぞっとした。
「……おそらく、誰も彼もが又聞きです。してやられた?」
「そう思わせることこそが狙い、というのでなければ、うまく乗せられたのでしょうね。<王者チャンプ>のデータを私は持っていません。だから事実であるのか否か改めて裏を取らなければならなかったのに、意識の陥穽を突かれました」
 小さな溜息が不意に、巧まざる色香となって吐き出される。ステイシアは伏せた睫毛に憂いも濃く、今一度エリシエルと徹に向き直った。
「もちろん、まったくの無関係というわけでもないのでしょう。招待状を送りつけて来た時期が整い過ぎています。だから何かは知っているはず。まずはその情報を引き出して欲しいのです。あるいは本当に、何らかの理由で従っていることも絶対にありえないというわけではないでしょう。見極めなければなりません」
 黒の影を従え、白い姿が薄闇に淡く輝くよう。
 更に空気が変わった。息苦しいほどの静謐の中、<神官>が<騎士>に命を下す。
「<騎士>殿」
 ステイシアの表情が変わったわけではない。開かれぬ愁眉と、労わるような本当にかすかな微笑みの入り混じる。
 声も、変わらない。鈴音の如く、細くも凛と響く。
「は」
 そして跪くでこそないが、今まで言葉少なくも対等に接していたエリシエルが慇懃に視線を伏せ、言葉を待つ。
「よしなに、お願いいたします」
 指令はそれだけだった。具体的なものなど何もない。
 しかし<騎士>は承諾のいらえを返すのだ。
「御意に。そのように行いましょう、いと畏き肖りステイシア=エフェメラよ」















「可哀そぉ」
 決定を先に伝えるためという名目でエリシエルが徹を退出させた後、レヴィアが薄い、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「可哀想ですよぉ、彼。神官サマが雅年さん連れて来たりするから、あんなにうろたえちゃって。必死に押さえ込んでたのは可愛かったですけどねぇ」
「レヴィア……さすがに少し黙れ」
「せめて魔女派うちなら、救われはしなくとも気は楽だったでしょうに、よりによって騎士派エリスんとこですもんねぇ」
 エリシエルの制止も聞かず、そのまま続ける。
 けれども薄い愉悦の色は更に薄れ、すぐに消えていた。
 残ったのは、思わしげに濡れた瞳である。
「悪いことは申しませんわぁ、今からでもこちらへ寄越しなさい。あれだけの力があるなら最初は気性が合わなくてもやってはいけるでしょう。歓迎いたしますわ」
 勘違いしてはならない。まるで他者をからかい、不幸を喜ぶかのようなレヴィアであるが、彼女には彼女なりの愛し方がある。
 名前を覚えていなかっただけで、それ以外の徹のことは知っているのだ。かつて、今のように寄越せと言ったこともある。決して玩具を欲しがっているわけではなく。
「いかが、騎士ドノ?」
 だから、エリシエルも邪険にはしない。
「……楽にはなるだろう。だが堕落は当人が望むまいよ。しかし、もし逃げ出すことを選んだのならそのときはこちらから頼むことになるのかもしれんな」
「ふぅん……ま、いいですけどぉ」
 一度双眸を閉ざしてから、レヴィアはまたにんまりと笑ってあっさりと話題を変えた。
「それよりオーチェはどうするんですかぁ? 白旗揚げるとかどうです? そしたらあたしのお腹にくりてぃかるぅ」
「たとえそれでお前を殺せるとしても、やらんよ」
 オーチェは不機嫌そうに鼻を鳴らして一瞥、一転して乾いた声でステイシアへ報告する。
「今宵、日の変わる刻限に仕掛ける。<剣王>ソードマスターを刃とし、手練れ五名で逃亡を防ぐ」
「そうですか、つまり」
 ステイシアは意図を読み取り、頷いた。
 仕掛けるだけならば直接顔を見せる必要はない。
「失敗したとき、終わらせればよいのですね。すぐにとは参りませんが……二週間で準備は整えましょう」
「痛み入る」
 そう小さく頭を下げるオーチェは能面のような表情を崩さない。
 だが視線だけがステイシアの後ろに向かう。
 相も変わらず気力に乏しく、どこを見ているかも定かではないが、聞いてはいるはずだ。
 半月後、救えたはずの命までもその拳が叩き潰すようなことになるのか否か、分かるまでに朝日を待つ必要はないだろう。







[30666] 「せいくらべ・六」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/08/02 13:50





 午前零時。
 地上の光はまだ消え切らない。
 歓楽街が近いということもあるだろう。七月も下旬の熱気がいっそうのものとして吹き付けてくる。
 今宵も変わらぬ人々の営みを眼下に、新島猛は宙を征く。大小さまざまなビルの屋上を跳躍で繋ぎ、目的地へと。
 鋭すぎるほどのまなざしは視界内の全てを映す。何か一つに注視することなく、映る世界をそのようなひとつのものとして受け取るのだ。
 そして容易く異変を見つけ出す。
 右方、薬屋の看板の陰に潜む者。手元の微かな光は通信機の類、単純に携帯電話か。
 看板の位置は地上20メートルである。それを横向きに支える支柱に好んでしがみつく人間は珍しいだろう。<魔人>だ。
 猛は長身を虚空へと俊敏に、優美に舞わせる。
 目を見開く暇もあらばこそ、黒刃一閃、突きにも近い一撃で<魔人>の喉は掻き切られていた。
 まだ死んではいない。取り付いたまま空いた手で顔面を捕らえ、低い声で囁く。
「喋るな。暴れるな。死にたくなければな」
 黒い刃を消し、がくがくと頷く少年から手の機械を奪い取る。
 随分と古い携帯電話だった。通話中である。
『おい! どうした! おい!? 何があった!?』
 怒声と呼ぶには怯えを帯び、この不安を否定してくれと悲鳴を上げているかのようだった。
「なに、少々ごたついただけだ。そう騒ぐなよ、周りの迷惑だろう」
『誰だ!?』
 誰何も、もはや反射でしかない。
 猛としてもまともに会話を楽しむつもりはなかった。
「お前らの女王に伝えな。<剣王>ソードマスター新島猛、推して参る。構わん、泡を食って逃げるがいい」
 この一月、財団派はただ攻めあぐねていたわけではない。
 まずは敵がいかなる傾向を持つのかを探った。結論は、集っているだけの『個』であると出た。誰も彼もが<夜魔リリス>の命に従って現われはするが、それぞれが自侭に戦っていた。少なくとも訓練された連携はとらない。
 だというのに苦戦させられたのは、元々その地区を担当していた<双剣ツインソード>相馬小五郎が地の利を使って遊撃していたこと、そしてなぜか敵側に引き込まれる者が現れたことに原因がある。
 ともあれ、個の集合に過ぎないからにはほぼ間違いなく本拠を定めてある。もしも<夜魔リリス>自身が常に動きながら縦横に指示を出そうとしたところであの錬度では反映しきれないであろうし、それ以前の情報の集積すら滞りなくとはゆくまい。事実、こちらの動きへの初期対応と増援のタイミングは遅いと言わざるを得なかった。
 加えて、小競り合いの際の配下たちの物言いから浮かび上がってくる<夜魔リリス>の人物像自体も、ゆったりと構えていることを好むように思えた。
 となれば次にはその本拠を特定、急襲しなければならない。時間をかけて徐々に削ってゆけば、不利と見た<夜魔リリス>が逃亡する可能性がある。どのような方式でかまでは判らないものの、おそらくは強制的に<魔人>を味方につけるすべを彼女は有している。逃すわけにはいかない。
 そうでなくとも、持久戦を行えば自戦力が減り、その分敵戦力が増えるであろうことは想像に難くなかった。根本的な戦力比をひっくり返されては勝てなくなる。
 かくして<帝国>エンパイアの奇襲より一月、今度はこちらが仕掛けることと相成ったのである。
 今、わざわざ襲撃予告をしたのは本拠を捨ててくれる分には構わないからだ。おそらくは要塞と化しているであろう、敵に有利でこちらに不利な領域を自ら放棄してくれるならそれに越したことはない。大量の戦力を連れたまま移動などすれば補足するのは容易いし、少数ならば人数で優位を取れる。逃亡阻止の五名はあくまでも要だ。動員できる数はそれに数倍する。少し足止めさえしておいてくれれば自分が追いつける。
 もっとも、動きはしないだろう。そうでなくてはわざわざ財団派領域の内部に孤島化した<帝国>エンパイアなど打ち立てる意味がない。最初から強襲、奇襲を受ける事態は織り込み済みのはずだ。ならば予定通りにさせてやる。相手の行動を固めてしまう。
 臭いがするのだ。予定通りにしてやれば、<夜魔リリス>は自分の前に現れる。僅かに漏れ聞いた情報と、あとは勘であるが、猛は<魔人>と成る前からこの勘を信じてきた。
 どう言い繕おうとも強引に違いない今回の作戦を実行する気になったのは、だからなのである。
「じゃあな。顔を合わせないことを祈ってろ」
 そう言って携帯電話を握り潰す。
「何もしない方がいい。抵抗すればするほど後々不幸になる」
 未だ声もない少年に告げ、再び軽やかに跳躍した。
 狙いは<夜魔リリス>の首一つ。
 夏の風が不意に冷えた。







 小さな山に三方を囲まれるようにして、五階建ての古い建物がある。
 白かったはずの壁は黴か、それとも別の何かであるのか、ところどころ薄黒く汚れ、それでなくとも経た年月を思わせずにいられぬほどくたびれている。
 これは県営の宿舎だ。かつて三方の山が桜の名所であった頃、多くの客に格安で寝床を提供していた。近所に住居もなく、周りでは水田に青い稲が葉を広げている。
 しかし山火事で桜が無残な姿となったとき、宿舎も役目を奪われた。泊まる者などもはやあろうはずもない。週に一度の役人による点検を受けながら、やがて取り壊される時を待つだけだった。
 けれど今、宿舎には新たな主があった。
 <夜魔リリス>率いる<帝国>エンパイア。担当の役人さえ抱き込んでしまえば、廃棄されたに等しい此処を拠点とすることは容易い。いつまでも保つものではないにせよ、半年や一年ならばどうとでもなる。
 その最上階、<夜魔リリス>が自室として設えさせたのは宴会場として使用されていた質素な洋式の広間だった。床に絨毯を敷いてソファとベッドを運び込ませ、今は脇に十名の下僕を従えてソファの方に寝そべっている。
 正確には、報告を受けるまで気だるげに寝そべっていた。
<剣王>ソードマスターが来たの!?」
 果たして、財団派最強の襲来を聞かされた<夜魔リリス>は満面の笑みで跳ね起きたのだ。いつもの不機嫌そうな顔などどこへやら、声もはしゃいでいる。
 これほど上機嫌な彼女を見たことのある者は、ここにはいなかった。
「私がじかに相手をするわ。うまく……そうね、駐車場にでも連れて来なさい。多少傷つけるのはいいけれど絶対に斃してしまっては駄目よ」
 唐突な我侭はいつものことだ。そして下僕たちの追従の笑みもいつものことだ。一月前には憎しみの目で見ていたはずの者も、その中に含まれていた。
 しかしかつてと変わらぬまなざしをした少年も一人だけ在った。
「危険です、<夜魔リリス>! <剣王>ソードマスターは住む世界が違うとまで言われるバケモノです。相対するのはあまりにも……」
 中肉中背、大半の<魔人>がそうであるように比較的整った容貌が逆に特徴を埋没させてしまっている。もっとも、この主に異を唱えるだけで異質ではあった。
「うるさいわ。私は意見など求めてない」
 水を差され、<夜魔リリス>が剣呑な視線とともに右の人差し指を少年に向ける。塗ったとも思えない透明感のある蒼にその爪は色づいていた。
 仕種が何を意味するのか知っている少年は身を強張らせ、しかしそれよりも早く、大柄な男が疲れ果てた声をかぶせた。
「そいつの言うとおりだ。お前の勝てるような相手じゃあ、まあ、ないな」
「……負け犬がまだ偉そうに」
 蒼爪がそちらへ向いた。
 次の瞬間、男が身を折った。
「ぐ、ああ、あああああああああぅぅぅぅぅぅっ、くああああああああああああああああ!!?」
 激痛に膝を落とし、床をのたうつ。
 その様を、残る下僕たちは恐怖とともに見つめずにいられなかった。
「学習しないのね。馬鹿だわ。死ななきゃ治らないらしいから、仕方ないのかもしれないけれど」
 <夜魔リリス>は負かした相手を支配する異能を有している。直接強制することができるわけではないのだが、替わりに苦痛を与えることができるのだ。条件は<夜魔リリス>に危害を加えようとするか、逃げようとするか、そのどちらかで自動的に。あるいは<夜魔リリス>自身の任意でも発動させられる。
 どれほどの痛みであるのかは、目の前の<双剣>ツインソード相馬小五郎が示している。一度受ければ二度と逆らおうとは思わなくなるほどのものなのだが。
「小五郎さんっ……」
 少年は小さく呟いた。自分をかばうためにわざとあんなことを言ったのは理解していた。それでも<夜魔リリス>へ更に言い募らないわけにはいかなかった。
「……そもそも<剣王>ソードマスターは<妖刀ムラマサ>が勝負したがっていたはずです。彼はそれくらいしか希望を口にしていないし、あなたも承諾したはず。その約束を破るのは危険すぎます、彼まで敵に回すつもりですか!?」
 <妖刀ムラマサ>は恐れられている。異形の風体、異様な言動、そして底知れない強さ。相馬小五郎も元々は<妖刀ムラマサ>が下したのだ。そしてその後で、半死半生のところを<夜魔リリス>が奴隷としたのである。
 不文律と言うまでもない。決して触れてはならぬと誰もが本能で悟っていた。
「<闘争牙城>での彼は知っているでしょう? たった二試合で誰も挑めなくなったあの……」
「黙りなさい」
 さすがに立て続けに責めを負わせる趣味まではなかったか、胸に湧き立つ高揚にこれ以上水を差したくなかったのか、<夜魔リリス>はただ溜息をついた。
「そんなことは承知してるの。それでも私はこのチャンスを逃さない」
 しかし双眸に揺らめいたのは狂的な光だ。
 <夜魔リリス>はこのときを待っていた。数を有し、敵を取り込んでは増やしてゆくことのできる<帝国>エンパイアに対して採れる最上の手は、少数精鋭で主の首をとることである。必ず来るはずと期待していた。
「彼は強い。元騎士派白兵方筆頭、現財団派最強。彼なら私を守ってくれる。雑魚どもとは違う。見た目だって充分、特別に恋人にしてあげていい。私に落ちない男なんていない。そうでしょう?」
「はい、<夜魔リリス>」
 即座に唱和する。<夜魔リリス>が己が美貌に執着しているのは皆、重々理解している。遅れればそれだけで罰を下されかねない。
 彼らは決して、十把一絡げの<魔人>ではない。配下とするだけの実力はあるとして、下僕とされたのだ。その彼らが怯え、従わざるをえない。
 結局は、何を言っても通じることはない。少なくとも支配下に置いた男の言うことなど彼女の心に響かない。
「しかし<夜魔リリス>! せめて屋内の罠を利用すべき……」
「うるさいと言ったでしょう? まだ言わせるつもり?」
 それでも縋りつかんとした少年は振り払われる。
 躊躇もなく、路傍の石のように視界からも外されて、彼女は既に部屋を出ようとしている。
 伸ばした手は当然のように届かない。







 下僕たちは動けなかった。
 名高い<剣王>ソードマスターを敵とし、<夜魔リリス>も事実上手を出すなと言った。行っているのは一般人をこの宿舎へ近づけないようにするための監視くらいのものだ。
 動けない、動かなくてよいという現状に心底安堵した。
 下僕たちにとって<剣王>ソードマスターは救いの手である。痛みによって無理やり裏切らせられた元財団派の<魔人>のみならず、<闘争牙城>で集められた者たちにとっても同じことだ。敵となっていたことを責められるかもしれないが、少なくともまともに話が通じることは期待できる。
 だから待ち望んでいた。<夜魔リリス>が斃され、解放されることを願っていた。
 そして、来た。
 低い月の中に人の影。跳躍を繰り返し、駐車場に降り立った。
 二十歳ほどか。二十名以上に囲まれていながら、にやりと笑ってみせた。
 その瞬間、えもいわれぬ悪寒が走った。
 しなやかに鍛え上げられた長身。それは<魔人>には珍しいものではない。<魔人>のほとんどは少年であり、好き好んで貧相な体格などにはしないものだ。
 黒ではないがそれに近い色合いの装いは、物々しいブーツ以外は何の意匠も凝らされていないありふれた代物。強いて言うならば夜に人の目から紛れるにはよさそうである。
 異様なのは纏う空気そのものだ。
 暴力に親しんでいる。論外だ。
 幾度もの死線を潜り抜けて来た。まるで足りない。
 それは、殺し合いを行うことを当然とする存在だった。
 雑多な敵意ではない。幼稚な殺意ではない。質量すら感じさせるほどの、練り上げられて刃にまで昇華された殺気である。
 文明の発達によって薄れつつあるとはいえ、雄性は外敵を打ち倒すが役割である。眠っていた本能が叫ぶ。<剣王>ソードマスターという雷名など要らない。相対すれば、分かってしまう。
 格が違う。次元が違う。階梯が違う。
 住む世界が、違う。
 初めて見える者はどうしようもない畏怖に震え、知っていた者は再確認する。
 しかし<夜魔リリス>には分からなかったようだ。
「よく来たわね、<剣王>ソードマスター。歓迎するわ」
 悠々と、高慢に、そう声をかける。
 気を張ってはいる。強いとくらいならば認識できているのだろうが、それよりも欲求を抑えきれないでいるようだった。
「早速だけれど、私と勝負なさい。あなたが負けたなら、私の奴隷になるの」
「一対一か?」
「……そうよ」
 それでも豺狼の笑みにさすがに気圧されたか、少しだけ言いよどむ。
 猛はゆらりと右手だけで肩に担ぐように剣を構えた。背丈の七割ほどある諸刃は夜に紛れて黒い。
「いいだろう」
 駆け引きなど知ったことかとばかりの返答に惑いはない。
 約束はこれで成された。拍子抜けしながらも望みの一歩を叶え、しかし<夜魔リリス>の声は喜びを表すことができない。
「あなたが勝ったときのことは聞かないの?」
「無意味だ」
 猛が軽くアスファルトを蹴った。
「あえてお前に望むものはない。この剣で奪い取るだけだからな」
 あくまでも軽く、だったはずだ。
 皆の視線を振り切り、その身は既に<夜魔リリス>の目前にあった。
 <夜魔リリス>の下僕たちは八割が白兵戦を得意とし、残る二割は砲撃戦闘に長けている。逆に言えば機動力を武器とする者はいないということになるが、それは速度に不慣れであることを意味するわけではない。彼らの多くは<闘争牙城>の参加者であり、残りは元財団派の<魔人>だ。敵として速度を恃みとする<魔人>とやり合ったことならばある。
 しかし、遠目であるにもかかわらず追えなかったのだ。先代白兵方筆頭マスタークラブは現疾駆方筆頭マスターダガーと互角の速度を誇り、その分野における強さに至っては上回る。その事実を知っている者は元財団派の中にも<双剣>ツインソードしかいなかった。そして<双剣>ツインソードはまだ屋内で苦痛に呻いている。
 気づけたときには勝負は決まっていたかに思えた。
 金属と金属とが打ち合わされるような甲高い音が響いた。
 ようやく目に映ったのは、袈裟に振り下ろされた黒刃が逸らされた様と、それを成したのであろう、蒼い爪だった。
 長い。右の人差し指から小指までの四本がいつの間にか1メートルほどまで伸びていた。
 そればかりではなく、<夜魔リリス>の立ち位置も移動していた。猛の一撃は速い以上に重い。彼女の細身でまともに受けられるはずもない。爪は左腕で支えながら添えただけ。斬撃をしのいだ要は左へ半歩身をずらしたことにある。
 猛は留まらない。即座に三閃を加える。いずれも<剣王>ソードマスターの名に恥じぬ剛撃だ。
 しかし夏の風の乗るかのように<夜魔リリス>は踊るようにステップを踏み、蒼爪で僅かに横から力を加えて三つともを逸らしてのけた。
 これはまぐれではないと言いたげに美しい顔に蠱惑的な笑みを乗せ、スカートを翻して距離をとる。後方への跳躍であるがため鈍いはずだというのに、またたきひとつの間に位置を入れ替えたかのような仕業だった。
 蒼爪が縮む。無論、これは自前のものとは異なる。クラウンアームズ『ヘカーテネイル』だ。
「私が何者かなんて重々承知でしょうけれど、自己紹介がまだだったわね。私は<夜魔リリス>と呼ばれているわ。以後、永くお見知りおきを」
 <夜魔リリス>は両手でスカートの裾を摘まんで持ち上げた。片足を引き、残る膝を軽く曲げて優雅に一礼カーテシー
 戦いの最中に堂の入った挨拶である。
「俺も名乗った方がいいのかね? 礼儀作法なんて堅苦しいものは御免こうむりたいんだが」
 あからさまな隙だが、猛が踏み込むことはなかった。黒刃を再び右手で肩に担いだまま、とぼけたことを言う。
 <夜魔リリス>はころころと声を立てて笑った。
「結構よ。別に、名乗ってもらうことが奴隷化の条件だなんていうわけではないもの。でも用心深いのね。悪くないわ」
 そして自らの従僕たちが呆けたようにこちらを見つめているのを軽く見回し、笑みに毒を含んだ。
「私にこんな真似ができるなんて思ってなかった? そうよね、見せていなかったから、そうでしょうね。だってあなたたち、それなりなだけで結局は弱いんだもの。必要もないのに見せないわ」
 少年たちは時期や場所の違いこそあれ、<夜魔リリス>自身と戦い、敗れた者たちだ。勝負の内容はほぼ一方的だった。そもそも<夜魔リリス>は勝てる相手しか選んで来なかったのだ。
 次々と犠牲者が出ているにもかかわらず勝負を受けてしまったのは、その美貌と魅惑の肢体につられたということもあるが、明らかに自分の得意の型に持ち込んで押し潰すやり方は注意すればなんとか攻略できそうに思えたことが大きい。そんな手段をとる彼女の純粋な実力自体は低いと誤解したのである。
 しかし考えてみたならば不思議はない。いくら自分に有利な相手ばかり選んでいたとしても、果たして一度も逆襲を許さずに済ますことが、力量の低い者にできるだろうか。
「私は幼い頃から色々な習い事を仕込まれたわ。その中には武道の類もあるの」
 音もなく、再び蒼爪が伸びる。
「運動は得意だったの。私より足の速い子なんていなかったし、男の子の喧嘩だって馬鹿らしかったわ? あんなの簡単に、どうとでもできるでしょうに」
「なるほど」
 相槌とともに今一度猛が肉薄する。同時に、まったく劣らぬ俊敏さでもって<夜魔リリス>が横へのステップを踏む。
 それでも距離は詰まる。身も凍るような閃きを、彼女は舞うようにして避けてゆく。
「返し技だとか色々習ったけれど、もう覚えてはいないわ。でも、避けるのだけはあの頃も、そして今でもとても自信があるのよ」
 言葉通り、避けるだけだ。避けきれないときに蒼爪を添えるだけである。
 傍から見れば他愛なく映るが、尋常な胆力でも仕業でもない。いかに<魔人>が理不尽を行うとはいえ、いかに『ヘカーテネイル』の力があるとはいえ、相手は<剣王>ソードマスターなのである。
 だというのに彼女は優雅に在った。まるで、そう在らねばならないと自身に課しているかのように。
 だが、不意に美しい面立ちが歪んだ。
「だって……先生たちがいやらしい手つきで私に触れようとするんですもの」
 その瞬間に現れた過去への嫌悪は、負の情念は、彼女の体捌きを縛るほどだった。
 かわし損ねた一撃が上腕をかすめ、赤い血が流れる。傷は即座に塞がり、赤も消えたものの、替わりに歪みだけは笑みに残った。
「私に触れていいのは、私が許したときだけ。これを破る男は死ねばいい。あなたも同じよ。今は決闘中だから特別。避け切れないくらいには強いし、仕方がないわ」
 <魔人>の力の程は人であった頃の力量に相関する。彼女は間違いなく強かったのだろう。しかしそれ以上に、この滲む嫌悪が予知じみた察知能力を与え、そこから続くすべてを後押ししているのだ。
 恋人にしてあげてもいい、との言葉は当人にとっては嘘ではない。特別に、優先的に触れることを許してやってもいいと思っているのである。
 一方的な攻と一方的な防が千日手めいて続く。
 甲高い音を立てながら、時折皆の視界から消えながら、優雅を崩さぬままに、焦れているのは<夜魔リリス>の方だった。
 この速さ、この体捌きは、伏せておいた札ではある。しかしあくまでも余技なのだ。<夜魔リリス>の真価は中距離から遠距離でなければ発揮できない。
 しかし殺し間を生成するための最初の一撃を撃たせてくれない。この距離このタイミング、と定めた瞬間に間合いを潰される。思考を読まれているのではないかと疑念が湧くほどだった。
 さすがは見込んだ男、とできるなら喜びたいところだが、最終的に下せないでは意味がない。
 じりじりと背に寒気が這い寄って来る。
 間接的な支配を為し遂げる『タイラント』。その異能は非常に危険なものだ。
 先ほどの、賭けを持ちかけて承諾を受けた行為は、実のところ不要である。本当は同意など要らない。双方に明確な戦闘の意思があればいいだけなのだ。
 それでも賭けの形を装うのは、受けたならば気負わせ拒否したならば油断させるためである。余裕ある振る舞いとともに心理面からも重圧を与えることを<夜魔リリス>は疎かにしない。
 相手を選び、隠しておいた実力を露わにし、精神的にも優位に立つ。
 仕掛けた以上は絶対に勝たなければならない。
 この戦いは野望成就のために一度だけ行わなければならないと決めた冒険である。乾坤一擲、勝率は分からない。
 やや偏ってはいるものの、<夜魔リリス>には間違いなく武才がある。渇望から来る執念もある。秘められた素質まである。小細工などせずとも<闘争牙城>屈指と呼ばれるに恥じることない力量を有している。
 だが、経験が足りていなかった。数ばかりではなく、何よりも質において。
 心など読めずとも、視線、足運びから次の意図を読み取ることは、卓越した武を持つ者には不可能ではない。
 <剣王>ソードマスターにとって、此処は敵地の只中である。<夜魔リリス>が手出し無用と口にしたからとて、周囲の下僕たちが割り込んでこない保証はない。
 <夜魔リリス>が攻撃に移ろうとする瞬間を読んで潰しながら、少年たちをも観察しているのだ。手を出しては来ないのか、従っている理由は何であるのか、心はどちらに向いているのか。
 新島猛は視界内の全てを見ている。右腕一本で、黒い刃を繰りながら。
 そしてついに結論は出た。
 繰り返される黒の影。しかし<夜魔リリス>はステップを踏めなかった。
 きょとんとした表情はいっそ無垢に幼く、一拍遅れてやってきた痛みに麗しい顔を歪める。
 アスファルトを蹴るはずだった右足が、足首から切断されていた。夜闇に僅か、何かがよぎるのを彼女は見た。
 糸、だろうか。それは猛の左手に続いている。
 そこまでを確認して、対価に<夜魔リリス>は右腕も肩から失っていた。
「痛い、痛いい痛い痛い痛い痛いぃぃぃっ!!?」
 それだけで気を失ってしまいそうだった。
 右足と右腕の復元は無意識に等しく、生存本能が全力で離脱を選ぶ。勝たなければならないという思いもすべて忘れ、逃れようとする。
 だというのに、爆発的な轟音とともに、先ほどまでに倍加した速度で容易く追いついて来た。
 少年たちの戦慄こそが最も正しい答えを示していたのだ。<剣王>ソードマスターは格が違う。<夜魔リリス>の実力も小細工も、確実に捌ける程度のものでしかないのである。
「私を助けなさい!」
 <夜魔リリス>の悲鳴は遅きに過ぎた。猛の読み通り、一人を除いては動くことを躊躇した。逆らうことで一時的な苦痛に苛まれるとしても<夜魔リリス>さえ死んでしまえば解放されるのだから当然だ。
 そして少年たちが迷いなく助けに来たとしても間に合わなかっただろう。彼らでは今の猛に追いつけない。
 騎士派三方武芸トリニティアーツ脚法一式『疾風迅雷』。要は蹴り出す瞬間に足元で爆発を起こし、本来ではありえぬ初速を得るだけの単純な術理である。不慣れな者が使ったならば体勢を崩して転げる無様をさらす破目にはなるが。
 <夜魔リリス>はそれ以上逃れることもかなわない。五体にいつしか糸が絡みついている。
 猛が左手で繰るそれは力でもって創った擬似鋼糸、創成法五式『知朱』の産物。鋼の糸よりも強力とはいえ<魔人>相手には脆弱と言わざるを得ないが、猛が繰ったならば強靭な肉体を持たぬ存在は断つも縛るも自在である。
 最初から今に至るまで完全に掌の上で踊らされていた<夜魔リリス>に逆転の術はない。一刀のもとに斬って捨てられ、<帝国>エンパイアは崩壊する。
 そのはずだった。
 糸が抵抗もなく斬られた。
 その斬撃を、猛は奈落へ口を開けた裂け目と見た。
 枯れ木のようなものが二人の間に割って入っていた。
 それは人の形をしてはいた。それは細い細い月にも似た刀を手にしていた。
 それは、ひ、ひ、ひ、と笑った。
 襤褸を纏い、<妖刀ムラマサ>がいた。






[30666] 「せいくらべ・七」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/09/06 15:09

 <闘争牙城>にそれが現れたのは春先の、妙に肌寒い日のことだった。
 当たり前のように『決闘』を望んだ。
 当初、受ける理由を持つ者はなかった。<闘争牙城>に集まるのはほぼすべてが誰かから何かを奪い取ろうという欲深い者たちである。襤褸を纏うそれから得られる富などありそうには思えなかった。
 しかし目敏い者が気づいたのだ。襤褸に絡まる、蒼褪めた宝玉二つ。それは格の高いクラウンアームズではないのかと。
 クラウンアームズとは<魔人>個人に帰属する、要は専用武装である。他の<魔人>には扱えないし、主が呼べば戻ってくる。再生すらする。しかし賭けることができないわけではないのだ。
 賭けに勝てば、そのクラウンアームズに相応しい財宝を<天睨>のイシュが与えてくれる。そして敗者は同じだけの価値を何らかの形で奪い取られる。幾度かの前例ではほぼ命が対価となった。
 そして破滅的な賭けの高揚に酔う<魔人>が一人いた。
 双方の要求するものは別々ながらも釣り合い、『決闘』は成立した。
 勝敗は一瞬で決まった。
 襤褸の姿が敵手を斬り殺していた。
『おい、のち……ちょうだ、い……』
 ひ、ひ、ひ、と笑ったのは果たして冗談のつもりだったのか。
 襤褸が一体何をその『決闘』で得たのか知る者は、当人を除けばおそらくイシュだけだった。
 次に、それを暴こうとする者が現れた。クラウンアームズと釣り合うならば素晴らしいに違いないと、欲望に突き動かされて。
 前回の『決闘』で得たものを賭けろと持ちかけた彼に、襤褸は告げたのだ。
 お命頂戴、と。
 それで『決闘』が成立してしまった。クラウンアームズと等価交換が成り立つのは命である。確かに道理だった。
 しかも己の手で斬り殺すのだ。もはやそれは、殺すという宣言にしかなっていない。
 無茶苦茶だった。通常、『決闘』では殺すまではいかない。死ぬよりはましと途中で敗北を認める。しかし対価が命であるということは白旗は許されず、そもそも二戦目も降伏の暇すら与えられなかった。
 やはり斬撃一閃で終わっていた。
 以降、挑んだ者はない。命を賭けることを要求されるのも一因ではあるが、何より襤褸は強すぎた。殺された二人も、最高峰ではないにせよ自分の力に確かな自信を持てる階梯にはあったのだ。それを一刀である。
 <銃林弾雨ガンスミス>も<夜魔リリス>も無視をした。<王者チャンプ>はそもそもあらゆる挑戦を一方的に受ける側だ。
 襤褸もそれ以上敵を求めはしなかった。何を思って<闘争牙城>に来たのかは誰にも分からなかった。何かが欲しいとは見えない。人を斬りたいだけならば外でいくらでも斬ればいい。
 だというのに、ただ<闘争牙城>にいた。
 襤褸にはあだ名がついた。<竪琴ライラ>剣豪派には極めて優れた剣士を名刀の名で呼ぶ慣習がある。それを真似したのだ。
 <妖刀ムラマサ>。
 おそらくは創作であろう逸話に基づくならば、触れるもの全てを切り裂く名である。














「<妖刀ムラマサ>! 彼は私の獲物よ!?」
 <夜魔リリス>の叫びが三方の山に木霊する。
 しかし<妖刀ムラマサ>は振り返ることもなかった。
「そど、ますた……ひひ、まじん、なるま、えから……ぶじゅつか、よぅ……おぉまえのぅ、かなうあい、てかよ……りぃりぃすぅぅぅぅう」
 先約は<妖刀ムラマサ>だったはずだが、そのことには触れない。
 気遣いなどではない。<夜魔リリス>では勝てるはずがないのだと、獲物を横取りされる心配などないのだと、怒りも嘲りもなくただそう告げているのである。
「にげ、ておけぃ……こぉや、つぅ……おれとぅ、たたかぁうふりして、ひ、ひひ……おまえをこ、ころすぅぞ」
 <夜魔リリス>は迷った。これは千載一隅のチャンスなのだ。強さと有能さ、見目。三つともを備えた男など、ここを逃せば次の機会などあるかどうか。
 しかし背に腹は替えられなかった。さすがに理解できてしまっていた。<剣王>ソードマスターは手に余る。たとえ一日千秋に待ち望んでいた相手だとしても計算を誤るほど愚かな女ではなかったのだ。
 <妖刀ムラマサ>の口にした通り、僅かな隙があれば自分を狙うだろう。幸い、危ういところだったがまだ敗北の判定とはなっていない。ここは一旦退いて、極限まで削ってから再び対峙するしかない。
「<夜魔リリス>!」
「触るな!」
 心配そうに駆け寄ってきた少年を突き飛ばし、宿舎の中へ逃げ込んだ。
 彼女の陰に消え行く様を視界に映しながらも、猛は動くわけにいかなかった。
 黒刃を肩に担ぐのではなく、正眼に構える。
 猛は物心ついた頃には既に刃を握っていた。古より続く円鏡流なる流派の継嗣として生まれ、育てられたのだ。
 円鏡流は一般社会に対しては無名である。というのも、広く門戸を開く流派ではなく、事実上の一子相伝だったからだ。
 特徴としては様々なものを節操なく取り込み続けてきたことがある。火薬が現れたならそれを取り入れた。銃が対人戦闘においても強力な武器となり始めたら、それも取り入れた。かつて糸や紐を使っていた罠、捕縛術は現在金属製のワイヤーによるものとなっている。
 円鏡流は長く続いているが、古流という印象を抱く者はあるまい。常に変化を続けながら時代時代の実用に生き続けているのだ。時に卑劣と言われながらも、後ろ暗い人間にとっての福音であり続け、脅威であり続けている。
 猛はその後継者であり、人であった頃から表には出せぬ壊し潰しを幾度となく行ってきた。
 そうして培われた勘、眼力が<妖刀ムラマサ>を飛び抜けた脅威として認識していた。
 直前まで接近に気づけなかった。今こうして対峙していてさえ気配がない。音がない、臭いがない、熱すら感じない。目には映ること、存在はしているのだと感性は告げること、その二つだけが全てだった。まさしく亡霊だ。
 そして振るう剣は、円鏡流が近現代への適応の過程で失ってしまった類のものである。玄妙の果てを求め求めて至った、魔性の一閃である。
 なるほど、それは人が用いたところで機関銃には勝てまい。一帯を焼き尽くす爆撃には無力であろう。しかし此処で振るうのはただでさえ理不尽を行う<魔人>である。
 この男の刃は<呑み込むものリヴァイアサン>と方向性を同じくする武力であるのだと、猛の思考は弾き出した。
 ゆらりと<妖刀ムラマサ>が上段に構える。
 それだけで幻影の刃が、反応も許さぬうちに右肩を斬ったように錯覚した。あるいは頭蓋から股間まで何の抵抗もなく切り裂いたように感じられた。
 そうする可能性を<妖刀ムラマサ>が吟味し、猛が感知したのだ。
 異能めいた所業であるが、何らおかしなことではない。それほどに研ぎ澄まされ、純化された殺意だった。
 このまま付き合うのは下策だと、対峙だけで猛は判断を下した。<剣王>ソードマスターという異名は自ら名づけたものではない。騎士派において正面から切り結ぶだけでも誰も勝てなかったという事実を反映しただけの名だ。欺瞞に便利であるためそのまま放ってあるが、猛の本領は剣も含んだ総合戦闘能力にある。
 <妖刀ムラマサ>は間違いなく、『疾風迅雷』と『知朱』を見ている。今更同じ技で不意を突くことはかなうまい。騎士派三方武芸トリニティアーツの全てでもって相対する必要がある。
 思考に意識を割いていたのは、本当に瞬きの間のことだったろう。それを外部に覚らせぬ技術も習得していた。
 だというのに、既に<妖刀ムラマサ>が目の前にいた。
 速度によるものではない。手放した刹那を盗られたのだ。
 自らほのかな輝きを放つ刀、クラウンアームズであろうそれが唐竹に走る。
 早すぎる。
 動き始めるのが早すぎる。頭部にまで到達するのが早すぎる。あまりにも当然のものとして為され過ぎている。
 それは気の遠くなるほどの工夫と繰り返しの果て、行くつくところにまで至った剣だった。
 ただの唐竹割りが、かわすことを許さない。
 しかし猛は<剣王>ソードマスターだった。許されぬはずの回避を不完全ながらも行ってのけたのだ。
 身を左へ寄せるとともに、<妖刀ムラマサ>の刃へ斜めに沿わせるように生み出されたのは金色の盾。騎士派三方武芸トリニティアーツ創成法一式『千目』である。
 元々はエリシエルの創成した光の盾を参考に作り上げた、創成法の基本にして最も安定する形。創成法自体が高難度であるため聡司にすら教えられなかったものだ。
 出力の差なのか強度は本家に劣るが、代わりに猛にはエリシエルを大きく上回る技の冴えがある。刃へ斜めに押し当てることで受け流すのだ。
 だというのに刃は容易く光を切り裂いた。通じなかったわけではない。ほんの少しだけ遅らせることができた。その時間が猛を無事に逃してくれた。
 だが危機は終わらない。一歩と手首の返しひとつで<妖刀ムラマサ>は薙ぎを放ってきた。
 猛の体勢は崩れたままだ。このままでは腹を抉られる。
 ただの強敵であったなら、その程度は許容しただろう。<魔人>は人とは異なる。猛であれば致命的とはならない。その隙にこちらの攻撃を叩き込んで痛み分けにする手もある。
 しかし先ほどの<妖刀ムラマサ>の斬撃、まるで世界を裂いたようにすら錯覚したあれで斬られたならば果たしてどうなるだろうか。
 人であった頃に染みこんだ動きが自動的に猛を動かした。
 刃で受けるのは間に合わない。柄で受ける。右手を外し、替わりに剣の腹に添えた。同時に、敵刃から遠ざかるように跳ぶ。
 <妖刀ムラマサ>の斬撃はやはり早すぎる。足を浮かした時点で既に到達していた。
 それでも猛の意図は遂げられた。クラウンアームズ『スルトクラヴィキュラ』は柄でも斬撃を受け止めてみせた。その勢いに乗り、猛は大きく距離をとる。
 <妖刀ムラマサ>もするすると奇術じみた不可解さで即座に迫るが、欲しかった時間は充分に得られた。
 猛の周囲に輝く三本の剣が生み出され、次いで背中から異様に細長い光腕が四本突き出した。三本は光剣を握り、最後の一本は本来の右手と合わせて黒刃を両手持ちとする。そして空いた左手には光糸が煌く。
 剣を生み出す二式『一目』
 腕を生み出す三式『宛月』
 糸を生み出す五式『知朱』
 これら創成法三種を複合した『阿修羅』
 円鏡流は時代を常に取り入れてきた。だから猛は<魔人>であることも取り入れた。筆頭騎士マスターナイト四辻圭よつつじけいの協力によって作り上げた騎士派三方武芸トリニティアーツこそは猛の新たな力であり、『阿修羅』は奥の手の一つだ。
 無論、腕の数を増やしたからといって強くなるわけではない。思い通りに動かせなければ邪魔になるのが関の山、荷物が増えたに等しい。
 ならば修練すればいいのだ。本来の腕と同様、あるいはそれ以上にまで扱えるように。武の家に生まれた猛にとって自明の理だった。
 追いつかれる前に『疾風迅雷』によって強引に切り返す。
 追っているつもりであるはずの<妖刀ムラマサ>の間を外せはしまいかと思ったのだが、通じなかったようだ。振るわれる剣閃に惑いなど欠片もなかった。
 目にも映らぬ一閃に対し、黒刃一つと光刃三つ。四剣の軌道をちぐはぐにして迎え撃つ。
 <妖刀ムラマサ>の刃は猛に届かない。替わりに光剣光腕二組が虚空に溶けた。
 そして失われたものはまた創ればいい。再び四剣でもって、今度は猛が攻勢に出る。
 袈裟、逆袈裟、左右の切上げ。操法一式『流星』を併用して途中から剣速を跳ね上げた刺突。苛烈な攻撃を<妖刀ムラマサ>はいなしてゆく。とは言っても無傷ではない。枯れ木のような肉体を幾度か抉っている。余裕があるのか否かは、その死体めいた風貌からは判らない。
 <妖刀ムラマサ>も防戦一方ではない。刃を閃かせれば光剣光腕が一組は確実に消える。かすめる程度であれば猛の身体にも触れている。
 多様な攻撃法を有する猛は、特に間合いの掌握に長ける。にもかかわらず、純粋な見切りによる間の奪い合いは二分八分で<妖刀ムラマサ>に獲られていた。
 村正の伝承に曰く、流れに突き立てられたその刃へと木の葉が吸い寄せられては二つにされていったという。逸話どおり、こちらから刃に近づきに行っている気すらした。未だまともに受けていないのは、四剣による掌握領域の厚みが城壁となっているからに他ならない。
 そして息もつかせぬ攻防の中、猛は異常に気づかざるをえなかった。左耳を飾るクラウンアームズ『ユミルネイル』の発生させる緩衝領域がはたらいていないのではないかと疑いたくなるほどに、刃が軽々と通ってくる。そしてかすり傷を負うたびに腕一本を切り落とされたかのような冷たさが全身に満ちてゆくのだ。やはり先ほどの腹への薙ぎ、むざむざ受けていたならそれで勝負はついていたかもしれない。
 それでも有利は猛にあった。
 日本刀は攻撃を正面から受けるようにはできていない。横から力を加えて逸らすならともかく、受け止めなどしたら曲がってしまう可能性がある。だから日本で発達した剣術も避けること、流すことを基本としている。
 しかし円鏡流はそうではない。古来よりの刀法を扱うと同時に頑丈で無骨な剣によって受け止めるすべも身に着けているのだ。
 クラウンアームズは極めて強固であるが、防具型のものならば部分的に貫けないわけでもない。しかし武器型のものは違う。<魔人>の力で破壊されるなどありえないと言われている。
 <妖刀ムラマサ>の斬撃は脅威であるものの、『スルトクラヴィキュラ』ならば何の問題もなく受け止めてくれていた。受けるのは避けるよりも易い。攻撃ならば光剣でもできる。彼我の負う傷に差があるのはそのおかげだ。
 と、不意に<妖刀ムラマサ>が後ろへ下がった。
 本意か、虚構か、迷う暇はなかった。猛は遠隔攻撃をほとんど行えない。一定以上の距離を与えたくはなかった。糸を繰る。
 <妖刀ムラマサ>はかわさなかった。糸はそのまま絡みつき、何の動きもないのに断ち切られていた。
 そして止まった。彼我の距離は、歩行でおよそ十五歩。
「いま、だいぃいたら、ずとも……わが、み、やいばには、ひひ……いたりぃたりぃ……」
 ひ、ひ、ひ、と枯れ木が笑った。
「そど、そぉど……ますた……おま、えは……おれのぅの、のぞ、みを……かなえ、かなえ、てぇくれるのか……」
 聞き取りづらいが何を言ったのかは分かる。
 己の望みを叶えてくれるのかと、こちらに問うたというよりは自問が近いだろうか。
 だから尋ねた。
「お前の望みは何だ?」
「おぉれは……」
 死体のような風貌の中で唯一爛々と輝く目玉がぎょろりと、こぼれ落ちんばかりに剥かれた。
「……おれはただ一筋の斬撃になりたい」
 今までが嘘であったかの如き滑らかな口調で、願いは口にされた。
「刹那の斬撃となり、消え果てたい」
 それは狂気なのだろうか。
 猛にも分からぬ願いではなかった。絶対の一撃は武を志す者の理想である。そして磨けば磨くほどに、そんなものはないのだと、状況ごとに適した技があるだけなのだと、思い知ることになる。
 叶うことなき夢なのだ。
「なるほどな」
 武を求める者には、二つの傾向がある。何らかの目的のために強く在る必要がある者と、強くなること自体が目的である者だ。完全に分けられるものではなく、前者にある程度の後者が含まれる形が多い。
 円鏡流も猛自身も前者に偏重している。倶に立つ相棒であるからには愛着はあっても、あくまで武は生業であり、手段なのである。
 しかし<妖刀ムラマサ>は徹底した後者だ。<横笛>フルートについたこと自体が、自らを高めるにはその方がいいと判断したからだろう。
「自分を極点に押し上げるための敵が欲しいのか」
 ただの技比べはおろか、殺すつもりの真剣勝負もきっと温いのだ。絶望的な敵とやり合い、全てを捨ててただ一つを掴み取りたいのだ。ならば<竪琴ライラ>に敵対するのは正しい選択だと言うほかない。
 この戦いを回避するのは不可能だ。叶うにせよ叶わぬにせよ<妖刀ムラマサ>は自分を斬るだけである。斬れなかったならばそれで終わり、叶ったならばそれも終わり、斬れた上で叶わなかったならば次へ行くだけなのである。
「いいだろう。俺も一切の出し惜しみはなしだ」
 猛もここで<夜魔リリス>を始末しなければならない。立ち塞がるならば、どれほどの強敵であろうとも排除するしかない。
 不思議と高揚している自分に気づいた。武がただの破壊の手段であったとしても、強さへの純粋な渇望は猛にも残っていた。
 全力を出した<妖刀ムラマサ>の力、その種類を予想することは容易い。たった一つの望みをあれほど渇望するのだ。まず間違いなく万物を斬る。
 『阿修羅』では勝てない。何もかもをまとめて切り捨てられて、終わりだ。
 光腕、光剣、光糸が消え、『スルトクラヴィキュラ』が赤熱した。
「逃げろ。死ぬぞ」
 朗々と響く言葉は、呆然と成り行きを眺めていた少年たちへ向けたものだ。
<剣王>ソードマスターと<妖刀ムラマサ>の全力だ。巻き添えになりたいか。<夜魔リリス>も無駄死にをよしとはしないだろう」
 蜘蛛の子を散らすように少年たちが、建物に、山に消えてゆく。
 残るは猛と<妖刀ムラマサ>、ただ二人。
 <妖刀ムラマサ>は上段、切っ先をやや右に傾けて在った。
 対して猛は『スルトクラヴィキュラ』を一旦アスファルトに突き立て、すぐに右の脇構えへと移行した。

「“予言された破滅が来る”」

 引き抜く動きを追って、穴から紅蓮が姿を見せた。
 それは刃のみならず猛にまで纏わりつく。

「“逃れえぬ終わりが来る”」

 紅蓮が縦横無尽に走る。
 くたびれ果てた樹が舐められ、瞬時に炭と化した。

「“冬が終わる”」

 次々と火柱が上がる。
 それは生きているかのように弧を描き、また地に潜り込んでは顔を出す。

「“世界とともに終わる”」

 炙られた窓ガラスが溶けた。
 見ていたのであろう少年が悲鳴を上げて逃げ惑う。

「“巨人は炎の国より来たりてすべてを灰燼と化す”」

 さながら灼熱地獄だ。
 否、これはひとつの神話の終わりである。

「“いと黒きもの、此処に在り”」



 伝承は、北欧へ。



「<黒王スルト>」



 猛がその場で刃を振るうとともに、一帯すべてが燃え上がった。
 スルトとは、北欧神話において炎の巨人たちの住むムスペルヘイムの門を守る巨人だ。
 炎を纏い、神々の黄昏の最後まで生き延びてすべてを灰と沈める。世界樹すらも焼け落ちて、そこで世界は一度終わりを迎えるのだ。
 炎とは破壊の最たる具現である。
 ゆえに、これは単純に破壊と終焉をもたらす。何もかもを焼き尽くし、死を無とする。
 逃亡は無意味だ。世界全てが焼け落ちた因果を逆回しに、炎の届く範囲が一時的に切り離された閉鎖領域となり、閉じ込める。
 <妖刀ムラマサ>が松明のように燃え上がった。















 端山武神流と名乗る流派がある。
 剣の心得などまったくない男が妄想に冒されて信じ込んだ我流である。
 その教えは滑稽だ。
 構える。全力で斬る。相手は反応もできずに死ぬ。
 ありとあらゆる技がそんな調子で、理も何もあったものではない。
 だが男は剣を振り続けた。嘲られても打ち倒されても、一切揺らがない。
 振り続けるうちに力が抜けてゆく。なかったはずの理がわずかに生じた。
 その息子も同じだった。ひたすらに剣を振り続けた。そしてまた理が宿った。
 そして更にその息子。彼には尋常ならざる剣才があった。やはり夢物語ではあっても、もはや妄想とは呼べなかった。
 妄想なくして、求める心は父も祖父も超えていた。
「ひひ、ひひひひ……」
 炎の中で<妖刀ムラマサ>が笑う。
 焼かれながら、笑うのだ。
 上段の構えに一分の乱れもない。
「ま、だか……? けぇむた、いぞ」
 問いの意味は猛には分かる。赤刃を右肩に担げば、周辺を焼き尽くしていた炎が一瞬にしてそこに収束し、刃が再び火炎を吹き上げる黒へと戻る。
 今までの火炎は第一段階に過ぎない。対単体における<黒王スルト>の本領は極限まで高めた灼熱にある。終焉の炎がいかなる刃をも凌駕する。
 予備動作はない。『疾風迅雷』による一歩目からの最高速、『流星』による剣速上昇。それをこの閉鎖領域で。
 真なる<黒王スルト>の一閃が放たれた。
 まったく同時に<妖刀ムラマサ>も動いていた。ただ全力で、望みのまま、感性のままに斬る。
 交錯。
 閃き。
 一拍の沈黙。
 <妖刀ムラマサ>が先に倍する炎に包まれた。
 紅蓮の中から、唸るような言葉が脳髄まで響いた。
「……みぃかん、ふつぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅしッ! 端山武神流はぁやまぶしんりゅうぅ『剣気金剛法・斬泰山』けぇんきこんごぉほぅざぁぁんたいざぁぁぁんッ!!」
 勝利宣言である。
 万象を焼き尽くすはずの炎が真っ二つに割れた。不死を殺し、死を無となすはずの紅蓮が吹き散らされる。
 すべてを焼却する火炎と万物を切り裂く斬撃。絶対と絶対、矛盾する二つは故事の結末の指摘に従えば決着がつく。
 すなわち、純粋に力の強い方が勝つのだ。
「……これは参ったな」
 猛が溜息をついた。
 視線の先で『スルトクラヴィキュラ』が砕けていた。先ほどの斬撃の前に、<魔人>には壊せぬはずの武器型さえも崩壊したのだ。
 宿舎が燃えている。山でも、木々が紅蓮を星空へと捧げ始めた。一時の閉鎖領域が解け、延焼が始まった。
 深夜とはいえ街はまだ眠り切ってはいない。遠くからでも炎は見える。
 ここではかつて山火事が起こっている。名所を奪われた近隣の住民たちにとっては忌まわしい記憶だろう。おそらくすぐに通報され、消防車が来る。野次馬はもっと早いか。遅くとも朝までにはテレビ局や新聞社も顔を見せるはずだ。
 まさかそのときインタビューに応えるわけにもゆくまい。<帝国>エンパイアは何の準備をする暇もなく、この拠点を捨てなければならない。その後どう動くかを誘導することまではできないが、あとは控えている仲間たちがうまくやってくれるだろう。
 心残りなど幾らでもある。しかし最低限の仕事は適った。短いながらも剣に生きた人生、剣で終わるのは当然のことだと受け入れる。
 猛は右肩から左腰までを断たれ、その事実を胸に絶命した。
 死した<魔人>の肉体は塵も残らない。分かたれた二つは煌く光となって立ち上り、虚空に消えた。
 左右の炎に照らされ、残ったのは枯れ木にも似た、死体の如き姿ひとつ。
「くだ、くので、はない……斬らねば」
 財団派最強を屠り、それでも<妖刀ムラマサ>は消えた光を追うように夜空を仰いで嘆息した。
「わが、ねが、い……いまだ、なら、ず……」










[30666] 「せいくらべ・八」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/10/04 11:52




 その青年は人生を謳歌していた。
 青年は容姿に恵まれていた。背丈もあり、爽やかに整った容貌は異性を惹きつけた。運動はそれなり。得意というつもりでこそなかったが苦手でもない。ただし、高校に入るまで剣道の道場に通っていた人間にとってのそれなり、である。
 青年は厳しい両親の次男として生まれ育った。高校を卒業するまでは束縛に次ぐ束縛だったが、甲斐あって、日本人であれば大抵は知っている大学に危なげなく合格した。もちろん、元々学業は優秀だった。
 青年は人生を謳歌していた。
 親元を離れての一人暮らし、自由を満喫していた。不利益さえ覚悟すれば、いつ寝ても起きてもいい。一日中遊び呆けていてもいいのだ。
 もっとも、思い切り遊んではいても成績を捨てるほどではなかった。学生同士で協力し合えば何とかなるものは多い。要領よく立ち回ればどうとでもなるものは多い。
 青年は充実した毎日を送っていた。たくさんの友人たちと遊んだ。房総半島最南端まで初日の出を見に行った。海外旅行にも行った。スキー場で危うく遭難しかけたこともあった。
 眉をひそめられたりもしたが、青年のような者をこそ若者のあるべき姿だと言ってくれた人もいた。自由に動けるときに様々な経験をして、ときには愚かな行為もやらかして、そして社会に出るべきなのだと。
 青年は人生を謳歌していた。入れ替わり立ち替わり、常に異性が傍にいるほどに。
 二十歳までは謳歌していられた。二十歳の誕生日に、奈落が待ち受けていた。
 恋人ですらない、一時の自分を飾るアクセサリーとして捕まえてあった一夜の相手が妊娠したのだ。
 青年は初心を忘れていた。充実した生活を送り、毎日が楽しすぎて、その型に固まってしまっていた。女を口説くことなど遊びの一環に過ぎないと、遊びなのだからいい加減で構わないのだと、いつしか勘違いしていたのだ。あくまでも相手は自分と同じ、ひとりの人間であるというのに。
 だから不幸などではない、不運などではない。極めて妥当な結末である。
 青年の両親は厳格だった。親元を離れてからの青年の行動については大まかにしか把握していなかったため、不愉快ではあってもそれも経験とそれまでは大目に見ていたのだ。厳しく育てた自覚があったからそこまで酷くはならないだろうと信じてもいた。しかし詳細を知った今、堕ろせばいいとへらへら笑う己が次男を殴り倒し、責任を取ることを命じた。そして一切の援助をしないと宣言した。
 青年は大学を辞めて働かざるを得なかった。既に友人たちの自分を見る目が変化していることは察していた。変わらぬ関係を続けてゆけるわけもなかった。
 散々遊んだ上での大学中退である。専門性のある技能や知識など碌に持ち合わせていない。仕事に貴賎はないとは言うものの、青年自身にとっては自分に相応しい仕事、相応しくない仕事というものがあった。無論、相応しくない仕事に従事することになった。
 どうしてこんなことになったのか。こんなはずではなかったのに。憤りが常に心の内に渦巻いた。
 皮肉なことに妻となった女性はこの状況を内心喜んでいた。子を授かったことは彼女にも予想外だったのだが、単純に青年のことが好きだったのだ。青年が不満を抱いていることは理解していた。それでも子が産まれればかすがいになってくれると信じていた。浅薄と評するべきか否か。自分の血を継ぐか弱き存在が心を溶かすことは、一般的には決して稀な事態ではなかったのだろうが。
 娘が生まれても青年は変わらなかった。むしろ、自分の幸せを潰した元凶が形になったことでいっそうの憎しみを募らせた。
 抱いてやって欲しいと言われて拒絶した。無理矢理に抱かされて、床に投げつけたくなる衝動を堪えるので精一杯だった。
 愛することなどできなかった。青年はあくまでも身勝手だった。高校までの優等生、ある種の人間から見たときの素晴らしい若者は、もはやだたの屑へと堕ちていた。
 二年経って両親が死んだ。交通事故だった。葬式はほとんど兄に任せ、息子として一応は泣いてみせた。胸の内ではいい気味だとすら思っていた。
 さらに一年して妻が失踪した。書置きには、もう耐えられないとだけあった。邪魔者むすめも連れて行けよと悪態をつき、捜索願は出さなかった。
 娘は保育所へも幼稚園へもやらず、住んでいるアパートから一歩も出歩かせなかった。死なせて責任を問われるのは嫌だったので食べ物と飲み物だけはやった。
 妻がいなくなった分、自由は増えた。また一夜の相手を求めた。部屋に帰ってくると娘が隅で怯えた目をしているのが鬱陶しかった。
 そしてまた一年。
 飲み明かした帰り、アパート近くの公園に警察と野次馬が集まっていた。
 あの暗い部屋にいるはずの娘が、扼殺死体としてそこで発見されたのだった。
 酔いなどどこかへ飛んでいった。その瞬間、青年の思考が塗り替えられていた。







 情景は茫洋としている。
 二月後、青年は夜を彷徨っていた。
 名も姿も捨て、<魔人>となって仇を捜し求めていた。
 犯人はまだ捕まらない。当初はニュースで連日報道されていた事件もすっかり薄れ、次の事件に主役を取って代わられていた。真相へ辿り着くことはもうないのではないかと思えた。
 しかし力を得てみれば、裏側を知ってみれば、世界はそれまでと違う様相を見せていた。
 警察が犯人に迫れないのも当然だったのだ。犯人は<魔人>の助けを借りている。そうであるならば、気づかれぬうちに殺すことも、人の目、監視機器を逃れて遠くに移動することも不思議はない。<魔人>は理不尽を行うのだ。
 青年は情報を集めた。そして居場所を突き止めた。
 月が綺麗だった。さぞ血に映えるだろうと、暗い諧謔が脳裏をよぎるほどに、曖昧な景色の中でこれだけが鮮烈だ。
 しかし邪魔するものがあったのである。
『人にはくぐるべきではない門があります』
 そいつはそう言った。
 白い長剣を右手に、光そのものを集めたような盾を左手に、立ち塞がっていた。
 見た目だけならば八つほどは年下、といったところだろう。ちょうど高等学校に通っている頃である。
 しかし落ち着いた眼差しは歳など忘れさせるほどのものだった。
『彼はあくまでも人間です。捕らえるのは警察に、裁くのは司法に任せるべきなんです。そのための準備はこちらで既に進んでいます』
「そんなおためごかしで止められると思うかァ!!」
 青年は咆えた。
「奴は俺がこの手で裁く!」
 戦鎚から撃ち出したのは紫電だ。それは無軌道に空間を暴れ、それでも最後には少年に吸い込まれる。
 もっとも、通じはしなかった。輝く盾が的確に受け止め、紫電は虚空に散った。
『この門をくぐらせるわけにはいきません。一度踏み越えてしまえば、あなたは二度と後戻りできなくなる』
 彼を冷静と評するのは間違いなのだろう。理不尽を咀嚼した苦みと憂いとを堪え、落ち着いた口調で語っているだけなのだ。
 残念ながら目を血走らせた青年にそこまでの観察はできなかった。戦鎚を構え、雷を纏わせて、この邪魔者をどうやって排除してくれようかと熱い息を吐く。
「消えろ! 死ねよクソガキがァッ!!」
 踏み込み、渾身の一撃を見舞う。
 <魔人>となって間もない青年は、これがどれほどのものまでも破壊できるのかを知らない。
 洗練されていない替わりに見境なく力の詰め込まれた一撃は、打撃の瞬間に凝集された破壊を周囲にばら撒く。20メートル四方の建造物は衝撃だけで瓦礫と化すだろう。
 だが、少年がそうはさせなかった。まともに振り下ろされるよりも早く、盾でもって戦鎚の動きを止め、そこから流したのだ。攻撃というものは最大の威力を発揮する位置や瞬間がある。その二つを外させ、かつ盾型のクラウンアームズが発生させている強力な緩衝能力によって周辺被害を出さない程度にまで押さえ込んだのである。
 恐るべき所業なのだが青年に理解できるはずもなく、もう一度戦鎚を叩き付けんとする。
「止められるなら止めてみろ、雑魚がッ!」
『いいえ』
 少年は轟撃を捌きながら静かに告げた。
『あなたを止めるのは俺じゃありませんよ』
 左腕の盾が、腹立たしいほど精確に戦鎚を抑えてゆく。右手の剣は一度も振るわれない。
「死ねッ! 死ねッ!! 死ねよオラッ!!!」
 迸る激情のままに叩きつけるも、効かない。大人に殴りかかる幼い子供のようだった。
 それでも青年は戦鎚を振り続けた。それを何分も、何十分も続けた。
「奴を! 俺に! 潰させろッ!!」
 自分がどんな動きをしているのかも分からなかった。ただ振り、ただ叫ぶのだ。
「あいつがどんな悪いことをした!? なぜ死ななければならなかった!?」
 悲痛に響くその言葉にも少年は応えなかった。痛ましそうに眉根を寄せつつ、防ぎ続ける。
 その光景もぼやけ、いつしか青年の手は止まっていた。
 自分が泣いていること、これにも気づけなかった。
「みんな忘れてしまう……あの子が生きた証が消えてしまう……だから俺が!」
 これは夢だ。かつての光景だ。
 第三者的な位置から見えていた青年、自分の視点となり、言ったはずの言葉、聞いたはずの言葉が自動的に交わされる。
 そして意識が覚醒してゆくにつれ、自分の台詞が聞こえなくなってゆく。
『あなたを止めるのは俺じゃなくて、あなた自身です』

『分かっているんでしょう? あなたは決して、犯人を殺したいわけじゃない』

『何もしない自分が許せないから、せめて仇を討とうとした』

『けれどそれは、くぐるべきではない門です』

『償いなら、やり方は他にもあります。たとえば……』

『俺たちと一緒に平和を守りませんか?』

『あなたが大きな間違いを犯してきたなら、それは過ちという貴重な経験をしてきたということです』

『俺たちは結局、十代のガキに過ぎません。あなたの視点は大きな糧になる』

『どうか、一緒に来てくれませんか?』
 そう言って、少年は自分に手を差し伸べた。
 そして自分はその手をとった。言葉遣いも変え、年齢どおりの『大人』を演じることにしたのだ。





















 <剣王>ソードマスター敗死の報は<竪琴ライラ>も<横笛>フルートも路地裏の一匹狼も、日本中の<魔人>という<魔人>を震撼させた。
 ただの強力な<魔人>ではないのだ。世界最大規模となる<竪琴ライラ>においてさえ押しも押されもせぬ最強クラス、敵からは恐怖、味方からは畏怖とともに語られた真正の強者が敗れたことは、極めて大きな動揺をもたらした。
 そして何より衝撃を受けたのは、財団派ではなく騎士派だった。半年前に移籍したとは言っても、今いるうちの七割がその強さを近くで見ていたのだ。誤報なのではないかと一度ならず疑わずにいられなかった。
「……彼に勝ちうる<魔人>なんて日本に何人もいない……と思っていたんだが……」
 <空中庭園>の最奥、エリシエルも住まう騎士派本部の玄関で報告を聞いた徹も、かすれた声で呟いた。
「誰にやられたのか知っているか?」
「昨夜<帝国>エンパイアを強襲して、それで返り討ちになったとか……」
 報告を持ってきたのは目をかけている少年だ。猛のことを直接知っているわけではないからか、驚愕よりも周囲の落ち込みに対する戸惑いの方が大きそうだった。
「<妖刀ムラマサ>とかいうそうですよ。正体不明の、なんでか<帝国>エンパイアにいる奴らしいです」
「<妖刀ムラマサ>、か……」
 <闘争牙城>のトップクラスであり<横笛>フルートに加わったうちの一人、とだけ知っていた。
 ともあれ、財団派のみならず<竪琴ライラ>全体としても非常にまずい事態になったと言える。
 <竪琴ライラ>という名の持つ抑止力がまたひとつ衰えた。<横笛>フルートならまだしも、新興の数十人規模だった<帝国>エンパイアにやられた事実が拍車をかける。
 実際には現在も<竪琴ライラ>こそが日本で最も強大な<魔人>集団であるに違いないだろうが、そう考えられなくなる<魔人>は多いはずだ。勝ち馬に乗りたい日和見が動いてしまう。財団派の泥沼が<竪琴ライラ>全体に広がるおそれも現実味を帯びてきた。
「……大丈夫なんでしょうか?」
 少年が不安そうに見上げてくる。
 大丈夫、とは本当は言えないのだろう。<王者チャンプ>には勝てず、<剣王>ソードマスターも敗れた。これから状況がどう転がってゆくのか、徹自身にも不安がある。しかしそれを表に出すわけにはいかなかった。
「問題ないとまでは言えないが、<竪琴ライラ>にはまだ余力がある。大丈夫だ」
 完全に否定してしまっては強がりに映る。だからそう答えた。
 少年は果たして意図に気づいたのか否か。愛嬌のある笑顔で頷いた。
「そうですね。暗い顔してたらまた姫に怒られる」
「目に浮かぶようだな」
「じゃあ俺、行きます。ぐずぐずしてられない」
 軽く手を振って、少年が背を向けた。
 徹は仮にも年長者で、かつ砲撃方筆頭マスターボウである。他の者なら礼の一つもするところ、相変わらずの不遜な少年だった。
 それが許されるのは愛嬌ある顔立ちや人柄にも理由があるが、何より砲撃方ボウとして極めて高い素質に恵まれたことが大きい。
 ただの人間であったときには活かされることのなかった潜在出力、砲撃能力の源となるそれを<魔人>として最高の規模で彼は有している。そこから更に高位のクラウンアームズによって増幅された一撃は壮絶の一言だ。徹の術などほとんどが十把一絡げに小技として飲み込まれてしまうだろう。
 その一方で、それ以外の能力に関しては騎士派として最低限のものを有しているに過ぎない。一芸特化は騎士派には珍しく、そぐわないと陰口を叩く者もあるのだが、有無を言わせぬ威力はその陰口をも叩き潰すのだ。
 無論、やり合って徹が負けることはない。火力だけで勝てるほど砲撃方筆頭マスターボウの名は安くない。
 しかし成長すれば分からない。彼の伸び代がどの程度残されているのかは分からないが、もしかすると一年後、二年後の騎士派最強を担うのはあの少年であるのかもしれないのだ。だから特別に目をかけている。
「……なにはともあれ、ここに突っ立っていても仕方ないか」
 呟き、胸に湧いていた暗澹たる不快を振り払って玄関から奥へと歩み出す。
 まずはエリシエルに会って意向を尋ねておき、それから一輝や聡司とも話をせねばなるまいと考えたそのとき、また呼び止められた。
「徹さん!」
 先の少年ではない。有力な白兵方クラブの一人だ。名は確か瀬尾大地と言っただろうか。
 振り返り、何事かと問う前に、絶叫が響き渡った。
「聡司さんを止めてください! 仇をとりに行くって暴れてるんです!!」











 剣を握る手には冷たい怒りを、ゆっくりと踏み出す足には焼けつく憤りを。
 市中聡司の歩みを誰も止められないでいた。
 支離滅裂に喚いてでもいたなら総がかりで押さえ込もうともしただろうが、寄らば斬るとばかりに剣呑な眼光を放つ双眸は悪い意味で冷静だった。己が障害となる存在を排除する算段を機械的に行っている。
 接近戦で白兵方筆頭マスタークラブを止められる白兵方クラブはいない。かつ、聡司は一度高速機動を始めれば上位の疾駆方ダガーに匹敵、下手をすれば上回る。疾駆方ダガー砲撃方ボウも止められない。
 事実、既に軽率だった三十名近くが聡司に退けられている。
 殺してでも、何人殺されてでも、とまで覚悟を決めたならあるいは可能だったろうが、まさかそんなわけにはいかない。
 必要なのは総合的な実力だ。だから今は止められる誰かを呼びに走らせ、残りは遠巻きにしている。
 しかし聡司は容赦なく、この<空中庭園>の出口へと歩を進めていた。
 焦燥が高まってゆく。やはり無理をしてでも、と誰かが呟き、自棄になるなと誰かが止める。
 転移地点となる四阿あずまやまであと30メートル。その気になれば一瞬、一歩で辿り着けるだろう。
 しかしそこで四阿が光に包まれた。外界よりの転移の印だ。
 光が消えたとき、騎士たちは息を呑んだ。
 聡司までもが足を止め、目を丸くした。
 よく知った姿だ。
 年の頃は十七、八。中肉中背よりはやや大柄。
 異様に酷薄そうな凶貌をしながら、浮かぶのはむしろ穏やかな笑顔。
 そこへ、目の前の光景を見てか戸惑いが加わる。
「何かトラブルかな」
 声もまた穏やかだ。偽りではなく、面構えよりも表情と声の方が本質なのだと騎士派の皆が知っている。
「エリスに報告することはあるんだけど、その前にこの状況を説明してもらった方がいいみたいだ。いいかな、聡司?」



 この日このとき、一月を不在としていた筆頭騎士マスターナイト四辻圭が<空中庭園>に帰還したのだ。







[30666] 「せいくらべ・九」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/11/08 12:21



