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[28168] 【完結】 お姫様じゃいられない 【魔法少女まどか☆マギカ・女オリ主】
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2014/11/24 21:29
≪前書き≫
 この作品は『魔法少女まどか☆マギカ』の二次創作です。
 本編時間軸以前からオリキャラを交えた原作再構成となります。
 主な要素は【女オリ主・非戦闘系主人公・百合・友情・シリアス】です。

≪更新予定≫
 なし



[28168] #001 『奇跡みたいな出会いだなって』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/06/26 20:54
 空は青かった。雲一つ無かった。日射しは柔らかく、吹く風は穏やかだ。こんな日は外に出るのが良い。たとえそれが病院の屋上であろうと、外の空気を肌で感じるのが一番だ。そんな看護師の言葉通りに、絵本(えもと)アイはその場所へとやって来た。

 人影の無い病院の屋上。巡らされた柵は背が高く、さながら檻のように少女を囲む。開放的でありながら、不思議と窮屈に感じるこの空間で、アイは大きく腕を広げた。丸みを帯びた頤を上げ、彼女は静かに空を仰ぐ。

 長い入院生活で漂白された肌。小枝みたいに細い四肢。艶の無い黒髪は肌に貼り付きそうなほど大人しく、その長さも相俟って幽霊のよう。なまじ整った顔立ちを持つだけに、アイは浮世離れした雰囲気を纏っていた。

 閉じていた目蓋を開け、アイが双眸を露わにする。生気に欠ける彼女の中で、そこだけが弾けるほどの輝きに満ちていた。宝石の如き瞳に映るのは一色に染まった青空だ。散歩日和とでも言うべき天気に、アイは知らず笑みを浮かべた。

 矮小過ぎる。どこまでも広がる空に比べて、アイの存在はあまりにも矮小過ぎる。不自由だ。吹き抜ける風に比べて、彼女はどうしようもなく不自由だ。無力だった。温かで力強い日射しと比べるまでもなく、少女は果てしなく無力だった。

 ちっぽけだなと、アイは思う。取るに足らない存在なのだと、実感せずにはいられない。

「――あはっ」

 薄紅色の唇が無邪気に歪む。自らを掻き抱き腰を折り、アイは全身を細かく震わせた。自身の影が目に入る。小さな影だ。細い影だ。ふとした拍子に壊れそうな、頼りない影だ。それこそが絵本アイ。彼女の嫌いな些末な自分。

 やがて震えを治めたアイは熱っぽい息を吐き出した。潤んだ瞳を空へ戻し、彼女はまた笑う。そこでふと、アイが後ろを振り返る。屋上に繋がるエレベーター。その到着を告げる音が響き、誰かの訪れを、たしかにアイへと伝えていた。

 扉の開いたエレベーターから出てきたのは一人の少女だ。中学校に上がったかどうかという年頃の子で、おそらくアイと同年代。身に纏う入院着から、これもまたアイと同じ入院患者だと分かる。彼女はその場から動く事無く、怯えた子犬みたいに辺りを見回していた。

 可愛い女の子だ。蜂蜜色の髪を左右で縦に巻き、花の髪飾りで彩っている。不安げに揺れる相貌には幼さが残っているが、それでも将来は美人になる事が見て取れた。そんな大人びた見た目の少女。けれど今の彼女からは、幼子の頼りなさしか感じられない。

 アイと目が合うと、少女は大袈裟に驚いてみせた。声は出ずとも口を開け、アイを映した目を瞠る。そうして正面から改めて確認したら、少女の顔色の悪さがよく分かった。自信にも気力にも欠けるその姿は、これから自殺でもするのではないかといった風情だ。

 自然と弧を描く口元を、アイは抑えようとしなかった。むしろ見せ付けるように、威嚇するように、彼女は少女に笑い掛ける。

「ねぇ、そこのキミ。飛び降りと首吊りなら、どっちが苦しく死ねると思う?」

 始まりの挨拶は、そんな言葉。二人の出会いは、こんな形。ある晴れた、風の穏やかな日の事だった。


 ◆


 空気が凍り付いた。少女は氷像のように固まって、呆然とアイを凝視している。もちろん返事は無い。話し掛けても聞こえるかどうかすら疑わしい。驚きのあまり動けなくなった子犬みたいな、そんな可愛らしい反応だった。

「アッハハハハ! ジョーダンだよ、ジョーダン。本気の言葉じゃない」

 高らかな笑い声が響き渡る。発したアイはにこやかな笑顔を浮かべているが、少女の方はそうではない。大きく肩を揺らした少女は、そのつぶらな瞳に怯えを宿しながら僅かにアイとの距離を取る。

「冗談……?」
「そう、ただのジョークさ。だから気にしないでくれよ」

 大仰に腕を広げてアイが答えても、少女の表情はまるで晴れない。疑いの目をアイに向け、けれど唇を開こうとはせず、少女は嵐に耐えるように身を竦ませている。そんな彼女の態度を気にした風も無く、アイは明るい声で話し掛けた。

「それよりキミの名前を教えてほしいな。ほら、まずはお互いの事を知らないとね」

 少女の反応は逡巡。胸の前で手を組んだ彼女は、チラチラとアイの顔を窺っている。それでもやがて決意を固めたのか、大きく息を吸った後、少女はたどたどしい口調で話し始めた。

「その、巴(ともえ)マミ……です」
「ふぅん。巴マミ、か。ボクは絵本アイ。よろしくね」
「は、はい」

 巴マミと名乗った少女が、躊躇いがちに頷く。陽光に煌めく金髪を揺らし、彼女は伏し目がちにアイを窺う。どこか小動物を思わせるその姿に、アイは自然と笑みを零す。アイの方が背は低いのに、まるでそんな気はしなかった。

 警戒心を滲ませるマミに対し、少しだけ近付くアイ。微かにマミの肩が動き、視線が下を向く。

「んー。そういう反応は傷付くなぁ」
「ご、ごめんなさい」

 マミの眉尻が下がる。本当に申し訳なさそうにしている彼女からは、その性根の素直さが感じられた。アイが目を細める。たとえるなら黒曜石とでも言うべき瞳が、真っ直ぐにマミを射る。途端にマミは口元を引き攣らせ、体を硬直させた。

 視線が絡み合う。吐息が溶け合う。苦しいほどの沈黙が、二人をキツく締め上げる。先に動いたのは、意外にもマミの方だった。入院着の襟元を握り締め、彼女は絞り出すように声を発した。

「あの……」
「なんだい?」
「さっきの言葉って、ほんとに冗談よね? その、飛び降りとかなんとか――――」

 アイが微笑む。そのままクルリと反転した彼女は、何も言わずに柵の方へと歩き始めた。釣られるように、マミの足も動き出す。しっかりした足取りのアイと比べて、彼女の歩みは遅々として進まない。柵まで辿り着いたアイが振り返った時、二人の距離は随分と離れていた。

「アレは冗談だよ。それはほんと。別に世を儚んでるわけじゃないしね。こんなナリでも、こんなトコに一人で居ても、ボクは至極真っ当に生きてるつもりだぜ。なんせラジオ体操を欠かした事が無いからね」

 柵に背を預けたアイが顔を上げる。既に足を止めていたマミの顔色は、やはり幽霊のように青白かった。

「それともアレかな。巴マミさんには、世を儚む理由でもあるのかな?」

 息を呑む音。大きく目を見開いたマミがアイを凝視する。分かり易い反応に、アイは思わず苦笑した。子供だなぁと、彼女は思う。本当にマミは子供だった。素直さも、組し易さも、何もかもが子供っぽい。唯一例外があるとすれば、些か自己主張の激しい胸元ぐらいだろう。

 会話が止まる。空を見上げて、アイは静かにマミの言葉を待っていた。それが当然のように、それだけが正解のように、彼女は黙して語らない。時が過ぎていく。雲一つ無い晴天みたいな、変わり映えの無い時間だった。

「――――事故」

 ポツリと、マミの声。今にも消えそうなそれが、辺りの空気を震わせた。

「交通事故に、遭ったの。酷い事故よ。こうして生きてるのが不思議なくらい」
「けどキミは生きてる。大きな怪我だって見当たらない」

 空から視線を逸らす事の無いアイの返答。途端にマミの顔が曇った。一瞬だけ自分の右肩を見遣り、口を開こうとしてまた閉じる。僅かに逡巡を見せた後、彼女は弱々しい声を吐き出した。

「……身内が、ね」
「そっか」

 青から金へ。アイの双眸が、正面のマミへと向けられる。

 普通、幸福とは降ってくるものではないが、人間は不思議とそれを待ち望む。無欲な人も勤勉な人も、心の底では自分に都合の良い何かに焦がれているものだ。少なくともアイの知る限りではそうだった。そして彼女の経験上、マミみたいな境遇の人は、他人に二つのパターンを求めている。一つは、自分を助けてくれる王子様。もう一つは――――――自分と同じ、哀れで不幸なお姫様。

 アイの唇が歪む。それはきっと、自嘲と呼ばれるものだった。

「ボクもね、両親が死んだんだ。交通事故だった」
「えっ?」
「結婚記念日でさ、二人で旅行に行ってたの。勧めたのはボク。いつもボクに気を遣ってるから偶には、と思ってね」

 そしたら死んじゃった。瞑目し、アイが呟く。

 マミの反応は無い。彫像の如く固まり、彼女は呆然とアイを見詰めている。そんな風に動けないでいる少女に、アイはおもむろに近付いていった。一歩二歩と歩み寄り、息が掛かるほどに距離が縮まっても、マミに変化は無い。そうして改めて間近から観察してみると、マミの大人びた容姿がよく分かる。子供っぽいアイとは正反対だ。

 だから、という訳ではないけれど。アイはいきなりマミに抱き付いた。

「きゃっ」
「……ねぇ、マミ。友達になろうよ」

 マミの腰へと回した腕に、アイが力を籠める。未だ状況を把握出来ていない少女に対し、彼女は畳み掛けるように言葉を重ねた。

「ここにボクが居て、マミが居る。これって凄く素敵な事だ。奇跡みたいな出会いだなって、そう思う。だから、さ」

 ――――――友達になろう。

 それきり、アイは何も言わなくなった。しがみつくようにマミを抱き締め、その胸元に顔を埋める。マミもまた静かだ。彼女は惚けた顔でアイを見詰めたまま立ち尽くしている。そうしてまた、少しだけ時計の針が回った。

 マミの腕が動く。触れているアイだからこそ知覚出来る、微かな変化。何度か震えた後、ゆっくりとマミの腕が持ち上がる。少しだけ宙を彷徨っていた細い手は、やがてアイの背中に落ち着いた。艶の無い黒髪に、白い頬が寄せられる。

「そうよね。奇跡はたしかに、あるんだもの」

 凪いだ水面を思わせる、優しいマミの声。それを聞くアイの表情は、誰の目に触れる事も無かった。


 ◆


 紙の擦れる音がする。まるで兵隊の行進みたいな音だ。整然として間断無く続くそれは、とても読書をしているものとは思えない。実際、ページを捲るアイの姿は常人とは掛け離れていた。瞬きをすれば読み終える。そうとしか考えられない速度で、彼女は分厚い本を読み進めていく。文字を追うはずの瞳はピクリとも動かず、どこか病的ですらあった。

 三十畳はあろうかという広い病室。壁の二面を本棚で覆われたその場所の中心で、アイは機械的にページを捲り続ける。毛足の短い絨毯に座り込み、周りに本の山を積み上げた彼女は、夕焼けの赤い世界で異様な雰囲気を漂わせていた。

 程無くしてアイが本を読み終える。辞書と並びそうな厚さの本が、三十分と持たなかった。息を吐き、彼女は視線を上げる。するとそこで、病室の入り口に立つ人影に気が付いた。大きな黒い瞳が瞬きを繰り返す。だがすぐに、アイは挑発的な声を上げた。

「乙女のプライベートを盗み見かい?」
「何度か声は掛けた。お前が気付かなかっただけだ」

 落ち着いた足取りでアイに歩み寄るのは、背の高い壮年の男性だ。白髪交じりの黒髪を短く切り揃えた彼は、精悍と呼ぶに相応しい風貌を備えている。男の名前は絵本雅人(まさと)。アイの伯父であり、この病院に勤める医師でもある。

「いつも通り凄い量だな。また買い足さないとダメか?」
「あそこの棚は読み終えたよ。売るなり寄付なり、お好きにどうぞ」

 雅人が苦笑する。アイが指差した本棚には、四桁に及ぶほどの書物が収められていた。首を振り、彼は白衣のポケットに手を入れる。床に座ったまま見上げてくるアイと目を合わせ、雅人は大袈裟に肩を竦めた。

「お前の勤勉さには頭が下がる。そんなに本が好きか?」
「好きだよ。大好きだ」

 そうか、と雅人は頷いた。積まれた本から一冊を手に取り、彼はページを捲っていく。十秒と経たず、彼はその本を元に戻した。もちろん読み終えた訳ではない。単に読むのをやめただけだ。眉根を寄せる伯父の様子に、アイは鈴の音みたいな声で笑った。

「合わなかった? ボクは好きだったんだけどね」
「他人の人生に興味は無い。というか、自伝なんて買ってたんだな」
「当然。むしろこういう本こそがボクにはピッタリさ」

 目を眇め、手近な本を胸に抱く。それからアイは、改めて雅人に顔を向けた。

「本には人となりが表れる。全部じゃないし、本心じゃないかもしれないけど、それはたしかに頭の中から生まれたものだ。なにを見て、なにを感じて、なにをしたのか。ボクはそれを知りたい。それを知って、人の心を理解したい」
「御大層な事だ」

 言って、雅人は右手で頭を掻いた。どこか投げ遣りな彼の態度。それが気に入らなかったのか、アイが頬を膨らせる。

「なんだよつれないなぁ。今のボクってば、ちょっとイイコト言った風じゃなかった?」
「本当にイイコト言う奴は、そんな事は言わんだろう」

 不満げに睨んでくるアイを見て、雅人は疲れた様子で溜め息をつく。アイの機嫌がますます悪くなる。本を抱く腕に力を籠め、それから、アイは不意に視線を逸らす。寂しげな光を瞳に宿し、彼女は微かに俯いた。

 驚いたのは雅人だ。思わず腕を伸ばし、彼は言葉を探すように彷徨わせた。

「……ボクって狼少年なのかな? 言葉が軽いって、本気じゃないって、そう思われてるの?」
「あー、いや。そうじゃなくてな」

 雅人の語調は弱い。いきなり元気を無くした姪を前にして、彼は碌に対応出来なかった。何をするでもなく、ただ焦りのままに靴裏で床を叩く。その音に怯えたように、アイは小さく肩を震わせた。雅人が固まる。言葉は出てこず、嫌な沈黙が二人を包む。

 気まずい空間だった。所在無く立ち尽くす雅人と、床に視線を落とすアイ。俄かに途切れた会話はそれきりで、互いに口を開く事は無い。そのまま無為に時間が過ぎていき、何度目か、雅人がアイに話し掛けようとした時、彼女は前触れ無く顔を上げた。思わず背を仰け反らせる雅人。それから彼は、恐る恐るアイの様子を窺った。

「ゴメン、待った。やっぱりさっきのナシ。やり直しを要求する」
「へ? あ……えっ?」

 雅人が目を丸くする。だがそんな伯父を気にした風も無く、アイの口は調子よく回り続けた。

「子供の武器で攻め過ぎた。反省しなくちゃね。ほら、ボクってば大人ぶりたい年頃だしさ」

 かぶりを振って肩を竦めるアイを前にして、雅人はようやくその言葉の意味に気が付いた。盛大に息を吐き出し、ガックリと肩を落とす。それから雅人は、これ見よがしに呆れてみせた。

「そんなんだから信用を無くすんだ。もう少し真面目に生きてみろ」

 苦言を呈す雅人に対して、アイは鋭い視線で応えてみせた。薄紅色の唇が歪み、口角が吊り上がる。子供なのに、少女なのに、どこか妖艶ですらある微笑。えも言われぬ気配に圧され、雅人は思わず身じろいだ。

「アナタだけだよ、ボクをそんな風に見てるのは。つまりこんなボクを知ってるのも、アナタだけというわけさ」

 アイの声は優しく、柔らかい。知らず背筋を震わせた雅人を、妖しく輝く瞳が射抜く。

「――――――これでも甘えてるんだぜ」

 秘め事にも似た囁きを零し、アイは最後に吐息を漏らす。それで、お仕舞い。彼女は大人しく口を閉じる。

 雅人は何も返せなかった。言葉も、態度も、何一つ。落ち着かない様子で視線を迷子にし、訳も無く手を動かす。いい年した男の振る舞いとしては情けない事この上無いが、とにかく彼は必死だった。

「…………そういえば看護師から聞いたんだが、新しい友達が出来たんだって?」

 長い沈黙の末に、ようやく雅人が捻り出した答え。あんまりにもあんまりなその内容に、アイは思わず噴き出した。白いかんばせを小刻みに揺らす彼女は、笑い声を隠そうともしない。通りのよいその音を聞きながら、雅人は不機嫌そうに黙り込む。微かに顔を赤くした伯父を見て、アイはしょうがないといった風に苦笑した。

「そうだよ。事故に遭って検査入院中の子で、名前は巴マミって言うんだ」
「あ、あぁ。そうなのか。仲良くなれそうか?」

 物思うように目を瞑ったアイは、楽しげな笑みを零す。

「うん。仲良くなれそうだよ。とても、とてもね」

 砂糖菓子のように甘い呟きが、部屋の空気に溶けて消えた。


 ◆


「ねぇ、キュゥべえ。私って幸せ者よね」

 真夜中の病室。月明かりだけが頼りとなる暗い世界に、少女の声が響く。その源は窓際だ。この部屋に一つだけ置かれたベッドの上には、上半身を起こしたマミの姿があった。つぶらな瞳に優しい色を宿した彼女は、太腿に乗った小さな影に語り掛けている。

 影は白色だった。四本の短い足を持ち、狐を思わせる尻尾を除けば体長は二十センチ程度。真ん丸な顔には、同じく丸い深紅の瞳を備え、愛嬌のある口元が付いている。また二つある三角の耳からは、平筆を伸ばしたような毛が一房ずつ生えていた。どことなく躍動感の薄い、マスコット染みた生き物。キュゥべえと呼ばれたそれは、ぬいぐるみのようにジッとマミを見上げていた。

「本当なら事故で死んでた。だけどあなたと出会えて、こうして生きてる」

 小さな手がキュゥべえの背を撫でる。僅かに身じろぐ友達を見て、マミは口元を綻ばせた。

「学校の友達とは、きっといつも通りじゃいられない。でもこの病院で、新しく素敵な友達ができた」

 射し込む月光に照らされて、マミの相貌が露わになる。穏やかな彼女の表情は、しかし明確な陰りを帯びていた。

 巴マミに両親は居ない。マミと共に交通事故に遭い、彼女とは違い死んでしまった。温かな笑顔は、今やマミの記憶の中にしか存在しないのだ。おはようもおやすみなさいも、いってきますもただいまも、彼女は言うべき相手を失ってしまった。幸い遠縁の親戚が生活を保障してくれるらしいが、戻ってこないものは沢山ある。

 仕方の無い事だ。そう思えるくらいには、マミは大人だった。けどすぐに整理がつかないくらいには、彼女は子供だ。

 持ち上げたキュゥべえを抱き締め、マミはギュッと目を閉じる。誰かの温もりを求めた行為だった。辛い現実から目を逸らそうとした行為だった。両腕に力を籠め、目蓋を震わせ、彼女は湿った声を漏らす。

「幸せなの。幸せなのよ、私」

 一筋の涙が頤を伝い、雫となって零れ落ちた。流れ始めれば止まらない。次から次へと溢れる涙が、マミの頬を濡らしていく。小さな肩が震えている。微かな嗚咽が漏れている。治まる気配の無い悲しみが、マミの内から零れていた。

『そうだね、マミ。たしかに君は幸せ者だ』

 抱き締められたキュゥべえが、初めてマミに話し掛ける。穏やかで朗らかな声だ。不思議と耳を傾けずにはいられない響きを持っていて、マミは何も言わずに次の言葉を待っていた。

『他の人間なら、一生掛けても叶えられない奇跡を手にした』

 否定も同意も口にせず、マミはただ、キュゥべえの話に首肯する。

『だけど奇跡はタダじゃない。この意味、マミならわかるよね?』

 頷き、頷き、また頷く。まるでそうする事しか知らない人形のように首を振り、マミはキュゥべえの言葉を聞いていた。幾筋もの涙が跡を残し、白い頬を流れていく。桜色の唇は強く噛まれ、赤い雫が溢れていた。

『だって君は”魔法少女”なんだから』

 暗く冷たい病室に、朗らかな声が木霊した。


 ◆


 その部屋に足を踏み入れた時、マミはあまりの豪華さに目を丸くした。広さだけでも、マミの病室と比べて三倍近い。床に敷かれた絨毯も、天井に描かれた綺麗な模様も、壁を覆う本棚も、何もかもが違う。同じ個室でありながら、マミとは大きな差があった。実はどこかのお屋敷にでも迷い込んだんじゃないか、なんて馬鹿な事を、マミは思わず考えてしまう。

「ようこそボクの城へ。とか言っちゃって」

 立ち尽くすマミに話し掛けたのは、この部屋の主であるアイだ。黒髪の中に青白い相貌を浮かび上がらせた彼女は、ベッドに腰掛けたまま入り口のマミを眺めている。その薄紅色の唇は、三日月のような弧を描いていた。

 暫く待っても動かないマミに痺れを切らしたのか、アイがベッド脇の椅子を叩く。そこでようやく立ち直り、マミはおっかなびっくり足を進める。問題などあるはずないが、それでも普通の倍近く時間を掛けて、彼女はアイの居るベッドまで辿り着いた。

 用意されていた椅子は、これまた高そうな木製の安楽椅子だ。慣れない揺れに苦戦しつつ、マミはどうにかお尻を乗せる。そうして座ってみれば、思いのほか心地よい。クッションは沈みそうなほど柔らかいし、背もたれはピッタリ背中にフィットする。穏やかな揺れと相俟って眠気を誘うそれは、まさしく安楽椅子の名が相応しい。

「……凄いのね」

 意識せず、言葉がマミの口を衝く。

「何が?」
「全部よ」

 ちょっぴり口を尖らせてマミが返すと、アイは肩を竦めて頷いた。

「両親がお金持ちだったからね。伯父は外科の医長をやってるし、それなりに余裕はあるんだよ」
「伯父さんが居るの?」
「あぁ、ボクの後見人さ。独り身で家族が居ない分、可愛がって貰ってるよ」

 そう言ってアイは本棚を見遣る。マミも同じく。

 やはり凄いと、マミは思った。整然と並べられた蔵書は壁を覆い尽くすほどで、その数は合わせて一万を超えるだろう。もちろんそれだけの本が病室に備え付けてあるはずもなく、アイの私物なのだと考えられる。一体どれだけのお金が掛かっているのか、考えるだけでも頭が痛くなりそうだ。またそれは、彼女が過ごした孤独の証と言えるのかもしれない。

 自らの膝元に目線を落とし、マミは密やかに息を吐き出した。

 僅か一日。マミとアイが出会ってから経過した時間は、たったのそれだけだ。相手の事情も性格も、まだまだ知らない事の方が多い。ただそれでも、アイの境遇が尋常ではない事くらいは、マミも理解し始めていた。

「本、読むの?」
「暇があればね。出たくても病室から出れない日があるから、そういう時はたくさん読むよ」

 たぶん悲しい話をしているのに、アイの声は明るい。それがマミには、逆に辛かった。

 これまでマミの周りには、本当に不幸だと言える人は居なかった。いわゆる普通の人ばかりで、悲劇なんて言葉は、テレビや本の中にしか存在しなかったのだ。だからどんな言葉を掛ければ良いのか、正直マミには分からなかった。

「じゃあ今度からそういう日は、私の話し相手になって貰おうかしら」

 マミにとっては苦し紛れの言葉に過ぎない。何も思い付かなかったから口にした、よくありそうな同情だった。

 しかしアイにとっては違ったようだ。急に黙り込んだ彼女は、真剣な顔をしてマミを見詰め始めた。居心地の悪い視線に晒されて、マミが顔を伏せる。するとアイは頬を緩め、柔らかな声音で呟いた。

「優しいね、マミは」
「……いきなり何を言うのよ」

 マミには意味が分からなかった。自分でも安っぽい同情だと感じているからこそ、素直にアイの言葉を受け取れない。そうして一層表情を曇らせるマミに向けて、アイは噛んで含めるように語り掛ける。

「長く病院に居るとわかるんだけど、人間って本当に強いんだよね。誰が見ても不幸で、もうどうしようもないって人でも、気付けば平気で笑うようになったりしてさ。不運な身の上に慣れちゃって、その中で人生を楽しもうとしちゃうわけ」

 人差し指をピンと立て、したり顔で話すアイ。それを黙って聞いていたマミの眼前に、アイは指を突き出した。

「でもこれは時間が経ってからの話さ。立ち直るにしろ開き直るにしろ、ね。その点でマミは違う。事故に遭ったばかりなのに、もうボクの心配をしてる。それはやっぱり、優しさだと思うよ」

 日溜まりのようなアイの笑顔。眩し過ぎる友達から目を逸らし、マミは膝に置いた手を握り締めた。

「…………私はそんな立派な人間じゃないわ」

 アイは優しいと言ってくれるけれど、やっぱりそれは間違っている、というのがマミの意見だ。たとえ本当に優しいのだとしても、それは”自分より可愛そうな子”が居るお蔭だと、マミは理解していた。もっと下があるから、もっと不幸な人が身近に居るから、自分はマシな方なんだという優越感。そんな醜い想いがあるからこそ、マミは余裕を持つ事が出来るのだ。

「なにを言うのさ。どんな形であれ、人を笑顔にしたなら誇るべきだぜ」

 確信に満ちたアイの声。そこには欠片の疑念すら感じられない。

「ボクは嬉しかった。それは絶対だ。だから、うん――――――ありがとうって、言わせてほしい」

 感謝するアイの表情は、やっぱり曇り一つ無い笑顔で、綺麗としか言えないものだ。

 なんて恥ずかしい子なんだろうと、マミは頬を真っ赤に染めた。アイの言葉はストレートだ。真っ直ぐに胸の奥を狙ってきて、深々と突き刺さる。慣れないマミにとって、それはなんとも面映ゆかった。

「……どういたしまして」

 誤魔化すようにマミが返せば、アイは嬉しそうに頷いた。そんな友達の反応が、マミはやっぱり恥ずかしい。あちこち視線を彷徨わせて、彼女は新たな話題を探す。扉を見て、床を見て、天井を見て、そして窓の外へ視線を遣り、マミは目を見開いて固まった。

「ん? どうかした?」

 マミの目線を追ったアイが、不思議そうに首を捻る。思い当たるものが無かったのだろう。マミにとっては当然の事だ。何故ならそれは、一般人には見付けられないのだから。文字通りの意味で目に映らないのだ。

 陽光で煌めく白い体毛。マミを見詰める赤い瞳。窓ガラスの向こうに佇む影は、マミがよく知る相手だった。

『近くに魔女が出た。さぁ、マミ。君の初仕事だ』

 キュゥべえ。マミの大切なお友達。自分にだけ聞こえるその言葉の意味を、マミは理解せずにはいられなかった。


 ◆


「コレがそうなの?」
『その通り。コレが魔女の結界さ』

 普段と同じ調子でキュゥべえが話す。いつもと変わらないその声を聞いていると、可笑しい事なんて何も無いような気になってくる。だがマミの眼前にある光景は、間違い無く日常から逸脱していた。

 現在、マミは病院の屋上に立っている。彼女がアイと出会ったその場所には、明らかに昨日と違う所があった。エレベーターの扉の真横、風雨で少しだけ汚れた壁面に、放射状の罅が走っている。罅の周辺は陽炎みたいに歪んで見え、どこか空気が澱んでいるように感じられた。明確な形で視認する事は出来ないが、そこにはたしかに”何か”がある。

『マミ、君は力の使い方を覚えた。あとは実戦で慣らしていくんだ』
「わかってる。私は魔法少女で、魔女と戦う使命があるんだから」

 緊張にわななく手を握り締め、マミは深呼吸して目を瞑る。彼女はゆっくりと、キュゥべえに教わった情報を整理していく。

 この世界には、魔女と呼ばれる化け物が居るらしい。それは絶望や呪いから生まれた異形の存在で、放っておけば禍の種をばら蒔き、人の命を奪っていく。だからこそ人の営みを守る為に、魔女を退治する存在が必要となってくる。魔法少女とはつまり、魔女と戦う宿命を負った者の事だと、キュゥべえは言っていた。そして今のマミは、魔法少女の一人である。

 巴マミという少女は、本来なら既に死んでいる人間だ。交通事故に遭った彼女は酷い怪我を負い、その場で息絶える運命にあった。痛くて辛くて苦しくて、迫り来る絶望を受け入れるしかなかったマミの前に現れたのが、現在、彼女の足元に居るキュゥべえだ。

 キュゥべえの話は単純だった。一つだけ奇跡を叶える代わりに、魔法少女になってほしい。要約すれば、たったこれだけの事に過ぎない。そしてマミは望んだ。助けてと、ただそれのみを願って、彼女はキュゥべえと契約した。

 マミはキュゥべえに感謝している。今も彼女が生きていられるのは、キュゥべえのお蔭に他ならない。だからマミは魔法少女になった事を後悔していないし、新米ながら使命感だって持っている。あとは実際に魔女を倒せば、晴れて彼女は一人前だ。

「……ふぅ。それじゃ、始めるわよ」

 目蓋を上げ、マミは改めて壁の罅を睨む。彼女の手は未だに震えていたけれど、それでも瞳には決意が宿っていた。

 左手の中指に嵌めた指輪を、マミは優しく撫でる。直後、指輪が光を発し始めた。不思議と眩しくない閃光が治まると、マミの左手には、指輪の代わりに卵形の宝石が乗っていた。蜂蜜色をしたその宝石は、綺麗な細工が施された台座に収められている。ソウルジェムという名のこれは、マミの願いと引き換えに産み出された、魔法少女の証だった。

 マミがソウルジェムを握り締めた途端、彼女の全身は目映い光に包まれた。そして次の瞬間には、変身したマミの姿が現れる。ブラウスは純白で、スカートは琥珀色だった。腰には栗色のコルセット、首元には蜂蜜色のリボンがある。足はニーソックスとブーツに包まれ、頭にはベレー帽が乗っていた。そして大きな花の髪飾りには、形を変えたソウルジェムが嵌め込まれている。

『変身は上手くいったね。さぁ、次は結界への入り口を開くんだ』

 黙って頷き、マミは壁の罅に手を翳す。小さくガラスの割れるような音が響いたかと思うと、そこには異空間への扉が開いていた。時空の裂け目とでも言うべきか、ヒト一人通れるほどの四角い穴が宙に浮かび、表現し難い色で塗り潰されている。

 マミが喉を鳴らす。結界は魔女の隠れ家だ。つまり彼女は、これから敵の本拠地に乗り込む事になる。

「よしっ。行きましょう!」

 自分を勇気付けるように声を張り上げ、マミは胸を張って歩き出した。
 一歩進み、二歩進み、そして――――――結界に侵入する。

「ッ!?」

 変化は劇的だった。空の青は闇の黒へ、転落防止の柵は逃亡阻止の檻へ、そして床はぬかるむ泥に姿を変える。幅三メートルほどの緩やかな下り坂が、螺旋を描きながら奈落の底へと伸びていた。辺りに景色は無い。舞台の書き割りよりも殺風景な黒一色が、道を囲む檻の向こうを塗り潰している。まるで冥府に繋がる黄泉路みたいで、マミは知らず足を竦めていた。

 あまりにも趣味の悪い模様替え。怖くて、不気味で、気持ち悪い世界。しかし強烈にマミを苛んだのは、どうしようもない孤独感だった。彼女の知る現実と掛け離れ過ぎたこの場所は、否が応でも非日常の訪れを実感させてくれる。

 魔法少女は孤独な存在である、とはキュゥべえの言だ。なるほど、まったくもってその通りだとマミは納得した。誰かとこの世界を共有する事なんて出来ないし、誰かにこの異常を押し付ける訳にもいかない。ただひたすらに隠し、秘密にして生きていくしかない。今のマミは、日常から足を踏み外した存在なのだ。

『どうやらこの道に沿って進むしかないみたいだね』

 朗らかなキュゥべえの声が響く。ハッと顔を上げたマミは、急ぎ辺りを見回した。物思いに耽っている暇など無いのだ。ただ幸いにも敵の姿は無く、マミは胸を撫で下ろす。それから彼女は泥に埋まるキュゥべえを抱き上げ、自らの肩に乗せた。

「後で洗わなくちゃいけないわね」

 無理に笑って、マミはちょっとだけ気を紛らわせた。

『そうだね。さて、進もうか。説明した通り、ここは魔女の住処だ。必ず魔女に辿り着く道は存在する』

 キュゥべえの指示に従い、マミは坂をくだり始める。泥の道は歩きにくいが、思わずこけるほどではなかった。それでも体力は奪われるし、精神的にも疲れが増す。魔法少女になったばかりのマミにとって、それは大きな負担となっていた。

 十分も経てば、マミの額に汗が滲み始める。幾分呼吸も乱れ、顔には苦悶の色が表れていた。それでも足取りはしっかりしており、その速さも衰えていない。さながら意地を張った子供のように、マミは一心に歩き続けている。

『静かな場所だね。使い魔の影すら見当たらない』

 マミが小さく首肯する。口は開かない。そんな余裕は、既に彼女の中から消え失せていた。

 キュゥべえの言葉通り、ここは静かな所だ。檻の外には何も無く、檻の中には坂道しかない。だから音の無い世界を、マミはひたすら下へ向かって進んでいく。いや、これはもはや落ちていくと表現した方が良いのかもしれない。深く暗い闇の底へと、一人ぼっちで転がり落ちているのだ。まるで魔法少女になった自分の行く末を暗示しているようで、マミは可笑しな気持ちになった。

『疲れているみたいだけど、大丈夫かい?』
「大丈夫よ。私は、大丈夫だから」

 マミが答える。自嘲を形作る口元を、彼女は隠そうともしなかった。

 道はまだまだ先がある。螺旋を描いて闇の中へと消えていく。本当に終わりがあるのだろうか。死ぬまでここから出られないのではなかろうか。胸に浮かんでは消えていく疑念が、容赦無くマミの心を責め立てる。

 既にマミの集中力は切れていた。当たり前だ。少し前まで普通の少女をしていた彼女にとって、この空間はあまりに冷たく不気味だった。それでも歩みが止まる事は無く、色彩にも変化にも乏しい世界で、彼女は延々と足を動かし続ける。

 あと少し。もう少し。口には出さない呟きで、マミは自分を励ましていた。その手には一丁のマスケットが握られている。銀色の銃身を持つそれは、魔法によって産み出された彼女の得物だ。敵に対処する為ではなく、心の支えとして彼女はそれを頼りにしていた。

『マミ、頑張って。魔女の居場所はもうすぐだよ』
「……そうみたいね」

 微弱だが、たしかに感じる嫌な気配。それを認識したマミは、緊張で体を固くする。あと少しで魔女との初戦闘だ。気合いを入れようと、マミはマスケットを握る手に力を籠めた。

 その瞬間。

「――――え?」

 突然の浮遊感。思わず伸ばされたマミの手が、何も掴めず空を切る。見上げた彼女の視界には、崩れる足場が映るのみ。状況に理解が追い付かない。対処法などある訳ない。呆然と目を見開くマミは、そのまま重力に囚われた。

 ただ、落ちていく。何も出来ずに、落ちていく。

 眼下に広がる深淵。辺りを囲む暗黒。落下という事実すら曖昧になる空間で、マミは無心でマスケットを掻き抱いていた。キュゥべえの声は届かない。覚えた魔法も使えない。混乱した彼女の頭は、ひたすらに誰かの助けを求めていた。

 だがそんな”優しい時間”は、すぐに終わりを告げる。

「ヒッ」

 マミの喉が引き攣った。

 初めに聞こえたのは金属音。次に響いたのは重低音。そして最後に、甲高い咆哮。空気を震わせマミを震え上がらせたそれらの音は、闇の底から襲ってきた。何も見えないその奥で、愚かな獲物を待っていると、魔女が告げてきたのだ。

 理解する。どうしようもなく、マミは理解する。ここは魔女の腹の中だ。何も出来なければ消化され、抵抗するだけでも消化され、相手を打倒しなければ自分が喰われる世界だ。そして今のマミは、正に消化寸前だった。押し寄せるは津波の如き死の予感。抗う気力を根こそぎ奪い去る恐怖を前にしたマミは、どこまでも無力な少女に過ぎなかった。

 嫌だ。それは、マミが思い浮かべた最初の言葉。
 嫌だ。これは、二番目に出てきた彼女の言葉。

 ――――――助けてッ!!

 三つ目の言葉は、いつか彼女が願った祈り。
 だからきっと、それは二度目の奇跡だった。

『リボンを使うんだ!』

 マミは反射的にリボンを解く。腕を掲げて魔法を使う。直後に光るリボンが、遥か上空を目指して伸びていく。その光景はまるで、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようだった。若干の間を置いて落下が止まり、マミはリボンに掴まったまま宙で揺れる事となる。

 驚きに染まった顔で、マミはボンヤリとリボンの先を見上げた。蜂蜜色のリボンは、闇の奥へと消えている。おそらく崩れていない足場に届いたのだろうが、なんにせよ彼女が助かったのは偶然だ。とにかく死にたくない一心で、マミは魔法を使っていた。考えなんて無かった。それが奏功したのは、本当にたまたまとしか言えない。それでも命を繋げた事に安堵し、彼女は涙の滲んだ目を拭った。

「ありがとう、キュゥべえ。お蔭で助かったわ」
『どういたしまして。それより下を見るんだ。魔女が居るよ』

 ビクリとマミが体を揺らす。次いで彼女は、恐る恐るといった様子で下方を覗き込んだ。大きく口を開けた深淵は、やはり先を見通せない黒一色であったが、一点だけ先程までとは違う所があった。

 化け物が居る。マミを殺そうとする化け物が居る。全貌は影となってよく分からないが、真っ赤に光る二つの目だけはハッキリと見えた。否、正確には目ではない。炎だ。血の色をした炎が燃え上がり、妖しく揺らめいていた。

 魔女の影が不気味に蠢く。一軒の家にも匹敵しそうなほど巨大なソレは、耳障りな声を上げながらマミが落ちてくるのを待っていた。

 マミの相貌が歪む。殺されると恐怖した。敵うはずがないと嘆いた。それでも彼女が絶望しなかったのは、たった一つの願いがあったからだ。死にたくない。その一念が、折れそうなマミの心を支えている。

 殺されたくない。生き延びたい。マミの頭にはそれしか残っていなかった。

「あ……あぁ…………」

 だから殺す。魔女を殺す。殺される前に必ず殺す。マミの答えは、それ一つ。

「あぁああぁぁぁぁ!!」

 銃声が響き、魔女の巨体に火花が咲いた。マスケットが火を噴いたのだ。

 なおも銃口が魔女を狙う。だが、幾ら引き金を引いても弾は出ない。弾切れだった。歯を食い縛ったマミが、魔女に向けてマスケットを投げ付ける。遥か下から届いた打撃音。だがそんな事はどうでもいい。新たなマスケットを造り出し、マミは再び魔女を狙う。

 二丁目が唸り、三丁目が咆哮する。撃っては投げてを繰り返し、マミは次々と攻撃を加えていく。加減はしない。確認もしない。ただ魔女が息絶える事を願い、死に絶える事を望み、彼女は狂ったように引き金を引き続けた。指が痛くても気にしない。腕が疲れても関係無い。マミがやる事は一つで、考える事も一つで、目的だって一つしかなかった。

 射撃音が続く。打撃音が繰り返す。闇に支配された空間で、延々と同じ音が響き渡っていた。

「はぁ、はぁ……」

 やがて数えるのも嫌になるほどのマスケットが消えた頃、ようやくマミは銃撃を止めた。眼下では魔女が輝く粒子となって消え始め、徐々に結界の崩壊も進んでいる。それらを十分に確認した彼女は、構えていた腕をやっと下ろす事が出来た。同時に、結界が完全に消失する。辺りの風景はいつもと同じで、白い日射しが眩しかった。

 マミの変身が解ける。未だに息を荒げたままの彼女は、膝に手をついて肩を上下させた。そんなマミの視界に、トコトコ歩くキュゥべえの背中が映る。キュゥべえが向かう先には黒い宝石が落ちていた。針で串刺しにされたような形で台座に収まる、黒い球体の宝石。その傍に佇み、キュゥべえはマミを仰ぎ見た。

『よかったね、マミ。ちゃんとグリーフシードが手に入ったよ。魔力を消費したらソウルジェムは濁り、魔法少女の力は落ちていく。それを浄化するには、このグリーフシードが必要なんだ。今日のマミはかなり消耗したみたいだから、さっそく使ってみるといい』

 滔々とキュゥべえが解説する。だがそれを聞いても、マミが顔を上げる事は無かった。

 魔女を倒したのだと、マミは今更ながらに実感する。あの恐怖した相手を、殺されると感じた相手を、マミは打倒したのだ。結局最後まで魔女の姿は判然としなかった。着弾の火花で確認出来たのは、長い刃と髑髏の面。それを認識したマミは、やはり化け物なのだという印象を強めていた。そして魔法少女である彼女は、その化け物を退治する使命を背負っている。

『マミ?』

 キュゥべえの問い掛けには答えず、マミは黙って空を仰いだ。青空には白い雲が浮かんでいる。いつも通りの空だ。けれど今の彼女には、それがどこか可笑しいもののように感じられた。これが当たり前だというのに、つい結界の中の光景が頭をよぎる。

 マミは化け物を殺した。常人なら一生掛かっても出来ない事を、彼女は成し遂げた。それはやっぱり、彼女が普通ではなくなったからだ。日常を踏み外した自分は、もう戻れない位置に居るのだと、マミは泣きたくなるほどに理解した。

「私、魔法少女になったのね」

 誰に聞かせるでもない呟きが、青空の向こうに霞んで消えた。




 -To be continued-



[28168] #002 『笑顔でいてほしいんだ』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/06/05 20:35
「これで、終わりよ――――ッ!」

 轟音が響き、閃光が闇を裂く。爆炎に包まれた異形の魔女は、断末魔すら残せず消滅した。後には立ち込める噴煙と崩れゆく世界のみ。その光景を、一人の少女が眺めている。魔法少女に変身したマミだ。大砲と呼んでも差し支えないほど巨大な銃を抱えた彼女は、結界が消え去るのを確認すると、胸を撫で下ろして微笑した。

 巨大な銃をリボンに変え、次いで変身を解いたマミ。学校の制服姿に戻った彼女は、まず辺りに人目が無い事を確認した。先程の魔女が潜んでいたのは、マンションを建設中の工事現場だ。作業員の事故死が相次いで噂になっており、現在は一時的に工事が中断していた。これも魔女の生んだ災厄の一つである。ただそのお蔭で人影は無く、マミの姿が見られる心配も少なかった。

「今回もグリーフシードが手に入ったわね」

 剥き出しのコンクリートに落ちていたグリーフシードを拾い上げ、マミが呟く。

 マミが初めて魔女を退治してから、既に一月が経過していた。その間に彼女が戦った回数は二十近いが、手に入れたグリーフシードの数はたったの十個。それはマミが、魔女の使い魔も倒しているからだ。使い魔とは魔女の手下のような存在であり、力が弱く、グリーフシードも落とさない。けれど放っておくと人を殺すし、やがて魔女に成長するので、マミは見付け次第排除しているのだ。

『マミは真面目だね。わざわざ使い魔を相手するなんて』

 非難するでも呆れるでもなく、淡々とした調子でキュゥべえが喋る。

 ただ使い魔を倒す事に旨味は無い。それは魔力を消費するだけの戦いであり、魔法少女にとって負担にしかならない。大元の魔女を探し、邪魔な使い魔のみを殺す。あるいは魔女に育ち、グリーフシードを産み出すようになってから倒す。それが効率的な使い魔の狩り方だ。

『誰も君を称賛しない。それはつまり、誰も君を非難しない、という事でもある』

 だから、もっと手を抜いてもいい。いつも通り穏やかに、心配の欠片すら匂わせずにキュゥべえが告げる。それはたしかに事実の一端で、マミも否定はしない。どこまで行っても、魔法少女は孤独な存在だ。

「だからこそ、よ」

 鋭い声だった。発したマミは屹然と佇み、足元のキュゥべえを見詰めている。その蜂蜜色の瞳には、悲壮感にも似た決意が宿っていた。

「誰に自慢できる事でもない。ならせめて、自分に誇れる自分でありたい」

 孤独な存在なればこそ、支えられるのは自分しか居ない。それがマミの答えだった。満足はしていないし、寂しさだって消えてくれない。でもどうしようもなく理解しているから、そういう道だと納得しているから、惨めな生き方だけはしたくないと、彼女は心に決めていた。

「これっておかしな事かしら?」

 マミが浮かべた涙色の笑顔。それを見てもキュゥべえは、置き物みたいに相変わらずだ。

『君が納得しているなら、僕としても異論は無いよ』

 マミはちょっとだけ泣きたくなった。キュゥべえはいつもこうだ。否定もしなければ肯定もしない。ただあるがままを受け入れて、それを言葉にする。慰めるのが下手だし、アドバイスは的を外している事も多い。そんなキュゥべえの性格を実感する時、やっぱり自分達とは違う生き物なんだと、マミは悲しい気持ちになってしまう。

「まぁいいわ。それじゃ、帰りましょうか」

 諦めたように嘆息するマミ。そのまま歩き出した彼女の後ろを、キュゥべえが走ってついて行く。

『今日も病院に行くのかい?』
「そうね。まだ早いし、アイに会って行こうかしら」

 およそ三週間前に退院したマミは、現在、親戚が用意してくれたマンションに一人で住んでいる。そこから学校に通い、放課後には魔女を探す生活を続けていた。お蔭ですっかり友達付き合いが悪くなってしまったが、未だにアイとは頻繁に会っている。三日に一度は病院に足を運び、アイの病室や談話室などで話すのだ。マミがそんな事をする相手は、今やアイだけになっていた。

 認識の問題だと、マミ自身は考えている。巴マミという少女の人生は、ある日を境に二つに別れた。そう、彼女がキュゥべえと出会った日の事だ。魔法少女になった自分は、もはや以前の巴マミではない。そう認識しているからこそ、マミは昔からの友達に違和感を覚えていた。彼女らは”昔の”マミの友達であり、”今の”マミの友達ではない。そんな風に、マミは感じてしまうのだ。

 だから”今の”マミにとって、本当の友達はアイとキュゥべえだけだ。申し訳ないとは思いつつも、それがマミの本心だった。

『あぁ、そうだ。僕はそろそろ新しい魔法少女を探しに行く事にするよ』
「えっ?」

 なんでもない事のように告げられたキュゥべえの言葉が、マミの足を縫い付ける。

「そ、それって…………どういう事かしら?」
『この一ヶ月、僕はマミと共に居た。それは君が、魔法少女として十分な実力をつけるまでサポートする為だ。君はもう一人前の魔法少女になって、僕の手助けも要らなくなった。だから新たに契約してくれる女の子を探しに行くわけさ』

 立ち止まったマミの耳を、容赦無くキュゥべえの声が揺さぶった。

 話の内容を、マミは理解出来ない。否、理解したくない。だって、そうだ。今の彼女は友達が少なくて、特に魔法少女の事を話せる相手はキュゥべえしか居ない。そのキュゥべえが居なくなったら、魔女との戦いは完全に孤独なものになってしまう。

 嫌だ、とマミの心が叫ぶ。孤独は嫌だと、彼女は胸元を握り締めた。

 何か言いたい。だけどキュゥべえの言葉は正論で、間違いなんて欠片も無かった。そして自分が泣き付いたところで、キュゥべえは絶対に絆されないだろうと、マミは嫌というほど分かっていた。キュゥべえを説得するなら論理的な説明が必要だ。

「……そういえば」

 ふとある事を思い付き、マミが呟く。それはおそらく、悪魔の囁きと言うべきものだ。だけど考え始めれば止まらないし、止められない。一度でも思考の端に上ってしまえば、他の事など考えらなくなった。

 コクリと、細い喉が鳴る。マミは静かに、友達であるアイの事を思い浮かべた。

 絵本アイは、マミの大切な友達だ。明るく社交的で、たまに変な所もあるけれど、マミは彼女との関係を大事にしていた。そんなアイの抱える問題と言えば、やはり病弱な点が挙げられる。あの病室こそが我が家だと冗談を飛ばす彼女は、碌に学校にも通えていない。快方の見込みも少なく、現状では”奇跡”でも起きない限り一生このままだという話だ。

 だから。そう、だから――――――奇跡を起こしてしまえばいい。

「ねぇ、キュゥべえ。もし……もしもの話よ? もしもアイが奇跡を願ったら、彼女は魔法少女になれるの?」

 マミにとってそれは、とても素敵な提案のように感じられた。アイは健康体になるし、魔法少女になっても、マミが居れば一人じゃない。二人で頑張れば、魔女との戦いだって怖くない。それにアイが魔法少女になれば、また暫くはキュゥべえと一緒に居られるのだ。

 良い事尽くめだった。これ以上無いくらいの解決法だとマミは思った。期待に胸が膨らみ、自然と鼓動が速くなる。キュゥべえを見詰めるマミの瞳には、火傷しそうなほどの熱意が籠められていた。

「教えて、キュゥべえ」
『そうだね……まぁ、不可能ではないよ』

 俄かにマミの表情が明るくなる。そこには溢れんばかりの希望が満ちていた。

『だけどオススメはしない。絵本アイは魔法少女としての素養が低いんだ。まともに運動をした経験がほとんど無いという話だし、魔女との戦いになれば高確率で命を落とすだろう。たとえ君が一緒に居てもね』

 報告書でも読み上げるかのようなキュゥべえの声。そこに嘘が無い事を、マミは経験から知っていた。キュゥべえはいつだって事実だけを述べるのだ。だからアイが死ぬという推測も、十分に可能性のある話なのだと信じられる。

 だけどマミは諦めきれない。ほとんど反射的に、彼女は否定の言葉を口にしていた。

「で、でもっ」
『マミ。僕は君達を死なせる為に契約しているわけじゃないんだ。君だって友達を死なせたくはないだろう?』

 紅玉を思わせる二つの瞳に見返され、マミは何も言えなくなった。肩を落としてうなだれる彼女からは、先程までの輝きは感じられない。何度か口を開こうとして、それでも開けなくて、結局マミは、黙ったまま歩みを再開した。

 足取り重く、気分も重く、マミは街中を進んでいく。胸の裡には未だ燻ぶる願望と、強い自己嫌悪が渦巻いていた。

 たぶん調子に乗っていたのだと、マミは思う。初めての実戦以来、順調に魔女を倒し続けてきた。最近では苦戦らしい苦戦も無く、素早く戦闘を終える事が出来ている。だからいつの間にか彼女は、殺し合いをしているという意識に欠けていたのだ。

 命を落とすかもしれない戦いに、マミは大切な友達を巻き込もうとした。対価として奇跡を起こせるとはいえ、それはやっぱり酷い事だ。アイに対する申し訳なさがドンドン溢れてきて、マミは感情の行き場を見失ってしまう。

 だがそれでも――――――――それでもマミの足は、引き寄せられるように病院へと向かっていた。


 ◆


「なんだか元気が無いねぇ」

 訪ねてきたマミを見て、アイが最初に漏らした言葉だ。いつも通りベッドの上に陣取った彼女は、両手で顎を支えたまま、入り口のマミを眺めている。黒い瞳には少しの興味。しかし表面上はどうでもよさげに、アイはおどけた調子で言葉を続けた。

「ボクみたいな顔色してるぜ」

 アイが皮肉げに口元を歪めれば、マミは悲しそうに顔を歪めた。躊躇いがちに足を進め、マミは定位置となった安楽椅子に腰掛ける。椅子の揺れに合わせて、蜂蜜色の巻き髪が揺れた。そして愛らしい面立ちもまた、思案げに揺れている。

 何かある。誰の目にも明らかなマミの態度は、友達のアイにとってはより歴然だ。しかし話を切り出す切っ掛けを探しているように見えるマミに気付きながらも、アイは気にする事無く問い掛けた。

「悩みがあるんだね? なら話してごらんなさい。大丈夫。ボクが頼りないのは、この病弱ボディくらいなもんさ」

 なんてアイが嘯いてみても、マミの雰囲気はちっとも和らがない。物憂げな視線をアイに遣り、自らの頬に手を当てたかと思えば、マミは小さく嘆息してみせた。あんまりな友達の反応に、アイがションボリと肩を落とす。

 暫し、部屋の中に静寂が訪れた。相変わらず口を開こうとしないマミを観察しつつ、アイは枕を弄って暇を潰す。お気に入りの低反発枕をグニグニ揉んだり、両手で挟んで回したりと、彼女は幼子みたいに遊び続ける。その内それが楽しくなって、アイは状況も忘れて熱中し始めた。一方のマミはと言えば、相変わらずの思案顔。お蔭で病室にはなんとも言えない空間が出来上がった。

「……ちょっと、あなたに聞きたい事があるの」

 時計の秒針が何周かした頃、マミがポツリと呟いた。その声を聞き、枕と格闘していたアイが顔を上げる。二人の目が合い、見詰め合う。マミは怖いくらい真剣な表情をしていて、自然とアイの気持ちも引き締まる。

「病気を治して、健康な体になりたいと思う?」

 アイの虚を衝く質問だった。アイの事情を知って以来、マミがこの手の話題を振ってきた事は無い。当然だろう。治る見込みの少ない者にとっては、慰めどころか嫌味にしかならないのだから。それを察するほどには、マミは聡い少女だ。

 故にこの問い掛けは、かなりの決意を伴ったものだろう。だからアイも、ちゃんと考えて答えを返す。

「んー。治るなら治った方が良いかな。だってお金が掛かるじゃん。けどまぁ、それを除けばどっちでもいいよ」

 両腕を組み、もっともらしく頷アイく。その対応が気に入らなかった事は、マミの顔からすぐ読み取れる。

「ど、どうしてっ」
「オイオイお友達、そりゃないぜ。これまでボクの何を見てたって言うのさ。毎日楽しく、いつでも愉快に、ボクは充実した人生を送ってるつもりだぜ。アレをするなコレを食べるなっていうのはさ、ボクにとっては所詮いつも通りに過ぎないんだ」

 肩を竦めてアイが答える。口元に笑みを刻んだ彼女は、悲壮さの欠片すら感じさせない。

「運動しないヤツ。勉強しないヤツ。恋愛しないヤツ。人生には色んな選択肢があるけど、実際に選ばれるのはごく僅かだ。たしかにボクの選択肢は限られてるけど、それでも人生を楽しむには十分さ。今更別の可能性を与えられたところで、ボクにとっては贅肉に過ぎないよ」

 強がりである事を、アイは否定しない。治った方が良いに決まっている。だからこれはアイの意地だ。誇りと言っても良いかもしれない。完治の見込みが少ないからこそ、好き勝手に出来る人生ではないからこそ、アイは悲観的に生きる事が嫌だった。悲しまれる事も嫌だった。限られた人生だからこそ、それを十分に謳歌する。ずっと前から、彼女はそう心に決めていた。

 何か言いたそうにしながらも、マミは口を開く事が出来なかった。ただ俯き、彼女はギュッと手を握る。

 アイは何も言わない。当人以外が納得するには、少々時間が掛かる話だと理解しているからだ。彼女は枕を抱っこしたまま、マミが整理し終えるのを待つ。余計な事は何もせず、穏やかな雰囲気を漂わせて、アイは友達を眺めていた。

「ごめんなさい」

 唐突なマミの謝罪。蜂蜜色の瞳は、変わらず下を向いていた。

「意味がわからないな。心配されたら嬉しい。ボクはそういう感性の持ち主なんだよね」
「それでも、ごめんなさい」
「気にしないでよ。ボクみたいなヤツを見れば、誰でも一度は考える事さ」
「……それでも、よ」

 アイの口がヘの字に曲がる。むぅと唸り、彼女は抱えた枕を折り曲げた。

 今日のマミはなんだか頑固で、アイとしても戸惑いを隠せない。そもそもアイにとって、この問題は大して深刻なものではなかった。大体マミがここまで自責の念に駆られる理由が、彼女には分からない。たしかに無遠慮な質問だったかもしれないが、当人であるアイが気にしていない以上、マミが重く捉える必要も無い。実際、普段の彼女なら既に立ち直っているはずだ。

 だがいくらアイが悩んでみても、答えは一向に出てこない。思い当たる節も無い。つまり原因は、アイの与り知らない所にある訳だ。

「ま、いいけどね。反省するのは悪くないし」

 結局アイは、考えるのを止めた。無駄に悩んでも事態は好転しない事を、彼女はよく知っている。
 さて別の話題に移ろうかとアイが口を開こうとしたその時、マミが先んじて声を上げた。

「あのね、アイ」
「なにかな、マミ」

 刹那の沈黙。だがすぐにマミは話し始めた。

「最近の私は幸せだった。幸せ過ぎた。それがいけなかったと思うの」

 マミの頭が可笑しくなった。一瞬、アイは本気でそんな事を考える。だってそうとしか思えなかった。幸せ過ぎたから駄目だなんて、何故そんな結論が飛び出てきたのか、アイには皆目見当もつかない。

 一体マミに何があったのか。先程は無視した疑問が、再びアイの中で首をもたげた。

「だからここには、暫く来ないつもり」
「……は?」

 ポカンと、間抜けに開いたアイの口。

「ちゃんと頭が冷えたらまた来るわ」
「え? ちょっと、マミ!?」

 いきなり立ち上がり、マミは入り口の方に歩き出す。アイが手を伸ばしても止まる事無く、彼女の背中は遠ざかっていく。混乱した頭では適切な言葉が浮かぶはずもなく、アイは只々見送る事しか出来なかった。

「またね、アイ」
「あ……」

 最後に振り返り、それからマミは、扉を開けて病室を去っていく。その瞬間まで、アイは腕を伸ばした姿勢で固まっていた。

 部屋の中に静寂が戻り、アイは落ち込んだ様子で嘆息する。まったくもって訳が分からなかった。状況に理解が追い付かない。一体マミの頭ではどんな化学反応が起きたというのか、アイには予想もつかなかった。

「一体なんだっていうのさ」

 疲れた声が、広い病室に虚しく響く。


 ◆


 マミが病院を訪ねなくなってから二週間が過ぎた。案外すぐにまた遊びに来るんじゃないかと期待していたアイは、当てが外れてガッカリしている。いつも以上に病室から出なくなった彼女は、ダメ人間そのままといった態度で、ダラダラとベッドに寝転びながら本を読み続けていた。お蔭でベッドの周りには、数えるのも億劫になるほどの本の山が積み上げられている状態だ。

「だうー」

 横になったまま伸びをしたアイが、気の抜けた声を出す。真っ白なシーツの上には本が散乱し、彼女の矮躯を半ば埋もれさせていた。その中から適当な一冊を手に取ったアイは、パラパラとページを捲っていく。だがそれもすぐにやめて、彼女は眠たそうに目を擦る。

 趣味の読書も気が入らず、近頃のアイはすっかり腑抜けていた。別にマミと会えない事自体は、彼女も大して気にしていない。気に掛かるのはマミが会おうとしない理由だ。最後に交わした会話の意味が未だに分からず、アイの心に影を落としていた。マミは性根の素直な女の子だ。だからその真意が見えないというのは、アイにとって些か気味の悪い事だった。

「最近ダラけ過ぎだ。看護師も困ってるぞ」

 飛んできた声の主を探せば、そこには雅人が立っていた。その姿を捉えたアイは、ノロノロと面倒臭そうに体を起こす。ベッドに腰掛けた彼女は、寝惚け眼のまま前後に船を漕ぐ。今にも目蓋が落ちそうな様子だが、彼女はどうにか口を開いた。

「むー。なにか用?」
「暇ができたから顔を見に来た。まったく、今より体力が落ちたらどうするんだ」

 ベッドの傍に立ち、雅人はアイの頭に手を置いた。そのまま軽く撫で始めた彼は、上を向いたアイの顔を覗き込む。

「ふむ。特に顔色は悪くなさそうだな。普段と同じ蒼白だ」
「ちゃんと診察は受けてるよ。薬も欠かしてないし、食事だって残してない」

 大人しく頭を撫でられながらも、アイは不満げに口を尖らせる。だが特に言葉を続ける事も無く、彼女は小さく欠伸した。

「いつもの生意気さが足りんな」
「……今日は子供扱いするねぇ」

 頭に乗った手をはたき落とし、眠気を払うようにかぶりを振るアイ。そんな彼女を見て、雅人は低く笑った。

 なんだか調子が悪いと、アイは不貞腐れる。上手く頭が回らないというか、気持ちがノらないのだ。どうにかしたいが、今のアイには良い解決策が思い浮かばない。そうして唸りながら雅人を睨んでいた彼女は、ふと何かに気付いたように手を叩いた。

「そうそう、欲しい本があるんだよね」
「いつも通り勝手に注文すればいいだろう。何が欲しいんだ?」

 アイはニコリと微笑んだ。

「エロ本ちょーだい」

 空気が固まった。雅人は凍った。痛いほどの静けさが支配する中で、アイだけが童女のように笑っている。

「エロ本が欲しいんだ。金髪縦ロールの美少女が、すっごいアレなコトされるヤツ」
「な、な……何を言っとるんだ!」

 雅人の怒鳴り声が木霊する。しかし馬耳東風と言うべきか、アイは微塵も気にした様子が無い。大袈裟に肩を竦めた彼女は、呆れたとばかりに息を吐く。そして急に表情を引き締めたかと思うと、アイは真面目くさった声で反論した。

「子供じゃないんだ。ボクだってオナニーくらい知っているとも」
「お前はまず恥を知れ! このバカッ!!」

 顔を真っ赤にして起こる雅人を無視して、アイはケタケタと笑い声を上げた。それを見た雅人が拳を震わせ、歯を食い縛る。怒り心頭に発するといった様子の雅人だが、アイの余裕は崩れない。そうして必死に怒りを堪えていた雅人は、しかしふと表情を緩めて苦笑を刻んだ。

「ま、少しはマシになったようだな」
「…………なんだかなぁ。大人ってズルいよね」

 毒気を抜かれたと、アイが肩を落とす。ベッドの上で膝を抱え、彼女は頬を膨らせる。

 こんな時、自分はまだまだ子供なんだと、アイは実感させられる。大人は凄い。耐える事に慣れていて、受け流すのも上手い。特にアイの周りに居る大人は余裕がある人達ばかりだ。医師や看護師という職業柄の所為か、ちょっとやそっとでは動じてくれない。アイ自身もそういった面ではそれなりに自信があるが、時にやり込められてしまう事実は否めなかった。

「とりあえず、こんな冗談は二度と言うな。頭が真っ白になったぞ」

 コツンと頭を叩かれたアイが、小さく頷く。

「それで、例の友達とはまだ仲直りできてないのか?」
「別に喧嘩してるわけじゃないけどね。まぁ、二週間くらい会ってないよ」

 雅人はそうか、とだけ答える。温かな視線はアイに続きを促していた。

「気に食わないのはさ、理由が全然見えてこないこと。どんなに頭を絞ってもこの状況と結びつかないんだ。それがムカつくし、イラつく。隠し事があるのは分かる。話し辛いのも理解できる。けど話してほしい。そうすればボクなら、きっと解決してみせる」
「自信家だな。いつもの事だが、感心するよ」

 アイが鼻を鳴らす。それから呆れ顔の雅人を睨んだかと思うと、彼女はすぐにソッポを向いた

「強がりに決まってるでしょ」

 小さく、それでいて芯の通った声だった。

「ボクには力が無い。立場も無い。有るのは言葉だけだ。だったらそれを使うしかないじゃないか。磨くしかないじゃないか。ボクはこんな体で、不器用で、何をやっても人並み以下だけど、言葉だけは自由にできる。誰かを喜ばせる事だって、できるんだからさ」

 絵本アイは頭が良い。しかし彼女はそれだけだ。体は病弱で、手先は不器用。音楽などの特別な才能だって欠片も無い。故にアイは無能な人間だ。少なくとも本人はそう捉えている。せめて学校に通えていれば違ったのだろうが、病院に籠ったままの彼女にとって、ちょっと賢しい程度の頭脳は無価値だった。

 助けられるしか能が無い。アイはそんな自分が嫌いだった。だから出来の良い頭で考えた。熱が出るほど考えた。誰かを助けられる人間になりたくて、彼女はとにかく考えた。そうして悩み抜いた末の結論が、言葉を上手く使う事だ。

 人間は強い。アイから見ても不幸としか言えないような状況でも、笑って日々を過ごす人が居る。それは何故か。別に病気が治った訳ではないし、怪我が治った訳でもない。あえて言うなら心が治ったのだ。大事なのは心の在り方で、心に余裕があれば逆境でも潰れる事が無い。そして言葉なら、人の心に直接届く。アイでも使えて、アイでも助けられる。彼女はそう考えたのだ。

「弱音は吐かないし、不安も口にしない。それは周りに心配させるから。強気は見せるし、自信は表す。それなら周りも安心するから」

 そこで一旦言葉を止めて、アイは雅人を見上げる。彼の鋭い瞳には、只々真剣な光が宿っていた。

 アイにとっては口が滑ったようなものだ。これまで誰にも話した事は無かったし、これからも話すつもりは無かった。それを雅人に聞かせたのは、アイ自身が感じていた以上に苛立ちが溜まっていた所為だろう。だからそれを、伯父である彼に吐き出したのだ。

 甘えている。かつてアイが口にしたそれに嘘は無い。言葉では消せない血縁という関係を、彼女はそれなり以上に大事にしていた。事実、こんな話を真面目に聞いてくれる雅人の姿を見ると、伝えて正解だったとアイは思う。

 だからアイは、もう少し自分語りを続ける事にした。

「ボクがマミを気に入ってるのはさ、あの子が弱いからなんだ。体は強いし、運動もできるけど、心だけはとても弱い。物事を真面目に捉え過ぎるし、考え過ぎる。力を抜くのは下手な癖に、自分を責めるのは妙に上手い。そんなあの子が、ボクは大好きだ」

 マミと初めて会った時、アイは一目で彼女を気に入った。弱々しくてオドオドしてて、今にも溺れ死にそうな感じが好きになった。だからアイは、彼女に手を差し伸べたのだ。救ってあげたくて、笑わせてみたくて、彼女と友達になったのだ。

 巴マミは絵本アイを憐れんでいる。それと同じように、絵本アイも巴マミを憐れんでいる。互いに互いを憐れんでいて、互いが互いを支えようとしている。一見すれば美しく、その実どこか歪んだ関係が、彼女ら二人の友情だった。

「助けてあげたい。いや、もっと上から目線で”助けさせろ”かな。うん、ボクがマミに感じてるのはそういう気持ち。だからイライラするんだね。ボクの知らないトコで勝手に悩んでんじゃねぇ、って感じでさ」

 納得したと、アイは一人で頷きを繰り返す。胸のつかえが下りたのか、その表情は幾分柔らかだ。

「……はぁ。色々と言ってやりたいが、いい言葉が浮かばん」
「勉強不足だね、お医者さんなのに」
「俺の専門は外科なんだよ」

 雅人が盛大に溜め息をついた。皺の目立ち始めた顔には疲れが滲み、やり切れなさが溢れている。

「ま、ボクの話を聞いてくれてありがと。ちょっとは気が楽になったよ」
「それはようございましたね」

 投げ遣りに返す雅人。ただその目には、心配と安堵が覗いていた。それに気付いたアイの雰囲気が、ますます楽しそうなものへと変わる。ありがとうとごめんなさい。二つの気持ちを胸に抱いて、彼女は伯父と向かい合う。

「先に言っておくよ。ごめんね」

 怪訝そうにする伯父に、アイは静かに微笑む。優しくも、どこか嗜虐的な表情だ。

「会って、話して、笑い合う。結局ボクにはそれしかないのさ」

 最後にアイが告げたのは、たったそれだけの言葉だった。


 ◆


「もう二週間も経つのね……」

 誰にも届かない呟きが、ビルの谷間に消えていく。発したのはマミだ。日の当たらない裏路地から姿を現した彼女は、そのまま人の流れに紛れていった。夕焼けに染まる大通り。同じ学校の生徒もチラホラ見掛けるその場所を、マミは一人で進んでいく。

 二週間。それはマミがアイと会わなくなってからの時間だ。同時に、キュゥべえと別れてからの時間でもある。以来彼女は、放課後の街を一人で彷徨いながら、日々魔女退治に勤しんでいる。その間に起こった戦闘は十回。手に入れたグリーフシードは七個。順調と言えるだけの成果が出ているが、マミは素直に喜べなかった。

 一人は寂しい。この二週間を振り返っても、マミはそんな感想しか浮かばない。アイと会えなくて、キュゥべえも居なくて、たった一人で魔女と戦い続けるのは、やっぱり心が冷えてしまう。だがそう感じる事こそが、マミにとっては罪なのだ。

 寂しかったから、マミは友達を魔法少女にしようと考えた。馬鹿な思い付きだったと、今でも彼女は反省し続けている。アイが命を落とす確率が高いと注意されながら、マミは自らの感情を優先したのだ。人々を守る魔法少女としては失格だった。何よりアイ自身が奇跡を必要としていなくて、余計なお世話だったと思い知らされた事が大きい。

 だからこの寂しさを振り切らなければいけない。マミはそう決意していた。

「……まだ会えない。会っちゃいけない」

 小さな声で繰り返し、マミは鞄を持つ手に力を籠める。その間も足は動き、彼女はマンションのエントランスに進入した。慣れた足取りでエレベーター前に辿り着き、立ち止まってボタンを押す。エレベーターの到着を待つ間も、マミの思考は止まらなかった。

 あるいはこのまま、アイと会う機会を減らしていった方が良いのかもしれない。近頃のマミは、そんな事も考えるようになった。また変な考えを起こさないように、魔法少女という秘密を隠し続ける為に、友達付き合いは少ない方が良い。それが正しい魔法少女の在り方なのではないかと、マミは思う時がある。

「そうよね。本当は、そうした方がいいのよね」

 下りてきたエレベーターに乗り込み、嘆息するマミ。機械的に自室がある階のボタンを押しながらも、彼女は上の空で考え事だ。

 マミには自負がある。正義の魔法少女としての誇りだ。だからそれさえ失くさなければ、友達に会えなくても問題無い。本心では大丈夫だなんて欠片も思っていない癖に、彼女はそんな強がりをやめようとはしなかった。

 だって、そうだ。巴マミは魔法少女だ。強くて格好良くて、誰にも恥じない存在でなければいけない。弱音なんて吐けないし、弱みなんて見せられない。そんな強迫観念にも似た想いを、マミはその胸に抱いていた。

 エレベーターを降りたマミは、真っ直ぐに自分の部屋へ向かう。一人分の足音が通路に響き、彼女の後をついて行く。二週間前までは一緒だったキュゥべえも、今では影すら見る事が無い。

 俯いて歩くマミの表情は、影となってよく分からない。ただ彼女の足取りは、決して軽いとは言えなかった。静かに、ゆっくりと、マミは自室を目指す。その途中、彼女は不意に顔を上げた。特に理由は無く、本当にふと、そうした方が良い気がしたのだ。

 鞄の落ちる音が、通路に響き渡る。

「なん、で……」

 桜色の唇から漏れた、掠れた声。信じられないと見開かれた、蜂蜜色の瞳。只々呆然と、マミは立ち尽くす。
 理解出来なかった。意味が分からなかった。視界に映る光景を、マミは信じる事が出来なかった。

「ひさしぶりだね、お友達」

 手を振って笑みを浮かべるのは、マミが久しく会わなかった友達だ。その格好は見慣れた入院着ではなく、初めて目にする私服姿だった。水色の花をあしらった白く清楚なチュニックワンピースに、桜色のコットンカーディガン。明るく愛らしいその着こなしは、彼女の雰囲気をまったくの別物に変えている。普段はまさしく病弱少女という印象の彼女が、今は可憐な美少女然としていた。

 絵本アイ。待ち構えていた少女の名に確信を持ちながらも、マミは違和感を覚えずにはいられなかった。

「会いに来ちゃった」

 頬を染めたアイが舌を出す。恋人気取りとでも言いたげなおどけた調子は、まさしく彼女のもの。お蔭でマミも、ようやく再起動だ。まだ若干の戸惑いを残しながら、彼女はアイを目を合わせた。アイの黒い瞳は、いつも通り弾けんばかりの生気に溢れている。

「アイ……なの?」
「大正解。愛しのアイちゃんさ。抱き締めてくれてもいいんだぜ」

 おもむろに両腕を広げるアイは無視。マミはまず、浮かんだ疑問を投げ掛けた。

「どうやってここに来たの? 入院してたんじゃないの?」
「一つ目は住所を当てにGPS頼りで。二つ目は、うん。抜け出してきた」

 事も無げに返すアイ。だがその内容は、到底看過して良いものではない。

「――ッ。あなた病人でしょ!」
「病弱なだけだよ」
「一緒じゃないの!!」

 マミの怒鳴り声も効果は無い。知らぬ存ぜぬ。ボクには関係ございません、とばかりにアイは肩を竦めた。それが一層腹立たしくて、マミの頭に血が昇る。顔を真っ赤にした彼女の拳は、怒りのあまりわなないていた。

 だって、そうだ。アイは体が弱くて、一年のほとんどを病院で過ごしているような少女だ。外出するにも面倒な手続きが必要で、外泊するのは年に数えるほど。それは他ならぬアイ自身の言葉であり、だからこそマミは心配で堪らなかった。

 赤い顔をしたアイが憎たらしい。人の気持ちも知らない彼女が恨めしい。そんな感情から再び声を張り上げようとしたマミは、その直前でアイの可笑しさに気付く。今日の彼女は、あまりに血色が良過ぎるのだ。

 絵本アイは病弱だ。その顔色は常に幽鬼の如く青白くて、赤い顔をしたアイの姿を、マミは一度として見た覚えが無い。けれど今の彼女は違う。まるで只人みたいに色付いた面立ちは、アイに限って言えば不安しか呼び起こさない。

「あはは。今日のマミは元気だね」

 笑い声が反響する。二人だけの廊下に響き渡る。それが酷く不吉な音のように、マミには聞こえた。
 予感が現実に変わる。あれほど健康的に見えたアイの顔は、血を抜かれたかの如く色を失い始め――――――、

「ゆっくり話したいところ、だけ……ど…………」

 小さな体が、グラリと傾いた。表情は変わらないのに、まだ笑っているのに、アイは徐々に倒れていく。時の流れが遅くなったかのようにマミは感じた。水の中を進むみたいに全てがゆっくりで、マミに見せつけるかの如く緩慢だ。

 ゴメンと、マミはそんな声を聞いた気がした。


 ◆


 沈む、沈む、グルグル沈む。海の底へと、闇の果てへと、アイの意識が沈んでいく。誰の助けも無い。微かな光も無い。苦痛も無ければ、苦悶も無い。ただ沈む。沈んでいく。二度と這い上がれない果ての果てまで、アイの意識が引き摺り込まれる。

 いつの頃からか、アイは意識を失う度にこの夢を見るようになった。たぶん両親が死んでからだったと、アイは思う。そう、彼女の病気が治らないかもしれないと告げられた時から、この暗く寂しい世界が始まった。

 面白味が無ければ味気も無い、機械的に死の淵へと引き寄せられる夢。それはきっと、アイの抱く恐れだ。別に死ぬのが怖い訳ではない。彼女はただ、何も出来ずに死んでしまうのが怖いのだ。役立たずで終わる人生を、アイは何より恐れていた。

 でも、とアイは自問する。沈みゆく意識の中で、彼女は一人の少女を思い浮かべた。

 巴マミ。少し前に知り合った彼女は、アイにとって久し振りに出来た新しい友達だ。アイと違って体は強いのに、心がとても弱い女の子。不安がりな彼女を安心させる事が、最近のアイの楽しみだ。誰かの役に立てている。マミと話す時、アイにはそんな充足感があった。

 だからこんな夢は馬鹿馬鹿しい。こんな弱さは笑い飛ばせと、曖昧な思考でアイは誓った。

 不意に辺りが明るくなる。それは覚醒の合図だった。アイの意識が肉付けされ、徐々に感覚が戻ってくる。呼吸が、視界が、脈動が彼女の世界に蘇る。そうして”生き返った”アイは、重い目蓋を少しずつ開いていった。

 最初にぼやけた景色が目に入り、直後に彼女は人影の存在に気付く。ゆっくりと視界が明瞭になっていき、人影の正体も判明する。

「……あー、うん。ここはマミが看病してる場面だと思うんだよ。そう、オジさんじゃなくてさ」

 はたしてアイの視界には、仏頂面をした雅人が映っていた。普段と同じく白衣を来た伯父が、椅子に座って腕を組んでいる。アイが起きた事に気付いた彼は、すぐさま目を吊り上げた。

「このバカッ!! 少しは反省しろ!」

 頭に響く怒鳴り声に、アイはこめかみを押さえて蹲った。

「おおう。起きた直後にこれは辛いよ」
「自業自得だっ。それで、どこかおかしな所はあるか?」
「む……特に違和感は無いよ」

 アイが答えると、雅人は安堵の息を吐いた。次いで目元を緩めた彼は、疲れた様子で肩を落とす。

「手術を終えたらお前が消えたと聞くし、その次は救急車で運ばれてくるし――――――本当に胆が冷えたんだぞ」
「ん。ごめんなさい」

 頭を下げ、素直に謝る。それが出来ないほど、アイは捻くれた性格をしている訳ではなかった。何より初めから分かっていた事だ。周りに心配を掛ける事も、それがいけないコトだという事も、アイは理解した上で行動した。だから行動を終えた今、彼女はみんなに謝らなければいけないのだ。ついでに二度としないよう誓わされるだろうが、アイ自身も同じ事を繰り返すつもりは無かった。

「まったく。外出許可くらい暫く待てば下りるだろ」
「即断即決即行動。今回は少しでも早くマミと会いたかったんだよ」
「それでもだ。あの子も随分と心配していた。面会時間はどうにかするから、診察が終わったら会ってあげろよ」
「もちろんだよ。その為に病院を抜け出したんだしね」

 微妙な表情をした雅人は、けれど何も言う事無く立ち上がった。白衣の裾を翻し、彼は扉に向かって歩き出す。

「あれ、もう行くの?」
「空いた時間に来ただけだからな。すぐに高橋先生が来るだろうから、大人しくしてるんだぞ」

 最後にアイの主治医の名を口にして、雅人は病室から出て行った。ベッドの上からその背中を見送ったアイは、閉まる扉を確認してから、窓の外を見てソッと息をつく。青白い顔に憂いを滲ませた彼女の瞳には、ある種の決意にも似た何かが宿っている。

 たくさんの人に迷惑を掛けた。心配を掛けた。手間を掛けさせた。それが分からないアイではないけれど、彼女は欠片も後悔していない。こうしてベッドに臥している事まで含めて、アイにとっては想定の範囲内の出来事だった。

「だって無茶をすれば、優しいマミは話してくれる。隠し事なんて、二度としなくなるかもしれないじゃないか」

 抑揚の無い声が、夜の闇に吸い込まれていった。


 ◆


 数日は検査漬けだとか、またこんな事をしたら縛り付けるとか、当分は監視してやるとか、そんな津波の如き主治医のお小言をアイが聞き終える頃には、夜もかなり更けていた。窓の向こうに覗く月は随分と高くなっていて、普段のアイであれば、あとは読書で暇を潰すくらいしかやる事が無い時刻だ。

 しかし今夜は違う。アイの病室には友達であるマミが居て、なんだかお泊りみたいだと、アイは密かに気分を盛り上げていた。もっともそんなのはアイに限った話で、泣き腫らして両目を赤くしたマミには関係無い。いつもの安楽椅子に座ったマミは、ちっとも安らげていない顔をしていて、その潤んだ瞳は恨めしげにアイを睨んでいる。

 ジッと、無言でアイを見詰めるマミ。言葉は無くとも、そこには万感の想いが籠められていた。

「やー、大丈夫だと思ったんだけど、暫く碌に運動してなかった事を忘れててさ。ウッカリ倒れちゃったよ。あはは……は……」

 冗談めかして喋っていたアイの声が、尻すぼみに小さくなっていく。アイが浮かべるのは引き攣り笑いだ。まるで反応してくれないマミが相手では、流石の彼女も参ってしまう。誤魔化すように頬を掻きながら、アイは明後日の方向に視線を逃がした。

 沈黙が部屋を支配する。気まずさと痛々しさが辺りに満ち、アイは目を迷子にしながら言葉を探していた。ある程度はアイが予定していた通りの状況だ。マミに心配させて、二度と無茶をしないと約束する代わりに話を聞き出す。そんな風に、アイは自分自身を人質に取るつもりだった。けれど思った以上にマミの反応が過剰で、アイとしても攻めるに攻めれない状態だ。

「ごめんなさい」

 震えた声が空気を裂く。アイの発言ではなく、俯くマミが発したものだった。

「会いに来なくてごめんなさい。寂しい思いをさせてごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――ッ!」

 謝って、謝って、遂にはボロボロと涙を流し始めたマミを、アイが呆然と見詰めている。

 アイには意味が分からなかった。いや、意味は分かってもそこに至る過程が分からなかった。もし謝る必要があるとすれば、それはアイの方だ。絶対にマミではない。だけど現実にはマミが顔を歪めて、必死に許しを乞うている。自身の心にナイフを突き立て、傷付け、それでも彼女はアイの事だけを心配していた。責任なんて欠片も無いのに、マミは自分だけを責めるのだ。

 ここまで追い詰めるつもりじゃなかった。悩みがあるなら解決して、笑わせてあげるつもりだった。なんて言い訳じみた考えが浮かんで、アイは血が滲むほど唇を噛み締める。それは弱い言葉だ。弱い言葉は、絵本アイには要らない。

「謝らなくていい! 悪いのはボクだ。マミが謝る理由なんて一つも無い!!」
「ううんっ。私が馬鹿な事で悩むから、あなたを傷付けたのよ」

 傷付いてなんかいない。そう反論しようとしたアイは、それはマミを傷付けると口を噤んだ。

 もどかしさが胸を焼く。言うべき言葉が見付けられなくて、アイはそんな自分が苛立たしかった。言葉しかないのに。絵本アイの取り柄はくだらない言葉を弄する事しかないというのに、こんな時に限って役に立たない。慰めたくても慰められない。

 真っ赤な両目に濡れた頬。マミの相貌は後悔に染まっていて、それがアイには歯痒かった。だから彼女は考える。頭痛がしそうなくらい、知恵熱が出そうなくらい考える。悩んで悩んで悩み続けて、それでもアイは答えを出せなくて、苛立ちばかりが増していく。何一つ言えないけれど、何か言わなくてはと焦りが募る。彼女の頭は、今にもパンクしそうだった。

「……ありがとう」

 マミが目を丸くする。それはアイも変わらない。アイの意図したものではないのに、何故か口が止まらなかった。

「ありがとうって、思ってる。心配してくれてありがとうって、伝えたい。だから、だから――――ッ」

 それはたぶん本心で、それはきっと本音だった。だからこんな気持ちになるのだとアイは気付いてしまう。切なくて苦しくて、自分の感情が分からなくなるくらい胸が一杯になるのは、そこに不純物が無いからだと彼女は理解した。

「謝らないでよ。謝られたら…………悲しいじゃないか」

 アイの頬を雫が伝う。次々と涙が溢れて、途端に彼女の視界はぼやけ始めた。その様を、マミが息を呑んで見守っている。

 綺麗事は吐く。嘘もつく。お茶濁しのその場凌ぎだって口にする。普通の人でもやっているそれらの事を、アイはより有意的かつ日常的に行ってきた。だけどそれは悪意によるものではなくて、ただお互いに笑って過ごせるようにと願っての事だ。怒らせる時も心配させる時も、後で必ずプラスに変わると考えているから、アイは自信を持って行動出来る。

 だからこんな風に謝られると、アイはとても困ってしまう。マミが謝るのは、アイを大切に思う気持ちがあってこそだ。それはとても嬉しくて、喜ばしくて、けどそれ故にアイは、マミを傷付ける自分が嫌になる。

「友達には、笑顔でいてほしいんだ」

 捻くれているけど、捩じくれているけど、アイが抱く友情は本物だ。マミに笑ってほしい、喜んでほしい。その気持ちに嘘は無い。今回の騒ぎの発端も、結局はマミが悩んでいる事実に我慢出来なくなったからだ。

「私こそ、ありがとう」

 今度の感謝は、マミのもの。彼女はアイの手を取り、自らの胸元に導いた。

「こんなにも気に掛けてくれて、一人じゃないって教えてくれて――――――――本当にありがとう」

 微笑むマミは、ビックリするくらい綺麗だった。一瞬だけ見惚れて、すぐにアイも笑顔で返す。

「あははっ」
「ふふふっ」

 あどけない笑い声が響く。言葉は無くとも、二人の間にはたしかに通じるものがあった。互いに見詰め合い、そのまま静かに時が過ぎる。温かな空間がそこにはあった。ただ笑い合うだけの時間。たったそれだけの事なのに、それはとても心地良い。

「……ねぇ、アイ。私の話を聞いてくれる?」

 穏やかなマミの問い掛け。アイの返答は、もちろん決まっていた。




 -To be continued-



[28168] #003 『ボクの為の願いじゃない』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/06/26 20:55
「――――つまりマミは、命を助けてもらう代わりに魔法少女になったと、そう言いたいわけだね」

 丸みを帯びた顎に指を添えたアイが、真面目ぶった声で呟いた。

「えぇ、その通りよ。やっぱり信じられないかしら?」

 首を傾げるマミの顔は、不安と期待で彩られている。

 さもありなん、とアイが心中で独りごつ。実際、マミから伝えられた秘密はそれだけの重さを持っていた。魔法少女と魔女にまつわる話やキュゥべえという名の不思議な生き物の存在、そしてマミが交わした契約の内容。どれもこれも突拍子も無い事で、漫画やアニメの設定でも持ってきたのかというほどだ。信じろ、という方が無理な話だろう。

「で、どんな魔法が使えるの?」
「……信じるの?」

 目を丸くしたマミに、アイがふわりと微笑み掛ける。

「わからない。ボクにわかるのは、マミが”嘘”をついてない事だけさ。だからキミの”本当”を、ボクに見せてほしい」

 マミの右手を両手で包み込んだアイは、宝物に触れるかのように優しく摩った。俄かにマミの頬が赤く染まる。困り顔で眉尻を下げる彼女は、それでも滲み出る嬉しさを隠せていなかった。

 コホン、と一息。ちょっとだけ胸を張ったマミが、腰掛けている安楽椅子を撫でた。

「おおっ!」

 一瞬の閃光の後に、安楽椅子がその姿を変える。基本の形はそのままに、材質だけが大きく変化していた。艶やかな木材で構成されていた枠組みが、今では煌めく白銀製になっている。更には黄金が蔦のように絡められ、見事な模様を生み出していた。

 目を輝かせたアイがベッドから身を乗り出し、安楽椅子をペタペタ触る。冷たい金属の感触に驚き、本物だと分かって更にはしゃぐ。そんな友達の子供らしい反応を見守りながら、マミは得意げに説明を加えた。

「魔法による能力強化よ。この椅子は頑丈になったくらいだけど、武器に使えば威力も上がるわ」
「へぇ、便利そうだね。あっ、変身! 変身も見たい!!」

 年相応以上に幼さを感じさせるアイのはしゃぎよう。それに気をよくしたのか、マミの表情が柔らかくなる。

 安楽椅子から立ち上がり、部屋の中央へ進むマミ。そうして距離を取った彼女は、改めて正面からアイと向き合った。今のマミは制服だ。アイにとって見慣れたその姿で、マミは一つの宝石を掲げる。彼女の髪と同じ蜂蜜色をした、綺麗な卵形の宝石だった。

「これが魔法少女の力の源、ソウルジェムよ。そして――――」
「あっ」

 思わずアイが声を漏らす。全身を光に包まれたマミは、直後に魔法少女へと変身していた。

 雪色のブラウスに琥珀色のスカート、栗色のコルセットで発育の良い体を彩り、首元にはリボン、頭にはベレー帽と髪飾りでアクセントが添えられている。華やかさを醸しつつも、マミの落ち着いた雰囲気を損なわない衣装。その見事さに、アイは目を奪われる。

 素敵だと、アイは思った。マミの容姿によく似合い、魔法少女の称号にも相応しい。変身したマミはヒーローみたいでヒロインみたいで、惹き付けられずにはいられない魅力がそこにはあった。

「その、どうかしら?」
「すっごく可愛いし、格好良い」

 恥ずかしそうに尋ねるマミに、陶然としたまま応えるアイ。途端に耳まで赤くして、マミは慌てて口を開いた。

「こ、これが私の武器よっ」

 マミが取り出したのは、白銀の銃身を持つマスケットだ。魔法少女のイメージから離れたその武器を見て、アイは小さく噴き出した。それが気に食わなかったらしく、マミは頬を膨らせてソッポを向いてしまう。

「いいじゃない。これでも使い勝手が良いのよ」
「拗ねるなよ。ボクはマミらしくていいと思ってるんだぜ」
「……そうかしら?」

 首を傾げるマミに対して、アイは笑顔で手招きする。ニコニコ笑うアイを怪訝そうに見ながらも、マミは素直にベッドに近付いた。そうして互いに手が届く距離になった所で――――――――マミはいきなり腕を引かれた。

「きゃっ」

 体勢を崩したマミの顔が、軽い音を立ててアイの胸に着地する。同時にアイは、小さな頭を抱き締めた。細い指が蜂蜜色の髪を梳き、あやすように優しく撫でる。まるで子守唄でも歌うかのような声で、彼女は友達に語り掛けた。

「魔女って化け物なんだろう? 化け物と戦うのは、やっぱり怖いよね?」

 マミの肩が微かに揺れる。それだけでアイは多くを理解した。腕に力を籠め、アイは艶やかな金髪に頬を寄せる。見た目で言えばまったく逆なのに、彼女はまるでマミの母親のようだった。

「剣とか槍とか、傍で斬り合うなんて怖いに決まってる。だから銃が武器なのは、怖がりなマミに合ってるよ」
「私は、別に……」
「怖がりだよ。で、泣き虫だ。強がるのもいいけどさ、せめてボクには甘えてほしいな」

 耳元でアイが囁くと、マミは彼女の入院着を掴んだ。その力は弱く、先程までとは正反対の頼りなさだ。しかしこれこそがマミ本来の気質である事を、アイはよく知っていた。だから一層の優しさを籠めて、彼女は新たな言葉を紡ぐ。

「カッコつけてもいい。けどボクは、弱虫で泣き虫なマミが好きなんだ。その事だけは、ちゃんと覚えていてほしいな」

 素直に頷くマミを、アイは穏やかに見守っている。最後にポンと頭を叩き、彼女はマミを解放した。互いの体が離れ、改めて正面から向き合う。マミの頬は薄く色付いており、視線は僅かに逸らされている。くすりとアイが笑えば、マミは子供っぽく口を尖らせた。

「…………私がお姉さんなのに」
「エロい体してるもんね」

 マミの顔が真っ赤に染まる。反射的に胸を隠し、彼女はアイを睨み付けた。

「あなたが子供体型なのよっ」
「かぁいいでしょ?」

 小首を傾げるアイ。それを不満そうに見据えながらも、マミは否定しなかった。

 実際、アイの顔立ちは整っている。痩せぎすな手足や白過ぎる肌は魅力に欠けるかもしれないが、だからと言って面立ちの愛らしさが陰る訳ではない。丸みを帯びた女の子らしい輪郭に、アーモンド形の輝く瞳。綺麗に通った鼻筋も、形の良い薄紅色の唇も、可愛いという評価を与えるに相応しい。

 とはいえアイを美少女と称するには、その雰囲気が邪魔をする。長く艶の無い黒髪や青白い顔色は、どうしても彼女を幽霊のように見せてしまう。それを踏まえて考えれば、アイは残念美少女とでも言うべきなのかもしれない。

「ま、たしかにマミの方がお姉さんかもね」

 肩を竦めてアイが言う。

「こないだの健康な体がどうとかっていう話。その『契約』と関係あるんだろ?」

 途端に表情を強張らせたマミを見て、アイの目元が和らいだ。

「やっぱりね。そうだと思ったよ」
「でもキュゥべえが、死ぬ可能性が高いからダメだって――――ッ」
「それは魔女との戦いで? うん、ボクも死んじゃう自信があるよ」

 今にも泣き出しそうなマミに向けて、アイは安心させるように微笑んだ。

「大丈夫。別に契約したいわけじゃない。ただ、キュゥべえだっけ? そのナマモノ君とは会ってみたいな」
「……ならいいわ。でもナマモノだなんて酷いわね。私の大事な友達なんだから」

 胸を撫で下ろしたマミが、苦笑しながら文句を付ける。それを適当に流しながら、アイは思索を巡らせた。

 奇跡を起こす代わりに魔法少女となる。それはたしかにアイにとって魅力的な提案だ。健康な体になりたい。どんなに強がったところで、その希望はアイの中で燻ぶり続けてきた。もしも奇跡が叶うと言うのなら、すぐにでも飛び付きたい気持ちがアイにはある。

 けれどアイは躊躇していた。もちろん死んでしまうかもしれない、というのも理由の一つだ。彼女は自分の無力さをよく知っている。だがそれ以上にアイは、魔法少女という存在そのものに対する疑念あった。マミの話だけでは、色々と説明が足りないように思えたのだ。

 だからまずは、キュゥべえと呼ばれる謎の生物と話したい。全てはそれからだとアイは結論付けた。

「まぁいいわ。私もあなたにキュゥべえを紹介したかったしね。いつかはわからないけど、次に会ったら連れて来るわ」
「お願いするよ。ボクもマミの友達には興味があるからね」

 内に秘めた疑念を欠片も漏らさず、アイは明るい声で言い切った。


 ◆


 魔法少女という超常の存在を知ったからと言って、アイの生活が大きく変わる訳ではない。彼女は相変わらず病室を活動拠点にしていて、たまたま廊下で出会った知り合いと話したり、簡単な運動を心掛けたり、読書をしたりしながら日々を過ごしていた。少しでも変化があった事と言えば、それはマミとの会話だろう。三日に一度は訪ねてくる彼女は、自らの武勇伝をアイに聞かせてくれるようになった。

 だがキュゥべえとの顔合わせは、未だに果たせていない。マミも念話での呼び掛けを試みているらしいが、白い体を持つという謎生物は、中々アイの前に姿を現してくれなかった。そうして気付けば、二人の出会いから三ヶ月の時が経っていた。

「平和だねぇ。魔法少女とか魔女とか、そんな話が嘘みたいだ」

 のんびりとした声が青空を駆ける。発したアイは、かつてマミと知り合った屋上に立っていた。立派な造りの柵にもたれ、天を仰ぐ彼女。青白い相貌に宿るのは、どこまでも穏やかな色だ。辺りには誰も居ない。広い屋上でただ一人、アイだけがその身を日射しに晒している。

 アイの手が髪へと伸びた。そこには一つの髪飾りがある。大輪の花を模したそれは、マミから贈られた、彼女の愛用品と同一の物だ。少し前、マミの家に外泊した時にプレゼントされた品だった。今では毎日着けているアイのお気に入りだ。

 変化は無くとも、充実した日々だとアイは感じていた。マミと友達になってから三ヶ月が経ち、季節も移り変わっている。その間に深めたマミとの絆は、アイにとって掛け替えの無い大切なものだ。いつも話してばかりで、遊びに出掛けた事なんてほとんど無いけれど、それでも互いに向ける気持ちに陰りは無い。二人にとっては、会って話すだけでも十分なのだ。

 今日もマミが訪ねて来る予定だ。ただ普段とは違い、アイは輸血を受けながらマミと話す事になる。輸血はアイが命を繋ぐ為に、定期的に受けなければならない治療の一つだった。アイが外の空気を吸いに来たのも、ベッドに縛り付けられる前に気を晴らそうと思ったからだ。

「さて、そろそろ行こうかな」

 伸びをしたアイが、緩やかな足取りで歩き出す。が、彼女はすぐに立ち止まった。

 何かが落ちている。初め、ソレを見付けたアイの印象はその程度の軽いものだった。串刺しにされた黒い球体。そうとしか言えない物体がアイの足元に存在している。一体なんなのかと拾い上げようとした彼女は、膝を折った姿勢で硬直した。

 ふとアイの脳裏をよぎったのは、かつて交わしたマミとの会話。魔女との戦闘について盛り上がったその時、マミは戦利品としてある物をアイに見せてくれた。魔法少女の魔力回復に用いられるそれは、同時に魔女の卵でもあるらしい。そしてその見た目は、まさしくアイが手に取ろうとしている物体そのままだった。

「グリーフシードッ」

 その言葉を合図としたかのように、周囲の景色が塗り替わる。空は目が眩むような虹色に、床は一面の鏡張りに、そして柵は巨大な口紅の列に姿を変えた。アイシャドウ、マスカラ、ネイルカラー等々。数えきれないほどの巨大な化粧品が形作るのは、幾つものうず高い山だ。

 あまりに可笑しく、あまりに異なる世界。動く影を見付けたが、それもまた正常な生き物ではない。何かしらの化粧品を持った女性達は、顔を黒く塗り潰された球体関節人形だった。執拗に化粧を繰り返す彼女らは、鏡以外には見向きもしない。

 変貌した世界に言葉を失うアイ。鏡の床に立ち尽くす彼女は、呆然と辺りを眺め続ける。

「魔女の…………結界……」

 たったそれだけの単語を絞り出すのに、アイは五分の時間を要した。だがその甲斐あってか、少しずつ彼女に冷静さが戻ってくる。何度か深呼吸を繰り返し、一度だけ頬を叩けば、見た目には普段通りのアイが居た。

「ま、嘆いてもしょうがないってね」

 努めて暢気そうに呟いて、アイは再び周囲の様子を窺った。

 現状、アイの身が危険に晒される気配は無い。話に聞く使い魔と思しき女性達はアイに興味が無いらしく、手に持った鏡と睨み合いを続けている。理由は分からないが、特に刺激しない限りは大丈夫だとアイは判断した。

 悩むまでも無く、適当な物陰に隠れておくべきだろう。少なくともアイにはそう思えた。幸いにも今日はマミが来る日だ。アイが輸血中の話し相手として呼んだので、時間的には既に到着していても可笑しくない。そして約束した時刻になってもアイが現れなければ、必ずマミは探し始める。そうすればマミはきっと、屋上に居る魔女の存在に気付くはずだ。あとは、彼女が魔女を倒してくれるのを待てばいい。

 絵本アイは一般人だ。魔法少女ではない、という意味ではそうとしか言えない。故にこの場において、彼女に与えられた役目はお姫様だ。静かに助けられるのを待つだけの、哀れで無力なお姫様こそが、アイの演じるべき役割だった。

「……はは、そりゃそうだ。ホント凄いもん」

 山となった化粧品の影に腰を下ろし、アイは乾いた笑いを零す。

 この世界は全てが違う。常識という常識を根元から打ち壊し、幼子が積み木遊びとして適当に組み直したような滅茶苦茶さだ。この異界で何かを成したいのなら、同じく非常識な存在になるしかない。ただの病人に過ぎないアイなど、初めからお呼びではないのだ。

 かつてマミは言っていた。魔女の結界に侵入した時は、どうしようもなく孤独感に襲われると。それはそうだ、とアイは納得した。こんな非常識な世界で、非常識な化け物と、非常識な存在として戦うのだ。日常との乖離を感じずにはいられないだろう。

「後で慰めてあげなきゃね」

 冗談めかしてアイが呟く。

 マミが孤独感なら、アイが覚えるのは無力感だ。言葉の通じない相手ばかりでは、アイに出来る事は一つも無い。気を紛らわせる意味も込めて、彼女は助かった後の事を考えようとした。

 その時だ。

『君は随分と落ち着いているんだね』

 朗らかな声。穏やかな声。不思議と耳を傾けずにはいられないそれに驚き、アイは反射的に振り向いた。

 はたしてそこに居たのは、奇妙としか言えない生き物だった。小さく白い体に、狐のような大きな尻尾。三角の耳からは平筆みたいな毛が伸びていて、黄色い輪っかに通されていた。そしてガラス玉を思わせる無機質な深紅の瞳が、丸い頭に乗せられている。

 アイはこの生き物を知っていた。直接見た事は無くとも、話だけなら、マミから色々と聞かされている。

『はじめまして、絵本アイ』

 会いたくても会えなかった相手が、探しても見付からなかった相手が、まるで当然の如く佇んでいた。紫の瓶に乗ったその生き物は、赤い二つの目でアイを見下ろしている。アイに向けられているはずのその視線は、だけど何故か、別の何かを見ているように感じられた。

『僕の名前はキュゥべえ。よろしくね』

 どこか事務的に聞こえる声が、瞠目したアイの耳を打った。


 ◆


「もうっ。アイはどこで油を売ってるのよ」

 屋上に繋がるエレベーター。その床を靴裏で叩きながら、不機嫌そうにマミがボヤく。

 約束通り病院にやって来たマミを待っていたのは、困り顔で立ち尽くす看護師だった。アイの担当としてマミともよく話す彼女によると、予定した時間になってもアイが姿を現さないらしい。あれでアイは模範的な患者だ。以前マミに会おうと抜け出した事を除けば、言い付けを破った経験はゼロに近い。だから病院側にとっては予想外の事態で、手の空いた者で探している最中だとマミは教えられた。

 アイの病気はある種の貧血だ。日常的に使われる眩暈などを指すものではなく、造血不全により根本的に血が足りていないのである。アイの顔が蒼白なのはそういう理由だ。また症状は他にもあり、もちろん眩暈も含まれる。マミや看護師が心配しているのはそれだった。

 またどこかで倒れたのかもしれない。それは十分に起こり得る事態だからこそ、マミ達は真剣にアイを探していた。

 病院の敷地内に限定すればアイの行動範囲は意外と狭い。血中の白血球が少ない彼女は免疫力が低下しており、感染症に掛かり易いのだ。だから人込みは避けなければならないし、感染症を患った患者には近寄れない。以前にマミの部屋まで押し掛けて来た時も、その後に高熱を出して寝込んでいる。あの出来事からマミは、一層アイの体調に気を配るようになっていた。

「本当に心配ばかり掛けて……」

 怒った顔を作りながらも、マミの胸には心配しかない。到着して扉が開いた瞬間、彼女はエレベーターから飛び出した。

「アイッ!!」

 呼び掛けに応えは無い。屋上を見回しても、視界に入るのは花壇と転落防止の柵ばかり。人影一つ無いその事実に、マミは肩を落とした。そのままエレベーターの中にとんぼ返りしようとした彼女は、しかし途中で足を止める事になる。悪寒があったのだ。背筋を這い回る嫌な気配。寒気を覚えるそれに、マミは心当たりがあった。

「魔女……?」

 呟き、改めて屋上を調べるマミ。すると中心部の辺りに、小さく空間の淀みが発生していた。近寄るまでもなく、マミには魔女の結界だと分かる。それも出来たばかりのものみたいだと、マミは冷静に分析した。

 暫しの逡巡。魔女を退治するかアイを探すか、その二択がマミを惑わせる。本来なら考えるまでもない。だがアイの存在は、それだけマミにとって大きなものとなっていた。魔女退治はアイを見付けた後でも良いのではないかと、そんな誘惑がマミを襲う。

 でも、とマミは反問した。探しているアイはどこにも居ない。加えてアイがよく訪れる屋上には、魔女の結界が張られている。これらの事からマミが想像したのは、アイが結界に取り込まれたのではないか、という最悪に近い状況だった。

 根拠の無い妄想と切り捨てる事は出来ない。そして一度回り始めたマミの思考は、負の方向へと加速し続ける。徐々に最悪の事態を予想し始め、既に手遅れの可能性を考えた次の瞬間には、マミは勢いよく駆け出していた。

 最初の一歩で変身し、次の一歩で結界まで辿り着く。そして三歩目には、マミは結界への侵入を果たしていた。

「アイ! 居たら返事してッ!!」

 叫び声が木霊する。けれど化粧品の山から返事は無く、ただ虚しく響いて消えるだけだった。

 辺りには使い魔の影しかない。どれだけ集中しても人の気配は感じられず、マミは苛立たしげに舌を打つ。たとえこの場には居なくとも、実際にアイを見付けるまでは安心出来ない。近場の山に飛び乗ったマミは、急ぎ周囲を見渡した。

 地の果てまで続く化粧品の山々。しかしマミは、そこに魔女の気配が無い事に気付いていた。彼女の経験上、このような場合は別エリアに繋がる扉が存在する。単純に道の先にある時もあれば、ただ扉だけが設置されている時もある。故に扉を見付けるには、視覚より魔法少女の直感に頼った方が効率的だ。

 程無くしてマミは、巨大な口紅の陰に黒い扉を発見した。直後に跳躍。あっという間に距離を無くし、マミは扉の前に降り立った。

「ん?」

 扉の取っ手を握ったところで、マミは床に落ちている何かに気が付いた。偶然としか言えない。鏡張りの所為で床の上にある物は見辛く、それがマミの目に入ったのはたまたまだ。だが同時に――――――――運命的でもある。

「嘘……」

 瞳孔を見開きマミが零す。その声はわななき、手は力無く口元を覆っていた。

 今にも崩れ落ちそうな膝を支えながら、マミは落ちていた”ソレ”に手を伸ばす。そうして拾い上げた物を確かめた途端、彼女の顔が恐怖に歪む。次の瞬間には罅割れ砕け散っても可笑しくないその表情は、マミの心そのものだ。

 大輪を模した花の髪飾り。震える手に握られたそれは、間違い無くアイの物だった。


 ◆


「…………マミから色々聞いてるよ。ボクには見えないっていう話だったんだけどね」

 暫しの黙考の後、アイはキュゥべえに言葉を返した。その顔が戸惑いがちに見えるのは、完全に不意を突かれた所為だ。

『僕の意思一つでどうにでもなるからね。今回は姿を見せた方が良いと判断したんだよ』

 キュゥべえの返答に頷きながら、アイは腰を上げた。そこに深い理由は無く、ただ、この白い生き物に見下ろされるのが気に食わなかったからに過ぎない。立ち上がった彼女は、それでもキュゥべえが乗る紫の瓶より低かったけれど、余裕を持つ切っ掛けにはなった。

 アイは改めてキュゥべえと正面から相対する。作り物じみた目が不気味だとか、何かのマスコットみたいな見た目が逆に可愛くないとか、そもそもマミの友達ぶってるところが気に入らないとか、そんな諸々の感情は一先ず横に置き、彼女は努めて冷静に話し掛ける。

「それはわかったけど、具体的にはなにをしてくれるんだい? 素敵な助言でもあるのかな?」

 問い掛けつつも、アイにはキュゥべえが次に発する言葉が分かっていた。それは論理的な推論と言うよりも、むしろ動物的な直感に近い。嫌な予感がアイの背を撫で、頭の中で警鐘を打ち鳴らしていた。

『マミから色々と聞いているんだよね? なら話は早い。僕と契約して魔法少女になってよ』

 当然のように、そして原稿を読み上げる機械のように、キュゥべえは淡々と提案を述べた。

 汗が滲む手の平を、アイは強く握り締める。キュゥべえの発言は予想通りで、また決して的を外したものだとは思わなかったが、だからと言って素直に頷けるほど、アイは殊勝な性格をしていない。

「キミは反対してるって、マミからは聞いてたんだけど?」
『あの時はマミも未熟だったからね。人として弱く、魔法少女の素養もそれなりな君を守りきれるほど、当時のマミは強くなかった。無理をして共倒れなんて結末になれば、僕としても不本意だからね。だけど今の彼女なら、君と共に戦い続けられるだけの実力がある』

 説明するキュゥべえの口は、ピクリとすら動かない。それは念話という特殊な通信手段を用いている所為だろうが、間近で見ているアイにとっては気味が悪い事この上無かった。何より表情が変わらない相手というのは、非常に胡散臭く見えるのだ。

 そもそもアイには疑問があった。この二ヶ月、マミはキュゥべえと会っていない。念話で呼び掛けても応えは無く、おそらく別の街に居るのだろうとマミは言っていた。つまりキュゥべえには、現在のマミの実力を知る機会など無かったはずなのだ。だが現に知っている。それはマミの知らない所で、キュゥべえが彼女を見ていたからに他ならないだろう。

 怪しい、とアイは思う。マミを見ていたなら、彼女の呼び掛けにも気付いたはずだ。それに応えない理由は、少なくともアイ達の視点からでは見付からない。という事は、キュゥべえにはアイ達とは異なる視点があると考える事も出来る。

「……いくつか質問があるんだけど」
『僕に答えられる事ならなんでも聞いてよ』

 純粋そうなキュゥべえの声。耳に心地良いはずのそれが、何故かアイの背筋を震わせる。
 小さく喉を鳴らし、アイはキュゥべえと目を合わせた。底の見えない赤い瞳が、アイを静かに観察している。

「まず魔法”少女”と言うけどさ、高齢の方は居ないの?」
『君の高齢が何歳を指すのかはわからないけど、この国での成人を超えた魔法少女は少ないよ』
「それは引退したということ? みんな殉職というわけではないよね?」
『魔法少女ではなくなる事を引退と呼ぶなら、彼女達は引退したと言えるね』
「その理由は? 歳を取ると魔法が使えなくなるとか?」
『年齢は関係無いよ。ただ、誰もがいずれはそうなる。だから魔法”少女”なのさ』
「つまり魔法の力は消耗品ということ? ソウルジェムはいずれその機能を停止する、と?」
『そうなるね。中には一月も経たずに魔法少女ではなくなった子も居るよ』

 更に問いを重ねようとしたアイは、思い留まって口を閉じた。

 違和感がある。疑念がある。何かが可笑しいと、アイの頭脳が訴えている。更に踏み込んだ質問をしたくて堪らない。だがそれはやるべきではないと、彼女は冷静に判断していた。

 ここは魔女の結界の中だ。そしてキュゥべえは得体の知れない相手だ。もしも尋ねた内容が藪蛇だった時、アイは自分の身が危険に晒される可能性がある事を理解していた。結局アイは、これっぽっちもキュゥべえを信用していないのだ。

 僅かな間を置いて、アイは矛先を変えて質問を続けた。

「じゃあ次の質問だ。キミはボクになにを望んでるの?」
『魔法少女になってほしい。僕の要求はそれだけだよ』
「そもそもどうして魔法少女を作るわけ? 魔女の問題は、ボクら人間の問題だろう?」
『それは違う。この問題は僕達にとっても非常に重要な事なんだ』
「キミの他にも同じようなのが居るわけだ。で、そちら側の目的は?」
『可能な限り魔法少女を生み出すこと。彼女達に手伝ってほしい事があるんだ』
「魔女はどうでもよし、と」
『いや、できれば魔女も倒してほしいよ。グリーフシードの回収も僕達の仕事だからね』
「そういえばマミが溜まってるとか言ってたっけ。手伝いっていうのは? マミは知らないみたいだけど」
『たしかにマミは知らないよ。でもいつかは手伝ってもらう予定だから、彼女もその時に知る事になるだろうね』
「手伝いの内容は? ボクには聞かせられない?」
『悪いけど教えられない。情報を秘匿しなかった所為で失敗した事があるからね』

 アイが押し黙る。顎に指を添えた彼女は、そのまま思考の海へと沈んでいった。

 言葉には裏がある。それは騙す騙さないの話ではなく、人間というのは、言外の意味も補完して考えるという事だ。たとえば『百点満点中六十点以上を取れば合格』という文章があったとする。この文章を読んだ時、多くの人は『六十点未満なら不合格』だと考える。しかしその考えは正しいとは言えない。提示された情報はあくまでも『合格の基準』のみであり、『不合格の基準』には一切触れていないからだ。だが実際には、ほとんどの人がそのように推論する。自身の持つ知識や常識から、言外の意味を補完しているのだ。

 キュゥべえと話したアイは、このような違和感を覚えていた。質問の意図を読み取って貰えない、あるいは質問の論点がズラされている。それがアイの感じた事だ。好意的かつ常識的に捉えれば、キュゥべえの説明には納得出来る。素直なマミなら信じるだろう。だがアイは違った。実のところ、キュゥべえは具体的な答えを何一つ返していない。どれも焦点をボヤけさせて、アイの側で補完させようとしていた。

 嘘は言っていないかもしれない。だが本当の事も言っていない。アイはそう結論付けた。しかしそこから先には踏み込めない。あまりにも正体の見えないキュゥべえに対抗するには、絵本アイという少女は無力過ぎた。

『それで、どうするんだい? 君の素養は低いけど、健康な体になる程度の奇跡は起こせるよ』

 呼び掛けによって意識を引き戻されたアイは、目を細めてキュゥべえを観察した。丸い顔には後ろ暗さの欠片も存在しない。だがそれは同時に、優しさや思い遣りの欠如にも繋がっている。些か変な表現かもしれないが、アイには人間味が薄いように感じられた。

「奇跡と言っても限りはあるわけだ」
『君達の祈りが源だからね。素養が低ければ、祈りによって生まれるエネルギーも少なくなるのさ』

 マミという実例が居る以上、アイは奇跡が叶うという話は信じている。また健康体になれるというキュゥべえの言葉も、嘘ではないと考えている。しかしだからといって、アイが奇跡を願うとは限らない。

『もちろん他の願いでもいい。最近では可愛くなりたいと願った子が居たね』
「ボクは生まれ付きの美少女だぜ。それに――――」

 アイの言葉は続かなかった。黒曜石にも似た瞳が見開かれ、キュゥべえの背後を凝視している。

『どうしたんだい、アイ?』

 問い掛けには答えない。否、今のアイには答えられなかった。

 女性が居る。顔を黒く塗り潰された女性が、数え切れないほどたくさん居る。彼女達は使い魔で、元からこの場に居た存在だ。しかし先程までとは違う。決定的に違う。黒に浸食されて存在しないはずの無数の目が、今はアイだけに向けられている。

 アイの矮躯が慄いた。怯えで、恐れで、射竦められた。

 言葉は無い。圧力だけがある。アイの心を押し潰そうと、あらゆる場所から責め立てている。ある者は口紅の陰に佇み、別の一人はコンパクトの上に立ち、また違う誰かは化粧水にもたれながら、顔無し人形達がアイを囲む。

「クッ!!」

 アイが駆け出した。逃げ出した。細腕でキュゥべえを抱き、彼女は鏡の床を蹴り飛ばす。

 背後で轟音。同時に大量のガラスを割ったような音が、アイの耳を揺さぶった。振り返る余裕は無い。足を止める暇も無い。逃げ場は無く当て所も無く、アイは遮二無二駆け抜けた。ただの十歩で疲れが溜まり、更に十歩で眩暈がした。けど倒れない。まだ倒れない。腕を振って歯を食い縛り、彼女は必死に前を目指す。

 前方には人形が居る。黒い顔をアイに向け、今か今かと待っている。それでもアイは止まらなかった。逃げ道など見当たらない。だからとにかく彼女は走る。それしか出来ないから、それしかやらない。

『左を見るんだ!』

 キュゥべえの声が響く。反射的にアイの足が左を向いた。

 扉がある。黒い扉だ。周りに壁も何も無く、ただそれのみで存在する奇妙な扉。そこに疑問を抱く間も無く、アイは一直線に扉を目指す。本能の命じるままに、人形から逃げる為に、全速力でアイが走る。

 不意に、アイの視界で何かが光った。すぐに、それが刃物と理解した。

「ッ!?」

 体勢を崩したアイがこける。上半身から倒れ込む。痛くて、辛くて、それでも斬られていない事に安堵して、彼女は立ち上がろうと右手をつく。でも、駄目。足が震えて立ち上がれない。だから這う。アイは両手を使って這い進む。

 扉は既に開いていた。取っ手を回したのはキュゥべえだ。

 床を這ってアイが進む。明滅する視界で扉を捉え、震える腕で体を支え、止まる事無く扉を目指す。走りより遅く、歩みより遅く、だけど無事に彼女は、黒い扉に辿り着く。そのまま扉を潜れば、そこにはまったく別の景色が広がっていた。

『さて、早く閉めないと』

 こんな時でも、キュゥべえの声は変わらない。アイが振り返ると、扉は既に半分以上が閉じていた。そうして閉まりきる直前にアイが見たのは、大きな鋏を持ったまま床に倒れた人形と、それに躓き将棋倒しとなった人形達の姿だった。

『これで大丈夫。エリアを跨いで追ってくるほど、あの使い魔達は熱心じゃない』

 キュゥべえの言葉に、アイは応えられない。漆黒の床に両手をついた彼女は、空気を求めて必死に肺を動かしていた。

 頭が痛い。胸が痛い。息が苦しい。世界が白む。とにかく辛くて、アイ自身、意識があるのが不思議なほどだ。脂汗が滲み出て、青白い顔は苦悶に歪む。前に本気で走ったのはいつだったか考えようとして、アイはすぐにやめた。覚えていないくらい昔の事だ。

『キーワード、だろうね』

 僅かな心配すら感じさせない声音で、キュゥべえがいきなり呟いた。

『魔女にはなんらかの感情的な性質がある。そこに触れる言葉があったから、使い魔達が襲ってきたんだ』

 聞いてもいない事をベラベラ喋るキュゥべえ。それを鬱陶しいと感じつつも、アイはキーワードについて思考を巡らせる。

 キーワード、あるいは禁句とでも呼ぶべきそれは、十中八九『可愛くなりたい』か『美少女』だろう。文字通り山積みの化粧品や繰り返し化粧をし続ける使い魔の存在を考慮したら、アイは自然とそこに行き着いた。きっとこの魔女は、自分と違って容姿に恵まれなかった女達の怨念から生まれたに違いないと、アイは確信していた。

「っ……はっ……ふぅ…………」

 馬鹿な事を考えている内に、アイの息も整ってくる。ちょっとだけ余裕の出来た彼女は、扉に背を預けて座り込んだ。すると投げ出された両足の間に、キュゥべえがゆっくりと歩いて来た。赤い目が、疲れたアイの顔を見上げる。

『辛いようだね。君の安全の為にも、契約してくれたら助かるんだけど』

 声を出せず、アイはキュゥべえを睨み付ける事で答えた。

『やれやれ仕方無いね。ところで病気が完治する見込みはあるのかい?』

 一瞬だけ迷った後、アイは素直に首を振る。可能性が無い訳ではないが、医者からはほとんどゼロに等しいと言われていた。

 本来アイの病気は、決して治らないものではない。むしろその逆で、適切な治療さえ受けられれば高確率で完治する病気だ。それはアイも同じで、まだ両親が生きていた頃の彼女には、十分に治る見込みがあった。骨髄移植。それが上手くいけば治ると教えられ、アイは幸運にも母親の骨髄を移植出来ると判明していた。

 すぐに手術をしなかったのには理由がある。アイが正式に診断されたのは六歳の時で、インフルエンザによる入院が切っ掛けだ。以前から病気がちだった事もあり、小学校入学前に一度検査しておくべきだと、伯父に強く勧められたのである。そしてアイの貧血が判明したのだ。しかしまだ幼く、体の弱いアイでは耐えられないかもしれないと、手術は先送りにされた。彼女が一年のほとんどを病院で過ごすようになったのもこの時からだ。学校に通う事も出来たが、両親はしっかりと管理された環境でアイが体力をつける事を望んだのだ。

 そして入院から三年。小学校に通っていれば四年生に上がるはずだったその春に、アイは手術を受ける事となった。徐々に重くなる病状に不安を覚えながらも、健康的な生活を続けた成果だった。大好きな母の骨髄を貰い、自分は健康になる。その事に申し訳なさを感じつつも、彼女は両親に感謝していた。だから、あんな事を言ってしまったのだ。

『結婚記念日なんでしょ? 二人で旅行にでも行ってきなよ』

 いつも迷惑ばかり掛けているから、手術の前に羽を伸ばしてほしい。そう思ったからこそ、アイは提案したのだ。最初は渋っていた両親もやがて折れ、楽しそうに計画を立て始めた。最終的に決まった行き先は岐阜県の白川郷。二人にとっては思い出の地であるらしく、退院後はアイも連れて訪れたいと言っていた。そして出発の日、朝早くから出掛ける両親を、アイは病院の玄関で見送ったのだ。

 アイが両親の訃報を聞いたのは、それから十時間後の事だった。

 二人が遭った事故の詳細について、アイは今でも知らない。ただ葬儀が終わり火葬され、骨と灰だけになったその時まで、彼女は両親の遺体を見る事を許されなかった。当然手術は中止で、暫くの間、アイはベッドの上で物思いに耽るだけの日々を過ごす事となる。

 ここまでなら、ただの不幸な話で済んだのかもしれない。だが本当にどうしようもないのは、ここからだ。

 両親の死から一月が経ったある日、アイはインフルエンザに掛かった。明確な原因は分からない。ただこの頃のアイは当て所も無く院内を徘徊する事があったので、それが理由だと考えられている。そして精神的に弱っていた時期のこれは、思いのほか治療に時間を要した。熱も痛みも引く気配が無く、アイは朦朧とした意識で苦しみ続ける事になる。最悪なのは、ようやく快方に向かってきたかという頃に肺炎を併発した事だ。結局アイの容態が安定するには、二ヶ月以上の時間が必要だった。

 この出来事がアイの明暗を分ける事になる。元々あまり強くなかった彼女の体は、二ヶ月に及ぶ寝たきり生活ですっかり弱り切っていたのだ。たとえ新たなドナーが見付かっても手術に耐えるのは不可能だろうと、アイは沈痛な表情の医師に告げられた。

 だがアイは若い。幼いとすら言える。だから入院を続け、管理された中で健康的な生活をしていれば、いつか体力が戻って手術出来る日が来るかもしれない。それが残された最後の希望だった。しかし数年が経った今でも、アイの体は弱いままだ。

「……ふぅ。少し楽になったし、移動しようか。流石にここは心臓に悪い」

 アイが昔を思い出している間に、幾許かの時間が経っていた。未だに痛む頭を押さえながら、アイはふらつく足で立ち上がる。同時にマミから貰った髪飾りが無い事に気付く。辺りを探しても見付からず、アイは顔を顰めて舌を打つ。仕方無い、と彼女は緩やかに首を振る。

 ここに来てアイは、ようやく周囲を観察する余裕を持てた。そしてこの場所もまた、一目で分かるほど変な空間だと気付く。先程は化粧品だらけのエリアだったが、今度は黒い扉だらけだ。広く長い通路の両脇に、無数の黒い扉がズラリと並んでいる。

 プライベート空間という事かもしれない。綺麗な自分は見せたくても、醜い自分は見せたくない。だから化粧をしていない素の自分を隠す為の場所が、必ず必要になってくる。通路を歩きながら、アイはそんな益体も無い事を考えた。

「そういえば、魔法少女の素質はどうやって決まるのかな?」

 ふと、アイが尋ねる。それは以前から気になっていた事だった。

 絵本アイは魔法少女としての素養が低いらしい。なら、それは何によって決まっているのだろうか。頭脳だろうか、肉体だろうか、あるいはもっと別の何かだろうか。そしてそれは、努力で変わるものだろうか。その事を、アイはずっと気にしていた。

『背負い込んだ因果の量だよ。たとえば一国の女王や救世主なら、かなりの素質を秘めているだろうね』
「ふぅん…………なるほど、ね」

 因果の量、というのはアイにとって慣れない言葉だが、なんとなくのイメージは理解した。同時に、納得も。

 きっとアイは、背負わせる方だ。父に、母に、伯父に、そして他にも色んな人に背負われて、ずっと彼女は生きてきた。生かされてきた。その小さな体に背負った因果なんて、本当にちっぽけなものだろう。だから彼女は弱い。それはたぶん、役立たずの証明だ。

 アイが拳を握る。その力は弱くて、血なんて滲むはずも無くて、彼女はそれが悔しかった。

『何かがこの空間に入ってきたみたいだね。どこかの部屋に避難しよう』
「おっと、そりゃ大変だね」

 わざとおどけたふうに肩を竦め、アイは手近な扉に手を掛ける。取っ手を回せばすぐに開き、彼女は急いでその身を押し込んだ。後ろ手で扉を閉め、そこで彼女は息をつく。青白い顔には、肉体的なものだけではない疲れが滲んでいた。

 だが、いつまでもぼんやりしている訳にはいかない。大袈裟に首を振って、アイは顔を上げる。

「あっ」

 思わずアイが漏らした声は、随分と間の抜けなものだった。馬鹿みたいに口を開け、彼女は目の前の存在を仰ぎ見る。

 それは巨大だった。全長十メートルはくだらないだろう。それは人の形をしていた。女性と思われる体は真っ赤なドレスに包まれている。それは顔が無かった。真っ白でのっぺらな何かが首に乗っている。

 驚異的な存在感。圧倒的な違和感。この奇妙な空間に当然の如く馴染んでいるそれは、やはり可笑しな存在だ。さっきまでの使い魔とは比べ物にならないほどの悪寒を感じさせるそれを、アイはたぶん知っている。

 それはきっと、魔女と呼ばれる化け物だ。

『まさか魔女の部屋に入るなんてね。でもよかった、まだコチラには気付いていないみたいだよ』

 アイはキュゥべえの話を聞いていない。そんな余裕は無い。ただ後ろに回した手を動かし、忙しなく扉の取っ手を探している。だが、何も手に触れない。さっきまで握っていたはずの取っ手が、どれだけ探しても見付からない。

「……ッ!?」

 振り返ったアイが目にしたのは、扉の影すら見当たらない真っ白な壁だった。数瞬の間。それはアイが冷静になるまでの時間だ。胸の裡で荒れ狂う感情を押さえ付け、彼女は表面上の落ち着きを取り戻す事に成功した。

 改めて、アイは魔女へと視線を向ける。

 魔女は部屋の中心に居た。その手には手鏡を持ち、周りには多くの鏡台や姿見が置かれている。そしてこの魔女もまた、化粧をしていた。今は丸太のような口紅を握り、真っ白な顔に真っ赤な唇を”描いて”いる最中だ。

『アイ、今が契約するチャンスだよ』

 魔女の化粧は手慣れたものだった。唇の次は鼻、その次は眉、そして目を描き終わった今は、睫毛を一本ずつ足している。丁寧な手付きでありながら素早く、あっという間に女性の顔が出来上がっていく。もっともそれは、とても美人とは呼べない滑稽なものではあったが。

『今ならまだ、君の願いを叶える時間がある』

 最後の睫毛を描き終えて、魔女の顔が完成する。直後、その顔がアイの方へと向けられた。黒く塗り潰された瞳がアイを捉え、離さない。魔女は最初からアイに気付いていたのだ。アイが何もされなかったのは、ただ化粧が終わっていなかったからに過ぎない。

 喉を鳴らし、後ずさるアイ。すぐに背中が壁にぶつかり、彼女は動きを止めた。

 このピンチを脱する為に何をすれば良いのか。簡単だ、キュゥべえと契約すればいい。では何を願えば良いのか。単純だ、健康な体を願えば良い。それは当然の選択であり、当然の帰結でもある。アイだってそれは否定しない。合理的に考えればそれしか選択肢は無く、死にたくなければそうするしかない。百人に問えば百人が同じ答えを出すだろう。

「――――――ならない」

 だがアイは、百一人目の人間だった。

「ボクは、魔法少女にはならない」
『本気かい? 死ぬかもしれないんだよ?』

 アイは躊躇い無く頷いた。そんな事は百も承知だ。

「これまでボクは、色んな人に助けられてきた。手を借りるばかりの人生だった」

 誰かの手を煩わせ、誰かの金を食い潰し、誰かの心を配らせながら、アイはずっと生きてきた。お荷物でしかない生き方だ。お姫様としてチヤホヤされるだけの人生だ。無力で、無価値で、哀れみしか生まない存在だ。

 そんな自分を、アイは心の底から憎んでいる。

 両親が生きていた頃のアイは、まさしくお姫様だった。全てが彼女に優しくて、全てが彼女の為に用意されていて、ただ言われるがままに生活していれば、幸せも正しさも転がり込んできた。それで良いと、かつてのアイは思っていたのだ。小学校に通えなくても辛くなかった。規則正し過ぎる入院生活も苦ではなかった。両親の言う通りにすれば、きっと大丈夫だと信じていたからだ。

 でも、結果はこの通りである。目も当てられない転落だった。

 自分が不幸になった事を、アイは恨んでいない。父も母も運命も、何一つ恨んでいない。唯一、両親に何も返せなかった自分だけを恨んでいる。昔、母の骨髄を貰ったら、それを誇りにして誰かを助けられる人間になるんだと、アイは両親に誓っていた。よく出来た娘だったと、アイは自分でもそう思う。模範的な解答だったと、彼女は自分でも感じている。

 けどそんなものは所詮、誰かに助けて貰わなければ、誰かを助ける事も出来ない人間性の証明だと、今のアイは考えている。本当に他人の役に立ちたいのなら、いま手元にあるもので全力を尽くすべきなのだ。それを理解していなかったから、アイは両親に何一つ返せなかった。こうして今も、彼女は後悔し続けている。

「だから奇跡が叶うというのなら、それはきっと――――――――ボクの為の願いじゃない」

 健康体になれば、アイの世界は広がるだろう。他人を助ける手段も増えるだろう。でもそれはもしもの話で、空想の話で、アイにとっては手元にある力の方が重要だ。奇跡なんていう都合の良い力があるのなら、その力で誰かを助けたかった。それが彼女の生き方だ。

『君が良いなら、僕もしつこくは言わないよ。無理強いはできないからね』

 感情の籠らないキュゥべえの声。やはり信用出来ない生き物だと、アイは他人事のように考えた。

 魔女は怖い。アイは心底恐れている。光の無い目で見詰められたら怖気が走るし、振り上げた手で何をしようとしているのかなんて、想像するだに恐ろしい。魔女が微かに身動いだなら、アイはその何倍も大袈裟に体を跳ねさせるのだ。

 際限無く募る恐怖心。胡散臭かろうがなんだろうが、キュゥべえの奇跡に縋りたくなるこの状況。それでもアイは、前言を翻そうとはしなかった。意地でもするもんかと、彼女は歯を食い縛った。

