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[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完【完結済】
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2023/05/31 23:39

当作品は私の前作「シンジのシンジによるシンジのための補完」シリーズの後日譚にあたります。ネタバレ等もありますので是非、お先にそちらをお読み下さい。

さて、この作品は自サイトでひっそり公開していました。それは、この作品が娯楽作品として人様に見せるほどではないと判断したからです(もちろん、従来作品が娯楽として必要充分である。と言うわけではありません)
私の作品は往々にして思考実験から生まれますが、その結果、書いた本人しか愉しめない作品になってしまうことが多々あります。(と言いますか、そもそもこのシリーズは出オチ成分が過多であるため、続けば続くほど面白みが減っていくんですね)
 
そんな作品ですが、続編ということもあり、前作までを気に入って頂けた方であれば、少しは愉しめるかも知れません。

そこで、シリーズ作品のArcadia様への投稿にあたり、公開することにしました。

                   Dragonfly 2008年度作品



2006年7月10日に投稿を開始した【シンジのシンジによるシンジのための補完】をはじめシリーズ4巻を書籍化しました。
A4サイズで大変分厚く、お値段も凄いことになっていますが、もしお求めくださるのであれば、私のTwitterを覗いて見てくださいませ。(@dragonfly_lynce)
宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m




****


初号機の初号機による初号機のための補完 プロローグ
 
 
ストレッチャーに載せられてアンビリカルブリッジまで運ばれると、学生服を着た成長途上の男のヒトが立っていた。
 
このヒト知ってる。碇シンジ。この世界の、碇シンジ。
 
意図しないのに、勝手に口元が綻びそうになる。これは、うれしいと云う感情。
 
ブリッジの反対側のたもとまで運ばれて放置されたから、ストレッチャーを降りた。
 
この身体は、心臓の拍動にして196万5643回ほど前に行なわれた零号機機動実験の失敗で重傷を負っている。傷ついた右の角膜の回復はともかく、右尺骨と右第七肋骨から第九肋骨の開放性骨折が癒合するまでには、あと271万5439回ほどの拍動が必要だろう。
 
しかし、私にとって痛みを無視することなど造作もない。それがあのヒトのためならば、なおのこと。
 
ブリッジの真ん中でうなだれるあのヒトのもとへ踏み出そうとした途端に、ケィジがひどく揺れた。私の制御下にあるこの身体は、この程度で倒れたりはしない。肋骨の骨折があと1本少なかったら、尻餅をついたあのヒトを抱え起こしに行けたのだけど。
 
振り回される照明器具の過重に耐え切れず、ワイヤーが音を立てて千切れる。
 
「危ないっ!」
 
「うわぁっ!」
 
警告の声に上を見たあのヒトが、両腕をかかげて頭部をかばう。
 
落下してくる照明器具。あの勢いでぶつかれば、ヒトの肉体などひとたまりもないだろう。
 
LCLを断ち割って跳ね上がる、巨大な手。弾き飛ばされた照明器具がケィジの各所にぶつかって、盛大な音と破片を撒き散らす。
 
そうなると知っていて、なのに胸の底が冷えた。…これが、心配という情動?
 

 
身構えてた両腕の隙間を、少し開いて。あのヒトが様子を窺っている。
 
 『 エヴァが動いた!どういうことだ!? 』
 
  『 右腕の拘束具を、引きちぎっています! 』
 
「まさか、ありえないわ!エントリープラグも挿入していないのよ。動くはずないわ!」
 
ブリッジの反対側のたもとで叫んでいるのは、頭髪が金色の女のヒト。このヒト知ってる。赤木博士。ときおり、ひどく冷たい目でこの身体を見るヒト。
 
「インターフェースもなしに反応している。と云うより、護ったの? 彼を。 …いける」
 
背後で呟いたのは、きっと赤いジャケットの女のヒト。このヒト知ってる。葛城一尉。
 
でも、その言葉どおりにはさせたくなかったから、尻餅をついたままのあのヒトに歩み寄った。傷に障らぬよう、慎重に。
 
 …
 
このヒトはうつむいて、私を見てくれない。あの優しい眼差しで見て、欲しかったのだけど。
 
この世界のこのヒトは、まだ弱いのだ。だから仕方ない。
 
「…はじめまして」
 
この世界に来て学んだ、初めて会ったときの言葉。邂逅の言葉。知識として記憶の中にはあったけれど、使ってくれたのは葛城一尉。使うように強要したのも、葛城一尉。
 
見上げてくる視線は弱々しくて、胸が締め付けられるよう。
 
あのヒトとの思い出が、似て非なるこのヒトの存在を楔にして分断されていく。…これが、切ないという感情だろうか? 文字通り、ココロを切られているようだ。
 
環境に左右されて揺らぐ精神状態の変遷はどれも新鮮で、私が今はヒトであることを教えてくれる。ココロというモノを実感させてくれる。
 
けれど、思いどおりにならないココロは、私を引き摺り回して放さない。…これが、不安という情動?
 
 
わななきを乗せて開かれたその口が、私を戒めから解き放つ。期待が不安を打ち払ったのだと知る。
 
注視する中、何度も言葉をなそうとしたその口は、しかし、何も紡がずに閉ざされてしまった。
 
胸郭の内側が虚無になった感覚。途端に襲いかかってきた喪失感に、私のココロがこのヒトの挙動に左右されていると悟らされる。
 
ならば、と思う。このヒトの笑顔は、私に何をもたらすだろうか、と。
 
このヒトの笑顔を見たい。だけど、自分のココロに振り回される私は、ヒトのココロを動かす術を知らない。
 
だから。せめて、このヒトをこの状況から引き離そうと決めた。
 
「…心配いらないわ。貴方は、私が守るもの」
 
振り返り、赤いジャケットの女のヒトに視線を移す。
 
「…葛城一尉。このヒトを安全なところにお願いします」
 
「レイ。大丈夫なの?」
 
「…問題ありません」
 
すぐに戻した視界の中ではもう、このヒトの視線が私に向いていなかった。うつむき、床を見ている。
 
 
……悲しい。
 
そう、悲しかった。
 
これが「悲しい」と云うことだと、判ってしまった。
 
得たいと願った思いが、叶えられずに凝って沈む。この重みが。
 
自身の無力さを知って、消え去りたくなる。この弱さが。
 
進んでいく状況に身を委ねるしかない。この切なさが。
 
悲しい。
 
 
護ってあげれば、代わりに戦ってあげれば、このヒトの笑顔を得られるかもしれないと思っていた。…でも、それではダメだったのだ。
 
けれど、今はそれしかしてあげられることがないから。
 
「…行きます」
 
 
…私がヒトのココロというものを理解できるようになるのは、いつのことになるのだろうか。
 
 
                                         はじまる



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:21
 
 
  ≪ 冷却終了 ≫
    ≪ 右腕の再固定完了 ≫
 ≪ ケイジ内、すべてドッキング位置 ≫
 
 『了解』
 
このエヴァンゲリオンのことを初号機と呼ぶのは、抵抗がある。
 
それは、私の名前だから。あのヒトが付けてくれた、私の名前だったから。
 
 
 『停止信号プラグ、排出終了』
 
   ≪ 了解。エントリープラグ挿入 ≫
  ≪ 脊髄連動システムを開放。接続準備 ≫
 
けれど、このエヴァンゲリオンが初号機と名付けられたのも事実。受け入れるしかない。
 
私は今、綾波レイなのだから。
 
 
     ≪ プラグ固定、終了 ≫
   ≪ 第一次接続開始 ≫
 
 
タブリスの奨めで私はしばらく、手遅れ寸前の宇宙の、サードインパクトを阻止して回った。
 
その宇宙のリリスの体液から身体を造り上げ、白いエヴァンゲリオンたちを薙ぎ倒した。そうしてその宇宙の初号機からあのヒトを救い出してコアを奪い、その宇宙のリリスを殺した。
 
その中には本当に手遅れ寸前で、大気圏外から飛来したロンギヌスの槍を寸前で叩き落したことすらあった。その時など、リリスの教えてくれた時間の数え方で11兆5467億3718万6295カウントしか居なかったことになる。
 
タブリスは3つは宇宙を救えると言っていたけれど、次にあのヒトに会えた時には、その数は3グレートグロスを越えていたのだ。
 
 
 『エントリープラグ、注水』
 
 
そうした宇宙を6グレートグロスと1グロスと6ダースほど救った後で、リリスが送り出してくれたのは私自身、初号機の中だった。
 
…お疲れさま。と、かけてくれたのがねぎらいの言葉だと知ったのは、かなり後のこと。疲れる。という状態を、まだ知らなかったころ。
 
 
  ≪ 主電源接続 ≫
     ≪ 全回路、動力伝達。問題なし ≫
 
 『了解』
 
 
その宇宙で、碇ユイを捕り込むことなく戦い。次の宇宙では赤いエヴァンゲリオンとして惣流・キョウコ・ツェッペリンを捕り込むことなく戦った。黄色いエヴァンゲリオンになった時は、何故か全面改修が行なわれなくて、青くなり損ねた。その次は黒いエヴァンゲリオンとして戦って、人知れずバルディエルを葬った。銀色のエヴァンゲリオンでS2機関を全開にして戦えた時に、久しぶりという感覚と爽快という気分を憶えた。それらを言語として知ったのは、最近。
 
白いエヴァンゲリオンで戦った時は、かばったはずの赤いエヴァンゲリオンに後ろから殴りかかられて痛かった。痛覚が何も伝えなくなっても、いつまでも痛かった。
 
もしかするとあれは、私が初めて感じたココロの痛みだったのかもしれない。
 
 
 『第二次コンタクトに入ります』
 
 
そうして今回、リリスがこの宇宙に送り出してくれたのだ。
 
…貴方はまだ、ヒトというものを理解できないだろうから。と、この身体を与えてくれた。
 
手慣らしにはうってつけだから。と放り込まれた綾波レイの身体は重傷を負ったばかりで、なにもかもが痛かった――痛覚というものをよく知らなかった私は、それを五月蝿くて煩わしい雑音としか感じなかった――のだけれど。
 
 
 『A10神経接続、異常なし』
 
   ≪ LCL転化率は正常 ≫

  『思考形態は、日本語を基礎原則としてフィックス。初期コンタクト、すべて問題なし』
 
 
ヒト同然の脆弱な肉体でどこまでできるか、とても不安だった。その気になればATフィールドを張れるとはいえ、それでできるのは己の身を護ることぐらいだ。
 
どうすればいいかと請うた私を、自分で考えなければダメ。とリリスは突き放した。
 
ロンギヌスの槍にさえ気をつければ、サードインパクトは起きないわ。とリリスは言うけれど、もう少し教えてくれてもいいと思う。
 
このこと知ってる。放任主義。…脆弱な肉体で独りぼっちにされて覚えた、心細いと云う気持ち。
 
 
  『双方向回線開きます。シンクロ率、58.7%』
 
   『 …零号機のときよりも高い。…やはり、そういうことなの? 』
 
 
初号機である私が、初号機とシンクロできないわけがない。ハーモニクスが桁違いの今、却ってシンクロ率は押さえ気味になってしまうが、それは私にはどうでもいいことだ。
 
コピーであることの餓えを碇ユイという不純物で鎮めているこの初号機を、完全に支配下に置くことはできないだろう。黄色いエヴァンゲリオンほどではないが。
 
 
  『 ハーモニクス、すべて正常値。暴走、ありません 』
 
   『 いけるわ 』
 
 『発進、準備!』
 
 
今の私には、戦うことしかできない。
 
 
   ≪ 発進準備! ≫
 
 ≪ 第一ロックボルト外せ! ≫
        ≪ 解除確認、アンビリカルブリッジ、移動開始 ≫
 
 ≪ 第二ロックボルト外せ ≫
    ≪ 第一拘束具除去。同じく、第二拘束具を除去 ≫
 
 
悲しいけれど、それしかしてあげられることがないなら、それを為すだけだ。
 
 
 ≪ 1番から15番までの安全装置を解除 ≫
              ≪ 解除確認。現在、初号機の状況はフリー ≫
  ≪ 内部電源、充電完了 ≫
       ≪ 外部電源送索、異常なし ≫
 
 『了解、エヴァ初号機、射出口へ』
 
 
いつか、ヒトのココロというものを理解して、あのヒトを笑顔にしてあげたいと思う。
 
 
   『進路クリアー、オールグリーン!』
 
  『発進準備完了!』
 
 『了解』
 
 
どうか、それまで、待っていて。
 
 
『発進!』
 
 
***
 
 
『いいわね、レイ?』
 
射出時の慣性が負傷個所を苛んだけれど、報告しない。
 
「…はい」
 
報告しても、意味がない。
 
『最終安全装置解除、エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
 
拘束を解かれたので、初号機が求めるままに前傾姿勢をとらせた。骨格強度や筋力の比率がヒトとは異なるから、この方が安定する。
 
『レイ、今は歩くことだけ、考えなさい』
 
「…了解」
 
言われるままに、歩くことだけを考える。感情を交えず、ただ何かを行なうのは、楽。…楽しくもないけれど。
 
『歩いた』
 
発令所のざわめきが聞こえる。
 
『バカっ!レイ、止まりなさい!』
 
3歩目を踏み込んだところで、制止の声。歩みを止めると、手を伸ばせば届く距離に使徒の姿。このヒト知ってる。サキエル、第3使徒。
 
「…」
 
反転ATフィールドを使って話しかけるべきか、悩む。
 
けれど、今までそうやって話し合うことのできた使徒は1人だけだった。コピーに過ぎないエヴァンゲリオンの言葉に耳を傾けてくれるのは、いつもタブリスだけ。
 
話し合えれば、穏便に退去してもらえたかもしれないのに。見やったサキエルは、無雑作にまばたきを繰り返すばかり。
 
うなじの毛が沸き立つような感覚を、私は知らない。
 
だから、葛城一尉の命令に従ってプログレッシブナイフを抜いた。
 
 
途端に感じたのは、初号機の怯え。手にした物の危険さに、気付いたのだろう。
 
「…そう。怖いのね」
 
使徒は、体組織を構成する分子の結合力を強化することによって、その体躯を維持している。平常時には、コアで発生したエナジーのほとんどを、それに注ぎ込んで。
 
高周波によって分子間結合力を断ち切るプログレッシブナイフは、使徒を解体するのに最適な道具だった。
 
自らを害しえる存在への根源的な恐怖は、生と死が必ずしも等価といえないエヴァンゲリオンにとっては当然の感情だ。あのヒトですら、そこまでは気付いてなかったようだけれど。
 
「…怖くて、悲しいけれど。私が解かってあげる」
 
 
サキエルは、まだATフィールドで相手を拒むことを知らない。
いや、自分を害しえる他者という存在をこそ、知らないのだろう。コアにプログレッシブナイフを突き立てられて初めて、ATフィールドを張ろうとする。
 
だが、こうまで密着した状態で今さら相手を拒むことは難しい。部屋に招き入れておいて居留守を使おうとするようなもの、だから。

上手く初号機を突き放すことができなくて、サキエルが暴れた。
 
光の槍を打ち込む余裕すら無くして、その細い腕を叩きつけてくる。2度3度と続けられる殴打を、肩のウェポンラックでいなした。
 
「…」
 
その両眼が熱量を蓄えつつあることを、初号機が感じとった。苦し紛れに光撃を放つつもりらしい。
 
ニードルショットがあれば撃ち込んだところだけれど、無いものねだりをしても始まらない。
 
刺したまま抉り回したプログレッシブナイフを逆袈裟に斬り上げて、その顔面を断ち割った。勢いに負けてのけぞったサキエルが、倒れる寸前で踏みとどまる。
 

 
身体を弓なりにして耐えることしばし、まるで、その反動とでも云わんばかりに飛び掛ってきた。
 
『自爆する気!?』
 
けれど、初号機は腕を振り上げた体勢のままだ。そのままプログレッシブナイフを逆手に持ち替え、襲いかかってくるサキエルを迎え討つ。
 
その顔にプログレッシブナイフを突き立てると、初号機からのフィードバックがギプスの中で右尺骨を軋ませた。これでまた、癒合するまで時間がかかるだろう。
 
そのまま地面に縫い付けるつもりで叩き伏せる。プログレッシブナイフを捨てて飛び退いた瞬間、サキエルがはじけた。
 
初めて使いこなせたATフィールドが爆炎を形作るもので、それが最後だなんて。
 
…その状況が無情と呼ばれることを、それを悲しく感じることを同情と呼ぶことを、このときの私は、まだ知らない。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第壱話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:21
 
 
サキエルと戦った直後、初号機をケィジまで戻した私は、そのまま昏倒することにした。あの状態での戦闘にはやはり無理があって、それ以上の酷使に身体が耐えられそうになかったからだ。
 
 
目覚めれば、見慣れた天井。医療部、301病室。
 
 
 
「体はどうだ?」
 
しばらくして、開いたドア。
 
見下ろしてくるのはサングラス越しの視線。このヒト知ってる。碇司令。
 
綾波レイの記憶に拠れば、綾波レイにとってすべてで、拠りどころだった。
 
「…問題ありません」
 
「そうか…」
 
手袋をした右手でサングラスを押し上げている。視線が、あのヒトのように優しい。
 
このヒトのことは、かつて何度か見たことがある。たとえば初号機だった頃、ケィジに入ってきたこのヒトは、キャットウォークに居るあのヒトに、こんな眼差しを……
 
 
 
 
唐突に、みぞおちが冷えた。物理的な質量まで伴って、重くもたれるよう。
 
理解したのは、このヒトが、私を見ていながら私を見ていない。と云うことだった。この眼差しは、あのヒトを見る目。それは、綾波レイのカタチに見透かしたモノを見ている。と云うことだった。
 
「ゆっくり休め」
 
このヒトがあのヒトを見る眼差しを知らない綾波レイは、そのことに気付かなかっただろう。
 
「…はい」
 
向けられる視線は優しい。なのに、なぜか苦しい。
 
与えられるべきでないモノを与えられたから?与えられるべきモノでないのに受け取ってしまったから?
 
それは、私が綾波レイだから?綾波レイではないから?碇ユイでないから?
 
……ニセモノ、だから?
 
優しさすら苦しさに変わると云うの?
 
 
踵を返して病室を後にする碇司令を、視界に入れないようつとめた。
 
 
***
 
 
その視線を見たとき、やはり解かってしまった。このヒトも、私を見ていない。
 
「…なぜ?」
 
クリップボードに落としていた視線をこちらに向けて、赤木博士が眉根を寄せた。
 
「何? レイ。何か質問?」
 
「…なぜ、誰も彼も私に、ほかのヒトの影を見るの?」
 
私は今、綾波レイの体を借りている身だ。だから、私自身を見てくれないことは仕方がないと割り切ったばかり。
 
だけど、綾波レイとしてすら見られてないと思うと、私の中の綾波レイの記憶が、拠りどころを失って消えてしまいそうだった。
 
「どうして、そう思うの?」
 
赤木博士の視線はゆるぎなく、私の瞳孔からすべてを掻き出そうとするかのように鋭い。
 
「…碇司令は、私に笑いかける。でも、あのヒトの眼差しは、私の目より少し高い位置を見ている」
 
あの眼差しがサングラスに遮られていて、よかったと思う。
 
「…赤木博士もそう。ガラスに映った姿を見るように、焦点が遠い」
 
綾波レイの記憶を受け継ぐ私には、綾波レイがこのことに気付いたらどう思うか、容易に想像できた。
 
それは、私自身を見てもらえないことの苦しさと共鳴して、胸の裡に空虚を生み出そうとしている。
 
静寂が耳に痛いように、私の痛覚を刺激してやまない。
 
「…私は、知らない誰かから象られたロウ人形として、生きなければならないのでしょうか?」
 
自分自身の生ではなく、誰かの代替品として、与えられた役割を全うするための道具として…
 
綾波レイの記憶に引き摺られ、このまま消え去りたくなってしまう。まるで、それが自分の願いであったかのように。
 
「碇司令のことが嫌いになった?」
 
いつのまにか赤木博士の、瞳孔の中の黒色で視界を一杯にしていた。
 
焦点を戻すと、やはり揺るぎない視線。
 
「…嫌いかどうか…は、解かりません。…でも、傍には居たくない。見られたくない」
 
……あの眼差しで見られていると、私が私でなくなる。言葉は力なく呟きと消えて、引き摺られるように俯いてしまう。
 
「なら、私はどう?」
 
言われて見やった赤木博士は、なんだか少し柔らかくて…だから、思い出してしまった。
 
私が初号機だった頃、このヒトに何度もなでて貰ったことを。…だから、
 
「…嫌いでは… いえ、むしろ…」
 
この宇宙ではないけれど、赤木博士は私自身を見て微笑んでくれた人だった。思い出しただけで、口元が緩む。
 
そのことに気付いて抱いた思いをなんと表現していいか判らなくて、胸元に物理的ではない掻痒感。それが、もどかしいと呼ばれる感覚だと、のちに知る。
 
「もしかして、…好き?」
 
その言葉がふさわしいのか、私には解からない。好き、と云うことが良く解からないから。
 
けれど、このヒトがあのヒトのようになでてくれたら心地よいだろうと思う。口元が綻ぶほどに。
 
「…はい」
 
眉根を上げた赤木博士は、一度逸らした視線を、振りかぶるように戻す。
 
「それが何故か、理由を聞いてもいい?」
 
本当のことを、話すわけにはいかない。
 
それを禁じられているわけではないが「…そのヒトが犯してない罪を突きつけることになるから、よく考えて」とリリスに言われた。「…いくつもの宇宙を護ってきた碇君でさえ、試せないでいるわ」とまで聞かされては、ヒトのココロが解からない私に試せるはずもない。
 
でも、赤木博士を好きになれそうな理由なら、まだあった。
 
「…私に笑いかける碇司令は、本当に私だけを見たとき、笑わないような気がします」
 
あの視線を思い出して、それから逃れたくて、俯く。
 
「…私に冷たい視線をくれる赤木博士は、本当に私を見たとき、もしかして…」
 
見上げたその顔に、笑顔と呼べる要素はひとつとしてない。けれど、
 
 
ヒトはロジックじゃないものね。と嘆息した赤木博士はなんだか、やわらかかった。
 
「貴女に罪があるわけじゃないのに、ちょっと意地悪が過ぎたわね。御免なさい、この通りよ」
 
深々と下げた頭が再び上げられたとき、そこにあった微笑みはあの世界の赤木博士と同じで、…しかし、私を、綾波レイを見ていた。
 
それだけで、なにもかもが充たされそう。
 
 …
 
私を見ていた赤木博士が、小首をかしげた。
 
「罪滅ぼしって訳じゃないけれど、何か、して欲しいことがあるかしら?」
 
まるで私のココロを覗いたかのようなその言葉に、抗えない。
 
「…はい」
 
見つめるのは、見つめていたのは、その手の甲。願わくば、あの時のように…
 
「…なでて、欲しい」
 
眉を上げた赤木博士は、もしかして途惑ったのかも知れない。
 
それでも伸ばされた手が、私の頭を優しく捉えた。
 
頭髪が引き攣れて少し痛いけれど、それ以上に与えられる心地よさにまぶたを閉じる。つい、ATフィールドを伸ばしてしまう。エヴァンゲリオンだった時のように。
 
「レイ、貴女…頭髪がずいぶん痛んでるわね。ヘアケア、何を使っているの?」
 
「…判りません」
 
そう。と洩らされた嘆息まで、心地よかった。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:22
 
 
このところずっと、赤木博士はずいぶん憔悴しているように見受けられる。眼の下にできる隈は疲労によるものだと、知識にあった。
 
けれど、コントロールルームに入室した私に向けられた赤木博士の一瞥は、やさしい。
 
 
「おはようシンジ君、調子はどう?」
 
『慣れました。悪くないと思います』
 
モニターの中に、あのヒトの姿。プラグスーツ姿で。
 
「それは結構。エヴァの出現位置、非常用電源、兵装ビルの配置、回収スポット、全部頭に入っているわね?」
 
私が初号機を使いこなせるからといって、あのヒトがお役御免になったりはしなかったらしい。
 
『多分…』
 
「では、もう一度おさらいするわ」
 
後日の起動実験で無事初号機とのシンクロを果たしたあのヒトは、そのまま初号機パイロットとして登録されたそうだ。
 
「通常、エヴァは有線からの電力供給で稼動しています。非常時に体内電池に切り替えると、蓄電容量の関係でフルで1分、ゲインを利用してもせいぜい5分しか稼動できないの」
 
シンクロ率の差の関係で私が正規パイロット、あのヒトが予備パイロットになるのだとか。
 
…それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつかない。
 
「これが私たちの科学の限界ってわけ。お解かりね」
 
『はい…』
 
零号機の復旧を待って、そちらとも起動実験。その結果次第では、零号機の専属パイロットになるのだとか。
 
「では昨日の続き。インダクションモード、始めるわよ」
 
それらの経緯は、今聞いたばかり。隣りで壁にもたれかかっている葛城一尉が、頼みもしないのに教えてくれたのだ。
 
「目標をセンターに入れて、」
 
コントロールルームの向こう側で、初号機が訓練用のダミーライフルを構えた。
 
「スイッチオン」
 
タイミングが、拍動1回分ほど早い。モニター内で発射された弾丸が、サキエルを模したターゲットを跨ぎ越している。
 
「落ち着いて、目標をセンターに」
 
『スイッチ…』
 
サキエルと戦かった時のフィードバックのために、私の入院は長引くことになった。痛みそのものは無視できても、脊髄反射で筋肉が動くことまでは止めようがない。
 
「次」
 
その結果、一応の退院許可が出たのは今朝のこと。
 
「しかし、よく乗る気になってくれましたね、シンジ君」
 
オペレーター席についているのは、若い女のヒト。このヒト知ってる。伊吹二尉。
 
「他人の言う事にはおとなしく従う、それがあの子の処世術じゃないの?」
 
プラグ内を映したモニターに、視線を移した。
 
発令所で本日のスケジュールを教えてもらってここに来たのだけれど、そうして見出したのがあのヒトの、
 
『目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れて…』
 
…あんな表情。
 
 
****
 
 
携帯電話が非常召集のコール音を鳴らしたから、教室を出た。
 
廊下から見下ろす裏庭にあのヒトの姿を見かけたので、降りる階段を変えてそちらに向かう。
 
 
裏庭に出る昇降口を出たところで、ジャージ姿の男のヒトがあのヒトを殴打した。それが示す意味を図りかねて、歩みが止まる。
 
…これは何? これは何? これは何? これは何?
 
なぜあのヒトが殴られているのか、なぜ私は歩みを止めてしまったのか、なぜあのヒトの頬の腫れを見ていたくないのか、なぜジャージ姿の男の人を見ると胸郭の中だけ体温が下がるのか、私には解からない。
 
 
「なんや?」
 
いつのまにか目の前に、ジャージ姿の男のヒト。このヒト知ってる。鈴原トウジ。2年A組のクラスメイト。シャムシェルとの戦いの時に、シェルターから出てくるヒトの1人。
 
そして、私が黒いエヴァンゲリオンだった時の、パイロット。
 
「通れんやないかい。そこ、退いてくれんか」
 
昇降口を塞いでることを指摘される。通行の邪魔。
 
鈴原トウジ。メガネの男のヒト。あのヒトと、視線を移す。視界の隅で鈴原トウジが視線を逸らしたのが見えて、視線を戻した。胸の奥は冷えきって凍傷になりそうなのに、脳髄は熱傷しそうに熱い。これは、
 
「…なに?」
 
私にも理解できない自分のココロが、口から溢れた。
 
自分のココロはおろか、自分のカラダまで思い通りにならない。…これが、ヒト?
 
「貴サンには関係あらへん」
 
押し殺した声音に意識を戻すと、鈴原トウジは視線を逸らしたまま。
 
「こないだの騒ぎでコイツの妹さん、怪我しちゃってさ…ま、そういうことだから…」
 
鈴原トウジをなかば押し退けるようにして、メガネの男のヒト。このヒト知ってる。相田ケンスケ。同じく2年A組のクラスメイト。シャムシェルとの戦いの時に出てくる、もう1人のヒト。
 
「…こないだの、騒ぎ?」
 
解からない。
 
「ほら、ロボットが怪獣を斃しただろ。あれだよ」
 
ロボット? 怪獣? …斃した。 …拍動5回分ほど考えて、それがエヴァンゲリオンとサキエルのことではないかと思い至る。
 
「…第一次直上会戦? …エヴァンゲリオン初号機と、サキエルのこと?」
 
「ええっ!!それって、もしかして正式名称っ!?」
 
勢い込んだ相田ケンスケが、鈴原トウジを完全に押し退けた。ポケットから取り出したFILOファックスになにやら書き込み、詰め寄ってくる。
 
「まさか綾波も関係者なのか!?」
 
守秘義務に抵触するから、応えられない。けれど、それでは、関係ないといった鈴原トウジの言葉を追認することになる…
 
わずかに頷くと、相田ケンスケが、おぉー!と奇声を発した。ヒトの身体は聴覚の調整ができないから、鼓膜の過剰振動をそのまま受け入れるしかない。
 
 
第一次直上会戦。鈴原トウジと親を同じくする年少の女のヒト。怪我。と状況が揃って、思い出した。そのヒト知ってる。鈴原ナツミ。あのヒトが、戦闘に巻き込まないように注意を払っていたヒト。その後の世界で、何度も巻き込まれたヒト。
 
鈴原トウジは、鈴原ナツミが傷ついたことで怒っている?
 
…そのことの因果関係を、先ほどまでの私は気付かなかっただろう。…だけど、あのヒトを殴った鈴原トウジに対して抱いた思いが、ロジックではなくそのことを私に悟らせる。
 
 …これが、ヒト。
 
矢継ぎ早に質問を繰り返す相田ケンスケから視線を外し、鈴原トウジに向き直った。
 
「…ぶつのなら、それは私」
 
相田ケンスケに押し退けられた姿勢のまま、あらぬ方向を睨んでいた鈴原トウジが、私を見た。
 
「…第一次直上会戦で初号機に乗っていたのは、私だから」
 
それを聞いた鈴原トウジの表情を、なんと表現していいのか知らない。
 
「…なんやて?」
 
「…第一次直上会戦で初号機に乗っていたのは、わ」
                       「ちゃう」
 
ひどく低い声音で制止される。…剣呑という言葉を、後で知った。
 
「あいつがロボットのパイロットっちゅうんは、嘘なんか?」
 
聞き取れなかったわけではなかった様子。
 
かぶりを振る。
 
ほンなら…。と振り向いた鈴原トウジが、やはりなんと表現していいか判らない眼差しであのヒトを見た。
 
「そうか。庇ったんだ、綾波を」
 
書き込みを続けていた手を止めて、相田ケンスケもまた振り返った。その視線の先に、尻餅をついたままの、あのヒト。 
 
…庇った? あのヒトが、私を?  …なぜ? なぜ? なぜ?
 
なぜあのヒトが私を庇うのか、なぜ鈴原トウジは私を殴ろうとしないのか、なぜLCLを吸い込んだ時みたいに胸郭の内側が意識されるのか、私には解からない。
 
 
唐突に駆け出した鈴原トウジが、あの人の目前に着くなり座り込んだ。叩きつけるように頭を下げて、前頭部を地面に押し付けている。
 
「すまん!すまなんだ転校生!」
 
昇降口を出て、私もあのヒトの傍へ向かう。
 
「わしは貴サンのことを誤解しとった」
 
呆然と鈴原トウジを見やっていたこのヒトが、私に気付いて視線を上げる。
 
「…」
 
このヒトをなんて呼べばいいか、判らなかった。アンビリカルブリッジで出逢って以来、まともに会話したこともないのだから。
 
今までの経験、記憶の全てを検索して、このヒトに呼びかけるための言葉を探す。
 
 
   ― これは私の心…碇君と一緒になりたい ―
 
それは、私が黄色いエヴァンゲリオンだったときに、綾波レイが呟いた言葉。
 
「…碇君」
 
口にすると、まるでそのヒトの本質を理解したような錯覚に襲われる。名前を呼ぶ行為。あのヒトが教えてくれた、ヒトの力。
 
これがあるからヒトはヒトでいられるのだと、理解した。己のココロに振り回され、脆弱な肉体ですら意のままにならぬ。こうも儚いヒトという存在が、崩壊せずに個我を保っていられる秘密。
 
自らの名前、相手の名前。呼び合うことで、呼び合うだけで感じられる、…絆。
 
外界を否定しなければ生きていけない使徒とは、違う強さ。あのヒトが、毅いと云う言葉を使っていた意味を知る。
 
 
またひとつ、ヒトというカタチを理解したのに、
 
「…」
 
それ以上、なにを言うべきか、判らなかった。語る言葉を、持たなかった。
 
どんなに記憶を漁っても、あるはずがない。
 
…思い知らされる。私がまだ、ヒトであるとは言い難いことを。
 
「…ごめんなさい。こういう時、なんて言えばいいのか、判らないの…」
 
「ありがとうって言えば、いいんじゃない? 庇ってくれたんだからさ」
 
背後、至近から相田ケンスケの声。
 
…ありがとう。感謝の言葉。碇君が庇ってくれたから? 自分が受けるべき被害を、代わりに受けてくれたヒトがいるから、感謝する? 私が碇君を護りたいのに? 護れなかったのに?
 
それが理解できないのは、私がヒトでないからだろう。
 
 
「…ありがとう」
 
悲しみを呑み下してそう言ったのに、碇君は顔ごと視線をそむけた。
 
スカートのポケットの中で携帯電話が再び非常召集のコール音を鳴らさなければ、なぜ? と口に出してしまっていただろう。呑み込んだはずの悲しみと一緒に。
 
携帯電話を取り出して、コール音を止める。
 
シャムシェルと戦わねばならぬことを思い出して、身体の芯が冷えた。
 
サキエルとの戦いで、私の戦い方が拙かったばかりに鈴原トウジの怒りを誘った。それは、私が上手く世界を護れていないということだ。
 
今度こそ世界を、碇君を護る。
 
 
非常召集のコール音が、碇君からは聞こえてこなかった。鳴らないということは、予備パイロットの彼は任意出頭なのだろう。出撃準備を行なわなくていいから、急ぐ必要はないはず。
 
「…非常召集 …先、行くから」
 
 
****
 
 
初号機に乗るごとに行なっているのは、そのコアに溶けた碇ユイを拾い集め、隔離していく作業。エヴァンゲリオンだった私だから、ココロを知った使徒だから、できること。
 
そうして初号機への支配を強める。碇君とのシンクロ率を下げる。
 
都合の良いように取捨選択しているから、私のシンクロ率が上がっているように見えるだろう。けれど、私にとってはその数値に価値はない。
 
『レイ。出撃、いいわね?』
 
「…はい」
 
葛城一尉は何故、疑問形で問いかけてくるのだろうか?
 
『敵のATフィールドを中和しつつ、パレットの一斉射。シミュレーションは1回しか出来なかったけれど、やれる?』
 
「…はい」
 
返事は素直にして見せるが、赤木博士の指示を全て守るつもりはない。初号機に対する私の支配はまだ完全ではないから、闇雲にATフィールド中和など行なって無防備になるわけにはいかないのだ。
 
『発進!』
 
射出のGが、肋骨の継ぎ目を軋ませる。まだ繋がってなかった前回とは違うということを、失念していた。庇うべく手を添えようとしたが、腕が重くて思うままにならない。
 
地上に到達した衝撃で、癒合しかかっていた右第七肋骨と第八肋骨の継ぎ目が外れた。これが完治するまでに、254万3681回ほどの拍動が必要だろう。
 
 『 パイロットのバイタル、低下! 』
 
痛みは無視すればいい。どれだけ重傷になろうと、意識さえあれば初号機は動かせるのだから。
 
けれど、ただ戦うだけでは世界を護ることにならないと知った今、この肉体の保全も重要な案件だった。コアさえ無事なら活動可能な使徒と違って、ヒトの肉体は痛覚の情報だけでも機能停止しかねない。
 
手早く片付けねば。
 
…そのために、右目の眼帯を包帯ごとむしり取った。
 
 
武器庫ビルからパレットライフルを取り出して、姿勢を正す。前傾姿勢は射撃には向かない。
 
構えたパレットライフルの先に、滑るように第3新東京市に進攻してくる姿。このヒト知ってる。シャムシェル、第4使徒。
 
『なんですってぇ!』
 
発令所との通信ウィンドウから、葛城一尉の大声。そちらに注意を向けると、横を向いていた葛城一尉がこちらに向き直ったところだった。
 
『レイ!大丈夫なの!? アバラがイったかもって…』
 
「…問題ありません」
 
痛みは無視できるが、負傷による身体能力の低下は補いようがない。自分の顔色が悪いことを自覚しているから、努めて平静に応える。
 
『…』
 
なにやら考え込んだ葛城一尉が、ちらりと視線を走らせた。
 
『レイ。退却しなさい。シンジ君と交代よ』
 
「…ダメ。使徒殲滅が優先」
 
即答する。
 
シャムシェルとの戦闘が長引けば、シェルターからあの2人が出てくるかもしれない。事情を知らない碇君は彼らを巻き込んでしまうかもしれないし、その際に巧く護れる保証もない。
 
なにより、碇君のシンクロ率は30パーセントを割り込みかかっているはずだ。まともな戦闘行動がとれるとは思えなかった。
 
『レイ、命令を聞きなさい!退却よ!レイっ!』
 
立ち上がったシャムシェルの、コアの位置を確認。トリガーを絞る。一斉射という指示は曖昧でよく判らないが、装弾の半分も使えば充分だろう。
 
『バカっ!爆煙で敵が見えない!』
 
砕けた砲弾が粉塵となって視界をふさぐが、それがシャムシェルの体表で起こったのを確かに見た。私はATフィールドを中和していないから、それがATフィールドを張ってない証拠。
 
パレットライフルを捨て、左肩ウェポンラックからプログレッシブナイフを抜く。腰ダメに構えて、シャムシェルめがけて駆け出した。
 
 『プログレッシブナイフ、装備!』
 
粉塵を切り裂いて襲いかかってきた光の鞭を、反射的に展開したATフィールドで弾く。
 
いかに使徒とは云え、他者のATフィールドを力づくで打ち破るのは難しい。それが可能なのは、僅かにラミエルとゼルエルだけ。
 
シャムシェルの鞭では破られないことを確認しながら、ATフィールドを先行させるようにしてさらに押し進む。
 
『あの、バカ!』
 
前面に押し立てたATフィールドが2撃目、3撃目の鞭を弾いた。距離が詰まったぶん速度が乗らなくて、威力が落ちているのを実感する。
 
4撃目を防ぐのと同時に、ATフィールドが粉塵を押し戻した。
 
次の一歩で、ATフィールドをその場に固定。さらにその次で、その一部を解除する。最後の踏み込みは、突き出したプログレッシブナイフと同時に。
 
 
私には、あらゆるATフィールドを使いこなして戦ったあのヒトとの思い出がある。これは、あのヒトが白いエヴァンゲリオンと戦った時に、相手を分断するために使ったATフィールドの応用だ。
 
 
プログレッシブナイフを突きたてた位置を中心にして、円形に粉塵が流れ込んでくる。その奥にかすかに透けて見える火花と、甲高い高周波の響き。どうやら、コアを捉えたらしい。
 
なにより、ATフィールドを打ち付ける鞭の動きは狂乱じみて、サキエルそっくりだった。
 
 …
 
プログレッシブナイフからの手応えが無くなるのと、粉塵が晴れて視界が開けるのがほぼ同時。
 
『目標は、完全に沈黙しました』
 
『…レイ。撤収しなさい』 
 
通信ウィンドウの中から、葛城一尉がにらんでいる。
 
「…了解」
 
命令違反は、営倉入りだろうか?
 
口腔に残っていたらしい気泡がひとつ、音をたてて昇っていった。
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第弐話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:22
 
 
「どうしてアタシの命令を無視したの?」
 
帰投後すぐに医療部に運ばれた私の、処置が一通り終わったあとだった。301病室に訪れた葛城一尉が、開口一番にそう言い放ったのは。
 
ベッドの上で、上半身を起こす。まだ麻酔が効いていて、痛みはない。
 
「…碇君より私のほうが、成功率が高いと考えました」
 
「それを判断するのはあなたじゃない。アタシの仕事よ」
 
「…申し訳ありません」
 
ココロの裡とは裏腹な、偽りの謝罪。
 
「あなたの作戦責任者はアタシでしょ」
 
「…はい」
 
ココロとカラダを別のものとして扱えることを、この身体になって知った。
 
 
使徒は、ココロとカラダが不可分だ。だから、ココロの力がそのままカラダの力になる。
 
コピーに過ぎないエヴァンゲリオンは、ココロの中身が空っぽだ。だから、与えられた姿のままに弄ばれる。
 
ヒトの姿をした使徒は、ココロをカラダに縛られる。だから息苦しくて、消滅を願う。
 
ヒトは、ココロとカラダがバラバラだ。だから、そのズレに悩むのだろう。
 
 
「あなたには、アタシの命令に従う義務があるの。解かるわね?」
 
「…はい」
 
そのズレの、最たるもの。ココロを偽ることができるということ。
 
「今後、こういうことの無いように」
 
「…はい」
 
私は、命令違反を犯したことを悪いことだとは思っていない。あれが最善だったと信じているから。
 
でも、葛城一尉の心証を悪くしたら、出撃そのものが難しくなるかもしれない。だから、謝罪してみせる。反省する振りをする。
 
「あんた、ホントに解かってんでしょうね?」
 
「…はい」
 
口を開くたびに、ココロがきしむ。この痛みに耐えられるのだから、確かにヒトは毅いのだろう。
 
「あんたねぇ、なんでも適当に、はいはい言ってりゃいいってもんじゃないわよ!」
 
そんなこと、できるわけない。言葉は、ヒトの力は、偽りを口にする私に、容赦がない。 
 
…解かってます。と、最後まで言えなかった。急にのどが詰まったから。
 
「レイ…?」
 
 
…ぽと、ぽた…と
 
「…これが涙?」
 
葛城一尉が、一歩。こちらに歩み寄ってきた。
 
「私、泣いてるの? …なぜ、泣いてるの?」
 
したたり落ちる泪滴を手のひらに受け止めて、この目頭を絞る重圧の意味を探す。
 
「レイ、大丈夫?」
 
問題ありません。と言おうとしたのに、開いた口から洩れたのは、嗚咽だけ。
 
「レイ…」
 
背中の温もりに気付いて面を上げると、葛城一尉の顔が近い。いつの間にか、寄り添うようにベッドに腰かけていた。
 
「なにが、つらいの?」
 
つらい? …私が?
 
…いいえ、葛城一尉の言うとおり。私はつらいのだ。
 
なぜ葛城一尉は、私でさえ解からない私のココロが解かるのだろう。
 
「…葛ラぎ、ひ^チ尉」
 
「なぁに?」
 
その声音を、やさしいと表現することを、のちに知る。
 
「…ジっ分を^偽るの が、 …つらい です」
 
今の私はまがりなりにもヒトだから、そのことだけはロジック抜きに解かった。
 
「そう。話してごらんなさい。楽になるわよ」
 

 
私が、命令違反を犯したことを悪いことだとは思っていないこと。あれが最善だったと信じていること。必要なら、これからも命令違反を犯すことを辞さないこと。そのためにココロにもない言葉を口にしたこと。
 
たったそれだけを話すのに、1971回もの拍動を必要とした。何度もつかえて言い直し、自分のココロを表せる語彙を求めてさまよって。
 
話すことが尽きるのと同時に、涙も治まった。葛城一尉の言うとおり、楽になった。自分の問題を他人に知ってもらうことで、解決もしてないのに負担を軽減できる。
 
…これが、ヒト。
 
 
見やれば、葛城一尉の口から、洩れ出るような嘆息。
 
眉根をしかめて唸った葛城一尉が、爪をたてて頭を掻いた。がりがりと聞こえるその音もまた、葛城一尉の唸りなのだろうか。
 
…私が楽になったぶん、葛城一尉が、つらい?
 
私の視線に気付いた葛城一尉が、口元をほころばせる。
 
「あなたが心配することじゃないわ。話せって言ったの、アタシだものね」
 
それにしても…。と洩らした葛城一尉が天を仰ぐ。
 
「部下が言うこと聞いてくれないのは、作戦部長としてどうかしらねぇ…」
 
肺の中身を全て吐き出すような、長い嘆息。自嘲という言葉を、この時の私はまだ知らない。
 
「ねぇ、レイ。教えてくれる?」
 
首をかしげるようにして覗き込んでくる葛城一尉に、首をかしげて応える。
 
「あなたは何故、そうまでして戦うの?」
 
「…」
 
あのヒトのためだと、即答はできない。それがまた私のココロを軋ませるけれど、さっきとは違ってつらくはない。…なぜ?
 
「…」
 
世界を護ることがあのヒトの願いで、私に与えられた使命だった。それは動機以前の、言わば私の存在意義そのもので、口にしようがない。
 
「…」
 
私を見つめる、葛城一尉の目。
 
私は、このヒトのことを少しだけ憶えている。このヒトを乗せて、アラエルと対峙したことがあるから。アラエルが暴いたこのヒトのココロを、垣間見たことがあるから。泣き叫ぶこのヒトの願うままに、暴れたことがあるから。
 
当時の私は幼くて、そのココロをほとんど理解できなかったけれど。
 
ただ、とても複雑で、すごく悩んでいたことだけが印象に残っている。
 
「…戦えるから、戦えないヒトのために」
 
あの慟哭を思い出した途端、そんな言葉が口をついた。戦う機会を得ながら、それでも納得できなくて悩みつづけたこのヒトのココロが、私のココロにカタチを与えていたと知る。
 
それはまた、あのヒトの願いを、自分のココロで紡ぎなおしたのだと解かる。
 
「それは…、シンジ君も含むわけね?」
 
頷く。…それだけではないけれど、
 
「1人きりで戦って、怖くはないの?」
 
「…怖くは、」
 
この身体で目覚めたとき、ひとつだけリリスが注意してくれた。
 
 ― …綾波レイの肉体に代わりはあるけれど、あなたの代わりは無いわ ―
 
死んでしまえば、それまでなのだろう。それが生きることだと、あのヒトが呟いたのを憶えている。
 
死への恐怖というものは、まだ、よく解からない。
 
けれど、死ぬことで為せなくなる事があることは解かっている。…だから、
 
「…怖くないわけでは…ありません」
 
そう…。と呟いた葛城一尉が膝を支点に体を入れ替えて、向かい合うように座りなおした。感じていたぬくもりが急速に失われていくことを少し、残念に思う。
 
「それを聞いて安心したわ。命知らずなヤツは、味方を危険に晒すだけだもの」
 
肩をすくめた葛城一尉は、そのままベッドに両手を突くと、体を持ち上げるようにしてベッドから降りた。
 
「レイの考えはよく解かったわ。今度からは、そのへんも作戦行動に織り込んであげる。
 だから、今後は命令違反なんてしないのよ」
 
返答に困る。必要なら、やはりするだろう。…かといって嘘はつきたくない。
 
 
「…努力します」
 
苦労して言葉を見つけたというのに、葛城一尉はなんだか目尻をひきつらせて詰め寄って来た。
 
「アンタってコは、ほんっっ!と~に可愛げが無いんだから」
 
伸ばされた右手が、私の頬をつまんだ。
 
「い・き・な・り・命令違反なんかしでかす前に!理由を言って相談しなさい!って言ってんの!」
 
「…いふぁい」
 
そうでしょうとも。と、まぶたを半ば下げた葛城一尉が、こっちは命令違反のぶん。と左手でも頬をつまむ。
 
「命令違反は最後の手段!解かった!?」
 
つままれた頬によって、強制的に面を上げさせられた。間近に、葛城一尉の目。
 
「…」
 
「解・かっ・た・か・し・ら!?」
 
さらに篭められた力に、頬が悲鳴を上げているよう。…とても、痛い。なのに、葛城一尉の目を見ていると、そのことを忘れそうになる。…どうして?
 
嘘はつきたくない。嘘はつきたくないのに、葛城一尉の目に抗えなかった。
 
「…ふぁい」
 
…覚悟していたココロの軋みが、なぜか訪れない。嘘をついたのに、なぜ?
 
よろしい。と手を放した葛城一尉は、なんだか少し満足げだった。
 
 
****
 
 
自分の身体のことは、自分が一番判る。
 
115万3628回目の拍動を数えて、退院を願い出に行った。
 
プラモデルじゃあるまいにポキポキポキポキと…。と不機嫌そうに呟いた整形外科の主治医は、それでも許可を出してくれる。
 
学校に行きたい。と希望すると、安静にするなら。という条件付きで許されたので、第3新東京市立第壱中学校に登校した。
 
 
 「 いけいけいけいけーっ! 」
 
 「 いけヒデコーっ! 」
 
少し残念だったのは、水泳の授業なのに見学しなければならないこと。
 
綾波レイの記憶にはあるけれど、私は泳いだことがない。その爽快感を身を以って味わってみたかったのだけれど。
 
 
  「 させるかぁーっ! 」
 
  「 ああー! 」
 
  「 惜しい! 」
 
フェンス越しにグラウンドを見ると、男子生徒が大勢でボールを追いかけまわしている。それを取り囲むように座り込んだ男子生徒の中に、碇君の姿を見つけた。
 
  「 次、決めてくぞーっ! 」
 
  「 おー! 」
 
傍に座っていた鈴原トウジと相田ケンスケが、詰め寄っている。また殴る気だろうかと思って腰を浮かしかけたけれど、少々違うようだ。
 
「 綾波さん、どうしたの?」
 
振り返ると、水着姿の女のヒトが居た。このヒト知ってる。委員長。今朝登校してから、しばしば私のほうを見ていたヒト。
 
雫を滴らせた委員長は、ぺたんと音をたてて座り込むと、自分の膝を抱えた。
 
綾波レイの記憶に拠れば、進級したばかりの頃には何度かこうして話しかけてくれていたらしい。無視され続けて、諦めたものとばかり思っていたけれど。
 
「…碇君が」
 
委員長が、目を見開いた。
 
「綾波さん。初めて応えてくれたわね」
 
その言葉を手懸りに、このヒトの名前を探し当てる。洞木ヒカリ。最初の時に、自己紹介されていた。
 
「…ごめんなさい」
 
無視したのは私ではないけれど、そうしたいと、思った。ヒトはロジックじゃないから、それでいいはず。
 
「あっ!ううん。責めてるワケじゃないの。綾波さんが大変だったって知らなかったから、むしろわたしのほうが謝りたいくらいで…」
 
「…大変?」
 
あっ!うん…。と口篭もった洞木ヒカリが、視線を落とす。
 
「綾波さんも、あのロボットのパイロットだって、聞いたから…」
 
ちらりと一瞬だけ寄せられた視線は、おそらく右腕のギプス。
 
「…そう」
 
なんて応えればいいのか、判らない。ヒトと知り合うことはココロを形作ることだから、できるだけ応じたいと思うのに。
 
「だからね、その… お礼を言いたいって思ってて…」
 
「…お礼?」
 
うん。と呟いた洞木ヒカリが、面を上げた。
 
「ありがとう、綾波さん」
 
「…どういたしまして」
 
それは、かつて私が初めて口にした意味ある言葉だったから、反射的に口から滑りでた。なぜ、お礼を言われたのか、理解する間もなく。
 
少し呆然とした様子の洞木ヒカリは、10回ほどの拍動を経て、にっこりと微笑んだ。
 
その笑顔を見てると、なんだか胸の裡が温かくなってくる。嬉しい、という感情。ヒトの気持ちが、他のヒトの気持ちを作り出す。伝播する。
 
…これが、ヒト。
 
「わたしなんかで力になれるとは思わないけど、なにかあったら相談してね」
 
「…ありがとう」
 
笑顔が嬉しかったから、笑顔で返した。
 
「うん…」
 
なのに、洞木ヒカリは顔を赫らめるばかりで視線を逸らしてしまう。私の笑顔では、ヒトを笑顔に出来ないと知る。…少し、悲しい。
 
「あっ!そう云えば、碇君がどうこうって…どうしたの?」
 
洞木ヒカリの声音が、微妙に高い。私の笑顔には、そういう効果がある? …解からない。
 
視線をグラウンドに向けると、碇君は鈴原トウジや相田ケンスケと会話している様子。
 
「…ひゃ」
 
120万9553回前と言いかけて、口篭もる。とても単純な計時方法なのに、なぜかヒトには通じない。
 
「…13日前に、鈴原君が碇君を殴っていたから、また殴るのかと思って」
 
「えぇ!どうして!?」
 
「…第一次直上会戦でエヴァンゲリオンに乗っていたのが、碇君だと思っていたみたいだから」
 
ぎしぎしとフェンスの鳴る音に視線を戻したら、洞木ヒカリが鷲掴みにしていた。
 
「す~ず~は~ら~」
 
いつの間に体勢を入れ替えたのだろう? フェンスを押し倒しかねない勢いだ。
 
「わかったわ、綾波さん!」
 
唐突にこちらを向いた洞木ヒカリが、私の左手を取って両手で包んだ。
 
「鈴原にそんな真似、絶対させないから!」
 
「…あっありがとう」
 
詰め寄ってくるので、仰け反ってしまった。
 
なぜ、洞木ヒカリはこんなにも勢い込んでくるのだろう。…解からない。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:22


体に残った水滴をあらかた拭き取ってから、ギプスに巻いていたビニール袋を取り外す。眼帯が取れて、これでも手間は減ったほうだ。
 
寝起きにもシャワーを浴びるようになったのは、看護士の助言に拠る。清潔にしたほうが、負傷の治りが早いらしい。
 
開放性骨折による外傷はすでに完治してその必要はないが、習慣として身についてしまった。
 
 
今日は、碇君による零号機の起動実験がある。
 
初号機パイロットである私が居る必要はないが、せめて見届けようと思う。
 
 
髪に残った湿り気をタオルに吸わせながら、アコーディオンカーテンを開ける。
 
視界の隅に違和感を覚えて視線をやると、そこに碇君が居た。
 
…なぜ?
 
「いや、あの…」
 
理由は判らないけれど、ここに居るということは、私を訪ねて来てくれたのだと思う。ここには、ほかに何もないから。
 
碇君のほうへ、歩み寄った。
 
「…僕は、別に…」
 
「…なに?」
 
後退さる碇君を、追いかけるようについ踏み込んでしまったのは、嬉しかったからだと思う。
 
さらに後退さった碇君が足を滑らせ、ひっくり返るまいとした反動で覆いかぶさってくる。
 
「…かふっ」
 
床に押し倒された衝撃で、肺の中の空気が搾り出された。
 
「…くぅ」
 
失った空気を求めて息を吸うと、胸部が酷く痛む。癒合しかかっていた右第七肋骨から第九肋骨まで、全ての継ぎ目が外れたようだ。
 
苦痛を無視しようとしているのに、うまくいかない。右胸部にかかった荷重のせいで、患部が圧迫されているためと推察。確認すると、碇君の左手が載せられていた。
 
触れられるほど間近に居るのは、嬉しいと思う。しかし、このままでは痛覚で意識が途切れてしまいかねない。
 
「…ど けて…くれ る?」
 
その左手を退けてくれれば充分だったのに、碇君は跳ねのいて、体ごと退いてしまった。
 
それを悲しいと感じるココロが、痛覚を無意識領域下へ放逐することを手伝ってくれる。のちに知ったのは、皮肉と言う言葉が、この状況を形容し得るということ。
 
「…」
 
立ち上がって、ベッドの枕元へと向かう。こうなっては気休めにしかならないけれど、コルセットを着ける。
 
このまま衣服を着用すべきか、どうか。ベッドの上から下着を取り上げる動作の途中で、碇君の視線に気付いた。
 
「…なに?」
 
顔を向けると、碇君が目を逸らす。
 
「え、いや、僕は…その…」
 
胸部の痛みが、無視しきれない。痛覚は、排除したはずなのに。
 
「僕は、た、頼まれて…つまり…何だっけ…」
 
ちらりちらりとこちらに向けられる視線が、私の視線と合うたびに逸らされる。
 
…私は、碇君に避けられているのだろうか?
 
「カード、カード新しくなったから、届けてくれって」
 
カード? ネルフのIDカード? 更新の時期ではないはずだけれど。
 
「だから、だから別にそんなつもりは…」
 
手にした下着をベッドに放り落として、碇君の元へ歩み寄る。
 
「リツコさんが渡すの忘れたからって…ほ、ほんとなんだ。それにチャイム鳴らしても誰もでないし、鍵が…開いてたんで…その…」
 
「…碇君」
 
その目前に立つと、驚いた碇君が後退ってチェストにぶつかった。また押し倒されるかと思って身構えたけれど、今度はそうはならないようだ。
 
「な…なに?」
 
「…カード」
 
両手を差し出すと、ひどく慌てた様子でカバンをまさぐっている。
 
「ごめん…」
 
押し付けるようにIDカードをくれた碇君が、そのまま私の傍らを駆け抜けた。ありがとうと、言う暇もない。
 

 
ドアの閉まる、音。…響いて何度も私を苛む。ここは室内なのに、締め出されたような気持ちになる。
 
 
碇君がここに来たのは、赤木博士に頼まれたから。
 
カードを届ければ、もう用はない。
 
すぐにでも離れたいから、あんなに急いで駆け出した。
 
 
膝から力が抜けて、その場に座り込む。
 
…胸が痛い。いや、本当に痛いのは、ココロなのだろう。カラダの痛みならどうとでも対処できるのに、ココロの痛みはただ耐えることしか出来ない。
 
怖いという言葉の意味を実感する。自分のココロが私を毀すようなこの感覚を、ほかにどう表せるだろう。
 
膝に落ちる泪滴の熱ですら急速に失われて、私から逃げていくようだった。
 
 
***
 
 
 「エントリー、スタートしました」
 
生と死が等価で、無限を生きることのできる使徒は、時間に正確でありながら無頓着だ。セシウム原子の振動を知覚できながら、自らには意味のないこととして無視することができる。
 
エヴァンゲリオンだった私にとっても、時間とは外界の変化を計るための指標でしかなかった。……はずなのに。
 
  ≪ LCL、電化 ≫
 
解からないのは、なぜ私はこんなにも足早にコントロールルームに駆け込んだのか。
 
医療部で処置してもらうために費やした時間は、拍動にして僅か4296回。なのに、まるでココロを得てからの全ての時間と引き換えたかのように感じた。
 
主観的な計時が、客観的なそれを捻じ曲げて、今は自分の拍動すら信じられない。
 
解からないのは、なぜモニターの中の碇君を見た途端、頭蓋の中で脳髄が空転するようなこの感覚が治まったのか。
 
解からないのは、それなのになぜ、モニターの中の碇君と視線をあわせられないのか。
 
 「第一次、接続開始」
 
零号機の起動実験は、そのスケジュールの半ばまで差し掛かっていた。
 
コントロールルームには赤木博士と伊吹二尉。あと、オペレーターが幾人か。主に答えているのは、メガネをかけたオペレーターの男のヒト。このヒト知ってる。日向二尉。
 
葛城一尉が壁際でもたれかかっていたので、その隣りに寄り添った。
 
「どう、シンジ君。零号機のエントリープラグは?」
 
赤木博士の声音に、いつもの張り詰めた感じがない。柔らかいのではなく、弱々しい。ここからでは見えないけれど、眼の下の隈も濃いような、そんな気がする。
 
『なんだか、変な気分です』
 
「違和感があるのかしら?」
 
『いえ、ただ、綾波の匂いがする…』
 
顔面に血流が集まってくるのを感じる。頬に手をあててみると、とても熱い。
 
…これは何? これは何? これは何?
 
「あらあらレイったら恥ずかしがっちゃってぇ、可~愛い~トコあんじゃな~い♪」
 
耳元で呟いた葛城一尉が、私の頬をつつく。
 
…恥ずかしい? これが、恥ずかしいという感覚?
 
判らない。判らないけれど葛城一尉がそう言うのだから、そうなのだろう。
 
恥ずかしい…? なぜ私、恥ずかしいの?
 
「ん~、消毒液の匂いしかしないわねぇ」
 
鼻を鳴らして嗅ぎまわった葛城一尉は、なにやら残念そうだ。
 
…におい。嗅覚…か。
 
 
 「了解。では、相互間テスト、セカンドステージへ移行」
 
  「零号機、第2次コンタクトに入ります」
 
なにもかもヒトの数十倍以上の能力を持つエヴァンゲリオンにおいて、唯一ヒトの数倍程度しか能力差がないのが嗅覚だった。
 
だからだろう。この、ヒトの肉体を得たときに、消毒液の匂いに圧倒されたのは。減衰著しい五感の中で、相対的に強く感じたのだろう。
 
 
  「ハーモニクス、すべて正常位置」
 
   ≪ 第3次接続を開始 ≫
 
さきほど床に押し倒された時でも、碇君の匂いは感じられなかった。あの距離で感じられないのだから、それを知ろうと思えばもっと近づかねばならないだろう。それこそ、鼻梁を押し付けかねない勢いだった葛城一尉のように。
 
相手の一部を取り込むそれは、パーソナルスペースに踏み込む行為。使徒なら、ATフィールドの内側へと溶け込む行為。ひとつになろうとする、いざない。
 
ココロの裡をすべて見られた。…いいえ、嗅がれた気がした。なにもないココロを知られたような気がした。…だから、恥ずかしかった?
 