 力が溢れ出す。
 内側で力が暴れまわる。
 それは昔からのことだった。有り余る力が気持ち悪い。発散させなければ自分は壊れてしまう。
 異能の類ではない。成長期に日々強く逞しくなってゆく肉体の、力を持て余していたという話である。
 だが気持ちの悪さは本物だ。肉体の成長期は精神の過渡期でもある。
 そして、荒々しい気性、不安定な心が求めたのは暴力だった。
 とはいっても弱者をいたぶって楽しむような趣味は持ち合わせていなかった。理由には侠気的な要素もあるが、まずなによりそんなものでは力を限界まで使い果たせない。だから『ご同類』を、あるいはそれこそ弱者をいたぶる輩を的にかけていった。
 しかし力が暴れる感覚は消えなかった。どれだけ人を殴っても殴られても、不機嫌は収まらなかった。
 <魔人>のことを知り、自分もそうなれば何かが変わるかと思ってなってもみたが、気持ちの悪さは増すばかりだった。
 破裂してしまいそうだったのだ。
 あの日、自分などとは次元の違う強さによって叩きのめされるまでは。





 市中聡司にとっての新島猛とは、不満を昇華してくれた恩人であり、更なる強さへ至る手ほどきをしてくれた師であり、いつか越えるべき壁だった。
 それを失って平静でいられるわけがないのだ。
 昇華したはずの、えも言われぬ不快感が心と身体を満たしている。解放しろと荒れ狂うそれを久々に飼い慣らしながら、周囲が筆頭騎士マスターナイトへ行う状況説明を黙って聞いていた。
「……正直に言えば信じがたい」
 さすがに圭も動揺を滲ませていた。当然といえば当然だろう。四辻圭と新島猛は<竪琴ライラ>草創期からエリシエルの傍らで共に剣を振るっていた間柄なのだ。
「今朝、聞こえては来てたんだけど……どちらかの策略で撒いた噂かと思ってた。でもそうか、本当に逝ったのか……」
 静かに目を閉じる。黙祷なのだろうか、そのまましばし居て、再び開けたときには揺るぎない理知の光があった。
「そして聡司は仇討ちか。そうだろうね、そうでなきゃ聡司じゃない気がする」
「止めるつもりか? それとも行かせてくれるのか」
 聡司はフランベルジュを構えた。
 今まで大人しくしていたのは、圭が帰って来た以上強行突破は難しく、そして仮に成功したとしてもすぐに捕捉され追いつかれるであろうことが、焼き切れそうな理性の残り滓でも分かっていたからだ。
 猪突猛進なエリシエルに代わり、実務的な意味で騎士派をまとめて来たのはこの男だ。指揮を執れば騎士たちの動きが明らかに変わってくるのだ。
 そして圭は言った。
「俺は認めてもいいよ。条件さえ満たせたらだけど」
 周囲がどよめいた。だが非難の声は起こらない。圭の人望もあるが、皆、本心の隅には仇を討つことへの肯定の思いがある。
 しかし聡司は構えた剣を下ろさない。
「それで、条件は?」
「大前提だよ。誰にやられたかは分からないけど、仇をとるなら猛さんより強くないと返り討ち、自己満足の無駄死にだ。さすがにその道への門をくぐることを認めるわけにはいかない。つまり……」
 独特の言い回しと同期して、虚空から滲み出すようにクラウンアームズが顕現した。
 右手には白い長剣、左手には光そのものを集めたような盾。筆頭騎士マスターナイトが鋭く目を細める。
 そうしていると凶貌と相まって、死神めいて空恐ろしい。
「俺より強いと証明できなきゃ駄目だ」
「上等ォ」
 にぃぃ、と聡司は笑った。
 この条件は読めていた。望むところでもある。
「乗った!」
 承諾から間髪入れず、衝動に身を乗せて地を蹴っていた。
 奇襲である。『疾風迅雷』まで使っての、反応自体を潰す袈裟の一撃だ。
 しかし剣閃は中途に遮られた。光の盾がいとも容易く弾いていた。
 圭は察知してから反応したのではなく、聡司が踏み出したときには既に対処の準備を終えていたのだ。
「……相変わらずの先読みが鬱陶しいな」
 豪快な挙動による風を巻き起こしながら距離をとり、聡司は軽く舌打ちをする。
 牽制程度のつもりであったとはいえこうも容易く捌かれるとは思っていなかった。何がまずかったか。自問し、解はすぐに出た。
 急ぎすぎた。急加速の下でも体勢を維持するための前傾。その予備動作を聡司は消しきれない。そこから読まれたのだろう。
 焦るな。煮えた頭に言い聞かせる。一刻一秒を争っているわけではない。ここで勝利をもぎ取ることが大事なのだと。
 四辻圭は掛け値なく強い。
 筆頭騎士マスターナイトは、形としては央ノ要オールラウンダーの最高峰にあたる。ありとあらゆる局面において、ありとあらゆる相手に対し、得意を潰して苦手を突く。決して思い通りに戦わせてはもらえない。
 だが、それを叩き潰してこそ前へと進む証明になろうというものだ。
 改めて観察する。
 まず右手の長剣。剣身だけで1メートルを超え、柄も鍔も長い。クラウンアームズの材質を問うのも詮無い話であるが、その処女雪の如き純白はどのようにしてもたらされているのか不思議ではある。
 『サザンクロス』という名から連想させるとおりに十字の印象が強いそれは、大アルカナの名を負う二十二の規格外を除けば最高位のクラウンアームズである。聡司の『ヴァルカンブレス』ですらその一つ下の位階となる。威力ゆえにか、鍛錬などの際にも味方に振るわれることはほとんどないため、真価は聡司にも不明だ。
 そして輝く盾。直径40センチメートルほどで、球体の一部を切り出してきたかのように徹底的に曲面で形作られている。
 低位ではないが高位とも言えないという話が嘘だとしか思えないほど、この『サンクチュアリ』は敵の攻撃を巧く捌いてゆく。聖域とはよく言ったものだ。大抵の<魔人>にとって不可侵の絶対防御圏を形成する。
 無論、『サンクチュアリ』が本当に不可侵なのではない。四辻圭という男の実力が極めて堅固な防衛領域を作り上げるのだ。まだ何か見えていない理由はあるかもしれないが。
 それは裏返せば、こちらの強さでもって侵略可能であることを意味する。かつて、<剣王>ソードマスターが行っていたように。
「だが行くぜ。覚悟はいいな」
 今度は靴底で地を確かめながら、圭の周囲を大きく回る。最初はゆっくりと、唐突に速く、そしてまた緩やかに。止まることだけは決してない。
 緩急は徐々に拍子をずらしてゆき、かつ幅が極端に大きくなってゆく。しかし<魔人>の所業である。基本的には恐ろしいまでの高速だ。
 騎士派三方武芸トリニティアーツ脚法は『疾風迅雷』しかないわけではない。
 二式『大鬼蓮』。瞬間的な、しかし絶対的なまでに強固な足場を形成する。たとえそこが水面であろうとも地上と同じように踏み出すことを可能とする術である。
 それを用いて今行うのは、足先だけによる急加速と急減速。水平な地面ではなくやや角度をつけた『大鬼蓮』によって、精妙な動きを補助するのだ。
 戦闘状態における<魔人>の知覚力は人を遥かに超えるが、同じく<魔人>であるならばそれを振り切ることも不可能ではない。大道芸と嘲った者はあるが、それで手も足も出ずに切り倒されているのでは負け惜しみにしかならなかった。
 拍子を惑わせたまま、聡司は機を窺う。
 圭はまったく動いていない。こちらの動きを追ってはいるのだろうが、仕掛けてくるときを静かに待っているようだった。
 さすがは、と言うほどではあるまい。四辻圭ならば乗せられるはずもない。
 聡司の双眸が不意に細められた。
 踏み込んだ。位置は圭の右斜め後ろ、盾からは最も遠い位置。
 単純な速度であれば先ほどの奇襲の方が上だろう。しかし今度はいつ仕掛けるかを容易く読ませない。
 視界内に標的が広がる中、フランベルジュが音もなく突き出される。狙うは腹部、最もかわし辛い箇所だ。
 圭の反応は確かに遅れた。こちらの姿を捉えたときには既に刃は触れんばかりだった。
 そのままいけば腹部を貫いたはずだ。しかし波打つ刃は浅く脇腹を裂くに留まった。
「……それは……!」
 弧を描き、支えもないままに半身を守護する黄金の盾。昨日エリシエルが行っていた防御法だ。
 あれほどの強度はないのだろう。刺突の征くはずだった線を絡めとるようにして強制的に外しただけである。
 しかし驚愕の呻きを漏らさせるには十分な光景だった。
 一方、くるりと回って向き直った圭もまた、驚きの色とともにあった。それから小さく笑う。
「そうか、一月だもんな」
 いつもの、顔に似合わぬやわらかな笑い方だ。
「男子三日会わざれば刮目して見よ。『大鬼蓮』の使い方、見違えた」
「うるさい。お前確か同い年タメだろうが。上から目線は気に食わん」
 ぶっきら棒に聡司は応えた。<魔人>としての戦歴は向こうが倍近いが舐められるのは癪に障る。たとえ本当に圭が高みにあるとしてもだ。
「それよりさっきのはどういうことだ? 盾の異能ってわけじゃないんだろう?」
「もちろん」
 圭が一旦、剣と盾を下ろす。
「あれも騎士派三方武芸トリニティアーツさ」
「俺は知らんぞ!」
 動揺を抑えられなかった。聡司は<剣王>ソードマスターの一番弟子を自認している。騎士派三方武芸トリニティアーツについて、二番目によく知っているつもりでいたのだ。
 そして圭も聡司の思いはよく分かっていた。
「猛さんはすべての騎士派三方武芸トリニティアーツのうち、半分も伝えられてない。教わった時期は覚えてるかな?」
「……先代アニキが財団派に行く少し前だ」
「ひとまずの完成を見たの自体がその頃なんだ。一度にはすべて教えられない。まずは脚法や操法を使いこなせないと、難度の跳ね上がる創成法は成功しない。基礎も固まらないうちに応用に囚われたら碌なことにならない。『大鬼蓮』なんかはちょうど、基礎になる要素が大きく含まれてる」
 黄金の輝きが今一度、盾を形作る。
「基礎から発展させた創成法の基本、一式『千目』だ。俺のは猛さんの七割程度の強度しかないけど、こう利用してる」
 光の盾が『サンクチュアリ』に重なる。眩いばかりの輝きがそこには宿っていた。
 それこそが『サンクチュアリ』の防御能力が異常に高い理由なのだと、聡司は得心した。
「それで、どうしてお前は使える?」
「答えは単純だ、騎士派三方武芸トリニティアーツの開発は俺も手伝ったからだよ」
 その答えを聡司は不思議と穏やかな気持ちで聞いた。
 そうなのか、と静かに思ったのだ。
「……なるほどな」
 戸惑ったのはむしろ圭の方だった。
「嘘っぽく聞こえてもおかしくないはずなんだけど、信じてくれるのか?」
 聡司は今、復讐に逸っている。正常な精神状態ではないはずなのだ。そして新島猛を兄貴分として一番に慕っているという自負がある以上、とっさに否定したくなってしかるべき言葉だったはずだ。
 それなのに、にやりとばかりに口の端を吊り上げた笑みに毒はなかった。
「さあな。俺はあんまり頭のいい方じゃないんでね、困ったことにお前が嘘つく理由に思い当たらない。ただ先代アニキのことは信じてるし、お前のことも信頼してる」
 無論のこと、聡司にも嫉みが湧かなかったわけではない。しかしそれは、ともに肩を並べて来た仲間への思いを決して上回りはしなかった。
 市中聡司は暴走していてさえ、騎士派の一員である己までは失っていなかったのだ。
 フランベルジュ『ヴァルカンブレス』を構え直す。
 闘志に、些かの衰えもない。
「お前は俺が思ってるよりも凄いらしい。だが俺は仇討ちに行くためにお前を倒さなきゃならん。なら、やることは変わらん。改めて勝負だ、筆頭騎士マスターナイト四辻圭ッ!」
 二度目の『疾風迅雷』とともに踏み切った。





 『ヴァルカンブレス』が紅蓮の炎を纏う。
 フランベルジュとは刃の描く波状線が炎を想起させることからついた名称である。赤の中では刃そのものまでが揺らめいていた。
 一閃。
 光の盾がそれを受け止めるも、火炎が鮮烈な顎を開いて圧し掛かる。
 エリシエルとの試合では用いることのなかった力だ。近寄るだけで命を削り、触れるものを焼き尽くす。
 しかし圭には通じない。金色の薄い膜が十三、半球状にその身を覆えば、余波に過ぎない炎は完全に緩衝されてしまう。
 前兆もなく総毛立った。背筋に走った予感に従い、聡司は咄嗟に後ろへと跳躍する。
 その勘は正しかった。閃光のように突き出された剣が、先ほどまで聡司のいた空間を貫いていた。
「創成法一式『千目』が派生、『少糸』。面攻撃、多面攻撃に対する防御法だよ。『千目』よりは面積当たりの防御力は下がるけど、ぶちまけられる余波程度なら充分凌げる」
 圭がわざわざそう口にした意味を推察するのは容易い。その場で機転をはたらかせて創り上げたものなどではなく、既に体系化されて存在しているのだと告げているのだろう。
 そして恐るべきは技の切り替えの早さである。『千目』で刃を受け、受け止めきったならば即座に『少糸』で炎を散らし、刺突はおそらく『流星』が乗っているがための超速度だ。
 実のところ、切り替えなくとも複数の騎士派三方武芸トリニティアーツの並列使用自体は可能だ。聡司にしても例えば、『疾風迅雷』と『流星』とを同時に用いて攻撃を仕掛けることはできる。最速で間合いを詰めて最速で斬る、あるいは突く。これだけで切り札になり得る、単純にして恐るべき組み合わせだ。
 しかしそれは二つを完全に並立させることが出来て初めて真価を発揮する。<剣王>ソードマスターならば並立を完全にやってのけた。けれども聡司には出来ない。一つ一つの効力が大きく低下してしまう。片方だけを使うのに比べて、必ずしも有用であるとは言えない。
 このような理由から並列行使が採られることはほとんどない。切り替えてゆくのが基本だ。創成法について聡司が知らなくともこの基本は同じであろうし、光の膜が発生したときには盾の輝きが薄まり、刺突の際には防護膜が消えていたことには気づいていた。
 それぞれが刹那を切り取ったような出来事だというのに、圭はすべてを捉え、行動を組み立て鮮やかに実行したのである。
 ああ、だが。
「負けられん……!」
 聡司にとっての四辻圭は、筆頭騎士マスターナイトである以上に新島猛と肩を並べて戦っていた男である。その実力に対する羨み、立ち位置への対抗心が思いの八割を占める。
 互いに忙しい立場であることもあり、こうやって剣を交えることも稀だったが、今更ながら手が震えてきた。
 口の両端が大きく吊り上がる。
 怯懦はない。武者震いだ。フランベルジュの柄を強く握ればすべて止まった。
 そして一度緩め、肩に担ぐ。
 思うのは猛のことだ。先代アニキならどう料理しただろうか、あの防御をどう破るのか、と。
 じり、じり、足裏を摺りながら左斜めに身を進める。
 圭の防御の要はやはり盾、クラウンアームズ『サンクチュアリ』だ。光の盾ではこちらの攻撃を緩めることしかできない。
 直径40センチメートルほどの『サンクチュアリ』は左の前腕に固定した状態で使用されている。となれば対応範囲も手盾のようにはいかないだろう。例えば右半身、あるいは足元への攻撃は無理をしなければ防げないはずだ。
 しかしだからと言って安易にそこを狙うことは躊躇われた。圭自身がそのことに気づいていないなどということはありえない。自ら罠に飛び込むことになる可能性が高い。
 ならばどうするか。
 浮かぼうとした迷いは捨てた。
 飛び込むことにした。
 前傾姿勢からの『疾風迅雷』で仕掛けるところまでは同じ、ただし圭の目前で身を落としてスライディングに切り替えたのだ。
 圭がどう動くか、引き延ばされた時間の中で聡司は観察する。どう対応されたとしても、最悪でも足を絡めて転がしてしまえばいい。長く重い武器を持った敵の前で転倒状態になることがどれほど危険なのかは路上の喧嘩で嫌というほど知っていた。
 果たして圭は軽く後ろへ跳んだ。予見していたかのように自然な動きだった。
 先ほどのように直感が危機を喚いた。
 周囲が金色に染まる。身を起こす暇などなかった。
 地面から吹き出すようにして現れた幾十もの黄金の杭が聡司の両脚を貫いていた。
 頭の中が真っ赤に焼ける。
「…………っ!?」
 漏れかけた苦鳴を喉の奥に堪え、ずたずたになった両脚を復元しつつ体勢を整える。
 圭は剣と盾を構えたまま静かに告げた。
騎士派三方武芸トリニティアーツ射法三式『逆氷柱さかつらら』……足から地面に力を叩き込んで、杭を遠隔形成する技だ。発生しているのは本当に一瞬だから速過ぎる相手にはタイミングが合わないことがあるし、白兵戦の真っ最中には使うだけの時間が取れないことが多いんだけど……足狙いへのカウンターにはちょうどいい」
「……待て」
 違和感があった。
 『疾風迅雷』にせよ『大鬼蓮』にせよ『流星』にせよ、遠隔攻撃などに用いる潜在出力を肉体的な戦闘能力の補助とする技である。あくまでも肉体が主であり、特に流星などは高い白兵戦能力がなければ指の掛けどころすら分からない。
 しかしだ。
「……今の『逆氷柱』、それどころか『千目』もよく考えれば砲撃方ボウの技にしか見えんが」
「『逆氷柱』はそう言ってもいいかもね。元々遠隔攻撃を得意とする<魔人>が近づかれたとき身を守るために作られた技だし、必要な要素も砲撃方ボウなら満たしやすい。けど『千目』はそうじゃないな。あれはエリスのやつとはちょっと違って……自分自身の防御能力の高さを盾という概念として発生させてるとでも言うのかな、だからある程度の接近戦能力がないと出すことすらできない。潜在出力も利いてはくるんだけどね」
 圭はそこで少し笑った。
「俺の『千目』は猛さんの七割って言ったろ? それが証拠だ」
「……なるほど」
 事実を口にしていることが前提にはなるが、少なくともそこだけは納得できた。
 新島猛の潜在出力は並の騎士派<魔人>と大差なかった。一方で圭は砲撃方筆頭マスターボウである徹に迫る出力を有している。それだけの差があっても圭が猛の七割にしかならないということは『千目』が肉体的戦闘能力に大きく依存することの証左である。
 だが、全体的な違和感は拭えない。
 その理由は圭の口から語られた。
騎士派三方武芸トリニティアーツ白兵方クラブのためのものだったはず……そんなところかな?」
 聡司は行動に肯定を出さなかったものの、まさにそれこそが惑いの主体に違いなかった。
 とはいえ少し考えるだけで答えは出せるのだ。今はその答えを他者の口から聞いて確信したかった。
 そして圭は口にした。
騎士派三方武芸トリニティアーツは本来騎士派すべてのために作られた。だから白疾砲三方トリニティなんだ。ただ、猛さんが遠隔攻撃を苦手としていたことと白兵方筆頭マスタークラブだったことから、まずは白兵方クラブに伝えられて、移籍のせいでそれ以上広げられなかった」
 どよめきが広がった。周囲で推移を見守っていた騎士たちが互いに顔を見合わせる。
 圭も、聡司にというよりは皆に向かって更に続けた。
「騎士派は得手不得手程度はあっても突出した圧倒的な要素をほとんど持たない。よくそう言われるけど、騎士派三方武芸トリニティアーツは三つの素養すべてを必要とする。どれが欠けても成り立たない。騎士派だからこそ全員が使いうる技術だ。猛さんは俺たちにこれを遺してくれた」
 どよめきが大きくなる。
 <王者チャンプ>に散々苦渋を舐めさせられたことで失われた士気、<剣王>ソードマスター死亡の報によって蔓延した絶望感、そこに一筋の光が灯される。
「俯くな、泣き言を吐くな。<剣王>ソードマスターに恥じることない騎士であれ!」
 圭は凶貌とうらはらに温和な少年である。しかし今放った激は確かに騎士派を背負う力と重さを有していた。たったこれだけの言葉で皆の顔に精気が満ちてゆくのだ。
 聡司もまた、胸打たれるものはあった。
 四辻圭は強い男だ。理屈も何も捨て去って、真っ白な心が素直にそう思う。
 自分にはまだ何かが足りない。胸の内の不快を消し去るには、あとひとつ何かが見出せていない。
 だから剣を構える。
「勝負はまだ終わってないぜ」
「もちろんだ」
 圭は驚きもしなかった。
 驚かなかったことに聡司も驚かなかった。圭は決して、技術で喋らない。人を操りたいとは思っていない。そのことを知っているからだ。むしろここで剣を引いたら先ほどのように拍子抜けした顔を見せたことだろう。
 全力で踏み出した。
 三度目の『疾風迅雷』だ。





 叩きつける。
 相も変わらず圭は的確に剣閃と火炎を防いでゆくが、気にすることなく嵐の如く攻め立てる。
 考えない。衝動と肉体に任せる。
 『サンクチュアリ』を用いた打撃によって弾き飛ばされ、しかし土煙を立てて両足と左手で支え、また即座に飛び出す。
 身体の奥で拍動がある。全身を仄かな輝きが覆う。聡司の戦格クラスの片割れである<バーサーカー>の持つ異能が発現しているのだ。
 肉体の強度を下げ、その分の力を破壊に上乗せする。攻めて、攻めて、攻めて、攻めて攻めて攻めて攻めて攻め切る。
 思い出していた。取り戻していた。自分はただのチンピラだったではないか。訳も分からず溢れる力を振り回すだけの存在だったではないか。
 かつて、この暴力を新島猛の武力が下した。だが自分の原点はやはり今もここにある。
 読まれることなど気にしない。読みごと叩き潰さんとする。
 そして騎士派として過ごした時間も聡司を裏切らない。
 圭が後ろへと地を蹴るとともにその足元から飛び出した『逆氷柱』、今度は感知してから剣でもって粉砕していた。
 二度目だから、というだけではない。先ほどのように発動と貫通が同時になってしまうような体勢でもない限り、身体に任せてさえ対処できない攻撃ではない。そう言えるだけの力が今の自分には培われていた。
 感覚が研ぎ澄まされている。この世にあるものは自分と世界の二つだけであるかのように感じられた。
 懐かしい。
 鼻の奥で血と闘争の臭いがする。善も悪もない、理想も理屈もない、純化された何かが胸にあった。
 剣が届かない。足りないものは何か。速度だ。もっと突進の速さが欲しい。ならば『疾風迅雷』だ。
 ぶれる。巧く踏み込み切れない。もっと足元が確かであって欲しい。ならば『大鬼蓮』だ。
 こちらの剣先よりも向こうの盾の移動が早い。読まれている。しかし拍子を外し切ってやれば掻い潜って届かせることは可能なはずだ。ならば『流星』。
 ああ、と聡司は悟った。
 便利だからやるのだ。騎士派三方武芸トリニティアーツは自分自身のための補助に過ぎない。<魔人>でなければ出来ないというだけの、あくまでもちょっとした技術に過ぎない。
 一つ一つに拘らない。ちょうどいい技を使えるからそれを利用して戦いを作る、その程度でいい。圭と自分との差がそこにあるのだ。
 そしてその差は今、埋まる。
 脇構えに飛び込み、斜め上方へと伸び上がる動きとともに『疾風迅雷』、切り替え、斬撃に『流星』。
 二連の加速は確かに意表を突いた。それでなお圭は受けてのけた。斬撃の威を盾で防ぎ、その勢いとともに後方へと跳躍したのだ。
 置き土産は、聡司の足元から伸び上がる光の杭。
 しかし得意とする三種について聡司は確かに圭の域にまで辿り着いていた。一瞬しか存在していない杭の側面に『大鬼蓮』を形成、足場として圭を追った。
 大気が唸る。聡司は笑っていた。
 今度は剣戟の交わる響き三つ。飛び離れて10メートルの距離を向かい合う。
 仕掛ければ仕掛けるほどに、今まで自分が四辻圭という男をどれほど過小評価していたのか思い知ってゆく。
 もしも圭がただ勝とうとしていたならばもう勝負はついていただろう。筆頭騎士マスターナイト央ノ要オールラウンダーの頂点、この接近戦闘能力と同レベルの遠隔戦闘能力も有する。遠間から削り、飛び込んだところを打ち落とす、そういった手段も取れるのだ。
 だから超えるためにはまだ足りない。更に純化し、高みへと上らなければならない。新島猛のように。
 そう思った瞬間、透き通っていた心に色がついた。
 赤。鮮やかに色合いを移り変わらせながら揺らめく赤。それは炎。手の内の『ヴァルカンブレス』と似て非なる。
 足先から頭頂まで、塗り替えられるような、焼き尽くされるような熱が走った。
 力が湧いてくる。言葉が湧き上がって来る。
 聡司は刃を逆手に持ち替え、地に突き立てた。
「“予言された破滅が来る”」
 これを抜き放てば何が起こるのか、既に分かっていた。



 そして理解したのは圭も同じだった。
「退避しろ!!」
 大音声。訓練や荒事で肝の据わっているはずの騎士派の面々が身体をびくつかせるほどのものだ。
「命令だ、全力で館に逃げ込め! 閉鎖領域が形成された時点で逃げられなくなるぞ!」
 この少年が『命令』と口にするのを、ほとんどの者が初めて耳にした。そのことがどれほどの異常事態、緊急事態であるのかを覚らせるのに充分だった。
 しかし、と言いかけた者もあったが、いつの間に来ていたのか徹が捕まえて引きずってゆく。
 残るは圭と聡司の二人だけだ。
「……聡司、その技は……」
 声をかけるも聡司は応えない。極度の集中状態にあるのだろう。双眸は目の前の圭すら見ることなく透き通っている。
 圭が動けば聡司も動くだろう。
 そして発動するのは<黒王スルト>。新島猛の凌駕解放オーバードライブだ。
 その者にとっての強さの形であるそれが、二人の別々の<魔人>の間で同一になることが本当にありえるのかどうかは分からない。
 しかし先ほどの言葉と動き、何より聡司自身から発せられる灼熱を思わせる気配が楽観視を許さない。
 圭は<黒王スルト>のことをよく知っている。ここでもし発動させたならば、殺すしかなくなることも理解している。
 <黒王スルト>は三段階よりなる。半径30メートルほどを閉鎖領域とし、火炎が暴れまわる第一段階。炎を剣に収束させ、敵一人を滅ぼす第二段階、そして閉鎖領域を解いて広範囲を焼き尽くす第三段階。いずれも強力には違いないが、最も問題となるのは第三段階だ。
 かつて絶海の孤島に、選民思想に囚われた<魔人>が集ったことがある。そこを拠点として一度軍団を作り上げ、それから日本全土に対して侵攻を開始、夜を我が物としようとしたのだ。
 しかしそれは<竪琴ライラ>の策だった。危険分子を一箇所に固めてしまうため、そうなるように誘導した。密かに六派すべてが協力し、最終的には鳥船派の本拠<天鳥船>を回航して一人の<魔人>を降下させ殲滅した。
 その<魔人>が新島猛だ。倒すべき敵以外に誰も存在しないならば、彼ほど向いた者はなかったのである。
 猛自身の申告によれば<黒王スルト>の三段階目の効果範囲は半径5キロメートル、高さ1000メートルの円柱状。その中を術者だけには被害を及ぼさない火炎が瞬時に満たすのだ。最速の<魔人>であろうとも逃れられはしない。
 無論のこと個々に対する威力は一段階目にも劣るものの、そもそも強力な敵はそれまでの段階で屠っておくのが前提だ。そして九割以上の<魔人>はこの第三段階に耐えられない。
 猛は<黒王スルト>を各段階で止めることができた。最後まで行使したのは後にも先にもあの一度だけである。
 聡司の力量は猛に及ばない。<黒王スルト>も猛のものほどではないだろう。それでも炎は最終的にこの<空中庭園>を覆い尽くすであろうし、騎士たちとて生き残れるのは三分の一もいないだろう。
 そんなことをさせるわけにはいかない。使うというならば、第三段階に至る前に強制的に止める必要がある。
 聡司は動かない。
 何かを思案しているわけではない。無我にも近い静謐の中、己を問うているのだ。何を望み、強さとは何かを見出そうとしているのだ。
 思考はときに事実を曇らせる。だから一時的に捨てられるものを全て捨て去り、素直に感じ取っているのである。
 極点である凌駕解放オーバードライブへの至り方は千差万別だ。徹のようにいつの間にかできるようになっていた者もあれば、願いを潰された慟哭によって目覚める者もいる。
 聡司は奇しくも圭に似ていた。だから圭は待っている。
 犠牲者は最小限しか出さない。筆頭騎士マスターナイトの名と責において、最悪でも一人だけに止める。
 鼓動だけが響く。
 まだ、動かない。
 偽りの太陽がじりじりと移動してゆく。
 そして、前触れもなく聡司の指が動いた。
 人差し指から順に、柄を離してゆく。開いた手から『ヴァルカンブレス』が倒れ、消えた。
「…………俺は先代アニキじゃない」
 ぼさぼさの前髪の奥に視線を隠し、ぼそりと言う。
「<黒王スルト>は俺を先代アニキの出来損ないにするだけだ。それにあんなのここで使ったらただのアホだろ」
 そこで大きく溜息、前髪をかき上げると自棄のように口元を笑みの形に歪ませた。
「お前の勝ちだよ、圭」
 口調は晴れ晴れとしている。
 怒りは決して消えたわけではないのだろうが、胸の奥に収めたのか。
「俺は見てただけで何もしてない気がするけど?」
「その気になればお前は俺を殺せただろう。実力的にも、精神的にも。だから見ていた」
「……とるべき責任はとるさ」
 圭もクラウンアームズを消す。
 聡司の言うとおりだった。もし<黒王スルト>を発動させるなら、一段階目と二段階目の境で命を奪うつもりでいた。どこに隙があるのかは知っているし、本来の遣い手ではない聡司にならば対処させなどしない。
 誰も傷つけたくはないという思いが本物であっても、四辻圭は為すべきことをやれない男ではないのだ。
「なあ聡司」
「んだよ」
「これからエリスにも報告するんだけど、色々見えてきたことがある」
 にやりとすれば、優しい男がなんとも凶悪な笑顔になる。
「巻き返すよ」
筆頭騎士マスターナイトのお手並み拝見だ」
 二人並んで歩き出した。
 異変は起こらないまま片付いたのだと察したのか、言われたとおりに避難していた騎士たちが幾人か様子を確認しに出て来始めていた。遠くで幾つもの声が交わされる。
 圭の帰還によって騎士派は久々に本来の力を発揮できるようになった。慌しく人が動き、一つの大きな流れになってゆく。
 少しだけ、聡司の歩みが遅れた。
 蒼を見上げ、震える声で呟く。
「……先代アニキとまたこんな風にやり合いたかったなあ……」
 偽りだというのにどこまでも高い高い、果てのない空だった。







[30666] 「せいくらべ・十」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2015/12/14 23:01



 肉を焼く音がする。
 肉の焼ける匂いがする。
 ざわめき。享楽に耽る声と痛々しい悲鳴。奏でられる音色に耳を貸す者などない。
 誘うが如くに炎は踊り、跳ねる脂が付着してゆく。
 明かりはあるのに薄暗い。ひたすらに肉を貪る人の群れは、あるいはこれも退廃なのか。
 どうしてこのようなことになったのだろう。
「安い割りに美味いですね、ここ」
「だろ? ジャンクっちゃあジャンクに違いないが俺は結構好きだね」
 筆頭騎士マスターナイトと<王者チャンプ>が和気藹々と肉を焼いては口に運んでゆく。
 黄昏時、とある焼肉屋の食べ放題コース。
 本当に、どうしてこんなことになっているのだろう。徹は思わずにいられなかった。





 <帝国>エンパイア樹立宣言からほどなくして起こった三つの騒動があった。
 仮に<竪琴ライラ>を為政者であるとするならば、それらは反乱として位置づけられるだろう。<竪琴ライラ>のやり方はおかしい、と立ち上がったわけである。
 騎士派の対応としては基本に忠実に、それぞれに対し二戦隊チームを向かわせて片付けようとしたのだが、それでは戦力を出しすぎるとしてバックアップに合計三戦隊チームだけを配し、圭が向かったのだ。
 具体的にどのようにはたらきかけたのかについては、徹も知らない。しかし三週間で三つともを説き伏せ、そして更にもうひとつ事件が起こり、それを解決してから帰ってきたということになる。
『ほぼ予想はついていましたが、先の三つはすべて<無価値ベリアル>の煽動によるものです。乗せられたという意識すらなく動かされていた印象でした』
 圭はそう言った。
 <無価値ベリアル>。
 その名は今や<竪琴ライラ>の大敵だ。大なり小なり、あらゆるところに彼の名がちらついてくる。
『それに加えてやはり内通者……この場合は間諜と呼んだ方が正しいですか。確実にいますね。あんな十人程度の集団にこちらの情報が行き渡り過ぎている』
 まさか騎士派に限って、と反射的に返し、そうでもないかと思い直した。この二ヶ月だけでも九名加わっている。入り込めない理由はない。
 ともあれそこから示される方針は二つ。内部をよく洗うことと、<王者チャンプ>によって散々に傷ついた騎士派の名誉を回復すること。それさえ成し遂げられればあとは問題ない。苦汁を舐め続けた一ヶ月は騎士たちから甘さを取り去った。そして<騎士姫>エリシエルと筆頭騎士マスターナイト四辻圭、二つの求心力が揃った以上はひとつの群体として機能できる。
 間諜の洗い出しは一輝と聡司が担当することになった。新島猛が敗れた件についても調べてみると一輝は言っていた。
 二人とエリシエルに<宮中庭園>は任せ、徹は圭とともに<王者チャンプ>に会いに行った。思い立ったが吉日、という理由ではない。
『ちょうどよかった。今日の夕方に約束アポとってあるんですよ』
 筆頭騎士マスターナイトが頼もしすぎたのだ。あの会合での決定を聞くより早く、自分自身で<王者チャンプ>と<横笛>フルートの関係に違和感があることに気づいていたらしい。
 そのときは、さすがはケイ、と感心したものだったのだが。
「あ、こっちのたれなんかもいけますよ」
「知ってる知ってる、ちぃと取ってくれ」
 なるほど、確かに<王者チャンプ>と会談している。周囲の騒音のおかげで、こちらの話している内容が余人に気づかれることはないだろう。
 しかし徹にとって、この光景は何かが間違っていた。
 もっと静かな、気力のせめぎ合いであるべきだった。笑顔の裏に刃を隠し、動揺をポーカーフェイスの後ろに押し込める空間であるべきだった。
「よく来るんですか、ここ?」
「ときどきだな。安くて美味い飯探してふらふらしてることの方が多い」
 それがどうだ、これではまるでイベントの小さな打ち上げだ。
 徹は尋ねずにいられなかった。
「もしかして最初から知り合いだったりするのか、君らは」
「いえ、初対面ですよ」
「辛気臭い顔で茶だけ飲んでるのは詰まらんだろ」
 徹の思いを洞察した上で、二人はこともなげにそう答えた。その間も手は止まらない。生の肉を鉄板に広げ、あるいは裏返してゆく。
「大事なのは詰まった中身だ。形式なんか高貴な誰かに任せとけ」
「中身というか、一番大事なものが肉にしか見えないんだがね?」
 思わず口をついて出た皮肉は、<王者チャンプ>への敵意を拭い切れないからだろうか。
 しかし<王者チャンプ>は鷹揚にそれを流した。
「まあいい。そんなに不満なら話も始めるか。何でも言ってみな。俺は嘘はつかん。面白くなりそうならノーコメントにはするかもしれねえけどよ」
「ふむ」
 圭に視線をやれば、こちらも箸は置かないままではあるが何やら思案しているようではあった。徹は元から圭に任せるつもりでいる。そうしておけば大抵何とかなると、経験上知っているのだ。
 そして圭は単刀直入に尋ねた。
<横笛>フルートとはどの程度の協力を?」
「ひとつだけだ」
 返す<王者チャンプ>も簡潔に答えた。
「招待状を奴らの言う日に送った。最近挑戦者が減ってたからな、ちょうどいいアイデアでもあった」
 そしてやはり緊張感もなく肉を頬張る。
 圭が困ったように笑った。
「こっちの都合は考えてくれなかったんですか?」
「挑戦されちゃあ、応えんわけにもいかん。小さな協力という事実と奴らの嘘を、俺という存在が打ち破れるかどうかってな」
「なっ!?」
 思わず声を上げたのは徹だった。
 つまり<横笛>フルートは、おそらくは<無価値ベリアル>なのであろうが、到底仲間になどできるはずのない<王者チャンプ>を攻略すべく奇策を弄したのだ。小さな既成事実を元に噂をばら撒いて外堀を埋めることで、少なくとも名を得ようとしたのである。
「むざむざと罠に嵌められたのか、君は!?」
「いんや。見事に嵌められたのはお前らだよ」
 またも至極あっさりと、<王者チャンプ>は否定する。
 字面だけなら負け惜しみにも思えるが、<王者チャンプ>の醸す絶対的なまでの自信は徹の思いを容易く砕く。
 縋るように圭を見たなら、筆頭騎士マスターナイトもまた頷いた。
「そうでしょうね。空いた時間に<闘争牙城>に行ってみたんですが、彼らは全員笑い飛ばした。何の疑いも持っていなかった。<王者チャンプ>は誰にも従わないと確信していた。だから俺はおかしいと思ってこの会談を申し出たんです。印象ですが、<無価値ベリアル>の策というのは決して一つ一つが緻密に構成されてるわけじゃない。きっと十のうち九は失敗して、それなのになぜか大局で見れば五分五分であったはずの状況が六分四分に推移している。そして押し込んでゆく。今回の件で言うならば、もし<王者チャンプ>を取り込めれば奇跡、最低でも騎士派は混乱する。混乱すれば財団派への援護が遅れる。援護が遅れたなら、その間に出来ることがある。先の騒動三つとの合わせ技でしょう」
「……君が言うなら信じるが」
 徹は不満を堪え、無理矢理納得する。信じるものの三つめこそは筆頭騎士マスターナイト四辻圭なのだ。
 加えて、元々ここへは圭のみで来るはずだったのが、一人では心配だと徹が無理についてきたこともあってあまり強くは出られなかった。
 <王者チャンプ>が鼻を鳴らした。
「それで、どうして欲しい? <横笛>フルートの戯言信じてるアホはいねえだろうなとか、別にそろそろ声明出しても構わんぜ」
 <王者チャンプ>はどこまでも王者の風格だ。
 先ほど圭は、もし<王者チャンプ>を取り込めれば奇跡と口にしたが、本来ならば逆だったろう。信じていたとしても疑心は湧くものだ。そして疑心は疑心を呼び、大きくなってゆくものだ。やがては覆るのが当然であり、だというのに<王者チャンプ>はそれを起こさせない。どれほどの熱狂を受けているというのだろうか。
「そうですね、お願いできますか? あまり大きくはたらきかけても逆効果になりそうですし、その程度がちょうどいいかと」
「分かった」
「それから……」
 圭はまだ続けた。
「騎士たちの力試しとして、あなたに挑戦させてもらおうかと思います」
「ほう」
「ケイっ!?」
 <王者チャンプ>は面白げに笑ったものだが、徹にとっては予想外だった。
「挑めば挑むほど負けるだけだぞ!? これ以上傷を広げてどうするんだ!?」
 一輝も徹自身も既に敗れている。聡司にしても、自分で言っていた通り勝てはしないだろう。敵うとするならば圭か、あるいはもしかするとエリシエルか、その二人しかいない。
 だが、さすがにそれはならない。最後の二人まで負けてしまえば騎士派の抑止力は完全に失われてしまう。
 だからといって勝てるはずもない者を向かわせるのも無意味だと徹は考えたのだ。
「いえ、そもそも傷になるように立ち回っているのがいけないんですよ」
 しかし圭は、気性に似合わぬ凶貌を温和に緩ませた。
「自分たちの方が上だと言わんばかりの態度で試合に臨むから、周囲の<魔人>たちの嫌悪を買うんです。まるでやられ役の権力者みたいですからね。ほら物語によくある、権威を鼻にかけた貴族だとか、あのあたりです」
「馬鹿な! 騎士派はそんなものでは……」
「そうですね」
 激昂とともに反駁しようとした徹を窘める声はあくまでも静かだ。<王者チャンプ>が無言で、愉快げな笑みを更に強めた。
「けれどそう見えるんです。驕りはありませんでしたか、徹さん?」
「む……」
 そう言われてしまうと黙るより他になかった。騎士たちの誇りは行過ぎれば容易く傲慢となってしまうことは徹も重々承知しているのだ。
 圭は今一度<王者チャンプ>へと向き直った。
「お願いできますか?」
「活きのいい挑戦者チャレンジャーは歓迎だが――――」
 <王者チャンプ>も圭を見つめ返す。
「お前は来ないのか、<門番>ゲートキーパー?」
 久しく用いられることのなかった圭のあだ名を呼ぶとともに、どこまでも見透かすような眼差しがあった。
 傍にいる徹の頬にじとりと浮かんだ汗は鉄板の熱さのせいではない。<闘争牙城>での試合の際などとはまったく異なる、息の詰まるような重圧を視線ひとつで放っているのだ。
 それを十全に受け止め、気圧された様子など微塵もないまま圭は困ったように笑った。
「挑んでみたい気持ちはあるんですけどね、それよりももっと大事なものが俺にはありますから」
 睨み合いとはならなかった。吹き出したのは同時だった。
「惜しいな。ドスの利いた面構えといい、<竪琴ライラ>なんかやらせとくには実に惜しい」
「褒め言葉と受け取っておきます」
「よし、メンドくせえ話はこのくらいでいいだろう。肉食おうぜ、肉」
「ですね」
 再び和気藹々と食事に戻る二人を、徹は信じられない思いで呆然と眺めていた。
 胸の奥がすっきりとしない。如何とも言いがたい気持ちの悪さがあった。
 これは一体何なのだろうか。
 一つ確実なのは、自分の<王者チャンプ>への敵愾心がまったく収まっていないということだ。
「……ひとつ訊いてもいいかな?」
「ん、いいぜ」
 肉を咀嚼、飲み込み、<王者チャンプ>が鷹揚に頷く。
 その様にさえ苛立つものを感じながら徹は問うた。
「<闘争牙城>では何かを賭けて『決闘』するらしいが、君は何を賭けているんだ?」
「強いて言うなら誇り、自信。ま、自分は強いだとか自分なら勝てるだとかの思いだな。もちろんイシュが徴収するわけじゃない。負けたら自信を砕かれるってだけの当たり前のことだ」
 予想できない答えではなかった。
「なぜだ? どうしてそんな無意味なことをする? 君は一体何がしたいんだ?」
 挑戦したいという者がいて、<王者チャンプ>が<闘争牙城>最強であるのなら、その気になれば何でも手に入れられるはずなのだ。少し吹っかければいい。栄光を得たい誰かはその条件を飲むだろう。あまりにも勿体無いことをしていると思わずにはいられなかった。
「君だっていつまでも勝ち続けられるわけじゃないだろう? いつか敗れたとき、君に何が残るんだ?」
「また随分メンドくせえこと言い出したな。男が天辺獲って君臨し続ける理由なんて、そうしたいから以外のことは滅多にないだろ」
 <王者チャンプ>に動揺はない。聞き飽き、答え飽きたと言わんばかりの口調だった。
 そしてそれだけだ。これ以上何も告げるべきことなどないということなのだろう。
 だから徹も今更ながらに気づいた。自分の問いは、今までに<闘争牙城>の面々が口々に投げかけてきた質問だったのだ。そして彼らはきっと、今や<王者チャンプ>に心酔している。
 それでも徹はまだ問うた。止められなかった。
「敗北を震えながら待つのか?」
 明らかな挑発である。<王者チャンプ>に対する最大級の侮辱であると言っても過言ではあるまい。
 しかし<王者チャンプ>は愉快げに笑うのだ。
「脅かされない王座に何の価値があるんだ」
「なら、いざ負けたならどうする? すべてを失った君はどうするんだ!?」
 語気が荒くなる。声が震える。忌まわしいと思う。それでも胸に渦巻く何かの迸るままに口を突いて出ていた。
 うろたえて欲しかった。言葉に詰まって欲しかった。せめて、絶対に負けないと豪語してくれたならよかった。
 <王者チャンプ>は、とうの昔に自ら決めた答えを当たり前のものとして口にしただけだった。
「俺を斃した奴の肩を叩いて言ってやるのさ。『今この瞬間からお前が<王者チャンプ>だ』ってな。そして死ぬのさ。お前の言ったとおり、すべてを失ってな」
「分からない!」
 叫ぶ。さすがに他の客が幾人かこちらを見たが、すぐに興味を失ったようだった。
「……分からない」
 嘘である。言葉として表すには難しいが、感性が理解できてしまう。
 <王者チャンプ>は頂点にいながら、まだ走り続けている。その精神は孤高にして、保身などなく更なる高みを目指している。
 何かとてつもないことを成し遂げてくれる。<王者チャンプ>は人にそう思わせる。だから打算を吹き飛ばし、あれだけの熱狂を呼ぶのだ。
 徹にとって、目を灼くほどの光だった。
「<闘争牙城>にいる奴はほぼ全員腹に一物抱えてる。使いもしない金を貯めてる奴から骨董マニア、刀剣フェチ。欲しいものも色々だ」
 <王者チャンプ>の双眸が徹の奥底までも見透かさんと力を帯びた。
 背筋に氷を突き込まれたようだった。
 欺瞞を見抜かれている。今までしてきた質問のほとんどが意味のない、自分のために繕っただけのものであることがばれている。そしてその奥の徹自身を覗き込んでいる。
「強くなりたいのも欲望だ。しかも<闘争牙城>ではそれで大抵のものが叶う。だから俺は<闘争牙城>の欲望の頂点に違いないのさ。お前が何を望んでようがそれを否定したりはしない。さすがに恋人になってくれなんて言われたらそれ自体はノーサンキューだがな」
 冗談めかした口調さえ圧倒的。
 圧倒的なまま、切り込んで来た。
「なんだかよく分からんが、怯えるなよ。試合のときはもっとましな貌してたぜ」





 奇声を上げて逃げ出していた。
 恐ろしくて仕方がなかった。徹にとって<王者チャンプ>は強すぎる太陽だった。
 現実の夕陽、赤と黄の入り混じった中を一心に駆けた。暑い大気の中で流れるのは冷たい汗ばかり。走って走って、<空中庭園>まで辿り着き、青い顔でへたり込んだ。
 圭を置いてきてしまったこと、後でどのような顔をして会えばいいのかも忘れ、四阿の前で荒い息をつく。
 <王者チャンプ>に会いに行ったのは、犯行現場に戻ってくる犯人の心理にも近い。恐れているものなど実は大したことはない、自分は大丈夫なのだと確認したかったのだ。
 そしてその行動が誤りであることまでも似ている。
 ここならばあの怪物はいない。ここは我が家だ。安寧を約束してくれる空間だ。
 どのくらいそうしていたのだろう。見かけた者から報告が行ったのか、一輝が早足にやって来た。
「何かあったのか? 圭はどうした?」
 いぶかしげなのは当然だろう。<王者チャンプ>に会いに行って一人だけ帰って来た、それもさも問題が起きたといわんばかりの有様とあっては。
 徹はかぶりを振った。立ち上がり、いつも通りの落ち着き払った顔をする。
「大したことではないよ。個人的にちょっと驚くことがあって先に帰って来ただけだ」
「そうか」
 違和感は覚えたようだったが追求しようと思うほどではなかったのだろう、一輝は露骨な戸惑いの表情を浮かべこそしたもののすぐに真顔となった。
「まあいい。とりあえずこちらも片方の進展はあった。つい先ほど分かったんだが、<剣王>ソードマスターを斃したのは<夜魔リリス>やその取り巻きじゃない。どうも<妖刀ムラマサ>とか呼ばれる奴らしい」
「ああ、まあ……」
 今度は徹の方が惑うことになった。
 一輝が口にしたことは今朝の時点で既に耳にしていた情報だ。今頃になって何を言っているのだろう、そう思ったのだが。
 天啓の如くに閃いた。思い出したのだ。スパイ、内通者がいると圭は言っていたではないか。
「分かったのはついさっき、で間違いないな?」
「ああ、財団派と直接コンタクトをとった奴から半時間前に聞いたばかりだが……凄い顔してるな、あんた。何か知ってそうだ」
 また妙にいぶかしげな表情になって一輝が言うが、そんなことにかかずらっている場合ではなかった。
 今朝、<妖刀ムラマサ>のことを口にしたのは誰であったか。
 右手を強く握り込む。己を取り戻せた気がした。
「確証まではないが私に任せてくれ。きっといいようにできる」
 腹の底に力が満ちた。










[30666] 「せいくらべ・十一」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2016/01/10 17:05



 人を騙すときに重要なことは何だろうか。
 卓抜した話術。実に望ましいだろう。
 落ち着いた雰囲気。信頼を得られそうだ。
 押しの強さ。勢いが趨勢を決めることは戦でもよくあることである。
 嘘と事実の混合。至高とされる割合には諸説あるものの、裏返せば有効であること自体は疑う余地もないという意味にもなる。
 挙げ始めればきりがあるまい。すべては複雑に絡み合っているのだ。
 ともあれ、いずれ劣らぬはたらきをするには違いない。しかし慣れぬ者には少々難しい。
 だからまず、たった一つを心がければいい。
 自分を騙す。これは事実であると信じ込めばよい。味方からでは生ぬるい。
 それは自信を生み、詭弁を作り出す。その過程で嘘と事実は適度に混ぜ合わせられるだろう。
 偽りが真実の響きを帯びるのだ。
 必ずしも悪ではない。厳しい環境への適応や本能的な恐怖に立ち向かう勇気も、これと似ている。
 程度の差はあれ、大抵の人間が習得している技術である。











 街は暮れなずむ。
 既に十九時にも近く、眩い光は消えたものの、未だ夜の空気に移り切らない。
 雑踏の中、徹は標的を追っていた。
 さほど苦労はしない。何かに集中しているのか、周囲を警戒する様さえ見せないのだ。道行く人々が避けて行ってくれるおかげで移動そのものも楽だった。
 逸る心を押さえ込む。せめて人気のないところでなければならない。明確な証拠を見せるのを待つべきなのかもしれないが、気づいた以上は一日たりとも放置すべきではないと徹は考えていた。
 不意に、標的が道を折れた。追えば民家に挟まれた細い路地を右に左に行き、やがて雑木林が姿を見せたかと思うとその中へ入っていった。
 まさに何か人目を避けたいことを行おうとしているのか、あるいは気づかれて誘われているのか。
 判断はつかなかったが、ここまで来て乗らないわけにはいかない。警戒しながら徹も足を踏み入れると、人の足で踏み作られた道はあった。
 そして視界はすぐに開けた。
 小さな神社だ。清潔に整えられてはいるが人の姿はない。
 正確には、拝殿へと向かう石段の前で何かを探してか周囲を見回している標的だけがいた。
 油断していたつもりはなかった。だが、視線がこちらに吸い付いた。
「……こんなとこで何やってんですか?」
 ぎょっとしたような表情に困惑も乗せて彼はそう言い、改めてまた別種の驚きを見せる。
 観念して徹も進み出た。
「それはこちらの台詞だ。こんなところに何の用があるんだ?」
「いや、俺は……」
 少年は気まずそうに視線を逸らす。落ち着きなく、全身が細かに揺れていた。
「後で報告するんで今は見逃してもらえませんか? 急いでるんで……」
「そうはいかない。私は君に用がある」
 徹はゆっくりと近づく。
<剣王>ソードマスターを斃したのは<妖刀ムラマサ>だと、つい先ほど判明したそうだ。にもかかわらずなぜか君は今朝から知っていた。以前にも<王者チャンプ>が<横笛>フルートに加わったと君から聞いたな」
「それは……」
 苦悶にも似た複雑な表情を浮かべる少年に、徹は畳み掛ける。
「君は裏切ったのか、それとも元から情報の攪乱が目的で騎士派に入り込んだのかね?」
「違う! 俺は……」
 激昂しかけ、それでも少年は押さえ込む。
「……話は後で聞きます。今は急がないといけないんだ」
「逃すと思うか?」
 去ろうとした少年の足元に雷撃を打ち込む。
「私は騎士派を守らなくてはならない。君は消す」
「違う、スパイは俺なんかじゃ……」
 否定の言葉が途切れた。
 徹はクラウンアームズである戦鎚『ミーティア』を顕現させ、じりじりと迫る。
「では君以外の誰がスパイだと?」
 少年は答えなかった。見開いた目でこちらを見て、笑いたいような泣きたいような表情でゆっくりとかぶりを振った。
 そして歪んだ顔のまま構えた。
 徹は踏み込む。紫電が放射され戦鎚が振り上げられた。
 対して少年は開けた掌を徹へと向けた。超出力の光の奔流による、得意の攻撃だ。
 だが光は放たれない。構えた手が震えていた。
 撃てるはずがないのだ。少年は技術が出力に追いついていない。器用に敵だけを撃つ術がない。このまま水平に攻撃を放てば射線上の民家まで灰燼と化してしまう。
 だから一拍遅れて、背を向け逃げようとした。
 その一拍が命取りだった。少年の心情に気づかぬ徹にとってはただの好機。戦鎚によって肩から胸を叩き潰していた。
 内包する潜在出力が極めて豊富である少年は生命力にも恵まれている。それだけでは死なない。当然のように徹は幾度も戦鎚を振り下ろす。死ぬまで続ける。逃がしなどしない。少年を指導していたのは徹自身なのだ。
 少年は死んだ。無念と後悔と、最後の瞬間は絶望を浮かべて死んだ。
 死した<魔人>の肉体は塵も残らない。
 夜の帳が落ち、後には戦鎚を手にした徹と、もう一人だけが社にあった。





 十代後半、いつもは闊達な雰囲気の少女。
 彼女はいつからいたのだろうか。
 徹が少年に仕掛けたときには姿はなかったはずだ。
 徹は少女を知っている。それなりに優秀な疾駆方ダガーであったように思う。騎士派では特に珍しい女性の<魔人>だというのに、あまり目立たない印象である。
 名を上月茜と言ったか。騎士派全ての名を覚えている自信のある徹も少しあやふやだった。
 そして彼女は少年の恋人である。
 茜は無表情にこちらを見ていた。
「何してんの?」
 声も平坦だ。目の前で恋人が叩き殺され、現実感をなくしているのか。
「君には悪いが、こいつはスパイだった。諦めてくれ」
 徹は彼女につらい光景を見せてしまったことを後ろめたく思うも悪びれない。
 騎士派を守るための汚れ役を全うできたのが清しくすらあった。
「スパイなんかじゃねーよ」
 無表情のまま茜がぽつりと言う。
 そういえば口が悪かったような、と思い出しつつ徹はかぶりを振った。
「信じたくない気持ちは分かるが、事実だ」
「理由ならある」
「いや、だからね……」
 彼女の言葉を半分流しながら、どう宥めすかしたものだろうかと徹は思案に暮れていた。
 だから茜の表情が変化してゆくことに気づけなかった。
 唇が大きく横に引き伸ばされ、端が釣りあがってゆく。目もきゅうっと細められた。
 心底愉しげな、おぞましい笑顔だった。
「スパイなのはあたしだからだよ、ブァァァァァァァカ」
 何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
 脳髄まで浸透してもまだ、幻聴であったように認識していた。
「何を言っているんだ、君は」
「情報の収集とばら撒きのために騎士派に入り込んだのはこのあたしだっつってんだよアホが」
「何を馬鹿な……」
 足と指の先の感覚がなくなった。次いで、頬と背が冷たくなった。
 そんなことはありえない、あってはいけない。この二言だけが脳裏を巡る。なぜそうであってはならないのかの答えは出さない。そんな恐ろしい答えを出せるわけがない。
「あいつは<王者チャンプ>が<横笛>フルートに加わったと嘘をばらまいた!」
「そらーあたしが吹き込んだからなァ」
 にやにやと、茜。
<剣王>ソードマスターを斃したのは<妖刀ムラマサ>だと知っていた!」
「それもあたしが吹き込んだからに決まってんだろ」
 にやにやと、茜。
「あいつは……!」
 必死に彼が間諜である理由を探すものの、そもそも思いつく事柄がその二つしかない。
「あいつがスパイなんだ、そうだろう!?」
 目を剥き、間の抜けた同意を求める。
 無論のこと、少女は否定するのだ。
「いい加減認めろよ。ジンセー諦めも肝心だぜ?」
 茜は本当に愉しそうだった。口元を引き締めようとしては失敗して緩ませている。
「恋人補正は凄いなァ。ちょっとやそっと怪しいこと言ったくらいなら自動的に気のせいだと思ってくれるし、いくらなんでも怪しすぎること言ってもとりあえず自分で確かめてからーって、上に相談しないでいてくれるんだもぉんなァ」
 理解したくないのに分かってしまう。
 彼女は虚言をばらまく際の囮として少年を使ったのだ。騎士派らしからぬ超出力を有する少年は、否が応にも目立つ。上月茜という存在を霞ませるのにうってつけだったのだ。
 現に徹は彼女のことを今まで思い出しすらしなかった。疑う以前の問題である。
「おかしいと思わなかったのかねェ……今までバレずにやってきたようなデキる奴が、<妖刀ムラマサ>なんて不自然な情報をうっかり漏らすわけねーだろ? どんな恐るべきドジっ子だよ」
 奥歯が鳴る。震えが止まらない。自分が何をしたのか、目を逸らすのが得意な徹にもこれ以上自分自身を誤魔化すのは不可能だった。
 そして答えは少女が、いっそ優しく告げる。
「あいつはあたしに利用されてただけの、かわいそうなピエロさ。かわいそうにかわいそうに、教育係に殺されちゃいましたとさァ」
「貴様が騙したんだろうがッ!」
「そだよー?」
 茜の声は軽い。
「でもさー、あんた演出してるほどアタマ良くはないけど、並くらいはあるじゃん? でもって年食ってるじゃん。なーんであんな変な餌にひっかかるかなァ? や、引っかかりそうだとは思ってたけどね?」
「待て」
 食いしばる。今一度、徹は恐慌を起こしそうになっている自分を押しとどめた。
「ならばあいつはなぜはっきり弁明しなかった!? 途中で戦闘態勢になったのは言い訳できないことがあったからだろう? 大人しく捕まってから疑いを晴らせばよかったはずだ!」
「いやいやいや」
 失笑。まさに鼻で笑い、口の端に笑みを残したまま茜は大げさに手を振って見せた。
「さっきも言ったじゃんか。恋人であるところのー、あたしを守ってくれようとしたわけだ。まずは自分自身で真偽を確認しようって、ここまで追いかけてきてたわけ。でもって抵抗したのは当たり前だろ? まさか自覚ないの、あんた?」
 言わんとすることが徹には分からない。誤魔化しではなく、本当にまったく分からない。自分は間諜を始末しに来ただけだ。それ以上でも以下でもないのだ。
 茜はもったいぶるように、顎に人差し指を当てて小首を傾げると脈絡の見えないことを言い出した。
「<無価値ベリアル>のクソヤロー曰く、『誰かにお願いを聞いて欲しいなら、その人が嫌がることをするのではなく、むしろ望みを叶えてあげましょう』」
「また<無価値ベリアル>か!」
「うぃうぃ、ご存知クソヤロー。地獄に落ちろごーとぅへるって言ってやりたいとこだがよ、元から住処が地獄で意味がねえ。あたしとしては人の嫌がることする方が好きなんだけど、今回のこれは奴のプロデュースなんさァ」
 ころころと表情が推移する。おどけるように、それから憎々しく、皮肉げに笑って最後はやれやれと言わんばかり。
「あんたは手柄が欲しかった」
 どきりと心臓が跳ねた。
「最近いいとこなしだからね、<騎士姫>や筆頭騎士マスターナイトは仕方がないとしてもそれに次ぐ、騎士派三番目の立場は固守したかった」
 聞き続けるべきではないと分かってはいた。恐ろしいことを口にするのだと察してはいた。
 だからこそ聞かずにいられない。そうしなければ否定することもできない。
「とはいえこれは補強要素に過ぎない。なぜならスパイを見つけてみせるだけでなんか切れ者っぽい演出はできるからだ。普段のあんたなら多分そうしていた。疑った相手があいつでさえなきゃあなァ」
「あいつに何の関係が……!」
「あんたは排除の機会と名分を逃せなかった」
 一枚、そしてまた一枚。巧妙に本心を包み隠していた欺瞞が剥がされてゆく。
「期待の新人、未来の砲撃方筆頭マスターボウ。自分の立場を脅かすあいつのことが、あんたは恐ろしかった、憎らしかった。せっかく得た地位を失うのが怖かった」
「何を証拠に……」
「さっきの、あいつがどうして釈明せずに迎撃体勢を取ったのかの理由、教えてやるよ」
 茜が笑う。たっぷりの悪意を込めて、最初の笑顔と同じものを見せる。
 耳にする前に分かってしまった。因と果が脳内で結ばれてしまった。
「待て……」
「あんな素晴らしく嬉しそうな顔で殺すって宣言されたら、何言ったって無駄だと思うだろー」
「嘘だ!!」
 その否定こそが嘘である。
 少年の奇妙な表情を覚えている。あの泣き笑いのような顔を覚えている。
 だが、徹は繕おうとすることをやめない。
「そんな出まかせ、いくらでも言える! 俺は証拠を出せと言ったんだ!」
 替わりに口調が素に戻った。
 茜は笑みを納めない。
「証拠、ねえ……」
 わざとらしく小首をかしげながら右手の人差し指をゆっくり揺らす。
「そういやあんたさー、騎士派メンバーの名前、全員覚えてるんだって? あいつが言ってたんだ」
「……そのはずだが」
「で、あいつの名前言える?」
「もちろんだ」
 何を馬鹿なことを言い出したのかと薄い嘲笑を浮かべ、徹は反射的に頷いた。
 そして記憶を探る。
 顔から探る。
 人間関係から探る。
 似ていたような気がする響きから探る。
 もう一度、顔から思い出そうとする。
 度忘れだろうか。
 騎士派は二百名以上いる。思い出すのには時間がかかる。
 茜と目が合った。
「あれあれどーしたのかなー」
「待て、待て待て! 知ってる! 知ってるはずだ!」
 全員を覚えているというのも一応は演出の一つであるが、元から得意ではあった。覚えていないはずがないのだ。
 覚えないよう企図してでもいなければ。
「これもあいつが言ってたんさー、自分の名前覚えてくれてないんじゃないかって。ってかマジ? ほんとに覚えてねーの? すげえ! 言ってみただけなのに。え? マジで!?」
 茜が手を叩いて囃し立てる。
 全身が震えた。もはや怒りなのか羞恥なのか判別がつかなかった。
「それで、何をやりたいんだお前は? どうして俺の前にわざわざ出てきた?」
 出た声は、冷えて乾いていた。少女を見る目も凍てつき果てていた。
 茜の笑みの質が変わった。
「殺る気になったか。あたしを殺せば、あとは帰って適当に誤魔化せばいいって?」
 言うとおりである。ここで起きたことを知っているのは己と少女のみ。始末してしまえばあとは何とでもなる。
 そう徹は考え、茜は一笑に伏した。
「アホだなー」
「何を」
「四辻圭が、あの<門番>ゲートキーパーが気づかないとでも思ってんのか?」
 あくまでも軽い口調だったというのに、徹は声を詰まらせた。
 かつての騎士派、全盛期と評すべき時期を覚えている。
 エリシエルの志向性、カリスマ性。猛の戦場勘と制圧力。そして圭の文武に及ぶ調整力。
「やー、こっそり見ててびびったね。筆頭騎士マスターナイトってば超有能じゃん。こっちの予定の倍の早さで事件片付けちまってさ、おかげでこんな雑なことする破目になった。自分がどんだけ危ないことやってたのか肝冷えたー」
 茜が哀れむように、溜息めいて告げた。
「断言してやる。すぐに気づかれるぜ。ありゃあんたなんぞとは身を置いてるステージが違う」
 これが他の誰かについてであったなら笑い飛ばせただろう。だが四辻圭という男にだけは当てはまらない。
 さすがはケイだ、と何度口にする機会があったか。ついには口癖と化し、何の違和感も覚えなくなってしまった。
 誰もが見落としていたことにあっさりと気づく。結果的に正しい行動を行う。目の前の少女を今まで見過ごしていたようにすべてを見通せるわけでこそないが、やがては真実に至る。
 気づかれる。間違いなく。
「……ケイならきっと許してくれるはず」
 そのはずだ、かつて出会ったときも許してくれたのだ。
 自分に言い聞かせるも、即座に否定がなされた。
「ねーよ。騎士派が許さねー。公明正大、清廉潔白が身上だぞ? 嫉妬による冤罪からの殺害とか、筆頭騎士マスターナイトとして、無罪放免って沙汰下すわけにゃいかねーだろうよ」
 ぎり、ぎり、と奥歯が鳴る。少女の目に映るほどに身体が震えた。
 昔を思い出す。
 邪魔者むすめが殺されたとき、アルコールによるいい気分が吹き飛ばされたとき、何を思ったか。
 警察が来る。マスコミが来る。かなりの時間を拘束される。生活が暴き立てられる。過去も明らかにされる。
 自分の行っていたことが育児放棄かそれに近いものであるとは承知していた。罪に問われるか否かまでは分からなかったが、どちらにせよそれ以前にまずいのはマスコミだ。幼い子供が殺された。その父親の人物像やいかに。飛びつかずにはいられないはずだ。そして煽りに煽った見出しが踊るのだろう。
 周囲の目が変わる。あの軽蔑のまなざしがまた向けられる。
 ふざけるな。どうして俺がそんな目に。
 耐えられるわけがなかった。
 だから<魔人>になったのだ。姿と名を変え、しがらみを断ち切ったのだ。
 それでも不安は尽きなかった。
 誰かが気づいてしまうかもしれない。ひょんなことからばれてしまうかもしれない。
 ならば、美しい理由を作ればいいのだ。
 自分は娘の仇を討つために<魔人>となった。好都合にも犯人はまだ捕まっていない。自分は今までの己を悔い、愛に目覚めて復讐を誓ったのだ。
 この美しい物語ならば、設定ならば、仕方がないだろう。人を捨てて<魔人>となるのに相応しいだろう。
 そして四辻圭と出会った。
 圭は、悔やむべき過去から生まれ変わった兼任徹という設定にうまく乗ってくれた。そして仲間に勧誘してくれさえした。
 すべては順調に進んでいたはずだった。騎士派は堅苦しく暑苦しいが、<魔人>としての徹の力量と最年長ということとで大抵の相手が立ててくれた。
 騎士派が今の徹の安寧の場であることに偽りはなかった。圭とエリシエルが自分の後ろ盾となってくれる存在であり、守護者であるという思いに嘘はなかった。だから何よりも大切な自分と同様に信じるべき三つであったのだ。
 その安らぎを、目の前の腐れ女が奪ってくれた。
「よくもやってくれたなクソガキがァッ!」
 すべての仮面をかなぐり捨て、軋むほどの憎悪を徹は吐いた。
 怒りからこぼれた紫電が境内の樹を焼いた。
「楽には殺さんぞ貴様……死ぬまで指先から順に叩き潰し続けてやる……!」
 雷光は少女にも伸びた。
 しかし茜はそれを片手で払うと、徹の憎悪を受けて立つに相応しい、実に人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「いいねいいね、やっぱゲスにはゲスらしい顔が似合う。とはいえあたしは別にあんたと殺し合いたいわけじゃない。勧誘に来たのさー」
「ほざけカスが!」
「おっと」
 少女の姿を雷は捉え損ねる。恐るべき速度で掻き消え、石段下の鳥居の上に現れていた。
 騎士派で見せていた力は当然のように擬態だったのだろう。疾駆方筆頭マスターダガーである一輝にもそうそう劣るとは思えない速さである。
 しかし、放たれたのは裁きである雷なのだ。
「ってーな、やっぱ避けきれねーのか」
 舌打ち一つ、茜は少しだけ不機嫌そうな顔を見せてから、気を取り直して呼びかけてきた。
「毒食わば皿までっつーだろ、乗るかどうかはあんたの好きにすりゃいい。とにかく<横笛>フルートに来な。あんたはその方が幸せになれる」
「ああ、貴様をブチ殺してから考えてやるよ」
 直線と、弧を描いての四つの雷。
 茜はまたも跳んだ。今度は短い石段を登った先の、拝殿の前だ。雷は鳥居に掲げられたこの社の名を破壊するにとどまった。
「あんまり暴れると見つかるぜ? 人が来るかもしれねーし、騎士派の誰かが来るかもなー。雷撃使いなんて珍しいから即バレだ。正直あたしはあんたと心中する気はねーんだよ。次攻撃してきたらもうやだ逃げるー」
「クソが」
 煮えた頭が自制を取り戻した。
 今すぐにでも殺してやりたいが、そううまくはいかないことも理解できていた。
 速さを求める<魔人>は多い。それは速度にこそ強さと格好良さとを求める少年が多いからではあるのだが、実戦に際しては彼らの空想とは別の強みが生じる。
 速度と機動力に大きな差がある場合、勝る方に戦う気がなければそもそも戦闘にならない。逃げられぬ状況でない限り、あるいは劣る方に逃さぬすべがない限り、背後から一撃をくれてやるくらいが関の山だ。
 まさに今のこの状況である。
 茜が声を立てて笑った。
「まあ聞きな。あんたは既に詰んでる。早く逃げとかないと捕まる。逃げても結局は日本中に<竪琴ライラ>がいて、結局逃げ場なんてない」
「貴様のせいでな」
「いや悪かったよ、反省してる」
 口だけである。むしろ愉しそうに茜は続けた。
「で、あんたの<魔人>としての一番の長所って何なのか自覚してるか? さっさと答え言っちまうが、あんた強いというか、多分<魔人>としての素質が高いんだ」
 徹は少しいぶかしげに眉を顰めた。
 強い。それは分かる。仮にも砲撃方筆頭マスターボウなのだ。
 しかし素質が高いとはどういうことなのか。
 散々虚仮にされたせいで飢えていた自尊心がどうしようもなくくすぐられ、興味が湧いた。
「どういうことだ?」
「<王者チャンプ>とあんたの試合は見てたよ。あんたの<轟雷>ミヨルニルも見た」
 それが強い、と言われるのかと思った。
 しかし茜が口にしたのはまったく逆のものだった。
「あのショボい凌駕解放オーバードライブがあんたの素質の高さを証明してるんじゃねーかと思うわけだ」
 徹は何も言わない。この娘が迂遠で煽るような会話を好むことをさすがに察したのだ。茜に対する怒りと憎悪がなくなったわけではないが、益体もなく攻撃性を発揮するよりは、これからの身の振り方を頭の半分で計算しながら彼女の次の言葉を待った。
凌駕解放オーバードライブってのは使える奴が稀にしかいないせいでまだよく分かんねーんだが、使えるかどうかは望みの強さに、効力の強さは地力が関わってるって見方が濃厚だ。ところがそれが本当なら、なんであんたのはあんな強いだけの雷撃なんだろーな? 白兵方筆頭マスタークラブが使おうとしてたらしいやつは何か知らんけどメチャクチャやばそうだったみたいなのになァ」
 言われてみればその通りではあった。徹としても聡司に力が劣っているつもりはない。
 くすぐられた自尊心に火がついた。
「つまりあれは俺の本来の凌駕解放オーバードライブではない、と?」
「あれはあれで上っ面では望んでなくもないんだろーがね、あんたはあんなお行儀のいいタマじゃねーだろ。自分が一番大事、後は自分にとって都合がいいか悪いかだけ。それが騎士派万歳<騎士姫>万歳平和万歳そのためなら私死んでもいいです、ってもうギャグだろ。けどなー」
 茜が囁いた。彼女の言葉を聴こうと耳をそばだてている徹にはそれでも聞こえた。
「そんな上っ面だけの思いで、ほとんどの奴らが必死になっても至れない凌駕解放オーバードライブを使えちゃってるわけだ。必ずしも素質とは限らんけどさー、何かはあるだろ。妥協とかしないでさ、思いっきり本音で生きてみなよ。あんたはきっと、もっと強くなるはずだ」
 いつしか、少女の声が色香を帯びていた。先ほどまでの、むしろ粗野ですらある少年めいた響きからの落差が徹の背に官能を走らせる。
「もう一度勧誘するよ。<横笛>フルートに来なよ。あそこはもう、強さが偉さの実力社会さ。その中でのし上がってみたいとは思わない?」
 口調そのものもやわらかく、甘くなっていた。
「危険だな」
「でも状況が詰んでる今ほどじゃない」
 茜がゆっくりと石段を降りてきた。
「競い合うのさ。力と策略で頂点を目指す。あんたなら今ですら一派閥のトップは張れる。強くなったなら、どこまで行けるだろうね。<王者チャンプ>自身はともかく、嫌いじゃないだろ、ああいう存在はさ。なってみたくは、ないかな?」
 こつこつと少しずつ近づいてくる足音を聞きながら、徹は大学時代を思い出していた。
 楽しかった。馬鹿なことをやった。楽しかった。楽しかった。
 仕切っていたのは自分だった。何もかもをうまく捌けたわけではないが、それすらも楽しかった。
 一万円で本州縦断を試みたこともあった。一週間で女を落とせた回数を競った。台風が近づいているときにサーフィンをやってみて、危うく沖へ流されるところだった経験も。すべて、中心は自分だった。
 楽しかった。楽しかった。楽しかった。
 決して忘れていたわけではない。諦めていただけだ。人生の落伍者となってしまった以上、人が付いて来ないからである。
 しかしよくよく考えてみれば、それはただの人間だったときの話だ。
「できるさ。あんたの目の前には今でも無限の可能性が広がってる。何だってできるのさ」
 まるで読んだかのような茜の言葉も気にならない。
 彼女は石段を降り切っていた。
「あたしが憎いかな?」
「憎いね」
 徹は改めて少女の姿を観察した。
 はっとするほどの美人、というわけではない。ただ、素っ気ないスキニージーンズの脚線美が妙に目を引く。
 そしてそれ以上に、こちらを見つめてくる視線が毒と誘いを帯びてあった。
「あたしは腕に自信がある。人を侵す悪意にはもっと自信がある。あたしをどうにかできるのは、あたしよりも強い男だけさ。あんたは……」
 きゅうっと、くちびるが大きく弧を描いて笑みを形作る。
 悪意、と彼女は口にした。年に似合わぬ色香が示唆するように、見た目通りの年齢ではないのか、あるいは多くの闇を見てきたのか。
「あたしを蹂躙したい?」
 震えるほどの背徳感。劣情が徹の総身を満たした。
 女とは随分とご無沙汰だ。騎士派にいて、砲撃方筆頭マスターボウという立場にあってそういう遊びなどできようはずもない。
 この性悪でふてぶてしい女を泣き叫ばせたならどれほど爽快だろう。
「なら来なよ。勝ち抜いて、生き抜いて、あたしのところまで来なよ」
「行ってやるとも」
 自然と口にしていた。
 力でもって男たちを薙ぎ倒し、女たちを捻じ伏せる。暴力の理とせいくらべの誘惑を受け入れた。
 どうしようもないほどの疼きと昂揚があった。失ったものを取り戻した喜びに震えた。
 そして物語が作り上げられる。慣れたもの、というよりももはや自動的である。
 その中で、徹はひとつだけ目を瞑った。そうしたかったから、己に騙された。
 頭の隅をちらりと過ぎった懸念に、気づかなかったことにしたのだ。