『ただこのまま何もしなければ、君は呆気なく魔女に殺されるだろうね』
「はっ、構うもんか」

 アイは震える声で強がった。

「一度きりの奇跡すら自分の為に使うのなら、ボクは一生誰も救えないままだろうさ」

 だったらここで死んでも同じ事だと、アイは本気で考えていた。

「それに、さ」

 アイが笑う。自嘲と、呆れの混じった笑みだった。

 言葉を操るしか能が無い。アイは自分をそう評している。ならこんな時でも、そんな自分であるべきだと彼女は考えた。この状況でアイの言葉をまともに聞いてくれるのは、それこそ彼女自身くらいなものだろう。だからアイは自分を騙す。綺麗事で、お茶濁しで、その場凌ぎの嘘っぱちだとしても、彼女の力はそれしかないのだ。

「奇跡と言うなら、マミと出会えた事こそが奇跡だって、ボクは今でも信じてる」

 アイが微笑む。穏やかで、安らかで、天使のように澄んだ笑顔だった。
 直後に轟音が鳴り響き、魔女の全身が光に包まれる。たとえるなら天の雷。圧倒的な光の奔流が、上空から魔女に降り注ぐ。

 魔女の悲鳴が耳を突く。怖気が走る醜い声は、最後に残す断末魔。そして魔女は爆炎に包まれた。噴煙がアイまで届き、温かな風が頬を撫でる。反射的に目を細めた彼女は、それでも魔女から視線を逸らさなかった。

 消えた魔女の居た場所に、一つの影が静かに降り立つ。小さな影だ。形は人型。煙の中で暫し佇んでいたその影は、それからアイ達の居る方へと歩いて来た。未だに姿は判然としない。けど頭の横で揺れる巻き髪も、右手に持った筒型の何かも、アイにはたしかに見覚えがある。響く靴音が高鳴る鼓動みたいで、アイは胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。

 そして彼女が現れる。アイにとっては少しだけ見慣れた、けれどやっぱり見慣れない格好の彼女。いつもと違う厳しい表情をした彼女は、アイの存在を認めた瞬間、その歩みを止める。

 蜂蜜色の瞳が、大きく見開かれた。

「――――アイッ!!」

 気付けば腕の中に納められ、アイは床に押し倒されていた。耳元ですすり泣く音が聞こえ、視界の端には蜂蜜色の髪が映る。だからアイは腕を伸ばして、彼女の頭を撫でてあげる。優しく、温かく、アイは彼女を慈しむ。

 巴マミ。たぶんこの世で唯一、アイを頼りにしている友達。きっと世界で一番、アイが縋っている相手。弱虫で泣き虫な彼女は、やっぱり今も泣いているけど、今日は誰よりヒーローだった。

「助けてくれて、ありがとう」

 見上げた先に天井は無く、アイの視界には、澄み渡る青空が広がっていた。


 ◆


「ほんとに心配したんだからっ」
「仕方無いでしょ。今回の件は事故だ」
「きっと気合いでどうにかなるわ」
「無茶言わないでよ」

 屋上に繋がるエレベーター。その扉の前で姦しい会話を繰り広げるのは、魔女との戦いを終えたアイ達だ。予定の時間より遅れてしまったが、これからアイは輸血を受けて、いつも通りの今日に戻る。エレベーターに乗り込めば、そこで非日常はお仕舞いだ。

「キュゥべえもキュゥべえよ! 私に報せてくれてもいいじゃない!!」
『それについては謝るよ。アイが教えてくれればよかったんだけど、君が近くに居るとは知らなかったんだ』

 悪びれた様子の無いキュゥべえの言葉を聞いて、アイの方を睨むマミ。口元が綻びそうになるのを耐えつつ、アイは黙って両手を上げた。責めながらも潤んで泣き出しそうなマミのジト目が、彼女には嬉しかったのだ。そしてアイは、キュゥべえを冷たく見下ろした。

 キュゥべえの発言はあまりに白々しい。見た目通り真っ白だ。そして中身は真っ黒なのだろうと、アイは心の中で吐き捨てる。

 たしかにアイは、マミが病院に居た事を伝えていない。だがキュゥべえはその可能性に思い至っていたはずだ。キュゥべえがマミと一緒に行動していた頃から、彼女は頻繁に病院を訪れていたのだから。

 アイは念話という通信手段に慣れていない。キュゥべえにマミの事を伝え忘れたのも、念話の存在を失念していた所為だ。しかし日常的に使っているキュゥべえは違う。普通に考えれば、一度は呼び掛けを試すはずだ。それをしなかったのは、やはり意図的に無視していたとしか考えられなかった。だがそれを起点に攻めるには、アイの持ち札が少な過ぎる。

 結局アイは、何も言わずキュゥべえから視線を外した。

「……まぁ、無事だったならそれでいいわ」

 マミが苦笑する。同時にエレベーターが到着した。音と共に扉が開き、アイとマミが中に乗り込む。しかしエレベーターに乗ったのは二人だけだ。キュゥべえは動く事無く、その場で二人を見送った。

「キュゥべえは来ないの?」
『たまたま近くに居ただけだからね。アイには断られたし、別の契約者を探しに行く事にするよ』

 マミの眉根が寄せられる。一転して鋭くなった目が、佇むキュゥべえに向けられた。

「キュゥべえ。アイに危険な事はさせないで」

 冷たい声だった。そこには優しさの欠片すら感じられず、発したマミを、アイは思わず凝視する。いつもは感情豊かなマミの表情が、今は能面のように動かない。見慣れた友達が別人になったみたいで、遠くに行ったみたいで、アイは知らずマミの服を握っていた。

『今回は彼女の安全を考えての事だったんだけどね』

 ただの雑談でもしているみたいなキュゥべえの態度。それがアイには不気味だった。本物のマスコット人形のように表情が変わらないキュゥべえを、アイは自然と見詰めてしまう。すると赤い瞳が、彼女の方へと向けられた。

『どうやら、マミには話していないみたいだね』

 最後にその台詞を残して、キュゥべえは去って行った。その背中が完全に見えなくなる前に、エレベーターの扉が閉じられる。箱の中には戸惑うマミと、目を細めたアイの姿があった。

「アイ? もしかして、私になにか隠してるの?」
「いや、心当たりは無いよ。どういう意味だったんだろ?」

 不安そうに尋ねてくるマミに対し、アイは真顔でそう返す。けど本当は、思い当たる事が一つあった。

 出会ってから三ヶ月。その間にマミは、色々とアイの病気について知った。どんな症状があるのかとか、どんな治療をしているのかとか、何をしてはいけないのかとか、そういった知識を、今のマミは持っている。

 だけどマミは知らない。アイが長くは生きられない事を、彼女はまだ知らない。




 -To be continued-



[28168] #004 『もしも奇跡を願うなら』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/06/12 21:17
 絵本アイと巴マミ。この二人の少女が出会ってから、二年の月日が流れようとしていた。暖かで柔らかな春も、暑く厳しい夏も、涼やかで穏やかな秋も、寒く辛い冬も、二人は共に過ごしてきた。けれど彼女達の関係は変わらない。雪解けも梅雨も霧も木枯らしも訪れず、二人の友情は、今でも陰る事無く続いている。そして今日もまた、アイはマミの来訪を今か今かと待ち望んでいた。

 窓際に置かれた木製の丸テーブル。その上には二人分のティーセットが用意されており、傍に立つアイが、嬉々とした様子でお茶の準備を進めている。慣れた手付きで道具を出していく彼女は、今にも歌いだしそうなほど上機嫌だった。

 アイの趣味は紅茶だ。一年ほど前からそうなった。切っ掛けはマミの一言。紅茶が好きだと言った彼女の為に、アイは道具を揃え、淹れ方も勉強したのである。もっとも多少は上達したと言っても、その腕前はマミの足元にも及ばない。それでもアイが自分で紅茶を淹れるのは、マミが嬉しそうに飲んでくれるからだ。

「まぁ、絶対に美味しいとは言ってくれないんだけどね」

 苦笑したアイの独り言。いつかは味で驚かせてみせると、彼女は密かに誓っていた。

「さてと、こんなものかな」

 一通りの準備を終え、あとは実際に紅茶を淹れるだけとなった所で、アイは病室の入口を見遣る。まだ扉は開かれないが、彼女の経験上、そろそろマミが来る時間だ。何分後に来るだろうかと、アイはちょっとしたゲーム気分で考えてみた。五分だろうか。七分だろうか。なんの得も無いとは分かっていても、アイは不思議と楽しかった。

 しかしアイの予想から十分が経っても、マミは姿を現さない。既に約束の時間も過ぎている。これは可笑しな事だった。不意に立ち寄った場合はともかく、今日は事前に約束している。それを破るなんて、これまでのマミには無かった事だ。

 魔女と遭遇したのかもしれない。そんな不安をアイが抱き始めた頃、ようやく病室の扉が開かれた。

「アイッ!!」

 音の暴力に等しい第一声。それに殴られたアイは、目を丸くする事しか出来なかった。やって来たマミは瞳を怒りに燃え上がらせ、呆然と立ち尽くすアイに駆け寄ってくる。そしてアイの肩を掴んだかと思うと、彼女はまた怒鳴った。

「どうして私に黙ってたの!」

 眉間に皺を刻んだマミが、アイも初めて見るほどの剣幕で詰め寄ってくる。だがアイには答えようが無かった。そもそもマミが怒っている理由からして分からない。最近の記憶を振り返ってみても思い当たる出来事は無く、彼女は只々困惑しきりだ。

「えっと、マミ? 一体なんの話?」
「あなたの体の事よ! 長く生きられないってどういうことッ!?」

 瞬間、アイの頭が一気に冷えた。即座に状況を理解し、彼女はその不味さに気付く。舌打ちしたい気持ちを抑え、逃げ出したい感情を殺し、アイは必死に考えた。マミをどうやって丸め込むか、それが重要だ。

 二年間アイが隠してきた秘密がバレた。現状を端的に表せばそうなるが、アイにとっては望ましくないどころの話ではない。マミに心配を掛けてしまうのは分かり切っていたし、何より彼女がするであろう提案の内容が、簡単に予想出来たからだ。それはきっと、終わりの無い喧嘩の幕開けになるだろうとアイは確信していた。

 諦めたように嘆息したアイが、肩を掴むマミの手を握る。そのまま彼女は、焦燥に満ちた友達を仰ぎ見た。

「ちょっと落ち着こうか。なにも今すぐの話じゃないんだしさ」
「……わかったわ」

 不満たらたらといった表情で、マミは渋々アイから離れる。少しだけ距離を取ったマミの顔を窺えば、そこには屹然とした決意が宿っていた。いつに無く意思の強そうな蜂蜜色の瞳が、真っ直ぐにアイを射抜く。間を置かず、マミは力強い声を発した。

「アイ、キュゥべえと契約しましょう」
「イヤだ」

 思った通りの提案を、アイは一太刀で切り捨てた。途端にマミの顔が泣き出しそうになる。

「どうして? このままだとあなた、死んじゃうのよ?」
「まだ何年かは大丈夫だよ。運が良ければ成人だってできる」
「全然ダメじゃないっ。ねぇ、お願いだからキュゥべえと契約して。本当に大変な病気なんでしょう?」
「難病ではあるね。あとボクは体が弱いし症状が重いから、他の人より辛い部分はあるかな。今も症状は進行してるしね。とはいえボクは合併症がほとんど無いから、その点で言えば運がいいんだけどさ」

 悲壮さも重苦しさも感じさせないよう、アイは努めて平静に答えてみせた。それでもマミの目には涙が溜まり、肩は小刻みに揺れている。桜色の唇を噛み締めた彼女は、ソッと俯いて顔を隠した。拳を握り締めたまま、マミが押し黙る。

「…………どうして? どうして魔法少女になるのが嫌なの? 魔女からは私が守るわ。なんなら戦わなくたっていい。あなたの分まで私が戦えば、きっとキュゥべえだって何も言わないはずよ」

 暫くして漏れ出たマミの声は、不安と恐怖で一杯だった。垂れた前髪に隠れた顔から、いくつもの雫が零れ落ちる。美しいマミの相貌は、今、悲しみに染まっているのだろう。その事を理解しながらも、アイは宣誓にも似た力強さで答えを返した。

「ボクは自分の為に奇跡を願うつもりは無いよ。これだけは、絶対に譲れない」

 勢いよくマミが顔を上げる。蜂蜜色の目を見開き、彼女は息を呑んでアイを凝視する。だがそれも数秒だけだ。すぐに顔を歪めたマミは、震える唇から罅割れた声を絞り出した。

「どうしてよぉ。私だって、自分の為に……」
「それは別に悪い事じゃないよ。ただボクは、誰かの為に奇跡を使いたいだけ」

 イヤイヤと首を振り、耳を塞いで座り込むマミ。聞き分けの悪い子供そのままといった友達の態度に、アイは困ったように苦笑する。膝をついてマミと目線を合わせたアイが、蜂蜜色の髪に細い指を通す。微かに身動いだマミの手を掴み、アイは優しく耳から離した。すると下を向いていたマミの顔が、正面のアイへと向けられる。

 柔らかな微笑を浮かべ、アイは子供に言い聞かせるように話し始めた。

「マミの気持ちは嬉しいよ。でもボクが誰かの為にできる事って、これくらいしかないからさ」
「そんな事ない! 私はあなたにたくさん――――ッ」

 人差し指を唇に添え、マミの言葉を止めるアイ。穏やかに微笑む彼女は、ゆっくりと首を振った。

「わかってる。それもちゃんと理解してる。でもだからこそ、ボクは人の役に立ちたいんだ」
「だったら体を治してよ! あなたが健康になったら私は嬉しいっ。あなたの伯父さんだって……きっと…………っ」

 アイの胸元に顔を埋め、マミは涙を流して縋りつく。もはや言葉にならない嗚咽を漏らし、只々体を震わせるマミ。その背中を優しく摩りながら、アイは大きく息を吐き出した。天井を仰いだ彼女の表情は、どこか迷子の子供にも似ていた。

「ごめん。やっぱり、これだけは譲れないよ」
「……っ」

 一際大きく体を揺らし、マミは辺りに泣き声を響かせた。アイの入院着を濡らし、耳を打つ。まさに子供そのものといった様子で泣き入るマミに対し、アイは何も言葉を掛けれない。彼女はただ細腕でマミを抱き締め、唇を噛み締め続けていた。


 ◆


「……寝ちゃったか」

 やがて泣き疲れたのか、アイの胸に頬を当てたまま、マミは静かに寝息を立て始めた。艶やかな金髪を梳きながらアイが苦笑する。彼女は絨毯に正座すると、マミの頭を自らの太腿に導いた。そのまま力が抜けたマミの体勢を整え、寝苦しくないようにしてあげる。

「これでよし、と」

 綺麗な膝枕を完成させたアイが、満足げに頷く。しかし泣き腫らしたマミの寝顔が目に入ると、彼女の顔に陰りが生まれた。己の髪飾りに触れ、マミの髪飾りに触れ、それからアイは溜め息を零す。

 問題は何も解決していない。今はマミが眠ってしまったお蔭で余裕が出来たが、起きた後はまた口論だろう。それを思うと、アイの気分も重くなる。普段のマミなら適当に丸め込む自信があるアイも、流石にこの件に関しては説得出来そうになかった。コトはアイの命に関わってくる。親友と呼んでも差し支えないほどの友情を育んできたマミにとっては、到底諦めきれるものではないはずだ。

 そもそも道理はマミにある。アイの主張は、彼女の価値観に基づいた彼女の為にあるもので、他人が理解するのは難しい。キュゥべえとの契約による奇跡は、誰から奪ったものでもない、本当に降って湧いただけの幸運だ。それを自分一人で使う事は悪ではないし、他人に与える義務も無い。アイの境遇を考えるなら、むしろ自分の為に願う方が後腐れも無く妥当だろう。

 だがそれでもアイは、自らの主張を撤回するつもりは無かった。
 眠っているマミの頬を撫で、アイはその決意を新たにする。

「――――――なに辛気臭い顔してんのさ」

 突然の呼び掛け。思いもしなかったその声に、アイは顔を跳ね上げた。急ぎ視線を向けた先には、アイと同年代と思しき一人の少女。緑のパーカーにデニムショートパンツを合わせた彼女は、病室の扉に背を預けていた。少女がいつから居たのかは分からない。ただ、普通の少女ではない事くらいは一般人のアイにも分かる。

「あんたも馬鹿だよね。一度きりの奇跡を他人の為に使おうだなんてさ」

 小豆色の髪を、黒いリボンでポニーテールにした少女。彼女は勝気そうな目でアイを見詰めながら、ゆっくりとした足取りで二人に近付いて来る。アイにとっては見覚えの無い相手だ。滲み出そうになる警戒心を内に押し込め、アイは少女を観察した。

 少女の身長はマミと同じくらいだ。体付きは平均的で、胸はマミと比べたら大人しかった。どこにでも居そうな女の子。そんな印象を抱きそうになったアイは、左手の中指に嵌められた指輪に気付いて目を細めた。黒い文字が刻まれた銀の指輪。さして特殊なデザインに見えないそれがなんなのか、アイは直感的に理解する。そこには少女の喋った言葉も関係していた。

「……そういうキミはなにを願ったのかな? できれば教えてよ、魔法少女さん?」

 少女の歩みが止まる。微かに目を見開いた彼女は、直後に八重歯を剥き出しにして笑った。

「へぇ、察しは悪くなさそうじゃん」
「どうも。それで? 質問の答えは?」

 少女は肩を竦めた。

「他人の願いを聞こうだなんて、随分と野暮な奴だね」
「鏡ならそこにあるけど」

 部屋の一角をアイが指差せば、少女は一瞬だけキョトンとした後、お腹を抱えて笑い出した。小豆色の髪を揺らし、彼女は大きな笑い声を響かせる。いっそ馬鹿みたいに見えるその姿を、アイは冷めた目で眺めていた。アイの小さな手が、マミの耳を優しく覆う。

 暫くしてどうにか笑いを治めた少女は、滲んだ涙を指で拭う。そこで彼女はアイの視線に気付いた。呆れた顔を向けてくるアイに対して、少女は取り繕うように手を合わせる。さして反省した様子も無く、少女は謝罪を口にした。

「ゴメンゴメン。盗み聞きしたのは謝るよ。でもワザとじゃないからね。キュゥべえからマミの”お気に入り”が居るって聞いて、ちょいとツラでも見てやろうと思って来てみたら、あんた達が喧嘩してたのさ」
「なら勝手に入ってこないでよ。せっかくイチャついてたのに」

 嘆息してアイが零せば、少女は楽しそうに手を叩いた。

「ハハッ。あんた面白いね。マミの友達って言うから、もっとお堅い奴だと思ってたよ」
「気に入ってもらえたようで嬉しいよ」

 皮肉げに口元を歪めるアイ。直後、彼女は少女と目を合わせて頬を緩めた。その突然の変化に、少女が固まる。

「ボクは絵本アイ。知っての通りマミの親友だよ。キミの名前も教えてほしいな」
「……ホント、マミとは大違いだね」

 少女の鋭い視線がアイを射抜く。それでもアイは動じない。穏やかな表情を崩す事無く、彼女は少女と見詰め合う。言葉を交わす事無く、目だけで相手を威嚇する。沈黙を友としたその時間を終わらせたのは、小豆色の髪を掻き乱した少女だった。

「佐倉杏子(さくら・きょうこ)だよ。この辺りの街を渡り歩いてる魔法少女さ」
「なるほど、佐倉杏子だね。ウチのマミとの関係は?」
「ちょっとした知り合いってトコかな。ま、獲物を喰い合うような仲じゃないのはたしかだね」

 杏子と名乗った少女が笑う。八重歯を覗かせたそれは酷く攻撃的で、ある種の肉食獣を思わせるものだった。対するアイはのんびりとしたものだ。柔らかな雰囲気を漂わせ、アイは話に耳を傾けていた。そして彼女は一つ頷き、形の良い唇を開く。

「それはよかった。でも、仲が良いわけじゃないんだね」
「主義が合わないのさ。アタシは個人主義で、マミは博愛主義だ。どうしたって意見はぶつかる。ただそんなでもマミは実力者でね、アタシとしても喧嘩したい相手じゃない。だからそれなりの距離を保って付き合ってるわけさ」

 両腕を広げて説明する杏子が、寝ているマミを顎で示す。アイが膝元に目線を落とせば、そこには変わらず眠るマミの顔。涙の跡が目立つ寝顔は安らかで、まるで無垢な幼子のようだった。だがこの姿だけがマミの真実ではない事を、アイはよく知っている。そしてこの姿こそがマミの本質に近い事もまた、彼女はよく理解していた。

「で、だ。アタシから見たマミは、魔女や使い魔を殺す事しか興味の無い奴だ。魔法少女の使命ってヤツに燃えてて、プライベートが見えてこない。そんなマミに”特別”が居るって聞いたらさ、やっぱ気になるじゃん?」

 腰を折った杏子が、アイの眼前に顔を寄せる。鼻先が触れ合いそうな距離。相手の息遣いすら聞こえてくるその状態で、杏子は獰猛な笑みを浮かべた。アイの黒い瞳に、白い八重歯が映り込む。

「来てよかったよ。まさかマミのあんな姿が見れるなんてねぇ」
「あまりマミをからかわないでくれよ。泣き虫なんだから」
「たしかにね。さっきのマミには驚いたよ」

 けど、と杏子が表情を引き締める。顔を離し、彼女はアイに指を突きつけた。

「アタシもマミと同じ意見だ。奇跡は自分の為に使うモンだよ。他人の為に使ったところで、碌な事になりゃしない。魔法っていうのはさ、そういうモンなの。自分だけの望みを叶える、自分だけの力なわけ」

 怖いくらい真剣な声だった。意思の強い吊り目で真っ直ぐにアイを見据え、彼女は更に言葉を紡ぐ。

「だいたい魔法は異常な力だってわかってる? 可笑しなモンに頼れば、可笑しな結果を招いちまう。世の中ってのはそういう風にできてるんだ。簡単にズルできないようになってんの」

 杏子が鼻を鳴らす。馬鹿にしたようなそれは、何故か彼女自身に向けられているようにアイは感じた。

「そんなモンを他人に使ってさぁ、あんたどうやって責任取んのさ。自分の為だけに力を使うなら、自業自得で済ませられる。自分の所為にしとけば、大抵の事は背負えちまう。でも、そこに他人を巻き込んだら洒落になんないよ? 後悔したって、しきれるもんじゃない」

 最後の言葉は小さな声で、どこか寂しさすら漂わせながら、杏子が話を終える。

 パーカーのポケットに手を突っ込み、杏子は何かを取り出した。お菓子の箱だ。スティック状のプレッツェルにチョコをコーティングしたそのお菓子は、アイもよく知る人気商品だった。箱の中から一本だけ掴み、杏子は口に咥える。小気味よい音を立てて咀嚼し、彼女は即座に食べ終えた。次いで二本目を手に取り、これもすぐさま噛み砕く。苛立ちをぶつけるように、杏子はドンドン消費していく。

 明らかに様子の変わった杏子を、アイは黙って眺めていた。だが不意に、彼女は思い出したように口を開く。

「……つまりキミは、他人の為に奇跡を願ったわけだ」

 小さくアイが呟けば、途端に杏子の手が止まる。小豆色の大きな瞳が、アイをキツく睨み付けた。

「なんか言ったかい?」

 ドスの利いた杏子の声も、アイが気にした風はない。

「もし自分の為に奇跡を願ったなら、キミはそれを話すでしょ。自慢げに『アタシを見習え』って感じでさ。けど実際にはそうじゃなくて、さっきみたいな話を聞かせてる。あれってつまり、キミが後悔したって話だよね? だからボクに忠告してるんだろ」

 グシャリと、杏子がお菓子の箱を握り潰す。乾いた音を響かせて、箱の中のお菓子が折れた。しかし杏子は気にしない。大きな瞳にアイを捉えたまま、彼女は仁王の如く立ち続ける。その姿を、アイは他人事のように見上げていた。

「もったいないね」
「ちゃんと食う。食べ物は粗末にしねぇ」

 怖い顔で杏子が言い切る。拳を小刻みに震わせた彼女は、アイを静かに見下ろしていた。
 アイがニコリと微笑む。裏の無さそうな、裏があるとしか考えられない笑顔だった。

「いい心掛けだ。キミの願いと関係あったりするのかい?」
「うるせぇぞ」

 一気に硬化した杏子の雰囲気に頓着した様子も無く、アイはこれ見よがしに溜め息をつく。座ったまま杏子を見上げ、彼女は見下すような視線を送った。それを受けた杏子は不愉快そうに舌を打ち、眉間に皺を刻んだ。

 肩を竦めたアイが片笑みを作る。挑戦的で、挑発的な表情だった。

「ま、どうでもいいけどね。それよりキミ、ちょっと勘違いしてるぜ」
「……なにをだよ?」

 怪訝そうに問う杏子には答えず、アイは太腿に視線を落とす。そこには今もマミが眠ったままだ。

「キミの懸念くらい理解してるよ。この顔を見れば当然じゃないか」

 白魚のような指が、泣き跡の残る頬を撫でる。未だに眠り続けるマミを見守りながら、アイは自嘲を形作った。次に彼女は杏子を見遣る。黒曜石を思わせる瞳に映るのは、戸惑いを隠せない杏子の姿。それをしかと捉えたアイは、噛んで含めるように話し始めた。

「どれだけ綺麗事を並べても、どんな理想を掲げても、自分一人で決めた事が、本当の意味で誰かの為であるはずがないんだよ。所詮は自己満足。ただのエゴに過ぎない。結局ボクは、ボク自身の為に、誰かの為に奇跡を願うのさ」

 アイの視線が杏子を撫でる。獲物の身を這う蛇の如く、アイは杏子を観察した。羚羊のような足に、パーカーの隙間から覗くお臍、そして緊張で硬くなった面立ちを視界に収めたところで、アイの目が鋭くなる。直後、青白い相貌に薄紅の三日月が浮かんだ。

「キミだってそうじゃないの? 誰かの為とか言いながら、自分の為に奇跡を願ったんでしょ?」

 息を呑む音が聞こえた。杏子のものだった。何か言葉を紡ごうと開いた唇は、震えるだけでまた閉じる。そんな杏子の反応を見れば、真実がどうであれ、彼女がそれをどう受け取っているかは歴然だ。

 瞠目し立ち竦む杏子を見据え、アイは大袈裟に溜め息をついた。

「自覚アリって顔してるぜ。ならわかってるんだろ? 自分の為にやった事を、本気で誰かの為だと勘違いした。だから失敗した。自分がやってる事の本質を理解してなければ、そりゃどんな力でも失敗するってもんさ」

 杏子は何も言わない。反論も無ければ賛同も無く、彼女はただ静かにアイの言葉に耳を傾けている。あるいは耳を奪われているとでも言うべきか。木偶人形のように立ち尽くし、杏子はアイを凝視している。そしてアイもまた、冷たく杏子を見返している。

 刹那、病室に静寂が訪れた。アイも杏子も動かない。微かな寝息だけが場違いに響くその中で、二人は黙って視線を交わし合う。いや、正確には杏子が一方的に押されている。アイの視線に晒された彼女は、蛇に睨まれた蛙の如く固まっていた。

「魔法の所為にするなよ」

 アイが低い声で吐き捨てた。気圧されたように、杏子が後ずさる。

「キミの失敗をなんて言うか知ってる? 『余計なお世話』って言うのさ。決して『魔法の呪い』なんかじゃない」

 杏子の顔が歪む。一瞬だけ泣いているようにも見えた彼女は、けれど直後に歯を食い縛る。嫌悪と苛立ちを綯い交ぜにした表情で、杏子はアイを視線で刺す。けれどアイに気にした様子は無い。むしろ馬鹿にしたような目を杏子に向けて、彼女は鼻で笑った。

「自業自得とキミは言うけどね、それって本心から思ってる? 異常な力を持ってるから仕方無い。異常な存在だから仕方無い。そんな風に言い訳してない? 自分で背負ってるつもりになって、本当はなにもかも魔法の力に押し付けてるように見えるけどね」
「テメェ……」

 八重歯を剥き出しにした杏子が、胸の前に左手を掲げた。その手には赤いソウルジェムが握られ、威圧するようにアイに見せ付けている。しかしアイの余裕は崩れない。呆れた様子で肩を竦め、彼女は杏子に言葉を投げ付ける。

「言葉で返せよ。そんな物でなにができる?」

 杏子は答えない。ただ黙ってアイを睨み、彼女は腕を突き出した。そして杏子の手の中に、巨大な槍が現れる。彼女の身の丈よりも長い柄に、三角形の鋭利な穂先。あまりに病室と不似合いなそれが魔法少女としての杏子の武器だと、アイは瞬時に理解した。

 輝く刃先がアイの眼前に突き付けられる。あと少しでも近付けば、アイの目が潰される。そんな状況。

「――――で? それがどうしたの?」

 どうでもよさそうにアイが問えば、杏子の眦が微かに動く。どこまでも冷めた目で、アイは杏子を見据えていた。

「ボクを力で屈服させれる奴なんて、石投げれば当たるくらい居るわけ。死ぬかもしれないなんて、何年も前から言われてるわけ。魔法少女として自信があるのかもしれないけどさ、ボクにしてみればそこらのチンピラと変わらないよ? そんな風にボクの言葉で震えちゃってさ、どこを怖がれって言うんだよ? ボクにとっては言葉の通じない魔女の方が遥かに怖いっての」

 杏子の腕が震えている。槍の穂先が揺れ動く。今にもアイを突き刺しそうな気配を漂わせ、けれど杏子は腕を引く。歯が砕けそうなほどに食い縛った彼女は、苦々しげに言葉を絞り出した。

「…………あんたの願いはなんだって言うのさ。アタシと比べて大層なモンだって、本気で思ってんのかよ」

 そんな訳が無い。言外に籠められた杏子の意思。それを理解した上で、アイは即座に言葉を返す。

「だから『余計なお世話』だよ。言ったでしょ、ボクは自分の為に願うんだって」

 杏子の眉が跳ね上がる。反射的に口が開く。けれど彼女は何も言えず、槍を握る手を震わせるだけで終わってしまう。そのまま槍を消し、杏子は踵を返す。肩を怒らせて歩く彼女は、一度も振り返る事無く去って行った。

 閉まる扉の向こうに、小豆色の髪が消えていく。それを黙って見送ったアイは、直後、盛大に肩を落とした。

「はぁ~、これじゃただの八つ当たりだ。いつものスマートなボクはどうした」

 重々しく息を吐いてアイがボヤく。青白い相貌に浮かぶのは、色濃い後悔だ。

 アイに杏子と言い合うつもりは無かった。本当に最初は、ただの客人として扱うつもりだったのだ。けれどマミとの口論の所為で苛立っていて、また杏子の言葉があまりに的確に神経を逆撫でるものだから、アイはついつい喧嘩を売ってしまった。あるいは買ったのかもしれないが、そんな事はどうでもいい。アイにとって重要なのは、普段は絶対にやらないほど攻撃的に言葉を使った事だ。

 杏子に向けた言葉のほとんどは、実はアイ自身も信じていない。単純に杏子が傷付きそうな言葉を選んで、それを事実っぽく説明してみただけだった。本当にただ杏子を否定する為だけの言葉。それはアイにとって、最も忌むべき行為の一つだった。

「でもさぁ……」

 言い訳がましくアイが呟く。黒い瞳に映るのは、泣き跡の残る眠り姫。

「自分が不幸になっても、大事な人を悲しませても、叶えたい願いだってあるんだぜ」

 魔法少女になる事は、きっとアイの大好きな”今”を壊す事だ。だからアイは未だに契約していなくて、だけどいずれは契約するのだと心に決めていた。マミと出会ってからのこれまでを大切に思うからこそ、アイはそれを捨てるのだ。

「魔法少女なんて碌なもんじゃないぜ。たぶん、キミが思ってる以上にさ」

 誰かに語り掛けるように、誰にも届かない声でアイが漏らす。薄紅色の唇が、皮肉げに歪む。

 初めて会ったあの事件から、アイはキュゥべえと問答を繰り返してきた。奇跡の事、契約の事、魔法少女の事、キュゥべえの事。色んな疑問を投げ掛けて、アイは多少なりとも真実に近付けた自信があった。

 キュゥべえは機械のような奴だ。伝えていい情報と伝えてはいけない情報を完全に線引きしていて、その線を踏み越える事が無い。人間のように不注意で喋る事も無いし、余分な話を挿む事も無い。必要最低限。求められた情報を、許される範囲内で返してくる。キュゥべえは、そんな機械じみた正確さを持つ存在だ。

 だがそれ故に、キュゥべえは分かり易くもある。触れられたくない話題を正確に回避するキュゥべえの話術は見事だが、逆に隠し事の存在を浮き彫りにするものでもあった。たとえるならマインスイーパーに似ている。答えられる部分を順に明らかにしていけば、最後には地雷である秘密だけが残される、という寸法である。

 そうしてアイは、キュゥべえが守ろうとする秘密の一つに気付いた。魔法少女ではなくなる事の意味だ。以前キュゥべえは、ソウルジェムの機能はいずれ停止すると言った。だが彼は、それが普通の少女に戻る事だとは言っていない。アイはその後も別の角度から同じ主旨の質問を繰り返してきたが、一度として一般人に戻るという回答は無かった。またキュゥべえの『手伝い』を終えた魔法少女もたくさん居るらしいが、そちらに関しても同様だ。役目を終えた魔法少女の行く末を、キュゥべえは頑なに語ろうとしない。

 怪しい。何かあるに違いない。そうは思っても、今のアイには憶測を確信に変える事は出来ない。アイの疑念を察したのか、キュゥべえは随分と前から彼女の近くに姿を現さないのだ。その事がまた、アイに不審を抱かせていた。

「魔法少女にはならない方がいい。心の底からそう思うよ」

 アイが契約したいと言い出せば、キュゥべえはどこからともなくやって来るだろう。他の事柄には淡白なのに、キュゥべえは魔法少女の契約に関してだけは熱心だ。感情の見えない彼が、唯一意思らしい意思を表す部分。だからこそアイは、契約する事を恐れている。

「だけど仕方無いじゃないか。碌でもないモノになった女の子が、ならなくちゃいけなかった女の子が、ボクの傍に居るんだ。弱っちい癖に強がって、泣き虫なのに格好付けて、必死に色んなものと戦ってる女の子がさぁ」

 アイの小さな手が、マミの頬を撫でる。白い肌にはクッキリと涙の跡が残っていて、その痛ましさにアイは顔を歪めた。泣き笑いのような表情。マミの寝顔を見守るアイは、ガラス細工にも似た繊細さを感じさせた。

「そんな女の子が傍に居たら、”代わって”あげたくなるのが道理だろう?」

 問い掛けは、アイ自身の心に向けたもの。それは誓いであり決意であり、どうしようもない自己満足でもある。きっと不幸になる。たぶん悲しませる。だけど許せない未来ではないから、許せない未来を避ける為に、アイは選択した。

「もしも奇跡を願うなら――――――」

 それはきっと、誰より大事な人の為に。霞んで消えたその言葉は、アイの胸にだけ刻まれていた。


 ◆


 廃墟としか呼べない場所だった。残骸となった木片が散乱し、足跡を残すほど埃が積もった床。かつては優美で神秘的な光景を生み出したであろう壁一面のステンドグラスも、今では無残に罅割れ、砕け散っている。仰ぎ見れば、天井に嵌め込まれたステンドグラス。昇る太陽を背負うはずのそれも、破片が落ちてこないか心配させるだけ。昔、教会と呼ばれていた頃の輝きは、もはやここには残っていない。

 人気が去って久しいこの場所に、今は少女の姿があった。小豆色の髪、意思の強い吊り目、羚羊のような足。佐倉杏子という名の彼女は、リンゴの詰まった紙袋を抱えて、廃墟の奥へと歩いて行く。足元の木片を蹴り飛ばし、踏み砕き、杏子は機械的に足を進めていた。椅子の一つも無い教会。その一番奥には高い段差があった。階段状のそこを黙って上り、杏子は古びた講壇に辿り着く。

「…………」

 埃が積もり、傷みきった講壇。長い間使われていないそれに手を這わせ、杏子は唇を噛み締める。悲しさと、苦しさと、悔しさの混じった表情だった。講壇を見詰める瞳には、ただひたすらに後悔の念が宿っている。

 かつてこの講壇に立ち、教えを説いた聖職者が居た。優しく真摯で、世に蔓延る不幸を我が事のように嘆いていた男だ。新しい時代を救うには、新しい信仰が必要になる。それが彼の言い分で、だからある時、教義に含まれない事まで信者に説いた。男が語って聞かせた内容は、決して間違ったものではなかっただろう。しかしそれは、周りが彼に求めていたものではなかったのだ。

 男に非難が集中したのは、実に自然な事だった。

 信者からも本部からも見放され、男の教会はあっという間に寂れてしまう。それでも彼は挫けなかった。自らの足で家々を巡り、教えを説いて回ったのである。胡散臭がられても、石を投げられても、貧困に喘いでも、男は決して諦めなかったのだ。

 男には家族が居た。妻と二人の娘だ。そして娘の一人の名を『杏子』と言った。

「クソッ」

 震える指で爪を立て、杏子が講壇を引っ掻く。次に彼女は紙袋からリンゴを取り出し、勢いよく噛り付いた。乱暴に噛み潰し、嚥下する。そうして瞬く間にリンゴを食べ尽くし、残った芯を袋に戻す。代わりに新品のリンゴを手に取り、杏子はまた齧りつく。

 信者が離れ教会が寂れると、杏子の家は瞬く間に貧乏になってしまった。食うにも事欠く有り様で、生のリンゴだけが食卓に上がる事も珍しくなかったほどだ。それでも杏子は父が好きだった。尊敬していて、敬愛していて、彼の言葉を信じていた。

 だから杏子は、キュゥべえと契約したのだ。ちゃんと話を聞いてくれさえすれば、父の正しさは誰でも分かる。そう信じて、みんなが父の話を真面目に聞いてくれるよう、彼女は願ったのだ。それはどこまでも純粋な、一人の少女の願いだった。

 奇跡の効果は覿面で、翌朝には教会は人でごった返していたほどだ。日毎に信者の数は増し、願った杏子自身が怖いくらいの勢いだった。しかしいくら正しかろうと、説法で魔女は退治出来ない。だからそれは自分の仕事だと、杏子は張り切っていた。父と自分の二人で、表と裏から世界を救う。そんな夢物語のような事を、当時の杏子は本気で信じていた。

 だがある時、魔法の存在を父に知られた。そこからの転落はあっという間だ。人の心を惑わす魔女だと、父は杏子を罵った。そして信者が集まった理由が信仰ではなく魔法の力によるものだと理解した彼は、その純粋さ故に心を病んだ。酒浸りになり、頭が可笑しくなり、最期は家族を道連れに無理心中だ。ただ一人、杏子を置き去りにしてみんな死んでしまった。

「わかってるさ、アタシの所為だって事くらい」

 握った三つ目のリンゴを見詰め、杏子が呟く。微かに震える声は、誰に聞かれる事も無く霞んで消えた。

 他人の都合を考えない勝手な願い事が、家族を壊してしまったのだ。束の間の幸せはまやかしに過ぎず、結局誰もが不幸になった。杏子はちゃんと理解している。原因が自分の身勝手さにある事を、彼女は嫌と言うほど思い知っている。だからアイに指摘されても、杏子は大して動揺しなかった。意表を突かれた感はあったが、それでも冷静さは残っていた。彼女を悩ませるのは、また別の言葉だ。

 何もかも魔法の力に押し付けている。そう告げたアイの声が、杏子の耳を離れない。

 かつて杏子は心に誓った。魔法の力は自分の為に使い切る、と。奇跡はタダではない。奇跡を祈れば、その分だけ絶望が撒き散らされる。そうして世の中はバランスを保っているのだと、彼女は悟ったのだ。だから好き勝手に生きる。自分勝手に生きる。どうせ帳尻合わせが来るのなら、開き直ってしまえばいい。それが楽な生き方だと、杏子は信じていた。

 でも、その信念が揺らいだ。アイの言葉で揺らがされた。自分の所為だと言いながら、結局は魔法の所為にしている。アイは杏子をそんな風になじった。心底馬鹿にしたように、蔑んだのだ。

 だからどうしたと言い捨てたい。いつもみたいに悪びれず、居直ってしまいたい。だけど杏子はしなかった。出来なかった。それは彼女に残された最後の矜持だ。曖昧にしたまま逃げるには、この問題は杏子の心に近過ぎた。

 全てを自分で背負って生きる。その自負が杏子を支えてきた。自分が世界の中心だと信じているからこそ、彼女は自由に振る舞える。だがもしもアイの言う通りなら、それは違うのだ。本当に中心となっているのは魔法の力で、杏子はそれに寄生しているだけに過ぎない。他人にしてみれば同じような事かもしれないが、杏子にとっては大きな違いだ。

「アタシはそこまで…………惨めじゃねぇ」

 心の叫びが漏れる。絞り出される。講壇に手の平を乗せ、杏子は顔を歪めた。

 何もかも自分一人で受け止めていると思えばこそ、杏子は胸を張って生きられる。しかしそこに『逃げ』が存在すると言うのなら、彼女は自分を許せそうになかった。最後に残ったプライドが、根元から折れてしまうからだ。

 アイの言葉を否定したい。だが否定しようと思えば思うほど、杏子は自分の本心が分からなくなった。胸の奥から不安が湧き出て、自分で自分を苛んでしまう。出口の無い思考の迷路に、今の杏子は迷い込んでいた。

「なんだよコレ。わけわかんねぇ」

 杏子の言葉に応えは無い。かつて教えを説いてくれた父の姿は、もはやここには無いが故に。


 ◆


 冷戦勃発。現状を端的に説明すればそうなるのだろうかと、アイは益体も無い事を考えた。アイの命が長くない事をマミに知られてから、今日でちょうど一ヶ月になる。その間にマミが病室を訪れた回数はたったの二回。どちらも口論となり、その結論は平行線を辿った。それはこれから先、何度繰り返しても変わらないだろう。少なくとも今のアイには、問題解決の光明が見えなかった。

 互いに譲るつもりは無く、だから顔も合わせ辛く、極端にマミの訪問回数が減っている。こんなに会わないのはいつ以来だろうかと考え、そういえばマミと出会ったばかりの頃にあったと、アイは思い出す。ただあの時と比べれば、今回は明確に喧嘩だと言えた。ここまで二人の意見が対立した事は初めてで、アイも戸惑いを隠せていない。

 どうやって仲直りしようかと考えながら、アイは今日も紅茶を飲んでいた。テーブルの上に用意したティーカップは二人分。けれど実際に淹れた紅茶は一人分。いつもと同じ手順で淹れた紅茶は、やはりいつもと同じ味がした。教科書通りの淹れ方しか出来ないアイは、ちっとも腕前が上達しないのだ。かと言って創意工夫を凝らそうものならば、途端に味が落ちてしまう。それでも次にマミと会ったら驚かせてみたくて、アイは毎日のように紅茶を淹れるのだ。

 相手の居ないティータイム。使い慣れたカップに口をつけ、アイは舌を湿らせる。上品な香りが広がるが、所詮は茶葉のよさに頼ったものに過ぎない。マミの淹れた紅茶が無性に懐かしくて、アイの顔に苦笑が浮かぶ。

 病室の扉が開いたのは、その時だ。

 慌ててアイが入り口を見遣る。この時間、雅人も看護師も訪れる可能性は低い。となれば、自然とそれ以外の人物が候補に挙がる。そしてアイの客人として最も可能性の高い人物は、考えるまでも無く一人しか居ない。

「邪魔するよ」

 しかし入り口に立っていたのは、アイが期待した人物ではなかった。佐倉杏子。一月前に一度だけ会った少女がそこに居る。小豆色の髪をポニーテールにした彼女は、思い詰めた表情でアイを睨んでいた。服装は以前と同じで、緑のパーカーとデニムショートパンツ。けれどあの時とは異なり、今の杏子には余裕が感じられなかった。

 暫し、二人が見詰め合う。予想外の事態にアイは言葉が無く、杏子はそんな彼女の返答を静かに待っていた。だが沈黙は長くは続かない。やがて気持ちの整理を終えたアイが、佇む杏子に問い掛けた。

「――――服、それしか持ってないの?」
「チゲェよ!」

 杏子が大声で否定する。彼女の様子は妙に必死で、アイは可笑しそうに笑い声を上げた。

「ったく。せっかく人が覚悟を決めて来たってのに」

 乱雑に髪を掻き乱し、杏子がアイの方に歩いて来る。若干空気の和らいだ彼女を見て、アイは小さく笑みを零した。次いで椅子から立ち上がり、彼女は対面の椅子を引く。もう半月近く、誰も座る事の無かった席だ。

「話があるみたいだね。座りなよ。ボクは誰かを悩ませるより、悩みを解決する方が好きなんだ」
「………………」

 複雑な面持ちの杏子は、けれど何も言わずに席に着く。嬉しそうに頷き、アイはテーブルの上を片付け始めた。

「ジュースがあるから持ってくるよ」
「別に紅茶でいいっしょ? 用意してあるし」

 アイの動きが一瞬だけ止まる。アーモンド形の目が鋭くなり、唇は固く結ばれた。けれどすぐに彼女は笑顔を作り、お盆にティーセットを乗せる作業を再開する。そうして淡々と片付けを進めながら、アイは短く、けれどハッキリと言い切った。

「悪いけど、それは”ダメ”なんだ」
「ふぅん? ま、いいけどね」

 怪訝そうにする杏子を尻目に、アイは片付けを終える。小枝のような細腕にお盆を抱えた彼女は、そのまま専用の台所へと続く扉を開けて姿を消す。暫くして戻ってきたアイの腕には、ジュースの入ったコップを乗せたお盆が抱えられていた。杏子の前にコップが置かれる。入っているのはリンゴジュースだ。そして自分の席にもコップを置いたアイは、再び椅子に腰を下ろした。

「さて、相談に来たと思っていいのかな?」
「……違う。あんたとケリをつけに来た」

 杏子の表情は硬い。雰囲気も硬ければ声も硬く、容易ならざる問題だとすぐに分かる。初めて会った時とはまったく異なる彼女の態度に、アイは興味深そうに目を輝かせた。自然と彼女の姿勢は前のめりになる。

「一ヶ月前の続き、という事でいいんだよね?」

 言葉は無く、杏子は首肯でアイに答える。それを見たアイは、思い溢れた様子で息を吐き出した。

 正直に言ってしまえば、アイにとってこのような形での再会は予想外だった。前回は上手くやり込めて終える事が出来たが、あんなものは詭弁に過ぎない。魔法の力は杏子の力。開き直ろうと思えば簡単に開き直れる。あの時は勢いで押したが、落ち着けばすぐに気にしなくなるだろうと、アイ自身は予想していた。所詮は事情を知らぬ者の言葉。まさかここまで重く受け止められるとは思わなかったのだ。

「わかった、受けて立つよ。でも、その前に謝らせてほしいな」

 キョトンとする杏子に対し、アイはすかさず頭を下げた。

「ごめんなさい。あの時のボクは無神経だった。反省してる」

 杏子の浮かべた表情は、筆舌に尽くし難い。困ったような怒ったような、あるいは悲しむような目をアイに向け、杏子は自らの顔を片手で覆った。そして僅かな逡巡を見せた後、彼女は心底くたびれた様子で、アイに言葉を投げ捨てる。

「……お前、嫌なヤツだな」
「あ、わかる?」

 悪びれた様子も無く舌を出すアイに返ってきたのは、呆れた目と溜め息だ。それでもすぐに気を取り直した杏子は、改めてアイと正面から向き合った。居住まいを正した杏子の視線が、真っ直ぐにアイを射抜く。アイもまた、真面目な顔で彼女に応えた。

「ちょっとばかり長い話になる。聞いてくれるか?」

 アイが頷き、答える。そして杏子の話が始まった。

 父の話。貧困に喘いだ話。キュゥべえと契約した頃の話。魔法少女である事を知られ、全てを失った話。そして心に刻んだ、彼女の誓い。淡々と語る杏子の顔に色は無く、必死に感情を抑えているようにも見えた。時折震えの混じりそうになる声に、俯きがちな大きな瞳。昔語りをする杏子からは、幼子のような弱々しさが伝わってくる。話に耳を傾けていたアイは、息を詰めてそんな彼女を眺めていた。

 やがて全てを吐き出し、杏子の話が終わる。

 忙しなく動かしていた唇を止めると、杏子は疲れた風情で息を吐いた。少しヌルくなったジュースを飲み干し、叩き付けるようにコップを置く。それから口元を拭った彼女は、真っ直ぐにアイを睨み付けた。小豆色の瞳には、焼け付くような焦燥が滲んでいる。

「アタシは二度と後悔するつもりは無い。だから自分の為だけに生きて、自分だけで全部を背負う。そう誓ったんだ」

 けど、と杏子の呟き。軸の揺らいだ、自信に欠ける声だった。

「あんたの言葉でわからなくなった。魔法の所為にしてるんじゃないかって、自分で受け止めてないんじゃないかって、不安になった。そんなわけないと思っても、完全に否定できないんだ。そしたら急に色んな事が上手くいかなくなった。生きるのが下手になっちまった」

 杏子の表情は痛ましいほどに沈んでいた。今にも泣き出しそうで、けれど泣けなくて、決壊寸前のダムみたいに危うい均衡の上に成り立つ顔だ。そんな見ている方が辛くなってきそうな彼女を眺めながら、アイはポツリと呟いた。

「……マジメだねぇ」

 小豆色の瞳が、アイを映す。薄紅色の唇が、弧を描く。

「そもそも魔法の所為ってなんだろうね? いや、ボクが言ったんだけどさ。でも、本当になんだろうね? 魔法の力はキミの力だ。そこに責任があると言うのなら、キミに責任があると言う事もできる。だいたい魔法の力にはどうしたって責任は取れない。だから必然的にキミが責任を取るしかない。ほら、『魔法の所為』なんて言葉はまやかしに過ぎない」

 肩を竦めてアイが言う。対する杏子はまず頷き、次いで左右に首を振った。

「たしかにそうとも言える。けどアタシは――――」
「そう、キミはそれじゃ納得できない。何故か? 誇りの問題だからだ。自分だけで全てを背負う。その矜持があるからこそ、キミは自分に『逃げ』を許さない。他の何を捨てたとしても、いや、他の全てを犠牲にできるからこそ、キミにとって『自分』だけは曲げられない」

 そうだよね、とアイの目が問い掛ける。しかし杏子は返事をしなかった。ただ正面からアイを見詰め、次の言葉を待っている。それを肯定と受け取り、アイはそのまま話を続けた。

「ボクから見て、キミは決して『逃げ』てない」

 杏子の息を呑む音が、アイの耳に届いた。

「キミは自分を責めるのが上手い。家族を亡くした時、キミは周りではなく自分を責めた。誓いを立てる時、ちゃんと自分で背負うと決められた。そして今も、キミは自分を責めている。そんなキミが逃げてるだなんて、ボクにはとても信じられない。心の証明は難しい事だけど、常に一貫したキミの行動を顧みれば、それを証としても問題無いだろうさ」

 目を見開き凝視してくる杏子に、アイは微笑んだ。包容力に満ちた、大人の女性の顔だった。

 しかしアイの本音は違う。彼女の本心はそうではない。胸の奥には杏子を否定する言葉を潜ませていて、アイの手はしっかりとそれを握り締めている。少し気が向けば、いつでも杏子を刺しに行ける状態だった。

 でも、言わない。でも、責めない。絵本アイは断罪人ではなく、正義の味方でもなく、ちょっと賢しいだけの病弱少女だ。何より彼女は、力の無い自分が嫌いで、才能の無い自分が嫌いで、だけど弱者に甘くする自分は大好きだった。

 だからアイは、杏子に手を差し伸べる。悪魔みたいに綺麗な笑顔で、優しさを押し売りするのだ。

「キミの父親はやり方を間違った。でも心の正しい人だった」

 杏子の手に自らのそれを重ね、宝物でも扱うように、アイは柔らかく握る。

「キミも”同じ”だよ。過ちを犯して、歩む道も綺麗じゃないけど、その心だけは真っ直ぐなままだ」

 綺麗な声で、優しい声で、一見すれば天使のような純真さで、アイは杏子に囁いた。


 ◆


「……最近、濁りが酷いわね」

 マミの呟きが空に溶ける。ビルの屋上に立った彼女は、色の無い目で自らの手元を見詰めていた。

 半ば以上が黒く濁った、蜂蜜色のソウルジェム。それは魔力を消耗した証だが、近頃は以前よりも早く濁るようになっていた。原因はマミにも分からない。ただ、もしかしたらアイとの不仲で精神状態が悪い所為かもしれないと、彼女は朧気に察していた。とはいえそれが真実だとしても、今のマミにはどうしようもない事だ。

 嘆息し、マミはソウルジェムにグリーフシードを近付けた。黒い濁りがグリーフシードへと移り、ソウルジェムが本来の輝きを取り戻す。陽光を照り返す蜂蜜色の煌めきを確かめた後、マミはソウルジェムを指輪に変えた。

「あと一回は使えそうね」

 グリーフシードの状態を確認し、マミが呟く。それから彼女はグリーフシードを仕舞い、少し離れた所にある建物を見遣った。

 マミの視線の先、道路を挟んだ向こうには、一つの巨大な病院が建っている。マミにとっては見慣れた、アイの入院している病院だ。だがこの二年で通い慣れたその場所に、マミは半月近く足を運んでいない。どうしてもアイの決断が許せなくて、説得したくて、でも口論になるから顔を合わせ辛かった。

 けれど会いたい気持ちは抑えられない。だからマミは、こうして遠くからアイの姿を眺めている。一日に僅かな間だけの、アイがティータイムを終えるまでの、一方的な逢瀬だ。話は出来ないし、目が合う事もないけれど、それは少しだけマミの寂しさを紛らわせてくれた。

 だが、今日は些か事情が違うようだ。

「佐倉さん……」

 この半月、誰も座る事の無かったアイの対面に、今は一人の少女が腰掛けている。遠目にも目立つ小豆色の髪をポニーテールにした少女。マミも知っている、彼女とは別の魔法少女。佐倉杏子という名の女の子が、何故かアイと共に居る。

 マミの顔が罅割れる。歪んだ口元からは声も無く、彼女は揺れる瞳で二人を見詰めた。

 何故、と疑問。アイと杏子が知り合いだなんて、マミは一度も聞いた覚えが無い。それはつまり、アイが意図的に隠していたという事だ。たしかにマミも杏子の存在は伝えていない。だが魔法少女であるマミと一般人であるアイとでは、その意味は大きく異なる。杏子は魔法少女だ。しかも個人主義を謳って好きに生きる、危険な思想の持ち主だ。力の無い者が不用意に近付いていい相手ではない。

 気になる。今すぐにでも病室に飛び込んで、アイに事の次第を問うてみたい。しかしマミの体は動かなかった。

 もしかしたら、ずっと前からの知り合いかもしれない。
 もしかしたら、自分が間に入っていい仲ではないのかもしれない。
 もしかしたら――――――――アイは自分より杏子を頼りにしているのかもしれない。

 心の隙間に生まれたのは、そんな弱い気持ち。どれだけありえないと胸の裡で叫んでも、マミは自然と足が竦んでしまう。せめて喧嘩中でなければ安心出来た。だけど今はそうではなくて、アイに見限られたんじゃないかと、マミは不安で胸が一杯になる。

 決して親しそうには見えないアイと杏子。だけどそんな事はなんの慰めにもならなくて、マミの思考はいつも通り後ろ向きだ。次々と嫌な考えが浮かんできて、すぐにでも二人の間に割って入りたくて、だけどアイと仲直りをする事も出来ない。苦しくても、辛くても、やっぱりアイとの問題にはキチンとした決着をつけるべきだと、マミは信じて疑わなかった。

 アイの寿命は短い。彼女は長く生きられない。それが不可避な未来であれば、今を精一杯生きるのも良いだろう。だが実際には違うのだ。アイには悲しい未来を回避する手段がある。明るい未来を生み出せる。だったらそれを実現する為に全力を尽くすべきだ。少なくともマミにとっては、それが最良の選択だと思えた。

「どうしてわかってくれないのよ……っ」

 絞り出したマミの声は、誰の耳にも届かない。泣き出しそうな顔も、誰の目にも映らない。

 いくら意地を通したって、いくら自分の選択だからって、死んでしまえば元も子も無い。全ては命があってこそだ。事故で両親を亡くしたからこそ、自分自身も死に掛けたからこそ、マミにはそれが真実だった。なのにアイは、全然理解してくれない。

 蜂蜜色の瞳から、透明な涙が溢れ出る。白い頬を流れ落ち、涙は雫となって零れ落ちた。

『やぁ、マミ。ひさしぶりだね』

 不意に響いた朗らかな声。マミにとっては、酷く聞き覚えのある声だった。

 マミが振り返れば、そこにはやはり見知った姿。白い体と赤い目を持つ、マミの小さなお友達。普段と変わらぬ表情で、人形みたいに同じ顔のままで、キュゥべえはビルの屋上に佇んでいた。不思議と目を引くその存在に、マミの意識が引き寄せられる。

『アイと喧嘩したみたいだね。泣いているのはそれが理由かな?』

 耳を傾けずにはいられなくなる、純真そうなキュゥべえの声。かつて何度も助けられたその声に、マミの期待が自然と高まる。熱に浮かされたような目で彼を見て、彼女は縋る思いで言葉を待つ。それはさながら、天啓を待つ信徒のようでもあった。

『実は君達が仲直りする為の提案があるんだけど、興味はあるかい?』

 はたしてキュゥべえは、マミが望んだ通りの言葉を授けてくれた。




 -To be continued-



[28168] #005 『まだ大丈夫』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/06/19 20:17
「――――いらねぇよ」

 低い声が部屋に響く。アイの白い手を払い除け、杏子は瞳に苛立ちを滲ませた。

「誤魔化しはいらねぇ。慰めもいらねぇ。同情だって求めてねぇ」

 握り締めた拳を震わせ、杏子が正面からアイを睨む。憤怒とも決意とも取れる強い意志が、今の杏子からは感じられる。アイは知らず息を呑み、杏子の顔を見詰めていた。そこにあるのは純粋な驚きだ。

 杏子は弱かった。魔法少女としては実力者なのだとしても、彼女の心は隙だらけだった。罅割れていて、揺れ動いていて、そこに入り込むのは簡単そうだとアイは感じていた。しかし現実に訪れた結果はそうではなく、アイの差し伸べた手は、こうして跳ね除けられている。

 アイにとっては予想外の展開だ。けれど彼女に落胆は無く、むしろ感嘆にも似た感情を抱いていた。

「言ったはずだよ。ケリをつけに来たって」

 鋭い視線に射抜かれたアイが、その口端を吊り上げる。

「いいね。意地を通すヤツは大好きだぜ」

 大仰に腕を広げたアイが告げれば、杏子は気に食わなそうに鼻を鳴らす。二人の間に流れる空気は決して穏やかではないが、それでも一触即発とはならない。絶妙な均衡を保ったまま、彼女らは相手の真意を探っていた。

 先に動いたのは杏子だ。彼女は感情を抑えた声音で言い捨てる。

「あんたの本音を教えなよ。アタシはそれを聞きに来たんだ」
「もちろんだとも。キミが本気で望むなら、ボクは全力で答えよう」

 胡散臭そうにアイを見据え、けれど杏子は何も言わない。顎をしゃくり、彼女は続きを促した。それにアイは頷きで応える。不純物の無い笑顔を浮かべ、彼女はテーブルに肘をついて両手を組んだ。

「ボクの本心を言わせてもらえば、キミは逃げてるように見える。初めから、根本から、全てからね」

 杏子の目付きがキツくなる。剣呑とした気配が漂い、奇妙な圧迫感が辺りを包む。それでもアイは動じなかった。暖簾に腕押しといった風に受け流し、白いかんばせに余裕を刻む。そうして話し始めた彼女の口調は、随分と落ち着いたものだった。

「キミの掲げる主義は良いと思うよ。自分のツケは自分で払う。シンプルで、わかりやすくて、とても素晴らしい考えだ。それを目指す事は決して悪じゃないし、非難されるべきじゃない。問題はその主義がなんの為に使われるのか、という事さ」

 目蓋を閉じ、開く。それからアイは、対面の杏子を瞳に映した。

「キミは自分で全てを背負うと言うけどさ、それってつまり、他人を遮断するって事だろう? だったらキミの罪の重さは、一体誰が決めるのか。これが根本の問題点だ。もしも自分で罪の重さを決めると言うのなら、それが正当な価値観に基づいたものかどうかが重要になる。千円の商品に百円を払っても、支払いは済まないからね。だからまずは、その点について考えてほしい」

 アイが問えば、杏子は名状し難い顔で応えた。口元を真一文字に結び、指先をテーブルに這わせる。そんな落ち着きの無い様子で考え込む杏子を眺めながら、アイは組んだ手に顎を乗せた。それから彼女は、もったいぶった口調で問い掛ける。

「どう思った? キミの考える罪の重さは、他人の考えるものと同じかな?」

 杏子の応えは無い。彼女はジッと押し黙り、腹の奥に何かを押し込めたような表情でアイを見据えている。

「人間っていうのはさ、自分に甘いんだ。どんなに厳格な人だって、辛い時には甘くなる。仕方無いよね、それが生き物ってもんさ。だから他人を締め出したキミは、どうしたって自分に甘くなりやすいはずなんだ」

 このジュースみたいに。持ち上げたコップを軽く揺らして、アイは頬を歪めながらそう言った。杏子の眉が微かに動く。だがやはり彼女は口を閉じたままで、静かにアイの言葉を待っている。そんな杏子を眺めるアイの目が、チェシャ猫のように弧を描いた。

「とはいえ、キミって意外と真面目だよね。本気で好き勝手に生きようとするなら、そもそも自業自得なんて言葉すら要らない。責任なんて放り出せばいいんだからね。けどキミはそうしなかった。ちゃんと自分で受け止めようとした。そこは立派だと思うよ」

 したり顔でアイが頷いても、杏子はちっとも嬉しそうではない。まるでつれない彼女に対し、アイは肩を竦めた。

「だから。そう、だからボクは、キミの生き方に誠実さと弱さを感じるよ。無責任を嫌う誠実さ。過ちを受け止めきれない弱さ。その二つがキミの根源だと思ってる。過去の罪から目を背けながらも、自分は責任ある生き方をしてるんだって誤魔化してるんじゃないかな?」

 アイが目で問えば、返ってきたのは黙殺だ。腕を組んで目蓋を下ろした杏子は、思考の海に沈んでいるようだった。
 会話が途切れ、二人の間に静寂が訪れる。そのまま暫し、時が流れた。

「――――――質問が一つ」

 不意に響く杏子の声。目を開けた杏子が、正面からアイと視線を交わす。

「今の言葉は、あんたの本心?」
「もちろん。ボクの感じた通りを話したよ」

 そう、とだけ杏子が呟く。再び瞑目した彼女は、深く息を吐き出した。

「自業自得」

 ただ一言。静かな声で杏子が告げる。芯の通ったそれは耳心地がよく、アイは自然と聞き入っていた。今の杏子は落ち着いていて、微かな苛立ちすら見られない。十分に自分を律したその姿に、知らずアイは吐息を漏らす。

「自業自得が、アタシの生き方だ。あんたの言葉が真実かどうかは知らない。でもあんたがそう受け取ったって言うのなら、アタシはそれを受け止めなきゃらならない。ちゃんと考えて、自分で答えを出さなきゃいけない。今日はそう決めてここに来たんだ」

 目蓋を上げた杏子が、小豆色の瞳にアイを映す。

「昔のアタシは馬鹿だった。そんな奴が出した答えが、間違ってないはずないんだよね」

 杏子が疲れたように苦笑する。弱々しくも、決意と覚悟を宿した顔だった。
 次いで杏子は立ち上がる。アイを見下ろす彼女の表情は、憑き物が落ちたように和らいでいた。

「あんたはいけ好かないけど、ちょっとだけスッキリしたよ。ありがとね」

 真っ黒な目を真ん丸にしたアイを見て、杏子が低く笑う。どこか意地の悪いその姿は、けれどアイが見た中で一番魅力的だった。年相応の女の子みたいな快活さを漂わせ、杏子は軽い足取りで歩き出す。その小さな背中を、アイは何も言えずに見送る事しか出来なかった。

「そうそう会いたかないけど、機会がありゃ美味いモン持って見舞いに来てやるよ」

 背を向けたまま手を振って、杏子は最後にそう告げる。そして彼女は去って行った。振り返る事無く扉を潜り、緑の背中が見えなくなる。そうして再び一人になった病室の中で、アイはポツリと呟いた。

「格好良いなぁ」

 暫く病室の入口を眺めていたアイは、やがて首を振って片笑みを浮かべた。

「ま、ボクとしてはマミみたいに可愛い方が好みなんだけどね」

 普段と変わらぬ調子で独りごち、アイが肩を竦める。コップに残っていたリンゴジュースを飲み干し、彼女は口元を拭った。小さく吐息を漏らした後、天井を仰ぐ。それからアイは、寂しげに微笑を浮かべた。

「会いたいよ……」

 たとえ杏子の悩みが解決したとしても、アイとマミの問題が消える訳ではない。ちょっとした気分転換にはなっても、アイの胸には未だに不安が燻ぶっていた。このまま会えないのではないか、喧嘩したまま終わるのではないか、そんな思いが彼女の心を曇らせる。

 どんなに頭がよくて口が上手くても、アイには絶望的に力が無い。だから問題の解決手段も限られる。その事を諦めと共に受け入れているアイだが、こういう時には、やはり悔しさを覚えずにはいられなかった。もっと力があれば、別の方法を提案出来るのかもしれない。益体も無い考えだとは思いつつも、アイはそんな妄念を捨て切れなかった。

 花の髪飾りを手で覆い、瞑目する。そのままアイは、冷たい静寂に身を委ねた。

「ん?」

 唐突に響くノックの音。今度は誰だろうかと、アイが不思議そうに扉を見遣る。直後、アイの返事を待たずして扉が開かれた。

「――――えっ?」

 アイの表情が固まる。大きく口を開け、彼女は訪問者を呆然と見詰めていた。黒い瞳が見開かれ、薄紅の唇が細かく震える。アイの顔には信じられないと書いてあり、けれど彼女は目に映る人物に確信を抱いていた。アイが彼女を見間違えるなど、絶対に有り得ないのだから。

「ひさしぶりね、アイ」

 巴マミが、そこに居た。アイの見慣れた制服姿で、彼女は病室の入り口に佇んでいる。

 反射的に立ち上がったアイは、しかし踏み出そうとした足を止めてしまった。青白い相貌に浮かぶのは戸惑い。伸ばし掛けた手は、半端に宙を泳いでいた。今のマミは、何故か嬉しそうに微笑んでいる。優しく、柔らかく、憂いの欠片も感じ取れない表情。それはたしかに良い事なのだが、最後にアイが会った時とは正反対で、どうしても違和感を覚えてしまう。

 何かが可笑しい。それは分かっても、アイにはその原因が分からなかった。あれだけ意見の対立を見せていたマミが、半月ほど会わなかっただけで綺麗に怒りを治めている。しかも相手であるアイと言葉を交わす事無く。そんな事があってたまるかと、アイはすぐにでも叫びたい気持ちだった。この状況は、あまりに不自然過ぎる。

 得も言われぬ雰囲気に呑まれ、アイは喉を鳴らした。

「えっと、マミ……だよね?」

 途端にマミの顔が曇る。眉尻が下がり、蜂蜜色の瞳が潤む。

「あ、いや! そうじゃなくてね。どうしてそんなに機嫌がいいのかと思ってさ」

 慌ててアイが弁解すれば、マミの表情も和らいだ。再び微笑を浮かべ、マミはゆっくりとした足取りでアイの方に歩み寄ってくる。アイは動かない。否、動けない。未だに状況に理解が追い付かず、彼女はマミを凝視したまま硬直していた。

 二人の距離が縮まる。いつもの距離に、二年間で築き上げた距離に近付いていく。しかしアイは違和感を覚えずにはいられない。二年間の付き合いがある。絆がある。なのに今のマミから感じる繋がりはとても弱くて、頼りない。だからマミに駆け寄る事も出来ず、どんな言葉を掛ければ良いかも分からず、アイは呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。

 そして二人の距離が、ゼロになる。

「――――ごめんなさい」

 アイが温もりに包まれる。マミの腕の中だった。いきなり豊かな胸に顔を埋める事になったアイは、状況が分からず目を丸くする。そんな彼女の頭をギュッと抱き締め、マミは重ねて謝罪の言葉を降らせてきた。その声は穏やかで、慈しみに満ちていた。

「私が悪かったわ。あなたの気持ちも考えず、自分の気持ちを押し付け過ぎた」
「マミ……?」
「もういいの。誰かの為に奇跡を使いたいなら、私はそれを応援するから」

 耳が溶けてしまいそうな甘い声。マミの発したそれは優しくて、本当に聞き心地がよくて、なのにアイは背筋が震えた。気味悪くて気持ち悪くて、自分の前に居るのは一体誰なのかとアイは怖くなる。マミなのに、マミじゃない。二人の間にどうしようもない認識の齟齬を感じて、だけどその正体を掴めなくて、アイは何も言ないまま抱き締められていた。

「だから、仲直りしましょう?」

 互いの体を離し、だけどアイの腕を掴んだまま、マミが微笑む。それに目を奪われたアイは、訳も分からず頷いていた。

「ありがとう!」

 マミがまたアイを抱き締める。温かなマミの腕の中は、アイにとって最も安らげる場所の一つだ。そのはずだった。でも今のアイは緊張に身を震わせていて、ちっとも安心出来ていない。胸に埋もれたその顔には、只々困惑の色が滲んでいた。

「ねぇ、どうして?」

 アイの呟き。意識してのものではない、ただ心から漏れ出た疑問。

「どうしてボクの意見を認めてくれるの?」

 マミの答えは無い。代わりにアイを抱き締める腕に力を籠めて、彼女は黒髪に頬を寄せた。それが怖くて、恐ろしくて、思わずアイが身を捩る。するとマミが力を緩めたので、アイは反射的に距離を取った。

 可笑しい。この状況は異常だ。どれだけ考えても、アイはその結論しか出せなかった。当然である。どんな言葉で取り繕ったとしても、アイが短命である事に変わりは無い。その延命を諦める選択にマミが賛同する事など、天地が引っ繰り返っても有り得ないと、アイは確信していた。だが現実はそうではなくて、その有り得ない事態が起きている。

 改めて正面からマミを見据え、アイは口を開こうとした。

「――――?」

 奇妙な感覚。不意に違和感を覚えたアイは、問い掛けの寸前で振り返る。そこには何も無いはずだ。精々大きな窓があって、その向こうに街並みが広がっているだけで、特別なものなどあるはずない。でも何故かアイは、そうしなければいけない気がしたのだ。

「ッ!?」

 はたしてそこには”ヤツ”が居た。白い体。赤い瞳。愛らしくも飾り程度にしか使われない口元。もう随分と長くアイの前に現れなかった生き物が、当然の如く窓の外に佇んでいる。相変わらず意思の見えない二つの紅玉で、アイ達を観察していた。

 アイの喉が鳴る。肩が震える。言葉を口にしようとした彼女は、結局、何も言えず立ち竦む事しか出来なかった。


 ◆


「一丁あがりっと。チョロいね」

 魔女が残したグリーフシードを掴み取り、笑みを刻んだ杏子が喋る。肩に槍を担いだ彼女の姿は、紛う事無き魔法少女のものだ。まず目に付くのは小豆色をしたノースリーブの上着。腹部から左右に分かれ、前部の開いた長い裾を持つそれの下には、黒いインナーベストと桃色のスカートが見えた。上着の胸元には菱形の穴が開いており、ソウルジェムが変化した赤い楕円のペンダントが覗いている。羚羊のような足は黒のニーソックスで覆われ、小豆色のブーツを履いていた。

 人足が絶えた小さな公園。少し前に児童の死亡事故で噂になったその場所で、杏子は魔女退治をしていた。
 背の高い時計の足元に立ち、杏子が軽く肩を回して息を吐く。

「歯応え無さ過ぎっしょ」

 咥えていた棒付きキャンディを掴み、その状態を見て杏子が呟く。そこにあるのは強者の余裕だ。

 杏子が二度目にアイと会った日から、既に半年の時が過ぎている。その間、彼女は一度としてアイの下を訪れた事は無い。だがアイの事を忘れた訳ではないし、あの日の会話だって覚えている。この半年、杏子はかつて家族が死んだ時と同じように自分と向き合ってきた。それが彼女の生き方で、それが彼女の覚悟なのだ。世界の中心は自分自身。だからその自分を明確にしようと、杏子は考え続けた。

 しかし半年が経った今でも、杏子は答えを出せていない。というよりも、安易に答えを出す事を恐れていた。自分に対する微かな不信感。それが彼女に二の足を踏ませているのだ。ただ現実というのは可笑しなもので、杏子は以前よりも心が軽くなったように感じていた。きっとアイの存在があるからだろうと、杏子自身は考えている。

 絵本アイは、佐倉杏子の味方ではない。家族でもなければ仲間でもなく、もちろん友達ですらない。だけど絵本アイは、佐倉杏子を知っている。杏子が何者で、何を考え、何をしているのかを理解している。精々が知り合い程度の関係である彼女は、それでも杏子にとって、唯一自分の世界に入り込んだ他人だった。

 だからこそ杏子は、アイの存在に安心感を覚えるのだ。家族が死んで以来、杏子はずっと独りで、他人の目を気にする事無くやってきた。縛られる事の無いその生き方は、同時に彼女の足元が不確かな事を意味する。自分以外の誰かが居るからこそ、自分という存在が明確になるのだ。故に絵本アイという他者の存在は、杏子の足場をより確かなものへと変えていた。

 かつてと比べ、大きく生き方を変えた訳ではない。けれど今の杏子は、以前よりも心に余裕を持っていた。

「にしても奇妙だね」

 再び棒付きキャンディを口に含み、杏子が目を眇める。その瞳に宿るのは疑念だった。

 ここ最近、杏子は魔女との戦闘回数が少なくなっている。つまり魔女の数が減っている訳だが、注目すべきはその原因だろう。近隣の魔法少女が増えているのだ。杏子は色々な街を渡り歩きながら、その先々で魔女を狩る生活をしている。だから自分以外の魔法少女と出くわす事もあるし、他人のシマを荒らす事も少なくない。そんな経験を持つ彼女の目から見て、些か魔法少女の数が多過ぎる。

「つうか固まり過ぎなんだよ」

 ここに居ない誰かに向けた独り言。零した杏子の眉根は、不愉快そうに皺を刻んでいた。

 杏子も詳細は知らないが、魔法少女の数はかなり多い。互いに顔を知らずとも、一つの街を複数人が守っている事も珍しくはない。だから場合によっては杏子が割り込みにくい地域もあるが、どうにも現状は可笑しかった。ある街を中心として、奇妙なほど魔法少女が集中している。彼女らはいがみ合うでもなく、獲物を取り合うでもなく、時には手を組んでまで共存関係を成り立たせていた。

「見滝原市、か……」

 巴マミの管轄であるその街の近辺で、魔法少女が増加している。彼女らは普通の魔法少女とは違う。仲間意識や正義感が強いのだ。杏子も親しげに話し掛けられた経験があり、その時は些か驚いてしまった。

 魔法少女は利己的な者が多い。自己の願いに依って立つ彼女らは、どうしたって自分中心に考えがちだ。何より魔法という特別な力を自由に使う為には、より多くのグリーフシードが必要になる。故に魔法少女にとって同業者はライバルなのだ。もちろん巴マミやかつての杏子のような例外は居るし、親しい者同士でコンビを組むケースも考えられるが、ここまで”お行儀のよい”魔法少女が多いと気味が悪い。

 巴マミが増殖した。杏子の感覚を言葉にするなら、そんな風になるだろう。そう、増えた魔法少女達はマミに似ていた。正義の味方ぶっていて、他人に優しくて、漫画やアニメみたいな理想の魔法少女像とやらを目指しているような奴ら。それは巴マミの在り方に近かった。

「クソッ。考えても仕方無いか」

 舌打ち一つ。変身を解いた杏子が、その場を立ち去ろうと踵を返す。

「あれー? もう終わってるみたいだよ、マミさん」
「そうみたいね。まさか佐倉さんが来てるとは思わなかったわ」

 杏子の足が止まる。背後から聞こえてきた二つの声。彼女はその片方に覚えがあった。巴マミ。杏子が一目置く実力派の魔法少女にして、先程まで彼女が思い浮かべていた人物だ。知らず、杏子の心臓が跳ねていた。

 急ぎ振り返った杏子の視界に、案の定、見知った人影が写り込む。蜂蜜色の髪を左右で巻いた、落ち着いた面立ちの綺麗な少女。巴マミがそこに居る。だが杏子の目を引いたのはその隣だ。マミの横には、杏子の知らない女の子が立っている。目深に被ったハンチング帽の下から明るい茶髪を覗かせた、マミより幾分か年下に見える女の子。手の平に乗せたソウルジェムから、彼女もまた魔法少女だと分かる。

「…………ひさしぶりだね、マミ。悪いけどここの魔女は狩らせてもらったよ」
「かまわないわ。この子に実戦を経験させれなかったのは残念だけど」

 そう言ってマミは、隣に立つ女の子を見遣る。
 女の子はハンチング帽のつばを掴み、そのまま会釈した。

「新人かい?」
「えぇ。少し前に契約したばかりなの」

 答えるマミの表情は穏やかだ。可笑しな事など何も無く、ただ当たり前の事実を話しているような風情だった。それが違和感。巴マミとはこんな人間だったろうかと、杏子は訝しむ。顎に指を添えて暫しの黙考。それから杏子は、小さく頷いた。

「ちょいと二人で話したい。付き合ってもらうよ」
「いいわよ。あなたには話を通しておきたかったしね」

 躊躇い無く誘いに応じたマミは、次いで隣の女の子に話し掛けた。

「そういうわけだから、あなたは先に帰っていてちょうだい」
「はーい。わかりましたぁ」

 元気よく返事をした女の子が走り去っていく。あっという間に小さくなるその影を見送ったマミは、再び杏子の方に顔を向けて微笑んだ。余裕のある態度だった。揺らぎが無く自信を持ったその様は、たしかに杏子が知る魔法少女としてのマミの姿ではある。だが可笑しい。何かが奇妙だと、杏子の勘が告げていた。その一番の要因は、先程の女の子の存在だろう。

 とはいえ、このまま睨み合っていても答えは出ない。そう結論付けた杏子は、おもむろにマミに背を向けた。首を捻り、杏子は背中越しにマミを見遣る。彼女が口にした声は冷たく、相手を突き放したものだった。

「場所を変えるよ。ついてきな」

 杏子が歩き出せば、その後をマミが追う。背中を叩く他人の足音を感じながら、杏子は言い知れない不安を覚えていた。


 ◆


「ここなら誰の邪魔も入らない。存分に内緒話ができるってもんさ」
「……あなた、私に喧嘩を売ってるの?」

 転落防止の鉄柵にもたれた杏子に、マミが鋭い視線を送る。そこには殺意とすら呼べそうなほどの敵意が籠められていた。だが杏子は気にしない。力を抜いて腕を組み、彼女はしょうがないとばかりに苦笑を刻んだ。

「あんたと闘り合うつもりは無いよ。この場所なら腹を割った話ができると思っただけさ」

 現在二人はとあるビルの屋上に立っていた。通常は立ち入り禁止となっているその場所は、杏子の言う通り内緒話にはうってつけだ。ただそれ以上に重要な意味もあった。道路を挟んだ向こう側に、アイが入院中の病院が建っているのである。そして杏子達が居るビルの屋上からは、アイの病室をハッキリと視認する事が出来た。

「たしかに、そうかもしれないわね」

 そうは言っても、マミの気配は和らがない。彼女は苛立ちを隠そうともせずに杏子を睨んでいる。

 そんな落ち着かない様子のマミを見て、杏子は知らず口元を緩めていた。以前もそうであったように、今のマミもアイを大事にしている。変わらないマミの心を感じて、杏子は安心したのだ。それは迷子の果てに、馴染みの道を見付けた時のような感覚だった。

 だが、と杏子は顔を引き締める。新たに取り出した棒付きキャンディを口に咥え、彼女は正面からマミを見据えた。

「最近ここらの魔法少女が増えてる。あんたが一枚噛んでんのかい?」
「そうよ。私が彼女達とキュゥべえの橋渡しをしたの」

 躊躇い無く答えるマミ。まったく悪びれた様子の無い彼女を見て、杏子はピクリと眉を動かした。

「さっきも新人と一緒だったみたいだけど、いちいち面倒見てるわけ?」
「えぇ。十分な実力をつけるまではサポートしてるわ。無闇に死なせてしまったら悪いもの」

 自らの胸元に手を当て、瞑目したマミが答える。そこには後ろ暗さの欠片も感じられず、彼女が本心からその行為に賛同している事が見て取れる。対する杏子は険しい表情を浮かべ、徐々に目付きをキツくしていた。

「フン、なるほどね。増えてただけじゃなく、減ってなかったのか」

 得心がいったと、杏子が詰まらなそうに吐き捨てる。

 魔法少女は命懸けだ。たとえベテランと呼ばれる杏子であろうと、時には魔女との戦いで命を落とし掛ける事がある。そんな魔法少女が最も死に易い時期は、当然ながら新人の頃だ。故にその新人時代にマミの手助けがあるなら、自然と魔法少女の生存率が上がる訳だ。

 またマミの行動は、魔法少女の増加にかなりの拍車を掛けている恐れがあった。マミの仲介で魔法少女になったという事は、つまりその人物も誰かの仲介をする可能性があるという事だ。普通は皆無に等しい可能性だが、実際に自分がされた事なら、同じ事を他人にする人間も居るだろう。そうして連鎖的に仲介していけば、ネズミ算式に魔法少女が増える事になる。現実にはそこまで上手くいかないだろうが、多少なりともそういう魔法少女が出てくるのは不思議ではない。

「状況は理解したけど、理由がわからないね。自分の分け前が減るだけじゃん」
「協力して戦えば、それだけ個人の負担は減るわ。だからグリーフシードの消費も少なくなるの」

 マミらしい綺麗事だと杏子は思った。同時に、誤魔化しだとも。マミの言っている事は魔法少女が増えても困らない理由であって、彼女が魔法少女を増やす理由ではない。たしかに魔女退治の負担が減るという利点はあるが、マミは自分が楽をする為に他人を巻き込むような性格ではないはずだ。つまりマミの目的は他にあるのだと考えられる。

 小豆色の瞳にマミを捉え、杏子は意識して威圧感を放った。

「聞き方が悪かったみたいだね。あんたが魔法少女を増やす理由を聞いてんだよ」
「別に魔法少女を増やしたいわけではないわ。結果的に増えてるだけよ」
「だったらなにが目的なのさ?」
「………………」
「チッ、だんまりかよ」

 杏子が睨んでもマミは怯まない。彼女は屹然とした表情で佇んでおり、その口は固く結ばれていた。力尽くでマミの口を割らせる事は、おそらく杏子の実力では不可能だ。互いにタダでは済まないダメージを負うだけで、杏子は何も得られず終わるだろう。

 とはいえマミがこんな行動を取る理由は一つしかない事を、杏子はちゃんと理解していた。絵本アイ。あの少女の為に違いないと、杏子は確信している。そしてアイの抱える問題と言えば、やはりその病気だろう。杏子が初めてアイと会った時に喧嘩していたように、マミはアイの病気を治したいはずだ。だからこの件もそれと関係している可能性が高いと、杏子は推測する。

「……わかんねぇ。アイの為なんだろ? けどこんな事して、アイツになんの得があるんだよ」
「あなたには関係無い事よ。放っておいて」

 応えたマミの声は低く、杏子に対する敵意に満ちていた。

 途端に攻撃性を増したマミの雰囲気を察した杏子は、やはりアイが関係しているのだと自信を深める。だが、分からない。マミのやりたい事が、杏子はこれっぽっちも分からない。魔法少女の契約を仲介したところで、得があるのはキュゥべえだ。マミにはなんの利益も無い。精々が他の魔法少女とのパイプを作れる事くらいだが、それではアイの病気は治らないだろう。

「魔法少女の増加はどうでもいい。なら用があるのは個人?」

 マミの眉が微かに動く。それを肯定と受け取り、杏子は更に思索を巡らせる。魔法少女は十人十色だ。ソウルジェムの色も服装も、戦い方だってまるで違う。何より大元である願いは、その魔法少女だけのものだ。

「って、あぁ……なるほど。つまりはそういう事ね」

 呟き、頷き、睨む。そして杏子は、自らの考えを口にした。

「あんた、他人の奇跡でアイを治そうとしてるんでしょ」
「…………っ」

 マミの口元が歪む。双眸が苛立ちに染まる。当たりだと、彼女の顔には書いてあった。

 考えてみれば簡単な事だ。アイの体は奇跡でも起こらなければ治らない。そしてマミの奇跡は品切れで、アイは奇跡を自分の為に使う気が無い。ならば残った選択肢は、他人の奇跡に頼るしかない。実に単純で明快な答えだった。

「まだ続けてるって事は、無理強いはしてないのか」
「当然よ。アイに無用な責任を負わせるわけにはいかないわ」
「気の長い話だね。見知らぬ他人の為に奇跡を使うお人好しなんて、そうそう居ないよ?」
「わかってるわ。でも、方法はそれだけじゃないの」

 杏子が怪訝そうにマミを見る。

 他の方法と言われても、杏子には思い当たるものが無かった。それこそ奇跡の腕を持つ無免許医師を漫画の中から引っ張り出してくるとか、そんな馬鹿な考えしか浮かばない。けれどマミの表情には確固たる意志が宿っており、決して眉唾ではない事を物語っている。

「たとえばさっき私と一緒だった女の子。彼女、癌患者だったのよ」

 突然の話にギョッとする。一体なんの話だと、杏子はマミに視線で問うた。しかし彼女の疑念を気にした風も無く、マミは淡々とした口調で語り続けた。ただ事実のみを伝えるような平坦な声が、ビルの谷間に消えていく。

「願った奇跡は健康になること。そしてあの子は元気になった。これでチーズが食べれるって喜んでたわ」
「チーズ好きなんて面白い奴だね。で、なにが言いたい?」

 もったいぶるな。そう威圧を籠めた杏子の視線も、マミは柳に風と受け流す。

「魔法少女の能力は、その祈りによって影響されるの。自分の体を治す事を願ったあの子に、治癒能力が宿ったようにね。あの子の能力では無理だったけど、中にはアイを治せる魔法少女だって存在するかもしれない。私はそれを探してるの」

 マミの話は、杏子にとっても覚えのある事だった。杏子には幻覚と幻惑を操る能力がある。それは父の話を真面目に聞いてくれるよう人の心を惑わせた、彼女の願いに起因するものだろう。もっとも杏子は、その力を長い間使っていない。いや、使えていない。彼女にとって罪の証でしかないそれは、父の死と共に封印されたのだ。

 とはいえ杏子は納得した。どちらも可能性は低いだろうが、その二つの手段で探せば、少なからず希望の芽があるかもしれない。決して馬鹿げた話ではない。しかし不可解な点もある。マミの纏う雰囲気だ。どちらかと言えば明るい話のはずなのに、今の彼女は暗く沈んでいるように感じられた。それが杏子の目には、可笑しく映る。

「……あんた、さっきのガキを嫌ってんの? 話し方が冷たいんだけど」

 僅かな沈黙。後、瞑目したマミが口を開く。その美しい相貌に宿るのは、ある種の諦観だろうか。

「そうじゃないわ。ただ他人の契約を見てると思うのよ。あぁ、奇跡ってこんなに簡単に起きるのね、って」

 杏子は何も言えなかった。マミの感情を理解したからだ。マミは友達の為に奇跡を起こそうとしている。必死に頑張っている。けれどマミの願いは未だに叶わなくて、代わりに彼女の目の前では、他人が当然のように奇跡を叶えて貰っている。それはある種の苦行だろう。仕方が無いとは思っても、やり切れなさは消えないはずだ。

 そうして杏子が黙り込んでいると、今度はマミが問い返してきた。

「それより、あなたの方こそどうしたの?」
「ん? なにがだよ?」
「アッサリし過ぎじゃない? 以前のあなたなら、もっと色々と言ってきたはずよ」

 厳しい視線を送ってくるマミ。それを受けた杏子は、気まずそうに頭に手を置いた。
 小豆色の瞳が彷徨う。思考を巡らせ、言葉を探し、それから杏子は諦めたように息を吐いた。

「あんたとは特に意見が合わなかっただけで、元々他人に興味はねぇよ。それに今は自分探しの最中でね。他人に口出しするのは控えてんのさ。そっちが仲良しこよしでも、どうせアタシは好きにやるしね」

 マミの目付きは変わらない。和らぐ事無く、杏子を睨んでいる。
 心底面倒臭そうに、杏子は肩を竦めた。

「ま、そうだね。ちょっとだけ言わせてもらおうか」

 柵から背を離した杏子が、ゆっくりとした足取りで歩き出す。向かう先にはマミが居て、彼女は警戒した様子で身構えていた。しかし杏子は歩みを止めず、警告の視線も気にせず、マミとの距離を縮めていく。そうして互いの距離がゼロになり、杏子はマミの横で立ち止まる。

「あんたは色んな奴の人生を変えた。なにが返ってきても、ちゃんと受け止めろよ? それが自業自得ってもんだ」

 マミの隣で杏子が囁く。微かにマミの肩が震えたが、杏子は気にしない。そのままマミに背を向けて歩き去り、彼女は屋上の出入り口を目指す。もう話は終わったのだと、その背中が告げていた。

「――――待ちなさい」

 不意にマミの声が届いた。振り返る事無く、杏子が足を止める。

「私は絶対にアイを助ける。それを邪魔すると言うのなら、誰であろうと許さないわ」

 マミの言葉を聞いた杏子が空を仰ぐ。雲一つ無い、暗い所など一つも無い、青一色の快晴だった。

「そうかい」

 ただ、それだけ。続く言葉は何も残さず、杏子は再び歩き始める。今度は、止める声は聞こえなかった。


 ◆


 紙を捲って文字を映し、文を解して紙を捲る。その繰り返し。捲る紙が無くなるまで、同じ行為をただ反復。他人には理解出来ない世界。自分の為だけの世界。その中でアイは、黙々と本を読み進めていく。雑音を排除し雑念を捨て去り、彼女は文字の海に沈んでいた。

 絵本アイにとっての本とは、すなわち世界である。そこには経験があり思想があり知識があり、心と呼べる何かが籠められている。人との触れ合いが限られた環境で育ってきたアイは、本を通して多くの事を学んできた。インターネットを利用しない訳ではない。ただ彼女にとっての情報源とは、まず何よりも本なのだ。だから今回もまた、アイは紙の上から求める情報を探していた。

「――――わからないなぁ」

 読み終わった本を閉じたアイが、天井を仰いで嘆息する。その顔には明確な疲労が滲んでいた。

 アイがキュゥべえとその同胞について調べようと思い立ったのは、今からおよそ七ヶ月前の事だ。杏子の二度目の訪問が終わり、訳も分からずにマミと仲直りしたあの時から、アイはそれまで以上にキュゥべえの腹を探ろうと躍起になった。その為に集めたのが古今東西の歴史書と偉人伝であり、現在、彼女の周りに広がる本の海である。

 キュゥべえ曰く、彼らは遥か昔から人類と共に歩んできたらしい。魔女の存在は決して現代病という訳ではなく、人類は常に歴史の裏であの化け物達と戦ってきたのだと、以前キュゥべえは語っていた。また歴史に名を残した偉人の陰には、多くの魔法少女が存在していたとも言っている。

 だからアイは、様々な偉人の情報を調べたのだ。男女の区別無く時代の区別無く、集められるだけの本を集めて、読めるだけの本を読んでみた。だが、結果は欠片も掠らない。たしかにそれらしい人物は居た。超常の力を持っていたという逸話も今となっては馬鹿に出来ないし、ある時期から唐突に才能が目覚めたという人物も可能性はある。たとえば聖母マリアの処女受胎などは、彼女が魔法少女であったと考えれば十分に説明がつく。神の子を宿すなど、実にそれらしい話ではないか。

「とはいえ考察は面白いけど、確証がないとねぇ」

 苛立ちを紛らわせるように、アイは自らの髪を掻き乱す。

 魔法少女が居たならば、そこにはキュゥべえの仲間も居るはずだ。しかしどれだけ調べても、それらしい記述は見付からなかった。せめて一人でも判明すれば足掛かりとなるのだが、彼らは影も形も感じさせない。

「うぅ~。適当に共通項で分類しようかな」

 絨毯に座り込んだまま、辺りに散らばった本を睨むアイ。眉根を寄せ、彼女は思索を巡らせた。

 キュゥべえ達の事も重要だが、アイにとっては魔法少女の結末も大事だ。それらしい人物を絞り、彼女らの人生を辿れば何か見えてくるものがあるかもしれない。とはいえそれは難しい問題だ。アイの持つ手掛かりと言えば、魔法少女としての特別な力と、二十歳を超えれば魔法の力を失う者が多い事だけ。これだけでは曖昧過ぎるし、本人ではなく周囲の誰かが魔法少女だった可能性も考えられるのだ。

「ああ、もうっ」

 どうにも思考が纏まらず、アイは背中から絨毯に倒れ込む。大の字に寝転んだ彼女は、そのまま右腕で目を覆った。

 キュゥべえの情報が欲しい。奴らの目的が知りたい。そう思って頑張っても成果は上がらず、ただ時間ばかりが過ぎていく。何も出来ない無力感が全身を苛み、アイの心を蝕んでいた。

 アイはキュゥべえを信じていない。魔法少女の行き着く先も、きっと碌なものではないと考えている。だからマミを解放したくて、助けたくて、その為に自分の奇跡を使おうと思っていた。でもアイは未だに実行していない。それは幸せな現状を壊したくないからで、キュゥべえの目的が分からなければ、確実にマミと切り離す事が出来ないからでもある。

 だがいつまでもこのままでは駄目だ。アイはそれをちゃんと理解している。成人を超える魔法少女は少ないと、かつてキュゥべえは教えてくれた。つまりデッドラインは二十歳。多少の余裕も含めて十八歳までには行動に移そうと、アイは考えていた。

「……まだ大丈夫」

 アイの呟き。それはただの言い訳かもしれないけれど、このまま一歩を踏み出せるほど、彼女は強くなかった。

「うわっ、凄い散らかってるし。ちったぁ片付けろよな」

 不意に響いた少女の声。どこか聞き覚えのあるそれに反応して、アイは体を起こした。入り口の方に顔を向ければ、そこには懐かしさすら感じる一人の少女。三度同じ服を着て、佐倉杏子が立っていた。

「やっぱりその服しか持ってないんじゃ――――」
「だからチゲェよ!」

 いつかと同じようなやり取り。目を合わせた二人は、不意に口元を綻ばせた。

「ひさしぶりだね、杏子」
「相変わらずだね、アイ」

 互いに挨拶を交わす。まず動いたのは杏子だ。彼女はアイの方に歩み寄りながら、手に提げた箱を示した。白い直方体に取っ手の付いた、シンプルなデザインの箱。ケーキの箱だと、アイはすぐに気付く。

「約束通り美味いモン持ってきたよ」

 八重歯を覗かせる快活な笑み。楽しそうに見える杏子は、しかし直後に視線を鋭くする。

「それと、マミに関する土産話もね」

 アイが目を丸くしたのは一瞬だ。すぐにいつも通りの表情に戻した彼女は、立ち上がって入院着の裾を払う。それから周囲に散らばる本を見回し、彼女は自らの頭を掻いた。青白い相貌に浮かぶのは色濃い呆れだ。

「我ながら随分と散らかしたもんだね」
「片付けなら自分でやりなよ」
「わかってるさ。まぁ片付けは後でやるとして、コーヒーでも淹れるよ」

 顎で窓際の丸テーブルを示してアイが喋る。それを聞いて杏子は頷いた。

「いいね。美味いコーヒーを頼むよ」
「豆は良いし全自動だから、味はそれなりに保証するよ」

 杏子は丸テーブルに、アイは台所に向かう。暫くすると準備を終えたアイが戻ってきた。お盆を抱えた彼女は、まず互いの席にコーヒーを置いた。次いでフォークの乗った皿だ。そうすればウキウキとした様子で、杏子がケーキの箱を開け始めた。

「ここの店はマジでオススメだよ」
「それは楽しみだね。できれば話の方も、コーヒーに合う甘さだといいんだけど」

 ショートケーキを皿に乗せていく杏子を眺めながら、肘をついたアイが零す。それはアイの本心ではあったが、同時にそうではないだろうという事も、彼女はちゃんと理解していた。

「悪いね。そっちはケーキに合わせて苦めだよ」
「……そっか」

 苦笑する杏子の言葉を受けても、アイは落ち着いていた。物思うように目を瞑り、彼女はゆっくりと息を吐く。少しだけ寂しげに、悲しげに口元を歪めたアイは、暫くして目蓋を上げた。黒い瞳に宿るのは、ある種の覚悟だ。

「さぁ、お茶会を始めよう」

 始まりを告げる明るい声。けれど席に着いた二人の顔は、決して穏やかなものとは言えなかった。


 ◆


「……キュゥべえとの橋渡し、か」

 呻くように呟き、アイが右手で顔を覆う。指の隙間から覗く瞳には、確かな戸惑いが見て取れる。

 杏子が齎した情報は、アイにとって意外なものだった。マミが他の魔法少女とキュゥべえの契約を手助けしている。その目的はアイの体を治す事で、アイの為に奇跡を使ってくれる人か、アイを治せる能力を持った魔法少女を探す為に、マミはそんな事をしているらしい。

「あぁ。実際、馬鹿にできない効果があると思うよ」
「だろうね。得体の知れないナマモノ君より、よほど信憑性があるだろうさ」

 マミは見た目がよく、性格も穏やかで人当たりがよい。広告塔としては一級だろう。何より実際に魔法少女として活動している人間が居るのと居ないのとでは、キュゥべえの話の真実味が大きく変わる。それを思えば、これはマミとキュゥべえの利害が綺麗に一致した形になるのかもしれない。アイにしてみれば、実に不愉快な事だった。

「けどまぁ、意外としか言えないね。魔法少女は危険だって、マミはいつも言ってたのにさ」

 皮肉げな片笑みを刻み、アイが肩を竦める。一見すれば余裕のある彼女だが、その瞳には悲しみが宿っていた。

 魔法少女は命懸けだ。だからアイの寿命について知る前のマミは、彼女が魔法少女になる事には反対していた。よほどの願いと覚悟がない限り絶対になるべきではないと、かつてのマミは言っていたのだ。それなのに今は、積極的にキュゥべえとの契約を勧めているらしい。

「契約した中には命を落とす奴が居るだろうし、好き放題に振る舞い始める奴も出てくるだろうね」

 杏子の声は事務的な響きを孕んでいて、それだけに事実を告げているのだと分かる。アイが丸テーブルの下で拳を震わせれば、杏子が目ざとくそれに気付く。小さく息を吐いた杏子は、カップを手に取りながら言葉を紡ぐ。

「あんたに責任は無いよ。契約した奴の自業自得で、唆したマミの自業自得だ」
「たとえ無責任だとしても、無関係ではないさ」

 アイに責任があるのかと問われれば、それは非常に難しい問題だと言える。しかしアイとマミのいざこざがこの件の発端である事は、誰の目にも明らかだ。だからこそ杏子も、こうして教えに来てくれたのだろう。

「この件について、杏子はどう思ってる?」
「さてね。ま、気分の良い話ではないかな」
「……そっか。そうだよね」

 嘆息したアイが、カップを見詰めたまま首を振る。

「情報提供には感謝するよ。わざわざありがとう」
「かまわないよ。どうせ見舞いついでの土産話だしね」

 フォークでイチゴを刺しながら、ぶっきらぼうに杏子が答える。その冷たさの中に隠し切れない関心を感じ取り、アイは思わず苦笑した。それから彼女は、手にしたカップに口を付ける。暫くコーヒーの香りを楽しんだ後、アイは雑談でもするかのような気軽さで問い掛けた。

「杏子はさ、キュゥべえの事をどう思ってる?」
「キュゥべえ? そうだね…………胡散臭い奴、かな。魔法少女になってからの事でとやかく言うつもりは無いけど、アイツはなに考えてるかわからないからね。敵じゃないけど味方でもない。そんな奴さ」

 目を眇めて言葉を探しながらの、杏子の言葉。その内容に驚きを覚えつつも、アイは嬉しそうに微笑んだ。

「それはよかった。少し長くなるんだけど、今日はボクの話を聞いてくれないかな?」

 組んだ両手の指に顎を乗せ、アイが目を細めて問い掛ける。軽々しい声音でありながら、双眸に宿る光は重々しい。そんな彼女の雰囲気を察してか、杏子の表情が硬くなる。真意を問うようにアイを見据えていた杏子は、やがてゆっくりと頷いた。

「ありがとう」

 柔らかな顔で謝意を伝えたアイは、次いでソッと息を吸った。

 そしてアイの話が始まる。魔法少女は期間限定な事、キュゥべえの言う『手伝い』の事、どうしてもキュゥべえが話そうとしない情報や、これまでにあった不審な行動。キュゥべえに抱いている疑念とその理由を、アイは滔々と語り続けた。杏子は何も言わない。語り部のアイを見詰めながら、彼女は身動ぎ一つせずに耳を傾けている。

 やがてアイが話を終えると、杏子は目を瞑って腕を組んだ。会話が途切れ、沈黙が場を支配する。そのまま時計の針が進んでいった。黙然と思索に耽る杏子と、それを見守るアイ。穏やかでありながらも、確かな緊張を孕んだ空間だった。

「――――その話を信じろって言うのかい?」

 目蓋を上げた杏子が問う。そこに敵意は無いが、友好の色も読み取れない。だがアイは杏子の態度を気にした風も無く、仕方無いとばかりに苦笑した。真意の読み取れない、底の深い表情だった。

「いいや。所詮はボクの推測に過ぎない話だ、信じなくても構わない」
「じゃあなんで聞かせたんだよ?」

 怪訝そうに眉根を寄せる杏子に対し、アイは悪戯っぽい笑みで応えた。

「話さないよりは、話した方が良いと思ったのさ。キミがどれだけ信じたのかは知らないけど、キュゥべえにチクるわけじゃないだろう? そしてキミがキュゥべえを見る目は、これまでとは明らかに変わったはずだ」

 行動力にしろ実行力にしろ、アイよりも杏子の方が上である事は疑いようがない。故に今の話を切っ掛けとして、杏子は必ずキュゥべえに探りを入れるはずだ。アイの推測をすぐに否定しなかった時点で、杏子の心に疑念が生まれた事は確かなのだから。

「……さて、どうだろうね」

 カップに視線を落とした杏子が、小さく呟く。彼女は一気にコーヒーを飲み干し、ケーキを食べ尽くした。それからテーブルに手をついて立ち上がると、杏子は下を向いたまま口を開いた。

「そろそろお暇させてもらうよ」
「そっか。またいつでも来てよ。歓迎するから」

 刹那の沈黙。だがすぐに顔を上げた杏子は、悪戯っ子のように八重歯を覗かせた。

「イヤだね。あんたと話すのは疲れるんだ」

 踵を返し、髪を翻し、杏子は力強い足取りで扉を目指す。その背中を、アイは静かに見送る。小豆色の髪が扉の向こうに吸い込まれ、完全に杏子の気配が消えるまで、アイは身動ぎ一つしなかった。

「……ふぅ」

 杏子が去って暫く経ち、一人だけになった病室で、アイは息を吐いて力を抜いた。椅子の背もたれに体を預け、彼女は一口だけコーヒーを飲む。当然のように苦かった。苦くて苦くて、香りが分からないくらい苦くて、苦いとしか思えなかった。

「あぁ、もう、なんだよこれ」

 カップを握ったままアイが呟く。もちろん彼女の独り言で、応えなんてある訳ない。だけどそれが無性に寂しくて、虚しくて、アイは目頭が熱くなるのを感じた。途端に彼女の視界がボヤけ、鼻の奥がツンとなる。

「くそ、くそっ。意味わかんない。わけわかんない」

 青白い頬を涙が流れる。いくら拭っても止まらなくて、まるで堪えがきかなくて、次から次へと涙が溢れてきた。

 後悔だ。アイの胸を焦がしているのは後悔だ。マミと仲直りした時、彼女は恐れた。キュゥべえが怖くて、理解出来ない状況が怖くて、結局何も言えなかった。その結果がこの事態を招いたのだ。いくら現状が上手く回っているからって、いくら問題が起きていないからって、それで安心するほどアイは楽観的ではない。むしろ自分が関係している事柄に限定すれば、彼女は悲観的ですらある。

 魔法少女なんて碌なモノじゃない。少なくともアイの考えではそうだ。ならばマミが仲介して魔法少女になった人達はどうなるのだろう。彼女達にもしもの事があった時、マミは何を思うのだろう。どんなに頭を絞っても、アイには明るい未来を思い描けそうにはなかった。

 アイは決断すべきだったのだ。行動すべきだったのだ。怖くても、自信が無くても、マミの不審な態度に気付いた時点で思い切って行動に移していれば、ここまで複雑な事態にはならなかった。二人だけの問題で済んだはずなのだ。

 今の自分が出来る全力を尽くすのだと、かつてアイは決意した。
 しかし現実はこのザマだ。みっともなくて、情けなくて、憐れみすら湧いてくる。

「結局ボクは、綺麗事を吐く事しかできないのかよ」

 血を吐くような声。怨嗟を籠めたアイのそれは、彼女自身に向けられたものだ。
 一人ぼっちの病室で、アイは静かに泣き続ける。慰めの言葉なんて、あるはずがなかった。




 -To be continued-



[28168] #006 『やっと、見付けた』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2012/10/23 21:45
 その少女の名前を、アイは知らない。いつどこで出会い、どんな事を話したのかも覚えているのに、名前だけは記憶に無い。もしかしたら教えて貰わなかったのかもしれないし、ただ忘れてしまっただけなのかもしれない。どちらにせよ、アイが少女の名前を思い出せない事には変わりが無い。アイが少女を思い出す時、胸にポッカリと穴が開いたような感覚に陥る事も、きっと変わらない。

 アイが少女と出会ったのは、彼女が六歳の時だった。伯父の勧めにより、病院で様々な検査を受けさせられていた時の事である。出会った場所は順番待ちの長椅子の上で、たまたま隣に座った事が切っ掛けだ。

 初め、アイは少女の髪に目を奪われた。真っ黒で長い髪という点では同じなのに、まるで正反対の艶やかさを持つ少女の髪に、アイは心を奪われたのだ。眩しくて、輝いていて、どうしようもなく綺麗だと思わずにはいられなかった。だから気付いた時には、アイは自然と少女に話し掛けていたのだ。それは子供の素直さであり、人見知りしないアイの性分でもあった。

『とても綺麗な髪ね。羨ましいわ』

 そう話し掛けた時の少女の反応を、アイはハッキリと覚えている。愛らしい顔を俯かせて、恥ずかしそうに頬を赤く染めたのだ。その姿が一層可愛らしく思えて、アイはまた少女を褒めた。そして少女が更に身を縮こまらせてと、暫くはその繰り返し。やっとマトモに話が出来るようになったのは、見兼ねた少女の母が仲介した後の事だ。

 口下手で恥ずかしがり屋な少女も、会話を重ねれば次第にアイと打ち解けてきた。そうして互いの距離が近付けば、共通点も見えてくる。歳が一つ違いな事、本が好きな事、運動が苦手な事。二人にとっては生まれて初めて出会えた、自分と近しい境遇の女の子だった。だから自然と話も弾み、少しずつ遠慮も消えていった。

 特に二人が盛り上がったのは、アイが持っていたとある絵本の話だ。不幸な目に遭ったお姫様が王子様に助けられるという、ありきたりなストーリーの絵本だった。だけど二人は子供で、女の子で、だからそんなお話こそを望んでいた。

『わたし、お姫様になりたいなぁ』
『私も。王子様に助けられるのって、女の子の夢よね』

 なんて笑い合った、かつての少女達。本当に無邪気に、そんな事を語り合ったのだ。

 夢見がちな少女そのものの会話は、アイの順番が来るまで続けられた。そうして別れた二人は、その後二度と出会う事が無かった。幼い頃の、たった一度きりの短い逢瀬だ。けれどアイは、今でもこの時の事を覚えている。アイより一つ年下の、みどりの黒髪が綺麗な可愛らしい女の子。名前も知らない彼女は、それでもアイにとって忘れられない友達だった。

「――――――懐かしい、と言うべきなのかな」

 目を覚ましたアイの呟き。天井を仰ぎ見る彼女の瞳には、しかし何も映っていない。アイが見ているのはここに居ない誰かで、記憶にしか残っていない誰かだ。かつて出会った少女との思い出を、アイは暫し反芻していた。やがて記憶の整理を終えた彼女は、頭を押さえながら上半身を起こす。カーテン越しに射し込む朝日に目を細めたアイは、寝惚け眼を何度か擦った。

「あの子くらいなんだよねぇ。また会いたい友達って」

 のんびりとした口調でアイが喋る。その口元には微かな笑みが刻まれていた。

 入院する以前の、自宅で生活していた頃のアイには数人の友達が居た。仲は良かった方だと、アイ自身は思っている。実際、入院したばかりの頃には何度かお見舞いに来てくれて、また遊ぼうと約束した覚えもあった。ただ幼い子供にとって、ほとんど会わない友達の価値は低い。次第に顔を見せる回数が減っていき、小学校に入学してからは一度もお見舞いに来てくれなくなった。

 寂しい、とアイが感じなかった訳ではない。ただそれでも彼女は、仕方の無い事だと受け入れていた。アイにとっても向こうにとっても、所詮はその程度の仲だったのだ。懐かしむ事はあっても、焦がれる事は無い。それで済む関係だった。

 だけどあの少女は違う。かつてアイが一度だけ会った黒髪の少女は、まるで違うのだ。一度でいいからまた会いたい。会って話をしてみたい。両親が死んだ頃から、アイはそう思うようになった。それはきっと似ているからだ。昔の少女が、昔のアイとそっくりだったから、今は何をしているのか知りたいのだ。

「……キミはお姫様になれたのかな?」

 問い掛けに答えは無いけれど、アイは気にしない。いやむしろ彼女の本心としては、知りたくないのかもしれない。
 苦笑したアイがベッドから抜け出し、伸びをする。そうして彼女は、少女の存在を思考から追いやった。

「うん、絶好のデート日和だね」

 両手でカーテンを開けたアイが、元気よく言い放つ。窓の外の空は青く、太陽が白く輝いている。朝日を浴びた彼女はニッコリと微笑みを浮かべ、大きく腕を広げた。深呼吸すれば、頭の芯から目が覚めてくる。

 今日のアイは珍しく外出する予定があった。つまりはマミとのお出掛けだ。アイの体を考えれば人込みに近付く事は出来ないが、それでも普段とは違う場所で食事やお喋りをする事は、二人にとって大事なイベントの一つだった。何日も前から話し合い、当日の予定を練っていく。そうして一緒に頭を悩ませる事もまた、彼女達の楽しみだ。

 だが今回に限って言えば、アイは純粋な遊び気分ではいられない。

 マミがキュゥべえの契約を手助けしている。その情報を杏子がアイに伝えてから、既に一月以上の時間が経っていた。問うに問えず、答えを出そうにも出せるはずもなく、アイは一人で居る間中、ずっと悩み続けてきた。何が正しいのか、何をすれば正解なのか、それは今のアイにも分からない。しかしこのまま最善の瞬間を待っていても、そんなものは訪れないかもしれない。ならば今の自分で出来る事をする。それがアイの覚悟だった。

「話し合いといこうじゃないか」

 不安も弱気も押し込めて、アイが不敵な笑みを形作る。ガラス細工を思わせる、とても繊細な表情だった。


 ◆


 おろしたてのチュニックを着て、おろしたてのカーディガンを羽織り、おろしたてのレギンスを合わせ、おろしたてのブーツを履く。そして最後におろしたての立体マスクを着ければ、今日のアイのファッションが完成する。はっきり言ってしまえば、少しばかり残念な感じだ。顔がよくても、服がよくても、機能重視の河童マスクで台無しだった。

 出がけに確認した自分の格好を思い出し、アイは憂鬱そうに嘆息する。待ち合わせ場所である自然公園の片隅で、彼女は周囲の人影に背を向けて佇んでいた。近寄るな、と小さな背中が物語っている。

 アイとて好きでマスクを着けている訳ではない。ただ免疫力の低い彼女を心配するマミが、マスクの着用でなければ外出を許可してくれないのだ。しかもマミが選ぶマスクはどれも機能優先で、デザイン性の低い物ばかりだった。そのためいつの頃からか暗黙の了解となったこのマスク着用は、思春期真っ只中のアイにとっては些か恥ずかしいのである。

 とはいえマミの過保護に時折ウンザリしながらも、アイは決して文句を言おうとは思わなかった。マミに世話を焼かれる事は好きでも嫌いでもない彼女だが、世話を焼いて満足げなマミを見る事は大好きなのだ。

「うん?」

 不意に流れる着信音。味気も何も無い、デフォルト設定のままのそれは、アイの携帯電話が発していた。首を傾げながらもバッグの中から携帯電話を取り出し、通話ボタンを押して耳に当てるアイ。相手の声はすぐに聞こえてきた。

『もしもし。アイ?』
「はいはい、アイちゃんですよー」

 電話を掛けてきたのはマミだった。聞き慣れた声が、アイの耳を優しく擽る。

『あら、大丈夫? 少し声の調子がおかしいみたいだけど』
「……泣いちゃうぜ?」

 言いつつマスクを外したアイが、小さく嘆息。

「それで、いきなりどうしたの? 約束の時間はもうすぐなんだけど」
『えぇっと……』

 電話越しにも分かるマミの逡巡。それに不安を覚えながらも、アイは続く言葉を静かに待つ。

『実は、今日は一緒に遊べそうにないの』
「……へぇ。魔女でも出たの?」
『少し違うけど、魔法少女関係よ』

 アイの喉が鳴る。心臓が高鳴る。嫌な予感に襲われ、彼女は表情を硬くする。

 申し訳なさそうに話すマミの声は、しかし僅かに弾んでいた。これは奇妙な事だ。アイとの約束をドタキャンして喜ぶなど、マミに限って有り得ない。もしもそんな事があるとすれば、それはやはりアイに関係しているからだろう。

 契約。アイの脳裏をよぎった二つの文字。思い浮かべれば唐突に現実味を増したその言葉が口を衝こうとしたのを、アイはどうにか飲み込んだ。急に巡りの悪くなった思考を必死に働かせ、彼女はなんとか警戒されない言葉を選ぶ。

「そんなに時間が掛かるの? 少しくらいなら待つけど」
『ごめんなさい。いつまで掛かるかはわからないの』
「危ないこと?」
『安心して。今日は危険な事はしないから』

 マミの声は穏やかで、聞いているだけで心が落ち着くほどだ。しかし隠せない喜色に気付いたアイは、思わず眉を顰めていた。芽生えた疑念は消える事無く、際限無く膨らんでいく。危険な事ではないという話も、今のアイにとっては不安材料でしかない。

「……あのさ。危なくないなら、ボクもついて行っちゃダメかな?」

 気付いた時には、アイはそんな事を口にしていた。彼女の心臓は最高潮で、携帯電話を握る手の平は汗でベタついている。震えそうになる手に無理やり力を籠め、アイは静かに返事を待っていた。

『ごめんなさい。あなたを連れて行くわけにはいかないの』

 控えめな、それでいて明確な拒絶を滲ませたマミの言葉が、アイの胸に突き刺さる。咄嗟に返す言葉が出てこなくて、アイは息を呑む事しか出来なかった。

『私の用事はこれだけだから、もう切るわね。今日の埋め合わせは必ずするわ。それじゃ』
「あ、ちょっと!」

 アイの呼び掛けも虚しく、通話口からは不通音だけが届いてくる。暫く携帯電話を見詰めた後、アイは肩を落として溜め息をついた。覇気に欠ける顔で、彼女は弱々しい呟きを漏らす。

「ボクって神様に嫌われてるのかなぁ」

 今日こそは、とアイは覚悟を決めてここに来た。膝を詰めて腹を割り、とことんマミと話し合うつもりだったのだ。しかし結果は空振り。いや、それ以前に勝負の場に立つ事すら出来なかった。あんまりにもあんまりな現状に、アイとしても嘆かずにはいられない。

 アイが気落ちしたまま携帯電話を操作する。何か気晴らしになるものはないかと、彼女は周辺の情報を探し始めた。

「――――また集団自殺?」

 不意にアイの目に付いた一つのニュース。それは見滝原市、つまりはアイ達の住む街で起きた事件だった。もちろん事件そのものも悲しむべき事だが、それよりもアイが注目したのは、今週だけで二件も集団自殺が起きているという事だ。

 ここ二週間ほどの見滝原市は、何かが可笑しかった。二件の集団自殺に、五件の殺人事件。そのような事が頻発している事が嘆かわしく、またそれらの事件の関係者に、なんの繋がりも見えない事が不気味だった。集団自殺の関係者はどこで知り合ったのかも分かっていないし、殺人事件は五件とも被害者と加害者がまったくの他人でしかない。あまりに奇妙な状況の為、ネットでもちょっとした話題になるほどだ。

 魔女の所為だと、マミが暗い顔をして言っていた。彼女は事件がある度に現場付近に赴いて魔女退治をしているようだが、どうやら魔女の数に魔法少女側が対応しきれていないらしい。しかしそれは奇妙な事だ。マミの協力によって増えた魔法少女により、付近の魔女は減少傾向にあると杏子は言っていた。その時から二月と経っていないのに、この状況は可笑しいとしか言えない。

「ここもそうなんだよね……」

 呟き、アイが辺りを見回した。緑豊かな自然公園には多くの人が行き交っており、平和な光景が広がっている。しかしその中で一点だけ、不自然なほど人目を引いている一角があった。近くを通る人のほとんどが視線を向けるその先には、制服を着た警官達の姿が見える。

 数日前、この自然公園で一人の少女が遺体となって発見された。外傷は無く薬物反応も無く、まるで魂でも抜かれたかのような綺麗な遺体だったという。家族によれば時折思い詰めた様子があったという話だが、今もって死因は特定されていない。更に特徴的なのは、遺体が発見された時の状況だ。朝、ジョギング中の男性が見付けた時、少女は大量の動物に囲まれていたらしい。猫も犬も鳩も雀も関係無く、あらゆる動物が少女を見守っていたその光景は神々しさすら感じられたと、発見した男性はコメントしている。

 あまりにも不可思議な出来事だが、アイは少女の正体に心当たりがあった。つまりは魔法少女である。単なる変死事件であればアイもそこまで突飛な考えは持たないだろうが、これにはマミも関係していた。興味深い事件だと雑談のネタとしてアイが振ったところ、明らかにマミの表情が曇ったのだ。それが痛ましい事件を嘆いての事ではなく、もっと深い意味を持った表情だという事くらい、アイにはすぐ分かった。特異な状況と合わせて、マミが契約を促した魔法少女かもしれないと、アイは予想したのだ。

「ほんと、わけわかんないよね」

 魔女によって引き起こされる事件の大量発生に、魔法少女と思われる女の子の不審死。アイが知っている情報とはあまりに異なる現状は、魔法少女という存在の底知れなさを伝えてくれていた。マミにしろ杏子にしろ、魔法少女として事情通ぶってはいても、その本質を理解している訳ではない。だからこの状況に対する答えを持ち合わせていないし、困惑しているはずだ。

「すべてはキュゥべえのみぞ知る、か」

 つまらなそうに鼻を鳴らし、アイが吐き捨てる。それからマスクをつけ直した彼女は、目線を落として歩き始めた。行き交う人影に背中を向け、アイは人気の無い方へと移動する。今はとにかく、静かな場所で休みたかった。

「ん?」

 五分ほど歩いた所で、アイは奇妙な違和感を覚えた。何が可笑しいという訳ではないが、何かが可笑しい。そう思って彼女は地面を向いていた顔を上げ、直後、これ以上無いほどに目を見開いた。

「なん、で……」

 呆然と立ち尽くすアイの瞳には、目映いほどの緑が映されている。自然公園のものではない。いつからそうだったのかは分からないが、たしかに今の彼女は、草原の真ん中に立っていた。地平線が見えるほどの限り無い大地が、アイの眼前に広がっているのだ。

 唐突に異世界に迷い込んだような感覚。かつてアイは、これと似たような経験をした事がある。

「……っ。神様は本気でボクが嫌いなのかよっ」

 自失から立ち直ったアイが、歯を食い縛って言い捨てる。

 魔女の結界に取り込まれたのだと、アイは即座に理解した。はっきり言って予想外だ。少女の死に魔女が関わっていると考えてはいたが、アイは既にマミが退治したと思っていた。事件についてはマミも知っているし、彼女が待ち合わせ場所として認めた以上、安全は確保されているはずなのだ。そのくらいには、マミはアイに対して過保護だった。

 マミが見逃したのか、調査後に移動してきた魔女なのか、あるいはそもそも調べられていないのか。可能性はいくつか考えられるが、悩んでいる暇は無いと、アイは首を振って気を取り直す。次いで携帯電話を確認するが、当然のように圏外だった。これでマミの助けは見込めない。つまりは自力で脱出しなければならないと分かり、アイは目の前が暗くなる気持ちだった。

「とにかく、移動しなきゃ」

 アイの独り言が虚しく響く。辺りは一面の草原だ。所々に木が生えているが、とにかく何も無い。以前にアイが取り込まれた結界に比べれば常識的な空間ではあるが、見通しがよ過ぎる場所というのは不安を煽る。敵の影を探し、アイは急ぎ辺りを見回した。前を見て右を見て左を見て、そして後ろに振り返った瞬間、アイは頬を強張らせる。

 アイの背後には大量の動物が居た。いや、それを本当に動物と言って良いのかは分からない。まるでピカソの抽象画から抜け出してきたような奇妙な見た目をしたそれらは、視界に映るだけでも神経を削られそうだった。

「ははっ。芸術的だね。ドキドキが止まらないや」

 唇を震わせながらアイが漏らす。直後にクッキーの型取りに無理やり押し込まれたような形のライオンが、ギョロリとした目でアイを睨んだ。細い肩を跳ね上げ、アイは緊張で喉を引き攣らせた。

 肉食も草食も関係無く、あらゆる動物型の使い魔がアイを見詰めている。未だその足は動いていないが、もしも争いになればアイは一瞬で捕えられるだろう。この場でのヒエラルキーは、間違い無く彼女が最下層だ。

 動くべきか動かざるべきか、アイは必死に考える。現状を切り抜ける知恵は無いかと、とにかく思考を巡らせる。

 この魔女が例の少女を殺した可能性は否定できない。少女を囲んでいたという大量の動物と、今アイの目の前に広がる光景を踏まえれば、どうしたってその結論に行き着いてしまう。そしてもしそれが真実だとすれば、この魔女は魔法少女を殺せるだけの力があるという事だ。もはや笑うしかないように思える状況だが、それでもアイは考えるしかなかった。

 かつてキュゥべえは、魔女にはなんらかの感情的な性質があると言っていた。ならばこの魔女はどういった性質を持っているのだろうか。ヒントになるのは、無限に広がる草原とアイの目の前に居る動物達、そして少女の変死体だ。これらから魔女の性質を特定出来れば、あるいはそれが抜け道となるかもしれない。藁にも縋る思いで、アイはその可能性に賭けた。

「……?」

 不意に違和感。何かがズレている、とアイは眉根を寄せた。直後、彼女はアッと小さく声を漏らす。

 奇妙なのは少女の存在だ。通常、魔女の結界の中で殺されれば、その死体が見付かる事は無い。となれば少女は結界の外で殺された事になるのだが、それはそれで可笑しな点がある。魔女が結界に隠れるのは、魔法少女に狩られない為だとマミは言っていた。故に人を殺す時は『魔女の口づけ』と呼ばれる呪いによって自殺や殺人を促し、出来るだけ自然な死を装うのだ。それを考慮すれば、今回のような変死事件というのは腑に落ちない。たしかに事件性で言えば集団自殺も目立つが、なんと言うか、魔女らしくないとアイは思った。

 そもそも少女は、本当に魔女によって殺されたのだろうか。アイは動物という共通点から連想したのだが、実際には無関係だった可能性もある。たまたま関連性があるように見えただけで、少女の願いが動物に関係するものだっただけかもしれない訳だ。そう、全ては偶然の一言で片付けられる。そして偶然だとすれば、早々に見切りを付けて別の事を考えるべきだろう。

 しかしアイはそうしなかった。出来なかった。

「まさか……そんな、ありえないっ」

 困惑した顔でアイが呻く。その黒い瞳には、既に使い魔達は映っていない。

 偶然ではなかったとしたら。少女と魔女に関連があったとしたら。そう考えた瞬間、アイの脳裏であってはならない論理飛躍が生まれた。魂を抜かれたような少女の遺体。それが”ような”ではなく、本当に魂を抜かれていたとしたらどうだろうか。魂が体を飛び出て別の何かに向かったとすれば、最も可能性が高いのはどこだろうか。今のアイには、嫌な想像しか出来なかった。

 またキュゥべえの目的は魔法少女を増やす事で、グリーフシードを集める事も仕事の一環らしい。もしも本当に”そう”なのだとすれば、アイから見て十分に筋が通っているように思える。何よりキュゥべえが魔法少女の末路を必死に隠そうとするのも頷ける。

 第一『魔女』という呼称にも疑問は残る。魔物でも魔族でも悪魔でもなく、わざわざ性別を限定するような名称にする理由はなんなのか。最初は中世の魔女狩りのように男女関係無い呼び名だと思ったアイだが、キュゥべえの性格を考えれば些か可笑しい。魔法少女と魔女。この両者にここまで”近い”名前を付ける事情があるのではないかと、彼女は思い至ってしまった。

 想像でしかないし、妄想でしかない。けれどアイの思考に生じたノイズは、刻一刻と大きくなって、もはや無視する事など出来ないほどに膨れ上がっている。だからアイは、その瞬間まで気付かなかった。

「ッ!?」

 強烈な悪寒が背筋を這い上り、アイが慌てて顔を上げる。そして彼女は、ようやくソレを認識した。

 クマのぬいぐるみ。咄嗟にアイが思い浮かべたのはそんな言葉だ。しかしアイの知るぬいぐるみとは、そのスケールが違い過ぎた。二階建ての一軒家を軽く超える巨体を焦げ茶色の布で覆い、岩ほどもあるガラス玉の目でアイを見下ろすソレは、ちょっとした怪獣並みだ。周りの使い魔達が道を開ける中、魔女と思しきその存在は、悠然とした足取りでアイの方に歩いて来る。その丸太の如き腕には、ぬいぐるみのように人間の少女が抱えられていた。直感的に、アイは少女が息をしていない事を悟る。

 アイの視線に気付いたのか、魔女が少女を抱える腕に力を籠める。骨の折れる鈍い音が鳴り響き、アイは反射的に目を逸らした。それから彼女がおそるおそる魔女の方を見遣ると、今度は腕の中の少女と目が合った。

「ヒッ」

 少女の濁った目は瞳孔が開ききっており、閉じきらない口からは血が垂れている。力が抜け不安定に揺れる頭はアイ以上に血の気が無く、生々し過ぎるほどに人の死というものを突き付けてきた。

 入院生活の長いアイは、人の死には慣れている。しかしそれは死体に慣れているという事ではない。むしろこんなにも生々しい死体を見るのは初めてで、アイは思わず後ずさる。一歩下がり、二歩下がり、徐々に魔女から距離を取ろうとした。

「うわっ」

 躓いたアイが尻餅をつく。地面に手をついた彼女は、そのまま魔女の巨体を見上げる事になった。気付けば間近に迫っていたぬいぐるみはあまりにも威圧的で、何より腕の隙間から滴る赤い液体が、アイの心に恐怖を植え付ける。半端に可愛らしいぬいぐるみの見た目が、むしろおぞましさを強調しているように感じられた。

 魔女の腕が振り上げられる。ぬいぐるみらしく柔らかそうなそれは、けれど紙屑のようにアイを潰せる力を秘めていると確信出来た。しかしアイの頭は働かず、呆然と魔女の動きを眺める事しか出来ない。

 思考の空白。場の静寂。一瞬だけ生まれた、奇妙な均衡。

 そして魔女の攻撃が始まった。アイの視界が巨腕で埋まる。唸る風が耳を掠める。刹那の後には命を刈り取られるのだと、アイは本能的に理解した。だけど彼女の心は冷えきっていて、まるで他人事のように感じている。

 あぁ、死ぬのか。アイの脳裏をよぎったのは、たったそれだけの言葉だった。

「――――――やっと、見付けた」

 冷たい声が、通り過ぎた。

「えっ?」

 目の前には青空が広がっている。それが何を意味するのか、アイは咄嗟に理解する事が出来なかった。鼻を擽る草の香りを吸い込み、首筋を撫でる草っ葉を感じ取り、手の平に返る土の感触に気付いたところで、彼女は自分が倒れているのだと理解する。訳が分からない。本当に何が起こったのだと、アイは目を丸くした。そうして戸惑いを隠せないまま、ゆっくりと体を起こす。

 上半身を起こしたアイの視界に、長い黒髪が映り込む。陽光を反射するそれは驚くほど艶やかで、刹那、アイは目を奪われる。だがすぐに彼女は首を振って気を取り直す。それから背を向ける黒髪の持ち主に、アイは躊躇いがちに話し掛けた。

「キミは……?」

 声を掛けてから、アイは相手が少女だという事に気付く。白い服に黒いスカート、そして黒のストッキングが、後ろから見て取れる少女の服装だった。左腕にも何かを着けているようだが、アイの位置からではよく見えない。ただ彼女が魔法少女だという事は、アイも朧気に理解していた。

