<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[27166] 乱世を往く!
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:39
はじめまして。
新月 乙夜といいます。

もともとは「小説家になろう」のサイトに投稿していたのですが、「Arcadiaの方にも投稿してみては?」という感想を随分前ですが頂き、このたびこちらにも投稿させて頂こうと思い至りました。

「乱世を往く!」は私の処女作です。
流浪の魔道具職人である主人公と、彼に関わる人たちのお話。楽しんでもらえれば嬉しいです。



[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:01
    事実は一つ
    真実は人の数ほどに


*****************


第一話  独立都市と聖銀の製法

 全ての生物は魔力を持っている。なぜなら魔力とは生命力と同義なのだから。より詳しく言うのなら、「魔力とは生命活動以外の用途に用いられる生命力」となる。普通に魔力を使っている分には命を削るようなことにはならない。もっとも命を削るような「禁忌の法」も確かに存在しているが。

 人間は魔法を使うことができない。炎を生み出したり、風を操ったりという奇跡の技を人は行うことが出来ない。人にできるのはただ魔力を外に放出することだけだ。

 だからこそ人は「魔道具」を作り上げた。魔力を注ぎ込むことで魔法を再現するための道具を作り出したのだ。

 いつの時代も同様であるが、華々しい注目を集めるのは魔道具を扱う「魔導士」と呼ばれる人々である。戦乱の時代に名をはせた英雄たちや勇名轟く剣豪・用兵家。こういった人たちは皆魔道具を扱う側の魔導士であった。

 一方、魔道具を作る側の人間のことを「魔導職人」あるいは単に「職人」といったりする。ちなみに魔導士と魔導職人の境目はひどく曖昧である。同一人物が製造と使用の両方に秀でていることが良くあるからだ。まあ、どちらを名乗るかは本人の自己申告といったところだろう。

 ところで、華々しい注目を集めるのは魔導士であるが、その影で魔導士以上に保護され厚遇されそして管理されたのが魔導職人であった。

 当然といえば当然である。1人の魔導士どれだけ強い力を有していようとも結局それは個人の力であり、極端なことを言ってしまえば死んでしまえばそれまでだ。しかし魔導職人は違う。より厳密にいえば彼らが造る魔道具は違う。強力な魔道具はそれを持つもの全てに力を与える。しかも使用者が死んでも彼らの「作品」は残るのだ。強力な魔道具が反抗勢力や賞金首の手に渡り甚大な被害が出る。それは権力者にとって当然想定されるべき事態であった。

強力な魔道具を作り出すことのできる優秀な職人達。権力者にとって彼らは武力を支える魔道具を生み出してくれる存在であると同時に、なんとしても囲い込み飼いならしておかなければならない存在であった。

 さて、そんな世界に「アバサ・ロット」という流れの魔道具職人がいる。年齢性別一切不詳。恐らくこの世界で最も有名な流れの魔道具職人である、かの人の造る魔道具は全て一級品で、しかも気に入った相手にだけ譲ることで知られている。

 千年の昔からアバサ・ロットはこのエルヴィヨン大陸を流浪し続けている。それは「アバサ・ロット」という名前が一種の称号として親から子あるいは師から弟子に受け継がれているためだと考えられている。

 卓越した魔道具製作の技術と知識を持つアバサ・ロットという職人を、これまで幾人もの権力者が探し出して召抱えようとした。しかし成功したものは未だかつて一人もいない。

 そのくせかの職人が作る魔道具は、いつの時代も歴史を作り、あるいは塗り替えてきた。

 かの人が魔道具を与えた王は、後に大陸を統一した。またある王女は与えられた魔道具を手に亡国を回復し「救国の聖女」と呼ばれた。かつて砂漠であったある土地は、かの職人が水を引いたことで一面穀倉地帯になり、その土地をめぐり流血の交渉がもたれたという。

 本人が表舞台に出てこないにも関わらず、これほどまでに歴史に関わった職人は他にはいるまい。

 この大陸で「アバサ・ロット」の名は、既に生ける伝説と化している。

 とはいえやはり、アバサ・ロットという職人は例外的な存在であると言わざるを得ない。魔道具職人たちは工房に所属し黄金色の鎖で縛られる。そして優秀であればあるほど、その鎖は太く長くなる。それが一般的であるし、またそうでなければならなかった。

 そのため多くの人は「アバサ・ロット」という存在は知っていても、どこか別の世界のことのように考えるのが常であった。かの人はあくまでも「伝説」なのだ。

 それはここ「独立都市ヴェンツブルク」においても同様であった。魔道具職人たちは工房にいるのが普通で、魔道具は工房で作られる、というのが人々の常識であった。

 ヴェンツブルクにおいて魔道具はそれぞれの種類で区別され取引が規制されている。また特に危険と判断された魔道具は個別に所持・使用・売買などの面で規制される。
 特に規制が強いのは当たり前だが武器であり、職人は認可を受けた商人や資格(免許)を持った魔導士にしか売却が許可されていない。

 だからこそ、リリーゼ・ラクラシアが魔導士ギルドの魔導士ライセンスを取ったお祝いのプレゼントとしてもらった「水面の魔剣」は父がヴェンツブルク最大の商会「レニムスケート商会」から買ったものだと、とくに深く考えずそう思っていた。





[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法①
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:42
ラクラシア家の現在の当主であるディグス・ラクラシアは開明的な人であった。自身の末っ子にして長女であるリリーゼ・ラクラシアが一般的なお嬢様の枠に収まらないことを悟ると、あっさりと彼女の人生を彼女自身の手にゆだねたのである。

 その結果彼女は利発で活発な、悪く言えばおてんばに成長した。サロンでお茶を飲むよりは野山を駆け巡るほうを好み、ダンスの練習よりは魔導士としての訓練を好んだ。服装も動きやすい男装を好んだ。華美なドレスなど彼女にとっては豪華なばかりの拘束着と変わらないのだろう。

 そんなリリーゼの様子に父親であるディグスとしては「もっと令嬢らしく・・・・」と一抹の不満を覚えないでもない。だがそれ以上に彼女のまっすぐな気性は政治的な駆け引きとやらに疲れたディグスにとって心地よいものだった。

 そんな自慢の愛娘がこのたび魔導士ギルドの魔導士ライセンスを習得したのだ。魔導士ギルドのライセンスはもともとフリーの魔導士がギルドの仕事を請け負うためのものだ。それが、魔導士ギルドが拡大するにつれて身分証として使われたり、仕官する際の条件になったりしている。

 独立都市ヴェンツブルクの三家のひとつラクラシア家の一員であるリリーゼに必要なものとは思えなかったが、「やりたいのならやって見なさい」といってディグスは試験を受けることをリリーゼに許可したのだった。

 今、ディグスの目の前ではリリーゼが発行されたライセンスプレートを見せながら試験の様子を家族に興奮気味に語っている。実技試験では相手の魔導士がなかなかのつわもので危なかったこと。攻めあぐねたこと。一瞬の隙を突いて何とか勝てたこと。その様子は本当に嬉しそうだ。頬を高揚させて話す愛娘にディグスは声をかけた。

「リー、ライセンス習得おめでとう。よくがんばりましたね」
 リー、とはリリーゼの愛称だ。

「はい、父上。ありがとうございます!」
「ライセンス習得のお祝いにプレゼントがあります」細長い木箱をテーブルの上におきリリーゼに開けるように勧める。「合格するか分からなかったのに・・・・」と少々呆れ気味のリリーゼに「合格するまで隠しておくつもりでしたから」と冗談半分に返す。

 木箱の中に入っていたのは一本の剣だった。それもただの剣ではない。鞘に収められたままでもその力を感じられる。リリーゼが息を呑む。
「抜いてみてもいいですか?」
 ディグスの「どうぞ」という返事を聞いてからリリーゼはその剣を抜いた。そして眼を見張った。

 優美。ただその一言がひたすらにふさわしい剣だった。柄に施された細工もすばらしいがそれ以上に美しいのはその刀身だ。細く美しい刀身は蒼白色に淡く輝き、そして向こう側が伺えるほどに薄い。さらに刀身には水面のように波紋が浮かび、その表情を時々刻々と変化させていた。

 だが優美なだけの剣ではもちろん無い。鞘をしたままでも強い力を感じたが、こうして鞘から出すとその力をよりはっきりと感じることができた。強力な、しかし威圧することの無い、静謐を極める力だ。

「『水面の魔剣』。ご満足いただけたかな?」
 ディグスが得意げに声をかけた。水面の魔剣になかば呆然と見入っていたリリーゼの表情が歓喜に染められていく。
「はい!ありがとうございます、父上!この魔剣に恥じぬ魔導士になるよういっそう励みます!」
「ハハハ、まぁ、ほどほどにね」

 最後のディグスの言葉がリリーゼに届いたか、はなはだ疑問である。

 リリーゼに水面の魔剣が贈られたその夜、ラクラシア家の次男クロード・ラクラシアは父であるディグスの書斎を訪ねた。扉をノックし許可を得てから中に入ると、そこには兄であるジュトラース・ラクラシアの姿もあった。

「兄上もこちらにいましたか」
「クロード、お前もあの魔剣についてか」
「はい。あれほどの魔剣が入荷されたという話は騎士団でも聞いていません。父上、アレはどこから仕入れたものですか」

 クロードは自衛騎士団に所属し五つある大隊の一つを率いる。魔道具、その中でも武器の情報は騎士団に集まりやすいのだが、あの魔剣の話は聞いたことがない。ちなみに兄であるジュトラースは父親の右腕として政治畑でその手腕を発揮している。

 息子二人の視線を受けてディグスは嬉しそうにうなずいた。
「あの魔剣についてすぐに違和感を抱けるとは・・・・・、成長したな、二人とも」

 すぐに表情を硬いものに変じ、ディグスは二人の息子に告げた。
「あの魔剣はエメッサから買い取ったものだ。エメッサは手に入れてすぐに持ってきたといっていたよ」
「エメッサ・・・・。とすると闇ルートからの品か・・・」

 ジュトラースが顎に手を当てながらいった。

 エメッサはこの町で情報屋をやっている女性だが、同時に闇ルートに流れている魔道具も取り扱っている。もちろんこういった商売は違法なのだがあまり厳しく取り締まると逆効果になるので、違法性の高い商品やあからさまな盗品を扱わないといった暗黙の了解を守っているうちは黙認されているのだ。さらには闇ルートのほうが強力な魔道具を入手しやすいという事情もある。値段はともかく。

「エメッサの話では、あの魔剣を持ち込んだのは若い男だったそうだよ」
 年の頃は20代で身長は170半ば。髪は銀髪で瞳の色は青。左の頬に狼を模した刺青があり、モスグリーンの外套を羽織っていたという。

「その男があの魔剣を造ったのでしょうか・・・・?」
 クロードの疑問にディグスが答えた。
「エメッサも同じ事を聞いたらしい。そうしたら・・・・・」

*************

『この魔剣、大層な逸品だけどあんたが造ったのかい?』
『ああ、そうだ』
『え・・・・?』
『冗談だよ』

 エメッサがムッとした表情を浮かべると男はからかうように続けた。

『オレが造ったものだろうがそうじゃなかろうが、あんたに確認する術なんて無いんだ。だったら考えても無駄だと思わないか』

*************

「見事にはぐらかされたな・・・・」
 ジュトラースが苦く笑う。

「この際その男が実際に造ったかはさほど重要ではない」
 無論、造った本人であることが最も望ましい。が、そうでなかったとしてもその男には強力な魔道具を手に入れるツテがあるということだ。しかも闇ルートで流したということは、そのツテはあの魔剣を造った職人に直でつながっている可能性が高い。何人も仲介させるとそれだけ発覚する可能性が高くなるため、普通はそういうことはしないからだ。

「その男、騎士団で捜しましょうか。それだけ特徴があればすぐに見つかると思いますが」
 そう提案したクロードに答えたのはジュトラースだった。

「いや、今騎士団を動かすとガバリエリとラバンディエに感づかれる。いずれ感づかれるにしてもできるだけ後にしたい」
「ジュトラースの言うとおりだな。まずはラクラシア家の情報網を使って探すとしよう。穏便(・・)にすめばそれに越したことは無い」

 他の二家に感ずかれる前にその男を確保してしまうのが最善だ。仮に騎士団を動かすとしたらガバリエリやラバンディエと争奪戦になってからだ。

「ジュトラースはその銀髪の男の情報を集めてくれ。クロードはガバリエリとラバンディエの動きを監視、それと騎士団の情報を注視してくれ」
「「はい」」

 ディグスが方針を決定し二人の息子に指示を出した。ジュトラースとクロードがうなずくとその場は散会となった。




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法②
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:44
 ――独立都市ヴェンツブルク

 エルヴィヨン大陸の東に位置する人口およそ三万人の独立都市である。都市の東側に天然の良港を持ち、貿易によって栄えている。ガバリエリ、ラクラシア、ラバンディエの三家の力が強い。八人の執政官の合議によって行政がなされており、八つある執政官の椅子のうち三つは三家が一つずつ占有し、残りの五つは選出によって選ばれる。治安の維持は自衛騎士団によってなされている。貿易港で人の出入りが激しいため、開放的で活気に満ちているが反面喧嘩などのいざこざも多い。

 モントルムという国の東の端に位置していることになるが、もともとレジスタンスの集まりが起こりで独立の気風が強い。そのためモントルムの宗主権を認めているが、実質的には独立した自治権を持ち、また行使している。

**********

 そんな独立都市ヴェンツブルクの町を1人の男が歩いていた。年のころは二十歳の始めごろで背丈は170半ば。髪と瞳の色は黒で赤褐色の外套を羽織っている。顔立ちは整ってはいるがとりたてて美形というわけではない。

 橋の上を通りかかると、そこで両替をしている男に彼は金貨を差し出して声をかけた。

「こいつを両替してくれ」
「金貨か・・・・。今のレートだと1シクは37ミルだな。手数料が20オムだ」

 「シク」は金貨の単位で「ミル」は銀貨の、「オム」は銅貨の単位だ。1シクは大体37~40ミルで、1ミルは100オム固定だ。ちなみに銅貨には二種類あり一つは普通の銅貨で10オムである。普通「銅貨」といった場合には10オム銅貨をさす。もう一つは真ん中に正方形の穴が開いているもので1オム銅貨という。こちらは普通「銅銭」と呼ばれる。

 なお、平均的な一般家庭の月収が3~5シクだといえば大まかな価値は分かってもらえると思う。

「・・・・レートあがった?この前までは1シク40ミルだったのに」
「教会が聖銀(ミスリル)を作るのに銀を集めているって話だ。そのせいじゃないのか」

 銀貨の原料である銀そのものが市場で少なくなっているために、銀貨の価値が上がったのだ。少しばかり損をした気分だ。男が10オム銅貨2枚を手渡すと両替屋は銀貨を渡した。受け取った銀貨を財布にしまっていると両替屋が声をかけてきた。

「お客さん、外套なんて着ているところを見ると旅人かい?この都市には何しに来たんだい?行商の仕入れならいいところを紹介するよ」
 実際交易で栄えているこの都市に来る旅人の多くはそっちが目的なのだろう。だがこの男は例外だった。

「ハズレ。都市の周りに遺跡があるだろ?そいつの見物」
「遺跡見物かい?大方調査は済んでいるはずだよ」
「いいんだよ。半分以上趣味なんだから」
「そうかい。・・・・・そうそう、なにやら強力な魔道具が持ち込まれたらしい。そいつ関連で三家がなにやら動き回っているらしいぞ。誰が持ち込んだんだろうな」
「アバサ・ロットだったりしてな」

 まさか、と両替屋は笑った。アバサ・ロットとは恐らくこの世界で最も有名なフリーの魔道具職人である。かの人の造る魔道具は全て一級品で、しかも気に入った相手にだけ譲ることで知られている。アバサ・ロットは千年近く昔からその存在が知られているが、これは「アバサ・ロット」という名前が一種の称号として親から子あるいは師から弟子に受け継がれているためだと考えられている。

 両替屋ともう二言三言は話してから彼は橋をあとにした。その足で都市の外へと向かう。

「動きが速い・・・・・。いや、大きい」顎に手を当て真剣な表情で考え込む。しばらくして顔を上げると気楽そうにこういった。「ま、何とかなるだろう」

**********

 リリーゼが「水面の魔剣」を手にしてから、つまりラクラシア家が「例の男」を探し始めてから三日が経過していた。この間に情報はガバリエリ家とラバンディエ家にもめでたく伝わり、今では三家の下っ端たちが入り混じって「例の男」を探している。

 年の頃は20代で身長は170半ばの男。髪は銀髪で瞳の色は青。左の頬に狼を模した刺青があり、モスグリーンの外套を羽織っていた。

 これだけの情報がありながら、しかし情報は一向に集まらなかった。かといって都市から出たという情報も無い。手詰まりな感があったが三家が三家とも「他の二家に遅れをとるわけにはいかない」という対抗意識から手を引くに引けない状態となっている。外側からはそのように見えた。

 さて、ここにもう一つ「例の男」を確保しようとしている勢力がある。

「三家の様子はどうですか」

 いすに座り机にひじを付いて目の前の部下に声をかけたのは三十代始めに見える男だった。くすんだ蜂蜜色の髪を肩の辺りまで伸ばしている。体の線は細く一見して優男であるが、あいにくと彼の真価は首から上に由来するものだった。彼の名はジーニアス・クレオ。レニムスケート商会を率いる若き首領(ドルチェ)である。

 レニムスケート商会の狙いはごく単純である。強力な魔道具を定期的に揃えられるようにして、それを売りにして商会の勢力を伸ばすことである。そのためには「水面の魔剣」の製作者と見つけなければならないが、その手がかりは「例の男」が握っている。

「相変わらず『例の男』を探しています。・・・・・表向きは」
「でしょうね。この期に及んで特長そのままの『例の男』が実在していると考えるほど三家もバカではない。探しているように見せているのはこれ以上情報が漏れないようにするためでしょうね」

 あからさま過ぎる特徴は裏を返せば変装していると公言しているようなものだ。もっともそれこそが「例の男」の狙いなのだろう。報告をした部下もうなずいて続けた。

「現在三家が探しているは旅の魔導士です。しかも魔導士のライセンスを持っている者を優先的に探しています」

 ここでいう「魔導士」とは単純に魔道具を扱う者のことではなく、国や都市・ギルドなどの組織が発行する正式なライセンスを持つ者のことだ。報告を聞くとジーニアスは頷いた。そして釈然としない様子の部下に声をかける。

「不思議ですか?なぜ捜索対象を魔導士に限定しているのか」
「そうですね。気にはなります」

 変装用に使えそうな魔道具の規制はどれも厳しくはない。特別なライセンスを持っていなくても、一般市民でも入手は可能だ。それに加えて魔道具の密売と魔導士ライセンスはまったくといっていい程、関係がない。密売にライセンスが必要なんてことはないし、仮にライセンスを持っていたとしてもそれを提示する者はまずいない。確実に足がつくからだ。

 つまり、「ライセンスを持っているかどうか」を調べても「魔道具の密売をしているかどうか」は分からないのだ。そんなことは三家も重々承知しているである。

「今回魔道具を持ち込んだ『例の男』は変装をしています。それも恐らくは魔道具を使って。加えて旅をしている。しかもどこかの密売組織が絡んでいるという可能性は低い」

 強力な魔道具が闇ルートに流れる場合、盗品である場合を除けば、その魔道具は職人本人か職人と近しい人が密売に関わっていることが多い。密売組織は多くの場合盗品を扱っており、公権力からは睨まれる存在だ。そのような犯罪組織と関わることを魔道具職人が嫌うのだ。

 これが、ジーニアスが「例の男」が一人旅だと判断した理由だ。

「そういう、魔道具を所持して、時に密売に関わるような個人が旅をするなら魔導士としてのライセンスを持っていたほうが何かと便利でしょう?」
「なるほど」

 ジーニアスの説明を聞いて部下は納得したようだった。その様子を確認してからレニムスケート商会を率いる若き首領(ドルチェ)は部下に次の指示を出した。

「当面は三家の動きを監視していてください。出し抜けるならよし、そうでなくとも我々には打つ手がある」

 三家を出し抜いて「例の男」と直接交渉できるならば、それが最もいい。が、仮に直接交渉できなくても、「例の男」を押さえた家と交渉するという手がある。三家とて「水面の魔剣」の製作者を囲い込み、自分たちの息のかかった、というよりほとんど直営の工房で強力な魔道具を作らせるのが目的なのだ。そこから幾つか買い取ることは十分に可能なはずだ。

 部下が部屋から出て行くと、ジーニアスは椅子の背もたれに体を預け、考えをめぐらせた。

(最大の懸案は、・・・・・もうすでに旅立っているかもしれない、というとですね)

 自分の考えに苦笑をもらす。もしそうであればどれだけ探しても無駄骨だ。だが、それでも・・・・・。

(それだけの価値があるということですよ。あの魔剣とそれを造った職人には)




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法③
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:47
 その日、リリーゼ・ラクラシアはヴェンツブルクの都市の郊外から少し行ったところにある湖に来ていた。小さな湖で名前などはない。いや、調べれば分かるのかも知れないが、あえて調べようという気にもならなかった。近くに300年ほど前の小さな遺跡があるが、すでに調査は終わっており近づく人もいない。

 静かで人気がなく、そして大量の水があるこの場所は父であるディグスから貰った「水面の魔剣」の修行には絶好の場所であった。

 「水面の魔剣」を両手で持ち眼前に掲げる。眼を閉じ魔剣に意識を集中し魔力を込めると、刀身が蒼白色に淡く輝いた。しだいに湖に変化が現れる。大きく渦を巻くように水が動き始め、そして段々と速くなっていく。

 リリーゼが「水面の魔剣」に込める魔力を増やす。刀身の蒼白色の輝きが強くなり、湖からは一本の水柱が重力に逆らって立ち上った。さらにその水柱は上下左右に、まるで生き物のように縦横無尽に動き回った。

 二分弱ほど水を操ると、リリーゼのほうに限界が来た。魔剣の放つ蒼白色の輝きが弱くなり、動き回っていた水の蛇もただの水に戻り湖に落ちた。

「随分と慣れてきたな・・・・・」

 大量の魔力を放出し、肩で息をしながらもリリーゼの顔は満足そうだった。最初は湖の水を少し動かすのが精一杯だったが、この三日でかなり上達しかなり思い通りに水を動かせるようになってきた。もっとも大量の水が近くにある状態なので、やりやすい環境なのは間違いない。が、父も兄も上達が早いと褒めてくれるのは嬉しい。この「水面の魔剣」と自分は相性がいいのかもしれない。

(いや、水の魔道具と、かな・・・・?)

 まぁどちらでもいいか、と思考を切り替える。と、そのとき・・・・。

―――グァアアギャァアアアアア!!!

 耳を劈(つんざ)くような獣の呼砲があたりに響いた。近くの茂みから1人の男が飛び出し、それを追って現れたのは、
「バロックベア!?」

 バロックベアは大陸に広く生息する熊の一種である。気性が荒く、獰猛なことで知られている。土を食べる(主食ではない)習性があり、そのためか爪には希少な金属が含まれている。バロックベアの爪は鋭く安物の鎧などは紙切れの如く切り裂かれるとのことだ。一方でその爪は魔道具の素材などとしても用いられている。

 今、リリーゼの前に現れたバロックベアは体長2m、体重300キロはあろうかという大物だ。純粋な野生の狂気に血走った眼をしており、その獣の発する殺気にリリーゼは身をすくませた。

 幸いなことにバロックベアの獲物はリリーゼではなく、茂みから飛び出してきた男のほうであった。物理的圧力さえ感じる呼砲を撒き散らしながらバロックベアは自慢の爪を男に突き立てようとした。

「たく・・・・」
 男は手にした杖を眼前に突き出しその爪を防いだ。いや、杖とバロックベアの爪の間には魔方陣に似た幾何学模様が描かれており、それが鋭い凶器を防いでいた。

「たく・・・・、少し鼻先蹴り飛ばしたくらいでブチ切れやがって。獣風情が!」
「いやそれは怒るだろ!!」

 バロックベアの放つ殺気のプレッシャーも忘れ、リリーゼは名も知らぬ男にツッコんだ。それがきっかけとなり彼女の体は自由を取り戻す。そして「水面の魔剣」に全力で魔力を注ぎ込む。

「さがれ!!」

 ツッコミの勢いそのままに叫ぶ。男が後ろに飛びのくのと同時に大量の水をバロックベアに叩きつけ押し流す。しかし相手の体が大きいせいか、数メートルの距離を開けることしかできない。

「くっ・・・」

 もう一度魔剣に魔力を注ぎ込み、今度は意識を集中して水の刃を作り出そうとしたそのとき。

 ―――ブベチ!!

 すさまじい打撃音がした。男が持っていた杖をフルスイングしてバロックベアの鼻に叩き込んだのだ。

「はぁ!!?」

 あまりの行動にリリーゼの思考はついていくことができず、全ての行動が一瞬フリーズする。だが彼女が固まっている間も事態は進行する。

 バロックベアは己の鼻先に打撃を叩き込んだ無礼者を許しはしなかった。凄まじい雄たけびを上げると、男を切り裂かんとその鋭い爪を振り上げた。が、男の行動はそれよりも速かった。懐からなにやら小さな小袋を取り出すとそれをバロックベアに投げつけたのである。なにやら赤い粉末が広がったかと思うとバロックベアは狂ったように悲鳴をあげ、転がるようにして茂みの奥へと消えていった。

「はーはっはっはっはっは!善良な一般市民様に手ェ上げるとどうなるか分かったか!獣風情が!」

 そして後には馬鹿笑いをしている男がひとり残っていた。

「・・・・・さっきの赤い粉末は何なのだ・・・・?」

 リリーゼとしては色々思うところもツッコミたいこともあったが、とりあえず一番気になっていることを聞いてみる。

「赤唐辛子、レッドペッパーの粉末だ」

 こともなさげに男は答える。そして男はリリーゼに向き直り名を名乗った。
「イスト・ヴァーレだ。なにはともあれ助かったよ」

 これが、緊迫していたのにどこか滑稽な感じがする、二人の出会いであった。

**********

 リリーゼとイストがどこ間の抜けた出会いをしていたその頃、ラクラシア家の次男であるクロード・ラクラシアは騎士団の本部でここ最近のヴェンツブルクにおける入出国記録を調べていた。その中で何かしらの魔導士ライセンスを提示した者を調べていく。ジーニアスが受けた報告の通り、彼はその中にあの「水面の魔剣」を持ち込んだ人物がいると当たりをつけている。

(さすがにこれは骨が折れる・・・・)

 多くの国や都市がそうであるように、ここヴェンツブルクにおいても入国に際し入国税というものが発生する。魔導士ライセンスを提示するとこの税金が減税されたり、種類によっては免除されるのだ。そのため行商などを生業としていてもライセンスを持っている、という者も多く、該当者は膨大であった。

 ざっと流しながら記録を確認していると、ここに三日で頻繁に出入国を繰り返している人物がいた。その名前は、

「イスト・ヴァーレ」

 提示したライセンスは魔導士ギルドのもので、備考の欄には「遺跡探索・趣味」と書いてある。

 自分の妹が今現在その人物と、気の抜けた邂逅を果たしているなど、クロードは知る由もない。しかし、その名はなぜか彼の記憶の片隅に残ることになるのだった。





[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法④
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:47
イスト・ヴァーレと名乗った男は整った目鼻立ちをしていたが、取り立てて美形というわけではなかった。だが悪戯っぽい光を放つ眼は彼の容貌以上に人の目を惹きつけ、彼の存在を無視できないものにしていた。

(まぁ、好き嫌いは分かれそうだな・・・)

 独断と偏見に基づきそう評を下すと、リリーゼはイストのさらに全体を観察した。

 年のころは二十歳の始めごろで背丈は170半ば。髪の色は黒で、瞳は黒に近い藍色とでも言えばいいのかもしれない。赤褐色の外套を羽織り、手には恐らく魔道具と思われる杖を持っている。彼の身長よりも少し大きいくらいの長さで、先端の歪曲した部分にはところどころ金属のコーティングがなされている杖だ。

 リリーゼは知るよしもないことだが、橋の上で金貨を両替した男であった。

「リリーゼ・ラクラシアだ」
「ラクラシア・・・・?ああ、ラクラシア家のご令嬢か」

 イストにそう言われて、リリーゼは少し不満そうな表情をした。自分が一般的な「ご令嬢」の定義からは激しく逸脱していることを彼女は自覚しているし、またその定義を当てはめたいとも思わなかった。

 そんなリリーゼの様子を、恐らくは意図的に無視して、イストは腰につけた道具袋から一本の煙管を取り出し、口にくわえて吹かした。すぐに雁首から白い煙が立ち上る。火をつけなかったところを見ると、あの煙管も魔道具なのだろう。

「吸ってみるか?」

 彼の様子を眺めていたリリーゼが煙管に興味があると思ったのか、イストはそう尋ねた。

「結構だ」

 少々硬い調子で答える。リリーゼはタバコが嫌いだし、当然自分の周りで吸われるのもイヤだった。しかしイストの吸っている煙管からは不思議とタバコ臭い匂いはしない。

「ちなみにキシリトール味」
「キシリトール味!?」
「柑橘系や焼肉味に海鮮風味、大穴でトリカブトなんてのもある」
「タバコってそんなに色々な味があるものなのか・・・・?」

 トリカブトはあえて無視して話を進める。

「ん?・・・ああ」

 リリーゼの勘違いに気づいたイストは煙管について説明をする必要を感じた。どうでもいいことだが二人のテンションはどうにもかみ合わない。ちなみにトリカブトに食いついてくれなかったのでイストは少々不満げだ。

「こいつは禁煙用魔道具『無煙』。タバコの葉は使ってないから臭いはもちろん中毒症状もない。ちなみに煙は水蒸気だ」
「禁煙しているのか」
「いや、前に頼まれて作ったんだけどな、出来が良かったから自分用にもう一つ作った」

 口元が寂しいときがあってな、とイストは付け加えた。その辺りの感覚はリリーゼにはよく理解できなかった。禁煙をしているわけでもないのにそんなものを吹かすなんて、物好きなことだと思う。

(それよりも今、『自分で作った』みたいなことをいったよな・・・・?)

 それが意味するところを考え、リリーゼは怪訝な表情になる。

「ありゃ、切れたか」

 リリーゼのことは、恐らくまたしても意図的に無視して、イストは呟いた。そして道具袋から手のひらくらいの大きさの木箱を取り出し、そこから小指大のカートリッジを一本選ぶ。煙管の雁首を取り外し、中に入っていたカートリッジを交換すると、雁首を元に戻して彼は美味そうに吸った。

「貴方は・・・・魔道具職人なのか?」

 半信半疑といった表情でリリーゼは尋ねた。職人はどこかの工房に属していてそこでしか魔道具を作れない、というのが彼女の、いや一般的な考え方だ。だがイストはあっさりとこう答えた。

「まあな。オレは流れの魔道具職人だし」
「いいのか?」

 どこの工房にも属さず、自分勝手に魔道具を作っては売り歩く。その行為はリリーゼにとって立派な犯罪に思われた。

「なにか勘違いしているようだが魔道具の製造を規制している国なんてないぞ」

 多くの国で規制しているのは魔道具の取引と所持であって、作ることそのものは規制されていない。その証拠に工房を開くのに必要な手続きは、普通の商店を開くのに必要な手続きとさして変わらない。

「武器ならともかく、こんな禁煙用の魔道具なんて作っても売っても規制になんて引っかからないさ」

 イストはからかうようにしてそう言った。だがいわれたリリーゼはムッとして表情を歪めた。自分の無知を笑われたように思ったのだ。

「なら、その杖はどうなるんだ?立派な武器じゃないか」

 自分で作ったものだろうと特別なライセンスを持たない限り武器の所持は規制されているのだ。少々むきになってリリーゼはイストにつかかった。

「魔導士ギルドのライセンスを持っている」
「ぐ・・・・・」

 あっさりと言い返され、リリーゼは言葉に詰まった。その様子を見て満足したのか、イストは、じゃあな、といってその場を離れようとした。

「どこに行くんだ?街はそっちじゃないぞ」

 茂みの中に入っていこうとするイストにリリーゼはそう声をかけた。

「この先に遺跡があるだろ。それを見に来たんだ」
「遺跡を・・・?」

 リリーゼは首をかしげた。確かにこの先には小さな遺跡がある。だがこれといって珍しいものもない。既に調査・発掘は終了しているし、子供の遊び場には幾分街から遠い。そのためその遺跡に近づく人はほとんどいなかった。そのことをイストに告げると彼は笑って答えた。

「いいんだよ。半分以上趣味なんだから」

 白い煙(水蒸気らしいが)を上げている煙管を片手にした彼はどことなく不真面目そうで、いわゆる遊び人を連想させた。

「何かよからぬことでも企んでいるのではないだろうな・・・・・」

 彼の外見だけが原因だとすればリリーゼの言は少々偏見に影響されていると言わざるを得ないだろう。しかしいわれたイストは特に気にした様子もなかった。

「何もない遺跡でなにを企むってんだよ・・・・。そんなに心配なら一緒に来るか?」
「そ、そうだな。貴様が悪さをしないようにしっかり見張るとしよう」

 いつのまにやら「貴方」から「貴様」に呼び方が変わっている。一瞬感じた動揺に気づかれないよう、リリーゼは生まれて初めて感情を表に出さない努力をするのであった。うまくいっているとはいいがたかったが。




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法⑤
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:48
「はぁ~」

 さして大きくもない遺跡を見回りながらリリーゼはため息をついた。

(どうも今日は調子が・・・・変だな・・・・)
 より正確に言うならばイストにあってから、調子が狂いっぱなしだ。

(あのとき・・・・)

 猛々しい狂気と殺気を放つバロックベアを目の前にしたあのとき、リリーゼは足がすくんで動けなかった。

(だがあの男は・・・・)

 だがイストはその張り詰めた空気の中でごくごく普通に動いていた。別に手を出さなくても、彼なら自分であの危機を切り抜けられただろう。そもそもあの戦いが長引いていたのは、イストがバロックベアの鼻先に一撃を入れることにこだわっていたからで、最初からあの赤唐辛子の入った包みを使っていれば、もっと早く終わっていたはずである。そうリリーゼの前に現れる前に。

(それだけじゃない)

 バロックベアが茂みの奥に消えた後、リリーゼは大きな安堵を感じた。しかしイストのまとう空気は何も変わっていなかった。まるでさっきの状況は危機ではないかのように。意識の差、ひいては実力の差を見せ付けられたようでなんとも面白くない。しかも今そのことに思い至ったものだからなおのことだ。

 さらにそのあと自分の無知を思い知らせれ、つっかかれば軽くいなされ、と彼女の不満は加速度的に増えていく。

(結局未熟なのだな、知識も経験も実力も・・・・)

 そのことに気づいたからなのだろうか。イストの誘いに乗ってここに来たのは。

 そこまで考えるとリリーゼは視線を上げ、イストの姿を探した。彼はなにやら下を向いて真剣な表情で何かを考えていた。ただ時折禁煙用魔道具・無煙をすっているためか、雰囲気は深刻になりきらない。

(あそこには確か魔法陣があったはずだ)

 魔法陣とは魔道具の理論部分だけを図式化したものだ。逆を言えば魔法陣を小型化し最適化して使いやすい器に収めたものが魔道具といえる。

 魔法陣はそれ自体に魔力を廻らせることで効果を得る、つまり魔法を再現できるのだが、いかんせん使い勝手が悪い。しかしその反面、理論のみで使えるので魔道具を作るための煩雑な作業が必要なくコストが安いというメリットもある。そのため、欲しい効果、再現したい魔法が決まっており、特に移動させる必要がない場合には魔法陣が用いられることが多々ある。

(確か、劣化が進んでいて半分近く読み取れなかったと思うが・・・・。なにをしているのだ?)

 ふむ、と頷いたかと思うと、彼は魔法陣の真ん中に立ち手に持った杖で、カツン、と足元を突いた。すると魔法陣が光を放ち始めた。

「な・・・!?」

 その光景にリリーゼは驚愕した。劣化が進み半分以上読み取れなくなっていた、つまりもはや用を成さなくなっていた魔法陣が彼女の目の前で息を吹き返したのだ。

「どうやら転送用の魔法陣らしい。一緒に来るか?」

 目の前で起こったことが信じられず絶句しているリリーゼに、イストは至って普通の調子で声をかけた。まるで自分のしたことが特別なことではないかのように。

 それがよかったのだろうか。彼に比べて己の未熟さを感じそのことが不満だったリリーゼは、徐々に驚愕から立ち直りその思考を回復していった。

「・・・・・聞きたいことがある・・・・・」
「へぇ、聞こうか」

 彼がそう言うと魔法陣の光を消し、リリーゼに体ごと視線を転じた。

「なにが聞きたいんだ?」
「その魔法陣の先には何があるんだ?」

 ほとんど睨みつけるようにしてリリーゼは問いを発した。が、問われた本人はといえば、相変わらず煙管を吹かして白い煙(水蒸気だが)を燻らせていた。

「なんでオレがそんなこと知っていると思うんだ?ここに来たのは今日が初めてだぜ?」
「お前がその魔法陣を発動させたからだ」

 劣化が進み、もはや原型がわからない魔法陣を発動させることなど何人に不可能だ。とすれば、イストが同じ魔法陣を仕込んだ魔道具を持っていて(恐らくはあの杖だ)その魔道具を使って魔法陣を発動させた、と考えるのが自然だ。

「そこまで周到な準備をしてきたんだ。ここのことを知っていて、この先に何があるのかも知っている。そう考えるのが自然だ」

 どうだ、といわんばかりに自分の推理を披露する。
「はずれ。オレは魔法陣を仕込んだ魔道具なんてもってないよ」

「ウソをつくな。その杖がそうなのだろう?現にバロックベアの爪も魔法陣で防いでいたじゃないか」

 証拠を突きつけると、じゃあ調べてみるか?といってイストは杖をリリーゼによこした。自信満々にその杖に魔力を込めてみると魔法陣が・・・・・

「え・・・・・?」

 発動、しなかった。

「その杖は『光彩の杖』といってな、頭で思い描いたものを空中に光で描くことのできる魔道具だ。そもそも武器でさえないわけだ」

 つまり光彩の杖を使って魔法陣を再現してみたわけだ、とイストはカラクリを説明した。

「だが、半分以上が読み取れない魔法陣だぞ。下調べしていなければ再現なんて出来るはずないだろう?」
「遺跡巡りが趣味なんだ。他の遺跡で同じ魔法陣を調べたことがあるのかもしれないぞ?」

 考えていなかったであろう可能性を教えてやると、リリーゼは「ぬ?」と唸って考え込んでしまった。その様子を見て、扱いやすいお嬢様だな、とイストは笑った。笑われたことが不満なのか、リリーゼはむくれた。その姿にさらに笑う。

「この魔法陣の先に何があるかは本当に知らない。が、半分未満の“ここに来た目的”なら道すがら話してやれる」

 どうする、と眼で問いかける。煙管を吹かしているその姿はやはりどこか真剣みに欠けている。だがそのことがリリーゼの緊張を解きほぐし、思考を硬直させずにいた。

(ちょっとした遊び感覚、なのだろうな。彼にとっては)

 ならば私もそれなりに楽しもう、とリリーゼは思った。彼の言う“ここに来た目的”とやらも気になる。

 リリーゼは半瞬だけ考えるとイストの立つ、魔法陣のほうに足を向けた。彼女から光彩の杖を受け取ると、イストは先ほどと同じようにしてカツン、と足元を突き魔法陣を発動させた。





[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法⑥
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:50
転送された先の空間は真っ暗だった。

「ちょっと待ってろ。今明かりをだす」

 その声の少しあとに周りが明るくなった。イストの手にはランタンが握られている。リリーゼも知っている一般的な魔道具で「新月の月明かり」という魔道具だ。魔力を込めると一定時間月明かりを模した光を放つ。

「鍾乳洞みたいだな」
 あたりを見回したイストが呟いた。

「寒いな」
 リリーゼが腕をさすりながら言った。外は日差しもあり暖かかったのだが、ここはひんやりと肌寒い。

「これを羽織るといい」

 そういってイストは腰の道具袋からモスグリーンの外套を取り出しリリーゼに渡した。こんな大きなものが普通に入るとは思えないから、あの道具袋は魔道具なのだろう。

 外套を受け取り、着込みながらリリーゼは当然の疑問を口にした。

「なんで二着も外套を持っているのだ?」
「便利だぞ。野宿のときに下に敷いたりできる」
「つまりこの外套は地べたに敷く用なのか・・・・・」

 なんともいえない顔をしているリリーゼに、イストはちゃんと洗ったよ、と声をかけた。そして、さて、と言って腰に付けた道具袋から先ほどカートリッジが入っていた小箱を取り出し、そこに入っている小さな黒い球体を取り出した。

「それは?」
「ペイントボール。本来は仮装パーティーなんかで使う魔道具なんだけどな、こうやって目印なんかにも使える」

 そういってイストはペイントバールを壁に押し付け魔力を込める。すると球体は解けるようにして広がり、鳥が翼を広げる様子を模した図柄になった。

「他にも蛇、狼、獅子、馬、花とかいろいろある」
「暗いと見えないんじゃないのか?」

 煙管を吹かしながら自慢するように説明するイストに、リリーゼは至極当然な疑問をぶつけた。

「そのペイントボールはオレが手を加えていて、こいつとリンクしている。まぁ、大まかな位置関係が分かるわけだ」

 そういって彼が取り出したのは装飾の施された眼帯だった。視覚補助の魔道具で千里眼というらしい。

「その他にも髪の毛だとか眼の色だとかを変えられる魔道具も色々ある。なかなか楽しいぞ」

「まるで変装用だな」

 リリーゼの感想に、鋭い、とイストは嬉しそうにいった。

「それよりもここに来た目的とやらを教えてくれ」
 魔道具の説明談義に脱線していきそうなイストに釘を刺し、話を本筋に戻す。

「ああ、どこから説明したものかな・・・・」

 とりあえず歩きながら話そう、ということでイストとリリーゼは一本道を歩き始めた。鍾乳洞の中は足元が湿っており、なかなかに歩きづらい。

「あの遺跡がどれくらい前のものか知ってるか?」

 イストはそう唐突に尋ねた。

「300年くらい前だろう?」
「そう。じゃあ、その頃このあたりで何があった?」

 まるで教師が生徒を教えるときのように、イストは質問を重ねた。

 確か、300年前は大陸の東側一帯を支配した帝国の末期だったはずだ。各地で反政府活動やら反乱やらが起こり世の中は騒然としていたと、聞いた覚えがある。

「まぁその通り。んで、ヴェンツブルグの周りに点在している遺跡は、この地方で反乱を起こしたレジスタンスの活動拠点の名残というわけだ」

 その反乱を指揮した中心人物の名はベルウィック・デルトゥードという。そして彼の下で働いた三人が後に三家の初代当主となる。

「まぁ、歴史の概観はこのくらいにして」

 ベルウィック・デルトゥードの指揮する反乱軍は他の勢力と比べると比較的少数であった。にもかかわらず戦えば負けなしで、しかも潤沢な活動資金を持っていた。

「なぜだと思う?」
「それは・・・・・」
「強力な魔道具を製造していたからだ」
 リリーゼが答えに窮するとイストはすぐに自分で答えを言った。

 反乱軍の中に優秀な魔道具職人がいたのだろう。その人物の作る魔道具こそがベルウィック・デルトゥードの反乱軍の武力を支え、また他の反乱組織に売却することで資金を確保していたのだ。

「で、ここからが本題だ。魔道具を作るには当然、素材がいる。ここで作っていた魔道具はとある素材が主として使われていたんだけど、何か分かるか?」

 「さっぱり」

 もはや取り繕うこともやめて、リリーゼは正直に答えた。もともと知っているとは思ってなかったのだろう。イストは特に気にした様子もなく答えを告げた。

「聖銀(ミスリル)だ」
「聖銀(ミスリル)!?」

 ここで聖銀(ミスリル)が出てくるとは思っていなかったのだろう。リリーゼは驚愕の声を上げた。

 聖銀(ミスリル)とは銀をベースとした合成素材で、魔道具製作においては優良な素材である。現在その製法は教会が独占しており、市場に流れる聖銀(ミスリル)には法外な値段が付けられている。そこに生まれる利益たるや莫大なもので、教会は年間の活動資金のおよそ3割を聖銀(ミスリル)から得ていると言われている。

「教会が聖銀(ミスリル)の製造を始めたのがやっぱり300年前くらいだから時期的にはあってるわな」
「つまり・・・・どういうことだ・・・・?」

 話が思いがけない方向に飛んで、リリーゼは少し混乱気味だ。煙管を吹かしながらイストは続けた。

「つまり、ベルウィックの反乱軍で作られていた魔道具に聖銀(ミスリル)が多量に使用されていた。で、調べてみたら反乱軍にフランシスコ・メーデーが協力していた、らしい」
「・・・・・本当か・・・?」

 フランシスコ・メーデーの名前が出てきてリリーゼは唸った。
 フランシスコ・メーデーは聖銀(ミスリル)の製法を発見した人物だ。ただしそれは彼が教会直営の工房に身を寄せるようになってから、というのが定説だ。

「で、オレの“半分未満の目的”だけど、聖銀(ミスリル)の製法、あるいはその手がかりがのこってないかなぁ~、と言うわけだ」
「まさか。残っているわけがない。仮に残っていたのならば、教会がもっと早く動いているはずだ」

 イストの話に驚かされながらも、はっきりとその可能性をリリーゼは否定する。教会にとって聖銀(ミスリル)は重要な資金源だ。300年もの間その製法の秘密を守っているのだから、その管理体制の厳重さが窺える。もし少しでも在野にその製法が残っている可能性があるとしたら、文字通り大陸中で草の根分けてでも探し出すはずである。教会にはそれだけの力があるのだから。

「いいんだよ。どうせ半分未満の目的で、半分以上は趣味なんだから」

 こんな面白いものも見れたことだし結構満足してるよ、と白い煙(水蒸気だが)を吐きながら気楽そうにイストは言った。

 リリーゼには言っていないが、イストが得た情報の中には「聖銀(ミスリル)の製法が壁に刻んであった」というものがあり、それが半分未満とはいえ目的の根拠となっている。なぜこのことをリリーゼに教えてやらないのかといえば、彼なりの腹黒い思惑があるからだ。

「それよりも、ベルウィックの反乱軍で作られていた魔道具に聖銀(ミスリル)が多量に使用されていた、なんて情報どこから手に入れたんだ?」

 聖銀(ミスリル)の製法うんぬんも気になるが、リリーゼとしてはそのことも気になった。いわばここは地元なのにそんな話は聞いたことがない。

「ま、蛇の道は蛇ってやつだ」
 疑問は軽くはぐらかされた。

 道は続く。リリーゼはふと浮かんだ疑問をそのまま口に出した。

「ここで聖銀(ミスリル)が作られていたのなら、なぜヴェンツブルグには聖銀(ミスリル)の製法が伝わらなかったのだろうな・・・・」
「魔道具を作っていたその腕のいい職人は戦いが終わったあと、ここを離れたらしい」

 職人がいなくなったことで、魔道具が作られなくなり、聖銀(ミスリル)の需要もなくなった。たがそれだけでは理由にならない。

「おかしいだろう。職人はその一人だけではなかったはずだ。それに聖銀(ミスリル)自体に需要があるはずだ」

「そもそも銀が手に入らなくなった、聖銀(ミスリル)を精錬するのに必要な素材や道具が手に入らなくなった、聖銀(ミスリル)の需要が減った。まぁ、それらしい理由ならいくらでも思いつくさ」
 本当のところどうなのかは分からないけどね、とイストは肩をすくめた。

「しかし惜しいな。聖銀(ミスリル)の製法が残っていればヴェンツブルグは巨万の富を得られただろうに」

 なにしろ教会の年間の活動資金のおよそ三割だ。ともすれば、小さな国ならばそのまま国家予算になりかねない金額だ。

「そうだな。が、とき既に遅し、というやつだ。仮にここで聖銀(ミスリル)の製法が見つかっても、普通に作って売っていたんじゃ、利ザヤは少ないだろうしな」

 イストの言葉にリリーゼは反感を持った。現に教会は聖銀(ミスリル)から膨大な利潤を得ているではないか。なぜヴェンツブルグに同じことができないと言い切れるのか。

「教会から横槍が入る。売却益の9割は持っていかれるだろうな」
「そんな・・・・・」

 それが政治って奴さ、とイストは無煙を吹かし、白い煙(水蒸気だが)を吐きながら言った。教会とヴェンツブルグの力の差は歴然で、言うなれば「月とスッポン」だ。圧力を掛けられれば屈せざるを得ない。

「まぁ、やり方を変えればそれなりに儲けられると思うけどな」
「どうするのだ?」
 教会に横槍を入れさせず、大きな利益を上げる方法などあるのだろうか?
「自分のおつむで考えな」

 ちょうどその時、一本道が終わり少し広い空間に出た。川の流れている音がする。新月の月明かりを掲げると、先が幾つかに枝分かれしていた。

 イストは再び木箱を取り出し、壁にペイントボールを張り付け目印を残している。

「どれを選ぶのだ?」

 枝分かれしている道はここから見えるだけで五つある。選んだ先がさらに分岐している可能性もあるから、全てをしらみつぶしに探索するのは無理だろう。

 それが分かっているのかいないのか、イストはふむ、と顎に手を当てて考えるしぐさをした。悔しいがさまになっている。

「・・・・話は変わるが、その腰の魔剣・・・・」
「・・・はぁ?・・・何だ?一体何だ・・・・?」

 話が唐突に飛びすぎてついていけない。

「だからその魔剣。かなりの業物だな。ずっと気になってたんだ。少し見せてくれないか?」

 まったくこんな時にそんなことしなくてもいいじゃないか、とブツブツ文句を言いながらも水面の魔剣を鞘から抜いてイストに渡す。魔剣を受け取ったイストはその刃をためつすがめつ眺めて、

「な、ちょ!お前!」

 いきなり魔剣に魔力を込めた。蒼白色の淡い光が闇に浮かび上がると、リリーゼは咄嗟に声を上げた。

 悪い悪いあまりに見事だったものでついな、と明らかに悪かったと思っていない軽い調子で謝りながら、魔剣をリリーゼに返す。

「そうそう、今魔力を込めてみて分かったんだけどな。その魔剣、単なる水属性の魔道具ってだけじゃなさそうだ」
「どういうことだ・・・・・?」

 扱いに熟練しているとはとてもいえないが、今まで使ってきた限りでは水を操る以外の能力などなかったはずだ。

「どうやら魔力を放出してその反射を観測することで周りの状況を調べられるらしい」

 水面に浮かぶ波紋の如くってわけだ、と白い煙(水蒸気だが)を吐きながら軽い調子でイストは言った。

 慌てて取り返した水面の魔剣に魔力を込める。今度はそういう能力を使うつもりで。

(確かに魔力を放出して、それが反射して返ってくるような感じがするな)

 イストが言うところの観測とやらは魔剣自体がやっているらしく、頭の中には大まかな地形が浮かんだ。

「故に『水面の魔剣』というわけか・・・・・」

 少々複雑な心境だ。手にしてからまだまだ日が浅いとはいえ、自分の魔道具について今さっき触っただけの他人から教えられるとは。

(未熟だな・・・・)

 思い知らされる。

 そんなリリーゼのセンチでブルーな心境を意図的に無視して、イストは右から二番目の通路を選んで先に進んでいく。その先が一番広くなっていたからだ。リリーゼも無理やり気持ちを切り替え、そのあとを追った。

 進んでいくと回りの雰囲気が変わった。
「工房・・・・か?」

 目の前に広がったその光景は工房と呼ぶのがもっともふさわしく思われた。どうやら反乱軍はここで魔道具を作っていたらしい。

「だが、工房というにはガランとしすぎていないか?」
「もともとは色々道具があったんだろうが、戦いが終わってから持ち出したんだろう」

 そうやって資材をかき集めて町を作り、だんだんと成長して独立都市ヴェンツブルクとなったのだろう。知識として知っているのと、こうして遺跡を探索し肌で感じるのとでは、心に迫るものが違う。

「少し見て回るか」

 そういってイストは古の工房跡に足を踏み入れた。足元は荒くではあるが舗装されており、先ほどまでと比べると格段に歩きやすい。無数に残る人工的に削られた跡や窪みが、ここで多くの人が働いていたことを無言のうちに物語っていた。

 入ってすぐの空間が広くなっており、さらに左右の壁を掘って作ったのだろうか、幾つかの小部屋が連なっている。

 その一つに、それはあった。

「これは、・・・・・まさか・・・・・」

 壁に何かの文字が刻まれている。ただ現在は使われていない古代文字(エンシェントスペル)が使用されており、リリーゼには読めない。

「珍しいな。この時代の遺跡に古代文字(エンシェントスペル)が使われているなんて」

 300年前ならば既に現在使用されている常用文字(コモントスペル)が一般に普及していたはずだ。

「これじゃあ、何が書いてあるか読めないな・・・・」

 これが聖銀(ミスリル)の製法かもしれないと思うと残念で仕方がない。

「だがまぁ、先人たちの足跡を見られただけでもためになったな。・・・・ってイスト?」

 イストは眉間にしわを寄せながら壁に刻まれた古代文字(エンシェントスペル)を睨むようにしてみている。

「『我ら・・・・』」
「読めるのか!?」
「何とかな・・・・・」

 集中しているのかイストの返事はいい加減だった。欠けていて読みにくいとか劣化が酷いとか色々ブツブツ言いながらイストは解読を試みている。

「何で古代文字(エンシェントスペル)が読めるんだ?」

 今更この男にどんな秘密や特技があっても驚かないが、それでもやはり気にはなる。難しい顔をして解読するイストの背中に、リリーゼは問いかけた。

「オレの師匠が酔狂な人でな。自分が作った魔道具についての記録を古代文字(エンシェントスペル)で書くんだ。で、オレも覚えさせられたってわけ」

 ま、今でも職人の中には使っている人もいるし、古い文献なんかは結構古代文字(エンシェントスペル)で書かれたものも多いから便利だぞ、とイストは事もなさげに答えた。

 職人たちは自分の作った魔道具について詳細なレポートを残しておくことが多い。が、それは誰にでも見せてよいものでは断じてない。そこで現在は一般には使われていない古代文字(エンシェントスペル)や、仲間内で使う暗号を用いてレポートを書くのだ。

 もっともこの話は一昔どころか二昔以上前のことで、現在はそういったレポートは各工房で厳重に管理されているのが普通だ。そのため使用される文字も常用文字(コモントスペル)が圧倒的多数で、古代文字(エンシェントスペル)などほとんど使われない。そんなご時勢にわざわざ古代文字(エンシェントスペル)を用いるイストの師匠は、そして恐らくは彼自身も、よほどの酔狂なのだろう。

 そんなことを考えていると、解読が終わったのか、イストが立ち上がった。

「なにが書いてあったのだ?」

 まさか本当に聖銀(ミスリル)の製法が書かれているとはさすがに思えないが、わざわざこんなところに、しかも古代文字(エンシェントスペル)を用いて書いている文章だ。人並みには興味がある。

「『我ら・・・・』」


我らは自由を求めるものなり
我らが求める自由は与えられるものにあらず
我らが求める自由は我らの手で掴むものなり
同志たちよ、忘れるなかれ
与えられし自由は、また奪われるもの
己が手で掴む自由こそが真の自由なり
我らはここに宣誓す
我らは諸人の自由を奪わず、我らの自由を奪わせず


 朗々と、イストの声は響き渡った。

「宣誓文だったのだな」

 余韻に浸りながら、リリーゼはポツリと呟いた。ベルウィック・デルトゥードとその同志たちはこの言葉と理念を胸に戦ったのだ。そしてその歴史は今まさに独立都市ヴェンツブルクへとつながっている。

「先人たちの理想と大望の上に私たちはいるのだな」

 そう考えると胸が熱くなる。

 イストの方を見ると、なにやらノートのようなものに壁の宣誓文を書き写していた。ちなみに古代文字(エンシェントスペル)のままだ。

「聖銀(ミスリル)の製法じゃなくて残念だったな」
「なに、もともとそんなに期待していなかったからな。それにこれはこれで予想以上に面白いものが見れた」

 満足満足、とイストは白い煙(水蒸気だが)を吐きながら嬉しそうに言った。書き終えたノートをしまい、立ち上がる。

「さて、残り四つの分かれ道も探索してみるか」

 そうして、大まかにではあるが鍾乳洞全体を探索し終えたのは、もうしばらく時間がたってからであった。

**********

 転送用の魔法陣を使ってもとの遺跡に戻ってきたときには、あたりは黄昏時を迎えていた。頭上を見上げると、昼間と夜の曖昧な境界が地上を見下ろしている。これから時間が進むにつれて夜が深まっていくのだ。

「しまった!」

 リリーゼが焦った大声を上げた。日の傾きが分からない場所にいたせいか、遅くなりすぎた。

「イスト、今日は本当に面白かった。それにためになった。それで、ええと・・・・」
「ああ、オレのことは気にしないで早くいきな。門限とかあるんだろ?」

 焦っているせいかうまく言葉の出てこないリリーゼに苦笑しながらイストは声をかけた。それを聞くと挨拶もそこそこにリリーゼはモスグリーンの外套をイストに返し、脱兎の如く駆け出した。

「良家は門限にも厳しいか」

 大変だな、と完全に他人事の調子で呟く。そして、さて、といって表情を改めた。

 左手の袖を軽くまくる。左手の手首には古めかしい腕輪が付けられていた。装飾は凝っているが派手な感じはしない。

 その腕輪には魔力を込める。すると先ほどまで何もなかった空間に、突如石造りで蔦の絡みついた扉が出現した。

「アバサ・ロットが工房、『狭間の庵』へようこそ、ってか」

 軽口を叩きながらイストは石造りの扉を開きその内側へ消えた。扉が完全に閉まりきると、その石造りの扉は宙に溶けるようにして消えていった。




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法⑦
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:52
門限には何とか間に合った。遅れていたらと考えると恐ろしい。昔兄たちが門限を破ったときに受けたおしおきの数々は、幼かったからこそ聞いただけでもトラウマになっているのだ。電撃だの水攻めだの逆さ釣りにして回されるだの、そんな目には遭いたくない。ちなみにおしおきをするのは父ではなく母のほうだ。何を隠そうラクラシア家最強は母であるアリア・ラクラシアなのだ。

 最近新作が試せなくてつまらないわ、などとアリアは不満げにぼやいていた。何の“新作”なのかは考えたくもないし、試されたくはもっとない。

 ふう、と何度目か分からない安堵の息をつく。門限に遅れていたら今目の前にあるこの夕食も食べられなかったに違いない。食卓の上に所狭しと並べられたおいしそうな料理の数々は母であるアリアの作だ。

 今日の夕食には家族が全員そろっていた。ここ最近仕事が忙しく家に帰ってきていなかった父や兄たちも、今日は合間を見つけたのかそろっている。

 その席でリリーゼは今日体験した貴重な経験について語った。
「・・・・・それで泉の近くである魔導士と出会ったんです。遺跡めぐりが趣味で、名前は確か・・・・」
「イスト・ヴァーレ?」

 その名前を言ったのはクロードだった。
「そうです。そう名乗ってしました。どうしてクロード兄上がその名前をご存知なのですか?」
「騎士団で入出国表を確かめていたら、その人物がここ最近何度も出たり入ったりしていてね。備考の欄に遺跡めぐりが趣味だって書いてあったから、もしかしたらってね」

 そうでしたか、と言ってからリリーゼはさらに話を進めた。
 イストが光彩の杖で劣化して読み取れなくなっていた魔法陣を発動して見せたこと。転送された先が鍾乳洞だったこと。

「・・・・それで目印を残したんです。ペイントボールという元々は仮装パーティーなんかで使う魔道具で、見せてもらったものは鳥が翼を広げる様子の絵柄でした。視覚補助用の魔道具とリンクしていて大まかな位置関係が分かるといっていました」

 ペイントボールには他にも獅子や蛇、馬に狼など、他にも種類があると言っていましたね、とリリーゼはその時の様子を出来るだけ忠実に思い出しながら説明した。

 狼か、と呟いて考え込んだのは長兄のジュトラースだった。

「他にはどんな魔道具を持っているといっていたのかね?」
 ディグスが穏やかな口調でリリーゼに問いかけた。

「そうですね・・・・、禁煙用で“無煙”という煙管型の魔道具とか、あと見せてもらってはいませんが、髪や眼の色を帰ることが出来る魔道具も持っているようなことを言っていました」

 そう、リリーゼが言った瞬間だった。和やかだった食卓の雰囲気が変わったのは。ラクラシア家の男三人はそろって厳しい顔をして互いに視線を交錯させた。

「ジュトラース、手勢を集めろ。クロード、騎士団を動かせるようにしておけ。そのイスト・ヴァーレという魔導士を探すぞ」

 は、と短い返事をして兄弟は食卓を後にした。ディグスもその後を追うようにして出て行く。後に残されたのはさっぱり事態が飲み込めていないリリーゼと、穏やかに微笑んでいるアリアだけだ。

「・・・・母上、これは一体・・・・?」
「リーちゃんがお父様から頂いたあの魔剣、どうやらそのイスト・ヴァーレさんが持ち込んだみたいねぇ」

 のんびりと答えるアリアには緊張感の欠片もないが、その言葉を聞いたリリーゼは殴られたような衝撃を受けた。これから起こるであろう事態が、頭の中を駆け巡る。

「くっ」

 短いうめき声を残しリリーゼも走って食堂から出て行った。恐らくは一度部屋に戻り、水面の魔剣を帯びてから町へ駆けていくのだろう。

「あらあら、大変ねぇ」

 ぜんぜん大変そうじゃない態度と口調と雰囲気のままでアリアはお茶を優雅に口にした。

「門限に関しては、今日は大目に見てあげましょう」

 それからまだ多くの料理が残っているテーブルに目を向け、

「お料理、冷めちゃうわねぇ・・・・・」
 そう、少し悲しそうに呟いた。

**********

 リリーゼが父であるディグスから貰った魔道具「水面の魔剣」は優れた魔道具である。が、今回問題なのは水面の魔剣そのものではなく、それがイスト・ヴァーレという魔導士によって持ち込まれた、という事実であった。

(おそらく闇ルートで売り払ったのだろう)

 暗黙の了解を守っているうちはそういう商売が黙認されていることを、当然リリーゼも知っている。

 さて、非合法のルートで魔剣が持ち込まれたということは、正式な工房に属していない職人がいるということだ。魔道具の製造は規制されていなくても、売買は法によって規制されているからだ。

 もっとも在野(この場合の在野とは工房に属していないことを言う)に魔道具職人がいること事態は珍しいことではない。ただし水面の魔剣ほどの魔道具を作れる職人となれば話は別だ。これほどの腕をもった職人は滅多にいない。どんな手を使ってでも口説き落とし抱え込みたい、と少々の富や権力を持っているならば誰もがそう思うだろう。

(そしてヴェンツブルグの三家はそういう野心を抱くのに十分すぎるほどの富と権力を持っている)
 手早く動きやすい服装に着替えながらリリーゼは苦い表情を浮かべた。

 そして、水面の魔剣を作った職人への手がかりがあのイスト・ヴァーレなのだ。

 恐らく、というかほとんど確実に、父と兄たちはラクラシア家の全力を挙げてイストを探すだろう。そしてラクラシア家が動けばガバリエリ家とラバンディエ家もそれを察知して動くだろう。

 リリーゼはこのとき思い至ってないが、レニムスケート商会もまたイスト・ヴァーレの身柄を狙っていた。

「大変なことになるぞ・・・・・!」

 おとなしくイスト・ヴァーレを探し回るだけならいい。だがそうはならないだろう。あちらこちらでいざこざが起こるはずだ。それだけなら三家の問題で収まるが、その混乱に乗じて狼藉を働く者たちが出てくるだろう。

 今夜この都市は混沌の様相を呈するだろう。そのなかで自分に何が出来るだろうか。

「くっ・・・・・」

 だが、だからといって「何もしない」という選択肢はリリーゼにはありえない。イストに関わった人間として、事態が収まるのをただ待つだけなど到底出来なかった。

 何も出来ないかもしれない。自分が未熟なことなど、自分が一番よく分かっている。だがそれでも、

「何もしないよりはましだ」

 そう自分に言い聞かせ「水面の魔剣」を掴むと、彼女は夜の帳が下りた街へと駆け出していった。




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法⑧
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:54
 「ハァハァハァ・・・・」

 荒い呼吸を何とか整えていく。リリーゼが街を駆けずり始めてから、既に小一時間がたっていた。ラクラシア家の動きは既にガバリエリ家とラバンディエ家にも伝わったらしく、それらしい二、三人の集団がそこかしこにいる。

 これまでイストが宿泊していたという宿屋を幾つか見つけた。しかしどの宿屋も出立した後ということで、本人を見つけるには至っていない。

「一日ごとに宿を変えているのか・・・?」

 疲労と苛立ちが募る。
 こういう事態を想定して一所に留まらないようにしていたのだろうか。あの男ならそういう思考をするのではないか。そう考えたら皮肉っぽい笑みを浮かべたイストの顔が浮かんだ。

(『気分』とか言いそうだな・・・・・。想定していたなら、あの男のことだ、単なる嫌がらせに決まっている・・・・!)

