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[30573] 荒唐無稽のサードメルト【本編完結】(STEINS;GATE二次創作)
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 22:30
荒唐無稽のサードメルト(STEINS;GATE二次創作)



この作品はSTEINS;GATEの二次創作になります。

2chのキャラスレ、シュタインズゲートの牧瀬紅莉栖はヽ(*゚д゚)ノカイバーカワイイで投稿させて頂いたものを若干加筆・誤字修正し、外伝的なものを加えました。
この作品は原作クライマックスからの再構成モノになると思います。
本編はChapter8で完結となっております。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter1
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 19:43
荒唐無稽のサードメルト Chapter1



「話にならない……! このマザーファッカー!」

 ドンッ! という音と共に勢いよく相手を突き飛ばす。
 思いの外力が入ったせいだろうか。少し掌がジンジンと痺れた。
 突き飛ばされた相手は、私の行動が余程予想外だったのか、この暗い場所でもそうだとわかる程に悲しそうな表情をしていた。

 やめて。
 やめてよ……。
 そんな顔しないで。
 口を開くのがもっと辛くなるじゃない。

「私は大丈夫だって言ってんのに、何が諦めないだ。バカなの? 死ぬの?」

 私の罵詈雑言……とてもじゃないが綺麗とは言えないマシンガントークにも、相手は怒りを見せることは無い。
 それが、その姿が、益々私をヒートアップさせる。
 いや、“ヒートアップしなければならない”

「英雄気取りか、この厨二病患者が。出来もしないくせにカッコつけてんじゃない!」

 自分でも惚れ惚れするぐらいに最低な、相手を罵るだけのくそったれな言葉を吐く。
 よくもまあそんなに出てくるものだと内心我が事ながらも感心する。
 そして、そんな自分を冷静に分析できるほど口調とは裏腹に心が凪いでいることを理解する。
 それを理解できる事が苛立たしく、しかしそれこそ正しい精神状態であることを理解し、それにまた苛立つ。
 心と身体と言葉が、全く噛み合わない。噛み合うわけが無い。

「あんたの頭の悪さにはイライラする……! なんで私の言うことを素直に聞き入れてくれないのよ!?」

 少し、本音が混じる。
 冷静だなどと自己分析しておきながら、言うつもりのなかった本音を口にしてしまった私はなんなのだろう。
 
 ────今日のお前が言うなスレはここですか?

 @ちゃんねる用語をイメージして、少しだけ、本当に少しだけ最低な私の心情は気が楽になる。
 いっそ、呵責で押しつぶされた方がもっと気楽な気はするが。
 だが、幸か不幸か外面とは裏腹に内心余裕が生まれた私はつい口が軽くなって……、

「あんたがまゆりを助ける事が相対的に判断してベストなのよ! いったいなにが気に入らないの──」

「相対的判断などクソ食らえだ!」

「……っ!」

 後悔する。
 先ほどまでの心的余裕など、彼が言葉を吐いた次の瞬間には熱した鉄板に垂らした水のように蒸発する。
 いけない。
 彼の言葉は今の私にとって魔法のそれに等しい。
 魔法など、科学者たる私は信じないがそれでも形容するなら彼の言葉はやはり魔法と呼ぶに相応しい。

「俺は“神”じゃない。気が付いたらそれに等しい立場にいたけど、全然違う」

 自分に言い聞かせるように、私に染み込ませるように、彼の言葉は場を支配する。
 このまま彼の言葉が私に浸透してしまえば、私に抗う術は無い。
 それだけはいけない。それだけはあってはいけないことだ。

「誰を助けて、誰を見殺しにするかなんて、俺は……もう決められない……っ」

 だから、彼が……岡部倫太郎がどれだけ苦しんでいようと、私の為にそれほどの苦しみを感じてくれていようと、「これが最後だから」と自分に言い聞かせながら彼にとっての楔を打ち込まなければならない。
 それが、くそったれな相対的判断の結果なのだから。

「フン……」

 彼の苦しみに苦しみを重ねたような、これ以上無いと言わんばかりの苦い表情を見ながら、できるだけ不遜そうに声を出す。
 それが例え彼にとって癪に障っても、やめるわけにはいかない。
 私は、彼がここまで私を重んじてくれているからこそ、やめられない。

「どうせ無理よ。いつもあんた言ってるでしょ。運命石の扉の選択ってヤツ」

 人間相手に討論する際、相手が使った言葉を使うのは常套手段かつ有効な手法だ。
 人間にとって、必ずしもではないが自分で出した言葉は、自分の中では絶対的な意味合いを持つ。
 ……一瞬“論破”という言葉が浮かんで、表情に出さぬよう自己嫌悪する。
 “論破”することに、いい思い出など一つも無い。

「回避不能。解は出てる」

 それでも私は彼にトドメという名の楔を打ち込む。
 彼には彼の意思で……まゆりを救ってもらわなければならない。
 ……ずるいな、私は。
 自分の思考の中なのに、一瞬でも岡部に自分を殺させる、という思考を都合よく隠そうとした。
 本当、素直じゃない。可愛くない。
 ……最低の、論破厨の@ちゃんねらーだ。

「岡部一人がどれだけ頑張ったって、世界の意志には勝てない」

 心を凍てつかせる。
 大丈夫、アメリカではいつもやっていたこと。
 相手に弱みを見せず、いつも高圧的に。
 最低なら最低なりに、最後まで最低を演じきる。
 あわよくばこれで私を嫌ってくれてもいい。
 ……やっぱり嘘。
 岡部に嫌われるのは、ごめん被りたい。

「それでも、俺はもがいてやる」

「……っ」

 岡部はずるい。
 本当は私の考えている事が見えているんじゃないかと時々思う。
 嫌われたくないと、そう思った瞬間力強い言葉で私に魔法をかける。
 魔法使いになるにはまだ12年は早いはずなんだけど。
 ……まあ、岡部はきっと魔法使いにはならないだろうけど。
 ……やっぱり、魔法使いになって欲しいと思うのは、我が侭かな。
 ……ダメだ。魔法にかかりかけてる。
 このままじゃいけない。
 私はまた心を凍てつかせる。

「勝手にしろっ。私は手伝わないからなっ。もうアメリカに帰るつもりだし」

 凍てつかせようとして、失敗。
 アメリカでもしなかった失敗。
 気付かれないよう岡部に背を向けるが、まだ弱い。

「さよなら。もう二度と会うことも無いわね、鳳凰院凶真さん」

 だから今出来る精一杯の突き放すような言葉。
 お願いだからもう何も言わないで。
 私の為に頑張らないで。
 そんな顔を……しないで。

「本当にバカだ。バカにも程がある。このバカ……っ」

 必要の無い捨て台詞。
 言わなくていい事を口走ってしまう。
 自分で自分をコントロールしきれていない。
 心と身体と言葉が、全く噛み合わない。噛み合うわけが無い。

 彼の、岡部のことで我慢できるはずが無い。

 暗いラジオ会館の中、これ以上彼と同じ空間にいることに危険を感じた私は音が鳴り響くのも構わず雨がやんだらしい外へと駆けて行く。
 願わくば、彼が追いかけてきませんように。
 今追いかけられて、追いつかれたら、本音をさっき以上に漏らしてしまいそうだから。




***




 がむしゃらに走って走って走って。
 ふと気付けば、私はラボの前にいた。
 何も考えずに行き着いた先がラボな辺り、私も随分とここに染まっていると思う。
 岡部が追いかけてこなかった所を見ると、あのまましばらく呆然とラジ館内で佇んでいることだろう。
 彼の事だから思考の袋小路に詰まって、いつまでも出られる宛の無い出口という名のありもしない解答を導き出すのに必死なのだと思う。
 チクリ、と胸が痛む。
 彼が苦悩し、決断できずにいるその姿を想像して、先程までの彼の姿とダブって見えた。
 
『独善的でなんかいられるか!』

 自称“狂気のマッドサイエンティスト”のマッドサイエンティストらしからぬ言葉が耳朶に残る。
 言葉の通り、彼がもっと真の意味で“狂気のマッドサイエンティスト”だったなら、恐らくここまで苦しむことは無かったのだろう。
 リーダーがそんな彼だから、不思議とこの“未来ガジェット研究所”には人が集まるのだと思う。
 本人の前では絶対に認めたくないけど。

「あっ、紅莉栖ちゃんだ、トゥットゥルー♪」
 
「……っ、ま、まゆり?」

 少し呆けてラボを眺めていたのが悪かったのだろう。
 出来れば今会いたくない相手№2である彼女、まゆりに見つかってしまった。

「最近オカリンがラボに来ないからまゆしぃはちょっぴり寂しいのです。あ、そうだ紅莉栖ちゃん、これから時間ある? まゆしぃはねぇ~、なんとアルパカマンさんとの会話に成功したのです!」

「ア、アルパカマン?」

「うんそうだよ~、前にね、オカリンが安かったからって買ってきてたんだけど全然反応しなくて……でもでも昨日はまゆしぃの言葉に反応したのです!」

 アルパカマン?
 なんぞそれ? 

「ねぇ紅莉栖ちゃんも見てよ~」

「あ、ちょっとまゆり……!」

 ついまゆりの言葉に疑問を感じてしまったのが運の尽き。
 思いの外強い力で腕を引かれ、あれよあれよと言う間に私はラボの中に連れ込まれ、今となっては逆に珍しいブラウン管テレビの前に立たされる。

「ほらほら見てみて~、これがアルパカマンさんだよ~紅莉栖ちゃん」

 楽しそうな笑顔でまゆりが指刺すブラウン管テレビの中には、可愛いとは形容しがたい動物のようなキャラクターが映っていた。
 言うなれば……人面アルパカ。
 そのままの通り顔は人間、身体はアルパカ。
 キモカワイイの枠組みに入れるにしても無理がある。

「これが……アルパカマン?」

「そうだよ~、アルパカマンさん、この人が紅莉栖ちゃんです~」

 まゆりはニコニコしながらアルパカマンにヘッドセットを付けて話しかける……がブラウン管テレビの中のアルパカマンは無愛想な顔を変えずに返事もしない。
 とりあえず、このアルパカマンとやらは何を目的に作られたものなのかいまいち理解できない。
 
「あれれ~? 昨日は返事したのに~」

 まゆりは残念そうな顔をしながらブラウン管テレビの中のアルパカマンを見つめた。
 まゆりのそんな顔を見ると、不思議と何も反応しないアルパカマンに有罪判決を下したくなる。
 
「ちょっと、聞こえてるなら返事くらいしなさいよ」

 つい、私もバカみたいにブラウン管テレビに映るアルパカマンなる不思議な生き物に声をかけた。
 もっとも、ヘッドセットすら付けていない私の声は当然ブラウン管テレビの中のキャラクターに届くはずも無く、反応はまゆりの時同様皆無である。
 ……それにしてもこのアルパカマンとやらの間抜け面はせめてもう少しどうにかならないものか。

「あははっ♪ 紅莉栖ちゃんたらオカリンと同じ事言ってるねぇ」

「なっ!? お、岡部と?」

 ドキッとする。
 今岡部の名前は聞くだけで心臓に悪い。
 というか今私は思った事を口にしていたのだろうか。

「うん、これを買ってきた時にね~、オカリンも最初はアルパカマンさんに結構話しかけてみてたの~」

 ブラウン管に映るアルパカマンに必死に話しかける岡部。
 ……ヤバイ。
 想像したら笑いが込み上げてきた。
 どうせ岡部のことだから厨二病全開の言葉でアルパカマンにラボの説明でもしていたに違いない。

「オカリンはね~、アルパカマンさんから見たら私達がテレビのモニタに映っているように見えるだろうけど、本当はアルパカマンさんがモニタの中にいるんだってわざわざ説明してたよ~」

 流石岡部。
 私に出来ない事を平然とやってのける。
 そこに痺れ……ないし憧れない。

「でもでもまゆしぃはその時思ったのです。私達はテレビのモニタを通してゲームのアルパカマンさんを見てるけど、アルパカマンさんから見たら私達がテレビのモニタに映っていてゲームみたいに見えてるのかなぁって。もしアルパカマンさんの世界が現実で私達の世界がゲームか何かだったらそれを知る方法はあるのかな?」

「それは……無いんじゃないかしら」

 そもそもゲームの中のキャラクターには通常設定以上の感情表現……思考能力は付与されない。
 仮に多岐に渡る思考能力という設定を設けられていたとしても、自分がその設定を設けられたキャラクターの一人であるなどという事を理解することは普通出来ない。
 思考能力があるということは、ある意味アイデンティティが確立しているからだ。
 そのアイデンティティを壊しかねない発想……例えば“自分がゲームの中のキャラクターである”などの発想など、本気では信じられない。
 アイデンティティとはある意味自分の持つ現実と同義であり、その現実が侵食されたとき、“その人”は“その人”では“なくなる”
 最初から“自分はゲームの世界の住人である”と理解していれば話はまた別になるが、そんな思考実験には意味が無い。
 そもそもゲームの中のキャラクターは0と1の配列を組み合わせた2進法によるデータの配列でしかなく、設定された以上の事が出来ないよう設定されている……いや、設定以外の事をする思考能力も力も持ち合わせられない。
 仮に私達がゲームの中のキャラクターだったとして、0と1の集合体でしかない私達にはゲーム製作者やプレイヤーとの意志の疎通を図る術を持たない。
 アルパカマンで例えるなら、何か話しかけてそれに対する返答があったとしても、それは0と1によるひたすらなイエス・ノーの組み合わせの結果であって、アルパカマンの自由意志ではない。
 こちらからの観測は可能でもあちらからの観測は不可能。
 逆に言えば私達の思うこの現実がゲームであっても、真の意味で私達にプレイヤーの観測は不可能である。
 よって、仮に、本当に仮に一万歩くらいゆずって自分達がゲームか何かのキャラクターだったとしても、それを証明する術が無い以上、私達が認識している今この世界こそが現実となりうる。
 うん、証明終了。

「ほえぇ~、あんまり難しい事はまゆしぃにはわからないのです」

「つまり、私達が私達の観測者を観測できない限り、その思考実験に進展は無いってこと」

「?」

 まゆりは不思議そうに首を傾げた。
 so cute……。
 彼女は何気ない仕草の中にも思わず微笑んでしまうような可愛らしさがある。
 優しく素直で、それでいて可愛い。
 女の私から見ても彼女は高水準の女性に分類されると思う。
 ……その彼女が、死という運命に縛られているなど誰が信じられるだろう。
 岡部の話では彼女は二日後の夜に死んでしまう。
 どう足掻こうとそのように世界線が収束しているらしい。
 自分で観測したわけでも無いから今いち実感は弱いが、岡部の態度からそれは真実なのだと窺えた。
 
~~♪

「あ、メール。えっと、あ……オカリンからのメールだぁ」

 まゆりは楽しそうにケータイを弄る。
 彼女のこの笑顔が曇る姿は、あまり想像したくない。
 ましてやその死ぬ姿など、彼女に近しい者ならばもっと見たくないだろう。
 岡部は……それを何度も経験してきたんだと思うと、本当に大変だったなと思う。
 だからこそ、岡部はもう救われても良いと思える。
 たくさんの人の思いを無かった事にして、まゆりという幼馴染みの女の子の死を何度も見せつけられて、それでもまだ背負おうとする彼の背中にスペースなどもう何処にも残っていない。
 岡部はよくやった。
 他の誰が認めなくとも、私が認めてあげる。
 だから、私は……、

「あ、紅莉栖ちゃん何処か行くの?」

 ケータイを見終わったまゆりは、目聡く私の動きを読んだらしい。
 まあラボ唯一の扉に向かえば、まゆりでなくとも自然と想像はつくだろうけど。

「ええ。ちょっと出るわ。今日はもう来れないから」

 適当な言葉で濁して私はラボの扉に手をかける。
 恐らく岡部はそろそろラボに戻って来るだろう。
 まゆりに岡部からメールがあった事からもそれは想像に難くない。
 ……これ以上、長居は出来ない。

「……ねぇまゆり」

「なぁに~?」

「その、私と友達になってくれてありがとう」

「と、突然どうしたの紅莉栖ちゃん? ま、まゆしぃは何だか照れちゃうのです」

「照れることは無いわ、貴方は私の一番の友達よ」

「……? 紅莉栖ちゃん何かあったの? 何だか様子が変だよ?」

「何となく、伝えておきたくて。それじゃね」

「あ、待って!」

 まゆりの声に、ラボの扉を開いた私は振り返る。

「……?」

「私も紅莉栖ちゃんと友達になれて嬉しいよ~♪ これからもずっとずっとお友達だよ!」

「……っ、あり、がとう」

 満面の笑みでそう言ってくれるまゆりを背にして、ラボの扉を閉める。
 謀らずとも、まゆりに伝えたいことは伝えられた。
 これ以上長居は出来ない。
 いつ岡部が来るかわからない。


「うっ……ぐすっ……」


 だから、今は泣いてる暇なんて無いんだと自分に言い聞かせ、止まる気配の無い涙を何度も拭って、足早にラボを後にした。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter2
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 19:52
荒唐無稽のサードメルト Chapter2



 持ってきた時と大して容量の変わらない荷物を旅行鞄にギュウギュウと詰め込んで……溜息を吐く。
 こんな事に意味があるのだろうか。
 岡部がその気になって“私が死ぬ”というDメールを消したら、再構成された世界に私の居場所は無い。
 今の私がアメリカに帰る準備をしようと、例えアメリカに帰り着こうと、世界改変後……いや、正確には“世界改変前”の私は既に死んでいるのだ。
 今取るべき行動を取っていても、次の瞬間にはそれが無意味に帰すとわかっていると、なんとなく今やっていることが馬鹿らしく思えてくる。

 昨晩は滞在しているホテルに戻ってきてからも止めどなく溢れる涙を何度も拭っている内に眠ってしまっていた。
 起きたのはお昼より少し前。
 我ながら寝過ぎたと思ったが、べっとりと髪が濡れていたことから、きっと眠りながらにして泣き続けていたのだろう。
 おかげで目覚めてからは流石に涙は出てこない。
 ……しょぼしょぼとした痛みは感じるけど。
 とにかく顔を洗おうと思い、起きあがろうとして……倦怠感が体を襲う。

「だるい……」

 泣く、ということにはそれなりに体力を使う。
 昨晩から自分は泣きっぱなしだったのだ。
 眠ってしまったのも疲れからだろうが、眠った後も涙をしばらく流し続けていたのならそれは体にとって相当負担になっていることだろう。
 理由がわかった怠い体を無理矢理起こして、そういえば昨日は帰ってきてからベッドに直行して泣いていたからシャワーも浴びていない事をスッキリしない頭で思い出す。
 思い出すとこれが不思議なもので、体中が汗でべっとりとしているような錯覚に襲われる。
 これもある意味プラシーボ効果なのだろうか。
 人は眠っている間に相当の汗をかくと言うが、昨日一日分と睡眠時にかいた汗を流していないとなるとその量はかなりのものになる。
 私とて女であり、汗がこびり付いたままの体でなどいたくはないし、何より不衛生極まりない。
 どうせ顔を洗うつもりだったし、と怠い体に鞭打って部屋にあるバスルームへと足を向け、シャワーを浴びてからこうして荷物の整理を始めたのだが、如何せん体の怠さもあって身が入らない。
 岡部にも昨日宣言した通り、せめてアメリカに帰る準備だけはきちんとするつもりだった。
 恐らく、私が岡部に語った荒唐無稽な予想は当たらない。
 今の岡部の主観が世界線を移動しても、私の主観はここに残る、などというのはただの願望でしか無く、理論もへったくれもない絵空事だ。
 それでも、その絵空事をほんの僅かに期待したくて、少し前までの私ならこれからも世界が続いた時の為に普段通りの生活を営もうと努力した筈だし、その予定だった。

「……ふぅ」

 だが、思ったよりも私は弱かったらしい。
 いざ片付けようと動き出せば、頭の中の何処かが“こんなことしたって無意味よ”と囁いてくる。
 体の怠さがそれに拍車をかけて益々無気力になっていく。
 こういうのを賢者モードって言うんだろうか。
 ……違う気がする。なんとなくだけど。
 とにかくもうダメだと悟った私は、それまで丁寧に畳んで入れていた服やら下着やらをぐちゃぐちゃに詰め込み、ついでに精査していた書類や持って帰るお土産も考え無しに旅行鞄に入れて無理矢理にチャックを閉じて蓋をした。
 ……これ、開けるのが恐いけど、きっと開ける時は来ないと思うからいいや。
 
 ようやく荷物整理を終えた(あれを終えたと言っていいのかは疑問があるが)ホテルの部屋は、伽藍堂としていて、本当に何もない。
 備え付けのテレビ、ベッド、冷蔵庫、小テーブル。
 あるのはそれぐらいで、生活感といったものはあまり感じられない。
 この部屋に初めて来た日はそんなことを考える余裕も無かったけれど、こうしてみると寂しい部屋だと思う。
 別に特別部屋のレイアウト等にケチをつけているわけではない。
 ただ、心情によって見た物への感慨も大きく変わってくるものだと感じただけだ。
 
「……はぁ」

 ベッドに横になる。
 途中からは無理矢理にしまったからさほど疲れていない筈だが、ドッと疲労が押し寄せて来たように体は動くことを放棄している。
 いや、肉体的に疲労が薄いのであれば体が動くことを放棄しているのではなく、放棄するよう脳が命令を出しているのだ。
 いつもの私ならとっくにラボに入り浸っている時間帯。
 ラボにいるのが当たり前で、心地よい時間。
 女の子同士でのガールズトークで盛り上がったことなど、ラボでまゆりと出会うまで殆ど無かった。
 @ちゃんねる用語を肉声で聞く事など、橋田さんと出会うまで無かった。
 メイド喫茶なんて、フェイリスさんと知り合いにでもならないと行く事なんてきっとなかった。
 漆原さんのように、可愛い男の娘と知り合いになるなんて思ってもみなかった。
 萌郁さんのように、ケータイメールでコミュニケーションを取ろうとする人もいるって事がわかった。
 阿万音さんのように一つの事に文字通り命をかけようとしている人がいるってことも知った。

 それらは全てラボの……未来ガジェット研究所の……岡部のおかげだ。

 岡部がいたから未来ガジェット研究所があって、彼の幼馴染のまゆりとも仲良くなれて、彼の相棒である橋田さんとも知り合えて、行ったことの無いメイド喫茶に連れていかれてフェイリスさんとも知り合えて。
 彼とまた会うために行った神社で漆原さんと出会えて、彼がIBN5100を手に入れようとしたから同じくIBN5100を探していた萌郁さんとも知り合えて、彼のラボがブラウン管工房の上にあったからバイトをしだした阿万音さんとも出会えた。

 日本に来てからたくさんの出会いと絆をもらった。
 その中心にはいつも岡部の存在があった。

 初めて会った時はセクハラかと疑った。
 講義の時は嫌がらせかと疑った。
 でも、彼は良くも悪くも自分を曲げなかった。
 理論はお粗末でも、疑問をストレートにぶつけてきた。
 彼の『異議あり!』という言葉は次第に私を楽しませた。
 彼の言葉をどうやって返してやろうかとワクワク出来た。
 彼は厨二秒だった。
 彼は我が侭だった。
 彼は独善的だった。
 でも彼は……優しいマッドサイエンティストだった。

 ゼリーマンズレポートの詳細を見たとき、彼は「後は俺一人でやる」と言い出した。
 人体実験。
 耳にするだけで嫌気が差すような言葉に、彼は臆したのだと思った。
 もしくは、アメリカでいた周りの人間同様、手柄や発見の功績の独り占めをしようと考えたのだと思った。
 私は、そういう考え方しかできなかった。
 だから彼の周りを心配する言葉は、正直内心では信じられなかった。
 信じられないほど、彼が高尚な人に見えた。

 リスクを背負うのは自分だけで良いと、スケープゴートを用意するのではなく周りの未来を案じた。
 このとき、人っていうのは極限においてその本性が現れるものだというのを強く実感した。
 アメリカの研究所ではミスは他人に押し付け、成果は独り占め、なんて事を考えるのは常識だった。
 それが悪いわけじゃない、今でもそう思う。
 そこで落ちていく奴は、所詮それまでの奴だったというアメリカでの考え方を批判するつもりは無い。

 ただ、彼は尊いと思った。
 醜い事を考えた自分なんかより、余程上に位置する人間に思えた。
 実際にはそこまでたいした奴じゃなかったけど。
 けど、たいした奴じゃなかったから、自分でも近づける位置に彼がいたから、余計に彼という存在は私の中に強く根付いたのだと思う。

「……っ、ああ、そっか」

 私の中で岡部は、大きい存在なんだ。
 そんな当たり前のことに、今まで気付かないフリをずっとしてきた。
 他の世界線で私は何度も岡部を助けてきたらしい。
 当然だ。
 今の私だって彼を助けたいと思ってる。
 彼だけじゃない。まゆりだって助けたい。
 それは彼やまゆりが、たった三週間ほどしか付き合いの無い人間関係でも、今まで私が持ってきた関係の中で特別大きいものなのだから。
 
 やる気が出なくなるのは当然だ。
 私は、それらをもうすぐ失うのだから。全てを手放すのだから。
 辛いのは当たり前。
 一緒にいて楽しい、一緒にいたいと思う相手と一緒にいられなくなる。
 辛くないわけがない。
 もう会えなくなるならいっそもう会わない方が良いと思っていた。
 彼の決心を鈍らせるだけだと。
 だが、会えなくなるのも、会わないのも、物理的には同じなのだ。
 会えなくなることが辛いのに、会わないことが辛くないはずが無かった。
 そんな当たり前のことさえ気付けないほど、私の脳は論理的思考を放棄していたらしい。

『ヴーッ、ヴーッ!』

 少し頭の中が整理出来たところで、ケータイが鳴った。
 考えが纏まって少しスッキリしたせいか、はたまた横になって休んだ結果か、先程よりは怠くない身体を起こして鳴り始めたケータイを手に取る。
 それは何気ない動作。
 ケータイが鳴っているから取る、というごく普通のありふれた生活の一部。
 ついさっきまでなら、その生活の一部にすら意味を見出せなかったかもしれない。
 恐らくは、どうせ消えるならメールを取って見たって無意味だと脳が処理して、身体はそれに従ったことだろう。
 だから、

「……えっ?」

 このタイミングでこのメールが来たのは、必然だったのかもしれない。


────────────

DATE 2029/08/16 14:45
FROM 牧瀬紅莉栖
Sb 

岡部を助けて

────────────


「……これ、まさかDメール……?」

 ごくり、と息を呑む。
 自分のケータイと同じアドレスからのメール。
 日付が……、

「ちょっ、2029年ってどういうことよ!? 2029年に私はいるってこと!? 何があったの!?」

 メールを見て飛び上がる。
 先ほどまでの無気力感など吹き飛んでいた。
 岡部がDメールを取り消したなら、私は存在しないはずなのだ。
 その私からメールが来るということは、私は2029年に存在していることになり、岡部がDメールを消していないという事なのだろうか。
 いや、それよりも問題なのは、


─────岡部を助けて─────


「……っ、落ち着け、落ち着くのよ私……っ」

 問題の本文を読んで荒ぶる心を必死に落ち着かせる。
 ベッドに腰掛けてはいるが、つい足は小刻みに床を踏みつける。
 ガタガタと指は震え、ケータイを落としそうになる。
 それでも、私は落ち着かなければならない。

「まずこれがDメールである可能性は否定できない。タイムスタンプが未来であることからもDメールじゃないという考えは捨てるべきね。じゃあ次にこのメールの送り主だけど……」

 牧瀬紅莉栖。
 メールアドレスはそうなっている。
 これは自分のアドレスをそういう名前で登録しているからこそ起きる事だ。
 “アドレス”は間違い無く同じアドレスから送られた物だろう。
 では送ったのは誰か。

「私自身の可能性が一番高い……とも言えない」

 2029年まで今私が持っているケータイが残っていた場合、もしくは全く同じアドレスを作ることが出来た場合、“送り主”は誰か特定できない。
 可能性としては未来の私のケータイを誰かが盗ってメールを送ったことも考えられるし、既に死んでいる私が使っていたケータイと同じアドレスを入手してメールを送った可能性もある。


─────岡部を助けて─────


「……っ、ああもう!」

 さっきから……メールの本文を見てから動悸が止まらない。
 岡部を助けて、と“このタイミング”でメールが送られてきたという事は、このタイミングで岡部を助けなくてはいけない何かがあるということのはずだ。
 岡部がまゆりを助けず生き残った私が未来からメールを送ってきたのなら、尚更彼を助けなくてはならない。
 それとも私はやっぱり死んでいて、何を思ってか私のメールアドレスからメールを送ってきた何者かがいるのだとしても、岡部を助けてという文面から察せられるのは岡部には助けが必要ということだ。

 私はホテルを飛び出していた。
 考えるより行動。
 以前の私ならそうそうしなかった行動。
 でも、不思議と足取りは軽かった。
 

─────岡部を助けて─────


 このメールによって、岡部を助けるという“大義名分”がある私は、ラボに行く必要がある。
 それだけで、少し……本当に少しだけ元気になれる気がした。
 結局私はラボに行きたかったのだ。
 岡部にも会いたかったのだ。
 会えなくなるならもう会わない、という“逃げ”は辛くなることでしかなかった。
 それでも、Dメールが来なければ私は意地を張ってラボには行かなかったかもしれない。
 だが、岡部を助けなくてはならないという理由がある今なら、私はその“大義名分”を盾にラボへ……岡部のところへ行ける気がする。
 ううん、行くんだ。自分の意志で。

 私は、少しばかり足の歩みを速めた。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter3
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 19:54
荒唐無稽のサードメルト Chapter3



「逃げるの?」

 岡部はハッとしたように振り返って私を見た。
 その表情は驚きと……絶望に満ちていて、とても一日ぶりに会う同じ人間とは思えなかった。
 ……予想していなかったわけじゃない。
 岡部のことだ。
 恐らく、あれからも何度もタイムリープを繰り返し、Dメールを消す以外の方法でまゆりを救えないか試行錯誤したのだろう。
 私がラボに入ったことにすら気付けないほど、彼の心は憔悴し、磨耗している。
 私にとっては一日ぶりでも、岡部にとってはきっと数十日ぶりに違いない。
 そしてその日数分だけ、岡部はまゆりの死を目の当たりにしてきたのだろう。
 そんなの、彼の顔を見れば一目瞭然だった。

「なんで……」

 搾り出すように、岡部は口を開いた。
 こいつは、どこまで頑張れば気が済むのだろう。
 なんで? それこそこちらがなんで? と聞きたいくらいだ。
 なんで、そこまで頑張れるの? 無駄と知りつつ、繰り返せるの?