「少しジッとしていなさい。すぐに終わらせるわ」

 返ってきた少女の声は冷たく、まるで氷のようだった。アイに背を向けたままの少女が見詰める先には、先程の魔女と使い魔達。何時の間にか随分と距離を取っていたようで、その事実がまた、アイの疑念を深めていく。まったくもって現状に理解が追い付かない。そうして首を傾げるアイの眼前で、少女が何かを取り出した。筒状の物体、という事しかアイには分からなかった。

「へ?」

 消えた。少女の握っていた筒が唐突に消えたのだ。投げる動作も何も無く、まるでコマ落ちしたかのような早業に、アイはまたしても目を丸くした。そんなアイの反応を気にした風も無く、少女が悠然と振り返る。長く艶やかな黒髪が翻り、甘い香りがアイの鼻先を擽った。

 直後、轟音が鳴り響く。反射的に目を瞑ったアイの頬を熱風が撫で、断末魔のような声が耳を貫いた。おそるおそるアイが目を開ければ、先程まで魔女が居たはずの場所に、灰色の煙が立ち込めている。まるで爆弾が爆発した時みたいだと、アイは思った。

「はじめまして、絵本アイ」

 辺りに広がる噴煙を背景に、少女が冷淡な声を紡ぎ出す。正面から見た少女の面立ちは、言葉を失うほどに整っていた。アメジストを嵌め込んだかのような鋭い瞳に、綺麗に通った鼻筋、女性的で柔らかな曲線を描く輪郭など、将来は美人になる事が約束された美少女だ。

 呆然とアイが眺めていると、少女は右手を動かし、髪に指を通して掻き上げた。

「私は暁美(あけみ)ほむら。あなたに魔法少女の真実を伝えに来たわ」

 少女が告げる。淡々と響く彼女の声は、不思議とアイの耳から離れようとしなかった。


 ◆


『彼女達がそうなの?』

 レアチーズケーキをフォークで切り取りながら、マミはキュゥべえに念話を飛ばす。口元にケーキを運ぶ彼女の視線の先では、二人の少女がお喋りしていた。桃色の髪を持つ気弱そうな女の子と、水色の髪を持つ勝気そうな女の子。可愛らしい私服に身を包んだ彼女達は、見た目にはどこにでも居る少女のようだった。漏れ聞こえる会話の内容も普通で、これと言って特筆する点は無いように思える。しかしマミは違った。蜂蜜色の瞳を二人に向け、怖いくらい真剣な表情を浮かべているのだ。

『その通り。特に左側の子はかなりの資質を持っているね』

 テーブルに乗ったキュゥべえが喋る。その言葉を受けて、マミは桃色の髪の少女に注目した。

 笑顔でパフェをつつく少女は、やはりただの一般人にしか見えない。こうして喫茶店で友達と談笑する姿は微笑ましくすらあり、本来ならマミとの関わりなど欠片も無いような普通の少女だ。けれど幸か不幸か、彼女はキュゥべえに目を付けられた。そして魔法少女として彼女を観察すれば、マミにもその特異性がよく分かった。

『……なるほど。たしかに凄い才能ね』
『うん。並の魔法少女とは比べ物にならないよ』

 魔法少女になる為の素質。マミの視界に映る二人の少女は、たしかにそれを備えている。特に桃色の髪の子が顕著で、マミが見てきた中で一番と言っていいだろう。キュゥべえの契約を手伝う中で培ったマミの感覚が、少女の底知れなさを訴えていた。もう一方の女の子も平均には達しているようだが、桃色の少女と比べれば霞んでしまう。

 マミが二人について知ったのは、ほんの少し前の事だった。アイとの待ち合わせ場所に向かう途中、いきなりキュゥべえからの呼び掛けがあったのだ。魔法少女の素養を持つ少女を見付けたから説得を手伝ってほしいというその誘いを、初めマミは断るつもりだった。その判断を撤回した理由は、凄い才能を持つ女の子が居て、その子ならアイを治す事が出来るかもしれないと聞かされた為だ。

『あの子なら、本当にアイの病気を治せるの?』
『可能性は十分にあるよ。治癒能力に目覚めたら強力だろうし、なんなら奇跡を叶える時、ついでに願ってもらえばいい』

 マミが不思議そうに首を傾げる。

『ついでに?』
『君の願いを思い出してみるといい。君自身の怪我を癒し、あの場での安全を確保したよね。治療だけに限定しても、全身にある傷を一括で治す事ができた。それら複数の奇跡を、君は『助けて』という願いだけで叶えたんだ』

 淡々としたキュゥべえの語り。その説明を受けたマミは、たしかにと頷いた。

『重要なのは本人のイメージとエネルギーの量なんだ。一つの願いとしてイメージできて、十分なエネルギーを持っているなら、複数の事を一度に叶えられる。そして彼女ほどの才能があれば、自分の願いの分を差し引いても、アイを治すくらいの余裕はあるだろうね』

 マミの心臓が跳ねた。彼女は慌てて少女達の方に顔を向け、まだそこに居る事を確認して胸を撫で下ろす。それからマミは、改めて二人の女の子を観察した。先程よりも真剣に、気迫すら漂わせて、マミは彼女らを凝視する。

 二人はどこにでも居る女の子にしか見えないが、魔法少女の契約において重要なのは内面だ。魔法少女になり、魔女と戦う事になってでも叶えたい願い。それを持っているか否かが大切なのだ。中にはマミにとって理解し難い願いを持つ者も居たが、それでも最低限の覚悟がある事を確認してから、マミは契約を促してきた。それは彼女が定めた最後の一線で、自分に対する言い訳でもあった。

 あの二人はどうなのだろうかと、マミは考える。一見すれば悩みの無さそうな、普通に恵まれた家庭の子供のようだが、外見情報が当てにならない事を、マミは経験的に知っていた。他人の悩みというのは予想外の所に眠っているもので、マミにとってはどうでもいい事でも、他の誰かにとっては重い問題となっている事も少なくない。

『あの子達の情報は?』
『それがまだ集まっていないんだ。僕もさっき見付けたばかりだからね』

 ふむ、とマミは自らの顎に指を添える。

 いくらマミが契約の手伝いをするとは言っても、その相手を選ぶのはキュゥべえだ。どこの誰で、どんな人間関係を持っていて、どういう願いを持っていそうかといった情報をキュゥべえから聞き、それを元にマミは交渉の流れを考えてきた。よって行動の指針となる情報が無い以上、マミは一から少女達に近付く方法を考えなければいけない事になる。

『なにか切っ掛けがあればいいのだけど』
『そうだね。魔女が現れてくれるのが理想かな』
『…………』

 不謹慎だとキュゥべえを叱る事は、マミには出来なかった。それはマミ自身も同じ事を考えてしまったからだ。魔女に遭遇した女の子は、すんなりと魔法少女の存在を受け入れてくれる。更にマミが魔女から助け出せば、一気に信頼を勝ち取る事も出来るのだ。これまでの経験でその事を理解しているからこそ、マミはそんな不吉な事を思ってしまった。

 これではどちらが魔女なのか分からないと、マミは自嘲する。不意に彼女が思い浮かべたのは、魔法少女になった所為で死んでしまった、一人の少女のこと。数日前に自然公園で遺体を発見された彼女の死をマミに報せたのは、朝のニュースではなかった。死んだ少女の親友で、共に魔法少女になった女の子からの電話が、マミにその訃報を伝えたのだ。

 今でもマミは覚えている。親友の死を教えてくれた、絶望に染まった少女の声を。マミの知る限り、二人はとても仲の良い友達だった。背が小さく気弱な子と、背が高く強気な子。彼女達はまるでお姫様と騎士のような関係で、長い付き合いの間に培われた、他人が入り込めない雰囲気を持っていた。そんな二人を知るからこそ、マミの受けた衝撃は並大抵ではなかった。

 彼女達だけではない。この二週間で見滝原市の魔女被害は一気に増加した。もともと表に出ない所で犠牲者は出ていたが、こうまで騒ぎになるのは異常事態だ。マミの知らない所で命を落とした魔法少女は、おそらく片手では足りないだろう。彼女達が死んだ責任の一端は、間違い無くマミにある。それでもマミは、立ち止まる事は出来なかった。自分にとっての特別なのか、そうではないのか。それはマミにとって、何より大事な判断基準だった。

「……ふぅ」

 紅茶に口を付け、一息つくマミ。彼女はここに居ない友達に思いを馳せた。

 現在、アイは少女の遺体が見付かった自然公園に居るはずだ。ある意味では不吉な場所だが、マミはそこまで心配していない。そこに”魔女は居ない”と、亡くなった少女の親友が教えてくれたからだ。親友の仇を取るから手を出さないでほしいと言った事を思えば、見落としたという事も無いだろう。だからマミは安心して、今日の待ち合わせ場所にする事が出来たのだ。

『マミ。二人が移動するみたいだよ』
『わかったわ』

 レジに向かう二人の少女を確認し、マミは食べ掛けのケーキを残して立ち上がる。そのまま伝票を掴み、二人の姿を視界に捉えながらも、マミは自然な様子で歩き始めた。そして二人のすぐ後に会計を終えた彼女は、心持ち早足で店から出た。先に出た少女達の背中を探して辺りを見回すマミ。すると目的の人物はすぐに見付かり、彼女はその後を追った。

 マミは一定の距離を保ったまま二人に付いて行く。漏れ聞こえてくる会話の内容を分析しながら、彼女は接触のタイミングを計っていた。出来るだけ自然な出会いを装い、警戒心を持たれないようにしなければならない。こんな時に助かるのがキュゥべえの存在だ。キュゥべえの姿を見れば一般人は驚くし、なんならわざと念話を聞かせてもいい。そうして興味を持たせた後に、偶然を装って話し掛けるのだ。

 初めは人通りの多い街中を歩いていた二人だが、やがて人影のまばらな川沿いの道を進み始めた。まさに天運。今こそ行動すべき時だと、マミは計画を練り始めた。周辺の地形を確認し、接触し易い状況を考える。それから移動を開始したマミは、しかしすぐに足を止める事となった。前方を歩く少女達を見遣り、マミは怪訝そうに眉根を寄せる。魔法少女としての感覚が、見逃せない悪寒を告げていた。

『キュゥべえ』
『うん。魔女だね』

 右肩に掴まるキュゥべえの返答を聞き、マミが頷く。少女達の進む先には、魔女の結界が存在していた。こんな場所に居るというのはマミとしても予想外だが、おそらくは頻繁に住処を移す移動型なのだろう。

 とにかく、奇跡的なまでの幸運であり、悲劇的なまでの不運でもある。マミにとってはこの上無く都合の良い展開だが、少女らにとっては都合が悪いなんてものではないだろう。彼女達が確実に結界に取り込まれるという訳ではないが、その可能性は決して低くない。何より今のマミには、事前に二人の安全を確保するつもりが無いのだから。

 そして――――――――運命の瞬間が訪れる。

 少女達の姿が消えた。マミの視界から、まるで蜃気楼か何かの如く消え失せた。魔女の結界に迷い込んだのだ。すぐさまマミも後を追う。外から結界の内部を窺えない以上、二人が怪我する前に介入しなければならない。

「キュゥべえは隠れてて。まずは私だけで接触してみるわ」

 肩からキュゥべえを下ろし、マミが移動を開始する。駆け足で少女達が消えた地点まで辿り着いた彼女は、そのまま流れるように結界への侵入を果たした。

 世界が変わる。色彩が変わる。常識と非常識が入れ替わり、普通こそが異端な空間へと塗り替えられる。

 地面はぬかるみ、平凡な河原は起伏に富んだ地形へと変化していた。辺りを見回せば、まず目に付くのは地面に突き立つハードルだ。陸上競技に使われるそれが、至る所に刺さっている。他にも砲丸や円盤、槍、棒高跳びのポールなど、陸上関係の道具があちこちでオブジェと化していた。そして上を仰ぎ見れば、そこにはどこまでも広がる青空。否、青空を描いた天井が存在していた。

 分かり易い魔女だと、マミが心中で呟く。スポーツ関連の悩みというのは、存外根が深い物だ。記録の伸び悩みや競争相手の存在、仲間内での不和など、負の感情が生まれる土壌はいくらでもある。マミが契約に立ち会った魔法少女の中にも、ちょうど陸上関係の悩みを持つ子が居た。記録の伸び悩みから無理な練習をした彼女は膝を壊していて、それを治す為にキュゥべえと契約したのだ。結局は標準的な治癒能力を備えただけでマミとしては残念だったが、彼女の必死さは印象に残っていた。

 そうして周囲の状況を分析していたマミは、ようやく二人の少女を視界に捉える。彼女達は少し盛り上がった地面に立っており、その顔は不安に彩られていた。まだマミの存在には気付いていないらしく、落ち着かない様子で辺りを見回している。

「さ、さやかちゃん。ここ、どこかな……?」
「わかんない。わかんないよ。でも、こんなの絶対マトモじゃないっ」

 弱々しい少女達の声。足を震わせながら、二人は寄り添うように立ち尽くしている。

 大事なのはここからだと、マミが気合いを入れた。少女達を怖がらせ過ぎてはいけない。魔女への恐怖が奇跡の魅力に勝ってしまえば、魔法少女なんてなりたくないと言い出しかねない。そうすれば折角の金の卵が台無しだ。ここは先輩魔法少女として、マミが格好良く助ける必要がある。その為にはあと一手、分かり易い敵が必要だ。

「――――ほんと、今日はツイてるわね」

 マミが笑う。少女達の周りには、大量の使い魔が集まり始めていた。全身を包帯で覆われてミイラのようになった、不恰好な亀の使い魔。人間の子供くらいの大きさはある彼らは二本足で立ち、手に手に槍や砲丸を持っている。狙う先は、もちろん二人の女の子だ。

 囲まれた少女達が身を寄せ合う。恐怖で顔を引き攣らせ、何も出来ずに身を竦ませている。そんな二人に狙いを定め、使い魔達が腕を振り被る。足を震わせる二人はカカシ同然で、とてもではないが避けられるとは思えない。それが当然。何も知らない一般人では、訳も分からぬ内に殺されるのがこの場の道理だ。あの少女達も、本来なら骸を晒す事になっただろう。

 しかしここにはマミが居る。魔法少女が、助けてくれる。

 最初に響いたのは銃声だ。変身したマミの銃撃が、一体の使い魔を吹き飛ばす。瞠目したのは二人の少女。動きを止めたのは、マミ以外の全ての存在。時が止まったかの如きその空間で、マミだけが何にも縛られていなかった。

 使い魔の一体を踏み台に、マミが空へと跳び上がる。上から見れば、使い魔が円形に集まっているのがよく分かる。そして白い円の中心部には、桃と水の二人の少女。不意に桃色の女の子が空を見上げ、マミと目が合った。桃色の瞳が、大きく見開かれる。

 微笑むマミと、現れる銃口。幾多のマスケットが宙に固定され、マミの背後から獲物を狙う。やがて使い魔達が動きだし、同時に、撃鉄が降ろされる。銃声の数だけ、哀れな亀が命を散らした。白い円の中にポッカリと穴が開き、その中心で少女達が目を白黒させている。そんな彼女らの前に降り立ったマミは、未だに状況を飲み込めていない二人に優しく話し掛けた。

「大丈夫だった?」
「あ、あの……あなたは?」

 桃色髪の少女が、不思議そうに尋ねてくる。

「後で話してあげるから、少し待っててちょうだい。すぐに終わらせるわ」

 微笑を浮かべてマミが答える。それを受けた桃色髪の少女は、おずおずと頷いた。隣の少女も、戸惑いながらも警戒は見られない。恐慌の見られない二人の様子に、マミは嬉しそうに目を細めた。

「さて、ちょっと張り切っちゃおうかしら」

 振り返り、マミが呟く。まばらに残った使い魔を殲滅して魔女を倒すのに、時間は掛からなかった。


 ◆


「紅茶よ。これでも飲んで落ち着きなさい」
「あー、うん。ありがとう」
「別に構わないわ」

 素気無く返し、ほむらと名乗った少女は椅子に座る。対面の彼女を眺めながら、アイは置かれたカップを掴んだ。マスクを外した彼女は、そのまま遠慮がちにカップに口を付ける。悪くない、とアイは口元を緩ませた。

 二人が居るのは広い部屋だ。床も天井も目映いほどに真っ白なその部屋の中央には、紫色の丸テーブルが備え付けられている。テーブルを囲む形で半円型の長椅子が二つ用意されていて、更にその外側にも二回りほど大きな長椅子があった。そして最外周には、時計の文字盤のように長方形の椅子が配置されている。天井を見上げれば沢山の歯車が絡み合ったよく分からない仕掛けがあり、また巨大な振り子が規則的に揺れている。

 ここはほむらの自宅だ。あれから魔女の結界を抜け出したアイは、ほむらに促されるままにこの家へとやって来た。それは命の恩人であるほむらの頼みを断りにくかったという理由だけではなく、彼女の語った目的が非常に興味深かったからでもある。

 魔法少女の真実を伝えに来たと、ほむらは言った。その真意は分からないし、表面的な理由すら読みかねているアイだが、だからといって見逃せる言葉ではない。何よりほむらなら答えを知っているかもしれない。先程の魔女との遭遇でアイが思い付いた、馬鹿みたいな、だけど無視出来ないおぞましい考え。否定にしろ肯定にしろ、アイはそれについて誰かの意見が欲しかった。

 紅茶に映る自分と睨めっこしながら、アイが躊躇いがちに口を開く。

「キミに聞きたい事があるんだ。戯言だって、自分でも思うんだけどさ」
「本当に戯言かどうかは、聞いてみなければわからないわ」

 ほむらの声音はブレない。一本芯が通っていて、聞いている側も落ち着いてくる。だからアイは、少しだけ勇気を持てた。

「魔女は――――」

 アイの声が途切れる。本当に言って良いのかと、迷いが生まれる。所詮は根拠に欠ける予想で、空想で、荒唐無稽な妄想に過ぎない。それをほむらに話しても大丈夫だろうか。今後の関係に亀裂が入るのではないかと、アイは怖くなる。

 でも、苦しくて。けど、辛くて。アイの中で終わらせるには、それはあまりに重過ぎた。

「――――魔女の正体は、魔法少女なの?」

 時が止まる。少なくともアイはそんな風に感じた。痛いほどの沈黙が場を支配し、冷たい空気が辺りに漂う。痺れるような緊張感。肌を刺すような強い視線に耐えかねて、アイは誤魔化し笑いを浮かべて顔を上げた。

「なーんてねっ。そんな事あるわ、け……」

 アイの話は最後まで続かなかった。正面に座るほむらの顔が見えたからだ。大きく目を見開いたほむらの表情は、決してアイを馬鹿にしたものではなく、むしろ図星を突かれた人間のものに似ていた。

 有り得ない、とアイが心の中で呟く。

「驚いたわ。まさかそこに思い至るなんてね」

 その言葉を終える頃には、既にほむらの表情は元に戻っていた。
 手元の紅茶を一口だけ飲み、ほむらは湿った吐息を漏らす。

「あなたの予想通りよ。あれら異形の魔女こそが、魔法少女の成れの果て」

 衝動的に叫びそうになるのを、アイは唇を噛む事で耐え切った。カップを持つアイの手が震え、喉が引き攣る。急に水の中に放り込まれたみたいに息苦しくなって、アイは胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。

「……それは、グリーフシードを集めるため?」

 絞り出す。今のアイの声は、まさしくその表現が相応しい。
 血の気の無い顔を苦悶に歪めたアイは、真っ直ぐほむらを見る事が出来なかった。

「いいえ、それは違うわ。キュゥべえの目的は魔法少女を絶望させる事よ」
「絶望……?」

 アイの眦が動く。説明の意味が分からず、彼女はほむらに目を向けた。

「彼らは感情をエネルギーとして利用する技術を持ってるの。そしてある目的の為に、感情エネルギーを集めてる」
「つまりその感情エネルギーを生み出す為に、魔法少女を絶望させるの?」
「理解が早くて助かるわ。第二次性徴期の少女の、希望と絶望の相転移。それが最も効率的らしいわ」

 考える。アイはほむらの言った言葉の意味を考える。馴染みの薄い、と言うよりもまるで実感の湧かない非現実的な内容だったが、アイは事実という前提で考えた。そうして頭を回転させれば、少しずつ冷静さも戻ってくる。何度か深呼吸を繰り返したアイは、改めて対面のほむらと向き合った。美しい紫色の瞳が、静かにアイの姿を映している。

「希望を与えて魔法少女にして、絶望を与えて魔女にする、と? それとも魔女になるから絶望するの?」
「前者よ。魔法少女は、絶望した時に魔女へと成り果てるの」

 淡々としたほむらの解答。微かな揺らぎすら感じられない彼女を見れば、やはり真実を話しているように思えた。

「でも魔法少女が絶望するとは限らない。その点で言えば非効率的に思えるけど?」
「条理にそぐわぬ形で奇跡を起こせば、そこには必ず歪みが生まれる。いずれ災厄が訪れる事は必然なのよ」

 ほむらの答えを聞いたアイは、急に笑いたくなった。大きな声を上げて、馬鹿みたいに笑ってしまいたかった。

 可笑しな力を使えば、可笑しな結果を呼んでしまう。奇跡を起こせば、それに見合う絶望が振り撒かれる。どちらもかつて杏子が語った、彼女の持論だ。経験則から導かれたそれを、アイはあまり信じていなかったのだが、ほむらによれば正しかったらしい。それを信じたからといって現状が大きく変わった訳ではないだろうが、現実の馬鹿馬鹿しさを受け入れる切っ掛けにはなったかもしれない。

「なんだよ。ただのくだらない出来レースじゃないか」

 右手で額を覆い、アイが天井を仰ぐ。シミ一つ無い真っ白な天井は、嫌なモノを連想させた。

「わざわざ人間を使うのは、キュゥべえ達に感情が無いから?」
「えぇ、その通りよ。思った以上に鋭いのね」
「恋する乙女みたいに、キュゥべえの事ばっか考えたからね」

 乾いた笑いが部屋に響く。アイの唇から零れるそれは、きっと自嘲を意味するものだ。長椅子の上に体を倒し、アイは深い息を吐く。全てが九十度傾いたアイの視界に映るほむらは、人形のように冷たい顔をしていた。だけどそれは感情が無いからではなく、むしろ湧き出る感情を必死に抑え付けているからだと、アイは理解する。

 不意に、結ばれていたほむらの唇が開く。

「――――どうして。どうしてあなたは、この話を信じるの?」
「そうだねぇ。キュゥべえを疑ってるから、かな」

 アイが答えてもほむらは納得したようではなかった。眉根を寄せ口元を結び、彼女はアイを見詰めている。疑いの目ではない。むしろその逆で、ほむらはアイの事を信じたがっているように思えた。それが分かった時、アイは自然と微笑んでいた。

「ボクが初めてキュゥべえを知ったのはさ、友達の話の中だったんだ」
「友達…………巴マミ?」

 一瞬だけ目を細め、それからアイは寝転んだまま頷いた。

「そう。マミの相談が切っ掛けだった。でさ、その時はキュゥべえとは会わなかったんだ。だからボクにとってキュゥべえは、初めは言葉の上にしか存在しない遠い相手だったわけさ。ボクが疑念を持った最大の理由はそれだろうね」

 目を瞑り、アイは当時の記憶を掘り起こす。今よりずっと悩みが少なくて、純粋にマミと笑い合えていた頃の思い出を。

「キュゥべえが不思議な生き物っていう実感が薄かったし、特に恩があるわけでもなかった。言葉の上で考えるしかなくて、そうすれば大した代償も無く奇跡を起こしてくれるとか怪しいと思っちゃうわけだよ。これが魔女の結界の中で初対面とかだったら、まったく違う結果になったかもしれないね。第一印象が良い相手を疑うのって、中々難しい事だから」

 再び目を開けたアイが、ほむらに視線を向ける。変わらぬ姿勢で椅子に座るほむらは、けれど瞳に新たな熱意を宿していた。アメジストを思わせる瞳を僅かに潤ませ、熱心な様子でアイを見据えている。やはりその真意は読み取れないが、アイに何かを期待している事は分かる。そして絵本アイという人間は、誰かに期待される事が大好きな性格をしていた。

 俄かに温かくなった自らの心を感じ取り、アイが苦笑する。落ち着くべきだと、彼女は自分に言い聞かせた。第一印象でキュゥべえを疑う事が出来たように、第一印象で、アイはほむらに対して気を許している。それは些か危うい考えだ。

「そういうキミはどうなのさ。どうしてボクにこんな話を聞かせようと思ったんだよ?」
「……あなたが、キュゥべえを敵視してるから」

 アイが眉根を寄せる。体を起こした彼女は、キツい視線をほむらに向けた。

「どうやって調べたの?」
「私の能力」

 ほむらを睨むアイ。しかしどれだけアイが瞳に力を籠めても、ほむらに動揺は見られなかった。真っ直ぐアイを見返す紫色の瞳には、強い意志が宿っている。そこに暗い決意はあっても、後ろ暗さは欠片も感じられなかった。

「まぁ、別にいいけどね」

 やがて諦めたアイが、首を振って息を吐く。

「でも他にもあるんだろ? ボクに近付いた理由。ほら、マミの事とかさ」
「……その通りよ。あなたには巴マミを止める為に力を貸してほしいの」

 そうだろう、と腕を組んだアイが頷く。

 絵本アイは病弱なだけの普通な少女だ。魔法少女という非常識な存在について知ってはいても、アイ自身に特別な力は無い。そんな彼女が十分な影響力を持っている相手はマミだけだ。だからアイに用があるとするなら、マミに関する事だと考えるのが自然だろう。何よりほむらの話が事実だとすれば、マミの行動は不味いでは済まないのだから。

 ただちょっと奇妙な所もある。アイに接触する理由を考えれば、やはりマミの存在は外せない。どれだけ変わった考えを持っていたとしても、能力の無いアイでは意味が無い。だからマミとの関係よりも先に、アイの思想を挙げるというのは、些か可笑しく感じられた。

 とはいえ、そんなものは人間的な誤差の範囲と言える。特に気にする必要は無いと、アイは思い直した。

「で、ボク達が話し合うべき事は色々とあると思うけどさ。最初に知っておきたい事があるんだ」
「なにかしら? 可能な限り答えてみせるけど」

 躊躇い無く答えるほむらに、アイは満足そうに頷いた。そして彼女は、自らの疑問を口にする。

「ずばりキミの目的は? こんな病人を引っ張り出してまでやりたい事を、ボクに教えてくれよ」

 自らの膝に肘を置き、アイは両手で顎を支える。黒い瞳にほむらを映し、彼女は視線で問い掛けた。
 暫しの静寂。人形みたいに顔も体も動かさず、ほむらはアイの視線を受け止めている。

「とある女の子が、魔法少女になるのを防ぎたいの」

 アイの目が細くなる。ほむらから視線を逸らす事無く、彼女は問い掛ける。

「名前は?」

 一瞬、ほむらの口が止まる。次いで瞑目した彼女は、静かにその名を告げた。

「――――――鹿目まどか」


 ◆


「鹿目(かなめ)まどかさんと、美樹(みき)さやかさんね。私は巴マミ。よろしくね」

 穏やかな声が、青空の下を駆け抜ける。発したマミは公園のベンチに腰掛け、その手には缶の紅茶を握っていた。マミの隣には二人の少女が座っている。鹿目まどかと名乗った桃色の髪の少女と、水色の髪を持つ美樹さやかだ。彼女らはそれぞれ缶ジュースを手に持ち、真剣な面持ちでマミの話に耳を傾けていた。

「は、はい。えっと、マミさん……でいいですか?」
「ええ。その呼び方で構わないわ」

 まどかの質問に笑顔で答えるマミ。するとまどかは、躊躇いがちに言葉を継いだ。

「その、さっきのは一体なんなんですか? よくわかんない内に周りの景色が変わってて…………」
「そうそう! あの亀のミイラとか、もうほんっと意味不明ッ!!」

 途中から割り込んださやかが、大袈裟な手振りで騒ぎ立てる。そんな彼女の隣、マミとさやかの間に座るまどかは、手元に目線を落として黙り込む。表情は見えないが、まどかの纏う雰囲気は暗く沈んでいた。よく見ればさやかの顔にも不安が滲み出ており、大仰な態度は虚勢に過ぎないのだと分かる。そんな二人に対し、マミは安心させるように微笑んだ。

「あれは魔女の仕業なの」

 柔らかな声音でマミが告げれば、ゆっくりとまどかが顔を上げる。

「魔女……ですか?」
「たぶん、あなた達が想像するのとは違うでしょうけどね」

 そう言ってマミは後ろを振り返る。同時にベンチ裏の茂みを揺らし、白い影が飛び出してきた。キュゥべえだ。彼は地面を蹴って跳び上がり、そのままマミの肩に掴まった。真っ赤な瞳が、まどかとさやかに向けられる。

『鹿目まどかと美樹さやかだね。はじめまして、僕はキュゥべえ』
「キュゥべえ?」
「ぬいぐるみ、じゃないよね?」

 共に目を丸くして、呆然とキュゥべえを見詰めるまどか達。見事に意表を突かれた二人に対し、マミは畳み掛けるように話を続けた。

「この子はキュゥべえ。これから話す事について一番よく知ってる存在よ」

 一瞬の溜め。もったいぶるように、マミは息を吸い込んだ。

「そう、魔法少女についてね」
「魔法少女……」

 まどかの呟きを、マミは頷く事で肯定する。

 そして、魔法少女の説明が始まった。時にマミが話し、時にキュゥべえが語り、まどか達の質問も交えながら会話は進む。非常識で、非現実的で、夢物語のような魔法少女の話。それでもまどか達は疑う事無く、マミの説明を受け入れていった。やがてマミとキュゥべえが全てを話し終える頃には、まどかもさやかも尊敬の念をその瞳に宿していた。

「――――――これで魔法少女の説明は終わりよ。なにか質問はあるかしら」

 お姉さんぶった態度でマミが問えば、まどかとさやかはそれぞれ何かを考え始めたようだった。それはマミの説明に対して疑問があるというよりも、いきなり教えられた『魔法少女』という非日常に関する情報を整理する為だろう。だからマミも口を挿む事はせず、二人が考えを纏めるまで待っていた。そうしてまず口を開いたのは、まどかの方だった。

「あの、マミさん」
「なにかしら?」

 マミが問えば、まどかは俯いて言い淀む。けれどすぐに顔を上げた彼女は、思い余った様子で声を上げた。

「わたし達にも、魔法少女の才能があるんですよね?」
「その通りよ。特に鹿目さん、あなたは素晴らしい才能の持ち主だわ」

 マミの言葉を聞いたまどかは、再び何かを考え始めた。代わりに口を開いたのはさやかだ。

「で、魔法少女になるなら奇跡を叶えてもらえる、と」
「ええ。一度きりだけど、大抵の願い事は叶えられるわ」

 また静寂。まどかと同じようにさやかも悩みだし、遂には誰も喋らなくなった。二人が何を考えているのかは分からない。ただ魔法少女について真面目に考えてくれるというのは、マミにとって悪くない展開だ。まどか達が魔法少女になる可能性は十分にある。ならばその確率を高めるのが、この場におけるマミの役目だろう。

「いきなりこんな事を言われても困るわよね」

 苦笑してマミが話せば、二人の顔が彼女に向いた。

「そこで二人に提案があるの」
「提案ですか?」
「そう、提案。しばらく私と一緒に行動して、魔法少女がどういったものか勉強してみない? 実際に魔法少女になるかどうかは、それからゆっくりと考えてみればいいわ」

 急いては事を仕損じる。落ち着いて話を進めればいいと、マミは考えていた。場合によっては人生が変わりかねない選択だ。ちゃんと自分で答えを出して貰わなければ、後々問題になりかねない。アイが関わる以上、マミとしてもあまり面倒事を起こしたくはないのだ。それでもマミにとってまどかの才能は魅力的で、缶を握る彼女の手は、知らず震えていた。

「うーん、あたしは賛成かな。やっぱ奇跡には興味あるし」

 まずさやかが答える。自然、マミとさやかの目は残るまどかへと集中した。二人の視線に晒されたまどかはさして気にした風も無く、黙って思考の海に沈んでいる。膝元に目線を落とすまどかの表情は真剣で、マミは迂闊に声を掛ける事は出来なかった。穏やかな風が流れる公園の中で、この場の空気だけが緊張で張り詰めている。

「……うん、わたしも」

 小さな、とても小さな、まどかの呟き。それをマミは聞き逃さなかった。喉を鳴らしたマミと、顔を上げたまどかの目が合う。つぶらな桃色の瞳が、気の弱そうなそれが、逸らす事無くマミを見詰めている。

「わたしも、よろしくお願いします」

 儚く響いたまどかの声は、けれど芯の通った強さを持っていた。




 -To be continued-



[28168] #007 『ボクらはボクらの、正義の味方だ』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2012/10/23 00:00
「鹿目まどか、ね。その鹿目さんは友達なのかな?」

 尋ねるアイの顔には好奇の色が表れている。だがそれも、刹那の後には消え失せた。ほむらの様子に気付いた為だ。感情が抜け落ちたかの如き氷の表情。アイを見詰める彼女の瞳は、心の底から冷えきっていた。

 喉を鳴らし、アイは知らず拳を握る。

「昔、彼女に助けられた事があるの。それだけよ」

 冷淡にほむらが告げる。おそらく全てを語っている訳ではないとアイは感じたが、追求する事は出来なかった。ほむらの纏う雰囲気が拒絶していたという理由もあるし、なんとなくシンパシーを覚えてしまったからでもある。友人の為に頑張る自分と、恩人の為に頑張るほむら。それで良いとアイは思った。感情の見えないキュゥべえよりも、ほむらの方がずっと信用出来ると考えたのだ。

「なるほど。それなら仕方ないね」

 アイの言葉は、所詮はお茶濁しに過ぎないかもしれない。それでもアイは、掴んだほむらの手を放したくなかった。きっと味方で、たぶん仲間で、それはおそらく、アイが望んでいた存在だ。だから彼女の心の隙間が、ほむらを受け入れたがっていた。

 自嘲混じりの苦笑い。誤魔化すように紅茶を飲んで、アイは次の話題をほむらに振った。

「さてと。それじゃ話を煮詰めていこうか。そうだね、まずはキュゥべえの目的を聞かせてよ」
「……そうね。あなたには色々と知ってもらう必要があるわ」

 ホッと息をついたのは、はたして二人の内のどちらだったか。俄かに部屋の空気が和らぎ、アイ達の表情にも余裕が生まれる。対面に座る相手を真っ直ぐに見据えて、彼女らは再び話し合いの姿勢を取った。

「正直に言えば、キュゥべえの目的自体は悪ではないわ」
「うんうん。納得はできるよ。悪役笑いとか似合わないし」

 おどけた風にアイが笑えば、ほむらも頷いて同意を示す。

「でも、私達にとっては最大の障害よ」
「それもわかる。で、キュゥべえはなにをしたいの?」

 会話が止まったのは一瞬だけ。目蓋を下ろしたほむらが、静かに告げる。

「宇宙の延命」
「……宇宙の延命?」

 鸚鵡返しにアイが尋ねれば、ほむらはコクリと頷いた。

「ええ。エントロピーを知ってるかしら?」
「エントロピー? エネルギーの話とかで出てくる?」
「それよ。そのエントロピーで合ってるわ」

 ふむ、とアイが腕を組む。別に詳しい訳ではないが、アイは何度か物理系の本でエントロピーという言葉を見た覚えがある。それらの記憶を掘り起こしてみれば、おぼろげにほむらの言いたい事が分かった。

 一つ頷き、アイは思い出した知識を口にする。

「エントロピーが増大すれば、利用可能なエネルギーが減少する。今この瞬間も宇宙のエントロピーは増加し続けていて、いずれ利用できるエネルギーは枯れ果ててしまう。宇宙の最終状態として予想される『熱的死』という考えだね。宇宙の延命が目的という事は、つまりこれに関係しているのかな?」
「その通りよ。感情によるエネルギーはエントロピーに左右されない。だから彼らは、宇宙の寿命を延ばす為に集めてるの」

 ほむらの言いたい事は、アイもおおよそ理解出来る。宇宙のエネルギー問題を解決する為に、従来の法則に縛られない特殊なエネルギーが必要になった。そうして探し求めた結果が、感情をエネルギーに変換するという方法なのだろう。細かな理屈は抜きにして、アイはそういう事だと受け入れた。そもそも理屈を考える事が馬鹿らしいと思った、という面もある。

 おそらくキュゥべえ達の種族は、人類よりも遥かに進歩した文明を持っているのだろう。何より彼らは、人類の科学技術についても正確に把握しているはずだ。そんな彼らが導いた結論を覆す事は、地球人類には不可能に等しい。たとえ最先端の考えであろうと、キュゥべえ達にとってはまだまだ発展途上に過ぎないのだから。もしも覆せる出来る人間が居たとしても、それは絵本アイではない。

「うん、なるほど。たしかにキュゥべえは悪じゃない。こんな銀河の片田舎に住まう生命を犠牲にするだけで宇宙全体の寿命が延びるなら、それは正義と言ってもいいと思うよ。少なくとも理解はできる。たとえ熱的死が、途方も無いほど未来の話だとしてもね」
「そうね。私もその目的を否定しようとまでは思わないわ」

 でも、とほむらの呟き。紫の瞳が、黒い瞳と視線を交わす。
 言葉は無く、アイはただ頷いた。それだけで言いたい事は伝わった。

「私達には私達の正義がある」

 微笑み、アイは胸元に手を置いた。

「ボクはマミを助けたい。キミは鹿目さんを助けたい。その為にはお互いの協力が必要だ」

 薄紅色の唇から漏れた声は、とても穏やかなものだった。子守唄にも似た響きを持つそれが、部屋の隅々まで染み渡る。ほむらは目を逸らす事無くアイを見ていた。静かに、真剣に、彼女はアイの言葉を待っていた。

「ボクはキミの正義に味方する。キミはボクの正義に味方する」

 細い指先が、アイの鎖骨を軽く叩く。次いでほむらを指差した。

「ボクらはボクらの、正義の味方だ」

 告げるアイの表情は、凪いだ湖面のように思えた。対するほむらは何も言わない。アイを見詰めたまま、彼女は氷の彫像の如く動かない。しかしよく見れば分かる。ほむらの口元は、僅かに綻んでいた。それに気付いて目を丸くするアイの前に、ほむらが右手を差し出した。

「よろしくお願いするわ」
「うんっ。こちらこそよろしく頼むよ」

 声を弾ませ、アイがほむらの手を握る。どちらも小さな手だったが、そこに籠められた力は強かった。掴んだ縁を放したくないとばかりに固く結ばれた握手は、二人の心の表れだろう。それが分かるのか、彼女らは互いに顔から力を抜いた。俄かに和らいだ空気の中で、彼女達は握手をほどく。そうしてまず、アイの方が話し始めた。

「それじゃ、ほむらちゃんにちょっと相談」
「なにかしら?」

 アイが目を瞑る。一瞬の空白の後に、彼女は口を開いた。

「ボクが奇跡を願い、マミを普通の少女に戻したとする。その場合、キミにとって不都合は?」
「――――ッ」

 空気が震えた。ほむらの驚きが辺りに伝わり、途端に緊張感が増していく。その中でほむらは、半端に口を開いたままアイを凝視していた。何かを言いたげに唇を動かしても、彼女の声が響く事は無い。対するアイは動く事無く、ただジッとほむらの言葉を待っている。そうして何度か口を開いた後、ほむらは自らの唇を噛み締めた。

「……ダメよ。絶対にダメ」
「どうして? キュゥべえに保証はもらったぜ」

 コクリと、ほむらの喉が鳴らされる。

「たとえ上手くいっても、今度は巴マミが同じ事をするかもしれない」
「そうだね。その可能性はある。でも挑戦してみる価値はあると思ってる」

 ほむらは、すぐには返事をしなかった。膝に乗せた手を握り締め、彼女は肩を震わせている。その表情は硬い。明らかな逡巡を見え隠れさせる彼女は、暫し沈黙を貫き、やがて力無く呟いた。

「……あなたは弱い」
「うん。知ってる」

 頷くアイを見詰めて、ほむらが言葉を継ぐ。

「およそ一月後に『ワルプルギスの夜』が現れるわ」
「ワルプルギスの夜?」
「災害級――――いえ、災害そのものの魔女よ」

 緊張の滲むほむらの声。そこには恐れとも怒りとも取れる何かが籠められていた。薄い風船に限界まで空気を吹き込んだ時のように、今にも何かが溢れ出してきそうな危うさを、ほむらの空気は孕んでいる。

「竜巻同士がぶつかり合って大きくなるように、魔女の波動が合わさって成長した集合魔女。それがワルプルギスの夜よ。歴史にも語られる超弩級の大型魔女で、場合によっては数千人規模の犠牲者を覚悟する必要があるわ」

 震えそうになるのを無理に抑え付けているような硬い声。それを紡ぐほむらの表情も、決して穏やかとは言えない。一方でほむらの語った内容を聞いたアイは、怪訝そうに眉根を寄せた。

「魔女の被害で数千人?」
「弱い魔女は結界に隠れる。だからその被害も、大規模に膨れ上がる事は無い」

 ほむらの言葉が、アイの胸にストンと落ちる。

「つまり、隠れる必要が無いほど強大だということ?」
「そういう事よ。一般人に魔女の姿は認識できないけど、スーパーセルを引き起こして災厄を撒き散らすの。事によっては、見滝原は瓦礫の山へと姿を変えるわ」

 どこまでも真剣なほむらの声音は、とても嘘を言っているようには思えなかった。個人的な心情を差し引いても、きっと真実なのだろうとアイは受け入れる。同時に想像もつかないほど強大な魔女の存在に、アイは知らず震えてしまう。

 強がるように、アイは努めて明るく言葉を発した。

「そのワルプルギスの夜に対抗する為に、マミの力が必要なわけだ」
「ええ。色々と不安な点はあるけど、彼女の実力は本物よ」

 迷いの無い肯定に、アイは無言で拳を握り締めた。
 結局は力だ。絵本アイには力が無いから、他人に任せる事しか出来ない。

「ほむらちゃんの能力って、未来予知なの?」

 不意にアイが問い掛ける。ほむらを疑いたくはないが、その情報の信憑性は知りたかった。たとえこの問いを肯定されてもアイに確認する術は無いが、それでもほむらを信じるには十分だ。

「似たようなものよ」
「そっか」

 短い応答。

 残念だと思うと同時に、アイはちょっとだけ安心していた。あまりに広がり過ぎたこの問題を、今のまま終わらせていいはずがない。何か別の解決法を考え出さなければ、きっと悲しい結末が待っているだろう。でも、アイは弱いから。絵本アイは、とても弱い人間だから。目の前にマミを助ける手段があるなら、誘惑に負けてしまうかもれない。だからほむらの話は、アイにとってもありがたかった。

「……うん、わかった。キミの方針に従うよ」

 ただそれでも、アイはほむらを直視する事が出来なかった。


 ◆


 あれから更にほむらと話を煮詰めたアイは、半ば以上も日が沈み、街並みが朱に染まり切った頃に病院まで戻ってきた。自動ドアを潜り、空調の行き届いたロビーに足を踏み入れた所で、アイは安堵の息を吐く。もはや自分の家にも等しいこの場所は、彼女にとって一つの拠り所になっていた。顔馴染みの看護師さんに帰院を告げたアイは、そのまま疲れた足取りでエレベーターを目指す。

 廊下は静かだった。多くの人が無闇に騒ぐ事無く、一定の秩序に従って行動している。誰かの足音すら存在感を持つそんな空間が、アイは好きだった。というよりも、病院で長い時を過ごしてきたアイにとって、外の喧騒はうるさ過ぎるのだ。だから落ち着かないし安らげない。たまに出掛けるくらいなら良いが、それを日常としたくはない。そんな事を考えながら、アイは通路を進んでいく。

「嘘つきッ!!」

 頭の芯まで響く甲高い叫び声。思わず耳を塞いだアイは、その発生源へと顔を向けた。そこに居たのは女の子だ。目深に被ったハンチング帽から明るい茶髪を覗かせた彼女は、周りの大人に向けて凄い剣幕で当たり散らしていた。

「もう大丈夫って、心配無いって言ったじゃない!」

 続く女の子の言葉も、やはり強烈。周り全てが敵といった形相で、彼女は声を張り上げている。

 何があったのか、という事はアイにも想像がつく。ここは病院で、女の子はおそらく患者だ。病人に理不尽が降り掛かる事など、ここでは日常茶飯事だった。それ以上に救われる者は多いが、だからと言って救われない者が報われる訳ではない。周りに感情をぶつけたい気持ちはアイも理解できるし、少なからず共感出来る。

 とはいえ、アイには関係の無い事だ。すぐさま興味を失った彼女は、止めていた歩みを再開した。

「先生もお母さんもマミさんも! みんなみんな嘘つきだッ!!」

 反射的にアイの足が止まる。耳に慣れ過ぎた友達の名前。たとえ赤の他人の話だったとしても、アイはそれを拾わずにはいられなかった。アイが再び女の子の方を見遣れば、こちらに走ってくる女の子が視界に映る。

「どいて!」
「――っとと」

 進路上のアイを押し退けて、女の子は荒々しい足取りで歩き去る。その背中を黙って見送ったアイは、残された大人達の方を振り返った。女の子の母親と思われる女性に、担当医と思わしき男性、そして困った様子の看護師数名。その中に見知った看護師さんの顔を見付けたアイは、彼女に向けて小さく手招きする。すぐにあちらも気付いたようで、断りを入れた後にアイの方に寄ってきた。

「おかえりなさい、アイちゃん。なにか用かしら?」
「ただいまです。それで、ですね。今の女の子はどうしたんですか?」

 素直にアイが答えれば、看護師さんは気まずそうに目を逸らした。

「もしかして、さっきの聞いちゃった?」
「いえ、大事なトコはさっぱり。というか、どうして通路で?」
「初めは中で話してたのよ。けど、途中であの子が逃げ出しちゃってね」

 追い付いた所で宥めようとしたら先程のようになったのだと、看護師さんは嘆息する。

「なるほど。あの子の病気について教えてもらえますか?」
「う~ん。デリケートな話だし、あまり無関係な人に話すのはちょっと」
「そこをなんとか! なんなら気の利いた言葉であの子を宥めてきますから」

 頬に手を当てて渋る看護師さんに対し、アイが拝むように両手を合わせる。

 単なる興味本位だった。別人だとは分かっていても、アイにとってマミという名前は特別だ。だからつい気になってしまい、一度でも気に掛け始めたら、今度は無視出来なくなった。ここで会ったのも何かの縁。そう思い、彼女はちょっとばかしお節介を焼いてみるのも良いかという気になっていた。

「……そうねぇ。あなたはここに来て長いし、下手な事は言わないわよね。ちょっとは関係もあるし」

 担当医が女の子の母親と話している姿を確認した看護師さんが、声を控えて呟いた。

「関係あるんですか?」
「あの子、癌患者なのよ」

 なるほど、とアイは納得した。癌はアイにとっても身近な病気の一つだ。アイ自身が癌を患っている訳ではないが、彼女の病気が引き起こす合併症の一つとして、発癌の可能性が心配されていた。だからたしかに、関係があると言えばある。しかしそれがこじつけ同然という事もまた、一つの事実である。要はそれだけ対応に困っているのだと、アイは理解した。

「かなりマズい感じですか?」
「えっとね。すぐに命の危険があるとか、そういうわけじゃないのよ」

 奥歯に物の挟まったような看護師さんの物言い。薹が立ち始めた面立ちに憂いの色を浮かべ、彼女は溜め息を吐き出した。いまいち要領を得ないと、アイの頭上に疑問符が浮かぶ。そんな彼女に対し、看護師さんは困ったように苦笑した。

「彼女、二ヶ月前に退院したのよ」
「えっ?」

 不思議そうにするアイから視線を外した看護師さんが、遠くを見て目を細めた。

「あの時は大騒ぎだったのよねぇ。ほとんど治る見込みが無かったはずなのに、いきなり治ったって騒ぎ出すんだもの。それで調べてみたらほんとに治ってるんだから、先生も腰を抜かしそうなくらい驚いてたわ」
「いきなり……?」
「えぇ。朝起きたらいきなり。話には聞いた事あったけど、奇跡って本当にあるみたい」

 しみじみと語る看護師さんとは違い、アイの表情は硬かった。アイにとっては心当たりがあり過ぎる話だ。いつの間にか随分と身近になった奇跡という単語が、彼女の頭の中で警鐘を鳴らしている。こうなると女の子が口にした『マミ』という名前も、アイの知る彼女という事になるのかもしれない。知らず、アイの眉根に皺が寄っていく。

「そんな経緯だから入念に検査したのよ。それで異常が見付からなくて先生も太鼓判を押したんだけど、今度は別の所に出来たみたいでね。まだ治ったばかりだし、かなりショックだったと思うのよ。だからさっきも……」

 看護師さんが痛ましそうに目を伏せる。だが今のアイには、気の利いた言葉を掛ける事は出来なかった。

 奇跡が叶ったと喜んでいた少女に、絶望が降り掛かる。そんな話を、アイはつい先ほど聞いてきたばかりだ。ますますもって怪しく、アイとしては無視出来る状況ではない。やはり首を突っ込んで正解だったと思うと同時に、次から次へと問題が見付かる現状に、彼女は嫌気が差してきた。それでもアイは足を止める事は出来ないし、行動せずにはいられない。

「わかりました。ちょっとあの子と話してみます。気持ちはわからなくもないですし」
「お願いね。今は同じ患者さんの方が、彼女も気を許してくれると思うから。根は素直で良い子なのよ。だから私達も戸惑っちゃって」

 少し表情を明るくした看護師さんにお辞儀して、アイはすぐにその場を後にした。女の子がどこに向かったのかは知らないし、この辺りはアイの普段の行動範囲から外れている。見付かるかどうかはまさしく運次第だが、不思議とアイに不安は無かった。まるで何かに導かれるかのように、彼女は迷い無く通路を進んでいく。

 予感があった。必ず女の子に会えると、アイの直感が告げていた。適当な角で曲がり、適当な階段を上る。人に尋ねる事もせず、気の向くままにアイは歩き続ける。無謀とも無思慮とも言えるその行動は、ほどなくして正しい事が証明された。

 アイが足を止めた場所は、病院の敷地内でも端の方にある休憩所だ。西日が射し込むその場所で、女の子は独り佇んでいた。時間帯の所為か他に人影は見当たらない。オレンジ色の世界で沈む夕日を眺める女の子は、何者も寄せ付けない雰囲気を発していた。弱気ではなく強気。怯えではなく怒り。初めて会った時のマミとはまるで違うのに、何故かアイには、二人の姿が重なって見えた。

 なんて話し掛けようか。そんな事をアイが悩んだのは、僅かな時間だけだった。悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は、心の中で先程の看護師さんに謝った後、おもむろに真面目な顔を作る。それからゆっくりと、アイは口を開いた。

「なんて言うかさ、不幸だよね」

 意識的に低く発した、アイの第一声。それが聞こえたのか、女の子がゆっくりと振り返る。拍子に見えたその左手には、黒文字が刻まれた銀の指輪。諦めとも悲しみとも取れる溜め息を、アイはひっそりと漏らした。

「……誰?」
「少女です」

 訝しむ女の子に、アイは笑って応答する。途端に女の子は顔を顰めた。苛立ちを隠す事無く、彼女はアイを睨み付ける。

「今は子供に付き合ってあげれる気分じゃないの。あっち行って」
「おいおい酷いなぁ。これでも中学三年生なんだぜ」

 おどけた調子でアイが肩を竦めれば、女の子は疑わしげに眉根を寄せた。当然の反応だろう。成長期に入ってもまるで伸びる気配を見せないアイの身長は、未だに百四十センチにすら届いていない。顔立ちはそれなりに成長が見て取れるものの、やはり小学生と言われた方が納得出来る。そんな自分の容姿を自覚しながらも、アイは恥じる事は無いと胸を張っていた。

「ごめんなさい」

 暫く見詰め合った後、女の子がポツリと呟く。驚いたアイが目を丸くすれば、直後に女の子は嘆息した。

「これで良いでしょ? ほら、さっさと消えてよ」

 投げ遣りな態度で言い捨てて、女の子はアイに背を向ける。明らかな拒絶がそこにはあった。空気を通して伝わる女の子の意思。口を噤むに十分なそれを感じても、アイは欠片も気にしない。大袈裟な手振りで腕を広げた彼女は、能天気そうな声を上げた。

「そうはいかない。看護師さんにキミの話を聞いてるからね」
「それで? わたしを慰めて、とでも言われたの?」

 あからさまに不愉快そうな表情を浮かべる女の子が、突き放すような声音で告げる。

「いやいやボクの目的はそうじゃない。むしろ正反対と言ってもいい」

 アイが首を振って答えれば、女の子は微かに肩を震わせた。興味を惹かれたのか、ハンチング帽のつば先がアイの方へと向けられる。影に隠れた目元から送られる視線を受けたアイは、にっこりと微笑んだ。邪気の無い、子供そのものの笑顔だった。

「慰めてもらいに来ました」

 沈黙の帳が降りる。空気を介して伝わる女の子の戸惑い。それを感じ取ったアイは笑みを深めた。言葉を探すように目線を下げた女の子にゆっくりと歩み寄りながら、アイは軽い調子で話し始める。

「ボクってさぁ、とっても不幸な奴なんだよ」

 近くを歩き回るアイを、女の子が視線で追う。後ろ手を組んだアイは、素知らぬ態度で言葉を続けた。

「ここに入院してから九年も経ってるんだぜ。人生の半分以上が病院暮らしとか笑っちゃうだろ?」

 息を呑む女の子から離れ、アイは窓へと近付いた。真っ赤な日射しが射し込む窓ガラスには、顔を上げた女の子が映っている。その面立ちは判然としないが、驚いている事はよく分かった。女の子から見えない位置で、アイの口元が弧を描く。

「碌に運動もできないし、早死にするって言われるし、ほん――――っと、ボクって不幸だ」

 天井を仰いだアイの言葉が、休憩所に響き渡る。女の子の応答は無かった。アイの小さな背中に視線を突き刺し、彼女はグッと押し黙っている。それを指摘する事無く、気にする事無く、アイは演説でもするかのように滔々と語り続ける。

「そんな可愛そうなボクだからさ、周りも心配してくれるんだよ。優しくしてくれるんだよ。可愛そうな子だねって顔してさぁ、善人面して寄ってくるわけ。で、みんな同じ事を口にするの。一山いくらって感じの安っぽい言葉をね」

 アイが鼻で笑う。どこか大事な糸が切れたみたいに、力の無い表情だった。

「うぜぇ」

 短く、低く、アイの声が通り抜ける。

「――――って、思わない?」

 振り返り、アイは女の子に笑い掛けた。細い肩を跳ねさせ、女の子が目を逸らす。先程までの威勢は消え失せ、今はただ、アイの雰囲気に呑まれているだけだ。それで良いし、それが良い。僅かに目を細め、アイは視線で女の子を射抜く。

「訳知り顔で『大丈夫?』とか『辛くない?』とか、そんな事を聞くなよ。もちろん大丈夫じゃないし辛いに決まってる。なんで人の傷口を抉るような真似するんだよ。こっちを泣かせたいのかよ。泣いてるトコを憐れみたいのかよ。愛玩動物かなにかかよ」

 止まらない休まない。忙しなく動くアイの唇から、呪詛のように低い声が吐き出される。

「あれはダメこれはダメって取り上げといて、なにがしたいとか聞いてくるなよ。困るんだよ。ほんとにやりたい事はやれないんだよ。言い出せないんだよ。自分はなにもできない奴なんだって、思い知らされるんだよ」

 そこで言葉が止まる。唐突に生まれた空白の中で、アイは女の子をジッと見据えた。居心地悪そうに女の子が身をよじる。それでもアイは視線を外す事無く、彼女を見続けた。やがて十秒ほど経った頃に、アイは満足そうに頷いた。

「でも笑顔で答えちゃう。物分かりのいいフリしてヘラヘラ笑うのさ。しかたないよね? だってそうしなきゃ、同情されるしかない無能なヤツが、同情を受け取る事すらできないクズになるんだから」

 クルリと身を翻し、アイは再び窓の外を見た。既に太陽の姿は消え、街は夜の装いへと変わろうとしている。闇色に塗り潰された街並みに人口の光が煌めいていた。そしてより鮮明に窓ガラスに映された女の子に向けて、アイはさも親しげに話し掛ける。

「キミもそう思わない? 人の気も知らないで勝手な事を言うなよって、思ったりしない?」

 女の子は固く口を結んでいる。いかにも不機嫌そうな顔をして、アイの背中を睨んでいる。そこに好意は無く、敵意だけが明確に滲んでいて、場の空気を剣呑としたものへと変えていた。それでもアイは平気な顔をして、窓越しに女の子へと笑い掛けている。その態度が気に入らないのか、女の子はますます眉間の皺を深くしていく。

「――――っさいなぁ」

 低く、唸るような声が辺りに響く。発したのは女の子だ。
 アイが悠然と振り向けば、女の子は猛然と口を開く。

「黙って聞いてればわけのわからない事をゴチャゴチャと! 不幸自慢ならよそでして!!」

 目を吊り上げて叫ぶ女の子は苛烈そのものだ。その頬は紅潮し、唇は怒りで歪んでいる。

「わけがわからない? 本当に? だったらキミは、とても良い子なんだね」
「――ッ。もういい!」

 真っ赤な顔を背けた女の子が、肩を怒らせて歩き去る。遠ざかるその背中を静かに見送ったアイは、暫くして肩を竦めた。口元に刻むのは苦笑。そこに後悔の色は読み取れないが、僅かな不安は滲んでいた。

「さて、どうなる事やら」

 小さなアイの呟きが、誰も居ない空間に溶けていった。


 ◆


 絵本アイは背が低い。女の子という事を考えても、アイの身長はとても低い。それは彼女と同じ病気を患う人によく見られる傾向で、故に仕方の無い事だと諦めもついていた。でもだからと言って、まったく気にしていない訳ではない。表面的には平気そうにしていても、他人の目が無い所では、少しばかり隠した心が表に出る。

「ん、っと。あと……ちょっと」

 本棚に寄り掛かりながらつま先立ちをしたアイが、震える指先を上へと伸ばす。その先には彼女の求める本がある。指の爪がカリカリと背表紙を引っ掻くが、肝心の本は一ミリも動かない。あと少し。もう少し。そう思ってアイは、踏み台も梯子も使おうとはしなかった。単なる意地だ。なんとしても自力で取ってやると、アイは更につま先に力を入れた。

「あっ」

 不意にアイの視界に手が映る。白衣の袖から伸びるそれは、大きくてゴツゴツした、大人の男性のそれだ。その手は、アイの見ている前で目当ての本を抜き取っていった。思わずアイの目が本を追う。

「ほら、この本だろ?」

 右手に本を持った雅人が、上からアイを見下ろしていた。精悍な顔に笑みを刻んだ彼が、手にした本をゆっくりと下ろす。反射的にアイはそれを受け取った。しかしすぐに彼女は、不満そうに口を結ぶ。

「どうかしたか?」
「……なんでもない」

 雅人から目線を外し、アイは渡された本を見る。もうずっと前に読み終えた、けれど未だに所蔵している本だった。お気に入りの本という訳ではない。ただ必要な知識が載っていると思ったから、アイは残しているのだ。

 軽く息を吐き、アイはその場で本を開いた。

「で、なんの本なんだ?」
「ただの医学書だよ」

 好奇に彩られた雅人の問いに答えながら、アイはページを捲っていく。もう随分と前に読んだ本だったが、意外とアイの記憶に残っている事柄は多い。暫く流し読みをしていた彼女は、やがて目的の項目を見付けて手を止めた。白い指を文字に這わせ、アイは普段の何倍も時間を掛けて読んでいく。

「なにか調べたい事があるのか?」
「んー、ちょっと癌についてね」

 特に意識せず答えた後、アイはしまったと顔を上げる。
 慌ててアイが振り返るのと、雅人の大声が響くのは、ほとんど同時だった。

「癌ッ!? お前、まさか――――」
「ちがうちがう! ボクじゃないから!」

 両手を振ってアイが否定する。拍子に本が落ちたが、今の彼女には気にしている余裕は無い。そして二人は見詰め合う。疑わしそうな目を向けてくる雅人に対し、アイは必死に目で訴えた。この辺り、日頃の信用がものを言う。

「――――だったら、いいんだけどな」

 たっぷり一分はアイを観察した後、雅人はようやく納得したようだった。ホッと息をつき、アイは落ちた本を拾う。大雑把に本を開いて、彼女は先程のページを探し始めた。そんな彼女に、再び雅人が問い掛ける。

「それで、どうして癌の事なんか調べてるんだ?」
「新しく知り合った子が癌患者なんだよ」

 雅人が唸る。居心地悪そうに頬を掻く伯父を気にした風も無く、アイは話を続けた。

「二ヶ月前に退院した子なんだけど知ってる? 奇跡みたいに急に治ったらしいよ」
「あぁ、そういえば少し前に院内で話題になったな。その子がどうかしたのか?」
「新しく別の所に癌が出来たみたいで、また入院するんだって」

 眉間に皺を刻み、雅人は顔を顰めた。たしかに気分の良い話ではないだろう。それにはアイも同意するし、あの女の子に同情する気持ちもある。ただ今の彼女にとって重要なのは、あの女の子が絶望するか否かだ。

 癌になったからと言って、必ずしも悲惨な結末になるとは限らない。しかしあの女の子は魔法少女で、ほむらの言葉を信じれば、必ずよくない事が起きるはずなのだ。それを考えると、アイはどうしても暗い気持ちにならざるを得ない。無理に奇跡を起こせば、その揺り返しで悲劇が起きる。それは道理に適っているように思えるが、だからと言って納得出来るかどうかは別の話だ。

「…………オジさんはさ。奇跡で助かる人って、どう思う?」
「奇跡でもなんでも、患者が助かるならそれ以上の事は無いだろう」

 特に悩みもせず言い切る雅人に、そっか、とアイは短く返事した。雅人の答えはもっともな内容だったが、アイとしてはなんとも言えない気分だ。奇跡なんて。ついそんな言葉が浮かんでしまうのは、彼女を取り巻く状況の所為だろう。

「とはいえ、医者としては奇跡をただ喜ぶ訳にはいかないんだがな。結局は医者の手に負えなかったという事だ」
「おぉ、なんかカッコいいこと言ってるね」
「茶化すな。そもそも俺は、言うほど立派じゃない」

 そう言って雅人は、アイの頭に手を乗せる。

「お前に奇跡が起これば良いのにって、みっともなく願ってる」

 深い響きを持つ、思い遣りに満ちた言葉だった。温かな雅人の視線がアイに注がれる。だから彼女は、頭に乗った手を払い除ける事も出来ず、青白い頬を色付かせて俯いてしまった。ボソボソと、アイはらしくもなく小さな声で返事する。

「……もうっ。ボクだから良いけど、患者さんの前でそんなこと言わないでよ」
「お前の伯父としての言葉だ。見逃せ」

 アイは黙って頷いた。なんと言えばいいのか分からなかったからだ。

 初めてマミから魔法少女について聞いた時、アイは奇跡で健康になりたいと思わなかった訳ではない。それでも他人の為に奇跡を使おうと思ったのは、彼女自身の意地の為だ。自分の為に、アイは他人を助けたいと考えたのである。

 たしかに色々と知った今となっては、あの頃の選択は正しかったと言えるかもしれない。だがこうして自分を心配してくれる言葉に触れると、アイは時折ひどく悲しくなるのだ。みんなを笑顔に出来る力なんて無い癖に、ついそれを願いたくなってしまう。結局のところ絵本アイという人間は、他人の目を気にせずにはいられないのだろう。

 あの女の子はどうなのだろうか。大人しく頭を撫でられながら、アイは会ったばかりの女の子の事を考えるのだった。


 ◆


「はい、これで準備完了。基本的には前と同じだから勝手はわかるわね?」
「……大丈夫です」
「よろしい。暫くしたら先生が来られると思うから、ちゃんと良い子にしてるのよ」

 柔和な笑みを浮かべた看護師さんが病室を出ていく。その背中を黙って見送った彼女は、やがて室内をグルリと見回した後に、盛大な溜め息を吐き出した。白い壁に白い天井、そして簡素な白いベッド。見慣れているようで、見慣れない内装。およそ二月の時を経て、彼女はこの牢獄のような場所に戻ってきた。

 久し振りに着た入院着の襟元を掴み、苦々しげに顔を歪める彼女。そこには怒りも悲しみも籠められていた。

 彼女の体には、今、とても悪いモノが宿っている。癌と呼ばれるそれは、少し前に彼女の中から消えたはずのモノだった。素敵な女性が、不思議な生き物と一緒に現れて、奇跡を起こしてくれたのだ。だからこの二ヶ月、彼女は健康だった。もう大丈夫だと、誰もが笑顔で言ってくれた。でも、なら、どうして自分はここに居るのだろうと、彼女は不思議でしょうがない。

 早期に見付かったから、今度はすぐに治る。また元の生活に戻れる。医者はそう言ってくれたが、彼女はちっとも信じていなかった。魔法でも駄目だったのだ。普通の医療でも何が起きるか分かったものではないと、彼女は考えていた。

 魔法。そう、魔法だ。彼女は二ヶ月半ほど前に、奇跡によって健康な体を手に入れた。その代わりに彼女は魔法少女となり、社会を裏から守る為に魔女という化け物を倒してきたのである。怖くはなかった。巴マミという先輩が一緒だったから。辛くもなかった。感謝の気持ちがあったから。

「でも……もう、いいよね」

 魔法少女は、もうお仕舞い。病院から抜け出すのは面倒だし、何より今の彼女は、他人の為に頑張る気にはなれなかった。少し前からマミとは別行動するようになったので、咎められる事も無いだろう。

 左手の中指に嵌めた指輪を撫で、彼女は黙って目を閉じる。

 退院してからの二ヶ月は、彼女にとって楽しい時間だった。久し振りに自由に歩き回った街中はそれだけで心が躍ったし、何より大好きなチーズを食べられるようになった事が大きい。抗癌剤治療中は、摂取が好ましくない食品が幾つかある。その中にチーズといった発酵食品も含まれていて、以前の彼女はとても不満に思っていた。だから退院後に初めてチーズを食べた時は、思わず泣いてしまったほどだ。

 彼女はマミに、そしてキュゥべえに感謝している。楽しい時間は嘘ではなかったのだから。でも同時に、彼女はもうマミ達を信じていない。幸せな時間は、結局まやかしに過ぎなかったが故に。

 新たに癌が見付かったのが一昨日の日曜日。たったの二日で、彼女はこの牢獄に連れ戻されたのだ。元々不自然な所があっただけに、病院側としても思う所があったのだろう。ただあまりに急過ぎる変化は、楽しい時間は幻なのだと言われているようで、彼女にとっては辛かった。

「もぅやだ……」

 呟き、彼女はベッドに倒れ込む。拍子に帽子が取れそうになったが、彼女は右手で押さえてそれを防ぐ。それから仰向けになった彼女は、首を動かして窓の外に視線を移した。彼女の目に映るのは、見覚えの無い風景だ。かつて入院していた時とは異なる病室。僅かにでも目新しさがある事は、少しだけ彼女の心を慰めてくれた。

 だがきっと、彼女の生活は変わらない。以前と同じでつまらない日々が続くのだろう。周りの大人に気を遣って、言いたい事も言えない毎日。やりたい事もやれない日常。自分の為に生きているのではなく、他人の為に生かされているような、そんな生活が始まるのだ。

 ふと彼女の脳裏をよぎったのは、二日前に会った少女のこと。頭の可笑しな少女だった。どう見ても小学生にしか見えない外見で中三だと言い張り、勝手に不幸自慢を始める始末。最後まで何を言いたいのか分からなかったし、もう二度と関わり合いになりたくないと思っている。でも少女の言葉は、たしかに彼女も共感する部分があった。そうだねと、心の中では呟いていた。

 あの少女とは、もう会いたくない。絶対に会いたくない。そう思う一方で、彼女は少女の事が気になって仕方なかった。理解出来なくて、納得出来なくて、だからこそ気に掛かる。完全に理解出来ないなら気味が悪いだけだった。ちゃんと納得出来たなら、それはそれで心の奥に仕舞えたはずだ。けど実際にはそうではなくて、中途半端だからこそ、胸の裡に居座ってしまう。

 一昨日は怒りに任せて逃げるように離れたが、そのお蔭で彼女の頭が冷えた部分はあった。結局あの後は母達の下に戻った彼女だが、流石に当たり散らす事は出来なかったのだ。そういった事情もある所為で、彼女は少女を忘れる事が出来ないでいた。

「ああ、もうっ」

 苛立ちを募らせた彼女が、不機嫌そうに身を起こす。気を紛らわせようと、彼女は部屋の中を歩き始めた。

 少女は入院していると言っていた。つまり再会する可能性は十分にあるという事だ。それを思うと、彼女はなんとも言えない気分になる。喜びは無い。それだけは絶対に無い。だが嫌な気持ちなのかと言うと、それもまた違う。落ち着きたいのに、考えれば考えるほど、彼女の中で収拾がつかなくなっていく。

「ん?」

 不意に耳を揺らすノックの音。足を止めた彼女は、扉の方を見て応答する。間を置かず扉が開かれ、小さな影が侵入してくる。その影の正体を認識した瞬間、彼女は大きく目を見開いた。震える指先で侵入者を指し、彼女は間抜けた感じにポカンと口を開けている。

「やっほー。二日ぶりだね」

 やけに親しげに話し掛けてくる侵入者は、彼女が二日前に会った少女だった。私服だったあの時とは違い入院着ではあるが、青白い顔も、小学生にしか見えない容貌も、間違いなく一昨日に見た少女のものだ。

 なんで。どうして。急な事態に思考が追い付かず、彼女は呆然と少女を見続ける事しか出来なかった。

「やー、看護師さんから入院の予定を聞いてね。ちょうど空き時間みたいでよかったよ」

 少女が遠慮無く部屋の中を進んでくる。二日前と同じように、他人との距離感をまるで気にしない無遠慮な態度。胸の奥に不快感を覚え、彼女はようやく気を取り直す事が出来た。そうして現状を理解すれば、今度は彼女の中に苛立ちが生まれてくる。

「なんでここに居るの!」
「だから看護師さんに聞いたんだって」

 皮肉げな片笑みを刻んだ少女が、右手で髪を掻き上げる。格好付けた子供そのもので、まるでサマになっていないが、不思議と愛嬌だけはある。彼女の方も、ちょっぴり毒気を抜かれてしまった。

「それよりさ、看護師さんにボクの事を聞いたりしてくれた?」

 笑顔で尋ねてくる少女は、可愛い見た目に反して非常に鬱陶しい。応じる彼女の態度も、自然と素っ気無いものになる。

「するわけないでしょ」
「あらら。そりゃ残念」

 少女が肩を竦める。いっそわざとなのかと思うくらい、その動作は癪に障るものだ。彼女の眉は徐々に角度を増していき、その頬も赤みを増していく。だがそんな彼女の様子を綺麗に無視して、少女は友達同士の雑談みたいに気楽な態度だ。

「ま、そんな事は置いといて! はい、これどうぞ」

 少女の白い手が、彼女の手を握る。手の平に返る感触で、彼女は何かを渡された事に気付く。彼女が訳も分からず疑問符を浮かべていると、少女はあっという間に離れて行った。そしてそのまま、少女は扉の前まで移動する。

「じゃ、待ってるからねー」

 バイバイと手を振って、少女が病室を出て行った。まるで夕立のような去り際だ。最後まで状況に置いていかれた感の否めない彼女は、先ほど渡された何かを確認する。それは白い紙に桃色の花があしらわれた、一枚のメッセージカードだった。

「招待状?」

 大きく書かれた丸文字を読み上げた彼女は、不思議そうに首を傾げる事しか出来なかった。


 ◆


「……なんで来ちゃったんだろ」

 とある病室の前に立った彼女は、そう呟いて自らの手元を見る。そこには一枚のメッセージカードがあった、白い紙を基調に桃色の花があしらわれたそれは、数時間前に彼女がとある少女から渡されたものだ。書いてある内容はお茶会への招待状。そこに示された場所と時間に従い、彼女はこの病室までやって来た訳である。

「絵本アイ、か」

 病室番号をメッセージカードに書かれたものと比べた彼女は、次いでその入院者の名前を確認する。

 絵本アイ。自分を招待した少女の名前を、彼女は初めて知った。この絵本アイという少女について、彼女は誰にも尋ねていない。看護師の中に知っている者が居る事は分かっていたが、あえて教えて貰おうとはしなかった。関わり合いになりたくなかったからだ。だというのに、彼女は何故かこの場所に立っている。その理由は、彼女自身にも分からなかった。

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。それから彼女は、緊張と共に扉をノックした。どうぞ、とすぐに答えが返ってくる。聞き覚えのあるそれに表情を硬くしながらも、彼女は素直に扉を開いた。

「あっ」

 まず彼女の視界に飛び込んできたのは、見た事ないほど豪華な内装の病室だった。彼女の病室の倍以上は広く、床には絨毯が敷いてあり、天井には綺麗な模様が描かれている。そのどれもが眩しく感じられて、何より壁を覆い尽くしそうな本棚は圧巻と言うほかなかった。

 彼女の病室と比べれば、まさしく別世界といった風情の豪奢な個室。その中に見知った人影を見付けた彼女は、気を取り直して足を踏み出した。窓際に置かれたテーブルの傍に立つ少女を目指し、彼女は絨毯の上を歩いて行く。

「いらっしゃい。来てくれて嬉しいよ」

 二日前に彼女と出会った少女、絵本アイが歓迎の言葉を口にする。笑顔で椅子を引くアイの入院着を見て、それもまた特別な物だと彼女は思った。藍色の生地に白い花を散りばめたそれは浴衣のようで、明らかに彼女の貸し出し品とは異なっている。

「すぐに準備するから、ちょっと待っててね」

 促されるままに彼女が着席すると、アイは部屋の中に幾つかある扉の内の一つに入って行った。それをぼんやりと見送った彼女は、自分はどうしてここに居るのだろうと、改めて考える。

 初め、彼女は招待状に従うつもりはなかった。特に会いたい理由も無かったし、検査の所為で空き時間は少ないと思ったからだ。なのに彼女はこうして、アイの病室を訪れている。たしかに検査は予想以上に早く終わった。母は先生との話があるとかで、病室に彼女一人だったというのも事実だ。しかしそれがここに来た理由にならない事は、誰よりも彼女自身がよく理解していた。

 本当に不思議な事だが、気付いた時には、彼女はこの病室に向かっていたのだ。

「お待たせしました。本日のメニューはこちらになります」

 妙に畏まった口調に引き戻され、彼女は思考を中断した。見れば戻ってきたアイがお盆を持って佇んでいる。彼女の視線に気付いたアイは柔らかく微笑み、お盆に乗せた物を置き始めた。まずはコーヒーで満たされたカップが、次にアイスクリームの乗せられたお皿が置かれる。どちらも二人分あり、彼女の前とその対面に用意された。

「それじゃ、始めようか」

 彼女の対面に座ったアイがにこやかに言う。妙に親しげなその態度は、彼女の中に根付いた絵本アイという人物像そのものだ。慣れと言うよりも諦めに近い感情が、彼女の胸に生まれようとしていた。そうしてアイを受け入れ始めれば、彼女にも会話に気を回す余裕が出来てくる。何を話そうかと考えた彼女は、まず最初に浮かんだ疑問を口にした。

「あなたって、もしかしてお金持ち?」
「うん、そうだね。一般家庭よりは余裕があると思うよ」

 カップに口を付けながらアイが答える。能天気そうで、お気楽そうで、悩みが無さそうな顔をしていた。それがなんだかムカついて、彼女の口調は自然と厳しいものになってしまう。

「ふぅん。だから常識知らずなんだ」
「おいおい酷いこと言うなよ。それは偏見ってヤツだぜ」

 非難するようなアイの言葉は、しかし穏やかな口調で話された。

「ボクはただ、ずっと入院してるから物を知らないだけさ」

 思わず彼女は言葉に詰まる。だがすぐに彼女は、拗ねたように口を結んだ。

「だからって人を不快にさせて良いわけない」
「そりゃそうだ。でもそれは今のキミだって同じだろ?」
「それは、そうだけど……」

 言葉を止めた彼女は、ジト目で対面のアイを見据えた。
 頭に被ったハンチング帽のつばを引き、彼女はそっと目元を隠す。

「あなたには謝りたくない」

 口を尖らせて彼女が答える。彼女自身もよく理解していないが、それは紛れも無く本心から出た言葉だった。負けたような気がするから、アイには謝りたくない。まさに子供の意地そのものだが、彼女はそう思ったのだ。

 不意にアイの笑い声が響く。コロコロと鈴を転がしたような、耳が擽ったくなる音だった。

「……なに笑ってるの?」
「いや、だって楽しくない?」

 愛らしく小首を傾げてアイが答える。

「誰かに酷い事を言えるのって、素敵な事だと思うんだよ」

 彼女は珍獣を見るような目でアイを見た。やっぱり頭が可笑しい子なんだと、彼女は憐れみを乗せた視線をアイに送るが、当の本人はまるで気にした様子が無い。正面から彼女を見返すアイは、涼しげな笑みと共に言葉を紡いだ。

「だってボクらみたいなのが酷い事を言うとさ、みんな悲しい顔をするだろ? 可愛そうな子を見る目で、ごめんなさいって無言で訴えてくるんだ。それって辛いじゃないか。心が苦しくなって、なにも言えなくなるじゃないか」

 語るアイの表情は、とても静かなものだった。聞いている彼女の表情は、どこか苦しそうなものだった。

 覚えがある。アイの話に、彼女はとても覚えがある。二日前に彼女が癇癪を起した時などがまさにそうだ。彼女が戻った時には、母も先生も申し訳なさそうな顔をしていて、それに気付いてしまえば、もう怒る事は出来なかった。我慢我慢で我慢の連続。それが彼女のいつも通りで、昔からの性分だ。

「だから、さ。遠慮の要らない関係って素敵なんだ」

 そうかもしれない。思わず心の中で同意してしまった彼女は、同時にこの部屋を訪れた理由が分かった気がした。怒っていい相手。彼女にとっての絵本アイは、そういう存在だ。好きになれない相手だけど、気に食わない相手だけど、対等に扱える相手でもある。それはたぶん、彼女が求めている何かだった。

「きっとボクらは、良い友達になれると思うよ」

 綺麗な顔で、綺麗な声で、アイが告げる。

「…………」

 何も言わず、彼女はアイスを口に運んだ。
 冷たいそれは、だけど甘くて、とても美味しかった。




 -To be continued-



[28168] #008 『はじめまして』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/07/24 20:42
 鹿目まどかは普通の少女だ。家庭はいわゆる中流階級。専業主夫の父にキャリアウーマンの母、そして幼稚園児の弟と暮らす四人家族で、彼女自身は見滝原中学校に通う中学二年生である。勉強も運動もパッとせず、本人曰く取り柄の無いまどかは、それでも充実した日々を送ってきた。温かな家族や気の許せる友達に囲まれた彼女の人生は、平凡ながらも幸せなものだと言えるだろう。

 物足りなさはあるが、笑顔が絶える事の無い生活。そこに変化が訪れたのは五日前の事だ。友達のさやかと出掛けた折に、まどかは魔女と呼ばれる化け物に襲われた。その時に助けてくれたのが、後で同じ中学校の先輩と知った巴マミである。自身を魔法少女と名乗ったマミは、まどか達に色々な事を教えてくれた。まどかの日常に非日常が混ざり始めたのは、それからだ。

 魔法少女と魔女。それらの存在をまどか達に伝えたマミは、更に二人には魔法少女の才能があると言った。そう、才能だ。まどかにとって最も縁遠い言葉の一つだ。少なくとも彼女自身はそう思っている。だからマミの言葉には驚きを覚えたし、興味を惹かれた。

 何かが変わるかもしれない。そんな期待を胸に抱いて、まどかは魔法少女について勉強している。マミとキュゥべえから知識を与えられ、実際に魔女退治を見学し、そうしてまどかは、ますます魔法少女に憧れていった。

 キュゥべえによれば、まどかが望むならいつでも魔法少女になれるらしい。まどかには才能があって、きっと素晴らしい魔法少女になれると、マミも太鼓判を押してくれている。誰かにそこまで期待されるというのはまどかにとって初めての経験で、だから未だに信じられないのだけれど、それでも頑張ってみたいと思っていた。

 以前と同じようで、少しだけ違うまどかの日常。彼女にはそれが輝いているように見えた。だからこの日、新たに訪れた日常での変化も、まどかは前向きに受け止める事が出来たのだ。

「暁美ほむらです。よろしくお願いします」

 抑揚に欠ける声で名前を告げ、その少女は静かに頭を下げた。艶やかな黒髪が光の細波を作り出し、それだけで人の目を惹き付ける。顔を上げたほむらの面立ちは目を瞠るくらい整っていて、意思の強そうな瞳が煌めいていた。

 転校生が来る、と担任の先生が告げたのがつい先ほど。直後に先生の呼び掛けで教室に入ってきたのが、彼女、暁美ほむらだった。周りの視線をものともせず、堂々とした態度で佇むほむら。その姿は凛と美しく、単に転校生という理由だけではなく、教室中の注目を集めている。

「暁美さんは、心臓の病気でずっと入院していたの。久し振りの学校で不慣れなところもあると思うから、みんな助けてあげてね」

 俄かに教室の中がざわついた。けれどすぐに収まって、また元の静寂が戻ってくる。その様子を見て、先生は満足そうに頷いた。

「それじゃ、暁美さんはそこの席よ。わからない事があったら、周りの人に相談してね」
「はい。わかりました」

 最前列の座席を先生が示せば、ほむらは落ち着いた足取りでそこまで歩いて行った。僅かな距離を移動するその姿に、教室の誰もが視線を送っている。それはまどかも同じで、新たにやって来た美人なクラスメイトに、彼女もまた目を奪われていた。綺麗だな、と。まるで有名人でも見るみたいに、まどかはぼんやりとほむらを眺めている。

「――――え?」

 ほむらと目が合った。彼女が席に座る直前、一瞬だけ紫の瞳が、まどかの姿を捉えた気がした。瞬きの内に終わった出来事で、単なる気の所為かもしれない。しかしまどかは、直感的にほむらは自分を見ていたのだと理解した。

「それと鹿目さん」
「あ、はいっ」

 ジッとほむらを見ていたまどかは、慌てて先生の方に顔を向ける。

「保健係よね? 後で暁美さんを保健室まで案内してくれる?」
「は、はい。わかりました」

 反射的に返事をしたまどかに頷きを返し、先生は残る連絡事項について話し始めた。ホッと胸を撫で下ろし、まどかは再びほむらの方へと視線を移す。背筋を伸ばしたほむらは真っ直ぐに前を見ていて、いかにも優等生といった風情だ。

 勉強は出来るのだろうか。入院していたと先生は言っていたけれど、運動は大丈夫なのだろうか。まどかの中で、様々な疑問が浮かんでは消えていく。ほむらと仲良くなりたいと、まどかは思った。そこに深い理由は無いのだが、あえて言うなら変わる事への憧憬だろうか。

 大した取り柄が無い普通の女の子から、もっと素敵な自分になりたい。そんな思春期の少女らしい願望をまどかは持っていて、だからこそ魔法少女に憧れていた。ほむらと友達になりたいというのも、根っこの部分は同じだ。まどかは変化を望んでいるから、転校生という変化に興味が惹かれるのかもしれない。

 結局まどかは、ホームルームが終わるまで、ずっとほむらを眺めていた。


 ◆


「暁美さんって、前はどこの学校に通ってたの?」
「東京の、ミッション系の学校よ」
「じゃあ見滝原に来たのは初めて?」
「いえ。小学校に上がる前だけど、住んでいた事があるの」
「そうなんだ。じゃあ、もしかしたら知り合いに会えるかもね」

 次から次へと繰り出される質問。その一つ一つに、ほむらは卒無く答えている。ほむらの周りには数人の女生徒が集まり、転校生と親睦を深めようと頑張っている。その輪の中にまどかは居ない。彼女は自分の席に座ったままで、遠巻きにほむらを眺めていた。ほむらと話したくない訳ではない。ただホームルームが終わると同時にほむらへと群がったクラスメイトの雰囲気に、つい尻込みしてしまったのだ。

「いやー、転校生は人気だねぇ」
「さやかちゃん」

 まどかに話し掛けてきたのは、友達のさやかだ。頭の後ろで手を組んださやかは、軽薄そうな表情でほむらとその周辺を眺めている。だが不意に、水色の瞳がまどかの方に向けられる。好奇心に満ちた猫みたいな目だと、まどかは思った。

「で、あんたはどうなのよ?」
「えっと、なにが?」
「転校生よ、てんこーせー。さっきから熱い視線を送ってるじゃない。やっぱ気になるもん?」

 僅かに思案。それからまどかは、ゆっくりと頷いた。

「うん。できれば、仲良くなりたいなって」
「ほほう。まどかにしちゃハッキリ言うねえ」
「そうかな?」
「そうだって。仁美もそう思わない?」

 さやかが振り向いた先には、もう一人のまどかの友達が居た。緩やかに波打つ抹茶色の髪を肩下まで伸ばした、柔和な顔立ちの少女。志筑仁美(しづき・ひとみ)という名の彼女は、たおやかな笑みを見せながら、ゆったりとした足取りでまどかの席までやって来た。

「どうでしょうか。でもたしかに、いつもならもう少し控えめな気もしますわね」
「でしょー? これは本気でご執心だわ。まっ、まどかはあたしの嫁なんだけどねー」

 座っているまどかに後ろから抱き付いてさやかが笑えば、同じくまどかも頬を緩ませた。そんな二人を見て、仁美もまた楽しそうに笑みを零す。いつも通りの、いつもと変わらない、友達同士の楽しい時間。まどかの大好きな日常だ。

 ただ今日は、少しばかり勝手が違うらしい。

「おっ。噂をすればってヤツかな」

 さやかの呟き。それを聞いてさやかの視線を追ったまどかは、目を丸くして固まった。すぐそこにほむらが居る。クラスで話題の彼女が、その綺麗な瞳でまどかを見下ろしている。いつの間に傍に来たのか。なんでここに来たのか。そういった事を考えるよりも先に、まどかはほむらの顔立ちに目が行った。

 整っているけれど、刃物のような鋭さを感じさせるほむらの相貌。近寄り難さを感じさせるそれは、彼女の纏う冷たい雰囲気と相俟って、ある種の威圧感を感じさせる。

 知らず、まどかは喉を鳴らしていた。

「――――鹿目さん」
「は、はい!」

 背筋を伸ばして答えるまどかを、ほむらは静かに見詰めている。観察されているみたいだと、まどかは思った。鹿目まどかという女の子の一挙手一投足を、余さず捉えるような鋭い視線。それを受けたまどかは、居心地悪そうに身動いだ。ただまどかは、緊張する事はあっても、特に不快だとは思わなかった。

「保健室まで案内してもらってもいいかしら?」
「えっ。あ、うん」

 返事をした後、まどかは意識せずさやかと仁美の方を振り返った。微かに揺れる瞳の意味は、たぶんまどか自身も分かっていない。二人について来てほしかったのかもしれないし、単に場を離れる事を伝えたかったのかもしれない。結局、何を言おうかまどかが悩んでいる内に、さやかの方が話し始めてしまった。

「ちょうどいいじゃん。あたしらの事は気にせず案内してきなよ」
「ええ。休み時間もあまり残っていませんし、早めに行ってきてはどうでしょうか」

 暗にほむらと二人だけで行ってこいと言われ、まどかは口を噤んでしまう。別にそれが嫌な訳ではないのだが、つい臆してしまう。改めてほむらの方に向き直れば、彼女は変わらずまどかを見詰めていた。そこにまどかを責める色は無い。急かすようでもない。ただ黙ってまどかの答えを待つその姿は、失礼かもしれないけれど、主人の指示を待つ犬みたいだとまどかは思った。

 気付けばまどかの体から緊張は消えていて、その口元は僅かに綻んでいた。

「それじゃ、行こっか」
「よろしくお願いするわ」

 あくまで端的なほむらの応答。素っ気無いその態度も、まどかはもう気にならない。きっと仲良くなれるとまどかは思った。立ち上がり、ほむらを先導して歩き出すまどか。その足取りは軽く、表情は明るいものだった。

 雑談したり勉強したりと、思い思いに休み時間を過ごす生徒達を横目に、まどかとほむらは廊下を進んでいく。彼女らの表情は対照的だ。柔らかで温かな雰囲気を纏うまどかと、硬く冷たい印象を受けるほむら。一見すればとても仲がよいとは思えない二人だが、その空気は決して険悪なものではなく、むしろ穏やかで優しいものだった。

「それでね、暁美さん。あっちの棟には図書室があって――――」

 もっぱら話しているのはまどかだ。彼女は学校施設を指差しながら、その一つ一つに説明を加えている。そうしたなんてことない説明でも楽しそうに語るまどかの声に、ほむらは何も言わずに耳を傾けていた。

「――――ほむら」
「えっ?」

 不意にほむらの声が耳を揺らした事に驚いて、まどかは足を止める。彼女が隣を見遣れば、同じくほむらも立ち止まってまどかを見ていた。アメジストのような澄んだ紫色の瞳が、まどかの顔を映している。

「ほむらで良いわ」
「ほむら……ちゃん?」

 戸惑いがちにまどかが口にすれば、ほむらは小さく首肯で返す。それを見たまどかの中に、徐々に理解が広がっていく。名前で読んでほしい。つまりはそういう事だと受け取ったまどかの唇が、嬉しそうに弧を描く。

「じゃあわたしも、まどかって読んでほしいな」

 少しだけ、間。睨むようにまどかを見ていたほむらは、やがて瞑目して口を開いた。

「わかったわ、まどか」
「うんっ。よろしくね、ほむらちゃん」

 まどかの笑顔が花開く。そこには目一杯の喜びが表れていた。俄かに軽くなった足取りで、まどかは再び歩き始める。すぐにほむらも肩を並べた。そうして保健室を目指して廊下を進むまどかは、終始機嫌がよさそうだ。

「そういえば、ほむらってカッコいい名前だよね。こう、燃え上がれーって感じで」

 ポンと胸の前で手を合わせ、まどかが笑ってほむらに話し掛ける。

 が、しかし。

「――――ほむらちゃん?」

 何故かほむらが足を止めていた。不思議そうにまどかが振り返る。見れば廊下の真ん中に立つほむらは俯き気味で、明らかに先程までとは様子が違っていた。気分を害する事でも言っただろうか。それとも体調が悪くなったのだろうか。心配になったまどかが表情を曇らせるが、程無くしてほむらはまた歩き出した。ただどうしてか、彼女はまどかと目を合わせようとしない。

 まどかに追い付き、擦れ違う、その瞬間。ほむらは唐突に口を開いた。

「ありがとう」

 小さな声。だけどそれは、たしかにまどかの耳に届いた。思わずまどかは目を丸くする。でもすぐに笑顔を形作った彼女は、ほむらの後を追って歩き始めた。交わした言葉は多くない。だけどほむらとはきっと仲良くなれると、まどかは信じる事が出来た。


 ◆


「ほむらちゃんって凄いんだね」

 感嘆を乗せた吐息を零し、まどかはカップに刺さるストローに口付けた。やや酸味の強いオレンジジュースを楽しむ彼女の視線は、対面に座るほむらへと向けられている。初めてまどかが見た時と同じで、ほむらの表情は涼しげだ。口数少なく、さして語らず、ただ不快に思っていない事くらいしかまどかに読み取らせない彼女は、小さな口でサンドイッチを齧っている。

 二人が居るのは、とあるショッピングモール内に構えるカフェの一角だ。授業を終え放課後を迎えたまどかが、少し話がしたくてほむらを誘ったのだ。さやかや仁美といった他の友達は居ない。気を利かせたのか、あるいは転校生であるほむらに距離を感じているのか、彼女達は二人で親睦を深めてこいと言って、まどかを送り出したのである。

「勉強も運動もできるなんて、憧れちゃうかも」

 ちょっと熱の籠った視線でほむらを見ながら、まどかが喋る。

 まどかが思い出すのは今日の授業の事だ。ほむらは授業中に当てられても軽々と答えていたし、体育では他の生徒達と一線を画した動きを見せていた。文武両道にして才色兼備。まるで漫画か何かから飛び出してきたような活躍ぶりだった。

 だからこそまどかは褒めてみたつもりなのだが、どうやらほむらにとっては違ったらしい。

「たしかに凄いかもしれないけど、結局はそれだけよ」

 少し強めのほむらの口調。思わずまどかは口を噤んだ。紫の瞳がまどかを捉えている。真っ直ぐ過ぎるほどに真っ直ぐな視線が、まどかの心を見透かすように送られてくる。その意味が分からなくて、まどかは不安から拳を握った。

「まどか。あなたは家族が好きかしら?」
「それは……もちろん好きだけど」

 素直にまどかが答えれば、ほむらは満足そうに頷いた。

「あなたの母親はどんな人?」
「カッコいい人だよ。やり手のキャリアウーマンで、我が家の大黒柱だもん」

 また、ほむらの頷き。

「凄い人なのね」
「うん。凄い人だよ。尊敬してる」
「凄い人だから、あなたは母親が好きなの?」

 えっ、とまどかは答えに窮した。

 たしかにまどかの母親は立派な人だ。まどかにとっては憧れであり、格好良いと常々感じている。でも、だから好きなのかと問われれば、それは違うとまどかは思った。もちろんそういった部分も好きなのだが、それは大好きな母の一面でしかない。他にも優しいからとか、色々好きな所は思い浮かぶが、やはり大元の理由ではないだろう。

 結局まどかはよく分からなくなって、お茶を濁すような答えを返す事しか出来なかった。

「えっと、そうじゃなくて。なんて言うか、好きっていうのは、もっと複雑だと思う」
「ええ、その通りよ。簡単に測れるものではないわ」

 拍子抜けするほどアッサリと、ほむらはまどかに同意する。

「勉強や運動が得意というだけで人の価値は決まらないし、苦手だからといって魅力が無いわけでもないわ。あなたが自分をどんな風に評価しているのかは知らないけど、あなたの家族は、きっとあなたを愛しているはずよ」

 言葉を区切り、ほむらが視線を落とす。そこには迷いが感じられた。もごもごと動く口元からは何も発せられず、目は左右に泳いでいる。明らかな躊躇。それがまどかには意外で、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「私も」

 短く、小さな、ほむらの声。

「私も――――――まどかは魅力的だと思うから」

 その言葉は、不思議とまどかの耳によく響いた。発したほむらの頬は微かに紅潮していて、目元は完全に前髪で隠れている。

 慰めてくれたのだとまどかが理解したのは、少し時間が経ってから。ほむらが照れている事に気付いたのはその後で、嬉しいと感じたのは更に後だった。ほむらの言葉が徐々に胸の中に広がっていき、それにつれてまどかは笑みを深めていく。

「ありがとう。ほむらちゃん」

 まどかがそう答えれば、ほむらは更に俯いてしまう。その反応が可愛くて、まどかはもっと嬉しくなった。

 本当にほむらは魅力的な少女だ。勉強が出来て運動が出来て、誰かを思い遣る優しさもある。それを純粋に凄いと思う素直さがまどかにはあったし、また、だからこそ湧き出てくる感情もあった。

 まどかが目を伏せる。薄桃色の唇から彼女が紡いだ言葉は、一転して弱々しいものだった。

「わたしって鈍くさいし、取り柄も無いし、ほんとに地味な子で…………だから今日のほむらちゃんを見て、凄く羨ましかった。同じようになれたらって、ずっと思ってた」

 驚いたように顔を上げたほむらに、まどかは自信無さげに笑い掛ける。

「でもね。それは誰かに好かれたいとか羨ましがられたいとか、そういうのじゃなくて、ただ誰かの役に立ってみたいだけなの。困っている人を見掛けたら、わたしは助けてあげたいと思う。けどそれはやっぱり、今のわたしには難しい事だと思うんだ」

 自らの胸元に手を当てて、まどかは目を閉じる。

 まどかの正直な気持ちだった。たしかに家族は愛してくれている。友達とも仲良くやっている。でも誰かに助けを求められても、まどかは何かが出来る自信が無かった。手を差し伸べたいと思っても、きっと頼りない言葉を掛ける事しか出来ない。それでは悲しいし、情けない。だからまどかは力が欲しかった。勉強ではなくても、運動ではなくても、何か一つ、自信を持って他人に誇れるものが欲しかった。

「そんな事ないっ!!」

 立ち上がったほむらが叫ぶ。悲痛さを滲ませるそれはすぐさま周囲の人目を集め、何よりまどかを驚かせた。

 状況に理解が追い付かず、まどかは呆然とほむらを見上げる事しか出来ない。ほむらは必死の形相だった。大きく目を見開いて、歯を食い縛って、怒っているように見えるのに、まどかの目には悲しんでいるように映った。

「ほむら、ちゃん?」

 訳が分からなくて、ただ、まどかは名前を呼んだ。
 ハッと状況に気付いたほむらが、小さく咳をして腰を下ろす。

「ごめんなさい。けど、自分を卑下するのはやめなさい」

 謝罪を口にする時には、既にほむらの雰囲気は落ち着いていた。その事に胸を撫で下ろしたまどかの顔に、改めて柔らかな笑みが浮かぶ。嬉しさを隠せないまどかの目が細まり、ほむらへと向けられた。

 今の言葉でも分かる。結局ほむらは、まどかを気遣っているだけなのだ。

「ほむらちゃんは、優しいね」

 本当にただ純粋な、まどかの感謝。でもそれを聞いたほむらの表情は、何故か泣きそうだった。


 ◆


 化け物。それを見た人間の多くは、その単語を思い浮かべるだろう。頭と思われる部分は薄汚い緑色の汚泥と薔薇の花にまみれ、胴体は剥いだ皮膜のような気味が悪い配色をしている。背中には毒々しい巨大な蝶の羽が生え、足の代わりは無数の触手。あまりに不気味なその姿は、見ているだけで精神を削られそうなほどだ。

 だが、その異形を見るまどかの瞳に不安は無い。彼女の隣に立つさやかも同じで、二人ともある種の安堵感を漂わせていた。それは異形と対峙している少女のお蔭だ。巴マミ。魔女と呼ばれる化け物と戦う彼女の存在が、まどか達の心を落ち着かせていた。

「あっ」

 マミが巨大な銃を取り出した。大砲のようなそれは彼女の切り札で、まどかはそれによって魔女が倒される光景を何度か見ている。思わずさやかと顔を見合わせ、まどかは頷いた。これで今日の魔女退治は終了だ。

 直後、閃光が二人の顔を照らし、辺りに轟音が鳴り響いた。程無くして魔女の結界が崩れ、周囲の景色が正常になる。薄暗く、様々な資材が積まれた人気の無いビルのフロア。現在改装中のこの場所に、今回の魔女は巣食っていたのだ。

 あの後ほむらと別れたまどかは、事前に約束していた場所でマミ達と落ち合った。それから魔力の反応を頼りに魔女を探し始めて、ここに辿り着いたのがつい先ほど。そして今、三十分も掛けずにマミは魔女を退治してしまった。

「お疲れ様です、マミさん」
「やっぱマミさんは凄いですね!」

 床に落ちたグリーフシードを拾うマミに駆け寄るまどかとさやか。彼女達の顔には尊敬の念が刻まれている。

 まどか達が魔女退治に立ち会ったのはこれで四度目だ。初めの一度は二人が魔女に襲われた時で、それから今日に至るまでの五日間で、残りの三度を経験している。いずれの場合もマミが颯爽と魔女を撃退しており、その度に二人は憧れを強めていた。

「未来の後輩の前で無様は見せられないもの」

 悪戯っぽくマミが微笑む。知らず、まどかは感嘆の息を漏らしてしまう。

 まどかにとって、マミは憧れの対象だ。綺麗で、格好良くて、物語の主人公みたいに特別な力を持つマミは、一から十までまどかの理想を体現していた。まどかとは一歳しか違わないはずなのに、とてもそうは思えないほどマミは完成されている。

「あの、少し質問してもいいですか?」
「もちろん。なんでも聞いてちょうだい」

 まどかの問いに、マミは快く答えてくれた。
 胸に手を当て、深呼吸。それからまどかは口を開いた。

「えっと、マミさんって昔からそうだったんですか?」
「それはどういう意味かしら?」
「その、つまり、魔法少女になる前からそんなに強くてカッコよかったんですか?」

 キョトンと小首を傾げるマミ。だがすぐに彼女は破顔した。

「お褒めに与り光栄だわ。でもそうね、別に昔から今みたいだったわけではないのよ」
「やっぱり、魔法少女になってからですか?」
「ええ。私は誇りを持って魔法少女の使命を果たしたかった。だからたくさん努力したの。昔の私を見たらきっと驚くわよ。初めて魔女と戦った時なんて、ほんとに酷い有り様だったんだから」

 懐かしむように目を閉じたマミの言葉には、欠片の嘘も感じられなかった。きっと本当なのだろうとまどかは思う。同時に彼女の胸に熱が灯った。それはつまり、マミは変われたという事だろうか。魔法少女になって、努力して、今みたいに素敵な女性になったのだろうか。

 コクリとまどかは息を呑む。握った拳は、目に見えるほどに震えていた。

「じゃ、じゃあ…………わたしも頑張れば、マミさんみたいになれますか?」
「それは鹿目さんの頑張り次第よ。ただ、あなたには魔法少女の才能があるわ。きっと上手くいくはずよ」

 まどかの胸が高鳴った。淡い期待が、そこに宿る。

 頑張ればマミのようになれる。それはまどかにとって甘過ぎるほどに甘い誘惑で、彼女の願望そのものと言ってもいい。一度でもその事を意識してしまえば、まどかはもう止まれなかった。無責任な期待感ばかりが膨らんでいき、今にも張り裂けそうなほどだ。魔法少女になりたい。その言葉が、まどかの頭を埋め尽くしていく。

「ねぇまどか、もしかして魔法少女になるつもり?」
「……うん。なりたいなって、思ってる」

 頷き、まどかはさやかの問いを肯定する。

 魔法少女になる事は、既にまどかの中では決定事項となっていた。その要因は様々だ。マミに対する憧れもそうだし、実際に魔法少女の活動を目にした事で、使命感のようなものが芽生えたというのもある。そしておそらく、今日、暁美ほむらという素敵な女の子と友達になれた事も無関係ではないだろう。

「まどかが決めたって言うなら文句は無いけど、願い事はどうすんのよ?」
「それはまだ決めてないけど、叶えたい願い事ができたら、たぶん……」

 言葉を区切り、まどかはマミへと顔を向けた。

「マミさんはどんな願い事を叶えてもらったんですか?」
「私の願いは参考にならないわよ。考えてる余裕なんて無かったしね」

 マミが苦笑する。そこに後悔の色は読み取れないが、単純に奇跡が叶った事を喜んでいるようでもなかった。複雑な事情があるのだろう。そう思ってまどかは口を噤んだ。

「でも、もう一度だけ奇跡を起こしてもらえるなら、今すぐにでも叶えたい願いがあるわ」

 祈るようにマミが呟く。儚く響いたその声が、まどかの琴線を大きく揺らす。
 反射的にまどかはマミに問うていた。

「それってどんな願いなんですか?」
「友達を助けたいの」

 真っ直ぐにまどかの瞳を見据えてマミが告げる。彼女の目に宿るのは静かな熱意だ。決して激情とは言えないそれは、しかし全てを燃やし尽くす炎のようでもあった。そのただならぬ雰囲気に圧倒されて、まどかは喉を鳴らした。

「友達、ですか?」
「そう。一番大事な友達」

 噛み締めるようにマミが答える。そこにはきっと、言葉以上の何かが籠められていた。

「彼女は治る見込みの無い病気を患っていて、もう何年も入院しているの」
「だからその人の病気を治したい、と?」
「ええ。私が彼女と出会ったのは魔法少女になった後だったんだけど、それがずっと歯痒くてね」

 頬に手を当てて俯くマミ。その相貌は陰りを帯び、今にも溜め息が吐き出されそうだった。

 今のマミはどこか弱々しくて、頼りなさを感じさせる。それはまどか達が初めて見る姿だった。とはいえ幻滅した訳ではない。むしろその逆で、そんなマミの手助けをしたい気持ちが、まどかの中に生まれていた。

 一歩、まどかが踏み出す。

「あの、マミさん」
「なにかしら?」

 顔を上げたマミの目線がまどかに向く。それを正面から見返して、まどかは口を開いた。

「もしよかったら、わたしの願いでその人を治してもいいですか?」
「……いいの? 一度きりの奇跡なのよ?」

 問い掛けながらも、マミの瞳には隠し切れない期待が滲んでいる。それだけでまどかには十分だった。

 マミは凄い人で、憧れの相手で、尊敬すべき先輩だ。大した取り柄の無いまどかとは比べるべくもない存在だろう。でも実際には、マミは必死に助けを求めていて、まどかには助ける為の手段がある。その事実はまどかにとって、何よりも輝いて見えた。

「その、どうしても叶えたい願いは無いっていうか、わたしは魔法少女になれたらそれでいいんです。それにマミさんは、わたしとさやかちゃんの命の恩人です。だから今度は、わたしが助ける番なのかなって」

 たどたどしく答えるまどかの手を、勢いよくマミが握り締める。

「ありがとう! きっとあの子も喜ぶわ!」

 マミの声は喜びに満ちていた。その表情はまどか達が見た事無いほど明るく、まるで幼い子供のようだ。可愛い、とまどかは思った。同時に嬉しさが込み上げてきて、まどかの頬が自然と緩む。

「じゃあ、そうね。まだ少し時間はあるみたいだから、あの子の居る病院に行ってみない?」

 提案の形を取っているが、明らかにマミは催促している。口元の綻びが抑えられないその様子はどう見ても浮足立っていて、今すぐにでも病院に直行したがっている事が見て取れた。もちろんまどかとしても、否やはない。

 チラリとさやかの方を見ると、好きにしろとばかりに手を振っている。それでまどかの気持ちは固まった。

「はい。わかりました」

 この時のマミの笑顔を忘れる事は無いだろうと、まどかは思った。


 ◆


 彼女が絵本アイと出会ってから五日、なんだかんだで友達付き合いのようなものを始めてから三日が経った。最初の頃はぎこちない部分があった二人の関係も、時の流れと共に、少しずつ落ち着いてきている。とはいえ、それを単純に仲良くなったと表現するのは、彼女としては抵抗がある。別に仲が悪い訳ではないのだが、アイと仲良しだなんて、彼女は考えるだけでも背中が痒くなりそうだった。

 たしかに彼女とアイは話が合う。互いにままならぬ入院生活を送っている者同士、他では言えないような事でも口にしてしまえる関係は、彼女にとって非常に心地よいものだった。ただ話が合うからといって、必ずしも気が合うとは限らないのである。

「アイって性格悪いよね」

 テーブルに肘をついた彼女が、組んだ手に顎を乗せて呟く。ハンチング帽に隠れた目には呆れの色が滲み、その視線は対面に座るアイへと向けられていた。にこにこ笑う青白い相貌が、彼女の大きな瞳に映っている。

 今、二人はアイの病室でお茶会をしている。それはここ数日で日課となり始めたイベントで、今日もまた二時間ほど前にアイの方から誘ったのだ。ただ最初の頃は当たり障りの無い雑談に興じていた彼女達だが、時間が経つにつれて言葉に毒が混ざり始めた。とはいえ互いに悪意がある訳ではなく、それこそが二人にとってのいつも通りなのである。

「なんだよ藪から棒に。これでも看護師さんの受けは良いんだぜ」

 肩を竦めるアイを見て、彼女はこれ見よがしに嘆息した。

「ほら、性格悪い」
「おいおい。だったらキミはどうなのさ」

 彼女が首を傾げると、アイは楽しそうに目を細める。

「素直で真面目な優良患者。看護師さんに聞いた時、どこの誰かと思ったぜ」

 彼女の頬が赤く染まる。ハンチング帽のつばを引き、彼女は目線を落とす。

「わたしは良いの。ほんとに真面目だから」

 嘘ではない。彼女にとってはアイと話しているこの状況こそが例外であり、他の人に対しては優等生そのものだ。たしかにアイと出会った時は気が立っていたが、あれもまた特別な状況で、本来の彼女はとても聞き分けの良い子供である。

 だからアイの指摘は間違いで、彼女は胸を張っていれば良いのだが、何故か気恥ずかしさを覚えてしまった。

「ならボクにも優しくしてくれよ」
「イヤ。それだけは絶対にイヤ」

 半ば意地になって彼女が答えれば、アイは可笑しそうに肩を揺らす。プクリ、と彼女は頬を膨らせた。

「そんなだからあなたは駄目なのよ」
「でも、ボクが変わるのも嫌でしょ?」

 思わず彼女は返事に詰まった。心の中でアイの言葉に同意してしまったからだ。

 彼女にとって、絵本アイという少女は特別だ。これまでの人生でこんなにも悪態をつける相手は居なくて、それがとても新鮮だった。別に責められる事ではないはずだが、何か悪い事をしているような気がして、その所為で癖になっている部分もある。だからたしかに、アイに真面目な対応を取られたら、彼女としても反応に困るだろう。

「そのキャラも作ってる癖に」

 悔し紛れの彼女の呟き。だがそれは、アイの口を止めるには十分な威力を持っていた。
 途端にアイが視線を迷子にする。その反応に気をよくした彼女は、調子よく喋り始めた。

「昔は自分の事を『私』とか言ってたんだって? 口調も良いトコのお嬢様みたいだったとか」
「……あ~、うぅ。誰だよバラしたのぉ。恥ずかしいじゃん」

 テーブルの上にべたりと顎を乗せ、右手で額を押さえるアイ。その頬は珍しく桃色に色付いている。自身の言葉を暗に肯定するその態度を見て、彼女は口元を手で覆った。

「本当なんだ。ちょっと意外かも」
「これでも育ちは良いんだぜ。元からこんな口調なわけないでしょ」

 状態を起こしたアイが息をつく。気怠そうに細められた黒い目が、正面から彼女の顔を捉えた。

「それで? 他になにか言いたい事はあるのかしら?」

 初め彼女は、それがアイの声だと認識出来なかった。声の高さも抑揚の付け方も違うその声は、まるで別人のもののように聞こえたのだ。けれどたしかに発したのは目の前のアイで、徐々にその事実が彼女の中に浸透し始めた。だが、どう反応すればいいのか分からない。なんと言えばいいのか思い付かない。まるで陸に上がった魚のように、彼女は間抜けに口を開く事しか出来なかった。

 アイが冷たく彼女を見据えている。何故かその視線が怖くて、彼女は肩を震わせた。

「あ、ダメだ。なんか鳥肌立ってきたし」

 両腕で自分の身を掻き抱いたアイが、いつもの調子で喋る。それで場に漂っていた奇妙な緊張感が解けた。彼女は胸を撫で下ろし、改めてアイの様子を観察する。必死に二の腕を摩るアイには、どこにも可笑しな所は無かった。

「もう何年も使ってないから、違和感しかないや」
「……たしかに、なんか気味悪かったかも」
「言うねぇ。ま、いいけどさ」

 絞り出すように彼女が呟けば、アイはしょうがないとばかりに苦笑する。

「ボクが口調を変えたのはイメチェンだよ。ほら、中学デビューとかあんな感じ?」
「ずっと病院暮らしの癖に、どこにデビューするわけ?」
「それは言わないお約束」

 アイが肩を竦める。飄々としたその態度はいつも通りで、表情も苛立たしいほどの自信に満ちている。でも何故か彼女は、微かな違和感を覚えていた。意識の隅に引っ掛かりがあり、それが彼女には気持ち悪かった。

 だが彼女は何も言わないし、問わない。先程のアイの姿が思い出され、彼女は踏み込む事が出来なかったのだ。アイは冗談で済ませたが、本当にそうなのだろうか。もしもあの視線が冗談ではなく、なんらかの警告だと思うと、彼女は少し怖くなった。

 入院着の裾を掴み、彼女は握り締める。

 彼女とアイは対等だ。互いに可哀想な身の上同士、遠慮なく悪態をぶつけ合えればそれでいい。だから、いちいちアイの秘密を暴く必要は無い。不用意に踏み込まなくてもいいのだと、彼女は自分に言い聞かせた。

「ん?」

 不意に電話のベルが鳴り響く。この病室にある固定電話の音だった。一度だけ彼女の方を見遣った後、アイが電話に出る為に席を立つ。そのままベッド脇まで歩いて行ったアイは、電話のディスプレイを確認して目を瞬かせた。

「――――もしもし」

 受話器を取ったアイが応答する。その声音から、電話の相手が親しい相手なのだと分かった。

「えっ? うん、まぁ……いいけど」

 会話を続けながら、チラリとアイが彼女の方に顔を向けた。彼女が見返せば、アイは気まずそうに目を逸らす。

「うん。うん…………わかった。待ってるよ」

 そう言って受話器を置いたアイが、ゆっくりとテーブルまで戻ってくる。肩に重荷を背負っているような足取りは、電話の内容がよろしくなかった事を示していた。それが気になった彼女だが、あえて尋ねようとは思わない。それは少しばかり、踏み込み過ぎる。

「えーと。悪いんだけどさ、これから友達が来るから、今日はもうお開きという事で」
「それは構わないけど、その友達とは仲が悪いの? 元気が無いようだけど」

 窓の外は夕焼け色に染まっていて、解散するには良い頃合いだろう。だが彼女は、アイの様子が気になった。

「いや、仲はいいよ。ただ今日は、ボクの知らない連れが居るみたいでね」
「ふぅん。まあ、わたしには関係ないか」

 どこか歯切れの悪いアイの言葉は、何か他意がある事を示していたが、彼女は物分かりよく見逃した。ただその友達とやらが気にならないかと言われれば、もちろん興味があると答えるだろう。そもそも彼女にとって、アイに友達が居た事自体が驚きである。

「それじゃ、今日はもう帰るから」

 そう言って席を立ち、彼女は扉を目指した歩き始めた。だが途中で、不意にその歩みが止まる。少し赤くなった頬を掻き、彼女は視線を彷徨わせた。口を開けて、閉じる。それを何度か繰り返した後、彼女は蚊の鳴くような声を絞り出した。

「たぶん、悪くない時間だったかな」

 彼女のその言葉は、すぐさま空気に溶けて消えた。アイに聞こえなくてもよかったし、むしろ聞こえるなと彼女は思ったのだが、どうやら随分と耳聡い馬鹿が居たらしい。

「うんっ。また一緒にお茶しようね」

 明るいアイの声。それに答えを返す事無く、彼女は病室から去って行った。


 ◆


「さあ、着いたわ。ここがあの子の病室よ」

 マミに案内されてまどか達が辿り着いたのは、病院の中でもかなりの高層にある病室だった。隣接する病室の扉は随分と離れていて、暗にその部屋の広さを物語っている。マミによれば驚くほど豪華な病室らしく、まどかは少し緊張していた。一方でさやかは平然としている。その理由はおそらく、この病院にさやかの幼馴染みが入院しているからだろう。彼女にとってここは、通い慣れた馴染みのある場所なのだ。

「それじゃ、入りましょうか」

 笑顔で取っ手を握り、マミは扉を開いた。

「こんにちは、アイ。この間の日曜日はごめんなさい」
「えっと、お邪魔します」
「お邪魔しま~す」

 慣れた足取りで入っていくマミの後ろに続き、まどかとさやかも扉を潜る。その際にまどかは、扉の横に掛けてある病室名札を確認した。絵本アイ。事前に聞いていた通りの名前を、まどかは脳裏に刻み込む。それから彼女は、改めて病室の中へと視線を移した。

「……すごい」

 思わずまどかは足を止める。彼女の視界に映った光景は、もはや病室というよりも豪邸の一室のようだった。まどかの部屋の数倍はあろうかという広さに、図書館にでも置いてありそうな、大きな本棚の数々。更には床に敷かれた上等そうな絨毯など、全てがまどかの想像の上を行っている。扉を一つ隔てただけで、この場所は別世界となっていた。

「こんにちは、マミ。日曜の事は気にしてないよ」

 透き通った声が耳を揺らし、まどかの意識はそちらへと引き寄せられた。そうして彼女は、病室の奥にあるベッドに気付く。

 小さい。それが最初に思い浮かんだ言葉だ。ベッドには一人の少女が腰掛けていて、彼女はとても小さかった。同年代の中でも小柄な方のまどかよりも、少女は更に十センチは低く見える。肩も触れるのが怖いくらい細く、入院着の裾から覗く足首はまさしく小枝のよう。何より少女の相貌が印象的だった。幽霊を思わせる青白い肌は、とても健康な人のそれとは思えない。

 おそらくこの少女が絵本アイだろう。マミと同い年だと聞いていたが、とてもそうは見えない。儚くて頼りなくて、まるで物語の世界から飛び出してきたヒロインみたいで、まどかは目を奪われた。

 少女の顔がまどか達に向けられて、輝きに満ちた瞳が、まどかの顔を映し出す。

「そっちの二人は初めまして。ボクは絵本アイ。マミの友達だよ」
「は、はじめまして。鹿目まどかです」
「こんにちは。マミさんの後輩で、美樹さやかって言います」

 穏やかに微笑むアイに対し、まどか達はそれぞれ会釈する。
 うん、と頷き一つ。満足そうな表情で、アイは再びマミの方を見た。

「なにか話があるらしいけど、キュゥべえのアレについてかな?」

 アイの問い掛けは気軽なものだった。雑談でもするかのようなそれは、なんの気負いも感じさせない。
 でも、何故だろうか。アイに問われたマミの雰囲気が、俄かに硬くなったようにまどかは感じた。

「……ええ、そうよ。鹿目さんが魔法少女になりたいそうなの」

 マミはまどかの肩に手を添えて、優しく押し出した。一歩、まどかが前に踏み出す。アイの目線がまどかに移った。細められた黒い瞳に射抜かれて、まどかの足が竦む。でもすぐに小さな手を握り締めた彼女は、俯きそうになった顔を上げた。

「あの、わたし魔法少女になりたいんですっ。でも叶えたい願い事って無くて…………だからマミさんからあなたの話を聞いた時、わたしの願いで誰かを助ける事ができるなら、それが良いなって思ったんです」

 自分の気持ちを言い終えたまどかは、制服の胸元をキュッと握った。
 別にやましい事ではないのだが、何故かアイの視線に責められている気がしたのだ。

「ふぅん。なるほどね」

 短く簡素なアイの呟き。そこに喜びの色は無く、ただ淡々とした響きだけが含まれていた。
 マミがアイの方に歩み寄る。まどかが横目に見た彼女の表情は、何故か焦っているように感じられた。

「あのね、アイ――――」
「ストップ」

 手の平を突き出してアイが遮る。途端にマミは足を止め、微かに肩を揺らした。
 アイがマミに笑い掛ける。優しく、柔らかで、穏やかな表情だった。

「別に怒ってないから気にしなくていいよ」

 言葉通り、アイの態度から苛立ちは感じられない。それはマミにも分かったようで、彼女は肩から力を抜いた。

 マミの後ろで、まどかはさやかと目を合わせる。二人の顔に浮かぶのは困惑だ。部屋の空気は穏やかだが、何やら複雑な事情があるように思える。事前にまどかが考えていたほど簡単な話ではないのだろうかと、ついつい不安が湧き出てきた。

「ところで鹿目さんと二人で話したいんだけど、いいかな?」

 アイの言葉を聞いたまどかは、再び病室の奥へと顔を向けた。

「ボクの体の話で、鹿目さんの将来の話だからね。ちゃんと話し合っておきたいんだ」

 戸惑いがちなマミに対し、アイが真剣な表情で告げる。
 マミの後ろでそれを聞いていたまどかは、前に進んで口を開いた。

「わたしは構いませんよ」

 マミの視線がまどかに向く。それを受けて、まどかもマミを見返した。桃色の瞳と蜂蜜色の瞳が、正面から向かい合う。そのまま十秒ほど見詰め合った後、マミは仕方無いといった様子で息を吐いた。

「わかったわ」

 小さな声だった。その声からマミが乗り気ではない事が読み取れたが、それをまどかが問うよりも先に、マミはさやかに話し掛けた。

「それじゃ、私達は近くの休憩所で待ちましょうか」
「はーい。わかりましたー」

 マミとさやかが病室から出て行き、あとにはまどかとアイが残される。なんとも言えない空間だった。出会ったばかりのアイに対して距離感を測りかねているまどかは、中々一言目を口にする事が出来ないでいた。

「こっちに来て話そうよ、鹿目さん」

 人好きのする笑顔でそう言って、アイは自分の隣を手で叩く。その誘いに促され、まどかはおずおずとベッドに近付いていった。すぐ傍までまどかが歩み寄れば、アイは黙って体を横にずらす。まどかもまた、静かにアイの隣に腰を下ろした。

 肩が触れ合いそうな距離。そうして間近でアイの姿を確認したまどかは、改めてその小ささに驚いた。小学生と言われても納得してしまうアイの容姿は、それだけで庇護欲を駆り立てられる。マミが大切にするのもよく分かると、まどかは思った。

「改めてよろしくね、鹿目さん」
「よろしくお願いします。それと、まどかでいいですよ」
「ほんと? ならボクもアイでいいよ」

 嬉しそうにするアイを見て、まどかの心も温かくなった。
 僅かに感じていた緊張が解け、まどかはホッと息をつく。

「じゃあ、そうだね。魔法少女になりたい理由を聞かせてくれるかな?」

 まどかはこくりと頷いた。

「わたしって大した取り柄の無い子なんです。勉強も運動も苦手で、学校でも全然目立たなくて…………けど、そんなわたしでも魔法少女の才能があるって、マミさんは言ってくれました。魔女とか魔法少女とかよくわからなかったけど、それが嬉しかったんです。初めはただ、それだけだったと思います」
「今はそうじゃないんだね」

 静かに、まどかは首肯する。

「魔法少女として魔女を退治するマミさんは、人助けの為に頑張るその姿は、とても素敵でした。だからわたしも同じ風になれたらどんなに良い事だろうって、そう思ったんです。誰かの役に立ちたいって、思ったんです」
「ボクの病気を治すのも、その一環かな?」
「はい。わたしの願いで誰かを助けられるなら、それが一番なんです」

 そっか、とアイが相槌を打つ。そうです、とまどかも呼応した。それきり二人は何も言わず、辺りを静寂が支配する。

 太腿に乗せた両手を丸めて、まどかはジッとアイの言葉を待っていた。自分から話し掛ける事はしない。何かを口にすれば本当の気持ちを歪めてしまいそうで、それがまどかは怖かった。だから彼女は、貝のように黙るのだ。

「――――辛いよね」

 ポツリと漏れた、アイの言葉。まどかの目が、隣のアイに向く。

「自信を持てるなにかが無いのって、とても辛いよね。わかるよ。ボクも同じだからね」

 アイがまどかを見上げる。まどかがアイを見下ろす。二人は視線を交わし、それ以外の何かも、通じ合わせた。

「まどかは、取り柄の無い自分が不満なんだね」
「……はい」

 アイが微笑む。とても綺麗な笑顔だった。

「うん。ボクはまどかを応援するよ」
「それじゃあ――――」
「でも、まだ早い」

 細く白いアイの指が、まどかの唇に添えられる。思わず黙ったまどかは、目を白黒させた。そんなまどかを見て眉尻を下げながら、アイは心底残念そうに言葉を継いだ。唯々優しい声が、まどかの耳を撫でる。

「魔法少女って大変なんだよ。マミは平気でやってるように見えるかもしれないけど、裏では色々と努力してる。強くなる為の訓練は絶対に必要だし、多くの時間が奪われるから、今まで通りじゃいられない。友達との付き合いだって変えなきゃいけないし、家族にも心配を掛ける事になるだろうね。ただ新しくなにかを始めてみようって話じゃないんだよ」

 ソッと、まどかの唇から指が離れる。反射的に息を吸ったまどかは、それからアイを凝視した。何か問う事があるはずだ。聞く必要があるはずだ。そうは思っても、まどかの口は動こうとはしなかった。

 アイが苦笑し、まどかの手を握る。

「死ぬ可能性もあるしね」

 手を強く握られたまどかは、驚き腕を震わせた。

「新しい自分になりたい気持ちはわかる。でも、まどかは焦り過ぎだよ。もっと悩むべきだし、魔法少女の汚い部分も見るべきだ。このまま魔法少女になったら、いつかキミは後悔するかもしれない。そうなった時、ボクは一生を掛けてでもキミに償う責任がある」

 まどかの心臓が跳ねた。限界まで目を見開いて、まどかはアイを見詰めた。

「ボクを助ける代わりに魔法少女になるっていうのは、つまりはそういう事だよ」
「わたし、そんなつもりじゃ…………」
「キミにそのつもりはなくても、ボクは責任を感じてしまうんだ」

 諭すようなアイの言葉に、まどかは俯き口を結んだ。

 たしかにそうかもしれない。もしもまどかが逆の立場なら、それこそ命を懸けてでも責任を取ろうとするだろう。一度きりの奇跡を他人の為に使うというのは、それだけ重い意味を持つ。それを考えると、やはりまどかは軽率だったのだろう。憧ればかりが先走って、他の部分が見えていなかったのだ。

 途端に気分が重くなり、まどかの視線はますます下を向く。

「だから約束しよう」

 真綿で包んだような声が耳に届き、まどかはアイの顔を窺った。
 青白いアイの相貌には、慈愛の色が満ちている。

「約束……?」
「そう、約束だ」

 自らの右手を掲げ、アイは小指を立てた。その意味に気付けないほど、まどかは鈍くない。

「魔法少女についてもっと勉強すること。家族や友達との関係をちゃんと考えること。そして魔法少女になっても、絶対に後悔しないと覚悟すること。この三つの条件を満たせたと自信を持って言えるようになったら、もう一度ボクと話し合おう。それまでは、ボクがキミの願いを予約した状態という事でよろしく」

 言って、アイは右目を閉じてウインクする。とても小さな彼女は、だけどお姉さんみたいだとまどかは思った。
 まどかの心に安堵感が満ちていき、徐々にその表情が和らいでいく。

「……はい。わかりました」
「よしっ。それじゃ、指切りしよう」

 頷き、まどかは自分から小指を絡ませる。
 アイもまた、嬉しそうに頷いた。

「ゆーびきーりげーんまん」
「うーそつーいたら」
「はーりせーんぼんのーます」

『ゆーびきった』

 腕を振って指を切り、二人は互いに笑みを零す。とても真面目な話をしているはずなのに、そうとは思えないほど温かな気持ちになって、なんだか可笑しくなったのだ。知らず響いた笑い声は二人分で、どちらも明るいものだった。

「いいね。こういうのって、凄くいい」

 噛み締めるように呟き、それからアイはまどかを見た。

「頑張ってね。応援してるから」
「はい! 絶対にアイさんを治してみせますね」

 そうしてまた、二人は笑い合った。


 ◆


「それじゃ、マミ達を呼んできてもらえるかな? 休憩所は廊下を左に進んだ突き当たりにあるから」
「はい、わかりました。すぐに呼んできますね」

 どこか吹っ切れた顔で立ち上がり、まどかは病室を出て行った。その姿を見送ったアイは、背中からベッドに倒れ込んだ。見慣れた天井を眺めながら、彼女は息を吐く。そこには隠していた疲れが滲み出ていた。

 まどかと交わした約束について、アイは後悔していない。まどかの性格を考えればかなりの時間を要するだろうし、約束があれば衝動的に奇跡を叶えようとする可能性は低くなる。何か特別な事情で奇跡が必要となった時でも、アイに話を通そうとするはずだ。またいずれアイを治すという約束があれば、マミも新たに魔法少女を増やそうとはしないだろう。

 そう、これで状況はアイの望むものに近付いた。あとでほむらに話す必要はあるが、彼女も起こる事は無いだろう。

「でもなぁ……」

 額を手で覆い、アイが息を吐く。

 アイはまどかに共感していた。無力感に苛まれる気持ちも、誰かの役に立ちたいと焦がれる気持ちも、アイは嫌と言うほど知っている。だからまどかを応援したいという言葉は、あながち嘘とも言い切れない。もちろんまどかが魔法少女になる事などあってはならないが、何か力になれる事があればと、アイは思わずにはいられなかった。

「ま、悪い事じゃないんだけどね」

 色々と気を揉む事になりそうだと苦笑し、アイは体を起こした。

「――――?」

 違和感。何かが可笑しいと、アイは首を傾げる。

 見慣れた部屋の内装だというのに、アイはそこに引っ掛かりを覚えた。天井はいつも通りで、本棚にも変わりは無く、床の上も普段と同じだ。そうして順に室内を見回していったアイは、扉に辿り着いた所で目を止めた。僅かに扉が開いている。いや、閉まり切っていないのだろうか。とにかくそこには隙間があった。

 放っておいてもゆっくり閉まるはずなのに、とアイは首を傾げながら立ち上がる。そうして扉を閉めようと部屋の半ばまで歩いた辺りで、彼女は思わず足を止めた。扉の向こうに人が居る。僅かな隙間から覗く景色を見て、アイはその事実に気付いた。それが誰なのかをアイが考えるよりも先に、彼女の視界にある物が映る。ハンチング帽。それをいつも被っている人物を、アイはよく知っていた。

 大きく目を見開き、アイは唇をわななかせた。音も無く扉が開かれる。しかしアイの耳には、不気味な足音が聞こえた気がした。

 現れたのは、一人の女の子。少し前にアイと友達になった、年下の女の子。目深にハンチング帽を被った彼女は俯いたままで、その表情は窺えない。ただ彼女の纏う空気は、明らかに周りのそれとは異なっていた。

 どうしてここに居るのだろうか。いつからそこに居たのだろうか。それはアイには分からない。これっぽっちも分からない。でも、分かる事もある。たった一つだけ、アイにも分かる。まどかと自分が”何を”話していたのか、アイは泣きたくなるほど理解していた。

 舌が痺れて動かない。足が震えて動かない。まるで自分の体じゃないみたいに、アイの体は言う事を聞いてくれなかった。

 女の子が、顔を上げる。涙の流れる頬が見えた。血の滲んだ唇が見えた。言葉は無くとも、目元が見えずとも、そこにはありったけの感情が籠められていた。諸刃のような、激情だった。