 短い、それこそ半日程度の付き合いしかしていないが、それでもリリーゼはイストに対して「軽薄で酔狂」という先入観を持っていたし、それは正しい感想であると言えるだろう。それがイスト・ヴァーレの一面であるという意味では。

 頭を振り、考えを切り替える。今はイストの人間性についてあれこれと考えている場合ではない。一刻も早く奴を見つけ、この事態を収拾する。それが今の目的だ。幸いなことに今のところ流血沙汰は起きていない。

 一日ごとに宿を変えているならば、この時間は宿ではなく食事のできる食堂か酒場あたりにいるかもしれない。

「そちらをあたって見るか・・・・」
 長い夜は続いていく。

**********

 さらに二時間ほどが経過した。未だにどの勢力もイスト・ヴァーレを見つけることが出来ないでいる。それどころか有力な手がかりさえ見つけること出来ない。今朝の目撃情報を最後にこの都市で彼を見た者はいないのだ。

 異常な事態である。三家たるラクラシア家、ガバリエリ家、ラバンディエ家、それにヴェンツブルグに拠点を置くレニムスケート商会。この四つの勢力が総力を挙げて探しているのである。しかも今回は名前と特徴まで分かっており、しかもイスト本人は自分が探されていることに気づいていないはずだ。まあ、これだけ大掛かりに捜索されれば気づくかもしれないが。

「それならあの男の性格からして自分のほうから出てくると思うのだが・・・・・」

 とある可能性が頭をよぎる。もしかしたらイスト・ヴァーレはもうこの都市に居ないのではないか。恐らくは四つの勢力共にその可能性には気づいているはずだ。

 だが、引くに引けない。いや、当事者が誰であれこの状況で諦める愚か者はいないだろう。一縷(る)の望みさえあればそこに全力を傾けるはずだ。

(それだけの価値があるのだ。「水面の魔剣」を作った職人には)
 腰に吊るした魔剣を無意識に触りながらリリーゼの思考は走る。

 そもそもこれだけの腕を持った職人が今まで無名で、世間から気づかれずにいたこと事態が異常で、この都市の権力者たちからしてみれば奇跡なのだ。ほんの僅かな可能性さえもないと悟らない限り、この事態が収集されることはないだろう。

「くっ!」

 他の勢力より早く見つけなければと気持ちは焦る。が、実際には何の成果もないまま走り回っている。

 ただただ焦りとイライラだけが募っていく。
 そしてそれはリリーゼ1人に限った話ではない。今宵この都市を縦横無尽に駆けずり回っている四つの勢力の全員に言えることだ。

 既にあちらこちらで小競り合いが頻発している。道を通せだの通さないだの、ここはウチが調べるだのいやウチがだの、理由自体はくだらない。そんな理由で小競り合いを引き起こしてしまう精神状態こそが異常なのだ。

「くそっ!人の気も知らないで!」
 頭に浮かんだイストに悪態をつく。

 さっさと出て来い、イスト・ヴァーレ。でないと小競り合いで程度ではすまなくなるぞ。そう半ば呪うかの如くに念じながらリリーゼ・ラクラシアは夜のヴェンツブルグを疾走する。

 そうやって疾走するリリーゼの視界に四人の男が入ってくる。三人が刃物をチラつかせながら一人を囲んでいる。

 恐喝。思考は単語で走り、行動に直結する。

「痴れ者が!!」

 「水面の魔剣」を抜き放つ。刃物を持った三人がリリーゼに気づいた。彼女の持っている剣が魔剣であることは一目瞭然だが、小娘と侮ったのかそれとも数を頼んだのか、それともその両方か、はたまた魔剣を奪おうとでも考えたのか、三人は目標をリリーゼに変えた。

 最初の1人が正面から手にした刃物を突き出す。それを、右足を軸にして体を回すようにしてかわす。さらに勢いあまった男とすれ違う瞬間、体を回した勢いそのままに魔剣の柄を男の首筋に叩き込む。

(まず一人・・・・!)

 倒れこむ男の存在はすぐに思考からはじき出し、残りの二人に意識を向ける。気配は左右。左が速い。

 一人目に魔剣の柄をぶつけたことで体を回した際の勢いは既に死んでいる。突き出された刃を、僅かに体をズラす事でかわす。男が的を外し、体制を崩していく様子がやけにゆっくりと瞳に写る。

 転ばないために男は大きく右足を踏み出す。一閃。その右足の太ももを右上段から魔剣で撫でるように斬る。足の筋を斬られた男は体重を支えることができず、そのまま倒れこんだ。

(二人・・・・!)

 最後の気配は後ろ。倒れこむ男を避けるようにして飛んで間合いを開ける。体を反転させると、最後の男が刃物を斜めに振り下ろしてくる。それをバックステップでかわし、相手の右上腕部の筋を斬る。

「ちっ、覚えてよ・・・・」

 短く悪態をつくと男は傷口を押さえてその場から走り去った。恐喝されていた男を捜すと、既に逃げたのか姿はない。

 礼が欲しかったわけではない。が、やはり虚しさは否めない。それは、一刻も早くイスト・ヴァーレを見つけなければならないのに、こんなところで格下のゴロツキ相手にチャンバラを演じなければならない、自分の現状に対しても言えることだ。

「ああ、もう・・・・」
 募る苛立ちを押さえ、リリーゼは再び走り出した。あちらこちらから物騒な喧騒や悲鳴が聞こえた。

 なぜ気づかなかったのだろう。

 あの時、彼が「水面の魔剣」の探査能力を使って見せたときに。

 あれは決して偶然などではない。彼は知っていたのだ。この魔剣にその能力があることを。当然だ。「水面の魔剣」の元々の所有者はイストなのだから。

 そもそも自分に色々な魔道具を見せてくれたのは、その情報を父や兄たちに伝えさせてこの状況を招くためではなかったのか?

「だとしたら私は・・・・!」

 とんでもない道化を演じさせられてことになる。仮にイストにその意図がなかったとしても、「水面の魔剣」の元々の所有者が彼であることに気づいていたなら、今のこの混沌とした状況は多少なりともマシになっていたはずだ。

「弱音を吐くな」

 イストに怒りをぶつけるのも、自分を責めるのも後でいい。今は、
「できることをする。そう決めたはずだ」

 彼女の夜は長い。




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法⑨
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:56
 東の空が白んできた。

「朝か・・・・・」

 疲れもあらわにリリーゼは呟いた。飲まず食わずの休みなし、というわけではなかったが、一晩中走り回ったのだ。正直、もう動きたくなかった。

 そう、結局一晩中イストを探して街中を駆け巡ることとなったのだ。にも拘らず彼は見つからなかった。これはラクラシア家に限ったことではなく、他所でも同じだ。

「お嬢様、一度お屋敷にお戻りください」

 途中から一緒に行動していたラクラシア家の私兵の1人がそう声をかけた。

「夜も明けました。さすがにバカ騒ぎも収束するでしょう」
「そうだな・・・・・」

 一晩かけても手がかりはほとんど掴めなかった。これ以上は恐らく無意味だろうし、他の二家やレニムスケート商会もそれは承知しているだろう。それにリリーゼ本人としても空腹で疲れきっている。

「帰って休むとするか」
 そう言ってリリーゼが魔剣を杖に腰を上げたとき、

「はっはー。朝も早よからお疲れのご様子。昨晩は何か楽しいことでもあったのかい?」

 イスト・ヴァーレまさにその人が現れたのだった。


「な・・・・・?」

 驚愕を顔に貼り付けてリリーゼは絶句した。つい先ほどまで街中を駆けずり回って探しても見つからなかったイスト・ヴァーレその人が、今まさに目の前にいるのだ。

 驚愕は徐々に怒気へと変わっていく。

「き、貴様!今までどこにいた。私たちは一晩かけてお前のことを街中探し回ったのだぞ、イスト・ヴァーレ!」
「街中探し回って見つからなかったんなら答えは一つだろ」
「・・・・え?」
「街の外に居たんだよ」

 昨日の月見酒は最高だった、と彼は笑った。無煙を吹かし白い煙(本人の自己申告を信じるならば水蒸気)を吐き出すその姿は忌々しいまでに軽薄だ。

「街の・・・外・・・だと・・・?」

 単純にして驚愕の事実を聞かされ、リリーゼはその場に座り込んだ。一緒にいたラクラシア家の私兵たちも一様に驚いたような疲れたような、複雑な表情を浮かべている。

 私たちが必死に街中を走り回っていたときに渦中のこいつは外で暢気に月見酒を煽っていたというのか・・・・・?

 そう思うと、フツフツと怒りが再燃してくる。

「ともかくだ!ここであったが千年目。イスト・ヴァーレ、貴方にはラクラシア家までご足労願うとしよう」

 拒否は認めない、と言い放つ。私兵たちも表情を厳しくして、断れば力ずくで、と無言のプレッシャーを掛ける。しかし、そんなプレッシャーなどまるでないかのようにイストは無煙を吹かしている。

「オレは別に構わないが、構う人たちもいるらしい」

 そういってイストは路地に目を向ける。リリーゼもその視線を追う。すると、ガバリエリ家の私兵の一団が路地から現れた。さらにラバンディエ家、レニムスケート商会の私兵もなだれ込み、場は一気に緊迫した。

 ラクラシア家、ガバリエリ家、ラバンディエ家にレニムスケート商会。四つの勢力が(下っ端ばかりとはいえ)勢ぞろいしてしまった。どの一団もこのイスト・ヴァーレを確保せんと気がはやっている。それぞれがそれぞれに間合いを計り、機先を制そうとしている。朝の、ともすれば肌寒いくらいの時間帯なのに、全身から汗が吹き出てくる。リリーゼも水面の魔剣を正面に構え、三つの一団が全て視界に入るように立ち位置を調整する。

 まさに一色触発の事態だ。が、当のイストはといえばふてぶてしくも無煙を吹かし白い煙(本人の自己申告を信じるならば水蒸気)を吐き出している。その表情はこの事態を楽しんでいるかのようだ。

「どいつもこいつも引く気はない、か・・・・」

 緊迫した雰囲気の中、ただ1人その空気に飲まれることなく声を発したのはイストだった。

「予想通りっと。ま、そうでなくっちゃな」
 そういってイストは、悪戯を成功させた子供のように笑った。

「とりあえずオレはラクラシア家にご招待されるとするよ。ご令嬢の形相が怖いからね」

 冗談めかして言った彼の言葉にその場にいる人々は一気に色めき立った。緊張が膨れ上がり、場の均衡が崩れるその刹那、

「だから、それぞれの代表にラクラシア家まで来るように伝えてもらえるかな。話は役者が揃ったら聞くから」

 そういったイストの言葉で場が落ち着きを取り戻す。が、当たり前だが、簡単にその提案を受け入れることはできないらしい。

「・・・・・ここでお前を力ずくで連れて行けば同じことだ」

ガバリエリ家の私兵の一団のリーダーらしい男が唸るようにしていった。他の面々もその選択肢は捨てがたいらしく、表情には迷いが見える。

「ここで事を起こして俺の心証を悪くすると、ご主人サマの交渉に響くぞ。そしたらお前らクビ、だな」

 杖を持っていない左手でクビを切る仕草をしながら茶化すようにイストは告げた。言われた男は渋い顔をして黙り込んだ。皆が沈黙し、何も言わなくなるとイストはリリーゼに水を向けた。

「んじゃ、行こうか。あ、ついでに朝食を付けてくれると嬉しい」
 メシまだなんだわ、と相当に厚かましい希望を沿えて。

**********

 末娘のリリーゼが見知らぬ男を連れて帰宅したとき、父であるディグスは内心焦った。まさかこの一晩のうちに良からぬ男に引っかかったか、であればこの男どうしてくれよう。と顔には出さず物騒なことを考えていたが、そんな父親の心配は杞憂に終わった。


「父上、この男がイスト・ヴァーレです」

 娘にそう紹介された男は、年のころは二十歳の始めごろで背丈は170半ば。髪と瞳の色は黒で赤褐色の外套を羽織っていた。右手には背丈より少し長い杖を持ち、左手で煙管を吹かしている。顔立ちは整ってはいるがとりたてて美形というわけではない。が、そのアクの強そうな瞳は容姿以上に彼に生気を与えていた。

 ディグス・ラクラシアは狂喜した。が、そこは政に関わる者。己の感情は全て腹の中に押さえ込み、表にはおくびもださぬ。ただ万人向けの作り笑顔を向け、当家にようこそ、とこの重要な客人を迎えたのであった。

 ラクラシア邸でイストが最初にしたことは、厚かましくも朝食の催促であった。朝食はすでにアリアが用意してあり、ラクラシア家の面々もまだ朝の食事を食べていなかったので、都合よく相伴することとなった。

 食事の最中、ディグスは例の魔剣について、色々と(というか主に製作者について)尋ねたが、そのたびに「その話は役者が揃ってから」とはぐらかされた。

「リーちゃんの魔剣を売ったの、貴方なのですってねぇ」
 おっとりとした口調で口を開いたのはアリア・ラクラシアであった。

「そうですよ、奥方」

 他家の食卓で遠慮も緊張もすることなく、優雅に紅茶を楽しみながらイストは肯定した。この事はもはや公然の事実なので隠す必要がない。ちなみにこの男が丁寧な口調で話をすることにリリーゼはどうしても違和感を覚えてしまう。

「そのことが引き金となって、昨晩から今朝にかけての騒ぎとなったのですねぇ。幸い死者が出たという話は聞いておりませんが、けが人や物取りの被害に遭われた方々は100人を超えるとか」

 アリアは一旦間を取った。そして柔和な微笑を浮かべ続ける。

「この責任、どう取るおつもりですか?」

 食卓の温度が凍りつくほどに下がった。アリアを見れば先ほどとまったく変わらぬ微笑を表面上は浮かべている。が、その笑顔は間違いなく黒いし、背後には般若が見える。

 リリーゼは背中に冷や汗が流れるのを感じた。二人の兄もご同様の様子だ。が、当のイストはといえば、アリアの物理的圧力さえ感じそうな笑顔もどこ吹く風、先ほどとまったく変わらず優雅に紅茶を啜っている。

「ホント、どうするんでしょうね」
「・・・・・・・」

 重たい沈黙が食卓にのしかかる。

「答えないおつもりですか」
 アリアが初めて険のある声を出した。

「当然です。オレが問うたのですから、貴方たちに。どうするつもりなのか、と」

 怪訝な顔をするラクラシア家の面々に対し、いいですか、と前置きしてからイストは言葉を続けた。

「オレは小さな火種を持ち込んだだけ。その火種に薪をくべ、油を注ぎ大火に仕立て上げたのは、他ならならぬ三家とレニムスケート商会です。ならば責任を取るべきは彼らでしょう?」
「そもそも火種がなければ大火は起こらない。そうは思いませんか」
「火種なんてそこかしこに転がっていますよ。それともその全てに対して責任を求めるおつもりですか」

 そもそも、とイストは続けた。ティーカップを置き、責めるように、からかうように瞳が光る。

「今回の一件、動きが大きすぎるんですよ。まったく関係のない両替屋のおっちゃんまで『強力な魔道具が持ち込まれたらしい』って話を知っていた。もっと秘密裏にやる方法はいくらでもあったでしょうに」

 ディグスが苦い顔をする。やり方がまずかったことは自覚しているらしい。

「私にまったく責任がないとは言いません。しかし私より先に責任を問われるべき人々がいる、と思いますよ」
「・・・・・・魔道具の密売は犯罪だ。その咎でお前を捕らえることもできるのだぞ」

 いいように言いくるめられたことが悔しかったのか、クロードが唸るようにして脅した。論法を変えて、少し脅しておくつもりなのだろうか。

「なら密売品を非合法に買い取って、さらにその犯罪者と一緒に食事をしている皆さんも共犯ですね」
 鮮やかに切り返され、すぐにクロードは言葉に詰まった。

「それにこんな話をするためにオレを呼んだのではないのでしょう?」

 そう言ってイストが視線を向けた先にはラクラシア家の執事が腰を折っていて、来客を告げた。





[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法⑩
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 14:57
 舞台は客間に移る。

 ラクラシア家の客間には五人の男がいた。三家たるガバリエリ家、ラクラシア家、ラバンディエ家のそれぞれの当主、レニムスケート商会の首領(ドルチェ)、そして「例の男」。今回のバカ騒ぎの中枢が一堂に会したのだ。ちなみにリリーゼも同席を希望したのだが、許可は下りなかった。

「夜更かしをしたのですから、その分ゆっくりと休まないと。お肌が荒れてしまいますよ?」
 そう(黒い)笑顔を浮かべたアリアに押し切られ、今頃はベットの上だろう。

「さて方々、オレが『例の男』ことイスト・ヴァーレだ。以後お見知りおきを」
 イストはそう挨拶したが、半分以上は儀礼的なものだ。

「我々を一堂に集めて何を話そうというのかね。部下の話では交渉といっていたそうだが」
 早速口を開いたのはラバンディエ家の当主だ。

「交渉の前に二つほど言っておきたいことがある」
 先ず一つ目、といってイストは人差し指を立てた。

「あの水面の魔剣を作ったのは、他でもないこのオレだ」

 彼らが最も聞きたかった情報をあっさりと彼は提示した。色めき立つ当主たちを無視してイストは話を続ける。

「そして二つ目は、オレはどこの工房にも属す気はないってことだ」

 イスト以外の四人は一様に難しい表情となった。目論見が潰えたから、ではない。むしろこの発言で「イストが水面の魔剣を作った」という話の信憑性は増した。工房に属す気がないくせにそんなウソをつく理由はないからだ。

「では、この場でどのような交渉をするおつもりですか?新たに魔道具を売却したいというのであれば、我が商会が買い取らせていただきますよ」

 話を進めたのはレニムスケート商会の首領(ドルチェ)、ジーニアス・クレオであった。

「その話は又の機会に」

 ジーニアスの誘いを柔らかく断り、さて、と彼は話を続けた。
「このまま何もなしでは方々としても収まりが付かないだろう。色々と物騒なことも考えかねないからな、水面の魔剣とは関係ないが別の交渉材料を用意した」

 それがこれだ、といってイストは一枚の紙切れをテーブルの上においた。ガバリエリ家の当主がそれを手に取り、そして眉間にしわを寄せた。

「・・・・・・なんだ、これは」
 そこに書かれていたのは彼らには読めない文字、古代文字(エンシェントスペル)だった。

「貴様ふざけているのか」
「そこには聖銀(ミスリル)の製法が記されている」

 当主たちの怒りは一瞬にして霧散した。代わりに困惑が彼らを支配する。当然であろう。聖銀(ミスリル)の製法は教会が厳重という言葉が陳腐に聞こえるほどの仕方で管理しているのだ。そんな秘中の秘が今目の前にあるといわれてもそう関単に信じられるわけがない。

 そんな当主たちの困惑を無視して、イストは一つの封筒を机の上に置いた。口は赤いロウで封がされている。

「そしてこいつにソレを常用文字(コモントスペル)に翻訳したものが入っている」

 ああそれと、と思い出したようにイストは付け加えた。
「そっちの紙には細かい手順や数値は書いてないから」
「・・・・・なぜ貴様が聖銀(ミスリル)の製法を知っている・・・・」

 唸るようにしてそういったのはラバンディエ家の当主だ。

「この街の近くにある遺跡から見つけた」
 こともなさげにイストは答えた。

「ソレが本当なら、その遺跡を探索すれば我々も同じものを見つけられるな」

 リリーゼからあらかた話しを聞いているディグスがそういった。それも古代文字(エンシェントスペル)で書かれているかも知れないが、古代文字(エンシェントスペル)が読める人物は探せば見つかるだろう。

「甘いな。オリジナルはもう潰した。判別は不可能だ」
 ニヤリ、とイストは邪悪そうな笑みを浮かべた。

「そもそも、そこに入っている製法は本物なのか?」
 かなり疑わしい、という目を封筒に向けるガバリエリ家の当主。

「実際に合成してみればいい。それで納得できるだろう?」

 むぅ、と当主たちは押し黙った。そんな中、いち早く思考を商売に切り替えたのは、やはりというか商人ジーニアスだった。

「幾らで売りつけようというのです?その製法」
「1万シク」

 金貨で1万枚。その金額に当主たちは難しい表情を浮かべた。法外だったから、ではない。むしろ破格といっていいだろう。

 教会は聖銀(ミスリル)の売却益で年間の活動予算のおよそ三割をたたき出しているのだ。その金額たるや莫大で、ともすればそれだけで小国の国家予算並みの金額になる。仮に教会と客を二分するとしても、1万シクなど一年のうちに補完でき、さらには10倍以上のおつりが来るだろう。

「四人だから、1人頭2500シクでいいぜ」
「・・・・・いいだろう。ただし、支払いはその製法が本物だと・・・・・」

 確認したあとでだ、と言おうとしたラバンディエ家の当主をジーニアスが遮った。

「―――お待ちください」

 若干の興奮も混じらぬ、冷静を通り越して冷徹な声。その目は獲物を狙うかのごとくに鋭くなっている。

「仮に聖銀(ミスリル)を合成して売ったとしてもそれほどの利益は望めません。十中八九、教会の横槍が入ります」
「だろうな」

 ジーニアスの冷静な分析をイストは肯定した。
「とすれば1万シク高すぎます」
 2000~3000が妥当でしょう、と彼は大胆に値切った。

「それは普通に聖銀(ミスリル)を合成して売ったときの話だろう?やり方を変えればいいだけの話だ」
「どうやるというのだ」

 ディグスが疑わしそうに言った。そんな彼にイストは苦笑を向け、ジーニアスに視線を転じた。

「あんたなら当たりは付いてるんじゃないのか」
 そんなイストの指摘をジーニアスは飄々と受け流した。

「私も是非知りたいですね。教えていただけますか」
 イストは肩をすくめ、食えない人だとこぼしてからその方法を述べた。

「聖銀(ミスリル)ではなくその製法そのものを売る。今オレがやっているみたいにな。長期的な収入にはならないけどかなりの利潤が出るぞ」

 そして、できる事なら一時期の間に大陸中の不特定多数の工房に売りつける。

「そうするとどうなる?」

 大陸中の工房で聖銀(ミスリル)が製造されることになるだろう。

「その全てに介入して利ザヤをはねるなんていくら教会でもできっこない。というより得策じゃない」

 教会とは国ではなく組織である。つまり自前の国土を持たない。その教会が大国並みの権力と富を持てる、その源泉はひとえに大陸中に存在する信者たちである。

 しかし、工房に圧力を掛けて利ザヤをはねるという行為はどうしても敵を作る。端的に言えば信者が教会から離れてしまう。一つ二つの工房ならそう大した問題にはなるまい。が、大陸中不特定多数の工房となれば話は別である。そこに連なる人々の数たるやもはや国家単位の人口となるだろう。

 その全てを敵に回せばどうなるか。教会の権力基盤は揺らぎ、発言力は低下する。それ以前に信者からの寄付金が目減りすれば活動そのものに差障るのだ。

 長期的に見ても短期的に見てもリスクしかない。

「・・・・・・どうやって大陸中にばら撒く?」
「おいおい、それぐらい自分たちで考えてくれよ」

 一同は押し黙った。話は決まった。




[27166] 乱世を往く! 第一話 独立都市と聖銀の製法 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:01
 結局、三家の当主たちとジーニアスはイストの案に乗り、聖銀(ミスリル)の製法を1万シクで買い取ることになった。ただし実際に合成してみて本物であることを確認してから、という条件付。

(ま、筋書き通りだな)

 今、イストはラクラシア家の一室にいる。聖銀(ミスリル)の合成実験は準備の関係上、明日行われることとなり、監視も含めてこの部屋をあてがわれたのだ。もっとも、まだ代金は一銭も受け取っていないので監視の必要などないのだが。

 事の成り行きに満足し、イストは無煙を吹かして白い煙(水蒸気だが)を吐き出した。と・・・・・・。

「イスト・ヴァーレ!ヴェンツブルグ近くの遺跡から聖銀(ミスリル)の製法を発見したとは一体どういうことだ!」

 ドタバタと扉をけり破らんばかりの勢いで部屋に入ってきたのはリリーゼであった。が、当のイストはといえば、

「ノックぐらいしろよ」

 まったく動じた様子もない。

「聖銀(ミスリル)の製法など、あの遺跡のどこにあったのだ!?」
「あの壁に刻んであったヤツ」

 ぬけぬけと、彼は答えた。リリーゼはといえば「予想はしていた、が認めたくない」といった様子で頬を引きつらせている。

「じゃあ、あの宣誓文は!?」
「口からでまかせ。なかなかそれらしく聞こえただろ?」

 下唇を噛み俯いてプルプル震えているリリーゼの肩に手を置き、いっそ清々しい笑顔でイストは最後に余計な一言を放つ。

「『おお、無知は罪なり』」
「返せ!わたしの感動を返せ!」

 ちょっぴり涙目で叫ぶリリーゼの絶叫がラクラシア家にこだました。


**********

 大陸暦1563年5月、このときより歴史は緩慢に動き出す。しかし、後の歴史家たちより転換点とされるのはこの先1ヵ月後の出来事である。


 第一話、完。




[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 15:37
   決断に必要なのは決意ではない
   覚悟である


**********

第二話 モントルム遠征

 クロノワ・アルジャークは私生児である。ただし、彼の父親はエルヴィオン大陸の北東部に位置する大国、アルジャークの皇帝ベルトロワ・アルジャークであった。

 彼の出生は一向に劇的でない。侍女として宮廷に上がっていた娘が皇帝の御手つきとなり子を身ごもったという、掃いて捨てるほどによくある話である。

 クロノワの母の懐妊が発覚したとき、皇帝は彼女に暇を出し宮廷から去らせた。ただし身一つで放り出したわけではなく、辺境ではあるが小さな家と母子二人が慎ましく暮らしていくのに十分な金銭を与えている。

 これが父である皇帝ベルトロワの愛情だったのか、それとも単に厄介払いをしただけなのか、クロノワはついに結論を得ることがなかった。恐らくはその両方であり、厳密に言えばそのどちらでもないのだろう。

 なにはともあれ、クロノワの幼少期は静かなものであった。彼は自分が皇帝の血を引いているなど思いもしなかったし、母もおくびも出さなかった。さらにこの時期に、彼は1人の友を得るのだが、その話はまた別の機会にしよう。

 平凡ながら静かな人生が一変したのは、クロノワが十五のときであった。前の年の冬から母の具合が悪かったのだが、年が明けてから容態が急変し、春を待たずにこの世を去った。

 一人残され途方にくれる少年クロノワの前に現れたのは皇帝が遣したと言う一団であった。そしてこのとき初めて彼は自分が皇帝の血を引いていることを知ったのだった。

 母の死の悲しみも果てぬうちに彼の生活の場は辺境の小さな家から帝都ケーヒンスブルグの宮殿へと変わった。そこで彼を待っていたのもまた、掃いて捨てるほどによくある話であった。

 陰湿なイジメ、あからさまな陰口、公然とされる侮辱。彼の教師たちは隠すことなく軽蔑の視線を彼に投げつけ、同年代の子弟たちとの交友は一方的な暴力をもってなされた。自分をここに呼んだはずの皇帝は何もしてくれなかった。その妻である皇后はむしろ悪意の急先鋒であった。嬉しい誤算があったとすれば、クロノワの腹違いの兄であるレヴィナス・アルジャークが彼に無関心であったことだろう。ただこれは決して弟を気遣った結果ではない。レヴィナスの心情としては道端の石ころを無視するのと同じ感覚であったろう。

 なによりも彼の内腑に突き刺さったのは母への侮辱であった。

「下賎な女の子供」

 というレッテルはいつもクロノワに付きまとい、そして彼を苦しめた。彼に味方はおらず、彼の周りにあるものは、敵意と消極的無視だけであった。

「ここは寒いな、イスト」

 暖かいはずの部屋で彼がこぼした独り言は、歴史書には残っていない。

 このように精神的に劣悪な環境の中でクロノワはまず味方を作ること(決して増やすことではない)から始めた。

 まず、常に笑顔でいるように心がけた。誰に対しても挨拶し、失敗を犯せば許し時には庇ったりもした。教師たちには敬意を払い授業はまじめに受けた。嫌がらせ同然の仕事を頼まれても喜んで果たした。

 とても十五の少年がたどり着ける境地ではない。自力でたどり着いたとすれば「悟りを開いた」とでも言うべき精神的な脱皮が必要である。その境地にたどり着いたのが自力にせよ他力にせよ、彼がとった味方を作るための行動は成功した。

 この時期のことを後にクロノワはこう述懐している。

「私がいつ腹芸を身に付けたかといえば、間違いなくあの時期だろう。そして最も使ったのも。まったく、皇帝になってこんなに楽でいいのかと拍子抜けしたくらいだよ」

 幾分冗談の成分が混じっているとはいえ、この時期は彼にとって最もつらい期間だったのだろう。

 少しずつではあるが、クロノワの周りには人が集まるようになった。元々の人柄もあったのだろう。宮廷で働く人々はこの突然現れた第二皇子を徐々に受け入れていき、噂やさまざまな情報を教えてくれるようになった。教師たちも彼が優秀で敬意を持った生徒であることを理解すると、その態度は好意的なものになっていった。教えがいのある生徒だったのだろう。

 比較的高い地位にいる人々もクロノワを受け入れ始めた。その筆頭ともう言うべき人物がアールヴェルツェ・ハーストレイトであった。彼はアルジャークの一軍を預かる壮年の将で、兵士からの信頼も厚い。彼が味方となったことでクロノワを取り巻く宮廷内の状況はかなり好転した。クロノワの警護をアールヴェルツェの部下が担当することになり、こうしてクロノワは少なくとも物理的に安全な空間を宮廷内に確保したのであった。

 味方ができても敵が減ったわけではないので、向けられる悪意の量に大した変化はない。しかし少なくともクロノワは、その狂ってしまいそうな精神状態からはどうにか開放されたのであった。

 転機が訪れたのはクロノワが十八のときのことであった。この年、彼は皇帝の勅命により国内をくまなく巡る視察に出ることとなった。一見すれば左遷である。しかし彼の感想は違っていた。

「うれしかった。その一言に尽きる。私にとってあの宮殿は悪意の巣窟だったからね。視察だろうがなんだろうが、離れられるならなんだってよかった。それに旅をしてみたいとずっと思っていたから」

 とは言っても、いくら「下賎な女の子供」と軽蔑されているとはいえ皇子である。護衛も付けずに一人で視察に行けるわけもない。三〇人ほどの護衛が付いた。皆、アールヴェルツェが選んだ者たちで、クロノワに対しては好意的だった。

 この護衛隊を率いたのがグレイス・キーアという女騎士だった。士官学校を一桁台の席次で卒業した秀才で、また優秀な魔導士でもあった。彼女は元々アールヴェルツェの幕僚の一人なのだが、少々がんばりすぎて上から睨まれた。上、といっても将たるアールヴェルツェ自身が彼女を疎んだわけではない。彼女を白眼視したのは先輩に当たる幕僚たちであった。

「小娘が何を偉そうに」
といったところであろうか。

 クロノワの護衛隊長として彼女を推したアールヴェルツェの思惑としては、「世界を見て回って大人になってきなさい」といったことを考えていたのかもしれない。

「不満ですか?」

 出立に当たって顔を伏せ悔しそうにしているグレイスにクロノワはそう声をかけた。彼女は数瞬の沈黙の後、問いには答えずこういった。

「殿下は嬉しそうですね」

 自らの問いの回答が得られなかったことをクロノワは特に気にしなかった。

「そうですね。実際嬉しいです。ずっと旅に出てみたいと思っていましたから」

 余談であるが、この当時クロノワは誰に対しても、それこそ宮廷で働いている侍女に対しても、敬語を用いて話しをしていた。三年に及ぶ修行(・・)の成果と言えるだろう。

 クロノワの言葉を聞き、グレイスは彼がこの三年間迫害され続けてきたことを思い出した。クロノワはグレイスたちといるときにはそのことをおくびも出さないから忘れがちではあるが、彼の精神は圧迫され続け休まることを知らない。

(強い方だな)

 グレイスは素朴にそう思った。同時にこの視察の間に刺客に襲われるかもしれない、と思った。が、すぐにその可能性は低いと思い直した。

 クロノワへの迫害の急先鋒といえば皇后であるが、この人が彼を迫害する理由はただ単に「憎し」という感情的なものであって、政治的な思惑はまったくといっていいほど絡んでいない。

 なぜなら、次の皇帝は彼女の子供であるレヴィナスに決まっているのだから。皇太子として既に後継者としての地位を確保している以上、「下賎な女の子供」に付け入る隙などどこにあろう。であるならばわざわざ刺客を放ってクロノワを排する必要などない。視界に入らなくなれば忘れ去るだけだ。

 大した見送りもないまま彼らは出立した。そして彼が現れるのはそのおよそ三週間後であった。

**********

 その日は一日中移動に費やして、暗くなる前に野営の準備をしているところであった。クロノワは決して快適とは言いがたい野営にも文句を言わず、むしろ積極的にその準備を手伝っている。始めはグレイスたちも恐縮していたのだが、今では慣れてしまい好きなようにやらせていた。

「やれやれ、困ったお方だ」

 そうこぼす愚痴には、隠すことなく親愛の情がこもっている。

 そんな時であった。不審な男が近づいてきたのは。

「よう、クロノワ、いるか?」

 そういってグレイスに話しかけたのは、クロノワ殿下と同じくらいの年の男だった。身長は一七〇半ばで赤褐色のローブを羽織、右手には身長より少し長い杖を持っている。顔立ちは整っているが、取り立てて美形というわけではない。だがその瞳には無視できない輝きがある。

「貴様、殿下を呼び捨てにするなど・・・・・!大体貴様は何者だ!?」

 グレイスが好意的な反応を示さなかった原因は多分にして男のほうにある。が、当の本人はといえばまったく気にした様子もない。こういう図太いところは、クロノワに通じるものがあるのかもしれない。

「イスト・ヴァーレ。あいつの友達」
「友人だと・・・?貴様のような得体の知れない輩と殿下に面識があるわけが・・・・・」
「あいつがまだ辺境にいた頃に知り合ったのさ」

 そういってもまだグレイスは信用しきれないように、イストと名乗ったこの男を疑いの目で見ていた。ちょうどその時、騒ぎを聞きつけたクロノワ本人がやってきた。

「イスト・・・・・!なんでここに」
「や、久しぶり」

 この先、影に日向に歴史を動かしていく、友人同士の久方ぶりの再会であった。



「ホント、久しぶりだな・・・・・」

 感慨深そうにクロノワは呟いた。場所は彼の天幕の中だ。二人は向かい合って晩酌を楽しんでいた。野営ということありたいしたものはないが、それでもクロノワは上等な食料を選んでこの友人をもてなした。ちなみに二人が飲んでいるお酒はイストが持ち込んだものだ。

「最後にあったのが宮廷に入った直後だったから、かれこれ3年ぶりか・・・・・」

 早いのかな、とイストはクビを傾げた。そんな、常人とはちょっと異なる感性をもつ友人にクロノワは苦笑した。

「オーヴァさんはどうしている?できれば礼を言いたいのだけど」

 オーヴァはイストの師匠だ。クロノワが宮廷で暮らし始め陰湿な迫害に会い始めた頃、イストとオーヴァは彼に会いにあったのだが、そこでオーヴァはクロノワに味方を作るための「策」を授けたのだ。

「感謝してもしきれないよ。あの助言のおかげで生き延びた。そう思っている」
「師匠とは別れたよ。どこかの工房に落ち着くつもりだ、といっていたけど」
「そうか、残念だな」

 それからクロノワはふと思い出したように尋ねた。

「じゃあ、名も継いだのか」
「ああ、オレが今の『アバサ・ロット』だ」

 おめでとう、といってクロノワは杯を掲げた。どうも、といってイストも杯を掲げる。そして二人は同時に杯の中の琥珀色の液体を飲み干した。芳醇な香りと味が広がり、喉が焼かれたように熱くなる。

 それから他愛もない話をした。お互いの近況、噂話、くだらない冗談。話題は次から次へと変わり、尽きることがない。

 一本目の魔法瓶(魔道具。中の液体を任意の温度に保つ)を空にして二本目を飲み始めたとき、やおらイストの口調が真剣なものになった。

「クロノワ、オレと旅に出ないか」

 昔、まだ少年だった頃、そんな約束をした。

「いつか一緒に世界を回ろう」

 そんな約束をイストがまだ覚えていてくれたことが、素直に嬉しい。

 確かに、今ならば可能かもしれない。自分が失踪したところでこの国の政は小揺るぎもいしないだろう。心配してくれる人より、手をたたいて喜ぶ人々のほうが多い。気心の知れた友人と世界を旅する。それは甘美な誘惑だ。だが・・・・・。

「・・・・・いや、やめておくよ」

 答えるまでに、クロノワは数瞬の沈黙を先立たせた。

「そっか」

 軽く肩をすくめてイストは杯をあおった。

「理由、聞かないのか」
 クロノワの声は暗い。

「ま、な。なんとなく分かったから」

 イストの声はいつもと変わらない。チーズを一切れ口に放り込み杯を傾ける。

「おまえ、満足してるだろ?そんなヤツ、どうたきつけたって無駄さ」

 自分が満足しているとイストは言った。そうだろうか、とクロノワは内心クビをかしげた。不満は多々ある。しかし、現状それはあまり気にならない。というより割り切ることができている。それを満足というのだろうか。

「だとしたらそうかもしれないな」
「ま、お前を誘いに来たのはついでだしな」

 そういってイストは腕輪を取り出した。聖銀(ミスリル)製で細かい装飾が施されており、小指の爪くらいの大きさの青い結晶が埋め込まれている。

「魔道具、『ロロイヤの腕輪』。小部屋一つ分くらいの亜空間が固定されていて、まぁいろいろ放り込める」

 何も入ってないけど便利だぞ、といってイストは腕輪を投げてクロノワに渡した。

「お前の道具袋と同じか?」
「オレの道具袋は空間拡張型だけど、まぁ用途としては同じだな」

 イストの道具袋は師匠であるオーヴァから貰ったもので、空間拡張型魔道具「ロロイヤの道具袋」という。

 ロロイヤは初代アバサ・ロットの本名で、彼は空間拡張や亜空間といった類の魔道具製作で群を抜いていた。歴代のアバサ・ロットたちが工房として使ってきた「狭間の庵」も彼が作ったものだ。この類の魔道具に「ロロイヤ」の名前を冠すのは歴代のアバサ・ロットたちの一種の慣例らしい。

「これを渡すためにわざわざここまで?」
 クロノワは若干呆れ気味だ。

「ああ、名を継いだからそれらしいことをしたくてな」

 アバサ・ロットは自分の気に入った人物にしか魔道具を作らない。イストが「アバサ・ロット」であることを知っているクロノワに魔道具を贈るということは、それは彼がクロノワのことを昔と変わらず大切な友人だと思っているということだ。

 こそばゆい。が、同時にとても嬉しい。あるいは恥ずかしさを紛らわすためにイストは酒を出したのかもしれない。

「大切にするよ」

 二人だけの宴は続く。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:06
大陸暦一五六三年、このところのクロノワの評価は一時期に比べかなり改善されたといえる。その理由は彼が二年前、十九才のときに行った視察の旅に由来している。

 視察、といっても大半の人間の意見が一致している通り左遷であったから、真面目にやる必要などない。テキトーに国内を回り、「皇子」の肩書きに物言わせて各地で豪遊を楽しんでもよかった。

 が、クロノワはそれをよしとはしなかった。視察に訪れた各地を丹念に調べ、宮廷に詳細な報告書を上げた。その簡潔明瞭でなおかつ核心を突いた文章は、名文として後世でも高い評価を得ている。

 その文章を読んだ者たちは一様にして感嘆の声を漏らしたという。各地の問題を客観的かつ多角的に分析し原因を抽出、そして現状に基づき実現可能な解決策を提案している。その文章は簡潔で回りくどくなく、誤解の余地がない。

「なかなかどうして、できるお方のようだ」

 アルジャークには武官だけでなく文官にも実力主義の気風が根付いている。だからといって若輩者や成り上がり者に対する反発がなくなるわけではないが、今回はそれがいい方向に働いたようだ。

 少しずつ政に関わるようになったクロノワは、もともと能力があったのだろう、すぐに頭角を現した。治水事業や新たな土地の開墾、盗賊団の討伐。この二年間、彼は実に多くの経験をした。

 そして今、また新たな経験を積もうとしている。戦争という経験を。

**********

 その日、クロノワは宮廷の一室でアールヴェルツェと会っていた。グレイスもいる。視察が終わってから彼女の評価も上がり、アールヴェルツェの幕僚の中でも一目おかれるようになっている。

「先日、モントルム出兵の指揮を執るよう陛下から内密に命を頂きました」
「・・・・・!」
 クロノワの口調はいつもと変わらない。しかしその内容は衝撃的だ。

 モントルムはアルジャークの南方に位置する小国だ。アルジャークが百二十州を保有しているのに対してモントルムの国土は三十州。1つの州の大きさはまばらだが、平均すると国土面積や国力はおおよそ州の数に比例する。つまりアルジャークはモントルムの四倍ちかい国土と国力を保有していることになる。

「ではついにオムージュに出兵するわけですね」

 オムージュはアルジャークの西南、モントルムの西に位置しており、その国土は七十州。オムージュの大地は肥沃で、冬の長いアルジャークからすれば魅力的な土地だ。歴史の中で両国の国境線が書き換わったことは多々あるが、オムージュとモントルムが同盟を結んでからは国境線の変更は一度もない。オムージュとモントルムの国力をあわせれば百州となる。アルジャークの兵は精強をもって知られており、同盟を結んでも勝つことは至難だ。しかし、負けないように戦うことは十分に可能であり、現にアルジャークはこれまでオムージュとモントルムが同盟を結んでから勝ちきれたことがない。

 しかし、オムージュそしてモントルムを手に入れるための戦略がここ最近、形になり始めていることをアールヴェルツェも知っていた。

「レヴィナス兄上が十四万を率いてオムージュとの国境付近に展開、オムージュ軍をひきつけます。その間に我々は六万の軍を率いモントルムを攻略、さらにオムージュの国境を脅かす。というシナリオらしいです」
「オムージュとモントルムの軍を別々に叩く、というわけですな」

 14万の大軍が国境付近に展開していれば、オムージュもそれにあわせて国境に兵を集めざるを得ない。そうしてモントルムへ援軍を出させないようにし、またオムージュ軍がアルジャークへ侵入しないようにするのだ。

「つまり、レヴィナス殿下の軍が本命というわけですか」
 グレイスは面白くなさそうだ。

 クロノワがモントルムを攻略すると同時に、レヴィナスがオムージュ攻略に動く。当然こちらのほうが功は大きい。グレイスはそれが面白くないのだろう。

 そんな彼女に苦笑しながらクロノワは説明を続ける。

「我々の目的はモントルムだけではありません」
「どういうことですか?」
「陛下は『南を制圧せよ』と仰せになりました。恐らく、ヴェンツブルグも目的の内です」

 独立都市ヴェンツブルグはモントルムの東端に位置している。宗主国はモントルムだが、独立した主権を所有している。

「不凍港が欲しい、ということですな」

 アルジャークにも港は幾つかある。しかし、皆冬になると凍り付いて使い物にならなくなるのだ。年間を通して使用できる不凍港はアルジャークの悲願であるともいえる。

「陛下は大陸の東側を、そしてそれ以上をお望みなのでしょう」
 そういってクロノワは目を閉じた。短い沈黙が場を支配する。

「モントルム攻略に際しては、どのように兵を動かしますか?」
 話題を実務に引き戻したのはアールヴェルツェだ。

「兵は6万といいましたが、内訳はどうなっています」

 大雑把な内訳は歩兵三万、騎兵三万。これに補給部隊などが加わる。魔導士部隊は今回は加わっていない。

「モントルムのダーヴェス砦までは、歩兵に足を合わせなければなりません。六万では少々きついですね」
 そういってグレイスは渋い顔をした。

 モントルムの常備軍はおよそ四万。北のアルジャークとの国境に一万、南の国境に一万、そして王都オルスクに二万だ。ただし、国境付近に配置されている警備郡はその地方の治安維持もかねており、常に砦に一万の兵がいるわけではない。これ以外にオムージュとの国境境にはまとまった兵はいない。ただし、これは通常の動員令に基づくもので、戦時召集をかければそれほど無理をせずともさらに四万の兵を集めることができる。北側で二万、南側で二万だ。

 一度宣戦布告がなされればモントルムはダーヴェス砦に兵を集めるだろう。まず王都から援軍として一万、そして周辺から二万の兵が集まってくる。合計で四万。

「四万の兵に堅牢を誇るダーヴェス砦にこもられると厄介ですよ」

 正面からダーヴェス砦を攻め落とすならせめて倍の八万は欲しい。六万では少々厳しい。攻めきれないだろう。

「一応、策はあります。聞いてもらえますか」

 そういってクロノワは自分が考えた策を二人に話した。それを聞いたアールヴェルツェは腕を組んで唸った。

「奇策、ですな。いつも使えるわけではない」
「ですが今回に限れば・・・・・」

 独り言のようにグレイスは呟いた。いま彼女の頭の中では実際に兵が動いているだろう。

「あらかじめ国境付近に兵糧を準備しておけば、かなり自由に動き回れると思います」

 グレイスの意見にアールヴェルツェも賛成した。

「ではその方向で準備しましょう。次は・・・・・」

 着々と、準備は進む。




[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:06
アルジャークがモントルムに宣戦布告したのは大陸暦一五六三年六月二日のことであった。ケーヒンスブルグに駐在しているモントルム大使を宮廷に呼び出し国交断絶を通達した。モントルム大使は蒼白な顔をしたが何も言わずこれを受け大使館に帰り、魔道具「共鳴の水鏡」を用いてこの報を自国にもたらした。同日、モントルム大使館が閉鎖され、軟禁状態となる。これはモントルムのアルジャーク大使館も同様である。

 余談だが、ここで用いられた魔道具「共鳴の水鏡」は通信用の魔道具である。情報を正確に素早くやり取りすることは、国家戦略上大変重要である。そのため、通信用の魔道具も数多く製作されたが、皆一様に同じ問題を抱えることとなる。つまり通信距離が長くなると魔道具自体が巨大化していくのだ。実用化できる段階になるととても持ち運びのできない大きさになってしまう。なかには家一件分の大きさのものまであったらしい。

 共鳴の水鏡も一部屋分くらいの大きさがあるのだが、使用する魔力の量が比較的少なく、通信の性能が安定しているため、現在大陸中の国家で広く使用されている。(ただし設置コストがなかなかお高いため、一般にはあまり普及していない)

 その共鳴の水鏡でアルジャークとの国交断絶(事実上の宣戦布告)を伝えられたモントルムの廷臣は激震し、口々にかの国を罵った。

「北の餓狼め、それほどまでに南の大地が欲しいのか!」
「野蛮人どもは北の辺境に篭っていればよいのだ」
「六万程度の軍で我々を屈服させられると思ったか。さすがに蛮族は思考が浅はかだな」

 数々の暴言を感情の赴くままに放ちともかく頭を冷却した彼らは、目の前に突きつけられているアルジャーク侵攻という事態に取り組み始めた。まずは同盟国であるオムージュにこのたびのことを伝え、協力して事態にあたることを確認した。戦時召集をかけ、アルジャークに対抗するための兵力を集め始めた。

 一方、レヴィナスは宣戦布告がなされるその三日前に、既に十四万の兵を率いてオムージュとの国境付近にある砦、リガ砦に向けて出立している。リガ砦はもともとオムージュが一二〇年ほど前に立てた砦なのだが、およそ五〇年前にアルジャークがこの砦を攻略して、それ以来アルジャークが使用している。ちなみにリガ砦を落とされたことでオムージュはモントルムとの同盟に踏み切ったのだ。

 これに対しオムージュは既に十二万の軍を組織し、さらにモントルムに援軍を要請している。アルジャークの兵は精強をもって知られている。たとえ同数の戦力をそろえたとしても勝つどころか負けないことも難しい。まして数で劣っているとなれば事態は深刻である。それはモントルムとしても理解している。オムージュが負けてしまえばモントルムなど風前の灯である。是が非でも援軍を送り、勝てなくとも負けないようにしなければならない。が、同時にモントルムとしては、自身に降りかかる火の粉をも払わねばならない。オムージュに送る援軍を集めると同時にダーヴェス砦に兵を集めた。

 ダーヴェス砦に集める兵の内訳はクロノワたちが予想したのとほぼ同じである。王都オルスクから援軍として一万、そして周辺から二万の兵を集める。合計で四万となる。これだけの兵力を集めれば、いかにアルジャークの兵が精強を誇ろうとも六万程度であればダーヴェス砦を死守することは十分可能である。

 もちろんすぐにこれだけの兵を集めることができるわけではない。それなりに時間がかかる。砦には常に一万の兵が駐留しているわけではないが、一両日中には召集が可能だろう。王都からの援軍は歩兵が中心になるため、ダーヴェス砦に着くまでにおそらく八~十日程度かかるであろう。周辺から集まってくる兵が二万人に届くまでにはさらに時間がかかると思われる。とはいえアルジャーク軍も歩兵に足を合わせる以上、ダーヴェス砦まで十五日程度はかかるはずで、それまでには十分に間にあう。間に合うはずであった。



 白金色の甲冑に身を包み、クロノワは出陣を控えていた。目を閉じ深く瞑想している。これからの戦いに思いをはせている、と普通ならば判断するべきだろう。しかし、彼が考えているのはまったく別のことであった。

「これが最後の機会、だな・・・・・」

 友人と、世界を旅するための。全てを放り出し、ただ未知を求めてこの広い世界を歩く。それを想像するだけでどうしようもなく心が躍る。

 評価が上がったとはいえ、陰湿で悪質ないじめがなくなったわけではない。その全てから開放は彼が願ってやまないものだ。

 現状からの開放と元来の欲求。イストと共に旅に出ればその二つを満たすことができる。しかし・・・・・・。

「殿下、そろそろお時間です」

 グレイスの声で目を開ける。

「今、行きます」

 剣を手にして立ちかがる。その足取りはしっかりとしていた。



 モントルムの廷臣たちは実際に刃を交えることになるのは六月十七か十八日であろうと予測していた。しかし最初に戦火の火蓋が切って落とされたのは、彼らの予想よりも早い六月八日、モントルムの王都からダーヴェス砦に至る街道でのことであった。



[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:08
 ダーヴェス砦はアルジャークからモントルム王都オルスクにいたる街道の国境付近に位置している。街道というのは大雑把に言えば旅をしやすいように整備されている道のことである。歩きやすいよう、荷車や馬車が通りやすいようにされている。盗賊団などによってあらされることのないように警備がなされ、一日の行程ごとに宿が用意されている。当然、軍隊を移動させるのにも街道を使うのが一番やりやすい。

 モントルムの王都を出立してダーヴェス砦に向かう一万の援軍も街道を用いていた。士気は可もなく不可もなくといったところだ。いまだ戦場となるはずのダーヴェス砦からは離れているからこれは仕方がない。しかし緊張感を欠いていたと言わざるを得ない。兵士たちは編隊を乱してバラバラに歩いており、同僚とのおしゃべりに興じている者が大多数だった。

 ソレが起こったのは昼前のことであった。彼方から土煙が巻き起こり、ついで甲冑を着込んだ騎兵が姿を現した。このときですら彼らは突如として姿を現したこの騎兵隊が敵軍であるとは思わなかった。

 なぜならばそんなことは彼らの常識としてありえないからだ。アルジャーク軍がまず攻撃を仕掛けるのはダーヴェス砦である。砦が健在であればそこを拠点に補給線を襲うことができ、そうなればアルジャーク軍はこの先戦うことができなくなるからだ。そんなことは初歩的なことは、敵軍も重々承知しているはずで、ダーヴェス砦よりも内側にいる自分たちの前に敵軍が現れるなどありえないことであった。

 しかし彼らの常識は次の瞬間に無残にも打ち砕かれることとなる。騎兵三万の掲げる旗がアルジャークのものだったからだ。

「アルジャーク軍!!」
「敵襲!!」

 絶叫は悲鳴となり、全軍から起こった。

 それから始まったものは戦闘と呼べるようなものではなく、むしろ一方的な殺戮であった。アルジャーク軍騎兵三万に対し、モントルム軍歩兵およそ一万。三倍ちかい戦力差に加え、モントルム軍は逃げるところから戦闘が始まったのだ。まともに戦えるわけがない。

 最初の一撃でモントルム軍は突き崩され、もはや集団として指揮されることが不可能になった。

 武器を捨て甲冑を脱いで逃げるモントルム兵にアルジャーク軍は襲い掛かった。歩兵の足ではどうあがいても騎兵からは逃げられない。血しぶきが舞い、あちらこちらから断末魔が上がる。モントルム軍は散々に追い回され、もはや軍隊として用を成さないまでに追い散らされた。

 モントルム兵がバラバラの方角に逃げ去り、もはや脅威とはなりえない事を確認してから、アルジャーク軍騎兵三万は悠々とその戦場を離れたのである。

 このときのモントルム側の戦死者は五千とも六千とも言われている。戦力の三割を失えば大敗といわれることを考えれば、なんとも無残な負け方をしたといえる。一方アルジャーク側の損失はといえば、ただ一言だけが歴史書に記録されている。「軽微」と。

 敗走したモントルム軍の代わりに街道をダーヴェス砦に向けて駆け上るアルジャーク軍の、その馬上でクロノワは青い顔をしながらこみ上げてくるものを必死に飲み込んでいた。

 彼にとって先ほどの戦闘が初陣であった。いや、戦いを見たことがないわけではない。だが小さな小競り合いはここまで鮮烈で過酷な様相を呈することはなかった。国境沿いで戦闘が発生した際に派遣されたことは何度かあったが、それでも彼自身は後ろで控えていることが多かった。そもそもアルジャーク帝国はここ最近、大きな対外戦争をおこなっていない。だからクロノワにとってこれほどまでに大規模で生々しく凄惨な戦場は初めてで、そういう意味でこれが彼の、本当の意味での初陣であったと言える。

 結局彼自身は誰一人として討ち取ることはなかったし、そもそも敵兵と剣を鳴り合わせて戦うことさえなかった。それでも眼前で展開された戦闘は十分すぎるほどに生々しく、衝撃的であった。

 背中には嫌な汗が流れている。こみ上げてくるのは吐き気だけではない。寒気、不快感、罪悪感、恐怖。その全てを腹の中に押し戻す。

(逃げはしない。いや、・・・・)

 逃げてはいけない。あそこで死んだ者たちの、その死の責任のおよそ半分は自分が背負うべきものなのだから。

「いかがしましたか」
 アールヴェルツェがクロノワの顔をのぞき込む。

「いえ、なんでもありません。それよりも急ぎましょう。次はダーヴェス砦に周辺から集まってくる援軍を一つでも多く叩かなくては」

 疾風が駆け抜ける。死をもたらす黒い甲冑の疾風が、北へ向けて疾風怒濤の字の如くに。

**********

 アルジャークからダーヴェス砦まで歩兵の足にあわせて移動していては敵の援軍が集結しきってしまう。そうなれば砦を落とすのは至難となる。

 だが、騎兵だけならば?騎兵だけならば行軍速度は飛躍的に加速する。歩兵に比べれば三分の一から四分の一、ともすればそれ以下になる。これならば砦に援軍が集結する前に各個撃破を仕掛けることができる。今回、クロノワたちはそれをやった。

 奇策である。兵力を分散するため通常であれば各個撃破される危険性が付きまとう。しかし今回はモントルム側も兵力を集めている最中である。砦に一万。街道から一万。周辺から集まってくるものが二万。ただし、これは全てが砦に集まれば二万ということであって、砦までは百数十から千数百の単位で砦を目指すから、いわば小魚の群れである。

 つまり、アルジャーク軍騎兵三万を凌駕するような戦力はこの時点では存在しない。であるならば、十分に実行可能な作戦であるといえる。

 ちなみに砦を攻めなかったのは、そのための装備を持ってこなかったからだ。それは歩兵部隊が持ってくる。

 無論、問題もある。砦が健在な以上、補給線を延ばすことはできない。とすれば活動時間に大きな制約がかかることになる。とはいえ、補給物資は歩兵部隊と一緒に来るので、そのときまでもてばよい。クロノワたちはあらかじめ国境近くに補給物資を用意しておくことでこの問題に対処した。

 甲冑を身にまとった黒き風が駆け抜ける。

 街道からやってくる一万の援軍を完膚なきまでに叩き潰した彼らの次の目標は、周辺から集まってくる小魚である。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:09
 結局、小魚との戦闘は片手で数えられる程度しか起こらなかった。ダーヴェス砦以南にアルジャーク軍が既に三万騎もいることを知った小魚たちは、砦に近づくこともできず、さりとて戦いを挑めるはずもなく、ただ隠れていることしかできない。アルジャーク軍としては探し出して叩いてもよかったのだが、クロノワは砦と合流さえしなければよい、といってそれをしなかった。

 砦も息を潜めて動かない。否、動けない。砦の戦力は一万。アルジャーク軍騎兵三万と正面から戦って勝てるはずもない。奇襲も考えたが、歩兵が主力の砦の兵とはなにぶん足が違う。中途半端な戦力で奇襲を仕掛けても意味がないのでやるならば全軍でやることになるが、その間に砦を落とされては目も当てられぬ。

 結局、動けない。そうやって日数だけが過ぎていく。援軍もやってこない。王都からやって来るはずの一万が既に壊滅していることはダーヴェス砦にも伝わっている。アルジャーク軍が睨みをきかせているので、周辺からやって来るはずの援軍は集結できない。まさに孤立無援の状態であった。

 そしてついに砦の北側にアルジャーク軍の歩兵部隊三万が現れたのである。

「どうやら歩兵部隊が到着したようです」
「そうですか。思ったより早かったですね」

 現在クロノワたちはダーヴェス砦の南側に街道を封鎖する形で布陣している。歩兵部隊が到着したのであれば、南北から挟み込む形で砦を包囲することができる。

「アールヴェルツェ将軍、歩兵部隊と合流したほうがいいと思いますか」
「いえ、南側を空けると周辺から援軍が集結することが考えられます。このままにしておいたほうがよいでしょう」

 そうですね、といってクロノワは砦に視線を転じた。六万の戦力が整い、しかも敵戦力が一万しかない以上、砦を攻略することはたやすい。総攻撃を仕掛ければおそらく一日で落ちるだろう。

 が、気乗りしない。それを想像すると少々鬱にさえなる。

(あの街道での戦闘のせい、でしょうか・・・・・?)