 
 「A10神経接続開始」
 
  「ハーモニクスレベル、プラス20」
 
『…何だこれ? 頭に入ってくる…直接…何か…』
 
モニターの中の碇君が、額を押さえて俯く。
 
 『  ?    ?            …  … 違うのか…?』
 
暴れだした零号機が、拘束具を引き千切ろうと身悶える。
 
「どうしたの!」
 
怒鳴った葛城一尉が、コンソールに詰め寄った。
 
 ≪ パイロットの神経パルスに異常発生 ≫
 
  ≪パルス逆流≫
 
  「精神汚染が始まっています!」
 
 「まさか!このプラグ深度ではありえないわ」
 
 
私が黄色いエヴァンゲリオンだった頃、一度だけ碇シンジを乗せたことがある。
 
  「プラグではありません、エヴァからの侵蝕です!」
 
嬉しくて近寄ろうとしたら、その意識を弾き飛ばしてしまった。
 
  「零号機、制御不能!」
 
そのことが悲しくて、少し暴れたりした。この零号機のように。
 
 
 「全回路遮断、電源カット!」
 
   ≪ エヴァ、予備電源に切り替わりました ≫
 
  ≪ 依然稼働中 ≫
 
こちらに向かってくる零号機を迎えるように、窓際へ歩み寄る。
 
「シンジ君は?」
 
 「回路断線、モニターできません!」
 
 「零号機が、シンジ君を拒絶?」
 
 
「…なぜ?」
 
届かないと判っていても、問い掛けずには居られなかった。
 
 「だめです、オートイジェクション、作動しません!」
 
 「また同じなの? あの時と。シンジ君を取り込むつもり?」
 
あなたは碇君のことを気にかけてもないのに、なぜそういうことするの? 気に入らないなら、無視すればいいのに。
 
うるさい。と言わんばかりに、零号機のこぶしが打ち込まれる。6回目で強化ガラスが砕けて、頬を浅く切った。
 
「レイ、下がって! レイ!」
 
 「零号機、活動停止まで、後10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0!」
 
壁に頭を打ち付けていた零号機が、力を失って頽れる。
 
 「零号機、活動を停止しました」
 
「パイロットの救出、急いで!」
 
葛城一尉の命令を遮るように、内線のコール音。
 
「なんですってぇ!」
 
叩きつけられた受話器が、コンソールの上で跳ねて、落ちた。
 
「未確認飛行物体…きっと使徒よ。リツコ、初号機は?」
 
 「…、380秒で用意するわ」
 
「レイ、いける?」
 
「…問題ありません」
 
私の状態について、まだ報告は届いてないだろう。
 
「初号機、出撃準備!」
 
 
***
 
 
  『目標は、塔の沢上空を通過』
 
 『初号機、発進準備に入ります』
 
 『第1ロックボルト外せ』
 

 
『初号機パイロット。
 解除確認、よろしいか?』
 
言われて、発進手順を追ってなかったことに気付いた。初号機の感触ではなく、スクリーン越しにロックボルトの状態を確認する。
 
「…解除確認」
 
 『了解。第2拘束具、外せ』
 
初号機にエントリーするようになって、初めてこのエントリープラグというものを強く意識した。それはもしかしたら、初号機発進準備のために、碇君の救出作業が後回しにされているからかもしれない。
 
   ≪ 了解 ≫
 
  『目標は芦ノ湖上空へ侵入』
 
 『エヴァ初号機、発進準備よろし』
 
『発進!』
 
…?
 
「…葛城一尉」
 
『なに?』
 
通信ウインドウに現れた葛城一尉の、口元がわずかに上がっている。
 
「…初号機の射出速度が」
          『遅いでしょ。調整できるように改良してもらったの』
 
『早くしろって言うならともかく、遅くしろですものね』
 
赤木博士の呟きは、まるで溜息。
 
GらしいGは、ほとんどない。念のためプラグスーツの上からコルセットを巻いてきたが、これなら無くてもよかっただろう。
 
…私の、ため?
 
「…ありがとう…ございます」
 
『お礼を言われるようなことではないわ』
 
なぜ、葛城一尉はどういたしましてと言わないのだろうか。
 
 
  ≪ 目標内部に高エネルギー反応! ≫
 
『なんですってぇ!?』
 
  ≪ 円周部を加速、収束していきます! ≫
 
 『まさか!』
 
『ダメっ!!止めて!』
 
地上に出る寸前。手を伸ばせば射出口に届く位置で、カタパルトが止まる。
 
見上げた矩形の空が、次の瞬間、光の奔流で埋め尽くされた。
 
 『 一旦、初号機を戻… 』
       「…葛城一尉。いけます」
 
通信ウインドウの中。こちらを向いた葛城一尉が、探るように。
 
『レイ…』
 
「…ATフィールドで、防げます」
 
初号機への支配は、かなり進んでいる。今の出力なら、避弾径始を持たせることで受け流せるだろう。
 
『本当に?』
 
「…はい」
 
わずかに視線をずらした葛城一尉が、眉根を寄せている。そうこうしている間にも、射出口の周辺は灼かれ、熔けていった。
 
「…ATフィールド、全開」
 
荷電粒子の流れに沿うように、ATフィールドを展開する。水の流れるホースを曲げる感覚…と云うのは経験したことがないが、あのヒトがやって見せてくれたから模倣するのは容易い。
 
灼熱の奔流を上空へ逸らし、射出口近辺を確保する。ATフィールドの強度に問題がないことを確認して通信ウィンドウに向き直ったら、まぶたを半ば下げた葛城一尉が居た。それを半眼と呼ぶのだと知るのは、後のこと。
 
『レイ…。あんたまた、命令違反』
 
思わず跳ね上がった左手が、頬をかばう。ギプスが無ければ、右手もそうしていただろう。上空で荷電粒子が暴れているのは、ATフィールドの制御がおろそかになったから。
 
なぜか逸らしそうになる視線を、苦労して葛城一尉にとどめる。
 
「…相談、しました」
 
努力してるってワケね…。と、葛城一尉が溜息をついた。
 
『いいわ、やってみなさい。 初号機、上げて!』
 
再始動したカタパルトが、初号機の肩あたりまでを地上に押し上げて止まる。射出口周辺が灼け熔けて、これ以上は無理なのだろう。延長して展開されるはずのガイドレールも作動してないようだ。
 
『最終安全装置解除!エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
 
ロックボルトが外れたのを見てとって、肩越しに拘束台のフレームを掴む。懸垂の要領で身体を持ち上げ、一回転して地表に膝を着いた。かつてマトリエルと対峙したときに、赤いエヴァンゲリオンが見せてくれた動き。
 
見上げる荷電粒子の奔流の向こうに、蒼い正八面体。このヒト知ってる。ラミエル、第5使徒。
 
今の私の支配率では、ATフィールドを張ったまま相手ATフィールドの中和を行なうことは出来ない。
 
だから、このまま荷電粒子をいなしながら接近。至近距離でATフィールド中和に切り替えて、回り込むように高機動回避しながらプログレッシブナイフで攻撃を行なう。
 
そう決めていざ踏み出そうとした時、隔壁の開く音を背後に聞いた。
 
振り返るべきではなかったかもしれない。ATフィールドはココロの壁だから、気を散らせばたちまち霧散する。
 
気をとられて緩んだATフィールドを突き破って、荷電粒子が初号機の左後背を捉えた。
 
 ≪ アンビリカルケーブル、断線! ≫
 
  ≪ エヴァ、内部電源に切り替わりました ≫
 
『なんですってぇ!』
 
 ≪ 活動限界まで、あと4分53秒 ≫
 
荷電粒子の奔流が、物理的圧力となって初号機を押し流す。
 
肉体を灼かれる感覚に勢いづいたか、今まで無視してきた様々な痛みまで、ここぞとばかりに主張し始めた。
 
過熱し始めたLCLがガス交換比率を落として、息苦しい。
 
八方塞がり。などと授業で習った言葉を思い出してしまう。…ダメ、弱気になっては。
 
『レイっ!』
 
左手で頬をつねった。さらに痛みを増すだけの不合理な行為なのに、通信ウインドウの中から懸命に呼びかけてる葛城一尉を見ているだけで、別の意味を持つ。
 
頬の痛みを足がかりにして、意識の核を確保。なんとかATフィールドを張りなおした。初号機の身体の制御まで気が回らず、頽れる。
 
初号機が倒れこんだのが小さな山だということを、視界の隅に映る見慣れた橋が教えてくれた。この山知ってる。第一中学校の近く。
 
そのふもと、シェルターへ続く隔壁を、初号機の右手が潰していた。初号機からのフィードバックで、ギプスの中の右尺骨が軋む。
 
『シンジ君とレイの、クラスメイト!?』
 
 『なんでこんなところに?』
 
鈴原トウジと相田ケンスケが、隔壁のすぐ傍に座り込んでいる。
 
  ≪ 初号機活動限界まで、あと3分28秒 ≫
 
『レイ、そこの2人を操縦席へ!2人を回収したのち一時退却、出直すわよ』
 
  『許可のない民間人を、エントリープラグに乗せられると思っているの!?』
 
 『アタシが許可します』
 
  『越権行為よ!葛城一尉!』
 
『エヴァは現行命令でホールド、その間にエントリープラグ排出、急いで!』
    「…ダメ、シンクロを切ったらATフィールドが消えてしまう。だから、このまま…」
 
『レイ…』
 
  ≪ 初号機活動限界まで、あと3分 ≫
 
「…葛城一尉、はやく」
 
葛城一尉の身振りと共に、エントリープラグが排出された。
 
「うっ……」
 
とっさに口元を覆って、こみ上がる吐き気を呑み下す。ヒトの肉体には無い器官からの、ヒトの肉体にはない機能の感覚。内臓が裏返るような感触に、湧き上がってきた吐き気が苦い。
 
鼻腔から呼吸をするようにして、違和感をいなす。エヴァンゲリオンだったことのある私にとって、この感覚は苦痛でも不快でもなかった筈だ。そういう風に、造られていたのだから。
 
けれどヒトの身体である今、その差異が私を苛んで放さない。口中に湧き出した唾液が苦味を増して、私から集中力を奪おうとする。
 
なにより、コアが遠くて、ATフィールドの維持がつらい。
 
 

  
「 なんや、水やないか! 」
 
「 カメラ、カメラが… 」
 
脳髄に押し寄せた雑音が、近づいたはずのコアを酷く遠ざける。初号機制御の一部を支えるに過ぎない間接シンクロが、なぜこうも全てを掻き乱すのか。
 
 ≪ 神経系統に異常発生! ≫
 
 『 異物を2つもプラグに挿入したからよ!神経パルスにノイズが混じっているんだわ 』
 
『今よ、後退して!回収ルートは34番、山の東側へ後退して!』
 
物理的な音声まで私から集中力を奪って、ついにATフィールドが途切れてしまった。押し寄せた荷電粒子が右腰部に突き刺さるけれど、山が障害となって初号機が押し流されない。運動エネルギーとして浪費されない分、さきほどより苛烈な気がする。
 
 ≪ 初号機、ATフィールド消失 ≫
 
『なんてこと… レイ、早く後退して!』
 
「綾波、逃げろっちゅうとんで!綾波っ!」
 
「…そう」
 
もはや、初号機そのものの制御すら覚束ない。
 
下半身は灼かれるに任せて、腕の力だけで初号機を這わせる。フィードバックで軋む右尺骨の痛みが、這い進むごとに擦れる右肋骨の痛みが、私の意識を削り取っていくようだ。
 
 ≪ 初号機、活動限界まで後30秒!28、27、26、25、≫
 
『レイ、急いで!』
 
回収スポットまで、あと少し。
 
 ≪ 14、13、12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1!≫
 
 
初号機の活動停止に引き摺られるように、私の意識も途切れた。
 
 
***
 
 
視界に入ってきたのは、白い天井。見慣れた医療部の病室。
 
聞こえてくるのは虫の鳴き声。この声知ってる。蜩。昆虫綱カメムシ目ヨコバイ亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ。
 
ヒトは、物事を分類することを好む。そのことを知った綾波レイは、その中に己の位置を求めて書物を漁ったことがある。
 
失望しか、もたらさなかったようだけれど。
 
 
どれほど天井を眺めていただろう? 唐突にドアが開いた。
 
「レイ」
 
「…葛城一尉」
 
命令違反を咎めに来たのだろうか?ドアを開け放したまま、大股にこちらに向かってくる。
 
「もう少し、休んでなさい」
 
身体を起こそうとした私を押しとどめて、ベッドの端に腰をおろした。
 
「体の調子はどう?」
 
「…問題ありません」
 
鼻腔の中だけ吐き出すような、短い溜息。
 
「再出撃が決まったわ。乗れる?」
 
「…はい」
 
もう一度溜息。今度は肺の中身を全て吐き出すように長い。
 
「あんな目に遭って、どうしてあなたはためらいなくまだアレに乗れるって言うの? 怖くないの」
 
そう言われて、先ほどの戦闘の経過を思い出す。眠りに落ちるより速やかに意識を失ったことも。
 
自らの意図に拠らずに意識を手放したのは初めてだったから、
 
「…怖いです」
 
「なのに、乗るの?」
 
なぜ葛城一尉は、同じことを訊くのだろう?
 
「…怖いから、乗ります」
 
「怖いから?」
 
…はい。と応える。
 
葛城一尉は、なぜ開け放した戸口の方に視線をやるのだろう?
 
「…私はもう、恐怖を知ってしまった。それで誰かが、恐怖を知らずに済むなら」
 
「…それでいいの?」
 
ヒトの身になって、初めて恐怖という感情を知った。自分を失いたくないと思った。自分の身が可愛いと、自分が大切だと実感した。
 
そう思えて初めて、他のヒトたちが大切に思えた。葛城一尉や碇君。鈴原トウジに相田ケンスケ。洞木ヒカリに、まだ見ぬ弐号機パイロットまで。あのヒトの願いが解かった。
 
…いま
 
あのヒトの願いが、私の願いになった。
 
私は、護りたい。あのヒトに与えられた使命ではなく、己の意思として。
 
その願いこそ、私の全て。
 
「…私にはほかに、何もないもの」
 
「…」
 
眉尻を吊り上げた葛城一尉は、開けた口をしかし、閉じた。
 
 
「出発は60分後、それまでに食事を摂ってケイジに集合しなさい」
 
「…了解」
 
顔を伏せたまま、葛城一尉が立ち上がる。
 
病室を後にする葛城一尉の背中が、なぜか小さく見えた。
 
  
***
 
 
搭乗用リフトのデッキの上。この惑星の衛星を、とても近く感じる。
 
葛城一尉は、徴発した陽電子砲による超長距離狙撃作戦を発動した。
 
射撃手とその護衛に、2体のエヴァンゲリオンが出撃することになったらしい。
 
「…碇君は、なぜエヴァンゲリオンに乗ることにしたの?」
 
「…」
 
ケィジに集合した時も、トレーラーでプラグスーツに着替えている間も、碇君は話し掛けてくれなかった。
 
その理由を考えると、哀しさに打ちのめされそうになる。
 
まとわりつく沈黙だけでもせめて追い払いたくて、考えて考えて、口にした質問。
 
 …
 
問いかけることすら厭われているのかと思って、怖くて逃げ出したくなったその時だった。
 
「…」
 
少し深く、呼吸した気配。嘆息と、表現できないほどに。
 
「…僕は、父さんに呼び出されてこの街に来た。父さんが僕を必要としてくれてるかもしれないって、思ったんだ…」
 
膝を抱えた姿勢のまま、顔を伏せて。
 
「なのに、弱虫だから父さんの期待に応えられなかった。父さんに誉められたいはずなのに、失望されることも怖くて、どちらも決断できなかった。
 臆病なんだよ」
 
碇君の呟きは、夜風に掻き消えてしまいそう。
 
「いきなりエヴァに乗れって言われて怯える僕の代わりに、綾波が乗ってくれて…。それで僕はもう必要ないはずなのに、ここから出られない。…ううん、出ようとしなかった。
 ずるいから、怖い目に遭わないうちは逃げ出さない」
 
碇君の話すことは難しくて、私には解からない。でも、聞き漏らすまいと身を乗り出した。
 
「エヴァのパイロットってだけで皆よくしてくれるけど、僕は綾波が戦ってる理由すら知ろうとしない卑怯者なんだ」
 
 
顔を上げた碇君が、こちらを向く。
 
「トウジとケンスケを守ってくれたんだってね。ありがとう」
 
ひどく悲しそうな微笑みなのに、それでもあのヒトの面影があった。
 
「ここに来て、初めて出来た友達。綾波がくれたんだよ」
 
ここに来て、初めて見せてくれた……碇君の笑顔。
 
「僕は、自分の友達を守ることも出来ない」
 
その笑顔に応えそうになって、頬がひきつった。
 
私は、碇君の笑顔に応えようとしたわけじゃない。碇君の中に見える、あのヒトの面影に笑いかけただけ。
 
碇君を見て、碇君を見ていない。
 
それは、碇司令が私を見るときの目と同じような気がして、背筋が冷えた。ココロが凍った。
 
「でも、守ってくれる人を手助けするくらいなら……、」
 
そのことに碇君が気付いていたとしたら、厭われて当然ではないか。私が、碇司令に見られたくないと、思うように。
 
「こんな僕でも、できるんじゃないかと思ったんだ」
 
慌てて目を逸らした私をどう思ったのか、碇君が立ち上がる。
 
「時間だね。行こうか」
 
 
***
 
 
綾波レイが零号機に乗るのは起動実験以来だから、拍動にして524万3618回ぶりになる。私にとっては初めてだ。
 
零号機の起動実験に失敗した碇君を乗せるわけには行かないから、私が零号機、碇君が初号機で出撃することになった。
 
起動指数ぎりぎりの上、満身創痍の初号機では機体動作が安定しない。精密さを要求される長距離射撃は無理として、初号機が護衛だ。
 
今は零号機の前方で、SSTOの底部を構えてしゃがみこんでいた。
 
 
『第一次、接続開始!』
 
第七次最終接続までのわずかな時間で、零号機のココロに触れる。
 
「…そう。ヒトの都合で弄ばれるのが嫌だったのね。自由に動いてみたかった?」
 
オレンジ色した水面と、赤い空。
 
「…気持ちは解かるわ。私もエヴァンゲリオンだったもの」
 
どんなに波を蹴立てても、拡がらない波紋。零号機の希薄なココロ。その餓えを、鎮めきれずにいる。
 
「…ムリ。あなたのココロでは」
 
ごめんなさい。私では、あなたにココロを与えることが出来ない。
 
「…だから、せめてヒトに従いなさい。造り主の、命に」
 
碇君は戦うことを選択した。だから…、
 
「…私のココロを、あなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる」
 
碇君を受け入れなさい。…ほら、心地いいでしょう? ココロが充たされるでしょう?
 
 
 『 撃鉄起こせ!』
 
ボルトを握るその手応えに、薄紙一枚挟み込んだかのような、違和感。
 
エントリープラグの中、私の、綾波レイの匂いが薄くなったことに気付く。
 
 『 第七次最終接続、全エネルギー、ポジトロンライフルへ! 8、7、6…』
 
それが零号機の答え。と云うことなのだろう。口元が綻んだ。
 
 
  ≪ 目標に、高エネルギー反応! ≫
 
 ≪何ですって!≫
 
レチクルが…、
 
  ≪ …3、2、1、≫
 
 …揃う
 
『発射!』
 
 
***
 
 
「…碇君っ」
 
右手のギプスのせいで、救出ハッチを開けるのに手間取った。
 
なぜこんなに気がせくのか、自分でも解からない。この目に映るもの全てが視界の中で乱れ飛び、世界そのものが壊れたかのように私を惑わす。
 
「…大丈夫!?」
 
薄暗いエントリープラグの中、シートの上に結ばれた焦点が、そこだけを切り取ったかのよう。
 
碇君。
 
ぐったりと横たわった姿を目にした途端、胸が締め付けられた。
 
「…碇君っ!」
 
うっすらと目を開けた碇君が、頭を起こした。…無事。
 
鼻腔を焦がすこの感情が、すべてを教えてくれた気がする。安堵が、なにもかも緩めてしまう。
 
 

 
「綾波…。なぜ泣くの」
 
自分のために誰かが傷つくのがこんなにつらいだなんて、知らなかった。
 
私が傷つくことでつらかったヒトが居ただろうことに、気付かされた。
 
私の願いが、どれほど独りよがりだったか、思い知らされた。
 
「…ごめんなさい」
 
 
身体を起こした碇君が、自らの肩を抱いた。
 
「使徒の攻撃を受け止めている間、本当に怖かったよ」
 
綾波はあんな思いして戦ってたんだね。と向けてくれる視線が、とても優しい。
 
「謝らなきゃならないのは、僕の方だ。綾波は、怖くないから戦えるんだと思ってた」
 
そう思い込もうとしてた。と視線を落とす。
 
「ほかに何も無いから戦えるだなんて、あの部屋を知らなければその意味すら解からなかっただろうね」
 
なぜ、碇君はそのことを知っているのだろう? 葛城一尉に聞いた?
 
「だからこそ僕は、怖いと感じることを受け入れられたんだ。それが当然だって思えたんだ」
 
ヘッドレストに頭を預け、碇君はいったい何を見ているのだろう?
 
「そう思えたら、怖いのに怖くなくなったんだ。…可笑しいよね」
 
かぶりを振った。碇君の言うこと、解かるような気がする。…いや。解かりたいと思う。
 
「ここに来て、エヴァに乗れるってだけで皆が気にかけてくれた。
 戦いもしないのに、僕自身は何も変わってないのに、ここに来る前とは大違いなんだ。
 意味があるのは僕を取り巻く環境で、僕自身に価値なんかないからだって思った」
 
なのに、今はそれがどうでもよく感じられるんだ。と眉尻を下げた碇君が、私を見た。
 
「僕は、綾波を守ることが出来た。みんなを守ってる、綾波をね。
 少なくともそのことには、価値があると思う。
 僕に価値がなくても、僕のしたことに価値があるなら、それで良いんじゃないかって
 今それを出来るのが僕だけだというなら、それで充分じゃないかって思えるんだ」
 
見せてくれたのは、あのヒトにそっくりの笑顔。
 
「だから、エヴァに乗って戦ってみようと思うんだ」
 
気管を駆け登った熱気が、鼻腔を直撃する。
 
…涙。
 
私、まだ泣いてるの? …なぜ、悲しくないのに泣いてるの?
 
「綾波!?」
 
笑顔だった碇君が、慌てて身を乗り出してくる。心配してくれたと判って、それすら嬉しい。
 
…嬉しい?
 
 
嬉しいと自覚しても、涙が止まらない。ヒトは、嬉しくても涙が出ることがあると知る。
 
碇君が笑顔じゃなくても嬉しいのは、とても困っているように見えるのに嬉しいのは、つまり碇君を透かして見えるあのヒトではなく、碇君本人をこそ見ることが出来たからだと思う。
 
涙が出るほど嬉しかったのは、この碇君が笑顔になってくれたからで、それがあのヒトの笑顔にそっくりだったからじゃない?
 
そのことがなぜこんなにも嬉しいのか、解からない。
 
解からないけれど、この気持ちの促すままに口元をほころばせた。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:23


「すまん!すまなんだ綾波!」
 
118万7362回振りに登校した私を待っていたのは、地面に頭を擦り付ける鈴原トウジの姿だった。
 
教室に入るなり裏庭に連れ出されたから、私のことを殴る気になったのかと思ったのだけれど。
 
「…なに?」
 
「この前シェルター抜け出して、迷惑かけただろ。そのことを謝りたくてさ」
 
これ、この通り。と隣りに立つ相田ケンスケが頭を下げた。さらにその隣りの碇君は、名状し難い表情。苦笑いと、のちに知る。
 
シャムシェルの時に味を占めたという相田ケンスケは、だからラミエルの時もシェルターから出てきたらしい。やはり、鈴原トウジをそそのかして。
 
そのことを教えてくれた葛城一尉は「さんざん脅しといたから、もう出て来ないでしょ」と肩を竦めて見せた。
 
「ホンマに申し訳のう思っとんのや」
 
やから。と立ち上がった鈴原トウジが、右の頬を突き出してくる。左頬の痣は、打撲傷の痕だろうか。
 
「わしのことを、どついてくれ」
 
「…?」
 
「殴って欲しいって、言ってるんだよ」
 
碇君が通訳してくれたけれど、それでも意味が解からない。
 
「…なぜ?」
 
「後生や!せやないとわしの気ぃが済まんのや!」
 
たしかに迷惑はこうむった。しかし、だからと云って殴ってどうなるというのだろう?
 
「こーゆー恥ずかしいヤツなんだよ。ま、それで丸く収まるんなら、殴ったら?」
 
碇君は、あの名状し難い表情のまま頬を掻いている。
 
どうしていいか、判らない。
 
「あんたたちっ!こんなところに綾波さん連れ出して、なにしようっていうの!」
 
振り返ると、昇降口に洞木ヒカリ。
 
「あちゃ~」
 
瞬く間にここまで駆け込んできた洞木ヒカリが、私とみんなとの間に割って入った。その背中がなんだか私を見てくれているようで、嬉しい。
 
「ことと次第によっては、ただでは済まさないんだから!」
 
「…おはよう、洞木さん」
 
朝、顔を合わせたら挨拶。ヒトの基本だと、葛城一尉は言う。
 
「おはよう綾波さん…って、大丈夫なの?」
 
振り返った洞木ヒカリは、吊り上げていた眉を、たちまち落とした。
 

 
 ……
 
「えぇー!?」
 
碇君と相田ケンスケから事情を聞いた洞木ヒカリが、叫んだ。
 
「それで綾波さん、また怪我したの?」
 
「…少し、尺骨を痛めたわ」
 
そう? と洞木ヒカリは訝しげ。
 
「でも、そういうことなら叩くべきよ、綾波さん。こいつらったら避難のたびに姿をくらませて、綾波さんが叩かないならわたしが叩いてるわ」
 
「…そう?あなたがそう言うなら」
 
鈴原トウジのほうへ向き直って、右手を振り上げる。
 
「待った~」
 
なぜ、逃げ出したの?
 
「綾波さん、…ギプスで叩くのはやりすぎよ」
 
「…そう? よく判らない」
 
「綾波は、トウジを殴りたいわけじゃないよね? それに、右手をまた痛めちゃうかもしれないし」
 
「…そう? そうかもしれない」
 
右手を下ろすと、胸をなでおろしながら鈴原トウジが戻ってくる。
 
「綾波、手加減ぬきで頼むで」
 
「…判ったわ」
 
両脚を肩幅と同じ間隔で開き、ひねるように左脚を下げた。
 
腰ダメに引いた左手を握り込む。親指は人差し指の第二関節を押さえて、小指とで挟み込むように意識する。拳撃の威力は握力に比例するから、力いっぱい握り込んだ。
 
大事なのは打面と前腕の角度。直角でないと、打ったこちらが関節を痛めてしまう。
 
 
エヴァンゲリオンのパイロットである以上、格闘訓練は必須だ。綾波レイは身体を動かすことにそれほど意欲を見せてなかったようだから、その点については私に一日の長があった。
 
…手加減、抜き。
 
踏みしめた左脚の反動で、右脚を振り上げる。右膝で蹴り上げるつもりで。
 
そのまま振り下ろす右脚と同期させて、左手を突き上げた。
 
狙うのは鈴原トウジの右頬、こぶし一つぶん左。
 
右足が地面を捉えた瞬間に、左こぶしを時計回りにひねる。
 
みしっ
 
失敗した。と気付いた時には、右第七肋骨の接合面がずれていた。カウンターウェイトとして振り回した右腕の、ギプスの重さを失念して胴体をひねりすぎたのだ。
 
 
私の左こぶしを右頬に受けた鈴原トウジが、背中から倒れ込む。私の質量と筋力でそこまでの威力がでるはずがないので、バランスを崩したのだろう。
 
そのまま勢いで2回転ほど転がって、焼却炉に後頭部をぶつけた。
 
 
「…え!? …あっ!鈴原、大丈夫!?」
 
洞木ヒカリが駆け寄った先で、鈴原トウジが右手の親指を立てて見せる。
 
「 …なっ ナイスパンチや、綾波」
 
「…そう。よかったわね」
 
「鈴原っ、鈴原!?」
 
白目をむいた鈴原トウジに呼びかける洞木ヒカリの声を、どこからともなく聞こえてきたエンジン音と続くタイヤのスリップ音が掻き消した。
 
 
***
 
 
教室の扉を開けると、廊下に並べられた椅子に葛城一尉が座っていた。その隣りに碇君。2人を取り囲むように鈴原トウジと相田ケンスケ。鈴原トウジは右頬に大判の判創膏、頭には包帯を巻いている。少し離れた位置に座る洞木ヒカリは何を見つめているのか、私には気付いてないよう。
 
「あら、レイ」
 
こちらを見止めた葛城一尉は、一拍置いて表情を曇らせた。
 
「…おはようございます。葛城一尉」
 
「レイ。あなた、保護者はどうしたの?」
 
進路相談。私にとっても、綾波レイにとっても意味のない行事。それは保護者も同様だろう。
  
「…伝えていません」
 
伝えてないって、アンタ。と葛城一尉。しかし、言葉が続けられることはなかった。なにやら考え込んで、唸っている。
 
「…つぎ、碇君。先生が呼んでる」
 
「あっうん…」
 
腰を浮かせた碇君はしかし、葛城一尉のほうを覗って中腰のまま。
 
「…それじゃ、さよなら」
 
 
****
 
 
「どしたの? レイ。遠慮しないで食べなさい」
 
「作ったの、僕なんですけどね…」
 
なぜ私がここに座っているのか、理解に苦しむ。
 
いつも通り、栄養補助食品と栄養調整食品による栄養摂取を行なおうとしていた矢先だった。唐突に来訪した葛城一尉は、聞きしに勝るわねぇ。となにやら1人で納得して、そのまま私を拉致したのだ。
 
 
コンフォート17マンション、11-A-2号室のダイニング。目前のテーブルには、碇君のお手製だという料理が並んでいた。ごはんとみそ汁、ハンバーグステーキ、根野菜のソテーに葉野菜のサラダ。それらの知識は綾波レイの記憶の受け売り。
 
エヴァンゲリオンだった私は、ヒトの摂る食事という概念になじみがない。必要なのは解かるが、非効率的で手間ばかりかかる。
 
「…」
 
「ダメよ!好き嫌いしちゃあ!」
 
テーブルの対角線上から身を乗り出してきた葛城一尉が、私の頭を掴んで揺さぶった。私の頬をつねったときと、目つきが一緒。
 
視界の隅で、碇君が苦笑いしている。
 
仕方なく箸に手を伸ばすと、満足げに座りなおした葛城一尉が、2本目の飲料缶を開けた。
 
エヴァンゲリオンだった私に、利き腕という概念はない。左手に取った箸で、ハンバーグステーキを一口大に切り分ける。
 
綾波レイは動物性蛋白質を忌避していたが、それは私には関係ないことだ。
 
口に含み、咀嚼する。
 
「綾波!?」
 
途端に押し寄せた情報の洪水に、思わず口を押さえた。
 
「大丈夫? 無理して食べなくても…」
 
味蕾を励起させる様々な刺激。甘味、辛味、旨味、何に由来するか判らない雑味までが渾然一体となって、自身がハンバーグステーキという料理であることを主張している。
 
その必要性を理解できなかった私は、そもそもエヴァンゲリオンには味覚そのものが無いことを失念していた。ヒトの舌にかなりの神経組織が集中していることの意味に、気付かなかった。
 
生きるために食べることが必須のヒトにとって、味覚がどれほど重要か、圧倒的な情報量が教えてくれる。
 
いや、しかし。綾波レイの記憶にも、私自身の経験にも、今までの栄養摂取がこれほどの情報量だった憶えはない。栄養調整食品以外の、調理された食品を口にした記憶はあるのに。
 
咀嚼を繰り返すとその度に自らの唾液の味まで加わって、さらに情報量が増えてゆく。過剰だった刺激が、柔らかくなっていく。
 
「愉しいでしょ? こうして他のヒトと食事すんの」
 
愉しい? 栄養摂取が? …いや、私がどう表現していいか知らなかっただけで、この行為を喜ばしいと歓迎している。愉しい、と云うことなのだろう。
 
そう思うと、嚥下したその喉越しまで愉しい。
 
「シンちゃんが、レイのために腕によりをかけたハンバーグよん♪美味しいでしょ?」
 
「ミサトさん…、冷凍食品ですよ」
 
のんのん♪と唇の前で人差し指を振った葛城一尉が、3本目の飲料缶を開けた。
 
「大事なのは過程じゃなくて動機。ココロよコ・コ・ロ♪シンちゃんが、レイのために。ってトコが重要なの。
 ヒトはパンのみにて生くるにあらず、そこに篭められた想いも食べてんのよぉん♪」
 
見下ろす皿の上には、一口分だけ欠けたハンバーグステーキ。碇君が私のために作ってくれた…
 
ヒトにとって栄養摂取が、それだけに収まらない大切な行為であると実感した今、それを誰かのために作るということの意味も解かるような気がした。
 
皿ごとハンバーグステーキを持ち上げると、立ち昇る匂いが嗅覚を刺激して口中にその味を再現する。湧き出した唾液を嚥下。…かすかに甘い。
 
作ったヒトと、ハンバーグステーキと、食べた私。
 
碇君のほうを向くと、ハンバーグステーキを介して絆が見えるような、そんな気がする。
 
「…碇君。美味しい。…ありがとう」
 
「あっ…うん」
 
なぜ碇君は、どういたしましてと言わないのだろう。
 
「あらあら♪顔真っ赤にしちゃって。ひょっとして、シンちゃん…?」
 
「ち、違うよっ!」
 
「まったまた、テレちゃったりしてさ。よかったじゃな~い、歓んで貰えてぇ♪」
 
「からかわないでよ、もう!」
 
うふふふ、すーぐムキになって、からかい甲斐のある奴ぅ。と足を組み替えた葛城一尉が、4本目の飲料缶を開けた。
 
それが合図だったかのように肩を落とした碇君が、こちらに視線をくれる。
 
「その、…冷めないうちに食べてよ」
 
「…ええ」
 
 
ハンバーグステーキはもう冷めかけていたが、それでも美味しかった。
 
悲しかったのは、栄養補助食品と栄養調整食品で栄養摂取を続けていた綾波レイの肉体では胃の容積が不足して、かなり残さざるをえなかったことだ。
 
後ろ髪を引かれる思い。と言うことを、のちに知った。
 
 
****
 
 
朝、碇君から弁当を手渡された時に、一緒に食べたいと希望を伝えたら、鈴原トウジと相田ケンスケを加えた4人で屋上に向かうことになった。
 
どういう経緯か洞木ヒカリも加わって、総勢5人。
 
人数が増えれば愉しさも増すだろうか? と期待する。
 
 
洞木ヒカリに勧められるまま、フェンス際に座る。手にした包みの結び目を解こうとしたときに、非常召集のコール音が鳴った。
 
スカートのポケットに手を入れようとして、気付く。私じゃない。
 
見上げる先に、腰を下ろそうとする碇君。鳴っているのは気付いているけれど、自分のものだと認識してない様子。
 
「…碇君。非常召集」
 
えっ? と口を開いた碇君は、しかしすぐに気付いてズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
 
「僕だけ…? 綾波は?」
 
取り出した携帯電話を見せながら、かぶりを振る。
 
不審に思ったらしい碇君が、発令所へのホットラインを開いた。
 
「あの… …碇シンジですけど…   …はい。 …ええ、   …ええっ! はい、…はい。わかりました」
 
ホットラインを切った碇君の、表情がさえない。
 
「使徒じゃないみたい。エヴァじゃないと対処できない事態が起きて、零号機を出すんだって」
 
そういえば、一度だけ使徒ではない移動物体を制止しに出撃したことがあった。これがそうだろうか?
 
ラミエルと戦った時の傷が癒えてないから、初号機を出せないことは解かる。しかし、碇君でなければならない理由はあるまい。
 
昨晩一緒に就寝した葛城一尉が抱きついてきたことで右第八肋骨と第九肋骨の接合面がずれたことは、まだ誰も知らないはずだ。私でもいいだろう。
 
「…碇君」
 
立ち上がった私を見る碇君の視線が、微妙に逸れている。
 
「…私が行くわ」
 
みしっ。と鳴った音は、碇君の握りしめた携帯電話から。
 
その視線が見ているのは、右腕のギプスだと気付く。
 
「僕が行くよ。危険はほとんどないそうだし」
 
…でも。と踏み出そうとした私を身振りで止めて、碇君が微笑む。
 
「せっかく作ったんだ。お弁当食べててよ」
 
携帯電話を仕舞った碇君が、「というわけでゴメン」と扉へ向かった。
 
「きばれやー、センセぇ」
 
「頑張れよ、シンジぃ」
 
「気をつけてね、碇くん」
 

 
駆けていく背中に向かって声をあげていた3人が、碇君の姿が見えなくなった途端に肩を落とす。
 
「センセ、イけるんかのぅ?」
 
「使徒じゃないし、危険はほとんどない。って言ってたから、大丈夫じゃないか?」
 
「避難…しなくていいのかしら?」
 
あの移動物体を止めたのは、第3新東京市からウイングキャリアーで5兆4192億7836万9105カウントほど離れた場所だったから、ここまで影響が及ぶことはまずないだろう。
 
「…問題ないわ」
 
綾波さんがそう言うなら安心ね。と洞木ヒカリが見上げてくる。
 
「それなら、お昼ご飯食べてしまいましょ。ほら、綾波さんも座って。お弁当、碇くんのお手製?」
 
…ええ。と腰を下ろす。
 
「それにしても…碇くん、昨日までパン食じゃなかった?」
 
顔の向きから推察するに、これは私への質問ではないらしい。
 
「おさんどんは当番制だけど、弁当は初挑戦って言ってたなぁ」
 
「ミサトさんトコ扶養家族が増えたさかいに、節約せなって思たらしいで」
 
ふうん。と洞木ヒカリ。なんだか納得していない様子の視線を、私の手元に移した。
 
包みを開けると、半透明の容器にご飯とおかずが詰め込まれているのが見える。
 
「タッパーって…愛想がないにもほどがあるよ」
 
そう云えば、急に思い立ったから、弁当箱の用意がないと碇君は言っていた。今度一緒に買いに行かない? とも。
 
「小っさいのぉ…そんなんで保つんか?」
 
「…ええ」
 
充分すぎる。
 
蓋を開け、箸を取って、いただきます。と言おうとして、途方に暮れた。 
 
…割り箸。
 
左手だけでは、割れない。
 
「なんや綾波? …ああ、片手やさけ、箸が割れんのかいな。そういう時ゃあ、歯ぁで噛むんや。そんでな…」
「そんなこと、させられるわけないでしょ!綾波さんも、真に受けてそんなはしたない真似しちゃダメ。ほら、貸して。割ってあげるから」
 
口元に持っていきかけた箸を、差し出された手に載せる。
 
綾波さんが何も知らないと思って…、油断も隙もないわ。と呟きながら割ってくれた。
 
「…ありがとう」
 
「どういたしまして」
 
割ってもらった箸で、卵焼きをつまむ。
 
美味しい。とても美味しいけれど、昨日の夕食や今朝の朝食ほど愉しくはない。
 
それは、やはり碇君が居ないからだろうか? 向かい側で葛城一尉が飲料缶を積み上げていないからだろうか?
 
そんな気がする。
 
でも、独りで栄養調整食品をかじっていた時のような、味気なさはない。このヒトたちとも絆が出来つつあるから?
 
そうだと思う。
 
見渡した視線の先で、洞木ヒカリと目が合った。自然と口元がほころぶ。
 
「そうだ。綾波さん、お茶飲む? カップがひとつきりだから、わたしと共用になっちゃうけど」
 
なんだか落ち着かない様子で水筒を開けた洞木ヒカリが、お茶を注いだカップを差し出してきた。
 
「…ありがとう」
 
どういたしまして。と応える声が、今度は小さい。
 
受け取ったカップに口をつけて、お茶を含む。途端に押し寄せた温点からの警報は、舌が悲鳴をあげたかのようだ。まるで逃げ出したみたいに咽喉へ引っ込もうとして、呼吸すら阻害しかねなかった。
 
口腔内の温点からもたらされる情報が、どうにも過剰すぎる。この身体は熱い飲食物に慣れてなくて、感覚が過敏だったらしい。
 
温点からの情報を幾分か無視して、お茶を飲み干した。
 
代わりに増大する、痛点からの警告。口の中を熱傷したようだ。
 
返したカップにお茶を注いだ洞木ヒカリが、口をつけて顔をしかめた。
 
「綾波さん、火傷しなかった?」
 
ふうふうと、カップに息を吹きかけている洞木ヒカリに、うなずいて見せる。
 
「もう少し、冷ましてから飲んだほうがいいと思うわ」
 
「…そう? そうかもしれない」
 
豚の角煮を口に含むと、熱傷で味蕾を損なっていて味わいが少なかった。
 
神経伝達情報を制限したり無視することはできるが、増幅したり生成することは出来ない。迂闊に口中を損なうと、食べることの愉しみが減ると知る。
 
…今度から気をつけようと思う。
 
 
「ごっつぉさんや!」
 
ぱんっ。と手を打つ音に視線をやると、鈴原トウジの前から大量のパンとおむすびが消え失せていた。私なら、6回分の食事に相当しただろう量。私も洞木ヒカリも、自分の弁当に手をつけたばかりで、相田ケンスケも2個目のパンを平らげたところだったが。
 
「よいしょっと」
 
白いビニール袋に、空になった包装紙を詰め込んでいた鈴原トウジが、ビニール袋を縛ってから立ち上がった。そのままフェンス際に歩いていって、両腕を投げ出すようにもたれかかる。
 
「はぁ~、喰ぅた喰ぅた~」
 
それを追いかけた先で、洞木ヒカリもまた鈴原トウジに視線をやっていた。なんだか悲しそうなその眼差しが何を意味するのか、私には解からない。
 
見られていたことに気付いた洞木ヒカリが目を逸らし、ピンク色したポテトサラダを口に運びだす。ふたくち、みくちとなんだか慌しい。私の視線が気になるのか、咀嚼しながら寄越した視線は3度ほど。
 
 
「綾波さんは、お料理しないの?」
 
嚥下し終わったらしい洞木ヒカリが再び口を開いた時、私はさやいんげんのソテーを咀嚼している最中だった。
 
「…」
 
もきゅもきゅ。と、さやいんげんの歯ざわりを充分に愉しんでから、見下ろす弁当。思い出すのは、それを作っていた碇君の背中。
 
「…したこと、ないもの」
 
こちらをうかがうように、洞木ヒカリが首をかしげている。
 
「したいと思ったことはない? 例えば、お返しに碇くんに作ってあげたいとか」
 
「…私が?」
 
見やった洞木ヒカリの表情を、なんと表現すればいいか判らない。嬉しいとも、優しいとも、途惑いとも違う、期待も不安もすべて混ぜ込んだような複雑さで。
 
「…」
 
ヒトにとって重要な、栄養摂取を担う行為。それを、私が。碇君に…
 
「…してみたい」
 
なにやら独りで納得したらしい洞木ヒカリが、うんうんと頷いている。なんだか、ずいぶんと嬉しそうだ。
 
「それなら…お料理、教えてあげよっか?」
 
弁当箱を膝元に置いて、指を組み合わせるように両掌を合わせていた。
 
「…洞木さんが?」
 
「ええ」
 
洞木ヒカリの弁当箱に、視線を落とす。
 
さっき見た、ピンク色したポテトサラダ。綾波レイの少ない経験の中にも、本で知りえた知識の中にもなかった存在。…なぜか、心惹かれる。
 
洞木ヒカリに料理を教われば、その作り方も伝授されるだろうか?
 
碇君はそれを食べてどう思うだろう? 私の作った、ピンク色したポテトサラダを。
 
 …
 
「…お願いします」
 
「ええ、任せて」
 
胸元に掌を当てて、洞木ヒカリが頷いた。
 
「細かいことは後で決めるとして、お弁当食べちゃいましょう。お昼休み、終わっちゃうもの」
 
「…ええ」
 
視線を戻そうとして、気付いた。
 
「…碇君の、お弁当」
 
白いナプキンに包まれたままの弁当が、そこにあった。
 
 
                                          つづく

2008.04.06 PUBLISHED
2008.06.01 REVISED



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第四話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:23


独りで寝るのが、なぜか寒かった。常夏の第3新東京市で、なぜか寒い。
 
葛城一尉にしがみつかれるようにして就寝したのは、ここに居住するようになってから僅かに6回。痛かったり、苦しかったりして、そのときには好ましいとは思わなかった。
 
それなのに、いざ離れて就寝することになると、その温もりを求めてしまう。眠りという仮初めの死を、誰かに包まれてすごすという安堵を、身体が覚えてしまっていた。
 
知らずに得たものでも、知らずに失うことはできないらしい。
 
これまでは、眠りなど寒くなかったのに。これまでは、眠りなど怖くなかったのに。
 
代わりに得たのは、新たな孤独。知らなかった孤独。振り払いようのない感情を、持て余しているということを、言葉ともども知らなかった。 
 
 
…………
 
 
綾波レイのこの肉体は、定期的な検診が欠かせない。
 
最近、そのことに変化があるとすれば、赤木博士がよく顔を出してくれるようになったことだろう。
 
今は形成外科の主治医と面つきあわせて、憔悴のはげしい顔をしかめているが。
 
「なによリツコ~、全館放送でいきなり呼び出したりして。アタシだってヒマじゃないのよ」
 
処置室のドアを開け放つなりそう言ったのは、葛城一尉。
 
私もよ。と椅子ごと振り向いた赤木博士をなんと表現していいのか、私は知らない。ただ、後退った葛城一尉が、閉まったドアに張り付くよう。
 
鼻腔の中身を吐き出すような嘆息をした赤木博士が、携帯端末を取り上げてなにやら入力しだした。
 
「葛城一尉。綾波レイを貴女の保護下におく件、技術部、医療部の連名で撤回させるわ」
 
「ええっ!そんな横暴な!」
 
これを見てまだそんな口が叩けるかしらね。と指さすのは、私の胸部X線写真が2枚貼り付けられたシャーカステン。
 
「これって… レイのアバラ骨? 治ってきてるんじゃないの?」
 
「逆よ。右がこの前の退院時、左が今日」
 
「ええ!? なんで悪化してんのよ!」
 
肺の中身をすべて吐き出すような嘆息をした赤木博士が、貴女のせいでしょが…。と、ひどく小さく呟いた。
 
「寝相の悪い貴女と一緒に寝てるって聞いた時点で、この事態を予測してしかるべきだったわ」
 
「寝相…って、アタシのせい!?」
 
赤木博士の顔を見、主治医の顔を見、最後に私の顔を見た葛城一尉が、自らを指さして。
 
「ホントに…?」
 
なぜか、頷くことがためらわれた。血の気すら引いて、それほどに葛城一尉の表情はひどい。愕然と呼ぶのだと、のちに知る。
 
頷くべきか、頷かざるべきか迷ってるうちに、そう…と呟いて葛城一尉はうつむいてしまう。
 
「これで解かったでしょ、貴女と暮らさせてはおけない理由」
 
頷いた葛城一尉が、それで…。と面を上げた。
 
「どうするの?」
 
「そうねぇ…、とりあえず私が預かろうかとも思ったのだけれど…」
 
言葉とともに向けられる視線はやさしいけれど、それだけではない成分を含んでいそうで重い。
 
「反対よ。ロクに家に帰んないあんたのトコじゃあ、前と一緒じゃない」
 
そうなのよねぇ…。と、嘆息。
 
2人とも、私のことを考えてくれているらしいということは判る。
 
それを嬉しいと感じているのに、なぜか胸の裡に重苦しさがわだかまってゆく。それがなにか、解からない。
 
なんだか悲しくなって、診察台の端を掻いた。
 
 
 ≪ 技術部第一課E計画担当の赤木リツコ博士、赤木リツコ博士、至急第7ケィジまでご連絡ください ≫
 
「あら? 初号機に何かあったのかしら」
 
立ち上がった赤木博士が、足早に処置室を横断する。
 
「レイ、今日はもういいわ。あがりなさい」
 
「…はい」
 
ドアを開けて退出しかかった赤木博士が足を止め、
 
「それとミサト、とにかく寝床だけでも別々にしときなさい」
 
「ええ、…そうするわ」
 
赤木博士を身体の向きごと見送った葛城一尉は、こちらからでは背中しか見えない。けれど、シャーカステンを見やって吐いただろう溜息が、重かった。
 
 
…………
 
 
横手に見えるのは、葛城一尉の私物で組まれたバリケード。その向こうから聞こえてくる、高らかな寝息。イビキと、呼ぶのだそうだ。
 
畳の上に散乱する私物を押し退けるようにして場所を作り、葛城一尉がもう一組布団を敷いた。すこし、窮屈だ。
 
そっちまで転がってったらシャレになんないもんねぇ。と、苦笑いしながら組んだバリケードが堆い。
 
葛城一尉のイビキを聞いていると、抱きつかれていた感触がないことが喪失感を生む。
 
1人で居るより独りだった。
 
 
堪えきれずにリビングへ逃げ出したけれど、葛城一尉のイビキが追いかけてくる。逃げ場を探した視線をカーテンが誘ったので、ベランダに出た。
 
見上げる夜空に、この惑星の衛星。……月。満ち満ちて、空に独り。
 
月は、満ちれば満ちるほど、輝けば輝くほど独りになるという。月が明るくなれば、相対的に星々が夜闇に沈むから。
 
あなたは、寒くないの?
 
…私は。と洩れたつぶやきは、背後に聞いた物音に堰き止められた。
 
振り返ると、小さなシルエット。このヒト知ってる、ペンペン。新種の温泉ペンギンだと葛城一尉に紹介された。
 
「クワ~」
 
3歩。近づいてきたペンペンが、私を見上げる。
 
なぜか目線の差が不自然に思えて座り込むと、小さな体を投げ出すようにして膝の上に座り込まれてしまった。
 
目前で揺れる、赤いとさか。
 
「…なぜ?」
 
「…ク~ワっ」
 
ペンギンという生き物を、綾波レイも見たことがない。けれど、南極のなくなったこの惑星ではほぼ絶滅動物に等しいこの生物について、幾ばくかの知識を有していた。そうした本を選んで読んだ、時期があった。
 
ペンギンは、鳥類の中では例外的に縄張り意識のない鳥なのだそうだ。
 
酷寒の南極で生き残るためにペンギンは、ハドリングという押し競饅頭をするのだという。
 
ペンペンは、ハドリングをしに来たのだろうか? 温もりを、分けに来てくれたのだろうか? 私から、温もりを得られるのだろうか?
 
嬉しくて、そのつややかな羽毛を撫でた。なのに湧き上がる涙を、おさえきれない。
 
ぬるま湯のような夜風の中、ヒトになりきれぬ使徒と、ペンギンと、見下ろしてくる月だけだった。
 
すすりあげると右第七肋骨の継ぎ目に響いて、それまでもが私を苛んだ。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:23


リビングで葛城一尉が「実は予定が入ってたのよねぇ」と言い出したとき、鈴原トウジと相田ケンスケが碇君を訪ねて来ていた。
 
 
 
「MiL-55D輸送ヘリ!こんなことでもなけりゃあ、一生乗る機会ないよ。まったく、持つべきものは友達って感じ!なぁ、シンジ!」
 
相田ケンスケが、興奮した様子でビデオカメラを振り回している。
 
「えぇ?」
 
ローターの音で聴き取りづらかったのだろう。碇君が聴き返した。
 
「毎日同じ山の中じゃ息苦しいと思ってね。たまの日曜だから、デートに誘ったんじゃないのよん♪」
 
副操縦士席から振り返って、葛城一尉。
 
「ええっ!ほんじゃぁ、今日はほんまにミサトさんとデートっすか? この帽子、今日のこの日のために買うたんです~!ミサトさ~ん♪」
 
後部キャビンの床面。碇君の足元に座り込んでいた鈴原トウジが、被った帽子に手を当てながら膝立ちになる。
 
MiL-55D輸送ヘリは、本来4人乗りだ。機長と副操縦士に乗員2人。背もたれがないのを気にしなければもう1人座れるが、副操縦士を追い出してもまだ1人余った。
 
眉根を寄せてうなる葛城一尉を尻目に、「オナゴを床なんぞに座らせとけへんからのぅ」と、真っ先に床面に座り込んでしまったのだ。
 
 
「で…どこに行くの? …」
 
「豪華なお船で、太平洋をクルージングよ♪」
 
行き先は見当がつく。私が赤いエヴァンゲリオンだった頃、船旅を経験したことがあるから。
 
「ねぇ、レイ。あなた、もしかして怒ってる?」
 
ぼんやりと窓外を見やっていた視線を、顔ごと葛城一尉に向ける。
 
「…私が? …なぜ?」
 
う~ん。と唸って、葛城一尉が後頭部を掻いた。カタチだけでも着けといて下さい。と言われてかけているヘッドセットインカムがずり落ちた。きちんと装着していないからだろう。
 
「だって…ほら、お買い物行く約束、してたじゃない」
 
綾波レイにも私にも、私物などほとんど必要ない。
 
栄養補助食品を摂取するときに、水を汲むためのビーカー。身体を拭くのに必要なタオル。
 
清潔さを保つために下着とブラウスは多めに支給してもらうようにしたが、衣服も必要最低限。
 
第一中学の制服を除いては、医療部から退出する時にそのまま借り受けた病衣しか持ってないことを、葛城一尉はひどく驚いていた。
 
就寝時に衣服を着用する習慣を持たない私に着古したパジャマを押し付けた葛城一尉は、今度の日曜日に服を買いに行くわよ!と息巻いていたのだ。
 
「…別に」
 
葛城一尉から顔をそむけ、見下ろしたのは自分の右腕。
 
比較的負荷の少なかった右尺骨がほぼ癒合し、18万7267回前にギプスが取れたのだ。まだ念のために装具を巻いているが、右手は自由に使えるようになった。
 
残念だったのは、今日、洞木ヒカリに料理を教わるはずだったこと。私の希望通り、ピンク色したポテトサラダを教えてもらう予定だったのだ。
 
このことは、葛城一尉にも碇君にも話していない。洞木ヒカリは、黙っておいて驚かせた方がいいと言う。驚くと心拍数が上がって、心臓に負担がかかると思うのだけど…。
 
ふと面を上げたら、相田ケンスケが私を見ていた。
 
相田ケンスケと鈴原トウジに対しては、洞木ヒカリによって緘口令が発令されている。どのような権限に基づいているのか、私は知らない。
 
視線が合ったのを受けて眉尻を下げた相田ケンスケが、何に気付いたか窓外に視線を戻した。
 
「おおーっ!!空母が5、戦艦4、大艦隊だ!ほんと、持つべきものは友達だよなぁー!」
 
 
***
 
 
風に飛ばされた鈴原トウジの帽子を、反射的に掴んだ。
 
「おっ!おう。おおきに」
 
手渡して言われたのが感謝の言葉だと、このときは知らなかった。
 
「おぉー!すっごい、すっごい、すごい、スゴイ、凄い、凄ぉい、凄い、凄すぎるーっ!男だったら涙を流すべき状況だね♪」
 
相田ケンスケは、まるでビデオカメラに引き摺られるように縦横無尽。
 
「ハロゥ、ミサト。元気してた?」
 
飛行甲板に、年若い女のヒトが立っていた。
 
このヒト知ってる。惣流アスカラングレィ。私が赤いエヴァンゲリオンだったときの、パイロットの娘。あるいは、弐号機パイロット。
 
「まぁねー。あなたも、背、伸びたんじゃない?」
 
私は今まで、このヒトのことを気にかけたことがなかった。
 
「そ。ほかのところもちゃんと女らしくなってるわよ」
 
しかし、ヒトの身になった今。それではいけないと思う。
 
さまざまなヒトと出会い、そのココロを知って、ヒトというもの、ヒトであるということを理解したい。
 
だから、惣流アスカラングレィの元に歩み寄った。新たな出会いを迎えるために。
 
「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、セカンドチルドレン、惣流アスカラングレィよ」
 
風向きが変わった途端にまなじりを吊り上げた惣流アスカラングレィが、こちらに向かって歩いてくる。反射的に立ち止まった私を無視してそのまま突き進むと、掌を振り上げて相田ケンスケをビデオカメラごと打った。
 
振りぬいた掌が翻るのを見たから、その背中を追う。
 
さらに鈴原トウジを打った惣流アスカラングレィが、その勢いで大きく踏み込む。無駄のない動きで2人を叩いた惣流アスカラングレィの、次の標的は碇君だろう。
 
その手首を、かろうじて掴んだ。
 
「…どうして、そういうことするの?」
 
「なによアンタ。見物料よ、見物料。安いモンでしょ」
 
掴んだ手首をねじって、掴み返そうとしてきたから、放す。このヒトの格闘センスが高いのは、いま見て判ったから、まともにやりあう気はない。
 
「アンタだって見られてんだから、一発殴っときなさいよ」
 
「まっ、待たんかい!綾波はシャレんならん。
 ソーリューっちゅうたか? わしらが悪かったから、綾波をけしかけんのは堪忍してくれ」
 
吊り上げていた眉をたちまち下げて、鈴原トウジが両手を突き出しながら後退さった。
 
鈴原トウジの顔と私の顔を2往復した惣流アスカラングレィが、左眉だけ下げる。
 
「殴ったコト、あんの?」
 
突き出した親指で肩越しに鈴原トウジを指し示したので、頷いた。
 
「へ~、ヒトは見かけに拠んないわねぇ。で、アンタがファーストチルドレン?」
 
「…ええ、」
 
それで。と葛城一尉に向き直った惣流アスカラングレィは、なぜ最後の瞬間まで私から視線を逸らさなかったのだろう? はじめまして。と言う暇も与えてくれなかったのに。
 
「来てるんでしょ、もう1人。まさか…」
 
「違うわ。このコよ」
 
葛城一尉が、碇君に視線を預けた。
 
「ふうん。アナタが碇シンジね。プロトタイプのパイロット」
 
覗き込むように顔を寄せた惣流アスカラングレィが、一転、胸を張る。
 
「ワタシ、アスカ。惣流アスカラングレィ。エヴァ弐号機のパイロット、仲良くしましょ」
 
「…うん。よろしく……」
 
惣流アスカラングレィが私にはそう言ってくれないのは、私がヒトとして充分ではないからだろうか?
 
この私の偽りを見透かされたような思いがして、嘘をついたわけでもないのにココロがきしむ。物理的な痛みすら伴って、胸骨の辺りが絞られるようだ。
 
惣流アスカラングレィのその背中が、まるでATフィールドを張ったように私を拒んでいた。
 
 
***
 
 
「綾波、みな行ってまうで。着いてかんのかいな?」
 
鈴原トウジがそう呼びかけてくれなければ、私はずっと飛行甲板に立ち尽くしていたかもしれない。
 
今もまだ、胸の痛み以外の感覚を実感しきれないでいる。
 
 
「「「 えぇ~っ!!! 」」」
 
大きな声に顔を上げると、テーブルの向こう側、葛城一尉の正面に、まばらに髭を生やした壮年の男のヒトが居た。このヒト知らない。あなた誰? あなた誰? あなた誰? …
 
「なっ? なっ!なっ★…何言ってるのよ!」
 
「相変わらずかい?」
 
その視線が私に向いていたから、私への質問なのだろう。
 
「…なに?」
 
「彼女の寝相の悪さ、さ?」
 
このヒトの視線……、同じような目つきを葛城一尉がしていたことがある。458万6493回ほど前、知り合ってしばらくした後に。
 
いったい、この私に何を見ようとすればそんな目つきになるのだろうか?
 
 「冗談…悪夢よ、これは…」
 
葛城一尉は頭を抱えてなにやら呟いていて、判断を仰げそうにない。
 
「…答えていいか、判りません」
 
なにより、にらみつけてくる惣流アスカラングレィから逃れたくて、顔を逸らした。
 
 
***
 
 
「さ、ワタシの見事な操縦、目の前で見せてあげるわ。ただし、ジャマはしないでね」
 
なぜ私がここに居るのか、理解に苦しむ。しかも、赤いプラグスーツまで着せられて。
 
 
「L.C.L. Fullung, Anfang der Bewegung Anfang des Nerven anschlusses.Ausulosung von Rinkskleidung.Synchro-Start.」
 
「バグだ。どうしたの?」
 
エスカレーターの上で待ち構えていた惣流アスカラングレィに輸送艦まで連れてこられ、弐号機を見せられたまではいい。
 
「思考ノイズ!ジャマしないでって言ったでしょう!」
 
「なんで?」
 
「アンタたち日本語で考えてるでしょう? ちゃんとドイツ語で考えてよ!」
 
見下ろしてくる視線が痛かったのも、まだ耐えられる。
 
「判ったよ… …バウムクーヘン?」
 
「バカ!いいわよ、もう!思考言語切り替え、日本語をベーシックに!」
 
だけど、惣流アスカラングレィと同じプラグの中で、同じコアにシンクロすることが何をもたらすか…エヴァンゲリオンであった私にも予想できなくて、怖い。
 
「エヴァンゲリオン弐号機、起動!」
 
目前に広がるのは、オレンジ色した水面と赤い空。弐号機の、ココロ。
 
風もなく連なるさざなみは、惣流キョウコツェッペリンのココロがもたらした、虚無への供物。
 
惣流アスカラングレィのココロは遠く、きっと水平線の彼方。
 
ここであの視線に晒されたら、私のココロは融けて毀れたかもしれない。我知らず、そっと息をつく。それを安堵と云うのだと、のちに知った。
 
 『 いかん、起動中止だ、元に戻せ! 』
 
 『 かまわないわアスカ、発進して! 』
 
オレンジ色の水面を伝うさざなみは、私を中心として広がっている。それは、ここが弐号機のココロの中心だから。
 
赤いエヴァンゲリオンであったことのある私だから、ここに居る。
 
「海に落ちたら やばいんじゃない?」
 
「落ちなきゃいいのよ」
 
碇君のココロも、惣流アスカラングレィのココロも、ここから遠い。おそらく、数十パーセント程度のシンクロ率では、あんなものなのだろう。間接制御をパイロットとして経験したことのない私では、その辺りの機微が判らないが。
 
 『 シンジ君も乗ってるのね。…レイは? 』
 
「はい」
 
「…居ます」
 
その言葉に、ここに居ることが不測の事態であることを思い出した。
 
今後、弐号機に乗ることはないだろう。ということだ。
 
 …
 
 『 アスカ、出して! 』
 
もし、弐号機に対してなにか仕掛けを施すなら、今しかない。
 
覚悟を決めて、さざなみが特に強くなびく方向へと進みだした。
 
「来た」
 
「行きます」
 
弐号機に対してとっさに、ATフィールドの遠隔小展開を指示する。赤いエヴァンゲリオンでもあった私には、容易い。惣流アスカラングレィにも碇君にも、悟られなかっただろう。
 
「どこ?」
 
「あっち!」
 
足場にされた艦艇の無事を視界の隅で確認して、安堵した。私が赤いエヴァンゲリオンだったときに感じた、小さな粒が弾けるような感覚。それがなんだったのか、今の私は知っている。
 
意識の一部をATフィールド展開のために残して、再びオレンジ色の水面を歩き出した。
 
「あと58秒しかないよ!」
 
「解かってる。ミサト!非常用の外部電源を甲板に用意しといて!」
 
 『 わかったわ 』
 
やがて見えてきたのは、小さな、歳若い女のヒトの姿。
 
こちらからでは後ろ姿しか見えないし、距離もある。けれど、さざなみが十重二十重に取り囲み、その正体は一目瞭然だ。
 
「さあ、跳ぶわよ」
 
「跳ぶ?」
 
なぜ惣流アスカラングレィが幼い姿をして見えるのだろうかと考えた途端、ヒトの産みだした間接制御というものが理解できた。
 
群という選択をしたヒトという生物は、ココロの中にこそ強固なATフィールドを張れる。使徒とは逆に。
 
「エヴァ弐号機、着艦しまーす!」
 
相容れない模造使徒とヒトを繋ぐために、エヴァンゲリオンの虚無でATフィールドを壊されたヒトを人柱として埋め、ATフィールドが未熟か、穴を穿ちやすいヒトをパイロットに据える。そういうことではないか?
 