「タイムリープするのは、逃げよ」

 タイムリープ。
 それは、答えを導くためのものじゃない。
 それは、自分が辿り着きたくない未来へ行かないようにする時間稼ぎ。
 あんたはもう、救われていい。
 
「これまでも……まゆりを助けるためっていう大義名分で……たくさんの人を、俺は傷つけてきたんだ」

 岡部が独白のように呟き始める。
 余程溜め込んでいたのだろう。

「しかもそのことで感じる罪の意識も、だんだん鈍くなっていくんだ……。人としての、まともな感覚が失われていくんだ……」

 その言葉は切実で、苦しみと哀愁を含んでいて、膨らみすぎた風船のように一杯だった。
 もう少しいけば、本当に破裂していたのかも知れない。

「だったら、なんで今あんたは迷ってる?」

「……タイムリープマシンっていう保険がきかないから、かもな。俺はこのマシンを使いこなしてなんていなくて……振り回されているだけなのかも……」

 岡部の独白染みたその姿には覚えがあった。
 今の岡部は、他の誰でもない先ほどの私だ。
 “こうでありあたい”と願いながら、その願いとは正反対の位置にいる。
 それは“逃げ”だ。
 答えが……解が用意されているのなら、それを選ばないのは逃げでしかない。
 そして、

「逃げたって苦しくなるだけ。私が、そうだから……」

 逃げることは、解決策に繋がらない。
 時には逃げることも大事だというが、“一時退却”と“逃げ”では大きな差がある。
 私はそれを、先ほど強く痛感した。

「今の岡部、見てられない。自分の顔、鏡で見た? 急に老けたように見える。心がボロボロになってるんじゃない? そこまで思い悩まずに、私の言うことを素直に受け入れればいいんだ」

 生気の抜け落ちたような顔。
 まるでやりたい事がまだたくさんあるなか自分の余命があと一日と宣言されたかのような、死ぬ一歩手前のような顔。
 ああ、自殺する人ってこんな顔してるのかな、と思える程に、彼は“生きている”気がしなかった。
 このままでは彼は潰れてしまう。間違いなく人として生きていくのに大事な何かを失ってしまう。
 直感的にそれがわかるほど、彼の心が疲弊しているのが読み取れた。
 未来の誰かが何を思って私のメールアドレスでメールを送ってきたのかはわからない。
 だが、彼のこんな姿を見たら、助けがいると思うのは当然だ。
 岡部には、きっと彼を赦す人間が必要なんだ。
 私は恐らくその為にここにいる。
 
「さっき言った通り、あんたはここにとどまっちゃいけない。β世界線に行きなさい。まゆりが死なない世界へ。それがあんたのためでもあるし、私のためでもある」

 運命論なんて信じないけど、仮に決まった運命というものが存在するのなら、私は彼を赦す役目を背負ってここに導かれたに違いない。
 変な言い方だけど、それはなんだかしっくりときて、全然嫌な気分にはならない。
 それだけで、私は存在していた“意味”を感じる事が出来る。
 だから私は岡部を赦して背中を押そう。

「俺は……お前を……助けられない、済まない……」

 岡部が初めて、悔しそうにしながらも理解しなければならないことを口にした。
 そうだ、それでいい。
 よく決断したよ岡部。私は……そんな岡部が、やっぱり尊く思う。

「……なんでよりによって紅莉栖なんだって思う……くそっ」

 ガンッと強く手を叩きつける。
 岡部らしくない感情の発露。
 感情を行動にまで表出させたことは、岡部にしては意外にも少ない。
 岡部にとって、それだけの決断だったということだろう。
 岡部は俯き、悔しそうに、未だに認めたくないという顔で、しかしもう決断を変える様子は感じられなかった。
 これで、きっと岡部は救われる。
 岡部だけじゃない、まゆりも……世界も。
 世界的に見ればちっぽけな“私”という存在を消し去って、無かったことにして、誰からも忘れられて、世界は望まれる姿で存続する。
 ……私が忘れられて、無かった事になる世界が望まれている……か。

「ねぇ岡部、あんたがβ世界線に行ったら、こうして仲間として一緒に過ごした記憶は、まゆりや橋田からは消えちゃうのよね」

 ああ、ダメだな私。
 また、言わなくても良い事を、聞くべきじゃないことを口にしてる。
 私も弱い。
 でも、岡部の決断が鈍らないギリギリのラインで色よい言葉は聞きたいと願ってしまう。

「岡部は、私の事、覚えてて……くれる?」

 もし、世界中の全ての人間が牧瀬紅莉栖という人間を忘れても、貴方は覚えていてくれますか?
 例え、世界から望まれない存在だとしても、私がいたという証を、せめて岡部の心の中にだけでもいさせてくれますか?



「お前の事は……絶対に忘れない……誰よりも大切な女の事を……忘れたりしない……!」



 岡部は、真っ直ぐに私を見つめて、普段とは違う鋭く含みの無い、ストレートな声色でそう言った。

「え……そ、それって……」

 思わず慌てる。
 予想以上の言葉に嬉しさが込み上げるが、相変わらず勘違いをさせることに関して天才的な岡部のことだ。
 きっと深い意味は無いに違いない。

「な、なにバカなこと言ってんのよっ……」

「事実だ」

 ちょっ!?
 その真面目な顔をヤメテ!?
 ジジツ? ジジツって何!? 時日? 字実? 事実!?
 私が岡部にとって誰よりも大切な女!?
 !?なかばなんそ!?

「そ、それはええと、証明、証明が必要。それがないと、私は方程式を用意できない──」

 ああ、えと、こういう時に使う方程式は……、

「ACTHの分泌過剰になり、ガンマ波から確率共鳴が起きてヒルベルト曲線のハウスドルフ次元は∞と仮定されるわけだから、つまり漸近線はポジトロン断層法で計算して……?」

「紅莉栖──」

 ひゃい!?
 い、今名前で呼ばれた!?

「俺は、お前が好きだ」

「…………っ」

 なかばなんそなかばなんそなかばなんそなかばなんそなかばなんそ。
 だって岡部はまゆりが……え?
 いつもいつも名前呼ばないのに紅莉栖……え?
 私がいくら気を引くようなメールしたって素っ気なくて、え?

「お前は……?」

「えっ!? と、言いますと!?」

「お前は、俺のこと、その、どう思ってる?」

 こ、この鈍感。
 私が今までなんであんたに付き合ってきたと……。
 いや、それがあったから岡部は私を好きになってくれたの、か?
 いやいやいやいや!

「し、知りたいのか?」

 思わず出た言葉は自分でも最低だと思う。
 知りたくなければこんなこと言わないし聞かない。
 今は冗談を言える雰囲気でも無い。
 だいたい告白したら返事が気になるのは必然だろ常考……って私が告白されてるんだった!
 岡部は私をじっと見つめている。
 心なしか不安そうに震えてもいる。
 本当に、私の気持ちなんて気付いていなかったんだ。
 でも不思議と怒る気にはならない。
 こんな土壇場で、最後でも、岡部に好きって言ってもらえたから。
 ……やっぱり少し怒ってるかも
 どうせならもっと早く言って欲しかった。
 そうすれば私はこんな気持ちにならずに、岡部といろいろ出来たかもしれないのに。
 ……でも、早く言われていたら、きっと私が岡部の後押しをする決断が鈍ってた。
 訂正の訂正。怒れない、が正しいかな。
 でもやっぱり岡部はずるい。
 魔法使いみたいに、最高の言葉を最悪のタイミングで出してくるんだから。
 答えを待っている岡部は段々不安そうな顔をし始めた。
 悪いとは思うけど、私だってこれでもテンパっていて上手く言葉になんか出来ない。
 ある意味言葉にした岡部は凄い。
 初めて尊敬したかもしれない。
 ……でも負けっぱなしはイヤだ
 口は上手く動かなくとも、方法はある。
 私は岡部の襟元を掴んだ。

「目を閉じろ」

「なぜ、目を……?」

「いいから、閉じなさいよ!」

 聞くな! 頼むから聞くな!
 私にとっても恥ずかしいことなんだ。
 正直初めての経験なんだ、告白されるのも……これから自分がしようとしていることも。
 でも、なんだか嬉しい。
 私は世界から排除される前に、ギリギリだったけど、恋が出来て、それが実って、そして……、

「ん……」

「な、な……!?」

 好きな人相手に、ファーストキスが出来たんだから。
 ~っ! 恥ずかしい!
 な、何呆然とこっちを見てるのよ!
 見んな! こっち見んな!

「べ、別に、したくてしたんじゃない……から……ただ……さっき約束したでしょ……。私のこと忘れないでって……より強烈な感情とともに海馬に記銘されたエピソード記憶は、忘却されにくいのよ」

 口からは言い訳が溢れ出る。
 何か喋っていないと頭がおかしくなりそうだ。
 頬も熱い。

「そ、それに岡部はHENTAI童貞だから、ファーストキスのことについて精緻化リハーサルが行われるはずで、それはすぐに長期記憶になって、そうそう忘れないかって思って……それで……どうしても、岡部にだけは、私の事忘れてほしくなかったから……」

 ……でも、本音も混じってる。
 私は、岡部とは一緒にいられない。
 岡部もそれが嫌で頑張ってくれていた。
 だからせめて、岡部には私の事を、覚えていて欲しい。

「……ざ、残念だったな」

「……え?」

「俺は、これがファーストキスではない」

 工工エエェェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェエエエ工工
 な、なんだって……?
 そ、そんなばかな。

「な、生意気なっ。童貞のくせに」

「うるさい処女」

 岡部は、恋人はいないって言ってたから油断していた。
 もしかしたら童貞なだけで今までに付き合った人の一人や二人くらい、いたのかもしれない。
 
「……そうか。あんたは、初めてじゃなかったのね」

「そうだ、だから今のは印象としては弱い。長期記憶にはならないかもしれない」

 そっか。
 何舞い上がっていたんだろう私。
 私にとって特別なファーストキスが、岡部にとっても特別なファーストキスだなんて、どうして決め付けてたんだろう。
 もしかしたら私は、岡部にとっては何人か好きになった女の一人、程度の存在なのかもしれない。

「だから、もう一度だ」

「なっ……」

 Why!?
 Did you say now?

「絶対に忘れたくないから……念には念を入れる」

 な、なんだその理屈は!?
 あ、あんな恥ずかしい真似がそう何度、も……っ!?
 ……岡部ってそういえば嘘下手だったね。
 岡部がふるふると震えてる。
 必死なんだ、きっと。
 その、考えるのは恥ずかしいけど、きっと必死で、私を忘れたくなくて、もっと今を大事にしたいと思ってくれてるんだ。
 ……バカ、そんな顔をされたらメロメロキューになっちゃうだろ。
 嘘。……もうとっくにメロメロキューだった。

「そ、それなら、しょうがないな……キスだけ……だぞ……ちゃんと、その、優しく……して……」

 岡部に髪を撫でられる。
 ただそれだけのことが、胸にトクトクンと熱い気持ちを孕ませる。
 そのまま私達はまた唇を寄せ合って、抱き合って……、


「岡部……ん……」


 お互いの唇を重ね合わせる。
 最初はただ触れるだけ。
 それが徐々についばむ様に。
 遂にはお互い求めるように強く強く。



 岡部、私の事、忘れないで……。






 岡部との時間が、今まで生きてきた中でもとりわけ早く感じる。
 


 時間が──あっという間に過ぎていく。
 今だけは……アインシュタインに文句を言いたい気分。
 時間は絶対的じゃない。
 アインシュタインは、時間が人や状況によって長くなったり短くなったりするものなんだって、科学的に証明した。
 ねぇ岡部。
 相対性理論って、とてもロマンチックで──
 
 とても、切ないものだね……。




***




『俺は……牧瀬紅莉栖のことを、牧瀬紅莉栖の温もりを……絶対に、忘れない……!』




 バカ。
 本当にバカ。
 最後までバカ。
 天下の往来で、朝で人が少なかったとはいえ、堂々と大声であんなことを言うなんて。
 ……それももうすぐ、無かったことになるんだろうけど。
 私が泣いていたこと、バレなかっただろうか。
 見送りにきた岡部と別れてから私は空港に行く予定だったのだが、どうせ帰れないなら、と岡部に見つからぬよう秋葉原の町の中に残っていた。
 キャンセル待ちなんてしていられる気分でもない。
 少し前の私が今の私を見たら、きっとスイーツ(笑)とか言ってプギャーm9(^Д^)するに違いないが、それでも私はどうせ消えるなら少しでも岡部の傍にいたかった。
 
 かといってとくにやることも無い。
 ガードレールに腰をかけて何気なくケータイを開く。
 見るのはメールの受信ボックスと送信ボックス。


────────────

DATE 2010/08/11 11:49
FROM 岡部
Sb Re:予定

なにを浮かれているのだ
! ラボメンとしての本
文を忘れるな!

────────────



────────────

DATE 2010/08/11 11:53
To 岡部
Sb バカ!

浮かれてなんかないわよ
バカ! 氏ね! なによ


────────────



────────────

DATE 2010/08/11 11:58
To 岡部
Sb (´・ω・`)

ゴメン、言い過ぎた (´
・ω・`)  でも岡部だ
ってもっと言葉選んでく
れてもいいんじゃない…
…?

────────────



「そういえば、青森いけなかったな」

 一時、凄く嬉しくて、でもモヤモヤしたメールを見直して、微笑む。
 あの時は岡部の言葉が嬉しくて、でも岡部から一見したら冷たいとも取れるメールにショックを受けて、つい強気で返信したことに不安を覚えて、急に掌を返されるのが恐くなって謝罪のメールを送ったのに返信がこなくて。
 返信がこないからって嫌な予感ばかり膨らんで。
 でもラボに帰ってきた岡部が何事も無かったかのように「クリスティーナ」と呼んで来た時、すごくホッとした。
 あの時だけは、クリスティーナと呼ばれても嬉しかった。

「……あれ?」

 思い返しながら、疑問が出る。
 メールが少ない気がする。
 いや、自分が打ったことのあるメールはここにあるので全部の筈。
 でも、打った覚えが無いけど“知ってる”メールがもっとあった気がしてならない。

「……あれ?」

 涙が、また溢れてきた。
 おかしいおかしいおかしい。
 論理的じゃない、理由がわからない。
 理由がわからない? 本当に?

 知っているということは、打った覚えが無いのではなく、忘れたか無かったことになったかのどちらかだ。
 岡部は言っていたではないか。
 前の世界線での記憶が戻った時もあった、と。

「……っ」

 メールの内容など全ては覚えていない、否、思い出せない。
 でもどのメールも想いは同じだったはずだ。
 
 岡部が好き。

 そこに集約されるのは確定的に明らかだ。
 私はそんな私達を無かったことにしていいのだろうか?
 思えば、私は“まだ”岡部に“伝えてはいない”のだ。
 先ほどの見送りの際にも、別れの挨拶をしなかった。

 恐かったから。

 言葉にしてしまったら、それが本当に最後になりそうで。
 でも、本当に伝えなくていいのだろうか?
 私の、無かったことになった“私達”の想いを、言葉にせず私は消えていいのだろうか?

 走っていた。
 荷物なんか金繰り捨てて走っていた。
 
 いいわけがない。
 いいわけがない。
 いいわけがない!

 走って。
 走って。
 走って走って走って。

 ガチャ! と勢い良く飛び込んだ先には、ラボの中には、岡部が驚いた顔で振り向いて、キーボードを押していた。

 間に合わなかった?
 どうでもいい。
 そんなことは関係ない。
 私は、私が、私達が消える前に、無かったことになる前に、私の、“私達”の想いを伝える!

「さよなら」

 先ほど出来なかった挨拶。
 きっとこれが本当にこの世界線での最後の挨拶。
 そして、

「私も、岡部のことが──」

 私は言いたい事を口にしようとして、







 ─────世界が消えた─────



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter4
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 20:01
荒唐無稽のサードメルト Chapter4



 何も無い。
 上も下も右も左も高さも低さも奥行きも無い。
 真っ暗、などではない。
 本当に何も“無い”
 ただ何も存在しない。
 
 ……死…………?

 体が無い。
 手が無い。
 足が無い。
 頭が無い。

 無。

 皆無。

 全てにおいて何も感じず、何も存在しない。
 空っぽ。
 
 光を感じる器官、目が無いから何も見えない。
 目が見えないのではなく、そもそも無い。
 音を感じる器官、耳が無いから何も聞こえない。
 耳が聞こえないのではなく、そもそも無い。
 匂いを感じる器官、鼻が無いから何も匂わない。
 鼻が悪いのではなく、そもそも無い。
 触感の為の器官、触覚に値する体が無いから何も感じない。
 触覚が麻痺しているのではなく、そもそも無い。
 味を感じる器官、味覚を持った舌が無いから何も味がわからない。
 壊れたのではなく、そもそも無い。
  
 感覚が全て無い。
 いや、感覚器が“無い”
 壊れたのではなく、無い。

 感覚器だけではない。
 ■タ■を象る構成物質が一切無い。

 存在しない。

 ワ■■は存在しない。
 今この瞬間、■■シは存在していない。

 ■■■■栖は、存在することを世界に許されていない。
 何も無いなにもないナニモナイ。

 ■瀬■■■は、存在しない。
 何も無いなにもないナニモナイ。

 ■■■莉■って、誰?
 何も無いなにもないナニモナイ。

 牧■■■■って、何?
 何も無いなにもないナニモナイ。

 ■■紅■■って、存在したの?
 何も無いなにもないナニモナイ。


 何も無いなにもないナニモナイ。
 何も無いなにもないナニモナイ。
 何も無いなにもないナニモナイ。


 そもそも誰って何?
 何って何?
 存在って何?
 
 ■■■は■■■■■?

 ■■■■■は■■■?


 ■■■■■■■■■?

 ■■■■■■■■■?

 ………………………?
 ………………………?
 ………………………?

 ……。
 …………。
 ………………。

 ─────────
 ─────────
 ─────────
 ─────────
 ─────────




***




『ああああああああああああああああっ!!』




***




 ……。
 …………。
 ………………。

 ああああああああああああああああっ。

 ああああああああああああああああっ?

 ああああああああああああああああっ。

 ああああああああああああああああっ?

 あ?

 あ?

 あ?

 あって何?

 コ■バ。

 ■トバって何?

 コトバは言葉。

 何って、何?

 疑問。
 考えること。
 わからないこと。

 ああああああああああああああああっ!!って何?

 言葉。
 言葉?
 違う、あれは“コエ”だった
 “コエ”? ううん“声”

 でもおかしい。
 ここには何もない。
 そもそも“ここ”なんて場所は無い。
 感覚器が無い。
 音を……声を認識する器官が無い。
 ここには何もない。
 
 何も無いなにもないナニモナイ。
 何も無いなにもないナニモナイ。
 何も無いなにもないナニモナイ。

 だからわかる筈がない。
 理解出来るはずがない。
 
 無。

 何も無いカラ。

 何も……無い?

 本当に……?

 疑問。また疑問。
 疑問?
 何で何も無いのに疑問がある?
 何も無いなら“疑問すらも無い”はずだ。
 でも、本当にここには何も無い。

 ここってどこ?

 いや、“ここ”はどこでも無い。
 だって“ここ”なんて場所は無いから。
 でも、じゃあ、ワ■シはどこにいる?
 
 どこにもいない。

 でも、じゃあ、■タシは何故いる?

 どこにもいない。

 でも、じゃあ、“ワタシ”は何?

 何も無い場所。
 場所なんて無い場所。
 ワタシなんて無い。
 無いワタシは、じゃあ何?
 無いのに、どうしてワタシはワタシなの?
 ワタシが存在しないのは、わかっている。
 ワタシがいないのはわかっている。
 ワタシはイナイ。
 イナイ。
 イナイワタシは何?

 何でイナイワタシはイルの?

 ……考えてもムダ。
 ヒトリデカンガエテモ、ワカラナイ。
 ワタシガホントウニイナイトシテモ、イタトシテモ、ソレヲ“ワタシ”ガカクニンスルスベハナイ。
 ナイ、カラ。
 ワタシハナイ、カラ。
 ワタシダケデハ、“ワタシノソンザイ”ヲ、ショウメイデキナイカラ。

 ……?
 ナンダロウ?
 マエニモ、前にも、こんなことがあったような気がスル。


『もしアルパカマンさんの世界が現実で私達の世界がゲームか何かだったらそれを知る方法はあるのかな?』

『それは……無いんじゃないかしら』


 ナゼナラ、それは……、


『つまり、私達が私達の観測者を観測できない限り、その思考実験に進展は無いってこと』


 カンソクシャ、ううん観測者。
 そう、観測者。
 観測者がいない限り、観測される世界は証明されない。
 
 いないのにいる。
 ないのに、ある。

 ワタシ……ううん私という存在は“今いない”
 いないのに、今、私は私として思考している。
 だが 何も無い。
 思考するために必要な脳はおろか、体を構成する物質そのものが存在しない。
 

『私達が私達の観測者を観測できない限り、その思考実験に進展は無い』


 ……もし仮に、世界からいなくなった私を観測する者がいたとしたら、確かに私はいないが、“私がいない世界”は確定する。

 観測結果があって初めて世界は認識される。
 この考え方は現状のどの世界構造想定図にも当てはまる。
 例えばシュレディンガーの箱の猫は、箱の中を見て、中の猫の状態が観測されたことによって“確定”される。
 
 万が一、今の私が観測される側だった場合。
 ゲームの画面でもいいし、紙媒体の話の中でもいい。
 パソコンのモニタやケータイ画面の中だっていい!
 それが例え文字のみによる誰かが作っただけの存在だったとしても!

 観測された世界は、その存在を確立させる!

 “今の”私では、観測者を認識することはおろか信じることさえ難しい。
 だが、先程までの言葉すら忘れたような、否、言葉すら“無い”“ワタシ”だったならば、“アイデンティティー”というものが無かったワタシならば、恐らく観測者の存在を認識は出来なくとも信じる事は出来たはず。
 
 何も無い世界とは通常認識できない。
 何故なら何も無いから認識しようが無い。
 だが、“何も無い世界”という世界を観測する観測者がいた場合、そこに何も無い世界は“ある”ことになる。

 “無い”のに、“ある”のだ。

 同じく、今の私も存在は無いが、確かにいる。
 ■■■はワタシ
 ワタシは私。
 ワタシは■■■■■
 ワタシは牧瀬紅莉栖。
 
 私は牧瀬紅莉栖!

 存在が……確定する。

 名前も顔も知らない誰か。
 紙媒体かもしれないし、ゲームかもしれない。
 あるいはパソコンやケータイのモニタ越しかもしれない。
 私には“あなた”を認識することが出来ない。
 でも、


「ねぇ、今私を見ているそこの“あなた”。そう、“あなた”よ。男か女かなんてわからないし年齢すらも知る術は無いけど……今私のこの声を聞いて、あるいは“見て”いるあなたのおかげで、私は今ここに“存在を確定”できた」


 言うなれば、周囲共通認識。
 自分一人ではそれは虚構に過ぎないが、二人以上の共通認識にすることで、それはその人達の中で“現実”になる。

「私が間違いなく私として存在するという証明は、私以外の誰か……“あなた”がいなければ成り立たなかった、だから……」

 


 ───────ありがとう。













***




「……ハッ!?」

 目を、覚ました。
 何だか、長い間眠っていたような錯覚。
 ボーッとして頭が働かない。
 なんとなく、むくりと起きあがって、ここが自分が泊まっているホテルの部屋であることを視覚情報から脳が判断する。
 ……視覚情報?