 そうかもしれないと思う。あのような戦い経験すれば良し悪しはともかくとして変わらずにはいられない。

「とはいえ騎馬隊の兵糧も少なくなってきています。早めにけりをつけたほうが良いでしょう」

 明日にも総攻撃を、とアールヴェルツェは言った。

「降伏勧告をしてみませんか」

 そういってクロノワはアールヴェルツェと視線を合わせた。一瞬、緊張が走る。

「・・・・・・・勧告をするなら今日中にすべきでしょう。回答の期限は明日の夜明けまで。もし受け入れない場合は・・・・・」

 総攻撃を仕掛けます、とはアールヴェルツェは言わなかった。しかし、もし砦が降伏を受け入れなかった場合、そうしなければいけないことはクロノワにもよく分かっていた。ダーヴェス砦を落として終わりではないのだ。

「勝てないと分かっている戦いを、わざわざする必要はないでしょう・・・・?」

 砦に視線を向け、クロノワは一人そう呟いた。

**********

 降伏勧告の文章はアールヴェルツェやその幕僚たちの意見を聞きつつ、クロノワ自身が書いた。かつて彼が視察先から送った報告書がみな名文だったことも関係しているのだろう。

 彼が書いた降伏勧告文の要点をまとめると以下のようになる。

 一つ、アルジャーク軍は三万ずつ南北に展開している。
 二つ、王都オルスクからの援軍は、すでにこれをアルジャーク軍が壊滅させており、ダーヴェス砦にやってくることはない。
 三つ、周辺からやってくる援軍も騎兵三万が砦の南側にいる以上、集結することはできない。
 四つ、である以上砦の戦力一万のみでアルジャーク軍六万と戦わなければならず、モントルム軍に勝ち目はない。
 五つ、当方は無用な流血を好まず、降伏を受け入れるならば一兵たりとも死なせないことを誓う。
 六つ、回答の期限は明日の夜明けまで。
 七つ、回答がない場合、総攻撃を仕掛ける。

 これらのことが無駄な装飾を一切用いず、要点のみが述べられている。それが一層彼らの自信を表しているようであった。

 さらにクロノワは策略家としての一面ものぞかせた。勧告文の内容を砦の兵たちにもわかるように情報を流したのである。ダーヴェス砦の将ウォルト・ガバリエリは忠臣で、たとえ勝てないとわかっている戦いでも、それでも戦うのが忠義の道だと思っている。しかし下々の兵はそうではない。彼らにしてみれば勝てないとわかりきっている戦いで命を落とすなど、愚の骨頂であった。

 兵たちは降伏を受け入れるよう徒党を組んでウォルトに直訴した。いや、直訴という言葉では穏当すぎる。脅迫したといったほうがよい。なにしろ槍を持ち出し剣の柄に手をかけていたのだ。

「降伏を受け入れないのであれば、貴方の首を取ってでも・・・・・!」
 と彼らは迫った。

 ウォルトは死を恐れるような人物ではなかったが、兵士たちの心がもはや降伏に傾いていることを知ると、ついに心が折れた。これでは時間稼ぎもできないと思ったのだろう。

 ウォルトは共鳴の水鏡を使って王都に降伏する旨を伝えると白旗を掲げさせた。このときウォルトは自決するつもりであったが部下の一人が止めた。

「差し出がましいようですが、閣下のお命は砦の兵士たちのためにお使いください」
「なるほど。生贄には将たるワシがふさわしい、ということか」

 アルジャークが責任者の命を求めるかもしれない。死ぬならばそのときに、ということである。申し訳ありません、とうな垂れる部下の肩を彼はポンポンと叩いて慰めた。

 ダーヴェス砦は戦わずして降伏した。

**********

 ダーヴェス砦に入ったクロノワは約束どおり、ただの一滴も血を流さなかった。砦の兵たちは武装解除させて砦から去らせた。一万人の捕虜を収容しておく場所も養うための食料もないのだ。ただしウォルト・ガバリエリ以下幕僚たちは地下牢に押し込めてある。扇の要となる存在を自由にしておくわけにはいかないからだ。


 余談ではあるがウォルト・ガバリエリはこの先モントルムがアルジャーク領となってからもダーヴェス砦を任された。もっとも国境警備の砦ではなくなったので兵員は大幅に減らされている。彼は栄達の機会が何度かあったがその全てを断り、終生この砦を預かって過ごした。地域住民からの評判もよく、彼の葬儀には献花の列が絶えなかったという。




[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:10
 レヴィナスがリガ砦に着いたのは六月十五日のことであった。幾分ゆっくりと軍を進めているようだが、補給部隊に足を合わせているのでこれは仕方がない。それにクロノワがモントルムのダーヴェス砦を攻略してからオムージュに進攻するというのが元々の計画であった。

 もっともレヴィナスとしては腹違いの弟にそれほど期待してはいない。たとえクロノワがダーヴェス砦を落とせず、モントルムからの援軍がオムージュ軍と合流して数の上で凌駕されたとしても勝てる、とごく自然に考えていた。

 オムージュに対して宣戦布告するのは予定では六月二十日である。ただ既にこうしてアルジャーク軍が国境の砦であるリガ砦に兵を集めている以上、オムージュ側もそれに対抗すべく兵を集めているはずだ。モントルムに援軍の要請もしているだろう。

 オムージュ方面軍の司令官は皇太子であるレヴィナスであるが、実質的に軍を動かすのはアレクセイ・ガンドール将軍である。

 壮年を超えようかという年齢だが未だその眼光は衰えを知らぬ。常勝無敗を誇り、その輝かしい軍歴はモントルム方面軍を実質的に動かしているアールヴェルツェをも凌ぐといわれている。まさにアルジャーク軍にとって至宝とも言うべき武将である。

 彼は今、これから進攻するオムージュの大地をリガ砦から遠望していた。どうその大地を切り取るかを考えていると思ったのだろう、部下たちは気を利かせて話しかけてこない。が、彼が考えていたのはまったく別のことであった。

(思いのほか思慮のある方であった)

 今回の遠征に当たって彼が頭を悩ませていたのは戦略戦術のことではない。形式上とはいえ彼の上に立つことになる皇太子レヴィナスのことであった。

(いかに皇太子とはいえ行軍中に優雅だの風雅だの美だのいわれてはかなわんからな)

 レヴィナスの「美しさ」に対する執着はアルジャークの万人の知るところである。今回彼が身に付けている甲冑や剣は全てレヴィナス自信が指示を出しながら製作された特注品で、凝った意匠の装飾が施されている。

(おそらくバカバカしいくらいの費用がかかっておるのだろう・・・・・)

 骨の髄まで武人であるアレクセイとしてはため息もつきたくなる。
 とはいえそうして作られた戦装束をまとったレヴィナスは神々しいほどに輝いていた。将として常に冷静でいることを心がけているアレクセイさえもが、

「英雄とはこういうものか」

 とつい思ってしまったほどである。兵たちの間で信仰じみた人気が生まれたもの、頷けるというものだ。

(いや、あの甲冑はよいのだ)

 レヴィナスはいわば象徴であって実際に剣を振るい戦うわけではない。であるならば兵たちの士気と結束を高めるために、着飾ることもむしろ必要であるといえる。

 だから、アレクセイが心配していたのはそんなことではない。

 レヴィナスの「美しさ」に対する執着は彼の手の届く範囲全てに及ぶ。普段着る衣服から身の回りの調度品。特に彼の住まう宮殿の一角は別世界かと思われるほどに他とは雰囲気が異なる。神々しく神秘的で荘厳。褒め称える言葉が陳腐に聞こえるほど、すばらしく整えられている。

 それはいい。問題はそれを行軍中にされることである。

 彼のこだわりのために「兵士の甲冑をかえろ」だの「この行軍は美しくない」だのアレクセイにはまったく理解できないことを口走り、軍の運用に支障をきたすことを恐れたのだ。さらにいえば数日滞在することになるリガ砦とりでについても、「こんな汚いところにはいられない」などと駄々をこねるのではないかと心配していた。

 もっとも、この心配はアレクセイの気宇に終わった。レヴィナスは軍や砦が戦争のために存在しており、それに自分が求める「美」を要求するのはむしろ滑稽であると十分に理解していた。もっとも自らの使用する物品については品のよい一級品を用いていたが。

(この様子であればこの先の遠征も心配あるまい)

 それでもアレクセイの胸には一抹の不安が残る。

 もし、レヴィナスの手の届く範囲が劇的に拡大したら、それこそ一国の規模で自由にできるようになったら・・・・・・。

(殿下はどのような執政をしかれるのだろうか・・・・・?)

**********

 前にも述べたが、アルジャークがモントルムに国交断絶を突きつけ、事実上の宣戦布告をしてから、ケーヒンスブルグのモントルム大使館は閉鎖され大使以下職員は軟禁状態となっている。そしてそれはモントルム王都オルスクにあるアルジャーク大使館においても同様であった。

「暇ですねぇ・・・・・・」

 ストラトス・シュメイルはそういってもう何度目かわからないため息をついた。大使館が閉鎖され軟禁状態になってから既に十日近くが経つ。なかなか時間がなくて読めなかった本を読んだりして時間をつぶしてはいたのだが、いかんせん暇すぎる。

「まったく、何でこんなに暇なのでしょう?」

 ストラトス・シュメイル、二十四歳。若輩ながら大使として外交の最前線に立つ秀才である。が、やる気を見せたがらない性格のためか、あるいは若輩者へのやっかみか、彼が赴任したのはアルジャークにとって格下の小国であるモントルムであった。

 仕事に熱心な性質(たち)ではない。少なくともそう見せている。

 窓から外を眺めると完全武装したモントルム兵が何人も大使館の周りを歩いている。決して狭くない大使館の四方全てを鼠一匹逃がさぬように固めているのだから頭が下がる。物々しい厳戒態勢だ。

「腕力のない文民相手にご苦労なことです」

 とはいえ、やはりいい気はしないのだろう。言葉に軽い毒が混じる。

「大使、なにを暢気なことを言っているのです・・・・・。いつ殺されるかもわからないというのに・・・・・」

 オロオロしながらストラトスの執務室に入ってきたのは彼の書記官である。優秀な男なのだが少々気が小さい。

「大使、戦況はどうなっているのでしょう・・・・?もしアルジャークが負けでもしたら我々は・・・・・」
「さて、書記官殿もご存知の通り外の情報はまったく入ってきませんからねぇ・・・・」

 今にも泣きそうな書記官に対しストラトスの口調は他人事のようで真剣みに欠けた。

「大使!」

 書記官が非難の声を上げるのを彼は聞き流す。いつものことだ。この大使館に留まっている者たちは多かれ少なかれ同じ不安を抱いている。頭でいくら理性的に考えてみても、やはり感情に引きずられる。

 そんな中、ストラトスはどこまでも他人事のようにそしらぬ顔をしている。不安は多少なりともあるが、周りがあまりにも取り乱すので逆に落ち着いてしまったともいえる。まぁ、もともと飄々と構えていたがる男ではあったが。

 それに自分たちが殺されることはまずないだろうとも思っていた。

 アルジャーク軍が勝てばストラトスたちは戦勝国の人間ということになる。そんな人間を殺してアルジャークの心象を悪くする愚を冒すとは思えない。

 負けたとしてもその確信は変わらない。モントルムに逆侵攻をかける余力があるとは思えないから後は外交処理となるだろう。となれば自分がそれに関わる可能性は高い。とはいえ・・・・・

「負ければこの国での仕事はやりにくくなるでしょうし、勝って併合されてしまえばそもそも大使館をおく必要がなくなりますし・・・・・」

 どちらにしても私にとっては嫌な未来予想図ですねぇ、とどこまでも他人事に考えるストラトスであった。



[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:12
 ダーヴェス砦降伏の報はモントルムの王宮を激震させた。廷臣たちは慌てふためき、意味もなく右往左往した。

「なんと言うことだ・・・・・。ダーヴェス砦がこうも簡単に落とされるとは・・・・・」

 彼らの戦略を一言でいえば「負けないこと」であった。勝つ必要はない。砦に兵を集めアルジャーク軍を足止めし、その間にオムージュに援軍を送る。オムージュに侵攻する本隊さえ押し返せば、モントルム側に来ている敵軍も連鎖的に撤退するはずであった。

 それがこうも簡単に砦を落とされてしまった。王都までの間には兵を配置し敵を防ぐための城郭は存在しない。仮に戦うとすれば野戦となる。

 今現在、モントルムは少々無理をして五万の兵を王都に集めている。これは元々オムージュに援軍として送るつもりだったのだが、ダーヴェス砦をアルジャーク軍に落とされ議論が割れてしまった。

 今、モントルムの王宮には三つの主張がある。

 一、最初の思惑通りオムージュに援軍を送る。
 二、アルジャーク軍に対して野戦を仕掛ける。
 三、降伏する。

 どの案もモントルムにとっては苦渋の選択となる。オムージュに援軍を送れば王都が空になり進攻してくるアルジャーク軍に落とされてしまう。かといって野戦を仕掛けても勝てる見込みはほとんどない。それに援軍を送らなければオムージュが負けてしまい、それはモントルムも滅ぶことを意味している。かといって降伏すれば全てが終わってしまう。

 議論は白熱しそして一向にまとまらない。時間だけが無為に過ぎていった。

 事態が動いたのはダーヴェス砦が降伏してから二日後のことであった。モントルム方面進攻軍司令官クロノワ・アルジャークから共鳴の水鏡を用いて通信が入ったのだ。

**********

「お初にお目にかかります。この度アルジャーク軍の司令官を務めているクロノワ・アルジャークです」
「モントルム王、ラーゴスタ・モントルムである」

 共鳴の水鏡を用いてではあるが、二人の始めての対談は上のような差障りのない挨拶から始まった。

「ご存知のことと思いますが、ダーヴェス砦は既に我が軍の手に落ちています。この先、王都までの間に我々を防ぐための城郭はモントルムにはありません」
「承知している」

 圧倒的に不利な情勢にあるにもかかわらず、ラーゴスタはそれをおくびもださぬ。泰然と言った。このあたりさすが一国の王と言うべきであろう。

「単刀直入に言います。降伏しませんか?」
「・・・・・・・」

 ラーゴスタはなにも言わなかった。それを気にするでもなく、クロノワは続ける。

「オムージュに援軍を送ってしまえば王都ががら空きになります。かといって我々に野戦を挑んでもモントルムに勝つ見込みはほとんどない。そもそも援軍を送らなければオム―ジュ軍は負けるでしょうしね。とすれば残る道は降伏のみだと思いますが?モントルム王陛下」

 クロノワの言っていることに間違いはない。が、言葉の端々に勝者の余裕とでも言うべきものが感じられ、それがラーゴスタの癇に障った。

(小僧が・・・・・)

 苦々しく胸のうちで呟く。無論、表には微塵も出さない。

「降伏、ですか。無論そういう選択肢もある。しかしそう軽々しく選んでよいものでもない」
「すでに出ている答えを無視するのは賢明とはいえません」
「さて、我々としても意見をまとめている最中。今しばらくお時間を頂きたい」
「英断を期待しています」

 そういって通信は終了した。

**********

「世間知らずの小僧が。既に勝った気でおるらしい」

 通信が終わるとモントルム王ラーゴスタ・モントルムはそう苦々しく吐き捨てた。あんな小僧にしてやられたのかと思うと本当に腹立たしい。

「陛下、いかがなさるのですか・・・・・?」

 廷臣の一人が恐る恐る声をかける。ラーゴスタは目を閉じ一つ息をついた。目を開けたときにはすでに落ち着いている。

「主だったものを集めよ。今後の方針を決めるぞ」
「もしや本当に降伏なさるのですか?」

 ニヤリ、と笑ってラーゴスタはその考えを否定した。

「愚か者に、政のしたたかさを教えてやるのだ」

 会議室に集まった主だった面々に対してラーゴスタはまずこういった。
「降伏はしない」

 さらに、軍をどう動かすかについては、
「五万の兵を集め、オムージュに援軍として送る」
 といった。

 オムージュに援軍を送りアルジャーク軍を押し返し、その戦力を持ってモントルムを回復する。結局一縷の望みを託すならそうするしかないのだ。

 五万の援軍を送ることができればオムージュ・モントルム連合軍の兵力は十七万となり、数の上ではアルジャーク軍十四万を上回ることができる。しかしそれでも負けないかどうか微妙なところである。それほどまでにアルジャークの兵は強い。

「しかし、ダーヴェス砦のアルジャーク軍がどう動くか・・・・・・」

 それが問題だった。五万の兵を整えるにはまだ時間がかかる。その間に今ダーヴェス砦にいるであろう六万の敵軍に動かれてしまうと援軍を送るに送れなくなってしまう。そうなれば滅亡あるのみだ。

「そこで、共鳴の水鏡を用いて奴らと交渉を行う。降伏を前提にすれば乗ってくるだろう」

 ラーゴスタは自信をのぞかせてそういった。
 しかし会議室に集まった面々は懐疑的だ。

「共鳴の水鏡で降伏交渉を行うなど、聞いたことがありませぬ」

 このような交渉であるならば、本来は双方の代表者が条件を書面にしたためて交換し合い、さらに直接言葉を交わして条件をすり合わせていく、というのが本来のやり方だ。そうでなければ合意文章を作成することができないのだから。

「もとより奴らのほうから共鳴の水鏡を用いて降伏を勧めてきたのだ。問題あるまい」

 それこそが、ラーゴスタがクロノワを若輩者の世間知らずと侮ったもっとも大きな要因なのだ。

「しかし、交渉が早くまとまってしまったらいかがいたします?」
「とぼければよい」

 事もなさげにラーゴスタは臣下の問いに答えた。
 もともと共鳴の水鏡を用いて交渉を行うということ事態が非常識なのだ。それに交渉がまとまったとしても当然合意文章など存在しない。ならばとぼけることは十分に可能だ、とラーゴスタは考えたのだ。

 彼が考えた作戦を要約するとこのようになる。
 つまり、一方では降伏を前提とした交渉で時間を稼ぎ、他方では援軍を整えオムージュへ向かわせるのである。しかも降伏交渉がまとまっても合意文章がないのを盾にとぼけて知らぬ存ぜぬで通す。

 詐術のような作戦である。しかしモントルムが生き残るにはそれしかないように思われた。ラーゴスタがさらに意見を求めると一人の臣下が立ち上がった。

「オムージュへの援軍としては親征となさるのがようでしょう」

 つまりはラーゴスタ自信が総司令官として軍を率いるということだ。
 ラーゴスタは黙って先を促した。

「援軍を送ればそれはアルジャーク軍も知るところとなります」

 そうなれば彼らは王都オルスクを目指して進軍してくるだろう。そのときには王都には戦力と呼べるものはなく、降伏するほかない。そのときラーゴスタがアルジャークに捕らえられてはもともこもない。

「ですか陛下がご健在ならば、オムージュよりアルジャーク軍を追い返した後、モントルムを回復するのが容易になりましょう」

 軍を催すにしてもラーゴスタが先頭に立てば兵の士気が上がるだろう。あるいはオムージュに亡命政権を立てて民衆に決起を呼びかけてもよい。彼さえ無事ならばとるべき手段は幾らでもある。

 ラーゴスタは機嫌よく頷くとその案を採用した。

「アルジャークの小僧が。目に物見せてくれようぞ」

**********

「・・・・・といったあたりで向こうの議論は落ち着いているところでしょうかね」

 そういってクロノワは今モントルムの王宮でなされている会議の内容をほぼ正確に言い当てて見せた。

「それよりも、グレイスにはまた貧乏くじを引かせてしまいましたね。申し訳ないです」

 そうクロノワに言われ、ダーヴェス砦の居残り組みを指揮することとなったグレイスは笑った。

「いえ、そんなことはないですよ。殿下の悪巧みがうまくいくか興味もありますし」
「悪巧み、ですか。なるほど、言いえて妙ですね」

 グレイスの評価にクロノワも笑った。そして窓の外に視線を転じる。砦から王都に通じる街道が見えた。

「アールヴェルツェ、よろしくたのみましたよ・・・・・」


 次の日、共鳴の水鏡に通信が王宮から入った。相手はまさに官僚といった感じの男で外務次官と名乗り、和平交渉を行いたいと申し込んできた。この交渉に関しては全権を委任された大使であるという。

 「降伏」という言葉を使わなかったのは国の全てをくれてやるつもりはないという意思表示で、裏を返せば条件を渋って交渉を長引かせようという腹なのだろう。

「ご英断ですね。これで双方共に無駄な血を流さずに済みます」
「ええ、ラーゴスタ陛下も同じように仰せでした」
「最初に言っておきますが、我々としては長々と交渉を行うつもりはありませんので」
「承知しております」

 そういわれても外務次官の仕事はこの交渉をできるだけ長引かせて時間を稼ぐことだろう、と既にクロノワはあたりを付けている。そしてそれは彼にとっても好都合なことだ。それでも「交渉を長引かせるつもりがない」と警告しておいたのは、一応の保険と今後の布石だ。

(さて、口先八丁でどこまで時間を稼ぐのでしょうね・・・・・)

 クロノワとしてもこのような交渉の席に着くのは初めてだ。茶番劇とはいえそれなりに本気でやってくれるだろう。是非とも今後のために経験値を稼がせてもらおうと思う。この先彼が公人として活動するにはそれがきっと必要になってくるのだから。

「それでは早速交渉に移るとしましょう。モントルム側の条件を聞かせていただけますか」
「国土より三州をアルジャークに割譲します。それで軍を引いていただきたい」

 三州とはいえ、彼らにとっては国土の十分の一である。それなりに、それらしい条件を用意してきたらしい。

「三州、ですか。ちなみにどこでしょう」

 大使が地名を挙げる。

「わが国と国境を接していないばかりか、三州それぞれも飛び地ではありませんか。これでは頂いても困るばかりです」

「ですが提示しました三州はどれもモントルムでは肥沃な土地ばかり。必ずや気に入っていただけるものと自負しております」

 クロノワは一つ頷くと、今度はアルジャーク側の条件を提示した。

「モントルムの保有する領地のうち北側十五州をアルジャークに割譲し、さらに今回の遠征の戦費を全額モントルム側が負担する」

 クロノワの提示した条件にモントルム大使は少なからず動揺したようだ。

「そ、それは無茶というものでしょう」
「ですがここで和平が成らなければモントルムとしては最悪の結果になってしまいますよ?ならばたとえ国土が半減しようとも国家を存続させることを最優先させるべきではないでしょうか」

 大使は顔を歪め、葛藤を表現した。

(あれが演技だとしたら大層な役者ですね・・・・・。なぜ役人なんてやっているのでしょう・・・・・?)

 役者になればいいのに、とクロノワは目の前の男のした職業選択に身勝手な文句を付けた。

 数泊の沈黙の後、大使が口を開いた。

「・・・・・提示いただいた条件は当方が考えていたものよりも重大です。今しばらく考えるお時間を頂きたい・・・・・」

 搾り出すようにしていう。しかしクロノワは騙されない。

(うまく時間が稼げると腹の中では笑っているのでしょうね・・・・・)
 が、それは元々織り込み済み。

「わかりました。賢い決断を期待しています」

 こうして交渉初日は終わった。

**********

 最初の交渉から既に数日が経過している。

「交渉にまったく進展が見られませんね。いえ、最初から予想済みのことですが・・・・・」

 そう言いながらもグレイスは不満げだ。軍人である彼女からしてみればこういう時間稼ぎは気に入らないどころか唾棄すべきものなのだろう。

「あちらはきっと喜んでいるのでしょうね・・・・・」

 思いのほか時間が稼げて、とクロノワは皮肉っぽく言った。グレイスの言ったとおりこの展開は予想済みのものだが、それでも遅々として進まない交渉をだらだらと続けるのは疲れるばかりでまったく報われない。さすがのクロノワもストレスがたまり始めている。

 すでにオムージュへの宣戦布告がなされているはずだ。モントルムには「援軍を早く送れ」と矢の催促がされているはずだ。

「とはいえアールヴェルツェがそろそろ着く頃ですね。あとはあちらに任せるとしましょうか」

**********

 モントルム国王ラーゴスタはほくそ笑んだ。全ては彼の思惑通りだった。

「そうかそうか。アルジャークの小僧め、イラついてきおったか」
「はい。さすがに怒鳴りはしませんでしたが苛立ちは隠せない様子でした」

 和平交渉はまったくといって良いほど進んでいない。それはアルジャークにとっては無為に時間を浪費したことを意味し、またモントルムにとっては援軍を整えるための時間を稼いだことを意味している。

「オムージュに送る援軍はどうなっておる」
「は、近いうちに準備は完了します」

 オムージュからは「早く援軍を送ってくれ」と連日催促されている。そしていわれるまでも無くラーゴスタはそのつもりであった。決戦に遅れてしまっては、愚か者として歴史に名を残すことになる。

(それはアルジャークの小僧だけでよい)

 自分はこの危機からモントルムを救った英雄として歴史に名を残そう。そうなるであろうはずの未来を思い描いて、ラーゴスタはもう一度ほくそ笑んだ。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:18
オムージュへの援軍がモントルムの王都オルスクを出立したその日は、まるで彼らの出陣を祝うかのような快晴であった。かねてからの計画通り、この援軍五万はラーゴスタ自信が率いており、親征である。

 馬上でラーゴスタは上機嫌だった。全て彼の計画通りにことが運んでいる。最後の大仕事はオムージュ軍と共にアルジャーク軍十四万を撃退することであるが、それも勝利が約束されたかのような気分である。

(アルジャークの小僧の悔しがる姿が目に浮かぶようだ。己の不明を恨むがよい)

 しかし彼こそが己の不明を恨むことになるのである。

**********

 その日の夜は新月であった。雲は少なく無数の星が輝いているがみえるが、やはり暗い。そのせいか野営の陣のあちこちで燃やしている焚き火がやたらと目立った。

(月明かりがあればもう少し進めたのだがな・・・・・)

 オムージュへの援軍は早ければ早いほど良い。夜を徹して進みたい気持ちもあったが、この暗がりを進むのは危険だ。

(まぁ、疲れ果てた兵を連れて行っても役に立たぬしな・・・・・)

 そう考えることで自分を納得させ、ラーゴスタは杯をあおった。中身はモントルムの誇る白ワインだ。行軍の初日ではあるが、うまくアルジャークの小僧を出し抜き気分を良くしたラーゴスタは早速一本目を開けたのだった。

 程なくして軽く酔いが回り始めたラーゴスタはそのまま天幕の中に横になった。今アルジャーク軍はダーヴェス砦にいる。敵襲の心配は無い。全ては計画通りである。

 いい夢が見られそうであった。

**********

「ここから西におよそ五キロのところに篝火が多数認められました。恐らくはモントルム軍の野営かと」

 アールヴェルツェは斥候の報告を聞くと一つ頷いた。そして全軍に出陣を指示した。

「よいか、音を立てるな。馬にはくつわをかけて嘶きをたてさせるな。兵は葉を口に挟んで落とすな」

 夜陰に紛れアルジャーク軍が動く。ダーヴェス砦にいるはずの六万の軍隊が。


 残念ながらラーゴスタの安眠は朝まで続かなかった。あるいは永眠とならなかったことを感謝すべきなのかもしれない。

 鳴り響く銅鑼の音で彼は飛び起きた。

「敵襲!!」

 見張りの兵が狂ったように叫び、同僚たちを必死にたたき起こしている。

 一瞬、ラーゴスタの思考は停止した。敵襲?誰が我々に夜襲を仕掛けるというのか?いや誰が仕掛けられるというのか?

「アルジャーク軍襲来!」

 彼は疑問の答えを兵士の悲鳴によって得た。

「くっ・・・・・」

 背中に氷刃を差し込まれたような悪寒が走る。だがそれによってラーゴスタは冷静さを無理やりにではあるが取り戻した。甲冑を身に付けることもせず、彼は天幕から飛び出した。

「陣を整えよ!敵を防ぐのだ!」

 だが、アルジャーク軍は速かった。いや、モントルム軍がアルジャーク軍の接近に気づくのに遅れ、距離が縮まったのだ。それは新月だったことが要因の一つだし、アルジャーク軍を率いているアールヴェルツェが音を立てないよう、細心の注意を払ったからでもある。

 満足な陣容を整えることができないまま、モントルム軍はアルジャーク軍と交戦状態には入ったのであった。

**********

 ラーゴスタの計画は、共鳴の水鏡を用いた和平交渉で時間を稼ぎ、その間に援軍を整えオムージュに向かう、というものであった。仮に交渉がまとまっても合意文章が無いことを盾に白を切るつもりであった。

 が、クロノワはそれを予想していた。いや、そういう風に誘導したといってもいい。

 モントルムが生き残るにはどうしてもオムージュに援軍を送る必要がある。だがそれにはダーヴェス砦に入っている六万のアルジャーク軍が邪魔になる。この軍に動き回られると援軍を送るに送れなくなるのだ。

 ゆえに、是が非でも足止めをしなければならない。

 一方、クロノワたちにとって一番困るのはモントルム軍が王都オルスクに立て篭もってしまうことだ。王都を戦場にしてしまえば必ずや住民との間に軋轢が残る。それは今後の統治にしこりを残すことになるため、可能な限り避けたい。

 かといって手をこまねいていては、レヴィナスの率いる十四万の軍が先にオムージュを制圧してしまう。

 そうなると、援軍を送らせないという点では成功していても、クロノワの功績は小さく見られてしまうだろう。いや、クロノワ一人の話ならばそれでも良い。だがアールヴェルツェやグレイス達も同じように見られてしまうだろう。それはクロノワにとって望むものではない。

 とすれば、どうにかしてモントルム軍をオルスクから引きずりださねばならない。

 そこでクロノワが使ったエサが「共鳴の水鏡を使った交渉」であった。
 本来の交渉で共鳴の水鏡を使わないことくらいクロノワとて知っている。それでもあえて用いることでアルジャーク軍はダーヴェス砦にいると相手に思い込ませたのだ。

 こちらから「降伏しないか」と持ちかけた以上、モントルム側は和平交渉を申し込めば必ず乗ってくると判断したはずだ。それに共鳴の水鏡を使ったことでラーゴスタがクロノワのことを青二才の愚か者と誤解したのも、アルジャーク側にはプラスに働いた。まぁ、この時点では知らないことだが。

 ダーヴェス砦にクロノワと共に残ったのは、当初戦力として数えていなかった補給部隊で、いわば弱兵である。これをグレイスが率いていた。

 そしてアールヴェルツェはほぼ無傷の本隊六万を率いて王都オルスクへと向かっていた。当然そこから出立する援軍を野戦で叩くためである。

 とはいえ六万の軍が移動しているのに気づかなかったのだろうか?それには三つ理由がある。

 第一にモントルム側の消極的な思い込みである。
 国王ラーゴスタをはじめとして廷臣たちは、アルジャーク軍はダーヴェス砦にいると思い込んでいた。もちろんそれらしい情報は入っていたが、彼らはそれを斥候かないかぐらいにしか考えなかったのである。クロノワによって思考をそう誘導されていたとはいえ、柔軟性を欠いていたといえる。

 第二にダーヴェス砦にモントルムの詳細な地図があったことが挙げられる。
 その地図を手に入れたことでアールヴェルツェはなるべく人目に付かないルートを選びながら移動することができたのだ。これは幸運というよりは砦を預かっていたウォルト・ガバリエリの不手際だろう。いかに配下の兵士たちに押し切られたとはいえ、こういった重要な書類は廃棄しておいて然るべきだったろうに。
 あるいはこの事を悔やんで彼はこの後の栄達一切を拒んだのかもしれない。

 第三にアールヴェルツェの行軍の仕方である。
 彼は移動に際し周辺に斥候を放ち周到に情報を集め、なるべく人目を避けて王都オルスクを目指したのである。

 これらの理由が重なり合い、王都オルスクにいるモントルムの首脳部はアルジャーク軍の接近を感知できなかったのである。

 陣容をまともに整える時間が無かったモントルム軍は最初の接触でアルジャーク軍騎兵隊の突入を許してしまった。

 アールヴェルツェが直接指揮している騎兵三万はまるで一つの生き物のようにモントルム軍の陣内を縦横無尽に動き回った。かと思えば数千の単位に分かれて敵軍を翻弄したり、分断したりしていった。

 このときの状況について騎兵を率いていたアールヴェルツェ・ハーストレイトは後にこう語っている。

「とても暗く、人がいることくらいしか分からなかった。当然敵味方の区別など付かない。モントルム軍は歩兵が主体になっていたから騎兵には『指示があるまで歩兵は全て敵だと思え』といい、味方の歩兵には『騎兵には近づくな』と指示した」

 同士討ちが起こったかどうかは記録されていない。
 追い散らされるモントルム兵にアルジャークの騎兵は容赦なく戦斧を振り下ろし、槍を突き刺した。視界が赤いのは炎が広がったからか、舞い上がる血しぶきがそう見せるのか。騎兵が通り過ぎた跡にはただ死が残った。

 分裂と集合を繰り返しながら戦場を駆け巡る騎兵。ここまで自由自在に動き回る騎兵は大陸広しといえどもアルジャークにしかいないであろう。その練度たるや他国の騎兵とは太い一線を画している。

 モントルム王ラーゴスタはそのことを最悪の形で思い知らされたのであった。とはいえ、彼とて自軍が崩壊していく様を座して眺めていただけではない。

「騎兵の足を止めろ!とめてしまえば的でしかないぞ!」

 無論、モントルムの兵士たちはそれを実行しようとした。が、そのつどアルジャーク軍の歩兵部隊に邪魔をされた。騎兵隊の側面を突こうとすれば長槍を持ったアルジャークの兵士たちがそれを阻んだ。兵をまとめようとすれば矢の雨が降り注ぎ、集結することなく散らされた。

 アルジャークの歩兵はそうやって騎兵が動き回れるようサポートに徹した。

 モントルム軍が崩壊するのにそれほど時間はかからなかった。もとより新月の夜である。一度暗がりに紛れてしまえば逃げるのはそれほど難しくは無い。一人またひとりと武器を捨て甲冑を脱ぎ捨て夜陰の向こうへと逃げていった。

 歩兵部隊と合流したアールヴェルツェのもとに一人の男が引き出された。身に付けている甲冑はきらびやかで、身分の高いことを示している。

「モントルム国王、ラーゴスタ陛下とお見受けする」
「・・・・・これが一国の王に対する扱いか!」

 アールヴェルツェは非礼を認めると彼を拘束していた兵士に下がるよう指示した。兵士たちは短く返事をしてラーゴスタを放したがすぐ後ろに立って睨みを利かせている。不審な行動をすればすぐに取り押さえるためだ。

「なぜ・・・・・貴軍がここにいる・・・・・。ダーヴェス砦にいるのではなかったのか」
「そう思わせるのがクロノワ殿下の策です」

 アールヴェルツェからクロノワの策略のあらまわしを聞くと、ラーゴスタはうなだれた。

 和平交渉中に兵を動かすとは何事か、と非難することもできない。完全にお互い様だからだ。いや、そもそも和平交渉など行っていないと突っぱねられるだろう。ラーゴスタ自身が最初に目を付けたとおり、共鳴の水鏡を用いて交渉を行うなど通常はありえないのだから。

 クロノワはそれさえも計算に入れていたに違いない。

 余談ではあるが、このモントルム攻略の一連の采配を通して世間はクロノワに対し「策略家」というイメージを抱くようになる。それさえも彼は利用していくのだが、それはまた別の話だ。

「世間知らずの青二才と侮り、策に乗せられたのは我であったか・・・・・」

 こうしてラーゴスタは己が不明を悔やむこととなったのである。

 モントルムは陥落した。




[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征8
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:18
 時間は少し遡る。

 アルジャークがモントルムに国交断絶を突きつけ、事実上の宣戦布告を行ったとき、その報はモントルム経由で同盟国であるオムージュにも届けられた。

 アルジャークの真の目的がオムージュであり、モントルム侵攻はその布石であると誰もが理解していた。

 とはいえこの時点では、オムージュの王都ベルーカに揃った廷臣たちは状況をまだ楽観視していた。

 モントルムに侵攻したアルジャーク軍は六万。これならばダーヴェス砦に四万の兵を集めれば十分に足止めが可能である。その間に援軍を送ってもらえばオムージュに侵攻してくるアルジャーク軍の本隊を追い返すことができるであろう。

 それがダーヴェス砦はあっさりと陥落してしまった。それはモントルムがオムージュに対して援軍を送れない可能性が跳ね上がったことを意味している。

 王都ベルーカの城中は、この事態の急変に際しにわかに騒がしくなった。

「かりに援軍が来なかったとして、我が軍はアルジャークに勝てるのか・・・・・?」
「バカな。ただでさえオムージュの兵はアルジャーク兵に劣るのだ。同数でも勝つのは至難だぞ」
「宣戦布告と同時に和平交渉を行ってはどうか。十州もくれてやればアルジャークも矛を収めるのではないか」
「そしてまた別の機会に、その無傷の矛を突き立ててくるでしょうな」

 そう冷静に言い放ったのはオムージュの将軍エルグ・コークスであった。武人らしいその簡潔な物言いに一同は黙った。

 彼らとて分かっているのだ。ここでオムージュがなにもしなければ遠からずモントルムはアルジャークに併合されるだろう。さらに和平のために十州を割譲したとすればアルジャークの国力は百六十州となる。そうなれば国力を六十州に減らしたオムージュに抗する手段など無い。

「それに奴らが望んでいるのはこのオムージュの大地全て。十州で和平に応じるとは思えませんな。援軍が来ないのならなおのことです」

 あまりの正論に反論が出ない。

「・・・・・いっそのことアーデルハイト姫をレヴィナス皇太子に嫁がせてはいかがか?」

 アーデルハイト・オムージュは国王コルグス・オムージュの一人娘で今年十九になる。美姫として周辺各国に知られており、コルグスの一人娘でなければあるいは既にどこかに嫁いでいたかもしれない。

 アーデルハイトがレヴィナスに嫁ぎその子供がゆくゆくはアルジャーク帝国の皇帝となれば、長い目で見た勝利ともいえる。

「このタイミングで受けるかどうか・・・・・。それにレヴィナス皇太子率いる軍がすでに動いていると聞く。かのアレクセイ・ガンドールも同行しているとか」
「さよう。仮にアルジャークがその話を受けたとしても、我々の思うような結果となるかどうか・・・・・」

 彼らが恐れているのはオムージュの民に不幸が降りかかることではない。アルジャーク主導でオムージュの再編が行われた結果、自分たちが権力の座から遠ざかることを恐れているのだ。

 妙案はでない。いや、リスクを恐れ選択することができない。結局、一戦交える準備をしつつも外交努力を続けるという、ありきたりな結論に落ち着くこととなった。


 アーデルハイトはテラスから城の中庭を眺めていた。かといって庭に興味があるわけではない。いや、彼女はなにに対しても興味を抱くことが無かった。

 近々アルジャークと戦端が開かれるらしい。が、特に気になるわけでもない。いや、彼女にとってはこの国の行く末さえもどうでもよいことであった。

(なんとこの世界はつまらないのだろう・・・・・・)

 恋い焦がれるものが欲しい、と思った。人でも、モノでも、芸術でもなんでもよい。我を失うほどに夢中になれるものが欲しかった。

**********

 国交断絶(事実上の宣戦布告)がなされたとの報が共鳴の水鏡を通してリガ砦にもたらされると、レヴィナスはすぐに指示を出し全軍を出立させた。

 国境を越え、オムージュ領に入っても敵軍の姿はどこにも見当たらなかった。また先行して潜り込ませている斥候からもオムージュ軍を発見できていない。それはつまりモントルムからの援軍がまだ到着していないことを示している。

「クロノワ殿下はうまくやっておられるようですな」
 アレクセイは誰にともなく呟いた。

「今はまだ、な。大方アールヴェルツェがうまくやっているのだろうよ」

 そう言うレヴィナスの声からは、腹違いの弟を気への気遣いは感じられない。未だに彼にとってのクロノワの存在は、無意識に忘れ去ってしまえるほど小さいものだった。

「それよりも先を急ぐぞ。あれがいつまで援軍を抑えていられるか分からないからな」

 オムージュ軍がいまだ現れないとはいえ、レヴィナス率いる十四万の軍は無人の野を往くわけではない。行く先々には村があり街があり、そしてそこには人々が生活している。

 レヴィナスは配下の軍勢に一切の強奪と暴行を禁じ、アレクセイもそれを支持した。まあ、アレクセイはともかくレヴィナスが強奪および暴行を禁じた理由は、単純にその行為が美しくなく、彼の趣味に著しく反しているからである。政治的な配慮とは無縁のところでオムージュの民は人災を免れたのであった。

 オムージュからの使者が到着したのはアルジャーク軍が国境を越えてから三日目のことであった。

 フェンデル伯爵を筆頭にして大使は全部で六人。大使たちは甲冑の代わりに装飾過多な絹の礼服を身にまとい、一兵の兵も連れることなくアルジャーク軍の陣にやってきたのである。

「われらにどのような罪があってアルジャークは此度の遠征に及ばれたのか」

 フェンデル伯爵は鋭く研ぎ澄ました剣の切っ先を突きつける代わりに、十分に油をしみこませてきたその舌を必死に回転させた。

 儀礼的で中身の薄い言葉を数百秒ほど聞いた頃、レヴィナスは飽きた。

「そなたらの罪は唯一つ。この美しき大地を汚したことだ。その罪に罰をくれてやるまでのことだ」

 滑らかに回転を続けるフェンデル伯爵の舌の運動を遮ってレヴィナスは言い放った。伯爵は一瞬絶句した後、先ほどまでの倍のスピードで舌を回転させ始めた。

 が、すでにレヴィナスは興味を失っている。大使たちが着込んできた礼服が彼の趣味に合わなかったのも一因かもしれない。既に席を立ちフェンデル伯爵たちには背を向けていた。同席していたアレクセイもまた、このような小細工でこれ以上時間を浪費することに、なんら意味を見出さなかった。

「大使たちのお帰りだ!」

 大使たちは絹の衣ではなく鋼の甲冑を身にまとった非友好的な兵士たちに、両脇から抱えられるようにして立たされレヴィナスの前から連れて行かれた。彼らは馬の鞍に括り付けられ、馬の尻を槍の柄で叩かれ望まぬ帰路につかされることになったのである。

 彼らの悲鳴と共に、オムージュの望む平和的な解決も遠ざかっていった。

**********

「もはや一戦避けることかなわず!」
 フェンデル伯爵らが何の成果もなく帰ってきたことでオムージュの王宮は一気に主戦論に傾いた。しかしそこは腐っても政に関わる集団、熱狂的な雰囲気に呑まれて「玉砕あるのみ」の単純思考には陥っていかない。政府が政府としてまともに機能しているといえるだろう。

「しかし戦うとしてなにを目指して戦うのだ?」
「緒戦に勝ち、そのまま講和に持ち込む。これしかありますまい」
「しかし相手が受けるかどうか・・・・・」
「その際にアーデルハイト姫との婚約の話を持ち出せばよいのではないか?アルジャークとしてもオムージュを合法的に手に入れることができ、王家の血統も残る。この辺りが程よいおとしどころだと思うが・・・・・」

 一同は頷いた。そうすれば王家の血筋と共に彼らの発言力も残るだろう。緒戦に勝ち有利な状態で和平交渉に入れるのだから。

 今後の方針が決まりオムージュ国王コルグス・オムージュの了承を得て、城中はにわかにあわただしくなってきた。

 既にエルグ・コークスをはじめとするオムージュの将たちは、軍を集め準備を整えている。その数十二万。十四万のアルジャーク軍には及ばない。また、ことここに及んではモントルムからの援軍も期待できない。勝てる見込みは低いと言わざるを得ない。

「数で劣り、兵の質で劣る。がここは我らの祖国。いかにアルジャークの兵が精強を誇るとはいえ、そう易々と負けてやるつもりはないぞ」

 弱小と侮っているならばそれでよい。その驕りに最大限付け込むまでだ。

 壮絶な決意を胸に秘め、勇将エルグ・コークスは全軍に出陣を命じた。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征9
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:18
クロノワがモントルム王都オルクスに入ったのは、アールヴェルツェが国王ラーゴスタを捕虜にした日があけてから三日目のことであった。ダーヴェス砦をグレイスに任せ、自身はただ十騎ほどの護衛を引き連れて街道を王都に向けひた走ったのである。途中、アールヴェルツェのよこした百騎ほどの騎兵隊と合流して王都オルクスに入ったのであった。

 オルスクは良く治まっていた。婦女暴行をしたアルジャーク兵が公開処刑されてからはそれに類する事件は起こっておらず、また住民の心象も良いと護衛を率いている隊長が教えてくれた。

「アールヴェルツェはうまくやっているようですね」

 混乱なくオルスクが治まっていることにクロノワは満足した。

 王城である「ボルフイスク城」に入城すると、アールヴェルツェが迎えてくれた。その隣には見慣れない男性が一人立っている。痩身で線が細く、武官らしい荒々しさには欠けている。だがその目には油断ならない光がある。

「そちらの方は?」

 アールヴェルツェに戦勝の祝いと治安を維持してくれたことへの礼を述べてから、クロノワはその男について尋ねた。

「アルジャークのモントルム駐在大使、ストラトス・シュメイル殿です」

 もともと軟禁されていたのですが、我々がここに入ってからは主に行政面で色々と助けていただきました、といってアールヴェルツェはストラトスを紹介した。

「そうでしたか。ご協力感謝します」
「いえ、モントルム駐在大使の役職自体この先不要になるでしょうからね。今のうちに就職活動をしていたのですよ」

 その自虐とも皮肉ともとれる台詞。が、それを口にしているストラトスが実にいい笑顔なので嫌な感じがしない。

(ああ、この人はけっこう腹黒だな・・・・・)

 万人を安心させそうなストラトスの笑顔だったが、クロノワは初見でその裏に秘められた黒さを看破した。

「そうですか。それでは今後とも是非、力をお貸しいただきたいですね」

 そしてクロノワもまた完璧な笑顔で応える。

 これが、この先結構長い付き合いになる二人の出会いであった。

 二人と別れると、クロノワは次にモントルム国王ラーゴスタ・モントルムの元へと向かった。アールヴェルツェに捕らえられて以来、彼はボルフイスク城の一室に軟禁されていた。

「ひとつ、お尋ねしたい」

 幾つか儀礼的な会話を交わしたあと、ラーゴスタがそういった。

「伺いましょう」

 クロノワはひとつ頷き、ラーゴスタの顔をまともに見た。

「六万の軍でモントルムを攻略、無茶だとは思われなかったのか。すでにそれを成した貴殿に問うのも無意味なことと思うが、聞かせていただければ幸いだ」

 ラーゴスタ自身をはじめモントルムの廷臣たちがそうであったように、六万程度の軍であればダーヴェス砦に四万の兵を集めれば十分に足止めが可能である。つまりこの戦力では少なすぎるのだ。

 もともとクロノワには十万近い兵力が与えられるはずであった。それが皇后をはじめとする面々の横槍で六万まで減らされてしまったのだ。だが、クロノワはそのことをこの場で言おうとは思わなかった。

「無茶は承知の上。しかし与えられた機会をモノにしていくしか、私にはありませんから」

 ラーゴスタは頷いた。

 彼には妃がいない。また私生児を含め子供は一人もいない。それは彼が女人を嫌っていたからではない。結婚ひとつするにも、また子供ひとりつくるにも、そのつど微妙な問題が持ち上がってくるのだ。それが小国モントルムの舵取りをおこなわなければならない者の宿命ともいえる。

 そういう微妙なパワーバランスの上に政を行っていたラーゴスタだけに、クロノワの言葉の裏にあるものを感じ取ったのかもしれない。

「・・・・・・この国のこと、民のこと、お願い申し上げる」
「心得ました」

 その後まもなく、国王ラーゴスタより勅命が発せられ、モントルムの統治権は「平和裏に」アルジャークに譲渡されたのである。

 南方の国境を守っているブレンス砦は当初、城門を閉ざし抵抗の構えを取っていたが、正式な勅命が発せられると門を開き降伏した。

 こうしてモントルムにおけるアルジャークの軍事行動は終了したのである。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征10
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:20
 レヴィナス率いるアルジャーク軍十四万がオムージュ軍十二万と相対したのはローレンシア平原でのことであった。

「なかなかに見事な陣容だな」
「左様ですな」

 オムージュ軍の整然たる様子を見て、レヴィナスはそういった。
 オムージュ軍は、本陣・右翼・左翼の三つに軍を分けている。だが、その三つが非常に近い位置に集結している。一塊になって行動するつもりなのだろう。

 対するアルジャーク軍は軍を四つに分けている。主翼七万、右翼三万、左翼三万そして本陣一万だ。本陣は戦力というよりはレヴィナスの護衛だろう。全体としてはアルジャーク軍の方が数は多い。が、一つ一つではオムージュ軍十二万には及ばない。局地戦では不利になるだろう。

「全軍をもって真正面からぶつかる。初手は相手の思惑通りになりそうですな」

 レヴィナスは何も言わず頷き、全軍に前進を指示した。


「もはや逃げ場はない」

 全軍の将兵をまえに、エルグ・コークスは静かに宣言した。ここにいる全員が、この戦い勝機は薄いと知っている。それでも自分と共に戦うことを選んでくれた彼らに、エルグは感謝している。

「お前たちの立っているこの大地は我らの祖国。我らの後ろにいるのは戦うすべを持たぬ同胞たち」

 一旦言葉を切る。アルジャーク軍が動き出した。
「戦って戦って戦って!一縷の希望を奪い取れ!!」

 剣を抜き、高く掲げる。
「全軍、突撃!!」


 オムージュ軍はまずアルジャーク軍の主翼とぶつかった。

 オムージュ軍は押して押して、押しまくった。全軍十二万、もとより全て死兵。防御を捨てただひたすらに前進した。

 アルジャーク軍の前衛付近で炎が上がり紫電が輝く。オムージュの魔導士部隊だ。あちらこちらで爆発が起こり、そのたびにアルジャーク軍は一歩後退し、オムージュ軍は一歩前進した。

 アルジャーク軍の両翼が戦いに加わってもその勢いはとまらない。オムージュの兵たちは戦意というよりは狂気に満ちて前進した。

 ある者は腹を貫かれながらも相手の胸を突き刺しそのまま死んだ。腕を切り落とされながらも戦う兵士がいる。文字どおりはいつくばって進み敵兵を押し倒すものがいる。

「足を止めるな!狙うは大将の首ただ一つ!」

 エルグも馬上で槍を振り回し、剣をふるって戦った。戦いながら全軍を鼓舞し、一つにまとめ上げてアルジャーク軍に叩きつけてゆく。

「魔導士部隊、一斉攻撃!」

 彼の指揮に従って、魔導士たちが火炎弾を投げつけ雷を放つ。さらに魔剣や魔槍を装備した者たちが敵陣に突っ込んで綻びをつくる。

「弓隊、放てぇぇぇ!!」

 無数の矢が飛来し、アルジャーク軍の綻びを大きくしていく。そこにエルグはすかさず突撃を指示する。

 アルジャーク軍の隊列に綻びを見つければ、歩兵を差し向けそれを大きくし、騎兵を突撃させてこれを破る。整然と抵抗を試みられれば、魔導士部隊の一斉攻撃で無理にでも後退させる。

 戦力の出し惜しみなどしない。むしろこれでも足りないくらいだ。現状、足りない分はここの兵士たちが死力を尽くして補っている。それは指揮官たるエルグにも同じことが言えた。

(だが、そう長くはもつまい・・・・・)

 しかし、エルグは冷静さまでは失っていなかった。こんな状態がいつまでも続くわけがないと見切りを付けている。それはアルジャーク軍を率いているアレクセイ・ガンドールにしても同じだろう。

(一刻も早くこれを突破せねば・・・・・!)

