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[30361] 上書きされたエリュシオン【異世界召喚・ロボットもの】
Name: 三郎◆bca69383 ID:fefe84c8
Date: 2012/02/01 18:47


 土臭い風が吹きずさみ、編み込まれた髪が跳ね上がる。
 元来、森の民は外界の妙に乾いた熱気を嫌う。芽吹きの香りがただ恋しい――が、周囲の緑が色の乏しい棘花だけでは、故郷を鼻に感じることはできなかった。

 ――早く森の奥へ帰りたい。けれど……。

 チナン族のカカティキは、ともすれば萎えそうになる心身を奮い立たせ、崖下の世界を見下ろした。
 断崖の縁に立ち、静かに両眼を鋭くする。
 荒れ果てた大地が広がっている。カカティキたちの住む母なる大森林とは似ても似つかぬ命の根付かない不毛の世界だ。眼下の荒野と彼女らの住処は、祖父の、そのまた祖父の生きていた頃よりも遥か昔から、高峻な断層によって隔てられていた。
 黄砂の舞う大地の中央にぽつりと浮かぶ深緑の領域。大森林がこの恵み乏しき広野に脈々と在り続けることのできる奇跡を、長老たちは森を守護する祖神《テア》の加護によるものだと言っていた。
 長老たちは嘘を語らない。だから、自分たちが神々の加護を受けていることは確かな事実なのであろう。そうカカティキは強く信じていた。
 ちらりと足元を一瞥する。
 切り立った断崖が垂直に落ちている。岸壁の一部ががらりと崩れ落ちていくのが目に映った。
 カカティキの立つ突端は、その岩姿が空を睨む大顎にも見えることから、狼《ウォウ》の顎と呼ばれていた。神話の代に狼の祖神が石になったのだと、部族内ではまことしやかに語り継がれている。
 狼神《ウォウ・テア》は大森林を守護する大神の内の一柱。大鷲《ツァル》を祖に持つカカティキの部族にとっては、それほど縁の深い神ではない。
 だが、それでも森の神だ。同じ守護神でありながら、彼の神がなぜ未だ目覚めないのか。カカティキは不思議でならなかった。

 ――今も目の前で縄張りを荒らされているというのに。

 口惜しげに下唇を噛む。
 目元にじんわりとした痛みを感じる。縄張りを侵された神々の魂が乗り移ったのかも知れない。そう自覚できるほどに、カカティキの眼差しには強い憎しみが篭められていた。
 憎悪の対象は足元の戦火。外界を蹂躙する、冷血の集団に向けてのものである。
 彼らはカカティキにとっていくら憎んでも飽き足らない、不倶戴天の仇敵であった。

 小高い山に積み上げられた、百年の城壁を取り囲む町並みから敗色の炎が立ち上っている。王の権勢を示す神殿も、煉瓦作りの建物も、その全てが灰塵に帰してしまうのも最早時間の問題であろう。
 この地を治める王は、ここウィロカーノス半島を支配する、最も強き王の一人であった。
 それ以上のことはあまり知らない。
 王にとってカカティキたちの部族は、云わばまつろわぬ民だ。王化に帰服しているわけではないから、両者の交流もほとんどない。だが、それ以前にカカティキにとって外界とは興味を抱くような存在ではなかった。子供の頃から外界の穢れを散々聞かされ続けてきたのだ。常世の国にも等しい外の世界に、興味を抱こうはずがないだろう。
 ただ、それでも朝貢を求める王の使節が幾度かこちらに来ていたので、王の人となりはおぼろげながらに類推することができた。
 王の求めてきたものは服従と、森林の特産物。四方に散らばる数多くの部族を従え、権勢を欲しいがままにしていた王の要求はひどく強欲で傲慢であった。
『己が槍で獣を打ち倒すことすらしない者が、我らの食い分を奪おうとするなど笑わせる。槍取らず《こしぬけ》な行いだ』とは、カカティキの父の言である。かつて王は部族長であるカカティキの父を屈服させようと、執拗に謀略を仕掛けてきたものだと昔話で何度も聞かされた。
 しかし、栄華を誇ったこの大国の終焉は、突如としてやってきた。いったい誰がこの哀れな末路を予測しただろう? 王を打ち倒した者たちは、褐色の肌を持つ半島の住人とは瞳の色も、肌も髪も、何もかもが異なる人間たちであった。

 ――オォォォォッッ……!!

 聞きたくもない雄叫びが、やけにしつこく耳に残る。
 彼らが何処からやってきたのかは定かでない。天の住人だと畏れる者もいれば、海の向こう側からやって来たのだと声高に叫ぶ者もいる。いずれにせよ、彼らがカカティキたちの“住まい”に勝手に上がりこんできたことで、半島の情勢は大きく変わったことに違いはない。

「――ッ! ――ッッ!」
 白い肌を赤黒く紅潮させ、異人が何かを叫んでいる。それに相対するように、王の軍勢が城壁の上から己の旗をたなびかせる。これから最後の牙城を巡る籠城戦の口火が切られるのであろう。異人の指揮官らしきものが手旗を掲げると、四足の獣に曳かれた巨大な台車が攻め手の最前線へと進み出た。
 “巨人”の目覚める音がする。巨大な二本角を持つ、全身を硬い黒曜石のような鎧で覆われた巨人が、横たわっていた台車から起き上がった。方々から目覚める音がして、最前線に立った巨人の姿はおよそ五十を優に超える。
 更に巨人と相並ぶように、巨人よりも大分上背のある“石投げの大弓群”が運ばれてくる。指揮官が手旗を更に翻すと、幾体かの巨人たちが鈍重な動きで石投げのバネ仕掛けに腰を下ろした。
 ――バシュンッ。
 次の瞬間、低い破裂音とともに石投げが起動した。バネ仕掛けが跳ね上がり、腰を下ろした巨人たちが、巨大な矢になって城壁目掛けて飛んでいく。城壁を砕く音を空に轟かせながら、巨人たちは城壁のかなり上部に取り付いた。

「勝敗は決した」
 カカティキは沈痛そうに俯いた。
 巨人の数が違いすぎる。我々半島の住人たちも巨人の存在は知っていたし、数少ないながらもそれを保有する者はいる。
 しかしながら、異人たちの扱う巨人と違って、我々の巨人――祖神《テア》は扱う者の“魂”を選ぶのだ。悠久の時を生きる彼らの言葉に耳を傾け、我々の願いを聞いてもらえるように幾年も努力を重ねる。そういった血の滲むような努力を重ねたとしても、祖神が応えてくれるとは限らない。血統や才気……様々な要素が混じり合って、初めて祖神との同調という奇跡を成し遂げることができるのだ。
 現在、守勢に回っている王の軍勢の中で、それが可能とされている者は彼の国の王、ただ一人。――そして、その最後の頼みの綱が流行病に倒れたと言うことも、カカティキの聞き知るところであった。
 守勢も決死の覚悟で城壁の上から岩を落して対抗しようとしているが、如何せん生身と巨人の差は大きい。幾体かは退けることができたとしても、もう幾体かの侵入を拒むことは不可能であろう。
 ……今ここに、ウィルカーノス半島を代表する王国の一つが滅びたのだ。
 カカティキはその事実を確かに見届け、部族に知らせを持ち帰ろうと踵を返そうとして――怒りのあまりに髪を逆立てた。

 彼女の鍛えられた視力が、城下で繰り広げられる異人たちの暴虐をつぶさに捉える。
 住人たちを刺し殺し、財の全てを奪い尽くし、そして女子供をさらう。まだうら若い女性が、薄汚い異人の兵に押し倒された光景を目の当たりにした瞬間、カカティキの脳は殺意でその全てが占められた。

「ケツァル・テア」
 大鷲《ツァル》の祖神である相方の名を呼ぶと、ケツァル・テアは優美な羽根を羽ばたかせ、カカティキの肩に降り立った。
「奴らのことを探るだけにしようと心に決めていた。……だけれども、やはり“あれ”は駄目だ。呪ってやるだけでは飽き足らない」
 彼女の父は、異人の軍勢によって八つ裂きにされた。母と姉は連れ去られ、今も行方はようと知れない。あの冷たい血の流れる“白き肌の者共”の蹂躙を見ても尚、平静でいられる道理などある訳がなかったのだ。

 ふわりと、カカティキは小柄な身体を崖の外へと放り出した。
 ぐんと臓物が上へと押し上げられていくのを感じる。このままでは彼女は地面に激突し、敢無く命を散らせてしまうことだろう。――だが、彼女には相方が、怨敵を打ち倒すための武器がある。
 ケツァル・テアが彼女の身体を持ち上げた。そのまま城下に向かって風を切っていく。
 空を滑りながらも、彼女は父から譲られたこの力を愛しむように、腕に巻かれた守り輪飾り《アマルン・アニル》をそっと撫でる。
 呟く言葉は祖神への崇拝。そして怨敵への呪詛。“白き肌の者共”をこの地上から一掃してやろうと言う、断固たる決意である。
 彼女の唇から力ある言葉が零れ落ち、目の前に光の円環が浮き上がった。
 淡い虹色の輝き。それは神聖文字を象り、回転する。

 ――Annihilation transduction.

 何を意味する文字列かは分からない。そもそもカカティキに文字を読むという習慣はない。だが、この光の文字列が彼女の復讐を手助けしてくれることだけは理解できる。それで十分だった。
 円環の中を彼女とケツァル・テアが潜る。全身が溶け出していくような感覚を抱きながらも、ただ切に敵を打ち倒す力を求める。
 褐色の肌が光沢のある硬石で覆われ、身体がぐんと大きくなる。形容しがたい浮遊感と万能感に包まれ、彼女は円環の外へと飛び出した。

「無礼姫」
「森林の無礼姫!」
 言葉ではない、白き者共の思念が新たに構築された巨人の体躯を通じて伝わってくる。
「無礼姫……良い名だ。貴様等に礼儀を尽くす道理はないのだから」
 断角していない二角獣《テ・リャー》は、家畜と言えども自衛のために角を振るう。ならば、誇りと尊厳のある自分が――大鷲を祖に持つチナン族の戦士が、このカカティキ・チナンが侵略者相手に槍を振るわぬ訳がない。
『他人の槍を借りる者になってはならん』
 偉大なる父の教えを胸に、巨人と化したカカティキは天空を駆けた。生まれた翼をいっぱいに広げ、外界の風を捉える。
 大鷲の誇り高い翼を背中に生やし、猛禽の嘴を持つ巨人。それが今の彼女であった。
 祖神と化したカカティキならば、異人共に一矢報いることも叶うだろう。祖神とはそれだけの力を与えてくれる存在なのだ。
 事実、先ほどから聞こえる風切り音は自身が風になったことを表している。そして――
 城壁を登りきり、蹂躙の雄叫びをあげている二角の黒巨人の体躯に、カカティキの手槍が突き刺さる。

 ――どうだ!

 岩にも負けない、人よりも頑強な巨人の身体とて、空から重みを乗せて落ちる一撃には耐えられない。彼女の槍は、確かに奴らの喉元へ届くのだ。
「覚悟を決めろ。人でなしの白猿共め」
 カカティキの咆哮が、戦場に新たな緊張感を生み出す。異人たちにとっては、晩餐を邪魔する招かれざる客だ。戦の大勢が決している以上、自分が第一に狙われることは必至であろう。
 その間に一人でも多くの民が逃げ延びてくれることを祈る。カカティキはこの地にて繰り広げられる無惨な蹂躙を、これ以上一寸たりとも目にしたくなかった。
 故に槍を振るう。数だけは多い、祖神にしてはやけに脆弱な黒角たちを相手に、彼女は奮迅の働きを見せつける。
 たとえ数を頼みに圧力をかけてきても、彼女は怯まない。元より城壁のような動きの制限された場所は、彼女の祖神――ケツァル・テアの独壇場と言える。
 はしばみ色の翼を用いて、高所から高所へと飛び移り、隙を見せた黒角を地面にたたき落とす。子分だけならば、どうにでもあしらえるのだ。
 このまま一掃も叶うか――と希望が頭を掠めた矢先、不意に感じた凄まじい殺気に全身が粟立った。
 来た。彼女の復讐を“常に”阻む者がやって来たのだ。
 他の黒角たちと比べて、一回りちかく大きい一本角の巨人。全身を異形の鎧で固めた白猿共の戦士である。彼女は“大柄”と呼んでいた。

「チッ――」
 “大柄”とカカティキの戦いが始まる。空と地上を行き来する彼女の連撃を、“大柄”の奴はそよ風でも相手するかのように受け流す。そして、城壁を駆け、跳び、彼女の祖神に追随する。
 駆けたり跳んだりと言った動きは、鈍重な他の黒角にはできない芸当であった。白猿共は生身の人々を制圧するために黒角を使い、カカティキのような祖神が出てくると“大柄”を使う。“大柄”は数こそ少ないものの、ケツァル・テアに匹敵か、それ以上の力を秘めているのだ。
「くそ……ッ」
 “大柄”がでてきたということは、もうこの場における復讐は叶わないと言うことと同義であると言える。むしろ、これからは無事に逃げおおせることのみに専心しなければならない。
 何せ、ケツァル・テアの翼は本来鳥が持つべき翼と異なり、空を滑るために用いるものだ。故に、この場から飛び去って悠々と引き上げることはできない。
 虚空に火花を散らせながら、カカティキの手槍と“大柄”の分厚い斧がしのぎを削りあう。敵の仮面のような角頭から覗く、たった一つの眼が怪しく光った。
 カカティキは屈辱に身を焦がす。

 ――口惜しい。

 目の前の黒角を駆逐できない自分の惰弱さが。城壁から脱兎の勢いで飛び降りて、今すぐにでもこの場から逃げ去らなければならない自分という存在があまりにもちっぽけに感じられて、悲しかった。
「祖神よ、何故奴らの暴虐を座して見ているだけなのだ――ッ!」
 彼女は叫んだ。
 城下で“大柄”と得物をぶつけあいながら、必死に活路を捜し求める。途中、石造りの大橋を駆け抜けて、王都の神殿を飛び越える。 峨々《がが》とそびえる神殿階段の奥に都の守護神、頭の欠けた神像の姿を認めた瞬間、彼女の怒りは急速に膨れ上がっていく。
 神像をねめつける。だが、業火に巻かれた祖神像は何も語らない。
「王都のものは、神ですらも槍取らずか……」
 今回だけではない。
 白猿共とカカティキは幾度となく槍を交わしている。彼らがウィロカーノスの民にとって脅威であることは確かなのだ。それは確信を持って言える。
 共通の敵がいるのならば手を取り合って撃退するのが道理。だというのに、今日の今日までカカティキの前に共に戦ってくれる同志は現れなかった。

 ――一人では駄目なんだ。

 異邦人相手に孤軍奮闘し、数え切れぬ敗戦を経験してきた彼女の精神は、既に限界まですり減っていた。
今までに経てきた辛い戦歴から学んだ事実は、一人の力などたかが知れているという一点のみ。
 助けてくれる仲間が欲しい。対等に肩を並べることのできる同志が欲しい。いや、むしろ……

「私でなくとも良い……誰か奴らを、あいつらを滅ぼし、皆を、私を救ってくれ。お願いだ……!」
 救世主。そのような言葉が頭に浮かんだ。慣れ親しんだ言葉ではないから、ケツァル・テアを通じて思い浮かんだ言葉なのかも知れない。だが、不思議と彼女が求めているものにしっくりと当てはまるような気がした。
 カカティキは硬石の鎧の内側で涙を流す。彼女の悲痛な叫びは鷲頭の巨人の隅々にまで駆け巡り、その外側にまで洩れ出た。


 ――ようこそ、億年の記録保管庫。シヴィリゼーション・アーカイヴズへ。私、当支部の案内を務めます、アーティフィカル・パーソナリティーのエリーゼと申します。言語設定等は採集遺伝情報に基づき最適化されております。変更を希望する際には別途詳細設定を行ってください。マニュアルおよびFAQを参照しますか? それでは検索単語を入力してください。
 ――検索単語は“救世主”。……検索結果が膨大です。詳細な項目設定を行いますか?
 設定を行いました。
 ……それでは検索を開始します。





 まず頭の中が真っ白になって、間髪入れずに衝撃と強い頭痛が襲ってきた。この痛みは物理的な要因によるもので、とどのつまりは転倒したのである。
「――ってぇ……」
 背中越しに感じるひんやりとした石の感触が、意識の覚醒を促してくれる。
 陽一は後頭部を擦りつつ、もう片方の手でひしと抱えた“宝物”に視線を送る。
 幸運なことに、“宝物”は無事であった。
 強張《こわば》る身体を弛緩させ、ほっと安堵の息をつく。発掘品は総じて脆い上、一度でも損壊してしまえば取り返しのつかない貴重品ばかりときている。特に、今回発掘された品物は学史に残る可能性すらある代物であったため、陽一は身を挺してこれを守った自身の責任の強さに自賛したい気持ちで胸がいっぱいになった。
 周囲は暗闇に包まれており、自身が一体どんな状況に置かれているのかは分からない。
 直前の記憶を紐解けばある程度類推することもできようが、今は「折角守りきったのだから……」と、死守した発掘品に意識を集中させたい気分だった。
 暗闇の中、“宝物”の無事が確認できたのは、それ自身が光を発しているためである。
 掌の内で“宝物”は傷一つなく輝いている。虹色の光を放つ奇妙な腕輪――何十世紀もの年月を跨いだ遺物とは到底思えない程劣化の少ないそれを、陽一はまじまじと見つめた。
 ……見れば見るほどに不思議な腕輪だ、と陽一は思った。金属なのか陶器なのか、材質の見当がとんと付かず、時折幾何学的な文様が浮き上がって見える。時代を超える凄みとでも言うべきか。いかなる時代の者が見ても、「これはこの世に二つとない至高の品だ」と誉めそやすに違いあるまい――そう確信を抱かせるに足る普遍的な美を感じさせる。
 美術品としては特級品……それは重畳。重畳なのだが、

(困ったことになった)
 陽一は奇跡の宝物を握り締め、途方に暮れたように眉根を寄せた。
 この腕輪が、少なくとも陽一が調査していた遺跡から発掘されるはずもない代物であることは確かであった。
 Out of Place artifacts.
 卑近な言葉で表すならば、これはいわゆるオーパーツに該当する代物なのだ。もうオカルトの域に達しているといっても良い。一昔前に流行ったムーの編集部が涎を垂らして喜びそうなネタだと言える。それだけに、これをどう学会で報告したものかが気がかりだった。
 どの業界も若手に求められるものは新しい知見。しかし、異端はお呼びでない。ぽっと出のオーパーツなんぞに、定説を覆されたくないご意見番はごまんといる。下手な報告をしてしまえば、理を以って……あるいは彼らの政治力で叩き潰されてしまうことは想像に難くなかった。
 故に陽一は“宝物”の扱いに戸惑いを見せた。……とは言え、心を乱した時間はそう長くはない。
 ――否、長く悩んでいられるゆとりを周囲が与えてくれなかったと言った方が正しい。戸惑ってすらいられない事態が陽一の身に降りかかったのだから。

 まず突然の浮遊感。
 そして、ぐんと重力を感じる。
「やべッ――」
 ぱあっと目の前が白く輝き、両目に針を刺されたような痛みを感じる。周囲の景色が急速に色づき始めたことに気づいた時、陽一は今更ながらに自身が置かれていた状況に思いを馳せる。
(そういや、遺跡の崩落に巻き込まれていたんだっけか)
 更なる崩落によって、遺跡の外へと投げ出されたことは果たして幸か、それとも不幸なのか――恐らくは不幸にカテゴライズされるはずだ。
 ちらりと見える、地面は遠い。
 どう見繕っても助かる高さではないように思えた。
 落下の最中、首から提げたネームプレートがふわりと陽一の視界を遮る。
 短く黒髪を切り揃えた、黒目の典型的なアジア人顔がそこに写っている。名前はアルファベットでYOUICHI YAHIRO《八紘陽一》。
 姓名の下部には南米のとある国立人類学博物館の客員研究員という肩書きが記されている。
 死ぬかどうかの瀬戸際だと言うのに、随分と暢気に物を見ているものだ――陽一は自分で自分に呆れてしまった。
 ばきばきと何度も背中に引っ掛かりを感じて、その度に枝の折れる音が聞こえてくる。

 ――一体、何故自分がこんな目に……?
 自業自得? いや、そんなわけはない。
 物事には原因がある。原因には遠因がある。
 ある青年が宇宙飛行士になったとして、その原因は子供の頃の夢だとする。ならば、その遠因は親の寝語りか各種メディアにあるはずだ。突然ぽっと湧き出るものではない。故に陽一の“不幸”にも遠因があってしかるべきだろう。
 ならば、何が遠因か。一体、どいつが仕組んだことなのか。

 ジャン=フランソワ・シャンポリオンのせいだろうか……?
 なるほど十九世紀初頭にあの最初期の考古学者が欲目を出さなければ、今頃考古学と言う学問は生まれていなかった。だから、陽一が不運に見舞われることもなかったはずだ。
 更に挙げるならばフリードリヒ・エンゲルスの、クロード・レヴィ=ストロースのせいもあるだろう。
 彼らが未開社会のロマンについて指摘していなければ、陽一が人類学を志すことはなかった。構造主義を信奉し、湧き上がる探検欲に身を焦がせることもなかったはずだ。
 地下に埋蔵された歴史の断片。未だ世界の僻地に現存する未開社会。
 これら歴史の残り香に背中を押され、八紘陽一という人間は研究者になった。ああ、しいて付け加えるとするならば、ジュール・ヴェルヌをはじめとした冒険小説家たちも欠かすことはできないだろう。

 ――いっぱいあるじゃないか。
 星の数ほどに挙がった、“落下する”に至った遠因。
 これ以上はきりがなさそうなので、陽一はひとまず戦犯の特定を諦めた。
 それにしても、と陽一は思う。
 運の尽きとはこのことを言うのだろう。大多数が諦めざるを得ない知的好奇心を満たすための最前線――研究者としての道に残ることができ、専攻していたメソアメリカ文明を調査するために海外の研究機関に在籍することができたという幸運。
 自分の発見した遺跡が、今までに判明しているどの文明とも接点がなかったという好運。
 そして、オルメカ文明以前に建てられた、超古代とも言うべき遺跡を先陣を切って調査できたことは、まさに僥倖と言って良いだろう。
 挙句の果てには、遺跡内で虹色の宝物を発見するという“奇跡”まで起こる始末だ。
 自分が研究者になることができたのも、お膳立てされたかのように障害のない出世路も、その何もかもができすぎている。「こんなトントン拍子じゃ、いつ幸運が枯渇したっておかしくない」などと、陽一は常日頃から考えていた。
 かくして幸運の天秤棒がマイナスに傾くXデーがいつやってくるのかと戦々恐々とする日々を送っていたのだが、どうやら今この瞬間がマイナスに振り切れた瞬間らしい。
 ――ああ、ここが“ツキ”の天井だったんだな。
 他人事のように呟く段になって、陽一ははたと気がついた。 
 ――何だ、自分がひどく背中を打ちつけてしまったのは大体がフランス人のせいじゃないか。
 一足飛びの結論に、妙なおかしみを感じる陽一。彼の思考スペースに、これから自分の身に降りかかるであろう数奇な運命を想像するだけの余裕など何処にもありはしなかった。



一、



 結論から言えば、陽一はその命を辛うじて繋ぎとめることができた。どうやら運命の女神は陽一のことを見捨ててはいなかったらしい。
 幾重にも重なった熱帯樹の枝を犠牲にし、陽一が得たものは背中に感じる激痛。
「~~ッッ」
 痛みで息が詰まったが、それよりも周囲の景色に驚いた。
 嗅覚に訴える強い緑の芳香は、先刻遺跡に踏み入る前に感じていたものと相違ない。木々のざわめきも、鳥や獣の重ね鳴きも同様に熱帯雨林特有のものを発している。
 だが、肝心の“遺跡”がないのだ。
 遺跡のあるべき場所に視線を走らせて見ると、そこには高層建築に比類する、およそ中々お目にはかかれないほどの巨木がそびえたつだけであった。
「な、何で……」
 気が動転し、かすれ声が漏れる。この混乱を仲間と共有したくて、慌てて辺りをきょろきょろと見回してみても、
「いない……?」
 辺りに仲間の気配はない。
 崩落で全滅した……という可能性は恐らくないだろう。陽一ら遺跡調査の先遣隊は、遺跡の周囲を取り囲むようにベースキャンプを設営していた。物が物だけに盗掘を防ぐための警備員まで雇っており、かなりの大所帯であったから、全員がそっくりそのまま消え失せるなんてことは考えにくい。
 ……にも拘らず、
(何で誰もいないんだ)
 陽一の視界に納まる範囲の内には、人の気配どころか人がいた痕跡すらも見つけることができなかった。
 あるのは落下に巻き込まれたと思わしき枝のみ。
 これで落ちていたのが形の良い木の葉なら、太平洋を渡って狸か狐が自分を化かしにきたのだと断言していたことだろう。それほどに陽一は狼狽していた。
 平静を取り戻さんと、陽一は自分が置かれた状況について考えを廻らせる。
 落ちたショックで気を失い、獣か何かにここまで引きずられてきたと言う可能性は……ありえない。そんな事態に陥る前に、仲間が助けてくれるはずだ。
 調査チームに盗掘者が混じっており、見知らぬ場所に置き去りにされた可能性は……これもありえない話だ。今回の調査は国を挙げた一大プロジェクトであり、人員については厳しく選別が行われていた。それに、陽一はまだ“虹色の腕輪”を持っている。
 白昼夢を見ている可能性……については、あまり考えたくなかった。誰が好き好んで「自分の脳に障害がある」などという結論を認めるというのだろうか。
 助け舟を求めて泳ぐ視線。
 陽一の眼が十階建ての建築物に届かんばかりに枝を張った樹影を捉える。巨木は陽一の混乱を笑うかのようにそよいでいた。

(ん……?)
 ふと、枝と枝の合間に暗い影がぽかりと広がっているのが見えた。
「木のうろ、か」
 それは古木に開いた樹洞であった。大型の獣ですら易々と潜り込むことのできそうな空間が、陽一の頭上に広がっている。そして、入り口には欠けた石片が幾つも引っ掛かっていた。
「あれは遺跡の……いや、そんなはずはない。けれど」
 樹洞は陽一の手の届かぬ位置にある。遺跡の欠片がそんな場所に引っ掛かるはずがない。もし引っ掛かるとするならば、そう……“陽一と崩落した破片が一緒くたになってうろの中から飛び出してきた”というありえない想定をする必要があるだろう。
 だが、頭ではそう理解していても、陽一は何故か疑念を払うことができなかった。でかい図体の中腹に開いた“がらんどう”。それだけ陽一には頭上の闇が何だか不気味に感じられたのだ。

「ちょっと分からないな」
 陽一は疲れたようにため息をついた。
 判断のつかない時に苦心してもろくな結果を生み出さないであろうことは、二十七年間の人生経験から既に学んでいる。こういう時は諦めた方が良いのだ。
「ラベンダーの香りでも漂ってくれりゃ良いのに」
 もし、あの柑橘系に近い香りを感じることができたなら、自分が超常現象に巻き込まれたのだと結論付けることができるのに……そんな益体も無いことを考え、陽一は苦笑いした。
 もしそんな妄想が現実となってしまったなら、タイムスリップで知られるあのSF小説の作者は、実はノンフィクション作家であったということになる。
 フィクションの看板を取り払う御大の姿をまぶたに浮かべて、陽一は頬を緩める。

「さて、と」
 冗談を口にしたことは正解であった。
 いくらか落ち着いた頭を存分に働かせ、今優先しなければならない行動を取捨選択していく。
 まず、ここが一体何処なのかを知る必要がある。自分の居場所が分からなければ、家路に着くことも叶わない。食料の調達などは、何よりもまず帰路をきちんと確保した上での話であろう。
 大樹を背にして、陽一は辺りに視線を廻らせた。道らしき道はない。まずは鬱蒼とした木々の壁を掻い潜り、開けた場所へ出る必要がありそうだ。
 その場を立ち上がり、陽の当たる場所を求めて陽一は歩き出す。
 ぱきり、と常緑樹の枝を折りながら、小鹿や猪でも難儀しそうな小経を抜ける。曲がった木の根を跨ぎ、時には蔓にぶら下がり、藪の中を進む。
 足を必死に動かしながら、陽一は徐々に膨らんでいく違和感に首を傾げていた。
「ここは、一体……」
 ここが陽一の良く知る熱帯の森林地帯であることは確かな事実だ。強い生命の営みを、陽一は五感を以って確認することができる。だが、「果たして南米なのか?」と言う疑問に、陽一は反論することができずにいる。
 南米の主役たるカピバラや極楽鳥、ホエザルの姿を先ほどから全く見かけないことも要因の一つであったが、何よりも“空気”が違った。
 薄い、とでも表現すれば良いのだろうか。アマゾン川流域に踏み入った際に感じる、あのしつこいくらいの水の匂いが全くない。大方川から離れた場所に逸れているのだろう、と安易に結論づけることのできない“しこり”のようなものが頭の中にこびり付いて離れてくれそうになかった。
 陽一の困惑とは無関係に、目の前には相変わらず変化のない濃緑のアーチが続いている。こうして一時間、さらに一時間と陽一の苦闘は続いた。
 いい加減、陽一の足が疲労を訴えかけ始めた頃のことである。
 頭上を覆っていた木々の天幕が途切れ、ようやく地面に明るい光が差し込むようになった。
 そこで陽一は信じがたい光景を目の当たりにする。
 目の前に地面はなく、ぶつりと途中で切れている。彼の立っていた場所は絶壁の上であった。
 何千年という年月を経たであろう断層が、砂塵の舞う大地から空に向かって真っ直ぐに伸びている。

「……どういう、ことだよ」
 陽一は困惑をあらわにして後ずさりした。
 中南米にもアンデス山脈やミスミ山といった山岳地帯がないわけではない。しかし、そのどれもが高山地帯特有の気候と生態系を有している。少なくとも、“山の上に熱帯雨林がある”なんて話は聞いたことがなかった。
 一瞬、真っ白になる思考。だがすぐにそれは歓喜に塗り潰されていった。

 ――大発見なのかもしれない。
 宇宙から地表面の観測が可能になった現代において、生物学者や地理学者に把握されていない地域など万が一にもある訳がないと思っていたのだが、その万が一に廻り合えたのかも知れなかった。
 もし、何らかの理由で観測の不可能な場所が未だ存在しており、自分は幸運にもそこに踏み入ることができたのならば……?
 そう考えると、陽一の心は独りでにふるえてきた。
 外部からもたらされる情報を漏らさず持ち帰ろうと、陽一は両目を皿のようにする。
 すると、眼下に広がる荒野の向こう側に、巨大な何かが列を成しているのが見えた。

「あれは――」 
 熊ではない。熊は二足歩行で整列しないはずだ。
 人ではない。人はあそこまで巨大には育たない。何よりも、あの“でかぶつ”たちの足元には陽一と同じくらいの背丈の人間たちが歩いているのだから見間違えようがないのだ。
 遠近感が狂ったのかと目をごしごしとやってから、再び凝視する。
 そして、下を歩く人々の格好に幾つかのバリエーションがあることに気がついた。
 上等な布地のチュニックで全身を飾り立てた者。甲冑姿の無骨な軍人。そして、粗末な貫頭衣を来た褐色肌の人々。
 陽一は顔を歪めて、
「何故、枷を嵌められた人が混じっているんだ」
 素直な疑問を口にする。
 褐色肌の人々の首には皆一様に枷が嵌められていた。チュニック姿の者たちが枷から伸びるロープを引っ張り、彼らを乱暴に導いている。
 彼らが奴隷である、といった発想は浮かばなかった。今日日、奴隷制など過去の産物である。ラベンダーの香りを嗅いだのでないのならば、間違ってもお目にかかることのできない光景のはずであった。

「……ああ、映画の撮影か何かか」
 陽一は落胆を隠せずにため息をついた。世紀の大発見かと喜んだ矢先に、これだ。
 前人の存在は、ここが未踏破地域ではないことを示している。陽一の感じた知的好奇心の充足感は、一瞬の幻であったというわけだ。
(いや、ここは喜ぶべきだな)
 首を振って思い直す。
 彼らならば周辺の地理を把握しているに違いあるまい。とするならば、彼らに道を尋ねて家路に着くことも叶うだろう。上手くすれば、遭難者ということで保護すらしてもらえるかも知れない。
 そう、この落胆は必ずしも招かれざるものではないのだ。陽一は慌てて絶壁の下へと降りる道を探そうとして――気がついた。
 周囲を取り巻く敵意の眼差し。
 茂みの向こう側に複数の、自分と同じ理性を持つ何かの存在を感じる。
 陽一は、気づかぬ間に正体不明の集団によって取り囲まれていたのであった。





 陽一を遠巻きに囲んでいるのは、上半身をあらわにした褐色肌の男たちであった。
 魔除けか何かであろうか。彼らの身体のあちらこちらには骨や角で作られたアクセサリーが飾られている。日々の生業によって鍛え上げられた無駄のない体躯は褐色にくすんでおり、崖の下を歩いていた貫頭衣姿の人々と血縁的に近しい関係にある者たちであることは確かのようだ。
 切らずにいる髪は長く編み込まれており、宗教的な意味合いを感じさせる。
 陽一は彼らのことを知らなかった。
 彼らも同じく陽一を未知の存在と判じたようで、皆一様に険悪な表情を浮かべている。

「――ッ!!」
 森を切り裂くような警戒の言葉が、耳朶を叩いた。
 何と言っているのか分からない。
(ケチュア語やスペイン語ではない。ならば、混成語《クレオール言語》、か……? いや、それも違うな)
 必死に頭の中から情報を引っ張り出してみるも、該当する言語が見つからない。
 どうやら、彼らの用いる言葉は、陽一の学んできた言語のいずれにも該当しないものであるらしかった。
 未知の言語との遭遇。
 陽一は表情を引き締めた。
 南米には未だ文明社会がまだ把握しきれていない部族が数少ないながらも存在している。未接触文化の発見は、陽一たち人類学博物館に勤務する研究員にとって重要な職務の一つであった。
 彼らの言葉に耳を傾ける。
「ッッ!」
 強い口調で重ねられる、褐色肌の怒声。
 ――警戒の意。恐らくは代名詞。動詞。
 彼らの言葉は単純な文節で区切られている。多分、助詞と言った概念はないのだろう。日本語で表すならば「私、森、歩く」と言った片言のコミュニケーションを部族内で取っていると考えられる。

 ――警戒の意。
 再び、唸るように警戒の言葉が投げかけられた。今度は他の男たちも同調して、一斉に騒ぎ立てる。放つ言葉は皆同じもので、恐らくは疑問を表しているのだと推測が立つ。
 見知らぬ人間を前にして、疑念を投げかける際に放つ言葉は古今東西共通している。それは「誰だ?」である。
 陽一は脳内で組み立てた推測を確かめるべく、彼らの敵対心を煽らぬよう静かに返事をした。
『誰だ。八紘陽一。自分は八紘陽一と言う』
 身振りを組み合わせ、陽一は自己紹介を試みる。
 その言葉を聞いて、褐色肌の男たちは色めき立った。
 銘々の表情から困惑が読み取れる。恐らく、「何故こいつは自分たちと同じ言葉を用いているのか」と言ったようなことを考えているのだろう。だとするならば、陽一の推測は的中したことになる。
 してやったり。陽一は内心ガッツポーズを取って、外面は平静を保ったまま、敵意のないことを示すように両手を挙げた。
『八紘陽一。自分に敵意はない』
 再び自分の名前を口に出して、友好的な態度を取り続ける。
 すると、男たちの中でも一際貫禄のある大男が一歩前に進み出て、怪訝そうな表情で、
「<主語に当たると思われる>、<形容詞か>、<恐らくは固有名詞>。ヤイロヨイチ、<不明>、<疑問>?」
 意思の疎通を図ってきた。
(hの発音が苦手なのか? まるで江戸っ子だな)
 妙なおかしみを覚えながらも、男の言葉を反芻する。
(情報が少なすぎる。彼らの言語を理解することは到底不可能だ。ならば――)
 ひとまず言語での意思疎通は諦め、ジェスチャーでなんとかならぬものかと身振りする。
『八紘陽一。自分は道に迷った』
 すぐに襲い掛かってくる様子はなさそうであった。胡乱げな表情で彼らは陽一の身振り手振りを観察し、やがて目を見開いて仰天する。
「アマルン・アニル……」
 視線の全てが、陽一の掌の内におさまっていた虹色の腕輪に注がれていた。
「アマルン……何だって?」
 陽一は指を顎に当て、眉を寄せた。
 先刻遺跡で見つけた“宝物”を、何故彼らが知っているのか。言葉が通じないということも忘れて、問いかけようとしたその時――
 森の奥から怒声が聞こえてきた。
 凛と響いたその声に、男たちはびくりと身体を強張らせる。
「ツァル・テア。ケ、チナン。カカティキ……」
 男たちの呼びかける方に視線を向けて、
「うっ……」
 陽一は思わず息を呑み、雷に打たれたようにその場で硬直した。