「……え?」

 ベッドから飛び起きた。
 顔に触れる。
 確かにそこには顔があって、感触があって、私が存在している。
 慌てて鏡台を見て、鑑に映る自分を確認する。

「……私、だ。体が、ある……」

 そこには見間違うことのない私、牧瀬紅莉栖が驚いた顔をして立っていた。
 それを確認し、現状を頭の中で整理する。
 私は、岡部の世界線修正によって、“私が死んでいる”世界線に移った筈。
 ……? そういえば、何故私はその事を覚えている?
 それを覚えていられるのは岡部だけの筈ではなかっただろうか?
 確かリーディング・シュタイナーとかいうふざけたネーミングをした力。
 それを持つ岡部だけしか、世界線移動に伴う記憶保持ができなかった筈なのだ。
 まさか……と最悪の予想が脳をよぎる。
 今の世界線はα世界線なのだろうか?
 それともβ世界線の過去?
 私が生きているということはβ世界線以外の世界線、もしくはβ世界線の過去以外には現状考えられない。
 とにかく、私は今自分がいつ、何処にいるのか知らなくてはならない。

 ……何だか、ついさっきまで長々と同じような事をやっていた気がする。

 ええい、考えても仕方がない。
 とりあえずはケータイだ。岡部と連絡を取れば何かわかるかも知れない。
 べ、別にあいつと話したいとかそんなわけじゃないけど!

 自分に謎の言い訳……照れ隠しをしながらケータイを取り出した。
 だが、意気揚々とケータイの電話帳を見て……愕然とする。

「う、嘘……?」

 そこは、殆ど真っ白だった。
 ママと研究所、あと最低限必要な連絡先だけしか登録されていなかった。
 これでは日本に来たばかりの時の電話帳みたいだ。
 ……いや、落ち着け。
 さっき自分でβ世界線での過去の可能性も考慮した筈だ。
 みんなとの……岡部との繋がりが無かったことになったからって、なったからって……。

「……っ、しっかりしろ私!」

 そう自分に喝を入れて気持ちを入れ替える。
 とにかく、今できることをやらねばならない。
 そう思ってケータイの電話帳を閉じたところで、おかしな点に気付いた。
 いや、最初に気付くべき点だった。
 電話帳にばかり気がいっていたせいか、見落としていた。
 ……今日の日付は、

「9月!? 今は9月末なの!? あれから一ヶ月も経ってるじゃない!!」

 なんで、と思ってすぐにハイデガーの言葉を思いだした。


 ─────人間は根源的に、時間的存在者である─────


 私が私で無かった状態。
 それでも、世界は時を刻む。
 それは私が人間である証拠。

「……でも待って、それはそれでおかしい! だって私は死んでいる、はず……」

 言葉尻が小さくなる。
 恐くなって鑑をもう一度見る。
 うん、私だ。足だってある。
 だとすると考えられる可能性は……、

「ここは、β世界線ではない……?」

 思い当たる可能性はそれ。
 だが今はまだ判断材料が足りない。
 ここがβ世界線でないならまゆりはどうなったのだろう?
 未来はディストピア化してしまうのだろうか?
 岡部は……?

 考え出すと止まらない。
 だから私はすぐに一つの結論を出す。

「ラボへ行こう」

 どちらにしても情報が少なさ過ぎる。
 この世界線にもラボがあるのかはわからないが、無いなら無いで全く知らない世界線という解が得られる。
 もしラボがあるなら私の事を岡部は知っているかもしれない……ううん、絶対知っている筈。
 なんたって岡部にはリーディング・シュタイナーとかいう厨二病全開な名前の能力があるんだから!
 少しの不安と、期待を持って、私はホテルを後にした。

 最初は真っ直ぐにラボに行こうと思ったが、少し思うところがあってラジ館の前を通ってみる。
 結果は、ある意味複雑だった。
 と言っても、どうなっていても複雑にはなるんだけど。
 ラジ館の屋上は壊れていなかった。
 それはつまり、ここがα世界線では無い事の証明である。
 ラジ館に阿万音さん……ジョン・タイターが乗ってきたタイムマシンが無いということは、彼女はこの時代に来ていない……来る必要が無いか来れなかったかのどちらかだ。
 念のために歩いている人に話を聞いてみたが、一ヶ月ほど前に謎の傷害事件はあっても人工衛星が落ちてきたなんて事は無かったそうだ。
 ……傷害事件とは物騒な、と思いつつラボに向かう為に歩を進めようとして、

 白い何かと、すれ違った。

「っ!?」

 慌てて振り返ると、相手も同じように振り返っていた。
 驚いたような顔。
 やや顎に髭が生えていて、ムダに整髪料を使ったような髪型。
 ほっそりとしたその身には外で出歩くような格好ではない白衣で。
 こんな所で白衣で。
 そんな服装をしている奴なんて私の知る限り、たった一人なわけで。

「な、おい何故彼女がここにいる!?」

 そいつはケータイに向かって一人電話をし始めて、そんなことリアルにする奴も私の知る限り一人……って、おい。

「お前は会った瞬間それか岡部ーーー!」

 飛び込む。
 彼の白衣を掴む。

「っ!? な、お、おい……!?」  

 慌てるような彼の声。
 集まる周囲の視線。
 でも、そんなの気にならなかった。

「……っ、ぐす……っ」

 不安だった。
 世界線が変わって、ラボが無いんじゃないか。
 ラボがあっても私の知っているみんなはいないんじゃないか。
 私の知っている、厨二病な岡部は、いないんじゃないか。
 岡部はあの時、いつもこんな恐怖を味わっていたのかと思うと、また一つ私の中の隠れ岡部評価指数が上がる。

「おい、クリスティーナ!? くっ、これが機関の精神攻撃かっ!?」

「私は、ぐすっ、助手でもクリスティーナでもないといっとろうが……っ」

「なっ!? お前……!!」

 ぐいっと岡部に無理矢理引きはがされる。
 彼の顔は先程以上に驚愕に彩られていた。

「紅莉栖……? 覚えて、いるのか?」

 だが、その声は、期待に満ちていた。




***




 私達はその後、近くの喫茶店に入って現状の説明をした。
 岡部の話は驚いたけれど、私が今ここにいるのが、何よりの証明だと思えた。

「世界を騙した、ねぇ」

 岡部は元々β世界線において、私の死を確認していなかった。
 ただ血塗れの私を見ただけだったと言う。だから、無事な私を血塗れにしつつ同じ状況を作ることで、観測に齟齬を生むことなく、私の生きている世界を見つけ出した。
 結局、どうやって私を血塗れにしたのかは教えてくれなかったけど。
 再びやってきた阿万音さんと未来の岡部の話は正直突拍子も無かったが、最初に思ったとおり、今私がいることがその証明だ。

「それで、だ。紅莉栖、お前は……本当に何も覚えていないのか?」

「私の記憶はラボに駆けつけて、アンタがキーボードを押したところで止まってる。目覚めたら今日だった」

 半分は嘘だが半分は本当だ。
 何も存在しない世界に身を置いていた間の記憶が皆無なわけじゃない。
 だが、この事はいちいち説明するようなことではないと思う。
 岡部だって恐らく全部を話してはいない。
 今他に覚えていることを尋ねたことや、私の血塗れ状態の作成方法など、語っていない所がある。
 完全にはスッキリしないが、お互い言いたくない事や思い出したくない事はあるものだ。
 だが、お互い話していること自体に嘘は無い事は何となくわかるし、わかってもらえていると思う。
 今はそれで良い。どうやら岡部もそう思ってくれているようだった。
 それからはあっという間だった。
 ラボに一緒にいって、橋田やまゆりと再会して。
 向こうは覚えていなかったけど、すぐに親しめた。
 まゆりが、すぐに私の事を「友達」だと言ってくれたことには感動さえ覚えた。
 α世界線でのまゆりが、

『私も紅莉栖ちゃんと友達になれて嬉しいよ~♪ これからもずっとずっとお友達だよ!』

 と言ってくれた事を思い出す。
 だがその後が大変でもあった。
 私はどうやら恩人(岡部のことだ)を探すためにという理由で結構な無理をして日本滞在を延ばしていたらしい。
 本当なら岡部と会った翌日にはアメリカに帰らなくてはならないくらい期限は切迫していたようで、電話越しに何度も頭を下げて三日ほど延長してもらった。
 さらに関係各所に電話をして謝罪を入れ、ママにも当然連絡した。
 落ち着いた時には一日を消費し尽くしていて、延長した三日は早くも残り二日になっていた。
 だから残りの二日はラボに泊めさせてもらった。
 べ、別に深い意味は無い。ただこれだけ延長していてはホテル代が払えないからだ。本当にそれだけだ。
 ……この二日間の事はこの先絶対に忘れないだろう。
 みんなで出来るだけ過ごし、岡部ともたくさん話をした。
 よ、夜は二人きりになってから、念のためにということで思いを確認し合った。
 やったのは答え合わせという名の“あの日”の再現だけで、それ以上の事は何も無い。それ以上の事は何も無い。大事なことなので二回言いました。
 ……大事なことなので二日間ともやりました。

 そして今、私はアメリカ行きの飛行機に乗る所だった。
 大分チームにも迷惑をかけたからすぐには日本に戻ってこれないだろう。
 でも、出来るだけ頑張って早く研究を一段落させ、また日本に来たいと思う。
 ……岡部とも会いたいし。

『アテンションプリーズ~』

 機内放送が流れる。
 シートベルトをして下さい。ケータイの電源は切って下さいなど、当たり前のことばかりの案内アナウンス。
 私はケータイを取り出す。
 ついさっき来たメールを見て、微笑む。
 それは何気なさそうな岡部からのメールだが、それが何だか無性に嬉しかった。
 さて、いつまでも見ていたいところだが、そろそろ電源を切らねばなるまい。
 そう思った所で、ケータイが振動する。
 また岡部からのメールかな? と思い画面を確認して、最初に目に付いたタイムスタンプで……体が凍る。


 DATE 2028/09/30 11:07
 FROM 牧瀬紅莉栖


 タイムスタンプが、私の冷静さを奪う。
 自分と同じメールアドレスからというのが、それをさらに加速させる。
 メールの内容を確認するのが恐い。

 嫌な予感がする。
 何か、酷い見落としがあるような。
 私は、震えながらそれでもメールを確認し、


────────────

DATE 2028/09/30 11:07
FROM 牧瀬紅莉栖
Sb 

彼まだ助から 

────────────



────────────

DATE 2028/09/30 11:07
FROM 牧瀬紅莉栖
Sb 

ずこのままで

────────────



────────────

DATE 2028/09/30 11:07
FROM 牧瀬紅莉栖
Sb 

は岡部が死ぬ

────────────



 ─────岡部が死ぬ。

 ─────岡部が死ぬ。

 ─────岡部が死ぬ。



 声なき声で、絶叫した。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter5
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 20:44
荒唐無稽のサードメルト Chapter5



 機内で取り乱した私は、それでも冷静にケータイで岡部に電話をかけた。
 ……いや、電話をした時点で冷静ではいなかったのかも知れない。
 『電源を切って下さい』とアナウンスのある中ケータイを使う奴がいれば、それをキャビンアテンダント……客室乗務員が止めようとするのは自然の理だ。

 けど冷静でなんかいられるはずがない。
 自分が今まで得られなかった気の置けない友人、それもとりわけ一番に好意を抱き、お互い想いが通じ合った事を確かめた相手が“死ぬ”というメールが送られてきたのだ。
 それも未来から。

 客室乗務員の女性は私に最初は優しくケータイの使用を止めるよう勧めてきたが私は無視した。
 それがいけなかったのだろう。
 客室乗務員はやや強引にータイに手を伸ばし、私の手からそれを奪い取る。
 客観的な視点で見れば、この客室乗務員の行動は正しく、私の行動こそ咎められるものだ。
 だが生憎とその時の私は客観的な視点も冷静さも持ち合わせていなかった。持ち合わせられなかった。
 私は喚いた、のだと思う。
 いろいろと汚い言葉も口にしながら必死に懇願した……ような気がする。
 だが、これまた客観的な視点で見れば私はただのDQNでしかなく、相手になどされない。
 それが理解できないほど、私は取り乱していた……のだと思う。

 先ほどから仮定形なのは私がその時の事をあまりよく覚えていないからだ。
 私は余程頭に血が上っていたようで、感情の赴くままになりすぎた。
 本来なら叩き出したいのだろうが、既にフライト時間は押しているし、航空会社としてもあまり問題をおおっぴらにはしたくなかったのだろう。
 すぐに数人のスタッフが集まって来て、機内で乗客席とは違う別室へと連行された。
 決して広いとはいえない客室と機長室の間にある通路、そこにはスッタフ用の休憩室が小規模ながら存在した。
 そこで一人にされて、ようやく私は冷静さを取り戻し始めた。 

 冷静さを取り戻してまず最初に思った事は、私は運が悪かったということだ。
 先ほどフライト時間が押していたから私は別室に連行された、と思っていたがよく考えれば飛行機から叩き出される可能性も半分ほどはあったはずだ。
 空港にだって、いやむしろ空港のほうが人の一人や二人をぶち込んで話を聞く場所は確保しやすい。
 私にとっても、こんな逃げ場の無いはるか上空の限定空間よりは、日本に留めておいてくれた方が精神的に助かったと思う。
 私をここに留めた乗務員達の判断がどんなものなのかはわからない。
 だがもしも、せっかく海外行きの飛行機に乗ったのだから些細な揉め事で連れて行かないのは可哀想、程度の考えなら正直ありがた迷惑以外の何者でもない。

 航行が安定したのか、私がこの部屋に入れられてから数分した頃、つまりは冷静さを取り戻した頃、案の定私に話が聞きたいと乗務員さんと機長さんみたいな人が入ってきた。
 乗務員さんは少し年配の女性の方で恐らくはチーフか何かなのだと思われる。
 一緒に入ってきた機長さんみたいな服装の人はまだ若い男の人なので、もしかしたら機長ではなく副機長かサポートパイロット的な何かを受け持つ人なのかもしれない。

「……すいません、ご迷惑をおかけしました」

「……良かった。冷静さは戻っているみたいだね」

 最初にまず謝罪を入れておく。
 悪かったのは確かに私だし円滑に会話を進めるには一度引いておくくらいが丁度良い。

「わかっていると思うけど飛行機っていうのは見た目の大きさとは裏腹にとっても繊細なんだ。だから少しでも不安は取り除きたい。その為やむなくこちらは君を客室から隔離させて頂きました」

 副機長さんらしき人は、私が冷静だとわかった事に安心したのか現状の説明を始める。
 チーフさん(こちらも多分だけど)は口こそ開かないが優しく私にコップを差し出してくれた。
 コップにはオレンジジュースが入っていて、恐らく会話の際の潤滑油にでもなればと機内サービスから用意してくれたものなのだろう。
 私は取り乱して迷惑をかけた自分を恥じつつ、しかしこのまま無碍に時間を潰すわけにもいかないと思い副機長さんらしい人の話に適当な相槌を打ちながら謝り、頂いたジュースを飲んでこちらの言い分を話そうとした。

 ……結論から言うと、私はまたも冷静では無かった。
 いや、あるいは冷静になったせいでこうなったのかもしれない。

 私は副機長さんらしき人や、チーフさんらしき人に自分の事を話すことなく、意識を手放していた。
 オレンジジュースに睡眠薬が入っていたのだ。
 考えてみれば、外国へ向かう長いフライトで、問題を起こした乗客がまたいつ問題を起こすかなど誰にも想像がつかない。
 ともすれば、どうにか対策を立ててくるのは普通のことで、私はそんな簡単な事にも考えが思い至らなかった。
 長距離ともなれば不測の事態は多く、薬剤もそれ相応に取り揃えていることだろう。
 これが長距離飛行中に寝たい人が眠れないと訴えた際に処方するものなのか、それともこうやって不祥事が起きた際の一時凌ぎ的な役割用であったものなのかはわからないし知る必要は無い。
 ただ、私はまんまとオレンジジュースを飲んでしまい、フライト中は乗客の安心と安全の為にずっと夢の中へ監禁されていたという事だ。
 この時、私がまだ取り乱していてジュースなど飲める状況で無かったのならまた話は違っただろうが、それが良い方へ転がるとは必ずしも言えない。

 それに“ここまで”なら“運が悪かった”で済ませられる話だった。

 私は着陸間際に目を覚ました。
 何があったかに気付いた私は内心憤慨していたが、今が着陸間際だと知ってその矛を収めた。
 もうすぐこの逃げ場の無い飛行機から開放されるのなら揉めるだけ損というものだ。
 普段ならトコトン話をする……前にこんな事になどならないが、今は時間が惜しい。
 もし……もしも私が眠っていた間に、と思うとゾッとする。
 着陸後、私は軽い注意と説明、謝罪の後すんなり開放された。向こうだって次のフライトに忙しいし事を大げさにはしたくないのだろう。
 ここで私が睡眠薬によって強制的に眠らされた事実を声を大にして騒ぎ立て、裁判に持ち込めば向こうの困った顔もみれるだろうが、こちらも如何せん乗客全員に迷惑をかけるところだったので分の悪い部分もある。
 どうなるかは実際に裁判になってみないと何とも言えないが、そんなことをしていては時間が余計に無くなってしまう。
 今はそんなことをしている場合ではないと私は荷物を持って駆け出し、返してもらったケータイから岡部に電話をかけた。
 とにかく岡部の声が聞きたかった。
 無事な事を本人から確認したかった。
 だが、

 「……えっ?」

 ケータイの画面は真っ暗だった。
 これはもう“運命の悪戯”と言うには些か無理がある気がする。

「まさか……こんな時に電池切れ!?」

 バッテリーなんて今まで気遣ったことなど余り無かった。
 切れててもいいやという気持ちと、気付いたら充電しておくという習慣で電池切れにまでなったことがなく、今まで困ったことなどなかった。
 すぐに空港の公衆電話が目に入るが、頭を振る。

 ……私は誰の番号も“覚えていない”

 ケータイに登録はしている。
 この昨今、電話番号などは特に覚えなくなっていた。
 必要な連絡先の番号は、ケータイの電話帳か、身近なところにメモがあるからだ。
 残念な事にラボメンのみんなの連絡先はケータイにこそ入っているが、記憶していない。
 オマケに充電器は持ち歩いていなかった。
 ホテルでは備え付けの充電器があったし、アメリカでは自宅か研究所にしか充電器は置いていない。
 ならば、と売店に向かったが、乾電池で充電できるタイプの充電器は丁度品切れだった。
 
 嫌な予感がする。

 全てが裏目に出る。
 こんな“偶然”があるか?
 否、これはすでに“偶然”ではない。
 これではまるで、世界そのものがそうなるよう“収束”しているようにしか思えない。

 ───岡部が死ぬ───

 脳裏にメールの文面が蘇って、肩が震えた。

「岡部……っ」

 私の縋るような声は、空港の雑踏の中に消えた。




***




 私はママへの挨拶もそこそこに、慎重な手つきで自室へと入った。
 研究所の時と同じ轍を踏むわけにはいかない。
 家に帰ってくる前、研究所に寄った私は教授たちに捉まって帰って来るのが遅れたわけなどを嫌味を散々言われながら問われた。
 それは電話でも既に説明したはずだったが、どうにも私ではない“私”との言葉に若干の食い違いがあったことや、私を良く思わない研究チームの中の何人かがここぞとばかりにいろいろ工作したようで長いこと拘束された。
 こんなことをしている場合ではないが、先ほどまでの経験から事を急こうとして裏目に出ている事を考慮し、出来るだけ早く話が終わるよう尽力し研究室の充電器へと向かった。
 だが、この時もまた収束としか思えない事象が起きる。
 私は喜び勇んで充電器を取ったが、足を滑らせて転びながら充電器を落としてしまい、どうやったらそうなるのか、これまたいい感じに落ちた充電器にエルボーが直撃して充電器は大破してしまった。地味にイタイ。
 壊れた充電器の有様を見て、これほど唖然とした事は、過去を省みても誕生日の日のパパとのことくらいしか思い出せない。
 とにかく、私は岡部との唯一のライフラインであるケータイの充電器を壊してしまった。
 幸いケータイは無事だったが、依然電力の無いケータイでは使い物にならない。
 研究室には私以外にも人はいたが、私は周りとはあまり仲が良くはなく、それどころか今回の日本行きの件や帰国の遅延で一層ギクシャクしてしまってとても充電器を借りられるような雰囲気ではない。
 やむなく私は掃除と簡単な謝罪を後に、すぐ帰宅したのだった。

 自室の机に備え付けてある充電器。
 私はそれを手に取ってケータイに付けた。
 カチリと嵌ったそれはすぐに充電中のランプを点灯させる。
 何となくホッとした。
 細心の注意を払ってはいたが、もし“アトラクタフィールド”が収束していればどうなるかなど想像もつかない。
 これでようやく岡部と連絡が取れる、と私はすぐにケータイの電源を入れる。
 念のために岡部とまゆりの電話番号、メールアドレスを書き出しておき、さあ岡部に電話しようというところで、

「……ちょっと良い? 大丈夫?」

 ママが部屋に入ってきた。
 すぐにでも岡部に電話して無事を確かめたいが、ママを無碍にするわけにもいかない。
 挨拶が淡白過ぎたかな、と少し反省しながら大丈夫、と告げる。
 ママはしきりに私の心配をしていた。
 何をそんなに心配しているんだ? と思ってそういえば自分はラジ館で“何者かに襲われて岡部に助けられている”というこの世界線の事実を思い出す。
 そりゃ娘が襲われたと聞けば心配にもなるか。心配ありがとう、ママ。
 私が改めて大丈夫と伝えると、心配気なママの顔もフッと和らいだ。

『ヴーッ、ヴーッ!』

 その時、タイミング良くケータイが振動した。
 それを見たママは安心したのもあったのか、気をきかせてくれて部屋を出てくれた。
 私はママを見届けてからケータイ画面を確認し、息を呑む。



────────────

DATE 2028/09/30 12:14 θ
FROM 牧瀬紅莉栖
Sb 

 

────────────



 何度目かの受け取りになるDメール。
 今回本文は一切無く、θのクリップマークが添付ファイルの存在教えてくれるのみだった。
 私の指は震えていた。
 このメールの添付ファイルを、私は見て後悔しないのか。
 もしかしたらこの添付ファイルは全ての終わりを告げるものなのかもしれない。
 先に岡部にでも電話をして、無事を確認して、ホッとしてから確認した方が良いんじゃないか。

「……っ」

 心が弱気になっている自分に嫌気がさす。
 弱気になるのは当然だ。
 岡部を助けてというメールが来て。
 岡部が死ぬというメールが来た。
 私は、勝手にもう岡部を助けたと思っていた。
 岡部は助かったと思い込んでいた。
 あの、タイムリープマシンの前にいるボロボロの岡部を見て、助ける事の意味を勝手に解釈していた。
 それが正しいと信じて疑わなかった。
 それは間違いだった。
 でも、わかる筈が無い。 
 わかる筈が無いんだ。
 『岡部を助けて』というメールだけで、“何”から岡部を助ければ良かったのかなんて、私にわかる筈が無い。
 未来の私に言ってやりたい。

 よく考えろと。
 軽率なメールにするなと。
 一目瞭然にしろと。
 もっと注意をはらえと。
 過去の……今の私は思った以上に打たれ弱くて、素直になれないけど岡部を失いたくないんだと。

 それでも私の指は中央のボタンに伸びた。

 → 添付ファイル 

 詰まるところ、私は岡部に電話するのも恐かったのだ。
 もし、岡部が出なかったから?
 まゆりたちに電話して、岡部が既に死んでいる事実を聞かされたら?
 多分私は耐えられない。
 未来からのメールか何かでこれから死ぬ、もしくは死んでいると言われたほうがまだ“疑う余地”が残って救いになる気がした。
 これは逃げだ。
 つらくなるだけの行為だ。
 でも、それでも、私は既にボタンを押してしまった。

 最初に画面に現れたのは、ノイズだった。
 添付ファイルはムービーデータらしい。
 画面一杯に灰色の砂嵐が吹き荒れる。
 が、不意に砂嵐が途切れて一面に……白い何かが映った。

『……はろー』

 何だか耳慣れたようでいながら若干の違和感が拭えない声。
 
『このメール、ちゃんと届いているかしら? それを知る術は私には無いから届いていませんなんてクレームは残念ながら受け付けられないけど』

 それでも、何処と無く言い回しが誰かに……自分に似ている気がする。
 それにしてもこの映ってる白いのは何だ?
 もしかして白衣、だろうか。

『わかっていると思うけど、私は貴方よ』

 しかし何故白衣だけを映しているんだろう?

『私がこのメールをした意味は……言わなくても大方わかっているでしょうね。でもわかっていない筈のこともあるから、まず最初に言っておくわ。私は今の貴方に希望と……絶望を与えるためにこのメールを送ってる』

 ゾワリ、とした。
 思考は思考を追い越して、ただ一文字、『死』という言葉で脳内を埋め尽くす。
 岡部を助けて岡部が死ぬ岡部を助けて岡部が死ぬ。

『順序だてて話していくわね。まずこのメールは言うまでもなく未来から送ってる。Dメールを応用して、36バイト以上の容量の送信を可能にした上で、ね』

 未来の私はどうやらDメールの研究をしてさらに進化させたらしい。
 正直、今の私はあまりタイムマシン関係には携わりたくは無いのだが。
 あれ? でもまって。 既に36バイト以上送れる装置があるのなら最初から……、

『今貴方は恐らくこう思っているはず。ムービーメールを送れるなら最初から送りなさいよ、と。残念だけどそれは不可能だったの』

 ……思った事を言い当てられた。
 なんとなく、悔しい。

『説明が面倒だから簡単に言うと、私はアメリカからメールを送っている。このメールの送信先がやっかいで、外国へのメールは中継ポイントが多すぎてムービーを添付したDメールの内容が劣化する恐れがあったの。最悪届かない可能性もね。ただムービーメールを送るための機材はアメリカにあって私程度の権限では勝手に日本に持ち込めない。だからわた……貴方がアメリカに帰ってくるまでムービーメールを送るのは待つ必要があった』

 ふむん。
 言っていることはわからなくも無い。
 外国間の電子のやり取りはそれだけで膨大な経路を辿る。
 Dメールほど繊細なデータならそのリスクは確かに避けたい。

『ムービーメールを送った時期についての補足はこれくらいにしておいて、本題に入るわ。まず最初に言っておくと今回の事は“私が発端であって発端ではない”わ』

 ……はぁ?
 何を言ってるんだ未来の私は?
 支離滅裂にも程がある。

『私は……私も過去にDメールを受け取った。2029年から“岡部を助けて”ってね』

 それは私も受け取っている……あれ?
 今何か、違和感があったような?

『今の私は2028年の牧瀬紅莉栖。この意味がわかるかしら? 2010年の私?』

 私の主観からすると2029年からメールが来て、その後2028年からメールが来る。
 Dメールの特性から考えればありえないことでは無い、けど……何か引っかかる。
 何故“遠い未来の方”からのメールの続きを“近い未来”から受け取るのか。
 
『端的に言えば、あの最初のDメール……2029年の牧瀬紅莉栖はもういない。私達が“私達”となった瞬間再構成されたんだと思う。2029年の私……“最初の牧瀬紅莉栖”は倫太郎を失ってから、その為だけにDメールを使った』


「……っ!」

 失った、とはやっぱりそういうことなのだろう。
 胸の中がギュウギュウ締め付けられるように痛い。
 
『多分最初の私にはわかっていたのね。こういう“段階”を踏む必要があるって』

 それは……どういうこと?
 勿体ぶらずに早く言ってよ。

『最初の牧瀬紅莉栖の計画は恐らくこうよ。倫太郎が収束によって2025年に死ぬのなら、その“収束が無い世界を観測する”』

 ……つまり、どういうこと?
 それは、岡部を助ける手があるっていうことなの?
 このままだと岡部は2025年に死ぬってことなの?
 岡部はまだ生きているの?