 声を張り上げ、兵士を鼓舞する。

「オムージュ軍主将エルグ・コークス殿とお見受けする!その首、頂戴いたす!」

 一人のアルジャークの騎兵がエルグに向かって突進してくる。その騎士に向かってエルグは馬首を向けた。互いが互いを正面に捕らえ、その距離を縮めていく。雄叫びを上げ、戦斧を振り上げるアルジャークの騎士に対し、エルグはひたすら無言であった。しかし彼の目はどんな諸刃の剣よりも鋭く敵を見据えている。

 二つの騎影が一瞬重なり、そしてすぐに離れた。二人の騎士の姿は対照的であった。一人は槍で喉を貫かれ既に絶命している。もう一人は肩当てを飛ばされているが、それ以外はまったくの無傷である。

 生き残った騎士、エルグ・コークスは別の槍を手にすると、すぐに一人の騎士から主将へと戻り、全軍の指揮に当たった。彼の勇姿をみて、兵たちの士気はさらに一層上がっている。

 また一歩また一歩とオムージュ軍は前進し、同じだけアルジャーク軍は後退していった。



「押されているな」
 本陣から戦況を眺めて、レヴィナスは不満そうにそう呟いた。

 オムージュ軍の勢いが凄まじい。いま敵軍は凸の形で猛然と攻め立てており、友軍はそれを凹形で受け止めるという具合になっている。

 戦場のあちこちで爆発が起こり、閃光が走り、炎が上がっている。そしてそのたびにオムージュ軍は、アルジャーク軍の中央部(主翼)を後退させこの本陣に近づいてくる。

「敵軍は魔導士部隊を多く引き連れてきたようです。まぁ、彼らにすれば祖国の興亡のかかった戦いですならな」

 本来、魔導士部隊は「虎の子」だ。それは彼らが特殊で高度な訓練を受けており、そう簡単に補充の利く人員ではないからだ。

 逆を言えば、その虎の子の魔導士部隊を大量に投入しているということは、いかに彼らがこの戦いに全力を傾けているかを物語っている。

「とはいえそれも予想のうち。ご心配めされるな」
「心配などしていない」

 アレクセイの物言いにレヴィナスは不快げに反応した。



 戦況が動いたのはそれからしばらくしてのことだった。オムージュ軍はアルジャーク軍を押し込んでいき、ついにアルジャーク軍の陣形はU字となった。

 アレクセイが動いたのはまさにそのときであった。

「発光弾、黄!」

 すかさず部下の一人が、長さが三十センチくらいの筒型の魔道具を空に向けて構え魔力を込めた。黄色い光の発光弾が空へと上がる。そしてそれは戦場に劇的な変化をもたらした。

 アルジャーク軍の主翼が動きを止め、初めてオムージュ軍の突撃を防いだ。さらに数千の矢の雨を降らせ進軍の速度を落とす。同時に両翼が前進しオムージュ軍を半包囲していく。

「発光弾、赤!」

 アレクセイが再び指示をだし、今度は赤い光が上がった。

 次の瞬間、戦場、オムージュ軍の只中にいくつもの火炎弾が打ち込まれた。それだけではない。雷が鳴り響き、暴風が吹荒れ、氷刃が舞った。

 続けて近接戦闘用の魔道具を装備したアルジャークの魔導士たちが、敵陣に踊り込み縦横無尽にその力を振るう。

 今まで温存されていたアルジャークの魔導士戦力は、これまでやりこまれていたその憂さを晴らすかのように存分にその威をふるった。

 魔導士たちが穿った穴に無数の矢が打ち込まれ、さらに騎兵隊が突撃してゆく。騎兵に攻撃を集中しようとすると、長槍を持った兵士たちがそれを阻んだ。

 もはや戦場の流れは逆転した。アルジャーク軍は半包囲の陣形をさらに縮めながらオムージュ軍を追い詰めていく。それでもなおオムージュ軍は前に進もうとした。だが正面からは押しもどされ、さらに左右から交互に叩かれて損害ばかりが増えてゆく。



 オムージュ軍を率いる勇将エルグ・コークスは敗北を悟った。

 戦況の推移事態は彼の推測したとおりだった。正面からの突破を試みる限り、数において上回るアルジャーク軍はこちらを包囲する形になるだろうと思っていた。そして実際そのとおりになった。

 包囲陣形を敷けば、一点の密度は薄くなる。そこを全力で突破するつもりだった。

(牙とどかず、か・・・・)

 悔しさは感じない。その前にやることがある。

 腰の辺りに付けておいた筒状の魔道具を掲げ魔力を込める。三色の信号弾が同時に上がった。撤退の合図だ。

 撤退信号をうけ、オムージュ軍は唯一包囲されていない後方へと下がり、戦場からの離脱を開始した。それにつられるようにアルジャーク軍は、撤退するオムージュ軍を追いかけ追い討ちをかけようとする。

 アルジャーク軍の両翼が伸び、中央部の密度が下がった、その瞬間―――。

「―――!」

 エルグは駆けた。彼は何も言わなかった。そして何も命じなかった。だが、ただ一騎で敵陣へと駆けるその姿をみて、近くにいた兵士たちは自分たちの将の後を追い、駆けた。

 まさに絶妙のタイミングで突撃を仕掛けたその一団は、ついにアルジャーク軍の鉄壁の包囲網に生じた小さな綻びをついに突破した。

 エルグと共に最後の突撃を仕掛けた兵の数はおよそ三千弱。後ろから爆音が聞こえた。追撃しようとしたアルジャーク軍を魔導士部隊がけん制してくれたのだろう。

 何も言わずともこれだけの兵が付いてきてくれた。それも撤退の最中に、だ。そしてそれを援護してくれる味方がいた。

 つくづく自分は部下に、味方に恵まれた。そうエルグは思う。

 眼前には最後の敵。アルジャーク軍の、恐らくは最精鋭の騎兵。その数およそ一万。

 エルグは剣を振りかざし、最後の命令を下した。

「敵将の首をとり、我らの祖国を守れ」

 息をいっぱいに吸う。

「突撃ィィィィィィイイイ!!」



 オムージュ軍の最後の死兵が一団となって迫ってくる様子をアレクセイは見た。

「敵ながら見事・・・・・!」

 全身の血がたぎる。顔には笑みが浮かんでいるのかもしれない。知らず、レヴィナスよりも前に出た。

「これより戦場を駆け抜け、敵将を討ちまする。殿下はここに残られよ」

 うむ、とレヴィナスは応えた。それを聞き、アレクセイは手元に残っている全軍を率いて駆け出した。

 このときの様子を歴史書はこう記している。

「皇太子の傍らには一兵も残らず」

 アレクセイの聞いたレヴィナスの声はいつもと同じように思われた。だから彼は振り返らなかった。故に、彼は知らない。このときレヴィナスが青白い顔をしていたことを。



 オムージュ軍はアルジャーク軍とほぼ互角に戦った。弱兵と侮られていた兵士たちが、精強を誇るアルジャーク軍の最精鋭の騎兵、しかも三倍ちかい数を相手に互角に戦ったのだ。

 このときのことをアレクセイは後日こう述懐している。

「あの時敵にあと千の兵がいたら、負けていたかも知れぬ」

 アルジャークの至宝と呼ばれた名将のこの言葉から、オムージュ軍の、いや勇将エルグ・コークスと彼に従った決死隊の奮戦の凄まじさが窺える。

 当初、両軍は互角に戦っていた。だが、徐々に決死隊が押され始める。当然といえば当然だ。力と体力を温存していたアルジャーク軍に対し、決死隊は戦いにはじめから加わっており、一兵として無傷の兵はいなかったのだから。

 一人、また一人と倒れていく。

 エルグも馬から落とされ倒れた。全身傷だらけで、もはやどれが致命傷かも分からない。体が温かいのは流れた血のせいか、あるいは大地の熱のおかげか。

 兵たちはうまく撤退できただろうか。敵将は討ち取れなかったが、ここで戦ったことで一人でも多くの兵が命を拾っていれば、この戦いには意味があったと思う。

 手を動かし、青々とした草に触れる。

 豊かな大地だ。この大地のおかげで人々は餓えることなく暮らして行ける。それはとても幸せなことだと思う。

 それを守りたかった。できることならばこの手で。

 歴史書にはこの戦いの結末についてこう記されている。

「決死隊、一兵も帰らず」

 ローレンシア会戦は終結した。

 エルグの首は蝋蜜漬けにされてオムージュの王都ベルーカの王宮に送りつけられた。体のほうは鄭重に葬られている。アレクセイが武人の礼を示したのだ。

 蝋蜜漬けにされた勇将エルグ・コークスのくびを見た王宮の廷臣たちは色を失った。国王たるコルグス・オムージュも同様であった。痛み出した胃を押さえながら彼はついに決断した。

「もはやアルジャークに抗する手段はない。かくなる上は降伏をもって民の安息を守らん」

 降伏は早すぎると思った廷臣たちもいたが、反対するなら対案を出さねばならない。事態がここにおよぶと、誰も責任を取りたくなかった。

 それに誰もがわかっていた。もはやアルジャーク軍をとめるだけの戦力はない。武力を背景にした交渉ができない以上、アルジャーク側から譲歩を引き出すことは不可能だ。

 コルグスより命が出された。降伏する旨をしたためた正式な書簡が作成され、それがアルジャーク軍に届けられた。

 こうしてオムージュも陥落した。




[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征11
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:22
レヴィナスがオムージュの王都ベルーカに入る少し前、クロノワは緊急を要する戦後処理を何とか終わらせた。

 有体に言えば粛清である。

 クロノワはこのような方法をもとより好みはしなかったが、一部の貴族たちによる彼に対する暗殺計画(お粗末なものだったが)が明るみに出ると、もはや彼個人の好き嫌いを言っていられなくなった。

 計画に加担していた貴族や領主の処刑執行令状にサインし、さらに彼らの財産は全て没収する。こうしてボルフイスク城内は粛然としたのである。

 クロノワは粛清の大鎌を一振り二降りしたがそれをボルフイスク城内だけにおさめ、市民生活にはそよ風程度の影響も及ぼさなかった。それができたのは元モントルム駐在大使ストラトス・シュメイルの協力があったからに他ならない。

 アールヴェルツェは優秀な将軍であったが、彼とその幕僚たちにはモントルム軍を掌握するという別の大仕事がある。そこでクロノワはストラトスに行政面でのサポートを依頼したのである。

 彼の働きは得がたいものだった。モントルムが戦後すぐのこの時期に、大した混乱もなく治まった功績の半分近くは彼のものであろう。

 それに大きな混乱がなかったからこそ、クロノワは思いがけず早い時期にこの遠征の“仕上げ”に取り掛かることができた。それはアルジャーク帝国の求める不凍港を持つ都市、独立都市ヴェンツブルグの“説得”である。

 アールヴェルツェに事情を話し、騎兵を五千騎ほど用意させた。率いているのはグレイス・キーアだ。若輩ということもあり、なかなか重要な仕事を先輩の幕僚からまわしてもらえず無聊を託っていたのだ。

 だが、彼女はあるいは運が良かったのかもしれない。ヴェンツブルグはこれより先クロノワの政略上、重要な位置を占めることになる。その都市を恭順させるための会談、まさにその場に居合わせることができたのだから。

**********

 街道の彼方に騎兵の巻き上げる土ぼこりを見たとき、独立都市ヴェンツブルグの門を警備する門兵は、血の気を失うかのような緊張に襲われた。事前にこの事態が訪れるであろうことを教えられていても、足が震え、暖かい陽気にもかかわらず寒気がした。

 同僚たち顔を見合わせる。皆、青い顔をしていた。きっと自分もそうなのだろう。それを確認したら少し気が楽になった。あらかじめ指示されていた通り、自衛騎士団本部に事態を知らせるために何人かが足早にかけて行った。

 知らず知らずの内に唾を飲み込む。あの土ぼこりを巻き上げている騎兵はアルジャーク軍だ。モントルムを平定した彼らは、ついにその矛をこの独立都市ヴェンツブルグに向けたのだ。

「いきなり攻撃してくることはないだろう」

 門兵の所属する大隊の隊長であるクロード・ラクラシアはそういっていた。だが、不安と恐怖を消し去ることなどできはしない。正直なところ、逃げ出したかった。

 だが彼の職責に対する責任感と、生まれ育った都市への思いはそれを許さなかった。結局、彼は使いのアルジャーク兵に事情を説明するまで、極度の緊張にさらされ続けることになるのだった。

**********

 使いに出した兵は報告を済ませるとすぐに下がった。

「ふさわしい者が来るまで待って欲しいとのことでしたが、時間稼ぎではないのですか」

 ここに来ているアルジャーク軍は騎兵ばかりが五千騎だけだが、それでもヴェンツブルグを落とすには十分すぎる。それを恐れて時間稼ぎをしているのではないかとグレイスは思った。

「あなたならこのような形で時間稼ぎをしますか?するとして何の為に?」

「・・・・・そうですね、時間稼ぎではない。失礼しました」

 無意識とはいえ自分の驕りをたしなめられたようでグレイスは恥じ入った。

 時間稼ぎをしたいのであれば、もっとうまいやり方が幾らでもある。こんな瀬戸際までアルジャーク軍が迫っているこの状態で時間稼ぎをしても意味はない。彼らは都市を捨ててどこかに逃げるわけには行かないし、またどこかの国に応援を頼むこともできない。

 グレイスが今この場で思い至る程度のことだ。ヴェンツブルグの執政官たちが頭を悩ませ考え付かないわけがない。

 つまりグレイスは彼らのことを侮ったのだ。無意識とはいえ、政でそれは危険だ。

「ですがこのような都市を相手にわざわざ交渉の席に着く必要があるのですか」
 いぶかしむようにグレイスは言った。

 アルジャーク帝国と独立都市ヴェンツブルグの力の差は、いわば「月と砂粒」で本来まともに相手をする必要はない。武力を持って押しつぶし制圧してしまったほうが、後腐れがなくてよいと思ったのだろう。

「ヴェンツブルグは独立の気風がつよい都市です。力ずくで恭順させようとすれば住民全てレジスタンスに、なることはないでしょうが、非協力的になっていろいろとやり難くなるでしょうね」

 武力制圧したほうが、後腐れがあるのだ。

「それに最悪、不凍港が使えればそれでいいわけですし」
「そんなものでしょうか・・・・・」

 純粋な武人であるグレイスにとって、こういう思考は迂遠なものに感じられるのだろう。クロノワ自身だってそうだ。彼自身、自分の思考に疲れることがあった。

 そうこうしているうちに、ヴェンツブルグから騎影が二つ、こちらに近づいてきた。一人は初老の男で、年のころはアールヴェルツェよりも一回り程度上かと思われた。もう一人は二十代初めと思しき男だ。二人とも自衛騎士団の所属らしく、鎧を着込んでいるが剣は持っていない。戦うつもりはない、という意思表示らしい。

「自衛騎士団騎士団長、アッゼン・ウロンジです」
「同じく、第三大隊隊長、クロード・ラクラシアです」

 二人とも名前は知っている。というよりもある程度事前に調べてある。
 自衛騎士団騎士団長たるアッゼン・ウロンジは一兵卒から、いわば「叩き上げ」で騎士団長まで上り詰めた人物で、それゆえに騎士団員や都市の住民からも信頼が厚い。大柄な体格と豪胆な気性ゆえに万事に大雑把と思われがちだが、細かい心配りを忘れない人物だと報告されている。

 クロード・ラクラシアについては、それほど詳細な報告は上がっていない。ただ一点、三家の一つ、ラクラシア家の次男ということだけが載せられていた。

「アルジャーク帝国モントルム方面遠征軍司令官、クロノワ・アルジャークです」

 儀礼的な挨拶を交わした後、アッゼンが本題を促した。

「それで、本日はいかなるご用件でこのヴェンツブルグにいらしたのですかな」
「アルジャーク帝国と独立都市ヴェンツブルグの今後のお付き合いの仕方について色々とお話をしたいと思いまして」

 極上の笑みを浮かべてクロノワは応えた。自分の意思でこういう表情ができる辺り、修行の成果といえるだろう。

「五千騎ちかい騎兵を引き連れて、ですか・・・・」

 クロードが後ろに控えている騎兵たちを見て言った。その口調は若干苦々しい。話し合いといっておきながら武力で威圧するとはどういう了見だ、と思っているのだろう。

 だがクロノワはそんなことは意に介さない。もとより外交交渉とはそういうものだ。

「護衛ですよ。モントルムを平定したとはいえ、まだ日が浅い。まさか身一つでここまで来るわけにもいかないですから」

「でしたらこの先は必要ありませんな。我々が責任を持ってお守りいたしますゆえ、護衛の方々はここでお待ちいただけますかな」

 このアッゼンの言葉に反応したのはグレイスだった。

「それは承服いたしかねます。殿下の護衛は我々の任務。いかなる理由があるとはいえそれを放棄するわけにはいきません」

 交渉のすえ、クロノワの護衛として都市に入るのは二十人となった。

 アッゼンとクロードを先頭にして一同は都市の中を、執政官の合議がおこなわれる執政院に向けて歩いていく。

 都市の様子は思ったよりも活気に満ちていた。戦争中だっただけに、この都市にやってくる商人の数はすかなかろうと思っていたのだが、どうして彼らはたくましい。それにヴェンツブルグは貿易港だから、船でやってくる貿易商も多いのだろう。

 しかし、これからどうなるかは分からない。街道を行き来する人々の邪魔にならないように野営場所を移動させてきたとはいえ、この独立都市ヴェンツブルグのすぐ外にアルジャーク軍の騎兵五千が目を光らせているのである。人々が萎縮しても仕方がない。

(心苦しいかぎりです・・・・)
 クロノワは心の中でこの都市の人々に謝った。

 武力を背景にして交渉ごとを有利に進めるのは、この時代の外交の常套手段である。それにヴェンツブルグはもともとモントルムの宗主権の下におり、アルジャークにしてみれば、いわば敵勢力の一部である。

 武力を用いるのは理にかなっている。そう頭では割り切っている。だが感情面ではどうしても心苦しさをぬぐえない。

(私は甘いのでしょうか・・・・・)

 そうなのだろうと思う。そして、それでもいいと思ってしまう。

 案内された執政院は、白塗りの壁で四階建ての建物だった。執政官たちの合議だけでなく、この都市の行政に関わる中枢がこの建物の中に詰まっていることになる。

 一行はひとまず待合室に通された。

「執政官方が揃われるまで、こちらの部屋でおくつろぎください」

 そういってクロードは出て行った。部屋にはティーセットとちょっとしたお茶菓子が置かれている。勝手にどうぞ、ということらしい。

 護衛についてきた騎士たちは、皆それぞれに談笑している。クロノワは今窓辺に椅子を置き、ぼんやりと外を眺めていた。

「なにをご覧になっているのですか」

 そう言いながらお茶と菓子を差し出したのは、紅一点のグレイスだった。こういう気遣いはいかにも女性らしい。クロノワは礼を言って受け取った。

「海を、見ていました」

 比較的高い場所に位置しているらしい執政院の、さらに三階にあるこの部屋からは海を臨むことができた。帆船の白い帆が幾つか見え、ここが良い貿易港であることを無言のうちに証明している。

「初めてですか」
「いえ、宮廷で暮らすようになる前に一度だけ。友人と彼の師匠と三人で二ヶ月ほど旅をしたのですが、その時に」
「あのイスト・ヴァーレとかいう男ですか・・・・」

 グレイスの口調は苦い。どうやら彼女はイストにいい感情を持っていないらしい。そんな彼女の様子にクロノワは苦笑した。

 イストは権力におもねるということをしない。というより嫌っている節がある。権力嫌いというよりは、それを既成特権としてしか考えずもてあそぶような輩に嫌気がさしているのだろう。その感情はもはや憎悪と言ったほうがいいのかもしれない。

 なにが彼をそうしたのか、イストは話そうとはしなかったからクロノワは知らない。だが彼のそういう態度は、軍という規律と上下関係の厳しい世界に身をおいているグレイスにとっては不遜と映り、それゆえに相容れない。

 クロノワはとくに友人のことを弁護しなかった。イストのあの飄々とした皮肉っぽい態度は確かに彼の一面だが、それだけが彼の全てではないことをクロノワは知っている。だが同時に誰かに弁解してもらうことを、あの変わり者の友人が嫌がるであろうことも分かっていたからだ。

 グレイスはまだ渋い顔をしている。本当は付き合いをやめるように言いたいのかもしれない。だが、クロノワには味方が少ないことを知っているため、あまり強く言いたくもないのだろう。

 クロノワは素知らぬ顔でお茶を啜った。執政官たちが揃いましたと知らせが来たのは、それから少ししてからだった。

**********

「はじめまして。アルジャーク帝国モントルム方面遠征軍司令官、クロノワ・アルジャークです。本日はこのような場を設けていただき感謝しております」

 目の前に居並ぶ八人の執政官たちを前に、クロノワはまずそう挨拶した。

「前置きはいい。早速だが用件を窺おう」

 やや苛立った様子で口を開いたのは、選出された五人の執政官の一人であるブレンステッド・テームである。

「それでは単刀直入に申します」
 クロノワは一旦そこで間を取った。

「独立都市ヴェンツブルクにアルジャーク帝国の宗主権を認めていただきたい」

 それはこの独立都市ヴェンツブルクにアルジャーク帝国の一部になれということだ。執政官たちは一様に押し黙った。これまでモントルムに対して、そうしていたことを考えれば同じといえば同じだ。だが、新たになにを要求されるか分かったものではない。

「これまでここヴェンツブルクは、モントルムの宗主権の下に自治を認められてきました」
 これはただの事実確認だ。執政官たちも何も言わない。

「ですが、もはやモントルムという国は存在しません。我々アルジャークが併合しました。ならばヴェンツブルクはモントルムの代わりに、アルジャークの宗主権を認めるべきではないでしょうか」
 クロノワの主張には一応の理が通っている。

「認めない場合はどうする?武力行使かね?」
 そう言う執政官の声には皮肉の色が混じっている。

 ヴェンツブルクの住民は独立の気風が強く、彼らは力で押さえつけられた支配を良しとはするまい。だいいち武力制圧したとしても、破壊されたあるいは焼き払われた港が何の役に立つというのだろう。

 無論、そのことはクロノワも承知している。

「武力行使をするつもりはありません。ですが、色々と制約をかけることは必要になるでしょう」

 行き来する人々の荷物の検閲、貿易品の関税の引き上げ、もっと単純に高い通行税をかけることもできるだろう。

 執政官たちの顔が青ざめた。

(そんなことをされれば・・・・)

 そんなことをされれば、この独立都市ヴェンツブルクは干上がってしまう。

 ヴェンツブルクはあくまでも「都市」なのだ。良港を持ち貿易によって栄えてはいても、そこは生産の場所ではない。人為的にとはいえその立地条件が崩されれば、個人の行商人を含め貿易商たちはこの都市を訪れなくなる。そうなれば自然とヴェンツブルクは衰退していく。

 そして住民たちの不満は、アルジャーク帝国にではなく執政院に向くだろう。そうなればアルジャーク帝国がこの都市に介入する余地が生まれる。そこまで計算しているのだろう、このクロノワ・アルジャークという皇子は。

「無論、そのような策は我々としても好ましくありません。せっかくの不凍港、有効に使いたいですから」

 そう言われて執政官たちは思い出した。アルジャークには不凍港がないことを。港がないわけではない。だが地形の問題も絡んで北よりの地域にしか港がなく、そういった港は冬になると海水が凍ってしまうのだ。

 今回の遠征で併合したモントルムも貿易港として使える港はヴェンツブルクだけだし、オムージュにいったっては内陸国のため、そもそも海に面していない。

(アルジャークにとってこのヴェンツブルクは、一年を通して使える唯一の港、というわけだ・・・・)

「オムージュは落ちたも同然です。そうなればアルジャーク帝国の国土は二二〇州。商人の方々にとっては魅力的な市場でしょうね」

 そしてその商人たちの拠点となるのが、この独立都市ヴェンツブルクなのだ。当然人が集まるところには、物と金もあつまる。

 執政官たちは視線を合わせ、頷きあった。

「アルジャーク帝国の宗主権を認めること、我々としてもやぶさかではない」
「だが、それは今までと同程度の自治が認められるならばの話だ」
「その点、アルジャーク帝国としての立場はいかがか、クロノワ殿」

 ここまでで大筋では合意したことになる。

「そうですね・・・・・」

 さらにこれから細かい詰めの協議に入るのだ。




[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征12
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:38
結局話し合いは、昼食をはさんで夜まで続いた。大方の内容は決まり、明日にはアルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークに届ける正式な書簡を作成できるだろう。

 クロノワ・アルジャークは護衛たちと共に、都市の外に待たせている騎馬隊のところへ戻っていった。迎賓館を用意するつもりだったのだが、

「部下に野営を命じておきながら、私だけ暖かいベッドで眠るわけにもいきませんから」
 といってクロノワ自身が断ったのだ。

 いまさら暗殺を警戒したわけでもないだろう。それはつまり、兵の信頼を得るすべを心得ているており、ただの温室育ちの皇子様ではないということだ。そうディグス・ラクラシアは思った。

 いまディグスは家族と共に夕食を楽しんでいた。一日中頭と神経を酷使していたためか、食事にあわせて開けた赤ワインは体に染み渡るようで、彼はなんともいえない倦怠感に身を任せた。

「まぁ、合意文章の作成はそれほど問題なく終わるだろうね」

 杯に入ったワインを飲みながら作業の進行状況と今後の見通しを家族に語っていた。

「ではなにが問題なのですか?」

 そう尋ねたのはリリーゼだ。ディグスは言いにくそうに苦笑いを浮かべている。

「だれが使者になるか、でしょ?」
 代わりに応えたのはアリアだった。

 正式な書簡を作成してそれで終わりではない。それをアルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークに届け、そして皇帝の承諾を得て初めて独立都市ヴェンツブルクの立ち位置が決まるのだ。

 問題になっているのは、その書簡を持っていくヴェンツブルク側の代表を誰にするか、ということである。本来であれば執政官の一人が使者となって赴くのが筋である。だが、今回だれも行きたがらないのだ。

 露骨なことを言ってしまえば、誰も責任を取りたくないのである。

 クロノワとの間で合意した条項を皇帝が認めず、その場で無茶な要求を追加してくるかもしれない。通常の国家間の話であればこういう事はありえない。だがアルジャーク帝国と独立都市ヴェンツブルクの力関係は、いっそ笑いたくなるほどで、こういう心配もしなければならないのだ。

 そうなってしまえば呑まないわけにはいかないだろう。その責任を誰も取りたくないのだ。

「私に、私に行かせてください!」

 そういって立ち上がったのは、なんとリリーゼであった。

 一瞬、リリーゼはなぜそんなことを言ったのか、自分でも理解できなかった。だがその言葉はすぐに彼女のものとなり、血脈に沿って体に染み渡っていった。

 精神が高揚し体が熱くなる。大仰に言えば運命を感じたのだ。そう、眠っていた自分を叩き起こす、稲妻の閃光のような運命を。

「私に行かせてください、父上。使者としてアルジャーク帝国へ」

 誰にも渡さない。この運命は私のものだ。そう決意を込め、ほとんど睨むようにしてリリーゼは父であるディグスに懇願した。

 ディグスはリリーゼのその視線をしっかりと受け止め、しかし何も言わなかった。

「だめだ!それならば私が行く!」

 声を荒げそういったのは長兄のジュトラースだ。次兄であるクロードも賛同し、妹を説得しようとする。

 そんな中、父であるディグスの頭の中では素早く計算がなされていた。アルコールが入っているとはいえ、彼の頭脳は明晰を保っているといっていい。

 ヴェンツブルクが、というより執政官たちがもっとも恐れているのは、アルジャーク帝国皇帝が直々に新たな要求をしてくることである。だが、もしされれば使者が誰であろうと、その要求を呑まなければならなくなるだろう。

 ディグスは一つ息をついた。諦めが付いたといってもいいかもしれない。

 そう、諦めるしかないのだ。国力も武力も財力も発言力も、何もかもが違いすぎる格上の相手になにをしても無駄なのだ。それならばいっそ・・・・・・。

 ならばいっそのこと、政も駆け引きもなにも分からない者を使者に立てたほうが、かえって相手の心象はいいかもしれない。それは暗に、すべてを委ねます、といっていることになるのだから。

「・・・・・いいでしょう」
「父上!?」

 ジュトラースとクロードが悲鳴に似た声を上げる。彼らとしてはまず真っ先にこの人が反対するだろうと思っていたのだ。
 息子たちの悲鳴を無視してディグスは話を進める。

「ですが、私の一存で決めてしまうことはできません。執政院に諮ってからです。もしそこで許可が下りなければ諦めなさい」

 いいですね?とディグスは末娘に言った。リリーゼは視線をそらすことなく彼を注視している。

「分かりました」

 一瞬の迷いもなく彼女は応えた。その目は自身が使者になることを微塵も疑っていないように思われた。そんな末娘の様子をみて、ディグスは内心苦笑をもらした。

(やはり育て方を間違えたでしょうか・・・・?)

 彼はこの末娘を花よ蝶よと育てた覚えはない。自分の娘が一般的な良家の令嬢の枠に収まりきらないことを悟った彼は、自らの人生を彼女自身の手に委ねたのだ。それが間違っていたとは思わない。

 しかし、自身の人生を手にした彼女は、ディグスの知らぬ間に大きな翼を育てていたようだ。そしてその翼でこの狭い鳥かごから飛び立っていくのだろう。そんな娘をディグスは眩しく、また誇りに思う。しかし、一抹の寂しさはどうしても消えなかった。



 次の日、クロノワ・アルジャークとヴェンツブルグ執政院の間で合意文章が作成された。その中ではまず、アルジャーク帝国が独立都市ヴェンツブルグの宗主権を持つことが明記されている。

 さらに、その内容を要約すると以下のようになる。

 一つ、独立都市ヴェンツブルグはこれまでと同程度の自治権をもつ。
 一つ、アルジャーク帝国より執政官を一人派遣し、九人で合議をおこなう。
 一つ、アルジャーク帝国より派遣される執政官の権限は、他の八人の執政官たちと同じとする。
 一つ、戦時などの緊急事態においては、独立都市ヴェンツブルグはアルジャーク帝国に最大限協力する。

 これらの内容に加えてさらに細々とした取り決めが幾つか記載された。

 また、執政院でリリーゼ・ラクラシアを使者とすることが承認された。もちろん使者団を組んで帝都ケーヒンスブルグへ向かうことになるが、中心は彼女だ。クロノワは少し驚いた様子だったが何も言わなかった。

 会合の後、クロノワはディグス・ラクラシアから声をかけられた。

「娘をよろしくお願い致します」
「承知しました。ご安心ください」

 思いつめた様子で頭を下げるディグスに、クロノワは当たり障りのない返答しか出来なかった。親心の機微はクロノワには理解しがたい。死んだ母もきっとこんなふうに自分のことを心配してくれていたのだろう。そう考えると少しこそばゆい。

 ふと思った。父親たる皇帝もそうなのだろうか、と。彼は頭を軽く振ってその問いを追い出し、答えは不明のままになった。

 出立は明日の朝。一度オルクスまで戻り、そこから帝都ケーヒンスブルグへ向かうことになる。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征13
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:38
レヴィナス率いるオムージュ方面遠征軍は、ついにオムージュの王都ベルーカに入った。すでに降伏する旨が届けられており、大きな混乱もなくレヴィナスは入城したのであった。

 ベルーカに入ってすぐ目に付いたのは、建設途中の建物であった。既に八割がたが完成しているらしく、大まかな造形は見て取れた。

「あれは、劇場か何かか・・・・?」
 心の琴線にふれるものがあったらしく、レヴィナスの言葉は熱を帯びている。

「そういえば、オムージュ国王コルグス陛下は優れた才をお持ちだと聞いたことがあります」

 そういいながらアレクセイもレヴィナスの視線を追いかけた。その建物は壮麗にして荘厳で、なるほど完成すれば傑作と呼ぶにふさわしい姿となるだろう。

 王宮に入ると、レヴィナスはまず部屋を一つ一つ見て回った。廊下を歩けばあちらこちらから黄色い悲鳴が聞こえ、すれちがう女官たちは魂を抜かれたように惚けて立ち尽くした。皆、レヴィナス・アルジャークのその美貌にあてられたのである。

 とある部屋に入ると、そこには美しく着飾り正装した一人の姫君がたたずんでいた。アーデルハイト王女その人である。

「姫の評判はアルジャークにも届いております。いずれお会いしたいと思っておりました」
 万人を魅了する笑顔でレヴィナスは亡国の姫に挨拶をした。

「もったいないお言葉でございます」

 姫の言葉は丁寧であったが卑下た様子はいなかった。それから二人はしばらくの間、語り合った。レヴィナスはこういう場での話題を数多く知っていたし、なにより話術が巧みであった。アーデルハイトもまんざらではない様子であった。何よりも目が熱っぽく、表情が生きいきとしている。レヴィナスが平素の彼女を知っていれば驚いたであろう。実際、彼女の部屋で給仕をしていた女官は驚いていた。

「姫様のあのようなご様子は初めて見ました」

 レヴィナスの美貌よりもそのことに驚いたというから、ただ事ではあるまい。

「何か不自由されることがあれば、遠慮なく申されよ」
 名残惜しそうにするアーデルハイトにそう声をかけ、レヴィナスは辞した。

 その日の晩餐に、レヴィナスはコルグスを招待した。彼に建築の才があることを知ったレヴィナスが話を聞きたいと思ったのだ。

「それはそれは。光栄ですな」

 現れたコルグスはすっきりとした表情をしていた。「憑き物が落ちた」という表現が合うかもしれない。国家という重圧から解放された人間は、こういう表情が出来るのかもしれない。

 レヴィナスは凱旋途中に見た建設途中の建物をしきりに褒めた。やはりあれは劇場だったらしい。

「完成すれば東国一、いや大陸一の名作として後世までその名を轟かすでしょう」

 さらにあの劇場の基本設計をコルグス自身がおこなったことを知ると、レヴィナスはさらに驚き彼を賞賛した。

 コルグスとしても彼が二十年以上をかけて進めてきた肝いりの計画が、この麗人によって評価されたことが嬉しかったらしい。全国各地で同時進行させている建築計画の図面をレヴィナスに見せ、凝らされた数々の意匠とこだわりを熱っぽく語った。レヴィナスも自身のアイディアを告げたりと、二人の議論は自然と白熱していった。

「ケーヒンスブルグに凱旋したあかつきには、私はおそらく父上からこの旧オムージュ領の総督に任命されるでしょう。そのときには是非、貴方にこれらの計画の仕上げをお願いしたい」
 レヴィナスは若干興奮気味に亡国の王に求めた。

 コルグスは一瞬、押し黙った。レヴィナスの申し出が癇に障ったから、ではない。戦に負けたにせよ一国の王であった者に征服者の下で働け、というのは普通侮辱以外の何者でもなかろう。しかし、コルグスがもっとも心血を注いできたのは、なにを隠そうこれらの一連の建設計画なのである。その最後の仕上げが自分で出来るのであれば、それはむしろ僥倖であるといえる。

 しかし彼は首を振り、若い征服者の申し出を断った。

「亡国の王であった者が大きな事業を任されたとあっては、部下の方々が不満に思われましょう」

 彼も一国を治めていた王。こういった政治的な考え方は嫌というほどしてきたのだろう。だがレヴィナスは諦めなかった。

「では、アーデルハイト姫を私にくださらないか」
 無論、妃として迎えたいという意味である。

「なんと、娘を・・・・」
 コルグスは絶句した。

「左様。そうすれば貴方は私の義理の父。誰も文句は言いますまい」

 悪い話ではない。それどころか格別にいい話といっていい。
 レヴィナスはアルジャーク帝国の皇太子である。その彼とアーデルハイトが結婚し、その間に生まれた子供が将来的にアルジャーク帝国の版図を受け継ぐことになれば、オムージュ王家の血統は考えうる最高の形で守られる。それにレヴィナスがアーデルハイトを娶れば、旧オムージュ王国の臣下や国民も新しい為政者であるレヴィナスを受け入れやすくなるだろう。

 それにレヴィナスが言ったとおり、コルグスが建設計画を取り仕切っても不満が出ることはあるまい。

 そう、これはいい話なのだ。オムージュという国とコルグス個人の両方にとって。
 コルグスは立ち上がり、たたずまいを正した。そして若く美しい征服者に、また彼の義理の息子とも主君ともなる人物に深く頭を下げた。

「娘のこと、国民と臣下のこと、全てお願い申し上げる」

 レヴィナスは鷹揚に頷いたのであった。





[27166] 乱世を往く! 第二話 モントルム遠征 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/13 15:39
独立都市ヴェンツブルグからオルクスに戻ったクロノワは、すぐに部下たちに帝都ケーヒンスブルグに凱旋するための準備をさせた。アールヴェルツェの話ではあと三日ほどで準備は完了するそうだ。

 その日の夜半過ぎ、クロノワは一人謁見の間にある石造りの玉座に座っていた。謁見のまの天井はガラス張りになっており、月の光が室内をほのかに明るくしていた。

 月に向かって手を伸ばす。

「石の玉座の座り心地はどうだ」

 突然聞こえてきた声にクロノワは苦笑をもらした。動揺も戦慄もしない。彼の良く知る声だったからだ。

「硬いよ。クッションが必要だね」

 正面に視線を戻すと、月明かりに照らされた友人の姿があった。赤褐色のローブを羽織、身長よりも少し長いくらいの杖を手にしている。最後に会った二年前よりも、精悍さがましたように思われた。

「君はいつも突然に現れる、イスト」
「いちいちアポ取るのも面倒だからな」

 肩をすくめながら、イストはそういった。それから急に真剣な表情になる。

「お前、このままいくつもりか」

 クロノワは何も言わない。

「これが最後の機会だと、そう思うんだがな」

 全てを放り出し、この広い世界を旅するための。だがクロノワは、はっきりと否定した。

「それは違うよ、イスト」

 自然、視線が月に向いた。満月は過ぎ欠けてゆく、それでもまだ十分に明るい月がガラス越しの空に煌々と輝いている。

「この遠征に出るまでが最後の機会だった。私はそう思っている」

 イストは何も言わない。月を見ているから表情も分からなかった。独白するようにクロノワは続けた。

「この戦争でたくさんの血が流れた。その少なくとも半分は私が背負うべきなんだ。それを放り出すことは出来るとは思わないし、したいとも思わない」

 視線を戻す。イストは何か言いたそうに顔を歪めていた。しかしすぐに諦めたように首を振った。

「ああ、まったく。言葉はいつだって多すぎる。そのくせいつだって、言いたいことは言えやしない」

 そういってイストは何かをほうった。受け取ってみると手のひらに収まるくらいの木箱であった。あけてみると指輪がおさめられていた。恐らくは聖銀(ミスリル)製で、幅が広く細かい透かしの細工が施されている。

「婚約指輪?」
「三点」
「・・・・低い・・・・」

 冗談とはいえ、間髪入れないイストの辛口な採点に、がっくりと肩を落とす。

「魔道具『雷神の槌(トールハンマー)』。なかなかいい魔道具ができてな、そいつの簡易版だ」
「指輪なのに槌(ハンマー)?」

 イメージとしてはなかなか結びつかない。

「ああ、なかなかいい威力だからな。試し撃ちをするなら、人と物のないところをお勧めするぜ」

 彼の口調からは自分の作品への自信が窺える。こうなるとこの「簡易版」の元になった魔道具が気になった。

「魔弓だからな、お前には向かないよ。それに『簡易版』といったが『劣化版』といった覚えはないぞ」
「・・・・・・いいのか・・・・・?」

 自分はこの友人との約束を破るのだ。

 子供の頃に軽い気持ちでかわした約束だ。今となってはお互いに立場が違う。だから仕方がない。もっともらしい理由なら幾らでも浮かんだ。

 だがそんな薄っぺらい理由が浮かべば浮かぶほどに、心苦しくなっていく。自分はこの大切な友人を裏切ってしまった。それなのにイストは自分に怒るでもなく、こうしてまだ友人として接してくれている。

 それが、どうしようもないほどにつらかった。

「お前のために作った祝いの品だ。要らないなら捨てるしかないな」

 肩をすくめながらイストはそういった。まるで、

「馬鹿なことを言うな」

 とでも言う様に。

「ありがとう」

 あらゆる思いを詰め込んで、クロノワは礼を言った。それに満足したのか、イストは笑顔で頷いた。

「じゃあな」
「イスト!」

 背を向け暗がりに溶け込むようにして去ろうとする親友を、クロノワは呼び止めた。

「私は、いや、俺はこの世界を狭くしてみせる」

 玉座から立ち上がり、月光を浴びながらクロノワはそう宣言した。これが、彼が自分の野望を口にした最初であった。

 イストの顔は暗がりに隠れてよく見えない。だがクロノワは彼がニヤリと笑ったのが分かった。

「楽しい時代になりそうじゃないか」

 そういい残して、イストの気配は消えた。

 クロノワは再び月に視線を転じた。

 彼の胸の中には、はじめての野望が確かにある。ふつふつと湧き上がる気持ちの名前を彼は知らない。だが彼は、今までにない高揚を感じていた。





  ―第二話、完―




[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:17
名は存在のために
姓は血筋のために
そして、
決断は未来のために

**********

第三話 糸のない操り人形

「納得できません!!」

 若い女性、というよりまだ少女だろう。少女の声が校長室に響き渡った。

 カンタルク王国という国がある。
 エルヴィヨン大陸の中央部からやや東、オムージュの西南に位置している国で、版図は六三州。大国というほどではないが、他国からの一方的な圧力に屈しない程度の国力を保持している。

 その王都フレイスブルグにカンタルク王立士官学校がある。ここで育成された軍人たちは、いわゆる「叩き上げ」の兵士たちとは異なりエリートであり、組織の運営や運用に関わっていくことになる。

 この学校に入る生徒たちはさまざまな階級や生活背景をもっているが、大別すれば大きく二つのグループに分けることができる。

 まず第一に貴族の子弟たち。固有の領地を持たない下級貴族の子弟や、大貴族でも家督を継がない次男・三男などは、士官学校に入り軍での栄達を目指すことが多い。

 第二に貧しい者たち。士官学校の学費は基本的に無料だ。タダで学問を学べ、しかも少ないながらも小遣いまでもらえる士官学校には、苦しい生活をしている平民の子供たちが多く入学を希望する。人買いに非合法に売るよりはずっといいと思うのだろう、女子の生徒数が多いのも特徴の一つだ。あくまで、他国に比べて、だが。

「なぜ魔導科首席卒業のわたしが、志望部隊に配属されないのです!?」

 カンタルク王立士官学校には幾つかの科があるが、中でも最も人気があるのが魔導科だ。この科は卒業すると自動的に「カンタルク王国認定魔導士」の資格を得ることができる。

 卒業後の部隊配属の希望は成績上位者が優先される。しかし、大陸暦1561年度の魔導科首席卒業生、アズリア・クリークは志望部隊への配属を拒否されたのだ。

 アズリア・クリークは母子家庭で育った。母は若い頃に貴族の屋敷で下働きをしており、そこで御手つきになって彼女を身ごもったのだ。アズリアは自身の出生についてある程度知っているが、父親に当たる貴族の名前と家名は知らない。

「それについては私(わたくし)からご説明いたしましょう」

 目の前の校長は一向に口を開こうとしない。声のしたほうを見ると、燕尾服を一部の隙もなく着込んだ初老の男が立っていた。

「私(わたくし)はヴァーダー侯爵家の執事でエルマーと申します」
「ヴァーダー侯爵家・・・・・」

 いきなり出てきた大貴族の名にアズリアは驚いた。

 ヴァーダー侯爵家は代々カンタルク王国の魔導士を統率する立場にあり、その当主は「魔導卿」と呼ばれている。その立場ゆえに当主も優秀な魔導士であることが求められており、そのため血筋よりも実力を重視する家風がある。

「ヴァーダー侯爵家が一学生に何の用でしょうか」

 自身の生まれのせいか、アズリアは貴族というモノが嫌いだ。自然、言葉も刺々しくなってしまう。

「アズリア様の部隊配属の件ですが、侯爵家が裏から手を回させていただきました」
「なっ!?」

 今度こそ、アズリアは言葉を失った。確かに軍に発言力のあるヴァーダー侯爵家ならば、学生一人の部隊配属に介入して握りつぶすぐらい、わけないだろう。

「ですから、アズリア様が正規の手続きでどこかの部隊に入ることは不可能とお思いください」

 淡々とそう告げるエルマーの目は、濁ってはいない。濁ってはいないが輝いてもいない。鏡のようにただ目の前にあるもののみを映している。どこまでも冷たいその瞳からは、一切の感情が窺えない。

「なぜです!?」

 アズリアは叫んだ。なぜ大貴族のヴァーダー侯爵家が平民の一学生であるアズリアの部隊配属に関与してくるのか。

「当主のビスマルク様がお会いになられます。馬車を表に用意してありますので、説明は道すがらにいたしましょう」
「お断りします!」

 反射的にアズリアは拒否した。それは頭で考えたものではなく、ひどく感情的な判断で、生理的嫌悪ともいえるものだった。

「学費はどうするのかね」

 無情な校長の一言が、彼女の感情のうねりに歯止めをかけた。カンタルク王立士官学校の学費は基本的に無料だ。しかし、対価として卒業後は一定期間軍務に付かなければならない。逆を言えば、軍務に付かない場合は学費を全額納めなければならないのだ。

 アズリアはこぶしを握り締め、悔しそうに俯いた。

 母は二年前に他界しており、彼女は天涯孤独の身だ。学費を全額など、払えるわけがない。彼女に残った理性はそれを十分に理解していた。

「貴女に拒否権はないのです」

 エルマーが静かに、そういった。

**********

 馬車に乗り込んでからずっと、アズリアは無言だった。現状は不満だらけだが、それゆえに子どもっぽい抵抗を試みているわけではない。起こった事柄を、ひとまず感情は抜きにして自分の中に収めようと必死なのだ。

 それが分かっているのか、エルマーも何も話しかけてこない。

 ふう、とアズリアは一つ息をついた。泣くのも憤るのも絶望するのも喚くのも、全ては事態を完全に把握してからだ。

「教えていただきたい、エルマー殿。ヴァーダー侯爵家の魔導卿がわたしに一体何のようがあるというのです」

 まるでアズリアから言い出すのを待っていたかのように、エルマーは静かに目を開き彼女を見た。

「では、結論から申し上げましょう」

 そういってエルマーは一拍おいた。そして、

「貴女には次期当主となり、ヴァーダー侯爵家を継いでいただきます、アズリアお嬢様(・・・)」

 アズリアの予想をはるかに上回ることを告げた。絶句し、もはや何もいえなくなっている彼女に構わず、エルマーは言葉を続ける。

「ヴァーダー侯爵家が血筋よりも実力を重んじる家風なのはご存知でしょう」

 ヴァーダー侯爵家は、代々カンタルク王国の魔導士を統率する立場にある。しかし、魔導士という連中は、その性質上集団としての修練よりも個人を鍛えることが重視され、そのためか我が強く扱いにくい者が多い。

 ゆえにそれを統率する魔導卿たるヴァーダー侯爵は、自身も優秀な魔導士であることが求められるのだ。そのため外から力のある魔導士を当主に迎えるということが、ごく普通におこなわれてきた。現ヴァーダー侯爵であるビスマルク・フォン・ヴァーダー卿も、もとは辺境の下級貴族の出身だし、その妻であるノラ夫人も他の貴族の家から嫁いできた身だ。つまり今のヴァーダー侯爵家は一世代前のヴァーダー侯爵家とは、血縁的なつながりが全くないのである。

 ヴァーダー侯爵が魔導卿になるのではない。魔導卿がヴァーダー侯爵になるのだ。

「それは知っています。ですが、なぜわたしが・・・・・」

 なぜそこで自分が関係してくるのか。

 いくら王立士官学校の魔導科を首席で卒業したからといって、所詮はただの学生である。実力を示したこともなければ、当然実績もない。将来はともかくとして、現状の自分にそのような話が舞い込んでくるのは、いかにも不可解だ。

「旦那様と奥様のあいだにはお子様が一人おられます。長男のフロイトロース様、今年で七歳におなりになります」

 だったらなおのことわけが分からない。そうであればアズリアよりもその子どもに期待するのが筋ではないだろうか。

「左様でございます。普通でしたらそれが筋でございます。ですが・・・・」

 エルマーは痛ましげに嘆息した。

「フロイトロース様は生まれつき足が不自由なのです」

 それを聞いたとき、アズリアが感じたのはどうしようもない不快感だった。

「わたしは、そのご子息の代わりということですか」

 気に入らなかった。自分が誰かの身代わりとして選ばれたこともそうだし、そんなふうにして自分の子どもを切り捨てる親もそうだ。何もかもが気に入らなかった。

「でしたら、わたしなどよりも魔導卿にふさわしい魔導士はたくさんいると思いますが」

 アズリアの口調は苦々しい。だがエルマーは気にせず続けた。

「いえ、貴女でなければいけないのです。アズリアお嬢様(・・・)」

「お嬢様はやめていただきたい。わたしはまだヴァーダー侯爵家とはなんの関わりもない」

 たとえ近い将来養女になるとしても今現在は法的にも血統的にも無関係のはずである。小さいといえば小さいことだが、不快感も重なりアズリアはかたくなにそう主張した。しかし、

「いえ、貴女にはそう呼ばれる資格がございます。なぜなら・・・・」

 エルマーはアズリアにあの鋭い視線をぶつける。

「なぜなら、貴女はビスマルク・フォン・ヴァーダー卿の実のご令嬢なのですから」





**********







「入れ」

 執務室の向こうから重厚な声がした。その声だけで既に威厳が満ちており、精神的に混乱しているアズリアは声だけで押しつぶされそうになった。

 緻密な彫り物細工が施された扉を開け執務室に入る。そこに魔導卿ことビスマルク・フォン・ヴァーダー卿がいた。

 年の頃は四十の始めくらいだと聞いた。しかし気苦労のためか、髪の毛には一筋の白髪が混じり、顔にはしわが現れている。だが、その眼光は研ぎ澄まされた剣のように鋭い。その視線を向けられたアズリアは思わず後ずさりそうになる。五腎六腑を刺し通し切り分けるかのような視線だ、とアズリアは思った。

「私がビスマルク・フォン・ヴァーダーだ」
「・・・・・・アズリア・クリークです」

 かたくなにクリークの姓を名乗ったアズリアにビスマルクはなにも言わなかった。

「エルマーから話は聞いているな」
「・・・・・はい」

**********

 あの後、アズリアがビスマルクの娘だと知らされた後、それでもアズリアは抵抗した。何の証拠があるのかと。

「クレア・クリーク様からお手紙を頂きました。自分が死んだ後、娘を頼むと」

 その手紙を見せてもらうと、確かに死んだ母クレアの筆跡であった。日付は二年前の母が死ぬ二ヶ月前のものだ。

「母が下働きをしていたのは、ヴァーダー侯爵家だったのですね・・・・・」

 自身の出生の秘密が明らかになっても、少しの嬉しさもなかった。あるのはただの苦さだけだ。

「で、ですが、わたしがビスマルク卿の実の娘だとして、それでも不可解です」

 動揺しつつもアズリアは冷静であろうとした。魔導卿になるには、ヴァーダー侯爵家を継ぐには実力が何よりも重要だと、さきほどエルマー自身がそう言ったではないか。そしてそれは魔導卿たるビスマルクが誰よりもよく理解していることだろう。

「なのになぜ未熟者のわたしに目をつけるのです」

 もっとふさわしい魔導士を、もっとふさわしい時期に選んで魔導卿の地位に据えればよいではないか。げんにビスマルクもそうして魔導卿に、そしてヴァーダー侯爵になったはずだ。

「魔導卿になるために必要な資質は魔導士として優秀なことだけではありませんからな」

 魔導士たちを束ねる立場にある魔導卿は、カンタルク王国国内における魔道具の管理をもおこなっている。そのため魔道具の製造から販売にいたる流通の全て、また素材の価格や種類にいたるあらゆる知識が必要なのだ。

 また、軍内部に強力な発言力がある以上、魔導士以外の運用についても知っておかなければならない。それだけではなく周辺諸国とのパワーバランスや、はてには外交関係までをも考えねばならないのだ。

「旦那様はヴァーダー家の養子となられる前は魔導士一本のお方でして、そのため色々と苦労なされたのです」

 それゆえ、早い段階から魔導卿に必要な教育を受けさせようというのだ。そのためには若い方がいい。

「だからこそ、貴女が選ばれたのです。アズリアお嬢様」

**********

「午前は講義だ。魔導卿に必要な知識を学べ。午後からは魔導士の訓練。時間があれば私も稽古をつけてやる。夜は社交界のマナーを身につけろ」

 淡々と、事務連絡のように淡々とビスマルクは告げた。

「何か質問はあるか」
「・・・・・・なぜ今になってわたしを呼んだのですか・・・・・・」

 搾り出すようにして、アズリアはいった。

「必要になった。だから呼んだ。それだけだ」

 アズリアが何も言わないのを見ると、ビスマルクは彼女に下がるように命じた。執務室の扉が完全に閉まってから、エルマーは主に少々非難めいたことを言った。

「少し・・・・・冷たすぎるのではありませんか・・・・・」

 諸事情とさまざまな思惑が複雑に絡まって此度の事態になったとはいえ、父と娘の始めての対面である。そう少しそれらしい言葉や態度があってもいいのではないか。

 ビスマルクはただ「フッ」と笑った。それは嘲笑の笑いではなく、面白がるような笑い方だった。

「あれも私を父だなどとは思いたくなかろうよ」

 先ほど見た自分の娘を思い出す。恐らくは母親似だろう。自分に似なくて良かったと思うのは親馬鹿に似た心境かもしれない。

「しかし運が悪い・・・・・」

 手紙を受け取るまでもなく、かつてこの屋敷で下働きをしていたクレア・クリークが自分の子どもを産んでいることは知っていた。よほどのことがない限り干渉するつもりはなかったが、それは逆を言えばいつでも手を出す準備は出来ていたということだ。

「士官学校に入らなければ、魔導科に入らなければ、首席にならなければ・・・・・・」

 こんな、およそ考えうる最悪の形で手を出すことはなかった。

「本当に、運が悪い。が、諦めてもらうほかないな」
「旦那様・・・・・」
「魔道具は好きなものを選ばせてやれ」

 感傷は終わりだ。魔導卿として、ヴァーダー侯爵としてやるべきことは際限なくあり、そして自分にはそれをこなし続ける責務がある。

「御意に」

 エルマーが下がると、ビスマルクは仕事に戻った。

 やるべきことは多く時間は少ない。魔導卿とは、ヴァーダー侯爵とは、貴族という言葉から連想されるほどに優雅な存在ではない。いうなれば純然たる役職なのだ。








[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:20
大陸暦一五六三年九月始め、クロノワ率いるアルジャーク軍五万は帝都ケーヒンスブルグへの帰路にあった。オルクスには一万の兵を残してあり、これを元モントルム駐在大使のストラトス・シュメイルが指揮している。

 本来、彼はそのような地位にはいないのだが、彼を除けばクロノワしか旧モントルム領の政を掌握できる人物が居らず、かといってクロノワを残してアルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグに凱旋しても意味がない。

「猫の手も借りたいときに、立派な人の手があるのです。使わないわけにいかないでしょう?」

 そういってクロノワはストラトスに万事を押し付けたのであった。もっともこれは暫定的な処置であり、旧モントルム領をどのように扱うかは、アルジャーク帝国皇帝ベルトロワが最終的に決めるだろう。

 モントルムにおける戦闘は終止アルジャーク軍が優位に立っており、クロノワはその兵力をほとんど損することなく此度の戦争をおえた。そのことは既にアルジャーク本国にも報告されており、これで日陰者だったクロノワ殿下もようやく正しい評価を受けられるとアールヴェルツェなどは、我がことのように喜んでいた。

 特に急ぐ理由もないため、移動の速度は比較的ゆっくりとしたものだった。それが、旅に慣れていない人たちには幸いしたらしい。

「使者団の方々の様子はいかがですか、リリーゼ嬢」
「皆疲れてはいますが、一晩休めば大丈夫です。クロノワ殿下」

 そう、独立都市ヴェンツブルグの使者団もクロノワたちと一緒に帝都ケーヒンスブルグを目指しているのだ。彼らは基本的に文官でいくら馬に乗っているとはいえ、アルジャーク軍の本気の行軍についていくのはとてもではないが無理だ。

 行軍中にリリーゼとクロノワは何度か話をしたのだが、そのとき共通の知人がいることが判明した。すなわちイスト・ヴァーレという知人が。

「なるほど。あいつはそんなことをしていたんですか」

 こらえきれず笑いながら、クロノワは楽しそうに言った。リリーゼからヴェンツブルグでの聖銀(ミスリル)にかかわる一連の騒動について聞いたのだ。

「あの・・・・殿下・・・・、聖銀(ミスリル)の製法のことは・・・・・・」

 話の勢いとはいえ、極秘であるはずの聖銀(ミスリル)の製法について喋ってしまったリリーゼは、かなりあせった様子だ。「やらかした!」と全身で表現している。

「ええ、分かっています。他言はしません。それに、なにか手伝えることがあるかもしれませんね」

 聖銀(ミスリル)の製法を大陸中の不特定多数の工房に売る。それが独立都市ヴェンツブルグの、比較的上にいる人たちがやろうとしていることだ。だが如何せん一都市だけの力では限界がある。大国アルジャーク帝国の助力があればかなりやりやすくなるだろう。