 ――銀髪の女神がそこにいた。
 はしばみ色の羽根飾りで飾られた輝く髪。それは丁寧に編み込まれており、まるで鳥の尾羽のように跳ねている。少女特有のスマートな肢体はしなやかに伸びており、獣革の衣から覗く褐色の肌は、ほのかに艶を帯びていた。
 紺色の瞳からは年齢に似つかわしくない深みが感じられ、きゅっと切り結んだ小さな唇と競い合い、少女と大人の狭間にあるであろう彼女の魅力を存分に引き出している。
「あっ……えっと」
 年甲斐もなく、陽一はうろたえた。
 先ほどまで専念していた職務のことなど遥か遠方に放り投げ、ただ彼女にどう声をかけたものかと思い悩む。これまで二十七年間の人生のほとんどを研究に捧げた陽一にとって、彼女はあまりにも場違いな人種と言えよう。一体どう接すれば良いというのか。
(くそっ)
 都会に住むどんな佳人よりも生命の輝きに溢れ、いかなる貴人たちと並べてみたところで色褪せることのない威厳を感じさせる少女を前にして、陽一にできることなど何もない。
 ただ、ただ恥ずかしくなって、陽一は俯いた。
 銀髪の女神は、ずかずかと乱暴な足取りでこちらへと近づいてくる。
 褐色肌の男たちの動揺などまるで意に介していないようだ。
 香木の香りがふわりと、陽一の鼻をくすぐった。凛とした雰囲気に似つかわしくない、何処か優しそうな香りに陽一は少し安堵する。
 ちらりと上目がちに彼女を見る。すると、彼女の瞳は冷たい怒りで満ちていた。

「――」
 慈悲の篭っていない冷徹な言葉が、短く発せられる。瞬間、小柄な身体が翻り、彼女が視界から消え失せた。
「えっ」
 疑問に思う暇すらなく、首筋に感じる強い衝撃。
 何で――と、疑問に思う暇すら与えられずに、陽一はその場に崩れ落ちた。
 彼女に声をかけるどころではない――
 彼女は、銀髪の少女は自分の敵だったのだ。


――――――――――――――――

お世話様です。三郎です。
本作品は異世界に召喚された青年を主人公にしたファンタジー寄りの物語になっています。
二月にある某創作系の同人イベントに出すための作品なので、遅くとも一月中旬にはまとまるかなあと見通しを立てています。
そんなに長くはならないと思いますので、是非、完結までお付き合いくださいー。

また、「たられば戦国記 ~安芸の柊、春近し~」と「虫っ娘ぱらだいむっ! ~布安布里 詩人の研究ノート~」という作品も、理想郷内に投稿しておりますので、もし宜しければそちらも読んでいただけると幸いです。
それではよろしくお願いします。



[30361] 1-2
Name: 三郎◆bca69383 ID:2b30bece
Date: 2011/12/28 18:32
二、
 つんと感じた獣臭に目が覚めて、一番に見えたものは切り出した木材が織りなすストライプであった。
「……っぅ」
 鈍痛を訴える首をゆっくりと回しながら、陽一はぼやけた思考の靄を払っていく。
 身体が重い。気を失っていたせいもあるだろうが、どうやら全身が凝り固まってしまっているせいらしい。
「まあ、毛布すらないようじゃ、なぁ」
 硬い床を見下ろすと、そこには申し訳程度に何かの藁が敷き詰められていた。
 肺に溜まった息を吐き出し、改めて辺りを窺うことにする。先ほど視界に捉えた縦縞模様は、大分隙間が空いていた。
「……家、なわけがないよな」
 眉間の皺を深め、思案する。
 いくら熱帯と言っても、こんな風通しの良すぎる住処はあり得ない。水分を大量に含む森の中というのは、夜間想像以上に冷え込むものだし、何よりもたき火の煙が届かない場所で一夜を過ごすのはあまりにも危険すぎる。猛獣が、と言うわけではない。主に危険なのは伝染病を媒介する吸血昆虫の類である。
 となると……と、陽一は更に思索を深めようとして――決定的なヒントに今更気づく。
 先程から感じていた獣臭の元――それに目をやり、陽一はがくりと肩を落とした。
 獣糞が、隅に転がっていたのだ。
「ああ、檻の中ね」
 考えてみれば、それはあまりにも当然すぎる結論であった。
 気絶する直前、陽一は未知の部族と接触している。森に生きる人々のほとんどが採集狩猟を生業にしているものだから、彼らもその例に漏れなかったということなのだろう。
(となれば、ここは生け捕りにした獲物を保存しておくための獣檻といったところか……?)
 間違っても人を入れるような場所ではない……が、先刻不意の攻撃を受けたことからも、あれらが自分に友好的でないことは明らかである。
 ……と、ここまで来れば、子供でも結論が出せる。
 どうやら自分は拉致されたらしい。陽一は途方に暮れながら檻の天井を見仰いだ。

「ああっ、くそっ……!」
 がしがしと髪を掻き毟り、陽一は苛立ちをあらわにした。
 崩落に巻き込まれた時とはまるで異なる、現実的な死の予感が脳裏を過ぎる。

 ――未踏破地域の調査には常に危険がつきまとう。未開を決して甘く見てはならない。

 ベテランの研究者から、耳にたこができる程に説教を受けた文言を、今更ながらに思い出す。
 未踏の地へ旅立ち、そのまま帰ることのできなかった先達は数多い。それだけ冒険とは非常に危険な行為なのだ。
 そんな当たり前のことを、今の今に至るまで他人事のように感じていた自分がひどく恥ずかしい。
(……まさか自分自身がこういう立場になるなんて)
 沸き上がる後悔に強く歯噛みする。
 大学院を出て、陽一がこの世界に踏み入ってからまだ三年と経っていない。当然、未開の調査も数えるほどにしか経験をしていなかった。
 そのためだろう。未開への冒険などは、あくまでも日常と日常の合間に挟まっているスパイス……または、魂を揺さぶる、体感型スペクタクル程度の認識しか持っていなかったのだ。
 今になって思えば、考えが浅かったと言わざるを得ない。
 一歩間違えば、命を落とす。常に迫られる選択は決死のもの。
 もし、そう言った恐怖を身体に染み込ませていれば、先刻未知の部族と出会った時の対応も大分違ってきたであろうし、それ以前に逃げ隠れることだってできたのかも知れない。
 いや、そもそもの話、遺跡の崩落にだって巻き込まれずに済んだのではないだろうか……。
 次々に浮かび上がる、「あの時、こうしていれば」と言う後悔。
「このまま帰れないのか……?」
 望郷の念が心に渦巻き、陽一はしゅんと項垂れる。

 ――家に帰りたい。

 心の底からそれを願う。
 いくら未開の地が夢と希望に溢れていると言ったって、それはあくまで家に帰ることのできる当てがあってのこと。どんな勇敢な冒険家とて、家や家族を持っている。持っていないのならば、そいつは冒険家ではない。ただの根無し草だ。
 まだ、やらなければならないことは山ほどあった。今回の発掘報告書、学会での発表用原稿の作成。さらには発掘資料のコンディションレポートなど……。ここ数年は顔を見せていない家族にだって何気ない挨拶がしたかったのに。
 考えている内にも、無慈悲に過ぎ去っていく時間の流れ。それが何とも恨めしく感じられ、陽一は悲しげに低く唸った。

 ――ここから出たい。今すぐにでも。

 強烈な欲求が膨らんでいく。衝動のままに手を伸ばし、檻の隙間に顔を押し付ける。
 檻の外に広がる世界は既に黄金色に染まっていた。
 陽一を捕まえた部族の集落だろうか。既に傾いた陽射しを浴びながら、一日の生業を終えた村人たちが家路についている。
「ケ・チナン、アイ、キジャ。ラン、テ・リャー」
 遠方で村の子供たちが歌いながら、家畜を牽いている。
 立場が立場でなかったら、その光景を「のどかである」と評することができたのかもしれない。
 しかし、今の自分は囚われの身。そして彼らは自分を捕らえた敵である。
 彼らは家に帰ることができるのに、自分にはそれが叶わない。陽一はひたすら彼らが憎く思えて仕方がなかった。
「くそっ……」
 じろりと子供たちを睨みつける――が、彼らを視界に納めた瞬間……何かが心に引っかかった。
「……?」
 違和感があった。
 列を成し、明るい足取りで四人の子供たちが歩いている。これは人の住んでいる所ならば都鄙の別なく何処でも見られる、実にありふれた光景と言えよう。だから、違和感の原因ではない。
 その先の……彼らが手に持つロープの先に繋がれている家畜。これが問題だ。
 一見、馬のようにも見える生き物。その鼻先を見て、陽一は言葉を失った。
(二角の馬だって……ッ?)
 静かに頭を垂れながら、とぼとぼ歩く家畜の鼻先と額からは縦列に並ぶ二本の角が突き出ていた。
 驚きのあまり、思考が真っ白になる。
 角は半ばほどで折られているから、元の全貌は分からない。が、基部の太さから考えて、サイのように立派な角が備わっていたであろうことはおぼろげに類推できる。折られた角の基部は加工され、荒縄が巻きつけられるようになっていた。
 サイの角を持つ馬などいるわけがない。
 シカやトナカイ、レイヨウなどの生き物の姿を思い起こしてみるも、それらの角は基本的に目や耳と並行して発達しているものだ。それだけならばまだしも、蹄があるはずの脚に蹄はなく、あるのは鳥類の鉤爪のみ。
 既存の知識と目の前の生物が重ならない。
「あんな動物……見たことも聞いたこともない」
 嫌な予感がした。
 陽一は目を皿のようにして集落内を隈なく見回す。
 別の場所で精悍な体つきの狩人が歩いているのを見つける。彼がぶらさげている獲物は、猪よりも大きい二足の爬虫類であった。
 更に視線を滑らせる。集落の中心には市が開かれていた。その内の一カ所。筵の上に並べられた魚の鰓を見て、陽一は目を疑う。
 縄にくくりつけられていた魚の鰓から、皆一様に金属の刃が飛び出ていた。ナイフを突き刺されているわけではないらしい。カジキマグロの嘴のように、身体の一部が硬く進化しているのだ。
「そんな……って、うわっ」
 だめ押しをするかの如く、不意に迫る飛来物。陽一は慌てて後ろに倒れこむ。
 果たして翅音を立てて飛んできたものは……何と三つ目の巨大コオロギであった。
 檻にぶつかり、再び何処かへ飛び去っていく怪物の後を眼で追いながら、
「これ、は……」
 へたへたと力を失う。
 映画の撮影などと自分をごまかすことはできそうになかった。
(新たな知見どころの話じゃない)
 これは異界。
 夢遊病にかかっているのでなければ、目の前に広がるこの光景は間違いなく陽一の知る世界とは異なる現実なのだ。
 陽一の頭から、帰還の二文字が消え去った。帰り方が分からない。
 恐らく余裕を失っていたせいだろう。
 陽一は檻へと近づく突然の来訪者に気がつくことができなかった。
「――」
 誰かに不機嫌な口調で何かを呼びかけられる。
 ギイと音を立てて、獣檻が開いた。
 姿を現したのは、先刻の少女。彼女は突き刺すような眼差しのまま、肩を怒らせ腕を組んでいた。
「あ……」
 少女と視線が交錯する。
 以前と同様に、冷たい眼差しだ。凍えるような憎しみの感情が瞳の内に渦巻いている。
「<呼びかけ>、<恐らくは名詞>」
 再び、言葉をかけられる。先程よりも苛立ちを込めたその声色から、陽一の無反応に対する不満がありありと見て取れた。
「な、何だよ……」
 後ずさりしながらも、彼女に対して睨み返す。
 何せ相手は自分を拉致した張本人である。
 どうして自分がこんな目に会わなければならないのか。何でこんなに憎まれなきゃならない。一体全体自分が何をしたって言うんだ――陽一の胸の内には、吐露したい感情が山ほどにつまっていた。
 彼女の敵意を浴びながら、陽一はぐっと両拳を強く握り締める。
 わなわなと震える唇。陽一はヒステリックに感情を吐き出す。
「ここは……一体何処なんだよッ!!」
 銀髪の少女に対して陽一がかけた初めての言葉は、故郷の言葉による悲痛な叫びであった。


「……?」
 少女は怪訝な表情でこちらをねめつけた後、すぐに考えることを止めた。無駄なことだと割り切ったのだろう。
 代わりに何かを投げてよこす。慌ててそれを受け止めるべく手を伸ばした。
 硬い陶器のひんやりとした感覚。それは遺跡で見つけた虹色の腕輪であった。
「<疑問>。<恐らくは代名詞><不明、だが動詞の可能性が高い>アマルン・アニル?」
 彼女の口調は刺々しく、有無を言わさぬ迫力があった。
 陽一は圧倒されながらも、先刻虹色の腕輪を見た時の男たちの驚きを思い出す。彼らは明らかにこの宝物を見たことがあるという反応を見せていた。
 ならば、と陽一は考える。
 彼女の言葉はかなりの精度で想像がつく。恐らくは「何故お前がアマルン・アニルを持っている」と問いかけているに違いない。
(そんなこと……説明して何になるって言うんだよ)
「遺跡で見つけたのだ」と包み隠さず伝えることができたところで、彼女が満足するとは思えない。
 どうやら彼女らにとって、この虹色の腕輪は何か特別な意味合いを持っているようだ。
 宝物を手にした人間に対してこの敵意……大方、自分のことを盗人か何かだと思っているのだろうと、陽一は当たりをつけた。
 そんな誤解を解ける程に、陽一は彼らの言語に明るくはない。
 憮然とした態度でだんまりを続けていると、陽一が中々口を開かないことに業を煮やした少女は、更に双眸を険しくして言葉を投げかけてきた。
「<不明>、何故お前が?」
 何故、と問われても語る術がない。本当ならば憎まれ口の一つでも叩いてやりたかったが、陽一は未だ彼女らの言語に明るくはなく、意思疎通ができるレベルには至っていないのだ。
「……あんたたちの言葉が分からないから伝えようがない。むしろ、あんたたちが努力をするのが筋ってもんだろうが。異文化理解って知っているか? こう言うのは双方の歩み寄りが大事なんだ」
 突き刺すように故郷の言葉を呟く。
 少女は陽一の様子を見て、納得のいかない表情を浮かべた。
「<強い口調>。お前が<動詞か>、<恐らくは名詞><動詞か>」
「……だから、伝えようがないって言ってるだろ!」
 癇癪を起こした陽一は、彼女を責めるように詰め寄った。
「だったら、交換条件だ! あんたの気になっているこの腕輪は、遺跡を調査していた時に見つけた。これがあんたたちにとってどういう意味を持つものかなんて、俺は知らない。知ったこっちゃない! 何なら、この場でプレゼントしてやったっていいくらいだ。その代わりな――」
 俺を家に帰してくれ――そう言ってやりたかった。
 藁をも縋る気持ちであったのかもしれない。
 知っているわけがない――と心の片隅で思いつつも、今一つ陽一は諦め切れていなかった。
 目の前の現実は全て性質の悪いジョークであり、今にも彼女が「ドッキリである」と打ち明けてくれるのではないか……そう思っていたのだ。
 だが、案の定と言うべきか、陽一の願いは次の瞬間あっさりと拒絶されることになる。
「――ッ!」
 キッと表情を変えて身構える少女。
 ――刹那、腹部に激痛が走った。
 彼女の鞭のようにしなる足が、陽一の身体にみしりとめりこんだのだ。
「ぐぅっ……」
 衝撃で後方へ吹き飛ばされ、たまらずその場にうずくまる。
「お前は、<強い口調>ッ!」
 彼女はそう吐き捨てると、鳥の尾を思わせる髪をひらりと翻す。がたりと扉が閉まった後に、閂が差し込まれる音が聞こえた。
「畜生……っ」
 陽一は悔しげに涙をこぼす。
 ルイス・キャロルの描いた悪夢のような現実は、どうやら未だ終幕の兆しを見せてくれそうになかった。





 空気がしんと冷え込んできた。
 既に檻の外は夜の暗闇に包まれており、日中やかましく響いていた怪鳥の声もすっかりとなりを潜めている。
 夜空に浮かんだ虹色の月から降り注ぐ、おぼつかない光を受けて、何かの藁でできた簡素な竪穴の住居が集落内に浮かび上がっていた。
 更に蛍のように揺らめくほのかな明かりと焚き火の煙。夕餉の香りが隙間風を通じて伝わってくる。
 陽一の腹が、低く唸った。
「……腹、減ったな」
 空きっ腹を擦りながら、陽一は腕時計に視線を落す。
 愛用のG-SHOCK、GW-9000MUDMAN《マッドマン》モデルはこんな異郷の地においてでも変わらぬ時を刻み続けていた。
 液晶画面に表示されたデジタル情報は、「SUN/P 22:13 43」
 彼女が出て行ってから、優に四時間が経過したことを示している。
「そりゃ腹も減るはずだ」と、陽一は苦笑いを浮かべた。

 下手なことをして気分を害したせいだろうか。彼女が出てからここに訪問するものは居なかった。当然食べ物のような差し入れもある訳がなく、現在陽一は空腹に身を捩じらせる羽目に陥っている。
 もし、あそこで彼女に対してしおらしい態度を取っていたら、今よりはマシな待遇で夜を迎えることができたのかも知れないが、今更悔やんでみたところで仕様がない。
 あの時は、感情の整理がつかなかった。……仕方がなかったのだ。
「まあ、こんな未開の地にジュネーブ条約が活きている訳がないわな」
 冗談でも口にしなければ、やっていけそうになかった。
 陽一は腐れながらも、萎える身体を無理矢理発憤させ、現状の打破を試みる。
「考えようによっちゃ、殺されなかっただけマシ」という結論を至ったのは、つい先ほどである。
 泣き叫んだところで、陽一を取り巻く状況が変化することはない。
 理不尽な憎しみを向けてくる銀髪の少女に対する反感が、離郷の悲しみを幾らか和らげてくれた。
 更に幸か不幸か、現実離れした異界の景色を見てしまったことも功を奏したらしい。
 目に見えるもの全てが映画のセットなどではなく、現実味を帯びたリアリティを放っている。
 陽一は、夜空に浮かぶ月までもが自分の知る青白い球体ではないことに気がついた時、もうここが自分の知る世界であるなどと言い張ることを諦めた。
(どういう原理か、とんと想像がつかないが……どうやら俺は地球じゃないところにいるらしい)
 地表面で繋がっているかも分からない故郷への帰り道を探すことなど、そう簡単にできるわけがない。

 ――どう足掻いても、すぐに帰ることは難しそうだ……。

 諦めが早々にできたことによって、陽一の思考は「まず、第一に生き延びること」へと比較的容易にシフトすることができた。
 孫子曰く、拙速は巧遅に勝る。まずは脱出方法を模索すべく、陽一は扉周りを調べることにした。
 扉も獣檻と同じ木製で、閂もまた同様であった。
(直接手で……は外せないか、当然だな)
 暗くて良くは見えなかったが、閂はオーソドックスな横に差すタイプのものであった。横から手を伸ばしてもぎりぎり届かず、陽一は口惜しげに舌打ちする。
 ならば、扉の下にある隙間から閂に触れることはできないものかと試してみる。
(んっと……おっ、いけた)
 手が届いた。だが、かなり無理な体勢で手を伸ばしているため、閂をスライドさせられるほどの力を込めることができそうにない。
(ベルトか何かを縛り付けて……いや、長さが足りないな。もっと長いロープが必要だ)
 そこまで考え、はたと思いつく。

(縄を作れば、いけるな)
 陽一は敷き詰められた藁を手繰り寄せ、一本の縄を作ることにした。
 一心不乱に手足を動かす。
 藁の数本を足で固定し、必死に撚り合わせてロープにしていく。学生時代にフィールドワークで学んだ技術がこんな所で役に立つとは、正直夢にも思わなかった。
「……日本の農家のおっちゃんと民俗学の教授に感謝だな、っと」
 程なくして一メートルほどの縄が出来上がった。陽一はそれをまじまじと見つめ、たまらず苦笑いする。
「前言撤回。申し訳ないや。お前は何を学んできたのかと怒られそうだ」
 綯われた縄は、形も強度もお粗末と言って良い出来栄えであった。
 だが、それでも手持ちの札が増えることは陽一の生存率を高めることにつながるだろう。
 使い道は色々ある。檻の外に付けられた閂を外すためにも使えるし、人一人ならば拘束することもできる。また、あまり想像したくはないのだが、部族の人間と争うことになった場合、投石紐や唐棹《フレイル》として用いることだってできるだろう。だが……
「……争う、か」
 反芻するように言葉を繰り返すと、先ほど自分を蹴り飛ばした銀髪の少女の姿が脳裏に浮かび上がった。
 自分の現状を鑑みれば、彼女は明らかに自分の敵。
 なれば、時と場合によっては血で血を洗う戦いになったっておかしくはない。おかしくはないのだが……。
 陽一は、ここに至っても彼女たちと戦うという覚悟を決められずにいた。
 今までの人生、争いとは無縁の場所で生活していたせいもあるのかも知れない。
 理不尽に対する負けん気こそ沸き上がってくるものの、たとえ相手が敵対的な人物であったとしても、それらに殴りかかる自分の姿を想像しただけで、陽一は全身の震えが止まらないのであった。
 殴打されて血を流す彼女の姿が頭の中にちらついて、陽一は青ざめた表情で頭をぶるぶると横に振った。
 嫌な考えは、さっさと払い飛ばすに限る。

「……やめた。こういうのはいざとなってから考えよう」
 結果として、採った選択は平和主義。至極日本人らしい意気地のなさだと陽一は笑みをこぼした。
「たはは……」
「なーお」
 檻の中で弾む自分の笑い声。それに小さな鳴き声が追随した。
「……ちょっと待て?」
 陽一はびくりとして、檻の中を見回す。
 今、自分以外に何かの声が確かに聞こえた。
「何も、いない……?」
 そんな訳がない、ともう一度見回す。陽一の耳に届いた声は決して幻聴ではないはずだ。
 檻の隅にはいない。外側にいるわけでもない。ぐるりと内部を見た後で、手元に視線を戻してぎょっとする。
「なーお」
 陽一が胡坐をかいているすぐ横で、小さな山猫が丸くなっていた。


「な……な、何だッ?」
 なーお、と再び山猫が鳴いた。
 図体は猪の子供くらいであろうか。野生の獣にしては不思議なくらい毛並みが整っており、虹色のたてがみが神秘的な威厳を醸し出している。
 山猫が丸い目を開く。ぱちりと開いたその瞳は、まるで曇り一つない鏡を思わせた。
「山猫……の子供か?」
 山猫は陽一のことをじろじろと見て、すぐに興味を失ったのか、そっと目を閉じる。ふわあ、と欠伸をして背を向ける山猫の様子からは、敵意が微塵も感じられない。
 ……どうやら命の危機がやってきたわけではないらしい。
 陽一はほっと安堵の息を吐き、
「ほら、こんな檻の中にいるなよ。食っちまうぞ」
 山猫を足で外へと追い出そうとする。
 だが、山猫が外へと逃げていく様子はない。足でぐいっと押しても、ごろんと寝返りを打つだけだ。
「……妙に腹の立つ態度だな」
 山猫は腹をこちらに見せて、すっかりリラックスしているようであった。足で何度突付いてみても、欠伸するばかりで反応がない。
「出て行くつもりはないってか……」
 陽一はため息をついた。自分の傍で異界の生物がごろごろしているというのは、何とも落ち着かない心地がしたが、それにかかずらってばかりもいられない。
 何せ、自分の処遇は未だ定まっていないのだ。明日をも知れぬ身の上な以上、夜明けが来るまでに脱出の算段を立てる必要がある。
 そのためにも手札はきちんと確保しておくに越したことはない。陽一は再び胡坐を組んで、縄の補強作業に務めることにした。
 ……手足を動かし、懸命に縄を綯っていく。その間にも視界にちらつくのは、ごろごろ寝返りを打つ山猫の姿であった。
 なーお、と繰り返し山猫の鳴き声。
「……お前、いい加減にしろよ」
 我慢できなくなった陽一が山猫の体をひょいと摘みあげ、恨みがましげに睨みつける。山猫はきょとんとした表情で目を開き、再び大きく欠伸をした。
 なしのつぶてにも限度がある。
 陽一は一瞬頬を引きつらせたが、
「……止めた。相手しても腹が減るだけだ」
 すぐさま力なく肩を落とした。腹の虫が、よそ事に気を回すなと警鐘を鳴らしていたのだ。
 地面に下ろされた山猫の子供は、少し陽一の姿を見上げてきょとんとした。
 鏡の瞳が、まるでこちらの心を写し取ろうとしているかのように、きらりと輝く。
「ふー」
 山猫は小さく鳴いて、ぱっと外へ飛び出した。
「俺をからかうのに飽きたのか……?」
 首を傾げてみても、事の真相は分からない。
 それでも邪魔物がいなくなったことは確かだ。陽一は胸を撫で下ろし、作業に戻ろうとする。だが、その矢先――
「むー」
 再び山猫の声が近づいてきたため、勘弁してくれとばかりにうんざりとした表情を浮かべた。
 陽一もこれには流石に耐えかねて、叱りつけようとする。が、
「あのな、お前……って、それは……?」
 檻の中へと戻ってきた山猫が口に咥えた物を見て、驚いた。
「お前、それ。食べ物か?」
 ことりと山猫が地面に落とした物は、先刻集落内で見かけた魚を燻製にしたものであった。
 山猫の子供はそれを陽一の目の前に置くと、再び外へと駆け出していく。
「あ、おいっ。待てって!」
 慌てて発した制止も聞かずに、山猫は夜の闇に溶けていった。
 陽一はその場に残された燻製を見て、
「これは俺に食えっていうことか……?」
 頭を悩ませたが、燻製から漂う匂いを鼻に感じた瞬間、もう何も考えられなくなる。
 燻製特有の煙臭さの中にほのかに混じる、焼けた魚肉の香ばしさが腹の虫を盛大に煽る。
 ごくりと唾を飲み込んだ。どうやら、滲み寄る空腹感には耐えられそうにないらしい。
「……頂きます」
 手を合わせて、陽一は呟く。
 山猫の贈り物に齧り付いてみると、魚の旨味と塩味が口の中に広がった。


 腹の膨れた陽一は、数時間ほど仮眠を取ることにした。
 敷き詰められた藁の一部を身体にかけて、ごろりと地面に寝転がる。
 横を見ると、相も変わらず傍で山猫が丸くなっていたが、陽一はそれには構わずにそっと目を閉じた。
 この虹色の山猫が、自分の飢えを救ってくれたことには間違いない。
 あの後、山猫は何度も檻と外を往復し、魚の他にも果物や焼いた芋に似た食べ物などを幾つか運んできてくれた。何を意図してそんな親切をかけてくれたのかは全く理解ができなかったが、結果として計り知れない恩恵が得られたことは確かな事実として残っている。
 陽一は感謝するように、山猫の整った毛皮をそっと撫でる。ぐう、といびきで返事をする山猫。陽一はくすりと笑って、寝返りを打った。

 現状を改めて分析する。
 空腹が満たされたことで、とりあえずの窮地は脱することができたと言えるだろう。
 更に刃の突き出た魚を手に入れることができたのは良かった。剣状に進化した鰓の硬度は素晴らしく、恐らく武器として使っても申し分のない性能を発揮するはずだ。
 後はロープを使って閂を外し、集落の外へと逃げ出せば良い。昼間に見た崖の下辺りまで逃げてしまえば、彼らも追ってくることはないだろう。
(……いや、それよりも俺が倒れていた場所に一度戻ってみるというのも手かな)
 あの大木の足下は、陽一にとっては見知らぬ世界の入り口だ。云わば境目と言って良い。出口が何処なのか分からない以上、あの場所をもっと詳しく調べる必要があるだろう。
(例えば、あのうろだ。引っかかっていた石片とか、気になることはいくつかあった)
 不思議の国に迷い込んだ少女だって、現実と幻想の境目は兎穴にあった。ならば、樹洞に境界があったところで何の不思議もないはずだ。
(……我ながら夢見心地のおかしなことを考えていると自覚するよ)
 はあ、と長いため息をつく。
 先日までの自分ならば、あなぐらに出口があるかも知れないなどという発想、およそ思っても見なかったに違いあるまい。
 A地点からB地点に行くために向かう道筋は、常識的に考えればX軸にあるもので、Y軸にあるわけがないからだ。
 しかし、ここが陽一の常識からかけ離れた場所だというのならば、話は別になる。
 新天地を求めてベーリング地峡を渡ったネイティブアメリカンの思考ではなく、アームストロング号の乗組員たちに思考の波長を合わせていく。
 X軸ではなくY軸……いや、陽一は今までの常識を全てかなぐり捨てたっていいとすら思い始めていた。
「いずれにせよ、夜が明けたらここを逃げ出そう。そして……いつか、元の世界に帰ろう」
 固い意志を言葉に紡ぎ、陽一は微睡みの世界へと旅だった。
 できることならば、今までのことは全て夢であって欲しいと願いながら――。
 明くる朝。けたたましく鳴り響く警鐘に起こされた陽一が目にしたものは、案の定居眠り用のデスクではなかった。
 だが、それと同時に一日の始まりに目覚める集落でもなく、
「な、何が起こったって言うんだよ……」
 目の前にあるものは、紅蓮の炎に巻かれた集落。
 怨嗟と叫喚に満ちた戦場であった。





 茅葺の家から轟々と火が立ち上り、男たちの勇ましい怒声と、女子供の泣き声が痛いほどに耳朶を叩く。
 たった数時間の間に変わり果ててしまった村の姿を目の当たりにし、陽一は檻の中で呆然と立ち尽くした。

 ――これはただ事ではない。

 部族間抗争か、それに準じたトラブルが勃発したであろうことは疑いようがないだろう。となれば、
「まずい、早くここから逃げないと……」
 敗色が漂う集落の様子を見るに、これ以上ここに留まるのはかなり拙いだろう。
 捕虜の捕虜の扱いがどうなるかなど、考えるまでもなく明らかであった。
 陽一は尻に火がついたように檻の扉に取り付くと、昨晩作った縄を閂に取り付けた。
 滑車の原理を利用して、少しずつ閂を外していく。
 元より人間を捕らえて置く為のものではないのだろう。閂は思ったよりも簡単に外れてくれた。
 ごとりと閂が地面に落ちて、勢い良く扉が開く。陽一は、そのまま外へ飛び出そうとして――慌てて中へ振り返る。
「お前も逃げるか、ちび猫」
 恩人をこの場に置いていくのも何だか気が引ける気がしたのだ。
 未だ丸くなっていた山猫の子供に声をかけると、山猫は体を二、三度振るって起き上がり、
「なーお」
 ぴょこんと陽一の肩へと飛び乗った。
「ものぐさな奴だな」
 軽く小突いて、全速力で森へと走り出す。
 幸い、獣檻は村はずれの森のすぐ傍に置かれていた。
 程なくして陽一と山猫は、シダ状の植物の茂みに身を滑り込ませることに成功する。
 緑の強い臭気を鼻に感じる。陽一は先日の大木へと向かおうとする段になって、大事なことに気がついた。
 大木の場所が分からなかったのだ。
 一瞬、心を支配する困惑。だが、すぐに背中に感じた熱気によって冷静さを取り戻す。
「とにかくここを離れる。まずはそれからだ」
 集落から逃げ出したらしい小型の家畜に混ざって、陽一は身を屈めて茂みの中を潜って行く。
 やがて叫喚が遠ざかっていくのと入れ替わりに、異質な言語が耳を通り過ぎていった。
(集落の奴らが使っていたものと違う……?)
 慌てて、耳と神経を研ぎ澄ませる。
 話し声は陽一達の大分先から発せられていた。

「<不明><不明><不明>、<不明><不明><不明>」

 すぐに陽一は彼らの言葉の解読を諦めた。集落の人間が使っていたものと比べて、構成文法が複雑すぎるのだ。その上、単語ごとに活用形があるのか、似通った単語から意味を類推することすら困難ときている。
 どうやら、この言葉の使用者たちはかなり進んだ文化を持っているようだ。恐らくは陽一の世界における一般的な中世社会を凌駕したレベル……いや、下手をすると近世にすら届くかも知れない。
(ならば、事情を話せば保護してくれるのでは……?)
 甘い考えが一瞬過ぎったが、すぐにその考えは捨て去った。
 先刻崖の上から見た光景が陽一の脳裏にフラッシュバックしたためだ。
 首や手足に枷を付けて、乱暴に褐色肌の人々を連れ歩くチュニック姿の人々。
 上等な衣服に階級の別。このような諸特徴を有する彼らならば、高度な言語体系を自在に操っていたとしても別段おかしくはない。
 だが、もし傍で会話している連中が彼らと同じ文化圏に属している場合、果たして自分に対して友好的な態度を取ってくれるものであろうか。
 陽一は、彼らと手放しで仲良くなれるとはどうしても思えなかった。
(判断を間違えたら、取り返しがつかないな……)
 気持ちを引き締め、状況を整理することにする。
 まず、陽一を捕らえた集落の人々が戦っている相手は、洗練された言語を持つ上位文明の民であったと仮定する。
 先日目の当たりにした光景がその延長線上にあるならば、“チュニック姿”と“褐色肌”の戦力差は歴然としていると考えられるだろう。
 弱者が強者に噛みつくことは原則的に自衛以外あり得ない。故に彼らの関係に、侵略者と被侵略者の関係をあてはめることは、あながち間違いでないように思われる。
 その上で付け加えるとすれば、“チュニック姿”は“褐色肌”を襲い、奴隷の獲得も行っている節がある……。
 ここまで考えて、陽一の脳裏に閃くものがあった。

 ――彼らの在り様は、まるで自分の専攻している分野そのものと言える。
 そう……彼らの関係は、まさにスペイン帝国とメソアメリカ文明の関係と酷く良く似ていたのだ。

「くそっ……!」
 陽一はたまらず憎々しげに毒づいた。
 最悪の状況だ。
 新大陸とアフリカ大陸で勃発した侵略者と先住民族の対立は、世界史上に名を残す最大規模の争乱と言えよう。そんな中に、自分が巻き込まれては命がいくらあっても足りるものではない。
 とにかく、この鉄火場を離れなければならない。一刻も早く。
 どんなものでも犠牲にして、この身一つは守りきる……そう心に決めようとした矢先のことであった。
 がさり。
 陽一の目と鼻の先で、複数人の気配を感じた。慌てて陽一はその場に伏せて、息を潜める。
 茂みの下から恐る恐る見上げてみると、二人の兵士らしき男が上機嫌に歩いている姿が見えた。
 甲冑は着ていない。チュニック姿の所から察するに、前線に出る手合いの兵士たちではないのかも知れない。
(いや、スペイン帝国と酷似しているのならば、既に甲冑を着込んで戦う時代は過ぎ去っているはずだ。あながちにそうとは言いきれない)
 あくまでも慎重に分析を行う。
 彼らは腰に小剣を佩いていた。それが唯一の武装であるようだ。銃の類は見つけることができなかった。
(……おかしい)
 疑問が湧き上がる。
 使用言語から、彼らが“褐色肌”よりも進んだ技術や知識を持っていることは疑いようがないだろう。だが、それにしては無防備が過ぎる。
 体つきもどちらかと言えば貧相で、“褐色肌”の連中とは比べることもおこがましい。
 こんな体たらくで、どうやって“褐色肌”を征服することができるというのか。
 陽一が答えを見出せずに悩んでいると、更にもう一人の兵士が合流してくる。
「へへっ」
 髭を豊かに蓄えた新手の兵士が、下卑た笑い声をあげた。
 陽一は彼が担いでいるものを見て、目を見開く。
(……女、だ)
 彼は集落から浚ってきたらしい年頃の女性を肩に担いでいた。
 頭に飾り布を巻いた理知的な雰囲気を漂わせる女性。彼女は涙ながらに、男の腕の中で暴れていた。
 陽一は彼らが何をやろうとしているのか、即座に理解する。
 恐らく彼らは戦場を他人に任せ、自分たちは楽しもうと言う腹積もりなのだ。
(ど、どうする……ッ)
 陽一の心中に迷いが生まれた。
 “褐色肌”は自分を拉致した憎い敵だ。それに、チュニック姿の男たちはこの世界の強者。おまけに複数人と来ている。
 常識で考えれば、迷うことなどありはしない。選択肢は『逃走』の一択である。
 だが、陽一はその選択肢をどうしても選べそうになかった。
 平和ボケした国で生まれ育った八紘陽一という人間は、今まで見たことも無かった悪意を前にして、目を背けることができなかったのだ。
 そこには英雄願望も若干混ざっていたのかもしれない。
 体感型スペクタクルの主人公として、思い描く理想像は冒険映画や小説の主人公。
 陽一の脳裏に浮かんだ複数の選択肢の内で、『女性を助ける』という選択肢が一際光を放った。
 我ながら愚かだとは思ったが、それ以外に自分の良心を納得できる道は……恐らく無い。

(ええい、ままよっ……)
 縮み上がりそうになる身体を叱咤して、ポケットから縄を取り出す。縄の先には石が取り付けられていた。
 簡易型の唐棹。
 上手く隙をついて背後を襲うことができれば、大の男ですら昏倒させることは容易いはずだ。
 まさか、“褐色肌”と戦うために備えた装備は、期せずして彼らを守るために使うことになるとは……。陽一は目まぐるしく移り変わる状況に眩暈を起こしそうになった。
 固唾を呑んで、その時を待つ。

(くそ、情けねえっ……)
 唐棹を握る手の震えが止まらない。心臓は陣太鼓のように大きな音を響かせている。
 心を無理に昂ぶらせたというのに、手も心臓は相も変わらず臆病者のそれであった。
 事を起こすまでには鎮めねばなるまい。ズボン越しに足を抓り、震えよ止まれと念じ続ける。
 女性がその場に突き飛ばされた。直後、男たちが猛々しい声をあげて、女性を取り囲むように群がり始める。
 餌を前にした獣は、周囲に対して大きな隙を作ってしまうものだ。
 そう――狙うならば、ここしかない!