 ゆっくりと。本当にゆっくりと、女の子の唇が開かれる。

「――――――嘘つき」

 たぶん、何より鋭い言葉だった。




 -To be continued-



[28168] #009 『安心してて、いいからね』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/08/21 20:49
「――――――嘘つき」

 瞬間、アイの胸が貫かれた。途端に息苦しさを覚えた彼女は、その顔を苦悶に歪める。

 何か言わなければいけない。伝えなければいけない。そうは思ってもアイの口は動かず、相変わらずの金縛りだ。頭の中には溢れ返るほど言葉があるのに、ただの一つも形に出来なかった。歯痒くて、もどかしくて、何より情けない。だがいくらアイが胸の裡で叫んだところで、時間が止まる訳でもなければ、状況が好転する訳でもないのだ。

 女の子の白い歯が覗く。ギチリと、歯軋りの音がアイにも聞こえた。

 ハンチング帽のつば先が翻る。涙に濡れた頬が視界から消え、そこでアイは女の子が背を向けた事を理解した。けれど彼女は動けぬままで、黙って女の子を見詰める事しか出来ない。女の子が駆け足で去って行く。アイの前から、その姿が消えてしまう。

 待って。たったそれだけの言葉すら出て来なくて、徐々に小さくなる足音を聞きながら、アイは力無く立ち尽くしていた。さながら木偶のように、物を知らぬ赤子のように、彼女はなんの反応も示せなかったのだ。

 開け放たれた扉が少しずつ閉じていき、そして、完全に閉まり切る。

「――――ッ」

 次の瞬間、アイは弾かれたように駆け出した。走り方も何も無い。冷静さなど欠片も無い。ただ必死に。無様であろうと懸命に。彼女は全力で扉まで辿り着く。取っ手を掴んだ時には、既にアイの動悸は怪しくなり始めていた。

「待って!!」

 廊下に飛び出たアイの叫び。あまりに悲痛なそれは、しかしどうしようもなく遅過ぎた。アイが右を向けば、角を曲がる女の子の影が目に入る。止まる気配は微塵も無い。アイの言葉は届かなかったのだ。

 アイが唇を噛む。拳を叩き付けたい衝動を抑え、彼女は女の子を追って駆け出した。腕を振り上げる。床を蹴る。いつ以来かも分からないほどの全力疾走で、アイは廊下を走り抜ける。昔ほどには脆弱ではない。それでもアイは生まれ付きの貧弱で、曲がり角に辿り着くだけで、彼女の息は早くも荒れ始めていた。

 角を曲がった先には階段がある。上か下か。逡巡したアイの耳を、微かに響く足音が揺らす。直後、彼女は階段を駆け下り始めた。普段はやらない一段飛ばし。階下を目指してアイが急ぐ。一つ階を下り、二つ階を下り、そこでアイは足を止めた。らしくもなく頬を紅潮させて、肩で息をしながら膝に手をつく。そのまま彼女は辺りを探った。

 女の子の向かった先が分からない。いくら街中に比べて病院の中が静かだとは言っても、そう都合よく足音を追い続けられる訳ではない。もはや完全に相手を見失ったアイには、女の子が同じ階に居るのかすら定かではなかった。

「っ……はっ……」

 立ち止まった所為で足が震え、アイの視界が白く霞む。三十秒にも満たない疾走で、彼女の体は根を上げようとしていた。

 相手がどこに居るのか見当もつかない。たとえ追い付いたとしても、掛ける言葉が見付からない。あまりに無力で、あまりに無謀だ。そう思うと余計に体が重くなり、アイは胸を締め付けられた。

 馬鹿みたいだ。本当に馬鹿みたいだと、アイは自嘲した。何も出来ない癖に、なんの力も無い癖に、こうして足掻く振りをして、自分は頑張ったと言い訳している。それにどんな意味があるのか。どれだけの価値があるのか。自分がやっている事は、所詮は自己満足に過ぎない。そんな風に考えて、そんな風に自虐して、アイは唇を歪めた。

「でも――――」

 何もやらないよりは、ずっとマシだ。心の底から、アイはそう信じている。

 未だに眩む頭を上げて、アイは無理やり背筋を伸ばした。瞬間、僅かに足元がふらつく。それでもすぐに持ち直して、アイは身を翻した。疲労を感じる足を振り上げ、彼女は再び階段を下りていく。目指すは女の子の病室。少し冷えた頭で考えた、たった一つの心当たり。そこに女の子が居るかどうかは分からないが、アイはそれに賭ける事しか出来なかった。

 アイが転げ落ちるように階下を目指す。一歩進む度に息が荒れ、針を放り込んだみたいに胸が痛む。だけど止まる訳にはいかなくて、止まるつもりは欠片も無くて、彼女は一心不乱に駆け下りる。そこにどれだけの意味があるのかは知らない。ただ想いに衝き動かされるままに、アイは病室を目指して走り抜ける。

「ッ!!」

 目的の階。階段から廊下へと躍り出る。曲がり切れず、アイは壁にぶつかった。だが気にしない。手をつき、腕を振り、彼女はすぐに駆け出した。誰かの声が聞こえたが、そんなものは置き去りだ。

 ほんの僅かな距離が、どこまでも長く感じた。アイの見慣れた廊下は別世界みたいで、自分の体は他人の物のよう。それでも足を止める気配の無い彼女の姿は、本能で駆ける獣にも似ていた。

 そしてアイは辿り着く。たった一つの希望の扉へ。足を止めた時、もはや彼女には、一息ついたのかどうかすら分からなかった。我が身を顧みる余裕など微塵も無く、霞む意識の全ては扉の向こうへと集中している。人の気配がするその場所だけを、アイは気に掛けていた。

 アイが扉の取っ手を握る。胸の鼓動は張り裂けそうなほどだった。体も心も限界で、頭は碌に回っていない。ただあの子と会って話をしなければと、アイはその事だけを考えていた。

 扉の向こうの気配は消えない。アイは唾を飲もうして、それすら出来ずに咳き込んだ。既に一刻の猶予も無い。彼女は荒い息のまま、肩を上下させながら倒れ込むようにして扉を開ける。落ちそうになる顎を気合いで上げて、アイは病室の中を確認した。

 見覚えのある顔が、アイと真正面から向かい合う。

「――――あら、アイちゃんじゃない」

 病室の中には、アイと知り合いの看護師さんが立っていた。他の人影は見当たらない。どれだけ探しても、欠片も視界に映らない。ここにあの女の子は居なくて、アイの予想は外れていて、僅かな希望すら見付からなかった。

「どうかしたの? あの子と一緒に居ると思ったんだけど」

 アイは答えられない。そもそも答えるという考えすら頭に無い。

 徒労だと思った。無駄だと感じた。失敗だと考えた。胸裏に渦巻くのは後悔ばかりで、もはやアイの思考は回っていなかった。ただ呆然と目を見開き、彼女は力無く立ち尽くす。

「って、大丈夫? なんだか調子が悪そうだけど」

 アイの肩が跳ねた。思わず止めていた呼吸を再開すれば、思い出したように汗が噴き出し始める。平静を装おうとしたところでもう遅い。見るからに正常ではないアイの様子に気付いた看護師さんが、心配そうに眉根を寄せた。

「……本当に辛そうね。ベッドに座ってくれる? ちょっと診てあげるから」

 駄目だ。それは駄目だ。今のアイが大丈夫ではない事は、彼女自身が誰よりも深く理解している。もしも調べられたら、すぐさまベッドに縛り付けられるだろう。そうなれば完全に希望の芽が摘まれてしまう。だけど今のアイには、大丈夫と口にする事すら出来ない。せめてもの抵抗とばかりに首を振り、彼女は後ずさって廊下に出る。

「ほらっ。ちゃんと答えられないのは調子が悪い証拠よ」

 看護師さんが目を吊り上げる。それが自分を心配してのものだと理解していても、正常な反応だと分かっていても、アイの目には何よりも恐ろしく映った。彼女はまだ、捕まる訳にはいかないのだ。だから看護師さんが足を踏み出した瞬間、アイは弾かれるように逃げ出した。

「あ、待ちなさい!」

 制止を振り切ってアイが逃げる。目的地は無い。ただこの場から離れたくて、捕まりたくなくて、彼女は脇目も振らずに駆けていく。来た道を引き返し、階段に辿り着けば更に下へと駆け下りる。転がるように階下を目指す。足がもつれないのが不思議なくらいで、こんなに走れるなんてアイ自身も知らなかった。それほどまでに必死なのだ。

 止まる事無く一階まで下りきったアイは、そこで一瞬だけ足を止めた。廊下に飛び出る事無く反転し、彼女は階段の影へと身を押し込める。考えがあっての行動ではない。考える余裕なんて無い。ただ隠れたいという一心で、本能の赴くままに動いた結果だった。

 だが、アイに何か出来たのはそこまでだ。

 アイが膝から崩れ落ちる。更に床へと倒れ込む。冷たい床に体を横たえ、彼女は死んだように動かなくなった。限界だったのだ。絵本アイという少女には、これ以上の活動は不可能なのだ。アイの視界は闇に染まり、頬に当たる床の感触すら曖昧だった。唯一正常なのは聴覚だけで、獣のような息遣いが聞こえてくる。それが自身のものだという事すら、彼女は中々気付けなかった。

 意識が残っているだけでも奇跡みたいな状態だ。入院する前でもこんなに走った事は無かったかもしれない、とアイは思った。だがそれになんの意味があるのだろうか。考える意識はあっても、言う事を聞く体は無い。どんなに頑張ったと言ったところで、何一つ実らなかった。結局は無駄だったのだ。意味なんて無かったのだ。所詮は馬鹿の空回りに過ぎなくて、アイの自己満足に過ぎなかった。

 何がしたかったんだろう。そんな風に自問して、アイは答えられない自分を愚かだと断じた。我武者羅に追い掛けただけだ。本当にただそれだけで、感情に任せて動いただけで、明確な目的なんてありはしない。

 別に放っておけばいい。互いの頭が冷えた頃に改めて話し合えばいい。ほむらは絶望すれば魔女になると言ったが、まさかこの程度でなるものか。そう考えて笑おうとして、だけどアイは笑えなかった。荒い息遣いのまま奇妙に唇を歪め、彼女は小さく肩を震わせる。目頭の奥が熱かった。相変わらず視界は暗いままでも、溢れる涙はよく分かる。

 絵本アイは籠の中の鳥だ。無理に飛ぼうとしたところで、その翼を傷付ける事しか出来ない。でもだからって、飛びたくないなんて嘘だ。青空に焦がれない鳥なんて、紛い物の作り物だ。

 物分かりのいいフリは出来ても、余裕ぶった態度は取れても、本心から諦める事だけはしたくなかった。諦めなければいけない事ばかりの人生だったから、可能性があるなら足掻きたい。それが偽らざるアイの気持ちだ。

 小刻みに震える指を握り締め、アイは床を引っ掻いた。さながら亡者のような有り様だったが、多少は動けるようになった証左でもある。あと少し。あと少し休んだら、また探し始めよう。そう思うと、アイは少しだけ安らいだ。

 でも、現実は残酷だ。

 足音が、アイの耳を打つ。廊下を行き交う誰かではない。すぐそばで不自然に足を止めたその人は、明らかにこちらを気にしている雰囲気だった。見付かったのだろうか。見付けられてしまったのだろうか。アイの心音が加速度的に激しくなり、噴き出す汗の量も増していく。

 もしも誰かに見られたらお仕舞いだ。すぐに医者を呼ばれてしまう。だから来ないでと、アイは必死に祈っていた。しかしどれだけアイが心の中で叫んだところで、相手に届く訳が無い。再び聞こえ始めた足音は、真っ直ぐにアイの方へと近付いて来ていた。

 アイの耳元で、足音が止まる。同時に、息を呑む音が聞こえた。

 神様は、いつだって――――――。


 ◆


 走る。必死に走る。とにかく走る。脇目も振らずに廊下を駆け抜け、彼女はアイの前から逃げ出した。目的地は無い。思考はグチャグチャで、視界もグチャグチャで、なにもかもが滅茶苦茶だった。涙で濡れた赤い頬。血が滲んだ深紅の唇。歪めに歪めたその表情は、とても他人には見せらるものではなかった。しかしそれを気にする余裕なんて、今の彼女にありはしない。

 裏切られた。その言葉が、彼女の頭を埋め尽くす。

 なにが可哀想だ。なにが対等だ。そんなの全部嘘っぱちだと、彼女は胸裏で吐き捨てる。アイは裏切り者だった。彼女が苦しんでいる事を知っている癖に、物分かりよさそうに共感した癖に、きっとアイは心の中では馬鹿にしていたのだ。自分の病気は治して貰えると知っていたのに、さも不幸な境遇にあるかのように振る舞っていたに違いない。

 強がりだと思っていた。ちょっと捻くれているだけだと捉えていた。彼女にとってアイは気に食わない相手ではあったが、それでも本当に最低な奴だとは考えていなかった。あの余裕ぶった態度も、辛さや悲しみを押し込めた結果だと信じていたのだ。

 けど、真実は違った。アイの病気は治る。かつて彼女が癌を治した時のように、魔法少女の奇跡によって治るのだ。

 なんてズルい。なんて卑怯。他人にばかり苦労を背負わせて、アイ自身は助けて貰うだけなんて、そんなの彼女は許せない。そんな抜け駆けは赦せない。彼女だって辛いのに、彼女だって苦しいのに、アイだけ救われるなんて可笑しいに決まっている。

「なんで、なんで、なんで――――――ッ」

 名前の付かない激情が、全てが綯い交ぜになった衝動が、彼女の内から燃え上がる。それはまさしく炎だった。彼女の理性を焼き尽くし、憎悪を生み出す炎だった。

 胸が痛くて熱くて、彼女は思わず立ち止まる。折しもそこは、彼女がアイと出会った日に言い合った、あの休憩所だった。なんだかんだでこの場所に辿り着いた事が可笑しくて、彼女は皮肉げに唇を歪める。

 その時だった。

『やあ。なんだか大変そうだね』

 朗らかな声が耳を打ち、彼女は聞こえてきた方に振り返る。そこには見知った姿があった。白く小さな体。赤く真ん丸な二つの瞳。普通の動物とは異なり、何かのマスコットみたいな造形をしたその不思議な生き物を、彼女はよく知っている。

「キュゥべえ……」
『酷い顔だね。アイ達となにかあったのかい?』

 彼女は露骨に顔を顰めた。苛立たしげに口元を歪め、彼女は憎々しそうにキュゥべえを睨む。白々しいと、彼女は心中で吐き捨てた。何故なら彼女にアイの事を伝えたのは、他ならぬキュゥべえなのだから。

 アイとのお茶会を終え、自分の病室で暇を持て余していた彼女の下へ訪れたのが、このキュゥべえだった。初めは彼女が魔法少女として活動していない事を注意しに来たのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。病院に来る用事があって、そのついでに様子を見に来たのだとキュゥべえは言った。そうして彼女は、マミとアイの関係を教えられたのだ。

 だから気になって、だから無視出来なくて、彼女はアイの病室に向かってしまった。

『ふむ。あまり機嫌がよくないみたいだね』

 淡々とキュゥべえが喋る。興味の無さそうなその態度が、余計に彼女の神経を逆撫でる。

『ところで、ちょっと気になる事があるんだけど』
「……なに?」
『君のソウルジェムの状態を見せてほしいんだ』

 いきなりなんだ、と彼女は首を傾げた。とはいえ別に断るような事でもない。左手中指に嵌めた魔法少女の指輪。彼女がそれに触れると、わずかな光と共にソウルジェムが現れる。手の平に乗ったその宝石を、彼女は久方振りに目の当たりにした。

「――――え?」

 息を呑み、彼女は手にしたソウルジェムを凝視した。

 可笑しい。このソウルジェムは可笑しい。彼女のソウルジェムは、自身の髪と同じ明るい茶色だ。その透き通った色合いを、彼女はとても気に入っていた。だが彼女の手に乗るソウルジェムは、何故か酷く濁った茶色になっている。たしかに魔力を消費すればソウルジェムは濁る。でもこんなに濁った事は無かったし、そもそも彼女は、ここ暫く魔法を使ってすらいない。

 一体どういう事なのか。震える瞳で、彼女は縋るようにキュゥべえを見た。

『やっぱりね。このままだと君は、魔女になってしまうかもしれないよ』

 キュッと、彼女の心臓が締め付けられる。唐突に目の前が真っ暗になった気がした。

「なに…………それ……?」
『まずは話の前に場所を移そう。うん、屋上なんて良いじゃないかな』

 当惑する彼女を気にした風も無く、キュゥべえはさっさと歩き出した。その小さな背中に導かれて、彼女は覚束ない足取りでついて行く。頭の中ではグルグルと疑問が回っている。胸の裡では破裂しそうなほど不安が膨らんでいく。濁ったソウルジェムとか意味が分からなくて、魔女になるなんて訳が分からなくて、彼女は今にも叫び出したい衝動に駆られた。

 でも、彼女は何も言えない。見慣れたキュゥべえの姿が何故か恐ろしくて、彼女は口を噤んでしまった。そのままエレベーターに乗って、屋上まで上がっていく。あまり広くないボックスの中で、彼女は出来るだけキュゥべえから離れた位置に立ち、眼下の街並みへと目を向けていた。その心臓は引っ切り無しに騒いでいて、手の平は汗でベタベタだ。

 周りの全てが敵に思えた。なにもかもが彼女を馬鹿にして、嘲笑っているんじゃないかと勘繰ってしまう。けど目を瞑る事も耳を塞ぐ事も出来なくて、彼女はこうしてキュゥべえの言葉に従っている。

 音を立ててエレベーターが止まり、同時に、彼女は微かに身を震わせた。

『うん。ちょうど誰も居ないみたいだね』

 開いた扉からキュゥべえが出ていく。しかし彼女は立ち尽くしたままだ。この扉を潜れば全てが変わってしまう気がして、その場から動く事が出来なかった。足が竦み、息を呑む。彼女の中には迷いしかなかった。

 不意に彼女の脳裏を、アイの存在がよぎる。嘘つきな友達を思い出し、彼女は、全部どうでもよくなった。

 足を踏み出し、彼女はエレベーターの外に出る。お守りのように濁ったソウルジェムを握り締め、彼女は胸元に手を当てた。そのまま少しだけ歩いた彼女は、足元のキュゥべえと対峙する。

『さて。それじゃ話を続けようか』

 どこか事務的に聞こえるキュゥべえの言葉に、彼女は黙って頷いた。

『結論から言うと、君たち魔法少女は、いずれ魔女になる運命にあるんだ』
「…………わけわかんない」

 震える彼女の声を、キュゥべえは気にしなかった。

『魔力を使えばソウルジェムは濁ってしまう。でもそれ以外にも、ソウルジェムが濁る要因があるんだ。それは魔法少女の心が濁った時だ。君が抱く負の感情が、そのソウルジェムを濁らせていく。逆にソウルジェムが濁れば、君の心も濁り易くなる、という事でもあるね』

 彼女の視線が、ソウルジェムに落とされる。心なしか、先程よりも濁りが濃くなっている気がした。

「……意味がわからないよ」
『そしてソウルジェムが完全に濁りきった時。つまり持ち主の心が絶望した時に、君たち魔法少女は魔女になるんだ。それが魔法少女の宿命さ。そうなるように、僕達は魔法少女のシステムを作ったからね』

 何か言おうとして、でも言えなくて、彼女はキツく唇を噛む。キュゥべえの赤い瞳に映し出されたその顔は、怒りとも悲しみともつかない複雑な表情を浮かべていた。だがそんなものは見えていないとでも言うかのように、キュゥべえは淡々と話し続ける。

『この国では成長途中の女性の事を、少女って呼ぶんだろう? だからやがて魔女になる君達は、魔法少女と呼ばれるのさ』

 まるで雑談でもするみたいに、キュゥべえが何か恐ろしい事を口にする。どうしてそんな風に話せるのか彼女には理解出来なかったし、理解したいとも思わなかった。ただその言葉は、嫌と言うほど彼女の心に喰い込んでくる。

「ッ――――――だから! わけわかんないって言ってんのッ!!」

 不安を払うように彼女が叫ぶ。だがキュゥべえの無機質な瞳に見詰められた瞬間、彼女は喉を引き攣らせて押し黙った。

『僕は事実を伝えているだけだよ』
「でも、そんな……そんなのって…………っ」

 聞き分けの悪い子供みたいに首を振る。顔をクシャクシャにして、彼女は一心不乱に嫌がった。

 魔法少女は魔女になる。それは、つまり、いずれ彼女は化け物になるという事だ。嫌だと思った。嘘だと叫びたかった。そんなの変だし、そんなの可笑しいし、そんなの許されない。胸元を握り締め、彼女は必死にキュゥべえを睨み付けた。

「聞いてないっ。聞いてないよ!」

 誰も教えてくれなかった。マミもキュゥべえも他の魔法少女も、誰一人としてそんな事は言わなかった。だからこれはズルい。卑怯だと、彼女は思った。だってこんなの、彼女に認められるはずがない。

「やっぱりみんな…………嘘つきだ」
『僕は魔法少女になってとお願いして、君はそれを承諾した。そこに嘘はないよ。まあ魔法少女という存在について、説明を省略した部分はあるけどね。でも君だって、僕に訊こうとしなかっただろう?』

 屁理屈だ、と彼女は思った。魔法少女に精通しているキュゥべえが何も言わないなら、素人の彼女が疑問を抱けるはずもない。キュゥべえだってそれくらいは理解しているはずで、教えてくれなかったのは絶対にわざとだ。

 頭が熱くて、胸が痛くて、彼女はどうにかなりそうだった。けどそんな状態なのに、何一つまともな言葉が出てこない。

『マミも、この事は話さなかったしね』

 彼女の心臓が凍りついた。呆然と、彼女は瞳孔の開いた瞳でキュゥべえを見る。

 それではまるで、マミがこの事を知っていたみたいではないか。知っていて、彼女に黙っていたみたいではないか。もしそうだとしたら、それは何を意味しているのだろうか。答えは分かっているはずなのに、分からなくて、彼女は自分がとても馬鹿な子になった気がした。

『まあ、マミの目的はアイの病気を治す事だからね。魔法少女として契約させる為なら、彼女は騙すような事もしてきたわけさ』

 ――――――あぁ。

 彼女が笑う。何かが欠けた表情だった。

 みんな信じられないと彼女は言った。恩人であるマミも、もう信じないと反発していた。だけど心のどこかでは、たぶん信じたいと思っていたのだ。またマミと一緒に笑い合いたいと、彼女は願っていたのだ。

 だってマミはヒーローだ。絶望しかない入院生活から彼女を助け出してくれた、正真正銘の救世主だった。格好良くて、優しくて、理想の存在だった。本当に、彼女はマミに憧れていたのだ。

 だけど、嘘だった。なにもかも作り物の紛い物だった。
 本当に全てがどうでもよくなって、彼女の心を闇が覆い尽くそうとして、


「――――――違うッ!!」


 大きな声が響き渡った。それは彼女でもキュゥべえでもない、第三者のものだった。

 彼女が思わず振り返る。同時に、衝撃。勢いよくぶつかって来た何かによって、彼女は床に押し倒された。小さく呻き声。背中から屋上の床に倒れ込み、反射的に目を閉じた彼女は、暫くしてからおそるそる目を開けた。

「……え?」

 頬が薄く色付き、汗の浮いた誰かの顔。涙と鼻水でグチャグチャになった少女のそれを、初め彼女は上手く認識出来なかった。知っているはずなのに分からない。見覚えがあるのに思い出せない。そうして数瞬、彼女は悩んだ。

 絵本アイ。それが自分を押し倒した相手だと、彼女は理解する。途端に彼女の心に火が点いた。眉を吊り上げ、歯を食い縛る。怒りも憎しみもなにもかもが綯い交ぜになり、頭の中が熱かった。激情が胸の奥から湧いてきて、それをぶつけようと、彼女はアイを睨み付ける。

 だが彼女が罵声を浴びせるよりも先に、アイの方が口を開いた。

「ほむらちゃん!」

 叫ぶと同時に、アイが手にした何かを遠くに投げる。彼女が視線でその先を追えば、階段に繋がる扉の前に一人の少女が立っていた。長い黒髪を風にたなびかせた、同じ年頃の誰か。その手に勢いよく収まった物体を認めて、彼女は大きく目を見開いた。

 暗く濁った茶色の宝石。彼女のソウルジェムが白い手に握られている。一瞬だけ驚いたように目を瞬いた黒髪の少女は、しかしすぐに身を翻す。そうして長い黒髪が、扉の向こうへと消えていった。

 なんで。どうして。意味が分からなくて訳が分からなくて、彼女の頭が疑念で埋まる。もう碌に思考する余裕すら無かったけれど、それでも自分の物を奪われた事だけは分かるから、彼女は再びアイを視線で射抜いた。

「……くっ……っ」

 アイが何かを言おうとしたが、それは言葉にならなかった。もどかしそうに首を振り、アイは唇を噛み締める。
 まるでアイが被害者みたいだと、彼女は思った。それが気に入らなくて、苛立たしくて、彼女の瞳が怒りに燃える。

「――――ッ!?」

 何故か、彼女は口が動かなかった。否、口だけではなく全身が動かない。手も足も目も口も、人形になったみたいに固まっている。理解の及ばないその状況に疑問を抱くよりも先に――――――――彼女の意識は闇に呑まれた。


 ◆


 女の子の顔が見える。涙に濡れた哀しいそれが、アイの目の前に存在している。彼女はアイの友達で、ついさっきまではお互い気楽に笑い合っていたのに、今となっては夢か幻のようだ。傷一つ無い肌に指を這わせたアイが、クシャリと顔を歪める。彼女は肩を震わせ、その目に涙を浮かべた。そうして一筋、白い頬を雫が伝う。

 女の子は息をしていなかった。つまり死んでいるという事だ。その理由を、アイはちゃんと理解している。何故なら彼女は、こうなる事を理解した上で、あえて行動したのだから。ただこうして実際に目の当たりにすると、心に突き刺さるものがあった。それでも、自分のやった事は間違いではなかったはずだと、アイは信じている。

「…………考えなければ、絶望しない」
『だから彼女のソウルジェムを奪ったのかい?』

 朗らかな声が耳を打つ。アイがそちらに視線をやれば、見覚えのある白い影。キュゥべえが、近くまで来てアイを見上げていた。その赤い瞳を睨み返して、アイは乱暴に涙を拭う。

「そうだよ。ソウルジェムは、魔法少女の魂そのものなんだろ?」

 魔法少女の肉体には既に魂は存在せず、ソウルジェムから遠隔操作しているに過ぎない。だから肉体とソウルジェムの距離が遠くなれば、肉体を操作できなくなる。そうして肉体から切り離され魂だけとなった魔法少女は、多くの場合は意識を喪失する。何故ならほとんどの魔法少女は、自分の魂がちっぽけな宝石になった事を知らず、その状況に意識が追い付かない為だ。

『うん。その通りだよ。さっきの子に聞いたのかい?』
「まあね。魔法少女がいずれ魔女になるっていうのはホントなの?」
『正しい認識だよ。ということは、僕達の目的も知っていると考えていいのかな?』
「…………感情の相転移によって生まれるエネルギー」
『なるほど。彼女は『ほむら』という名前でいいのかな。興味深い存在だ』

 感心したように呟くキュゥべえの言葉に、アイは引っ掛かりを覚えた。

「キュゥべえは、ほむらちゃんの事を知らないの?」
『知らないね。どうやら魔法少女みたいだけど、僕達に契約した覚えは無いよ』

 アイが眉根を寄せる。それはどういう事だろうかと僅かに思案した彼女は、けれどすぐに首を振った。

「ま、キュゥべえよりは信頼できるからいいけどね」
『酷いなぁ。僕はいつも正直に話しているのに』

 鼻を鳴らしてアイは応えた。と、そこでアイは現状を思い出す。今の彼女は、女の子を押し倒して馬乗りになったままなのだ。もうその必要は無いと、アイは女の子の上からどいた。もちろん、女の子は身動ぎ一つしない。そんな友達を見て目を細めたアイの耳に、再びキュゥべえの声が届く。

『ところで、そのままでいいのかい? 放っておけば、どんどん肉体が損傷してしまうよ』
「魔法少女にとって重要なのは魂なんだろ? たとえ肉体が失われようと、ソウルジェムが無事なら死ぬ事は無いって聞いたよ」

 目を眇めてアイが問えば、キュゥべえは白い頭を上下させた。

『間違いではないね。魔法少女はソウルジェムを破壊されない限り、理論上は不死身と言ってもいい。魔女との戦闘は過酷だ。脆弱な人間の体で戦うよりも、ずっと便利で安全だろう?』

 悪びれた様子の無いキュゥべえ。そこには邪気の欠片すら感じられなくて、アイは背筋を震わせた。これまでもキュゥべえに対して人間味を感じた事は無かった彼女だが、こうも平然と人の心を踏みにじるような事を言われたのは初めてだ。

 衝動的に吐き出そうとした言葉を、アイは無理やり飲み込んだ。無駄だという事を、よく理解しているからだ。そんな彼女の葛藤をまるで気に留めた風も無く、キュゥべえは機械のように話を続けた。

『今の彼女は気絶に近い状況だ。ソウルジェムが戻ってくれば、自然と意識を失う前の状態に再生しようとするだろうね』

 もちろん魔力は使うけど。そう言ったキュゥべえの言葉を聞いて、アイはソッと胸を撫で下ろす。

『でも、このままでは危ないかもしれない』
「…………どういうこと?」
『彼女の魂は現状をうまく認識できていない。自分が生きているかどうかも理解できず、その意識は闇を彷徨っていると言っていいだろう。だからこのまま放っておけば、やがて魂は死んでしまったと誤認してしまうかもしれない』
「魂が死んだと認識すれば、それは現実になってしまう?」
『その通り。肉体に縛られない魔法少女は、魂の状態がそのまま反映されるんだ』

 淡々と話すキュゥべえの言葉を受けて、アイは俯いた。すぐ隣に横たわる友達に視線を落として、彼女は拳を震わせる。

 時間稼ぎに過ぎない事は、アイも分かっていた。意識を奪えば、女の子が絶望する事は無い。それはたしかに事実なのだが、結局は問題の先延ばしでしかない。いずれは女の子の意識を戻し、向き合う必要がある。そのくらいは、アイも理解している。でもこのままでは女の子が死ぬかもしれないと言われて、時間が限られるのだと分かって、アイは少し怖くなった。

「いつまでなら、彼女の命は保証できる?」
『彼女次第だから、確実な事は言えないね。でも、一日くらいなら大丈夫だと思うよ』

 唇を真一文字に結び、アイは拳を握り締めた。

 一日。その間にアイは、覚悟を決めなければならない。期限を伸ばす事は考えなかった。万が一があってはならないし、そうして後ろ向きな考えを持てば、絶対に上手くいかないとアイは思ったのだ。ただ、やはり、緊張は抑えられない。

『今すぐ彼女を救う方法もあるよ』

 キュゥべえの言葉に釣られ、アイは顔を上げた。

『君が魔法少女になればいいのさ』
「――――ッ!?」
『前にも言ったように、奇跡の力を使えば魔法少女を普通の人間に戻す事はできるよ』

 アイは答えなかった。答えられなかった。

 たしかにアイは昔、そのような主旨の質問をした。そして彼女は、その時に言われた事をよく覚えている。魔法少女を普通の人間に戻す事は出来る。ただしアイの力では、戻せるのは一人まで。かつてキュゥべえは、そう言ったのだ。つまりここで女の子を戻してしまえば、マミを普通の少女にする事は出来なくなる訳である。

『もしも彼女が魔女になってしまえば、アイの才能では人間に戻す事は不可能だ。たしかに魔女の魂は本人のものだけど、その在り方は大きく変質しているからね。奇跡を起こす為に必要なエネルギーも、一気に増えてしまうんだ』

 だからチャンスは今しかないと、キュゥべえは暗に契約を迫ってくる。しかしアイは口を結んだまま、一向に答えようとしない。女の子を見詰めるその黒い瞳には、明らかな動揺と迷いが見て取れる。

 そのまま暫し、時間が経った。互いに何も話さない、静寂に満ちた空間。それを破ったのはキュゥべえだ。

『ふう。このままだと埒が明かないね。今日は諦める事にするよ』

 僅かに、アイが身を縮こまらせる。

『ゆっくり考えるといい。魔法少女になると言うのなら、僕はいつでも歓迎するよ』

 最後にそう言って、キュゥべえはどこかへと行ってしまった。あとに残されたのは、一人の少女と一つの遺体だ。屋上の床に座ったまま、アイは友達の顔を見詰めている。アイと同じく涙の跡が残る頬。上げられる事の無い目蓋。それを眺めていると、またジンワリとアイの目に涙が溜まり始めた。湧き出る感情を、彼女は抑える事が出来なかった。

 アイはこの子を友達だと思っている。大切だと感じている。だけど彼女はやっぱり、マミの方が大事なのだ。この子の為に魔法少女になる事は、アイには出来ない。一度きりの願いはマミの為にあるのだと、彼女は改めて実感していた。

 情けない。情けなさ過ぎて、アイは次から次へと涙を流した。

「キュゥべえは去ったみたいね」

 いきなり背後から聞こえた声に驚いて、アイが肩を跳ね上げる。慌てて振り向けば、そこにはほむらが立っていた。普段通りの落ち着いた佇まいの彼女は、しかしアイの顔を見た途端に眉根を寄せた。

「……ソウルジェムはどうしたの?」
「グリーフシードで浄化した後、誰にも触れられない場所に隠したわ」

 そっか、とアイが呟く。力の無い声だった。

「あなたが望むなら、すぐにでも取り出してみせるけど?」

 アイが目を瞑る。静かに、成すべき事を考える。

 女の子を人間に戻す事は出来ない。つまりアイは、話し合いだけで彼女と仲直りする必要がある訳だ。そしてそれは、非常に難しい問題だろう。喧嘩の原因となったのはアイとまどかの会話で、それだけならどうにかなった。聞き及ぶまどかの才能であれば、二人分の病気を治すくらいは余裕だろう。そうして女の子も含めた約束を改めて結べば、一先ずは落ち着いてくれるはずだ。

 しかし今の状況はそれほど単純なものではない。アイが聞いたのはごく一部で、女の子とキュゥべえが具体的にどんな話をしていたのかは分からない。だがおそらく、魔法少女の真実を知った事は確実だろう。そう、救いの無い運命を知ってしまったのだ。その状態で落ち着かせるというのは、非常に難易度が高いと言えた。

「…………一晩。一晩だけ、待ってほしい」
「わかったわ。彼女の体は私が保管しておくから、準備ができたら連絡してちょうだい」

 小さく息を吐き、ほむらは女の子の傍に来て膝をつく。膝裏と背中に腕を回し、彼女は軽々と女の子を抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこと呼ばれるものだった。そのままほむらは、階段に続く扉へと歩いて行く。ゆっくりと遠ざかるその背中に、アイは声を投げ掛けた。未だに整理のつかない頭で考えた、精一杯の言葉だった。

「ありがとう。ほむらちゃん」

 もう駄目だと思った時、アイの前に現れたのがほむらだった。彼女は息も絶え絶えなアイの言葉を聞いてくれて、この場所まで連れてきてくれたのだ。ほむらがどうやって女の子を探したのかは分からないし、ここへの移動手段すらアイは理解していない。まるで瞬間移動のように場所が移り変わり、あっという間にここに連れて来られたからだ。

 ほむらは本当に不思議な存在だとアイは思う。キュゥべえも知らないという点では不審とすら言える。それでもアイは、ほむらを信じると決めていた。ほむらが口にする言葉にも、時折見せる感情にも、嘘は無いと感じたから。

 ほむらが足を止める。振り返る事無く青空を仰いだ後、彼女は歩みを再開した。

「どういたしまして」

 ただ一言。素っ気無くも、十分な感情の籠められたそれが、青空の下を駆け抜けた。


 ◆


 アイが自分の病室へと戻ってきた時、扉の前にはまどかが所在なさげに立っていた。その顔に刻まれているのは不安と心配だ。歩いてくるアイに気付いたまどかは一瞬だけ目を見開いた後、すぐに駆け寄ってきた。まどかによると、部屋に居ないアイを心配して、マミとさやかが探し回っているらしい。女の子の病室で遭遇した看護師さんがアイを探しに来た、というのも一因のようだ。

 それから後は大変だった。帰ってきたマミには怒られ、診察を受けた医者にも注意され、まどかとさやかにも随分と心配された。更にその途中で女の子が居なくなった事が知れ渡り、大騒ぎになったというのだからやっていられない。次々と飛んでくる質問の全てに答え終わった時、アイは身心ともに疲れきっていた。

「あ~、疲れた。もう今日は動きたくない」

 愛用のベッドに倒れ込み、アイがくたびれた様子で漏らす。その顔には既に涙の跡は残っていないが、明確な疲れが滲んでいる。慣れない運動で疲労した四肢を投げ出し、アイは仰向けに転がった。

「みんなに心配を掛けたのが悪いのよ」

 安楽椅子に腰掛けたマミが嘆息する。呆れているようでありながらも、そこには憂いが見て取れた。

 まどかとさやかは既に帰ったが、マミだけはこうして残っている。既に面会時間を過ぎてはいたが、そこはどうにか都合して貰った。アイとしても、今夜はマミと一緒に居たい気分だったので助かっている。今夜だけは、どうしても独りは嫌だった。

「ねえ、ほんとにただの喧嘩なの?」

 問われ、アイは首を動かしてマミを見た。蜂蜜色の瞳は怖いくらい真剣な光を宿して、アイの真意を見抜こうとしている。そんなマミの視線から逃れるように、アイは天井を仰いだ。

「ほんとにただの喧嘩だよ。馬鹿みたいだけど、とても大事な、子供の喧嘩さ」

 周囲に対して、アイは女の子と喧嘩したのだと説明していた。現在彼女は友達の家に居て、明日には帰ってくる。だからソッとしておいて欲しいと、アイは大人達に頼んだのだ。もちろん良い顔はされなかったが、電話したほむらが合わせてくれた事もあり、どうにか納得させる事が出来た。とはいえ病院側としても患者が気に掛かるだろう。おそらく二度目は無い。

「そう。なら、私はなにも言わないわ」

 マミは納得した様子ではなかったが、それ以上の質問は繰り返さなかった。ただ静かにアイの手を握り、彼女は苦笑する。それはまるで、出来の悪い妹を見守る姉のようだった。優しくて、柔らかくて、むず痒くなる表情だった。

「聞いたわ。鹿目さんとの約束」
「そっか」
「ようやく治るのね」
「そうだね」

 素っ気無く呟き、アイは目を瞑る。その姿はどこか気怠そうで、やる気無さげで、まともに話し合う気が無いといった感じだった。不安に思ったのか、何度か目を瞬いた後、マミはおそるおそるアイに声を掛ける。

「……アイ?」

 問い掛けに、アイはすぐには答えなかった。目蓋を下ろしたまま、暗い視界のまま、彼女は思考の海に沈んでいく。思う事は色々あった。考える事もたくさんあった。マミの事も、女の子の事も、魔法少女も魔女も含めて、色んな不安が駆け抜ける。

 やがて目蓋を上げ、アイは小さく口を開いた。掠れる声を、彼女はマミに投げ掛ける。

「マミは、嬉しい?」
「もちろんよ」

 僅かに目を瞠った後、マミが微笑して答える。それを聞いたアイは、再びマミの顔を見た。温かなマミの面立ちは、たしかにアイを大事に想っている事を伝えている。胸の奥がジンワリと熱を帯びて、自然とアイは頬を緩めた。

「たぶん、ボクもおんなじだ」

 その言葉の意味を、マミが正確に理解したかどうかは分からない。いや、おそらく理解していないだろう。だってマミに知られていたら、アイはとても困る。すごくすごく、困ってしまうのだ。

 体を起こしたアイが、ベッドから下りる。そのまま彼女は、椅子に座るマミに抱き付いた。マミの首に腕を回し、互いの顔を交差させる。すぐ耳元で、相手の息遣いが聞こえる距離。だけど、相手の顔は見えない状況。そうしてアイは、精一杯の優しさを籠めて呟いた。

「安心してて、いいからね」

 ちょっとだけ、アイは胸が痛んだ気がした。




 -To be continued-



[28168] #010 『だってボクにできるのは』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/08/21 20:48
 憎らしいほど爽やかな朝だった。青空には雲一つ無く、彼方からは目映い太陽が顔を覗かせ始めている。散歩日和やデート日和といった言葉がよく似合う素晴らしい天気だが、さて謝罪日和という表現はあっただろうかと、アイは寝起きの頭で益体も無い事を考えた。小さく口を開けて欠伸をし、アイは涙の浮かんだ目を擦る。次いで彼女は、布団の中から這い出した。

 裸足で絨毯を踏み締めながら歩くアイが、部屋の中央で立ち止まる。艶の無い黒髪を気怠そうに揺らして、彼女は首を巡らせた。その目に映るのは部屋の内装で、見慣れたそれを、アイは脳裏に焼き付ける。

 この場所は、アイが愛されている事の証明だ。洒落た家具に、溢れ返るほどの蔵書。両親が居なくなる前も、居なくなってしまった今も、ここには与えられた愛が詰まっている。それはとても即物的で俗物的な愛の表現方法かもしれないが、アイはそれでいいと思っていた。高尚でなくても、純粋でなくても、受け取るアイがちゃんと理解していれば、それは間違いなく本物だ。そしてたしかに、絵本アイは愛情に包まれて育ってきた。

 アイは自分を不幸な境遇だと思っているが、同時に幸せな人間だという事も理解している。苦痛はあっても苦労は無い人生。多くの大人に支えられて生きてきた彼女は、ある意味ではぬるま湯の中で過ごしてきたと言えるかもしれない。そんな事は無いと他の者は言うだろうが、アイ自身はよく分かっていた。敵意も、害意も、悪意も、彼女は碌に感じた事が無いのである。

 だからこそ、アイには不安があった。あの女の子は、きっとアイが出会った誰よりも敵対的だろう。もはや軽口を叩く事など出来ないし、冗談を挿む余地は欠片も無い。そんな彼女と正面から向き合う事を、アイは少なからず恐れていた。杏子と出会った時とは違う。マミとの喧嘩はもっと違う。彼女にとって完全なる未知の領域が、口を開けて待ち構えているのだ。

「当たって砕けろ、か」

 呟き、アイが目を瞑る。覚悟というよりも、諦めに近い何かがそこにはあった。

 一息つき、アイはベッドの方へと戻っていく。そのままベッドに腰掛けた彼女は、サイドテーブルに載せた固定電話に手を伸ばした。黒い受話器を掴み、耳に当てる。次いでアイはボタンを操作し、両手で数えられる登録件数の電話帳から、目的の番号を探し出す。

 何度か呼び出し音が聞こえた後、すぐに相手が電話に出た。

『はい。暁美です』

 早朝とは思えない明瞭な声が耳を擽り、アイは安心したように息を吐く。

「おはよう、ほむらちゃん。アイだよ。朝早くからごめんね」
『かまわないわ。もう朝の支度は終えたもの』
「土曜日は休みでしょ? 早起きだね」

 アイは横目で時計を確認した。まだ朝の六時前で、窓の外ではようやく朝日が顔を出した時刻だ。こんな非常識な時間に電話したアイが言うのもなんだが、随分と規則正しい生活をしているらしい。いや、場合によっては寝ていない可能性も考えられるだろうか。

『時間は有限よ。なのに振り返ってみれば、いつもいつも無駄ばかり』
「だからのんびりしていられない、と?」
『そういうこと』

 ほう、と吐息。アイは背中からベッドに倒れ込んだ。見慣れた高い天井を眺めながら、彼女は話を続ける。

「凄いね。それはやっぱり、まどかのため?」
『ええ。まどかのためよ』

 はっきりと返されたほむらの答えに、アイは目を細めた。

 ほむらの言動には芯がある。彼女はいつも真っ直ぐで、目的に対して迷いが無い。それを頼もしく思うと同時に、アイは少しだけ羨ましく感じていた。今の彼女では、そこまで思い切る事は出来ないのだ。

 とはいえ、いつまでも感心している訳にはいかない。

「えっと、それで用件なんだけど」
『なにかしら?』
「今日の予定について。こっちに来るのは、昼の二時頃でお願いできるかな?」
『わかったわ。昼の二時ね』
「うん。それで合ってるよ」

 言いつつ、アイは頷いた。それから彼女は、黒い瞳を彷徨わせる。

「あー、それで……」

 会話が続かない。忙しなく目線を動かしながら言葉を探すが、アイはモゴモゴと口を動かす事しか出来なかった。何か言いたい事がある気がするのに、その何かが分からない。そうしてアイが言い淀んだまま、無為に時間が過ぎていく。

『――――不安なの?』
「えっ?」

 思わずアイが目を丸くする。

『こんな時間に電話してきたのは、不安だからじゃないの?』
「それは……その……」

 返事に窮したアイは、あちこち視線を彷徨わせた。

 不安なのかと問われれば、たしかにアイには不安がある。あの女の子と向き合う事が怖くて、上手くやれる自信が無かった。もしも彼女を説得出来なかった時にどうなるか予測がつかない、というのもアイの心配を助長している。

『無駄な希望は捨てなさい』

 冷たい声が耳を貫き、アイの心臓が僅かに跳ねる。

『魔法少女は救われない存在よ。どんなに足掻いても、どれだけ願っても、いずれは闇に呑み込まれる。そういう運命なのよ。彼女の事も、助からなくて当然だと覚悟しておきなさい』

 厳しい言葉だった。でも、冷たい言葉ではなかった。きっとほむらの優しさで、たぶん彼女の実体験だ。かつてほむらに何があったのかは知らないし、推し量ることすらアイには難しいが、それでも心を揺らすものはあった。

『抱く希望は、たった一人だけでいい』

 何も答えを返せず、アイは困ったように眉尻を下げる。

 おそらくほむらの言い分は正しい。だけどそれは、とても困難な事だろう。だってアイは普通の女の子だ。いくら可笑しな境遇にあるとはいえ、彼女の感性は一般人のそれと大きく変わる訳ではない。そう簡単に割り切れるはずもなく、アイはなんとも言えない気持ちになった。彼女は諦める事に慣れている。でも同時に、諦めの悪い性格でもあるのだ。

「……キミはまどかを助けたい」
『あなたは巴マミを助けたい』

 口元を緩め、アイは薄く笑った。

「そうだね。その通りだ」

 寝返りを打ち、アイが背中を丸める。顔と膝をくっつきそうなくらい近付けて、アイは息を潜めた。

「でもさ、マミは加害者なんだ。まどかとは違う。他の魔法少女とも違う。マミだけは、どうしようもなく加害者なんだ」

 微かな悲哀と後悔を滲ませ、囁くようにアイが話す。
 ほむらの返事は無い。ただ電話口の向こうからは、僅かな動揺が感じられた。

「ただ魔法少女として契約させるだけなら、きっとマミは耐えられた。マミは魔法少女になった事を後悔してないから。でも魔女になる事を知ったら、たぶんマミは耐えられない。そのまま自分を騙せるほど、マミは器用じゃないから」

 アイが目を瞑る。目蓋の裏に浮かぶのは、マミと出会った時のこと。まだ今よりも幼くて、とても弱々しかったマミの姿を、アイは今でも覚えている。あの頃に比べればマミは随分と頼もしくなったが、それでも芯の部分は変わらない。繊細で傷付き易い心の持ち主なのだ。だからこそアイは愛しく感じるし、守りたいと思っている。

「マミにとって現実は残酷だ。でもね、救いが無いとは思わない。あの子がマミと笑って話せるようになれば、それは少なからず慰めになるはずだよ。一人でもいい。マミを許せる魔法少女が必要なんだ」

 真実を知った時、多くの魔法少女を契約させた事実は、マミの心に暗い影を落とすだろう。その闇を祓うには、やはり被害者の言葉が一番だ。アイはマミの一番の親友だと自負しているが、自身の限界をよく知っていた。

『つまり彼女を助ける行為は、巴マミの為だと?』
「ボクの為でもあるけどね」

 アイが再び寝返りを打つ。頬と肩で受話器を挟み、彼女は両腕で膝を抱えた。

「魔法少女の真実を聞いた時さ、ちょっとだけ嬉しかったんだ」
『それは、どういう……?』

 戸惑うほむらの声を聞き、アイは頬に笑みを刻む。それはおそらく、自嘲と呼ばれるものだった。

「だってボクにできるのは、誰かと話す事だけなんだから」

 アイは無力な人間だ。一つの生命として脆弱で、社会的な立場も無い。更には行動範囲も交友範囲も制限されている彼女は、本当に出来る事が少なった。アイの多弁さはそれ故に。言葉を操る事は、彼女が出来る数少ない自己表現の一つなのだ。

「魔法少女の問題の本質は、すなわち心の問題だ。それならボクにだって手伝える。碌に走る事すらできないボクだけど、魔女と戦うなんて到底無理だけど、話すくらいはできるんだ。そして言葉なら、心を動かすのも無理じゃない」

 ほむらがアイと手を組んだのも、そういう面があるからだろう。無力なアイにも役割がある。魔法少女を助ける機会が残されているのだ。それはアイにとって何よりも嬉しい事だった。

「だから、さ。最初から諦めるっていうのは、ちょっと辛いよ」
『…………あなたが納得しているなら、これ以上はなにも言わないわ』

 淡々としていながらも、少しもどかしげなほむらの返答。そこに隠された感情を読み取って、アイは口元を綻ばせた。

「ありがとう、ほむらちゃん。話したらスッキリしたよ」
『どういたしまして』

 素っ気無いほむらの返事を聞いて、アイが笑みを深める。次いで彼女は目を細めた。膝を抱えた姿勢のままで、アイは熱っぽい息を吐く。その顔に浮かぶのは、微かな苦悶の色だった。

「ねぇ、ほむらちゃん」
『……なに?』

 受話器に耳を押し付け、アイは眉間に皺を刻んだ。

「筋肉痛って、辛いよね」

 一瞬だけ、静寂。それから小さく、ほむらの噴き出す音が聞こえた。


 ◆


「やっぱりCRPが上がってるわね。筋肉痛の所為だと思うけど、念のため色々検査しておきましょう」
「はーい。わかりましたぁ」

 朝の診察。予想通りの診察結果を言い渡されたアイは、面倒臭そうに返事をする。その声を聞いた女医さんは、向き合っていたパソコンの画面から目を離すと、不貞腐れるアイに笑い掛けた。とても綺麗な笑顔だった。

「あと、今日はできるだけ病室から出ないように」
「……怒ってます?」

 にこにこ笑っている自らの主治医に対し、アイは戸惑いがちに尋ね掛ける。

 高橋瞳子(たかはし・とうこ)先生。出会ってから十年近い付き合いになるこの壮年の女性は、母を亡くしたアイのよき相談相手だった。伯父には言えない女性の悩みも知られており、アイにとっては頭の上がらない相手の一人である。

「激しい運動をした事はね。でも、喧嘩については怒ってないわよ」

 柔らかな声音でそう言って、高橋先生は目を細めた。

「あなたは真面目過ぎるくらいだから、たまには喧嘩の一つでもしないとね」
「むぅ。これでもかなりテキトーに生きてるつもりなんですけど」

 頬を膨らせたアイの反論。大変遺憾である、とばかりに彼女は腕を組んだ。

 昔のアイと今のアイを比べれば、その言動は大きく異なっている。それはアイ自身が望んだ変化であり、だからこそある種の自負を持っていた。かつての真面目なだけの自分ではない。そう思っているが故に、アイは不満だった。

「表面的にはね。でも、人間ってつまらない事で変わってしまうけど、努力しても中々変われないものなのよ」

 なんだか見透かしたように語る高橋先生を、アイは恨めしそうに睨み返す。

「やっぱり怒ってる。今日、すごく意地悪です」
「そう感じるのは、あなたに後ろめたさがあるからよ」

 素知らぬ様子で返す高橋先生にジト目を向けたまま、アイは悔しそうに唸った。

 やりにくい。それがアイの感想だった。相手の言葉が正しいというよりも、ちょっと考えさせられるのが問題だ。アイにとっても気になる部分を狙ってくる所為で、どうにも口が上手く回ってくれない。そんなもどかしさを誤魔化すように、アイは大きく溜め息をついた。

「オジさんならもうちょっと楽なのになぁ」
「絵本先生はあなたとの距離を決めかねているからね」

 またしても、とアイは口をへの字に曲げる。

「わかってますよ、それくらい。たぶんボクとあの人は、親子にはなれませんし」

 雅人はアイの伯父で、更には後見人でもあるが、決して親代わりではない。両親を亡くした時、アイの精神はそれなりに成熟していたし、雅人には胸を張って親を名乗る勇気も無遠慮さも欠けていた。何よりアイ達は、死んだ二人の事を大切に思い過ぎていた。居なくなった二人の穴を埋める事を厭うように、アイも雅人も以前の関係を崩そうとはしなかったのだ。

 ただの伯父と姪という関係ではないが、そこから大きく外れたものでもない。二人はもう何年も、そんな微妙な距離を維持し続けてきた。それが正しいかどうかは知らないが、少なくとも苦痛ではないとアイは思っている。

「というか、ほんとに今日はどうしたんですか。いくらボクでも怒りますよ」

 座った目でアイが問う。けれど高橋先生は気にした風も無く、頬に手を当てて平然と答えてみせた。

「私もあなたと喧嘩してみたかったのよ」
「……すみません。ちょっと意味わからないです」

 途端に力の抜けた顔でアイは嘆息した。そんな彼女を見て高橋先生が微笑む。強い母性を感じさせるその表情は、アイにとっては見慣れたものだ。しかしそれでも、アイには高橋先生の真意が読み取れなかった。

「聞き分けのいい患者さんは助かるんだけど、ちょっと不安になる部分もあるのよ」

 疑問符を浮かべるアイに対して、高橋先生が苦笑する。

「病気なんて碌なものじゃないわ。罹らない方が良いに決まってるし、罹れば辛いのが当然なの。だから平気な顔してる患者さんを見ると、どこかで無理をしてるんじゃないかと心配になるのよ。特に子供の場合はね」
「…………別に無理なんてしてませんよ」

 不満顔でアイが返せば、高橋先生は何も言わずに微笑んだ。思わずアイは押し黙る。

 アイは無理をしている訳ではない。少なくとも彼女自身はそう信じている。だって、そうだ。今の生活こそがアイにとっての日常だ。もう人生の半分以上を病院で過ごしている彼女には、健康な自分こそが異常だった。だから病気なのは普通で、普通に過ごしているだけで無理をしているはずがない。そう思うのだが、アイはまともに反論する事が出来なかった。

「まぁ、不満が無いとは言いませんけどね」

 口を尖らせたアイがそっぽを向く。だがすぐに彼女は、目線だけ高橋先生の方に戻した。
 ちょっと気になる事がある。出来れば聞きたい事がある。だからアイは、声を控えて問い掛けた。

「もしも聞き分けの悪い患者だったら、先生はどう対応するんですか?」
「最初にするのは患者さんの話をしっかり聞く事ね。そうして相手の言葉に耳を傾ける事で、患者と医師は対等な関係だという事を理解してもらうの。これをわかってもらえないと、信頼関係を築くのが難しいのよね」

 ゆっくりと、噛んで含めるように高橋先生が言った。その顔は余裕に満ちていて、長年の経験に裏打ちされた自信が見て取れる。だから、という訳ではないけれど。アイは真剣な表情で耳を傾けていた。

「あと話を聞きながら、相手の考え方を理解する事も大事よ」
「それは相手の考え方に合わせて、説明の仕方を変えるからですか?」

 人間は感情の生き物だ。どんなに正しい理屈を並べたところで、感情を納得させなければ説得は難しい。故に誰かを説得したい時は、その相手の性格を掴む事が重要になる。受け入れ難い理屈を突きつけられれば、途端に人間は意固地になってしまう。普段なら聞き入れる言葉にすら耳を貸さなくなり、自分の考えに固執し始めるわけだ。それを避ける為にも、相手の性格を上手く掴む必要がある。

「ええ、その通りよ。とにかく相手との信頼関係を崩さない事が大切なの」

 耳に痛い言葉だとアイは思った。だって彼女は今まさに、信頼を裏切った所為で窮地に追い込まれているのだから。

 アイとて信頼というものを軽んじている訳ではない。強い信頼関係を結べるならそれに越した事はないし、その為に注意も払っている。ただ彼女の場合は、相手にとって耳触りの良い言葉を優先するあまり、自身の立ち位置が覚束ない点が問題だった。八方美人のどっちつかず。気付かれない内は大丈夫だが、一度でも相手に知られてしまえば、信用の回復は難しい。

「……信頼関係が崩れた時はどうするんですか?」

 踊らされている感はあったが、それでもアイは問わずにはいられなかった。

「患者が望むなら、他の医師と交代する事もあるわね」
「それ以外でお願いします」

 アイが語調を強めれば、高橋先生は面白そうに笑みを深めた。見透かしたようなその反応を見て、アイの柳眉が急角を成す。それでも声を荒げなかったのは、決して理性のお蔭ではなく、子供っぽい意地があったからだ。

「そうね、会話の流れは色々よ。とにかく相手を心配している事を伝えるだけで心を開いてくれる人も居れば、逆に心を閉ざしてしまう人も居る。だから患者さんの反応を見ながら話を進めていくの。ただ一つだけ、いつも心掛けている事があるわ」

 高橋先生が人差し指を立てる。知らず、アイの姿勢が前に傾いた。

「自信を持って話すこと。これだけは気を付けるべきよ」
「自信を持って話すこと…………」

 鸚鵡返しにアイが呟けば、高橋先生はもっともらしく頷いた。

「そうよ。相手の怒りを鎮めたいだけなら、貝のように黙っていればいい。でも信頼を取り戻したいのなら、自信の無さそうな顔を見せちゃダメ。たとえ謝る時でもね」

 どうして。反射的に問おうとしたアイだが、その直前で思い留まった。尋ねる代わりに、彼女は自分で考える。

 謝る時でも自信を持つ。それでは要らぬ反感を買いかねないと思ったアイだが、案外そうでもないかもしれないと思い直した。相手の顔を窺って謝るというのは、つまり怒られるのを恐れているという事だ。その感情は仕方の無いものだが、相手にとって気分の良いものではないだろう。何故ならそれは怒られたくないから謝っているだけで、相手に悪いと思って謝っているのではないと取られかねないからだ。

 相手に悪いと思っているからこそ謝る。それは当然の事で、当然の事をするなら迷いは要らない。謝る態度に自信が見られなければ、その謝罪が本心のものかどうか疑わしくなってしまう。つまりはそういう事だろうかと、アイは考えた。

「あなたって怒られ慣れてないでしょ?」

 思案に沈んでいたアイの耳に、高橋先生の声が届く。

「たまに私達を怒らせる事はあるけど、怒られる事ってほとんど無いのよね」
「そんな事は……」

 ない、とは言い切れないアイだった。たしかにアイが怒られる時は、事前にそうなる事を予想して行動した場合がほとんどだ。怒らせる、という言い方もあながち間違いではないだろう。それ故にアイは、突発的な喧嘩などには慣れていなかった。

「だから仲直りする自信が無いんでしょ? 昨日からずっと不安そうにしてるもの」

 そうかもしれない、とアイは思った。これまで喧嘩をした事が無いとは言わないが、今回のような状況は、彼女にとって初めての経験だ。お蔭で勝手が分からず、先行きも不透明で、アイの心には暗雲が立ち込めていた。

「もっと自信を持ちなさい。同情じゃ信頼は買えないわよ」
「…………ほんと、今日は意地悪ですよね」

 俯き、アイが呟く。しかしすぐに顔を上げ、彼女は柔らかな笑みを見せた。

「でも、ありがとうございます」

 それはアイの本心から生まれた、とても純粋な言葉だった。


 ◆


 涼やかな風が吹き、綿毛のような雲がのんびりと流れていく青空を、アイは黙って見上げている。長い黒髪を風に遊ばせて、温かな陽光を全身に浴びながら、彼女はそっと目を瞑った。目蓋の裏に浮かぶのは、初めてマミと出会った時のこと。あの時と同じ病院の屋上に佇んで、アイは同じように自分の小ささを噛み締めていた。

 マミと友達になってから、アイの環境は大きく変わった。しかしアイ自身はどうだろうか。周りに比べて、彼女自身はどれだけ変われたのだろうか。悩んだ事はたくさんあった。後悔だって色々あった。でも、たぶん、アイは前に進めていない。少なくとも成果は出せていない。多くの事実を知り、様々な事を考えてきたが、アイはまだ一歩を踏み出せていないのだ。

 息を吐き、アイが目を開く。文句の付けようが無い、綺麗な空だった。
 今日こそ前に進もう。少しで良いから変わろう。アイは静かに、その決意を胸に刻んだ。

「うん。もう大丈夫。待たせちゃったかな?」

 一つ頷き、アイは明るい顔で振り返る。彼女の後ろには、ほむらが無言で佇んでいた。

「構わないわ。まだ時間には余裕があるもの」

 表情を変えずに答え、ほむらは艶やかな黒髪を掻き上げる。普段と同じその態度がなんとも頼もしく、アイの肩から力が抜けた。黒い瞳がほむらの足元に向く。そこにはあの女の子が仰向けに横たわっていた。きっちりハンチング帽を被せてあるほむらの几帳面さが可笑しくて、アイの口元が自然と綻ぶ。

 これから、アイは女の子と話し合う。正直に、正面から、彼女を説得する。それが上手くいく確証は無いし、不安材料は探せばいくらでも出てくるだろう。それでもアイはやらねばならない。逃げる事は許されないのだ。

「彼女に、ソウルジェムを――――」

 穏やかな口調でアイが告げれば、ほむらは黙って首肯した。直後、ほむらの左腕に何かが現れる。直径二十センチほどの平らな円形をしたそれは、見方によっては金属製の盾のようにも思えた。それが魔法少女としての装備なのだと、アイは理解する。

 ほむらは盾の影へと右手を伸ばし、次の瞬間にはソウルジェムを握っていた。一瞬の早業だ。おそらくほむらの能力によるもので、誰にも触れられない場所に隠していたという言葉を考慮すれば、物質を収納する特殊な空間を持っているのかもしれない。

 女の子の胸元にソウルジェムを置き、ほむらが遠ざかっていく。反対に、アイは横たわる女の子に近付いていった。

 一歩進む度に、アイの鼓動が激しさを増していく。今にも胸が張り裂けて心臓が飛び出すんじゃないかと思うほどで、隠しきれないほどに足は震えていた。しかしそれでも、アイの顔に迷いは見られなかった。

 そして、アイが女の子の下に辿り着く。ソウルジェムが戻ったお蔭だろう。女の子の胸は微かに上下していて、そこに命が宿っているのだと確認出来た。思わず、アイは安堵の息を吐く。

「ん……ぅ……」

 女の子の目蓋が震え、徐々に開かれていく。そうして明るい茶色の瞳が露わになった。まだアイの存在には気付いていないらしく、女の子の目線はぼんやりと泳いでいる。意識が覚醒しきっていないのか、女の子の手は無造作に動いていて、その途中でソウルジェムを掴んだ。目の前にソウルジェムを掲げて、女の子が何度か瞬きする。

「えっと……?」

 不思議そうな顔をしながらも、女の子はゆっくりと立ち上がった。ソウルジェムを握った手でハンチング帽を押さえる彼女は、黙って佇むアイに背を向ける形で立っている。意を決し、アイはその背中に声を掛けた。

「おはよう。特に問題が無いみたいで安心したよ」

 意外にもアイの声は震えなかった。そして、呼び掛けに反応した女の子が振り返る。
 二人の目が合った。女の子が驚き目を見開く。対するアイは、とても優しく微笑んだ。

「あのね――――」

 瞬間、なにが起こったのかアイは理解出来なかった。

 頬が熱い。ただ熱い。いきなり視界がブレた意味が分からなくて、何をされたのか意識が追い付かなくて、アイは呆然と立ち尽くす。ただ左頬に宿る熱だけは本物で、彼女は無意識に手で押さえた。ジンワリと、頬から痛みが広がった。

「――――え?」

 ようやく、アイはぶたれたのだと理解する。
 誰に。女の子に。どうやって。右手を使って。

「わたしになにをしたのッ!!」

 女の子が叫ぶ。怒りに燃えた声だった。肩を震わせ、アイは揺れる瞳で女の子を窺う。
 愛らしい顔を歪め、女の子がアイを睨んでいる。そこにあるのは、もはや憎しみと呼べるほどの激情だった。

「えっと、その……」

 頭も舌も回らない。頬の痛みがアイの全てを鈍らせる。これでは駄目だと理解しているのに、よくないと分かっているのに、アイの思考は何一つ有効な手立てを思い付いてくれなかった。痛みが脳を侵していく。事実が心を打ち据える。ぶたれるなんてアイの人生で初めての事で、彼女は混乱の最中に突き落とされていた。それでも必死に、アイは女の子に語り掛ける。

「落ち着いて。話があるんだ」
「それで? また嘘をつくんだ?」

 冷笑。アイを見下ろす女の子が口端を吊り上げる。自嘲とも取れるその表情からは、欠片の信頼も感じ取れない。思わずアイは泣きたくなった。赤子のように泣き叫び、女の子に赦しを請いたかった。でもそれは、なんの解決にもならないのだ。

「そうじゃない。そうじゃないんだよ」

 アイが弱々しく首を振る。適切な対応ではないだろうが、アイは上手い言葉を見付けられなかった。それでも会話を続けなければという焦燥に駆られ、彼女は必死に口を動かす。

「だから、さ。ボクが言いたいのは……」

 言い淀み、鋭い眼光から逃れるようにアイは目を逸らした。
 たぶん、それが最後の決めてだった。

「――ッ。もういい!」

 犬歯を剥き出しにして女の子が言い捨てる。そのまま彼女は歩き出し、正面のアイを押し退けた。よろめくアイを気にも留めず、女の子はどんどん遠ざかっていく。待ち時間を嫌ったのか、向かう先は階段に繋がる扉だった。

「待って」

 小さな呟き。女の子の背中に手を伸ばし、アイは亡者のような足取りで後を追う。

「待ってよ!」

 大きな叫び。しかし女の子は止まらない。呼び掛けなど知らないとばかりに足を速めた彼女は、そのまま扉に辿り着く。女の子が取っ手を握ったところで、ようやくアイが駆け出した。だがあまりにも遅過ぎる。致命的なまでに手遅れだ。

 扉が開く。屋内の様子が見える。女の子が、その向こうへと消えていく。間に合わない。その確信と共に、アイの顔が醜く歪む。それでも走って、走り続けて、結局、アイの目の前で扉が閉まった。金属音が、冷たく重く、辺りに響き渡る。そしてアイは立ち止まった。扉を開く勇気が無くて、何も出来ずに、彼女は唯々立ち尽くす。そうして人形みたいに固まっているアイに、離れていたほむらが近付いてくる。

「追わなくていいのかしら?」

 追えないんだ、とアイは声に出さずに呟いた。

 アイが伸ばしていた腕を下ろす。拳を握って、開いて、また握る。両の手を震わせて、小さな唇を噛み締めて、アイは無言で空を仰いだ。涙は流れない。でも、どうしようもなく、どうしようもなかった。

「あなたが悪いわけじゃないわ。これは仕方の無い事なのよ」

 ほむらの声が聞こえた。それはたぶん、慰めだったのだろう。
 青空を見上げたままアイは口元を歪めた。薄紅色の唇が、うっすらと開かれる。

「良い悪いの話じゃないよ。仕方無いとかも関係無い」

 冷たい声だった。言葉を投げ捨てるような口調だった。

「ボクにはなんにも無いんだ。できる事なんて、これっぽっちもありゃしない。昔っからそうさ。みんなと比べて不器用だった。入院したらもっと駄目になった。本を読むようになったのもそれが理由さ」

 滔々と、朗々と、少女らしい高い声が響き渡る。でもそこに子供らしさは微塵も無くて、疲れ果てた老人のような諦念に満ちていた。それを紡ぐアイの顔もまた、言い様の無い苦しみに満ちている。

「勉強だけは得意だった。やればやるほど身に着いて、それが凄く嬉しかったんだ。周りの大人も褒めてくれたしね」

 アイが苦笑する。含みのあるそれは、決して正の感情から生まれたものではないだろう。

「でもさ、結局は勉強してるだけだったんだ。本当に、それだけ。誰かに勝てるわけじゃないし、誰かを助けられるわけでもない。どんなに頑張ってもなんの成果も出ないわけ。褒めてもらえたのも、単に努力してるからだった」

 それでも両親を亡くすまでは、アイは現状に満足していた。勉強も将来への投資だと割り切って、黙々と励んでいたのだ。だけど父も母も居なくなって、自分の無力さを再確認したら、どうしようもなく惨めに思えた。

「ボクはずっと無能者のままだった――――ッ」

 俯き、アイが歯を食い縛る。その拳は固く握られ、小刻みにわなないていた。

「努力がなんだよっ。怠け者が居るからどうしたよっ」

 お前は十分に頑張った。そんな言葉は慰めにもならない。
 子供はそこまでしなくていい。そんな一般論は聞いていない。

「ボクは誰かの役に立ちたいんだよッ!!」

 悲痛な声を張り上げ、アイは涙を流しながら振り返った。
 ほむらが息を呑む。瞠目した彼女は、アイを呆然と見詰めていた。

「悪でもいい。嫌われたままでも構わない。少しでもあの子の心を晴らせれば、それでよかったんだ」

 アイの顔がクシャリと歪む。今にも壊れそうなほど儚くて、今にも潰れそうなほど頼りなくて、見ているだけで胸が締め付けられるような表情だった。もはや見栄も無ければ意地も無い。剥き出しの感情がそこにはあった。

「だってボクにできるのは、本当に、話す事だけなんだ」

 他には何一つ出来ないから。碌に友達を追い掛ける事すら出来ない体だから。だからアイは、そこだけは譲りたくなかった。他の何を置いても、話す事だけは自信を持っていたかった。

「なのに……話す事すら、できないなんて…………」

 血を吐くような声だった。罅割れそうな声だった。アイの頤から涙が零れ落ち、屋上の床に染みを作る。

 まさか話を聞いて貰えないなんて思わなかった。だってそれは、アイにとって初めての経験なのだ。彼女の言葉が相手に届かない事なんて無かった。どんな時でも耳を傾けてくれた。だから、本当に、どうしていいのか分からない。

「なんで、なんで……なんでだよぉ…………」

 もうアイの思考は滅茶苦茶だ。色んな事を考えて、なのにまともな答えは一つも無くて、悲しみばかりが膨らんでいた。なにもかもが嫌になりそうで、だからといって放り出す事も出来ない。嵐の海に放り込まれた気分だった。自分だけではどうしようもないのだ。だけど助けの求め方すら分からなくて、アイの心は闇の中を彷徨っていた。

 小さく嘆息の音。ほむらのものだった。思わずアイが身を竦ませる。

「少し落ち着きなさい」

 フワリと、アイの顔が温もりに包まれた。柔らかな感触が頬に当たる。甘い香りが鼻を擽る。抱き締められたのだと、アイは暫くして気が付いた。アイの後頭部が押さえられる。そして、優しく撫でられた。

「巴マミじゃなくて悪いわね」

 ほむらの胸に額を押し付けて、アイは首を横に振る、
 意外ではあったが、アイは凄く嬉しかった。同時に、申し訳なさが込み上げる。

「ごめん。ごめんね」

 情けなくて、ごめんなさい。涙色の声音で紡いだその言葉に、ほむらの返事は無かった。ただ静かに、ほむらはアイを抱き締める腕に力を籠める。そのまま暫く、青空の下に、少女の泣き声が響いていた。


 ◆


 人気の無い廊下をアイが進む。泣き腫らして真っ赤な目を下に向け、覚束ない足取りで自身の病室を目指していた。ほむらは傍に居ない。一人になりたくて、アイは心配する彼女を帰らせたのだ。だから辺りに響くのは、ひとりぼっちの足音だけだった。

 やがてアイは、病室の前に辿り着く。見慣れた扉がやけに大きく見えて、彼女は憂鬱そうに溜め息を漏らした。取っ手を掴み、扉を開く。いつもより重たく感じたが、それを気にする事すら、今のアイには億劫だった。僅かに開いた扉の隙間に体を捻じ込み、アイは病室へと足を踏み入れる。そこでまた、彼女は俯いて嘆息した。

「あら、ようやく帰ってきたのね」

 聞き慣れた声が耳を打つ。驚き顔を上げたアイの視界に、よく知る顔が映り込む。窓際に置いたテーブルの傍に、私服を着たマミが立っていた。予想外の事態に、アイはポカンと口を開けて立ち尽くす。

「すぐにお湯を沸かすから、先に座っててちょうだい」

 そう言ってマミは、台所に繋がる扉を潜っていった。よく見ればテーブルの上にはティーセットが用意されていて、スコーンとジャムも置いてある。どうやらアイが居ない内に訪れたマミは、一人でお茶会の準備をしていたらしい。

 言われた通り席に着き、アイはぼんやりとテーブルの上を眺めていた。未だに思考は上手く回らない。どうしてマミが居るのか分からないし、どうやって対応すればいいのかも思い付かない。まるで魂が抜けたような気力に欠ける表情で、アイは時の流れに身を任せていた。

「いきなり来てごめんなさい。昨日は無理してるみたいだったから、少し気になったの」

 優しい声が、アイの耳を擽る。見ればティーポットを手にしたマミがすぐ傍に立っていた。彼女は微笑を浮かべると、アイの前に置かれたティーカップに紅茶を注いでいく。白い湯気が立ち上り、紅茶の香りが広がった。その匂いに刺激され、ようやくアイの思考が回り始める。当て所なく彷徨っていた目線がマミに固定され、黒い瞳に少しだけ輝きが戻った。

「その様子だと、来て正解だったみたいね」

 ちょっぴり得意げにマミが笑う。そんな親友の姿を見て、アイは悲しそうに眉尻を下げた。

 マミが遊びに来た理由は、アイを心配したからだ。それはとても嬉しい事だと、アイは素直に感じている。けどその優しさに応える事は、今のアイには出来ない。彼女の心は既にその程度の余裕すら失っていた。

「ねえ、マミ」
「なにかしら?」
「えっとさ……」

 口元をまごつかせる。目線を落とす。それから喉を鳴らし、アイは意を決したように口を開いた。

「今日はもう、帰ってくれないかな?」

 瞬間、部屋の空気が凍りついた気がした。

「…………え?」

 マミの反応は、それだけ。理解出来ないといった様子で目を丸くして、彼女は呆然とアイを見詰めている。その姿が居た堪れなくて、アイはマミから目を逸らした。だがそれでも、彼女は話を止めようとはしない。

「それと、暫くここには来ないでほしいんだ」

 やはりマミは、アイの言葉をよく分かっていないようだった。
 時間が経ちようやく理解が追い付いたのか、マミが震える声を紡ぎ出す。

「ど、どうして? 私……なにかした?」

 決して大きくないマミの声は、それでもアイの心を深く抉った。膝に乗せた拳を握り締め、アイが肩を震わせる。マミの顔は見れなかった。少しでも見てしまえば、きっと決意が揺らいでしまう。そう思って、アイは頑なに下を向いていた。

「マミは悪くないよ。ちっとも悪くない。これはボクの我が儘なんだ」
「だったら理由を教えて。ね? 私が相談に乗ってあげるから」

 アイが唇を噛む。声を出さずに、彼女は首を振って否定した。

「そんなに悲しい事を言わないで。問題があるなら私がなんとかするわ」

 必死にマミが語り掛けてくる。アイが初めて聞くような声だった。それでもアイの答えは変わらない。貝のように黙ったまま、彼女は首を左右に振り続ける。その姿は、どこか壊れた人形を思わせるものだった。

「だから、ねえ――――」
「いいから」

 ようやくアイが口を開く。出てきたのは、怒りを抑えたような、とても低い声だった。

「早く、出てって」

 息を呑む音が、やけに鮮明に聞こえた気がした。
 何も言わず、アイは入院着の裾を握り締める。

「……わかったわ。その、ごめんなさい」

 暗く沈んだ声音で、マミが呟いた。直後に足音が聞こえ、アイから遠ざかっていく。思わずアイは顔を上げそうになった。けど、堪える。俯いたまま膝に爪を立て、彼女は彫像の如く動かなかった。

「ごめんね、アイ」

 最後にその言葉を残して、マミは部屋から出ていった。

 謝ってはいたが、きっとマミは何も理解していない。訳が分からないまま、ただアイに許してほしくて、彼女は謝っていたのだ。その事を思うと、アイは胸が締め付けられた。けど、アイにはこうする事しか出来なかったのだ。

 マミの姿を見た時、アイは二つの事を考えた。一つは、マミがあの女の子ではなくてよかったという安堵。もう一つは、どうしてそんなに暢気なんだという苛立ち。そしてそのどちらも、アイの中で確たる存在を主張していた。普段ならすぐに抑え込めるはずなのに、今の彼女にはそれが出来なかったのである。そんな余裕は、アイの心から消え失せていた。

 このまま一緒に居れば、きっと余計な事を口走る。そう確信したからこその判断だった。

「ボクの方こそ、ごめんなさいだよ」

 右手で目を覆い、アイが天井を仰ぐ。微かに開いた唇からは、言葉にならない音が漏れる。

 どうしようもなく、アイは疲れていた。もう何も考えたくない。全てを投げ出したい。そんな弱気が、彼女の心を蝕んでいく。絵本アイにとって、会話は心の支えだった。言葉だけが、他人に影響を与える唯一の手段だったのだ。だからこその衝撃だった。あの女の子がまともに取り合ってくれなかった時、アイは自分の全てが否定された気がした。お前にはなんの価値も無いのだと、そう言われた気がしたのだ。

 所詮はアイの被害妄想だろう。そんな事は彼女自身も理解している。けど頭では理解していても、心が納得してくれなかった。怖いのだ。生まれて初めて友達に拒絶されて、また同じ事になったらと思うと、アイは怖くて堪らなかった。たしかに女の子の病室に行けば、会う事が出来るかもしれない。話せるかもしれない。それが分かっていても、今のアイは動けなかった。

「ほんと、バカみたいだ」

 呟き、アイは紅茶に口をつける。マミが淹れてくれたそれは、けれど悲しい味だった。

 結局この日、アイが女の子の病室を訪れる事は無かった。


 ◆


「あ、あのっ。それって本当ですか?」

 アイがその報せを聞いたのは、まだ朝食も済ませていない早朝の事だ。慌てた様子で病室に飛び込んできた看護師さんを見た瞬間に、アイは嫌な予感に襲われた。今度はどんな問題が起きたのか。すぐにでも布団を被って耳を塞ぎたい衝動に駆られた彼女だが、それが許されない事は分かっていた。そうして覚悟を決めたアイに齎されたのは、やはりよくないものだった。

 とある患者の失踪。そう、あの女の子が病院から姿を消したと言うのだ。アイにしてみれば、まさしく晴天の霹靂だった。まさか、と最初は否定しようと思った。けれど真剣な表情の看護師さんを見れば、その言葉が真実なのだと嫌でも分かる。

「本当よ。朝行ったら書き置きだけが残ってて、もうみんな大騒ぎなんだから」
「書き置き、ですか?」
「ええ。なにか探し物があるらしいの。それであなたなら、心当たりがあるんじゃないかって」

 探し物、とアイの呟き。それから下を向いて思案に沈んだ彼女は、やがて力無く首を振った。

「すみません。ちょっとわからないです」
「そう。あなたなら、と思ったんだけど」

 残念そうな看護師さんを見て、アイは申し訳なさから身を縮めた。

「力になれなくてすみません」
「いいのよ。友達だからって、なんでも知ってるわけじゃないもの」
「……そうですね」
「それじゃあ私は戻るわね。もうすぐ朝食だけど、ちゃんと残さず食べるのよ」

 意識しての事だろう。明るい声でそう告げて、看護師さんは病室から出ていった。その背中を見送ってから、アイはひっそりと息を吐く。青白い面立ちに憂いと疲れを色濃く浮かべ、彼女はベッドに倒れ込んだ。

 考えたくない。アイはもう、何も考えたくないのだ。あまりに多くの事が起き過ぎた。彼女の心は飽和状態で、周りの全てが煩わしくて、余裕なんて欠片も残っていない。見えていたはずの希望すら、今では靄が掛かっているように感じられた。

「…………」

 暫く死んだように動かなかったアイが、気怠そうに身を起こす。それからサイドテーブルに載った電話へと手を伸ばした。彼女は受話器を取り、昨日と同じく、ほむらの番号を呼び出した。

『はい。暁美です』
「アイです。二日連続でごめんね」

 深く沈んだ声でアイが喋る。
 絞り出す元気すら、アイは持っていなかった。

『……なにかあったの?』

 薄紅色の唇が、自嘲で歪む。

「あの子が消えちゃった。一人でどこかに行っちゃった」
『それは、昨日の彼女かしら?』
「うん。探し物があるらしいけど、よくわかんないや」

 ほむらは何かを考えているようだった。電話口から聞こえる声が途絶え、暫し沈黙が訪れる。その間、アイはぼんやりと本棚を眺めていた。ある意味では彼女の努力の証とも言えるそれも、何故か今はくすんで見える。

『グリーフシードね』

 再び聞こえたほむらの声で、アイの意識は引き戻された。

『彼女が魔法少女の真実を知ったというなら、グリーシードを集めに行った可能性が高いわ。魔女になりたくなければ、ソウルジェムを浄化するグリーフシードを集め続けるしかない。そう考えるのは自然な事よ』
「……あぁ、そっか。そうだよね」

 とても単純な論理の帰結だ。こんな簡単な事にすら思い至らなかったなんてと、アイは笑うしかなかった。まったくもって今の彼女は話にならない。碌に頭が回っていない事を、アイは改めて実感した。

『用件はそれだけかしら?』
「いや。もう一つ、大切な事が」

 黒い瞳を宙に彷徨わせ、それから彼女は、静かに目を瞑った。

「本格的に参ってるみたいでさ、暫く力になれそうにないや」

 投げ遣りな感じでアイが喋る。それは彼女の本心だった。元々アイに出来る事なんて限られているが、その限られた事すら、今の彼女には出来そうにない。こんな状態で頑張ったところで空回りにしかならないし、余計に調子を落としてしまうかもしれない。だからこそアイは、気持ちに整理をつける時間がほしかった。

「あの子が居なくなった事を聞いた時、ちょっとだけホッとしたんだ。これであの子と話さなくて済むかもって、心のどこかで安心してた。ダメダメだよね。こんなよわっちい奴じゃ、誰も救えやしないよ」

 問題から目を背けて、逃げて、戦おうとしない。それがアイの心の在り様で、このままではもしもの時に、たとえマミの為でも躊躇うかもしれない。そんな馬鹿げた事を考えてしまうくらい、今のアイは追い詰められていた。

「時間が経てば、少しは落ち着くと思う。だから、なんていうか……ごめん」

 それきり、アイは口を閉ざす。ほむらの返事を待って、受話器に意識を傾けていた。

 呆れられるかもしれない。見限られるかもしれない。そんな不安がアイにはあった。けど何が出来る訳でもなくて、彼女はただ、ほむらの応答を待ち続ける。一分にも満たないはずのその時間は、何故かとても長く感じられた。

『わかったわ。暫くは私だけでやるから、心の整理がついたら連絡してちょうだい』

 普段通り、苛立ちも失望も感じさせないほむらの声。それを聞いて、アイは胸を撫で下ろす。

『それと』
「……なに?」

 おそるおそるアイが問えば、返ってきたのは、やはり変わらぬ調子の声だった。

『頼りにしてるから』

 短く端的なほむらの言葉。それに対して、アイは何も返せなかった。
 胸元を強く握り締め、アイはそっと目を瞑る。眦から溢れた雫が、頬を伝って零れ落ちた。




 -To be continued-



[28168] #011 『ボクはずっと願ってる』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/09/04 20:52
 やる気が起きない。アイの心情を語るならその一言で事足りる。ベッドの上に横たわった彼女は何をするでもなく、焦点の定まらない目でぼんやりと天井を眺めていた。無造作に投げ出された細い四肢。シーツに大輪を咲かせる長い黒髪。気力に欠けた黒い瞳。人形みたいだ、とその姿を見た人は言うかもしれない。それほどまでに、今のアイからは生気が感じられなかった。

 動くのが億劫で、考える事すら面倒で、何もする気になれない。それは単なる逃避でしかないと分かっていたが、もはや自己嫌悪の感情も湧いてこなかった。感情の源泉が枯れ果てたような気がして、そう思うとますますアイの気持ちが萎えていく。それでも彼女は欠片も表情を動かさず、当て所なく視線を彷徨わせ続けている。

 アイが失踪の話を聞き、ほむらと連絡を取ってから、随分と時間が経っていた。気付けば時計の針は午後四時を指そうとしており、窓の外からは小さな雨音が響いている。昼は何を食べただろうか。雨はいつから降り出したのだろうか。ふとそんな疑問がアイの脳裏を過ぎったが、すぐにどうでもよくなった。

 時間ばかりが過ぎていく。何もせず、何も考えず、無為に時を刻んでいく。それで構わないとアイは思った。時間は痛みを和らげてくれる。そうして余裕が出来たら、ゆっくり心の整理をしようと彼女は決めていた。だから今は、少しばかりの休息だ。

「――――?」

 不意にノックの音が部屋に響く。首を回し、アイが扉の方を見る。

 誰だろうかと初めに考えたアイは、次いで応答すべきかどうかを悩み始めた。正直に言って、今の彼女は人に会いたい気分ではないのだ。だからこのまま無視しよう。そう決めたアイが天井に視線を戻そうとしたところで、遠慮がちに扉が開かれた。出来た隙間からおそるおそる足を踏み入れてきたのは、アイの見知った少女だ。しかし同時に、アイが予想した誰でもなかった。

「美樹さん?」

 思わずアイが尋ねてしまう。すると部屋の入り口で様子を窺っていた少女は、驚いたように背筋を伸ばした。

「は、はいっ。美樹さやかです!」

 元気の良い返事だったが、そこには明らかな緊張が見て取れる。その態度に疑問を抱きながらも、アイはとりあえず体を起こした。僅かに頭が重いように感じたが、話が出来ないほどではない。額を押さえながらベッドに腰掛け、アイは入り口のさやかと向き合った。

「どうしたの? なにか忘れ物でもあった?」
「あ、いえ。そういうわけじゃないんです」

 答えて、さやかは気まずそうに目線を彷徨わせた。どうにもさやかの様子が可笑しい。それは付き合いの浅いアイにも分かるのだが、その理由は皆目見当もつかない。なんせ一昨日に会ったばかりで、話した事すらほとんど無いのだ。まだ表面的な性格も掴みかねている段階で、アイは美樹さやかという少女をほとんど理解していなかった。

 よく分からない、とアイが首を傾げる。そんな彼女に対し、さやかはおずおずと口を開いた。

「えっと、あたしの知り合いも入院してるんですよ。そのお見舞いに来たから、こちらにも顔を出しておこうと思って」
「なるほど。でも、それだけじゃないんだろ?」

 さやかが言葉に詰まる。僅かに悩む様子を見せた彼女は、それから気まずそうに頬を掻いた。

「実はちょっと相談が……」

 そう言ってさやかは、ちらりとアイの顔を窺う。

「あはは。なんだか調子が悪そうなんで、今日は遠慮しときますね」
「……いや、大丈夫だよ。筋肉痛が辛いだけだから」

 自らの太腿を叩いてみせて、アイは少し疲れた笑みを浮かべた。

 放っておけば、さやかはそのまま部屋から出ていっただろう。しかしアイは引き止めた。さっきまで人に会いたくないと思っていた癖に、彼女はさやかを留めたのだ。自分に相談があると言うのなら、頼ってくれると言うのなら、アイは喰い付かずにはいられなかった。愚かしいほどの浅ましさだったが、これこそが絵本アイという少女でもある。

「一昨日は碌に話す時間も無かったしね。せっかく来たんだし、ゆっくりしていきなよ」
「あー……じゃあ、お言葉に甘えて」

 呟いて、さやかは遠慮がちに足を進める。アイが手近な椅子を指し示せば、彼女は大人しくそこに座った。そのまま、さやかは小さく息を吐く。まだ緊張は残っているようだったが、それでも最初と比べれば余裕が見て取れた。

「まずは改めて自己紹介といこうか。ボクは絵本アイ。できれば名前で呼んでほしい」
「美樹さやかです。あたしも名前で呼んでください」
「わかったよ、さやか。それで相談っていうのは?」

 さやかが目を伏せる。そのまま膝の上で両手を遊ばせながら、彼女は僅かに頬を色付かせた。明らかな逡巡が見て取れたが、アイは急かすような事はしない。というよりも、口に出せるほど自信を持てる言葉が思い浮かばなかった。

 本当に馬鹿になったみたいだと、アイが密かに自嘲する。その内にさやかが喋り始めた。

「その……さっき知り合いが入院してるって言ったじゃないですか」
「言ってたね。その子についてかな?」

 目線を上げて、また下げる。それからさやかは、少しだけ顔を縦に揺らした。

「そいつとは幼馴染みで、仲も良い方だと思います」
「いい事だね。お見舞いにはよく来てるの?」

 また、さやかは首肯する。

「ただ知り合いが入院するのって初めてで、なんて言うか、勝手がわからないんですよ。色々と差し入れも持ってきてるんですけど、本当にこれでいいのかなぁって感じで。それでアイさんなら、良いアドバイスをしてくれるかと思って――――――」
「なるほどね。たしかに力になれると思うよ」

 言いつつ、アイは俯きがちなさやかを観察する。

 さやかの顔には未だに硬さが残っていた。その原因は決して相談の内容だけではなく、相手がアイという点にもあるだろう。さして親しくない年上に相談するというのは、中々に勇気が要る事だ。それでもこうしてアイの病室までやって来たという事は、それだけその幼馴染みを大切に思っているのだろう。

「その幼馴染みの名前は? さやかと同い年でいいのかな?」
「名前は上条恭介(かみじょう・きょうすけ)で、歳はあたしと同じです」
「恭介、という事は男の子?」
「あ、はい。男で合ってます」

 答えるさやかの表情は、ちょっぴり面映ゆそうに赤らんでいた。アイの第一印象とは異なるそれは、いわゆる女の子の顔というやつだろうか。なんとも思春期らしくて結構な事だと、アイは僅かに口元を緩めた。

「じゃあ入院の理由は?」
「指と足の怪我です。事故で上手く動かせなくなって、今はリハビリしてます」
「退院の予定はわかってる?」
「それは…………すみません、わからないです。ただ長引きそうだとは聞いてます」

 ふむ、とアイは顎に指を添えた。

 指と足の怪我でリハビリ入院中。しかも退院の目処がついていないとなると、アイの予想以上に重症なのかもしれない。その事に少しばかり荷の重さを感じたアイだが、同時に遣り甲斐があると思った。問題が無ければそれでいい。問題があるならそれを解決してみせる。そうすれば胸に溜まった靄も晴れるだろうかと、アイはそんな事を考えていた。

「これまではどんなお見舞いをしてたの?」
「えっと、いつもはCDを買ってきてます。それで曲を聞きながら雑談したりと、まぁ、そんな感じです」
「上条君は音楽が好きなんだ?」
「かなり好きですよ。あいつ自身もヴァイオリニストで、割と有名だったりしますし」

 瞬間、アイは露骨に顔を顰めた。

「とりあえず、音楽関係は避けようか」
「えっ!? いや、だってほんとに好きなんですよ!」
「好きだから駄目なのさ」

 強めにアイが答えれば、さやかはグッと言葉を堪えた。もちろん納得した訳ではないだろう。アイを目上と認め、教えを請う相手と捉えているからこそ、さやかは引いたのだ。よく知る相手でもなく、見た目は小学生同然のアイを相手にそんな態度が取れるというのは、それだけさやかの性根が素直なのかもしれない。そしてそれは、アイにとって非常に好ましいものだった。

 出来れば力になりたい。そんな気持ちを芽生えさせながら、アイは説明を続けていく。

「入院患者にとって特に辛いのはさ、普段できる事ができなくなる事なんだ」
「できる事が、できなくなる……」
「風邪を引いた時とかにふと思うでしょ? いつもならこうじゃないのにって」
「あっ。たしかにそうですね」

 素直に頷くさやかに対し、アイはようやく力の抜けた微笑を浮かべた。

「入院生活っていうのは、それがもっと大変になるんだ。病気や怪我が辛いのは当然として、生活環境も大きく変わる。だから普段の生活が恋しくなるし、いつも通りに過ごしてる人が羨ましくなる。しかも上条君は指に問題があるんだろ? ちょっとした事でも上手くやれなくて、それがストレスになってるはずだよ」

 はず、とは言いつつも、アイにとってそれは確定した事実に等しかった。日常のあらゆる場面で繊細な動作が要求される指が故障して、負担に感じない人間は居ない。これまで入院するほどの怪我をした経験が無ければ尚更だ。そして一つの不満は、また別の不満を呼んでくる。ちょっとした事が気になり始め、連鎖的にストレスを溜め込むというのは十分にあり得る話だ。

「なにより指を怪我してたら、ヴァイオリンは弾けないだろ?」
「それは……そうですけど」

 さやかの表情は硬い。膝に乗せた手を握り締めたまま、彼女は微動だにせずアイを見詰めていた。それがアイには心地良い。ただ話に耳を傾けて貰えるというだけで、彼女はどうしようもなく満たされる気がした。

「たしかに彼は音楽が好きかもしれない。でもだからこそ、今は触れるべきじゃないんだ。音楽を聞けば、どうしたってヴァイオリンの事を意識する。そうなると演奏できない事への不満や、完治する事への不安が出てくるのさ。たとえ少しずつでも、確実にね」

 そこで話を区切り、アイはさやかが考えを整理するのを待った。さやかは僅かに目線を下げたまま、ジッと黙り込んでいる。その目に宿る光は真剣で、傍目にも分かるほどの熱意が見て取れた。

 美樹さやかと上条恭介。さやかは幼馴染みと言ったが、決してそれだけの間柄とは思えない。少なくともさやかの方は、それ以上の感情を抱いているように感じられた。いわゆる恋心だ。アイにとっては縁遠い感情なだけに、興味を惹かれる部分があった。

 アイがつまらぬ邪推をしている内に、さやかは考えを纏め終えたらしい。強い意志を秘めた瞳が、正面からアイを捉えた。

「アイさんの言いたい事はわかりました。その内容も、たぶん、間違ってないと思います」
「それはよかった。上条君をよく知るキミがそう言ってくれるなら、ボクも自信が持てるよ」
「でも音楽が駄目って言われても、他によさそうなものって思い付かないんですよね」

 弱々しいさやかの声。それとは反対に、アイの顔には少しだけ気力が戻っていた。

「まったく新しいものの方がいい場合もあるよ。これまでにやった事があれば、どうしたって以前との違いを気にしてしまう。だから経験の無いものの方が、純粋に楽しめる可能性が高いわけさ」

 アイの白い指が、さやかの拳に添えられる。それからアイは、意識して優しい笑顔を作った。

「安心して。ボクも一緒に考えるから」

 だから、とアイは続けて。

「ボクに任せてよ」

 少しだけ沈黙を挿み、それからさやかは、ゆっくりと頷いた。


 ◆


「――――ほら、あの子が上条君よ」

 若い看護師さんが声を控えてアイに告げる。同時に彼女は、右手の人差し指で前方を示した。その先には一人の少年が居る。年頃はアイと同じ中学生に見えた。短めの黒髪は癖の無いストレートで、端整な顔立ちをしている。異性に対する興味が薄いアイにとってはどうでもいい事だが、それなりに女の子受けのよさそうな美少年という印象だった。

 上条恭介。それが少年の名前だ。さやかの幼馴染みである彼は、今、一人でリハビリを行っている。歩行補助の手摺りに掴まり、震える足で少しずつ前に進んでいた。必死に歯を食い縛るその姿からは、並々ならぬ熱意が感じられる。

 さやかの相談から、既に一夜が明けていた。あれから話を煮詰めたアイは、今後の為にも知り合っておいた方が良いだろうと、こうして恭介に会いに来た訳である。

「それじゃ、私は仕事に戻るわね」
「はい。お忙しい中、ありがとうございました」
「いいのよ。ちょうど近くに用があったしね」

 最後に笑顔でそう言って、看護師さんは来た道を戻っていった。その背中を見送ってから、アイはリハビリ室のドアを押し開ける。ガラス張りのそれは音も無く開かれ、アイを室内に受け入れた。

 リハビリ室の中に居るのは恭介だけで、その彼もアイの入室には気付かない。静かに歩を進めて、アイは恭介の居る一角に近付いていく。そこにはまるでプールのレーンのように、幾つもの手摺りが並んでいた。

 互いの距離が数メートルまで縮まっても、恭介に変化は見られない。ひたむきにリハビリを続ける彼の背中を眺めながら、アイは手摺りの傍に用意された椅子の一つに腰を下ろした。そのまま彼女は、恭介の様子を観察する。

 頼りない、というのが恭介に対するアイの第一印象だった。生まれたばかりの小鹿みたいに足を震わせ、歩くだけでも辛そうなその姿は、とても弱々しくて頼りない。ただ、アイは決して情けないとは思わなかった。必死の形相も、頬を伝う汗も、恭介の願いの表れだ。また元の生活に戻りたい。健康な体を取り戻したい。ヴァイオリンを弾きたい。その想いは、他人が馬鹿にしていいものではない。

 だからこそ不幸だと、アイは胸裏で呟いた。

 さやかの話では詳しい容態は分からなかったが、恭介の怪我はかなり重いらしい。足と指の怪我の内、完治の見込みがあるのは足だけで、指が治る可能性は限り無く零に近いという話だ。まだ確定の話ではないようだが、検査を進めても覆る事は無いだろうと、アイの知り合いの看護師さんは言っていた。

 さやかも恭介も、その事実を知らない。だから大きな問題は出ていないが、いずれそれを知らされた時、二人はどうなるだろうか。恭介は耐えられるのか。さやかは彼を支えられるのか。それらの疑問がアイの胸に渦巻いていた。

「……厳しいかな」

 もうすぐ手摺りの端に辿り着く恭介を見詰めながら、アイが密かに呟く。

 上条恭介は天才ヴァイオリニストとして有名なのだと、アイは先ほど教えられた。それほどの腕ならば少なからず自負はあっただろうし、こうして一心にリハビリに打ち込む姿を見ても、ヴァイオリンの演奏が好きなのだろうと思わされる。そんな彼が二度と以前のように演奏が出来ないと知らされれば、荒れるどころの話ではないだろう。そして昨日の様子を見る限りでは、さやかに対応出来る能力は無い。

 まったくもって世界は残酷だと、アイは皮肉げな笑みを刻んだ。

 手摺りの端まで行った恭介が振り返る。そこでようやくアイに気付いたのか、彼は僅かに目を瞠った。対するアイは、動じる事無く微笑を浮かべる。それを受けた恭介は、戸惑いがちに愛想笑いを返してからリハビリを再開した。亀のように遅い歩みで、けれど確実に前へと進みながら、彼はアイとの距離を縮めていく。

 暫くして、恭介はようやく復路を踏破した。息を切らせ汗を流す彼の為に、アイは座り易い位置に手近な椅子を移動させる。

「えっと、ありがとう」

 謝罪を口にして、恭介は椅子に腰を下ろす。手摺りを使って震えながら座るその様は、アイの目には随分と危なっかしく映った。そのまま背もたれに体重を預けて息を吐き、恭介は大きく胸を上下させる。

 恭介が息を整えるのを待って、アイは努めて明るく話し掛けた。

「はじめまして。ボクは絵本アイって言うんだ」
「あ、うん。はじめまして。上条恭介です」

 何かを問いたげに、恭介の目が泳ぐ。その意味を、アイは正確に読み取った。

「ボクはさやかの友達なんだ。彼女の幼馴染みが入院してるって聞いたから、こうして挨拶に来たわけさ」
「あぁ、なるほど。さやかの友達だったのか」

 納得したと、恭介の顔に安堵の色が浮かぶ。

「見たところ絵本さんも入院してるのかな?」
「そうだよ。ボクの病気は怪我じゃなくて貧血だけどね」
「へぇ。貧血で入院なんだ」

 恭介の返答。その声音を聞いたアイは、可笑しそうに笑い声を上げた。

「拍子抜けしたって感じだね」
「あっ。いや、そういうんじゃなくてさ……」
「気にしなくていいよ。あんまりイメージ湧かないだろうし」

 でも、と続けようとして、アイはその先の言葉を口に出来なかった。

 アイの貧血はとても重いもので、命にすら関わってくるほどだ。それを説明すれば恭介の感想は大きく変わるだろう。アイに対して同情心だって湧くかもしれない。しかしだからこそ、アイは教える事が出来なかった。

『自信を持ちなさい。同情じゃ信頼は買えないわよ』

 高橋先生のその言葉が、アイの心を縛り付ける。

 アイは自分の弱さを嫌っているが、同時に最大の武器である事を理解していた。誰しも同情した相手には甘くなるし、強く出れない。その事を理解しているアイは、自身の立場を相手に伝える事で会話のイニシアチブを取る手段を得意としていた。

 つまりアイは、同情で自分の主張を通そうとしてきた訳だ。高橋先生の言葉は、その核心を突いていた。相手に同情させてばかりだから、本当の意味で対等な関係は築けない。対等でなければ信頼も生まれない。結局アイは、弱い立場に甘えている部分があったのだ。

「どうかしたの?」
「ううん。なんでもないよ」

 首を振って答え、アイは苦笑する。

 自身の病気について、暫く恭介には黙っておこうとアイは決めた。そうしてこれまでとは違う接し方をしてみれば、あるいは何かが見えてくるかもしれない。ただの願望かもしれないが、アイはそう思ったのだ。

「そうそう。少し見学させてもらったけど、頑張ってリハビリしてるみたいだね」
「今は努力するしかないからね。当然の事だよ」
「そうかな? ボクは立派な事だと思うけど。宿題を出されても、誰もが真面目にやるわけじゃないでしょ?」

 感心した風にアイが言えば、恭介は照れ臭そうに右手で頬を掻く。だがすぐさま表情に影を落とし、彼は左手に視線をやった。リハビリ中とは異なり、座った後は碌に動かされない左腕。その意味は、とても重いものだ。

「僕がヴァイオリニストだっていう話は、さやかから聞いてる?」
「聞いてるよ。とても綺麗な演奏をするんだってね」
「……ありがとう」

 少し悲しげに恭介が笑う。そのまま彼は、包帯の巻かれた左腕を右手で摩った。

「音楽を聴くのも好きだけど、それ以上に弾く事が好きなんだ。生き甲斐と言ってもいいかもしれない。だから、またヴァイオリンを弾けるようになりたいんだ。その為ならこのくらいの苦労なんて――――――」

 恭介の目が細められる。鋭く強い意志を秘めたその瞳は、ある種の怖さを感じさせた。
 直後にハッと目を見開き、恭介は慌てた様子でアイを見る。

「っと、ごめん。会ったばかりでこんな話をされても困るよね」
「かまわないとも。誰だって健康が一番さ」

 とは言いながらも、アイは心の中で嘆息していた。思った通り、恭介のヴァイオリンに対する執着は強い。それはつまり、指が治らなかった時の絶望も強いという事だ。なんとも大きな不安材料だと、アイとしてもボヤかずにはいられない。

 ひとまず話題を変えようと、アイは頭を振って気を取り直した。

「ところで上条君はさやかと幼馴染みなんだよね?」
「そうだよ。もう随分と長い付き合いになるんじゃないかな」

 恭介が目を瞑る。口元を緩めたその姿は、子供の頃を懐かしんでいるかのようだった。

「ふぅん。幼馴染みって関係が近過ぎて男女を意識しない場合もあるって言うけど、そういうもん?」
「言われてみると、そうかもしれないね。さやかはさやかで、女の子って感じではないかな」

 思わずアイは額を手で覆った。恭介に照れは見えない。つまり本気で彼は、さやかを異性として意識していない訳だ。さやかとは正反対のその態度は、アイに男女関係の難しさを教えてくれた。

「大丈夫? 気分が悪いの?」
「……問題無いよ。そういうんじゃないから」

 答えて、アイは息を吐く。

「上条君ってさ、告白された事ある?」
「え? えっ!? い、いきなりなにを言うのさ」
「ボクはそういう経験が無いからさ。ちょっと気になってね。上条君ってモテそうだし」

 微笑むアイを見て、恭介は言葉を詰まらせる。
 決まりが悪そうに目を逸らした恭介は、暫く口をまごつかせた後に、小さな声で応答した。

「一度も無いよ」
「彼女が欲しいと思った事は?」
「それは…………少しはあるけど」

 恭介の顔がアイの方を向く。彼の表情はちょっとだけ怒っているようだった。

「そういう絵本さんはどうなのさ」
「ボク? ボクは彼氏が欲しいとは思わないかな」

 嘘ではないし、強がりでもない。そもそもアイは恋愛感情というものが希薄だった。精神的に幼い、と形容しても良いかもしれない。もう何年も同じような生活を続けている彼女は、それだけ成長の機会が少ない訳である。特に異性との付き合いがほとんど無いアイにとっては、恋愛は最も縁遠いものの一つだった。

「まぁ、もしもできるとしたら、彼女の方が欲しいかな」
「か、かのじょ……?」

 面食らった様子の恭介を見て、アイは可笑しそうに目を細める。

「変身願望って言うのかな? 男になりたいって、たまに思うわけだよ」
「えっと、だから彼女が欲しい、と?」
「そういうこと。もしもの話だけどね」

 アイが答えると、恭介は困ったように苦笑した。当然だろう。いきなりこんな話をされたところで、大抵の人間は反応に困るはずだ。でも本当に困るのはこれからだと、アイは心の中で呟いた。

「もしもボクが男なら、きっとさやかに告白してるぜ」
「さ、さやか? ほんとに?」

 もちろん嘘だ。けれどアイはもっともらしく頷いて、さも当然のように話を続けた。

「さやかの良いトコってなんだと思う?」
「え? それは…………明るい性格とか?」
「うんうん。見てて気持ちいいよね。ボクは素直なトコも好きだな」
「素直、か。うん、たしかにそうだね。さやかと一緒に居ると気楽だし」

 噛み締めるように恭介が呟く。遠くを見る彼の意識は、おそらくアイとの会話ではなく、さやかとの思い出に移っているのだろう。そしてそれは、アイが望んだ通りの展開だった。恭介にさやかの事を意識させる。アイはそれを狙ったのだ。なにもさやかの為だけではない。恭介の今後を思えば、怪我やヴァイオリン以外にも興味を惹く対象があった方が、受けるショックが少ないと考えたからだ。

「それにさやかは可愛いしね」
「可愛い? さやかが?」

 同意しかねる、といった顔の恭介に対し、アイは自信を籠めた声音でを返す。

「さやかは可愛いよ。上条君は見慣れてるだけ。ほら、美人は三日で飽きるって言うでしょ?」
「う~ん。そうなのかなぁ」
「ま、次に会った時に改めて見直してみなよ。きっと評価が変わるから」

 その言葉で締めて、アイは椅子から立ち上がった。壁の時計を見ればそれなりに時間が経っており、アイの診察時間が迫っていた。アイとしてはもう少し雑談を続けたい気分ではあったが、流石にこれ以上は不味い。

「診察があるから、ボクはもう行くよ」
「あぁ、うん。ちょうどいい休憩になったよ。ありがとう」
「どういたしまして。また暇を見付けて会いに来るよ」

 背中越しに手を振って、アイはリハビリ室の入り口に向かって歩き出す。口元に刻まれた微笑とは反対に、その目は少しも笑っていない。ただ真っ直ぐに前を見据え、怖いくらい真剣な光を、黒い瞳に宿していた。そのまま表情を崩す事無く、彼女はリハビリ室を後にした。


 ◆


 大きく息を吸って、吐き出す。胸を上下させての深呼吸。それを何度か繰り返した後に、さやかは目の前の扉を睨み付けた。病室と廊下を隔てるそれはさやかにとって見慣れたものだが、今日はかつて無いほどに厳重な物のように感じられる。上条恭介。扉の横にある病室名札に刻まれた名前を確認して、さやかは喉を鳴らした。胸元の紙袋を、彼女は強く抱き締める。

 さやかが緊張する必要は無いはずだ。普段通り幼馴染みのお見舞いに来ているだけで、彼女に後ろめたい事など何も無い。その事は本人もちゃんと理解しているのだが、さやかの心臓は煩いくらいに働き者だった。

 アイと相談した事を試す。それだけの事だ。難しい事は何もしないし、大きく何かが変わる訳ではない。ほんの少しだけ、恭介の気を楽にする。効果があってもその程度で、気負う必要は無いと、発案者のアイも言っていた。

 だから大丈夫。そう自分に言い聞かせて、さやかは扉の取っ手を掴む。

「入るよ、恭介」

 扉を開きながら、いつも通りを装ってさやかが喋る。その声を聞いた恭介が、さやかの方を向く。

「あぁ、さやかだったのか。いらっしゃい」

 穏やかな恭介の声を聞きながら、さやかは病室の中を進んでいく。アイの病室と同じ、広過ぎるほどに広い個室。その中で恭介は、窓際に置かれたベッドの上に居た。上体を起こした彼は、歩いて来るさやかを眺めている。程無くしてベッドの傍まで辿り着いたさやかは、手近な椅子に腰掛けて、ひっそりと息を吐き出した。

「今日はちょっと変わった物を持ってきたのよ」

 余計な事を考えない内にと、さやかは早々に話を切り出した。

「そうなんだ。なにを持ってきたの?」
「これよ、これ。知り合いの先輩に貰ったの」

 抱えていた紙袋に手を突っ込み、さやかは中の物を取り出していく。まず最初に取り出したのは、白黒のチェック柄が描かれた板、つまりチェス盤だ。次に彼女は、木製の小さなケースを手に取った。もちろんその中身はチェスの駒だ。

「チェス? しかも本格的な感じだね」
「正解。新しいのを買ったから、古いのは要らないんだってさ」

 あらかじめ用意していた答えを返しながら、さやかはチェスの準備を進めていく。テーブル代わりに椅子の上にチェス盤を置き、更にその上に駒を並べていく。ルールについては、昨日、時間を掛けてアイから教わっていた。万一の為に教本も貰っている。

「それはラッキーだったね。けどさやかとチェスって、なんだかイメージに合わないなぁ」
「うるさいわね。ま、あたしだって似合わないと思ってるけどさ」

 試しにチェスはどうかとアイに提案された時、さやかは当然の如く反対した。この手のゴチャゴチャと頭を使うゲームは苦手だし、有効な手段とは思えなかったらだ。しかしアイによれば、チェスを選んだ理由はちゃんとあるらしい。

 一つは音楽と関係無いこと。遊んでいる最中にヴァイオリンを連想する可能性が低いからだ。
 一つは頭を使う遊びということ。遊んでいる間は、余計な事を考える余裕が無い訳である。
 一つは恭介でも問題無く遊べること。出来るだけ怪我を意識させずに遊べる必要性があった。
 一つはさやかより恭介の方が強そうなこと。アイは詳しく語らなかったが、さやかはなんとなく察した。

 それらの理由を聞いて、さやかはとりあえず試してみようと決意した。本当に上手くいくかは分からないが、これまでとは毛色が違う分、なんらかの効果があるかもしれない、という期待もある。

「はい。これで準備完了よ」

 盤上に駒を並べ終えたさやかが言う。恭介が駒を掴み易い位置に椅子を移動させ、彼女は顔を上げた。同時に、恭介と目が合う。ただそれだけなのに、さやかの心臓が跳ねた。彼女の白い頬が、自然と熱を帯びる。

「えーと、どうかした?」
「あ、いや。なんでもないよ」

 気まずそうに答えて、恭介が目を逸らす。別に可笑しな反応ではないはずなのに、何故かさやかは気恥ずかしくなった。その事を誤魔化すように、彼女は慌てた様子で会話を進めていく。

「恭介はわかる? 駒の動かし方とか、勝利条件とか」
「少しだけね。さやかは大丈夫なのかい?」
「なんとか頭に叩き込んだわ。とりあえず、実際にやってみましょ」

 普通に喋っている風を装いながらも、さやかはかなり緊張していた。どんなに理屈を並べたところで、恭介が楽しいと感じてくれなければ意味は無い。もしも駄目なようなら、また別の案を用意するとアイは言ってくれたが、それは手を抜いていい理由にはならない。一発勝負。これが駄目なら後は無いくらいの意気込みで、さやかはチェスに挑もうとしていた。

「先攻はどっちがやる?」
「さやかに譲るよ」

 恭介の言葉に頷きで返し、さやかは自陣の駒を掴む。そうして、二人にとって初めてのチェス勝負が始まった。

「――――たはー。負けたぁ」

 頭に手を置いたさやかがそんな言葉を漏らしたのは、対局が始まってから一時間ほど経った時の事だ。互いに手探り状態で、教本を片手に対局を進めてきたはずなのに、盤上には黒の駒ばかりが残っていた。未だに白のキングは立ったままだが、完全に包囲されて逃げ場が無い。誰がどう見ても白の負け、つまりはさやかの負けだった。

「ははは。さやかは攻め方が素直過ぎるんだよ」
「そう言われてもねぇ。ごちゃごちゃ考えるのって苦手なのよ」

 拗ねたように頬を膨らすさやかを見て、恭介は可笑しそうに笑う。

「どうする? もうやめる?」
「んなわけないでしょ。まだ続けるっての」
「そっか。じゃあハンデをつけようか?」
「三敗したら考えるわ」

 さやかは盤上に駒を並べていく。その最中に考えるのは、先程の対局の事だ。疲れたとか楽しかったとか、さやかとしても色々と感じるものはあったのだが、最も心に残ったのは懐かしさだった。これまでに恭介とチェスをした事がある訳ではない。将棋だって経験は無い。ただこうして恭介と一緒になって遊ぶ事は久しく無かったと、さやかは気付いたのである。

 入院して以来、さやかは恭介の事を心配し続けてきた。恭介の負担にならないよう気を付けて、少しでも安らげるよう気を配って、どこか線を引いて接してきた所があった。それはたぶん、対等な関係ではなかったのだ。怪我人だからと恭介を下に見て、自分が支えなければと意気込み過ぎて、幼馴染みとして築いてきた関係が崩れていた。その歪みが、対局中は消えていた気がするのだ。怪我のハンデなど存在しない、純粋な知的ゲームの中で、さやかは久し振りに本来の関係を取り戻した気がした。

 恭介がどう感じたのかは分からない。けど、もしも自分と同じ気持ちだったら嬉しいと、さやかは思った。

「そういえば、今日はさやかの友達に会ったよ」

 あと少しで駒を並べ終えるという所で、不意に恭介が喋る。思わず手を止めて、さやかは彼の方を見た。

「友達? 誰に?」
「絵本アイっていう子だよ」
「え、うそっ。アイさんに会ったの?」

 予想外、とさやかは目を丸くする。しかし考えみればもっともだ。アイも恭介と同じ入院患者だし、さやかの相談を聞けば興味が湧くのも当然だろう。だから彼女が恭介に会ったというのは、ちっとも可笑しくない事だ。

 しかしそうは言っても、さやかとしては気になってしょうがない。

「ねえ、なにを話したの?」
「えっと、それは……」

 恭介はさやかの顔を見て、それから目を逸らす。意味深なその態度が、余計にさやかの気を引いた。

「さやかについて、少しだけね」
「だからその内容を聞いてんのよ!」
「まぁまぁ。それより次の対局を始めようよ」

 あからさまな話題逸らし。だが話したくないという恭介の意思は十分に伝わってきた。

「もうっ。わかったわよ。あたしが勝ったら話してもらうからね」
「それならいいよ。ハンデは無しのままだよね?」
「馬鹿にしてぇ。すぐに見返してやるんだから」

 とは言ったものの。結局この日、さやかは恭介に三連敗を喫する事になる。お蔭で次回からはハンデをつける事になり、散々な結果となった。ただそれでも、時間が来て別れる時のさやかと恭介は、いつに無く明るい表情をしていた。


 ◆


 コンコン、とノックの音。どうぞ、と応答の声。それからアイは、目の前の扉を開いた。躊躇無く彼女が足を踏み入れたのは、上条恭介の病室だ。アイの部屋とは内装が異なりつつも、広さで言えば負けず劣らずの大きな個室だった。

「お邪魔するよ、上条君」
「絵本さんか。こんな時間に来るとは思わなかったよ」

 ベッドの上から話し掛けてくる恭介に対し、アイは苦笑で応答する。

 既に夕食が終わり、消灯まで何時間も残っていない。こんな時間に会ったばかりの知り合いの下を訪ねるというのは、なるほど、たしかに非常識だろう。それを理解していながらアイが来たのは、どうしてもさやかの事が気になったからだ。とはいえその事を話す訳にもいかず、アイとしては適当に誤魔化すしかなかった。

「あれ、それってチェス盤?」
「そうだよ。さやかが持ってきてくれたんだ」

 ベッド脇に置かれた椅子の上には、駒を並べたチェス盤が置かれている。また恭介の右手は広げたチェスの教本を持っており、チェスの勉強をしていたのだと推測出来る。思わず綻びそうになった口元を、アイは無理やり引き締めた。

「ふぅん。おもしろい?」
「おもしろいよ。新しい事に挑戦するのも、気分転換としては丁度いいしね」

 絶賛と言うほどではないが、それなりに好感触。恭介の表情を見たアイはそう判断した。一先ず失策ではなかったようだと、彼女は密かに胸を撫で下ろす。次いでアイは、サイドテーブルに積まれたCDの山に注目した。

「やっぱり色んなCDを持ってるんだね。よく聞くの?」
「最近はリハビリの前に聞いてるよ。またヴァイオリンを弾くんだっていう気持ちになるからね」

 なら他の時はどうなのか。その質問を、アイは口にする事が出来なかった。どこか寂しそうにCDを眺める恭介を見れば、なんとなく答えが分かったからだ。予想通り、正の感情ばかりではないのだろう。

「っと。失礼するよ」

 断りを入れ、アイは適当な椅子に腰掛ける。一方の恭介は、手にした教本を閉じてシーツの上に置く。そうして雑談の態勢が出来上がり、まず最初に話し始めたのはアイの方だった。

「で、さやかは可愛かった?」
「いや、どうしてそんな話になるのさ」
「だって夜の話と言えば猥談だろ?」

 アイが首を傾げて答えれば、恭介は疲れた様子で息を吐く。

「なんていうか、絵本さんって変わってるよね」
「褒め言葉として受け取っておくよ。それで、どうだったのさ?」

 重ねて問われても、恭介は答えようとはしなかった。ただアイと目を合わせようとしないその姿からは、なんとなく心情が察せられる。少なくとも朝とは見方が変わっているはずだ。それだけは間違い無い。

 いいな、とアイは思った。さやかも恭介も、アイの言葉で心動かされている。変化が生まれている。それこそがアイの望んだ状況だった。やはり言葉には力があって、他人に影響を与える事が出来る。そしてそれは、さやか達にとってプラスに働いているはずだ。

 今度こそ上手くやってみせる。同じ失敗はしない。そう思って、アイは膝に乗せた拳を握り締めた。

「ま、いいか。しつこいと嫌われちゃうしね」
「いや、そんな事はないけど」

 そう言いながらも、恭介はあからさまに安心したような表情を浮かべている。彼は意外と顔に出るタイプのようで、そこはさやかと似ている気がして、アイはなんだか可笑しな気分になった。しかしその一方で、彼女の心は芯の部分で冷えていく。今が楽しければ楽しいほど、いずれ訪れる悲劇が怖くなる。それはどこか、魔法少女の運命に似ているとアイは思った。

「上条君はさぁ。努力は報われるものだと思う?」
「努力? また唐突な質問だね」

 不可解そうに恭介が眉根を寄せる。ただ答える気はあるらしく、彼はすぐに思案に沈んだ。

「……まぁ、必ずしも報われるものではないと思うよ」
「ふぅん。どうしてそう思うの?」
「ヴァイオリンのコンクールに出る人はみんな努力してるよ。でも、評価されるのは一部だけだ」

 なるほど、とアイは納得する。恭介の言葉は、まさに努力した人間の言葉だった。

「ボクも同じ意見だよ。努力したからって、必ずしも報われるわけじゃないよね」

 アイの言葉もまた、実感の籠ったものだった。彼女とて努力をしなかった訳ではない。ほんの少しでも成果を出したくて、アイは色々と頑張ってきた。けれど報われたと思えた経験は一握りで、やっぱり世の中は不公平だと思わずにはいられない。

「でもさ、努力は報われてほしいよね」

 アイが笑う。とても穏やかな表情だった。

「努力が報われるとは限らない。でも努力するなら、それは報われてほしいと思うよ。報われないっていうのも諦めの言葉じゃなくて、ただ失敗と区切りをつけて、次に向けて頑張る為の言葉だと考えてる」

 自らの胸元に手を当て、アイは静かに瞑目する。

「ボクはずっと願ってる。努力は報われてほしいってね。何度も失敗してきたけどさ、やっぱり今でもそう思うよ」

 目蓋を上げ、アイは正面から恭介を目を合わせる。恭介はアイの様子に戸惑っているようで、どう反応すべきか迷っているようだった。仕方が無い、とアイは苦笑する。そもそも今の言葉は恭介に向けたものではなく、彼女自身に言い聞かせるものなのだから。

「いきなりどうしたんだって顔だね」
「いや、まぁ、それはね」

 なんとも言えない表情の恭介を見て、アイはスッと目を細めた。

「つまり頑張れっていう意味で、頑張るっていう意味さ」

 やっぱり恭介は意味が分からないという顔をしていたが、今はそれでいいとアイは笑った。近い将来、きっと笑えない事態になるだろう。その事を理解していながら、否、理解しているからこそ、アイは明るく振る舞った。嘘でも繰り返せば真実になると信じているかのように、彼女は胸の不安を押し込める。その真意は、もはや彼女自身すら分かっていなかった。




 -To be continued-



[28168] #012 『これはやるべき事なんだ』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/09/18 22:32
「勝ったぁー!」

 広い病室に少女の声が響き渡る。溢れんばかりの喜びに満ちたそれは、さやかの口から発せられたものだ。両手を突き上げた彼女の前にはチェス盤があり、その向こうでは上体を起こした恭介が苦笑している。そしてそんな二人の様子を、アイは楽しそうに眺めていた。

 さやかと恭介がチェスの対戦を始めてから、今日で三日目になる。負け続きで悔しいのか、連日お見舞いに訪れるさやかと恭介の対局数は日毎に増え、通算八局目となる今回、ようやくさやかは勝利を手にしたのだ。

「ま、勝ったと言ってもハンデ付きだけどね」
「ぐっ。水差さないでくださいよ」

 喜びから一転、不満そうに口を尖らせ、さやかは隣のアイに顔を向ける。

「だって事実でしょ」

 平然とアイが返せば、さやかは疲れたように嘆息した。それを見て、アイは口元に笑みを刻む。

 実際、さやかと恭介の実力差はまだまだ大きい。今の対局も直感重視のさやかの攻め筋がたまたま上手く嵌まっただけで、再び対局すれば十中八九恭介が勝つように感じられた。偶然恭介の病室に遊びに来て、一局しか見ていないアイにも分かるその力量差は、対局しているさやか自身の方がよく理解しているだろう。

「どうする? もう一局やるかい?」
「今日はもう終わりっ。勝ち逃げよ、勝ち逃げ!」

 拳を握ったさやかが力強く宣言する。ある意味潔いその姿に、アイも恭介も苦笑した。それからアイは、壁に掛けられた時計を確認する。少しばかり華美な装飾を施された時計の針は、もうすぐ午後の五時を指そうとしていた。

「そうだね。ちょうどいい時間だし、そろそろお暇しようか」
「あっ、そうですね。帰りましょう帰りましょう」

 言うが早いか、さやかが荷物を持って立ち上がる。勝ち逃げ万歳といった調子で急ぐ彼女を見て、アイは呆れた様子で肩を竦めた。次いで椅子から立ち上がった彼女は、ベッドの上の恭介に声を掛けた。

「それじゃ、お邪魔しました。また来るよ」
「またね、恭介。次も負かしてやるから覚悟してろよー」

 アイとさやかが挨拶すれば、恭介は笑顔で右手を振った。

「うん、また。あと次は負けないから」

 恭介に向けて手を振り返し、アイ達は病室を後にする。廊下に出ると、窓の外の夕焼け空が目に映った。立ち並ぶビル群は朱に染められ、夜の訪れを予感させる。アイとさやかは一度だけ顔を見合わせ、それから並んで歩き始めた。

 夕陽の射し込む廊下を進みながら、アイは隣のさやかに目線を移す。学校から直接やって来たのか、制服を着たままのさやかは、いつになく機嫌がよさそうだった。その口元は緩んでおり、放っておけば鼻歌が聞こえてきそうだ。

 初めてチェスで勝ったから、という理由だけではないだろう。今日、初めてさやかと恭介が一緒に居る所を目撃したアイは、やはり二人は幼馴染みなのだと再認識していた。同時に、さやかが恭介に抱く好意も。

 エレベーターの前で立ち止まったアイは、単なる雑談のようにさやかに言葉を投げ掛けた。

「さやかってさ、上条君の事が好きだよね?」
「あぁ、はい…………はいぃ!?」

 勢いよくさやかが振り向いた。

「な、なに言ってるんですか!」
「んー、恋バナ?」

 小首を傾げてアイが返せば、さやかは頬を薄く染める。そのまま特に反論もせず、さやかは口元をまごつかせて恨みがましそうな目をアイに向けた。あまりに分かり易いその反応に、アイは思わず苦笑する。

 恭介と話すさやかを見ていれば、彼女が彼を好きな事はすぐに分かった。さやかが恭介に向ける視線には明らかな熱が籠っていたし、幼馴染みとしての気安さを感じさせる一方で、さやかは恭介に対して酷く緊張している時があったからだ。本人は隠しているつもりかもしれないが、おそらくさやかの友達も気付いているだろうとアイは考えていた。

「そ、そりゃ幼馴染みとしては好きですけど……」

 到着したエレベーターに乗り込みながら、さやかが言い訳がましく呟く。

「異性としての話だよ。ところで、これ上りだけど乗ってよかったの?」
「え? って、あぁ!?」

 慌てるさやかの隣で、アイが可笑しそうに笑い声を上げる。
 怒る気力も湧かないのか、さやかは肩を落として溜め息をついた。

「はぁ。せっかくですから病室まで送りますよ」
「ありがと。で、話を戻してもいいのかな?」
「そっちはもう終わりです!」

 恥ずかしそうに声を張り上げるさやかを見て、アイはまた笑う。ただ彼女がそれ以上の追及をする事は無く、タイミングよく開いた扉から軽い足取りで出ていった。その小さな背中を、さやかが急いで追いかける。

 隣に並んださやかを仰ぎ見たアイは、その表情に気付いて目を細めた。なんとも表現し難い顔をしている。何かの決意を秘めているようでありながら、迷いが滲んでいるようでもあった。何か言葉を掛けるべきだろうかと考えたアイだが、肝心の内容が思い浮かばない。だから結局、彼女は黙って歩き続ける事しか出来なかった。

 ほどなくして、二人はアイの病室に辿り着く。

「はい、到着。ここまでありがとうね」
「あ、いえ。ただ一緒に歩いただけですし」

 そう言って頬を掻き、さやかは視線を彷徨わせた。唇を開いて、閉じて、また開く。明らかに口にする言葉を探している風なさやかは、けれど何も言わずに愛想笑いを浮かべて誤魔化した。

「あはは。それじゃ、失礼します」

 踵を返したさやかが、エレベーターの方に歩き出す。その背中に、アイは思わず声を掛けた。

「あのさ!」

 さやかが足を止めて振り返る。水色の瞳が、不思議そうにアイを捉えた。しかしアイの口は動かない。反射的にさやかを引き止めたはいいものの、アイは掛けるべき言葉を考えていなかった。それゆえ今度は、アイの方が口をまごつかせる事になる。

 奇妙な静寂だった。さやかが呼び掛ければ、アイはお茶を濁して終わっただろう。あるいはアイが適当な事を言っても、さやかは納得してくれただろう。けれど現実はそのどちらでもなくて、さやかは掛けられる言葉を待っていて、アイは掛ける言葉を探し続けた。

「…………人を好きになるっていうのは、決して恥ずかしい事じゃないと思うよ」

 結局アイが口に出来たのは、なんて事は無い平凡な言葉だけだった。それがさやかの待っていた言葉なのかは分からない。ただ彼女は困ったように笑った後、会釈をして去っていった。その姿を見送り、アイは自身の病室へと入っていく。見慣れた内装を目にしたアイは、ホッと胸を撫で下ろす。そのまま扉に背中を預けて、彼女はボンヤリを視線を彷徨わせた。

「やっぱ人生経験ってヤツが足りないのかなぁ」

 最近は世界の狭さを思い知らされる機会が多いと、アイは小さく嘆息する。あの女の子を説得出来なかったのも、さやかに適切なアドバイスを送れないのも、自身の経験不足による所が大きい事をアイは理解していた。

 絵本アイは世間知らずだ。小学校に入学する前から入院生活を始め、それからの彼女はほとんどの時間を病院で過ごしてきた。出来た友達は少なく、環境の変化も皆無に等しかったと言える。だからアイは、同年代の子供が経験する多くの事を知らないのだ。

「それでいいと思ってたんだけどね」

 苦笑して、アイは天井を仰ぎ見る。

 自信が無かった。これまであった自分に対する自信というものを、アイはすっかり失くしていた。だから今の彼女は、上手く口が回らないのだ。自信が無くて、迷いがあって、出来ていた事すら出来なくなった。彼女がそれを払拭するには、やはり実績が必要なのだ。

 さやかと恭介の手助けをする。そうして上々の結果を出せれば、自信を取り戻す事が出来る。アイはそう思っていたし、そう信じようとしていた。今のアイには証明が必要なのだ。自分にも出来る事があるという証を、彼女は何より求めていた。