「来るよ、左舷9時方向!」
 
「外部電源に切り替え」
 
ここに見える惣流アスカラングレィは、惣流キョウコツェッペリンが見ている惣流アスカラングレィなのだろう。弐号機のココロの視点で見ている私は、それに準じるのだから。
 
「切り替え終了!」
 
惣流キョウコツェッペリンの視点で惣流アスカラングレィを見ることで、相対的にATフィールドを弱め、ココロの壁に穴を穿ち、それによって弐号機を動かす。
 
それは、とてもいびつな三角形をなす制御方法だった。
 
「でも、武装がない」
 
「プログナイフで充分よ」
 
ここに居るのは、母親という名のアンチATフィールドによってATフィールドを剥がされた惣流アスカラングレィだ。その剥がされ加減、それによるエヴァンゲリオンとの適合度合がシンクロ率ということになるのだろう。
 
そしてそれは、そのままここでの見た目に比例し、今はこうして幼い姿を見せている。
 
パイロットがよりココロを開き、人柱がそれに応えたとしたら、惣流アスカラングレィはもっと幼く見えるようになるだろう。おそらく、シンクロ率100パーセントで、生まれる直前の胎児。シンクロ率400パーセントなら、着床したばかりの受精卵ではなかろうか?
 
だからこそエヴァンゲリオンの中で、人柱は歳をとらない。記憶の中で、子供を子供のままに留め置くために。
 
「結構でかい!」
 
「思った通りよ」
 
甲板上の全面と、艦橋取舵側を守るようにATフィールドを展開させる。
 
 『 アスカ、よく止めたわ! 』
 
ガギエルを受け止めるために張ったATフィールドは大掛かりで、少々集中力が要った。ココロの視界を一時、閉め出す。
 
「コア、どこだろ?」
 
「…体表には確認できないわ。第5使徒同様、体内だと思う」
 
えぇ!? と、こちらを振り向いた惣流アスカラングレィの、視線が痛くない。
 
そうして気付いたのは、あの視線、あの態度がまさしく惣流アスカラングレィのATフィールドであったということ。あれは、私を攻撃したのではなく、自らを守っていただけと知る。
 
「クチぃ!?」
 
「使徒だからねぇ…」
 
今の弐号機と惣流アスカラングレィでは、ガギエルの巨体と力をいなすことは難しいだろう。
 
だからと云って、もっとココロを開け。と言うのは間違っているような気がする。
 
あのヒトは、私が自身の支配下にあるよりも、私自身の意志で動くことをこそ慶んでくれた。あのヒトは私のことを子供と呼んでくれたから、それこそが正しい親子の姿なのではないかと思う。
 
子を親の付属物と見做し、その強制力を利用するやり方を、あのヒトもきっと嫌っていただろう。
 
「こんのぉお!」
 
意識を、弐号機のココロへ、その中心に戻す。場所さえ判っていれば、ココロの中で距離に意味はない。
 
「…私のココロをあなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる」
 
惣流アスカラングレィを受け入れなさい。…ほら、心地いいでしょう? ココロが充たされるでしょう?
 
碇君の時と違って、今の私のココロからでは、弐号機のココロを充たしきれなかった。
 
私自身、まだ惣流アスカラングレィを受け入れきれていないのだから、当然だろう。
 
だから、さざなみの中心に掌を当てる。その波が大きくなるよう、オレンジ色の水面を揺らす。
 
パイロットの側のココロを開くのではなく、人柱の方の意識の覚醒度を上げてやるのだ。弐号機が惣流アスカラングレィに歩み寄った今、こうすることでハーモニクスが上がる。
 
「ひっ・らっ・け~っ!!」
 
力任せにガギエルの口を押し開いた弐号機が、勢い余ってその上顎を引き千切る。
 
すかさず蹴り込まれた踵がコアに罅を入れ、プログレッシブナイフの一閃が止めを刺した。
 
 
***
 
 
「ねぇ加持さん♪ワタシの活躍、見てくれた?」
 
「あっ? …ああ、…もちろんだとも」
 
エスカレーターを先に降りる惣流アスカラングレィは、まばらに髭を生やした壮年の男のヒトの腕にぶら下がるよう。
 
あのヒトは加持一尉。憶えた。
 
それよりも、加持一尉が提げているトランクが気になってしょうがない。ひどく微弱ながら、使徒の波動を放っているのだ。弐号機の知覚越しに認識していなかったら、気付けなかっただろう。
 
ガギエルのコアを回収でもしたのかと考えたが、辻褄が合わない。この波動に気付いたのはガギエルを斃した直後、その波動が途絶えた静寂の中だったのだから。
 
 
「ペ、ペアル… 三角関係!?」
 
「イヤ~ンな感じ!」
 
先に降りて待っていたらしい鈴原トウジと相田ケンスケが、奇妙な声を発している。
 
碇君が身体をよじっているけど、どういう意味があるのだろう?
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第伍話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2013/02/20 13:55

「綾波さん、意外と呑み込みいいのね」
 
「…そう?」
 
通常エヴァンゲリオンは、肉体の使い方を人柱になったヒトから奪って憶える。
 
私の場合は、あのヒトが手取り足取り教えてくれた。だからかもしれない。料理の動作が身に馴染むのは。
 
ガギエルと戦ってから65万0138回経った今日、ようやく洞木ヒカリにピンク色したポテトサラダの作り方を教えてもらえるのだ。
 
それじゃあ今度の日曜日にしましょう。と言われた時、その根拠が解からなくて悲しかった。待ち遠しいという感覚を知った。
 
いまだによく解からないのが、ヒトが使う週という時間の概念だ。
 
日は解かる。この惑星の自転周期だから。年も解かる。この惑星の公転周期だから。月も、解からないでもない。この惑星唯一の衛星の、公転周期だから。
 
でも、週は解からない。いったい何に基づいているのだろう?
 
 
ラップフィルムをはがして、3個目のじゃがいもの皮をむく。指の下で滑るような感覚が、なんだか愉しい。
 
「って、綾波さん!指先が真っ赤になってるじゃない!熱くないの!?」
 
私を流しまで押しやった洞木ヒカリが、指先を流水にさらす。
 
「…問題ないわ」
 
「嘘おっしゃい!ああもう、火ぶくれできちゃってる」
 
いい? このまま冷やしてるのよ。と言い置いて、洞木ヒカリがキッチンをあとにした。
 
この程度の熱さなど、無視すればいいことなのに。
 
 
「指先、どう?」
 
救急箱を抱えて戻ってきた洞木ヒカリが、蛇口を止めて私の指先を観察した。
 
「痛くない?」
 
指先の熱傷に薬を塗りながら、そう訊ねてくる。
 
「…どうして?」
 
「なぁに?」
 
小首をかしげながら、しかし洞木ヒカリは治療の手を止めない。
 
「…洞木さんがしているようにしたわ。なのに、なぜ怒るの?」
 
私の顔をしばし見つめていた洞木ヒカリが、唐突に笑い出した。
 
「…?」
 
なぜ洞木ヒカリは、笑っているのに目尻に涙を浮かべているのだろう。
 
「ごめん…な…さい…」
 
なぜ謝罪するのか判らないし、涙の理由も、どうして笑うのかも解からない。
 
 …
 
ある意味、ノゾミより難物ねぇ。と肺の中身をすべて吐き出すように嘆息した洞木ヒカリが、眉尻下げて微笑んだ。
 
「一所懸命なのはいいことだけどね、綾波さん。あなたと私では年季が違うの」
 
ほら。と指先を見せてくれる。
 
「指先の皮が、綾波さんと比べて厚いでしょ? それに綾波さん色白で、肌も弱そうだし」
 
洞木ヒカリの指先と、自分の指先を見比べた。赤くなって火ぶくれができた私の指先と、何の支障もなさそうな洞木ヒカリの指先。
 
私がジャガイモを1個むく間に、3個の皮をむくその指先。
 
そうして覚えたのが、羨ましいという感情だということを、のちに知る。
 
「…熱くても、かまわないわ。気にしなければいいもの」
 
それは、この指先の脆弱さへの反発だっただろう。
 
拗ねる。という言葉を、のちに知った。
 
「ダ・メ・よ!綾波さん大事な身なんだから、身体を大切にしなくちゃ」
 
「…大事な?」
 
思い出したように、洞木ヒカリが私の指先の治療を再開する。
 
「綾波さん、パイロットでしょ。身体、大切なんじゃないの?」
 
確かに、洞木ヒカリの言うとおりだと思う。
 
痛みを無視するために、いま私の指先は感覚が鈍い。無用の負傷が、任務の妨げになる可能性を否定し切れなかった。
 
「…そうかもしれない」
 
「…そうなの!だから、お体、大切にしてね」
 
絆創膏を取り出し、指先の一本一本に巻きつけてくれる。
 
「…ええ」
 
はい、おしまい。と洞木ヒカリが剥離紙を丸めて捨てた。
 
「…ありがとう、洞木さん」
 
「どういたしまして」
 
 
****
 
 
火傷が治るまで、料理のお勉強はおあずけ。と宣告されて、帰路についた。
 
 
「ごめんなさいね?」
 
ジャンプスーツにエプロンをかけた女のヒトが、大きなダンボール箱を2個抱えたまま、笑顔で。
 
「…いえ」
 
エレベーターが11階へ到着。乗った時の遣り取りから推測して、開のボタンを押した。
 
「ありがとう」
 
「…どういたしまして」
 
女のヒトに続いて、エレベーターを降りる。
 
 「あ~、それリビングね。ワレモノだから!」
 
見れば、11-A-3号室のドアが開いていて、目前を歩く女のヒトと同じ服装をした女のヒトたちが中で立ち働いていた。
 
「荷物、これで最終で~す」
 
「おっけ~!それじゃあ、開梱作業に移って~」
 
「「「「は~い!」」」」
 
カードキーを通して、11-A-2号室のドアを開けたときだった。
 
「ああ、レイ。ちょうど良かったわ」
 
11-A-3号室のドアから、赤木博士が現れたのは。
 
「…赤木博士?」
 
白衣を着ていない赤木博士を見たのは、初めてだった。
 
それに、このところ消えることの無かった目の下の隈が、今は薄い。
 
「隣りの部屋に、引っ越してくることにしたの。これなら貴女を引き取っても、好きなだけミサトのところに居られるでしょう?」
 
まあそれはともかく。と言葉を続けた赤木博士が、昼まで休みが取れるはずだったのに呼び出しが入ったのよ。と苦笑い。
 
「それで申し訳ないけれど、業者の作業が終わったら確認のサインだけ頼める?」
 
「…はい」
 
それじゃあよろしくね。と足早にエレベーターホールへ向かった赤木博士が、歩きながら振り返った。
 
「貴女も、身の回りのものを纏めておきなさい」
 
「…はい」
 
 
その日に行なわれたという非常召集に私は呼ばれなかったから、サインをすることに問題はなかった。
 
イスラフェルへの対策のために葛城一尉も赤木博士も帰ってこなかったから、まとめた身の回りのものをどうすればよいのか、判らなかったけれど。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第六話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:24


初号機は、ラミエルとの戦いで受けた傷の修復が、まだ終わっていない。
 
現状では碇君のほうが零号機とのシンクロ率が高いため、イスラフェルとの戦いに私は参加できなかった。
 
碇君は惣流アスカラングレィを能くサポートして善戦したらしいけれど、結果として弐号機と零号機は敗れ、N2爆雷による足止めを敢行したそうだ。
 
 
今からなら初号機の回復の方が早い。零号機の修復はひとまず見送られて、第四次直上会戦は初号機と弐号機によって行なわれることになった。
 
 
「そんで、綾波と惣流は学校休んで特訓ってワケやったんですか
 センセもミっズクサイのぅ、そないならそないやて、言ぅてくれりゃぁええのに」
 
「学校で話せるわけないよ」
 
 右足を前、左足を左、右手を後ろ、左手を前方左。
 
「…で、ユニゾンは上手く行ってるんですか?」
 
 右手を前方右、左足を後ろ、右足をひとつ手前、左手を内側へふたつ。
 
「それは、見ての通りなのよ…」
 
 右足をひとつ後ろ、左手を斜め右、右手を最前列左へ伸ばした時に軋んだ右第七肋骨に気を取られて、次の左足が遅れた。
 
途端にブザー。
 
まずは動作の一致とその同調を意図した、訓練の第一段階。ランダムに点灯するランプに、同じタイミング、同じ動作で触れるだけ。でも、それすら、ままならない。
 
「「「「 はぁ~… 」」」」
 
惣流アスカラングレィが、ヘッドホンを投げつける。
 
「当ったり前じゃない!ファーストなんかに合わせてレベル下げるなんて、うまく行くわけないわ!どだい無理な話なのよ」
 
それは事実なのだろう。
 
エヴァンゲリオンとして戦ってきた経験があるから、技量は充分のはずだ。しかし、この肉体と惣流アスカラングレィでは、体力差がありすぎた。
 
それに、この訓練を始めた時にまた外れた右第七肋骨から第九肋骨までが、身体をねじるたびに軋む。
 
痛みを無視すればついていけないこともないが、そうすれば完治までの時間が延びる一方になる。
 
 
「じゃあ、やめとく?」
 
「他に人、いないんでしょ?」
 
葛城一尉が、視線だけ碇君に向けた。
 
「シンちゃん」
 
「はい?」
 
鈴原トウジのコップにオレンジジュースのお代わりを注いでいた碇君が、そのままで応える。洞木ヒカリが碇君を見つめているのは、なぜだろう。
 
「やってみて」
 
「えぇ!?」
「ぅおっとぉ!」
 
注ぎすぎたオレンジジュースが、少しこぼれた。
 
「レイも、シンちゃんと踊ってみたいわよねぇ?」
 
碇君と、踊る?
 
理由は判らないけれど、なんだか愉しそうな気がして、頷いた。
 
「ほらほら、女の子を待たせない」
 
葛城一尉に急きたてられて立ち上がった碇君は、しかし乗り気ではないようだ。
 
私とでは、踊りたくないのだろうか?
 
予備のヘッドホンを手にして、碇君が感圧マットの上に乗る。
 
「綾波、もしかして脇腹が痛いんじゃない?」
 
「…なぜ、わかったの?」
 
最近綾波、そういうの見せてくれるようになったからね。と苦笑い。
 
 
ヘッドホンを着けた碇君が正面を向くのと、音楽が始まるのが同時だった。
 
 右手を右に、左手を前に、右足を後ろに、左足をひとつ前。
 
大丈夫。ついて行けそう。
 
 左足の内側で点灯したランプに、碇君はそのまま左足で対応した。次に右端で点灯したランプには、右手で対応する。
 
惣流アスカラングレィなら右足で、惣流アスカラングレィなら左手で対応しただろう。あのヒトの基準は、同じ四肢を連続で使わない。選択肢があれば難易度の高い方、なのだ。その選択肢が、私には読みづらい。
 
 右足を一つ前、そのまま横へ。右手の左隣へは、なぜか左手で対応した。いや、右手で対応していたら体勢が悪くて肋骨に負担をかけただろう。
 
碇君の基準は明快だ。より簡単に、より確実に。ただし、右半身への負担が軽くなるよう配慮。
 
そうと判れば、もう碇君を見て、ついて行く必要はない。
 
同じ基準で判断し、呼吸さえ合わせれば、それだけで一緒になる。
 
 … 左手を一つ下、右足を斜め右前、左足は一つ後ろ、さらに後ろ。
 
もう考える必要もなかった。反射的に対応するだけで、碇君と一緒だった。
 
  … 右手、右手、左足を前に。右足を左に、左手を一つ右。
 
これが碇君と踊るということだろうか? 出題ごとに鳴る電子音まで、心地よい。
 
   … 左手、右手、そのまま一つ横に。左足、右足、左手。
 
ヘッドホンから流れるこの音楽を、初めて最後まで聞いた。
 
「これは作戦変更して、シンちゃんと組んだほうがいいかもね」
 
「ええっ!?」
 
表示されたスコアは、89。今まではずっと、ERROR。
 
「もう、イヤッ!やってらんないわ」
 
引き戸を叩きつけるようにして、惣流アスカラングレィがリビングを後にした。
 
「アスカさん!」
 
床に落ちていたヘッドホンを拾って、洞木ヒカリが立ち上がる。
 
「…鬼の目ぇにも涙や」
 
「い~か~り~く~ん!」
 
まなじりを吊り上げた洞木ヒカリを見るのは、3度目。1度目は、プールで水泳の授業の時。2度目は、裏庭で鈴原トウジを殴る前に。
 
「追いかけてっ!」
 
「え?」
 
ヘッドホンを力いっぱい握りしめているだろうことが、その手の震えで判った。
 
「女の子泣かせたのよ!責任取りなさいよ!」
 
泣かせた? 碇君が? 惣流アスカラングレィを? 私と踊ったから?
 
碇君と踊っては、いけなかったのだろうか?
 
「…私が行くわ」
 
そのことを確かめたかったから、惣流アスカラングレィの後を追った。
 
 
***
 
 
こういう時、ヒトがどこに行くのか、見当もつかない。
 
コンフォート17マンションの周辺を探しに探してコンビニエンスストアの前まできたとき、開いた自動ドアの向こうに立っていたのは、惣流アスカラングレィだった。
 
「…」
 
店内から漂ってくる冷気がまるで、惣流アスカラングレィから発してるかのようだ。
 
にらみつけてくる視線は鋭いけれど、眉尻は低い。やぶにらみと言うのだと、のちに知る。
 
そこにいかなる感情が乗せられているのか推し量ることすら出来ないけれど、それがココロの壁に過ぎないと解かっていれば、痛くはない。
 
「…碇君と踊っては、いけなかった?」
 
「はぁ…?」
 
右手を上げた惣流アスカラングレィが、無雑作に頭を掻く。とても不機嫌そう。
 
「…惣流さんが泣いたのは、私が碇君と踊ったからだと」
 
「ワタシが泣いたですって!?」
 
誰がそんなデマ!と伸ばしてきた右手は掌底突きさながらの勢いで胸元に打ち当たり、胸倉を掴み上げた。右第七肋骨がきしむ。
 
「…違うの?」
 
「決まってんでしょ!ワタシがそんなことくらいで泣くワケないじゃない!」
 
私の胸元を突き放して、腕組み。
 
きっとミサトね、ンなデマ飛ばすの。と、剣呑な目つきで見上げるのは、コンフォート17マンションだろうか?
 
「…なら、どうして?」
 
「なんでアンタにそんなコト話さなきゃなんないのよ」
 
拒絶の意。と受け取る。
 
「…そう」
 
何を護っているのかは知らないが、そのココロの壁が容易には開かないだろうことは判っていたことだ。だから、悲しくはない。
 
けれど、それは、私がヒトではないからだろうと思うと、ひどく切なかった。
 
これ以上、惣流アスカラングレィの傍に居ては、私のココロが軋む。
 
ここに居たくない。でも、なぜかコンフォート17マンションに戻りたくない。
 
行く宛てがあるわけもなく、ただ逸らした視線の重みに引きずられるように足を出した。
 
「ちょ…、ってアンタ!なんでハダシなの!?」
 
言われて見下ろした自分の足。
 
玄関で靴を履こうとして、靴下を履いていないことに気付いた。靴下を履いてくる時間を鑑みて、そのまま出ることにしたのだ。
 
「ちょっとソコで待ってなさい!いい? 動くんじゃないわよ? 逃げたりしたらヒドいわよ!」
 
振り向いた私の鼻先に、突きつけられる指先。
 
待てと命令した惣流アスカラングレィが、コンビニエンスストアの店内に消えた。
 
 
***
 
 
「…これは、室内履き」
 
「ウっサイ!ゼータク言うな」
 
コンビニに、靴なんかあるワケないでしょうが。とビニール袋から瓶入り飲料を取り出した惣流アスカラングレィが、ベンチの角を利用して王冠を抜いた。
 
ビニール袋を一杯にしてコンビニエンスストアから出てきた惣流アスカラングレィは、私にスリッパを押し付けるやこの公園まで引きずって来たのだ。
 
そうしてベンチにむりやり座らせ、洞木ヒカリがそうしたように足の様子を診てくれた。使われなかった判創膏は、封を切られることもなくビニール袋の中へ。
 
 
「まったく…。ケガでもして使徒戦に差し支えが出たらどうすんのよ」
 
怪我をしても、痛みを無視することは容易い。けれど、この身体を大切にすべきことを洞木ヒカリが教えてくれていたから。
 
「…ごめんなさい」
 
見下ろす指先に、もう判創膏はないけれど。
 
「で? そこまでして追いかけてきて、泣いてるワタシを慰めてくれよってんの?」
 
ベンチの上に立って、見下ろしてくる視線。私の一挙手一投足を、縫いとめるかのような鋭さで。
 
「…慰める?」
 
 
視線を落とす。その高さはきっと…
 
惣流アスカラングレィが泣いたと聞いて思い浮かべたのは、弐号機の中で見た幼い後ろ姿だった。今思えば、あの後ろ姿は今にも泣き出しそうにしていなかっただろうか。
 
そのとき私は、何もして上げられなかった。気付きもしなかった。
 
むかしむかし、泣き喚いた私をあのヒトは抱きしめてくれたというのに、私は何もして上げられなかったのだ。
 
 
「…そう。もし惣流アスカラングレィが泣いているのならば、抱きしめてあげたかった」
 
けれど私には、なぜ惣流アスカラングレィが飛び出したのか、想像することもできなかった。言われて初めてそうかもしれないと気付き、なのに追いかけてみれば惣流アスカラングレィは泣いてなど居なかった。
 
私には。私には、ヒトのココロが理解できない。
 
ヒトの身体の中にありながらヒトのココロではない私のココロが、きしむ。
 
「ちょっ!ナニ泣いてんのよ!ワタシ、そんな酷いコト言ってないわよ!」
 
そういえば、先ほどから惣流アスカラングレィが喚きたてていたような気がする。自分のことに精一杯で、耳に入っていなかった。
 
「ああ、もう!人聞きが悪いったら!」
 
ベンチを飛び降りた惣流アスカラングレィが、正面に回りこむ。
 
「エヴァのパイロットともあろう者が、この程度のことで泣くんじゃないわよ!」
 
「…なぜ?」
 
「なぜって…、当たり前でしょ!ワタシたちは選ばれたエリートなのよ」
 
ヒトのココロはこうも感情に振り回されるのに、なぜそれに身を委ねることすら許されないのだろう。ココロのきしみは、涙で漱ぐしかないのに。
 
理不尽という言葉を、のちに知る。
 
「あ~もう!なんでこんなのが選ばれたチルドレンなの?」
 
選ばれているわけではない。と、思わず口にしそうになった。いけない。ココロの壁が弱くなっている。
 
「いつまで泣いてんのよ!泣いてたって、ナニも解決しないでしょうが!」
 
「…解決?」
 
「そうよ!泣いてる暇があったら、泣きたくなる原因を潰すの!」
 
目を、しばたいた。
 
 
自分自身が唯一無二で絶対である使徒にとって、周囲を取り巻く環境など、一顧だにするほどの価値もない。もし環境が好ましくないなら、自らをより強くすればいい。
 
それは、エヴァンゲリオンにとってもさほど変わることのない認識だ。
 
そうした使徒やエヴァンゲリオンに、環境の方を改変するという発想はない。理解すら及ばないだろう。
 
あまりにも脆弱なカラダをもつヒトは、環境に依存せざるを得ない。けれど、なすがままに身を委ねないのがヒトだった。
 
 
私はエヴァンゲリオンだ。あるがままの状況を受け入れていた。
 
私はヒトだ。状況を無視できる強さがなかった。
 
私はヒトではない。望ましくない環境を自らの手で改変する発想がなかった。
 
私はエヴァンゲリオンではない。環境を変えるという発想を受け入れることができた。
 
私は、私は…ワタシは、ナニ?
 
…私は、
 
「…ヒトに、成らんとするモノ」
 
わかりきった答えを、それでも口にした。
 
はぁ? と訝しがる惣流アスカラングレィを、見上げる。
 
「…なぜ、飛び出したの?」
 
「そんなことアンタに!…」
 
指先を突きつけながら詰め寄ってきた惣流アスカラングレィは、しかし口を閉ざした。
 
「…」
 
身を引いて顔を逸らし、無雑作に頭を掻いて、ちらりとこちらを見る。
 
「なんで、そんなコト知りたいのよ…」
 
「…解からないから。解からないと、悲しくなるから」
 
自分の言葉に悲しさを思い出させられて、また涙腺が緩む。
 
背中を向けて溜息。こめかみに手を当ててうつむいたかと思うと、天を仰いだ。
 
「…ったコねぇ」
 
右足を軸に切り返すように振り返った惣流アスカラングレィは、一歩こちらに踏み込んでくると、カットソーの裾で乱暴に私の頬を拭う。
 
「いい? こんなことはこれっきりよ!二度と言わないから、よく聞いておきなさい」
 
「…いや」
 
かぶりを振ると、惣流アスカラングレィがカットソーの裾を握り潰した。
 
「…泣いてる暇があったら、泣きたくなる原因を潰す。だから、潰れるまで何度でも訊くわ」
 
コイツわ…。と、こぶしを震わせた惣流アスカラングレィは、しかし、短く嘆息しただけで上体を起こす。
 
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん。って言うものね…
 言いたいことを言うのは悪いことじゃないから、訊きたいことを訊くのは自由よ。
 ただし、答えるかどうかはワタシの自由だし、答えたコトを何度も訊くなってコト。解かった?」
 
さっきとは微妙に、主張が違っているような気がする。それがなぜなのか解からないが、不満はないので頷く。
 
惣流アスカラングレィが、腰に手をあてた。仁王立ちと、のちに知る。
 
「まず最初に、侮辱されたと思ったから」
 
「…侮辱?」
 
そうよ。と、人差し指を一振り。
 
「ワタシは、常に最高の高みを目指してる。一所懸命にね。なのに評価されたのはアンタたちの馴れ合いの方」
 
馴れ合い…。ひどく厭な言葉だった。まるで、胸の裡が湧き上がってめくれ返りそうだ。
 
開こうとした口を、人差し指で塞がれる。
 
「ワタシがそう思ったんだから、シカタないでしょ。訊かれなきゃ、ワザワザ言わなかったわ」
 
「…そう? よく解からない」
 
そう口にしておきながら、なぜか理解できた。言葉とともに表情を消していった惣流アスカラングレィの、それはココロの真実だと思えたから。
 
とても不機嫌そうだけれど、それだけじゃないと思わせる。
 
「もうひとつは、アンタ、ワタシにケガしてること言わなかったでしょ。
 付き合い短いから仕方ないかも知んないケド、信頼されてないみたいで…」
 
口をつぐんだ惣流アスカラングレィは、逸らした視線を追いかけるように顔をそむけた。答えるかどうかはワタシの自由。と云うことなのだろう。
 
そのココロの裡こそ私が知りたいモノなのに、それを引き出す術を知らない。
 
だから、今はかぶりを振ることしか出来なかった。
 
「…碇君にも、伝えてなかったわ」
 
「そうなの? …、」
 
眉を上げた惣流アスカラングレィは、顔をそむけたままの姿勢から視線だけを向けてくる。
 
「なら、入り込めそうにないアンタたちの絆に疎外感を覚えた。…のかも知れないわね」
 
…絆、碇君と私の間に?
 
いや、碇君と踊りきった時のあの気持ち、確かに碇君との間に繋がりを覚えた。碇君の私への気遣いと、碇君を理解しようとする私の想いが、縒り合わさっていたように思う。同じものが溶け合うのではなく、違うものが絡み合う。それが絆だと、感じるから。
 
見上げる惣流アスカラングレィの横顔。再び地面に落とされた視線は、しかし、何も見てないような気がする。
 
引き結ばれた口元は、それ以上開かれることはなさそうだ。
 
 
「…なぜ、あなたはそんなにも自分のことが解かるの?」
 
はぁ? とほとんど発声せずにこちらを見た惣流アスカラングレィが、腰に手をあて、再び仁王立ちに。
 
「自分のことなんて、解かって当たり前… でもないか」
 
途中で変わった語調と合わせるように、その雰囲気まで変わったような気がする。
 
「アンタに訊かれなきゃ、なぜ飛び出したかなんて分析、しなかったわよね」
 
腕を組んで、うんうんと頷いている。
 
「お陰でなんだかすっきりしたわ。一応、お礼言っとく、ダンケね」
 
「…どういたしまして?」
 
「そうと決まれば練習再開よ!ほら、ぼぉっとしてない!」
 
いったい惣流アスカラングレィに何が起こったのか、なぜお礼を言われたのか解からぬままに、手を引かれて公園を後にした。
 
 
****
 
 
このヒト知ってる。イスラフェル、第7使徒。そして、さよなら。
 
62秒間の、惣流アスカラングレィとのダンス。私の口元はずっと綻んでいたと思う。惣流アスカラングレィもそうだと、嬉しい。そう思えることがまた、なぜか嬉しい。
 
最後の蹴り。これで終わりなのが少し悲しい。名残惜しいと呼ぶのだと、のちに知る。
 
 
イスラフェルが残したクレーターの中で、ここが湖になることに思い至った。
 
 
                                         つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第六話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:24


「この箱、ここでいい?」
 
「…ええ、ありがとう」
 
惣流アスカラングレィとのユニゾン訓練のために、私の転居は延期されていた。
 
碇君を碇君の部屋から追い出した惣流アスカラングレィの荷物の整理が終わって、私の番。赤木博士の転居時に譲り受けたダンボール箱で二つほどの荷物だけど、碇君は手伝ってくれるのだ。
 
「間取り、ミサトさんのところと逆になってるんだね」
 
「…そうね」
 
赤木博士によって指定されたのは、11-A-2号室なら碇君の部屋だったところ。惣流アスカラングレィの部屋になったところ。
 
「家具の配置、変えるんなら手伝うけど?」
 
部屋には、ベッドと机、衣装ダンスが運び込まれている。ベッドの上に置かれた紙袋の中身は、衣服のようだ。「人任せにしたから、気に入らなかったら言いなさい」と赤木博士は言うが、気に入るとか入らないとか、その意味が解からない。
 
「…いい」
 
「そう? じゃあ僕、自分の荷物の整理があるから帰るけど?」
 
「…ええ、ありがとう」
 
それじゃ。と部屋を後にする碇君を、視線だけで見送る。
 
その姿が見えなくなり、次いで、玄関ドアの開閉音が聞こえてくると、独りきりだということを否が応でも思い知らされる。
 
今まで気にもしたことなどなかった自らの呼吸音が静寂の中で響いて、この部屋をひどく狭く感じさせた。
 
 
今日から、ここに住まなければならない。
 
食事は今まで通り11-A-2号室で摂るし、寂しければいつでも来なさいと葛城一尉は言う。赤木博士と同居で、決して独りきりではないのに。
 
それでも、抑えようのない孤独感に涙が出そうだ。
 
ようやく、……ようやく。バリケード越しの息遣いだけでも、葛城一尉の温もりを感じられるようになったのに。
 
 
ひどく冷たそうに見えるベッドを、にらみつけた。
 
 
                                         つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第七話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:24


「えーっ!修学旅行に行っちゃダメぇ!?」
 
そ。と葛城一尉が、傾けた飲料缶越しに応えた。
 
「どうしてっ!」
 
ダイニングテーブルに手を突いてさらに身を乗り出す惣流アスカラングレィを気にした様子もなく、さらに傾けている。
 
「戦闘待機だもの」
 
「そんなの聞いてないわよ!」
 
修学旅行は明日のこと、惣流アスカラングレィは荷造りまで済ませていた。
 
「今、言ったわ」
 
「誰が決めたのよ!」
 
飲み干したらしい飲料缶の底面を、まるで突きつけるように。
 
「作戦担当のアタシが決めたの」
 
上体を起こした惣流アスカラングレィが、視線を横に移す。
 
「アンタ!お茶なんかすすってないで、ちょっとナンか言ってやったらどうなの!男でしょう!」
 
「いや、僕は多分こういうことになるんじゃないか、と思って…」
 
「諦めてた、ってわけ?」
 
うん。と答える碇君に、肩をすくめてみせ。
 
「はんっ、情けない。飼い慣らされた男なんて、サイテー」
 
「そういう言い方はやめてよ」
 
気持ちは分かるけど。と、葛城一尉が飲料缶を置いた。
 
「こればっかりは仕方ないわ。あなたたちが修学旅行に行っている間に、使徒の攻撃があるかもしれないでしょ?」
 
「…葛城一尉」
 
なに? と、3本目の飲料缶を手にした葛城一尉が、視線だけこちらへ。
 
「…戦闘待機なら、3人も必要ないと思います」
 
重心を変えた葛城一尉が、眉根をひそめた。
 
「…私が残ります。碇君と惣流さんは修学旅行に」
 
「いいの? レイ」
 
頷く。
 
沖縄は、とても陽射しの強いところだと聞いた。私の皮膚はそれに耐えられないだろうと、赤木博士にも指摘されている。
 
そう…。と飲料缶を置いた葛城一尉が、視線を私から碇君、惣流アスカラングレィと移す。
 
「レイはこう言っているけど、あなたたちは?」
 
見ると、碇君は眉根を寄せていた。惣流アスカラングレィも、なぜか先ほどまでの激しさがない。
 
「綾波…、その…」
 
「はは~ん。さてはワタシの居ない間に手柄を上げよって魂胆ね」
 
そ~はトンヤが卸さないんだから!と、碇君を押しのけるようにして身を乗り出してくる。
 
アスカ!と声を荒げる葛城一尉に一瞥すら与えず、ひたすら私を睨んでいた。
 
惣流アスカラングレィは、とても不機嫌そうだ。この表情、知ってる。あの公園で見た、中州に取り残されるようにして垣間見せる不機嫌さ。
 
あの時、このヒトは、このヒトは…
 
 …
 
…ダメ。このヒトを表す言葉を、私は持たない。
 
「アンタ、行きたいって言ってたじゃない!」
 
「それがどうしたってのよ!」
 
見やれば、額をつき合わせて惣流アスカラングレィと葛城一尉。
 
「あっ綾波…?」
 
「あっアンタまた!」
 
椅子を蹴立てた惣流アスカラングレィが、テーブルを廻って来るや、手首を掴む。
 
「ちょっと来なさい!」
 
引き摺られるようにリビングを抜け、かつての碇君の、今は惣流アスカラングレィの部屋の前まで。
 
「今度はナニ?」
 
かぶりを振る。
 
「ナニよ、また解かんないとかっていって泣き出したんじゃないの?」
 
それには頷く。しかし、
 
「…一度訊いたから」
 
はぁ。と口腔の中を明け渡すような嘆息。
 
「聞くだけ聞いたげるから、言ってみなさいよ」
 
「…さっき、さてはワタシの居ない間に手柄を上げよって魂胆ね。と言った時の表情が、訊かれなきゃ、ワザワザ言わなかったわ。と言った時とよく似ていた。だから、そこには何か共通するものがあるはず。
 …なのに、それが私には解からない」
 
その理由だけは難なく理解できて、私のココロを軋ませる。
 
「なんでアンタのために、ワタシが自己分析しなきゃなんないのかしらね?」
 
はぁ…。と、今度は肺の中をすべて吐き出すような嘆息。
 
「それはね、不本意って言うの」
 
「…不本意?」
 
「自分の希望や意思と裏腹な行動、言動をしてるって意味よ」
 
胸元に当ててみせた右の掌を、差し出すように翻して。
 
「ワタシはね? ホントにオキナワに行きたかったの。でも、アンタ1人が残るって言い出したから、行くに行けなくなったの」
 
「…なぜ?」
 
そっそれは…。と、視線を逸らす。
 
「さ…、さっき言ったでしょ!アンタに手柄を独り占めされたくないからよ!」
 
ならばどうして、また不本意そうなのだろう? 声の荒げ方がそっくりだ。
 
腕を組んでふんぞり返っている惣流アスカラングレィの、頬が赤い。
 
本心だと言うその理由すら、惣流アスカラングレィにとっては不本意なのではないだろうか?
 
 
「それより、アンタ本当に1人で留守番でいいの?」
 
頷いた。
 
「…肌、弱いから」
 
見下ろす自分の手元。色素の薄い肌は、多量の紫外線を防げない。
 
「諦めてる、ってワケ?」
 
かぶりを振る。
 
諦めるとか諦めないとか問われる以前に、私の希望の中になかった。
 
それじゃあ!と、まなじりを上げかけた惣流アスカラングレィは、しかし眉根を寄せて。
 
「もしかしてアンタ、行きたくないの?」
 
頷いた。
 
惣流アスカラングレィの様子を見れば、修学旅行が愉しそうだろうとは思う。
 
けれど、私本人の実感として、理解はできない。
 
その理由を考えると悲しいが、それならそれで、そのことを前向きに利用しようと思うのだ。
 
「…行っても、屋外へは出られないだろうから。それなら、行きたい人に行ってきて欲しい」
 
「そう…」
 
肩を微妙に落とした惣流アスカラングレィが、気だるそうに上げた左手で頭を掻いた。
 
「じゃあ…、留守番を任せるかもしんないケド…」
 
「…ええ、愉しんできて」
 
踵を返した惣流アスカラングレィが最後まで投げかけていた視線の意味を、私は知らない。
 
 
****
 
 
  ≪ レーザー、作業終了 ≫
 
 ≪ 進路確保! ≫
 
浅間山火口内に見つかった使徒を捕獲するために、ここに来た。
 
   ≪ D型装備、異常無し! ≫
 
 『初号機、発進位置』
 
14式大型架橋自走車に吊られて、浅間山の火口底を見下ろす。
 
『了解。レイ、準備はどう?』
 
D型装備を装着するためにブレードアンテナを取り外された初号機は、レーダーの精度が若干あまいようだ。上空を横切る国連軍機の反応が、はっきりしない。
 
「…問題ありません」
 
『発進!』
 
私用の耐熱プラグスーツは存在しないので、借り物。赤いプラグスーツはガギエルの時を思い出させてくれて、少し口の端が緩んだ。
 
 『初号機、熔岩内に入ります』
 
 
『えぇ…なんですって? それで? ええ!? … 』
 
葛城一尉が声を荒げた。途端、指揮車との通信ウィンドウから姿を消す。上で何が起こったのだろう?
 
「現在、深度170、沈降速度20。各部問題なし。視界はゼロ。CTモニターに切り替えます」
 
無駄かもしれないが、報告事項の読み上げは行なっておいた。
 
 …
 
はるか下方に使徒の波動があると、初号機が教えてくれる。
 
この感じだと、あと900くらいだろうか。
 
このヒト知ってる。サンダルフォン。第8使徒。
 
 
 『900、950、1000、1020、安全深度、オーバー。深度1300、目標予測地点です』
 
『レイ、何か見える?』
 
「…計器には、反応ありません」
 
嘘ではないから、ココロは軋まない。
 
それとも、私もヒトに近づいているのだろうか?
 
 『思ったより対流が早いようね』
 
  『目標の移動速度に、誤差が生じています』
  
『再計算、急いで。作戦続行。再度沈降、よろしく』
 
 『えぇっ?』
 
 …
 
少し、息苦しくなってきたようだ。
 
LCLが過熱してきて、ガス交換比率が落ちてきているのだろう。
 
プラグスーツがいくら耐熱仕様になっていようと、LCLが過熱しきってしまえば、頭部および呼吸器への熱傷は避けられない。
 
最悪、呼吸を止めることを前提に、酸素の消費率を下げた。
 
 
 『深度、1350、1400』
 
  ≪ 第2循環パイプに亀裂発生 ≫
 
 『深度、1480。 限界深度、オーバー!』
 
 『目標とまだ接触していないわ。…続けて』
 
通信ウィンドウに、葛城一尉。
 
『レイ、どう?』
 
「…問題ありません」
 
 『限界深度、プラス120』
 
 ≪ エヴァ初号機、プログナイフ喪失 ≫
 
留めていたベルトが、熱に耐えられなかったらしい。
 
  『限界深度、プラス200』
 
『かつ……』
 『ミサト!もうこれ以上は!今度は人が乗ってるのよ!』
 
日向二尉の声を押し退けて、赤木博士。
 
『この作戦の責任者は私です。…続けてください』
 
 
初号機が伝えてくるサンダルフォンの存在が、近い。
 
生命は、進化のたびにその必要とするエナジー、活動領域を10倍増させてきたそうだ。ヒトもまた科学の力を振るい、1人頭で大型恐竜10頭分のエナジーを浪費している。
 
進化の極限を体現し、それ1体で1種である使徒は、この惑星の全生命の総量をも上回るエナジーを消費し、その裏付けたる空間を必要とする。ココロとカラダが不可分の使徒にとってそれは、ヒトのパーソナルスペースと肉食獣の縄張りを足してそれ以上の意味を持つ領域だ。
 
例えば初号機のテリトリーは、この惑星の直径をそのまま半径にしたほどの球状になる。それは、この惑星に生まれた使徒なら当然の帰結で、個体差はあるにしても他の使徒もほぼ同様だろう。
 
そうしてお互いの領域が重なれば、そこに不協和音が生まれる。それが使徒が使徒に対して感じる波動だった。
 
まだ羽化してないサンダルフォンの波動は判りづらいけれど、近い。CTモニターでももうじき見えそうだ。
 
 
 『深度、1780。目標予測修正地点です』
 
正面ににじみ出る、楕円の影。
 
「…目標発見」
 
 『目標を、映像で確認』
 
『捕獲準備!』
 
葛城一尉の命令に従って、キャッチャーを展開させる。
 
『お互いに対流で流されているから、接触のチャンスは一度しかないわよ』
 
赤木博士の声に、抑揚が少ない。緊張……、しているのだろうか?
 
「…はい」
 
『目標接触まで、後30』
 
「…相対速度2.2。軸線に乗りました」
 
今はまだ紡錘形をしたサンダルフォンを、キャッチャーの中へ囲い込む。
 
「…電磁柵展開、問題なし。…目標、捕獲しました」
 
通信ウィンドウから複数の溜息。
 
『ナイス、レイ!』
 
「…捕獲作業終了、これより浮上します」
 
私が赤いエヴァンゲリオンだった時は、このあとで羽化して殲滅したが…まだ、その気配はない。
 
深度表示を確認する。
 
 
…深度、1600。
 
 
このまま素直に引き上げさせてはくれないだろう。
 
キャッチャーの中のサンダルフォンから、目を離さない。
 
 
…深度、1550。
 
 
最初に気付いたのは、当然のように初号機。続いて、指揮車からのアラート。
 
「…目標に変化」
 
 『まずいわ、羽化を始めたのよ。計算より早すぎるわ』
 
『キャッチャーは?』
 
 『とても保ちません!』
 
『捕獲中止、キャッチャーは破棄!』
 
 
…深度、1500。
 
 
『作戦変更、使徒殲滅を最優先』
 
熔岩の中は、サンダルフォンのフィールドだ。
 
『初号機は撤収作業をしつつ戦闘準備!』
 
たとえD型装備でなくても、ここでまともにやりあう気はない。
 
 
…深度、1450。
 
 
私がサンダルフォンと戦ったのは、赤いエヴァンゲリオンだった頃だけだから、わずかに1回きりのこと。
 
だが、その他の使徒の例を鑑みれば、いくつか推測できることがある。
 
 ≪ 初号機、依然キャッチャーを保持 ≫
 
『レイ!キャッチャーを破棄しなさい!』
 
「…このまま、ATフィールドで抑えこんでみます」
 
 
…深度、1400。
 
 
『レイ!殲滅に移行しなさい』
 
「…武装がありません」
 
何らかの手法でこちらのATフィールドを無効化してきた使徒は、わずかに2人だけ。アラエルとアルミサエル。
 
タブリスもできるかもしれないが、それ以外の使徒は相手のATフィールドを中和できないのではないか?
 
 
…深度、1350。
 
 
「…フィールド、全開」
 
 …
 
思ったとおりサンダルフォンは、初号機の張ったATフィールドを力任せに叩いている。自分だけで完結した使徒という存在は、他者にATフィールドがあることすら理解しないだろう。
 
「…ATフィールドの効果を確認。使徒の捕獲は続行できます」
 
 
…深度、1300。
 
 
『羽化してしまった使徒の捕獲なんて不可能よ!早く破棄しなさい!』
 
「…ここで開放すると、不利」
 
沈降速度に比べて、浮上速度が遅い。その理由に気付いて、ハットスイッチに指をかける。
 
「…バラスト放出」
 
 
…深度、1200。
 
 
もっと早くバラストを放出しておくべきだった。いつまでもサンダルフォンが手をこまねいているとは限らない。
 
 
『ファースト!大丈夫!?』
 
突然開いた通信ウインドウには、【FROM EVA-02】の表示。
 
「…惣流さん?」
 
『弐号機、到着したの?』
 
こちらは指揮車から、葛城一尉。
 
 
  ≪ 弐号機、ドッキングアウトします ≫
 
 
非常召集がかかった時、惣流アスカラングレィに連絡を入れた。そうするよう、釘を刺されていたから。
 
しかし、修学旅行のしおりに拠ると、沖縄から第3新東京市まで1500㎞あまり。こんな短時間で帰ってこられるとは思えない。
 
『国連軍にブラックバード貸してもらったのよ。А-17が発令されてたから、簡単だったわ』
 
訊く前に答えた惣流アスカラングレィが、通信ウインドウの中で片目を閉じた。あれが、ウインクと呼ばれる仕種?
 
 
ザイル越しに伝わってくる微震。弐号機が着地したようだ。
 
『ってアンタ、なにそのカッコウ…』
 
「…耐熱装備」
 
そう。と呟くなり、惣流アスカラングレィが身をよじった。
 
『くくく…っ』
 
…笑っている?
 
『ぷっくふふ…』
 
ちらりとこちらに視線をやるたびに身のよじれがひどくなって、苦しそう。
 
『くっくっく…』
 
私を見て、笑っている?
 
 『アスカっ!』
 
葛城一尉の怒声も、どうやら火に油を注ぐだけのよう。
 
 
…深度、750。
 
 
手の付けようもなさそうなので、深度表示とサンダルフォンの様子を確認した。
 
『ご…ゴメ』
 
見やると、まだ笑いの治まらないらしい惣流アスカラングレィが手を合わせている。
 
『笑うつもりは…なかったんだけど…そのカッコ…』
 
まだ笑っている。恰好? そんなにこの耐熱プラグスーツは可笑しいのだろうか?
 
それが解からないのは、やはり私がヒトではないからだろう。
 
『あっ!アンタまた!』
 
わざわざ圧着ロックを外してまで詰め寄ってきた惣流アスカラングレィの、顔がウィンドウに大写し。
 
『嗤われてんのよ!落ち込んでるヒマがあったら、ちったあ怒って見なさいよ!』
 
「…怒る?」
 
そうよ!と腕を組んで、惣流アスカラングレィがふんぞり返った。
 
怒れと言われて、はいそうですか。と、ヒトは怒れるものなのだろうか?
 
そうだとすれば、やはり私は…
 
『そこまでにしなさい!アスカ、ナイフを火口に投げて』
 
なにやら喚きかけた惣流アスカラングレィを押し退けるように、葛城一尉。
 
『なんで?』
 
『レイったら、武装がないからって捕獲作戦を勝手に継続してんのよ!』
 
ふうん。と惣流アスカラングレィが通信ウィンドウの中で、眉を上げている。
 
 
…深度、300。
 
 
惣流アスカラングレィのお陰で時間が稼げたらしい。
 
このまま火口まで、たどり着けそう。
 
「…再度提案します。このまま火口まで使徒を拘引。地上の弐号機にて殲滅」
 
『却下よ!ここでの殲滅は想定してないわ!』
 
 ≪ 初号機、深度100。あと20で熔岩を出ます ≫
 
『総員退避っ!』
 
葛城一尉が提案を却下した理由に、ようやく気付いた。
 
地上にはバックアップクルーが大勢居る。確かに、そこを戦場にする訳にはいかない。
 
「…惣流さん」
 
『なに?』
 
「…熔岩を出ると同時に使徒を解放、火口底にATフィールドを展開するわ。その上で弐号機にて使徒殲滅。お願い」
 
言い切る前に、熔岩から頭が出る。
 
『譲ってくれるってワケ?』
 
「…D型装備では、どこであろうと戦いようが無いから」
 
『そう…みたいね』
 
完全に熔岩から抜け出た。火口の淵から見下ろすように、弐号機の姿。
 
キャッチャーのATフィールドを解消した瞬間、視界一杯に拡がったのは、…サンダルフォンの腕。
 
「…くぅ」
 
それを理解したのは、吹っ飛ばされて火口内の断崖に叩きつけられた後だった。D型装備のお陰か、さほど衝撃はない。
 
視界の隅に、空中で藻掻くサンダルフォンの影。まだ間に合う。とっさに火口底に敷くようにATフィールドを張った。
 
千切れた耐圧ホースから液体窒素が盛大に噴き出し、気化しているらしい。CTモニターでなければ、サンダルフォンを見逃していただろう。
 
『でぇりゃぁぁぁぁああああ!』
 
零下の液体を浴びて苦しんでいるサンダルフォンに、飛び降りてきた勢いそのままの弐号機の蹴りがとどめを刺した。
 
 
***
 
 
初号機を降りた私を待っていたのは、眉を吊り上げた葛城一尉。バインダーを抱えた赤木博士も、指揮車から降りてきたところ。
 
「レ~イ~」
 
にじり寄ってきた葛城一尉に、押されるように後退る。けれど、耐熱プラグスーツはそういう挙動を許してくれず、足を取られて転倒した。
 
「レイっ」
 
駆け寄ってきた葛城一尉が、手を差し伸べてくれる。
 
「大丈夫?」
 
「…はい」
 
耐熱プラグスーツのお陰か、さして衝撃はなかった。
 
そう。と手を引かれるままに上体を起こすと、弐号機から降りてきたらしい惣流アスカラングレィの姿。
 
「まるで、カナリアを一匹丸ごと喰べた猫のようね」
 
赤木博士の喩えはよく解からないけれど、惣流アスカラングレィは機嫌が良さそうだ。
 
「なに? 命令違反で、体罰?」
 
「違うわよ。このコが勝手に転んだの」
 
見下ろしてくる葛城一尉。視線と溜息が一緒になって、降ってくるようだ。
 
「ホンっトにこのコは、命令違反ばっかり…」
 
「ふうん、意外ねぇ…」
 
惣流アスカラングレィが、眉を上げている。先ほども見たこの表情。…意外? 思っていたことと違うこと。
 
「優等生とばかり思っていたわ」
 
優等生?
 
言葉の意味は解かるが、何故そう思われていたのかが解からない。
 
「まっ!使徒は斃したんだし、いいじゃない」
 
そんなワケにいかないわよ。と呟く葛城一尉の肩を叩いた惣流アスカラングレィが、そのまま促すように歩き出した。
 
「近くに温泉あんでしょ? 汗流したいし、連れてきなさいよ」
 
あっという間に指揮車の向こうへ消えた惣流アスカラングレィが、顔だけ覗かせる。
 
「アンタも早く来なさい。置いてくわよ」
 
同じように取り残されていた赤木博士と、視線が合った。
 
少し肩を落とした仕種は、おそらく嘆息したのだろう。
 
 
                                         つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第七話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:24


このように野外に設けられた入浴施設を、露天風呂と呼ぶのだそうだ。
 
 
「あれぇ…? ボディーシャンプー、無くなっちゃった」
 
惣流アスカラングレィが、ボトルを逆さに振っている。
 
「え~!?」
 
葛城一尉が湯船につかったまま、頭だけ仰け反らせてこちらを見た。髪をまとめていたタオルが、そのままの形で落下。
 
「…よかったら、これ」
 
差し出したボトルを受け取った惣流アスカラングレィの視線が、私の膝先、並べたボトルに。
 
「なんでアンタ、1人で一式持ってきてんの?」
 
「…市販品は使うなと、赤木博士が」
 
ふ~ん。とスポンジに垂らして、2度3度と揉んでいる。
 
「なによ。泡立たないじゃない」
 
「…不必要に界面活性剤が入ってないから、肌にやさしい」
 
へぇ…、あっ、なんかイイ感じ♪と、惣流アスカラングレィが身体を流し始めた。
 
 
***
 
 
シャンプー、リンス、コンディショナーと、私の持参品を一通り試した惣流アスカラングレィは今、なんだか満足そうに湯船に肩までつかっている。
 
赤木博士の言いように倣えば、カナリアを一匹丸ごと喰べた猫のように。いや、そこまで上機嫌ではなさそうだから、もっと小さな獲物を挙げるべきかもしれないが。
 
頭に巻いたタオルが崩れないよう気にかけている仕種を、赤木博士ならなんと形容しただろう?
 
 
湯船の縁に腰かけた葛城一尉が、タオルを解いて髪をさらした。
 
「ああ、これね? セカンドインパクトのとき、ちょっち、ね」
 
ふと惣流アスカラングレィを見やって、苦笑。…いや、少し違うようにも思える。
 
「…知ってるんでしょ、私のことも、みんな」
 
「ま、仕事だからね…。お互いもう昔のことだもの。気にすることないわ」
 
その言葉が偽りであることを、私は知っていた。このヒトの苦悩が、たとえ使徒をその手にかけても晴れないほど、根深いことを。
 
「…本当に?」
 
立ち上がって、湯を掻き分ける。
 
葛城一尉のもとまで歩み寄って、その傷痕に触れた。
 
「…この傷を与えたモノを、この傷が刻んだモノを、この傷の残したモノを、」
 
その目を見る。
 
「…葛城一尉は忘れられるの?」
 
「なにを…知ってるって言うの…」
 
葛城一尉の声はひどく掠れて、立ち昇る湯気にすら遮られそう。
 
「…なにも。 ただ、判るだけ。葛城一尉は、なにかを偽っている」
 
偽りを口にしてヒトの偽りを糾弾すると、ひどくココロがきしむ。あのヒトも、こんな気持ちを味わっていたのだろうか?
 
目を逸らした葛城一尉は、閉ざした口を開こうとしない。
 
「…ココロを開かなければ、ヒトは動かないわ」
 
それは、ここに来て私が感じたこと。
 
誰かが私のために何かをしてくれるとき、それは私の希望の結果だった。望むカタチで、ないにしても。
 
葛城一尉だけが、私が望まないうちに私のために何かをしようとする。
 
それは嬉しくて、悲しい。
 
「だから…、アンタは… アタシの」
 
唇だけで紡がれた言葉を、最後まで聞くことができなかった。
 
唐突に手首を掴まれ、引かれるままに岩陰まで連れ込まれたから。
 
「アンタ、容赦ないわねぇ」
 
「…そう? よく解からない」
 
はぁ。と、短い嘆息。
 
「また、アレ? 解かんないから?」
 
「…ええ」
 
一瞬だけ視線を岩の向こうに送って、惣流アスカラングレィが肩越しに親指を突き出す。
 
「アレの何が解からないって言うのよ」
 
「…葛城一尉は様々な葛藤を隠し持っている。私たちに、話してくれないようなことを」
 
まあ、そうだろうけど…。と肩をすくめて。
 
「だからって、ムリヤリ訊き出そってしたって答えてくれるワケないでしょ」
 
「…そう? 貴女は応えてくれたわ」
 
なんだか急に顔を赤らめた惣流アスカラングレィは、顔を逸らして口中でなにやら呟いた。
 
「…訊くのは、私の自由。…答えるかどうかは、そのヒトの自由」
 
それは、惣流アスカラングレィが教えてくれたこと。
 
「…ならば、答えてもらえなかった私の問いは、どこに行けばいいの?」
 
哲学ね。と、よこした視線を追いかけるように、惣流アスカラングレィ。
 
「心配しなくても、アンタの問いはミサトん中に届いてるわよ」
 
指し示すのは、岩の向こう。
 
湯船の縁に腰かけたままで、葛城一尉。みぞおちの傷を隠すように身をよじっている。
 
「だから、いつか答えは返ってくるわ」
 
アンタの望むカタチじゃ、ないかも知んないけどね。と呟いて、惣流アスカラングレィが湯舟に座り込んだ。
 
「…」
 
いったい、どんなカタチで返ってくるというのだろう? 想像もつかない。
 
「…あなたは、葛城一尉に何を訊きたかったの?」
 
「訊きたかったワケじゃ、ないけどね。
 アンタのお陰でワタシの言葉もミサトに届いたでしょうから、もういいわ」
 
そのまままぶたを閉じた惣流アスカラングレィは、それ以上答える気はないのだろう。
 
湯冷めするわよ、アンタもツカんなさい。との言葉に、しぶしぶ従った。
 
 
                                         つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第八話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:25


「あれ?」
 
ゲートの改札機にIDカードを通した碇君が、首をかしげた。
 
ゲートが開かないらしい。
 
試しに私もカードを通してみるが、無反応。
 
「何やってんの、ほら、替わりなさいよ!」
 
私を押し退けた惣流アスカラングレィがカードを通すが、やはり無反応。
 
「もぉーっ!壊れてんじゃないの、これぇ!?」
 
ディスプレイの表示すらない。電力が供給されてないのだろうか?
 
そう云えば、私がエヴァンゲリオンだった頃に、電源供給なしで戦ったことが何度かあった。もしこれがそうならば、マトリエルが来るのかもしれない。
 
「…本部へ、急ぎましょう」
 
「どうしたっていうのよ?」
 
振り返った惣流アスカラングレィに、改札機のディスプレイを指し示す。
 
「…ここの電源は正・副・予備の3系統。それが同時に落ちるなんて、ありえない」
 
「下で何かあったってこと?」
 
「…そう考えるのが、自然」
 
ふうん。と唸った惣流アスカラングレィの視線が一瞬床に落ちて、跳ね上がる。
 
「アンタの言うとおりかもね。で、最短経路、判る?」
 
「…向こうの第7ルートから下に入れるわ」
 
じゃあ出発、行くわよシンジ。と、惣流アスカラングレィが歩き出す。その背中は、やはり私を拒んでいるよう。
 
けれど、ATフィールドを張ったがごとき頑なさでは、ないように感じられる。
 
いま感じるのは、惣流アスカラングレィの、途惑い。
 
そう思えるようになったのは、露天風呂から上がった後のこと。
 
 
…………
 
 
「ナニ? それ…」
 
惣流アスカラングレィの視線は、私の胴回りに。
 
宛がわれた浴衣を着る前のことだから、いま私が身に着けている物は一つしかない。
 
「…コルセット。肋骨が3本、折れてるから」
 
私が学んだのは、いつ何が起きるか判らないと云うこと。できるだけ着けておけば、もう完治していたかもしれないと云うこと。
 
「折れてるって…そういえばアンタ、 ……いつから?」
 
851万7649回前と言いかかって、踏みとどまる。
 
「…3ヶ月ほど前、零号機の起動実験で」
 
「3ヶ月前って…じゃあアンタ、そんな状態でずっと戦ってきたって言うの?」
 
…ええ。と頷く。
 
「そんな状態で無理してっ!ナンかあったらどうすんのよ!」
 
自分の身体のことは自分が一番よく解かっているから、そんな無理はしない。成算があるからこそ、葛城一尉の命令にも逆らえる。
 
そのことを告げようと口を開いたのに、惣流アスカラングレィは頭を抱えて俯いていた。
 
呟きは口中に消えて、聞こえない。
 
そのままではこちらの言葉も届きそうになかったから、その傍に寄った。
 
葛城一尉がしてくれたように背中にまわそうとした手を、弾かれる。
 
「いくら命令だからって、そんな状態で!」
 
視線だけで射殺しそうな。と言う表現は知っていた。けれど、目の当たりにしたのは、はじめて。
 
「アンタ、命令されたら死ぬんでしょ!」
 
なにか、誤解されてるように感じる。
 
しかし、それより気になるのが、惣流アスカラングレィは死を恐れているだろうということ。
 
死を恐れることを知った私だから、そのことに気付けた。
 
だからこそ、なぜ惣流アスカラングレィがエヴァンゲリオンに乗るのか、解からなくなった。
 
「…では、なぜ貴女はエヴァに乗るの?」
 
「っ!」
 
「…エヴァが使徒に敗れれば、人類が滅ぶ。人類すべてと、自分の命を秤にかけなければならない時が、来ないとは限らないわ」
 
俯いた惣流アスカラングレィは、唇を噛んで肩を震わせている。
 
「…あなたはその時、どうするの?」
 
「そんなコト!アンタに関係ないでしょう!!」
 
否定しようとした言葉を告げることも許さず、私を突き飛ばすようにして惣流アスカラングレィが脱衣所を飛び出した。
 
その目尻を縁取っていたのは、涙?
 