『最初の牧瀬紅莉栖は考えた。倫太郎の死について。よっぽど変な死に方だったんでしょうね……私の時と同じく』

 その言葉は恐らく今の私同様、未来の私の胸も酷く傷つけているだろう。
 そうか……このムービーメールの私も岡部の死を見たんだ……。
 いつの間にか、このムービーメールの相手が自分で間違いないと確信していた。

『勘違いする前に言っておくと、最初の牧瀬紅莉栖も多分私達と同じく倫太郎命名の世界線“シュタインズゲート”の牧瀬紅莉栖よ。彼女はシュタインズゲートに居ながらにしてα世界線の私達にメールを送った』

 ……世界線を越えたメール?
 そんな事が可能なの?

『果たしてそんな事が可能なのか? と思うでしょうけど技術的には可能なのよ。ただそれを“観測”できないだけで。送っても変わった事に気付けないのならそれは無いも同じ。でももしそれに気付くことが出来るなら?』

 ……!
 まさか……?

『倫太郎の持つリーディング・シュタイナー。これがあればそれに気付くことが出来る。“私達にはなかった”力よ』

 ……なかった?
 何故過去形なの?

『今の貴方は気付いていないかもしれない……ううん間違いなく気付いていないでしょうね。私がそうだったから。最初の私はリーディング・シュタイナーを取得するためにあの“岡部を助けて”というメールを送ったのよ。それこそ、最終的に彼を助けるためにね』

 どういう、こと?

『リーディング・シュタイナーとはどういうものなのか。倫太郎はただ世界線移動を認知できる能力としか認識していなかったけど、今の私は違う。リーディング・シュタイナーとは……恐らく観測者の視点そのもの』

「!!」

 ドッと心臓が跳ねる。
 その言葉で、あっという間に私の中で仮説が組みあがった。
 リーディング・シュタイナーとは、観測者の視点に色濃く影響される……もしくはそれそのものだった場合。
 世界線移動を認知できるのは当然だ。
 世界線を移動したという世界を観測しているのだから。
 また、リーディング・シュタイナーは強弱はあれど誰もが持っていると岡部は言っていたが、それはその人物の視点に観測者が立っていることがあるから、なのではないだろうか。
 いつだったか、世界線の構造についてエロゲで話したことがあった。
 これもそう考えれば分かりやすい。
 ヒロインが複数いる場合、プレイヤー……観測者はそれぞれ好みや狙ったヒロインを攻略していく。
 そうなれば当然ヒロインそれぞれに観測者がついていることになる。
 そう、それと同じだ。
 誰も、“観測者が一人”だと観測したわけじゃ無い以上、その可能性を潰すことは出来ない。
 そしてもしそうなら、観測者がいることを自覚した私は観測者と視点を共有している。
 今こうやって考えている内容すら、もしかしたら“あなた”に見られているのかもしれない。
 根拠は恐らく、世界線移動時の記憶保持。
 観測者と繋がっているなら、記憶が保持されるのはむしろ当然だ。
 観測者からしたら“同じ一人の人間”をずっと追いかけているのだから。
 そう考えると“最初のリーディング・シュタイナー”のスタンダードな持ち主である岡部は、もしかたら主人公か何かだったのかもしれない、と思うのは飛躍しすぎだろうか。

『最初の私は、倫太郎が言う未確定の世界線であるシュタインズゲートを観測するためにリーディング・シュタイナーが必要だと思ったんだと思う。そして私にバトンが回ってきた』

 ……ふむん?
 でもそれじゃあ、そこで話は終わるのでは?

『……けど当然最初の私にはリーディング・シュタイナーが無いから再構成後は記憶がなくなって私に指示を出せなくなる。それを“知らない”私は岡部を助けたものと勘違いしてしまっていた』

「!!」

 今の……ついさっき前の私と同じだ。
 ……そうか、そういうことか!

『だから、初めに言った通り、最初の牧瀬紅莉栖は私という“段階”を踏むことを想定していた。最初にリーディング・シュタイナーを持つ自分を作り、その自分にさらに真実を伝えさせる。……これって私結構損な役回りよね』

 冗談染みて言う私の声は、少し涙交じりだった。

『纏めると、最初の私はまずリーディング・シュタイナー持ちの私を作り、そして次の私……貴方への伝言役としたのよ。自分で自分を伝言役にするなんて我ながらどうかしてるわ。貴方は最初の牧瀬紅莉栖から見たら三人目の……三回目の牧瀬紅莉栖なの』

 サードトライ、ってわけ。
 ホント、未来の私ってどうかしてるわ。

『最初の私より私が貴方にメールを送る時期、タイムスタンプが早いのはリーディング・シュタイナーのおかげ。これが無いと別世界線へのメールを送るのは格段に難しくなる。それでも最初の私より一年縮めたのは我ながら頑張ったと思わない?』

 確かに大したものだと思う。
 ……こういうのも自画自賛っていうのかしら?

『さて、今の私……貴方がすることは大きく言って二つ。一つはさっきも言った通り観測すること』

 観測する、か。
 でもどうやって……あ!

『その方法だけど、今の私達にしか出来ないものを作る。もうわかっているわよね? そう、“ダイバージェンスメーター”よ。かつてα世界線での未来において倫太郎が作ったようにリーディング・シュタイナーがあればそれを作れる。本来はそのためのリーディング・シュタイナーよ』

 観測するため、観測したことを覚えているため、そして観測するための道具を作る為に、リーディング・シュタイナーが必要だったんだ。

『もう一つはVR技術を高めて倫太郎の思考を盗撮すること』

「ぶっ!」

 いきなりなんだか突拍子もなくなった。
 なんでそうなる。

『倫太郎の思考……正確には記憶だけど、それを読み取って解析、α世界線での阿万音さんが持って来ていたダイバージェンスメーター、その値の0%がこの世界線の何パーセントになるかを計算する必要がある。シュタインズゲートとは飽くまで向こう基準だから。β世界線のダーバージェンスはα世界線の1%越えってわかっているし、わりと算出は楽な筈よ』

 な、なるほど。

『だから貴方がやるのはVR技術の向上。ダイバージェンスメーターの作成。後に観測。これは貴方と観測者の二人が見ないと意味が無いんだけど、貴方がみれば同時に観測者も見たことになるだろうからここは大丈夫ね。目的は観測することによって未知の……未確定の世界線である事を確定させること』

 この話を聞くと、私がアメリカに帰ってきたことは間違いじゃなかったと思える。
 同時にこの“私”がアメリカからメールしたという意味もなんとなく理解できた。

『多分、これが上手く行けば貴方で最初の牧瀬紅莉栖が考えたと思われる計画は完遂する。倫太郎は世界を騙したって言ってたわよね? なら私達は観測者……世界を味方につければ良いのよ。頑張って。願わくばフォーストライが無い事を祈ってるわ』

 ……ありがとう、未来の私。
 ……ごめんなさい、未来の私。

『……そうそう、言っておくけどこれからが大変よ?』

 それはわかってる。
 でも私はやり遂げてみせるわ。
 なんていっても未来の私の計画だもの。

『貴方は……貴方も苦労するだろうけど、これから倫太郎との未来があるのよね。そう思うと全部教えちゃうのは何だか癪だからヒントを一つだけ』

 ……?

『VR技術は出来るだけ完成を急ぎなさい。倫太郎の記憶は早いうちに見ておくことをお勧めするわ。遅くなればなるほど後悔する。人道的にどうのこうのなんて……こればっかりは考えないで』

 ……マッドサイエンティスト乙。

『言っておくけど、これは冗談抜きよ。知れば……私がどれだけ彼に負担をかけていたかわかるわ。今の貴方はきっと、何もわかっていないから。これはリーディング・シュタイナーの弊害。忘れないで』

 リーディング・シュタイナーの弊害?
 何だか聞き覚えのある言葉だ。

『べ、別にこれから倫太郎との時間がある貴方が羨ましいとか、そういうんじゃないんだからね!』

「……なんぞこれ」

 客観的に見ればツンデレじゃないかこれは。

『あ、そうそう言い忘れてた。今映ってる映像だけど』

「……?」

『私の胸よ。たいして大きくならなかった。ね? 絶望でしょ? 牛乳で大きくなるなんて嘘だし揉んで大きくなるってのもそんなに効果無かったわ。ただ倫太郎に揉んでもらったら気持ちよかっただけだった……ハッ? 何を言ってるの私? ナシ! 今のナシ! カット、ここカットよ!』

「~~っ!」

 白いのはやっぱり白衣か!? チクショウ!!

『と、とにかく、後は貴方に任せるわ! 倫太郎を頼むわよ! えっと、エル・プサイ・コン……言えるか恥ずかしい……!』

 最後は恥ずかしがる自分の声で、ムービーメールは切れていた。
 自然と笑いが込み上げてくる。
 ずっと未来の私は岡部を倫太郎と呼んでいた。
 胸を揉ませてもいたらしいし気持ち良いとも思っていたらしい。

「三十路越えてるのに私ったら何をやってるのかしら? 完全に岡部にメロメロキューじゃない……」

 でも、岡部に惹かれている自分は、彼の事が好きな自分は、嫌いじゃない。

「やってやるわ、三十路になろうが五十越えようが、二人もの私の人生を無かった事にするぐらいの、良い未来を築いてみせる」

 先ほどまでの悲壮な想いはもうない。
 私は完全にやる気になっていた。
 全ては良い未来へと向かうことが約束されている。
 障害なんて技術的な問題のみで、頑張れば時間が解決してくれるとそう思った。


 私はこの時思い上がっていた。
 未来の私が最後に言った助言を何も理解していなかった。
 聞いているようで、わかったつもりでいて、何もわかっていなかった。
 ただ、岡部を救えるのは自分だけなんだと、そんな事に酔いしいれていた。

 
 私は次に岡部と再会するまで、自分の独善振りと思い上がり、そして自分の眼が曇りきっていることに気付けなかった。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter6
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/19 07:27
荒唐無稽のサードメルト Chapter6



 時間は絶対的じゃない。
 アインシュタインの考えは正しいと思う。
 例えば同じ一時間という時間でも、その一時間をどう過ごすかによって体感は全然違ってくる。
 研究に没頭している時ならあっという間だし、逆にポッカリと時間が空いて何もやることが無くなったら、その一時間は妙に長く感じる。
 カップラーメンが出来る間の3分待つ時間は長く感じるが、普通に過ごしていたら3分などあっという間というように、人の体感や感性など曖昧で定義などしきれない。
 私のこの三ヶ月間も、同じようなものだと思う。
 
 アメリカに戻ってきて三ヶ月。
 日本に予定以上の滞在をしてしまったせいか研究は多忙を極めた。
 およそ一ヶ月もの間、予定外の研究室不在は思った以上にツケが酷く、時間的余裕や研究の遅れ、その他絡み合うもろもろの事情が重なって、それらを取り戻すのにこの三ヶ月の間は殆ど休みが無かったと言ってもいい。
 よく日本人はオーバーワーク……働き過ぎだと言うが、実に言い得て妙だと思う。
 日本、ではなく日本人なあたりが特に。もっとも、自分で蒔いた種なのだからぼやくつもりは無い。
 それどころか、人生という長いスパンで考えればたった三ヶ月というこの短い期間は、実に濃密かつ意味のあるものとなったと自負している。

 私は自分が以前の生活を取り戻す為にこれから無理をしてでも取り戻さなければならないことがあることを自覚しながら、しかし他の事にも手を伸ばしていた。
 VR技術の向上。
 ダイバージェンスメーターの草案。
 両方ともおよそ私の専門とする脳科学とは分野を異にする事柄だ。
 VR技術はまだ触れる機会があるからいいとしても、ダイバージェンスメーターは完全な手探りからのスタートな上、完全独力での作業になる。

 VR技術に至っては、今までは脳科学の分野からレポートを提出し、海馬との絡みについて考察を交えながらも実際のソフトウェア制作については殆どノータッチだった。
 共同開発ではあるが、脳科学分野はこちらが担当し、ソフトウェア関連の技術エンジニアは別の、どちらかというとIT関連のチームが担当している。
 しかし、私はアメリカに戻ってから忙しい中そちらのチームにも顔を出し、研究の成果と発展を聞きながら、ソフトウェアに関する知識自体の吸収も怠らないようにした。 
 可能ならば自分の中に幾分出来上がっている形、人の思考盗撮を応用した記憶の保存と解凍、閲覧に繋げるシステムの構築について話し合った。

 ダイバージェンスメーターについては、正直本当に1からのスタートに近く、その構造の草案から独力で練らねばならなかった。
 何しろリーディング・シュタイナーがあると言っても発動したという実感が希薄な上、経験は一回のみ。
 かといってこれ以上リーディング・シュタイナーが発動するような真似はしたくない。
 というかそもそも時間……過去に干渉しないと出来はしないのだろうけど。
 そのつもりが私にはないから、こちらは大変な作業になることが予想され、それは現実となった。
 だが、全く進展がないわけでもなく、とっかかりのようなものは出来た気がする。

 我ながら、よく三ヶ月でここまでやれたものだと感心する。
 目標があって、それに直進し、手ごたえを感じることが、昔以上に楽しく、嬉しい。
 その手ごたえは結果的に、岡部の為にもなることなのだから尚更だ。
 そう思えばオーバーワークだろうと疲れなど殆ど感じなかった。感じる暇も無かった。
 それに、彼との間でちょくちょく交わすメールや電話が、私を一層疲れ知らずにしてくれた。
 岡部ってあれで結構マメというか律儀というか。
 メール魔ってほどじゃないけど、わりとよく他愛の無いメールをくれるのよね。
 例えば、



────────────

DATE 2010/10/12 7:23
To 岡部
Sb おはよう

今日はこっちなんか天気
悪いのよね。
そっちはどう?

────────────



────────────

DATE 2010/10/12 7:32
FROM 岡部
Sb Re:おはよう

そちらは今朝か。
こちらの天気は良いぞ。
羨ましいだろう、フゥー
ハハハ!

────────────



 とか、



────────────

DATE 2010/11/04 22:45
To 岡部
Sb はろー

もう寝た? なんか時間
が空いたからメールして
みた。

────────────



────────────

DATE 2010/11/04 22:50
FROM 岡部
Sb Re:はろー

こちらは今早朝だ。
というかこのメールで起
きた。

────────────



 とか、



────────────

DATE 2010/12/03 11:31
To 岡部
Sb 今なにしてる?

私は今日のお昼御飯考え
中。

────────────



────────────

DATE 2010/12/03 11:37
FROM 岡部
Sb Re:今なにしてる


こちらは今晩飯中だ。
と言ってもカップメンだ
がな。
やはりハコダテ一番に限
る。

────────────



 とか。


 ……あれ?
 なんか全部岡部は返信しかしてない気がする。
 い、いや、そんなことは無い……はずだ。
 ちゃんと岡部からのメールも、それなりにあった……はず。
 でもこれ以上記憶を掘り返すのもメールの内容を確認するのもやめておこう。
 け、決して岡部からは返信しかきてない事を実証したくないわけじゃないからな!

 閑話休題。
 とにかくそんなわけで、私は怒涛の三ヶ月をほぼ休みなしで過ごした。
 大変ではあったけど非常に充実していて、全然苦には感じなかった。
 それに三ヶ月頑張ったおかげで遅れもあらかた取り戻せて、近々……つまり年末は少し休暇が貰えそうだった。
 それを聞いてから私はさらに一日一日を濃密なものにして休暇が減らないよう努力し、どうにか本当に休暇獲得にこぎ付けられた。

 年末の休暇。
 大きな休みがあればまた日本に行くことも出来る。
 年明けをママと過ごせないのは寂しいし申し訳ないけど、でもこの休暇を利用してまた日本に……岡部に会いたい。
 この前、私はアリゾナから手紙で岡部にその旨……と言っても年末にそっちにいけそう、程度の内容だが伝えてもいる。
 どうにも「元気か?」なんてメールが来たから手紙に気付いてないのかな? なんて思ったけど、「空港には迎えに行ってやる」というメールが来たからその心配は消えた。
 というかそうよ、ほら、やっぱり岡部からもメール来てるじゃない。
 べ、別に忘れてたわけじゃないけど。 ただ、少し少なめなだけで……って何考えてるんだ私。

 とにかく、私はそうして、自分と岡部の為にこの三ヶ月を忙しくも濃密に、怒涛の勢いで過ごして年末を迎え、日本に再び戻って来た。




***




「……寒っ」

 ブルブルガタガタと体が震え、体温調節を図ろうと体が正常に機能していることがわかるがこの寒さでは正常もへったくれもない。
 私がアメリカで星空を見ていたアリゾナは比較的暖冬の地だったので、この温度差は正直予想以上だった。
 頭の中でだいたい何度くらいの差がある、などと理解していても、その差が肉体にどれほどの影響を及ぼすのかという自覚は、実際に味わってみないと理解しがたい。
 見るのと聞くのとでは大違い、とはよく言うがこの寒さはそれを強く実感させてくれる。
 そういえば日本には習うよりより慣れろ、百聞は一見にしかず、などの諺があったっけ。

「そんなに寒いのかクリスティーナ? 今日はまだ暖かい方だぞ」

 白い息を吐きながら、私を迎えに来てくれたこの男は実に暖かそうな黒いトレンチコートを着ていた。
 師匠も走るほど忙しいという12月、その中でも特に忙しくなるだろう月末……つまり年末に時間を割いて私を迎えに来てくれたのは嬉しかったのだが、その格好を見ると少々恨めしくも思える。
 こんなことなら薄手のカーディガンだけにするんじゃ無かった。

「私はクリスティーナという名前じゃない」

 ふん、と寒さからか2割増の不機嫌さを装って顔を背ける。
 実際寒すぎて気分は絶賛下降中だが、こいつがわざわざ迎えに来てくれたのだから今日のところは特別サービスで帳消しにしておいてやろう。
 こ、こんなサービスそうそうないんだからな!
 ただ、そう……久しぶりの再会だから大目にみてるだけなんだから!
 私がそう心の中で憤ってるフリをしていると、

「ふむ……仕方ないな」

 ふわりと肩が重くなって…冷たい外気から体が遮断された。

「え……えっ!?」

 大事なことなので二回確認……したわけではなく単純に驚嘆してしまった。
 肩にはつい今し方まで感じなかった軽い重みがある。
 黒いトレンチコート。
 それがかけられ、外気からの冷気を防いでくれた。
 それにもともと着用されていたものだったせいか、着用者の体温が残っていたのだろう。
 コート自体もほんのり暖かく、冷え始めていた体には有り難いことで……ってこれ、岡部のコート!?

「フゥーハハハ! この狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真は多少の寒さなどものともしないのだ!」

 岡部は狼狽えている私を無視して高笑いを一つすると、いつの間に持っていたのか私の旅行鞄……キャリーケースを引っぱって歩き出してしまった。
 何だか久しぶりに会った岡部が妙に紳士過ぎて困る……そう思っていた時期が私にもありました。

「ほら行くぞクリスティーナ! 俺もそう長くはもたん、さっさとラボへ帰るのだ!」 

 肩を震わせる白衣の冴えない細見の男。
 そこには変わらない、私の良く知る岡部倫太郎がそのままの姿でいた。

 私は結局そのまま岡部の好意に甘えてコートを借りたまま彼の隣を歩き、あれこれとこの三ヶ月であったことや感じたこと、メールでは話していないことや伝え切れていなかったことを矢継ぎ早に話した。
 いくら話しても話足りない。話題は次から次へと浮かんで口は止まらなかった。
 ラボに着くと、丁度ブラウン管工房の店主、岡部がミスターブラウンと呼ぶ天王寺裕吾さんが店のシャッターを閉めている所だった。

「あ、ご無沙汰してます」

「おお、嬢ちゃんじゃねぇか。アメリカから帰ってきてたのか?」

「はい、今日飛行機で」

「そうか、俺は年末年始は店を閉めるんで今日が今年最後の営業日だったんだ。おい岡部、嬢ちゃんが久しぶりにきたって事は今夜はどんちゃん騒ぎでもするのか?」

「どんちゃん騒ぎ、と呼ぶような程では無いでしょうが、ラボメンは出来る限り集めて挨拶くらいはしたいと思っていますね」

「そうか、まぁ何やってもいいんだがな、若いからってハメを外しすぎるなよ。俺が年明けに店に来て何かあったら家賃の値上げも検討するからな」

 天王寺さんの言葉に岡部は「うっ」と怯えながらも了解の言葉を返す。
 まあこういうのはいつの時代も年長者が若年層にかける社交辞令みたいなものでもあるのだろう。
 逆に言えば、心配をしてもらえる程の関係で落ち着いているということだ。

「お父さーん、まだかかりそう……? あ、オカリンおじさん!」

 それでは良いお年を、と別れようとしたところで、近くに停まっていた白いハイエースから少女が降りて近寄って来た。
 少女は岡部を見つけると微笑みながらその足を速める。

「こんにちはオカリンおじさん」

「小動物よ、おじさんは止めろと言っているだろう」

「あ、ごめんなさいオカリンおじさん……あっ!?」

「………………」

 謝ったそばから修正を忘れてしまったらしい少女はその失敗に気付いて慌てて頭を下げる。
 はて? この子はこんなに岡部と仲が良かっただろうか。

「おい岡部、お前こそ綯を小動物と呼ぶのは止めろ。それと綯に手を出したら承知しねぇからな!」

 天王寺さんは少女……娘さんである綯ちゃんと岡部の間に割って入りながら岡部を睨む。
 前に来た時から思っていたが天王寺さんは娘さんをとても溺愛しているようだ。
 これは将来綯ちゃんがお嫁に行く時はさぞ大変だろう。
 でも綯ちゃんもお父さんが大好きみたいだし、普通の父子間はこんなものなのかもしれない。
 私は……、私も昔はこうだったのかな……。

「全く、クリスマス辺りからやけに綯が岡部に懐きだして気が休まらないぜ。この際言っておくがお前に綯はやらんからな!」

「何を言ってるんですかミスターブラウン。考えが飛躍しすぎですよ」

「そうだよお父さん、私の一番はお父さんだから大丈夫! ただオカリンお……にいちゃんはもうそんなに怖くなくなったっていうか、少し格好良かったっていうか……」 

「な、綯っ!?」

 一番はお父さん、と言われた天王寺さんは顔を綻ばせたが、次に彼女から出てきた辿々しい言葉が彼を焦らせる。
 同時に岡部にもの凄いプレッシャーを送って威嚇していた。
 娘を男に取られるといったような心境なのだろうか。
 なんだか凄くわかるような、わからないような。

「お、おい助手よ、何故お前がそんなに睨んでくるのだ?」

 岡部が変なことを言ってるわね。
 私じゃなくて天王寺さんでしょうに。
 本当、久しぶりに会ったのに岡部の変人ぶりと日本語の拙さは変わらないわね。……あと他の部分も。
 岡部が内面も変わっていないというのは喜ぶべきことかしら? 喜ぶべき事よね?
 でも何故かこう、胸がムカムカするわね。ほんと不思議な事に胸がムカムカしてるわ。
 どうしてかしらね? 別に機内食でも変な物は食べてないはずなんだけど。

「わーい紅莉栖ちゃん久しぶりー!」

 天王寺さんは私が謎のムカムカとした感触について考えているうちに、必死に綯ちゃんを説き伏せながら「そういうのじゃないよ」と言う綯ちゃんと一緒に車に乗って行ってしまった。
 それをムカムカしながら見届けた後、恐る恐るといったようにラボに入ることを勧める岡部に頷きラボへ入ると、待ってましたと言わんばかりにまゆりが視界一杯に飛び込んできた。

「はろー、まゆり。元気だった?」 

「うん、まゆしぃは元気だよ~! 紅莉栖ちゃんこそ病気とかしなかった?」

「私も大丈夫。でもこっちは予想以上に寒いわね」

「だめだよ~ちゃんとあったかくしないと。女の子は腰を冷やしちゃいけないのです」

 まゆりはとてもいい笑顔で私を迎えてくれた。
 私にこんな顔を向けてくれる子は彼女以外にいないだろう。
 それは彼女の性格的なものもあるのだろうが、それでもそんな顔を向けてくれる仲になったという事実が私にとって一番嬉しい。
 友達は財産だ、などという言葉があるが本当にそうだと思う。
 こうやって笑いかけてくれて、心配してくれて、互いを思い合える友人というものは得がたく、それだけで救われたり嬉しくなるものだ。
 っと、そういえばラボにはもう一人いると思っていたんだけど……ってやっぱりいた。

「あ、ありのまま今起こったことを話すぜ。オカリンが牧瀬氏を迎えに行くとコートを羽織って出かけたら、そのコートは帰って来た牧瀬氏が着ていた。な、何を言っているのかわからないと思うが僕にも何が起きたのかわからないお! 帰ってきて早々リア充ですかそうですか。爆発しろお!」

「ふえっ!? あ、いやこれは違う! 違わないけど違う! これは岡部が日本の寒さを甘く見ていた私に貸してくれただけで……! べ、別に岡部のコートが嬉しいとか岡部の温もりが残っていていろいろ暖かいとか、そんな事は思ってない!」

「牧瀬氏牧瀬氏、誰もそこまで言ってないお。というか……」

「な、何よ?」

「ツンデレ乙」

「ツンデレじゃない!」

 くっ! このHENTAI橋田も相変わらずのようね。
 でも、この反応の懐かしさが、私に「ああ、帰ってきたんだなあ」って実感させてくれる。
 ここは、素の自分を気兼ねなく曝け出せて……本当に居心地が良い。 

「ダルよ、それぐらいにしておけ。助手も疲れているだろう。今日は他のみんなは都合がつかないそうでな、後日集まれる機会を作ろうと思ってる。今日のところは名残惜しいが解散しようではないか。助手は俺がホテルまで送っていこう」

「ホテルまで送るとかそれなんて送り狼? 早く二人きりになりたいんですねわかります」

「お、送り狼っ!? HENTAI! 岡部のHENTAI!」

「落ち着け! 俺が言ったのではない! ダルもからかうな!」

「はいはい、じゃあお邪魔虫の僕は帰るお」

「あ、まゆしぃも帰るのです。紅莉栖ちゃん、またね!」

 慌しく二人が出て行き、あっという間に私と岡部の二人だけがラボに残される。
 チラリと岡部を見ると岡部も照れたようにこちらを見て視線を逸らした。
 ~~っ! 橋田のバカ! 意識しちゃうじゃない!