(行け、あの娘を助けるんだ!)
 心を奮い起こし、肉体のエンジンに火を点そうとする。だが、エンジンは中々掛かってくれない。
 募る焦燥感。
 今だ。今なら助けることができるんだ、と内心叫ぶ。
 女性の悲痛な叫びが耳朶を叩いた。もう猶予はない――陽一の覚悟が土壇場にまで追い込まれたその時、ようやく震えが止まってくれた。

「良しッ」
 陽一はぎりっと下唇を噛み、勢い良く男たちの背中目掛けて飛び掛った。
「――ッ!」
 両腕をいっぱいに使って、唐棹を振りかぶる。遠心力を得た打撃部が、男の後頭部に吸い込まれていく。頭蓋がみしりと音を立てて、衝撃が男の脳髄に広がっていくのを確かに感じた。
「ウガァッ!」
 仲間の一人が呆気なく崩れ落ちていくのを目の当たりにした男たちは、不意の襲撃者に激昂する。白い肌を赤黒い怒りで染め上げて、手を伸ばす先は腰の小剣。
 あれに手をかけさせたら全てが決まってしまう。
(抜かせたら終りだ……ッ)
 全身を駆け巡る死の恐怖に耐えながら、陽一は決死の覚悟でもう一人へと飛び掛った。
 動く相手に打撃部を当てられるほど、陽一は武器の扱いに習熟しているわけではない。だから、陽一は折角の発明品を頓着せずに手放すことにした。
 そのまま身体を一人にぶつけ、取っ組み合いながら剣魚の鰓を取り出す。
「ギャアッ」
 金属質の先端が、男の胸板を突き破って潜り込んで行く。
 男の悲鳴が森の中に響き渡った。暴れる身体を押さえ込むように、陽一は全力で刃を抉り込む。
 男がぱくぱくと陸に揚げられた魚のように口を開く。命の灯火が徐々に小さくなっていく。反面、陽一の掌には不快な感触がしつこくこびりついた。

 ――人を殺した。

 一瞬、思考が全て吹き飛ぶ――が、悲しむことを状況が許してくれそうにない。
 肩に感じる焼け付くような痛み。陽一の肩に、最後に残った髭男の小剣が深々と突き刺さっていた。
「~~ッッ!」
 今まで感じたことのないような激痛に、陽一は悲鳴をあげることすらできずに悶絶する。
「<怒号>ッ! <殺意><殺意><殺意><殺意><殺意><殺意>ッッ」
 血を滴らせながら、引き抜かれた切っ先が陽一の喉元に突きつけられる。

 ――やられる。

 絶望が全身を支配した。
「ハッハァ!!」
 顔に鈍い痛みが響き、一瞬思考が弾け飛ぶ。髭の男に顔を蹴りつけられたのだ。
 男は残虐な笑い声を発しながら、陽一の身体を散々に蹴り続ける。
 既に小剣は引いていた。「楽には殺さない」と言った狂気がありありと読み取れるようだ。
 何度も身体をいたぶられ、陽一はたまらず両目を固く閉じた。
 生と死の瀬戸際に立ちながら、目を閉じて成り行きを待つなんて芸当は、生をつかみ取る努力を放棄しているに等しい行いだ。
 愚行も愚行。その最たる禁忌。
 だが、理屈では分かっているのに、陽一はそれ以外の道を選ぶことができなかった。
(素人に無理が聞くわけ……ないじゃないかッ!!)
 死を抗おうとするかのように、陽一は精一杯叫んだ。

「……《殺意》」
 やがていたぶるのに飽きたのか、男の暴力がぴたりと止んだ。
 代わりに発せられた、死の宣告と思しき殺意の言葉。目を開くと、再びこちらに向けられた小剣の切っ先が目の前にあった。
 手詰まり。どうあがこうとも、殺される以外の未来が見えない。
 ああ、駄目だ。陽一は全てを諦め、目を閉じる。

 ――来るべき終焉は……やって来なかった。

 ちくりとした痛みが首を掠める。寸での所で、敵の切っ先が横にずれたのだ。
 見ると髭男は体勢を崩していた。それを為したのは山猫の子供。あの“ちび”が、髭のわき腹に体当たりを仕掛けてくれたのだ。
 虹色のたてがみを逆立てて、そのまま“ちび”は髭男を威嚇する。
「フーッ」
 突如訪れる千載一遇の好機。だが、今の陽一にはそれを活かすことができそうにない。
 一度絶望を覚えた身体が、再起動を果たすまでには今しばらくの時間が必要であった。
「<困惑>ッ!?」
 一方の髭男は、形勢の不利を感じたらしい。
 一瞬の沈黙。
 すぐに男は絶命した一人の亡骸と、生死が分からぬ仲間に視線を送り、背中を見せて駆けだした。
 一目散にその場から逃げていく男の姿を目で追いながら、
「凌いだ……」
 陽一は当面の危機が過ぎ去ったことを理解した。
「は、ははっ……」
 ずきずきと痛む肩を押さえながら、擦れ声で言葉を漏らす。
 大金星であった。
 武装した男三人を相手に奇跡的にも生き延びることができた上、囚われの女性を助けることに成功したのだ。もし、これが元の世界での出来事であったのならば、間違いなくニュースペーパーの一面に載る大活躍である。
 今、陽一は英雄の仲間入りを果たしたのだ。

「だ、大丈夫か?」
 へなへなと情けない姿を見せながら、陽一は飾り布の女性に顔を向けた。
 彼女は驚いて目を白黒させていた。
 年の頃は十五、六と言った所であろうか。ゆったりとした植物繊維の布地で身体を巻いた、銀髪の少女にも劣らぬ整った顔立ちの少女であった。明確に違う点がを挙げるとするなら、それは物腰だろうか。
 体つきもかなり華奢で、狩猟採集に従事しているようには見えない。可憐な雰囲気が、何処か故郷の撫子を思わせる。
 まるで利発を絵に描いたような美少女であった。
「<疑念>、貴方は?」
 幼さの残るハイトーンで問いかけられる。
 陽一は疲れたように笑って、
「八紘陽一。獣檻の住人だよ」
 と、故郷の言葉で軽口を飛ばした。
「ヤイロヨイチ……?」
 ほのかに赤く染まった唇に、細指を寄せて少女が思案する。そして、すぐに合点が言ったのか、
「貴方は……」
 と何かを語りかけようとして、愛嬌のある表情を凍りつかせた。
「……?」
 恐怖に怯える彼女の視線を追うようにして、後ろを振り返る。
「あ……」
 そして自分も言葉を失う。
 重い地響きが大地を揺らし、木々が恐怖にざわめいた。
 常緑樹の太枝を折り倒し、ぬっと巨大な腕が姿を現す。

 ――熊ではない。熊があのような甲冑を身に纏っているわけがない。
 だが、人でもない。陽一は六メートルを優に超える背丈の人間を寡聞にして知らなかった。
 視界いっぱいに広がったのは、木々をなぎ倒す巨人の姿。
 それは額に突き出た黒い角で周りの枝を払いのけ、無機質の一つ目をぎろりとこちらに向けてきた。
「――っ」
 絶壁で見た光景を再び思い出した。そして、確信する。
 この世界における銃火器の役割を担う兵器――それが目の前に立つ巨人なのだと。
 金属なのか、陶器なのかも判別のつかない鎧に身を包んだ巨人の戦士は、大人を楽に握りつぶせそうな掌を開き、陽一目掛けて手を伸ばしてくる。
(逃げなきゃ)
 巨人の動きは鈍重であった。
 しかし、それでも陽一は恐怖に体が竦んでしまい、その場から動くことができない。
(……動け、動いてくれッ!)
 必死に頭が命令を送るが、全身がまるで金縛りにあったように動いてくれない。先ほどのような山猫の助けは、もう期待できない。奇跡を起こすには敵があまりにも巨大すぎるのだ。
 陽一は、ただ黒角の動作を見守るしかなかった。
 涙にぼやける視界の中で、黒い手が見る間に大きくなっていく。後数十センチで、敵の手が自分の足元にまで届く。

 ――駄目だ、やっぱり身体が動きそうにない。

 そして、黒角の手が陽一の身体に届いてしまう。後は力を込めるだけで、自分は容易く握りつぶされてしまうことだろう。
 周囲が黒一色に狭まっていく……その時であった。

 カァンッ。

 陽一の絶望を切り裂くが如く、一筋の閃光が木々の天幕を突き破った。
 閃光が、甲高い音を立てて黒角の手に激突する。
 黒角の動きを若干鈍らせながら、くるくると弾かれて宙を舞う光の正体は剣魚の鰓で作られた手槍であった。
「えっ……?」
 突然のことに何が何だか分からなくなる陽一。
 困惑に揺れる視界の中で、はしばみ色の羽根と銀髪が踊る。
 回転する手槍を掴んだ細い腕は、褐色肌に艶を帯びた綺麗な腕であった。
「<疑問>、クビャリャリカッ」
「カカティキッ!」
 琴の様に凛と張った声が陽一の鼓膜に届けられ、次いで飾り布の女性が希望にあふれる歓声をあげた。
(カカティキ……)
 その単語は聞き覚えがあった。
 “褐色肌”の男たちが、崇敬を交えて口にした言葉。彼女を迎える際に発した単語であった。
 ごしごしと瞼を擦って、鮮明になった眼で改めて現実を確認する。
(そうか、彼女はカカティキと言うのか)
 腰が引けたように距離を取った黒角の前に勇ましく立ちふさがる戦姫。
 しなやかな脚で大地を踏み、鳥の尾のような銀髪を弾ませて、カカティキが黒角の喉もと目掛けて手槍の切っ先を向けている。
「<呼びかけ>、お前」
 背を向けたまま、こちらに言葉を投げかけてくる。
 意味は分からない。……だが、先日向けられた敵意をまるで感じさせない、慈悲の篭った声色であった。
「お前は<不明>……、クビャリャリカ」 
「え、何を――って!」
 カカティキは言葉すくなにそう告げると、黒角に向かって一気呵成に駆け出した。
「無茶だ! 相手はあんなにでかいんだぞッ!」
 必死に制止の声を飛ばすも、勢いのついた彼女の速度は増すばかりだ。
 黒角が、轟と腕を振りまわす。
 べきべきと周囲の木々を物ともしない大質量。
 勢いを伴う致死の重撃。直撃すれば、交通事故じゃ済まないほどの衝撃を受けることだろう。
 ……間違っても、彼女のような少女が受けて良いような代物ではない。

 ――当たる!

 陽一は内心悲鳴を上げた……が、陽一の心配とは裏腹に、カカティキは黒角の攻撃をまるで柳のような所作で回避して見せる。
 ふわりとその場を飛び上がり、中空で一回転する銀髪の少女。
「ケツァル・テア!」
 そのまま、勇ましく叫ぶ。
 聞く者の闘志を呼び覚ます、カカティキの勇ましい声色が森に轟いた直後、彼女の背中に二メートルはあろうかと言う翼が生えた……かのように見えた。
 その実態は、木々を薙ぎ倒しながら高速で飛来した一匹の大鷲。
 大鷲はカカティキを持ち上げ、はしばみ色の両翼を精一杯に怒らせていた。
 カカティキが手槍を投げ捨て、右腕を前方に突き出す。
 途端に、腕に巻かれたアクセサリーが虹色の目映い光を放ち始める。
「あれは……」
 見間違えるわけがあるはずもない。あれは、陽一が遺跡で発掘したものと同じ“虹色の腕輪”――彼女らがアマルン・アニルと呼ぶ宝具であった。
「――リ・インカーネイト!」
 透き通る声に従い、彼女の前に幾何学的な魔方陣が展開する。淡い虹色の文字が虚空に出現し、反転しては消えていく。
 陣の中へと突入するカカティキと大鷲を呆然と見つめながら、陽一はこの非現実染みた光景の中にたった一つだけ、自分の学んできた知識の延長線上にあるものを見つけてしまい、愕然とする。

 ――Annihilation transduction.

 それはB.C. 1700年頃に地中海で発達したはずの音素文字――アルファベットであった。
「対消滅……を変換する、だって? 何なんだ、一体……!」
 魔方陣の中へと消え去ったカカティキは、見る間に姿を変えていく。
 鈍重な熊を思わせる黒角とは対照的な、スマートで鋭角的なフォルム。
 鞭のような何節にも分かれた尻尾を揺らし、はしばみ色の金属翼を優美に広げたその姿は、まるで神話の巨人を髣髴させる。
「人型の巨大……ロボット」
 陽一は呆気に取られて、目の前の巨人を見上げるしかなかった。
 鷲頭の巨人が嘴を開く。
『……さあ、槍を取れ。白き者』
 カカティキの言葉が紡がれた。故郷の言葉で一言一句、全てが理解できる構文で。
 彼女は虚空に魔法陣を創出し、中から銀色の手槍を引き抜いた。
 くるくるくると、手槍を回し、
『村を侵された我が怒り、その身を以て受けてみよ!』
 戦いの開始を宣言する。
 巨人と巨人、両者の身体が轟音をあげてぶつかり合った。





 殺意と殺意。闘志と闘志がせめぎ合う。

 ――ギィン!

 至速で放ったカカティキの突き上げを、黒角が辛うじて受け流す。金属と金属が擦り合う時に鳴る、甲高い音が陽一の鼓膜を立て続けに叩いた。
 彼らが動くたびに大地が揺れる――が、それだけではない。彼らの周囲では暴風が荒れ狂っていた。

 ――ゴォォォォォォ。

 風の出所は二体の巨人。彼らの“呼吸”が、周囲に人工的な台風を巻き起こしているのだ。
 背中に突き出る吸気ノズルから、二体は猛烈な勢いで大気を吸っている。
 陽一はその場にしゃがみこみ、必死に強風をやり過ごす。
「何なんだ……何なんだよッッ!」
 身体の下に山猫の“ちび”を庇いながら、陽一は叫んだ。風の向こうで、巨人たちの戦いは新たな展開を迎えていた。
 新手の出現である。
 台車を牽いた、黒角の部隊が二体の戦いに乱入してきたのだ。
『無礼姫を殺せ!』
 大号令と共に現れた黒角は、六体。
 一体がカカティキに突撃する。既に一体と鍔迫り合いをしていた彼女に、それを防ぐ手立てはない。体当たりをまともに受け、カカティキは後ろへと吹き飛ばされた。
 その隙に彼らはカカティキを包囲していく。
 幅広の体躯を半分以上覆い隠す方形盾を前面に押し出して、三メートル近い巨大な鉈《マシェット》を防備の合間から覗かせる。一つ目を怪しく光らせながら構築された円陣は、まるで堅牢なる軍事要塞――黒色の長城を思わせた。
 四面から歌が聞こえてきそうなほどの形勢だ。それでもカカティキの勇猛さに綻びは見られなかった。

『それで私を捕らえたつもりかッッ』
 嘲笑を残して、カカティキは上空高く飛び上がった。
 跳躍した高さは四十メートル以上。生半可な亜高木を飛び抜き、林冠を形成する超高木層の天蓋にまで到達し、彼女は地上を這う敵に向けて手槍を持つ腕を突き出す。
 目映い光が腕の前面に生成され、構築されたものは魔法陣。
 陣から数多の手槍が生み出され、彼女の手元にふわりと浮かんだ。

『喰らえッ!!』
 裂ぱくの気合の後、召喚した手槍をカカティキは立て続けに連投した。
 巨槍の豪雨が黒角を襲う。
 対する敵は急な攻撃に対応することができず、大盾を頭上にかざすこともできずにいた。
 だが、それも無理からぬことであった。何せ、カカティキが上空に飛び上がってから手槍による強襲を行うまで、五秒もかかっていなかったのだ。
 流麗な動作は豊富な戦闘経験の証でもある。
 彼女のコンビネーションに対応できた黒角は半数にも満たず、硬質の甲冑を貫かれ、カカティキに最も近づいていた二体の黒角ががたりと活動を停止した。

『蛮族が舐めた真似を!』
 指揮官らしい一体が吼える。後方に控えた三体が巨大なマシェットを振り回し、カカティキ目掛けて投擲した。
 旋風を巻き起こしながら、彼女に迫り来る肉厚の刃。

『ただの刃が飛ぶ鳥を落せるとでも思っているのかッ!!』
 叫ぶカカティキの背中にある、金属翼が大きく展開した。
 一回り大きくなった身体が、窮屈なはずの林列を駆け抜けていく。冷えた空気が翼に切り裂かれていくのが確かに見える。
 眼にも止まらぬ速度で動いては、大木の枝を利用して急旋回をかける。
 でたらめだ。
 あんな挙動をされては当たるものも当たらない。事実、黒角たちの攻撃はあっさりと空を切って大高木の幹を傷つけるだけに終った。

『ええい、不甲斐ない! ……ならばッ』
 焦りを見せた指揮官の単眼がちらちらと点滅した。
 直後、戦姫に向けられていた憎悪と殺気が、あらぬ方向へぶつけられる。その目標は……生身の陽一達であった。
『奴らを狙え!』
「――ッ!?」
 一斉に押し寄せてくる黒角の重圧。
 予備のマシェットを腰のフォルダーから抜き放ち、彼らは力いっぱいそれを陽一達目掛けて振り下ろす。
 硬質な音が陽一達の頭上で響き、ずんと大地が轟いた。
 ……陽一達に傷はない。二人が刃に押し潰されるよりも早く、地上目指して急降下をかけたカカティキが両者の間に割って入ったのだ。

『――ぐっ……卑怯者どもめ』
『馬鹿が、貴様がここまでやってきた時点で狙いは娘だって丸分かりなんだよ! このままなぶり殺しにしてやるッ!!』
 黒角たちに膂力で押さえつけられ、カカティキは思うように身動きが取れていない。
 その外見から察するに、黒角の方がカカティキの巨人よりも膂力に優れていることは明らかである。機動力を存分に発揮できる環境ならばまだしも、このように囲まれてしまえば、彼女に為す術はないだろう。
「カカティキ――ッ!」
 何とかしなければ。陽一は慌てて彼女に駆け寄ろうと立ち上がるも、すぐに暴風に煽られて尻餅をついてしまう。
「クソッ、こんな状況じゃ……!」
 悪態づいても状況は何も変わらない。
 近づこうにも彼らの起こす風がそれを阻み、よしんば近づけたとしても彼らの質量と装甲に対抗する手段を陽一は持ち合わせていない。
 八方塞がり。自分たち生身と巨人たちの間には、埋めようのない大きな差が存在するのだ。

『……隠れ場に急げ、クビャリャリカ。女子供は既に導いた。後はお前だけなんだッ』
「カカティキッ」
 カカティキと飾り布の娘が悲痛なやり取りを交わす。
 この場において、陽一と娘はカカティキにとって邪魔者にしかなっていない。常識で考えれば、即刻この場から離れるのが筋というものなのだろう。
 だが、残されたカカティキはどうなるのか。
 一度捕らえられてしまった以上、彼女の素早さはもう活かせない。陰惨ななぶり殺しは目前に見えていた。

(何か……何かないのか。俺が彼女のためにできること――)
 彼女は、飾り布の少女と……恐らくは自分のためにも戦っている。命を懸けてくれているのだ。そんな彼女が敵に蹂躙されていく様を、果たして陽一はただ指を咥えて見ているだけで居られるのか。
 肩の傷が酷く疼いた。蹴られた身体が悲鳴をあげる。これ以上は動けないと、しきりに危険信号を出している。
 しかし、インディアナ・ジョーンズならば、鞭を片手に立ち上がるだろう。
 マクガイバーなら豊富な知識を武器にして、悪党相手に立ち回るであろう。
 陽一の憧れる冒険小説の主人公は、映画の主役たちは少女の危機にどう動いたのか。その答えは考えるまでもなく、正義の方向へと向かっている。
 荒事については、ずぶの素人であるはずの陽一にだって一端の矜持は備わっているのだ。
 様々な物語に出てくる主人公たちのようには行かないことも重々承知。それでも……
「ここで立たなきゃ、男じゃないだろ……ッッ!!」
 陽一は歯を食いしばって、暴風の中を立ち上がった。
 燃える魂に呼応するように、陽一のポケットから虹色の光が零れ出す。

「これは……」
 ポケットの中で、虹色の腕輪――アマルン・アニルが目映い光を放っていた。
 陽一は先刻の記憶を紐解いて、彼女を習って言葉を紡ぐ。
「ケツァル……テア」
 反応がない。陽一の言葉では、アマルン・アニルは起動しないのだろうか――いや、
「リ・インカーネイト!」
 陽一の世界に伝わる言葉は、彼女の紡いだ後者の方だ。
 輪廻転生。
 機械の身体を身に纏うのに、まさにうってつけの単語と言える。陽一が口にした言葉は力となって、腕輪を媒介に魔方陣を構築した。

 ――ウォォォォーン。

 足元の“ちび”が虹色のたてがみを輝かせ、百獣の声色で遠吠えをあげた。
「“ちび”……お前ッ?」
 そのまま、陽一の背中を押し、二人は魔方陣の中に突入する。
 全身が溶け出す奇妙な感触。
 聴覚ではない、脳に直接響くような思念が陽一の魂に伝わってくる。


 ――こんにちわ、当ポータブルアーカイブズを統括するアーティフィカル・パーソナリティ、ネメインです。

(ネメイン《命名者》だって……? それにアーカイブズって……)

 ――これより、Total Ex-habitat Activity Mobile……略してTotemの顕現ウィザードを開始します。ウィザードを開始する際に、貴方には108項目のTestamentを受諾する義務が生じます。準備が宜しければ、是と答えてください。
 何処か機械的思念から、津波のような情報が強制的に送られてくる。
 陽一はそれらを全て払いのけて、思念に向けて一喝した。事は一刻を争うのだ。
(……早くしてくれ、彼女が危ないんだ!)

 ――それでは、胎内の顕現を開始します。暫くお待ちください。

 途端に目の前が0と1で埋め尽くされる。いや、正確には0と1が並んでいるわけではない。0は常に高速で回転しており、その裏側に1が見える。常に0と1が同地点に現れた状態だ。
 0と1が複合した数字が見る間に、景色に移り変わっていく。陽一の周囲に生まれたのは、無機物で構築された一つの小部屋――いわゆるコックピットであった。

 ――試験型Totem、ラダマンティスの顕現に成功しました。Hello World!

 目の前にラダマンティスと呼ばれた巨人らしきものの図面が浮かび上がった。ホログラム……だろうか。触ってみても、陽一の手が通り過ぎるだけであった。
 映像に映されたラダマンティスは、カカティキの巨人に似た鋭角的なフォルムをしていた。相違点を挙げるとすれば、山猫の頭を持っていること……そして、背中から三対のスタビライザーが飛び出ていることであろうか。
 いずれにせよ、巨人であることに変わりはない。
 やれる……彼女のことを助けることができる!
 陽一は鼻息を荒くして、巨人を彼女の許へと急行させようとして――すぐには動かせないことに気がついた。
 目の前には操縦桿どころか、コンソールパネルすらない。殺風景な空洞が広がっているだけだ。
 操作方法が、分からなかった。
「おい、ネメイン。これ、どうやって動かすんだよ!」
 陽一が語気を強くして、ネメインを呼び出す。

 ――Totemの起動にはアーティフィカル・パーソナリティの作成。“魂の複製”が必要です。貴方は固有の人権を有していますので、これを拒否することができます。魂の複製を行いますか?

「魂の……ああ、もうどうでもいい! とにかく早くやってくれッ」

 ――受諾。それでは“魂の複製”を開始します。暫くお待ちください。

 思念が途切れた瞬間、身体のあちらこちらに奇妙な光を当てられる。身体の隅々まで解析され尽くすかのような気持ち悪さを覚えながらも、陽一はそれにただ耐える。

 ――“魂の複製”に成功しました。引き続き、“魂の同期”を行います。

 解析は数分ほどで終了した。人工思念は複製の終了を知らせると、すぐに次の作業を提示する。
「同、期……?」
 疑問に思う暇すらなく、小部屋の内壁から数本のチューブが飛び出てくる。
「これは、まさか……」
 先端はまるで槍のように尖っていた。同期、見るのも物騒な形状のチューブ。ここから、予想されうる展開は一つ。
「ぐっ……」
 予感的中。チューブは勢い良く陽一の身体を貫き、小部屋と陽一の肉体を連結させた。
 途端にブラックアウトする意識。
 じりりと、二、三度ノイズがちらついて、すぐに目の前に魔方陣が見えた。

 ――Totem起動における全工程を、無事に終了いたしました。

 頭の中で言葉が響く。
『これで、俺はこいつを動かせるのか……?』
 いつも聞こえる肉声とは違う、金属質な声が聞こえてきた。びくりとして、自分の身体を見回す。
 漆黒の甲冑を身に纏った細身の身体。そのあちらこちらから突き出る、虹色のスタビライザー。
 虚空にふわふわと浮かぶ自分の身体は、先ほどホログラムで見た図面そのものの姿かたちをしていた。
『いける、思ったとおりに身体が動く!』
 宙を泳ぐ様に魔方陣の外へと急ぐ。
 魔法陣は思ったよりも狭く、上手く身体が外に出て行かない。
『このッ……』
 渾身の力を込めて魔方陣を引き千切る。霧散した光の中、巨大ロボットと化した陽一の身体が、カカティキたちの前に転がり落ちた。
 驚愕する黒角たち。
 先ほど飾り布の少女を助けた時と同じシチュエーションだ。
 違いがあるとすれば腹に据えた覚悟。もう戸惑いなどありはしなかった。
 陽一は漆黒の足を大地に下ろし、そのまま一気に――力強く蹴り込む。
 ぐんと感じる加速。陽一は迅雷と化した巨体をそのまま黒角にぶつけ、力いっぱい殴りつけた。
『でぇぇぇぇいッッ!』
 拳に感じる堅い感触。だが、痛みはない。
(これなら、やれる。彼女を……助けることができる!)
『な、何だ貴様は……ッ? 蛮族に二体目の巨人兵があるなんて聞いていないぞッッ』
 うろたえる黒角の一体を蹴り飛ばし、陽一はカカティキを庇うべく、黒角たちの前に立ちふさがった。
『お前、は……』
 カカティキの声が背中越しに届いた。彼女も急な助勢に大分混乱しているようだ。何度も言葉に詰まる様が妙に可愛らしく感じられる。
 暫く経って彼女はおずおずと口を開いた。

『質問に答えろ。お前は、私の“救世主”か?』
 救世主。
 彼女の投げかけた言葉は笑ってしまうくらいに少女的で、思わず赤面してしまいそうなくらいに芝居がかったものであった。
 自分が彼女の救世主なのか、と。そんな今時、ファンタジー小説でもお目にかかれないような古臭い台詞を彼女は臆面もなく口に出したのだ。
 そうだ、と答えられるほどに陽一は気障な性格をしてはいない。
 だから、陽一は笑ってそれに答えた。
『分からない。でも……少なくとも、あいつらの味方じゃない』
『そうか……』
 カカティキは一度だけ嘆息すると、すぐに倒れた身体を起き上がらせた。
『ならば、共に戦おう。どうだ、乗るか? このカカティキ・チナンの提案に』
 彼女が横に並び立つ。はしばみ色の金属翼をぴんと張った巨人の姿は、千人の兵士よりも頼もしいと思わせる威厳を備えていた。
 陽一はこくりと頷き、彼女に答える。
『当たり前だろ。俺は……八紘陽一は、あんたを助けるためにこんな巨大ロボットまで呼び出してみせたんだからな!』
『……ッ! やはり、お前は……』
 その言葉に一瞬たじろぐカカティキであったが、
『……いや、全ては敵を打ち倒してからだ。行くぞ、ヤヒロヨウイチッ、我らの戦さ振りを奴らに見せてやろうッ!』
 言うが早いか、二体の巨人は宙を舞った。
 狙う獲物は黒角たち。
 陽一の駆るTotem――ラダマンティスという名の巨大ロボットの参戦により、戦いの趨勢は一気にカカティキ側へと傾いた。





[30361] 1-3
Name: 三郎◆bca69383 ID:11d8ba8a
Date: 2012/04/13 07:58
※注意書き
 前回の戦闘シーンに大きな改稿が加えられております。黒角の武装が変更されているので、ご了承ください。



三、

疾風を纏ったカカティキの蹴りが、黒角のみぞおちに吸い込まれていった。
『……野郎ッ』
 蹴り飛ばされた一体が排気の轟風を巻き起こしながら、その場にぐらぐらと立ち上がる。
 黒角の巨体が鈍く輝いた。転倒の衝撃によって薙ぎ倒された高木が、新たな日照地を生み出したためだ。鬱蒼とした林冠に覆われた薄暗い世界に、強い光が差し込んだ。
 視線、視線、視線。間仕切りのような日差しを軸に、計七つに及ぶ無機質な闘志が交錯する。
 口火を切った戦場は、まもなく激化することだろう。それが本能で分かっているのか、薙ぎ倒された木々から蜘蛛の子を散らすようにして無数の生物が飛び去っていった。
 陽一は眩しげに眼を細めながら、底知れぬ憎悪とどす黒い殺意を放つ黒角たちをねめつける。

 巨人と化した陽一の眼が捉える巨体の数は五体。内、蹴り飛ばされた一体が前衛に立ち、中央に指揮官。その背後に大盾を構えた三体がいる。
 その全てが肉厚の大鉈《マシェット》を構えており、先ほどまでのような数を頼みにした傲慢さを取り払っていた。
 最早、奇襲は通じまい。正攻法で押していく以外に手はないだろう。
「……どうしたもんかな」
 独りごちる陽一。その思考に応える声があった。

 ――エクス・ウォーカー五体を確認。たかが量産型。然程の脅威があるとは思えませんが、一応戦闘機動態勢を取ることを推奨しますわ。
「おわっ」
 唐突に頭の中に響いた横やりに、陽一は仰天した。風に揺れる鈴を彷彿させるやけに人間味に溢れた声色だ。
 先ほどまでロボットの構築を手伝っていた機械人格――ネメインとは明確に異なる、高飛車な雰囲気さえ漂わせる女性の声であった。

「だ、誰だ。さっきのネメインじゃないよな?」
 ――あら。先ほど“魂の複製”を行ったことをお忘れかしら? 私、アーティフィカル・パーソナリティのエリーゼと申しますの。気軽にエリーゼとお呼びくださいな。

「はぁ? 複製でって……お前、女だろ? 何で俺の複製人格が女に……って、それ以前にその気取った言葉遣いは何なんだよ」
 ――あ、気になりますの? ふふん、良いでしょう。良いでしょう! 詳しくきっちり説明いたしますわ。こほん……本来、ヒトの人格は様々な外圧《ストレス》や生体化学物質《ホルモン》の影響を受けています。複製された人格はそれらの外的要因から解放されるため、自然と女性的なものになるのです。まあ、生物の基本構造は全て女性のものですし、この現象は至極当然のものと言えますわね。それに……
 耳元どころか、頭の中で口やかましくまくし立てられる陽一。
 塞ぐ耳も今はない。何だこの拷問は。
 その場にうずくまりたい衝動に駆られつつ、陽一は慌てて彼女のマシンガントークを遮った。

「ああっ、今はそう長々と説明しなくても良い! ええと……それでとにかく、君は一体何ができるんだ」
 ――あら、残念。私はTestamentの許す限りにおいて、搭乗者の精神を89.8パーセントまで正確に複製しておりますの。よって、搭乗者の能力が及ぶ大体の範囲において、十分なサポートが可能です。具体的には劣悪な環境下における生命行動のサポート、更に単独活動に磨り減りがちな搭乗者の精神を最適な状態に保つために、インタラクティビティのある会話を行うことすら可能ですわ。
「はぁ、双方向性《インタラクティビティ》……」
 鼻を高くして語る彼女の様子に、陽一は辟易しながら生返事をする。
 なるほど、確かに一般的なAIにこんな個性豊かな会話は行えまい。しかし、唯のサポートシステムにしては正直個性が強すぎやしないだろうか。こう口を挟む隙間もないくらいに畳みかけられると、これはこれである意味一方通行な気がしてくる。
 陽一は心の奥底でひとしきり不満点を挙げた後、今すべきことを思い出し、改めてエリーゼに問いかけた。

「エリーゼ、あれは……エクス・ウォーカーとか言ったっけか。君はあいつらを知っているのか?」
 ――はい。エクス・ウォーカーは人権の発生しない程度に劣化させた人工精神をプリセットした量産型Totemなのですわ。その目的は植民開拓者の生活補助。武装の類は搭載されておりません。よって、こちらを脅かす脅威とは成り得えません。

「脅威がない、だって? なら、あの重武装は何なんだ」
 言って、彼らの装備を確認する。
 金属製の巨大な方形盾に、三メートルのマシェット。後衛がたった今、金属鎖でできた紐状の装備を取り出した。
 ――……あら? 情報と違いますわ。何故かしら。
 間の抜けた呟きが頭痛を引き起こす。ころころと声の変わる人間味あふれた話し振り。他の奴にも聞かせてやりたいもんだと、皮肉の一つでも言ってやりたかった。
 だが、そんな猶予は残されていないようだ。
 どうやら後衛の取り出した装備は投石紐《スリング》であったらしい。彼らの手にすっぽりと収まった岩が金属鎖の先端に取り付けられ、人の胴体ほどの大きさを持つ岩の質量が、円運動の軌道に乗った。
 運動は徐々に加速していき……次の瞬間、放たれる。
 球体が楕円に見えるほどの加速を受けて、岩飛礫の驟雨が横殴りに降りつけてくる。その速度は凄まじく、直撃すればただでは済まないだろう。
 
『ああっ、くそッ』
 苛立たしげに吐き捨てて、陽一は慌てて身構える。
 唸りをあげて飛来する弾丸の迫力に、陽一の身体はまるで雷で打たれたかのように硬くなってしまった。

『避けろ、ヤヒロヨウイチッ!』
 カカティキの荒げた声が戦慄を打ち破る。
『――ッ、分かった!』
 ハッと我に返った陽一は回避行動を取るべく、腰を低く屈め、硬質の脚部に力を込める。
(飛べ、巨大ロボット!)
 有機体から発せられた意思が無機のシナプスを駆け巡り、機械の巨体に伝えていく。
 ――ィィィィィィィン。
 黒天目の輝きを放つ脚部間接が伸縮する。ふくらはぎにある筋肉だか歯車だか想像もつかない動力源が目まぐるしく働き始めるのを確かに感じる。
 ぐっと足底が大地に沈み込んだ。
 奇妙な感覚だ。
 自分の身体ではないはずなのにまるで自分の身体のように末端の隅々まで感じ取ることができる。陽一はそれに戸惑いながらも、つま先に込める力を更に強めていく。
 そして、跳躍。

「――おわっ」
 ラダマンティスの巨体は刹那の内に老木を優に飛び越して、樹冠の茂みのはるか上方にまで飛び上がる。
 地上から約四十メートル。あまりの高さに目眩がした。
 どうやら思うがままに動くと言っても、本来持っていた自身の身体と今の巨体の間には相当なギャップが存在するようだ。
 心と身体の違和感に戸惑いを見せる陽一の思考。それが災いしてか、ラダマンティスは体勢を崩し、その四肢は空中に投げ出された形になってしまう。 
 ――ちょっと! すぐさま採粒ノズルを反転して、姿勢制御を行ってくださいましッ。