 「アスカ!? なんて恰好で!ちょっと待ちなさい!」
 
聞こえてきたのは、赤木博士の声。
 
 「どきなさいよっ!」
 
 「ああ、もう!せめてこれを羽織りなさい」
 
戸口を出ると、廊下の奥で赤木博士が惣流アスカラングレィにバスタオルを押し付けているところだった。
 
 「余計なお世話よ!」
 
 「いいから羽織りなさい!」
 
押し付けられたバスタオルを引っ手繰った惣流アスカラングレィが、しかし羽織ることなしに胸元に抱いて、駆け出す。そのまま廊下の奥から階段を駆け登って、消えた。
 
なにやら嘆息したらしい気配の赤木博士が、こちらを向いてやはり嘆息。眉根を揉みながらこちらに向かってくる。
 
無言で私を押し戻し、脱衣所の扉を閉めた。
 
「レイ。いったい何があったの?」
 
「…エヴァに乗っていれば、死ぬこともあると言いました」
 
そう。と、またもや嘆息。
 
「アスカは暫く、1人にしてあげなさい。それと、早く何か着なさい。湯冷めするわよ」
 
できれば、きちんと惣流アスカラングレィを問い質したかった。なぜエヴァンゲリオンに乗るのかと。
 
しかし、誰にも会いたくない気分というものを、今の私は知っている。コンビニエンスストアの前で惣流アスカラングレィから拒絶された時に、感じたことがあるから。
 
「…はい」
 
だから不本意だけど、そう答えた。
 
 
…………
 
 
「いつもなら2分で行けるのにな…」
 
「オトコのクセに、簡単に泣きゴト言うんじゃないわよ」
 
先頭を突き進む惣流アスカラングレィが、碇君の呟きをたしなめている。振り返りもしないけれど、その口調はあまり厳しくない。
 
「…静かに」
 
「なによ!」
 
反駁しようとした碇君に言ったつもりだった言葉に反応して、惣流アスカラングレィが引き返してくる。
 
そのまなじりの鋭さに拒絶の色が見えて、少し悲しかった。
 
口元に人差し指を持ってきて、左耳に手をあてる。
 
「…ヒトの声よ」
 
  ≪ …徒、接近中!使徒、接近中!使… ≫
 
 
「「日向さんだ!おぉーい!」」
 
 ≪ 使徒、接近中。繰り返す。現在、使徒、接近中! ≫
 
「「使徒接近!?」」
 
碇君と惣流アスカラングレィが、顔をつき合わせた。
 
「…提案。近道しましょう」 
 
 
****
 
 
「あ~、またしてもかっこわるーい!」
 
先行する弐号機との通信ウィンドウから、聞こえてくる声。近道を提案して以来、惣流アスカラングレィの機嫌は悪いままのようだ。
 
「…惣流さん。提案」
 
「今度は何よ」
 
通信ウインドウの中から、惣流アスカラングレィのやぶにらみ。
 
「…目標は、ゼロエリア直上にて停止していると日向二尉が言っていたわ」
 
「そうね。で?」
 
すこし、視線がゆるくなったような気がする。
 
「…待ち伏せしている可能性が高い」
 
高い。どころではなく、間違いなくそうなのだけど。
 
「そう言われれば、そうかもね」
 
ふむ。と唸った惣流アスカラングレィが悩んでいたのは、しかし一瞬だった。
 
「ルートを変えるわ。ファースト、候補は?」
 
「…50メートル先の隔壁から、3番の射出口に出られるわ」
 
…ただし。と続けると、惣流アスカラングレィの眉が上がる。
 
「…途中の隔壁を無理やりこじ開けることになるから、戦闘に携わるのは弐号機だけになる」
 
言ってる途中で隔壁に辿り着いたらしく、先頭の弐号機が止まった。
 
「なんでその一機が、弐号機なの?」
 
通信ウィンドウ越しに、抉るような視線。
 
「…単純な出力だけなら、初号機のほうが上。だから、隔壁をこじ開けるのは、初号機が適任。出力の劣る零号機には、初号機のサポート、足場確保を行なって貰う」
 
その気になればS2機関を使える初号機の方が、適任だろう。
 
けれど、沖縄に行く前に釘を刺した惣流アスカラングレィの表情を、私は忘れない。彼女にとって使徒撃退が重要であろうことを、私でも推測できる。
 
それに、なぜエヴァンゲリオンに乗るのか、その答えをまだ聞いてない。
 
だから今回は、惣流アスカラングレィに使徒を撃退して貰おうと提案する。前回と違って、最初からそう意図した上で。
 
マトリエルは、溶解液以外にこれといった攻撃手段を有していないから、弐号機一体でも充分だろう。
 
「…総合的に見て、使徒迎撃は弐号機が最適」
 
そのヒトのためについた嘘だから、必要な嘘だから、ココロの軋みは少ない。
 

 
通信ウィンドウ越しの視線。その鋭さは変わらないけれど、抉るような容赦のなさは影を潜めたように思える。
 
「そう。なら、アンタの提案に乗るわ」
 
それで? と、しゃくった顎は、隔壁を指し示したのだろう。
 
「…弐号機は、初号機に抱きついて機体をホールド、」
 
なにやら呻いた惣流アスカラングレィが、まぶたを半ば閉じる。半眼と呼ぶのだと知ったとき、ヒトを疑う時の仕種でもあると知った。
 
「アンタ。ワタシをからかってるんじゃないでしょうね?」
 
「…なぜ?」
 
「まあいいわ、続けて」
 
埃を払うような仕種で掌を振って、惣流アスカラングレィが嘆息。
 
「…その状態で弐号機は生命維持モードに移行、電力を温存」
 
頷きを確認した視界の端で、外部電源がゼロに。リリーススイッチを押すと、一拍遅れて弐号機、零号機も増設バッテリを除装した。
 
「…初号機はそのまま射出口に進入、隔壁をこじ開けながら登攀。零号機には都度、足場になってもらうわ」
 
零号機との通信ウィンドウの中で、碇君が頷いている。
 
 
「OK、それで行きましょ。…それじゃあ」
 
ゲーヘン!と言うなり、弐号機が隔壁を蹴り破ってしまった。
 
 
***
 
 
膝を抱えて横目に見るのは、寝転ぶ惣流アスカラングレィ。その向こう側に、同じような姿勢で碇君が寝転がっている。
 
マトリエルを斃したあと、エヴァンゲリオンを降りて、ブロック交点の貯水池のほとりで迎えを待つことになった。
 
「そこで跳躍して使徒の胴体の上に飛び乗り、ライフルを一斉射」
 
そうして聞かされている使徒殲滅のいきさつは、初号機を半ば直接制御している私には見えていたこと。
 
けれど、黙って聞く。
 
「見事、使徒殲滅ってワケ」
 
淡々と話す惣流アスカラングレィは、嬉しいのか悲しいのか、それとも怒っているのか、判然としない。
 
これがヒト、ヒトのココロというものだろうか?
 
その複雑さに途惑ううちに、独り言めいた報告は終わってしまっていた。 
 
「…」
 
沈黙ではなく、無言。微妙な違いを、なぜ私は解かったのだろう?それが、終わりでなくて予兆であることを。
 
 
「ファースト、アンタ。ワタシが何故エヴァに乗るのかって、訊いたわよね?」
 
ええ。と、頷く。
 
膝に頭を預けてそちらに顔を向けると、空を見上げていたはずの碇君がこちらを向いていた。薄暗くてよく判らないけれど、視線を感じる。
 
「少し前のワタシなら、自分の才能を世の中に示すためって、そう答えたでしょうね」
 
今は…。と嘆息混じりに続けた惣流アスカラングレィの笑顔を、なんと表現していいか知らない。表情は確かに笑っているのに、とても喜んでいるようには見えなかった。
 
「ちょっと、解かんなくなっちゃった」
 
答えてあげらんなくて、悪いわね。と身動ぎした惣流アスカラングレィは、とても小さく見えて、なにも解からないというのに悲しくもなれない。
 
 
プラグスーツのこすれる音は、碇君から。見れば、空を見上げていた。
 
「電気… 人工の光が無いと、星がこんなにきれいだなんて、皮肉なもんだね」
 
碇君の言葉に、見上げる夜空。月も出てないから、空の光は、すべて星。
 
光害という言葉を目にしたことがある。ヒトの身になってこうやって夜空を見上げるまで、実感したことはなかったが。
 
「でも、明かりが無いと人が住んでる感じがしないわ」
 
最初に灯ったのは、高層ビルの室内燈。続いて民家の明かりに、街燈。航空障害燈が最後に。
 
「ほら、こっちのほうが落ち着くもの」
 
声にまで安堵を滲ませたのか、惣流アスカラングレィの声音が少し、穏やか。
 
「…ヒトは闇を恐れ、火を使い、闇を削って生きてきたわ」
 
今なら、その恐れを理解できるような気がする。X線はおろか赤外線も見えない、この視界なら。
 
「哲学ね」
 
感じた視線は、きっとあの湯煙の中で受け取ったものと同じ。
 
「だから人間って、特別な生き物なのかなぁ。だから使徒は、攻めてくるのかなぁ?」
 
「アンタばかぁ? そんなの解かるわけないじゃん」
 
言ってることほどきつくはない口調で、惣流アスカラングレィが嘆息した。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第八話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:25


「……でありまして、これが世に言うセカンドインパクトであります」
 
先生がそう言った途端、教室にざわめきが生まれた。
 
「そのころ私は根府川に住んでいましてねぇ。美味しいお餅屋さんがあって、よく行ったものでした」
 
本を読むヒト。ゲーム機を取り出すヒト。イヤホンを装着するヒト。先生の話を聞くヒトは居ない。
 
語る者とてない、セカンドインパクト以前の話。本などでは得難い、その時代に暮らした人々の証言。興味深いと思うのに。
 
「三人姉妹が看板娘をしてましてね、彼女ら目当ての人たちも多かったんじゃないでしょうか?」
 
遠く、窓越しに空を見上げるように話していた先生が、こちらを向いた。それでも教室のざわめきが止まらない。
 
「ちょっとみんな、授業中でしょう」
 
着席したまま振り返って。洞木ヒカリの叱責はしかし、声を抑えて。
 
「あー、またそうやってすぐに仕切るー!」
 
「いーじゃん、いーじゃん!」
 
「よくない!」
 
声を荒げた洞木ヒカリを、それから教室を見渡したらしい先生が、こちらを向いて少しその眉を持ち上げた。
 
「お餅屋さんなのに、なぜか店の裏手で椎茸を栽培しておられました」
 
体ごと窓側を向いた先生がまた、空を見上げる。
 
「それを珪藻土切り出しの七輪で焼いてくれるのですが、それがまた美味しかったものです」
 
 
****
 
 
目の前で盛大に溜息をついたのは、私の整形外科の主治医。
 
見ているのは、シャーカステンに貼り付けた胸部レントゲン写真だった。
 
「どうやら君の肋骨は、癒合することを諦めたようだな」
 
ここ。と指示棒で指し示してみせて。
 
「骨折した断面が丸みを帯びているだろう。基礎層板が形成されつつある」
 
もう痛みもほとんどあるまい。との呟きに、頷く。
 
サンダルフォンとの戦いのとき。断崖に叩きつけられたときも転んだときも、肋骨の軋みが気にならなかった。
 
D型装備や耐熱プラグスーツのお陰だと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
 
手術できればいいんだが…。と、一際大きく嘆息。
 
「こうなっては内臓を保護する機能は期待できない。入浴以外ではコルセットを外さないこと。解かったかね?」
 
「…はい」
 
もうすでにそうしているけれど、言うほどのこともないと思ったので素直に頷いた。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第九話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:25


…雨
 
降りしきる雨。
 
太古、雨は創造主の涙だったという。全てに染み込んで、遍く行き渡る。
 
もしかして、あの溶解液はマトリエルの涙だったのだろうか? なにか、悲しいことがあったのだろうか? 悲しいということを、理解できるのだろうか? 理解できるようになったのだろうか?
 
…判らない。
 
マトリエルの涙が溶かすのは装甲板だったけれど、この降りしきる雨は何を溶かすのだろう?
 
ヒトの頑ななココロの壁なら、嬉しい?
 
私のココロなら、恐い?
 
判らない。……いいえ、解かりたく…ない?
 
 
降りしきる雨を見ていると、瑣末な思索に囚われてしまう。
 
エヴァンゲリオンだった頃には、なったことのない状態。感じたことのない思い。
 
それは私がヒトになりつつある証拠であるはずなのに、なぜか嬉しくなかった。
 
 
「あーっ!アンタたち、何してんのよ!」
 
アコーディオンカーテンの開く音を掻き消すような、惣流アスカラングレィの声。
 
 「雨宿り」
 
一拍置いたかのような碇君の返答が、私の背後に近い。
 
「はん!ワタシ目当てなんじゃないのぉ!? 着替えてんだから、見たら殺すわよ!」
 
降りしきる雨から視線を引き剥がして振り返ると、アコーディオンカーテンが閉ざされたところだった。
 
「チッキショー、アホんダラ!誰がおまえの着替えてんのを見たいっちゅうんじゃ!」
 
「自意識過剰な奴」
 
鈴原トウジと相田ケンスケの、おそらく惣流アスカラングレィに対して言っただろう言葉は、小さすぎて届かないだろう。
 
代わりに伝えてあげるべきだろうかと考えていたら、碇君が目の前に。
 
「綾波。ちゃんと拭いた?」
 
「…ええ」
 
差し出された手にタオルを返すと、碇君の肩越しにふすまが開くのが見えた。
 
「ん? お、おおおおお…」
 
「お邪魔してます!」
 
「あら、2人とも、いらっしゃい」
 
具体的に何が違うと、判ったわけではない。いつも通りの、来客用の高い声だったはずだ。けれど、ふすまが開いた瞬間に見せた葛城一尉の厳しい表情が、この私をして何か違うと感じさせてしまった。
 
この雨は、葛城一尉のココロにも降りしきっているのだろうか? と……
 
「お帰りなさい。今夜はハーモニクスのテストがあるから、遅れないようにね」
 
「はい」
「…はい」 
 
私と碇君の返事を確認するように頷いて、視線がアコーディオンカーテンのほうへ。
 
「アスカも、わかってるわね?」
 
  「はーい!」
 
あぁん? とメガネを押し直した相田ケンスケが、深々と腰を折った。
 
「このたびはご昇進、おめでとうございます!」
 
「お、おめでとうございます」
 
鈴原トウジも、同様に。
 
「ありがとう…」
 
「いえ、どういたしまして」
 
葛城一尉…いや、葛城三佐が「ありがとう」と言ったその口調を、なんと言い表せばいいのか知らない。けれど判ってしまった。その笑顔が、葛城三佐のココロとは裏腹であることを。不本意…とも違う何かを滲ませて、顔だけで笑っていることを。
 
ヒトが己を偽る姿を、痛々しいと感じるべきだと、このときの私は知らなかったというのに。
 
ダイニングを縦断する葛城三佐に付き従うように、相田ケンスケと鈴原トウジ。そのまま玄関の方へと姿を消した。碇君はダイニングの戸口まで。
 
 「じゃ、行ってくるわね」
 
 「「いってらっしゃ~い」」
 
着替え終わったらしい惣流アスカラングレィが、ランドリースペースから現れた。赤いタオルで頭を拭きながら向かうのは、ダイニングの戸口だろうか。
 
 
 「どうしたの? ミサトさんに何かあったの?」
 
碇君の質問は、玄関に向かって。
 
 
  「ミサトさんの襟章だよ!線が2本になってる。一尉から三佐に昇進したんだ」
 
へぇー。と戸口の向こう側に上半身だけ突っ込んだ惣流アスカラングレィは「知らなかった」と、頭を拭くのに忙しい。
 
 
 「いつのまに…」
 
碇君の疑問が昇進したことに対してなら、それは二日前のこと。たしか、公示されていたはずだ。けれど、襟章が変わったのは今日のことだと思う。
 
  「マジに言うとるんかぃ? 情けないやっちゃなぁ」
 
  「ぬわぁ、君達にはヒトを思いやる気持ちはないのだろうか。あの若さで中学生3人を預かるなんて大変なことだぞ」 
 
正確には、私はもう葛城三佐の保護下にはない。なのに、それを訂正する時間は与えられなかった。
 
  「ワシらだけやなぁ、ヒトの心持っとんのは」 
 
思わず胸を押さえる。
 
今の、胸に感じた痛み。
 
鈴原トウジの言葉が、物理的な硬度を持って突き刺さった気がした。
 
 
****
 
 
「3人ともお疲れさま。シンジ君、よくやったわ」
 
ハーモニクスのテストが終わって、赤木博士の講評。
 
「何がですか?」
 
「ハーモニクスが前回より6も伸びているわ。たいした数字よ」
 
零号機に乗っている碇君は、ハーモニクスも低い。
 
「でも、ワタシより190も少ないじゃん?」
 
「あら、10日で6よ。たいした物だわ」
 
まっ、そうかもね。と惣流アスカラングレィが肩をすくめた。
 
 
エヴァンゲリオンとパイロットの親和性を計る指標は2つある。シンクロ率とハーモニクスだ。
 
ただ、本来そんな指標は不要のはずだっただろう。直接制御が、実現していれば。
 
 
模造使徒であり、人造人間でもあるエヴァンゲリオンは、ヒトの免疫によく似た異物排斥、あるいは同化のシステムを有している。使徒はココロとカラダが同一であるから、精神と肉体の両面を併せ持った機構であるが。
 
エヴァンゲリオンをほしいままにするには、その免疫機構に抵触せず受け入れられることが必須だ。具体的には2億5千万種の免疫抗体のうち、致命的な5500万種以上に適合することを求められる。
 
そういう意味では、あのヒトですらエヴァンゲリオンを直接制御していたわけではなかった。ココロを貰った私が嬉しくて、少しでも近くにと、寄り添っていただけ。
 
 
苦肉の策でヒトが作り出した間接制御は、当然のごとく5500万のボーダーを満たしてない。
 
間接制御のシンクロとは、取り込まれてしまった人柱を目隠しにして、エヴァンゲリオンの免疫を誤魔化す。ということだ。
 
そのとき、どれだけ誤魔化さずに直接エヴァンゲリオンと適合できるか。それがハーモニクスという数値だった。
 
それが高ければ高いほどエヴァンゲリオンそのものとの親和性が増し、シンクロなどという強制的にココロの壁を剥がされる手段に頼らずに済む。
 
「それで、ファーストは?」
 
「レイは伸びてないわ」
 
ただエヴァンゲリオンの免疫がヒトと違うところは、シンクロの回数・時間によってパイロットを受け入れていくところにあるだろう。
 
つまり、ハーモニクスは上昇するのだ。
 
間接制御によって、パイロットが即座に排除・同化吸収されないようにならなければ、判らなかっただろうけれど。
 
「シンクロ率はもう差もないし、ハーモニクスでアンタを追い抜くのも、時間の問題ね」
 
シンクロ率に頼り、それを伸ばそうとすることは、ハーモニクスの上昇に歯止めをかける。逆に、ハーモニクスが上昇すれば、シンクロ率を下げることができる。
 
ハーモニクスが上がることは、惣流アスカラングレィにとって歓ばしいことだと思う。
 
「…そうね」
 
だから、同意して頷いたのに、惣流アスカラングレィは柳眉を逆立てた。
 
「余裕ってワケ?」
 
なぜ、余力があることがこの状況を形容し得るのだろう?
 
「…余裕? わからない」
 
すべてを貫きそうな視線を私の瞳孔に刺し込み続けていた惣流アスカラングレィが、唐突に天を仰いだ。
 
「ホント、変わったコねぇ」
 
それはつまり、私がヒトではないと言われた気がして、ココロがきしむ。
 
「アンタ、また!」
 
何を見咎めたのか、瞬時に詰め寄ってきた惣流アスカラングレィが、私の眉間を人差し指で突いた。そのまま押し続けて、壁際まで。
 
「今度はナニよ?」
 
かぶりを振る。これは、私の問題だ。惣流アスカラングレィにそう言わせてしまう、私の側の問題だった。
 
「このままじゃ、ワタシがアンタを虐めたみたいじゃない。はっきりさせとかないと気持ち悪いわ」
 
さっさと言いなさい。と言葉にせず雰囲気だけで言い放って、惣流アスカラングレィが仁王立ち。
 
「…」
 
惣流アスカラングレィの向こう側に、碇君と葛城三佐と赤木博士。
 
その場から動かないけれどこちらを見て、様子を窺っている。
 
私のことを見てくれていると判ったから、
 
「…変わったコだと言われると、仲間はずれにされているようで、切ない」 
 
自分のココロを、口にできた。
 
はぁ? と、息を抜くように言うと、惣流アスカラングレィが肩を落とした。
 
「人間なんて、みんな違ってて当然じゃない。当たり前のことよ」
 
当然なら、あのような使い方にはならないと思う。それとも、そのことが理解できないのも…
 
「あ~はいはい!わかったわよ!もう言わないから、泣くんじゃないわよ」
 
頷くと、眼窩に満ちかかっていた泪滴が、落ちる。
 
惣流アスカラングレィは、もう言わないと約束してくれた。それは、私がヒトになったことの証にはならないけれど、ココロの軋む現状がひとつ、改善されたということ。
 
だから、手の甲で涙を拭って、歓びのままに微笑んだ。
 
私の笑顔では、ヒトを笑顔に出来ないと知っている。洞木ヒカリと同様に、惣流アスカラングレィも顔を赫らめるばかりで視線を逸らしてしまった。
 
 
****
 
 
 『目標を最大望遠で確認!距離、およそ2万5千!』
 
このヒト知ってる。サハクィエル、第10使徒。
 
『おいでなすったわね…エヴァ全機、スタート位置!』
 
初号機をしゃがませ、クラウチングスタートの体勢。
 
『目標は、光学観測による弾道計算しかできないわ。よって、MAGIが距離1万までは誘導します。その後は各自の判断で行動して。あなたたちにすべて任せるわ』
 
 『使徒接近、距離、およそ2万!』
 
『では、作戦開始!』
 
『行くよ』
 
【FROM EVA-00】の通信ウインドウに、碇君。
 
『スタート!』
 
駆け出す。
 
流れていく視界の隅に、昨日立ち寄った展望台があった。
 
 
…………
 
 
シンクロテストの後、葛城三佐と一緒に帰宅することになった。
 
すまないけど、ちょ~っち寄り道するわよ。と、その所有車を停めたのは展望台で、第3新東京市を一望にできるという。
 
車内に差し込むのは、赤い光。
 
夕陽を見ると、綾波レイの、儚い願いが思い起こされる。沈む太陽に消えていく命を重ね見て、己が願いを新たにしていた。
 
私は綾波レイではないから、夕陽は嫌いじゃない。
 
それでも私は綾波レイだから、夕陽は嫌い。この身を置いて消えていく太陽を妬ましく思う、そのココロが解かるから。解かりたくないことを、解からさせられてしまう。だから、私も夕陽は嫌い。
 
ドアを開けて降りた葛城三佐と呼ばれて降りる碇君を横目に、後部座席から動かない。動けない。
 
「レイとアスカも、ちょっち付き合って」
 
呼ばれて降りた惣流アスカラングレィが「ほら、アンタも呼ばれてんのよ」と引き摺ってくれたけれど、照りつける赤光に遮られて、葛城三佐の言葉は届かなかった。
 
 
…………
 
 
『距離、1万2千!』
 
もともとエヴァンゲリオンだった私は、初号機の免疫機構の、精神的な部分をかなり無効化できる。
 
そのぶんハーモニクスは高く。それだけ初号機の能力を引き出せる。
 
「…フィールド、全開」
 
肉体的な能力面はもとより、ATフィールドの出力が段違い。
 
サハクィエルの落下地点へ一番乗りし、初号機のATフィールドだけで支えきった。
 
 
『綾波!』
 
位置的に近かったのだろう、一早く到着したのは零号機。
 
「…碇君、フィールド中和」
 
『わかった!』
 
零号機が振り上げた両手が向かう先の、ATフィールドを一部解除。
 
『このっ!』
 
サハクィエルのATフィールドに指先を突き入れた零号機が、そのまま破り開くように。
 
『フィールドっ、全っ開!』
 
まるで、暴走中のエヴァンゲリオンのような中和の仕方だ。
 
『今だ!』
 
『こんのぉー!』
 
駆け込んできた弐号機が、勢いもそのままに改良型プログレッシブナイフを突き入れた。
 
 
さよなら、サハクィエル。
 
私の拒絶が強固なATフィールドとなって、その爆発は何ひとつ道連れにできない。イスラフェルと同じように、湖を残すことができたはずなのに。
 
 
****
 
 
「…」
 
もし、麻紐を口にしたとしたら、こんな味がするのかもしれない。
 
口に含んだ麺を、ほとんど咀嚼せずにそのまま呑み下した。いつもなら盛大に押し寄せる温点からの警報に気付かなかったことに、後で思い至る。
 
栄養補助食品と栄養調整食品による栄養摂取でも、ここまで味気なく感じることはなかったのに。
 
それは、このとんこつラーメンという料理の問題ではないだろうし、屋台という形式で、見知らぬこの中年の男のヒトが作ったから。というわけでもないだろう。
 
 
脳裏で繰り返されるのは、南極に居るという碇司令からの言葉。
 
   - 話は聞いた。よくやったな、レイ -
 
返答に困って、口篭もった。目を見開いた碇君を目の当たりにして、私はなんと応えたらよかったのだろう?
 
なぜ司令は、碇君に声をかけてあげなかったのだろう?
 
確かに、初号機の働きはあっただろう。最初に到着したし、支えきった。しかし、サハクィエルのATフィールドを中和したのは零号機だし、とどめを刺したのは弐号機だ。
 
褒められるなら、全員が褒められるべきだと思う。
 
明らかに落ち込んでいると判る碇君と、目に見えて不機嫌になった惣流アスカラングレィに挟まれて、居たたまれないという言葉の意味を実感した。
 
 
とんこつラーメンに手をつけようとしない碇君と、物凄い勢いでふかひれチャーシュー大盛りを平らげていく惣流アスカラングレィが視界に入らないように、身体をずらした。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第九話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:26


歩道橋のエスカレーターを降りると、スカートのポケットの中で鈴が鳴った。
 
碇君が沖縄のお土産としてくれた、シーサーという形而上生物のマスコットが付いたストラップ。勧められて、携帯電話に着けている。
 
鳴るたびに碇君との絆を感じさせてくれていた鈴の音が鈍く聞こえるのは、布越しだからだけではないように思えた。
 
あまり鳴らないように、足運びを抑えてしまう。碇君との絆が要らないわけでは、ないのに。
 
 
***
 
 
「ひくっ…」
 
しゃっくりのように喉が鳴った瞬間、洞木ヒカリの体毛が全て逆立ったのが、見えたような気がした。
 
私の作ったポテトサラダを味見するために頬張った、直後のことだ。
 
「…」
 
こめかみから滲み出た汗を滴らせるままに、ゆっくりと咀嚼している。回れ右するように背を向けた洞木ヒカリはそのまま前進して、冷蔵庫から円筒形の飲料サーバーを取り出した。
 
 
あの飲料、知ってる。番茶。セカンドインパクト以降、昼夜での寒暖差が少なくなった日本では、一番茶でもタンニンが多くて番茶にせざるを得ないのだそうだ。
 
特に好きって訳じゃなかったけど、飲めないとなると恋しくなる時もあるわね。と、食後に番茶を出されたときに赤木博士が言っていた。
 
あんたの給料なら安いもんでしょ。と飲料缶を傾けた葛城三佐に「ちゃんとしたものを探すとグラム1万を越えるのよ。流石にそこまではね」と返した赤木博士の溜息を憶えている。
 
 
きっかり90度の方向転換を行なって流し台に相対した洞木ヒカリがガラスコップに番茶を注ぎ終えるのと、その口中を嚥下し終わるのが同時。
 
「…」
 
一息に飲み干した洞木ヒカリが、ガラスコップを置いてこちらに向き直った。
 
「綾波さん、コショウが多すぎ」
 
「…そう?」
 
試しに一口、頬張る。
 
確かにコショウの刺激が強いように、味覚が伝えてきた。けれど、そのことのへの反応が、ココロでもカラダでも、うすい。
 
「…よく判らない」
 
碇司令の言葉を聞いてから、それを聞いた碇君の表情を見てから、味覚は私に喜びを与えてくれなくなった。私にとって食事の歓びとは、一緒に食べてくれるヒト、作ってくれたヒトとの絆だったから、当然の帰結。……なのかも知れない。
 
 
食べることの歓びを感じられない今、作ることへの興味も失せていた。いつになく強引に洞木ヒカリが「約束でしょ」と念を押してくれなかったら、ここには来なかっただろう。
 
絶対に多すぎ。と洞木ヒカリが番茶をお代わりしているのを見て、もう一口、頬張る。
 
コショウの刺激は、やはり何の反応をも引き出さない。けれど、それでもこのポテトサラダは、ポテトサラダとして味を認識できた。それは洞木ヒカリとの絆の賜物だと思うから、……
 
「…そうかもしれない」
 
綾波さん、味覚は鋭い方だと思っていたけど……。とガラスコップに再び番茶を注いで、洞木ヒカリがこちらに。
 
差し出されたガラスコップを受け取る。けれど、番茶を飲み下す気になれない。
 
 …
 
「もしかして、綾波さん。心配事とか、ある?」
 
「…なぜ、判るの?」
 
なんとなく、だけど……。と一歩下がった洞木ヒカリが食器棚に背中を預けて、「アスカも碇君も、なんだかよそよそしかったから」と視線を落とした。
 
もし私が当事者でなければ、碇司令の言葉を聞いた瞬間の碇君の表情を見ていなければ、とても碇君のココロを推し量ることなどできなかっただろう。
 
それを、なんとなく。で読めるのは、洞木ヒカリがヒトだからだろうか? 同じヒトだからこそ結果から原因を察しえるのだろうか?
 
テーブルに置いたガラスコップは、ことさら乱暴に扱った覚えはないのにその水面を波立たせて、荒い。
 
「なにか力になれればって、思ったんだけど……」
 
水面から剥がした視線を、洞木ヒカリに向ける。その眉根を落とすように寄せて、……困惑の表情? …いいえ、
 
「…ありがとう」
 
洞木ヒカリが、まるで我が事のように心配してくれてると判ったから、感謝の言葉は自然と。
 
「…でも、きっと話してはいけないと思うから」
 
事情を話すとなれば、碇司令の言葉に触れざるを得ない。けれど、あの労いの言葉が論功行賞の一環だとすれば、おそらく守秘義務に抵触する。
 
笑顔を向けたかったのに、笑顔を向けるべきだと判っているのに、眉根が寄るのを抑えられない。落ちた視線の先にガラスコップ。その水面にはもはや波一つないのに、このココロは……
 
「…ごめんなさい」
 
「あっ、いいのよ、綾波さん。わたしのほうこそ、ごめんなさい。立ち入った真似しちゃって」
 
一歩踏み寄ってきた洞木ヒカリの、覗き込んでくるその顔に、笑顔。眉根を寄せたまま、口の端を引き締めたまま、なのに笑顔。
 
それはきっと、自分のココロを偽る仕種。けれど、それは他者のために、今は私のために。自分のココロより、他者のココロを思いやって。
 
このこと知ってる。やさしさ。きっとそれこそが、ヒトの毅さ。
 
だから、笑顔を返せた。眉根を寄せたままだけど、口の端を引き締めたままだけど、おそらくは洞木ヒカリの笑顔と、同じ笑顔で。
 
「…ありがとう」
 
唐突に視線を逸らした洞木ヒカリが、自らの視線を追いかけるように背を向けた。
 
「う、うん…その、どういたしまして……」
 
なにやら複雑に組み合わせていた指を止めて、「そうだ」と振り返る。
 
「綾波さん。元気の出るおまじない、教えたげる」
 
「…おまじない?」
 
ええ。と踵を返して流し台へと歩み寄った洞木ヒカリが、戸棚から片手鍋と金属製のバットを取り出した。
 
バットに張った水を、たちまち捨てて、そのまま冷凍室にしまう。何も載せてないバットを冷やす行為にココロ惹かれるものを覚えて、歩み寄る。
 
このこと知ってる。好奇心。知らないことを知りたいと思うココロ。
 
片手鍋に張った水は捨てずに、点火したガスコンロへ。三温糖とラベリングされた容器から掬い上げた茶褐色の粉末を、2度3度と片手鍋に投入している。
 
「…なに?」
 
「まず、べっこうあめを作るの」
 
「…べっこうあめ?」
 
ええ。と、ゴムベラを取り出した洞木ヒカリが、片手鍋の中身を掻き混ぜだした。
 
熱が加わるにつれ、茶褐色の液体に粘性が増していっているように見える。洞木ヒカリは、いったい何を作ろうというのだろう?
 
こんなとこかな。と火を止めた洞木ヒカリが、シナモンパウダーを手にした。
 
「綾波さん。冷凍室からバットを出してくれる?」
 
「…ええ」
 
冷凍室からバットを取り出して振り向くと、片手鍋を手にした洞木ヒカリがテーブルの傍らで手招きしていた。「ここに置いてくれる?」と指図されるままに、テーブルの上に。
 
「よ~く、見ておいてね」
 
片手鍋を傾けて、茶褐色の液体を細くバットに垂らしだす。左から右へと一文字に引いた線を、36度ほどの角度で左下へと折り返した。そこからまた36度ほどの角度で右上へと折り返し、次は右下、さらに左上と繰り返されて始点へと戻ってくる。そうして描かれたのは、☆のような図形。
 
「こうやって好きな形や言葉を書くの。綾波さんもやってみて」
 
はい。と鍋敷きの上に置かれた片手鍋に、手を伸ばす。
 
…好きな形、……好きな言葉。
 
すぐに思いついた言葉はしかし、この筆記具で書くには適さない。ひらがなでも、カタカナでも、難しいだろう。だから……
 
「n?」
 
筆記体で描いた文字を、洞木ヒカリが口にした。
 
頷きだけを返して、続けてexusと描く。
 
「ネク…サス?」
 
「…ええ。好きな言葉」
 
片手鍋を鍋敷きの上へと置いて「…絆」と呟くと、口元から温もりが拡がるよう。
 
「いい言葉ね」
 
「…ええ」
 
それじゃあ…。と伸びた手が、バットの上から☆を取り上げた。冷えて、固まったのだろうか? そのために、バットを冷凍室で冷やした?
 
「こうして作ったべっこうあめを、食べるのよ」
 
☆の一角を齧り取った洞木ヒカリが、その頬を緩めている。
 
さあ、綾波さんも。と促されてnexusを手にするけれど、
 
「…食べなくては、ダメ?」
 
「それが、おまじないだもの」
 
…そう。と言ったその口で齧り取る、nの字のγの部分。それは、とてもとても、
 
「…あまい」
 
歓びを伴わなくなった筈の、私の味覚に、頬が痛くなるほどの甘味。
 
これが、おまじない。ショ糖と水だけで作られて、なのに私の機能不全を回復せしめる。洞木ヒカリのおまじない。
 
どう? と笑顔で覗き込んでくる洞木ヒカリに頷いて見せると、甘いべっこうあめにしょっぱい泪滴が降りかかった。
 
「綾波さん!?」
 
慌てる洞木ヒカリに、かぶりを振り。もう一口、べっこうあめを齧り取る。
 
「…ありがとう」
 
うん。と目を細めた洞木ヒカリが、その手を私の背中に添えてくれた。
 
「どういたしまして」
 
 
***
 
 
コショウの入れすぎでとても食べられないポテトサラダは、洞木ヒカリの手でココットと言う料理にされて夕食に供されたそうだ。
 
それもまた、洞木ヒカリのおまじないなのだろうか?
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:26


待つしかないかと閉じかけたまぶたを、やはり開けた。
 
先ほど私に接触してこようとした気配。あれは使徒。よく知らないヒトだけれど、きっとイロウル。第11使徒。
 
ならば、どういう相手であるか。どう斃されるのか。見ておくべきだと思ったのだ。
 
 
シミュレーションプラグを出ると、ジオフロントの地底湖だった。
 
LCLに濡れた肌に、夜気が冷たい。今なら水中の方が暖かく感じるだろうと考えて、ためらいなくシミュレーションプラグの外壁面を滑り落ちた。
 
「…っ」
 
飛び込んだ勢いで完全に水中に没した時、右第九肋骨が肺に触れた。呼吸器内まで取り込むLCLと違って、水圧が容赦ない。
 
冷たい湖水はとても心地よいのに、肺への圧迫が呼吸を妨げる。この体にとって負担の大きい領域と知って、体が口元まで沈んだ。
 
そういえば、私の使っていたこのシミュレーションプラグが一番岸から遠かったように思う。思わず洩れた溜息が、あぶくとなって鼻先をくすぐる。この身体が水に馴染むようなのが、せめてもの慰めだった。
 
 
肋骨をかばいながら身体のひねりだけで泳ぎ進んでいくと、目前に別のシミュレーションプラグ。迂回するより、潜り抜けてしまったほうが早い。事前にそうと判っていれば、多少の水圧くらいは耐えられるだろう。
 

 
けれど…
 
潜るために肺の中から追い出した空気をまた吸って、そのままシミュレーションプラグに泳ぎ寄ってしまったのは、それが、惣流アスカラングレィの乗っているシミュレーションプラグだろうと推測できたから。
 
使徒殲滅にこだわる惣流アスカラングレィには、そのことを伝えるべきではないかと思ったから。
 
 
救出ハッチは水没していて使えないから、メインスライドカバースイッチを開く。イジェクションカバー排除レバーに手をかけると、イジェクションカバーがシミュレーションプラグの頭側に吹き飛んだ。
 
 
脱出ハッチを開けた瞬間、LCLを突き破って打ち出されたのは、こぶし? ハッチの狭さとLCLの抵抗で鋭さはなかったけれど、思わず胸部を庇ってしまった動作がわざわいして、前頭部に当たってしまった。痛みに一時身体のバランス制御がおろそかになって、そのまま尻餅をつく。
 
…痛い
 
「こんの、バカシ…」
 
顔を出した惣流アスカラングレィは、しかし咳き込んで、すぐさまLCLの中へと戻ってしまう。おそらく、肺と気管の中でLCLと空気を混ぜ合わせてしまったのだろう。
 
しばらくして再び顔を出した惣流アスカラングレィに向けた視線に、非難を乗せた。
 
「…どうして、こういうことするの?」
 
まだ痛む前頭部を、両手で押さえる。白いエヴァンゲリオンだった頃に、弐号機に殴られた時と同じ痛み。同じ気持ち。痛覚を遮断しても、なぜかまだ疼く。
 
やぶにらみの表情のままでまた水没した惣流アスカラングレィは、右手だけを差し出し、人差し指を2度動かした。
 
来い。ということだと思うので、姿勢を直して脱出ハッチの中を覗き込んだ。
 
逆さまの惣流アスカラングレィは、私の頭を挟むようにして掴むと、
 
『アンタ、バカぁ!こんな状況でハッチ開けられたら、トチ狂ったバカシンジが見目麗しい惣流アスカラングレィ様の御姿を一目拝もうと邪な考えでやってきたと思うのが当然でしょ!』
 
捲くし立てた。
 
「…そう? よく判らない」
 
話そうとすると気泡が立ち昇って、うまく伝わらないかもしれない。それに、鼻腔に流入してきたLCLが、今は異物感を感じさせるばかりで、落ち着かない。
 
『入って来なさい。会話になんないわ』
 
柳眉を逆立て仁王立ちで命令してくる。こういうのを、有無を言わせず。と言うのだろうか?
 
このままでは息苦しくなる一方だし、たしかに会話も成立しづらいようだから、そのまま頭からシミュレーションプラグに滑り込む。
 
身体の上下を反転させてLCLを吸い込むと、肺と右第7肋骨がこすれて、少し痛い。
 
「で? 何しに来たのよ、そんなカッコで?」
 
「…使徒が来てるわ」
 
「なんで? どうして?」
 
質問が抽象的過ぎて、何が訊きたいのかよく判らない。けれどおそらくは、なぜ判るかということだろう。
 
「…さっき、模擬体の制御を奪われたわ。何かの破壊工作かも知れないけれど…」
 
「 使徒の可能性が高い…って、アンタは思うワケね?」
 
顎を引いて、上目遣いに見上げてくる惣流アスカラングレィに、頷いてみせる。
 
「…ええ。だから、発令所にいくつもり。でも、惣流さんにも伝えておくべきだと思って」
 
「発令所って、そのカッコで…?」
 
もともとヒトでなかった私に、羞恥心と呼ばれるものはない。とはいえ、人前では衣服を着るべきだという常識はある。
 
「…もちろん、更衣室に寄るわ」
 
「たいして変わんないわよ!まったくアンタってコはホントに…」
 
惣流アスカラングレィが慌てて口を塞いだ理由が理解できたから、窺うようなその眼差しに微笑みで応えた。
 
「…人目につきにくい通路も知っているから。貴女は、どうするの?」
 
「ワタシは… こんなカッコで出歩いたり、できるワケないじゃない」
 
紡いだ言葉に引き摺られるように、惣流アスカラングレィの視線が下がる。
 
 …
 
結論は出そうにない。
 
「…それじゃ、行くから」
 
シミュレーションプラグを出ようとした私の手首を、惣流アスカラングレィが掴む。
 
「…」
 
揺れる虹彩に見えるものを、葛藤と呼ぶのだろうか? 掴まれた手首は痛いほどなのに、とても結論がつきそうにはなかった。
 
「…更衣室に着いたら、着替えを持って迎えに来るわ。それでどう?」
 
「どうって…いいの? アンタ、そんな…」
 
ええ。と頷く。一度引き返してくるくらい、たいした労力ではない。それに、イロウルはエヴァンゲリオンなしで殲滅されるはずだ。それほど急ぐ必要はないだろう。
 
「どうして、アンタ。そんなにワタシのこと…」
 
一旦逸らした視線を再び持ち上げた惣流アスカラングレィは、言葉の続きを待つ私を見て、なにか諦めたようだった。
 
「 気にかけてくれんの?」
 
気にかけている? 私が惣流アスカラングレィを?
 
いや、私が気付いてなかっただけで、私は気にかけていたのだろう。感情表現豊かで気性の激しい、この女のヒトを。
 
それはきっと、私の持っていないものを沢山持っているから。
 
「…あなたみたいに、なりたいから」
 
「ワタシみたいに?」
 
頷く。
 
「…もちろん、あなたそのものになれないことは解かっている。でも、あなたみたいに、自分というものをしっかりと理解して、表現できるようになりたい」
 
それが、ヒトになることだと思う。
 
 「 しっかりと理解して…ね 」
 
口中で呟いた言葉は、LCLの中でなければ立ち消えて聞こえなかっただろう。
 
「まっ、いいわ。こうしてるあいだにも使徒が侵攻してるかもしんないし、行くわよ」
 
私を押し退けるように脱出ハッチへ身体を押し上げた惣流アスカラングレィが、あっという間にシミュレーションプラグから出てしまった。
 
いったい、惣流アスカラングレィにどのようなココロの変化が訪れたというのだろう?
 
思わず首を傾げた私を、脱出ハッチから突き入れられた惣流アスカラングレィの右手がせわしなく手招きした。
 
 
***
 
 
……なんだか、長い道のりだったように思う。
 
更衣室までの間、惣流アスカラングレィは事あるたびに私の陰に隠れるように引っ付くので、とても移動しづらかった。
 
しがみつかれた拍子に右第八肋骨が肺を圧迫した時など、洩らした苦鳴におどろいて怒り出すし。
 
なぜ、私が叱られなければならないのだろう?
 
 
だから、無事に更衣室でコルセットを着けたとき、安堵で溜息をついてしまった。
 
それを見咎められて、また叱られたのだけれど。
 
 
こうして本部棟まで戻ってきて気になるのは、地底湖に残してきた碇君のこと。もう一つのシミュレーションプラグに向かおうとした私を、惣流アスカラングレィが止めた。「男なんだから問題ないわよ」と言うが、なぜ男なら問題がないのか、「当たり前のコト訊くんじゃないわよ」と、それは話してくれない。
 
 
 
発令所で交わされていた会話から推測して、MAGIフロアに下りてきた。躯体を持ち上げられたカスパーの入り口に葛城三佐。伊吹二尉の姿もある。
 
「あら、レイにアスカ。あんたたちどうやってここまで…」
 
「ワタシたちを迎えにくんのは、アンタの職務のうちだと思うんだけどね?」
 
途端に口論を始めてしまった葛城三佐と惣流アスカラングレィを置いて、カスパーの中に這い入る。
 
「あら、レイ。貴女…」
 
「…赤木博士。手が止まってます」
 
発令所で、大体のあらましは理解してきた。イロウルがマイクロマシンのような微細な使徒で、模擬体からハッキングをかけてきているのなら、確かにエヴァンゲリオンの出番はないだろう。
 
「何しに来たの?」
 
視線もくれない。手も止まらない。でも、声音に拒絶はない。
 
「…使徒、殲滅に」
 
「そう。でも、今回は出番、ないわよ?」
 
「…はい。ですから、戦っている赤木博士を見に、来ました」
 
キーボードを叩く指が、一瞬止まった。
 
「そう。まあ好きにしなさい」
 
そっけない口調とは裏腹に、雰囲気が柔らかくなった気がする。
 
 
 『来たっ!バルタザールが乗っ取られました!』
 
   ≪ ・人工知能により 自律自爆が決議されました 自爆装置は三審一致ののち 02秒で行われます 自爆範囲はジオイド深度マイナス280 マイナス140 ゼロフロアーです ≫
 
 
足を前に投げ出し、膝に顎を預けるようにして座りなおした。
 
 
   ≪ ・特例582発動下のため 人工知能以外のキャンセルは出来ません ≫
 
 『バルタザール、さらにカスパーに侵入!』
 
 
赤木博士の眼鏡が、照り返しで光っている。
 
 
 『該当する残留者は速やかに待避してください。繰り返します、該当地区残留者は速やかに待避してください』
 
   ≪ ・自爆装置作動まで あと20秒 ≫
 
 『カスパー、18秒後に乗っ取られます』
 
 
気負いも焦りもなく淡々とキーボードに向かう姿を、なんと表現したらよいのだろう。私はまた、赤木博士にも憧れていると知る。
 
 
   ≪ ・自爆装置作動まで あと15秒 ≫
 
 「リツコ…急いで」
 
躯体の外から、葛城三佐の声。
 
 「間に合うんでしょうね?」
 
惣流アスカラングレィの声にも、怯えが見える。
 
葛城三佐も惣流アスカラングレィもここに来て、赤木博士の姿を見ればいいのに。そうすれば、恐れることなど何もないと理解できるだろう。
 
   ≪ ・自爆装置作動まで 10秒 ≫
 
「大丈夫、1秒近く余裕があるわ」
 
      ≪ ・9秒 ・ 8秒・ ≫
 
 「「1秒って」」
 
      ≪ ・7秒 ・ 6秒・ ≫
 
「ゼロやマイナスじゃないのよ。マヤ!」
 
      ≪ ・5秒 ・ 4秒・ ≫
 
 『いけます』
 
      ≪ ・3秒 ・ 2秒・ ≫
 
「押してっ」
 
         ≪ ・1秒・ ≫
 
 
         ≪ ・0秒・ ≫
 
            ・
 
            ・
 
            ・
 
  
 …時間が止まれば、こんな静寂が訪れるのだろうか。
 
 
 
   ≪ ・人工知能により 自律自爆が解除されました ≫
 
 

 
  『 『『『「「「「「 ぃやったぁー! 」」」」」』』』』 』
 
 
歓声も、カスパーの中では遠い。
 
内壁にもたれかかった赤木博士に、かける言葉を探す。
 
「…おつかれさまでした」
 
「もう歳かしらね、徹夜がこたえるわ」
 
見せてくれた笑顔は力ないけれど、赤木博士がそのココロを見せてくれたように思えて嬉しい。
 
 
***
 
 
「…赤木博士?」
 
本当に疲れていたのだろう。
 
帰宅した赤木博士は自室に敷布団を敷くなり、倒れるように寝入ってしまったのだ。ふすまも開け放したままで。
 
押入れから掛け布団を出して、かけてあげる。
 
 
泥のように眠るとは、このような状態を言うのだろう。寝息が深い。
 
その眼の下に、隈。
 
このところすっかり薄くなっていたのに、今はくっきりと浮かんでいる。指を這わすと、そこから疲労が染み込んできそうだった。
 
途端に、音をたてそうなほど縮こまった胸郭。今感じた想いを、なんと言い表せばよいのか、知らない。
 
自分は、いったい何を欲しているのだろう?
 
判らないけれど、ただただこの場を離れがたくて、布団の中に、赤木博士の傍に、そっと潜りこんだ。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:26


「へぇ~、これをレイがねぇ」
 
人差し指でポテトサラダを掬い取った葛城三佐が、そのまま頬張った。
 
「うん♪旨いじゃない」
 
「ミサトさん!」
 
なによシンちゃん。レイの手料理、一番乗りしたかったの? と揃えた指先で口元を隠す葛城三佐に、行儀が悪いです。と碇君がたしなめている。
 
 
11-A-2号室での夕食。今日作った、ピンク色したポテトサラダを持参した。
 
洞木ヒカリの言うとおり、葛城三佐も碇君も、惣流アスカラングレィも驚いている。
 
驚いているけど、それが不快ではなさそうで、…だから私も嬉しい。
 
 
「いいの?」
 
差し出したスプーンを受け取って、惣流アスカラングレィ。
 
頷くと、ポテトサラダを掬い取って、一口。
 
「へぇ…結構イけるじゃない。アンタ、料理なんかできたんだ?」
 
かぶりを振る。
 
「…今日、洞木さんに習ったばかり。だから、これしか作れないわ」
 
ふ~ん。と、惣流アスカラングレィが二口目を頬張った。
 
 
***
 
 
リビングで待つこと、拍動にして1万5693回ぶん。当初左90度の位置にあった壁掛け時計の短針が、今は右に30度傾いている。
 
玄関ドアの開閉する気配に、立ち上がってキッチンに向かった。
 
 
「あら、レイ。…貴女、まだ起きていたの?」
 
「…はい」
 
冷蔵庫に仕舞っていたタッパウェアと食器棚から取り出したスプーンを、ダイニングテーブルの上に置く。
 
「ポテトサラダ? 貴女が作ったの?」
 
まだ何も言ってないのに、なぜ赤木博士は判るのだろう?
 
葛城三佐の家では、事情を説明するのに1382回ぶんもかかったのに。
 
なんてね。と舌を見せた赤木博士が、微笑。
 
「ミサトが電話かけて来たのよ。レイの手作りポテトサラダ、美味しかったわよ~♪って、自慢ったらしく」
 
葛城三佐の言いようばかりか、仕種まで真似て。
 
「それは私の分?」
 
「…はい」
 
そう。とショルダーバッグをテーブルに置き、赤木博士が椅子に腰掛けた。
 
「ありがとう」
 
「…どういたしまして」
 
手元に引き寄せたタッパウェアに注がれる赤木博士の眼差しが、とてもやわらかい。
 
「夕食も摂れなかったし、少しだけ戴こうかしら」
 
「…はい」
 
 …
 
美味しかったわ、残りは明朝にでも戴くわね。と、赤木博士がタッパウェアのふたを閉じた。
 
「それで? これを食べさせたいってだけで、待っていた訳ではないんでしょう?」
 
「…はい」
 
頷いた。
 
テーブルの向い側には、赤木博士。身構えることもなく、穏やかな表情で私の言葉を待っている。のちに知ったのは、頬杖と呼ばれる仕種。
 
「…なぜ、私を引き取られたのですか?」
 
「いきさつは、聞いていたでしょう?」
 
頷いた。
 
先ほどと同じ動作だけど、そこに篭めた想いが違う。そのことは赤木博士も読み取ってくれたようで、だから、問い掛けるように眉が少し持ち上がったのだと思う。
 
「…私の意志は、訊いて下さいませんでした」
 
眉尻を下げた赤木博士が、テーブルの上で手を重ねた。
 
「私に引き取られたくは、なかった?」
 
かぶりを振る。
 
「…失ってみなくては、葛城三佐が与えてくれていたものに、気付かなかったでしょうから」
 
だけど、…いや、だから
 
ヒトの身になった私が最も欲しているのは、ヒトがヒトである由縁。群体であることの理由。きずな。ふれあい。
 
「…でも、…独りは、いや」
 
洩れ出る言葉と、こぼれ落ちる涙。私から溢れた、ココロ。
 
「結局、寂しい思いをさせてしまったわね…」
 
サビシイ?
 
この痛みが、さびしい?
 
いつのまにか隣りの椅子に腰かけて、赤木博士が頭をなでてくれる。前のときと違って、頭髪が引き攣れない。
 
「私も寂しかったのかもしれないわ。だから、貴女を引き取った」
 
右手は、膝の上の私の手の上に。
 
「私はね? ある人に見てほしかったの。ある人よりも、見てほしかったの」
 
だけれど。と、嘆息。
 
「司令に見られたくないと貴女が言ったときに、思ったわ。
 たとえその人が見てくれても、私が見られたいようには見てもらえないかも…と、むしろ見られたくない見られ方で見られるかもしれない…と…
 そもそも、その人よりもと欲していたその人ですら、その人には見てもらえてなかったのかも。…と」
 
言葉に詰まったように見えたから、赤木博士の右手の上に、私の左手を重ねた。
 
「そう思ったら、自分の莫迦さ加減が嫌になって、色々と放り出したわ」
 
笑顔。でも、見ていると悲しくなるような笑顔。嬉しくない。
 
「見られたくない貴女と、見てほしくなくなった私。
 巧く行くと、思ったのだけどね?」
 
ヒトは、寂しさを無くすことができない。自らに斉しい他者という存在があるのに、ATフィールドを解き放てないから。
 
寂しいから、寂しいことを知っているから、絆を感じたときに嬉しいのだろう。そのためにつぎ込まれる力、想い。だからヒトは毅いのだろう。
 
寂しさを忘れるために、ヒトは労力を費やさなければならない。でも、それがヒトの力になるのならば、
 
「…赤木博士は、私と暮らして、寂しさが減りましたか?」
 
ヒトになろうとする私は、ただ寂しいと泣いていてはダメ。
 
俯いて涙の痕を拭ったのは、僅かな時間のはず。なのに、そうして見上げなおした赤木博士は、赤木博士の笑顔は、もう悲しくなかった。
 
「ええ」
 
嘆息は短く。
 
「帰ってきて貴女の気配を感じると、それだけで張り詰めていたものが溶けるみたいだったわ」
 
ATフィールドを解き放ったような、優しい眼差し。
 
「そのことを自覚したのは、ほんのさっき。私の帰りを待っていてくれた、貴女の姿を目にしたとき。だけれど」
 
この私が、ヒトの寂しさを埋められる。誰かに必要とされている。
 
それはまるで、自分がヒトとして認められたように思えて、口元が綻ぶ。
 
「…私が赤木博士の寂しさを埋められるのなら、うれしい」
 
ゆっくりと私を引き寄せて、赤木博士が抱きしめてくれる。
 
体重を預け、頭髪をすべる手の感触だけに意識を残した。
 
 
「不思議ね。貴女の頭を撫でていると、おばあちゃんの処に置いて来た猫を思い出すわ」
 
心地よさに伸ばしていたATフィールドを慌てて戻すと、優しく引き剥がされる。
 
「この前、私の布団に何時の間にか貴女が潜りこんでいたからかしらね」
 
笑顔。弾けるようなそれを、破顔と呼ぶのだと、このときに知っていたかった。
 
「今夜も、私の布団に来る?」
 
「…はい」
 
頷くと再び引き寄せられて、赤木博士の腕の中へ。
 
煙草とコーヒーと薬品と化粧品の残り香。それが赤木博士の匂い。
 
それだけで赤木博士を幾分か理解できたような気がして、嬉しい。
 
 
                                         つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:26


ターミナルドグマへ向かう途中、リニアエレベーターで碇君と一緒になった。
 
 …
 
…あまりにも重くて、それでリニアエレベーターが沈んでいっているのかと思わせるような、沈黙。
 
物理的な圧力を以ってのしかかってきて、息苦しさまで覚えてしまいそう。
 
 
サハクィエルと戦ったあとから、私と碇君との間で成立した会話は数えるほど。碇君から話し掛けられることが、とても減ったから。
 
碇司令に褒められたいと言っていた碇君は、自分が褒められなかったことに、私だけが褒められたことに、思うところがあるのだろう。
 
それはきっと、妬みと呼ばれる感情。感じたことがないから、断言は出来ないけれど。
 
けれど、視界の隅から盗み見た碇君の表情は、それだけで構成されているわけではないように思われた。
 
胸郭から抜け落ちるような、呼気。いつのまにか、呼吸まで自粛していたらしい。
 
 
「明日、父さんに会わなきゃならないんだ。なに話せばいいと思う?」
 
ようやく口を開いてくれた碇君の選んだ話題は、碇司令のこと。それをすこし、さみしいと思う自分がいた。
 
「…碇君は、何を話したいの?」
 
「よく、判らないんだ」
 
今、なにを話しかけたらいいか判らなかった私には、碇君の気持ちがよく解かるような気がする。
 
「…碇司令に、訊いてみたいことは?」
 
「父さんに…か、」
 
 
考え込んでしまった碇君。けれど、この沈黙は痛くない。
 
 
ベルが鳴って、リニアエレベーターの加速が鈍る。碇君の目的のフロアに到着したらしい。
 
「お陰で、なに話していいか判ったような気がするよ。ありがとう、綾波」
 
すこし硬さのとれた笑顔に、私には判らない成分を含ませて、碇君がリニアエレベーターを後にする。
 
「…どういたしまして」
 
押していた開のボタンから離れた指に、絞られるような痛み。ココロとカラダが乖離して、千切れたような。
 
「あっ綾波?」
 
閉じ始めた扉のセーフティを叩くようにしてリニアエレベーターを降りてしまったけれど、何か、明確な理由があったわけではない。
 
ただ、このあと私はターミナルドグマから当分戻れなくなる。このまま碇君と別れては、いけない気がしたのだ。
 
「…碇君。私…」
 
けれど、言うべき言葉を持たない。
 
「…」
 
「綾波…あの?」
 
自分のココロを、言葉にできない。
 
泣きたくなる原因の、潰し方が判らない。
 
溢れたココロは、ただ涙となってこぼれ落ちることしか知らない。
 
「…綾波…」
 
一歩、こちらに踏み込んできた右足と、ついて来ない左足。碇君の途惑いは、きっと私のせい。
 
碇君を困らせてるかと思うと、自分の存在すら赦せなかった。
 
「…ごめんなさい」
 
自分を消し去ることはできないから、せめて顔を伏せて、駆け出した。
 
 
****
 
 
ガラスシリンダーの中で、LCLに浮かぶ。
 
魂のバックアップ作業は、私が綾波レイとなってからは初めてだ。それまでは、少なくとも1ヶ月に1回は為されていたのに。
 
それに、赤木博士も居ない。綾波レイの記憶に拠れば、実際の機器操作は全て赤木博士に任されていた。
 
まぶたを閉じているのに、碇司令の視線を感じる。それから逃れたい、隠れたいとココロが欲しても、狭いガラスシリンダーに逃げ場はない。薄紙の一枚でよいから隔てるものを欲しいと思う。
 
ヒトの感じる羞恥心とは、こういうものかもしれない。などと思ったのは、ずっと後のこと。
 
 
「レイ…」
 
呼びかけに、まぶたを開く。
 
その視線を霞ませるような、サングラスという形のココロの壁。少し安堵するけれど、この姿に別のカタチを見出されていることに変わりはなくて、つらい。
 
せめて焦点をぼかそうとして……しかし、綾波レイの記憶に残る光景との間に生じた違和感が答えを求めて、知らずその視線を受け止めていた。
 
そういえば前回のバックアップの時、碇司令はレンズが素通しのメガネをかけていたはずだ。零号機の起動実験で破損したことは知っているが、何故それがサングラスに変わったのか、私は知らない。
 
 
***
 
 
碇君の姿を見つけて、ついフレームの陰に隠れてしまった。碇君が昨日のことをどう思っているのか、私では想像もできない。
 
ここには、このVTOL機が着陸できるだけの場所がないようだ。刻まれた道路の法面にホバリングで横付けし、碇司令が降りていった。
 
一瞬、視線を感じたけれど、ついて行かない。
 
 
 ― 用事がある。作業も中断だ。ついて来い ―
 
無為にターミナルドグマに留まっていても愉しいことは何ひとつないから、碇司令の言葉に従った。赤木博士が居てくれれば、他の選択もあったかもしれないけれど。
 
今はそれを後悔している。
 
碇君は司令に会うと言っていたから、この事態は予想できたはずだった。
 
 
谷を一つ挟んで、VTOL機が着陸する。元は、何か店舗があっただろう場所の駐車場。放置され、荒れ果てたさまが寂しい。
 
 
キャノピー越しにはるか遠く、碇君と司令の姿。ATフィールドで光の屈折率を操作して、視界内を拡大したいという誘惑に、耐える。
 
しゃがんでいた碇君が立ち上がって、司令の方を向いたところだった。
 
この距離で見えるとは思えないのに、再びフレームの影へ隠れてしまう。
 
 
なぜ私は、碇君から逃げなくてはならないのだろうか?
 