「と、とりあえず助手よ、その、なんというか……ホテル行くか?」

「~~っ! 何か言い方がヤラしい! すっごくヤラしい!」

「なっ!? 俺はそんなつもりではない! そもそもそんな気などサラサラない!」

「ちょっ!? それはそれで失礼じゃない!?」

「どう言って欲しいのだお前は!?」

 恥ずかしさから声を大にしてお互いを罵りあう。
 照れ隠しの応酬にしては過激だが、本音でありながら本気ではない言葉のやり取りは、この三ヶ月という間に出来た僅かな溝を埋めるのに非常に役立ってくれた。
 気付けばゼェゼェ言いながらお互いソファーに座って肩で息をしていた。

「なんか、スッキリした。それにやっぱり岡部は岡部だ」

「それはこちらの台詞だクリ……栖」

「……っ!」

 こういう時、相変わらず岡部はずるい。
 魔法使いもどきの面目躍如といったところか。
 こいつは果たして気付いているのかいないのか。

 今日紅莉栖と呼ぶのは初めてな事に。
 紅莉栖、とちゃんと名前で呼ばれるたびに私の胸はドクンドクンと必要過多なほど大きく脈動してしまう事に。

 全く、ドキドキのし過ぎで不整脈になったらどうしてくれる、などとお門違いな罪状を内心で勝手に岡部へかぶせながら私は立ち上がった。
 あんまり遅くなるのは岡部にも悪いし、流石に疲れてもいる。

「行くわ、送ってくれるんでしょ?」

「ああ」

 岡部は短く返事をすると私に遅れて立ち上がった。
 ホテルに行ってチェックインを済ませ、今日のところは休もう。
 それまではこのコート、借りてても良いよね? 




***




 時間があっという間に過ぎていく。
 アメリカで忙しい毎日を過ごしていたときも思ったことだが、こうして気の置けない仲間達と楽しく過ごす時間もまた速い。
 日本に来て次の日はメイクイーンに岡部と一緒にいってフェイリスさんに挨拶した。
 その帰り際には萌郁さんとも会い、軽く挨拶を済ませた。
 その日の夕方は年越しライブとかで、ここ数年で人気が鰻上りのファンタズムのライブを岡部やまゆりたちと一緒に渋谷へ見にいった。
 なんでも渋谷復興チャリティーライブでもあるらしい。
 ああいうライブは初めて見に行ったけど、凄かった。
 生、っていうのはやっぱり直接自分で感じられるってだけあって、こう何か身体が痺れるものがあったし、会場のファンが一つになってるっていう実感があった。
 前にまゆりに勧められて知り、少し見ていてたアニメ、雷ネット翔の主題歌など知っている曲が流れるとそれだけで嬉しくなる不思議さもあった。

 ただ、今まで見たことの無い背が高くて髪も長い女の子がその会場にいて、岡部と話していたのが気になった。
 岡部は知り合いとすら呼べない知り合いみたいなもの、と言っていたし、話の内容も「妄想はほどほどにしているか」とか「剣が見えているか」などのちょっと電波っぽいことだったので、フェイリスさんみたいに設定の人なのかな、と思った。
 でも、私のついていけない話を私の知らない女性としている岡部を見て、日本に来た日みたいにムカムカした。
 べ、別に私の知らないところで私の知らない女性と岡部が知り合っていたことにショックを受けたとかそういうんじゃないけど。

 ライブは最後にファンタズムのボーカル、FESって人らしいけど、その人が観客席に投げたマイクを受け取ったおどおどした少年が特別にステージに上がらせてもらって幕を閉じた。
 あの少年ラッキーだったわね。

 年明けは岡部やまゆりと一緒に漆原さんの家の神社にお邪魔して初詣をさせてもらった。
 漆原さんには日本に来てからまだ会ってなかったから軽く挨拶もした。

 あっという間だった。
 年末年始だったという事を差し引いても、時間の進み具合は早く感じた。
 でもそれは同時に、また別れが近くなる事の証でもあった。
 だから少しでも、その、思い出というか……“岡部との時間”を作っておこう……と思ったんだけど。

「ねぇ岡部、ちょっと買い物いかない?」 

「……? 外は寒いぞ? ラボの中だって特別暖かいというほどではない。わざわざ無駄に身体を冷やす事は無いと思うが」

「……」

 こ、こいつ……!
 鈍感、朴念仁、唐変木!
 そんな事はわかっているのよ!
 でも私はもう少しでアメリカに戻るのよ?
 べ、別に寂しいとかそんな事言わないけどもう少し気をきかせてくれたっていいじゃない!
 嫌なわけじゃなかったけど、この年末年始ずっとまゆりや橋田とも一緒に行動していたから、二人きりになったのって初日のラボへ行く時とホテルに送ってもらうときくらいだった。
 だから少しくらい、その、二人の時間を作ったって良いと思ったのに!
 このバッドサイエンティスト!
 私がアメリカであんたの為にどれだけがんばってると思ってるのよ、もう!
 岡部はそれを知らないんだからしょうがないとは言え、ムカムカする~!
 何だかこれじゃあ私一人が舞い上がって、頑張って、空回りしてるみたいじゃない。

「……どうした? 何だか百面相をしていたぞ」

「なんでもないわよ!」

「な、何を怒っているのだ……?」

「怒ってない!」

 つい、声を八つ当たり気味に荒げてしまった。
 でも本当に怒っているわけじゃない。
 怒っていないのに怒っているとか言うから怒るのだ。
 ん? 結局怒っている……のかな? う、ううんこれは怒っているんじゃなくて岡部の不甲斐なさに呆れているだけよ、うん。

「トゥットゥルー!」

 そうしているとまゆりがなにやら大荷物を持ってラボにやってきた。
 ……丁度いいから一旦この鈍感岡部のことは放っておいてまゆりと買い物でもいってこようかな。

「はろー、まゆり。随分な荷物ね」

「あ、うん、そうなんだ紅莉栖ちゃん。年明けセールで安かったからまゆしぃはつい買い込んじゃったのです」

「へぇ、中身は……ジューシーから揚げナンバーワンと、パスタ?」

「そうだよ~、これがあれば冬もまゆしぃは戦えるのです! ちなみに夏は冷麦を一杯買うんだ~」

「そうなんだ、まゆりパスタ好きなの?」

「好きだよ~、でもまゆしぃはあんまりお料理は得意じゃないからいつもケチャップスパゲッティなのです」

「ケチャップスパゲッティ?」

「うん、茹でたパスタにケチャップをかけるだけ。でも結構美味しいんだよ、ミートソースとかナポリタンも基本は一緒でしょ? それにジューシーから揚げナンバーワンを乗せればジューシーから揚げケチャップスパゲッティの出来上がりなのです」

「へぇ、そうなんだ」

 まゆりも結構料理するのね。
 ケチャップをかけただけのスパゲッティなんて食べた事ないけど、ナポリタンとかをイメージするなら確かに似たようなものなのかな?

「ま、まゆり? 今年もそれをやる気なのか……?」

「そうだよ~、あ、オカリンも食べる~?」

「い、いや……」

 あれ? 何か岡部の様子が変ね?
 まあいいわ。丁度お昼時だし私もまゆりのご相伴にあずかることにしましょう。

「じゃあ私が少し頂いてもいいかしら?」

「もちろんだよ~♪ 一緒に食べようね紅莉栖ちゃん♪」

 私も食べると聞いたまゆりは喜んでパスタを茹でる作業に取り掛かった。
 その姿を見ながら私は出来上がりを楽しみにしていると、珍しく岡部の方から私に近づいてきた。

「助手よ、悪い事はいわん。やめておけ」

「は? 何が?」

 やけに小さい声で言ってくる岡部の言葉の意味がわからない。
 やめろとはパスタのことだろうか?
 ケチャップスパゲッティ、地味に食べたかったんだけど。

「あれはお世辞にも美味いとは言えん」

「そうなの? でもまゆりは美味しいって」

「まゆりは大抵のものは美味しく食べられてしまう特殊能力の持ち主なのだ。常人があれを口にすると最悪お腹を壊しかねん」

「それは言いすぎじゃない? 大げさよ」

「確かに少し誇張が入ったが、お前の為に言っておこう、やめておけ、とな」

 そんなことを言われてももう出来上がりそうな上まゆりはノリノリだ。
 それに知的好奇心というか、知らないものを食べたいというか、そういったものが未知の料理に対して食欲に変換され食べてみたくて仕方がなくなっている。

「す、少し食べてダメそうだったらやめるわ」

 考えた末の私の妥協案に、岡部は渋い顔をしながらも納得して離れていった。
 同時に、ホクホク顔でまゆりは鍋をテーブルに持ってきた。……へぇ、パスタって茹でた鍋ごと持ってくるものなのね。
 テーブルにはいつの間にか古新聞がひかれていて、その上に湯を切ったパスタ入りの鍋をまゆりが置いた。

「さあ紅莉栖ちゃん、好きなだけパスタを取ってケチャップをかけるのです」

 目の前で手本とばかりにまゆりが金属の小さい火バサミみたいな器具でパスタを掴み、皿に盛り付けケチャップをかけてからめていく。
 へぇ、本当にそれだけなんだ。

「オーケー、頂くわ」

 私はまゆりと同じようにパスタを心持少なめに盛り付け、ケチャップをかけようとして……、

「あれ?」

 ケチャップが出ない。
 振っても叩いてもケチャップが出ない。
 おかしいな、まだ中はあるように見えるんだけど。
 私はケチャップを持ちながら噴出腔になってる先っぽの蓋を回した。
 その時、私は自分のケチャップの容器を持つ手が必要以上に力が入っている事に思い至らなかった。
 予想より蓋が硬かったせいもあるのだろう。
 つい力が入りすぎて、蓋が開いたケチャップは同時に行き場を求めて私の手の中で大噴出してしまった。

「キャアッ!?」

 飛び散るケチャップ。
 服に髪の毛に手に身体に。
 立ち込める甘いような酸っぱいようなケチャップの匂いを漂わせながら、私は今ケチャップまみれになっていた。
 私にとってはただそれだけの事だった。
 ……私にとっては。


 ────ガタッ!────


 岡部が勢い良く立ち上がった。
 ケチャップまみれの私を見て青ざめている。

「岡部? どうかした? っていうかボーッと見てないで片付けるの手伝ってよ」

「あ、あ、あ……!」

 何だか岡部の様子がおかしい。
 岡部の顔は見る見る生気を失い、一歩後ずさる。
 それがいけなかった。
 後ろはソファーだ。
 変に後ずさったせいで体勢を崩し岡部は転んでしまった。

「ちょっと!? 大丈夫岡部?」

 私は汚れているのにも構わずに岡部に駆け寄った。
 さっきから体調が悪そうな岡部を放っておけなかった。

 ……だというのに。


「うわああああっ!?」


 ドン、という衝撃とともに私は岡部に突き飛ばされた。
 岡部に、突き飛ばされた。
 岡部に、突き飛ばされた。
 岡部に、拒絶された。

「おか、べ……?」

 信じられないものを見るような目で岡部を見つめる。
 岡部はまだ軽く錯乱しているのか、ブツブツと何か呟いていた。

「違う……そんなつもりじゃなかった……どうして……違う、違うんだ……許してくれ……許してくれ……」

「岡部!」

 私がもう一度大きな声で呼びかけるとビクッと肩を震わせて岡部は私に気付く。
 だが、私を視界に入れた途端口元を押さえ、ラボから飛び出して行ってしまった。
 呆然としたように取り残される私とまゆり。

「おかべ……?」

 ラボには、ケチャップの匂いが充満し始めていた。




***




 我に返ってからまゆりと言葉少なめに掃除をし始めた頃、橋田がラボを訪れた。

「さっきそこで青い顔のオカリンとすれ違ったけどなんかあったん?」

 そう尋ねる橋田だが、当然私やまゆりにもよくわからない。
 とりあえず部屋の惨状を見た橋田は掃除を手伝ってくれたので、掃除をしながら事の顛末を説明した。

「ふぅむ、オカリン謎の発狂、か」

「その言い方って結構岡部に失礼じゃない?」

 あながち橋田の言い方は外れていないけど。
 岡部が何故青い顔をして動揺したのか、誰にも理由がわからないのだ。

「まあ低いだろうけど原因が全く思いつかないわけでもないんだな、これが」

「……え? ホント?」

 どうやら橋田には少しだけ思い当たる節があるらしい。
 実際の岡部の豹変振りを見ていないだけに、正直橋田には今回の岡部のことに対してはわからないだろうと踏んでいたのだが。

「というかまゆ氏もそう思ってるんじゃないん?」

「ええ?」

 どういうことだろう?
 さきほど岡部の豹変についてわからないと答えたまゆりも知っている?
 益々私はわからない。
 何だかおいてけぼりをくらったような気分だ。

「それってどういうこと?」

「ああ、でもう~ん……やっぱ関係ないかも」

「……?」

 橋田は首を傾げながら考えている。
 どうにも煮え切らない。

「なんでもいいわよ、とりあえず思いついたことを教えて」

 研究の世界でも、荒唐無稽だろうがとりあえず口にしたり文にしたりして幅広い考察を繰り広げることは非常に意味のある行為だ。
 数学のように解が用意されていない問題ならば尚のこと無数の意見との衝突を繰り返して問題を定義・考察するべきだ。
 しかし……、

「うぅ~ん、ごめんお。多分関係ないからこの話は無しで」

 橋田は口を噤んでしまった。
 何なのだ一体?

「まゆり……?」

「……ごめん紅莉栖ちゃん。まゆしぃも話せない。もしかしたらそれが原因じゃないかもしれないし……約束だから」

 どういうことだろうか。
 原因だったら話してもいいが、そうでなかった場合話すのが躊躇われるようなことなのだろうか。
 もしくは話してはいけないこと、とか。
 約束だから、というまゆりの最後の言葉から何となく後者のような気がする。
 となると話してはいけない、というより話さないようストップをかけた人物がいる、と考えるべきだ。
 この場合その人物は十中八九渦中の人、岡部だろう。
 岡部は一体何を秘密にしたのか、非常に気になるところではある。
 なんとなくだが、それが今回の件の糸口のような気がしてならない。
 私はそう思いながらも、二人に話す気が無い以上無理強いはしなかった。
 聞くなら本人に。
 それぐらいの礼儀はわきまえているつもりだ。
 だから私は休まず手を動かし、ケチャップの惨状を片付けていて……手が止まる。
 今、視界の隅に見覚えのあるもの……人が映った。

「……っ!?」

 鍋を置くためにテーブルに敷いた古新聞。
 その日付はおよそ四ヶ月前のもので。

「……パ、パ?」

 記事の内容は、ドクター中鉢こと牧瀬章一……私の父親であるあの人のロシア亡命について。
 しかもそれは失敗な上、傷害事件の重要参考人として日本政府に引渡し?
 ナニコレ? 私はこんなこと知らない。覚えていない。


 ────リーディング・シュタイナーの弊害────


 私は、ことここに至って初めて、未来の自分が残した言葉を強く意識した。
 今の私は私としての記憶を継続しているため、“この世界線での私”が辿ってきた人生の記憶が無い。
 私が私として認識した昨年の9月末。
 “生まれてからそれまで間の私”がこの世界線でいつ、何処で、何をして、何を経験したかという記憶は上書きされて一切残っていないのだ。

 私はあのメールを見た日から今日までリーディング・シュタイナーの弊害についてなど深く考えてこなかった。
 だが、私が覚えていなかったその間の出来事が、こうも私に密接に関係してくる。
 記事には、ドクター中鉢の主張にはこうあった。

『タイムマシンの論文が燃えてしまったのだ!』

 タイムマシンの論文?
 勿論パパが書いたものかもしれない。
 でも、私は約五ヶ月前のあの日、私の知っている……私のいた世界線で人工衛星、タイムマシンが現れなければ、“私が書いたタイムマシンの論文”を持ってパパに会いに行くつもりだった。

 私は三ヶ月前、アメリカに帰るとき、その論文を持っていたか?
 否。
 私はその論文を処分したか?
 否。

 嫌な予感がした。
 何だか重要な事に気付いていない……いや、上書きされて覚えていない気がする。

 ここに来て初めて意識した未来の自分の“後悔する”という言葉が、リーディング・シュタイナーの弊害という未知の経験が、重く肩に圧し掛かってきた。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter7
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 21:33
荒唐無稽のサードメルト Chapter7



「あ~そのニュース、オカリンも四ヶ月くらい前に結構気にしてた奴だったね。あの時はそれどころじゃないのに大変だったお」

「……それどころじゃない?」

「……あっ!?」

 橋田は私が見ている記事の内容に気付いて、思い出すようにそう言った。
 言ってしまった、というべきだろか。
 言ってはいけない部分にまで言及してしまった、そんな顔を橋田はしている。
 これは、たった今話せないと言ったことと関係しているのだろうか。
 私の複雑そうな顔を見て、橋田も私の心境を読んだのだろう。

「あ~、どうしよう? ここまで言っちゃったら同じかお?」

「う~ん……」

 ばつの悪そうな顔をしながら橋田はまゆりへ尋ね、尋ねられたまゆりも少し悩んでいる。
 やはりこの話の内容は先程“約束”とやらで口止めされていることに関係あるのだろう。
 だとすると、これだけは聞いておかなくてはならない。
 人が秘密にして欲しいという話を根掘り葉掘り聞く気は無いが、事が私のこと……父と私に起こったことの秘匿だとすれば、私には知る権利がある。

「ねぇ、一つだけ教えて。言えないなら言えない、でもいいから。岡部が……ううん、誰かが私に……だけかはわからないけど、秘密にして欲しいって頼んだ話の内容ってこの記事のことなの?」

「あ、それは違うお」

 橋田はアッサリとそう告げた。
 正直拍子抜けだ。
 勝手に心の中ではそうなのだと決めつけていた。
 岡部のことだ、私がパパとのことについて忘れて……上書きされているなら知らない方が良いと勝手に決めつけたのでは、と邪推していた。
 どうやらそういう話ではないらしい。
 だが逆に、それならこの話題については遠慮しない。

「なら教えて欲しいんだけど、この記事にあることは本当、なの? その、パ……ドクター中鉢は……」

「本当だお。そのニュースのあと日本の留置所に送られた筈だお。今は流石にどうなっているかわからないけど。そもそも被害者が行方不明っていうある意味謎の事件だったし」

「被害者が行方不明……?」

 そう言えば9月末にラジ館前を通った時、通行人から謎の傷害事件があったと聞いた覚えがある。
 謎、とはそのことか。

「そうだお、だいたいその謎の傷害事件の一ヶ月後くらいにテレビでも中継されたけど、ロシアン航空の飛行機が飛行中に火災事故を起こしたんだお。その飛行機に乗っていたのがドクター中鉢で、目的は亡命。その時のドクター中鉢は『論文が燃えてしまった、ロシアン航空は許さん!』って泣きながら憤っていたんだ罠。たしかミュウツベにそのニュースの動画がうpされてるから気になるなら見てみるといいお」

「……そう。でも被害者が行方不明ってのは?」

 行方不明なら立件はされないんじゃあ……と僅かに期待する。
 論理的じゃない、そんなことは理解していても、パパをつい擁護したくなってしまう。
 それはただ周りが騒いでいるだけで、ドクター中鉢……パパは傷害事件なんかとは関係無いんじゃないかって。

「あぁ、なんでも目撃者が消えた被害者について証言してるんだお。警察も調べによると、夥しい血溜まりが現場にはあったらしくてその血液はドクター中鉢のものでも目撃者のものでも無かったって。近くに凶器の血痕付きナイフにドクター中鉢の指紋があった上、監視カメラでも現場近くを逃げるように出て行く中鉢が映っているのを確認したらしいお」

「そう、目撃者がいるの……」

 ……まだだ。まだ詰みじゃない。
 その目撃者とやらの見間違いや狂言の可能性だって100%無いとは言い切れない。
 パパは人を刺すような人じゃないって信じたい。
 ……本当、論理的じゃない。
 でも、被害者がいない……正確には見つからない以上、仮にパパは立件されても殺人未遂か、血は残ってるから状況証拠のみではあるけど傷害事件の容疑者で止まる……はず。
 何にしても、警察だってパパをどうこうする事は被害者がいないと出来ないはずだ。
 今の話を聞く限り、事件から四ヶ月以上経つ今に至ってもパパがその後どうなったかのニュースが流れていないみたいだし、告訴されてはいないんじゃないだろうか。
 被害者が行方不明だからする人がいない、のかもしれないけど。
 ……まさかその被害者は既に死んでて、パパが隠してる、なんてこと無い、わよね?
 ぶんぶんと頭を振って考えを霧散させる。そんなことがあってたまるか。

「ありがとう橋田、だいぶこの事件について知ることができたわ。でもやけに詳しいのね」

 助かったのは事実だが、事件なんてものはそれこそ日にいくつも起きる。
 言い方は悪いが、傷害事件だって珍しくもない。
 ありふれた事件のうちの一つ、私に関係するその事件についてピンポイントで詳しいのは少し不思議だった。
 確かに被害者が消えた、という謎や現場が近い場所というのは興味が湧くかもしれないが、それにしても些か事件後の顛末まで詳しすぎた気がする。

「あ、それはオカリンがこの事件を結構調べていたからだお。正しくはその後の情報を追いかけていた、というべきかな」

「……岡部が?」

 また岡部か。
 なんだか話はどこまでいっても岡部に収束している気がする。
 岡部は何故この事件をそんなに気にかけているんだろう?
 ドクター中鉢が私のパパだから?
 私は話した覚えは無いけど別の世界線の私が話していないとは限らない。
 でもそれだけではやや根拠が薄い気がする。
 そういえば、そもそもなんでこの事件と岡部が秘密にして欲しいことが関わってくるんだろう?
 イマイチ想像がつかない。

「というかさ……牧瀬氏はこの事件知ってるんじゃないん? 目撃者ってどう考えても牧瀬氏でしょ常考」

「!?」

 なん、ですって……?
 一瞬橋田が何を言っているのかわからなかった。
 私はこの事件を知っている?

「この事件があったのはドクター中鉢のタイムマシン研究発表会があった日で、何人かはそこで牧瀬氏の事を見ているらしいんだお。記事には牧瀬氏の名前こそ載ってないけど血塗れの牧瀬氏を見たって人もいたらしいから僕はてっきり牧瀬氏は目撃者なんだと……」

 橋田の話は途中から聞こえていなかった。
 私はなんてバカなんだ。
 うっかりにも程がある。
 橋田の話を聞くまですっかり忘れていた。
 岡部は言っていたじゃないか。
 私の死を偽装したと。
 その時は岡部がかつて見たという血溜まりの私の状態を再現したんだ、くらいにしか思っていなかったのだがよく考えてみれば血溜まりに人が倒れていて事件にならない筈がない。
 そもそも私は傷害事件に関わって、助けてくれた人を探すために日本の滞在を無理矢理延ばしていたのだった。
 リーディング・シュタイナーの弊害。
 私はそれを私の経験と認識していないが故に、一つに結びつけるのに時間がかかってしまった。
 考えてみれば、私は傷害事件に関わっていながら犯人のことを何も知らなかったのだ。
 いや、きっと私になる前の“私”は知っていただろう。恐らく目撃者として証言もしたはずだ。もし私なら……そうする。

 やっと理解した。

 つまり、世間一般で言う謎の傷害事件と私が関わったらしい傷害事件は同じ事件だったんだ。
 アメリカに帰った時、ママがやたらと心配そうに気にかけてくれていたのも、多分その事件を知っていたからだ。しかも恐らくは私の口から。
 考えてみれば、よく順序立てて整理していけばすぐに気が付く簡単なことだった。
 ラジ館にタイムマシンが落ちる事件が無ければ私はパパの講演を見に行くつもりだった。
 この世界線ではタイムマシンが現れていないのだから当然予定通りに見に行ったのだろう。
 そこで私は死ぬ。
 この流れ自体は岡部からα世界線にいた時に聞いていた。
 でも聞いていただけで経験したわけじゃないから実感が希薄すぎたんだ。

 血溜まりを偽装したということはそんな状態になる何かが起こっていたというそんな当たり前の事実に今まで目を向けていなかった。
 そして恐らくその原因はパパ。
 今なら私が日本にそれだけ長く滞在して岡部を……助けてくれた人を探していた理由がわかる。
 だって私を助けてくれた人で、自分の父親が刺してしまった人なん、だ、か……?

「ね、ねえ……橋田……」

 私は最悪な事実に思い当たってしまった。
 できればそうであって欲しくはない。
 
「岡部って去年の8月末頃、怪我してた? 例えばナイフで刺されたような……」

 岡部の話と時期を照らし合わせるなら、橋田たちがそれを認識するのはそれぐらいの頃のはずだ。
 外れて欲しいと思いつつも、それは正解だと心のどこかではすでにわかっていた。

「!? 牧瀬氏知ってたん!? 何だよオカリン、牧瀬氏には言うなって言っておきながらもう話していたのかお」

「……そう、やっぱり岡部は、岡部が代わりに刺されたのね……」

「代わり……? よくわからないけどオカリンは確かに去年の8月末頃に急に怪我したんだ。何があったかは教えてくれなくて。ただその時酷い怪我なのにケータイでニュースを見せてくれって強く言い出したんだお。そのニュースがドクター中鉢のロシア亡命だったんだ」

 変だとは思っていた。
 岡部が私の死の偽装をした方法について話さなかったから。
 でも、アイツそんな無茶をしていたなんて。

「いやぁあの時は焦ったお、酷い出血なのにテレビを見せろなんて。案外たいしたことないのかな、なんてタカを括ってたら実は後一時間手術が遅かったら死んでいたらしいお」

「……は?」

 今橋田はなんて言った?
 死んでいた?
 誰が? 何で? どうして?

「オカリンの怪我、実はめちゃくちゃヤバかったって事だお。あれで死んでたら正直テレビなんて見せてた僕自身をきっと許せなかったお」

「じょ、冗談でしょう……?」

「本当だよ、紅莉栖ちゃん」

 先程まで黙っていたまゆりが口を挟んだ。
 その顔は何故か今にも泣きそうだった。

「オカリン、あの時は本当に死んじゃうかと思った……それぐらい酷かったの」

「で、でも私あいつが入院してたなんて聞いてないし私の知る限り毎日ラボにいたわよね?」

 まゆりの言うことを信じないわけではない。
 ただ、自分の目で見た岡部が、死にそうだったという事実を受け入れたくないだけだ。
 だいたい、そんな酷い傷を負って手術したのなら若いとはいえ一ヶ月は入院が必要な筈だ……一ヶ月?

「オカリンは一ヶ月くらい入院してたよ。そういえば紅莉栖ちゃんがラボに来たのは丁度オカリンが退院した日だったね」

 ……岡部が死んでいた?
 いや、今岡部は生きている。
 でも、もしかしたら岡部は私のせいで死んでいたかもしれないの?

「ちょ、牧瀬氏!?」

 私はその場にへたり込んで自分の肩を掻き抱いた。
 寒いわけではない。
 ただ、怖い。
 岡部が死んでいたかもしれないと考えると、凄く怖い。
 体が震えて仕方がない。
 一時間なんて、一日のうちの24分の1でしかない。
 時間は絶対的じゃない。
 場合によっては一時間なんて本当にあっという間だ。
 そのあっという間の時間が岡部の命の明暗を分けた。
 逆に言えば死んでいてもおかしくなかった。

 認めよう。
 私は思い上がっていた。
 岡部を助けられるのは自分だけだと。
 岡部の為に頑張っていると。
 岡部の為にそうしてあげているんだと!

 内心では勝手に感謝しなさいよと思っていた。
 こっちの気持ちを汲み取りなさいよと思っていた。
 あわよくば私の頑張りに気付いて労いも欲しかったのかも知れない。

 でも、それぐらい許されると思っていた。
 当然の権利だと思っていた。

 認めよう。
 未来の私が危惧した通り、私は後悔している。
 今ならVR技術の完成を急げと言われた理由もわかる。
 私は何も知らない、知ろうとしていなかった。

 思い上がりも甚だしい。
 感謝しろ?
 そうしてあげている?
 頑張っている?