「ノズルって――」
 ――背中から出ている美しい六枚羽根のこと。感じるでしょうッ!
 言われて背中を意識する陽一。
 感じる。背中に手や足の兄弟のような、神経の通った部位が確かにある。
 鋭角に突き出る三対のスタビライザー。なるほど、エリーゼはこの突起物のことを言っているのか。陽一は言われたとおりにノズルを反転させ、その先端を地面に向けた。
 虹色のプリズムをほのかに帯びた六枚羽根がブウンと細かく振動する。先端には幾つかに部屋わけされた吸気口がついており、まるで掃除機の頭のように周辺の大気を吸い込んでいた。
 これを反転させるのか。陽一は今までに経験したこともない作業に少し戸惑ったが、思ったよりも簡単にスイッチの入れ替えをすることができた。
 吸気ノズルが一転して排気ノズルに。元から自分のものだったように羽を扱える自分の手際に、陽一は無意識に驚きの声を漏らす。
「動かせる? 俺は鳥じゃあるまいし」
 何処か身体がむずがゆい。
 意識せずに動かせる箇所が増えると言うことが、こんなにも違和感のあるものだなんて思っても見なかった。
 ――当たり前の当然のスケですわ。今のあなたは八紘陽一であり、ラダマンティス《わたくし》なんですもの。
 そんな困惑などお構いなしに、何処か自慢げに誇るエリーゼの様子に陽一は苦笑いを浮かべて返す。
「良く分からんが、助かる!」
 喝采を活力に変えて、排気の出力を強めていく。
 スタビライザーの先端から吹き出る風の強さは見る間に強まっていき、ラダマンティスの巨体が地面に着こうとしたその瞬間、不意に重力が逆転した。
 全身を押し上げる強い反作用。風の力がラダマンティスの巨体を持ち上げていく。
 木々の合間を縫うようにして、虹色の軌跡が宙返りを打つ。
 今、俺は空を飛んでいる! 強い高揚感が陽一の心に湧きあがった。

 ――少しもたつきましたけれど。まぁ、初搭乗ですし、こんなものでしょう。及第点をさしあげてよ?
「そいつはどうも。んで、この後はどうすれば良い」
 ――どうもこうもありませんわ。空を飛べるということは飛行能力を持たないエクス・ウォーカーに対して圧倒的なアドバンテージを得たことになりますの。有史以来、人類が抱く夢を実現した私たちに最早敗北の二文字は似合いませんわ!
 上から目線で歌うように語るエリーゼ。
 んなうなぎ上がりのテンションに水をさすようにがくんと身体が揺れだした。

 ――あ、あら?
「おい。どうしたんだ、エリーゼ!」
 途端、けたたましい警告音とCAUTIONの文字が視界を埋め尽くした。
 上昇していた高度が徐々に下へと落ちていく。
 ――お、おかしいですわね。エネルギー補給システムが全然機能していませんわ……。ああ、なるほど。外気の供給率が……
「はあッ、補給システムが? 何でだよッ!?」
 ――はい、ラダマンティスを動かすエネルギーは、背中にある三対のノズルから外気を取り込むことによって得ているんですの。取り込んだ外気は高密度に圧縮されてエネルギー生成に用いられますので……飛行のために外気を吐き出し続けている今は、とにかく息苦しくて仕方がない。そんな状態なのですわ。
「息苦しい……って、何だよ。飛べるんじゃないのかよッ」
 ――いえ、その……。元々ラダマンティスは飛ぶために設計されておりませんので……。
「それを先に言え!」
 どうやらラダマンティスは鳥なんかではなく、鶏だったようだ。
 ――失敬な。鶏も鳥ですわっ。
「うるせえッ」
 口早に返して、気持ちを切り替える陽一。
 まずは彼女の言う“息苦しい状態”を何とかしなければならない。
 今のラダマンティスは、大気を取り込むべきノズルから逆に圧縮空気を噴出することによって身体を持ち上げている状態だ。ならば、再びノズルを吸気にまわしてやれば状況は改善するだろう。
 だが、しかし。陽一ははたと思い止まる。
 折角得た高所という強力なアドバンテージをみすみす捨ててしまう手はない。最大限に活用すべきだ。
 そこで、陽一は三対あるノズルの内、一対だけを吸気に使うことにした。
 ぐっと、落下の速度が落ちていく。
 それと同時に大気が機体に取り込まれていき、見る間に活力が戻っていく。
 上手くいった。急場ごしらえの発案であったが、的を外してはいなかったようだ。

 ――なるほど、こう言う使い方もできますのね。
「らしいな。それよりも」
 弱まっていく落下速度に安堵の吐息をつきながら、陽一は更に状況の改善を進める。
「エリーゼ、可能ならば今すぐ敵戦力の解析をしてくれ。高所を取っている内に、対策を練っておきたい」
 ――あ、はい。少々お待ちくださいませ。
 エリーゼの応答に合わせて、視界に各種情報《インジケーター》がポップアップする。
 ポップアップウインドウには、カラーリングのされていない黒角たち……つまり、エクス・ウォーカーの素体が表示されていた。

 ――汎用量産《モデュレイト》型Totem、拡歩《エクス・ウォーカー》。機体コンセプトは先ほど申し上げた通り。目の前の五体は、素体に棘付きの肩当てと、カラーリングを施した改修機であるようですわ。特筆すべきは、大盾と大鉈。材質は……軟鉄かしら? あれだけ肉厚ならば十分な強度もあるでしょうし、攻防共に最低限の水準に達していると言えるでしょうね。さらに興味深いのが、金属鎖で作られた投石紐《スリング》でしょうか。原始的な兵装ですけれども、彼らの膂力に遠心力がプラスされた弾速を以ってすれば、いくら岩石であっても我々の機体に十分なダメージを与えることができるはずですわ。
「飛び道具に大盾か。盾に篭られたらなす術がないな……何か対策は?」
 ――懐に飛び込むことができれば、いかようにでも料理ができるかと。
「何故そう言いきれる?」
 ――拡歩の人工精神は劣悪ですの。搭乗者の意思を10%も汲み取れればいい方で、基本的には歩くことや何かを手に持つこと……日常生活における、本当に些細なことしか行えませんわ。ですから、近接戦闘に持ち込めば、鈍重な挙動を翻弄しながら各個撃破することも不可能ではありませんわね。

「なるほど……」
 陽一は頷くと、ぐるりと視界を巡らし戦場一体を把握する。
 背の高い森林地帯。
 ラダマンティスの巻き起こす突風で吹き飛んだ枝葉の隙間から、六体のロボット……いや、Totemがまだらに見える。
 陽一側の後方にいる機体はカカティキのもの。飾り布の少女は……避難できたのだろうか。付近を見回しても、彼女の姿は確認できない。
 黒角たちは、陽一の前方で強固な陣形を組んでいた。
 指揮官を中心に、盾を持った機体が三方を守っている。蹴り飛ばされた機体も既に合流しており、マシェットを片手に前方の厚みを増していた。
 更に後方には台車が牽かれていた。補給車の役割を担っているのだろうか。武具や岩など、様々なものが積まれている。
 構成から考えて、彼らが一つの部隊規模であることはほぼ間違いないだろう。連携に慣れている、いわゆるプロの軍人たちだ。

「……陣が厚いな」
 正面から突撃をかけるのは得策でない。樹木に限定された空間で、敵の投石をもろに受けてしまう恐れがあるだろうし、辿りついたところで大盾がある。下手な接触は消耗戦のもとであろう。
 走って部隊の背後に回り込めれば隙をつくことも可能かもしれないが、やはり密度の高いシダ植物と巨大な樹木がそれをさせてくれそうにない。
 木々を薙ぎ倒しながら……ということも考えたが、すぐにそれは撤回した。薙ぎ倒す時点でどうしても手間がかかってしまうであろうし、森の民であるカカティキがどんな感情を抱くかわかったものではなかったからだ。
 そうなると、残された手立てはただ一つ。

「空からの強襲か」
 ――最適解ですわね。こちらの戦力はラダマンティスと、フレースヴェルグ。同時に空中から攻撃を仕掛ければ、確実に接近することができるでしょう。
「フレースヴェルグ? ケツァル・テアじゃないのか」
 ――搭乗者がどう呼んでいるかは存じませんけれども、あの機体はフレースヴェルグ。アスリート型Totem、“スピードスター”のフレースヴェルグと名づけられた名機ですわ。卓越した飛行性能に陸上性能、こと運動性能に関してあの機体の右に出るTotemはいませんわよ。
「へえ」
 彼女から得た情報を加味して、更に考えを進めていく。
 熱帯雨林は植生の関係上、中層の空間に大きな隙間が存在する。障害物の少ない空中ならば、地上を駆けるよりもずっと敵に近づきやすいだろう。そのまま彼らの背後に着地してしまえば、盾と陣形による防備すら無効化してしまうことができる。
 この作戦は有効だ。飛行能力を持つカカティキと、滞空能力を持つラダマンティスなら十分考慮に値する策であろうと思われる。
 しかし、投石の一点にのみ懸念が残る。
 距離を取って滑空している間ならば、敵の攻撃を避けることはそう難しくない。林立する高木を盾に立ち回ればいいだけなのだから。
 だが問題は肉薄する瞬間だ。至近距離での投石を陽一は上手く回避できる自信がなかった。直撃してバランスを崩してしまえば、目も当てられない。
 この最大の危機が訪れる瞬間をどう切り抜けるか……思考する陽一にエリーゼがポツリと答えを提示する。

 ――それなら、一度限りですけれども投石を無効化することも可能ですわ。
「何だって?」
 ――障壁《バリア》を作り出せば、多少の攻撃は跳ね除けることができますの。消費エネルギーが激しいので、そう長く展開することはできませんけれども。
「バリア……? 良く分からないが、本当の話なんだな?」
 ――ええ、この魂に誓っても。
「そっか……。ならば――」
 ――はい。フレースヴェルグに向けた指向性通信を開始しますわ。
 助かると内心付け加え、陽一はカカティキに呼びかけた。

『カカティキ、上から同時に仕掛けるぞ!』
『……ッ? だが、不用意に近づくなど――』
『勝算はある。俺を信じろ!』
『……くっ、分かった。我が槍を預けるぞ、救世主!』
 覚悟を決めたカカティキが宙高く飛び上がる。機械翼で風を掴み、高速で敵を目指すカカティキと、自由落下の方向をノズル噴射で調整して滑空するラダマンティス。
 陽一の狙いは指揮官機。陣形のぎりぎり背後にあたる部分をめくるように攻撃を仕掛ける心算である。
 加速する両機。それを撃ち落とさんと、指揮官機が黒角たちに指示を飛ばした。
『気でも違えたか。格好の的だッ』
『投石部隊、奴らを撃ち落せ!』
 投石が開始される。
 まず狙われたのは、カカティキよりも前面に進み出ていたラダマンティス。見る間に広がっていく岩飛礫から目をそらさずに、陽一はエリーゼに呼びかけた。

「エリーゼ!」
 ――はい。右手を前にかざしてくださいな!
「こうかッ」
 突き出す右腕から、背中のスタビライザーと同種のノズルが展開する。
 周囲に漂う目映いばかりの虹色。全身に流れる力が掌の更に先に収束していき、大きな魔法陣を創出した。
 ――いきますわよ。フィールド・オブ・イージス!
 エリーゼの叫びが脳を叩く。
 魔法陣が投石を受け止めた。巨大な質量に抱き留められたかのように急制動がかかる大岩。
「これは――」
 ――絶対の障壁《フィールド・オブ・イージス》。私たちオリジネイトTotemが持つ特殊能力ですわ。仕組みとしては、空間を歪めただけの至極簡単なものなのですけれども……それよりも、次のフェーズが来ますわよッ。このまま障壁ごと押し潰してしまいなさいな!
「分かった!」
 障壁越しに肉薄する大地、そして指揮官機。
 陽一は障壁に両脚をつけて、そのまま指揮官機の頭目掛けて力いっぱい踏み込んだ。
 ぎちりと軋む音がして、一段大地に向かって身体が沈む。

『あがぁぁああああッ!?』
 絶叫が森林に木霊した。
 激昂する指揮官機が陽一の足首目掛けてマシェットを振る。陽一は再度跳躍してそれを避けると、ノズル排気量を微調整して別の一体に回し蹴りを見舞う。
 投石を行った機体は上手く次の動作に移行できておらず、前衛は更に向こう側である。
 まさに千載一遇、必殺のタイミングと言っても差し支えないこの状況。
 硬い手ごたえを脚部に感じた。

『俺の、目が、目がァッッ!』
 機械の身体に痛みがあるのか、悶え苦しむ眼下の一体。
 黒塗りの肥満体が癇癪を起こし、単眼レンズが無機質な音を立てて底光りした。

『殺す……。この野郎、殺してやるからなッ! 死ね、早く今すぐ殺されて死ねッッ!! 蛮族風情がァァァァッッ!!』
『殺されてたまるかよ、この一つ目野郎!』
『んだと、コラァァッ!!』
 敵の発した憎悪の篭った叫びに、陽一は喧嘩腰で立ち向かう。
 ノズル排気量を最大にして軟着陸した陽一に、黒角の凶刃が襲い掛かる。
 それを陽一は黒角の懐に入り込むことで回避して見せた。マシェットを持つ腕を掴み取り、がっぷり組み合い、力比べに移行する。
 ラダマンティスの握力に黒角の外殻が悲鳴をあげ、大きく軋む。互いの排気風が、周辺の若木を横倒しにする。
 早鐘のように脈打つ心臓。陽一は心を奮い立たせんと、あらん限りの力を込めて叫んだ。

『何が蛮族だ。古代ギリシャ人《ヘレネス》気取りにお高く留まりやがって……! 知ってるか? 故人曰く、そういうのを身内贔屓って言うんだよ!!』
『――ッ? 何を意味の分からんことをッッ!』
『俺だってそう思うさッ!』
 そう短く叫んだ後、陽一は敵の剛力を受け流すようにして敵の腕を横に振り払った。
 バランスを崩して急制動をかける黒角の上体。ラダマンティスの腕が空いた。
(しめた!)
 この機を逃す手はない。
 陽一は空いた利き腕をぎゅっと握り固め、フック気味に黒角の横っ面を殴り飛ばした。
 大きくひしゃげる黒角の顔面。不規則に点滅する一つ目に向かって、更に駄目押しとばかりにもう一発見舞う。

『アァァァッッ!? 痛ェ、痛ェェョォォォォッッ!!』
『くそ、頑丈な――ッ!』
 大分ダメージを与えているはずなのに、目の前の黒角は未だ健在であった。生存本能の赴くままに豪腕を振り回し、ラダマンティスをこれ以上近づけまいと、必死に足掻く。
 舌打ちを重ねる陽一。とどめの一撃を見舞うべく腕を振りかぶった瞬間、突如エリーゼの制止がかかった。

 ――新手の接近を確認。一時、後方に非難してくださいまし。
「うおっ」
 慌てて上体を反らしたところに、別の一体が割り込んでくる。豪腕の一撃が目の前を通り過ぎていき――
「なっ、さらに一体だって!?」
 すぐ横に両手でマシェットを振りかぶった黒角がいた。体勢を崩したところにこれは避けきれそうにない。

『何をしているッ!』
 直撃を迎えるその寸前に、砲撃でも受けたかのような破砕音が通り過ぎていった。
 カカティキからの援護投擲だ。至速に達した銀槍の通り過ぎた後には何も残されておらず、胴体から上を失った黒角がよろよろと崩れ落ちていった。
『すまない、カカティキ!』
 礼を言おうと視線を向けると、彼女は七体を相手に奮迅の働きを見せていた。
「七体、だって……?」
 黒角の数が増えていた。
 どういうことだ。陽一を囲む黒角の数は、手負いも含めて後五体。計十二体の黒角がこの戦場に現存している。
(村を襲っていた部隊が合流したのか?)
 湧きあがる疑問。そして不安。激変を繰り返す戦場に、更なる不確定要素が入り混じる。

『ほぅ、これは驚きました。いくら村を焼いても姿を見せなかった原住民の娘が、まさかこんなところに居ようとは』
 妙に上擦った男の声が陽一の耳を汚した。その声色からは緊張感など欠片も感じられず、まるで戦をピクニックと勘違いしているような場違い感すら覚える。
 地響きが鳴る度に、周囲の温度が高まっていく錯覚を覚える。いや、錯覚ではないのかも知れない。現に今、森の奥で空気が揺らめいた。
 巨木が次々に倒れていく。何者かが行く手を遮る障害物を押しのけながらこちらへ向かっているのだ。子供が小さな草花を踏み潰すような無邪気さの中に、何処かぽっと出の万能感を匂わせて、“それ”は一直線にこちらへと向かってくる。
 陽一たちと“それ”を隔てる最後の巨木が暴力に屈して横たわった。天蓋を失った空から日光が降り注ぎ、“それ”は、新たな巨人はのっぺりとした体躯を輝かせた。
 ヒヒ、と巨人の主が嘲笑う。それはよこしまであるのに何処か薄っぺらく感じられる、聞く者に不快感を催す声色であった。





『アラニース様ッ』
 黒角たちの振る舞いから、敗色の不安が解けていく。アラニースと呼ばれた新手は、周囲の期待が一身に集まっていることを確認し、満足げに膨れ腹を揺らした。
 アラニースの駆る機体は醜悪な存在感を発していた。
 喩えるならば、“成金趣味の蛙顔”。
 全長は十八メートルはあるだろうか。黒角どころか、ラダマンティスやフレースヴェルグよりも一回りは大きく見える。のっぺりとした外装に瓢箪のような体つきは、何処か肥えた中年男性を思わせる。
 堅固な装甲版の隙間からのぞく、三日月に潰れた嫌らしい眼は爛々と怪しい光を放っており、取り付けられた透明な頬袋の内では、燃えさかる火炎がぐるぐると渦巻いていた。

『探しましたよ、原住民』
 楽しげな声をアラニースが投げかける。機体の首を傾げさせ、こちらをじろじろと見下ろすその態度からは、敬意の欠片も感じられない。まるで虫けらでも見るかのような眼差しに、陽一は酷く苛立った。
 アラニースは唸る陽一に視線を滑らすと、
『んんん? 見慣れぬ巨人兵が混じっていますな……』
 ぽっと疑問を口にして、すぐにつまらぬ思考と取り下げる。
『まあ、やることに変わりはありませんか。ガハルド様への献上品が増えた――ただ、それだけのこと』
 含み笑いをする蛙頭のやけに膨らんだ指先が、ピンと立つ。アラニースはそれをまるで楽団の識者の如く操り、尊大な態度で歌った。
『喜びなさい、原住民。ペトナ家の長子、アラニースの手柄になれるのですから。歓喜のままに消し炭になれ』

 黒角たちが再び勢いを取り戻し、人海戦術で押し寄せてきた。
「くそ、黒角に“でかぶつ”までおかわりかよッ」
 腰溜めに放たれたマシェットの一撃を、陽一は身体を倒して寸でで避ける。イィィィンと駆動音を高鳴らせ、腕の力だけで飛び上がった。
 ――廃棄物焼却用Totem、バックス。強固な外装と三千度を超える高温の火炎放射を得意とする重量級の機体ですわね。正直、エクス・ウォーカーなどとは比べ物にならないくらいに手強いですわよ。
 姿勢調整を行う陽一に、エリーゼのアドバイスが届けられる。
『ヤヒロヨウイチ、仕掛けるぞ――ッ』
 カカティキが言葉だけを場に残して、一陣の風と化した。まずは頭を潰すことが先決と判断したのだろう。黒角の一体を踏み台にして向かう先は、蛙頭の巨人――バックス。
 陽一も慌てて彼女を追随する。ノズル排気による急降下をバネに変え、姿勢を低く大地を駆ける。
 上下に別たれた閃光が、バックスの膨れ上がった図体に叩き込まれた。

『ヒヒ……今、何をしたのですかぁッ!』
 最大速度から飛び上がった彼女渾身の投擲は、バックスの外装にあえなく弾かれた。
 尋常でない防御力だ。攻撃を受けたはずの箇所に、傷一つ見られない。カカティキは舌打ちをして、翼を展開。即座に距離を大きく取った。
 問題なのは陽一だ。渾身の力を込めて放った殴打がまるで相手に堪えていない。それどころか、体重をかけすぎたために続く動作が遅れてしまった。
 バックスの細長い指がラダマンティスの腕部を掴む。
『つ、かまえたぁ!』
『うおッ』
 そのまま持ち上げられて、醜悪な蛙顔の目前にまで寄せられた。三日月の細目が赤く染まり、頬袋の火炎旋風がはちきれんばかりに密度を増す。
(やばい――ッ)
 絶体絶命の窮地を再びカカティキの手槍が救う。銀光がバックスの横っ面を思い切り叩き倒し、直後、バックスの口から圧倒的な熱量が舌の様に伸びていった。灼熱の舌が大地を焦がす。木々は一瞬にして炭化させ、戦傷で満足に動けない黒角をも巻き込んでいく。
「こいつ、味方まで――!」
 赤く融解し、飴のようになった黒角を目の当たりにして、肝を冷やす陽一。
 ――FoE《フィールドオブイージス》を展開してくださいませ!
 切羽詰ったエリーゼの叫びに活路を見出す。陽一は掴まれた腕に力を収束させ、バックスの指をこじ開けるように障壁を構築した。万力の如く締め付ける握力も、空間の歪みには抗えない。解放された腕を慌てて引っ込めながら、陽一は全力で後方へ飛び退った。

「くそッ、あんなインチキロボ。どうやって戦えば良いんだよッ!」
 ――いえ、手はありますわ。少々時間をくださいませ。
「え、おい。そりゃ一体――」
 エリーゼの言葉に疑問を挟む暇もなく、全身から力が抜けていった。どうやら供給されるはずのエネルギーを“何か”に注ぎこんでいるらしい。
「おい、エリーゼ。おいッてば! くそ、急に黙りこくりやがって……!」
 彼女の行おうとしている“何か”を陽一は知る由もない。だが、それに頼らざるを得ないことも確かである。陽一は、今自分がすべきことを自問し、即座に答えを出した。

『カカティキ! 奴の装甲を貫けるかッ』
『空から全速力を込めれば、あるいは……』
『良し、“今”はそれで行こう! 俺が奴の動きを食い止めるから、後は頼んだぞッ』
 言うが早いか、周辺の黒角を受け流しつつ、陽一は再びバックスへ突撃をかける。
 黒角たちの連携が悪くなった。恐らくはバックスの炎を恐れているのだ。
 おあつらえ向きだ、と自分の足を叱咤する。陽一は漆黒の体躯に散らばる虹色の光をさらに強めて、宙を飛んだ。
『ゼアッ』
 中空で駒のように身体を回す。排気出力を回転に乗せ、破壊の力を脚部に込める。放たれた回し蹴りは蛙頭を狙い違わず撃ち抜いて、その巨体を大きく揺らした。

『ハン、無駄な足掻きを!』
 ダメージ自体は全くない。よろめいた上体をゆっくり起こし、バックスは再び火炎舌を伸ばしてきた。
 陽一はこれを急降下で辛うじてかわし、脇の下をすり抜けて敵の背後に回りこむ。二度のやり取りで気づいたことは、敏捷性の違い。このでかぶつは、黒角以上に鈍重なのだ。
『ちょこまかとぉっ』
 長い両腕が陽一を捕らえんと上下左右に踊る。しかし、一端逃げに徹した陽一の身体にはかすりもしなかった。生身ならば、こうはいかなかっただろう。ラダマンティスの化した陽一の敏捷性は、生身だった頃とは比べ物にならないくらいに上昇していた。
 まだか。陽一は上方をちらりと見上げる。カカティキの姿はない。超高木層のさらに上、小高い丘すら飛び越えそうな高度にまで飛び上がったのだ。そこから放たれる急降下の一撃は、紛うことなく一撃必殺の威力を秘めていることだろう。
 後少しだけ持たせて見せる。陽一の覚悟を嘲笑うように、バックスは気色の悪い声をあげた。

『ヒヒ、そんなの。こうすれば全てがおじゃんでしょうにッ』
 バックスの腹が尋常でない大きさにまで膨れ上がった。死の予感が陽一の脳裏を駆け抜ける。慌ててその場を飛び退いた瞬間、戦場を紅蓮の業火が覆った。

『ヒヒヒ、僕の炎で皆燃やしてやる! ヒヒ、ヒヒヒッ!!』
 バックスが辺り構わず炎の舌を伸ばして回る。炭化した森のあちらこちらで熱された空気が破裂して、巻き添えを受けた黒角たちが逃げ惑った。
『……無茶苦茶だ』
 森の中にぽっかりとできた焼け跡の中心で、蛙頭が狂喜している。
 まるで降って湧いた力に溺れているようだ――底冷えのする恐怖に身を震わせて、陽一は仲間ごと森を燃やす蛙頭を空中から見下ろした。
 刹那。
 呆然とする陽一の視界を、雷が通り過ぎていった。
 カカティキだ。空高くから動体視力では追い切れないほどのスピードでもって、彼女は蛙頭の頂点目掛けて急降下をかけたのだ。
 あまりの速度に空間が根こそぎ切り裂かれ、真空となった軌跡に滝のような空気が吸い込まれていった。
 雷撃が落ちた。彼女の手槍は灼熱の空間に耐える屈強な外装を打ち破り、バックスの頭部を串刺しにする。

『え、へ――?』
 信じられないといった具合に、疑問がバックスの壊れた口からついて出た。
 そして、絶叫。
『アァァァアアアアアアアアアアアッッ!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛いッッ!!!!』
 痛みに身体をのた打ち回らせるバックス。苦し紛れのその挙動が、あまりにも迅速であったこと。一撃で仕留めきれなかったことが、カカティキの判断を鈍らせた。
『しまっ――!』
 頭部に取り付いたカカティキの足をバックスが捉えた。そのまま力任せに振り回し、彼女の全身を大地に思い切り叩きつける。受身も取れない状態での衝撃が彼女の体躯に伝わっていく。
『ガ、ハッ――』
 カカティキの細身が一段深く沈みこんだ。その上に激怒したバックスの巨大な足が迫る。
『畜生、畜生、畜生ッ!!!』
 涙声で何度もカカティキを超重量で踏みつける。
 地響きのたびに苦悶の声があがった。何度も、何度も。バックスは狂ったように足を動かす。カカティキのうめき声が回数を重ねるごとに弱まっていった。

『カカティキ!』
 陽一が慌てて救援に駆けつけようとするも、我を忘れて暴れるバックスの腕に阻まれる。
 体当たりも、殴打も、どんな攻撃も通じない。
 焦りを募らせ、陽一は叫んだ。
『まだか、エリーゼェェェッ!!!』
 ――充填率3%、5%……15%、20%、25%……! お待たせしましたわ。“ラック”を活用してくださいましッ!
 待ちわびた応えがやってきた。

「Luck《幸運》? どうすれば良い!」 
 ――Rack《収納棚》ですわ! ジェネレータ生成エネルギーの一部を物質生成に用いて、プリセットにあるアーティファクトを顕現しますの。貴方の“武器”を、今生み出しますわ。先ほどと同様、掌をかざしてくださいな!
「良し来たッ!」
 巨体を見上げつつ、陽一は強敵を撃ち滅ぼすことのできる武器を願って右手を掲げた。
 再び生み出された幾何学模様の魔法陣が、目の前で虹色の光を帯びて回転する。陣の中心には剣の柄が浮かんでいる。あれが柄だとするならば、陣はさながら刃の鞘か。
 少女を悪漢から救うにはこれ以上ない適物だ。陽一は気炎をあげてそれを勢い良く抜き放った。
 果たして手に収まった得物は一本の短剣。
 刀身を虹色に染め上げた力の刃であった。

 ――エリーゼの儀礼短剣《バターカット・オブ・シャンゼリゼ》。今のエネルギーで出せるものはこれくらいですが……“あの程度”の外装を斬り裂くには十分すぎる性能でしてよ!
「それなら上出来だ!」
 陽一が吼える。
 絶体絶命の危機を迎えた少女を救うべく、短剣を逆手に持ち、長く伸びたバックスの機械腕を力いっぱい斬り上げた。
 ヒィィィィィィィンッ!
 刃の触れた部分が不可解な音と共に消失していく。さしたる抵抗も感じない内に、バックスの腕が宙を舞った。
『ヒャアアゥッッ!?』
 切り飛ばされた腕が地響きを立てて地面に沈み込む。隻腕と化した本体から声にならない悲鳴が漏れた。

『良しッ』
 痛みに我を失い放心するバックス。陽一は彼の短くなった腕を掴んで、勢い良く天辺まで駆け上った。
 ちろちろと点滅する三日月の瞳。既に頬袋の火力はない。
 これが止めだ! 陽一は全力で短剣を喉元から胸に目掛けて突き下ろした。

『や、やめッ――』
 絶命の最後の一瞬までも足掻き続けるバックス。外装が音を立てて消失し、内部がするりと裂けていく。
 バックスの身体が痙攣し、その場に崩れ落ちた。
 やったか――陽一が安堵の吐息をつこうとしたその刹那、
『アアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッッ』
 精一杯の命を振り絞ったバックスが、陽一の身体を突き飛ばした。
『くっ、どんだけ頑丈なんだよ。お前ッ』
 這いつくばって逃げようとするバックスに追撃をかけようとする陽一。
 再び肉薄する両者。そして――

 イィィィィィィィン……。

 刃の弾ける音がして、排気の突風とは違う凍えるようなつむじ風が陽一の身体を通り過ぎていった。

 ――え、そんな……何ですの、このエネルギー量は……ッ? 危険ですわ、搭乗者《マスター》! 直ちにこの場からの即時離脱を提案します。早くッ!!
 口早に告げられたエリーゼの警告が、一体何を意味しているのか。陽一がそれを理解するまでには若干の時間を要した。
 考えるよりも早く体が後退を選択していたのは、全く奇跡だとしか思えない。

 短剣を受ける長大な斧槍《ハルバード》の柄。
 それを持つ手は漆黒の騎士手甲に覆われており、揺ぎない力強さを感じさせられる。風にたなびく外套の裏地は血錆色に染まっており、まるで彼の潜り抜けた戦歴を物語っているようであった。
 フルフェイスの水鉢形兜《バシネット》からは、黒角たちと同じく一本の角が突き出ている。しかし、彼らと似通っているのは角だけだ。その体躯は樽型の黒角たちよりも一回りは大きく、そして全体的にしなやかな印象を受ける。
 まるで西洋の騎士――。そう、喩えるならば陽一の斬撃を受け止めた新手は、黒角とは似ても似つかない漆黒の重装騎士であった。
 面当ての隙間から覗く怪しい瞳の輝きを見た瞬間、陽一は今、自分がどれだけ危険な状況に置かれたのかを実感する。

 間違いない、こいつは敵の大将だ。今まで戦ってきた奴らとは、何もかもが段違いな――

 何者も寄せ付けない高貴さと、見る者を圧倒する迫力を兼ね備えた一軍の大将。そんな絵物語の主役みたいな相手が目の前にいて、自分たちと敵対している。
 “これ”との戦闘はなんとしてでも避けなくてはならない――。陽一の生存本能が、痛いほどに撤退を要求していた。

『“大柄”……ッッ』
 地面に倒れるカカティキが苦悶の声を発した。
 彼女は今、漆黒の騎士を“大柄”と呼んだ。何かしらの因縁があるのであろうか。敵と相対する際の断固たる殺意の中に、焦りのようなものが垣間見える。
 “大柄”は斧槍を静かに振り回した。ゆったりとした動きの中に秘められた確かな威圧感を受けて、陽一の心が恐怖に震える。
 武人の演武が彼の闘気を加速度的に高めていく。発せられた重圧がぴりぴりと周囲をおののかせ……やがて、ぴたりと収まった。
 スッと得物を地面に下ろし、

『ここは矛を収めて頂きたい。森の民よ』
 先ほどまでの敵とは明らかに違う、深い理性を感じさせる声色で意外な言葉が放たれた。




[30361] 1-4
Name: 三郎◆bca69383 ID:11d8ba8a
Date: 2012/01/19 01:32
四、

『ここは矛を収めて頂きたい。森の民よ』
『なん……だって?』
『……これ以上の戦はわしの望むところではない。そう言っておるのだ』
 “大柄”の意外な言葉に陽一は戸惑った。
 呆然とする二人に漆黒の騎士はさらに言葉を重ねる。
『我が軍の非道なる振る舞いについては平に詫びよう。だが、これ以上の損害を許すわけにはいかんのでな』
 “大柄”の赤い瞳が輝きを増した。
 真摯な姿勢の中に秘められた、有無を言わさぬ強い意思が感じられる。

 ――搭乗者《マスター》。相手の提案を受諾いたしましょう。“あれ”との交戦は、断固回避すべきですわ。
 先程までの強気が嘘のような態度でエリーゼが提言する。陽一が「何故だ?」と問いかけると、
 ――“あれ”から感じるエネルギー量は下手なオリジネイトTotemを遥かに上回っておりますの。敵の特性、武装、搭乗者の力量、すべてが詳らかでない以上、無闇に戦うべきではありません。
 彼女の言葉を後押しするように、視界にインジケータがポップアップする。騎士甲冑の周辺に表示されたいくつもの「不明」を確認して、陽一はごくりと唾を飲み込んだ。
 どうするべきか。陽一がカカティキに声をかけようとしたその矢先、
『……ッ、ふざけるな!』
 カカティキが激昂し、地を駆けた。
 交わす言葉など欠片もない。そう言わんばかりに、はしばみ色の機械翼を流線型に折りたたみ、フレースヴェルグを全力で加速させる。
『カカティキッ』
 陽一が追う。バックスの火炎放射により、周囲の障害物は激減している。硬質の脚部が焦土を揺らし、黒い粉塵を巻き上げた。
 先を行くカカティキが槍を逆手に持ち替える。そのまま脚部に力を溜めて、飛ぶ。足下につむじ風を纏わせた。
『貴様らは我々の村を焼いた! 村の女を浚った。鱗鼠《ニュム》と変わらぬ貴様らが、どの口で槍を収めろというつもりだ!!』
 しなやかな体躯を弓なりに曲げて、カカティキが銀槍を突き下ろす。“大柄”はそれを斧槍で受け、にらみ合う。
天地両雄相譲らない。
 達人同士のせめぎあいが始まった。
『私は死ぬまで槍を振るう。死ぬまでだ! たとい樹芋《コサ》の食べかすとて、決して貴様らにやるものか!』
 裂ぱくの気合を発し、カカティキが連撃を繰り出す。銀槍の切っ先が目まぐるしく踊る。
 しかし、届かない。寸でですべてを見切った“大柄”が、神がかった斧槍捌きによって弾いてしまうのだ。代わりに“大柄”の背にあった樹木が細切れになった。炭化した木片が崩れ落ちていく。木片と木片がぶつかり合い、金属にも似た音色を奏でた。
『返す言葉もない。だから、頭を下げておる』
『謀《たばか》るな――ッ』
 カカティキの銀槍が手元で回転した。遠心力を得た切っ先が円鋸の如く斧槍を襲う。
 槍の穂が震え、輝きを放つ柄が弧を描く。空気が裂ける音がして、殺気と圧力の入り交じった冷気が周囲をおののかせた。
『見事な腕だが、まだ若い。今の貴公ではわしは倒せぬぞ』
『その口を閉じろ、余所者が!!』
 溜まりに溜まった闘志が爆ぜた。身体を捻らせ、全力で突き出された手槍が“大柄”の喉元に迫る。寸前で見せる千変の挙動。――これは決まった。陽一の眼に一寸先の未来が、“大柄”の崩れ落ちる姿が映った。
 ……だが、その予感は裏切られることになる。崩れ落ちたのはカカティキの方であったのだ。
『カハッ――』
 勢い良く地面に叩きつけられるカカティキ。
 今何をした? 仰天する眼が、漆黒の騎士手甲を振り上げた“大柄”の姿を捉える。
 斧槍による一撃ではない。漆黒の体躯をフレースヴェルグの目と鼻の先まで潜り込ませた彼は、強力な裏拳を鷲頭の側面に見舞ったのだ。
『無益な血は好まぬ。……分かってはくれぬか』
 超然とした構えで、あくまでも主張を繰り返す“大柄”。
 しかし、ショックで気を失っているのか、カカティキからの反応がない。“大柄”は面当ての内で輝く瞳をこちらに向けて滑らせた。 
『カカティキ!』
 陽一が二人の間に割り込んだ。彼女を見下ろす“大柄”の首筋めがけて、虹色の短剣を横薙ぎに振るう。
 “大柄”の重心がわずかに動いた。喉もとの一歩手前で虹色の刃が空を切り、陽一は強く歯噛みする。
『このぉっ!』
 追撃を加えるべく、体重を傾けて全力で切っ先を突き入れる。
 次の瞬間、バルデスの声がかすかに横に流れた。彼我の間合いを完全に理解した、流水を思わせる足捌きだ。陽一渾身の一突きが“大柄”の肩先をむなしく抜けていく。
『無駄な動きが多すぎる。機神とは……こう扱うのだ!』
 肉薄する身体が、“大柄”の肩当てによって打ち出される。思ってもみなかった体当たりにぐらつく身体。
 ――姿勢の回復を……駄目、間に合いませんわッ。
 衝撃に頭が揺れる。間髪入れずに放たれた斧槍の石突きがラダマンティスの顎を正確に捉えたのだ。
 上体をはね飛ばされるラダマンティス。よろめく自分と入れ違いに、カカティキのフレースヴェルグが斬り込みをかけた。
『ヤヒロヨウイチ!』
『……っ。分かった!』
 何とか思考を持ち直し、カカティキからの合図に陽一が頷く。
 左右からの挟み撃ち。銀槍が掬い上げるように昇っていき、短剣が袈裟懸けに落ちていく。点ではなくて、線による一斉攻撃だ。これならば回避も容易ではない!
 短剣の柄を握る力をぐっと強める。
 込めるものは強い自信だ。陽一の脳裏に先程の戦いがフラッシュバックした。
 この虹色の短剣はバックスの強固な装甲だって易々と斬り裂くことができた。
 ならば“大柄”にだって通じぬ道理はない。
 どんな箇所でも当たれば良い。たとえあの長大な斧槍に受け止められたとしても、その防御ごとねじ伏せることができるはずだ。
 “大柄”はその場を動かなかった。
 避けることを諦めたのだろう。二人の刃が甲高い音を鳴らし、共鳴した。l
 じんと痺れる右腕。
 陽一は確かな手ごたえを感じた直後、喝采をあげることが“できなかった”。