私が悪いわけではないと思う。もちろん碇君は悪くない。
 
誰も悪くないはずなのに、なぜココロの距離は離れてしまうのだろう?
 
 
アイドリングだったエンジンが、唸りを増した。時間が来て、碇司令を迎えに行くらしい。
 
 
「レイ…、なにをしている」
 
キャビンに上がってきた碇司令が、シートに沈み込むようにして身体を隠していた私を見咎める。
 
「…碇君に、見られたくありません」
 
そうか…。と向けられた視線は自然と私の瞳孔を捉え、碇司令がほんの少しだけ私自身を見てくれたような……、そんな気がした。
 
 
****
 
 
「いやぁ参っちゃったわよねぇ。あっさり抜いちゃったりしてぇ? ここまで簡単だと、正直ちょっと拍子抜けよねぇ」
 
惣流アスカラングレィは、上機嫌だ。先ほど行なわれたシンクロテストで、葛城三佐に「は~い、ゆーあっナンバーワン♪」と言われて以来。
 
シャワーを浴び、衣服をまとう間も、ずっと口を開きっぱなしだった。
 
「まっ、ここんところアンタちょっと調子悪いみたいだけど、ワタシに置いてけぼり食わないように、頑張んなさい」
 
頻繁に背中を叩かれるのは痛いけれど、惣流アスカラングレィはとても嬉しそうで、だから私も嬉しい。
 
「さ、帰るわよ。早く仕度しなさい」
 
「…えぇ」
 
私の帰り支度を妨害していたのが誰か、そのことは口にしないほうがよいのだろう。このこと知ってる。処世術と、赤木博士が言っていた。ヒトが、ヒトとの関わりを潤滑にするために憶える技術だと。
 
 
****
 
 
赤木博士の研究室の前に、人影。今まさにドアフォンを押そうとして。
 
「…伊吹二尉」
 
振り返った伊吹二尉は、私を見て後退った。瞳孔が急速に散大して、その中に私の姿が大きい。
 
「…レイ  … ちゃん…」
 
このヒトが、こんな目で私を見るようになったのは、ラミエルと戦ってしばらくしてからだったと思う。碇君による零号機の再起動実験が成功して、ダミープラグの開発が始動した、その時から。
 
私の姿を追って突き刺さるような視線は、私がそちらを向くと微妙に逸らされていた。今は近すぎるからか、微動だにせず私に向けられて。
 
伊吹二尉が私に対して感じているものを、今の私なら少し感じとれる。それが恐怖なのか、嫌悪なのか、それともさらなる感情なのか、そこまでは判らないけれど。
 
私の存在自体が誰かをおびやかしているかもしれないと思うと、この身を消し去ってしまいたくなる。でも、それはできないから、せめて伊吹二尉の視界から外れようとしたその時、
 
「あら? 貴女達」
 
「…赤木博士」
 
「せんぱい…」
 
ドアが開いた。
 
「レイ。そのワンピース、似合うじゃない。ようやく着る気になったの?」
 
赤木博士から与えられた衣服をどう取り扱っていいか判らなくて、今まで放置していた。制服とパジャマがあれば、全て事足りていたから。洗濯当番の日に非番が重なった葛城三佐がなぜか私の制服を洗ってしまわなければ、こうして袖を通すことはなかっただろう。
 
己が身ひとつで生きる使徒にとって、衣服もまた理解の及ばないものだ。羞恥心というものを知ったと思える今ならその有用性は解からないでもないが、衣服を着用することそのものを愉しむという感覚はやはりよく解からない。
 
けれど、抱きつかんばかりの勢いで葛城三佐に褒められたり、いま赤木博士の優しい眼差しにさらされていると、それが及ぼすことへの喜びを見出せるような気がする。
 
「衣服は、その人の所属や主張を代弁する物でもあるわ。レイ、今の貴女はどこにでも居る普通の女の子みたいよ」
 
……どこにでも居る普通の、女の子。その言葉に覚えた熱量を、逃すまいと胸元を押さえた。物理的な熱ではないけれど、そうせずには居られない。
 
「そのワンピースもそうだけど、貴女に渡した衣服は全てマヤが選んだのよ。お礼、言っておきなさい」
 
言われて見やった伊吹二尉が、また瞳孔を散大させた。こういう時、何て言えばいいのか判らないけれど、この服を着用することで得られた私の気持ちを伝えたいと思う。
 
「…この服が、私に喜びを教えてくれました。他の服も、私に喜びをくれると思います。
 …ありがとう、ございました」
 
下げた頭を戻した時、盛んにしばたかれるそこには、恐怖も嫌悪もないように見えた。
 
「どう…いたしまして」
 
抑揚のない返事だったけれど、それは感情を隠しているわけではないように思える。
 
「さあ、いつまでもこんなところに突っ立ってないで中に入りなさい。時間がないわ」
 
ダミープラグの開発のために呼び出されたコトを思い出して、まるで冷水を浴びせかけられたかのようにココロが冷えた。
 
「…あの」
 
一歩下がって、赤木博士からも伊吹二尉からも、垣間見える赤木博士の執務室からも視線を逸らす。
 

 
「ダミープラグの開発は、気が進まない?」
 
応えない。応えられない。今、ここに居たくないことも、ターミナルドグマに赴くたびに喚起され、私を蝕もうとする綾波レイのココロのことも。
 
「貴女の気持ちが解かるとは言えないわ。しかし備えは常に必要なのよ。人が生きていくためにはね」
 
…ヒトが? と見上げた私の視線を受け止めたまま、「そう、人が」と赤木博士が頷く。
 
その、ヒト の範疇に私も入れてもらえているような気がしたから、心に占める諸々を締め出せる。
 
「…わかりました」
 
赤木博士に促されて、引き込まれるように研究室へと足を踏み入れた。
 
「あの!」
 
背後からかけられた声に振り向くと、伊吹二尉が手にした紙袋を突き出して、
 
「めっ珍しく鳴門金時が手に入ったので、フランを作ってきたんです!ですから!お茶にしませんか」
 
まるで悲鳴のように一気に言い切った。
 
下唇をきつく噛んでいるのが、判る。けれど…、固く閉ざされていたまぶたがそっと開かれた時、私に注がれた視線は、潤みすら含んで柔らかい。
 
「そのっ!…みんなで……」
 
伊吹二尉の視線に釣られて、赤木博士を見やる。
 
仕方ないわね。とついた嘆息に湿度は一片も感じられず、なんだか軽やかだった。
 
 
****
 
 
『そりゃもう、こういうのは、成績優秀、勇猛果敢、シンクロ率ナンバーワンのワタシの仕事でしょう?』
 
機嫌よさそうに言い放った惣流アスカラングレィは、通信を閉ざすなり接敵を始めてしまった。
 
向かっているのは、宙に浮いた縞模様の球体。このヒト知ってる。レリエル、第12使徒。
 
「…葛城三佐?」
 
発令所への通信ウィンドウには、こめかみを押さえた葛城三佐の姿。
 
 『レイ、シンジ君。バックアップに廻って』
 
「…了解。初号機、バックアップ」
 
『零号機も、バックアップに廻ります』
 
 
惣流アスカラングレィの機嫌のよさが染ったみたいに、弐号機の動きが速い。
 
『シンジ、ファースト!そっちの配置はどう?』
 
「…待って」
 
『そんなに早く移動できるわけないよ!』
 
ビルを盾に大通りを横切った瞬間、視線が通って弐号機の姿が見えた。スマッシュホークを構えたまま、不自然に前傾姿勢になる。
 
「…いけない」
 
レリエルの注意を惹きつけるためにハンドキャノンを構えた時には、弐号機右肩ウェポンラックから、ニードルショットのフレシェットが射出されてしまっていた。
 
 『消えた!?』
 
 『なに?』
 
 『パターン青、使徒発見!弐号機の直下です!』
 
なりふり構っている時間はない。インダクションレバーを引き起こし、高機動モードへ。電源ケーブルは断ち切れるに任せ、弐号機めがけて一直線に駆け出した。
 
『かっ、影が!なによこれ!』
 
幸い、正面に立ち塞がるようなビルは無いけれど、初号機を掠めそうなビルには銃弾を、低いビルは踏み潰して突き進んだ。
 
 『アスカ、逃げて!アスカっ!!』
 
黒い円の中心で、弐号機はもう胸元まで沈んでいた。
 
ATフィールドを帯状に弐号機まで伸ばし、先端は析複化の応用でUの字型に加工する。そのATフィールドに引っかかった弐号機が、こちらを見た。
 
「…惣流さん」
 
駆け込んだ勢いそのままに、弐号機の腋の下に手を差し入れる。
 
『ファースト、アンタなんで…』
 
その言葉を私が口にしていいものか、すこしためらったけれど。
 
「…仲間だもの」
 
何か言い立てようとした惣流アスカラングレィを視界から外し、弐号機を持ち上げる。
 
「…碇君!」
 
『綾波、こっちだ!』
 
私の意図を読み取ってくれた碇君が、腰を落として受け止める体勢。すこし、嬉しい。
 
『ちょっ、ファースト、』
 
皆まで聞かず、弐号機を投げ飛ばした。
 
『こら~~~~』
 
引き摺るような悲鳴を残して飛んでいった弐号機が、零号機に受け止め…られずに諸共に潰れた。
 
碇君と惣流アスカラングレィは目を回したみたいだけど、無事。
 
通信ウィンドウ越しにそれを確認すると、その横のカウンタが、残りわずか。
 
「…葛城三佐。初号機、活動限界です」
 
 『なんですって!』
 
電力がなくなったくらいで初号機が止まることはないけれど、今は状況の流れのままに。
 
『ファースト? アンタ!?』
 
弐号機との通信ウィンドウに笑顔を向けた途端、エントリープラグの照明が落ちた。すぐさま灯った非常電源の赤い光が、惣流アスカラングレィの代わりに私を非難するよう。
 
 …
 
この時を、待っていた。
 
準備を整えて、待っていた。
 
初号機がレリエルに呑み込まれきっただろうことを見計らって、まぶたを閉じる。
 
 
意識を移すと、そこは初号機のココロの中。オレンジ色した水面と、赤い空。
 
水底深く視線をめぐらせると、そこに碇ユイが2人いる。
 
胎児のように身体を丸め、その眠りは深い。
 
1人は、初号機に乗って以来続けてきた、碇ユイを拾い集め、隔離していく作業の成果。ときおり寝言めいてくすくすと笑っているのは、長き虜囚の果てに、ココロ壊れてきているから。
 
もう1人は、ロンギヌスの槍を刺しに行ったときにリリスを使って、様々な宇宙の碇ユイから模ってきたココロの雌型だった。
 
ここ最近の私のシンクロ率が特に低かったのは、そのためだ。
 
 …
 
水面に揺れて見える、碇ユイ。それはきっと、宇宙がなくしたピース。
 
私は、幾多の宇宙を護ってきた。力ずくで、6グレートグロスと1グロスと6ダース。そして、エヴァンゲリオンとして過ごした、6つ。
 
その中で、ひとつだけ特に印象に残っている宇宙があった。
 
初号機として赴いて、碇ユイを捕り込むことなく戦かった宇宙。そこは、私が生まれた宇宙を別にすれば唯一、碇シンジが笑っていた――幸せそうに見えた宇宙だった。
 
…接触実験を無事終わらせた碇ユイに向けられた、幼子の笑顔が。…シャムシェルと戦ったあとにアンビリカルブリッジで叱られた少年が呟いた、願いが。今まさに目の前の出来事であるかのような鮮明さで脳裏に浮かぶ。それらを思い起こすたびに、ただ宇宙を護るだけでは足らないのだと想いを新たにしてきた。
 
ヒトの為すことへの干渉を許されぬ日々の中で、あの宇宙だけが優しかったのだ。
 
そうして思い至ったのが、彼女の存在だった。その宇宙にあって、他の宇宙にない、欠けたるピース。碇ユイ。
 
彼女を帰還せしめることで、歪みゆく諸々を引き止めえると期待する。
 
 …
 
そうしてこの時を、待っていた。
 
準備を整えて、待っていた。
 
ロンギヌスの槍が手に入り、リリスの元へ赴き、様々な宇宙の碇ユイからココロを模ってきた後の、この機会を。
 
リリスのコピーたる初号機なら、ヒトの自我境界線を操ることができる。あのヒトのやり方を、タブリスのすることを見ていた私なら、どうすればいいか教えることができる。
 
この、2人の碇ユイを混ぜ合わせ、全き姿でこの世界に帰還せしめることができる。
 
 
初号機に覚醒を促すと、たちまちコアが臨界を越えて、吼えた。
 
自らを慰め、しかし縛り付けていたモノからの開放の予感に、打ち震えている。
 
 
あまり時間がない。いつまでもこんなところに居る気はないし、長く放って置くと、碇ユイの雌型までもが変質し始めてしまう。
 
 
さあ、始めましょう、初号機。
 
碇ユイのATフィールドを、ココロの壁を解き放ちなさい。
 
欠けたココロの補完。長き時に偏り、狂ってしまった想いを捨て、二つの魂を今、ひとつに。
 
そして、この宇宙に齎しなさい…
 
 
二つの碇ユイが重なるにつれ、現実の腕の中でその肉体が存在感を増していく。
 
けれどLCLでは、成分が足りない。
 
コアのエナジーから直接生成させるのも、LCLを核融合させて作り出すのも、この狭いエントリープラグの中では無理がある。発生する熱で、すべてプラズマ化してしまうだろう。
 
だから、左手の手首を噛み裂いた。
 
流れ出る赤い血。赤く照らされたエントリープラグの中にあって、なお赤い。ANALYSYS PATTERN・BLOOD TYPE-RED。それは、ヒトの証。なのに、相当な量を失ってもそう簡単には死ぬことのないこの身体が、私がヒトでないと詰る。私の命じるままに細胞の代謝を落とし、手足への血液供給を遮断しておきながら。様々な赤と、異口同音に。
 
いまLCLを薄めた私の涙も、碇ユイの肉体を再構成するために使われるのだろう。
 
 
 …
 
目前に、碇ユイ。
 
あのヒトが私にココロをくれたときの姿だから。碇君の母親だから。嬉しい。
 
目覚めるにはまだ時間がかかるだろうけれど、このヒトが居るだけでなにもかも上手くいきそうな、そんな気がする。
 
 
おかえりなさい
 
声に出さずに呟くと、自然に口元が綻んだ。
 
 
 
さあ、これで初号機は解き放たれた。ヒトの与えた祝福と呪縛から、335京7266兆7880億9066万5241カウントの歳月を越えて。
 
その悦びと寂しさに、初号機はずっと吼え続けている。当り散らす対象もないままに、手足を振り回していた。自分の力の使い方を知っていたら、とっくにレリエルを殺していただろう。
 
「…私のココロを、あなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる」
 
私を受け入れなさい。貴方でもあるこの私を受け入れなさい。…ほら、心地いいでしょう? ココロが充たされるでしょう?
 
 
私では、貴方にココロはあげられない。私のココロを味わわせてはあげられるけれど、貴方そのもののココロをカタチ作ってはあげられない。
 
けれど、貴方にも使命をあげる。この宇宙の、今を護る戦い。
 
無尽蔵に湧き上がる力を、心置きなく振るえる相手を教えてあげる。
 
 
貴方を取り巻く、この無間の闇がレリエル。他者の抵抗を奪うために、己がココロの虚無を形になさしめた使徒。
 
さきほどから、私たちのココロに、かぼそい触手を伸ばしてきてるでしょ? 充たしたATフィールドで、貼りつくようでしょう?
 
知りたいなら、訊けばいいのに。欲しいなら、請えばいいのに。
言葉を持たずココロを知らない使徒は、こうして無遠慮にヒトのココロを撫で回すことしかできない。
 
よほどココロの壁が薄くならない限り、入ってもこれない微弱な干渉だけれど… …そう、貴方も不快なのね?
 
なら、言えばいい。「いいかげんにしろ」と。「無礼者」と斬って捨ててやればいい。
 
 
途端に発生したアンチATフィールドは、初号機の拒絶のココロを乗せて、たちまちレリエルを崩壊させてしまった。
 
 
                                          つづく

2008.05.26 PUBLISHED
2008.06.01 REVISED
 
special thanks to オヤッサンさま レイ(as初号機)のユイに対する思いの描写不足ついてご示唆いただきました。



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾壱話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:27


レリエルの中から帰還した私は、初号機がケィジに納まるのを待って昏倒することにした。
 
血液を失いすぎて、活動を維持することが困難だったのだ。
 
 
気付くと、いつもの天井。医療部301病室。
 
けれど、目覚めたときに誰かが傍に居てくれたことは初めて。
 
…うれしい
 
湧き上がってきた気持ちの理由は判らないけれど、判らなくても構わないことだけは解かっていた。
 
「…あかぎ はかせ」
 
「レイ!気がついたの!?」
 
わずかに顎を引いて応える。体に力が入らなかった。
 
視界の隅に、点滴架に吊るされた輸血パック。それがどこから来たのか、想像したくない。
 
視線を逸らすと、何か言いかかっていた赤木博士が口を閉じた。その眼の下に、また隈。
 
 …
 
「貴女に、委員会から直接尋問の勅命が来ているわ」
 
その都度表情を変えて何度も口を開こうとし、また閉じることを繰り返して。そうして搾り出すようにそれだけ告げて、赤木博士は顔を逸らしてしまった。
 
私に訊きたいことが、沢山有ったのではないだろうか?
 
「…わかりました」
 
身体を起こそうとして、果たせない。
 
「無理しないで!」
 
慌てて寄り添った赤木博士が、私を押しとどめる。
 
「このまま、このベッドごと運ばせるわ。寝てなさい」
 
「…はい」
 
そうして解かったのは、赤木博士が何も訊かなかったのは、優しいからだということ。私の体を、労わってくれたということ。
 
「…ありがとう ございます」
 
「なぁに? 何か言った?」
 
この距離で聞こえなかったはずはないと思うけれど、ベッドの四隅を廻ってキャスターの固定を外しているらしい赤木博士は、その動作を止めない。
 
ヒトが、素直にはどういたしましてと言わない場合があることを、私はもう知っている。
 
今の私は、赤木博士がそうしたい理由を解かるような気がしたので、言い直したりはしない。
 
 
***
 
 
初号機が暴走して、何か押し出されてくるような感覚があった。と、レリエルの中でのことを誤魔化した。
 
ACレコーダーは止まっていたそうだから、確認のしようはないだろう。
 
少しココロは軋むけれど、全てを話すことは、やはり私にはできない。
 
 
赤木博士が人手を呼んで、ベッドごと病室を出るところだった。
 
「なにしてんのよ!」
 
廊下の奥から駆けつけてきた葛城三佐が、押しとどめるようにベッドの端を掴んだ。
 
「委員会から、直接尋問の勅命が来てるのよ」
 
だからって…。と見やったのは、点滴架に提げられた輸血パックらしい。
 
「こんな状態のコを」
 
葛城三佐の視線から逃げるように、赤木博士が顔を逸らした。
 
「私の権限では拒否できないのよ。碇司令は501病室に篭りっきりで、取り次いでも貰えないし」
 
赤木博士をにらむ視線が一瞬緩み、逸らされてから鋭さを取り戻す。見つめた先は何もないシーツの端で、何か意味があってそこを見ているようには思えなかった。
 
「いいわ、アタシが代わりに行ってくる」
 
「ミサト!」
 
貴女にだって…。と呼びかける赤木博士に応えもせず、踵を返した葛城三佐が廊下の奥へと引き返していく。
 
差し伸ばしていた手を下ろした赤木博士が、踵を叩きつけるような歩き方で追いかける。そのまま顔だけ振り向かせてこちらを向いたとき、厳しい顔つきの中に歓びを見たような気がした。
 
「悪いけど、ベッドを戻しておいて。レイ、安静にしてるのよ?」
 
看護士たちが、わかりました。と、私が、…はい。と応えたころには、赤木博士はこちらを見ていなかった。
 
 「ミサト!待ちなさい!現状で判っていることだけでも伝えとくから。…いいえ、私も行くわ!」
 
あんなに乱暴に歩く赤木博士を、私は初めて見る。
 
肩を並べて歩き始めた赤木博士と葛城三佐の背中が、なんだか愉しそうだった。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:27


「内科の許可は、取れたのね?」
 
「…はい」
 
なら、反対する理由はないわね。と、赤木博士が嘆息。
 
今朝の検診で問題なしと診察されたから、そのまま赤木博士の研究室までやってきた。
 
「いってらっしゃい、学校」
 
「…はい。ありがとうございます」
 
苦笑した赤木博士が、カルテの写しを机の上に。その隣りに、気になる資料を見つける。
 
「…赤木博士」
 
私の視線だけで、言いたいことを察したのだろう。赤木博士が肩をすくめた。
 
「ええ、フォースチルドレンよ。まだ、打診もしてないけれどね」
 
資料に貼付された写真は、いつも通りのジャージ姿。なのに、普段とは違って無表情に私を見上げてくる。
 
だから、それが鈴原トウジであると、認識しがたかった。
 
「クラスメイトだったわね。彼じゃ、不満?」
 
かぶりを振る。
 
「…ただ、」
 
「ただ…?」
 
足を組み替えた赤木博士が、その膝に組んだ手を落とす。
 
「…痛い思いを、怖い思いをするのは…、私たちだけで、充分」
 
そうね。と肯定してくれた赤木博士は、しかし視線を逸らしてしまった。
 
 
***
 
 
どうせだからと、赤木博士が同乗させてくれたので、第3新東京市立第壱中学校に着いたのはお昼休み直前のこと。
 
「おおっと!」
 
階段を上がりきったところで、廊下から走ってきた人影とぶつかりそうになる。重心を崩して軸をずらすけれど、相手は転びかねないほど大げさに避けたから、掠りもしなかった。
 
「すまんなっ…て、綾波ゃないかい。もう体、えぇんか?」
 
「…ええ」
 
ほんのさきほど、鈴原トウジを呼び出す放送を聞いたところ。
 
「ほうか。そりゃあ重畳やの…っとと、わし呼び出されとんねん。またな」
 
「…ええ」
 
たちまち階段を駆け下りて、あっという間にジャージの背中は見えなくなってしまう。
 
 
私が黒いエヴァンゲリオンだった頃、鈴原トウジはパイロットだった。
 
けれど間接制御において、パイロットとエヴァンゲリオンの距離は、果てしなく遠い。あのヒトが直接制御と呼んでいた状態ですら、同じココロを共有するには程遠いのだ。
 
だから私は、鈴原トウジというヒトを、ほとんど知らなかった。
 
鈴原トウジが遭遇するであろう苦難を、解かってなかった。
 
 
***
 
 
振り向いた惣流アスカラングレィが、仁王立ち。
 
「ワタシが感謝するなんて思ったら、大間違いよ!」
 
 
私が教室に入ったとき、無表情に立ち上がった惣流アスカラングレィは、次の瞬間にはまなじりを吊り上げ、こうして屋上まで私を引っ張ってきたのだ。
 
 
「あんな真似しでかして、ワタシに恩を売ったつもりじゃないでしょうね!?」
 
人差し指をワタシの胸元に突きつけ、詰め寄ってくる。
 
惣流アスカラングレィは、とても怒っている。とても怒っているけれど、それだけではないように思えた。
 
「…救けたかったから、救けた。それだけ」
 
「だからって、あんな真似して!ワタシが救かっても、アンタが救からなかったら同じことじゃない!」
 
むしろあの状況を待っていたとは、さすがに言えない。レリエルなど、簡単に斃せることも。
 
「…同じではないわ」
 
かつて弐号機だったこともある私は、惣流キョウコツェッペリンが惣流アスカラングレィに向けた愛情を、ほんの少し、知っている。
 
仮初めの直接制御の中、私が感じられた惣流キョウコツェッペリンのココロは、それだけだったから。
 
「…あなたが救かるのだもの」
 
だから、そのときの気持ちのままに、微笑んだ。
 
 
「ワタシがっ!…」
 
私を突き放した惣流アスカラングレィは顔を伏せ、「ワタシが」と何度も繰り返している。
 
 
「ワタシがどんだけ心配したか!アンタには解かんないでしょ!」
 
自らの胸元を叩いて顔を上げた惣流アスカラングレィの目尻に、涙?
 
「あんな消え方されて、ワタシがどんだけ悔やんだか!知んないでしょう!」
 
胸元を鷲掴みにした手が、小刻みに震えてる。
 
「これでアンタが帰ってこなかったらワタシがどんだけ傷ついたか、考えもしなかったでしょ!」
 
ついに流れ落ちた涙は屋上に染みを作り、それがそのまま私のココロに沁み込むようだ。
 
その人の代わりに傷つけば、それもまたその人を傷つけると私は知っていたはずなのに。自分の都合で、私の知る惣流キョウコツェッペリンのココロのままに、惣流アスカラングレィを傷つけてしまった。
 
「…ごめん 」
 
言葉とともに、私の目尻からも、涙。
 
 「 …なさい」
 
「謝んじゃないわよ!謝んなきゃなんないのはワタシでしょ!アリガトウって言わなきゃなんないのはワタシでしょ!」
 
突き放した距離を詰めて胸倉を掴んだ惣流アスカラングレィが、睨みあげてくる。
 
「アンタに謝られたら、ワタシが謝れないじゃない!アリガトウって言えないじゃない!」
 
「…ご」
 
口にしかけた言葉は、惣流アスカラングレィに胸倉を揺すぶられて声にならない。
 
「このうえ謝ったりなんかしたら、ワタシ、赦さないから…
 一生アンタを赦さないから!
 アンタが喋っていいのは感謝を強要する言葉!ワタシの失敗をナジる言葉!それだけよ!!」
 
今にも崩れ落ちそうなこのヒトに、どうしてそんな言葉をかけられるだろうか。
 
かぶりを振った私を揺すぶって、「言いなさいよ」と繰り返した惣流アスカラングレィが頽れてゆく。
 
追いかけるように床に膝を着けて、惣流アスカラングレィを抱きしめた。
 
むかしむかし、あのヒトがそうしてくれたように優しく、しかし力一杯に抱きしめた。
 
 
 …
 
  ……
 
 
お昼休みが終わってしまったらしい。
 
落ち着いてきた惣流アスカラングレィが、チャイムの音を合図にしたように、私の体をやさしく引き剥がした。
 
途端に鳴ったのは、私の胃が蠕動した音。葛城三佐に厳命されて三食きちんと摂るようにしてから、この身体はこのように催促するのだ。
 
アンタねぇ…。と眉尻下げた惣流アスカラングレィの腹腔部からも、同じ音。
 
「…」
 
頬を赫らめ腹部を押さえて、しばし私を睨んでいた惣流アスカラングレィは、もう一度音が鳴るや、落ちるように力を抜いた。
 
「どんなに悩んでも、どんなに怒っても、どんなに落ち込んでても、おナカは減るのよねぇ…」
 
涙の痕を拭いながら、嘆息。
 
 
まるで、陽の光を掬い上げようとでも云うような唐突さで右の掌を高々と差し上げた惣流アスカラングレィが、左手を胸に当てまぶたを閉じる。
 
「同胞よ、アナタはアナタの卑小なる理性を『精神』と呼ぶが、これは実はアナタの肉体の道具にすぎないものである」
 
…ってね♪と、舌を出し、左眼だけで私を見た。
 
「…哲学ね」
 
「まぁね。ドイツの誇る偉大な思想家のオコトバよ」
 
そこで鳴ったのは私と惣流アスカラングレィの胃の蠕動音で、ほぼ同時。
 
やーねぇ、もう。と笑った惣流アスカラングレィに釣られて、私の口元も緩む。
 
 …
 
嘆息。その吐息が柔らかいと感じるのは、私の錯覚ではないと思う。
 
スカートの裾を払って座りなおした惣流アスカラングレィが、両手を口の前に持ってきた。
 
 「 シンジ~!おナカ減った~! 」
 
振り返った先には、階段室と給水塔だけ。
 
「…」
 
けれど、ドアがそっと開いた。おずおずと、と表現するらしい。
 
階段室から出てきた碇君は陽射しに眉をひそめ、私と惣流アスカラングレィが見守る中、途惑いを体現したような足取りで近づいてくる。
 
 
あの…。と口を開いた碇君を左手の一振りで黙らせ、そのままその手で傍らの床面を叩く。
 
「判ってるわよ。あんなトコじゃあ、ロクに聞こえもしなかったでしょ?」
 
頷いた碇君が、今しがた惣流アスカラングレィが叩いた床面に座り込んだ。
 
「盗み聴きしようだなんてハレンチなマネは本来厳罰モンだけど、おべんと持って待ってたコトに免じて、特別に赦したげる。ワタシの太平洋みたいに寛大な心に感謝しなさいよ?」
 
ありがとう…。と、ありがたくなさそうに言う碇君から包みを取り上げ、惣流アスカラングレィが視線だけを碇君に向ける。
 
「どうせ、ワタシがファーストを虐めてるとでも思ったんでしょ!」
 
「そんなつもりは…」
 
はんっ!どーだか。と碇君から顔をそむけた惣流アスカラングレィは、しかし、さほど不機嫌であるようには見えない。
 
そのことは碇君も感じとったのだろう。苦笑がなんだか柔らかかった。
 
 
***
 
 
私がいつ退院してくるか判らなかったから、碇君は私の分の弁当を作ってきてなかったそうだ。
 
罰の一部として碇君から弁当を丸ごと巻き上げようとする惣流アスカラングレィをなんとか説得し、碇君と弁当を半分ずつに分けることになった。そもそもこの肉体は、それほど量を食べられない。
 
 
「…ありがとう。惣流さん」
 
借りていた赤い箸を、惣流アスカラングレィに返す。碇君との箸の貸し借りが発生することを嫌った惣流アスカラングレィが、「先に食べなさい」と貸してくれたのだ。
 
感謝の言葉に応えはないけれど、それはただ、口にしないだけのような、そんな気がする。
 
「…ごちそうさま、碇君。ありがとう、美味しかった」
 
弁当箱の蓋を、碇君に返す。
 
「あっうん。どういたしまして」
 
こちらを見ていた視線を剥がすように下ろして、惣流アスカラングレィが弁当箱を開けている。
 
それで。と、卵焼きを摘み上げ、ひとかじり。
 
「いったい、初号機とアンタに何があったの? ミサトもリツコも、加持さんすら話してくんないし。コイツは知りもしない」
 
「箸で人を指すの、やめなよ」
 
それはつまり、緘口令が敷かれているということだろう。
 
「…誰も貴女に話さないということは、そのことについて緘口令が敷かれているということ。話せば、処罰されるかもしれない」
 
話してくんないってワケね。と呑み下したのは、卵焼きだけではいように思えるから、かぶりを振った。
 
「…惣流さんは色々と話してくれたわ。たくさん応えてくれた。だから、今度は私の番」
 
話すことが事実でないことが心苦しいけれど、それは、今の私なら耐えられる。
 
見やった惣流アスカラングレィは完全に手を止めて、私が話し出すのを持っていた。
 
「…使徒の影の中で、初号機が暴走したわ」
 
暴走? と、声を揃えた碇君と惣流アスカラングレィに、頷き返す。
 
「…舐め回すような視線に怒って、私の制御を離れて暴れた。手が付けられなかったわ」
 
「怒ったって…それじゃまるで…」
 
「…そう、エヴァにはココロがある」
 
「あの人形に?」
 
その言葉が突き刺さったのかと思って、胸元を押さえた。エヴァンゲリオンだった私に、その言葉は、あまりにも痛い。
 
「なんで兵器に心なんかあんのよ、」
 
押さえた胸元を、絞るように握りしめる。
 
捕鯨用の銛は、火薬を爆発させてスパイクを展開するのだそうだ。いまなら、今わの際の鯨と友達になれそうな気がする。傷を舐めあうことしか、出来ないだろうけれど。
 
「邪魔なだけじゃない」
 
ヒトに作られ、ヒトに弄ばれる。限りなくヒトに近いのに、ヒトとしては扱われぬ定め。
 
ヒトのカタチをして、ヒトにあらざるモノ。人造人間エヴァンゲリオン。模造使徒…、エヴァンゲリオン。
 
私は幸いなのだろう。その哀しみを、涙で表すことができるのだから。見えざる血を、そうして薄められるのだから。
 
「…惣流さん、お願い」
 
なによ…。と、少し身を引いた動作すら、今は哀しい。
 
「…あのコたちを、その言葉で呼ばないで」
 
「その言葉って、人ぎょ…」
 
その言葉を想像するだけで、胸の傷からココロがこぼれる。この私から、感情が逃げ出そうとする。ロンギヌスの槍を突き立てられたリリスのように、とめどなく。
 
そうしないと、哀しみのままに破滅を願ってしまう。私か、世界の。だから、私が毀れてしまう。私のココロが、私を毀す。
 
これもまた、言葉の力なのだろう。湛える受け皿を持たない私の、ココロを際限なく引き出そうとする。
 
 
…いや、違う。
 
その言葉を口にしたのが見知らぬヒトならば、エヴァンゲリオンを知らぬヒトならば、耐えられたと思う。
 
惣流アスカラングレィだったから、エヴァンゲリオンに近しいヒトだから。だから私のココロの壁をいとも容易く貫いてくる。
 
なにより、弐号機がそう言われたらどう感じるか、よく解かるから、ココロの壁が弱くなってしまう。
 
「…人造人間、エヴァンゲリオン
  ヒトなの。ヒトに作られたけれど、話すこともできないけれど、ヒトなの」
 
碇君はヒト。惣流アスカラングレィもヒト。目に映る姿は誰もヒトなのに、それを映した網膜の持ち主は、おのれをヒトであると確信できない。
 
そこに絶望的に深い亀裂が走っているような気がして、顔を伏せた。
 
「まったく…」
 
寄り添うような位置から聞こえてきた言葉は、溜息混じり。
 
 
もう言わないから。と約束してくれた惣流アスカラングレィに笑顔を向けることができたのは、心臓の拍動にして1392回ののちだった。
 
 
****
 
 
メインスクリーンに重ね合わされた通信ウィンドウの中にそれぞれ、碇君と惣流アスカラングレィの姿がある。どちらも押し黙って、その目の焦点が遠い。
 
きっと、考え事をしているのだろうと思う。
 
それは、あのあとで碇ユイが還ってきたことを告げてから。エヴァンゲリオンに封じられているモノのことを仄めかしてから。鈴原トウジがフォースチルドレンに選ばれたことを伝えてから。ずっと。
 
 
碇ユイが還ってきたことを知れば、碇君は喜ぶと思っていた。
 
惣流キョウコツェッペリンの行方を聞けば、還ってくる可能性があることに思い至れば、惣流アスカラングレィは喜ぶと思っていた。
 
だから、碇ユイを帰還せしめてから、打ち明けたのに…。
 
 
碇君も惣流アスカラングレィも、少しも喜んでいなかった。
 
 
 ≪ 目標接近! ≫
 
 ≪ 全機、地上戦用意! ≫
 
夕陽を背負うようにして歩いてくる、特徴的なシルエット。
 
 『えっ? まさか、使徒…? これが使徒ですか?』
 
このヒト知ってる。バルディエル、第13使徒。エヴァンゲリオン参号機の身体を、奪ったヒト。
 
 ≪ そうだ。目標だよ ≫
 
司令塔から応えたのは、冬月副司令。私はそれを、発令所から見上げている。
 
出撃できないから。委員会の勅命で、初号機が凍結されているから。
 
 『目標って、これは、…エヴァじゃないか』
 
 『そんな、使徒に乗っ取られるなんて…』
 
ここでこうして、見ていることしかできない。
 
 『それじゃあまさか、トウジが乗ってるんじゃ?』
 
 『そうね、その可能性はじゅ…』
 
【FROM EVA-02】の通信ウィンドウは途端にスノーノイズになって、
 
 『アスカ?』
 
 『きゃあぁぁあぁぁぁっ!』
 
…途絶えた。
 
 『アスカっ!?』
 
 ≪ エヴァ弐号機、完全に沈黙! ≫
 
 ≪ パイロットは脱出、回収班向かいます ≫
 
 ≪ 目標移動、零号機へ ≫
 
葛城三佐も赤木博士も居ない発令所は、却っていつもより慌しいような、そんな気がする。
 
 ≪ シンジ君、近接戦闘は避け、射撃兵器で仕留めたまえ ≫
 
副司令の指示。
 
 『でも…』
 
 ≪ シンジ君、友達を傷つけたくない君の気持ちは解かるつもりだ。
  だが、そのままそれを此処に迎え入れるわけには行かない。
  ここは心を鬼にして、使徒殲滅に専念してほしい ≫
 
 『そんな…』
 
「…碇君っ!」
 
私の警告は、碇君に届かなかっただろう。
 
 『ぅわあああああ!』
 
吹き上がるように飛び跳ねたバルディエルが、零号機にのしかかった。
 
 ≪ 零号機、左腕に使徒侵入!神経節が侵されて行きます! ≫
 
 ≪ なんだと!!
   …
  いかん!神経接続解除、左腕部切断。急げ! ≫
 
 ≪ はい!…神経接続、…解除 ≫
 
伊吹二尉がキーボードに指を走らせている。その間にもバルディエルの侵蝕は進んでいき…
 
 ≪ 左腕部、パージ… …そんな!間に合わない! ≫
 
スノーノイズを映す間もなく【FROM EVA-00】の通信ウィンドウがブラックアウト。
 
「左肩部緊急切除コード、認識しません!」
 
発令所メインスクリーンが映し出す赤い闇の中で、2体のエヴァンゲリオンが、そのシルエットが、雄叫びをあげた。
 
 ≪ 活動停止信号を発信。エントリープラグを強制射出だ! ≫
 
 ≪ ダメです、停止信号およびプラグ排出コード、認識しません。零号機、…使徒に侵蝕されました ≫
 
なぜバルディエルは弐号機を無視して、零号機だけを侵蝕したのだろう?
 
 ≪ なんてことだ… ≫
 
肩を並べて歩いてくるエヴァンゲリオンの、その足音だけが、発令所を満たす。
 
 
「…副司令。初号機の出撃命令を」
 
 ≪ レイ。しかし、初号機は… ≫
 
いや、そんな状況ではないな。と軽くかぶりを振って、副司令がインターフォンを取った。
 
 ≪ 501病室だ ≫
 
 ≪ 了解 ≫
 
応えた青葉二尉が、タッチパネルに指を滑らせること、2回。
 
 

 ……
 
 ≪ 碇っ!通話ぐらい出んか! ≫
 
インターフォンを叩きつけた副司令は、≪初号機の出撃準備を始めておきたまえ≫と言い残して扉の向こうへと消えていった。
 
 
***
 
 
アンチATフィールドを使えば、一瞬で斃せるだろう。
 
しかしそれでは、碇君や鈴原トウジまで生命のスープに還元してしまう。せめて、相手の動きを止めてからでなくては。
 
 
「ファースト!うし…」
 
惣流アスカラングレィの警告が終わる前に、吹き飛ばされた。参号機に気を取られている隙に、零号機が背後に回り込んだらしい。
 
巻き添えを嫌って避けた参号機が、踏み込んだ足を残したのは、ワザとだろう。引っ掛けられた初号機が倒れるところを、なんとか受身を取らせて転がる。
 
ユニゾンのように同じ旋律を2体で行なっていただけのイスラフェルと違って、バルディエルに乗っ取られた零号機と参号機は、別々の行動をとりながら目的は一つだ。
 
このこと知ってる。ポリフォニー。あのヒトが、イスラフェルと戦った時に見せたハーモニー。
 
零号機のエントリープラグを抜こうとすると参号機が殴りかかってきて、参号機の動きを止めると零号機が跳び蹴りを繰り出してくる。
 
それがバルディエルに根差すのか、碇君と鈴原トウジに根差すのか判らないけれど、敵に回すのは厄介だった。
 
使えなくて残した碇ユイのココロの断片だけで間接制御しているこの状況では、特に。
 
 
「こンのバカシンジ、ちったあ手加減できるよう努力してんでしょうね!?」
 
あとで、じゅ~倍っにして返してやるんだから!と唸る惣流アスカラングレィに、初号機からのフィードバックは無いはずなのだけれど。
 
「…惣流さん」
 
「解かってるわよ。ホントにシンジに仕返ししたりしないから、アンタは…って!」
 
立ち上がった初号機を十字砲火にさらそうと、零号機と参号機が駆け込んできた。
 
ファースト!と言い終わる頃には、初号機は宙に浮いている。
 
そうして零号機のスライディングをすかし、参号機の跳び蹴りを受け止め、踝を極めながらたたきつけようとしたところで、
 
「バカっ!」
 
跳ね起きた零号機のショルダーチャージを喰らった。
 
初号機の平衡感覚に身を任せて着地。零号機と参号機はとっくに体勢を立て直していて、肩を並べつつ殴りかかってくる。
 
「ファース…」
 
反射的に張りかかったATフィールドをキャンセルして、迫るこぶしを掌で受け止めた。その勢いに乗るようにして、大きく後退。
 
 
参号機も零号機も、全力で攻撃してくる。あの勢いでATフィールドを殴りつけていたら、骨折程度では済まなかっただろう。バルディエルもエヴァンゲリオンも、それは苦にはならないけれど、フィードバックを受けるパイロットはそうはいかない。
 
「アンタ!この期に及んで、まだ手加減してるわね!」
 
左腕で私の頭部を抱え込み、抉るようにこぶしを押し付けてくる。
 
「…痛い」
 
そうでしょうとも!と腕を組んだ惣流アスカラングレィは、しかし参号機から目を離さない。
 
私も、視界の隅に残した零号機に注意を戻す。
 
離れてそれぞれ歩き出した参号機と零号機が、初号機を挟み撃ちにしようとしていた。
 
「シンジたちを傷つけたくないって気持ちは解かるけどね。アレが、手加減してなんとかなる相手?」
 
…でも。と言いかかった口を、惣流アスカラングレィがつねる。
 
「口応えすんじゃないわよ。アレを斃さない限り、シンジは救けらんないのよ? 割り切んなさい」
 
痛い。
 
回収班と共に帰還した惣流アスカラングレィを、こうしてエントリープラグに誘ったことを、少し後悔していた。
 
「解かったら返事!」
 
でも、碇君や鈴原トウジと戦わねばならぬことに感じていた不安は、今はない。
 
「…ふぁい」
 
 
完全に初号機を挟み込んだ参号機と零号機が、時計回りに様子を窺っている。
 
「ファー…」
 
スト。と言い切った後に続いた指示を、実行している時間がない。跳ねるように駆け込んできた参号機は、すでに攻撃圏内。
 
電源ケーブルをパージ。
 
踏み込んで、参号機が水平に伸ばした右腕の下を掻い潜る。そのまま右腕を捕り、右足を払って倒すと、参号機が走ってきた勢いを借りて諸共に転がっていく。
 
巻き込まれるのを嫌った零号機が跳び越えるのを確認。回転の勢いをそのまま使って飛び跳ね、距離を置いた。
 
「同士討ちさせるチャンスだったじゃない!なぜワタシの指示、無視したの!」
 
手近のビルから電源ソケットを取り出し、接続する。
 
今の初号機に外部電源は不要だけれど、凍結されていた事情を考えると、その能力をひけらかさない方がいいように思えた。
 
「…無視したわけではないわ。間に合わなかっただけ」
 
「そんな…って、ファ…」
 
電源ビルの陰から飛び上がった零号機が、一回転して跳び蹴りの体勢。これ見よがしに近づいて来ていた参号機は囮…ではなくて駆け込んできている。2対1のこの状況下で、身を隠す障害物に事欠かない第3新東京市では、不利この上ない。
 
「ああもう!じれったい!」
 
とっさに倒れこみ、その勢いで後転。
 
腕の力で跳ね上がって着地した時、目の前に黒いシルエット!
 
「レイ!しゃがんで!」
 
膝を崩すようにダッキング。着地の勢いをそのまま逃がすように。
 
「足払い!」
 
体勢と距離に少し無理があるけれど、前掃腿。脚全体で引っ掛けるようにして、半回転。
 
「前転!」
 
参号機が転倒したかどうか、確認せず転がる。背後の地響きは零号機の攻撃の結果らしい。
 
「レイ、カンガルーキック」
 
カンガルーキックがどういうものか知らなかったけれど、この流れから背後を蹴るなら、うつぶせたまま腕をバネにしてと云うことだろう。
 
「よし!」
 
手応えあり。
 
「追い討ち、踏みつけて!」
 
蹴り上げた体勢のまま、腕の屈伸で跳ね起きる。眼下には、仰向けに倒れている零号機。その下に、巻き添えを喰らったらしい参号機が、うつ伏せに押しつぶされていた。
 
すかさず歩み寄って、零号機の右手、参号機の左腕を踏みつける。…碇君、鈴原トウジ、ごめんなさい。
 
「プラグ、引っこ抜くわよ!」
 
しゃがみこむと、零号機が左手で掴みかかってきた。首をかしげて躱すと、右腕を巻きつけるようにして確保。そのまま引いて、零号機の身体を引き起こした。
 
右手で肩口を押さえながら、左手をエントリープラグに伸ばす。途端にその手首を掴んだのは、関節を無視して伸ばされた、参号機の右手だった。
 
示し合わせたように伸びた零号機の左手が、背後から回り込むようにして喉を鷲掴みにする。
 
「レイ!」
 
「…問題 ない… わ」
 
筋力を骨格に乗せて、重力を味方につけて、左手を押しだした。
 
どれほど出力があろうとも、支点も力点もない状態で振るえる力には限りがある。
 
人体と同じ構造をしていながら、それを無視した時点で、参号機が初号機の出力に敵うはずはないのだ。
 
零号機も、片手の握力だけで初号機の喉を潰せるわけがない。
 
止めようとする参号機の右手を押し切って、零号機の延髄を覆うバルディエルを引き剥がす。飛び出したエントリープラグを、すかさず引き抜いた。
 
「まっかせなさ~い♪」
 
待ち構えていたらしい惣流アスカラングレィが、バーチャルコンソールを叩いている。
 
接触通信からコマンドを送り込もうというのだろう。たちまちエントリープラグの射出用ロケットモーターが点火。角度を調整して放すやいなや、芦ノ湖の方へと飛んでいった。
 
 
次は参号機だけれど、こちらはうつ伏せになっているから難しくはない。
 
無駄な抵抗を続ける参号機の右手を力づくでねじ伏せ、エントリープラグを引き抜いた。
 
こちらも、たちまちのうちに飛び去る。
 
 
安堵に溜息をつくと、吸ったLCLが重かった。
 
胸の奥は冷えきって凍傷になりそうなのに、脳髄は熱傷しそうに熱い。
 
そう、今なら解かる。これは怒り。大切なヒトを踏みにじられたことに対する、私のココロ。
 
あの時このことに気付いていたら、私はきっと即座に鈴原トウジを殴っていただろう。彼の事情など、お構いなしに。
 
そうならなくて良かったという思いを、あっという間に呑みこんで、自然とまぶたに力が篭る。
 
「さあ、レイ。じゅ~倍にして、返すわよ」
 
「…ええ」
 
バルディエル。貴方のこと、赦さないから。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾弐話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:27


「ミサト、今夜は帰れないって。リツコも一緒みたい」
 
「…そう」
 
受話器を下ろした惣流アスカラングレィが、ダイニングテーブルの向かい側に座る。
 
「シンジは入院してるし、今夜は2人っきりってワケね♪」
 
何もかも吹き飛ばしそうな笑顔が、たちまち曇った。 
 
「なによ、ヒトがせっかく盛り上げようとしてあげてんのに」
 
「…ごめんなさい」
 
嘆息した惣流アスカラングレィが、虫を払うような動作で掌を振る。
 
「ま、今日みたいな日に元気だせって言ったって、ムリよね」
 
再び嘆息した惣流アスカラングレィが、たちまち視線を落とす。
 
 
弐号機の中に惣流キョウコツェッペリンが存在することを示唆して以来、惣流アスカラングレィは黙り込むことが多くなった。それも、スイッチが切れるような唐突さで。
 
「……」
 
いや、黙り込んでいるというのは思い込みだったようだ。11-A-2号室のいつにない静けさが、その口中で消えるはずだった呟きを、かろうじて届けてくれる。
 
「暴走……、やっぱり暴走が……、…」
 
揺れる虹彩に合わせるような、抑揚のなさ。それがココロの裡とは反比例していると、ロジックではなく解かった。
 
 
惣流アスカラングレィと、2人きり。
 
もしこれがもっと前のことなら、ここに居るのは苦痛だっただろう。惣流アスカラングレィが己を護ろうとして張り巡らせたココロの壁に、追いやられて。
 
しかし、今はそうではない。
 
惣流アスカラングレィは徐々にココロの壁を減らしてきたし、なにより今は壁自体が弱くなっている。
 
 
「ねぇ、レイ…」
 
惣流アスカラングレィがなぜ私のことをファーストと呼ばなくなったのか、それは解からない。
 
けれど、私に対するココロの壁が薄くなってきたことと無関係ではないと思う。
 
それを嬉しいと素直に受け入れられないのは、ああして惣流アスカラングレィがなにかと考え込むようになったことと無関係ではないように感じるから。
 
「アンタの話からすると、弐号機にはワタシのママが居るかもしれないってことだけど…」
 
頷く。
 
「それがエヴァにシンクロ出来る秘密だとしたら、アンタはなぜ……、」
 
一旦そらされた視線は、なにかをまさぐるように幾何学模様を描いた。その屈曲の数だけ惣流アスカラングレィの途惑いがあると、解かる。
 
「……、未だに初号機とシンクロ出来るの?」
 
床から這うように登ってきた視線は、しかし微妙に私を捉えてない。それが惣流アスカラングレィの優しさなのではないかと思うのは、301病室で目覚めた時の赤木博士のようだったから。
 
「それに何故シンジよりも、初号機とのシンクロ率が高いの?」
 
そのことを訊かれるだろうことは、予期していた。その質問によって、惣流キョウコツェッペリンが弐号機に居るかどうかの蓋然性を計れるのだから。
 
「…今でも初号機にシンクロ出来るのは、碇ユイのイヴィクトに居合わせたためにある種の精神汚染を受けたからだろうと、赤木博士が」
 
「イヴィクト?」
 
「…碇ユイが初号機から追い出されたことを、赤木博士はそう呼んでる」
 
ふぅん。と惣流アスカラングレィが、摘むように唇を撫でた。
 
「…そして、碇君よりもシンクロ率が高かったのは……」
 
私が初号機であったことは話せない。この宇宙には関わりのない話だから。
 
話せるのは、綾波レイに付随する要件のみ。
 
「ちょっと!レイ…」
 
「…涙。私、泣いてるの? なぜ、泣いてるの?」
 
いいえ、解かっている。すこし、途惑ったけれど。
 
私は、綾波レイの記憶を受け継いだ。
 
けれど、その苦悩は無視してきた。考えないようにしてきた。
 
しかし、それを口にしてまで無視しきれるほど、私のココロは毅くない。
 
ヒトのカタチをしてヒトにあらず。綾波レイの苦悩は、私の苦悩に似ているのだろう。
 
もし私があのヒトのことを知らず、他の宇宙の存在を知らず、使徒のココロを持て余してヒトの間で生きなければならなかったら…。
 
綾波レイと同様に、消滅を願ったことだろう。
 
この涙は、綾波レイが流させたものだ。
 
けれど、私のものだ。
 
 
テーブルの向こう側から身を乗り出してきた惣流アスカラングレィが、私の手を取った。
 
レイ、言いたくないんなら…。と最後まで言わせずに、かぶりを振る。
 
「…惣流さん。ありがとう
 あなたが私のことをレイと呼んでくれるから…、話しても、きっと大丈夫」
 
笑顔。上手に笑えたと思ったのに、惣流アスカラングレィは笑ってくれなかった。
 
 
私は綾波レイではないから、綾波レイの秘密を口にすることができる。
 
けれど私は綾波レイだから、そのことに苦痛を覚えずには居られない。
 
私は綾波レイではなかったから、却ってその苦悩を理解してあげることができた。
 
私が綾波レイでなかったら、今なぜ惣流アスカラングレィに打ち明けられるのか、その理由を知ることはなかっただろう。
 
 
  番号をではなく、レイと呼んでくれるようになったから。
 
そうでなければ、口にした途端に、私の裡の綾波レイは崩壊したことだろう。私すら、置き去りにして。
 
 
「…私は、碇ユイのクローンだから…」
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:27


ネルフのゲート前に、人影。保安部が見たら、不審者と断定しそうな挙動で。
 
「…なにしてるの?」
 
けれど、知っている後ろ姿だったから、声をかけた。
 
「あっ、綾波さん」
 
振り返った洞木ヒカリが、私の顔を見て表情を緩めている。第3新東京市立第壱中学校の制服姿に、通学鞄。下校後、直接ここに来たのだとしたら、拍動にして2925回ぶんほども挙動不審を続けていたことになるのだけれど……
 
職務質問や任意同行を受けなかったのだろうかと監視カメラを見上げて、赤木博士の言葉を思い出す。衣服はその人の所属や主張を代弁する物。とは、こういう意味なのだろうと洞木ヒカリの制服に、その着用者に視線を戻した。
 
「その…、鈴原が入院してるって言ってたでしょう? だから、あの… お見舞いに」
 
お見舞い。傷病で臥せっているヒトのもとに慰安に行くこと。それは解かる。ヒトを心配するのが、ヒトの絆だろうから。
 
解からないのは、洞木ヒカリの顔が真っ赤になったこと。
 
「…洞木さん。なぜ、顔が真っ赤になったの?」
 
えっ嘘!? と頬に手を当てた洞木ヒカリは、「ここに来たのは委員長として、公務で来たのよ!それ以外の何でもないのよ…」と身をよじっている。
 
なぜ頬が赤くなったのかは、答えて貰えないようだ。
 
 
***
 
 
302病室には、今、ベッドが2台設えられている。
 
碇君も鈴原トウジも、まだ意識が戻らない。
 
「…そこに椅子があるわ」
 
「ええ、ありがとう」
 
…どういたしまして。と、自分も椅子に座る。2台のベッドを挟んで、向かい側。
 
 
後始末に忙しくて、赤木博士も葛城三佐も帰宅しない。
 
朝食の時間に姿を見せなかった惣流アスカラングレィは、登校しなかった。
 
学校の喧騒も、授業も、今は何ひとつココロに響かない。
 
することもなく、居場所を求めて、こうして碇君の横顔を眺めに来た。
 
でも、ここも私の居場所ではないような気がする。
 
向かい側に洞木ヒカリが居てくれなかったら、逃げ出していたかもしれない。
 
 
「あやなみ…?」
 
「…碇君」
 
立ち上がった洞木ヒカリはこちらに廻ってこようとして、
 
「トウジは…?」
 
しかし、足を止めた。
 
ベッドの間を仕切るカーテンに遮られて、碇君の位置からでは見えないだろう。
 
「…無事。隣りのベッド」
 
碇君がそちらに顔を向けると、洞木ヒカリが身をすくめたような気がする。
 
「そっか…」
 
身体を起こそうとした碇君を、押しとどめた。赤木博士がそうしてくれたように。
 
「…まだ寝ていなくてはダメ」
 
「うん…でも、もう大丈夫だよ」
 
ベッドの上に身体を落ち着けなおした碇君が、嘆息。
 
「あのあと、どうなったの?」
 
「…零号機は使徒に侵蝕されたわ。エントリープラグを奪還したあと、参号機と共に使徒もろとも殲滅した」
 
殲滅って…。と、また起き上がろうとするのを、押しとどめる。
 
「…えぇ、零号機はそのまま廃棄処分になると思う。碇君は戦わなくて済むようになるわ」
 
 …
 
碇君は、戦うべきかどうか悩んでいたヒトだ。何のために戦うべきか、考えてきたヒトだ。
 
だから、戦わなくてもいいと言われたからといって、それだけで歓ぶとは思っていなかった。
 
 
けれど、碇君の口から笑い声が洩れた。はは…。と、まるで息が抜けるように。
 
 
碇君が喜べば嬉しいはずなのに、なぜか哀しい。
 
その理由を、碇君の目尻に浮かんだ涙が教えてくれた。
 
「僕は…ずっと考えていたんだ」
 
碇君は笑っていた。泣きながら笑っていた。
 
「あの、空から落ちてきた使徒のあとは、特に考えてきたんだ…」
 
碇君は笑っている。歓んでないのに、笑っている。
 
「なぜ父さんは褒めてくれないんだろう?」
 
碇君が笑ってる。何を笑っているのか、その頬を伝う涙は教えてくれない。
 
「なぜ綾波ばかり褒めるんだろう?」
 
他者を蔑むときもヒトは笑うことがあると、知識の中にはある。けれど、窺い覗く碇君の視線は何もない天井の上を彷徨っていて、そうではないように思えた。
 
「そして、……僕は何のためにここに来たんだろう? って」
 
私の視線に気づいた碇君が、たちまち目を逸らして、……だから解かってしまった。この場で、それが私でないのなら……
 
碇君はおそらく、自らを嗤っている。自分自身を嘲笑っている。
 
自らを蔑むときもヒトは笑うのだ。
 
哀しかった。
 
哀しかったけれど、哀しくなりきれないことが悲しかった。
 
……碇君が私を羨んでいることに、心地よさを覚えた私がいる。
 
…碇君が私を詰ってくれたことに、安堵している私がいる。
 
碇君がそのココロの裡を見せてくれていることに、悦んでいる私がいる。
 
すべてをない交ぜにして、哀しいのに悲しくない。
 
ココロが軋むのに、涙も流れなかった。
 
「ごめん、綾波。綾波を責めてるわけじゃないんだ。だから、そんな顔しないで」
 
「…そんな顔? …私、どんな顔してるの?」
 
碇君の言葉に、頬に手をあてる。
 
「どうしていいか判らないって顔、してるよ。その顔の綾波が一番、寂しそうだ」
 
寂しい?
 
そう、寂しいのだろう。
 
さまざまな想いを交錯させた私のココロを、誰も理解できない。
 
いま涙を拭った碇君のココロを、身を硬くしている洞木ヒカリのココロを、私が理解できないように。
 
ヒトは決して、ヒトを理解できない。
 
ヒトは寂しいのだ。
 
けれど、寂しいことにすら気付かない使徒は、もっと寂しかった。
 
作られた肉体にココロを嵌め込まれて、エヴァンゲリオンはもっと寂しかった。
 
寂しさを知らなかった私は寂しさを知って、寂しさのあまり嬉しいのだ。
 
このココロを持つのは私だけだから、そのことが私を慰め、そして苛む。
 
 
だから。やはり、どうしていいか判らず、ただ視線をそらした。
 
 
「アスカも僕もやられて、でも、僕もトウジも無事で…
 また、綾波が戦ってくれたんだよね。また、護ってくれた」
 
碇君が、シーツを握りしめている。
 
「初号機が出撃できないって聞いたとき、綾波が戦わずに済むようしっかりしなきゃって思ったのに…
 トウジが乗ってるって思ったら、戦えなかった」
 
洞木ヒカリの肩が震えたのが、見えた。
 
「結局綾波を戦わせて、それで僕もトウジも無事で…
 綾波が褒められるのは当然で、僕が褒められないのも当然だったんだよ」
 
「…碇君」
 
 「 なぜ僕は、まだここに居るんだろう? 」
 
シーツを引き上げた碇君が、包まるように丸くなる。
 
「ごめん。しばらく1人にして…」
 
どうしていいか判らずに上げた視線の中で、洞木ヒカリが頷いていた。
 
 
***
 
 
「ごめんなさい、綾波さん。立ち聞きするようなことになっちゃって…。わたし、来るべきじゃなかった」
 
振り返り、洞木ヒカリが差し出したゲスト用のIDカードを受け取る。ゲートを出たら、もう使えない。
 
「…どうして?」
 
だって…。と俯いた洞木ヒカリは、視線で地面に幾何学模様を描き始めた。
 
「みんな戦って傷ついて、わたしなんかが踏み込んでいい世界じゃないもの」
 
「…そうね。貴女がそう思うのなら」
 
顔を上げた洞木ヒカリは、なんだか泣き出しそうだ。
 
何が似ているわけでもない。むしろ全く違ったけれど、それが惣流アスカラングレィが不本意と呼んだ表情と同じだと、なぜか解かった。
 
それはつまり、洞木ヒカリは自分の言葉を否定して欲しかったのではないだろうか?
 
どうすれば洞木ヒカリのココロを引き出すことができるのだろう?
 
 
私が居て、洞木ヒカリが居る。その向こうにゲート。来た時と同じ光景。そのココロだけが違う。
 
洞木ヒカリは、鈴原トウジのお見舞いに来た。鈴原トウジはまだ目覚めてないから、洞木ヒカリはまだ、お見舞いに来たいのではないだろうか?
 