 ガンッ!

「く、紅莉栖ちゃん!?」

「ま、牧瀬氏!?」

 額を床に叩きつける。
 感謝するのは私の方だ。
 そうするのは当然だ。
 私の頑張りなど、岡部の覚悟の半分にも満たない。

 例えば今、私が死ねば岡部が助かるからとナイフを突きつけられた時、私は冷静にはいそうですかとその凶刃を受け入れられるだろうか?
 恐怖を抱かないだろうか?
 命惜しさに、痛み恐さに、逃げたくならないだろうか?

 岡部が最初から刺される覚悟だったのかはわからない。
 だが、事実彼は刺され、死ぬ一歩手前の傷を負いながらも私を助けた。
 なまじ知識がある分いやな想像が止まらない。
 “刺されるだけ”の出血量では恐らく死を偽装するほどの出血量には足りない。
 考えたくないが、岡部は恐らく自分でさらに刺すか切るか、傷口を増やすなり広げるなりした可能性が高い。

 世界線の移動によって、私は死んでいる事になると知った時、私はそれでも世界線の変動を望んだ。
 でも、正直怖かった。逃げ出したかった。死にたくなかった。
 もし岡部が押したエンターキーを自分で押せと言われたら、果たして私は押せただろうか。
 岡部には苦しんで欲しくないし、まゆりにも生きていて欲しい。ディストピアだって起きない方が良い。
 でも、その為に自分で自分を殺せるだろうか?

 私は岡部を尊いと思ったことがあった。
 でも、近い人間だとも思った。

 今の私はどうだろうか?
 本当に彼に近い人間か?
 そう思うと、自分の先程までの内心が醜くて醜くて仕方がないように感じた。




***




 次の日、岡部はちゃんとラボに来ていた。
 それにホッとしていると開口一番、謝られた。
 昨日はすまない、と。
 だが、謝るのは私の方だった。
 岡部は自分が刺された事実を私が知ってしまったことに複雑な顔をしていたが、謝る私に「謝るな」と怒ってくれた。
 そんな岡部に頼み込んで私は傷を見せてもらった。
 岡部はかなり渋っていたが、頼み倒した。
 あんなに人に頭を下げて頼み事をしたのは初めてかもしれない。
 その傷は予想以上に酷そうだった。
 大きく縫った跡。それだけで痛々しさが伝わってくるようだった。
 軽く傷口を撫でると、岡部はビクンと震えた。
 痛くは無い、と言っていたから大丈夫だと思ったんだけど、くすぐったかったのかな。
 私はごめんね、ありがとうと念じながら岡部の傷を指でなぞった。
 
 されるがままの岡部は照れて紅くなっていたが、嫌がる素振りはなかった。
 だから、これでまた元通りだと、お互いの距離が戻ってくると、この時はそう思っていた。



 ……変化は、すぐに訪れた。



 私は、岡部の傷のことを知ってから、少しばかり岡部に甘くなったと思う。
 いや、少し岡部への対応が柔らかくなったというか、無駄に尖らなくなったというか。
 残り少ない日本での滞在期間。
 感謝の気持ちも多分にあって、少しでも岡部と一緒にいたいと思うようになった。
 自分で言うのも恥ずかしいけど、好きな男に文字通り命をかけて護られたら、女の子は誰だって惚れ直すと思う。
 私だって生物学的に女性である以上、あんまりおしゃれしなくたって少し胸が小さい部類だってそういう意識はある。
 所謂惚れた弱みというか、変なフィルターが付いてしまったのかのように、岡部が格好良く見えて仕方がない。
 だから岡部がソファーに座れば隣に座ったり、出かけると言えばついていったり、少しだけ私は大胆になった。
 気持ちは今まで以上に大分岡部に接近したと思う。
 
 ……でも。

 変な言い方をするけど、岡部との物理的距離は遠くなった。
 嫌われているわけではないとわかる。
 避けられているわけでも無い、と思いたい。
 端的に言うなら、岡部は私が意を決した物理的接触を極端に恐れているようだった。

 気持ちは近いのに、身体はこんなにも遠い。
 何だか卑猥っぽい表現だけど、そういうつもりじゃない。
 ただ、岡部は前より私と物理的距離を取りたがっている節を感じるようになった。
 まるで何かに怯えるように。

 不思議な物で、好きだと強く自覚すると触れ合いを求めたくなる。
 エッチな事はまだ速い、不潔、という思いが強いが、手を繋いだり腕を組んだり、抱き合ったり……キスしたり。
 日に日にそういった物理的接触を望む自分がいた。
 時には不潔だと思うエッチなことだって少しくらいなら、と思えることもあった。
 だが、岡部は何故かそれを望まない。
 嫌われているわけではない。
 でも、どことなく私に触れる事を恐がっているように感じた。  

 最初は男と女での感性の違いかと思ったが、岡部を見ているとどうもそんな感じじゃない。
 それにまゆりやフェイリスさんとの物理的接触は特に気にしていないようだった。
 ……というか、い、一応彼女である私より他の女性との物理的触れ合いが多いってどういうこと?

 ……ムカムカする。

 私がアメリカに帰るのは明日だ。
 だというのに、岡部とは日本に来てからまだキスもしていない。
 三ヶ月前は、二日間キスしたのに。
 言葉と気持ちが通っていても、物理的接触が無さ過ぎるのはやっぱり不安になる。
 このままではいけないと焦りを感じ始めた私は、少し強硬手段を取ってみることにした。

「ねぇ岡部、目を閉じて」

「何故だ?」

「いいから」

「……その手にはのらんぞ助手よ、何度目だと思っている」

「ぐ……」

 作戦イキナリ失敗。
 そんな私の顔を見て岡部は、心配そうに尋ねてきた。

「何をそんなに焦っているのだ? 最近のお前はらしくないぞ」

「私、明日にはアメリカに帰らなくちゃいけないから……」

「だからどうだと言うのだ? 一生会えぬわけでもあるまい。三ヶ月前のお前ならもっと堂々としていた筈だ」

「……三ヶ月前は帰る前にキスしてくれた」

「そ、そんなにキスしたいのか? なら変な手など打たずに正直にそう言えばよかろう。はっ、いじらしいなクリスティーナ」

「……正直にキスしたいって言えばしてくれるの?」

「そ、それは……」

 岡部が言葉を濁す。
 やはり勘違いなどではなく、岡部は私との接触を避けて……恐がっている。
 ……どうしてだろう?

「キス、したいのか?」

「正直に言えば、したい」

 女の子にこんなこと言わせるな恥ずかしい、とは思うけど、これでその気になってくれるなら赦そう。
 私はソファーに座りながらうーぱクッションを抱いたまま期待の眼差しで岡部を見つめていると、岡部は覚悟を決めたように私の前に来た。
 何か、久しぶり過ぎてドキドキする。
 私は、やや上を向いて目を閉じ、来るであろう感触に胸を高鳴らせた。

 ……。
 …………。
 ………………?

 中々期待の感触が訪れず、うっすらと目を開けてみると、身体を震わせながら青い顔をしている岡部が目の前にいた。

「岡部……?」

「っ……すまん」

 岡部は私に謝ると、ドサッと隣に腰を下ろした。
 せめて傍にはいてくれようとする彼なりの優しさなのかもしれない。

「どうしたの?」

「……お前は悪くない。悪いのは俺だ。この間ケチャップまみれになったお前を、紅莉栖を見てから、つい思いだしてしまうんだ」

 正直、期待を裏切られた感が強くてガッカリだった。
 同時に、最近ずっと考えていた、私の知らない何かがまだ岡部にはあるのではないか、という疑念が強まっていた。
 岡部は額に手を当てて辛そうな顔をしている。
 その顔は、何度もタイムリープして苦しんでいる時の岡部を思い出させた。
 そんな顔しないで。
 私はアンタにそんな顔をして欲しくない。

「思い出すって、何を?」

「………………」

 だんまり、か。
 言いたくないってことね。
 でも、久しぶりに名前で呼んでくれたから、あとはこれだけで許す。

「ねぇ岡部、もしも私が向こうにいる間にいい人を見つけてさ、その人と付き合うって言ったら、どうする?」

「っ!?」

 バッと顔を上げて、何とも言えない不安そうな、今にも泣きそうな子供のような表情で岡部は私を見た。
 それを見て、変な話だけど私は凄く安心した。
 ……嫌な女だな、私。
 
「向こうに、気になる相手がいるのか……?」

「もしも、よ」

 あえて質問には答えない。
 その方が、岡部の動揺を誘える気がした。

「そうだ、な……そうだよな……いないほうが、おかしいか」

「……は? っておい……?」

 ……あれ? 何か変な方向に話が進み始めてる?
 もしかして失敗した?
 失敗した? 失敗した? 失敗した?

「もし、お前が向こうで……、その、幸せになれるなら、俺はそれを……祝福、しよう」

 岡部はやたら苦しそうに、こらえながらそう言う。
 おいおいおいおい!? そこは違うでしょう!?
 狂気のマッドサイエンティスト的な強気は何処にいったのよ!?

「だが……出来れば、式には呼ばないで欲しい」

「……減点1」

「……は?」

 本当は減点1どころか赤点まっしぐらだったけど、最後の一言でギリギリセーフ。
 今のは私の自業自得の部分もあるから採点は甘めにしてあげる。
 式に来たくない、ってことは……そういうことだもんね? 違うなんて回答は受け付けません。

「もしも、って言ったでしょ。いないわよそんな人。だいたいそうなったら意地でも離さない、とか言えないの?」

「いや……、え?」

「……まあ私も少しイタズラが過ぎるような言い方したのは悪かったけど。でも私だって今のあんたみたいに向こうでそんな事を考えちゃう訳よ、アンタの周りには魅力的な人が多いし」

「紅莉栖……」

「……一年よ、一年だけ待ってあげる」

 だから、これは宣誓。
 一年待ってあげる、という事は同時に一年しか待ってあげないということ。

「一年……?」

「そう一年。一年間の間に今岡部が気にしてる事、悩んでいることを言ってくれるなら良し。もし言ってくれないなら……」

 岡部がゴクリ、と息を呑んだ。
 その表情にはまた不安と怯えが混じっている。

「脳に電極をブッ刺す」

「……は?」

「だから脳に電極をブッ刺す」

「……おい紅莉栖。俺は真面目に話を聞いていたつもりなんだが」

「あら、私も真面目に話しているつもりだけど?」

「どこがだ!? 脳に電極をブッ刺すなどマッドサイエンティストのや、るこ、と……まさか」

「あら? 案外ものわかりがいいのね。思いつくものでもあった?」

「お前は脳科学専攻……それもタイムリープマシンの時に人の記憶のデータの保存を可能にする技術を有している場所の所属だ」

「意外に鋭いわね、そうよ。一年以内に岡部が話してくれなかったら勝手に調べるから」

 同時にこれは自分への楔。
 一年で、VR技術を私の望む形に仕上げて、岡部の記憶を解読する。
 先に話してくれれば良し、話してくれなければそれで勝手に見る。
 嫌がられようと、例え嫌われようと、これは私がやらなくちゃいけない。

「あ、ちなみに話してくれても話してくれなくても岡部には一年後にはアメリカに来てもらうから。これもう決定ね」

「な、なんだと!?」

「どっちにしろ岡部にはVR技術の被検体になってもらう必要があるし、ママにも紹介したいから」

「お、横暴だぞ! それでは俺が話そうが話すまいが頭の中を見られるということじゃないか!」

「気分は違うでしょ? 既に話していることを見られるのと、言えなかったことを見られるのと」

「そ、それに一年後に母親との挨拶の約束とか……予約が速すぎるだろう!?」

「一年後も私はあんたを好きでいる覚悟と気持ちがあるって言ってるのよ! 言わせんな恥ずかしい!」

「う、あ、ああ……」

「ま、まあ一年後の岡部の心境次第ではママへの紹介は私を日本で助けてくれた人、だけになる、かもしれないけど……」

 岡部は顔を真っ赤にして視線を逸らしてしまった。
 私も恥ずかしさのあまり言葉が尻すぼみになる。
 勢いで言ってしまったとはいえ、これはヤバイ。
 恥ずかしさの極地だ。
 恥ずかしさ世界選手権とかあったら余裕で優勝できるレベルだ。

「フフフ、フゥーハハハ! さすが我が助手だな! 中々のマッドサイエンティストぶりな発言だ。よかろう! お前の言う通り俺は一年後アメリカに行ってやろう。ただし! そうと決まったからには俺は絶対に自分からは言わんぞ!」

「の、望むところよ! 脳を開頭される準備をして待ってなさい!」

「……ありがとう紅莉栖。情けない話だが、本当に俺はこの事を自分の口で言う勇気が無いのだ。本当なら見られるのも嫌だがいつまでもお前に隠しておくのも耐えられそうに無い。お前が俺の抱えてるこの記憶を見て、それでも今の気持ちを持ち続けてくれるなら……」

「……?」

「約束しよう。俺はお前を意地でも離さない、とな」

「~~っ!?」

 顔が火照る。
 こいつは相変わらず絶妙のタイミングで格好良さを突き抜けるから困る。
 触れ合うことの無い恋人同士の約束。
 それは一見弱そうにも見える約束だけど、私の中では、ううんきっと岡部の中でもとても大切で何にも替えがたいものになっていると思う。


 そうして、私は再び岡部のいる日本を離れ、しかし大事な約束を胸に、アメリカに戻るのだった。



[30573] 荒唐無稽のサードメルト Chapter8
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 21:48
荒唐無稽のサードメルト Chapter8



 一年は12ヶ月、365日。
 単純計算で8,760時間。
 525,600分、31,536,000秒。
 別にぴったりギチギチにその時間をコンマ1秒でも越えたらダメと言うつもりはないし、逆に早まっても文句は無い。
 でも改めて数字にしてみると一年という時間は途方も無い数字で、それが長いのか短いのかはパッと見ただけでは想像がつかない。
 ただ言えることは、私はこの一年が苦ではなく、あっという間だったという自分の体感だけだった。
 そして今日、およそ一年と少しの時を経て、寒さも抜けきらぬこの二月に、岡部が日本からアメリカに来る日が来た。

「はろー、久しぶり、というべきかしら?」

「何を言っている。昨日も電話で話しただろう」

「でも直接会うのは一年ぶりだし。っていうかその格好……」

「……笑いたいなら笑え。ダルとまゆりがどうしてもこれで行けとうるさかったのだ。空港まで監視に来る始末だった。こっそり持って行こうとした白衣まで奪われる用意周到ぶりだった」 

 岡部は髪を変に固めた髪型ではなくて、整髪料を使わない自然な髪型だった。
 思えば岡部のこんな髪型は見たことが無かったかもしれない……っていうか、岡部、実は格好良い?
 いや、元々格好良いとは思っていたけど。って何思ってるんだ私。

「笑わないわよ、似合ってるじゃない。あんたもそれなりな格好すればそれなりに格好良いわよ」

「お世辞などいらん」

 お世辞じゃないんだけど……まあいいか。
 なんとなく、岡部にはその自覚がない方がこの先助かる気がする。
 いろいろな意味で。

「それじゃタクシーを待たせてるし、さっそく行きましょうか」

「ああ」

 私達は、電話やメールのやり取りこそしていたがこの一年、一切会わなかった。
 会えなかった、というのが正しいかもしれない。
 私は私で自分に課した一年という期間内にVR技術を形にする必要があったし、岡部にもやることがあったようだ。
 そのせいであんまりメールが返ってこなかったのは未だに不満だったけど。
 私は忙しい中結構頻繁にメールしてたのになあ。
 べ、別に寂しいとかそういうのじゃないけど!

 岡部との電話は専らskypeを利用した。
 お互いパソコンの前で話をする必要はあったけどネット回線を利用した電話は基本無料だ。
 skypeってのは本当便利で経済的だと思う。
 でもカメラはあんまり使わなかった。
 なんというか、パソコン画面に映る相手の顔を見ながら離すのが恥ずかしかった。
 面と向かってとはまた別な感覚で、そこにいないのに見られているというのは何となくこそばゆかった。
 それでもお互い長く話していたくて、ついつい長電話になってしまうからskypeはありがたかった。
 これが普通の国際電話ならいくらかかったことか。

 タクシーに乗って私達はまずヴィクトル・コンドリア大学に向かう。
 研究室には日本の友人を連れて行くことを既に話し、許可をもらってある。
 無論被験者になってもらうことも含めて。
 部外者を研究室の中に入れ、研究成果を披露する形になる事を快く思わない者も多かったが、何とかここまでこぎ着けた。
 正直、研究よりもそういった人間の根回しというか、人間関係に近い部分がこの一年で一番大変だった。
 日本の友人を招く、という事には当然反対も多く「ここは遊び場じゃない、ホテルへでも行け」などという罵声も当初は飛び交った。
 だがウチの研究室でやっている研究、脳科学における脳構造の解明はもちろん、VR技術の発展にも尽力した私は、チームの要の一人に数えてもらえる程になっていて、私がいなければ研究が進まないという所もあった。
 無論それは私だけではなく、何人かはそういう人間がいたが、当然数が多いわけではない。
 努力のおかげもあってか私は研究者としての地位は低くとも実力という上でのパラメータは研究室内でも上位に位置することが出来、無理を言わせてもらったのだ。
 中には今回のことで『日本人が外部に研究成果を漏らしたらミス・クリスの株を落とせる』などの考えを持つ者もいるらしく、全てが上手く収まっているわけではないが、それを気にしていては何も進められない。
 とにかく、私は多少の嘘を交えながらも出来るだけ円満に岡部を少しの間だけ研究室内に入れる許可を取るのに成功したのだ。

「っと、そうだ岡部。言っておいたと思うけど、あんたはとある一時期の記憶が混濁していてよく思い出せず困っているって設定なんだからそのことを忘れないでよ」

「ああ、わかっている。混濁というか喪失というか……その辺は曖昧で良いのか?」

「ガッチリしないほうがそれらしいでしょ? それにその時の事をよく思い出せないだけで今の生活に大きな問題は無いってことにしてあるから」

 この辺が多少嘘をついたところだ。
 被験者になってもらうにしてもわざわざ国外から友人を選ぶ必要は無い。
 というより国外な時点で普通なら可能性はゼロである。
 その為岡部……友人の記憶の一部におかしいところがあって、多様な研究データの収集の為とあわよくば彼の記憶の懐古を手伝いたいと申し出ていた。
 アメリカという国は飽くまで日本に比べるとだが大らかでスケールも大きい。
 特に、嫌な言い方になるがお涙頂戴にはより脆い部分がある。
 良く言えば欲望には貪欲だが、不利益を被らないなら伸びる限り手を広げるのである。
 一つ勘違いしてはいけないのが、必ずしもそれが優しさとイコールでは繋がらない、というところだが。
 岡部の記憶というでっちあげを話したところ、研究室の人間の意見は幾分柔らかくなった。
 それが今回の岡部の招待を許してもらえた決めてでもあっただろう。

「そうか……なんだか嘘をついていると思うと申し訳ない気もするな……」

「百パーセント嘘ってわけでもないわ。物は言いようよ。あんたが気にする事じゃない。それにこういった研究は普通家族にも秘密なものだけど、ウチの大学はその辺は割と緩くて新しい発明とかがあると研究所外の身内にこっそり披露するなんてことは全くないわけじゃないから」

「そうか、ならばもう気にはすまい。それでどうなのだ? VR技術の方は。ほぼお前の望む形にはなっていると電話では聞いたが……」

「ああ、それね……予定の機能は問題無い、とは思うけど未完成ではある、というか……」

 研究という物はある意味発掘作業と同じだ。
 先に知った情報が、必ずしも正しいとは限らない。
 いや、間違ってはいないが正確ではない、というべきか。
 大きなオブジェが埋まってると想像して欲しい。恐竜の化石でも良い。それがどれだけ大きいのかはまだわからない。
 それを我々が一切傷つけず掘り返して全容を確認しようとしているとする。
 掘るのだけでも大変な作業だった場合、そのスピードは言わずと遅くなる。
 慎重さと正確さを求められれば尚更だ。
 そんな中、大きな突起部分が出てきたとしよう。
 この時点で我々は調査報告、結果に突起ありと記し理解することになるが、さらに掘り進めていくとそれはたくさんのでこぼこの一つでしかないと発覚する。
 初めて突起を見つけた時はそれが全てだったが、発掘……研究の進捗によってそれが大の中の小だと発覚することは多いのだ。
 そうなるとまた理論の練り直しと構成が必要になる。

 極端なことを言ってしまえば、突き詰めれば突き詰めるだけ物事に終わりが見えてこないものではあるが、未だ妥協点という物も見えてこない。
 本来研究とはそういうものなのかもしれないが、岡部が聞きたいのはそういうことではないだろう。

「未完成? ではまだ使えないのか?」

「ううん、大丈夫。VR技術の思考盗撮自体は二年くらい前に理論と安全性がある程度確立されているし、私が欲しかった部分を含めたVR技術自体の問題点はそう多くない。ただ……」

「ただ……?」

「この技術にはもっと別の使い道と別の発展を辿る可能性も見えてきていて……」

「別の可能性、だと? それは一体どんな……」

「あ、ごめん岡部。これはいくら岡部と言えど話せない。研究所のトップシークレットだから」

「ううむ……気になるが仕方あるまい」

 岡部は唸りながら残念そうに肩を落とす。
 まあ実はかくいう私も可能性自体の内容はほとんど知らないんだけどそこも含めてトップシークレットってことで秘密にしておこう。
 ちなみに、項垂れた岡部も格好良いと思ってしまったのは私だけの秘密だ。

 そんな雑談をしているうちに、私達は私の所属する大学に着いていた。




***




「………………」

「おい紅莉栖、なんでそんなに怒っているのだ?」

「……別に怒ってはいないわよ」

 研究室に入って、私はみんなに岡部を紹介した。
 英語の出来ない岡部のことだ、さぞ私の流麗な英語を聞いて本場は違うと感心するだろう……と踏んでいたのだが。
 このバカはなんと普通に英語を話したのだ。
 私が意気揚々と彼は英語が殆ど話せませんと説明した直後に。
 ああもうバカ。ほんとバカ。バカバカバカ。
 話せるなら話せるって言え! おかげで恥かいちゃったじゃない。
 岡部が私の紹介の後、やや硬い日本人独特ではあるものの、許容範囲内である英語で自己紹介と挨拶をした時、私は正直驚いた。
 あまりの意外さにポカンとしてアホ面を晒してしまい、それを岡部に英語で指摘される始末。
 加えて私のことをクリスティーナ呼びするときた。
 研究室のみんなは笑いながら「良い物を見たよクリスティーナ」と私をからかいながらクリスティーナ呼びし始めた。
 私はつい「クリスティーナじゃない!」とムキになり、研究室のみんなは余計笑いだし、大恥を掻くハメになってしまった。

「怒っているではないか。そんなにクリスティーナが広まったのが嫌だったか?」

 研究室のみんなは私がアホ面かましたのが余程面白かったのか、それ以降みんなで私をクリスティーナと呼ぶようになってしまった。
 今日最後まで岡部が来ることを快く思わないだろうと思っていた研究員まで破顔したように笑いながらクリスティーナと声をかけてくるほどだ。
 雰囲気が悪くないのは結構なことなのだが、どうにも納得できない。
 それに、クリスティーナは今まで良くも悪くも岡部からだけの名前だったのに。
 ……べ、別にクリスティーナって呼ぶのは岡部だけが良かったとかは思ってないけど!
 それ以前にクリスティーナって呼ばれるのは嫌だし!

「呆れただけよ。それより岡部、英語話せたのね、驚いたわ」

「アホ面だったな」

「うっさい!」

「まあ、一年の間に叩き込んだのだよ。アメリカに行くなら話せた方が何かといいだろう?」

「それが岡部のやるべきことだったの?」

「いや、他にもあったのだが、まあその一つではある」

「そう。確かに私は驚いたし英語力はこの先あって損は無いわ」

「それはそうだが俺にあまり英語力を求めないでくれ。さっきのだって結構一杯一杯だったのだ」

「どうしよっかなあ?」

「ぐ……貴様やはり根に持ってるな?」

「さあね? とりあえず驚いたのは本当だし、成長してるってのも本当に感じた事よ。次は私の番かしらね」

 私は少し人払いをして岡部を現在のVR技術の粋を集めて作ったVRルームに入れた。
 中央のリクライニングチェアーに座ってもらって頭に大きなかぶり物をしてもらう。
 このかぶり物にはいくつも線が付いていて、それら一つ一つが重要な役割を持っている。
 配列等の机上の論こそ私も参加したが、実際のハードの手作業による作成には流石に私はあまりタッチできなかった。
 チームのメンツや人員の関係もあったが、元来私があまり物を作ると言うことにはそれほど向いていなかったのもその原因の一つだっただろう。
 だから見たことはあっても、私も本体に触ることは実は今日が初めてだったりする。

「これで良いのか?」

「オーケーよ。しばらくは何も考えずボーッとしていて。眠かったら寝てもいいわ。むしろ寝て貰った方が余計なノイズが入りにくいから。なんなら睡眠薬もあるわよ?」

「いや、遠慮しておこう。長距離のフライトでもあまり寝られなかったしそのうち寝てるさ」

「そう、わかったわ。タイムリープマシンの時と違って時間がかかるから……そうね、三時間くらいで何とかなると思う」

「単純に考えれば数テラものデータ容量を三時間で移動って凄いな」

「正確には移動じゃなくて読み取りコピーよ。タイムリープマシンの時も似たような事を言ったと思うけど、カットペーストではなくコピーペーストだから。今回はペースト先が過去のあんたじゃなく機械の中なだけ。それにこのケーブルも光回線だからね、直通で光回線となるとそりゃ速いわよ。単なるデータだけなら本当はもっと速いんだから」

「ああ、わかってる」

「……不安?」

「まさか。俺を誰だと思っている? 狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真だぞ?」

「はいはいワロスワロス」

「……お前の研究成果だ。信頼している」

「……うん」

 私は岡部の手を握ると、リクライニングチェアーを倒して岡部の姿勢を横にし、マシンのスイッチを押す。
 起動を命じられた機械は稼働しだし、低音で唸り始める。

「……思ったほどうるさくないんだな」

「そうね、でも最近のはこういうものよ」

「そうか」

「ええ」

 私は岡部の手を握ったまま答えた。
 少し手が湿ってきている。
 汗ばんでいるのは……岡部の手? それとも私の手?