『うそ……だろ……』
 擦れ声を搾り出す。手ごたえはあった。が、“効果”がない。“大柄”はその場を微動だにせずに、二人の攻撃を捌いてみせたのだ。銀槍は斧槍の刃先に絡めとられ、虹色の刃は漆黒の石突に阻まれた。
 全幅の信頼を置いていた得物に裏切られ、狼狽する陽一にエリーゼが注意を促す。

 ――マスター! 敵武装から、微弱なFoE反応を検出。あれは……武装の強化能力《エンハンスド・アームズ》ですわ! 軍用Totemにのみ搭載された強力な特殊兵装です。正面からのぶつかり合いは絶対に避けてくださいましッ。
「無茶を言え!」
 ――もう! だから、先ほど戦うなと申し上げましたのに!!
 毒づく陽一たちに、“大柄”の斧槍が襲い掛かる。
 速い。
 大気を押し潰し、空間を制圧する一閃が、ラダマンティスとフレースヴェルグに軽々と薙ぎ飛ばす。
『……ぐぁッ!』
 飛ばされた身体が、焦げた大地に二本の轍を生み出す。動作を終えた漆黒の騎士が、轍の始点を石突で穿った。

『……実力の差が分からぬほどに愚かではないはずだ。重ねて請おう、“矛を収めろ”』
 仁王立ちで投げかける。
『押し問答は繰り返さぬ。そのまま大地に伏しておれば何もせんよ。だが――』
 地面に手をつく陽一たちを、静かに見下ろす。
 肉厚の斧槍がゆっくりと持ち上げられ、その切っ先が再びこちらへと向けられた。
 陽一は戦慄する。敵の力量は尋常ではない。この戦いに、勝ち目はない。
 ――機体ダメージ甚大。復旧急ぎます。脚部駆動系、損害軽微。再顕現まで二十秒。動力ラジエータ、中破。こちらは……。
 エリーゼからもたらされる損害報告が後押しして、心が停戦を受け入れ始める。一閃を受けた残響が身体をジンと震わせる中、陽一はカカティキを縋る目で見た。

『……くどいッ。死ぬまで戦うと、私は言った!』
 しかし、カカティキは尚も継戦の意思を声高に叫んだ。
 ぐらりと上体を起こそうと手槍を杖にするが、むなしく崩れ落ちてしまう。満身創痍の彼女を駆り立てているものは恐らく、憎しみだ。吐き捨てる言葉の端々から、それが痛いほどに感じられた。
 黒色に焦げた森林に静寂が訪れ、波打つ。
 視線による威嚇。腹を探る、蛇を思わせる悪寒が陽一の心を締め付けた。
『やはり意志は固い、か――』
 “大柄”は彼女の頑なな意思を理解したのか、諦観の吐息を深くついた。
『だが、しばらくはまともに動けまい。わしはわしの使命を果たせてもらうとしよう』
 水鉢形兜から漏れる瞳の光がすっと端に寄った。視線の先には先ほどの巨体――廃棄物焼却用Totem、バックスがある。“大柄”は無様に横たわる仲間に対して、やや怒気を孕んだ声色で問いかけた。

『ペトナ隊士』
 厳かな低い声。直接言葉を受けているわけではないのに、ぞっとさせられる。
 アラニースも迫力を感じ取ったらしい。
『……バルデス・イグレシアス……軍監《ドミテス》閣下』
 気圧されるように“大柄”の言葉に答えると、すぐに言葉に詰まってしまう。

『巨人兵は偉大なる女帝陛下が御賜あそばした帝国《エスバール》の宝。一兵たりとも無駄にはできぬというのに、この体たらくはどういうことだ。我欲による独断。そして敗北……しかし、それよりも唾棄すべきことは機神の無断使用。一歩間違えれば、取り返しのつかない失態であったところを、一体貴殿はどう本国に申し訳するつもりだったのだね?』
 “大柄”……いや、バルデスの口調が更に険しいものになる。
(部下の独断……。“大柄”は事態の収拾に奔走しているのか?)
 陽一は彼らのやり取りを頭の中で反芻した。

『……ぼ、僕は悪くない』
 散々な叱責に耐えかねたアラニースが懸命に失態を取り繕った。
『僕は……総督官殿とガハルド様の命に従っただけなんだ。……それにっ、あの原住民どもが余計な抵抗をしなければ、問題なんてなかった……そうさ、悪いのはあいつらだ!』
 徐々に気持ちを昂ぶらせ、尻上がりに声が高くなっていく。
 支離滅裂にも程がある、と陽一は毒づいた。彼を取り巻く環境など知る由もないが、抵抗をしない敵などいるわけがないだろう。彼の責任転嫁は、ひどく傲慢で独善的だ。自分と異質の存在など欠片も考慮していない節があった。
 それをバルデスも感じ取ったのだろう。まず呆れが先に立ち、見る間に怒りが膨らんでいった。
『愚かな……』
『な、なんだよ……軍監殿は、僕たちの味方のはずだろう!』
 アラニースが癇癪を起こす。バックスの隻腕を地面に叩きつけ、不満を思うがままにぶちまけた。
『僕は罪なんか犯していない! 僕はペトナ家の長男で、ガハルド侯爵《マルケ》直属の隊士なんだッ。そんな僕が罪に問われようはずがない!! 第一――』
 続く言葉で、場の空気が一変した。

『これ以上、共和派の敵を増やしても良いのかよ!』
 斧槍の輝きが不意に消えた。
 速さの程も分からない。気がついた時には刃の先端がバックスの膨れ腹をかすかに抉っていた。
 思わず息を呑む。まるで時間が斬り飛ばされたかのようだ。喧しくまくし立てていた蛙の大口が、一度だけ空気を漏らして動かなくなった。
 三日月状の眼から光が失われていく様を目の当たりにして、エリーゼは戦慄する。

 ――機能停止……。動力ケーブルだけを切断したとでも言うんですの? そんな、馬鹿な……あの、一瞬で。
 彼女と同様、陽一も目の前の敵が披露した常識外れの芸当に度肝を抜かれていた。
 バックスの腹部外壁を剥ぎ取り、内部に走った動力ケーブルを選択的に切断する。その一連の所作を、“大柄”は瞬きをする間にこなしてみせたのだ。
 圧倒される陽一たちに、再び強敵の視線が向けられた。
『用事は済んだ。“これ”は回収させてもらう』
 言って、バルデスは何かを高々と放り投げた。人の背丈ほどもある頭でっかちの大矢がけたたましい音を響かせながら上空へと吸い込まれていく。
 あれは……鳴鏑《なりかぶら》か。伝達手段の乏しい前近代において、猛威を振るった信号弾の一種である。
 となれば、状況は最悪の縁にまで転がり落ちたと見て相違ない。
(まずい、仲間を呼ばれた)
 見上げる空に、二つの影が浮かび上がる。飛礫ではなかった。あれは――
『なっ、黒角……!?』
 飛来物は黒角そのものであった。
 一抱えもある杭《ステイク》を持った黒角たちが、重力に身を委ねて落ちてくるのだ。
 飛行能力どころか、まともに飛び上がることすらできないはずのを持たない彼らに、何故あのような芸当ができるのか? 考えても答えは出てこないが、確実に分かることが一つだけある。それは杭の先端が“こちらに向けられている”ことだ!

『――ッ』
 陽一とカカティキが咄嗟に転がり退った場所に、重々しい金属柱がそびえ立った。
 串刺しを免れた陽一たちを、杭越しに新手の単眼が油断なく見上げてくる。
 ただの雑兵ではない。現れた黒角たちはどちらも今までの者とは一風変わった姿かたちをしていた。
 黒光りする装甲に、唐草文様に似た優美な白線が走っており、肩当には白百合のような花紋が刻まれている。しかし、それよりも、彼らの身に纏う空気は一体何なのだろうか。
 ただの兵士では断じてない。新手の黒角は、どちらも尋常ならざる闘気を発していた。

『イタール、アンブリス。お前たちは機神の回収を優先せよ。森の民には構うな、もう勝負はついておる』
『承知』
『なんでえ、死に体か。俺も森のお嬢ちゃんの槍捌きにゃ興味があったんだがよ』
 バルデスの言葉に従順と不承不承が続いた。
 白百合紋の黒角たちが指示に従い、後方へ退く。
 不思議な挙動だ。他の黒角たちと歩速は大して変わらないのに、鈍重さがまるで感じられない。武道で言うところの摺り足に、半身を傾けた体勢がえらく特徴的で、視線は常にこちらに向いている。
 熟練者の為せる操縦というものなのか――陽一が舌を巻く中で、横たわるバックスに接した彼らは、背中に括りつけられた金属鎖を取り出し、一瞬の内にその巨体を縛り上げた。

『うっ……待て。待てと言っている!!』
 彼らの意図を察したカカティキが突然色を失った。
『カカティキ、無茶だ……ッ』
 陽一が慌てて呼び止める。
 今動くのは無謀だ。先程“大柄”に与えられたダメージは決して小さいものではない。現にラダマンティスの機体は未だ復旧の目処が立っていないのだ。
 ラダマンティスよりも細身なフレースヴェルグが、こちらよりも速く動けるようになるとは思えない。

『あぁぁぁッ!』
 だが、必死の呼びかけも、彼女の雄たけびによって掻き消された。
 立ち上がる彼女を見上げながら、陽一はひび割れた声で自問した。
 ……信じられない。何故、彼女はここまでの執念を見せるのか。
 驚嘆する陽一の耳が、言い聞かせるようにして紡がれた彼女の呟きをつぶさに捉える。
『逃がさない……逃がすもんか。逃がしたら、また……皆が……』
 この段に至って、陽一はようやく彼女の執念が何によるものか理解した。
 今回収されようとしているバックスは、彼女にとっては折角しとめた敵の戦力であると同時に、村を焼いた憎むべき敵だ。それをみすみす逃してしまっては……同じ悲劇を繰り返すことになりかねない。
 村のために、彼らと敵対する先住の民のために。
 痛ましい覚悟だ。
 しかし、その覚悟が彼女の身体に活を入れ、迅雷の加速を生み出した。
 カカティキが走る。防御などは省みず、文字通り捨て身の特攻を白百合紋の黒角たちにかける。
 当然、それを阻むのは漆黒の騎士――バルデス。
 なけなしの力が込められた銀槍が、何度も何度も障害たる“大柄”に対して振るわれた。
 斧槍が受け止める。宙に浮き上がる、刃が織りなす火花は一つの例外もなくバルデスの機体に届かない。
『まだ立ち向かうか、森の姫』
 驚き混じりの声をあげるバルデスに、カカティキが猿叫《えんきょう》で応える。血みどろの執念が全身から滲み出していた。
『もう村をあんな目に合わせるもんかッッッ』
 心を煮えたぎらせた彼女は、片手に魔方陣を纏わせる。
 真正面からの打ち合いを、彼女は怯みもせずに繰り返す。撓《たわ》んだ手槍は投げ捨てて、魔方陣から新たな手槍を引き出しては、それを振るう。
 竜巻を思わせる連携だ。
 手槍を何度も使い捨てにして、敵の急所を捉えるまで、カカティキの動きは止まらない。新たな槍と限界まで捻られた体躯から最大威力の刺突が生み出され、漆黒の騎士をじりじりと後ずらせた。
『――っ……』
 バルデスが言葉を詰まらせた。わずかな動揺を押し隠すようにして、錬磨の挙動を鈍らせる。
 だが、命を縮めるその猛攻も、圧倒的なまでに存在する実力の差を覆すまでには至らなかった。
 このままでは彼女が危うい。だが、そうと分かっていても陽一はこの窮地においてカカティキの加勢に回ることができずにいる。
 目の前のバルデスと、そしてカカティキは戦闘能力において陽一の遥か上を行く。
 先刻までの黒角や、鈍重なバックスならば辛うじて太刀打ちできたものの、すべてを上回る相手に戦いを挑むには、陽一という人間は致命的なまでに戦闘経験が不足していた。
 百の駆け引きの内、一すら判別できない状況下におかれ、二の足を踏む陽一。カカティキの奮闘もむなしく、戦いの均衡は流れ落ちるようにバルデス側へと傾いていった。

『いい加減に……折れろッ!』
 余裕を失ったバルデスが声を荒げ、大振りに薙いだ。息切れしかけたカカティキにそれを避ける術はない。大木を薙ぎ倒す衝撃が、カカティキの胴へと吸い込まれていった。
 彼女は鞠のように跳ね飛ばされながらも、背中の機械翼を羽ばたかせて、慣性に急制動をかける。
 ここに至って尚も見せる不屈。だが、そこに彼女の心を根こそぎ潰さんとするバルデスの追撃が迫る。重厚な騎士甲冑を物ともしない軽やかさで一気に跳躍すると、飛ぶ鳥を叩き落す勢いで大上段から斧槍を振り下ろした。

『……許せッ』
 あれはすべてが“台無しになる”一撃だ。そう確信した陽一は、ほぼ無意識の内に飛び上がった。
 ――ちょっと! まだ機体の修理が……ッ。
「うるせえ!」
 身体よ、間に合え! すべてが手遅れになる前に。
 排気ノズルを突進力に加え、陽一は無理矢理巨体を渦中へと滑り込ませる。フレースヴェルグを押しのけて、“大柄”の圧力を目と鼻の先で受けながら、陽一は力いっぱい声を上げた。

「エリーゼェェッ!!」
 ――ッ! もう、分かりましたわ。FoE展開!
 陽一の強い意志を汲み取ったエリーゼが、彼女と自分を守る盾を生み出す。絶対無敵の歪曲障壁。陽一は指先の隅々にまで力を迸らせ、少女の無事をひたすらに願う。

『力の盾……だとッ?』
 バルデスの低音が若干上擦った。肉厚の斧槍は虹色の魔法陣に弾かれ、力の矛先が反転したかのように後方へと吹き飛ばされる。丸腰になった“大柄”もただではすまない。反発力をまともに受けて、中空で致命的な隙を露呈してしまう。
 だが……それすらも逆転への活路ではなかった。

『よもや、我が機神と渡り合える機体があったとはなッッ!!』
 弾かれた勢いを借りて身を捩じらせた大柄は、腰から突き上げるようにして片腕をこちらへとかざしてきた。
 バルデスの手甲が絶対無敵であるはずの虹色の障壁に触れる。そして、一言――
『フィールドオブイージス!』
 突如、汚れのない純白の輝きが漆黒の手甲から漏れ出でた。生み出された物は、ラダマンティスのそれと全く同種の障壁。目映い輝きを発する円形の盾が、虹色の障壁を突き破らん勢いで広がった。
 ――ああ、ああっ……そんな……。攻性障壁まで……!
 エリーゼが絶句する。なけなしの切り札であるはずの障壁《バリア》までも封じられ、陽一には最早打つ手がない。その障壁とて、じりじりと純白の光に虹色が侵されていくのが目に見えて分かった。
 虚空に浮かんだ虹色の魔法陣と純白の輝盾がせめぎあう。空間がみしりと音を立てて、周囲に粒子の陽炎を漂わせた。
 ――搭乗者《マスター》! もうこれ以上FoEを持続できそうにありませんわ。反動衝撃《カウンターショック》に備えてくださいませッ!
“大柄”の盾の方が、こちらの障壁よりも何倍も強い輝きを放っていた。
 弱まっていく虹色の壁。敵の盾がぐわりと大きく広がったかと思うと、それに押しやられるように表面積が一回り小さくなる。押されて萎み、押されて萎む。それを何度も繰り返す。やがて、煙のようにFoEが消失した瞬間、全身が千切れたのかと錯覚する程の痛みが陽一を襲った。
「っ――!」
 あまりの激痛に言葉を失う。ついでに気を失えれば、どれだけ良かったことだろう。機械の身体と同化したせいだろうか。普段の自分なら、一瞬にして意識を刈り取られているであろうはずの痛みを受けながらも、気を失うことはできなかった。
 衝撃に身体が地面へと押し付けられ、追って激痛の波が寄せてくる。永劫の如く感じられる苦しみの中で、

『ヤヒロ、ヨウイチッ……!』

 すぐ傍で守るべき少女の叫び声が頭に響いた。
 今、自分の身体は彼女の前にあった。かばうべき身体が崩れ落ちてしまったら、自分を蝕むこの衝撃の矛先は一体どこへ向かうのか。
 振り上げた拳は何のためだ、八紘陽一。
 ぎちりと奥歯を噛み締めた。
 四肢を強張らせ、脇を締める。何のために立ち上がったのかを再度心に刻みつけ、ぐっと上を見る。

『オォォオオオオオオオッッ!!』
 雄叫びと共に短剣を魔法陣に向かって突き出す。彼女を助けなきゃならないという執念が陽一の体を突き動かす。
 ヒィィィィィィィィン!
 エリーゼの短剣が衝撃を切り裂き、力場と接して悲鳴を上げた。虹色の刃が粒子に帰って舞い上がる。
 だが、“まだ”だ。
 まだ、彼女の脅威は消え失せていない。全身を前のめりに傾けて、両手を輝盾に押し付ける。
 がむしゃらに。ひたすらにがむしゃらに――全身のスタビライザーを展開して、持ち得るエネルギーのすべてを盾に向かって滝のように注ぐ。
 輝盾が小さく押し込まれた。
 けれど、まだ足りない!
 陽一は咆哮した。自らを蝕む痛みも敵の障壁も。そのどれもがこの場から綺麗に消え失せるまで。

『は、跳ね返したというのか……ッ』
 感嘆の声が聞こえた。憔悴した心でちらりと敵を見上げると、陽炎の向こう側で“大柄”が面当ての内に収まった眼を点滅させていた。
 乗り切った。ぜえ、と一度だけ息を吐き、再び全身で大気を吸い込む。
 見る間に蓄積される活力。陽一は両手に再び力を注いだ。

『……彼女に手を出すなッ!!』
 声と同時に発した障壁が、“大柄”の巨体を弾き飛ばす。 
『ぐッ――?』
 崩れた体勢を、足を広く取ることで無理矢理立て直す“大柄”。踏みとどまった黒騎士を殴りつけるべく、陽一は接近。ラダマンティスの右拳を振り下ろす。対する“大柄”も拳を振り上げ対抗する。
 途中、お互いの硬い拳がチリリと削りあい、そのまま互いの胸にめり込んだ。
 がくんと揺れる全身に耐えながら、陽一は尚も拳を振るう。
『ぐっ、忌々しいわッ!』
 続く拳は弾かれて、代わりに横っ面を思い切り殴りつけられた。前かがみに崩れる身体、だが諦めるなんて選択肢はありえない。
 怯まずにもう一度。さらにもう一度。何度も相打ち狙いで殴りかかる。
 三度に一度でも成功すれば良い。たとえ不恰好であろうとも、諦めなければ負けはないのだ。
 再び陽一の殴打が“大柄”の胸元に吸い込まれた。だが、よろめきながらも“大柄”は決して怯まない。突如訪れた窮地に動じることもなく、負けじと闘志を燃やし続ける。
 尋常でないほどに強い。だからこそ腹が立った。
『こんなに強いのに――』
 荒々しく言葉を発する。
『何のための強さだッ!!』
 怒りの矛先は、筋違いの強さに向けた。

『わしにそれを問うと言うのかッ。ならば、貴様は何故立ち上がる!』
『んなもん、守りたいからに決まってんだろうがッッ!!』
『――っ……!?』
 突如、膨れ上がった闘気が霧散した。
 バルデスの口から声にならない声が擦れ、激しかった抵抗がぴたりと止まる。噛み締めるように押し黙る様は、まるで何かを躊躇っているように思えた。
 思っても見なかった反応に、陽一もまた戸惑う。
 束の間の逡巡から二人を解き放ったのは、先ほど後方へと退いた部下の呼び声であった。
『団長、撤退を!』
 ハッと自分を取り戻したバルデスが、ラダマンティスを殴り飛ばして、飛び退る。大きく距離をとった後、何処か後ろ髪引く態度を見せつつ、彼は背中を向けた。

『……くそッ、逃げるな。この槍取らず、め……!』
 カカティキがそれを追おうとしたが、うまく身体が動かないらしい。がくりと膝を大地につけ、敵を憎々しげに罵る。だが、それもすぐ止んだ。崩れ落ちるラダマンティスの姿を認めたからだ。
 エネルギー不足のためか、明晰であった陽一の視界がぐるぐると回る。
 陽一は考える。
 激痛に耐え、何度も障壁を行使した。限界だったのだろう。エリーゼの声すらおぼろげにしか聞こえなくなった。

(追撃、無理そうだな)
 既にバルデスの後ろ姿は遠くなっていた。彼とカカティキが敵対関係にある以上、再びまみえることになるだろう。完全な敗北であった。
(でも、それでも今は良いか)
 元々拳を振り上げた動機自体が、ただ褐色の少女を救いたかったという一点だけなのだ。勝敗などは二の次で、彼女に大事がなければそれで問題ない。
『ヤヒロヨウイチ!』
 彼女がこちらに駆け寄ってきた。ひどくかすれた視界の中に映った彼女の姿は多大な損傷を受けているように見えた。

(まあ、当たり前だ)
 度重なる連戦であった。
 命を拾っただけでも十分が過ぎるというものだ。
 彼女に抱き起こされながら、陽一は考える。
(憧れていた物語のヒーローたちみたいに颯爽と……とは行かなかったけど、とにもかくにも彼女を守れたんだ。しっかりと)
 満足だった。
 フレースヴェルグの胸元が開いた。中の小部屋には、銀髪の少女が五体満足でいる。
 うん、やはり万々歳じゃないか。陽一は笑った。

『ケツァル・テア』
 彼女が呼びかけると、鷲頭の巨人は光の粒子に姿を変えて虚空へと消え失せた。後に残されたカカティキの小さな身体は空中に放り出され、その背中を何処からか飛来したはしばみ色の大鷲が支える。
 大鷲の翼を借りたカカティキがラダマンティスの胸元に取り付いた。こつんこつんと、手の甲で数回ノックすると、

『大丈夫か。開けてくれ、ヤヒロヨウイチ』
 こちらの様子を窺ってくる。大丈夫だと返してやりたいが、身体が最早ぴくりとも動かない。

 ――索敵可能範囲からの敵戦力の撤退を確認。戦闘機動態勢を解除。休眠モードへと移行しますわ。……一時はどうなるかと肝を冷やしましたが、お疲れ様、マスター。
 混濁する陽一の思考に、ようやくエリーゼの声が届いた。
 視界にノイズがちらついて、今まで見えていた外界の景色がほの暗い小部屋へと移り変わる。
 程なくして、排気音を伴って前方が大きく開いた。
 針のような痛み。陽一は不意に目を細める。樹冠を失い、存分に降り注ぐ日差しを背にして銀髪を輝かせた少女が小部屋の外にいる。
 はにかむ笑顔に花が咲いていた。
 輝く髪には天使の輪が幾重にも降りており、果実にも似た瞳は瑞々しく潤んでいる。
『あいつらを殺せなかったのは悔しいけれど、それでも嬉しいんだ、私。分かるか? ヤヒロヨウイチ!』
 喜色に染まった涼やかな声。
『あっ』
 彼女の日に焼けた掌が陽一の腕に触れた。不思議な程にひんやりとしていて、まるで水滴のようだ。
 高鳴る胸に、戸惑う陽一。
 そのまま引かれて外へと向かう。巨人の胎内から伸びていたチューブが陽一の身体から切り離され、少しばかりの痛みとともに自由がもたらされた。
 無機質な色と青色の境界線を踏み越える。機体から離れた直後、ラダマンティスの巨体も粒子に帰り、空に二人は投げ出された。

「<呼びかけ>、<動詞>。ヤイロヨイチ!」
 緊張の連続で固まった身体に、吹き付ける風が心地よい。でも、それ以上に彼女の腕が心地よかった。彼女に細腕に包まれて、大きな翼でゆっくりと滑り落ちる。
 陽一は思った。生身での滑空を楽しむ以上に、彼女の言葉が分からないことが少し……寂しいと。





 二十年と言う月日は人を腐らせるには十分過ぎる。
 バルデス・イグレシアスは不愉快に肩を怒らせていた。巨人と揶揄されるほどの大柄が城砦内の廊下を大股で渡る。すれ違う者たちが一様に顔を青ざめさせているところを見ると、自分は相当忌々しげな表情をしているのだろう。だが、不愉快を解決する手段を持ち合わせているわけではないので、今しばらくは他人に我慢してもらうより他になかった。
 通り過ぎる石造りの小窓から、潮の香りが運ばれてくる。
 ちらりと横目を走らせると、煉瓦造りの先住建築に混じって故郷の住居を模した傷のない建築物がいくつも顔を出している。
 港湾都市ギアディンは帝国《エスバール》が新大陸に得た最初の拠点である。
 別名を希望の日の出《パッテ・イスバル》と言い、開闢を夢見た植民でひしめくこの港には、帝国からの補給物資と新大陸で獲得した諸産物が溢れている。
 臣民たちの顔は皆明るい。古来、都鄙《とひ》の境界には活力が集まるものだ。何せ、異界の品がいくらでも手に入る。故郷に革新をもたらす必需品から、好事家を唸らせる名品までいろどりみどりに、だ。一攫千金を狙う商人たちは無論のこと、故郷の居心地が悪くなった者たちも、新天地を求めて渡来する。帝国もまた彼らを援助していた。
 我が世の春を謳歌する彼らとは対照的に、バルデスは憂鬱に心を沈ませる。
(彼らの笑顔は喜びではない。あれは“図に乗っている”と言うのだ)
 褐色の民が目に入る。意欲的に仕事を行う遠隔商人に無情にも顎で使われていた。
 バルデスは無骨な指でこめかみを押さえると、物憂げに目を閉じる。

「閣下!」
 行く先から若い声が耳に飛び込んできた。この軽やかな声には聞き覚えがある。声の主に思い当たったバルデスは、
「ベルナル隊士」
 気を取り直して、随分と新大陸の陽に身体を焦がされた青年の姿を見た。短く切り揃えられた金色の髪は帝都を出た頃から変わらない。ベルナルはそばかすの上に乗せた丸い眼をきりっと吊り上げ、利き手で自分の肩を叩いた。やや強張った態度に思わず笑みを零す。目の前の青年は、まだ軍式の敬礼に馴染んでいないようであった。
「ちょっと待てよ、ベルナル!」
 追って几帳面に張られた声が前方の曲がり角から飛び出してきた。痩せ身の青年だった。少し伸びた黒髪を汗でびっしょりと濡らし、息を弾ませている。
「まったく、先を行くな――って、えっ?」
 膝に手を突き、息を整えた黒髪の青年がこちらを見上げて言葉を失った。
「か、閣下!」
 慌ててばつが悪そうに下唇を噛み、
「失礼いたしました」
 何事もなかったかのように直立する。
「お前のせいだからな」
 鼻に乗せた眼鏡を光らせ、横目で睨む黒髪に対して、ベルナルは舌をちらりと出して取り合わない。丸い視線は明後日の方向へ向いていた。
「……急用なんだから仕方が無いだろう、ルシオ」
「また、これだよ……」
 ルシオと呼ばれた黒髪が不貞腐れたように口を紡ぐ。他人の目がない場所であったならば、火のついた勢いで小言をまくしたてていたのかもしれない。
 仲は悪くないのだろう。この髪色の違う若い二人組は。
 バルデスの脳裏に一瞬だけ興味がもたげてきたが、今は疑問を据え置きにする。ベルナルは言った。「急用」である、と。

「どうした」
「あ、えっと。職務は万事つつがなく。ただ、その。陳情したき儀があります!」
「陳情、かね」
 不審げに目を細める。ベルナル青年はバルデスと故郷を同じくしている。
 エスバールと言う国は、いくつかの王権がかつてアルディオスと呼ばれた旧国のもとに集った連合帝国である。バルデスと青年は旧国の民であって、此度の新大陸遠征は外様の貴族連が主導になって意思決定を行っていた。そのため旧国出身者はあくまで裏方の立場に徹しており、彼も多聞に漏れないはずなのだが。

「現在、自分は帝国からの補給物資の管理任務に携わっております。はいっ」
「ふむ」
「ただ、その……」
 ここでベルナルが躊躇いを見せた。言うべきかどうか迷っているように見える。
「……ルシオ」
「肝心なところで僕に振るのかよっ。ああ、もうっ」
 縋るような視線を向けられて、黒髪をがしがしと掻いたルシオが一歩進み出た。

「失礼、お耳を」
 言って爪先を伸ばす痩せ身に対して、バルデスも耳を寄せる。
 果たして良い知らせなのか、悪い知らせなのか。耳打ちの内容は、最悪に値するものであった。

「……ここ半年の間に城砦の備蓄が徐々にではありますが、必要以上に減り続けています」
「……着服か?」
 バルデスは眉を寄せた。
 エスバール新大陸遠征軍の物資管理は、万が一の枯渇と必要以上の負担を防ぐために厳しい管理体制が敷かれていた。遠征地内での消費物資量は詳細に文書に記録され、消費分と同数の補給が帝国より送り届けられる仕組みになっている。余剰も不足も許されない。それゆえに備蓄に手をつけんとする不届き者には凄まじく重い罪が科せられた。
 外域行政官の無断着服は執行猶予のない死罪が与えられる。そう易々と悪心をもたげることのできる領域ではないはずだ。
 バルデスの疑問を表情から読み取ったのか、ルシオはさらに表情を強張らせる。

「行政官に手落ちはありません。旧国民は真面目がチュニックを纏っているようなのが多いですから」
「不躾だが、君も?」
「混血なんです。僕」
 言って、ルシオが苦笑いした。バルデスは沸き上がる罪悪感から咳払いをし、混血の青年をじっと見る。
「ルシオ隊士と言ったか。行政官でないとするならば、一体何が城の蓄えを掠め取っているというのだね? まさか、鼠というわけでもあるまいて」
「閣下」
 ルシオが覗き込んできた。こちらを探るような気配がかすかに感じられる。彼はバルデスに何を促しているのか。
 しばし沈黙し、思い当たる節を探る。下級隊士が直接上官に注進することを憚れるような内容。そして、備蓄物資の使い込み。これは――

「まさか……備蓄交易法かね?」
「増えた支出科目は『緊急用途』です。閣下」
 頷くルシオが表情を険しくさせた。緊張……いや、恐れているのだろう。バルデスが事態の重大さに気づいたために。
 対するベルナルはきょとんとしたものであった。
「何だよ、ルシオ。それ」
「……呆れた。さっき話しただろ」
「いや。お前、使い込みとしか言わなかったじゃないか」
 ため息をつくルシオ。
「備蓄交易法。正しくは『緊急時における物資確保を目的とした法律群、第二項』。遠征軍に許された臨時法の一つだよ」
 いまいち合点のいかぬベルナルに向けてルシオの講義は続けられる。
「遠征地にトラブルはつきものだ。蛮族に襲われたり、天変地異に見舞われたりね。そんな中で備蓄物資が激減し、補給を受けられない状況になることだって十分にあり得る話だろう。遠征軍の総督官は閉塞された状況を打開するために、物資の獲得を行う必要がある。その一つ目が……現地収奪。合法的な追い剥ぎだよ」
 ベルナルが不快そうな表情を浮かべた。ルシオがそれを読み取って補足する。
「勿論、収奪は建前上は推奨されていないさ。僕らは文明人だからね。そこで推奨されるのが二つ目の備蓄交易。備蓄の一部を市井に開放し、必要物資獲得の為に交易を行うのさ。これならば皆が幸せになれる」
「待てよ、ルシオ。てことは、使い込みって言うのは……」
 ルシオが口元に手を当てる。
「……多分、交易に使われたんだろうね。あれは帳簿上では詳細が分からないから、これ以上のところは分からないけれど」
「だが、あの法律群の適用は物資管理が碌にできておらんことを露呈するようなものだ。多少私腹を肥やせた所で、出世の道が閉ざされかねんぞ」
 ここでバルデスが疑問を差し挟んだ。新大陸遠征軍の現総督官は欲深なひととなりで有名だ。それでも交易で手に入るあぶく銭が、出世を捨ててまで手に入れなければならないものだとは到底思えなかったのだ。だが、ルシオはゆっくりと頭を振った後、
「“多少の儲け”では済まないのです」
 険しい顔のまま続けた。
「財務の一端に携わって、金品の移動を日夜目の当たりにしているからこそ見えることもあります。自分はこう思うのです。新大陸での交易は、“儲けが出ないほうがおかしい”と。帝都じゃ玩具の一つも買えないはした金が、ここでは掌大の黄金に化けるんですよ? お役御免の次の日には、城より大きい豪邸が建ちますよ」
「そうなのか……」
 バルデスが低く唸った。
「最悪……翻意も懸念しなければならないかと」
 ルシオの一足跳んだ発想を、バルデスは馬鹿げていると一蹴することができなかった。

 現総督官は貴族連の重鎮である。外様の彼らとアルディオス旧国政府の間には、お世辞でも良好と言えないほどの軋轢が存在する。
 弱小国の底辺から数えた方が早かった旧国が広大な領土を持つ帝国の主に成り上がるまでには、数え切れないほどの奇跡的な勝利と、外交努力を積み重ねる必要があった。それでも決して磐石な土台を作り上げることはできず、先代女帝が崩御してから数年足らずで貴族連の伸張を許す事態に陥っている。
 此度の遠征が彼ら主導であることがその証と言える。数の有利とその政治力は最早捨て置けないほどに強大なものになっていた。
 いささか広大な話になってしまったためだろうか。ベルナルが少し悩んだ後で、自分なりの意見を申し出た。

「閣下、その。自分は政治に明るくないんですが、備蓄が減るのは大変だと考えます。あれは万が一のためのものだから、その。現状備蓄にはまだ余裕があると言ったって、このままにしておくというのも……」
「その備蓄とやらも、きな臭ぇ状況に転がっていきそうだぜ」
 懸念するベルナルを遮る声があった。バルデスの部下、アンブリスである。
 天井に届きかねない巨体を狭苦しげに、縮れた髪を乱暴に掻く。バルデスが爪熊《オーズ》だとするならば、アンブリスは槍獅子《ティーウ》である。燃え盛る縮れ髪はたてがみにも似て、彼の雄々しさをあらわしている。チュニックをだらしなく着崩している様も、彼に限っては不思議と似合っていた。
「ア、アンブリス様!」
 明るい声をあげるベルナル。それとは対照的に、ルシオは一歩後ろへと引っ込んだ。彼の様子に一瞬不思議そうな表情を浮かべるも、アンブリスはすぐに眩しい笑顔を浮かべた。
「よっ、坊主。べっぴんの姉ちゃんは元気してんのか?」
「あ、はい。その。姉とは月に一度手紙のやり取りを――」
「雑談は井戸端でやれ。アンブリス、きな臭いとはどういうことか」
 バルデスの注意を受けて、肩を竦めたアンブリスが答える。