思い起こすのは、これまでの入院のこと。レリエルの中から帰ってきた後に目覚めた時のこと。
 
「…鈴原君は、きっと寂しい思いをするわね」
 
えっ? と洞木ヒカリの体が揺れた。
 
「…碇君は、明日には退院する。鈴原君を見舞うヒトは居ない。きっと寂しいでしょうね」
 
「そんな!綾波さんは!?」
 
かぶりを振る。
 
「…私が居ても、鈴原君は喜ばないわ。碇君も喜んでなかったでしょう?」
 
でも…。と、しかし口篭もる洞木ヒカリを置いて、踵を返した。
 
「じゃ、さよなら」
 
明日このゲートに来たとき、そこに洞木ヒカリが待っていると、なぜか確信できたから。
 
 
****
 
 
碇司令は501病室に篭って、出てこないそうだ。
 
だから初号機は再凍結されることもなく、こうして出撃していた。
 
隣には弐号機、ジオフロントの天井を睨んでいる。
 
 
発令所を映す通信ウィンドウの片隅に、碇君。視線が合って、口の端が少しほどける。
 
医療部を退院した碇君が、それからどうしていたのか、私はほとんど知らない。葛城三佐が話してくれたところによると、家出をしたらしいということだけ。
 
あのバカ。と視線を落とした葛城三佐に、1人になりたがっていた碇君の言葉を伝えた。そっか…。と肩を落とした葛城三佐は「なら、待つしかないわね」と嘆息した。寂しそうな笑顔で。
 
碇君が何を思い、どこを彷徨ったのか、それは判らない。保安部は把握しているだろうけれど、その行動を知ったところで、そのココロまで解かるはずもない。特に、この私では。
 
でも、それでかまわないと思う。
 
だって碇君は戻ってきて、ああして、私を見守ってくれてるから。
 
 
初号機越しに感じた振動に、そっとまぶたを閉じる。
 
この肉体から視覚を排除して試みるのは、完全な直接制御。前回は惣流アスカラングレィを同乗させたから、試せなかった。
 
あらゆる波長の光波、電磁波、粒子を捉える初号機の、幾重にも連ねたステンドグラスのような視界が懐かしい。ATフィールドに遮られただろうニュートリノの欠落が大きくなって、ゼルエルがもう間近いことを教えてくれる。
 
 
通信ウィンドウが開く音に、まぶたを上げた。
 
【FROM EVA-02】
 
惣流アスカラングレィは、すこしやつれているように見える。目の下にはうっすらと、隈。眼球結膜を走る血管は拡張し、その眼球を赤く見せていた。碇君が家出している間、惣流アスカラングレィはずっと部屋に篭っていたそうだ。
 
保護者失格ね。と呟く葛城三佐に、かけてあげられる言葉が欲しかった。
 
『レイ…』
 
拍動にして24万1327回ぶりに与えられた声は、震えを帯びて。
 
『今回は、ワタシに譲って』
 
何を? と訊くまでもない。
 
充血した眼は力なく視線を逸らしているが、引き締められた口元にその意志の堅さが見えるような気がする。
 
このヒトは戦いに何を求め、何を得ようとしているのだろう。
 
それを私も知りたかったから、
 
「… 」
 『何も言わないで!』
 
まぶたを固く閉じた惣流アスカラングレィは、すべてを拒絶しようとするけれど。
 
「…いいえ、言うわ」
 
まなじりを吊り上げ、しかし口の端は下げて。惣流アスカラングレィの複雑な表情を、その意味を、今なら解かってあげられるような気がする。たとえそれが幻想に過ぎなくても、それすらヒトは己の力に変えていくのだ。だから、
 
「…気をつけて」
 
初号機を一歩下がらせ、座り込む。
 
『レイ…、アンタ』
 
 ≪ちょっと、あんたたち何勝手なことを!≫
 
ごめんなさい、葛城三佐。
 
…初号機、バックアップ。とだけ告げて、発令所との通信を切った。
 
弐号機への通信ウィンドウの中で、やはり発令所との通信を切ったらしい惣流アスカラングレィの仕種。
 
インダクションレバーから手を離し、まぶたを閉じる。
 
 …
 
『ダンケ…』
 
「…どう……、」
 
応えようとした言葉が、途中から音にならない。
 
碇君から戦いを奪った私が、いま惣流アスカラングレィに戦いを与えようというのか。
 
思わず吊り上がった口の端は私の知らない感情で、私を途惑わせた。
 
 
初号機のモザイクのような視界の中で、一際強いガンマ線のハレーション。
 
こちらを見ていた弐号機が振り向く先、ジオフロントの天井が爆発した。
 
『来たわね…』
 
このヒト知ってる。ゼルエル、第14使徒。
 
 
『こんのぉ!』
 
ゆっくりと降下してくるゼルエルに、弐号機がパレットライフルを斉射する。
 
『チッ、次』
 
着地とほぼ同時に弾切れ、次は2丁を腰だめに構えた。
 
『ATフィールドは中和しているハズなのに、』
 
そうとは判らないほど微妙な速度で前進して、ゼルエルが距離を詰めている。このヒトは、自分のことを良く解かっているのだ。
 
どの間合いが最も効果的、かつ効率的に障害を排除できるのか。と云うことを。
 
『なんでやられないのよー』
 
続いてロケットランチャー。
 
『もう2度と負けらんないのよ、この私は!』
 
やはり2丁を瞬く間に撃ち尽くすが、傷ひとつつけられなかっただろう。
 
ゼルエルを覆っていた爆炎が晴れたとき、その前進は止まっていた。弐号機を射程圏内におさめたらしい。
 
ほどけたゼルエルの腕が、地面をなでる。
 
『 … うそっ!』
 
それを支えているATフィールドがうねった次の瞬間には、弐号機の両腕が付け根から斬り飛ばされていた。
 
『くぅぅっ!』
 
聞こえてくる苦鳴は、しかし短い。
 
『こんっちくしょーっ!』
 
両腕を失った弐号機が、ゼルエルめがけて駆け出す。
 
惣流アスカラングレィ。あなたは何故、そうまでして戦うの?
 
今まさにその首が斬り飛ばされようとした瞬間、弐号機が宙を舞った。
 
なされるだろうと思った神経接続の解除は、間に合わなかったのか、拒絶されたのか。
 
 
『そう…。やっぱり、ココにいたのね…ママ』
 
LCLに溶け消えそうな呟きに、まぶたを開ける。
 
重力遮断ATフィールドによって得た慣性で高く跳ね飛び、形作ったチューブ状のATフィールドの中で巧みに位置エネルギーを操って、赤いエヴァンゲリオンはジオフロント狭しと舞い踊った。解放された力を、そうして表現していると言わんばかりに。
 
『ママ、解かったわ。…ATフィールドの意味』
 
ゼルエルの正面に着地した弐号機が、落下の勢いそのままに踵落とし。弐号機の首を断ち切ろうとした体勢のまま宙に浮くゼルエルの左腕を、蹴り裂いた。
 
すかさず放たれたガンマ線の束を、そのATフィールドが難なく弾く。
 
『ワタシを守ってくれてる』
 
力なく地面に落ちたゼルエルの左腕をつま先で蹴り上げ、右肩の切断面を押し当てるように体移動。
 
『ワタシを見てくれてる』
 
たちまち取り込んで、泡立つように弐号機の右腕が再生された。
 
『ずっと、ずっと一緒だったのね…ママ』
 
 
…通信ウィンドウの中でずっと、惣流アスカラングレィは無表情だった。
 
いや、無表情に見えた。
 
今の私でなければ、あらゆる感情が押し寄せた結果、どれも表情筋の支配権を確立できなかったのだと解からなかったと思う。
 
嬉しいに違いない。寂しかったのだろう。でも、まだ哀しそうに見える。もしかしたら、すこし怒っているのかも。
 
あまねく感情の均衡の上に、惣流アスカラングレィのココロが揺れていた。揺れすぎて、却って微動だにしてないように見えた。
 
 
残った右腕をゼルエルが撃ち出すが、今の弐号機にかなうはずがない。
 
そっと体軸をずらした弐号機は左肩の切断面でそれを受け止め、そのまま遡るように組織を奪取。
 
服の袖に手を通すように膨らみが駆け上がり、ゼルエルの肩口を握り潰すようにして左腕が再生された。
 
 
さよなら、ゼルエル。あなたは強いヒトだけど、力押しだけの強さで勝てるほどヒトの絆は脆くない。
 
あなたは、そのことを教えてくれた。だから、ありがとう。感謝の言葉。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾参話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:27


碇ユイが目覚めたらしい。
 
らしい。と云うのは、詳細がはっきりしないから。
 
やはり501病室に篭りっきりの碇司令は、医師を除いて余人の入室を許さないのだそうだ。
 
葛城三佐に勧められて面会に行った碇君も、すげなく追い返されたという。
 
 
 
定期検診を終え、その結果を赤木博士に報告しに行く途中、通りがかったロビー。
 
そのプラグスーツを見た途端、どうしていいか解からなくなって立ち止まった。たしかに碇君は帰ってきてくれたけれど、それは、なにもかもが解決したという意味ではない。
 
11-A-2号室や教室には誰か他のヒトが居たから、そのことに向き合わずに済んだ。いま碇君と二人きりになったとしたら、302病室での出来事が再現されるかもしれないことに。
 
哀しいのに悲しくなかった私のココロはいい。私だけのものだから、それさえ自分の宝物にできる。
 
けれど、ココロをぶちまけざるを得なかった碇君の胸の裡は判らない。そうして家出した碇君の苦悩を解かってあげられない。なにより、孤独を欲したヒトに、ヒトは何もしてあげられない。
 
いま二人きりになって、また碇君を傷つけてしまったら……。今度も帰ってきてくれるとは限らない。
 
それが問題の先送りに過ぎないことは、判ってはいるけれど……、
 
「おう!綾波やないかい」
 
逃げ出そうとして果たせず。けれど、自動販売機から飲料缶を取り出して振り返ったその姿は、碇君じゃなかった。
  
「貴サンも休憩かいな?」
 
なぜ鈴原トウジが、碇君のプラグスーツを着ているの?
 
「ん? なんや?
 ああ…、これかぃ? さっきも間違われたんヤけど、わしのンは数がナイんやそうでな? シンジのヤツを借ったんや」
 
買った? プラグスーツを?
 
手にした飲料缶を開栓した鈴原トウジが、一口。 …ではなくて飲み干した。
 
ぷは~。と息を吐き出すさまが、なんだか葛城三佐に似ている。
 
空き缶を捨てに往復した鈴原トウジが、「ん? …そうや」と私の目前に。
 
「綾波、いろいろ迷惑かけたみたいで、すまんかったな
 そんで、救けてもうて、おおきに。ありがトう」
 
深々と。と、そう表現するのだろう。鈴原トウジのおじぎは。
 
「…どう いたしまして」
 
面を上げた鈴原トウジの見せた笑顔を、なんと表現したらいいのだろう。彼を救けられてよかったと、その気持ちでココロが充たされるような。そんな笑顔。
 
…けれど、参号機はもう無いのに。
 
「…なぜ、ここにいるの?」
 
「あぁ。わし、予備んパイロットってことンなってな?」
 
こないして。と襟元をつまんで見せた鈴原トウジが、音を立ててベンチに座り込んだ。
 
「シンクロテストんのデータ収集っちゅうのんのお手伝い。っちゅうワけや」
 
「…そう」
 
後ろ手をついて天井を見上げた鈴原トウジの、眉根は寄っているのに、笑顔がやさしい。
 
「まあ、えるしぃえるっちゅうのんが気っショいのんをガマンすりゃあ、妹の治療を続けてくれるっちゅうんやから、ありがたいこっちゃやで」
 
「…そう。よかったわね」
 
おう!と応えた鈴原トウジが、また、あの笑顔。
 
「そういやぁ、今ぁセンセの番でな。そろそろ終わりやと思んやが…」
 
思わず後退さった左足を止めることができず、
 
…そう。とだけ、残した。
 
 
****
 
 
予備パイロットとして残留することになった碇君は、今日もシンクロテストだそうだ。
 
ゼルエルとの戦いのあと、委員会の勅命により初号機と弐号機は凍結されている。
 
それを埋め合わせるために量産型の本部配属が検討されているらしく、それに備えてのデータ取りなのだとか。
 
惣流アスカラングレィは、きっとケィジ。赤木博士によれば、このところアンビリカルブリッジから弐号機を見上げていることが多いらしい。
 
 
することもなく、葛城三佐の「どうせだからペンペンと遊んであげててねん♪」という言葉に従って、こうして将棋を指していた。
 
「クワっ」
 
ぱちん。と駒を打ちつけて、ペンペンが顔を上げる。
 
「…そう」
 
あれは角。斜めに好きなだけ動ける駒。さっき取られた駒。あの位置はきっと私の飛車への牽制で、なおかつ次の一手で懐に潜りこむこともできる。
 
この小さな盤面の上で、10の71乗もの局面が展開するという。この宇宙にある恒星の数すら遥かに凌ぐ展開量は、計算や虱潰しでは読みこなせない。初めて指した時、あまりの処理数に途惑って、葛城三佐が声をかけてくれるまでの1971回ぶんの間悩んだ。
 
盤面を見渡して目分量で勢力が読めるようになれば、直感で指せるようになるわ。と将棋を教えてくれた葛城三佐は、私相手に飛車角落ちで相手してくれるペンペンを相手に、飛車角落ちで圧勝する。
 
私ではその意図が読めないところに打たれた駒に、ペンペンが目を見開いたのを、何度も見た。
 
 
ペンペンの陣地に飛び込ませるつもりだった飛車を戻して、ペンペンの角が成るのを牽制すべきだろうか?
 
それとも…。と他の手を探そうとしたとき、電話機のベルが鳴った。
 
「…待ってて」
 
クワぁ~っ。とフリッパーを振るペンペンを残して、ダイニングの子機を取りにいく。
 
しかし、呼び出し音は1回のみで留守番電話に切り換わってしまって間に合わない。
 
 ≪ はい、ただいま留守にしています。発信音の後にメッセージをどうぞ ≫
 
『 葛城、俺だ。多分この話を聞いている時は、君に多大な迷惑をかけた後だと思う
  すまない。リッちゃんにもすまないと、謝っておいてくれ 』
 
どうするべきか、迷う。
 
『 あと、迷惑ついでに俺の育てていた花がある。俺の代わりに水をやってくれると嬉しい
 場所はシンジ君が知ってる 』
 
吐いた息を、吸い戻したような気配。
 
『 葛城、真実は君とともにある。迷わず進んでくれ
  もし、もう一度会える事があったら、8年前に言え… 』
「…加持一尉」 
 
思わず、受話器を取っていた。どうするべきか、答えもないままに。
 
『 … レイちゃん…かい?』
 
留守番機能が停止したことを報せる電子音が、短く。
 
「…貴方は、なにをしようとしてるの?」
 
洩れた吐息は、苦笑?
 
「…葛城三佐を悲しませるようなことをする気なら、赦さない」
 
『こりゃ参ったな…』
 
クワ~? とリビングから覗き込んできたペンペンに掌を見せて、待って。と伝える。
 
『すまないが、』
 
その声音に、話す気がないことを感じ取ったけれど、加持一尉が何をするつもりかは重要ではないことに気付いた。
 
「…今すぐ葛城三佐に連絡します」
 『ちょっと待った!いま知られると拙い』
 
「…そう、よかったわね」
 
嘆息。吐き出した息が重いのか、耳障りな音を立てている。
 
『 わかった。葛城を悲しませるような真似はしない』
 
電話機の録音機能を起動。
 
「…この通話を記録します。もう一度言って」
 
『いやはや、信用無いなぁ…』
 
加持一尉が何をするつもりかは判らないけれど、それを確実に止める方法は無いのだ。嘘をつかれたら、それまで。
 
採るべき手段を、選んでいられない。
 
「…先ほど留守番電話に吹き込まれた内容も消去します。伝えたいなら、直接どうぞ」
 
参ったなぁ。と再び嘆息。
 
『負けたよ。葛城を悲しませずにすむよう努力する。それでどうだい?』
 
携帯電話を取り出した。ジオフロントは防諜のために携帯電話への直接通話はできないから、かけるのは発令所だ。
 
『 レイちゃん?』
 
加持一尉の呼びかけは、無視。
 
「…青葉二尉ですか? 葛城三佐に取り次い…」
  『待った!わかった。わかったから!』
 
…やはりいいです、ごめんなさい。と携帯電話を切って、待つ。
 
3回目の嘆息は、すこし遠かった。
 
『 葛城を悲しませるような真似はしない。誓うよ』
 
ヒトの絆は、言葉の力に拠らないと、タブリスは言っていたけれど。…私には判らない。言葉の力を以ってしても、私では…
 
「…そう。なら、そうして」
 
受話器を置いた。
 
留守番機能の録音内容を消去。…しようとして、思いとどまる。もしもの場合に、加持一尉の言葉を残しておいたほうがいいと思うから。
 
電話台の抽斗から予備のマイクロテープを取り出して、交換。それまで使っていたマイクロテープを手に、リビングへ戻る。
 
 
加持一尉は、約束を守るだろうか?
 
葛城三佐に連絡するのが最善だとは、思うのだけれど。
 
「クワっっ!!」
 
ひどく慌てた声にペンペンを見やると、葛城三佐との対局中みたいに目を見開いていた。
 
何を驚いているのだろうと、ペンペンの視線を追いかける。
 
9×9のマス目の中、……
 
「…3五、マイクロテープ?」
 
無意識に打ってしまったらしい。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:28


「聞こえる? アスカ。シンクロ率7も低下よ。いつも通り、余計な事は考えずに」
 
『やってるわよ!』
 
シミュレーションプラグによる、シンクロおよびハーモニクステスト。モニターには惣流アスカラングレィの他に、碇君と鈴原トウジの姿。もっとも量産型のコアがここにあるわけではなく、2人がシンクロしているのはMAGIが構築した仮想コアなのだとか。
 
初号機を直接制御している私には関係なくて、こうしてコントロールルームから見ている。
 
「最近のアスカのシンクロ率、下がる一方ですね」
 
「困ったわね、せっかく弐号機のチェックが終わったのに」
 
ゼルエルの腕を奪い取って再構成してしまった弐号機は、そのことの危険性を理由に凍結されている。それでも使徒が来れば使わざるを得ないから、その機体検査は許可されていた。
 
しかし、同じように凍結されている初号機での直接制御のデータ取りは却下されて、赤木博士は少し不機嫌だ。
 
 
****
 
 
今日は食後にデザートがあるわよん♪と帰宅するなり言い放った葛城三佐の小脇に、緑色の球体があった。
 
レリエルを思わせるその果実がスイカと呼ばれることは知っている。食べたことはないし、食べたいとも思えなかったけれど……
 
 
ごちそうさま。と惣流アスカラングレィが席を立った途端、電話機のベルが鳴った。
 
「アスカ」
 
「イヤよ、どうせ加持さんからミサト宛てのTELでしょ? ミサトが出なさいよ」
 
「ん~、それはそれでねぇ…」
 
飲料缶で隠れた口元が、少し緩んでいるように見える。あれから加持一尉がどうしたのかは知らないけれど、葛城三佐は一度だけすれ違いざまに「ありがと」と言ってくれたから、悪い結果にはならなかったのだと思う。
 
 
立ち上がろうとした私を身振りで止めて、碇君が電話を取りに云ってくれた。
 
「まあ、テストデータ取りくらいしか仕事がないんだから、これくらいはしてもらわないとね~」
 
「はい、もしもし?」
 
何よ。と視線をそむけた惣流アスカラングレィが続けて何と呟いたのか、聞き取れない。
 
保留ボタンを押したらしい碇君が、子機を持ってダイニングを縦断する。
 
「ドイツから国際電話。アスカに。お母さんから」
 
お母さん? ドイツから? 惣流アスカラングレィの母親は、惣流キョウコツェッペリンは、弐号機の中に居るのに?
 
「ワタシに? ママから? …貸しなさいよ!」
 
乱暴に子機を奪い取った惣流アスカラングレィは、その勢いのまま背を向けた。
 
 「ハロー、ムッター? アハッ♪」
 
声の音程が、ずいぶんと高い。
 
 「ヴィア ハーベン ラウスゲニッヒ、ゲーヘン」
 
これほど機嫌よさそうに話す惣流アスカラングレィの姿を、私は初めて見た。
 
 「ダンケシェーン。 ヴィルクリッヒ?」
 
楽しげに、いったい何を話しているのだろうか?
 
 「ゾルイッヒト ベカント マッヘン?」
 
私がかつて弐号機であったことは、ドイツ語を理解することの役に立たない。
 
思考言語は主にはオペレーティングシステムのため、そして間接制御の補助的に必要なだけで、エヴァンゲリオンそのものとの意思疎通に用いられているわけではないから。
 
 「アッハ ニーマルス。エア イスト アイン ザウバーメンシュ」
 
電話の相手は、きっと惣流アスカラングレィにとって大切なヒトなのだろう。でなければ、声を立てて笑ったりはしないと思う。
 
 「ヤー。 ヤー。 ヴィルクリッヒ? アッハ ゾー」
 
その様子を見ているだけで、口元がほころんでしまいそうになる。
 
 「ダス イスト アーヴァ トル、ファンタジイ」
 
「母さんか…」
 
目の前でなければ、碇君の呟きに気づかなかっただろう。
 
気付いても、その表情が示すものを読み取ることができないけれど。
 
碇君が惣流アスカラングレィの背中に見ているものを、私は見ることができない。
 
葛城三佐なら見えているかもしれないと振り返ったけれど、じかに見て判らないものを人伝てに判るはずがなかった。
 
 
 「ハウフイスト イッシ ギッツ カイネ レーニエ」
 
語調が変わったのに気付いて、視線を戻す。
 
 「イッフイツ バルト ツー ビッツ ゲーヘン」
 
それにしても、惣流アスカラングレィの電話の相手は何者だろう?
 
そのぐらいは葛城三佐に訊ねてもよかっただろうと、今さらながらに気付く。
 
 「アウフ ビーターヘレン。グーテ ナハト」
 

 
短い操作音が示すのは、通話が切れた事実だけだろうか? それだけではなかったように、感じたのだけれど。
 
「ずいぶん長電話だったじゃない」
 
「ま、いつものコミュニケーションってヤツ」
 
碇君の方から話しかけるのは珍しいと思う。
 
だからだろう、振り返った惣流アスカラングレィに、碇君に対するココロの壁を感じなかったのは。惣流アスカラングレィのココロの裡を、その感情を、今まで話していた相手に対する想いを、この私でも読み取れてしまったのは。
 
「いいなぁ、家族の会話」
 
なにより、判ってしまったのだ。あの上機嫌そうな惣流アスカラングレィの態度こそ、相手を拒むココロの壁であったことを。
 
ヒトのココロの壁の多様さたるや、なんたることか。
 
単純に何かを拒むか、包み込むことしかできないATフィールドなど、足元にも及ばない。
 
「まぁ上っ面はね。表層的なものよ。本当の母親じゃないし…って、アンタ。こないだママに面会できたんでしょ?」
 
うん。と頷いた碇君は、そのまま俯いてしまった。
 
「でも…、10年も会わなかったのにいきなりお母さんだって言われたって、実感湧かないよ
 それは向こうも一緒みたいで…そりゃそうだよね、自分の子供は3歳だったはずなのに、いきなり中学生じゃさ」
 
そりゃそうか。という呟きは溜息混じりで、まるで惣流アスカラングレィの肩から抜けた力そのもののようだ。
 
「父さんもその場に居たんだけど、あのヒ…」
 
口篭もった碇君がそのまま呑み下した言葉は、しかし容易に想像できて、唐突に足元が消失したかのような落下感を与えてくる。
 
「か…母さんは、父さんとも少し距離を置いていたように思えた」
 
押し出すように口にした単語は、本来備わっているはずの暖かさとか優しさを削ぎ落としたかのように寒々しい。
 
「結局誰もほとんど口をきかなくてさ。…変だよね、血のつながった家族のはずなのに」
 
私は、あのヒトに抱かれて安らかに眠る、赤子の姿を見たことがある。惣流アスカラングレィに連れられてケィジに来た、碇シンジの願いを憶えている。接触実験を無事終わらせた碇ユイを迎えた、幼子の笑顔を忘れない。
 
碇ユイが居るだけですべてが上手く行くなどと、思っていたわけではないけれど……
 
「だから、ゴメン。なんだか羨ましくなっちゃって。無神経だったよね」
 
ココロがきしむ。軋むけれど、泣いてはダメ。
 
泣きたいのは碇君だもの。そして、惣流アスカラングレィだもの。私にそんな権利、ないもの。
 
「謝んじゃナイわよ。アンタの気持ちも解かるような気がするし、お互いさまってコトでいいじゃない」
 
うん、ありがと。と微笑んだ碇君がとても寂しそうで、見ているのがつらかった。
 
 
****
 
 
 ≪ 目標、未だ射程距離外です ≫
 
エントリープラグ内のスクリーンに映るのは、光り輝く鳥のような姿。このヒト知ってる。アラエル。第15使徒。
 
『もぉ、さっさとこっちに来なさいよ!じれったいわねぇ!』
 
傍らの通信ウィンドウに、惣流アスカラングレィの姿。バイザースコープを下ろしていて、その表情は見えない。
 
 
第一種戦闘配置の発令とほぼ同時に、弐号機だけ凍結が解除された。501病室から内線で指示があったという。
 
今は、ただ一機。ポジトロン20Xライフルを携えて第3新東京市に立っている。雨の降りしきる街角に独りきりで、なんだか弐号機が寂しそうに見えた。
 
 
まさか、だから照らしてやろうと思ったわけではないだろうけれど、弐号機に降りそそがれる光。その必要は無いだろうに可視波長で発光して、それがアラエルの思し召しであるかのように思わせる。
 
息を呑む音が、通電していないLCLの中なのに良く聴こえた。
 
≪敵の指向性兵器なの?≫
 
 ≪いえ、熱エネルギー反応無し≫
 
 ≪心理グラフが乱れています、精神汚染が始まります!≫
 
≪使徒が心理攻撃…まさか、使徒に人の心が理解できるの?≫
 
…そう。私のココロには、興味ないのね。
 
『こんっちくしょーっ!』
 
放たれた陽電子の塊が2発。初弾はエネルギーを使い果たして消滅、次弾は大気圏こそ突破したもののアラエルには届かなかったようだ。
 
 ≪ 陽電子、消滅 ≫
 
≪ダメです、射程距離外です!≫
 
『あっ!くっ。ああああぁぁぁぁ!』
 
両手で顔を覆って、惣流アスカラングレィは何から目を逸らそうとしているのだろう?
 
 ≪弐号機、ライフル残弾ゼロ!≫
 
≪光線の分析は?≫
 
 ≪可視波長のエネルギー波です!ATフィールドに近いものですが、詳細は不明です!≫
 
≪アスカは?≫
 
 ≪危険です。精神汚染、Yに突入しました!≫
 
 
惣流アスカラングレィと違って、弐号機は頭を抱えている。間接制御だから、惣流アスカラングレィでもなく、惣流キョウコツェッペリンでもなく、弐号機として苦しんでいるのだ。
 
『イヤぁあああああ!』
 
気付いたときには、ロックボルトを弾き飛ばしてた。直接制御だから、しっかり意識していないと、思考がはっきりと形になる前に行動してしまう。でも、今はそれでいい。惣流アスカラングレィを救けにいきたい、この気持ちが大切だから。
 
『ワタシの、ワタシの中に入ってこないで!』
 
振り向きざまに拘束台を薙ぎ払い、K52スロープを駆け上がる。
 
 ≪ 第7ケィジ、ロックボルト破損! ≫
 
  ≪ 初号機が起動しています!第1射出ハブターミナルに向け、移動中 ≫
 
『レイっ!?』
 
開いた通信ウインドウに、葛城三佐。
 
『待ちなさいっ!』
 
今の私なら判る。命令違反を怒っているのではないのだと。
 
「…ごめんなさい」
 
葛城三佐が心配してくれるのは嬉しい。そして、それ以上にココロ苦しい。けれど、惣流アスカラングレィを、痛いと泣き叫ぶ惣流アスカラングレィを放っておけなかった。
 
『ワタシの心まで覗かないで!お願いだから、これ以上ココロをオカさないで!』
 
『アスカっ!』
 
 ≪心理グラフ限界!≫
 
≪精神回路がズタズタにされている…これ以上の過負荷は危険過ぎるわ≫
 
第1射出ハブターミナルに取り付いて、見上げるのはリニアカタパルトの隔壁。ATフィールドで吹き飛ばすのは簡単だけど、せめて葛城三佐に……
 
『アスカ戻って!』
 
『イヤよ!』
 
通信ウィンドウ同士で、お互いにそっぽを向いて。こちらからのアングルだからそう見えるのだと判っていても、それが2人のココロの距離に思えて、かなしい。
 
『命令よ。アスカ、撤退しなさい!』
 
『イヤ、絶対に嫌!第一、ワタシの他に誰が戦うって言うのよ!』
 
一瞬、こちらに向けられた葛城三佐の視線が、ひどくつらそうに逸らされた。
 
「…惣流さん」
 
『ナニよ!』
 
私を睨みつけたその眼差しに、力があったから。惣流アスカラングレィが、まだ戦う意思を失くしてないから。
 
「…ATフィールドを」
 『やってるわよ!!!』
 
「…中和して」
 
 …
 
呆気に取られた。と、呼ぶのだろう。すべての苦しみを一時忘れて、惣流アスカラングレィが表情を無くした。
 
『中和って…』
 
「…その光はATフィールドだと、日向二尉が言っていたわ。だから、」
 
中和できるってワケね。と空に向き直った惣流アスカラングレィは、まだ中和してないだろうに、もう苦しんでなかった。
 
『フィールド、全開』
 
同じように天を睨む弐号機。その周囲から、ほどけるように光が消失していく。アラエルが降ろした梯子を、駆け登るように。
 
「…葛城三佐」
 
『スナイパーポジトロンライフルを出して!』
 
惣流アスカラングレィと同じように呆気に取られていた葛城三佐が、弾けるように命令する。
 
 
ほどなくして弐号機の傍らにリフトアップされたのは、ラミエルに使ったポジトロンライフル。その改良型らしい。
 
『なによ。こんなモンがあんなら最初から出しなさいよ』
 
文句の声が小さいのは、ATフィールドの中和に専念しているからだろう。スナイパーポジトロンライフルを設える手つきも、とても慎重。
 
『組み上げるのに時間が必要だったの。すまないわね』
 
葛城三佐越しに見える、赤木博士。その謝罪に、惣流アスカラングレィは応えない。きっと耳に入らなかったのだと思う。そのことは赤木博士も判っているのだろう、作業に戻した視線がやわらかく縁取られている。
 
 ≪ 加速器、同調スタート ≫
 
 ≪ 電圧上昇中、加圧域へ ≫
 
『人の心を散々踏み荒らしてくれちゃって……』
 
降りてきたバイザースコープを掴み取って、微調整している。ゆっくりと落ち着いて位置を合わせ、納得したのか頷いた。
 
 ≪ 強制収束器、作動 ≫
 
 ≪ 地球自転および重力誤差修正0.03 ≫
 
『じゅ~っ倍にして返してやりたいトコだけれど、この一撃で勘弁してあげるわ』
 
口元を引き締めるような、穏やかな笑み。惣流アスカラングレィはもう大丈夫だと、何も心配要らないと思わせる。
 
 ≪ 超伝導誘導システム稼動中 ≫
 
 ≪ 薬室内、圧力最大 ≫
 
≪最終安全装置、解除。すべて、発射位置≫
 
ATフィールドの中和がアラエルまで届いたその瞬間、弐号機がトリガーを絞った。
 
 
****
 
 
ドアを開けると、雨上がりの第3新東京市に陽光がまぶしい。
 
弐号機を回収ラインに載せた惣流アスカラングレィは、エントリープラグを降りてしまったのだそうだ。
 
ビルの屋上には、回収班が張っただろう立入禁止のテープ。その向こうに、膝を抱えて座る惣流アスカラングレィの姿があった。
 
「…惣流さん」
 
「来ると、思ってたわ」
 
振り返りもしないけれど、その声はやさしい。
 
「まあこっち来て、ココ座んなさい」
 
黄色いテープを踏み越えて、惣流アスカラングレィが叩いた場所に腰を下ろす。同じように、膝を抱いて。
 
 
「空が青いわねぇ」
 
膝に顎を載せたまま、雨雲ひとつ残さず晴れた空を見上げている。あれほど垂れ籠めていた雨雲は、陽電子の一撃に吹き飛ばされた同胞の命運を恐れたかのように寄り付かない。
 
「見てると、心まで晴れ渡りそうじゃない?」
 
「…そう? よく判らない」
 
木の葉がこすれるような音は、惣流アスカラングレィが笑ったのだと思う。
 
「相変わらずねぇ」
 
頭部を寝かせるようにこちらを見た目線が柔らかかったから、謝罪の必要はないと判断する。
 
顔ごと、再び空に向けられた視線。それが、アラエルの居た方向であったと気付く。
 
惣流アスカラングレィの、まるで空の色を映したような青い虹彩は、世界にどんな彩りを加えるのだろう。同じように見上げるけれど、この赤い瞳孔で同じものが見えているのだろうか。
 
「さっきは、アドバイス……アリガト。おかげで勝てたわ」
 
「…どう、いたしまして」
 
視線を感じたけれど、空を、アラエルが居た空を、見続ける。惣流アスカラングレィを見るよりも、惣流アスカラングレィが見るものを見たほうが、惣流アスカラングレィを理解できるような気がした。たとえそれが、違う色に見えていたとしても。
 
なにもかも、吐き出しつくすような吐息。
 
「使徒の光に照らされていたときに、はっきりと感じたわ」
 
そちらを向く必要はなかった。惣流アスカラングレィがもう、こちらを見ていないと判ったから。
 
「ママとは違う存在が感じてる怒りを、弐号機の憤りを。そう、エヴァには心がある。アンタの言うとおりにね」
 
今は、そのことを後悔している。
 
「そう感じながらフィールドの中和をしたとき、今まで以上の手応えがあった。あきらかにワタシは、弐号機そのものに近づいてた。力を…貸してくれた」
 
惣流アスカラングレィの言葉を求めるあまり、聴覚以外のあらゆる感覚が抜け落ちてしまったから。
 
惣流アスカラングレィがどんな顔をしてそう言っているのか、見られなかったから。
 
「レイ、もう一度約束するわ。二度とエヴァのこと、人ぎ……あんな呼び方しないって。心があるもの、ワタシに応えてくれたもの、ヒト……なのよね」
 
ただ、頷くことしかできない私の耳に、少し深い惣流アスカラングレィの呼吸。
 

 
「ヒトが作ったモノに心が宿るんなら、ヒトから作ったモノにだって心は宿るに違いないわ」
 
ね、レイ。と呼びかけられて反射的に向いた視界の中で、小さな青空が私を見つめていた。口の端は引き結ばれてそれ以上何も言わないけれど、なにか伝わってくるような、そんな気がする。
 
 
にじむ視界の中で、空の青色が嬉しい。と、思えた。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾四話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:28


「アンタねぇ……。おんなじモンばっかり、作ってくんじゃないわよ」
 
私の作ったポテトサラダを頬張りながらそう言われると、理不尽という言葉の意味を実感してしまう。それが、誰よりも多く食べる惣流アスカラングレィともなれば、特に。
 
「…これしか知らないもの」
 
屋上での昼食。最近では、6人が揃うのは珍しいかもしれない。
 
アスパラガスのベーコン巻きを頬張った。このところ、碇君の料理のレパートリーが増えてきているように感じる。それは、予備パイロットとなったことで時間的に余裕ができたことだけが理由ではないような気がして、しかたがない。
 
「でも、綾波さん、本当に上手になったわね」
 
オレンジ色の箸が、タッパウェアからポテトサラダを一掬いした。トマトジュースを隠し味に用いたポテトサラダが、洞木ヒカリの口の中に消える。2度、3度と咀嚼。
 
「ポテトサラダだけなら、わたしより美味しいもの」
 
このこと知ってる。出藍の誉れ。ポテトサラダ、だけだけれど。
 
「でも、リツコさんも言ってたよ。そろそろ他の料理も覚えて欲しいって」
 
碇君は、私の作ったポテトサラダをあまり食べてくれてないように思う。他の料理なら、食べてくれるのだろうか?
 
「パンだけの侘しい昼食派としては、これでも充分ありがたいけどね」
 
スプーンを手にした相田ケンスケが、惣流アスカラングレィの顔を窺ってから一口食べた。相田ケンスケや鈴原トウジが勝手に手をつけると、なぜか怒るのだ。
 
「どれどれ、わしにも一口」
 
伸びてきた手から、タッパウェアを遠ざける。
 
「なんや、綾波。わしには喰わしてくれんのかいな」
 
かぶりを振りつつ、タッパウェアを差し出す。
 
「…あなたの食事、炭水化物に偏りすぎてる」
 
見やるのは、鈴原トウジの膝元に山積したパンやおにぎりの包装紙。
 
「…栄養バランスを考えて。あなたもパイロットなのだから」
 
「しゃあかてなぁ……」
 
足の裏同士を合わせるような座り方をした鈴原トウジが、そのつま先を掴んで体をゆする。
 
「わし、料理は出来ひんし、こしらえてくれるモンもあらせんしなぁ」
 
揺れに身を任せて、そのまま転がるように倒れこんだ。
 
 
そういう意味ではないと、言おうとしたのだけれど……
 
「綾波さん」
 
呼びかけに振り向くと、洞木ヒカリの顔が間近。
 
「パイロットの栄養管理って、やっぱり大切なの?」
 
「…ええ。義務だもの」
 
「そういった手当も、小口の出納枠だってあるわよ。使ったことナイけど」
 
飛び込むように顔を近づけてきた惣流アスカラングレィが、洞木ヒカリの弁当箱から切れ込みの入ったウインナーソーセージを摘み取る。このこと知ってる。隠し包丁。火の通りや味の染み込みを良くするための、料理の技法。なぜ、あんなにたくさん、しかも不規則に入れているのかは判らないけれど。
  
そう。と鈴原トウジに視線を移した洞木ヒカリの視線が、突き刺さるよう。
 
「だめじゃない鈴原、きちんとしなきゃ。妹さんのためにパイロットをしてるんでしょ!」
 
「そら、そやねんけどなぁ……」
 
床に手をついて体を起こした鈴原トウジは、それだけで体力を使い果たしたと言わんばかりに盛大な溜息をついた。
 
「しっ仕方ないから、わたしが鈴原にお弁当を作ってあげる……」
 
言葉の勢いと同調するように落ちた、洞木ヒカリの顔が真っ赤になっている。
 
「なんでまた、委員チョ…?」
 
ああっ!と面を上げた洞木ヒカリの、顔の赤さがうなじにまで到達。
 
「クラスメイトのため、その妹さんのためだもの!これは委員長として、公務でするのよ!それ以外の何でもないのよ……」
 
「ほっ……ほうか」
 
洞木ヒカリの勢いに押されたか、鈴原トウジが仰け反る。
 
「よう解からんけど、よろしゅう頼むわ」
 
うん。と、頷いたまま面を上げない洞木ヒカリが、とても嬉しそうに見えた。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:28


 ≪目標は、大涌谷上空にて滞空。定点回転を続けています≫
 
エントリープラグのスクリーンから見える姿は、二重螺旋の円環。あのヒト知ってる。アルミサエル、第16使徒。
 
 ≪目標のATフィールドは、依然健在≫
 
『何やってたの?』
 
『言い訳はしないわ、状況は!?』
 
赤木博士に応えたのは、葛城三佐。いま、発令所に着いたらしい。【FROM CONTROL】の通信ウィンドウの中に加わる、ジャケットの赤い色。
 
 『膠着状態が続いています』
 
 『パターン青からオレンジへ、周期的に変化しています!』
 
『どういうこと?』
 
 『MAGIは回答不能を提示しています!』
 
通信ウィンドウを追加して、発令所の映像を増やす。日向二尉越しに、厳しい顔つきの葛城三佐が見えた。
 
 『答えを導くには、データ不足ですね』
 
『ただ、あの形が固定形態でない事は確かだわ』
 
『先に手は出せないにしても……』
 
葛城三佐が振り仰いだのは、誰も居ない司令塔だろう。初号機も弐号機も凍結させられていて、碇司令の許可がないかぎり動かせない。
 
『日向君』
 
手だけを日向二尉に差し出した葛城三佐が再び口を開こうとした矢先に、司令塔奥のドアが開いた。差し出されたインターフォンを取り落とした葛城三佐の口が、大きく開かれたままになる。
 
『初号機、および弐号機の凍結を現時刻を以って解除、直ちに出撃させろ』
 
入ってきたのは、碇司令と冬月副司令。碇司令は鬚をすべて剃り、レンズが素通しの眼鏡をかけていた。その頬は削ぎ落としたかのようにこけ落ち、目元には隈が濃い。レンズが素通しだから、充血した眼球結膜までよく見えた。
 
『どうした。実行しろ』
 
『しっ失礼しました。初号機、弐号機、発進!』
 
途端にリニアカタパルトが打ち出される。葛城三佐のあわてた様子が染ったかのように、射出速度が早い。
 
『出撃よ、アスカ。どうしたの? 弐号機は?』
 
『だめです。弐号機側からロックされています』
 
地上到達と同時に開いた通信ウィンドウは、【FROM EVA-02】
 
『レイ、今回はアンタに譲ったげる』
 
「…惣流さん?」
 
『アスカ!あんたそんな勝手が、』
 『かまわん。好きにさせろ』
 
追加で開かれた通信ウィンドウに、碇司令。席についているのに、しかし、指は組んでいない。
 
『レイ、初号機だけでできるな』
 
「…はい。問題ありません」
 
その瞳孔に映って見える私の姿。映像越しなのに、私を、私自身を見てくれているような、そんな気がした。
 
『すべてを解き放て。初号機のチカラを見せ付けろ』
 
「…了解」
 
碇司令が何を行なおうとしているのかは判らないけれど、すべてを解き放ってよいなら願ってもない。
  
…S2機関、全開
 
みなぎるエナジーに初号機が吼えた途端、アルミサエルが回転を停止、二重螺旋を縒り合わせた。
 
その円環を断ち切って、襲い掛かってくる。
 
『レイ、応戦して!』
 
アルミサエルを斃すだけなら、アンチATフィールドを張ればいい。ATフィールドを無効化するアルミサエルに対しては、それが一番安全だろう。
 
けれど、初号機の力を見せ付けるためには、ただ斃すだけでは足らない。
 
向かってくるアルミサエルの軌道を覆うように沿わせて、アンチATフィールドを展開する。その上下左右を封じた、アンチATフィールドのチューブだ。
 
 『次元測定値が反転、マイナスを示しています!観測不能!数値化できません!!』
 
  『アンチATフィールドか……』
 
逃げ場をなくしたアルミサエルを誘導して、初号機の周囲をめぐらせる。二重、三重と螺旋を描かせた先を、チューブの後ろ端に接続。無限の回廊は、初号機を飾るように。
 
 『すごい……』
 
切れ目を入れるような感覚で、アルミサエルを閉じ込めた牢獄にわずかな隙間を作る。
 
そうして、そのATフィールドを中和。初号機が完全な直接制御下にある今、私と初号機、2人分のココロの壁を操ることが可能だ。
 
沿わせた右手の掌から、回廊を周回するアルミサエルのココロに触れた。侵蝕されるような隙は、与えないけれど。
 
 
「…なぜ、私のカタチを真似るの?」
 
目前には、オレンジ色の水面に太腿まで水漬かせて、綾波レイの姿。うつむいて、その表情は見えない。
 
『これは、貴女の形じゃないわ』
 
右の掌で胸元を押さえたアルミサエルと同じように、私も胸元を押さえた。
 
「…そうね。でも、これも私のカタチ。私のココロを育んでくれたカタチ」
 
アルミサエルが、面を上げる。ヒトのカタチを初めて取ったこのヒトは、ココロを表すための努力を知らない。
 
これがココロを知らぬ頃の自分の姿だったかと思うと、物理的な痛みまで伴って胸が苦しい。
 
『私と、ひとつにならない?』
 
「…なぜ?」
 
伸ばしてきた手が、答えということなのだろう。触れてあげる。
 
『痛いでしょう? ほら、心が痛いでしょう?』
 
伝わってくるのは、じわじわと全身に押し寄せるような痛み。例外なく全てを押し包んで、一部の隙もなく責め立ててくる。もしも、身一つで砂漠に放り出されたらそう感じるのではないかと思わせる、苛烈な陽光に肌を炙られるような傷み。
 
「…痛い?」
 
それは、私の知らない痛みだったけれど、私がヒトの体を得てから感じるようになった痛みに似ているような気がした。
 
……思い起こそうと努力する必要はない。常に私を取り囲み、渦巻いているから。
 
雹混じりの吹雪の中で一糸纏わずに立ち尽くせば、こんな痛みを感じるのだろうか?
 
いつ、肌を切り刻まれるのではないかと怯えて、身を縮こまらせる。なのに、忍び寄る冷気に失われていく感覚が怖くて、痛みすら乞い求めて手を差し伸べてしまう。上げた慟哭すら掻き消す風鳴りは静寂も同然で、掻き抱いた腕まで虚しく冷えていく。
 
「…いえ、違うわ…サビシイ…そう、寂しいのね…」
 
『サビシイ? 解からないわ』
 
あんな笑い方、惣流アスカラングレィにして見せたら、罵られるぐらいでは済まないだろうと思う。想像しかかって、怖くなったので止める。
 
けれど、ほんの一時ココロのブリザードは晴れて、
 
「…独りが嫌なんでしょ? 私たちはたくさんいるのに、一人でいるのが嫌なんでしょ? それを、寂しい、と言うの」
 
『それは貴女の心よ。悲しみに満ち充ちている。貴女自身の心よ』
 
雲の切れ間に見えた陽光が、わずかとは云えこのココロを暖めてくれる。
 
「…そうね、確かに寂しいわ。でも、あなたが感じ始めている絶望的な孤独とは違う」
 
触れた指先を、握りしめられた。プラグスーツ越しでなければ、爪を立てられていたかもしれない。
 
「…だから、私と一つになりたかったんでしょう? あなたの孤独を、解かってあげられる私と。あなたより孤独だった、私と」
 
その手を、握り返してあげる。指と指を絡ませるようにして、力いっぱい。
 
 
あのヒトは、使徒のことも案じていた。タブリスの護った世界のことを慶んでいた。
 
それを知っていたから、エヴァンゲリオンであった時に反転ATフィールドで意思の疎通を図ろうともした。
 
タブリス以外は応えてくれなかったから諦めていたけれど、今こうしてアルミサエルが求めてくれたことを考えれば、私はもっと努力すべきだったのかもしれない。
 
……そのことへの後悔が雹を増やし育てるけれど、その痛みもまた、私だけのもの。
 
「…この身体はダメ、借り物だもの。だから、もう一人の私と、一つになりなさい」
 
初めて見せたアルミサエルの笑顔。ぎこちない、と表現するのだろう。返す笑顔は、私が刻んできたヒトのココロのすべてを篭めて。
 
 
意識を戻すと、アルミサエルの光り輝く紐のような姿が動きを止めていた。手放した速度と引き換えたかのように、まばゆい。
 
アンチATフィールドの籠を取り払うと、たちまち螺旋を描いて駆け上っていって、初号機の頭上で円環の姿を取り戻した。
 
使徒は、カラダとココロが不可分だ。だから、ココロが変わればカタチも変わる。はるかに直径を狭めたアルミサエルの、ココロの変化とはいかばかりだろうか。
 
そのココロをお互いに少しずつ埋めあって、初号機とアルミサエルの歓喜の声が共鳴している。湧き上がってくるエナジーは相乗効果で増幅されて、とても抑え切れない。
 
2対4翅の光の翼に変えて解き放ってやると、第3新東京市を抱え込めるほどに拡がった。なお発散しきれないエナジーを、翼の全面から光子に変換して放出。
 
 
 『使徒ごとS2機関を取り込んだというの? エヴァ初号機が…』
 
さあ、これがすべてを解き放った初号機の姿。誰に見せ付けようというのか知らないけれど、見せてあげる。
 
 
 ≪ パターン青、…消滅しています ≫
 
そうだろう。アルミサエルは初号機と一つとなって、使徒であることを辞めたのだ。対等な他者と手を取り合って生きていく道を選んだのだ。
 
 『うそ…』
 
誰がそう呟いたのか、判らなかった。もしかしたら、一人だけではなかったのかもしれない。
 
 
「…任務完了。帰投します」
 
 
***
 
 
エントリープラグを降りると、アンビリカルブリッジに惣流アスカラングレィが立っていた。私を、待っていたのだろうか?
 
なによ、アレ。と肩越しに親指で指差すのは、初号機の頭上でゆっくりと回転しているアルミサエルだろう。光の翼は、回収ラインに乗る前に解消している。
 
「…使徒、だったもの」
 
「だったもの……ねぇ」
 
振り仰いだ惣流アスカラングレィが、嘆息している。
 
「これでイーブンになると踏んで譲ったってのに、よりによって使徒を手懐けてくるなんてねぇ」
 
「…イーブン?」
 
ん? ああ。と振り返った惣流アスカラングレィが、虫でも掃うように掌を振った。
 
「ちょっとね。気にしないでちょうだい」
 
そういう本人はアルミサエルが気になるのか、再び振り仰いでいる。見やれば、誰も惣流アスカラングレィと同じ心持ちなのだろう。ケィジ中の人々が皆、アルミサエルを見ていた。
 
 
***
 
 
『碇、これは何の真似だ』
 
惣流アスカラングレィに連れて行かれるまま発令所に入った途端、聞こえてきたのは男のヒトの声だった。メインスクリーンには、目元のバイザーが特徴的な年老いた男のヒトの姿。このヒト知ってる。キール議長、ゼーレの領袖。
 
「宣戦布告ですよ。キール議長」
 
『なんだと』
 
司令塔には碇司令のほかに、冬月副司令と加持一尉の姿があった。
 
「我々ネルフは、ゼーレに反旗を翻し、人類補完計画を阻止する。ということです」
 
『冬月先生、ご自身が何を言っているのか、理解しておるのかね』
 
「原罪に塗れようとも、人が生きていく世界をこそ望む。それだけです」
 
発令所には葛城三佐のほかに、青葉二尉、日向二尉。そして碇君。赤木博士と伊吹二尉の姿はない。
 
『世界を敵に回して、勝てると本気で考えて居るのか?』
 
「キール議長の仰る世界とやらは、狭くなってるかも知れませんよ」
 
バイザーに遮られて判らないけれど、キール議長の視線が加持一尉に向けられたように感じた。
 
『ここにきて、ようやく鳴るか……』
 
「人は新たな世界へと進むべきなのです。そのための、エヴァシリーズです」
 
メガネを押しなおした碇司令の眼差しが、刺すよう。
 
『これ以上は無駄のようだ。もう会うこともあるまい』
 
「ええ。そう願いますよ」
 
碇司令の言葉を最後まで聞かず、通信が途絶えた。スノーノイズを映すのみとなったメインスクリーンが、閉じるように信号なしと表示を変える。
 
 
「全員、そのままで聞きたまえ」
 
冬月副司令の言葉が染み渡るのを待っていたように、碇司令が一歩、進み出た。
 
「突然のことで驚いた者も居るだろう。まずは、それを詫びる」
 
足音を殺して、ゆっくりと惣流アスカラングレィが歩き出す。おそらく葛城三佐めがけて。
 
「今の遣り取りで気付いた者も居るだろうが、ネルフは、ただ使徒殲滅だけを目的に設立された機関ではない」
 
…人類、補完計画。その呟きが聞き取れたわけじゃない。でも、葛城三佐の唇が、そう読めた。
 
「今の地球は狭すぎる。内紛や使徒戦で資源を消耗し尽くした。このままでは、人類が今の人口と文化水準を保っていられるのは後50年とする試算もある」
 
「そのために、環境に左右され資源を消費せねば生きてゆけない人類という命の容を捨て、無限のエネルギー源を内包した新たな姿に進化する計画が提唱された」
 
冬月副司令の言葉を継いだ碇司令が、一旦、口をつぐむ。
 
「それが、人類補完計画……、」
 
葛城三佐の袖を捕まえて、惣流アスカラングレィが小声で何ごとか捲くし立てている。そちらへ歩いていくと、かろうじて「アタシもはっきりとしたことは知らないのよ」と応えているのが聞こえた。
 
「つまりは、人類を使徒にする。そう云うことだ」
 
誰も声ひとつ上げないのに、あきらかに何かが、空気そのものが変質したような感触を覚えた。
 
「もちろん、人類が使徒に敗れては元も子もない。使徒殲滅に専念してもらうために、実行部隊である諸君達にはこの事実を伏せてきた。
 申し訳ない」
 
見下ろしてくる冬月副司令の視線は、あきらかに葛城三佐に向けられていただろう。
 
「我々ネルフ上層部も、当初は人類補完計画を遂行するつもりであった。だが……、」
 
口元を隠すように咳払いした碇司令の、戻した視線が、さきほどより遠い。
 
「一部の者は知っているだろうが、実験によって初号機に取り込まれていた碇ユイ博士が、ほぼ10年ぶりに帰還した。
 ある意味で補完計画の雛形ともなった彼女の証言から、計画の意義そのものが疑わしいことが判明したのだ」
 
「人類を使徒化しても、それはただ新たな使徒が生まれるというだけで、人類の後継者ですらない公算が高くなった。という訳だ」
 
声を上げかけた葛城三佐を手振りで押し止め、冬月副司令がそう付け加える。
 
 
「人類補完計画は、人類の利益に反する」
 
発令所をゆっくりと見渡した碇司令が、最後に見たのは、碇君?
 
「よってネルフは、人類補完計画の発動を阻止する」
 
「これまでの経緯、これからの指針については、各級職種別に配布を予定しているが、質問や異論があれば、今聞こう。なにかあるかね?」
 
冬月副司令は、碇司令とは逆から発令所を見渡しだした。その視線が、前腕だけを挙げた葛城三佐で止まる。
 
「なぜ、今。このタイミングなのですか?」
 
葛城三佐の質問を受け渡すように向けられた視線に応えて、碇司令が頷いた。
 
「人類を使徒化する参考例として、いわば対照実験的に、使徒を人類化する研究がなされている。
 その成果があがったらしいことが、確認された」
 
「つまり、次は人の形をした使徒が、意図的に送り込まれてくる。ということだね」
 
委員会が直で送ってくる使徒、確かに下手に受け入れるわけにはいかないわね。と顔を伏せた葛城三佐は、どんな考えに沈んでいったのだろう。
 
再び発令所を見渡した碇司令が、視線を冬月副司令に預ける。
 
「では、このまま第一種警戒態勢を維持したまえ」
 
了解。と上がった声はまばらだったけれど、碇司令は何も言わずに椅子へ腰かけた。
 
 
それにしても、赤木博士はどこに居るのだろう。という疑問は、尋ねるまでもなかった。伊吹二尉を従えて、発令所に現れたから。
 
「MAGIコピーからのデータ引出しが、完了しました」
 
「うむ、首尾はどうかね?」
 
はい。と頷いた赤木博士が、コンソールに歩み寄る。2度3度と指を走らせると、メインスクリーンにこの惑星を平面的に図示したものが表示された。ナイフで気紛れに、その表皮を削ぎ取ったかのような図法の上で、7ヶ所の光点が視線を惹く。
 
「S2機関搭載型はすでに、8体まで完成しているようです」
 
それぞれの光点に引込み線が描かれ、リストアップされたEVA-05からEVA-12が割り振られた。一ヶ所だけ、EVA-05とEVA-06の2体。
 
「仕掛かり中が4体」
 
赤い文字で表示されたEVA-13以降が、さらに割り振られる。
 
「こちらは建造スケジュールに2箇所ほど仕掛けを施しておきました。些細なトラブルですが、クリティカルパスを崩しますから5週間ほどの遅延が期待できます」
 
追加で表示された日時が、完成予定日なのだろう。
 
「うむ。ご苦労だった」
 
司令塔からかけられた言葉に、赤木博士が振り向いた。
 
視線が絡む。などという表現は知らなかったけれど、あとで思えば、これがそうだったのだろう。赤木博士が見て欲しかった相手が碇司令であったと、いま解かった。
 
自ら視線を断ち切って、「いえ……」と呟いた赤木博士が、コンソールに向き直る。
 
「完成しているほうの8体。どうにかできない?」
 
顔を伏せたまま首をひねって、葛城三佐の視線が斬り上がった。
 
「MAGIコピーの制御下にあった2体には、神経接続プロセスの循環参照パラメータに細工を施したわ」
 
「無限ループに陥って、起動できなくなるはずです」
 
伊吹二尉の操作で、EVA-06とEVA-11の表示が、黄色に変更される。
 
「他の機体もMAGIコピーに接触し次第、同様の細工が施される手筈だけど……」
 
「確実とは云えないのね?」
 
頷いた赤木博士が、キーボードを叩こうとして。
 
「その点については心配していない」
 
司令塔から落ちてきた言葉に、指を止めた。
 
「ここには初号機と弐号機がある。これまで使徒を撃退してきた実績を持つ2体だ」
 
「それに、相手はダミープラグだろうね。
 熟練パイロットの敵じゃないと思うが、参号機のときの経験から、どう思うかね?」
 
司令塔から乗り出すように見下ろしてきた冬月副司令は、口の端が少し上がって、なんだか微笑んでいるようにも見える。
 
思考を目線の揺らぎに乗せた惣流アスカラングレィが、一度視線をくれた。
 
「油断は禁物ですが、大丈夫だと思います」
 
「うむ。期待しとるよ」
 
姿勢を戻した冬月副司令の向こうで、碇司令が顎をさすっている。その指が組み合わされ、碇司令がよくそうしているポーズに戻った。
 
「問題は、実働部隊による此処の直接占拠がありうることだ。葛城三佐」
 
はっ!と、葛城三佐が踵を合わせている。
 
「この件は一任する。対策を講じたまえ」
 
「了解しました」
 
敬礼した葛城三佐に頷いて見せ、視線を赤木博士に。
 
「赤木博士、MAGIコピーは監視中だな?」
 
「はい」
 
見上げた視線にはもう、先ほどのような気配がない。
 
「ならば、第二種警戒態勢に移行する」
 
了解。と、今度は、発令所の全員が応えた。
 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第拾伍話+
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:28


医療部の通路を曲がった先に、ロビーがある。そのベンチに腰かけて、碇君の姿があった。
 
「…なに、泣いてるの?」
 
「綾波……」
 
涙を拭うのに忙しくて、私に気付いてなかったらしい。
 
「ごっごめん……、ちょっと嬉しいことがあって」
 
「…嬉しいこと?」
 
うん。と頷いた碇君は、それでまた何を思い出したというのか、治まりかかっていた涙をまた溢れさせている。
 
でも、綻んだ口元はとても嬉しそうで、だから私も嬉しい。
 
ハンカチを取り出して、渡す。赤木博士が買い与えてくれた――伊吹二尉が選んでくれた――衣料一式の中に入っていて、持ち歩くことはするようになったけれど、使うのは初めて。
 
ありがとう。と受け取った碇君が落ち着くまで、少し時間がかかった。
 
 
「父さんが、これまでのことを謝ってくれたんだ。すまなかった。って、頭を下げて
 いままで、よくやってくれた。と褒めてもくれたんだ」
 
これ、洗って返すから。とハンカチを仕舞っていたのに、碇君はそう言うなりまた目尻を潤ませる。
 
こういう時、どんな顔をすればいいのか判らない。
 
「それに、僕に弟か妹ができるらしいんだ。母さんと一緒に、初号機の中で眠っていたんだって
 僕、お兄ちゃんになるんだって」
 
「…おにいちゃん?」
 
そう口にした途端に跳ねた鼓動が、私に思い出させてくれた。
 
かつて私が初号機であった頃、私の中へと溶けた存在があったことを。名前も与えられず、還ることも生まれいずることもなく、私のココロの礎となったヒトが居たことを。
 
碇ユイの娘。碇君の妹。このヒトがくれたココロが、私の源だった。
 
目の前には、照れたような笑顔。はにかむ。と言うのだろう。
 
碇君の笑顔を見て嬉しくなるのは、私のココロの中に、このヒトのココロが生きているから、息づいているからだと教えられる。
 
「まだ、実感なんか湧かないんだけどね」
 
大丈夫。碇君は、きっといいおにいちゃんになれる。
 
乱暴に目元を拭った碇君が、立ち上がった。自然と後を追った視界の中に壁掛け時計があって、指定された時間を過ぎていることを示していた。
 
「お兄ちゃんになるんだから、しっかりしなくちゃ」
 
「…そう、よかったわね」
 
何を驚いたのか、碇君が目を見開く。
 
「…じゃ、呼ばれてるから」
 
あっうん。と頷いた碇君は、本当は私を呼び止めたかったのではないだろうか?
 