 人を騙すときに重要なことは何だろうか。
 慣れぬ者はまず、たった一つを心がければいい。
 自分を騙す。これは事実であると信じ込めばよい。味方からでは生ぬるい。
 それは自信を生み、詭弁を作り出す。その過程で嘘と事実は適度に混ぜ合わせられるだろう。
 偽りが真実の響きを帯びるのだ。
 必ずしも悪ではない。厳しい環境への適応や本能的な恐怖に立ち向かう勇気も、これと似ている。
 程度の差はあれ、大抵の人間が習得している技術である。
 しかし忘れてはならない。
 自分を、騙すのである。自分に騙されてはならない。
 手綱を放してしまったならば、待っているのは破滅であるのだ。







[30666] 「せいくらべ・十二」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2016/02/07 12:50




 無限の虚空を思わせる部屋。
「お馬鹿さぁん」
 薄闇の中に浮かぶレヴィアの映像が甘く罵倒する。
 いつものように男を狂わせる美貌と姿態で、もっとも些かの不機嫌そうな色を隠す様子はない。
「エリスってば、ほんとにほんとにお馬鹿さぁん」
「返す言葉もないな」
 こちらも映像の、エリシエルが小さく頭を振った。凛とした佇まいに翳りこそないが、幾分消沈しているようではあった。
 しかしその程度のことでレヴィアが舌鋒を緩めることはない。
「だからこちらへ寄越せと言ったのよ。魔女派うちはああいう子のためにあるのに」
 魔女派は<竪琴ライラ>の中でも異色である。暴力と退廃に満ちた、しかし一定の秩序は守られる場所だ。
 <竪琴ライラ>の汚名の大半を担う魔女派は、そうでありながら嫌っているはずのオーチェですら無くせとは言わない。
 必要だからだ。
 誰もが行儀よく生きられるわけではない。力を振るいたくて堪らない者、欲望を抑えきれない者はどうしても存在してくる。一過性の衝動であれば時間や環境が変えてくれるかもしれないが、根本から力と衝動が刻まれているような人間、<魔人>は最後まで馴染まない。
 ではそのような存在はことごとく消えてしまえばよいというのだろうか。彼らも人としての多様性の一端を担っているだけだというのに。
 無論のこと、社会の害悪にしかならない者はある。排除するしかない<魔人>はいる。善悪を持ち合わせながらごく当たり前に生きているだけの人間が食い物にされることは魔女派も許容しない。
 魔女派は暴力を暴力のままに、欲望を欲望のままに統制する。混沌とせめぎ合いの中に一本の太い秩序を通す。正義を背負ってなどやっていけないという<魔人>たちの受け皿となり、強者の矜持と義務という理でもって領域に君臨するのだ。
「大人しく暮らしてるだけの<魔人>しろうとさんには親切に、はしゃぎ過ぎた馬鹿は吊るせ。これさえ守れば楽園パライソなのに、扱いがひどいですわぁ。あの子ならきっとうまくやっていけたのに」
「この期に及んでだが、私は必ずしもそうは思わない」
 エリシエルが呟くように言った。
「あいつはそう単純ではない」
「虚しい言葉ですわねぇ……そうであろうとなかろうと、事態は動いてしまいましたわぁ。局面は既に、これをどう処理するかの過程に……」
「問題ありません」
 頭上で交わされるやりとりへとこの部屋の主は、ステイシアは静かに口を挟んだ。
「彼は元々当領域で<魔人>になりました。少々問題も起こしていたため、以前から記されています。ですから、あとは大丈夫です」
 そして責めも窘めもせず、寂しげに双眸を伏せた。







 夜の中、山嶺を行く。
 夜の山は闇である。獣か<魔人>でもなければ十全な行動はできまい。
 標高千メートルを超えようと、切り立った崖が立ちはだかっていようと、<魔人>の前には障害とならない。駆ける足を緩める必要すらなく走破する。
 徹にとって敏捷さは最も苦手とする分野だ。まともに追われればすぐに肉薄されることは火を見るよりも明らかだった。だから見つからぬよう、気づかれる前にできるだけ距離を稼いでおけるよう、山を駆け抜けるのである。徹は、そう認識していた。
 木々が左右を流れてゆく。真夏だが高地であるおかげか少しは暑さもましには感じられた。
 徹にとっては懐かしい経路だ。<魔人>となって、娘を殺した男を殺すポーズのために今とは正反対の方向に向かったのだ。
 先ほど騎士派領域を脱出し、神官派領域に入った。上月茜に示された合流地点は神官派領域を越えた更に向こうとなる。それだけの距離をわざわざ移動しなければならないというのはつまり、<横笛>フルートが神官派を極力避けているという情報はどうやら事実であるようだった。
 ともあれ少しは安全になったと考えていいだろう。<竪琴ライラ>の六派は余程のことがない限り他派領域まで進入しない。ここから先、追って来るとするなら神官派の<魔人>だ。
 以前ならむしろ危険だった。神官派<魔人>の力量は極端だ。全体的に見た場合、騎士派ならば落ちこぼれと評するしかない者が多い――――実際騎士派の脱落者はほぼ神官派に移籍している――――のだが、上だけを見たなら騎士派を凌駕する。そしてよりによって極めて足の速い<魔人>がトップクラスに二人も存在していた。
 一方は英雄ヒーロー赤穂裕徳、単独で動いての事件解決頻度なら<竪琴ライラ>最高とまで言われた少年。
 そしてもう一方は深崎陣。<猟兵>イェーガーとあだ名される手練れだ。
 この二人がいたならば今頃生きた心地もしなかったろう。
 しかし英雄ヒーローは死に、<猟兵>イェーガーは四月あたりからまったく名を聞かない。前者はもちろん、活動できないでいるのであろう後者も恐れる必要はないと考えられる。
 神官派は事態を片付けるのに最適な人員を送るとは言われるが、逃げる相手を複数で追うならば最速のメンバーが足止め程度ならばできるだけの力があるか、あるいは最初から足並みが揃っていなければ意味がない。
 唯一警戒するとすれば、最近力を伸ばしてきたという武島洸。単純な速さだけならば先の英雄ヒーローの全力に匹敵、つまりは神官派最速に達しているという。彼に追いつかれ、時間を稼がれる展開だけはまずい。その場合は無理をしてでも速攻撃破を試みるべきだろう。
 もっとも、すべては気づかれてしまってからの話。まず露見するまでにもかなりの時間は稼げる。自分は騎士派で信用を築いていた。名も覚えていないあの少年が偽りの恋人を即座に告発できなかったように、自分もまたこの信用で時を引き延ばせる。
 やがて騎士派が気づき、神官派に伝え、それからようやく見つけ出そうとして、捕捉できたならば追い始める。幾段階ものタイムラグを経るうちに神官派領域も抜けられるはずだと徹は踏んでいた。
 目的地である財団派領域は混乱の渦中にある。自分への対応などしている暇はあるまい。
 瑕疵もあるが、徹にとっての道理で考えれば妥当な推測だった。
 しかしその妥当は撥ねつけられる。
 夜空が灰色になった。星々の輝きが失せた。樹木は薄墨で描かれたかのよう。何より、すべてから生命の息吹が消え去った。
 異変に気づいたと同時に、不可視の壁に激突。転倒こそしなかったがたたらを踏んだ。
「ここは半径20メートルほどの独立閉鎖空間とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ。僕を殺さない限り、君はここから出られない。諦めてもらえるとお互いに面倒がなくて助かる」
 斜め後ろから声がした。びくりとして振り向けば、一人の青年の姿があった。
 昨夜も見た顔だった。腹立たしかった顔だった。
 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
 むしろコートの方が目立つかもしれない。この季節に纏うなど正気の沙汰ではないというだけではなく、右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
「………………馬鹿な」
 絶句し、息だけが漏れ、それからようやく搾り出す。
 脅威として忘れていたわけではなかった。だが追跡者として極めて不向きであるはずだったから、排除していた。
 処刑人、名和雅年がそこに立っていた。
「なぜ……どうして貴様がこんなところにいるんだ、<呑み込むものリヴァイアサン>!?」
 これは幻だろうか。夜をさえ、闇をすら侵蝕した灰色の中に在るその姿は、現のものと認識しがたくあった。
 しかし偽りの存在であるにしては、あまりにも重々しい質量を思わせるのだ。
 そして呆気なく回答がなされた。
「名前は忘れたが、疾駆方筆頭マスターダガーの彼の手柄だよ。最後に話したときの君の様子がおかしかったと即座にエリシエルに報告をしていたんだ。その後いつ君を捕捉して離反を知ったのかまではこちらでは把握していないが、どちらへ向かってどのルートを採っているのかさえ分かればあとは問題ない。待ち構えておくことくらいはできる」
 事務的な、しかもお座なりな説明だ。
 けれどもそれを耳にした徹は身を強張らせていた。
 夕方に一輝に会ったことは覚えている。なるほど確かにあのとき自分はいかにも挙動不審だっただろう。事実、いぶかしげではあった。それでも疑問はそのまま呑み込み、重要な用件に話を移してくれたはずだ。まさか、あれは演技だったのだろうか。
 そこまで考え、思い出してしまった。
 刃のような口調の彼は、当然として語られる因果に対しても強いて疑問を呈する役割を自らに任じていなかったか。そんな彼が果たして違和感や疑問を気のせいと片付けてしまうだろうか。
「は、はは……」
 口の端が歪んだ。
 処刑人の言ったことはおそらく事実なのだろう。なんという失態を犯してしまったものか。
 いや、この際それはいい。起こってしまった過去を悔いても未来は開けない。
 徹は全力で計算を始めた。
「……しかしそれにしても早過ぎる。ルートが分かっても、そもそも何十キロ単位の誤差が生まれるはずだ。俺が神官派領域に入ってまだ半時間も経ってないぞ。どうやってここまで近づいた?」
 一帯はすべて山林。連なる山々のどこを通るかなど読みようもないはずだ。いかに<魔人>の知覚が必要時には鋭敏化するといえ、遠く離れた場所の靴音を拾い上げられるものだろうか。獣や木々の音に満ちた中で、靴音だけを。
 そのように、徹は音だと思った。視覚は山向こうでは意味をなさないし、嗅覚とはさすがに考えづらい。当然といえば当然の判断である。
 だから、あまりにも理不尽な答えに怒りすら覚える破目になった。
「領域内であればステイシアは君の位置を精密に割り出せる。近くまで来れば僕も位置と大きさと種類程度なら自前で察知できる。<魔人>の存在は大質量にも似て、局地的に世界を歪ませる」
 淡々と述べられたのは、具体的にはどういう機序であるのかが徹には理解できない手法だ。
 そして口にした言葉を示すものなのか、また別の何かであるのか、処刑人の周囲が僅かに揺らめいていることに気づいた。
「待て、勘違いしている。俺……私は<竪琴ライラ>を裏切るわけではないんだ」
 この状況をどうやって打開すべきか。策を練るため、まずは時間を稼がなくてはならない。
「<横笛フルート>に潜り込んで内側から掌握、改革して<竪琴ライラ>と敵対しないようにするのが目的なんだ」
 もちろん、この場で考えた出まかせである。しかし自動的にその偽りを本心であると自ら信じ込んでゆく。
「<竪琴ライラ>と<横笛フルート>の争いは泥沼に嵌まりかけている。このままでは双方に多くの死者が出しながらいつ終わるかも見えないだろう。だから一計を案じたんだ」
 処刑人は動かない。聞いてはいるのだろうが、冷淡なまでに事務的なまなざしがこちらへと据えられているままだ。
 その興味を動かせているのかいないのか、いずれにせよ徹は語り続けるしかない。
「敵を騙すにはまず味方からというだろう? この意図がどこからか漏れてしまっては狙いが水泡に帰すからね、離反のような形で黙って出てくることになっただけなんだ」
「――――君はおそらく、しばらくの間は<横笛フルート>で活躍できるだろう」
 同じまなざしのままで、処刑人が無感動に告げる。
「なぜか君に心酔する者が現れて一勢力を作り、なぜかより強大な勢力に勝ち、首尾よく<横笛フルート>でも片手の指に入る権勢を得たと君は思うことになるだろう」
 淡々としているため分かりづらいが、その言葉は皮肉である。
 徹も気づいた。
「何が言いたい?」
「騎士派の幹部が裏切った、という形になる君は<横笛フルート>にとって得がたい神輿だ。その宣伝効果が大きく確保されているうちは喜んで接待してくれるだろうね。さすがに<竪琴ライラ>にとっても大きな害だ」
 力、環境、正当性。何でも構わないが<横笛フルート>は自分たちの方に優位があると示したい。そんなとき、寝返りは最高の糧になる。しかも屈強、清廉で知られた騎士派からとなれば格別だ。神輿として高く担ぎ上げるのは当然だろう。
「それはつまり、俺が実力で<横笛フルート>を掌握するのは無理だと言っているのかな?」
 湧き起こった怒りそのものは本物だ。徹は自分の設定を既に信じ込んでいる。
 しかしあくまでも表面的には余裕を滲ませつつ、やれやれとため息をついてみせた。
「随分となめられたものだ。しかしいいのかね? 私を処分しに来たんだろう? 獲物を前にしてお喋りなのは三流だというがね」
「三流で特に僕が困るわけじゃない。君が困るのなら、それは申し訳ない」
 煽ってみても、処刑人は苛立つどころか眉ひとつ動かさない。
 そして告げた。
「それで、まだ訊きたいことはあるだろうか。支障ない範囲で君の疑問に答えることも今回の仕事のうちだが、個人的にはそろそろ打ち切りたい」
「疑問ね……」
 韜晦するふりをして、しかし徹の内心は嵐の如くだった。
 処刑人の何もかもを捉えられない。そこに確かにあるのに、触れるものすべてを呑み込んで曖昧にしてしまうような、底なしの不気味が総身を満たしていた。
 ここをどう脱すべきか。計算が終わらないというよりも、答え自体は最初から見えている。目の前のこの男を殺さなければ出られないというなら、そうするしかないのだ。
 無論、脱出不能というのがはったりという可能性もある。しかし先ほど行く手を不可視の壁に遮られたのは確かであり、仮に他の方向が開いていたとしても、この男に背など向けたなら死あるのみだとしか思えなかった。
「……そうだ、ケイはどうしてる?」
 なおも引き延ばす。せめて何かヒントが欲しい。脱出の足がかりか、付け入る箇所が。
 こんな切羽詰った状況でなければ疑問は次々と出て来たのだろうが、咄嗟に思いついたのはそんなものでしかなかった。
「四辻君なら君を連れ戻すために追っていたらしいが、さすがに間に合わなかったようだ。おそらく君にとっては不運なことに」
 必死に活路を見出そうとしていた。だから最後の言葉を聞き逃した。追って来ていたが間に合わなかったという、不要な情報として流してしまった。
 そして同時に、明らかに時間稼ぎだったと覚られてしまった。
「よく言われることだが、一度裏切った者は何度でも裏切る可能性が高い。僕は彼の思いを叶えない」
 処刑人が一歩を踏み出した。
「では死ね」
 弾かれたように徹は跳び退る。手には戦鎚『ミーティア』、雷は既に纏わせて。
 唇を噛み締める。やるしかない。信じられるものは今や一つ。自分自身の力だけだ。
 既に力の理に生きることにしたのだということを思い出す。自分にはまだ、束縛から解き放たれていない力が眠っている。それを解放してやることさえできればいい。
 肌が熱い。反して芯は凍えている。
 名和雅年。<呑み込むものリヴァイアサン>、<竪琴ライラ>の処刑人。<魔人>たちはその力量を日本屈指と囁き合う。
 実際には分からない。経てきた殺しの実績と、神官派の<魔人>を幾度か手合わせで叩きのめしたときの様子だけが実力を示す全てだ。
 分からない。変わらぬ無感動なまなざしからは何も読み取れない。
 怯えるな。自らに呼びかける。
 五つの雷球が中空に浮かび上がり、螺旋を描いて標的へと殺到した。その一つでさえ優秀な砲撃方ボウの全力に値する。しかも砲撃戦として考えれば距離は至近、対応は困難を極める。
 だというのに処刑人は歩みを止めない。紫電が照らす顔には緊張も恐怖も倦怠もなく、ただ黙々と作業を進める意思だけが見えた。
 顔面に迫った一つを横から右掌が破壊、返す甲がもう一つを破壊、同時に右肘が更に一つを破壊。そのまま四つ目をコートの裾で叩き落す動きを兼ねて左半身となり、脇に拳を構える形へと移行する。そして脚へ向かった最後の一つは左掌で受けてこともあろうか握り潰した。
 そこから一歩。二十メートルに満たない距離など、その気になれば<魔人>には当たり前のように一歩で足りる。
 しかし徹もその一歩を待ち構えていた。
 戦鎚は絶大な破壊力を発揮できる武器である。その重さはあらゆる防護をその上から叩き潰す。替わりに真価を発揮するには振るわれるための軌道が確保されている必要がある。加速、撓り、伸び、それらが作り上げる破壊の最高点に標的を置く必要があるのだ。
 放った雷が潰されることなど折込み済み、既に戦鎚は振り上げられている。
 処刑人が自分自身を狙ってくるのか、それとも『ミーティア』を迎撃しようとするのかは分からない。いずれにせよ、渾身の力で振り下ろされる戦鎚の威力は何にも勝る。ぶつかり合いとなれば凌駕できる。
 果たして一歩を踏み込んだ処刑人は、徹が思っていたよりも僅かにだけ懐の内側にいた。放たれたはずの拳はいつしか開かれ、戦鎚の柄に触れ、押していた。右上方から袈裟に振り下ろされる『ミーティア』を右へと弾き飛ばしたのである。
 動きは止まらない。徹の視界に映ってだけはいた。戦鎚を弾いた形からそのまま、処刑人の右腕は肘を頂点とした三角を形成、僅かに身を沈めた。
 その肘は言わば穂先である。穂先が徹の胸骨に触れた瞬間、地を蹴る足から身体を徹して叩き込まれた重く長い衝撃と、右拳に左掌を打ち付けることで得られた鋭く短い衝撃とが重ねられた。
 胸板が文字通りに破れる。とてつもない重さと浸透する破壊が徹を貫き、背へ抜けた。
 それは理に適う卓絶した業だったのか、それとも強引な一撃でしかなかったのか。前者であれば戦慄を禁じ得ず、後者であったならなお恐ろしい。
 即死だったろう、もし<魔人>でなかったならば。
 声など出るはずもない。<魔人>でなかったならば。
「あ」
 吹き飛ばされながら、痛みよりも何よりも徹を襲ったのは恐怖だった。
 処刑人のまなざしは今もって変わらない。淡々と作業を行うだけの、日々の仕事をこなすだけのものでしかない。
 これが何より怖かった。
「あああああああああああああああああああっ!!!?」
 徹とて砲撃方筆頭マスターボウである。まだ死なない。まだ、終わりではない。肉体は滞りなく復元される。
 しかし勝てない。自分などとは棲んでいる領域が違う。たった一合だったが、それだけでも圧倒的過ぎることが理解できてしまう。
 おそらくは業だけでも自分を制することができる。その上で凄まじいまでの膂力を有し、反撃が叶ったとしても絶望的な防護能力と耐久力を打ち崩さなければならないのだ。
 これではまるきり怪奇譚ホラーの住人。不死身の怪物と哀れな犠牲者である。
 不可視の境界に打ちつけられる。
 逃げたいのに逃げられない。生き残るには怪物を屠らなければならない。
 怪物は、処刑人は腰を落として盾のように構えた右腕の向こうからこちらを見ていた。
 信じるのだ。自分を信じるのだ。
 凌駕解放オーバードライブの真の姿。それだけがきっと打開してくれる。
 だが、どうすればいいというのだろうか。
 無限の可能性という言葉は美しく希望に満ちて、何も教えてはくれない。
「俺は強い」
 信じる。
「俺の雷は強い」
 信じる。
「俺はどこまでも行ける!」
 信じ切る。
 考えるのだ。処刑人が即座に追撃してこないのはなぜか。
 警戒している。あるいは自分に秘められた力を知っているのかもしれない。
 新たな凌駕解放オーバードライブ。真の凌駕解放オーバードライブ
 それを得るためにはまず、捨てなければならない。
 希薄な根拠に飛躍する論理。徹が繰り広げるものは、信じ込むという意味で空想ですらなく妄想に近い。
 それでも縋るしかなかった。
 捨てる。
 まずは四辻圭への親愛と信頼を。
 次にエリシエルへの敬服と憧憬を。
 一輝と聡司への戦友たる連帯意識を。
 砲撃方ボウたちへの責任を。
 騎士派への愛情を。
 自分を縛っていたはずのものを一つ一つ否定してゆく。偽りであったと打ち消してゆく。自分を騙すのは得意であったから。
「俺は自由だ! 見せてやる、俺の本当の力を!!」
 咆哮。
 紫電を『ミーティア』に収束させる。
 雷光が弾ける。
 戦鎚を振りかぶる。
 振りかぶって、唇だけが震える。声が出ない。
 自由になった。解放された。
 孤高の頂に自分はいる――――はずだった。
 地面がなくなってしまったように思えた。楼閣が存在していたのは砂上ですらなかった。奈落が自分を呑み込むようだった。
 ただ孤独だった。



 兼任徹は本当に騎士派よりも力の理を選んだのだろうか。独り立ち、他者を蹴散らしながら背比べをすることを望んだのだろうか。
 騎士派には帰れなくなったと思い込んで、また逃げて来ただけではなかったか。かつてのように、逃亡に理由を作っただけではないのか。
 幼い頃から本心を実行することは許されなかった。
 遊びたいときに勉学を強いられ、優等生であることを期待され、親元を離れることで箍が外れはしたものの、常に望みの全てを行うことはできなかった。
 呪いのように心を縛るものがあった。楽しいはずの日常も必ず、心の二割が冷えていた。冷えていることを覆い隠し、全霊で楽しんでいるのだと自分自身に言い聞かせた。楽しかったと記憶を創り続けた。
 だから何か一つに懸けることはできない。命を費やすに値するものがない。本気ではないもの如きが理由で自分が脅かされるなど我慢ならない。
 何もかもが中途半端で、流されるままに状況が移り、逃げ出しては自らを偽って過ごして来た。
 人生を謳歌していた大学時代。それ自体が既に、厳密には捏造された記憶である。楽しかったという言葉がひたすらに繰り返され、頭を染め尽くす。
 徹が騎士派へと来た経緯は実に身勝手なものだ。在籍し続けていたのも、砲撃方筆頭マスターボウという役を勤め続けていたのも、すべて自分のためである。
 しかし愛していたこともまた事実、ようやく手に入れかけていた本物だった。だからエリシエルは圭の代わりに会合へ出し、ステイシアは徹の怒りに微笑んだのである。
 徹は自分を騙すことに慣れ過ぎていた。そしてそうであることも自覚していた。だから偽りも本物も区別がつかなくなっていた。
 それでも心の奥底から警告は出ていたのだ。騎士派を裏切って性悪な少女の言葉など信じていいのかと。
 だが、逃げたい気持ちは何よりも強かった。吊り下げられた雄々しい弱肉強食の理は、逃げるという事実を覆い隠してくれる強烈な餌だった。だからこれでいいのだと自分に騙されたのだ。



 今、徹には何もなかった。
 そして処刑人は待たない。いつの間にか目の前にいて、右の巨拳が欠片の容赦もなく徹を貫いていた。
 徹は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。
「俺は……どうすればよかったというんだ……どうして邪魔ばかりされるんだ、どうして俺ばかりこんな目に遭うんだ」
 掠れた声。虚空を睨む双眸に、既に輝きはない。呪詛を向ける相手は、あるのかどうかも分からぬ運命か、目の前の男か。
 処刑人は告げる。
「ステイシアが言うには、君は迷子らしい」
 兼任徹という存在は騎士派へ行く前よりハシュメールの<魔人>帳に記されている。そして神官派から騎士派への情報提供は密に行われる。四辻圭は最初から徹の背景を全て承知した上で目の前に現れたのだ。
 生き方を見失っているのならば、迷子になっているのならば、まずは新たな故郷を作ってやればいい。諸々の問題は、帰属すべき場所を得て、それからゆっくりと解決してゆけばいい。エリシエルと圭はその思いで受け入れたのである。
「四辻君は優しい子だよ。贖うことにはなっただろうが、君はまだ彼の定めた門をくぐってはいなかった」
 処刑人の口調はどこまでも平坦で、まなざしには微塵の情もない。
 だからこそ事実なのだと魂に沁みた。
「あ、ああああああ」
 漏れる嗚咽。後悔はあまりに遅く、死した<魔人>は塵も残さない。
 誰一人として思い報われることなく、裏切りの始末はついた。







[30666] 「せいくらべ・エピローグ」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2016/02/21 13:50




 人は比較でものを見る。
 異なる場所にある同じ色が本当に同じに見えるとは限らない。周囲の状況による補正をかけて受け取ってしまう。
 だから異なって見えたとしても同じであるのかもしれない。
 背丈を比べてみるのも悪くはない。
 だからこそ気付けるものもあり、暴いてしまうものもある。
 いずれにせよ全てを乗せて世界は回り、一つの終わりは幾つもの始まりを呼ぶ。
「一年です」
 果ての見えぬ夜を模したかのような部屋で、ステイシアがそう告げた。
 向かいのソファに座るのは三名だ。
 穏やかというよりも気弱げな表情の江崎衛。
 勝気に笑う姫宮瑞姫。
 そして、惑いを隠し切れぬ深崎陣。
 戸惑いを見せるのは彼だけではない。その後ろに立つ武島洸、華厳院雅隆の両名も身の置き場に困ったかのような顔である。
 最後に、横合いに突っ立っている名和雅年だけはいつもの気力に欠けるまなざしで六名を眺めていた。
「一年以内には<横笛フルート>をほぼ完全に抑え込む必要があります」
 瑞々しい小さなくちびるが期限を繰り返す。
「ここ一月以上にわたり、当領域においては対処の必要となる件が激減していました。暴発か様子見か、散発的に刺激を加えてくるくらいだったのですが…………もうそろそろそれも終わるかと推測されます」
 やわらかな声、口調ではある。
 しかし芯に強いものが入っている。生半な覚悟での割り込みなど許さない。
「戦力が必要です。特に、強い個が」
 そのまなざしが陣へと向けられた。
「行けますか?」
「ああ」
 それで陣は自分が呼ばれた理由に得心した。
 ステイシアが自分に求めた方針は、昨日までは休養だったはずだ。それを覆すならば何か大きな理由がある。流れからすれば大規模な攻勢を事前に察知したというところだろうか。
 だからただ頷いた。自分自身はまだ取り戻せていなかったけれども。
「どこまでやれるかは正直分からないが……こんな身でも役に立てるなら」
「ありがとうございます」
 ステイシアは詫びない。陣の意気に微笑み、次はその背後の二人だ。
「陣さんはまだ本調子ではありません。ですから洸さんと雅隆さんは補佐をお願いできるでしょうか」
「は、はい……!」
 上擦った声で、洸。
 当然といえば当然だろう。この部屋に呼ばれること自体が初めてであり、行われているのが神官派全体にとって重要となるのであろう話であり、役割までも求められたのだ。
 そして雅隆も、不機嫌そうに眉根を寄せながら頷いた。
「俺が後に呼ばれたのは気に食わんが、病み上がりの面倒くらいは見てやるさ」
「いやいやいやっ! なんかタカ君すげえ偉そうだけど、陣さんには君と僕二人でかかっても勝つの大変だからね!?」
「二人なら勝てるということだ、馬鹿が」
「その台詞もなんでオレが馬鹿呼ばわりされてるのかも意味不明だよタカ君!?」
 武島洸は小柄な身体と可愛らしい顔立ちの少年である。少女めいて、とまではいかない。冗談を仕掛けられるとき以外には間違えられるようなことはないし、よく見れば小さいながらも力に満ちて、華奢さとは無縁だ。
 <魔人>となった際に背丈を伸ばすことの多い小柄な少年の中にあって、人であった頃の体格のままにしてあるのはそこに負い目を覚えていないからである。この場に呼ばれて緊張はしていても、怯えはない。純朴そうに見えて、実際に純朴ではあるのだが、思いもよらぬ肝の太さがある。
 そして華厳院雅隆は洸の好敵手である。友人と評すると機嫌が悪くなるため、ライバルであると周囲は口にすることにしている。仰々しい名を選んだことにも現れているように外連好きの気があり、見せる怒りも演出なのかもしれないが。
 ひょろりと高い背、こけた頬に眼光が鋭い。人付き合いは好まず、洸と模擬戦を行っているとき以外は大抵独りである。
 二人とも神官派の上位一割に入る実力者だ。五指に入る陣と組んだならば、集団であっても勝てる<魔人>などそうはない。
 ステイシアは視線を更に移した。
「瑞姫さん」
「はいよ」
 姫宮瑞姫は気楽に頭の後ろで両手を組んでにこりと笑う。これからすぐに出張る可能性を考えてか活動性を重視した装いをしてはいるが、それでも愛らしく着飾ることを疎かにしてはいない。
「あたしは何をすればいいのかな」
 瑞姫は基本的に何でもできる。その容姿と明るさを生かして情報を集めてくるのも得意であるし、戦闘もこなせる。特に後者については、クラウンアームズを所有していないため突出した戦闘能力にこそ至らないが、見た目に反する圧倒的な身体能力や潜在出力、幾つもの武道の心得が作り出す強さは洸や雅隆を上回りかねないほどなのだ。
「瑞姫さんには本領を発揮していただなくてはなりません」
「いいよ。無制限なのは四十九……今は八か、その中であたしだけの特権だもんね。逆に訊くけど、構わないの?」
 静謐なステイシアに対し、瑞姫はあっけらかんとしたものだ。
「なるべく知られたくはなかったんだよね? まさに諸刃の剣だ。自分で言うのもなんだけど、もし最悪の事態になったら止められるの?」
 ステイシアへの言葉のように聞こえながら実際に向ける相手は異なる。恐れもなく挑戦的に、雅年へと流し目をくれた。
 しかし返答は淡々としたものだった。
「おそらくだが問題はない。もしも君が二人いて、手を携えて来たとしても処理できる」
「うは。言うなあ」
 瑞姫は機嫌よさげにけらけら笑う。強く『女の子』を感じさせる容姿容貌にそぐわぬ、むしろ豪放な笑い声だ。しかし裏表をまったく感じさせない響きは違和感よりも好感を抱かせる。
 ステイシアも迷いは見せなかった。
「ここがカードの切りどきでしょう。人選はお任せしますが、報告はお願いします」
「うん、実はもうとっくに何人か目星はつけてあるんだ。みんないい奴だよ」
「それは頼もしいです」
 にこりと頷き、次は衛だ。
「衛さんはご自分の判断で全体のフォローをお願いします」
「分かったよ。もしも手に余るようだったなら、そのときまた報告すればいいかな」
 衛は小さく静かに笑う。
 その様は今交わした言葉の中身の強さにそぐわない。
 洸も雅隆も、陣でさえも、違和感を覚えずにいられなかった。
 江崎衛は弱くはない。だが際立って強いという印象もない。やり合えば勝てると三人ともが認識していた。
 しかし上位であるはずの数十名を差し置いて、遥か以前から神官派の幹部として扱われている。
 無論、この部屋に呼ばれる<魔人>は戦闘能力だけで決められているわけではない。戦力としての価値も含めた上で、どれだけの問題に対処できる能力があるかが重要となる。
 赤穂裕徳は単独での解決能力なら神官派どころか<竪琴ライラ>でも最高と言われていたし、瑞姫も要としてよく動いているのを見かける。だが、この気弱に笑う少年が活躍したという話を聞いたことがない。
 知らない何かはあるのだろう。無意味に贔屓されているとは考えづらい。
 だから三人とも何も言わなかった。
 そして、ステイシアが個別に声をかけたのはそこまでだった。
「いつ仕掛けてくるか正確には分かりません。二週間以内ではないかとは予測できています」
 可憐な面立ちに愁いを帯びた表情、願うように、祈るように組み合わされた両手は大切なものをその中に抱いているかに見えた。
 自然と居ずまいが正される。それだけの、侵すべからざる神聖がそこにはあった。
 綺麗なステイシア、可愛いステイシア、優しいステイシア。その細い肩に背負うのは、神官派三百六十余名だけではない。
「万難を排し、備えてください。どうか、誰も失われぬよう」





 しばしして、部屋には二つの姿だけが残る。
 ステイシアはようやく雅年の方を向いた。
「なぜ一年なのか、ですか?」
 解散してなお残った意図を、問われずとも読み、確認する。
 <横笛フルート>との争いはなるべく早く終わらせるに越したことはない、というのは以前からの方針ではあるのだが、唐突に一年と期限を切るからには理由があるのだ。
「江崎君も何かあると気づいてはいたようだが」
 雅年の表情も姿勢も、最初からまったく変わらない。彫像のようにただ立っている。
「説明されなかった限りは少なくともあの場で聞くべきことではないと推測したのかもしれない」
「……衛さんらしい。こんな<私>ステイシアを信用してくれているんですね」
 ステイシアが過去に思いを馳せる。自ら知る情景ではないが、他者から聞いた知識としてあるものだ。
 それも僅かの間のこと。現実に戻るまで一呼吸もない。
あるじハシュメールは第四世代<魔人>作成技術の開発に成功しました」
 事実を告げるだけの硬質な声。常にやわらかな、どこか悲しげにさえ響くことのあるステイシアには珍しい。
 そして、今まで微動だにしなかった雅年が僅かに左の眉を上げた。
「なるほど。それが問題になるということは、大黒先生の推測が的中したのか。説明されてみれば当然と納得できる内容ではあったが」
「魔神学の第一人者、大黒一郎氏ですね。雅年さんの、大学院時代の指導教員でしたか」
 魔神自身すら理解し切ってはいない魔神という存在、世界との関わり方、それを切り口として世界を読み解こうとする学問を魔神学と称する。
 学問なのかといぶかしむ者もあるが、情報を集め、検証し、体系化してゆくことで成り立つ、れっきとした科学である。在り様としては民俗学が近いだろうか。
「まさにその予測通りです。第四世代は構成する力の桁を落とすことで、十八歳未満に限って<魔人>化の成功率を跳ね上げています。他には、第三世代が苦手とする、武器の創造が得意だとか。少なくとも主は最終的な<魔人>の総数を大きく増やすつもりはないでしょうが……一時的には倍加する可能性すらあります」
 <魔人>の第一世代とは、事実上<魔王騎士>を指す。
 第二世代は試行錯誤の段階だ。誰一人として生き残っていない。
 そして戦格クラスを導入した第三世代は多様性と、可能性だけならば<魔王騎士>にも届きうる力、ようやく一割から二割に達した<魔人>化成功率を誇る。
 性能だけを追求するならば第三世代は既に<魔人>の極点にある。これ以上は望めない。
 だが、魔神はそもそも<魔人>の戦闘能力を高めること自体には興味がない。究極が最初に完成してしまっているのだ。だから考えるのは安全性である。成功率が上がるなら、強さなど秤にかけるまでもない。
 正しいには違いないだろう。命あって初めて、すべては為せる。いかに力を落とそうと人間以上ではあるのだから、望みを叶えるために生きてゆくのは人だった頃よりも楽ではあるだろう。
 しかし力を是とする<横笛フルート>の下へ放り出されたならば、待っているのは煉獄である。
 無論のこと、力の差は第三世代の間にも大きく存在してはいる。しかしあくまでも同じ土俵に立ってはいるのだ。差は、人として持ち合わせていた、あるいは鍛え上げて来た能力に因る。
 しかし第四世代は違う。不当に一段低い場所に置かれていると感じずにはいられまい。
「……<竪琴ライラ>であれば問題ない、とは言いません。力の弱い存在を虐げる構造は、どんな人々、どんな場所においても生じます。けれどまだ、見つけ次第対応することはできる」
「いつまでも保つものでもないだろう。今度はその第四世代が弱さを武器に問題を起こす可能性は高い」
 雅年は淡々と、往々にして見られる現象を突きつける。
 力を持たぬということは善良さを意味しない。むしろ強かに生き抜くために多少の悪に手を染める者が少なからず存在する。
 しかしそれならばまだましだろう。守られることに胡坐をかく者がある。弱い立場を利用しようとする者がある。人の権利が声高に唱えられてゆくにつれ、世界各地で噴出した問題だ。
 そこへ怒りを覚えることは決して傲慢とは呼べまい。
 もちろん、自分をしかと持ち、上手く生きてゆける者もあるだろう。それでも人は楽な方に流されがちな生き物である。
「上手く収められるのか?」
 成功率が大幅に上昇すること、それだけを切り出せば喜ばしいことに思えるが、間違いなく害も呼ぶ。
 魔神は人に力を与えて<魔人>とするとき、必ず意思を問う。次の瞬間に死んでしまう者であるのなら極限まで遅滞した時の中に連れ込んででも尋ねるのだ。そしてその過程で、五人に一人も成功せず、失敗すれば死ぬということも告げる。
 少なくとも第三世代までの<魔人>は十中八、九は命を落とすという認識の下で成ることを選択している。未来への願いであれ現在からの逃避であれ、その確率に命を賭けるだけの価値を持つのだ。
 その価値が、下がる。
 特定の個人を抜き出せば変わらぬこともあるだろうが、俯瞰すれば安易に選んでしまう者が多く見られるはずだ。
 軽い選択が重い未来をもたらしたなら、どれだけが受け止められるだろうか。
「……分かりません」
 ステイシアは悄然と肩を落とした。今まで神官派をうまくまとめて来た魅力と手腕をもってしても限度がある。
 他の者の前では決して見せない姿。<聖女>ステイシアはあくまでも、儚くも強く美しい幻想でなければならない。
「内側にいればまだ慰撫はかなうと思いますが……いえ、ともあれそれは現在の問題を乗り切ってから考えましょう。主は既にかなりの数の第四世代を創り出しています。あと一年で彼らが第三世代の中に入ってくるのは確実なのですから」
「それが期限の理由か」
 雅年が呟くように漏らし、ステイシアが頷く。
「はい。一年間は閉鎖世界に隔離していただくよう、なんとか説得は成功しました。彼らが力の扱いを覚える期間と場所を兼ねて学園という形をとっています。主の得意分野ですので、閉じ込められているという感覚も薄く、ほとんどの方が楽しく一年を過ごせるのではないかと。ただ、そのために事実全てを伝えられることもないでしょう」
 一応は人を超えた力を得て、そしてこちらに出てきたならば自分たち以上の存在が蠢いていることを知る破目になる。
 偽ってはいないが起こるであろう勘違いを訂正しもしない。まるで冒涜である。決して綺麗なものではないにせよ、何らかの望みのために<魔人>となった少年少女の思いを汚しているとも言える。
 けれどこうするしかないのだ。時間と手が足りない。
 しかし雅年はステイシアの悲痛へ冷ややかな感想を述べた。
「望みのために、わざわざ人ではないものになったんだ。どんな結果に終わろうが自業自得だと思うが」
「そんな残酷は放っておいてもやって来ます。だから優しくていいと思うのです。精一杯まで、赦されていいと思うのです」
 透明に、ふわりと微笑む。
「掴めるものは一握りの灰だとしても、ほとんどが指の隙間をこぼれ落ちるのだとしても、手を開かなければ何も掬えはしませんから」
 まさに言葉通り何かを受け止めるように、胸の前で両手をやわらかに差し出す。
 ほのかに灯ったのは白い光、そしてそれはすぐに硬質な球体と化した。表面は透明だ。中を覗ける。
 球体の中に、更なる灰色の球体が浮いていた。灰色の陸が見える。灰色の海が見える。地球を模しているのだと分かる。
 宝珠<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクローム
「……およそ二週間でこれを完成させます。採ろうとしているのは悪手、十を取り戻すために二十、三十を捨てるに等しい一手となるでしょう。しかしこの十は放っておけば百の害にもなりかねない」
 精一杯掬い取りたいと言ったそのくちびるから告げられるのは凄惨な予定。
「依頼です、雅年さん。<帝国>エンパイアを殲滅していただけますか?」
「分かった」
 諾の応えは短く素っ気なく、確かに成された。
 ステイシアはもう一度、微笑んだ。
 来るべき残酷の結果は他の誰でもない、二人のものだ。
「こんな灰色の世界だから、私は白のような灰色で、あなたは黒のような灰色で。ああ、でも――――」
 まるで独り言のように呟く。



 ――――本当はあなたと同じ色だったなら。







[30666] 幕間「女帝独り」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2016/02/28 13:47





 駅前の古いビル。
 四階建ての草臥れたそれは、老夫婦が経営する小さなビジネスホテルだ。一年のうち決まった時期だけはイベントのおかげで賑わい、それ以外は片手で数える程度しか客がいない。
 宿舎を捨てざるを得なかった<夜魔リリス>が逃げ込んだのはそんな場所だった。
 老夫婦は殺害、四名だけいた宿泊客はさんざん脅してから追い出し、<帝国>エンパイアは身を潜めた。
 それから一週間経つ。問題はまだ起こっていないが、さほど長い期間は保たない。老人にも離れた場所に子供くらいはいようし、厳重に口止めはしたものの客から警察まで話が行くことも充分にありえる。捜索願など出されては面倒だから客は生かしたのだが、誤りだったかもしれない。ともあれ可能な限り早く新たな拠点を見繕う必要があった。
 <夜魔リリス>が陣取ったのは当然のように最上階の一室だ。汚くこそないもののやはり古いツインルームで、腰掛けた簡素なベッドも到底満足できるような代物ではない。ベッドメイキングもやらせてはいるが、何分素人である。美しくはならない。ベッドの片方を運び出して少し広くしてみても貧相なのは変わらない。
 人であった頃の煌びやかな自室を思い出し、いつもの小説を閉じて溜息をついたそのときだった。
 ドアの向こうで、無言ながらも動揺が走るのを感じ取った。乱れた足音がしたのだ。
 宿舎のときのように同じ部屋に侍らせてはいないが、ドア前になら歩哨として二人を立たせてあった。彼らのものだろう。
 敵襲かと思うも自ら否定する。さすがに静か過ぎる。
 そして更なる推測も必要なかった。ドアを文字通りに斬り開き、枯れ木のような姿が立っていたのだ。
「わざわざ風通しをよくしてくれたのに悪いのだけど、部屋を変えないといけなくなったみたい」
 ゆらゆらと歩み入って来る<妖刀ムラマサ>にちくりと皮肉。
 無論、効かない。
「お、れ……はここ、でぇぉぉおい、とま、よう」
 相も変わらず理解に少しの時間を要する不自由な喋り方で、謡う骸骨のようにかたかた笑う。
「そう、行くの」
 少しだけ、胸に刺すものはあった。
 本当ならば<妖刀ムラマサ>は早期に離脱してもおかしくはなかった。あくまでも<横笛フルート>の一員として来たはずであり、奴隷たちのように異能で縛られているわけでもないのだ。
 と言えど、予想はついていた。<剣王>ソードマスターと戦うには自分の傍にいるのが最も早そうだったからなのだろう。そして倒してしまったから、今別れを告げているのだ。
「この際だから以前から思っていたことを確かめたいのだけど」
 おそらく二度と会わない可能性が高い。<妖刀ムラマサ>が次に向かうとすれば神官派か剣豪派、そのどちらかになる。どちらも逃がしはすまい。妥当に考えれば剣豪派だろうか。
「あなたと<王者チャンプ>、戦ったらどちらが勝つのかしら?」
「はぁち……にぃ」
 返答が八、二であることに気づくのに、やはり少しかかった。
「はぁちで、お、れが、かぁつ」
 何もかもが読みづらい<妖刀ムラマサ>の内心を推し量るのも無駄に思えたが、八割勝てると口にする調子に気負いはなさそうではあった。客観的に判断した結果なのだろう。
 しかし続きがあった。
「や、つがぁ……ぜんりょ、く、ださん……ならだ、がなあ……」
「ぜんりょ下さん? ……ああ、全力を出さないなら、ね」
 なるほどと思う。相手の得意分野で勝つという<王者チャンプ>の戦い方は、本気だが全力ではない、全力だが本気ではない、そう言わざるを得ない。
 と、<妖刀ムラマサ>が肩を揺らした。
「やつ、は、に、にぃを……じゅう、ど、ともとる、がなあ」
「二割の勝率を十回ともとる? 算数から勉強した方がいいのではないの」
 十回とも勝てるなら、それは勝率二割とは言わない。
 ひ、ひ、ひ、と笑い声であろう息が漏れる。
「ぜんりょくをぅ、ださずと、もよい、うちは……ひひ、まけぬのよ」
 <王者チャンプ>の戦い方は自らに制限をかけている。それでなお勝つことに意義がある。
 自分を負かせるかもしれないと思った相手にはその制限を取り払う。縛りをかけたままで負けては挑戦者への侮辱になるからだ。
 逆に言えば、相手の得意分野で戦っているということはそれで負けるとは思っていないということになるのだ。不利に思えても、結果として必ず勝つ。
 それが<妖刀ムラマサ>の道理に合わない台詞の唐繰りである。
「ださ、せてはみ、せようが……そ、そ、なれば、どうな、るかは……わからんなあ」
「どうして戦わなかったの?」
 それが不思議だった。
 <妖刀ムラマサ>は己を極限まで高めたいのだと聞いた。死も敗北も、それ自体を恐れはしないはずなのに、<闘争牙城>最強であるとされる<王者チャンプ>に挑まなかった理由が分からない。
「あれは」
 そのときの<妖刀ムラマサ>に、<夜魔リリス>は不思議な響きを耳にした。
「おれにたおされてよい、おとこではない」
 斬ることを語るときほどではないが比較的滑らかに喋ったのだ。
 そしてまた笑う。
「こんなざつねんがあるからおれは、未だ斬撃に至らんのだ」
 <夜魔リリス>には理解できない。言っていることも、笑った理由も、何もかも。
 <妖刀ムラマサ>はいつかのように告げた。
「わから、んか。おんな、にゃ、わ、からん」
 男は嫌いだと<夜魔リリス>は公言している。男女を推測するのも馬鹿らしい見た目ではあるが、女には分からん、との発言からすれば<妖刀ムラマサ>はおそらく男だ。しかしどうにも、男であることに対する嫌悪は湧かなかった。
 気分を切り替える。所詮は戯言だ。疑問には思っていても、答えを知ったところで何かの足しになるわけではない。
「まあ、いいわ。とにかく、もう出て行くのよね。正直あなたという戦力を失うのは惜しいけど……」
 不気味で何を考えているかも分からない<妖刀ムラマサ>だが、実力だけは凄まじい。
 もしいなければ<帝国>エンパイアはここまでやって来られなかっただろう。<夜魔リリス>もそれは素直に認められた。
「……というより、よくここまで付いてきてくれたものね。私は<横笛フルート>を裏切ったのに。一応は感謝しておくわ」
「うら、ぎり……」
 何を言われているのか分からないと言わんばかりに、<妖刀ムラマサ>の首が、人体構造として不安になるまで傾いた。
 もしかすると、離反したことにすら気づいていなかったのかもしれない。
 ありえない話ではないだろう。権勢だの抗争だの裏切りだの、<妖刀ムラマサ>には心底下らない事柄でしかないのだろうから。
「いいわ、気にしないで。とにかく……」
 言いかけたときだった。
「ああ」
 <妖刀ムラマサ>の首が元に戻った。
「おまえ、ぅうらぎったつ、つも、りでい、たのか」
 冷水を浴びせられた。
 思わず立ち上がっていた。憤怒か恐怖か、手が震える。
「何を知っているの!?」
「なに、もしらん。しらんが……べりある」
 <無価値ベリアル>。
 あの爽やかな、男も女も軽々に心を開いてしまう、しかし<夜魔リリス>にとっては不快極まりない男。
 男というだけでも嫌悪の対象だが、それ以前に本能的な忌まわしさを覚えてならない。
「あ、れが、おまえご、ごときにぃ……たばかれ、れぇる、おとこかよ」
「私のしてきたことは全部あいつの予定通りだとでもいうの!?」
 あり得ると思ってしまった。その程度のことならやってのけると理性は判断していた。今ではなく、ずっと前からだ。
 だが信じたくないのだ。自分も踊らされていただけなどとは。
「しらん」
 無情にも<妖刀ムラマサ>はそう答える。興味自体はやはりないのである。
 死体めいた風貌、枯れ木めいた佇まいで、ゆらゆら揺れる。
「ではな」
 来たときと同様、去るときも唐突だった。挨拶をしただけでも上等な部類なのだろうが。
 消える背を<夜魔リリス>は声もなく見送る。
 取り残された感があった。言葉を交わすことすら稀にしかなかったが、<妖刀ムラマサ>は唯一対等の相手だった。
 下僕たちの中で独りになった。そう思った。
 真夏の暑苦しい、不快な空気が異様に冷たい。
 のろのろとベッドに腰を下ろす。壊れたドアの向こうにあるのは<双剣>ツインソード相馬小五郎の姿だ。<妖刀ムラマサ>が去った今、下僕の中で最も腕が立つ、それも抜きん出ているのが彼だ。歩哨役もだからこそ命じた。
「……その目は何?」
 小五郎がこちらを見る目はひどく沈んだものだった。まるで憐れんでいるかのように。
 <夜魔リリス>に最もよく逆らうのも小五郎だ。あの耐え難いはずの苦痛を最も浴びているのが小五郎だ。だというのに怯えたところはなく、そんな目をしているのだ。
「ふざけないで!」
 青い爪を向ける。
 苦悶の声が廊下に響き渡る。
「私は<夜魔リリス>! <帝国>エンパイアの主なのよ!?」
 応える者はない。
 勘気に触れぬよう、誰も姿を見せない。もう一人いたはずの歩哨さえいない。
 <帝国>エンパイアの玉座はあまりにも寒々しかった。







[30666] 「<夜魔>抄」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2017/11/05 13:37




 旧い家に二卵性の女子があった。
 妹は愛らしかった。千人集めても随一であったろう。
 勉学もできた。運動もできた。
 茶、舞踊、筝曲、何でもできた。社交ダンスに武道にピアノ、何でもできた。
 それだけで幸福になれるわけではないだろう。逆に不幸の引き金になることもあり得る。
 しかし恵まれているのは確かだ。心がけがあれば彼女は栄光の生を行けたに違いない。
 あるいは、姉さえいなければ。
 姉はすべてにおいて妹を凌駕していた。
 千どころか十万集めたとて敵う者なき容姿は長じるにしたがってますます光を放つよう。
 勉学も、運動も、芸術も、何一つとして妹は姉に勝てない。
 愛されるのは姉だった。皆が姉を慈しんだ。父も母も、使用人も。同級生たちも、心惹かれた少年さえも。
 妬むのも無理からぬところだった。
 対して姉は妹に優しかった。常に気を遣い、なるたけ平等に扱うように周囲に求めた。最も妹を愛していた人間はおそらくこの姉だったろう。
 無論、姉の優しさは本当に純粋なものであったわけではない。半分は自分が勝るからこその優越感と憐れみの裏返し、立場が逆であったなら生じなかったであろうものだ。
 しかし責められはすまい。優れていること、恵まれていることに罪はないのだ。五十年生きようが六十年生きようが至れる者などほとんどいないであろう境地を、まだ二十歳にもならぬ娘に求める方がおかしい。優しくしろ、自分を立てろ、便宜を図れ、ただし憐れんではならない、という要求は実に傲慢である。
 そして半分は優越感でできていようと、残る半分は間違いのない、妹への愛情なのだ。
 しかし妹は年を経るごとに妬みを募らせるばかりだった。











 ――――残り三十三時間



 <紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズなる<魔人>集団がある。
 『ヴァルキリーズ』という名が示す通りすべて少女で構成されており、現在三十二名のメンバーが所属している。助け合いのための寄り合いが発展して形成された組織であり、固い結束でも知られる。
 <魔人>の能力に男女差はない。人間であった頃の筋力や運動能力は同性の間でのみ比較評価され、どの程度の位置にいるかが<魔人>としての身体能力に関わってくるからだ。戦格クラスにもよるため一概に言えるものではないのだが。
 しかしそうであるにもかかわらず、女性<魔人>は厳しい状況に置かれることが多い。
 原因の一つとして挙げられるのが、男女差がなくなるのは身体能力においてのみで精神性はそのままであるということだ。
 <魔人>は人の社会に縛られない。それは即ち、近現代社会が作り上げてきた、暴力への抑止の意識も薄れてしまうことを意味する。<魔人>と<魔人>が諍いを起こせば、その解決法はほぼ間違いなく力のぶつけ合いになる。
 それは長い歴史の中で担われ続けてきた、男性の得意分野だ。文明の発達によって男女の役割分担も曖昧になりつつあるとはいえ、そこが変化するのはまだまだ先のことだろう。
 <魔人>という存在は、根本的に男の方が向いている。
 そしてそのせいであるのか否か、数が違う。十九対一、この覆しようのない比は、そのものが力の差になる。
 少数であること、女性であること、その二つからある程度大事にはしてくれる。ただし主導権は取れない。
 上手く少年たちの中で自分の位置を築ける少女でなければ最低でも歯がゆい思いをすることとなり、碌でもない相手に出会ってしまったならまさに悪夢だ。
 そうならないための自衛の手段こそが<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズの果たす役割だった。
「……これで理念は分かってもらえた?」
 古いビジネスホテルの最上階で広崎朱里ひろさきあかり<帝国>エンパイアの主に謁見していた。
 謁見、と自ら思ってしまったことに朱里は内心苦笑する。
 ある程度飾り立てられてはいるが、シングルにしては少々広いだけのただの部屋である。後から持ち込んだらしき調度品がそれなりに品好い演出はしている。
 床に散らばっているのは何の花なのか、なぜ存在しているのかよく分からない。橙色を中心とした色合いで、綺麗ではあるのだが。
 ただ、主である<夜魔リリス>自身には並々ならぬ存在感があった。
 美しいとは聞いていた。だが予想を超えていた。
 <魔人>の容姿は自らの意識が具体的に構成できる限りにおいて、成る際に好きなように設定可能だ。毎日少なからず鏡の中の自分と顔を合わせている少女たちは大抵、少年たちよりも整った姿を構成することができる。
 とはいえ目の前の<夜魔リリス>は格が違った。各種メディアに出てくる中でも押しも押されもせぬ美女の、更に一段上を行っている。
 そして不機嫌そうな空気を纏い、こちらを睥睨する様はまさに暴君だった。
 こちらも跪きなどしてはいないが、謁見という単語が浮かぶくらいはしてしまう。
 しかし朱里とて<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズの代表である。呑まれるわけにはいかない。
「それで同盟の件、受けてもらえるの?」
 発足以来一年近く上手くやって来た<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズだが、最近になって危機に陥っていた。
 原因は<横笛フルート>だ。傘下に加われと言って来たのである。
 その噂は聞いていた。まさに<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズの最も嫌う、暴力が幅を利かせた組織。メンバーにも被害者がいるくらいだ。受け入れられるはずもない。
 となれば当然のように、<竪琴ライラ>に保護を求めてはどうかという意見が出た。
 しかしそれも受け入れがたいものがあった。六派の頂点はすべて女性だとは聞くが、だからといってこちらの立ち位置を理解してもらえるとは限らない。向こうの在り方を押し付けられるかもしれない。
 そんなときに<帝国>エンパイアが現れた。<竪琴ライラ>と<横笛フルート>の両方を相手取って独立を守り、何よりも素晴らしいのは<夜魔リリス>が少年たちを支配下に置いているということだ。
 この狭い部屋に護衛であろう四人が侍っている。無言を守り茶々も入れない。女が合わせるのではなく男に合わさせる。<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズにとっての理想だった。
「もし受けてもらえるのなら今日からでも全力で協力する。あたしも、別室に待機してる子たちも男になんか負けはしない」
「……私はね、男は馬鹿な犬だと思っているわ」
 <夜魔リリス>が初めて口を開いた。
 いつの間にか、床の花が増えているような気がする。
「乱暴で頭が悪くて、どうしようもない存在」
「そうね、あたしもそう思う」
 どう転がるかは判らないままに、朱里は相槌を打つ。
 だが本心でもあった。<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズに加わった少女たちの話を聞くたびにそう思わずにいられない。
 <帝国>エンパイアとともに歩めるならば、きっと素敵なことになるだろう。
「でも」
 <夜魔リリス>が少しだけ目を細めた。
 やはり床の花が、更に増えている気がする。
「身の程を弁えて尽くすなら可愛がってあげてもいい。馬鹿ほど可愛いとも言うしね」
 まさに、らしい、と言うべきだろう。今や六十名を数える少年たちの主人として君臨するに相応しい言だった。
 しかし未だに望む答えはもたらされない。こちらに添うようなことを言いながら、傲慢にして冷ややかな瞳の奥が読めない。
 この瞬間までは、読めなかった。
「そして私にとってね」
 意思が見えた。
 花が増えた。
「女はゴキブリなの」
 男に向けるよりも遥かに激しい、潔癖症が汚物を見るにもここまでの拒否は示すまいであろう、断絶した嫌悪。
 花が増えた。増えた。増えた。
「見るのも嫌、存在しているのが許せない、未来永劫消えてしまえばいいのに。ねえ、私頑張ったわ? 会いもせずに殺すのは淑女として自分を許せないからここまで付き合ってあげたの。私の夢を教えてあげる。すべての男を屈服させて、女は絶滅させることよ」
 狂気すら乗った声。朱里の背に氷を突き込まれたかの如き怖気が走った。
 後ろへ跳ぶ。皆に伝えなければならない。
 しかし<夜魔リリス>が早かった。



「<落艶エデン>」



 囁くようなその一言に身構える。
 花が舞った。
「……あ……」
 間の抜けた声が漏れた。
 訪れたのは苦痛ではなかった。
 たとえば疲れきった身体を布団に横たえたときの安らぎ、たとえば大好きな人と繋いだ手に走る甘い痛み、たとえば自ら慰めたときのもの。
 快楽である。それが増幅されて全身を満たすのだ。
 その場に崩れ落ちていた。動けないわけでこそないものの、まともな行動などできるはずもない。
 時間の感覚すらなかった。
 だから<夜魔リリス>の声がもう一度するまでに少しかかっていたことにも気づけない。
「まだ残してあったの? 早く殺しなさい。他の女たちも楽園に堕としたわ。あちらもまとめて始末して。こんな汚らしいものをいつまでも私の城に置いておきたくないの」
 溜息が聞こえた。
 倒れ伏した視界に大きな靴が映った。
「……欲をかき過ぎたんだ。<竪琴ライラ>でよかった。対等でよかったのになあ。よりによってこんなところに」
 哀れむ声。
 二つの剣が振り下ろされ、朱里の命を刈り取った。





















 ――――残り三十二時間



 窓から覗く街並みが綺麗だった。
 多くの人が行き交う駅前は西日に照らされながら雑然として、それを美しいと相馬小五郎は思うのだ。
 かつて過ごしていた高校生活を思い出す。心身ともに脆弱と自称する愉快な友がいて、言動全てが漫才のような男がいて、寡黙な眼鏡がいた。放課後の教室は賑わい、終わりであるはずなのに不思議な活力があった。
 手を胸の前に持って来る。伸ばしても届くはずのない過去だ。
 遠くに来てしまった感はある。あの頃はもちろん、<魔人>となったときでさえ想像だにしなかった。彼らは今、どうしているだろうか。一年半前の卒業式は丁度<魔人>になった時期で、出られるはずもなかったが。
 大きく息を吐く。
 結局は誰かがやらねばならぬのであれば、と自らの手を汚したことに後悔はない。
 もはや戻れはすまい。色々と見通しが甘く、こうなってしまった。この剣で誰かを守るのだと幼い頃に気炎を吐いたものだが、その叶え方ももう分からない。
 予感がある。
 この罪を清算すべき時が近づいている。
 拠点をこのビジネスホテルに移してからも<竪琴ライラ>の偵察はあるが、決してやり合おうとはしない。
 そのこと自体は不思議ではない。敗北すれば強制的に引き込まれてしまうと分かっているなら腰も引けようというものだからだ。
 しかし小五郎は知っている。<竪琴ライラ>は、やる。敵を一撃の下に叩き潰す強大な力を投入してくる。今近くをうろついているのは<帝国>エンパイアをここへ釘付けにしておくために適度な刺激を加えに来ているに過ぎない。
 そもそも今になっても警察の介入する様子がないことがおかしいのだ。いかに脅しつけようと、果たして漏れないものだろうか。予約をとっていた客もおそらくはいたはずであるのに、来ることもない。
 財団派は人間社会における顔を有している。学生を支援する財団であるのが表向き、<災>を屠る人員を配置する組織であるのを裏向きに。だから曖昧なまま、警察に干渉することも不可能ではない。そこはオーチェのみの担う仕事であったため詳細は知らないのだが。
 忠実な下僕としては<夜魔リリス>に注進奉るべきなのだろう。しかし小五郎は配下になったつもりなどさらさらない。
 捕えられ、呪縛をかけられてしまったところまでは不覚だった。だが、それなら内側から何とかできないだろうかと動いていたのだ。
 あのような手段を用いている以上、心から<夜魔リリス>に従っている者などほとんどいないと推測された。ならば財団派の<双剣>ツインソードとして、下僕とされた者たちも救うべき相手だった。ただ、結果は無残と言わざるを得ないものがある。
 誤算だったのは、ほぼ全ての者が反抗の意思を早々に失ってしまったことだ。苦痛でまともに動けはせずとも、五十名を越える数はそれだけで力になる。単純な戦闘力に優れ、恐るべき切り札まで有しているとはいえ、<夜魔リリス>にとっての最大の力とは結局、呪縛した男たちなのだ。極力失いたくはないだろうから容易くは殺せない。そこを突けたはずだった。
 けれど現実は冷酷で、内心に背きながらも<夜魔リリス>に従う者どころか、<闘争牙城>出身者のうち十数名ではあるが好んで付いて行く者さえあったのだ。
 身の処し方としては正しいのだろう。自ら口にしていた通り、<夜魔リリス>は大人しく言うことを聞く下僕には危害を加えない。自分に不利益さえもたらさないなら大抵のことは放置する。その気があれば愉しみを得ることも難しくはないだろう。
 残念ながら、あの苦痛に耐えながら取り巻きを振りほどきつつ<夜魔リリス>に勝利するなど、小五郎をもってしても冗談にもならない。
 あるいは、<夜魔リリス>が確実に敗北するとまで予見できたなら一人を除いて全員裏切るのだろう。好んで付いて行く者すら彼女を憎んではいるのだ。処世術で従っているならば、そこは間違えないはずだ。
<双剣>ツインソード!」
 <夜魔リリス>の呼ぶ声がした。
 今度はどんな無茶を言い出すやら。
 眉根を寄せ、そちらへ向かう。
 <夜魔リリス>はあれから部屋を変えた。女の入った部屋にはいたくないというわけだ。調度品もそちらに移した。<魔人>にとって大した労力ではないからそれはまだいいのだが。
「財団派で次に来るであろうのは誰? 正直に答えなさい」
 そんなことを<夜魔リリス>は言った。
 ベッドに腰掛けて両脚を揃え、鋭い視線を向けてくる。随分と荒んでいるように思えるものの、不思議と気品を失ってはいない。
「財団派が送り込むなら……<三剣使いトライアド>だろうなあ」
 小五郎は質問に対する素直な回答を行った。<夜魔リリス>に施された呪縛は厄介なもので、こうも明確に尋ねられた場合、嘘をつくと苦痛に見舞われて即座に露見してしまうのだ。
「名前も売れ始めてるようだし、素質が花開いたみたいだ。見込んだだけはある」
「<三剣使いトライアド>……そうね、聞く名前だわ。確か武器になるパートナーがいて、それを使って戦うそうね」
 嘘をつけば判るためか、<夜魔リリス>は疑わない。
「あなたは勝てる?」
「実力的にはまだ俺が上だとは思うが、あいつは割と機転の利く奴だからなあ」
 そこを買って、目をかけるようオーチェに推したのは小五郎自身だ。そしてまたたく間に<三剣使いトライアド>などという二つ名がつくまでになった。
「そう」
 <夜魔リリス>は考え込む様子を見せた。<妖刀ムラマサ>が去った今、少しでも戦力が欲しい状況にある。なんとかして支配できないかと思案しているのだろう。
 無駄だと思ったが、訊かれなかった以上、小五郎は何も言わない。
 <三剣使いトライアド>最上素也の戦闘能力はパートナーがあって初めて財団派屈指となる。そしてそのパートナーたちは少女だ。<夜魔リリス>が生かしておけるわけがない。
 <夜魔リリス>の面立ちは麗しく、不機嫌で、しかしそこに小五郎は怯えを読み取っていた。
 新島猛とは大きく異なるが小五郎も武を継ぐ家に生まれ育った身だ。危険なことにも親しんでいた分、人の恐れにも敏感である。
 <夜魔リリス>は出会ったときから既に怯えていた。少年たちを呪縛で従えているだけなのだという自覚はあるのだろう。自侭に振舞うのも、まだ大丈夫なのだと確認したい心理がはたらいてのことに違いない。
 ちらりと視線を脇に避ければ、ベッドの上にはいつもの本、谷崎潤一郎の中短編集がある。どれほど読み返されたのか、随分と草臥れている。
 憐れな女だと思う。
 財団派の<魔人>について最も詳しいであろう自分を呼んだまではよかった。だが質問の仕方が悪かった。小五郎は嘘をつく必要もなく<夜魔リリス>の思考を誘導することができた。
 財団派から次に送られてくるとしたなら<三剣使いトライアド>であるのは間違いない。強さのみならず、思いもよらぬ発想で事態を解決に導くことのできる少年であるからだ。
 しかしおそらく次は財団派としてではなく<竪琴ライラ>として来る。
 より確実に、徹底的に潰しに来る。
 憐れな女だと、再度思う。
 音もない足運びで小五郎はその場を去った。<三剣使いトライアド>について詳しく知りたければまた呼ぶだろう。
 呼び止められることもなく、ドアは閉まった。
 憐れには思っても、小五郎の心は<夜魔リリス>から隔てられている。
 <夜魔リリス>の行ってきたこと、行わせてきたことは既に弁護の余地もないのだ。