「紅莉栖……」

「何?」

「……することも無いしな、言われたとおり俺は眠る。その、良ければこのまま隣にいてくれ」

「……うん、いるわ」

「……助かる」

 私は汗ばみ始めた手を、それでも離さずに握ったまま、半分がかぶり物によって埋まった岡部の顔を見つめる。
 胸が上下する頻度が、やや速い。
 怖いと言うほどではないのだろうが、不安はあるのだろう。
 しかし、やがて岡部はゆっくりと眠りに入ったようで、胸の上下……心拍も正常間隔になっていった。
 私は用意してあったタオルケットを岡部にかけ、彼を見つめ続けていた。


 二時間半を過ぎたところで、マシンが終了のランプを灯した。
 思ったより少し早めに終わったな、と思いつつ私は片手でマシンを操作し終了フェーズを完了させる。
 ここのSERVERにデータが残るわけにはいかないからまずは私のデスクへこのデータを送信。移動には……これまた時間がかかるがここのコンピュータは大きいので移動中も他の作業は出来る。
 私のパソコンの方も岡部の記憶用に外付けのテラバイトディスクを付けてあるから容量も問題無いはずだ。

 さて。

 少し余った時間、寝ている岡部を起こすのも忍びないし今度改めて精査しようと思っていたこのデータ、今できる限り閲覧してしまおうか。
 研究者とは因果な物だ。
 そこに研究対象があれば研究せずにはいられない。
 ……というのは建前で。
 早く岡部が気にしているであろう彼の記憶を見て、彼を楽にして上げたかった。

 未だ片手は岡部の手を握ったままだが、大きな問題は無い。
 コンソールは寝台と化しているチェアーの傍にあるし、ディスプレイも付いている。
 もともと、記録したデータを即座にここで閲覧できるようにはしてあるのだ。
 岡部の頭からゆっくりと、起こさないよう細心の注意を払いながらかぶりものを取り、完全にマシンと被験者の結合を解いてから私はデータの解析に入った。
 実はシステム上、この解析用システムと記憶の映像化システムが一番大変だった。
 単一的な記憶、絵や写真のような止まった画像はさほど難しくなかったのだが、映像……動画となるとその難易度は跳ね上がった。

 人の記憶というのは思った以上に曖昧で、正確ではない。
 それを単に映像化しても実際のそれとはかけ離れていたりした。
 これを出来る限り近く正確にするために、いろいろと苦労した。
 また、検索エンジンなんて無ければタグも無いから、見たい記憶を選出するのも一苦労ではある。
 だが人の脳内記憶のスパンから、およそ時系列を割り出して、これぐらいが何年前のもの、と大雑把にではあるが分けられるようにもした。
 そのシステムで丁度一年半くらい前の事を洗い出す。

「……出たっ」

 思ったよりも早く近い記憶をヒットさせることに成功した。
 彼のプライバシーの為にも無関係な所は極力見ないおこうとは思うが、好奇心は無情である。いや、見ないけどさ。

「これは……メールを受け取っているわね」

 岡部が町中でメールを受け取っている記憶。
 ケータイの画面の中のタイムスタンプから丁度あの時期だということが伺い知れる。
 こんなに鮮明に、しかも早く見つかると言うことは、やはり岡部はあの一連の時期の事を深く覚えていて苦しんでもいるんだと実感した。
 さて、この記憶は一体何を教えてくれるのか、無関係そうなら跳ばさなくてはいけないのだが……

「……っ!?」

 何これ?
 え? 岡部、こんなメール受け取ってたの?
 サァッと私から血の気が引いた。

 ディスプレイには岡部の視点でその時の事が映っている。
 そのディスプレイ越しのディスプレイ、ケータイ画面には、


『お前は知りすぎた』


 そう書かれていた。
 添付ファイルには血塗れの人形。
 次の瞬間には岡部は走っていた。
 画面は揺れに揺れる。人の視点で走っている状態なのをディスプレイ越しに見ると酔いそうになるが今はそんなことを言ってなどいられない。
 岡部はやがてラボに辿り着く。
 慌てて辺りを見渡すがラボには誰もいない……と、何かに気付いたようにシャワールームへ向かう。
 恐らく物音でも聞こえたのだろう。流石に細かい音まではこのディスプレイの音源では拾い切れていないのかもしれない。
 え? あれ? ちょっと待って?
 これって……まさか……!?

 岡部が勢いよくシャワールームへの扉を開ける。
 そこには……!

 UGYAAAAAAAAAAA!!!!!!!

 忘れてたのに!
 思いださないようにしてたのに!
 岡部しっかり見てんじゃないのよ!
 記憶までしっかりされてんじゃないのよ!
 バカ! エッチ! 痴漢!

 それは何を隠そう、私とまゆりで一緒にシャワーを浴びてる時の記憶だった。
 慌てて裸の私が胸とその、下……を隠している。
 まゆりは幸か不幸かしゃがんだ背中しか映っていない。
 っていうかこの映像微妙にまゆりはぼやけてるのに何で私はしっかり鮮明なのよ!?
 説明を要求する! けど聞きたくない! 思い出したくない!

 ……でも、岡部はあの時、本当に心配して、下心抜きで私達の身を案じてあんなことしたんだね。
 これを見ると、当時は怒りすぎたかも、って気になる。でも決して裸を見た事は許さない。絶対にだ。
 せ、責任取れよ岡部!
 っていうかこの記憶がこれだけ鮮明って事は既に岡部の脳はこの事について精緻化リハーサルが行われているってこと!?
 ~~っ!! 何だか恥ずかしい! めちゃくちゃ恥ずかしい!
 許されるならこの記憶だけデリートしたい、それが私とまゆりの為よ!

 いけない。少し落ち着こう。
 私の目的はこんなことじゃない。
 
 岡部が抱えてる記憶……その中でも恐らく私に関わりのあるもので相当に精神的に来るものを見つけないと……。
 と言っても、何が精神的に辛いかなんて、本人じゃないととてもじゃないが正確に分析しきれない。
 だから私が出来るのはある程度の記憶を見て岡部を理解してあげること。

 流れるように動く岡部の記憶の映像データは、時系列的には進んだり戻ったりだが、それはタイムリープのせいだけじゃなく、人の曖昧な記憶がそうさせるのだろう。
 この辺はやはりまだこのマシンの改良点の余地……というより検索システム上の改良点、になるのかしら?
 取り出した人の脳内記憶の整列化をより精密にすることで、この手間はもう少し省けるはずだけど、果たしてそこまでできるものなのか……ハッ? また余計なことを考えてた。集中しなきゃ。

「あ、これは……!」

 正直、このままでは見つからないだろうから、後日精査する必要があるだろうと思っていたのだが、意外にもそれは今、ディスプレイに映り込んだ。
 岡部がラジオ会館の屋上で、人工衛星……ううんタイムマシンに乗り込む。
 この後岡部は私の代わりにパパに刺されるのね……。
 そんなことを思いながら私はその映像をなんとも言えない状態で見つめていた。
 見たいけど見たくない。でも見なくちゃいけない。
 やがてタイムトラベルを終えた岡部はラジ館内に入る。
 すると私が出てきて、岡部が何か言いかけて、止める。
 他の人の視点からの自分を見る、なんてのは不思議な気分で、私って初対面の人にはこんな感じなんだと客観的に捉えることが出来た。
 当の岡部は恐らく、歩き回るよりはとリスク回避の観念も含めて待ち伏せをし始めた。
 多分そこが私が倒れていたところなんだろう……あ、私が来た。
 ……? 私が今笑った? 何を見たんだろう? というかこうしてみると本当に私の知らない私がいるのね。
 我が事ながらわからない、と思いながらも続きを見ていて、ドキッとする。

 パパが、来た。

 必死に話しかける私。
 泣きそうになる私。
 論文を見せる私。
 裏切られる私。
 パパが恨やむ私。
 首を絞められる私。
 岡部に助けられる私。

 岡部が飛び出した。
 私が助けられる場面を私が見るのは凄く変な気分になるが、岡部は自分を鼓舞させながらナイフを持つパパに突進した。
 パパはまた激昂して今度は岡部に向かってくる。
 ああ、これで刺されるんだと、何処か他人事みたいに私が思っていた時、

 岡部がナイフを弾いた。

「えっ!?」

 つい、声が出る。
 ナイフを弾いた岡部の勇気と行動にも驚いたが、もっと驚いたのはパパの手元からナイフが離れたこと。
 話が違う。
 岡部はここで刺される筈だ。
 なのに弾いた。自分でそのナイフを拾った。
 しかしパパは手近にあった工具を持ってまだ私を狙っている。
 正直胸が痛かった。
 そうまでするほど私を嫌っていたなんて。
 それを見た岡部が動いた。

『中鉢ぃっ!』

 その手にはナイフが、ってえ?

『ダメっ!』

 え?

『あ……ぐっ……!』

 私、パパを庇って……?

『なん……で……なんで……』

『ご……めんね……はぁ……はぁ……う……う……』

 私が、真っ赤な、そうまるでかつてケチャップをかぶった時になったかのような私が、力なく岡部に寄りかかる。
 それを見て、パパは笑いながら逃げてしまった。論文を持って。

『どうして……』

『あれでも……父親……だから……私……ずっと……認められ……たかった……パパに……認めて……ほしくて……いつも、勉強を……』

 茫然自失としながらもそれだけの言葉を搾り出した岡部に、私が独白する。
 私の、私しか知らない、私だけの、その想いを。

『でも……今さら、分かった……パパは……私なんて……認めたく……なかったんだ……』

 一言一言を搾り出すように、泣きながら呟く“私”

『バカみたい……よね……なのに、なんで……私……パパを……かばった……のかな……』

 この“私”にとっての悲しみが、ダイレクトに私の胸に伝わる。
 彼女……この“私”が経験したことが、まるで私自身経験しているように。

『ごめ……んなさい……見ず知らずの……あなたを、巻き込んで……』

 岡部に、この“私”にとってはほとんど見ず知らずの岡部に、謝る“私”
 “私”は私だからか、このときの“私”のことはなんとなくわかるようで、やっぱり自分でも経験してみないと完全にはわからない。
 ……でもこんな経験はしたくない。

『うっ……い、たい……』

 痛覚が戻ってきたのか、それとも元々痛いのを我慢していたのか。
 痛みに“私”は喘ぐ。

『ねえ……わ……たし、死ぬの……かな……死にたく……ないよ……こんな……終わり……イヤ……』

 死期を悟ったかのような“私”
 でもそれを認めたくない“私”
 論理的じゃない、でもこんな時に論理的でいられるはずがない。

『たす……けて……た……す……』

 “私”の、必死で無駄な懇願が、岡部の耳朶の奥に入っては消えていく。


 ああ、そういうことか。


 刺されたのは……“私”
 “私”は岡部に刺されて、死んだ。
 “私”が死んだのは、岡部のせい?
 

『ああああああああああ───────!』


 ああ、これは何処かで聞き覚えのある声だ。
 “私”が私であることを思い出させてくれた声。

 そうか。
 やっとわかった。
 岡部は“私”を殺してしまい、その時同時に私を助けてくれたんだ。
 岡部に自覚は無いだろう。
 言ってないんだから知りようはずもない。

 でも、“私”が今の私であるために、“それは必要なことだったんだ”と、教えてあげなくてはならない。
 岡部はこの時“私”を殺してしまい、同時に私を助けたんだと。

 画面が切り替わる。
 未来の岡部からDメールが届き、ムービーメールが再生される。
 未来の岡部は……じゅっ、十五年もかけて私を救い出そうと研究してたの!?
 仮に“三人の私”が一人だったとしても、最初の私が四年、次の私が三年、そして今、私が一年半くらい。
 合わせても、八年半。およそ半分ちょっと。
 時間的に言えば、私……ううん私達は岡部の為にまだ半分ちょっとしか頑張っていなかったんだね。
 そういえば、岡部が私の代わりに刺されたと知った時、丁度そんなふうに思ったっけ。

 映像は流れていく。
 再びタイムトラベルした岡部はサイリウム・セーバーの不調に気付いて……ってそれで刺されたのか。
 なんて無茶を。……バカ、本当に、バカ、なんだから……。
 岡部は、私の嫌な予想通り、自分で傷口を広げていた。
 ああ、あんなことしたら! やめて! もうやめて岡部!
 言っても、思っても既に変わるものではないが、それでもやめてと願わずにはいられない。

『痛かったか……? 済まなかった。だが、お前を……救うためだったんだ。例え……あの3週間の……日々は、戻らなくても……』

 痛いのはあんたでしょう?
 悪いのは私よ……。

「どうして、いつもあんたはそうやって……自分を犠牲にして……っ」

『お前に、生きていてほしかったから……』
「お前に、生きていてほしかったから……」

「っ!?」

 ディスプレイの岡部の声と、リアルの岡部の声が重なる。
 振り向けば岡部が目を覚ましていた。

「岡部、岡部……っ!」

 私は有無を言わさず岡部の胸に飛び込んだ。
 岡部の身体が硬直する。
 わかってる、わかってるよ岡部。

「私は生きてる、生きてるのよ岡部」

「あ、あ、ああ……」

 震える岡部の手を掴んで、恥ずかしさなんてかなぐり捨てて、私は彼の手を自分の胸に押し当てた。
 ドクンドクンと、緊張と羞恥から来る鼓動が、より分かりやすく脈動を教えてくれる。

「私を殺した事をずっと後悔してたんでしょ? 刺してしまったことを……」

「だって、俺が、お前を……」

「今は、生きてる」

「……」

「それに、岡部は勘違いをしている」

「……?」

「“私”は確かにあの時あの世界線では貴方に殺されたけど……」

「っ!」

「今ここにいる“貴方を知る私”はそれによって助けられたの」

「……!?」

 岡部が不思議そうな、信じられない顔をしている。
 無理も無い。

「私言ったよね? 岡部がキーボードを押してからの記憶が無いって。あれ本当は正確じゃないんだ。私はあの後、何も無い場所にいたの」

「何も無い、場所……?」

「矛盾だって思うでしょ? 何も無いなら場所すらも無い。これが死なのかなって思ったりしたような気もする。でもやがてそんな私の思考能力すらなくなって……私も何も無い世界の一部になってて……聞いたの」

「……聞いた?」

「岡部の叫び声、泣くような慟哭。あの時、“私”を殺してしまった時の声を。それを聞いて、今の言葉は何? 言葉じゃなく声だった、声って何? ってどんどん思考が溢れてきて、私は自分が何者であるかハッキリ自覚した時、目を覚ましたの」

「それが、お前と再会した日、なのか……?」

「そう。だからあなたが“私”を刺したのは、“私”が私であるために、必要な事だったのよ、それこそ、無かった事にしてはいけないの」

「!」

「もし、その過程を通らず私の生きる道を見つけていたなら、きっと“私”はいても私はこの世界にいなかったと思う。だから岡部……良いんだよ。貴方は、“私”を刺したことを……殺してしまった事を……罪だと思わなくていいんだ」

「う、う、う……紅莉、栖……!」

 私は岡部にそっと唇を重ねる。
 岡部は恐る恐る私の背中に腕を回した。
 身体はまだ震えているけれど、きっと血まみれの私がトラウマになっているのだろうけど、生きている私が、今ここにいる。

 それが全てよ、岡部。
 ありがとう。



 首裏に、チリチリと視線を感じる気がする。
 私を見てる。誰かが私達を見ている気がする。



 “あなた”なの?



 でも、それにしては人間的な気配がする。
 モニタか何かの前にいるであろう“あなた”はこんな認識できるほどの存在感を持っていたかしら?
 
「……ってちょっ!?」

 気になって振り返ってみると、VRルームのドアに付いてる窓から、研究室のみんながニヤニヤとこちらを見ていた。
 みんなの顔は呆れているような微笑ましいような、からかうようなそんなもので、少なくとも神聖な場所でなんてハレンチな、などというものではなかったのだが。
 
「ちょっ!? み、見ないで! これは違う、違うのよ! いや違わないけど!」

「……紅莉栖」

「なに? 今それどころじゃ……うむっ!?」

 無理矢理、キスをされる。
 ドアの外ではヒューヒューとやかましいほどに盛り上がっているのが伺えるが、こちらも絶賛心臓大爆発中の為、上手く音など聞き取れない。
 聞き取れないはず、なのに……、

「約束していたな紅莉栖、俺はお前を、絶対に離さないぞ」

 こいつのその声だけは、やけにハッキリと聞こえた。
 ……私は記憶力には自信があるんだ。後で忘れたとか言っても、無かった事になんか出来ないんだからな!







 ねぇ“あなた”


 どんな媒体からなのかはわからない。
 でも“あなた”なんでしょう?
 モニタ越しなのかどうかもわからないけれど、今これを見ている“あなた”のおかげで今の私が、私達がいることが確定している。
 世界が構成されている。
 “あなた”はいつも私……私達を見ていて、でも見ていない。
 それはこちらの時間的概念なのか全く別のものなのかはわからないけど、でも見ていることは確か。
 だって、見てないと「見てるんでしょう?」という私の疑問……ううん問いかけすら無い事になるもの。

 だから“あなた”は見ている。それを前提にして言っておくわ。
 ありがとう、そして……これからもよろしく、と。
 え? もしかしてこれで終わり、はいさよならってつもりだった?
 勘違いしていない? “あなた”にはまだ仕事が残っているのよ?
 私がダイバージェンスメーターを完成させたとき、それを一緒に観測するっていう仕事がね。

 そこで初めて私は岡部と私と……まゆりが死なない世界に到達したことになるの。
 岡部曰くシュタインズゲート。
 運命石の扉。
 だから、その日まで私達の事を見ていなきゃダメよ?
 というか見てもらわないと困るんだから!

 貴方が見ている世界が一つなのか複数なのかはわからないけれど、もし私達と同じ人間が存在する世界なら、私達を見守ってあげて欲しい。
 私から“あなた”にしてあげられることが無いから心苦しいけれど、でもそうしてもらえるととても嬉しい。
 あと可能なら、岡部を気にかけてあげてほしい、かな。
 私の知る岡部はほら、ちゃんと私が気にかけるから心配しないで。
 
 それじゃ、改めて私がダイバージェンスメーターを完成させるその日まで、できればその後もよろしく。
 あ、そうそう。ダイバージェンスメーターが出来るのが必ずしも“ここ”とは限らないから。
 “どんな世界線でもその可能性はある”の。
 私が生きて、岡部が生きて、私達の仲が上手くいけば、きっとその世界線では完成しているか完成することが約束されている。
 それを“あなた”が観測した時、その世界は存在を確定させるの。

 だから、次のその時その瞬間、その世界線まで……see you!



 名前も顔も知らない“あなた”へ。

 FROM 三回目の牧瀬紅莉栖



[30573] 荒唐無稽な初デート
Name: YY◆90a32a80 ID:0f7e5018
Date: 2011/11/18 22:50
荒唐無稽な初デート



 お互いの立場……関係が今までのそれと変わった時、または変わった事が明確になった時、人は相手との接し方についてどう変化するのだろうか。
 例えば喧嘩ばかりしていた相手と友人を通して友人になったり。
 仕事でしか会わなかった相手と仕事外でも会うようになったり。
 友人から恋人へのステップアップや友人から他人へのステップダウンなど、上げれば人間関係などというものはキリがない。

 そういった中で、仮に今までの関係からステップアップを果たした場合、相手との接し方はやはり今までよりも変わるものだと私は思う。
 どう変わるかは人それぞれだろうが、だいたいは相手に対して態度が軟化したり会話も軽いものになるのが相場なのではないだろうか。
 ステップアップを果たしたからにはそれはごく自然な事で、むしろそうなって然るべきである。
 然るべきなのだ。

「さっきから何を恨めしそうな目でこちらを見ているのだ、助手」

「……助手って言うな」

 然るべきだというのに、この万年無精髭白衣男は私に対して驚くほど態度に変化が感じられない。
 以前と比べて全く変化することの無いその態度は、自分たちが巷で言う“恋人同士”という関係にランクアップしたとは全く匂わせない。
 良く言えば自然体だが、それは“そういう関係”であると意識していないともとれる。

 アメリカから日本に戻って来て早三日。
 海の向こうの大陸ではあんなに恥ずかしい言葉を吐いた男が、ほんの半年後にはこれである。
 半年ぶりの岡部との再会を心待ちにし、彼からの猛烈アタックに内心wktk状態だった私は肩透かしをくらっている気分だった。
 違うだろ岡部。
 そこはほら、再会するなり苦しくなるくらいのハグをするとか、人目を憚らずに唇を奪うとか、勢い余って一緒のホテルに泊まるとか。
 いやまあ最後のは無いにしても、もうちょっとこう、恋人らしいアクセントのある再会や日常があってもバチは当たらないんじゃないだろうか。

「……はぁ」

「おい、人の顔を見て溜息を吐くな、失礼だぞクリスティーナ」

「……どの口が言ってるのよ。あとティーナを付けるな」

 岡部はやや不満そうな顔になるが、不満なのはこちらの方だ。
 アメリカであれほどの大告白とも取れる言葉を放っておきながら、再会してみればこれまでと何ら変わらないとは一体どういつもりなんだこんちくしょうめ。
 飛行機の中で「迫られたらどうしよう」とか、日本に来た初日の晩に「呼び出しや来訪があったらどうしよう」とホテルで胸を高鳴らせていた私の乙女心を返せと言いたい。
 おかげで今の私は絶賛寝不足気味な上、機嫌も大暴落中だ。

 私と岡部以外誰もいないラボの中。
 クーラーすら無いこの部屋は、八月の熱気がムンムンに充満していて、それだけで気分を下降させていく。
 それでも岡部と一緒に居られるのであれば気にならない、と思っていたのだけど、彼の素っ気ない態度に私のガラスハートはブレイク寸前だ。
 二人で一つのソファーに座りながら胸の裡で岡部に毒づく。
 いい加減少し大胆になりなさいよ、と。

 アメリカでは一度、岡部は半ば無理矢理に私から唇を奪っている。
 いつもそうであれとは言わない。
 だが、あの時の積極性の半分でいいから発揮してくれないものか。
 それを期待している私に、気付いてくれないものか。
 別に寂しいわけじゃない……嘘、寂しい。

 岡部がアメリカから日本に戻った後、言い表しようの無い寂寥感に苛まれた。
 岡部に「絶対に離さない」と言われ舞い上がった一方、彼がいないアメリカでの日常に色を失いかけた。
 私は彼をよくよく“魔法使い”と内心のみで比喩するが、ここまで来ると実に的を射ていると我ながら思う。
 彼の魔法は非常に強力で、でも魔法にかかる対象は限られている。
 けれど、限定されているからこそ、その魔法は絶大な力を持つ。

 科学者が魔法などと口にすればプギャーm9(^Д^)されることは疑いようがない。
 私でもそうするし、もし@ちゃんねるで自らを魔法使いだ、などとのたまうヤツがいたら『童貞乙』と書き込まざるを得ない。
 それでも私はあえて彼を魔法使いと呼ぶ。
 だって私にとって彼の言葉は魔法のそれに等しくて、彼の存在自体が魔法みたいなものだから。

「あ~……“紅莉栖”、そろそろ昼に差し掛かる。熱いが外に食事にいかないか」

「えっ……あ、うん。行く」

 ほら、やっぱり。
 さっきまでの私の中の尖った気持ちは、岡部が私の名前を呼ぶだけで、あっという間に消えちゃうから。




***




「ごちそうさま」

「ああ」

 ごく普通のファミリーレストラン。
 メイドもいなければ執事もいない。
 ましてや男ばかりが集まるような場所でもないここは、やはり紛れもなくファミリーレストラン。
 秋葉原にこんな店があったんだと驚くより、岡部がこの店をチョイスしたことに軽い驚きを覚えた。
 いつも通りサンボに向かおうとした私に「ついてこい」と歩き出し、背中を追うこと十分弱。
 そこは何処からどう見ても普通のファミレスで、メニューも内装も、疑うことなく“普通”だった。
 ここまで“普通”だと、それが逆に“異常”だと思ってしまうあたり、自分は相当におかしいのかもしれない。

「本当に良いの?」

「ああ」

 オマケにここの支払いは岡部が持つと言い出したのだからとんだ驚天動地だ。
 あまりに岡部らしくない行動に私は訝しむ。
 当の本人は心ここにあらずといったように視線を彷徨わせ、居心地悪そうにしている。

「どうかしたの?」

「ああ……あ、いや、そういうわけではない」

「そう? 何か落ち着かないような顔してるけど」

「む……」

 岡部は私の指摘に短く唸ると、それまで彷徨わせていた視線を真っ直ぐにこちらに向けた。
 久しぶりに真っ直ぐ岡部の顔を見た気がする。
 ……なんか、照れる。

「じょ……紅莉栖」

「ふえっ!? な、何?」

「……その、すまん」

「え……?」

 名前呼ばれた上に謝られた。
 Why?
 何か私謝られるようなことあったっけ?
 何の事? と軽く流したいが、彼の真面目な顔が冗談事ではないと私に告げる。
 何か、何か見落としは無いのか。
 まさか助手やクリスティーナと呼んでいたことの謝罪では無いだろうし、以前勝手に食べたプリンのことでも無いだろう。
 流石にそれらは今更過ぎる。

 だとすると……考えられる理由は一点。
 あえて、考えないようにしていた事由。
 岡部が積極的では無い理由も、岡部らしくない店の選択も、そうだとすれば辻褄は合う。
 ずっと、気付かないフリをしていた。
 そうではないと、そんな筈は無いと……そう思っていたかった。

 “別れ話”

 解散、離別、破局。
 思い当たる節がゼロなわけではなかった。
 私と岡部は一般的に言い表すなら“遠距離恋愛”の部類に入る。
 過去の統計、噂話……創作された二次元の世界ですら遠距離恋愛というのは成就率が著しく低い。
 他に好きな人が出来た、寂しいと思っていた時に傍にいてくれた……など、理由は挙げればキリが無い上どれも納得せざるを得ない。

 ……それが自分の事でなければ。
 対岸の火事という言葉があるが、まさしくその通り他人同士が遠距離恋愛の末破局したと聞けば、「残念だったね」の感想で終わる。
 しょうがないよ、他にも相手は見つかるよ、遠距離恋愛だったんだし。
 かけるであろう言葉はいくらでも見つかるが、所詮それは他人事である。
 遠距離恋愛というそもそもの恋愛の形が、破局してもおかしくないと“認識していた”私にとって、それは何ら不思議な事ではなかった。

 ……飽くまでもこれまでは。

 全てに置いて過去形で言い表しているのは、それが今身に降りかかっていることであるからだ。
 自身のことになって初めてそう簡単に割り切れるものではないと気付く。
 好きで遠距離恋愛になる恋人同士などそういない。

 だからこそ、自分のことだからこそ、好きで離れていたわけじゃないからこそ、簡単に終わらせたくない。
 嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ。
 岡部と別れるなんて、嫌だ。
 女々しいと言うなら言えば良い。
 諦めが肝心だなどという言葉など聞きたくは無い。

「聞きたくない」

「な……!?」

 だから、私は彼に二の句を告げさせなかった。
 その先を聞いてしまったら、彼との仲が終わってしまうと思うと、そうせざるを得なかった。
 岡部は私の顔を見て、表情を強張らせた。

「……どういうことだ?」

「どうもこうもない。私は話を聞く気はない」

「……やはり怒っているのか?」

「………………」

 怒っている、という岡部の言葉に私は答えない。
 正確には答えられない。
 私は怒っているわけではないが、感情は沸騰している。
 怒りとは違う感情の爆発。
 噴火ともとれるそれの奔流は激しいが、方向性としては怒りと呼ぶには些か違う。

「ぬぅ……まさかここまでとは」

 岡部は私の態度が余程意外だったのか、困ったような顔をした。
 心外だ。
 私の岡部を思う気持ちがその程度だと思われていたとは。
 それは同時に、岡部の私を思う気持ちはその程度だったともとれる。

「紅莉栖」

「っ」

 ずるい。
 こんな時ばかり名前で呼ばないで欲しい。

「……俺はそんなにわかりやすいのか?」

 私は静かに頷く。
 ……わかりやすいと言えばわかりやすい。
 ポーカーフェイスが出来ない人間だろう、岡部は。

「そうか……。しかしお前も狭量じゃないか? 何もそこまで怒ることはないだろう」

「……なん、ですって?」

 狭量……だと?
 どういうつもりだ、それは。
 恋人との別れ話などたいした話ではないということ?
 それとも岡部の中では既に私は過去の女として終わっている、という遠回しな抗議のつもり?