「ギアディン沖北西十八水里のところに中継港があるじゃねえですか。パッテ・オクタヴィア。先日、帝国から新大陸に辿り着いた補給船の一隻が、“海賊王女”に沈められたって話ですぜ」
「北海連邦が?」
 帝国は北海連邦と敵対している。より正確にあらわすのならば、「帝国の同盟国が敵対している」とするべきだが。いずれにしたって彼の国々は歴史が古い。同盟国が敵対していなくとも、新興の帝国などは警戒の対象としか映らぬだろう。
「海賊……ノルアドノス家のラーラ姫様ですか」
 ルシオが目を見開いた。
「ああ、そうだ。えっと」
「ルシオ下級隊士です。ルシオ・クラナウ・ダビノです」
「クラナウ……? ああ、お前さん北海南部の出か」
「ええ、父が……ですけれど」
 あまり触れて欲しくはない話題のようだった。表情を暗くするルシオ。バルデスは話を本題に戻すよう、アンブリスを促した。
「被害の程は?」
「へえ、団長、いや……閣下だった。何でも嗜好品がわんさかと積み込まれていたらしくて、下の連中が目ん玉赤黒くしてますわ」
「この場合は嗜好品で助かったとするべきなんでしょうね」
 ベルナルが嘆息した。確かに薬品などの必需品が枯渇するような事態に陥れば、駐屯軍は文字通り干からびてしまうことになりかねない。
 だが幸運を喜ぶよりも、今は打開策を講ずる方が先決であった。

「救援の要請をしたためるとしよう。刃《ラテーテ》の一振りでもこちらに遣せば万が一も起こるまい」
「……それがどうにも難しい情勢に我が国は置かれつつあるようです」
 さらにあがった声にバルデスは口元を歪める。
 振り返ると、アンブリスとはまるで正反対な細面の紳士――バルデスの副官たるイタールが立っていた。
「どういうことだ、イタール」
「先ほど、民間の記者から情報を得る機会がありました。アヴァーン教国のエーリック教王が近衛船団を率いて、港を発ったとのことです。程なく軍の警戒網にもかかるかと。民間に先を越されるとは、まったくどうなっているのでしょうかね……我が軍は」
 もう一人の部下からもたらされた情報に、バルデスは人より小さな眼を剥いた。

「エーリック王……だと? その情報は確かか」
「信頼と安心のアルディオス新報。要はコントレー公爵の助け舟、ですよ」
 良く漉かれた長髪を弄りながら、イタールが自嘲する。
「あの航海王までもか……」
 エーリック王は海に出れば負けを知らぬと言う、海戦の天才である。帝国とは歴史的に敵対関係にあり、此度の出陣も間違いなくこちらへの遊撃を目的とするものだろう。彼が海に出る以上、本国を手薄にするわけにはいかなくなった。

「外交部は何をやっている」
 苛立たしげにバルデスは言葉を吐き出した。これでは包囲網ではないか。内憂に外患……、解決すべき案件の多さに帝国の行く末が薄暗くなっていくように感じられた。
「……閣下」
 ベルナルが不安げに眼を曇らせる。
「本国が落ちることは……その、ないのですよね」
 国許の家族が気がかりなのだろう。青年の声色は弱々しかった。
「帝都にはラテーテが控えておる。女帝陛下も都におわします以上、陸で領土を侵されることはありえぬよ。しかし――」
 補給路が断たれることになる。その言葉をバルデスは寸前で飲み込んだ。眼前の青年の士気を無闇に落とすものではないと考えたからだ。だが、場の雰囲気が言葉よりも雄弁に状況を彼に伝えてしまう。
「そうです、か」
 暗い表情で、ベルナルが俯く。
 何と声をかけたものか。逡巡するバルデスの口よりも先に、アンブリスの無骨な掌がベルナルの背中をしたたかに叩いた。
「いたっ」
 激しくむせるベルナルに、無骨な軍人が笑いかける。

「アルディオス機神兵団、“兵訓”第三条」
「え、あっ? えっ……?」
「坊主も知っているだろ? 旧国民なんだからよ」
 しばらく混乱していた青年であったが、やがて面立ちを引き締め、
「第三条、『まず、受容が先に立ち、次に適応を心がける。目指すべきものは改善である』です!」
 表情を紅潮させて、朗々とつかえずに一息で言う。
「上等」
 青年の様子に、口の端を歪めるアンブリス。
「考え方を変えりゃ、国許に戻る良い口実ができたじゃねえか。別段、新大陸のやつらを滅ぼす必要もなく、ギアディンとこの前落とした街を守るだけなら、そんなに兵はいらねえだろ。欲深の総督官殿だって自分の命は惜しいだろうさ」
 確かに、とバルデスは口鬚を撫でる。
 ここギアディンは、数年前に落としてより着実に改築を進めている。たとえ十倍の兵が押し寄せてきたところで、守りに徹しさえすれば落ちることは無いだろう。それに先日落とした先住民の王都も堅牢だ。
 これを機に貴族連に遠征の中止を提言することができるかもしれない。バルデスが思索を深めていると、イタールが何か思いついたように口を開いた。
「閣下、私はパッテ・オクタヴィアに向かいます。他の物資がこれ以上奪われるような事態は避けたい。あれは臣民の血税ですからね」
「おっ、良いね。俺も行くぜ。北海の機神がいかほどのもんか興味があったんだ」
 イタールの案にアンブリスが乗る。碧眼を爛々と輝かせ、舌なめずりする姿は何処か闇夜の猛獣を思わせた。
 二人の案にバルデスは頷いた。
「わしは総督官殿に撤退の提言をしてみよう。耳を傾けてくれると良いのだがな」
 言って、二人を順々に見る。
「わしもおって合流しよう。無理だけはしてくれるなよ? 機神と巨人兵では分が悪すぎる」
 忠告に返ってくる言葉は従順と、
「身の程は弁えていまさ」
「守るだけで、攻めぬよう心がけます。しかし――」
 イタールの悪戯めいた笑みが付け足されていた。
「恐れる必要は無い。操るのは我々と同じヒト、でしょう?」
 思わず苦笑してしまう。彼の放った言葉は、二十年前に自分が彼らを励ました際の言葉そのものであったからだ。
「その通りだ。敵が下手を打った時は、遠慮せずに噛み砕いてやれ」
「承知」
「あいさ」
 敬礼の後、二人は船着きへと駆け足で去っていった。

「……これがあのアルディオス機神兵団なんだ」
 三人のやり取りをぽかんと口をあけて見ていたベルナルが、感無量とばかりに瞳を潤ませる。
「閣下!」
 上擦った声で青年は叫んだ。
「あの、そのっ。“兵訓”最上の第一条。『一なる刃は万人の為に』……自分も、その、何かできることはないか頑張って見ます! ほらっ、行くぜ。ルシオっ」
「あっ、ちょっと待てよ。袖を引っ張るなって!」
 友人を引きずる金髪の青年の後姿を見送り、バルデスは静かに目を閉じた。

「万人の為に、か」
 ベルナルの言葉を繰り返す。誰が為に剣を振るうか。女帝陛下のため。臣民のため。国のため。守るべきもののために剣が振るわれるからこそ、旧国の兵は強かった。幾度と無く奇跡を手中に呼び込んでた背景には、気高い精神があったのだ。
 ――何のための強さだッ!!
 ふと、先日争った先住の機神たちの言葉を思い出す。
「――っ」
 何故だろうか。胸がひどくざわめいた。



[30361] 1-5
Name: 三郎◆bca69383 ID:9cdebc32
Date: 2012/01/28 20:13


「閣下、お待ちを!」
 秘書官の制止が繰り返される。だが、バルデスは歩みを止めようとしない。
「自分は、誰も通すなと申し付けられているのです」
「仕方があるまい。再三取次ぎを願ったというのに、一向に返事がないのだ。それとも今は接客中かね?」
 秘書が言葉を詰まらせた。総督官のスケジュールはあらかじめ調べてある。今日の午後は空いていたはずだ。
 慌てる秘書官と問答を繰り返す内に総督官の部屋が見えてきた。部屋の顔たる北海で伐られた高級硬木に銀細工が施された扉は、見る者に威圧感を与える拵えになっている。彼には、それがえらく尊大であるように感じられた。
 扉の前に辿りついたバルデスは、一度咳払いをしてから三度強めにノックをする。
「総督官殿」
 返事がない。やや経ってから、「誰だね」と気だるそうな声が返ってきた。
「まったく、誰も取り次ぐなと先刻重々申し付けておいたはずなのだが」
 その答えに、バルデスは思わず眉間に皺を寄せた。

(執務室に誰も取り次ぐな、だと?)
 上に立つ者の職分は、下の意見を聞き届けることだ。上意下達に終始した組織はいずれ内側から崩れていく。聞き役が耳を閉じてしまったら、一体職務の何がまっとうできると言うのだろうか。
「イグレシアスです、総督官殿。陳情したき儀がありました故、どうかお目通り願いたい」
「イグレシアス? ああ、イグレシアス……しばし待っていろ」
 その言葉に従い、扉が開くのを直立して待つ。程なくしてからがちゃりと音がして、
「どうゾ」
 おぼつかない片言で女性の声が返ってきた。
 まず目に飛び込んできたのは、銀髪と紺色の瞳。出迎えてくれた女性は、琥珀色の肌を持つ若い娘であった。一見して、先住の民だと分かる。身に纏う衣を持ち合わせておらず、腰元に申し訳程度に、飾り布がつけられていた。

 バルデスは状況を正確に読み取り、不快げに口を真一文字に結んだ。
 睨む先には、総督官がいる。体毛の目立つ中年の腹が良く見える、はだけた身だしなみから今まで何をしていたのかが不本意ながらも良く分かった。
「何用かね、イグレシアス。私に首飾り《クァバト》を巻く時間すら与えてくれぬ程の用件だそうだが」
「失礼。まさかクァバトを外すような真似をなさっておいでとは、露ほどにも思っておりませんでしたので」
 総督官はバルデスの皮肉に露ほども動じず、大きな欠伸をした。
 柔らかい毛皮で覆われた椅子にどっかと腰を落ち着けて、
「暑い」
 傍仕えをしている褐色の女性に羽扇をあおがせる。
「蛮地の気候は何時になっても肌に合わん。そうは思わんか、イグレシアス?」
「だから、政務を顧みず女性を連れ込んだ、と? 差し出口を叩くようですが、少々自分に甘すぎるのではありませんか、総督官殿」
「まあ、軍規を律すべき軍監殿ならそう言うであろうな。うん、分かっていて質問したのだ。すまぬな」
 言って総督官は薄笑いを浮かべて、腕を組む。

「用件を言え」
「まずは人払いを」
「何、蛮夷《ばんい》に雅語は理解できんさ。飼い猫か何かとでも思っておけばよろしい」
「うら若き女性をかような格好のままにしておくなど、帝国騎士のすることではありません」
「それこそ要らぬ差し出口というものだ。はよ」
 バルデスの苦言に総督官は取り合わない。用件を済ませて、早く睦言を再開したいといった心根が見え見えの態度であった。
 苛立つバルデスであったが、煮え立ちかけた感情を腹の内にぐっと抑える。眼前の俗人とつまらぬ押し問答を繰り返したところで意味がない。そう思ったからだ。

「それでは、此度の遠征について申し上げます」
 言って、バルデスは滔々《とうとう》と語りだした。内容は先日部下たちと交わした話を噛み砕いたものである。北海連邦の新大陸奇襲や、アヴァーン教国の動きなど。
「これ以上の戦線拡大は帝国をかえって疲弊させかねません。遠征中止の旨、何とか本国と掛け合って頂きたい」
 一言一句、説き伏せるように語り続ける。
 しかし、彼の真摯な説得も、眼前の中年の心を動かすには至らなかったようだ。
 頬を掻き、つまらなそうに話を聞いていた総督官が欠伸をかみ殺し、口を開いた。
「遠征の中止、ねえ」
「帝国の存亡にもかかわるのです。総督官殿」
 バルデスが詰め寄る。

「そうは言うがね、我が帝国は他国に比べて機神が少ない。豊富にあるのはがらくた同然の巨人兵くらいのもので、だからこその新大陸遠征ではないか」
 バルデスは辟易した。総督官の言葉は、「機神の略取による軍事力の拡充」という帝国議会で何度も耳にした答弁とまったく同じものであったからだ。
「……確かに新大陸で得られる機神は戦力として貴重です。しかし、戦力を求めて元手を失ってしまったら元も子もないではありませんか」
 しかめ面で、予め用意しておいた言葉を返す。
「別に一山いくらの巨人兵が、いくら潰れようとも構わんと思うが」
「巨人には我が国の騎士が乗っているという事実を忘れないでいただきたい」
 自分の顔が見る間に歪んでいくのが分かった。命を命とも思わぬ不遜な発言に、煮え立たつバルデスの心中を知ってか知らずか、総督官が愉快げに目を細める。

「分かっている。ああ、分かっているとも。イグレシアス殿? だからこそ、死地に赴く彼らの労苦に報いるために富が必要なのだ。人の心を動かすには目の前に餌をぶら下げるのが一番だからね」
「だから略奪を黙認している……そう仰るおつもりか。例えば、先日の王国攻めのように」
「いかにも」
 言って、笑いながら「ほら」と続ける。
「考えても見たまえ。褒美をやるより、彼らに好き勝手略奪させる方が我々の懐も痛まんではないか」
 その人を食った態度にバルデスは憤然とした表情で、総督官を睨んだ。
「あのような暴挙を幾度も許していては、それに兵たちの統制も利かなくなる。その最たるものこそがアラニース隊士の独断専行ではありませんか」
「アラニース? ああ、アラニース隊士ね」
 総督官がつまらなそうに呟く。耳をほじくる度に彼の縮れ髪が左右に揺れた。
「略取した機神までも、我欲の赴くままに勝手されてはたまりませぬ。早急な軍規の改善を提案します」
 机に両手を置いて口から唾を飛ばすバルデス。総督官が眉根を寄せて仰け反った。

「そうは言うがな」
「このままでは、先住の民に要らぬ反抗心を植え付けてしまいましょう。しっぺ返しを食らってからでは遅すぎるのです」
「しっぺ返し? 土民からの?」
 総督官が苦笑した。
「土民如きに何ができると言うわけでもなかろう。よしんば駄々をこねたところで、その時は貴殿が頑張れば良い。なあ、“機神殺し”の英雄殿?」
 挑みかかるようなその言葉に、バルデスが奥歯を噛み締める。
 懐かしい二つ名を久しぶりに聞いた。自身の仕える国がまだアルディオス旧国と呼ばれていた頃の二つ名だ。しかし、感慨は沸かない。
「そもそも、だ。何故ペトナ家のアラニース隊士にあのような仕打ちをしたのだね。蛮族の機神二体程度、共闘して仕留めてしまえば良かったのだ」
「お言葉を返しますが、総督官殿。問題はあくまでもアラニース隊士の無断行動にこそありましょう。軍事行動に必要たるは揺るぎのない統率。勝手をされては困るのです」
「揺るぎない統率、ねえ。いかにも貴殿の好みそうな言葉だな」
「はぐらかさないで頂きたい!」
 のらりくらりとした態度に怒りを覚えたバルデスが、机に拳を叩き付けた。
 自身の主張を大方針にねじこむためにも、舞い込んできた奇貨を活かしきる。執務室を戦場に見立てて、闘争心を燃え上がらせるバルデス。渓流にも似た流れが、言葉の矛を交わし合う両者の間で展開された。

「いやあ、しかしだな。そもそも貴殿に統率の何たるかを語る資格があるのかね、イグレシアス」
 だが、総督官の言葉が一方的な流れをせき止めた。
 途端、総督官の目の色が変わる。言うならば、蛇の眼差し。彼の瞳が獲物を捉えた肉食動物のものへと変化していった。
「何を――」
 急な変容に、バルデスがぴくりと眉を持ち上げる。だが、内心の動揺は悟られまいと外面上は平静を装った。

「貴殿への通達が遅れてしまったがね。実は隊士の行動は遠征府の方針に則ったものなのだよ。独断ではないのだ」
 だから罪ではない、と総督官が笑った。
(こいつは何を言っている)
 そのような命令があったことなどバルデスは今の今まで聞いたことがなかった。軍監の役割は、遠征府の作成した軍事方針に適切なアドバイスを施すこと。少なくとも提出された書類の中に、崖上への急襲を仄めかす計画はなかったはずだ。
 苦し紛れの言い訳か? 後付けにしたって乱暴が過ぎる。反論しようとしたバルデスの言葉を、議会答弁を思わせる張られた声が遮った。
「連絡の徹底が及ばなかったことは申し訳なかったと思う。しかし、ここは蛮地でな。何が連絡兵の身に起こったとしても不思議ではない。故に――」
 総督官の表情に人を食った微笑みが広がった。
「むしろ、非は貴殿にこそあるのではないのかね? 弁明しようとした隊士の言葉に耳を傾けず、問答無用で行動不能にしたのであるからして。軍監にあるまじき暴挙だろう」
 なるほど、これが狙いか。頬の皺を深める総督官の態度に、バルデスは内心毒づいた。
 勿体ぶった言葉に続け、眼前の男がこれ見よがしな消沈を見せる。
「兵の規律を質《ただ》すのも結構なのだがね。それで足を引っ張っては元も子もなかろう。まったく、劣勢下の我が軍にあってアラニース隊士の機神は貴重な戦力であったと言うのに……。事実誤認の上に壊して持ち帰る、などと? かくなる上は隊士の代わりとして、貴殿に働いてもらうより他にないと愚考するが」
 表面上は不本意を装いながら、総督官の言葉が紡がれていく。
 恐らく、彼の胸の内はバルデスを奸計に陥れることができた喜びで満たされていることだろう。
 要は目の上の瘤であるお目付け役を排除し、前線に引きずり出して使い潰そうという魂胆なのだ。枷の外れた遠征軍がどうなってしまうのかなど、想像するだけで寒気が走った。
 自分が女帝から命じられた任務は、あくまでも貴族連の監視。老獪な彼らの暗躍を見逃さぬためにも、一歩後ろから曇りなき眼で見定める行為は不可欠と言える。
(安い手だ)
 故に、嫌味交じりの要請をバルデスはやんわりと断った。
 執務室に訪れる沈黙。総督官の淀んだ眼差しが、バルデスの心の内側へと探りを入れてくる。
 ……恐らく計算しているのだろう。どうすれば、自派閥に有利な材料を引き出せるのかを。バルデスとしては、これ以上相手が有利となる材料を与えたくなかった。

「……ふむ」
 総督官の口から、失望交じりのため息が出た。手慰みからか巻子《かんす》装丁の書類を手に取り、もう片方の手で撫でる。
「なるほど。土民どもの武威に臆したと言うことかね」
 お次は挑発か。
 何枚もの舌を使い分ける総督官の舌鋒には恐れ入るものがあったが、たとい歯に衣着せない侮蔑を投げかけられようとも、バルデスは引き下がらなかった。祖国のためならば、どれだけ自らが貶められようとも構わないという覚悟を持っているからだ。
「これが陛下のご下命ならば、喜んで命を捧げましょう」
 逆に言えば、陛下の命なくば軍監の職務を逸脱するつもりはない。バルデスは顔色を変えずに言い放った。
 再び、沈黙。褐色の女性の羽扇をあおぐ音だけが聞こえた。
 はさり、はさり。聴覚が自然と鋭敏になる。

「……口にするのは第一に陛下。流石“がらくた兵団”の頭目だ」
 敵意の視線が向けられる。彼の向ける眼差しは、同胞《はらから》に向けるものだとは到底思えなかった。
(新大陸の富にあてられて、昔の驕りを思い出したか)
 元より扱いやすいとは言い難かった総督官であったが、新大陸に赴任してからこの方、目に見えて敵対的な態度が目立つようになったとように思う。
 ルシオの言っていた莫大な富や、新大陸における支配者という立場が彼の敵愾心を助長させているのであろうか。
 小さく舌打ちする。彼は元々、南方にあった大国の重臣だ。国力でも軍事的でも旧国を圧倒的に上回る絶対的な強者であった。
 二十年前の防衛戦で、バルデスら旧国の面々が敵総大将を討ち取るという劇的な勝利を収めていなければ、彼は今も我が世の春を謳歌していたことだろう。
 それ故、強者と言う玉座から引き摺り下ろされた恨みは深い。先代女帝が崩御して、帝国の基盤が脆弱になった今こそが、彼らにとっては返り咲きの転機なのだ。
 バルデスは確信を得た。目の前のこの男は、帝国に対して……いや、アルディオス旧国に対して翻意を持っている――明確なる悪であると。
(兵団を動員して、誅滅するか……? しかし――)
 敗戦を経験していると言っても、彼らの軍事力は馬鹿にできない。おまけに内部の粛清は、周辺国に向けていたずらに内憂を喧伝するようなものである。包囲網を布く周辺諸国から激しい介入が行われることは、想像するに難くない。内憂と外患を同時に対処できるほどには、旧国の軍事力は十分に育っていなかった。
(そこまで見通しての翻意なのだろうな……。だが、今上陛下に手出しはさせぬ)
 殺気を込めて睨み返す。
 バルデスは死に瀕した先代から遺言を託されていた。――娘と国を守ってくれ、と。
 バルデスと先代女帝は、弱小国家であった旧国を共に支えてきた戦友だ。他ならぬ彼女からの命ならば、たとい天地を根こそぎ反転させるような難事であったとしても命を賭して遂行して見せよう。事実、自分は今までそうしてやってきた。
(帝国の護体が彼女の本意。今はお前も彼女の遺言に含まれている。だが、兵を挙げるようならば――)
 “機神殺し”を侮るなよ。巨人兵で機神を討ち取ると言う戦歴が、運だけでは成し遂げられぬと言うことを思い知らせてやる。
 バルデスは拳を握り固めた。
「此度の進言。何卒ご一考を」
 礼を失せぬ程度に整った言葉遣いで、彼の敵意を跳ね除けた。





 豪奢に飾り立てられた執務室から飾り気のない廊下へと解放された瞬間、自然と大きなため息が漏れ出でた。
「――歪みが大きくなっておる」
 天井を仰ぎ見る。
 本国にいた時には気づかなかった帝国の危うさが、彼の眼に浮かび上がっていた。
 復権を狙い、私欲に走る貴族たちという内憂。新参者を認めない周辺諸国による包囲網。そして、新大陸における先住の民。そのどれも帝国を揺るがす大きな楔に成り得る問題だ。
「このままでは先代との約束を守れぬ……」
 月日を重ね、帝国は以前と比べて驚くほどに脆くなった。
 各国から包囲網を受け、内部で反乱が勃発し、先住の民から反撃を受け……世界地図上からエスバールの名が消滅するという可能性がまったくないと言い切れるだろうか。
 バルデスは、この問いかけに自信を持って答えることができなかった。

「冗談ではない」
 すっと眼を閉じる。自らが駆け抜けてきた旧国の歴史を振り返る。
 至弱であったアルディオス旧国が、至強と畏れられるまで成長できたのは、先代女帝を初めとした国民たちのたゆまぬ努力が背景にある。その中には自分の半生とて含まれているのだ。
 彼の瞼の内側で、深い紫色の髪が白百合の香りを漂わせ、舞い上がった。

 ――ねえ、バル。私と貴方でこの国を立て直しましょうよ。大丈夫、絶対にできるわ。

 今は亡き主の声に耳を澄まし、それと同時に歯噛みした。
 彼女はまさしく英雄であった。そんな彼女の愛した国が惨めな最後を迎える姿など、到底座視できるものではない。

「――彼女の遺産を豚どもに汚されるなど……堪えられるものか」
 口に出してから、舌打ちした。
 今の発言は迂闊そのものだ。総督官の耳に届いていないことを祈りながら後ろを振り返る。
 すると、紺色の透明な瞳が下からこちらを覗き込んでいた。総督官に侍っていた銀髪の女性だ。どうやら扉の前にまで見送りにきてくれたらしい。
 総督官の反応はない。先ほどの発言が彼の耳に届いてなかったことを安堵するバルデスであったが、

「この位置ならば、聞こえません」
 にわかに信じがたい小声が、バルデスを心底驚かせた。
 言葉を発したのは褐色の女性。先刻耳にしたおぼつかない発音とは異なる、流れるような言葉遣いだ。
「……君は我々の言葉を操ることができるのか」
 それも完璧に、と付け加える。
「もう数年が経ちました」
 バルデスの口から漏れ出でた呻き声に、銀髪の女性は感情の剥落した表情で答える。その心の内は読み取ることができない。果たして、「これだけ時間を与えられれば、異国語だって覚えるだろう。威張るほどのことでもない」と考えているのか、今までに受けた悲惨の仕打ちが彼女から表情を奪っているのか。それとも両方によるものなのか。
 いずれにしても、分かることが一つだけあった。
(やはり先住の民は侮れぬ)
 改めて認識する。自分の胸元にも届かぬ背丈の彼女が、まるで得体の知れない怪物に思えた。

「わしの言葉を総督官に伝えるかね?」
「いいえ」
 彼女は無表情のまま、かぶりを振った。
「そうか」
 バルデスは顎鬚に手を当て、彼女を改めて見つめた――直後、ほとんど全裸であったことを思い出し、慌てて視線を横にそらす。
 このしなやかな曲線美は目の毒だ。バルデスは咳払いをし、執務室の総督官に聞こえるように声を張った。
「あー……君の出迎えは実に素晴らしい! 堂に入ったものであった。恐らく、日頃の心がけが肝要なのであろうが……その努力にわしも報いねばならんだろうな」
 言って、羽織っていた漆黒の外套をその場で脱ぎ、彼女に向かって差し出す。
「これは東部戦線にて戦功を立てた際に先代女帝陛下から恩賜あそばされた品でな。名誉ある品だ。貰ってはくれぬか」
 初めて彼女の瞳に感情が浮かんだ。きょとんと目を見開いて、薄い唇をぽかりと開ける。
「私に、ですか?」
 彼女の問いかけに、バルデスが頷く。
「然様。温暖な新大陸と言えども、その格好では寒かろう。先代陛下の恩賜品ならば、総督官とてみだりに手がつけられぬ。奪われると言うこともなかろうよ」
 女性は外套を胸元に引き寄せ、しばし思案した後、
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げた。
「いや、これも帝国騎士として当然の――」
 バルデスは胸を張って言いかけて、
「……こちらこそ、すまなかった」
 すぐに申し訳なさそうに謝った。
 何に対しての謝罪か。彼女は理解ができなかったようだ。バルデスは苦笑いを浮かべ、改めて踵を返した。

 悠長にしている暇はない。今も十八水里の向こう側で、部下たちが海賊王女と交戦しているはずだ。貴族連との軋轢が日に日に増している今、彼らのような旧国固有の戦力を失うわけにはいかない。即刻合流しなければならないだろう。
 歩むバルデスの耳に、石造りの小窓から、相変わらずの喧騒が聞こえてきた。
 帝国の民が図に乗っている。それは間違いないだろう。有頂天になっているということは、それは斜陽が目前に迫っているということだ。
 遺言のとおりに守り通さねばなるまい。幾たびもの防衛戦争を牽引してきた『機神殺しの英雄』として。

「英雄……英雄、か」
 ふと崖上の大森林で出会った、勇敢なる戦士たちが脳裏をかすめた。
 森の姫君とその従者。彼らの戦ぶりは若々しさを感じさせながらも、未来を感じさせるものであった。
 特に従者の青年には瞠目させられた。その言動から姫を守らんと身体を投げ出す振る舞いまで、すべてが眩しく感じられる。彼の戦いぶりたるや、まるで昔日の自分を見ているようだった。

(あの青年は、ただ守りたいからと言っていた。彼も……恐らくは英雄になろうとしているのだな)
 バルデスが辿ってきた道を、彼もまた歩もうとしている。
 先が楽しみな若者だ。バルデスの口元に自然と笑みがこぼれ出た。
 だが、すぐに表情を険しくし、窓の外へと視線をやる。
「オクタヴィアよ。わしは、今も君にとっての英雄であり続けてるだろうか?」
 ぽつりと小窓から空に呼びかける。その呟きは、潤んだ風に乗って新大陸の空へと舞い上がっていった。






五、

 輪郭の不確かな月が、頭上に二つ浮かんでいた。
 ぼんやりと不定形に輝く夜空に向かって、小屋ほどもあるかがり火が立ち上る。周囲を取り巻く囃しの声を、陽一は組み立てられた高座の上で聞いていた。
「<感嘆詞か>、<動詞>ッ! ヤイロヨイチ!」
 活気付いた手拍子に合わせて、自分の名前が叫ばれた。炎の熱気と人々の熱狂が交じり合い、ねっとりと肌にこびりつく。
(……参ったな)
 気恥ずかしくなって、蒸れる頭をぽりぽりと掻く。あれやこれやの内に被せられた獣の頭部を模した冠が、やけに重たく感じられた。
 困惑する陽一の耳に、なーおと山猫の声が届く。その出所は陽一のすぐ下。自分の窮地を救ってくれた“ちび助”は今、陽一の膝上を寝所に定めて惰眠を貪っているのだ。
(結局、こいつは一体何なんだ?)
 陽一はあぐらの上でごろごろしている小さな重みの正体を掴みかねていた。
 こいつはあの巨大ロボット――Totemが粒子に帰ったその直後、入れ替わるように再び現れた。『リ・インカーネイト』と叫んだ後の変貌と言い、ラダマンティスと関係があるのは間違いない。では、ラダマンティスの何なのか。
 器? それともロボットの媒体? もしかしたら、エリーゼそのものなのかもしれない。陽一が小声で呼びかけてきても、緩んだ声が返ってくるのみで、これといった答えは得られなかった。
 あまりにも無防備なその姿を見て、陽一が腹でも小突いてやろうかと企んでいると、

「ヤイロヨイチ」
 隣から、カカティキの細い手が伸びてきた。手には昨夜口にした芋に似た塊根が握られている。それはほんのりとした熱と食欲を誘う香りを放っており、陽一は思わず唾を飲み込んだ。
(そういや、昨夜から何も食ってなかったな)
 恐らく食べろと言っているのだろう。
 次々に押し寄せてくる急展開から開放され、ようやく人心地のついたところであったし、陽一は彼女からの贈り物をありがたく頂戴することにした。
 湯気の立つ芋もどきを、そっと口に運ぶ。歯にじんわりと熱さが伝わり、予想外の歯ごたえに目を丸くした。
(芋と言うよりも百合根に似ている、かな。これなら多分、ただ茹でるよりも油で炒めた方が味に深みが出るかもしれない)
 いずれにせよ、空腹の自分には十分過ぎるご馳走だ。凝縮されたデンプン質が、瞬く間に陽一の胃袋を満たしてくれた。
「<副詞か>、食べろっ」
 陽一の食べっぷりに気を良くしたカカティキが、口元をほころばせた。
 次々に薦められる芋もどきを咀嚼しながら陽一は改めて考える。この宴は何のためのものなのかを。

 カカティキの集落から、少し離れた場所にある隠れ穴に村の住民たちは避難していた。
 避難場所へと急行した彼女がまず最初にしたことは熱弁。
 朗報だったのだろう。その上擦った語り口を聞く内に、住民たちの顔が徐々に明るくなっていったからまず間違いない。
 生気を取り戻した住民たちを引き連れて、カカティキは意気揚々と焼け落ちた村へ帰還した。そして、すぐさま村民を総動員した盛大な宴が開かれ、今に至ると言うわけだ。

 戦勝の宴ではないと思う。いくら黒角やバックスといった強敵たちを退けたとはいえ、最終的には“大柄”にこっ酷くやられてしまった上に、バックスだって取り逃がしてしまったのだから。
 襲われた村にしたって、見るも無残な有様だ。藁葺きの住居は完全に炭になっており、貯蓄していたであろう食料品の中から黒焦げでないものを探し出す方が難しい。
 備蓄食料に多大な被害がでたことは、宴の席に並べられた食べ物のラインナップを見渡しても良く分かった。申し訳程度に干し魚や果物が大葉の皿に盛られている中で、芋もどきが大半を占めている。
 植物の塊根は穀類に比べると保存のきく食べ物ではないが、それでも加工次第で日々採集できる肉類に比べたらずっと長持ちするから、恐らくはもしもの時を考えて隠れ穴に備蓄していたのだろう。
 食料の枯渇は共同体にとって致命傷になりかねない。そう考えると、非常食の大盤振る舞いなどして良いのだろうかと心配にもなるが、逆に考えればそれだけ大事であるとも言えるのだ。この宴は。
 恐る恐るカカティキを見ると、彼女の眼差しは何かの期待に溢れていた。
 戦勝の宴でない上に、余所者である陽一への歓待ぶり。ここまで来れば、答えはおのずと見えてくると思う。
 要するに、彼らは陽一を新たな戦力として迎え入れようとしているのだ。

(困ったことになった)
 陽一は半ばほどまで齧りとった芋もどきに視線を固定し、内心困り果てていた。
 確かに自分はカカティキのために戦った。日本人染みた博愛精神が、劣勢に立たされた彼女を見捨てるという選択肢を許さなかったためだ。……だが、今後も彼らのために戦い続けるとなると、話は別になる。
 彼らはいわばすれ違うだけの他人でしかない。
 村人たちと侵略者の戦いは、一月やそこらで片がつくような単純なものではないだろう。現実世界でスペイン人がユカタン半島を占領するのに十五年もかかったと言う事実が、陽一に重く圧し掛かる。勝つにせよ、負けるにせよとても長い時間がかかってしまうのは疑いようがないのだ。
 陽一にとって最上の目的はあくまでも『現実世界への帰還』。ならば、彼らの争いごとにあまり深入りするべきではない。
 下手を打てば、泥沼に嵌る。義理と義務に身を駆られて、そのまま故郷に帰ることもできず、骨を埋めることになる……そんな未来は嫌だった。
 あくまでも故郷へは帰りたい。
 目的ははっきりと定まっていた。後は早急に自らの意思を彼らに伝えるだけなのだが……

(事情を説明しようにも言葉が通じないんだよな……)
 彼らの言葉に耳を澄ませ、そして嘆息する。
 今も耳に入ってくる言葉のほとんどは、理解のできない音でしかなかった。一応、初めて彼らと遭遇した時から意識して使用言語の解読につとめているつもりなのだが、未だに解読のできた単語は二十を超えていない。
 そんな体たらくで事情の説明などできるわけがなかった。
 気持ちだけが先行し、身体が焦れる。
 早く何とかしなければ。誤解を解くならば、早い方が良いはずだ。早ければ早いほど、彼らの失望が小さく収まる。彼らの期待が膨らみ過ぎることだけは何としてでも避けねばなるまい。大きな失望は怒りに変わる。怒りは容易く、害意に取って代わられるだろう。
 だからこそ、早く――

(……やっぱり、頼みの綱はTotemか)
 陽一はポケットの内に忍ばせた腕輪に視線を落とした。
 意思疎通のためにも、護身のためにも、この腕輪に秘められた力は有用と言えるだろう。唯一の懸念は、使用の可能なタイミングであった。
 あの戦いの後、腕輪は何故か色が抜け落ちてしまっていた。村民を迎えに行く道中、陽一はカカティキの目を盗んで何度か合言葉を投げかけてみたのだが、一向に反応が返ってこなかった。
(大分損傷していたから、その関係かな。もう二度と使えないなんてことなけりゃ良いけど)
 眩いばかりの虹色と輝く幾何学模様が失われ、ただのアクセサリーと化した円環を不安げに見つめていると、

「……あなた、ヤイロヨイチ」
 ようやく意味の読み取れるようになった言葉が投げかけられた。
 見知った声だ。陽一が面を上げると、色彩豊かな飾り布を頭に巻いた少女が果物を盛り付けにやってきていた。
(確かクビャリャリカと言ったっけ)
 クビャリャリカは胸元に手を当てて、一度だけ深呼吸する。
「誰、あなた。ヤイロヨイチ」
 続いて自分を指差して、
「誰、<恐らくは代名詞。自分を意味している?>。クビャリャリカ・ケ・トーラ・アムタ」
 心持ち不安げな表情で、言葉を紡いでいった。

「クビャリャリカ?」
「カカティキ。<不明>、<恐らくは動詞>ヤイロヨイチ」
 首を傾げるカカティキに、クビャリャリカが何かを説明している。すぐに「ああ」と納得したカカティキが、陽一の表情を窺ってきた。
「クビャリャリカ……君は」
 自分と意思疎通を図ろうとしているのか。そう目で訴えかけると、クビャリャリカはこくりと頷いた。
「キ・コサ。キ・アズ」
 芋もどきを指差しては言葉を発し、果物を指差しては再び言葉を発する。
 彼女が自分たちの言葉を、陽一に分かるよう懇切丁寧に説明しようとしていることが良く分かった。
「ありがとう。理解できる、と思う」
 陽一は頭を下げる。
 恐らく、「これは芋もどき。これは果物(いや、アズの実か?)」と言っているのだろうと思われる。単純な言葉からの説明は、陽一に理解してもらうための心配りなのだろう。
 言葉の通じない空間に長時間置かれた陽一にとって、彼女の優しさと明晰さは非常にありがたいものであった。

「アリ、ガトウ? アリガトウ」
 クビャリャリカの笑顔が月明かりよりも眩しくなった。
「カカティキっ、ヤイロヨイチ、<不明>!」
 二人で手をとり、大はしゃぎする彼女たちを見て、陽一の胸にちくりとした罪悪感が突き刺さる。
 彼女らは、自分とこれから付き合っていくために意思疎通を図ろうとしている。だが、自分は彼女らと別れるために言語を習得しようとしているのだ。
 事実を知ったら、悲しむだろうか。怒るだろうか。陽一の心に、陰鬱なものが立ち込める。
 対照的な表情を浮かべる両者。
 どう反応したものか決めかねていると、しゃがれた声が三人の注意をひきつけた。