[30666] 「<夜魔>抄・二」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2017/12/03 18:37




 出会ったとき、彼女は怯えていた。
 攻撃的ではあった。言葉を交わすよりも早く、状況も判らぬままぼろ雑巾のようにされた。
 しかし覚えている。彼女は怯えていた。怖いから、攻撃せずにいられなかったのだ。
 そして自分は下僕となり、彼女は壊れたように空へ笑い続けた。







 ――――残り二十七時間



 横山誠は<夜魔リリス>の下僕の中で最も古く、最も弱い。
 他の者がある程度の実力を見込まれた上で屈服させられたのとは違い、最初に会った<魔人>だったからというだけで成ったからだ。
 力の程は、下層を占める大多数。<魔人>全体として見たならば同程度の者はたくさんいるが、まさに有象無象のひとりであるだけだ。
 だから与えられる仕事も、大抵は他愛ない調達の類である。
 夜道を行く今も、まさにアイスクリームを手に入れて来いと言われてコンビニエンスストアに向かっている。
 街灯の明かりが誠の影を作る。行くにつれて消え、また別に現れる。
 いつまでこんなことを続けていられるだろうか。まだ冷えることのない生温い空気の中でそう思う。
 与えられる仕事は本当に下らない雑用でしかないものの、これでも誠は力量の割に重用されていると言ってもいい。<夜魔リリス>の行動に反対することがある、しかも弱い、などという下僕などとうに捨てられていてもおかしくはなかったはずなのだ。
 同時に、残念ながら大事にしてくれているわけでもないことも分かっていた。ある種のトロフィーなのだろうと誠は思っている。初めて自分の力で屈服させた記念品だ。さして気に留めてはいなくともわざわざ廃棄したりはせず、何となく飾ってあるのだろう。
 諫言は通じない。誠が命じられた調達も、金を渡されていないため実際には強盗になる。こんなことをしていればやがて破滅する。
 誠はあまり難しいことを考えているわけではない。ただ、子供の頃から染みついた倫理観が、悪をなすものは裁かれることになるのだと告げている。もちろん、結局は強盗をしてしまう自分も含めてだ。
「……ないな」
 呟く。
 拠点としているビジネスホテルは駅前近くにある。当然コンビニエンスストア自体は付近に複数存在しているのだが、騒ぎを起こすと飛び火して来かねないとのことでわざわざ遠くまで出張っているのだ。
 誠は今、住宅街にいた。窓に映る明かりは夜の団欒か。家族の仲というものは必ずしも良好でもないことを知ってはいても、それでもきっと安らぎはあるはずだと思う。
 それが羨ましい。自分にはなかった。
 彼女はどうだったのだろうか。
 <夜魔リリス>のことを考える。
 あれほど怯えていた彼女には、人だった頃に一体何があったのだろうか。
 支えてやりたいと思う。今もまだ、触れるだけで崩れ去ってしまいそうに誠には見えるのだ。
 口にしたことはない。彼女は嘲笑するだけだろうから。あるいは傷つけてしまうかもしれないから。
 それ以外にも、<夜魔リリス>はどうにも浮世離れしている。ホテルを占領したのだから現金自体はあるはずなのに、たかが一個数百円以下であるアイスを強奪させる意味が分からない。
 もしかすると彼女にとっては、欲しいものは下の者に頼めば自動的に手に入れられるのが当たり前だったのかもしれない。
 その浮世離れは間違いなく隙であり、利用して好き勝手している者まである。
「くそ……」
 嫌な予感がする。
 彼女には本当の意味での味方がいない。適当に機嫌を取るだけの下僕は機会があれば何の迷いもなく裏切るであろう輩ばかりだ。事実、<剣王>ソードマスターによって追い詰められたとき、動いたのは自分と<妖刀ムラマサ>だけだった。
 あの何を考えているのかも分からない<妖刀ムラマサ>以下なのだ。以前からの懸念が事実であると証明されてしまった。
 無論、彼らの方が普通なのだと理解してはいる。それでも許せない。
 話はするだけ無駄だ。軽く見られている自分の言葉など聞こうともしてもらえないだろう。
 唯一希望があるとするなら、<双剣>ツインソード相馬小五郎である。
 <夜魔リリス>を止めようとするのは自分以外には小五郎だけだ。そればかりではなく、彼は他の下僕たちをよく庇う。誰かが失言したときに<夜魔リリス>の注意を自分に引いて仕置きを代わりに受けたり、残忍な所業は止めるにもかかわらずやるとなれば率先して手を汚すのだ。
 つまりは自分のことよりも他人を優先している。なんとかして<夜魔リリス>を今の生き方から引き剥がすことに協力してもらえるかもしれない。小五郎にとっても悪い話ではないはずだからだ。
 具体的な案はないものの、それこそ小五郎と相談すれば何か活路が見出せるかもしれない。
 しかし、急がなければとの思いは強い。破滅の臭いがする。平穏と言ってもいいこの二週間が嵐の前の静けさに見えて仕方がない。
 誠は人だった頃から取り立てて得意なこともないが、ただひとつ、この嫌な予感にだけは自信があった。自覚してからは二度しか外していない。
「<夜魔リリス>……」
 呟く。
 この想いは、恋なのだろうか。
 自問への答えを胸に秘め、横山誠は悪になる。
 コンビニエンスストアの明かりを、見つけた。







 ――――残り二十五時間



 帰宅した水上春菜はベッドにぐったりと身を投げ出した。
 築二十年のマンションの五階、賃貸ではあるが一応の我が家だ。
 蒸し暑い。それでもエアコンの電源を入れる気にはなれない。
 体の芯から震えが止まらない。
 勤めている会社で横領があった。犯人は直接の上司だ。
 それだけならば、怖いねと同僚と囁き合うだけで済んだのだろうが。
 件の上司は自分に濡れ衣を着せる気だったと、そう聞いて肝が冷えた。
 特に睨まれていたつもりはなかった。どうして自分だったのかも分からない。
 だが、こんなはずじゃなかった、ありえない、ばれるはずがない、理不尽だと、まるで西から昇る太陽を見たかのような異様な雰囲気で喚きたてていた上司が怖くて仕方なかった。
 吐息も震えている。
 ここ一月、碌でもないことばかり聞くことになっている。
 近所で変質者が捕まること三回、コンビニ強盗もあった、目の前で交通事故も起こった。
 まるで呪われてでもいるかのようだ。
「……お兄ちゃん……」
 こんなときには兄を思う。去年の春に、珍しくも友人と旅行に行って、その先で事件に巻き込まれて行方知れずになった兄を。
 <災>が出現したのだという。周囲の木々が薙ぎ倒され、アスファルトが砕けて岩が破壊されていた。もしそれを人が為したのであれば戦車を数両持ち込むしかないほどなのだと。
 友人ともども遺体は見つかっていないが死亡として扱われている。
 そして春菜自身も、認めたくはないがそう思ってしまう。
 あの兄が、物心つく前から守ってくれていたひとが、生きていたなら自分の前に現れないはずがない。
 普段は塗り込められている喪失感が大きな口を開け、意識を飲み込んでゆく。
 覚えがある。幾度も体験した。
 目が覚めるのは明日の夜だ。
 ひらひらと虹色の蝶を見た気がした。



 水上の家は、ひとつの戦闘技術体系を伝えてきた。
 武術などと真っ当に呼べるものではない。それは己が身を盾として貴人を守り、死ぬ前に襲撃者を道連れにするという、現代どころか当時でさえ異様であったろう理念の下に作られた。
 他者を護る、そのような素晴らしいものだと勘違いしてはならない。あるのは生々しい生計、ただの商売である。
 だがあり得なくはない。命と武力を対価に土地を得る、安堵されるという方式は、広義には一般の武士たちの在り様と同じだ。
 この体系の要となるのはふたつ。
 まずは耐久。苦痛も不調も、すぐ傍に寄る死もすべて捻じ伏せて行動できなければならない。
 そして、不自由な状態からでも即座に相手を屠れなければならない。状況を選ばない前提となるため、無論のこと素手で行う。
 これを成し遂げようとすると、出来上がるのはひどく歪な体系だ。後者など現代では、見つからないという理由で獣相手にすら実践が難しい。
 そして耐え続け、鍛え続けたところで活かされるのは必然的に一度だけ。その後は、死んでいるか四肢の一本も失っているか。
 かくも碌でもない上、とどめとばかりに銃の台頭によって存在自体がほぼ無意味となった。小口径の粗悪な拳銃ならともかく、れっきとした軍用小銃を相手取ってはいかんともしがたい。この体系に大きく身をかわす、あるいは身を潜めるという選択肢は存在しないのだから。
 にもかかわらず、時代遅れとなっても伝えられるものは変わらない。伝わってきたものだから伝えるという因習だけで現代にまで至ったのだ。
 無意味だと春菜は思った。兄も祖父も無意味だと理解していたはずだった。
 それなのに兄は教わり、祖父は教えた。どうしてなのか尋ねてもはぐらかされるばかりで。
 兄は朝早く起きて修練をした。それが終われば勉強もしていた。学校へ行き、帰ってきて修練して、よく食べて修練して、勉強して寝ていたように思う。時折自分をどこかへ連れて行ってくれるとき以外には遊びなどとは無縁だった。
 学業成績は学年でも屈指だったはずだ。春菜もよく解法を聞きに行った。
 友人は、もしかすると高校に入るまでいなかったのではなかろうか。しかも紹介されたことのある友達というのが同じ高校ですらなく、遥か500キロメートルは西に住んでいるというのだから尋常ではない。傍から見ればなんとも兄とは噛み合わない印象だったが、当人同士は気が合っていたのだろう。その友人と知り合って以来、兄の修練に普通の拳法のようなものが混じるようになったのを覚えている。そして素人目にも、力量が大きく増したことが感じられた。

 ――――本当のことを言うならば。
 自分のために兄が家伝の術を習い覚えているのだと、幼い頃からおぼろげに察してはいた。
 ただ嬉しかった。
 それはそうだろう。強くて頼もしい、自分には優しいお兄ちゃんが自分のために頑張っているのだ、嬉しくないわけがない。
 中学校へ上がる頃には兄を縛ってしまっているのではないかと自責の念に駆られたこともある。
 だがこれも本当のことを言うならば、嬉しかった。縛ってしまっていることに背徳的な喜びがあった。いけない子だ。
 恋などではない。兄は兄だ。むしろあやふやでしかない他人より、決して切れぬ繋がりを持つことこそ何にも替え難い。
 高校生の頃は幾分冷たく当たった。けれど兄は変わらず優しく、そうであろうと自分は確信していたのだ。

 夢幻にたゆたう春菜の意識は筋道立てた思考を行わない。次から次へと、絡むような、孤立するような記憶が現れてはまた姿を隠す。
 いずれも懐かしく、恋しい記憶だ。
 あの頃はそうとは知らずに幸せだった。周りの全てに守られていた。怖いものはすべて父や母や、何より兄が打ち払ってくれた。
 今は、もう、誰も、いない。



 ひらひらと、ひらひらと虹色の蝶が飛ぶ。
 それは閉ざされた窓をすり抜け、月光の中を彷徨う。ふらふらと、ふらふらと海の方へ。
 夢幻の蝶はその存在に纏う時間すらあやふやだ。いつにでも、どこにでもいるようだ。
 だが不意にそれが軌道を定めた。敵を感知したのだ。
 その足掻きは容易く潰される。
 ロングコートの影から伸びた右手が、目にも留まらぬ速さで蝶を捕らえた。
「逃がすものか」
 平らな声。ただし、内の激情を押さえつけたがための平坦だ。
 双眸が怨霊もかくやと輝いている。
 それ以上は何も声にしない。
 人であった頃にすら150キログラムを超えていた握力が蝶を握り潰した。







[30666] 「<夜魔>抄・三」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/01/03 12:11




 ――――残り十五時間



 日の光に眩まされ、空が白く映る。
 手をひさしにと遮れば青が現れ、広がってゆくのが分かった。
 建物の屋上というものは放置されて汚れていることも少なくないが、このビジネスホテルのものは足を踏み入れて不快ではない。
 午前九時でありながら既に暑さを含んだ風が抜けてゆく。遮ろうとしてはためくのはシーツだ。この屋上は元より洗濯物を干すために使われていたのだろう。訪れたそのときより、フェンスから向かいのフェンスへと幾本ものロープが渡されていたのだ。
 一通りの作業を済ませ、横山誠は小さく息をついた。
 以前からこういった雑用は誠の役割だ。当然のように洗濯などという面倒なことは嫌いな少年たちに押し付けられているという部分はあるが、他に誰もいない頃から<夜魔リリス>の世話はしていたので、その対象が増えただけと言えなくはない。
 <夜魔リリス>の下僕となった少年たちにも派閥と序列は形成されている。<闘争牙城>出身であるのか、財団派に所属していたのか。どの程度の力量であるのか、<夜魔リリス>にどれほど近いのか。
 誠は無所属最下位とでも呼ぶべきなのだろう。しかし自身はさして気にしていない。<夜魔リリス>は<帝国エンパイア>内での私刑リンチを禁止しているため、物理的に侵害を受けることはないからだ。もちろん精神的な嫌がらせはあるものの、<夜魔リリス>第一である誠にとってはただの雑音と変わらない。
 どこからか飛んで来た小鳥が二羽、フェンスに止まった。この建物に誰がいて何が行われているのかなど知らず、かつてからのように、これからもそうであると疑わぬように。誠はそう見た。
 この時間は独りの時間だ。誰も手伝うことはない。
 今朝も手伝いはいない。だが、人影はもうひとつあった。
「これが俺の思いだ」
 洗濯物を干しながら語り続けた言葉をそう締めくくり、誠は彼を振り返る。
 壁に背を預けて腕を組んだ巨躯、相馬小五郎は苦く笑った。
「正直なことだなあ」
「みんなを助けたい、なんて言ってみたところで嘘なのはバレバレだろ?」
 誠が案じるのは<夜魔リリス>のことだけだ。他の面々などどうでも構わない。
「あんたは逆に、みんなを助けたい。でも利害自体は一致してるはずだ。<夜魔リリス>にもうこんなことは止めさせることができれば俺の望みもあんたの望みも叶う」
 対等の口調。
 <魔人>であるからあまり当てになるものではないが、見た目からすれば小五郎は誠よりも幾つか年上だろう。力量も天と地ほどの隔たりだ。しかし、誠は気にしない。
「……確かにな」
 少し時間があったが小五郎は首肯した。いつもながらのややゆっくりとした喋り方。何を考えているのか読みづらい。
「だが具体的にどうする? 止める手があるのか、この呪縛された身体で?」
「それは……」
 これまで予感と勢いだけで進めた誠だったが、ここで答えに窮する。あの苦痛を与えられたが最後、耐えるだけで精一杯になってしまうのだ。逆らえない。逆らわないままで<夜魔リリス>を心変わりさせる必要がある。ただの説得なら今まで何度も行ってきた。何か新たな要素がなければ聞く耳を持ってはくれないだろう。
「……こんなことをしていれば破滅する。それを理解させる材料があれば……」
 <夜魔リリス>は奥に秘めた激情に突き動かされつつも、決して理性的な判断ができないわけではない。<剣王>ソードマスターに追い詰められた際、<妖刀ムラマサ>の指示を受け入れたように、自分を抑えることはできるのだ。明確な証拠を示すことができたなら翻意させることも不可能ではない。
 しかし誠にあるのはどこまでも予感だけなのである。胸をこれほどに焼き、凍てつかせているというのに、冴えた案は何も浮かばない。凡庸を通り越して愚鈍でですらある己に吐き気を覚える。
 その様子をしばし見下ろし、小五郎は溜息とともに告げた。
「破滅するほどの危険なら、今も変わらずにある。財団派を舐めてるんじゃあないか? まさか俺と<剣王>ソードマスターがいなくなったらあとは雑魚だとでも?」
「それは……」
「あいつを、それから一応俺もだが……倒したのはあくまでも<妖刀ムラマサ>だ。<夜魔リリス>じゃあない」
 その言葉は誠の背に怖気を走らせた。
 確かに小五郎の言うとおりである。<剣王>ソードマスターの実力は<夜魔リリス>を明らかに大きく上回り、小五郎にしても<妖刀ムラマサ>に敗れた後でまともに回復する暇もなく<夜魔リリス>と戦わされたのだ。
「俺も武術家の端くれだ。不公平だろうが勝敗は勝敗。もしもと口にするのは業腹だが、万全だったなら<夜魔リリス>に負ける気はない。そして俺とそれほど変わらない腕の持ち主なら財団派にまだ五、六人いて、<妖刀ムラマサ>はもういない。つまり……」
「……危機を脱してなんてない……!?」
 愕然とした。<剣王>ソードマスターという<竪琴ライラ>屈指の強敵を葬ったことで、安全を得たつもりでいた自分に気付く。
 小五郎は更に続けた。
「精々あと一月だ。それだけあればオーチェは完全に準備を整えるだろうなあ。総力戦はそのときだ」
「それは間違いないのか?」
「確実かと訊かれても困る。俺も財団派を離れて結構経つからな、知らない何かができてるかもしれん」
 やはり感情は読めない。小五郎は疲れを吐くような息とともに空を仰いだ。
「<夜魔リリス>も薄々感じてはいるだろうなあ。説得が成功するかどうかはお前の熱意と腕次第だ。うまくいったら……まあ、財団派出身は俺がまとめられると思うが」
「……そうか」
 誠は口を引き結ぶ。
 期待を裏切られた思いだ。一応乗ってはくれたが、もっと積極的に関わってくれると予測していた。だが目の前の<双剣>ツインソードは生気に欠けて、まるで。
「……あんた、死にたがってるみたいだ」
 思わず口を突いて出た言葉に、意外にも小五郎は目を丸くして、それから初めて色彩の混じる表情を見せた。
 苦笑である。
「こんな状況だからな」
 分かるとまでは言わないが想像することはできた。この心身ともに頑強な男にも限界はあるのだ。
 それ以上は何も口にせずに踵を返す。
 太陽が少しばかり移動し、日差しが身を貫く。その熱さがすべての潤いを干上がらせてゆく。



 扉の閉まる音。
 それから小五郎は呟いた。
「一月……」
 <夜魔リリス>が誠の言を容れることはおそらくあるまいが、聞けば意識には残るだろう。
 それだけの猶予があれば、少なくとも二週間は動かず準備に費やしてしまう。あるいはこちらから強襲でも仕掛けるならそうとは限らないだろうが、そうするためには情報がどうしようもなく足りない。ふらふらと迷い出るに等しい。それが分からない<夜魔リリス>ではない。
 そして実際に<竪琴ライラ>が動き出すまでには、二週どころかあと五日もあるまい。
 状況打開のため、小五郎は今まで<夜魔リリス>をよく観察してきた。どのような状況でいかな判断を下すのか。物事をどう受け取るのか。
 結論としては、常にあと一歩足りない、という評価になる。
 頭はいいのだろう。けれど心が不安定で視界を狭め、思考力を十全に発揮し切れていない。そしてそれ以前の問題がある。
 認識が甘い。荒事に関して経験不足なのだ。それはほとんどの<魔人>に言えることである。元がただの少年少女であるならば、どうしても一歩足りていなくて普通である。
 しかし経験を積めばその壁は崩せる。<夜魔リリス>ならば素質からすればきっと越えることはできるのだろう。
 だから余計に、潰さなくてはならない。
「……本当に、殺し合いなんかするもんじゃあないなあ」
 日本は平和だったはずだ。小五郎にしても<災>が大量に発生していた頃はごく幼く、まともな記憶は残っていない。
 そんな国に育って、なぜこんな物騒なことに揃って首を突っ込んでいるのか。殺し合わなければ望んだものは得られない、本当にそうだろうか。もっとどうとでもできるのではなかろうか。人であった頃から荒事に親しんでいた自分が思うのもおかしいのかもしれないが。
「死にたがっている、か……」
 精神が磨耗しているのが自覚できる。情動が薄い。太陽が切れかけの電灯のようだ。
 昨日にもまた随分と業を重ねてしまった。<紅蓮旅団>スカーレットヴァルキリーズは判断を間違えただけで彼女らに罪はあるまいに、この手にかけた。
 罪悪感は押し殺してさえ心を削り落としてゆく。
 加えて、それとは別にどうにも欠けてしまった。
 なくなったものは、<剣王>ソードマスター新島猛だ。
 財団派に招き入れると聞かされたときのことを覚えている。まみえたときのことを覚えている。手合わせしたときのことを覚えている。
 二番手に甘んじることとなった思いを、覚えている。
 妬む心が皆無であったわけではない。ただ、武に生きる者として、非はより弱い自分にあるのだと理解していた。超えるべき男がもういないことには悔しさしか覚えない。
 敗れこそしたが<剣王>ソードマスターは<妖刀ムラマサ>に劣るわけではない。
 二つ名はそのものが欺瞞だ。新島猛が最も得意とするのは正面から相手を下すことではなく結果的に勝利条件を満たすこと。もしも<夜魔リリス>ではなく<妖刀ムラマサ>を葬り去るのが目的であったなら、何度でも退きながら数日かけてでも勝利をもぎ取っただろう。
 <夜魔リリス>を斃すために急いたのはオーチェの焦りによるのか、あるいは別の理由があるのか。多くの局面を平行に把握しながら戦略を立てるその胸の内を推し量ることはできないが。
「……死にたがりか」
 思わず繰り返される言葉。何度目か、笑みはただただ苦みを湛えたものにしかならない。
 小説であれドラマであれ漫画であれ、創作物にある程度触れているならばよく聞くだろう。死を望むのは逃避に他ならない、生きて償う方が遥かに苦しい道だ、と。
 使われすぎて陳腐になってしまった感はあるが、これはまさにその通りだ。もしこの一連の問題が解決したとして、財団派に帰った自分はどんな顔をすればいいのか。罪なき者を殺めたと口にするとき、目を伏せずにいることはできそうにない。
 要は恥ずかしいのだ。死という罰を受けることで失態の贖いとし、終わってしまうことで心を苛む羞恥から逃れたいのだ。
 だがそうと自覚してしまえば反抗したくなる。格好悪い、逃げたくはないと意地が湧いてくる。それはささやかに頭をもたげ、それから大きく羽ばたいた。
「死にたがってると言われて頷いちゃあ、いかんよなあ」
 最初は身体の芯に灯った熱はやがて指先にまで至り、苦みの消えた口元から炎のような吐息が漏れた。
 相馬小五郎は強靭である。喘ぎ、歩みを緩めることはあっても、打ちひしがれて止めはしないのだ。






[30666] 「<夜魔>抄・四」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/03/04 16:56



 ――――残り十三時間



 自室と定めた部屋で、<夜魔リリス>は書き物に没頭していた。
 カーテンを閉めれば電灯の明かりも頼りなく、しかし薄暗い中でも<魔人>の瞳には不足ない。背筋を伸ばし、品よく腰掛けた姿は一個の手本のようで、真剣なまなざしと時折憂えげに漏れる吐息が艶やかに薫る。
 用いているのは備えつけのメモ帳とペン、それから持って来させたルーズリーフである。
 するすると流れ記されてゆく文字は、達筆と呼ぶには万人に読みやすく、麗しい相貌が思わせるよりも力強い。若さのある佳い手だと、書の心得ある者ならば思わずにいられないだろう。
 作成されてゆくのは編成表だ。試しはメモ帳に、吟味してからルーズリーフに。
 先ほど最初の下僕が来た。重要な話があるというから一応耳を傾けてみれば、財団派にはまだ多くの戦力が残っていて危険だと、分かり切ったことを今更言う。
 呆れながら追い返した。まさかその程度のことすら認識できていないと侮られていたとは、思い返す都度腹立たしい。
 だが、不意に違和感に見舞われたのだ。力尽くで無様に引きずられてゆく誠の姿には今更溜飲が下がることすらなかったものの、その必死に我知れず歯車の狂いを感じ取った。
 分かっている、大丈夫だと彼には言い放った。いつもの返しだった。しかし、本当に大丈夫なのか、なぜ問題ないと自分は言うのか。
 何でもできた。誰にも負けられない。触れさせない。だから問題などあってはならない。
 そう煮えていた頭が、少しだけ冷えた。
 軍隊はなぜ強いのか。肉体と技術と知識を鍛え、武装し、戦術を練っては一個の群体として機能するからだ。
 数は力というが無軌道な個は各個撃破されるだけである。怪物じみた圧倒的な力を有しているのでもない限りはだが。
 こんな当たり前のことにどうして気付かずにいたのだろう。
 狭窄した視野が欲しい結論を前提として論理を展開していたことまでにはまだ思い当たらない。
 それでも<夜魔リリス>は素直に組み立て始めていた。
 まずは財団派出身の下僕たちからの情報収集。改めて小五郎も呼んだ。彼がまだ寝首をかくことを諦めていないのは承知している。しかし結果的に嘘は見抜けるため問題はない。他の者から聞いた話とも矛盾しなかった。
 やはり最初に挙げられるのは昨日も聞いた名、<三剣使いトライアド>。少女が身を変えた剣を、その名の通りに三振り使うという。
「……剣化<魔人>ブレイドメイデン
 呟きが漏れる。以前から呼び名だけは聞き知ってはいるのだ。しかし一度たりとも目の当たりにしたことはなく、それこそまともに耳に入って来たのは<三剣使いトライアド>がそれを扱うという噂のみである。
 この剣化<魔人>ブレイドメイデンについての知識を、<夜魔リリス>は先ほど小五郎から聞き出した。
 あまりよく知っているわけではないが、と渋い顔ながらも語った内容は信じがたいものだった。
 本当に<魔人>が剣になるという。
 いかなる手段でか、縦横無尽の機動力を与えるという疾風式ゲイル
 使い手の一撃に計り知れない重さを与えるという大地式ガイア
 投射や領域攻撃を増幅する火炎式フレイム
 戦う力のすべてをほぼ均等に補助する水妙式アクア
 このうち、<三剣使いトライアド>と契約しているのは疾風式ゲイル大地式ガイア火炎式フレイム。それも、上位に属するという。
 彼女たちを切り替えながら<三剣使いトライアド>は幾つもの事件を解決してきたのだ。
 その強さのほどは疑う余地もないだろう。具体的なことは知らないとはいえ、彼らが中心となって関わったという『氷河事件』、<赤蜘蛛>討伐の二つの噂は<闘争牙城>にまで届いていたくらいなのだ。
 そして今、<三剣使いトライアド>を取り込もうという考えは<夜魔リリス>の中から消え去っていた。
 小五郎は言った。剣化<魔人>ブレイドメイデンとの契約は、互いに命を懸けられるほどの絆の下に成ると。
 紅いくちびるを噛み締める。字が乱れる。
 湧き上がるのは箍を爆ぜ飛ばさんとする瞋恚と、腐れ落ちそうな妬心。
 絶対に許してはならない。存在させてはならない。
 薄れようとしていた靄が、また濃くなってゆく。
 しかし頭を振って振り払った。
「……だめ。これはあいつの策略」
 <夜魔リリス>も感づいてはいる。何かにつけて逆らう小五郎がなぜ契約の条件まで口にしたのか、推測できないほどはもう呆けていない。
 本当に忌々しい。あれだけ散々痛めつけられておきながらまだ屈しないのだ。こちらの隙を虎視眈々と狙っている。
 しかし、だからこそ甲斐がある。捻じ伏せることにも意味があろうというものだ。
 そう思ったときだった。
 ドアをノックする音がした。落ち着いて二度、少ししてからまた二度。
「入りなさい」
 そちらを向き、許しを与える。
 鍵はかけていない。<魔人>の力をもってすればドアごと破ることは容易いし、下僕たちが自分に害をもたらすことはかなわない。
「失礼します」
 姿を見せたのは<闘争牙城>で下して下僕とした一人だ。逆らう様子の欠片も見せず、今に至る。
 何かにつけて自分を賞賛していた気もするが、木霊のように朧にしか残っていない。力量のほどはしっかりと記憶しているが。
「午前の巡回ですが、怪しい者は誰も見つかりませんでした」
 この地域を奪取して以来、当然だが見張りや巡回は行わせている。
 しかしこれも効率化する必要があるだろう。今までは途切れないようにとだけ厳命していただけで、呪縛されている以上はそれを果たしはしているだろうが、中身はどうなっていることやら。
「そう。午後も気を抜かずに行いなさい」
 もう飽きるほどに繰り返されてきた流れだ。
 報告があり、聞いて命を下す。何のこともない、ごく普通の、いつものやりとり。
 だが不意に口を突いて出ようとした言葉があった。
 ありがとう、ご苦労様。
 気まぐれだろうか。この自分にそんなことが。
 惑った。惑いながらも声となろうとして。
 視界を気持ちの悪い幻がよぎった。怖気が足元から這い上がっては総身を侵してゆく。
「……早く失せなさい!」
 こみ上げた悪心を吐き出すように叫んでいた。
 下僕は悲鳴を上げて駆け去った。
 突き破られて砕けたドアが無残な音とともに廊下に転がった。







 ――――残り十時間



 ふとした騒がしさに少女は部屋から顔を出した。
 窓のない、無機質な、しかし妙に明るい廊下を少年たちが駆けてゆく。
 光は人工のものだ。地下に太陽の光は届かない。
 此処は<横笛フルート>が集合場所として利用するホテルの一つである。特殊な場所ではない。旅行客もごく当たり前に泊まる、地下にあることだけが珍しいホテルだ。あとは、金さえ払えば密かに誰にでもベッドを提供するホテルである点も、普通とは言えないかもしれないが。
 <横笛フルート>は定まった拠点を持たない。必ず普通の人間の多い場所を仮の宿とする。
 これは創始者である<奏者プレイヤー>鏡俊介の定めた方針によるものだ。決して一箇所には留まらず、一般人を潜在的な人質とすることで<竪琴ライラ>に攻撃を控えさせる。
 このやり方は有効にはたらいていた。
仕掛けてこようとしたことこそあるものの、そのような場合でも今のところ不発に終わらせることができている。

 替わりに数は集められず、全体の統制も取りづらいという難点も生じているが、そこは強さを絶対の基準として形成された階層構造と、小さな集団を掌握する上位者を更なる上位者が統括する機構をもって処理。ほんの一月前までなら、その上でなお二十以上もの派閥に分かれていたものだが、現在は六つにまで統合された。
「どうかした?」
 少女は見知った赤い頭がちょうど駆けて来るのを見つけて部屋に引きずり込んだ。さすがに廊下で話したくはない。
 ぱたん、とドアの閉まる音を背に、目を白黒させている少年に今一度問う。
「なんだか急いでるみたいだけどさ、なんかあったの?」
 距離は近い。相手の口元で囁くように。相手の警戒心を動揺で鈍らせる手管だ。少女は自分が魅力的に映ることを知っている。
 もっとも、この少年にはそんな仕掛けなど必要ないのだが、もう癖になっているのだ。
「前々からの情報が正しかったことが判ったんだよ。処刑人が神官派領域を出た」
「処刑人……ああ、あれ」
 何を言っているのかはこれだけでも理解できる。
 つい二週間ほど前のことだ。<呑み込むものリヴァイアサン>が動くという情報がもたらされた。その源は<竪琴ライラ>神官派に潜り込ませていた間諜だ。あくまでも、かもしれないという話ではあったのだが。
 罠だろうと少女は判断している。神官派の切り札の動向が漏れるなど間抜けにも程があるからだ。ほぼ間違いなく<横笛フルート>を釣り出そうとしているのだろう。
「正直あれは……」
「分かってる」
 少年が小さく笑う。見た目通りの年齢であれば精々十六、七、しかし総勢八十名程度の最小派閥とはいえ、現在の<横笛フルート>を構成する六のうちの一の代表を務める。得られた情報を額面通りに受け取るだけの愚昧ではなかった。
「誘いなのは間違いない。ただ、処刑人が神官派領域を出たこと自体は確認できてる。今これを掴んでるのはオレたちだけだ。賭けるだけの価値はある」
「神官派をとすつもり? 本拠への侵入方法も分からないのに?」
 賭けるという言葉から目的を読み取って、少女は眉を顰めた。
 しかし返って来たのは牙を剥くように獰猛な表情だった。
「たとえ陥とせなくとも大打撃を与えられれば充分だ。太平洋側から日本海側まで、八十人による西からの一斉侵攻にどこまで対応してくるかは判らんが、勝算はある。その戦果でもってオレは<横笛フルート>の頂点を狙う」
 今の<横笛フルート>の骨格を形作るのは力だ。六つまで減ってもまだ各派閥は鍔迫り合いを続けているし、同じ派閥内でも下克上は当たり前、もう諦めてしまった者こそちらほら見えるものの、大半は野心を胸に秘めている。
 そしてこの少年は他の五派と<奏者プレイヤー>鏡俊介を凌ぎ、<無価値ベリアル>を排除して己こそが覇者となることを夢見ている。
 自身で口にしているように、本当に神官派に大きな被害を与えることができたならその夢に向かっての大きな一歩となるだろう。剣豪派と神官派には大いに煮え湯を飲まされ続けているのだから。
「もういいだろ。急ぐんだ」
「分かった。もう止めないけど」
「けど?」
「頑張ってね」
 やわらかな微笑みとともに少女は少年を解放する。
 色より野望である少年は小さく手を振っただけでさっさと出て行った。
 開いたドアがまた閉まる。駆けてゆく足音の、残響が薄れてゆく中で少女の笑みは邪に歪む。
「またも見事に<無価値ベリアル>の言うとおり、か。いやまったくヤんなるね」
 少年の目論見は少しばかり甘い。神官派の最大戦力が処刑人であるのは事実だが、それだけの単純なつくりではない。こちらを読み切った対応をしてくるとともに、構成員の力量が両極端なのである。
 大半が<魔人>としての最低限かそれよりは少しだけましか、といったところであるかわりに上位を占める十数名に限ればいっそ<竪琴ライラ>六派のうちでも有能揃いとも言われるほどだ。
 もっともその真価は未だよく見えない。どこまでのものなのかが判らない。少年が仕掛けようとしている襲撃は、そこを明らかにしてくれると期待できる。
 どちらが勝つのかは少女にも予測できない。少年は少年で、<横笛フルート>の幹部であるのは伊達ではないのだ。
 魔女派と真っ向から戦い続けてきた<紅蓮狼クリムゾン>の名は<竪琴ライラ>にも轟いている。
「もし死んだら、あることないこと言いふらしてやろ」
 少女はベッドに戻ると大きく伸びをして、そのまま寝転がった。
 騎士派に上月茜の名で潜り込んでいた娘である。
 本名は捨てた。<魔人>としての名も、作りはしたがすぐに名乗ることをやめた。今は二つ名をこそ己として認識している。
 <栗鼠>ラタトスク>。
 そう、少女は呼ばれる。







[30666] 「<夜魔>抄・五」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/04/30 11:43



 旧い家に二卵性の女子があった。
 妹は愛らしかった。何でもできた。
 けれど姉は、何もかもが妹を凌駕していた。
 太刀打ちできぬとやがて妹は諦めた。諦めて、しかし腹の底に煮える妬みだけは不吉に色を濃くしていた。
 それでもいつしか、妹は居場所を見つけた。
 日のあたる場所とは言いがたかった。素行のよろしくない少年たちだった。それでもいつしか、得たのだ。
 荒んだ心でも令嬢を取り繕うことはできた。妹はそこでだけ至高の姫でいることができた。
 少年たちは本当に碌でもなかったが、幸福であると錯覚はできた。



 それも、彼らが姉の存在を知るまでだったが。











 ――――残り八時間



 今日になって呼ばれたのは五度目だった。
 相馬小五郎は薄暗い部屋の中、<夜魔リリス>と向かい合っていた。
 時刻としては夕方、それでも暑さとともにカーテンの隙間から射し込む光はまだ強い。
「これを見てちょうだい」
 そう言って渡されたのは紙、ルーズリーフの束。小五郎も全員を覚えているわけではないが、下僕たちの名が連ねられているのが判った。よく見れば組み分けされ、時間帯と地域も付記されている。見回りの予定表だ。
「……俺はただの剣であって、他人を動かす心得なんかないんだがなあ」
「それでもいいわ。素直な感想を聞かせて」
 <夜魔リリス>の言葉は呪縛となる。こうなると嘘はつけない。
「少し待て」
 溜息一つ、確認を始める。
 そのつくりは騎士派に近いだろうか。元々白兵戦を得意とする<魔人>が多いこともあって、どんな状況にも対応できるようにとはいかないものの、なるたけ均等な戦力になるよう考えられていると見えた。
 特筆すべきは、単に力量からだけで組んだのではなく互いの関係性も加味して協力し合えるチームを形作っていることだ。<夜魔リリス>が個々人に興味を持っているようには到底思えなかったというのに。
「よくできているとは思うが」
「あなたならチーム一つくらいは片付けられる、といったところかしら」
「そうだな」
「単純な実力はどうしようもないわね」
 小さく、皮肉げに笑う<夜魔リリス>。
 ここに来て少しばかり予想を上回り始めた、と小五郎は内心舌を巻いた。
「他人なんぞABCDE程度にしか識別できていないもんだと思ったがなあ」
 探りのために煽る。
 知ってか知らずか、<夜魔リリス>の湛えた笑みに荒んだ色と嘲りが濃く映った。
「否定はしないわ。ただ、そうであることと力や交友を把握しておくことはまた別」
 器用と評するのも不適だろう。まるで虚構のキャラクターのデータだけを頭に入れているかのよう。いびつと言うべきだ。
 その歪みがどこから来たものなのかは小五郎には分からないが、やはり本来の頭の良さ自体はかなりのものなのだと知れた。
<剣王>ソードマスターの力量は読み間違えたようだが」
 狭い部屋の中に二人きり、首を獲るには絶好の機会。しかし成せない。
「今日はよく喋るのね」
 品良く椅子に腰かけた<夜魔リリス>は、昨日とは違って小五郎から一切注意を逸らさない。ただでさえ呪縛のせいで成算が立たないというのに。
 しかしその上で小五郎も平然としたものだった。
「呼び出し過ぎだ。他の奴がいくらでもいるだろう。この期に及んで俺を篭絡する気でもあるまいに」
「あるわけがない。でもあなたが一番強くて、しかも詳しいのだから仕方がないでしょう」
 交わす言葉、語調には冷ややかなものを秘めつつ、互いに距離を測るように。
 仕方がない、とは言うが、<夜魔リリス>の自分に対する態度は他の者たちへのものと比べたならば明らかに別格である。これが他の者であったなら雑談めいたことは言わない。すべてを支配しているかのように一方的に通達するだけだ。
 だからこれはおかしいのだ。自分が秀でるのは戦いくらいなものだ。<剣王>ソードマスターに執着していたように<夜魔リリス>は確かに戦闘能力を重視してはいるのだろうが、ここぞというときに逆らって戦力にならなくであろうことが明らかである自分に入れ込む理由が分からない。今しがたの答えの通り、色恋でもあるまいに。
 無論、下僕たちに冷たいことはありがたい。それを除けば<夜魔リリス>は美貌といい肢体といい纏う雰囲気といい、尋常ならざる領域にある。もし少年たちに優しければ、どうしようもなく引き寄せられてしまう者が後を絶たなかったことだろう。
 <夜魔リリス>は男を憎んでいると言う。だがそれだけの単純なものではないのは確実だ。
 馬鹿な犬だと思っている、その割には言うことを聞く利口なはずの犬に興味が薄くはあるまいか。服従を迫りながらその実、太鼓持ちイエスマンに興味はないらしい。
 理想はおそらく、総じては従いつつも恐れず意見し、かつ強いこと、そのあたりではなかろうかと小五郎は見当をつけた。<剣王>ソードマスターには、そういう存在になってくれるのではないかと期待していたのだろう。
 と、考えてみても違和感は抜けない。これではやはり自分はそぐわない。
 不意に横山誠を、<夜魔リリス>を思う少年のことを思い出した。
「……お前は弱い男は嫌いなのか?」
 空気が緩んだ。より張り詰めるかもしれないと思った問いであったのに。
 <夜魔リリス>はあどけない表情を見せていた。きょとんと、よく分からないことを訊かれた幼子のように小首をかしげていた。
「考えたこともなかったけれど……」
 声も素直に響いた。
 それから考え込み、駆け引きも何もなく返答があった。
「別に嫌いじゃないわ」
「そうなのか」
 小五郎も毒気を抜かれていた。
 嘘とは思えない。だがそれで結局男を憎んでいるというのだからわけが判らない。
 無論のこと、人の心というものは矛盾する要素すら複雑に絡み合い、共存しているものだ。それでもあまりに理解しづらかった。
 <三剣使いトライアド>、最上素也もがみもとやならと考える。
 己の剣となった三人の少女の心を救ったあの少年ならばあるいは、<夜魔リリス>をも救い得るのだろうか。
 救い出してのけるかもしれない。
 そしてその後できっと、この女に奈落へ引き擦り込まれるのだ。救われた者がそのまま心安らかに居続けられるわけではない。いくらでも移り変わってゆくものなのだから。
 表面的には不安定な暴君でしかない<夜魔リリス>の水底に、小五郎は空恐ろしいほどの深さを覚えてならなかった。





 部屋を出る。
 歩哨役は滲む疲れとともに惰性でそこにいる。ただ無反応に廊下の壁を見つめていた。
 元財団派の一人だ。あまり話したことはなかったが。
 そして今も話しかけることはしない。ここでの声は聴力を増強するまでもなく室内の<夜魔リリス>に届いてしまう。万が一にも刺激するようなことを口にされると困るのだ。今はこのまま時を浪費させておきたい。ただでさえ少し建設的になってしまっているというのに。
 一歩を踏み出したときだった。
「小五郎さん!」
 駆け寄る足音とともに、声。
 向き直れば、さすがに<魔人>が息を切らせることもなく誠がいた。
「あんたに頼みがある、俺を鍛えてくれ!」
「……また唐突だなあ」
 ぼやくように呟き、半呼吸だけ思案して顎をしゃくった。
「ともあれ場所を変えよう。屋上だ」















 ――――残り七時間



 茜色の世界が目に痛かった。
 吹く風は朝と同じようにシーツをはためかせ、朝より強く抜けてゆく。
 熱を預けて夜へ向かうのか、不意の肌寒さは錯覚か。身を震わせたのか否かも自覚はなかった。
「……黄昏、なあ」
 ぼそりと小五郎が呟いた理由は、誠には分からない。
 そんなことよりも続きを聞かなくてはならないのだ。
「それで結局、俺を鍛えてくれるのか?」
「結論から言えば、断る」
 ここまで連れて来ておきながら返答は冷たいものだった。だが、朝には欠けていた張りがあった。夕陽を背に見下ろす巨躯の眼光は静かながら鋭い。
 しかしその程度のものに怯む誠ではなかった。
「<夜魔リリス>は俺が護りたい。俺がもっと強かったらきっともっと言うことを聞いてくれる。頼むよ小五郎さん、あんただけが頼りなんだよ!」
 進言を弾かれるのはいつものことだ。決して頭はよくないが、言っていることは少なくとも媚を売っているだけの輩よりもましであるはずなのに、それでもまったく聞き入れてもらえないのは力量によるものだと誠は考えていた。
 今までも気にはしていたのだ。鍛えようともしていた。だが、効果的な方法を思いつかなかった。
 <魔人>として最低限である誠でさえ、バイク程度の質量は負荷にもならない。走り続けることも何ら苦にならない。実戦を経験すればいいのだろうが、わざわざ誠が戦わされることないし、誰も手を貸してはくれないし、私闘は禁じられている。まずはやり方から手に入れなければ始まらないのである。
 しかし、鍛えてみたところで他の者たちとの差はそうそう埋まるものではない。そして今まで、夜魔リリスに半端な力量の自分など不要だと思い、諦めていたのだ。
 ところが今朝、尻に火がついた。たとえ半端であっても、少しでも<夜魔リリス>が力を認めて自分の言を容れてくれたならと思い立った。
「どうして駄目なんだ、理由を教えてくれ!」
「挙げられる理由はいくつもある。今のお前から一月や二月じゃあ、付け焼刃にもならん。あとは……」
「少しでもいい、それで<夜魔リリス>に俺の声が届くなら!」
 一歩、無意識に踏み出していた。
 掴みかからんばかりの勢いで迫り、しかし変わらず揺るがぬ瞳に止められる。
「届かんだろうなあ」
「何を根拠に……」
「<夜魔リリス>は弱い男が別に嫌いでもないそうだ」
「……はあっ!?」
 誠は目を剥いた。
 <夜魔リリス>はあんなにも<剣王>ソードマスターを支配下に置きたがっていたではないか。見た目だけなら既にいる下僕からだけでも選り取り見取りだというのに。
 やることなすこと的を外すのは誠にとって慣れたことだが、今回ばかりは自分の愚かさゆえではない。
「……訳が分からない」
「だろうな。俺にも分からん」
 小五郎が苦く笑い、それからひどく冷たい声になった。
「だが、ひとつ予測できることはある」
「何か<夜魔リリス>にあるのか!?」
 誠はただひたすらに<夜魔リリス>を思う。だからその冷たさが自分に向けられたものであることに気付かない。
「お前の言葉が届くようにはならない。お前が<夜魔リリス>を翻意させることはほぼ不可能だ」
 誠は最も古くから<夜魔リリス>の傍にいる。だから彼女は少年たちの中でも誠について最もよく知っている、少なくとも本人はそのつもりでいるだろう。そして誠は本心から<夜魔リリス>のために動いている。それでも通じない。軽んじるのだ。
 <夜魔リリス>は強さについて幾度となく言及することがあった。足りないとすればそこであるはずだった。
 だというのに力量を気にしていないとなればもう、言うことなど根本的に受け入れるつもりがないということではなかろうか。
「つまり、お前に協力することは俺にとってメリットにならない」
 元々誠と小五郎の目的は正反対である。しかし<夜魔リリス>が心変わりし、少年たちを解放させることができたならば互いの益になるというだけのことだったのだ。しかも一方的に与えるばかりである小五郎に主導権は握られている。
 誠は息を呑んだ。それでもここで引くわけにはいかない。<夜魔リリス>の首を狙い続ける小五郎は本来、一番の敵であるのだろう。しかし皮肉なことに、今もって最も頼れる相手なのだ。
「……ならメリットを示せばいいんだろう」
「どうやって?」
 沈みかけた陽は小五郎の顔を照らさない。逆光の中、まなざしだけが射抜いてくる。
 今更ながらに背を悪寒が走り抜けた。
 相馬小五郎。<竪琴ライラ>財団派の最古参にして屈指の強者。誠程度であれば素手でも縊り殺せるだろう。
 誠は小五郎を恐れてはいない。想いの強さが背を支えている。だが今は、その支えごと圧し折りそうな気配があった。
 歯を食いしばり、耐えた。
「まだ分からない、けど俺の全てを懸けて<夜魔リリス>を止めてみせる!」
 気合だけ、想いだけ、言葉だけである。具体的な展望は何もない。
 小五郎は一度、貫く視線を強め、それから少しだけ緩めた。
「……一月。どうせあと一月で終わる」
 それが偽りの期限であることを誠は知らない。
「ならそれまでに何とかすればいいんだろう! 見てろ、度胆抜いてやる!」
 言い捨てると、そのまま屋内へと駆け出す。
 干しておいた洗濯物を取り込まなければならないことは忘れていた。



 そして姿が完全に消えてしまってから、小五郎は溜息をついた。
「実際には三週間。一応、期待はしてるんだがなあ……」















 そして。
 自室で<夜魔リリス>は、草臥れた小説を手に麗しい眉を顰めていた。
 その気になれば<魔人>は聴力も遥かに人を超える。雑多な音の洪水になってはしまうが。
 元々人間には自分の興味のある音を拾い上げる能力があるものの、こうも雑音が多すぎてはそうそう発揮することはできない。
 だが、<夜魔リリス>は人であった頃に、小さな音を拾い上げ弁別することが得意になった。
 それは今でも変わらない。聞こうと思えば少年たちが陰で何を言っているかもこの部屋にいながら全て把握できる。
 だから屋上での会話は筒抜けだった。
「……三週間ね。油断のならないこと」
 それをひとまず意識に置いて、考えるのは誠のことである。
 どうやら小五郎に利用されようとしているようだ。相も変わらず落ち着きがない。
 背筋を悪寒が這い登ってくる。
 吐息が震えた。
「気持ち悪い」







[30666] 「<夜魔>抄・六」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/05/19 21:07


 ――――残り三時間



 夜空を翔ぶ。
 建物の屋上を跳ね、あるいは越えて<連星ジェミニ>は行く。
 昼から続いていた<夜魔リリス>の部屋の門番を、先ほどようやく解任されたところだ。
 茫洋としていた瞳には光が戻り、自身ですら現金なものだと思う。それでも心の内に湧き立つもののあることを否定したくはなかった。
 駅を三つ分、東へ。八キロメートルほどだろうか。許可なく<夜魔リリス>から離れることのできる、ほぼ限度だ。
 地上の光は、宝石と見るには少し近すぎる。人の営み、息吹を感じ取ってしまう。繁華街には酔っ払い、自転車で駆け抜けるのは部活か塾で遅くなった高校生だろうか。頭を突き合わせてゲームに興じている者もあれば、小さな子供の手を引く母親もいる。
 <連星ジェミニ>が降り立ったのは十階建てのマンションの傍だった。道路から玄関へ、蔦の絡みつくアーチが通路を形作る、その入り口に目的の姿を見出した。
 十代後半の少女。高校二年生ということだから一つ下になることを<連星ジェミニ>は知っている。
 こちらに気付いた少女の顔がほころんだ。
「時間通りですね!」
 風呂上がりなのであろう、肩までの髪はしっとりと濡れて、薄く朱の散る頬にも幾筋か張り付いている。
 容姿は十人並み、お世辞になら可愛いと言える程度。だが。
「ついさっきまで動けなくて。急いで来たよ」
「それにしては息も切れてませんね」
 後ろに手を回したまま朗らかに笑う彼女を、<連星ジェミニ>は掛け値なく可愛いと思った。
 出会いは六日前。絡まれていたところを助けたという、<魔人>になるまでは、実在しないこともないだろう程度にしか認識していなかった状況。三人いたが重傷を負わせない程度に軽く撫でて追い払った。
「体力には自信があるんだ」
 とぼけた返しは意図的なものだ。彼女には名前すら教えていない。万が一にも巻き込んではならないと、そう思ったからだ。<竪琴ライラ>と戦争状態にあるからというだけでなく、そもそも<夜魔リリス>に気付かれたならまず生かしておいてはくれまい。
 彼女の方も何か危険であることだけは承知しているのだろう。問うて来たのは最初の一度だけ。あとはこうして互いに名を知らぬまま毎夜会っている。
 本当は、こうしていること自体が間違いなのだ。巻き込まぬようにというなら、あの場だけの関わりであるべきだった。
 しかし、お礼をさせてくださいと、目を輝かせる彼女に逆らえなかった。一度だけならと流された。
 それが二日、三日と続いて今夜まで至る。
「あの……」
 背後から少女が取り出す、小さな透明の袋。シンプルな青いリボンでラッピングされたそれにはクッキーが十個ほど入っていた。
「焼いてみたんです。初めてだったからあんまり見栄えとかよくないけど、その…………よかったら」
 早口、それから口篭り、最後は囁くような声で。
 上目遣いに内心を照れに波打たせながら、<連星ジェミニ>は受け取った。
「早速貰うよ」
 リボンを解き、一つ口に放り込む。
 見た目も手作りとして並、味も並、何もかもが普通の代物だ。
 だが。
「美味い」
 嘘ではない。美味しいと、そう感じた。
 気を遣われていると思ったか、少女の顔に喜びたくて喜びきれない複雑な色が浮いた。
「なら自分でも食べてみるといい」
「いえ、充分味見してますから!」
 ひょいと差し出せば、両手を振って拒否するものの、強引に口元まで持って行き、せめて手で受け取ろうとするのまで押し切って食べさせる。
 少女の顔が茹で上がった。
「……やっぱり普通です普通!」
「そうだね。普通だ。普通で、美味しい」
 <連星ジェミニ>は笑った。心の澱が溶けて消えてゆくようだった。
 少女が自分に対して好意を抱いているのは察している。そうでなければ怪しい男と毎夜会おうとしたりはしない。それが恋心に達しているのか否かまでは確証が持てないが。
「結局普通なんじゃないですかー!」
 少女は取り立てて美しくはない。容姿をある程度己で決められる同性の<魔人>たちの誰にも敵わないだろう。<夜魔リリス>と比べようものなら、まさに足元にも及ばない。
 しかし<連星ジェミニ>にとって少女は煌いて見えた。
 笑い、はにかみ、膨れ、そんな他愛のない表情が掛け替えのないものに思える。
「それより聞いてくださいよ、今日学校で……」
 照れ隠しと強引に話題を変える様も可愛らしい。頬の朱が抜けていないのに。
 <連星ジェミニ>は財団派に所属する<魔人>だった。あだ名がついているのは伊達ではなく、財団派でなら少しは知られた存在だった。
 己を鍛えることに一番の喜びを見出していたものの、色恋にも疎いわけではなかった。<魔人>になる前には何人か付き合った相手もいた。
 だが、今のこの少女とのやり取りは習得した技術ではない。すべて本音だ。
 <夜魔リリス>の支配下に置かれて以来、心を瓶に閉じ込めてきた。小五郎のように己を保ち続けることはできずに屈し、だからといって媚びることもできなかった。
 日々削れてゆく感情、広がってゆく諦念。定められたことだけを実行する機械のようにいた。周囲も似たようなものだ。媚びるか無気力に堕ちるか、いずれにせよ<夜魔リリス>への憎悪や隔意はあるが。
 絡まれる少女を見かけたのは見回りの最中だった。そのとき、<連星ジェミニ>は己がまだ<竪琴ライラ>であることに気付いた。
 当たり前のように少女を助け、そのまま立ち去ろうとした。
『あの!』
 背中にかけられた声に足を止め、引かれた袖に抗うすべを持たなかった。
『ありがとうございました!』
 見上げてくる少女の懸命な顔を、初めて見るというのにひどく懐かしいものに感じた。
 それは瓶の蓋を開け、乾き切った心に染み透る雨粒の如くとめどなく降り注いだ。
 だからだろう、二度と会わぬ方がいいはずなのに押し切られてしまったのは。
 この少女の前でだけ、<連星ジェミニ>は人間に戻れる。
 少女の話は続く。熱い吐息で、寄せた身の薄い生地越しに伝わる体温とともに。
 仲のいい友人のこと、嫌いな教師のこと、試験が多すぎること、とりとめもなく。
 そして楽しい時間はまたたく間に過ぎ、別れの時が来る。
「明日も……会えますよね……?」
 不安の中に甘える響き。
 こんな関係が長く続くはずもないと少女は察し、<連星ジェミニ>は理解している。
 それでも迷わず頷いてやった。
「ああ」
「絶対ですよ?」
「絶対にだ」
 そう、今夜も約束がなされたのだ。







 ――――残すは四十七分



 横山誠は屋上で星を見上げる。
 不意に掴めそうに思えて、理不尽を行う<魔人>にとってもその輝きはあまりに遠い。瞬きも意地悪く、遥か彼方にいる。
 涸れた井戸の底から世界を見上げているように、今の誠には感じられた。
 同じ世界にいることすらできない。声は聞こえるのに、切り取られた空はそこにあるのに、届かない。
 顔を覗かせる誰も、引き上げてはくれない。この頼りない手足で這い登らなければならない。
 できるわけがないと理性が嘆息する。誠の<魔人>としての力はまさに最低限、ここには自分よりも遥かに強い者しかいない。
 最弱が何らかの切欠を経て最強へ。そんな奇跡を、都合のいい夢を見るほど心は落ちぶれていない。
 ならば僅かずつでも積み上げるしかない。<帝国エンパイア>のほとんどは置かれた状況のせいで停滞してしまっている。理屈の上ではいつの日か凌駕できてもいいはずだ。
 が。
「……下らない!」
 吐き捨てる。
 比べるべき相手がそんな腑抜けであっていいわけがない。<夜魔リリス>を守るのであれば、その敵よりも強くならなければ。
 彼らは研鑽しているはずだ。きっと自分が死に物狂いで一を積み上げている間に五や十を積み上げてゆくのだ。
 であるならばやはり諦めるのか。
 それもできない。
 <夜魔リリス>。
 彼女のことを思うと、見捨てられないと思ってしまうのだ。まるで親とはぐれた子供が泣いているようだと、そんな風に、自分如きが、まさにお笑い種だが。
 まだ閉ざされていない。見つけられていない道が残されている。たった一つだけの希望を握り締め、誠は天を睨んだ。







 ――――あと二十九分



 二振りの剣を両手に顕現させる。
 刃渡りは肘から指先程度。右は白刃『上顎牙シュペリア』、左は黄刃『下顎牙インフェリア』。
 二つ揃って『ヴリトラファング』、相馬小五郎の有するクラウンアームズだ。
 その二振りを繰る。
 小さなビジネスホテルではあるが、三階のエレベーター前は一階のロビーに次いで広い。鍛錬には誂え向きだ。
 とはいえ激しく動けば壊してしまいかねないため、できることは限られる。
 ゆっくりと、本当にゆっくりと刃が空を分ける。用いられている力は動かすのに必要な最低限。武を志す者は不要な力を嫌い、削ぎ落とすものだが、小五郎は何よりもこれを重視する必要があった。
 細かな芸はない。基本の動きをひたすらになぞってゆく。双剣を同時には刃として使わない。右を剣として、左を盾として。左を剣として、右を盾として。足払いからの突き下ろし、あるいは鈍器として叩きつける。
 通りすがりにちらりと見る者はいても、誰も注意を払わない。意義を見出せないのだ。小五郎の動きはどこまでも地味だった。
 鍛錬は淡々と続く。泥沼のような現状と不確か過ぎる未来にも今は苦悩しない。
 それが相馬小五郎の強さの欠片であるのだ。







 ――――あと



 時計が



 ――――十三分



 音を刻み



 ――――九分



 針が



 ――――五分



 時を刻む。



 あと――――















 頁をめくる。


 ――――五十五


 もう幾度読み返したのだろうか。
 不快であるのに、恐ろしいものを見たくなる。
 <夜魔リリス>は慣れ切って、頁をめくる。


 ――――二十七


 不快であるのに、すべての流れを知っているのに、結末を渇望せずにいられない。
 憧れているのだと、認めない。


 ――――十一


 もう、最も恐ろしいところに差し掛かる。


 ――――五


 進めたくない。


 ――――四


 けれど止まらない。


 ――――三


 一行、一行、文字が。


 ――――二


 迫ってゆく。


 迫って――――















 ――――世界が灰色になった。







[30666] 「<夜魔>抄・七」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/06/24 21:56



 ある旧い家に二卵性の双子があった。
 妹は愛らしく、優秀で、けれど姉はそのすべてを凌駕していた。
 取り巻きの碌でもない少年たちまでも自分を放って姉に興味を示したとき、妹はもう我慢することをやめた。
 腐りに腐り、猛毒と化した嫉妬と悪意を解き放った。
 希望通りに少年たちを家に招いた。もちろん、姉がいて両親はいないときにだ。
 可愛らしい声で自分の部屋に姉を招いた。いつもつんけんしている妹が甘えてきたのがよほど嬉しかったのか、優しく善良な姉は無警戒について来た。
 ドアを開け、暗い部屋に押し込む。姉は武道の腕前も尋常ではなかったが、完全に油断していては発揮しきれない。
 いかに技に優れようとも常軌を逸した達人というわけではないのだ、単純な筋力で勝る少年たちが五人がかりでならば押さえ込めた。
 あとは、本当に碌でもない少年たちが劣情を発散するのを妹は笑い転げながら見ていた。
 性に対して潔癖なところのある姉が蹂躙され、あの完璧な姉が助けてとみっともなく泣き叫ぶ様には、気の触れそうなほどの快楽を覚えた。
 少年たちが満足して、妹はようやく姉に近づいた。
 姉はただ天井を見ていた。妹の姿も認識できないようだった。
 まだ足りない。妹の中の悪意は膨れこそすれ、欠片も減ることはなかった。
 そうだろうと元から確信はあった。
 だから、準備しておいた物を改めて引っ張り出してきた。
『ブスになれ! これでブスになれ!』
 こんなときでも美しい姉の顔に、大量の強アルカリをぶちまけたのだ。
 そして少年たちの狼狽の声を背に、妹は逃げ出した。けたけた笑いながら、あてもなく。
 指先までもが痺れるほど心地好い。ありとあらゆる束縛を抜け出して何もかもが自由になったと思った。
 もうこの快楽は止まらない。これがないことなど考えられない。
 普通ならばすぐに捕まったのだろう。
 しかし妹は、<魔人>になってしまった。
 多くの<魔人>にとっての災厄の種が生まれたのである。















 灰色の世界。
 この異常に対し、襲撃と見た<夜魔リリス>の指示は早かった。
 八方への偵察の結果、分かったことは大きく分けて四つ。
 自分たち以外に動くものはなく、人の姿もない。
 有線も含めたすべての通信、情報機器の機能停止。
 このホテルを中心とした半径十キロメートルほどの空間から脱出できない。不可視の壁に阻まれる。
 そして、最初に東に送った者、それが帰ってこないために次に送った二人も帰還しない。
 東から抜けられるのかとも思ったが、すぐに否定せざるを得なかった。<夜魔リリス>の命令は偵察だ。何らかの発見があれば必ず帰ってこなければならないし、見つけられなかったにせよどこまでも行けるわけではないのだ。
 つまり、帰れない状況にある。仕掛けた何ものかがある以上、それにやられた可能性が高い。
 この閉鎖されたと思しき空間で敵がいる。思いついた名は当然ひとつだった。
「これは<竪琴ライラ>の仕業かしら?」
 人の目を気にする必要がないとあって、<夜魔リリス>は少年たちともどもホテルの前の道路に陣取っていた。
 敵が近づいているとなると屋内にはいられない。身動きが取りづらい。
 <夜魔リリス>は五十名を脇に従え、たった一人と向き合っていた。
「答えなさい、<双剣>ツインソード>。仕掛けてくるなら三週間後ではなかったの?」
「ああ、やっぱり聞いてたんだなあ。人間関係なぞどうやって把握したのか怪しかったが、案の定か」
 相馬小五郎は悪びれずに左の口の端を上げた。
 部屋の前でわざわざ場所を指定したことが誘導であったのだと理解し、<夜魔リリス>は今更驚きもしなかった。
「それで、答えなさい。これは<竪琴ライラ>?」
「そうだろうな。まさかここまで早く仕掛けてくるとは俺も思っていなかったが」 
 小五郎に苦痛の色はない。知らなかったのは本当だということだ。
 しかし<竪琴ライラ>であろうと推測できる理由くらいはありそうではあった。
「この際だから不正確でもいいわ。この現象についてあなたの考えるところを正直に教えなさい」
「やれやれ、嫌な訊き方をしてくるようになった」
 <夜魔リリス>は沈黙とともに待つ。小五郎のはぐらかすような言葉も無意味であると理解している。この期に及んで急速に学習が進みつつあった。
 だが、返答そのものに対しては声を上げることになった。
「聞いたことはある程度だが、神官派には周囲に被害を出さず、かつ標的を逃がさないための裏技か何かがあるそうだ。解除のトリガーは発動者かそれ以外のすべての死亡。本当かどうかは知らないが」
「神官派ですって……?」
 そうとなってみれば単純なことだ。<竪琴ライラ>六派は担当領域に閉じ込められて出られないわけではないのだから、財団派以外が仕掛けてきてもいい。特に神官派と剣豪派の領域は財団派に隣接している。
 その上で、神官派であることには違和感があった。
「俺も来るなら剣豪派だと思っていた。序列二位から七位がまとめて襲撃すれば、ほぼ間違いなく片付くだろうからなあ。それに神官派が出張ったなんて話は今まで聞いたこともなかった」
「……これはあなたの想定よりもいい知らせなのかしら? 悪い知らせなのかしら?」
 剣豪派は個人戦闘力に長ける。今しがた挙がった六振に勝てた<横笛フルート>は一人たりともいないという。
 強いて言うならば盟主であるはずの<奏者プレイヤー>鏡俊介が出張ればそれも覆るのかもしれないが。
 小五郎は皮肉げに口元を歪めた。
「悪い知らせだ。お前にとっても、それから俺にとってもな」
 周囲がざわめいた。<夜魔リリス>にとっての都合が悪いということしか理由付けできないようだった。
 すっかり腐り果てている少年たちよりも正確なところを読み取ったのが<夜魔リリス>であるのは、当然の帰結であったのかもしれない。
 しかしそれでもまだ漠然としたものでしかなかった。
「想定される戦力は?」
「もちろん一人だ。自分以外が死に絶えないと解除されないのなら、一人で来るか最初から味方にも犠牲を出すつもりか、どちらかしかあり得ない。無用な犠牲を出す選択をあのステイシアが採るとは思えん」
 小五郎がゆっくりと皆を見回す。
「いや、そもそもステイシアの意向なぞ無視した襲撃じゃあないかな、これは」
 <夜魔リリス>と誠以外は視線を合わせない。落とすか、逸らしてゆく。もう何も考えたくないのだろう。
 果たして、誰が来るというのか。考えたなら気付いてしまう。
 <夜魔リリス>の麗しいくちびるが震えた。
「……つまり……」
「来たのはおそらく処刑人だ」
 小五郎の口調はどこまでも苦い。それはこれまで生き恥を晒してきた理由の半分が失われたに等しいからである。
「済まんな。なるたけ生き延びさせてやりたかったんだが……あいつが来た以上、目的は皆殺しだ」
 体感温度が下がった。
 どよめきが爆発的に大きくなった。互いに見交わし、不安の顔を目の当たりにしては恐怖の色を浮かべる。
 たった一つの名で空気が塗り替えられていた。<竪琴ライラ>の処刑人という悪名はそれほどの威を有しているのだ。
 その実態を知る者はほぼない。噂ばかりが歩き回り、肥大した空想が事実であるかのように語られる。
 曰く、狙われて逃れられた者はない。
 曰く、昨日までの仲間を屠ることに一切の惑いがない。
 曰く、罪なき子供を巻き込もうと雑草を散らしたに等しい。
 そして噂に過ぎないはずのこれらが否定されたことは、神官派からすら一度もないのだ。
 大げさだなどと笑えたものではなかった。
「黙りなさい」
 <夜魔リリス>の声が凛と響いた。
 少年たちは一斉に口を噤む。呪縛のせいばかりではなく、威厳ある女王然としたその響きに逆らいがたいものを感じ取っていた。
 <夜魔リリス>は改めて小五郎へと声をかけた。
「こうなったなら、今回ばかりは本気で私に協力しなさい。死にたくはないし、死なせたくもないでしょう? ひとまずは処刑人を斃すこと、利害は一致するはずよ」
 妥当な申し出だ。小五郎が逆らいながらもある程度手を貸していたのは少年たち、少なくとも財団派出身の者を救うためである。この状況を打開してから再び<夜魔リリス>の首を狙えばいいと、そう言っている。
 <夜魔リリス>は妥当なつもりだった。少年たちも当然だと思った。
 小五郎が、目を剥き身を震わせ、苦悶を滲ませながら掠れた声を上げた。
「こ、と、わる」
 命令に背いた報いである。
 だが崩れ落ちない。震えながら、飛び出さんほどに目を見開き、歯を食いしばり、それから口角を上げて笑みを形作ってのけた。
「いいか、げん……慣れたぞ」
 嘘である。この苦痛は最大限の苦しみという概念として与えられるものだ。もしも耐性を得るようなことがあったならば、その分だけ苦痛が増すのだ。
 それでも事実、小五郎は両の足で立っていた。
「何を言ってるんだ!?」
 <夜魔リリス>より先に少年の一人が叫んだ。
「死んだらそれで終わりだろ!? 力を合わせて切り抜けるんだよ! 怖いからって逃げるなよ!!」
 小五郎はすぐには答えない。
 少年の言葉はまったくの的外れである。死に逃げるとは、まだ為せること、為すべきことを残しながら諦めて死を選ぶことをいう。小五郎のうちに少年たちを救うという目的はある。しかし第一ではない。
 小五郎は今もって<竪琴ライラ>だ。<魔人>が人々を傷つけぬためにこそ戦っている。害悪である<夜魔リリス>を屠れるであろうこの状況で、自らその可能性を減らすような真似をするわけがない。
 このときをこそ待っていたのだ。この瞬間のために罪なき者まで手にかけてきたのだ。<夜魔リリス>にはここで確実に死んでもらう。皆が道連れになろうともだ。
 少年の叫びは、欺瞞を重ねてでも、泥水を啜ろうとも何としても生き残らんとする、それもまた命の強さではある。
 しかし小五郎は否定した。
 八割が苦鳴混じりに、誇りをもって咆哮を上げる。
「ただ生きているだけがァッ! それほど、尊い、なら! カビにでも生まれ変わればいい!! 俺はヒトだ、これで死ぬとしてもそのために生きた!!」
 重く重く響く。
 そしてもう目もくれない。見るのはただ<夜魔リリス>のみ。
 それを受け、<夜魔リリス>のくちびるが、不思議なほどに優しく弧を描いた。
「そうね、あなたはずっと敵だったわ」
 す、と白魚のような右手が小五郎へと向けられる。そこから放たれるのが不可視の打撃、斬撃、刺突であることを小五郎は知っている。長所も短所に理解している。
 譬えるならば、それは攻撃で編まれた籠だ。標的空間へと全方位から押し込むように加えられる息をつかせぬ連撃、一度ひとたび捕らえられたなら抜け出すのは困難を極める。
 攻略法は単純、設定された殺戮領域キリングスフィアへと捕らえられる前に距離を詰めてしまえばいい。全方位から速度重視に叩き込むという攻撃である以上、至近距離では自身を巻き込むため使えない。使ってもいいが耐久力の勝負になるだけだ。
 もっとも、殺戮領域設定にかかる時間などほとんどない。もう既に発動させるだけになっているだろう。下僕たちを自分の前に置いて盾としていないのはまさに、巻き込まないためだ。
 苦痛に苛まれ足取りすらもよろける今の小五郎に避けられるはずもない。
 はずもない、と誰しもが思っていた。事実でもあった。
 そのための前提条件を覆せる可能性を知っているのは小五郎だけだった。