「それにアルジャークが後ろにいれば、万が一教会にバレても、一方的な干渉を受けずにすみますしね」

 此度の大併合の結果、アルジャーク帝国の版図は二二〇州になった。このエルヴィヨン大陸でも一、二を争う大国になったのだ。その大国に教会が真正面から対抗してくるとは思えない。

「はぁ・・・・・、そうですね・・・・・」
 リリーゼも何とか納得したようだ。

「それにしても・・・・・・」
 気を取り直すようにしてリリーゼが話題を変える。

「殿下とあの男が友人同士だったなんて・・・・・」

 リリーゼの言う「あの男」とはもちろんイスト・ヴァーレのことだ。

「面白いヤツでしょう?」
「面白いって・・・・・。製法を独り占めするような男ですよ?」

 いくら古代文字(エンシェントスペル)が用いられておりリリーゼには読めなかったにせよ、確かにあの時彼女はその場にいたのだ。あの壁に刻まれていた物が聖銀(ミスリル)の製法だと教えてくれてもいいではないか。

「しかもそれらしい宣誓文を捏造してまで・・・・・・!」

 そのときの怒りを思い出したのか語尾が震えている。

「感動したのに・・・・・・!」

 それが口からでまかせで、しかも製法を隠すための方便だったのだ。あの時味わったなんともいえない寂しい落胆と激しい怒りは、決して忘れることが出来ないだろう。

「でも、宣誓文についてはまるっきりの捏造ではありませんよ」

 ヴェンツブルグ付近の反乱を指揮していたのはベルウィック・デルトゥードだが、彼の掲げた理想が確かそんな内容だったはずだ。

「下調べの際に見たのを覚えていたのでしょうね。相変わらず芸が細かい」

 仮にリリーゼがベルウィック・デルトゥードの反乱について詳しく知っていても、宣誓文の内容に疑問を感じないように、きちんと考えてつくっている。

 むぅ、とリリーゼは不機嫌そうに唸った。そんな彼女の様子を見てクロノワはクスリと微笑みをこぼした。

「・・・・何でしょうか」
「いえ、なにも」

 ギロリと睨むリリーゼを軽く受け流す。

 どうにも新鮮な体験だ。十五歳から宮廷で暮らすようになってからというもの、クロノワが親しく付き合ったのは皆彼より年上で、しかも感情よりも理性や責任を優先させる人たちばかりだった。だからリリーゼのような感情を素直に表現する年下の女の子(彼女が聞いたら怒りそうな評価だが)とこうして話しているのはとても新鮮に感じられた。

「失礼します。お二人とも食事の準備が整いました」

 そういって近づいてきたのはアルジャーク軍の女性士官グレイス・キーアだった。

「ありがとうございます、グレイス殿」

 女同士のためか、リリーゼとグレイスはすぐに仲が良くなった。二人で色々と男にはいえない話もしているらしい。

 クロノワも礼をいい、立ち上がった。空をみればもうすっかり夜の帳が下りている。雲もなく月が良く見えた。

(さて、イスト。君はどこでなにをしているのだろうね・・・・・)

 珍しく話題に上った友人をおもい、クロノワは月を見上げた。





***********




 クロノワが月を見上げていた頃からさらに数時間後、イストは行商のキャラバン隊の馬車の中にいた。勝手に乗り込んだわけではない。護衛の仕事を請けたのだ。

 こういった仕事の場合、それほど報酬はよくない。だが目的地までは馬車に揺られて移動ができ、しかも一日三回の食事の心配をしなくていいとあって、イストの様に魔導士ライセンスをもつ旅人にはうってつけの仕事であった。

 既に夜半を過ぎている。見張り番は起きているだろうが、大半は寝静まっていた。壁にもたれかかり眠っていたイストが、僅かに身じろぎそして目を開けた。よく見れば薄く汗をかいている。

「・・・・また・・・・悪夢・・・・・か」

 小さく呟くイストの声に動揺は見られない。ただ寂しさと苦さだけが含まれていた。

 イストの記憶は孤児院から始まる。人里はなれた孤児院で、古い寺院のようなものを利用していた。

 イスト・ヴァーレは己が身の素性を知らない。両親のことを知らず、誕生日も分からない。自分が今何歳なのかさえ、正確にはわからない。

 ただ、それを気にしたことはなかった。気にするような年齢でもなかったこともあるが、回りにいる兄弟たちは皆同じような身の上で、それでもたくましく生きていた。そう思う。

 幸せだったのだろう。少なくともあのときまでは。

 孤児院を襲ったのは、なんてことのないただの盗賊だった。しかし成人男性のいない、女子どもだけの孤児院には十分すぎるほどの脅威であった。

 みんな、殺された。

 ついさっきまで暮らしていた家は轟々と炎のなかで朽ちていき、駆けずり回って遊んだ広場には兄弟たちが血を流しその屍をさらしていた。

 小さな口が僅かに動く。

「助けて」

 と、言ったのだろうか。目から命が消えていく。

 悲鳴、振り上げられる凶刃、赤く染まった兄弟たち、血の臭い、炎の熱、激痛、鉄の味、うつろな瞳・・・・・・。

 不思議と、盗賊どものことはあまり覚えていない。

 あのときの記憶はひどく断片的で、しかしそれだけに一コマ一コマは強烈に焼きついている。

 赤い、赤い悪夢だ。

 盗賊があの孤児院を襲った理由は後で知った。なんでも大昔の魔道具が封印されているという情報を掴んでいたらしい。そして結局デマだったそうだ。

 あの時、イストは逃げた。逃げて逃げて逃げて森の中をさまよい、そしてその当時のアバサ・ロットであるオーヴァ・ベルセリウスに拾われ、そのまま弟子として魔道具製作のイロハを教わることになった。

 それはいい。あの時オーヴァに拾われたのは、望みうる最大の幸運だった。だが、それゆえに考えてしまうのだ。

(あの時、逃げていなかったら)

 と、そう考えてしまう。

 埒もないことだと分かっている。逃げていなければ、殺されていただろう。逃げることは、あの時できる最善の行動だった。生き残ったことを喜びこそすれ、責める人間などいない。死んでしまった兄弟たちの分も精一杯生きることが、自分にできる最大のことだ。運よく魔道具職人としての才能にも恵まれた。自分なら出来ることがたくさんある。そういう仕事をしていけば、きっとみんなうかばれる。

 正当化する言葉なら、いくらでも浮かんだ。でも同時に分かってしまうのだ。その言葉がどうしようもなく軽くて薄っぺらなことが。そしてその言葉を、自分はどうしても信じられないということが。

(あの時、オレにはできることがあったんじゃないだろうか・・・・・・)

 分かっている。それは傲慢な想像だ。

 だが分かっていても、考えるのを止められないのだ。あの時自分には出来ることが、やるべきことがあって、それをしていればもっとマシな未来になっていたのではないか、と。どうしてもそう考えてしまう。

 そういう思考はいい。だが、そういうことを考え続けている自分を想像すると、鬱になる。

「酒が・・・・・飲みたいな・・・・・」

 あいにくと、切らしている。

 悪夢を見るようになったのは、オーヴァに拾われてからすぐのことだ。そして悪夢を紛らわせるために、酒を飲むようになったのも。以来、十年以上の付き合いになる。元々酒に強い質ではなかったことが幸いしたのだろう。ギリギリの綱渡りは、足を踏み外すことなく今日まで続いている。

 酒を飲めば現実から離れることができた。夢と現の間を漂えば悪夢の痛みを、たとえ一時的にとはいえ忘れることができた。靄のかかった鈍い思考でなら、全てを皮肉っぽく眺めることができた。

 悪夢で起きた夜は、いつも酒を飲んだ。

 オーヴァは何も言わなかった。深い思慮があったのかもしれないが、あの師匠は判断基準が吹っ飛んでいたから、子どもの飲酒を問題視していなかった公算が強い。自分から飲み比べを挑むような人だし。

 孤児院を襲った盗賊たちは、その国の国境警備隊によって壊滅させられたらしい。事件は既に解決され、もはや過去のことになったのだ。

 過去には涙と花束を。時間は残酷なまでに平等で優しい。

 もはや、手を伸ばすことさえできはしない。風化していくはずの傷跡は、赤い悪夢を見るたびに新しくなっていくというのに。

 盗賊どもを自分の手で殺せていたら、この悪夢は自分から離れるのだろうか。

(それは・・・・・ない、な・・・・・)

 悪夢を見た後、盗賊どもへの憎悪は残らない。そもそも、あの悪夢に盗賊ははっきりとは出てこない。恐怖は随分前になくなった。今残っているのは、無力で滑稽な自分だけだ。

「ああ、まったく・・・・・」

 イストは考える。自分はこの悪夢を克服できるのだろうか。乗り越えてその先に進めるのだろうか。

 そういう自分が、まったく想像できない。

 目を閉じる。今夜はもう眠れそうにない。










[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:22
悪夢を見た夜から数えて二日後、イストはカンタルク王国サンバント州のとある町に来ていた。

 朝食が終わり、人々が本格的に働き出す時間帯だ。乾いた空気は心地よく、青く澄み渡った空は、人々の営みを祝福しているかのようだ。

 イスト・ヴァーレはご機嫌だった。しかも、この清々しい陽気とはまったく関係のない理由で。

「・・・・本当に・・・・よろしいのですか・・・・・?」

 呆れを通り越し、もはや驚愕の域に達した酒屋の店員の女性がイストに再度確認する。

「うん、よろしく~」
「はぁ・・・・」

 彼女の前には空の魔法瓶が並べられている。

 魔法瓶は中に入れた液体の温度や品質を一定に保つ効果のある魔道具だ。この時代、ガラスは比較的普及していたが、それでもある程度値が張った。つまり、お酒を買うたびにガラスの入れ物も買っていると、結構な出費になるのだ。そこで、魔法瓶などの容器を自分で用意して、酒屋に買いに来る客が多かった。

 そういう意味では目の前のこの客も、一般的な部類に入るのだろう。

 その、魔法瓶の数さえ考えなければ。

 カウンターに並べられた魔法瓶は、軽く三十本はあるだろう。さらに彼の足元をのぞけば魔法瓶を納めた木箱が一つ二つ・・・・・。

 どんだけ買う気ですか・・・・・・。

「では確認しますが、赤ワインと白ワインがそれぞれ十本ずつ、ブランデーとウィスキーが五本ずつ、残りはワイン以外の果実酒や各種リキュールを、でよろしいのですね」
「そそ、それでよろしく」

 では、といって店員は奥に下がっていった。一人では手に余るから応援を呼びに行ったのだろう。すぐに複数の店員が出てきて作業を始めた。カウンターの奥にある酒樽から魔法瓶にお酒を移していく。

「いやいや、香りさえ久しぶり」
 とは言っても三日程度の話だが。

「そういやさ~、町の外れに結構いいつくりの屋敷があるよな」

 芳醇な香りを楽しみながら、イストは店員に声をかけた。

「ああ、ヴァーダー侯爵の別荘ですよ」

 ヴァーダー侯爵と聞いて、イストは頭の端っこでホコリを被っていた情報を引っ張り出す。確か、カンタルクの魔導士の親分だったはずだ。

「親分って・・・・・。まぁ、似たようなものですが」

 店員の話によると、ヴァーダー侯爵自身があの別荘に来ることは稀らしい。今のヴァーダー侯爵であるビスマルク卿は一度も来たことがない。

「じゃあ、あの屋敷は使ってないのか。もったいない」
「いえ、ご子息のフロイトロース様があの屋敷で暮らしておいでです」

 ビスマルクとその夫人ノラの間に生まれた子供、それがフロイトロース・フォン・ヴァーダーである。魔道卿の子として生まれ、当然のことながら次期魔道卿そして次期ヴァーダー侯爵になることを期待される身である。だが今現在、彼には欠片の期待も寄せられていない。

 なぜなら、フロイトロース・フォン・ヴァーダーは生まれながらに足が不自由だったからである。

 ビスマルク卿は、というよりもノラ夫人は考えうる限りの手を尽くしたらしい。国中の名医を集めて息子の足を治療させようとした。だが、帰ってきた答えはいつも「治療は不可能です」という答えだった。

 また、治せそうな魔道具も探した。だが、見つからなかった。夫たる魔道卿の情報網を用いてもフロイトロースの足を治せそうな魔道具は見つからなかったのである。

 万策尽きたとき、ノラ夫人は自身の息子をこの王都から遠く離れたサンバント州の別荘に移した。いや、「移した」という表現は穏当すぎるだろう。「軟禁した」というべきであろう。少なくとも彼女は自身の「汚点」が一生涯人の目に触れないことを望んでいたのだから。

 フロイトロースがあの町外れの屋敷で暮らすようになってから、今年で四年がたつという。今年で八歳というから、およそ人生の半分をあの屋敷で過ごしたことになる。だが、彼の感じ方は恐らくこうだろう。

「物心ついた頃からずっと」

 幼い貴族に同情するように中年の女性が口を開く。

「きっと、ご両親のお顔もお声もご存知でないのだろうねぇ・・・・」

 イストはただ肩をすくめただけだった。他人がどれだけ不本意な境遇にあろうとも、彼は興味を示さない。そこから抜け出すかどうか、そういう選択を含めそいつの人生だと割り切っているからだ。

「やりたいことは誰かから許可を貰って、まして命じられてやるもんじゃない」
 そう、イスト・ヴァーレという人間は考えている。

「最近、何か変わったことは?」

 フロイトロースの話しに一区切りを付けて、イストは話題を転じた。

「そういえば・・・・・」

 フロイトロースの腹違いの姉にあたる、アズリア・フォン・ヴァーダーがあの屋敷に来ているらしい。

「へぇ・・・・・」

 彼女の話は、カンタルク王国に入ったばかりのイストも聞いている。さすがに貴族のゴシップは広がるのが早い。

(おもしろくなりそうじゃないか・・・・・)

 イストは内心、ほくそ笑んだ。

 ちょうど、魔法瓶にお酒を移す作業が終わった。代金は三八ミル(銀貨三八枚)で、およそ一シク(金貨一枚)だ。酒代に金貨を使うという、一般人には到底考えられないお金の使い方をして、イストは酒屋を後にしたのだった。





***********





「フロイト、入るぞ」

 そう声をかけて部屋に入る。つい最近会ったばかりの弟は、大きなベッドから上半身だけを起こしていた。そして、こちらを見て満面の笑顔を浮かべた。

「姉上!」

 まだ声変わりしていない、かん高い子供の声。同じ年頃の子どもと比べればおとなしい声だ。いや、「おとなしい」という評価は正しくない。「弱々しい」というのが正しい。

 ビスマルクもノラも、アズリアのことを彼に知らせていなかった。彼女がヴァーダーの姓を名乗るようになってから、既におよそ一年半がたつというのに、だ。それでも、フロイトは数日前に突然できたこの腹違いの姉に、無邪気に懐いてた。

 フロイトの満面の笑顔に、自然とアズリアの表情も緩んだ。

「ん、顔色はいいな。今日はどうする」
「庭に出たいです」

 今日もまた、同じお願い。

 八年という決して長くないこれまでの人生のほとんどを、ベッドの上で過ごしてきた少年にとって、ほんの数歩先の「外の世界」でさえ、驚きと発見に満ちた新世界であった。

「分かった。車椅子があるから、下まで行こうか」

 はい、とフロイトが返事をする。弟の背中と膝に手を回し抱き上げる。フロイトもアズリアの首に手を回して体を固定する。

 抱き上げたフロイトは軽い。特に動くことのない足は、本当に細く骨と皮だけだ。

「今日は天気がいいぞ。湖の方まで足を伸ばしてみようか」

 一瞬胸の中に生まれた哀れみをフロイトに悟られぬよう、アズリアはことさら明るい声を出した。きっと、自分には彼を哀れむ資格などないのだから。彼女の提案にフロイトも喜ぶ。

 車椅子は、屋敷の侍女が階段の下に用意していた。その車椅子にフロイトを座らせる。

「さあ、行こうか」

 待ちきれない様子のフロイトに、後ろから声をかける。彼の興奮が、車椅子を押す手に伝わってきた。

**********

 およそ二ヶ月前、アルジャーク帝国がモントルム王国とオムージュ王国を滅ぼして併合した。カンタルク王国はオムージュと北東の国境を接している。ともすればアルジャーク帝国の脅威が、このカンタルク王国にも及ぶかもしれない。

 カンタルクの宮中は大騒ぎになり、人々は意味もなく右往左往した。アルジャークの版図は二二〇州。カンタルクの実に三倍以上だ。もしもアルジャークが牙をむけば、カンタルク一国で抗することは不可能だろう。

「この事態に際し、対応を協議する」

 という名目で、王都フレイスブルグでは連日、主だった貴族たちを集めて会議がおこなわれている。

「このカンタルク一国でアルジャークと事を構えることは不可能である。いざ戦端が開かれる前に同盟を締結すべでござろう」
「馬鹿な。わざわざ格下の相手と同盟を結ぶ国がどこにある。よしんば結べたとして、それは属国の立場に甘んずるということだ」
「左様。ここは周辺諸国に呼びかけ、対アルジャーク同盟を締結することが最善であろう」
「それは南のポルトールにも声をかけるということか」
「馬鹿馬鹿しい!我がカンタルクとポルトールは因縁の間柄。かの国の力を借りるくらいならば、アルジャークの属国に甘んじるべきであろう!
「それは暴言が過ぎますぞ!そもそも・・・・・・」

 まとまるはずのない会議だ。とはいえその立場上、魔道卿たるビスマルクはこういった会議に出席せざるをえない。

「しばらくはそちらにかかりきりになるだろう。お前がこの家に来てからまともな休みはなかったし、いい機会だ、しばらく休むといい」

 国家の大事を「いい機会」とは不謹慎な気もするが、実際アズリアがヴァーダー侯爵家に来てからのおよそ一年半、文字通り休日など存在しなかった。

 そんなわけで、アズリアは彼女の意思や都合とはまったく関係のない理由で、しばしの休暇を得ることになった。そして、休暇を取るのであれば、この機会に腹違いの弟に当たるフロイトロースに合っておきたいと、そう彼女は思ったのだ。

 ゆえに、今彼女はここ、ヴァーダー侯爵家の領地であるサンバント州にある別荘に来ている。

**********

 昼食の後、午前中にフロイトを連れてきた湖に、アズリアは一人で来ていた。魔道具の訓練をするためだ。

 午前中のフロイトのはしゃぎようはすごかった。目を輝かせて視界に入るもの全てに興味を示し、なんにでも手を伸ばした。危うく車椅子から落ちそうになったことも、一度や二度ではない。

 午後も来たいといっていたが、やはり疲れていたのだろう、お昼を食べたら眠ってしまった。幸せそうな弟の寝顔を思い出し、自然とアズリアも微笑を浮かべた。

「さて・・・・」

 黒いケースから魔弓を取り出し、意識を訓練のほうに集中する。この魔弓はアズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになったとき、彼女が自分で選んだものだ。以来、約一年半の付き合いになる。勧められて魔剣も一緒に選び、そちらも訓練を積んでいるが、やはり合っていると思えるのは魔弓のほうだ。

 魔弓は二種類に分けることができる。矢を用いるものと、用いないものだ。前者は矢の飛距離や威力を上げる魔道具で、後者は使用者の魔力を練り上げて放つタイプのものだ。アズリアの使っている魔弓は後者に当たる。

「ようやく手に馴染んできたな」
 そう実感する。

 彼女がヴァーダーの姓を名乗るようになってから今日までのおよそ一年半、文字通り一日として欠かさず訓練を積んできた。いつも稽古を付けてくれるエルマーや、「時間があれば相手をしてやる」といったその言葉通りにしてくれているビスマルクといった教師たちは、いずれもアズリアよりも格上の強兵(つわもの)たちだ。彼らの稽古は厳しいが、確実に糧になっているという実感がある。

「ふぅぅぅぅ」

 息を大きく吐き、集中に入る。余計な思考が消え、神経が研ぎ澄まされていく。

 手ごろな大きさの石を湖の水面に向かって投げる。左手に持っていた魔弓をすぐさまかまえ、弦を引き魔力を練り上げて矢を形成する。石が水面に落ちる寸前を見計らって射る。

 ―――――ピィィィィン・・・・・

 射抜かれた石は粉々に砕け、いくつもの波紋を水面に作り上げた。弦の奏でる音だけが余韻に残る。

 同じ動作を何度も繰り返す。石を投げては射り、また投げては射る。石を投げる高さや距離を変えながら、何度も何度も同じ動作を繰り返していく。

「ふむ」

 四十射ほどしてからアズリアは手を止めた。命中率は八割半ばといったところか。

「まだまだ甘い」

 額に浮かんだ汗を拭う。大きく深呼吸してから、後ろに意識を向ける。

「それで?わたしに何か用か」
「あれ、気づいてたのか」
「なにを白々しい」

 気配を隠そうともしていなかったくせに。

 後ろを振り返る。そこにいたのは一人の男だった。年の頃は二十代の始めくらいで、背丈は170半ばといったところか。整った目鼻立ちをしているが、取り立てて美形というわけでもない。だが、黒にちかい藍色の瞳は皮肉っぽい光と強い意思を放っており、彼の存在に生気を与えていた。

 右手で抱えるようにして、杖を寄りかかった木に立てかけている。彼の身長より少し長いくらいの杖で、先端の歪曲した部分にはところどころ金属のコーティングがなされている。そして左手には、なにやらパイプのようなものが白い煙を吐き出していた。

「タバコは遠慮してもらいたい」

 アズリアはタバコ嫌いだ。臭いはしていないが、それでも気持ちのいいものではない。

「ん?ああ、これか」

 そういって男は左手に持ったパイプのようなものをもてあそんだ。

「こいつは煙管型禁煙用魔道具『無煙』。タバコじゃないから大丈夫だよ」

 煙も水蒸気だしな、と男は笑った。そういう問題ではないと言おうとしたがやめた。なにを言っても無駄な気がしたのだ。

 内心ため息をつく。

 そんなアズリアの心のうちを、恐らくは意図的に無視して、男は「無煙」とかいう煙管型の魔道具を吹かした。白い煙(本人の言を信じるならば水蒸気)を吐き出す。忌々しいがその姿は様になっている。

「それで、お前は何者だ」
 少々うんざりしながら、男に正体を尋ねる。

「イスト・ヴァーレ。しがない流れの魔道具職人さ」

 肩をすくめて男は飄々と答えた。頭が痛くなってくる。こういう手合いにはさっさとお引取り願うとする。

「ここはヴァーダー侯爵家の私有地だ。関係のない者は立ち去ることだ」
「お前がそんなことを言うのか?アズリア・クリーク」
「・・・・・・もはや意味のない名だ」

 アズリアは答えるまでに数瞬の沈黙を先立たせた。そうかい、と言ってイストは肩をすくめ、白い煙(水蒸気らしいが)を、フゥ、とはいた。彼が手に持った「無煙」とかいうらしい魔道具の火皿からも同じものが立ち上っている。

 なぜこの男は、今更私を「クリーク」の姓で呼ぶのだろう。ヴァーダーの姓を名乗るようになっておよそ一年半。ようやく違和感がなくなってきた。だが、それは同時にクリークの姓を名乗っていた頃の自分が、消されていくかのような、そんな気持ちになることがある。

 名の否定は、存在と過去の否定だ。

 ヴァーダーの姓を呼ばれるたびに、過去の自分が、思い出が、消えて聞くように感じる。母が精一杯育ててくれたことも、自分が努力したことも、全て消されて無かったことになるようで、虚しさと寂しさを感じることがある。

 だからと言うのは変かもしれない。けれどもクリークの姓で呼ばれることに、鈍い痛みが伴うのは、どうしようもない事実だ。

「そういや、お前の弟・・・・」
「フロイトがどうかしたのか」

 言葉に険がこもる。フロイトには会ってからほんの数日しかたっていないが、アズリアは事情を良く知らない他人が彼の話をするのを嫌っている。足が動かなくてかわいそうとか、そういう安っぽい同情はたくさんだった。

 だが、イストが口にしたのは、アズリアが予想しなかった言葉だった。

「足、動かすだけなら方法はあるかもしれないぞ、と」
「フロイトの足を治せるのか!?」

 アズリアは思わずイストに詰め寄った。

「治すのは無理だ。オレは医者じゃないからな。だが、結果的に動くようになるだけなら、意外と方法はあるもんだ」

 実際に見てみないとわかんないけどな、とイストは付け足した。

「なんだっていい。あの子の足が動くのなら・・・・・」

 きっと、喜ぶだろう。日陰者扱いの生活も変わるに違いない。

「嬉しそうだな」

 意外そうにイストはそういった。アズリアとしては、彼がなぜそんな反応を示すのか、そのほうが意外だった。

「嬉しいさ。嬉しいに決まっている」
「本当に考えてないのか、考えないようにしているのか・・・・・・。まぁいい」

 無煙を吸い、白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す。それから誰にともなく、呟くようにしてこういった。

「フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ」

 そういって、イストは背を向けて去っていった。アズリア・フォン・ヴァーダーに、意味深な言葉を一つ残して。





[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:24
ノラ・フォン・ヴァーダーにとって自身を取り巻く昨今の状況は、決して面白いものではなかった。

「すべてフロイトロースが悪いのです」

 自身の息子であるフロイトロースの足が不自由で、魔道卿になるのが不可能であることや、その後釜に座ったのがアズリアなどという、どこの馬の骨ともしれない娘であったことも、すべてが面白くなかった。

 ノラの父はヴィトゲンシュタイン伯爵といい、カンタルク王国において由緒正しい家柄である。彼は自身の娘を愛してはいたが、貴族としてごく普通に彼女に政略結婚をするよう求めたし、またノラ自身もそのことを当然と思い受け入れていた。

 ヴィトゲンシュタイン伯爵が愛娘の嫁ぎ先として目を付けたのは、政治と軍の両方に強力な発言力のある魔道卿、ヴァーダー侯爵家であった。当時結婚などするつもりのなかったビスマルクに、彼は強引に娘を娶らせ、またノラもおしかけるようにしてビスマルクのもとに来たのであった。

 魔道卿の義理の父として権勢を振るうつもりでいたヴィトゲンシュタイン伯爵のもくろみは、しかしすぐに崩れた。ビスマルクは彼の介入を、政治であれ軍事であれ一切許さなかったのだ。

「これは魔道卿の責ゆえ、口出しは無用に願いたい」

 そういうビスマルクのプレッシャーに押され、ヴィトゲンシュタイン伯は引き下がらざるを得なかった。ビスマルクにしてみれば、たかだか姻戚関係ごときを盾にして、国の行く末に関わる決定に口出しをされてはたまったものではなかったのだろう。魔道卿の権力は、有象無象の貴族どもがゲーム感覚で玩ぶそれとは図太い一線を画しており、それゆえに資格の無いものが関与することは許されないのである。

 しかしヴィトゲンシュタイン伯は諦めなかった。目の前の権力を諦められないという意味で、彼は正しく有象無象の貴族でしかなかったわけだ。

「ノラよ、男の子を産むのだ。次の魔道卿をな」

 彼が次に目を付けたのは、魔道卿の祖父という地位だった。幼い頃から自分の影響下に置き、魔道卿になった暁には傀儡にしようという魂胆だった。しかしここでも彼は浅はかであったと言うしかない。魔道卿とは血筋よりも実力が重視される役職だ。ビスマルク自身もそうして選ばれたし、またそういう基準で後継者を選ぶだろう。

 今、後継者として育成しているアズリアでさえ、不適格と思えば躊躇なく切り捨てるに違いない。そもそも彼女が後継者として選ばれたのも、王立士官学校の魔道科を首席で卒業するという秀逸な成績を残したからであり、ただビスマルクの娘だからという理由ではないのだ。

 だが、ノラやヴィトゲンシュタイン伯にはそれがわからない。フロイトロースの足が動かなかったから、次の魔道卿になれないから、これ幸いと自分が下働きの女に産ませた娘に後を継がせようとしていると、そう考えた。

「足さえ、フロイトロースの足さえ動けば・・・・・」

 そう思うヴィトゲンシュタイン伯親子の思いは怨念に近い。
 ノラはフロイトロースが次の魔道卿にならない限り、自分がビスマルクと政略結婚した意味がないと正しく理解している。ならば今の自分はただの役立たずではないか。そんなこと、彼女のプライドが許さない。

 ヴィトゲンシュタイン伯にしてみれば、絶大な権力まであと一歩なのだ。少なくともそう思っている。ヴィトゲンシュタイン伯は有象無象の貴族らしく権力に対する執着心は人一倍で、そんな彼がこの現状で諦めが付くはずがないのだ。

 ヴィトゲンシュタイン伯は早く次の子どもを産むようノラをせっついた。ノラはまだ十分に若く魅力に溢れた女性だ。二人目はすぐにできると彼は思っていた。しかし、彼女はどうしてもそうしようとはしなかった。

 欠陥品も一人だけであれば偶然ですむ。そして自分は少なくとも人々から同情を受けることはできるだろう。だがもしも、もしも次の子供も、体が不自由な欠陥品であったとしたら・・・・?

(わたくしまで、まるで欠陥品みたいではありませんか・・・・!)

 その言い訳のできない欠点を、彼女のプライドは恐れる。故に彼女は二人目の子どもをつくらない。否、つくれない。

 それぞれが、それぞれに思惑を持っている。複雑に絡み合ったそれは、一見どうしようもなく堅牢そうに見える。そういう現状の上に、アズリアとフロイトロースの姉弟は立っている。

**********

 フロイトロースが目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。窓からは光が差し込んでおり、まだ十分に明るい。

(お昼を食べて、そのまま・・・・・)

 寝てしまった。寝起きのぼんやりとした頭でもそれはすぐに分かった。
 体を引きずるようにして起こす。枕を重ねて背もたれにし、体重を預ける。

 窓に目をやる。ほんの数メートルしか離れていないはずの窓が、ひどく遠く感じた。姉上に頼めばすぐに外に連れて行ってくれるだろう。いや外に出るだけなら、この屋敷の侍女に頼めば出られるだろう。

(でも、僕一人じゃ、できない・・・・)

 その事実は少年の心を重くする。
 姉のアズリアが来てからは楽しかった。毎日外に連れて行ってもらい、たくさんのものを見た。けれでもそんな毎日は、押し殺したはずの夢を思い出させる。

 歩こうと練習したことはある。だが、結局一度として立つことすら出来なかった。どれだけ念じても願っても、彼の両足はそれを無視した。あざと失望ばかりが増え、歩くことを諦めるまでにそう時間はかからなかった。

(でも、本当は・・・・)

 歩きたい。自分の足で立って、歩き、そして走りたい。そうすればきっと・・・・。

 俯き奥歯を食いしばり掛け布団を握り締めて、フロイトロースは小さな体を震わせた。
 無性に、叫びたかった。

「歩きたいか?」

 突然、声をかけられた。誰もいないはずなのに。

 驚いて顔を上げると、魔法使いがいた。たぶん魔法使いだ。なにしろそれっぽい杖を持っている。だけど黒いローブも着ていないし、細長いパイプのようなものを吸っている。

 フロイトは自分の直感を信じ切れなかった。

「あの、どなたでしょうか・・・・?」
「ああ?そうだな、魔法使いだ」

 男はそう答えた。それからニヤリ、と笑って、

「それも、極悪非道で意地悪な」
 と、付け加えた。

 はあ、と答えるしかない。どうやら自分の直感は間違っていなかったらしいが、最近の魔法使いはみんなこうなのだろうか。お話に出てくる魔法使いたちは、もっと真面目と言うか、こんなに軽いキャラではなかったように思う。良いヤツか悪いヤツなのかは別としても。

「魔法使いなんてこんなもんだぞ。みんな自己中で軽いヤツばっか」

 そうなのか、とフロイトは納得した。何しろ魔法使い本人がそういうのだから間違いない。

 こうして極悪非道で意地悪な魔法使いことイスト・ヴァーレは、純朴な少年を騙した、もとい、からかったのであった。大きくなってこの世に本当の魔法使いなどいない、ということを悟ったとき、彼は自分がからかわれたことに気づくのだろう。

「それはそうと、歩きたいか?」

 魔法使いは最初の質問を繰り返した。

「治せるんですか!?」
 魔法使いならあるいは、とフロイトは期待のこもった目で彼を見た。

「治すのは無理だ。なにしろ極悪非道で意地悪だからな。オレは」
 男はフロイトの期待をバッサリと切って捨てた。

「が、ただ動くようにはできるかもしれん」

 フロイトが失望するよりも早く、魔法使いはそういった。ただフロイトには「治す」ことと「ただ動く」ようにすることの違いは良くわからない。

「分かんなくていいよ。結果的に同じだから」

 とりあえず足を見せてみな、と言って魔法使いはフロイトの足を見た。フロイトは思わず目をそらした。動かない自分の足を見るのは嫌いだった。

「ふむ、外傷は特になし。関節も正常。痩せすぎていることを除けば、特にへんなところはないな」
 膝や指を曲げながら魔法使いはそう呟いた。

「触られているのは分かるか?」
 軽く叩くようにして、魔法使いはフロイトの足に触れた。

「はい」
 触覚は正常、と呟いた。そして、

「痛っ」
 つねられた。

「痛覚も正常、っと」

 恨みがましい目を向けるが、恐らくは意図的に、魔法使いはスルーする。白い煙のようなものを吐きながら、なにやら考えているようだった。

「・・・・・動くようになりますか・・・・・」
 一縷の望みを込めて、尋ねる。

「過去は未来を保障しない。そして否定も」
「・・・・・よく、分かりません・・・・・」
「諦めるな、ってことさ」

 寝具をフロイトに掛けなおし、魔法使いは彼の頭をワシワシと撫でた。少し痛い。

「じゃあな」

 そっけなくそう言うと、魔法使いはフロイトに背を向けた。その背中はだんだんと透けていき、そして唐突に魔法使いは部屋からいなくなった。なんともそれらしい帰り方だと思った。

 寝具の下の、自分の足を見る。何も変わってはいない。けれども、フロイトの心は少し軽くなっていた。

「諦めるな・・・・・か・・・・・」

 可能性を否定されなかった。今は、それだけでいい。そう思った。


 さっきまでいた、フロイトロース・フォン・ヴァーダーの部屋を外から見上げている男がいる。魔法使いことイスト・ヴァーレである。

「ありゃ、本当に動かないだけ、だな」

 なぜ、動かないのかはさっぱり解らない。が、イストはそんなことは微塵も気にしない。なぜなら彼は医者ではなく、魔道具職人だから。そして、

(治すことは無理でも、動かすだけならできる。そういう魔道具なら造れる)
 そう考えているから。

(でもまぁ、歩けるようになるかは、結局フロイトロースの手の届かないところで決まるんだけどな)

 そういう魔道具を作ることはできる。イメージは既に頭の中で出来上がっているし、そもそもアバサ・ロットの名を持つ彼にとって、それほど難しい魔道具ではない。

 だが、出来上がった魔道具をフロイトロースに、あの歩くことを渇望している少年に、直接わたす気は、毛頭ない。そう、なぜなら彼は極悪非道で意地悪なのだから。

(すべてはアズリア・フォン・ヴァーダーしだい・・・・・)

 彼女はどんな決定を下すのだろうか。そして、その過程で何を思うのだろうか。

(楽しくなってきたじゃないか・・・・・!)

 邪悪に、彼は笑う。これから起こるであろう、苦悩に満ちた喜劇を思い、彼は笑う。
 全ては、彼がアバサ・ロットであるがための、その名を継いでいるが故の、茶番だ。けれどもそれはアバサ・ロットが、アバサ・ロットであるためにどうしても必要な茶番なのだと、そうイストは考える。

(さて、お前は認めさせてくれるのかな)

 すべては彼女しだい。「アバサ・ロット」とはそういう名で、そういう存在なのだから。





**********





 「姉上、どうかしましたか?」

 フロイトロースのその声で、アズリアは我に返った。視線を落とすと、膝の上に座ったフロイトがこちらを見上げている。

「あ、ああ。すまない。考え事をしてしまった」

 今、二人は屋敷の書庫にいる。夕食後にフロイトがねだったので、ここで本を読んでやっているのだ。

 フロイトは既に絵本を卒業したらしく、今読んでいるのは子供向けの小説だ。文字が大きく平易な言葉で書かれており、絵本ほどではないが挿絵も多い。船乗りの少年が宝の地図を手に入れ、仲間と協力しながら海賊たちと戦い、ついには財宝を手に入れて恋人と幸せに暮らす、という内容だ。

 この屋敷に来てから、毎晩少しずつこうして読んでやっている。

「『水平線の彼方から、黒い帆を張りドクロマークの海賊旗を掲げた船が、こちらに向かってすごい速さで近づいてきます。・・・・・・・・・』」

 続きを読む。けれどもアズリアの思考は、別のところへと離れていく。

『フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ』

 あの、イスト・ヴァーレとかいう魔道具職人が去り際に言ったその言葉は、彼女の心に言いようのない影を落としている。

 気にする必要はない。無視すればいい。そう分かっている。けれども、彼が語った言葉はそれを許さない。

『足、動かすだけなら方法はあるかもしれないぞ、と』

 治すことは無理だ。けれども動かすだけなら、意外と方法はある。彼はそういったのだ。
 ゆえに、アズリア・フォン・ヴァーダーは考えねばならない。

 フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになったとき、自分にはどのような影響があるのか、ということを。

「『・・・・・船乗りたちは船の積荷を次々と海に捨てていきます。少しでも船を軽くして、海賊たちに追いつかれないようにするためです。・・・・・・』」

 昨日、この屋敷の侍女長に泣かれた。

「アズリア様がいらしてから、お坊ちゃまは本当によく笑われます。あんな楽しそうなお坊ちゃまを見るのは初めてです・・・・・!」

 そういって、侍女長は泣きながら自分に礼を言ったのだ。
 歩けるようになれば、フロイトは喜ぶだろう。そして、もっと笑うようになるに違いない。恐らくは、王都フレイスブルグのヴァーダー侯爵家の屋敷で生活するようになるのだろう。今現在のように、日陰者扱いされることもなくなる。

 足さえ動けば万事うまくいきフロイトは幸せになれる、などと安直に考えられるほどアズリアは子どもではない。足が動こうがそうでなかろうが、苦労も苦痛も後悔も苛立ちも、経験していかなければならない。けれども少なくとも歩ければ、その苦労も苦痛も後悔も苛立ちも、前向きにしていけるのではないかと思うのだ。

「・・・・・突然、空に黒い雲が現れました。風が強くなり、雨が降り始めます。雷の鋭い光と大きな音が響くと、雨がさらに激しくなりました。・・・・・・」

 フロイトの足が動くようになったら、ビスマルクは喜ぶだろうか。
 アズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになってからおよそ一年半。ビスマルクは一度として父親の顔を見せはしなかった。彼は良くも悪くも厳格な魔道卿で、その領分を越えてアズリアと接することはなかった。

 だから、フロイトが歩けるようになったからといって、ビスマルクが感情を表に出して喜んでいる姿をアズリアは想像できない。もっともこれは、多分にして彼女の独断と偏見に基づく予想だが。

 まあ、それでも、嬉しいか嬉しくないかの二択を突きつけられれば、嬉しいと答えるのだろう。彼とて人の親。それくらいの感情は持ち合わせているはずだ。これもまた、多分にして彼女の独断と偏見に基づく予想だが。

 ノラ夫人はどうだろう。アズリアとノラにはほとんど接点がない。この一年半の間、姿を見かけることは稀だったし、挨拶程度の簡単な会話でさえ、あるいは両手の指の数ほどもしていないかも知れない。

 アズリアとしては積極的に彼女を避けたつもりはないが、あるいはノラのほうがアズリアを避けていたのかもしれない。

 ゆえに、アズリアはノラ夫人の人となりを知らない。だが、なぜ彼女がヴァーダー侯爵家に来たかは耳に入っている。そういう類のゴシップは、たとえ耳を塞いでいても聞こえてくるものだった。

 だからきっと、ノラ夫人はフロイトが歩けるようになれば喜ぶだろう。彼女の父であるヴィトゲンシュタイン伯ともども、狂喜すると言ってもいいはずだ。

 喜んで、狂喜して・・・・・・、どうするのだろう・・・・・。

「『・・・・・突然の嵐を切り抜けると、海賊船の姿は見えなくなっていました。船員たちはほっと安心しました。さらに、嬉しいことがおきました。鳥が見つかったのです。その鳥は、陸地の近くにしか住んでいない鳥でした。・・・・・』」

 では、翻ってわが身はどうだろう。この、アズリア・フォン・ヴァーダーは。
 もちろんフロイトが歩けるようになれば嬉しい。嬉しいに決まっている。

 アズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになった、そもそもの理由の一つはフロイトが生まれつき歩けなかったからだ。少なくとも彼女はそう思っている。そして、その意識は常に小さな痛みをアズリアに与え続けている。フロイトロース・フォン・ヴァーダーの不幸と苦しみの上に今の、少なくとも世間一般には恵まれているといえる、自分がいる。そういうふうに考えてしまうのだ。

 これは、はっきりと分かる。

(わたしは、フロイトに負い目を感じている・・・・)

 フロイトが歩けるようになれば、この負い目から解放される。だから嬉しいのだろうか。そう考えると鬱になる。なんだか、彼を純粋に祝福できていないようで。

(自分が楽になりたいがために、フロイトの足が動くことを望んでいるみたいだ・・・・・)
 それは、嫌だ。

「『・・・・・・その日の夕方、彼らは島に着きました。どうやら、ここが宝の島のようです。急ぐ必要はないと思った船長は、みんなにキャンプの準備をさせました。ですが、彼らは知りません。海賊たちもまた、この島に流れ着いていることを』」

 そこまで読んでパタンと本を閉じる。

「今日はここまでにしよう」

 フロイトは「もっと」せがんだが、夜も更け彼にはもう寝る時間だ。不満げなフロイトも、また明日と約束すると納得してくれた。

 弟を部屋に送ってから、アズリアも自室に下がる。本来は客室なのだが、ほんの数日でもそこで生活すれば愛着が沸く。

(そういうことにこだわるタチではないと、自分では思っていたのだがな・・・・・)

 思えば士官学校の寮を出るときも寂しく感じた。
 ベッドに腰を下ろし、再び考え始める。

 フロイトの足が動くようになり、彼が歩けるようになれば、自分は彼を祝福できるだろう。しかし、その祝福はともすれば自分の負い目からくるもので、心から喜んでいることにはならないかもしれない。

「心から祝福してあげたいのだけれど・・・・・」

 そのために、何か理由がほしいと思った。けれども何も浮かばない。いや、そうやって理由を求めること自体が、なにやら不純な気がするのだ。

 ふと、思う。

 歩けるようになったフロイトを、心から、負い目とか関係なく祝福してあげたいと思うこと。それは我儘なのだろうか。

(そうかもしれないな・・・・)

 結局それはアズリアの問題であって、フロイトの問題ではない。
 歩けるようになるのも、それによって環境ががらりと変わるのも、全てはフロイトの問題だ。わたし、アズリア・フォン・ヴァーダーは結局それを外から眺めていることしかできない。わたしが何を思っていたとしても、それでフロイトが歩けるようになるわけではないし、その逆もまたしかりだろう。

 二つの違う問題を、ごっちゃに考えていたから悪かったのだ。そう思うと、なにやら気が楽になった。

(フロイトの問題が解決したことを喜べばいい。わたしのほうは、まぁおいおい・・・・)

 ひとまず結論らしきものが得られたことに、アズリアは満足した。




[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:28
「一同、面を上げよ」

 謁見の間に重々しい威厳に満ちた声が響いた。アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークの声である。彼の目の前で膝をつき頭をたれているのは、モントルム遠征より今まさに凱旋したクロノワ・アルジャーク以下主だった将兵一同である。

「此度の遠征について、詳細は既に聞き及んでおる。いたずらに兵を損することなくかの国を平定した手腕、見事である」
 褒めてつかわす、という形式的な褒め言葉に、クロノワも

「ありがたき幸せにございます」

 と、これまた形式的に礼を返す。もとよりこの場でこうして謁見していること自体が、かなり形式的で儀礼的な行事なのだ。大筋が慣例に従った流れになるのは、むしろ当然のことといえる。

 皇帝ベルトロワはクロノワの後ろに控えている者たちに視線を向ける。

「アールヴェルツェ将軍も大儀であった。軍の指揮経験のないクロノワが首尾よく遠征をおこなえたのも、ひとえに将軍の勲(いさお)であろう」

「恐縮にございます。殿下の助けとなれたのであれば幸いと存じます」

 さらに決まりきったやり取りが幾つか続く。それからふいにベルトロワは話題を転じた。

「ところで見慣れぬご令嬢がおられるが、どなたかな」

 まずはクロノワが答えた。

「はっ、こちらは独立都市ヴェンツブルグより参られた使者で、リリーゼ・ラクラシア嬢でございます」
「ああ、ヴェンツブルグの三家が一つ、ラクラシア家のご令嬢か」

 三家がヴェンツブルグにおいて強い力を持っているとはいえ、それはたかだか一都市でのことである。にもかかわらず皇帝ベルトロワが、格下の存在であるラクラシア家を知っていたことにリリーゼは少なからず驚いた。

 とはいえこれはある意味で当然のことであった。ベルトロワは不凍港を欲しており、そしてアルジャークに最も近い不凍港が独立都市ヴェンツブルグなのである。当然、その都市の情勢はすでに調べ上げている。

 リリーゼが一歩前に出て挨拶をする。

「お初にお目にかかります、ベルトロワ皇帝陛下。リリーゼと申します。このたびは独立都市ヴェンツブルグの執政院より親書を持参いたしました」
「この場で目を通していただければ幸いです」

 そういうクロノワにベルトロワも、
「拝見しよう」
 と、答えた。

 親書の入った木箱を手に、リリーゼはいそいそと皇帝の前に出た。ちなみに、このときクロノワは、

(転ばないでくださいよ・・・・)

 と、極めて低次元の心配をしていた。そんなクロノワの心配を知ってか知らずか(いや、確実に知らなかったと思われるが)、リリーゼはそんな大ポカをすることなく、親書をベルトロワに渡した。

 今、ベルトロワが親書に目を通している。
 クロノワは先ほどとは別の意味で緊張してきた。あの親書はヴェンツブルグの執政官たちとクロノワの間で作成したものである。だが現時点では何の効力もない。この場でアルジャーク帝国皇帝たるベルトロワが承認して初めて、効力を発するのだ。彼が気に入らなければこの場で破り捨てられてしまうかもしれない。

(まるで目の前でテストの採点をされているようです)
 なんともいえない嫌な緊張感だ。だがそれも長くは続かなかった。

「委細承知した」

 その一言で、クロノワの肩の荷が一気に下りた。この瞬間、彼のモントルム遠征が本当に終わったといっていい。

「後日、返事の親書をしたため、リリーゼ嬢が帰路につく際に届けていただくとしよう」

 そういってからベルトロワはクロノワに目を向けた。

「親書によれば執政官を一人アルジャーク側から送り込むことになっているが、クロノワよ、誰か意中の人物でもいるのか」

 皇帝は試すような目をクロノワに向ける。

「私はヴェンツブルグに関して、なんら権限を持っておりません。どうぞ陛下がお決めになってください」

 そう答えたクロノワに対しベルトロワは、
「ふむ」
 といっただけで、それ以上は何も言わなかった。おそらくまた後日考えるつもりなのだろう。

「クロノワよ、此度の遠征、まことに大儀であった。褒美を取らせるゆえ、なにか希望があれば申してみよ」

 ベルトロワの一言で、場が一気に緊張した。他人ならばいざしらず、皇子であるクロノワがこの場で何を求めるのか、それは多分にして政治的な意味合いと思惑を持つのだ。

 この場合恩賞を断ると言うのは、かえって失礼にあたる。かといって分不相応な地位や権限を求めれば、皇帝の椅子を狙っているのではないかという、あらぬ疑いを掛けられるかも知れぬ。

(まがりなりにも皇帝の血をひいていると言うのは、なんとも面倒なことです)

 そんなクロノワの内心に、周りにいる高官や武将たちは気づかない。

(さて、クロノワ殿下は何を求めるのか・・・・・)

 ある者は目踏みをするように、ある者は見定めるように、それぞれクロノワを注視する。

 無難なところで、屋敷だろうか。この宮廷がクロノワにとって決して居心地の良い場所ではないことは、周知の事実だ。精神的にも快適な生活空間を手に入れたいと思うのは、ごく自然なことに思える。

 あるいは帝国に伝わる宝物や名剣、魔道具さらには名馬、といった選択肢も考えられる。つまるところ政治的に差障りのないものを願い出るだろうと、その場にいた人々は思っていたのである。

「では、アルジャーク帝国版図二二〇州の全ての行き来について、通行税やそれに類する税を課されないよう進言いたします」

 クロノワは頭をたれる。

「この進言、お聞き入れくだされば、これに勝る恩賞はございませぬ」

 その場にいた一同は唖然とした。
 国境の行き来は言うまでのなく、国内に通行税やそれに類するものが存在すること自体はさほど珍しいものではない。貴族たちが自分の領地に入るものに税を課すことは良くあることだし、自治権を持つ都市(例えばヴェンツブルグのような)においても同様の税をとることが普通だ。

 今回の大併合で、アルジャーク帝国はオムージュとモントルムの版図を得た。それは国境線が三つ消えたことを意味している。それぞれの国境で課されていた入国税や通行税などは、ひとまず減額されるが当面は(名目は変わるだろうが)残るだろう、というのが大方の予想であった。

 クロノワはそれを、一度に廃止せよという。
 クロノワした進言の意味はわかる。これは帝国国内の行き来を自由にせよ、ということだ。その目的は物流の拡大と商業の活性化だろう。人やモノの往来を自由にすることによって経済を発展させるというのは、古来より用いられてきた手法だ。

 だからその場にいた一同は進言の目的を図りかねたのではない。そう進言したクロノワの意図を図りかねたのだ。

 ただ一人、ベルトロワだけはクロノワの意図をほとんど察していた。

(人やモノが動けば、すなわち道ができる)

 大量の水を流すためには大きな川が必要なように、大量の人やモノそして金が動けば、そこには自然と太い道が出来上がるのだ。もちろん整備や安全維持のために多額の資金が必要になるだろうが、それは活性化した経済が補ってなおお釣りが来るであろう。

(そうやって出来上がった道は、経済だけではなく軍事にも有用だ)

 切り開かれていない森や整備されていない荒れ野を移動するよりも、人が踏み固めた街道を行くほうがはるかに容易だ。そしてそれは軍の移動にも当てはまる。いや、集団で行動しなければならない以上、個人の旅人と比べ時間的な差はより顕著に現れるだろう。さらなる覇道を求めるベルトロワにとって、これは無視できない要素(ファクター)だ。

(恐らくクロノワが太くしたいと思っている道は二つ・・・・)

 一つは帝都ケーヒンスブルグから独立都市ヴェンツブルグに至る道。そしてもう一つはオムージュの旧王都ベルーカからヴェンツブルグに至る道だろう。

 有事の際には前者は軍の移動に、後者は補給物資の搬送に用いることができる。そして独立都市ヴェンツブルグは帝国唯一の不凍港として、軍と補給物資の集積と移動のための拠点となるのだ。

 つまりクロノワは、
「さらなる覇道を求めるならば、そのための下地を作るべきだ」
 といっているのである。無論、経済の活性化による税収の増加もその一つだろう。

(広い視野を持つようになったな)

 もっともベルトロワもクロノワの考えの全てを察したわけではない。彼は独立都市ヴェンツブルグを人とモノと金が集まる一大拠点とすることで、ここを訪れる船の数を増やそうと考えたのだ。これはベルトロワの覇道のためというよりはむしろ、友人であるイストに語った、

「この世界を小さくして見せる」
 という己の野望のための第一歩である。

「その言、確かに聞き入れた」

 ベルトロワが宣言する。帝国国内の移動については、通行税やそれに類する税は一切課さない、と。さらに、

「クロノワよ、そなたを旧モントルム領総督に任命する。また独立都市ヴェンツブルグの執政官の選出についてはモントルム総督に一任する」

 場がざわめいた。モントルム遠征軍を任されたとはいえ、クロノワは未だ正式な役職を持っておらず、そういう意味では彼はまだ日陰者のままであった。が、此度の功績により彼はモントルム総督に任命された。この帝国内において、一種独立した権限を任されたのである。これはベルトロワが、クロノワのこれまでの仕事や功績を鑑みて、重責に耐えうると判断したと言うことでもある。そう考えるならば、先ほどの問いかけは皇帝が最後の試験をした、とも考えられる。

「謹んで拝命いたします」

 片膝をつき頭をたれるクロノワの声を聞きながら、その場にいた人々は正しく二つのことを理解した。

 クロノワ・アルジャークはもはや日陰者ではなく、国を支える柱の一つになったということ。そして、

(旧オムージュ領の総督になるのは、レヴィナス皇太子か・・・・・)
 ということであった。

 クロノワのことはともかく、レヴィナスが旧オムージュ領を任されるであろうことは、この遠征の前からある程度予測されていた。それがこの瞬間、確信へと変わったのである。あのクロノワがモントルム総督に任じられたのであれば、オムージュを平定したレヴィナスがそれ以上の恩賞を受けるのは至極当然な流れであり、であるならば自らが切り取ったオムージュの土地を任せるのが最も無難なのだから。

 それにこれならば皇后も文句は言うまい。同じ総督であっても、レヴィナスが任された旧オムージュ領は七〇州であり、クロノワが任された旧モントルム領三〇州の倍以上ある。力関係は歴然だ。

 ただ、クロノワとしては任されたのが旧モントルム領でよかった、否、旧モントルム領でなければならなかった、と思っていた。なぜなら旧オムージュ領は内陸であり、海に面していないのだから。彼の野望のためには、海が、港が、船が、どうしても必要だからだ。そのため、独立都市ヴェンツブルグという良港をもつモントルム領の総督に任じられたのは、彼にとって最大の僥倖であったといえる。

 このときより、彼の野望が動き出したといっていい。




[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:31
ふう、とビスマルクは大きく息をついた。夕方とはいえまだまだ九月。ここカンタルクは南国ではないが、気温はまだまだ生温い。それでも吸い込んだ新鮮な空気は彼を浄化していくようであった。

「お疲れのようですな、魔道卿?」

 声をかけられ振り返ると、大柄な初老の老人が立っていた。顔には年相応のしわが刻まれているが、体には十分すぎる生気が満ちている。声にも張りがあり、老人特有のかすれた声ではない。

「ウォーゲン大将軍」

 老人の名はウォーゲン・グリフォード。カンタルク王国の全軍を指揮する大将軍である。役職的にはもう一つ上に「軍事総監」という役職があるが、これは軍隊と言う組織全体をすべる役職であり、ウォーゲンは数々の戦場を監督する総司令官とも言うべき存在である。
 難しく考える必要はない。数いる将軍の中で、一番偉い人と思っておけばそれで良い。

 ちなみに軍歴もカンタルク軍の中では最も長い。十三歳で初陣に臨み、今年で六十二歳。大小八〇を超える戦場を経験し、未だ衰えを知らぬ。アルジャークの至宝と称されるアレクセイ・ガンドールでさえ、彼の軍歴には及ばないだろう。

「結論の出るはずのない会議じゃが、貴族どものガス抜きも必要じゃろうて」

 老将軍の飾り気のない、というより飾る気のまったくない言葉に思わず苦笑する。その点に関しては自分もまったくの同意見だが、さすがにここまで率直にはいえない。この王宮内にあって言いたいことをいえるのは、この老将軍の特権だろう。

 とは言え決して粗野な人物ではない。細かい気配りもできるし、何よりも年相応以上の老練さをも身につけているため、腹に一物あるような者にとっては悪魔の如くに恐れられている。

「いえ、そのようなことは。それよりもそちらに研修に出した魔導士たちの様子はいかがですかな」

 さすがに同調するわけにもいかず、話題をそらした。ウォーゲンも心得ているのか、それ以上会議については何も言わなかった。

「兵士が命令を聞いてくれると、涙を流して喜んでおったよ。相も変わらず、苦労人ばかりじゃ」

 そういって老将軍は声を上げて豪快に笑った。かつて同じ道を通ったビスマルクとしては苦笑するしかない。

 この時代、鋳型に溶かした金属を流し込んで形をつくる「鋳造」の技術により、剣や槍、鎧などの武器を大量生産することはある程度可能になっている。しかし、魔道具を作るには下準備も含めれば一週間単位の時間がかかることもザラであり、しかもその全てを職人たちが手作業で行っている。そのため魔道具の大量生産体制は未だ確立されていなかった。

 つまるところ、魔道具(特に武器は)需要に対しは絶対数が少なくそのため高価であり、同じものを揃えることが難しいのだ。軍隊と言う、人数が多くて、一定の力を継続的に維持しなければならない組織にとっては、頭痛の種であると言える。

 魔道具を十分な数確保できない以上、戦力向上のためには個々の魔導士の質を高めるしかない。それは国軍の一部たる魔導士部隊においても同様である。そこでは何よりも個人の実力が重視され、組織的な訓練よりも個人修練に時間が割かれている。

 そのため魔導士という連中は基本的に個人主義であり、言葉を選んで評するならば「変人」が多い。自己鍛錬の名の下に、己が個性を強烈に成長させていく奴らが多いのだ。そして、困ったことにその傾向は優秀であればあるほど強くなる。命令無視ぐらいのことは日常茶飯事である。

 個人主義者の集まりである魔導士部隊は、当然のことながら団体行動だの集団生活といった言葉とは疎遠である。しかし軍の一部である以上、最低限度の指揮統率は必要となる。そこで適正のある人材(はっきりといってしまえば我の強い問題児どもを引率する苦労人)が選ばれ、通常の部隊で指揮統率の研修を行うのだ。