「カカティキ。クビャリャリカ」
 現れたのは老婆であった。彼女が身につける鳥の羽を繋ぎ合わせた頭飾りや上等な衣服を見るに、村の中でも特別な立場に就く者であろうということは一見して読み取れる。
「ワルピリ・ケ・アムタ」
 二人が居住まいを正す。
(アムタ……?)
 クビャリャリカの自己紹介の時にも入っていた言葉だ。家族なのだろうか。もしくは役職か何かか。
 注意深く彼女を観察してみると、クビャリャリカとの共通点を見出すことができた。一つは腰に取り付けた草で編まれたポシェット。そして、もう一つは理知的な雰囲気だ。
 深く刻み込まれた無数の皺は老衰よりも、深い知性を感じさせる。
(前近代の村落共同体に見られる巫女、いや女系社会ならば長老。語り部の可能性もあるな)
 外見からそう察する。いずれにせよ、村の上役が姿を見せたということは何か重大な用事があるのだろう。
 陽一の推理に答えを示すかのように、老婆が声高らかに歌い始めた。

「テア・ヨイチ・アマルタ、<不明>、<不明>、<不明>……」
 恐らく……それは『神話』であった。老婆は語り部であったようだ。村人たちは、しんと静まりかえって耳を澄ましている。炎に焼かれてぱちりと弾ける焚き木と老婆の歌声が、夜の静寂に浮かび上がる。何処か懐かしい感じがする。陽一は静かに語り部の言葉に耳を澄ました。
「ヨイチ……」
 ふと、カカティキの声が聞こえた。
 自分のことを呼ばれたのだと横に目を滑らせると、彼女は陽一のことを見ていなかった。両拳には力が込められ、可憐であった表情は真剣そのものだ。サファイアを思わせる紺色の瞳が放つ輝きに、陽一はどきりとさせられる。
 彼女は老婆が歌い終わるまで、静かに身を乗り出していた。
 語り部の神話が終わった直後、カカティキは拍子を叩いて歓喜を表した。
「ヨイチ!」
 今度は自分に向かって呼びかけられた。彼女の喜びように、陽一は身をのけぞらせる。
「な、何だっ――」
 慌てる陽一の声は、広場を包んだ歓喜の声によってかき消された。見れば、村人たちが一斉に跪いている。彼らの頭は陽一に向けられており、涙を流している者さえも少なくない。
「ヨイチ、アマルタ<動詞>……」
 クビャリャリカが何処か合点がいったという風に口元に指を当てている。
「これは……」
 陽一は驚きを呟く一方で、何処か腑に落ちる思いがした。神話の仔細は良く理解できなかったが、分かることが一つだけあったからだ。
 文字の発達していない文化圏に生きる人々にとって、神話とは繰り返される現実である。少なくとも陽一が今まで出会ってきた未開の住人たちは、自分たちに何か吉凶の兆しがあった際に、何か既存の神話になぞらえて物事を説明する傾向があった。
 陽一のことを示さない神話上の「ヨイチ」と自分……どうやら自分は相当厄介な誤解を受けているらしい。陽一の表情が自然と引きつっていった。





 宴も終わり、村人たちが寝静まった頃。
 毛皮に包まり、浅いまどろみに身を委ねる陽一の耳朶を少女の囁きがくすぐった。
「ヨイチ」
 カカティキだ。薄目を開けると、月は東に落ちていた。火は既に絶えており、お祭り騒ぎの中心部は黒い煙を昇らせるだけである。
 彼女の顔はすぐ傍にあった。琥珀色の肌に虹色が混じっている。その光源は下にあった。
(……アマルン・アニル?)
 彼女の腕に収まった円環が、虹色の光を取り戻している。どうやら不思議な力を持つこの腕輪は時間で修復がなされるものであるようだった。
 眠たげな視線を落とし、呆ける陽一の脳を甘い温もりが刺激する。彼女の吐息が陽一の頬を撫で、肌をかすかに湿らせた。
 ここに至って彼我の距離を完全に察した陽一は、
「って、近いってッ」
 たまらなくなり、慌てて飛び起きた。突然の挙動にびくりと身体を震わせるカカティキ。のけぞったと言うのに、彼女の顔が目と鼻の先にある。
(ど、どれだけ密着していたんだ)
 激しい動悸に胸を押さえる陽一に、カカティキが右手を伸ばしてきた。
「ヨイチ、<動詞>、アマルン・アニル?」
「ん、ああ。持ってるけど……」
 ポケットの中で輝く腕輪を彼女に示すと、彼女は満足げに頷いて陽一の腕を引っ張った。
「<動詞>」
「あ、ちょっとッ」
 足をもつれさせながら、高座を降りる。手を引く彼女は、何処か嬉しそうだ。
 二人は村はずれから飛び出して、更に森の入り口にまで差し掛かった。
「<不明>」
 彼女が森の奥を指差す。「行こう」と言っているのだろうか。
 彼女の言葉を拒絶すると言う選択肢が陽一にはない。依然彼女の細腕は陽一の手を取っているし、何よりもこのまま手を離してしまうことがとても勿体のないことのように思われたからだ。
 原始の緑を二人の持つ腕輪から発せられた虹色が照らしていく。歩みを進めるたびに樹林の影法師が軍隊のように行進した。
 陽一は内心気が気でなかった。非常時ならばまだしも、このように異性と手を繋いだ経験がないからだ。
 手を離すのはもったいない。だが、たまらなく気恥ずかしい。
 自身の中でせめぎ合う感情のぶつかりあいに難儀していると、先導するカカティキの足が止まった。
「ここは……」
 陽一が声を上げる。目の前には、巨大な古木がそびえたっていた。
 間違いない。ここは陽一が初めてこの異世界に降り立った場所だ。だが、何故彼女はここに自分を連れてきたのか?
 陽一が彼女の意図を図りかねていると、

「ツァル・テア」
 上を仰いだカカティキの声に従い、何処からかはしばみ色の大鷲が飛来してきた。
「ヤイロヨイチ、<動詞か>、プム・テア」
 彼女が陽一に問いかけてくる。ツァル・テアがあの大鷲だとするならば、プム・テアは……あのちび猫だろうか。
「ちび助」
 恐る恐る呼びかけると、大鷲と同様に眠たげな眼の子山猫が飛び出してきた。
「何時からついてきていたんだ」
 ちび助は欠伸をするばかりで返事をしない。その無警戒な姿を見てカカティキは頷き、口を開いた。

「<動詞か>、テア。リ・インカーネイト」
 一瞬にして古木周辺が光に包まれる。魔方陣が消え去る頃には、先刻陽一を救ってくれたはしばみ色の巨人――鷲頭のフレースヴェルグが姿を現していた。
『ヤヒロヨウイチも。祖神を呼び出して』
 彼女に促され、陽一も慌てて腕輪を取り出す。
「リ・インカーネイト」
 目が眩み、思考にノイズが走る。初回よりもスムーズに、陽一の身体はラダマンティスと同期した。

 ――もうっ、何ですの? まだ十分な休眠が取れてませんのに。そんなティータイムよりも気軽なノリで私を呼び出されても困りますわ。
「カカティキが呼べって言うんだよ。仕方ないだろう?」
 エリーゼの文句に陽一は辟易して答える。駄目だ。どうにも脳に姦しい言葉が直接流れ込んでくるという不思議現象に、未だ慣れることができない。
 陽一は頭を抱えながら、カカティキのフレースヴェルグと見合わせた。
 考えようによっては、これは思いも寄らぬ幸運に舞い込んできたと言える。Totemを通して意思疎通のできる今ならば、彼女の抱いている誤解を解くことも可能だろう。
『カカティキ、君に話があるんだ』
 話を切り出す陽一であったが、カカティキからの返答はそっけないものであった。
『駄目。もう時間がない。急ごう』
 言うが早いか、彼女は巨木を見上げて機械翼を展開する。
『ついてきて、ヤヒロヨウイチ』
『えっ、ちょっとッ――』
 引きとめようとした陽一の手が空を泳いだ。返事も聞かずに、カカティキは樹冠に向かって飛び上がる。枝のしなる音がして、あっという間にカカティキの姿は鬱蒼とした枝葉の向こう側へと消えてしまった。

「おい、エリーゼ。どうすりゃ良いんだ」
 ――ふぅ……。永久飛行はできませんが、中空で推進力を得ることは可能ですわ。古木を土台にしていけば、ラダマンティスでも天辺まで上ることも可能かと。
 陽一の問いかけにエリーゼが答える。寝ぼけた声色であったが、返ってくるアドバイスは実に的確なものであった。
 陽一は「なるほど」と頷き、三対のスタビライザーを長く展開する。圧縮空気をスタビライザーに取り付けられたノズルから噴出し、その勢いを借りて飛び上がる。勢いが弱まった頃合を見て、姿勢と跳躍軌道を修正し、古木の枝を伝っていく。
「丈夫だな、この木」
 ――木造建築が質量辺りどれだけの重量を支えているかを考えてみてくださいまし。そんなこと不思議でも何でもありませんわ。
 陽一の呟きに答えるエリーゼの機嫌はあまり宜しくない。寝起きを無理矢理起こされたのだから当然であろう。
 やがて、カカティキと陽一は超高木層を抜け出て、森林の天井裏にまで到達した。
 そして息を呑む。
 古木がさらに遥か高くまで伸びていたからだ。

「こんな高い木があるのか……」
 ――ないと思いますわ。横に広がるならばまだしも、必要以上高くなるよう進化する必要なんてありませんもの。
 普段の調子を取り戻したエリーゼが、ラダマンティスの眼を通じて各種センサーを走らせた。視界に巨木の組成などの各種情報が浮き上がる。
 ――視覚情報から得られるレベルでは、特に異常は見られませんが……あ、ちょっと待ってくださいまし!
 視界の片隅に、樹皮の拡大図が提示された。年を重ねて皮の剥がれ落ちた部分が、鈍《にび》色に輝いている。
 陽一は目を見開いた。
 あれは――間違いなく金属の外壁だ。
「もしかして、これ……人工物なのか?」
 陽一の疑問に答えるかのように、上に登るほど金属と樹皮の比率は逆転していく。やがて樹皮がすべて剥がれ落ち、その内側から輝く鉄塔が現れる。
 まるで竹取物語に見える光る竹だ。まっすぐに伸びた鉄塔は雲の向こう側まで貫いていた。
 眼下に雲海が広がるようになった頃、ようやく二人は頂点にたどり着く。
 鉄塔の頂点はすり鉢上にへこんでいた。段々に中心部へと緩やかな斜面を描くそれは、さながら古代ローマの劇場を髣髴させる。
 中心部には、更に上へと伸びる一本の細いアンテナが立っていた。

『胸を開いて、ヤヒロヨウイチ。ヒトの身体で見た方が絶対に良いから』
 頂上の縁に腰をかけたカカティキが、陽一に声をかける。
 フレースヴェルグの胸部が開き、チューブを身体に取り付けたままのカカティキが姿を見せた。
『カカティキ、一体何があるって言うんだ』
 促されるままに陽一も隣に座り、エリーゼに指示して胸部ハッチを展開する。
『覚悟の槍は外さないようにして。これがないと息苦しくなるし、凍えてしまうから』
 彼女の言葉に生身で頷き、陽一はコックピットの縁に座った。
『ここはね。父上から教わった秘密の場所なんだ』
 言って、彼女は懐かしそうに夜空を見上げる。
 夜空にはぼやけた二つ月以外に何もない。星すらも見ることができなかった。
 静かな時が流れる。相当な高所にあるはずなのに、『覚悟の槍』とやらのお陰か、身体は少しひんやりとする程度に収まっていた。
『来たっ』
 カカティキが身を乗り出した。
 彼女に釣られ、陽一も上を見上げて……仰天する。

 夜空が割れた。
 上空に突如として黒い亀裂が出現し、周囲の空気を吸い込んでいく。亀裂は徐々に面積を増していき、黒く塗りつぶされた空間の向こう側に、まばらに輝く砂浜が広がって見えた。
「あれは――」
 言葉を失い、ただ困惑する。
 陽一は亀裂の向こう側の景色を良く知っていた。だが、“あんな景色”がこんな異世界で見られるはずがないのだ。
(何でだよ)
 自問自答する。

『皆知らないんだ。二つ月って本当はこんな形をしているんだって』
 陽一の視界に銀色に輝く丸い天体が映る。
 ごつごつとしたクレーターの陰影は、遠目で見れば女性の顔に見えるかもしれない。故郷ではあの陰影を兎の餅つきと表現していた。
 ところどころに人工的な建造物が見えるが、あれは間違いなく――
『月』
『……ヨウイチは物分りが良いな。信じてもらえないかもって思ってた』
 疑うわけがない。天空に浮かぶあの天体は、間違いなく陽一の知る月であったから。
 しかし、何故? 何故故郷と同じ月が異世界に昇っているのだ。
 陽一の困惑などお構いなしに亀裂は更に広がっていく。中心部のアンテナから一筋の光が天高くへと伸びていった。カカティキが光を追うようにして視線を動かし、何処か自慢げに口を開く。

『もう一つはもっと驚くよ。何たってアマルン・アニルみたいに穴が開いているんだもの』
 恐る恐る陽一も彼女と同じ方向へ視線を動かす。
 月よりも近い軌道上、色鮮やかなドーナツ型の人工物が浮かんでいた。
 外壁はアクリルのような透明な壁で覆われている。だが、その内側には生命を感じさせる青色も、雲の織り成す白色も、土壌の茶色までもが見て取れる。
 カラフルな命模様の円環は、宇宙空間内で緩やかに回転していた。
 遠心力は重力を生み出すと言う。重力が何故必要なのか。それは生命体が活動するためだ。
 陽一はエリーゼに問いかけた。
 答えは自分でも分かっていたが、確認せずにはいられなかったのだ。

「エリーゼ、教えてくれ。あれは一体何だって言うんだ……?」
 彼女は躊躇いながらも、静かに答えた。
 ――あれは恐らく、トーラス型の生命居住可能領域《ハビタブルゾーン》。いわゆるスペース・コロニーかと思われますわ。




[30361] 2-1
Name: 三郎◆bca69383 ID:1ea651fb
Date: 2012/04/18 19:45
2-1

 ――トーラス型の生命居住可能領域《ハビタブルゾーン》……。いわゆるスペース・コロニーかと思われますわ。
 エリーゼの漏らしたその言葉を、陽一は素直に受け取ることができなかった。
 スペースコロニー……。その単語は冒険小説をこよなく愛する陽一にとって、何度も目にしたことのあるものであったのだ。
 曰く、宇宙開拓の拠点として建造される人工の居住環境であるとか。曰く、本星との連絡が途絶えた状態でも、ある程度独立して存続することの可能な一個の大きな生態系であるとか。
 それが一体どういう物かどうかは、容易にイメージすることができる。だが、納得はできなかった。
 何故なら、その言葉はあくまでも物語の中でのみリアリティを持つものであったから。
 現実として頭上にある? 冗談じゃないと、笑い飛ばそうとする。

「ロボットの次はスペースコロニーだって……?」
 スペースコロニーは陽一の生きる二十一世紀においてですら、未だ実現のできていない技術概念であった。
 陽一の知るところでは、今世紀において宇宙空間で人間が生活できる場所と言ったら、いくつかの民間企業が推進する宇宙ホテルとやらが机上の計画としてあるのみで、現存しているものはISS《国際宇宙ステーション》くらいしかなかったはずだ。そして、それらはいわば宇宙船の延長線上にある代物で、独立した生態系を保持するまでには至っていない。
 だと言うのに、エリーゼは頭上の円環を生命居住可能領域だと言ってのけた。
 大気の循環機能はどうなっているのだろうか。有機物のリサイクルは? 重力は? そもそも放射線の対策は行っているのか?
 数多の疑問に対して、陽一の持つ知識レベルでは満足のいく回答は得られそうにない。
 頭上に浮かぶ円環は、陽一の驚きをあざ笑うかのように淡く輝いていた。

『ヨウイチ?』
 宙《そら》に釘付けにされる陽一の様子が気になったのだろうか。
 こちらを窺うようにカカティキが呼びかけてきた。予想以上の反応に、彼女はいささか戸惑っているようだ。
『君はあれが、月。月だって……言うのか?』
 地上の前近代に比べて、天空の未来技術はあまりにも逸脱しすぎている。
 彼女らの文化レベルを考えれば、あのオーパーツを作り出せるとは到底思えなかったが、それでも陽一は彼女に問いかけずにはいられなかった。
 陽一の質問を受けたカカティキは細い指で頬を触り、小さな頭を傾ける。

『ああ、二つ月。あっちが夫で、あっちが妻。有名な祖神たちなんだ。子供だって知っている』
 言って空を指差し、神話の断片を紡いでいく。
 頭上に浮かぶ片方が、人工物だとは露ほども考えていないようだ。
『祖神……って、俺や君が操っているようなロボットと同じものってこと?』
『“ろぼっと”? よく分からないが……二つ月もケツァル・テアも同じ祖神だよ』
 陽一はカカティキの返答を良く吟味した後、改めてエリーゼへと意識を向けた。

「エリーゼ。あのスペースコロニーを作った奴らは、Totem《お前ら》を作った奴らと同じなのか?」
 陽一は考える。もしかすると、この世界にあるオーパーツは太古の昔に滅びた文明の遺産なのではないだろうか、と。
 そもそも、カカティキたちの文明レベルでTotemのようなロボットを乗りこなしていることからしてありえないのだ。
 技術はその概念を詳らかに理解し、作ることができてこそはじめてこの世に生み出される。だと言うのに、この世界は明らかにTotemやスペースコロニーを生み出す前提条件を満たしているようには見えなかった。
 そこで一つの仮説として、高度に発達した古代文明の存在が想定してはどうだろうか。
 文明が滅び、技術が失伝しただけならば、カカティキたちがオーパーツに対する知識を持っている必要はない。ただ、そこに遺されたものを利用しているだけなのだから。
 太古の遺産を用いて、前近代的な戦争を繰り返す――我ながら陳腐な発想だと思う。
 現実世界なら、オカルトの域にまで達した胡散臭い考え方だ。
 けれど、現状これ以上に合点のいく考え方は思い浮かばなかった。
 陽一の推理を聞いたエリーゼは一瞬「へ?」と呆気にとられたように声をあげた後、当たり前のことを聞くなとばかりに言葉を発した。

 ――いいえ……。トーラス型スペースコロニーは西暦1975年に米国スタンフォード大学にて考案されたデザインですもの。私たちとは“はじまり”が異なりますわ。そんなこと、搭乗者《マスター》だってご存知のはずでは?

「――は?」
 エリーゼの返答に言葉を失う。
 今、彼女は何と言ったのだ。
「アメリカの……? ってことは何か? あれは地球で生み出された技術だって言うのかよ。ありえない。何時実用化されたんだ。仮にアメリカのものだとして、何でこんな異世界に浮かんでいるんだ!」
 まさかの答えに食って掛かる。
 重ねて言うが、陽一の知る世界ではスペースコロニーは未だ実用化の目処が立っていない。
 アメリカが技術を秘匿してきたと言うなら話は別だろうが、自らを生憎宇宙開発先進国と豪語しているような国が、わざわざ手柄を隠したりはしないだろう。
 彼女は一体、何処の地球の話をしているというのだ。陽一は咎めるようにいくつも質問を浴びせかけた。

 ――……? おっしゃる意味が分かりかねます。“地球で生み出された既存の技術が、この世界で活用されていること”の何処に疑問を挟む余地があると言いますの?
 エリーゼの声に険が混じる。
「何を……。エリーゼ、お前は何を言ってるんだ」
 それに対して陽一は理解されない苛立ちと、漠然とした不安がつのっていく。
 エリーゼの言い様。まるでこの異世界が地球であると言っているような……。
「お前の口ぶりじゃ、まるでここが地球みたいじゃないか!」
 そんなはずはない。陽一はここ数日の間、確かに地球とは異なる生態系を目の当たりにしてきたのだ。
 信じられるわけがない。頑なになった陽一は、彼女の言葉を振り払うようにして叫んだ。
 昂ぶる陽一の態度に、びくりと驚くカカティキ。
『陽一っ、どうしたんだ。怖い顔になっている』
『ごめん、カカティキ。今、大事な話をしているんだ』
『話って誰と……ん、いや。分かった。分からないけど。私は黙っておく』
 カカティキがこちらをちらちらと見ながらも、言われたとおりにぎゅっと黙る。
 彼女を制した陽一の剣幕に、エリーゼが呆れたようにため息を吐いた。

 ――何が気に入らないのか、サッパリですけれども。視界にマーカーを表示しますので、上をご覧くださいな。
 険しい顔で空を見上げると、砂粒をまぶしたような星空のあちらこちらにアルファベットで記された詳細な情報が表示されるようになった。
 ――まずは月を基点にいたしましょうか。あちらの方には……ケンタウルス座α星、確かにございますわね。次にコールサック、定位置に見えますわ。さらに南十字星……。
 エリーゼが視界に映る天体を指摘するたびに、陽一の顔色が青くなっていく。
 見覚えのある月。やや傾いた十字架。ひときわ輝く一等星……。
 駄目だ。何処からどう見ても、中南米で良く見上げていた星空と気味が悪いくらいに合致している。
 エリーゼの言葉を否定する材料を、少しも見つけることができないじゃないか!
 気の滅入る天体観測がしばしの間続き、ぐうの音も出なくなった陽一に対して無情な答えが突きつけられる。

 ――もう、よろしくて? ここは太陽系第三惑星・地球。間違えようがありませんわ。
 彼女の断言が、さながら波のように陽一の心に押し寄せてきた。
 困惑が絶望に塗りつぶされていく。へたりと力を失い、力ない眼を地面へと向けた。
「そん、な……」
 巨大ロボットから見下ろす、すり鉢状に加工された人工塔の天辺。
 雲よりも高い古大樹の頂点に、自分は座り込んでいると言うのに。
 オーパーツを駆り、オーパーツを上り、オーパーツに見下ろされる……これが、地球で見る光景だって?
「……分からない。分かりたくない」
 自分の故郷は一体どうなってしまったのだろうか? 自分と同じ時を生きる皆は一体何処へ行ってしまったのだろうか? 分からない。何もかもが受け入れがたかった。
 陽一は頭を抱え、俯いた。

『ヨウイチ……?』
 ――メンタルに異常が見られますわ。このままでは体調に影響する恐れもあります。……安定剤を投与いたしましょうか?
 ベクトルの異なる二種類の気遣いも、今は耳障りでしかなかった。
 カカティキが不安げにこちらを見ている。異世界人が、こちらを。
 彼女は地球人ではない。複製人格とか言うエリーゼだって、言わずもがなだ。
 自分は異世界にいる。ここは陽一の知る地球なんかじゃない。絶対に……!
 そう無理矢理思い込もうとした、刹那のことであった。
 急に前方が明るくなる。
 何事かと見上げると、先ほどスペースコロニーまで伸びていった光の柱が一層の輝きを放っている。
 光の粒子は荒れ狂う竜巻を思わせる。こころなしか、自分の髪が浮き上がったような錯覚さえ覚えた。
 この勢いは、まるで滝が逆流しているような……。
 陽一は目の前に手のひらをかざし、眩しげに宙の円環と古大樹の天辺を結ぶ線を見る。

 ――これは……通信?
 エリーゼが呟くと同時に、線の周辺が虹色に輝き始めた。
 輝きは幾重もの円を為しており、その一つ一つがラダマンティスの創り出す魔方陣に良く似ている。
 陣の縁に浮かび上がった文字はアルファベットか。
 平面を横から見ている上に、一文字一文字がちかちかと消えたりついたりしているお陰で、その意味するところが読み取れない。
 やがて、魔方陣がその数を増やしていくにつれて、独特の音階が陽一の耳朶を叩くようになった。
 無機質なト短調。変に整っているのに何処か聞くものを不安にするその旋律は――
「……あれ?」
 何故か、強烈な既視感が陽一の脳を灼いた。
 瞬時にして頭が真っ白になり、広野にごちゃごちゃになったジグソーパズルが組み立てられるようにして、記憶の奥底へとシナプスの道が延びていく。
 知っている。陽一はこの音階を以前耳にしたことがあった。
 でも、何で? 自分はこれを何時、何処で聞いた?
 陽一の自問に答えるようにして、網膜に過去の映像が投射される。
 同時に意識が暗くなっていき、エリーゼとカカティキが呼びかける声がどんどん遠くなっていった。




 ライトの光が紙の束を照らし出した。
 ……頬に浮き上がった大きな汗を、指で払い取る。
 濡れた指を擦ると、インクの汚れが薄く広がった。
「やべ」
 気づかぬ間にボールペンのインクが移っていたようだ。報告書を汚してしまっては後が面倒なため、シャツの裾で汚れを落とす。
 熱帯の蒸し暑さが作業用テントの内に閉じ込められている。備え付けの扇風機は回っていない。電力が限られているためだ。
「先日、二十七日。地球と月のラグランジュ・ポイント1にて新たなトーラス型国際宇宙ステーションの建設が始まりました。宇宙ステーションは、“天の羽衣《ライメント》”と名づけられ、各界よりISS《国際宇宙ステーション》に代わる新たな宇宙開発拠点としての役割を期待されています。ライメントに備えられた擬似重力発生機構は、小規模な生命環境の再現に適しており、SSPS《宇宙太陽光発電》と組み合わせることで文化的な居住環境の維持が可能となるでしょう。国際宇宙開拓局は、このことを受けて『スペースコロニーに繋がる本格的な宇宙移民の幕開けである』とのコメントを残しており、また――完成予定は二十年後の二〇五二年。このプロジェクトには合衆国政府が八〇〇億ドル、日本国政府が――」
 机の上に置かれたラジオが昨今のニュースをもたらしてくれる。ノイズはまったくと言って良い程聞こえない。この国のラジオ放送は、つい先年にすべてがデジタル音声方法に切り替わった。
「あ、これはアタリだな」
 青年はボールペンをくるりと回し、発掘資料のずらりと並んだリストの一マスに丸を付けた。
 手元には実測図を広げ、足元に積まれたテン箱(樹脂製の箱のこと)と交互に見比べてはチェックしていく。
「おーい、ヨウイチ。主任が呼んでいるぜ――って、何してんのオマエ?」
「一括《イッカツ》の見直し。まとめるべきでない資料が混じっているかも知れないだろ?」
「はぁ、熱心だな」
 同僚の間延びした呼び声に青年は振り返らずに答えると、妙に呆れたため息が帰ってきた。

「今のニュース、新しくできる宇宙ステーションの話?」
「みたいだけど、気になるのか? うちらは“地面”専門だろうに」
 青年は振り返って同僚を見る。北米から派遣された同僚は、ひょろひょろの両手を目いっぱいに広げて笑っていた。
「気にならないわけがないだろう。宇宙開拓なんて未開の最たるものじゃないか。まだ見ぬ新天地、そして出会い。宇宙人もいるかも知れないぜ。ほら、オマエの国の……何だっけ。ウラシマ?」
「かぐや姫だろ。竹取物語の」
「そう! それだ。今はとて“天のはごろもきるをりぞ”……って奴。オー、ウラシマ! タケトリ!」
 口の端を持ち上げた彼の表情を見て、確信する。どうやら試されたらしい。青年は「何だ、知ってたんじゃないか」と内心毒づいた。

 同僚は青年の寄せた眉根に素知らぬ顔をして、指を立てて高説を垂れ始める。
「土器屋は古きを尊び、文献畑が意味を問う。それらの根底に流れているのはフロンティア・スピリッツだろう? 宇宙《そら》でスピーチしてる連中と俺たち。なんら変わらないじゃないか」
「良く分からないよ」
「“良く分からないほどに近しい”ってことさ。伝説とSFは」
「そんなもんかね」
 気のない返事も功を奏さない。彼は思ったよりも鈍感であるようだった。
 何だか延々と続きそうな気配だ。辟易した青年は彼の言葉を遮って、本題を切り出すことにする。
「それで主任、呼んでたんじゃないのか?」
 自らの役割を思い出した同僚は、目を丸くして「アッ」と短く言葉を発した。
「いけね、遺跡内に新しい通路が見つかったんだってよ。どうにも手付かずの遺構らしい。ヨウイチにも見てもらえって」
 聞き捨てならないその言葉に青年は顔色を変えて立ち上がる。ガタリと安物のパイプ椅子が、大きく横に吹き飛んだ。

「バカ、それを早く言え!」
 言って、猛然と駆け出す青年。
 同僚がぎょっとした表情を浮かべて、たじろいだ。それも無理からぬことだろう。何故なら青年は今、弾丸の勢いで入り口目掛けて突撃をかけているのだから。
「うおっ」
 慌てて同僚が身体を室内に滑り込ませたため、衝突の大事は未然に防ぐことができた。ぽかんとしていた同僚であったが、
「あ、こら。電力は有限なんだから出る時消していけって!」
 すぐに煌々と明るいままの室内に気づき、立腹した。

「悪い。首都に帰ったら何か奢る!」
 青年は頭を下げ、そのまま遺跡へと急行する。折角上司が大発見の手柄を、自分の為に取っておいてくれているのだ。一分一秒でも時間を無駄にはしたくなかった。
「尚、合衆国大統領は次のように祝辞を述べています。『今日という日を祝いましょう。閉塞にあえぐ人類は、ついに新天地を手にすることができるのです。人類の新時代《Dawning Era》――。私たちの先祖が成しえなかった偉業を、地上に降りることのない生活を、私たちは勝ち取ることができたのです』――」
 きりの良い性格をしている同僚は、どうやら最後までニュースを聞いてからスイッチを切ることに決めたらしい。つけっぱなしのラジオから、相変わらず続いていた宇宙のニュースが、しばらく背中に聞こえていた。
 新時代。
 脳裏で無意識に単語を並べてみるも、いまいちしっくりくるものがない。
 どうやら、青年の興味関心は専ら旧きにあるようだ。
 合衆国大統領の謳う文言よりも、ひとかけらの土器片の方がよほど心が湧き踊る。

(開拓者たち《アストロノーツ》には悪いけれど、やはり俺は地面《こちら》の方が興味をそそられるよ)
 通路の先には何があるのだろうか。
 王の墓? 隠し財宝? それとも、滅びた歴史の断片か。
 青年はまだ見ぬ謎に胸を高鳴らせ、息を切らせて駆けていく。
 靴裏に感じる緑の感触が、脆く崩れやすい土のそれへと取って代わられた。
 テントを飛び出し、スポットライトで光源を確保された遺跡の坑道へ潜り込む。
(早く、早く、早く、早く――)
 弾んだ心が焦れてたまらない。
 坑道の突き当たり、崩れた土壁の向こう側。ぼんやりと光を放つ小部屋の中で主任たちが真面目くさった顔をしている。
 その表情は喜ぶと言うより、困惑そのものだ。
 青年は彼らの反応を見て、口元の笑みを深くした。
 世紀の大発見。そんな字面が頭に浮かんだ。

「ああ、ヨウイチ君……。実は少々困ったことになってね」
 小部屋に踏み込んだ青年に対し、主任が縋るような視線を向けてくる。
 年齢を重ねて落ち窪んだ視線は移ろい、室内を促す。青年は彼に従い、“それら”を視界に納めた。
 小部屋はまるで、研究所の情報を管理するサーバー室を思わせる作りをしていた。
 空間の中心には、滑らかに加工された硬石の方形棺が置かれており、根元から、無数のチューブが伸びている。
 祭祀目的に作られた石製模造品か……と一瞬訝しんだが、青年はその考えをすぐに驚きと共に取り下げた。
 材質不明のチューブを伝い、棺に向かって注ぎ込まれる光の奔流――。
 チューブは何らかの機能を持って“生きていた”のだ。
「何だ、これ……」
 青年たち発掘者を取り巻く壁面が奔流に呼応し、ほのかに輝く。
 壁に描かれた線刻画は、いかなるストーリーを表したものなのか。虹色の光沢を持つ記号を追いながら、青年は主任たちの困惑を正しく理解した。
 遺跡内にあるすべてが、どう見ても古代人の遺産には見えなかったのだ。

「性質の悪い悪戯……いや、盗掘を受けた跡……?」
 事態を飲み込めずに可能性を呟いた青年の言葉を、中年の主任が否定する。
「いや、そもそも隠し通路の発見自体が事故のようなものだったんだ。この場所が廃棄されてから今に至るまで、外界に触れたことなどなかったはずだよ」
「そんなまさか!」
「部屋の保存具合だって不自然なほど清潔に保たれている。それも、ひどく均質的に。こんなことはこまめに清掃を行う何者かがいないとできない芸当だろう。私だって“まさか”と叫びたい気分だね」
 主任は肩をすくめてため息をつくと、居住まいを正してじっと青年を見た。

「ヨウイチ君。我々は理解の及ぶ範囲でこの小部屋を調査せねばならない。正直、畑が違うと思うのだけれどね……。まずは我々の職分に則った、“これがここに在る意味”を追求していこうじゃないか」
 主任の言葉に青年は言葉を飲み込み、頷いた。
 思考の放棄は研究者の禁忌だ。この場所が良く分からないオーパーツにしても、手の込んだ悪戯であるにしても、それを定義付けるための情報収集を怠ってはならない。

 青年は早速主任たちに混じって小部屋の調査を行うことにした。
 割り当てられた仕事は、まだ誰も手をつけていない箇所の調査。棺の確認であった。
 青年は苦笑する。
 最も怪しいと思われる箇所に誰も手をつけなかった理由は明確極まりない。つまるところ、何とか責任を逃れたいのだ。誰も彼もが。
 この非現実的な光景を半ば信じ込んでしまっており、学会に報告して袋叩きにあうことをひどく恐れている。
「残念ながら、取るに足らない悪戯でした」と水に流せぬ万が一を怖がっているのだ。
 さりとて、分からなければ怠慢と罵られる。
 象牙の塔は一寸先が闇に包まれた魔窟であり、異端を嫌うカテドラルでもある。彼らの気持ちは分からないでもなかった。
 だが、青年は彼らに同調することができない。
 何故なら、彼は遺跡の第一発見者であるからだ。
 最終的な責任を担っている以上、見て見ぬ振りを決め込むことなどできそうにはなかった。

「金属……ではないみたいだけれど、石でもないか?」
 布手袋越しに感じられるひんやりとした硬さを読み取りながら、青年は棺を精査していく。
「棺内はもぬけの空か。いや――」
 太古の遺体はなかったが、代わりに青年にも理解のできるものが棺内には納められていた。虹色に輝く腕輪だ。
 青年は腕輪を手に取り、首を傾げる。
「副葬品。やっぱり盗掘を受けてるとしか思えないな。装飾具の主がいないのだし」
 真相の解決に多少なりとも近づけたという心地から、ふっと小さく息を吐いた――瞬間、
「な、何だッ」
 主任たちの狼狽した大声が聞こえ、がくんと大地が大きく揺れた。
「倒壊だ!」
 調査員たちが競って小部屋から逃げ出そうと、出口に殺到する。青年は棺内に身を乗り出していたこともあってか、脱出者の波に乗り遅れた。
 轟音が耳朶を叩き、人の頭ほどもある落石が降り注ぐ。青年は夢中になって、チューブの一束を頭上に掲げてこれを乗り切ろうとする。
「主任、どうすれば!」
 出遅れたことを大声で知らせるが、満足のいく答えは返ってこない。
 迂闊に動くことができない状況下に置かされた青年は、幾重にも亀裂の入った小部屋の中で信じがたいものを見、そして“聞いた”。
 ……それは秩序の保たれた音階であった。無機質なト短調がやかましいまでに室内を木霊する。印象としては、そう。まるで壊れかけのパソコンが鳴らす起動音のようだ。
 起動音に伴って、壁面の光も活性化する。あちらが光れば、こちらが光る。
 交互にぎらぎらと七色の光線に目を細めながら、青年は渇いた喉を震わせた。
 線刻がもたらす光の残像が、青年にも読み取れる文字列をなしていたためだ。
「かなり変形しているけれど、アルファベット……? 常にいまし、昔いまし……アルファにオメガ……最初、最後? 何だ……何だよ、これ!!」
 絶叫は起動音にかき消される。
 青年の意識は激流と化した光に飲み込まれ、霧散していった。



 恐怖に駆られた自らの叫び声で、陽一は目覚めた。
 荒い息を吐きながら、辺りの様子を不安げに窺う。
 目を穿つような光の奔流は……もう感じられない。不気味な起動音を奏でるオーパーツ群も……周囲には見当たらない。
 あるのは焼け焦げた木材と、周囲を覆う一段高くなった地面のみ。いや、周りが高くなっているのではなく、陽一の周囲が低く掘り下げられているようだ。円形に掘り下げられた穴の奥にはかまどが置かれており、ここが元々は竪穴住居であったことを教えてくれた。
 天井には幅広の鋸葉が申し訳程度に被せられていた。
 柔らかな朝の光が零れ落ちているが、湿った冷気が毛皮を払いのけた身体には少し温もりが足りない。
 ここはカカティキの集落の一角で……どうやら危険はないようであった。
「夢だったのか」
 恐怖の対象が近くにないことに、ひとまず気持ちを落ち着かせ、
「……夢?」
 ぽかりと穴の開いていた胸の奥に、何かがすとんと落ちていく。
 異世界に落ちる前の鮮明な映像。現実離れした体験。
 あれは決して夢なんかじゃない。幻覚でもない、現実だったのだ。

「……何でこんな大事なこと忘れていたんだ。忘れようと思ったって、忘れられるわけないはずなのに」
 かすれた声で、独り呟く。
 まるで、“自分の脳みそから削り取られたか”のように、記憶がぽっかりと抜け落ちていたことに名状しがたい薄気味悪さを覚えた。
 がりがりと頭を掻きむしり、考えを巡らせる。
 整理のついていない脳を活性化すべく、何度も深呼吸を行った。

「ライメント。トーラス型……ってエリーゼの話に出てきたもの同じ、か? でもライメントの完成予定は数十年後で……。第一、建造が開始されたのは宇宙ステーションじゃないか。くそっ、宇宙工学は専門じゃないんだぞ」
 毒づきながらも、更に思索を深めていく。
 ラジオで建造着手の報がもたらされた宇宙ステーションは、古大樹の天辺にて見たスペースコロニーと、不思議な符合を見せていた。
 だが、そのものではない。昨夜見たものはコロニーで、ステーションとはまるで異なる。両者の間には一朝一夕では解決できない技術格差が存在するのだ。
 ならば、両者は別物なのだろうか?
「いや」
 首を横に振って、その考えを否定する。
 形には何かしらの意味があるはずだ。
 不意に陽一は、腕に巻かれたGW-9000MUDMAN《マッドマン》モデルに視線を落とした。表示されていた文字列は「TU/A 06:05 12」。
 異世界へ共に渡って来た針のない相棒は、時を刻むという目的に忠実であった。
「そうだ。時計だって時を刻むって意味の範疇で進化を続けてきたんだ。形状が似ているなら、まず疑えよ。研究者だろう、俺は」
 エリーゼがあのスペースコロニーを「トーラス型」と断言した以上、同型であるライメントとの間には何らかの関わりがあると考えた方が良い。
「例えば、用途を同じくしたことによる類似化。あるいは……同じ進化の線上にある?」
 発した言葉の意味を遅れて理解し、陽一はびくりと身体を震わせた。
「まさか――」
 慌てて浮かんだ可能性を再び考え直し、推理に穴がないか、しらみつぶしにしていく。
 陽一は必死であった。何故なら、すべてが納得ができてしまったのだから。
 ライメントとコロニーがいかなる関係にあるのか。何故、陽一の知る地球とエリーゼの断言する地球が全く異なっていたのか。

「二つの建造物が似た形をしているのは……」
 何てことはない。その答えは、同じ系譜に連なるものであったから。
 言うなれば、コロニーはライメントの発展形。
 両者の間に存在していたブランクは、年月と言う名の蓄積だ。
「この世界が俺の知っている世界じゃないってのは……」
 そもそも、立脚点が間違っていた。
 違う世界に迷い込んだのではない。“世界自体が変質してしまった”のだ。
 恐らくは途方もない年月の積み重ねによって……。
 二つの疑問を解き明かす、共通した鍵は、“時間の経過”。

『もう、よろしくて? ここは太陽系第三惑星・地球。間違えようがありませんわ』
 エリーゼの言葉を思い出し、
「ああっ!」
 再び床に寝転がり、顔を手で覆った。
 腹立たしいが認めるしかない。
 ここは……非現実的な異世界なんかじゃなく、自身の生きた現実世界に連なる場所なのだと。
 陽一は弾き出された推測を噛み砕くようにして、言った。
「よりによって、“ウラシマ”なのかよ……!」
 覆い隠した瞳が潤む。故郷への帰還が、絶望的になったように思えたから。
 相棒のアラーム音が六時三十分になったことを告げた。
 こいつにとっては、遺跡で起きた出来事も二日前の出来事に過ぎないのだろう。
 ここは……あの時から二日後の地球なんかじゃなく、“遠い未来の地球”だと言うのに!