「――――死人しびとは何も望まない」

 小五郎は万全の一歩を踏み出した。
 不意を突いたことで<夜魔リリス>による発動は一拍遅れ、危ういながらも殺戮領域を抜けたのだ。
 痛みはない。苦しみもない。ただ、駆ける。
 これは異能ではない。<魔人>としての力ですらない。
 『葉隠』にて説かれた、武士のあるべき姿より編み出された技法だ。毎朝、目覚めるごとに己の死を想い、生死に惑わされることなく行動する。その理念を自己暗示の方向に突き詰め、別物とした。
 死人は何も望まない。死人は何も恐れない。死人は何も喜ばない。
 死人は痛みを感じない。死人は疲れを覚えない。死人は己を省みない。
 藤枝という家に継がれたこれは、己を怪物へと変える。あらゆる抑制を解き放ち、自身の肉体が発揮できる最大の筋力を発揮させ、痛みもなく疲れもなく、意識と乖離した身体が物理的に動けなくならない限り戦い続けることができるのだ。
 無論のこと、自身もただでは済まない。骨格は筋力を支えきれずに砕け、解けた後は昏倒必至、生命維持だけで手一杯になってしまう。
 動きそのものに関しても過剰な身体能力のせいで精妙が失われ易い。だからこそ、徹底的になぞり尽くした基本的な動きを藤枝は重視するのだ。単純な動き、ただ袈裟に斬るだけでも、常軌を逸した膂力と速度をもってすれば必殺となる。
 この死人の法こそ相馬小五郎、藤枝壮介ふじえだそうすけの切り札。これまで何人なんぴとも破り得なかった<夜魔リリス>の異能を、人間としての技法が打ち払ってのけた。
 <魔人>となってより、使ったのは初めてだ。話を聞いたオーチェに、絶対に使用してはならないときつく戒められていた。
 その理由を今、小五郎は己が身で痛感していた。
 まず、身体能力の爆発的な向上が一切ない。常と同じ力しか発揮できない。苦痛を消し去っただけだ。
 そしてそれだけでは済まされない。
 一歩目は万全だった。二歩目は力が抜けた。三歩目には視覚が半分失われた。
 急速に死んでゆくのだ。己を死人であると錯覚するほどに強烈な暗示が殺してしまうのだ。人であったならば現実に生きている肉体が歯止めをかけてくれるが、<魔人>はそうではないのだと知った。
 しかし小五郎は止まらない。死人は省みない。死に切る前に<夜魔リリス>を屠ればいいだけだ。射殺す矢として駆ける。
 <夜魔リリス>とて竦んでいたわけではない。不可視の攻撃も領域としてしか放てないわけではない。
 飛び来るそれを、小五郎は左の黄刃『下顎牙インフェリア』を投擲することで迎撃した。
 四歩目。あと一歩で事足りる。
 <夜魔リリス>はかわせない。少年たちはその後ろ、動くことすらできていない。
 ただ一人を、除いては。
 遮る影ひとつ。
 反応して割り込んだのではない。不吉な予感に予め身を投げ出していただけだ。自分がどうなるか、勘付いてはいただろうが。
 鮮血が散った。
 右の白刃『上顎牙シュペリア』は横山誠の胸板を貫き、切っ先は<夜魔リリス>の豊かな胸に触れただけで止まっていた。
 普段であれば誠の身体など薄紙ほどの妨害にしかならなかっただろう。だが、もう小五郎に力はない。刹那の差で、その薄紙すら破り切れない。
 見事だ、と口元だけは笑みにできた。誠の消えたその向こう、<夜魔リリス>がひどく悲しげに、己を庇って死んだ者など目にも入らぬという風にこちらを見ているのが最後に焼きついた。
 命をも捨てる献身すら、この憐れな女の心に届くことはなかったのだと、こればかりは最後まで訳が分からないと嘆息して小五郎も消え去った。











 時を刻む音は聞こえない。
 灰色の世界はすべてが止まってしまったかのように、足音もまだ遠い。









[30666] 「<夜魔>抄・八」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/08/05 21:30


 果てのない夜空を思わせる部屋に数多の情報が飛び交う。
 その全てを独りで処理しながら、ステイシアはほんの少しだけ想った。
 今回、雅年は<夜魔リリス>以下六十余名の情報を一切有していない。むしろ<夜魔リリス>に関してはいかなる存在であるかの情報を蒐集する鍵となってもらわなければならない。
「……雅年さんですから不明な相手は逆に得意なくらいなのでしょうけれど……」
 呟く。
 問題ないはずだと結論づけながら、案じてしまう。
 そんな風にほんの少しだけ想って、切り替えた。
 日が変わると同時に始まった<紅蓮狼クリムゾン>一派による神官派への襲撃は苛烈を極めている。
 敵が行っていること自体は単純、普通の人間にちょっかいをかけてこちらを引っ張り出すというそれだけのものだ。ただしこれを数十箇所もで同時に行われると対応に苦慮する。理念上、無視するという選択肢を採れないからだ。
 神官派の大半は<魔人>として最低限かそれよりはましかといった力量に留まる。士気も決して高くはない。彼らで受け止め、向こうの動きを見ながら戦力を補充して維持、決戦戦力を投入して片付ける。こちらから誘ったとはいえ危険は本物、綱渡りである。それでも<竪琴ライラ>のためにやり遂げなくてはならないのだ。
 そのためにステイシアは十の報告を同時に受け、二十の指示を同時に下す。
 不可能であるはずのことを為すのは可憐なくちびるではない。鈴を転がすような音声だけが闇から響き、それぞれの相手に伝えているのだ。
 だから全てを処理し続けながら余計な言葉も呟ける。
「やらせない。三六八わたしと皆を侮るな」
 矛盾である。独断で、神官派の一握りにしか伝えることなくこの手を採り、危険に晒しながら、護りたいのもまた彼らなのだ。
 響きは無限へ融けてゆく。
 あるいは、ハシュメールならばそれを耳にしたやもしれないが。





















「俺さ、モテたかったんだよ」
 少年が語る。
「細かいとこは訊くな。とにかくモテたかった。それで<魔人>になった。思い返したら怖いよな、なんでそんなことのために八割以上死ぬようなことやってんだか」
 往々にして衝動は道理では止まらないものだ。ましてや損得勘定でなど。むしろ無謀を美化してしまいさえする。
「でもまあ、無事<魔人>にはなれた。けど何なんだよ、肝心の女がいねえよ。男女比十九対一ってマジかよ!? ってかほんとに十九対一で済むのかよ、モテる前にそもそも碌に見かけねえよ!」
 少年は語る。誰も聞いてはいないのに。
 人の耳はある。だが誰もが己のことに精一杯で、聞こえないのだ。
「だから<闘争牙城>はチャンスだと思った。腕にはちょっと自信あったからな。<夜魔リリス>を彼女にできると思った。結果はごらんの有様だけどな」
 それでも少年は語る。震える声で、自分という存在が確かに此処にいたのだと、灰色の夜に刻み込もうとするかのように。
 少年たちは駅前の広い道路に面した建物の陰に隠れている。息を潜め、とはいかない。何やらぶつぶつと呟いている者もあれば深呼吸を繰り返す息遣いもある。
 待っている。
 協力して処刑人を斃せと<夜魔リリス>は言った。
 戦力の逐次投入は愚策と、少年たちのほとんどは判断した。
 本当は逃げ出したいのだ。隠れて、災厄が過ぎ去るのを待ちたいのだ。
 しかし<夜魔リリス>の命に逆らえば死にたくなるほどの苦痛に見舞われ、災厄は自分たちを全滅させるまで留まると推測される。やるしかなかった。
 待ち伏せにならぬ待ち伏せ。誰もが平常ではいられない。手練れの<魔人>であるのなら、少し注意すれば音に気付いてしまうはずだ。
 声がする。神経質に壁を叩く者もある。舌打ちを止められない者も、病じみて不規則な息を漏らす者も。
 そこに、更に一つ加わった。
 こつり、こつり、と靴の音。ゆっくりと、一拍たりとも揺らぐことなく。
 雑多な音が静まった。この灰色の景色、既に死んでいたかのような世界が今更のように凍りついた。
 訪れた静寂の中、靴音だけが変わらず耳朶を叩く。時を刻む音に似て無情に、淡々と、万物へ公平に訪れる。
 死が、いる。すぐそこにいる。
 耐え切れず最初に飛び出したのは誰だったろうか。けたたましい声、悲痛な叫びを上げて襲いかかる。
 処刑人の歩みは止まらない。替わりに虚空が揺らいだ。
 振り下ろされた刃を左の前腕に沿わせて流し、右の巨拳が胸の中央をいとも容易く貫いた。
 足元の影に潜んだ一人を影ごと踏み殺し、歩みは止まらない。何事もなかったかのように処刑人は行く。
「砲撃ッ!!」
 合図は悲鳴にも近かった。遠隔攻撃を得手とする十名のうち此処にいる九が、ビルの陰から、上から、正面から、背後から、縦横上下に力の限り持てる攻撃を撃ち込む。隙間などない、切れ目などない、対応不能の飽和攻撃サチュレーション
 光芒が目を灼く。止められない。意識を放れて九名の肉体は力を放出し続ける。そうしなければならないと本能が悟っている。
 しかし光の中で処刑人の歩みは緩むことすらない。隠して織り込まれた細く強い、貫く攻撃のみを的確に弾きながら、あとのものは直撃を受けてなお傷の一つもない。
 不意に、地面を大きく蹴り捨てた。ロングコートの姿は消え去り、同時に合図を告げた少年の横にふらりとあった。速さではない。二つの地点を繋げた、比喩ではなく文字通りの縮地だ。
 理解の暇などない。いつ動き始め、いつ打ったのかも分からぬ左の裏拳によって少年の頭部は弾け飛んでいた。
 鮮血が宙を舞いながら薄れ消える。少年についていた護衛二人は今更のように斬りかかるが、力任せとすら映る右腕の薙ぎ払いによってまとめて胴の上下が泣き別れた。
 死した<魔人>は塵も残らない。渦を巻くようにして滅び去った。
 まずは五名。ロングコートがまたも灰色の夜に翻る。
 歩みはゆるりと、けれど一息たりとも処刑人は止まらない。







 ビジネスホテルの屋上から見下ろす視線、二対。
 一方は気だるげに額をフェンスへと押し当て、もう一方は少し離れた位置に直立している。
「要は」
 フェンスの少年の口の端が釣り上がり、嘲る声が漏れた。
「死にたがってるんだよ、あいつらは。逃げたいけど逃げられない、戦っても敵わない、ならいっそ苦しくないように殺して欲しい。一斉にかかった方が勝率がある? 馬鹿言え、敵戦力も分かんねーのに突撃するアホがあるかよ。まあ、囮にはちょうどいいが」
「生きたがりの<贋金メッキ>が言うと妙な説得力があるな」
 もう一人、<連星ジェミニ>がぼそりと呟く。離れた立ち位置と同じく声にも隔意が滲んでいた。
 <贋金メッキ>などという不名誉なあだ名を持つこの少年は、<夜魔リリス>の下僕の中でも最も下劣な男と言っていいだろう。強きに諂い、弱きを見下し、<夜魔リリス>の関心が薄いのをいいことに、街に繰り出しては暴力と恐喝とを繰り返していた。もしも入手手段があったならば違法な薬物の販売にも手を出していたのではなかろうか。
 そのくせ<夜魔リリス>に対する態度だけは本当に従順で忠実そうで、その裏と表の様はまさに片面ずつ見せる贋金貨。私闘が禁じられていなければ間違いなく<連星ジェミニ>か小五郎かが手を下していただろう。
 もっとも、そうなっていたとしても成功したかどうかは分からない。これでいて<闘争牙城>出身者としてはおそらく一、二を争う力量の持ち主なのだ。
「自分で言うのもなんだが、オレは悪党だ。まさに処刑人に殺されるに最も相応しいんだろーよ。だが嫌だね」
「死にたくないか」
「ああ、死にたくない、死にたくないね」
 <贋金メッキ>が歯を剥き出して笑う。
「生き延びるためなら何だってする。死んでたまるか。今までもそうしてきた。これからもだ」
 凄惨なまでの思いを口調に滲ませ、フェンスを軋ませる。
 おそらくは、人だった頃、<魔人>となってから何かはあったのだろう。今更詮索する意味もないが。
 <連星ジェミニ>はひとつ大きく息をつき、問うた。
「それで<生きたがり>、処刑人をどう見る? 眺めていたが何も分からなかった、じゃ無策で突撃していた方がましだったってことになる」
 二人の視線の先ではロングコートの姿が戦っている、と言っていいのか否か。あまりにも一方的で、虐殺とでも呼ぶ方が適切なのではなかろうか。
 一つの動きごとに一人は死んでゆく。逃げられぬと知っていても反射的に背を向けようとする者が幾らかあろうはずなのに、狂乱しながらも処刑人へと向かってゆくのは、なるほど、確かに死にたがっているのかもしれない。
「一回だけ、あいつ瞬間移動しなかったか?」
「したな」
 頷く。砲撃担当の指揮役を屠ったときだ。そのせいで残る八名は自分の恐怖の赴くままに乱射し、統制など欠片までも奪われ、既に全滅した。
 あれは踏み出した後の過程がまったく見えなかった。まさに空間を渡ったとしか思えない。
「『抜き』はまるで分かんねーが『入り』は大きかった。やるときは多分判る」
 『抜き』とは終わり、『入り』とは起こりだ。前兆を察知してその場を大きく飛び退けば少なくとも奇襲は受けないと、そう言っている。
 そのものへの異論は<連星ジェミニ>にもない。が、気付いたことはもう一つある。
「あれ以来見せないがな」
「隙くらい承知してんだろーよ。最初に見せておきさえすれば、そいつを警戒して余計なところに意識を割いてくれるってとこか? ああやだやだ、もっと雑にやってくれりゃいいのによ」
 ぎしりとフェンスが鳴る。表情は<連星ジェミニ>からは見えない。が、フェンスを鳴らしたものは指の強張りだと推測はついた。
 振り向かぬままに、今度は<贋金メッキ>が問うて来た。
「てめーの方こそ何か見つけられたのかよ?」
「……<魔人>というのは二種類いると俺は思ってる」
「回りくどいのはやめろ」
「どうせもう少し時間はあるだろう。焦りは害にしかならない。フェンスを握り潰して落ちたら格好悪いぞ?」
 視線の先で、この瞬間にも一人が消滅した。あと一分ほどで終わりそうではあるが、話を続けられないほどでもない。
 鼻を鳴らす<贋金メッキ>。
「……二種類な。生きたがりと死にたがりか?」
「実に『らしい』な。だが俺の分け方は別だ。力のレベルが、天井を越えてこちら側に来てるかどうかだよ」
 <連星ジェミニ>の双眸は、数時間前に優しく少女を見ていた目とは思えぬほど冷徹に輝く。
「大半の<魔人>の力は生身の人間とは比べ物にならないほど強大だというだけだ。その中にも優劣はあるとしても、ある地点に天井が存在している。その天井の上と下では大きな差が生まれている。あまりこういう言い方はしたくないが……」
「あいつらは雑魚だ。ああ、分かった。何が言いたいのか、嫌んなるほどな。あいつらは脆い。少なくともオレたちにとっては」
 それは密度の違いとでも言おうか、あるいは結合強度にでも喩えようか。硬く強い物質を脆く弱い物質に叩きつけたかのような結果がそこには現れる。
 <夜魔リリス>が下僕としたのは一人を除いてすべてこちら側に至った<魔人>だ。
「てめーの言う天井の上の奴らは頑丈だ。全力で攻撃したところでそう簡単には死なない。直撃でも一撃では死なない。だから<闘争牙城>で決闘をやって生き残れる。頑丈なんだ。だがそれを、そのはずのものを一撃で殺す奴がいる。<妖刀ムラマサ>のように」
「そして<剣王>ソードマスター>のようにな」
 <連星ジェミニ>の声は溜息とともに。
「俺は並みの<魔人>を一撃で殴り殺せる。だが胴体をぶち抜くなんて真似はできない。つまり処刑人にとっての俺たちは」
 言葉を切るつもりはなかった。歯の根が合わない。つい先ほどまでは根城だった此処も今となっては書き割りじみ、確かなはずの足元が崩れ落ちそうに思えてならない。
 この瞬間に、最後の一人が葬り去られた。そして当たり前のように処刑人がこちらを見たのだ。気付いていたのだろう、最初から。そして逃さない。
「……俺たちにとっての普通の<魔人>かそれ以下ということだ」
 結局分かったのは、弱点を云々する以前に到底敵う相手ではないということ。攻略法など思いつかないということ。
 だが、絶望を目の前に震えても、侵されてはいなかった。
 <贋金メッキ>が言う。
「で、最後に訊いとくが、いいのかよ? ここで潔く死んどいた方が<竪琴ライラ>のためじゃねーのか?」
 振り向きはしない。目を離せば次の瞬間に死んでいるかもしれないからだ。
 それは<連星ジェミニ>も同じ、こちらへと歩き出した処刑人に宣言するかのように、震えを止めて顔の前で両の拳を握った。
「これが明日の今頃なら死んでよかった。けど、絶対に会いに行くと約束した子がいるんだ。何を犠牲にしてもまだ死ねない。誇りも何もかも捨ててやる、この約束だけは果たすんだよ」
 口元にも笑み。お返しとばかりに煽る。
「お前こそいいのか? <生きたがり>としては念のために命乞いくらいしておいた方がよさそうに思えるけどな」
「馬鹿言え。快楽殺人鬼にだって駄目で元々ダメモトで靴舐めてみるオレだが、津波に命乞いするほどアホじゃねーぞ」
 <贋金メッキ>が腕を振った。握られているのは何の変哲もない鉛筆である。しかしフェンスがぱくりと幾つにも断たれてゆっくりと外側に崩れ落ちた。
 アスファルトへの激突音が存外に軽い。目の前に開かれた前途は死をもたらすものへと続く道。
「最初で最後の共闘だ、クソ<竪琴ライラ>。今回だけは後ろから撃たないでやる」
「ああ、お前をやるのはこの次にしてやるよ。命乞いなんか聞かない」
 二人の間に信頼はない。しかし互いの生き延びる意思だけは信用できた。
 先に行くのは<連星ジェミニ>だ。<贋金メッキ>を追い越し、虚空へと身を躍らせる。
 処刑人はもうすぐそこだ。







[30666] 「<夜魔>抄・九」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/09/23 23:06



『いいか、右の拳のあとには必ず左の拳を続けるんだ』
 子供の頃、そう言った酔っ払いがいた。
 見知らぬ大人だ。呂律も回っていない。
『左の拳のあとには必ず右だ。そして右のあとは左だ』
 そう言って行った四連撃は、少なくとも子供の目には信じられぬ速さだった。足取りも怪しいのに、その四撃だけは別人のようだった。
 酔っ払いが誰であったのかは今でも知らない。高名なボクサーであったのかもしれないし、無名であったのかもしれないし、あるいは別の格闘技、果ては少し心得がある程度のただの酔っ払いであったのかもしれない。しかし、少年の心に染みついた。
 右、左、右、左。反応など許さずに立て続けにいつまでも打ち込み続けたならば勝てる相手などない。少年の頃の、机上の我流最強理論としてそれは形成されたのである。
 まずは空手をやった。中学生の頃にはボクシングも。
 旨くはいかなかった。なにせ求めていたものは非現実的な速度で終わりなく、なのだ。本当に実行しようとすれば下半身や体幹のほとんど生かされぬ、強めにじゃれた程度の拳打を結局現実的な速度で、としかならない。
 もちろん、ボクシングを始めた頃には既に理解していた。子供の我流理論などよりも、長い時の中で洗練されてきた空手、ボクシングの基本の方が強い。
 だが、<魔人>は理不尽を行う。十七歳の誕生日、我流理論を失う直前に得た新たな自分は、人間の正当を覆した。
 要は速さと強靭さだ。脚から腰、肩を伝わって放たれる真っ当な一撃を、打撃の反動まで利用して左右を切り替えながら息もつかせぬ連打と成す。速くなった。真っ当に打ちながらありえぬ速さ、連撃を得た。
 そして人ではたとえ速さを成し遂げたとしても生じた歪みに耐えられぬであろうものを、<魔人>の肉体は苦もなく捻じ伏せる。
 拳打はさながら篠突く雨、二つの拳は離れることなく互いの周囲を回り続ける連星のように。
 <連星ジェミニ>の連打は、届く範囲において未だ不敗である。剣や刀など、より遠間から倒されたことはあるが、純粋な殴り合いで遅れをとったことはない。
 景色が背後へ駆け去る。
 拡大してゆく処刑人の姿は今も淡々と、歩みを進めるのみだ。それだけで息が詰まる。その周囲が爆ぜた。ぞっとするほど滑らかな切り口を見せるアスファルトが舞い、幹を断たれた左右の街路樹も次々と倒れ行く。
 それは<贋金メッキ>の仕業だ。いかなる理屈によってかを<連星ジェミニ>は知らないが、遠間よりあらゆるものを断つ攻撃を仕掛けることができるとだけは承知していた。
 籠手に覆われた処刑人の右腕が動く。打ち払う動きと同時に後方の地面が細切れになり、その頬から血飛沫が舞う。
 その光景を<連星ジェミニ>は確かに見た。
 防いでなお、効いている。先ほどまでのように無傷ではない。傷を与えることが可能であるならば、斃すことも可能であるはずだ。
 しかし同時に、かすり傷でしかない。<贋金メッキ>の斬はクラウンアームズに包まれた肉体の内側すら理不尽にも断ち切ったことすらあるというのに。
 分からない。
 自分たちと並みの<魔人>の間にある差が、処刑人と自分たちの間にもある。そう結論づけはした。だがこの二つの関係は決して相似していない。
 前者の差は単純な身体能力や出力の差によって生じる。例えば横山誠、最後まで献身の届かなかった彼と比べたならば、筋力も速度もそれぞれ五倍以上勝る自信がある。この能力差だけで圧倒してしまえるのだ。脆く感じるのは、大人が赤子を攻撃しているようなものだからである。
 <魔人>の得られる戦格クラスの限度は人であった頃の能力に比例するとはいうが、成って即座にその上限に至れるわけではない。大抵は基本の戦格クラスから始まり、能力を伸ばしながらより上位のものへと進化してゆく。
 ただし<魔人>の能力は伸びにくい。その成長はある段階に至って初めて形となり、一息に積み上がる。それまでは全てが徒労に思えてくるものだ。大半の<魔人>が天井を越えられない理由はそこにある。その一方で、才なのか、また別の見えざる何かなのか、成って間もないのに双格並列デュアルにまで到達するような例外もあるにはあるのだが。
 <連星ジェミニ>はかつて、<剣王>ソードマスター新島猛と手合わせをしたことがある。騎士派からの移籍、それも財団派の切り札となるべくして、となれば心穏やかにはいられない。自分たちは不甲斐ないと言われているようなものだからだ。
 だから納得したかった。彼にそれほどの価値があるのだということを。
 そしてそれは証明された。
 <剣王>ソードマスターは強かった。何をしても、どう仕掛けても凌がれ、攻略される。
 そのときはそれだけだった。自分とは格こそ違うが同じ領域にいるつもりだった。
 その認識が思い違いであることはまもなくして理解できた。
 <剣王>ソードマスターは本当に強かった。自分が一進一退の攻防を繰り広げた相手を一刀の下に切り伏せてのけた。
 力に大きな隔たりがあるとは思えない。速さが倍もあるわけではない。技術は、確かに数段上の階梯にあるのかもしれないが。
 クラウンアームズの格にも違いはあった。しかしこれも一回り、二回り程度に過ぎない。
 普通の人間同士であれば先に致命傷を叩き込んだ方が勝ちだ。ほんの少しの差が一撃で生死を分け得る。しかし自分たちは<魔人>なのだ。結果的に為すすべもなく敗北することはあろうとも、一撃でやられるはずがないのに。
 だが事実は違う。彼らと自分たちの間には埋めがたい力量差が存在してしまっている。
 それはどこから来るものなのだろう。
 疑問は、もう遅い。
 彼我の距離はもはや、<魔人>にとっては一足一拳とでも言うべきところまで近づいてしまった。
 <連星ジェミニ>は何もかもを忘れた。<夜魔リリス>のことも、<贋金メッキ>のことも、約束の少女のことさえ放棄して敵だけを見た。
 ただ、打つ。最速で、二つの拳を連星と化し、防御をこじ開けるのだ。それだけを思った。
 防いでなお傷を受ける攻撃を防げなかったならば、それこそがきっと唯一の光明となるだろう。もちろんそんなことも考えず、<連星ジェミニ>はついに間合いに踏み込んだ。
 まずは左。これは巨大な籠手を嵌めた右掌によって内側に流された。ならば右を踏み込み、そのまま渾身の右を放つ。
 放たなければならない。
 だというのに、身体が泳いでいる。流された左は、そのまま手首を掴まれ、引き込まれていた。最速で放ち最速で戻す初撃が完全に捉え切られていた。
 引き込む流れは触れているだけとしか感じられないのに、離岸流の如く抵抗ごとまとめて呑み込んでゆく。
 いつしか添えられているのは左手となり、<連星ジェミニ>の左腕は完全に伸び切って、導かれた先に待ち受けるのは右肘。
 玄妙の交叉法による一撃が眉間を直撃した。
 衝撃はあれど痛みは既になかった。全身が冷たくなった。
 死ねない。
 <連星ジェミニ>は強く願った。あの少女にもう一度だけ会いたい。約束を守りたい。絶対に屈さない。
 無尽の生きる意志は、不屈の心は、しかし既に訪れていた死の前に消滅する。
 呆気なく、あまりに呆気なく、これが終わりであった。











 <贋金メッキ>は幼い頃よりイラストを描くのが好きだった。
 友人に請われるまま漫画やアニメのキャラクターを次々と模写する日々のうち、徐々に真似ではない自分自身の絵が生み出されていった。
 好きこそ物の上手なれ。知識も仕入れ、独学ながら技術も磨き、中学を卒業する頃には歳にそぐわぬ腕前に至っていた。
 命よりも大事だと嘯いた。本気だった。少なくともそうだと思い込んでいた。
 高校に入学して、性質の悪い輩に目をつけられた。
 いや、その程度で済まされる人格ではなかった。それは幼さゆえなのか、社会への恐れをまったく持ち合わせていなかったのだ。
 恐喝された。万引きをさせられた。傷害の手伝い、そして果ては殺人にまで及ぼうとして、ようやく拒否した。
 懲罰は残酷だった。絵か、命かを選ばされた。
 <贋金メッキ>は生きたがる。あのとき、命よりも大切であるはずの絵描きを捨ててでも守った命、絶対に侵されてはならない。
 そのためならば何でもするのだ。人よりも遥かに強靭な<魔人>に迷わず成った。死ぬ可能性の方が高いのに、矛盾には気付かない。
 命より大切なものよりも大切な命。堂々巡りをそうであると認識できない。
 犯罪行為は皮肉にも慣れたものだった。最後の一線として守ったはずの殺人にも、毫も迷わなかった。最初の標的は勿論、決まっていた。復讐などではない。自分を脅かす存在と認定していたものを排除しただけだ。
 <闘争牙城>にいたのは安全だったから。危険を制御できるあの閉鎖空間はただ生き延びるにはいい。
 <夜魔リリス>に大人しく従っていたのは安全だったから。嗅覚がそう嗅ぎ取っていた。
 もっとも、大局的には判断を誤ったと言わざるを得ない。
 駆け行く<連星ジェミニ>の先、忌まわしい死が在る。
 全身を震えが走った。恐怖であり、憎悪である。死は必ず排除しなければならない。
 ありったけの敵意が力を収束させる。
 <贋金メッキ>はもう絵を描けない。捨ててしまったあのときから、描くべきものが失われた。
 だから今、できるのは否定することだけ。
 目の前の情景に線を描き加え、存在している空間ごと対象を断ち切るのだ。
 手には何の変哲もない鉛筆。絵は心から失せ、肉体が人でなくなっていようとも、技術だけは魂に刻まれ残っている。
 『入り』から『抜き』は鮮やかに。情景の中の処刑人を線で二つに分けた。
 <破界断層フォッサ・ムンディ>。
 これは設定した位置に直接作用する。その瞬間、その場に身を存在させないことで避けることはできても、防ぐことはできない。クラウンアームズ以外の全てを両断してきた。
 だから、処刑人の防御行動も無意味でなければならなかったのに。
 打ち払いによって線そのものが破壊された。
 そのまま消え去りはせず周辺を切断こそした。処刑人もさすがに無傷では済まなかった。しかし絶対であるはずの技が、ただの飛斬に等しい扱いだった。
「<魔人>、<魔人>か!」
 腹の底から笑いが漏れる。
「お前らこそが<魔人>なのか、それとも<魔人>を超えているのか!」
 恐ろしい。絶対に排除しなければならない。
 <贋金メッキ>の<生きたがり>は逃避ではない。媚びも乞いも攻撃であり、死の可能性を排除するための手段のひとつに過ぎない。
 だから惑いなどまったく存在していなかった。
 <連星ジェミニ>が死ぬ。それを為すために処刑人は初めて全身の動きを用いた。
 この瞬間だけが勝機、防御など間に合わせない。<破界断層フォッサ・ムンディ>に必要なのは線を引く時間だけ。
 <贋金メッキ>の鉛筆は処刑人の首に削除の線を書き込んだ。
 その情景が歪んだ。水面みなもを揺らがせ、映る景色を壊してしまったかのように。
 いや、<破界断層フォッサ・ムンディ>は効いた。処刑人の首からは激しく鮮血が溢れた。
 そしてそれだけだった。赤は幻だったかのように灰色に薄れ、傷も即座に消え去る。
 何もかも折込み済みだったのだろう。こちらを見た双眸に情動がない。冷徹に計算して、ああすることが最も効率良く自分たちを片付ける手順であると結論づけ、実行したのだ。
 それは同時に、一度受けただけで<破界断層フォッサ・ムンディ>の術理を解してのけたということでもある。
 津波と評した己の勘に<贋金メッキ>は笑った。全てを呑み込み、砕き尽くしてしまうのだ。
 <贋金メッキ>は諦めない。
 それでも結果は変わらなかった。



 残るは<夜魔リリス>、ただ一人。







[30666] 「<夜魔>抄・十」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2018/11/04 21:16


 不思議と落ち着いていた。
 灰色の道路、灰色の建物、仰げば夜だというのに灰色と思える空。
 駅の脇、駐輪場を挟んで広がる芝生も今は色が抜け果てている。
 風もない。遠くよりの靴音が静寂を引き締め、鼓動とは異なる拍子であるのに子守唄のように響いた。
 鮮烈な赤いドレスで<夜魔リリス>は伏目に佇み、時を待つ。
 <帝国>エンパイアは崩壊した。臣下なくして女帝などと名乗れようものか。
 左手の読み古した本一冊だけを供に一人の<魔人>へと戻り、だというのにむしろ清しい。
 もっと早く皆を真っ当に統制していればまた結果は違っただろうか。思い、即座にそれはないと否定する。皆を助けるためにあれほど耐え忍び続けて来た相馬小五郎、あれだけの男が、処刑人が来たと察した途端に死を当然のものとして受け入れた理由がよく分かる。
 <呑み込むものリヴァイアサン>はいかな戦力をも呑み込み、殲滅するのだ。
 勝ち目はあるか。これは自問するまでもなく、ない。たった一つを除いてだが。
 凌駕解放オーバードライブ、<落艶エデン>。
 あれに取り込むことさえできれば、すべてを覆せる。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
 <夜魔リリス>は待つ。
 何も考えなくていい。来るのは自分を殺す処刑人。何も疑う必要はない。敵意、殺意は信じられる。
 やがて見えるロングコートの姿。この真夏であるのに。大きく開いた右の袖、そこから覗く巨大な籠手。
 このとき初めて、<夜魔リリス>は処刑人の顔を見た。どこまでも事務的で、処理すべき書類に目を通そうとしているだけの眼差しが、男であることへの不快感を和らげてくれる。
「<夜魔リリス>と呼ばれているわ、<呑み込むものリヴァイアサン>。以後、お見知りおきを」
 スカートの裾を摘み、優雅に一礼カーテシー。これは誇りである。たとえ不利となっても、礼を示すべき相手と思えば行う。
 するとまるで返礼であるかのように、初めて処刑人の歩みが止まった。
「申し訳ないが、以後はない」
 平坦ながら律儀にもそんなことを告げたのだ。
 意表を突かれ、<夜魔リリス>は数呼吸の間、声を失った。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
「この世界はあなたが死ぬか、あなた以外がすべて死なないと解除されない。そうだったかしら」
「ここは半径10キロメートルほどの独立閉鎖空間とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは既に僕と君だけだ。僕を殺さない限り、君はここから出られない」
「何がどう転んでも、以後はないということね」
 僥倖だった。時間を稼ぎたい<夜魔リリス>にとっては、他愛ないやり取りであっても会話が成立するならば活かさぬ手はない。
 微笑を浮かべ、続ける。
「でも驚いたわ。処刑人というくらいだからただ殺していくだけかと思っていたのだけれど」
「間違ってはいない」
 ほとんどの男を篭絡する笑顔も処刑人には通じない。構えこそとっていないが、油断などできたものではない。その腕を振るうだけで一撃の下に<魔人>を屠っていたことは<夜魔リリス>も確認している。この次の瞬間に殺されていてもおかしくないのだ。
 しかし、悪寒に冒されそうな意識を鎧い直す。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
「何か訊きたいことでもあるの?」
 ただ殺すだけが処刑人であるのなら、この会話には理由があるということだ。
 果たして、処刑人が初めて瞳に興味の色を覗かせた。
「君の戦格クラスについてだ」
「なるほどね」
 <夜魔リリス>は得心した。<帝国>エンパイアを作り上げた異能を知りたいのだと判断したのである。
 <竪琴ライラ>にとっては目障りな能力だろう。第二の<帝国>エンパイアを出さないために、あるいは出してしまったときのために知っておきたいのだろうと。
 が、その予想は裏切られた。
「一方はおそらく<タイラント>だろうと思うが、もう一方が分からない」
 処刑人はいとも容易く言い当ててのけた。
 鎌をかけているのか、平坦な表情からは読み取れないが、そもそも<タイラント>の名を知っている時点でどちらであっても大差ない。
 自分を<魔人>にした魔神、どのような存在であったのかはよく覚えてはいないが、この戦格クラスを持つのは二人目だと言っていた。
 とぼけることも頭をよぎったが、やめておく。話は弾ませておいた方が長く続くだろう。
「よく知っているわね」
「先ほどまでの様子からするに皆、君に喜んで従っていたわけではないようだ。君との力の繋がりがあったようでもあるし」
「……なんですって」
 思わず呟いたものの、よくよく考えてみれば逆らうことで耐え難い苦痛が自動的に発生するのだから、それを与えるために力が通じていて不思議はない。
 しかし自分にすら感じ取れないものをなぜ処刑人が把握しているのだろうか。
 問う間もなく淡々とした声が続く。
「魔神は個々の意思を尊重する。間接的にでも他者を従わせる異能を持つ戦格クラスなど、作るのは一柱しかいない。そして戦格クラスも一つしかない」
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
「<金星結社パンデモニウム>の首領補佐、<軍王パイモン>はその能力で結社とは別の軍団を作り上げているそうだ。君のものもそれと同じと踏んだ」
 思わぬ大きな名に<夜魔リリス>はたじろいだ。
 <金星結社パンデモニウム>の名は知っている。中東から欧州、北アフリカにかけて暗躍している<魔人>集団だ。何の主張もなく、理想もなく、ただ秩序を破壊し人を殺すだけの、最も忌まわしい存在。
 どのような者が所属しているのか、一部を除いては知られていない。しかし<軍王パイモン>は有名だ。首領たる<明星ルシファー>の下、<金星結社パンデモニウム>を統括しているという。
 それだけに疑問も湧く。<軍王パイモン>はまさに名のみが有名、自身は表にほとんど出ない。指し手とはそうあるべきであり、核となる異能など広めさせてはならない。ましてや<金星結社パンデモニウム>である。本当に<タイラント>であれば仲間にすら知らせぬはずと、<夜魔リリス>は震えた。
 ありえないのだ、あの異能の条件は他人に知られぬよう、万全の注意を払うはずである。
「その<軍王パイモン>は自分の能力を言いふらしてでもいるの?」
 処刑人は他者を従わせる異能としか言ってはいない。完全な条件を知っているとは限らない。そう自分に言い聞かせて心を落ち着ける。
 果たして答えは曖昧なものだった。
「いや、隠してはいるんだろうが。あいにく僕の院生時代の恩師は魔神学の第一人者でね。知っていたのか推測したのかは分からないが、何にせよこの分野であの人より博識な人はいないよ」
 だが続いた言葉は異なる方向から<夜魔リリス>を貫いた。
「<金星結社パンデモニウム>はあくまでも個だ。表面的に協調することはあっても他のメンバーは敵、<無価値ベリアル>はおそらく<軍王パイモン>の能力を見極めるためにという意味でも君を利用したのかもしれない」
「……そんなことを私に言ってどうするの? 動揺でもさせたいのかしら」
 声は震えずに済んだ。処刑人の言葉に嘘がないなら、その洞察もきっと正しいだろう。<無価値ベリアル>には男であること以上の嫌悪を感じていた。あの爽やかな笑顔をおぞましいものとして感じたのはそれが理由であれば不思議はない。自分にとって最も許すべからざることだからだ。
 どうして、と思う。
 私はただ、と思う。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
 過ぎった懊悩は一呼吸だけ。勝たなければここで全てが終わる。
「……まあ、いいわ。それで私のもう一つの戦格クラスについて知りたいのだったかしら」
 もう少しだ、もう少し引き延ばさなければならない。
「でも私がその質問に答える必要はないわ。交渉なら、何か私にとっての利を提示するのが筋ではない?」
「交渉ではないよ」
 処刑人の表情は読めない。だが、先ほどまでに比べて双眸が熱を帯びているように思えた。
 <夜魔リリス>はくちびるの弧を誘うように大きくした。
「それなら、恫喝?」
「恫喝でもないね。答えようが答えまいが君を殺すことに違いない」
「それなら何なのかしら」
「ただの興味だ。答えたくないならそれでいい」
 尋ねておきながら、なんとも気のないことを言う。だがやはり、事務的な色が薄れ、人らしい興味が覗いていた。確かに言葉通りではあるのだが。
 迷う。
 答えればそこで会話は終わってしまうかもしれない。逆に、答えず、食い下がられなければもっと早く終わるだろう。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
 まだ時間は必要だ。もう少し引き延ばさなければ。
 決めた。
「申し訳ないけれど、もう一つの戦格クラスは私自身にも分からないの。何か異能があるようにも思えないのだけれど」
 本当のことであるが、むしろとぼけていると受け取られることを<夜魔リリス>は望んでいた。そうすれば真実を引き出そうとしての駆け引きが始まるはずだ。実際には本当のことなのだから、はぐらかすにも限度はあるが。
 処刑人の表情は動かなかった。ただ、ひどく落ち着いた声で問うて来た。
「名前くらいは分かるかな?」
「……<エンブリオ>と言っていたかしらね」
 <魔人>と成ったときの記憶はほとんどない。何もかもがぼやけて、しかしその名はしかと思えていた。
 回答は反射的に、しかしこの程度ならば問題あるまいと後から判断する。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
「そうか。ありがとう」
 虚を突かれた。
 当たり前のような礼の言葉に、<夜魔リリス>は言葉を失った。
 それは久しく耳にしなかった響きだ。懐かしい、かつての記憶が疼く。色褪せ、擦り切れ、よくは思い出せないけれど胸を締めつける。
 自分を殺しに来たというのに、もうまなざしから熱は失せ、揺るぎない敵でしかないというのに、口にしたのはそんな処刑人。
 ほんの一呼吸の間だけ、心が透明になる。駆け引きも何もなく、くすりと自然な笑みが漏れていた。
「どういたしまして。あなたは……変な人ね」
「返答に困る評価だ」
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
 再び動悸が激しくなってゆく。完成は近い。
 恐怖は常に身を侵そうとし、意思でそれを捻じ伏せる。
 視界の中、処刑人はゆっくりと腰を落として、右腕を引き絞ってゆく。
 背筋が凍った。間に合わない、思い、しかし重々しい姿はそこで動きを止めた。
 止めただけだ。力は更に研ぎ澄まされてゆく。
 解き放つのはいずれが早いのか、<夜魔リリス>にとっては鼓動の一つ一つが賭けだった。
 灰色の芝生に色鮮やかな花が落ちた。
 落ちた。
 落ちた。
 落ちた。
 落ちた。
 背を痺れが駆け登った。
 楽園が、降りて来る。
 極限まで時が停滞する。その中で<夜魔リリス>の意識は謡った。

 “何も怖がらないで”

 “ここは常春、ここは楽園”

 “誰もあなたを傷つけない、飢えもあなたを冒さない”

 “ただ幸福に、ただ笑い合いましょう”

 “ここには既に知恵の実はないから”



「<落艶エデン>」



 <落艶エデン>は対象に直接作用する。軌道など存在しない。
 そして与えるものは負傷や苦痛ではなく、快楽だ。立つことすらかなわなくなり、無様に突っ伏す敵を<夜魔リリス>は悠々と下すのだ。
 発動した以上は防げない。今回も終わる。
 心理的には逆転に等しく、浮き立つ心で勝利を確信し。
 視界の中で処刑人の体勢が変わっていた。
 停滞した時の中で既に拳を打ち出し終わっていたのだ。
 同時に、行使したはずの力が砕かれていた。
 <落艶エデン>に軌道はない。<落艶エデン>には干渉しようがない。そのはずだというのに。
 <夜魔リリス>は処刑人の拳が<落艶エデン>へと触れたのが分かった。
 そして砕いたのはあくまでもただの拳撃だった。消去したのでも無効化したのでもなく、殴り壊したのだ。
 景色が揺らいだ。止まったと感じていた時が動き出す。
 膝が崩れ、へたり込んでいる自分に気付く。
 処刑人は再度の構えを取っている。腰を落とし、右腕を引き絞り、一歩と一撃で殺してのけるのだろう。
「……そういうこと」
 蒼白な頬を冷汗が伝う。今更ながらに気付いた。
「<落艶エデン>を待っていたのね、あなた」
 この灰色の世界で鮮やかな色彩を与えるあの花の存在が目に入っていなかったはずはない。
 にもかかわらず、なぜ無視していたのか。
「君の凌駕解放オーバードライブを確認することは今回の仕事の一つだ。収束し切れていない力が花として漏れていたが、念のためにあれも残しておいた」
 落ちる花は発動までの秒読み、消されたところで何の問題もない。そんなことまで察知していたというのだ。
 <夜魔リリス>は身も息も凍らせた。双眸ばかりが見開かれ、全身の感覚が失せた。
「……あなたには何が見えているの?」
 掠れた声しか出なかった。
 標的を一人も逃したことがない理由が今になって確信できる。悪名高き<竪琴ライラ>の処刑人が出張るような相手がただの<魔人>であるはずがない。自分のように発動したならばそれで勝負がついてしまうはずの力を持つ者や、あるいはあらゆる特異を消去するような者もいたのかもしれない。しかしおそらく処刑人にとってはその全てがただの殴り合いに等しいのだ。
『お前らこそが<魔人>なのか、それとも<魔人>を超えているのか!』
 <贋金メッキ>の叫びは<夜魔リリス>にも聞こえていた。
 あれこそが正鵠を射ているのだろう。立っている場所そのものが違う。見えている世界そのものが異なる。
 処刑人はどこまでも冷徹にこちらを見ている。気負いもなく、油断もなく、目的を果たそうとしている。
 奇跡の余地などない。
 勝てない。
 その四文字が自身に染み透ったとき、これで終わりと覚ったとき、<夜魔リリス>の胸に溢れ出す思いがあった。
「待って! 負けを認めるわ。<タイラント>について知ってるならこれも知っているでしょう? 支配の異能は自分を負かした相手には逆にはたらく、私があなたに逆らえなくなるの!」
 まくし立てる。語調も強まってゆく。
「何だってしてあげる、後で殺してくれていい、だから……」
 掻き口説く。
 ぽろぽろと、頬を転げ落ちるものがある。
「――――だから誰かもう一度、私を愛して」















 旧い家に二卵性の双子があった。
 妹に裏切られた姉は命だけは取り留めて病院にいた。
 首から上は酷いものだ。皮膚はあらかた失われ、美しかった髪もほぼ抜け落ち、両目は失明。口腔や気道も冒されて、呼吸は切開した気管から、栄養は静脈に繋がれたチューブから。嗅覚もなくなり、耳だけが健在だった。
 男性が近づくだけで怯え、触れられるだけで暴れた。
 眠れぬほどに痛い。なのに涙も流れない。何もかもが分からない。そんな状態が半年以上続いた。
 それでも、心も身体も快復はして来るものだ。面会も許され、見舞いが来るようにもなった。
 勿論、喋れない、表情も何もあったものではないから、ただ聞こえているだけだが。
 多かったのはやはり両親だ。いや、家族なのだからきっと以前から来ていたはずだが、記憶が曖昧でまったく覚えていなかった。
 聞こえるのは重苦しい溜息と、腫れ物を扱う声。
 当然だと姉は思った。どう接していいのか分からないのだろうと、善意に解釈した。
 面識のあった男性たちも来た。
 姉は吐き気をこらえた。忌まわしい記憶が自分の中を掻き回したが、強靭な意志で押さえ込んだ。見舞いに来てくれているのだから、粗相をしてはならない。こんな姿になっても気品だけは失うまいと。
 聴覚が発達してゆく。ほんのの小さな息遣いの差異や、ドアの向こうの声までも聞き取れるようになってゆく。
 男性たちが、勿体ないと口にするのも聞こえていた。
 姉はかつての自らの容姿の、異性にとっての価値を理解していた。だから彼らが嘆くのも仕方がない、二度とは来ないことも仕方がない。
 そして友人たちが来た。
 彼女らは泣いた。こんなのひどい、と。
 様々な話を聞いた。妹が行方不明となっているのもこのとき知った。
 元気になってね、待ってるから。そう言い残し、友人たちは病室を出た。
 ドアが閉まった。
 漏れるような笑い声が聞こえた。
 聞こえてしまうのだ。
『笑っちゃ悪いよ』
『いや、だっていい気味じゃん。ちょっと可愛いからってさ。あんたもムカつくっていつも言ってなかったけ?』
『そうだけどさ、あれは可哀想だわ。二度と見たくないレベル』
 友人のはずだった。
 何でも話せる関係のはずだった。
 自分のことを好きだと言っていた。
『なんか変な臭いするしさ、もう吐くかと思った』
『ああ、それでもう帰ろうとか言い出したんだ。もうちょっと見てたかったのに』
『趣味わるっ』
 声はまだ出ない。涙は二度と出ない。
 漏れる空気の音、行き場のない情動に壊される。呼吸ができない。顔を、身体を掻き毟る。
 姉はあまりに善良だったのだ。人は善きものであると、世界が優しい光に満ちていると信じ込んでしまうほどに。
 妹のことは恨んではいたが憎み切れなかった。自分が追い詰めてしまっていたのではないかという思いが消えなかった。
 男性は恐ろしく、あの少年たちを憎みもしたが、決してそれを普遍化してしまってはならないと理解していた。
 けれどすべてはもう崖のきわ、一押しで何もかもが終わる。
 罅割れる。崩れ落ちる。
 どこまでも優しい色をしていた心が、荒れ果ててなお必死に保ち続けていた精神が枯れてゆく。希望が尽きてもまだ毅然とあった光が掻き消えた。
 替わりに湧き出したのは底無しの憎悪だ。
 許さない。
 最初は顎が震えただけだった。
「……ぅるぁ……」
 かすかな声が響いた。
 自らの喉を掴み、挿入された管から抜ける空気を止める。
「……るさなぃ」
 血が溢れた。掻き毟った顔からも身体からも、喉からも口からも。
「許さない」
 好きだと言っていたはずなのに。
 かつての鈴を転がすような声はない。奈落から呼ぶ亡者の響きが迸る。
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!」
 憎悪は噴出孔を一点に定めた。
 男への恐怖と嫌悪を遥かに凌駕して、何よりも強く呪った。
 女という女はすべて死んでしまえ。
 そしてそれでもなお、姉の魂は朽ち果てていなかったのだ。
 だからこそ悲劇となった。





 二律背反。
 かつて<妖刀ムラマサ>が口にした通り、<夜魔リリス>は常に両立し得ぬ二つを抱えている。
 心には男への嫌悪と女への憎悪を抱えながら、もう朧になってしまった昔の情景へと魂が手を伸ばす。
 手にした本が落ちる。そこには愛がある。女の美貌が失われたならば、それを見ずに済むよう己の目を突き潰す男の話がある。
 嫌悪と憎悪の狭間で<夜魔リリス>は求めるのだ。自分にとっての彼さえいればそれでよかったのに、と。
 その願いはとうに叶っているはずだった。横山誠の献身は充分に値するものだった。
 しかし<夜魔リリス>は信じられない。自分に対して好意的な者の言葉は雑音のように通り抜けてしまう。口では何とでも言える。泣いて見せることさえ容易い。もう裏切りに傷つきたくない。
 だから敵がいい。害意を抱く者、殺そうとする者、その敵意、殺意なら信じられる。あるいはせめて無関心であれば。
 愛してと<夜魔リリス>は言ったが、応えたならば途端に偽りにしか思えなくなる。既に叶っていた望みが満たされることは決してない。ひたすらに苦しみ、他者を苦しめ、巻き込みながら破滅へと向かうだけなのだ。
 処刑人、名和雅年はそれを知らない。
 ただ誠実に行動した。
 <夜魔リリス>から伸びた繋がりを拳にて粉砕、変わらぬ口調で告げる。
「断る」
「あ……」
 <夜魔リリス>が漏らした声の意味はもはや誰にも分からない。
 死病に抗い続けた蒼白な頬に疲れきった瞳。笑ったような、泣き出しそうな吐息。
 震える足で立ち上がる。
 よろめき、踏み止まり、改めて優雅に一礼カーテシー
「お願いがあります」
 儚い微笑みを浮かべ、告げた。
「もう疲れたの。私を殺して頂けませんか」
 処刑人のまなざし、表情は変わらない。構えは微動だにしない。冷徹な殺意をもってこのときも在った。
「元よりそのつもりだ」
 <夜魔リリス>は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。そこには全ての色があった。何もかもが混じり合い、だから暗いのだ。
 もうずっと、何も分からない。
 何がしたかったのか、どこへ行きたかったのか。
 処刑人が動いた。
 死した<魔人>は塵も残らない。
 心も何も残らない。
 苦しみもまた、残ることはない。







[30666] 「<夜魔>抄・エピローグ」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/02/11 23:54


「死んだ! 死んだ! 今度こそ死んだ! あのクソ女、ザマァ見ろ!!」
 手を打ち、少女が笑い転げる。
 それを横目に暮れなずむ街を見下ろし、竜泉辰鬼りゅうせんたつきは鼻を鳴らした。
「少し黙れ、<栗鼠>ラタトスク。お前の声は耳に障る」
 ビルの屋上とて<魔人>の身体能力をもってすれば侵入は容易い。幸い他に人の姿はないものの、何らかの理由で聞きつけられないとも限らない。少女の高く響く大声は害だった。
 考えをまとめたいということもある。そのためにこんな場所へ足を運んだというのに、勝手に追って来た<栗鼠>ラタトスクに悩まされていては世話はない。
「いや、だってさ、ようやく死んでくれたんだもん。誰かと分かち合いたいじゃん」
「下らん」
 溜息一つ、辰鬼は改めて思考を巡らせる。
 <帝国>エンパイア<呑み込むもの>リヴァイアサンにより壊滅した。
 この事実は夜明けからほんの数時間で日本中の<魔人>の知るところとなり、<竪琴ライラ>と<横笛フルート>の間で日和見を決め込んでいた面々の心胆を寒からしめた。
 正確には、彼らは潜在的な反<竪琴ライラ>だ。少なくとも<竪琴ライラ>に干渉されたくないからこそ中立という立ち位置を選んでいたのである。敵対しない限り<竪琴ライラ>が手を出すことはない。
 しかし今回、<呑み込むもの>リヴァイアサンはもし敵対すればどうなるかを示した。<帝国>エンパイアの六十名という数、ただの<魔人>などほぼ存在しない高い質、ともに中小規模の<魔人>集団には望むべくもない。だというのにそれを単独で一夜にして、一人の生き残りもなく殲滅してしまった。
 こうなると日和見していることすら不安になってくる。現に<横笛フルート>寄りであったはずの者たちが次々と<竪琴ライラ>に恭順しているとの報告も上がっている。
「どうにも不利だな。<赤色狼クリムゾン>の奴がうまく利用されなければもう少しましだったはずだが……」
 声に出したのは、無視して無駄に機嫌を損ねるとまとわりつかれて面倒だからだ。
「ああ、ものの見事にやられたんだっけ」
 少女がけらけらと笑う。
 狙い済ましたような<横笛フルート>の襲撃によって<呑み込むもの>リヴァイアサンを止めることができなかった。<竪琴ライラ>神官派はそう発表している。こちらから見ればその欺瞞のために<赤色狼クリムゾン>が暴発させられたのだが、<神官>ステイシアの名声と<呑み込むもの>リヴァイアサンの悪名の大きさがその詭弁を真実のように流布してしまっている。
 そして戦果自体も悲惨なものだった。<赤色狼クリムゾン>以下八十名のうち、帰って来たのは三割に満たない。そして与えることのできた被害は皆無に近い。
 広域に対する同時進攻は、一定水準以上の力を有する<魔人>の少ない神官派に対して有効であるはずだった。計算を狂わせたのは<猟兵>イェーガーの存在だ。
 生き残りの話からすれば、<赤色狼クリムゾン>を始め、少なくとも半数が<猟兵>イェーガーにやられた、らしい。
 出鱈目な話である。強さよりも何よりも、それでは移動が速すぎる。日本海側で戦った五分後には太平洋側にいなければ成り立たない報告もあるのだ。事実ではないと判断するのが妥当かもしれない。
 その不可解を肯定し、辰鬼は自覚なく抑えきれぬ笑みを漏らしていた。
「だが、面白い」
 心が浮き立つ。<横笛フルート>にとっては敗北に等しい展開であるはずだが、その瞳は狭苦しい現在を見てはいなかった。
 これで<横笛フルート>は現在の数を減らし未来の共闘者を表面上失った。しかし対する<竪琴ライラ>は潜在的な反乱分子を内側に迎え入れざるを得なくなってしまったということでもある。人間は自分を脅かしかねない存在を廃除せずにはいられぬ生き物だ。不安を抱えた者はいつまで<竪琴ライラ>の処刑人の存在を許しておけるだろうか。
 そしてその恐怖は<横笛フルート>の統率にも使える。あのような恐ろしいものを野放しにしてよいのかと問えば、誰もが否と答えるだろう。
「しかし<猟兵>イェーガー、聞いていた話ではそこまでの強さではなかったはずだが。姿を消している間に何かあったか」
 そちらも気にはなる。<赤色狼クリムゾン>は元々魔女派領域で暴れ回っていた剛の者である。名高き殺戮人形、<お人形マリオネット>御堂沙羅の追跡からも逃れ続けた、紛うことなき実力者だ。退路を確保していなかったはずはなく、失敗することはあっても討たれるとは信じがたい。
 沈み行く夕陽が辰鬼の影を長く伸ばす。
 <栗鼠>ラタトスクは狂的な笑みを収め、その後ろ姿を毒のあるまなざしで見やった。
「さて、どうかなー。あいつ戦闘馬鹿だったし、なんか計略持ち出されたらあっさりやられそう」
 口調にも毒が多分に含まれている。もう、そのようにしか心が存在し得ないのだ。悪意こそが少女の本懐である。
 後ろ姿は冷たく鼻を鳴らした。
「……ああ、分からんのか」
 それはかつて<妖刀ムラマサ>が<夜魔リリス>へと向けた響きにも似て、無論のこと後ろ姿も少女も知るはずもない。
 ただ鋭敏に不快を覚え、<栗鼠>ラタトスクは可愛らしく頬を膨らませた。
「なんか馬鹿にされてる?」
「何もかも分かる奴なぞいない。それよりも折角お前がいるんだ、これからの予定についてだが」
「ん、ああ、まあ……<無価値ベリアル>から聞いてはいるけど」
 状況は悪い。
 <竪琴ライラ>財団派領域は大きく戦力を落としたが、騎士派からは白兵方筆頭マスタークラブ率いる八チーム四十名、剣豪派からは序列三位<大典太光世>、序列七位<数珠丸恒次>が送り込まれた。数こそ以前の財団派に及ぶべくもないが、統率された騎士派の働きと序列三・七位の強さは不足を充分に補うものだ。もう決して容易くはない。
 一方<横笛フルート>は単に数を減らしただけのみならず、最小派閥とはいえ<赤色狼クリムゾン>とその一党をほぼ失ったことによる動揺も広がっている。もしも今、<竪琴ライラ>から本格的な攻撃を仕掛けられるようなことがあれば一気に崩れてしまうだろう。居場所は掴まれていない以上、ありえぬ仮定ではあるが。
 <横笛フルート>は一つにならなければならない。五派を抑えて頂点に立つ一人が必要である。それは<奏者プレイヤー>鏡俊介では勤まらない。<横笛フルート>はもはや、彼が理想とした組織ではない。
 危機感を煽られた今だからこそ、統一は成る。相応しい力さえ示せばいい。
 その力こそがこの竜泉辰鬼、<無価値ベリアル>が見出していた、未来の覇者。
 これまではどの派閥にも属さぬままいた。真の力を隠し、引き込もうとする者を退け、取り入ろうとする者を撥ねつけ、孤高であったのだ。
 年の頃は二十歳前。中肉中背、ややぼんやりとした印象を与えすらするが、<魔人>の力量は見た目に依存しない。
 <栗鼠>ラタトスクはその覇道を補佐するように言われた。どうして自分が、と思いはしたが、話を聞いて面白そうだと気を変えた。
 竜泉辰鬼は力を担える。だが強者であるがゆえに弱者の悪を行えない。思いつくことすら難しい。
 覇王の影キングメイカー。想像するだに楽しそうで。
「協力はするよ。あたしのことはどこの派閥も自分寄りだと思ってやがるから、お膳立ては簡単」
 にやりと、堪え切れぬ笑みが漏れる。
 <栗鼠>ラタトスクは辰鬼のこともただで済ます気はない。何もかもを嘲笑ってやりたい。絶頂から突き落としてやりたい。そのためにこそ協力しようと思える。
 辰鬼は振り向かない。背後など気にする必要もないと信じ込んでいるかのように。
 不意に、伸びた影が変化した。広がったのだ、人ならぬ形へと。
 夕陽に向き合う背中に変化はない、それなのに。
 <栗鼠>ラタトスクの邪な笑みが大きくなる。
 統一は達成されるだろう。<無価値ベリアル>が企み、自分が協力し、そしてこの化物が力を振るうのなら。
 <横笛フルート>は新たな階梯に辿り着く。
 そしていつか、化物は<栗鼠ヒト>の邪智の前に屈するのだ。



 風が吹いた。
 目許にかかる髪を、鬱陶しげに首を振って払い、辰鬼は大きく息を吐いた。
 どこにも敵しかいないが、それも面白いとただ高揚した。































 陽は落ち、空は茜から一度青に染め落とされ、夜へと沈む。
 十階建てのマンション、蔦の絡みつくアーチが通路を形作るその出口で少女は待つ。
 目を煌かせて、胸をときめかせて。
「まだかなー」
 熱い吐息で、はにかんで。
「遅いなー」







[30666] 幕間「月下幽天・斬神」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/01/03 13:43



「キミのわざは既に<魔人>としての限界に達しているわ」
 そう告げたのは美しい、本当に美しい少女だ。
 人ではもはや及ぶべくもない。それでも当てはめるならば、年の頃は十六、七、艶やかな長い褐色の髪をして、太陽のような笑顔を浮かべている。
 此処は<闘争牙城>、<魔人>たちが欲望のために『決闘』を行う閉鎖世界。
 そして少女こそはその主、<天睨>のイシュ。七柱を除くうちでは最上位の魔神にして、一説には進化の女神であるともいう。
「超える方法は一つしかない。でもそれは今ここでは根本的に成り立たない。これ以上はどれほど磨いたところで至ることはない」
 彼女は謡うように告げ、笑顔のままに問う。
「どうするのかしら、<妖刀ムラマサ>」
「し、ぃれた、こと」
 <妖刀ムラマサ>は迷わない。
「斬る。おれは斬るのみよ」
 余地などない。そんなものは生れ落ちたときには既に失くしていた。
 無理も道理も踏み越えて、望むものはただ一つ。
「おれは一筋の斬撃となるのだ」
「そう」
 イシュは底抜けに明るい笑顔を、曙光のような微笑みへと揺らめかせた。
「だからボクは大好きよ」











 風が生温い。
 沈んで久しい太陽のぬくもりが、まだそこに残っているのだろうか。
 いずれにせよ<妖刀ムラマサ>は個である。その願いに誰の理解も必要とはしない。
 端山武神流とは最強との妄想に取り付かれた男が名乗った、幼子の理で編まれた流派である。
 上段から力一杯斬る、相手は死ぬ。すべてがその調子なのだ。
 そしてその最秘奥こそは剣気金剛法・斬泰山。泰山を斬ると名付けられたこれは、型すら存在しない。ただ己の最高を行うという、それだけのものだ。
 初代のものも、父親のものも、<妖刀ムラマサ>のものも、おそらくは妹のものも全てが異なっているだろう。
 しかし皮肉にも、これだけは真の武と言えた。
 武にたった一つの解など存在しない。力も技も、環境も心も何もかも、すべてを包括して、せめて己にとっての最強を顕すことが出来るだけなのだ。
 そして<妖刀ムラマサ>にとっての最秘奥は斬撃に至るまでの道標に過ぎない。願い、求めるものはその先にある。
 ゆらゆらと夜を行く。
 中天には金色こんじきの月が満ち、無人の浜を煌かせていた。
 寄せては返す白波の、声も耳打つ子守唄。さくりさくりと砂を踏み、歩を進めれば出会う男、一人。
「暑いが、いい夜じゃのう」
 二十歳も随分と越えているか。癖のある髪を適当に縛り、シャツの上に着物を纏い、袴はベルトで留めて裾をブーツに突っ込んでいる。
 和洋折衷と言うもおこがましい。いい加減で無茶苦茶な、だが不思議な調和のある出で立ちではあった。
 それには暢気な表情も一役買っているだろう。鷹揚でちゃらんぽらんで、男女を問わず妙に引き付けられる。
 いずれにせよ<妖刀ムラマサ>に興味はないが。
「けんご、は……じょれつ、い、いちぃい」
 枯れ木の如き姿がひ、ひ、ひ、と笑う。
 男もからからと笑った。
「いかにも、わしが水守師直みなかみもろなおよ」
「斬る」
 <妖刀ムラマサ>はその手に一振りの、細い細い月にも似た刀を呼び出す。愛刀『ツクヨミノザンキョウ』だ。
 此処へは、この男に会いに来た。
 <夜魔リリス>が敗れたことは、興味はなくとも耳に届いている。それを成し遂げたのが<竪琴ライラ>の処刑人であることも。
 あれに敵う<魔人>などほとんどあるまい。それほどの力を有している。
 しかしそれでも、処刑人は日本屈指にして神官派最強としか評されない。
 その理由こそが、この目の前の男なのである。
 剣豪派序列一位、水守師直。誰もその強さの果てを知らない。それがため、理解できぬ者には逆に侮られる。侮られながらなお、随一であると見る者が多いのだ。
 <妖刀ムラマサ>は踏み込む。言葉は要らない。斬ると宣言したことすら気まぐれじみた雑念に過ぎない。
 何もかもを断ち割る斬撃は音もなく、目にも映らず、しかし虚空だけを分かつ。
 男はふらりと身を引き、刃の触れぬ場所にいた。
 見切られた。
 <妖刀ムラマサ>は歓喜する。この斬撃は誰よりも速く、鋭く、防いだ者はあっても、かわし切った者などなかったというのに。それをこうも無造作に、鮮やかに。
 見切られること、そのものは問題ではない。見切り、見切られることすら前提であるのが<妖刀ムラマサ>の棲む領域である。
 見える、聞こえる、臭う、肌に触れる。光も音も大気も何もかもを一つの世界として捉え、既に内にある。ゆえに判るのだ、ほんの些細なものまで、何もかもが。もはや高次の新たな知覚、五感を断たれたとて何ら問題とならない。あとは斬れるところから斬ればよい。自在である。
 だというのに、なぜ避けられたかが分からないのだ。感覚が届かない。
 己の剣が<魔人>の極みにあるというならば、すなわちこの男は<魔人>を超えている。
 それでこそ、甲斐がある。
 <妖刀ムラマサ>は何も恐れない。斬ることだけを願う。
「せっかちじゃのう」
 じゃれかかられた、程度の口調でぼやき、師直の手にも刀が現れる。くすんだ得物だ。
 そして再び仕掛けたのは<妖刀ムラマサ>だった。
 捉えた世界が揺らめく。その中で、敵手だけが捉えられない。そこにいる、見えている、聞こえている、それでも刃は空を切る。
 異能。否、ただ避けただけだ。ひょいと。逃さぬ組み立てであればそれを知っているかのように根元を崩し、返す刃がこちらを浅く穿つ。
 痛みなどない。<妖刀ムラマサ>にとって、すべては斬撃と成るための糧に過ぎない。
 世界が色を失う。
 既に己自身すら認識しない。斬撃が自己を知る必要はない。
 純化する。純化される。
 端山武神流。妄想であった最強、ありえるはずのない一撃必殺。
 斬撃になりたいと初めて願ったのはいつだったろうか。まるで覚えていない。
 家族はいたはずだ。欠片も覚えていない。
 何も覚えていない。かつての名も、喜びも苦しみも何もかも。
 これまで糧として来た者も忘れ、今ここに対峙している相手が誰なのかも判らない。
 手にした剣も判らない。
 勝敗など知らぬ。
 斬撃だけがあった。
 ただ一つにすべてを捧げ尽くした。
 声はない。
 しかし、いかな名となるかは決まっていた。



 “<斬神フツヌシ>”



 『フツ』とはものを断つ音。
 <妖刀ムラマサ>はここに、<斬神フツヌシ>と成った。





















 月下、皓々たる光に星々は幽か瞬く。
「妙なことをするのう。わしが斬る。ぬしが斬られる。ぬしが斬る。わしが斬られる。ただそれだけじゃ」
 こともなげに呟き、斬を斬にて切り落とさんとする。
 <妖刀ムラマサ>なる<魔人>はもう存在していない。その枯れ木めいた、死体めいた肉体も、手にしていた刃さえない。
 在るのは斬撃である。標的を断ち割る力である。極限まで純化されたこれは、理の底から万象を斬り捨てる。
 命でもって受けることはできるだろう、存在の根源まで二つに割られてなお尽きなければ。
 あるいは、もう一つだけ手立てはある。
 まさにそれを為す。逃れようもないこれを、師直は斬った。こちらもまた万象を断ち切ってのけたのだ。
 斬と斬、まさったのは存在の全てを斬撃とした<斬神フツヌシ>。
 刀が折れる。鮮血が溢れる。しかしそこまで。地を踏み締める足は揺るがない。
 双眸は変わらず飄然と、屈託なくからからと笑った。
「わしもくらうんあーむずが欲しいのう。かっこええ」
 肉こそ穿てど、命には届かない。袈裟に走った傷は既に消えている。
「なかなかに佳き仕合であった。人間じゃったら死んでおったわ」
 手には再び刀、即席で創った粗悪な代物。月明かりにもくすんで、美しさなど欠片もない。
 <竪琴ライラ>剣豪派の中でも特に強力な<魔人>は名刀の名で呼ばれる風習がある。天下五剣を始めとした彼らは序列を入れ替えながらもその名を轟かせている。
 しかし序列一位だけは外れている。誰も相応しい銘を思いつかなかったのだ。
 それでもいつしか、あだ名はできた。
 <数打かずうち>の水守師直。粗悪な刀でもっていかなる銘刀をも下す、<竪琴ライラ>最強の名である。
「とはいえ……少々物足りんのう」
 <数打かずうち>は居つかない。ふらふらとあちこちを彷徨い、気侭に過ごす。言うことなど碌に聞きもしない。その剣と同様にあまりにも自由すぎる。
 許さざるを得ないのは、敵に回らないというだけでも充分な価値があるからだ。
 水守師直の業は、人であったときから人も<魔人>も超えている。天賦の才すら足元にも寄せ付けぬ男が<魔人>の肉体を得たことの意味を理解できぬ<竪琴ライラ>ではない。
「やはりぬしじゃ、ぬしだけじゃ」
 天を仰ぐ。
 懐かしさを滲ませながら、にやりと笑った。
「いつか、本気のぬしとりたいのう、名和雅年わがともよ」







[30666] <夜魔>抄・エピローグ2、あるいは次へのプロローグ
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/02/11 23:52



 <横笛フルート>の襲撃より三日、神官派本拠である<伝承神殿>の熱気は未だ覚めない。
 奇襲に対し誰一人として犠牲を出さずに退けた、奇跡のような出来事は皆の心を躍らせたままだ。
 立役者と言える<猟兵>イェーガーを新たな英雄として賞賛する声は止まず、一丸となって成し遂げた連帯感と達成感に熱狂していた。
 だがその声も熱も、ステイシアの私室には届かない。
 果てのない暗闇に落ちてゆきそうな空間は冷たく、死にも似た静寂を保っていた。
 ソファにはステイシア、巨木のように立って向かい合うのは相変わらず気力に欠けたまなざしの名和雅年である。
 普段であれば少女の口元には微笑が浮かび、やわらかな言葉、あるいは悪戯な言葉を紡いでいたことだろう。
 しかし今、ステイシアは氷像のように凍てついて、ようやくの声も色のない無機質なものだった。
「勝ち過ぎました」