 普段言うことを聞いてくれない問題児の相手ばかりしている彼らにとって、一般の部隊の規律正しさは新鮮にうつる。

「おぬしの娘も、そのうち来るのであろう?」

 およそ一年半前にヴァーダー侯爵家に迎え入れた自身の娘、アズリアについてはかなり初期のうちに話が広まっている。別に隠すつもりはなかったが、貴族どものこういう話に対する嗅覚は、異常なほどに鋭い。

「さて、あれに魔道卿になるだけの器量があれば、の話ですな」

 ヴァーダー侯爵が魔道卿となるのではない。魔道卿の責に耐えうる魔導士こそがヴァーダー侯爵になるのだ。その信念は、ビスマルクの中でいささかも変わっていない。アズリアとて彼にとっては駒の一つに過ぎぬ。ふさわしくないと判断すれば切り捨てるだけだ。それを知ってか、ウォーゲンは苦笑した。

「相変わらずじゃな」
「魔道卿は国を支える柱の一つ。半端者にその席を譲るわけにはいきませぬゆえ」

 然り、とウォーゲンは頷いた。それから話題を転ずる。

「陛下のご容態はいかがか」

 カンタルク王国の国王、アウフ・ヘーベン・カンタルクは今現在病床にある。血の病らしく、宮廷の医師たちでも進行を遅らせることしかできていない。

 自分の知りうる限りのことを教えると、ウォーゲンは苦虫を噛み潰したような表情になった。

「では今のうちにあの小僧を再教育せねばならんな・・・・・」

 ウォーゲンのいう「小僧」とは第一王子ゲゼルト・シャフト・カンタルクのことである。王子とはいっても今年で三十六歳となり、すでに国内の有力な貴族の令嬢と結婚しており子どももいる。当然のことながら次の王位継承者の最有力者であるが、そんな彼を「小僧」呼ばわりできる人間はこのカンタルク内においてウォーゲンただ一人であろう。

「そうですな・・・・」

 さすがにゲゼルト殿下を「小僧」呼ばわりはできないが、ビスマルクの心情はウォーゲンに近い。

(殿下におかれては国を統べるという意識が低すぎる・・・・・)

 ゲゼルト・シャフト・カンタルクは決して愚鈍な男ではない。だが、それ以上に自己顕示欲と虚栄心、そして情欲の塊のような人物であった。

 陛下の死期は近く、もはや逃れ難い。ビスマルクは既にそう見切りを付けている。その事実は一臣下としての彼の心を曇らせるが、魔道卿としての職責は彼にその先を考えるよう強要する。おそらくはウォーゲンも同様だろう。そして大半の貴族たちも同様で、しかもより積極的であるといえるだろう。ここ数日行われている会議にしても、実際のところはアウフ・ヘーベン陛下亡き後の権力争いが名前を変えて行われているに過ぎない。

(まったく、この国は貴族どもの力が強すぎる)

 そのために血筋よりも実力を重視し、魔導士と言う一種劇薬的な存在を統括する魔道卿と、その社会的地位を保証するヴァーダー侯爵家が生まれたともいえる。貴族たちがその財力にものを言わせて魔導士戦力を囲いこまないように、予防線を張ったのだ。魔道卿にはそういう側面が確かにある。

 それはさておき、このカンタルクでは貴族の発言力が強い。そのため王座に付く人物には、貴族に流されず惑わされず、この国を導くための器量が求められるのだ。

「残念ながら、あの小僧にそれがあるとは思えんがのう」
「ウォーゲン大将軍、人に聞かれますぞ」

 老将軍のあまりに率直な物言いを、ビスマルクはさすがにたしなめた。しかし彼とてまったくの同意見なのだ。

(殿下がこのまま玉座におつきになれば・・・・)

 この国は一部の貴族たちに私物化されてしまうかもしれない。

「まあそうならぬよう、陛下がご存命の内にあの小僧の意識改革を促すしかあるまいて」

 老将軍の、妙にさばさばした物言いに、ビスマルクは神妙に頷くしかなかった。





***********





 アズリア・フォン・ヴァーダーのもとにイスト・ヴァーレと名乗る怪しい流れの魔道具職人(これさえも彼の自己申告でしかないが)が再び現れたのは、最初に会ってから三日後のことであった。場所は最初と同じで、湖のすぐ近くだ。

「また来たのか」
 彼女の言葉は刺々しい。

 イストは三日前と変わらず、煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かしては白い煙(本人の自己申告によれば水蒸気)を吐き出している。その飄々とした姿は、理由もなくアズリアの神経を逆なでする。きっとこの男に慣れることはあっても、好きになることは決してないだろう。

「いや、来なきゃ魔道具渡せないし」

 そういって彼は木箱を放った。受け取ってみると、アズリアの手のひらになんとか収まるくらいのサイズの木箱だ。開けてみると、中には直径が一センチくらいの黒い球体が五つ、そして折りたたまれた紙が一枚入っていた。この場にリリーゼがいれば、イストがあの洞窟で見せた、ペイントボールに良く似ていると気づいたことだろう。実際、それをもとに作った魔道具だった。

「魔道具『糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》』。体に貼り付けて使うタイプの魔道具で、魔道具を動かすことで結果的にそれを貼り付けている体も動く、って訳だ。まぁ、細かい説明はそっちの紙に書いておいたから、後で見てくれ」
「・・・・・ずいぶん速いな」

 三日前、自分と会った後に彼がフロイトの下を訪れたことは、フロイト本人から既に聞いている。魔道具を作り始めたとすればその後からだろう。とすれば今自分の手のひらの上にあるこの「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」は三日足らずでつくられた事になる。

 アズリアは魔道具製作に関してはまったくの素人であるが、それでも三日足らずで一から魔道具を作ることが異常である事は容易に想像が付く。

「いったろ、それほど難しくないって」

 そういってイストは肩をすくめただけだ。まるで、この程度なんでもない、と言うかのように。

 ため息をつく。

(どうやらこの男に一般常識は通じないらしい・・・・・)
 そう思い、さっさと意識を変える。

「この魔道具、いくらだ」

 まさかタダということはあるまい。少々、いやかなり強引な押し売りではあるが、これでフロイトの足が治る、いや動くようになるのであれば多少高くともそれだけの価値はあるだろう。

 しかし、イストは軽薄に笑いながら首を振った。

「いや、金なんて要らないよ。てか、金取ったら違法じゃないのか」
 ここの法律なんて知らないけど、と彼は続ける。

 カンタルクのみならず、多くの国で魔道具の売買は規制されている。イストはこの国で魔道具を売買する許可など持っていないから、ここでアズリアから代金を受け取れば、それは確実にアウトだ。

「オレはそれでもいいが、お前はまずいんじゃないのか」

 魔道卿という、このカンタルクにいるすべての魔導士を統率し、またその規範となるべき存在を目指している彼女が、法を犯してしまうのは確かにいささか問題がある。

 だが、お金さえ取らなければそれは売買には当たらないから、当然法を犯すこともない。まるで屁理屈だ。というより魔道具をタダで誰かに譲るなんて、よほど親しい間柄でなければ誰も想定していないだろう。

「だが、な・・・・・」

 まったくの無償というのは気が引ける。「タダより高いものはない」とも言うし、なによりこの男に貸しを作っておくと、あとで法外なリターンを要求されそうだ。

「だがまあ、代金の代わりというか、聞いてみたいことはある」
「・・・・・なんだ?答えられるものと、答えられないものがあるが」

 この男が自分に何を聞きたいと言うのだろう。接点などないに等しいし、自分個人に興味があるようにも見受けられない。ヴァーダー侯爵家令嬢に聞きたいことがあるのかもしれないが、毎日訓練漬けだったためか、あいにくと社交界には疎い。

(まあ、もとより貴族の社交界など、興味はないが)

 あんな、笑顔の仮面の下で剣を研ぎ策謀を巡らせるような世界など、こちらから願い下げだ。誰もかれもうわべは綺麗に着飾っているが、腹の中は真っ黒でどろどろとした欲望をその身に充たしている。

「高貴な血、選ばれた民」

 その考えそのものがどれだけ醜いものか、彼らは恐らく一生理解できないだろう。いや、理解しようとはしないだろう。

 自身の生まれのせいでもともと貴族嫌いであったが、このおよそ一年半の間にその思いはさらに強くなった。

 アズリアが自身の貴族嫌いの思考にはまりかけたとき、イストの声がして彼女は意識を目の前の男に戻した。

「なに、簡単なことさ」

 そういってイストは「無煙」を吹かす。ふう、と白い煙(本人の自己申告を信じるならば水蒸気)を吐き出し、こちらを見た。

 その目には、まるで試すかのような色がある。

(さて、どんなことを聞かれるのやら・・・・・)
 内心、身構える。

「きちんと考えたかなってね」

 何を、と言おうとしてすぐに思い至る。恐らくは三日前、イストが去り際に残したあの言葉のことだろう。

『フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ』

「なんだ、そのことか」
 思ったよりも軽い内容で、肩の力が抜ける。

「うむ。いちよう結論めいたものは出たぞ」
「へぇ、是非聞かせてもらいたいね」

 イストの目に好奇の色が混じる。面白がっていることが傍目にも良くわかった。ただ、それが本心なのかはよく分からない。この辺がこの男を好きになれない理由だろう。

(この男の意図は、どうにも読みにくい・・・・・)

 まあ、そのあたりの観察はこの際だから横においておくことにしよう。その先、この男とさらに接点があるとは思えない。
 そう考え、アズリアは己の結論を口にする。

「わたしはフロイトに負い目を感じている。フロイトの不幸の上に今のわたしがあるように感じるからだ」

 相変わらず煙管を吹かすイストから視線を外し、空へと上げる。

「だからあの子の足が動くようになったとき素直に、純粋に喜んで上げられないような気がした。まるで自分が負い目から解放されたことを喜んでいるかのようで」

 今日も空は青く澄み渡っている。木陰に吹く風は乾燥していて爽やかだ。

「だけどこれは別々の問題なんだ。あの子の足が動くようになることと、わたしの負い目云々は。だからあの子が歩けるようになったら祝福してあげたいと思う」
 そう、これが結論だ。

「まあ、わたしの方はおいおい考えるさ」

 少々、照れくさい。照れ隠しに苦笑いを浮かべながらイストの方を見る。彼は、

「・・・・・何を、笑っている・・・・・」
 思わず、声に険がこもる。

 イスト・ヴァーレは笑っていた。声を押し殺しながらも、確実に彼は笑っていた。しかも気持ちの良い笑い方ではない。どこか嘲笑が混じっているように感じるのは間違いではないはずだ。
 自分が精一杯考えた結論を、嗤われたのだ。

「なにが可笑しい!」

 思わず、怒鳴る。それでもイストは嘲笑を引っ込めようとはしなかった。

「なぁ、本当に何も考えていないのか?」
「考えたさ!考えただろう!?」

 そうだ。わたしはちゃんと考えたはずだ。自分の気持ちと向かい合って、心の黒い部分をちゃんと見つめたはずだ。
 なのに、この男は、わたしが何も考えていないと言う。

「考えていないのならそれはそれで別にいいが、まあオレはオレの楽しみのために教えてやるとしよう」

 彼はまだ笑っている。しかしその笑みがひどく酷薄なものに変化したように思われた。瞳に宿る光もまた、面白がるようなものからアズリアの心を暴くかのようなものに変わる。
 そして、彼は告げた。

「フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになったら、はたしてノラ夫人やヴィトゲンシュタイン伯はなにを思い、どう動くのだろうなあ?」
「・・・・喜ぶ、のだろう・・・・?」

 返答の声が小さく弱い。見たくないもの、聞きたくないことを突きつけられようとしていることを、本能的に感じる。

「そう喜ぶだろうな。で、喜んでどうする?」
「・・・・・喜んで、喜んで・・・・・、」

 言葉が詰まる。ノラ夫人やヴィトゲンシュタイン伯が喜んでその後どう行動するのかは、あの時考えても分からなかった。いや、考えたくなかったのだ。

 心臓の鼓動が激しくなる。手のひらや背中に、嫌な汗が出てくる。

「分からないのか?それとも考えたくないのか?ならオレが言ってやる」

 彼の口調は変わらない。だがアズリアはまるで剣の切っ先を突きつけられたかのように感じた。

「有象無象の貴族でしかない奴らは、まず間違いなく自分たちの直接の血縁であるフロイトロース・フォン・ヴァーダーを次の魔道卿にしようと画策するだろうな」
「・・・・・それが、何だと言うのだ・・・・」

 魔道卿は血筋によって決まるものではない。それはアズリア自身、体に叩き込まれて分かっていることだし、それはノラ夫人やヴィトゲンシュタイン伯とて同じはずだ。

「同じじゃないさ。言っただろう?奴らはどこまでいっても有象無象の貴族でしかない。目の前にチラつかされた魔道卿という権力を諦めるなんて、できやしない、いや考えもしないだろうさ」
「・・・・・っ」

 反論できない。そして否定も。自分自身が貴族嫌いであるためか、イストの言うことはどうしようもなく真実であると思ってしまう。

「で、だ。フロイトロース・フォン・ヴァーダーを次の魔道卿にするために、奴らは何をするだろうなあ」
「・・・・やめろ・・・・」

 その先は、聞きたくない。

「奴らはこう思うだろう。『まず目の前の邪魔な障害物を取り除かなくては』と」
「やめろと言った!」

 しかし、彼は言葉を続ける。

「すなわち、アズリア・フォン・ヴァーダーという目の上のたんこぶを、な」







[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:33
 アルジャーク帝国にはいわゆる貴族という階級は存在しない。しかしそれは名門や名家の存在を否定するものではない。いやむしろ貴族というものがいないからこそ、名門名家といった存在がより目立つようになった、といっていい。

 例えばガンドール家。かのアルジャークの至宝、アレクセイ・ガンドールを輩出したこの家は、武門の名家として知られ、これまで幾人もの著名な武人や将軍を世に送り出してきた。

 他にもさまざまな名門名家がアルジャークには存在している。文門の名家や有名な塾はこれまでに優秀な官僚たちを幾人も歴史の表舞台に送り出してきたし、政治や武芸のみならず芸術にも同様のことが言える。固有の領地を持たない彼らは、優秀な人材を輩出することでアルジャーク内での地位を確立してきたのだ。

 そういう意味では、帝国学術院を卒業し官僚の道に入った彼も、名門の出身といえる。さらには名家の生まれでもある。彼の家は代々役人となる者が多いのだから。ただ、あまり有名であるとはいえないが。

「ここにおられましたか、先生」

 そこは宮廷の敷地内にある図書館だ。アルジャーク帝国最大の図書館で、その蔵書数は三十万冊とも言われている。一般にも開放されているのだが、難しい歴史の専門書が並ぶこの辺りには人影はただ二人分しかない。

 一人は、クロノワ・アルジャーク。先日モントルム遠征を成功させ、そして旧モントルム領の総督に任じられた第二皇子だ。

 もう一人の男、そのクロノワが「先生」と呼ぶのは、オルドナス・バスティエ。アルジャークの歴史を編纂する官僚で、かつて彼の史学の教師を務めていた男だ。

「これはクロノワ殿下、それともモントルム総督閣下とお呼びしたほうがよろしいですかな?」

 彼の口調にはおよそ愛想というものが感じられない。しかしクロノワはそのことを不快には思わなかった。むしろその口調は懐かしくさえある。

「どちらでもかまいませんよ」
「では殿下、遠征の成功と総督就任の義、おめでとうございます」

 無愛想な口調のままオルドナスが祝辞を述べる。きっとこんなときまで無愛想だから出世しないのだろう。もっとも本人は気にしていないどころか、

「無用な気苦労を負うことがなく、むしろ幸いです」
 とでも言うだろう。恐らくは無愛想なままに。

「ありがとうございます。先生もお変わりない様で安心しました」
「それで、このしがない歴史家に何か用ですかな」

 そのあまりにも率直で単刀直入な物言いにクロノワは苦笑した。そしてまた、同時に安心する。

(本当にお変わりない・・・・)

 宮廷で暮らし始めた当初、クロノワに味方はいなかった。それは彼に学問を授ける教師たちも同様で、ひどい者などはあからさまに侮蔑してきた。

 史学を担当していたオルドナス・バスティエもまた、クロノワの味方ではなかった。しかし、敵でもなかった。彼は周りの喧騒にはまったく影響されず、ただ己の知識をクロノワに授けることにのみ集中した。クロノワに味方ができ、そして徐々に増え、それにともなって教師たちの態度が変わっていっても、彼の態度は一切変わらなかった。そのことを寂しく思いもしたが、

(それが、先生を信頼する最も大きな理由ですしね・・・・)

 この頑固で偏屈な史学者をクロノワは心から信頼していし、またその信頼に足る人物だと見定めている。それで十分だ。

「独立都市ヴェンツブルグの執政院に九つ目の椅子を用意し、そこに座る人物の選出をモントルム総督に一任されていることはご存知ですか」
「ええ、存じております」
「つまり私が決めるわけですが、その執政官の椅子、先生に座っていただきたい」

 そういった途端、オルドナスの眉がピクリと不快げに動いた。

「先生のその鉄面皮を崩せただけでも、この話を持ってきて良かったですよ」
 クロノワは嬉しそうだ。

「先ほども申し上げたとおり私はしがない歴史家です。ここで書物を相手に仕事をしているのが分相応と言うものでしょう」

 遠まわしにオルドナスはかつての教え子の申し出を断った。その顔が不快げに、いやバツが悪そうに見えるのは、あるいはクロノワの思い過ごしかもしれない。

「ヴェンツブルグはこれから大きく発展します。いえ、させます」

 そうクロノワは言い切った。そう、己の野望のためにはヴェンツブルグを発展させねばならない。

「先生にはそのための下地作りと、成長にともなう混乱の抑制をお願いしたいのです」

 これから先、ヴェンツブルグに集まる人とモノと金は急激に増えていく。それらを受け入れるため準備をしなければ、ヴェンツブルグは容易く無法地帯になってしまう。また準備をしていても混乱、とくに喧嘩や窃盗などの軽犯罪の増加は避けられないだろう。そのための対策も必要だ。

「私は歴史家です。政治家の真似事などとても。ましてそのような激動期であればなおのこと私には荷が重いでしょう」

 オルドナスは頑なに拒否する。それをクロノワは不快には思わない。しかしだからといってここで引き下がるつもりもなかった。

「過去、急激な成長を遂げた国や都市は数多くあります。成功したもの、失敗したもの、先生はそういった事例をたくさんご存知なのではないですか」

 オルドナスは何も言わない。それを見てクロノワは話を続けた。

「そういう成功した政策をヴェンツブルグで再現していただきたいのです。もちろん実情に合わせて、ですが」

「・・・・・私が持ち合わせているのは知識だけ。それで政を行えるとは思えません」

 ただの謙遜ではない。自分の知識とこれまでの実績を鑑みるに、提案を述べることはできても、それを実際の状況に合わせて臨機応変に変化させるなど、自分にはできないと冷静に判断したのだ。

「それは他の執政官たちに任せればよいでしょう。先生に足りないものを彼らが補い、彼らに足りないものを先生が補う。それでよいのではありませんか」
「さて、他の方々が私の話を聞いてくださればよいのですが」

 いきなりやってきたよそ者に、彼らが良い感情を抱くはずもない。そんな状況では少なからず腹芸が必要になるだろうが、その「腹芸」こそがオルドナスの最も苦手とする分野なのだ。

「心配ありませんよ。先生はアルジャーク帝国が派遣する執政官なのですから。権力と後ろ盾は使うためにあるんです」

 そういうとオルドナスは、あまりに素直な物言いに苦笑した。

「やれやれ、どこでそのような考え方を学ばれたのやら」
「そうですね、先生からは教わりませんでした」

 二人は顔を見合わせて笑った。その笑いを収めてからオルドナスが問うた。

「なぜそこまでヴェンツブルグに拘るのですか」
「陛下が不凍港を欲しておられること、先生もご存知のことと思いますが」

 クロノワはまず一般論を答えた。しかしオルドナスはそれでは満足しない。

「では、貴方が拘る理由をお聞きしたい」

 彼の目は鋭いく、真実だけを求めている。クロノワ・アルジャークと言う人物を、改めて見定めるために。

「・・・・・・私はかつて友人とある約束をしました」

 それはイストとかわしたあの約束だ。

「いつか一緒に世界を回ろう」

 何も知らない子どもが気まぐれにかわした口約束。そういってしまえばそれまでの話だ。けれどもイストはその約束を覚えていたし、クロノワも心のどこかでその夢が実現することを願っていた。

「けれどもその約束は、結局果たされることはありませんでした」

 あの頃とは、立場が違う。責任が違う。そんな言い訳をクロノワはしたくない。

「だから、と言うのは変かもしれません。けれどもそれが正直な気持ちでもあります。自分のいる世界を広くしよう。そう、思ったんです」

 オルドナスは何も言わない。そしてその視線の鋭さも変わらなかった。ただ、静かに見定めようとしている。そうクロノワは感じた。

「私はこの世界を狭くしてみせます。ヴェンツブルグは、そのための一歩です」

 クロノワが自分の野望についてはっきりと宣言したのは、このときが二度目で、彼が二人目であった。

「どうやら、壮大な野望をお持ちのようだ」

 オルドナスはかつての教え子が志している野望について、おおよそを悟った。「世界を狭くする」というその言葉と、ヴェンツブルグという立地。成功すれば、歴史的な事業になるだろう。

「浅学のこの身、どこまでお役に立てるか分かりませんが、執政官の話、お受けいたしましょう」
「ありがとうございます」

 こうしてクロノワは己の野望を理解し、そのために働いてくれる最初の人物を得たのである。後にオルドナス・バスティエはこう述懐している。

「歴史を調べ、そして記録するだけの官僚だった私が、あの時歴史を作る側に回ったのだ。まったく、人生と言うヤツは数奇なのもだ」





[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:35
パタリ、と後ろ手に自室の扉を閉めた。すでに日は完全に沈み、夜の帳が世界を支配している。ランプの火はつけない。カーテンを閉めていない窓からは月明かりが差し込み、書物を読むのでもない限りはとくに不自由しないだけの明るさがある。

「・・・・・・・・」

 机の引き出しを開け、奥からあるモノを引っ張り出す。それは、アズリアの決して大きくない手のひらに、なんとか収まるくらいの大きさの木箱だった。

「わたしに、どうしろと言うのだ・・・・・」

 あの時、イスト・ヴァーレが去り際に残した言葉が、頭から離れない。

『忘れるなよ。オレはその魔道具を、「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」をお前に預けたんだ。フロイトロース・フォン・ヴァーダーではなく、アズリア・フォン・ヴァーダーに。それを決して忘れるな』

 そういって彼が残していった魔道具、「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」。フロイトの足を動かすことのできる魔道具。けれどもその魔道具を今手にしているのは、必要としているフロイトではなくアズリアだった。

「こんなものをわたしに寄越して、どうしろと言うのだ・・・・・」

 答えは出ない。出ないまま、既に二日が過ぎてしまった。

**********

 あの日、イスト・ヴァーレという流れの魔道具職人は「やめろ!」と叫ぶアズリアを無視して言葉を続けた。

「・・・・・フロイトロース・フォン・ヴァーダーが歩けるようになれば、ノラ夫人やヴィトゲンシュタイン伯は当然、自分たちの息子であり孫である彼を次の魔道卿にしようとする。そうなればアズリア・フォン・ヴァーダーは用済みどころか邪魔者以外の何者でもない」

 実際にフロイトが次の魔道卿になれるかどうかは、彼らにとってさして重要ではない。というよりもそこまで考えてなどいないだろう。さらなる利権と権力を求めて邁進するのが貴族と言う生き物である。目の前にぶら下げられたソレを諦めることなど考えもしないだろうし、そもそもできないだろう。

「あの手この手を使って侯爵家から追い出そうとするだろうよ」

 その光景はいとも簡単に想像できた。否定する要素はなにもない。そしてまた、妨げる要素もないだろう。

「よかったな、侯爵家から出られて。嫌いだったんだろう?貴族」
 酷薄な笑みを浮かべて、イストが笑う。

「・・・・ふざけるな・・・・・」

 湧き上がるようにして言葉は出た。もう、止められない。

「ふざけるな!自分勝手な都合でわたしの人生を狂わせておいて、用済みになれば捨てるのか!?ふざけるな!ふざけるなよ!」

 こぶしを硬く握り締める。最後にアズリアは搾り出すようにこういった。

「・・・・・わたしの今までの努力は、一体なんだったのだ・・・・・!」
 自分で言って、殴られたような衝撃を受けた。

 いま侯爵家を追い出されたら、今までの努力がすべて無駄になる。この一年半の努力だけではない。考えようによっては士官学校に入校してからの彼女の努力、その全てが水泡に帰すのだ。

 アズリアは言いようのない苦さと共に、ようやく理解した。イスト・ヴァーレのあの問いの意味を。

『フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ』

 そう、フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとは、アズリア・フォン・ヴァーダーが全てを失うということなのだ、と。

 呆然とするアズリアを無視するように、イストは口を開く。いやになるくらい自然で、どこか突き放すような響きだ。

「選択権はお前が持っている。どうするかは、お前が決めるといい」

 そういわれて、アズリアは木箱とそこに入っている魔道具、「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」の存在を思い出した。フロイトが歩けるようになるための魔道具。逆を言えば、これがなければフロイトは歩けない。

「・・・・・っつ・・・・!」
 黒い欲望が頭をもたげる。自分の醜い心を、苦い思いと共にアズリアは自覚した。

 そして去り際に、イスト・ヴァーレは先の言葉をいい残したのだ。

「忘れるなよ。オレはその魔道具を、『糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》』をお前に預けたんだ。フロイトロース・フォン・ヴァーダーではなく、アズリア・フォン・ヴァーダーに。それを決して忘れるな」

 それは初めて聞く彼の真剣な声だった。

**********

「わたしは、どうすればいいのだ・・・・・?」

 言葉は夜闇にとけて消えていく。答えはどこからも帰ってこなかった。

 ありきたりなハッピーエンドが好きだった。

 貧乏ながらも心優しく、そして王子様に見初められた少女。約束を交わし、離れ離れになっても再会を果たす少年と少女。

 逆境を乗り越え、苦難を克服し、そして最後にはみんなが幸せになる。そんなありきたりなハッピーエンドが好きだった。

 けれども今現実に突きつけられた二択は、一人分の幸せしか約束していない。誰も彼もが幸せになれる、そんなありきたりなハッピーエンドが一番難しいと、現実は声ならざる声をもって彼女に宣告する。

 手のひらに載せた木箱が、どうしようもなく重く感じた。

「二人分の運命だ。重いに決まっている・・・・・」

 この魔道具を、「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」をフロイトに渡せば、あの子は歩けるようになるだろう。一度自分で試してみたが、イストの言ったことは本当だった。右手に使ってみたのだが、確かに腕ではなくて魔道具を動かすことで、結果的にわたしの右手は動いた。フロイトの足も本当に動かないだけで、関節などには異常はないから、この魔道具で動くようになるだろう。扱う感覚が少々掴みにくかったが、それは慣れればいいだけの話だ。

 あの魔道具「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」をフロイトに渡せば、あの子は歩けるようになる。これはもう確実だ。だからこそこんなにも悩んでいるのだ。

「・・・・いやになる・・・・・」
 悩めば悩むほどに、自分の醜い部分を突きつけられた。

 なぜこの魔道具は今自分の手の中にあるのだろう。なぜあの男はこれをわたしに渡したのだろう。自分の手の届かない場所ですべてが決まってしまえば、どんなにか楽なことだろう。

 自分で自分のことを決める。ただそれだけのことが、こんなにも辛いとは思わなかった。
 立って歩く。ただそれだけのことを、フロイトがどれだけ望んでいるか。その心のうちは慮るだけでもおこがましように思う。

 まさに渇望。
 まさに羨望。

 それを叶えられるはずのアズリアはしかし、躊躇っている。

「・・・・嫌な女だな、わたしは・・・・」

 それを責められる人間はいないだろう。フロイトの人生をのせた天秤の反対側、そこにのせるのはアズリア自身の人生だ。これまで決して恵まれていたとはいえない環境の中で、必死に努力を積み重ねてきた今までの人生。ヴァーダーの姓を捨てることは、同時にそれさえも捨てることになる。

「それだけなら、まだいいが・・・・」

 ヴァーダーの姓を捨てクリークの姓を再び名乗ったとしても、彼女がビスマルク・フォン・ヴァーダーの娘であるという事実は消えない。一度日の目を見たその事実を、再び闇に葬ることなど不可能だ。侯爵家と無関係の存在になったとしても、その血はどこまでもアズリアについてまわる。彼女自身が気にしなくとも周りが騒ぐ。ある者は彼女を遠ざけ、ある者は利用しようとし、またある者はいわれのない軽蔑や妬みを抱くだろう。

 ビスマルクの、魔道卿の力を使えば、あるいは平穏に暮らすことはできるかもしれない。しかしそれはアズリアのあらゆる可能性と引き換えに得る平穏だ。今までの人生を否定することに変わりはない。

 それが嫌ならば、この国を離れるしかない。

「わたしは、どうしたいのだ・・・・?」

 魔道卿になりたいわけではない。魔導士になりたかったわけではない。軍人になりたかったわけでもない。

 士官学校に入ったのは、端的に言ってしまえばお金がなかったからだ。無料で学を得られる場所がそこしかなかったからだ。魔道科に進んだのも、その延長であったと言える。

「状況ゆえに、か・・・・・」
 自らの人生を思い返し、思わず苦笑が漏れる。

 しかしだからといって腐っていたわけでは、無論ない。選択肢の少ない状況であろうとも、確かに自分で求め、そして選び、研鑽を重ねてきたのだ。そんな今の自分を誇りこそすれ、自ら蔑むことなど決してない。

「ああ、だからこそいやになる」

 自分は精一杯やってきた。そう自負している。けれどもその果ての二択がこれかと思うと本当にいやになる。約束された幸せは二人分。自分か、フロイトか。

「なんにせよ決まっているのは・・・・」

 なんにせよ決まっているのは、どちらを選んだとしても自分は後悔するだろうと言うことだ。

 「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」をフロイトに渡せば、落ちぶれた自分の状況を嘆き後悔するだろう。あの時渡していなければこんなことにはならなかったのに、と。

 渡さなければ、一生自分はフロイトに罪悪感を持ち続けるだろう。なぜあの時、わが身を優先したのだろうかと、ベッドに横たわるあの子を見るたびに後悔するのだろう。

「ああ、もう本当に・・・・・」

 渡すか渡さないか。なぜ選択肢はこの二つしかないのだろう。ありきたりでもいい、物語のようなハッピーエンドを迎えるための、一種劇薬じみた出来事が起こればいいのに、と本気で願った。





*********






フロイトロース・ファン・ヴァーダーはこの当時まだ八歳で、当然のように子どもであった。しかし子どもであるがゆえに、敏感であったともいえる。少なくとも彼がこのときまだ子どもだったことが、時代と言う水面に一石を投じる結果となったのだから。

 彼には姉がいる。つい最近、突然にできた姉だ。きれいで優しい、大好きな姉上だ。そんな大好きな姉上の様子がおかしいと思い始めたのは、二日前からだった。

 なにがどう様子がおかしいのか、表現すべき言葉を少年は知らない。強いてあらわすならば「ズレ」だろうか。

 ここではないどこかを見ているような気がするときがある。頭を撫でてくれる手からは、今までになかった硬さを感じる。笑いかけてくれても、その目にはどことなく悲しみが滲んでいる。

 それを感じるのは、いつもほんの一瞬だ。次の瞬間には、いつもの姉上に戻っている。あるいは気のせいだと思うこともできる。けれどもその一瞬は決してなくならない。それが、言いようのない不安をつれてくる。

「どうして・・・・」

 その「ズレ」てしまった理由など、少年は知らない。ただ「ズレ」てしまった結果だけが目の前にある。

 そう、理由など分からない。だが、
「寂しそう、だった」

 ただ一度、それもほんの一瞬だけ、姉上はとてもとても寂しそうな表情をしたのだ。ともすれば「気のせい」という、ありきたりな理由で埋没してしまいそうなその一瞬は、しかしフロイトの記憶に焼きつき離れることがない。

「笑って、欲しいな・・・・」

 あの魔法使いに、自称極悪非道で意地悪な魔法使いに会ったことはその日の夜に姉上に話した。

「諦めるな」

 と、言われたこと。そして嬉しかったこと。すべて話した。そのとき、姉上もとても嬉しそうだった。とても嬉しそうに笑ってくれた。

 けれどこの二日、姉上の本当の笑顔を見ていない。笑いかけてはくれる。けれどもその笑顔には、どこか影があるように思ってしまうのだ。

「もう一度、見たいな」
 あの笑顔を。どうすれば見られるのだろうか。

「歩ければ・・・・・」

 歩ければ、歩けるようになれば、アズリア姉上は笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。

「きっと」
 喜んでくれる。

 少年は頷いた。瞳には固い決意が宿っている。不可能に挑む決意を、こうもたやすくできるのはあるいは幼さゆえの特権かもしれない。

 少なくともこのとき、舞台の外で放っておかれた一人の少年は、自らの足でその舞台に上がったのだ。

**********

 なにやら物音がして、アズリアは目を覚ました。きちんとベッドに横になって寝ていたわけではない。どうやら色々と考えているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。季節柄肌寒いこともなく、風邪をひいてしまったという心配もない。

 ともかく今はこの物音だ。

「何の音だ・・・・?」

 物取りだろうか。そう考えてしかし即座に否定した。物音は断続的に、しかし絶えることなく聞こえてくる。そこからは自らの存在を隠す意図など微塵も感じられない。仮に物取りだとすれば、随分と度胸のある、しかし知恵のない愚か者であろう。

 しかし万が一の事態を想定し、アズリアは愛用の魔剣を手にして部屋を出た。物音は寝静まった屋敷の中で断続的に響いている。

「どこからだ・・・・?」
 音の出所を求めて、耳を澄ます。

「アズリア様」

 声のした方に振り向くと侍女長が階段の下にいた。この物音を聞きつけて様子を見に来たのだろう。緊張した様子を見せていないので、何かしらの心当たりがあるのだろう。

「この物音は一体・・・・?」
 そう聞く間も、物音は断続的に続いている。

「恐らくはフロイトロース様でしょう。いつもはベルを鳴らしていただけるのですけれど、何かあったのでしょうか」

 その言葉でアズリアは現状何が起きているか、おおよその察しがついた。と同時にフロイトの部屋に急ぐ。思ったとおり、扉の向こうからは物音が聞こえている。

「フロイト、どうし・・・・・」

 そこまで言って、言葉を失った。

 彼の部屋は、当然のことながら明かりはついていない。しかし窓から差し込む青白い月明かりは、中の様子を窺い知るには十分であった。

 そう、月明かりが部屋を照らしている。だからかもしれない。目の前の光景は、どこか現実感が薄く、幻想的であった。

 それはある意味では予想通りの光景だった。ベッドから落ちたフロイトが、必死にもがいていた。だが、ベッドに戻るためにもがいているのではないと、アズリアはすぐに気がついた。

 ベッドのふちに手をかけ、腕の力で体を持ち上げて、少なくとも立っているように見える姿勢をつくり、それから手を離す。だがしかしフロイトの足は主を支えることはなく、彼の体は崩れ落ち床に叩きつけられた。

(いったい何を・・・・!?)

 アズリアは混乱した。寝床に戻りたいのであれば、体を起こしてからそのままベッドに倒れこめばよい。いや、それ以前にベルを鳴らせば侍女がやってくるのだ。

 では今、彼はいったい何をしているのか。

 彼の顔に、悲しみは浮かんでいない。怒りも絶望も焦りも苦痛も諦めも、そこには浮かんでいない。そこに浮かんでいるのは、金剛石の如くに純粋で美しく、そして強固な意志であった。

 そこにいたのは一個の挑戦者であった。挑む壁は不可能と言う名の現実。だがそれゆえに、見る者は奇跡を期待するのかもしれない。

 そのとき、フロイトロース・フォン・ヴァーダーは己の足で立とうと、必死でもがいていたのだ。そしてその姿はどうしようもなくアズリアの心を揺さぶった。

 アズリア・フォン・ヴァーダーは理解している。フロイトロース・フォン・ヴァーダーが歩けるようになると言うことは、彼女が今まで積み上げてきたのもが無駄になると言う事だと、正しく理解している。

(それがどうした・・・・・!それがどうしたと言うのだ・・・・!?)

 それでもなお、そんなことが気にならないくらい、彼女もまた期待したのだ。月明かりの下で必死にもがいている少年が、その二本の足で立って歩くという奇跡を期待したのだ。そしてその奇跡を起こすための魔道具は、今彼女の手の中にある。

「・・・・姉上・・・・?」

 気が付けばアズリアはフロイトを抱きしめていた。彼の不思議そうな声が腕の中から聞こえる。

「・・・・なんで、泣いてるんですか・・・・?」

 そうフロイトに言われて、アズリアは自分が泣いていることに初めて気づいた。いつ泣き始めたのか、まったく分からない。目の前の光景に、意識の全てが集中していた。

 気づいてしまえば、後はあふれ出るだけだ。フロイトをさらにきつく抱きしめ、アズリアは泣いた。

(ああ、涙は雪どけ水のようだ・・・・・)

 凍てついていた心は融け出し、後は流れていくだけ。

「フロイト・・・・・」
「・・・・はい・・・・?」

 なんでこんなことを、と聞こうとしてやめた。字面の上とはいえ、彼が立ち向かったことを、こんなこと(・・・・・)、なんて言いたくなかった。だから、

「頑張った、ね」
 そういって、泣きながら彼の頭を撫でた。

「・・・・姉上に、笑って欲しくて・・・・」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。そこには締め付けられるような苦しさと、いいようのないくすぐったさが同居している。

「・・・・ありがとう・・・・」
 もう、心は決まっていた。

「実はね、フロイト、魔法使いから預かったものがあるの」

 言葉は自然と出た。そのせいか、口調がいつもより柔らかい。けれども気にはならなかった。思惑も何も関係ない。素の自分でいられることが心地よかった。

「魔道具『糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》』。わたしも試してみたけどあれなら多分、フロイトも歩けるようになるよ」

「本当!?」
 腕の中でフロイトが歓声をあげる。それが素直に嬉しい。

「本当。でも今日はもうダメ。しっかりと眠って、明日元気になったら、ね?」

 フロイトは不満そうに、
「はぁい」
 と返事をする。そのむくれた様子がなんとも可愛い。

 フロイトをベッドに戻し、寝かしつける。興奮している様子だったが、やはり体は疲れていたのだろう。すぐに寝息が聞こえてきた。その無垢な寝顔に思わず微笑がもれた。柔らかい髪の毛をもう一度だけ撫でて、部屋を出た。

「アズリア様・・・・・」

 部屋の外で見守っていた侍女長が心配そうに声をかけてくる。彼女にしてみれば聞きたいことや言いたいことがたくさんあるのだろう。魔法使いとやらのこと、魔道具のこと、そしてフロイトが歩けるようになったあとのアズリアのこと。

 けれどもアズリアは何も言わなかった。ただ彼女の肩に、ポン、と手を置いただけだ。侍女長も、結局何も言わなかった。何か言いたそうにはしたが何も言わず、ただ万感の思いを込めて頭を下げた。

 後に彼女はこう語る。

「あのとき、アズリア様は驚くほど穏やかな表情をしていらっしゃいました。そう、まるですべて分かった上で、その全てを受け入れるかのように。その表情を見たら、何もいえなくなりました」




[27166] 乱世を往く! 第三話 糸のない操り人形 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/14 23:41
ノラ・フォン・ヴァーダーはその日、狂喜していた。

 理由は二十日ほど前に届いたフロイトからの手紙である。これまでも息子から手紙が届くことは度々あった。しかし歩けない息子にまったく関心のない彼女は、その全てを、返事を含め、侍女に押し付けて自分はまったく関与しようとしなかった。

 今回の手紙もそうだった。侍女に押し付け、それっきり忘れていた。血相を変えた侍女がその手紙を持ってくるまでは。

 そこには、フロイトが歩けるようになった、と書いてあったのだ。

「私(わたくし)の、私(わたくし)の可愛いフロイトが、歩けるように・・・・!」

 彼女が口にした「可愛い」という言葉からは、どうしようもなくグロテスクな響きを感じざるをえない。

 何はともあれ彼女は狂喜し、その日のうちに活動を始めた。夫たるビスマルクに話をし、侯爵家に息子のための部屋を用意した。父であるヴィトゲンシュタイン伯と連絡を取り合い、邪魔者を追い出すための手はずを整える。

 そう、勘違いしてはいけない。彼女はフロイトロースが歩けるようになった、そのことを喜んでいるのではない。彼が歩けるようになり、魔道卿という権力に近づくための道筋が見えてきたことを喜んでいるのだ。そしてさらに言えば、自分の「役立たずの欠陥品」という汚名を返上できることを喜んでいるのだ。

 馬車が到着する。フロイトロース・フォン・ヴァーダーを、彼女の愛すべき息子が乗った馬車が、ヴァーダー侯爵家へと到着する。


 その日、ビスマルク・フォン・ヴァーダーはいいようのない苦さを抱えながらその場にいた。

 原因は二十日ほど前に届いたアズリアからの手紙である。そこにはフロイトが歩けるようになった経緯が端的に報告されていた。それからフロイトが普通に歩けるようになるまでリハビリをすること、そして彼を送り届けたら自分は侯爵家を出るつもりであることが書かれていた。

「追い出されるよりは自分で、か・・・・・」

 その決断は誇り高い。だが同時に苛立ちを感じさせる。
 誰に対してか?
 それを見ているしかない自分に対してだ。

「なにが魔道卿か。まったく笑わせる」

 実際、アズリアを庇うのは難しいだろう。すでに圧力は掛けられ始めている。押し切られるのは時間の問題だろうし、本人が帰ってくればさらに激化するだろう。

 そう考えれば、あの自分から出て行くと宣言したアズリアの態度は、ある種ビスマルクに対して見切りをつけたと言えるのかもしれない。

「見限られた、ということか。この私が」

 なにやら小気味良く感じる。これもまた、親ばかに似た心境かも知れぬ。
 とはいえ、苦さは消えない。

 おそらくアズリアは侯爵家を出る共に、このカンタルクからも出て行くつもりだろう。一度ヴァーダーの姓を名乗りその血筋であることが露になった以上、その事実はこの先どこまでも彼女に付きまとう。血筋を利用しようとしないばかりか、かえって迷惑だとでも言わんばかりの娘の態度は、かつて懐妊が分かったと同時に暇を願い出た彼女の母、クレア・クリークの潔さと重なる。
 その身の振り方は高潔だと思う。しかし、人材と言う観点で考えれば、

「惜しいな・・・・・」

 このおよそ一年半、ビスマルクはアズリアの成長を間近で見てきた。さすがに王立士官学校魔道科首席卒だけあって優秀で飲み込みが早い。あるいは親の贔屓目が混じっているのかもしれないが、それを差し引いても十分に秀逸な人材だと言えるし、また現状に満足しない向上心ももっている。さらに言えば、苦労人気質なので将来的には問題児の多い魔導士部隊を率いる、指揮官クラスへと成長することも十分に考えられる。

 そういう人材が外に流れていくのは、このカンタルクにとって間違いなく不利益だ。

「親として考えるならば、あるいは・・・・・」

 親として考えるならば、あるいは娘の選択を尊重するべきなのかもしれない。ただでさえ無理やり介入して人生を狂わせたのだ。好きにさせてやるほうが、親としては正しい選択なのかもしれない。

「少し、手を回しておくか・・・・・」

 そう、あくまで少しだけ。選択の余地が残るように。
 親としては間違っているのかもしれない。けれどもビスマルクは魔道卿だ。

「国の行く末は、個人の感情に勝る」
 それが、魔道卿ビスマルクの信念だ。

 馬車が到着する。彼の二人の子どもを乗せた馬車が、侯爵家の門をくぐる。

**********

「ふう」

 決して多くない私物を鞄に詰め込み、アズリアは一息ついた。それからもう一度自室を見回す。ここを出て行くことにもはやなんの未練もないが、一抹の寂しさはどうしても拭えない。

(そういうことにこだわるタチではないと思っていたけど・・・・・)

 実は、そうでもないのかもしれない。そんなことでも素直に認められるようになったのは、心が軽くなったおかげかもしれない。

(いや、決して認めたわけではないが・・・・・)
 自分に言い訳をして、少しへこむ。

 一息ついて心機一転。部屋の出口に立って、部屋を眺め一礼する。それから部屋を出た。もう心残りはない。

 部屋を出ると、大きな話し声がした。フロイトとノラ夫人だ。楽しげな話し声を聞く限り、どうやら親子関係は順調な出だしらしい。この先自分は関わることはないだろうが、それでも安心する。

(願わくば、ここがフロイトにとって幸せな家庭でありますように・・・・・)

 後ろ髪引かれる思いを、あえて無視する。それから、ハタと思いつく。

「父上のところにもよっていかないとな」

 まがりなりにもおよそ一年半お世話になったのだ。挨拶ぐらいはしないとだろう。そう思いビスマルクの執務室に足を向けた。
 扉の前に立ち、ノックする。

「入れ」
 執務室の向こうから重厚な声がする。威厳に満ちたその声は、執事であるエルマーに連れられて初めてここに来たあの時と同じだ。ただ精神的に押しつぶされなくなったのは、確実に成長しているからだろう。

「失礼します」

 執務室に入ると、ビスマルクはやはりあの時と同じく鋭い目をアズリアに向けた。ただそこからは冷たさよりも懐かしさを感じる。

「短い間でしたが、お世話になりました」
「・・・・・行くのか」
「はい。フロイトのこと、宜しくお願いします」

 ビスマルクはしばしの間、目を閉じ瞑想した。

「魔道具は持っていくといい。餞別だ」
「ありがとうございます」

 それから二言三言言葉を交わしてから、アズリアは執務室を出た。最後の最後まで態度を変えなかったビスマルクに、人知れず笑いがこぼれた。
 玄関に足を向けると、エルマーがいた。

「エルマー。エルマーにも世話になった。礼を言う」

 ありがとう、と言ってアズリアが頭を下げると、エルマーは慌てたように手を振った。

「とんでもございません!私こそ、なんの力にもなれず・・・・・」

 アズリアが侯爵家を出ると決めたこの状況に、実直な彼は少なからず責任を感じているようだった。

「わたしが自分で決めたことだ。状況ゆえとか、そんな理由じゃないさ」
「アズリアお嬢様・・・・・」

 だから気にしないでくれ、と言うアズリアにエルマーは頭を下げた。

「できれば、フロイトにはうまく言っておいてくれ」
 少し冗談めかして、アズリアは頼んだ。

「それはまた無理難題ですな。ですがこのエルマー、必ずやお嬢様のご期待に応えてみせましょう」

 エルマーに別れを告げて、アズリアは侯爵家を後にした。状況だけ見れば、自分はいわゆる「お先真っ暗」な境遇だろう。だが、不思議と悲観的にはなっていない。

 積み上げてきたもの全てが瓦解するわけではない。身に付けた実力や知識は、どのような立場や状況になっても役に立つだろう。

「大丈夫だ。わたしはやっていける」
 心は晴れやかで、気持ちは前向きだ。

**********

 とりあえず、貴族たちの屋敷が立ち並ぶ区画から、一般の人々が暮らす市街地へと足を向ける。姓もクリークに戻り、これより新たな人生が始まると、晴れ晴れした気持ちであることに間違いはないが、現実問題としてひとまず腰を落ち着けてこれからの身の振り方を考える必要がある。

(ひとまず市街地で宿を取って、細かいことはそこで考えるとしよう)

 幸いにも懐具合にはいささかの余裕がある。ゆっくりと考える時間くらいはあるだろう。この国を出ることは間違いないだろうが、やはり後悔のない選択をしたい。

(あのときウジウジ悩んでいたことを思えば、随分と楽しく考えられるだろうし)

 あの時イスト・ヴァーレという流れの職人から預かった、魔道具「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」をフロイトに渡すかどうかを悩んでいたときに比べれば、この先どこでどう生きていくかを考えることは、随分と精神的には楽なはずだ。

(ま、気軽に考えるとしよう)

 なんにしても魔導士ギルドのライセンスは取っておいたほうがいいかな、とかそんなことを考えながら道を歩く。
 そのとき、後ろから声をかけられた。

「失礼、お前さんがアズリア・クリーク嬢かな」

 相手は大柄な初老の老人だった。頭は白くなり、顔にも年相応のしわが刻まれているが、体には十分すぎる生気が満ちており声にも張りがある。

「そうですが、なにか御用でしょうか」
「なに、あの魔道卿ビスマルクを見限ったという令嬢を見に来ただけじゃよ」

 そういって老人は面白そうに笑った。貴族たちがよくするような、相手を小ばかにした笑い方ではなく、豪快で何の遠慮もない笑い方だった。

「はぁ・・・・・」

 いろいろと語弊のある言い方だったが、あっけに取られたアズリアは、結局訂正はしなかった。

「それで、どちら様でしょうか。直接の面識はないと思うのですが」

 ないはずだ。身にまとっている衣服は地味だが上等な品だから、この御老体は間違いなく貴族などの上流階級に属する人物であろう。だがヴァーダー侯爵家にいたおよそ一年半の間は文字通り訓練漬けの毎日で、アズリアは社交界の事情には疎い。ゆえにそのような人物とは接点がほとんどない。

「なに、ウォーゲン・グリフォードとかいうしがない老人じゃよ」

 おどけるようにしてウォーゲンは自己紹介をした。だがアズリアはと言うと、あまりのビックネームに硬直していた。

「ウォーゲン・グリフォード大将軍閣下・・・・・・!」

 このカンタルクで彼を「しがない老人」扱いできる人物は、本人以外は誰もいないであろう。

 王立士官学校に通ったことのある人間ならば、その名を知らない人物はまずいない。五十年近い軍歴を誇る彼は、もはや生けるカンタルクの軍事年鑑といっても過言ではない。大小八〇以上の戦場を経験し数多くの武功を上げた彼は、いまだ「軍人未満」の存在であるアズリアにとってはまさに雲の上の人物であると言える。

 士官学校で耳にしたウォーゲン大将軍の数々の武勇伝が頭をよぎる。

「し、失礼いたしましたっ!!」

 荷物を放り出してアズリアは最敬礼した。そんな彼女の様子にウォーゲンは苦笑する。こういった若手の反応は彼にとって特に珍しいものではない。だがいつも、

「儂も偉くなったもんだ」
 と、こそばゆい想いにとらわれる。

「まあ、そう硬くならずに。お茶を一杯、この老人に付き合ってくれんかな、お嬢さん」

 落ち着いて話したいことがあるらしい。思いがけないお誘いだが、アズリアに断る理由はない。快諾した。

「はい。わたしでよろしければ」

 良く来る店だ、といって案内されたのは、市街地にある日差しの良い通りに面したオープンカフェであった。店の外に用意された席に、ウォーゲンは慣れた様子で腰掛ける。それから向かいの席をアズリアに進め、顔見知りらしい店員に注文を済ませる。メニューを見もしないあたり、本当に常連らしい。

 談笑している間にウォーゲンが注文した品が運ばれてきた。紅茶が二つとクッキーが一皿。おそらくクッキーはアズリアに気を利かせてくれたのだろう。

「ここのクッキーは絶品でな、食べてみるといい」
 本人も食べたかったらしい。偉大な大将軍の意外な一面だ。

「いただきます」

 クッキーを口に入れると、やさしい甘さが広がった。ウォーゲンが絶品と太鼓判を押しただけのことはあって、アズリアが侯爵家でつまんでいたものと比べても、なんら遜色がない。

「アズリア嬢の諸事情は、大まかだが聞き及んでおる。して、これからいかがするおつもりかな」

 一杯目の紅茶を飲み終わり、店員が二杯目を注いで下がった頃にウォーゲンはごく自然に切り出した。

「カンタルクを出るつもりではいますが、詳しいことはまだ何も。今後のことは宿を取って二、三日ゆっくりと考えるつもりです」

「ふむ、そうか。実は今日こうして話をしにきたのは、おぬしを儂の副官にと思ったからじゃ。今後のことを考えると言うのであれば、そちらも考えてみてくれんかのう?」

 さらりと告げられたその提案に、アズリアの思考は一瞬停止した。そしてフリーズが回復すると、思わず叫んだ。

「わたしを閣下の副官に、ですか!?」

 大将軍たるウォーゲンの副官になるということは、それは将来が約束されたと同義である。しかも彼の傍はこのカンタルクでは一種聖域じみた場所で、国内では貴族たちの影響力が及ばぬ唯一の場所と言える。

 仮にこの国に留まるのであれば、これ以上の居場所は存在しないであろう。しかしアズリアの表情は冴えなかった。

(どんな流言飛語が飛び交うことやら・・・・)

 想像がつくだけに、憂鬱になる。そういう世界とはおさらばしようと思っていただけに、なおいっそう嫌になる。

「舌が滑らかなだけの輩になど、言わせておけばよい」

 そんなアズリアの心のうちを察したようにウォーゲンは言った。そういえばこの老人も貴族嫌いで有名だった。

「なぜ、そこまで言ってくださるのですか」

 大将軍ウォーゲンの副官ともなれば、多くの若手有望株がその席を狙っており、選ぶ立場からすればより取り見取りのはずだ。その中には既に軍務を経験し、功績を挙げている人材も当然いるだろう。にもかかわらず功績など皆無でさらには、この国を出ようとさえ考えていたアズリアを自身の副官として望むのはなぜなのか。

「そうおかしなことでもあるまい。そなたは士官学校魔道科を首席で卒業し、その後およそ一年半の間魔道卿の下で訓練を積んだのじゃ。将来を見据えて、そのような優秀な人材を手元において育てたいと思うのは当然のことじゃろう」

 ウォーゲンは紅茶を一口啜ってから言葉を続けた。

「副官と言っても、既に二人おって三人目じゃ。仕事は先任の者に教わりながら覚えていけばよい」

 将軍以上の役職にあるものが副官を複数人持つことはさほど珍しくはない。
 だがウォーゲンのその説明にアズリアは納得しなかった。彼が述べたのはあくまでも一般論であり、そもそも一般論を述べるのであれば、副官に「軍人未満」の人物を抜擢する道理はない。

「閣下ご自身も、そのようにお考えなのですか」

 失礼とは思いながら、アズリアは試すような目をウォーゲンに向けた。その視線を彼は真正面から受け止める。

「公人も私人もこの儂である以上、儂の考えの一面であることは間違いない。だがな」
 老将軍の厳しい目が、幾分和らぐ。

「極めて個人的なことを言わせてもらえば、あの堅物のビスマルクが私的に話を持ってくるような人物に興味が湧いたからじゃ」
「父上が!?」

 思わぬ個人名詞にアズリアは驚いた。ビスマルクがアズリアの行く末を案じてウォーゲンに便宜を図ってくれるように頼み込んだのだろうか。

「おっと、口が滑ってしまったのう」

 明らかにワザとであるが、ウォーゲンはそういっておどけてみせた。その仕草からアズリアは自分の推測が決して間違ってはいないと判断した。秘密をばらしてみせたのは彼なりの悪戯なのだろう。

「今すぐに返事をもらおうとは思わぬ。先ほどもこれからのことを考えるつもりだと言っておったし、選択肢の一つとして考えて見てはくれぬか」
「・・・・はい・・・・」

 思わぬ方向に話が進みアズリアの頭は少々混乱している。一度クールダウンしなければ熟慮などできる状態ではない。そう、答えるしかなかった。

 それで、お茶会は散会となった。





*********







夕食を終えて宿に戻ると、辺りはすっかり夜の帳が下りていた。窓からは月明かりが差し込み、フロイトに「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」を渡すか渡さないかを悩んでいたあの時と雰囲気が似ている。
 そして今また、自分は悩んでいる。

「悩んでばかりだな、わたしは」
 苦笑する。

 それでもともかく悩まねばならない。これからの身の振り方を。これから自分がどう生きていくのかを。

 カンタルクに残るのか、それとも国を出るのか。残るならばそれはウォーゲンの副官になるということとほぼ同義だが、出国するならばどこへ行き何をするのか。

 物思いにふけりながら明かりをつけようと思い、ランプに手を伸ばす。その時、風がアズリアの髪を揺らした。

(…………!?)