 
***
 
 
「貴女が……、綾波レイちゃんね」
 
「…はい」
 
続き間になっている501病室のベッドの上で、碇ユイはリクライニングに体を預けて上半身を起こしている。両腕は投げ出されたようにシーツの上で、もしかしたら上手く体を動かせないのかもしれない。
 
浮かべた笑顔に、隠すような途惑いを、以前の私では気付けなかっただろう。
 
「今の生活はどうだ」
 
ベッドの向こう側に、碇司令。憔悴の度合はさらに進行しているようで、目元の隈は筆記具で塗りつぶしたかのように黒い。
 
碇ユイの帰還はこのヒトにとっても福音となると思っていたのに、とてもそうは見えなかった。それでいて見下ろしてくる視線は、私そのものを見ているように思える。
 
それが理解できないのは、私がまだヒトであるとは言い難いからに違いない。
 
「…赤木博士の帰宅が遅いので、少し寂しいです」
 
「そうか…、寂しいということを覚えたか」
 
ベッドを回り込んで、碇司令が歩いてくる。
 
「この子もまた、私と貴方の罪……なのですね」
 
「違う。俺の、俺だけの罪だ」
 
碇ユイに向けた視線を私に戻した時には、碇司令の虹彩が揺れていた。
 
「葛城三佐がお前を引き取ると言い出したときは、それで使い物にならなくなれば乗せかえればよいと考えていた」
 
この肉体を殺して、ターミナルドグマから新たな綾波レイを連れ出すということだろう。
 
「だが、今となっては、お前が感情を持てるようになったことが、わずかばかりでも贖罪になることを願うばかりだ」
 
残り2歩分の距離を残して、立ち止まった碇司令。見下ろしてくるその眼差しが、ひどく優しくて、哀しい。
 
「レイ、すまなかった。お前の願いは、俺が植えつけたものだ」
 
背中が見えるほどに、下げられた頭。
 
すべては私が悪いのです。と口を開いた碇ユイが、バランスを崩して倒れそうになる。すかさず歩み寄って支えた碇司令の、背中が小さく見えた。
 
「俺のエゴを叶えるために、お前を利用しようとしていた」
 

 
沈黙は、応える言葉を知らない私がもたらしたもの。
 
今の私はあまりにも変わってしまっていて、もう綾波レイのココロを慮ることができない。綾波レイならどう受け止めたか、推し量ることができない。
 
もちろん、私のココロの一部は、この肉体が持つ記憶によって支えられている。それがもたらす渇望を、理解できた時期もあった。けれど、私は私。綾波レイは綾波レイ。…だもの。
 
振り返った碇司令が、再び頭を下げた。
 
「赦してくれとは言わん。すべての責任をとる覚悟はある」
 
碇司令に何も求めず、碇司令の思惑を潰しにきた私には、碇司令のエゴなど、何の意味もない。
 
「…赦すまでもない。私の願いは、もうそこにはないもの」
 
「赦してくれるというのか?」
 
面を上げた碇司令の、目が見開かれている。
 
「…そうとりたければ、そうとればいい」
 
私は綾波レイではないから、碇司令を赦す権利などあるわけがなかった。もちろん、赦さない権利も。けれど、碇司令が勝手に思い込むというのなら、それでかまわない。
 
崩れるように膝を着いた碇司令が、両手を床について肩を震わせている。
 
それを見る権利も当然ないはずなのに、義務であるかのように目が離せなかった。
 
 
****
 
 
惣流アスカラングレィはこのところ、このようにアンビリカルブリッジから弐号機を見上げていることが多いと聞く。
 
「…なに、してるの?」
 
こぶしを腰にあてた姿勢のまま、少し落とした視線。
 
「さあ…て、自分でもよく解からないのよ」
 
惣流アスカラングレィを探してケィジまで来たのは、さっき医療部で会った碇君の笑顔が忘れられないから。まるで網膜に灼き付いたかのように、まぶたを閉じると浮かんでくる。
 
「…お母さんに、会いたい?」
 
弾けるようにこちらを向いた惣流アスカラングレィは、私の顔を見つめて、それから再び弐号機を見上げた。
 
「…」
 
何かを呑み込むような頷き。
 
「そうね。会いたくないと言えば嘘になるわ」
 
ううん。と振ったかぶりに乗せた視線を、そのまま逸らし。
 
「会いたかったから、弐号機を追い込んだり、したの」
 
口の端を吊り上げるようにして「ううん、あれはほとんど脅迫ね」と苦笑。
 
「おかげで触れ合うだけなら、弐号機に乗るだけで、できるようになったわ」
 
そうして弐号機を見上げなおした視線を、なんと呼べばいいのだろう。
 
「初号機とは違うのかしらね? 暴走しただけじゃ、ママは出てきてくんないみたい」
 
もちろん、それは違う。だからこうして、惣流アスカラングレィの想いを聞きに来たのだ。
 
「…お母さんに、会いたい?」
 
いま一度私を見た惣流アスカラングレィは、驚いたことにかぶりを振った。
 
「ママは、ワタシを護れる力を得て、そのことに満足しているみたい
 だから、そのことを尊重してあげたいの。今は、ママが選んだ方法で護られていてあげようってね」
 
背中側から回した左手で右腕を掴み、何かを蹴るようにして1歩、こちらに。少し嬉しげで、でもやっぱり寂しげな、仕種。
 
「このあいだは護りきれなくて、少し落ち込んでるみたいだったから、気にしないでって言いに来たりしたけど……」
 
私の顔に何を見出したのか両眉を上げた惣流アスカラングレィが、腰に両手を当てて胸を張る。
 
「ワタシね? 全てが終わったら研究者になるわ。そうしていつか、ワタシのこの手でママを連れ帰って見せる」 
 
とりあえずはリツコに弟子入りかしら? と笑った惣流アスカラングレィが、なんだか眩しかった。 
 
                                          つづく



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 最終話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:29


MAGIコピーを抑えてある以上、ネルフ本部へ奇襲など、できるはずがない。
 
A-801が発令されたときには、私も惣流アスカラングレィもエントリープラグの中に納まっていた。
 
『ワタシたちの出番、まぁだかしら』
 
【FROM EVA-02】の通信ウィンドウの中で、惣流アスカラングレィがあくびをしている。LCLの呼吸中に血中酸素が不足することはまずないから、気持ちの問題なのだろう。
 
赤木博士はMAGIコピーへの事前の細工を利用して、MAGIオリジナルを交換台に、MAGIコピーそれぞれをお互いのトラップボックスにしてしまったそうだ。
 
いわば同士討ちにさせられたようなもので、赤木博士が流した欺瞞情報から、MAGIオリジナルを攻略できたものとゼーレは信じかかったらしい。
 
そうして得られた5936回ぶんの時間で、葛城三佐は防衛策の最後の仕上げを済ましてしまったという。
 
ちょっとやそっとじゃあ、ジオフロントを拝むことすらできないわよん。と言っていた。
 
『2人とも、お待たせ』
 
【FROM CONTROL】の通信ウィンドウに、葛城三佐が現れた。
 
待ちくたびれたわよ。と呟く惣流アスカラングレィは、しかし急に生き生きとしだしたように見える。このこと知ってる。水を得た魚。
 
『量産型の出撃が確認されたそうよ。6機、あと20でここに着くわ。
 それとこちらはつい先ほど、N2弾頭弾と、ICBMの発射が確認されたわ。露払いってことでしょうね。
 2人とも出撃して、ATフィールドで防いでちょうだい』
 
『わかったわ』
「…了解」
 
ウィンドウ越しに覗き込むようにこちらを見た葛城三佐が、なにかを呑み込むように頷いた。
 
『エヴァンゲリオン初号機、弐号機。発進!』
 
 
***
 
 
いかに威力があろうと、いくら数を揃えようと、ATフィールドの前に通常兵器が役に立つはずがない。
 
ココロという無限を具現化した壁の前に、N2弾頭もICBMも空しく弾けた。
 
 
では、同じエヴァンゲリオンなら抗しえるか? と云って、たった4体ではそれも無理だろう。しかも、ダミープラグでは。
 
『ワタシに勝とうだなんて、100万年早いのよ』
 
再生できないほど細切れにした白いエヴァンゲリオンの頭部を足蹴にして、惣流アスカラングレィが唇の端を吊り上げている。
 
第3新東京市に進攻しようとしていたウイングキャリアーは、6機。たどり着く前に全機撃墜したけれど、自律起動に成功したのが4体いたのだ。
 
『しっかし、いくらS2機関搭載型だからって、たった6機で攻め込んでくるなんてね』
 
それなんだけど…。と通信ウィンドウの中で、葛城三佐が面を上げる。
 
『ドイツで2体、エヴァシリーズが暴れてるらしいわ』
 
『暴れてる? リツコの仕掛けのせいで?』
 
わっ私じゃないわよ!と、葛城三佐の背後に、赤木博士。たちまち葛城三佐を押しのけて画面手前に。
 
『どうやら、使徒と戦闘中らしいわ。相手が小さすぎて、こちらで押さえられる衛星からでは確認できないけど』
 
『使徒!? ナンで?』
 
 『老人は、予定を一つ繰り上げるつもりだ。自らの手で』
 
かすかに聞こえてきたのは、碇司令の声。
 
 『我々の手は、借りられなくなったからね』
 
続いて、冬月副司令。
 
つまり、ここで斃させるはずだったタブリスを、自ら斃さなければならなくなったから、戦力を割かざるを得なかったと云うことなのだろう。
 
それにしても、残りのエヴァンゲリオンがここに来ていることを考えれば……、
 
「…いつから、ですか?」
 
『ドイツでの戦闘? …A-801の発令直前らしいから、もう3時間は経ってるわね』
 
あのタブリスが、いくら2対1だと云えど、ダミープラグ程度にそれほど苦戦するとは考えられないのに。
 
…いや、そうでもないか。ほんの少しでも連携することを知っていれば、手数の多さは脅威になる。それを様々なカタチで証明してしまったのが、ここで先ほど行なわれた戦闘だっただろう。
 
 
………
 
 
数の上でこそ4体と白いエヴァンゲリオンはこちらの2倍も居たが、初号機はアルミサエルの分も加えて3重のATフィールドを展開できるから、その点で互角だった。だから、こちらは弐号機と合わせて4つのATフィールドを集中して、まずは各個撃破に努めたのだ。
 
分断に一つ。捕縛に一つ。中和に一つ。防御に一つ。そうやって孤立無援で無防備にした1体目を弐号機が一刀両断。
 
それで学んだらしい白いエヴァンゲリオンたちがATフィールドの中和を行なってきたので、相手の中和に任せるままに三つを使い捨て、弐号機が防御に展開したATフィールドに阻まれた1体をこれは私が斃した。
 
これで2対2。しかしATフィールド展開量で勝るこちらは、白いエヴァンゲリオンたちのそれを中和しておいて防御でも展開する。
 
惣流アスカラングレィの手で僚機を撃破されて追い詰められた最後の1体が、苦し紛れにロンギヌスの槍めいた代物を投げつけてきた。しかし、対処の仕方さえ知っていればATフィールド一つで避けられるそれが、今の私に通用するはずがない。
 
防御で足止めしている間に、ロンギヌスの槍のアンチATフィールドをアンチATフィールドで相殺。そうして展開するのは、反転ATフィールド。
 
「…」
 
いかに紛い物でも、ここまでしてやれば誰に従うべきなのか気付いたことだろう。私と初号機と、今この地上で最もツキに近しいモノに向ける刃を、ロンギヌスの槍は持たない。途端にその螺旋を解いたロンギヌスの槍が、石突と穂先を組み替えて、飛んできた方向へと、白いエヴァンゲリオンへと疾走した。
 
弐号機によってATフィールドを中和されていた最後の1体は為す術もなくコアを貫かれ、勢いもそのままに虚空の彼方へと連れ去られる。
 
 『最後の1体は?』
 
 『第一宇宙速度を突破、現在、月軌道に移行しています』
 
最初から4体がかりで中和に専念して4対2の状況を作り出していれば、少なくともこんな一方的な結果にはならなかっただろう。いや、その上であのロンギヌスの槍めいた代物を持ち出されていたら、こちらに勝機はなかったはずだ。
 
 
………
 
 
タブリスは強力なATフィールドを器用に使いこなすが、肉体的には脆弱な、ヒトの体に過ぎない。それに、ATフィールド以外の攻撃手段に欠ける。
 
白いエヴァンゲリオンがATフィールドの使い方を学ぶ前に、あのロンギヌスの槍めいた代物を持ち出す前に、けりをつけられなかった。ということなのだろう。
 
 
「…いきます」
 
『行くってアンタ、……まさかドイツに?』
 
【FROM EVA-02】の通信ウィンドウに向かって、頷いてみせる。
 
『こっから、どんダケかかると……』
 
S2機関を全開にし、アルミサエルと共鳴させて、展開するのは2対4翅の光の翼。
 
『ちょっ、レイっ!』
 
惣流アスカラングレィには申し訳ないけれど、連れて行く気はない。なぜタブリスを救けに行くのか、合理的に説明できる自信がなかった。
 
「…ごめんなさい」
 
弐号機が駆け寄ろうとしたその時には、初号機は虚数空間へと沈んでいる。届かなかったはずの惣流アスカラングレィの怒鳴り声が聞こえたような、気がした。
 
 
***
 
 
作り出したディラックの海は、光の速度で3億9034万5298カウント分ほどの直径の球状。すなわち、この惑星とほぼ同じ。
 
確認するのは使徒やエヴァンゲリオンが放つ波動で、至近に2つ、遠くに3つ感じた。近くのは弐号機とリリスだから、あの3つがタブリスと白いエヴァンゲリオンだろう。
 
位置を把握したら、虚数空間を圧縮する。初号機をかろうじて包める大きさまで。使徒の作り出す虚数空間は、ココロの顕在化だから、物理的性質をとどめながら自在だ。
 
虚数空間をすぐさま元の大きさに拡大すると、遠くにあった3つの波動がすぐ傍に感じられる。
 
タブリスに対して2体の白いエヴァンゲリオンが差し向けられたのは、幸いだっただろう。おかげで空間を隔てていても、波動を区別できるのだから。
 
虚数回路を閉ざして、つむぐ接点は2ヶ所。そのうちの1ヶ所は、アルミサエルがつむいでくれた。それぞれに突き入れた両の貫き手に、確かな手応え。伝わってくる、熱とともに。
 
私は白いエヴァンゲリオンでもあったから、あなたたちが悪いわけではないことを知っている。けれど、私ではあなたたちにココロを与えられない。だから、せめてその虚無を消してあげる。
 
貫いた白いエヴァンゲリオンのコアが、急速に冷えていく。まるで、この宇宙に受け入れられなかったかのように。
 
 
…なぜだろう?
 
私は今までも、多くの白いエヴァンゲリオンを葬ってきた。さきほども惣流アスカラングレィと共に戦って、2体をこの手にかけたばかり。
 
なのに、今は白いエヴァンゲリオンたちを葬ることが悲しい。
 
 
「レリエルが来たのかと思ったよ。これは初号機かい? すると、君がファーストチルドレンだね」
 
貫き手を引き抜いて接点を閉ざした途端、初号機の眼前に実数空間への接点が生じた。そこから入り込んでくるなりそう言い放ったタブリスは、ズボンのポケットから手を出そうともしない。
 
「…」
 
惣流アスカラングレィなら即座に怒鳴りつけただろう。と考えて、そもそも私自身が少なからずそうした気持ちであることに気付いた。
 
使徒やエヴァンゲリオンが作り出す虚数空間は、実数空間に対する表裏唯一の空間ではない。いかに使徒といえども、光速度を軸に物理法則が反転した空間で己を保つことは難しい。
 
使徒が作り出す虚数空間とは、そのココロを無尽蔵のエナジーとATフィールドによって構築した、いわば立体的な影。物質ではなく、精神で構成された世界だった。
 
そこへ無雑作に踏み込まれて覚えたのは、湿度が増して身動きがとりづらくなったかのような感覚。
 
それが不快だとはっきり認識した瞬間、タブリスの身体は初号機の手の中にあった。
 
「おや? 救けに来てくれたものだとばかり思っていたけど、…違うのかい?」
 
いつ、握り潰されてもおかしくない状況の中で、タブリスの顔に緊張はない。それが初号機の手に篭る力を増やしかけて気付いたのは、今までとの違い。
 
これまで、私はいくつもの宇宙でその宇宙のタブリスと出会ってきた。その中には、虚数空間に招き入れたことも、こうして踏み込まれたことだってあった。
 
なのに、そのことを不快だと感じたのは、これが初めてなのだ。
 
それは、つまり……
 
ココロの中にこそATフィールドを張る、ヒトという存在に私が近づいているから?
 
私が大切にしているものを、無下に扱われたと感じているから?
 
「綾波レイ」
 
いつの間に抜け出したのか、タブリスが初号機の眼前に浮いていた。
 
「君は、僕とは違うんだね。
 この星で生きていく身体はリリンと同じ形へと行き着いたけれど、生きることの辛さまで得て、さびしさを自覚してなお、それを歓んでいる」
 
この空間には、私のココロが満ち充ちている。ココロを知り、ATフィールドを操れるモノなら、そこからさまざまなことを読み取れるだろう。
 
「生と死が、君の前では等価ではない」
 
レリエルの虚数空間からは、何も読み取れなかったのとは違って。
 
「僕たち使徒が、宇宙を彷徨う凍れる彗星なら」
 
見据えてくる赤い虹彩は私のものと違わないはずなのに、ひどく眩しそうにしている。
 
「今の君は、雪の結晶のように繊細だね」
 
…すこし、羨ましいかもしれないな。と微笑み。それが、すこし寂しげ。
 
無縁なる宇宙を誰と出会うでもなく永遠に飛び続ける彗星と、陽が射せば溶けてしまう身でも沢山の諸共と一緒に降りしむ雪を引き比べて。それを寂しいと感じているのなら、やはりタブリスもヒトに近くあるのだ。
 
「…なら、あなたも旅立てばいい。彗星の群れに、飛び込んで。まずは、それから」
 
「彗星の、群れ? なにを…、綾波レイ…君がなにを言っているのか解からないよ」
 
思わず、口元がほころんだ。私もずいぶんと意地が悪くなったと思う。でも、百聞は一見に如かず。だもの。
 
アルミサエルに任せて、虚数空間の圧縮と拡大を行っておいた。虚数回路を閉ざして実数空間への接点をつむぐと、そこはターミナルドグマ。
 
「これは…」
 
リリスの存在に気付いたタブリスが、そちらに踏み出そうとしたときだった。
 
『ソイツが、例の使徒?』
 
唐突に開いた【FROM EVA-02】の通信ウィンドウの中から、惣流アスカラングレィが問いただしてきたのは。
 
『今度もまた、使徒を手懐けて来たってワケね』
 
「…どうして」
 
虚数空間を解消して振り返れば、隔壁にもたれかかるようにして弐号機が居た。
 
『碇司令がね。きっとココに来るだろうって』
 
組んでいた腕をほどいて、弐号機が一歩、踏み込んでくる。
 
『それから、此処を去るんじゃないかってね』
 
私がその謝罪に関心を寄せなかったことを、碇司令は中々承服してくれなかった。私の裡に消滅への渇望が無いことを、認めてくれなかったのだ。
 
代償としてアダムの欠片を要求することを思いついたのは、あのヒトがそれをタブリスに与えていたことを思い出したから。
 
それで私の虚無を埋める。という口実を碇司令がどう解釈したのか、それは知らない。インパクトは起こさないと言った私の言葉を信じられなかったから、惣流アスカラングレィを寄越したのだろうか?
 
『碇司令は、アンタのしたいようにさせるつもりだったみたいだケド……』
 
左肩ウェポンラックから引き抜かれる、改良型プログレッシブナイフ。引き出された刃が、高周波に咽ぶ。
 
『勝ち逃げなんて、許すと思った!?』
 
そのメインカメラの上下から本物の眼球を覗かせて、弐号機が襲い掛かってきた。
 
「…惣流さん」
 
後ろに下がっては、追い詰められるだけ。左右に逃げれば、刃に捉われる。
 
膝から力を抜いて、その場に頽れた。ためらいのない刃筋が、初号機の顔のあった位置を貫いて、惣流アスカラングレィの本気を教えてくれる。
 
通り過ぎたはずの弐号機の腕がたちまち折れて、初号機の肩口に肘が落ちてきた。逆らわず、左肩のほうから崩れるように倒れこんで、跳ね上げた右脚で弐号機の頭部を狙う。
 
避けようと弐号機が身を引いた隙に、右脚に乗った慣性を使って立ち上がる。はじめから、弐号機を攻撃するつもりなどない。
 
『エヴァシリーズを斃してまで使徒を救けたアンタは今、人類の敵』
 
【FROM EVA-02】の通信ウィンドウの中で、惣流アスカラングレィが唇を舐めた。
 
『嬉しいわ。お陰で、こうしてアンタとジカにやり合えるんだもの』
 
舌なめずり。と、のちに知る。
 
「…惣流さん、」
 
待って。と最後まで言わせてもらえない。
 
唐突に姿勢を低くした弐号機は、それを何に引き換えたというのか、もう眼前に居る。
 
打ち込まれた肘を、かろうじて受け止めて一歩下がった時には、弐号機が背中を見せていた。
 
後ろ廻し蹴りが来ることを予測して間合いを詰めなおした初号機を襲ったのは、増設バッテリ。おそらく、動作に入ると同時に除装したのだろう。
 
それに気をとられてはならない。構わずに突進した初号機を、弐号機の蹴り足ではなく、足の裏が出迎えた。
 
こちらが間合いを詰めてきたことを、増設バッテリの衝突音で判断したのだろうか? 後ろ廻し蹴りから切り替えられた変則的な足刀蹴りに、押し出すように吹き飛ばされる。
 
…なぜ?
 
  …なぜ?
 
   …なぜ?
 

…どうして?
 
  …どうして?
 
   …どうして?
 
こうなってしまったのか
 
 
目の前が暗闇で閉ざされたようなこの感覚を、なんと言うのか知らない。
 
 
どうすれば、いい?
 
 
明確な判断を見出す間もなく、初号機は壁へと叩きつけられてしまう。
 
そのまま頽れることは、間合いを詰めてきた弐号機のこぶしが許さない。改良型プログレッシブナイフを逆手に握って、アッパーカット。
 
使徒の、エヴァンゲリオンの脳は、構成素材が違うからヒトのように脳震盪を起こしたりはしない。けれど、感じる痛みは、与えられた衝撃以上の強さで私のココロそのものを打ちのめす。
 
踏み分けられたリリスの体液が、弐号機の背後で荒れ狂っている。まるで、絶え間なく殴りかかってくる弐号機そのもののように。
 
『かかってきなさい!』
 
「…いや」
 
かろうじて、ガードの腕だけは上げさせることができた。逃げようにも、この場所はエヴァンゲリオンには狭すぎる。
 
『そのままやられるつもり!?』
 
話しを聞いて欲しい。と開こうとした口を閉ざす。
 
いったい、何を話せばいいのだ。
 
『殴りっ返してっ!……』
 
エヴァンゲリオンの肉体でそんなことはありえないのに、一撃ごとに痺れが走る。
 
『きなさいよ!!』
 
こちらのガードを弾いておいて、弐号機が大きく振りかぶった。
 
思わず張りかかったATフィールドをキャンセル。さらには、アルミサエルが勝手に張ったATフィールドを中和。
 
もちろん、あの勢いでATフィールドを殴りつければ、弐号機も惣流アスカラングレィもただでは済まないから。こちらのATフィールドを中和できてると思っているだろうから、なおさらだ。
 
けれど、それだけが理由じゃない。
 
ここでココロの壁を張ってしまったら、惣流アスカラングレィを拒絶するようで嫌だった。
 
傷つけ合うしかないのがヒトなのだとしても、でも、まだ、相手のほうを見ているのだ。こうして惣流アスカラングレィは、私のほうを向いていてくれる。
 
わざわざ、ターミナルドグマまで、降りてきて。
 
その行動に隠した惣流アスカラングレィのココロを知りたいと思うから、私は……
 
「…くっ」
 
傾げた初号機の側頭部を、弐号機のこぶしが掠める。そこから折り畳むようにして顔面へ迫った肘は、アルミサエルからの視点の提供がなければ躱せなかっただろう。
 
 
「…」
 
その身体は激しく動かしながら、なぜかほとんど動かない弐号機の頭部に、寄り添うようにしてタブリスが現れた。何かいいたげに、こちらに目配せ。
 
「…ダメ」
 
惣流アスカラングレィになにかしたら、私が赦さない。
 
タブリスの方に視線を向けたのはほんのわずかな時間だったのに、アッパーカットがガードをすり抜けてきた。
 
『今度はその命ごとっ!』
 
突き上げられた視界の下端で、弐号機が大きく上体をねじっている。
 
『ワタシに手柄を譲ってくれるってワケ!?』
 
上下に振り分けた諸手突きは、顔面を狙った右手に、順手に握りなおされた改良型プログレッシブナイフがあった。高周波が空気の分子を切り裂いて眩しいほどの赤外線を放つその刀身は、なのに、その熱気を感じさせない。
 
刃のきらめきがこんなに冷たくなければ、私はそれを受け入れていただろう。この事態を招いた自分への罰と、諦めていただろう。なにより、これが惣流アスカラングレィのココロの発露なら、それを知りたいと思ってしまう。
 
けれど、私には使命があった。
 
左下から右上へ、払うように振り上げた右腕で弐号機の右手を跳ね上げる。同時に蹴り上げた右の膝が、弐号機の左腕を捉えた。
 
大きく両手を差し上げた弐号機の姿は、綾波レイのこの網膜には、もう映っていなかった。
 
振り下ろす右脚と右腕に、同期させて突き出す左手。
 
狙うのは弐号機の右頬、こぶし一つぶん左。
 
右足がリリスの体液を割り、その下の床面を捉えた瞬間に、左こぶしを時計回りにひねる。
 
その瞬間、初号機の視覚は捉えた。弐号機のカメラアイから光が失われるのを。
 
次いで途切れた通信ウィンドウの中で、惣流アスカラングレィが微笑んでいたのが、ぼやけて判然としない綾波レイのこの視界の中で、なぜかそこだけ明瞭に見えた。
 
この状況を、惣流アスカラングレィが望んでいた。と悟った時には、弐号機は向い側の壁へ叩きつけられた後だった。
 
「…なぜ?」
 
活動限界を迎え、微動だにしない弐号機へ駆け寄る。
 
 
ATフィールドを反転させて弐号機のココロごと引き寄せると、オレンジ色の水面に太腿まで水漬かせて、惣流アスカラングレィが頬をさすっていた。
 
「いいパンチだったのにな……」
 
「…惣流さん」
 
えっ!? と面を上げた惣流アスカラングレィは、私の顔を見、次いで周りを見渡しだす。
 
「ここドコ!?」
 
「…初号機と弐号機の、ココロの中」
 
はぁ…。と、なにやら色々と呼気に託して、惣流アスカラングレィの肩から力が抜けた。
 
「これもまた、アンタの仕業ってワケ?」
 
かぶりを振る。
 
「…エヴァンゲリオンの、能力。ATフィールドの反転」
 
ふうん。とオレンジ色の水面を蹴立てた惣流アスカラングレィが、私の背後に視線を飛ばす。
 
「向こうに居るノはいいとして、」
 
振り返ると、少し距離を置いてタブリスが居た。どうやら、巻き込んでしまったらしい。
 
「その、ちっちゃいノはダレ?」
 
向き直り、惣流アスカラングレィの視線を追う。見る見る下がる視界の中に、この身体に半ば隠れるようにして小さな女のヒトの姿がある。
 
綾波レイが幼い頃、そんな姿だっただろうと思わせるカタチで。
 
それは、この綾波レイの姿を写して、自らのココロの丈に合わせて大きさを変えた姿。
 
「…アルミサエル」
 
使徒は、ヒトよりも遥かに自我境界線が強固だ。自身が唯一の、単体生物ゆえに。だから、たとえATフィールドを解き放っても、他者とひとつになっても、己を見失わない。けれど補い合って、喜びに満ちている。
 
今のアルミサエルと初号機は、2人でひとつ、ひとつで2人。個にして全、全にして個。他者という存在がありながら、解かりあえている。使徒であって、使徒でない。それは、補完されたヒトの姿。
 
「…使徒だったもの」
 
「もしかして、あの環っかみたいなヤツ?」
 
両手の人差し指と親指で環を作って見せた惣流アスカラングレィに、頷いてみせる。
 
「…ココロの容」
 
しゃがみこんでアルミサエルと目線の高さをあわせた惣流アスカラングレィが、少し眉根を寄せた。
 
「人にしか見えないけど…?」
 
首をひねるようにして、こちらを見上げてくる。
 
「…本質は、同じ。ヒトも、シトも。芽生えたばかりのこの子のココロはまだ幼いから、ここではこんなカタチに見える」
 
よく解かんないけど。と、小首をかしげながら、しかし惣流アスカラングレィは右手を差し出した。
 
「ワタシ、アスカ。惣流・アスカ・ラングレィ。仲良くしましょ、って言っていいものかどうか知んないけど、よろしくね」
 
差し出された手を、どうしていいのか判らないのだろう。伺うように見上げてきたアルミサエルに、頷いてやった。
 
おずおずと伸ばされた小さな手を、もぎ取りそうな乱暴な握手。
 
けれど、見た目ほどにはひどい扱いではないようだ。ほとんど体ごと揺すぶられているアルミサエルの、口元が緩んでいく。惣流アスカラングレィの笑顔を、写し取っていくように。
 
 
放された掌を不思議そうに、少し寂しそうに見やっていたアルミサエルが、それでも笑顔。
 
「…そう。よかったわね」 
 
その右手を、まるで宝物のように左手で匿って、胸元に仕舞いこむよう。
 
さて。と膝に手をかけた惣流アスカラングレィが、腕の力を加えるようにして立ち上がった。
 
「行くんでしょ?」
 
それに応えようと頷きかけて、とどまる。
 
「…なぜ?」
 
私の視線を受け止め損ねたかのように、惣流アスカラングレィが目をそらした。それに引き摺られるように、背を見せる。
 
 
「環っかを乗せて、翼まで生やした初号機を見たとき。そのままアンタがどっかに飛んでっちゃうんじゃないかって、感じたわ」
 
オレンジ色した波紋を引き連れて、1歩2歩と遠ざかっていく。
 
「もしそうなっていたら、ワタシはどうすべきだったんだろうって、ずっと考えたりしてた」
 
立ち止まって赤い空を見上げた惣流アスカラングレィは、そこに何を見出したのだろう。
 
 
アンタがアレを…。と肩越しに突き出された親指が、正確にタブリスを指し示していた。
 
「救けに行った時、碇司令が言ったのよ」
 
オレンジ色の水面を蹴立てて振り向いた惣流アスカラングレィが、今度は私の視線を受け止める。
 
「後腐れをなくすために、アンタがいろんなモノを引き連れて、ここから立ち去ろうとしてるんじゃないか? ってね」
 
自ら立てた波紋に、押し出されるような1歩。それに引き摺られるような、もう1歩。
 
「もし、アンタがここを立ち去るつもりなら、ワタシはどうすべきだろうって…考えながら待つつもりだったのに」
 
そのまま波を蹴立てて詰め寄ってくる様は、先ほどの弐号機のような勢い。
 
「ロクに纏まんないうちに帰ってくんだもの…」
 
アンタと直接、本気でやってみたかったって…、その想いしか果たせなかったじゃない。と胸元に指を突きつけてくる。
 
「まっ、初号機が弐号機と戦ったって事実は残せたんだから、あとはどうとでも誤魔化せるでしょ。悪いケド、アンタは初号機ごとワタシが殲滅したことになるわよ?」
 
掌を胸元に引き戻して上体をそらした惣流アスカラングレィの笑顔が、すこし無理をしていると、今の私には判った。不本意だと、ぶれて見える輪郭が言っているように聞こえた。
 
「…ありがとう」
 
よしてよ。と再び背を向けた惣流アスカラングレィに、頭を下げた。
 
 
***
 
 
ATフィールドの反転を解いて、ターミナルドグマへと視界を戻す。
 
「もう、いいのかい?」
 
…ええ。と振り返ると、リリスに刺さったロンギヌスの槍に乗るようにして、タブリス。
 
「これは、リリスだね。君は、いったい何をたくらんでるんだい?」
 
惣流アスカラングレィなら、人聞きが悪い。と怒鳴ったことだろう。
 
「…百聞は一見に如かず、だもの」
 
呟きがタブリスに届いたかどうか、確認することなくロンギヌスの槍に手をかける。間髪入れずに引き抜くと、ロンギヌスの槍の上を歩くようにしてタブリスがこちらに向かってきた。
 
「乱暴だね。好意に値しないよ」
 
ズボンのポケットに手を入れたままで、平然とそう言われても……、そう、説得力がない。
 
地響きに視線を戻すと、リリスがその下肢を再生させていた。ロンギヌスの槍で縫い止められていたエナジーが、そういうカタチとなっただけ、だけど。
 
ロンギヌスの槍で強制的に目覚めさせられてなお、このリリスはまどろんでいる。自らが生み出したヒトたちが紡ぐこの世を、うたかたの夢と見ながら。
 
自らの覚醒はヒトの世の終わりと知っているから、寝汚い葛城三佐のようにまぶたを開こうとしない。それどころか、目覚めなくて済むものならば、自らが消滅してもよいとさえ思っている。
 
それは、リリスのコピーたる私に、初号機からサルベージされたという綾波レイに、歪つなカタチで継承されていた。初号機であって綾波レイでもある、この私にしか自覚できないだろうけれど。
 
「…」
 
この手の中で形を変えたロンギヌスの槍に反応してか、リリスが寝言めいた波動を放ってくる。
 
「…そう。よかったわね」
 
縒り合わさって捩じれたその姿は、使徒殺しのカタチ。
 
その胸に突き立ててあげると、声ならぬ声で、歓喜が満ちた。
 
 ……死と。
 
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし。……そういうことか、リリス」
 
右肩ウェポンラックの上で、タブリスが呟く。
 
引き抜いたロンギヌスの槍を渦巻く器の形に変えると、噴き出したリリスの体液を受け止めてたちまち溢れた。
 
これは、使徒を受け入れるカタチ。
 
 
あなたも、連れて行ってあげる。あの宇宙へ。
 
会わせてあげる。あの宇宙のリリスに。
 
あなたの歓びを、あのヒトに分けてあげて。
 
あのヒトの悲しみを、受け止めてあげて。
 
そのために、あなたを殺すわ。あなたの願いのままに。私はあなたじゃ、ないけど。
 
 
差し上げた器の向こうで、リリスだったものがそのカタチを失って雪崩れ落ちる。湛えていたリリスの体液と混じって見分けがつかなくなる頃には、器の中身は初号機の喉の奥へと消えていた。
 
 ……新生と。
 
「リリス。初号機。そして、綾波レイ。その三つが合わさることの、意味はなんだい?」
 
向けられてくる赤い虹彩。
 
「…言ったはず。百聞は一見に如かず、と」
 
「君は意地悪だね。好意に値し……」
 
最後まで言わせない。
 
初号機とアルミサエルとリリスの共鳴で膨れ上がったエナジーを、ロンギヌスの槍に注ぎ込む。まるで、一枚の布を絞ってその形にしていたかのようにほどけて、初号機を包み込めるほどに拡がった。
 
翻して、纏う。
 
それは、使徒の力を覆い、纏め上げるカタチ。
 
インテリアの下に、サバイバルキットを放り出して詰め込んだトランクがある。その中のアダムの欠片まで、エナジーを紡ぎだした。タブリスに与える機会を、失ったままに。
 
碇司令を納得させるために、譲り受けたアダムの欠片。…そう、あなたも寂しかったの? 寂しさを知ったの?
 
相容れないはずの、リリスとアダム。けれど、今は、今だけは……
 
 
 ……ひとつになる。
 
 
 
振り返れば、まるで項垂れているかのように頽れている弐号機。
 
「…あなたも、行く?」
 
…そう。と展開した反転ATフィールドで引き寄せるのは、弐号機のココロだけ。それを宿すべきコアはないけれど、この有り余るエナジーがあれば模造使徒の1人くらいは維持できる。
 
 
そうして次に行なうのは……、
 
「これは……」
 
初号機の体から立ち昇る燐光は、かつてタブリスが見せてくれたものだった。
 
「…ヒトのココロ」
 
虚数空間でもない限り、タブリスとても見ただけでそうとは判らないだろう。
 
これが……。と燐光の一つに手を差し伸べたタブリスが、それほど眩しくはないはずなのにその目を眇めている。
 
「寂しさに、心の痛みに、……生きるのすら辛くて、必ずしも純粋ではないのに、純粋では居られないのに、けれどもこんなに儚くて美しい
 人の心か……、好意に値するよ」
 
「…コウイ?」
 
その言葉を知らないわけではない。けれど、さっきまでとは違う力強さで紡がれた言葉に、つい問いかけてしまった。
 
好きってことさ。とこちらを向いたタブリスの笑顔はそれまでの、顔の表面に貼り付けただけの笑顔ではなかったから。
 
「…そうね」
 
笑顔を返した。
 
「…それはきっと、ヒトが持てる希望」
 
あなたも人になれるわ。とまでは口にしなかったけれど、タブリスは目を細めて笑みを濃くした。
 
そうしている間にも増えていっていた惣流キョウコツェッペリンのココロが、ターミナルドグマを光で埋め尽くす。
 
「…」
 
さあ、始めましょう、リリス。
 
惣流キョウコツェッペリンのATフィールドを、ココロの壁を解き放ちなさい。
 
引き裂かれ失われた想いを補い、その魂を打ち直す。
 
それは、欠けたココロの補完。
 
 
数え切れない程の燐光が弐号機に殺到して、突き抜ける。その刹那に、そのココロを刻み込んで。
 
ココロのない抜け殻となった弐号機のコア。それは魂の座にして、ココロの揺りかごになる。いつか惣流アスカラングレィが呼び覚ますその日まで、惣流キョウコツェッペリンのココロを寝かしつけておいてくれるだろう。
 
纏ったロンギヌスの槍の袷せから右手を差し出すと、役目を終えた燐光たちがその掌に降り立つように集まって、消えた。
 
 
これで、この宇宙でできるだけのことは全て終わったと思う。あとはタブリスを連れてあの宇宙に帰ればいい。
 
…さあ、行きましょう。と呟いた声が何故か、かすれていた。
 
 
全てを共鳴させ増幅したエナジーで作り出すのは、リリスのココロから組み上げた、この宇宙より大きな虚数空間。さっきドイツまで往復した時の方法を、より大規模に宇宙単位で行なうのだ。
 
迂遠な方法だけれど、私はこの宇宙のリリスを連れて行ってあげたかったから、この方法を採るしかなかった。リリスのネットワークでは、リリスそのものを連れて行けない。
 
目前に紡いだ接点から潜るように入り込んだ途端、さらに虚数空間が膨張した。おそらくは、この世界と同じ大きさにまで。
 
それは、もちろん私の仕業ではない。私と、まどろんだままのこの宇宙のリリスでは、これほどまでに大きな虚数空間を維持できない。
 
「これは、リリスの心? いや、しかし……」
 
何が見えるわけでもないのに、タブリスは周囲を見渡している。
 
今この虚数空間を支えているのは、あの宇宙のリリス。私を送り込んでくれたリリスだ。そう感じた瞬間に、初号機に取り込んだこの宇宙のリリスは、そこに溶け込んでしまった。
 
「そうか、これが宇宙……いや、世界の形なんだね」
 
虚数空間に充ちるそのココロを読み取って、タブリスがしきりに頷いている。私にも見えた。リリスのココロを通じて、世界のカタチが。
 
それはまさしく、一株の紫陽花だった。
 
 
この世界に、宇宙は一つだったのだ。量子的ゆらぎを内包しながらも、世界と宇宙は同一だった。
 
それが枝分かれしたのは、ヒトがセカンドインパクトと呼ぶ、アダムの暴走からだ。
 
アダムの咆哮に叩き起こされかけたリリスは、非常に苦しい選択を迫られたのだろう。
 
そのままアダムの暴走を許せば、この惑星ごとヒトは滅ぶ。アダムの暴走を治めても、アダム自身の手によってヒトが滅ぼされてしまう。自らが目覚めてしまえば、それもまたヒトを滅ぼす。
 
まどろみの中でできることを模索して、リリスは、アダムの暴発したエナジーで虚数空間を組み上げたのだ。虚数空間へとエナジーを吸上げられるアダムと、その目前にココロだけで立ちはだかって虚数空間を維持するリリス。その姿は、2本の光の柱のように見えただろう。
 
しかし、暴走の果てに狂ったアダムのココロと、懸命に目覚めまいとするリリスのココロから組み上げられた虚数空間は、エナジーを使い果たして消滅する瞬間にこの世界を揺るがした。
 
千々に散ったアダムのココロのままに世界を引き裂いて、まどろむリリスのココロのままにほつれを曖昧にして、そうしてたくさんの宇宙が生まれたのだ。ヒトの破滅を先延ばしにすることと引き替えに。
 
同じようでいて、それぞれに微妙に異なるのは、宇宙とともに分かたれたリリスの、主観もまた分かたれたからだろう。その、願望も込みで。……いや、もしかしたらリリスは、ヒトが産まれいずるまでに編み出された進化と多様性という可能性を、宇宙にも試そうとしたのかも知れない。
 
だからリリスのココロには、世界が紫陽花のように見えるのだ。同じで違う、多くの自らの分身たちと共に。
 
 
 
圧縮された虚数空間が弾けるように元の大きさに戻った瞬間、そこはあの赤い波の打ち寄せる浜辺だった。
 
 
初号機の足元に、座り込んだ人影。
 
このヒト知ってる。キール議長。あのヒトが連れ帰ったココロ。
 
私が初めて見たときも、こうして波打ち際で赤い波に洗われていた。それからずっと、座り込んだままらしい。
 
 
遠くで人影がいくつも、砂地に書いた数式を囲んでいた。
 
あのヒト知ってる。碇ユイ。あのヒトが私にココロをくれたときの姿。
 
あのヒト知ってる。赤木博士。手にした棒で、数式を書き加えている。
 
あのヒト知ってる。冬月副司令。いつもの立ち姿。
 
あのヒト知ってる。赤木ナオコ。赤木博士の女親のヒト。
 
あのヒト知ってる。惣流キョウコツェッペリン。惣流アスカラングレィが連れ帰ったココロだと聞いている。
 
あのヒト知ってる。青葉二尉。誰が連れ帰ったココロかは、知らないけれど。
 
あのヒト知ってる。日向二尉。微妙に環から距離を置いているように見える。
 
あのヒト知ってる。伊吹二尉。ただ1人、こちらに向かって手を振っていた。
 
あのヒト知ってる。碇司令。いつ此処にきたのか知らないけれど、きっとあのヒトが連れ帰ったココロ。
 
ああして、この宇宙を再生するための手段を模索しているのだそうだ。
 
 
 
「…おかえりなさい」
 
エントリープラグを出て砂浜に下りた私を出迎えたのは、第3新東京市立第壱中学校の制服姿のリリスだった。
 
「…ただいま」
 
帰還の言葉。ここでは、初めての言葉。
 
…その言葉が、何を解き放ったのだろう? この私の目尻から溢れたモノの、熱さに驚く。
 
「…なに、泣いてるの?」
 
その赤い虹彩は私と同じモノのはずなのに、直視できない。したたる涙に誘われるまま、視線を落とした。
 
「…帰って来たくは……なかった」
 
一度口にしてしまうと、今度はそれをとどめられない。
 
「…あの宇宙で、あのまま絆を育んでいきたかった」
 
リリスを避けるように視線を向けたのは、遠くで数式を囲んでいる人影。あそこに居るのは、私が知っていて、知らないヒトたちだ。私を知らないヒトたちだ。
 
「…ここには、私の絆がない」
 
自分で、自分の腕を抱いた。
 
「…痛いの。切れた絆が、切ってしまった絆が痛いの。切ってしまったから、痛いの」
 
私は、あのヒトのように毅くなれない。
 
「…なぜ、あのヒトはこんなにつらいことを繰り返せるの?」
 
好きなのに会えなくてもいいと言う惣流アスカラングレィも、あのヒトのような毅さを内包しているのだろうか?
 
 
…比べてみなさい。との言葉にリリスを見ると、その右手を胸元に当てていた。
 
「…初号機の姿をとって力づくで宇宙を護っていた時と、今の、誇らしさを」
 
「…誇らしさ?」
 
リリスがするように、自分の胸元に手を当ててみた。
 
「…そう。あの宇宙を護ったことの、達成感」
 
比べるまでもなかった。
 
初号機であった時に、宇宙を護ったことへの達成感など無かった。有ったのは、そうして宇宙を護ったと聞かされたときの、あのヒトの笑顔。
 
「…あなたがあの宇宙を大切に思う分だけ、誇らしさも大きい」
 
そうだ。初号機として護った6グレートグロスと1グロスと6ダースの宇宙より、あのたった一つの宇宙が大切だった。そこで紡いだ絆が私のココロを育んでくれたのだから、あの宇宙は私にとって故郷に等しい。
 
「…選びなさい」
 
砂を踏み鳴らして詰め寄ってきたリリスが、その指をこの額に押し当てた。
 
「…その肉体は、あの宇宙に戻さなくてはダメ。世界のバランスを崩すから」
 
爪を立てるようにして少し押しやられたのは、もしかして叱られたのかもしれない。
 
「…だから、選びなさい。その肉体と共にあの宇宙へ戻るか、それとも新たな宇宙へ赴くかを」
 
心惹かれる。という言葉を初めて実感した。あの宇宙に、戻ることに。
 
けれど、それよりも気になることがあった。
 
「…戻されたこの肉体は、どうなるの?」
 
「…その綾波レイの肉体は、接触実験の事故で脳死してる。
 けれど、あなたが宿ったことで活動した脳組織は、意識を取り戻しうるわ。
 …あなたの記憶と行動を知って、2人目の綾波レイでもなく、初号機でもない、新たな存在になる。
 途惑いはあるでしょうけれど、あなたに近しい存在になるわ」
 
炎の消えてしまった蝋燭に、私という名の炎を移した。そうすれば、その炎が去っても、残した熱が新たな炎を産み出す。ということだろうか?
 
だとすれば、返すべきヒトに返すべきなのだろうか? この肉体を。
 
「…碇君は時々、自分の訪れた宇宙を見ているわ。特に、最初に訪れた宇宙は、何度も」
 
一度落とした視線を、再び上げて。なんだかリリスは、少し不機嫌そうに見える。
 
「…応援しているわ」
 
「…応援?」
 
「…そう。
 14歳だったはずなのに、碇君の記憶と行動を受け継がされ、自分のものではない自分の罪に気付かされてしまった1人の女性、……30歳として目覚めたその宇宙の葛城三佐を」
 
…そして。と微笑んだリリスは、少し寂しそうに見えた。
 
「…歓んでいる。
 途惑い、懊悩し、苦しみもがく葛城三佐を、支えてくれる人たちがいることを」
 
…自分のことのように。と視線を上げたリリスが見ているものは、きっと私には見えない。
 
「…だから、碇君は許してくれるわ、あなたがあの宇宙を選ぶことを……
 いいえ、歓んでくれるわ。あなたがそこまで心を育んだことを」
 
視線を戻したリリスが、その流れのままに頷いた。
 
あの宇宙で、この肉体で。ほんの数十年間のこと。その誘惑が、私のココロを掴んで放さない。
 
けれど、より多くの宇宙を護りたいと想う気持ちも、けして嘘ではない。あのヒトの願いが私の願いになった。それもあの宇宙で得た、私のココロ。
 
だから、かぶりを振った。
 
…そう。と目を細めたリリスの、嬉しそうで寂しそうな、こんな笑顔は、初めて。
 
 
「…ようこそ、ヴァルハラへ」
 
逃げるようなリリスの視線に釣られて振り返ると、初号機のカメラアイが明度を上げて、下がった。アルミサエルは、波打つように光量を変えている。初号機のブレードアンテナの上に腰かけたタブリスは軽く掌を上げるような仕種で応えて、また興味深そうに周囲に視線を移した。それらの背後には、いつのまにか肉体を作り上げたらしい弐号機の姿。こちらは興味なさそうにタブリスとは反対の方角を見ている。
 
「…そう、此処のこと。弐号機パイロットがそう名付けたわ。本人は自分のことを、ヴァルキュリャだと言っている」
 
その瞬きに意志を乗せて、再び明滅する初号機のカメラアイ。
 
私では、ココロをあげられないはずなのに。
 
「…あなたにも、人の心を形作れるだけの心の形が出来ていたということ」
 
振り返ると、リリスの微笑み。今度は寂しくない。
 
「…もう一度、行ってきなさい。今度はもっと多くの心を、持って帰ってこれるわ」
 
伸ばされた指先が、私の額に触れる。
 
…待って。と言ったのに、視界のぶれが止まらない。
 
「…今度は、接触実験より前に……」
 
身体の損傷が多いと困るから、せめてそれだけは。
 
「…解かってるわ」
 
 
 
…… 光が見える。あれが目的地。
 
枝分かれした、別の宇宙。そこは、知っていて知らないヒトたちがいる新たな世界。
 
こうして運ばれている間に肉体はないというのに、胸元に締め付けるような痛みが走った。
 
今までの努力も苦労も、このココロの裡に秘めて、1からやり直すのだ。出来たことも出来なかったことも、すべてあの宇宙に置き去りにして、最初から始めるのだ。
 
それがどれほどの孤独か、今あらためて思い至った。
 
それでもあのヒトは笑って、旅立っていっていたのだ。
 
私は、あのヒトのように毅くなれるだろうか?
 
いや、毅くならねばならぬのだ。ヒトとして生きるということは、そういうことだと、私は学んだ。
 
あのヒトのために、なにより自分のために。
 
 
決意を篭めて、行く手の光を睨みつけた。
 
 
                      初号機の初号機による初号機のための補完 終劇
 



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 カーテンコール
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:29


「…アンタなんか、アンタなんか死んでも代わりはいるのよ。レイ」
 
最初に感じたのは、圧迫された頚部の痛み。そして、息苦しさ。
 
…これは何? …これは何? …これは何?
 
かろうじて認識した視界。首を絞められている。このヒト知ってる。赤木ナオコ。
 
「私と同じね」
 
のしかかってくる影は巨大で、抗えない。いや、私の身体が幼くて非力なのだ。この首を絞める手に触れた、私のこの手が小さかった。
 
『…あなた、だれ』
 
唐突に聞こえてきたのは、性別や老若はおろか、含む感情すら判らない声。いや、その声が鼓膜を震わせたわけではなかったことに気付く。
 
『…私は、初号機』
 
『…じゃま、しないで』
 
邪魔?
 
どうやらこの綾波レイは、このヒトを「ばあさん」などと罵倒したらしい。二人目の記憶になかったことから推測すれば、このまま一人目は殺害されたのだろう。バックアップされない記憶は、継承されないから。
 
『…無に、還りたいの?』
 

 
応えはない。最初からこれが狙いで赤木ナオコを罵ったのか、単に成り行きでこうなったのか。本人でも明確な答えが出せないのだろう。
 
無に還りたいと願っているのに、無駄だと知っているから積極的に死を選べない。
 
なぜ無に還りたいか解かってないから、無に還ることの意味を知らない。
 
『…悪いけれど、貴女と心中は出来ない』
 
幸い、肉体は問題なく使えるようで、阻害されている様子も見受けられない。そうでなければ無抵抗のままだっただろうこの身体は、とっくに活動を停止していただろう。
 
消極的な抗議の声をココロから締め出して、まずは全身の酸素消費量を抑える。
 
 
それにしても……
 
確かに私は、接触実験の前にして欲しいと言ったけれど。このタイミング、これはどうかと思う。リリスはもしかして、とても意地悪なのではないだろうか。
 
二人目の知らないこの出来事を、体験させようとしているのだとは思うけれど……
 
 
そんなことを考えているうちにも脳内の酸素は消費され、意識が朦朧としてくる。
 
このまま死ぬわけにはいかない。とはいえATフィールドを張ってこのヒトを弾き飛ばしていいものか、悩む。私はヒトだから、ヒトを拒むためにATフィールドを張るには、相当な拒絶のココロを必要とする。それこそ、相手を抹殺しうるほどの覚悟を。
 
そうして思いついたのは、ATフィールドを体内に巡らせて、頚動脈を確保すること。それを行ない終えた途端、抵抗していた首の力が抜けた。
 
息を呑んだ気配と同時に、放される手。
 
その場に頽れたこの身体から見上げれば、走り去ろうとする赤木ナオコの姿。向かう先にはコンソールと、吹き抜けしかない。
 
このこと知ってる。投身自殺。いや、そんな語彙を確認している場合ではない。
 
とっさに張ったATフィールドは赤木ナオコが踏み出した足の下に、敷くように。そこに脚が載ったのを咳き込んで揺れる視界の中で確認して、消す。
 
足をとられた赤木ナオコが、椅子にしがみつくようにして転倒を免れた。そのまま、へたり込んでしまう。
 
それが発作的な行動であるなら、もう大丈夫だろうとは思う。けれど、そのままにはして置けない。
 
立ち上がって、赤木ナオコの背中に歩み寄る。
 
その白衣の袖を掴むと、人形のように表情を無くした赤木ナオコが振り返った。
 
「…ごめんなさい」
 
自分がこのヒトを罵ったわけではないのに謝罪するのは、偽りのはずなのに、……ココロが軋まなかった。
 
「…ごめんなさい」
 
それは、そう言われて傷ついたであろうこのヒトの、気持ちが解かるから。理解ではなく、共感として、傷ついたヒトの気持ちが、解かるようになったから。
 
「…ごめんなさい」
 
そのことが嬉しくて、涙腺が緩む。
 
「…ごめんなさい」
 
この小さな身体で止められるとは思わないけれど、力一杯にしがみつく。
 
「…ごめんなさい」
 
その腕がこの身体を抱いてくれるまで、何度も何度も謝った。
 
 
****
 
  - AD 2015 -
 
****
 
 
「あー、遅刻遅刻ぅ!自分から言い出しておいて遅刻じゃ、かなりヤバイ、って感じだよねー!」
 
『…無様ね』
 
「うるさーい!そもそもアンタが悪いんじゃない。夜遅くまでグチグチと!」
 
消極的かつ厭世的なこの肉体の本来の持ち主に反発するように、私は積極的で活発な性格になった。
 
こうして、全力で走りながらトーストを頬張って、なおかつ喋ることだって出来る。
 
『…そう? よかったわね』
 
「よくないわよ!シンジ君にだらしない女の子だと思われたらどうすんのよ」
 
『…だらしないのは事実。認めなさい』
 
もちろん、私はヒトであることを積極的に愉しんで暮らすつもりだったから、そうでなくても明るい性格にはなっただろう。
 
「だらしないんじゃなくて、細かいことに拘んないおおらかな性格なの!」
 
『…物は言いよう』
 
けれど、こうして日夜口論することがなければ、クラスメイト全員から揃って「口から先に生まれた」とか「お祭り女」とか「歩く実況中継」などと評されるほどにはならなかったとも思う。
 
今の性格は嫌いじゃないけれど、家族に「口にBEPがついてる」とまで言われては少々考えてしまうではないか。なおかつ、「BEPが何の略か調べている間は静かでよかった」とまで言われては……。
 
『…そうやって、いやなことから逃げているのね』
 
「私の心まで覗かないで!」
 
『…覗いてないわ。貴女が口走っていただけ』
 
「嘘!」
 
『…事実よ』
 
怪しいものだ。この、いまや私の背後レイと化した一人目の綾波レイは、その気になれば私の心の中を覗き見できる。
 
「だから考え事は全て筒抜けで、心の中に秘めておくことのできない思考を、そこから逃がそうとするかのようにこうして口にしてしまうことがあるらしいのだ」
 
『…ほら』
 
慌てて口を塞ごうと上げた手を、下ろす。先客たる食べかけのトーストが、まだ半分以上残っていた。
 
よほど重大な秘密や悩み事でない限りつい口にしてしまうこの癖には困っているが、裏表がないとか裏まで良く見えるって意味で付けられた「透明セロハン」って二つ名は嫌いじゃない。
 
ガラスとか水晶なんかじゃないところになんだか、人格に厚みがないって言われているような気もしないでもないけれど、この癖のお陰で結構なトラブルメーカーのはずの私に付けるにしては穏当で隔意のないものと思える。
 
おおむね好意的に受け入れられていると感じるのだ。
 
 
『…ペースが落ちてるわ』
 
「はいはいはい!ご親切にどうも!」
 
こうして、日曜だというのに朝っぱらから急いでいるのは、理由があった。駅まで、碇シンジを迎えにいく役を、買って出ていたからだ。
 
 
私が居るから、この宇宙における零号機の開発は全て前倒しで繰り上がっていった。不純物のない零号機はすぐに直接制御できるようになったから、当然だけれど。
 
そうして零号機に関するスケジュールがすべて終了して、半年前に初号機への接触実験が行なわれたのだ。零号機が直接制御を成功させてしまったので、却ってこの宇宙での初号機と弐号機の開発は遅れていたらしい。
 
 「ああ~!初号機が言うこと聞きません!!」
 
一世一代の大芝居だったと思う。
 
暴走した振りをさせた初号機でターミナルドグマまで降りて、リリスを使って碇ユイをサルベージしたのだ。一度リリスと同化したお陰で、ロンギヌスの槍がなくてもリリスの半覚醒を促せるようになっていた。
 
それから碇ユイが目覚めるまでに3ヶ月、リハビリはまだ続いているけれど、その間にも碇司令とナオコ母さんがケンカしたり、碇司令と碇ユイが夫婦ゲンカしたり、色々あったらしい。
 
そのへんの、大人の事情ってヤツはよく判らない。首を突っ込もうとするとリツコ姉さんが怒るし。
 
そういうゴタゴタがようやく落ち着いて今日、碇シンジを第3新東京市に呼ぶ事になったのだ。使徒襲来とは、関係なしに。
 
 
私に気付いて会釈する徳さんに手を振りながら、ビッグアップルダイナーの前を通り過ぎる。この先の交差点を曲がれば、駅はもう目の前だ。
 
『…あぶないわ』
 
「え?」
 
このヒトは私より五感に優れているところがあって、こうして警告してくれることがある。
 
言い出すのが遅くて、あまり祐かったことはないけれど。
 
だから今回も、警告してくれなかった方がよかったかもしれない。その言葉に気をとられて、曲がり角の向こうから歩いてきた人影に気付くのが遅れてしまったから。
 
 
                              初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx おわり   ……?



[29857] 初号機の初号機による初号機のための 保管 ライナーノーツ
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/21 10:30


*1 ユイ篇のカーテンコールとして
 
「繰り返しの物語」ではなく、「乗り継ぎの物語」である紫陽花ユニバースに於いては、話しの続きを想定しておくのは重要なことでした。ミサト篇でも、予めユイ篇のプロットを構築しておいてそのプロローグをカーテンコールとしたのは、そういう意味合いがあったわけです。
ではユイ篇にカーテンコールが無かったのはなぜか?と申しますと、ユイ篇の続きとしてキール篇と初号機篇の二つの候補があり、キール篇は構想止まり、初号機篇はパイロット版執筆の真っ最中でどうなるか判らなかったからです。
 
 
*2 初期プロット
 
主人公が元エヴァンゲリオンですから、ヒトとシトの間に立って、使徒とコミュニケーションを取ったり、それでも斃さざるを得なくて苦悩したりというプロットラインを組み立ててみました。
言葉という概念を持たない使徒とのコミュニケーションのシーンを、感情の波動のようなもので表現しようとして、ハタと筆が止まりました。…なにか既視感を覚えます。
それを既にやってるFFがあることに気付いた時、脳内の綾波レイが平松晶子の声で「I○だ。I○。I○だってばよぅ…」とのたまったほどでした。
 
 
*3 現行プロットに至る道筋
 
エヴァンゲリオンI○さんでは、使徒にとって肉体はさして重要なものではないと設定されていて、使徒を斃すことにエクスキューズがありましたが、私は使徒であろうとも生命体である以上、肉体を損なえば死ぬと定義しています。意思疎通ができるから話し合いで解決できるか?と云うとそんなワケはないというのはI○も私も同じで、I○のようなエクスキューズのない状態で意思疎通ができるということは、徒に主人公を追い詰めるだけと判断し、使徒との意思疎通は不可能ではないがするだけ無駄としました。
 
 
*4 一般公開の断念
 
そうして幾つかの変遷を経、レイに憑依した初号機主人公という代物を書き上げてみた時、ハタと気付きました。それはもうオリジナルキャラだと云うことに。
試みとしては面白かったけれど、オリジナルキャラを主人公にしてしまった段階でエヴァFFとしてはどうか?ということになってしまったわけです。二次創作ですらない三次創作なのではないかと。いっそ全てお蔵入りにすべきかと悩むこと1ヶ月。けれど手をつけずじまいだったカーテンコールを書いてみたら、予想以上にその結末を気に入ってしまって、せめて公開そのものはしたいと思うようになりました。
結果、この「紫陽花ユニバース」を特に気に入って下さった方だけ招待する形でサイトを開設することにしていました。
 
 
*5 最後に
 
周囲から反応を引き出すことのできない、綾波レイの影響を受けた初号機という存在を主人公に据えながら一人称というスタンスを固持した時点で、この作品はエヴァFFとしてはおろか、小説としても落第点でしょう。「紫陽花ユニバース」という世界観を表現するためには一人称視点が必須だったと私は思っていますが、そのために説明できなかったことがどれほど有るのか、私も把握しきれていません。これまでの作品で「紫陽花ユニバース」という世界観を充分に読み込まれた方でなければ、匂わすだけで語られない物事の多すぎる、読むに値しない作品でしょう。誰にでも読んでいただける物語ではないわけです。
エンターテイメントとしての小説を放棄した時点で、この作品は駄作だったと私は思っています(もちろん、過去の作品が傑作だったと言っているわけでは有りません)。ただ、駄作ではあっても、作者にとっては可愛い作品であることには違い有りません。ユイ篇での言葉では有りませんが「子供のおのおのに与える親の愛は、それぞれ別のものだ。子供が増えたから割り当てが減るような、有限のものではない。子供の数だけ増える。親の愛は無限」なのです。
そうしてせめてもの舞台に、このサイトを与えることができました。数は限られますが、熱心な観客にも恵まれました。そのことは私の自己満足に過ぎないかもしれませんが、今回はそれでいいのだと思います。「すべては心の中」なのですから。
 
全てのエヴァFFとその作者の方々、拙作を読んでいただいた全ての方に、「ありがとう。感謝の言葉」を。
 
多くの方々に支えられてこのシリーズを全うさせることが出来ました。重ねて御礼申し上げます。
                                    Dragonfly 拝
                                    2008年 7月吉日


Arcadia様への投稿にあたり
ご存知の方も居られるかと存じますが2009年からArcadia様にて、リリカルなのはのオリ主モノFFを投稿させていただきました(完結済み・おまけ不定期刊行)。その作品がそれなりに受け入れられたことが私のオリ主モノへのハードルを下げ、今回この作品の投稿を後押ししていただいたと考えています。あちらの読者様方がまさかこんなところまでお見えになるとは思えないので、こっそりと感謝を。




[29857] おまけ
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/28 10:07



当シリーズを最後までお読みくださり、ありがとうございます。
さて初号機篇ですが、一応の続編として「Next_Calyx」の構想がありました。ある程度のプロット立てをしたあと幾らか書いてみたのですが、5匹目のドジョウともなるとそうそう捕まるはずもありません(それに、最終回はどれも同じオチですし)。
そういうわけで未完成ではあるのですが、その後の初号機が気になるヒトのためにパイロット版をおまけ投稿することにしました。




*****

初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX1




「目標は依然健在。現在も第3新東京市に向かい、侵攻中」
 
「航空隊の戦力では足止めできません!」
 
青葉二尉の報告に続いて、国連軍から派遣されてきたオペレーターさんの声。
 
 「総力戦だ!厚木と入間も全部上げろ!」
 
 「出し惜しみは無しだ!なんとしても目標を潰せ!」
 
いつもなら碇司令と冬月副司令が居るはずの司令塔には、国連軍の偉そうな人たちが座っている。しげしげと見つめていたら、端っこの人に睨まれた。
 
あかんべぇで返しかかったところを、踏みとどまる。よしよし、私も成長してるじゃない。
 
あの宇宙で感情を知り、この宇宙でそれを表現するコトを覚えて、次はそれを制御すべく修行中だ。感情を無くそうって訳じゃなくて、人の処世術としての感情の抑制を勉強中ってわけ。いつまでも「透明セロハン」じゃいられない。
 
 「なぜだ!直撃のはずだ!」
 
 「戦車大隊は壊滅、誘導兵器も砲爆撃もまるで効果なしか」
 
 「ダメだ!この程度の火力では埒があかん!」
 
じゃあ司令と副司令は? というと、珍しく発令所フロアに居た。
 
「やはり、ATフィールドか?」
 
つい「違います」なんて口を挟んでしまったものだから、…ああ。と口を開きかけてた碇司令に睨まれてしまった。もっとも、差し出口を挟んだのが私だと気づいた途端に、咎めるように眉尻が下がったけれど。
 
「どういうことかね、レイ君」
 
「…」
 
冬月副司令の言葉に即座に答えなかったのは、理由がある。
 
「レイ君?」
 
「レイちゃん。です」
 
人の呼び方、呼ばれ方にも色々あるけど、私が気に入ったのが「ちゃん」付けで呼ばれることだった。親しい人から無雑作に「レイ」と呼び捨てにされるのも絆を感じて嬉しいけれど、相手のほうから踏み込んでくるようなこの呼ばれ方は捨て難い。
 
正式にパイロットに任命された時、条件として申告したほどだ。即座に却下されたけど。
 
「レイ君……」
 
眉根を寄せ上げるような冬月副司令の表情を、リツコ姉さんならなんと表現したっけ?
 