「……勝ち過ぎた?」
 <無価値ベリアル>の言葉に目を丸くし、<栗鼠>ラタトスクは鸚鵡返しに呟いていた。
 元々、一旦日本を出るとの<無価値ベリアル>の宣言に意表を突かれていたせいもある。
 駅ビル一階のパン屋の前、行き交う人の数は多いが話し声や靴音による雑音はなお多い。あるいはそのような、名にし負う異能でも持っているのだろうか、そう思ってしまうほどに、二人の声も無価値なものとして紛れる。
 会ったのは偶然ではあるまい。こちらの居場所を把握されていたに違いない。
 話などしたくもなかったものの、腹立たしいことに<無価値ベリアル>の言うことは役に立つ。その利点を嫌悪感で潰すわけにはいかなかった。
「ええ、そうです。先だっての戦いにおいて神官派は勝ち過ぎました。いかに底力を持っているにせよ、不意打ちを受けたはずなのに犠牲者ゼロは怪しい。まるでピンチを自作自演したかのようです」
「実際、間違いなくそうじゃん。なんでかみんな認めないけどさ」
 本当に、そのことについて<栗鼠>ラタトスクは理不尽しか感じない。<竪琴ライラ>だけならば分かるが、こちら側の<魔人>すら精々半信半疑の疑い寄りなのだ。
「何故かと問われれば、凄いには違いないですがそんなものですよ。明確な犯罪者なのに顔さえよければ擁護する人がいる、というのがヒトのさがでしてね。擁護すべき者ステイシア非難すべき者リヴァイアサンを分かりやすく対比させられると飛びついてしまう。人間はあなたが思っているより遥かに馬鹿ですし、そんなことはあり得ないと思っているようなら、あなたも自覚なく似たようなことをしているかもしれませんね」
 そう告げる<無価値ベリアル>の、人を蕩かす爽やかな笑顔が最高の皮肉である。
「とはいえ、先ほども言った通り今回は勝ち過ぎました。そのことによって、今までのような曖昧な憶測に留まる領域を越えて、ある程度はっきりした論拠を作ってしまった。センセーショナルな事件の興奮が消え、頭が冷えれば気付いてしまう人も増えてゆくでしょう。こういうのはじわじわと効いて来る毒のようなものなのです」
 目の前、今だけを見てはいけませんよ。そう挟んで更に語る。
「おそらく次はありません。処刑人がまた凄惨な殺しを行えば、誤魔化せる限度を超えてしまう。今回のことと合わせれば、『まったく止められない』のだという認識に至り、止められないならそもそも今回の理由付けがおかしい。となればもう違和感を認めざるを得なくなる。止められないのではなく、そうさせているのだとね。<竪琴ライラ>以外の目は覚め、<竪琴ライラ>にも亀裂が入る。そうしたら楽しいことになりますよ」
「むしろここまでしなきゃいけないのがびっくりだわ」
 <栗鼠>ラタトスクは鼻を鳴らした。
 不愉快だ。要は敵にさえそれだけの信用があるということである。全ての者に悪意を持つ<栗鼠>ラタトスクであるが、自分よりも価値のある女にこそ最大の敵意を抱く。
 そのことを当然知っていながら気付かぬように、<無価値ベリアル>は人好きのする笑顔で朗らかに、ぽんぽんと手を軽く打ち合わせた。
「神官派が採るであろう手段は何種類か考えられます。まずは<呑み込むものリヴァイアサン>自体を出さない。そして、出すが今までのようなことはさせない。これについては、どちらにせよこちらにとって非常にありがたい展開です」
「そうね」
 それはつまり、人質などの卑劣な手が使えるようになるということだ。
 そういった手段は通用してこそ意味がある。まったく躊躇せずにこちらを殺しに来られては、労力を費やして自分の荷物を増やしているだけになってしまう。
 こちらの行動を読める神官派にはそれでも通じにくいところはあるだろうが、人の悪意こそ最強であると信じる<栗鼠>ラタトスクはそれを困難とは捉えない。
「それは確かに楽しそう。あいつら心は脆そうだしね」
「ええ、僕にとってもひとつ、いいことが分かりましたしね」
「あっそ」
 <無価値ベリアル>は実に愉しそうに笑う。<栗鼠>ラタトスクはそれが気に入らない。こんな愉しみは自分だけのものであるべきだ。いや、共有したいときもあるが、少なくともこの男では大切な宝物を奪われているようにしか思えなくなってしまうのである。
「<神官>ステイシア。聖女とされる彼女の本性は一体何であるのか、今までは判らなかった。さすがに直接顔を合わせるわけにいきませんからね、又聞きばかりでは外面しか見えてこない。しかしこれで推測程度はできた」
 <無価値ベリアル>の声も表情も、どこまでも優しい。容易く壊れてしまうものを、慈しむように。
「彼女は本当に優しいのでしょう。大して役にも立たないのだから二、三十人ほど死なせておけばいいものを、全員守りたいがためにズルチートを駆使して生き残らせてしまった。必死だったのでしょうねえ。分かっていながらそうしてしまったのか、気付かなかったのか、いずれにせよとうとう判断を誤った。素晴らしい。彼女は今、悔いることすらかなわない。なぜならば失われるはずだった命を救ったのだから、悔いることは救った命に対する冒涜となる」
 是非その顔をこの目で見たかったものです、<無価値ベリアル>は心底残念そうに呟き、途切れることなく続ける。
「そして、本当に優しいからこそこれほど苦労させられているのです。同僚を見ていてしみじみ思いましたね、人を最後の最後に動かすのは真心です。人間はあなたが思うよりも馬鹿ですが、あなたが侮るよりも賢い。優しさが演技ではないと無意識に覚ってしまうから、疑う心を否定するのでしょうね。僕がどれほど技術を駆使してみたところで、行き着く果てで本物には及ばない」
 そう締めくくり、手にしたスーツケースを引いた。
 もう行くということなのだろう。二度と戻って来るなと念じつつ、<栗鼠>ラタトスクは嘲るような笑みを浮かべた。
「最後に言い残しとくこととか伝えとくことはある?」
 遺言を求めるように問うてみたのだが、<無価値ベリアル>には通じない。
「そうですねえ……魔女派の殺戮人形ですけど、うまくすればあと少しで始末できるようになりますよ。手は打っておきました」
「ふぅん」
 魔女派最強もこの男にかかればどうにかできてしまう相手であるらしい。気のない返事になったのは、禁じ得ぬ戦慄を隠そうとしたせいだ。
 <無価値ベリアル>は口先だけで人を動かし、そう旨くいっているようには見えないにもかかわらず、気がつけば<竪琴ライラ>を少しずつ追い込んでいる。
 たとえば自分ならばどうするだろうか。遮るものすべてを薙ぎ払うあの殺戮人形を、どうすれば屠れるだろう。
 答えの出る前に<無価値ベリアル>は困ったような笑顔で片手を振った。
「いや、あくまでもうまくいけばですからね? あんまり期待されても困りますよ? そしてあと一つ」
「何?」
「神官派が採るであろう手段ですけどね、実際には多分……」







「雅年さん、あなたには<竪琴ライラ>を離脱していただきます。そして<竪琴ライラ>はあなたを敵であると宣言します」
 感情の含まれぬ硬質な表情と声で、ステイシアはそう告げた。
 対する雅年も気力に乏しいまなざしとともに応えた。
「それで、僕は形式上独自に殺して回るのか」
 創り上げるシナリオはこうだ。<竪琴ライラ>の温いやり方を見限った<呑み込むものリヴァイアサン>はこれを離反、<竪琴ライラ>もまた凄惨に過ぎる<呑み込むものリヴァイアサン>をこれ以上御しきれぬと判断、排除を宣言する。以降、名和雅年は個人の独善で害悪を葬り続ける。
 それは疑惑が確信されてしまう前にすべての悪を押しつける蜥蜴の尻尾切りであり、同時に攻勢に転じる手でもある。
 これ以上は手元に置いたところで飼い殺しにしかできない。しかし手放してしまえば、神官派は虐殺を認めないという態度を示せるとともに、<横笛フルート>にとっては脅威が存続する。それどころか束縛がなくなった分、より大きなものとなる。
 無論のこと、神官派が失う益は絶大なものとなるが、それはこのままでも変わらない。
 ただし、一つだけ問題がある。
「敵と認定する以上、<竪琴ライラ>はあなたに攻撃を仕掛けなければなりません」
 ステイシアは未だ氷像のようだった。
「生半な戦力では<呑み込むものリヴァイアサン>を仕留めることなど出来ない、それは誰もが分かっていることです。<横笛フルート>よりも優先順位は低い、それも通るでしょう。けれど茶番であると思われてはならない。そして……」
「返り討ちにして<竪琴ライラ>の戦力を減らすわけにもいかないのか」
「はい。そこに付け込まれては意味がありませんから。もちろん、あなたの抑止力としての価値を落としてもなりません」
 勝ってはいけない、負けるのは論外。逃げるのもまた同様だ。つまりはまともに戦闘に持ち込まれてはいけないということである。<竪琴ライラ>の目をかいくぐって標的を屠り、悠々と去らなければならない。神官派との繋がりを疑われかねないため<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームも使えない。
「何とかすると言いたいところだが、さすがに実現は難しいだろう。やれと言うならやるが」
 気力にこそ乏しいが、雅年の双眸には冷徹な理が宿っていた。それをステイシアは知っている。不可能と言わなかった以上、結局は成し遂げるのだろう。
 出会ったときからそうだった。頼もしくあり、それ以上に不安を誘う。
 向き合う二対の視線はほんの2メートルの距離に過ぎない。立ち上がり、足を進めて手を伸ばせば触れられるだろう。なのに、どうしてか届かないと思えてしまう。幻であるかのように感じてしまう。
 ステイシアは、それでも氷像の如くに。
「指示のための連絡役は向かわせます。<隠密>殿がいいでしょう。本業ですし、手透きのようですし、何よりあなたを敵視してはいない。私の顔を立てて何も言いませんが、元々エリシエルさんはあなたのことを危険と見ているようですし、オーチェさんも有効に使えるうちは黙認しているだけで、ことによると本気で排除にかかる可能性もあります。今はそれどころではないのが僥倖ですけれど」
「発表はいつになる?」
「すぐにでも。早ければ早いほどいいでしょう。あなたも早急に遠くへ移動してください。領域内にいられると、討伐チームを組まなくてはいけなくなってしまいます」
 <横笛フルート>の襲撃を完全に凌いだ今こそ、神官派にとっては戦力が充実し、動くべきときだ。今、標的に対して勝てるだけの戦力を当てられないのであれば、この先もないということになってしまう。だから神官派領域から退去しなければならないのだ。
「それから」
 ステイシアは平坦に、まだも告げる。
「そうなれば当然ですが、春菜さんに会うことは罷りなりません」
 この一言のためにすべてを抑えていた。
 この一言を恐れ、だからこそ吐き出してしまいたい。
 しかし。
「分かった」
 それだけだった。頷いて、あっさりと背を向けた。
 ステイシアのくちびるが震えた。被っていた氷の仮面に罅が入った。
「待ってください!」
 ロングコートの姿は振り向かない。足を止めただけで次の言葉を待つ。
 その背に悲痛なまでの声が降り注いだ。
「構わないのですか!? あなたは彼女のために信念を曲げてまで<魔人>となり、手を汚したはずです! なのに……なのに! どうして日曜を潰すんだって、いつも文句を言ってたじゃないですか……」
「構わない。問題ないというから会っていただけだ。会わない方がいいのならそれでいい」
 今度こそ半身を振り返らせ、しかしそこにあるのはいつも通りの名和雅年だった。気力に欠けて、そのくせ質量すら思わせる意思を潜ませて。
「僕は約束通り仕事を果たすだけだ。ステイシア、連絡は出来る限り早く寄越せ」
 その瞳は、こちらを向いてはいても、見てはいない。望みに呑まれることなく、遮るものすべてを排除しながら願いへと突き進んでゆく。自ら言う通りの外道なのだ。
 本当に、初めて会ったときから変わらない。
 変わって欲しかった。『本物』ではないのだ、いくらでも変わってゆけるはずだったのに。
 変わらぬことを決意していたわけではなく、あまりにも意思の質量が大きすぎるのだ。ステイシアの細い両腕はまるで無力だった。
 狂おしく、それでも手を伸ばしかけた。腰は浮いてしまった。だが、結局は為せない。
 神官派の統括にして<竪琴ライラ>の筆頭、この立場がステイシアにそれ以上の言葉を、行動を許さなかった。
 再び歩き出したその背へと、搾り出せたのは一つだけ。
「どうか……ご無事で……」
 伏せた瞳、長い睫が震える。
 ロングコートの姿が消え、息を詰まらせ、血を吐く響きであと一度だけ。
「……どうか」





[30666] 二人
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/02/11 23:54



 ゆったりとコーヒーを啜る。
 鼻をくすぐる豊かな香りを楽しみながら時を過ごす。
 いつもの日曜、いつもの昼下がり、いつもの喫茶店。しかし今日の客は自分一人しかいない。
 磨り硝子の向こう、強い陽に眩いビルの壁と、果ての空を見やる。
「梓ちゃんまでいないのは珍しいな……」
 ぽつり、呟く。
 最近は梓と二人のことが多かった。夏だというのにロングコートを纏った姿を最後に見たのは一月前になる。
 やはり寂しい。補われていた心がまた欠けてゆくような気がした。
 何か用事があるのだろうか。いつも何をしているのかは知らないが、仕事が忙しいのかもしれない。
 そう思って、気づいた。
「……そうか、びっくりするほど名和さんのこと知らない」
 どこに住んでいるのか、普段は何をしているのか、どんな人生を送ってきたのか、好きな食べ物も、何も知らない。顔と名前と、少なくともコーヒーは嫌いではないだろうことと、それだけが知っている全てだ。
 近くにいると安心するのだ。それが当たり前にしか思えなくなって、疑問を抱かなくなってしまう。
「雰囲気が……似てるんだよね、すごく」
 ずっと守っていてくれた存在、三つ上の兄。友人とともに行方知れずとなって、もう一年半だ。
 空から目を背ける。急に耐えられなくなった。
 そして、背けたその先に一人の少女の姿を見つけた。
 入り口のベルの音を聞いた覚えもないのに、手を伸ばしても届かぬ程度の場所にいた。
 息を呑み、時を忘れる。
 年の頃は十代の後半に入った程度、華奢な肢体を白いワンピースに包み、短い栗色の髪が恥らうように頬に触れている。すべらかな白い肌、どの人種ともつかぬ美貌は硬質に整いつ、少女のやわらかさ、愛らしさも息づいている。
 並べる人間などあるまい。敵うとするならば魔神くらいのものだろう。
 見惚れているうちにその可憐なくちびるが開かれた。
「水上春菜さんですね」
 声もまた涼やかに、どこか甘く。
「雅年さん……名和雅年は、少なくともしばらくはこの地域を離れます」
「……えっと」
 予想だにしない名を聞いて戸惑う。
「あなたは名和さんの関係者……ですか?」
「そうですね、私は……」
 韜晦の沈黙、そして憂えげなまなざしとともにわずかに笑った。
「ビジネスパートナー、のようなものでしょうか。今は……ええ、今はまだ」
 潜んだ響きは自虐か、悔しさか。
 いずれにせよ、気付きはしても春菜の意識を染めたのは、このような少女と共に行う仕事というのは一体何なのだろうかということだった。
 しかし疑問を発する暇は与えられなかった。
「お伝えすることはこれだけです。これ以上の詮索はご遠慮願います」
 やわらかなのに反論を許さぬ声。
 自分などより落ち着いた、ある種の洗練された空気を纏い、だというのに何故だろうか。ほんの僅かにだけ、羨むような。
 まなざしは今、強く優しい。苦痛に喘ぐ患者を労わるように。だというのに何故だろうか。あるいは敵を見るかのような。
「お名前くらいは伺っても?」
 せめてと尋ねてみれば、返って来たのは驚きの表情だった。目を丸くした様は歳なりにあどけなく映る。
 それから困ったように笑って、少女は答えた。
「失礼いたしました。まさか名乗ることすら忘れるなんて」



「私はステイシア。ステイシア=エフェメラ=ミンストレルと申します」







[30666] 「笛の音響くこの空に・一」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/05/07 00:40


 刃の下に生を拾う。
 己の両断せんとする一撃を、烈火れっかは斜めに身を捨てて回避した。
 鼻の奥がひりつく。が、ぎりぎりの行動というわけではない。目の前の敵とは互角にやり合えている。
 彼方より、視界を蒼い閃光が過ぎった。右手を貫かれる。
「ぐっ……」
 苦悶の声を喉の奥に押し込め、開いた穴を塞いで復元。お返しとばかりに礫を生成して撃ち放つが、それは先ほどかわした剣の持ち主によって横から叩き落された。
 危険を察知して跳び退けば、足元が弾けるとともに中空から今の状況が一望できた。
 敵は四人、こちらも四人。自分の相手をしているのは剣を構えた少年で、手を貫いた光を放ったのは仲間と砲撃戦を繰り広げていたはずの一人だ。
 こんなはずではなかった。そもそもこの廃屋群に誘い込んだのは自分たちだ。まず自分独りで<竪琴ライラ>の二人組を釣り、仲間が後続のいないことを確認したならここへ連れて来て袋叩きにするはずだった。
 ところが仲間自体が尾けられていたのだろう、仕掛けたその瞬間に四対四となっていた。
 敵は騎士派。この財団派領域に援軍として派遣されてきたチームの一つだ。
 個々の力の程としては互角というところだろう。充分に戦える。あくまでも、個人でならば。
「クソがっ!」
 左手からの急襲をなんとか弾き、悪態をつく。
 この戦いは一対一が四つではない。四対四だ。そしてそれがために翻弄されていた。
 騎士派は連携を重視すると聞く。ふとした拍子に飛んでくる光弾、頻繁に入れ替わる相手、まるで倍の数を相手取っているかのように錯覚された。
 苛立ちが治まらない。
 そもそも<竪琴ライラ>と戦うことになっていること自体、こんなはずではなかったことなのだ。
 烈火は元々<竪琴ライラ>剣豪派に所属していた。志があったわけではなく、勧誘されて、あとは流れでそうなった。自らの力量にある程度の自信はあり、上から三分の一程度にはいられた。
 しかし、ほどなくして耐え切れなくなった。
 剣豪派は、出動以外に強制されるものはない。普段は何をしていてもいいのだ。
 そのはずだというのに、大半の者はひたすらに鍛錬を続けていた。話しかけてきたと思えば試合の誘い、頼みがあると言われてついて行けば審判、食事中の話題まで剣のこと。
 本当にそれしかなかったわけではないものの、頻度が常軌を逸していたのだ。
 烈火にとって、彼らはもはや正気とは思えなかった。
 もっと普通を望んでいた。ゲーム、猥談、他愛のない話、そんなものが欲しかった。
 幸いだったのは、そう思っていたのが自分一人ではなかったことだ。だから四人で示し合わせて同時に抜けた。
 以来の付き合いだ。ずっと一緒に行動してきた。
 <魔人>という存在は、やはり楽しかった。烈火ほどになれば、ただの人間では刃物を使おうが銃器を用いようが傷一つつかない。存分に自侭に生きられた。
 唯一の懸念がまさに<竪琴ライラ>だったが、これも天が味方したかのように都合よくことが運んだ。
 <横笛フルート>の急速な巨大化、そして仕掛けられた抗争に<竪琴ライラ>は力を傾けなくてはならなくなったのだ。
 そうなれば狙い目は財団派領域、と的確に見抜き、どちらに組することもなく自分たちの勢力を伸ばしていった。
 奇しくも<帝国エンパイア>などという集団まで現れて、先を越されたかと残念に思いつつも彼らを利用して着実に積み重ねた。
 自身では気付かぬうちにいつしか、烈火たちの認識はかつてのものから逸脱していった。
 人を捕まえ、<鍍金メッキ>という男に売り払った。勿論、<鍍金メッキ>自身は更なる高値でまた他の誰かに売ったのだろうが、烈火としてはささやかな小遣い稼ぎで面倒なことをするよりも、安定した売却先があることを喜んだ。顧客自体は他にもいたものの、しばらくの間まったく需要がないなどということもあったからありがたかった。
 このままうまくやっていける、そんなつもりでいたのだが。
 事態は唐突に、雪崩の如くに動いた。
 <竪琴ライラ>の処刑人による<帝国エンパイア>殲滅。
 肝を冷やした烈火たちが一時的にでも<横笛フルート>の庇護下に入ろうとしたところで、こちらでも異変が起きた。
 表にはあまり出ることのなかった首魁、<奏者プレイヤー>が内部の者に倒され、追放されたことによって<横笛フルート>そのものが根底から変わってしまった。名も<魔竜>ファフニールと改め、四方八方好き勝手に向いていた組織を整列させたのだ。
 これにより、都合の好いように利用するというのが不可能になった。服従か、敵対かのどちらかを明確に選択せざるを得なくなった。
 敵対は言うに及ばず、服従もまた<竪琴ライラ>への尖兵とされる破目になると容易く推測できてしまう。財団派領域に逃げ帰るほかなかった。
 騎士派からは幾つかのチーム、剣豪派からも序列三位と七位が送り込まれてもまだ、ここが最も安全。その判断に間違いはなかった。
 だから、こんなはずではなかった。<竪琴ライラ>と<魔竜>ファフニールの争いを身を低くしてやり過ごしていたのに、なぜ自分たちが直接<竪琴ライラ>に狙われているのだろう。
 烈火たちは思い至らない。
 自分たちが人身売買に加担していたことを<竪琴ライラ>はとうの昔に掴んでいるのだと。これまでは手を回すだけの余力すら財団派には欠けていただけだったのだと。
 そしてもはや、烈火たちが繰り返した数に、かけるべき情けも尽き果てているのだと。
 月下に影が動いた。
「逃げろ!!」
 烈火の叫びは遅い。
 流れるような連携によって、仲間三人はこの瞬間に息の根を止められ、消滅した。あまりにもあっけない最期だった。
 逃げなければならない。
 ずっと一緒にやって来たのだ、仲間意識は決して小さくない。それでも迫る危機は感傷を許さない。
 <竪琴ライラ>の四人が一度散開してこちらを囲んでから、じり、と距離を詰めてくる。決して逃すまいと、迂闊に飛び掛ることなく機を窺っているのだろう。
 烈火は素早く視線を走らせる。どこから逃げるか。基本的には街の方へ向かうべきだろうが、相手もその程度は予測しているだろう。
 しかし意表を突いたとて、それだけで終わってしまっては未来は変わらない。
 何か手はないか。
 烈火のその思いを嘲笑うかのように、豪放な声が降って来た。
「なんだ、手伝いは要らなそうだな」
 希望がその声を味方と錯覚させ、次いで聞き覚えがあることに気付き、誰なのかを覚って血の気が引いた。
 隙が生まれることなど意にも介さず振り返り、廃屋の屋根の上にある予想通りの姿に改めて息を呑む。
 彼は身の丈ほどもある大太刀を右に担ぎ、荒々しい瞳でこちらをを見下ろしていた。一見しただけでは少年と青年の端境、長身痩躯と映るが、その実鍛え込まれた肉体だ。<魔人>の見た目と身体能力は比例しないとはいえ、見た目を裏切ることのない力を持っていることを烈火は知っている。
 手合わせしたことも数度ならある。まるで敵わなかった。どれほどの力の差があるのかも量れない。
 初瀬光次郎はつせこうじろう、<竪琴ライラ>剣豪派序列三位<大典太光世>である。
「……豪勢だな、おい。勘弁してくれよ……」
 まだ軽口は出た。声が震えるのはどうしようもなかった。
 初瀬光次郎は剣豪派の三番目というだけで済まされる相手ではない。<九本絃>ナインストリングス、すなわち<竪琴ライラ>のトップ九名の一人として昔から数えられ続けている男なのだ。
 逃れられない。烈火の腹は諦めの氷塊に満たされた。あまりの重みに足が動かなくなった。
「悪いが、オーチェ的にもお前らには既に抒情酌量の余地なし、らしくてな。ここで死んでもらう」
 光次郎が大太刀の柄尻に左手を沿え、刃を立てた。
 烈火はやはり動けない。息を詰まらせ、裁断のときを待ち。
 予想だにしなかった、序列三位の切羽詰った声を聞いた。
「お前ら避けろ!」
 その言葉の意味は、すぐには分からなかった。
 円を描くように紅い旋風が駆け抜けた。
 血飛沫が舞った。取り囲んでいた騎士派四人の首が刎ね飛ばされたのだ。
 死した<魔人>は塵も残らない。そのまま薄れて消えてゆく四つの姿に、先ほどの避けろという言葉を向けた相手を理解した。
 紅い旋風、それが一人の<魔人>であることにも気付いた。正確には、その手にある不吉なまでに紅の輝きを放つ長剣こそが正体だ。
「離脱するよ!」
 その呼びかけとともに脇に抱えられる。
 そしてあろうことか、<魔人>はそのまま初瀬光次郎に向かって跳躍した。
 <魔人>の膂力をもってすれば烈火の体重などなきに等しいだろうが、片手で剣豪派序列三位に挑むなど正気の沙汰とは思えない。
 交錯は刹那。烈火には、どちらかの鮮血が零れ落ちるのだけが見えた。
 加速、更に加速。大気を強引に割り進む。肉体が曲がりそうな圧と浮遊感。流れゆく光はきっと、夜の街の輝きなのだろう。
 確かなものは何も分からなかった。
 ただ、助かったのであろうことを除いては。







 ビルとビルとに挟まれた道。
 狭くはないが、歓楽街から離れていることもあってか暗い。
 そこでようやく下ろされ、相手の顔をまともに見ることができた。
 少し年上、二十歳前といったところだろう。なんとも爽やかな風貌の青年だった。
「大丈夫?」
 そんなことを言って、人懐こく笑う。
「助かった……助かりました」
「タメ口でいいよ。上下関係だの年功序列だの、めんどくさいだけだよね」
 年上らしき恩人とあって言い直したのだが、それも即座に不要と否定される。
 そして大きく伸びをして、自己紹介された。
「僕は鏡俊介。昔の仲間にはリッキーとか呼ばれてたから、そう呼んで」
「烈火。ただの烈火、だ」
 あだ名が『リッキー』になる理由には見当もつかなかったが、ひとまず名乗り返しておく。
 姓は設定していない。馬鹿らしく思えたからだ。
「うん、いいんじゃないかな。別に苗字なんて要らないよね。僕も俊介だけにしようかな」
 なぜか妙に嬉しそうに頷いた俊介に、正直なところ烈火は反応に困っていた。
 意図が読めないのだ。何らかの必要があって自分を助けたのだろうが、あまりにも明け透けな笑顔で、何も考えていないようにしか見えない。
 怪訝な顔をしていたらしい。きょとんとした表情で覗き込まれた。
「どうしたの?」
「あー、どうして助けてくれたのかと思って」
 剣豪派を抜けて以来、裏があることは常に疑いながらいる必要があった。特に<鍍金メッキ>などは上得意であるとともに、いつ食われるかと警戒を緩めることの出来ない相手でもあった。
 しかし、俊介はさらに不思議そうに見つめて来た。
「どうしてって、<竪琴ライラ>に襲われてる人がいたらそりゃ助けるよ。<竪琴ライラ>の魔の手から人を守るのが僕の使命だからね」
「……使命?」
 未だかつて耳にしたことのない回答だった。
 <竪琴ライラ>の敵を名乗った者はいくつもあったし、恐れる、あるいは嫌悪を向ける<魔人>も少なからず見た。
 しかし、<竪琴ライラ>こそが諸悪の根源であると言わんばかりの口調で語ったのはこの青年が初めてだった。
「<魔人>には<魔人>らしく生きる権利があると僕は思う。<竪琴ライラ>はそれを踏み躙る。僕はそれが許せない」
 真摯に語るその瞳に、烈火は嘘を見出せない。
 それなりに人を見る目を養ってきた自信はある。その目を誤魔化せるほどの嘘吐きであるのか、あるいは本気で言っているのか、判断はできなかったが。
「僕の仲間はいつもいなくなってしまう。それでも、僕は一人からでも、何度でも立ち上がって戦い続けるよ。じゃあね。僕はもう行くけど、気をつけて」
 俊介は軽く手を上げ、背を向けた。
 烈火の脳内で算盤が弾かれる。
 現在の自分の立ち位置、その危険性。騎士派の四人は死んだとしても、剣豪派序列三位は分からない。そもそも<竪琴ライラ>の標的として設定されてしまった以上、これからも狙われ続けることになるのは必然。
 一方、俊介は正体が知れない。悪い印象こそ抱かせないが、無害である保証はない。ただ、恐ろしく腕が立つのであろうことは間違いないだろう。あの瞬間、優位に立ったのがどちらだったのかまでは分からないものの、少なくとも不利な体勢から逃げ切ってはのけたのだから。
 自分独りで<竪琴ライラ>から逃れることは不可能、となれば戦力が要る。
 賭けにはなってしまうが、これを逃す手はない。
「ちょっと待ってくれ」
 烈火は俊介を呼び止めた。





[30666] 「笛の音響くこの空に・二」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/07/07 22:21



 九月はまだ暑い。
 昼となれば肌を焦がす陽の強さに閉口する。夜に活動することが多かった烈火に、眩いほどの光は毒だった。
 公園に移動式のクレープ屋、ありふれた光景。
「ありがとー、じゃあね」
 代金を払って朗らかに手を振る青年というのも、ありふれているのだろうか。
 少なくとも、店員の娘は営業とは異なる笑顔を浮かべていた。しかし勘に過ぎないが、何かちぐはぐなものを感じてならない。
「はい、烈火の分」
「悪いな」
 二人して芝生に腰を下ろし、クレープにかぶりつく。
 甘いものは烈火も嫌いではなかった。人間だった頃も<魔人>となってからもあまり口にしなかったのだが、俊介が自然体と言うべきか無邪気と言うべきか、飾らないのでこちらも気を張るのが馬鹿らしくなってくる。
「あの子、可愛いね」
 笑顔のまま、そんなことを言う。指しているのはクレープ屋の店員だろう。
「そうだな」
 そこまで魅力的でもない、精々が十人並みだと思うがひとまず同意してはおいた。気を張るのが馬鹿らしくなろうとも、心を許してはいない。
 二人の前を人が行き交う。<魔人>が血で血を洗う抗争を繰り広げているなどとは知ることもなく。
 とはいえ、まったく影響のないわけでもないだろう。どうしても街に、山に傷跡が残る。原因不明の災害として心のどこかに不安を抱えつつも、この日常が失われることはないと信じ込んでいるのだ。
 愚かと言ってしまうのは、むしろそれが浅はかだ。思考を構築するための要素が欠けていては気づくことなどできはしない。人間であれ<魔人>であれ、見えるものしか見えない。
 うまくやっていたつもりが瞬く間に追い詰められ、仲間を失ってしまった身としてはとみにそう思う。
 そして大事なのはこれからだ。俊介がどう動くかで自分の動き方も変わってくる。
 <竪琴ライラ>の魔の手から人々を守る、と宣言してはいたが、考えなしにただ突っ込まれてはたまったものではない。
「それより、これからどうするんだ? <竪琴ライラ>は簡単にどうにかできるもんじゃないだろ?」
「そうだねえ……昔も仲間と一緒に頑張ったけど、みんな殺されちゃった」
 俯いて憂いの溜息を落とし、俊介はしばし沈黙してから顔を上げた。
「正直ね、僕は頭が良くないんだ。正義はこの胸にあるけど、どうすればいいのかはよく分からない。この前も騙されてたしね。僕にできることは……とにかく<竪琴ライラ>と闘うことくらいなんだよ」
「……そうか」
 寂しげに響くその声に、何と返すべきなのかは分からなかった。同情や感傷ではなく、鏡俊介という男を掴みかねているがために。
 嘘はないと直感は告げている。だが、同じ直感が違和感を囁いている。
 烈火の警戒になど気付きもしないのか、一転して俊介はいつものように朗らかに笑った。
「だからもう、難しいことは考えないでさ、目の前で<竪琴ライラ>に襲われてるひとがいたら助けることにしてるんだ」
 一陣の風が駆け抜け、俊介の少し長めに伸ばされた髪を揺らした。
 網膜に焼きついた昨夜の光景が鮮やかに蘇る。
 紅い旋風。烈火の目にも留まらぬ速さで首を刈り取って行った、死神の如き所業。
 頬を撫でるもの、首に吹きかけられるそよぎがあの紅の刃に思えて怖気を震った。
 不自然に凍りついたことに気付かれなかったか、横目で確認すれば俊介は別のものに気を取られていた。
「あ、あそこ、お揃いの服で歩いてるよ! 可愛いね」
 散歩なのだろう、初老の女性と小型犬。言うとおり、犬には前肢から胴まで飼い主と同じ柄の服を着せてある。
「昔の仲間にペット大好きな人が二人いてね、でもいつも喧嘩してたんだ。服は着せた方がいいのか着せない方がいいのかって」
 懐かしそうに目を細め、口元にうっすらと浮かぶ笑みは無邪気なものだ。<魔人>となって間もない時期、全能感に侵されていた頃の自分を烈火は思い出した。それに衝き動かされて剣豪派へ行ってしまったせいで目が覚めたのだが。
「烈火はどっちがいいと思う?」
「そうだな……」
 まるで興味のない、こんな下らない質問にも言葉を選ばざるを得ない。
「似合ってるかどうかが一番重要なんじゃないか? ファッションだしな」
「なるほどねー」
 相も変わらず、気を張っているのが馬鹿らしく思えてくるほど人懐こく、俊介は素直に頷いた。
「他人からどう見えるかが重要、か。なるほどねー」
「独りよがりじゃ多分駄目だ」
 この路線で問題ないと見て、あとはそれらしいことを続けながら、果たしてこの男を制御できるのか、烈火は推し量る。
 読めない読めないと恐れて思考を空回りさせていては機を逃す。此処は相対的には安全というだけの敵地なのだ。人の目がなくなった瞬間に襲われてもおかしくはない。一分一秒が過ぎるほどに危険は増してゆく。
 操ること自体はおそらく容易い。少なくとも<竪琴ライラ>にぶつけるならば戦場を与えてやりさえすればいいだろう。朴訥な物言いを<大典太光世>へと平然と向かってゆく精神性が裏打ちしている。
 ただ、持続に不安がある。昨夜から先ほどに至るまで、クレープだの犬だの、目の前の興味を引くものにすぐ気を取られてしまっているのだ。小さな子供に似ている。
 そう、子供だ。そう考えたなら、気に食わないことをすればすぐに臍を曲げてしまう恐れがある。そして万が一にも暴れようものなら、振るわれるのは昨夜のあの力だ。
 表情の変化を見逃さぬよう、細心の注意をもって観察し続けなければならない。
 そう己を戒めていたら、不思議そうな顔で覗きこまれていることに気付いた。
「どうしたの? 何か難しいこと考えてる? 僕には分からないけど、こんなときはいったん落ち着くのがいいんだよ」
 そして取り出したのは洋式の横笛だった。知識のない烈火にはそうとまでしか判別できなかったし、着の身着のままと見えていた俊介が50cm以上にもなるそれをどこに隠し持っていたのかも分からない。
 だが、何をしようとしているのかは明白で、慌てて止めようとした。
「待て、こんなところで目立つことするんじゃない!」
 ほぼ間違いなく二人とも面が割れているのだ、人の意識に残るような真似をすれば間違いなく<竪琴ライラ>を呼び寄せる。今こうして公衆の面前に姿を見せているだけでも危険だというのに。
 制止は間に合わない。既に音色は奏で流れ広がり、そして烈火は続けようとした言葉を忘れて背を震わせた。
 知らない曲、美しい旋律。
 これはただの笛の音だと自らに言い聞かせる。それでなお、震えが止まらない。
 優しい音が風を誘っていると思った。遊ぶように、踊るように、気の遠くなる青の果て、空の向こうまで駆けて行く。
 ただの笛の音だ。歯を食いしばる。それでなお、総身を痺れが走り抜ける。
 これはまさか異能なのだろうか。
 違う。
 ただの笛の音なのだ。青年が神憑かみがかった奏者であるだけで。
 知らず、涙が溢れていた。<魔人>となり、人間を捕まえて売り飛ばしていたような自分が、わけもなく泣いていた。
 一人、また一人と足を止め、聞き惚れてゆく。耐え切れずにしゃがみ込んでしまった者もある。
 渇した心身に沁み渡る涼やかな水、火照った肌を撫でてゆく風。凍える指を溶かす炎、疲れ果てた肉体を受け止める大地。そのいずれでもあり、入り混じり、重なり合う波紋として満たしてゆく。
 しかし時を刻みながら、終わりはやはり来る。
 すべてが収まったとき、静寂だけがあった。
 横笛を下ろし、俊介がにこりと笑った。
 誰も彼もが見栄など忘れた。己を衝き動かす情動のままに万雷の拍手が降り注いだ。
「もしかして、目立ったら襲われるとか心配してる?」
 囁きではない、しかし響きもしない声。
 俊介はこちらを向くでもなく、にこやかな笑顔を振りまいている。
「大丈夫だよ。こうやって囲まれてたら、<竪琴ライラ>が仕掛けてくることなんてほぼない。<竪琴ライラ>は大嫌いだけど、それだけは評価してる。僕らの戦いに巻き込んじゃったら可哀想だからね。それに」
 続く言葉には何の気負いもなく。
「来たら片っ端から駆除するだけさ」
 拍手はいつまでも途切れず、響き続けた。















 剣豪派からの出向となる初瀬光次郎は、基本的には自由に動いている。
 財団派から何らかの要望がある場合にだけ、連絡を受けて現場へ、あるいは財団派中枢である<薄暮離宮>へと向かうのだ。当初は<薄暮離宮>内に部屋をという話だったのだが、身動きがとりづらくなるため光次郎の方から断り、ねぐらは毎日適当に変えている。
 出向には自ら志願した。面白そうだったからである。仲間と修練しているより、より多くの実戦に身を置くことを光次郎は好む。
 剣豪派序列三位<大典太光世>、その呼称にもあまり興味はない。強さこそが誇りであり、恃むものだ。
「あの野郎……」
 空手道場の看板がかかったビルの前、自動販売機で買った麦茶を飲み干し、ゴミ箱に放り捨ててから唸る。
 交錯の瞬間、互いに一太刀ずつを浴びせた。脚は速いようだったが剣速はこちらが上、それ以前に剣の腕そのものが力任せに振るう域は脱している程度でしかなかった。こちらが既に袈裟懸けに切り捨てようとしている段階で、相手はわざわざ振りかぶった状態にまだいた。
 倒せるか否かはともかく、その一合は自分が一方的に勝ち取れる、そのはずだったのに。
 気付けば斬られていた。
 幻を見せられていたのかとも疑う。こちらの剣が何の違和感もなく勝手に外れて肩を掠めるに留まったのに、敵手の剣は振り下ろしていたはずが横薙ぎになって腹を裂いていた。
 技の冴え、などではない。序列二位<童子切安綱>には思いもよらぬ技で翻弄されることもあるが、あれは卓越した手品を見せられたような驚きと爽快が残る。対して、悪夢めいてどろりとした気持ちの悪さが拭えないのだ。
「あれに暴れ回られるとまずいが……」
 間接的にだが、報告は既にオーチェへと上げてある。やられた四名は騎士派から派遣されてきた中でも二番目か三番目には位置する手練れのチームだ。それを瞬時に屠ってしまうなど、自分の裁量で対応してよい相手ではありえない。
「そもそもありゃ何なんだ、どこから湧いた?」
 碌に何も分からない不気味な相手ではあるが、何よりの疑問はそこにあった。
 あれほど強力な<魔人>が反<竪琴ライラ>の立ち位置にいるとは聞いたことがない。旧<横笛フルート>の幹部連中でもあそこまでではないはずだ。
 もちろん、どこに属しているわけでもない<魔人>もいるが、単独で状況を動かしうるほどならば<竪琴ライラ>は動向を押さえてある。
 妥当な線としては、新たに海外から入り込んできたか。<魔人>を傭兵として斡旋する<ギルド>が数ヶ月前から日本でも活動を始めていることは知っている。まさに<竪琴ライラ>が睨みを利かせているため、あまり浸透してはいないものの僅かずつながらも増加していると聞く。
 彼らの力量には大きな幅がある。あれだけの男がいてもおかしくはない。
 あるいは何か、いっそ当たり前すぎることを見落としているのかもしれないが。
 大きく息をつき、背後に現れた気配へと振り返る。
「どうした?」
「不機嫌じゃん、コーちゃん」
 短めに刈った髪に、細いブルーレンズの伊達眼鏡。
 もう見飽きて久しい顔だ。それを乗せる体躯はひょろりと高く、それでいて肩幅は恐ろしく広い。
 序列七位<数珠丸恒次>、計森泰斗かずもりたいと。光次郎とともに財団派に出向している男である。
「聞いたぜェ? 見事にやられたんだって?」
「次はやらせん、斬り捨てる」
 軽い口調の揶揄に苛立つでもなく、光次郎は据わった目つきで断言した。
 泰斗は芝居がかった動きで肩をすくめ、口笛を鳴らす。
「もう勝つ算段がついた……てなわけでもなさそうだがねェ。無茶したら、帰ったとき真朱まそほちゃんにお説教食らうぜ、怖い怖い」
「知るかよ、なんであのへっぽこに口出しされなきゃならんのだ」
「ひでェな、そんなんだから真朱ちゃん争奪戦最下位なんだよ」
「アホ、そんなアホなことやってるつもりなのはお前だけだアホ」
「うわ三回もアホって言った! <無尽城郭いえ>帰ったらボコってやる」
「やってみろアホ、返り討ちだアホ」
「五回目!」
 二位から七位の実力にさほどの差はない。二位が頭一つ、三位が半分抜けてはいるが、充分に覆えりうる程度でしかないのだ。
 だからこそのじゃれあいである。すべての構成員は対等と建前を掲げてはみても、強さを求める剣豪派ではそれが上下関係を作ってしまいがちで、そこを全く気にしないのは最下位の柊真朱と一位の水守師直だけだ。
「それで、もう一回訊いてやるが、どうした? 用事は何だ? 偶然出くわすには財団派領域は広すぎる」
「偶然の結果なのは間違いないぜェ。もっともその相手はコーちゃんじゃあなくって美少女だ」
 にやりと笑うその背後にもう一人の姿があることに、光次郎はここで初めて気付いた。
「なるほど、偶然会ったからそのまま護衛か」
「そりゃあ、コーちゃんがしてやられたこの状況でVIPを放置するわけにゃあ、いかないもんねェ?」
「嘘つけ、ただの下心だろうが」
 計森泰斗は女癖が悪い。決まった相手がいようがお構いなしなのが本当に始末におえない。
 心配になってきた。
 泰斗が不始末を起こせば剣豪派の責任になる。できれば剣だけ振っていたい光次郎としては勘弁願いたいところだ。
「大丈夫か、おかしなことはされてないだろうな?」
「あ、いえ……」
 何とも微妙な顔ではあるが、返って来た否定に嘘はなさそうだった。
 当のその美少女は光次郎も知っている。小早川玲奈といったか、<三剣使いトライアド>と契約した剣化<魔人>ブレイドメイデンの一人である。
 背丈もあり、大人びた顔立ちをしているがまだ十五になってさほど経っていないのだとか。もっとも、<魔人>の容姿に実年齢との整合性を求めても詮無いことではある。
 ともあれ、戦力が大幅に減少している今の財団派において中核を担う彼女が、他愛のない用件で連絡役に使われるはずもない。
「それで、昨日の奴でも見つかったのか?」
「いえ、そちらではなく」
 硬い声で彼女はかぶりを振る。
 尋常ならざる緊張が見て取れた。
「また<呑み込むものリヴァイアサン>が動きました」





[30666] 「笛の音響くこの空に・三」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/08/17 22:36



 狭苦しい部屋だった。
 床の面積ということなら二十畳はあるだろうが、鰻の寝床である上、天井はある程度の背丈があれば腰を屈めなければならない程度の高さしかない。
「ひどいもんだな」
 足を踏み入れた光次郎は、こびりついてまだ残る饐えた臭いにまず眉を顰めた。
 打ちっ放しのコンクリートに窓の類はなく、換気用なのか壁に数箇所の細いダクトは見られる。奥には剥き出しのトイレが一つだけ、手前にはこれも剥き出しの洗面所が一つだけ。
 真新しい二十階建てのビル、その最上階と屋上との間に密かに作られた空間。入り口は階段の裏に隠されている。
 屋内からは幾つもの扉で封じられ、また屋上には何もないため、この素っ気ないコンクリートの階段を使用する者すらほぼ皆無なのだが、たとえ日常的に通る者が多かろうともちょうど出くわさない限り見つかることはまずないだろう。
 最後の踊り場から屋上へと向かう一段目には、指を挿し入れるべき窪みが存在する。そして最上段の位置で縦にスライドし、階段そのものを持ち上げることが可能なのだ。その奥に内開きの扉が存在している。
 無論のこと、重量は数トンにも及ぶ。人間では到底為しえず、<魔人>でもある程度膂力に優れていなければならない。恐ろしいほどに原始的で、ある意味頭の悪い、しかし極めて有効な隠し方、閉じ込め方ではある。
 この部屋は人身売買のための、言わば保管庫として利用されていた場所だ。昨夜追い詰めた輩とはまた別件で、こちらの方がより悪質と言えるだろう。
「このビルの所有者とはグルか」
「建設会社も、である可能性は高いでしょう。あるいは脅されていたのかもしれませんが」
 この唐繰りは建てられた時点からのものに違いない。<魔人>が利用することを前提に仕込まれている。
 連絡から一人、そのまま付いて来た小早川玲奈は小さく溜息をつき、続けた。
「いえ、むしろ脅されていたのでしょう。それで年に何十億、何百億という利益を得られるのでもなければリスクに見合いませんからね」
「人間の値段ってことになると見当つかんが、ちなみにどれくらいで売り買いされてるのか知ってるのか?」
「……一人あたり数百万です」
 口にするのも不愉快なのか回答する前に眉根を不穏に寄せ、感情を押し殺した声で告げる。
 光次郎は唸った。
「安いな。もっと値段を吊り上げそうなもんだが」
 社会人の平均的な年収で買えてしまいかねない値段だ。違和感を禁じえない。最低でも桁がもう一つ上になりそうなものである。
 しかし返って来たのは否定だった。
「結局は需要と供給です。財団派領域では目が行き届かないせいかこの手の人攫いを行う<魔人>が多く、誰かが安く売ればそれに合わせざるをえない。押し売りもできるでしょうが、それくらいならいっそ強盗をした方が早いですからね。あとは……金銭感覚の問題もあるのかもしれません」
 玲奈が冷ややかに僅かな笑みを浮かべる。
「人を殺すこと、あるいは浚って来て売ることはできても、数千万、億の取引をする度胸はないというのだからおかしな話です」
「なるほど、分からないでもない」
 年齢的に、それまでは一万、二万程度でも大金だったはずだ。腰が引けてしまうことは充分にありえるだろう。また、金額こそが己の犯した罪の大きさとして圧し掛かってくるのかもしれない。
「となると、そのアホを企業側がうまく乗せて利益を得ていたという可能性もそれなりに残るわけだ」
 腕力だけが全てではない。ただの人間の方が余程始末に負えないことはある。侮ってはならないのだ。
「そのあたりの判断は下の警察がやってくれるでしょう。我々が今こうして現場を見ていられるのも、彼らが封鎖してくれているからですし」
 財団派は警察機構との繋がりが強い。こちらの正体は明かさぬまでも、ある程度は都合のいい舞台を整えては貰える。
 とはいえ、それほどゆるりとしていられるわけでもない。
「それよりも<呑み込むものリヴァイアサン>です」
「ああ」
 二人は青い空を見上げた。
 入り口近くの天井には今、巨大な穴が開いている。比較的綺麗な円形をして、元々天井を構成していたのであろう物質は床に砂塵として散らばっているのだ。
「あくまでも証言からの推測に過ぎませんが、<呑み込むものリヴァイアサン>は隠し部屋へ入って来た、あるいは出て行こうとした<魔人>を天井ごと上から粉砕、監禁されていた女の子を連れ出して我々の許に放り出しました」
「そして姿を消した、と」
「繰り返しますが、推測です。我々は姿自体は確認していません。ただ、この季節にロングコートという出で立ちであったらしいことと、この破壊の痕からすると……」
 玲奈が言葉を途切れさせた。
 その横顔に隠し切れぬ怯えを光次郎は見た。
 実のところ、<三剣使いトライアド>と契約した剣化<魔人>ブレイドメイデンの一人と聞かされたときは、まるで付属物であるかのように思ったものだが、そうではないことはこの短い時間でも分かった。
 解説、見解を述べる口調が堂に入っている。つまりは慣れているということだ。こういった役割をいつも果たしているのであろうことは想像に難くない。だから今回の連絡役にも任じられたに違いない。そして残る二人も、同様であるかどうかはともかく、きっと何らかの形で有能なのだろう。
 しかしそんな彼女でも恐れを堪え切れないでいるのだ。
「……壊すだけなら珍しくはない。けれど、どうすればこのようになるのか」
 物理的に壊したのではなく、まるで破壊の意を此処に顕した結果、コンクリートが砂塵と化すしかなかったかのような。
 ただの空想なのに、それを否定する気が起きない。
「この程度でおたつくなよ。同じ芸当は無理だが同レベルのことならできる」
 落ち着かせるためにそう告げる。嘘ではないが、そう耳にして思い浮かべるものは事実とは異なるだろう。
 <呑み込むものリヴァイアサン>にとって、これすらも力と技の粋を凝らした所業というわけではあるまい。その程度であれば、あの序列一位が楽しそうに語りはしない。
 警戒する必要はあるだろう。今のところ<竪琴ライラ>の敵を屠っているだけだが、解き放たれてしまった以上はいつ牙を剥くか分からないのだ。
 小さく息を吐く。
 何にせよ、考えるべきは次である。
「それで、俺に何をして欲しい?」
 切り込んだ。
 <呑み込むものリヴァイアサン>は既に財団派領域で何度も活動している。そしてこれまで自分が呼ばれることなどなかった。ならば理由があるはずだ。
「オーチェに何か言われたか」
「いえ、我々の独断です。オーチェは、今は放置、と」
「お前ら……? ああ、<三剣使いトライアド>とお前らか」
 どういうことなのかと惑いかけ、それから思い出した。財団派は各構成員の裁量に任せられるところが多いのだ。人数が多く、かつ地域ごとの独立性が強いためである。それがゆえの連携の脆さを突かれ、今こうなっているわけではあるが。
「何を考えている?」
「<呑み込むものリヴァイアサン>をまともに捕捉できません。予測外に現れ、瞬く間に消えてしまう。まさに神出鬼没です。この季節にロングコートなどという出で立ちのせいか目撃情報自体は得られるのですが、そこからまったく追えない。だから協力をお願いしたいのです。我々とは異なるアプローチで見つけ出せるかもしれません」
 声は淡々と玲奈は告げる。その横顔の怯えを拭えぬままで。
 それほど恐れながらなぜ、と疑問を抱く。
「別にアプローチなんて大したもんじゃない。ただの勘を当てにされてもな」
「本当にそうでしょうか? 勘で当てた、という展開は剣豪派では決して稀ではないそうですね。それは偶然や当てずっぽうではなく、自覚していないだけで一つの知覚力、探査能力なのでは?」
「どうだろうな」
 光次郎は小さく笑った。玲奈の推測を否定はし切れない。
「強い奴、斃すべき奴を求め過ぎたせいで生じた超感覚だとしたら面白いと俺も思うが、そんな曖昧なものに期待されても困るのは本音だ。しかしまあ、仮に見つけて、接触できたとしてどうする? こっちから仕掛けたらただのアホだぞ」
「敵対行動はとっていませんからね。聞いた話では、おそらく反撃に一切の容赦はないでしょうが。心配ありません。我々は戦いたいのではなく、話がしたいのです」
 声にはやはり淀みはない。滔々と流れ、しかし一つだけあった偽りを光次郎は的確に見抜いた。
「……我々、な?」
「……何を言いたいのですか」
「それは<三剣使いトライアド>の希望だな。お前は反対してる。いや、反対したい」
 いかに玲奈に背丈があるといっても光次郎の方が高い。ぎろりと見上げて来た眼差しを、射抜き返す。
 <三剣使いトライアド>最上素也は戦いを好む性質ではないと聞いている。話が通じるのであればまずは対話してみようと思うのは自然だろう。
「<呑み込むものリヴァイアサン>は激情に駆られはしないはずです。ならば何を目的としているのかを知ることはできるはず」
「やめとけ」
 玲奈の言うことがおかしいわけではない。名和雅年との対話は成立するだろう。この綺麗な穴は余計な物を壊さず、被害者を無意味に死なせないために行ったものだ。標的を殺すだけならばビルごと粉砕してしまってもよかったのだから。
 だが同時に、それを利用しようなどとすれば一帯全てを巻き込むことを厭わぬ男であることも分かっている。
「俺の勘を当てにするというのなら、会うのはやめておけ。碌なことにならんぞ」
「……あなたの勘がそう告げているということですか?」
 声は今もって冷静だ。しかし目は口以上に苛立ちを叫んでいた。
 それを光次郎は平然と受け止める。
「俺はお前の後押しをしてるはずなんだがな」
 剣化<魔人>ブレイドメイデンとの契約は命を懸けられるほどの絆があって初めて成立するという。家族や幼馴染など、既に長い時間を共に過ごして形成された絆であればいざ知らず、会って間もない男女の間に生じた深い結びつきとなるとどうしても色恋を含みやすい。
 <三剣使いトライアド>はそれが三人である。しかも三人ともが命を救われたとくれば、どうしてもそれぞれに自分こそが特別な一人であって欲しいと独占欲は出て来るものだ。
「お前らが仲良く振舞ってるかどうかは知らねえが、一皮剥けばむしろ犬猿の仲じゃないのか?」
 光次郎自身に色恋は分からない。戦友としての感覚と腐れ縁くらいのものである。しかし人間だった頃、周囲の様子を気に留めぬほど無関心でもなかった。
 嫉妬を取り繕って作り上げた仮面を着脱する様を横目に眺めていたのは一度や二度ではない。
 玲奈は応えなかった。だから光次郎が続けた。
「<呑み込むものリヴァイアサン>に会うべきではないとお前は思っている。危険だの何だの、多すぎて理由は絞れんが。あとの二人は賛成か。あと一人でも反対してればそっちが通っただろうしな。怖いか、反対し続けて自分だけが点数を失うのが」
「…………ずかずかと土足で。遠慮というものを知らないのですか?」
 憮然と、ついには声まで染まった。
 光次郎はにやりと笑った。
「死ぬよりましだ。基本的に男はアホだからな、たまにぶん殴って現実を思い出させてやる必要がある」
「素也さんをアホって言いましたね?」
「アホだからお前らを助けられたんだろう。で、お前らが支えてるからやっていけてる。違うか?」
 すべて推測に過ぎない。分かっていることと、話していて感じたものから作り出した想像に過ぎない。だが大きく外れていない自信はあった。
 玲奈は深い、腹の底のものをすべて吐き出すほどに長い溜息をついた。
「…………清香さやかさんは作戦を立てるのがとても上手なんです。ときには思いもよらない手段で状況を引っくり返します。綾さんは行動力が凄い。誰もが足が竦んでしまう状況で迷いなく踏み出せる」
 高原清香。小柄で幼く見えるが、逆に四人の中で最年長。
 刑部綾。なんとも勝気なトラブルメイカー。
 光次郎が知っているのはその程度だったが、当然ながら玲奈は違う。
「『氷河事件』解決も<赤蜘蛛>の討伐も、普通なら成功するはずなんてなかった。成功するなんて、私はまったく思っていなかった。なのにあの二人と素也さんは……本当に凄いんです。だから……」
 口調にはほのかな熱。
 憧れと、その裏返しの劣等感。
「だから、私の危惧を超えて行ってくれる。今回もきっと」
「そんなわけねえだろ」
 潜む偽りを光次郎は遮った。
 ここでかけることのできる言葉は幾つもあった。
 お前も他の三人に劣らない働きをしているはずだ。お前たちは今や財団派の中心なのだから自分たちのことだけを考えるな。
 だが趣味ではなかった。剣豪派の例に漏れず、光次郎も個人主義の傾向にある。自己は律しても、あまり他人の意思に干渉しようとは思わない。
 そして何にも増して強く、浮かんでしまった考えがあった。
「お前、この機会にライバルを消す気じゃあるまいな」
「まさか。戦闘に勝って戦争に負ける趣味はありません」
 玲奈の歳に似合わぬ冷たい微笑みは、まさに仮面だったろう。
「清香さんも綾さんも、私は好きですよ。困った姉が二人できたみたいで。それは本当のことです。けれど心は単純に割り切れるものではない、と」
 これは思った以上に面倒なことに巻き込まれたらしい。きちんと手綱をとっていない<三剣使いトライアド>が恨めしかった。
 いざとなれば斬るか、そう心に決めたときだった。
 潮が引くように、玲奈の笑みが掻き消えていた。
「それで結局、引き受けていただけるのですか?」
「ついでに探してみる程度はいいぜ」
 並の人間ならば気後れするほどの無機質を軽く受け流し、光次郎は頷いた。
 流れからして断られると思っていたのであろう玲奈の方が少し目を見開いたくらいだ。
「お前が何を考えてるのかは分からんままだが、見つけられたらオーチェにとっても意味はあるだろう。まずはそっちに報告して、お前にも教えてはやるさ」
 今一度、光次郎は目の前の少女を観察する。
 憧れの二人に譲る、そんな大人しい性質ではない。涼しい顔のまま策略でもって己が望みを掴み取ろうとする類の女だ。自ら口にした通り、戦争に勝つつもりでいるのだ。
 だが同時に、二人のことを好きだと言ったのも嘘とは思えない。
 この件に関して今までこの少女に抱いた印象、いずれも外れてはいないが的を射てもいないのであろうことは察せる。
「俺から見たお前で、一番確実なのは処刑人に怯えているということだ。お前は奴に会いたいのか、会いたくないのか。会わせたいのか、会わせたくないのか。正直興味は湧く。さっきも言った通り、やめておけと俺の勘は告げてるがな」 
「私にだけ教えてくれるというわけにはいきませんか」
「腹を割って話せよ。こんな曖昧なまま欲しいものを貰おうなんて虫が良すぎるぜ」
 そもそも確かな潜伏先を見つけられるのか否かは別として、教えてしまえばそのことによって玲奈が為す何かに対して光次郎にも責任は生じる。知らん顔というわけにはいかない。玲奈が何をしようとしているのかくらいは知っておきたかった。
 それは道理と観念したか、不機嫌そうに眉根を寄せながらも玲奈は声を潜めた。
「これは内密に。先ほども言った通り、勝てないはずだった戦いを二つ、我々は勝ってしまいました。結果、周囲からの期待は大きくなり過ぎ、素也さんたちにも過信が見られます」
 理解できる。一度だけなら偶然かもしれない。しかし二度できたならば、三度目以降もできるのではないかと錯覚してしまうのだ。特に今の財団派は英雄を欲している。過剰に期待をかけ、そして彼らは応えるべく自分たちを信じる。
「冷静だな」
「私の役目だと思っています。<呑み込むものリヴァイアサン>には、この幻を打ち砕いて欲しい。今の状況で<魔竜>ファフニールに負けるわけにはいかない。皆の希望は消さないままで、うまく負かしてくれる相手はおそらく他にありません」
「処刑人になら負けても仕方ない、か。お前の目論見通りいくか?」
 光次郎が疑問に思うのは幻想を砕けるか否かではない。そもそも<三剣使いトライアド>は話をしに行くのだから、会話するだけで終わる可能性がある。それ以前に何も言わぬまま立ち去ってしまってもおかしくない。
「お前、何をする気だ?」
「だから、私にだけ知らせて欲しいのです」
 瞳に潜む怯えは晴れず、しかし決意が滲むのを光次郎は見た。
 その理由は続く言葉で示される。
「あらかじめ<呑み込むものリヴァイアサン>と交渉しておきます。対価はどうすればいいのかは分かりませんが」
「……ああ、そうか。そういうことか」
 得心した。
 この少女は、重圧によって奈落へ導かれつつある想い人を、命を懸けて救うつもりなのだ。
 独りで会うとなれば、彼女の力量では処刑人がその気になるだけで死ぬことになるだろう。
 会いたくないし、会わせたくない。会わなければならない、会わせなければならない。
「損な役回りだ」
「そうでもありませんよ。上手く立ち回れば大手柄、仮に死ぬことになっても素也さんの心に私は深く刻み込まれるでしょう」
「死を美化するなよ、アホ。おまけに気付かれなきゃ手柄にもなりゃしねえ」
 怖くないはずはない。死んでもいいなどとは欠片も思ってはいまい。他の二人に譲るなど真っ平ご免だろう。
 それでもそう決めたのだ。できるからこその、使い手と剣化<魔人>ブレイドメイデンの絆なのだ。
 光次郎は長く息を吐いた。
「だが、いいだろう。あくまで見つけられたらだが、最初に教えるのはお前にしよう」
「ありがとうございます。このお礼は、命が残っていればいずれ」
「要らねえよ」
 言い残し、天井の穴から屋上へと一跳び、音もなく着地して周囲の様子を探る。街の音はここまで届いているが不穏なものはない。報道ヘリも来てはいないようだ。
 中天から西に寄った太陽は眩暈がするほどに眩く、熱い。
『教えるのは、な』
 聞こえぬよう、声はなく口だけが動く。
 年下の少女に死を覚悟させるのは、趣味ではない。
 ふと、口うるさい序列最下位のことを思い出した。





[30666] 「笛の音響くこの空に・四」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2019/12/14 23:52



 見つけてしまったかもしれない。
 月村月人つきむらがつとは嘆息した。
 財団派中枢、オーチェからは要注意敵性戦力について通達が一つ来ている。
 背格好、二人組であること。判別はその程度でしかできないが、まず間違いない。この陸橋からおよそ100メートル向こう、駅ビルを出て、どこかへ行こうとしている。いや、立ち止まった。誰かに声をかけられているようだ。
 月村月人は平穏な暮らしを望んでいる。財団派を選んだのはまさに高校に通い直して学生生活を謳歌したかったからであり、争いごとになど巻き込まれたくはなかった。ましてやこんな形勢不利な状況で、自分では処理できるはずのない巨大な脅威に近づくなど。
 幸いなのは監視の必要もないことだ。見つけたならばその旨を連絡だけして退避すべしとなっている。
 早速ポケットから携帯端末を取り出し、もう一度標的を確認しようとして目を剥いた。
 視線を外したのは一瞬のことだったはずだ。それなのに片方の姿が消えている。それも危険な方が。
 視覚、聴覚を更に強化。本能が全力で危機を喚き立てる。脂汗が浮いた。ほんの少しの異変も逃してはならない。こんなところで死ねない。まだやりたいことがある。
 僅かに、風を切る音。上だ。しかし夜空には何も見えない。
 見えないまま、首が宙を舞った。
 陸橋に人の姿は幾つもある。なのに誰も気付かない。
 死した<魔人>は消えてなくなるとはいえ、その前に血はしぶいた。そして人の姿が一つ消えた。なのに誰も気付かない。
 ただ紅い風が吹き抜けた気がして、訝しげにあたりを見回した者があったくらいだ。それでも気付けない。
 まるで、認識することを許されていないかのように。
「よし」
 淡く輝く刃を消し去り、清々しい笑顔で俊介は頷いた。




「……なんだありゃ」
「こっちにもよく分からん。詮索しない方がいい」
 呆気にとられた風の相手に、烈火はそう告げてから軽く頭を振った。
 知人、と言っていいのだろうか。当てはまるには違いないが、気分としてはしっくりこない。
 有り体に言ってしまえば人身売買の商売敵だ。二度、出し抜きあった。
「何の用だ? いや、とにかくちょっとだけ離れよう。いくらなんでも人の流れのど真ん中はまずい」
 顎で駅ビルの壁際を指す。夜はまだ浅い。雑踏はざわめきに満ちて、少し離れただけでもただの人間ではまともに聞き取れまい。
 <竪琴ライラ>の襲撃は大丈夫だ。この人群れの傍で仕掛けてくる可能性は万に一つもないし、もしそれが起こっても今のように俊介が片付けてくれるだろう。
 <魔人>の気配が分かるのだと言っていた。400メートル程度まで感知できて、近づくほどに正確性が増してゆくのだと。目の前のこの商売敵と向こうにいたらしき<竪琴ライラ>、二人の<魔人>が敵であるか否かをどのように弁別したのかまでは不明だが。
「それで、何の用なんだ?」
 問いを繰り返す。一月ぶりに会うが、やつれた印象がある。<魔人>が痩せた例など聞いたこともないから、それは姿勢や表情に起因するものなのだろう。
 果たして商売敵は卑屈な笑みを浮かべた。
「そっちはうまくやってるか?」
「……仲間は三人ともやられた。ボロボロだよ」
 おそらくは何か面倒ごとを持って来た。そう烈火は推測して壁を作っておく。
 だが、相手はそれを踏み越えて来た。
「頼みがあるんだ」
「こっちもぎりぎりなんだよ」
「いい話なんだ」
「ならお前だけで独り占めしてろよ」
「お前、金はあるのか?」
 詰め寄って来るのを烈火は押し返し、しかしそこで力が緩んだ。
 好機と見て相手は更に捲し立ててくる。
「逃げてるんだろ? 持ってても精々数十万くらいだろ? 今はよくてもそれでいつまでやってけるんだ?」
「余計な世話だ」
 強気にもう一度押し返してみたものの、言われたことは烈火自身の危惧でもあった。
 いくら稼いでみたとしても、年齢に加えて自分を証明する手段に乏しい以上、銀行に口座を開設するわけにもいかない。現金はどこかに隠しておくか持ち歩く必要がある。そしてスーツケースに入れて仲間が持ち運びしていた金はあの夜に<竪琴ライラ>の手に落ちただろう。今所持している金額はもう三万円を下回っている。
 誰かから手っ取り早く強奪することはもちろん可能なのだが、問題は俊介である。戦いに一般人を巻き込むことをよしとしない彼がそんなことを許すとは思えない。
 無難に金を手に入れる手段があれば願ったり叶ったり。だがそもそも今持ち掛けられようとしているのは強盗の方が遥かにましな手段であろうことは想像に難くない。懐が心許なくとも、結局は受け入れられるはずがないのである。
 ところがまだ拒絶が伝わってくれないのか、なおも押して来た。
「必要なのは十代前半の女の子だ。一人でいい。供給が激減してるおかげで単価が跳ね上がってる。いや、それ以上に買い手がいいんだ。一人だけで一億近く貰える」
「一億だと!?」
 驚愕よりも怖気が走った。
 金額が示すのは文字通りの価値である。受け取る金の重みは差し出す商品の質量、そして仕事の責任だ。
「論外だ、100パーセント厄ネタじゃねえか!」
「お前が八割、いや九割でもいい。頼むよ、これに賭けてんだ」
 ぎょろりと剥いた目に尋常ならざる気配。
 そうだろうと思える。この男の<魔人>としての力量は平凡だ。人間相手ならともかく、同じ<魔人>を相手取って腕っ節で状況を切り抜けてゆくのは難しい。組織立って動く騎士派と個々の能力に優れる剣豪派が出張ってきている今、見つかるだけでもう終わりを免れない。
 とはいえ逆に、そうでありながらかつては商売敵をやっていられただけの器があるのだ。その器を形成する要素がここで爪を閃かせた。
「先方にはもうお前の顔と名前を伝えてある。この仕事を下りれば契約違反でお前も消されるぜ? 賭けだったがな、生きててくれて助かったぜ」
 引き攣った、下卑た笑み。
「厄ネタ、厄ネタだよ、ああ認めよう。なにせ依頼主は<スィトリ>だ。この商売やってるなら聞いたことくらいはあるだろ?」
「てめっ!?」
 息を詰まらせ、胸倉を掴み上げていた。
 <スィトリ>、それはヨーロッパに拠点を置くとされる売春組織だ。広く根を張り、各国がやっきになって摘発しようとするも成せないでいる。警察組織はおろか、領分を越えて派遣された軍隊さえも壊滅させられたという。
 理由は二つ。<スィトリ>の影響は政府の中枢まで深く浸透しており、駆逐しに出たはずが罠に誘い込まれているに等しいということ。そして、そもそも<スィトリ>は<金星結社パンデモニウム>の下部組織であるということだ。
 遠く離れ、<竪琴ライラ>が目を光らせている日本だからこそ、侵蝕を許さなかったのだ。
 それが依頼主であるという。しかも特定個人ではなく十代の少女などという大雑把な指定で桁の違う大金を払うというのである。意味が分からない。
「分かってんのか? 引き渡した瞬間に消されてもおかしく……いや、消されるぞ」
「落ち着けよ、注目されるぞ、おい」
 ふてぶてしい笑み。無理は見えるが今や媚びはない。
 視線が集中しているのは分かる。言うとおり、注目されるのは避けたい。煮え立つ腹を宥めながら、言葉だけを繰り返す。
「消されるぞ、お前も俺も」
 高過ぎる報酬は、そもそも払うつもりがなければ何らおかしいことではない。<スィトリ>ともなれば自分たちを容易く屠れる人材を抱えているだろう。商品と引き換えに渡されるのが死であると想像することは容易い。 
 だが、返って来たのは不思議なほど確信に満ちた否定だった。
「それはない。<スィトリ>は日本に進出するつもりだ。最初から信用を投げ捨てる真似はしない」
「<竪琴ライラ>がやらせると思うか?」
「<竪琴ライラ>は近いうちに潰れる。お前も追われてるんだろ? それで<竪琴ライラ>に期待すんのかよ? 笑えるな」
「潰れる……?」
 追手としても、あるいはかつて在籍していた組織としても強固としか思えないあれが崩壊するなど、烈火には想像できなかった。
「どうやって?」
「知らねえよ。こちとら底辺の雑魚だぞ? 上の方のことなんざ分かるわけねえだろ。ただ……」
「ただ?」
「<スィトリ>が日本に進出しようと考えたのは、<竪琴ライラ>が弱体化したからだ。もう割に合わないわけじゃあないってことなんだからなあ?」
 まだ掴んだままだった手が振り払われる。
「こいつは賭けだ。本当に<竪琴ライラ>がくたばるかどうかなんて、蓋を開けてみなきゃあ分からない。だが震えて暮らしたっていいことなんざ何も起きるわけがない。そうだろ? そんな腰抜けを誰が省みるんだ? 俺は弱い。弱いからこそ一歩先に進んでおく必要がある。いつだって賭けなきゃいけない」
 ぎらぎらとした眼差し。野心と欲望に満ちて、心に抉り込んで来る。
 理解はできた。今のまま<竪琴ライラ>から逃げ続けるにも限度がある。破滅の時を棒立ちで待つよりは、敵方に賭けた方が遥かにましだろう。
 それでもなお、飛びつく気にはなれなかった。
「<スィトリ>がましだとでも? 上手くいけば今の状況からは逃れられる。だがその後を誰が保証してくれる? 代わりに<スィトリ>で犬にされるのがオチだ。俺は自由でいたいんだよ」
「勘違いするなよ、烈火。お前に都合のいい選択肢はないんだ。さっきも言った通り、既に向こうには伝えてある。お前は俺のいうことを聞いて生きるか、話を蹴って死ぬかだ。それとも腹いせに俺を殺してみるか? それこそ<スィトリ>を敵に回す行為だがな」
 あくまでも強気の恫喝。おそらく成功の暁には<スィトリ>の末席でも用意されているのだろう。そこにどれほどの信憑性があるのは分からないが。
「時限は明後日……いや、三日後なのか? 午前零時、要するにあと五十三時間くらいか。まあ、好きにしろよ。伝えることは伝えた。俺を道連れに死んだってお前の自由だ」
 その言葉を最後に背を向ける。去り行く足取りにも、腹立たしいほど迷いはない。本当に、腹いせで嫌がらせでもしたくなるほどに。ここで叩き潰してしまえばどれほど爽快だろう。
 だが、烈火の理性が勝った。<スィトリ>のことをさて置いても、衆人環視の中、<魔人>の力を振るうわけにもいかない。
「クソが……」
 忌々しい。面倒などという言葉で済まされるものではない。
 この<竪琴ライラ>に目をつけられている状態で人を浚って来いというのだ。そればかりではなく俊介の問題もある。このことを知っただけでも激怒する可能性が高い。今、おそらくは<竪琴ライラ>を見つけて始末しに行ってくれていたのは僥倖だった。
 やるなら俊介を一度遠ざけなければならない。上手く説得できればいいが。いかに子供じみているとはいえ、容易く誤魔化されてくれるとは思えない。ほんの四、五歳であってすら不合理を見ない振りをしながら様子を探るくらいはやってのけることがあるのを知っている。
 いや、うまくやるしかないのだ。恐れていても始まらない。
「くそ、くそ……」
 壁に背を預け、ずるずると滑り落ちる。
 どうしてこうなる。楽しく暮らしていたいだけなのに、何もかもが狙い済ましたように自分を陥れるべく組み上げられている気がして来た。
 落ち着け。自らに言い聞かせる。一つずつ片付けてゆくのだ。すべてを一度にやろうとしてはいけない。少しずつ、確実に厄介ごとを処理して終わらせる。最後にどんな形になっているかはまだ考えない。
 十代前半の少女でありさえすれば一億円。ありえない。改めて考えても都合のよすぎる条件だ。事実上それは、日本人であることくらいしか意味がない。もちろん平和であるこの国の出身であることは売春組織にとって間違いなく希少性の高い要素だろうが、<魔人>がその気になりさえすれば手に入れることは難しくない。必ず裏がある。
 あの商売敵が嘘をついているのか、あるいは裏の意味を考慮することなく飛びついてしまったのか。
 恨まれているとするなら、嘘をつくことで間接的に殺そうとしているのだろう。それはあり得る。仮にも競合者なのだ、自分たちが彼らにとてつもない不利益を与えたことがあるのかもしれない。だが、生き延びるのにさえ必死のこの状況で拘るほどだろうか。
 大きく溜息をつく。一緒にやってきた仲間たちを思う。彼らがいればもっとましだったろう。決断することに恐怖を感じずに済んだに違いない。
 頭の切れる誰かがいたというわけではないが、三人寄れば文殊の知恵という。一人の人間の思考はどうしても凝り固まって、言われてみれば何故思いつかなかったのか不思議なほどに当たり前の考えにも至らない。しかし三人、四人いたならば、凝り固まったまでも広く網羅できる。検討し合うことで解れさえもする。そうして得た結論ならば自信も持てるのだが。
 もう一度溜息。
 失ったものを嘆いている暇はない。頼れるのはもはや自分だけだ。
「……少なくとも、誰でもいいってのは間違いだろうな」
 本当に<スィトリ>からの依頼だったとして、本当に十代前半の少女だけを条件にしたのだとして、けれどもそれが本意であるとは限らない。日本に進出するために現地の優秀な人材を発掘する目的で、一億の価値を持つ商品を持って来られるか否かを試験しているのかもしれない。
 一億の価値となると、条件は二つ浮かぶ。
 一つは容姿とスター性。一億程度ならば軽く稼ぎ出す者はあるだろう。
 しかしこれを見つけ出すのは難しい。実際には現役のアイドルでも浚って来るしかないに違いない。十代前半となれば至難の業だ。一人しか思い当たらない。
 もう一方は背景である。財力か権力かを有する親あたりを動かすことができればいい。
 こちらは調べさえすれば幾人かは挙げられるのではなかろうか。より現実的だ。
 そして<スィトリ>が日本に進出しようとしているのであれば望んでいるのは後者だろう。財界、政界に足場を作りたいはずなのだから。
 幸い情報屋に心当たりはある。
 決行するならば明後日。浚うこと自体は<魔人>が護衛してでもいない限り容易いが、時が来るまで人間を一人隠しておくのは難しいからだ。
 為すべきことは弾き出せた。
「クソがっ……」
 が、口を突くのは怨嗟の声だ。
 これを実行するということは、<スィトリ>の日本進出の足がかりを作るということであり、この国の敵になるということを意味する。
 そんな大それたことなど望んではいない。ただ楽しく暮らしていたかっただけだというのに。
 だが、こうなってしまった。
 道行く人々は、数百人、あるいは数千人いながら、一瞥する程度で誰も注意を払わない。
 嘆く少年など、社会にとってただの背景でしかないのだ。
 まだ夏を残す大気に全ては埋もれてゆく。
 地の底から酸素を求めて烈火は喘いだ。