 驚いて窓に目を向けると、閉まっていたはずの窓は開け放たれ、窓枠に一人の男が腰掛けていた。

「こんばんは」

 おどけたように男が挨拶する。その人物に、アズリアはいやと言うほど見覚えがあった。いつもの杖は持っておらず、またあの煙管(無煙と言うらしいが)もすっていない。代わりにかなり大き目の黒いケースを抱えている。

「イスト・ヴァーレ・・・・」

 驚くよりも先に呆れた。なぜわざわざ窓から入ってくるのだろう。しかもこの部屋は二階だと言うのに。

「どうして窓から」

 とは聞かない。まともな答えが返ってくるとは思えないから。だからさっさと本題に入ることにした。

「それで、何のようだ?」
「あらら、ツッコミはなし?」

 恐らくはこの状況についてだろう。あいにくとツッコむと話が無駄に長くなるのが目に見えているので、心を鬼にして可能な限り機械的に素早く素っ気なくスルーする。

「なしだ。さっさと用件を言え」

 そう言うとイストは情けないような苦笑いするような顔をして、肩をすくめた。だんだんとこいつの扱い方が判ってきた気がする。

「こいつを渡そうと思ってな」

 そういってイストは抱えた黒いケースを叩いた。入っていいか、と聞かれたので許可すると、彼は身軽に飛んで部屋の中に降り立った。
 備え付けの机の上にケースを置く。

「これは・・・・・!」

 中身を見てアズリアは絶句した。
 ケースの中に入っていたのは一張の魔弓だ。色合いは白銀で統一されており、造りはシンプルでどことなく無骨な印象を受ける。

(ただの魔弓ではない)

 それどころかこれほどの一品、仮に魔道卿の情報網を駆使して探したとして、それでも見つかるかどうか。魔力を込めてみるどころか、まだ手にとってさえいないのにアズリアはそう確信した。

 そこに込められた力と、その存在感が他の魔弓とは格が違う。アズリアがもっている魔弓もかなりいい品なのだが、この白銀の魔弓はそのさらに二、三段は格が上だろう。ほんの一握りの魔道具にしかない、魔道具それ自体が放つ存在感をアズリアは肌で感じ、しばし呆然とした。

「魔弓『夜空を切り裂く箒星(ミーティア)』。気に入ってもらえたかな」

 期待通りの反応が見られて満足したのだろう。ニヤリ、とイストは笑った。とりあえず説明な、といって彼は「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」を指差した。

「知ってると思うけど魔弓には矢を使うものと使わないものがある。こいつは兼用。ただし使う矢は専用のものだ」

 そういってイストは二段になっているケースの下の段を見せた。そこには銀色の矢が十本ほど矢筒に納められている。

「矢も魔道具だ。名は『流れ星の欠片』。消耗品だから設計図を一緒に入れておいた。なくなったら、どこか適当な工房に依頼して作ってもらうといい」

 行き届いている、とアズリアは感じた。同時に消耗品とはいえ、こうも簡単に魔道具の設計図を明かしてしまうイストに驚きを禁じえない。普通、魔道具職人は自分の作った魔道具に関する情報を、どんな些細なものであろうとも、すべて秘匿する。なのに設計図を開示するということは、つまりそれだけ自分の腕に自信があるということなのだろう。

「同じものなんて作れっこない」
 と言うことではなく、

「技術を盗まれてもなんら問題ない」
 と言うことだ。

「後は実際に使ってみてもらうしかないが、結構な威力だからな、試し撃ちは人がいなくて壊れると困るのもがない場所でやることをお勧めする」

 その何気ない言葉から、彼の自分の作品に対する自信が窺えた。過大評価や色眼鏡ではないだろう。実際に「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」を目の当たりにして、その存在感を肌で感じたアズリアとしては、彼のその自信を疑うことなど決してできない。

「最後に注意点。矢を使わないとき、つまり魔力を束ねて放つだけならそうでもないんだが、『流れ星の欠片』を使うと魔力の消費量がハンパじゃない。だから一日に使えるのは三本まで。それ以上使ったら命の保障はしない」

 恐ろしいことを、イストはさらりと言った。魔力とはすなわち生命力だ。魔力を使いすぎたことで、魔導士が死に至る例は決して少なくない。アズリアは神妙に頷いた。

「さて、何か質問は?」
「・・・・・・お前は一体何者なんだ・・・・?」

 ずっと気になっていたことをアズリアはついに口にした。
 実を言えば、「糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》」を受け取ったときから気にはなっていた。どれだけ優れた職人であろうとも魔道具をたった二、三日で、しかも一から作り上げるなど、尋常ではない。あのときはストックしておいたものがあったのかもしれないとも考えたが、今こうして一般のレベルからは逸脱しすぎた魔道具である「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」を手にするにあたり、目の前の人物に対する疑問は深まるばかりだ。

「最初に会ったときに言っただろう。オレはイスト・ヴァーレ。しがない流れの魔道具職人さ」
「それは偽名だろう?ただの流れの魔道具職人が、これほどの魔道具を作れるとは思えないな」

 これほどまでに秀逸な魔道具を作れる職人ならば、引く手あまただろう。考えうる限り最高の条件で工房を任されるはずだ。言い換えれば、それは厚遇されると同時に囲われ管理されると言うことなのだが、それが普通だし、むしろそうでなければならないとアズリアは考えている。

 強力な魔道具を作ることのできる優秀な魔道具職人は、魔導士たちよりもはっきりと稀有で危険な存在だ。例えばこの「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」と同レベルの魔道具を無作為にばら撒かれたら、このカンタルクのパワーバランスなど、あっというまに崩壊してしまう。

 魔道具職人は厚遇される代わりに管理される。職人が優秀であればあるほど、この傾向は強い。

 翻ってこのイスト・ヴァーレという職人はどうだろう。彼が秀逸な職人であることは間違いない。にもかかわらず、彼はいずれの工房にも属していないと言う。そんな人物に対して不審や疑問を感じるのは至極当然のことだろう。

「いやいや、イスト・ヴァーレという名前は本名さ。少なくとも魔導士ギルドのライセンスにはそう記載されている」

 そういってイストがアズリアにみせたプレート状のライセンスには、確かに「イスト・ヴァーレ」の名前が刻まれている。しかしアズリアは納得しない。

「だからと言ってそれが、本名だとは限らないだろう」

 確かにその通りではある。だが、ではどう本名だと証明すれば良いのだろう。しかしイストはそのことには触れなかった。

「だがまあ、偽名じゃないが、受け継いだ二つ名ならある」
「・・・・・まさか・・・・・」

 神がかり的な腕と二つ名を持つ流浪の魔道具職人。そんな存在は、一つしか思い浮かばない。

「・・・・・アバサ・ロット・・・・?」

 イストの口が、ニヤリ、とつり上がった。

 アバサ・ロット。その名は恐らく世界で最も良く知られた魔道具職人の名である。性別年齢一切が不明。だがかの者が作る魔道具はどれも超一級品ばかりで、しかも気に入った相手にだけ譲ることで知られている。アバサ・ロットは千年近く昔からその存在が知られているが、これは「アバサ・ロット」という名前が一種の称号として親から子あるいは師から弟子に受け継がれているためだと考えられている。

 いつの時代もアバサ・ロットの存在は噂の域を出ない。しかしその一方でその存在が虚構のものになることもまた決してない。なぜならば彼(彼女?)の作品がいつの時代にも存在しているのだから。

 これだけ有名であるにも関わらず、アバサ・ロットの偽者が出てくることはまずない。なぜならばその名に見合うだけの腕がなければすぐに偽者とばれてしまうからだ。さらに言えばアバサ・ロットは流浪の魔道具職人だ。名門工房に入りたいがために、あるいは為政者たちから厚遇を受けたいがために、その名を騙ったとしても、そもそもアバサ・ロットはどこかの工房に属すると言うことはなく、すぐにウソだとばれてしまう。それどころか世間知らずのモグリだと評価を落とされるのがオチだ。

 気に入った相手にしか魔道具を作らず、しかも決して代金を受け取ろうとしない。これもまた偽者が現れない理由の一つだ。

 あらゆる意味で伝説の魔道具職人。それがアバサ・ロットだ。

「誇るがいいさ、アズリア・クリーク。家名の力でもなければまして血筋でもない。お前はお前の力で、自分をアバサ・ロットに認めさせたんだ」

 ほんの一握りの偉人たちしか成し遂げたことのない偉業だ誇るがいいさ、とイストは、いやアバサ・ロットは尊大に笑った。

 その様子をアズリアは、半ば呆然として眺めていた。アバサ・ロットに自分を認めさせたというが、何をどうして認めさせたのだろう。

「フロイトに『糸のない操り人形《ノー・スプリング・マリオネット》』を渡したからか・・・・?」

 思い当たる節はそれしかない。渡すかどうかが試験だったとすれば一応の筋は通る。

「いや、渡すかどうかは、実際にはどーでも良かったんだ」
 しかしイストはその可能性をあっけらかんと否定した。

「じゃあどうして・・・・・」
「お前、ちゃんと悩んだだろう?」

 確かにあの時、アズリアは悩んだ。悩みぬいた、といっていい。どちらを選んだとしても結局いつかは後悔するであろうその選択を、しかし目を逸らすことなく真正面から見据えて悩み、そして結論を出したのだ。

「それは賞賛に値する」

 イストがそう言う。今まで聞いたことがないくらい、穏やかな声だった。

「・・・・・・イスト・・・・・・」
「ん?」

 名前を呼ばれた男が振り向く。その顔に、いや顔はまずい。とりあえず腹に・・・・・。

 ――――ドスッ

 アズリアの握り締めた拳がイストの腹筋にめり込んだ。鳩尾を狙わなかったのは彼女なりの温情か。

「とりあえず一発殴らせろ」
「・・・・・殴ってから・・・・・言うな・・・・・」

 殴られた腹を押さえながらイストがげっそりとした顔でこちらを睨む。

「せっかくいい事言ったのに・・・・・・」
「もとはといえば、すべてお前が仕組んだことだろうが」

 当然の報いだ、とアズリアはイストの恨み言をばっさり切り捨てた。

「だからその舞台の中でしっかりと悩んだお前をこうして褒めに・・・・・」

 まだグチグチ言っているイストから、アズリアは、ふん、といってそっぽを向いた。そして、

「・・・・ありがとう・・・・・」

 とてもとても小さな声でそういった。その声がイストに届いたのかどうかは分からない。彼はただ肩をすくめ、

「おう」
 と言っただけだった。

 アズリアは思う。これから先の人生の中で、どんな道を歩もうとも多くの難題に直面するだろう。そしてそのたびに選択と決断を迫られる。正しい答えや、すべての人が幸せになれる選択肢のない問題を前に、わたしはまた苦しむのだろう。

 それでもきっと大丈夫だ。わたしはきちんと悩むことができた。目を逸らさず問題を真正面から見据えて苦しみ、その上で悩み決断を下すことができた。そしてそれが大切だと言ってくれる人がいた。

(だから、わたしはきっと大丈夫だ・・・・・)
 アズリアはそう思う。


 アズリア・クリークが大将軍ウォーゲン・グリフォードの三番目の副官として正式に任命されたのは、この日から三日後のことであった。その手には白銀の魔弓があったという。


―第三話 完―




[27166] 乱世を往く! 幕間Ⅰ ヴィンテージ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/16 10:50
「いっよぉぉおおおお!!レスカ!!嫁さんもらって色惚けてるってブハァアア!!」

 突然屋内に押し入った妙にテンションの高い男、イスト・ヴァーレの顔面に木製のコップが直撃した。

「親父から手紙を見せられたときから、いつかはこのときが来ると思っていたがな。からかいたいだけなら帰れ」

 コップを投げつけた男、レスカ・リーサルはうんざりしたようにいった。イストとは対照的にローテンションだ。恐らく今までに散々からかわれたのだろう。

「フッ!昔の偉そうな人が偉そうにこう言った!『汝、新婚からかうべし!』故にオレはお前をからかう!これはもはや世界の摂理!お前はからかわれるべくしてからかわれるのだ!」
「おい、人の話を聞いているか」
「プロポーズはなんて言ったんだ!?当然お前からだよな!?女性にそんなこと言わせる男なんてそこらの犬畜生以下だもんな!さあ吐け!」
「地獄に堕ちろ」
「まさに殺し文句!!」

 ――――ドスッ!

 恐らくは意図的に自分に都合のいい解釈をして、楽しそうに叫んでいたイストの鳩尾にレスカのつま先がめり込んでいる。これにはさすがのイストもたまらず、鳩尾を押さえてうずくまった。

「お、おま・・・・。ちょ、みぞおちは・・・・・、マジで・・・・・、地獄に、堕ちるから・・・・・」
「フン」
 恨みがましいイストの視線を、レスカはばっさりと切り捨てる。

 オルレアン、という国がある。カンタルクの東、オムージュの南に位置する国で、国土は五二州。そのオルレアンにナプレスという都市がある。この地方の英雄ナプレウスから名を取った都市だ。この辺りの地域は農業が盛んで、収穫期には豊かな大地の実りを求めて多くの商人がこの都市を訪れる。

 この都市でジノ・リーサルという人物が工房を営んでいる。彼は優れた鍛造の技術を持つ鍛冶師で、先代のアバサ・ロットでありイストの師匠でもあるオーヴァ・ベルセリウスと親交があり、魔道具の素体となる刀剣類をよく作ってもらっていた。

 その縁でイストは彼の長男であるレスカ・リーサルと親しくなった。ある時などは彼の家に部屋を借りて、一冬を越したこともある。

 イストがオーヴァから魔道具製作のイロハを教わったように、レスカもまたその父であるジノから鍛造の技術を学び、鍛冶師としての腕を磨いてきた。

「いやだってジノさんの工房に行ったら、お前、結婚して独立したっていうじゃん。これはもうからかうしかない!って思ったわけよ」
「あのクソ親父め・・・・・」

 カンタルクでアズリアに「糸のない操り人形(ノー・スプリング・マリオネット)」を渡した後、イストは魔道具の素体として刀を一本ジノに手紙で依頼していたのだが、カンタルクでの一件を終えてその品物を取りに彼の工房に行ったところレスカの近況を耳にしたというわけだ。

「それに依頼の品はお前が作ったって言ったし」

 結婚を機に父親の工房から独立したレスカは、市街地と農地の境目くらいのところに自分の工房を開いた。工房の名前は「ヴィンテージ」。もともとはブドウの収穫年号やいわゆる「当たり年」を表す言葉なのだが、その派生として名品や一級品を指す言葉としても用いられており、

「いい品物しか作らない」

 というレスカのこだわりが現れている。鋳造の技術が発達したこの時代にあって、鍛造での仕事にこだわる彼らしい名前と言えるだろう。

「お客様ですか、あなた」

 そういって奥から出てきたエプロン姿の女性こそが、レスカの妻であるルーシェ・リーサルだ。レスカよりも三つ年下で、今年十八になる。もともと二人は幼馴染なのだが、その縁でイストはルーシェとも面識がある。

「まあ、イストさんでしたか。お久しぶりです」

 ルーシェの表情が嬉しそうに華やいだ。

「ん、久しぶり。ルーシェちゃん」

 そういってからイストは少し首を傾げた。どうやら、人妻に「ちゃん」付けはよくないか、などと考えているらしい。そして、

「ルーシェさん」
 と言いなおした。

「ジノさんから聞いたよ。結婚、おめでとう」
「ありがとうございます。イストさん、こっちから連絡取れないから、早くいらっしゃるといいなぁ、って思っていたんです」

 ルーシェは満面の笑みでそういった。

「で、プロポーズの言葉、なんて言われた?」
「貴様、まだ引っ張るか」
 レスカが顔をしかめる。

「え、えーっと、プ、プロ、ポーズの、こ、言葉、ですか・・・・!?」

 ルーシェが顔を真っ赤にしてうろたえる。言われたその瞬間を思い出しているのか、その表情は恥ずかしそうだが、同時にとても幸せそうだ。

「あう、あう、あう」
 と、真っ赤に染まった頬に両手を当てて、身もだえしている。

「くそう!無言で惚気られたぜ!」
 イストが再びハイテンションになる。その様子は実に楽しそうだ。

「おい」

 レスカが口を挟むがイストは無視する。ルーシェにいたっては気づいている様子さえない。

「の、のろけだなんで、わたし、そんな・・・・・」
 彼女の赤い顔がさらに赤くなる。湯気が立ってきそうだ。

「いやあ、幸せそうでなによりなにより」
 イストが、うんうん、と腕を組んで頷く。

「おい!」
 レスカがさっきよりも大きな声で口を挟む。が、イストは再びスルーした。ルーシェはいまだに気づく気配が無い。

「で、プロポーズはなんていわれたのかな!?さっさと吐いて楽になるがよろし!」
「そ、それはですね・・・・・・」

 イストの勢いにのまれる形でルーシェがその言葉を洩らそうとしたその時。

「貴様ら!人の!話を!聞けぇぇぇぇぇえええええええ!!」
 レスカの絶叫が、その言葉をかき消した。



**********




「イストさんは紅茶でしたよね」

 イストの半分以上意図的なハイテンションもなんとか収まり、一同は居間に置かれた木製の机を囲んでいる。

「そそ、良く覚えてたね」

 イストからそう言われたルーシェは、嬉しそうに笑った。そしてイストに紅茶を差し出し、レスカにはコーヒーを出した。

「相変わらずのコーヒー党か」
「当然」

 イストは紅茶を、そしてレスカはコーヒーを好む。この点に関してはお互い譲らず、どちらが優れた嗜好品か、を巡って言い争いになることがしばしばあった。

 イストに言わせれば、コーヒーなどと言うものは、

「苦いだけの汚水」
 であり、一方レスカは紅茶のことを、

「味のしない香り水」
 と決め付けている。

 お互いに暴言をもって酷評しあっているわけであるが、しかしその反面イストだってコーヒーを飲むこともあるし、レスカも紅茶を嗜む。だからそれを知っているルーシェあたりに言わせるならばこの二人の口論は、

「口の悪いじゃれ合い」

 ということになる。実に妥当な観察と言えるだろう。

「そうそう、土産があるんだ。ただの土産のつもりが、結婚祝いになっちまったけどな」

 きちんと包装してくればよかった、とぼやきながらイストが机の上に乗せたのは二つの木箱だった。一つは黒い漆塗りの箱で、もう一つは凝った装飾の施された木目調が美しい小箱だ。

「漆塗りのがレスカで、こっちの小箱がルーシェさんね」

 そういってイストは二人に土産を手渡した。

「これは、『無煙』か」

 漆塗りの箱に入っていたのはイストも愛用している煙管型禁煙用魔道具「無煙」だった。予備のカートリッジも何種類か一緒に入っている。別にレスカはタバコを吸っているわけでもなければ、まして禁煙をしているわけでもない。だが夫がこの土産を喜んでいることをルーシェは敏感に察した。

「ジノさんとお揃いだ。ま、オレなりにお前の腕に敬意を表したってことさ
「・・・・・知ってるか?敬意ってのは、言葉にすると薄っぺらくなるんだ」

 そりゃ失礼、といってイストは肩をすくめた。憎まれ口を叩きながらも、レスカはやはり嬉しそうだ。イストがアバサ・ロットであることを知っているレスカとしては、そのイストから腕を認められるのはやはり嬉しいのだろう。

 ちなみに「無煙」を最初に依頼したのは彼の父であるジノだ。こちらは完全に禁煙を目的としていたが。それでも禁煙が成功した今現在でも「無煙」を使っているから、それなりに気に入ってはいるのだろう。

「あら、綺麗・・・・・」

 小箱を開けたルーシェの感想だ。小箱には左半分に台座に固定された結晶体が入っており、残り半分のスペースは小物を入れるようになっている。

 ちなみに結晶体は、魔道具の核としてよく使用される合成結晶と呼ばれるものだ。

「それも魔道具だ。ちょっと魔力を込めてみ」

 ルーシェが言われたとおりに結晶体に魔力を込めると・・・・・・、

「~~♪~~~~♪~~♪♪~~♪」

 朗々とした歌姫の美声が響き渡る。

「まあ、素敵・・・・・」
 ルーシェはうっとりとその歌声に聞き入っている。

「魔道具『歌姫(ディーヴァ)』。ま、オルゴールの魔道具版だな」

 録音されている歌は、この前まで滞在していたカンタルクの王都フレイスブルグで評判の歌姫に頼み込んで歌ってもらったものだ。幸いこの魔道具に興味を持ったらしく、報酬として「歌姫(ディーヴァ)」を一つ贈るということで引き受けてくれた。

「キルシュちゃんにあげた『歌姫(ディーヴァ)』には別の曲が入ってる。興味があったら、今度聞かせてもらうといいよ」
「はい、そうします」
 ルーシェは嬉しそうに礼を言った。

「そういえばキルシュちゃんといえば、本格的に細工師になるらしいな」
 キルシェとはレスカの妹だ。

「ああ、親父の工房で細工師の親方に習ってる」
 そういってレスカはコーヒーを口に運ぶ。

「細工の仕事も増えてきているみたいだし、まあちょうどいいだろう」

 工房を継ぐ気なのかは知らないが、とレスカは付け加えた。キルシュは男勝りで勝気な性格だから、兄のように独立して自分の工房を持ちたがるかもしれない。

「やっぱり鍛造の仕事は少なくなってるのか」
「ああ、今じゃほとんど鋳造で作っている。元々は鍛造で仕事をしていた工房だからな、親父は寂しがっていたが・・・・・・」
 まあこれも技術の進歩ってやつだな、とレスカは肩をすくめた。

 熱した金属を槌で叩きながら鍛え成型する技術を鍛造と言う。一方で溶かした金属を鋳型に流し込み成型する技術を鋳造と言う。

 彼の父であるジノの工房は、もともとはジノの父、つまりレスカの祖父が開いたものだ。この時代ではまだ金属を溶かすほどの高温を得るためには、魔道具を使うしかなかったのだが、その魔道具が高価であったため鋳造の技術は一般には普及していなかった。それが今から五〇年ほど前に魔道具を使わずに高温を得る方法が確立され、鋳造の技術は一気に広まった。

 ジノは彼の父から鍛造の技術を学び鍛冶師として身を立ててきたわけだが、彼が職人として活躍していた時代は、鋳造が鍛造に取って代わるまさにその変遷期であり、それゆえに思うところも多々あるのだろう。

「しかたがないさ。鋳型を使えば品質の安定したものを、安く大量に生産できる。一般大衆に受け入れられるのは当然だ」
 レスカがどこか突き放すようにそういった。

「いいのか?そんなこと言って。お前、鋳造には手を出さないんだろ?」

 レスカは鍛造の職人である。彼の工房「ヴィンテージ」では鋳型を用いた大量生産をすることはない。

「仕事はある。工房を大きくする気がないなら、このままでも十分だ」

 仕事といっても、鉄なべの穴を塞いでくれだの、斧や鍬を作ってくれだの、そんな依頼が多い。

「町の魔道具工房から依頼が来ることもあるしな」

 魔道具は量産ができない。そのため魔道具職人たちは自然と一つ一つの魔道具の質を高めることに腐心するようになり、そのため魔道具の素体もよりよいものを使いたがる。これはアバサ・ロットたるイストも同じだ。

「一つ一つの品物を比べるなら、鍛造で作ったほうが断然いいものができる。仕事は少なくはなったが、無くなりはしないさ」
 その意見にはイストも賛成だった。

「と、無駄話はここまでにするとしてだ、依頼した品物はもうできているんだろうな」

 イストの目が鋭くなる。彼が今日ここを訪れたのはそれが目的なのだ。

「ああ、もう完成している。今持って来る」

 そういってレスカは席を立って奥の部屋に入っていった。戻ってきた彼の手には細長い布の袋が握られていた。

 その中に入っていたのは、一振りの刀だった。レスカはその刀をイストに手渡す。

「拝見する」

 イストは刀を鞘から抜いて、その刃をためつすがめつ眺める。

 軽くそっており優美な曲線を描く鏡の如くに磨かれた刀身。浮かぶ波紋は乱れ乱刃。刃は薄く透明感を持っている。間違いなく第一級の大業物だ。

 刃を何度も返しながら食い入るように見つめ、それからイストは刀を鞘に納めた。

「眼福」
 短い、しかし最大級の賛辞をイストはレスカに贈った。

「さすがだな。オレも自分で打ったりするが、さすがにこれほどの品は無理だ」
「俺に言わせれば、ド素人のはずのお前があれだけのレベルの品を作れるほうが、よっぽど不思議なんだがな」

 レスカは苦笑する。
 イストは自分で魔道具の素体を作ることがあるのだが、その品質は「ぎりぎり一級品」といったレベルだ。イストが鍛冶師としては素人であることを知っているレスカとしては、不思議に思うのも当然だろう。

「ま、それには種も仕掛けもあるってことで」
 自分の技量だけではないことを、イストは否定しない。

「で、それで幾らだ」
「二〇シク(金貨二十枚)」

 二〇シクといえば、一般家庭の五~七ヶ月ぶんの収入に相当する。町の武器屋に行けばこのお金で二〇本近くの剣が買えるだろう。しかしイストはこの額にすぐに応じた。この刀にはそれだけの価値がある。

「妥当だな」

 すぐに金貨を二〇枚数えてレスカに渡す。ルーシェは普段目にすることの少ない金貨の山に目を丸くしている。

「どんな魔道具にするつもりなんだ」
 自分の作った作品の行く末はやはり気になるのか、レスカがそう尋ねた。

「まだ決めてない。これから冬だし、ゆっくり考えようと思ってる」

 冬季は旅がしにくいのか、どこかに腰をすえて春を待つということを彼はよくする。そしてその間に溜め込んだアイディアを形にするのだ。

「また親父の工房を使うのか」
「いや、まだ温かいし、ポルポート辺りにでも行こうかと思ってる」
 そうか、とレスカは呟いた。

「でも、今日はうちでお食事を食べていってくださいね。イストさん」

 仕事の話が終わったと思ったのか、ルーシェがそう声をかけた。いいですよね、とレスカに確認を取ると彼も、かまわない、と言った。夫が了承したのを見ると彼女は手を叩いて喜び、早速食事の支度を始める。

(今更断るのもアレだな・・・・・)

 せっかくだしご相伴にあずかるとしよう。さてどのお酒を出そうかと、ぼんやり考えるイストであった。



[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:26
流れに身を任せて生きていくのも
流れに逆らい生きていくのも
どちらも等しく容易ではない

**********

 第四話 工房と職人

 ポルポートという国がある。カンタルクの南に位置し、そのさらに南には海が広がっている。国土は六七州であり、この国が北のカンタルクと因縁の仲であることは良く知られている。

 このポルポートの王都アムネスティアから程近い位置にパートームという街がある。もともとは街道沿いにあるただの村でしかなかったのだが、ここ十年程で急速に発展した街でありさらにもう二十年後には、ポルポートにおける一大都市になっているであろうと言われている。

 その理由はこの街に作られた国営の魔道具工房「エバン・リゲルト」である。本来は王都に建てるつもりであったらしいのだが、適当な土地が見当たらないと言う理由でパートームに置かれることになったのだ。この国内最大の工房のおかげでパートームはポルトールにおける魔道具の一大生産拠点となり、それまでとは桁違いの人・モノ・金が流入するようになったのである。

 そのパートームのとある飲食店に一人の男がいた。

 背丈は一七〇半ばくらいで、年の頃は二十代の始めといったところか。整った目鼻立ちをしているが、取り立てて美形というわけではない。注文したサンドイッチを片手でパクつきながら、机の上に広げた本やノートとなにやら難しい顔でにらめっこしている。
 
 余談ながら、彼が今食べているこの「サンドイッチ」という食べ物は、とある伯爵がカードゲームを楽しみながら食べられる食事として、コックに作らせたのが始まりとされている。その伯爵の名前はサンドイッチ伯爵。大した事をしていない人物だが、恐らくは本人も考えていなかった分野で歴史に名を残すことになった。

「ふむ、やっぱりこの術式は複雑になるな。合成もするし、もう少し簡略化できないもんかね」

 ぶつぶつ独り言を言いながら、男はノートにペンを走らせる。しかし今もし誰かが彼のノートを覗き見したとしても、その内容を理解することはできなかっただろう。なぜならばそこで使われていたのは一般に普及している常用文字(コモンスペル)ではなく、すでに廃れてしまった古代文字(エンシェントスペル)だったからだ。

 もっともお客の少ないこの時間帯、ぶつぶつと独り言をもらしている人物に近づく物好きなどいなかったが。

 店の扉が開き、一人の少女が入ってくる。

「おばさん、研ぎ終わった包丁、持って来ました」
 そういって少女はカウンターの奥にいる女主人の方に近づいていく。

「おや、ニーナちゃん、ありがとうね。自分で研いだりもするんだけど、やっぱりニーナちゃんのところでやってもらうと、違うからねぇ」
 そういわれると、ニーナと呼ばれた少女の表情が綻んだ。

「ありがとうございます。今後ともご贔屓に」

 包丁を受け取った女主人は一つ一つ手にとって、その研ぎ具合を確かめてゆく。最後の包丁を確かめ終わると、満足したように頷いた。

「でも悪いねぇ。ニーナちゃんの所って本当は魔道具工房なのに、包丁砥ぎなんてさせちゃってさぁ」
「いえそんな。うちには刃物を研ぐための魔道具がありますから」

 ニーナはそういったが、彼女の表情はどこか暗い。多少なりとも現状に不満を持っているのだろう。

「それに、文句ばっかり言っていても仕方ありませんし」

 少女がそういうと女主人は、そうかい、と言ってそれ以上は何も言わなかった。この飲食店は「エバン・リゲルト」ができて、パートームが発展する以前からここで店を構えている。当然ここの女主人は、ニーナや彼女の父ガノスの工房である「ドワーフの穴倉」について古くから知っている。そのため今日の現状が彼女たちにとってあまりよいものではないことも重々承知していたが、軽々しく口にすべきではないと思っているのだ。

「お金は月末にまとめて集金しますので、その時におねがいします」
「あいよ。お父さんにもよろしく伝えといとくれ」

 一言礼を言ってニーナは足を出口に向けた。その時、あのサンドイッチを食べていた男が机に広げていた本やノートが、彼女の視界に入った。

「・・・・・術式理論?」

 何気なく呟いたニーナのその独り言は、男の耳に届いていた。

「そうだが、古代文字(エンシェントスペル)が読めるのか?」

 これがニーナ・ミザリの人生を大きく変える、イスト・ヴァーレとの出会いであった。



**********



「すると、親父さんの工房はもともとニーナさんのお祖父さんがはじめたものなのか」
「そうです。あ、あとわたしのことはニーナでいいです」
「じゃ、オレも呼び捨てにして」

 イストは今ニーナと一緒に彼女の父親の工房である「ドワーフの穴倉」に向かっている。さきほどの飲食店でイストは魔道具に刻む術式、つまり魔法陣の理論設計をしていた。それを見たニーナは、彼が「エバン・リゲルト」の職人ではないかと思ったらしい。

「違うよ。オレは流れの職人だから、どこの工房にも属してはいない」
 イストのその説明を彼女はあっさりと信じた。

「お祖父ちゃんのお師匠さんも、流れの魔道具職人だったらしいんです」
 そのせいか、彼女にとって流れの魔道具職人と言うのは、世間一般が考えるよりもずっと身近な存在らしい。

 さらに聞くところによれば、その師匠は魔道具の記録を付けるのに古代文字(エンシェントスペル)を用いており、当然ながら弟子にもこの現在は廃れてしまった言語を覚えるよう強要したという。

「その流れでウチの工房はいまだに古代文字(エンシェントスペル)を使っていて、わたしもお祖父ちゃんから習ったんです」
 あんまり役に立ってはいないんですけどね~、とニーナは笑った。

 そんな彼女の話に相槌をうちながら、イストは古代文字(エンシェントスペル)を用いる流れの魔道具職人について考えていた。

(もしかすると、アバサ・ロットかもしれない・・・・・)
 というか、それ以外心当たりが無い。

 ニーナの父祖がその人に弟子入りしたということらしいから、イストの師匠で先代であるオーヴァの若かりし頃か、あるいはその前の代の、つまり先々代のアバサ・ロットかもしれない。

(ま、確かめる術はないけれど・・・・)

 ニーナの祖父はすでに他界しているらしい。もし仮に彼の師匠がアバサ・ロットだったとしても、それを家族に話しているとは思えない。かの魔道具職人に関する情報は軽々しく人に話すにはあまりにも危険で、そのことはアバサ・ロットの近くにいればいるほど良く分かる。

(直接の弟子だったんなら、師匠の名を使わなくたって自立していけるだろうし)

 実際に自分で工房を開いて、それが今現在まで残っている。彼の人生はそれなりに順調だったのだろう。

「それよりもいいのか、オレが親父さんの工房にお邪魔しちゃって」

 今イストがニーナに連れられてドワーフの穴倉に向かっているのは、イストが流れの職人だと知ったニーナが、

「それならうちの工房を使ってください」
 と言ったからだ。

 どうやら祖父とその師匠が、たびたびどこかの工房を借りて作品を作っていたという話を聞いていたらしい。

「大丈夫です。設備も整ってますし、お父さん、一人で持て余してますから」
 そこまで言うと、ニーナはふいに俯いた。その表情は心なしか暗い。

「エバン・リゲルトができるまでは、お父さんの工房、結構評判良かったんです。それなのに・・・・・」

 エバン・リゲルトができる前、「ドワーフの穴倉」では六人の職人が働いていた。創業者であるニーナの父祖はもう引退していたが、彼の息子であるガノスを中心に弟子たちが工房を守っていたのだ。

 だが国営の魔道具工房である「エバン・リゲルト」ができたことで、ドワーフの穴倉の状況は悪化する。

「お祖父ちゃんのお弟子さんたち、みんなあっちに引き抜かれちゃって・・・・・」

 魔道具職人の引き抜きは、日常茶飯事である。職人たちもまたそれを普通とし、より良い条件を提示する工房には多くの職人たちが集まってくる。そして当然のことながら各工房にはそれぞれの規則があり、職人たちはそれを遵守するよう求められる。

 いやな言い方をするならば、この世界はそうやって黄金色の鎖を使い、魔道具職人たちを囲い込みまた管理しているのだ。

「『エバン・リゲルト』ができてパートームは大きくなったけど、ウチは細る一方です・・・・」
 イストは肩をすくめるだけで、何も言わなかった。

 彼に言わせるならば「ドワーフの穴倉」が零細に陥っているのは、ひとえにガノス・ミザリの腕が不足しているせいである。

 魔道具職人の世界は冷徹なまでの実力主義だ。成果主義と言い換えてもいい。強力な、そして便利な魔道具を作ることができる職人のみが、高い評価と破格の待遇を得ることができるのである。

 逆に言えばどこかの工房に属したりしなくても、秀逸な魔道具さえ作れればそれは高値で売ることができる。実際イストをはじめとする歴代のアバサ・ロットたちは、そうやって旅や開発の資金を得てきたのだから。もっとも魔道具を売るさいには「アバサ・ロット」の名を名乗ることは決してしないが。

 ゆえにイスト・ヴァーレという魔道具職人はこう考える。

「工房が細る一方なのは、ガノスの腕が未熟だからだ」

 とはいえこれは卓越した技術と知識をもっている彼の、アバサ・ロットのエゴだろう。独立都市ヴェンツブルグでの騒動をみれば分かるように、イストほどの腕を持つ職人というのは本当に稀少な存在で、誰もが彼のように優秀な魔道具を作ることができるわけではないのだから。

 そもそも新しい魔道具を一から作ろうとすればそれなりの開発費がかかる。天然の宝石でも使おうとすれば、十~二十シク(金貨十~二十枚)かかることはザラだ。加えて開発には時間がかかり、その間の生活費も必要になる。職人が少なく一度経営が傾いた工房は、職人の腕如何にかかわらず、なかなか新魔道具の開発に手を出せないのが現実だ。

「あ、ここです」

 少々くらい話をしている間に、どうやら「ドワーフの穴倉」についたらしい。一時期は創業者であるニーナの父祖を含めて七人が働いていただけのことはあり、工房はそれなりに大きく作りも重厚である。だが中から響いてくる音は小さく工房内が閑散としていることを示しており、それがそこはかとなく哀愁を感じさせる。

「お父さん、ただいま」

 そういってニーナが工房の中に入っている。イストも、おじゃまします、と声をかけて中に入った。

 工房の中を見回してみると、なるほど確かにニーナが言ったとおり設備は整っている。

(庵はもっとすごいけど・・・・・)

 イストの言う「庵」とはアバサ・ロットの工房「狭間の庵」のことである。確かにあそこの設備はここよりも充実している。歴代のアバサ・ロットたちが、

「あると便利だから」

 と言う理由で自作の機材を作っていった結果、原材料さえあれば一から魔道具製作が可能なほど設備は充実している。たった一人のためにあれだけの設備を用意したのだ。普通の工房からすれば開いた口がふさがらないであろう。

「でね、お父さん。冬の間、イストにここを使わせてあげたいんだけど、ダメかな」
 イストが工房内を物色している間に、ニーナが説明を済ませたらしい。

「差し支えなければ、そうさせていただけるとありがたい」

 イストも頼み込む。ただダメだった場合、「狭間の庵」を使えばいいと思っているせいか、どうにも真剣味に欠ける。

 ガノスは娘を見た。彼女は何も言わなかったが、その目は言葉以上に切実な思いを伝えてくる。

「・・・・・・ここでよろしければ、いくらでも使ってください」

 イストが礼をいい、ニーナは手を叩いて喜んだ。そんな娘の様子を見て、ガノスは己のふがいなさを思いため息をついた。





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:27
ニーナ・ミザリは魔道具職人に憧れている。

 ニーナを知る多くの人はあるいは否定するかもしれない。しかし父親であるガノスはそのことを確信していた。

 ガノスの妻はニーナを産んだ後、産後の肥立ちが思わしくなくニーナが二歳のときにこの世を去った。以来ガノスは彼女を男手一つで育ててきた。

(いや、ワシは育てることしかできんかった・・・・・)

 ニーナは幼い頃から工房に出入りしていた。それも仕方が無い。幼い子どもを家で一人にしておくわけにもいかなかったのだ。ガノスの父が始めた工房「ドワーフの穴倉」で、彼女は職人たちの仕事を見ながら成長していった。

 彼女が最も憧れた職人は、まず間違いなく創業者であるその祖父であろう。彼の仕事を、目を輝かせながら魅入っているニーナの姿を、ガノスは良く覚えている。祖父もまた、孫が自分の仕事に興味を持ってくれているのが嬉しかったのだろう。時間を見つけては色々と教えていた。古代文字(エンシェントスペル)も彼がニーナに教えたのだ。

 だが父祖が他界し、「エバン・リゲルト」ができて状況は一変した。弟子たちは工房を去り、「ドワーフの穴倉」は一気に落ち込んだ。ガノス自身もまた「エバン・リゲルト」から勧誘を受けていたが、死んだ父の遺したこの工房を畳む気にはどうしてもなれなかった。

(ワシのくだらないプライドのせいで、ニーナに不自由をさせている・・・・・)

 魔道具職人になる方法は主に二つある。

 一つは専門の学校に通って知識を得ること。
 そしてもう一つはどこかの工房に弟子入りして、そのイロハを学ぶこと。

 工房主の娘であるニーナは、本来ならばごく自然にその知識を得られるはずであった。しかし「ドワーフの穴倉」の経営が傾いたことで、ガノスはその日の糧を稼ぐだけで精一杯の状態で、とてもではないが娘を教えることなどできない。新しい魔道具を作りたくとも先立つものがない。

 当然、専門の学校に通わせるだけの余裕も無い。

 別の工房である「エバン・リゲルト」に弟子入りするという手段もあるが、ガノスがこの街で「ドワーフの穴倉」を経営している以上、先方が受け入れないであろう。

 どうにも、打つ手が無い。

 ニーナ自身は、魔道具職人になりたいとは言わないし、またそのそぶりも見せない。だがニーナがイスト・ヴァーレと名乗る流れの魔道具職人を連れてきたとき、ガノスは彼女がまだ夢を諦められないでいることを悟った。

(この一冬の間に、色々と教わりたいのであろうな・・・・・)

 自分ではなく、イストから。

 恐らくは気を使ってくれたのだろう。ガノスは教えたくとも、教えてやることができない。そう考えれば、仕方ないともいえる。しかしそれでも、

(なんとも情けない親だ・・・・・)
 そう思わずにはいられなかった。

**********

 ニーナに連れられてイストが案内されたのは、工房の二階にある一室であった。さして広くも無い部屋ではあるが、ベッドと机それにタンスが用意されていた。

「もともとはお弟子さんの部屋なんですけど、空いちゃっているのでここを使ってください」
 そういってニーナはさらに説明を続ける。

「わたしとお父さんは工房の隣の家に住んでいます。ご飯はそっちで用意するので、食べに来てくださいね」
 それから、といって彼女は指を折りながら細々とした説明をしていく。

「何か足りないものがあったら言ってください。すぐ用意しますから」
「ん、ありがと。そうさせてもらう」
 そう礼をいってからイストは、ああそれから、と思い出したように付け加えた。

「八シク(金貨八枚)でいいか」
「えっと、なんでしょう?」

 本当に分からないのか、ニーナは首をかしげた。そんな彼女に対しイストは「食費部屋代その他諸々のお金」と答えた。

「三・四ヶ月ここにお世話になるんだ。八シクなら不足はないと思うんだが」

 そういって財布を取り出すイストに、ニーナのほうが慌てて声を上げた。

「そんな!いくらなんでも八シクなんて頂きすぎです!」

 しかしイストはそんなことは気にしなかった。財布から金貨を八枚取り出すとニーナの手に握らせた。

「イスト!」
「気にすんな。オレとしても金払っといた方が、心置きなく迷惑かけられるからな」

 冗談めかしてそういうことで、イストはニーナの気持ちを軽くした。
 イストが「食費部屋代その他諸々」として八シクの金額を提示したのは、決して感傷や安っぽい同情ゆえではない。工房という専門的な施設を借りる以上、それくらいの金額を払うのが筋だと考えているのだ。

「少し前に、まとまった金も入ったことだし」

 当然、独立都市ヴェンツブルグで聖銀(ミスリル)の製法を売りつけた際の一万シクのことだ。もっとも実際に受け取ったのは四つの勢力から五百シクのみで、残りの八千シクはレニムスケート商会も加わっている商業ギルドの預金口座に振り込まれている。それでもイストの懐には二千シクの現金が舞い込んだわけで、確かにその金額に比べれば八シクなどさして気にはならないのかもしれない。それに現在リリーゼが持っている「水面の魔剣」を売却したお金もまだ残っている。

「それじゃあ、頂いておきますね・・・・・」

 そういうと、ニーナはおっかなびっくり手のひらの金貨を懐にしまいこんだ。それから何か思いついたように、パッと顔を輝かせた。

「それじゃあ!今晩のお食事は豪華にしますね!」
「いいな。そうしてくれ」

 イストがそういうと、ニーナは嬉しそうに返事をして部屋から出て行った。その後姿を見送ると、ふいにイストの表情が鋭くなった。

「さて、今のうちに庵から必要なものを取り出しておかないとだな」

 さすがにアレを見られるわけにはいかない。手早く済ませる必要がある。
 左の手首にはめられた古い腕輪に魔力を込める。何も無いはずの空間に突如として現れた石造りで蔦の絡みついた扉、その扉の奥にイストは消えていった。


 その日の夜の食事はガノスが目を丸くするほど豪華なものだった。共に酒(イストが持ち込んだ)を酌み交わしたせいか、ガノスとイストはすぐに打ち解けることができた。
 
 久しぶりに快酔した夜であった。





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:31
シーヴァ・オズワルド、という人物がいる。

 この人物が何を成したのか、ここでは書かない。読み進んでいただければ、いずれ筆を取る機会もあるだろう。

 だが、この時代の歴史書を紐解くと、必ず彼の名前を目にする。ゆえに彼を舞台に登場させないことには、この物語も前に進まない。

 彼を舞台に上げるにあたり、とりあえず彼の出身地であるアルテンシア半島について記述したいと思う。

 アルテンシア半島はエルヴィヨン大陸の北西に突き出る形で位置している半島である。半島の先端の緯度はアルジャークよりも少し北に位置し、その付け根はオムージュやモントルムよりも南にあり、大陸の中央部にも近い。アルテンシア半島が巨大な半島であることは分かっていただけよう。

 アルテンシア半島の歴史は悲惨である。

 もっとも歴史書からさして独創的でもない言葉を引用するならば、
「歴史は流血のインクで記されている」
 ということになる。だがそれでもアルテンシア半島における「インク」の量が他と比べて群を抜いていることは、多くの歴史家たちが認めている。

 アルテンシア半島における「インク」の量が多くなるのは、多くの都市国家が乱立する頃からである。これらの都市国家はそれぞれが一州から多くとも五州程度の領地を支配し、それぞれ独自の文化を育んでいった。

 支配単位が複数あれば、流血の交渉がもたれるのは、歴史としてはごく自然な流れである。

 アルテンシア半島の版図は二三七州。この広大な版図の中で七十人強の領主たちが互いに凌ぎをけずり合ったのである。この頃の歴史を紐解けば、一日のうちに複数の戦場で流血がなされている事例を数多く見つけることができる。

 どこかの村が消えてなくなった。どこそこの街が火の海になった。食料庫が襲撃を受けた。境界線があちらにこちらに書き変わった。これらのことはごくごく日常的なことであった。

 アルテンシア半島の悲劇は続く。

 この土地があるいは独立した島であれば、そのうち英雄が現れ統一を成し遂げたかもしれない。しかし残念なことにこの土地は大陸にくっついた半島であった。

 半島の南や南東から、侵略者が押し寄せてきた。領地拡大と言う国家の欲望の前では、混乱をきたしている半島など格好の獲物でしかなかった。加えて、半島と言う地理的な立地は大陸とは異なる文化が育つ土壌となりうるが、アルテンシア半島の場合もそうであった。そして人は異文化に対し、時として想像を絶する蛮行をもってのぞむことがあり、それはこの半島において現実に行われた。

 アルテンシア半島を脅かす侵略者は、大陸側からのみやってきたわけではない。

 半島の先端のさらにその先に、ロム・バオアと呼ばれる大きな島がある。この島は冬が長く、土地がやせているため、穀物は育たない。同じ北国でもアルジャークなどは土地が肥沃で夏になれば奇跡のように実りを産するが、そのことと比べれば不幸な島であると言えるだろう。

 だがそのような島でも人は住んでいる。大陸の人々が蛮族というところのゼゼトの民である。彼らは狩猟民族であった。

 一般的な話であるが、狩猟民族や遊牧民族の直接的な収入源は動物の肉や毛皮である。では彼らが主食として肉を食べているかと言えば、実はそうではない。彼らの主食もまた穀物なのだ。ではその穀物をどうやって手に入れるかというと、早い話が肉や毛皮と物々交換するのである。

 ゼゼトの民もまた同じであった。彼らは狩猟によって得た肉や毛皮をアルテンシア半島に持ち込み、そこで穀物などと交換していた。

 そんな彼らが、大陸側からの侵略とほぼ時を同じくして、略奪を活発化させたのだ。

 理由は幾つか考えられる。

 まず第一にこの半島における混乱は彼らの目にも好機と映ったのだろう。略奪ならば思うままに欲望を遂げることができる。人の理性のたがは外れやすい。

 加えて混乱により穀物を得ることができなくなったとも考えられる。穀物を手に入れなければ彼らとて餓えるしかなく(肉ばかり食べていてはすぐに獲物がいなくなってしまう)、それを避けるためにはあるところから奪うしかない。

 こうしてアルテンシア半島は南北双方から侵略を受け、その混乱と惨状たるや悲惨なものであった。ここの領主たちが足並みを揃えることなく、個々に対処を試みていた時期はとくにそうであった。

 ことここに至りついに、アルテンシア半島の領主たちは団結という選択に踏み切ることとなる。アルテンシア同盟の結成である。この同盟に参加した領主は当初十三人で、最終的には五十六人にまで増えた。

 同盟の締結により状況は好転した。

 細かい記述は避けるが、侵略軍の中で最も兵力が多かった(十三万五〇〇〇人と記録されている)軍を打ち破ったのを皮切りに、アルテンシア同盟軍は各地で勝利を積み重ねていった。

 同盟軍が強いと見るや、侵略者たちは内輪もめを始めるようになった。彼らの目的はあくまでも侵略と略奪で、奪う相手はなにも同盟軍なくともよかったのだ。

 混乱に付け込み、付け込まれる関係は、ここにおいて逆転した。侵略者たちはあれよあれよと言う間にアルテンシア半島から追い出されたのである。

 残るは蛮族のみである。もっともこちらはすぐに終わった。混乱が収束するのと比例するように、ゼゼトの略奪隊はなりをひそめていったのである。

 侵略者はいなくなった。しかしアルテンシア半島の人々の心には大陸人とゼゼトの民への言いようのない恐怖が残っている。その恐怖は克服されねばならず、彼らはそのために行動を起こした。

 大陸側に関しては半島の付け根に堅牢な要塞を築き、いわば半島の出入り口に栓をした。この要塞はゼーデンブルグ要塞といい、なんと常時十万の兵を駐在させ大量の兵糧を抱え込んだ大要塞であった。

 ゼゼトの民に対しては、要塞を築く場所が問題となった。彼らの略奪隊はいわばゲリラであり、不特定多数の場所に出現する。半島内のどこか一箇所に要塞を設けたとしても意味がない。設けるのであればロム・バオアに設けなければならない。

 同盟軍は兵を催し、ロム・バオアに出兵した。そして破竹の勢いでロム・バオアの南半分よりゼゼトの民を駆逐し(多くのゼゼトの民は北のほうに逃れた)、そしてそこにゼーデンブルグ要塞と同規模の要塞である、パルスブルグ要塞を建設した。これによりアルテンシア同盟は、半島とロム・バオアのあいだの制海権を獲得し、ゼゼトの民を北へと追いやったのである。

 これだけの事業を、侵略によって痛めつけられたアルテンシア半島の人々がやってのけたのである。いかに彼らの恐怖が深刻であったが、慮ることができる。

 二つの大要塞に守られて、アルテンシア半島はようやく侵略者から解放された。領主たちも同盟の必要性を重々認識しており、内輪もめもひとまずは収まった。こうして半島に住まう人々は安息を手に入れたのである。




**********




以下、シーヴァを舞台に上げるため、続けて記す。

 ゼーデンブルグ及びパルスブルグの両要塞はもちろん、建設工事用の魔道具が存在するとはいえ、完成までにそれなりの年月を費やしている。だがその基礎となる部分は比較的早い段階で完成した。

 このときより、アルテンシア半島の人々は血みどろの戦争から解放されたと言っていい。そして次に始まるのは復興である。

 あるいはこの時代が、アルテンシア半島の人々にとって最もよい時代だったのかもしれない。

 領主と領民は等しく被害者であり、また復興を志す同志であった。今日の努力が明日には報われ、流した汗の量だけ幸せになれると、人々は本気で考えることができた。苦難の先には成功と豊かさがあり、十年二十年先の未来は輝かしいと、ごく素朴に信じることが許される時代であった。

 だが、そんなよき時代もいずれは終わりを告げる。

 復興を果たし豊かになった土地をただ受け継いだだけの領主たちの時代になると、半島の住民たちの上に再び暗雲が立ちこみ始めた。

 アルテンシア同盟への参加により、領主たちは外敵に警戒する必要がほとんどなくなったといっていい。半島外の侵略者は二つの大要塞(この時期にはすでに完成している)がこれを防ぐだろう。他の領地を侵略することなどできないが、逆に自分の領地を侵略される恐れもない。

 自然、彼らの目は自分たちの領地に向く。

 領主たちは互いに競い合うようにしながら、自分たちの周りを豪華絢爛に飾り付けていった。壮麗な城と屋敷をいくつも建て、何人もの愛妾を囲い込んだ者がいる。黄金と宝石を溜め込んだ者がいる。珍しい魔道具を買い漁った者がいる。

 これらの出費はすべて、領民たちの血税によってまかなわれていた。小幅ながら繰り返し行われた増税によって、税率はついに六割を超えている。

 役人たちも腐敗した。賄賂を贈らなければ何もできない。貧しい者が無実の罪で獄へと引いていかれる。犯人捜査の名目で略奪が行われることも度々あった。

 アルテンシア同盟と言う「家」を支える、いわば「柱」が腐りもはや腐臭さえ放っている時代。それがシーヴァ・オズワルドという男が舞台に上がる時代であった。

 アルテンシア同盟には二種類の軍隊がある。

 一つは同盟軍と呼ばれ、同盟に参加している領主たちが資金を出して運営し、半島全体から兵を募っている。同盟を一つの国と考えれば国軍に相当する存在である。

 もう一つは警備隊と呼ばれている。これは各領主が自身の領地におくもので、軍隊と言うよりも警察機構を想像したほうが、役割としては近い。ただ実質的に領主の私兵であり、それゆえに腐敗するスピードも速かった。

 シーヴァは同盟軍の将軍であった。役職名はパルスブルグ要塞司令官及び要塞常備軍司令官。パルスブルグ要塞を預かり、ロム・バオアにてゼゼトの民からアルテンシア半島を守る、北方の守護者であった。

**********

 一人の男が城壁の上から雪原を眺めている。長身痩躯で、歳の頃は三十と少しといったところか。無造作に伸ばされた黒い髪の毛をもてあそぶ風は、刃にも似て鋭く冷たい。

「ここにおったか、シーヴァ」

 その声を聞いてシーヴァはすぐに相手を察した。この要塞の中で彼を呼び捨てにする人間など一人しかしない。

「珍しいですな。ベルセリウス老がここに来るとは」

 城壁に現れたのは一人の老人であった。その眼光は鋭く、この人物が曲者であることが傍目にも良く分かる。

「お主に少し用事がな」

 そう言ってから、ベルセリウス老と呼ばれた老人は身を震わせた。

「しかし、ここは寒いな」

 その言葉にシーヴァは苦笑する。要塞の一角に設けられたベルセリウス老の工房は、要塞内いやロム・バオアで間違いなく最も暖かい部屋である。兵士たちが老人の工房に温みにいって捕まり、そのまま強制労働させられていた事件は記憶に新しい。開放された兵士たちは、

「助かりました!もうサボりません!」

 と、泣きながら言ったそうな。厳しい訓練を積んだ屈強な兵士たちに、トラウマじみた恐怖を植えつけた強制労働について、シーヴァは深く考えないことにしている。

「して、要件は何ですかな」

 要塞内で起こった珍事件についての記憶はひとまずおいておき、シーヴァはベルセリウス老に尋ねた。

「依頼のあった魔弓『とく速き射手(アルテミス)の弓』注文通り三十張、完成した」
「そうですか。ありがとうございます」

 シーヴァが礼を言うと、ベルセリウス老はつまらなそうに「ふん」と鼻を鳴らした。

「退屈な仕事だった。二度とやらせるな」
 あまりに率直過ぎる物言いにシーヴァは再び苦笑した。

「そうするとしましょう。なにせ老公を怒らせると後が怖い」

 シーヴァは肩をすくめるようにしてそういった。ベルセリウス老は特に何も言わなかった。あるいは自覚しているのかもしれない。

「・・・・・・もうすぐか」
「ええ、老公に造って頂いた魔道具のおかげでかなり戦力に余裕ができた。ゼゼトの民を引き込めれば御の字」

 シーヴァの目に危険な光が宿る。

「お主は好きにやれ。儂は儂の作品が世界と歴史を動かす様子を見物させてもうとする」

 アルジャーク帝国がそうであったように、この時代歴史は極寒の大地から動く。





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:35
 イストが「ドワーフの穴倉」で間借りするようになってから、およそ一週間が過ぎた。この間、イストは魔法陣の理論構成に精を出していた。工房の二階に設けられた彼の部屋には、資料が散乱し足の踏み場もない状況になっている。(寝るときに蹴落としているのか、ベッドの上はきれいだった)

「ど、どこからこの資料、取り出したんですか!?」

 驚愕するニーナにイストは「玩具の本棚《ミニチュア・ブック・シェルフ》」という魔道具を見せた。この魔道具、見た目は本当に玩具の本棚なのだが、魔力を込めると本物サイズの本棚になる。ここに資料を収めてもう一度魔力を込めると、資料ごと玩具サイズに戻る。確かにこの魔道具があれば大量の資料を持ち運ぶことができるだろう。

 二階で魔法陣の術式を構成し、下におりてきてそれを試し(さすがに狭いところではやりたくないらしい)、その結果を記録しまた二階に戻って術式の構成を考える。ちなみにイストは魔法陣を試すとき、「光彩の杖」を使って魔法陣を描いているのだが、これにはニーナだけでなくガノスも驚いていた。ただイストに言わせれば、

「紙や地べたに描くよりもよっぽど効率的」
 なのだという。たしかに「光彩の杖」を使えば術式の書き換えも容易で、効率的といえるだろう。ただし「光彩の杖」の扱いに熟練していれば、だが。

 とはいえニーナはちょっぴり不満である。イストが現在取り組んでいる魔法陣はどれも高度に難解なものばかりで、いくら古代文字(エンシェントスペル)が読めるとはいっても、その内容を理解することなどできはしない。部屋に散乱している資料を読んでもみたのだが、さっぱり理解できなかった。魔道具職人としての知識なり技術なりを、この一冬の間にイストから盗もうと画策している彼女としてはなんとももどかしい。

「まったく新しい魔道具を一から作ろうとしたら、魔道具職人の仕事の半分は術式構成だ。技術職っていうよりは、どっちかって言うと理論屋だな」

 あるときイストは彼の部屋で資料とにらめっこしていたニーナにそういった。だとすれば彼女にとって由々しき事態である。これらの資料を理解できない彼女は、魔道具職人にはなれないことになってしまう。

 なんとか知識を得たいとは思う。しかし忙しくしているイストに、弟子でもない自分が教えを請うのは躊躇われた。悶々とした思いを抱えながら、ニーナはここ数日を過ごしていた。

 ニーナがイストから街の案内をすることになったのは、一晩中降り続いた雨が上がり随分と寒くなった朝のことであった。

「合成結晶体を見に行きたいんだが、店を教えてくれないか」

 合成結晶体とは魔道具の素材の一つで、主に核として用いられることが多い。本来は自然界に存在する結晶、簡単に言えば宝石を用いていたのだが、如何せんコストがかかりすぎるため、人工的に合成されたものが出回るようになった。

 これらの結晶体は「練金炉」と呼ばれる魔道具を用いて合成されるのだが、もともと宝石を模してつくられており、その見た目の美しさから装飾品としても用いられるようになっている。

「結晶のストックが無くなりそうだから買っておきたい」

 だから扱っている店を教えて欲しい、と頼んできたイストに対しニーナは自分が案内すると申し出たのである。もちろん彼女の腹のうちには、そうやってついて行けば何か教えてもらえるのではないかと言う思惑がある。

 イストは彼女の思惑について、おおよそは察しているのだろう。特に何も言わず好きにさせていた。知識や技術に対して貪欲な姿勢は、彼も嫌いではない。だから、店に向かう道すがら彼がこんなことを言い出したのは、あるいはただの気まぐれではなかったのかもしれない。

「人工石(合成結晶体のこと)と天然の宝石、何が違うと思う?」

 煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吸い、白い煙(水蒸気だという)ながら、ごく自然にイストはそうニーナに聞いた。

「えっと、値段、じゃないんですか」

 すっかり見慣れてしまった「無煙」を吸うその姿はどこまでも自然体だ。しかしニーナは欲していた知識を得られる機会が突然やってきたことに驚いた。

「一応正解。確かに人工石と天然石ではコストが違う」
 だが、とイストは続けた。その口調はまるで生徒を教える教師のようだ。

「今でも天然石のほうを好んで使う職人さんはたくさんいる。コストがかかることを承知で、だ」
 なんでだ、とイストはニーナに問いかけた。

「見栄え、ですか・・・・・?」
 それ以外、思いつかなかった。

「三十点」
 イストの採点は辛口だった。というより何点満点なのだろう?