『…酢を飲んだよう。ね』
 
そうそう、それそれ。と口に出しそうになった言葉を噛み殺す。
 
『私の心を覗かないで』
 
『…覗きたくて覗いたわけじゃない。なのに、なぜ非難されるの? 悪いのは、私?』
 
はいはい、私が悪かったから。と謝ろうとしたら、頭に硬い物が落ちてきた。
 
「レイ。戦闘配置中に何故、貴女がここにいるのかしら?」
 
「ミサトさん…」
 
硬い物の正体は、葛城一尉のこぶしだったらしい。手加減されていたらしく、痛くはなかったが。
 
「だって…」
 「だってじゃない!それに副司令のご質問に答えなさい」
 
だって。と言い切る前に振り上げられたこぶしは、「まあまあ」と他ならぬ副司令によって止められた。
 
「レイ君。流石に戦闘配置中は堪忍してくれないかね。此処は、そういう尤もらしさで成り立っている組織だからね
 その代わり、戦闘配置中でなければご希望に添うよう努力しよう」
 
「碇司令もですか?」
 
ああ…。と一瞬だけ碇司令に視線を向けた副司令は、「もちろんだとも」となにやら愉しそうに目を細めた。碇司令が「おい冬月」となにやら抗議しているけど、それは無視されるようだ。
 
じゃあ。と差し出そうとした小指を、葛城一尉に腕ごと止められた。
 
「レイ。それもなし」
 
え~!と上げかけた抗議の声は、「後でな」と副司令が苦笑いするので自然とすぼまってしまう。恥ずかしいという感覚は以前から知っていたけれど、最近になって特によく解かるようになった気がする。そう……あの日、シンジ君とぶつかってから。
 
「それで、使徒のあの堅牢さはATフィールドではないのかね?」
 
「はい。あの子には、まだそれだけの拒絶の心を感じませ……」
 
言葉が途切れたのは、メインスクリーンが光に塗りつぶされたからだった。
 
 「やった!」
 
 「残念ながら、君たちの出番はなかったようだな」
 
「衝撃波、来ます」
 
途端にスノーノイズで埋め尽くされる。今日のメインスクリーンは大忙しだ。
 
 「その後の目標は?」
 
「電波障害のため、確認できません」
 
 「あの爆発だ。ケリはついてる」
 
「センサー、回復します」
 
青葉二尉の報告と同時、メインスクリーンに映し出されたレベルメーターが振り切れた。
 
「爆心地に、エネルギー反応!」
 
 「なんだとぉっ!」
 
「映像、回復します」
 
熱気に揺らぐ映像の中で、サキエルは立ち尽くしているように見える。己を害し得る、外界という存在に気付いたのだろう。
 
 「おお…」
 
 「なんてことだ…」
 
 「われわれの切り札が…」
 
 「化け物め!」
 
かえしの付いた銛を刺されたように、物理的な痛みが胸元を抉る。耐えられないような痛みではないけれど、拭い去れない。
 
「予想通り、自己修復中か」
 
「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」
 
不老不死たる自身にとってもこの世界は優しくないのだと悟ったサキエルが欲したのは、より遠くの障害物を排除する能力。
 
新たに現出させた顔のその両眼を光らせて、メインスクリーンをまたもスノーノイズで埋め尽くす。
 
「ほう、たいしたものだ。機能増幅まで可能なのか」
 
「おまけに知恵もついたようだ」
 
「再度進攻は、時間の問題だな」
 
あの…。と口を挟もうとした私の手を掴んで、葛城一尉が「こっち来なさい」と引っぱっていく。
 
 「今から本作戦の指揮権は君に移った。お手並みを見せてもらおう」
 
「了解です」
 
 「碇君、我々の所有兵器では目標に対し有効な手段がないことは認めよう」
 
 「だが、君なら勝てるのかね?」
 
そう言った国連軍の偉そうな人の視線が、一瞬だけ私に向けられた。愛想笑いを返す暇もないほどだけど、下げられた眉尻の示すものは読み取れる。誰が戦うことになるのか、知っているのだろう。
 
「そのためのネルフです」
 
 「期待しているよ」
 
途端に司令塔は沈降を始め、発令所の床下へと消えた。
 
 
****
 
 
『いいわね、レイ』
 
「はい」
 
『最終安全装置、解除!エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ!』
 
零号機も初号機も、どちらも直接制御下にあるけれど、気心が知れている分やはり乗るとなると初号機のほうが楽だ。
 
『出撃よ、レイ。どうしたの? 初号機は?』
 
「葛城一尉、お願いがあります」
 
『なに? レイ』
 
【FROM CONTROL】の通信ウィンドウの中から、睨むような葛城一尉の眼差し。少し気が立っているように見える。
 
「使徒を、説得する機会を下さい」
 
『使徒を…説得、ですってぇ!?』
 
「はい」
 
あんた、なにを。と荒げかけた声は、増えた通信ウィンドウに遮られた。【FROM CONTROL】の下に、―SECRET/Off The Record―と表示がある。
 
『レイ。成算はあるのか』
 
先ほどまでかけていた赤いサングラスではなくて、素通しのレンズの向こうから、碇司令のまなざし。
 
「はい」
 
『いいだろう、反対する理由は無い。やりたまえ』
 
「はい」
 
『いいのか? 碇。老人たちが黙っていないぞ』
 
『使徒を斃さねばならないとは書いてない。争わずに済めば損害もないし、国連軍へのあてつけにもなる』
 
…喰えんヤツだ。と苦笑しながら姿勢を正す冬月副司令に釣られて口元を緩めていたら、碇司令に睨まれた。少し焦点が遠いから、この姿に他の誰かを映し見ていると感じる。それが誰か知っているし、そのことを不快に思っているわけではないと解かるから、つらくはない。
 
 
外輪山の稜線に変化。サキエルが来たらしい。
 
その光撃のために形成されたATフィールドを中和した上で、反転ATフィールドを展開する。
 
オレンジ色の水面に、赤い空。
 
そこに、明確なサキエルの心の容はない。まがりなりにも私の姿を真似て見せたアルミサエルとは違って。
 
そのことを、以前の私では理解できなかっただろう。話し掛けたのに無視されたと、思い込んでいた私では。
 
思い出すのは、かつての惣流アスカラングレィの言葉。
 
【同胞よ、アナタはアナタの卑小なる理性を『精神』と呼ぶが、これは実はアナタの肉体の道具にすぎないものである】
 
その肉体の保全を効率的に行なうために生命が精神というものを獲得したというのなら、生き延びることに汲々としない使徒には本来、発達した精神など不要なのだろう。
 
持たないはずの心に、なぜか飢餓感を滲ませて。そうして貴方はここに来た。
 
サキエル。貴方に唯一足りないものがあるとすれば、それはアダムからの祝福。セカンドインパクトで暴走したアダムから、貴方たちは生まれてしまった。産み出されたのではなく、生れ落ちてしまったから、そのままアダムは消え去ってしまったから、「生きよ」と祝福されなかった。
 
これがリリスの使徒なら、人ならば、生きることそのものに懸命で、それだけで充分な目的になるのに。
 
永遠にして不朽のその生に、だからこそ意味を見出せずに貴方たちは、こうしてアダムを求め彷徨っている。
 
サキエルの足元に現出した闇は、虚数空間への接点。この肉体の、本来の持ち主に展開してもらった。
 
そうして導くのはターミナルドグマ。リリスの正面。
 
リリスに触れようと上げた手をしかし止めて、サキエルがその目をしばたいている。ここまで近寄れば、半覚醒しかしてないリリスでもアダムとは違うと判るだろう。
 
その心に初めてさざなみを立てて、オレンジ色の水面が波立っている。
 
「アダムは居ないわ」
 
ようやく私の存在を気に止めたのだろう。その体ごと視線をこちらに向けて、またサキエルが目をしばたいた。
 
「アダムの帰還はずっと先のことになる」
 
イメージするのはこの惑星の公転。何度も何億度も周回して、その果てにアダムの姿を起想する。
 
渦巻くオレンジ色の水面は、おそらく初めてのサキエルの途惑い。
 
『…ここは、この惑星は、リリスとその使徒の約束の地』
 
私の背後から滲むように現れたのは、この体の本来の持ち主。綾波レイ。あの日のままの、赤いワンピース姿で。
 
『…貴方の居場所は、ここにはない』
 
途端、サキエルの目に殺気が篭った。遠く、水平線の彼方に持ち上がった波頭は、津波のようにこちらに押し寄せてくる。水の断崖も同然のそれは、簡単に私を呑み込むだろう。
 
「アダムは居ないけれど、貴方には私から祝福をあげる
 生きていていいのだと、生きなさいと言ってあげる
 約束の地を、貴方にもあげるわ」
 
サキエルをどこに連れて行けばいいのか、それはかつてのタブリスが教えてくれていた。
 
想像するのは、アンモニアの海。この惑星をいくつも呑み込む広さで。
 
「貴方に最適の場所、泳ぎきれないほどの海」
 
この身を呑み込む寸前で雪崩れ落ちた波頭はそのまま渦を巻いて、不審物を見つけた魚のように私の周囲を巡る。
 
「そこで、待ってて」
 
その渦を一旦反転させて、鏡のような水面が戻ってきた。
 
「そう。ありがとう」
 
初号機と私と綾波レイ。3人がかりで展開した虚数空間は、この恒星系5番目の惑星までをおさめる。
 
開いた接点に足を踏み入れたサキエルが、しかし振り向く。オレンジ色の水面が一度だけ波立った。
 
「どういたしまして」
 
サキエルを呑み込んで閉じた接点に、そう返した。
 
 
                                         おわり
2008.7.25 DISTRIBUTED

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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX2


実は、虚数空間との接点は、一度つなげてしまうと動かせない。
 
つまり、宙に浮いている相手を問答無用で引き摺り込むのは難しいということだ。
 
浮遊に向けているATフィールドを中和することも考えたが、その使徒の生態に根付くATフィールドは生得的なもので中和しづらい。それに、心と体が同一である使徒のそうしたATフィールドを中和することは、人間で言えば基本的人権を剥奪するようなものといえる。できるだけ穏便に退去してもらいたいと考える以上、採りたくない手段だった。
 
滑るように第3新東京市へ侵攻してきたシャムシェルが、初号機の目前でその身を起こす。胴体が地面に接するのを見計らって反転ATフィールドと虚数空間を展開しようとした、その時だ。初号機の後方でシェルターの隔壁が開く音がしたのは。
 
 「凄い!これぞ苦労の甲斐もあったと言うもの」
 
 「ケンスケ、やっぱりまずいよ……」
 
 「なんだよ。赤木が戦ってるなら見守りたいって、碇もそう言ったじゃないか」
 
 「そうだけど」
 
振り向くまいとした努力は無駄だった。まさか、シンジ君まで出てくるなんて。
 
『バカっ!戦闘中にヨソ見なんて!』
 
葛城一尉の叱責に視線を戻した時には、鞭が足首に絡み付いていた。すぐさま力任せに投げ飛ばされる。
 
 ≪ アンビリカルケーブル、断線! ≫
 
 ≪ エヴァ、内部電源に切り替わりました ≫
 
 ≪ 活動限界まで、あと4分53秒 ≫
 
直接制御下にある以上、電源供給なんか必要ない。けれど碇司令の指示で、S2機関の存在は伏せられていた。
 
「こっちに来る!」
 
3人分の悲鳴が、ドップラー効果を起こして甲高い。
 
こんな時どうしたか。あの人がやって見せてくれていたから、迷いはない。
 
展開したATフィールドをスピードブレーキにして体勢を立て直し、空中に固定したフィールドに着地。そこからそっと、地面に。
 
 『レイのクラスメイト? シンジ君まで!?』
 
 『なんでこんなところに?』
 
滑るように初号機を追ってきた使徒が、宙に浮いたまま光の鞭を振るった。
 
「くっ」
 
その鞭の挙動は、ATフィールドで制御されている。つまりATフィールドを感知できれば、その動きを把握することは容易い。掴んだ鞭が掌を灼くけれど、使徒にとって痛覚はただの信号だから苦痛ではない。
 
『レイ、そこの3人を操縦席へ!』
 
 『許可のない民間人を、エントリープラグに乗せられると思っているの!?』
 
『アタシが許可します』
 
「いやです!」
 
『レイ!?』
 
「今の初号機は私そのものです。その中に男の子を迎え入れることがどういう意味になるか、考えて下さい」
 
『どういう……って』
 
私はこれでもこの宇宙で、なるべく普通の女の子として育ったつもりだ。だから一般的な女子中学生として、ごく普通にそうしたことへの興味を抱いてる。
 
 『直接制御はそういうものなの。初号機は今、レイそのものなのよ』
 
『え…? あっ、その…』
 
以前に抱いた人同士として、家族同然の絆としての好意ではなく、男女の間の好意というものも今は理解できるつもりだ。その上で感じ始めているシンジ君への好意も自覚している。
 
けれど、だからと云っていきなりこんな状況で迎え入れられる筈もない。今ここに招くということは、精神的には考えていること全てを大声で叫ぶことに等しいし、肉体的には相手を子宮に収めることに近しい。
 
「しばらく、このままで。お願い」
 
初号機のステンドグラスのような視界が、一瞬途絶えた。エヴァには必要のないまばたき、それが答えということだ。本来、私と初号機の仲ならこんなサインは要らない。それだけこの子も自我を育てつつあるということだろう。
 
 ≪ 初号機、プラグイジェクト! ≫
 
『レイ!何する気なの!』
 
メインスライドカバーを開け、手早くLCLを吐く。ウインチのリリースに任せるままワイヤで地上に降りた。
 
「赤木……」
 
異口同音に、3人の口から。私がエヴァのパイロットであることは、クラスメイトなら誰でも知っていることだ。隠し事、できないから。
 
「くふっ…」
 
一言文句を言おうとして、咳き込んだ。LCLがまだ気管に残っていたらしい。ごほごほと身を折って咳き込むと、目尻に涙が滲む。
 
「赤木…」
 
差し伸べられたシンジ君の手を、やんわりと押し戻す。
 
「首謀者は誰」
 
手を差し上げた相田君を精一杯睨みつけたら、跳ねるように気をつけの姿勢。ここは厳しくすべきだと1人目も賛同してくれたけど、…そんなに怖いかなぁ、私。
 
「命懸けで戦ってる私の姿を見て、満足した? したなら早くシェルターに戻って。こうしてる間にも人類が滅亡する可能性が跳ね上がっていくんだから!」
 
声を上げようとしたトウジ君を身振りで黙らせて、指差すのはシェルターへ続く隔壁。
 
「私は皆を護るために戦っている。万が一の時は死ぬ覚悟で。貴方達ももちろんそこに含まれてる。貴方達の為にも死ねるわ。でも今はダメ。今私が居なくなったら、ここを護る者が居なくなるもの。それが人類を護るためでも、貴方達を見殺しにさせないで」
 
答えは聞かずに踵を返す。そうしないと自分がぶつけた言葉で、私自身が傷ついてしまう。
 
『…がんばったわね』
 
ワイヤが巻き戻る途中で、そんなことを言ってくれるから、我慢できたはずの涙が堪えられなかった。
 
 ≪ 活動限界まで、あと32秒 ≫
  
『 レイ!レイ! 』
 
「今戻りました。3人は?」
 
『隔壁が閉まったのを確認したわ…じゃなくてアンタ!』
 
「後でお願いします」
 
エントリープラグに納まると、ひどく落ち着くのが判る。模造使徒であったころの無感動さが甦ってきて、育ててきたはずの感情が削げ落ちていくよう。
 
「お願い」
 
『…了解』
 
一人目が展開してくれた虚数空間に、シャムシェルともども沈む。
 
なんでも碇司令は、「相互のATフィールドが干渉した結果、位相空間を形成。我々の目からは消えたように見えるのだろう」とゼーレに報告しているそうだ。「だから出てくるのは勝ち残った方だけで、その死体すら帰ってこれない」とまで理屈付けているらしい。
 
「屁理屈付ける能力だけは一級品だと、私も認めているよ」とは冬月副司令の弁だけど、私も同感だ。
 
 
***
 
 
シャムシェルの心は、サキエルに似ているように感じる。それは、私ではその違いをしかと感じとれないからだろう。
 
その証拠に、約束の地へと誘う虚数空間との接点の前で、シャムシェルは立ち止まってしまった。
 
「どうしたの?」
 
オレンジ色の水面は小さなうねりを生じ、この私の脚の間で∞の字を描いている。すこし、くすぐったい。
 
『…ここに居たいの?』
 
私の背後に一人目が現れると、ホースから放たれた水流のようにうねって、波頭がはじけた。
 
『…そう。好きにすればいいわ』
 
サキエルのときにも感じたが、良きにつけ悪しきにつけこの人は、使徒の心というものを私などより的確に捉えている。この人があまりにも見事に急所を突いたものだからサキエルは怒りを知り、だからこそ却って私の言葉を受け入れられたのだろう。
 
『…そうね、大人しくしているならここに居てもいいけど……』
 
水面にしゃがみこんだ一人目は、乱発されるミルククラウンに向かって内緒話を始めた。
 
『…そう。よかったわね』
 
途端に拡がったさざなみは、ところ構わずレベルメーターのように跳ね上がる。
 
現実の視界の中では、退き返してきたシャムシェルが初号機に抱きつき、そのままへばりついてしまった。
 
前の世界のアルミサエルと違って、初号機と一つになったわけではない。ただ傍にいて、くっついているだけ。
 
その距離感はまるで、ソファで寝そべっている時にネコたちがよじ登ってきた時のような感覚だった。明確な意思表示があるわけではない。なのに、その態度だけで好意を示されていると解かる。
 
「そう。誰かの傍に居てみたかったの? それが貴方の心?」
 
もちろん明確な返事はない。
 
けれど、沸き立つ水面の震えはなんだか、ネコが鳴らす喉の音のようだった。
 
 
***
 
「内部に熱、電子、電磁波ほか、化学エネルギー反応無し。S2機関は完全に停止していて、エヴァの無起動状態に近い。
 エネルギーの発生無しに生命機構を維持できる? 初号機との共生? 片利共生の可能性も有り?」
 
それで? と振り返ったリツコ姉さんの口調は、捨てネコを連れて帰った時のように呆れかえっている。
 
「説得したら、懐かれたみたいなの」
 
「懐かれた。ねぇ……」
 
その視線に釣られて、初号機を見上げる。
 
ケィジの床から見上げる初号機は、紫と赤紫のツートンカラーになっている。胴体側面と腕部、脚部外側に、布地でも縫い付けたような感じでシャムシェルが張り付いているのだ。あのイカともプラナリアともとれる特徴的な面影は、もはやない。あと、もう仕舞っているけど、手首からはあの光の鞭を展開することも出来た。
 
こんなデザインのジャージがあったなぁ。とか思っていたら、隣りでリツコ姉さんの溜息。
 
「連れてきちゃったものは仕方ないわね。万が一の時は呼ぶから、暫くジオフロント内に居ること。いいわね?」
 
「え?」
 
「なに?」
 
ううん、なんでもない。と誤魔化して、退散する。
 
てっきり捨てて来いって言われるものだと思っていたから、いろいろ考えていたのに。
 
赤木家の家訓では、拾ってきたネコは自分の甲斐性で面倒を見ることになっている。3種混合に猫白血病ウイルス、猫クラミジアのワクチン接種は結構高いし、エサにトイレに爪研ぎにとネコの出費には暇がない。小学生の時に拾ってきたネコは、私の小遣いでは賄いきれないという理由で里子に出されてしまったものだ。なので我が家には、ナオコ母さんのクロとリツコ姉さんのシロしか居なかった。
 
ケィジの隔壁の前で、いま一度振り返る。
 
「よろしくね、シャムちゃん」
 
もちろん、応えはない。けれど、いつもより暖かく感じるケィジがシャムシェルの心だと思う。
 
『…』
 
「なによ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」
 
声以外に寄る辺がない上に、その声とて感情の類いを含まないので、一人目の情動を慮ることは難しい。
 
けれど時折、ネコが声をあげずに鳴くように、何か言いたがっていることは判ることがあった。
 
『…風邪を引くから、早く着替えたほうがいいわ』
 
「うわっ誤魔化した!私に言えないようなヒドいこと考えてたのね」
 
『…誤魔化してなんか、ないわ』
 
「い~え!ぜったい今のは誤魔化したわ。レイったらヒドい」
 
『…勘弁して』
 
人払いされていたお陰で控え室までの間、誰にも出会わなかったのは幸いだったと思う。
 
 
                                         おわり

2008.7.30 DISTRIBUTED

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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX3


恥じらいという言葉を、私は覚えた筈だ。
 
筈だ。と仮定形になっちゃうのは、こんな事態を引き起こしておいて言い切れるほど厚顔無恥ではないから。
 
思わずへたり込んだ私の目前に、背を向けたシンジ君の姿がある。その首筋まで赤い。
 
玄関のチャイムが鳴ったから出た。それだけのことだった。ただ、シャワーを浴びたばかりで、バスタオルしか身につけてなかったコトを別にすれば。
 
思うに人が恥じらいという感情を得たのは、直立姿勢を得たことと衣服を纏うコトを知って以来のことだろう。
 
私自身、長い間衣服を着けることを実践してきて、人前で肌をさらすことへの違和感を覚えつつあったし、なにより赤木家はそうした躾に結構厳しかった。
 
そうして備えつつあった恥じらいというものを自覚したのは3ヶ月ほど前、シンジ君を迎えに行った時。ぶつかって転んで、やはり目前で同じように転んでいたシンジ君の視線を追いかけた後、だった。
 
たかが布きれ1枚。と以前の私ならそう言っただろう。見られたからといって実害があるわけではないと。
 
けれど、ロジックじゃないと解かってしまったのだ。女の子にとってそれは最後の防衛線で、なおかつ薄紙ほどにも貧弱な1枚に過ぎないと。女の子のこの一点においてのみ、人の心と体は同一で、下着は具象化されたATフィールドだった。本来ATフィールドは見えない壁だから、下着も見えないように隠されるべきなのだろう。
 
そのせいで、しばらくスカートを穿くのが怖かったくらいだ。なぜかリツコ姉さんやナオコ母さんには「女の子らしくなった」と好評だったのだけれど。
 
「あの、ごめんね。こんなカッコで」
 
なんとか、それだけ搾り出すので精一杯。
 
「いや、その……」とか何とかシンジ君が口走っていたような気がするけど、耳に入るわけがなかった。
 
 
***
 
 
恥ずかしくて、とても後ろを向けない。
 
せっかくシンジ君をエスコートしてジオフロントに来たっていうのに、一言も口をきいてなかった。途中のリニアモノレールでも、不自然に距離が出来てしまってたし。
 
あまりにも長いこのエスカレーターが、なんだか呪わしい。
 
碇シンジという人物には、前の宇宙でも好意を抱いていた。けれどもこの宇宙で彼のコトを考える時、好ましさとともに浮かんでくるのは、なぜか羞恥と恐怖、なにより途惑いだった。
 
その差異がすなわち、家族への好意と、男の子に寄せる好意の違いだと気付くまでに、どれほど時間がかかっただろう。
 
「レイって、もしかして碇君のことが好き?」とヒカリが顔を真っ赤にして訊ねてくれなければ、今でも気付いてなかったかもしれない。「実はわたし、鈴原が好きなの」と口早に教えてくれたヒカリが「お互いに協力しましょ」と声をひそめて言ってくれたとき、ことんと音すらたてて、男の子を好きになるということを理解できたような気がするのだ。それが、人にとって素晴らしいことだということと共に。
 
そのことから連想された物事が、話しかけるきっかけをくれる。
 
「シンジ君のお母さん、もう臨月だよね。赤ちゃん、無事に生まれてくるといいね」
 
「うん」
 
約8ヶ月前に帰還した碇ユイは、そのお腹の中に命を宿していた。事前の告知を受けてないそうなので、その子が女の子だって知っているのは私とお医者様だけだろう。
 
1ヶ月前にリハビリは終わったそうだけれど、子宮近辺の筋力に不安のあった碇ユイの退院は叶わず、そのまま医療部で――場合によっては帝王切開も視野に入れて――出産する予定なのだそうだ。
 
なのでこうして、ときおりシンジ君を連れてきてあげていた。ネルフ高官の子息とはいえ、独りではむやみに出入りさせられないのだとか。
 
「お兄ちゃんになるんだから、しっかりしなくちゃね♪」
 
あの宇宙での、あの時の碇君の笑顔を思い出せたから、ようやく振り返れる。今の、もっとも私らしい笑顔で。
 
「…」
 
「どうしたの?」
 
あ…うん。と歯切れ悪そうに俯いたシンジ君が、真っ赤になった頬を掻く。
 
「いま、お兄ちゃんって言った時さ、その……それって、なんか、妹、って感じがした」
 
「ふうん、シンジ君ってそういう趣味だったんだ」
 
えっ? と面を上げたシンジ君を無視して、正面に向き直る。
 
「これは、生まれてくる赤ちゃんが女の子だったら気をつけないと」
 
うんうんと腕を組む。
 
これでも私は年頃の女の子なので、そうしたことへの知識は人並みにあった。ああ見えて意外に耳年増なヒカリの友人などやってるから、実は人並み以上かもしれない。
 
ええ!? 違うよ、赤木。と慌てるシンジ君を尻目に、「ど~かな~」などと嘯いてエスカレーターを降りる。
 
あの宇宙で、私はあのヒトの子供だった。前の宇宙で、私は碇君の妹だったのかもしれない。けれどこの宇宙で、その地位に甘んじるつもりはなかったから、これは牽制のつもり。
 
「わっ!わわ…」
 
「え…?」
 
慌てるあまりエスカレーターを降りそこなったシンジ君に押し倒される。そんなことまでは予想してなかったけれど。
 
 
***
 
 
「F型装備?」
 
「そうよ」
 
アンビリカルブリッジから見る初号機は、なんだかトゲトゲしていた。
 
「予測されていたものより強力なATフィールドを展開できる初号機のために、フィールド偏向制御装置による機動力の向上を織り込んだ、火力増加、重装甲化モデルよ」
 
ふうん。って頷こうとしたら、「というのは建前で、貴女が連れてきちゃった使徒を誤魔化す為のカムフラージュよ」とリツコ姉さん。
 
「ああ…、あはは」
 
笑って誤魔化そう。これもこの宇宙に来てから覚えたことだ。
 
「性能向上も嘘ではないから、少しは楽になると思うわ……」
 
珍しく歯切れが悪かったから見上げると、視線が合った。そこに含まれるものを、今の私なら感じとれる。
 
「うん。ありがとう、姉さん」
 
 ≪ 目標は、塔の沢上空を通過 ≫
 
シンジ君がユイさんと面会中に発見されたラミエルが、もうここまで来たらしい。
 
 ≪ 初号機、発進準備に入ります。レイちゃん、プラグ搭乗よろしく ≫
 
「は~い♪」とことさら明るく返事をして、リツコ姉さんに手を振りながらプラグへ向かう。
 
私は、敬礼をしない。
 
それは命を懸け、命を預かる人たちがすることだから。
 
もちろん私だって命懸けで、皆を護っている。けれど、私は死なない。誰も死なせない。
 
だから、私は敬礼をしない。
 
 
***
 
 
  ≪ 目標内部に高エネルギー反応! ≫
 
『なんですってぇ!?』
 
  ≪ 円周部を加速、収束していきます! ≫
 
 『まさか!』
 
『ダメっ!!避けて!』
 
放たれた荷電粒子の奔流を、傾斜したATフィールドで受け流した。
 
「?」
 
ATフィールドに感じる荷電粒子の圧力が、心なしか少ない。
 
これがフィールド偏向制御装置の威力。なのだろうか? 意図した部分のフィールドの厚みが、普段より厚いような気がする。
 
 
サキエルの時と同様に攻撃に使っているATフィールドを中和しようかと思っていたのだけれど、間に合わせに機能増幅したサキエルと違ってラミエルのそれは生得的に体内にあって、多分にATフィールドを活用しているとはいっても、中和しがたい。
 
『…虚数空間、展開するわ』
 
「お願い」
 
防御のATフィールドを初号機に引き継いで、ラミエルに取り付きながら反転ATフィールドを展開する。
 

 
リリスを間近に見て、なのにラミエルの心にはさざなみ一つ、立たなかった。受け流す荷電粒子は、開いたままの虚数空間へと逃がす。それがラミエルの唯一の叫びのようで、痛い。
 
「話しをきいて」
 
ここに心がないわけではない。無視されているわけでもない。ただ、信じてもらえないだけ。ただ、拒絶されてるだけだった。
 
『…そうやって、嫌なことから逃げているのね』
 
1人目の辛辣な言葉にも、うねり一つ生じない。完璧な心の壁がそこにあった。
 
もしかしたら、使徒というものはこういうものかもしれない。単独生命とはこういうものなのかもしれない。
 
けれど、それで、
 
「貴方は寂しくないの?」
 
なのにやはり、分子の一つとて微動だにしなかった。
 
ここにあるのがリリスだと知ってなお諦められないのだとしたら、アダムの欠片でも見せるべきだろうか?
 
しかし、アダムの欠片が今どこにあるのか、私は知らない。探すことはできるだろうが、あの微弱な波動を捉えるには4人がかりの濃密なATフィールドが必要だろう。そのためには……
 
「お願い。すこしでいいの、攻撃をやめて」
 
弱まりはしない。けれど強くもならない。ラミエルの荷電粒子砲は、ただ己を傷つける可能性のあるものを排除しようと止め処ない。
 
『…無駄、みたいね』
 
その頑ななさは、確かに人の可能性なのだろう。それが相容れないというのなら、私は……
 
「シャムシェル……」
 
伸びた光の鞭は即座に翻って、ラミエルをその半ばまで斬り落とした。そのコアが初めて外気に触れただろうに、オレンジ色の水面に変化はない。脅威を、そして恐怖を感じてないわけではないと思う。あまりにも厚い心の壁に、自らの感情すら感じとれないでいる? だからあの、鉱物のような姿、なのだろうか?
 
ことさらゆっくりに歩み寄ったのは、その間にラミエルが己が感情に気付いてくれることを期待したから。
 
けれど平然と放たれつづける荷電粒子に変わりはなく、それを呑み込む虚数空間を無為に灼いていた。
 
「…」
 
貫き手に伝わってきた温もりが、荷電粒子が細くなるのに伴うかのように冷めていく。
 
『…なに、泣いてるの』
 
私の心は全て見えるだろうに、確認するように1人目は訊いてくる。
 
「あんなに頑ななのに、この子はこんなに温かい
 この子は生きてた。心だってあったはず
 言葉が通じなかったからといって、意思疎通できないからといって、なぜ殺しあわなければならないの」
 
『…生存原理が違うから即物的な殺し合いに見えるけれど、これも生存競争。解かっているでしょう?』
 
解かっているも何も、そのことをこの人に教えたのは私だ。
 
けれど、だからと云って納得できないのが人なのだ。私は今、はっきりと言える。私は人だと。
 
だから失われつつある命に、奪ってしまった命に、あらゆるものを見出してしまう。
 
『…善きにつけ悪しきにつけ、本当に貴女はヒトなのね』
 
なんだか、溜息を吐かれたような。そんな気がする。
 
『…それをラミエルが望むかどうかは知らないけれど、ロンギヌスの槍を使えばいいわ』
 
確かにロンギヌスの槍を使えば、ラミエルの心を取り込むことができる。けれどまだ…いや、取りに行けばいいではないか。
 
虚数空間への接点を広げ、ラミエルごとその闇へと足を踏み入れる。
 
「ありがとう」
 
『…礼を言うのは、まだ早いわ』
 
眼前の希望に目のくらんだ私は、一人目のその言葉を聞き流してしまった。前回とは状況が違うというコトを、よく考えもせず。
 
 
                                         おわり

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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX4


「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、セカンドチルドレン……」
  「あなたが惣流・アスカ・ラングレィね!」
 
ミサトさんに皆まで言わせず、惣流アスカラングレィに飛びついた。ぎゅっと抱きしめてから、両腕に手をかけたまま少し距離をとる。
 
「私、赤木レイ。初号機パイロットよ。会いたかったわ、ようこそ日本へ!」
 
面食らって目を白黒させている惣流アスカラングレィを再び抱きしめた。
 
 
***
 
 
「ねぇ、アスカ。あとで弐号機、見せてね♪」
 
私の熱い抱擁からの開放と引き替えに、お互いを呼び捨てで呼び合うコトを勝ち取った。アスカは最初、私のことをファーストって呼ぼうとしたけど、そんなのは許さない。
 
「はいはい…」
 
あの宇宙でシンジ君が私の兄だったなら、アスカは私の姉だっただろう。シンジ君がいろんなモノを与えてくれたように、アスカは様々なコトを教えてくれた。
 
「いやはや、随分と懐かれたもんだな」
 
「……なんとかしてよ、これ」
 
「え~!? ダメ~?」
 
こうして士官食堂に降りてくるまでの間、いや今も、アスカの腕をとって片時も離れなかった。最初は抵抗していたアスカだけど、今は無駄だと悟ったらしく、文句も力ない。
 
「一体、アスカのどこがそんなに気に入ったんだい? 赤木レイ君」
 
「え~? こんなに美人で、飛び級で大学まで卒業しちゃうような才媛で、しかも実戦用エヴァンゲリオンの最初のパイロットで、どこにアスカを嫌う要素があるっていうんですか!?」
 
アスカの向こっ側にいる加持一尉に、眉を上げてみせる。
 
「そりゃアスカを嫌うような要素なんてないさ。けれど、それなら君だって試作機・実験機を自在に操り、使徒を3体まで退けたファーストチルドレンだろう?」
 
加持一尉の言いように、アスカの眉根が寄ったのが見えた。
 
「正式に訓練を受けたアスカと一緒にしちゃダメですよ。零号機と初号機は所詮試作機、実験機ですから、私しか乗れる人が居なかったってだけですもん」
 
「君しか乗れないってことが運命なのさ。才能なんだよ、君の」
 
アスカの眉間の皺が深くなったと見てとった瞬間、椅子を蹴立てて立ち上がっていた。延髄で勃発した熱気を、視線ごと叩きつけるように加持一尉を睨む。
 
「…」
 
けれど、言うべき言葉を持たない。
 
「レイ?」
 
かけられた声に、ミサトさんのほうを向く。驚いた顔に、気遣いの色。視線を戻せば、加持一尉やアスカが、目を見開いていた。
 
「……あ」
 
どうしていいか判らないまま、ただ「ごめんなさい」と呟いて、その場を走り去った。
 
 
***
 
 
「私、どうしちゃったの?」
 
艦橋構造物の途中、階段の手すりにもたれかかる。目前に広がるのは、海。
 
『…人を嫌うコトを、覚えたのね』
 
「人を、…嫌う?」
 
…ええ。と、綾波レイは、いったん口篭もったように思えた。
 
『…惣流アスカラングレィへの好意の裏返しで、貴女は加持一尉に嫌悪を抱いたの』
 
好意の裏返しで、嫌悪?
 
「……でも」
 
『…貴女の言いたいことは判るわ。前の宇宙で、碇シンジを殴った鈴原トウジにさえ、そんな感情は抱かなかったと』
 
こくん。と頷く。
 
『…おそらくは、ラミエルの心を取り込んだことが原因』
 
えっ!? と、声にはならなかった。
 
『…あの拒絶の心。あれを受け入れて、貴女は人を拒絶するコトを、嫌うコトを知った』
 
「……そんな」
 
言葉が続かなかった。
 
加持一尉の顔を思い浮かべるだけで、あの言いようを思い出すだけで、この胸中に言い知れぬ暗雲が立ち込める。胃液が肺胞一杯に流入してきてその内側を灼いているかのような、不快感。
 
それが、人を嫌うということなのだろう。
 
その肉体の保全を効率的に行なうために生命が精神というものを獲得したというのなら、好悪もまた、それに沿うのだろう。好ましきものには近寄り、そうでないなら遠ざける。
 
表裏一体の感情の、その一方を手に入れたコトを、慶ぶべきなのかもしれない。私が、人になろうとするのならば。
 
なのに、あふれる涙が止まらなかった。
 
 
***
 
 
「約束だから見せてあげるけど、その前に聞きたいことがあるわ」
 
巨大な帆布の一端を、まさかそれで縫いとめようって訳じゃないだろうけど、アスカが踏みつけて仁王立ち。 
 
あのまま泣き崩れていた私を、アスカは見つけるなりここへ連れてきてくれたのだ。着くまでに泣き止まなかったら見せてやんない。との、優しい脅し文句と共に。
 
「なに?」
 
なんで…。と言いかかって、アスカがそっぽを向いた。まるで探し物をしているように視線が泳いでる。
 
「……なんで、アンタは ……ワタシのことを…」
 
再び口篭もってしまったアスカに、一歩踏みよる。アスカが何を言いたいか、それぐらいは推測できるようになった。
 
「好きかってコト?」
 
弾かれるようにこっちに向き直ったアスカの、頬が火を噴きそうに赤い。
 
すすすっ…。と声を上擦らせるアスカに、笑顔。
 
「人を好きになるのに、理由がないと、ダメ?」
 
理由なら、本当はある。けれど、話すわけには行かない。
 
「さっきはああ言ったけれど、アスカを好きになるのに、美人だとか、飛び級で大学まで卒業しちゃうような天才だとか、実戦用エヴァンゲリオンの最初のパイロットだとか、そういう理由がないと、ダメ?」
 
「そういうわけじゃないけど……」
 
その言葉の間に甲板と私を往復した視線は、窺うような色を載せて向けられてくる。
 
「どうしてもって言うなら…資料の上だけだったけど、アスカのことは知っていたの。どんな人か知りたかったから、取り寄せてもらって」
 
「そんなことできたの?」
 
うん。と頷いて見せ、「日時と数値しか並んでないような資料だけだったけれど」と呟く。
 
「でも、それだけでもアスカがどんな人か判ったわ。
 過密なスケジュールの中で、着実に数字が伸びていくの。
 たまに下がったかな? って思うと、次には10倍になって上がってる」
 
この人は…。と掴むのは、アスカの両手。重ね合わさせたその掌を、さらに包むように。
 
「とっても頭のいい人だけれど、それ以上に物凄い努力家なんだって。それでね、きっととてつもない負けず嫌い。特に、自分に対して」
 
違ってる? と覗き込むのは、小さな青空。見開かれたそこに、私の笑顔。
 
「そんなの、どうとでもとれるわ!」
 
アスカがそっぽを向いてしまったから、その手を引いて、胸元に抱き寄せる。
 
「うん。だから、どうしてもって言うならってこと。理由なんてないもの」
 
あっ、でも!と視線を跳ね上げると、釣られてアスカがこっちを向いた。
 
あの宇宙でアスカは、いつも不本意そうな表情をしていながら、私の質問には可能な限り応じてくれていた。
 
それがどういうことか、この宇宙でリツコ姉さんの妹として過ごすことで知ったように思う。
 
「さっき、泣いてた私をこうして、ここに連れてきてくれたでしょう」
 
優しいということ、面倒見がいいってこと。でも、それを素直には見せない、認められないってこと。アスカとリツコ姉さんは少し、似ていた。
 
「そういう優しい人なんだって、一目見たときになんとなく判っちゃったの」
 
それじゃダメかなぁ。と覗き込む瞳孔。
 
「まっまあ、そう思いたいっていうんなら、勝手にすれば」
 
「うん、そうする」
 
ふいっ、とアスカがそっぽ向いた途端、その視線の先で駆逐艦が1隻まっぷたつになった。
 
 
***
 
 
「ママ、ココに居たのね…ママッ!」
 
弐号機を起動させるなりそう叫んだアスカは、己自身を抱くようにしてなにやら呟き始める。
 
『ナイス、アスカ!』だの『いかん、起動中止だ、元に戻せ!』とか『かまわないわアスカ、発進して!』などと水中スピーカーが五月蝿いけれど、聞こえてないだろう。
 
それは、エントリープラグに入るなり2人がかりで始めた作業の結果。惣流キョウコツェッペリンを目覚めさせ、弐号機のコアから半ば追い出したのだ。
 
「ワタシを守ってくれてる」
 
胎児のように身を丸めたアスカが、指を吸う。
 
「ワタシを見てくれてる」
 
居所を失った惣流キョウコツェッペリンの魂は寄る辺を求めてこのLCLに充ち、エントリープラグはさながらその子宮だった。
 
「ずっと、ずっと一緒だったのね…ママ」
 
感情が欠け落ちたからではなく、安心しきったからこその無表情で、アスカが寝息をたて始める。
 
「よかったわね」
 
その頭をなでてやると、その口元が綻んだ。
 
これは、想定外の事態だった。まさかアスカがこんな風になってしまうなんて、思いも寄らなかったのだ。ただ弐号機を操縦不能にして、私たちがATフィールドを使えるようにするだけのつもりだったのに。
 
でも、見下ろすアスカはとても幸せそうで、だから結果オーライではないかと思う。
 
『…用意、できたわ』
 
「ありがとう」
 
意識を移すと、オレンジ色の水面に赤い空。水面にはっきりと残る航跡が、ガギエルの心なのだろう。
 
『…貴方が欲してるのは、これ?』
 
私の背後から滲み出た綾波レイが、摘むようにしてぶら下げたアダムのかけらを振った。加持一尉が持ってきている事は知っていたので、虚数空間を利用して取り寄せてもらったのだ。
 
すかさず寄ってきた波頭が、アダムのかけらの前で跳ねた。でも、空振り。一人目がその手首を跳ね上げたのだ。
 
「レイ……」
 
『…なに?』
 
「意地悪しないの」
 
『…そうね。悪かったわ』
 
ちらりと足元に視線を落とした綾波レイから、アダムの欠片を取り上げる。しゃがみこんで、四つ葉のクローバーのような軌跡を描くガギエルの方へ差し出した。
 
「よく見て。本当に貴方の欲しているものかどうか」
 
薮を分け入るように私の手元までやってきた航跡が、アダムの欠片を取り囲むようにミルククラウンと化した。
 
しばらくして、凪。
 
「そう。判ってくれたの」
 
螺旋を描くように離れていって反転を一回、私の傍らをすり抜けてまた反転。やはり螺旋を描きながら今度は近づいてくる。
 
『…どうしていいのか、判らないのね』
 
「提案は二つあるわ」
 
リングを備えたガス惑星を思い描く。
 
「泳ぎきれないほどのメタンの海を、独り占め」
 
それとも…。とイメージするのは、大赤斑が特徴的なこの星系最大の惑星。
 
「サキエルと一緒に、アンモニアの海を泳ぐ?」
 
木星は直径で地球の11倍。体積なら約1300倍だ。地球規模の生存基礎領域を必要とする使徒にとっても、充分以上の広大さがある。最悪、棲み分けも可能な広さ。同じように液体になじむサキエルとガギエルなら、共存も可能だと思う。
 
使徒同士でも、仲良くできるのではないかと、思うのだ。
 
まるでオシロスコープのように往復した波頭が、この手を、その上に乗るアダムの欠片をまたぎ越すように跳ねた。
 
「そう。サキエルに会ってみたいの」
 
アダムの欠片を綾波レイに預けて、立ち上がる。
 
「なら、貴方も手伝って」
 
弐号機を完全に支配下に置くには、或いは自律できるだけの心を育むには、とても時間が足りない。だから、その分をガギエルに補ってもらおう。
 
私の中のラミエルの心は、できれば使いたくないから。
 
海中に紡がれた接点にガギエルが飛び込んだ途端、木星軌道を捉えるほどに虚数空間が拡がった。そのさまを私たちは、反転ATフィールドを用いた弐号機から、ガギエルの心を通して見ていた。
 
圧縮と拡大を行なって、目前にアンモニアの海。その心は知っていたから、探し回る必要はない。
 
オレンジ色の水面に、波紋が増えた。ガギエルの視界の中に、特徴的なシルエット。
 
「サキエル。ひさしぶりね」
 
私が差し出した手に巻きつくように、水流が跳ねた。前のときより、その表情が増えているように思う。
 
私の体を2回3回と周回。水面に戻ってからもそのまま回りつづけている。
 
『…そう、寂しかったのね』
 
「さびしい!?」
 
『…心のふれあいを知って、心に気付いて。サキエルは独りで居ることの無為を知った。ただ存在するだけでは、生きていることに意味などないと』
 
「そう。じゃあガギエルのこと、気に入ってくれるかしら」
 
私の周りを回る波頭。それに寄り添うように回る、航跡。
 
「貴方に、友達を連れてきたのよ」
 
その存在に気付いたのだろう。私を中心にして波頭が大きく螺旋を描き始めた。追随するように、航跡。ガギエルの視界では逆に、目をしばたかせたサキエルがその手をそっと伸ばしてくる。
 
固唾を呑んで。とは、こういうことなのだろう。心の世界で意味はないのに、つい息をひそめて見守ってしまう。
 
やがて波頭と航跡が2重螺旋をなしながら、大きく弧を描きだした。まるでアイススケートのエッジングのように、おおらかなラインで。
 
ガギエルの視界の中で、切り裂かれていくアンモニアの水面。その背に、重みと温もり。一方のサキエルは、木星に来て初めて海上に出たのだろう。水素の大気を切り裂く感触を愉しんでいることが、その波頭のビブラートで判った。
 
『…よかったわね』
 
「うん」
 
私の落とした涙の、その波紋に惹かれたのか、波頭と航跡が戻ってくる。
 
「また、来るわね」
 
再び私の周囲を巡り始めた波頭と航跡に手を振って、反転ATフィールドと虚数空間を解消した。
 
 
傍らには、幼子のような無憂の表情で、アスカ。前の宇宙ではこの人に母親を返すべきか、悩んだ。
 
けれど、この顔を見れば、そしてその周囲だけ濃密に見えるLCLを見れば、悩む必要はなかったのではないかと思う。
 
今すぐというわけには行かない。惣流キョウコツェッペリンの心は完全じゃないし、LCLだけでは成分が足りない。
 
けれど、遠からず、必ず。約束するわ。
 
『ヤツはどこへ行ったのだ!』とか『アスカ!アスカ!返事しなさい!』などと五月蝿い水中スピーカーを切って、今はただアスカの頭をなでた。
 
 
                                         おわり

2008.8.19 DISTRIBUTED

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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx 未完



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補完 第壱話++
Name: dragonfly◆23bee39b ID:7b9a7441
Date: 2011/09/28 10:07


初号機篇 第壱話の後日譚+裏話です。
成人女性視点であるため、それなりのストーリー進行があります。直接的な描写はしませんから18禁というわけではありませんが、15歳以下の方にはお奨めしません。








****




火傷の痕も生々しいその掌で触れられても、思っていたほどの激情は湧かなかった。嫉妬に焦がれて、よりこの人のためにこの身を投げ出しかねないと、考えていたのに。
 
 …
 
なるほど…ね。
 
レイからそう聞いてなかったら、今、まぶたを開くことはなかっただろう。
 
その眇めた眼差しの中にぼやけて映る私の姿こそ、この人にとっての私に違いない。輪郭はおろかその色彩すら曖昧で、ただ人の形をした物体が映っているだけだった。男性のそれは視覚に拠る所が多いと聞くから、この人が私にオンナを求めてないということを膾に刻むように実感する。利用するための作業、にすぎないのだろう。
 
レイがそう感じたように、この人は私も見ていない。そのことは解かっていたはずなのに……、ダメね。人はロジックじゃないもの。
 
 
「今日は安全です」
 
それでも。と一縷の望みを篭めて口にしたのは、愚かな女の言葉。女としての母さんを憎んでいた私にとって、口が裂けても言えない言葉のはずだった。
 
「…」
 
ぼそりと返された言葉は、上辺には私を気遣う言葉。私を大切にしている言葉だった。
 
けれど、やはり解かってしまった。
 
この人にとって、万が一の危険を冒してまで求めるほどの価値が、私には無いということを。
 
それに、信用されてない……いえ、見縊られているということを。
 
こんな私でも、最低限のプライドがある。イリノイの女医じゃあるまいし、そんな陳腐な罠で男を繋ぎとめようだなんて思ったりしない。
 
途端に湧き上がった怒りに、爪を立ててしまう。
 
この人は、私がそんな女ではないことを知らない。知ろうともしないのだ。
 
 …
 
食い込んだ爪の感触が、それが齎す手応えが、この人の眼鏡を踏みつけた時とは違うと、気付く。それは、暴走した零号機の実況見分でこの人の眼鏡を見つけた時とでは、私の心が違うから。
 
預けられた体重を鬱陶しく感じて、自分が女だと実感してしまう。心一つで、まるで別の肉体のようだった。男は相手を愛してなくても抱けるそうだが、女は違うらしい。相手を愛してなければ、触れられることすら苦痛になる。相手が愛してくれているなら、まだしも……。
 
 
耳元で荒い息をつくこの人を、私はきっとこの人が私を見るような目つきで見ているのだろう。
 
そのことに少し、自己嫌悪。
 
この人が私を利用しているというなら、私だってこの人を利用していたのだ。
 
注いだだけのものに見合う見返りがないと気付いたから、それでもいいと妥協できなくなったから興味を失っただけなのに、そのことをこの人のせいにしようとしている。
 
ベッドの端で背を向けたこの人に声をかけようとして、口を噤む。
 
決意を口にする前に、熱いシャワーが欲しかった。
 
 
                                          おわり
2008.7.14 DISTRIBUTED

このシリーズでは一貫して一人称視点で表現していますが、パイロット執筆の段階では気にせず他者視点を描くこともあります。必要に応じて本執筆時に反映させるのですが、初号機篇ではキャラ設定的に放置の方向でした。…そんなんだから作品ごとお蔵入りになるんですが…orz
ここまでお付き合いくださった方であれば、省略された部分を解かっていただけるかもしれないということで今回追加しました。

注:イリノイの女医
  男性から騙し取ったモノで受胎し、養育費を勝ち取ったヒト(実話)



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補間 Next_Calyx EX1
Name: dragonfly◆23bee39b ID:838af4c9
Date: 2021/03/08 01:45



(とうとうシンエヴァが公開ですね。記念に掌編を投稿いたします。続編でなくて申し訳ないのですが m(_ _)m)






抜き足、差し足、忍び足~。

リツコ姉さんの部屋に、潜入成功!

目指すは、姉さんの喫煙道具一式。

「タバコをマスターすれば、姉さんみたいな大人の女に一歩前進!」

おずおずと手を伸ばす。銘柄はPianissimo? 赤と黒のパッケージからして「もう大人」ってカンジ♪

「大人の階段を登った私に、シンジ君もメロメロよ!」

『…そうは思えない』

うるさいなぁ…

一本取り出して咥え、ライターを手にして着火。

いつも見ていた手順。見よう見まねでも間違いようがない。

ここで大きく一息…「ゴホッゴホッ」喉に突き刺すような刺激で、酷く噎せた。

「ケホッケホッ」

吐き出そうとしても、煙が絡み付いて取れない。

『…無様ね』

背後レイがうるさいけど、今それどころじゃ、ない。

「みっ、水…」

喉がいがらっぽくて、しょうがないのだ。

「はい、お水」

差し出されたコップを受け取って、一気に。

「ふ~っ! ありがとう…?」

「どういたしまして」

そこには、リツコ姉さんが…。

「どうして…?」

逃げ出そうにも、入り口には姉さんがガイナ立ち。

「こんなこともあろうかと、誰か入ったら通知するよう仕掛けてあるのよ」

「オーマイ、リリス!」

神は死んだ!

「さあ、お説教の時間ね」

「痛いっ痛い! 耳引っ張らないで~」

『…やっぱり、無様ね』

…トホホ~


                 オワリ


special thanks to うぇーぶ01様(@wave018)。ネタ提供をいただきました。


(Twitter始めました(@dragonfly_lynce)新作の掌編やファンアート、ユイ篇の子守唄などを投下してるので宜しければ是非!)



[29857] 初号機の初号機による初号機のための補間 Next_Calyx EX2
Name: dragonfly◆23bee39b ID:838af4c9
Date: 2021/12/13 17:54


「♪も~ろ~びと~ こぞ~り~て~」

「赤木センセ、エラいご機嫌やなぁ」

「そうね」

ホウキとチリトリでペアになってるトウジ君とヒカリちゃんに、向き合う。

「だって、もうすぐクリスマスだよ♪」

「歌って踊るエヴァパイロット!
 これは売れる! 売れるぞ~♪」

「そこ! 撮影禁止!」

ずびし! っとケンスケ君を指差すが、動じてない。

「悪いけど、おニューのカメラの初被写体として、これ以上はない。
 今回ばかりは記録を残しておきたいんだ」

ケンスケ君の理屈は謎だが、褒められて悪い気はしない。

「6:4で手を打ちましょう♪」

『…がめつい』

背後レイは黙ってて。

「うえっ! こりゃ手厳しいなぁ…」

カメラごと天を仰いだケンスケ君はしかし、

「碇と惣流の秘蔵写真を付けるから5:5で…」

値切ろうとしてアスカに蹴られた。

「このDummkopfが! まだ隠し撮り写真を持ってたのね!
 今度こそ全部取り上げてやる!」

持ってた黒板消し掃除用の棒を、圧し折らんばかりに。

「って、待てバカメガネ! 逃げるな~」

とっくに行方をくらませてたケンスケ君を追いかけていく。

『…さすがの逃げ足』

『そうね』

そう言えば。と雑巾を絞ったシンジ君が、立ち上がる。

「赤木は今年のクリスマスプレゼント、何にするか決めたの?
 ずいぶんとご機嫌みたいだけど」

ぷ~!

「…って、どうしたの? 赤木」

「珍しい。赤木さんが拗ねてる」

「ホンマや。ほっぺたパンパンやで」

「レイちゃんって呼んでって、ずっと言ってるのに!」

「え? あ、いや…その」

ぷい!

「呼んでくんなきゃ、もうエヴァ乗んない!」

「ええ!」

「そら、一大事や…」

「碇君、男の子でしょ。責任取って」

『…駄々っ子』

うるさいなぁ。

「なーんて、今年の私には秘策があるんだから!」

ガイナ立ち。

「秘策…?」

「そう! サンタさんへのお願いは、『みんなが私のことレイちゃんって呼んでくれますように』だもん!」

ざわっ…

教室中が一瞬ざわついて、凍りついた。



「赤木センセ、まだサンタを信…」

「しっ!」

ヒカリちゃんがトウジ君に肘鉄。

「え…?
 私、なんか変なコト言った?」

「いっいや、赤木は赤木だ。
 そのままでイイと思うよ」

「やっぱり変なコト言ったんだ」

遠巻きに見てたみんなが、逃げるように。

「なになに~? 教えてよ~ (´;ω;`)」

誰も目を合わせてくれなかった。

『…無様ね』


              おわり






[29857] おまけ2
Name: dragonfly◆23bee39b ID:2115e058
Date: 2022/11/14 13:07
初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX5




「紹介するわ。新しいチルドレンの、真希波・マリ・イラストリアスよ」

「よろしく~にゃ♪」

あなた、誰? あなた、誰? あなた、誰?

『…得体が知れない。要注意』

「ほら~、弐号機とアスカがあんなことになっちゃったじゃない。だからね?」

これは私の失策だが、弐号機のコアから半ば惣流キョウコツェッペリンを追い出した結果、アスカは弐号機と過剰にシンクロするようになったのだ。

「ワタシはお払い箱ってワケね」

「そこまでは言わないわ。予備としてスタンバってて頂戴」

「はん! どーだか」

語気に比べて、アスカの機嫌は悪そうではない。
母親の存在を認識できたのが大きいのだろうか。

「アスカには零号機とのシンクロ適性が認められるわ」

「あの色、気に入んない」

「そのうち塗り替えてあげるわよ」

聞けば、真希波・マリ・イラストリアスはソ連支部で建造中の5号機のパイロット候補だったらしい。
現状の弐号機へのシンクロの可能性を期待されて抜擢されたそうだ。

「まあ、仲良くしてあげてねん♪」

「命令なら、そうします」

私の対応に葛城一尉が面食らってる。
いつもの【透明セロハン】な私じゃ、考えられないから当然か。

「あらら、嫌われちゃったかにゃ?」

でも、アスカの手前、フレンドリーに接するワケにも行かなかったし、敵か味方かも判らない以上、油断はできない。

「心配しなくても、アナタのお姫さまを盗ったりしないから、安心してにゃ」

差し出された右手を思いっきり握り潰した。




****




ウイングキャリアーからドッキングアウトして、砂浜に着地する。

『初号機ならびに弐号機は、交互に目標に対し波状攻撃、近接戦闘で行くわよ』

「了解」
『了解~にゃ♪』

水平線に波濤。イスラフェルが来たらしい。

『攻撃開始!』
「私が行くわ。邪魔しないで」
『お嬢さまの仰せのとおりに』

ビル群を八艘跳びして駆け抜ける。イスラフェルはまだ警戒もしていない。

最後のビルを足蹴にして大きく跳躍、ソニックグレイブを叩きつけた。

『お見事だにゃ~♪』
「まだ!」

分裂したイスラフェル達が反撃してくる前にATフィールドを反転、さらに虚数空間も形成する。

オレンジ色の水面に、赤い空。

2本の波濤が、戸惑っていた。
まったく同じ軌跡を描きながら、困惑のシュプール。

「そう。アナタ達も居場所を求めて来たのね」

なら…、と虚数空間を拡げようとしたら、波濤が増えた。

シャムシェルだ。

何やら対話をしてるらしい。激しいミルククラウンが3つ。

『…説得してるわ』

背後レイが解説してくれたが、その頃には説得が済んでしまったらしい。
波濤が3つ、私の周囲をグルグルと。

「リツコ姉さんに何て言ったらいいの」
『…ありのままを話すべき』
「正論は時に暴力である。って、誰か言ってた」
『…無様ね』




****




「内部に熱、電子、電磁波ほか、化学エネルギー反応無し。S2機関は完全に停止していて、エヴァの無起動状態に近い。
 つまり、第4使徒の時と同じね」

こっちを見たリツコ姉さんが、大きく息を吐いた。
こういう時は1人にしてあげたほうがいいだろう。

そっとケージを後にした。



                 おわり


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【シンジのシンジによるシンジのための補完】シリーズを全4冊の書籍にして頒布中です。

特に【初号機篇】は未完のプロットを全部掲載してるので読み応えがあるかもです。

もし、興味をもってくださったなら、私のTwitterアカウント(@dragonfly_lynce)を検索してみてくださいませ。m(_ _)m

また、Pixivでも短編を発表しています。
よかったらユーザー(dragonfly_lynce)を検索してみてくださいませ。


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