[30666] 「笛の音響くこの空に・五」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2020/02/09 12:54



 空が白かった。
 正午まであと少し。薄く霞でもかかっているのだろうか、光は強く、青は弱い。
 この一帯で最も背の高い県庁の屋上で、視線を上から下へと戻し、初瀬光次郎は口の端を歪めた。
「なるほど」
 先ほどまで<呑み込むものリヴァイアサン>を追っていた。あの格好は目立つ。噂話を元に一度捉えたならば逃すはずもない。そう思えたのだが。
 建物の影に入り、視界から消えた瞬間にかき消すように存在まで消えてしまっていた。
 期待された勘はそれでも少しの間ははたらいていた。まだ近くにいると、鼻の奥がひりついていたのだ。しかしそれも数秒のこと、今はもう何も感じない。
 どうなっているのか、もちろん何らかの唐繰があるのだろうが。
「そりゃそうだ。仮にもあの処刑人が力だけのアホなわけないわな」
 最近、一つ覚えのように高いところへ登っている気がする。しかしやはり高所から視線を通すのは基本にして最も有効な手段なのだ。
 そして、有効なはずのこれに引っかかるようでいてその実、捕まえることはできない。目撃情報を集めようと、最終的には全てが無意味になる。
「引っ掛けられているのはむしろこっち、か」
 誘導されている。注意を引きつけておいて、何らかの手段によって裏をかく。それもまた基本ではあるが、手がかりから進めざるを得ないこちらとしては出された餌に食いつかないわけにもいかない。
 どうやって姿を消しているのか、それさえ分かれば打開できるのだろうが。
 屋内、あるいは地下に身を隠した可能性は低い。実際に幾度か探してはみたものの、行き交う人に尋ねてみてもあの印象的な姿を見たという者がないのだ。
 実際、いざとなっても身動きがとりにくいだろう。大立ち回りを演じることはもちろん、壁や天井を破って離脱するだけでも社会の目に大きく留まってしまうおそれがある。
 だから極力人目につかない手段をとっていると考えられるのだが、そこから先が完全な闇なのである。
「<闘争牙城>にでも入ったか……いや、さすがにそのくらいは既に検討されてるか」
 <魔人>同士が何かを賭けて決闘を行う<闘争牙城>、欲望溢れるあの閉鎖領域は日本中に入り口が存在するという。ただし入った場所からしか出られないため、自ら袋小路に入り込むに等しい。こちらは待ち構えていればいいだけだ。<闘争牙城>の特性を知っている相手から逃げるのには使えない。
 財団派にも<闘争牙城>を知らない者は多いだろうが、オーチェが把握していないはずもなく、一度は指示しただろう。
 あるいは、ともう一つの閉鎖領域の存在が頭を過ぎる。
 常夜の<魔人>街。明けない夜に抱かれた、<魔人>のみが住まう廃墟群。一度入れば出ること能わぬ蠱毒の壷。唯一の例外は<魔人>街の王であり、脱出したければ王を倒し王となる他ない。
 実しやかに囁かれはするが、実在するかは怪しい。出られないはずなのに中の事情が分かっているというのは、まさに王が言いふらしでもしない限りあり得ないはずだからだ。
「参ったな」
 気になる。あの少女のこともあるが、何より追い始めてしまったなら追い詰めたい性分だ。
 しかしこれはついでなのだ。元よりそういう話であるし、今回も偶然早々に耳にしたからこうしてここにいる。
 光次郎の仕事はあくまでも財団派への協力、オーチェが静観と方針を定めている<呑み込むものリヴァイアサン>を深追いすることは望ましくない。
 もしかすると、そういうことなのか。
 膝を抜く。制御された脱力から、振り返りざまの抜刀斬撃。宙空より湧き出した大太刀、クラウンアームズ『ガチリンノカケラ』が蹂躙する空間、間合いは広い。
 僅かな気配があった。敵とも味方とも知れぬ、誘う意図。殺し合いの中で身につけた感覚が、思考を経る前に身体に対応させていた。
 とはいえ、これは牽制だ。間合いの広さは至近での取り回しの悪さでもある。裂いたのが空のみであると覚るや、懐に潜り込まれぬよう、自ら振るう太刀の流れに乗りながら身を低め、右の脇構えへと移行した。
 そして、溜息にも似た低い呟きが漏れた。
「……何やってんだ、お前」
 光次郎の間合いを少しだけ外し、佇んでいたのは一人の女だ。
 年の頃は二十歳ほど、薄紫の着物着て、これもまた淡い紫の髪を結い上げて、薄く笑みを湛え、こちらを見つめている。
 どの人種ともつかぬ相貌は震えが来るほどに美しい。人間には存在しないはずの色だというのに、白い陽光に融ける髪は黒よりも自然に思えた。
 見慣れた姿だ。剣豪派拠点である<無尽城郭>で、朝はごろごろし、昼は猫と戯れ、夜は早々に布団に入る高等遊民。その髪と瞳の色からなのか、紫丁香花ライラックと名乗っている。
「もちろん、お仕事っすよ、光次郎君」
 手にした扇子を開いて口許を隠し、替わりとばかりに悪戯っぽく目許に艶を湛えて彼女は答える。
 それそのものが笑い話ではあった。ライラックは神官派におけるステイシア、財団派にとってのオーチェと同様の、統括役であるはずの存在だ。しかし実際に指示を出しているのは序列二位、<童子切安綱>伯耆吾郎ほうきごろうであり、遊んでいるライラックの姿しか目の当たりにしたことはない。
「いいですね。驚きはしませんか」
「他の五人が強さなり運営手腕なり持ってるってのに、お前だけ本当にポンコツなんてアホなオチはないだろうからな。どうせ役立たずを演じてるんだろうとは思ってた」
 刃を消し、戦闘態勢を解く。それが主目的であるか否かはさておき、わざわざやって来たのだから自分に用はあるのだろう。
 ライラックはなおも目を細める。歯切れ良く言葉は続く。
「組織運営とか、あたしの専門外ですからね。正直吾郎君がやってくれて助かってますよ。まあ、そもそも唯一統率の本職なのが猪エリスってところが皮肉なんですけどね」
「まとまってはいるんだろ?」
「なにせ危なっかしくて放置しておけませんからね、あの子」
 ここで扇子が閉じられた。絹めいて繊細な黒の布手袋、細く長い指が蜘蛛のように己の白い頬を這う。
 <無尽城郭>でだらけているときとはまるで異なる妖しいまなざしに、じっとりと汗が湧いてならなかった。
「それで? まさか仕事をサボりに来たか?」
「単刀直入に言いましょう。光次郎君、<呑み込むものリヴァイアサン>を追わないでください」
 予想できた言葉ではあった。先ほど思ったとおりだ。
 伝言ではなく、今まで見せることのなかった姿を見せてまで告げたい内容など、流れに反した行動に対する警告くらいしかない。
 しかし同時に、今はまだ<呑み込むものリヴァイアサン>をたまたま追った風にしか映らないはずなのだが、なぜこうも断定的な物言いをするのかは不思議である。可能性を先読みして釘を刺しに来たのか、思考を読めないのはある意味いつも通りだ。
「理由は?」
「追った場合、どういう風に事態が進んでいくかは色々あるんでしょうけどね、どうなっても碌なことにならないんですよ。たとえば――――」
 くるくると、閉じた扇子が時計の針めいて円を描く。
「見つけられなかった場合、時間の無駄です。その間に君ができたはずの仕事はどのくらいになるでしょうね」
「俺には見つけられねえって?」
「君が急成長でもしない限り、そうっすよ。現に見失いましたよね、さっき」
 微かな笑みが腹立たしいが、もっともな指摘だ。どう逃れられたのかも分からないでは、次に同じ状況になっても対処は難しいだろう。
 だからといって退く気はない。やるなと言われれば、むしろやりたくなってくるものだ。
「で、お前なら追えるって?」
「そういうのもあたしのお仕事なんですよ、光次郎君。まさに、ライラックさんはポンコツではなく出来る女なんです。戦闘なんかは苦手ですけどね」
 軽い煽りはそれ以上軽く返される。
 組織運営は専門外、戦闘は苦手。ライラックは諜報活動を専門としているということなのだろう。それにしてはいつ見ても遊んでいて、まともに活動している時間などありそうには思えない。
 顔に出ていたのか、ライラックは悪戯っぽく笑った。
「いけませんよ、光次郎君。いい女には秘密がつきものっす」
「アホ抜かせ」
 半ば口癖と化している言葉を吐き、どうしたものかと考える。ライラックは口先で誤魔化される女ではない。真意に気づきながら誤魔化されたことにしてくれることはあっても、欺瞞に目を眩まされることは元からない。見た目通りの遊び人ではないだろうと光次郎が考えていた理由の一つでもある。
 そもそも、ふてぶてしい嘘で押し通すならまだしも、せせこましい舌先で切り抜けるのは気が乗らないのだ。
「で、続きは?」
 どう事態が進んでも碌なことにならないとライラックは言った。ならば見つけたときも想定しているはずだ。
 扇子がまた開いた。
「追いついてしまったら、正直<呑み込むものリヴァイアサン>がどう反応するのかはあたしにも分かりません。ただ、敵対的だったら君は死にます」
 ライラックは光次郎の顔色を窺うこともなく、いともあっさり負けると告げた。
「ほお」
 必ず敗北すると断言されたに等しくとも、光次郎も眉をぴくりと動かしただけだ。
「そこまでか」
「何より容赦がありませんからね。処刑人は伊達じゃあないですよ」
 開いた扇子で己の首を掻き切る仕種。消えない口許の薄い笑み。それでいて印象は煽るでもなく、どうにも捉えきれない。
「とはいえ、死ぬと聞かされて怖じる君、君たちではないのが困ったものっすね」
 剣豪派は強さを得ることを重視している。その強さは、決して一様なものではない。闇討ち上等から正々堂々とした一騎討ちまで千差万別だ。
 しかし、共通する芯は、やはりある。
 強くなるとは生きていてこそだ。勝てもしない相手に突撃して無意味に死ぬなど、鼻で笑う他ない。死に陶酔する愚昧はいない。
 同時に、捨てねばならぬとき、賭けるときに怯えて手元を狂わせることもない。
 元より刃の上を歩いているのだ、当たり前のように死ぬのだ。必要とあらば何を惜しむことがあろうか。
「しかし命を捨てる意味はありますか、光次郎君」
「捨てる意味はないな。成功させて初めて意味ができる。さっきお前が言ってたことを裏返せば、敵にならない可能性も充分あるはずだが?」
 どう反応するかは分からないとライラックは言った。痛いところを突いてやったとは思わない。それより更に前、どうなっても碌なことにならないと口にしていたことも覚えているからだ。最後に回したのは、むしろそれこそが最も口にしにくいからだろう。
 果たしてライラックは莞爾と笑った。
「最悪です。やばい奴として敵対宣言したのに仲良しこよしされたんじゃあね。火のないところに無理矢理立てられた煙ならあたしが処理しますけど、実際に燃えてたら限度があるんですよ。そりゃもちろん、見つからなきゃいいんですが、嘘でもそういうことにしたいであろう向こうさんは血眼ですよ。百に一つの可能性も排除したいですね」
「なるほど、めんどくせえ話だ」
 理解はできた。袂を分かったはずの処刑人とまだ繋がっていたなど、内外問わず<竪琴ライラ>に対する不信を増幅、爆発させる燃料以外の何ものでもない。
 そして背景を推察することも難しくはなかった。
 実際には処刑人まで辿り着けないのであれば放っておいてもよかったはずだ。それをわざわざ探すなと忠告しに来たのは、周囲にいられるだけで邪魔になるからだろう。たとえば、人知れず処刑人に連絡をとりたいのに、身を隠す能力のない輩にうろつかれたせいで敵の目を引いてしまうのだったりして。
 恐れているのは、ライラックが口にした通り友好的接触を敵に利用されること。火が存在しているがために、煙には必要以上に神経質にならざるをえない。
 光次郎は口にしなかった。ライラックは今この時も壁の耳を警戒しているはずだ。自己の反発心を快楽で満たすために要らぬことを口走りはしない。
 それでも言っておきたいことはあった。
「<三剣使いトライアド>はどうする? 早晩潰れかねんのは事実だろう、ありゃ」
「察してもらえて何より。清濁併せ呑める子は好きですよ。<三剣使いトライアド>に関しては、君が関わらなくとも止めるべき案件ではあるんですよ。処刑人に会えるかもしれない、話が通じるかもしれない、上手く負かしてくれるかもしれない、周囲からの重圧が弱まるかもしれない。『かもしれない』はせめて一つだけに収めておくべきでしょう。無茶苦茶言ってるとは思いませんでしたか、光次郎君」
 調べたのか、あの場にいて聞いてでもいたのか、案の定ライラックは玲奈との会話を踏まえた反応をした。
 双眸が針のように細められ、見たこともないような酷薄な色に染まった。
「ええ、追い詰められている。正常なつもりでいて正常じゃあない。病識がないというやつですね。しかし彼らには申し訳ないですが、今はそれどころじゃあありません。もうちょっと頑張ってもらうしかないっす」
 正直なところ、あまり見たい顔ではなかった。あの役立たずでのほほんとしたライラックが意外と嫌いではなかったことを今になって知る。
「お前、間違ってもそんな顔をあいつに見せるんじゃねえぞ」
「真朱ちゃんはそうやわでもないと思いますけどねえ。お説教くらいそうなんでやりませんけどね」
 ライラックはまたも薄い笑みを浮かべる。夏場に放置された氷菓子のように溶けたいつもの様からは想像もできない、妖艶で、寒気のする。
 それとともに、『あいつ』としか言っていないにも拘らず、玲奈ではなく真朱のことであると的確に当ててくる洞察力に戦慄する。
「でも何だかんだ言って光次郎君は本当に女の子に甘いですね。玲奈ちゃんにしても、相談してきたのが素也君本人だったら、てめえで何とかしろで切って捨ててましたよね、多分」
「女がどうこうは知らねえよ。男はてめえのメンタルくらいてめえで何とかするもんだろ」
「むーん、ま、今は揚げ足を取るのはやめておきましょう。色々と忙しいですからね」
「おい」
 困ったように笑われるのは不本意だった。おかしなことを口にしたつもりはない。
 しかしライラックは扇子で口許を隠してころころと笑うばかり。やがて再び露わにしたときにも、まだ笑みの色が含まれていた。
「ああ、そうそう。あたしは思うところを告げましたけどね、実際にどうするかは君の自由です。自由というか、力ずくで君を止めようなんてしてたら、それにかかりっきりになって肝心のお仕事ができなくなってしまいますからね。本末転倒というやつです」
 いつしか靄が濃くなっていた。天頂近くに光は見えるが、正確な位置が曖昧になっている。
 音もない。眼下の、これもまた白い薄膜の向こうに押しやられた人の営みからは<魔人>の聴力をもってしても何も聞こえない。
「お前の仕業か」
「用心っす。またお仕事に戻る前にあたしの痕跡は消しておかないと、<赤旋風リッキー>に感づかれたら面倒極まりないですからね。あれはそのくらいの嗅覚を持ってやがります」
「リッキー?」
 安直なあだ名めいた響きに光次郎は眉根を寄せた。
 最初に思い浮かんだのは、あの人売りを掻っ攫って行った赤い剣の男だ。そして次に新たな脅威を想定する。
 が、正解は前者だったようだ。
「光次郎君もばっさりやられたって聞きましたよ。あれが相手じゃあ、仕方ないですけどね」
「待て、あいつのことを知ってるのか!?」
 思わず詰め寄っていた。正体不明として宙に浮いていたはずなのに、まるで当たり前のように断定されたことに動揺を禁じえなかった。
 そしてライラックもまた、訝しげな顔を見せた。
「知ってるも何も…………いや、そういうことですか。オーチェはもう、そんなことすら捉え切れていないと。可能性として想定はできている、けれど確信はできないと。だから<呑み込むものリヴァイアサン>をどうこうなんて暢気なことを考えてる人がいるわけだ」
「おい!」
「光次郎君、伝言をお願いします。オーチェに、君の口から直接です。君の知りたいこともそこで教えてもらえるでしょう」
 有無を言わせぬ口調。呑まれたわけではない。けれど今は容れてやろうとは思えた。
 麗しい相貌に、先ほどまでのどことなく人を食った、あやふやな様子がない。
「該当人物は紛うことなく鏡俊介。それを前提に加えて大至急対策を練られたし」
「カガミシュンスケ……鏡俊介。聞き覚えがあるな」
 その記憶は片隅ではなく、むしろ中央にあった。しかし薄っぺらく、響き以外には碌に思い出せることがない。その名を聞く機会は比較的あったように思うが、確か敵だったはずだ。
 ライラックが苦笑した。
「どういうわけか前線にほとんど出てこなかった上に、いつも冠付きで呼ばれてますからね。ええ、いつもはこう呼んでます」



<奏者>プレイヤー鏡俊介。<横笛フルート>の首魁ってやつっす」







[30666] 「笛の音響くこの空に・六」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2020/06/30 00:41
 熱の残滓がアスファルトから立ち上る。
 九月。まだ汗の滲む気候でありながら、日が落ちるのは確実に早くなっている。
 その夕闇に、浚うのだ。
 人の目、機械のレンズの届かぬ場所、瞬間に、背後から人ならざる速度で確保する。
 これは少なくとも烈火にとって難しい所業ではない。問題はその後だ。
 唐突に加えられる加速度ゆえに脳に血が行かなくなるのか、あるいはただの恐怖からか、失神してしまう標的は少なからずいる。そういうときは楽だ。ガムテープで口を塞いで、手足を縛って、あとは目立たぬ場所で時間まで見張っていれば大抵それで終わってくれる。
 しかし意識を保っていられた場合は難儀する。標的は必ず暴れるため、押さえ込まなければならないのだが、加減が難しい。
 膂力の制御が苦手なわけではないが、死に物狂いで己の限界を超えて抵抗する力に対抗するとなると、それだけで人間の脆い骨格が軋む。少し間違えると二、三本は砕ける。
 意識を刈り取りたくとも、気絶と死が紙一重だ。初めてのときに、失神させるつもりで安易に腹を殴ったら、内臓が丸ごと破裂でもしたのか血を吐いてそのまま死んでしまった。
 以来、細心の注意をもって扱っている。
 結局は、声さえ出せぬようにしてしまえばただの人間がどれほど暴れようと<魔人>をどうこうすることなどできはしない。そのことに気付いてから楽になった。
 そして今回も暴れ疲れたところを縛り上げ、窓の外を見やって大きく息を吐いた。すっかり日も暮れ、瞬く星が満天に輝いている。
 身を潜めているのは近くにあった中学校の体育倉庫だ。南京錠は引き千切った。
 情報屋との交渉は難航した。当然というべきか、自分が既に<竪琴ライラ>に追い詰められていることは筒抜けで、関わること自体を拒否された。しかしそれを逆手にとって<竪琴ライラ>に存在を洗いざらい話すと迫り、今回を最後として情報を脅し取った。
 既に取引の信義を失った状態で得た情報にどれほどの信頼性があるものか、あるいはどこかに罠が仕掛けられているか分かったものではなかったが、後がない烈火としてはもう実行するしかなかった。
 標的は政財界に大きな影響力を持つ老人の孫娘。まだ小学生である。諦めたのか、今は横たわったままじっとしている。
 もちろん俊介はいない。用事があると言えば、それだけで拍子抜けするほどあっさりと離れてくれた。ただ、心配そうではあったが。
 今のところはうまく進んでいる。地獄へ行くか煉獄へ行くか、いずれ変わらぬ道行きだが、うまく進んではいる。
「……別に殺す気とかはまったくない」
 声をかける。
 応えは背の震えだけ。
「素直に言うことを聞いていれば安全だ」
 確証はないが、そう続ける。
 <スィトリ>がこの国に食い込むために少女をどう使うにせよ、長く影響を及ぼしたいなら無闇に傷つけるはずはない。
 語りかけながらも、こんなものは気休めにもならないことは理解していた。突然訪れた理不尽な運命を呪うほかにできることなどあるまい。
 いつもならばこんなことはしなかった。標的はただの商品だった。
 そのはずが今日はそう思えない。
 こうも幼いのは初めてだからだろうか。今までは成人か、十代であっても後半だった。
 静寂を乱す、鼻を啜る音。無論、少女のものだ。
 烈火の心も乱れる。染み付こうとしてくるのを必死に振り払う。
『今度さあ、沖縄行こうぜ!』
 仲間の幻聴こえが聞こえる。
『いいな、約束通りならしばらく遊んでられるし』
『仕事したくねー。めんどくせー。無限に金湧いてこねーかな』
『インフレ待ったなし』
『え、なんで?』
『何でってお前、供給が多すぎたら価値が落ちるの当たり前じゃん』
『めんどくせーめんどくせー話はいいんだよ。大事なのは今夜の金。手に入れたおあしで青い海へ!』
『そういや沖縄って<竪琴ライラ>がほとんどいないってマジ?』
『遠いしなー。頻繁に行き来するのは<魔人>でもしんどいわー』
 軽快に言葉を交わし、笑い合い、時間が来たら商品を届けに行く。
 金を受け取ったら遊び、尽きれば次の仕事を探す。
 充実していた。
 余計なことなど、何も考えずに済んだ。
 商品は商品であり、疑問を抱く余地はなかった。
 烈火は奥歯を食いしばった。窓から覗く星明かりが圧し掛かってくる。息の詰まる重みを分け合える相手はもういない。
 この少女はどうなるのだろう。今まで売って来た人間はどうなったのだろう。
 無意識に喉が鳴った。顔と指先が冷たい。
 思い知った。
 自分たちは目を逸らして来ただけだったのだ。仲間だけを見て、笑い声で掻き消して、自分を快で満たして。
 今も、見る先を夜空にすることはできる。
 しかし少女の身じろぎの、悲哀の、音が、声が、耳朶を打ち、容赦なく侵食してくる。聞きたくもないのに聞こえてしまう。
 必死に纏おうとしている鎧がそれよりも早く剥ぎ取られ、剥き出しの心を刃が突き刺してくる。
「……いまさら……」
 罪の意識に苛まれるなど何の冗談か。
 これは改心などではない。悔悟などではない。裁きの、破滅の時が近づきつつあることを察した己の浅ましい自己弁護だ。本当はやりたくはなかったのだと自らに言い聞かせる材料を作りたがっているのだ。
 それを理解しても、退けない。もう突き進むしかない。
 時間がゆっくりと過ぎてゆく。
 もう約束の時刻が近いかと何度も腕時計を確認して、まだ三十分しか経っていない。
 そんな中、足音を聞きつけた。
 見回りか、それとも生徒でも残っていたのか。
 少女の顔に手を当て、耳元で囁く。
「音を立てたら殺す」
 押し殺した声は慣れたものだ。少女の体が強張るのを覚りながら耳を澄ます。
 足音は真っ直ぐに近づいて来ていた。このまま入って来られるようなことになったら、騒がれる前に少女を連れて逃げるしかない。息を潜めて窺い、そして予想外の事態に言葉を失う破目になった。
 二度の、規則正しいノックの音。
『烈火? 入るよ』
 俊介の声だった。
 どうして居場所が分かったのか。それよりどうしてやって来たのか。最初から分かった上で泳がされていたのか。あれほどあっさりと承諾したことをもっと危険に思うべきだったのか。
 どう返事をすればいい。どの選択が正解になるのだろうか。
 混乱は烈火に次の行動を禁じた。
 もっとも、そもそも時間すらまともに与えられなかった。
 俊介は、『入るよ』と言ったのだ。
 扉も開けず、何も壊さず、この体育倉庫が幻影であるかのように摺り抜けて、鏡俊介は既に目の前にいた。
 全身に氷水を浴びせられたようだった。もはや逃げることも不可能だ。容易く追いつかれて一撃で殺される。
「これは……!」
 それでも何か弁明をしようとようやく声だけは出せたが、続く言葉は何もない。
 俊介は告げた。
「これが駅前で誰かとの話に出てた子かな」
 少女の顔を覗き込み、優しく笑った。
「ちょっと可哀想な気はするけどね、優しいご主人様に買ってもらえるといいね」







 そこは無機質な部屋だった。
 淡く茶色がかった白い壁と天井が作り出すのは四メートル立方の空間。光は天井そのものが降らせている。
 家具と呼べるものは黒檀の机とそれに対応する椅子が正面に一脚ずつあるのみで、来客は立ち尽くす破目になる。
 もっとも、不思議なことにこの部屋の主であるはずのオーチェもまた机の脇に佇んでいた。本来そこに座るべき存在が別にいるかのように、控えているのだ。
 この部屋は財団派にとって、剣豪派の<無尽城砦>、騎士派の<空中庭園>に相当する、<薄暮離宮>の最奥だ。この外側には無機質な通路と、左右に数多の部屋が連なっているが、使われているのはこの部屋だけである。確かに、各地に<魔人>が散らばっているのだから此処にはオーチェだけがいればいいのだろうが、それにしてもあまりに侘しい。
 しかし此処へ来たときには、光次郎はそのようなことはすぐに忘れる。
 虚空より即座に抜刀できる心構えで、気を漲らせておかなくてはならない。
 原因はオーチェである。
 戦うすべを磨く者には己の間合いがある。これより内へ侵入すれば如何様にも撃墜する、斬って捨てるという支配領域だ。敵手の間合いの侵略こそは戦いの要の一つとなる。
 オーチェの領域を感じる。物理的な圧を錯覚するほどに強く、そしてこの部屋の隅々にまで届いている。これを柳に風と受け流せる域にまで、光次郎はまだ至っていない。
 常在戦場とは言うものの、これほどまでに強烈であるのは異常だ。姿勢よく凛と立つオーチェは今も臨戦状態にある。
 もちろん、敵は光次郎ではない。此処にはいない何物かを想定し、常に敵としてあるのだろう。この、財団派領域内において最も安全であるはずの場所で不可解な話ではあるが。
 そして、どうしても思わずにいられない。もしも自分が奇襲をしたならば、果たして勝てるのか否か。
「さて、何を訊きたい?」
 伝言を受け取ったオーチェは怜悧な眼差し、声でそう問うて来た。
 光次郎はそこに感情を読み取れない。まるで理知の結晶、機械的にすら思う。
「鏡俊介って男についての知りうるすべてを」
 一切の遠慮をしなかった。あのときのライラックの反応は、標的について分かっていて当然であると言わんばかりだった。オーチェは相当な知識を持っているはずだ。
 果たして、返って来たのは予想を肯定する言葉だった。
「すべて、か。何から話したものだろうかな」
「時系列順でいいだろ」
「ふむ」
 オーチェは頷き、朗々と語り始めた。
「奴が<魔人>になったのはおよそ四年前、今のシステムが確立したばかりの頃だ。現在も生存している中であれより古いのは……おそらく世界中を探しても十名もいない。とはいえ、その頃にはまだ<竪琴ライラ>は存在していなかったし、奴も特に何もしていなかった。まともに認識することになったのは二年半前……と言えば何に絡んでの話か分かるか?」
「初めての大規模な反<竪琴ライラ>組織の発生か」
 光次郎自身は<魔人>となってからまだ二年も経っていないが、話には聞いていた。<竪琴ライラ>に対抗するために絶海の孤島に集結した<魔人>の群れがあり、<剣王>ソードマスター新島猛によって滅ぼされたと。
「選民思想に冒されてたとか言ってたが……」
「厳密に言うなら、そう評するのは不適当だな。なぜなら奴らはそもそも人間を人間として認識していなかった。大前提の領域で、犬猫の同類だとしか思っていなかったのだ」
「<横笛フルート>や<魔竜>ファフニールみたいにか?」
 光次郎はきつく眉根を寄せた。言葉の意味自体は分かるが、なぜわざわざそんな言い回しにしたのか、少し違和感がある。
 オーチェはかぶりを振った。
「いいや。たとえ悪党であろうと、文字通りの意味で人を人と思わないのは難しい。普通の人間を食いものにするのは、利益もあるだろうがそれとともに己の優位に酔いたいからだ。考えてもみるがいい。犬よりも早く計算問題が解けたからといって、いい気分になれるか? 内心では同列に扱っているからこそ優劣に意味が出る」
「分かるような分からんような」
「感覚的にしっくりこないのはお前が真っ当な感性の持ち主だからだ。言ったように、人を人と思わないのは難しい。そうだな、実例を出せば分かるかもしれん」
 オーチェの怜悧な眼差しは変わらない。憤るでもなく、嫌悪するでもなく、淡々と告げる。そうであるのは、あるいは口にする内容がおぞましいからだろうか。
「奴らの中に、ペットには服を着せるべきかどうかで大真面目にいがみ合った二人がいた。ここで言うペットとは人間のことだ。その二人は虚栄心を満たしたいわけでも嗜虐心に流されたわけでもなく、本心から『ペット』のためによかれと思って争っていたわけだ」
「……碌でもねえな」
 光次郎は今度こそオーチェの言っていることを正確に捉えることができた。
「つまりアレか、そいつらにとっての<竪琴ライラ>は、クジラやイルカを守るためなら人殺しも辞さない狂人集団なわけだ」
「言い得て妙だな。その通りだろう。奴らと我々の間には妥協点が存在しなかった。奴らにとっての当然の権利は我々にとって許容できる範囲を遥かに逸脱するものであり、我々の行う行為は奴らには心の病に冒された者の凶行にしか映らない。だからああなった」
「なるほどな」
 妙だとは思っていたのだ。一箇所に集まってくれたのなら殲滅などしなくとも封じ込めることも可能だったはずなのに、すべての可能性を摘み取ってしまったのは最初から共存できる未来が皆無であったからなのだということである。
 しかし当然の疑問が湧く。
「それならどうしてあいつは生きてる? 殲滅したんだろう? 逃したのか?」
「いいや、集結の際に最初から合流させなかった。あれは読めない。底がまったく見えない。あれがいるだけで失敗する可能性の方が高かった。本当に、あれしかいなくとも勝てる保証がまったくなかったのだ」
「そこまでか」
 光次郎は唸った。
 強さを求める剣豪派は自分たちこそが最強であるという自負も持っている。それでも<剣王>ソードマスターとは、死んだ今でも雷名だった。
 同時に、そうだろうとも思えた。訳の分からない力ながらも、自分がほぼ一方的にしてやられたのは事実だ。尋常ではない。
「あいつは何なんだ?」
 知りうる全てをと言いはしたが、最も知りたいのはそれだ。
「天才的なフルート奏者だ。十代の前半にして優に世界に届く音楽家だった。武道だの格闘技だのの経験はない。つまり、何となく分かっているだろうが、あれの強さは真っ当に積み上げられたものではない。あれは立場も何もかもがちぐはぐだ。組織の長など到底務まる器ではない。実際、あれの理想と<横笛フルート>の実態は乖離していた。真っ当なのは、ああ、てっきり<竪琴ライラ>への対抗で名乗っているのだろうとばかり思っていたあの名が、実は単に奴の好きなものだったという下らん事実くらいだ」
 珍しいことだった。
 付き合いの長いわけではないが、情動の薄く映るオーチェがあからさまな苛立ちを見せるのは初めてだ。
「あのときはあれが全ての計算を狂わせていたと言っても過言ではなかった。あれがこちらにどれだけの被害を与えたか。あれさえいなければもっと無難に各個撃破してゆけたのだ。一度は神官様まで危険に晒す破目になったのだぞ」
 最も怒りの籠もっていたのが『神官様まで危険に晒した』という部分だったことに気付きながらも、光次郎は何も言わなかった。
 オーチェの瞳はもう冷静で怜悧な色を取り戻していた。
「ともあれ、お前の望みどおりあれについて我々の知る全てを教えてやろう。長くなるがな」
 そして問うて来た。
「まず、お前は<魔王>アズィカムーイヤーナの得意技を知っているか?」





[30666] 「笛の音響くこの空に・七」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2020/07/05 17:46



 <魔王>アズィカムーイヤーナとは最高位となる七柱の魔神の一角である。
 性は陽気で鷹揚、他者が己のために何かを捧げることをこの上なく好む。南米上空の<虚空宮殿>に座し、<魔人>騎士団を従えて一帯に君臨。日々を愉快に過ごし、時折出歩いては美少年を拐かして連れ帰る。
 <魔王>と名乗ってはいるものの、魔神の王であるわけではない。君臨すれども統治せず、楽しいことが好きで魔神好きで人間好きの放蕩魔神だ。
 そしてその絶大な力のうちに、代名詞とも呼べる術がある。
 『魔王領ドミニオン』と名付けられたそれは、周辺一帯を支配・掌握し、事象そのものを塗り替えて己の望む結果を献上させるという代物だ。
 そこに細かな理屈は存在しない。魔王の権力の下にすべてが平伏ひれふすというだけだ。
 もっとも、これはアズィカムーイヤーナにとってお遊びでしかない。万能以上全能未満である彼女であればもっと単純かつ確実に成し遂げることができるのに、献上という形式の欲しいがためにわざわざ不確かで効力の弱い手段を用いているに過ぎない。
 しかし同種のことを<魔人>が行えるとなると話は大きく変わってくる。
 <魔人>とは基本的に壊し潰ししかできない存在だ。工夫によってそれ以外もやってのける者はあるが、それでも何もかも自在というわけにはいかない。
 だが、鏡俊介はその自在を手に入れている。凌駕解放<僭神>ヤルダバオト。常に発動し続けているこれは、現実を書き換えて都合のいい結果を演出し続ける。
 たとえば、本来区別などできぬはずの存在を弁別する。
 たとえば、衆人の只中で殺しを行いながらそれを認識させない。
 たとえば、障害物を己にとってだけ存在しないことにする。
 当たるはずの刃を逸らし、外れたはずの刃で殺す。得手不得手などもはや無意味だ。速さが欲しいなら速くなり、膂力が欲しいなら怪力を手に入れる。
 無論のこと、限度はある。すべては<僭神>ヤルダバオトの効力を分配して行われている。その総量を超えることはできない。破る方法は存在する。
「でも結局、誰も斃せなかったっす」
 満天に瞬く星の下、着物姿の女が言う。口許に薄く浮かぶ笑みを、蠱惑的と見るか酷薄と見るか。
「そんな<赤旋風>を、できればここで始末しちゃって欲しいんですよ。これはあたしの一存ですけどね」
 郊外の寂しげなバス停。行き交う車も稀。夜目にも鮮やかな女だけが婀娜に、孤独に佇んでいる。
 だというのに女は呼びかけるのだ。
「さあ、返答やいかに?」
『僕が頼みを聞くことになっているのはステイシアからのものだけだ』
 声は女にだけ聞こえる。
 しかし女の背後、よく見れば何も見つけられないが、思考を止めて呆ければ、風に吹かれた水面みなもに細波立つように、揺らいではいまいか。
『そもそも、勝てるかはさて置くとしても殺し切れない。逃走に特化したときの<僭神>ヤルダバオトは僕の手品を容易く突破するだろう。<夢現世界・廃滅王宮>エフェメラルスフィア・モノクロームが要る』
「やはりそこですか」
 女は、ライラックは双眸を細く細く伏せる。
 鏡俊介は己の強さに何の矜持もない。というよりも、自分のことを強いとすら思っていない。害虫ライラがいるから駆除しなければと思っているだけなのだ。害虫駆除が人より上手いことなど、下らない特技でしかない。だから逃げることに何の躊躇もない。
 遠くから一切の遮蔽を無視して察知し、人混みの中でも気付かれることなく殺し、少しでも不利と見るや即座に逃亡して仕切り直す。決して捉えられない。
 そんな<赤旋風>に<奏者>プレイヤーという新たな呼び名を与えて象徴として祭り上げ、前線に出さなかったのは<竪琴ライラ>にとってもありがたいことではあった。
 しかしやはり、それ以上に<横笛フルート>にとっての都合が大きい。ライラックは光次郎に、どういうわけか、とは言ったが、むしろ碌に表に出てこなかった理由に心当たりがありすぎて説明が面倒なためオーチェに丸投げしただけである。
「<無価値ベリアル>の計算のうちなんでしょうねえ。だからこそ危険で邪魔な<赤旋風>を<横笛フルート>からこのタイミングで追い出した。放っておいても<竪琴ライラ>に対する辻斬りやってくれますし、追い出した以上は万が一やられてしまってもあまり士気低下に繋がりませんし。さて、どうしたもんですかねえ」
 背後を流し見る。口許にはからかうような笑み。
「本当に、殺し切れませんか?」
『凌駕解放を使えば話は別だが』
 返答はどこまでも淡々と。たとえ姿が見えていたとしても、言葉以上の意味は読み取れなかったろう。
 虚空に広がる僅かな波紋は、その向こう、深淵に棲まう怪物の息遣いを思わせる。
 名和雅年という男のことを、ライラックでさえ詳しくは聞かされていない。ただ、魔神ハシュメールにすら為せぬことを行うために探求を続けているのだとだけは知っている。
 この揺らぎの向こう側こそがその結晶であるのか、それは見通せるはずもないが、いずれにせよ結末は決まっている。魔神と<魔人>の間にある力の隔たりは、規模においても自在性においてもあまりに大き過ぎる。目的地へは決して辿り着けない。
 雅年自身もそれを知らぬはずはないのに惑いなく行い、今ライラックもその艶やかなくちびるの笑みを絶やさない。
「それは最後の最後になるまではやらせるなとの、我らがいと畏き肖りステイシア=エフェメラからのお達しっす。そうでなけりゃあ、<赤旋風>抹殺の指示は出てたんでしょうねえ」
『できれば早く本題に入ってくれ。依頼は別にあるだろう』
「そりゃそうっす。けど、本当にれないですねえ、雅年さんは」
 接触は必要最小限にすることとなっている。明確な通達があるからこそ、女は此処にある。
 秘密話に扇子が口許を隠す。
「<スィトリ>、いや、そのご本尊の<女衒スィトリ>の一人が来てましてね、まあ、始末したところですぐに補充されるだけなんですが、だからといって放置するわけにもいかない。打撃自体は与えられますしね」
 <闇鴉アンドラス>、<無価値ベリアル>の情報から間接的に、ステイシアは<金星結社パンデモニウム>の陣容をある程度掴んでいる。
 頭首である<明星ルシファー>の十二の翼に喩えられる幹部には、二つだけ複数の<魔人>で構成される席がある。その片割れが<スィトリ>を管理する<女衒スィトリ>だ。六名よりなり、<魔人>としての能力よりも組織運営能力によって選ばれる。
 とはいえ、そもそもが好き放題にやっている<金星結社パンデモニウム>であるから、結局は趣味のままに動いているのであるが。
 そしてライラックの口にした通り、六名いる<女衒スィトリ>が一人斃されたところで<スィトリ>が機能不全に陥ることはない。
 しかしそれは、<女衒スィトリ>を暗殺しただけならの話だ。
「そんなわけで、今回<スィトリ>の背後にいる<魔人>を徹底的に潰してもらいます。<女衒スィトリ>はそれほど戦闘に長けないのもあって護衛を何人も連れて来ているようですから、そいつらを一人残らず消すことになります」
『それだけで構わないのか?』
 波紋とともに冷徹な声。
「ええ、<スィトリ>の『可哀想な女の子』たちは別にいいですよ。それは人間の管轄っす」
 そもそも<スィトリ>がどのようにして勢力を拡大して来たのかといえば、『商品』を使って末端から徐々に国家の中枢に浸透し、流れを自分たちの有利に操ることで成した。本当の戦力はむしろただの人間でしかない存在だ。
 <女衒スィトリ>は護衛とともに、そのための娘たちも連れて来ているだろう。彼女たちは人間を守る<竪琴ライラ>の在り様を利用し、捕らえられたならば犠牲者として振る舞って逃れ、本来の目的を果たす。
 しかし、これは洋の東西を問わず昔から用いられてきた手段だ。隣国が、あるいは国内の誰かが、己に都合のよくなるように行う後ろ暗い干渉の手管である。だからこそこれを炙り出し、排除する機構もまた特別なものではない。
 <スィトリ>がヨーロッパで恐るべき存在となっているのは、競合相手や国家から伸びた手を<魔人>の暴力でもって打ち破ってしまえるからだ。
 だから<竪琴ライラ>は後ろ盾となっている<魔人>だけを片付ける。あとはこの国の司法や行政、警察組織の戦いである。
「人間の方はどうせ、とっくの昔に入り込んでるでしょうしね。今回やって来た娘さんたちなんて、防いだとこちらが勘違いしてくれれば御の字程度の見せ餌ですよ。折角だから逆利用したくもあるんですが、危険ではありますし、<竪琴ライラ>の領分を越えてしまいますからねえ」
 夜が静か過ぎる。艶のある女の声が響くのに、それは波紋の向こうにしか届かない。
 ライラックは広域を網羅し、人の意識にはたらきかけるある種の結界を張り巡らすことができる。
 『分からぬものを分からぬままに済ますことを是とする』だけのものであり、人を近寄らせぬようにする力があるわけではない。しかし異常を疑えなくなれば、着物の女が一人で何かを喋っていてもただの風景として流してしまう。ましてや時折その背後が揺れているように映ることなど。
 深い溜息。女のものだ。
「……本当に、なんとかなりませんかね? このままではオーチェがあまりにも」
 それは終わったはずの話である。
 そして返事はやはりにべもない。
『繰り返しになるが。僕に望まれている役割を崩さずに、あるいは周辺への被害も出さずに彼を屠るのは、手品が通じない以上ほぼ不可能だ。都合のいい偶然を期待するのは現実的ではないし、それ自体が罠である可能性もある。それに、気にしているのはオーチェのことではないだろう』
「……やれやれですねえ」
 再度の嘆息、笑みの混じる。
 ライラックは嘘をつく。泣き落としも色仕掛けもすれば、唐突な真顔で落としにかかることもある。全ては目的を果たすために。それが<隠密>という役柄である。
 不思議なものだとライラックは思う。<隠密>に好悪はない、そのようなものに惑わされることはない、そういうことになっている。そのはずがなぜか、<無尽城郭>の皆には愛着がある。無論、必要とあらばその死を許容はするが。
「ほんとう、憎らしいひと」
 それ以上の返事はない。もう後は、既に定まったことを行うだけだ。
「いいでしょう。これより神官様の御下命果たします」
 ゆるりゆるりと歩き出す。
 夜を行く女の姿は道なりに小さくなり、消えてゆく。
 残された揺らめきは消えたことすら分からぬ。
 星の瞬きだけが変わらずにあった。











 騒然としていた。
 飛び込んできたのは先日取り逃がした人売りが、この期に及んで少女を拐かしたという情報だ。密告が警察伝いにこちらまで来た。
 まさに話が終わったときに、オーチェとともにこれを耳にすることになった光次郎は飛び出していた。
 当然のことながら忘れるはずもない。鏡俊介の乱入によって逃してしまった相手だ。その後も、手を出してはならないという方針に従い、今に至る。
 オーチェの判断は結果的に妥当ではあったろう。<赤旋風>に近づけば、端から皆殺しとなっていたであろうことは想像に難くない。
 それでも忸怩たる思いは残る。剣豪派は強さに依る者だ。刃の鋭さで切り開いてゆく者だ。燻る思いは強い。
 かの人売り、烈火を追うべきではない。傍に鏡俊介のあるならば、死にに行くようなものだ。
 外に出る。もう稲も刈られ、藁とともに乾いた田の中にぽつりと立つビル。学生を支援する財団としての表の顔が用いる本拠は本来の顔の本拠へと繋がる場所でもある。
「初瀬さん!?」
 そこで、ちょうど駆け込もうとしていた小早川玲奈と出くわした。
 既に話を聞きつけて、詳しいところを確認にでも来たのだろう。怜悧な面立ちにも熱が乗っている。
「行くつもりか?」
「はい。私は一足先に辿り着きましたが、素也さんたちもすぐに来るはずです」
 それは財団派のエースとして当たり前の返事だった。これまで遠巻きにされていた烈火と謎の<魔人>に対応するならば彼女たちであるべきと期待され、彼女たちも応えようとする。
 だから言わなければならなかった。
「思い人を死なせたくないなら止めろ。みっともなく泣き叫んででも行かせるな」
「何を馬鹿なことを……」
「お前らでは相性が悪すぎる。機転も戦術も糞もない。その前にお陀仏だ」
 鏡俊介がどのような存在であるのかを知った今、ただの勘ではなく結末を確信できる。
 <三剣使いトライアド>たちは、まず玲奈が情報をまとめ、高原清香が作戦を構築し、時には無謀にも思えるそれへと刑部綾が先陣を切る。敵を見極め、最も有効である一振りを最上素也が<抜剣>、残る二人は時間稼ぎとサポートを行う。
 しかしこんなものは遅すぎる。下手をすれば感知範囲に入った瞬間、何もさせてもらえずに四人ともが首を刎ねられていてもおかしくない。それが鏡俊介なのだ。
「俺もさっき知ったばかりだが、敵をオーチェに聞いてこい。納得できるはずだ」
 警告に籠った鋭さに気づいたのだろう、玲奈が息を呑んだ。
 だが、すぐに問うて来た。
「そう言うあなたは行くのですか?」
「俺以上の適役は今の財団派にいない」
 光次郎にとっても、行くべき相手ではない。
 それでも行く。明らかな犠牲が出ようとしているのに引きこもって何の<竪琴ライラ>か。
「私たちのことは止めておいてですか?」
 玲奈の非難の口調は決して反発心の類から出たものではない。追い詰められてもまだ冷静なのだ。こちらのことを気遣っている。
 光次郎は牙を覗かせた。
「舐めんじゃねえぞ、こちとら剣豪派序列三位<大典太光世>だ。お前らとは格が違う」
「嘘ですね。あなた独りでは足りないのでしょう?」
「アホが。自分の望みを間違えるな。誰が一番大切なのかを思い出せ」
 玲奈を押しのけ、再び歩を進める。
 勝ち目は薄いが、自分ならば皆無ではない。足場が糸の如くであったとしても勝利への道はある。
 玲奈が追って来ることはなかった。どのような結論を出すかは分からないが、<赤旋風>のことを聞いてなお戦うというならば彼女たちの自由であるし、それで命を落としたとしても詮無いことだ。
 格上と殺し合うのだ。この手に握れるのは刃と己の命が精々である。
 鼓動が跳ねる。
 意識が余剰物を排除してゆく。
 あと三歩だけ歩み、初瀬光次郎は全力で地を蹴った。





[30666] 「笛の音響くこの空に・八」
Name: 八枝◆767618cd ID:048c5574
Date: 2020/11/30 00:40



 音楽は世界を繋ぐ。
 たとえ生まれた国が違おうと、喋る言葉が違おうと、音は人々の間で弾み、踊る。
 それは雨になる。焼け付く日差しとなる。海を泳ぐ魚、雪山を舞う鳥へ変わり、自由に駆け巡る。
 万雷の拍手が聞こえる。蒼天を衝く歓声が聞こえる。
 フルートを手に世界を行く。
 音楽は人々を繋ぐ。その実感をもって少年は行く。
 隔たりなどない。争いなど要らない。すべての人が友となれば、口喧嘩くらいはするだろうけれども、平和に、幸せにいられる。
 この笛は、笛の音はそれを成せる。確信があった。
 無邪気を打ち据えるものはほどなくして現れた。
 会場に仕掛けられた爆弾。音楽を掻き消す悲鳴、飛び散る肉片。人々は我先に逃げ出し、ぶつかり合っては無意味に諍いを起こす。
 少年は信仰を得た。これは試練だ。負けてはならない。
 そして戦いが始まった。
 いっそ無力であったならよかったのかもしれない。為すすべもなく打ちのめされてしまえば、諦めたのかもしれない。
 しかし少年の才はまさに天賦のものであった。そしてそれが些末事にしかならぬほど、笛の音には魂が込められていた。
 少年は、全てではなくとも争いを止めることができてしまった。
 だから止まらない。己が正義を信じ、邁進した。
 それでも死んでゆく者はなくならない。積み重なり続ける。少年が収めるよりも生み出され続ける。
 赤が目に染みつく。鉄錆びた臭いを乗せた風は紅に染まって映った。
 音楽は世界を、人を繋ぐ。少年の信仰は揺らがない。何もかもを理解できてしまっても、信仰だけが揺らがない。
 信仰と心が乖離する。助けを求めて来る手に何もできぬうち、死が呑み込んでゆく。
 己が正しさの確信が、痛む心を捻じ切ってゆく。
 やがて少年にも銃弾が死を届けた。



 <魔人>と成るとき少年は願った。
 正義を成すための揺らがぬ心を。
 今度こそ正義を成し通せる己を。
 そのために得たものがあり、失ったものがあった。















 もう日が変わる。
 『商品』を抱え、烈火は砂浜を駆ける。
 後ろについてくるのは鏡俊介である。
 まさかこんなことになろうとは予想だにしなかった。
 俊介は言った。
『本当はね、命を売り買いするのはいいことじゃないと思うんだ。でもそういう仕事があって、それを必要とする<魔人ひと>がいることまで僕は否定できない』
 この一言で、烈火は今まで俊介に感じていた違和感の正体を悟った。
 この男は人間を愛玩動物と認識しているのだ。だからあんなにも優しい。猫好きが猫という猫を可愛いと言うように、人間という人間を可愛いと思っているのだ。
 眩暈がする。今までに出会った最高の狂気が何でもない顔をしてそこにいる。
 いや、これは幸運と言うべきなのだろう。覚悟していた死を免れたどころか、この絶望的な状況に頼もしい戦力を手に入れたに等しい。今『商品』を眠らせているのも俊介の力だ。疲れるだろうからね、と言って少女の頭を撫でた途端に安らかな寝息を立て始め、以降まったく目覚める気配がない。
 あまりにも便利すぎ、そして他力本願なのはこの際気にしないことにする。形振り構ってはいられない。
「あと少しだ」
 連絡は昨夜の時点で来ていた。指定された地点は海上、正確にはそこに浮かぶ巨大船舶だ。送迎にクルーザーが近くまで来ているはずである。
 なるほどと思う。海は<魔人>の機動力を大幅に削ぐ。疑似的な飛行を可能とする者はあるが稀であり、そうでなければ泳がなければならなくなる。<魔人>の身体能力をもってすれば溺れる可能性は低いにしても、地上のようにゆくわけもない。鳥船派を別として、さしもの<竪琴ライラ>も手出しが難しい。
 しかしそれは同時に、何かあったときに烈火も逃れられないということを意味する。そして、何か、とは<スィトリ>こそが引き起こす可能性も高いのである。
 とはいえ俊介さえ味方であってくれればどうにかなりそうだった。
 その気の緩みを、責められはすまい。あるいは緩んでいなくとも、結果は変わらなかった可能性が高い。
 烈火はここで死んだ。繊細に少女だけを避けながらも豪放に空を裂く長大な太刀に首を刎ね飛ばされ、死んだ。
 それが現実であるはずだった。
 甲高い音が鳴り響いた。
 首を刎ねたはずの太刀は、赤の輝きを放つ剣によって受け止められていた。
 現実が、改変された。
 赤の剣で防いだのは無論のこと俊介であり、太刀の持ち主もまた知った顔だ。
「改めて無茶苦茶だな、てめえ」
 荒々しく牙を剥き<大典太光世>がそこにいた。
「なっ……」
 一瞬気が遠くなった感覚しかなかった烈火は敵の唐突な出現に狼狽える。
 何が起こったのか、どうすればいいのか訴えかけるように俊介の背を見やれば、果たして読んだように返答はあった。
「行って! これはちょっと簡単には退治できない!」
「分かった!」
 まさに脱兎、死に物狂いで駆け出す。襲われたということは気づかれ、見つけられたということだ。
 取り囲まれる前に<スィトリ>と合流し、その懐に入り込んでしまうのが今は最善だろう。
 俊介の方は問題ない。出会ったときからこれまでの流れを見れば、<大典太光世>にすら勝てると考えて間違いなさそうである。
 何者なのかという当初からの疑問がいっそう深まりはしたが。
 風を切り行けば、迎えのクルーザーと人影が見えた。











 <赤旋風>の一切は暴き立てられている。
 どのように対処すべきか、とうの昔に確立されている。
 最初の障壁は、半径400メートルにも及ぶ<魔人>感知範囲。しかも<竪琴ライラ>所属か否かまで弁別する。これにより、迂闊に近づけば先手を取られる。それだけで大抵の<魔人>は死ぬことになる。
 しかし穴があるのだ。能力の大半を<僭神>ヤルダバオトがこなしている<赤旋風>であるが、<魔人>を感知すること自体は自前で行っている。むしろ本来は恐るべきことというべきなのだろう。だが、ここに付け入る隙がある。
 <僭神>ヤルダバオトの効果範囲はほんの数メートルだ。<赤旋風>自身を強化することで感知範囲の情報取得をより精密にしているだけなのである。つまり、感知範囲そのものは400メートルから広がることはない。深く考えたならば自身の強化による範囲拡大も可能であっておかしくないように思えるが、それを行った記録は一度もない。
 ともあれそうとなれば手は単純、範囲外からの攻撃、あるいは強襲をすればよい。
 光次郎は高速機動を得手とはしないものの、それは自身の内側においてはだ。音の速さを超える程度であれば容易い。
 烈火がどこへ向かうのかさえ分かっていれば<赤旋風>の動きも知れる。なれば一望できる高所に陣取ることもまた、容易である。
 そして仕掛ける。
 狙うのはむしろ烈火の方だ。そもそも攫われた少女を救い出すのが第一の目的である。<赤旋風>はその性格上、烈火さえ死ねば解放された少女を追うことはない。そこから改めて勝負に持ち込めばいい。
 振るった刃は確かに烈火の首を落とした。
 落としたと、そんな幻覚を見たかに今は思えてしまう。
「改めて無茶苦茶だな、てめえ」
 赤き光の向こう、<赤旋風>鏡俊介を睨めつけ、呻く。
 腹の底が抜けてしまったかのように冷たい。
 強襲はあくまでも先手を取らせないための手段だ。これで斃すことはできないと、これも最初から分かっている。
 夜討ち朝駆けは兵法の基本。常在戦場を謳ってみたところで人の意識に波は生じる。警戒の緩む隙は必ず存在し、それを突くことは堅実な勝利への一手となる。戦術をかじった者が浅はかに語り、老獪な古強者が実行する。
 しかし<赤旋風>にこれは通用しない。油断をしているとき、害されることを想定していないときにこそ、<僭神>ヤルダバオトは最大の防護能力を発揮している。戦いに持ち込むことで攻撃にでも意識を割かせないことには、光次郎の剛剣をもってしても傷つけることすら難しい。
 短いやり取りを交わし、少女を背負った烈火が瞬く間に姿を消す。
 そう、確かに殺したはずだった。<僭神>ヤルダバオトはそれを防ぎ切ってしまった。ここまでの力があるのだという実感が今、光次郎の意識を侵していた。
「お前を斃してあの子を救い出す」
 宣言は己への鼓舞だ。
 鏡俊介の一切は暴き立てられている。道理だの倫理だのを説いたところで完全に無意味であることも明らかになっている。



 かつて天才フルート少年は、死の間際に己が正義を貫く強さを望んだ。
 しかし正義など立場を変えれば容易く裏返るものだ。それぞれに道理があるならば、対立する正義を理解することは不可能ではない。そして理解すれば、いかなる強靭な意思をもってしても揺らぐことはあるだろう。
 鏡俊介は<魔人>となる際、知性の一部を失っている。己の正義に沿わぬ現実を認識できない。理解もできない。言葉は怪物の喚き声に、景色はよく分からぬものにしか感じられない。
 自身がそう望んだわけではなく、<魔人>としたリュクセルフォンがそう設定したわけでもない。己が正義を己の絶対とする唯一の手段として、そうなってしまったのだ。
 この欠落こそが少年を化け物にした。
 <僭神>ヤルダバオトの万能性と出力とが両立しているのは、この凌駕解放が致命的な欠陥を抱えていることを代償としてのものである。
 無意識の思うがままに改変されてゆく現実を疑ってはならない。それがどれほど都合の良いことであっても、それこそが現実であると確信しなければならない。わずかにでも疑えば、その疑念を映して<僭神>ヤルダバオトは本来の現実へ還すために自己崩壊する。
 鏡俊介はむしろ周囲こそが現実を理不尽に改変しているかのように認識しているはずだ。以前邂逅したときの一合、斃したはずだったのに不思議な力でただの傷に抑えられてしまったとでも思っているに違いない。
 こちらを見るまなざしは冷えている。<赤旋風>にとって<竪琴ライラ>は狂人の群れだ。
 人間を愛玩動物として捉えることもまた、欠落によるものである。
 知性は無駄を好む。生命を維持し、子孫を残すために不要なことにも価値を見出す。
 <魔人>は既存の生命とはまったく異なる存在だ。人間ではない。かつてヒトであった記憶が、せめて延長線上にあるように錯覚させているだけ、正しいのは鏡俊介の方なのだ。
 ヒトが他の生命の生殺与奪の権を握ることを是とするならば、<魔人>がヒトを好きにすることも是としなければ理屈に合わない。
 俊介はこの事実を素直に受け入れ、己がものとした。だから守りたい存在は当然のように<魔人>となり、人間は同じ言葉を喋るだけの犬猫の同類となった。
 その観念は理論武装によるものではなく、当たり前に持ち合わせた感性として息づいている。そこに潜む真正性は仲間たちに感染、拡大し、最終的には<竪琴ライラ>を挙げての無人島での大殺戮劇となった。
 <赤旋風>は、鏡俊介は殺すばかりではない。善意と優しさから疫病を振り撒く。容易く手綱をとれるように思えてその実、制御することなどできはしない。<無価値ベリアル>すらこれを扱いかねて飼い殺しにせざるを得なかったのだ。動き出してしまったからには今度こそ息の根を止めなければならない。
「その首貰うぞ、鏡俊介!」
 光次郎は踏み出した。





[30666] 「笛の音響くこの空に・九」
Name: 八枝◆767618cd ID:7610dbb5
Date: 2021/07/18 18:41



 初瀬光次郎は<魔人>となる以前の記憶がない。
 一般的な知識は保持しながら己のことを何も覚えていない、全生活史健忘である。
 眩暈のしそうな黄金の満月を見上げながら小川の脇にひっくり返っていたのが、今へと続く最初の記憶となる。
 そして二番目の記憶は、面白そうに見下ろして来る男の顔だ。
『よい月じゃのう』
 おかしな男だった。
 洋服なのか和服なのか、大雑把に混ざり合った装いを着崩して、陽気に笑う。
『まあ、来い。飯でも食わんか』
 そう言って連れて行かれた先、極めて広い庭を持つ平屋の日本家屋の縁側にやる気なく寝そべっていたのが薄紫の髪の女だ。
『いやはや師直さん、なんで三日前に来たばっかりのお前様が<無尽城郭ここ>の主人みたいなノリで人を拾って来るんですかね?』
 男こそは<数打かずうち>の水守師直、そして女は<無尽城郭>の主であるライラック。もっとも当時そのような二つ名はなかったし、その集団は剣豪派という呼び名ですらなかった。むしろ神官派と騎士派と財団派の中点にでもあるような曖昧な体制だった。
 それが現在のようになったのは、水上師直の常軌を逸した強さに惹かれた<魔人>が集まって来たからだ。
 それぞれのやり方でではあるが、日常的に鍛え続けることのできる者しか居続けることはできなかった。他へと移るか、逃げ出した。
 光次郎には剣豪派の水が合っていた。握る大太刀に覚えたのは違和感よりも親しみだった。
 失われた記憶にほとんど興味はなかった。剣を振ることの方が大事だった。











 いつかのように、まあるい月が夜を行く。
 千切れ雲はその膝元に遊び、風の吹くままいずこかへ。
 そんな気ままな夜空の下、右の担ぎ構えに居て、光次郎はじとりと滲む汗に口の端を歪ませた。
 既に十合ほど打ち合っている。いや、そう言っていいのかも分からない。現実が塗り替えられ続ける。悪夢に藻掻き、何もないところでのたうっているかのようだ。
 もしかすると本当に夢を見ているのではないか、目覚めれば蹴り飛ばした布団が足元に放り出されているのではないか。いっそ、そうであってくれたならよかったろうに。
 踏み込み。斬撃。怖じず、行く。
 確実に当たる、替わりに浅い傷を重ねて追い詰めてゆくことはできない。容易く効かなかったことにされる。
 碌に当たらない、替わりに当たりさえすれば一撃で決めることのできる攻撃も無意味。容易く当たらなかったことにされる。
 必要なのは、当て、屠る一撃。すべての攻撃が命に迫って初めて、鏡俊介に届く。
 そして光次郎はそれを行える<魔人>だった。
 振るうのは己を押し付ける剣。対手の動きを活かすのではなく、動く前に殺す、動いてなお殺す、問答無用に葬り去る剣。混迷を極める戦場を切り拓く類のものだ。
 しかしこれは実力伯仲かそれ以上の相手との一騎打ちには向かない。特に対手を活かす剣の理を使う者だ。彼らはこちらの業を利用し、突き崩して来る。だからこそ対極に位置する序列二位には翻弄されることになっている。
 そしてゆえにこそ、光次郎は今、<赤旋風>と戦えていた。
 光次郎の剣、『殺』の剣は過去から今へと繋がる一連の流れを必須とはしない。今と、敵を殺す未来さえあれば事足りる。いかに現実を改変されようとも、その後の『今』だけを足場として剣を振るうことができるのだ。
 淡い輝きを放つ大太刀が夜を切り裂く。理不尽に位置が入れ替われば、そこから手首の返し一つで突きとすら映る斬撃を繰り出す。
 吐息には覇気を、眼光には殺意を。敵するもの全てを屠る鬼神の剣が唸りを上げる。
 抑えられても抑えられても、尽きせぬ拍動が戦を己がものとする。
 視線が死線として交錯する。それを追い、爆発的な力が叩き付けられる。光次郎の肉体が放つ一撃を<僭神>ヤルダバオトが迎え撃ち、捻じ曲げる。
「はッ、はははっははははッ!!」
 笑う。
 傷は与えている。即座に復元されるため確認はできないが、手応えまでは幻とならずに肌に残っている。
 替わりに負った傷はそれ以上。
 だがそれでいい。そうでなくてはならない。
 有利に進めてはいるが手強い、その認識こそが<赤旋風>を罠へと導いてゆく。あと少し強く仕掛けられればという心のままに、<僭神>ヤルダバオトが攻撃に偏ってゆく。用いている自覚がないからこそ、<赤旋風>はこれを意図的に止めることができない。
 光次郎は腹の内に力を溜め込む。
 自分に存在する、たった一つの勝ち筋。要は交差法、敵の最大の攻撃とすれ違うようにこちらの最大を叩き込むのだ。
 長い吸気。夜が殺到してくる、闇が押し潰さんとしてくる、その幻影を見て、切り拓く未来を思う。
 深い、奈落の如き夜とともに赤い旋風が来る。無機質なまでの、害虫を殺すだけの殺意とともに翔ける。
 時は今。

「“陽は昇る”」

 長大な太刀を脇構えに、呟く。

「“夜は今、明ける”」



 神話はこの国にある。



<曙光>アマテラス



 地まで降ろされた刃が虚空を切り上げるとともに、そこから光が溢れ出した。
 払暁。闇を駆逐し、夜を薙ぎ払う。
 光の帯は彼方の空までも貫き、<赤旋風>を斜めに両断した。
 この凌駕解放は、言ってみればただの強大な斬撃を撃ち放つだけのものだ。いくらでもかわしようのある、必殺とはとても呼べぬ代物。しかしそもそも必殺とは技の内に存在するものではない。技を必殺の一撃として、人が昇華するのだ。
 閃光の駆け抜けた後に燐光が散華する。残心、油断なく<赤旋風>の死を探して。
 それは目の前にあった。
 赤い風を纏う刃が腹を裂いた。
「ッ!?」
 苦鳴を噛み殺し、両者ともに跳び離れる。
 光次郎は街を背に、<赤旋風>は海を背に、再び睨み合う。
「……あれに耐えるかよ」
 どうして凌げたのかを具体的に推測することは不可能だ。
 今まさに復元してゆく姿は、確実に両断成ったことを示し、それでなお命は尽きなかったのだけは理解できたが。
 意思の刃で惑いを殺し、追撃を仕掛ける。こうなってしまえばいつ逃げられてもおかしくない。
 しかし一足の踏み込みで放った袈裟切りは空を切った。
 <僭神>ヤルダバオトによって捻じ曲げられたのではなく、踏み込むより前に<赤旋風>がさらに後ろへと跳んでいたのだ。
 そこはもう海である。
 何事でもないかのように海面に降り立ったその顔に浮かんでいたのは戸惑い。
「……烈火?」
 光次郎の<魔人>としての聴覚が呟きを拾い上げた。
「待ってて、今行く」
 そのまま沖へと向かって駆け出す<赤旋風>。
 瞬く間に遠ざかる背に飛斬を放ってはみるものの、得手には遠いそれは当たり前のように掻き消されてしまった。
 もう<魔人>の目をもってしても見えない。
「しくじったか……」
 苦い息を吐き、オーチェへと連絡を入れる。
 逃げられたという報告と、もう一つ。
 <赤旋風>は今までに得られていたデータから成長している。
 なぜならば、感知したと思しき烈火の居場所が400メートル以内であることはまずあり得ないからだ。
 奥歯を軋ませ、暗い海を睨む。
「……まだだ」
 乾坤一擲の一撃で仕留められずとも、諦めはない。