 自らの胸元に右手を添え、アイは深呼吸を繰り返す。

「大丈夫。ボクならやれる」

 小さな呟き。所詮は気休めに過ぎないが、それでもアイは口にせずにはいられなかった。

 アイから見てさやかと恭介の関係は良好だ。さやかの抱く好意は当然として、恭介も少なからずさやかを意識し始めている。そして以前に話した事を思えば、恭介は異性に対して興味があるはずだ。またこれまでにアイが聞いた限りでは、明確に好きな相手が居る訳ではなさそうだった。であれば、あとは時間の問題かもしれない。恭介にとってさやかは、最も親しく気安い関係にある女性だろう。今までは幼馴染みとしか考えていなかった所為で二人の距離は縮まらなかったが、今の恭介ならいつ恋愛感情に発展しても可笑しくない。

 だから心配する必要は無い。そう自分に言い聞かせて、アイは扉から背を離した。夕食の時間まで暫く休もうと、彼女はベッドを目指してゆっくりと歩いていく。そのまま部屋の中央まで進んだ辺りで、アイは窓際のテーブルに違和感を覚えた。見覚えの無い何かが載っている。首を傾げた彼女はテーブルに近付き、その何かを確認した。

 リンゴ大の透明な袋に入れられたクッキーと、それに添えられた一通の封筒。その二つがテーブルの上に載せられている。一体誰が置いた物なのか。手紙を手に取ったアイは、封筒の裏に書かれた名前を見て大きく目を瞠った。

「マミ……」

 震える声で呟き、アイは綺麗な字で書かれた親友の名前を指でなぞる。

 どうして、とは思わなかった。最後にマミと会ってからまだ一週間も経っていないが、アイはもう随分と話していない気がした。きっとマミも同じなのだろう。あんな別れ方をしたのだから、気にならない方が変だ。

 アイが儚い微笑を浮かべる。不安にさせている事を申し訳なく思いながらも、アイは気に掛けて貰えるのが嬉しかった。封筒を閉じているシールに触れ、彼女は笑みを深める。蜂蜜色の花を模したそれは、マミとアイが愛用している髪飾りに似ていた。アイの右手が、自然と頭に伸びる。マミから贈られた髪飾りは、今日も彼女の髪を彩っていた。

「なんとかしなくちゃね」

 胸元に封筒を押し付け、アイは目を瞑る。中身はまだ読まない。たぶん読んでも悲しくなるだけだ。それでも、この手紙に意味が無かった訳ではない。必ずさやか達の問題を片付けると、アイは改めて誓うのだった。


 ◆


 静かな廊下に響く足音。小刻みに耳を揺らすそれは、忙しなく足を動かすアイによるものだ。険しい顔をした彼女は、擦れ違う看護師さんとの挨拶もおざなりに、一直線に恭介の病室を目指していた。そこには焦りがあり苛立ちがあり、少しばかりの怯えがある。もちろんそれには理由があって、その為にアイは冷静さを失っていた。

 とうとう恭介は、指が完治しない事を宣告されたらしい。アイはその話を、昼食時に看護師さんから聞かされた。落ち込んでいるだろうから、出来れば慰めてほしいと頼まれたのだ。当然アイに否やは無く、こうして急ぎ恭介の病室に向かっている訳である。

 タイミングが悪い、とアイは思った。さやかの相談を受けてからまだ四日しか経っておらず、圧倒的に時間が足りていない。恭介の興味はまだまだ音楽に集中しており、それだけにショックも大きかったはずだ。せめてこれまでにやってきた事で少しでも気が紛れていればと、アイは願わずにはいられなかった。

「ん、はぁ……」

 恭介の病室に到着し、アイは立ち止まって息を整える。俄かに高まった鼓動は、決して早足で来た事だけが原因ではないだろう。緊張で硬くなった面持ちで、彼女は目の前の扉を睨み付けた。息を吐き、アイが扉をノックする。

 暫く待っても、中から返事は無かった。この時間に恭介が居る事は確認済みで、だからこそアイの心に不安が募る。喉を鳴らし、アイは恐る恐る扉の取っ手を握り締めた。そのままゆっくりと、彼女は扉を開いていく。

「上条君? お邪魔するよ」

 控えめな声でそう告げて、アイは病室に足を踏み入れた。彼女は辺りを窺う事無く、真っ直ぐに部屋の奥へ視線を向ける。

 はたして恭介は、いつも通りベッドの上に居た。入ってきたアイに気付いていないのか、彼の目は自らの左手を見たまま動かない。感情の抜け落ちた顔をして、恭介は彫像のような静けさを纏っていた。

 ――――――あぁ、ダメだな。

 アイはすぐにでも踵を返し、自身の病室に戻りたい衝動に駆られた。自分の手には負えないと、アイは直感的に理解していた。だって今の恭介は同じだ。かつて両親を事故で亡くし、無気力だった頃のアイと同じだ。

 世界の中心だった存在が壊れ、代わりがある訳でもない。何をすればいいのかも分からず、出来る事と言えば、かつて存在していた大切なものを想うだけ。今の恭介は、そんな風に後ろを向く事しか出来ないのだろうとアイは感じていた。もちろん望ましい状態ではないが、アイには荷が重過ぎる問題だ。もしも適切な解決法があると言うのなら、むしろアイの方が教えてほしいくらいだった。何故なら彼女は、未だに両親の死を引き摺っているのだから。

 無理無茶無謀。この恭介を救えるなら、あの女の子を説得出来ていると、アイは苦々しげに胸裏で呟いた。

 とはいえ、アイは逃げ出す訳にはいかない。ここで何もしないのは最悪の選択だ。さやかの相談を受けた意味が無くなるし、これから先、アイが人として成長する事も無くなるだろう。故に彼女は、この難問に立ち向かう必要がある。

 部屋の入り口に立ち尽くしたまま、アイは自らの成すべき事を考えた。アイと恭介は友達と言える程度には親しくなったが、互いの事情を詳しく話せるほど深い関係ではない。当然、恭介に掛けるべき励ましの言葉も見付からなかった。と言うよりも、今の状況では半端な慰めは逆効果になりかねない。そう考えると、ますますアイの気分は重くなった。

 悔しげに顔を歪めたアイが、キツく下唇を噛んだ。

 アイでは恭介を立ち直らせる事は出来ない。その事実を、彼女は認めざるを得なかった。しかしだからと言って、アイに出来る事が無い訳ではない。むしろ自分にはお誂え向きの役割があると、彼女は皮肉げに口元を歪める。

 慰められないなら、逆の事をすればいい。それがアイの結論だった。つまりは恭介を怒らせるのだ。一度でも感情を爆発させれば、少しは冷静になってくれるだろう。そうして周りを見る余裕が生まれれば、恭介が立ち直る芽もあるはずだ。その場合はさやかに慰め役を託す事になるが、アイにとってはそれこそが望むべき状況だった。

 アイの喉が鳴る。緊張によるものだった。

 誰かをわざと怒らせる。あるいは自分から嫌われる。それはとても怖い事だ。アイの脳裏をよぎるのは先日の女の子とのやり取りで、またあの時のようになるのかと思うと、知らず足が震えてきた。

 それでもアイはやる。やらなければいけないと、彼女は自分に言い聞かせた。

「こんにちは、上条君」

 大きな声で呼び掛けて、アイは恭介の居るベッドに向かって歩き出す。竦みそうになる足に力を籠め、引き攣りがちな顔に微笑を浮かべ、彼女は必死にいつも通りを装った。

「あぁ、絵本さん」

 恭介がアイの方に顔を向ける。全てを厭うような表情だった。思わずアイが足を止める。しかしすぐに何事も無かったかのように歩みを再開し、そのままベッド脇の椅子に腰掛けた。その間、恭介は何も言わずにボンヤリとアイを眺めていた。

「聞いたよ、指のこと」

 恭介の肩が震える。それに気付かない振りをして、アイは構わず言葉を続けた。

「残念だなぁ。キミの演奏が聴けるのを楽しみにしてたんだけど」

 明るい調子で話すアイに対して、恭介からの返事は無い。ただ彼の右手がシーツを握り締めるのを、アイは視界の端に捉えていた。けれどやっぱり彼女は、何事も無かったかのように口を動かすのだ。

「ま、怪我なんだから仕方ないよね。上条君もあんまり悩まない方がいい。どうしようもない事なんだから、さっさと気持ちを切り替えて、別の事を考えるべきだよ。終わった事に固執し続けても、良い事なんて一つも無いからね」

 自分の口を縫い付けたいと思ったのは、アイにとって初めての経験だ。いくらなんでも今の恭介に言う事ではない。明らかに彼を傷付ける言葉で、馬鹿にした言葉だった。それを理解していても、否、理解しているからこそ、アイは止める訳にはいかないのである。

 微かに食い縛る音が響く。恭介によるものだという事は考えるまでもなく、アイは恐怖で喉を引き攣らせた。思わず彼女は目線を落とし、恭介の顔を視界から外す。膝に乗せた拳を何度か開き直した所で、ようやくアイは落ち着きを取り戻した。

「趣味が出来なくなって辛いと――――」
「君になにがわかるのさ」

 低い声がアイの耳を貫いた。途端にアイは体を跳ねさせる。小動物のように恭介を窺った彼女は、その顔を見て何も言えなくなった。彼が宿すのは怒りだ。静かで、熱くて、ともすれば憎しみに転じそうな怒りが、恭介の表情から読み取れる。

「仕方ないわけないだろ! 諦められるはずないだろッ!!」

 アイが身を竦ませる。恭介の視線に射抜かれて、彼女は情けないほど動揺していた。

 分かっていた事だ。恭介を怒らせるような事を言ったのはアイの意思だ。でも実際に激情が滲む彼の瞳を見せられると、アイは容易く心の平静を奪われてしまった。恐怖と不安に襲われて、彼女は考えていた事が頭から消えてしまいそうだった。

「趣味なんかじゃないっ。僕にとってヴァイオリンは生き甲斐なんだ!」

 胸が引き裂かれそうな声だとアイは思った。今の恭介はあまりに悲痛な顔をしていて、見ているだけで心が抉られそうになる。だけど目を逸らす事は出来なくて、そんな事は許されなくて、アイは揺れる瞳に恭介を映し続けるしかなかった。

「僕がどんな気持ちでリハビリしてたと思ってるんだよ。なんの……ために…………」

 恭介が右手で顔を覆う。その口元は悔しそうに歪められていた。掛ける言葉が見付からず、アイはただ、傷付いた恭介を眺め続ける。拳を震わせ、唇を固く結び、彼女は黙って入院着の裾を握り締めていた。

 悲しいと言うよりも、アイはひたすらに心細かった。知識も経験も、今の彼女を支えてくれない。本当にこれでよかったのかと、尽きない疑問が渦巻き続ける。すぐにでも泣いて謝りたくて、だけどそうする時ではないと、アイは自分に言い聞かせていた。

「……帰ってくれ」

 恭介が告げる。アイの方を見る事無く、彼は冷たい声で言い放つ。

「出てってくれ!」

 子供の癇癪、なんて言葉では表現出来ない恭介の声だった。それに従い、アイは椅子から立ち上がる。表面上は平静を装って、心の中ではこの場から逃げ出したい一心で、彼女は恭介に別れの言葉を投げ掛けた。

「うん、今日はもう帰るよ。ごめんね。それじゃ、また」

 恭介の返事は無い。構わない、とアイは足早に扉を目指した。そのまま声を掛けられる事無く、アイは恭介の病室をあとにする。そうして廊下に出た途端、彼女は自らの体を掻き抱いた。気付けば、足の震えが目に見えるほど大きくなっている。

 背筋の悪寒が止まらなかった。こんなので上手くいくのかと不安で堪らなかった。恭介は穏やかな気性で、だから少し時間を置けば、今の言動を後悔するはずだ。そうすれば周りを気に掛けるようになるだろうし、心配を掛けまいと注意するかもしれない。あとはさやかが上手くやってくれれば、この問題は丸く収まる。きっとそうなる。

「大丈夫。大丈夫に決まってる」

 弱々しい声でアイが呟く。
 だってと、彼女は言い訳がましく言葉を続けた。

「これはやるべき事なんだ」

 さやかの為にマミの為に、そして何より自分の為に必要な事だったと、アイは胸の裡で繰り返す。それは逃避に近かったが、彼女はそうするしかなかった。他の手立てを考えつくほど、アイは賢くないのだから。

 アイの手が頭に伸び、そこにある髪飾りを外す。そのまま胸元に手を当て、彼女は暫し、沈黙に身を委ねた。


 ◆


 最近楽しそうだね。そんな事をまどかに言われたさやかは、今日も今日とて恭介が入院する病院を訪れていた。足取り軽く、表情も晴れやかに彼女は通い慣れた廊下を進んでいく。

 さやかが思い起こすのは、近頃の恭介とのやり取りだ。アイと話し合った通り、さやかは恭介と音楽の話をしていない。それは彼女が話を振らないというだけではなく、恭介の口からも音楽の話題が出ていない事を意味している。つまりアイの予想は当たっていたのだ。

 相談してよかったと、さやかは頬を緩ませる。勧められたチェスの方も良好だ。負けっ放しでもさやかは楽しんでいたし、恭介も楽しんでやっている事が、幼馴染みの彼女にはよく分かった。お蔭で以前まであったお見舞いらしい湿っぽい空気は薄まり、代わりに明るく和やかな時間を過ごす事が出来ている。だからさやかは、アイにとても感謝していた。

「ま、昨日は困っちゃったけどね」

 苦笑しながら、さやかはエレベーターに乗り込んだ。

 まさかいきなり恋愛の話を切り出されるとは思わなかった。狙って意表を突いたのかもしれないが、いくらなんでも唐突過ぎるとさやかは思う。お蔭で昨日はみっともなく取り乱してしまったと、彼女は苦笑した。

「恭介かぁ……」

 幼馴染みとしてなら、さやかは恭介が好きだと断言出来る。しかし異性として好きなのかと問われれば、さやかは口籠ってしまう。だってそこまで考えた事が無いのだ。一番親しい異性というのは確かで、凄く大切な存在だというのも否定しないが、恋人だとか付き合うだとか、そういう関係はあまり意識していなかった。でもたしかに、恭介と一緒に居るとドキドキするかもしれない。

「たははっ」

 誤魔化すように笑って、さやかは開いた扉からエレベーターの外に出た。今は考えるのはやめようと、彼女は気持ちを切り替える。慣れた歩みで恭介の病室を目指し、間も無くさやかは到着した。

「恭介、入るよー?」

 言いつつ病室に進入したさやかは、即座に異質な空気に気が付いた。重々しく、苦々しい。ふと彼女が想起したのは初めてお見舞いに来た日の事で、けれどあの時以上に重苦しい雰囲気に包まれている気がした。

「恭介? どうかしたの?」

 歩み寄りながら問い掛ければ、恭介の顔がさやかの方を向く。瞬間、さやかの胸が締め付けられた。恭介の双眸から気力が感じられない。昨日までとは打って変わったその姿は、さながら亡者のようだった。

「なんだ、さやかか」

 どうでもよさそうに呟く恭介に対して、さやかは怒りを覚えない。むしろ彼女の胸に湧き上がったのは心配だった。だってさやかは、こんな恭介の声を聞いた事が無い。こんな顔も見た事無い。心配するなと言う方が無茶だ。

「ねぇ、なにがあったの? あたしでよければ話を聞くから」

 いつもの椅子に座って、さやかは躊躇いがちに話し掛ける。
 暫く恭介の返事は無かったが、やがて力無く首を振った彼は、さやかの目を見て口を開いた。

「完治の見込みは無いって、もう演奏は諦めろって、先生から直々に言われたんだ」

 さやかが目を瞠る。息を飲み、彼女は口元に手を当てた。恭介の言葉の意味が、さやかにはよく分かる。二人は幼馴染みだ。小さい頃から恭介が演奏する姿を見てきたさやかは、彼がどれだけヴァイオリンを愛しているのか知っていた。

「そうしたら急に、全部どうでもよくなった。このままリハビリを続けて退院して、それでどうするんだってさ。ヴァイオリンの無い生活には変わりないし、演奏できない僕が居ても居なくても、特に意味は無いだろ?」

 ふぅ、と大きく溜め息をつく恭介。思わずさやかは、開き掛けた口を閉じてしまう。

「さっきも絵本さんが来てくれたんだ。ちょっと無神経なトコもあったけど、僕の事を心配してくれてたと思う。でも僕はイライラしてて、彼女に怒って、八つ当たりして…………ほんと、どうしようもないよね」

 そんな事はない、とさやかは思った。けれど何も言えなかった。

 今の恭介は大変な境遇にあり、平静で居られる方が可笑しいのだ。多少の事は誰だって目を瞑ってくれるだろうし、アイも気にしていないはずだ。そうは思うのだが、恭介が素直に慰めの言葉を受け取ってくれない事も、さやかは理解していた。自己嫌悪に陥っている彼に下手な事を言ったところで、余計に気を遣わせるだけだろう。

 もどかしくて歯痒くて、さやかは思わず拳を握り締めた。

「恭介は悪くないよ。大変な時だもん。アイさんだって、きっと気にしてない」

 苦し紛れに出た言葉は、やっぱりなんの捻りも無くて、さやかは自分の馬鹿さ加減が嫌になった。だけど話し始めたら止まらなくなって、考える間も無く次の言葉が溢れてくる。

「演奏してる時の恭介はたしかに凄いよ。でもさ、あんたの良いトコはそこだけじゃないでしょ。あたしは演奏してない時の恭介もたくさん知ってるし、あんたの友達だってきっとそう。だからそんなに自分を卑下しないでよ」

 たどたどしく紡いださやかの言葉に返ってきたのは、何かを諦めたような恭介の苦笑だった。それが悲しくて、悔しくて、さやかはキツく歯を食い縛る。そんな顔は見たくないと、声に出さずに叫んでいた。

「恭介は良い奴だよ。あたしが保証するっ」

 さやかの瞳が、真っ直ぐに恭介を捉える。

「だってあたしは、あんたの事が好きだから!」

 瞬間、辺りの時間が止まった気がした。恭介がポカンと口を開け、さやかが大きく目を見開く。少しして、さやかの頬が真っ赤に染まる。あたふたと目を彷徨わせたかと思うと、彼女は急ぎ立ち上がった。

「いや、その、えっと……それじゃ!」
「あっ、さやか!」

 耳まで赤くしたさやかが走って逃げる。背中に掛かる恭介の声も無視して、彼女は入り口の扉から出て行った。廊下に出ても足は止まらず、さやかはそのまま駆け抜ける。脇目も振らずに走った結果、彼女は近場の休憩所まで辿り着いた。運よく辺りに人はおらず、さやかはホッと胸を撫で下ろす。それから彼女は、先程の事を思い出して頭を抱えた。

「あぁ、もう! あたしはなにやってんのよっ」

 頬が熱い。胸がドキドキする。とてもではないが冷静になんてなれなくて、さやかは訳が分からなくなった。

 どうしてあんな事を言ってしまったのか、さやか自身にも理解出来ない。とにかく恭介を励まさなければと思って、気付いた時には告白していた。なんだこれ、と自分でも思うのだが、今更どうしようもない事だ。

「でも……」

 風邪でも引いたみたいに熱い額に手を当て、さやかは天井を仰ぐ。

「あたし、恭介が好きなんだ」

 改めて口にしてみると、それはとてもしっくりきた。どこか曖昧だった感情が、明確な形を得てさやかの胸に宿る。そうなると余計に恥ずかしくなって、さやかは両手で顔を覆った。今度からどんな顔をして恭介に会えばいいのだろうか。このまま顔を合わせない訳にもいかず、彼女は頭を悩ませた。

 ただ、悪い事ばかりではない。こうして恭介に対する好意がハッキリした事で、さやかはやるべき事を見付けられた。だって彼女は恭介が好きなのだ。自覚した途端に溢れ出したその感情は留まる所を知らず、さやかの迷いを押し流してしまった。好きだから、恭介の力になりたい。好きだから、彼に笑っていてほしい。そこに見返りはいらない。ただ彼女がしたいから、するだけなのだ。

 顔から手をどけ、さやかは息を吐く。水色の瞳からは、明確な決意が見て取れる。

「あたしは――――」

 呟きは誰に聞かれる事も無く、静かにさやかの胸に刻まれた。


 ◆


 憂鬱だ、とアイが嘆息した。ベッドに寝転んだままの彼女は、渦巻く不安を誤魔化すように、胸元に載せた封筒に手を当てる。未だに封を開けていないそれを、アイはお守りか何かのように扱っていた。それでも気分は晴れず、知らず彼女の眉根が寄せられる。

 恭介はどうなったのだろうか。さやかはどうしたのだろうか。アイが恭介を怒らせてから一日が経ったが、その結果を彼女は知らない。と言うよりも、知ろうとしなかった。もしも望まぬ事態になっていたらと思うと、アイは怖くて仕方なかったのだ。だから周りからも恭介の話題を遮断して、彼女は自室に引き籠っていた。

 いずれ恭介と会わなければいけない事を、アイはちゃんと理解している。だけど今はまだ、もう少し時間が欲しいというのが本音だった。彼女には心の準備が必要なのだ。そうして覚悟していなければ、アイは失敗した時に立ち直れなくなりそうな気がした。

 いつかのように、時間ばかりが過ぎていく。それでもあの時に比べれば、多少なりとも気力はある。希望もある。だからこのまま心を落ち着けていれば、明日には恭介と向き合えるだろうと、アイは冷静に分析していた。

 そんな時だ。窓の外から、耳を撫でる音楽が流れてきたのは。

「――――?」

 不思議そうに首を傾げたアイが、ベッドから這い出して窓に歩み寄った。腕を伸ばして窓を開ければ、どこかボヤけていた音がハッキリと聞こえるようになる。ヴァイオリンの演奏だと、彼女は即座に理解する。

 音は上の方から聞こえてくるようだった。おそらくは屋上で演奏しているのだろう。一体誰が、という疑問はあったものの、この物好きの演奏に、アイは静かに耳を傾けた。

「凄い……」

 ポツリと、アイの口から漏れる声。かつてピアノを嗜んでいた事があるといった程度の音楽経験しかない彼女だが、それでもこの演奏には心動かされるものがあった。穏やかで優しくて、ささくれ立った心が癒されるような気がしてくる。

 これこそが音楽で、これこそが芸術なのだろうか。ただの音の羅列がこんなにも素晴らしいものに思えてしまう。もしも自分に同じような才能があればと夢想したアイは、すぐに馬鹿馬鹿しいと苦笑した。

 目を瞑ったアイは、黙って演奏に身を委ねる。最近では感じた事が無いほどに、心地良い時間だと彼女は思った。そうして演奏が終わった後も、アイは暫くその場から動かなかった。

「素晴らしい、としか言えないのが残念かな」

 心が軽くなったように感じた彼女は、そう言って目を開ける。黒い瞳には、俄かに活力が戻っていた。

「にしても、ヴァイオリンかぁ」

 もしも恭介の指が治っていれば、今のような演奏が聞けたのかもしれない。天才少年と呼ばれていたのだから、一聴の価値はあるだろう。そんな事を考えて、詮無い事だと切り捨てて、直後にアイは首を傾げた。

 あれ、とアイは思う。何かが可笑しい、と彼女は気付く。恭介。そう、上条恭介の話だ。アイの友人であるところの彼は、さやかの相談が切っ掛けで知り合う事となった。ではそのさやかとはどうやって知り合っただろうかと考えて――――――――アイは大きく目を見開いた。

 マミだ。アイはマミからさやかを紹介されたのだ。あの時の主題はまどかについてだったが、一緒に居た以上、さやかも魔法少女の事情は理解しているだろう。そしてさやかが魔法少女になる理由があるかと問われれば、アイは迷い無くあると答えられる。好きな人の怪我を治すという願いは、魔法少女になる十分な動機だと言えるはずだ。

 アイの額に汗が浮く。それは冷や汗と呼ばれるものだった。

 どうしてこれほど単純な事実に気付かなかったのかと、アイは自分を殴りたくなる。普通に考えれば簡単に予想出来る事で、普段の彼女であれば絶対に見逃さない可能性だ。出会った直後に騒ぎがあった事は言い訳にもならない。見落としていたのは、ひとえにアイが焦っていたからだ。早く結果を出したくて、自分の力で何かを成したくて、それだけしか考えていなかった。自分の事ばかりが頭にあったのだ。

「いや、でも――――」

 あの演奏が恭介のものとは限らない。そんな風に自分を誤魔化しても、アイの悪寒は止まらない。

 昨日は何があったのか。恭介が指の怪我について知らされた。アイは何をしようとしていたのか。さやかと恭介の距離を縮めようとしていた。この二つを合わせるだけで、アイは容易く最悪の可能性を導ける。

「くそっ。ボクの馬鹿!」

 とにかく一刻も早く二人に会って真相を確かめなければと、アイは足を踏み出した。もはや憂鬱になっている暇など無い。自分の事で悩む余裕も資格も無いのだと、彼女は自らを叱咤した。

 しかし扉を目指したアイの歩みは、すぐに止められる事になる。

 誰かの訪問を知らせるノックの音。それを聞いた瞬間、アイは心臓を跳ね上げて固まった。彼女は碌に返事も出来ず、穴が開くほど扉を凝視する。加速度的に激しくなるアイの鼓動は、既に痛いほどだった。

 徐々に扉が開かれ、廊下の景色が露わになる。誰かが居る事はすぐに分かった。人影は一つだと気付き、アイは密かに安堵した。訪問者が誰なのかを理解し、その表情を読み取り、彼女はなんとも言えない感情を抱いた。

「こんにちはー」
「……こんにちは」

 やって来たのはさやかだ。彼女はかつて無いほど機嫌がよさそうな顔をして、弾んだ声で話し掛けてくる。

「さっきのヴァイオリンの音、ここまで聞こえてました? あれって恭介が演奏してたんですよ。本当はアイさんも呼びたかったんですけど、あいつがちょっと気にしてる風だったんで、今回は見送らせてもらいました。次の機会があったら、必ず呼びますね」

 さやかが笑う。さやかが喋る。その意味を、アイは理解したくなかった。
 一気に喉が渇き、アイは引き攣るような感覚を覚える。唾を飲めば、やけに大きな音が鳴った。

「それは、どういう……?」
「あっ、いきなり話しても驚きますよね」

 笑顔のまま、さやかが左手を掲げる。そこに載っている物を見て、アイは泣きたくなった。

「あたし、魔法少女になったんです」

 明るい声音が、深くアイの胸に突き刺さる。
 俯き、唇を噛み、アイは掠れた声を絞り出した。

「どうして……?」
「えっと、アイさんがまどかにした話は聞いてます。すごく大切な事だと思いますし、あたしなりに考えさせられました。その上であたしは魔法少女になって、恭介の指を治したんです」

 少しだけ申し訳なさそうな顔をして、けれどハッキリと胸を張って、さやかが告げる。

「あたしは恭介の恩人になりたい訳じゃありません。だからあいつにこの事を教えるつもりもありません。これはあたしが決めた事で、あたしだけが背負うものです。恭介に笑ってもらう為に、そう決めました」

 話を区切り、さやかは息を吐く。薄く紅潮したその頬が、どこか誇らしげに見えた。そのまま彼女はアイを見詰め、アイもまた、彼女を見詰め返す。互いの目が合った瞬間、さやかは恥ずかしげに微笑んだ。とても綺麗な笑みだった。

「だってあたし、恭介の事が好きですから」

 返す言葉など、アイにある訳が無い。
 崩れそうな足を必死に支えて、アイは歪な笑顔を浮かべる事しか出来なかった。


 ◆


 ハンバーガーを食い千切る。フライドポテトを噛み潰す。ストローを噛みながらジュースを流し込み、またハンバーガーを食い散らかす。そんな風に荒々しい食べ方で、杏子は今夜の食事を進めていた。どこからどう見てもやけ食いといった風情の彼女は、事実、その眉間に深い皺を刻んでいる。

 杏子が居るのは、公園にあるジャングルジムの上だった。その天辺に腰掛けて、彼女は買ってきたハンバーガーのセットを食い荒らしている訳である。辺りに人は居ない。夜の帳に包まれた公園には、昼間の賑やかさは欠片も残っていなかった。そんな冷たく寂しい場所で、杏子は近場の住宅街を睨んでいる。多くの家々には明かりが灯り、今頃は家族で仲良く団欒の時間だろう。

「……チッ」

 面白くなさそうに舌を打ち、杏子はポテトを口に放り込む。

 杏子がこんなにも荒れているのには、当然ながら訳がある。今日、彼女はキュゥべえから魔法少女の裏事情について聞き出したのだ。いずれ魔女になる運命も、キュゥべえ達の目的も、問えば淀み無く答えが返ってきた。悪気も無ければ躊躇も無く、キュゥべえは当然のように話していた。しかも騙しているつもりは、これっぽっちも無いらしい。

 まさにアイの言った通りだと、杏子は憎々しげに思った。キュゥべえは油断ならない相手だと分かってはいたが、ここまでくると、流石に彼女も平静ではいられない。話を聞いた時はキュゥべえに対して怒りを抱いたし、取り乱して声を荒げてしまった。それでも時間が経った今は、こうしてやけ食いで気を紛らわせられる程度には落ち着いている。

「アタシは望んで魔法少女になったんだ。だから、自業自得ってヤツさ」

 最後に残ったハンバーガーの欠片を食べ尽くし、杏子は吐き捨てるように呟いた。

 自業自得。そう思えば、杏子はこの件について納得出来る。彼女は望んだ通りの奇跡を得て、その対価として全てを失った。それは平等な取引で、壁を殴れば手が痛くなるくらい当然の結果だ。少なくとも杏子はそういう風に受け入れていた。

 だからこそ、杏子の心は穏やかではない。自分が奇跡を願った所為で家族が不幸になったのだと、彼女はより明確な形で証明された訳だ。お蔭でとっくの昔に処理したつもりの罪の意識が、蓋を開けて飛び出そうとしてきている。心の奥底に押し込めていたはずなのに、もう一度向き合えと暴れている訳だ。

「……あいつの言った通りなのかもね」

 こうして罪の意識に苛まれるのは、杏子の中で完全な決着がついていないからだろう。かつてアイが言ったように、罪から目を逸らして、自業自得という言葉で誤魔化していたのかもしれない。

「ったく。面倒ったらありゃしない」

 ポテトもジュースも処理した杏子は、ゴミを一つの袋に纏めた。それから彼女は、ジャングルジムから飛び降りる。杏子は軽い音を立てて着地し、そのまま前方を睨み付けた。

「出てきな。さっきからジロジロと鬱陶しいんだよ」

 ただ木々が立ち並ぶだけの空間に、杏子は鋭い声を投げ掛ける。すると一本の木の陰から、一人の少女が姿を現した。闇に溶け込むような長い黒髪を持つ彼女は、悠然とした足取りで杏子に近付いてくる。

「はじめましてね。私は暁美ほむら。魔法少女よ」

 数メートルの距離を残して立ち止まったほむらが、平坦な声で告げる。それに対して、杏子はスッと目を細めた。

「用件を言いな。慣れ合うつもりは無いよ」
「そうね。私もあなたと仲良しになりたい訳ではないもの」

 冷たく言い放つ杏子に対して、ほむらは眉一つ動かさずに答える。自らの黒髪に指を通して掻き上げ、彼女は改めて杏子を見詰めた。その瞳に宿る意思の強さを読み取り、杏子は警戒心を強めていく。

「まず、魔法少女の真実について知っているかしら?」

 杏子が眉を跳ね上げる。それを見て、ほむらは満足そうに頷いた。

「少なからず知っているようね。この件については、後でお互いの情報交換といきましょう」
「……ただの魔法少女ってわけじゃないみたいだね」

 あえて警戒心を乗せた杏子の言葉を、ほむらは綺麗に無視した。どこか得体の知れないその姿に、杏子は内心で苛立ちを募らせる。しかしその一方で、ほむらの話を聞かずにはいられなくなった事を理解していた。

「用件は二つ」

 ほむらが短く告げる。

「ワルプルギスの夜に関する話が一つ」
「――――ッ!?」

 杏子が大きく目を瞠る。それほどまでに予想外の話だった。出来れば今すぐにでも問い詰めたいところだったが、まだほむらの話は終わっていない。一つ目がそれなら二つ目は一体なんなんだと、杏子は緊張感を募らせた。

「もう一つは、共通の知り合いに関する話よ」

 そう言ったほむらの表情は、月が陰った所為で分からなかった。しかし一つ目の話と比べて随分とスケールが小さいはずのそれは、何故か杏子の心に引っ掛かりを生んでいる。そうして気付けば、杏子はほむらに話の続きを促していた。

 こうして二人の魔法少女は、誰に知られる事も無く、初めての出会いを果たすのだった。




 -To be continued-



[28168] #013 『強がりなんかじゃない』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/10/09 21:49
 鹿目まどかの学校生活は、友達と朝の挨拶を交わす所から始まる。美樹さやかと志筑仁美。学校にほど近い並木道で彼女達と待ち合わせ、三人一緒に登校するのが習慣となっていた。もちろんそれは今日も同じで、三人で肩を並べて通学路を進んでいく。澄んだ小川のせせらぎに、緑豊かな並木のさざめき。穏やかな自然の合奏の中に、少女達の話し声が響いていた。

「まあ。上条君、もう退院なさるんですの? 指が治ってから、まだ一週間くらいでしょうに」
「たしかにそうなんだけど、かなり経過が良いみたいでね。明後日の日曜に退院する予定よ」

 答えるさやかの顔は朗らかで、対する仁美の表情も穏やかだ。だがそうして楽しげに会話する二人の横で、まどかだけはなんとも言えない風情で俯いていた。

 恭介の指が治った、とまどか達が聞かされたのが一週間前の事で、それ以来さやかの機嫌は上がったまま下りてこない。元より元気の良い彼女ではあるが、近頃はそれに輪を掛けて活力を溢れていた。その理由はまどかも理解出来るし、悪い事だとは思っていないのだが、複雑な感情を抱いている事も否定出来ない。

 美樹さやかは魔法少女になった。全てが終わってから、まどかはその事実を教えられた。さやかが恭介の怪我で深く悩んでいた事も、魔法少女の願いをそんな風に使おうとしていた事も、まどかは知らなかったのだ。たしかにこの件に関して彼女は部外者に近く、相談されなくても可笑しな事ではないだろう。でもやっぱりまどかとしては、友達なのだから事前に一言くらいは話してほしかった。

 いや、とまどかは首を振る。

 本当はさやかが羨ましいのかもしれないと、まどかは思う。さやかは自分の願いを見付けて、それを叶える為に、魔法少女になる事を決意した。その姿は今のまどかとは正反対だ。魔法少女になりたいと考えていても、まどかはその為の願いが曖昧だった。たしかにアイの怪我を治すと約束している。でもそれはまどかの内側から湧き出た願いではなくて、マミによって用意されたものだ。だからその足元は覚束無く、まどかは魔法少女になりたいと胸を張る事が出来なかった。

 知らず目線を落としたまどかが、鞄を握る手に力を籠める。と、不意にさやかの呼び掛けがあった。

「まどかー。ちゃんと聞いてる?」
「あ、ごめん。少しぼうっとしてて」

 慌ててまどかが答えれば、さやかはしょうがないなと苦笑する。

「明後日の日曜に恭介の退院祝いをするからさ、まどかも参加しない?」
「上条君の退院祝い? わたしが参加してもいいの?」

 たしかにまどかとさやかは仲が良く、さやかと恭介は幼馴染みだ。でもだからと言ってまどかと恭介が親しい訳ではない。さやかを介して多少の付き合いはあるのだが、見舞いに行かない程度には浅い関係だった。だから恭介の退院祝いに誘われるというのは、まどかにとってはなんとも奇妙な気がするのである。

 疑問符を浮かべるまどかに対して、さやかは肩を竦めて答えた。

「いいのよ。退院祝いは建前で、本当の主賓は別に居るんだから」
「あら。誰ですの? 私達の知っている方でしょうか?」
「たぶん仁美は知らないかな。絵本アイっていう一つ上の先輩よ。恭介と同じ病院に入院してるんだけど、ちょっとお世話になってね。そのお礼がしたいから、退院祝いの名目で騒ごうって話なのよ。で、そのアイさんが二人と話したがってるわけ」

 思いもよらぬ名前を出されて、まどかは目を丸くする。さやかの方を見れば、彼女は薄く笑みを刻んでいた。

「ま、色々あったのよ。それで仁美はどうする? 他にマミさんっていう先輩も呼ぶ予定なんだけど」
「参加、という事でお願いします。私もその方に興味が湧きましたから」

 おっとりした動作で頬に手を当て、面白そうに仁美が話す。それに対し頷きで返したさやかは、次いでまどかの方に顔を向けた。言葉は無くとも、何を問われているのかをまどかは理解する。

「……わたしも行くよ。わたしも、アイさんと話したい」

 答えてから、まどかは自らの胸元で右手を握り締めた。

 まどかがアイと話したのは、初めて会った時の一度きりだ。あれから二週間ほど経っているが、アイとの約束に対して、まどかはまだなんの答えも出せていない。そもそも普通の少女でしかない彼女にとって、アイの話は理解出来ても実感しにくい類のものだった。もちろんマミからも色々と話を聞いてみたが、実際にまどかの目に映るのは格好良い魔法少女の姿ばかりで、かつての苦労話は遠い事のように感じられるのだ。

 だからこそ、アイと話してみたいとまどかは思う。それで何が変わるのかは分からないが、なんらかの切っ掛けになる気がした。

「おっけー、二人とも参加ね。そう伝えておくわ」
「よろしくお願いします。それで、場所はどこなんですの?」
「たしか駅前に新しく出来たお店とか言ってたかな。細かい事は夜に連絡するわ」

 話を進める二人の声を耳にしながら、まどかはやっぱり上の空。その意識は既に日曜日へと向いていた。

 アイにはどんな事を尋ねてみようか。アイはどんな話を聞かせてくれるだろうか。そんな思考が、まどかの脳裏でグルグルと回っている。まだ一度しか会った事がないというのに、まどかの中でアイの評価は随分と高くなっていた。単に第一印象がよかったという部分が大きいのだろうが、まどかにとって信頼出来る相手というのは確かだ。だから少しだけ、彼女の心は浮かれていた。

 まどかが空を仰ぐ。まばらに雲を散らした、気持ちの良い青空だった。自然と彼女の頬は緩み、表情から憂いが晴れる。日曜日が楽しみだ、とまどかは声に出さずに呟いた。


 ◆


 何事も無く時は過ぎ、約束の日曜日が訪れる。この日の天気は肌寒さを吹き飛ばすほどの快晴だった。雲を通さない陽射しは過ごし易い気温を作り出し、人々を家の外へと誘っている。午後の街並みには様々な人が溢れ、その中には私服姿のアイも混じっていた。白のスウェットワンピースに紺のロングコートを合わせた彼女は、いつも以上に幼さが強調されている。もちろん顔には大きなマスクだ。

 アイの隣には恭介の姿がある。彼もまた私服に身を包んでいるが、その両脇には松葉杖が挿まれていた。真新しい白の杖先で歩道を突き、恭介はたどたどしい足取りで歩いていた。

「いやー、今日はごめんね。退院祝いだってのに、乗っ取るような形になって」
「かまわないよ。元から絵本さんへのお詫びのつもりだったし」

 和やかな雰囲気で話しながら、二人はのんびりしたペースで進んでいく。途中までは恭介の父が車で送ってくれたのだが、目的地の関係で少し歩く事になったのである。とはいえ約束の時間までは余裕があり、この調子なら十分前には辿り着けそうだった。

「気が滅入っていたとはいえ、あの時は酷い事を言ってしまったからね」

 恭介が顔に憂いを刻む。彼が言っているのは、アイが恭介を怒らせた時の事だろう。どうやら恭介はアイが思っている以上に後悔しているらしく、あれから何度か謝罪を繰り返した今でも、こうして気に掛ける様子を見せていた。

「退院したら会う機会が少なくなるから、どうしても今日までになんとかしたかったんだ」
「それで気が済むならいいけどね。どうせボクは奢ってもらうだけだし」

 肩を竦めて、アイは余裕ぶった態度で答える。とはいえ、その内心は決して額面通りのものではなかった。

 たしかに恭介との問題について、アイはほとんど気にしていない。何故なら今の彼女にとって重要なのは、恭介の気持ちではなくさやかの状況だからだ。さやかが魔法少女になってしまった事について責任を感じているアイは、彼女の今後について頭を悩ませていた。

 魔法少女はいずれ絶望の淵に叩き落とされる。それをアイは信じているが、具体的にどうなるのかは想像もつかない。杏子の過去に起きた話などは参考になるかもしれないが、圧倒的に資料不足と言えた。だからアイは、今日の退院祝いにまどか達を呼んだのだ。さやかの情報を色々と聞き出す事で、なんらかの糸口を掴めるのではないかと考えた訳である。

「そういえば巴マミさんだっけ? 彼女はどういう人なんだい?」
「……思い遣りのある優しい子だよ。頭も良いし美人だし、惚れちゃうかもしれないぜ」

 目を細めたアイの口元が歪む。自嘲、という言葉がよく似合う表情だった。

 恭介がアイへの謝罪として用意した今回の席は、同時にアイがマミに謝罪する為の場でもある。このままでは自分で自分を追い詰めるだけだと、アイはマミとの問題を解決しようと決心したのだ。上手くいく自信はあった。この件はアイが勝手に臍を曲げたのが原因なので、謝り倒せばマミは許してくれるだろう。ただその事を理解はしていても、完全に不安を消す事は出来なかった。

 誤魔化すようにアイが笑う。それから彼女は、隣の恭介を見上げた。

「とはいえ、上条君にはさやかが居るか」
「えっ。いや、それは……」

 微かに頬を赤く染め、恭介はソッポを向いた。

「好きって言われたんだろ? その調子なら脈はありそうだね」

 さやかに告白された恭介だが、アイが聞いた限りでは、どうやら付き合っている訳ではないらしい。あまりに突然の事に両者共に戸惑っているようで、うやむやにしている部分が見て取れた。それでも変化が無かった訳ではなく、二人の距離が縮まっている事は誰の目にも明らかだ。このまま放っておいても、暫くすればくっ付いているだろうというのがアイの予想だった。

「ま、ゆっくりいけばいいんじゃないかな」
「……でも僕は告白されたわけだし、このままじゃ駄目だと思うんだ」

 松葉杖での歩みを止め、恭介は地面に視線を落とす。同じく足を止めたアイが、空を見上げた。

「急ぐなよ。焦って答えを出したところで、逆にさやかを傷付けるだけかもしれないぜ。結果がどうなるにせよ、少なくともキミ自身が納得できる答えじゃないと意味無いだろ。そうじゃなきゃ、誰も報われやしない」

 言ってから、アイは馬鹿みたいだと自嘲した。今の彼女は時間に追われるばかりで、自分で自分を急かせるばかりで、近頃は納得の出来る答えなんて一つも出せていないのだから。でもだからこそアイは、恭介にちゃんと考えてほしいと思った。余裕があるという事は、ただそれだけで価値ある事なのだと、アイは思い知らされたのだ。

「そうかな…………いや、そうだね」

 再び恭介が歩き出す。ゆっくりと、それでも確実に、彼は進む。その背中を追って、アイも足を踏み出した。アイはすぐさま恭介に並んだが、口を開こうとはしない。それは恭介も同じで、二人は暫し沈黙に身を預けた。

 交差点に差し掛かり、アイと恭介は赤信号で足を止める。ちょうど通行人の途切れる瞬間だったのか、辺りに信号待ちをしている人影は見られない。多くの雑音に溢れる街中で、二人の立っている場所だけが、奇妙な静寂に包まれていた。

 ぼんやりと、アイは周囲に視線を巡らせる。直後、彼女は小さく声を漏らした。

「どうかしたの、絵本さん?」
「あぁ、いや。ほら、あそこの女の子」

 僅かな逡巡の後、アイは対岸の歩道を指差した。

「あの頭の両サイドで髪を縦に巻いてる子。彼女がマミなんだ」

 その言葉通り、アイの見詰める先には私服姿のマミが歩いている。どうやら向こう側は、まだアイの存在には気付いていないらしい。平然とした態度で歩を進めるマミの姿を見て、アイの胸には様々な想いが去来した。

 アイが直接マミを見たのは、一方的に部屋から追い出したあの日が最後だ。今日の件でも、マミに声を掛ける役はさやかに任せてしまっていた。だからどうしても、アイは罪悪感を抑える事が出来ない。

「へえ、彼女がそうなんだ。あ、ちょうど信号が青になったね」

 赤になる前に渡ろうと、恭介は少し急いだ様子で松葉杖を突く。その背中を、アイは黙って追い掛けた。このまま進めば、ちょうどマミが交差点に辿り着く頃に渡り終える事になるだろう。もちろん悪い事ではないのだが、アイは心の準備が出来ていなかった。

 高鳴る鼓動が胸を叩き、余計にアイを焦らせる。ゴクリと、彼女は知らず喉を鳴らした。

 不意にマミの顔がこちらを向く。ばったりと目を合わせたアイとマミは、互いに驚き息を飲んだ。だがそれも一瞬の事で、アイは気まずさから目を逸らしてしまう。直後、彼女は大きく目を見開いた。

 ――――――――考えなかった訳ではない。

 さやかは恭介の指を治す為に魔法少女となった。お蔭で恭介は以前と同じようにヴァイオリンを演奏出来るようになり、また今まで以上にさやかとの仲を深めている。今のさやかはまさに幸せそのものといった様子で、希望という言葉は彼女の為にあるかのような状態だった。

 でも、魔法少女は絶望する運命にある。希望はやがて絶望に染まり、深い暗闇に投げ出されなければならない。ではさやかを絶望させるには、何をどうすればいいのだろうか。どんな事が起これば、彼女の心は闇に落ちてしまうのだろうか。その答えは明白だ。さやかの希望の源は一人の少年なのだから、彼を奪ってしまえば簡単だ。

 だから、つまり、これは当然の帰結と言えるのかもしれない。

 車が勢いよく迫ってくる。止まる気配も無く走っている。それがどんな車種かは分からない。どのくらい大きいのかも分からない。そんな事を冷静に分析する余裕は、一瞬でアイの内から消え去った。ただこのままでは危険だという事を、彼女は本能的に理解していた。

 気付いた時には、アイの体は動いていた。

 アイが恭介の背中を突き飛ばす。恭介の体が僅かに宙に浮き、少し離れた場所に倒れ込む。普段のアイなら考えられないほどの力だった。これが火事場の馬鹿力というやつかと、彼女は場違いに考える。

 でも、これでおしまい。それ以上、アイが何かをする余裕は無かった。

 視界が車で覆われる。轢かれるのだと、アイは他人事のようにその車を眺めていた。意識は冷静で、だけど思考は回らない。恐怖は無く、焦りも無く、彼女はただ、傍観者みたいに目の前の事実を認識していた。

 最後に、アイは叫び声を聞いた気がした。でも、ブレーキの音で分からなかった。


 ◆


 雑音がする。煩わしい雑音がする。人の声も車の音も何もかもが鬱陶しい雑音だ。音の境すらも曖昧なそれらが耳にこびり付き、片時すら離れようとしない。一体自分はどこに居るのだろうと、唐突にマミは疑問を抱く。どこで何をしているのか、彼女は自分でも分からなくなりそうだった。見失いそうだった。

 だって、そうだ。マミの目に映る光景は滅茶苦茶だ。可笑しいとしか言い様が無い。あまりにも非現実的過ぎる。

 道路に一人の少女が倒れていた。こんなにも騒がしいのに、誰もが慌てているというのに、彼女はピクリとすら動かない。その体から真っ赤な血を垂れ流し、アスファルトに黒い染みを作ろうとしている。そう、彼女は車に轢かれたのだ。

 少女の名前を、マミは知っていた。絵本アイという名だ。マミの友達で、とても仲が良くて、だけど最近はちょっと喧嘩をしていて、それで、それが、どうしてこんな事になっているのだろうか。マミにはさっぱり理解出来ない。理解したくもない。

 だってこのままでは、アイは死んでしまうではないか。

 絵本アイは貧血という病気に掛かっている。そう、根本的に血が足りていないのだ。だから彼女にとって、血の一滴は常人の何倍も価値を持つ。あんな風に流していいものではないし、あれだけでも容易く命を脅かす。

 決して派手な事故ではなかった。轢いたのは普通車で、多少はブレーキも効いていた。轢かれたのが健常者であれば、よほど運が悪くない限り命の心配は要らなかったかもしれない。だけど実際の被害者はアイで、彼女は健康とはほど遠い体の持ち主だった。

 止血しないと。ここに来て、ようやくマミの頭が動き始める。救急車など待ってはいられない。一秒でも早く流れ出る血を止めなければ、本当にアイが死んでしまう。そう思った瞬間、マミは集まり始めた人垣の中から飛び出していた。

 倒れているアイの傍では、二人の人間が右往左往している。一人はアイと共に居た同年代の少年で、もう一人は中年の女性だ。女性の方は轢いた車の運転手だと分かっていたが、マミは怒りをグッと堪えてアイの傍に駆け寄った。そこでは少年が、先程から何度もアイに呼び掛けている。しかし倒れているアイは、なんの反応も返していない。

「……意識は無いみたいね。となると、下手に移動させるのは危険だわ」

 意外なほどマミは冷静さを保っていた。アイの危機だという意識が、逆に頭を落ち着かせたのかもしれない。

「あなたが上条君ね。私は巴マミよ。ここは私に任せない」

 振り向いた恭介へ一方的にそう告げて、マミはアイの傍にしゃがみ込んだ。そのままアイのあご先を持ち上げて、彼女は呼吸を確認した。結果は良好。どうやら呼吸が止まっている訳ではないようだと、マミは僅かに安堵する。

「あの……」
「黙ってて」

 口を開いた恭介に対し、マミは厳しく言い捨てる。驚いて身を竦ませる恭介を横目で見たマミは、それから加害者である中年の女性に目を移す。女性は携帯電話で救急車を呼んでいたらしく、話しながらチラチラとこちらを窺っていた。

「意識はありませんが、呼吸と脈はあります。あと外出血は酷いと伝えてください」

 脈の確認をしながらマミが告げれば、女性は慌てた様子で頷いた。それを確認してから、マミは再びアイの方に顔を向ける。変わらずアイの反応は無い。彼女は目を閉じたまま、ぐったりと地面に横たわっている。おそらく頭を打ったのだと思われるが、頭部からの出血は幾つかの擦り傷だけだ。内出血の危険性が十分に考えられるとはいえ、マミとしても手を出し辛い。

 それよりも、とマミは体の方に目を向ける。手足が可笑しな方向に曲がっているという事は無いが、服の袖から零れる出血は見逃せない。少しコートを捲れば、白いワンピースに真っ赤な染みが出来ていた。また足の方にも派手な出血が見られ、一刻も早い止血が求められる状況だ。もちろん救急車など待ってはいられない。

 大きく息を吐き、マミは自分を落ち着かせる。それから彼女は、鞄からポケットティッシュを取り出した。白いティッシュを何枚か用意し、マミはまず足の出血箇所に押し当てる。

 直接圧迫による止血、というのは見せ掛けだけだ。

 かつてマミは交通事故に遭った事がある。彼女がこの状況に対応出来ているのも、その経験から交通事故について勉強したお蔭だ。しかし重要なのはそこではない。事故で命を失いそうになったから、マミは助かる為に魔法少女になったのだ。そう、つまり彼女もまた、簡単な治癒魔法であれば使える訳である。そしてアイを魔法で治療する事に、躊躇いを持つマミではない。

 淡い光をティッシュで誤魔化しながら魔法で癒せば、すぐに止血は完了した。それを確認したマミは、即座に別の箇所の止血を開始する。ただ黙々と、ただ真剣に、救急車が来るその時まで、マミは応急手当てを続けるのだった。


 ◆


 全てが終わったのは何時だっただろうか。深夜の病室でふとそんな疑問を抱いたマミは、けれどすぐにどうでもいい事かと首を振る。それから彼女は、目の前のベッドに目線を落とした。明かりを消している所為でよく見えないが、そこにはアイが眠っている。暗闇に響く寝息に耳を傾けながら、マミは腰掛けた椅子に体重を預けた。ゆっくりと、肺の空気を押し出していく。

 アイが搬送されたのは、当然の如く彼女が入院している病院だった。ちょうどアイの伯父である雅人の手が空いていた事もあり、診察から手術までの流れがスムーズに行われたのは不幸中の幸いだったと言えるだろう。その途中でアイが目を覚ましたらしいが、すぐに手術が始まった所為でマミは話せていない。手術後も、こうしてアイは眠り続けている。

 既に夜も更けてしまったが、マミはずっとアイの様子を見守っていた。恭介は居ない。時間が遅くなったという事もあり、後からやってきたさやか達と一緒にマミが帰らせたのだ。もっともそれは相手を思い遣っての行動ではなく、単にマミが恭介と一緒に居たくなかったからだ。

 あの場に恭介が居なければ、アイは助かったかもしれない。マミはその考えを捨てきれなかった。もちろん実際には違うだろう。あそこに居たのがアイだけだったなら、きっと彼女は何も出来ずに轢かれたはずだ。恭介が居たからこそあんな動きが出来たのだと、マミはちゃんと理解している。でも理解する事と納得する事は、やはりまったくの別物なのだ。

 命に別状は無いと、手術を担当した雅人は言った。幾つか骨折があり、その完治に時間は掛かるだろうが、それでも命の心配をするほどではないと、彼は言ったのだ。ただ、懸念事項が一つあるとも。それの所為で、マミは余計に恭介への嫌悪感を強めていた。

 どうしてこんな事になったのだろうと、マミは思う。彼女にとって、今日はアイと会う為の日だった。さやかを介しての約束というのが少し悲しくはあったが、それでもアイの方から誘ってくれたのは嬉しかったのだ。結局アイが怒った理由は分からないままだったが、それでも仲直り出来るのだと、マミはこの日を楽しみにしていた。

 眉尻を下げたマミが、サイドテーブルに視線を移す。暗がりでよく見えないが、そこには一通の封筒が置かれている。元々は事故の拍子で散乱したアイの荷物に紛れていた物で、更に元を辿ればマミがアイに送った手紙だった。未開封の状態で道路に落ちていたそれを、たまたまマミが見つけたのだ。

 アイが手紙を読んでいない理由は分からない。けど大事そうに持ち歩かれていたそれは、アイが自分の事を気に掛けている証左だろうと、マミは考えている。そう思わなければ、色々と駄目になりそうだった。

「だって、だって私達は――――――」

 親友だから。その言葉は、声にならずに消えていった。拳を握り締め、マミは強く唇を噛んだ。

 絵本アイを守りたい。巴マミがそれを明確な目標としたのは、はたしていつの事だっただろうか。初めは単なる友達だった。新しく出来た不幸な境遇の友達で、それ以上ではなかったはずだ。でも交通事故に遭って、魔法少女になって、まったくの別世界に取り残された気がしていたマミにとって、アイは数少ない確かな存在だった。今のマミになってから築いた関係は、かつてのそれよりも信頼出来たのだ。

 ただの少女だった巴マミは、交通事故で死んでしまった。その代わりに、魔法少女の巴マミが生まれたのだ。そして魔法少女のマミの傍に最初から居たのがアイで、ずっと一緒に居たのがアイで、最も詳しく知っているのがアイだった。そう、今の巴マミの根幹に居る存在こそが絵本アイなのである。だからこそマミにとって掛け替えが無く、気付いた時には誰よりも守るべき対象になっていた。

 ではアイにとってのマミはどうだろうか。マミにとってのアイと、それは等価なのだろうか。

 違うと、マミは思った。たしかにアイにとってマミは親友かもしれないが、きっと掛け替えの無い存在ではない。アイに尋ねれば、マミは一番の友達だと言うだろう。でも一番という事は二番目も居る訳で、つまりは比較対象が居る訳だ。そして場合によっては、その順番が入れ替わる。マミにとってのアイはそうではない。マミの中でアイは唯一の存在で、比べられる相手なんて居ないのだ。

 故に、不安。アイの価値観ではマミの存在は揺らぐかもしれないから、マミはそれが不安だった。

「大丈夫よね?」

 マミの問い掛けに、返る言葉は無い。ただそれでも、マミは自身の決意を新たにした。アイの代わりなんて居ないから。代わりなんて、要らないから。だから彼女を助けたいと、マミは胸の奥に刻み込む。

「ん……ぅ……」

 不意に微かな声が響く。それがアイのものだと気付いたマミは、急いでスタンドライトを点灯させた。淡い光が辺りを照らし、アイの寝顔が露わになる。彼女の額には純白の包帯が巻かれ、また頬にはガーゼが貼られていた。

 白い目蓋が小刻みに震え、アイの覚醒が近い事を伝えている。喉を鳴らし、マミは息を潜めてアイの顔を見守った。

 やがて、ゆっくりとアイの目が開き始める。間も無く、目蓋の下から黒い瞳が現れた。まだ傍のマミには気付いていないらしく、アイは寝惚け眼で視線を彷徨わせている。眩しかったのかスタンドライトの方を見遣り、そこで彼女は、マミとばったり目を合わせた。

「……マミ?」
「えぇ、そうよ」

 寝起きのアイを刺激しないよう、マミは穏やかな声音で答える。

「えっと、どうして?」
「あなたは事故に遭ったのよ。手術の事とか、覚えてる?」
「……あぁ、うん。思い出した」

 やや掠れた声で呟いてから、アイは右手を自らの体に這わせた。今は布団に隠れて見えないが、そこには硬いコルセットが着けられているはずだ。何も言わずに目を細めた彼女は、次いで左腕の様子も右手で確かめる。アイの左腕は、二の腕から手首までギプスで覆われていた。

「今、何時かな?」

 アイが問う。とても静かな声だった。

「えっと、深夜の一時を過ぎたところよ」
「そうなんだ。こんな時間までよく残れたね」
「あなたの伯父さんが便宜を図ってくれたのよ」

 質問に答えながら、マミは言い知れない不安に襲われていた。

 見たところアイに異常は無い。怪我の所為で痛々しくはあるが、それでも彼女の意識はハッキリしている。問答に可笑しな所は無いし、体も問題無く動かせているように見えた。だけど穏やか過ぎるほど穏やかなアイの表情が、どうしてかマミの焦燥を煽るのだ。

「ねぇ、マミ」
「なにかしら?」

 言いつつ、マミは拳を握り締める。

「変なお願いだと思うけど、ボクの足を触ってくれないかな」
「あなたの足を?」
「うん。ちょっと、確かめたい事があって」

 アイの表情はちっとも冗談を言っている風ではなくて、むしろ怖いくらい真剣な目をしていた。だからマミは言われるままに、震える手で布団を捲っていく。そうして露わになったアイの足は、びっくりするほど細かった。本当にこれで歩けるのかと思うくらい頼りなくて、マミは思わず息を飲む。

「マミ?」

 問われ、マミは慌てて腕を伸ばす。そのままおっかなびっくりした様子で細い足に触れたマミは、アイの方を窺った。マミの視線を受けたアイが、微笑を返す。無言で続けるように促していた。マミは黙ったまま、太腿からふくらはぎまで、自身の手を往復させ始める。

 怪我の所為で包帯を巻かれてはいるが、アイの足に異常があるようには思えなかった。しかしこんな事をさせる理由はあるはずで、それを考えたマミは、直後に硬直してしまう。嫌な事実に思い当たったからだ。

「アイ、もしかして……」

 震えるマミの声は、それ以上言葉にならなかった。

 今回の事故でアイが負った怪我の中で、特に大きなものが二つある。一つは左腕の複雑骨折で、もう一つは腰椎の破裂骨折だった。どちらも時間は掛かるが問題無く完治し、命に別状も無いと雅人は診断している。ただ、腰椎の骨折には問題があった。これによって脊髄、つまりは中枢神経を損傷し、身体機能になんらかの支障をきたす恐れがある為だ。

 だから、これは、つまり、そういう事なのだろうか。今にも泣きそうな表情で、マミはアイを見詰める事しか出来なかった。

「うん。足が上手く動かないんだ。感覚も、今はほとんど無い。手術前に確認したけど、変わってないね」

 下半身麻痺。その単語が、マミの胸を突き刺した。

 雅人はこれを知っていたはずだ。知っていたのに、あえてマミには教えなかったのだ。いや、今はそんな事はどうでもいい。とにかくこの事実に対して何かアクションを起こさなければとマミは思った。でも、何をすればいいのか分からない。アイに掛ける言葉が考え付かなくて、マミは息苦しさを覚えるほどだった。

 だってアイは報われない人間なのに、これまでも大変な人生だったのに、更にはこんな悲劇まで降り掛かるなんて、あんまりにもあんまり過ぎる。こんな事があっていいのかと、マミは思わずにはいられなかった。

「ところでさ」

 アイの声。まるで雑談でもするみたいなそれに、マミは肩を揺らした。

「上条君は大丈夫だった?」

 瞬間、マミは歯を砕けるほどに噛み締めた。
 拳を握り、顔を逸らし、マミは必死に声を絞り出す。

「……安心して。怪我一つ無いわ」

 そっか、とアイの呟き。それに誘われて、マミは彼女の方を向く。

「よかった」

 アイは微笑んでいた。マミが見た事ないくらい綺麗な表情で、彼女は微笑んでいた。そこには一点の曇りも無く、微塵の後悔も無く、ただ純粋な喜びばかりが溢れている。まるで救えないほど、今のアイは満たされていた。

 この時の感情を表す言葉は、きっと世界中を探しても見付からないと、マミは思う。言い表せるはずが無いと、彼女は確信する。それほどまでに、マミが見た光景は無慈悲なものだったのだ。

「――――なんで」

 マミの絞り出した声は、今にも崩れそうなくらいボロボロだった。

「なんで! なんで!! なんでッ!?」

 繰り返しマミが叫ぶ。叫ぶ度に、マミは胸が張り裂けそうな気がした。アイの表情が分からない。涙で歪んだマミの視界は、なにもかもがグチャグチャだった。頭の中までグチャグチャだった。

「なんでなのよぉ……」

 もう自分でも何を言いたいのかが分からない。分からないけど、次から次へと感情が溢れてきて、涙も溢れてきて、マミ自身もどうしようもなかった。子供みたいに泣き続ける事しか出来なかった。

 涙に濡れたマミの頬に、小さな手が添えられる。アイの手だと気付き、マミは驚いて彼女の方を見る。

「ありがとう。やっぱりマミは、一番の友達だよ」

 笑顔で紡がれたアイの言葉はとても優しく、とても残酷なものだった。
 マミの顔が歪む。もはや我慢も何も無く、彼女は大きな声で泣き出した。

 病室に響く少女の泣き声。やむ事の無いそれは、暗がりの中でいつまでも続いていた。


 ◆


 日も暮れ始め、西日が射し込み始めた病院の廊下。日当たりの良いその場所に、固まって歩く四人の少年少女の姿があった。鹿目まどかと志筑仁美、そして美樹さやかと上条恭介だ。本日の授業を終えた彼女達は、事故に遭ったアイの見舞いをする為に、こうして一緒に病院までやってきた訳である。

 四人の表情は、やはり浮かないものだった。アイと会った事の無い仁美は例外だが、他の三人は一様に陰を落としている。中でも恭介は酷いもので、随分と思い詰めているように感じられた。

「アイさん、大丈夫なのかな」

 歩きながら、まどかが喋る。
 恭介は肩を震わせ、さやかは肩を落とした。

「どうでしょうか。昨日は碌に話も聞けず仕舞いでしたし」

 答え、仁美は嘆息する。

「大事無いと良いのですけれど」

 仁美の言葉に、他の三人が頷いた。

 本当にそうだと、まどかは思う。起こってしまった事故は仕方ないとしても、せめて怪我の容態は軽いものであってほしい。ただでさえアイは大変な病気に罹っているのだから、これ以上の不幸はやめてほしいと、彼女は願わずにはいられなかった。

「あ、ここだよ」

 そう言ってまどかは、アイの病室の前で立ち止まる。振り返れば、さやかと恭介が硬い表情で扉を見詰めていた。二人には色々と思う所があるのかもしれない。まどかの知らない所で世話になったという話だし、恭介は昨日もアイに助けられたと聞く。だからその心境は、きっとまどか以上に複雑なものがあるはずだ。

 再び扉に顔を向け、息を吸い、まどかは強めにノックする。すぐに中から返事があり、彼女はゆっくりと扉を開けた。

「やぁ、いらっしゃい。お見舞いに来てくれたのかな?」

 まどかを先頭に四人が病室に足を踏み入れると、アイが明るい声で出迎えてくれた。部屋の奥へと目を向ければ、ベッドの上に居るアイの姿がよく見える。可動式のベッドを傾けた彼女は、何かの本を読んでいるようだった。マミの姿は無い。学校を休んだ彼女はここに居る、とまどかは考えていたのだが、どうやら違ったらしい。あるいは、何かの理由で席を外しているのだろうか。

「そっちの子は初めましてだね。キミが志筑さん?」
「あ、はい。初めまして、志筑仁美と申します」
「うん、初めまして。ボクは絵本アイだよ」

 頭を下げる仁美に対して、アイは満足げに頷いた。それから、まどかの方へと顔を向ける。正確には、その背後に。

「後ろの二人も早く入りなよ。歓迎するぜ」

 おどけたように喋るアイの言葉を受け、さやかと恭介も入室する。どこか躊躇いがちなその足取りは、二人の迷いを表していた。それでも歩みを止める事無く、更にはまどかも追い越して、二人はベッドの脇まで近寄った。慌てて、まどかと仁美も後を追う。

 まず口を開いたのは恭介だった。

「その……」

 恭介の言葉は続かない。何かを言いたげに口を開くのに、彼の声は紡がれなかった。それでも諦めずに口を開閉し、何度か同じ事を繰り返した後に、ようやく恭介は言葉を継いだ。

「昨日は、ありがとう。君のお蔭で助かったよ」
「どういたしまして。ボクも上条君が助かって嬉しいよ」

 言葉通り、アイは嬉しそうに笑みを浮かべた。それを見て、恭介は目線を落とす。

「でも、僕の所為で……」
「それは違うぜ」

 アイの声が鋭く響く。驚いたように、恭介が顔を上げた。

「走って避ける余裕なんて無かった。だからキミが居なくても同じだったよ」

 肩を竦めてアイが話す。その言葉は事実だとまどかは感じたが、それでも納得出来ないのか、恭介は悔しそうに歯噛みした。しかし掛ける言葉が見付からないのか、彼は黙ってアイを見詰める事しか出来ていない。

 暫しの静寂。それを破ったのは、恭介の隣に立つさやかだった。

「あの、アイさん」
「ん? なにかな?」
「えっと、怪我の具合を聞いても良いですか?」

 尋ねられたアイは、ちょっと困ったように頬を掻いた。それだけで、まどかの胸に不安が募る。何か聞かれては不味い事でもあるのだろうか。そんな疑念が、彼女の中で首をもたげた。

「とりあえず、見ての通り左腕は骨折中だよ」

 僅かに左腕を上げたアイは、ギプスで固定されたそれを右手で撫でる。

「あとは腰椎、つまり腰の辺りを骨折してる。コルセットで固定してるからちょっと苦しい」

 どこか冗談めかして喋るアイの姿には、一切の負の感情が見られなかった。骨折とは言うものの、大袈裟にするほどではないのかもしれない。そう思って安堵し掛けたまどかは、恭介の顔を見て瞠目した。

 恐怖。今の恭介の表情を説明するなら、その一言で事足りる。

「あぁ、上条君はそっちの知識もあるのか。嘘を言ってもしょうがないし、ちゃんと話すけどね」

 そう言ったアイの口調は、やはり軽いものだった。けれどその内容は、決して軽いものだとは思えない。むしろその逆で、とても重いものなのではないかと、まどかは言い知れない不安に襲われた。

 不意にアイが苦笑する。それを怖いと、まどかは思った。

「骨折ついでに脊髄をやられたみたいでね。もしかすると、二度と歩けなくなるかもしれない」

 えっ、という声は誰のものだったか。まどかだったかもしれないし、他の誰かだったかもしれないし、アイを除いた四人全員のものだったかもしれない。それほどまでに、アイの言葉は衝撃的だった。

 歩けなくなる。それはどういう事だろうか。足が動かなくなるという事だろうか。あぁたしかに今日のアイは寝たきりだと考え、それからまどかは、どうしようもなく悲しくなった。泣きたいほどに悲しくなって、でも、涙は流れなかった。

 嘘だとは思わない。アイはこの手の嘘は言わない人間だと、まどかは信じている。けれど真実だとしたら、それはあまりにも惨い現実だと言うほかない。だって、アイは何も悪い事をしていない。むしろ恭介を助けているではないか。歩けなくなるかもしれないなんて、そんなのあんまりだ。

「まだ確定ではないけどね。リハビリ次第では回復する見込みもある」

 瞑目して語るアイは、けれどまったくその言葉を信じているようではなかった。きっと限り無くゼロに近く、奇跡みたいなものなのだろうと、知識の無いまどかにも理解出来る。

「でも、それは――――ッ」

 何かを言い掛けた恭介に対し、アイは自らの唇に指を添えて答えた。

「キミは無事だったんだろ?」
「そう、だけど……」

 やり切れない様子で恭介が俯く。よく見れば、その拳は硬く握られていた。

「だったら、ボクに後悔は無いよ。元々あまり歩かない生活だったしね。それに上条君の演奏を聴いて、ボクは本当に感動したんだ。キミがまた怪我するような事にならなくて、今はホッとしてるよ」

 答えるアイの顔には、欠片の陰りも見られない。その理由は、彼女の本心を話しているからだろうか。はたまた追及を拒絶している所為だろうか。それが分からなくて、まどかは何も言えなかった。さやかも恭介も、同じように口を噤んで立ち尽くしている。

「あなたはそれで良いのですか?」

 尋ねたのは仁美だった。彼女は真っ直ぐにアイの顔を捉え、視線を僅かも逸らしていない。

「余裕が無かったとおっしゃいますが、本当にそれで納得していますの? 上条君を庇わなければと、少しも思わないのですか?」

 強い口調で紡がれた仁美の質問は、些か無遠慮なものだったかもしれない。けど、絶対に確かめるべき事でもあった。だってそこに疑問を抱いたままでは、みんな不幸になってしまう。恭介もさやかも、そしてまどかも、心のどこかにしこりを残してしまうだろう。

 縋るような視線を、まどかはアイに送った。さやか達も、真剣な瞳でアイに注目している。

「思わないよ」

 短く言い切って、アイは頬を緩めた。

「強がりなんかじゃない。本当にボクは、満足してるんだ」

 澄んだ微笑みだと、まどかは思った。心の底まで澄み渡ったようなそれは、今度こそ本当の事を言っているのだと、まどかに確信させる。同時に彼女は、アイとの約束を思い出す。あの約束でアイが伝えたかった事を、まどかは理解する。

 いつか魔法少女になって、もしも今のアイみたいな状況に置かれた時、まどかは同じように笑っていられるだろうか。ただ相手の無事を喜んでいられるだろうか。そう自問しても、まどかはすぐには答えられなかった。もしかしたら、魔法少女になった事を後悔してしまうかもしれない。アイの為に奇跡を願わなければと、そう考えてしまうかもしれない。

 そんな事は無い、とまどかは否定出来なかった。だって彼女は普通の女の子で、魔法少女には憧れているだけだ。まどかは格好良い魔法少女になりたいだけで、アイの病気を治す事は、その一環に過ぎない。だから魔法少女になった所為で自分が不幸になってしまえば、後悔してしまうかもしれないと、まどかは自身の在り様を理解する。

 この後の事を、まどかはよく覚えていない。ただ幾つかの雑談の後に四人揃って帰る時になっても、マミがやって来なかった事だけはよく覚えている。それでよかったと、まどかは思った。今はマミに会っても、これまでみたいに接する事は出来ないから。

 家に辿り着き夕食を終えた後も、まどかは悩んでいた。ずっとずっと、悩み続けるのだった。




 -To be continued-



[28168] #014 『なんでだろうな』
Name: ひず◆9f000e5d ID:12349ee8
Date: 2011/10/23 22:52
 唸る暴風。肌刺す冷気。視界の全ては白で覆われ、一息毎に肺が凍てつく。紛う事無き猛吹雪。惑うしかない白銀世界。残す足跡もすぐに消え、一寸先すら不確かで、行く道も帰り道も分からない。ただの一つも導が無く、どれだけ進もうと変化の無いこの場所では、自身の存在すらもあやふやなものになりそうだった。

 雪に慣れないなら近寄るべきではない。慣れた者でも踏み入るべきではない。誰もが直感的にそう理解させられる吹雪の中を、『彼女』は黙々と進んでいた。頭には深く被ったハンチング帽。つばに隠れた目は真っ直ぐに前を見据え、口元は固く結ばれている。白いシャツの上に栗色のベストを重ね、黒のズボンを穿いたその姿は、とても吹雪に挑む装備とは思えないが、彼女は気にする事無く歩いていた。

 栗色のブーツが雪に沈む。踝が完全に埋もれ、ふくらはぎまで雪が達したところで、進む為に足を抜く。その繰り返し。さながら機械のように、そうでなければ亡者のように、彼女は無心に前を目指す。

 方角など分かるはずも無く、常人であれば迷うは必死。だというのに、彼女の歩みに躊躇は無かった。気味が悪いほど真っ直ぐに、彼女は前へ前へと足を進める。それはつまり、自身の向かうべき先を、彼女がちゃんと理解しているという事だ。

 一体どれだけの時間が過ぎただろうか。彼女の服は雪に塗れ、全身が白に染め上げられていた。それでも息を切らす事は無く、歩みを緩める事も無く、彼女は前を目指し続ける。顔も背丈も少女のそれでしかないのに、その体力は明らかに常軌を逸していた。

「――――っ」

 不意に彼女が足を止める。同時に、視界を覆う吹雪が消えた。雪がやんだ訳ではない。彼女の眼前の一角だけが、不自然に晴れているのだ。雪が降らず、けれど雪が積もった真白の雪原。暴風も唸りを潜めるその場所の中央に、大きな影が存在していた。

「雪女……」

 彼女の呟き。その言葉通り、影は雪女のような姿をしていた。

 艶の無い黒の長髪に、死装束の如き白い小袖。顔は両手で覆われて見えないが、その肌は生気が感じられないほど青白い。膝をつき顔を隠すその姿は泣いているようにも思えたが、そんな事よりも彼女は、一人の少女を連想して眉根を寄せた。

 これが魔女と呼ばれる存在だという事を、彼女は知っている。
 これが魔法少女と呼ばれる存在だった事を、彼女は知ってしまった。

 彼女が白い息を吐く。それからゆっくりと、右手を上げた。何も無かったはずのその手には、いつの間にか大きな斧が握られている。白銀の刃を持つ両刃の大斧。それを肩に担ぎ、彼女は改めて魔女を見上げた。

 やはり魔女と言うべきか、人型を取りながらも、その大きさは常軌を逸している。蹲った状態では正確には分からないが、身長は優に十メートルを超えるだろう。徒人であれば、前に立つだけで足が竦むほどの存在感。しかし彼女にとっては、狩るべき獲物に過ぎない。

 斧の柄を握り締める。自らの腰を僅かに落とす。そして彼女は、勢いよく駆け出した。

 爆ぜる足元、舞う雪煙。無地の白雪を踏み荒らし、彼女は一直線に魔女を目指す。速過ぎるほどに速過ぎた。抉るように雪を蹴り、瞬きの内に距離を詰める。気付いた時には、彼女は魔女の膝元まで近付いていた。

 接敵。後、攻撃準備。彼女が斧を振り上げ、白銀の刃が煌めいた。しかし魔女は動じる事無く、変わらず両手で顔を覆っている。短い呼気。斧の柄に左手を添え、彼女は全力で魔女の足に叩き付けた。

 ――――――ッ。

 手応え有り。否、有り過ぎた。手の平に返る硬い感触は、明らかに生物相手のものではない。とても分厚く、けれど澄んだ氷の壁。斧の刃は、その壁を僅かに穿った所で止まっていた。

 舌打ち一つ。彼女が斧を引き抜けば、氷の飛沫が舞い散った。魔女は動かない。相変わらず両手で顔を隠したまま、魔女は雪原に膝をついている。その周りには氷のベールが張り巡らされ、魔女を優しく包んでいた。

「……っ」

 何故だか苛立たしくて、腹立たしくて、彼女は力の限り斧を振り下ろす。

 二度目の衝撃。壁の半ばまで刃が達し、放射状の罅が走る。それでも魔女は、変わらぬ姿勢を維持し続けた。だから彼女も気にせず、再び斧を振り被る。そうして三度目。更に深く、斧が氷に突き立った。

 ――――――――ッ!!

 四度目。氷の壁は、拍子抜けするほど呆気なく崩れ去った。更に被害は連鎖する。開いた穴を起点として罅が広がり、間も無く全ての氷が砕け散った。細かな破片が光を反射し、彼女は思わず目を細める。だが、その視線は魔女を捉えたまま離さない。眼光鋭く、彼女は魔女を睨めつけた。

 彼女が笑う。口角を吊り上げる。不敵なそれは、けれど微かな影を帯びていた。

 もはや互いを隔てる障害は無い。無防備にその身を晒す魔女に対して、彼女は両手で斧を構えた。ここで初めて魔女が動く。隠したままの顔を、彼女の方へと向けてくる。だが遅い。あまりにも遅過ぎた。

 彼女が飛翔する。地面を穿ったその跳躍は、軽々と魔女を飛び越した。手には大斧、眼下に魔女。両手で柄を握り締め、彼女は素早く狙いを定める。長い黒髪。艶の無い髪。魔女の頭を覆うそれに、白銀の刃が吸い込まれる。

 決着は一瞬だった。

 巨大な首が宙を舞う。切れた髪を振り乱し、どす黒い何かを撒き散らし、魔女の頭が飛んでいく。呆気無さ過ぎるほど呆気無く、雪の魔女は息絶える。二度三度と雪の上を跳ねた生首も、やがて勢いを失い動かなくなった。そのまま何が起こる訳でもなく、魔女の首は雪のように溶けて消える。最後まで、その顔が晒される事は無かった。

 辺りの景色が一変する。白い雪原は黒いアスファルトへ、灰の曇天は青の晴天へ、そして吹雪の幕はビルの壁へ。一瞬前まで大自然に囲まれていたはずの彼女は、気付けば薄汚れた人工物の中に居た。人気の無い路地裏には、異界の残滓は欠片も無い。

 並び立つビルに切り取られた青空を仰ぎ、彼女は大きく息を吐く。この景色こそが、魔女を倒したという何よりの証だろう。そのまま暫し静寂に身を委ねた彼女は、やがて肩を落とし、ゆっくりと歩き始めた。その手には既に斧は無く、服装もまた変哲の無いブラウスとスカートに変化している。

 少しだけ進んだ所で、彼女は歩みを止めた。その足元にはグリーフシード。闇色をしたそれを拾い上げ、彼女は右手に持つソウルジェムに近付ける。ソウルジェムからグリーフシードへと濁りを移し、彼女は皮肉げに口元を歪めた。

「足りない……」

 彼女の呟き。それは誰の耳を揺らすでもなく、暗い路地裏に虚しく消えた。

 アイと喧嘩した彼女が病院を飛び出してから、既に二週間の時が経っている。その間に彼女が何をしていたかと言えば、魔女を狩っていた、としか言えない。他には何もしなかった。否、出来なかった。所詮は子供に過ぎない彼女には、食料にしろ宿にしろ、そうそう調達出来るものではないのだ。

 だから彼女は、ここ暫く何も口にしていない。碌に休んでもいない。それでもこうして生きていられるのは、やはり彼女の体が人間のものではないからだ。食べる事はあっても、休む事はあっても、それは彼女にとって生きる為の必然ではなくなっていた。

 魔力だ。魔力さえあれば無茶をしても生きられる事を、彼女はこの二週間で嫌と言うほど実感していた。

 初めの内は、彼女も空腹や疲労に苛まれていたのだ。辛くて苦しくて、でも病院には戻るに戻れなくて、最初の数日は本当に大変だった。しかしある時、不意に体が軽くなったのだ。飢餓感が消え、疲れも失せた。それどころか、ずっと体を蝕んでいた痛みすらも感じなくなったのである。そして代わりに、ソウルジェムの濁りが早まった。

 この時、所詮は人間ごっこなのだと彼女は気付いた。もうとっくの昔に化け物へと成り果てていたのに、必死に人間の振りをしていただけなのだ。魔力で動く肉人形。それが自分の本質だと理解して、何が必要なのかも理解した。

 だからとにかく、魔女を狩る。手当たり次第に狩り尽くす。手にしたソウルジェムを強く握り、彼女は誓いを新たにした。

「ふぅん。どっかで見た顔だと思えば、あの時のルーキーか」

 不意に第三者の声が響く。反射的に彼女が振り向けば、路地裏の奥に一人の少女が立っていた。

「だれ……?」
「佐倉杏子。前に一度だけ会った事があるけど、覚えてるかい?」

 杏子と名乗った少女に問われ、彼女は記憶を探る。

 見た目には彼女と歳が離れているようには思えない杏子は、小豆色の髪をポニーテールにしていた。面立ちは生意気そうで、やや吊り上がった目付きは意思の強さを感じさせる。中々に印象的な相手だと思うのだが、彼女は杏子の名前に憶えが無かった。けれどたしかに、杏子の顔を見た気もする。そうして彼女が悩んでいると、痺れを切らしたのか、杏子が焦れったそうに口を開いた。

「まぁ、ちょっと顔を合わせたくらいだしね。たしか、アンタは初めての実戦っていう話だったかな。それでアンタが魔女を見付ける前にアタシが倒しちゃってたんだけど、思い出したかい?」

 言われてすぐに思い当たり、彼女は小さく声を漏らした。

「……マミさんの知り合い?」
「間違ってはいないね」

 肩を竦めた杏子が、おもむろに彼女の方へと歩み寄る。その態度は無遠慮で、顔には不敵な笑みが刻まれていた。
 思わず眉根を寄せて、彼女は杏子から距離を取る。

「一体なんの用なの?」

 問い掛ければ、杏子は一層笑みを深くした。それが不快で、それが不安で、彼女の本能が警鐘をかき鳴らす。けれど何をすればいいのかも分からず、彼女は木偶のように立ち尽くす事しか出来なかった。

「魔法少女の真実」

 ポツリと杏子が漏らす。それはとても曖昧な言葉だったが、彼女は直感的に杏子の真意を理解していた。知らず喉を鳴らし、わななく拳を握り締め、彼女は鋭い視線を杏子に送る。返ってきたのは、楽しげな杏子の声だった。

「やっぱりアンタも知ってる側の人間だったか。なら話は早い。この件について、ちょいと情報交換といかないかい? 実はアタシも、最近キュゥべえからこの話を聞いたばかりでね。知ってる奴は全然居ないし、ちょっと困ってたのさ」

 どこか馴れ馴れしさを感じさせる杏子の態度は癪に障ったが、それを理由に突き放す事は、今の彼女には出来なかった。情報交換。それはたしかに、彼女にとっても魅力的な提案だ。一瞬だけマミの知り合いという事実が引っ掛かったが、彼女が記憶している限り、そこまで親しい間柄とも思えなかった。

「……わかった」

 暫し悩んだ彼女は、結局、素直に杏子の申し出を受ける事にした。


 ◆


「食うかい?」

 そう言って杏子が差し出したのは、一枚の板チョコだった。破れた銀紙の間から覗く真新しいそれは、甘い匂いで彼女の嗅覚を刺激する。ここ暫く絶食状態にある彼女にとって、それは凶悪なまでに強烈な誘惑だった。自然と胃が収縮し、小さな音が鳴る。

 だが、それでも。

「いらない」

 彼女はキッパリと断った。顔を背け、目一杯の拒絶を示す。

 施しは受けない。優しさは信用しない。それが、彼女がマミやアイとの出来事から学んだ教訓だ。甘い言葉に乗らなければ、手痛いしっぺ返しを食らう事も無い。何より今の彼女は魔法少女で、自分一人で生きていく事も決して不可能ではない。

 だから大丈夫と、彼女はお腹を押さえて、腰掛けたベンチに身を沈ませる。気を紛らわせようと辺りを見れば、仲の良い親子が目に入った。それも一組や二組ではない。杏子との話し合いの為に訪れた自然公園は、多くの家族連れで賑わっている。

 そう言えば今日は日曜日だったと思い出し、なんだか彼女は、無性に悲しくなってしまった。

「さいで。ま、いいけどな」

 杏子がチョコを齧る。彼女の様子など気に掛けない、実に気侭な態度だった。

「で、アンタはどこまで知ってんのさ?」

 音を立ててチョコを噛み砕きながら尋ねる杏子に対し、彼女は思案する。思い出すのはキュゥべえの言葉。魔法少女の全てを知っているであろう存在が教えてくれた、あまりに非情な現実。その事を考えるだけで、彼女は拳に力を籠めてしまう。

「…………魔法少女は、いずれ魔女になる運命にある」

 一瞬の静寂。だがすぐに、周りの雑音に呑まれた。

「らしいな」

 答える杏子の言葉は簡潔で、だからこそ事実を肯定しているように感じられた。
 彼女がスカートを握り締める。唇を噛み締める。肩を震わせるその姿からは、やるせなさが漂っていた。

「なんでわたし達が、こんな目に遭わなきゃいけないの……っ」
「そりゃ、奇跡を願ったからだろ」

 バッサリと切り捨てるような杏子の言葉に、彼女は目を瞠って振り向いた。見れば杏子は詰まらなそうに、本当にどうでもよさそうに、冷めた目を周囲に向けている。そこには彼女に対する配慮など、欠片も存在していなかった。

「たしかアンタは、マミに誘われて魔法少女になったんだったか」
「――――ッ。そうよ! あの人がわたしを魔法少女にしたのっ!!」

 初めてマミと出会った日の事を、彼女は今でも覚えている。その時の彼女は、本当に自分が地獄の中に居るのだと思っていた。幼くして癌に侵されて、それがどうにもならない部分まで進行してしまって、もはや治る見込みはほとんど無く、延命する事しか出来ないと言われたほどだ。ただ日々を過ごすだけでも辛かった。顔は自分のものとは思えないほど変わり果てていた。

 そんな時だ。彼女がマミと出会ったのは。

『生きたい?』

 それが、いきなり病室を訪れたマミの第一声。とても簡潔なそれは、しかし彼女にとって十分過ぎた。どん底に居た彼女には、それ以上の言葉は必要無かったのだ。

 マミの話は荒唐無稽なものだったと言えるだろう。魔法少女なんて、普通は信じる方がどうかしている。だけど彼女の状況は普通じゃなくて、マミの存在も普通じゃなかった。何より彼女は、ずっと思っていたのだ。今の自分は悪い夢を見ているだけ。だからいずれ目が覚める。きっと誰かが助けてくれる。そんな夢見がちな少女そのものの願いを、彼女は抱いていた。

「あの人が……っ」

 俯き、彼女は眦を震わせた。じんわりと、熱い涙が滲んでくる。

 彼女にとってマミは恩人であり、ヒーローであり、頼れる先輩だった。でも、みんな嘘。マミは彼女の事なんかどうでもよくて、本当に助けたいと思っていたのは別の女の子だった。そしてその女の子もまた、彼女に味方の振りをして近付いていた。

「でも、願いは叶ったんだろ?」
「それはっ。だけど……」

 杏子が大きく息を吐く。

「自業自得じゃねぇか」

 冷たく言い切る杏子の言葉に、彼女は肩を跳ね上げた。

「都合のいい願い事を叶えてもらったんだ。理不尽な代価を要求されたって、それは可笑しい事じゃない。そりゃ最初から教えてくれた方がよかったけどさ、後悔するほどのモンなのかい?」

 淡々と話す杏子の口調からは、この件に対して、既に割り切っている事が感じられる。どうして、と彼女は思った。こんなに酷い現実を、どうして受け入れられるのか、彼女は理解出来なかった。その疑念から生まれる感情は、自然と彼女の顔に表れる。

「怖い顔するなよ。アンタもわかってるんだろ?」

 皮肉げに頬を歪め、杏子がポケットから何かを取り出した。グリーフシードだと、彼女はすぐに気付く。

「なんだかんだ言って、コイツがあれば大丈夫だ。魔法を使って、好きに生きていく事ができる」

 その言葉を、彼女は否定出来なかった。グリーフシードがあれば、魔力があれば、無茶をしても大丈夫。それはこの二週間で、彼女が嫌と言うほど実感してきた事実だ。魔力さえ十分なら、もはや癌すら怖くない。癌の再発は自分の願いに対する代償だと思っていたのだが、今の彼女はそれを克服したに等しいのである。

 絶望すれば魔女になる、とキュゥべえは言った。しかし今の状況で彼女が絶望する事は難しい。だからたしかに、杏子の言葉は一理ある。それを彼女は理解した。理解したが、受け入れられなかった。

「でも、それでもやっぱり、あの人達は許せない」

 絞り出すように彼女が答えれば、杏子はあからさまに顔を顰めた。

「随分と拘るんだな。アイツらのこと」
「――――ッ。当然でしょ!」

 立ち上がった彼女が叫ぶ。途端に周囲の視線が集まったが、彼女に気にしている余裕なんて無かった。

「マミさんに! アイに! わたしは裏切られたんだからッ!!」

 叩き付けるようなその言葉を、杏子は平然とした態度で聞いている。頬を紅潮させた彼女を気に掛ける様子も無く、杏子は心底どうでもよさそうな表情で空を見ていた。それが一層、彼女の心を波立てる。

 苛立ちが止まらなかった。胸の熱が冷めなかった。でもそれは杏子に対するものではなくて、ここには居ないマミやアイに向けたものだ。それが分かっていても、いや、分かっているからこそ、彼女の心は荒れていく。向かう先を持たない激情が膨らみ続けて、今にも彼女の胸を破って飛び出しそうだった。

「あぁ、もういいや」

 投げ遣りな杏子の言葉。それを聞いた瞬間、彼女は何も言えなくなった。ベンチに座る杏子は、何一つ心動かされた様子も無く、冷めた目で彼女を見上げている。その視線に貫かれた彼女は、思わず気圧されてしまった。

「アンタの考えは大体わかった」

 立ち上がり、杏子は彼女に背を向ける。

「これ。アタシの知ってる魔法少女の裏事情。そういう話だったし、アンタにやるよ」

 そう話す杏子の右手の指には、白い紙切れが挟まれていた。彼女の方を振り返る事無く、杏子はその紙切れを放り捨てる。ヒラヒラと宙を舞った紙切れは、やがて彼女の傍まで辿り着く。それを彼女は、反射的に手に取った。

「じゃあな。次に会ったら――――――いや、どうでもいいか」

 最後にそう告げて、杏子が歩き去る。遠ざかっていくその背中に手を伸ばし、彼女はすぐに引っ込める。そのまま彼女は、なんとも言えない表情で杏子を見送った。そうする事しか、出来なかった。


 ◆


 夜の病院は、当然ながら静かな場所だ。入院している患者は規則正しい生活を強いられ、見回りの看護師達も無闇に騒ぐ事は無い。だから音が無く、明かりが無く、人気も無い夜中の病院は、慣れぬ者なら恐怖で足が竦んでしまうかもしれない。しかも廊下に有り得ない人影など確認しようものなら、気の弱い人なら気絶しても可笑しくはないだろう。

 故にこの光景を誰かが目にすれば、ちょっとした騒ぎになったかもしれない。

 日が変わって何時間も経たない夜の病院。その廊下に、佐倉杏子の姿があった。射し込む月光に照らされた彼女の顔は、決して明るいものではない。物憂げで、つまらなそうで、苛立たしげだった。

 杏子の背後には扉がある。入院患者の病室へと繋がるその扉の横には、『絵本アイ』と刻まれた病室名札が掛けられていた。そして扉の向こうからは、先ほどから少女の泣き声が響いている。マミのものだと、杏子は知っていた。

 杏子が病院を訪れたのは、まだ日が暮れたばかりの頃だ。思うところがあり、久し振りにアイと話そうと考えていた彼女は、そこでアイが交通事故に遭った事を知った。と言っても、杏子は直接それを教えられた訳ではない。全ては盗み聞いた情報で、彼女はその場に居たアイの知り合い達とは会っていないからだ。

 顔を出さなかったのは、気後れしたから。ちょっと話してみようと思っていただけなのに、いきなりアイが事故に遭ったと知ってしまった所為で、どう対応すれば分からなかったのだ。それでも気になって、こうして夜中に忍び込んだ訳である。

「ったく。今日はどうかしてるな」

 小さく呟いた杏子は、そこで泣き声がやんでいる事に気付く。僅かに扉を開けて室内を窺えば、マミは泣き疲れて眠っているようだった。ふと初めてアイと会った時の事を思い出し、名状し難い感情が杏子を襲う。

 何度か深呼吸を繰り返し、それから杏子は、音を立てて扉を開いた。
 マミの頭を撫でてていたアイの視線が、病室の入り口へと向けられる。

「久し振りだね。元気、とは言えないみたいだけど」
「……杏子?」

 アイが不思議そうに目を丸くする。その表情は本当にいつも通りで、なんの問題も無さそうに見えた。けどそうではない事を、杏子はちゃんと理解している。ベッドから起き上がる事の無いアイを見て、杏子は目を細めた。

「足、動かないんだって?」
「また盗み聞き? 趣味悪いよ」

 クスクスと笑いながら、アイがベッドの横に手を伸ばす。すると微かな音と共に、ベッドが稼働し始めた。寝ていたアイの体が起こされ、話し易い姿勢になる。疲れているのか、その間もマミは微動だにしなかった。

「この機能、使わないと思ってたんだけどね」

 そう話すアイの顔からは、やはり陰りの一つも見付けられない。自分の怪我を気にしていないのだろうか。気にしていないのだろうと、杏子は思う。それを信じさせるだけの何かを、今のアイは持っていた。

「それで足の事だけど、うん、感覚は無いよ。程度の問題はこれから調べる事になるだろうけど、治る見込みは絶望的かな。末梢神経と違って、中枢神経は再生しないから。今の医療だと、奇跡でも起こらない限り不可能だよ」

 自身の暗い未来について平然と語るアイの姿が、杏子にはとても奇妙なものに感じられた。
 杏子は知らず拳を握り、眉根を寄せる。それから彼女は、苦々しげに口を開いた。

「マミが動くよ。これまで以上に」
「わかってる。誰を狙ってるのかも、ちゃんとね」

 目を瞑り、アイは口元に微笑を刻む。
 違和感。無視出来ない違和感を抱いて、杏子は目を細めた。

「随分と余裕があるんだね」
「余裕? うん、たしかにこれは余裕かも」

 マミの金髪を梳きながら、アイは柔らかな口調でそう答えた。

「なんて言うか、気が楽なんだ。近頃は色々あって、色々失敗した」

 穏やかな口調だった。優しい表情だった。救われた人間のそれだと、杏子は思う。かつて父の教会で見た事のある、悩みを振り切った人間の顔。それは決して悪い事ではないはずなのに、何故か杏子は落ち着かなかった。

「でも、たしかにボクは助けたんだ。口先だけじゃなく、ちゃんとこの手で」

 無事な右手を見詰めて、アイは微笑んだ。心の底から満足そうで、一点の濁りも感じさせない表情だった。その真意を理解して、理解したからこそ、杏子は胸を締め付けられる。彼女の脳裏をよぎるのは、アイと初めて会った時の事だった。

「……自分の為に、他人の為に行動する」
「うん? あぁ、前にそんな事も言ったかな」

 そうだそうだと頷いて、アイはまた嬉しそうに頬を緩める。

「まさにそれだよ。友達を助けたからこそ、ボクはこんなにも満たされてるんだ」

 アイの感情はまさしく独善で、自己満足以外の何物でもないだろう。何も知らない他人が見れば優しさと映るかもしれないが、本質を知る杏子にとっては、歪としか思えなかった。でもそれこそが絵本アイであり、おそらく、かつての杏子も似たようなものなのだ。

 だから杏子は、絵本アイが気に入らない。だから杏子は、絵本アイを気にしてしまう。

 誰かの、友達の、家族の為に、自分を犠牲にする。そんな人間が杏子は嫌いだ。だから絵本アイも嫌いだ。そのはずだ。そのはずなのに、今の杏子は、前ほどアイを嫌いだとは思えなかった。

 不意に杏子は、昼に会った女の子の事を思い出す。杏子が彼女に声を掛けたのは、ほむらにアイとの関係を教えられたからだ。アイと喧嘩したという彼女がどんな考えを持っているのか、純粋に気になったのである。

「でも、アンタにはまだ気に掛けるべき相手が居るだろ?」

 気付けば杏子は、そんな事を口にしていた。アイに対する意地悪だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。本当に無意識の内に、杏子の口を衝いて出たのだ。

「……知ってるの?」

 誰を、とは言わない。杏子も確認する事は無かった。

「昼間に会ったよ」

 端的に杏子が答えれば、アイは一転して心配そうに顔を歪める。

「あの子は元気にしてた?」
「そこそこ上手くやってたよ」

 身に着けた服は随分と汚れていたが、それでも着ている本人は元気だったと杏子は思う。それが魔力のお蔭だという事は、あえてアイには教えない。この状況で伝えるものではないと考えたのだ。

「よかった。あの子には、ちゃんと謝らないといけないからね」

 胸を撫で下ろしたアイが、にわかに表情を綻ばせる。
 一方の杏子は、つまらなそうに口を尖らせた。

「……アタシに言わせれば、アイツは自業自得だと思うけどね」
「それを全ては否定しないよ。ただこれは、気持ちの問題でもあるんだ」

 右手を胸元に添えて、アイが瞑目する。それを杏子は、冷めた目で見ていた。

 アイ達はあの女の子の気持ちを裏切った。たしかにそれは事実で、杏子も否定しようとは思わない。だが同時に彼女は、女の子に同情する気持ちも湧かなかった。むしろ彼女の事を考えると、胸の奥が冷えてくるほどだ。

「なぁ――――」

 言い掛けて、杏子は口を噤む。次いで頭を振った彼女は、アイから顔を背けた。

「今日は帰るよ。縁がありゃ、また会う事もあるだろうさ」
「もう? もっとゆっくりしていけばいいのに」

 どこか名残惜しそうに呟くアイの声を聞いても、杏子の気持ちは変わらない。振り返り取っ手を掴んだ彼女は、ゆっくりと扉を開く。そのまま廊下に出た杏子は、アイの方を見る事無く、別れの言葉を口にした。

「じゃあね。もしかしたら――――」

 最後の言葉は、アイに届く事は無かった。それでいいと、杏子は思った。
 人気の無い廊下を、杏子は一人で歩いて行く。その目には、いつに無く鋭い光が宿っていた。


 ◆


 夕焼けに染まる廃屋に、小さな人影がある。それは少女の姿をしていて、それは疲れた顔をしていた。大きく肩を上下させるその女の子は、足を引き摺るようにして歩いている。特に外傷がある訳ではない。頭に被ったハンチング帽に、身に纏うブラウスとスカート。どれも随分と汚れてはいたが、女の子自身の体は綺麗なものだ。彼女はただとにかく、疲労に蝕まれているようだった。

 女の子が向かう先には黒い物体が落ちている。グリーフシードと呼ばれるそれを目指して、彼女はゆっくりと進んでいた。その息は荒く、顔は醜く歪んでいる。まるで亡者みたいだと、見る者によっては感じるかもしれない。

 杏子はその女の子を眺めていた。女の子が魔女の結界に侵入した時も、魔女と戦っていた時も、こうして魔女を倒した後も、彼女はずっと見ていた。冷静な目で、冷徹な視線で、女の子を観察し続けていたのだ。

 だから杏子は知っている。女の子の疲労具合も、回復手段が無い事も、どれだけグリーフシードを欲しているのかも、本当によく理解している。当然だ。杏子は朝から一日中、この女の子を監視していたのだから。

 六度。それが今日、女の子が戦闘した回数だ。朝から街を練り歩き、魔女も使い魔も関係無く、手当たり次第に喧嘩を売った成果である。だが多過ぎる戦闘回数とは対照的に、得られたグリーフシードの数はゼロだ。相手を選ばなかったというのも理由だろうが、単純に運が無かったと言うほか無い。お蔭で予備のグリーフシードも尽きかけ、魔力も底が見え始めている。

 故に今の女の子は、心の底からグリーフシードを求めていた。その事を、杏子は深く理解している。

「なんでだろうな」

 杏子の呟き。それは他でもない自分へと向けたものだった。

 直後、杏子が動く。柱の陰から飛び出して、彼女は大きく跳躍した。ポニーテールを翻し、杏子は十メートルをゼロにする。着地音は軽いもの。けれどその意味は、この上無く重かった。着地した杏子の足元には、グリーフシードが落ちているからだ。

「あなたは……っ」

 女の子が目を瞠る。それを無視して、杏子はまた呟いた。

「ほんと、なんでだろうな」

 パーカーのポケットに手を突っ込んで、杏子は舐めていた飴を噛み砕く。小豆色をしたその瞳には、敵意に近い苛立ちが宿っていた。睨むとしか形容出来ない視線が、足を止めた女の子を鋭く射抜く。

「アンタは無性に気に喰わない」

 一瞬、女の子は何を言われたのか理解出来ないようだった。だが次の瞬間には眦を吊り上げ、目の前の杏子を睨み返した。それを気にした風も無く、杏子は足元のグリーフシードを蹴り上げる。それだけで、女の子はみっともないくらい狼狽えた。

「そんなにコイツが欲しいかい?」

 宙に浮いたグリーフシードを掴み、杏子が尋ねる。女の子は答えなかった。ただ悔しそうに唇を噛んで、杏子に憎々しげな視線を送っている。戦いの疲労が無ければ、すぐにでも飛び掛かってきそうなほどだ。

 つまらなそうに、杏子は鼻を鳴らした。

「欲しいなら、もっと効率よく魔女を狩ればいいだろ? 使い魔なんて適当に人間を襲わせとけば魔女に育つわけじゃん。そうすりゃお望み通りグリーフシードを孕むわけ。それをアンタは使い魔の内から倒しちまうし、なにがしたいんだっつの」

 言い捨て、杏子は取り出した飴を口に含む。そんな彼女に対して、女の子は怒りを隠そうともしなかった。

「わたしはそんな事しないっ」
「なんでだよ?」

 杏子が問えば、女の子は頬を真っ赤に染め上げた。

「わたしはっ。マミさんみたいに! 誰かを利用したりしない!!」

 それは魂の叫びのようだった。本心から出た言葉だと、杏子は感じた。

 気に喰わない、と杏子は思う。どうしようもなく目の前の相手が気に喰わないと、彼女は確信する。それはアイの為を想ってだろうか。あるいはマミの為を想ってだろうか。どちらでもないと、杏子は理解していた。これはつまり、彼女自身の問題なのだ。

「わかんねぇ」

 疲れたように、杏子が息を吐く。

 杏子の思想と女の子の思想は噛み合わない。そんな事は杏子自身も重々承知しているのだが、それにしても可笑しいと彼女は感じていた。自分でも理解出来ないくらい、杏子は女の子に対して苛立ちを覚えるのだ。

 もっと適当に流しておけばいい。そうでなくても、関わり合いにならなければいい。それが分かっていても、杏子は女の子を無視する事が出来なかった。アイに対して抱くものとも異なる、言い様の無い心のささくれ。気付いた時には、杏子は自らの得物を握っていた。

「わかんねぇけど、アンタはムカつく」

 杏子が槍の穂先を、女の子の顔に向ける。息を飲む音が聞こえた。悲しげに歪む顔が見えた。それでも杏子の心は動かされる事無く、ただ女の子への苛立ちばかりが募っていく。

「あなたも、やっぱり……っ」
「知るかよ」

 取り出した大斧を構える女の子に向けて、杏子が冷たく言い捨てる。そこに優しさは無かった。感情と呼べるものも、ほとんど宿っていなかった。ただ何かを押し殺すように、彼女は槍を握る手に力を籠める。

「アタシは、アタシのやりたいように生きるだけだ」

 鋭利な視線で射抜かれた女の子は、気圧されたように後ずさる。女の子は肩で息をしており、まともに杏子と戦える状態ではない。それを理解していても、杏子は手を抜くつもりは無かった。別に死んでも構わないと、本気で思っているのだ。

「――――いくよ」

 戦闘開始の宣言は、杏子の与えた最後の温情。
 刹那の後に、容赦の無い一撃が女の子を襲った。




 -To be continued-



[28168] #015 『だから嫌いなのか』
Name: ひず◆9f000e5d ID:d2055b83
Date: 2011/11/13 23:17
  奇跡。その一言が、彼女の思考を支配した。鼓動が高鳴り呼吸は止まる。瞬間、彼女の全身から冷や汗が噴き出した。視界の端には煌めく刃。槍の穂先と思しきそれは、彼女が弾いた相手の武器だ。

 風を引き裂く一閃だった。岩を貫く一撃だった。それを彼女が防げたのは、実力ではなく偶然だ。直感任せに振るった斧が、運よく彼女の命を繋いでくれた。まさに僥倖。二度目があるなら命は無い。

 初撃は凌いだ。しかし彼女に安堵は無く、ただ次撃への恐怖が胸を覆う。

 攻撃は最大の防御なり。瞬時に導いたその結論に従い、彼女は腕を振り上げた。攻撃する。相手が立て直す前に、追撃が来る前に、自分の方から攻めに出る。それは決して相手への敵意から生まれた判断ではなく、ただ攻められる事を恐れる守りの考えだった。

 だが、彼女の思惑は容易く崩される。

「ぐぅっ」

 衝撃が脇腹を突き抜けた。視界がブレ、肺の空気が押し出される。薙ぎ払われた、と彼女は宙に浮いたまま理解した。即座に左手で床を突いた彼女は、そのまま体勢を整えて着地する。右手の斧は放していない。ならば早く反撃を、と彼女は柄に両手を添える。

 直後、迷いの無い振り下ろしが彼女を襲う。

 甲高い金属が響き渡り、刃の間に火花が散った。鍔迫り合いにもつれ込み、彼女と杏子は視線を交わす。歯を食い縛り、足を踏ん張る。肋骨の辺りから鋭い痛みが走ったが、彼女は気にせず杏子を睨む。

 杏子は冷たい目をしていた。どこかつまらなそうな色を、怒ったような熱を瞳に宿して、間近の彼女を見下ろしている。本気で自分を殺そうとしているのだと、彼女は本能的に理解させられた。慄きそうな腕に力を籠め、血が滲むほどに唇を噛む。このまま押し切ってみせると、彼女は斧を全力で握り締める。

 その時だ。急に相手の力が弱まり、彼女は勢い余って体を泳がせた。

「――――ガッ」

 短い呻き声と共に、彼女の脇腹から鈍い音が聞こえる。
 今度の攻め手は蹴りだ。鍔迫り合いに夢中な彼女を、杏子は見事に蹴り抜いた。

 二度三度とコンクリートの床を跳ね、彼女はついに倒れ込む。白い頬は埃に塗れ、大きな瞳は涙に濡れる。痛い。骨が折れた。もうやだ。脳裏を巡るそれらの弱気を振り払い、彼女は震える腕で体を起こす。と、そこで斧を手放した事に気付く。

 驚きで目を瞠った彼女の視界は、同時に小豆色で覆い尽くされた。

「――――――ッ」

 もはや言葉も無い。顔面を蹴り上げられた彼女は、鼻血を散らしながら宙を舞う。小柄なその身が弧を描く。なにも出来ずに床に落ちる。背中と頭を打ち付けて、一瞬、彼女の視界は暗転した。そしてそのまま、彼女は汚れた床に横たわる。

 立ち上がらなければ。抵抗しなければ。そうは思っても、彼女は指先一つすら動かせない。彼女は焦点の定まらぬ目で天井を見上げたまま、力無く床に倒れている。体の痛みは耐えられるのに、疲労もまだ限界ではないはずなのに、彼女の体は思うように反応してくれなかった。まるで他人の物になったみたいだと、彼女はボンヤリ考える。

 原因に心当たりはあった。おそらくは魔力が枯渇しそうなのだろう。今日だけで六度も戦った彼女は、先程の魔女との戦闘で魔力のほとんどを使い果たしていた。ようやく手に入れたグリーフシードは杏子に奪われ、元より予備など残っていない。回復手段を持たない彼女は、このまま魔力が尽き、間も無く魔女になってしまう。

 足音が鼓膜を揺らす。ゆっくりとしたそれは、彼女の耳元で止まった。
 未だ判然としない彼女の視界に、杏子と思しき影が映る。それでも彼女は動けなかった。

「……獲物を嬲る趣味はねぇんだが、思ったよりしぶといじゃん」

 淡々とした杏子の言葉。だがそこには、たしかに疑念の色が含まれている。

 杏子の言う通り、彼女は他の魔法少女と比べても頑丈だ。それは彼女の願った奇跡に由来する。自身の病気の治癒を叶えて貰った彼女は、治癒能力と丈夫な体を手に入れたのだ。それでも癌が再発してしまったのは、やはりそういう運命だったのだろう。

 とはいえ、今の彼女にとってそんな事はどうでもいい。
 いくら治癒能力があろうと、魔力が枯れていれば行使出来ないのだから。

「なん、で……」

 微かに唇を開き、掠れた声で彼女が問う。

 グリーフシードが欲しかったから。競争相手である魔法少女が邪魔だったから。そんな風に杏子が襲ってきた理由を幾つか考えてみた彼女だが、納得のいく答えは見付からない。いや、納得どころか理解出来る動機も思い浮かばない。それが不気味で、それが気持ち悪くて、彼女は怒りよりも困惑を胸に抱いていた。

「なんとなく、かね」

 ただ一言。どうでもよさげな返事を聞いて、彼女は醜く顔を歪めた。

 最低だ。最悪だ。こんな理不尽な事があっていいのだろうか。こんな馬鹿げた事が許されていいのだろうか。あまりにも不合理な杏子の言葉を聞いて、彼女は叫び出したい衝動に駆られた。

 彼女はマミが嫌いだ。自分の気持ちを裏切ったマミが嫌いだ。けれどマミの目的は理解出来たし、共感する部分もあった。でも杏子は違う。まったく違う。なんとなくだなんて、そんな理屈は納得出来ない。だってそんなの、彼女から見てもマミ以下だ。

 ただ魔法少女を殺したい、という動機なら彼女も受け入れられる。競合相手を減らすというのは、たしかに合理的な考えだ。生存の為にソウルジェムが必要と判明した今では、むしろ下手な協力体制こそ危ういものだと感じている。だけど現実はそうじゃない。杏子には理由も理屈も動機も無かった。ただ自らの感情が赴くままに、杏子は彼女を殺そうとしている。不条理を押し付けようとしている。

 どうして、どうして、どうして。際限無く膨らむ激情と共に、疑念の言葉が積み重なっていく。彼女には杏子の頭が可笑しくなっているとしか思えなかった。そう思わなければ、現状と折り合いがつけられなかった。

 彼女の心臓が時を刻む。徐々に間隔を短くし、遂には煩いほどの拍子となり、彼女の命脈を伝えている。それは迫り来る死の予感を前にして、一生分の命を燃やし尽くそうとしているかのようでもあった。

「あく……ま……」

 彼女が零したのは、そんな言葉。
 返ってきたのは、大きな溜め息。

「そいつは、これからアンタがなるんだよ」

 吐き捨てるような杏子の言葉が、彼女の胸に突き刺さる。

 そう、彼女はこれから魔女になる。人を殺す化け物に、命を喰らう悪魔へと、彼女は成り果てるのだ。抗いようの無い未来として、それは彼女の心に影を落とす。処女雪を踏み荒らすように、無垢な魂を蝕んでいく。

 思考に靄が掛かる感覚に気付き、彼女は必死に歯を食い縛る。

 分かってしまった。どうしようもなく理解させられた。魔法少女が魔女になるという事の意味を、彼女は魂で悟ったのだ。それはキュゥべえの説明よりも遙かに生々しく、彼女の心には深い傷が刻まれていく。その傷から流れ出る鮮血が絶望の呼び水となり、徐々に自分の内側が変質しようとしている事を、彼女は本能的に察していた。

 もはや幾ばくもしない内に、自分は自分でなくなってしまう。それが分かったところでどうしようもなく、彼女は途方も無い徒労感に苛まれた。まるで体が鉛になったかの如く重く感じられ、気分も下降の一途を辿る。

 落ちていく。彼女の心が、魂が、闇の底へと引き寄せられる。霧に覆われた頭では碌な思考も出来ず、這い上がる気力すら底を尽きた。彼女の心に残ったのはただ一つ。かつて願った奇跡だけ。

 生きたいと思った。苦しみから解放されたいと願った。それはたしかに叶えられた気がしたけれど、たぶんきっと間違いなのだろう。奇跡なんてまやかしで、希望なんて幻で、自分は変わらず地獄に居たのだと、彼女は気付いた。

 でも、だとしたら、世界はとても残酷だ。

「わた……しは…………」

 罅割れた声を彼女が漏らす。それは誰に向けたものでもなかったけれど、あえて言うなら、運命とやらに伝えたかった。あまりに無情な彼女の人生。それ故に求めずにはいられなかった願いを、彼女は世界にぶつけたかった。ぶちまけて、呪ってやりたかった。

「たすけて…………ほしかった……」

 本当に、それだけだった。幸せになりたかった訳じゃない。贅沢をしたかった訳でもない。ただ不幸から抜け出せれば、彼女は満足だった。せめて平凡な人生を送りたいと、その程度の事しか願っていなかったのだ。

 なのに、現実は厳しい。彼女の願いが聞き入れられる事は無く、一時の幸せと引き替えに、これまで以上の苦しみが彼女を襲ったのだから。まるで荒波に揉まれる小舟のようだと彼女は思った。抗う事など許されず、気紛れに訪れる平穏の後には、必ず絶望がやってくるのだ。

 目頭が熱くなり、勢いを増した涙が、彼女の頬を伝って零れ落ちる。幾筋もの跡を引く涙を拭う事も出来ず、彼女は黙って泣き続けた。嗚咽を漏らす事も無く、しゃくり上げる事も無く、壊れたように涙だけが溢れ続ける。

 瞬間、杏子が動きを見せた。手にした槍を構えたのだ。

 どうしてだろう、と彼女は不思議に思った。このまま彼女を放っておけば、すぐにでも魔女へと成り果てる。トドメを刺すならそれからの方がいいはずだ。だってそうすればもう一つグリーフシードが手に入るし、これまでの会話から察するに、杏子はそれを躊躇するような性格ではない。だから理由が分からなくて、彼女はちょっと混乱した。

 銀色が煌めく。凶刃が迫る。涙で歪んだ視界でも、ハッキリとその事を理解出来た。殺されるのだと、彼女は近い未来を予見する。言いたい事は一杯あるし、後悔だって無数にあった。だけど何一つ頭の中で形にならなくて、彼女はただ、反射的に目を瞑る事しか出来なかった。

 痛みは無い。代わりに、彼女の耳元で甲高い音が鳴った。

 思わず顔を顰めた彼女が、恐る恐る目を開く。自分が死んでいない事は分かる。ではどうなったのかと考えた彼女の視界に、長い槍の柄が映った。杏子の手元から伸びる槍は、その穂先を彼女の頭の真横に突き立てている。

「――――チッ」

 大きな舌打ち。短いそれは、だけどこの場で聞いた杏子のどの言葉よりも、強い感情が籠められていると彼女は思った。

「アタシは、アタシのやりたいようにやるだけだ」

 絞り出すように呟いて、杏子は槍を引き戻す。そしてそのまま、槍を消してしまった。

 訳が分からず、彼女は目を丸くする。杏子が考えている事が理解出来なくて、何をしたいのか予測も出来なくて、彼女はひたすら戸惑っていた。更に魔法少女の衣装まで解除した杏子を見るに至っては、彼女の頭は完全に白で染め上げられてしまう。

「これ、返してやるよ」

 腰を屈めた杏子が、彼女の胸元に何かを置いた。途端に彼女の体は楽になり、気持ちにも幾らか余裕が出来る。彼女の胸にはソウルジェムが変質したブローチがあり、杏子は黒い物体を握っていた。だからつまり、そういう事かと彼女は理解する。

 でも分からない。杏子の真意は、さっぱり読めない。先程までの事が嘘のように杏子は平然と去っていく。その足音を聞きながら、彼女は思考の渦に呑まれていた。グリーフシードを奪って、自分を殺そうとして、だけど最後には助けた杏子。その心が、彼女は理解出来ない。

 やがて出口の見えない思索に見切りを付け、彼女はゆっくりと体を起こす。顎先から垂れる赤い血を見て、そう言えば鼻血が出ていたな、と彼女は今更ながらに思い出した。ポケットを漁り、ハンカチが無い事に気付き、彼女はシャツの袖で血を拭う。白い生地が真っ赤に染まったが、それよりも彼女は、止まらない涙の方が気になった。

 恐怖ではなく、安堵による涙。頬を流れるそれを何度も拭いながら、彼女は小さく笑った。壊れたように笑い続けた。なんにも分からないけど、まったく見当も付かないけれど、生きている事だけは確かなんだと、彼女は笑い声を響かせていた。


 ◆


 教会を訪れる人間は、はたして何を求めてやって来るのだろうか。救いか、信仰の確認か、あるいは単なる習慣か。個々人によって理由は様々だろうが、なんらかの目的意識がある事は確かだろう。それは杏子も同じで、彼女もまた、故あってこの教会に足を伸ばしていた。

 埃と木片が散らばる床を進みながら、杏子は教会の奥へと進んでいく。既に日は沈み、明かりの無いこの場所は、冷たい暗闇に包まれていた。その中に浮かぶ杏子の相貌は、決して周囲の環境によるものではない影を纏っている。

 視線を落とし、遅々とした歩みを続けた彼女は、やがて最前列の長椅子に腰掛ける。かつてこの場所は、杏子の父の教会だった。この椅子は、いつも杏子が座る指定席だった。間近で父の教えを聞き、信者の人達が、その話に耳を傾けているのを見て満足する。それは杏子にとってえも言われぬほど幸せな時間であり、自身の選んだ道を再確認する空間でもあった。

「ふぅ……」

 息を吐き、杏子は自らの手元を見遣る。そこには血のように赤いリンゴが、一つだけ握られていた。ここに来る前に杏子が買ってきた、売り物の中でいっとう上等なリンゴだ。暗がりでも艶やかに光るその表面を、杏子は優しく撫でた。

「なんでだろうな」

 目を瞑った杏子が呟く。脳裏には、あの斧を持った魔法少女が浮かんでいた。

 杏子がこの教会にやって来た理由は、色々と考えたい事があったからだ。中でも大きな問題が、あの魔法少女のこと。どうして彼女を襲ってしまったのか、実は杏子自身もよく分かっていない。たしかに苛立たしい部分はあったが、それでも流せる程度だと杏子は感じていた。

 だが事実として杏子は、あの魔法少女を襲っている。大した理由も無く、大した理屈も無く、だけどたしかに感情に衝き動かされて、杏子は女の子を殺そうとしたのだ。殺人未遂、というものを深く悩む彼女ではないけれど、正体の掴めない自身の衝動は気持ち悪かった。

 杏子にとって、あの魔法少女はそこまで気に掛けるような存在ではないはずだ。アイとの事情を聞かされて、ただの他人と思える相手ではないのは確かだが、だからと言って重要度は高くない。杏子と似た価値観を持っている訳でもなく、絶対に許せないほど意見が違う訳でもない。そういった面では、やはりアイの方が杏子に近い存在だろう。

 では、何故。そう自問してみても、杏子は答えを見出せない。

 殺したかった。消してしまいたかった。どこからやって来たのか分からないその感情は、今も杏子の胸にくすぶっている。もしもあの時、女の子があんな事を言わなければ、杏子はその衝動に従って彼女の命を刈り取っていたはずだ。

 助けてほしかった。とてもシンプルなその言葉は、おそらくあの魔法少女の本心から生まれたものだろう。他に余分なものの無い、どこまでも純真な少女の願い。それを聞いた瞬間、杏子の中に言い様の無い感情が生まれていた。その結果があの見逃しだ。

 リンゴを握る杏子の手に、俄かに力が籠められる。
 軋みを上げるリンゴを見詰めながら、杏子は口を開いた。

「なにか用かい?」

 杏子の呼び掛けは、視線を動かす事無く行われた。

「ええ、少し話がしたくて」

 背後から聞こえてきた声には、杏子も覚えがある。ちょっと前に知り合った、暁美ほむらという魔法少女のものだ。しかし杏子は大きく反応する事無く、手元のリンゴを弄びながら、静かな口調で問い掛けた。

「ワルプルギスの夜のこと?」
「いいえ、違うわ」
「だったらアイに関して?」
「それもハズレ」
「……あの魔法少女?」
「その通りよ」

 一瞬だけ眉根を寄せ、それから杏子は嘆息する。

「ちょっと殺そうとしただけだよ。結局は見逃したけどな。あぁ、でも、あれはヤバイね。聞いた話だけじゃなく、傍で直接見てよくわかった。魔法少女は魔女になるし、アイツの精神状態はかなりマズい。あと一歩で魔女になるんじゃないかな」

 振り返らずに杏子が話せば、背後の気配が僅かに動揺した。その意味は、はたしてどういうものなのだろうか。あの女の子が心配なのか、アイが心配なのか、それとも他の理由があるのか、杏子には分からない。ただ少しだけ心を揺らすものがあり、杏子は知らず天井を仰いだ。

「ねぇ、アンタはなんの為に戦ってるのさ?」
「…………なれ合うつもりは無い、と言ったはずよ」

 返ってきたのは拒絶の言葉。その声音に強張りを感じて、杏子は頬を緩める。特に意図があった訳ではないが、なんとなく、ほむらの見せた弱みが面白く感じられたのだ。

「アイツは助けてほしかったらしいよ。ボロボロ泣きながら、そう言ってた」

 杏子が瞑目する。瞼の裏には、ちょっと前に見た魔法少女の泣き顔が映っていた。心身共に疲れ果て、絶望の淵に立たされた彼女は、それでも手を伸ばしていた。助けてと、苦しいと、必死に救いを求めていた。まるで汚れを知らぬ赤子の如きその姿は、今も杏子の胸に焼き付いている。

「馬鹿だよね。図々しいしよね。厚かましいよね。とんでもない奇跡を叶えてもらって、代償なんて払いたくないって駄々こねて、それでもまだ助けてほしいだなんて、恥ずかしいにもほどがある」

 まさしく餓鬼だと、杏子が吐き捨てた。

 与えず、手放さず、ただ求める。それは世の道理を知らない子供だからこそ出来る、残酷なまでの純粋さ。だからこそ助けるには値しないし、見捨てたところで胸も痛まない。そう思って、そう断じて、だけど心から消す事が出来ない自分に、杏子は歯痒さを覚えた。

 なんでだろうな。繰り返される、その言葉。あと一歩で疑念の正体を見極めれそうな気がするのに、それはまるで雲を掴むような感覚で、一体全体、自分はどうしてしまったんだと杏子は思う。

「あなたはどうなの?」

 ほむらに問われた杏子は、僅かに目を細めた。

「アタシは、アタシのやりたいようにやるだけさ」

 いつも通りの杏子の答え。佐倉杏子は、何物にも縛られない。勝手気侭に生き、自由を謳歌する。全ての責任を自分で負う気概を持つからこそ、彼女は誰に咎められても気にしない。家族を亡くしてからはそういう風に生きてきたし、それを後悔した事も無い。たしかにこれから考えが変わる事もあるかもしれないが、今現在は意見を翻すつもりは無かった。

 そのはず、なのに。

 どうしてか、杏子は心に不安が宿る。迷い、と言い換えても良いかもしれない。えも知れぬ焦燥が胸を焼き、杏子は体の内から引っ掻き回されるような感覚を覚えた。何かを見落としているような、何かを忘れているような、不気味な感触。思わず震えそうになる背筋を無理やり抑えて、杏子は手の内のリンゴを握り締めた。

「なら、あなたのやりたい事はなんなのかしら?」

 ギクリ、と杏子の顔が凍り付く。一気に鼓動が勢いを増し、白い額に汗が浮かぶ。

 たぶん杏子が考えないようにしていた事で、きっと目を逸らそうとしていた事だ。やりたいように生きるとしても、では佐倉杏子は、一体何をやりたいと言うのだろうか。最初に杏子が思い浮かべたのは、美味しい物を食べたいという欲求。でもすぐに首を振る。貧乏時代の名残で食事には煩い杏子だが、別にそれが生きる目的という訳ではない。しかし他に特別やりたい事がある訳でもなく、杏子はリンゴを見詰めたまま口元を歪めた。

「昔は、誰かを助けたかったんだけどな」

 零してから、杏子はハッと目を見開く。慌てて彼女が振り返ると、そこには通路に立つほむらの姿があった。夜の暗がりで判然としないが、それでもほむらが驚いている事はよく分かる。舌打ちしたいのを我慢して、杏子は苛立ち紛れに髪を掻き乱した。

「忘れろ。アンタにゃどうでもいい事だ」
「…………わかったわ。ゆっくり話す気分でもないようだし、今夜は帰らせてもらいましょう」

 一方的にそう告げて、ほむらは踵を返して去っていく。暗闇に溶けた黒髪を揺らし、規則的な足音を響かせ、彼女は教会から出て行った。その背中が完全に見えなくなったのを確認してから、杏子は息を吐いて力を抜く。そのまま背もたれに体を預けた彼女は、疲れた様子で額に手を当てた。小豆色の瞳からは、常に無い動揺が見て取れる。

 誰かを助けたい。かつての杏子は、たしかにそれを生き甲斐としていた。魔法少女になる前からそんな風に考えていて、なった後は、父と一緒に人々を助けるんだと意気込んだ。でもそんなのは、過ぎ去った思い出だ。戻ってこない幻想だ。今の杏子は人助けをしたいなんて思わないし、そんな生き方は馬鹿みたいだと考えている。自分だけの為に生きる方が楽なんだと、家族を失って気付いたから。

「あぁ、いや。そっか、そうだよな」

 右手で顔を覆い、杏子は緩やかに首を振った。

 自分の為に生きたかった訳じゃない。そんな生き方をしたかった訳じゃない。本当はただ、向き合うのが怖かっただけなのだ。誰かを助けようとして、でも運命に裏切られたから、辛い現実を直視したくなかった。そう、結局は逃げなのだ。自分が悪い。たったそれだけの言葉で全てを片付けた気になって、纏めて頭の隅に追い遣った。考えたくないと、弱い心に負けてしまった。それが今の佐倉杏子だ。

 本心では、杏子は今でも人助けをしたいと思っているのかもしれない。でもそれは、既に彼女自身でも分からなくなっていた。もうずっと過去の罪から目を逸らしていたから、本当の姿を見失ってしまったのだ。

 杏子が嘆息する。心の底から、想いを吐き出す。

「だから嫌いなのか」

 どうしてあの魔法少女が気に食わないのか、ようやく杏子は気が付いた。彼女もまた、杏子と同じなのだ。マミが悪い。アイが悪い。そう決め付けて、それで終わらせて、問題と向き合う事を放棄している。杏子と違うのは、周りに責任の全てを押し付けて、自分の願いに執着している点。自分に責任があるとして、願いを捨てた杏子とは正反対だろう。でも真逆だからこそ、根っこの部分では変わらない。

 根本では同じ癖に、やっている事はまるで違う。杏子があの魔法少女を嫌うのは、それが原因だったのだろう。まるで自分を見ているようで、だけど自分とはまったく似ていなくて、そのチグハグさが杏子の心を掻き乱した。

 でも、それが分かったからと言って、一体なにが変わるというのか。自分の心を確認したからと言って、何を変えれば良いのか。信念を、生き方を、もう一度やり直せば良いのだろうか。分からない。まだ杏子には、何一つ分からない。

 闇に呑まれた教会で、明かりの消えた教会で、杏子は独り、悩み続けた。


 ◆


「はぁっ……はっ…………っ」

 息が荒れる。歩みが乱れる。顔に色濃い疲労を浮かばせ、彼女は休む事無く足を進める。

 杏子との戦闘から一夜明けた今日、彼女が居るのは、鏡の迷宮としか言い表せない場所だった。床には鏡が張られ、壁も鏡張りで、天井すらも全てが鏡。更には真っ直ぐな通路がほとんど無く、曲線と分かれ道を無数に組み合わせたここは、まさしく迷宮だ。勢い勇んで魔女の結界に侵入した彼女は迷宮に囚われ、かれこれ一時間以上も迷っていた。

 まだ彼女の魔力には余裕がある。だが、無暗に回復するような事はしない。魔女を倒せばグリーフシードが手に入るからと、ペース配分を考えずに攻め続けた結果が昨日の魔力切れだ。焦っては駄目。逸っては駄目。全力を出すのはただ一瞬、魔女を仕留める時だけだ。そう心に決めた彼女は、疲労の抜け切らない体を酷使して、未だ迷宮を彷徨い続けている。

 魔女の居る方角は見当が付いている。だが通路が複雑に入り組んでいる所為で、中々思うように進めないのだ。斧で壁をぶち抜いてしまえば楽なのかもしれないが、彼女はそれをする決心がつかなかった。

 壁の向こうに通路が無かったら。壁を壊す事が敵の罠だったら。そうした不安が幾つも湧いてきて、彼女は鏡に斧を振り下ろす事が出来なかった。もしも壁を壊しても意味が無ければ、魔力の無駄になってしまう。魔力の枯渇が早まってしまう。そう思うと手が震えるのだ。

 魔力の枯渇。重大な事だとは理解していても、今までの彼女は、それを軽く見ている部分があった。その認識を改めたのが昨日の出来事。実際に魔女へと堕ちる寸前だった彼女は、これまでよりも遥かに憶病になっていた。そしてその憶病さが、今、彼女を追い詰めている。

「……っ」

 黙って額の汗を拭い、彼女は前を睨み付けた。

 全面鏡張りとなっているこの空間には、ただ立っているだけでも頭が可笑しくなりそうな光景が広がっている。全方位に向けて無限に広がり続ける鏡の世界。もちろん下を向いても、果てしない景色しか見えない。そこに床がある事は分かっているけど、足元には何も見付からなくて、言い知れない不安に襲われる。なんせここは魔女の結界だ。もしかすると鏡の下には、暗い奈落が待ち構えている可能性だって捨て切れない。そんな考えが過ぎる度に、彼女は足を震わせるのだ。

 どこにあるのかもよく分からない壁に手をつき、彼女は通路を進む。彼女の全身から滲む疲れの気配は、身体的なものよりも、精神的な負担によるものが大きい。そして心の負荷は、そのまま魔力消費へと繋がってしまう。