 思考が沸騰する。
 今「怒っているのか」と聞かれれば即座に答えられるくらいには。
 私はあまりに軽薄な言葉を発した岡部の頬をひっぱたいてやろうと片手を振り上げ、

「確かにダル達にからかわれるのは良い気分じゃないかもしれないが……」

 固まった。
 ……何か、おかしい。
 何だか、微妙に会話の内容が噛み合っていない気がする。

「えっと……何の話?」

「……? だから、その……お前がアメリカから来た事によって俺があまりに落ち着きがないとみんなに言われてな。ダル達が散々からかってきていたから、お前も居心地が悪かったのでは、と思ったのだが……」

「……すまんって……もしかしてその事?」

「む……? そのつもりだったのだが……わかっていたのではないのか?」

「あ、いや、わかっていたわよ、うん」

 ホッと胸の裡で安堵の息を吐く。
 どんだけ斜め上……いや下な想像をしていたんだ私は。
 臆病者。チキンにも程がある。

「ところで紅莉栖……」

「えっ? 何?」

「よくわからんが、そろそろその上げた右手を降ろしてはどうだ?」

「あっ!?」

 私は岡部を引っぱたこうと振り上げた手を降ろしていなかった。
 さぞ周りからは変なポーズを取った女だと思われていることだろう。
 ギギギ……と油の切れたゼンマイじかけのロボットのように首を回し辺りを伺えば、案の定周囲の客や店員は不思議なものを見るような目で私達、いや私を見ていた。

 ……岡部、そういうことは早く言いなさいよ!

 私は慌てて姿勢を正し、すぐにテーブルに突っ伏した。
 恥ずかしい。
 凄く恥ずかしい。
 だが、そんな恥ずかしさなど、まだまだ序の口だったのだと、私はすぐに知ることになった。




*** 




「良し、オッケー」

 髪に乱れは無い。
 服装も控えめながら地味すぎない物を選択。
 飽くまでも念のために、とお気に入りの服を持って来ていて良かった。本当に良かった。
 忘れ物チェックも昨夜から既に二桁を越える回数行い、準備は万端。

 天気は快晴。
 今日も外気温は当然のように高く、うだるような暑さになることは請け合いだが今の私はそんなことなど1ミクロンも気にならない。
 暑さごときに体感を使う余裕など、今日一日は無いに違いないのだから。
 軽くステップを踏むように軽やかに歩きながら、ハンドバックを肩から下げて道を歩く。
 普段はこの辺りからラボの方へと向かうのだが、今日は別方向……駅へと向かう。
 駅、station、la gare。

 羽のように軽い足は、自分でも驚くほどすいすい進む。
 心がフワフワと浮き足立つ。
 ついつい英語やフランス語をイメージしてしまうくらいには、今の私は浮かれていた。
 二日前、私は岡部にファミリーレストランで人生初と言っても過言ではない“それ”に誘われてしまったのだ。

 それ、すなわち“デート”に。

 恋人同士になって未だデートの一つもしていなかったのか、と聞かれれば私は頭を垂れつつも半日は延々と事情の説明をし続けられる自信がある。
  これはお互いが臆病だったとか、思いつかなかったとか、そういうことでは決してない。
 ただ物事にはタイミングというものがあって、これがまあ非常にやっかいかつ難儀なものなのだ。
 私達の恋愛事情を鑑みれば、むしろ仕方の無かったこととも言えよう。
 うん、そうだ。仕方なかったのだ。
 私と岡部は海を挟んだ大陸にいたし、こうして久しぶりに会っても、二人きりの時間を作れることは稀だった。
 別に特段それに不満があるわけじゃない。
 私は岡部に会いたいと思って日本に来てはいるが、日本に来るのが本当にそれだけの為かと問われれば“ノー”と自信を持って言える。
 私は未来ガジェット研究所の構成員……ラボメンとしてここに来ている意味合いも決して弱くは無い。
 まあ、たいした活動をしているわけでもないので、どちらかというと“友人”と会う為、が一番スタンダードかつ強い理由だ。

 だがそれとは別に岡部に会いたいという気持ちも当然弱いわけではなく、恋人同士の常套句である“デート”に憧れが無いわけではなかった。
 もっとも、先にも述べた理由と状況から、二人きりになれる時間はそう多くなく、半ばそういうものは諦めかけている境地でもあった。
 岡部が話を切り出したのはそんな折である。

『紅莉栖、その……せっかく遊びに来ていてもラボにこもっていては暑いばかりでつまらぬだろう?』

『……?』

『お前さえ良ければプールにでも行こうと思ってるのだが』

『へぇ、プール! いいわね、涼めそうだし。橋田とかは特に喜びそうじゃない?』

『い、いや……そうではなくてな』

『……?』

『お、俺とお前の二人だけで行こうと思うのだが』

 私は岡部が言った事を正確に理解するまでややしばらくかかった。
 きっと再起動までたっぷり五分は要しただろう。
 その間脳内のシナプスは高速で駆け巡り、何度も聞いた言葉と状況を整理、確認、理解する作業を繰り返していたはずだ。
 それはもう、あらゆる角度、可能性、意味合いを検討し、研究をしている時以上に脳内をフル活用させて検証に検証を重ねた。

 やがて理解が追いついて、それでも信じきれない私は、蚊の鳴くような声で最後に念のために確認した。
 それって……デート? と。
 岡部はそっぽを向きながらも……ゆっくりと、本当にゆっくりとではあるが小さく頷いた。
 途端に私の頬はレストラン内だというのにカァッと熱くなった。
 冷房が効いてないとか、最高気温更新とか、そんなちゃちなもんじゃない……もっと凄いものの片鱗を味わったような気がする。
 だが、その時感じたのは恥ずかしさよりもやはり嬉しさが勝っていた。

 そんなこんなで、私は岡部と初デートをすることと相成ったのである。

 私はウズウズと胸の裡から溢れ出る期待と喜びを必死に抑えながら電車に乗る。
 岡部の指定した待ち合わせ場所は秋葉原……ではなく池袋駅だった。
 池袋といえば確か岡部やまゆりの実家がある場所、という程度の認識しかない私にとって、そこは殆ど未知の土地だが、今の私に恐いものなんて無い。多分。きっと。

 電車に揺られる事二十数分。
 私は約束の地、池袋に足を踏み入れていた。
 時間は予定より三十分は早い。
 少し張り切りすぎたかな、と我ながら半端ない舞い上がりようをクールダウンさせるべく、深呼吸をする。

 すぅーはぁーすぁーはー。

 良し。これで落ち着いた。
 大丈夫。今日これから何があっても私は動じない。
 動じるはずが無い。動じる要素がない。
 故に問題の提議すらなされない。
 脳内会議終了。自身論破完了。
 私がそう自分を落ち着かせ、今日一日の自分へエールを送る作業を終了させた時だった。

「紅莉栖!」

 呼ばれる。
 朝から……出会い頭から名前で呼ばれるなどかつてあっただろうか?
 いや……いやいやいや!
 舞い上がるな、舞い上がるのはまだ早い。
 たかが名前を呼ばれただけじゃないか。
 たかが名前……されど名前。
 いやいやいや!
 落ち着け、落ち着こう私。
 名前を呼ばれただけでこうまで取り乱すなんて正気の沙汰じゃない。
 いつも通りでいいのだ、いつも通りで。
 そう思い、私は挨拶と共に岡部に振り返った……のだが。

「おはよう、おか……べ?」

「うむ」

「……!?!?!?!?!?」

「……?」

 む……と不思議そうに私の顔を覗き込む正面の男性。
 いやわかってる。わかってるけど。

「お、おかべ……? そっ、えっ? な、髪が……」

「ん? ああ、今日はプールに行くのだから整えても意味がなかろう? そう思って何もしてこなかったのだが……変か?」

 岡部は急に焦ったように前髪を弄りだした。
 私の態度から今の自分の身なりについて不安を感じ始めたのかもしれない。
 だが待って欲しい、いや待って。頼むから待って。お願い。この際土下座でもなんでもするから。
 今、私が@ちゃんねるを即座に使える状態ならまず間違いなくVIPにかようなスレを建てるだろう。

 初デートの彼氏が格好良さ突き抜けている件について。

 彼女の色眼鏡とか、惚れた弱みとか、そういうのを抜きにしたってちょっとこれは無い。
 ありえない。
 普段の岡部から考えると……天変地異の前触れかとさえ疑ってしまう。
 彼の自然な髪型を見るのはこれが初めてではない。
 決して初めてではない……が、そう多くもない。
 前にも思ったことだが、岡部は整髪料を使わない自然の髪形にすると、普段の軽く3倍は格好良くなる。
 まぁ普段から格好良くはあるんだけど。

 でも決して私は岡部の見た目の格好良さに惚れたわけではない。
 断じてない。
 それでも……惚れた相手が格好良いと、こうなんというか、胸が熱くなるな……いや@ちゃんねる用語ではなくて。
 岡部と顔を合わせただけで桃源郷を垣間見たような気分だ。
 流石にこれは予想外。
 いくつもシミュレートにシミュレートを重ねた私のデート予想脳内ファイルにも無いイキナリの展開に、私の残りのライフはゼロ……になってたまるもんですか!

 初デートで、出会った瞬間リタイアって何ぞそれ?
 落ち着くのよ私!
 岡部なんて、岡部なんて格好良いだけじゃない!
 いや、格好良いだけじゃないけど。
 ああでも格好良いなあちくしょう。
 格好良いだけじゃなくてその優しそうな雰囲気とか、労わるような目とか、彼の全てが私を高鳴らせて「ああ、私は本当にこの人が好きなんだなあ」って思わせてくれる。

「どうした紅莉栖?」

「くっ……なんでもないわ」

 今なら岡部の気持ちが少しだけわかる。
 許されるなら私はケータイを即座に取り出し、相手のいない通話口に精神攻撃を受けている旨の報告をしてしまいかねない。
 これが機関の陰謀という奴なのか。

「そうか? なら良いのだが。さて、では少し早いが行こうではないか、紅莉栖。向こうに車を停めてある」

「へ? 車?」

「ああ、流石に車自体を買うのは無理だったのでな。車は親父のだが、免許は取った。その……こんな日の為にな」

「………………」

 言葉にならない。
 照れてるのか頭を掻きながら背を向ける岡部が眩しい。眩しすぎる。
 それで今日の待ち合わせは池袋だったのか、とか何時の間に免許を? などという疑問は些末ごとに過ぎない。
 もし私の身体が風船でできていたなら、今日はとっくに破裂してしまっているだろう。
 それほどに、今私の胸は一杯だった。
 車に向かう岡部の背中を見ながら思う。

 このままでは、岡部が格好良すぎて今日を無事に乗り切れる気がしない、と。




***




 岡部の運転は可もなく不可もなく、といったものだった。
 初心者マークを貼ってはいるものの、さほど慌てた様子もなく運転をこなし、車で移動すること十数分でどうやら目的地らしいプールについた。
 運転している最中の岡部はやはり初心者故の緊張からか集中していて、おかげでラボではあまり見ることの出来ない真面目な顔も見る事ができた。
 信じられない事に今日は岡部の格好良さが途切れない。
 これじゃあ格好良いタイムのバーゲンセールじゃないか、どうなってる岡部。

 そんなふざけたことを思いながら車を降りると、途端ムワッと熱気が肌を包み込んだ。
 車の中はクーラーという科学技術の結晶によって冷却されていたが、一歩外に出ればむあんと熱気がまとわりつく。
 だが普段ならイヤになるようなこの暑さも今日だけは気にならない。
 いや、気にしている暇が無い、というべきか。
 私の鋭敏化しきったありとあらゆるセンサーは隣の岡部に全勢力を向けきっていて、岡部の一挙一動を見逃さぬように待機している……とは言い過ぎだが、それぐらい私の意識は岡部に集中していた。
 ……おかげであやうく岡部に付いていって男子更衣室に入りそうだった。

 岡部と一旦別れ、女子更衣室へと向かう。
 ある意味当然とはいえ、今回の滞在中において私はプールなど予定に入れてなかったので水着を持ってきていなかった。
 正確にはここ数年泳ぐなんてことが無かったから水着自体持っていなかった。
 だからこの日のためにわざわざ水着を買いに行ったのだ。

 色は白。
 定番かと思ったがそれ故無難かつ映える色ではある。
 オマケに白衣の色。
 何か言われてもそう言えば岡部なら黙るしかないと想定しての配色であって、決して岡部の好みの色を想像したわけではない。
 種類としては、最初は迷ったものの結局思い切ってビキニタイプを購入した。
 少し大胆に胸元にチャックがあるというアクセント付き。
 頑張ればいくばくかのアダルティーな私を見せられるかも、と自身を奮い立たせて買うに至ったのだが、今では後悔している。
 凄く後悔している。深く後悔している。
 恥ずかしい……なんてもんじゃない。
 恥辱、とはこういうものかと言わんばかりの……圧倒的戦力差。
 更衣室でも、一歩プールサイドに足を踏み入れても、周りは圧倒的ボリュームを誇る猛者ばかり。

 なんなんだなんなんですかこいつらは。
 そんなに胸に巨大な脂肪をぶら下げてなんのつもりですか。
 取り外し可能なんですか違うんですかそうですか本物なんですか。
 見せびらかしてるんですか自慢してるんですか肩が凝るぞ萎むぞ垂れるぞこんちくしょうめ。

 確かに私は平均的に見てやや小さめの部類に入るかも、とは自覚していた。
 自覚はしていたが、これはあんまりだ。
 今周囲は敵だらけと言っても過言ではない。
 何故みんなそこまで発育が良いのだ。
 納得いかない。お前等その胸の膨張率をそれぞれ1%ずつでいいから分けろと言いたい。
 プール脇にいる小学生らしき女の子には負けていない事を確認し、安堵するどころか余計に悲しくなった。

 若干気分が沈みかけたが、すぐに無理矢理浮上させる。
 今日はデートなのだ、恋人同士で来ているのだ。
 それもあの朴念仁かつ唐変木な岡部からのお誘いという驚天動地である。
 楽しまねばなるまい。楽しめねば嘘なのだ。
 そう思って私は恐らく先に着替えを済ませているであろう岡部を捜した。

 捜索自体はさほど時間はかからなかった。
 良い意味でも悪い意味でも。
 予想は……してしかるべきだったのかもしれない。
 ええそうですとも。
 可能性はゼロでは無かった。
 最初に気付くべきだった。
 でも、実際に目の前でそれがあると、面白くはない。

「お一人なんですか? 良かったら私達と一緒に遊びませんか?」

「背、高いですね~」

 女の子二人に行く手を阻まれるようにして立っているのは……岡部。
 今日の彼は普段からのような整髪料で無理矢理固めた髪型ではなく、また無精髭もない。
 前々からわかっていたことではあるが、顔立ちは良いのだ。
 オマケに背も高い。
 見た目に中身は映らない。
 口を開かない“天然岡部”はイケメンと同類項に分類されるだろう。
 ……私は岡部の中身も好きだけど。
 …………むしろ大好きだけど。

「ええい、連れがいると言っているだろう? 悪いが他を当たってくれ……むっ? 紅莉栖!」

 空気嫁。
 いや、他の女の子と話している事に勝手に苛立っていた私が言うのも何だけども。
 このタイミングで声をかけられたらその二人の女の子が私を見る目が恐い気がする。
 とはいえ、これ以上岡部との時間を何処の女ともしれない相手に削られるのも癪だ。
 何より、私は岡部のか、か、彼女であるのだから、実際何も問題はない。
 例え恨めしそうな顔で見られようとも問題ない。うん、問題ない。

「お待たせ、岡部」

「あ、ああ……」

 私の登場に女の子二人は割りとすんなり引き下がった。
 正直、内心ではそれでも引き下がらないしつこいDQNだったらどうしようとビビリものだったので安心する。
 しかし、いつまた岡部に悪い虫が寄り付いてこないとも限らない。
 ここはさっさと行動に移るに限る。

「さて、どうしましょうか?」

「あ、ああ……」

「……?」

 私はどう遊ぶのか聞いたつもりだったが、岡部の反応は鈍い。
 どうしたというのだろうか?
 急な体調不良とは思えないが、動きはぎこちない。

「その、紅莉栖」

「何?」

「露出が、高すぎないか……?」

「ふえっ!?」

 予想外の言葉。
 えっ? この水着ってそんなに露出高い?
 確かに頑張ったつもりではあったけどそんなに!?
 やばいやばいやばいやばい。
 今まで友達と泳ぎに来るなんて経験殆ど無かったから気にしていなかった。
 私浮いているんだろうか?
 急に恥ずかしくなってきた。
 他の人の視線がまるで自分にだけ向けられているような気さえしてくる。

「あ、いや違う、そうではなくてな」

「……?」

「だから、だな……えっと、つまり………………綺麗だ、よく似合ってる」

「っ!」

 やばい。
 さっきとは別の意味でやばい。
 どうしてこの男はそう、落として上げるのが上手いのか。
 きっと今の私の顔は真っ赤に違いない。

「い、いいから行くわよ!」

 子供じみた感情の虚飾。
 嬉しくとも素直になれずに怒ったフリをする。
 ズンズンとあてもなく歩き出す私に、岡部がゆっくりと付いてきてくれる気配がする。
 自然と、表情が綻んだ。

「何処までいくのだ?」

 幾分歩いてから、岡部がそう話しかけてきた。
 特にあてもなかった私は、しかしそうだと悟られるのも何となく癪で偶々目に入ったアトラクションを指差した。

「あ、あれよ。あれに行こうと思って」

「ウォータースライダーか。なるほど」

 このプールの目玉の一つでもあるらしいウォータースライダー。
 結構な高さから流れるそれはさぞ楽しいことだろう……好きな人にとっては。
 結構な思いつきで言ってしまったが、私は殊の外ビビリだったりする。
 言ってから後悔した。
 正直……恐い。
 何あれ? 高くない? あそこから落ちたら死んじゃうよ? 何を考えてあんな高さにしたの? 馬鹿なの? 死ぬの?
 いや、死ぬのは使用するこちら側であって……という冷静な内心へのツッコミもそこそこに、今更緩めるわけもいかなかった足はウォータースライダーに到着してしまった。
 幸か不幸か、今はさほど人が並んでいなくて、すぐに滑れるらしい。
 ……もっと混んでいればやっぱ止めようと言えたのに。

「いらっしゃいませ、お一人ずつ滑りますか? それともご一緒に滑りますか?」

「えっ? 一緒に滑っても良いんですか?」

 一人で滑るよりかは安心できる気がする。
 しかしここで一緒に滑ろうなどと言ってしまえば私がビビっていることが岡部に筒抜けてしまいかねない。
 それも私としては正直面白くない。

「わりとカップルで滑る方達もいらっしゃいますよ」

 カ、カップル!?
 わ、私達はカップル……なんでした。
 未だに他人に恋人同士であることの指摘を受けるとつい反応してしまう。
 否定しなくなっただけマシ、かもしれないが。
 と、そんなことを考えていた時だった。

「紅莉栖、さっさと滑るぞ」

 岡部が私の肩を押し、スタート位置に着く。
 えっ!? ちょっと待って?
 滑るの? 滑っちゃうの?
 ここはもっと考慮に考慮を重ね、熟慮した上で耐久性について検討し、安全性について議論を交わした後に安全である旨を確認してからでも良いのではなかろうか。
 決してビビってるわけではなく万が一の事があっては遅いからであって、短慮は議論や研究について多分に生産性を損なう恐れが……、

「行くぞ!」

「ふえっ!? きゃあああああああ!?」

 背中を優しく押され、急降下するウォータースライダーを下っていく。
 私は突然なこともあって喉が裂けんばかりに絶叫しながらスピードを増していくスライダーに恐怖していた。
 無理! 無理無理無理! 恐い! やばい! 落ちる! ってか死ぬ!

「お、おかべぇ!」

「なっ!? おい今こんなところで抱きつくな! 危ないだろ!」

「だ、だって! きゃああああ!」

「ぬおっ!? わっ、馬鹿!」

 私が後ろに居る岡部に恐さのあまり抱きつき、しかし無理な体勢がたたって二人とも体勢を崩してしまった。
 お互い変な形で横になってどちらが上でどちらが下かもわからなくなりながら滑る。
 視界がぐるんぐるん回り、やがて水面に叩きつけられた。

「ったぁ~」

「ぶはっ!?」

 勢いよく水面に叩きつけられた私は、衝撃でクラクラしながらも立ち上がる。
 何てとんでもないアトラクションだ。
 安全性に難があるなんてもんじゃない!
 確かに体勢を崩したこちらも悪いけども。
 いきなり岡部に押されて出発したせいでもあるけども!
 ってそういえば岡部は?

「ぶわっ!? ぎゃふっ!?」

「……何やってるの、岡部?」

 岡部はバシャバシャと水を叩きながら何か必死な形相だった。
 もがいている、と言うのが一番近い表現だろうか。

「見て、ないで助けてく……れ! 俺は、泳げないんだ!」

「はぁ……? ここ、足が普通につくけど?」

「なぬっ!?」

 岡部が暴れるのを止めると、程なく水面は穏やかになった。
 足がついたらしい岡部は……バツが悪そうに背を向ける。
 何? もしかして岡部って泳げもしないで私をプールに誘ったの?

「プッ……アハハハハハハ!!」

 笑いが込み上げる。
 狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真さんはカナヅチでした(笑)
 おかしい、もうすっごくおかしい。
 泳げないのにデートはプール。
 泳げないのにプールw
 あーおかしい!
 というか笑い過ぎてお腹痛いw

「そ、そこまで笑うことはなかろう! だいたいお前があんなところで抱きついてなどこなければ良かったのだ!」

「あーはいはいそうですね」

「ええい、いい加減その笑い顔をやめろ!」




***




 私達は、ウォータースライダーの件の後もそれなりにプールを楽しんだ。
 特に岡部が泳げない事を知った私は、特訓の名目で岡部の泳ぎの指導する為に彼の手を掴みっぱなしだった。
 水の中で彼の手を引けば彼がぎこちなくも私だけが頼りと言わんばかりにしがみついてくる。
 その様がなんとも可愛くて、それだけで今日はプールに来た甲斐があったというものだった。
 プールには午前中一杯居て、午後からは外に出た。
 外は相変わらずの熱気だったが、いろんな意味で今日はそれが本当に気にならなかった。

 池袋の町を歩いて、食事して、笑う。
 たったそれだけのことが、凄く楽しかった。
 きっと、今日という日常は私の中の大切な宝物になる、そんな気がした。

「あ~楽しかった! ありがとう岡部」

 時刻は六時を回っていた。
 そろそろデートも終わりだろう、と私はそう思っていたのだが。

「紅莉栖、行きたい所があるんだが」

「ん? 何処?」

「それは着いてのお楽しみだ」

 再び車に乗り込んだ私達は、岡部のハンドルの赴くままに進んでいく。
 窓の外は既にネオンが煌びやかに点灯していて、昼の雑踏から夜の町へと様変わりしていく所だった。

 ふと、通り過ぎる景色で怪しげな名前のホテルが目に入った。
 あ、あれって噂に行くラブホテル……モーテルとかじゃないだろうか。
 よく見れば町の所々にはそんなホテルが見え隠れしている気がする。
 ギクリ、とした。
 まさか岡部の目的地って……そういう場所?
 いやいや岡部に限ってそんな……。
 でも男は狼とも言うし。
 そう言えば今日の岡部はいろいろ積極的だった気がしないでもない。
 まだそういうのは早い、とは思っていても岡部がその気なら応えるのも吝かではない心積もりは既に私の中にはある。
 でもでもでも。
 いやしかししかししかし。
 だけどだけどだけど。

「着いたぞ」

「ひゃい!?」

 入り乱れる私の妄想と葛藤の中、膨らみすぎた思考のせいで岡部の声に思わず剽軽な声を上げてしまった。
 期待と不安が入り混じる中、恐る恐る車の窓から外を見てみると、そこは大きなビルだった。

「ここって……サンシャイン、シティ?」

「ああ、展望台へ行こう」

「展望台?」

 私は言われるがまま連れて行かれるがまま、岡部の後をひょこひょこと付いていく。
 地下1階からの直通エレベーターに乗って緩やかに、しかし確実に高く高く昇っていく。
 やや長い間エレベーター特有の浮遊感を感じながら、ようやく目的の場所へとたどり着いた。

「……わあ!」

 視界360°。
 全方位の壁を窓ガラスにすることによって、夜の池袋を空からくまなく見ることが出来た。
 不思議なもので、普段芸術なんかにたいして興味を惹かれない私のような人間でも、この綺麗な景色には胸を打たれてしまう。

「今日が晴れで良かったな。スカイデッキにも行けるようだぞ」

 岡部に連れられてもう一つ上の階層、屋上のようなデッキへ向かう。
 そこには、池袋のネオンが煌めく“階下の夜景”が広がっていた。
 自分の語録がないことが恨めしい。
 綺麗、と表現するほか無い夜景に私は一時心を奪われた。

「海へは行けそうになかったのでな、せめて初デートというからには綺麗な夜景が見える場所に行きたかったのだ」

 岡部が隣で小さく呟く。
 何となく、その言葉には聞き覚えがあるような気がした。
 それはきっと……私ではない私が聞いた記憶。
 かつて私は岡部とデートについて話した事があったのだろう。
 何となくそんな気がして、私は彼の腕を掴んだ。

「ど、どうした? 急に腕など組んで」

「プールで岡部が言ってたからね、『今こんなところで抱きつくな』って。つまり然るべき場なら問題ないという解が導き出されるわけ」

「な……?」

 そういう意味ではない、と言いたいのだろうがそんな話など聞かない。
 こんな凄くロマンチックな場所で、そんなことは無粋。
 それを岡部も一応は理解してくれたのか、それ以上嫌がる素振りも文句も言わない。
 ……それが、何だか嬉しかった。

「ありがと岡部。最高の初デートだった」

「フッ……俺はこれで終わりだと言った覚えは無いぞ?」

「ふぇ?」

「近くに美味いラーメン屋がある、一緒に食べていこう」

 デート……それも最後にラーメン屋。
 普通に考えれば嫌われる可能性もあるだろうが私の場合は別だ。
 岡部は私がラーメン好きなのをよく理解してくれている。
 いつの間にかラボの非常食、カップメンが私の好きなものばかりに変わっていた事には少しばかり驚かされた。
 ありがとう岡部。
 大好きだよ。


































「そのラーメン屋はにんにくラーメンが人気でな」

「……食べたいけど念の為ににんにくラーメンはパスかな」

「念の為? 何に念を入れるのだ?」

「へっ? う、うるさい聞くなHENTAI!」

 初デートにしたキスがにんにく味だったなんてロマンチックじゃない、なんて言えるわけ無いじゃない!


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