「くそっ、そんなのってありかよッ!」
 やけくそになって地面に拳を叩きつける。
 皮膚が破け、拳の側面に血が滲んだが、陽一にそれを嘆くゆとりなどありはしない。
 陽一は時間が不可逆的なものであることを、大学の教養課程で学んでいた。
 不可逆であるということは、元の世界へ戻れぬと言うことと同義である。
「もう……帰れないってなのことかよ……」
 歯を食いしばり、絶望的な事実を認識する。
 異世界へ迷い込むのとは訳が違う――たった一人が、遥か未来に置き去りにされたと言う事実を。
 アラーム音は相も変わらず、嘘の時間をがなりたてていた。
 ――嘘つきめ。
 陽一は無性に憎らしくなって、相棒の電源をオフにした。




PS、
遅れて申し訳ありません。
虫っ娘でも言い訳しましたが、年度末やら怪我やらが重なってしまいました。
次回はあんま時間かけないようにします。ごめんなさい。

そう言えば、HP作りました。「俺得ボーイミーツガール」って名前です。見かけたらよろしくしてやってください。




[30361] 2-2
Name: 三郎◆bca69383 ID:7344717f
Date: 2012/05/16 20:17


 集落の朝は頗る早い。
 陽一が嫌々寝床を這い出る頃合にはほとんどの住民が活動を始めており、集落の中に見える人影はまばらであった。
 男たちの姿が見あたらないのは、恐らく狩りに向かったからだろう。何せ、備蓄食糧の確保は死活問題だ。収獲が無ければ明日にも飢えかねない状況下において、それ以外に取り得る選択肢はない。
(とすれば、女子供は木の実の採集といったところか?)
 答え合わせはすぐに行うことができた。
 中心部の広場に、木の実を詰め込んだ籠を頭上に乗せて、幼子を連れ歩く一団が見えたからだ。
 彼女らの表情は暗くない。自らに課せられた役割を無心に果たしていた。
「……前向きだな」
 風土の培ってきた気質と言うものだろうか。
 悲観主義よりは余程良い。活力は未来を生む。
 少なくとも今の自分よりかは未来への道筋が開けていることだろう。帰り道を塞がれて、この世界――いや、時代にたった一人で放り出された自分よりは。
「ああ……駄目だ。後ろ向きになっている」
 額に拳を当て、自戒する。
 次いで、決まり悪そうに彼女らから視線を外した……が、
「……っ」
 程なくしてその表情を凍り付かせることになる。
 見えたものは時間の停止した廃墟。そして、“巨人”の残骸。血の通った人々の営みとは相反する、積み上げられた瓦礫の山であった。
 そこかしこに見て取ることができる戦禍の爪痕。
「そうだ……この村は襲われたんだったよな」
 炭化した木材も、巨大な足跡に蹂躙された地面も、木々や建造物に遮られることのない直射日光さえもが、先日の悲劇を彷彿させ、陽一の心を深くえぐる。

「俺がもっと早く助けに入れていたら……」
 戦場跡を直視できず、口惜しげに俯く。陽一はいたたまれなくなって、逃げ去るようにその場を後にした。
 村外れを当てもなく歩きながらも、視線は無意識に見知った少女を捜し求める。
 脳裏に鳥の尾羽のような髪をなびかせて、凛とした表情で周囲を引っ張る彼女の姿が浮かび上がった。
 彼女はどんな気持ちで今を過ごしているのだろうか。
 探しては見たものの、見える範囲に彼女……カカティキは、見つからなかった。使えるものを選び探して鳩首《きゅうしゅ》する人々の中にも、食料を寄せ集めて雑談をする中にも見当たらない。
 どうやら村の中にはいないらしい。男たちと一緒に狩りに出ているのだろうか。陽一の口から自然とため息が漏れ出でる。
 一目でいいから、彼女の顔が見たかった。
 知り合ってほんの数日しか経っていないと言うのに、近くにいないと心細く感じられる。
 やりきれない気持ちを打ち明けたい。慰めでも叱責でも良いから、彼女の声が聞きたかった。

 その後も暫く歩き回り続ける。
 いい加減足が疲れ、喉が渇きを訴えてきた頃合のことだ。流れる水の音が耳に入ってきた。
「近くに川、流れていたのか」
 川の水は透き通っており、青色に染まった水底が見えた。
 どうやら、飲料に適した水であるようだ。
 小川の水を両手で掬い取り、顔を濯《すす》ぐ。森林の流水特有の冷たさが、くしゃくしゃになった気分を忘れさせてくれた。
 そのまま水を口に含もうとして、躊躇う。
「生水、どう考えても大丈夫じゃないよな」
 少し表情を歪めて思案する。
 故郷を出る時、一応のところ念入りな予防接種を受けてはいた。が、それでも寄生虫の類を防ぐことはできないし、チフス等の感染症にかかる恐れも否定できない。
 第一、ここは陽一のいた時代とは異なるのだ。インフルエンザが時間を経て徐々に変異を繰り返していったように、病原体自体が大きく変容している可能性すら有り得るだろう。
 不安が堂々巡りになりかけたところで、
「まあ、良いか」
 考えても仕方がないことに気がついた。
 よくよく考えてみれば、陽一は既にこの時代の住民と接している上、彼らの歓待も受けている。
 なったら、なったでその時のこと。陽一は小川の水を喉に流し込んだ。
 喉が潤い、気持ちが落ち着く。このまましばらく時間を潰そうかと考えかけた、その時であった。

「――ゃっ」
 掛け声と一緒に、何やら大きな物音が聞こえてきた。
「な、何だ?」
 音のした方を振り向くと、先ほどの瓦礫の山が見える。
 また、音がした。鈍い音だ。まるで何かを木にぶつけているような……。石斧で誰かが木の加工でもしているのだろうか。
 だが、入り混じる声色は幼さを残したハイトーンで、聞こえてくる音と並べるには少し可愛らしすぎる嫌いがある。

「一体、何だってんだ……」
 興味に駆られて瓦礫越しにひょいと頭を覗かせると、飾り布を頭に巻いた線の細い少女が、何やら紐のようなものを振り回していた。
「――ゃぁっ」
 彼女のことは知っている。クビャリャリカ・ケ・トーラ・アムタ。昨夜の宴会で、陽一に意思疎通を図ってきた少女だ。
 筋肉のついていない肩が息をつく度に上下している。その様子から普段あまり活動的な生活を送っていないであろうことは容易に予想できた。
 手に持っているものは、麻紐だろうか。植物を撚り合わせて作ったであろう紐をU字に折りたたんでおり、中心部は少し広めに編み込まれた布地が組み込んである。そこに収まっているものは……拳大の石礫か?
「たやぁっ」
 掛け声と共に麻紐を振り回した。重さに身体が引っ張られて、ぐるりと回って倒れこむ。
 何をしているのか、一目見ただけでは瞭然としない。
 今のところ、陽一の脳内ではハンマー投げ説が最も優位を占めている。競技の練習、運動不足の解消。彼女が? そんな馬鹿な。

「んん……。<不明>、<動詞>?」
 難しい顔をして、ぶつぶつと何か独り言を言っている。
 気を取り直して、鼻息荒く立ち上がり、
「ふんやっ」
 再び麻紐を振り回し始める。
 今度は横回転ではなく縦回転を試すようだ。農業用水を持ち上げる水車《ふみぐるま》のような、あの回転には見覚えがある。

「あれは……」
 陽一の脳内で、先日黒角たちが使用していた巨大投石紐《スリング》と彼女の持つ麻紐が重なった。もしかすると、彼女は投石を行おうとしているのだろうか。
 遠心力は徐々に増していき、やがて礫が放たれる。拳大の質量は何故か紐を宙になびかせたまま、天高く打ちあがっていき――
「うおっ!?」
 陽一の肩を掠め、真横ぎりぎりに落ちてきた。
 危機一髪とは、まさにこのことを言うのだろう。
 あと数センチ横にずれていたら、目も当てられぬ大惨事に発展していたであろうことは想像に難くない。
「……おいおい」
 背筋に冷たいものが走った。
 戦慄、と言うよりは生唾を飲み込んでしまうような呆れ交じりの恐怖を覚える。
 陽一は未だ枯渇していなかったらしい悪運に、思わず感謝の祈りを捧げてしまった。

「ひゃっ――<動詞。「誰か」に似た発音。恐らくは疑問詞>!?」
 顔を真っ青にした彼女が慌ててこちらに駆け寄ってくるが、瓦礫に足を取られて盛大にずっこける。受身の取れない前のめりの転び方だった。
「あー……大丈夫か?」
 痛みに顔を赤くしたクビャリャリカに、陽一が手を差し伸べる。
 彼女はその手を取って、
「<礼を言っているのだろうか。「ありがとう」の意?>。んん……ダイジョウブ、<疑問詞>?」
 鼻を痛そうにさすりながら、不思議そうな顔をする。
 陽一の発する言葉の意味を考えているようだ。
「ああ、ダイジョウブって言うのは……」
 陽一は今まで知り得た単語と身振りを使って、それが使われるシチュエーションをいくつか再現してみせる。
 彼女はふんふんと頷き、時折合いの手を入れては理解を深めていった。
 そのやり取りの中で陽一も有益な情報をいくつも入手する。
 どうやら、彼女らの用いる言語において、誰・何・どうしたなどの疑問詞は同じ言葉の語形変化によって成り立っているらしい。
 具体的には疑問を表す品詞は「何」でfu-ra。「誰」ならばfu-ra-u、「何時」ならばfu-ra-jaとなる。
 疑問詞についての理解が深まったのは大きな収穫であった。今後彼女らの言語を理解する上で、強力な武器になってくれるだろう。

 陽一の言葉を理解したのか、クビャリャリカは指先で自分の肩をトントンと叩き、
「ダイジョウブ?」
 心配げに問いかけてきた。
 指し示した肩は石礫の掠めた側ではない。一瞬呆ける陽一であったが、
「あっ」
 すぐに先日、異人の小剣が陽一の肩を貫いていたことを思い出す。
 痛みがなかったためにすっかり失念していたのだ。慌てて触ってみると傷口はすっかり塞がっていた。
(そう言えば、Totem内で突き刺されたチューブの痕も見当たらない。Totemには人体の自然治癒効果を高める何かが備わっているのか?)
 と、ある程度まで類推したところで、
(まあ、良いや。エリーゼに聞いてみよう)
 さっさと疑問を頭から追い出す。
 このまま未来技術の塊について深く追求したところで、明確な答えなどでないだろう。
 第一、答えを知るものが存在するなら自問することに意味はない。有限な時間を無駄にしようという気にはなれなかった。
「……?」
 沈黙を重く捉えたのかも知れない。クビャリャリカからこちらを気遣う視線を向けられていることに気づいた陽一は、大事無いことを告げるべく、少しはにかんで見せる。
「ああ、大丈夫。もう傷はないよ」
 すると、彼女はほっと胸を撫で下ろし、
「んんん。ダイジョウブ。キズ、何? ナイ、何?」
 更に続けて質問を重ねてきた。
 身を乗り出さんばかりの勢いにしどろもどろになりながらも、陽一はそれらに対して丁寧に答えていく。
「ああ、ナイっていうのは……」
「フムン」
 水を吸い上げるかのように新たな知識を得ていくクビャリャリカ。
 彼女がこちらの言葉を一つ理解する度に、異世界人であるという認識が薄まっていく。
 相互理解……懐かしい感覚だ。
(こうしていると、学生時代を思い出すな。海外の友人とこんな風に話し合って、答え合わせを行って……どんどん知覚できる世界が広がっていったんだ)
 井の中の蛙が大海へ飛び出し、冒険をはじめる心地とでも言うべきか。
 日本をはじめて離れた時のことが脳裏を過ぎり、陽一の頬はひとりでに緩む。
 そして――
「あっ」
 同時に思い出した。
 学生時代から自身の心に根ざしている、研究者としての本分を。
「そっか」
 そうなのだ。まだ、陽一は未だこの時代の何もかもを理解しているわけではない。
 この時代に存在する文明や、文化。そして、技術。自分が何故この時代に飛ばされてしまったのかも。帰り方が本当に存在しないかも。
 時間が不可逆などという定説は、現代科学が導き出した一つの結論に過ぎない。だが、未来科学ならばどうだろう? ここは陽一が想像もできないような科学技術が散在している時代なのだ!
 無いと決め付けるのは、全てを探しつくした後で良い。
 幸いにして自分にはこの世界を研究できるだけの経験と知識が備わっているではないか。
 目の前の闇が払われたような心地がする。見る間に晴れ渡っていく視野が小気味良い。
 鮮明な視界をもって現実に焦点を戻すと、クビャリャリカが自らの指を頬に当てて、可愛らしく首を傾げていた。

「……ヤイロヨイチ?」
「あ、いや。ごめん。君のお陰で大事なことを思い出したんだよ。だから……ありがとう」
 沈んでいた心が湧き上がり、明るさを取り戻した陽一は彼女に礼を述べる。
 きょとんとした彼女は、やがて微笑む。
「アリガトウ。アリガトウは分かる、です」




「私は黒角《ガグ・リャー・テア》の<名詞か>を<動詞>ました」
「ガグ……黒角のことかな。んん、黒角の真似をした、ってことだろうか。その投石紐は自分で作ったのか?」
 クビャリャリカの身体と紐を交互に指差し問いかけると、彼女は心なしか誇らしげに頷いてみせた。
「はい。私はこれをアムタで作りました」
「アムタ……で?」
 好奇心の赴くままに問答を繰り返したお陰だろうか、陽一は短時間で多くの語彙を学び取ることができた。けれど、未だ意訳できるまでには至っておらず、言葉の端々にクエッションマークが浮かんでしまう。
 陽一は思い出す。
(アムタって役職……あの婆さんみたいな語り部のことだと思っていたんだが。アムタで、とは? 解釈間違えたか?)
 眉根を寄せて、投石紐をじろじろ見ていると、
「もしかして、アムタ。何、ですか?」
「うん、正直お手上げだ。諦めて答えを要求したいな」
 合掌したまま首を傾げる彼女に向けて、陽一は恥ずかしげに苦笑する。
 散々に好奇心を向けられ続けてきた異文化交流は、ここに来て攻守逆転と相成ったようだ。
「ええと」 
 疑問を察した彼女は腰のポシェットを取り外し、それを陽一に差し出した。
 細く背の高い草で編まれた、細部にこだわりの見える一品だ。
 一部が赤い染料で染められている工夫にも感心させられる。陽一の住んでいた世界でも、街のバザールへ持っていけば、それなりの値段が見込めるだろう。
 恐らく、民芸品を好む観光客あたりが喜んで食いつくはずだ。

「これがアムタです」
「へ、これが?」
 思わず聞き返す。すると、クビャリャリカは指をピンと立てて、
「はい。アムタはサグになります。他にも、私が<動詞>いている、マヌにもなる、です」
 まるで中学校の教員がするみたいに、つらつらと説明してくれた。
「サグはポシェットのことかな。マヌってのは?」
「これです」
 陽一の問いかけに、彼女はきゅっと細くなっている足首を前に出す。
 陽一が足下に視線を向けると、突き出た足首は退散し、貫頭衣の裾の中へ退散した。代わりに揃ったつま先をトントンと浮かせて見せた。

 貫頭衣の裾からちょこんと覗く両足。
 狩猟採集の民らしからぬ傷のない足下は、ポシェットと同じ材質で編まれたサンダルに包まれていた。
「ははあ」 
 ようやく、陽一にも彼女の言わんとするところが理解できるようになってきた。
 つまり、アムタとは加工に適した植物を指し示す単語のことなのだ。陽一たちの住んでいた次代ならば、藁や麻と言った植物がそれに当たるだろうか。
「アムタは色々な“何”に<動詞>ます。だから、この<名詞か>は“アムタ”って呼ばれている、です。ええと、分かりますか?」
「ああ、分かる。つまり、君は……この草がアムタと名付けられた由来を話してくれているんだ。ならば、この名前には意味がある。その意味とは……」
 一息でそう続けて、答えを詰めていく。
 様々なものに変化できる草をアムタと名付けるのならば……
「“変化”か。いや、違うな。それでは君や昨夜のお婆さんがアムタと呼ばれている意味に繋がらない。ならば、“便利”? うーん……」
 ひとしきり可能性を挙げていき、やがて答えを見つけだす。
「そうか、“知恵”だ! アムタってのは知恵を指す言葉。だから、君は知恵者のクビャリャリカ! 賢いクビャリャリカってことなんだ!」
 答えを見つけ出せたことに感極まって喝采する。
 その声のあまりの大きさにクビャリャリカが、ひゃあっと声をあげて驚いた。

「は、はい。カシコイ……多分合っている、です。ただ、私だけがアムタじゃなくて、私たちトーラの人<民か?>がアムタって呼ばれています」
「私たち、トーラ……? あー、ちょっと待ってくれ。考える。すぐに答えを出すから」
 彼女の説明を中途で遮り、こめかみに手を当てて推理する。
 “トーラ”はアムタと同様にクビャリャリカの名前に付属していた単語だった。そこから考えてみるに、トーラとは……。
 しばし考え込んだ後、答えに思い至った陽一は自信ありげな笑みを浮かべて、答える。
「成る程なあ、分かってきたぞ。トーラは君の部族《トライヴ》か。トーラ族、知恵者のクビャリャリカ。ああ、うん。待てよ。そう言えば、カカティキも何か部族名を呼ばれていたな。確か、ケ・チナン……。と、すれば」
 好奇心が好奇心を生んでいく。陽一は新たに生まれた疑問を解消すべく、クビャリャリカに問いかけた。
「この集落は、トーラ族の村なのか。チナン族の村なのか。どう《フラ》なんだろうか。教えてくれないか?」
 陽一の質問に一瞬目を見開いたクビャリャリカであったが、やがてほうっと息を吐き、
「ヤイロヨイチ。貴方、私よりもケ・アムタ。とてもカシコイ、です」
 褐色に良く映える真っ白な歯を見せてくれた。
 それが笑顔だと気づいた時には、もう遅い。陽一の胸は早鐘を打ち始めていた。
「うっ」
 慌てて胸を押さえて、顔を背ける。
(いくら女日照りの二十代後半と言っても、こっちに来てから二人目だぞ……。あれか、俺は節操なしだったのか)
 自らのあまりの軽薄さに嫌悪し、表情を強ばらせる。
 撫子を思わせる淑やかな少女。化粧の発達した故郷の街を歩いたとしても、すれ違う男の大半が思わず振り返ってしまうに違いないであろう素朴な愛らしさが、彼女の全身から溢れだしている。
 そう、文句のつけようがない美少女なのだ。それもカカティキとは違ったタイプの。
 何時までも話していたくなるような安心感を得られる手合いと言うべきか。
 いや。だからと言って、少し接しただけで舞い上がってしまうのは宜しくないのだが。
(だって、明らかに年下だぞ。彼女……)
 故郷で育んできた倫理観に責められ、陽一は内心葛藤する。
 その様子を不思議そうに眺めていたクビャリャリカであったが、
「ところで……」
 鳶色の瞳に好奇の光を宿して、陽一の心をのぞき込むようにして、言葉を発した。
「ヤイロヨイチは、カシコイ、です。昨日、黒角のことも知っているみたいでした。もしかして、これも知っていますか?」
 言って、投石紐のようなものをポシェットと同様にこちらへ差し出してくる。
「え、ああ。もしかして、スリング……かな」
「<感動詞>!」
 口が滑った……と、後悔するより先に彼女の顔が、ずいっと寄ってきた。
 カカティキもそうであったが、この時代の少女たちは羞恥心という物がないのだろうか。
 パーソナルスペースがないのかよ、と狼狽えてしまうほどに距離が近い。
 彼女は目と鼻の先で鼻をひくつかせ、瞳をぎらりと輝かせている。
 先ほど陽一は彼女のことを淑やかな、と評して見せたが、それは誤りであったようだ。
 少なくとも興味のある事柄に対して、彼女は断じて慎ましやかではない。
「教えて下さい! すりんぐ、何? 黒角、何? ヤイロヨイチ、知っていること。何っ?」
「えっ? あ、お、うっ」
 口をパクパクさせながら、彼女の勢いを殺しきれずに仰け反り、困惑する。
 肉食の獣ですらかくや、と言わんばかりの勢いだ。
「と、とりあえずスリングから始めようか。……ってか、頼む。顔、もうちょい離してくれっ」
 言葉が通じなかったのか、彼女が取り合わなかったのかは分からない。
 彼女のパーソナルスペースへの侵入は、陽一がその肩を掴んで無理矢理離すまで――その行為ですら、陽一にとっては赤面モノの狼藉であったのだが――継続して行われた。



 クビャリャリカにせがまれて始まったこの姦しい異文化交流は、陽一が投石紐の使い方を実演する段になって突如終わりを迎えることになった。
「握る紐は両端を手放すのではなく、片側のみを放すこと。回転の力が正しく前方を向いているタイミングで放すこと……。それじゃあ、実際にやってみるから」
 陽一は、川向こうの森を凝視しながら投石紐を回し始めた。
 投石は印地《いんじ》などとも呼ばれ、古今東西遍く見られる原始技術と言える。
 ペリシテ人の巨人を倒した少年の例を見れば分かるように、道具さえ用意できていれば投石技術に力はさして必要ない。
 遠心力を殺さぬように心がけ、ここだと思ったタイミングで片側の紐端を手放せば良いだけなのだ。
 打ち出される礫の速さは時速にして100kmを優に越え、十分な殺傷能力を備えることになる。
 当然、事故があってはまずいため、人に当たる恐れのない場所を予め選んで実験を始めたのだが――

「あれ……?」
 陽一の手を離れた石礫が、綺麗な放物線を描いて森の中へと突き刺さる……と、そこまでは良い。問題はそこからだ。
 突如大地が音を立てて揺れた。
 それに連動するようにして、未だ健在であった大樹の枝々にて羽根を休めていた鳥たちが一斉に飛び上がる。
 石礫のせいだとは到底思えない。
 まるで何か迫り来る猛獣から逃げ出したような……。
 眉をしかめる陽一たちを再び地響きが襲った。
「こ、これは……っ」
 慌てる二人。
 揺れる大地に加えて、森の奥から突風が吹きつけてきた瞬間、陽一とクビャリャリカは色を失った。
 経験知が、脳に逃げろと警鐘を鳴らす。
 人工的な風は恐らく“機械”の息遣いだろう。ならば、この地響きは大質量の足音だ。
 正体を察した陽一は張り詰めた表情で叫んだ。

「Totemだって!?」
 瞬間、大きな影が木々を飛び越え、森の中から姿を現した。
 着地と同時に風が落ち葉を巻き上げる。
「クソッ!」
 陽一はクビャリャリカをかばうように前に立ち、突如現れた敵影を睨みつけた。
 白銀に光る外装。
 ところどころに直線の目立つそのフォルムは、曲線の多い外観をしている黒角と比べると、いかにも重機を髣髴させる。
 特にその傾向は胴体部分で顕著に見られた。
 頭部は小さな半球状で全体から見るとあまり目立たない。角度によってはまるで金属の箱から足が生えているようにしか見えないだろう。
 地面へ伸びる脚部は、着地の瞬間に折りたたまれたらしく、人体では有り得ぬ方向を向いていた。
 鳥の足のような形状とでも言うべきだろうか。関節が逆を向いているのだ。
 その全貌はあまりにも人体からかけ離れており、今まで見てきたTotemと比べても異様に映る。

(こいつは……)
 何かが違う。
 機械的な――陽一の住んでいた時代の残り香を漂わせる白銀のTotemを見て、陽一は表情を歪める。
 正体不明のTotemがその場に立ち上がった。
 間接部のモーター音だろうか。がっしりとした脚部から甲高い駆動音が聞こえる。
 ずん、と箱のような胴体を持つ鳥型Totemが前へ一歩踏み出した。
 瞬間、陽一は悟る。
 こいつを村に入れてはいけない、と。
「まずいッ、エリーゼ、リ・インカーネイトだッ!」
 懐からアマルン・アニルを取り出し、叫ぶ。
 じきに帰ってくるであろうカカティキの顔を怒りと悲しみで翳らせてはいけない。
 その心を代弁するかのように、山猫と化したエリーゼが吼える。
 百獣の雄たけびは背後に感じられた。 
 目の前に生み出される魔法陣。陽一はバネ仕掛けの玩具の如く、勢い良く前へ飛び出す。
「ヤイロヨイチっ」
 クビャリャリカの声を受ける受容する聴覚が巨人のそれへと置き換えられ、他の感覚も続いていく。
 やがて生まれる、10メートル超の体躯。山猫の瞳を煌々と輝かせ、巨人は咆哮した。

 ――試験型Totem、ラダマンティス……スタートアップ。戦闘機動態勢を取りますわ。搭乗者《マスター》、もうお加減はもう宜しくて?
 エリーゼの声が脳裏に響く。
「ああ、落ち込んじゃいない。それよりあいつから村を守るぞ!」
 ――何があったのか、良くは分かりませんが……前向きは美徳ですわ。かしこまりました。このラダマンティスの高レベルにまとまったスペックを存分に操ってくださいまし!
 陽一は小川を跨ぎ、一足飛びに白銀のTotemに向かって間合いを詰めた。
 まずは動きを封じ込めようと右腕を伸ばす……が、跳躍によってかわされた。 
 ……疾い。先ほど見せた動きから予想はできていたが、やはり黒角を上回る運動性能を秘めているようだ。
 着地した白銀のTotem。こちらの隙を逃さずに、その細長い腕が閃いた。
 鱗状の外装を持つ金属柱が空間を薙ぎ払い、こちら目掛けて襲い掛かってくる。
 ピシリと聞こえてきたのは音速を超えた音か。
 柔軟な軌道と言い、これではまるで鞭のようだ。

「金属製の鞭なんてな。威力の程は……知りたくもないッ!」
 陽一は強化された反射神経を以って、迫り来るそれを目視し、上体だけで回避運動を行う。
 腕が鼻先すれすれを掠り、火花が目の前に飛び散った。
 しかし、敵の攻撃はこれで打ち止めではない。
 通り過ぎた白銀の鞭が軌道を変える。
 鞭は縦に振り下ろされた。ラダマンティスの頭を地面に叩きつける心算らしい。
「ぐッ」
 陽一は大きく後ろに飛び退き、これを辛うじて避ける。
 ラダマンティスの立っていた場所が破砕され、周囲に土くれが飛び散った。
 攻撃を行った白銀のTotemは、跳ね返ってきた腕の勢いを和らげるべく、胴体部を回転させ始めた。
 ……つくづく、人間離れした挙動だ。何処からどんな攻撃が来るのか全く予想がつかない。
 戸惑う陽一。一旦距離をとり、体勢を立て直すことにする。

「エリーゼ、敵の情報を頼む」
 陽一の問いかけにエリーゼは答える。
 ――はい。敵は量産型Totem、TM04Lスプートニク。サテライト・アルファー社の開発した第二世代ですわね。拡歩《エクス・ウォーカー》の後継機に当たり、劣化複製人格はそのままですけれども、その分機械的なサポートが充実しておりますの。
「良く分からない。具体的に言ってくれ」
 ――操縦方式が異なります。前代《プライアー》を参考にして作られた拡歩やオリジネイトと違い、操縦桿による操作を受け付けておりますから、拡歩と比べれば、走行。跳躍。高速旋廻と言った遥かに複雑な挙動をしてきますわ。
「は、操縦桿?」
 エリーゼの説明を聞き、陽一は訝しげな声を返す。
 何故、黒角の後継機だとされながらも、操縦方式は陽一の知る現代にまで後戻りしなければならないのか。いや、それよりも前代とは……?
(いや、それは今考えることじゃない。まずは目の前の敵に集中しよう)
 気持ちを取り直し、身構える。
 それに分からないことばかりであったが、一つだけ理解できたことがあった。
 見た瞬間に感じた機械的な印象。あれは正しかったのだ。

「まあ、どちらにせよやることは変わりない」
 ――はい。敵は粉砕。けれども油断はせぬように、ですわね。
「言葉を取るなよッ!」
 再び大地を強く蹴り、スプートニクとやらの懐へ潜り込んだ。
 鞭は身体を屈めることでやり過ごし、お返しとばかりに足払いをかける。
 当然、これは跳躍によってかわされる――が、そこまでは織り込み済みの挙動である。
 陽一は背部ノズルの排気量を強め、一気に空へ飛び上がった。
『なッ!?』
 敵の驚く声が聞こえた。
 見る間に両者の距離が縮まっていく。こちらは短時間ながらも飛翔能力を備えているのだ。
『空中《そこ》はお前にとっての逃げ場じゃない!』
 陽一は雄たけびをあげ、敵の身体をがっしりと掴んだ。
『くそ、離せ! 異人がッ』
『すぐ、放すさッッ』
 足掻くスプートニクを、陽一は勢い良く振り回し始めた。
 先ほどクビャリャリカが投石紐で見せていたハンマー投げの要領だ。
 遠心力の乗った敵の身体が地面に向かって放り落とされる。
 白銀の彗星と化すスプートニク。
 機体は真っ逆さまに大地へと吸い込まれていき、直後破れ鐘《われがね》のような轟音が鳴り響いた。
『アァァッ!?』
 スプートニクが、悲鳴を上げる。
 びりびりと震える大気を機械の身体で感じ取りながら、陽一は人工的に生じたクレーターを見下ろした。
 どうやら、致命傷ではなかったらしい。
 クレーターの中心に張り付けられたスプートニクが、息も絶え絶えの挙動で上体を起こし、立ち上がろうとしている。
『そんな暇を与えるか!』
 陽一はノズルを調整し、スプートニク目掛けて急降下をかけた。
 今のところ、ラダマンティスのワンサイドゲームであることは明らかだ。だが、敵が単機であるとは限らない。
 偵察機ならば、ここで仕留める。先発隊ならば、後発部隊が来る前に勝負を決める必要がある。
 どちらにせよ、これ以上無駄に時間をかけるつもりはない。
 陽一は敵を踏み潰さん勢いで、相手に迫る。
 ラダマンティスの重量に落下の加速を加えた一撃……とどめとしては十分だ。
『くそ、くそぉっ!!』
 だが、着弾の瞬間、スプートニクが有り得ない動きを見せた。
 両腕を胴体部に格納し、そのまま大地を転がり始めたのだ。
『なッ!?』
 急降下の一撃は不発に終わる。
 スプートニクはそのまま川を横断し、命からがら村へと向かった。
『おい、ふざけんな!! そっちは――』
 陽一に戦慄が走った。
 クビャリャリカや村の人々の顔が思い浮かぶ。守るためにTotemに乗り込み、みすみす村への侵入を許すなど冗談ではない。
 更に深くなったクレーターから陽一は飛び出し、必死の思いで敵を追いかける。
 瓦礫山を横切って、村の中心部まで移動したスプートニク。
 ようやく追いついた陽一は、敵が体勢を立て直す前に慌ててその身体を組み伏せた。
『くそ、異人め。異人め! 出て行け。出て行けよーッッ』
『ああ、くそっ! こいつ、暴れるな!』
 暴れるスプートニクに馬乗りになって、何度も殴りつけては黙らせようとする。
「ヤイロヨイチ、そのテアは!」
 渾身の一撃を振り下ろす段になって、突如聞こえる少女の声。
 陽一は驚愕し、振り向いた。
『クビャリャリカ、危険だ! 離れてい――』
 ――駄目ですわッ! スプートニクから視界を放しては……っ。
 襲い掛かる衝撃に、頭が揺れた。
 直後、目の前が真っ白になる。
 全身が痺れ、機能が停止していくのが感覚で分かった。
(何だ! 何をされたんだッ!?)
 混乱する意識でエリーゼへ懸命に呼びかけてみるも、満足な反応は得られない。
 ――ビッ。ビッ……。
 ノイズが混じり、まともな言葉を発することのできないエリーゼの苦しげな声だけが聞こえてくる。
 どうやら、機械の意識を遮断するような……何かをされたに違いない。
(くそ……“大柄”を相手にした時は、こんなことなかったのに……!)
 落ちていく意識の中で、陽一は歯噛みする。
 この失態は致命的と言えよう。
 行動不能の間に、敵は再び息を吹き返すはずだ。
 ならば、起きた瞬間……何が待ち受けているかなど火を見るよりも明らかで――
「ごめん、カカティキ……」
 ほの暗い視界の中で、少女がスプートニクに向かって何かを叫んでいる。
 何と言っているのだろうか。……良く分からない。
 せめて彼女が無事でいられるようにと祈りつつ、陽一は意識を手放した。


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