 悪循環だ。この状況を打開しなくては、彼女は遠からず自滅するだろう。彼女もその事は分かっているのだが、やはり怖さが先立って踏ん切りがつかないままだった。そうしてまた、無為に時間が過ぎていく。

「ッ!?」

 静かに通路を歩いていた彼女が、唐突に体を強張らせる。

 今、一瞬、動く影が見えた気がした。鏡に映った自分だろうか。いや、あれは絶対に自分以外の何かだ。いやいや、やっぱり自分かもしれない。そうした疑心暗鬼に苛まれながら、彼女は斧を両手で構える。震える瞳で辺りを見回し、万が一の奇襲に備える。気配は感じられないが、魔女の結界に常識は通じない。そのまま息を潜めて、彼女は一歩も動かず待ち続けた。

「……ふぅ」

 やがて十分ほど経った頃、彼女はようやく構えを解く。どうやら気のせいだったらしいと胸を撫で下ろした彼女は、疲れた顔で頬を緩めた。それからまた、魔女の気配を目指して、終わりの見えない迷宮探索を再開する。

 そうして一歩、彼女は足を踏み出した。

「――――ッ!」

 一瞬だった。気配も前触れも感じさせず、衝撃が彼女の脇腹を襲ったのだ。ミシリと骨が音を立て、次の瞬間には容易く折れる。奇しくもそこは、昨日杏子に折られた箇所だった。最低限の修復しか済ませていなかった所為かもしれないが、それでも威力は十分。いきなりの奇襲に目を丸くしながらも、彼女は慌てて臨戦態勢を整える。

「えっ?」

 だが周囲を見回しても、それらしき姿は見当たらなかった。変わらず鏡の世界が広がるだけで、敵の気配など微塵も無い。

 絶対に気の所為ではない。彼女は確信を持ってそう断言出来るが、やはり相手は影も形も見付からなかった。それで気を抜くような彼女ではないが、厄介な敵だと分かり、否応なく緊張が高まっていく。彼女の呼吸は浅くなり、斧の構えも定まらない。明らかによくない状態なのだが、ここで気を抜けば確実にやられてしまう。それを理解しているからこそ、彼女は疲れた体に鞭打った。

 一分。二分。頬を伝う汗を拭う事もせず、彼女は敵を待ち続ける。今にも腕は震えそうで、歯の根はまるで噛み合わない。このまま時が経てば、彼女は疲れ果てて倒れるだろう。しかし僅かでも気を抜こうものなら、敵の攻撃に晒されるだろう。どうにも対抗する手立てが思い付かず、彼女の心に不安が積もる。その弱気が、彼女の足をふら付かせた。

 瞬間、彼女は視界の端に影を捉えた。

「くぅっ!」

 無理に背中を反らせた緊急回避。必死の形相で行ったそれは、どうにか彼女の安全を確保した。背中から床に倒れ込み、彼女は思わず顔を顰める。その眼前を、小さな影が通り過ぎた。大きさはソフトボールと同じくらい。色は紺色で、全身は長い毛で覆われていた。使い魔だと判断した彼女は、けれど深く考える間も無く体を転がせる。直後に彼女の背後を、何かの影が過ぎ去った。その気配を感じながら、彼女は急いで立ち上がる。

「今のは――――ッ」

 自分の見たものがなんなのかを理解して、彼女は盛大に顔を歪めた。

 使い魔は鏡から出てくる。天井から降ってきた使い魔を見て、彼女はその事実に気が付いた。これは不味い。いや、不味いどころの話ではない。辺りは全て鏡に囲まれ、使い魔がどこから襲ってくるのかも分からない。もちろん気配は感じられないし、鏡の中に居る影を探すのも難しい。幸い使い魔は一体しか居ないようだが、そんなのは気休めだ。

 見境無く鏡を割るか、とにかく走り抜けるか。今後の対応を思索する彼女に、刹那、隙が生まれた。

「かはっ」

 今度の襲撃は背後から。倒れそうになりながらも、彼女は鏡に手をついて持ち直す。そのまま手にした斧を消した彼女は、脇目も振らずに駆け出した。もはや魔力を気にする余裕も無く、彼女は速度を落とす事無く治癒魔法を行使する。

 一分でも、一秒でも早くこのエリアを抜けるべきだ。そう結論付けて、彼女は全力で通路を駆け抜ける。鏡を壊して進む事は不可能だ。そんな事をしていたらやられてしまう。もちろん反撃も難しい。今の彼女には、そんな技術も力も無い。だから走る。ひたすら走る。それしかないから、他には無いから、彼女は走り続ける。

 だが、現実はやっぱり残酷だ。

「――――っつう」

 走り始めた時点で体力も精神も限界が近かった彼女は、当然の如くこけてしまった。勢い余って床を滑り、頬を擦り剥いた彼女の顔には、絶望の色が漂い始めている。恐怖で慄く腕で体を支え、けれど彼女は立ち上がる事が出来なかった。

 使い魔がやって来る。鏡の世界から、果て無き向こうから、物凄い速度で迫ってくる。

 避けれない。本能的に、彼女はその事実を理解した。瞠った瞳に映る使い魔は、刹那の後に彼女の頭を襲うだろう。頭をぶたれたら痛い。痛いし、次の行動が大きく遅れる。だから追撃を喰らうし、その次だって喰らうだろう。つまり、そう、自分は詰んだのだと、彼女は瞬時に結論付ける。そしてそのまま、抗う事を諦めた。

 体が疲れて、心が疲れて、もう全てが擦り切れそうな彼女には、頑張り続ける理由が無い。早く楽になりたい。努力しても良い事なんて一つも無いから、このままここで果ててしまいたい。その誘惑に、彼女は身を委ねた。

 どうして、誰も助けてくれないんだろう。

 最後に彼女は、そんな事を考えた。こんな時でも甘ったれた希望を捨てきれない事に彼女自身も呆れたけれど、やっぱりどうしても救いの手を諦められないのだ。子供だから。色んな意味で子供だから、その幻想から抜けられないのだ。

 衝撃が彼女の頭を突き抜ける。少しだけ意識が飛んだが、彼女は未だに生きていた。でも、抵抗はしない。背中から床に倒れて、そのまま指一つ動かさなかった。次は、きっと、天井から来るのだろう。そう思った彼女は目を瞑った。怖くて、恐ろしくて、現実を見るのが嫌だから暗闇の中に逃げ込んだ。

 あとは痛いだけだ。何度か攻撃を受ければ気絶して、その内、死ぬか魔女になるかするだろう。彼女の魂はその未来を受け入れたし、それ以外の結末を予測する事など出来なかった。だから、これでいい。ううん、これがいい。そう思って、彼女は全身から力を抜いた。

「――――?」

 暫く経っても、使い魔の追撃は来なかった。焦らしているのだろうか。嬲るつもりなのだろうか。それは嫌だなと思いながら、彼女は恐る恐る目を開ける。そうして彼女の視界に飛び込んできた光景は、信じられないものだった。

 最初に見たのは長い髪。小豆色をしたそれはポニーテールに結ばれ、背中を覆い隠している。次に飛び込んできたのは大きな槍。持ち手の身の丈を超える長さをしたそれに、彼女はたしかに見覚えがあった。

 彼女のすぐ傍に、一人の少女が立っている。それが誰なのかはすぐに分かった彼女だが、どうしてここに居るのかまでは分からなかった。分からなくて、理解出来なくて、予想もつかなくて、彼女はその目を丸くする。

「酷い顔してるじゃないか」

 振り向いた少女が、佐倉杏子が、倒れた彼女に笑い掛ける。
 彼女が初めて見る、とても優しげな表情だった。

「助けてやるよ。結局アタシは、そういう奴だ」

 片笑みを刻んだ杏子が宣言する。力強くて、心強くて、訳も無く頼ってしまいそうな声だった。

 彼女にとって、佐倉杏子は憎い敵のはずだ。気を許せる相手ではないし、助けてもらいたい相手でもない。今の言葉だって本当なら信じられる訳がなくて、何かの罠だと疑うのが普通だ。でも、どうしてだろうか。彼女の心には安心感が満ちていて、自然と心の強張りが解けていて、なんとなく信頼出来る気がしたのだ。

 どうせ死を覚悟した身だ。この瞬間だけでも信じてやろうと、彼女は緩く微笑んだ。




 -To be continued-



[28168] #016 『なんだか似てるね』
Name: ひず◆9f000e5d ID:d2055b83
Date: 2011/11/28 22:43
 とても不思議な光景だった。理解し難い状況だった。未だ床にその身を横たえ、彼女はただ呆然と、眼前で戦う杏子を見詰めている。いや、それは本当に戦闘と呼べるのだろうか。思わずそんな疑問が浮かぶほど、彼女の目に映る戦況は奇妙なものだった。

 魔女の使い魔と思しき紺の毛玉は、今もなお元気に鏡の間を移動している。天井から床へ、あるいは壁から壁へ、数メートルしかない距離を、使い魔は瞬きの内に過ぎ去っていく。彼女の目ではその影しか捉える事が出来ないが、それでも使い魔の行動が可笑しい事は分かる。それほどまでに奇怪で、不可解で、どこか馬鹿みたいなものなのだ。

 鏡の中から飛び出し、再び鏡の中に潜る。そうして身を隠しながらこちらの不意を打って体当たりするのがこの使い魔の基本戦術だった。たしかにその根底は変わっていないのだが、明らかに何かが変わっている。彼女はそう思わずにはいられなかった。

 だって敵の使い魔は、”何も無い空間”ばかり狙っているのだから。

 杏子が立つ場所ではなく、彼女が倒れる辺りでもなく、二人から少し離れた虚空目掛けて、使い魔は紺色の影を引いていく。幾度も幾度も、徐々に攻撃の間隔を短くしていくその様は、なんとも言えない滑稽さを感じさせる。それはやっぱり、どうしようもなく不可解なのだ。

「ハッ。腕は錆びついてねぇみたいだ――――なっ!」

 ただ一閃。杏子が振るった槍は違う事無く敵を捉えた。それで、お仕舞い。宙を駆ける使い魔は真っ二つに割かれ、二度と鏡の中に戻る事は叶わなかった。光の粒子となって消えゆくその最期を、彼女はただ呆然と眺めている。理解出来ないと、その顔には書かれていた。

「さて、と。怪我は無い?」

 暫く周囲の様子を窺った後、杏子はそう言って彼女に手を差し伸べた。腰を屈めて右手を差し出す杏子の顔には、やはり柔らかな微笑が浮かんでいる。その表情に緊張をほぐされ、彼女はゆっくりと体を起こした。脳裏には未だに疑問が渦巻き、頭の巡りは宜しくない。それでも彼女は杏子の手を取ろうとして――――――――知らず体を硬直させた。

 半端に腕を上げた姿勢で、彼女は傍らの杏子を仰ぐ。戸惑いと、迷いと、何より恐れ。彼女の顔には様々な色が表れていた。先程は信じてみたものの、いざ安全が確保されてみると、隠れていた不安が顔を出す。この手を取るべきか否か。そう悩む彼女は、睨むように杏子を見詰めてしまう。

「あっ……」

 先に動いたのは杏子の方だった。彼女の手首を掴んだ杏子は、そのまま強引に彼女を立ち上がらせたのだ。勢い余った彼女を支えながら、杏子はその体を上から下まで観察していく。

「大きな怪我は無いみたいだな。このくらいなら大丈夫だろ」

 よし、と杏子が頷く。安堵の滲んだその様子を見て、彼女はなんだかむず痒くなった。どう反応すればいいのか分からなくて、唇を結んでそっぽを向く。そのまま何も言わない彼女に対して、杏子は更に言葉を重ねた。

「それじゃ、さっさと進むか。このまま突っ立ってても時間の無駄だしな」

 クルリと踵を返した杏子は、彼女の意志を確認する事無く歩き始めた。そこに迷いは感じられず、どうやら彼女が付いてくるのが当然だと考えているらしい。やっぱり杏子は身勝手だ、と彼女は不機嫌そうに呟いた。とはいえ彼女がいくらジト目で睨んだところで、杏子の歩みが止まるはずもない。

「……はぁ」

 やがて彼女は溜め息をつくと、先を行く杏子を追って歩き始める。少しばかり駆け足気味のそれは、すぐに杏子の背中に追い付いた。そのまま杏子の隣に並んだ彼女は、意を決した様子で口を開く。

「どうしてわたしを助けたの?」

 色々と聞きたい事はあった彼女だが、最初に思い浮かんだのはそれだった。昨日は殺そうとした自分を、どんな理由があって助けたのか。おそらく真面目に取り合うのが馬鹿らしい理屈だとは思いながらも、彼女はそれを尋ねずにはいられなかった。

「どうして、か」

 足を止める事無く、杏子は天井を仰ぎながら呟いた。鏡の世界で宙を歩くかの如き杏子の姿は、ぼんやりとした表情も相俟って、どこか浮き世離れたようにも見える。思わず、彼女は喉を鳴らした。

「助けたかったから、かな」

 大きく、彼女はその目を見開いた。

「アンタは助けてほしかったんだろ? で、アタシは誰かを助けたかった。それだけの話さ」

 瞳に優しげな光を湛えて、杏子が語り掛けてくる。その言葉が理解出来なくて、理解したくなくて、だけど理解したくて、彼女は何も返せなかった。頭の中には疑問が積み重なり、とにかくグチャグチャだ。開いた口からは呻き声すら漏れないし、瞠った目は杏子を映しているかすら怪しい。それほどまでに杏子の答えは、彼女にとって意外なものだったのだ。

「ま、今はただ付いてくりゃいいさ」

 そう言って杏子は、薄く笑みを刻んだ。自信に溢れたその姿は頼りになりそうで、傍に居るだけで安心感を与えてくれそうだった。だけど今は、その優しさが彼女の心を掻き乱す。

「――――かんない」

 気付けば彼女は足を止め、低い声を漏らしていた。

「わかんない! 全ッ然、わかんないよ!!」

 拳を震わせ涙を滲ませ、彼女は力の限り声を張る。
 思わず立ち止まった杏子が振り返り、僅かに目を瞠った。

「昨日は殺そうとしてっ、今日は助けてっ、一体なにがしたいのよ!」

 もう誰の施しも受けない。アイに裏切られたと思った時、彼女はその誓いを胸に刻んだ。でもそんなの、彼女の本心な訳が無い。ずっと助けてほしかった。手を差し伸べてほしかった。誰かに縋りたくて頼りたくて、自分一人で歩くだなんて考えたくもない。そんな弱い彼女だから、やっぱり決意もすぐに揺らいで、こうして杏子の誘いに気持ちが傾いている。

 やめてほしい、と彼女は思った。拒むのは、つまり求めている事の裏返しだ。助けてくれるなら、その手を掴みたい。掴んで二度と放したくない。でも、怖い。手の平を返されるのが恐ろしい。だから彼女は拒絶しようと考えた。最初から手を伸ばさなければ、何も掴めなくても失望する事は無いのだから。

「ほんと、わけがわかんないよ……」

 頬を伝った涙が零れ落ち、彼女は恥じ入るように下を向く。

 答えなんて出せるはずもなく、さりとて諦める勇気も既に無く、彼女は聞き分けの悪い幼子のように泣き続けた。もう考えるのも億劫で、こうしていればそのうち誰かが解決してくれるんじゃないか、なんて子供みたいな願望が浮き上がる。もちろんそんなのは都合の良い妄想に過ぎないけれど、それに縋りたくなるほど、今の彼女は追い詰められていた。

 ハン、と杏子が鳴らす。
 ビクリ、と彼女は肩を揺らした。

「わかんねぇなら――――」

 芯の通った杏子の声が、彼女の頭に深く響く。
 同時に彼女へ近付いてくる足音が聞こえ、それはすぐ傍で止まった。

「アタシがわからせてやる。だから、今は黙って付いてこい」

 彼女の右手が、温かな感触に包まれる。次いで持ち上げられる右手につられて、彼女の視線も上げられた。すると息の触れ合いそうな距離に、笑顔の杏子が立っていた。思わず、彼女は目を丸くする。

「ほら、行くぞ」

 曇りの無い表情でそう告げて、杏子は彼女の手を掴んだまま歩き出す。引っ張られる形で、彼女も足を動かした。

 無茶苦茶だ、と彼女は思う。杏子の主張には理屈も何も存在せず、ただ自分の要求を突きつけているだけに過ぎない。勝手で、自侭で、彼女の意志を無視した蛮行。けれど今の彼女は、たしかにそれを心地よく感じていた。

 千の言葉を重ねるよりも、万の道理を連ねるよりも、握り合った手の温もりの方が心に響く。杏子に先導されながら、彼女はその事に気付かされた。もちろん完全に納得した訳ではない。でもそれ以上の文句を口にする事は出来なくて、彼女は口を尖らせたまま、大人しく杏子に従うのだった。

 暫く、二人は会話も無く通路を進んでいく。とはいえそれは最初の十分程度。我慢出来なくなったのか、途中から杏子がお喋りを始めた。最初は碌に返事もしなかった彼女だが、徐々に短く言葉を返し、遂には会話と呼べるまでになる。明るく話し掛けてくる杏子を無視し続けられるほど、彼女は頑なではいられなかったのだ。

「しかしまぁ、ここも不思議な場所だよな。明かりの一つも無いってのに、こうして視界には困らない」
「魔法って事でいいでしょ。難しく考える必要も無いし」

 彼女がぶっきらぼうに答えれば、杏子は愉快そうに呼気を漏らす。

「たしかにな。そういや元気そうだけど、昨日の怪我は魔法で?」
「……それもある。他にもある」

 杏子の小豆色の瞳が、後ろを歩く彼女を映す。けれど彼女は気にした様子も無く、ぼんやりとした視線を虚空に向けたままだ。その胸中を占めるのは、ここ暫くの、自らの生活についてだった。

「わたし達は魔法少女であって人間じゃない。この体だってそう。魔力にものを言わせて無茶すれば、空腹とか怪我とか病気とか、いろんな欠点を無視できる。たぶん、ただの女の子でしかないわたし達が、少しでも魔女と戦い易くする為の処置だと思う」
「あぁ、そういやそんな話も聞いたね。アタシとしては、いまいち実感が湧かない部分もあるんだけど」

 暢気に話す杏子に対し、彼女はまず溜め息を返した。

「事実だよ。わたしはもう何日も飲まず食わずだしね」
「うえっ。アタシだったら考えられないね。後でなにか奢ってやるよ」

 やだやだ、と杏子が首を振る。どこか軽いその態度は、決して彼女の言葉を軽んじている訳ではなく、むしろ重い空気にならないよう気を遣ったものだろう。それが分かるからこそ、彼女は意識的に杏子から目を逸らした。

 結局、彼女は普通の女の子なのだ。受け入れるにしろ拒むにしろ、それを貫く意志力が無い。だからこうして仲良さげに雑談を交わせば、杏子を近しく感じてしまう。意地を張っていた心に、綻びが生じてしまう。

 ただの女の子に、貫くべき誇りなどない。譲れない矜持なんてある訳ない。だからこれは、自然な事だ。二人の距離が縮まるのは、不思議じゃないのだ。でもちょっと悔しくて、彼女はわざと杏子の言葉を無視するのだった。

 頑なに目を合わせようとしない彼女に対し、杏子は思案げに視線を彷徨わせる。

「……そういや、この魔女はどんな奴だったんだろうな」

 唐突な杏子の話題転換。それは彼女にとって、到底無視出来ない内容だった。

「考えたいの? そんなこと」
「気にはなる。こいつは何に絶望したんだろうってな」

 周りを囲む鏡を眺めながら、杏子は目を細める。

「あの使い魔は厄介な敵だった。もっと数が多けりゃ、あるいは力が強ければ、並の魔法少女が束になっても敵わなかっただろうさ。だが実際にはどうだ。使い魔は一匹だけで、力も弱かった。正直もったいないとしか言えないね」

 たしかに、と彼女は杏子に同意する。一体何をしたのか、杏子は軽くあしらっていたようだが、あの使い魔は万全の状態の彼女でも苦戦は必至だ。もう少し強ければ彼女は殺されていただろうし、十や二十の群を成していれば、もはや絶望するしかない。この魔女にそれだけの力が無かった、とは思わない。少なくとも数を増やす程度は簡単なはずで、ならば現状の不可解さには理由があるのだろうと、彼女は結論付けた。

「たぶんこの魔女は、寂しい奴だったんじゃないかね」

 握っていた彼女の手を放し、杏子は両手で槍を構える。その刃が向けられた先は、壁を覆う鏡の一角だ。何をするのか察した彼女は、数歩後ずさって、杏子から距離を取る。不思議と彼女は、武器を取り出そうとはしなかった。たぶん、心が緩んでいたのだろう。

「自分の使い魔すら信用できない。だからあんな雑魚しか作らなかった。アタシはそう思うよ。こんな嘘っぱちな世界を生み出す奴だ。まともな性根じゃないのは確かだろうさ」

 皮肉げに笑った杏子は、次の瞬間、手にした槍を素早く振るった。
 影を残す薙ぎ払い。煌めく刃が、違えなく鏡に吸い込まれる。

「……え?」

 鏡が割られた。それは彼女が予想していたもの。
 世界が砕けた。これは彼女が考えなかった結末。

 壁が、床が、天井が。鏡が成していた巨大な迷宮は、ただ一振りで全てを壊された。すべての鏡がガラス片となって散り、刹那の内に光の粒子へと姿を変える。何度か瞬きを繰り返した後には、辺り一帯の景色は一変していた。

「あの鏡の迷宮は、いわゆる幻術ってやつだったのさ。元から出口なんてありゃしない。この魔女は自分の気配をちらつかせながら、それを目指すアタシらが疲弊するのを待ってたわけ」

 現れたのは白い世界。なんの障害物も無く、白い床と天井が果てなく続く広い世界。その光景に圧倒されていた彼女は、途中でふと違和感に気付く。自分と杏子以外は何も居ないように思えた世界に、何かが居た気がしたのだ。なんだろう、と目を凝らしてみた彼女は、暫し首を巡らせて、あっと小さく声を上げた。

 居た。たしかに居た。人間よりもずっと大きな何かが、彼女達から離れた場所に佇んでいる。彼女が最初に気付けなかったのは、その表面が鏡張りだった為だ。周りの景色を反射したそれは全身が真っ白で、その形すらも定かではない。それなのに彼女が見付けられたのは、鏡の一部に罅が入っていたからだ。

 この何かが魔女で、あの迷宮を生み出した張本人だろう。鏡に罅が入っているのは、おそらく先程の杏子による攻撃が原因だ。つまり杏子は、どうやったのかアレの存在を的確に察知していたらしい。

「……よく、見破れたね」
「アタシも幻術は得意でね。同業者の勘ってヤツさ」

 杏子の返答を聞いて、彼女は色々と腑に落ちた。あの使い魔が変な行動を取っていたのも、その幻術とやらを使ったからだろう。そうして改めて隣の杏子を見詰めた彼女の目には、その姿が一層頼もしく映っていた。

「さて、そろそろ終いとするか」

 呟くのと同時に、杏子は跳躍した。長い髪をたなびかせ、大きな槍を振り被り、杏子は魔女との間合いをゼロにする。その動作はあまりに自然で、彼女の認識が追い付いた時には、既に魔女は両断されていた。

「いっちょあがりっ!」

 快活に宣言した杏子の向こうで、魔女の体が光となって溶けていく。同時に、周囲の景色がグニャリと歪んだ。彼女が眉をしかめた一瞬の後には、既に白い世界は消えていた。彼女達が立っているのは廃ビルの屋上で、そこはもう日常の中だ。

「ほら、お前にやるよ」

 言葉と共に、杏子が何かを投げて寄越す。
 慌てて彼女が受け取れば、見覚えのある黒い物体が手に収まる。

「これ……」
「取っとけ。アタシは今日だけで三つ集めたしな」

 杏子は軽い調子で話したのに、そこには何故か、重い響きが含まれていた。

 少しの間、彼女は手元のグリーフシードを睨み付ける。やがて一つ息を吐くと、彼女はそれをポケットに仕舞った。だって彼女は、一般的な女の子。張り通す意地なんて、最初から持ち合わせていないのだ。

「じゃ、なにか食いに行くか。手持ちの食い物も切れてるみたいでな」

 パーカーのポケットをあれこれと探りながら、杏子は彼女の方に歩み寄ってくる。魔法少女の衣装を解いた杏子は、前に見た時と同じ服を着ていた。ただ以前と異なるのは、その服がやたらと汚れている点だ。彼女と違いマトモな生活スタイルを確立していそうな杏子が、どうしてそんな服を着ているのか。それはたぶん、今日だけで色々な場所を訪れた所為で、その理由を考えようとして、彼女は思索を打ち切った。

 ただ、気付けば彼女は。

「……ほんとに奢ってくれるの?」

 なんて、言ってみたりして。

「おう、まかせとけ」

 嬉しそうな杏子に向けて、笑ってみたりして。
 ちょっぴり軽くなった心を胸に、杏子の隣に並ぶのだった。


 ◆


 久方振りに彼女が口にした食事は、なんて事は無い鯖味噌定食だった。街角の定食屋で注文したそれは、普通で、平凡で、特別さなんて欠片もない食べ物だ。だけど不思議な温かさがあって、どうしようもなく美味しく感じられて、気付けば彼女が泣いていたのは、誰にも知られてはいけない秘密である。そう、誰にも。たとえ目の前で食事していた人間が居たとしても、知る者は居ないのだ。

 さて、そうしてお腹を満たした彼女は、幸せな気持ちで杏子に付いていった。気が緩んでいたし、浮かれていたとも言える。もちろんそれが悪い訳ではないし、その後も杏子の買い物に付き合わされたが、特に問題は生じなかった。ただ重要なのは、彼女は機嫌がよかったという事だ。久し振りのご飯にありつけた彼女は、とても気分がよかったのだ。そう、この場所に連れて来られるまでは。

「つーわけで、ここが今日の寝床だ」

 平然と告げる杏子の背後には、立派な教会が建っている。否、立派”だった”教会が建っている。郊外に構えるそれは、たしかに街中のものよりも二回りは大きく、見る者に自然と畏敬の念を覚えさせるだろう。でもそれは、建物が十全な状態であった場合の話だ。

「…………ちょーボロいんですけど」

 そう、この教会はボロボロだった。廃墟だった。大きな扉は片方が無く、残る一方も外れかけているし、元は白かったと思われる壁は汚れに汚れ、ステンドグラスも派手に割れている。外側だけでもコレなのだから、内側に至っては何をか言わんやだ。

「えっ。ていうか、えー? わたしと生活レベル変わんなくない?」

 あるぇー、と彼女は首を傾げずにはいられない。

 正直、杏子はもっと良い生活を送っていると思っていた。それが彼女の偽らざる感想だ。たしかに杏子は先ほど寝袋を購入していたが、だからと言ってこんな場所が寝床になるとは思わなかった。だって杏子にはお金がある。家に帰らない以上、杏子もまた一人で生きている訳で、その状況でお金を稼いでいるのなら、もっと上等な住処も手に入れられるはずだ、と彼女は信じていた。

「あー、ホテルとかも無理じゃないけどね」

 じゃあ、なんで。荷物を持って先導する杏子に続きながら、彼女はそう問い掛ける。

「悪いコトだからさ。方法がね。だからアタシは、もうやらないよ」

 適当な椅子に、杏子が荷物を置いていく。その度に白い埃が舞い散った。

 やっぱり、教会の中は散々だ。床は埃や木片、ガラス片などにまみれ、壁に填められたステンドグラスはあちこち割れている。かろうじて椅子は形を残しているが、掃除をしなければ座る気にもなれない。密封性皆無で風だって酷いだろうし、雨を防げるのが唯一の利点と言ってもよさそうなほどだ。それら一つ一つを確認する度に、彼女の気持ちが萎えていく。

「お金もそう。今の蓄えを食い潰したら、新しい稼ぎ方を考えないとね」
「つまり、犯罪者ってわけ?」
「あぁ。アタシは悪いヤツなのさ」

 全ての荷物を置いた杏子が、埃を払って椅子に座る。それに倣って、彼女も近場の椅子に腰掛けた。

「で、更生理由は?」
「自分を見詰め直したから、かな」
「なにそれ?」

 疑問符を浮かべる彼女に対して、杏子は苦笑を返した。

「アタシはさ、人助けがしたくて魔法少女になったんだ」

 一瞬、彼女は何を言われたのか分からなかった。だって、そうだ。昨日の杏子は何をした。彼女を殺そうとしたのだ。たしかに今日は助けてくれたが、殺そうとしたのもまた事実。そんな人間が人助けをしたかっただなんて、悪い冗談としか思えない。ただそうは言っても、彼女は杏子を詰る事は出来なかった。何故なら暗がりに浮かぶ杏子の顔には、深い後悔の色が滲んでいたからだ。

 考えてもみなかった杏子の表情に、彼女は半端に口を開いたまま固まってしまった。そんな彼女を見た杏子が笑う。先程までの暗さを感じさせない、生気に満ちた笑顔だった。思わず肩の力が抜け、彼女は大きく息を吐く。

「昨日の事については謝るよ。あれは完全に八つ当たりだったからね」

 言って、杏子が立ち上がる。杏子は通路を歩き、そのまま講壇のある場所まで上っていく。そうして講壇の前に立つと、杏子は教会全体を見渡した。既に日が沈み、暗がりの中ではあったが、彼女には杏子の顔がよく見える。懐かしむような苦しむようなそれは、杏子とこの場所の繋がりを否応なく感じさせた。

「ここはね、アタシの親父の教会だった」

 どうしてか、彼女はその言葉を自然と受け入れていた。

「昔は凄い数の信者が居たんだよ。アタシが魔法少女になったばかりの頃はさ」

 言われて彼女は、改めて教会の中を見回した。だが、そこには賑わっていた頃の面影すら感じられない。盛者必衰とは言うものの、今のこの場所は、あまりにも寂しく冷たい空間だった。杏子の言葉が真実なら、どうしてこうなってしまったのだろうか。その答えは、既に彼女の中に用意されていた。

「あなたが、そうなるように願ったから?」

 唇を噛んで、杏子は小さく頷いた。

「みんなが親父の話を聞いてくれるよう、アタシはキュゥべえに願ったんだ。親父は立派な人だったけど、教義に無い事まで話しちまってさ。それで、みんなにそっぽを向かれてた。けどちゃんと親父の話を聞けば、誰もが正しいと理解できるって、アタシはそう思ってたんだ」

 だから願ったのだと、杏子は告白する。

「実際、初めは上手くいってた。話を聞いた人は親父に賛同してくれて、日に日に信者は増えていった。アタシもさ、魔法少女として親父とは違う方法で人助けをするんだって、無邪気に張り切ってたんだ」

 そこで言葉を区切って、杏子は天井を仰ぎ見た。その頬に涙は流れない。けれど彼女には、杏子が泣いているように感じられた。

「お父さんにバレたの? 魔法少女の事が」
「……あぁ、バレた。人の心を惑わす魔女だってブチ切れられたよ。親父は本当に真面目で真摯な人だったからさ、耐えられなかったんだ。信者が信仰で集まってくれたわけじゃない事に。娘のアタシが、魔法の力に頼っちまった事に。それで親父は壊れちまってさ。酒に溺れて、最後は家族を道連れに無理心中さ。アタシだけを残してね」

 痛いほどの沈黙が、夜の教会に満ちていく。彼女と杏子。互いに目を合わせる事無く、それでも相手の存在を意識しながら、なんとも言えない空間に身を委ねている。それは、ともすれば一瞬で壊れてしまいそうな、ガラス細工のように儚い時間だった。

「なんだか似てるね」

 沈黙を破ったのは彼女だ。自身の膝元に目線を落としながら、彼女はポツポツと言葉を続けた。

「わたしと、杏子のお父さん。上手くいってると思ったら、信じてた人に裏切られて、残酷な現実を突き付けられた。それで自棄になったんだよね。いろんな事が嫌になって、信じられなくなって、心が黒いナニカに蝕まれていった」

 相違点は多々あるだろう。それでも彼女は、杏子の父に自分を重ねてしまった。自分だけじゃなかったんだと、他にも居たんだと、そんな風に安心したくて。同時に彼女が感じたのは、現状に対する安堵感。一歩間違えれば、どこかで少しでも踏み外していれば、彼女はとっくの昔に終わっていた。それが理解出来るからこそ、まだ踏み止まれている事実に感謝する。

「そっか、そうだな。たしかに似てる。アンタが気に食わなかったのは、そういう理由もあったのかもな」

 額を手で覆った杏子が呟く。それは彼女に対する言葉というよりも、杏子自身に向けたもののように感じられた。

「こんな事にも気付けないなんて、アタシは本気で参ってたんだな」

 僅かに、静寂。次いで盛大に嘆息した杏子は、その視線の先に彼女を捉えた。強い意志の宿った瞳だ。決意を匂わせるそれを見た彼女は、知らず背筋を伸ばしていた。ピンと空気が張り詰め、緊張感が高まっていく。

「改めて言うよ。アタシはアンタを助けたい」

 鋭い声が、冷たい空気を切り裂いた。

「奇跡の代償は絶望だった。アタシは運よく魔女にならなかったけど、やっぱり辛くて目を逸らしてた。人助けなんて割に合わないって自分に言い聞かせて、本心を隠してたんだ。けど、いつまでも自分を騙し続けるのは無理だったみたいでね」

 杏子が息を吸い、吐き出した。

「アタシは誰かの役に立ちたい。そういう人間なんだって、気付いちまった。気付いたら、止まれなかった」

 一つ一つの言葉を噛み締めるように語る杏子の声は、少しだけ震えていた。

 嘘ではない、と彼女は思う。杏子の話は本当で、彼女を助けたいというのも本心だろうと、完全ではないが信じられた。それでも、というよりもだからこそ、彼女は杏子に尋ねたい事があった。

「ねえ、どうして昨日の今日で変わったの? どうしてわたしを助けたいの?」

 杏子が本質的に優しい人間だという事は分かった。彼女を助けたいという意思も理解出来た。だが僅か一日で変われた要因は分からないし、助ける対象に彼女を選んだ理由も分からない。だからこその、どうして。

「別に小難しい理屈はねぇよ」

 恥ずかしそうに頬を染め、杏子が髪を掻き乱す。

「助けてって、言っただろ?」

 当然のように断言する杏子に、彼女はポカンと口を開けた。

 なんだそれは。なんなんだそれは。馬鹿かこいつは、と彼女は思う。こいつは馬鹿だ、と彼女は確信する。たったそれだけの事で生き方を変えるなんて、その程度の理由で助けようと決めるなんて、馬鹿以外の何者でもない。でもそんな杏子だからこそ、彼女は今も生きていて、こうして話をする事が出来るのだ。そう考えると、彼女はなんとも言えない気持ちになった。

「馬鹿みたい。ほんと、馬鹿みたい」

 彼女の呟きはとても小さく、けれど静かな教会にはよく響く。
 杏子が不機嫌そうにそっぽを向いた。彼女が可笑しそうに声を零す。

 奇妙なほど穏やかな空間だった。問題はまだまだ沢山あって、これから色々と苦労を重ねるだろう。それが分かっていても、彼女は不安にならなかった。びっくりするくらい心の中は凪いでいて、温かな何かで満ちている。どうして、なんて言うまでもない。彼女が杏子を信じているからだ。今度こそ、ちゃんと、心の底から信頼しているから、こんなにも落ち着いていられるのだ。

「ねぇ、杏子」
「……なにさ」

 彼女は微笑む。もう随分と浮かべていなかった、とても純粋な笑みだった。

「これからよろしくね」

 きっと彼女は、杏子を頼ってばかりになるだろう。手助けなんて、ほんのちょっとでも出来ればいい方だ。それはたしかに情けないし、申し訳ない。でも彼女はそれ以上に嬉しかった。信頼出来る相手が居る事が幸せだった。そしてそんな彼女を、杏子は受け入れてくれるのだ。

 だって彼女はそういう人間で、たぶん杏子も、そういう人間なのだから。




 -To be continued-



[28168] #017 『魔法少女って、なんですか』
Name: ひず◆9f000e5d ID:d2055b83
Date: 2012/10/23 00:01
「それじゃ、もう行くわね」

 広い病室に、少女の声が響き渡る。柔らかなそれは耳に心地よく、また同時に粘つくほどの甘さを孕んでいた。発したのはマミで、彼女はベッドに横たわるアイを見下ろしている。顔には聖母の如き微笑を浮かべ、マミは更に言葉を重ねた。

「明日もまた来るから」
「りょーかい。楽しみに待ってるよ」

 アイが答えれば、マミは満足そうに頷いて、そのまま病室の入り口へと足を向けた。扉を開き、外へ出て、扉を閉める。そうしてマミの姿が見えなくなると、アイは困った様子で時計を見遣った。現在時刻は、もうすぐ学校の授業が終わろうかという時間帯。それを確認して、彼女はおもむろに嘆息する。

 あの事故の日から暫く経ったが、その間、マミは一度として学校に行っていない。いつも朝早くからアイの病室を訪れて、足の動かない彼女をあれこれと世話しているのだ。面会時間ぎりぎりまで居座る事は無いが、それは授業を終えたまどかと魔女退治に向かう為であり、やはりアイを想っての行動である事に変わりは無い。

 元からアイに対して過保護な面のあるマミだったが、あの事故を通してそれが一気に悪化した。片時もアイの傍を離れようとせず、物を取ったり食事の補助をしたり、果ては下の世話に至るまで、マミはあらゆる面で手助けしてくれる。それはもう喜々として、それはもう活き活きとして、マミはアイの世話を焼きたがるのだ。

 学校すらサボってアイの世話をするマミに対して、看護師さん達が強く咎める事は無い。アイがマミと出会ってから数年。三日と間を置かず見舞いに来るマミを見てきただけに、暫くは好きにさせようという意見で纏まっているらしい。

 はぁ、と溜め息。それからアイは、布団に隠れた自らの足を見詰めた。

 足があるという事を、わざわざ意識した事なんて無い。歩くのだってほとんど無意識で、走る時にも注意は要らない。文字通り体の一部だからこそ、足が存在するとかしないとか、そんな事は気にしなかった。それが当然の事だった。自然な事だった。

 でも今のアイは違う。感覚を失くして初めて分かった喪失感。特に意識する事は無くても、これまではたしかに足はあったのだ。こうして布団を被っているだけでも、間違いなくその重みを感じていたはずなのに、今のアイにはそれが無い。それは、酷く虚無的な何かだった。

 恭介を助けた事に対する後悔は無い。それはこれから先も変わらないと、アイは心の底から確信している。むしろ彼女は、この喪失感を心地良いとすら感じていた。失ったものの代わりに、たしかに守れたものがある。そう思えば、アイにはこの足が勲章にすら思えてくるのだ。とはいえマミにそんな話が通じるはずもなく、以前よりも増した過保護振りに対して、少しばかり辟易しているアイだった。

「なんとかしないとマズいよねぇ」

 呟き、アイが苦笑する。

『こんにちは。ひさしぶりだね』
「――――っ!」

 少年とも少女とも判別つかない声が、アイの脳裏に響く。勢いよく顔を上げた彼女は、急ぎ辺りを見回した。間も無く、アイの視界に探していた相手が映り込む。白い体に赤い目を持つ、どこか作り物めいた造形の小さな生き物。キュゥべえと呼ばれる彼が、病室の入り口に佇んでいる。

 アイと目が合ったキュゥべえは、その表情を僅かにも動かさず、ゆっくりとした足取りでベッドに歩み寄ってきた。軽やかな身のこなしで、キュゥべえがサイドテーブルに飛び乗る。ガラス玉のように生気の感じられない瞳が、ベッドに横たわるアイを見詰めた。

「ひさしぶり。会いたかった気がするぜ」

 邪気の無い表情で微笑んだアイが、キュゥべえに手を伸ばす。そのまま、彼女は丸っこいキュゥべえの頭を撫で始めた。なんとなく猫を思わせる造形を持つキュゥべえは、黙って撫でられている分には可愛いものだ。傍目に見れば、その光景は十分に心和むものだろう。

 アイが笑う。笑いながら、キュゥべえを撫で続ける。優しい手つきで、柔らかな顔つきで、彼女は人ならぬ存在と接していた。細い指が、ゆっくりとキュゥべえの体を這う。頭から頬を伝い、顎下を掻いてやり、それからアイは――――――――キュゥべえの首を絞めた。

「最近は色々と大変でね。悩み事が膨らむばかりさ」

 ボトルのキャップを開ける事にすら苦労するアイの手が、それでも力一杯キュゥべえの首を絞め上げた。そのまま腕を上げれば、白い体がブランと垂れ下がる。力無いその姿は死んでいるようでもあったが、赤い瞳は瞬く事無くアイを見詰めていた。

 アイは笑顔だ。曇りの無い笑顔だ。一見すれば穏やかなそれは、けれど状況を考えればあまりに異質。何か大事なものを落としてしまったのではないかと思えるほど、今のアイは不気味だった。

「…………このままキミを殺せば、少しは楽になるのかな?」

 ギリギリと、アイは首を絞める手に力を籠めていく。

『無駄だよ。端末が一つや二つ壊れたところで、僕達にはなんの痛手にもならないからね』
「それが千や万に及んでも?」
『なにも変わらないだろうね。たしかにコストは掛かるけど、それも微々たるものさ』

 笑って、笑って、アイは何も言わずに右手から力を抜いた。
 解放されたキュゥべえが、サイドテーブルの上に着地する。

「やるせないね。ボクらは一生物の悩みを抱えているのに、その元凶が一山いくらって言うんだから」

 肩を竦めたアイが愚痴る。皮肉げに頬を歪めるその姿は、先ほどまでのやり取りを感じさせない。そこにはいつも通りの絵本アイが居て、本当に何事も無かったかのように振る舞っていた。

 実際、アイにしてみれば軽い冗談みたいなものだ。あえて理由を求めるならば、ちょっとした確認だろうか。この程度の事を気にするほど可愛いげのある相手ではないという事実を、少し確かめたくなった。結局はそのくらいの意味しかない。

「ま、せっかく来たんだし、ゆっくり話そうよ。足が動かない分、前より考える時間が増えちゃってね。色々と聞きたい事があったんだよ。そっちだって、なにか話があるから来たんだろ?」

 アイが小さく鼻を鳴らす。

「と言っても、キミの用事なんて一つしか思い浮かばないけどね」
『そうだね。前にも言った通り、ヒト一人の体を健康にするくらいなら、君でも可能な範囲だよ』

 魔法少女になれば健康になれる。また歩く事が出来るし、病室に縛られる事も無い。つまりキュゥべえが言いたいのはそういう事で、だから魔法少女になる契約をしないかと、暗に迫っている訳だ。今更過ぎるほど今更な話で、ブレる事の無いキュゥべえに対して、アイは溜め息すら出てこなかった。代わりにアイが漏らしたのは、変わる事の無い彼女の決意だ。

「何度も言うけど、ボクは自分の為に奇跡を願うつもりは無いよ」

 繰り返しキュゥべえに告げてきた答えを口にして、アイはスッと目を細めた。鋭い視線がキュゥべえを射抜き、場の空気を緊張させる。それでもやっぱり、キュゥべえに変化は無い。感情を持たないと言われる彼は、どこまでも自然体で佇んでいた。

「……ふぅ。ま、睨み合ってもしょうがないしね。別の話をしよう」

 キュゥべえの返事は無かったが、アイは構わず話を続けた。

「別と言っても、また魔法少女に関係する事なんだけどね。ほら、希望の代償に絶望が返ってくるって話でしょ? だったら自分にとって絶望と言える願いを叶えてもらったら、その結果はどうなるのかな? 始まりがプラスだとマイナスが返ってくるなら、マイナスで始めたらどうなるのかっていう話さ」

 普通はそんな事を願う魔法少女は居ないだろう。しかしだからこそアイは気になった。他の人間と比べて、それこそ魔法少女となった女の子達と比べても、アイはキュゥべえとの契約について詳しい。その本来なら知るはずの無い知識を用いる事で、どうにか契約の穴を探せないかと考えたのだ。あり得ない情報を利用すれば、あり得ない結果を掴めるかもしれない。儚いとは知りつつも、アイはそれを望まずにはいられなかった。

『まず結論を言うけど、それでも魔法少女は絶望を迎えるよ』

 僅かに口元を緩め、アイは切なげな息を漏らす。

『少し誤解があるみたいだね。契約の時に願う内容は、君が考えているほど重要ではないんだ。肝心なのは、魔法少女が願ったということ。僕達はただ君達が望んだ事を叶えるだけさ。だからその代償として返ってくるのは、結局は君達が望まない事だけなんだよ』

 それは、実に単純な理屈だった。望んだ褒美を与えられる代わりに、望まぬ罰を受けねばならない。何を望んだかなんて関係無く、望んだという事実がある以上は、望まぬ結末を受け入れるしかない。ただそれだけの簡単な道理は、それ故に覆す事が難しい。

 嫌な事実を突きつけられ、アイは思わず歯噛みした。高望みしていた訳ではない。ただほんの少しでも綻びあればと、僅かな希望に縋ってみただけだ。成果が無いのは覚悟の上。それでもやっぱり、無情な現実に落胆は隠せなかった。

「胴元が儲けるのは博打の基本か」

 やや疲れた様子で、アイが呟く。

「……なぁ、そんなに絶望が大事なわけ? 人類なんて、そろそろ七十億に届くかっていうくらい居るんだぜ。少しずつでもいい。数に任せて手当たり次第に回収していけば、悲劇なんて起こさなくても十分に感情エネルギーを集められるんじゃない?」

 それは、以前からアイが考えていた事だった。アイが聞いた話では、女性の、しかも思春期の少女しか魔法少女になれないらしい。けれどそこまで範囲を絞るくらいなら、質を無視して量に走っても十分に補えるのではないだろうか。素人考えながら、アイはそう思うのだ。

『単にエネルギー量だけで言えば、それでも賄えるだろうね』
「つまり、それ以外では問題があるってこと?」
『効率が悪いのさ。全人類を対象にエネルギーを集めようとすると、流石に手間が掛かるからね。それに収集するエネルギーだって、単に感情があればいいわけじゃない。相応に強い感情の発露が必要なんだ。だからやっぱり、今の方法が最も効率がいいんだよ』

 それに、とキュゥべえが言葉を繋ぐ。

『一方的に搾取するだけなんて、公平性に欠けるじゃないか』

 愉悦も優越も、罪悪も悲壮も、まるで感じさせない声だった。自分のやっている事に一切の疑念を抱いていないその声はどこまでも清廉で、それ故に気持ち悪かった。思わずアイは、その柳眉を顰めてしまう。

『今のペースでもノルマは達成できるしね。わざわざ手間の掛かる方法に切り替える必要性を見出せないよ』
「ははっ。まったくキミらしい答えだね」

 どこか引き攣ったような声でアイが零す。

 今更キュゥべえに対して怒りをぶつけるつもりは無かった。そういうのは無駄でしかないと、アイは半ば諦めに近い境地に達している。それでもやりきれない感情が溢れ出し、彼女は大きく息をつく。

「はぁー。この話はお仕舞いにしよう。ボクが疲れる」

 自由な右手で額を覆い、アイは目を瞑った。そのまま彼女は口を閉じる。静寂が病室を満たし、一転して穏やかな空気が流れ始めた。もちろんそれは見せ掛けに過ぎないが、アイが気を落ち着けるのには十分だった。

「……あと一つ。キミに確かめたい事があるんだ」

 暫く静寂に身を浸していたアイが、ゆっくりと目を開ける。それから、傍らのキュゥべえに目線を移した。大きな黒い瞳に、白い獣が映り込む。初めて会った時から変わる事の無い、それこそ表情一つ動かない、正真正銘の化け物の姿。それをアイは、真っ直ぐに見詰めていた。

「マミは多くの魔法少女を生み出したんだよね?」
『正確には契約の手伝いだけど、彼女のお陰で魔法少女が増えたのは確かだね』

 吸って、吐いて、アイは大きく深呼吸。

「――――――じゃあ、その魔法少女はどうなったの?」

 魔法少女は、やがて魔女に成り果てる。それは抗えぬ運命だと、かつてアイは教えられた。幸運にもマミはまだ大丈夫だが、さやかの場合は驚くべき早さでその宿業が訪れている。つまりそれは、いつまでなら大丈夫なんていう保証は欠片も存在しないという事だ。

「この街の魔女は、どれだけ増えてるわけ?」

 マミの罪は、どこまで積み重なってしまったのだろうか。


 ◆


 静寂。衣擦れすら響き渡るほどの静寂が、広い病室を支配する。日の暮れ始めたこの時間、朱に染まったその中で、アイは静かに窓の外を眺めていた。彼女の瞳に映るのは、ビルの建ち並ぶ近代都市。周りと比しても一際高い病院の、最上層にほど近い窓辺から、アイは全てを見下ろしている。四角く背の高い建物群を、川に架かる大きな橋を、絶え間無く行き交う自動車を、彼女は視界に収めていた。

 アイが生まれ育ったこの街は、都会と呼んでも差し障りが無い程度には発展している。実際にアイが街中へ出た経験は少ないが、それでも彼女にとってこの場所は、愛すべき故郷だ。人工的過ぎて、機械的過ぎて、決して田舎とは言えないけれど、むしろそんな所が好きだった。だって人の手が加わっているという事は、つまりは人が抗ったという証である。自然の流れに任せていれば、とうの昔に果てている身を持つからこそ、アイはそんな風に思うのだ。

「魔法少女が居なければ――――」

 不意に、アイが口を開く。
 薄紅色の唇が、澄んだ声を紡ぎ出す。

「今でも人類は、洞窟の中で暮らしていたかもしれない」

 窓の外から、部屋の中へ。目線を動かしたアイの視界に、一人の少女が映り込む。長い黒髪と、ややキツい目付きを備えた彼女。アイの友人である暁美ほむらが、静かにベッドの傍に立っていた。何時から居たのかは分からない。ただそこに居る事には、アイは少し前から気付いていた。

「なんてボクは教えられたけど、ふざけた話だよね」

 アイが笑う。友達に向けて、友達に向けるべきじゃない笑顔を、彼女は浮かべてみせる。向けられたほむらは、微かに眉間に皺を作った。けれど何も言う事無く、彼女は変わらず口を閉ざしている。

「魔法少女は個人の問題。だけど、人類の問題でもある。まったく、ややこしいったらありゃしない」

 呆れた様子で首を振るアイに、ほむらは躊躇いがちに声を掛けた。

「……あなたは何を考えているの?」
「マミの事だよ。これからどう対応していこうかと思ってね」

 多くの魔法少女を生み出したマミ。その裏に隠された秘密を知れば、彼女は必ず後悔する。心が傷付けられる。それは嫌だと、アイは思うのだ。故になんとかしてマミの負担を減らしたいと、こうして思索を巡らせている訳である。

「マミの手助けによって多くの魔法少女が生まれた事は、もはや覆せない事実だ。でもだからって、それが完全に不幸な事だったかどうかは別問題だよね。もちろん普通に考えて良い事ではないんだろうけど、少しでもマミの気を紛らわせられないかと思ってさ」

 戯れ言でもいい。まやかしでもいい。僅かにでもマミの心を軽く出来るならばと、アイは頭を悩ませていた。魔法少女とは何か。魔女とは何か。それはただ嘆くべき存在でしかないのか。様々な疑問が、アイの脳裏を巡っていく。

「とはいえ、だ。ボクの体の事がある限り、きっとマミは救われないんだろうね」

 それは純然たる事実だと、アイは理解している。マミとて、純粋な少女達をキュゥべえと契約させる事に罪悪感はあったはずだ。それでも冷徹と言えるほどに彼女が契約を押し進められたのは、アイを助けるという目標があったからだろう。後ろめたさを押し潰し、躊躇う心をひた隠し、ただアイの為に頑張った。その努力が報われない限り、マミの心は救われない。無駄な犠牲を強いてしまったと、ひたすらに悔い続けるはずだ。

「けどあなたの体は、きっと治らない」

 呟いたのは、佇んだままのほむら。鋭く目を細めた彼女に、アイは薄い笑みを返した。

「まどかを魔法少女になんてさせない。その為なら、たとえあなたでも――――――」

 ほむらの声は、アイが聞いた事も無いほど低かった。けれど胸の奥まで響くそれを耳にしても、アイの余裕は崩れない。ベッドの上に不自由な肉体を横たえたまま、アイは柔らかな表情でほむらに答えた。

「ありがとう」

 アメジストに似たほむらの瞳が、微かに見開かれる。

「その言い方、まるでボクが特別みたいだ」

 サッとほむらの頬に朱が走る。でもそれは一瞬の事で、またすぐにいつもの調子に戻っていた。だがアイはそれを見逃さない。機嫌良さそうに忍び笑い、彼女は口元に右手を寄せた。

「……帰るわ」

 ほむらが短く告げる。

「ゆっくりしていけばいいのに」
「別に。あなたの様子を見に来ただけだから」

 そう言ったほむらは、少しだけ怒っているようだった。とはいえ心底許せないといった様子ではなく、子供がムキになっているという表現が近いのかもしれない。その普段からは考えられない態度を見て、アイは一層愉しそうに笑みを大きくした。

 ほむらの頬が僅かに膨れる。それから彼女は、振り切るように踵を返した。扉に向かっていくほむらの背中を、アイは黙って見送る事にする。止める気は無いし、その必要性も無い。ただいつもとは違う友達に対して、生温い視線を送るだけだ。

 扉が開けられ、閉められる。再び一人になった部屋の中で、アイは天井を仰ぎ見た。

「ほむら”ちゃん”か……」

 マミも、杏子も、まどかも、さやかも、アイはそんな風に呼ばない。ただ一人、ほむらに対してだけ、ちょっと違う呼び方をする。はたしてその意味はなんなのだろうか。絵本アイにとっての暁美ほむらとは、一体どういう存在なのだろうか。

 考える事が一杯だ。そう呟くアイは、困ったように眉根を寄せるのだった。


 ◆


 もうすぐ日が暮れようかという時間帯。住宅街にほど近い位置にある公園からは、一人また一人と、人影が消え始めていた。未だ公園に残っている人影はまばらで、幼子に至っては一人も見当たらない。その公園の隅っこ、ややくたびれた感じの木製ベンチに、二人の少女が座っていた。

 巴マミと鹿目まどか。彼女らはそれぞれ手に缶ジュースを握って、辺りをぼんやりと眺めながら言葉を交わしている。授業の事やテストの事、趣味に好きな食べ物に、家での過ごし方。そんな雑談としか言えない話題を繰り返す彼女達は、不思議と魔法少女の話はしなかった。

 チラリと、まどかは隣のマミを見遣る。まどかにとって一つ上の先輩に当たる彼女は、一切の気が抜けた様子で視線を彷徨わせていた。そこにかつての覇気は無い。まどかの振る話題に返事をしてはいるが、マミはずっと上の空だ。アイの怪我が原因だろうと、わざわざ考えるまでも無く理解出来る。

 アイが事故に遭って以来、マミは学校に来ていないらしい。授業中はずっと病院でアイの世話をしていて、放課後になれば、フラリとまどかの前に現れる。まどかを魔法少女にしたいのだろうと予想は出来るが、不思議と魔女退治には行っていない。日々こうして、場所を変えながら雑談に耽る毎日だ。本当ならここにさやかも加わるはずだったのだが、恭介の事で負い目があるのか、彼女はマミの代わりに魔女退治を頑張っている。

 マミに向けていた目線を、まどかは手元の缶ジュースに落とす。

 まどかから見て、マミは大きく変わってしまった。以前の頼もしさは鳴りを潜め、アイみたいな儚さに取って代わられている。その原因はあまりにも明快であるが、だからこそまどかは怖かった。たった一つの出来事で、人は容易く変わってしまう。そして自分の進もうとしている道には、そんな出来事がいくつも転がっているかもしれないのだ。その事を改めて認識して、まどかは臆病風に吹かれていた。

「――――マミさんは」

 不意に、まどかが声の調子を変えた。取り繕うものから、真剣なものへと。

「マミさんは、自分の為に魔法少女になったんですよね?」
「……ええ。あの時は碌に考える余裕も無かったから」

 僅かにマミの雰囲気が鋭くなり、まどかは知らず息を詰めていた。

「事故に遭って、体中が痛くて、ただ助かりたいとしか思えなかった。だから私は、キュゥべえに願ったの。魔法少女の事なんて碌に理解していなかったけど、生きられるならなんでもよかったのよ。鹿目さんとは正反対よね」

 そう言ってマミは、寂しげな笑みを零す。

 自分の為に願ったマミ。魔法少女の事を知らなかったマミ。それはたしかに、まどかとは正反対と言えるだろう。まどかは他人の為に奇跡を願おうとしていて、魔法少女についても事前に色々と教えられているのだから。そう考えると、自分は随分と恵まれた環境に居る。ふとその事に気付いたまどかは、改めて自分の進むべき道について思いを馳せた。

 まどかには選択肢がある。マミに比べて遥かに多い道が、まどかの前には広がっている。注意すべきは、そのほとんどは一歩でも進めば後戻りが出来ない事だ。唯一やり直せるのは、魔法少女にならない道だけ。それ以外を選べば、あとは我武者羅に進むしかない。

 魔法少女になりたいという想いは、今もまどかの中に燻っている。自分の手で誰かを助けられるなら、救えるなら、それは何より嬉しい事だ。けれど引き返せないその道を選んだ時、はたして後悔せずにいられるだろうか。その答えを、まどかは未だに出せなかった。

「たまにあなたが羨ましくなるわ。仕方の無い事だと、わかっているのにね」

 マミの言葉に、まどかは何も返せなかった。ただ静かに、彼女は缶を握る手に力を籠める。

 巴マミと鹿目まどか。この二人を比べたら、優秀なのは間違い無くマミの方だろう。勉強も運動も人柄も、全てマミが上をいくと、まどかは信じている。でも、今の状況はどうだろうか。マミが望んでやまない事を、心の底から求めている事を、まどかなら叶えられる。どれだけマミが足掻いても不可能な事を、まどかなら容易く実現出来るのだ。

 甘美な誘惑だった。すぐにでもその手を取って、今の自分の殻を破りたくなるほどだ。そんなまどかを踏み止まらせるのが、アイが教えてくれた覚悟だ。魔法少女になって不幸な目に遭ったとしても、誰も恨んだりしない覚悟。何をやってもパッとしない自分に、そこまで綺麗な信念を抱く事は出来るだろうかと、まどかは不安だった。

 魔法少女に対する憧れが強くなるほど、まどかは尻込みしてしまう。自分を卑下する彼女には、憧れの対象があまりにも眩しく映るのだ。自分はそこまで凄くないと決め付けて、始める前から諦める。それが今のまどかだった。

「鹿目さんは、今でも魔法少女になりたいと思ってる?」
「あっ、はい! アイさんを助けられたらいいなって…………」

 不意に問われ、まどかは勢いよく顔を上げる。見れば隣のマミが、優しげな目でまどかを見詰めていた。

「ありがとう」

 一瞬、まどかは何を言われたのか理解出来なかった。

「ありがとう、アイの為に悩んでくれて。他人の為にそこまで真剣になれるというのは、鹿目さんが考えている以上に素敵な事よ。だから、ね。あなたがどんな答えを出しても、私は恨むつもりは無いわ」

 柔らかな声が、温かな声が、ジワジワとまどかの胸に沁み渡る。そんなはずはないと、まどかは言いたかった。言いたかったのに、言えなかった。それは目の前にあるマミの顔が、あまりにも穏やかだったから。慈愛に満ちたマミの表情が、全てを許しているように思えたから。だからまどかは、泣きそうな顔で口を噤んだ。

「あなたは優しい人よ。だからあなたが悩み抜いて出した答えなら、私もアイも文句は言わない」
「そんな、わたし……優しくなんか…………」

 緩やかに首を振り、マミはまどかと目を合わせた。

「優しいわよ。あなたは、誰かの為に本気になれる人だもの」

 自信に満ちたその言葉は、理屈抜きでまどかの心に突き刺さる。嬉しい、とまどかは思った。マミはまどかを認めている。称賛している。それが理解出来たから、ただ純粋に喜んだ。少しだけ、勇気が湧いてくる。

 頬を染めたまどかが、一気に缶ジュースを飲み干した。ぷは、と一息。空になった缶を握り締め、まどかは勢いよく立ち上がる。それから彼女は、手にした缶をゴミ箱に放り投げた。普段なら絶対にしない行動。でも今はそういう気分で、綺麗にゴミ箱に吸い込まれた缶を見て、まどかは小さくガッツポーズを決めた。次いでクルリと、彼女はマミに振り返る。

「ま、マミさん!」

 まどかが裏返った声を張り上げる。
 慌てて息を落ち着けて、まどかは次の言葉を紡ぐ。

「あの……その……わたし、頑張ります!」

 何を、とは言わない。どんな風に、とも言えない。ただ頑張ろうと、努力しようと、まどかは思ったのだ。お腹の底から沸々と熱い感情が湧き上がってくる。抗えない波に理性が押し流される。そうして残ったのは、小さくも輝かんばかりのやる気だった。

 不安と、渇望と。まどかの中で揺れ動いていた心の天秤が、少しだけ渇望へと傾けられる。マミの言葉が後押しとなり、まどかに自信をつけさせていた。それは些細な切っ掛けに過ぎないかもしれない。けれどたしかに、まどかの心は動いたのだ。

「……そう。頑張ってね」

 ただそっと背中を押すように、優しい声音でマミが告げる。
 嬉しい、とまどかは思う。ありがたい、と彼女は感じる。
 一歩だけでも前に進めたのだと、まどかは喜んだ。


 ◆


 そろそろいい時間という事でまどかと別れ、マミは夜の繁華街に繰り出していた。目的は魔女退治。まどかと一緒に居た時はしなかったそれを、マミはこれから行うつもりだ。彼女はその手に乗せたソウルジェムで魔女の居場所を探しながら、雑多な人混みの中を抜けていく。

 マミがまどかを伴わないのは、今のまどかを刺激しない為だ。まどかを魔法少女にしたい。たしかにそれはマミの願いだ。しかし以前よりも魔法少女に対して臆病になっているまどかを危険な目に遭わせれば、取り返しのつかない事になるかもしれない。いっそ命の危険に晒してしまえばと考えなかった訳ではないが、今はまだ様子見すべきだというのが、マミの出した結論だった。

 真剣な表情で街中を進みながら、マミはひたすらに黙考する。

 今後、まどかとはどのように付き合っていくべきだろうか。マミにとって、今日の雑談は十分な成果と言っていい。危ういバランスの上に立っていたまどかを、多少なりとも魔法少女寄りに出来たのだから。しかも確たる自分を持たないまどかの事だ、優しいと言われて喜んだのなら、きっと『優しい答え』を出してくれるはずだと、マミは予想している。故にこのまま少しずつ押していっても、まどかの契約は時間の問題だと考えていた。

 ならば大きく動く事無く、その時をジッと待てばいいのか。そう自問した時、マミは明確な答えを返せなかった。まどかを魔法少女にする。そこに疑問の余地は無い。迷いなど無い――――――――はずだった。

 手元のソウルジェムに目線を落とし、マミは口元を堅く結ぶ。

 不安があった。近頃のマミは魔法少女という存在に対して、言い知れぬ不安を抱いていた。それは未だ形になっていないが、魔女と対峙した時などに、ふと首をもたげるのだ。魔法少女とは、一体なんなのだろうかと。もちろん魔女を退治する為の存在と答える事は出来るのだが、それだけではないと考える自分が居る事に、マミはちゃんと気付いていた。

 たとえば、ソウルジェム。魔力を消費すればソウルジェムは濁っていき、グリーフシードで濁りを吸い出せば回復する訳だが、これがまず可笑しいのだ。グリーフシードからソウルジェムに魔力が移るのなら分かるが、ソウルジェムからグリーフシードに移るというのは分からない。これはつまり、減った魔力をグリーフシードから補充している訳ではないんじゃないかと、マミは考える。

 ではソウルジェムの濁りとはなんなのだろうか。マミの感覚的に、ソウルジェムからそれが吸い出される事に間違いは無い。つまり魔法少女が魔法を使うと、魔力が減るのではなく、別の”ナニか”が溜まっていくのだと推測出来る。

 ソウルジェムに溜まるナニか。そのヒントは、やはりグリーフシードにあるのだろう。グリーフシードは魔女の卵だと、マミはキュゥべえから教えられている。ソウルジェムの濁りを移していけば、やがて限界を迎えたグリーフシードが孵り、新たな魔女が生まれてしまう。だからそうなる前に、適当な所でキュゥべえに渡してグリーフシードを処分してもらうのだ。

「――――――え?」

 思わず、マミは足を止めていた。

 グリーフシードは魔女の卵。そしてソウルジェムの濁りは、グリーフシードの成長を促進させる。では、濁りを溜め続けたソウルジェムはどうなるのだろうか。ソウルジェムが黒く染まり切った時、魔法少女はどうなるのだろうか。

 もしかして、もしかしたら――――――――。

「いえ、そんなはずはないわ」

 マミは、考える事をやめた。そのまま首を振り、彼女は歩みを再開する。ソウルジェムの反応を見る限り、魔女の位置はすぐそこだ。まずはこの魔女を退治して気分を切り替えようと、マミは幾らか足を早めた。

「あら?」

 あと少し。そこの路地裏に入れば魔女に辿り着くという所で、唐突に魔女の反応が消えた。どうやら魔法少女に退治されたらしい。それはたしかに良い事なのだが、不完全燃焼な形となったマミとしては微妙な気分にならざるを得ない。

 嘆息し、どうしようかと悩んだマミは、取り敢えず魔女を退治した魔法少女と会う事にした。この街の魔法少女は、ほとんどがマミの知り合いだ。そうそう争いになる事も無いだろうと、マミは気負う事無く路地裏へと足を踏み入れた。

 はたして暗がりの中には、一人の少女が立っていた。

 マミは、この少女を知っている。長い黒髪に、白過ぎるほどに白い肌。体躯は小さく、手足は細い。マミが契約を促した相手の一人であるこの少女は、どことなくアイと似ている気がして、割と印象深く記憶していた。マミの位置から見えるのは横顔だけだが、だからと言って見間違えるような相手ではない。

 路地裏の中央に、少女は黙って佇んでいた。微動だにせず、さながら人形の如き静けさで、手にしたソウルジェムを見詰めている。そのただならぬ様子に気圧されながらも、マミは一歩を踏み出した。

 足音を聞き取ったのか、少女がマミの方を向く。向いたが、マミを見ていない。焦点の合わない瞳は、ただ機械的にマミの姿を映すだけで、決して彼女を見ている訳ではない。どこまでも深い闇が、その双眸からは感じられた。

 知らず、マミが喉を鳴らす。

 マミは少女を知っている。でも、こんな少女は知らない。これほどまでに寒気がする瞳は、欠片も記憶に残っていない。なら、目の前の存在はなんだ。この底知れない空虚な存在はなんだと、マミは自らに問い掛ける。

「マミさん――――――」

 少女が口を開く。
 聞き覚えがあるようで、まるで知らない声だった。

「魔法少女って、なんですか」

 マミは答えない。答えられない。少女の求める答えが分からず、少女の存在自体が分からず、マミは疑念と恐怖に押し潰されそうだった。今すぐにでも逃げ出したくて、だけど足が竦んでしまって、どうしようもないほどにどうしようもなかった。歯の根の合わぬまま少女を見詰める事しか、今の彼女には出来ないのだ。

 だが、ふと、マミは気付く。
 少女の握っているソウルジェムに。
 黒く染まりきった、魔法少女の証明に。

「えっ?」

 目にした事象を、マミは理解出来なかった。

 マミの目の前に少女が居る。先程と同じように、何も言わずに佇んでいる。でもその胸には赤い花が咲いていて、手にしたソウルジェムは砕けていて、つまり何かが決定的に違っていた。

 傾ぐ。少女の体が、ゆっくりと倒れていく。そうして音を立てて少女が体を横たえて、ようやくマミは、彼女が攻撃されたのだと理解した。赤い花は、血の花で。やられた場所は、心臓で。もしかしたら既に死んでいるのかもしれないと、どこか冷静な頭でマミは思う。

 じゃあ、誰が。じゃあ、何処から。

 生まれた疑念に衝き動かされ、マミは背後を振り向いた。前に居ないのなら、つまりは後ろ。左右を壁に囲まれた路地裏で、その程度の判断を下せるくらいには、マミの頭は動いていた。

 はたしてそこには、一人の少女が居た。長い黒髪をたなびかせ、伸ばした右手に銃を握り、少女はマミを睨んでいる。少女の名前は暁美ほむら。マミの知らない、この街に住む魔法少女だった。




 -To be continued-



[28168] #018 『女の子なのよ』
Name: ひず◆9f000e5d ID:b283d0a0
Date: 2012/04/01 21:32
 視界が揺れる。息が乱れる。足が震えて止まらない。両手に力が入らない。見知らぬ少女の凶行を前にして、マミは心の平衡を失っていた。歯の根は合わず、膝は今にも崩れそう。それでも彼女は倒れる事無く、眼前の少女を睨み付ける。長く艶やかな黒髪を風に遊ばせた少女は、対峙するマミをなんとも思っていないような冷たい面差しをしていた。無機質なその態度がまた、マミの胸を掻き乱す。

「はじめましてね、巴マミ。私は暁美ほむら、魔法少女よ」

 少女――――――――暁美ほむらが銃を握った右手を下ろす。敵意も無ければ警戒も無く、どこまでも自然体なその姿。一人の人間を殺しておきながら、それがまるで些事であるかの如く振舞う彼女は、明らかに常人の感性から外れていた。

 マミとて人の死に触れてこなかった訳ではない。魔女に殺された一般人を見た。結界に取り残された魔法少女の遺体を見た。そして何よりマミ自身も、魔女と命の遣り取りを繰り返してきた。だがそれらは全て、魔女という化け物が相手の話だ。魔法少女同士の縄張り争いなどが無い訳ではないが、ここまで淡白に人の命を扱える人間は、マミが知る限り他に居ない。

 この少女は危険だ。そうマミが結論付けるのに時間は掛からなかったが、すぐに対応する事は出来なかった。相手の目的も実力も分からない。このまま戦闘に持ち込むのは危険ではないかと、まずは向こうの出方を窺うべきではないかと、そんな弱気がマミを襲う。目の前で行われた殺人と得体の知れない魔法少女の存在が、マミの心に臆病風を吹かせていた。

 強く、ただ強く、マミは拳を握り締める。

「大丈夫よ。ここで貴女とやり合うつもりは無いから」
「――――――ッ!?」

 マミの心臓が凍り付く。目を見開き、彼女は大きく喉を鳴らす。

 ほむらの声は、マミの真横から聞こえてきた。あり得ない事だ。二人の距離は相応に開いていたし、マミはほむらから目を離していない。だというのに、マミはほむらが動いた事に気付けなかった。一体いつ動いたのか、はたしてどのように動いたのか、マミには何一つ理解出来ない。ただひたすらに驚愕に包まれた彼女は、人形のような動きで隣のほむらへ向き直った。

 高速移動、ではない。マミが知覚できない速さで移動したにしては、あまりにも場の空気が静か過ぎる。まるで、そう、初めから今の位置関係であったかのような異質さ。幻術か、あるいは瞬間移動の類なのか。どちらにせよ今この瞬間、マミの命はほむらに握られているも同然だった。この突発的な状況で相手をするには、いくらなんでも分が悪すぎる。

 意識して拳から力を抜き、何度か握り直す。それからマミは、ゆっくりとほむらから距離を取った。ほむらは何もしない。無感動な目でマミを眺めていた彼女は、そのまま興味無さげに視線を外した。思わず、マミは安堵の息を吐く。

 ほむらが歩き出す。反射的に身を硬くしたマミを気にする事無く、彼女は倒れている少女へと近付いていく。そうして暗い路地裏に足音を響かせたほむらは、少女の傍まで辿り着くと腰を屈めた。白い指が、砕け散ったソウルジェムの欠片を拾う。矯めつ眇めつそれを観察して、やがて満足したのか、ほむらは地面に置き直した。

「死んでるわよ」

 端的に告げるほむらの言葉が、マミの胸を深く貫いた。やり切れない感情が湧き上がり、しかしそれに身を任せる事も出来ず、彼女は憎々しげにほむらを睨む。そうして送られる鋭い視線を気にも留めず、ほむらは少女の懐を探っていた。次いでほむらが手にしたのは、真っ黒なグリーフシードだ。その光景を見た瞬間、マミの頭は一気に冷えた。

「…………ソレのために、彼女を殺したの?」

 後ろのマミを一瞥してから、ほむらはグリーフシードを仕舞い込む。

「魔法少女にとってのグリーフシードは、どんな宝石よりも価値があるわ」

 立ち上がったほむらが、正面からマミと対峙する。その顔に後ろめたさは無く、情の欠片すらも感じられない。

 ほむらの言い分は、まったく理解出来ないものではない。魔法少女の力はまさしく特別なもので、それを使い続ける為にはグリーフシードが必要となる。単に魔女退治をするだけならそこまで必死にならなくてもいいが、自由に魔法を行使するならグリーフシードが多くて困る事は無い。だからこそ他の魔法少女の邪魔をしてでもグリーフシードを集めようとするのは、ある種自然な事なのだ。

 だが、それでも、殺人にまで至るのは異常としか言えない。

 左手の中指に嵌めた指輪を、マミはゆっくりと擦る。魔法少女の証であるそれに触れて、荒れた心を落ち着けていく。これまでマミは、他の魔法少女と命を懸けた争いをした経験は無い。これからしたいとも思わない。けれどこのままほむらを野放しにするくらいなら、ここで仕留めておいた方がいいのではないかと、マミは思うのだ。

 鼓動が高鳴る。頭の中が加熱する。冷静な判断とは言えないかもしれないし、これこそ異常な考えかもしれないけれど、マミは走り始めた思考を止められなかった。逸る気持ちを抑え、呼吸を整え、彼女はほむらを殺す為の算段を立てていく。

 相手が動く前に撃ち抜けばいい。そう結論付けたマミは喉を鳴らして決意を固め、

「――――絵本アイ」

 その一言で凍り付いた。ただ呆然と、マミはほむらを凝視する。

「可愛い友達ね。小さくて、儚くて、まるで夏の蛍のよう」

 言葉とは裏腹に淡々と語るほむらに対し、マミは何も返せなかった。どうしてアイの事を知っているのか、という疑問はどうでもいい。重要なのは、ほむらがアイを知っているという事実。それはつまり、マミにとって何にも代え難い人質を握られているも同然だ。

 もはやマミに、ほむらを攻撃する事は出来なかった。敵対したが最後、この場で確実に仕留めなければアイを危険に晒してしまう。そしてそれは、限り無く不可能に近かった。わざわざアイの事を口にして牽制してきたという事は、マミに対して相応の警戒を払っているという事とも取れる。その状況で不意打ちは成立しないし、先程の移動法で逃げられればアイが危ない。故にマミは、肩を震わせて俯く事しか出来なかった。

 巴マミにとって、絵本アイは特別なのだ。比較する相手すら存在しない唯一の特別。だからどんなにほむらが嫌いでも、憎くても、殺したくても、アイの安全には代えられない。

 砕けるほどに歯を噛み締め、血が滲むほど拳を握る。そうしてマミは、湧き上がる激情を我慢した。

「理解が早くて助かるわ。無駄な争いは好きじゃないの」

 ほむらがマミの肩に右手を置く。まるで見せ付けるかのような、二度目の瞬間移動だった。マミは何も答えず、ひたすらに唇を固く結ぶ。すると興味を無くしたのか、手を離したほむらが歩き出す。遠ざかるその足音を背で受けながら、マミは掠れた声を絞り出した。

「アイを――――」

 マミの背後から聞こえていた足音が、ピタリと止まる。

「アイを傷付けたら、許さないから。絶対に、絶対に――――――ッ」

 夜闇に呑まれた路地裏が、暫し静寂に包まれた。後ろのほむらが何をしているのか、今のマミには分からない。しかし彼女は振り返る事はせず、その全身から言い知れぬ威圧感を滾らせ続けた。アイに手を出せば殺す。ほむらの方が強くとも、たとえ敵わぬ相手でも、必ず殺してみせる。言葉にはしないが、マミはそれだけの決意を胸に秘めていた。

「わかってるわ。そういう人よね、貴女って」

 どこかマミを知っているようなほむらの答え。マミがその真意を問う前に、ほむらは静かに歩き去った。雑踏の中に紛れ、ほむらの気配が感じ取れなくなる。それでもマミは、その場から動く事は出来なかった。

 やがて時計の秒針が何度か回った頃に、マミは地面に向けていた視線を上げる。瞳に映るのは、冷たい地面に倒れた少女。血を流すその姿が、いつかのアイと重なった。それに引き寄せられるように、マミはフラフラとした足取りで近付いていく。僅かな距離が途方も無く遠く感じられ、徐々に露わになる少女の顔を見て、マミは表情を歪めた。

「ごめんなさい…………」

 マミが呟く。決して安らかではない少女を前にして、彼女が紡げた言葉はそれだけだ。いつか死ぬかもしれないとは思っていた。実際に殺された魔法少女も知っている。だけどこんな終わり方は考えていなかったから、マミの胸には後悔にも似た感情が生まれていた。

 しゃがんだマミが、少女の首筋に触れる。そこにはまだ温もりが残っていたけれど、たしかに命の鼓動は消えていた。マミがこの少女と過ごした時間は、決して長くない。だけどマミは覚えている。この少女が願った事を、魔法少女になった時の喜び様を、彼女はちゃんと記憶している。それらを思うと、マミは涙が溢れてきた。溢れて、止まらなかった。


 ◆


 まどかの機嫌が良い。朝、学校に来たほむらが最初に思った事がそれだ。

 アイが事故に遭った日から目に見えて元気が無かったまどかだが、今朝の彼女は違った。笑顔の数も増え、纏う雰囲気も明るさを増している。ほむらにはその理由を正確に推し測る事は出来なかったが、朧げに予測するくらいは出来た。おそらくは魔法少女に関する事で、だからこそほむらは素直に喜べない。まどかが魔法少女に対して積極的になるのは、彼女の望むところではないからだ。

 鹿目まどかを魔法少女にさせない。言葉にするだけなら簡単な、しかし実現するには難しいそれが、ほむらの抱く願いだった。そこに複雑な理由は無い。まどかが特別だから、大切な友達だから、悲しい目に遭わせたくないという、ただそれだけの気持ち。たとえ他の女の子を救う事が出来ずとも、まどかを見捨てる事だけはしないとほむらは誓っていた。

「ほむらちゃん、おはよう!」
「おはよう、まどか」

 笑顔のまどかに挨拶を返しながら、ほむらは今後の対応を考える。

 昨夜、ほむらは初めてマミと接触した。それに関して後悔は無い。しかしあのような出会い方をした上に名前を教えたのだ、遠からずまどかに自分の情報が伝えられるはずだと、ほむらは予想していた。まどかはどう思うだろうか。怒るかもしれないし、怖がるかもしれない。なんであれ、ほむらに事実確認をしようとするのは間違いない。その時はどんな話をしようかと、ほむらは冷たい面立ちの裏で思案する。

 いっそ魔法少女の裏事情を伝えれば、まどかもキュゥべえとの契約を思い留まってくれるかもしれない。そんな考えも脳裏をよぎるが、ほむらに実行するつもりは無かった。魔法少女という特別な存在に関して、まどかが最も頼りにしているのはマミだろう。となれば、ほむらが教えた情報の真偽をマミに確認する可能性は高い。そうなるとマミが真実に辿り着く恐れが生まれるし、そうでなくともほむらが嘘吐き呼ばわりされるかもしれない。少なくともほむらが望む通りの展開にはならないだろうと予想出来た。

 まどかにとって、ほむらはただの友達に過ぎないのだ。ほむらがどれだけ想いを寄せようと、まどかは理解を示さないだろう。二人の間に信頼は無く、踏み入った話など出来るはずもない。当然だ。他ならぬほむら自身がそのように接してきたのだから。

 分かっている。自分が異常なのだと、ほむらはちゃんと理解している。

「――――ほむらちゃん? なんだか顔色が悪いよ」

 問題無いと答えようとしたほむらは、しかしその直前に動きを止めて首を振った。

「……そうね。少し気分が悪いから、保健室で休むことにするわ」
「大丈夫? わたしも保健室まで付き添うね」
「その必要は無いわ。予鈴も近いのだし、私だけで十分よ」

 言うが早いか、ほむらは返事も聞かずに歩き出す。まどかの困惑する気配を背中で感じながらも、彼女が足を止める事は無かった。教室を出たほむらは、そのまま階段へと歩を進める。向かう先は保健室――――――ではなく屋上だ。

 始業を間近にして教室へ駆け込む生徒達の隙間を縫いながら、ほむらは静かに階段を上っていく。そのまま誰に止められる事も無く最上階まで辿り着いた彼女は、扉を押し開いて屋上へと足を踏み出した。冷たい風が頬を撫で、ほむらは微かにその身を震わせる。細めた目に映るのは、誰も居ない静かな屋上。一度だけ辺りを見回した彼女は、次いで自らの携帯電話を取り出した。

「……………………」

 電話帳から目的の番号を呼び出したほむらは、屋上の中央へ向かいながら携帯電話を耳に当てる。暫く呼び出し音が鳴り、それから相手が電話口に出た。聞こえてくるのは、ここ最近ですっかり聞き慣れた少女の声だ。

『はいはい、アイちゃんです。こんな朝早くからどうしたのさ?』

 いつも通りの”友達”の声を聞き、ほむらは知らず息を吐く。

『もしもーし? ほむらちゃんだよね?』

 焦れた様子のアイの問い掛け。それに対してほむらは、一拍置いてから返答した。

「おはよう、アイ。そこに巴マミは居るのかしら?」
『うん、おはよう。マミは面会時間前だから居ないよー』
「ならいいわ。彼女に聞かれると、少しややこしいことになりそうだから」
『ま、ボクらの話はいつもそうだよね』

 そうね、とほむらが笑む。青空を仰ぎ瞑目した彼女は、自らの胸に手を当てた。手の平に伝わる、いつもよりちょっとだけ激しい鼓動。それが落ち着くまで待ってから、ほむらは再び口を開いた。ゆっくりとした口調で、はっきりとした声音で、言うべき事をアイに伝える。

「昨日、魔法少女を殺したわ」

 息を呑む音が聞こえた。電話越しでもアイが緊張するのが分かる。そうして当然の如く途切れた会話に一抹の不安を感じながらも、ほむらが次の言葉を口にする事は無い。ただジッと、彼女はアイの声を待ち続ける。

『…………そっか……そっか。うん、そういうこともあり得るよね』

 どこか疲れた調子で話すアイに対して、ほむらは何も返せなかった。携帯電話を強く握り締め、彼女は閉じた目蓋を上げる。そうして視界に飛び込んできたのは、雲一つ無い青空だった。どこか胸が締め付けられる思いがして、ほむらは固く口を結ぶ。

『どうしてって、聞いてもいいかな?』

 アイがポツリと呟いた。
 一つ頷き、その問い掛けにほむらが答える。

「巴マミの目の前で、魔女に堕ちてしまいそうだったから」
『……なら、仕方ないね。仕方ないって、思えちゃうよね』

 らしくないほどに切なげなアイの声。ほむらの言葉を信じて、受け入れて、だけど納得しきれていないような、そんな声。当然だと、ほむらは思う。魔法少女についての知識があるとはいえ、あくまでも一般人に過ぎないアイは、その感性も常識的な範囲に収まっている。そんな彼女がいきなり人を殺したなどと聞かされても、飲み込みきれるはずがない。

 ほむらに対して、アイは酷く素直な一面を見せる事がある。命を助けられた相手だからか。はたまた秘密を共有する相手だからか。アイの本心は分からないが、時として彼女がマミ以上にほむらを信頼しているのは確かだ。そしてそんなアイであっても、今回の件は受け入れ難い部分があるのだろう。人が人を殺した。魔女になる前に、助けられたかもしれないのに、ほむらは殺した。一般人であるアイにとって、それはとても重い意味を持つ。

 ほむらとて文句を言う気は無い。いくら魔法少女について詳しいとはいえ、アイは実際に魔女と闘ってきた訳ではない。魔法少女が魔女に堕ちる瞬間を目にした訳でもない。故に頭では理解していても、心が納得しないのは道理と言える。

 仕方ない、とほむらは思う。当然だ、と彼女は認めている。

「女の子なのよ」

 しかしほむらは、気付けばそんな事を口にしていた。

「誰かを助けるヒーローじゃない。誰かに助けられるヒロインでもない。甘いものをたくさん食べたいとか、好きな人に笑ってほしいとか、そんな普通で平凡な悩みを持つ女の子が、私たち魔法少女なのよ。特別な力があっても、特別な役割があっても、私たちは決して特別な人間ではないの」

 だから、と続けようとしてほむらは口を噤んだ。彼女の眉間には皺が刻まれ、赤い唇は醜く歪む。口を開こうとして、けどすぐに閉じて、陸に上がった魚みたいにその繰り返し。声を出そうと震える喉は、しかし音を生み出す前に止まってしまう。

 だから、仕方ない。
 だから、期待しないでほしい。
 だから――――――私に失望しないで。

 思わず口を衝いて出ようとするそれらの言葉を、ほむらは必死に押し留める。弱音なんて吐かない。弱気すらも見せたくない。半ば意地に近いその感情が、彼女を縛り付ける。自分は強いと言い聞かせ、揺れる心を叱咤して、ほむらは握る携帯電話を軋ませた。その白い相貌に浮かぶのは、紛う事無き不安の色。普段は見せない彼女の一面が、心の隙間から覗いていた。

『わかってる。わかってるよ、ほむらちゃん』

 甘やかな声が聞こえる。自然と心に染み入るそれに、ほむらは意識を奪われた。

『そりゃま、正しいとは言えないかもしれない。けどま、ボクらは正義の味方じゃない。悲しいとは思うけどそれだけで、使命感に駆られるわけでもない。だから気にしないよ。女の子だからね。見知らぬ他人よりも、見知った友人の方が大切なのさ』

 紡がれるその言葉が、アイの本心から生まれたものかは分からない。先程とは一転して明るい口調のそれは、むしろ偽りだと疑った方がいいのかもしれない。けれどそうは思っても、たとえ本当に嘘だとしても、ほむらの心は決して少なくない喜びを覚えていた。知らず綻びそうになる口元を、ほむらは必死に縫い止める。

 アイがほむらに心を許すように、ほむらもまたアイに対するガードが甘い。そこにはもちろん理由があって、だからその態度はある種当然と言うべきものなのだけれど、ほむらはそれを素直に表す事が出来なかった。ほむらにとってのアイは、数少ない友達で、頼れる相手で、大切な存在だ。それはほむらも否定しないし、認めている。

 だが、アイはほむらの”特別”ではない。それは二人も要らないと、ほむらは胸中で呟いた。

「……話は…………変わるのだけど」
『うん? なにかな?』

 乱れそうになる呼吸を、ほむらは軽く整える。

「――――――二日後に『ワルプルギスの夜』が現れるわ」

 アイの返事は無かった。動揺も、電話越しには感じ取れなかった。ではアイが平静なのかと言えば、決してそんな事は無いだろう。ワルプルギスの夜。天災と呼ぶしかないほど強大な魔女。ほむらは繰り返しその脅威を伝えていたし、その打倒にはマミの力が欠かせないとも教えてきた。多くの人命を脅かす怪物であると同時に、マミを普通の少女へ戻す為の大きな障害。アイにとってのワルプルギスの夜とは、そういう存在のはずだ。だからこそアイの頭脳は、今、忙しなく働いているに違いない。

「本当はもう少し早く伝えるつもりだったのだけど、あの事故があったから」

 沈黙を誤魔化すようにほむらが続けても、アイの言葉は返ってこない。ほむらもまた口を閉ざし、暫しの静寂が訪れる。広い屋上に風が吹いた。冷たいそれは、ほむらの長い黒髪を舞い上げ、スカートの裾をはためかせる。しかしそれらを気にする余裕も無く、ほむらはアイの声を待っていた。

『……とうとう、と言うべきなのかな』

 アイの呟きが沈黙を破り、ほむらは小さく息をつく。

「引き起こされるスーパーセルによって、当日は見滝原全域に避難勧告が出されるはずよ。ただ、あなたは――――」
『病院から出れないだろうね。車椅子に乗れるかも怪しい時期だ』
「ええ、そうなるでしょうね」

 ほむらが頷く。アイが事故に遭った日から一週間足らず。まだまだ安静にしているべき彼女は、他の重病患者や一部職員と共に病院で待機する事になるだろう。当然ではあるが、そんなアイに出来る事は少ない。皆無と言っても言い過ぎではないかもしれない。ただ、それでもアイには役目があった。誰にも代われない、たった一つの役割が。

「避難勧告が出たら、貴女は巴マミと接触しなさい。直接会ってもいいし、電話でもいいわ。とにかく彼女と話をして、ワルプルギスの夜と闘うよう仕向けてほしいの。貴女が背中を押してあげれば、巴マミも全力を出すでしょう?」

 アイは動けず、動かす事も出来ない。であればマミに出来る事は、迫りくる脅威を撃ち払う事だけだ。それはマミ自身も理解出来るだろうが、アイから離れる事に不安を抱くかもしれない。だからこそアイには、その背中を押してもらう必要がある。そうすればマミは、ワルプルギスの夜に挑むはずだ。無理でも、無茶でも、無謀でも、彼女は死力を尽くして闘ってくれるだろう。その心理が、ほむらには容易く理解出来る。ほむらだからこそ、我が事のように分かってしまう。

『それはいいけど、ほむらちゃんはどうするのさ? マミと協力できる? なんなら仲介するけど』
「いえ、あなたが間に入ると余計に話が拗れるわ。上手く合わせるから心配は無用よ」
『大丈夫? ほむらちゃんって、そういうとこ不器用そうだからなぁ』

 遠慮の無いアイの物言いに、ほむらは口を尖らせた。その雰囲気が伝わったのか、電話口の向こうでアイが笑う。

『なんてね。ちゃんと信頼してるよ。話はこれだけかな? そろそろ看護士さんが来るんだけど』
「そうね。またなにかあれば連絡するわ」
『オッケー。んじゃ、最後に一つだけ』
「なにかしら?」
『さっきの魔法少女のこと』

 あっさりとアイが口にした言葉は、しかし口調とは正反対の重い内容で、ほむらは思わず表情を硬くする。

『ありがとうとは言わないし、言えないけどさ』

 続いて聞こえてきたのは、柔らかな声。優しい声。頭の裏側がくすぐったくなるような、そんな声。
 いつの間にかほむらは、携帯電話を握る手に力を籠めていた。

『ボクはほむらちゃんの味方だぜ――――――――うん、それだけ』

 本当にそれだけ言って、アイはさっさと電話を切ってしまった。碌に返答する時間も与えられなかったほむらが、通話の姿勢のまま立ち尽くす。それからゆっくりと携帯電話を耳から離し、ほむらは画面に目を落とした。映っているのは、ほむらとまどかのツーショット。待ち受けに設定しているそれを見たほむらは、複雑そうに眉根を寄せた。

 一度は終わった話を、どうしてアイは蒸し返したのだろうか。どうして、わざわざ味方だと口にしたのだろうか。その真意は分からない。分からないが、ほむらの心に深く刻まれた。

 携帯電話を仕舞い、ほむらは小さく嘆息する。

 嬉しくない訳ではない。怒っている訳でもない。ただほむらの心情を表すなら、『怖い』という言葉が近いだろう。傍で、笑顔で、手を差し伸べてくる存在。どこまでも自分に優しいアイが、今のほむらには、少しだけ怖かった。


 ◆


 ほむらちゃんの様子が可笑しい。この日一日を通して、まどかが思った事がそれだ。

 朝からほむらの体調が悪いとは聞いていたが、保健室から戻ってきた後も、彼女はどこかぼんやりとしていた。まどかと話している最中も物思いに耽っている風で、いつもの落ち着いたほむらはどこへやら。だからまどかは、今日の放課後はマミに付き合うのではなく、ほむらと一緒に遊ぼうかと考えていた。

 些か口にしにくい事ではあるが、ほむらは友達が少ないのだ。まどかを除けば、かろうじてさやかと仁美が友達の枠に入るくらいで、他の生徒とは単なるクラスメイト以上の関係ではない。さやかと仁美にしてもまどかを通した親交であるため、本当の意味で仲が良いと言えるのは、実質まどか一人だけだ。少なくとも、まどかの知る限りではそうだった。

 故にまどかは思うのだ。ほむらが困っている時は、友達である自分が力になってあげなくてはと。

「――――――のに、間が悪いなぁ」

 夕日が射し込む病院の廊下を歩きながら、まどかは嘆息する。その手には携帯電話が握られ、一通のメールが開かれていた。差出人はマミで、内容はアイの病室への呼び出し。緊迫した文面で急を要すると書かれたそれを断りきれず、まどかはこうして病院にやってきたのだ。

「ほんと、どうしたんだろ」

 もう一度メールの文面を見てから、まどかは携帯電話を仕舞う。これまでにも何度か訪れ、そろそろ見慣れてきた感もある通路を進み、まどかはアイの病室に辿り着いた。ノックをすれば、すぐに答えが返ってくる。扉をスライドさせて中を覗くと、そこにはいつも通りの二人が待っていた。ベッドに寝ているアイと、その傍で椅子に座るマミ。二人の視線は、揃って入口のまどかへ向けられていた。

「いらっしゃーい。おもてなしはできないけど、まぁゆっくりしていってよ」
「こんにちは、鹿目さん。急な呼び出しでごめんなさいね」

 アイとマミの表情は対照的だった。いつも通り朗らかなアイとは違い、マミは酷く真剣な顔をしている。そんなマミの雰囲気に押されて、まどかは扉の傍で立ち竦んだ。

「ああ、ほら。マミが怖い顔してるから驚いてるよ」

 可笑しそうにアイが喋れば、マミは気恥ずかしそうに咳払い。
 ややぎこちない笑みを浮かべて、マミは改めて口を開いた。

「今日は知らせておきたいことがあって呼んだのだけど、まずは座ってちょうだい」
「あ、はい。失礼します」

 促され、まどかはおずおずとベッド脇の椅子に腰掛ける。持っていた鞄を床に下ろしたまどかは、次いで隣のマミと向き合った。蜂蜜色の瞳が、真っ直ぐにまどかを見詰めている。焦りと、怒りと、僅かな恐れが宿った瞳。分からない。どうしてマミがそんな目をしているのか、まどかはさっぱり分からない。それを怖いと感じる部分はあるけれど、何故かまどかは、話を聞かなければという気持ちになった。

 自然とまどかの背筋が伸び、その表情が硬くなる。空気が冷えた気がした。次いでマミの纏う雰囲気が、キリリと引き締まったのが理解出来る。ベッドに横たわるアイを気にする余裕も無く、まどかは目の前のマミに意識を奪われた。固く結ばれたマミの唇に、まどかの視線が寄せられる。色素の薄いそれを見詰めて、見詰めて、そうして開かれた瞬間、まどかは一層体を緊張させた。

「知り合いの魔法少女が殺されたわ」

 平坦な口調で紡がれたそれが、まどかにはどこか遠い国の言葉のように感じられた。魔法少女が殺される。その可能性がある事は以前からマミに教えられてきたまどかではあるけれど、まさか本当に起きるとは思っていなかった。ごく一般的な日本家庭で育った彼女にとって、殺し殺されるという話はテレビの中にしか存在しないのだ。

「え? あ、その…………魔女に……?」

 しどろもどろにまどかが問えば、マミは首を振って否定する。

「殺したのは魔法少女よ」

 鋭く、いっそ憎しみすら籠めてマミが呟く。
 瞠目したまどかの唇から、力無い声が漏れ出した。

「なん……で……」
「グリーフシードの為よ。ただ自分が魔法を使うことを目的として、彼女は人を殺したの」

 そう吐き捨てたマミの表情は暗く、声には明確な憎しみが乗せられていた。その雰囲気に呑まれ、その内容に慄き、まどかは背筋を震わせる。あまりにもまどかの理解から離れたその動機は、怒りや悲しみを覚えるよりも先に、ただ純粋な恐怖のみを彼女に植え付けた。だが続くマミの言葉によって、その恐怖は根こそぎ吹き飛んだ。

「彼女は暁美ほむらと名乗ったわ」

 まどかにも覚えのある名前だった。あり過ぎる名前だった。

「長い黒髪の持ち主で、綺麗だけど鋭い印象の顔立ちよ。年は私達と同じくらい。身長は鹿目さんよりも少し高いくらいね。私が覚えているのはその程度だけど、鹿目さんもそういう人には気を付けて。あなたも関係者の一人だし、もしかすると危ないかもしれないから」

 怖い顔で注意するマミの言葉も、今のまどかには届かない。暁美ほむら。その名をまどかは知っていた。知っているどころかクラスメイトで友達だ。まさか、とは思う。そんなはずはない、と考えたい。でも、決して無視出来る事ではなかった。人殺しはいけない事だ。自分の為なら余計にそうだ。だから万に一つでも可能性があるのなら、ちゃんと確認しておくべきではないだろうか。

 今日のほむらは様子が可笑しかった。まどかはそれを深刻には捉えていなかったが、こんな話を聞かされると途端に不安になってくる。もしかしたらと、そんな嫌な考えが浮かんでくる。気付けば彼女は、膝に乗せた拳を握り締めていた。

「大丈夫? なんだか顔色が悪いけどさ」

 訊ねるアイに返事もせず、まどかは俯いて唇を噛む。

 この場で言うべきだろうか。暁美ほむらという友達が居る事を。そんな考えを一瞬だけ浮かべたまどかは、しかしすぐに首を振って否定した。たとえほむらがその魔法少女本人であろうとなかろうと、ここでマミに教えればややこしい事になるだろう。だからまずは、自分の手で確認する。まどかはそうした方がいいと思った。いや、そうしなければいけないとすら考えた。

「…………すみません。少し気分が悪いので、今日はもう帰ります」
「そう? そうね、あまり気分のいい話ではなかったものね」

 気遣わしげなマミの態度も、今のまどかにはどうでもよかった。鞄を手にしたまどかが立ち上がる。ペコリと頭を下げた彼女は、そのまま何も言わずに病室を出た。アイが何か言っていた気もするが、それもどうでもいい。まどかは鞄から携帯電話を取り出し、病院内であるのも構わず電話を掛けた。もちろん掛けた相手はほむらだ。

「……ほむらちゃん」

 だが、出ない。どんなに待っても、ほむらは電話に出てくれない。嫌な予感が募る。何もかもが台無しになってしまいそうな悪寒が、まどかの背筋を駆け上がる。気付けば彼女は走り出し、夕闇の中へと飛び込んでいった。


 ◆


 暗く、重く、冷たい空気。狭い路地裏に満ちたそれを切り裂いて、甲高いコール音が鳴り響く。唐突に耳へと飛び込んできたそれに驚き、ほむらは僅かに肩を揺らした。彼女の瞳が、左手に提げた鞄へ向けられる。音の発生源は、その中に仕舞われた携帯電話だ。メールではなく電話。それも誰から掛かってきたのか、ほむらは瞬時に理解した。

 ほむらが前を向く。視線の先には、壁に背を預けた杏子が立っていた。いつも通り緑のパーカーを身に纏った杏子は、腕を組んでほむらを眺めている。勝気な瞳には、微かな苛立ちが滲んでいた。

「携帯、鳴ってるぜ」
「かまわないわ。用件はわかっているもの」

 素っ気なくほむらが返せば、杏子は面倒臭そうに髪を乱した。

「出なくていいから、とりあえず止めろ。うるさくてかなわねぇ」
「…………そうね」

 少し悩んだ後、ほむらは鞄から携帯電話を取り出した。ずっと鳴り続けていたコール音が、ようやく止められる。そのまま彼女は電源を切り、再び携帯電話を鞄に仕舞った。

「さあ、話を続けましょう」
「はいよ。で、二日後にワルプルギスの夜が出現するっていうのは、確かな情報なんだろうな?」
「間違い無いわ。だから、そのつもりで準備していなさい」
「わかったよ。ま、今さら疑ってもしょうがないしね」

 肩を竦めた杏子が、皮肉気に唇を歪める。そんな彼女の態度を気にした風も無く、ほむらは自らの髪を掻き上げた。長い黒髪が舞い上がり、またすぐに重力に負ける。澄ました顔で、ほむらは杏子に話し掛けた。

「ところで、例の彼女はどうなったのかしら」
「あん? あの帽子娘か?」

 コクリと、ほむらが首肯する。と、杏子が頬を緩めて返答した。

「アイツなら大丈夫だ。一先ず問題は解決したよ」

 ほむらの目が丸くなる。パチパチと瞬きを繰り返した後、彼女はおもむろに顎先へ指を添えた。右へ左へ、上へ下へ。忙しなく動き始めたほむらの視線は、やがて地面に固定される。そのまま彼女は黙り込み、訝しむ杏子を無視して思索に耽った。ただ黙然とした時が過ぎ去り、夜闇ばかりが濃くなっていく。そうして焦れた杏子が苛立ちを表に出し始めた頃、ようやくほむらが声を発した。

「……そうね。そういうことも、あるわよね」

 呟き。誰に向けたものでもなく、ただ自分に言い聞かせるように、ほむらは呟いた。

「なにさ、文句でもあるっての?」
「いえ、思ったより順調で驚いただけよ」

 首を振り、ほむらが顔を上げる。そこにはもう、先程までの戸惑いは無かった。

「なんにせよ良いことだわ。当日まであの調子なら、あなたも含めて戦力を考え直さないといけないもの」
「まったくだな。アイツはまだまだ未熟だけど、戦力としてはそれなりに――――――」

 話を途切れさせた杏子が、おもむろに右手へ顔を向ける。つられてほむらもそちらを見遣るが、特に可笑しな所は無い。幅にして五メートルもない裏路地が、向こうの通りまで続いているだけだ。たしかに暗がりで視界は悪いが、第三者の気配がある訳でもない。それでも杏子は目を逸らす事無く、ジッと暗闇の奥を睨んでいる。

「どうかしたの?」
「あぁ、いや。たぶん気の所為だ」

 どこか釈然としない様子で答え、杏子は視線をほむらに戻す。

「そういや戦力っていうけど、他にはどんな奴が居るわけ?」
「私と貴女に巴マミ、あとは例の彼女と、美樹さやかという新人の魔法少女ね」

 杏子の眉根が寄る。小豆色の目に浮かぶのは、僅かながらの不安と疑念だ。

「他には? マミが動いた分、ここらの魔法少女は多いはずだろ?」

 ほむらが首を振って否定する。彼女の顔には憂いが宿り、瑞々しい唇からは、今にも溜め息が漏れそうだった。途端に場の空気が湿り気を帯び、重さを増す。杏子が僅かに身じろいだ。瞳に色濃く惑いを滲ませ、彼女はほむらの様子を窺っている。

「私が把握している範囲では全滅ね。みんな魔女になるか、そうでなくとも殺されているわ」

 空気が凍った。あるいは、壊れたとでも言うべきか。瞠目した杏子が硬直して、呆然とほむらを見詰めている。縋るようなその視線を受け流し、数瞬、ほむらは目を瞑った。次いで彼女が紡いだのは、どこまでも冷たく平坦な、氷の如き声だった。

「最初は問題無かったのでしょうね。巴マミが新人を手伝い、安全な環境で実力をつけさせる。まるでゲームのチュートリアルのように。たしかにそれで魔法少女は増えたし、彼女たちも力を合わせて上手くやっていたわ」

 ほむらが息を吸う。そのまま顎を引き、地面を睨んで彼女は続けた。

「でも、所詮は女の子なのよ。戦士でなければ兵士でもなく、もちろん勇士であるはずもない。戦いなんて望んでいなかった。魔法少女になることも望んでいなかった。あったのは叶えたい願いだけで、その代償に対する覚悟は持ち合わせていなかったのよ」

 あなたもそうでしょう、とほむらは杏子に水を向ける。すると杏子は腕を組み、背にした壁に、後ろ頭をコツリと当てた。彼女の視線は、ビルに切り取られた空へと向けられている。つられて、ほむらも天を仰ぎ見る。星が輝きを増していた。空気が冷たさを増していた。夜の気配が、すぐそこまで忍び寄ってきていた。

「――――たしかに、そうかもな」

 杏子が呟く。か細く掠れた、囁くような声だった。

「否定はしないよ。夢みたいな話だし、夢見てた部分はたくさんあった。けどそんなの誰でも一緒だろ? 軽い気持ちで契約して、重い現実を思い知る。魔女と闘いながら、少しずつそれに慣れていくんだ。そいつらが特別なわけじゃない」
「だからこそ、よ。本来なら魔法少女の厳しさを学ぶべき時期を、彼女たちは巴マミに守られて過ごした。実力をつけた後でも、知り合いと仲良くやっていた。なまじ最初から順調に進んでいたが故に、躓いた時の衝撃が大きかったのよ」

 まだ魔女との戦いに慣れておらず、不安が強く残っている頃に失敗していれば、それは教訓として刻まれたかもしれない。けれど碌に苦労も無く、半端についてしまった実力は、魔法少女が持つべき危機意識を薄れさせた。素人ではなく、玄人でもない。戦闘への慣れから生まれた油断が、彼女達の命取りとなったのだ。

「そしてなにより、彼女たちは横の繋がりが強かった。見知らぬ他人が死ぬのは平気でも、見知った友人が死ぬのは辛いものよ。つまり誰か一人でも躓けば、それが周りに広がるということ。そうして短期間の内に、多くの魔法少女が脱落したのよ」

 重い沈黙が、二人の間に横たわる。続く言葉を紡ぐ事無く、彼女達はボンヤリと空を見上げていた。既に山の向こうへ日が沈み、夜の闇は辺り一帯を覆っている。大通りから射し込む明かりも、二人へ届くのは僅かなものだ。

 ふと、杏子がほむらに顔を向ける。暗闇の中に浮かび上がるその相貌からは、強い意志が感じられた。次いでほむらも顎を引き、正面から杏子と視線を交わす。目を逸らさずに、見詰め合う。そうしてまず、杏子の方が口を開いた。

「マミは知ってるのか? そいつらのこと」
「それなりに、といったところでしょうね」

 答えて、ほむらは地面に目線を落とす。

「巴マミが世話をするのは新人時代だけで、以降の接点は少ないわ。だから中心人物であることは確かだけど、精神的支柱というわけではないの。それに魔法少女の契約を勧めた彼女なら相談しやすいと感じる人も居れば、逆に相談しにくいと思う人も居る。特に魔法少女と魔女の関係に感付いた人なら、巴マミと話し合うことは躊躇うでしょうね」

 加えて言えば、マミの意識がアイに向かっているのも大きな要因だろう。そしてこれらの要素が絡み合って、マミは未だに現状を知らずに済んでいる。まさしく奇跡だと、ほむらは思う。誰か一人、何か一つ、ほんの僅かでも異なる可能性を選択していれば、マミは魔法少女の秘密に気付いたかもしれない。その危うさを、ほむらは深く理解していた。

「……とはいえ、これは私が知る範囲での話。私が知らない魔法少女も、まだ相応に居るはずよ」
「意外だね。アンタはなんでも知ってるのかと思ってたのに」
「そうでもないわ。むしろ自分の無知さを思い知らされることの方が多いもの」

 そっとほむらが目を瞑る。長いまつ毛が震えていた。黒い髪が、風に吹かれて揺れていた。どこか侵し難い空気が彼女を包み、対峙する杏子も口を噤む。刹那の静寂が、狭い路地裏に訪れた。

「一つ確実に言えるのは――――――」

 ほむらが紡いだのは、感情の籠らない平坦な声だった。

「魔法少女に大切なものなんて不要ということよ。たとえ必要だとしても、一つあればそれでいい」

 杏子は何も言わなかった。言えなかった、と表現した方が的確だろうか。眉間に皺を寄せて険しい顔をした彼女は、けれど瞳に心配の色を乗せてほむらを見詰めている。その視線に気付きながらも、ほむらは知らない振りで押し通した。

 大切であればあるほど、失った時に大きな心の傷が出来る。魔法少女にとってそれは、文字通りの致命傷だ。だから要らない。大切なものは持つべきではない。そうすれば傷付く事も、魔女になる事も無いのだから。もし仮に大切なものを持つ必要があるのならば、たった一つだけ、魔法少女として闘う理由であるべきだ。多くの事実を知る者として、ほむらはそんな考えを抱いていた。

「……少しお喋りが過ぎたわね。他に用件も無いし、今日はここまでにしましょう」

 クルリとほむらが杏子に背を向ける。流れるように黒髪が舞い、杏子の視界からほむらの顔を覆い隠す。そのまま名残惜しさの欠片すらも感じさせずに、ほむらは大通りへと歩き始めた。背後で杏子が何かを言ったが、ほむらの足は止まらない。進む先には、光に溢れた大通り。騒がしくも秩序めいた雑踏の中に紛れるように、ほむらは裏路地から姿を現した。

「――――だから待てっての!」

 と、追ってきた杏子がほむらの肩を掴む。
 力尽くで振り向かされ、ほむらは再び杏子と向き合った。

「なにかしら?」
「三日後だ」

 意味が分からず、ほむらは首を傾げる。

「決戦前に揉めたくないし、今は黙ってやるよ。だから、とりあえず三日後の日曜は予定を空けとけ」

 八重歯を剥き出しにして杏子が笑う。どこか獰猛で、どこか穏やかで、心が惹きつけられる表情だった。咄嗟に返事が出来なくて、ほむらはその場に立ち尽くす。そんな彼女に対して笑みを深くし、杏子は楽しそうに話を続けた。

「祝勝会だ。美味いモン、食いに行こうか」

 そんだけ、と杏子はほむらの肩から手をどける。そのまま軽い足取りで去っていく杏子の姿を、ほむらは呆然と見送った。間も無く雑踏の奥に小豆色が消えても、ほむらはその場から動かない。幾人もの通行人と擦れ違い、幾つもの車が通り過ぎ、それからほむらは、自身の肩に右手を添えた。

「ほんと、知らないことばかりだわ」

 呟き、ほむらは困ったように眉尻を下げる。微かに形を変えたその口元は、ともすれば笑っているようにも感じられた。だがすぐにまた、元の冷たい表情に戻ってしまう。唇を一文字に結び、瞳に鋭い光を宿して、ほむらは杏子が去ったのとは反対方向へと足を向けた。

「――――――ほむらちゃん?」

 瞬間、聞こえた声がほむらを硬直させる。

「ほむらちゃん、だよね?」

 重ねられたその声は、ほむらにとって聞き覚えのあるものだ。あり過ぎる、と言っても間違いではない。いつも聞いている声だ。ずっと聞いてきた声だ。目を閉じれば顔が浮かぶほど、その少女の存在はほむらの心に根付いていた。

 錆びついたブリキ人形みたいにぎこちなく、ほむらは声のした方へ顔を向ける。彼女が怖々と視界に映した声の主は、予想通りの人物だった。鹿目まどか。息を荒げ、額に汗を浮かべた彼女が、少し離れた位置に立っている。その隣には、どこか困惑した様子の美樹さやか。二人の姿を捉えても、ほむらはすぐには対応出来なかった。

 時間の経過とともに、ほむらの思考が冷えてくる。暴走した心臓が、徐々にペースを落としていく。これなら大丈夫だと、ほむらは自分に言い聞かせる。それでも声を発する直前、彼女は小さく喉を鳴らした。

「ついてきなさい」

 短く告げて、ほむらは再び路地裏へと戻っていく。若干の間を置いて、その後ろからまどか達もついてきた。一分ほど歩き、路地裏のほぼ中央に位置する場所で、ほむらは立ち止まって振り返る。直後、まどかとさやかも足を止めた。

「それで、なんの用かしら?」

 ほむらが問えば、さやかは隣のまどかに目で尋ねる。もしかするとさやかは、状況を把握していないのかもしれない。慌てた様子の友人が心配で、といった感じだろうか。とはいえそこは重要ではないと、ほむらはまどかに意識を集中させる。そうして二人分の視線に晒されたまどかは、酷く落ち着かない様子で声を上げた。

「あ、あのね。わたし、わたし……ほむらちゃんに…………」

 言い切る前に声をすぼませ、まどかは俯いた。まだ決心がついていないのだろうか。彼女の口はまごつくばかりで、明確な言葉が紡がれる事は無い。ハッキリしないその態度を見て、ほむらは小さく息をついた。

「まだ教えていなかったけれど、私は魔法少女よ」

 躊躇いなく、ほむらが告白する。まどかが息を呑んだ。さやかは目を見開いた。共に驚きを表し、佇むほむらを凝視する。そんな二人の視線をものともせず、ほむらは悠然と髪を掻き上げた。直後、正気に戻ったまどかが、泣きそうな顔で唇をわななかせる。彼女が発した声も、酷く震えていた。

「じゃあ、本当に…………」
「巴マミの前で魔法少女を殺した件なら、この私で間違い無いわ」

 瞬間、場の空気に緊張が走った。発生源は美樹さやか。まどかの前に進み出た彼女が、厳しい目付きでほむらと対峙した。疑念と警戒、その二つを、今のさやかは露わにしている。ただそれでも、未だ明確な敵意は感じられなかった。

「なんかよくわかんないけどさ。つまり、あんたは悪いヤツってことでいいわけ?」
「さあ、どうかしらね。私はただ、自分の望むままに行動しているだけだもの」

 素っ気なくほむらが返せば、さやかは眉根を寄せて彼女を睨んだ。二人の間に、緊張の糸が張り詰める。一触即発。ふとした拍子に爆発しそうな危うい空気が、暗い路地裏に満ちていく。ほむらも、さやかも、歩み寄りの気配は微塵も無い。

「――――――どうして?」

 緊張を破ったのは、震えたまどかの声だった。自然、ほむら達の視線がまどかへ集まる。
 まどかはその双眸に、零れそうなほど涙を溜めていた。一杯の悲しみを、桃の瞳に湛えていた。

「どうして、そんなことするの? だって、ほむらちゃんは、魔法少女なんだよね?」

 胸元で両手を合わせ、懇願するようにまどかが問う。嫌だと、信じたくないと、その表情は語っている。ほむらの否定を、彼女は今この瞬間も待っている。だがそれは有り得ない。だってほむらが魔法少女を殺したのは、純然たる事実なのだから。

 大袈裟に、見せ付けるように、ほむらは嘆息する。びくりと、まどかは微かに身じろいだ。

「なにか勘違いしているようだけど」

 ほむらの左腕に、小さな丸盾が現れる。鈍色のそれは、魔法少女としての彼女の武装だ。正直に言って防具としての意味は薄いが、この盾はほむらの能力を象徴するものだった。そしてその機能の一つに、異次元空間への収納がある。

 盾の裏側へと手を伸ばしたほむらは、何も無い空間からソレを取り出した。この暗い路地裏で、周りに溶け込んでしまうほど黒い物体。装弾数十五と一発を撃ち出す自動拳銃。ほむらが手にしたそれは、人間の持つ殺意を明確に具現化した凶器の一つだ。

 まどかもさやかも動かない。否、動けない。この時代、拳銃は下手な剣や槍よりも分かりやすい殺意の形だ。よく居る一般人として、ありふれた女の子として、二人の反応は正常なものだろう。

 ほむらの目が、まどかとさやかの間を行き来する。そうして二人の位置関係を、ほむらは瞬時に把握した。まどかの前に立つさやかは、その右半身で友達を庇う形で立っている。逆に言えばそれは、左半身の後ろには何も無いという事だ。

 拳銃を握った右手を挙げ、ほむらは銃口をさやかに向けた。美樹さやか。幼馴染みの治療を奇跡として願った彼女は、魔法少女の中でも特に高い治癒力を有している。たとえ銃で撃たれたとしても、二日後までには完治している事だろう。

「魔法少女なんて、誰もが勝手で我が侭で――――――――」

 二つ、銃声が鳴り響いた。撃たれたのは、さやかの左肩と左足首。本当に撃たれるとは思っていなかったのか、体を傾げるさやかの表情は、滑稽なほどの驚きに満ちていた。そうしてゆっくり、けれど確実にさやかは倒れていき、ついには地面に倒れ伏す。その光景を、まどかは呆然と見詰めていた。

「――――――――恐ろしいものなのよ」

  一歩、ほむらが踏み出す。途端にまどかが体を揺らした。更に二歩三歩と近付いていくほむらに対して、まどかはハッキリと怯えの表情を浮かべている。刹那、ほむらの歩みが止まり、またすぐに再開する。そうして両者の距離がゼロになると、ほむらはまどかの肩に手を置いた。手の平からは、まどかの震えが伝わってくる。

「馬鹿な夢を見るのはよしなさい。ただの女の子が、ヒーローになれるわけがないのだから」

 囁き、ほむらはまどかの肩から手を離す。見ればまどかは、酷く青い顔をして俯いていた。何かを言おうとして、何も言わずに口を閉じる。それからほむらは、倒れたさやかの方へと視線を移す。

 流石と言うべきか、さやかは既に起き上がり始めていた。右手で体を支え、痛みに顔を顰めながらも、彼女は殺気混じりの瞳でほむらを睨んでいる。刺すようなそれを受け流し、ほむらは二人に背中を向けて歩き始めた。

 ほむらが進む。闇に満ちた路地裏を、彼女は一人で進んでいく。その背に掛けられる声は、ただの一つもありはしなかった。




 -To be continued-



[28168] #019 『名前で呼んでもいいですか?』
Name: ひず◆9f000e5d ID:b283d0a0
Date: 2012/10/20 21:53
 薄桃色のスクリーン越しに朝日が射し込み、おぼろげに部屋の中を照らし出す。薄闇に浮かぶのは、簡素だが特徴的な内装だった。最初に目に付くのは椅子の数だろう。サイドチェアやアームチェアなど、様々な種類の椅子が十以上も存在し、フローリングの床を占領している。ベッドを囲むように配置されたこれらの椅子は、決して広いとは言えない部屋の中で大きな存在感を放っていた。一方でそれ以外の装飾に目立った所は無い。唯一棚に乗せられた人形達が個性を主張しているくらいで、他には学習机や本棚といったありきたりな物しか見当たらない。

 今、ベッドの上には一人の少女が寝転んでいる。鹿目まどかだ。白いシーツに桃色の髪を零れさせ、彼女は布団を被って身を丸めていた。その腕には大きな兎のぬいぐるみが抱き締められ、どんぐり眼は何を見るでもなく壁の方へと向けられている。半端に開いた唇からは、声が漏れ出る事は無い。布団に包んだ体は、僅かに動く事すら無い。まるで魂の抜かれた人形みたいに、まどかは生気に欠けていた。

 まどかが考えるのは、友達のほむらの事だ。いや、本当に友達と言ってもいいのだろうか。それすら分からず、考えが纏まらず、無為に時間ばかりが過ぎていく。ほむらは魔法少女だった。ほむらは人を殺した。ほむらはさやかを撃った。たった一人の問題なのに、悩む事がたくさんあって、頭がグチャグチャになって、焼け付くような焦燥がまどかを追い詰める。

「…………っ」

 一層体を小さく丸めて、まどかはギュっと目を瞑る。今は朝だ。今日は金曜日で平日だ。だから早く起きて、学校に行く準備をしないといけないのに、まどかは一向に布団から出ようとしなかった。

 ほむらと会いたくない。だから、学校に行きたくない。これまでズル休みなんてした事が無いまどかだけど、しようとも思わなかった彼女だけど、今日だけはその誘惑に負けそうだった。ほむらの冷たい眼差しが、目蓋に焼き付いて離れない。友達だと思っていたから、優しい子だと信じていたから、あんな風に突き放されると、まどかはどう反応すればいいのか分からなくなるのだ。

 怖い。その一言が、グルグルとまどかの脳裏で渦巻いている。何をするべきかなんて分からない。何をしたいのかも定まらない。ただ制御しきれない感情だけが暴れまわり、彼女は小さな体を震わせていた。

 不意にまどかの耳を音が打つ。扉を叩いたノックの音だ。ぬいぐるみを抱く腕に力を籠めて、まどかは唇を固く結ぶ。そうして返事もせずにジッとしていると、おもむろに部屋の扉が開かれた。

「まどかー、入るよ?」

 聞こえた母親の声に、まどかは微かに身じろいだ。部屋の中に足音が響き、やがてベッドの傍まで来て止まる。背中越しに感じる人の気配に身を硬くして、まどかはまた小さく体を揺らした。

「あんたが寝坊なんて珍しいね。具合でも悪い?」

 上から覆い被さるように覗き込んできた母の詢子(じゅんこ)と、視線を動かしたまどかの目が合った。瞬間、詢子が僅かに顔を顰める。そのまま彼女の白い手が伸ばされ、まどかの頬に添えられた。温かな手に導かれ、まどかは顔を上へと向けさせられる。正面から見た詢子の顔は、やはりまどかとよく似ているけれど、大人の女性らしい凛々しさを備えていた。だからこそ、そこに宿る心配の色が際立っている。

「どうした? 可愛い顔が台無しだぞ」
「………………」

 なにか言おうと口を開いて、しかしまどかはすぐに閉じた。言うべき言葉が見付からない。そもそも、誰かに相談出来る事でもない。魔法少女と言ったって、母を困らせるだけだろう。命がどうだと言ったって、心配させるだけだろう。だからまどかに出来たのは、ただ泣きそうな顔で詢子を見返す事だけだった。

「なあ、ほんとに大丈夫か?」

 そう尋ねる詢子の表情は、まどかが初めて見るものだった。

「……学校、行きたくないのか?」

 問われたまどかが、二つの瞳を僅かに揺らす。湧き上がるのは逡巡だった。学校を休みたい、という気持ちはある。だけどそれを口にすれば、余計に詢子を心配させてしまう。だから迷って、躊躇って、考える。綺麗に化粧が乗った母の顔をぼんやり見詰めて、それからまどかは、ちょっとだけ顎を引いた。行きたくないと、首肯した。

「…………喧嘩、しちゃって」

 詢子が目を瞑る。暫くしてゆっくりと息を吐き、彼女は唇で柔らかな弧を描いた。優しく包容力のあるその表情は、まどかが憧れる母の顔だ。思わず涙が溢れそうになったけれど、まどかは唇を結んでグッと堪えた。

「いいよ、休んじゃいな。でも、今日だけだからね。明日は休みだし、月曜までには整理しな」

 優しくまどかの頭を撫でて、詢子は近付けていた顔を離す。

「学校には連絡しとくけど、朝ご飯はちゃんと食べるんだぞ」

 最後にそう言って、詢子は扉に向かって歩き始めた。スーツを着込んだ彼女の背中が、徐々にまどかから遠ざかる。それが少し寂しくて、だけど何も言えなくて、詢子が廊下に消えるまで、まどかは黙って見送る事しか出来なかった。

 閉じ切った扉を、ぼんやりと眺めるまどか。暫くして、彼女は天井へと顔を向けた。見慣れた天井がいつもより遠く思え、自室が広く感じられる。あるいはもしかすると、まどか自身が小さくなったのかもしれない。

「ほむらちゃん…………」

 今にも消えそうな声で、まどかが呟いた。


 ◆


 あらゆる命は平等ではない。崩れゆく魔女の結界を眺めながら、ほむらは改めてその事実を認識した。初めて魔法少女の末路を知った時から、もうどれだけの魔女を殺してきたのか覚えていない。見方によっては殺人鬼。好意的に見ても、決して正義の味方とは呼べない。それを理解するほむらが平然としていられるのは、彼女の中に明確な優先順位が存在するからだ。より上位の誰かの為であれば、より下位の誰かを犠牲に出来る。それがほむらに深く根付いた思想であり、だからこそ彼女は迷いを捨てられるのだ。

 ほむらの胸に浮かぶのは、かつて見たまどかの笑顔。温かで柔らかなそれは、もう自分に向けられる事は無いかもしれない。それでもいいと、ほむらは思う。まどかを魔法少女にさせずに済むのなら、彼女はそれ以上を望まない。それもまた、優先順位の問題だ。

 やがて完全に結界が消え去ると、ほむらは廃材の積まれた空き地に立っていた。一先ず周囲を見回した彼女は、次いで整然と並べられた土管に背を預けた。空を仰げば、一面の青色が目に入る。まだ一限目の授業も始まらないこの時間、太陽の位置は決して高くはなかったが、それでも日差しは眩しいほどに強かった。

 今は快晴の空模様も、日が変わる頃には一面雲で覆われる。闇夜を風が吹き荒び、大きな雨粒が地面を打つ。やがてそれらは嵐となり、スーパーセルと呼ばれる大災害へと成長する。夜が明ければ避難勧告が行われ、住民は各地の避難所で身を寄せ合う。そうして人影の消えた街並みを、この嵐は次々と壊していく。確実に、かつ徹底的に、破壊し尽くすのだ。

 ワルプルギスの夜。自身が知る限りにおいて最悪の魔女の襲来とその被害を、ほむらは正確に予見していた。

 空を見ていた黒い瞳が、今度はほむらの白い手に向けられる。小さな手だった。虫一匹殺せそうにない、頼りない手だった。これまで必死に鍛えてきて、並の魔法少女よりも強いと自負しているほむらだけれど、それでも『ワルプルギスの夜』には敵わないと理解している。

 決戦の時、杏子は力を貸してくれるだろう。巴マミや美樹さやかも、大切な人を守る為に『ワルプルギスの夜』と戦う道を選ぶはずだ。これにほむら自身を加えれば、最低でも四人分の戦力を確保した事になる。だが同時にほむらは、これ以上の戦力増加は望みが薄いと考えていた。たしかに杏子の連れである女の子や、ほむらが把握していない魔法少女は存在する。しかしほむらが思うに、彼女達が『ワルプルギスの夜』に挑む可能性は低い。よしんば戦場に出てきたとしても、目立った活躍はしないと予想している。自身の目に留まるほど強力な魔法少女が残っていない事を、ほむらは”経験”から知っていた。

 勝てないかもしれない。湧き上がるその不安を押し潰すように、ほむらは拳を握り締めた。

「――――――なんだ、アンタだったのか」

 覚えのある声が、ほむらの耳を揺らす。声が聞こえてきた方を見遣れば、やはり、覚えのある少女。私服姿の杏子が、廃材の隙間を縫ってほむらの傍まで歩いてくる。そのまま彼女は、ほむらと並んで土管にもたれ掛かった。

「朝から魔女退治かい? その熱心さには頭が下がるね」
「貴女こそ、こんな時間に歩き回ってどうしたの?」

 ほむらが尋ねると、杏子は気まずそうに頭を掻いた。

「実は昨日から連れの姿が見当たらなくてさ。ほら、いつも帽子被ってるアイツだよ」

 知らずほむらの眉根が寄せられる。例の魔法少女が居なくなったこと、それ自体は別にどうでもいい。杏子には戦力の一人だと伝えたが、実際に『ワルプルギスの夜』を前にすれば逃げ出す可能性が高いと思っているほむらにしてみれば、居ても居なくても関係ない存在だ。故にほむらが気にするのは、この件が杏子に及ぼす影響だった。貴重な戦力である杏子には、万全の状態で決戦に臨んで貰わないと困るのだ。

「昨日、アタシが拠点に戻った時にはもう居なくてさ。飯の時間になっても帰ってこないし、一晩経っても音沙汰なし。これで問題が無いと考えるのは、流石に楽観的過ぎるっしょ。だからこうして探してるんだけど、なにか心当たりはないかい?」

 心配だ、と目で訴えてくる杏子に対し、ほむらは首を振って答えた。魔法少女の個人情報についてもそれなりに詳しいほむらだが、生憎とあの女の子に関する情報は少ない。記憶を漁ってはみたものの、やはり有力なものは存在しなかった。

「そっか。ならまぁ、自力でどうにかするしかないよね」

 そう言って土管から身を離した杏子が、空き地の外へと歩いていく。
 徐々に遠ざかる背中に、ほむらは知らず声を掛けていた。

「貴女にとって、彼女はどういう存在なの?」

 杏子が足を止め、その場に立ち尽くす。

「特別親しい訳ではないでしょう? 大切な訳ではないでしょう? 貴女にとって、彼女はそこまで価値ある存在ではないはず。だけど心配して、手助けして、こうして今も探している。その理由がなんなのか、教えてもらえるかしら?」

 杏子が誰かを助けることを、ほむらは可笑しいとは思わない。意外と面倒見の良い杏子の性格を、彼女はよく知っている。だから、本当ならこんな問い掛けは出てこないのだ。放っておいて構わないのだ。なのにこうして疑問を口にしたのは、さて、どういう理由があるのだろうか。それはほむら自身にも分からない。分からないが、知らず彼女は拳を握っていた。

「どういう存在って言われてもねぇ。ま、たしかに掛け替えのない相手とは言えないか」

 振り返った杏子の髪が舞う。どこか呆れた雰囲気で、彼女はその口元を歪めた。

「別にさ、アイツがどういうヤツかなんて関係ないんだよ。特別な相手だから助けるんじゃない。たとえ他の誰かでもおんなじさ。アタシが助けたいから助ける。理由なんてそれくらいだし、それ以上は必要ないよ」

 返された杏子の言葉は、決してほむらの想像を逸脱したものではなかった。だというのに、ほむらは思った以上に衝撃を受けている自分に気付く。上手く呑み込めなくて、受け止められなくて、なんと返せばいいのか分からない。そうして立ち竦むほむらに向けて、杏子は更に言葉を続けた。

「アタシらしくないかもしんないけどさ、たぶんこれが、アタシらしさなんだよ」

 なんて、ちょっと意味不明な言葉を残して、杏子は空き地を去って行った。真っ直ぐに伸ばされたその背中を見送って、ほむらはまた天を仰ぎ見る。ただボンヤリと、何をするでもなく、ほむらは空を見上げ続けた。高く、広く、青い空。全てを包み込んでくれそうなそれを眺めながら、ポツリとほむらが呟いた。

「マミさん――――……」

 もうずっと使っていなかった呼び名を零し、ほむらは瞑目する。同時に蘇るかつての記憶。鮮やかに再生されるそれは、魔法少女という異端の存在を、彼女が初めて認識した日の思い出だった。


 ◆


「それでは暁美さん、先生が呼んだら入ってきてくださいね」

 アッシュゴールドの髪をショートに切り、ハーフフレームの眼鏡を掛けた女性。今日からほむらのクラス担任になるその人が、ほむらに向けて微笑んだ。柔らかな面立ちが大人の包容力を感じさせ、ほむらの緊張をほぐしてくれる。固く握っていた拳をゆっくりと開き、ほむらは小さく息を吐き出した。