 時は巻き戻る。
 昏々と眠り続ける少女を負ぶった烈火の姿はクルーザーの上にあった。
 指定された位置にいたのは、この事態に巻き込んでくれたあの同業者だ。わが意を得たりとばかりに浮かべた笑みが腹立たしかった。
 そしてこのクルーザーを操っているのも彼である。烈火に詳しいことは分からないが、少なくとも付け焼刃ではない動きだとは思えた。
 免許など取れる年齢ではなかっただろうが、要は慣れだ。必要があって習得したのだろう。察するに彼らの取引は海上で行われていたに違いない。
 背の重みと熱さを思う。
 胸にあるのは迷いにも似た不快。流されざるを得なかった己と、この流れそのものへの怨嗟だ。
 こんなもの、望んでもいないというのに。
 吐き出す大きな息が白いものを押し流す。
「…………なんだ?」
 見回せば周囲が真っ白に染まっていた。
 ほんの数秒前までは夜の海が見えていたというのに。
 濡れた感触はこれが霧であることを示している。
 背を怖気が這い降りた。これがただの自然現象であるはずがない。変化が早すぎる。
「おい!」
「大丈夫だ、これを突っ切った先が目的地さ」
 操舵手は憎々しく笑った。
 侮っていた。
 ある意味において敵地に踏み込むことになるのだとは認識はしていた。しかしこの地球上のどこかには違いないと思い込んでいた。
 しかしこの先にあるのは、恐らく孤立した空間だ。少なくとも自分程度では脱出不可能なほどには。
「諦めろよ、もうお前はこのまま進むしかねえんだからよ」
「……黙れ」
 どれほどの時間を、距離を進んだのだろうか。
 全く変わり映えのしない白は感覚を狂わせる。下手をすれば実際に何らかの力で攪乱されていてもおかしくない。
 不意にその白が一掃された。
 替わりに目の前に聳えていたのは黒鉄の壁だ。夜であることを考慮しても光沢のないそれが船腹であることに気付くには少しかかった。
 巨大に過ぎる。おそらく全長は1キロメートルを超えている。高さはさほどとも見えないが圧し掛かってくる影は怪物めいて睥睨してくる。
 息を呑む烈火の視界の中、甲板に一つの人影が現れた。
 それは朗々と、流暢な日本語で告げた。
「ようこそ客人、我らが巡洋要塞ウェパルへ」










[30666] 「笛の音響くこの空に・十」
Name: 八枝◆767618cd ID:7610dbb5
Date: 2021/11/14 12:44


 甲板には何もなかった。
 人が立って歩くには不足ない程度に平坦な装甲が視界を埋めるほぼすべてと言って差し支えない。
 強いて挙げるならば、内部へと続いているのであろう小さな出入口が夜闇と霧に紛れてはいるが。
「ようこそ、我らが巡洋要塞ウェパルへ」
 十名の黒服を従え、にこやかにそう繰り返したのは白色人種の男だった。
 スーツを着こなした姿は年嵩に見えるが、おそらくはまだ十代なのだろう。海外ドラマなどで覚えのある高校生役と大人役の印象を反芻すればそう思えた。
「自己紹介しておこう。<金星結社パンデモニウム>傘下の<スィトリ>を統べる一人、東アジアの総責任者だ」
 達者な日本語であるとともに、実に堂に入っている。慣れ切った仕草と台詞だ。
 そして告げられた内容に改めて息を呑んだ。この物々しい船の存在から<金星結社パンデモニウム>の本気のほどは予想していたが、わざわざ部門のトップが直接乗り込んで来ているとは、ましてや素性も知れぬ自分と顔を合わせようとは夢にも思っていなかった。
 彼は続けた。
「本来なら中に案内して歓待するところなのだろうが、この船は重要機密というやつでね。この殺風景な甲板で失礼するよ」
「…………商売の話といこう」
 言葉遣いをどうしたものかと迷いはした。本当にこれでいいのかなど、自問しすぎてもう考えたくもない。
 攫ってきた少女は、いまだ眠ったまま腕の中にある。
 どうでもいいとばかりの投げやりな言葉が咎められることもなく、ただ、男の口許に張り付いていた笑みが歪みを秘めて大きくなった。
「ああ、そうしようか。言うまでもないことだろうが、どんな子を連れて来たかで君の評価は変わる。精々気張って売り込みプレゼンテーションを行うがいい」
 烈火は少女の丸い顔を見下ろした。ここまで船に揺られ、甲板までなど跳躍して連れて来たというのに寝息は穏やかだ。
 何の罪もないこの子はこれから地獄を見る。何がどう転んだとしても、それは覆らないだろう。
「言うことなんてそんなにねえよ。名は佐々木愛花、満十一歳。こいつの父方の祖父さんは元財務省高官で、今も幾つかの大企業の特別顧問をやってる。政界にも財界にも、良くも悪くも、まあ……しがらみの強い爺さんだ。あんたらなら上手く使えるんじゃないか。少なくとも代金以上の金は回収できるはずだ」
「ほう、たとえばどうやって?」
 試すための意地の悪い質問だ。答え如何では大して意味もなく殺されるかもしれない。
 しかし不思議と怯えは浮かばなかった。
「俺はただの人攫いだ。専門家はそちらさんだろ」
「なるほど、それならそれでいい」
 少なくとも想定していた反応の一つではあったのだろう。男の声に変化は感じられない。
 さて俺は一体どう扱われることになるのかと、片眉を上げて少しばかりの時を流そうとしたときのことだった。
 甲板を駆ける甲高い足音とともに、未だ名も知らぬ同業者が泡を食ってやって来た。烈火がクルーザーから此処までを直接跳躍したのに対して、タラップを上がったのだろう。
「おい、お前! 俺を通さずに話進めてんじゃねえ!」
「ナニサマだよ、てめぇ」
 溜息混じりのぼやきは果たしてその耳に入ったか否か。
 同業者はすぐに<スィトリ>へと向き直り、まくし立てた。
「どうだ、こいつの腕は確かだ。頭も回る。悪い買い物にはならないはずだ! さすがに日本のこの現状で支援なしはきついが、バックアップしてくれれば確かな足掛かりを作れる男だ!」
 目を血走らせ、声には微塵の余裕もない。推測するまでもなく自らの生命、進退を賭けているのだろう。
 異常なほどに静かな気持ちで同業者を、その生き足掻く様を見る。
 <魔人>としてごくごく並の力しか持ち合わせないということは、平和に日々を暮らしている分には問題ないだろうが、自分たちのように悪行に身を沈めれば常に身を脅かされることになる。必死で生きなければならない。
 楽しいことに誤魔化され、楽なことに流されて来た自分とは違う。
「それに俺はあちこちにシステムを作り上げてる。これも使わなきゃ腐っていくだけだが、力を貸してくれれば稼働させられる! 俺たちを使わない手はないはずだ!」
 なるほど、力がない分は頭を使って手広く人売り稼業に精を出していたということだ。
 烈火はもう一度少女の顔を見下ろした。
 同業者はまだも己の売り込みを行っている。一方で、<女衒スィトリ>の心は張り付けた笑みが覆い隠して。
 理解した。もう聞いていても仕方がないだろう。不意に腹の底から笑いが漏れた。それは大きめの吐息としか聞こえなかっただろうが。
 そうこうしているうちに進展があったようだ。
「いいだろう。君を<スィトリ>の一員として迎え入れよう。この国での勢力拡大に大いに働いてもらうことになるが」
 <女衒スィトリ>が頷く。
 その瞬間、喜色満面に同業者はこちらを振り向いた。
「どうだ、俺は一歩進んだぞ!」
 かつて言っていたことだ。
『こいつは賭けだ。本当に<竪琴ライラ>がくたばるかどうかなんて、蓋を開けてみなきゃあ分からない。だが震えて暮らしたっていいことなんざ何も起きるわけがない。そうだろ? そんな腰抜けを誰が省みるんだ? 俺は弱い。弱いからこそ一歩先に進んでおく必要がある。いつだって賭けなきゃいけない』
「覚えておけ、未来を切り拓くのはいつだって意思だ。俺はこれからもこいつで進み続けてゆく。お前もついてこい!」
「……そういえばお前の名前、まだ知らんな」
 少女を抱いたまま、歩み寄る。
 自分がどのような表情をしているのか、烈火には分からなかった。誰も特別な反応をしないということは、どうということのない顔なのだろうか。
「おいおい、俺の名は」
「要らん。死ね。これ以上振り回されてたまるか」
 下位とはいえクラウンアームズである愛剣を顕現させ、片手だけで容易く斬り捨てる。脱落はしたが元剣豪派、ただの<魔人>と比較すれば、膂力も速度も剣才も経験も遥かに勝る。
 声もなく宙を舞い既に消えつつある首に告げる。
「俺らみたいな悪党に一番必要なのはな、力だ。お前の未来を切り拓く意思とやらは、お前を斬ってすっきりしたいだけの俺のクッソ下らん衝動に負けた」
 聞こえているかどうかも怪しいが言わずにはいられなかった。
 同業者にも計算はあったのだろう。よもやこんなところで、こんな段階で害は為すまいと。丸きりの、狂気の沙汰となるからだ。
 そう、これは頭のおかしい行動である。
「最も必要なものは力。それについては大いに賛同できるところだが、これは我々に対する宣戦布告に等しい。言った通り、彼のことは仲間として迎え入れるはずだった」
 <女衒スィトリ>の笑みは微動だにしない。
 こいつには果たして中身が入っているのだろうか。益体もない思いを思考から振り落とすように、烈火は頭を振った。
「おたくら、あいつの言うことなんてまともに聞いちゃいなかったろ。後ろの奴ら、何人か欠伸噛み殺してたぞ」
 どうにももやもやとした、これまで言語化しづらかった感覚の答えをここで得る。
「そうだ、アレだな。ゲームのシナリオで立ちグラ使い回しのモブの台詞を機械的に送ってる感じだ。まるで本気を感じない。最低限のデータだけ流し見て、とりあえずキープしとくか処分するかだけ気分で決めて、すぐに忘れる」
 不思議な高揚を覚えた。自分は今、破滅の扉を蹴り開け、踏み出している。誤りと承知している答えに命を賭けた。
 合わぬ歯の根を、鳴らんとする歯の音を、力づくで抑え込み、歪に口角を上げた。
「で、後で思うわけだ。――――何だこれ? 要らん、捨てとこう。――――おたくらにとっての俺たちは、その程度のもんだ。違うか?」
「ふむ……」
 <女衒スィトリ>が初めて困ったような顔になった。
「いけないね。そんなに分かり易かったのか。だが頑張って演じるほどの価値もなし、そこは仕方がない」
 全肯定である。
 しかしすぐ、面白げに、あるいは嘲るように小首をかしげて見せた。
「もっとも少しばかり解せない。訊いてもいいかな?」
「何だ」
「君は一番意味のない行動をしている。おそらく我々のことを最初から危険視はしていたんだろう? なら、なぜ律儀に標的を浚って来た? 脅しでもかけられたのだろうが、無視すればよかったろう。あるいは、もうここまで来てしまったなら、適当に合わせて帰ればよかっただろうに」
 正鵠を射てはいる。
 射てはいるが、下らなかった。
「俺にはそのとき見えてることしか見えねえんだよ。凡人だからな、流される。気分で動いたり理屈で判断したりする。後出しでなら何とでも駄目出しできるんだろうがな」
 出した刀は仕舞わない。これはこれから酷使する。
「そうだ、キープと言ったが、あれももう既に間違いだ。このウェパルとやらを見た俺を生かして帰すわけがない」
「つまり、間違えたことに気付いたから力づくで逃げ出そうと?」
 <女衒スィトリ>が合図すると、背後の黒服たちがクラウンアームズであろう武器を一斉に構えた。
「ここに立っている中で、君より弱い可能性があるのは私くらいだ。そのくらい察してはいるのだろうがね」
「言われるまでもない」
 右手には刃、そして左腕には少女を未だ抱えている。
 <魔人>の膂力をもってすれば重くはないが嵩張りはする。盾としたところで躊躇なくまとめて殺しに来るだけだろうし、脆過ぎて紙切れに等しい。
 放り出すべきなのだろう。不幸にはなるだろうが殺されはすまい。むしろこうして抱えている方が危ない。
 そもそも売るべく拐かして来たのは自分なのだ。今更何の偽善を、偽善にすらならないことを行おうというのか。
 黒服たちがゆっくりと半円状に広がり、こちらを取り囲む。その一方で<女衒スィトリ>の前は三名が塞ぎ、強襲に備えている。
 背後はもちろん海だ。
 それでも捨てられない。また無意味なことをしている。間違え続けている。
「間違いで、それがどうした! てめェらも! <竪琴ライラ>も! 見下してンじゃねェぞ!!」
 腹の底に冷たくあった澱みを、その更に奥の灼熱が沸騰させ、飛び散らせる。
 それは安い自尊心だ。
 皆は笑うのだろう。小悪党が何を言っているのかと。身の程を知れと。むしろ負け犬の遠吠えが似合っているとでも。
 だがそうであっても、吠えずにいられないのだ。ここにいるのは『烈火』と名乗る<魔人>なのだと。名もなき背景などではないと。
 同業者を名を知らぬままに殺しておいて、それでも己はと憤る。
 この場この時、その身に訪れるのは確かな破滅であるはずだった。



 ――――閃光。
 視界を奪う霧を裂き、逆さに星が流れ去った。
 その光の奔流が何であるのかを烈火が知る由もない。だが夜が見え、月が見えた。道が開けたかに思えた。
 黒服たちがざわつく中、<女衒スィトリ>の表情がない。すべてが抜け落ちた虚ろを覗かせ、やがて作り物めいた気味の悪い笑みを露わにした。
『あれはいい。ただの流れ弾だ。それよりも来るぞ、理不尽が、血塗れ聖者が。我々デヴィルを憐れみに、赤い旋風が!』





[30666] 「笛の音響くこの空に・十一」
Name: 八枝◆767618cd ID:00522a92
Date: 2022/04/24 23:12



 巡洋要塞ウェパルが眠りから覚める。
 全長1キロメートル超、呆れるほどの巨体が鋼鉄の軋みとともに稼働を始めた。
 ここに及んではむしろ邪魔だということか、霧がかき消すようにして散る。
 探照灯サーチライトは要らない。<魔人>の目でなくとも見えるだろう。赤が、不知火を思わせて揺らめいているのだ。
 烈火の頭上、中空に六つの穴、横向きの奈落が口を開けた。そしてそこから突き出したのは砲だ。それも口径が子供の背丈ほどもあろうかという。
 蒼い燐光がそこから覗く。それは初めて目の当たりにする、しかし虚構の上では慣れ親しんだ現象。
 荷電粒子砲。
 兵器としての実用性はないものの理論的には現代の科学技術でも可能、とはされるが、これは異なるだろう。<魔人>の行う理不尽の一種だ。力の投射を兵器のように見せかけている。
 解き放たれたのは目をかんばかりの蒼と白の奔流。大気の焦げつく臭いとともに赤へと殺到する。
 しかしそれは捻じ曲がった。四つは空へ、二つは海へ。海水がごっそりと消え去り海面が大きく割れる。その最中さなかを不吉なまでの赤い旋風が舞うのだ。
 烈火は見た。長剣の纏う赤光しゃっこうに照らし出されるのは見知った顔。暗い海、その水面みなもを大地であるかのように縦横に駆け、鏡俊介が向かって来る。
 次々と放たれる砲撃は、しかしやはり当たらない。回避行動以前に強制的に逸らされてしまう。
 鬼気迫る顔、視線がこちらを捉え。
 烈火は姿を一瞬見失った。
 掻き消えたのだ。空間を転移するように、あるいは世界を縮めるように、位置そのものが百メートルは移り変わっていたのだ。それを幾度も繰り返し、瞬く間に巡洋要塞ウェパルにまで到達してしまった。
 最後に黒服たちが悪あがきとばかりに叩き込もうとしたサブマシンガンの弾は、夜半のそよ風と消えた。
 音もなく甲板に降り立ち、俊介はにこりと笑った。
 そして開いた口から流れ出たのは流暢な英語だった。
『さすがに場所がないから、ここに立たせてもらうよ』
 <女衒スィトリ>も黒服たちも何も言わない。いつでも襲いかかれるように身構えている。
 すると俊介は小首をかしげて言葉を変えた。
『フランス語がいい?』『それともドイツ語?』『イタリア語も』『スペイン語も話せなくはないよ』『アラビア語はちょっと厳しい』『見た目からして中国系じゃないとは思うけど』
 まさに言語を次々と切り替えながら呼びかけ、反応を待つ。
 烈火は呆気にとられていた。最初のものが英語のようだと察せたくらいで、あとはまるで理解できていない。
 これは<僭神>ヤルダバオトのもたらしたものではなく、かつて俊介が世界を回っていたときに身に着けていっただけの言語能力であるのだが、知る由もない。
 最初に応じたのはやはり<女衒スィトリ>だった。
『私に限って言えば出身はイタリアになるが、英語でいい。全員が分かるのはそっちだ』
 相も変わらぬ張り付いた笑み、こちらもイタリア語から英語へと遷移させ、軽く手を挙げた。
 それは合図だったのだろう。黒服が戦闘態勢をひとまず解いた。とはいえ意識としては最大級の警戒を維持したままであるが。
『さて、何か御用かな? 招かれざるお客様』
『烈火は僕の友達なんだ。物騒なことはやめてもらえるかな』
 怯懦など欠片もない声、柔和な表情。そこに一切の偽りはない。鏡俊介はいつも本気で生きている。太い針のような殺意、研ぎ澄まされた刃の如き敵意を受けながら、返すのは友好を望む言葉だ。
 皮膚が粟立つのを黒服たちは抑えることが出来ない。情報としては知っていても、先ほどのでたらめな力とこの隙だらけの姿との乖離のもたらす違和感が肌の裏側を逆撫でするような不快を与える。
 だから、応えることが出来たのはやはり<女衒スィトリ>だけだった。
『さて、困ったね。本当に困った』
 それは本音だった。
 <女衒スィトリ>は<無価値ベリアル>より鏡俊介についての情報を得ている。
 しかしその上で、どうしようもないのだ。意に添わぬくらいならばともかく、相容れないことを口にしようものなら以降は怪物モンスターとして認識されて言葉が通じなくなってしまう。口八丁を武器とする者にとってそれだけは避けなければならない。
『ふむ、ならば……』
 二人まとめて逃してしまおうと、そう決断する。<スィトリ>にとって烈火など塵芥、生かしておくよりは始末してしまった方がいい、程度のもので、放置したとて大して問題ではない。巡洋要塞ウェパルのことを広めたくはないが、ここで<赤旋風>とやり合うよりは遥かにましである。
 だから烈火はただ傍観しておけばよかったのだ。そうすれば無事に帰ることが出来た。今後どうなるかはともかくとして、この場は切り抜けられた。
 だが、烈火には自分の心しか分からないのだ。その瞳の映す景色は、耳の捉える声は、俊介が自分のために死地に飛び込んできたようにしか思えなかった。
「……頼みがあるんだ、俊介」
「どうしたの?」
 さすがに<女衒スィトリ>から視線は外さずにだったが、俊介からはいつもの通りの明るい声が返って来た。
「俺が馬鹿だった。こいつらは糞だ。この子に酷いことをするつもりだ。だからこの子を連れて逃げて欲しい」
「それじゃあ烈火はどうするの」
「俺は……」
 死ぬ。そう決めていた。これ以上流されるよりも、終わらせる。
 最後に自分がここに生きていた証を刻み付けられればそれでいい。
 もうたくさんだ。もう、救いの手を求めようとは思っていなかったのに、どうして来てしまったのだろうか。本当に間が悪い。
 狂人ではあるが善良でもある俊介を巻き込みたくはない。
「こいつらを足止めする。その間に行ってくれ。巻き込まれるだけでこの子は簡単に死ぬだろ」
 ふと口許に笑みが浮かんでしまったのは、お約束のような台詞だったからだろう。ここは任せて先に行け。一度は口にしてみたい言葉ではある。
 あとは、この異常で、お人好しで、狂っている男に不思議な親しみを覚えてしまったのだ。
 偽善ですらない、ただ自殺には巻き込まないでおこうとだけ、烈火は思っていた。
 僅かな沈黙。俊介の迷いの現れだろう。
「……僕は烈火を助けに来たんだけど」
「追いつくさ」
 こともなげに噓をつく。死ぬと決めてしまった今、爽快だった。
 その嘘は見抜かれたのか。
 見抜かれたのだろう。
「分かった」
 少女を受け取った俊介の声はひどく穏やかだった。死ぬ行く者を見送る響きを帯びていた。
「いつまで続くんだろうね、こんなことは。終わらせなきゃ」
 少女を抱き、跳躍する。海上を踏みしめ疾駆する背はすぐに消えた。
 そして、<女衒スィトリ>も動いた。
 表情は変わらなかった。しかし張り上げた声の響きは、今までからは想像もつかぬほど異様な圧を発していた。
『全力で追え! 千戴一遇のチャンスだ! これを逃せば二度はないと思え!』
 叫びの意味は烈火に理解できるはずもなく、唯一分かったのは黒服たちが自分など無視してタラップを降り、接舷していたクルーザーに乗り込んだこと。それから、今までは物陰に隠れていたらしき大男も続いたことくらいだった。
「俺程度、自分独りでも片づけられると?」
「ああ、その通り、その通りではある」
 謡うように、<女衒スィトリ>。
 また余裕のある音になっている。
「なぜなら、君は愛しくなるほどに愚かだからね」





 爆音が夜の海に溶けてゆく。
 本当に、黒服たちが全員行ってしまった。
 勿論、まだ隠れている可能性はあるが、少なくとも視界内には<女衒スィトリ>独りである。
 烈火は愛剣を青眼に構え、感覚の糸を周囲へと伸ばした。
 <女衒スィトリ>は動かない。戦闘態勢すらとらずに突っ立っている。
 余裕を通り越して油断にしか見えない。自分は強くないと言っていたはずなのだが。
 ともあれ睨み合って時間を浪費すれば不利なのは自分の方だ。追うことを諦めた黒服がいつ帰って来るやもしれない。
 甲板を蹴る。極端に前傾した姿勢、<女衒スィトリ>の足元まで一息に踏み込む。
 命を既に捨てたからこその己を顧みぬ一歩。
 そこから伸び上がるようにして斜めに切り上げる。
 何をされようと死ぬ前に殺す。烈火の剣は今、冴えに冴え、剣閃は一条の光としか映らない。
 夜半の小さな月は標的の姿を抵抗なく断ち割った。
 身体の芯が冷える。あまりにも手応えがない。
 烈火の視界の中で<女衒スィトリ>が拡散した。霧となって、薄れ、消える。
「幻影……? 最初から偽物ダミーか!」
 呻く。
 当然と言えば当然だ。違和感自体はあった。仮にも幹部とあろう存在がわざわざ危険に身を晒す方がおかしい。何かの絡繰りなのか異能なのかまでは分からないが。
 もう一度構え直す。
『あれは君よりも、誰よりも弱いとも。ただの幻像だからね』
 声が先ほどまでと同じように響く。
 その音の出処は分からないが、本体はおそらくこの巡洋要塞ウェパルの中であろうことは想像に難くない。
「このクッソでかい船のどこにいるのか見つけ出せってか。冗談きついぜ、かくれんぼの鬼なんてもう十年くらいやってねえぞ」
 軽口はまだ出てくれた。
 いつになく血の巡りがいい。俊介を迎撃したときの荷電粒子砲もどきを覚えている。あれが<魔人>の所業であるならば、放っていたのはほぼ間違いなく<女衒スィトリ>だろう。
 あれが今度は自分に向けられる。そのことを予見していたからこそ、回避は淀みなかった。
 眼前に突き出された砲門。眩い光。躱してなお、熱が頬を焼いた。
 思考が縦横に駆け巡る。
 どこから侵入する? 奴はどうやってこちらの位置を正確に把握している? 本当に船内か? たとえば姿を隠して甲板のどこかに突っ立っているということも充分に考え得る。
 留まらない。甲板を不規則に移動し続ける。
 極太の輝きが危うい位置を薙いでゆく。足を止めれば終わりだ。
『いつまで逃げていられるか、見ものではあるね』
 やはり正確に過ぎる。船体に被害が及ばぬよう射出方向の限られているおかげで避け続けられてはいるが、集中が切れた瞬間が終わりの時だろう。
 俊介のような超感覚が欲しかったところだがないものねだりをしても仕方がない。
 やはり外か。
 烈火はそう結論付けた。
 違和感を探せ。感覚を広く開放しろ。失敗など恐れる必要はない。既に放棄したこの命など、どうなろうと変わりないのだ。
 偽粒子砲が向けられない場所はどこだ? 水平に放たれるときでも安全な場所は?
 光を幾度搔い潜ったろう。腕が焼き切られたのは二度だ。
 目まぐるしい、眩暈を禁じ得ぬ逃避舞踏の果て、烈火の意識の中には安全地帯が構築されていた。
 強く甲板を蹴った。
 残った右脚が焼かれたが即座に復元、空白地帯へと飛び込み、受け身から跳ね起き、力の限りの五閃を加えた。
 音が消えた。
 その理由を、烈火が理解することはなかった。
 中空に開いた穴より、全方向から打ち出されたのは子供の胴ほどもある冷たい杭だ。七基の杭打機パイルバンカーが、肉片も残さぬとばかりに徹底的に烈火の肉体を破り、裂き、貫いた。
『君は』
 声は既に届かない。死した<魔人>は、烈火は消滅している。
『本当に愚かだ。ああ、だが、誰も彼もが愚かなのだよ。全てを旨く運べる者などいようか。誰も彼もが盲目で、手探りで喘いでいるのだ』
 再び現れた幻影は、薄い笑みを張り付けていた。
『さて、誰か帰って来られるものか』
 夜は更に深く、奈落の空に逆落とす。
 何も見えなくなった。







[30666] 「笛の音響くこの空に・十二」
Name: 八枝◆767618cd ID:d710f632
Date: 2022/10/30 22:36



 <無価値ベリアル>は言った。
『彼を悪意によって殺すことはほぼ不可能でしょう』
 <赤旋風>。
 不吉な赤の光を引き連れて、命を一陣の風が掻っ攫い、血煙がまた赤い風となって消え去る。
 理不尽を行う<魔人>の中にあって最も理不尽、狂える知性で平和願う聖者。
 常時発動されている凌駕解放<僭神>ヤルダバオトはその力の及ぶ限り自在である。
 <竪琴ライラ>の宿敵とも言える<赤旋風>であるが、日本へと侵出するならば<金星結社パンデモニウム>にとっても避けられぬ障害となる。<金星結社パンデモニウム>とは愉しみのために壊し、殺し、乱す存在だ。<赤旋風>の敵としてはいっそ<竪琴ライラ>よりも相応しい。
 交渉できる相手ならばまだやり様はあった。騙すこと自体は容易いだろう。しかしそれは下策なのだ。<赤旋風>の歪な知性は、追えるつもりでいて、読めるつもりでいて、まるで外れてしまう。思いもよらぬ引き鉄一つであらゆる論理や必然を飛び越えて唐突に、言葉も通じぬ抹消者と化す。
 あの<無価値ベリアル>をして飼い殺すしかなかったとあれば、利用しようと思える<金星結社パンデモニウム>の<魔人>はいないだろう。
 <無価値ベリアル>はこうも言った。
『彼を殺せるのは圧倒的な力か、あるいは善意です。善意ですよ』
 <赤旋風>を斃す方法は限られるが、突き詰めれば凌駕解放<僭神>ヤルダバオトの出力が有限であることを利用することになる。
 まずは戦いの中で攻撃に意識を割かせ、その隙を突いて一撃で仕留める方法。
 これは完全に虚を突き、本当に一撃でなければならない。僅かにでも違えば<赤旋風>は即座に退散してしまう。
 あるいは、領域型の凌駕解放による干渉で<僭神>ヤルダバオトの効力を飽和させるという手法も考えられる。
 ただ、凌駕解放を会得している者すら稀であるのに、その中でも領域型は更に少ない。おそらくは世界中を探しても両手の指を超えるかどうか。その上で<僭神>ヤルダバオトの出力を上回る必要がある。
 理屈としては思いついても、実現するのは難しい。
 そしてもう一つだけ、それも容易く倒せるであろう方法が存在している。
 人間のような脆いものを守らせればいいのだ。<魔人>の攻撃ならば掠めただけでもただでは済まず、直撃すれば木端微塵。そこから無事に保護するために要求される力は、同じ<魔人>を守るときとは桁が違う。いとも容易く浪費させることが出来る。
 ただしこれもまた、成立すればの話になる。
 <赤旋風>は人間ドウブツに対して優しい。虐待など見かけたならば止めるだろう。しかしあくまでも動物は動物だ。自分や他の<魔人>ニンゲンよりも優先することはない。
 それこそ、守ってやってくれと友達に頼まれでもしなければ。
 予想だにしない善意の歯車が、笑えるほどにぴたりと合ってしまった。
 だから今この時は、二度とは来ないかもしれない機会なのだ。
 黒服たちもそれは理解していた。彼らもまた<金星結社パンデモニウム>である。唯々諾々と他者に従うような<魔人>ではなく自らの快楽を追う外道の類である。<赤旋風>と出くわしたこと自体は偶然でも、難敵を葬れる瞬間を逃すはずもない。
 魔神、<反逆>のリュクセルフォンによって<魔人>となった者は必ず<トレイター>の戦格クラスを有する。その異能、『リベリオン』は周辺世界に干渉し、因果を僅かに自らの優位へと引き込んで格上へと食らいつく武器となる。そのことも勝算となった。
「誰が落とすか競争しようぜ」
「分かってないなあお前。囲んでボコる方が楽しいだろー?」
 浮かぶ表情は、愉悦。個である彼らはこの期に及んでも効率を優先しない。護衛などという詰まらない役割を与えられていた鬱憤を晴らすかのように、口々に奇声を上げて疾走する。
 その快が曇るのに、さほどの時を必要とはしなかった。



 木々の間を行く。
 街を選ばないのは人間ドウブツを巻き込んでしまわないようにとの<赤旋風>の意思によるものだ。
 その行く手が遮られることはない。速度が落ちることはない。
 背後からは死を告げる砲弾、光弾が降り注ぐ。森が壊れてゆく。
 だというのに、当たらない。全ての攻撃が逸れてしまう。
 最初は遊んでいるからだと思った。次に、偶然かと思った。
 しかしどうしても当たらないのだ。
「くっそ、話が違うぞ……」
「合わせろ、逃すのはさすがにまずい!」
「合わせるのはお前の方だ!!」
 怒声に焦りが混じる。
 <無価値ベリアル>が間違えていた? あるいは自分たちを陥れるための罠か?
 思考に疑念も混じる。
 気づく由もない。
 そもそも、<僭神>ヤルダバオトの出力について定量化など出来ていたのはハシュメールの<魔人>帳ミンストレルノートだけ、それも二年以上前の記録だ。それ以外は感覚的に見当を付けていたに過ぎない。
 そして、<赤旋風>もまた成長するのである。
 たとえ自覚はなかろうと、環境に合わせて生物が適応するように、より効率よく力が振るわれるようになる。追っ手はなるほど、全ての<魔人>を思えば実力者ではあるのだろう。しかし今の<赤旋風>にとっては、弱点を突かれてなお『リベリオン』ごと凌げる程度でしかない。
 黒服たちはなおも追い、傷一つつけられず、狂乱の熱に冒された思考のままに行って。
 不意に次々と殴り飛ばされた。
 木々を破砕しながら側方の小さな崖に叩きつけられてようやく止まり、眩む頭を振る。
「誰だっ!?」
 一人が誰何の声こそ上げたものの、気付いた者から背を凍てつかせた。
 僅かに見えたのは夜を行く巨躯の影だけだが、それこそが答えだった。
「奴も来てたのか……!」
 舌打ち。黒服たちは一斉に熱を失っていた。進路上にいなかったおかげで被害を受けなかった者も、次々と集まって来ては顔を見合わせて肩をすくめ合う。
「アホらし」
<殺戮獣>グラシャラボラス九号ノナか、随分とストレス溜め込んでただろうしな」
 グラシャラボラスとは、ソロモンの七十二柱のひとつに数えられる悪魔であり、総裁にして伯爵とされる。グリフォンの如き翼を持つ犬の姿をして、ひたすらに殺戮を好む。
 <金星結社パンデモニウム>において、その名は一つの集団に用いられている。彼らは伝承上のグラシャラボラスのように殺しを好む。彼らは番号で呼ばれる。彼らは戦力を必要とする者に貸し出される。
 彼らを統括するのは十二の翼の一つ、<屍王ネビロス>。殺戮狂どもをどのようにして飼い馴らしているのかは定かではないが、事実として、貸し出された<殺戮獣>グラシャラボラスは許しがあるまでおとなしくしているのだ。
 とはいえ傍目にも鎖を引き千切らんとする猛りが垣間見えてならず、近くに寄るのも躊躇われる。
 それがついに解き放たれたとなれば、殺しにおいて自分たちの出る幕はもうないのである。
「どうする、折角陸に上がったんだから遊んででもいくか?」
 一人が冗談めかして言う。半ば本心でもあった。半端に燻る熱を何らかの形で発散したい。
 もちろん、言葉通りに遊ぶわけではない。何か凄惨なことがいい。ひとまず街に出て、適当に道行く少女でも捕まえて。
「ああ、いいな、何かあっても船まで逃げれば安全なわけだし」
 財団派領域は<帝国エンパイア>から始まった混乱に次ぐ混乱で、ただでさえまともな機能を失っているであろうと推測される。特に今は<赤旋風>と九号が大いに暴れて目を引き付けてくれることだろう。なればこそ悠々と行動も出来る。
 夜が深かった。これから向かおうとしている街の明かりは遠かった。見下ろす星々もまた遠く、闇は深い深い海底にも似て。
 何かが動いたように思えた。人間を遥かに超える<魔人>の瞳にもそれは捉え切れなかった。
「そうと決まれば……」
 そう口にしようとした黒服の頬に浮かぶ笑みは下卑て、言葉の終わるよりも早く、それを揶揄するかのように生暖かい液体が降りかかった。
 鉄錆びた臭いは一瞬のこと。濡れていたのも一息の間のこと。死した<魔人>は残らない。
 目の前にいたはずの同僚の姿がなかった。
 替わりに見知らぬ東洋人の姿があった。
 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。日本人男性として長身に分類される背丈はオランダ生まれの黒服からすると平凡に過ぎない。
 しかしコートは目立つ。暑さもまだ完全に引いたわけではないというのに色褪せたロングコート、それも右袖だけ異様に大きく広がった奇妙な仕立てになっているのである。
「殺せ!」
 黒服は、さすがに<金星結社パンデモニウム>だった。何者であるかを確かめもせず敵と断定し、警告の声を上げる。推測など要らぬ。違っていようと構わない。もしそれが味方で、死んでしまったとしても、弱いのが悪い。
 もっとも、何もかもが既に無駄であったが。
 応えはない。同僚たちは死に絶えていた。
 ほんの数秒もなかったはずだ。言葉を交わしていたはずだ。なのに、夢から醒めてしまったように、自分こそが最後の生き残りであるという現実だけが叩き付けられた。
 そして次の言葉を口にする猶予も与えられなかった。巨大な籠手を嵌めた右拳が、空気を吐くべき肺を胸部ごと貫き破砕していた。
 死の瞬間に視線が合った。気力に欠ける、義務を果たすだけの瞳だ。
 こいつは何が楽しくて生きてやがるんだ、そう思いながら黒服は死んだ。
 その疑問も無意味に消えた。
 ロングコートの姿は海の方角へと視線をやり、低く呟いた。
「ただ強いだけの獣と奴らの拠点。これは船とやらが優先か」
 夜に身を躍らせる。
 暗闇の中に沈んだ。







[30666] 「笛の音響くこの空に・十三」
Name: 八枝◆767618cd ID:d710f632
Date: 2023/12/29 19:02



 <災>と魔神が現れるより以前、今と変わらぬ不幸の多くは世に散りばめられていた。
 親のなきがゆえに、あるいは売られて、犯罪の末端を担わされる子供はかつてよりあった。
 ほとんどは使い潰されて命を落とし、実力と利口な立ち回りを身につけた僅かが生き残り、次の子供を使う。
 だから『彼』は稀有な存在だった。欧州の都市でただひたすらに、示された標的を殺し続け、飯にありついた。
 ちょうど魔神の現れた年に、齢六つで初仕事を行って以来、一度も仕損じなかった。大きな負傷こそあれど、死ぬことはなかった。
 元々は一度だけの、文字通りの鉄砲玉のはずだった。人が人を殺すのにさほどの技術は必要ない。標的の前まで行って真っ当に銃を撃てさえすれば、あとは年齢が油断を誘ってくれる。
 当然、死ぬか捕まるかするはずだ。後者であったときのために余計な情報は一切与えていない。
 なのに『彼』は思わぬところで接触を取って来た。そして次の標的を要求した。六歳児が爛々と目を輝かせて。
 幸いにも担当の上役は聡明だった。心の読めぬ丸い双眸に猟犬を読み取った。ならばそのように扱えばよい。
 それからはそれで上手く回った。仕事を与える、替わりに生活の保障はする。彼の殺害遂行能力は空恐ろしいもので、長じてからは護衛の付いた政府の重鎮すら暗殺してのけたものだ。
 上役は聡明だった。自分の扱っているものは猛獣であると認識し、細心の注意をもって接した。
 上役は確かに聡明だったのだ。気付ける者などほとんどあるまいから、仕方がなかった。
 『彼』にとって義務と報酬とがまったくの逆であるなどとは、それこそ狂ってでもいなければ思いつくまい。
 上役は十年生きられた。











 まだ暑かったはずの大気が急速に冷える。
 攻撃の質が変わった。
 そのことは鏡俊介も察していた。先ほどまでのものを乱射される拳銃だとすれば、今は狙いを付けたスナイパーライフルだ。数は大幅に減ったが恐ろしさは上がった。
 左右に回避行動をとる。急激で強力な慣性変移から腕の中の少女を守りつつ、かつての情景が僅かに脳裏をよぎっていた。
 このように抱えはせず、手を引いてではあったが。
 結局みんな死んだ。大人も子供も一切の区別なく。
 何かが背を抉った。
 死にたくない。そう言っていた。
 何かが脇腹を抉った。
 仕方がない。そう言っていた。
 何かが頬をかすめた。
 誰も皆怖いのだ。傷つきたくないのだ。しかし他者が何を考えているのかなど分かったものではない。だから傷つく前に排除しようとするのだ。
 彼もまた。
『フゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!! どうしたどうした逃げるばかりか!!』
 怖いのだ。満ち足りていないのだ。
 そう思って、逃げながら穏やかに言葉をかける。
『今夜はいい天気だね。星が綺麗だ』
『ハ……狂ったか? いや、いやいや、そういや狂ってんだったな。遺言は「お星さま綺麗」でいいか? ハハハハッハハハハッハハハハハハッハハハハッ!!』
 <殺戮獣>グラシャラボラス九号ノナは手の中に小さな刃を創生し、数個まとめて投射する。クラウンアームズ<ケルベロスファング>、正確にはそれを元にほんの数秒間だけ実体化させた投擲武器だ。刃渡りは5cmにも満たないが、標的から強制的に逸らされて周囲に撒き散らされたそれは大地に巨大な墓穴を掘り返し、木々を爆散させた。
『お前はどんな血を撒き散らす!? 残念だなあ、<魔人>の血は消えちまう。一瞬で消えちまう。だがそのガキは違う! 啜らせろよ飲ませろよ!』
『お腹に悪いよ』
 声を残し、少女ごと鏡俊介の姿がぼやける。
 歪む視界、遠くなりそうになる意識に九号は吠えた。
『なめるなッ!』
 同時に投擲した一撃がまともに背を貫いた。次いでそのまま五連撃、うち一つは吸い込まれる。
『殺すッ! 殺すッ! 殺すッ!』
 殺意を形とし、一念ひたすらに撃ち出す。現実の変容を数で凌駕する。
 風が、虚空が唸る。
 加速、加速、加速。それでもまだ捉まらぬ。亀に追いつくこと叶わぬアキレウスのようで、しかし九号は意思なき仮定の存在ではない。
『オオッ! オオオオオオオオオオオオオオオオオオゥッ!!』
 こじ開ける。開けた先に足を踏み入れる。
 <殺戮獣>グラシャラボラス殺戮コロシに魅せられた存在である。理由はない。美学はない。自らの破滅も厭わず突き進む。
 少しずつ、本当に少しずつ近づいて行く。衝動が彼我の距離を縮める。
 一方で、俊介は落ち着いていた。
 主観においてはいつものことである。いつだって追い詰められている。今まで運よく攻撃が外れたり大きな怪我には繋がらなかったりしているだけだ。
 鏡俊介は今でもただのフルート吹きである。
「困ったね。どうにか諦めてくれないかな」
 腕の中で眠る少女に呟く。
 時折刃が身体を削る。
 随分と傷を負ってしまったように思う。このままではもう長くは凌げない。何とかして少女を安全な場所に逃し切らなければ。
 周囲の様子を把握する。
 海から遠く離れ、山も奥深い。
 何か目くらましになってくれるようなことが起これば――――



 そう望み、そして<僭神>ヤルダバオトは実現する。



 山肌が浮いた。
 鏡俊介が駆け抜けるのを見送った木々が、蹴り捨てた土砂が舞い上がり、九号の視界を覆い尽くす。
『虚仮嚇しをッ!!』
 吼える。凡百の<魔人>ならば通じたかもしれないが、九号にとってはこの程度のものなど妨害にもならない。
 『彼』の遂行能力を支えていたのは執念だ。何にかじりついてでも大好きなものを手に入れようとする執着が超人めいた忍耐や閃き、行動力をもたらしていた。そしてそれは<魔人>となった今も変わらない。
 視覚も聴覚も嗅覚も土砂に攪乱させられようと、勘とともに直進する。
 振り払うことすらない。全てを浴びながら、力の限り前へと進む。己がどうなろうと構いはしない。死を、血を全身で堪能したい。
 <殺戮獣>はその名に反して獣ではない。獣ならば己の身を一番に守る。あるいは仔を。
 <殺戮獣>は狂えるヒトである。本能に抗うことを知ってしまったヒトが、替わりに狂気を祭り上げてしまった。
 手を伸ばす。
 手を伸ばす。諦めず、もう少し、もう少しと。
 刃ならず、もはや針にまで鋭化した感性が捉えた。
 一本の線がかつてない威力をもって、ついに過たず鏡俊介の胸を後ろから貫いた。


 
 山肌を捲り返すなどという大干渉を行い続けていた<僭神>ヤルダバオトに、守りまでも発揮する余力はなかった。
 そして鏡俊介も、己が不死身であるとは思っていない。偶然外れていたのならば、偶然当たることはある。
 貫通した一撃が少女に傷を負わせることだけは避けた。
 足がもつれる。
 初瀬光次郎の<曙光>アマテラスによる生命減少は重い。<僭神>ヤルダバオトはあれ以来、そもそも命をも繋ぎ続けていたのだ。
 かつての死の記憶が再び、鏡俊介に死を想起させた。そのことが生命維持をやめさせる。
「……っ、せめて、君だけは……!」
 自分の命は諦めた。だが腕の中の少女のことは諦めない。
 強く踏み込み、大きく弧を描くように反転。降り来る刃は全て外れる。
 一歩ずつ、僅かに死へと近づいてゆく。替わりに逃走速度はこれまでに倍する。
 ヒト一人に出来ることなど高が知れている。
 音楽は世界を繋ぐ。正義を貫ける強さを鏡俊介は望んだ。
 音楽は世界を繋ぐ。それは大仰なことではない。
 自分は一端であればいい。それが正義であるならば、誰かが連綿と受け継ぎ続けてゆくはずだ。
 今は友との約束を果たす。
 咳き込む。息苦しい。
 <魔人>であればおかしなことだ。肉体由来であれば、そのようなものは即座に是正されるはずだ。
 <僭神>ヤルダバオトの万能の力は都合のいい現象ばかりをもたらすわけではない。俊介がこうであるはずだと思えば、そうなる。
 それでも<殺戮獣>を遥か後方へと引き離してゆく。全力で逃げに徹した<僭神>ヤルダバオトに追いつける<魔人>は存在しない。
 生温い大気を引き裂き、逃走は続く。
 夜明けはまだ遠い。
 この子を救うためには――――





 雨雲もなくして雷鳴が轟く。
 それは遠くまで届くだろう。











 少女が微睡みから浮上する。
 揺れている。
 誰かの顔が見えた。
 しかし。
「まだ眠ってた方がいい」
 労わる声。
 それは愛玩動物に向けたものであるがゆえに、誰よりも優しい。
 少女は再び微睡み、夢なき深みに意識を沈めた。





[30666] お茶を濁すページ
Name: 八枝◆767618cd ID:87c98780
Date: 2023/12/29 19:03
お茶を濁すページです。
基本的に、ここだけを更新する場合下げ更新。
既に公開されている分のネタバレがあるのでご注意ください。
パワー:Aだとかいった感じのデータでにやにや出来る方以外にはお薦めしかねます。































































ハシュメールの<魔人>帳





エピソード1「<魔人>は夜に蠢く」より。



『鹿野瑠奈』

クラス:シノビ/トレイター

<魔人>理解度:B(本能的感覚による)

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:C、スピード:A+、テクニック:C-、ラテンシィ:E

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:B-、疾駆攻撃力:A、遠隔攻撃力:C-
対白兵防御力:C-、対疾駆防御力:B-、対遠隔防御力:B-
耐久:D-

クラウンアームズ
・タイタンブレス、短刀、Bランク
・タイタンブリーズ、イアリング、Cランク

凌駕解放
暴風巨神テュポン
鹿野瑠奈は愛すべき存在を求め続けている。そしてそれ以外の一切を必要とは思っていない。しかし彼女にとって愛すべき存在とは得たならば必ず失うものであり、幾度も自らの手により失い続けて来た。その心の在り様は、己自身を破壊の化身と化し触れるもの全てを崩壊させる位階へと至らしめた。
ギリシア神話における最強最悪の怪物の名を冠するこの術は、もはや風を超えている。加速に加速を重ねたその身は雷光の速さにも匹敵し、風化の概念を体現した一撃は不死をも壊し尽してのける。
攻防一体であり、<暴風巨神テュポン>と化した彼女に搦め手は通用しない。屠るならばそれ以上の力でもってただ正面から打ち砕くのみでしか成し得ない。


備考及び評価
食人嗜好あり。
<魔人>化させたのはリュクセルフォンと推測される。なぜ気に入ったのかは不明。
当人は総合力で上位5%に入ると判断しているが、実際には0.5%に位置する。『本物』であることも考慮すればそれ以上とも言える。
極めて強力な<魔人>。最大の武器は最速に準ずる速度と自在の機動力だが、足を止めても充分以上に斬り合える。防御技術には長けないものの、危機感知能力と急所を抉り取る感性は超一級。トレイターの持つ異能『リベリオン』によって格上にも食らいつき、やがて下してしまう。
切り札は己自身を半ば崩壊の風と化す<暴風巨神テュポン>。広域を壊滅させてしまうために条件がうまく整わない限り使用することはないが、一度発動してしまえばまともに対抗できる<魔人>すら数少ない。







エピソード2「英雄の条件」より



『赤穂裕徳』(能力値の斜線後はヒーローの特性リミットブレイク発動時)

クラス:ライトニング/ヒーロー

<魔人>理解度:D

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:D-/C、スピード:A-/S、テクニック:F+/E+、ラテンシィ:F+/E+

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:D+/C+、疾駆攻撃力:B+/A、遠隔攻撃力:D/C-
対白兵防御力:D-/D、対疾駆防御力:C-/B-、対遠隔防御力:B+/A
耐久:D/D+

クラウンアームズ
・ウラヌストゥース、短剣、Bランク
・セレスティアルフレイク、首飾り、Bランク
・ライラタリスマン、御守り、Bランク

凌駕解放
金剛杵ヴァジュラ
赤穂裕徳は己が絶対の権威者であることを望む。敵はすべて卑しい愚者であり、裕徳によって裁かれなければならないのだ。その在り様は、セレスティアルフレイクの力を補助にしてとはいえ己を断罪の雷と化すに至った。
雷は神鳴であり、天空より下される神罰の一撃である。神罰をかわすことは許されない。ゆえにいかな読みや速度をもってしても<金剛杵ヴァジュラ>を回避することはできず、威力もまた絶大。
ただし当人は気付いていないものの、大きな欠点が存在する。セレスティアルフレイクを補助として使用しているので入る瞬間と戻る瞬間はほぼ無防備であり、かつ一撃ごとに雷から生身へと戻るため、雷に耐えられる相手の場合は何度も隙を見せることになるのである。
名和雅年が何故に撃ち落とすことができたのかは彼の項に記す(予定)。


備考及び評価
リミットブレイクの発動条件は『週に一人、月曜に定めた相手との戦いであること』。
セレスティアルフレイクの本体は首飾りだが、実際に防御を担うのはそれによって発生させた三枚の青い光盾。
機動力を生かした多段攻撃と一撃離脱しかほぼ行わない。戦闘能力に偏りは強いものの、リミットブレイク発動時の力量は絶大。特に砲撃を得手とする<魔人>に対してはその身をまともに捉えさせることすらせず、一方的に封殺できるほど。
ただし最も得意とするのは戦う前にほぼ勝利を決めてしまう立ち回りであり、通常は勝てる相手にしか仕掛けないが、その気になって時間をかければ苦手な相手も陥れることは可能。
その分、予期せぬ事態に弱く戦闘中の駆け引きも苦手とする。
切り札は己を神罰の雷と成す<金剛杵ヴァジュラ>。諸刃の剣だということもあり、自覚はないが出さざるを得なくなった時点で敗北は近い。







『森河皓士郎』

クラス:アーチャー/マイト

<魔人>理解度:B

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:E-、スピード:F+、テクニック:E、ラテンシィ:A-

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:D-、疾駆攻撃力:D-、遠隔攻撃力:B+
対白兵防御力:F+、対疾駆防御力:F-、対遠隔防御力:E-
耐久:D-

クラウンアームズ
・バロールアイ、指輪、Bランク

凌駕解放
無限龍アナンタ
森河皓士郎はヒーローとなることを望んでいる。そして無辜の民のためにヒーローが痛みを得るのは当然だと考えている。
力を求めた果て、辿り着いた答えは愚直である。かわされるならばかわしようもないほど大量の帯を作り出せばよい。それで威力が弱くなるなら強めればよい。力が足りないならば己が身を削り、補填とすればよい。
無限龍アナンタ>は千二十四の焦熱切断帯による空間の蹂躙である。一定範囲内においては身を置く場所すら残らない。特異な効果こそないが、一帯を荒野と化してしまえる強大な攻撃であり、対多数においてこそ真価を発揮する。
本来ならばバロールアイによる増幅を経ても到底行使できるような術ではないため、代償を支払うことで可能としている。


備考及び評価
対人会話能力は低い(ちょっと親近感)が正義に関しての性情は苛烈で視野狭窄を起こし易い。
戦いに関して高い感性あり。数値的な適性よりも高い戦闘力を発揮できる。力を収束して焦熱切断帯と成す工夫、<無限龍アナンタ>行使などはその一端。
戦闘スタイルは砲撃戦闘一辺倒、それも攻撃に偏っている。しかし虚実織り交ぜた組み立てにより相手に反撃の暇を与えないことで防御に代えており、むしろ特殊能力なしで格上に食らいついてみせるほど。
やや無私に近い傾向のある理想を持つため精神性において『本物』との共通点があり、それゆえに侵されないと推測される。







エピソード3「この手、繋いだならきっと」より



『一条魁人』(能力値の斜線後は凌駕解放<世界樹イグドラシル>発動時)

クラス:マギウス/マイト

<魔人>理解度:C

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:D+、スピード:E-、テクニック:C-、ラテンシィ:A+

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:D/C-、疾駆攻撃力:D-/D+、遠隔攻撃力:B/B+
対白兵防御力:D/C-、対疾駆防御力:E/D-、対遠隔防御力:D-/D+
耐久:D+

クラウンアームズ
・ベリルラビリンス、腕輪、Cランク
・シールドリング、指輪、Eランク


凌駕解放
世界樹イグドラシル
一条魁人は幼い頃、森に迷い込んだことがある。己を脅かす獣、束縛する植物、衣服に入り込む蟲、絶望的なまでに冷たく美しい夜空は、脆弱な存在に過ぎない人間と強大な世界との対比を癒えない傷として刻み込んだ。その畏怖はやがて裏返り、最強の味方として意識に居座るに至った。
北欧神話において九界を支えるトネリコの大樹の名を持つこの術は緑柱石の森を顕現させる。森を構成する疑似生命たちは<魔人>の基準からすればさほど強力ではないが、一条魁人のあらゆる行動を補助し、敵を傷つけ阻害する。
決して派手な効力はないものの、偽りの森は再生速度が破壊速度を上回る限りは無限に主を補佐し続け、勝利へといざなう。


備考及び評価
幾つもの街、市の暴力を統括する小覇王。
凌駕解放<世界樹イグドラシル>の存在、そして主な攻撃手段が緑柱石の疑似植物であることから<森林フォレスト>と通称される。なおこの<魔人>帳では項目統一のため、疑似植物操作を砲撃として解釈する。
基本的に強者として君臨してきたが、己と相対した者の抗う様からも戦い方を吸収し続けたため、数値的な評価よりも高い戦闘能力を発揮する。基本的には迷いも油断もない、優れた<魔人>。戦略的に優れていた赤穂裕徳とその場の戦闘において高い感性を示した森河皓士郎のちょうど中間と言える。
切り札である<世界樹イグドラシル>は日本はおろか世界を見渡しても珍しい形式の凌駕解放である。







『神野修介』(斜線後は天剣『藍佳』抜剣時)

クラス:ナイト/ライトニング

<魔人>理解度:E

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:C、スピード:A-、テクニック:E-、ラテンシィ:E-

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:E/D+、疾駆攻撃力:D-/C、遠隔攻撃力:F+/E-
対白兵防御力:F-/F+、対疾駆防御力:E-/D、対遠隔防御力:E+/D+
耐久:D-/D+

クラウンアームズ
なし

凌駕解放
日蝕スコル
神野修介は力を求めている。今すぐにでも諸角藍佳をすべてから守りたいとの願いのため、何もかもをできる限り早く得ることを望んでいる。一足飛びに結果を欲する心は己自身が及ばぬならば世界を改竄すればよいという結論に至らしめた。
北欧神話において太陽を喰らう怪狼の名を付けられたこの力は断続的に二点間の距離をなくし、そこを通過する際に方向を自在に定めることができる。事実上、追って追いつけない<魔人>はいない。
ただしまだ単独で成し得ているわけではなく、諸角藍佳の協力を要する。


備考及び評価
チームにおいては標的の追跡と確保を行う。通称<猟犬ハウンド>。
諸角藍佳とは幼馴染。<ナイト>であるのは当人がそこに守護のイメージを抱いたから。(そんな能力は付けていない。ごめんね。)
性急で空回りが多い。思考力を始めとして幾つもの精神活動において諸角藍佳に大きく勝るのだが、基盤となる知識や認識が弱いためあまり発揮できていない。
得手は卓越した知覚力と、それを核とした障害物を利用しての三次元機動。総じては荒削りとしか言いようがないものの、磨けば化ける。
凌駕解放は方向転換を含んで縮地を行う<日蝕スコル>。戦闘よりも追跡にこそ最も役立つはずなのだが、当人は気付いていない。







『諸角藍佳』

クラス:ブレイドメイデンゲイル/アサシン

<魔人>理解度:E

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:D+、スピード:B、テクニック:C-、ラテンシィ:E-

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:E、疾駆攻撃力:E+、遠隔攻撃力:F+
対白兵防御力:E-、対疾駆防御力:E+、対遠隔防御力:E
耐久:E

クラウンアームズ
なし

凌駕解放
月蝕ハティ
戦闘において諸角藍佳は神野修介の力となることだけを考えている。その心は神野修介の凌駕解放である<日蝕スコル>を補助するためだけの力を発現させた。そのため<月蝕ハティ>自体は諸角藍佳自身の凌駕解放であるとは言い難いところがある。
ただ、このような例は他にない。四十九名のブレイドメイデンの中でも彼女だけである。


備考及び評価
チームにおいては砲撃担当メンバーの護衛を主に行う。ただし不満な模様。
神野修介とは幼馴染。執着じみた想いの強さを持っている。
基礎能力自体も高いには高いが、それ以上に努力家。ただし感情を基準に判断を行うきらいが強く、勘が鋭い替わりに理屈が通じにくい。
実際にとる行動としては白兵戦闘を好み、特にカウンターをとることを戦術の中心に置く。能力的には高速機動からのダメージの蓄積を効率的に行えるはずなのだが、基本的に神野修介とともに行動するため、役割分担の都合上より得意な彼に任せる。
四十九名の剣乙女ブレイドメイデンの一人であり、疾風式ゲイル下位の一振り。契約者は神野修介。
凌駕解放も、己のものというよりも神野修介の補強的な力を行使する。







<闇鴉>アンドラス

クラス:グラップラー/ストライカー

<魔人>理解度:A

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:B、スピード:D+、テクニック:C、ラテンシィ:C

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:B+、疾駆攻撃力:B-、遠隔攻撃力:B-
対白兵防御力:B-、対疾駆防御力:C+、対遠隔防御力:B-
耐久:B+

クラウンアームズ
・タナトスクロウ、手袋、Aランク
・ニュクスヴェール、インバネスコート、Bランク
・ヒュプノスアミュレット、護符、Aランク

凌駕解放
殺戮女神アナト
<闇鴉>アンドラスは憎み合い殺し殺されることを美しいと感じる。人類における最大の忌避を為すほどの魂の叫びを愛している。ゆえに己を殺す存在へと全霊の返礼をすることを望んだ。
カナン神話において、殺された愛しい兄神の死体を喰らい死の神をも葬り去った女神の名を持つこの術は、死の瞬間に発動して己を殺すものを葬り去る。死すら殺す呪いであり、あらゆる凌駕解放の中でも指折り数える威力と素因性を有する。<魔人>では防ぐもかわすも叶わず耐えるしかないが、生き残れる者は皆無に近い。


備考及び評価
金星結社パンデモニウム>の幹部、十二翼の一人。<ギルド>の一員でもある。
ただし<魔人>としたのは、リュクセルフォンではなく、おそらくはエクサフレア。
<闇鴉>アンドラスを名としている通り、人々が憎しみ合い、いがみ合い、殺し合う様を心から美しいと感じる精神構造をしている。それと同時に常人の感性も理解しており、その二つを独自に調和させている。
自覚はないが高いカリスマ性を備えている。嗜好さえ除けば大らかで面倒見のいい青年であることもあって、主に同性を心酔させやすい。また天性の洞察力を有してもおり、<魔人>の在り様を的確に把握している。
己の美学に従うせいで脆そうにも見えるが、まったくの逆。<魔人>と成る前から十年以上にわたって<災>や歴戦の軍人を相手に死線を潜り続けて来た精神は柔軟かつ強固。『本物』のような言動をしていながら、決して望みに呑まれることなく従えていることからもそれは窺える。
戦闘能力は極めて高い。かつ殺し合いに関して自由であり、より力強い者、より速い者、より巧みな者があろうとも最終的に勝ち残ってしまえる。







エピソード4「せいくらべ」より



『新島猛』

クラス:サムライ/シノビ

<魔人>理解度:C

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:B、スピード:B、テクニック:B、ラテンシィ:F+

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:B+、疾駆攻撃力:B+、遠隔攻撃力:D
対白兵防御力:B、対疾駆防御力:B、対遠隔防御力:B
耐久:C+

クラウンアームズ
・スルトクラヴィキュラ、長剣、Bランク
・ユミルネイル、耳飾、Bランク
・ライラアミュレット、護符、Bランク

凌駕解放
黒王スルト
新島猛は武を破壊であると定義する。どのような目的で扱うかは個々人によるものであり、武そのものは壊すことだと考えるのだ。そして破壊の極地として選んだのは炎である。
北欧神話における終末の、更に最後を飾る巨人の名を持つこの術は三段階より成る。事象や概念そのものを燃やす三昧火の域に至った炎を呼び、有象無象を焼き払う第一段階。収束させ、単独対象を斬殺の後焼却する第二段階。再び拡散し、なお生き延びた敵を極めて広範囲に焼き尽くす第三段階。取り巻きを薙ぎ払い、将を屠り、最後に敵集団そのものを殲滅するという対軍団凌駕解放である。
多段階であるがゆえに隙が多いという欠点を持つが、それは自前の戦闘技術で補う。なお、各段階で止めることが可能。三段階目まで必要になったことは一度しかない。


備考及び評価
元は円鏡流という古くから伝わる武術の次期継承者。<魔人>という存在を知り、その力を取り込むべく<魔人>となった。
そのため暴力や戦いには最初から慣れ親しんでいるが、特に破壊を喜ぶような嗜好はない。気性としては理性的だが同時に好奇心旺盛な武術家と表せば近いか。
一対一も一対多もこなす。凌駕解放である<黒王スルト>の第三段階は80立方km近い空間を焦灼するため、周辺被害の問題はあるがその範囲内に捉えていさえすればどれほどの<魔人>集団も単独撃破可能。(そのせいでケーニャに恐れられている模様。分からなくはないけれど)
その異常な効果範囲は、人間がどれほど鍛えようとも広域空間を蹂躙する圧倒的火力の前には無力であることを実感していたがためそうなってしまったと言うべきだろう。<魔人>には必ずしも当てはまらないというのが皮肉ではある。
更に特筆すべきは三段階に分かれた凌駕解放を各段階で止めることができるということ。本来なら<魔人>に対する理解があと二段階は進まなければ不可能なはずなのだが。
通称<剣王>ソードマスター。エリシエルを参考に騎士派三方武芸トリニティアーツを樹立。この体系は第四世代<魔人>が生み出されるようになったとき、第三世代までと比べて出力と強度に劣るであろう彼らの助けになると期待される。







『兼任徹』

クラス:ストライカー/マイト

<魔人>理解度:D

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:C、スピード:F+、テクニック:D+、ラテンシィ:B

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:C+、疾駆攻撃力:D、遠隔攻撃力:B
対白兵防御力:C-、対疾駆防御力:E+、対遠隔防御力:C
耐久:D+

クラウンアームズ
・ミーティア、戦鎚、Bランク
・アレストーガ、指輪、Dランク
・ヘリオスエンブレム、護符、Dランク

凌駕解放
轟雷ミヨルニル
兼任徹は犯した罪に怯え、裁きを恐れている。だからこそ己自身が裁きの象徴を手に入れることで逃れようとした。
北欧神話において、一度放たれれば幾体もの巨人を粉砕して返って来るという伝承にも近く、<轟雷ミヨルニル>は強大な威力と放たれた後での操作を可能とする。本来であれば必中かつ更なる高威力となるはずだが、裁きから逃れたいと思う心が自ら制限をかけてしまっている。



備考及び評価
力を扱う感性は高いと評していい。始めてからある程度の段階に至るまでが極めて早い。それ以降は並程度。
ただし精神的に、ある意味において戦いには不向き。自らの思いを繕うことを得意とし、諦めが早いため自分以上の存在に食らいつけない。
凌駕解放である<轟雷ミヨルニル>は自分の力を消費してまで本来の能力を抑制している。
本心では自らの生き方を恥じていた。立ち向かうだけの意気を持つか、あるいは人としての良識を捨てるかしていればよかったか。
双方とも既に死亡しているがかつて妻子があった。







エピソード5「<夜魔>抄」より



『横山誠』

クラス:イニシエイター

<魔人>理解度:E

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:F-、スピード:F-、テクニック:F-、ラテンシィ:F-

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:F-、疾駆攻撃力:F-、遠隔攻撃力:F-
対白兵防御力:F-、対疾駆防御力:F-、対遠隔防御力:F-
耐久:F-

クラウンアームズ
なし

凌駕解放
なし


備考及び評価
両親の仲が悪く、その煽りを食って放置されていた過去がある。
<夜魔>への献身は、愛されなかった自分への代償行為が半分、残る半分は恋で構成されている。
能力的には最下層の<魔人>。






『相馬小五郎』

クラス:モンク/グラディエイター

<魔人>理解度:D

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:A、スピード:E-、テクニック:C、ラテンシィ:E-

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:B、疾駆攻撃力:D+、遠隔攻撃力:D-
対白兵防御力:C、対疾駆防御力:D+、対遠隔防御力:D
耐久:A-

クラウンアームズ
・ヴリトラファング『上顎牙』、片手剣、Cランク
・ヴリトラファング『下顎牙』、片手剣、Cランク
・アスラフレイク、首飾り、Bランク

凌駕解放
戦宮殿ヴァルハラ
残念ながら発動前に自壊したため評価不能。


備考及び評価
強烈な自己暗示である『死人の法』を会得している。身体能力を跳ね上げ、痛みも疲れもなく肉体の欠損によって物理的に動けなくなるまでは戦い続けることができる。<魔人>にとっては身体能力を上げる以上の意味はないが。
ただし凌駕解放としてこれが発動してしまった場合、自滅する。自分が既に死んでいるという定義を凌駕解放の強度で行ってしまうのは<魔人>には文字通り致命的。
死人の法に耐えうる肉体と精神は<魔人>となっても極めて強靭。新島猛が来てからは軽んじられることもあったが、影に日向にオーチェと財団派を支えていた。
兄が人間だった頃の名和雅年に返り討ちに遭っている。そのため直接の面識はなかったものの知ってはいた模様。







『轟勇二』

クラス:グラップラー/アサシン

<魔人>理解度:E

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:C、スピード:C、テクニック:C、ラテンシィ:F+

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:C-、疾駆攻撃力:C-、遠隔攻撃力:D-
対白兵防御力:D+、対疾駆防御力:C-、対遠隔防御力:D
耐久:D-

クラウンアームズ
・ハルワタートティア、ブレスレット、Dランク
・アムルタートティア、アンクレット、Dランク

凌駕解放
なし


備考及び評価
通称<連星ジェミニ>。
強さを連続攻撃に見出している。凌駕解放は扱えないものの、両拳による連打への信仰が、それに関してのみ数段上の破壊力と速度を成し遂げている。
意識はやや攻撃に寄っているが、強襲から足を止めての競り合い、的確に組み立てられた反撃の暇を与えない連撃は高く評価できる。あとは誰も逃さないだけの足があればよかったか。
自信に裏打ちされた落ち着きのためか異性からの憧れを受けやすい。自覚はあり、基本的には相手の心へ一定以上に近づかず、また近づけないようにしている。







『<贋金メッキ>』(耐久の斜線後は凌駕解放の影響込み)

クラス:ゲイザー/マイト

<魔人>理解度:C

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:E-、スピード:F+、テクニック:F+、ラテンシィ:A+

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:D-、疾駆攻撃力:D-、遠隔攻撃力:A-
対白兵防御力:F+、対疾駆防御力:F-、対遠隔防御力:E
耐久:D-/A-

クラウンアームズ
・カルキアイ、宝珠、Bランク

凌駕解放
光神バルドル
贋金メッキ>は己の死を許さない。何に縋りついても、何を犠牲にしても生き続けると決めた。強すぎる生への渇望はクラウンアームズ『カルキアイ』と結びつき、生命の源としてしまっている。
北欧神話における不死の光の神の名を持つこれは、無敵でこそないものの耐久力を大きく跳ね上げ、肉体が消滅してなお『カルキアイ』を核として復活する。『カルキアイ』は存在を<贋金メッキ>に依存し、<贋金メッキ>は『カルキアイ』を格と為すことで不完全な尾食みの蛇を形成している。
ただし、事実上の不死身となっていても『カルキアイ』を破壊されればそれで終わることになる。


備考及び評価
生きたがり。
自覚はないが体内にクラウンアームズ『カルキアイ』を有している。『カルキアイ』はあらゆる攻撃行動の破壊力を増幅するため、未熟に殴っただけでも当たりさえすれば大きな損害を与えることが可能。
凌駕解放<光神バルドル>はこれも自覚なく常時発動しているが、『カルキアイ』ごと破壊されたことで破られた。派遣されたのが名和雅年でなければ生き残れたのだろうが。
能力は潜在出力一辺倒だが、深度が空間干渉を越えて事象侵蝕に足を踏み入れてかけているため、それだけで強力。単純に<夜魔リリス>と殺し合いをすれば勝てた可能性はある。<夜魔リリス>の能力と<贋金メッキ>の渇望上、あり得ない仮定だが。
描くことを捨てさせられた過去がある。(創作活動への攻撃許すまじ。許すまじ)
もしもかつてのまま<魔人>になっていたなら、凌駕解放は描いたものを実体化させたのではないかと推測される。







『<夜魔リリス>』

クラス:エンブリオ(リリス)/タイラント

<魔人>理解度:D

基礎能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、D-に相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF+)
パワー:E、スピード:B、テクニック:C-、ラテンシィ:B

戦闘能力(限界能力に達した標準的な<魔人>が存在した場合、Eに相当すると推測される。現<魔人>の中央値ならばF-。クラウンアームズによる強化を含む)
白兵攻撃力:D+、疾駆攻撃力:C+、遠隔攻撃力:A-
対白兵防御力:C、対疾駆防御力:C+、対遠隔防御力:B-
耐久:D+

クラウンアームズ
・ヘカーテネイル、爪、Bランク
・アルケニードレス、ドレス、Cランク
・ガイアアミュレット、護符、Cランク

凌駕解放
落艶エデン
楽園には悲しみはない。楽園に諍いはない。誰も傷つけず、誰にも傷つけられない。そこに知恵はなく、強制的に幸福となる。
安寧の快楽で対象を心身ともに行動不能にするという凌駕解放。時間を要するが、発動したが最後、対象を無力化できる上、周囲の全てに同時に仕掛けることも可能。
『争いは嫌』『疑うのも嫌』『幸せにしてあげる』『だから愛して』『もう一度、私を愛して』


備考及び評価
よもやこんなところで<楽園ゆめのにわ>に似た凌駕解放を見ることになろうとは思いもよらなかった。似ているだけで無関係ではあるようだが。
エンブリオはどうやら凌駕解放を強制発現させる模様。おそらくできなければ消滅することになる。<魔人>としたのは間違いなくエクサフレアだろう。
落艶エデン>に自分自身で溺れてもおかしくなかったはずだが、そうならなかったのは既に楽園を失ってしまっているという意識から。
非常に多くの分野において高い素質と素養を持つ。ただし根本的に人格が争いに向いていないため、能力で押し切れないと判断を誤りやすい傾向にある。
容姿はかつての己を素直に二年ほど成長させただけのもの。
妹も<魔人>となっている。








感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
2.0898549556732