「はい……わかりましたっ」

 震え混じりのほむらの返答に、担任の先生は笑顔で頷いた。それから目の前の扉を開き、先生は教室の中に入っていく。自身とさほど背丈の変わらない彼女を見送って、ほむらはまた吐息を零した。何度か、深呼吸を繰り返す。

 見滝原中学校。古くから見滝原市にあるというその学校に、今日、ほむらは転校してきた。彼女にとっては、もう何度目かになる転校だ。生まれつき心臓の血管が極度に細く、幼少の頃から病弱だったほむらは、治療の為に転院と引っ越しを繰り返してきた。だから転校には慣れていると言ってもいいのだが、ほむらは何時になっても緊張してしまうのだ。友達が出来るだろうか、授業に置いていかれないだろうか。転校する時はいつも感じるそれらの不安を払うように、ほむらは辺りを見回した。

 隣の教室を見て、誰も居ない廊下を見て、最後に自分の教室を見て、ほむらは思わず動きを止めてしまう。

 見滝原中学校は歴史のある学校なのだが、最近になって改装が行われたらしく、その内装は一般的な学校とは大きく異なっている。例えば教室を仕切る壁は全てがガラス張りとなっており、廊下からでも中の様子がよく分かる造りになっていた。もちろん、その逆も然りである。つまりは見られていた。教室内の何人かが、廊下に立つほむらにチラチラと視線を向けているのだ。

 サッと、ほむらの頬が赤く染まる。変な格好をしていないだろうかと、今更ながらに自分の姿が気になった。長い黒髪を二つの三つ編みにした髪型に、赤いフレームの眼鏡。良く言えば純朴、悪く言えば野暮ったい。そんな印象を抱かせる風貌だという事は、ほむら自身もよく理解している。だからこそ、気にし始めると止まらない。彼女の意志とは関係無しに、胸の鼓動が高まっていく。

「――――――暁美さーん!」

 先生の声がした。微かに肩を震わせ、ほむらは扉に手を掛ける。そのまま彼女は扉を開き、教室の中へ足を踏み入れた。誰もがほむらに注目している。囁き声が聞こえてくる。それらの一切合財を無視して、無視しようとして、ほむらは先生の隣まで歩いていった。

「はい、暁美さん」

 そう言って先生が差し出したのは、チョークでもマーカーでもなかった。黒色の電子ペン。改装に伴い電子黒板を導入したこの学校では、それが板書に用いられる道具だった。慣れない道具というのが、またほむらを緊張させる。そのまま震えそうになりながら、ほむらは自分の名前を書き切った。

 生徒達の方にほむらが振り返る。集まる視線に身を竦ませ、それから彼女は、震える声を紡ぎ出した。

「えっと……あ、暁美ほむらです。その、よ、よろしく…………お願いします」

 ほむらが頭を下げれば、まばらに拍手の音が響き始める。
 こうしてほむらは、見滝原中学校に転校してきたのだった。


 ◆


「ねえねえ、前はドコの学校に居たの?」
「見滝原に来たのは初めて?」
「保健室って? なにか病気なの?」
「あ、あの……その……」

 わいわい。がやがや。ほむらを囲んで、女生徒達が大騒ぎ。前から左右から話し掛けられるほむらは、身を縮こまらせて俯いている。何か喋らないといけないと分かっているのに、ほむらは何も答えられなかった。愛想よくしたいのに、ここで友達になっておきたいのに、変な事を言ってしまわないかと不安になってしまう。

 どうしよう、とほむらは膝の上で両手の指を絡ませる。

 最初の一歩が肝心なのだ。せめて一人でも友達が出来れば、この学校に馴染むのが随分と早くなる。これまでの経験からその事を実感しているほむらは、しかし明確な行動を示す事が出来なかった。生来の臆病さが、彼女の心を縛り付ける。

「みんな、ちょっといいかな」

 不意にそんな言葉が投げ掛けられた。
 ほむらを含めた周りの生徒が、声が聞こえてきた方を向く。

「どうしたの、鹿目さん」
「一緒に暁美さんとお話したいの?」

 矢継ぎ早な問い掛けに、話し掛けてきた女生徒が苦笑する。

「ほら、先生が言ってたでしょ? 暁美さんを保健室に案内してあげなさいって」
「あ、そっか。鹿目さんは保健係だもんね」
「そうそう。だから今の内に行こうと思って」

 頭の上で飛び交う会話は、あっさりとほむらを置いてけぼりにした。会話の内容は理解出来るが、急過ぎる事態の変化についていけない。鹿目さんと呼ばれた女生徒はどういう人なのだろうか。彼女についていけばいいのだろうか。周りの人達はどうするのだろうか。頭の中で疑問が渦巻き、答えが出なくて、ほむらは呆然と口を開けていた。

「それじゃ、行こっか」

 笑顔の鹿目さんに手を取られ、ほむらは扉の方に誘導された。どうやら他の生徒達はついてこないらしく、その事にほむらは胸を撫で下ろす。また後で、と手を振ってくる生徒達に控えめに手を振り返したほむらは、そのまま教室から廊下へと連れ出された。

「騒がしいクラスでごめんね。転校生なんて珍しいから、はしゃいじゃってるんだよ」

 握っていた手を放した鹿目さんが、ほむらの隣に並んでくる。改めてその顔を見たほむらは、可愛らしい女の子だと思った。丸みを帯びた面立ちを大粒の瞳で飾り立てた鹿目さんは、ほむらより低い身長も相俟って、幼い少女特有の愛らしさを備えている。威圧感の欠片も感じさせないその容貌を見て、ほむらは幾らか肩の力を抜く事が出来た。

「あ、まだ名前を教えてなかったね。わたしは鹿目まどか。保健係だから、気分が悪い時とかは言ってね」

 鹿目まどかと名乗った女生徒は、そう言ってほむらに向けて微笑んだ。不思議な魅力のある笑みだった。例えるならお日様のようで、温かさと力強さに溢れていた。思わず見惚れたほむらの頬が、ほのかな朱色に染められる。

「えっと、その、暁美ほむらです」
「うん、知ってるよ」

 言われてほむらは思い出す。さっき自己紹介したばかりだと。
 赤く色付くほむらの耳に、続く言葉が投げ掛けられた。

「いい名前だよね、ほむらって」

 驚き、ほむらは隣のまどかを見る。

「燃え上がれーって感じでさ。凄くかっこいい響きだと思うよ」

 両手を広げて朗らかに話すまどか。その表情を見れば、彼女が本当にそう考えている事が読み取れた。気恥ずかしさで、ほむらの体が熱を帯びる。だがすぐに彼女は眉尻を下げ、まどかの視線から逃れるように俯いた。

「……でも、似合わないですよね。名前負け、してます」

 寂しげな響きを乗せて、ほむらが呟く。

 格好良い名前。たしかにそうだとほむらも思うし、両親がくれた大切な名前でもある。しかし同時にほむらは悩むのだ。はたして自分は、その名前に見合った人間なのだろうかと。運動音痴で、勉強も得意じゃなくて、格好良い所なんて一つも無い自分は、暁美ほむらという名前に釣り合っていないと、彼女は思うのだ。

「そんな風に考えるのはもったいないよ。せっかくの素敵な名前なんだもん」
「…………けど、やっぱり、私らしくありません」

 ほむらが否定すれば、まどかは横から見上げるように覗き込んできた。
 輝きに満ちた瞳に見詰められ、ほむらの心臓が跳ね上がる。

「ならさ、こう考えてみたらどうかな。名前みたいにかっこよくなっちゃえばいいんだって」

 あっけらかんと言い放たれたその言葉は、不思議とほむらの心に沁み渡った。
 まどかが眩しい。そんな事をあっさりと言ってのける彼女が眩し過ぎると、ほむらは思う。

「これまでが駄目だからって、これからも駄目なわけじゃないんだよ」

 一拍置いて、まどかが笑う。
 ほむらは、否定の言葉を紡がなかった。

「変わるのってね、そんなに難しいことじゃないの。だから頑張ってみようよ、なりたい自分になれるように」

 優しく語り掛けてくるまどかには、柔らかな陽射しのような魅力があった。見ているだけで、本当にそうなんじゃないかと信じてしまいそうになるほどだ。だからほむらは何も言えず、何も言わず、呆けたようにまどかを見詰める事しか出来なかった。

 これが、始まり。暁美ほむらと鹿目まどかの、最初の出会い。


 ◆


 放課後の帰り道。これから毎日のように通う事になるその道を、ほむらは重い足取りで歩いていた。周りに他の人は居ない。つまり、ほむらは友達作りに失敗したのだ。授業中に当てられてもちゃんと答えられなかった。体育では誰よりもどんくさかった。もちろんそれでクラスメイトから嫌われた訳ではないけれど、ますます自分が嫌になったほむらは、上手く周りと接する事が出来なかったのだ。遂には放課後のお誘いも断ってしまい、ほむらは湧き上がる自己嫌悪を抑えられなかった。

 陰鬱な溜め息が、ほむらの唇から零れ落ちる。

 見滝原市。幼少の頃に住んでいたこの街に帰ってくる事を、ほむらは密かに楽しみにしていた。会いたい人が居るのだ。かつて一度だけ病院で話した少女と、ほむらはまた友達になりたいと思っていた。自分と同じ、長い黒髪を持った年上の女の子。幼いほむらにとって、彼女は唯一気を許せた友人だったのだ。

 小さな子供は、なかなか他人を思い遣る事が出来ない。相手の気持ちを想像するための知識や経験に欠けるからだ。だからほむらの周りに居た子供達は、気弱で病弱な彼女の都合を理解しなかった。ほむらの気持ちを分かってくれたのは、ただ一人、病院で出会った少女だけだ。だから、会いたい。また仲良くなれると信じられるから、ほむらは会いたいと願っていた。

 あの少女はどこに居るのだろうと、ほむらは思いを馳せる。何も問題が無ければ、今は中学三年生のはずだ。もしかしたら見滝原中学校に通っているのかもしれないが、探し出すのは大変だろう。なんせ分かっている特徴といえば黒髪という事くらいだ。どれだけ背が伸びたのか予想も出来ないし、髪型も変わっているかもしれない。せめて名前が分かればいいのだが、欠片もほむらの記憶に残っていなかった。

「…………名前、かぁ」

 不意にほむらの脳裏をよぎる、まどかの言葉。名前に見合う自分になればいいと言った、彼女の笑顔。それを思い出したほむらの胸には、ほのかな温かさと冷たさが宿っていた。あんな事を自信を持って言えるまどかに対する羨望と、それを信じられない自分に対する失望。その二つが、ほむらを内側から苛むのだ。

 変わりたい。変わってみたい。でも、一歩を踏み出せない。そんな自分が情けなくて、ほむらは地面に視線を落とした。規則的な模様を織り成す、無機質なタイルが目に入る。足取りの重さが、自分でもよく分かる。また溜め息を吐き出そうとしたほむらは、しかし目を見開いて息を呑んだ。

「――――ッ!?」

 地面が無かった。いや、違う。たしかにほむらは地面に立っている。だがそこは一瞬前まで彼女が居た歩道の上ではなく、煤けた大地の上だった。舗装されて綺麗な平面となっていたはずの地形は起伏に富んだものへと変化し、周りにあった建造物は何もかもが消え失せている。不思議の国に迷い込んだ、というには余りにも殺風景な世界で、見上げた空の不気味な赤色が、余計にほむらの不安を掻き立てた。

 訳が分からない。意味が分からない。頭が上手く回らなくて、ただひたすらに焦燥ばかりが募っていく。必死に、落ち着きなく、ほむらは周囲に人影を求めた。もちろん彼女以外の人間は居なくて、けれど予想外の物を目にして固まった。

「……えっ?」

 不安げに瞳を揺らすほむらが見付けたのは、大きな石造りの凱旋門だった。先程までは無かったソレ。蜃気楼の如く現れたソレ。あまりに唐突なその出現に、ほむらは一瞬遅れて息を呑んだ。一体これはなんなのか。これから何が起こるのか。湧き上がる恐怖を堪え切れず、彼女は震える足で後ずさった。そんなほむらに追い打ちを掛けるように、また新たな影が目に映る。

「ひっ、いや……っ」

 なにも無かったはずの門の向こうから、三つのナニかがやってきた。そう、ナニかだ。影だけを見れば人間だが、一目見れば異形だと理解せざるを得ない。お絵描き帳から子供の落書きを切り取り、そのまま人間大まで引き延ばしたような存在だ。否、ようなもなにも、事実その通りの化け物だった。白い人型の表面に、黒い線でグチャグチャと顔や体が描かれた物体。そんな子供の工作が、何故か動いて、何故かほむらの方へ近付いてくるのだ。

 化け物がやってくる。人とは異なる奇妙な動きで、ほむらとの距離を詰めてくる。

 怖かった。逃げ出したかった。けど普通の少女に過ぎないほむらには、こんな状況で何をすればいいのか分からない。本能的に化け物から距離を取ろうとして、躓いて、尻餅をついた。ざらついた地面に触れたほむらの手は、小刻みに震えている。叫ぼうとして、引き攣った声を漏らす。痛いほど心臓が高鳴った。思考は形にならなかった。只々恐怖が、ほむらの心を蝕んでいく。

 瞬間、炸裂音が空気を震わせた。

 化け物が宙を舞う。まるで冗談みたいに吹き飛んだ化け物たちが、勢いよく凱旋門に叩き付けられる。まさしく急変。瞬きの内に起こった事態の変化に、ほむらは思わず目を丸くする。何が起こったのか分からず、座り込んだまま動けない彼女の前に、次いで一つの影が現れた。今度は化け物ではなく人間だ。背丈は自分と同じくらいだが、それでも大きな背中だと、ほむらは思った。

 ほむらを守るように現れた人物。左右で縦に巻いた髪や琥珀色のスカートなど、後ろから見える部分だけでも女性だと分かるその誰かは、右手に白銀の銃を構えていた。あまりそういった物に詳しくないほむらでも、かなり古いタイプと分かる銃だ。でも、何故だろうか。現代の物と比べて随分と簡素に思えるその銃が、ほむらにはこの上なく頼もしく感じられた。

 二度目の炸裂音。それが銃声なのだと、ほむらは気付く。

 目を瞑って身を竦めたほむらの前で、更に三度四度と銃声が続けられる。一体なにが起こったのか、未だにほむらは分からない。それでも彼女は、この悪夢が終わりに近付いている事だけは理解出来た。

「もう大丈夫だよ、ほむらちゃん」

 どこか聞き覚えのある声が、ほむらの隣から聞こえてきた。ほむらが振り向けば、やはりそこには見知った姿。今朝知り合ったばかりの少女が、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。

「……鹿目さん?」

 ほむらの声には、多分に戸惑いが含まれていた。それは学校のクラスメイトがこんな場所に居る事への疑念であり、また現れた少女の姿が意外なものだった事への驚きでもある。

 パニエによって綺麗に広げられた白いスカートに、花びらのような裾を持つ桃色のワンピース。手には純白の手袋が着けられ、首には深紅のチョーカーが巻かれていた。決して日常的に見るファッションではないまどかのその格好は、漫画やアニメのキャラクターと言われた方がしっくりきそうだ。

「そうだよ、ほむらちゃん。いきなり秘密がバレちゃったね」

 笑顔のままそう言って、まどかはほむらから視線を外した。つられてほむらが同じ方を見遣れば、ちょうど先程の女性が右手を下ろした所だった。気付けば銃声は止み、あの化け物たちも消えている。訳も分からず始まったこの奇怪な出来事は、同じく訳も分からない内に終わっていたのだ。

 一息つき、見知らぬ女性が振り返る。改めて正面から見た彼女は、ほむらと同じ年頃の少女だった。ただ近いのは年齢と背丈だけで、体つきなどは違っている。鋭い、というのがほむらの第一印象だ。柔らかで女性的な面立ちなのに、彼女が纏う雰囲気は刃物を思わせる。純粋な敵意の塊とでも言うべきか、触れれば傷付きそうなそれを、ほむらはただひたすらに怖いと感じた。

 蜂蜜色をした少女の瞳が、正面からほむらを捉える。僅かに怯えを滲ませて、ほむらもまた彼女を見上げた。瞬間、女性の両目が見開かれる。何かに驚くように、戸惑うように、少女はほむらを凝視する。さながら時間が止まったように、その場に沈黙が訪れた。

「マミさん?」

 不思議そうにまどかが尋ねれば、マミと呼ばれた少女がハッとして首を振る。

「ごめんなさい。なんだか友達に似ている気がして」

 取り繕うような笑みを刻んで、マミはほむらに手を差し伸べた。その姿からは、既に先程の鋭さは消えている。柔らかで温かな、大人の包容力を思わせる彼女の様子に、ようやくほむらの体から力が抜けた。おずおずと彼女が手を伸ばせば、すぐさまマミがそれを掴む。ゆっくりと腕を引っ張られ、ほむらは暫く振りに立ち上がった。

「怪我はないかしら?」

 そう尋ねるマミは、何故かほむらのスカートの汚れを払っている。手慣れた様子で自分の身だしなみを整えてくれるその様子は、なんだかお母さんみたいで、ほむらは妙に気恥ずかしくなった。

「そ、その、大丈夫ですからっ」
「あっ、ごめんなさい。つい癖で」

 慌てて離れたマミが苦笑する。どこか寂しそうに話すその顔が、何故かほむらは気になった。

「マミさん、そろそろ……」
「そうね。結界も消えるようだし、続きは私の部屋でしましょう」

 まどかの言葉にマミが頷く。事情を知る者同士の会話。蚊帳の外に置かれたほむらは、不安を覚えずにはいられなかった。結局この世界はなんだったのか。あの化け物はどういう存在なのか。二人は何を知っているのか。様々な疑問が湧き上がり、解消されずに積もっていく。そうして黙ったまま二人を見詰めるほむらに、マミが話し掛けてきた。

「少し時間をいただけるかしら? 貴女に全てを説明するわ」
「全て……ですか?」

 問えば、マミが首肯する。

「ええ、魔法少女の全てを――――――」


 ◆


 ほむらが連れてこられたのは、マミが住んでいるというマンションの一室だった。本当に、なんの変哲も無いマンションだ。秘密の通路や隠し部屋がある訳でもなく、管理人も、途中で擦れ違った住人も至って普通の一般人。通されたマミの部屋だって、綺麗でお洒落ではあったけれど、可笑しな調度品は一つも無い。ある意味では拍子抜けとも言えるその場所で聞かされた話は、しかしほむらにとってあまりに衝撃的な内容だった。

「魔法少女に、魔女に、キュゥべえ……」

 万感の思いを込めて呟き、ほむらは出された紅茶に口をつける。

 人類の敵であり、文明の闇に潜んで命を奪っていく、魔女と呼ばれる化け物たち。その魔女と戦う為に力を与えられた、魔法少女と呼ばれる少女たち。まるで物語みたいなそれらの話が、重苦しい現実感を伴ってほむらに襲い掛かる。嘘だと思う事は出来なかった。あの異常な世界と異形の化け物は、今もほむらの心に焼き付いているのだから。

「そうよ。キュゥべえと契約した私たちは、一つだけ奇跡を叶えてもらう代わりに、魔女と呼ばれる化け物たちと戦うの」

 語るマミの口調は穏やかだが、隠し切れない黒い感情が滲み出ていた。もし明確に名前を付けるなら、それは殺意や憎しみと呼ばれるものなのかもしれない。普通の少女に過ぎないほむらに正確な所は分からないが、なんとなく怖いと彼女は思った。

「鹿目さん達は、いつもあんな化け物と戦っているんですか?」

 誤魔化すようにほむらが問えば、まどかが笑顔で答えてくれた。

「う~ん、そうだね。わたしは契約して一週間くらいだけど、ほとんど毎日戦ってるかな。今日みたいにマミさんだけが戦うわけじゃなくて、いつもはわたしも頑張ってるんだよ。と言っても、まだまだ助けてもらうことも多いんだけどね」

 まどかが朗らかに言い放つ。その表情にはマミのような暗い部分は感じられず、現状に対してポジティブな意見を持っている事が窺える。抱いていた印象そのものなまどかの姿に、ほむらは眩しそうに目を細めた。

「怖くないんですか? その、あんな化け物と戦うのに」

 問えば、まどかは苦笑する。

「怖いよ、女の子だもん。けど、やめたいと思ったことはないかな。魔女の怖さを知っているからこそ、みんなを守るための勇気が湧いてくるんだ。わたしが頑張ることで誰かが救われるなら、それはとても素敵なことだと思うから」

 胸に手を当てたまどかが、穏やかにそう告げる。その姿を見たほむらは、まるで物語の登場人物のようだと思った。人によってはまどかを馬鹿にするかもしれない。夢見がちな子供の言葉だと、そう吐き捨てるかもしれない。でも、少なくともほむらはそうではない。彼女はただ純粋に、まどかを凄いと尊敬していた。

「鹿目さんの言う通りよ。私たち魔法少女が魔女を殺さなければ、多くの人々が犠牲になってしまう。それを理解しているからこそ、私たちは魔女と戦うの。誇りを持って――――――――魔女を殺すの」

 まどかの言葉を補足するようにマミが続ける。しかし口にする内容は似ていても、二人の雰囲気はまったく異なるものだった。春と冬、とでも言うべきだろうか。明るく温かい印象を受けるまどかに対して、どこか暗く冷たい感じがするマミ。共に行動する仲間のはずなのに、二人は少しチグハグだった。その事実が、ほむらの目には奇妙に映る。

「さて、私たちの話はこれで終わりよ。もう遅いし、そろそろお開きにしましょう」

 言われてほむらは、窓の外へと目を向けた。徐々に藍色へと染まりつつある空が、夜の訪れを告げている。中学生にとってはそろそろ遅い時間だし、転校初日のほむらとしては、親を心配させない為にも早く帰った方がいいだろう。なんとなく収まりの悪さを感じながらも、ほむらはこれ以上の会話を諦めた。

「そう……ですね。今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして。貴女が無事でよかったわ」
「初日から大変だったけど、明日からもよろしくね、ほむらちゃん」

 そんな穏やかな空気を保ったまま、この日は解散となった。
 こうしてほむらは、非日常を知る事になる。魔法少女と魔女が住む、不思議の世界を。


 ◆


 魔女の存在を知っても、魔法少女と友達になっても、ほむらの生活が大きく変わる事は無かった。まだ慣れない学校に通い、仲良くなったまどかの助けを借りながら、少しずつクラスに馴染んでいく。本当に普通の、どこにでも居そうな転校生の生活を一歩も出る事無く、彼女は転校後の一週間を過ごしてきた。マミを含めてまどかと三人で話す事もあるし、魔女について尋ねる事もある。それでもあの日以来、ほむらは魔女と出遭っていない。魔法少女になったまどか達の姿も見ていない。結局、暁美ほむらは一般人に過ぎないのだ。

 魔法少女になりたい、とほむらは思った事がある。魔法少女にならないか、とほむらは問われた事が無い。つまりまどかやマミにとって、ほむらは共に戦う仲間には成り得ないのだろう。非力でか弱い、守るべき対象。それが自分なのだと、ほむらは理解している。理解しているけど、納得はしていない。そんな自分は嫌だと、心の底では叫んでいた。

 とはいえ、自分から魔法少女になりたいとも言えない。それだけの意志を、ほむらは持っていない。

 あまりに情けない、とほむらは嘆息する。そのまま自己嫌悪に陥りそうになった彼女は、首を振って意識を引き戻す。顔を上げれば、カウンターの向こうで作業をしていた看護師さんが、笑顔で薬袋を差し出していた。

「はい、お大事にね」
「…………ありがとうございます」

 受け取った薬袋を鞄に仕舞い、ほむらは踵を返して歩き出す。硬質な靴音を響かせ、まばらな人の間を抜け、彼女は自動ドアを潜って外へ出た。冷たい風が頬を撫で、三つ編みにした髪が揺れる。はためくスカートを片手で抑えたほむらは、今しがた出てきた建物を振り返った。

 見滝原総合病院。これから度々、ほむらがお世話になる予定の場所だ。以前に住んでいた街で受けた手術により、ほむらの体は入院を必要としない程度には健康になった。それでも通院は必要だし、薬を欠かす事も出来ない。だからほむらは、今後も定期的にこの病院を訪れる。幼い頃に通っていた、懐かしいこの病院に。

「はぁ……」

 病院から目を逸らしたほむらが、小さく溜め息を零す。

 かつてほむらは、ここで一人の少女と出会った。一度きりの、一時間にも満たない邂逅ではあったけれど、ほむらにとっては忘れられない思い出だ。あの少女とまた会いたい。実現は難しいと思いながらも、ほむらはその願いを捨て切れなかった。本当は今日も、あの少女について心当たりがないかどうか、病院で尋ねるつもりだったのだ。けどなんて言えばいいのか分からなくて、何もしないまま出てきてしまった。

 また溜め息。それからほむらは、肩を落として歩き始める。が、その歩みはすぐに止められた。

「――――――暁美さん?」

 背後から声を掛けられ、ほむらは反射的に振り返る。見ればそこには、制服を着たマミが立っていた。

 どうしてマミが病院に居るのだろうか。そんな疑問がまず浮かび、次いでマミの表情が目に付いた。切なげで寂しげで、見ているだけで胸が締め付けられそうになる表情だ。何より真っ赤に腫らした二つの瞳から、ほむらは目が離せなかった。

「こんなところでどうしたの? なにか病気でも?」

 そう尋ねるマミの顔には、明らかに心配の色が滲んでいる。だがほむらにしてみれば、マミの方こそどうしたのか問いたいくらいだ。先程まで泣いていたとしか思えない真っ赤な目には、一体どんな理由があるのか気になってしょうがない。しかしほむらがその事を口にするより早く、マミはほむらの額に手を当ててきた。ヒヤリとした手の平の感触に、ほむらは思わず身を震わせる。

「ひゃっ」
「……熱は無いみたいね」

 息が掛かりそうな距離からマミに見詰められ、俄かにほむらの頬が色付いた。

「と、巴さんっ」
「あら、ごめんなさい。またやってしまったわね」

 苦笑したマミが、ほむらの額から手を離す。そうしてマミの顔が遠ざかると、ほむらは胸に手を当てて息をついた。彼女の小さな心臓が、さながらハムスターのそれのように騒いでいる。

「前にも言ったと思うけど、友達に似てるから、つい」

 まただ、とほむらは胸中で呟いた。また『友達』だと。

 今のような事は、この一週間だけでも何度かあった。ただほむらの世話を焼いたり心配するだけではなくて、より心理的に深い所まで踏み込んできて、マミはほむらを驚かせるのだ。そしてその度に彼女は、同じ返答を繰り返す。友達に似ているから、と寂しげに答えるのだ。

 たしかにマミの言葉は真実なのだろう。ほむらよりも長い付き合いで、同じ魔法少女であるまどかに対しては、もっと淡白な対応をしている。いい先輩ではあっても、そこから踏み出そうとはしない。本当にほむらに対してだけ、過剰なほど世話を焼こうとするのだ。もしそこに理由があるとすれば、やはりマミの言う『友達』とほむらが似ているからだと考えられる。

「……あの、そんなに似ているんですか?」

 問えば、マミは困ったとばかりに首を傾げた。

「歩きながら話しましょう。ここでする話ではないわ」

 どこか沈痛な面持ちでそう言って、マミは背後の病院を見上げた。その仕草だけでほむらは、おぼろげに事情を察せてしまう。幼い頃から病気や病院と関わってきた彼女だからこそ、そういうコトを理解出来る。

 病院に背を向けて移動を始めたマミを追って、ほむらもまた歩き出す。自然と二人は肩を並べ、夕焼けに染まった歩道を進んでいく。伸びた影が仲良く寄り添い、でも実際の距離はそうではなくて、二人の間には静かな空気が流れていた。

「――――――正直に言うとね、そこまで似ているわけじゃないの」

 まばらな人影と擦れ違いながら、マミが呟く。
 ほむらが隣を見ると、苦笑したマミと目が合った。

「あの子と貴女。見た目の共通点なんて、長い黒髪くらいじゃないかしら」

 マミが天を仰ぐ。何かを思い出すように、目を瞑る。

「貴女よりも背が小さくて、華奢で、小学生みたいな外見だった。その見た目通り体が弱くて、ずっとあの病院に入院してたの。顔はいつも青白かったし、実際、初めて会った時は幽霊みたいな子だと思ったほどよ」

 でも、とマミは続けた。

「凄く明るい性格で、意志の強い子だったわ。大きな目をキラキラと輝かせて、とても楽しそうに話をするの。病院の外に出れなくても、病気が治らないって言われても、あの子は少しも腐らずに生きていた。綺麗で、眩しくて、だから私はあの子が好きだった」

 噛み締めるように、喰い縛るように、マミが話す。震える声で語られるそれは、紛う事無き本心だろう。付き合いの浅いほむらがそう確信出来るほど、今のマミからは感情が溢れていた。

 同時にほむらは考える。自分とその『友達』は決して似ていないと。暁美ほむらは強くない。輝きなんて持っていない。取り得が無くて、劣等感が強くて、何もかも駄目なのが暁美ほむらだ。そう思い、ほむらは陰鬱な気持ちで俯いた。

「だからこそ、私はあの子を守りたかった」

 語調を強めたマミの言葉に、ほむらはゆっくりと顔を上げる。

「たしかにあの子は強かった。だけど、決して完璧ではなかったわ。どこか脆くて、儚いところもあって、気付けば消えてしまいそうな怖さもあった。だから私が守ってあげようと思ったの。あの子の輝きは私が守ると、そう誓ったの」

 穏やかさの中に荒々しさを滲ませ、絞り出すようにマミが話す。下を向いた彼女の顔はよく見えない。だけど握った拳が震えている事だけは、隣のほむらにもよく分かった。

 辺りが重苦しい空気に包まれる。自然と足取りも遅くなり、ほむらは困った様子で周囲を見回した。もちろん、それで何かが変わる訳ではない。ただ少しでもこの雰囲気を改善したくて、ほむらは必死に言葉を探していた。けど、見付からない。思い浮かばない。この状況で言うべき言葉が分からなくて、ほむらはそんな自分が情けなかった。

「…………貴女を気に掛けるのは、それが理由かもしれないわね」

 寂しげなマミの声音に、ほむらの意識が引き戻される。次いで彼女が隣を見れば、マミの赤く腫れた目が視界に入った。優しげに細められた目は真っ直ぐにほむらを見詰めていて、同時にここではないどこかを映している。

「なんだか儚くて、消えてしまいそうで、そんな雰囲気が似ているの。守ってあげなくちゃっていう気持ちになるの」

 優しい響きを持つ声だった。労りが籠められた声だった。それが自分に向けられていると思うと、ほむらはこそばゆい気持ちになる。だが同時に彼女は、マミの言葉を素直に受け取る事が出来なかった。

「でも私は、その人みたいに強くありません」
「そうね、そうだと思うわ。あの子と貴女はまったく違う」

 マミに遠慮なく言い切られ、ほむらはギュッと唇を噛んだ。

「だけど足掻きたいんでしょう? 今の自分に納得していなくて、どうすればいいかもわからないけど、どうにかしたいと悩んでる。あの子もそんなところがあったわ。だからね、たしかに表に出ている部分は違うと思うけど、そういう根っこの部分は似ていると思うの」

 幼子に言い聞かせるように話すマミの言葉を、ほむらは否定しなかった。未だに納得した訳ではないけれど、マミが心の底から信じている事は理解出来る。そしてわざわざこんな話をする理由も、ほむらは正確に推測出来る。

「……今、その『友達』はどうしているんですか?」

 刹那、辺りの空気が凍った気がした。抑えきれない怒気がマミから漏れ出て、ほむらの背筋を冷たく撫でる。知らず肩を震わせ、ほむらは隣のマミを窺った。今のマミに表情は無い。感情が凍り付いたように、大切な何かが抜け落ちていた。

「死んだわ。魔女に殺されたの」

 端的にマミが告げる。その淡白さが、逆に怖いとほむらは思う。同時に、やはりそうか、とも。

 マミが魔女を憎んでいる事は、初めて会った日から感付いていた。初対面のほむらが分かったのだから、当然まどかも察しているだろう。ただほむらもまどかも、これまでそこに触れようとはしなかった。理由は単純。こういう話が出てくる事を、感覚的に理解していたからだ。

「けど本当に悪いのは――――――いえ、今更ね」

 マミが呟き、首を振り、嘆息する。それだけで張り詰めていた空気が霧散した。

「ごめんなさい。嫌な話を聞かせちゃったわね」
「いえ、私の方から聞いたことですから」

 曖昧な表情で答えるほむらに、マミは困った様子で眉根を寄せる。そうして微妙な空気が流れる中で、ほむらはこれからどうするべきかを考えた。つまり、ほむら自身とマミの関係を、一体どんなものにするのかという問題だ。

 たしかにマミは、ほむらの事を気に掛けている。けどそれは、ほむら自身を見ている訳ではなくて、彼女を通して『友達』を見ているだけなのだ。とても悲しい事だとほむらは思うし、遣る瀬無い事だとも感じている。でも、今のマミにはそういう存在が必要なのだろう。彼女は意識していないのかもしれないが、亡くなった『友達』の代わりを求めている事は明白だった。

 つまり、ほむらはマミに必要とされている。代わりでもなんでも、今のマミを慰められるのは彼女だけだ。そう思うとほむらは、堪らない気持ちになった。惨めったらしい考え方ではあるけれど、なんの取り得も無い暁美ほむらという人間が、誰かの助けとなれるチャンスを与えられたのだ。それはとても甘美で、抗い難い誘惑だった。

 まどかのようになりたいと、ほむらは考えた事がある。人々の助けになる事を純粋に喜び、恐ろしい魔女との戦いに臨める彼女に憧れた。だが同時にほむらは、自分はまどかのようになれない事も理解している。自分はそこまで上等な人間ではないと信じている。だからこそほむらは、この状況をいい機会だと感じていた。

 多くを救える人間にはなれなくても、見知った一人を救える程度にはなりたい。それが今のほむらの願いだった。

「あの……巴さん」
「なにかしら?」

 口を開いて、閉じて、喉を鳴らす。そうしてほむらは覚悟を決めた。
 たとえ不純な動機でも、これから自分は進むのだ。少しでも変わるのだと、ほむらは誓う。

「名前で呼んでもいいですか?」

 何より、この強いようで弱い人が心から笑っている姿を見てみたいと、ほむらは思ってしまったのだ。




 -To be continued-



[28168] #020 『私は、必ず、ほむらになる』
Name: ひず◆9f000e5d ID:b283d0a0
Date: 2012/12/31 19:14
 仲良くなりたい。ただそう思うだけで誰かとの仲が深まるなら、世の中はもっと平和になっているだろう。自分の意志を他人に伝える事は大変で、それを受け入れてもらう事は更に困難だ。複雑怪奇な人間関係に安易な正解など無く、その時々で最適な言動を模索するしかない。知識としても経験としても、そうした人間心理のややこしさを理解しているほむらではあるけれど、中には例外がある事もちゃんと分かっている。というよりも、今まさに実感している最中だ。

 巴マミ。ほむらにとっては命の恩人であり、魔法少女や魔女といった非日常の世界を教えてくれた人。その彼女とほむらが出会ってから、今日で二週間が過ぎた事になる。単なる知り合いで済ませるには少し長く、かと言って深い仲になるには短い時間だろう。少なくともほむらはそう考えているし、事実、彼女とクラスメイトの間には見えない壁が存在している。

 だが、マミは違う。初めて会った時から親身に接してくれたマミは、ほむらが名前で呼ぶようになると、更にその距離を縮めてきた。今や単なる先輩と後輩の関係ではなく、それこそ妹か何かみたいにほむらは大事にされている。そんな二人を傍から見れば、とても二週間程度の付き合いしかないとは信じられないだろう。

 もちろん、ほむらとしても嫌な訳ではない。気に掛けて貰えるのは嬉しいし、マミに対する純粋な好意もある。けど言葉を交わせば交わすほど、仲が深まれば深まるほど、ほむらは思い知らされるのだ。マミの中に存在する『友達』の大きさを。とても大切な『友達』だったからこそ、その喪失を埋めるようにほむらを大事にする。つまりはそういう事だと、ほむらは理解している。

 羨ましい、というのがほむらの正直な気持ちだ。それほどまでに誰かに必要とされるその『友達』が、ほむらは羨ましくて仕方なかった。ただ同時に、その何分の一とはいえマミに必要とされている現状に、ある種の充足を感じている事も事実である。それを考えると、やっぱりこの状況は悪くないのでは、とほむらは思うのだ。

「ほむらちゃん、一緒に帰ろうよ」

 この二週間ですっかり聞き慣れた声に反応し、ほむらは思考を中断した。顔を上げれば、柔らかな表情のまどかが目に入る。瞬間、ほむらは深く考える事も無く口を開いた。

「うん。帰ろうか、鹿目さん」

 言って、ほむらは鞄を持って立ち上がる。そのまま自然な動作でまどかの隣に並び、二人で教室前方の扉を目指す。二日に一度はまどかと一緒に帰るため、ほむらとしても慣れたものだ。

「さやかちゃん、仁美ちゃん、またね!」

 まだ教室に残っている友達に、まどかはそう言って手を振った。続いてほむらが会釈をすれば、相手の二人も手を振り返してくる。美樹さやかと志筑仁美。まどかの友達であるこの二人とは、ほむらもそれなりに交流がある。ただ未だにほむらが馴染めていないからか、一緒に帰ったり放課後に遊んだりする事はほとんどない。

「それじゃ、行こっか」

 笑顔のまどかに頷きを返し、ほむらは彼女と並んで歩き出す。放課後になったばかりのこの時間、廊下を行き交う生徒は多い。その合間を縫うように進みながら、二人は和やかに会話を楽しんでいた。

「明日はお休みだけど、ほむらちゃんはお出掛けの予定とかあるの?」
「その…………マミさんが、一緒に遊びに行かないかって」
「そっか。ほむらちゃんはマミさんと仲良しだもんね」

 なんの邪気も無いその言葉に、ほむらは曖昧な笑みを浮かべて答えた。

 たしかにほむらとマミは仲良しだ。少なくとも、まどか抜きで会う予定を立てるくらいには。ただそれは、純粋に二人の相性がよかった訳ではなく、マミが友達を亡くしたという特殊な状況にあったからだ。健全な関係とは言い難いし、若干の後ろめたさのようなものを感じているほむらとしては、素直に肯定する事は出来なかった。

「ありがとう」

 いきなり告げられたまどかの感謝。びっくりして、ほむらは目をパチクリさせる。

「ほむらちゃんと会う前のマミさんはね、もっと暗い感じの人だったんだ」

 静かに続け、まどかは目を細めてほむらを見詰めた。
 澄んだ瞳に射抜かれて、思わずほむらの心臓が跳ね上がる。

「暗くて、怖い雰囲気の人だった。たしかに優しかったし、笑うこともあったけど、なんだかいつも辛そうにしてたんだ。でも、最近はそうじゃない。ほむらちゃんと出会ってから、マミさんは前より明るくなった」

 刹那の静寂。ほむらの正面に回ったまどかが、口元に緩やかな弧を描く。

「だから、ありがとう」

 繰り返されたその言葉が、ほむらの胸に沁み渡る。反射的に熱を帯びた頬を隠すように、ほむらは俯いた。

 ほむらの存在がマミの助けになっているというのは、たしかにその通りだろう。ほむらもその自覚はあるし、それを意識して行動する時もある。だからまどかにその事を指摘されたのは、ある意味では当然なのかもしれない。ただそうは思っても、こうして誰かが自分の事を認めてくれているという事実は、ほむらの心を震わせるには十分だった。

「その、えっと……」
「あははっ。ほむらちゃん、真っ赤だよ」

 ますます顔を赤くして、ほむらは身を縮こまらせる。恥ずかしさから口ごもり、黙々と廊下を進んでいく。そうして会話が途切れ、二人の間に沈黙が訪れる。しかしそこにあるのは気まずい空気ではなく、むしろ穏やかで温かなものだった。

「ほむらちゃん」

 呼び掛けられ、ほむらは隣のまどかを見遣る。

「いま、楽しい?」
「えっ……」

 目を瞠り、目を瞑り、それからほむらは頷いた。彼女にだって不満はあるし、これから先への不安も尽きない。転校前に想像していた見滝原での生活と現状では、似ても似つかないのも確かだろう。けど、それでもほむらは充実していた。紛い物としてでも必要とされていて、曲がりなりにも居場所がある。それはたしかに幸福なのだと、ほむらは理解していた。

「うん、楽しいよっ」

 だから、笑える。今日もほむらは、笑顔でこの場所に居られるのだ。


 ◆


 形あるものはいずれ壊れる。どれだけ時間を掛けて築き上げても、どれほど強固で巨大であろうと、いつかは崩れ去る運命にある。それが世の常なのだと、真理の一つなのだと、多くの書物に記されてきた。永遠など存在しない。絶対なんてありえない。盛者必衰の理に導かれ、全てはやがて滅びへと向かうのだ。

「なんで……」

 ほむらもまた理解している。時には人の手に掛かり、時には自然の脅威に晒されて、輝かしい人の営みは散らされるのだ。それこそが人の歴史なのだと、彼女は様々な本から学んで知っている。知っている、つもりだった。

「どうして…………」

 だが、でも、やはり、薄っぺらな紙に染み込んだインクよりも、目の前にある現実は遥かに重い。その白く細い喉を引き攣らせ、ほむらは大きな瞳に絶望を映し出す。信じられない現実を、必死の思いで凝視する。

「どうして、こんな…………っ」

 街が消えた。ただそうとしか言い表せない光景が、ほむらの眼前に広がっている。悲惨で、悲壮で、壮絶な世界だった。ここに建物は存在しない。一つも無い。背の高いビル群も、背の低い店舗群も、みんな瓦礫へ成り果てた。昨日まで日常の風景としてそこにあった街並みが、まるで雑草みたいに刈り取られたのだ。大きな破片と小さな破片。廃墟となった街の中には、その二つしか残っていない。

 自分が立っている場所すら、今のほむらには分からなかった。空からは叩き付けるように雨が降り、地面には薄く水が張っている。冷たい雨粒が、容赦無く体温を奪っていく。ほむらの指先は震え、唇は青褪め、頬は色を失くしていた。このまま時間が経てば、命の火すら消えてしまいそうなこの状況。それでも彼女の心が絶望に染まらないのは、自分以外の誰かが居るからだ。

 呆然と立ち尽くすほむらの視線の先には、激しく動くマミの姿がある。水に濡れた髪を揺らし、暗雲の下でなお輝く銃を振り回し、マミは複数の影を相手取っていた。そう、影だ。人の形をしていて、少女のようにも見えるけれど、全てが真っ黒な影以外の何物でもない。さながら影絵から抜け出してきたかの如きそれらは、各々の手に武器を携え、マミと熾烈な戦いを繰り広げている。

 魔女の使い魔。それがあの影の正体だと、マミは言っていた。その意味は、ほむらも理解できる。使い魔を従える魔女が居るという事も、彼女は知っている。否、知っているも何も、目の前の現実が何よりも雄弁に物語っていた。

 天を仰げばそこに居る。最悪の魔女が、災厄の元凶が、悠然と地上を見下ろしている。白いレースで縁取られた青のドレスを身に纏い、足ではなく歯車を覗かせる人型の魔女。その頭は上から半分が存在せず、代わりに帽子が二つ、獣耳のように生えている。ワルプルギスの夜。それがこの魔女の名前であり、見滝原を破壊し尽くした張本人だ。

 ただ、ただ、巨大。ワルプルギスの夜を目にすれば、誰もがその印象を抱くだろう。山の如き巨体が宙に浮かぶその光景は、化け物染みた容姿を持つ他の魔女達と比べても、遥かに威容で異常と言える。

 生物としての根源的な恐怖が呼び起こされ、ほむらはワルプルギスの夜から目を逸らす。そのまま縋るようにマミの姿を探せば、すぐさま彼女は見付かった。未だに戦闘は続いているようだが、マミの周りに居る使い魔の数は減っている。この調子でいけば、遠からず使い魔を殲滅する事は出来るだろう。だがそれを理解しても、ほむらの心は晴れなかった。何故ならマミが戦っている使い魔など、ワルプルギスの夜にとっては価値の無い有象無象に過ぎないのだから。

 最初にワルプルギスの夜が現れた時、使い魔は数え切れないほど存在していた。例えるならパレードのようだったと、ほむらは思う。象に似た使い魔に、小さな人形のような使い魔。そうした愛らしい見た目の使い魔達による行進と共に、この悲劇は開演したのだ。

 だが、今、ほむらの前にそれらの使い魔は居ない。たしかにマミは戦闘を続けているが、その相手は片手で数えられるほどであり、元の数とは比べ物にもなりはしない。

 ならば、どうして多くの使い魔が消えてしまったのか。その原因を、ほむらはちゃんと知っている。決して魔法少女の手によって倒された訳ではないと、彼女は己が眼に焼き付けている。

 ワルプルギスの夜。あの化け物が、街と共に使い魔を消し飛ばしたのだ。

「…………っ」

 次元が違う。格が違う。ほむらの目に映るワルプルギスの夜は、まさしく天災の如き存在だった。だからどれだけマミが強くても、使い魔を倒せると言っても、ほむらには勝ち目が見えない。人間の力では、災害には勝てないのだと感じずにはいられない。

 それでもほむらは、この現実に背を向けようとはしなかった。どんなに怖くても、不安でも、この場から逃げる事は許されない。

 だって、マミは今も戦っている。その頬を青く染め、悲壮感すら滲ませているというのに、彼女の闘志はまだ消えていない。後ろにほむらが居るから、守るべき対象が居るから、彼女は諦めずに居られるのだ。もしもほむらが逃げ出せば、きっとマミは負けてしまう。心の支えが折れてしまう。それを理解できる程度には、ほむらとマミの仲は深い。

 だから逃げない。足手纏いでしかないけれど、ちゃんと役割はあるのだと、ほむらは自分を叱咤する。

 やがて銃声が途絶え、マミが手にした銃を下ろす。辺りから使い魔の影は消え、荒涼とした景色の中に、マミとほむらだけが立っている。固唾を呑んで見守っていたほむらは、そこでようやく力を抜いた。歩いてくるマミに向けて、彼女は安堵の笑みを向ける。

「お疲れ様ですっ」

 ねぎらいの言葉をほむらが掛けると、マミは表情を柔らかくして応えてくれた。

「怪我は無い? これで暫くは大丈夫なはずよ」

 言って、マミは暗い空を睨む。その視線の先では、ワルプルギスの夜が変わらぬ姿で浮遊している。不動如山。地上に居るマミ達を微塵も気にした風もなく、ワルプルギスの夜は泰然と構えていた。自身の使い魔が殲滅されたところで、アレには関係無いのだろう。ベテランの魔法少女であるマミですら、脅威と認識されていないのかもしれない。

「まだ、戦うんですか?」

 思わずほむらがそう問えば、マミは静かに頷いた。

「さっきの、使い魔の子たち…………」

 泣きそうな声で呟いたマミが、その唇をキツく噛む。それから自分の手を見詰め、彼女はやり切れない様子で首を振った。諦めと後悔と、ある種の憤怒。抑え切れない感情の発露が、傍のほむらにも見て取れた。

 何かある。それは理解できたほむらだが、理由を尋ねる勇気は無かった。言い知れぬ不安が込み上げてきて、胸が締め付けられるようで、彼女は重ねた手を握り締める。胸の裡に、言葉に出来ないモヤモヤが溜まっていく。

 ほむらを安心させる為なのか、マミが口元に微笑を刻む。どこか無理のある、見ていて辛くなりそうな表情だった。

「鹿目さんが戻ってきたら、あなたは一緒に避難しなさい」
「だったら、マミさんも――――」

 縋るほむらへの返事は無く、マミは濡れた瞳をそっと伏せた。

「ねえ、一つだけお願いがあるの」

 顔に苦悶を浮かばせて、マミは弱々しくそう告げる。
 咄嗟に反応する事が出来ず、ほむらは息を凝らしてマミを見た。

「ここは酷い場所だわ。地獄みたいで、悪夢のようで、受け入れたくない事ばかり。あなたにとっても、辛いだけの現実だと思う。できればやり直したいって、こんなはずじゃなかったって、奇跡を願いたくなるかもしれない」

 マミの白い頬を涙が伝う。震える喉が濡れ光る。
 ほむらを見詰めるその眼差しには、切なる想いが籠められていた。

「でも、お願い。どうかあなただけは――――――」

 その言葉が、最後まで紡がれる事は無かった。

 瞠目したマミが話を止め、直後にほむらの手を掴む。ほむらを襲う浮遊感。目を白黒させた彼女は、衝撃と共に小さく呻いた。一体なにが起きたのか。マミは何をしたかったのか。痛む背中と鈍る思考。欠片も状況が分からぬまま、ほむらは必死に辺りを見回した。

 間を置かず、ほむらの視界にマミが映る。自身を見下ろす彼女と目が合い、ほむらは地面に倒れる我が身に気付いた。同時に彼女は言葉を失う。文句も、心配も、ほむらの頭から抜け落ちてしまった。

 マミの双眸に宿るのは、見た事も無い満足感だ。何かをやり切ったような、何かを取り戻したような、そんな顔。穏やかなそれは、だけど無性に不安を掻き立てられて、ほむらは反射的に腕を伸ばした。

 だが、その手を握り返す温もりは無い。

 ほむらの目が、マミの向こうに影を捉えた。人型のそれは、闇色のそれは、あの魔女の使い魔だ。生き残りなのか、はたまた新たに生み出されたのか、そんな事を考える余裕も無く、ほむらはただ危険だと直感した。

 しかし全てが遅過ぎる。もはや間に合わない距離まで、敵の使い魔は近付いていた。帽子を被った使い魔が、手にした大斧を振りかぶる。ギロチンの如き巨大な刃は、間違い無くマミの命を狙っていた。

 危ない、と叫ぼうとして。嫌だ、と喚こうとして。けれどほむらの喉は震えない。過ぎ去る時間は緩慢で、それすらも肉体は追い付けず、世界はほむらを置いていく。認識は明瞭だ。目の前で起こっている現実を、ほむらはハッキリと知覚している。なのに体が重かった。痺れたように舌は動かず、指先さえも硬直している。

 振り下ろされた刃が、マミの首へと押し迫る。ほむらは見ていた。分かっていた。これは駄目だと、取り返しがつかないと、本能が警鐘を鳴らしていた。しかしどれほど拒絶したくとも、運命からは逃れられない。

 ――――――――白い首筋に、黒い軌跡が刻まれた。

 ほむらは目を逸らせない。その光景が、その結末が、彼女の脳裏に焼き付けられる。
 別離の瞬間。胸を引き裂かれそうなほど悲劇的なそれは、思いのほか呆気無く訪れた。

 横たわるほむらの頬に、上からナニかが降り掛かる。
 雨ではない。色が赤いから。雨ではない。とても温かいから。

 伸ばしていた手を引き戻し、ほむらは自らの顔を覆った。指を滑らせれば、ぬるりとした感触。改めて確認した手の平には、鮮烈な紅色が染み付いていた。ああ、これが”命”なのかと、ほむらは遅れて理解する。

 指の隙間から覗くのは、立ち尽くしたマミの姿。そこにはあるべきものが存在しなかった。マミをマミたらしめる、最も重要なパーツが、致命的なまでに欠けている。もう二度と、マミは喋らない。笑わない。泣く事すら無い。その事実が、ほむらの思考を侵食していく。自然と涙が溢れ、ほむらの頬を伝い落ちる。

 マミの体が徐々に傾き、やがて音を立てて地に伏した。次いでほむらのぼやけた視界に、黒い影が映り込む。あの使い魔だと、彼女はすぐに把握した。ただ、何をすればいいのか分からない。逃げようとか、助けを呼ぼうとか、その程度の対応すら思い付かず、ほむらはボンヤリと使い魔を眺めていた。

 大きな黒が降ってくる。ほむらの頭に落ちてくる。それでも彼女は、抵抗しようとすら考えなかった。

「ほむらちゃんッ!!」

 聞こえてきたのは少女の声。同時にほむらの眼前を、桃色の閃光が横切った。

 驚きほむらが目を瞠る。何度か瞬きを繰り返し、それから彼女は、使い魔が消えている事に気が付いた。直前まで使い魔が居た位置には何も無く、降り止まぬ雨と、暗雲ばかりが目に映る。そのまま呆然と空を見詰めていたほむらの耳を、水の跳ねる音が打つ。一体なんだろうかと不思議に思った彼女の視界に、間も無く新たな影が映り込んだ。

「だいじょうぶ? ほむらちゃん」

 そう言ってほむらの顔を覗き込んできたのは、息を切らしたまどかだった。すぐ傍で膝をついた彼女が、怖々と右手を伸ばしてくる。雨の中で冷え切った指が、ほむらの頬を優しく撫でた。その感触に反応し、ほむらは潤んだ瞳をまどかに向ける。

「鹿目さん……っ」

 ほむらは震える声を絞り出し、まどかの手に自らのそれを重ねた。
 後から後から涙が零れる目を瞑り、ほむらは眉根を寄せて頭を振る。

「マミさんが、私の所為で――――ッ」

 言葉を詰まらせたほむらが、代わりとばかりに嗚咽を漏らす。そんな彼女を抱き起こし、まどかは己の胸に導いた。泣き止まないほむらの背中を摩り、彼女もまた、その瞳から雫を流す。強く抱き合い、肩を揺らし、二人は薄闇の中で泣き伏した。

 雨は止まない。風も止まない。嵐の気配は、なおもこの街を覆っている。

 最初に顔を上げたのは、目を腫らしたまどかだった。一度だけ涙を拭った彼女は、静かにほむらの肩を掴む。互いの体を離し、目と目を合わせる。濡れた目に不安を宿したほむらに向けて、まどかは柔らかな微笑を浮かべてみせた。

「ほむらちゃん。わたし、もう行くね」

 一瞬、ほむらはその意味が分からなかった。
 だがすぐに理解して、ほむらはまどかに縋り付く。

「駄目だよっ。逃げようよ! 鹿目さんまで死んじゃうよッ!!」

 悲鳴にも似たほむらの嘆願。それを聞いたまどかは、黙って首を横に振る。桃色の瞳に宿るのは、明確なまでの決意の炎。燃え盛る闘志は歴然で、圧されたほむらが息を呑む。もはや止まれないのだと、彼女は理解させられた。

「さっきまで、頑張って生き残りの人を探してたんだ」

 ハッとしてまどかを見るほむら。まどかが別行動していた理由を、彼女はようやく思い出す。

「一人も居なかった。お母さん達も、さやかちゃん達も、みんな見付からなかった」

 まどかが立ち上がる。その手に引かれて、ほむらも同様に。
 正面からまどかと向かい合っても、ほむらは何も言えなかった。

「だから行かなきゃ。これ以上、あの魔女の犠牲を増やすわけにはいかないから」
「怖く、ないの? 一人で、あんな化け物が相手で、それなのに――――ッ」

 駄々っ子のように頭を揺らし、ほむらは必死に言い募る。理屈は分かるし、尊敬するけど、まどかには戦って欲しくなかった。もう身近な人が死ぬのは嫌だと、心の底から叫びたかった。なのにまどかの意志は、微塵も揺らぐ気配が無い。

 慈愛に満ちた表情で、まどかはゆっくりと口を開いた。

「わたしね、駄目な子だったんだ。勉強も運動も全然で、なんの取り得も無い、平凡な女の子だった」

 懐かしむように、噛み締めるように、まどかは目を瞑る。静謐な空気を纏うその姿は、ある種の侵し難さを感じさせた。そんなまどかから目を離せず、ほむらはただ、祈るように手を合わせる。

「魔法少女になって、わたしにも取り得が出来たと思った。初めて魔女を倒した時、誰かの役に立てたと思った。これまで生きてきた中で、一番自分を好きになれた瞬間だったんだ。これがわたしなんだって、その時だけは胸を張れたの」

 凪いだ水面のような表情で、とても充足した面持ちで、滔々とまどかが言葉を紡ぐ。それを聞いていたほむらは、やはり止められないのだと実感させられた。まどかの気持ちを理解できるから、共感してしまうから、彼女は何も言えなくなった。

「誰にも感謝されないかもしれないけど、それでもわたしは戦うよ。だって、それが今のわたしだから」

 粛然と、まどかはほむらに背を向ける。すぐ傍にあるその後ろ姿が、ほむらには限りなく遠く感じられた。一歩に満たない距離なのに、そこには見えない溝がある。届かないのだと、ほむらは無意識の内に諦めていた。

「いい名前だよね、ほむらって」

 振り返る事無く呟かれたそれは、いつかほむらが聞いたもの。
 咄嗟に理解が及ばなくて、ほむらはパチクリと目を瞬かせた。

「燃え上がれーって感じでさ。凄くかっこいい響きだと思うよ」

 この場にそぐわぬ明るい声音が、ほむらの耳には切なく聞こえた。すぐにでもまどかの顔が見たくなって、そうすべきではないと理解して、ほむらは拳を握り締める。決して聞き逃すまいと、まどかの話に集中する。

「ほむらちゃんは、違うって言うかもしれない。その気持ちはわかるよ、わたしもそうだったから。けどね、わたしは思うんだ。今は小さな火に過ぎなくても、いつか大きな炎になれるんだって」

 顔だけを振り向かせたまどかと、ほむらの視線が絡み合う。
 刹那、ほむらは時が止まったかのような錯覚に陥った。

「だってほむらちゃんは、わたしの大好きな友達だもん」

 まどかの微笑は、あまりに真摯なものだった。純粋過ぎて、無垢過ぎて、見惚れたほむらは言葉を失う。

 前を向き、ゆっくりとまどかが歩き出す。反射的に伸ばした右手を、ほむらはすぐに垂らしてしまった。お別れなのだと、そう悟る。それでも俯く事だけはしたくなくて、彼女は最後まで顔を上げていた。まどかの背中を、見守っていた。


 ◆


 嗚咽が聞こえる。雨の下を、瓦礫の上を、少女の嘆きが響き渡る。発生源はほむらだった。水の張った地面に座り込み、彼女は俯いたまま体を揺らす。アメジストの双眸に映るのは、倒れ伏したまどかの姿。白い目蓋は閉じていて、青い唇は開かなくて、どちらも二度と動かない。生命の脈動も、温もりも、ほむらが感じる事はもう無いのだ。

 戦って、戦って、戦って。それでもまどかは、ワルプルギスの夜に敵わなかった。結局、それが現実だった。どんなに勇壮でも、どれほど実力があっても、人間が勝てる相手ではなかったのだろう。それでもほむらは、まどかを愚かだとは思わない。本物のヒーローだったと、ほむらは心の底から信じている。

 だけどやっぱり、ほむらの悲哀は止まらない。マミが殺されて、まどかも死んで、彼女はひとりぼっちになってしまった。こんな結末は、決して許容できるものではない。あってはならないのだと、ほむらは否定したかった。

「やだ、あんまりだよっ。こんなのってないよ…………ッ」

 冷たい体に縋り付き、雨音の中ですすり泣く。抑えの効かない幼子みたいに、ほむらはずっとそうしていた。たとえその声が枯れようと、彼女はそうし続けるだろう。それほどまでに、現実はほむらに残酷だった。もう慰めてくれる人は居ない。助けてくれる人も居ない。その事実が、ほむらをどうしようもなく打ちのめす。

『やり直したいかい?』

 不意に響いた、中性的な誰かの声。それに反応したほむらが、久方振りに顔を上げる。

『この破滅的な運命を変えたいと、本気で願うかい? もしも君が魂を賭けて願うのなら、僕が叶えてあげられるよ』

 ほむらが見付けたのは、瓦礫の上に佇む白い影。短い四つの足に、狐みたいな太い尻尾。一方で体は小さくて、真ん丸な頭を支えている。三角の耳からは、平筆のような毛が伸びていた。顔には、二つの赤い瞳が付いていた。どこかマスコット染みていて、生気に欠ける不思議な生き物。その存在を、ほむらはたしかに知っていた。

「キュゥべえ……?」

 無意識に名前を呟き、ほむらは呆然とキュゥべえを仰ぎ見る。

『そうだよ、暁美ほむら。久し振り、と言うべきかな』

 たしかに久し振りだった。マミ達を介してキュゥべえと会った事があるほむらだが、その回数は数えるほどしかなく、最後にその姿を見たのはずっと前だ。ただ、そんな挨拶はどうでもいい。それよりもほむらの興味を惹いたのは、キュゥべえが直前に喋った内容だ。

「ねえ、キュゥべえ。さっきの言葉は本当なの? 本当に、変えられるの?」

 ほむらは知っている、魔法少女の契約を。ほむらは知っている、魔法少女の宿命を。
 ただ、それでも、ほむらは胸を期待で膨らませていた。この現実を否定したいと、本心から願っていた。

『もちろんさ。戦いの定めを受け入れて、それでも叶えたい望みがあるのなら、僕が力になってあげられるよ。君にはたしかな素質がある。全てを覆す為の力が、その魂には宿っているんだ』

 滔々と紡がれるその声は無機質で、けれど抗い難い魅力を持っている。語り掛けてくるキュゥべえを、ほむらは食い入るように見詰めていた。吸い込まれそうな深紅の瞳が、ほむらの顔を映し出す。見上げる彼女の表情には、鬼気迫る何かがあった。

『だから僕と契約して、魔法少女になってよ!』

 朗らかな宣言。無垢な響きを持つそれが、徐々にほむらの心を侵していく。
 ほむらには願いがあった。奇跡を欲する気持ちがあった。それが叶うと、教えてくれた人が居た。

「私は…………私は、やり直したい」

 熱に浮かされたように、ほむらはそう口にしていた。

「二人に守られるだけの私じゃなくて、二人と並んで歩ける私として、あの時の出会いをやり直したい」

 ただそれだけを、ほむらは望む。マミと一緒だった時間は、まどかと過ごした日々は、本当に幸福なものだった。宝石の如き輝きを放つ、至福の思い出だ。それを失うなんて、今のほむらには考えられない。

 だからこそ、ほむらはこの結末を否定したかった。また初めから、今度は間違えないように、二人と共に歩んでいきたい。三人で話して、遊んで、笑い合う。同じ魔法少女として、対等な存在として、新たな関係を築きたい。

 魂を賭けろと言うなら、そうしよう。
 宿命があると言うなら、受け入れよう。
 それだけの覚悟が、ほむらの中には存在している。

「――――――ッ」

 感じたのは力の奔流。体の内側で暴れるそれが、俄かにほむらを苦しめる。反射的に胸元を押さえた彼女は、苦悶を露わに息を吐く。これが力なのだと、望んだ奇跡なのだと、ほむらは本能的に理解した。

 力が溢れる。胸の裡から飛び出していく。その感覚と共に、ほむらの中から光が零れ出た。言い知れない暗さを孕んだ、紫の光球。宝石のアメジストを思わせるそれが、ほむらの眼前に浮かび上がる。

『契約は成立だ。君の祈りは、エントロピーを凌駕した。さあ、解き放ってごらん。その新しい力を!』

 言われるがままに、ほむらは光へと腕を伸ばす。希望を求めて、祈るように、彼女は両手で光を掴む。瞬間、己が人の枠を飛び出す事を、ほむらは魂の部分で理解した。魔法少女になるのだと、受け入れる。そうして彼女は、自らの意識を手放した。


 ◆


 体が重い。思考が鈍い。自身の現状も分からず、どこに居るのかも思い付かず、ほむらは焦点の定まらない意識を彷徨わせた。真っ暗な視界に気付いて、目を閉じている事に気付く。動かぬ指先で、寝ているのだと理解する。そこでようやく、ほむらは早く起きなくちゃと考える事が出来た。閉じた目蓋に力を入れ、ゆっくりと目を開ける。それから何度か、ほむらは瞬きを繰り返した。

 ――――――――汚れの無い純白が、ほむらの視界に映り込む。

 反射的に身を起こし、ほむらは周囲の状況を確認した。最初に理解したのは、自分がベッドに寝ていたこと。次いで広い部屋に居るのだと分かり、最後に見覚えのある病室だと感じた。何がなんだか分からない。更なる情報を求めた彼女は、まずサイドテーブルに置かれた愛用の眼鏡に気が付いた。慣れた動作でそれを掛け、同時にほむらは、傍にあった紙の束に目を向ける。

 見滝原中学校のパンフレット。それはかつて、ほむらが何度も読み返した物だ。首を傾げた彼女は、だがすぐに病室の壁に視線を移した。見付けたのは、やはり見た事のあるカレンダー。日毎に引かれた赤い斜線は、ほむらが自分で引いたもの。花丸の描かれた日付けは今日で、それは退院を意味するものだと、ほむらは思い出す。

「まだ、退院してない?」

 それが、ほむらの出した結論だった。ここは見滝原に引っ越す前に入院していた病院で、部屋の状態を見る限り、今日は退院当日だ。謎はますます深まるばかりで、いっそ悪い夢でも見ていたんじゃないかと、ほむらは不安になった。

 たまらず手を握り、そこでほむらは、自分が何かを持っている事に気付く。手の平を広げれば、そこには金色の台座に填められた、卵型の宝石があった。澄んだ紫色をしたそれは、間違い無くほむらのソウルジェムだ。

「夢じゃなかった…………」

 あの幸せだった日々も、悪夢のような惨劇も、実際にあった出来事なのだ。この時間、この場所に居るのは、ほむらがそれを望んだから。二人との出会いをやり直す為に、奇跡の力で戻ってきたのだろう。

 だが、無邪気に喜ぶ訳にはいかない。このまま何もしなければ、いずれワルプルギスの夜に襲われて、見滝原は廃墟と化す。その対策を、ほむらは考える必要がある。彼女はもう二度と、マミ達を失いたくないのだ。

 ソウルジェムを握った右手を、ほむらは胸に押し当てた。そのまま彼女は、祈るように目を瞑る。

「私は、必ず、ほむらになる」

 まどかは言った。名前みたいに格好良い自分になればいいのだと。今は小さな火に過ぎなくても、いつか大きな炎になれるのだと。だからなろうと、ほむらは誓う。己が名に相応しい実力を身に着けようと、心の中で決意した。

 睫毛を揺らし、ほむらはその瞳を露わにする。そこに宿るのは、燃え盛るような強い意志だった。


 ◆


「う~ん、やっぱり攻撃力が問題よね」

 頬に手を当ててそう言ったのは、制服姿のマミだった。彼女の視線の先では、肩で息をするほむらが座り込んでいる。傍には折れ曲がったゴルフクラブと、あちこち凹んだドラム缶。それらを一瞥したマミは、困ったような笑みを浮かべた。

 時は放課後、場所は人気の無い高架下での事だ。

 やり直しが始まってから時が経ち、今日、ほむらは見滝原中学校に転校してきた。最初に友達になったのは、もちろんまどかだ。浮かれて魔法少女の事まで話して、そのまま流れでマミを紹介された。かつての三人組が、また一緒になれたのだ。それから色々と情報を交換して、その時に出た話題の一つが、今のほむらの実力だった。魔法少女になったばかりで、まだ魔女と戦った事も無いほむらは、正直に言って未熟者もいいとこだ。そこで新人魔法少女の育成に慣れているマミが、ほむらの面倒を見てくれる事になったのである。

「その能力は素晴らしいものだけど、あなた自身の力が強くないと、やはり魔女と戦うのは危険だわ」

 はい、とマミがスポーツドリンクを渡してくれる。それを受け取ったほむらは、礼を言った後に左手首を見た。

 鈍色の円盾。直径数十センチ程度のそれが、ほむらの魔法少女としての武装だった。見た目だけなら、単なる頼りない防具。しかしこの装備の実態は、非常に特殊な砂時計だ。盾の両端には、それぞれ小さな球体が填め込まれている。その間を赤紫色の砂が流れており、砂の流れを止める事で、ほむらは自分以外の時間すらも止められるのだ。

 時間停止。それがほむらの能力だった。今はまだ止められる時間も短いが、徐々にそれも伸びている。そうした将来性も鑑みれば、かなり強力な能力と言えるだろう。ただ、ほむら自身が貧弱だった。いくら対象の動きを止めて一方的に攻撃できるとはいえ、一撃の威力が低いと意味が無い。現状では、ほむらが時を止めて全力攻撃したとしても、ドラム缶すら壊し切れないのだから。

 やっぱり自分は役立たずなのだろうかと、ほむらは陰鬱な気分になった。そうして暗くなるほむらの近くに、見学していたまどかがやってくる。かつてと変わらぬ笑顔を浮かべて、彼女は明るくほむらに話し掛けた。

「大丈夫だよ、ほむらちゃん。わたしも運動は得意じゃなかったけど、なんとか魔女と戦えるようになったんだから」
「そうね。魔法少女になったのだから、普通の人よりも高い身体能力を発揮できるはずよ。その事を意識して訓練を重ねれば、自然と戦えるようになると思うわ。ただ、やっぱり問題は火力なのよね。魔法の武器じゃなくても、火器なら威力は出ると思うのだけど」

 どうしましょう、とマミは可愛らしく首を傾げる。愛嬌のあるその仕草に、ほむらも肩の力が抜けた。

 一方でほむらは、マミの言葉を考察する。高い身体能力と、それなりの戦闘技術。この二つをほむらが手に入れたとして、はたして魔女を倒せるだろうか。ほむらの答えは否だった。やはりマミの言う通り、魔女を倒すには火力不足だろう。マミには魔法の銃があり、まどかには魔法の弓がある。だがほむらの場合は、魔法で強化できると言っても、ただの金属バットなどに過ぎない。しかも彼女はそれを、自力で調達しなければならないのだ。

 火器、とほむらは口の中で呟いた。マミの提案したそれが、最も有効な手段だと結論付ける。魔法の武器を使えないのなら、物理的に強い武器を用意するしかない。それが魔法少女としての自分が目指す道なのだと、ほむらは確信した。

「どうかしたの?」

 暫く黙っていたからか、マミが心配した様子で問い掛けてきた。
 左右に首を振り、ほむらは明るい表情で返事をする。

「なんでもないです。それより、特訓を再開しましょう!」

 マミが目を丸くする。少しだけ間が開いて、それから彼女は、不思議そうにしながらも次の特訓を始めてくれた。結局この日は、ほむらの基礎訓練で終わる事になる。最初は碌に得物を振るう事が出来なかったほむらも、最後の方ではかなり様になっていた。そうして魔法少女の持つ身体能力の凄さや、マミの手慣れた指導を実感して、ほむらはちょっとだけ住み慣れた家に帰宅したのだ。

 次の日も、マミによる指導は続けられた。ただ前日と違っていたのは、ほむらが変わった得物を用意してきた事だ。昨日と同じ高架下で、自作のそれを取り出したほむらは、おっかなびっくり、マミ達の反応を窺った。

「爆弾……?」

 面食らった様子でそう漏らしたのは、指導を始めようとしていたマミだ。
 自身が手に持つ筒状の物体を眺める彼女に、ほむらは首肯と共に応答した。

「はい、爆弾です。その、これなら威力があるかなって」

 火器の使用。それこそが自分の目指す戦い方だと考えたほむらだが、バットなどの鈍器に比べて、火器を一般人が手に入れるのは難しい。そこで彼女はネットを使って情報を仕入れ、自らの手で爆薬を調合したのだ。もちろん初めての挑戦で、何度か失敗もしたけれど、それなりに納得のいく出来だと、ほむら自身も感じている。

 ほむらがそういった話を伝えると、マミは改めてお手製爆弾を観察した。

「たしかに効果的だとは思うけど…………随分と器用なのね」

 最後は小声で呟いて、マミは細めた目でほむらを見詰める。
 なんとなくらしくない、マミの反応。それが少し、ほむらは気になった。

「あの――――」
「すごいね、ほむらちゃん!」

 嬉しげなまどかの声に遮られ、ほむらはマミに尋ねる事が出来なかった。ただ、悪い気はしない。本心から褒めていると分かるまどかを見ていると、ほむらとしても、心が浮き立たずにはいられないからだ。白い頬を赤く染めて、ほむらは僅かに俯いた。

「そんなこと、ないよ。これくらいは普通だから」

 恥ずかしくて、むず痒くて、ほむらはか細い声で否定する。
 褒められた経験の少ない彼女にとって、まどかの賞賛は新鮮だった。

「とにかく、これは実戦で試すしかないわね。流石に結界の外で爆弾は使えないわ」

 言われてほむらは、その事に思い当たる。たしかに街の中で爆発など起きようものなら、あっという間に大騒ぎだろう。それを考えると、爆弾を作るというのは軽率だったかもしれないと、ほむらは申し訳なさそうに肩を落とした。

「いいのよ。上を目指そうとするその姿勢は、とても尊いものだから」

 そうマミに慰められると、ほむらも気が楽になる。ホッと安堵の息を吐き、彼女は表情を柔らかくした。

 結果だけを言えば、ほむらが爆弾を自作したのは成功だった。物は試しと連れて行かれた魔女との戦いでは、ほむらの手でトドメを刺せたのだから。ただやはり、ほむら自身の戦闘技術は未熟としか言えない。戦闘中は二人の足を引っ張るばかりで、魔女を倒せたのも、マミ達がお膳立てしてくれたお蔭だ。まだまだやるべき事は多く、頑張らなければと、ほむらは決意を新たにするのだった。

 日々が過ぎ、時が過ぎる。マミとまどかに助けられながら、ほむらは少しずつ魔法少女として成長していった。才能は無かったのだろう。ほとんど同時期に魔法少女になったというまどかと比べても、彼女は目に見えて実力が劣っている。それでもほむらは満足していた。かつて憧れた相手に近付けていると思うと、嬉しくて堪らなくなるのだ。

 まだワルプルギスの夜の事を考えると不安になるけれど、それでも今のほむらには、一歩ずつ前に進んでいる実感があった。きっと上手くいく。そんな希望を胸に抱いて、ほむらは二度目の日常を満喫していた。

 この日もそうだ。ほむらが転校してきてから何度目かの休日。友達との約束があるというまどかとは別に、ほむらはマミと一緒に出掛ける予定を立てていた。以前とまったく同じように、とはいかないものの、ほむらはマミと良好な関係を築けている。

 マミが待つであろう自然公園の片隅を目指し、ほむらは軽い足取りで歩を刻む。何かこだわりがあるのか、マミが指定する待ち合わせ場所は、いつも同じだった。多くの人が行き交う自然公園の中で、珍しく人気の少ない一角、そこにマミは居るはずだ。

 見慣れ始めた景色を横目に、ほむらは迷わず進んでいく。暫くして彼女は、目的の人物を視界に収めた。

「マミさ――――」

 声を掛けようとして、咄嗟にほむらは口を噤んだ。マミの他にも誰かが居る。見知らぬ少女とマミが、何事かを言い争っていた。いったい少女は何者なのだろうか。不思議に思ったほむらは足を止め、遠目に少女を観察する。

 少女は小豆色の長髪を、ポニーテールにして括っていた。細かな顔立ちについてはなんとも言えないが、少し意地悪そうな鋭い目付きが、ほむらの印象に強く残る。年頃はマミと同じくらいで、おそらくは中学生だろう。そうして少女の人相をざっと見て、やはり会った事の無い相手だと、ほむらは結論付けた。

 マミ達の口論は白熱している。話している内容は分からないものの、感情を剥き出しにした顔が見えて、ほむらはちょっと怖いと感じた。どうしようかと足踏みし、結局、眺めている事しか出来ない。そのまま時間と共に、マミと少女の表情に熱が籠っていく。どこか鬼気迫ったそれを目にしたほむらは、思わず足を踏み出していた。

 こんなに怖い顔をしたマミは見たくない。その一心で、ほむらは二人の間に割り込もうとした。

「そんなの――――ッ」

 マミの声が聞こえる。かつて無いほど感情的な、ほむらの知らない声だ。

「――――――私があの子を、殺したようなものじゃないッ!!」

 凄絶な叫びが響き渡る。ほむらの耳を揺さぶるそれが、悲劇の開演を告げるベルだった。

 風が吹く。吹き飛ばされそうなほどの暴風が、ほむらの全身に叩き付けられる。
 空が消える。光を通さぬ闇が広がり、遥か遠くまで、ほむらの頭上を覆い尽くす。
 地面が変わる。硬質な金属のタイルが敷き詰められ、足元の砂地は隠れてしまった。

 魔女の結界だと、ほむらは即座に把握する。だがそうだとすると、肝心の魔女はどこに居るのだろうか。もし居たとしても、その魔女はどこから現れたのだろうか。その事を考えて、悩んで、だけど本当は心の片隅で、ほむらは真実を受け入れていた。

 ほむらの視線の先で、マミがタイルの上に倒れている。その目は閉じられ、胸は動かず、まるで死んでいるようだとほむらは思った。否、実際に死んでいるのだ。かつてマミとまどかの死を目にしたほむらだからこそ、命の鼓動が止まっている事に気が付いた。しかしそんな事はありえない。あってはならないと、ほむらは叫びたかった。だって、マミは、つい先程まで生きていたのだから。

 唖然とほむらが立ち尽くす。何も言えずに、彼女はただ呆ける事しか出来なかった。

 ほむらの視界に、大きな影が映り込む。見上げるほどに巨大なそれは、人に似た形をしているけれど、明らかに尋常な生物ではなかった。その身は隙間無く鎖に覆われ、内部を窺い知る事は出来ない。ただ、腰から下が存在しない事だけは分かる。まるでタイルから上半身だけを生やしたようにも思えるそれは、足の代わりと言わんばかりに、伸びた鎖を放射状に広げている。

 あまりに異質な存在だった。魔女と呼ぶべき化け物だと、ほむらは正確に理解していた。
 でも何故か彼女の目には、その魔女が別の存在のようにも見えるのだ。

「マミ、さん……?」

 力無いほむらの呟きは、すぐに掠れて消えてしまった。




 -To be continued-



[28168] #021 『あなたに、ほむらは、必要ない』
Name: ひず◆9f000e5d ID:7dfdb671
Date: 2013/09/08 21:43
「マミ、さん……?」

 顔から血の気が引く音を、ほむらはたしかに聞いた気がした。膝を震わせ瞳を揺らし、今にも遠のきそうな意識を、彼女は必死に繋ぎ止める。その視界には、その思考には、異形の化け物しか存在しなかった。

 全身を鎖で覆われた化け物。あるいは、肉体が鎖で構成された化け物。それは魔女と呼ばれる存在だ。倒されるべき人類の敵だ。なのに、ほむらはそれを魔女と呼ぶ事が出来なかった。倒そうと、決意する事も不可能だった。

 巴マミ。ほむらが大好きなその人が、何故か目の前の異形と重なってしまう。ありえないと否定したい。くだらない妄想だと、笑い飛ばしてしまいたい。だが突拍子もないその想像を、彼女はどうしても捨て去る事が出来なかった。奇妙な現実感が、胸の奥で疼くのだ。

 立ち尽くしているだけだった。呆然と眺めているだけだった。そこに居るのは魔法少女ではなく、幼さが消えない一人の少女だ。

 魔女が腕を振り上げる。姫袖のように広がる鎖が、幾重にも擦れて音を成す。ほむらは、その光景を黙って見ていた。やはり彼女は、何も出来なかった。落ちてくる鎖の束を見る。迫りくる黒鉄の波を見る。指先すらも揺らす事無く、ほむらはただそこに居るだけの人形だった。

 ここで自分は死ぬのだと、ほむらは悟る。それでも、彼女の心は動かなかった。

「あぶねえっ!」

 唐突な浮遊感。目の前がグルリと周り、気付けばほむらは、強かに背中を打ち付けていた。反射的なうめき声。明滅した視界の意味も理解できずに、彼女は俄かに顔を歪めた。一体なにが。そんな疑問が浮かぶ間もなく、轟音が耳を打ち付ける。

「――――――――ッ」

 言葉もない。碌に体も動かせず、ほむらはただ悶える事しかできなかった。
 そんなほむらの耳を、聞き慣れない声が打つ。

「ったく。死ぬつもりかっつの」

 苛立たしげなその声に急かされるように、ほむらの視界が焦点を結ぶ。そうして彼女が捉えたのは、いずこかを睨む少女の姿だった。小豆の髪を結んだ彼女は、先程とは違う服装を纏っている。ほむらはすぐに魔法少女だと気付いたが、そこから先を考える余裕は無かった。

 少女の双眸が、床に倒れたほむらを見遣る。鋭い瞳には色んな感情が渦巻いていて、思わずほむらは押し黙った。そうしてジッとしているほむらの腰へ、少女は無造作に腕を伸ばした。

「こいつはアタシの責任だからな。一応、助けてやるよ」
「――――――あっ」

 さながら米俵。少女の肩に担がれて、ほむらは二つの瞳を丸くした。だがそんな彼女に構う事なく、少女は力強く床を蹴る。刹那の重圧と、僅かばかりの浮遊感。そして最後に、軽い衝撃。吐息を零したほむらを無視して、少女はそのまま跳ねるように進んでいった。

 魔女の結界は複雑怪奇だ。隣の部屋は隣にはなく、空の上には天井があり、床の下には天蓋がある。そんな意地の悪い謎かけみたいな表現も、魔女の結界内では現実だ。故に、そこでは常に冷静であらねばならないのだと、ほむらはマミから教わったばかりだ。本当に、ついこの間の事で、それから一週間と経たない今日この瞬間、ほむらはその意味を痛感させられた。

「こいつは……」

 少女が足を止める。気付けば何も無かったはずの周囲には、白黒の市松模様の壁が存在していた。ほむらと少女の二人を中心に据える形で、その壁は半球状の屋根を形成している。扉を潜った覚えは無く、ただ初めからそうであったかのように、彼女達はこの場に存在していた。

 囚われた、というよりも迷い込んだと表現する方が正確だろうか。一体なにが原因でこの場所に辿り着いたのかは不明だが、魔女が追ってくる気配は感じられない。そうして一先ずの安息を得たためか、少女は担いでいたほむらを降ろした。

 足をふら付かせ、それでも倒れる事無く、ほむらは白黒のタイルの上に立つ。ただその意識は少女の方に向いておらず、部屋の内装だけを一心不乱に見詰めていた。何かに憑りつかれたかのように、ずっと、ジッと、ほむらの双眸は”ソレ”らを映し続けていた。

 そこには絵があった。その中には女の子が立っていた。髪は長くて、色は黒い。体は細くて、色は白い。そして身に纏うのは、藍色の入院着。ほむらの全身より大きなキャンバスに描かれたその女の子は、どこかほむらに似ていて、だけどまったくの別人だった。

 別の場所には、鉄の鳥籠が吊るされていた。止まり木には小さな人形が腰掛けていて、やはり女の子だった。黒い髪も白い肌も、やっぱり同じ。ほむらのようで、ほむらでない、どこかの誰かだ。

 あるいは額縁に飾られ、あるいはイーゼルに固定され、油彩画が、水彩画が、彼方此方に存在している。
 あるいは檻に入れられ、あるいは首輪に繋がれて、和人形が、洋人形が、其処彼処に置かれている。

 他にも、至る所に本棚が設置されていた。ただ、そこに収められているのは普通の本ではなくて、アルバムの類のように見える。そして、もし本当にアルバムであるならば、その中身がなんなのか、ほむらにも容易く想像がつく。

 この空間は、ただ一人の為だけに造られたのだろう。たった一人の、女の子の為だけに。それが誰なのかを、ほむらは知らない。しかし、何者なのかは分かっている。故に彼女は、呆然と眺める事しか出来なかった。

「――――――絵本アイ。マミの糞ったれな親友だよ」

 硬質な少女の声が、佇むほむらの耳を揺らした。
 ほむらの視線が隣へ向く。するとそこには、険しい顔付きの少女が立っていた。

「一応、名前くらいは名乗ろうか。アタシは佐倉杏子。マミの知り合いさ」
「えっと、暁美ほむらです」

 反射的に名乗り返したほむらだが、その意識は、またすぐにこの空間の内装へと引き寄せられる。どうしても、気になるのだ。この部屋を埋め尽くす女の子の存在が、マミの親友だという彼女が、どうしても。

「この人が……」

 かつてその存在だけを聞き、詳しい事は何も教わらなかったマミの親友。その姿を初めて認知したほむらは、言い様の無い親近感と既視感を覚えていた。だがそれらの正体を探る前に確かめるべき事があるのだと、ほむらは悲しいほどに理解していた。

 ここは魔女の結界の中で、この空間には、マミの親友の絵や人形が飾られている。それらが意味する一つの事実は、ほむらの鼓動を激しく急かし、冷たい汗を流れさせた。

「やっぱり、あの魔女は――――」

 震える声で、揺れる瞳で、ほむらは隣の杏子に問い掛ける。
 最後まで、言い切る事は出来なかった。それでも杏子は、正確にその意図を読み取ってくれた。

「マミだよ。魔法少女の、巴マミだ」

 簡潔な杏子の返答は、だからこそほむらの胸を抉る。何故、という言葉は浮かんでこない。ただそれが事実なのだと、ほむらは魂の奥底で理解していた。どうしようもない悲しみと共に、受け入れていた。

「あれが魔法少女の運命だよ。絶望した魔法少女は、魔女へと堕ちる。キュゥべえと契約した瞬間から、そうなることが決まってるんだ。ふざけた話だけど、それがたった一つの真実ってヤツさ」

 眉根を寄せた杏子が、不愉快そうに吐き捨てる。

 悲惨な現実。衝撃的な真実。それを否定する言葉は、今のほむらには紡ぎ出せない。代わりに彼女の胸中を渦巻くのは、マミとの思い出と、最後に聞こえたマミの声だった。底知れない悲痛さを感じさせるあの声が、ほむらの耳から離れない。

『――――――私があの子を、殺したようなものじゃないッ!!』

 魔法少女は、魔女になる。マミの親友は、魔女に殺された。ならばマミの親友を殺した魔女もまた、どこかの魔法少女で、それはきっと、マミの知る誰かなのだろう。そしてその誰かは、マミの助けで魔法少女になったのだろう。

「~~~~ッ!?」

 反射的に込み上げてきたものを抑え込もうと、ほむらは口を塞いで膝をつく。気持ち悪かった。悲哀ではなく、憤怒ではなく、恐怖でもない。魔法少女を取り巻く現実が、ただひたすらに気持ち悪いと彼女は思った。

「ひとまずアンタはここに居な。マミも使い魔も、たぶん入ってこないから」

 杏子がそんな事を口にする。涙の滲んだ目でほむらが見遣れば、彼女はやりきれない様子で肩を竦めた。

「マミの知り合いで、魔法少女なんだろ? いまいち頼りなさそうだし、一人でお留守番してな」

 苦笑。温かみも何もない、本当に苦み走った笑みを、杏子は浮かべている。
 ほむらは何も答えられなかった。ただ呆然と、杏子の顔を仰ぎ見る事しか出来なかった。

「アタシが片を付けてくる。流石に骨が折れそうだけど、これも自業自得ってヤツかな」

 呟くように、しかしはっきりとそう告げた杏子の顔には、僅かながらの安堵が混じっているように感じられた。

 長い髪を翻し、杏子がほむらに背を向ける。彼女の手には、いつの間にか長い槍が握られていた。次第に遠ざかる杏子の背中を、ほむらは黙って眺めている。何も出来ず、何をすべきかも分からない。だから彼女は、ただ呆然と、置物のように杏子を見送るのだ。

 ――――――――この後、杏子が戻ってくる事は無かった。

 暫くすると魔女の結界は消え、ほむらは自然公園の片隅で座り込んでいた。幸い辺りに人影は無かったが、それ以上にほむらが気になるのは、マミと杏子の姿が見当たらない事だ。マミは、仕方が無いかもしれない。しかし杏子も居ないという事は、つまりそういう事なのだろうか。それから一時間待っても、二時間待っても、ほむらの待ち人が現れる事は無かった。

 夕闇に染まり始めた自然公園の中を、ほむらは独りで歩いていく。本当にマミは魔女になったのだろうか。魔女になって、死んでしまったのだろうか。杏子は、マミを殺したのだろうか。そして、殺されたのだろうか。解消される事の無い疑念の塊が、ほむらの胸の裡に溜まっていく。幼げな相貌に暗い影を落とし、彼女は重い足取りで家路に着いた。

「鹿目さん……」

 縋るようなその声は、誰に届く事も無く消えていく。
 当然、誰の返事もありはしなかった。救いなんて、存在しなかった。

 何かが変わり、しかし何も変わる事無く、日々が忙しなく過ぎていく。まどかに対して、ほむらはマミが死んだ事だけを伝えていた。魔女と魔法少女の関係を話そうとした事もあったが、マミの件が脳裏を過ぎり、結局は打ち明けられないままだ。

 まどかと支え合いながら、魔法少女の務めを果たす。どこか空虚な心を抱いて、ほむらは日常を生きていく。本当は理解していた。それはなんの解決にもならないと、自分を追い詰めるだけだと、ちゃんと分かっていた。だけど暁美ほむらは弱いから、まだ強くなれていないから、最初の一歩を踏み出せないのだ。

 故に転機が訪れる事は無く、再び運命の日が訪れる。

 ワルプルギスの夜。最強の魔女がほむらに齎したものは、かつてと同じ悲劇だった。それはきっと、当然の帰結だったのだろう。ほむらが居たとしても、マミが居ない。そんな状態で、マミとまどかの二人掛かりで敗れた相手に、どうして勝てると言えるのか。

 街は壊され、人は殺され、まどかもまた敗れ去った。奇跡的に生き残ったほむらは、いつかのように、倒れ伏すまどかの傍で泣き伏している。雨が涙を隠し、風音が泣き声を覆おうとも、悲しみが消える事は無い。震える指先で触れたまどかの頬は、死んでいるとは思えないほど綺麗なままで、けれどたしかに、命の鼓動は絶えていた。

「キュゥべえ……」

 掠れた声を絞り出し、ほむらは傍らのキュゥべえに目を落とす。
 真ん丸な赤い瞳が、静かにほむらを見上げていた。

「絶望した魔法少女が魔女になるって、本当?」
『本当だよ。魔法少女は、契約した瞬間からそういう存在になっているんだ』

 静かに首を振り、ほむらは立ち上がる。キュゥべえを糾弾するだけの気力は無い。残酷な現実を否定する気も、起きなかった。それは彼女もまた、絶望の淵に立たされているからに他ならない。何よりも確かな実感として、ほむらは魔女に堕ちるという意味を認識させられた。

 だが、それでもまだ、ほむらには希望がある。彼女が持つ魔法少女としての能力。それは決して時を止める為のものではないと、ほむらはようやく理解する。初めて力を行使した時、過去に戻ったあれこそがほむらの願いの本質なのだ。

 やり直し。それこそがほむらの願いであり、だからこそ、まだ何も終わっていない。

 左腕の丸盾に手を伸ばす。そこに埋め込まれた砂時計こそが、ほむらの力の根源だ。
 砂の流れを止めれば、時が止まる。そして砂が流れ落ちたそれを反転させたなら――――――――。


 ◆


 気付けばほむらは、病院のベッドに横たわっていた。覚えのある病室で、覚えのある日付けだ。戻ってきたという実感が彼女を満たし、温かな気力が溢れてくる。今度こそ二人を救いたい。その決意を胸に秘め、ほむらは再びこの場所から立ち上がるのだった。

 やり直しを経て経験を積んだほむらは、確実に以前の時よりも成長していた。学校の勉強もそつなくこなせるし、魔法少女としての能力も向上している。もちろん魔女退治に対する抵抗感は増したが、それでも何度か経験すれば、割り切る事は出来た。

 順調だった。少なくともほむら個人の能力を見れば、順当に伸びたと言っていいだろう。人間関係も悪くなく、あるいは初めて見滝原に来た時のほむらであれば、理想の生活だと思うのかもしれない。

 しかし現実は残酷だ。いくらほむらが力を付けようと、それだけで大局を動かす事は難しい。結局、このやり直しでも二人を救う事は出来なかった。むしろ途中でマミが魔女となった事を思えば、始まりの時よりも悪化したと言っていい。それでもほむらは諦めなかった。三度で駄目なら四度。四度で駄目なら五度。何度でも繰り返してみせると、彼女は再び時を超えた。

 試すべき事はいくらでもある。魔法少女と魔女の関係を打ち明けるのか否か。打ち明けるとしたら、特定の誰かか全員か。あるいは第三者に協力を求める事は出来るのか。もし求めるとすれば、それは誰なのか。ワルプルギスの夜が来る前に逃げる事は可能なのか。決戦の前に大きく実力が上がる見込みはあるのか。敵に弱点は存在するのか。

 何度でも、いくらでも、ほむらは思い付く限りの可能性に挑戦した。失敗しても、それが糧になると信じて。過ちを犯しても、いつか全て上手くいくと言い聞かせて。彼女は全身全霊を賭して、二人の救済を求め続けた。

 ――――――――結局、ほむらが報われる事は無かったのだけれども。

 諦めるには早いのだろう。まだ数えられる程度の繰り返しでしかなく、工夫する余地だっていくらでもある。経験を重ね、知識も蓄えて、少なくとも停滞には陥っていない。だというのに、ほむらにはまるで希望の光が見えてこない。むしろ日増しに絶望の影が濃くなっているようにすら感じられ、彼女の心を苛んでいた。

 この日もまた、ほむらはマミと共に一体の魔女を退治した。ほむらにとっては、既に見慣れてしまった魔女の一体だ。特に苦戦する事も無く、予定調和の如く終えた一戦だった。ほむらもマミも怪我は無く、結界への侵入から五分と経たずに、二人は元の廃屋へと戻ってきた。

「お疲れ様です、マミさん」
「ええ、暁美さんもお疲れさま」

 一見すれば和やかな挨拶。たおやかな笑みを浮かべるマミの様子は、魔女退治を終えた後としては自然なものだ。けれど付き合いの長いほむらの目には、決して表には出てこない感情の揺らぎが見て取れた。

 着慣れた制服の袖を掴み、ほむらは僅かに目線を下げる。
 一拍置いて、彼女は思い切った様子で顔を挙げた。

「あのっ。今度の日曜日は空いてますか?」

 ちょっとだけ目を丸くして、それからマミは苦笑を刻んだ。その表情の変化を見ただけで、またか、とほむらの心に諦めが生まれる。力無く腕を垂れ下げて、彼女は静かに返事を待った。

「ごめんなさい。その日は用事があるの」
「そう……ですか。わかりました」

 その後に続く話は無く、どこか重い空気を引きずったまま、二人は各々の家路に着いた。夕焼けに染まる街並みを、ほむらは一人で進んでいく。繰り返しの中で刻まれた記憶により、自然と自宅へ向かう足に任せる一方で、彼女の思考は深く沈んでいた。

 はたして何時の頃からだったろうか。ほむらとマミの関係が、今みたいに疎遠になったのは。かつてはこうではなかった。マミはほむらの言葉によく耳を傾けてくれたし、休みの日は一緒に出掛ける事も多かったはずだ。しかし気付けば、プライベートを共にする事は無くなり、雑談と呼べる会話も少なくなっていた。

 今でもほむらは、マミに評価されているし気に入られている。けどそれは、魔女を殺す事に長けた魔法少女としての話で、暁美ほむらという個人に向けられた感情ではない。その事実が、一層ほむらを落ち込ませる。

 暁美ほむらは成長した。かつての彼女とは見違えるほどに。強くなった。賢くなった。冷静さだって身に着けた。だが、それでも二人は救えない。それどころかマミに至っては、いつもワルプルギスの夜と対峙する前に死んでしまう。そう、最初の一度を除いて、マミはあの日が来る前に、決まって魔女に堕ちてしまうのだ。

 理由は単純だった。親友が死んでいるから。あるいは魔法少女が魔女になる事を知ったから。マミが魔女化する理由は、いつもその二つのどちらかだ。だからこそほむらは、魔法少女の裏事情を打ち明ける事は止めた。何度か試して失敗したという事もあるし、マミの状況を考えると、あまりに重過ぎる事実という問題もある。ただそれでもマミは、親友の居ない世界を厭い、生きる事に絶望してしまう。

「意味、なかったな……」

 真っ直ぐに下ろした黒髪を摘まみ、ほむらが呟く。今回のやり直しに当たって、彼女は髪型を変えていた。三つ編みをやめてストレートにするという単純な変化だが、ほむらにとってそれは、とても深い意味を持つ。

 だってこの髪型は、マミの親友と同じものなのだから。

 暁美ほむらとして見てほしかった。だから少しでも絵本アイとの差を作ろうと、髪型を変えようとはしなかった。それなのにこんな事をしているのは、彼女が受け入れたからだ。結局、マミが必要としているのは絵本アイの代わりであって、暁美ほむらではないという事を。

 マミが成長したほむらに興味を持たない事は、至極当然なのだ。絵本アイは無力な存在で、マミは彼女が持っていたか弱さを求めている。故に強い存在に興味は無く、これから先、ほむらがかつての関係を取り戻す事は無いのだろう。その分かり切った結末を拒絶したくて、少しでも絵本アイに近付こうと、ほむらはこうして髪型を変え、眼鏡も外したのだ。そしてその行為は、どうしようもなく無意味だった。

 滲む涙を、ほむらは拭わない。

 信じたいという気持ちは、今でもほむらの中に残っている。自分と、マミと、まどかの三人で、新しい関係を築きたい。辛い事なんて忘れてしまうくらい、苦しい事だって乗り越えられるくらい、強い絆を結びたい。それは夢見がちな子供の戯言かもしれないけれど、そんな戯言でもなければ、ほむらの希望には成り得ない。それほどまでに、彼女の知る現実は残酷だった。

 マミは絶望し、まどかは死に、他の魔法少女も住民も、その尽くが殺される。それこそが、何度と無くほむらが経験した結末だった。圧倒的なまでの戦力差。本来なら魔女を狩る側であるはずの魔法少女さえ、ワルプルギスの夜の前では、単なる有象無象の一つに過ぎない。たとえマミが居たとしても無理なのではないか。ほむらの宿敵は、そんな弱音が過ぎるほどの怪物だった。

「こんなはずじゃ、なかったのにな」

 呟き、ほむらは天を仰ぎ見る。月が上り始めた夜空は暗く、黒く、まるで自分の心のようだと、彼女は思った。


 ◆


 時間が無い。その言葉と共に、ほむらの胸は焦燥で満たされる。彼女の視線の先では、魔女との戦いを終えたマミが立っていた。憎き魔女を倒したというのに、彼女の表情は浮かない。物憂げで、物足りなそうで、今にも消えてしまいそうなほどの儚さを纏っていた。

 まただ、とほむらは思う。また、この時が来たと。

 いつもそうだ。どれだけほむらが気を引こうとしても、マミの心は絵本アイの元にある。だから絵本アイが死んだ世界では、いずれマミの心も絶えるのだ。それはほむらにとって認めたくない事だけれど、受け入れなければならない現実だった。そしてこの繰り返しでも、マミは魔女になるのだろう。ある種の諦めを抱いて、ほむらはそう予測した。

 夜の帳が影を落とし、路地裏に佇む二人を隠す。表のビル街とは裏腹に、ほむら達を包む空気は淀んでいた。それでもほむらの目に映るマミの姿は、他の何より明瞭だ。

 切なさで締め付けられた胸を押さえ、ほむらは躊躇いがちに口を開いた。

「マミさん……」

 声を掛けられたマミが、静かにほむらの方を向く。空虚な瞳だった。目の前にほむらが居るのに、ほむらを見ていないような、そんな恐ろしい双眸だった。思わず震えそうになる足を堪えて、ほむらは次の言葉を重ねる。

「マミさんには、大切な友達が居たんですよね?」
「……ええ、居たわ」

 死んでしまったけれど。そう続けたマミの声は、なんの感情も読み取れないほど平坦で、だけどそれは、あまりに多くの感情を詰め込んだ所為だとほむらは理解した。だから、辛い。マミとアイの絆を感じるから、自分は違うのだと分かってしまうから、ほむらは辛い。それでも口を噤む事は、今の彼女には出来なかった。

 乱れがちな呼吸を整えたほむらが、真っ直ぐにマミを見返す。

 巴マミは、暁美ほむらの大事な人だ。大好きな先輩で、憧れの魔法少女で、命の恩人でもあった。だから助けたいと思っているし、笑っていてほしいと願っている。そしてそれと同じくらい、自分の事を見てほしいとも。

「やっぱり、寂しいですか?」
「当たり前じゃない」

 思いのほか早く、思った通りの冷たい返答。

「そんなの、当たり前じゃないっ」

 マミの語気が強くなる。白い頬が真っ赤に染まる。
 ほむらの細い両肩が、怯えるように小さく跳ねた。

「あの子が死んでっ。居なくなって!」

 声が震えていた。全身が戦慄いていた。
 ほむらを見ているはずなのに、マミはほむらを見ていなかった。

「なんで私は生きてるの! なんのために生きてるの!!」

 吐き出される言葉は血反吐のようで。
 血肉を削る様に言葉を紡いで。

「殺しても殺しても殺しても!! あの子は帰ってこないのに――――――ッ」

 マミは必死に否定していた。
 世界から、目を背けようとしていた。

「頑張る意味なんて無いじゃない」

 そんなマミの掠れた声が、どうしようもなくほむらを傷付ける。

 マミが流す涙の意味を、ほむらは知っていた。これから訪れる現実を、ほむらは覚悟していた。だけどやっぱり辛いから、ほむらは自然と頭を垂れる。視界に入る地面の暗さが、一層ほむらの心に影を落とした。肌を叩く冷たい風が、心の熱を奪っていった。そして再びほむらが顔を上げれば、そこに広がっていたのは絶望だ。

 何度も目にした光景だった。二度と見たくないと、ほむらが叫び続けた場景だった。

 黒く濁った空は、先程まであった夜空とは違うもので。そびえ立つビル壁は、幻みたいに消えてしまって。粗いアスファルトの地面は、滑らかな金属タイルに変わっていた。そしてほむらの眼前には、見知った少女の姿ではなく、見慣れた魔女の異形があった。

「そうですよね」

 ポツリと、ほむらの呟き。細い指が握り締められ、震え、力無く垂れ下がる。白い頬が笑みを形作ろうとして、でも出来なくて、悲しげに唇が歪んだ。大粒のアメジストのような瞳が曇り、だけど涙は流れなかった。

「頑張る意味なんて……本当に…………」

 徐々に声から力が失われ、同時にほむらの目線が下がっていく。
 遂には完全に俯いて、ほむらは魔女から、マミから、目を背けた。

「あなたに、ほむらは、必要ない」

 ずっと前から、それこそ最初のやり直しを始める前から、ほむらは分かっていた。暁美ほむらという個人は、巴マミに求められていない事を。それでも、大切な存在だったのだ。宝石みたいに輝く思い出が、今もほむらの胸に、温かな光を灯しているから。

「大好きでした」

 だけど、結局は思い出だ。変わらない関係なんて無い。出会いからやり直すなら尚更だ。かつてほむらに微笑みかけてくれたマミは、もう居ない。これから出会う事も、きっと無い。その現実を、ほむらは受け入れた。

 受け入れて、全てがどうでもよくなった。

 やり直しに意味なんて無い。どんなにほむらが頑張っても、本当に助けたかった人は助けられない。同じだけど別人で、だから助ける意味なんて、足掻き続ける意味なんて、きっと無い。その結論に至った瞬間、ほむらの心は折れてしまった。

 顔を上げたほむらの視界を、鎖の波が覆い尽くす。奇しくもそれは、初めてマミが魔女になった時と同じ状況だった。流れ過ぎ去る走馬灯。その中で煌めきを放つのは、マミとまどかとの出会いだった。あの時ほむらは、マミに命を救われたのだ。ならばマミに殺されるというのは、決して悪い事ではないのかもしれないと、ほむらは思った。

 静かな微笑。悲しげに、寂しげに、何より空虚に、ほむらは微笑んだ。

「――――――ほむらちゃんッ!!」

 いつか聞いた声だった。いつか目にした光景だった。

 桃色の閃光が、迫る黒鉄を塗り潰す。眩いほどのその輝きは、しかしほむらの目を焼く事は無く、むしろ柔らかに彼女を包み込む。一瞬の後に煌めきが消え去ると、大きく見開かれた瞳に映ったのは、絶望の消えた世界だった。

 魔女が居ない。鎖の魔女が、束縛の魔女が、跡形も無く消え失せている。辺りの風景も罅割れ砕け、現実が顔を覗かせ始めていた。それはつまり、魔女が倒されたという事で。だからこれは、魔法少女が現れたという事だ。

 もちろんほむらは、やって来た魔法少女を知っている。

 ほむらが振り返ると、慌てた様子のまどかが、路地の入口の方から走ってきていた。その身には魔法少女の衣装を纏っており、手には弓が握られている。すぐにほむらの傍まで駆け寄ってきた彼女は、心配そうにほむらの顔を覗き込んだ。

「だいじょうぶ? ほむらちゃん」

 既視感。締め付けられるような思いがして、ほむらは反射的に胸を押さえた。そんな彼女を思い遣ってか、まどかは左手をほむらの肩に置き、右手を白い頬に優しく添える。その柔らかな感触に、思わずほむらは泣きたくなった。

「どこか痛いの? 怪我はない?」

 まどかの声音は温かで、ほむらの胸の奥まで沁み込んだ。
 胸が詰まって、苦しくなって、ほむらは首を振って答える事しか出来なかった。

「そっか。よかったぁ」

 安心したと、吐息を漏らして笑ったまどか。
 ほむらが零したのは、一筋の涙と一つの問い。

「どうして……」

 首を傾げたまどかと、目を合わせ。
 縋るように、ほむらは訊ねた。

「どうして、助けてくれたの?」

 まどかがこの場に現れた事よりも、マミを倒してしまった事よりも何よりも、ほむらにとっては大事な問いだ。まどかと出会って、ただの少女として友情を結んでいた、初めての時。あの時もまどかは、こうしてほむらを助けてくれた。

 思い出は変わらない。現実は変わってしまう。
 でも、現実も変わらないでいてほしいと、ほむらは願うのだ。

 まどかを見詰めるほむらの眼差しは、どこまでも真剣な光を宿している。僅かにまどかはたじろいで、けれどすぐに緊張を解いた。直後にまどかが浮かべた表情は、やっぱりほむらが知るものだった。

「だってほむらちゃんは、わたしの大好きな友達だもん」

 笑うまどかの一言は、何よりほむらを救ってくれた。


 ◆


 高く、広く、青い空。記憶の海から戻ってきたほむらを迎えたのは、何も変わらない風景だった。繰り返す時の中でも変わらない、変えられないものの一つだ。その抜けるような青空を仰ぎ見て、ほむらはポツリと呟いた。

「まどか……」

 大切な友達の名前。それを零すほむらの表情は、今にも泣き出しそうなほど濡れている。

 あれから、ほむらはマミを助ける事を諦めた。元々無理があったのだ。魔法少女を救うという事は、すなわち心を救うという事。ただ力があればいいという訳ではなく、複雑な人間関係の問題も絡んでくる。だから救えるとしたら、結局は一人だけ。その人の事を考え、その人を思い、その人の為だけに全力になれるようでなければ、救えはしない。だからほむらは、その相手としてまどかを選んだ。それだけだ。

 まどかを救うと決めてからのほむらは、大きく方針を転換した。最も大きな変化は、まどかを魔法少女にしないという目標を掲げた事だろう。幸いまどかは、ほむらが時を遡った時点ではただの少女だった。故にまどかが魔法少女になる事を防げば、あとはワルプルギスの夜を退けるだけで、一先ずの問題は解決する。そんな風にほむらが考えるようになったのは、やはりマミを救う必要が無くなった為だ。

 巴マミは、ほむらのやり直しの時よりも前から、ずっと魔法少女をやっている。そんなマミが居たからこそ、魔法少女になっても救われるのだと、幸せになれるのだと、ほむらは信じたかったのだ。

「………………ふぅ」

 緩やかに首を振り、ほむらはソッと息を吐く。

 とにかく、まどかを魔法少女にさせまいと、ほむらは様々な策を講じてきた。直接的な説得も、脅迫的な恫喝もしたし、キュゥべえと接触させないように動いた事もある。それでも駄目だった。まどかは必ず魔法少女になり、そしてワルプルギスの夜に敗れるのだ。

 これもまた、当然の事なのだろう。魔法少女になるには、強い願いが必要になる。故に魔法少女にさせないという事は、その信念とも呼べる願いを曲げる事と同義であり、それを実現するには、まどかの意志は強過ぎた。

 まどかは魔法少女になる。ワルプルギスの夜は倒せない。結局どちらの問題も、解決の糸口すら見えてこなかった。出口の無い袋小路に迷い込み、日増しにほむらの懊悩は濃くなっていく。そんな時だ。ほむらが絵本アイの命日を知ったのは。

 絵本アイが死んだのは、ほむらのやり直しの開始時点よりも後だった。つまりほむらの行動如何によっては、アイの命は助かるのだ。その事実を理解した瞬間のほむらの感情は、言葉では言い表せないものだ。嫉妬か、羨望か、あるいは安堵か。それを確かめる事は出来ないが、一つの転機である事は間違い無かった。

 絵本アイの救命。それが実現した時の変化の大きさは、決して無視し得ないものだ。アイはマミに対して絶大な影響力を持ち、そのマミはまどかとの契約に関わってくる。つまりアイの存在の有無は、まどかの契約に影響を与えるのだ。何よりマミが魔女にならなければ、ワルプルギスの夜を倒せる可能性が高くなるのだから。

 そうして絵本アイを助けると決めて、彼女が死んだ原因を突き止め、今回、ほむらは初めて救う事に成功した。その成果は劇的だ。今回のやり直しでは、何もかも状況が違っている。新しい可能性が、ほむらの目には見えている。

 ずっと昔、ほむらはこの街で少女と出会った。

 たった一度の、一時間にも満たない邂逅だ。それでもほむらは、今でもその少女を友達だと思っている。それほどまでに波長が合って、当時は本当に、もう一人の自分のように感じたのだ。思い返せば色々と違う所は多いけれど、それでも、深く通じ合える相手だった。そしてその間隔に間違えは無かったと、ほむらは今なら断言できる。

 ほむらの口元が、静かに歪む。穏やかな微笑を、そこに刻む。

 一人の魔法少女を救うには、一人の人間が全てを捧げなければならない。それほどまでに困難な道だと、ほむらは知っている。多数を救えるヒーローなんて、所詮は夢物語なのだと、彼女は知ってしまった。

 でも、だからこそ、ほむらは信じたい。

「二人なら、救える相手も二人でしょ?」

 思い出は変わらない。美しい思い出は、今でも美しいままだ。
 故にほむらは、今でも――――――。




 -To be continued-



[28168] #022 『ありがとう。うん、それだけ』
Name: ひず◆9f000e5d ID:a06c6f1d
Date: 2014/07/21 06:09
 この日の目覚めは最悪だった。後にアイは、そう語る。

 ガラス一枚を隔てて響く、鈍く低い唸り声。吹き荒ぶ暴風が窓を叩き、乱暴な目覚ましとなって朝を告げる。窓の外では黒い雲が天を覆い、異様な速度で流れていた。未だ雨は降っていないが、ともすれば空がそのまま落ちてくるのではないかと、そんな不安を抱かせる空模様だ。

 もしも世界の終わりが来るとしたら、その時もきっとこんな天気なのだろうと、アイは寝惚けた頭で考えた。外を見ているだけでも気が重くなり、この空の原因に思いを巡らせると、それ以上に気が滅入ってしまう。本当に憂鬱な一日になりそうだと、彼女は思った。

 そうして始まった一日は、表面上は普段通りに進んでいく。起こしに来た看護師さんの様子も、その後の朝食も、特にいつもと変わりは無かった。外の天気が酷い事や、避難勧告が行われているという話は聞かされたが、ベッドから出られないアイには関係ない事だ。

 面会時間の開始と同時にマミが訪れた事も、またいつも通り。ただやって来たマミの顔だけは、普段と異なる雰囲気を漂わせていた。

 ある種の悲壮と秘めた決意。扉を開けて入ってきたマミは、まさしく決戦に赴く戦士の面持ちをしていた。でも、何故だろうか。アイが思い浮かべたのは、マミと初めて出会った日の事だ。

「おはよう。こんな日も来てくれるなんて嬉しいよ」

 言いたい事はあったけれど、それらを全て押し込めて、アイは素知らぬ様子で出迎える。するとマミは一瞬だけ泣きそうな顔になり、それからすぐに笑顔を作った。

「ええ、おはよう。具合はどうかしら?」
「いい感じだよ。誰かさんのお蔭でね」

 にわかにマミの雰囲気が柔らかくなる。だがそれも僅かな間の事で、表情を引き締めた彼女は、ゆっくりとその歩みを進め始めた。徐々にアイのベッドまで近付いてきたマミは、そのまま椅子の横を通り過ぎ、毛足の短い絨毯に膝をつく。

 伸ばされたマミの手が、シーツに乗せられたアイの指を掴む。それは別に珍しい事ではなかったけれど、指先から伝わる微かな震えが、言葉にならない感情を教えてくれた。

「…………今日はずっと居るの? 避難勧告とか出てるみたいだけど」

 答えを分かっていながら、アイはそんな事を口にする。
 当然、マミの返答は予想通りのものだった。

「残念だけど、避難所で過ごすつもりなの。顔を見に来ただけだから、すぐにでも出発するわ」

 白々しい。そう思ったのは、二人の内のどちらであっただろうか。おそらく、どちらもだろう。アイはマミの隠し事に気付いているし、マミは気付かれている事に気付いている。それでも互いに指摘する事なく、いつも通りを演じようとしていた。

「なら仕方ないか。マミとのお喋りはまた今度だね」
「……そうね。また今度、ゆっくり話しましょう」

 アイの指を握るマミの手に、少しだけ力が籠められる。それからマミは、覗き込むようにアイに顔を近付けた。間近に迫る双眸を、アイは静かに見詰め返す。

「ねえ、お願い。今日は外に出ないようにして。本当に酷い天気なの」

 一瞬だけ言葉を失ったアイは、けれど直後に笑みを浮かべた。無垢で、無邪気で、何も知らない子供のようで、どうしようもなく空々しい笑顔だった。

「冗談きついね。この足で外に出られるわけないでしょ?」

 マミの目が細められる。睨み付ける、と言い換えてもいいかもしれない。常ならぬその反応に、しかしアイは表情を崩さない。

「出ないって、ちゃんと言って」

 キツい口調だった。強い語調だった。
 有無を言わさぬその様に、アイは大袈裟に息を吐く。

「はいはい、出ないよ。でーまーせーんっ。もう、小姑みたいに目敏いんだから」

 不貞腐れたアイを見て満足そうに頷き、マミはゆっくりと立ち上がる。ベッドに横たわるアイを見下ろす瞳には、淡く冷たい、寂寥とした色が宿っていた。

「また会いましょう。明日にでも、そう、のんびりと」
「そうだね。そうしよう。話したいことがたくさんあるんだ」

 マミが笑った。この日初めて、穏やかに。

 踵を返したマミの背中が、徐々にアイから遠ざかる。何年も、何百回も、見送り続けてきたその背中。いつもは黙って送り出すそれに、アイは言葉を投げ掛けた。

「――――――最後に一つだけ、ボクからマミに問題だ」

 足を止めて振り返り、マミは不思議そうに首を傾げた。

「これまで色んなことがあったよね。嬉しいことも悲しいことも、本当にたくさん」
「…………ええ、そうね。数え切れなくて、忘れてしまうくらい」

 懐かしむように、噛み締めるように、マミが呟く。
 思い出すように、思い紡ぐように、アイは続けた。

「いっぱい話したよね。真面目なことも、くだらないことも。その中でさ、ボク達が言わなかったことってわかるかな? ただ口にしなかった言葉ならたくさんあるけど、そうじゃなくて、あえて言おうとしなかったこと。それがボクからキミへの問い掛けだ」

 眉根を寄せて、マミは不可解そうな顔をした。
 口角を上げたアイは、楽しげな表情をしていた。

「マミならわかるよ。だって、ボクに言いたくないことを考えればいいんだから」

 宿題だよと、そう言って、アイは退室を促した。そうして親友の背中を見届けた彼女は、自らのベッドに体を預け、細く長い息を吐く。

「ちょっと意地悪だったかな」

 自嘲にも似た呟きは、誰に届く事もなく、部屋の静寂に消えていく。大きな瞳を瞼で隠し、薄く笑みを刻んでいたアイは、やがて緩慢な動作で顔を上げた。

 白い手が、枕元の電話に伸びる。持ち上げた受話器を耳に当て、目的の番号を呼び出した。暫しコール音が鳴り続き、次いで電話口に相手が出る。低く落ち着いた、大人の男性の声だった。

「――――――おはよう、オジさん。ちょっと我が儘を言ってもいいかな?」

 どこか感情に乏しい声音を響かせて、アイはその言葉を口にした。


 ◆


「こんな日に呼び出してごめんね。やっぱりマミが居ないと寂しくてさ」

 病室を訪れたまどかを出迎えたのは、いつもと変わらない、朗らかなアイの声だった。ベッドに横たわる彼女の姿は初めて会った時よりも小さく見えたが、そこに弱々しさは感じられない。

「いえ。わたしもアイさんと話がしたいと思っていましたから」

 柔らかくも強張りを残した表情で、まどかはアイに話し掛ける。力の無い声ではあったが、その言葉に嘘は無い。避難準備の最中に掛かってきた電話越しに、共に居てほしいとアイに請われた。急な話で驚いたけれど、その時たしかに、まどかは安堵したのだ。

 ほむらの件を、相談できるかもしれない。そんな淡い期待が、彼女の胸裡に去来していた。故にまどかは此処に居る。難色を示す両親に頼み込み、この病院までやって来たのだ。

「それと、はじめまして。絵本アイと申します」
「はじめまして、鹿目詢子だよ。この子の母親さ」

 ついとアイが目線を逸らした先、まどかの隣には母の詢子が立っている。快活な笑みを浮かべた彼女は、まどかの頭に右手を置いて、やや乱雑に撫で回した。

「今日はありがとうございます。私の我が儘を聞いてくださって」
「いいのいいの。避難所に行く途中だし、まどかにとってもここの方が安心できそうだしね」

 手の平で軽くまどかの頭を叩いて、詢子は明るい声音で続けた。

「色々と話したいことはあるけど、あんまりパパ達を待たせるわけにもいかないからね。あたしはもう行くよ。まどか、アイちゃんや病院の人に迷惑かけないようにね」
「うん、わかってるよ。ママ達も気を付けてね」
「また来てください。今度はゆっくりお話しましょう」

 もちろんさ、と頷いて。詢子は踵を返して病室を出た。その背中を見送った後、まどかは窓際のベッドに近付いていく。ベッドの上で体を起こしているアイは、穏やかな表情を浮かべていた。

「まずは座りなよ。じゃないと落ち着いて話も出来ない」
「はい。えっと、失礼します」

 木製の椅子に腰掛けて、まどかは改めてアイと相対した。アイの黒く大きな瞳が、まどかの顔を捉えている。それがなんだか気恥ずかしくて、まどかは僅かに身を捩った。

 くすりとアイが笑う。それから彼女は、涼やかな声音を響かせた。

「改めて、おはよう。なんだか浮かない顔をしてるね」
「えっ、と…………そうですか?」

 首を傾げてはみたものの、まどかとしても自覚はあった。暁美ほむら。まどかの友達。友達だと思っていた、否、思っている存在。彼女の事が頭から離れず、胸の奥で澱になって溜まっている。この状況で無邪気に振る舞えるほど、まどかは図太い精神を持ち合わせていないのだ。

「なにか気になることでもあるのかい? と言っても、予想はついてるんだけどね」

 少しの間を置いて、アイはなんでもないような口調で言葉を続けた。

「ほむらちゃんのことだろ?」

 瞬間、まどかは驚愕で目を見開いた。泡のように疑問が浮かび、形を成さずに消えていく。胸の動悸が煩くて、頭の熱は痛いほどで、だけど何をすべきなのかが分からない。

「どうして……」

 結局まどかが口にしたのは、それだけだった。思考できたのも、それだけだった。

「ボクがほむらちゃんの友達だからさ」

 まどかと一緒だね、と楽しそうにアイが話す。それを肯定も否定も出来なくて、まどかは桃色の唇を震わせた。不安に揺れるその瞳には、微かな怯えが混じっている。

「マミが話していた暁美ほむらという魔法少女も、ボクの友達であるほむらちゃんも、キミが知るほむらちゃんで間違いないよ。それはこのボクが保証しよう」

 慎ましやかな胸を張り、アイは気楽な調子でそう語る。だがその言葉を受け取るまどかの方は、未だに混乱から立ち直れていなかった。

 暁美ほむらは、まどかの友達だ。ひと月前に彼女の学校へ転校してきて、すぐに仲良くなれた、大切な友達。彼女が魔法少女を殺したと聞かされたのが一昨日で、顔を合わせたくないと、学校を休んだのが昨日。そして今日、アイからほむらは友達だと告げられた。

 意味が分からない。それがまどかの率直な感想だ。たしかにほむらの事をアイに相談できれば、と期待していた部分はある。けどまさか、アイの方からこんな話を持ち掛けられるとは、まどかは予想できなかった。出来るはずがなかった。

「あの、でも、マミさんが話した時は――――」
「知らないフリさ。マミの反応が読めなかったからね」

 まるで悪びれた風も無く、アイは華奢な肩を竦めてみせる。余裕のある仕草。陰りの無い表情。そんな彼女の態度に、まどかはモヤモヤとした感情の揺らぎを覚えた。

 ほむらとの仲を黙っていた件については、別にまどかとしても不満は無い。まどか自身、マミの話を聞いた時には言い出せなかったのだから。しかし、今のアイの様子は不可解だった。だって、ほむらは魔法少女を殺したと、マミは言ったのだ。それなのに平然と彼女の事を語るアイの姿は、やはり可笑しなものに映ってしまう。

「アイさんは……知っているんですか? ほむらちゃんが、その――――」
「魔法少女を殺した理由? もちろん知ってるよ。正しいことかどうかは、知らないけどね」

 どくんとまどかの鼓動が高鳴った。開こうとした口を慌てて結び、まどかは両手を握り締める。彼女の手の平には汗が滲み、奇妙な熱が籠っていた。

 教えてほしい。だけど、怖い。これまで築き上げたものが崩れてしまう気がして、その逡巡が、まどかに二の足を踏ませていた。ただ、それも僅かな時間の事だ。既にまどかは聞いてしまった。もはや顔を背けてはいられない事を、誰よりも彼女自身が理解している。

 散り散りになった思考が焦点を結んでいき、まどかは強い視線でアイを捉えた。

「教えてください。アイさんが知っていることを、全部、教えてください」
「もちろんだよ。だってボクは、そのためにキミを呼んだのだから」

 アイは微笑を浮かべていた。とても優しげで、けれど悲しい表情だと、まどかは思った。


 ◆


「――――つまり魔法少女なんて碌なものじゃないって事さ」

 嘲るようにそう結び、アイはまどかへの説明を終える。

 魔法少女の事、ほむらの事、そしてアイの目から見た現状。まどかの信頼を損ねないよう言葉を選びながら、アイは自らの知識をまどかへ授けていった。もちろん教えていない情報はあり、特にワルプルギスの夜に関するものは秘している。それでもまどかにとっては衝撃的であったらしく、途中からは相槌を打つ事すら出来なくなっていた。

 硬い表情で俯くまどかに目を細め、アイはチラリと壁の時計を窺い見る。話し始めてから、既に一時間以上も経っており、お昼の時間が近付いていた。

 計画通り、とでも言うべきだろうか。少なくとも現時点において、アイの予定から大きく外れた出来事は無い。まどかを呼び寄せ、伝えたい情報を伝えながら、順調に時が過ぎている。このまま今日という日を大過無く終えられたなら、ほむらの望みは果たされるだろう。

 アイも事情は知らないし、無理に知ろうとも思わないが、ほむらはまどかとワルプルギスの夜が関わる事を厭っている。それは単に魔法少女にまつわる問題から遠ざけたいという理由ではなく、もっと深いナニかがある事を、アイは言葉にせずとも感じ取っていた。

 ワルプルギスの夜がどれほどの被害をこの見滝原に齎すのか、アイには伝聞から推し量る事しか出来ない。ただ、その脅威を前にしたまどかが、魔法少女となって戦う事を選ぶかもしれないと、ほむらが抱いているであろう懸念を理解する事は難しくなかった。

 だからこそアイは、まどかを目の届く範囲に置いておこうと考えたのだ。監視して、管理して、いざとなったら説き伏せる。それを自分の役目にしようと、彼女は心に決めていた。

「アイさんは――――」

 呟きに意識を引かれ、アイは再びまどかに視線を戻す。まどかは未だに顔を上げる事が出来ないようではあったが、先程までと比べれば、幾分か気力を感じさせた。

「最初から、みんな知ってたんですか?」
「少なくとも、キミと出会った時には知っていたよ」

 肩を震わせるまどかを見ないフリして、アイは更に言葉を重ねる。

「だから約束を持ち掛けたんだ。勝手にキュゥべえと契約しないように」
「…………それはわたしのためですか?」
「まどかの為で、マミの為で、ほむらちゃんの為でもあるかな」
「…………アイさんが事故に遭ったのは、さやかちゃんが魔法少女になった所為ですか?」
「………………運が悪かったと、それで済ませられる事を祈ってるよ」

 そこでようやく顔を上げ、アイと目を合わせ、まどかは眦に涙を溜めた。溢れた雫が頬を伝い、白い顎先から零れていく。そこには千の言葉が重なっていて、万の想いが籠められていて、だから涙は透明なのかもしれないと、アイは不意に考えた。

「信じたくないって、そう思います。否定できるなら、そう叫びたいです」

 でも、とまどかは首を振る。力の無い仕草で、自らの発言を否とする。

「アイさんの顔を見たら、本当なんだって、感じました。とても、残酷なんだって」

 それきり黙って、また俯いて、まどかは会話を打ち切った。その顔を窺う事は出来ないけれど、拒絶の雰囲気くらいは読み取れる。だからアイは、声を掛けようとはしなかった。

 窓を叩く風が、轟く雷鳴が、決して静寂を許さない。なのに不思議と、煩さは感じなかった。

 忙しない秒針が時を刻み、のんびり屋な長針が時を告げ、寡黙な短針は、未だ動く気配がない。進む時間は意外と遅く、まどかが再び顔を上げたのは、幾許も経たない内だった。

 桃色の瞳がアイを見据える。とても真っ直ぐで、強い意志を秘めているとアイは感じた。

「わたしには、難しいことはわかりません。ほむらちゃんがなにを考えているのかも、その行動が正しいのかどうかも、さっぱりわかりません。でも、ひとつだけ、わかることがありました」

 空白があった。躊躇ではなく、決意による空白が。

「わたしは、ほむらちゃんの友達です」

 虚を突かれたアイが目を丸くして、それから徐々に笑みを形作っていく。満足げに頷く彼女は、穏やかな気持ちでまどかへの返事を紡いだ。

「そうだね。まったくもって、その通りだ」

 透き通った静かな調べ。心地よく鼓膜を揺らしたそれは、どんな言の葉よりも雄弁だった。

「ほむらちゃんの件について、ボクから言うべき事はもうないよ。あとは直接話すといい」

 友達なんだろ、とアイが問えば。ゆっくりと、そしてしっかりと、まどかは頷き返す。そこにはもう、先程までの弱々しさは存在しない。アイにとっては驚嘆すべき事実であり、ある種の羨望を禁じ得ない事柄でもあった。ただそれよりも何よりも、安堵が彼女の胸裡を満たしていく。

「たくさんお話します。これまで話せなかったことも、これまで話したようなことも、たくさん。だから――――――だからアイさんも、マミさんといっぱいお話してください」

 また、アイはまどかに意表を突かれた。思わず彼女は、右手を握る。

「マミさんに秘密にしてること、たくさんあるんですよね? わたしは頭がよくないし、間違った答えなのかもしれません。でもやっぱり、秘密にしたままじゃ、寂し過ぎます。たとえ喧嘩になるかもしれなくても、正面から向き合えるのが友達だって、そう思うんです」

 まどかの顔には、アイを批難する色はない。悲しみも怒りも、アイの目では読み取れなかった。呵責の念は存在する。後悔のさざ波も揺れている。ただその全ては、まどか自身へ向いていた。

 反論は難しくない。言い包める事も、説き伏せる事も、決して不可能だとは思わない。それでもアイが口を噤んでしまったのは、つまり、まどかの言葉に心を揺り動かされたという事だろう。

「…………こいつは参ったな。まさかそう返されるとは思わなかったよ」

 絞り出すように呟いて、アイはベッドに背中を預けた。息を吐き出し、天井を仰ぐ。それから、彼女は瞑目して思考の海に潜っていった。

 近い内に、アイは魔法少女になるつもりだ。未だに願いの内容については決めかねている部分もあるが、絶望を回避する方法については幾つか案があった。だから、キュゥべえと契約してマミを助けるという未来は、アイの中では確定事項に等しい。

 問題があるとすれば、それはまさに、マミに打ち明けるか否かということ。打ち明けるとして、どこまで話すのかということ。全てを伝えても隠し事を残しても、必ずわだかまりはあるだろう。マミを完全に納得させる方法など、アイにはとても思い付かないのだから。

 アイの行動は、上位者から下位者へ与える、一方的な施しだ。彼女が望むそれを、マミは絶対に望まない。逆の立場になれば、アイもまた同じ風に考える。どちらも対等をよしとしない、とても歪な間柄。それこそが互いに求める在り方なのだと、アイもマミも、ずっと前から分かっていた。なればこそ、まどかの言葉が胸の奥深くに食い込むのだ。

 誰より大事な友達が、誰より遠い場所に居る。その事実を、アイはちゃんと理解していた。

 湿り気を帯びた息を零し、アイは緩やかに瞼を上げた。小首をかしげれば、まどかの心配そうな顔が視界に映る。目が合って、アイは青白い頬を動かした。苦笑という名の表情だった。

「お互い、頑張ろっか」

 まどかの返答は無く、彼女はただ、黙って頷いた。同時に空気が弛緩し、二人の顔に柔らかさが戻る。直前までのやり取りなど無かったかのように振る舞い、アイはおどけた調子で声を上げた。

「さあ、そろそろお昼だ。ここのレストランから運んできて貰えるよう頼んであるから、楽しみにしててよ。ま、ボクはいつも通りの病院食だけどね」

 そう言ってアイが肩を竦めれば、まどかはくすりと笑みを漏らす。
 和やかな時間だった。穏やかな空間だった。少なくとも、表面上は。

『――――――お邪魔するよ、二人とも。とても大事な話があるんだ』

 少なくとも、その存在が来るまでは。


 ◆


 仰ぎ見た空は、限界まで雨を溜め込んだ重い灰色。周囲を見回せば、人っ子ひとり居ない空虚な街並み。紛れもない現実であるというのに、どこか現実感に乏しいその世界を、彼女はふらついた足取りで進んでいく。当て所なく、目的なく、幽鬼の如く歩き続ける。

「…………わけわかんない」

 力無い呟きは、冷たい風に攫われていった。

 切っ掛けは、ただの盗み聞き。見知らぬ少女と歩く杏子を街中で見掛けて、こっそり追い掛けた彼女は、裏路地で交わされる会話を耳にしてしまった。二人の語る内容を理解し、驚愕し、衝動に身を任せて逃げ出してしまった。それが、二日前の事だ。

 何故そうしたのかは、彼女自身もよく理解していない。ただ敢えて言葉を探すなら、怖かった、という表現が適当なのかもしれない。ワルプルギスの夜と戦う事が怖かった。自分の知らない所で自分の話をされる事が怖かった。あるいは――――――――杏子の優しさを疑う事が怖かった。

 佐倉杏子。最初は彼女を殺そうとして、次には彼女を助けて、最後は共に行動するようになった魔法少女。その行動原理は未だに理解し難い部分があるものの、彼女は杏子の事を信頼していた。差し伸べられた手が、与えられた好意が、彼女を救ってくれたから。

 でもそれは、本当に無垢な善意だったのだろうか。杏子の真意は別にあり、ワルプルギスの夜を倒す戦力として、彼女に死なれたら困ると考えたのかもしれない。あの杏子に限ってありえないと思いたいのに、シミのような疑念は、彼女の心から抜けてくれない。マミとの事が頭をよぎって、チクチクと彼女を苛むのだ。

 どうして。誰に向けた訳でもない問い掛けが、彼女の口から零れ落ちた。

 後悔の念はあった。少なくとも存在する事は確かだった。けどそれをいつから抱いているのか、なにゆえ感じているのか、彼女はとんと分からない。

 拠点を飛び出し、独りで夜を過ごした寂寥感は、たしかに後悔を含んでいた。だけどその出来事だけではなくて、もっと他に、もっと前から、彼女は悔やみ続けている。そんな気がした。様々な記憶が脳裏を巡り、それでも探す答えは見付からず、もどかしさばかりが募っていく。

 誰か助けてほしいと、彼女は願った。こんな時でも、否、こんな時だからこそ、無条件で自分の味方だと信じられる相手を、浅ましいほどに求めていた。

「――――ちょっと、こんなトコに居たら危ないわよ」

 機械的に足を動かし続ける彼女へ向けて、不意に何者かが呼び掛ける。こんな状況で自分以外の人間に出会うとは思わず、彼女は驚きで足を止めた。

「まさか避難勧告が出てるの知らないの? だったら早く避難した方がいいわよ」

 駆け足で近寄ってきのは、水色の髪を持つ少女だった。おそらくは彼女と同年代と思われるその少女は、なんの変哲もない私服姿だったが、彼女の感覚はその正体を見逃さない。

「魔法少女……」
「ありゃ、あんたもそうだったの?」

 目を丸くする少女の姿は、何も知らない無垢な子供みたいだった。実際、この少女は魔法少女と魔女の関係やキュゥべえの目的など、何一つ教えられていないのだろうと彼女は察した。

「ええ、わたしも魔法少女よ」

 あなたとは違うけど。その言葉を、彼女はどうにか呑み込んだ。喧嘩を売りたい訳ではないし、売る必要もない。ただほんのちょっとだけ、羨望にも似た苛立ちは覚えていた。

「ところでそっちは、この事態の元凶に気付いてるの?」
「ワルプルギスの夜でしょ? ちゃんと知ってるっての」
「戦うつもり? とても敵う相手じゃないわよ」

 嘘ではない。先程から彼女が感じている魔女の波動は、これまで退治してきた奴らが羽虫程度に感じられるほど、桁違いの威圧感を放っている。未だ離れた状態でこれだ。魔法少女の十や二十を集めたくらいでは対抗できないと、彼女は半ば確信を以って結論付けていた。

「そりゃ戦うに決まってんでしょ。なんの為にここに居ると思ってんのさ」
「一般人にはただの災害にしか見えないんだから、逃げたって誰も責めないでしょ。なら無駄死になんかせず、関わらずにやり過ごした方が賢明じゃない」

 顔を顰めて彼女が返す。本心というよりも、反発から生まれた言葉だった。それでも、合理的で現実的な思考に基づいた意見であると、彼女としては考えている。

「バッカじゃないの」

 故に彼女は、少女の言葉で頭を白く塗り潰された。

「勝てるから戦うんじゃない。勝たなきゃいけないから戦うのよ。あたしには守りたい奴が居る。友達が居る。恩を返すべき人も居る。だからあたしは、逃げるわけにはいかないのよ」

 少女が持つ水色の双眸は、気味が悪いほど澄んでいる。悪意に染まっていないそれが、無条件で相手を信じていそうなそれが、彼女には堪らなく気持ち悪かった。

 正視に耐えぬと、彼女は平静を装いながらそっぽを向く。このまま少女の目を見続けていたら、溜まりに溜まった鬱憤が爆発してしまいそうだった。

「……あっそ。わたしには関係ないからいいけどね」
「そりゃそうだ。ま、無理に戦えとは言わないから安心してよ」

 肩を竦めた少女が、もう用は無いとばかりに背中を向ける。

「それじゃ、あたしはもう行くわ。あんたも死なないように気を付けなさいよ」

 何かを言い返す気力も湧かなくて、去りゆく少女を、彼女は黙って見送った。どこか泣きそうな顔をした彼女は、激しい風に揺られる彼女は、案山子の如く立ち尽くす。

 羨ましいと、そう感じる部分はあった。杏子に会いたいと、そんな感傷も抱いてしまった。ただそれでも彼女には、杏子の下に戻るという選択はない。むしろ、それを選ぶ事への恐怖が増したと言ってもよいだろう。

 あの少女には、大切な人が居た。命を賭して守りたいと思える相手が、たしかに存在したのだ。翻って自分はどうだろうかと、彼女は自問する。それほどまでに大事な人なんて居ないし、大事にしてもらえるとも思えない。所詮はその程度の価値しかないのだと、彼女は自嘲した。

 だから、杏子には会えない。会って、自分の価値を再確認する事が恐ろしかった。

 頼りない足付きで、彼女は再び歩み始める。やっぱり目的なんか無くて、頼れる相手なんか思い浮かばなくて、無軌道に、無気力に、人影の消えた街を彷徨い続けた。

「――――――っ」

 どれだけの時間が過ぎ、どれだけの距離を歩いただろうか。気付けばその場所へ辿り着いていた彼女は、見慣れた建物を呆然と見上げてしまう。

 見滝原総合病院。かつて彼女が、多くの時間を過ごした地。いい思い出なんてちょっとだけで、嫌な思い出ばかりが積み重なったこの空間へ、どうして来てしまったのだろうか。どれほど自らの胸に問い掛けてみても、彼女はその答えを導けなかった。

 早く遠くへ。焦りも露わに、彼女は踏み出す。踏み出して、またすぐに止まった。

「今のは……?」

 覚えのある声が、聞こえた気がした。すぐには誰のものか分からなくて、だけど耳に馴染むほど聞いた声だと、彼女の身体が訴えている。知らず声の主を探し始めた彼女は、間を置かずに目的の相手を見付け出し、大きくその目を見開いた。

 お父さんと、お母さん。血の繋がった、この世で二人だけの彼女の肉親。彼女にとっては随分と久し振りに顔を見た気がする彼らは、彼女が見た事の無い剣幕で口論していた。

 彼女の父親は、とても穏やかな人だ。怒った事など一度も無くて、彼女が我が侭を口にしても、優しく言い聞かせてくれるような人だった。でも今は、顔を赤くして厳しい表情を浮かべている。

 彼女の母親は、とても気弱な人だ。いつも彼女に対して申し訳なさそうな顔をしており、何事か不満を漏らすと、すぐに謝っていた。なのに今は、鬼のような表情で父に向かって怒鳴っている。

 意味が分からなかった。二人が此処に居る経緯も、喧嘩をしている原因も、彼女はまるで予想がつかない。悪い夢でも見ているようで、思考はひたすらに空転していた。

「――――ッ!!」

 不意に自分の名が聞こえた彼女は、肩を跳ねて植木の陰へと逃げ込んだ。恐る恐る顔を覗かせ、改めて二人の会話を盗み聞けば、彼女の事を話しているのだと気付かされる。

 内容は単純で、彼女を探しに行くのか行かないのか、という二択に過ぎない。病院に来たのも、どうやらそれが理由らしい。そして想像すらしていなかったこの事態に対して、彼女はまたも脳の機能を停止させた。

 父は探すべきではないと主張している。もはや居場所に当てはなく、大嵐の中を闇雲に探しても危険なだけであり、娘も避難しないほど分別の無い子ではないと言っていた。ただそれは、彼女の事をどうでもいいと考えている訳ではなく、顔には遣る瀬なさが滲んでいる。

 反対に、母は探すべきだと主張している。家出をするような精神状態で大嵐に遭えば、いったいどんな行動を取るか分からないと叫んでいた。どこまでも感情的なその姿は、なればこそ本心から彼女を心配している事がよく分かる。

 知らなかった二人の姿。見落としていた二人の気持ち。大事にされているなんて、とっくの昔に理解していたはずなのに、当たり前のこと過ぎて、彼女はすっかり忘れていた。

「あぁ、もう……馬鹿だな、わたし。ほんと、馬鹿だな」

 頬を流れる涙を拭う事なく、揺れる声音で彼女が呟く。

 ずっと探していたはずの宝物は、最初から足元に落ちていた。そんな事にも気付かなくて、ただ嘆いてばかりいた自分を省みて、彼女は自らの心を責め苛む。

 ああ、と嘆息。胸に引っ掛かっていたのは、全ての後悔の始まりは、これだったのだと、彼女は悟る。親の下を飛び出して、安息の場所を捨て去って、なのにその事実から目を逸らした事こそを悔いていた。誰よりも味方であるはずの、両親を信じられなかった事こそを惜しんでいた。

 温かな感情に満たされた胸に手を添えて、彼女は静かにその目を瞑る。閉じた瞼に浮かぶのは、かつて過ごした両親との日々。辛い出来事ばかりではなく、ちゃんと優しいものもあったのだと、彼女はようやく思い出す。

 ありがとう。口の中で溶かしたそれを、彼女は胸に刻み込んだ。

 今すぐにでも、両親の下まで駆けていきたい。駆け寄って、此処に居るよと安心させたい。でもそれをしてしまえば、彼女は二人から離れられなくなってしまう。それでは駄目なのだ。

 彼女には、為すべき役目があるのだから。

 両親に見られないよう気を付けて、植木の陰から彼女が這い出る。そのまま物音に注意を払い、彼女は病院の門を潜って外に出た。その相貌は、安らかな色で染められている。

「――――いい事でもあったのかい?」

 門を出てすぐの場所に立っていたのは、魔法少女姿の杏子だ。頬を僅かに汚した杏子は、彼女の顔を見ると嬉しそうに話し掛けてきた。先程までの彼女であれば、即座にこの場から逃げ出そうとしたかもしれない。けれど今なら、余裕を持って杏子の厚意に応えられる。

 ずっと胸の奥に巣食っていた闇が晴れて、これまでよりも少しだけ、彼女は世界に対して優しくなれる気がした。感謝できると、信じる事が出来た。

「まぁね。それより早く行くわよ。もうお祭りは始まっているんでしょ?」

 笑って返す彼女に対し、杏子は分かりやすく驚きをみせる。
 直後に杏子は頬を緩めて、快活な声で彼女に答えた。

「おうっ。乗り遅れないよう急がなくちゃな!」

 並んで歩き始めた二人は、徐々に歩みを駆け足に変え、ついには勢い良く走り始める。とうとう泣き出した暗雲の下で、空っぽの街中を、彼女達は駆けていく。

「あのさ、杏子」
「ん、どうした?」

 並走する杏子と顔を合わせて、彼女は思わず口を噤む。視線を泳がせ、面映ゆそうに唾を呑み、そうして彼女は、思い切った様子で声を紡いだ。

「――――――ありがとう。うん、それだけ」

 ずっと言いたくて、だけど言えなかった、その言葉。ようやくそれを伝えた彼女は、満足そうに頷いた。頷いて、すぐに杏子から目を逸らす。普段は白いその頬が、今だけは赤く色付いていた。


 ◆


 足元を駆け去ったのは、雛鳥みたいな人形だった。擦れ違ったのは、派手な装飾の木馬だった。耳を叩いた鳴き声の方を見遣れば、カラフルな象が列を成している。周囲を探ってみれば、檻車や他の動物も見て取れる。そして天には、幾つものフラッグガーランドが掛けられていた。

 パレードみたいだ。この光景を目にした誰もが、そんな感想を抱くだろう。それはこの場に居るマミも例外ではなく、彼女は川沿いのフェンスに凭れながら、その行進を眺めていた。

 感情という感情を削ぎ落とした蜂蜜色の瞳が、暗雲の下で爛々と輝いている。タイル張りの道を我が物顔で進むパレードを、暗い色で映している。

 マミは知っていた。これらの存在が、使い魔と呼ばれる化け物である事を。
 マミは理解していた。化け物という言葉すら生温い存在が、もうすぐやってくる事を。

「静かなものね」

 ラッパや太鼓の音に包まれながら、それでもマミはそう漏らす。その手には、愛用の携帯電話が握られていた。ディスプレイはメール画面。読み取れるのは、返信メールが数件ばかり。それらは彼女が知る魔法少女達へ宛てたものへの返答で、その数は、送った時よりも随分と減っていた。

「本当に、静か過ぎるほど――――……」

 携帯電話の画面を閉じて、遣る瀬無さげにマミが呟く。呟いて、その細首をかしがせた。移した視線の先には、異形ではなく人の影。長い黒髪を靡かせた、少女の姿。

「これが貴女の葬儀なら、私も喜んで参列するのだけど」

 暁美ほむらが佇んでいる。その双眸に決意を讃えて、彼女はマミを見詰めていた。
 前と比べて、幾らか人間らしくなっている。ほむらの顔を見たマミは、そんな事を考えた。

「それで? 人殺しさんはどんな御用なのかしら?」

 マミの声は冷たく、暴風の中でもよく通る。
 眉尻を下げたほむらだが、瞬きの後には表情を消していた。

「貴女と協力関係を結びに来たのよ」
「…………なんの冗談かしら」
「本気よ。貴女も気付いているのでしょう? もうすぐ訪れる災厄に」
「……ええ。たしかに気付いているわ」

 ワルプルギスの夜。歴史の中で語られる最悪の魔女が現れるという事を、マミはキュゥべえから聞いていた。何より今この瞬間も粟立つ肌が、彼女に迫る脅威を教えてくれる。そしてなるほど。あの化け物を相手にするならと、マミはほむらの意図を理解した。

「でも、やっぱりお断りね。銃弾は前から飛んでくるだけではないもの」

 難敵だからこそ、マミはほむらと手を結べない。魔女退治に集中して隙を見せた瞬間に背後から撃たれては堪らないと、彼女は嫌悪感を隠す事なく拒絶する。

 真一文字。薄紅の唇を固く結び、ほむらは鋭く目を細めた。そのアメジストの瞳には、表に出る事のない激情が押し込められている。少なくともマミはそう感じ、そう思った。またそんな感想を抱ける程度には、今日の彼女は冷静だ。

「別に手を取り合って仲良くしたいわけではないわ。ただ離れて戦われると迷惑なだけ」

 硬質な声音でほむらが紡ぐ。それを聞いて、マミは不審そうに眉根を寄せた。

「ワルプルギスの夜は、この街全体を破壊しかねないほど強力な魔女よ。そんな化け物が暴れると困る場所が、貴女にはあるでしょう?」

 言われてマミは、アイの居る病院の方角を見た。今はまだ、この曇天と同じ、ギリギリの平穏を保っている街並み。だがそこにワルプルギスの夜を放り込めば、どうなるだろうか。背筋が震えるその想像を、彼女は首を振って掻き消した。

「理解したかしら? 勝手に戦場を誘導されると、お互い困った事になるのだと」
「………………そうね。たしかに、貴女の言う通りかもしれないわ」

 呻くように返答し、マミは改めてほむらと対峙する。共に友好の欠片も感じられない顔をして、瞳に宿すは鋭利と冷淡。信用も信頼も築こうとしない両者は、しかし同時に頷いた。

「せいぜい私の目が届く範囲で戦うことね。逃げようとしたら容赦はしないわ」
「貴女こそ、よそ見ばかりして足元を掬われないよう注意しなさい」

 ほむらの返しに鼻を鳴らし、マミは不機嫌を露わにそっぽを向いた。不満があれば不安もある。これでいいのかと、心のどこかが囁いている。それでも彼女には、他の選択肢は選べなかった。

 マミから見た暁美ほむらとは、とても危険な存在だ。その思想も実力もよく知らないが、平然と人を殺せる事だけは分かっている。また瞬間移動を可能にする未解明の能力や、何故かアイの事を把握している点も考慮すれば、決して無視し得ない脅威と表現してもよい。それでもマミが彼女の手を取ったのは、直近に迫る脅威をそれ以上と判断したからだ。

「どうやら来たみたいね」
「残念ながら、そのようね」

 奇しくも同じ瞬間、マミとほむらは天を見上げた。鈍色の空を、雷鳴轟く天空を、彼女らは鋭い眼差しで睨み付ける。その先に浮かぶのは、一つの巨大な影だった。

 青いドレスを白く縁取り、舞台役者の如く着飾った人型の魔女。その裾から覗かせているのは、足ではなく歯車で、上半分を切り取られた頭部からは、代わりに二つの帽子が生えている。自らを中心に虹色の魔法陣を回転させながら、山の如く巨大なこの怪物は、逆さまに浮かんだまま悠然と見滝原の街を見下ろしていた。

 ワルプルギスの夜。ある種の災害とすら呼ばれる、最強最悪の魔女。伝承と違わぬ、ともすればそれ以上の力を感じさせる威容を前にして、マミは知らず喉を鳴らしていた。

 勝てるのか、と自問して。勝たねばならない、と自答する。

 マミの隣にほむらが並ぶ。横目でそれを確認したマミは、何も言わずに魔法少女へと変身した。ほむらもまた魔法少女としての衣装を身に纏い、ワルプルギスの夜を仰ぎ見る。両者共に語り合う言葉など無く、静かに己が敵を見据えていた。

 周りにパレードの影は無い。吹き荒ぶ風は不思議と静かに感じられ、川の水面は、不自然なほど凪いでいるように見えた。その事実が逆に、この後の波乱を予感させる。

 言い知れない恐れが、マミの胸を苛んでいた。死への不安ではなく、別離へのそれではあるが、それだけでもなく。ただ漠然と、彼女はよくない運命を察していた。

「さあ、行きましょう」

 けれど。ただ、けれど。退く訳にはいかないのだ。
 譲れぬ誓いを胸に秘め、マミは戦場へとその身を投じた。




 -To be continued-



[28168] #023 『わたし、魔法少女になります』
Name: ひず◆9f000e5d ID:a06c6f1d
Date: 2014/08/16 21:20
 開幕の鐘となったのは、白銀のマスケットが放つ銃声だった。空気を裂いて天を駆ける弾丸が、ワルプルギスの夜に突き刺さる。甲高い着弾音が、遠く離れたほむらの許まで響き渡った。

「やっぱり、この程度じゃ威嚇にもならないわね」

 構えていたマスケットを下ろしたマミが、目を細めてそう零す。言葉通り、ワルプルギスの夜はなんの痛痒も感じていないといった風で、相変わらず悠然と中空を漂っていた。

「じゃあ、これならどうかしら」

 腕を薙いだマミの背後に、無数のマスケットが現れる。宙に固定されたその銃口は、一つ残らずワルプルギスの夜へと向けられている。点火は一瞬。五月雨の如き炸裂音が響いて、周囲の空間を震わせる。遅れて着弾を知らせる金属音が耳に届き、標的の歯車に火花が咲いた。

 だが、やはり、かすり傷すら与えられない。魔女の嗤い声が、虚しく耳を撫でていく。

 当然だと、一連の流れを観察していたほむらは、冷めた感覚で思考する。ワルプルギスの夜は、何度となく交戦してきたほむらの宿敵だ。認めたくない感情はあれど、その強大さも理不尽さも、彼女は骨の髄まで理解させられている。

 ループの度に調達する武器を増やして、その火力も飛躍的に上昇したというのに、なおも最悪の魔女はほむらを圧倒し続けた。ともすれば時を重ねる毎に強くなっているのではないかと、そんな感覚に囚われてしまうほど、ワルプルギスの夜は絶対的存在として君臨している。

 幾度となく繰り返した時間の中で、ワルプルギスの夜を十分に傷付けられた記憶など、ほむらは持ち合わせていない。少なくとも彼女個人の力だけではそうだった。唯一あの化け物に対抗し得る可能性を持つのは、彼女が知る限りではまどかのみ。だがそのまどかですら、最悪の魔女を倒したやり直しは”一度として”存在しない。

「…………ちょっと大きいのをいくわよ」

 横目でほむらを確認したマミは、僅かな逡巡の後に頷いた。

「警戒、任せるわね」

 言うが早いか、マミは巨大な銃砲を召喚する。もはや小銃の枠を超えて、大砲とでも形容すべき異形の銃。そこに銃床は存在せず、銃身は二脚銃架によって固定されていた。銃口を向ける先にはあの化け物。天空より見滝原を見下ろす、あらゆる魔法少女の怨敵。

 一つ、マミが呼吸を挿んだ。眇めた目で標的を見据え、徐々に照準を定めていく。

 息が詰まるほどの緊張感。これほどまでに慎重なマミの姿を見たのは、ほむらにとって初めての経験だった。ベテランの魔法少女であるマミの動作は、その全てが流麗だ。攻撃にしろ回避にしろ淀みなく、咄嗟の判断においても同様である。その彼女が、ただの一撃にこれほどの時間を掛けるという選択の重みを、ほむらは正確に理解していた。

 視界の隅を過ぎ去る影。真っ暗な少女の形をしたそれは、ワルプルギスの夜が従える使い魔だ。マミが狙われた、という訳ではないだろう。まだ気に掛けられるほどの行動はしていない。つまりこれは、まったくの偶然による遭遇戦という事になる。

 運が悪い。嘆息したほむらは、手にしたハンドガンを使い魔へと向けた。三度引き鉄を引けば、同じ数だけ弾丸が発射される。碌に狙いも付けずに放たれたそれらは、しかし吸い込まれるように敵の使い魔に命中し、その姿を霧散させた。

 この間、マミは僅かたりとも動いていない。宣言通り、ほむらに警戒を任せている。信頼というよりもある種のプロ意識なのだろうが、それでもほむらは、心の浮付きを禁じ得なかった。

「――――――ッ」

 一際空気が引き絞られ、銃口から閃光が放たれる。到達は刹那。尾を引く煌めきが、標的の頭を撃ち抜いた。完璧な、これ以上は望めないというほどの一撃だ。並の魔女なら滅びは必至。並とは呼べぬ相手でも、まず無事では済まないだろう。

「これは……」

 だというのに、ワルプルギスの夜は未だ平然と宙を漂っていた。無論、無傷という訳ではない。魔法少女の超人的な視力をもってすれば、表面に付いた数多の傷を観測する事は難しくない。だがそれは、かすり傷と呼ぶ事すら躊躇われるほど小さなものだ。

 巴マミの実力が、魔法少女の中でトップクラスにある事は間違いない。それは今の一撃だけでも確かな事実だと断言できる。その彼女をしても、最強の魔女には有効打を与えられない。かつての経験から知っていたはずなのに、ほむらはこの結果に少なくない衝撃を受けた。

 半端に口を開いた状態で、ほむらは呆然と立ち尽くす。そんな彼女目掛けて、複数の黒い物体が飛んできた。反射的に受け止めたそれらを確認すれば、未使用のグリーフシードだと分かる。

 思わずほむらがマミを見ると、彼女は厳しい表情でワルプルギスの夜を睨んでいた。

「あげるわ。実力はあるみたいだし、戦闘中に奪いに来られたら面倒だもの」

 ほむらの方を見る事なく、マミは突き放すようにそう言った。

 相変わらず仲が良いとは言えない間柄。信頼なんてそこには無く、ふとした切っ掛けで敵対する事になるだろう。それでもほむらは少しだけ、マミの背中ばかり追い掛けていた頃を思い出した。

「…………長い戦いになるわね」

 マミの言葉に頷きを返し、ほむらはその隣に並び立つ。既に先程の動揺は鳴りを潜めて、普段の冷たさと落ち着きが戻っていた。

 自らの名を心中で呟き、ほむらは己が誓いを新たにする。かつてマミの庇護を求めていた無力な少女ではなく、まどかを助けると誓った暁美ほむらとして、自分はこの場に立っているのだと。

 仰ぎ見れば、中空に浮かぶ幾本ものビル群。異様としか表現できないその光景は、たしかにこの現実で行われているものだ。どうやら相手の気を惹けたらしいと、ほむらは経験から判断する。

 堕ちるビル群。迫る質量。あわや押し潰されるというその刹那、二人は同時に地を蹴った。まず一歩、ビルの窓ガラスを踏み割って、二歩目、壁を足場に加速する。肩を並べて疾走し、彼女らは天を目指して駆け昇る。

 最後は屋上の柵に足を掛け、ほむら達は次のビルへと跳び移った。両者が選んだ先は別のビル。着地までの僅かな時間で、二人は視線を交わし合う。

 接地、また接敵。取り出した自動小銃を小脇に抱え、ほむらは鉛弾をばら撒いた。

 数多の少女達が弾け飛ぶ。ほむらの傍に居た影が、マミを襲おうとした影が、黒雲の下で溶けて消えていく。直後に奔った眩い閃光。マミの銃が放ったそれは、またも魔女の頭を捉えた。刹那の静寂。時が停止したかの如き錯覚。嵐の予兆であると、ほむらは直感的に理解する。

 故にこそほむらは、その事態に反応できた。

 まるでマミの銃撃を再現したかのような、一筋の晦冥。その行き着く先を悟った瞬間、ほむらは時を停めていた。あらゆる色彩が欠け、唯一ほむらだけが色付く世界。全てを置き去りにするその世界では、放った瓦礫すらも中空で静止する。そうして時に囚われたビルの残骸を足場に、彼女は天を駆け抜けた。

 瞬く間を極限まで引き延ばす。届かない距離を届かせる。幾許かの時間を掛けて、けれど刹那の内に、ほむらはマミの許まで辿り着いた。そして銃を構えたまま停止したマミに飛び付き、その場から引き離す。直後に時計の針が歩みを再開し、背後を暗晦が過ぎ去った。

「――――――えっ?」

 戸惑いに満ちたマミの呟き。状況が呑み込めないといった様子の彼女は、丸くした目にほむらを映す。だが一呼吸の後には、そこに理解の色が広がっていた。

「…………しっかり掴まってなさい」

 マミが落ち着いた声音でそう告げる。その真意を問おうとした瞬間、ほむらの全身に強烈なGが襲い掛かる。反射的に、彼女は肺の空気を吐き出した。流れる視界に映る帯。黄色いそれはマミのリボンで、橋に架かるアーチへ巻き付いていた。

 ほむらが状況を把握すると同時に、マミはアーチの頂点に着地する。ほむらもまた難なく体勢を整え、マミの腰から腕を離した。並び立つ彼女達が見詰める先には、宙を漂うワルプルギスの夜。すぐ目の前に存在するその威容は、けれど果てしなく遠かった。

「私だけだと時間が掛かり過ぎるわね。そちらにも有効な手はあるのかしら?」
「いくつか準備してあるわ。通用するかどうかは未知数だけど」
「なら次はそれを試しましょうか。でも、その前に」
「ええ、その前に」

 共に短く呼気を吐き出し、二人は己が得物を周囲へ向ける。影で形作られた少女達。両の指では数え切れないほどの使い魔が、ほむら達を囲んでいた。

『まずはこいつらを片付けましょう』

 重なる発砲音。飛び交う銃弾。互いに背中を合わせた状態から、二人は中空へと飛び出した。


 ◆


 一閃。風切り音を伴う白刃が、人型の影を斬り裂いた。上下に断たれたソレは闇に溶け、後には嘲るような笑い声だけが残される。そうして人気の消えた街角に、束の間の平穏が訪れた。

 純白のマントを翻し、さやかは街灯の上に着地する。暫く周囲を見澄ましていた彼女は、やがて短く息を吐き、サーベルを握る右手を下ろした。

「ったく、いくらなんでも多過ぎでしょ」

 水色の瞳に疲れを滲ませ、苛立たしげにさやかが零す。

 街角での遭遇戦から始まり、転々と戦場を移しながら倒し続けた敵の使い魔の数は、既に両手の指だけでは数え切れないほどだ。これが片手間に処理できる程度の雑魚なら問題ないのだが、この使い魔達はそれなりに手強く、さやかは梃子摺らされてしまった。お陰で魔力を消耗し、そろそろグリーフシードの使用も視野に入れる必要があるかもしれない。

「あーもう、マミさんの方はどうなのかなぁ」

 不安げな目でさやかが見遣るのは、遠目にもハッキリと視認できるワルプルギスの夜の威容だ。その近くでマミが戦っている事は、時折空へ伸びる光線が教えてくれた。よほど激しい戦闘が繰り広げられているのか、時に爆発音が耳を擽り、時に倒壊するビルが視界を横切っている。

 駆け付けたい。それがさやかの素直な想いだった。だが街中に蔓延る使い魔達を放置する事には不安がある。実際、マミからも頼まれているのだ。アイの居る病院の安全を確保してほしいと。

「ま、あんまり悩んでも仕方ないか」

 努めて軽い調子でそう言って、さやかは黒く染まる天を仰いだ。朝から堪え続けた涙がとうとう決壊したらしく、徐々に勢いを増しながら、大粒の雨がさやかの頬を叩いていく。

 厳しい戦いになる。とっくに分かりきっているその事実を、さやかは改めて認識した。それでも彼女の心は揺るがない。自らの成すべき事を明確に定めているからこそ、揺るぎようがない。

 手にしたサーベルの切っ先を、さやかはゆっくりと上げていく。やがて完全に水平となった刃が向けられた先には、新たな敵の使い魔が漂っている。さやかと同年代の少女を象った、人影としか表現できないナニか。それらが三体、さやかの方を見てくすくすと嗤っていた。

 眉間に皺を寄せたさやかが、黙ってサーベルを横に薙ぐ。剣先から雫が飛び散り、降り注ぐ雨に押し潰された。次いで僅かに身を屈め、彼女は街灯の上から跳躍する。

 初撃は落下の勢いを乗せた振り下ろし。真ん中の使い魔を狙ったそれは、しかし予想とは異なり空を斬る。狙った使い魔は宙を滑るようにして剣を躱し、変わらず耳障りな笑い声を上げていた。それでもさやかは冷静だ。着地と同時に腕を振り、彼女は回り込んだ使い魔を断ち切った。

 残り二体。次の獲物を見定めようと、さやかは素早く視線を巡らせる。

「――――――ッ!?」

 眼前に迫る黒い影。その正体を見極める前に、さやかはその場から飛び退いた。風切り音が耳を掠め、直後、さやかが居た地点から巨大な破砕音が鳴り響いた。横目に状況を確認すれば、大槌を道路に打ち下ろした使い魔の姿が見て取れる。

 無防備な背中を晒す使い魔は、格好の獲物と言えるだろう。しかし増え始めた使い魔の気配が、さやかに用心を強いていた。舌打ち一つ。彼女は再び跳躍してその場を離れた。

 敵の数はおそらく四体。一体を倒して二体が増えた計算だ。やってられないと愚痴りたくなったさやかだが、無意味な事かと首を振る。サーベルを握る手に力を籠めて、彼女は気を引き締めた。同時に宙を漂っていた使い魔達が動き出し、一斉にさやか目掛けて襲い掛かってきた。

 さやかが地面を蹴って後退すれば、すかさず使い魔達が追い縋る。その中から僅かに飛び出した一体を、さやかは手始めに斬り捨てた。あっさり消滅した仲間を前にしても、使い魔の間に動揺はない。たとえ人の姿をしていても、所詮は化け物かと、さやかは無感動に思考した。

 二体目は大槌を手にした個体。得物を振り被った瞬間に距離を詰め、さやかはその胸元に白刃を突き立てる。微かなうめき声を漏らし、二体目の使い魔もその姿を崩壊させた。

 眇めた目で残りの二体を確認して、さやかは一旦距離を取る。虚空から二本目の剣を取り出した彼女は、両手に握った得物を、それぞれの使い魔に向けて構えた。

 さやかがグッと息を堪え、次の瞬間、サーベルの刀身が射出された。降り頻る雨を弾き飛ばし、白銀の刃が宙を駆ける。狙い違わず、その切っ先は使い魔の額を貫いた。

 残敵ゼロ。さやかは安堵の息を吐こうとしたが、代わりに漏れ出たのは溜め息だ。

「ゴキブリだってもう少し遠慮するでしょ」

 うんざりした顔を隠しもせずにさやかが愚痴る。それでも自らの役割を投げ出すまいと、彼女は気配を察知した敵の方へと駈け出した。

 時に斬り裂き、時に刺し貫き、次々と使い魔を処理していく。決して楽な戦いではなかったが、危険を感じるほどでもない。だが絶え間ない敵の襲撃に、さやかは疲労を隠せなかった。

 あるいは、一時でも姿を隠せばよかったのかもしれない。しかしさやかが選択したのは、病院と避難所の周辺を巡回し続ける事で、それは戦い続けるという結果を生んだ。

 降り止まない雨が体温を奪う。指先は震え、思考は鈍い。流石に不味いと自覚したのは、倒した敵が百を超えた頃。霞み始めた視界に気付き、最後の敵を屠ると同時に、さやかは足を止めた。

 早く回復しなければ。そう考えられる程度には、さやかの理性は残っている。グリーフシードを探して懐を漁り、けれどすぐに彼女はその手を止めた。見詰める先には使い魔の影。思わず表情を歪め、さやかは握った剣を構え直した。

 未だ相手は気付いていない。奇襲できる、と考えるよりも先に、さやかは回復する事を考えた。考えて、その誘惑に乗ろうとしたが、それを振り払わざるを得なかった。

 使い魔が進む先には、アイの入院する病院がある。その事実を認識した瞬間、さやかは使い魔に斬り掛かっていた。ただ一太刀。それだけで標的を仕留めたものの、さやかの体は重さを増した。そして敵の使い魔も、その数を増している。

 もう嫌だ。そんな弱音が、さやかの心を蝕んだ。

 もしもアイが居なければ、あるいは恭介が居なければ。そんな悪魔の囁きすらも聞こえてきて、さやかの意識は空転する。流石に可笑しいと感じたが、何が可笑しいのか分からない。とにかく、彼女の心は重かった。とにかく、頑張る気力が湧かなかった。

「うぁ――――」

 使い魔の持つ棍に打たれて、さやかの体が吹き飛ばされる。地面を滑り、露出した肌に擦り傷が刻まれる。そして治癒能力により、すぐにそれらは癒やされる。

 水溜まりに手をつき、さやかは震えながら体を起こした。

 揺らぐはずのなかった心が、音を立てて崩れそうになっている。戦う意味に疑念を抱き、自らの選択に後悔を抱き、そんな自分に気付いて、さやかは血が滲むほどに唇を噛んだ。

 自分はこれほど弱い人間だったのか、という失望。違うと叫ぶ自負。そうした感情が綯い交ぜになって、さやかの裡を掻き乱す。暗く冷たい何かを、胸の奥に流し込まれたようだった。湧き出る気力を端から吸い取られるみたいに、思考が後ろに向かっていく。

 さやかが顔を上げると、すぐ前に敵が居た。全身を真っ暗な影で形作ったその姿が、何故か今の自分と重なって、さやかは可笑しな気持ちになった。

 このままではやられてしまう。その事実を理解しているのに、さやかは動く事が出来なかった。使い魔を眺めたまま、呆けたように固まって、彼女は薄く笑っていた。

「あんたバカじゃないのッ!?」

 そんな叫び声が響いたのは、まさに使い魔が得物を振り被ったその時だった。さやかと使い魔の間に割り込む一人の女の子。その後ろ姿を、さやかは呆然と凝視した。

 帽子を被った、茶髪の女の子。先程の声とそれらの特徴から、さやかは彼女の正体に思い至る。同時にさやかの胸の裡に、温かな感情が広がった。

 逃げないのかと、さやかに問うた女の子。戦う様子の無かった彼女が、こうして戦場に立って、さやかを助けてくれている。その事実に、さやかはなんだか救われたような気がした。

 ――――――ッ!!

 女の子が何か叫んでいる。聞こえているはずのそれが、何故か上手く理解できなくて、そのままさやかの意識は、ゆっくりと闇の中に呑まれていった。


 ◆


「ねえ、キュゥべえ。それって本当なの?」

 細い喉を震わせて、まどかは眼前のキュゥべえに問い掛ける。問われたキュゥべえは、赤い目で彼女を見返し、いつもと変わらない朗らかな声を響かせた。

『事実だよ。今、マミ達はワルプルギスの夜という魔女と戦っているんだ』

 まどかは不安げな目をアイへ向けた。否定してほしいと、その目が暗に告げている。だがアイはゆっくりと首を振り、まどかの期待をこそ否定した。

「残念ながら本当だよ。少なくとも、ボクはそう聞いている。厳しい戦いだという事もね」

 感情を押し込めたような、押し殺したような、アイの声。それが何よりも雄弁に事実を物語っていると、まどかは感じた。思わず彼女は、アイから顔を逸らしてしまう。

 ワルプルギスの夜、という魔女が居るらしい。古くから存在するその魔女は強大で、これまでに数多の魔法少女が打倒を試み、敗れ去ってきたという。そんな恐ろしい相手が、今日、この見滝原に現れた。そしてほむら達と激戦を繰り広げていると、キュゥべえは言っている。

 わけがわからなかった。急にそんな事を教えられても、ただの女子中学生に過ぎないまどかでは反応に困ってしまう。やるべき事など、何一つ思い浮かばない。

「伝えても混乱させるだけだと思ってさ、黙ってたんだ。ごめんね」
「いえ……わたしもその通りだと思いますから」

 まどかの言葉は嘘ではない。こうしてキュゥべえから知らされたけれど、だからといって彼女が何かをする訳でもない。ひたすらに思考が空回るだけで、無意味な時間が過ぎるだけだ。教えないという選択をアイが選んだのも、当然と言えば当然だろう。

 再びまどかはキュゥべえを見遣る。一体どうしてこんな話をしたのか、その理由が分からない。先程アイから聞いた話の事もあり、知らずまどかの表情は硬くなっていた。

『このままだとマミ達は全滅してしまうよ』

 瞬間、病室の中に緊張が走る。アイもまどかも動きを止めて、発言したキュゥべえを凝視した。二人の強い視線に晒されても、キュゥべえはまるで動じない。

『火力が足りないんだ。このまま魂が擦り切れるまで戦闘を続けたところで、ワルプルギスの夜に十分なダメージを与える事はできない。それこそ、奇跡でも起きない限りはね』

 淡々としたキュゥべえの語り口は、それ故に強い説得力を感じさせる。深く暗い澱となり始めた不安を抱え、まどかは縋る思いでアイの方へ顔を向けた。

「…………それで? ボク達への用件はなんだい?」
『正確に言えば、君達ではなくまどかに用があるんだ』

 自分の名前が出てきて、まどかは胸を跳ねさせた。

「それは魔法少女になってほしい、という意味かな?」
『その通り。まどかには僕と契約して魔法少女になってほしいんだ』
「まどかは素人だよ。激戦に送り出すというなら、ボクとしては見過ごせないね」
『だけど彼女の才能は特別だ。ワルプルギスの夜を倒すなら、まどかの力は不可欠だよ』

 キュゥべえの言葉に押し黙り、アイは複雑そうにまどかを窺う。始めて見る目の色をしたアイに気付いて、ようやくまどかは、自分の話をしているのだと認識する。だが話の趣旨を理解しても、やっぱりまどかは何も言えなかった。戸惑いばかりが先行して、思考は千々に乱れたままだ。

「まどか。キミには魔法少女の才能があると聞いている。だからキュゥべえと契約して魔法少女になれば、強い力を揮えるようになるんだろうね。そしてまどかの力があれば、ワルプルギスの夜を倒せるかもしれない。キュゥべえの話は、つまりそういう事だよ」

 ゆっくりと、噛んで含めるように説明するアイの言葉が、徐々にまどかの頭に沁み込んでいく。その内に心も落ち着き始め、まどかはどうにか思考を形作る。

 自分に求められている事も、その必要性も理解した。ではどうしたいのかと考えた時、まどかが浮かべた答えは一つだ。魔法少女になりたい。その甘美な誘惑を、彼女は振り払えなかった。

「やめておいた方がいい」

 まどかの心を読んだかのような、アイの一言。反射的に、まどかは背筋を伸ばしていた。

「年長者としてほむらちゃんの友達として、やめておけと言わせてもらうよ。ワルプルギスの夜を倒せると言っても、可能性がゼロじゃないというだけだ。実際は限り無く困難だろうね」

 吐き捨てるようにそう言って、アイはキュゥべえを睨む。キュゥべえの反応は無く、何も知らぬ小動物のように首を傾げるだけで、アイは不愉快そうに鼻を鳴らした。

「教えた通り、魔法少女の結末は絶望だ。たとえ一時の幸福を得られたとしても、その後は不幸の取り立てさ。だからまどかの考えはある種の自己犠牲で、ともすれば犬死にだってなりかねない。そんな役割をキミに押し付ける事は、ボクもほむらちゃんも望んでないよ」

 いつになく荒い語調のアイ。その顔は剣呑としており、らしくない様子に気圧されると同時に、まどかはそんな彼女に疑問を抱く。

 アイの言葉は正論で、ほむらの友達として心配しているというのも、たしかに真実なのだろう。だがまどかの耳には、それがどこか作り物めいて聞こえたのだ。頭の隅にある引っ掛かり。何かが足りないと感じたまどかは、思考と視線を巡らせる。

 キュゥべえを見て、アイを見て、次いで窓の外を見ようとしたまどかは、不意に視界をよぎった物に目を留めた。黒髪を彩る、蜂蜜色をした大輪の髪飾り。それが答えかと、彼女は気付く。

「じゃあ――――」

 気付けばまどかは、問い掛けを紡いでいた。

「マミさんの友達としてのアイさんは、どう思うんですか?」

 アイの表情が凍り付く。答えようとしたのか、微かに薄紅の唇が震えたが、結局は何も言えずに閉じてしまう。そんな彼女の反応こそが、何よりもその本心を物語っていた。

 まどかの胸裡を吹き荒れていた嵐が、嘘のように凪いでいく。

 いつか後悔するかもしれない。何も成せずに死ぬかもしれない。不安はいくらでも湧いてきて、それを消す術をまどかは持たない。だが不思議と、迷いだけは無かった。自分が何をしたいのか。それだけは、今のまどかにもハッキリ分かる。

「アイさんの気持ちはわかりました」

 穏やかな気持ちで微笑み、まどかは告げる。

「わたし、魔法少女になります」

 これはある種の裏切りで、きっと誰にも望まれない選択だろう。それでもまどかは決めたのだ。今の彼女に出来ること。やりたいこと。その答えは一つだけだ。

「ほむらちゃんの友達として、もしここで何もしなければ、絶対に後悔します。魔法少女になって後悔するかもしれないけど、いつか不幸になるかもしれないけど、それは今じゃありません」

 だから、なります。そう続けるまどかに対し、アイは一瞬だけ泣きそうな顔をする。そんな顔をさせてしまった事を申し訳なく感じたけれど、それでもまどかは迷わなかった。

 友達を想う気持ちは、理屈や道理で片付けられるものではない。先程のアイの反応で、まどかはその事を思い出した。ここで動かなければ、自分は一生物の傷を負う。それに気付いたからこそ、彼女は決意した。

 痛いほどの沈黙が訪れる。それを破ったのは、少年とも少女とも取れる、不思議な声だ。

『まどか、君の決意は受け取った。さあ、君の願いを口にするんだ』
「……うん。キュゥべえ、わたしの願いは――――――」

 そうしてまどかは、戻れない一歩を踏み出した。


 ◆


 雨音が聞こえる。途切れる事なく、弱まる事もない雨脚の存在だけが、静かな病室を賑わせる。何をするでもなく、ボンヤリと天井を眺めながら、アイはその音に耳を傾けていた。青白い顔から一切の感情を削ぎ落とし、人形の如き相貌を晒して、無為に時を過ごしている。既にまどかは此処におらず、何故か残ったキュゥべえだけが、そんな彼女の姿を見ていた。

「…………あーあ、ほむらちゃんに怒られちゃうなぁ」

 ポツリと、アイが漏らす。変わらず天井を見上げたまま、変わらず表情を失くしたまま、彼女は平坦な声音を紡ぎ出す。そこには、なんの感慨も存在しなかった。

「謝らないとなぁ。許してくれるかなぁ。心配だなぁ」

 誰に聞かせるでもなく、アイは無意味な呟きを繰り返す。さながら壊れたオルゴールのように、氾濫した水辺のように、彼女は音の羅列を垂れ流す。

「けどまぁ、その前に――――――」

 瞑目し、顎を引き、口元を歪める。そこでようやく、アイの顔に色が戻った。

「まずは当面の問題を片付けないとね」

 再び目を開けたアイが、傍らのキュゥべえを見下ろした。その唇は笑みを形作り、黒曜の瞳には弾けんばかりの生気が満ちている。それが空元気か否かを知るのは、本人だけだ。

「キュゥべえが残ってくれて助かったよ。探す手間が省けるからね」
『まどかには別の端末を付けたからね。僕の役目はアイを観察する事だよ』

 訝しんだアイが眉根を寄せる。

「どういうこと? 実はボクには隠された力が、なんて話ではないだろ?」
『そうだね。これはアイ自身ではなく、マミに由来する案件なんだ』

 アイの眉間に刻まれた皺が、ますます深くなった。不可解だ、とその顔には刻まれている。既に魔法少女となって何年も経つマミに、今更どんな問題があるのか、アイには予想がつかなかった。

『今からひと月ほど前の事かな。僕達にはその瞬間を観測する事は出来なかったけれど、ある日を境に、マミの背負う因果の量が増大したんだ。それも、ありえないほど急激かつ膨大に』

 因果の量。その単語を聞いたアイは、かつて教えられた知識を掘り起こす。

 魔法少女の潜在力は、背負う因果の量によって決まってくる。たとえば一国の王や救世主など、多くの人の運命を背負う立場であれば、膨大な因果の糸が集中するという。翻って、平凡な人生を送ってきた少女達は、魔法少女としても平凡な潜在力しか持たない事になる。

『これは異常事態としか言えない。でも同時に、素晴らしい発見になるかもしれない。この事態を引き起こしたメカニズムを解明すれば、エネルギー回収効率を改善できる可能性があるからね』

 なるほど、とアイは得心する。たしかにキュゥべえの目的に適っているし、実際にその目論見が成功すれば、魔法少女の必要数が減少し、犠牲者が減る可能性すらあるだろう。その点で言えば、アイとしても気になる話題だ。

「だからマミと親しいボクの事を探っていると?」
『その通り。端末の一つを君に割く程度なら、損失はゼロに等しいしね』

 それに、とキュゥべえは続けて。

『君はマミを普通の少女に戻したいんだろう?』
「…………どういう意味だい?」

 低い声でアイが問う。そこには明確な警戒が表れていた。

『魔法少女になった時に、マミが背負う因果と魂は、共にソウルジェムとして再構築されている。そうして存在を確立された因果と魂は、そうそう変質するものじゃない。魔女になる以外はね』

 滔々と語る。朗々と述べる。機械的に無機的に、キュゥべえは情報を伝えてくる。

『つまり今のマミは、これまでに培ってきた魔法少女という枠に嵌められているんだ。その枠が、急激に増大した因果を受け入れられず、多大なロスを生んでいる。そのロスを無くすには、マミの変質を待つよりも、存在を再構築した方が手っ取り早い』

 ここまで聞いた時点で、アイは話の主旨を理解した。自身の思惑とキュゥべえの思惑。それらがどのように絡み合っているのかを把握した彼女は、苛立たしげに唇を噛んだ。

『アイの願いは、その点で都合がいいんだ。マミを人間に戻し、固定化した魂と因果を解放する。その後に改めて魔法少女として契約すれば、全ての因果を内包する事ができるからね』

 そこで、キュゥべえの話は終わった。
 アイは、長く重い溜め息を吐き出した。

「キミらの企みはわかったし、的外れだとも思わない。実際、ただ普通の少女に戻したところで、マミはまたすぐにキミらと契約するだろうしね」

 ボクのために。口中でその言葉を溶かし、アイは苦笑する。その程度は彼女も想定しているし、対策を考えなかった訳でもない。イタチごっこをする気はサラサラないのだ。ただそれよりも何よりも、まったく異なる願いを口にしようとする自分が、アイは可笑しかった。

「でも残念だったね。ボクの願いは違うんだ」

 布団の中から抜け出して、アイは絨毯の上に足をつく。直後、ふらりと小さな体が傾ぐ。咄嗟にベッドに手をついて、彼女どうにか転倒を免れた。

「――――っと。治ったとはいえ、すぐに万全とはいかないか」

 まどかの願いは、アイの病気の治癒だった。外側も内側も、全てをひっくるめて、彼女はアイの健康を祈ったのだ。戦いに赴くというのに約束を守る律儀な彼女に、アイは何も言えなかった。

「ま、せっかく治ったんだ。ボクも戦いに参加するよ」
『無謀だ。たとえ君が百人居たとしても、足手纏いにしかならないよ』

 率直なキュゥべえの物言い。今更それを疑うほどには、アイも捻くれていない。ただそれでも、彼女は意見を翻すつもりはなかった。サービスなのか、ギプス等も消えたため、久し振りに自由になった体を動かしながら、アイは穏やかな口調で語り掛ける。

「キュゥべえ。これでもボクは、キミ達の事を信用してるんだよ。これから願うような奇跡でも、キミ達ならきっと叶えてくれるってね」

 何度か左手を握り直し、腰を回転させて、アイは体の調子を確認していく。少なくとも違和感を覚えない程度には調子が良い事を確かめた彼女は、知らず口元に笑みを浮かべていた。

「絶対に碌な結末にならねーし、できればこの選択は避けたかったけど、それは贅沢か。みんなが絶望的な戦いを強いられてるっていうなら、ボクも頑張らないわけにはいかないよね」

 貧血は治ったはずだが、急に血が増える訳もない。運動神経だってよくならないし、体力だってゼロに等しい。そんなアイが魔法少女になったところで、なるほど、役に立つはずがないだろう。しかしそれらを全て承知した上で、アイは自らの役割を見付けていた。

『いったい君は、なにを願うつもりなんだい?』

 問われて、アイはキュゥべえの方を見遣る。口元に刻むのは微笑みで、細めた目元は柔らかで、だけど瞳に宿る色は、ある種の諦念を感じさせた。

「ちゃぶ台返しと嫌がらせかな」

 アイはそう言って、可笑しげに笑い声を上げるのだった。




 -To be continued-



[28168] #024 『ダメな先輩でごめんなさい』
Name: ひず◆9f000e5d ID:a06c6f1d
Date: 2014/09/14 23:13
 よかった。アイが事故に遭ったあの日、その仔細を聞いたさやかが、最初に思い浮かべた言葉がそれだ。恭介じゃなくてよかった。アイを心配するよりも先に感じたのは安堵で、さやかは今でもその時の事を悔やんでいる。

 魔が差した、と言うほどでもないかもしれないし、アイなら笑って許してくれるかもしれない。しかし誰よりもさやか自身が、己の矮小さを責め苛むのだ。快く相談に乗ってくれた事も、恭介を助けてくれた事も、心の底から感謝しているからこそ、アイを裏切ってしまったような気がして、さやかの心に濃い影を落としていた。

 あの事故以降、さやかはあまりアイと会っていない。なんとなく顔を合わせ辛かったというのもあるし、マミの代わりに少しでも多くの魔女を退治する事で、贖いとしたかったというのもある。単なる自己満足ではあったが、それでも彼女は、そうせずにはいられなかった。

 恭介も大事だけれど、彼と同じくらい、アイを守りたい。それが今のさやかの素直な気持ちで、だからこそワルプルギスの夜という化け物が現れると聞いても、迷わず戦う事を選べれたのだ。

 でも、ならば、今の自分はなんなのだろう。闇に呑まれた意識の中で、さやかは思う。

 辛かった。魔法少女となって随分と肉体は強化されているはずなのに、それでも辛いとさやかは感じた。恭介の居る避難所とアイの居る病院を何度となく往復して、見付けた端から敵の使い魔を討滅する。終わりなんてなくて、誰も見ていなくて、見返りだってありはしない。延々と続くその作業に疲れて、彼女の精神は、徐々に磨り減らされていった。

 ――――――恭介とアイさんが居なければ、もっと楽だったのかな。

 まさしく魔が差したのだろう。たとえ一瞬でも、さやかはそんな事を考えてしまったのだから。後悔と自己嫌悪が湧き上がり、それすら徒労感に押し流される。普段の彼女なら絶対に有り得ないその囁きは、単なる肉体の疲弊によるものか否か。

 違う、とさやかは感じた。言い訳ではなく、自己の正当化ではなく、もっと深い魂の奥底とでも呼ぶべき部分で、そう感じていた。例えるなら底無し沼に引き摺り込まれるような、という表現が的確かもしれない。どれだけ足掻いても抗っても、冷たい沼底に沈んでいくみたいに、彼女の心は暗い感情に蝕まれていくのだ。

 嫌だな。曖昧で朧げなさやかの思考に浮かんだ、その言葉。それが呼び水となり、徐々に彼女の意識が焦点を結んでいく。このままでは駄目だ、とようやく気付いた。だけどあまりに遅過ぎた。既にさやかの心は、彼女自身ではどうしようもないほど汚染されているのだから。

 深い闇の底に、さやかは呑み込まれていく。溺れたように息苦しくて、心苦しくて、思わず手を伸ばしたけれど、何も掴む事が出来なくて。そのまま、独りのまま、彼女は静かに沈んでいく。

「…………?」

 不意にさやかは、誰かの声を聞いた気がした。少女の声。焦った声。聞き馴染みの無いそれは、しかし明確にさやかへ向けられたものだと分かる。

 声は徐々に大きくなる。明瞭になる。その度にさやかを呑み込む深淵が薄まり、代わりに光明が降り注ぐ。やがてさやかは温かな光に包まれ、そして――――――。

「――――――ッ! 起きろ!! オイッ!!」

 意識が覚醒する。重い目蓋を、さやかは徐々に開けていく。そうして彼女の視界に映ったのは、一杯の心配を湛えた小豆色の瞳だ。見覚えの無いそれは、だけど不思議な安心感を与えてくれて、さやかは知らず頬を緩めていた。

 小豆色の瞳が見開かれる。その持ち主である少女が、驚きを露わにする。

「起きた、のか……?」
「なんとかね」

 呆然と呟く少女にさやかは返す。状況は判然としないが、この少女に助けられた事だけは、今のさやかにも理解できる。と、そこで彼女は思い出す。気絶する直前に現れた女の子の事を。

 意識を失う前よりも軽くなった頭を動かし、さやかは辺りを見回し始める。目的の人物は、すぐ見付ける事が出来た。さやか達から僅かに離れた場所で、あの女の子が闘っている。戦闘の余波が二人に届かない程度の距離で、手にした大斧を揮っていた。

「杏子っ、そこのバカは起きた!? だったら手伝え! 手伝わせろ!!」

 影の使い魔を豪快に両断しながら、女の子がヤケクソ気味に叫ぶ。
 慌てて立ち上がろうとしたさやかを、杏子と呼ばれた少女が押し止めた。

「焦るな。アイツなら大丈夫だよ。それよりアンタの調子を確認するのが先だ」
「杏子の馬鹿! バカの馬鹿!! わたしも馬鹿だし馬鹿ばっかりだっ!!」

 必至に戦斧を振り回す女の子とは対照的に、杏子は軽く肩を竦めてみせる。

「気にすんな。どうにもネジがトンだみたいでね、今日はずっとあんな調子さ」

 それは大丈夫じゃないのではないかとさやかは思ったが、杏子の表情に気付いて、口を挿むのは野暮かと思い直した。代わりに杏子の忠告通り、さやかは自らの状態を確かめる。

 道路に座り込んだまま、何度か手の平を握り直し、知らずさやかは顔を顰めていた。

 率直に言うなら、さやかの調子は悪かった。未だに思考は緩慢として、四肢の反応も些か鈍い。それでも倒れる前と比べれば体が軽く、気力も充実していると言えるだろう。

「ほら、やるよ。今度は気を付けな」

 そう言って杏子が差し出したのは、一つのグリーフシードだった。魔法少女にとっては、どんな宝石よりも価値を持つソレ。まだストックがあると断ろうとしたさやかだが、僅かに逡巡した後、恐る恐る受け取った。なんとなく、額面以上の意味が籠められている気がしたのだ。

 さやかがグリーフシードを手にすると、杏子はホッと安堵の息を吐く。その姿を見て、さやかはこれで正しかったのだと目を細める。ただ同時に、引っ掛かりを覚えずにはいられなかった。

「…………あのさ、一つ聞いてもかな」
「ん? ああ、かまわないよ」

 唾を飲んで喉を鳴らし、さやかは杏子と向き合った。

「ソウルジェムが濁り切ったらどうなるか、あんたは知ってるの?」

 思えばその知識は無かったと、今更ながらにさやかは気付く。魔力を消費すればソウルジェムが濁る。ソウルジェムの濁りは、グリーフシードで浄化できる。マミから教わったのはそれだけで、魔力を使い切った時の話は聞かされていない。

 単純に推測すれば、ただ魔法が使えなくなるだけだろう。だが実際にその淵まで近付いたさやかとしては、とてもそれだけとは思えないのだ。ある種の予感に過ぎなかったそれは、杏子の反応によって生々しい現実感を与えられた。

 苦虫を噛み潰したような、という表現がピタリと嵌まる杏子の表情。白い歯を噛み締める彼女の心情は、他人が推し量れるものではない。明らかな秘密の気配が鼻孔を擽り、さやかのお腹に重い不安が溜まっていく。

「後悔しても知らないわよ?」

 沈黙が横たわるその空間を、幼く甲高い声が引き裂いた。見れば斧を担いだ女の子が、さやかを見下ろして立っている。戦闘は落ち着いたらしく、周囲に使い魔の影は無かった。

「あんたがどうなっても、わたしは知らない。それでもいいなら話してあげる」

 冷たく言い放ち、女の子は栗色の瞳を杏子へ向ける。
 鋭い視線が、何かを言い掛けた杏子を制した。

「それで潰れてしまうなら、最初からここに来るべきじゃない。そうでしょ?」

 杏子の返事は無い。その事が逆に、これから語られる内容を暗示していた。碌な話ではないと、さやかにも容易に想像できる。それでも、ここで引くという選択肢は有り得ない。

「……お願い。あたしに教えてちょうだい」
「いいよ。杏子もそれでいいよね?」
「ったく。流石に反対できる空気じゃないだろ」

 雨に濡れた髪を掻き乱し、杏子は大袈裟に溜め息をつく。それから女の子と顔を合わせ、同時にさやかの方へと向き直る。僅かな間を挿み、最初に杏子が口を開いた。

「魔法少女の契約には裏があってな――――――」

 そんな切り口から始まった二人の話は、どれほど続けられたのだろうか。短かった気もするし、長かった気もする。時間の感覚を失うほど聞き入っていたさやかは、全ての話が終わると、疲れと共に大きく息を吐き出した。

 どう受け止めるべきか分からず、持て余した感情がさやかを苛む。何かを言おうとして、だけど言葉が出てこなくて、彼女は力無く首を振った。

「それで、あんたはどうするの?」

 感情を排した栗色の瞳が、静かにさやかを見詰めている。逃げるように目を逸らしたさやかは、項垂れたまま、震える声を絞り出した。

「魔法少女って、なんなのかな?」
「魔女の卵。少なくとも、人間ではないよ」

 さやかが肩を震わせる。頬を伝う雫は、はたして雨粒なのだろうか。

「マミさんは――――」
「アイツはまだ知らないはずさ」

 今度の返答は、杏子によるもの。さやかの肩に手を置いた彼女は、数瞬、視線を彷徨わせた後、躊躇いがちに言葉を続けた。

「……ただ、アイは知ってる」

 不思議とさやかは、その話を冷静に受け止めていた。杏子が口にした”アイ”という名前が誰を指すのかなど、今更悩むまでもない。そして語られた情報も、殊更驚くほどでもない。

 そう、これまでの言動を鑑みれば、アイは全てを知っていても可笑しくない。否、むしろ全てを知っていなければ可笑しいという気すらしてくる。さやかはそう考えた。そう結論付けた。

 ――――――――ッ!!

 響いたのは、短い破裂音。雨音を掻き消したそれは、さやかの頬から生まれたものだ。両の頬に自らの手を添えた姿勢で、さやかは顔を俯かせている。

「だったら――――」

 紡がれた声は、誰に向けられたものでもなく。

「だったらあたしは、死んでも守らなきゃいけないじゃない!!」

 ただ純粋な感情を吐露しただけの、さやかの本心だった。

 忠告はあったのだ。後悔するかもしれないと、アイは初めから忠告していた。それを承知の上で契約したのは誰か。さやかだ。他ならぬさやか自身が決意して、魔法少女になったのだ。

 何よりアイは許してくれた。あの事故を。あの怪我を。魔法少女の事情を知っていたのならば、さやかの所為だと思われても仕方が無いのに、アイは笑って許してくれた。それが救いか呪いかは分からない。ただあの時の笑顔が、さやかの心を支えていた。

「あたしは、まだ戦える」

 決意と共に立ち上がり、さやかは迷いの消えた双眸で杏子達を見返した。それを受けた杏子達は顔を見合わせ、直後、その表情から強張りが抜ける。

「その意気だよ。アタシら魔法少女は、戦うための力を持ってるんだから」
「そうそう。わたし達は戦える。ワルプルギスの夜とも、魔法少女の運命ともね」

 どこか嬉しげな二人の言葉。それに頷きを返したさやかは、遥か彼方、ワルプルギスの夜が居る方角を睨んだ。未だに戦いは続いており、聞こえてくる音が、その激しさを物語っている。ならば自分も役割を果たそうと、さやかはお腹の底に力を籠める。

 刹那、さやかは驚愕に目を見開いた。視界を覆う紺。それがワルプルギスの夜だと気付くのに、彼女は幾許かの時間を要した。堕ちてくる。否。そんな生易しい表現では済ませられない勢いで、魔女の巨体が迫り来る。

 理解が追い付かず、ただ反射的に、さやかは腕で顔を庇っていた。巻いた風が唸りを上げ、一拍置いて、地鳴りと爆発音が全身を震わせる。その場に立ち竦んでいたさやかは、恐る恐る地鳴りがした方を振り返り、結果、言葉を失った。

 神様が戯れにボウリングでもすれば、あるいはこんな光景が出来上がるのかもしれない。そんなふざけた表現に逃げたくなるほど、それはさやかの常識から外れていた。

 先刻までそこに並んでいたビル群は砂糖菓子のように砕け、地面は瓦礫で覆い尽くされている。さやかの記憶にある景色とはあまりに懸け離れ、認識の齟齬が戸惑いを生む。だが何よりも異常を訴えているのは、その惨状の中心地だ。そこに在るのは人型で。そこに居るのは怪物で。その名をワルプルギスの夜と呼ぶのだと、さやかは知っている。

 最悪の魔女が、廃墟を寝床に沈黙していた。陶器を思わせる白い肌に数多の傷を刻み、ドレスの裾をほつれさせた魔女の姿は、ともすれば傷付き倒れたようにも見える。けれど下半分だけの顔に浮かぶ不気味な笑みが、その淡い期待を打ち消した。

 魔女の巨体が距離感を狂わせる。近いのか遠いのか、それすらさやかには分からない。ただ間を阻むはずのビル群は薙ぎ倒され、魔女の無防備な姿だけが、彼女の視界を埋め尽くしていた。

 どうする。どうする。意味の無い自問が空転し、さやかの焦燥が加速する。グローブに包まれた手の平には汗が滲み、背筋は細かに震えていた。

「おい、逃げるぞ!」

 叫んだ杏子が、さやかの手を取って駆け出した。進路はワルプルギスの夜とは逆方向で、それは彼女が宣言した通り、敵前逃亡の選択だ。

「ちょっと! アレを倒すのが目的でしょ!!」
「こんなワケわかんない状況で倒すもクソもないっての! とにかく離れるぞ!」

 グッとさやかが押し黙る。彼女自身、この事態に怯えや戸惑いを隠せないのだ。引かれる右手を振り払い、前を走る杏子に並ぶ。それからさやかは、一瞬だけ後ろを振り返る。見えたのは、宙に浮かび上がる魔女の威容。感じたのは、背筋が凍る力の高まり。

 危ない。そのさやかの叫びに先んじて、魔女の攻撃は放たれた。音よりも速く奔る一筋の晦冥。さやかの視界を両断したそれは、けれど彼女らを襲う事無く、あっさりとその頭上を過ぎ去った。反射的にその行く先を追ったさやかは、こちらに近付く人影に気付く。

 巴マミと暁美ほむら。さやかにとっては共に居る事が有り得ない二人の知り合いが、肩を並べて疾駆している。魔女が放った一撃は、二人の間を貫き、その背後の道路を抉っていた。

 さやか達と二人の距離が詰まり、やがてゼロになる。何かしらのやり取りがあったのか、杏子は十字路を曲がり、マミ達もそれに追従した。当然、さやかと帽子の女の子もそれに倣う。

「一体なにしやがった。潰されるトコだったんだからな!」
「それについては謝るわ。私としても、この結果は予想外だったから」

 最初に口を開いたのは杏子で、答えたのはほむらだ。知り合いらしき彼女達の様子を、さやかは黙って眺めている。彼女としてはほむらに対して思う所はあったが、状況を考えて飲み込んだ。

「まぁ、被害は無かったからいいけどさ。アレはなんだったんだよ?」
「わかりやすく言えばミサイルね。初めて使ったのだけど、ここまでとは思わなかったわ」
「ミサイルッ!? おいおい、そんなもんまで用意してたのかよ」
「軍事施設から拝借したのよ。残念ながら、手が回らなかった物も多かったのだけど」

 嘆息したほむらが、彼方へと目を向ける。その先では、ワルプルギスの夜が巨体を宙に浮かべて漂っている。逆さまの顔に双眸は無く、果たして何を見ているのか、さやかには分からない。

「それよりも、今はアイツをこちらに引き付けるわよ」

 ほむらが並走するマミを見遣る。その仕草で、さやかも彼女の意図に気付いた。

 先程までさやか達が居たのは、見滝原総合病院からほど近い地点だ。つまりワルプルギスの夜が進路を変えれば、アイが病院ごと潰される未来も有り得るという事である。それを考えると、今のマミの心境が如何ばかりか、さやかにはとても想像できない。

「マミさ――――」

 さやかが声を掛けようとした瞬間、マミは表情を変えて跳び上がった。その視線の先には魔女の姿があり、その手は喚び出した巨大な銃砲を構えている。狙いも溜めも存在せず、即座に放たれた眩い閃光は、過たず魔女の胴体に着弾した。

 だが無意味だ。ワルプルギスの夜は傷付くどころか、小揺るぎすらもしていない。同時にさやかは、魔女の進路が最悪の方向に向かっている事に気付く。すなわち、見滝原総合病院へと。

 未だ数キロ程度の距離はあるが、あの巨体ならすぐに病院へ到達するだろう。何事も無く上空を通り過ぎるだけならいいが、それでは楽観が過ぎる。かといってこれから攻撃を初めて魔女の気を惹いても、病院が巻き込まれる恐れがある。

 俄かに場が騒然とする。全員が足を止めて、その顔に焦燥を浮かべていた。誰もが行動すべきと理解しているのに、誰も最善手を見付けられない。マミもまた先程の銃砲を構えたまま、第二射を撃てずに迷っている。

 いたずらに時間が過ぎていき、魔女と病院の距離が縮まっていく。ここまでくれば、あとはもう無事を祈って見守るしかない。そう結論付けて、さやかは腕を下ろす。

 ――――――――瞬間、桃色の光が魔女の体を吹き飛ばした。

 驚きの声を上げたのは、はたして誰だったか。有り得ない光景を前にして、その場に居た誰もが固まってしまう。それほどまでに、衝撃的な事態だった。

 山ほどもある魔女の巨躯が、風船のように流れていく。マミが放つ光線とは違う、緩やかな弧を描く幾つもの光弾が、ワルプルギスの夜を押している。光が弾ける度に、魔女の外装に傷が付く。一発の威力はそれなりだが、数の暴力が目に見えるほど被害を広げていた。

「うそ……」

 瞠目して立ち尽くすほむらの呟きに、さやかは胸中で同意する。

 一発だけでもマミの必殺技に匹敵しそうな攻撃を、冗談みたいに連発する魔法少女など、まさに規格外と呼ぶしかない。本当に嘘のような存在だ。単純にそう考えていたさやかの頭の中を、続くほむらの発言が驚愕で塗り潰した。

「どうして、まどか…………」

 あってはならない名前が、ほむらの口から零れ落ちた。


 ◆


 マミにとって嬉しい誤算だったのは、暁美ほむらという戦力だった。普通の魔法少女とは違い、自らが産み出した魔法の武器ではなく、通常の銃火器に魔法の力を付与して戦う少女。その技量は間違い無くトップクラスであり、上手くマミのフォローとして立ち回ってくれた。

 一方で悪い意味での誤算だったのは、ワルプルギスの夜の頑強さだ。マミの必殺技でもほとんど傷付けられず、ほむらが用意したバズーカや迫撃砲すらほぼ無意味。その程度で闘志を失うような覚悟ではなかったが、頭の冷静な部分では、倒し切れないと判断していた。

 ほむらと共にどれだけの砲撃をワルプルギスの夜に与えたのか、マミは覚えていない。それほど攻撃を重ね、並の魔女ならば優に百回は滅びていると断言できるというのに、あの最悪の魔女は、まるで痛痒を感じた様子が無いのだ。

 たしかにダメージは蓄積されている。見た目には随分と傷も増えた。それでも本格的にマミ達を狙う事なく、ワルプルギスの夜は鷹揚に全てを見下ろすのだ。取るに足らぬと、言うかの如く。

 そうして戦闘を続ける内に、グリーフシードの消費が重なり、徒労感も積み重なっていく。だが何よりもマミを苛んだのは、ある種の飢餓にも似た無力感だった。

 守りたいものがある。守りたい人が居る。その為に戦っているのだという自負と、その為に何を成せたのかという自問が、マミの中でせめぎ合う。所詮は自己満足に過ぎず、ただ何かをしているというポーズが欲しいだけなのではないかと、そんな自傷的な考えすら浮かんでしまう。

 戦いの最中に、マミが何度も反芻した言葉がある。今朝、アイから投げ掛けられた問い。互いに口にしようとしなかった言葉は何かという謎掛け。その答えは、マミもすぐに理解していたのだ。アイに向けて言いたくない言葉を考えた時、最初に浮かんだのがそれなのだから。

 相手を貶めるものではなく、負の感情によるものではなく、ただ意地で言いたくない言葉。

『助けて』

 その一言が、マミもアイも口に出来ない。助けられれば喜ぶし、感謝もするが、自分から相手に助けを求めようとはしない。それは自分こそが相手を助ける立場にあるのだという、ちっぽけで、だけど譲れない意地があるからだ。

 だから。そう、だから今朝のアイは、抗議の意味を籠めて、あの謎掛けをしたのだろう。マミが隠し事をしていると知っていて、それを話さない事を受け入れて、だけど頼られない事には不満を覚えて、こんな回りくどい文句の付け方を選んだのだ。

 おそらく、そこに深い意図は無い。単に日頃の不満を嫌味として表しただけで、アイとしては、ちょっとしたじゃれあい程度のつもりだろう。マミもそのくらいは理解しているが、それでも首をもたげる不安は無視できなかった。

 結局、絵本アイという名の少女にとって、巴マミという存在は必要ないのかもしれない。

 アイが助けを求めていない事くらい、マミも理解している。それでも心の支えとして、あるいは病弱な身を支える者として、自分という存在は不可欠であると信じてきた。だけどここ最近では、あの事故の夜を除いて、マミは本心からアイが笑っている姿を見ていない。またアイの体を健康にするという悲願を成す者も、マミ自身とは言い難い。

 だから自分は、要らない子なのかもしれない。新たに現れた魔法少女を前にして、マミはそんな鬱屈とした感情を抱え込んでいた。

「マミさんっ!」

 明るい笑顔でそう言って、元気に駆けてくる少女が見える。彼女の名前は鹿目まどかで、先程、病院に向かいそうなっていたワルプルギスの夜を押し返した魔法少女でもある。攻撃を続けながら徐々にマミ達の方に近付いてきた彼女と、こうして合流したのだ。

「あの、あの――――――魔法少女になりました!」

 そう話すまどかは興奮しており、頭の中を整理できていない様子だった。なんとも初々しい姿で微笑ましくはあるが、場の空気は決して和やかなものではない。まどかを歓迎していない、という訳ではなく、どこか悲しむような、触れる事に怯えるような、そんな暗く湿っぽい雰囲気だ。

「えーと、えっと…………そう、アイさんが元気になりましたよ!」

 周りの雰囲気を払拭するかのように、元気よく告げられたまどかの言葉。それを聞いたマミは、頬の強張りを抑え込み、なんとか笑顔を貼り付ける事に成功した。

「……そう、ありがとう。あの子もきっと感謝してるわ」

 まどかは笑って頷き、次いでほむらの方へと顔を向ける。ほむらもまたまどかを見詰めており、二人の少女は正面から視線を交わし合う。

「どうして……」
「我が儘、かな」

 弱々しいほむらの呟きに、まどかは苦笑と共に答えを返す。

「色々教えてもらったよ。魔法少女の事も、ほむらちゃんの気持ちも。それでも魔法少女になったのは、わたしの我が儘だよ。友達が大変な時に、なにも出来ないのが嫌な、わたしの我が儘」

 ほむらの顔が歪む。濡れた髪を頬に貼り付け、彼女は眦を震わせた。

 二人が知り合いだったという驚きと、ほむらがこんな顔をするのかという驚き。どちらもマミの心に波風を生んだが、それ以上に気になったのは周りの反応だ。教えてもらったとまどかが告げた時、マミとまどかを除いた全員に緊張が走り、マミの方を窺ったのだ。

 何かある。自分には言えない何かが。そう感じたマミは、直後にくだらないと首を振った。

 分かっているのだ。魔法少女はいずれ魔女になるのだと、マミはちゃんと分かっている。それを確信したのは、この戦いの最中。影魔法少女達の中に、知り合いの姿を見付けた時だ。本当は心のどこかで理解していたのかもしれないが、マミはずっと目を背け続けてきた。だけど影魔法少女の姿を見て、もはや自分を騙す事は出来ないと、彼女は悟らされたのだ。

「はいはい、お喋りは後にしなさい。今は魔女を倒す事に集中しましょう」

 声が震えぬように努めながら、マミは二人の会話に割って入った。そして見上げてくるまどかの手を取り、幾つかのグリーフシードを握らせる。

「使い方は知ってるわね? 長期戦になるだろうから、大事にしなさい」

 コクリと頷くまどかに笑い掛け、マミはみんなから少しだけ距離を取った位置に移動する。顔を巡らせれば、見知った少女達がマミに注目していた。

 滑稽だ、とマミは思う。先程の反応を見れば、この場の誰もが魔法少女の秘密を知っているのだと予想できる。そして全員が、マミはその事を知らないと考え、黙っているのだ。

 これほど滑稽な事は無い。経験も知識も豊富なベテラン魔法少女だと自負していたというのに、蓋を開けてみれば、マミは独りだけ除け者にされていた。もしやアイも知っているのかもしれないと考えると、可笑しくて可笑しくて、思わずマミは笑い出しそうになる。

 ――――――――なんて、役立たず。

 多くの魔法少女を生み出してしまった。魔女にしてしまった。殺してしまった。アイを助けたいと頑張ってきたけれど、結局、彼女を救ったのはまどかだ。二人を引き合わせたのはマミだが、魔法少女と魔女の関係を考えれば、むしろアイに恨まれるかもしれない。そしてこの決戦においても、ワルプルギスの夜を倒そうと頑張ってはみたものの、大した傷を負わせる事は出来なかった。

 愚かで哀れで、道化にすらなりきれない無能者。それが今の自分なのだと、マミは思う。

「この戦い、勝つ為には鹿目さんに賭けるしかないわ」

 道路の上に並び立つ面々にそう宣言すれば、まどかを除く全員が頷いた。唯一まどか本人だけが戸惑っているが、残念ながらこれが事実だ。それほどまでに、先程のまどかの攻撃は強力だった。

「他の人達は、鹿目さんの護衛を優先してちょうだい。回復も彼女を最優先にね」

 やはり否定の言葉は無く、全員が首肯で応えている。まどかもようやく事態を呑み込めたのか、神妙な面持ちで頷いていた。

 マミが息を吐き、一歩、後ろに下がる。これでいいのだと、彼女は自分に言い聞かせた。

 あとはまどかに任せるしかない。彼女が死ぬまで戦っても倒し切れるかどうかは不明だが、その可能性に賭けるしか、この街を、アイを救う術は残されていない。そう結論付けたからこそ、マミは”全ての”グリーフシードをまどかに譲ったのだ。

 何も成せなかった自分だけれど、余計な事ばかりしてしまった愚か者だけれど、せめて邪魔者にならないようにしようと、マミは思った。

 マミがマスケットを召喚する。中空に浮かぶその銃口は、狙い違わず、マミの胸に向けられた。困惑の声が上がったが、マミがそれに答える事は無い。

 限界なのだ、色々と。とぐろを巻いた負の感情が膨れ上がり、暴れ回り、今にもマミを内側から喰い破ろうとしている。それが魔女になるという意味なのだと、マミは本能的に察していた。

 あるいはグリーフシードを使えば、暫く生き永らえるのかもしれない。だがこの戦場において、そんな無駄遣いをする余裕は無いのだ。故にマミは、これこそが最適解だと判断した。

「ダメな先輩でごめんなさい」

 謝罪の宛て先は、全てを押し付ける事になってしまった後輩達。出来るなら誰の目も無い場所で果てたかったが、マミにはその程度の時間すらも残っていなかった。

 マミが尽き掛けの魔力を行使すれば、誰の指も掛かっていない引き鉄が引かれていく。その時になって誰かが叫んだが、全てが遅過ぎた。

 一発の弾丸が、暗い銃口から放たれる。

 衝撃は一瞬。僅かな間を置いて、マミの胸から鮮血の花が咲いた。手足は力を失い、徐々に体が傾いでいく。闇に呑まれゆく意識の中で、最後にマミが思い浮かべたのは、己が親友の姿だった。


 ◆


 理解できない。否、理解したくない。その光景を前にしたほむらは、心中で否定の言葉を叫びながら、必死に千切れ飛びそうな思考を縫い止めていた。

 濡れたアスファルトの上に、マミが静かに横たわっている。胸元には赤い染みが広がり、顔には悲哀を滲ませた彼女は、欠片の生気すらも感じさせない。死んでいる、と誰もが思うだろう。事実この場に居るほむら以外の少女達が、マミが死んだと思って動揺している。

 だが、違うのだ。魔法少女の魂はソウルジェムに宿っており、それが破壊されるまでは不死身に近く、肉体を再生させる事も不可能ではない。たしかに肉体の死を、そのまま自らの死と誤認し、魂すら傷付く場合もあるが、それは現時点では分からない。

 つまり、未だにマミが生きている可能性はあるのだ。マミ自身でさえ死んだと思っているだろうが、ソウルジェムが破壊されるまでは生きているかもしれない。

 だが、それでもほむらは動けなかった。あの瞬間、マミが考えていた事は分からない。どうしてこんな凶行に走ったのか、彼女には理解できない。それでも一つだけ、確かな事実がある。マミは絶望していたのだと、それだけはほむらにも伝わっていた。

 だからこそ、ほむらは動けない。未だにマミが生きているとして、その魂が絶望に染まっているというのなら、如何なる結果が齎されるのか、彼女はよく知っている。

「どうして……」

 上手くいっていると思っていた。少なくとも、ほむらの想定から大きく外れたものはなかった。ワルプルギスの夜を倒せる可能性は残っていたし、マミが闘う理由も残っている。それでも絶望を抱くと言うのなら、はたしてほむらが信じてきたマミの姿は、一体なんだったというのだろうか。

「どうしてなんですか、マミさん」

 ほむらの嘆きに、返る言葉は無い。ただ雨音だけが、耳元で騒ぎ立てている。

 誰もが呆然と立ち尽くすその場所で、最初に動いたのはまどかだった。泣きそうな顔の彼女が、よろよろと倒れたマミに向かって歩いていく。その腕を、ほむらは反射的に掴んでいた。

 どうして、とまどかが振り返る。他の魔法少女達もまた、非難がましくほむらを見ていた。だがそれに答える余裕などほむらに無い。まどかの腕を引き、彼女は急いでその場から離れ始めた。

 何度となく経験したからこそ分かる。ほむらだからこそ理解できる。膨れ上がる気配が、魔女の波動が、これから起こる悲劇を伝えてくれる。

「おいおい、まさか……」
「嘘。だって、そんな」

 事態に気付いたらしい杏子達が、呆然と呟く。同時に、ソレは訪れる。激しい風と共に、広がる闇と共に、ほむら達に悲劇の開演を告げるのだった。

 雨が止む。地面が渇く。世界の全てが一変する。

 雨雲の代わりに現れたのは、白い半球状の天蓋だった。その天蓋を網目状に支える鉄骨からは、黒い鎖が幾本も垂れ下がり、黒髪の人形を吊り下げている。一方でアスファルトは硬質なタイルに置き換わり、そこには火を灯した赤い蝋燭が何本も立てられている。

 見慣れたようで、ほむらにとっても初めて見る、魔女の結界。その中央に鎮座する魔女の姿は、やはり彼女が知るソレだった。全身を隙間無く鎖で覆われた、あるいは鎖で肉体を構成した人型の異形。腰から下が存在せず、足の代わりに鎖を放射状に広げたその姿は、何度となくほむらが目にしてきた、マミの成れの果てだった。

 この場に居る誰もが、あの魔女が巴マミだという事を理解している。そしてだからこそ、誰一人として有効な行動を取れずにいる。ほむらもまた、未だに心の整理がついていなかった。

「――――――予想しなかったわけじゃない」

 沈黙が支配する空間に、少女の声が木霊する。ここに居る全員が聞いた覚えのあるそれは、故にこそ驚きと緊張をもって迎えられた。全員の視線が一斉に声の発生源へと集中し、そしてその場に立つ人影を目にして瞠目する。

 まるで絵本の中から飛び出してきた魔女のような存在が、そこには立っていた。真っ黒で大きな三角帽子を頭に被り、同じく真っ黒なローブで全身を覆っている。帽子の縁が邪魔をして顔はよく見えないが、輪郭や身長から少女である事は明らかだ。魔法少女のはずだが、ほむら達のそれとは懸け離れた衣装の趣が、周囲の空間から少女の存在を浮かせていた。

「むしろ予想したからこそ、ボクはここに居るわけだ」

 歩き出した少女が、ほむらの隣を通り過ぎる。その身長はまどかよりも一回り小さく、さながら小学生のよう。また帽子の下から覗く長い黒髪が、尻尾のように揺れ動いていた。

「けど、キッツいなぁ」

 魔女から幾分か距離を取った場所で立ち止まり、少女は鎖の異形を見上げた。背後のほむらにはその顔を見る事は出来ないが、決して笑っていない事だけは伝わってくる。

「ボクの出番なんて、一度も無い方がいいんだけどね。まったく、友達思いが過ぎるぜ」

 帽子の縁を手で引いて、少女は目深に被り直す。直後、少女の右手に大きな木の杖が出現する。節くれ立ち暗い色をしたそれは、不思議と小さな白い手に似合っていた。

 少女がゆっくりと杖を構える。さながら物語の一幕のようで、ほむらは何も言えず、ただ観客の真似事をする事しか出来なかった。

「ま、そこが可愛いトコなんだけどね」

 その瞬間、少女が何をしたのか、ほむらには理解できなかった。全てが白い光に包まれて、光が収まると、魔女の結界は消えていた。辺りは先程までいた街角で、再び雨が体を濡らし始める。

 少女を除いた誰もが、呆気に取られて立ち尽くす。ほむらもまた、この状況に思考が追い付いていない。少女が魔女を倒したのか、それとも違うのか。それすらも判然としない。だから少しでも情報を集めようと少女の姿を追い駆けて、そしてほむらは、またも驚愕に襲われた。

「ありえない……」

 ほむらが口に出来たのは、ただそれだけ。他には何も考えられないほど、衝撃的な光景だった。

 少女の足元に、巴マミが倒れている。先程まであった胸元の赤い花は消え、まるで悪い夢だったとでも言うかの如く綺麗な姿だ。何より彼女は生きている。魂が魔女となり抜け殻となったはずの肉体に、たしかに生命が宿っている。

 ありえない、とほむらは繰り返す。一度でも魔女になってしまえば、元に戻る事など不可能だ。そのはずなのだ。だからこそほむらは、マミを見捨てざるを得なかったのだから。

 だが、現実は目の前にある。ほむらの目の前で、マミは再び息を吹き返した。

 ほむらだけではなく、誰もが驚き思考を止めている。平然としているのはこの事態を起こした少女だけで、彼女はマミを見て一つ頷いた後、ほむら達の方に振り返った。

「調子は上々。さぁ、この戦いを終わらせようか」

 帽子の下から顔を覗かせ、少女が、絵本アイが、笑いながらそう告げた。




 -To be continued-



[28168] #025 『他の誰でもないキミに』
Name: ひず◆9f000e5d ID:a06c6f1d
Date: 2014/10/13 12:45
「力が欲しい」

 雨音がやまない病室に、その一言が浸透する。発言者たるアイは薄く笑い、足元のキュゥべえを見下ろしている。対するキュゥべえもまた、静かにアイを見上げていた。ビー玉みたいな赤い瞳を光らせて、無機質に、無感動に、アイの姿を映している。

「より正確に言うなら、キミ達、インキュベーターの力が欲しい」

 アイが続ける。瞑目した彼女の口元は変わらず歪み、発する声もまた楽しげだ。ただそれでも、キュゥべえはなんの反応も示さない。アイも、そんなキュゥべえを気にしていない。

「より詳細に言うなら――――――」

 目を開き、目を細め、アイは窓の外へと視線を移す。空は黒い雲に覆われて、見慣れた街並みは雨の向こう。その光景は、この街を襲っている脅威を示しているだけなのか、はたまた近い未来を暗示したものか。

「魔法少女の絶望によって生まれる感情エネルギーを回収する力と」

 ピクリと、キュゥべえの耳が揺れる。
 キョロリと、キュゥべえの目が動く。

「感情エネルギーによって願いを叶える力が欲しい」

 宣言し、アイは再び足元のキュゥべえへと目を落とす。赤い瞳が、静かにアイを見上げていた。観察とも注目とも呼べそうなその視線は、常とは異なる熱を帯びているように感じられる。

「前に教えてくれたよね、キミ達はコストが掛からない存在だって。そんなキミ達に備わっている機能なら、ボクが起こせるちっぽけな奇跡でも、手に入れられるかと思ってね」

 息を零したアイが、小さく肩を竦めた。力の抜けたその顔からは、明確な感情は読み取れない。ただ少なくとも、正に由来するものではない事だけは確かだろう。

 沈黙の帳が下りる。黒と赤の視線が絡み合うが、そこに意志のやり取りは感じられなかった。

『――――――そうだね。君が本心からそれを望むなら、その願いは叶うだろう』

 ようやくキュゥべえからの返事があった。無機的で義務的で、なんの感慨も抱いていなさそうな声が、アイの脳裏に反響する。それを聞いて、アイは満足げに首肯した。

「うん。もしもキミ達が、ボクと契約してくれるならね」
『君の願いは契約に違反していないし、提案したのは僕達だ。今更取り下げる事はないよ』

 返事はやっぱり、感情の乗らない高い声。対するアイは、眩しげにキュゥべえを見返した。

「…………やっぱりキミは、ボク達とは違う生き物だよ」

 情感で湿ったその声は、誰に向けられたものでもなく、病室の空気に呑まれて消える。束の間の沈黙が訪れ、黒と赤の瞳が見詰め合う。先に動いたのはアイだった。首を振って視線を外した彼女は、薄紅の唇を震わせて、改めて己が願いを紡ぎ出す。

 ――――――――そうしてここに、一人の魔法少女が誕生した。

 真っ黒なとんがり帽子に、同じく真っ黒なローブという、絵本に出てくる魔女のような出で立ち。それがアイの魔法少女としての姿だった。何がしかの模様や装飾があるわけでもなく、見事なまでの黒一色。得物も節くれ立った木の杖だけという色気の無さで、姿見に全身を映したアイは、不満げに口を尖らせた。

「マミとお揃いとは言わないけどさ、もうちょっと可愛げが欲しいよね」

 手にした杖を撫でながら、アイが嘆息する。ただそれ以上の文句は零さず、首を振った彼女は、そのまま病室の扉へ向かって歩き始めた。

『君なら理解していると思うけど』

 キュゥべえの呼び掛け。その場で足を止めたアイは、けれど振り返る事はしなかった。

『その力で願いを叶える度に、君の因果は歪んでいく。たしかにこの状況を打開する一手にはなるだろう。でも君の結末は、絶望という言葉すら生易しいものになるかもしれないよ』

 顎を引き、アイは帽子の縁に指を掛ける。白魚の指が僅かに下がり、その表情は隠された。

「わかってるさ、そのくらい。ボクだって、こんな借金を借金で返すようなマネは遠慮したかったんだぜ。ああ、いや、この場合は保証人と言った方が近いのかな」

 くつくつと笑い声。細い喉を震わせて、アイはそんな答えを返すのだった。でもやはり、彼女がキュゥべえの方を振り返る事は無い。

 手にした杖の先で床を突き、これで終わりとばかりに、再びアイは歩き始める。今度は、背中に掛かる声は無い。そうしてアイは、慣れ親しんだ病室を後にした。


 ◆


 誰もが言葉を失っていた。降り頻る雨の中で、人影の消えた街角で、五人の魔法少女が、呆然と立ち竦んでいる。さながら幽霊を目撃したかのようなその顔は、同時に彼女らが目にした光景への理解を意味していた。

 今、この場で起きた奇跡。魔法少女としての絵本アイが起こした有り得ざる事象。その価値を、ここに居る五人の魔法少女は理解している。それはつまり、魔法少女と魔女の関係を、ともすればキュゥべえの思惑すらも、彼女らは知っているという事だ。

 予想外、と言えばそうなのかもしれない。アイの持っている知識と現状には、少しばかりの食い違いが生じている。だが問題があるかと問われれば、アイは否と答えるだろう。

 チラリと、アイは背後を振り返った。そこでは彼女の親友であるマミが、濡れたアスファルトの上に横たわっている。雪色のブラウスに琥珀色のスカート、そして栗色のコルセットという姿は、アイの知る魔法少女としてのマミのものだ。

 思わずアイが目を細めたのは、胸中に秘めた申し訳なさから。マミが魔女になった際に生まれたエネルギーを回収し、利用し、アイは一つの奇跡を叶えた。

『マミの魂を魔法少女として再構成する』

 それがアイの願った奇跡だ。人間に戻す事も出来たはずなのに、アイにはそれを選べなかった。感情はそうする事を願っていたのに、理性がそれを押し留めてしまった。

 先端が濡れた髪を揺らし、アイは彼方の空を睨み付ける。

 ワルプルギスの夜。最強最悪の魔女。かねてから話に聞いていたその存在を、アイはこの場所に至るまでの道中で観測していた。まさしく規格外。能力の関係でエネルギーの観測に秀でたアイの感覚は、おそらく他のどの魔法少女よりも正確にその脅威を把握していた。

 吹けば飛ぶ。ワルプルギスの夜に対するアイの存在は、文字通り塵にも等しかった。それは彼女以外の魔法少女であっても大差なく、とても対抗できるものではない。唯一まどかだけは比較に値するが、それでも単純なエネルギー量では大きく劣っている。

 なるほど、キュゥべえがこれらのエネルギー量を観測できるなら、敗北以外の未来を予測する事は難しいだろう。そう納得し、だからこそアイは、魔法少女としてのマミが必要だと判断した。

 結局はキュゥべえが望む結果になってしまったが、今のマミは魔法少女としてまどかに匹敵する力を持っている。そしてマミとまどかの二人が居れば、ワルプルギスの夜を打倒し得る。否、既にアイの中では勝利への道筋は完成していた。

「ほらほら、いつまで呆けてるのさ!」

 再び五人の魔法少女の方に振り返り、手を打ち鳴らすアイ。その音で、ようやくほむら達が気を取り直す。まず一歩、五人の中からほむらが前に進み出た。

「アイ、さっきのは…………」
「ボクの能力だよ。見ての通り、魔女になった魔法少女を助ける事も可能な力さ」

 驚愕、という言葉で済ませていいものではないだろう。他の四人と比べても、ほむらの表情の変化はとびきりだ。唇は歪み、瞳は見開かれ、長い睫毛は震えている。そこにどんな感情が籠められているのかは分からないが、アイの知らない彼女の戦いがあったのだろうと感じさせられた。

 話してみたい、とアイは思った。ほむらとも、他の魔法少女達とも、色々と話をしてみたい。魔法少女の事を、キュゥべえの事を、何も隠さずに語り合いたい。そう思ったのだ。

 だが、今はその時ではない。肩を竦めたアイは、明るく五人に話し掛けた。

「ま、そんな事よりあの化け物だね。ちゃっちゃと倒そうぜ」
「それには賛成だけどな、なにか作戦はあるのか?」

 今度は杏子が口を開いた。流石と言うべきか、彼女は比較的冷静だ。

「もちろんさ。ボクらが力を合わせれば、あっという間に倒せるぜ」
「…………本当か? わかってると思うけど、あの化け物は規格外だぞ」

 アイは躊躇なく首肯する。事実、彼女にとっては既に勝ったも同然の状況だ。必要な要素は全て揃い、あとはそれらを組み合わせるだけでいい。賭けも、冒険も必要ない。ただ水が上から下へと流れるように、彼女は勝利を引き寄せられる。否、引き寄せてみせる。

「だからボクを信じて任せてくれよ」

 我ながら胡散臭いと思いながらも、アイは笑顔でそう言った。それを聞いた杏子達の顔には不安があったが、少なくとも不満の声は上がっていない。そんな彼女らに対し満足げに頷いたアイは、再びマミの方へと体を向けた。

「起きてるんでしょ?」

 確信を持ったアイの声。同時に、倒れたマミの指が微かに動く。そのまま沈黙が続いていたが、やがてマミはゆっくりと体を動かし、濡れた体を起き上がらせた。

 アスファルトに両手をついて座り込んだ体勢のまま、マミは黙って俯いている。いつも手入れの行き届いた金髪が、今は雨で乱れていた。濡れたブラウスは肌に貼り付き、スカートは水溜まりに浸かっている。常のマミとは、比べ物にならないほど惨めな姿だった。

 一歩、アイがマミへと歩み寄る。マミは、なんの反応も示さなかった。

「――――――ねえ、マミ。これからボクは、とても酷い事を言うよ」

 言葉とは裏腹に、声音に嫌な響きは無い。雨の重みで垂れた帽子の縁を持ち上げれば、アイの白い相貌が露わになる。そこに明確な感情は無かったが、瞳は奇妙な静けさを宿していた。

「とても、とても酷い事を、キミに言う」

 一瞬の静寂。喉を鳴らして、アイが続ける。

「助けてほしいんだ」

 マミが肩を震わせた。
 アイは唇を噛み締めた。

「他の誰でもないキミに、他の誰でもないボクを、助けてほしい」

 訪れたのは沈黙で、降り続ける雨音が、凍った空気を揺り動かす。アイは続く言葉を紡がず、マミもまた、なんの返事も返そうとしない。

 だが、それも僅かな時間の事だ。やがてマミは、俯けていた顔を上げ始めた。恐れるようにゆっくりと、はばかるように目を伏せて、それでも最後には、アイと見詰め合う形で動きを止める。

 互いに目は逸らさない。ただ静かに、彼女達は視線を交わす。

「――――本当に、酷い友達ね」

 先に口を開いたのはマミだった。青白い顔をした彼女の声は生気に欠け、どこか浮世離れしたものを感じさせる。対するアイの方は何も返さず、ただ黙って、手にした杖を握り締めた。

 マミが緩慢な動作で動作で立ち上がる。そのまま彼女は、覚束ない足取りでアイの方へと歩き始めた。肩を揺らして歩く様は幽鬼のようで、だけど蜂蜜色の瞳だけは、真っ直ぐにアイの姿を捉えている。

 二人の距離がゼロになるのに、大した時間は掛からなかった。目の前に立ち止まったマミを、アイが首を曲げて仰ぎ見る。黒い瞳に映る親友の顔は、意外なほどに穏やかだった。

「えっ」

 黒い帽子が地面に落ちる。気付けばアイは、正面からマミに抱き締められていた。互いに頬を擦り合うような形になり、アイが視線を動かせば、蜂蜜色の髪が目に映る。

「泣かないで。私はここに居るから」

 囁き声が、アイの耳元を擽った。直後に一度だけアイを強く抱き締めて、マミはまどか達の方へ歩いていく。残されたのは服越しに感じた体温と、言葉を失ったアイだけだった。

「………………」

 アイが足元に落ちたとんがり帽子を拾って被り直す。雨に濡れて水が滴っていたが、それは彼女自身も変わらない。そのまま一度だけ深呼吸したアイは、改めてまどか達の方を振り返った。

「さあ、待たせたね!」

 溌剌とした声が駆け抜ける。
 目一杯の笑顔を浮かべて、アイは他の魔法少女へ呼び掛けた。

「それで、私達は何をすればいいのかしら?」

 六人を代表して、マミが問うてくる。自然と中心に収まっている辺り、流石の貫録と言うべきだろうか。どこか憑き物が落ちたようなその顔は、不思議な安心感を与えてくれる。

「別に難しい話じゃないよ。文字通り、みんなの力を合わせるだけさ」

 視線を巡らせ、アイは一人一人の顔を確認していく。誰もが真剣で、覚悟と決意を秘めていて、この光景こそが奇跡みたいだと、そう感じずにはいられなかった。

 女子中学生なのだ。この場の七人全員が、思春期のただ中に居る少女なのだ。友達と過ごす時が楽しくて、好きな男の子が居たりして、ふとした拍子に感情を爆発させる未成熟な少女達。そんな義務も責任も知らないような子供が、命を賭けて街を救おうとしているのだ。奇跡か、でなければ喜劇の類だろう。キュゥべえが魔法少女を求める理由が、少しだけアイにも分かった気がした。

 だからこそ、失敗は許されない。その想いを胸に、アイは一瞬だけ目を閉じた。

「ボクの能力を使えば、此処に居る魔法少女全員の力を一つに纏める事が出来る。そしてその力を使えば、ワルプルギスの夜を葬れるほどの攻撃を生み出せるだろう」

 作戦、というほどのものでもない。単純に力で相手を上回ろうという、圧倒的なまでの正攻法。本来であればワルプルギスの夜こそが十八番とするそれを可能にするのが、巴マミと鹿目まどかという、規格外の魔法少女の存在だ。

 誰の差配によるものかは分からない。ひょっとすれば神様の贈り物なのかもしれない。ただその原因がなんであれ、マミとまどかの力があれば、ワルプルギスの夜に匹敵する力を生み出せる。そして残りの魔法少女の力で、ワルプルギスの夜を上回る。

 重要なのは、全員の意思が統一されている事だ。各々の意思が別の目的に向いていれば、それを統合する際のロスや必要エネルギーが大きくなってしまう。より確実に成功させる為にも、全員で協力するという想いこそが必要になる。

「魔法少女の力は、すなわち心の力だ。みんなで力を合わせて、あの化け物を倒そうと強く願えば、十分なエネルギーを生み出せる。それだけの可能性が、ボク達にはあるんだ」

 そう言って六人の魔法少女達に歩み寄り、アイは自らの手を差し出した。手の甲を上側に向けたその意図を理解できない者は、この場所には居ない。

「もちろん、私はいつでも貴女の味方よ」

 最初に手を重ねたのはマミだ。
 柔らかに微笑み、彼女はそう言った。

「貴女が居てよかったと、本当にそう思うから」

 二番目はほむらだった。
 いつになく、その表情は穏やかだ。

「ほんの少しでも、わたしが力になれるなら」

 まどかは、いつものように澄んだ瞳をしていた。
 小さなその手が、躊躇う事無くほむらの上に重ねられる。

「信じてます。だから、一緒に頑張りましょう」

 続くさやかは、真っ直ぐな声音の宣言だ。
 水色の瞳に、迷いの色は見て取れない。

「お前は馬鹿じゃないし、悪人ってわけでもないしな」

 杏子もまた、自分の手を重ねる。
 軽い調子ではあったが、軽薄さは感じられない。

「色々あったけど、色々あったから、今は力を貸したげる」

 最後の彼女は躊躇いがちに。
 ただ、その目は逸らす事無くアイを見ていた。

 全員の手が重ねられる。その結果に、アイはちょっとだけ涙ぐみそうになってしまった。だが、今は感傷に浸っている暇は無い。みんなの気持ちに応えようと、アイは明るい笑顔を浮かべた。

「ありがとう」

 アイはそれ以上の言葉を言えなかった。重ねられた手に視線を落とし、それから改めて、彼女は他の六人の顔を見回していく。そして一度だけ、大きく頷いた。

 不安は無い。ある種の全能感にも似た幸福感が、アイの胸を満たしていた。

 奇跡は起こる。その確信と共に、アイは左手の杖をみんなの手に重ねた。ここにあるのは可能性だ。キュゥべえが欲する人類の力だ。アイがすべき事は、この可能性の渦を束ね、方向性を与えること。失敗などあり得ない。だってこんなにも全員の気持ちが、一つになっているのだから。

 僅かな呼び水を与えれば、それだけで力が膨れ上がる。みんなの手を通して集まる力が、一つの奇跡へと結実していく。誰もが口元に笑みを浮かべている。自然とお互いの目を合わせ、最後にみんなで頷いた。

 そうして世界に、光が満ちた。


 ◆


「いや~、終わってみれば呆気ないもんだね」

 雲ひとつ無い青空を見上げて、あっけらかんとアイが呟く。その姿は魔法少女のそれではなく、いつもと変わらない、藍色の入院着に戻っている。

 アイの言葉通り、驚くほどにあっさりと、ワルプルギスの夜は消えてしまった。まるで初めから存在しなかったかのように、悪い夢でも見ていたかのように、最悪の魔女は姿を消したのだ。後に残されたのはこの青空と、昨日までと変わらない街並みだった。

 そう。アイが願った奇跡は、ワルプルギスの夜を打倒するだけではなく、壊れた街の修復すらも実現したのだ。お蔭でマミの魔女化によって得たエネルギーはゼロとなったが、アイの胸に後悔は無い。この空と同じように、彼女の気持ちは晴れやかだ。

「それは貴女だけよ。私は大変だったんだから」

 アイと並んで歩くマミが、笑いながら愚痴を零す。

「まったくね。素敵な結末だとは思うけど、なんだかやりきれないわ」
「わたしはちょこっとしか戦ってないし、アイさんに賛成かなぁ」

 そう続けたのはほむらとまどかだ。二人は仲良く肩を並べながら、アイ達の後ろを歩いている。残る三人は此処には居ない。さやかは恭介の安否を確認しに行ったし、帽子の女の子も、行くべき所があると去って行った。杏子もまた、帽子の彼女の後を追った。

「ま、そのお蔭で上手くいったんだと思うよ。ボクがもっと早く参加していたところで、なんにも出来ずに殺されてるさ。この奇跡みたいな結末は、みんなが頑張ってくれたからだよ」

 眩しげに目を細め、噛み締めるようにアイが紡ぐ。

 あの瞬間を逃していたら、アイは足手纏いにしかならなかっただろう。また全員の心が団結していなければ、これほどの奇跡は起こらなかっただろう。結局、アイがやった事は最後の仕上げだけであり、そこに至るまでの積み上げは、全ての魔法少女達の手で成されたものだ。

「そうじゃなきゃ困るわよ。ほんと、美味しい所だけ持っていくんだから」

 マミが拗ねたようにソッポを向いた。だがすぐに彼女は、アイの方へと向き直る。

「そういえば、アイの能力はなんなのかしら?」
「私も気になるわね。これだけの事象を実現できる能力なんて、凄いでは済まないもの」

 ほむらの方を振り返り、次いで隣のマミを見上げ、アイはふむと顎先に手を添えた。数秒ほどの思索を経て、薄紅の唇が弧を描く。同時にアイは、立てた人差し指を口元に当てた。

「ヒ・ミ・ツ。教えてあげないよ」

 にっこり。そうとしか形容できない表情でマミが笑う。

「つまり、私が聞いたら怒るような能力なのね」
「そうだよー。だからそういう話は今度にしようぜ」

 気負い無くアイが返せば、マミは毒気を抜かれた様子で嘆息した。その後ろではまどかが苦笑し、ほむらは頭に手を当てている。

「マミだって、契約を仲介した魔法少女の事とかあるだろ?」

 俄かに緊張が走り抜ける。沈んだ空気がやってくる。
 マミも、ほむらも、まどかですらも、口を噤んで黙り込む。

「ほむらちゃんも、マミやまどかと話し合わなきゃいけない」

 首を巡らせ、アイは背後の二人を見遣る。
 ほむらとまどかは、気まずげに顔を見合わせた。

「これでエンディングじゃないんだ。ワルプルギスの夜なんて、所詮は強力なだけの中ボスだよ。本当の意味で魔法少女が乗り越えるべきなのは、絶望に呑まれそうな自分の心さ」

 瞑目し、開眼し、直後にアイは、大きく両手を打ち鳴らす。
 マミが、ほむらが、そしてまどかが、驚いた様子で目を見開いた。

「だからさ、今日ぐらいは全部忘れて馬鹿になろうぜ」

 告げるアイの声は晴れやかで、その顔には笑みが浮かんでいた。釣られるように、マミ達もその表情を和らげる。穏やかな風が、四人の間を流れていく。

「仕方ないわね。今はそれで納得してあげるわ」
「いいんじゃないかしら。私も一息つきたい気分だもの」
「わたしも、今日は色々と疲れちゃいました」

 みんなが笑う。みんなで歩く。不安要素はたくさんあるし、未来は明るいばかりではない。でもこの瞬間、この場所には、幸せと呼ぶべきものがある。それだけは、誰にも否定できない現実だ。

 アイが空を仰ぎ見る。そこにはやっぱり、綺麗な蒼穹が広がっていた。




 -To be continued-



[28168] #026 『それは本物だと思うから』
Name: ひず◆9f000e5d ID:a06c6f1d
Date: 2014/11/24 21:28
 いつも通りの学業を終えれば、いつも通りの放課後が訪れる。ほんの一瞬前の静けさから一転して、教室は賑やかな空気で満たされた。すぐに帰宅の準備を始める生徒に、部活へと向かう生徒、雑談に興じる生徒など、みんな好きなように自由な時間を過ごしている。

 まどかもまた、友人であるほむら達と集まり、話に花を咲かせていた。

「まさか当てられるとはねぇ。このさやかちゃんの目をもってしても見抜けなかったわ」
「たとえ見抜けたところで、結果は変わらないでしょうけどね」
「なにおう。落ち着いてやれば、あのくらいラクショーだっての」

 言い合いを始めたほむらとさやかを見て、まどかは仁美と顔を合わせて苦笑する。いつもの事ではあったが、だからこそ呆れもするというものだ。

 ほむらとさやかは仲がよくない。悪いという訳ではないのだが、お互いに思う所があり、どうにも素直に接する事が出来ないようだった。

 とはいえそれも無理からぬ事だ。ほむらは以前、魔女になりかけた魔法少女を殺した事がある。また、さやかを銃で撃った事も。そうした事情を鑑みれば、むしろほむらに対して隔意の無いまどかの方が可笑しいのかもしれない。

「失礼しまーす!」

 聞き慣れた声に惹かれて、まどかは教室の入口へと目を向ける。するとそこには、制服に身を包んだアイとマミの姿があった。ここ暫くで見慣れた光景のはずだが、上級生二人の存在に、周りの生徒は少しばかり緊張している。

「やぁやぁ、お待たせ。可愛いボクのお出ましだっ」

 なんの遠慮も無くまどか達の傍まで歩いてきたアイが、朗らかな笑顔でそう告げた。その顔は以前と比べるまでもなく血色がよく、健常者のそれと変わらない。

 まどかの願いによって健康な体を手に入れたアイは、現在に至るまで大きな問題も無く、順調に日々を過ごしている。こうして学校に通っている事が、その証左だろう。元々在籍はしていたらしいが、登校した事は一度も無く、クラスメイトには転校生に間違われたと、アイは笑って話してくれた。

「ほら、早く帰ろうぜ。明日はお休み、今日は我が家でお泊りだ。仁美が参加できないのは残念だけど、ほむらちゃん達は来てくれるんだろ?」
「もちろんよ。楽しみにしているわ」
「バッチリ準備してます! 今日はよろしくお願いしますね」

 アイの言葉で、ほむら達はアッサリと言い合いをやめてしまった。そんな二人の態度に、まどかは再び仁美と一緒に苦笑する。次いで仁美は、頬に手を添えて嘆息した。

「わたくしも行ければよかったのですけれど」
「しょうがないよ。お家の用事があるんでしょ?」
「そうそう。次回の楽しみが出来たと思って、今回は自分の用事を優先しなよ」

 割って入ってきたアイを見て、仁美が何度か瞬いた。

「あら、次があるのですか?」
「もちろんあるよ。その次も、そのまた次もある。必ずね」

 穏やかな口調でそう答え、アイは静かに目を瞑る。その言葉に、その姿に、まどかは切なさが込み上げてきた。知らず、右の手の平を握り締めてしまう。

 お泊り会を開こう、と提案したのはアイだ。いきなりの話ではあったが、特に否定の声は無く、この場には居ない杏子達も交えて、トントン拍子で予定が詰められた。場所は退院したアイが住んでいる彼女の伯父の家で、期間は一泊二日。途中で仁美が参加できなくなるというアクシデントはあったものの、まどかは素直にこの日を楽しみにしていた。

 ただ先程のアイの言葉で、少しだけ考えてしまう。はたして本当に”次”はあるのだろうか。たとえあったとして、そこに全員が揃っているのだろうかと。

 鹿目まどかは魔法少女だ。近しい友人達も、仁美を除けば同じ立場にある。だからちょっとした運命の悪戯で、あるいは必然の名の下に、命を落とす事もあり得てしまう。いつもは考えないようにしている事だが、一度でも思考に上ると、意識せずにはいられない。

 今の日常を幸せだと感じるからこそ、まどかは薄氷の下を恐れていた。

「どうしたの? 怖い顔してるぜ」

 真っ黒で大きな瞳。気付けば間近に迫っていたアイに驚き、まどかは僅かにのけ反った。そんな彼女の様子を、アイは目を細めて眺めている。

「人生に悩みは付き物だけど、それを乗り越えるのも人生って事を忘れちゃダメだぜ」

 邪気の無い笑み。芯の通ったその声音。全てを見透かすようなアイの言葉に、まどかは何も言えなかった。ただ恐れを見せない彼女の姿には、ちょっとだけ勇気付けられる。

「ま、考え事は後でも出来るし、まずは帰ろう。そうしよう。そろそろマミが怖いしね」

 アイの視線が教室の入口へと向かう。つられたまどかがそちらを見れば、マミが笑顔で佇んでいた。そう、笑顔である。笑顔ではあるが、笑っていないとまどかは思った。

「わわっ」

 慌てて荷物を纏めて、まどかは席から立ち上がる。ほむら達も同様で、各々の手には鞄が握られていた。そうして準備が出来た所で、みんなでマミの方へと駆けていく。

「ごめん、待たせちゃったね」
「まったくよ。話し込むなら帰りながらでいいじゃない」

 ツンとそっぽを向いたマミは、けれどすぐに頬を緩めた。

「まぁいいわ、帰りましょう。早くお夕飯の準備をしなくちゃ」

 歩き始めるマミの隣にアイが並び、ほむら達も二人に続く。まどかもまた歩みを進めて、集団へと加わった。そうしてみんなで、何気ない話題で盛り上がる。

 胸の奥底に潜む不安は、今も消えた訳ではない。これから先も、消える事はないだろう。それでも友達と共に居られるこの瞬間は、まどかは自然と笑顔を浮かべられるのだった。


 ◆


「それじゃ、私は一旦家に帰るわね。暁美さん、アイの事は任せたわよ」
「ええ、任せなさい。決して危険な目には合わせないわ」
「いやー、なんだろうこの気持ち。嬉しいんだけど、なんかビミョー」

 夕焼けに染まる交差点。ほむらとアイは、そこでマミと別れた。まどか達は既に居ない。アイの家に泊まる為の荷物を取りに、みんな自分の家へと帰って行った。こうしてほむらとアイが二人で居るのも、互いの家が近く、帰り道がほとんど一緒というのが理由だ。

 自宅へと続く人通りのまばらな道を、ほむらはアイと歩いていく。一緒に帰り始めてから一月も経っていないはずなのに、ずっと前からそうであるかのような錯覚を覚えるほむらだった。なんというか、気安いのだ。マミやまどかとは、また別の意味で。

「みんな過保護だよねぇ。帰っても杏子が居るし、近頃は一人になった覚えがないぜ」

 薄紅の唇を尖らせながら、アイがぼやく。
 前にも似た事を言っていたなと、ほむらは思った。

「それだけ貴女の存在が重要という事よ。みんなが全てを知った上で落ち着いていられるのも、貴女が居れば取り返しがつくと、心のどこかで安心しているからでしょう」
「わかってるさ。砂漠の蜃気楼であろうとも、希望である事には違いない」

 ほむらは口を噤む。真実であるからこそ、アイの言葉は重かった。

 アイの能力については、仲間の魔法少女全員が知っている。マミが執拗に迫ったから、という訳ではなく、アイの方から進んで教えてくれた。その理由は、おそらく今の会話の通りだろう。アイの能力は強力で、保険としてはこの上ない。だからこそ、ほむら達の精神を安定させるという面では、非常に効果的だった。

 しかし一方では、正体の見えない代償が恐ろしくもある。

 奇跡を叶える度に因果が歪み、その歪んだ因果は、やがてアイの周囲に襲い掛かる。ともすれば、それまで救ってきた全てを壊しかねない災厄として。

 だがそんな災厄すらも、アイが生きていれば挽回できるかもしれない。そう思えばこそ、ほむらもマミも、他の魔法少女も、アイを生かさねばならないと考えるのだ。

「なんとかしないとね。守られるのは趣味じゃないし、砂上の楼閣に住まうのも気持ちが悪い」

 嘆息。次いでアイは、ほむらの方を見る。
 ニヤニヤと、意地悪げに白い頬が歪んでいた。

「ほむらちゃんってさ、割とマミの事が好きだよね」
「…………いきなり何を言い出すのよ」

 跳ねた心臓に気取られぬよう、ほむらは努めて声音を低くした。

 たしかにほむらは、マミを大切な相手だと思っていた。今も、思っているかもしれない。何度も同じ時間を繰り返していた時とは違い、今は随分と平和な日常を過ごしている。その環境が、かつての関係を思い出させるというのも、否定はしない。

 だがほむらとしては、そうした感情を表に出したつもりは無かった。これまで通り、マミとの関係はビジネスライクな部分を押し出してきたはずだ。そこに深い意味は無かったが、なんとなく気恥ずかしくて、そう接する事しか出来なかった、という面もある。

「いやいや。前から思ってた事だし、大事な質問だぜ」

 両手を広げてアイが言う。
 次いで、間。訪れた、一瞬の静寂。

「だってほむらちゃんは、過去に戻れる能力を持っているだろ?」

 瞬間、ほむらは呼吸を失った。見開いた目に、隣のアイを映し出す。
 能力の事は誰にも教えていない。なのにアイの顔は、ある種の確信に満ちている。

「時間に関係する能力って事はわかってた。前に未来視じゃないと言ってたから、それなら時間遡行かなって予想もしてた」

 なるほど、出会った時にそんな話をした気がすると、ほむらは思い出す。またそうであるならば、アイが察したとしても、不思議は無いのかもしれないと。

「あと、マミやまどかを見る目に、凄く感情が籠ってるからね。他のみんなは気付いてないみたいだけど、二人が笑ってる時のほむらちゃんは、凄く幸せそうなんだ。でも二人と話す時は、たまに悲しそうな顔をしてる」

 なるほど、なるほど。たしかにそういう面もあっただろう。ほむらとしても自覚する所はあるため、一概に否定できる言葉ではない。

「だからわかったんだ。認識の擦れ違いとか、その理由とか、色々とね」
「……それで? たとえそうだったとして、貴女は何が言いたいの?」

 ただ、気まずくはあった。だからほむらは、打ち明ける事を躊躇っていた。

 何度もやり直したと、まどかやマミと親しい関係にあったのだと、伝えたとする。それを聞いて、彼女達はなんと思うだろうか。その事実を、喜んで受け入れてくれるだろうか。

 まさか、とほむらは否定する。ただ困らせるだけだと理解している。

 だからほむらは沈黙するのだ。秘して、隠して、思い出のゴミ箱に押し込んで、今の日常を邪魔しないようにする。あの繰り返し続けた一ヶ月を、重ね続けた苦悩を、無かった事にする。彼女はそう決めたのだ。

「ありがとう」

 綺麗な響き持ったその声に、ほむらはまたもアイを凝視した。

「知っての通り、マミとまどかは強力な魔法少女だ。正直、桁違いと言ってもいい。でも、本来は二人ともそこまで強い素質は持っていなかった。そうだろ?」

 ほむらは否定しない。出来ない。アイの言う通り、最初の頃のまどかは、そしてこの周回以前のマミは、常識の枠に収まるレベルの魔法少女だった。

「ただの少女に過ぎない二人が、何故あれほどの因果を背負うようになったのか? その原因はほむらちゃんにあると、ボクは考えた」

 アイの人差し指が、ピッとほむらへ向けられる。

「つまりほむらちゃんが因果を引っ張ってきた、という推測さ。キミがまどかの為に、あるいはマミの為に時を遡るという事は、それによって齎される事象の原因が二人にあると言い換える事も出来る。その繰り返しで、まどか達は膨大な因果を背負うようになったんだ」

 そこで言葉を区切り、アイは静かに微笑んだ。
 なんの含みも感じさせないその雰囲気に、ほむらは自然と呑まれていた。

「だからこそ、ありがとう。キミがどんな時間を過ごしてきたのか、ボクに知る事は出来ないけれど、その結果としてこの日常があるんだって、ちゃんとわかってるから」
「…………貴女の悪い癖ね。そうやって、すぐに周りを甘やかそうとする」

 酷いな、とアイが笑う。全てを見通すかの如く、ほむらを見返す。その視線から逃れるように、ほむらは明後日の方へと顔を向けた。

「でも、ありがとう」

 それだけ言って、ほむらは足を速めた。
 何も言わずに、アイは後ろをついてきた。


 ◆


 お泊り会と言っても、何か特別な事をする訳ではない。毎週末を絵本家で過ごしているマミにとっては、本当にいつも通りの延長だ。帰宅して私服に着替えた彼女は、用意していた荷物を持ってアイの家へと向かった。

 通い慣れた道を進み、ほどなくして絵本家に到着したマミを出迎えたのは、私服姿のアイだ。ショートパンツに緑のパーカーというその姿は、間違い無く誰かさんの影響だろう。

 小さく溜め息をついたマミは、右手で額を覆い隠した。

「まだ寒いのだから、もっと温かい格好をしなさい」

 言われたアイは、クルリと一回転。
 長い黒髪をたなびかせ、彼女は胸を張ってマミを見た。

「似合わないかな?」
「……色が好みじゃないわ」

 にっこりと笑うアイから、視線を逸らすマミ。似合わない、とは言えなかった。以前とは異なり健康的な肌色を手に入れた今のアイならば、たしかにこういった服装も合っている。もっとも身長は相変わらずなので、子供らしさを強調している面もあるのだが。

「とりあえず中に入ろうか」
「ええ、お邪魔します」

 脱いだ靴を揃えたマミは、先導するアイを追って、綺麗に磨き上げられた木製の廊下を進んでいく。最初は緊張したこの場所だが、今では我が家のような安心感すらあるほどだ。

「今日は人が多いけど、夕ご飯の食材は大丈夫?」
「もちろん。我が家の穀潰しが買ってきたから、食材の準備は万全だよ」

 話しながら、アイは通り掛かったリビングに目を向ける。そこでは杏子と帽子の女の子、ほむらの三人がソファに座って、肩を並べてゲームをしていた。と思えば、杏子がジト目でこちらを振り返る。

「誰が穀潰しだっての。ちゃんと家事は手伝ってるだろっ」
「あら、隙だらけ」
「うわっ!? タンマタンマッ!!」
「杏子って意外と馬鹿だよねー」

 和やかなリビングの喧騒に、マミとアイは笑みを零す。

 現在、この家には三人の人間が住んでいる。アイと、彼女の伯父である雅人と、居候の杏子だ。杏子に一緒に住もうと持ち掛けたのはアイで、幸か不幸か、彼女にはそれを実現できるだけの環境があった。潤沢な資産と、各方面に伝手を持つ雅人の存在により、滞りなくこの状況を生み出せた訳である。

 また近い内に杏子も学校へ通えるようになる、とアイは言っていた。色々と経歴に問題があるため時間が掛かったが、もうすぐ手続きが完了するのだと。

 よくやる、というのがマミの感想だ。無論、アイではなく彼女の伯父に対するものだ。独身男性である彼がこの状況に至るまでに払った労力は、並大抵のものではないだろう。更には縁もゆかりも無い少女を養うというのだから、アイの望みとはいえ甘過ぎる。

 ただ、それでも、この幸せな日常を思えば感謝ばかりが浮かぶ訳だが。

「まずは荷物を置こうか。それから一緒にご飯を作ろう」
「そうしましょうか。少しは上達したのかしら?」
「もちろんさ。まどか達に振る舞う為に頑張ったよ」

 話しながら歩けば、間も無くアイの部屋まで辿り着く。適当に隅の方へマミの荷物を置き、二人はすぐに引き返す。目指す先はキッチンで、そこで今晩の食事を作る予定だ。

 絵本家の食事は、基本的にアイと杏子の二人で作っており、どちらも本人の希望によるものだ。アイに関しては包丁を持つだけでも不安を覚えるほどだったが、今ではそれなりに見れるレベルまで上達している。そして今日のようにマミが泊まる日は、杏子の代わりにマミがアイと一緒に料理するというのが、暗黙の了解となっていた。

 やがてキッチンに辿り着いたマミは、まず冷蔵庫の中身を確認した。もしも不足があるようなら、今から買い出しに行くか、メニューに変更を加える必要があるからだ。

「んー、ちゃんと頼んだ物は揃ってるわね。それに品質もよさそう」
「杏子は食べ物には五月蝿いからねー。奮発していいって伝えたら張り切ってたし」
「彼女らしいわね。よし、これなら問題ないわ。それじゃあ作り始めましょうか」

 そうして始まった料理は、マミの主導で進められた。今回のメニューをアイは作った事が無いため、彼女に任せる訳にはいかない。また、そもそも音頭を取るだけの実力が無いという問題もある。

「……ねえ、一つ聞いてもいいかしら」
「いいよ。なんでも聞いてよ」

 魚を捌く手を止めて、マミは隣のアイを見遣る。黒髪をポニーテールに纏めた彼女は、自らの手元に集中していた。その横顔は、学校の授業中よりも真剣だ。

 普段のマミは、料理中の雑談を控えている。アイの技術が未熟なため、集中を乱して怪我をさせるのが怖いのである。なのにこうして話し掛けたのは、気になる事があったからだ。

 今日、帰り道で別れるまでのアイと、今のアイ。その二つには明確な違いがあると、マミは感じ取っていた。

「なにかいい事でもあったの?」
「あ、わかる? そう、あったんだよ」
「ええ。今はちゃんと笑ってるみたいだから」

 皮むきをしていたアイの手が止まる。
 黒い瞳にマミを映し、それからアイは、困った風に頬を掻いた。

「最近のアイは素直よね。誰も気付いていないみたいだけど」
「んー、あー、そうかもしんない。意識してるわけじゃ、ないんだけどね」

 ピーラーを置いたアイが、目を瞑って口を開く。

「ずっとね、探してたんだ」
「なにを、と聞いてもいいかしら?」

 アイが顎を引いて肯定する。
 次いで彼女は、細い喉を震わせた。

「みんなが幸せになる方法」

 気負いも何も無く放たれたその言葉に、マミは心臓を鷲掴みにされた。

 幸せになる方法。それはつまり、今が幸せではないという事の裏返しでもある。たしかにそうだ。笑って日常を過ごしてはいるものの、未だ根本的な問題は解決できていない。アイの能力という保険がある所為か、いつか訪れる絶望から、マミは目を逸らしていた。

「もっと言えば、魔法少女の運命を打ち破る方法かな。方法自体は考え付いてたんだけど、それで実現できるかどうか不安でさ。今日、ようやく自信が持てたんだ」

 穏やかな口調で、優しい顔をしていた。少なくとも、マミには今のアイがそう見える。
 だからこそ怖くもあった。死期を受け入れた老人のように、思えてしまうから。

「ボクの能力については説明したよね。ボクは魔法少女の絶望と引き換えに、あらゆる奇跡を叶えられる力を持っている。問題点は、魔女化する魔法少女の傍に居ないと、エネルギーを回収できない点だね。だからボクは、そうそう大規模な願いは叶えられない」

 たしかにマミは知っている。あの決戦から間も無くしてアイが語ったその情報に、彼女は随分と驚かされた。同時にその危険性も理解して、暫くはアイから離れられなくなった事も覚えている。

「でも考えてほしい。この能力を使えば、ボクは自分自身を強化する事すら可能なんだ」

 思わずマミが唸る。たしかにそうだと納得する。また、話の終着点も見えてきた。

「今のボクで届かないなら、届くボクになればいい。この街から、この国から、この星からエネルギーを回収できるようになれば、もっと大きな願いを叶えられる。でもたぶん、それだけだと足りない。だから時間を、世界を超えて、ボクの手を伸ばすんだ」

 自身の手を見詰め、少しだけ寂しげに、アイが語る。

「段階を踏む必要があるけど、いつかは十分な力を集められる。キュゥべえ達が宇宙の摂理に逆らおうとしているように、ボクは魔法少女の運命を変えるために、彼女達の絶望を集めるわけさ」

 同じ穴の狢だね、とアイが自嘲する。
 マミには、掛ける言葉が見付からなかった。

「もっと計画を詰める必要はあるけど、いずれは実行しなくちゃならない。借金の追い立てが来る前に、さっさと踏み倒さなくちゃね」

 肩を竦めたアイは、けれど巫山戯た様子はまったく無くて、その真剣な瞳に気圧される。どこかで目を逸らしていた現実と、アイはずっと向き合っていた。そう思うと、マミは申し訳なさで押し潰されそうになってしまう。

「ま、ずっとそんな事を考えてたのさ。だからかな、今回のお泊り会を思い付いたのは」

 何も言えないマミを見て、それからアイは、悲しげに眉尻を下げた。

「ボクは強くなれる。神様にだって、なれるかもしれない。でもそれってさ、結局はボクの力じゃないんだよね。どれほど多くの人を救えても、それは与えられた力のお蔭であって、絵本アイのお蔭じゃない」

 マミの視線から逃れるように、アイは足元に目を落とす。小さな体が、余計に小さく見えてしまって、マミは思わず抱き締めたくなった。

「虚しいんだ。この力で誰かを救えば救うほど、絵本アイというただの少女には、なんの価値も無いんだって、言われている気がしてさ」

 アイが再びマミを見遣る。大きな瞳に宿るのは、いつもの彼女とは違う、どこか弱々しい光だった。その光に吸い寄せられて、マミは目を離せなかった。

「でも、マミは違うだろ?」

 震える声で、アイが呟く。
 震える肩が、視界に映る。

「マミも、ほむらちゃんも、まどかだってそうだ。ただの少女だったボクが、ただの子供でしかなかったボクが、この世界に必要とされた証だって信じてる。だから、だからみんなで集まって、色んな思い出を作りたくなったんだ」

 だって、とアイは揺れる瞳でマミを見上げ、

「それは本物だと思うから」

 小さな手を、恐れるように伸ばしてきた。躊躇う事無く、マミはそれを握り返す。そして凍っていたマミの喉が、ようやく熱を帯びてきた。

「ええ、もちろんよ」

 そう伝えれば、アイは破顔して力を抜く。
 マミでも滅多に見ないほど、無防備な姿を晒していた。
 と、そこでチャイムが鳴り響き、途端に日常の空気が戻ってくる。

「おっ、まどか達が来たのかな。出迎えてくるから、料理の準備をお願いね」

 答える間も無くキッチンを出て行くアイ。その姿はいつもとなんら変わる事無く、先程の会話は白昼夢だったのかと疑いたくなるほどだ。けれど間違い無く現実なのだと、手の平に残る温もりが教えてくれる。

 暫く自身の手を見詰め、それからマミは、上機嫌で料理の準備を再開するのだった。




 -The End-


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