「確かに王族や貴族から依頼された品は、見栄えを気にして天然石を使うことが多い。だけどちゃんと技術的な理由もある」
 分かるか?とイストは「無煙」を吹かしながら聞いた。

「・・・・・・分かりません・・・・・」

 小さな声で、呻くようにしてニーナは答えた。俯き悔しそうに下唇を噛む。自分の無知が恨めしかった。

 そんなニーナの様子を、イストは恐らくは意図的に無視して、それまでと一向に変わらない調子で正解を口にした。

「天然石には一個一個、くせとも言うべきものがあるんだな」
「えっと、それはつまり宝石の種類ごとに特性があるってことですか・・・・・?」
 横目で窺うようにしてニーナが尋ねた。

「確かに天然石にはその種類ごとに特性がある」

 例えば赤い石は炎と相性が良く、青い石は水や氷と、緑の石は風と相性が良い、と言ったふうだ。この場合、「相性がいい」とはすなわち「魔法陣(術式)と相性がいい」と言うことであり、「刻み込んだ術式以上の効果を得られる」ということだ。一種のブースターのようなものだと思えばよい。

「ただ、これは人工石も同じだ。そもそも人工石は天然石を模して作られたものだし」

 人工石にもまた、天然石と同様の特性がある。まったく特性を持たない人工石もあるが、これは例外的な存在だ。程度の幅こそあれ、その点では人工石と天然石には差異はないといえる。

「だから、さっきオレが言ったくせってやつはそういう特性とはベツモノだ」
 イストは「無煙」を吹かし、白い煙(水蒸気らしい)を吐き出した。

「赤い石、例えばルビーやガーネットは炎と相性がいい。これは種類に共通した特性だ。だが同じ種類、ルビーならルビーでも一つ一つの石が別の特性を持っている。これをくせと言うわけだ」
「・・・・・・良く分かりません・・・・・・」

 首を捻るニーナに、イストはさらに説明を続ける。

「例えば『鳳凰の剣』ってあるだろ?」

 「鳳凰の剣」とは世間一般に良く知られた炎の魔剣だ。生み出された炎が優美な鳥の姿に似ていることからこの名前が付けられた。

「あの魔剣は大粒のルビーを核に使っているんだが、術式だけ見れば炎が鳥の形になる訳がないんだ」

 つまり核に使用されたルビーの特性によってそうなったと言える。

「だけどルビーを核に使っている炎の魔剣なんて、この世に幾らでもあるだろう?」

 だがその中でただ一本「鳳凰の剣」のみが、鳥を模した炎を生み出すことができる。これはつまり「ルビーの特性」によるのではなく、「使用されたルビーの特性」によるものだと考えることができる。

「・・・・・つまり結晶体にはその種類ごとに特性があって、その中でも特に天然石は一つ一つの石が異なる特性を持っている、ってことですか?」

 分かるような、分からないような。

「そう。もっと簡単に言えば『天然石は特性を二つ持っている』ともいえる」
 なるほど、そう言われれば簡単だ。

「あの、一つ質問があるんですけど・・・・・」
 とりあえず分った気になったところで、ふとニーナの頭に疑問が浮かんだ。

「ん?」
「そのいわゆるくせって使う前に分るものなんですか」
 でないと物凄く使い勝手が悪いような気がする。

「いや、術式を刻んでみるまでは分らない」

 ビックリ箱みたいで面白いよな、とイストは笑った。だがニーナとしてはそこまで楽天的にはなれない。

「それじゃあ設計もできないんじゃないんですか」
「特性に反するくせはないし、刻んだ魔法陣と反発するなんてことも聞いたことがない」

 完全な予想はできないが、まるっきり想定外のものができ上がるという事もない。そういうものらしい。

 そんな講義を聞いているうちに、二人は目的の店に着いたのであった。





************







 ニーナに連れられてやってきたのは、なんてことはない普通の宝石店だった。この店は「エバン・リゲルト」ができて、パートームが村から街に発展するその過渡期にできたのだと言う。奥は小さな工房になっており、選んだ宝石を指輪や首飾りにはめ込んだりといった加工もしているらしい。

「人工石を見せてくれ」

 店に入ると、イストはカウンターの向こう側にいた品のいい中年男性の店員にそう声をかけた。

「合成石(人工石のこと)が目当てと言うことは、お客様は『エバン・リゲルト』の新しい職人さんでしょうか?」

 天然石に比べて廉価な合成石は、装飾品としても広く流通している。だがこの街では装飾品としてよりも、魔道具の素材としての需要のほうが多いのだろう。後で知った話だが、この店で取り扱っている商品の実に八割が人工石だという。

「ハズレ。オレは流れの職人だよ。今は『ドワーフの穴倉』に厄介になってる」

 流れの職人なんているんですねぇ、と妙なところに感心して、店員はカウンターの上に箱を幾つか並べた。その中には色とりどりの石が納まっている。言うまでもなくすべて合成石だ。

「さすがにクオーツはないか・・・・・」
 並べられた人工石を眺めながら、イストはそうもらした。

「クオーツ?水晶でしたら、ございますが・・・・・」
「あ、いや。オレの言うクオーツってのは『エレメントクオーツ』のことだ」
 そういってイストは商品を取り出そうとする店員を制した。

「エレメントクオーツ?」

 聞きなれない単語にニーナは首を捻る。

「ん?親父さんの工房では使わないのか?」
「ということは魔道具の素材ですか?」

 宝石にはその種類ごとに特性があり、一つ一つがくせ(・・)をもつ。これはすでに説明した。だがそれはあくまでも術式を刻んだ後に現れるのもであって、その前はただの宝石でしかない。

 エレメントクオーツとは、言うなれば「自前の術式をもった結晶体」だ。

 例えば炎のエレメントクオーツは、魔力を込めるだけで炎を生み出すことができる。こうして刻む術式を簡略化できるのだ。

「確かにそのような商品は、当店では扱っておりませんね・・・・・」
「ま、人工石と違って魔道具にしか使い道のない素材だからな。当たり前か」

 間違って魔力を込めたときに、いちいち炎を吹いたり雷が奔ったりしていては危なすぎる。イストは特に気落ちするでもなく、目の前に並べられた合成石に意識を戻した。

「いいのが揃ってるな」
「ありがとうございます」
「とはいえ一応は、だけど」

 そういってイストは懐からルーペを取り出し右目に装着した。
 その横でニーナが展開についていけず、首を捻っている。並べられた合成石は確かにどれも綺麗だ。しかしイストは魔道具の素材として合成石を見に来たわけで、見た目は関係ないはずだ。どこを見て「いいもの」と判断したのだろう。

 今イストは人工石を一つ一つルーペで鑑定している。ジャマをするのは気が引けたが、とても気になるのだ。

「ん?どうかしたか」

 気が付くと、ニーナは彼の服を引っ張っていた。こうなってはもう腹をくくって聞くしかない。

「どこを見ればいいのかな~って・・・・・」

 少々誤魔化しながらそういうと、イストはすぐに、ああ、といって得心したようだった。

「結晶体を選ぶ際の第一条件は『見た目』だ。綺麗にカッティングされているものは魔力の通りがいい。ちなみに大きさは特に関係ない」

 これは天然石と人工石の両方とも同じな、とイストは説明した。それから右目に付けていたルーペをニーナに渡す。
「そいつは魔道具『目利きのルーペ』。魔力の流れを可視化してくれる魔道具だ」

 この結晶に魔力を流してそいつで見てみ、とイストはニーナに結晶体を一つ手渡した。言われたとおり結晶体に魔力を流して「目利きのルーペ」で見てみる。

「うわぁぁ・・・・・」

 それは、はじめて見る光景だった。結晶体の中を、筋状の青い光が幾つも流れるように奔っている。魔力を見たのが初めてということも重なり、それはとても幻想的だった。

「今度はこっち」

 そういってイストはもう一つ結晶体を手渡す。そちらも同じようにして見てみると、

「ん?」

 さっきの結晶よりも、青い光が少ないように思われる。ルーペを外して二つの結晶体を比べてみると、大きさや色、形に特に差はない。

「青い光の量が違っただろう?」
「はい。最初に見たほうが多かったです」
「つまり最初の人工石のほうが、魔道具素材としてはいいってことだ」

 なるほど、とニーナは感心した。それら、ふと疑問が浮かぶ。

「どれだけ魔力を通せばいいのか、基準みたいのはあるんですか?」
「ないな。経験積んで自分なりの基準をつくるしかない」

 ニーナからルーペを受け取ると、イストは鑑定を再開する。

(やりたい・・・・・!)

 とても、とてもやりたい。経験を積むしかないのであれば、この場でその経験を積みたい。やりたくて、やりたくてウズウズしているのが自分でも分った。
 あるいは、その空気が伝わったのかもしれない。

「やってみるか」
「いいんですか!?」

 ニーナのあまりに嬉しそうな様子に、イストは苦笑した。是非やらせてください、と迫るニーナに「目利きのルーペ」を渡す。

「じゃ、五・六個選んでみて」

 イストと同じように右目にルーペを装着し、ニーナは結晶体を一つ一つ鑑定してくる。そして魔力の通りがよさそうなものを取り分けていく。一回りしたら、今度は選り分けた物の中からさらに選別していく。それを繰り返し、最後には色も大きさもまばらな五つが残った。

「・・・・・終わりました・・・・・」
「ん、じゃ、みして」

 ニーナから「目利きのルーペ」を受け取ると、イストは彼女が選んだ五つの人工石を確かめていく。その様子を見守るニーナは妙な緊張感に包まれていた。

「大丈夫だな。じゃ、これお願いします」

 イストがそう店員にいったとき、ニーナは自分の目利きが間違っていなかったことを知った。彼女のうちに、じわじわと歓喜と安堵が湧き上がってくる。
 代金は三十ミル(銀貨三十枚)だった。イスト曰く、

「これが天然石だったら、銀貨が金貨になる」
 とのこと。もはや年収だ。合成石が普及した理由が良く分る。

 カウンターの向こうで店員が合成石を手早く包装していく。彼らが現れたのは、そんなときであった。

「おやじ、人工石を見せてくれ」

 そういって若い男が三人ほど、店内に入ってくる。

「いらっしゃいませ。いつも御贔屓にしていただいてありがとうございます」
 店員はそういって頭を下げた。どうやら見知った客らしい。

「品物はこちらに出ておりますので、ご自由にご覧ください」

 先ほどまでイストたちが見ていた合成石をさして、彼はそういった。既に買い物を終えているイストとニーナは、端によって男たちに場所を空けた。

「ん?お前たちも人工石をみていたのか」
「まあな。とはいえもう選んだから、気にしてくれなくていい」

 イストがそう答えると男たちは了解したようで、それぞれが「目利きのルーペ」を取り出して鑑定を始めた。

(あいつら、「エバン・リゲルト」の職人か・・・・・・)

 この街で「目利きのルーペ」を使って人工石を鑑定する人間など、それ以外にいるまい。ニーナには気づいていないみたいだから、「ドワーフの穴倉」にいたという職人たちではないのだろう。

「なんだこれは!?」
「どれもこれもクズばっかりじゃないか」
「かろうじてこれが平均くらいだが、いやしかしなぜ・・・・・・。今までこんなことはなかったのに・・・・・・」

 男たちの目線が、先ほどまで同じ商品を見ていたイストたちに向かう。

「お前が買ったのか?」
「何を?」

 イストはとぼけてみせた。それが勘にさわったのか、男たちの雰囲気が険しくなる。

「魔道具素材として優れている人工石を、私たちより先に買ったのはお前か?」

 ことさら詳しく丁寧に言ってみせたのは、苛立っていることの裏返しだろう。とはいえ既に確信しているのだろう。イストが何か言う前に、別の男が声をあげる。

「それは我々が使うものだ。代金は払うから、渡してもらおう」
「おやじ、その包んであるヤツはいくらだ。こちらで払う」
「おいおい」

 先に買った人間の意見を無視して勝手に話を進めようとする男たちに、イストは怒るよりもむしろ呆れた。職人としての腕は分らないが、先に人が選んだものを横からシャシャリ出てきて掠め取るとは、礼儀以前に常識をわきまえているのだろうか。

「お客様・・・・・」
 店員も困った様子でこちらを見ている。

「お前が買った人工石、見せてもらっていいだろうか」

 最初に質問してきた男が、イストにそう尋ねた。イストは軽く頷いて了承してみせと、男は店員から包みを受け取り、中に入っている人工石を先ほどと同じように「目利きのルーペ」を使って鑑定していく。

「お前、魔道具職人か」

 鑑定を終えた男が、疑問系ではなく断定するようにそういった。あれだけの質の人工石を選んで買っているのだ。それ以外には考えられないだろう。

「ご名答」
 イストが短く肯定すると、男の視線が鋭くなった。

「そうか。ウチでないとすると『ドワーフの穴倉』の新しい職人か?」

 そう言いながら男は包みを店員に返す。受け取った店員は簡単に包装しなおすと、それをイストに渡した。
「ハズレ。オレは流れだからな。とはいえこの冬の間、間借りするつもりではいるが」

 いいながらイストは店員から包みを受け取り、そのまま懐にねじ込んだ。横から掠め取ろうとしていた二人が声を上げるが、目の前の男がそれを押しとどめた。

「先客が居たんだ。仕方ないだろう」

 どうやらこの男がリーダー格らしい。そういわれて二人は押し黙った。それでも不満で一杯らしいことは見れば分る。

「流れの職人など聞いたことがないが、それなら『エバン・リゲルト』に来る気はないか。腕相応の待遇を約束できるが」

 腕が未知数であっても、一人でも多くの職人を囲い込みたいのが一般的な工房の本音だろう。今までも何度か工房に誘われることはあった。とはいえイストの答えはいつも同じだ。

「お断りするよ。オレは流れのほうが性にあってる」

 肩をすくめながら軽い調子で答える。すると後ろの二人は小ばかにしたように嘲笑を浮かべた。

「ふん。たいした腕じゃないから、流れをやるしかないのだろう」
「寂れて自分のことで手一杯な『ドワーフの穴倉』なら、技術なり知識なり、盗まれる心配もないもんなぁ?いや、逆に盗むつもりで入り込んだんじゃないのか?」

 だったら無駄足だったな、あそこには盗むほどの技術も知識もない、と二人は嗤った。イストとしてはこういう馬鹿な手合いが何を言ったところで、相手をしてやる気はさらさらない。だがニーナはそうではなかったようだ。頭に血が上っているのが、傍目にも良く分った。

(ここで言い争いになっても、面倒なだけだしな・・・・・)
 そう思ったイストはさっさと機先を制することにした。

「何か問題があるのか」
「なに?」

 面倒くさそうにそういうと、男たちとニーナの視線がイストに集まった。

「知識や技術の十や二十、盗まれたところで何の問題がある?」
「・・・・・・・!」

 イストのその発言にその場の一同は絶句した。
 知識や技術の流出は工房にとって最大の悪夢であり、それゆえにどの工房でも情報は厳重すぎるほどの厳重さで管理されている。当然だろう。なぜならそれこそが工房と職人にとって富と名誉の源泉なのだから。

 ゆえに、それを盗まれてもかまわないというイストの発言は、ニーナも含めたその場にいる人物たちにとってあまりにも不可解なものだった。

「その程度のことでオタオタしているようでは、『エバン・リゲルト』も大したことはないな」

 そう言い放つと、イストはさっさと出口に向かって歩き始めた。ニーナがその後を慌てて追う。

「ま、まてっ!」
 店から出ようとする二人を「エバン・リゲルト」の職人たちが呼び止める。

「盗まれてもかまわないというなら、教えてもらおうじゃないか!」
「そうだ!どれほどの腕を持っているのかみせてもらおう」

 未知の知識と技術は新たな富と名誉への最短コースだ。彼らが目の色を変えているのも当然だろう。だがしかしイストはそこまでお人よしではない。

「阿呆。オレは盗まれても問題はないって言ったんだ。教えてやるなんて一言も言ってない」

 白い煙(水蒸気らしい)を吐きながら「無煙」を吹かし、そう冷たく突き放す。そして、今度こそ二人は店の外へ出て行ったのであった。





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:37
 ふう、と一息ついてクロノワはペンを置いた。そのまま椅子の背もたれに身を預ける。執務机の上を見れば、未だに書類の山が残っている。その現実からしばし逃れるため、クロノワは席を立ち窓から外を見た。

「雪、ですか・・・・」

 窓の外には雪が舞っている。モントルムの旧王都オルスクでこの天候では、さらにその北であるアルジャーク帝国は、既に一面の銀世界だろう。

「早めにこちらに赴任してきて正解でしたね」

 クロノワがケーヒンスブルグに凱旋してから遅れることおよそ二週間後、レヴィナスもまたオムージュ遠征から凱旋した。クロノワと同じく凱旋報告の席で皇帝ベルトロワから褒美を与えられることになったとき、彼が求めたのはオムージュの王女アーデルハイト姫との結婚の許しだった。今まで婚約者のいなかったレヴィナスがいきなり婚姻の許しを求めたことにその場はどよめいたが、皇帝が許しを与えたことでどよめきはすぐに祝福へと変わったのだった。

 その後開かれた任命式でレヴィナスはオムージュ総督に、クロノワはモントルム総督にそれぞれ正式に任命された。新年を帝都ケーヒンスブルグで迎えてからオルクスに来るという選択肢もあったのだが、真冬のアルジャークを旅するのは危険で、そうなると春まで待つしかなくなる。それを嫌ったクロノワは凱旋記念パーティーに出席すると、本格的な冬が始まる前にモントルムへ総督として赴任したのである。

「失礼します」

 その声と共に部屋に入ってきたのは、クロノワと同い年くらいの若い男だった。名前はフィリオ・マルキス。クロノワと同じくオルドナスの教え子であり、その縁で友人として付き合ってきた。同年代の友人がほとんどいないクロノワにとっては貴重な存在である。そんな彼は今現在、主席秘書としてクロノワを支えている。

「ああ、フィリオですか。何かありましたか」
「はい。オルドナス先生、いえ執政官から報告が届きました。無事に着任したとのことです」

 オルドナスやリリーゼを始めとするヴェンツブルグの使節団もまた、クロノワたちと共にケーヒンスブルグからオルクスへと旅をし、そこから分かれて彼らは独立都市へと向かったのだ。

「それと聖銀(ミスリル)の件ですが、例の方向で執政院の合意が取れた、とのことです」

 彼の言う「例の方向」とは、つまるところ聖銀(ミスリル)の製法を大陸中の工房に売りつけるにあたり、モントルム総督府のひいてはアルジャーク帝国の関与を認めるということだ。ヴェンツブルグ一都市だけでは思うように事が進まないということをリリーゼから聞いたクロノワが、新たな執政官となるオルドナスに相談してみたのだ。

「そうですか。思ったよりも早かったですね。あちらも手詰まりだったのでしょう」
「ええ、これからヴェンツブルグはお金が必要になりますし、そういう腹もあったのではないかと」

 フィリオの言葉にクロノワは頷いた。
 モントルム総督府が口を出すために、製法の購入額である一万シクを総督府が肩代わりすることになっている。その代わり製法の売却でえた純利益の一割が総督府の取り分となり、残りの九割は三家とレニムスケート商会の懐に入れるのではなく、ヴェンツブルグの発展のために用いる、というのが取り決めだ。確かにこれからヴェンツブルグが発展するにあたり、お金はいくらあっても足りない。それを考えれば、製法の売却益は良い収入源となるだろうが・・・・・・。

「総督府の取り分が一割というのは、少なすぎますよね・・・・・・」
「そこは教え子の弱み、と言うヤツですね」

 クロノワの言葉にフィリオも、ですよね~、と同意した。かつて教師と生徒の関係だった二人は、オルドナスに対して頭の上がらないところがある。

「よろしいですね」
 と、あの厳しい面でズイッと迫られては反対もできない。

「そういえば、リリーゼ嬢も春を待ってこちらに来るそうですよ」

 親御さんを説得できたみたいですね、とフィリオは嬉しそうだ。常々職場の男性比率が高すぎる、とフィリオが文句を言っているのをクロノワは知っている。

「きちんと一仕事終えたようですね」

**********

 凱旋記念のパーティーで、日陰者から一目置かれる存在となったクロノワの周りには、多くの人が群がった。そんな人の波も一段落し彼がバルコニーで涼んでいたところ、淡いグリーンのドレスで正装したリリーゼが近づいてきたのだ。

「良くお似合いですよ」
「ありがとうございます、殿下」

 彼女はドレスやアクセサリーで着飾るのは好きではないと言っていたが、そこはやはり年頃の女の子。まんざらでもない様子だ。

 リリーゼはごく自然にクロノワの隣にたたずんだ。

「使節団のみんなと話し合ったのですが、帰りもご一緒させていただければと思います」

 本格的な冬が始まる前にモントルムへ赴任するつもりであることは、既に彼女たちにも伝えてある。一緒に行ったほうが何かと都合がよいと判断したのだろう。

「そうですか。では後で詳しい日程をお知らせします」

 クロノワがそういうと、会話がたえた。人々の笑い声や音楽が、かろうじて二人の耳に届く。

「あの・・・・・・」

 意を決したように、リリーゼが声を上げた。クロノワに近づいてきたのは、何か話したいことがあるからなのだろう。

「帰りもご一緒するとなると、一度オルクスに立ち寄ることになりますよね」
「そうですね。そうなります」

 クロノワたちの目的地はオルクスだ。一緒に行くというのであれば、立ち寄ることになる。

「そのまま総督府で働かせてはもらえませんか。知りたいことが沢山あるんです」

 アルジャーク帝国への使者に立候補した時、あのときに感じた稲妻の閃光のような運命は、日に日にリリーゼを未知なる世界へと駆り立てる。その内なる衝動に、彼女はむしろ進んで身を任せた。

「それはヴェンツブルグには戻らずに、と言うことですか」
「はい」
「でしたら賛成しかねます」

 驚いたようにリリーゼはクロノワを見つめた。焦った様子でなおも言い募ろうとする。しかし彼女が言葉を発するよりも先に、クロノワが口を開いた。

「貴女は望んで使者となったのでしょう?でしたらまずは使者としての仕事を果たすべきです」

 彼の口調はキツイものではない。しかしその内容は厳しく、目に見えてリリーゼの勢いをそいだ。

「それに、少なくとも私は途中で仕事を放り出すような部下は欲しくありません」

 そうトドメを刺され、リリーゼは己の敗北を悟った。肩を落としともすれば泣きそうになっている彼女を見て、クロノワは気づかれないように微笑をもらす。

「きちんと親御さんを説得して、それから来なさい。そうしたら考えてあげます」

 クロノワにそう言われ、リリーゼはさっきまで落ち込んでいたのがウソのようにパッと顔を輝かせた。これで終わりではない、自分はもっと先に行ける。そう実感できるのがたまらなく嬉しいのだろう。

 そんな彼女の様子を見て、クロノワはこう思ったのだ。

(やっぱり、彼女といると新鮮ですねぇ)

 宴の夜は更けていく。

**********

「リリーゼ嬢が来る前に、閣下も剣術の腕を上げておかなければいけませんね」
「さて、なんのことやら」

 フィリオにからかわれ、クロノワはとぼけた。
 実はケーヒンスブルグに滞在している間に、クロノワはリリーゼと手合わせをしたことがある。その時に、なんとクロノワは負けてしまったのだ。それが悔しかったのか、以来彼はアールヴェルツェを始めとする騎士たちから稽古を付けてもらっている。

「まあ、彼女に偉そうな事を言っておいて、私たちが仕事を疎かにしてはいけませんね。早いとこ今日の分を片付けてしまいましょう」

 強引に話題をすり替えた主に、フィリオは笑いをこらえるだけで何も言わなかった。

「アールヴェルツェはどうしていますか」
「はい。将軍は・・・・・・・」

 モントルムの冬は深まっていく。





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:43
「『知識や技術の十や二十、盗まれたところで何の問題がある?』か………」

 パートームの街にある工房「エバン・リゲルト」の一室に、男の声が響いた。男の名はカイゼル・ファラー。年の頃は五十の始めといったところか。かつて「ドワーフの穴倉」でニーナの祖父の弟子として働いていた魔道具職人だ。

「なんというか衝撃的な発言だな、トレイズ」

 そういってカイゼルは自身の愛弟子を振り返った。弟子の名はトレイズ・サンドル。宝石店でイストと揉めた三人のなかで、一人冷静だったあの人物だ。商家の三男坊なのだが、自分は商人には向かないと見切りをつけて、ヘイゼルの弟子となったのだ。

「はい。さすがに私も耳を疑いました」

 魔道具職人にとって命よりも大切なものがあるとすれば、それは間違いなく自身や工房が積み上げ蓄積してきた知識と技術である。それが盗まれることになんの危機感も示さないあの男の言い草に、トレイズは呆れるよりも先に恐怖を感じた。

「流れの職人というのは、こうも我々と価値観が違うのでしょうか」
「さて、我が師も流れの職人に師事したと言っておられたが、情報の管理は徹底しておられた」

 その男が異常なだけだろう、とカイゼルは結論した。それよりも問題なのは、その男が口にした言葉そのものだ。もし本気で言ったのであれば・・・・・・。

「久しぶりに顔を出してみるか…………」
 古巣である「ドワーフの穴倉」に。

「本気ですか、師匠」

 商売敵であるはずの相手がのこのことやってくるのだ。門前払いをくらう公算が大である。それにたかだか流れの職人から何かを学ぼうと言う姿勢を快く思わない者もいるだろう。

「なにも『ドワーフの穴倉』から盗もうと言うのではなし、その男の口ぶりからすれば、側で見ている分には問題あるまい」

 それに未知に対し貪欲になれと言うのが我が師の教えでな、といってカイゼルはさっさと準備を始めた。

「ですが………」

 先方にしてみればカイゼルは工房を捨てた裏切り者だ。あの流れの職人はいいかもしれないが、工房主であるガノス・ミザリがはたして敷居をまたがせるかどうか。

「かまわん」

 弟子の逡巡を断ち切るようにカイゼルは強い調子で言った。しかしその言葉から漂ういい様のない苦さを感じ取ったのは、彼自身だけではないはずだ。

**********

 優秀な魔道具職人というのは、優れた魔道具を作れる職人ではなく、考え出せる職人のことである。少なくともカイゼルはそう考えている。

 個々の質にピンキリはあれど、作ることを主眼に考えるならば、魔道具製作はそれほど難しい作業ではない。もし仮に魔道具が量産できるとするならば、この世界の魔道具職人の数は現在の一〇〇倍から二〇〇倍、あるいはそれ以上になっていてもおかしくはないだろう。

 だが魔道具は量産できない。ゆえに作る側には個々の質を高めることが求められ、それに答えることのできる職人だけが富と名声を得ることができるのだ。魔道具職人たちは一つ作品を作り上げたならば、次はそれを上回る作品を求められる。

「今できる最高のものを。次はさらに良いものを」

 高みを目指す果てのない階段を上っていくようなものだ。魔道具職人を志す多くの者たちが、途中でその歩みをやめてしまう。歩みを止めずその階段をひたすら駆け上がって行ける者、その者こそが本当に優秀な魔道具職人であるとカイゼルは考えている。

 そういう意味で、ガノス・ミザリは優秀な魔道具職人であると、カイゼルは知っている。

 彼の父に師事しかつて共に働いたことのあるカイゼルは、ガノスの腕と才を知っている。そのために日々の糧を稼ぐことに精一杯で、職人として十分な仕事が出来ていないガノスの現状がもどかしくて仕方がない。

「いつまで『ドワーフの穴倉』にこだわっているつもりだ」
 そう思わずにはいられない。

 カイゼル自身は「ドワーフの穴倉」を捨てて「エバン・リゲルト」に鞍替えしたことを後悔していない。というよりも魔道具職人とはそういうものだ。

 魔道具職人の人生とは、すなわち新たな魔道具の開発の日々であり、そのためにより良い環境を整えてくれる工房へ移るのはごく自然なことである。

 それにガノス自身も「エバン・リゲルト」から現在進行形で勧誘されているのだ。その誘いを断り続け、「ドワーフの穴倉」にこだわっているのは彼自身だ。

「それで職人としての仕事ができなくなっては本末転倒ではないか」

 彼の娘であるニーナについても、カイゼルは幼い頃から良く知っている。彼女が魔道具職人に憧れていることは、薄々は察していた。

 ガノスやニーナを良く知るゆえに、カイゼルのもどかしさは大きい。
 そのためかもしれない。己の選択を何一つ後悔していないはずの彼の胸のうちには、しかし拭いきれない罪悪感が残っている。

 自分が抜けたことで「ドワーフの穴倉」が傾いたとは思わない。カイゼルはそこまで過大に自分を評価していない。それでも、その責の一旦は間違いなく自分が負うべきものだ。

 かつての同門であり互いに切磋琢磨しあったガノスと、彼の娘であるニーナがくすぶっている、そうするしかない現状は無言のうちにカイゼルを責め立てている。何かしたいと思っても、互いの立場ゆえに動くこともままならない。気が付けば、時間だけが過ぎてしまった。

(なにか、変わってくれればよいが…………)

 ゆえにカイゼルは期待する。誰もが考えていなかった“流れの魔道具職人”、その登場に。自分ではどうしようもなかったこの現状を、あるいは変えてくれるのではないだろうか、と期待する。

 だからこそ、積極的に関わろうと思ったのだ。

**********

 久方ぶりに見上げる古巣の外観は、あの頃となんら変わっていない。しかし活気に溢れていたあの頃とは違い、そこから力強さを感じることはなかった。

 そんな思いを悟られないように、カイゼルは努めて普通を装いその門を叩いた。

「はい、どちら様でしょうか」

 門を開けたのはガノスの娘であるニーナだった。彼女は少し見ない間に、随分と綺麗になっていた。恐らくは母親似だろう。

「自分に似ないでよかった」
 昔ガノスがそう言っていたことを思い出す。

(だがこの子の気性は間違いなくお前譲りだよ、ガノス)
 少しばかり感傷に浸っていると、ニーナも訪問者が誰なのか気づいたようだ。

「・・・・カイゼル・・・・さん・・・・・」
 名前に「さん」付けをするまでに、一拍の沈黙があった。

 昔は「カイゼルおじさん」と呼ばれていた。だがこれが今の自分と彼女の距離感なのだろう。

 一瞬感じた寂しさを、カイゼルは黙殺した。

「ここに流れの魔道具職人がいると聞いてな。取り次いでもらえるかな」
「イストに、ですか…………」

 どうやらその職人の名前はイストと言うらしい。

「オレになんか用か?」

 ニーナの後ろから見知らぬ男が現れた。どうやらこの男がイストらしい。おそらく自分の名前を聞きつけてこっちに来たのだろう。

「はじめまして、だな。カイゼル・ファラーという。こっちは弟子の・・・・・」
「トレイズ・サンドルです。先日は同僚が失礼して、申し訳ない」

 そういってトレイズは頭を下げた。ただイストは特に気にしている様ではなかった。トレイズの顔を見て、ああ宝石店で、と呟いただけで後は何も言わなかった。

「イスト・ヴァーレだ。で、何のようだ?」

 イストが例のいざこざを蒸し返さずに本題に入ってくれたことに、カイゼルは感謝した。

「お前さんから、技術や知識を盗みに来た」

 ニヤリと笑い、カイゼルはここに来た目的を隠すことなく率直に告げた。あまりの率直さに隣にいたトレイズのほうが慌てている。だが言われた当のイストは、なんと笑っていた。それも蔑むような笑い方ではない。呆れたような、それでいて面白がっているような、そんな笑い方だった。

「いいよ。邪魔しないでくれるなら、勝手に盗んでいけ」

 実にあっさりと、イストは承諾した。ただ間借りしている身としては、工房主の意向を確かめなければならない。ガノスに聞きにいくと、彼も簡単に許可を出した。

 失礼すると断りながら、カイゼルは久方ぶりに「ドワーフの穴倉」へと足を踏み入れた。工房の中はあの頃と変わっていなかった。だが使っていないのか、ホコリを被った機材が多い。それがそこはとない寂しさをかもしだしていた。

「お前も早く来んか」

 その寂しさを隠すようにして、カイゼルはトレイズに声をかけた。とんとん拍子に進む話に彼は目を白黒させていたが、慌てて師の後を追う。

 イストは既に、定位置と決めているらしい工房の角の一画に座り込み準備を始めていた。ビンから粉末を匙で陶器の器に移し、そこに水を入れて粉末を溶かしていく。

 足元に置いてあった布の巻かれた長細い包みを解くと、そこには一本の刀が包まれていた。柄も鍔(つば)も、ましてや鞘もない、ただの鉄の塊である裸の刀だ。イストがレスカから買ったあの刀だ。

 その優美に反った刀身、透明感のある鋭い刃。鍛冶師としてはド素人であるトレイズから見ても、相当な業物であることが分る。イストはその刀身に水で溶いた粉末をはけで丁寧に塗っていく。

「うわぁ……」
 魔力を込めたのか、刀身が青く光る。その様子にニーナが感嘆の声を漏らした。

(あの粉末は『星屑の砂』だったのか………)

 目の前の光景から、トレイズはそう当りをつけた。
 「星屑の砂」は魔道具の一種で、イストがしたように水に溶き、例えば金属などに塗るとそこを流れる魔力を可視化してくれるのだ。人工石の鑑定に使った「目利きのルーペ」と同じ効果なのだが、ルーペでは一点しか見ることができないため、結晶体の鑑定以外ではこの「星屑の砂」が使われる。

「見事だな」

 青く輝く刀身を見て、カイゼルがそう感想をもらした。トレイズも同じ意見だ。刀身に浮かぶ青い光の筋はまだムラや澱みがあるが、それは彼らの目から見れば無視していいものに思えた。恐らく既に下準備を終えているのだろう。

 しかし、彼らのその考えはすぐに否定される。

「ああ、まだ下準備もなにもしていないのに、これだけ均一に魔力が流れる。流石だな」
「まだ下準備をしていないのか!?」

 カイゼルが驚いたように声を上げた。それはトレイズも同じだ。まだ下準備をしていないということもそうだが、それにもかかわらずあれだけ魔力を均一に流せる素体を彼は初めて見た。

「ああ、下準備はこれからする」

 こともなさげにイストはそう答える。それを聞いてトレイズが感じたのは、しかし落胆だった。下準備は魔道具製作における基礎中の基礎で、それを見学したからといって知識や技術を盗めるとは思えない。

(出直したほうがいいのでは?)

 そんな思いを込めて振り返ると、師であるカイゼルは難しい顔をして腕を組み、ほとんど睨むようにしてイストの仕事を観察していた。

「トレイズ、よく見ておけ」

 滅多に見られないものが見られるから。そういうカイゼルの声は、トレイズが今まで聞いたことがないほど強張っていた。




*********




 魔道具素材の良し悪しを定めるパラメータとして「魔力導伝率」というのもがある。これは素材がどれだけ魔力を通しやすいかを表すパラメータで、水の導伝率を1として、これを基準としている。もっとも一般的な鉄の導伝率が0.98であるため、職人たちはこちらを目安にすることが多い。

 さて、導伝率が1の金属板があったとしよう。ここでいう「導伝率が1」とは「金属板全体の導伝率の平均値は1」ということである。つまり金属板をいくつかに区切って見てみれば、導伝率にはばらつきがあるのだ。「星屑の砂」を使った際に際に見える魔力のムラや澱みは、この導伝率のばらつきが原因である。

 このばらつきを最大限整えるのが、魔道製作における基礎中の基礎、「下準備」と呼ばれる作業である。

 下準備を行えば素材の導伝率を上げることができる(ただしどれだけ上がるかは職人の腕によるところが大きい)。また下準備をしたかしないかで、術式がスムーズに発動できるなど、魔道具の性能そのものにも影響してくる。

 ゆえに魔道具職人はまず、この下準備の作業を徹底的に叩き込まれるのだ。

 下準備は極めて地味な作業である。
 素材に「星屑の砂」を水に溶かして塗り、魔力を込めてその流れを可視化する。そして流れのむらや澱みに、指から直接魔力を流し込んで矯正していくのだ。

 言葉で書いてしまえば簡単だがこの作業、実はとてつもなく時間がかかる。トレイズが過去におこなった下準備で最も時間がかかった時には、なんと一週間もかかった。そしてこれこそが、魔道具が大量生産できない最大の理由であった。

 今、トレイズの目の前でイストがその作業をおこなっている。その雰囲気にトレイズは呑まれていた。

**********

 イストは左手に刀を持ち、魔力を流し込んでいく。青く光る刀身、そこに浮かぶ澱みの一つに右手を沿え、人差し指からゆっくりと魔力を流し込んでいく。人差し指を沿えた部分だけ青い光が強くなる。

 スッとイストの右手が刀身に沿って動いた。その時にはもう澱みはなくなっている。

(たった一回で・・・・・!)

 トレイズの場合、どんなに集中しても一つの澱みを矯正するのに、同じ作業を四・五回は繰り返さなければならない。実に分りやすく技量の差を見せ付けられ、彼は愕然とした。

 冬の、息を吐けば白くなるような気候ながら、イストは今大量の汗をかいている。激しい運動をしているからではない。彼の凄まじい集中力が全身に熱を生じさせ、汗が吹き出しているのだ。

 頬をつたい顎から落ちていく汗にイストは気づかない。いや、そもそもこうしてトレイズたちが脇で見ていることや時間の経過でさえも、今の彼にとっては意識の外のことなのだろう。

 一心不乱に右手を刀身に沿えて魔力を流し込み、澱みやムラを一つ一つ丁寧にならしていく。

 一つ一つの所作は、イストが熟練の職人であることを証明している。その妥協を許さない姿勢は、彼の職人としての意識の高さとプライドを物語っている。

 自分が今までどれだけぬるい態度でこの世界にいたのか思い知らされ、トレイズは爪が手のひらに食い込むほどほど強く拳を握り締めた。

「凄まじいな」
「ガノス」

 気が付けば工房主であるガノスが近くに来ていた。

「『決して妥協するな』。かつて父にそう言われたことがある」

 ガノスの言葉にカイゼルは頷いた。彼らの師は、確かに口癖のようにそういっていた。その言葉の意味を理解していたつもりではあったのだが。

「彼の仕事を見ていると、その意味が良く分る」

 それっきり、誰も喋らなくなった。その場にいる全員が、場の雰囲気にのまれ食い入るようにしてイストの仕事を見つめていた。

**********

 結局、四時間立ちっ放しだった。

 お昼の時間はとうに過ぎているが、空腹を訴えるものは誰もいない。その場の緊張感が空腹を忘れさせていた。

「すごい………」

 ニーナがポツリともらしたその呟きに、トレイズは無言でしかし激しく同意した。未熟ではあるが魔道具職人である以上、その思いはニーナよりも強くあるいは嫉妬にさえ似ているかもしれない。

 彼らの目の前には青く輝く刀がある。その輝きにはもはや一点のムラも澱みもなく、全体が均一に光っている。まさに「完璧」な下準備だ。

「焼き付けをするから、目をつぶっていろ」
 作業を開始してから初めてイストが口を開いた。

 彼の言う「焼き付け」とは、下準備を終えたその状態を保存しておくための作業だ。これをしておくことで、この先再びムラや澱みが現れるのを防ぐのだ。コツは大量の魔力をできるだけ一瞬のうちに流し込むこと。

 目を閉じて待っていると、青白い閃光が一瞬だけ輝いたのが目蓋の上からでも分った。魔道具製作の経験のある者は、その光の強さからイストがかなり大量の魔力を流しこんだことを察した。

 ふう、とイストは白い息を吐いた。そして裸の刀を再び布に包んでいく。それを見て、周りで見物していた面々もそれぞれに息をつき、緊張から脱したのであった。

「腹が減ったよ」

 鳴いた腹の虫は、さて誰のものであったか。

**********

 腹が減ったよとイストに言われたニーナは、すでにお昼の時間を随分と過ぎていることにようやく気がついた。慌てて家に戻り、急いで遅い昼食の支度をする。
 焼いたベーコンをパンに挟み、後は具沢山のスープでも作ればいいだろう。テキパキと食事の支度をしながらも彼女が考えているのは、先ほどまで見ていたイストの仕事の様子だった。

(あの目。お祖父ちゃんの目に良く似ていた…………)

 一点のムラもなく青く輝く刀身は確かに綺麗だったが、それ以上に彼女が惹きつけられたのはイストの目であった。作業に一心不乱に没頭する彼の目は、幼い頃に見た工房で仕事をしている時の父祖の目に驚くほど良く似ていた。憧れた魔道具職人の姿が、そこにはあったのだ。

「弟子に、してくれないかなぁ………」

 無意識とはいえ自分が呟いたその言葉に、ニーナは驚いた。だが口に出してしまったその願望はすぐに彼女の胸の内に根を下ろし、瞬く間に大樹へと成長してしまった。そしてその大樹はいつの頃からか積み上げてきた堤防を少しずつ侵食し、塞き止めていたはずの夢を溢れさせようとする。

(ダメ…………!)

 イストの弟子になるなど、出来るはずもない。彼は流れの職人だ。ここに腰を落ち着けることなどしないだろう。彼から教えを受けようとすれば、一緒に旅をして回ることになる。そうなればこの家は、父は、工房はどうなるのか。

 無視しようとするにはあまりに大きくかといって叶えられそうもないその夢を、ニーナは必死に心の奥底に押し込めようとした。


 トレイズは今「エバン・リゲルト」の近くにある馴染みの食堂で、遅い昼食としてサンドイッチをパクついている。師匠であるカイゼルがガノスとなにやら話しこんでいたため、一言断ってから先に帰ってきたのだ。

(どうにも力が入りきらないな……)

 こうして馴染みの店でよくたのむメニューを食べているというのに、どうにも現実感が薄く、まるで夢でも見ているかのようだった。この感覚を無理にでもたとえるならば、まるで・・・・・・、

(まるで酔っているようだ)

 実際自分は酔っているのだろう。先ほど見たあの光景に。

「滅多に見られないものが見られる」

 そういった師匠の言葉は正しかった。確かにあの光景は衝撃的で、トレイズが少なからず持っていた職人としての自負やプライドを木っ端微塵にしてくれた。

「ただの下準備なのにな………」

 あるいは単純作業であればこそ、衝撃が強いのかもしれない。努力さえすれば同じところにたどり着けるのではないかと、そう思ってしまう。

「不可能じゃ、ないよな………」

 なにしろあれはただの下準備で、誰もができる単純作業なのだ。時間さえかければ、同じ仕事をするのは決して不可能ではない。

 必要なのは集中力と根気、そして妥協を許さない態度。これらは先天的な才能でなければ、後天的に身につける技術でもない。ならば誰にだって、できるはずだ。

 体に力が戻ってくる。

 こうしてトレイズは職人として明確な目標を一つ、見つけたのであった。


 恐らく気を利かせたのだろう。先に戻りますと断りに来た弟子の背中を、カイゼルは見送った。

「彼はお前の弟子か」
 隣にいたガノスがポツリともらした。

「ああ、まだまだ未熟だが、将来は有望だ。今日のこともいい刺激になっただろう」

 確かにいい刺激になっただろう。ただしトレイズだけでなく、既に魔道具職人としてメシを食っているカイゼルとガノスにとっても、イストの仕事は刺激的で衝撃的だった。

「そうだな。腕のいい職人だろうとは思っていたが、いや想像以上だった」
 ガノスは少しばかり興奮した様子だった。

 ふと、会話が途切れた。

「お前、この先どうするつもりだ」
 短いその言葉に、カイゼルはありったけの思いを詰め込んだ。

 先の見えた工房にいつまで拘っている。その腕をいつまで錆付かせているつもりだ。娘のニーナのことはどうする。

「わかっている」

 ガノスは短く答えた。カイゼルはなおも言い募ろうとしたが、彼の顔を見てやめた。いつの頃からか張り付いていた疲れや影が薄くなっている。

「なあ、カイゼル」
「なんだ」
「また、魔道具を創りたくなったよ」

**********

 その日の晩、工房に小さな明かりが付いているのをニーナは見つけた。覗いてみるとイストがあの刀の刃をためつすがめつ眺めていた。刀には既に柄と鍔(つば)が取り付けられており、彼の足元には鞘もあった。

「なにをしてるんですか?」
「ん?ああ、ニーナか」

 イストはニーナの姿を確認すると、すぐに視線を刀に戻した。

「なんつうか、『声』が聞こえないかと思ってね」
「声?」
「そう。陶器師にしろガラス職人にしろ、熟練の職人たちはみんな素材の『声』を聞く」

 どうしてそんなにも素晴らしい作品を作れるのかと問われると、彼らは皆口を揃えてこう答える。曰く「自分はこういう形を作ろうとしているのではない。土が、ガラスがなりたいと言っているその形をなぞっているに過ぎない」と。

「もちろん生き物ですらない土やガラスが実際の声を上げるなんてことはありえない」

 だがしかし、職人たちが五感を通して素材から受け取るその情報は、あたかも意志を伝える声であるかのように彼らには感じられるのだ。

「面白いと思わないか?」
 イストはニーナを見上げて笑った。

「……イストも、その『声』が聞こえるんですか」
「その域に達するのはなかなか難しい」
 そういってイストは苦笑する。

「ただ、こうやって素体を眺めていると、これだって術式を閃くことがある」

 そういうときは結構満足できるものが出来る。そうイストは言った。それがきっと彼に聞こえる「声」なのだろう。
 イストが刀を鞘に納め、さらに布を巻いていく。

「閃いたんですか?」
「ん。だいたい固まった」
 そういってイストは立ち上がった。

「イスト………」

 二階の部屋に戻ろうとする彼の背中に、ニーナは思わず声をかけてしまった。その直後にはしまったと後悔している。

「ん?」
「あ、いや………。おやすみ、なさい」

 かろうじてそれだけを口にする。イストも、おやすみ、といって二階に上がっていく。その背中を見送ってから、ニーナは一人ため息をついた。弟子にしてくれ、なんてとてもいえなかった。





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:49
 吹雪、とはよく言ったもので強い風に吹かれた雪は、下に落ちるのではなくほとんど水平に飛んでいく。地吹雪が雪原に風の模様を描くロム・バオアの大地に、移動式のテントが幾つか立っている。ゼゼトの民が使用する「パオ」と呼ばれるもので、気密性に優れており中は驚くほど温かく、骨組みがしっかりしているおかげで強風下でも壊れることはほとんどない。

 それらのバオの中の一つに、ある男が胡坐をかいて座っている。長身痩躯で、歳の頃は三十と少しといったところか。黒い髪を無造作に伸ばしている。彼のすぐ脇には一本の大剣が鞘に収められて置かれていた。魔剣「災いの一枝(レヴァンテイン)」。パルスブルグ要塞司令官及び要塞常備軍司令官シーヴァ・オズワルドの愛剣である。

 シーヴァは背筋を伸ばしてすわり腕を組み、目をつぶって瞑想している。後ろに控えている女性仕官もまた声を発しない。

「司令、客人がお見えになりました」

 声はパオの外から聞こえてきた。扉が開き兵士に案内されて、三人のゼゼトの民が中に入ってくる。その姿を確認し、シーヴァと女性仕官は立ち上がった。

「招きに応じていただけたことを感謝する。私がシーヴァ・オズワルドだ。それとこちらが私の副将を勤めている………」
「ヴェート・エフニートです」

 自己紹介を済ませると彼女はそれ以上なにも言わず、またすぐにシーヴァの後ろに控えたたずんだ。

「ワシはエムゾー族族長ウルリックという」

 ゼゼトの民は、エムゾー族、ベレグサ族、トルドナ族、シジュナ族、クセノニア族の五つの氏族に分かれている。姓名は基本的にはなく、無理に名乗るのであればそれぞれの氏族の名を名乗ることになる。例えばウルリック・エムゾーといったふうだ。

 ウルリックと名乗った男は、ゼゼトの民としては小柄なほうだった。とはいえ服の上からでも分るそのがっしりとした体つきは、彼がまぎれもなくゼゼトの男であることを証明している。

「五人の族長で話し合った結果、ワシが代表になった」

 ひとまずお手柔らかに頼む、とウルリックはシーヴァに手を差し出した。シーヴァはその手を握り、内心でひとまず胸をなでおろした。

(冷静な話し合いには応じてもらえるようだ)

 とはいえ油断や侮りはない。たとえ相手が蛮族であっても、そういった先入観をもって臨めば思わず足をすくわれるだろう。実際ウルリックの言葉は明瞭だし、その目は油断がならない。

「それとこっちの男はガビアル。トルドナ族族長の息子じゃ」

 紹介された男は典型的なゼゼトの民であるように思われた。背が高くて肩幅が広く、胸板が厚い。まさしく巨躯である。そしてその巨躯にふさわしい大剣を持っていた。シーヴァも長身だが彼よりも背が高く、肩幅にいたっては二倍近くあるかもしれない。

 カビアルは軽く頭を下げたが、なにも言わなかった。その目には友好的とは言いがたい光が宿っている。

「それとこの娘はメーヴェ。恥ずかしながら我が娘じゃ」
 どうしても付いて行くといって聞かんでな、とウルリックは頭を掻いた。

 ゼゼトの民で規格外なのはどうやら男だけらしい。メーヴェと呼ばれた娘は少なくとも表面上は普通の女性に見えた。目鼻立ちは整っている。可愛いというよりは鋭利とでも言うべき顔立ちをしており、その鋭い視線も重なり氷や刃を連想させた。こちらは弓と矢の詰まった矢筒を携えている。

 一通りの紹介が終わると、シーヴァは腰を下ろすように勧めた。三人と二人はパオの真ん中に置かれた暖炉をはさんで向かい合うようにして座った。

「すでに承知していると思うが改めてお願いしたい。手を貸してほしい」

 アルテンシア半島を切り崩す為に、とはシーヴァは言わなかった。この場にいる人々にとっては既にそのことを知っているからだ。この会談の前にシーヴァは一度ゼゼトの民に話を通してある。

「受けるにしても断るにしても、一度あって話をさせてほしい」

 そういうわけで、この度の席が設けられたのだ。ゼゼトの民のほうでも、ある程度は話し合いが成されてきたはずだ。

「ふざけるなよ………!」

 代表であるはずのウルリックは黙してなにも語らない。代わりにほとんど唸るようにして声を上げたのはガビアルであった。

「ロム・バオアの大地に上がりこみ我々を北に押し込めたのは貴様らだろうが!それをこの期に及んで手を貸せとは虫が良すぎる!」

 納まりが付かないのか、ガビアルは積年の恨みを吼えるようにしてまくし立てた。それに同調するようにウルリックの娘であるメーヴェも声をあげる。

「十分な食料を得られないせいで、冬を越せない子どもたちが何人いたと思う!?同胞がなめてきた辛酸をわかっているのか!?」
「なにを勝手な・・・・・!」

 たまりかねたのか、ヴェートが身を乗り出してくる。シーヴァはそれを、片手を上げて制した。

 彼女が言いたいことはわかる。もともと先に略奪を行い始めたのはゼゼトの民が先である。ロム・バオアにパルスブルグ要塞を建造してゼゼトの民を北に追いやりその活動範囲を制限したのも、制海権を確保しゼゼトの民が半島に来られないようにしたのも、穀物を渡さず食糧事情を圧迫したのも、全てはアルテンシア半島の民を守るためであった。

 しかし、シーヴァはそれらの事情をこの場で言うつもりはない。言ってしまえばそれこそ双方納まりが付かなくなる。それではこの席を設けた意味がなくなってしまう。

「力を貸していただければ、要塞を除いて我々はロム・バオアから撤退する。後は自由にされるがよかろう。交易で半島に渡ってこられる分には、これを妨げるつもりはない」

 略奪をするようであれば相応の覚悟をしていただくが、とシーヴァは付け加えた。ガビアルがまたなにか吼えるが、それを無視して彼は続ける。

「無論、協力していただいた礼は存分にさせていただくつもりだ。好きなものを望まれるがよかろう」
 如何か、とシーヴァはウルリックに返答を促した。

「………確かにお前さんが砦の長になってから、ワシらは随分と楽になった」
「親父殿!?」

 メーヴェが驚いたように父親の顔をのぞきこんだ。そんな娘を嗜めるようにウルリックは言葉を続ける。

「本当のことじゃろ。豊かになったとは言いがたいが、この男が穀物を融通してくれるようになってからは、餓えて死んだものはほとんどいない」

 シーヴァは要塞司令になると、それまで制限されていたゼゼトの民との交易を大幅に緩和した。もちろん彼らが海を越えて半島へ渡っていくのを許可したわけではないが、それでも要塞近くでの取引を認めたことにより、ゼゼトの民は主に獣の肉や毛皮と交換することで、小麦をはじめとする穀物を手に入れられるようになったのだ。ちなみにこのパオも、穀物と交換したものだった。シーヴァの側からすれば、半島から肉類を持ってくるよりもゼゼトの民から仕入れたほうが安上がりである、という理由もあった。

「だが同胞たちの恨みは!」
「それは双方同じこと。それにこのままではどうにもならんと思ったからこそワシらはこの場に来たのじゃ」

 先の見えておらんガキはだまっておれ、とウルリックは睨むようにして叫ぶ娘を黙らせた。彼の気迫に押されてガビアルも言葉を詰まらせる。若者二人を黙らせてから、エムゾー族の族長はシーヴァに向かい合った。

「シーヴァよ、お主が言ったことすべてを守ってくれるならば、我々としても力を貸すのはやぶさかではない。それが族長たちで話し合った結果じゃ」

 ウルリックの後ろに控えていたメーヴェとガビアルが驚いたように顔を上げる。どうやら彼らもこの話は知らなかったようだ。

「それはありがたい。無論約は守るが、さてどうすればそれを信じていただけるのか」

 大陸に住む人々の常識からすれば、このような場合は約束の内容を書面にしたため、そこに双方が署名をする、というのが一般的だ。

「お主たちの紙切れになんぞ用はない。そんなものがあろうがなかろうが、守るものは守るし、破るものは破る」

 その言葉を聞いてヴェートが唸った。国同士の条約が破られただのそんな事例は歴史書を紐解けばいくらでも見つかる。それを知っているだけにウルリックの言葉を否定することが出来ないのだろう。

 ようはシーヴァ・オズワルドという人間が信頼できるかどうかだ、とエムゾー族の族長は視線を鋭くして言った。

「ふむ。信頼を得るために私になにをしろと?」
 そう言うと、ウルリックは悪戯を思いついたように笑った。

「そうじゃの、ここにいるガビアルと仕合ってもらおうかのう」
 そのとっぴな提案に、シーヴァも思わず笑いが漏れる。

「勝てばよいのかな」
 そういうことにしておくか、と嘯くウルリックにシーヴァは了承を伝えた。




***********




 さすがにパオの中で立ち会うわけにもいかず、シーヴァたちは外に出た。

「本当に仕合をなさるおつもりですか」

 ヴェートが心配そうに近づいてくる。アルテンシア半島の人間にとって、ゼゼトの民への恐怖や不信感はそう簡単に拭えるものではないのだろう。

(それは向こうも同じだろうが)

 シーヴァは横目に少し離れたところにいる三人のゼゼトの民を見た。まさしく先ほどウルリックが言ったとおり、双方同じこと、だ。

「仕合にかこつけて閣下を殺害するつもりでは………」

 それはシーヴァも考えている。だが、彼のうちにはウルリックに対する奇妙な信頼感が既に芽生え始めていた。この男ならそのようなことはするまい、ということではない。彼ならば命を狙うにしても堂々とやるであろうということだ。

「ウルリックが立ち合いの中で何を見たいのかは分らん。が、やれという以上やるしかあるまい」

 胸のうちのその“信頼”をシーヴァはヴェートには言わなかった。確証があるわけではないし、こういうものは自分が確信していればよい。

「ですが………」
 未だに心配そうな副将の肩に、シーヴァは手を置いた。

「ヴェートよ。そなたの上官はこのようなところで死ぬ男か?」
 なんら理論的な説得ではなかったが、彼女を安心させるにはそれで十分であった。

「いえ。閣下はこのようなところで倒れるお方ではありません」

 シーヴァとヴェートが話しているのを横目に、メーヴェは父親に詰め寄っていた。

「親父殿!これはどういうことだ!?あたしたちはなにも聞いていないぞ!」

 怒髪天を突く(風に髪があおられているのでそうみえる)勢いで彼女はウルリックに詰問する。

「言っとらんのだから知らなくて当然じゃ」

 ウルリックは飄々と娘を受け流した。そのまま突然立ち会えと言われたガビアルに視線を移す。

「エムゾーの族長殿…………」

 彼の様子には少しばかりの戸惑いが見られる。ただし戦うことに関してではない。ゼゼトの民で、しかも戦士である以上そこに戸惑うとこなどありえない。ガビアルはただ自分にどんな役回りが求められているのか、図りかねているのだ。

「ガビアル………」
 ゼゼトの民の中でも屈指の戦士の名を呼び、横目でシーヴァを窺う。

「殺してええぞ」

 それを聞き、メーヴェは目を見開いた。そしてガビアルは壮絶な笑みを浮かべるのであった。

 雪原でシーヴァとガビアルはそれぞれ剣を手にして向かい合った。シーヴァが手にしているのは愛剣たる魔剣「災いの一枝(レヴァンテイン)」だ。漆黒の大剣で、片刃の刃には黄金に輝く古代文字(エンシェントスペル)が印字されている。

「天より高き極光の」

 この場に古代文字(エンシェントスペル)が読める者がいれば、印字された文字をこのように読んだであろう。

 一方ガビアルの剣も、片刃の大剣であった。いや鉈を大剣のサイズまで大きくしたもの、といったほうが正しいかもしれない。刃は分厚く、切っ先は垂直になっている。

「最初に言っておくが、俺は全力でやる。そのつもりでいろ」

 ガビアルが不敵な笑みを浮かべながら、シーヴァにそう宣告する。それを見てシーヴァはガビアルが自分を殺すつもりでいることを察した。とはいえそのことに危機感は感じない。ヴェートがそうであったように、シーヴァ自身も己の力と力量を信じている。

 何も言わずシーヴァは「災いの一枝(レヴァンテイン)」を構えた。ガビアルもそれに倣う。

 睨みあいは数瞬。

 先に動いたのはガビアルだった。雄たけびを上げながらシーヴァに迫り、分厚い大剣を振りかぶり真正面から振り下ろす。切り裂くためというよりは押しつぶすためのその一撃を「災いの一枝(レヴァンテイン)」で受けとめた瞬間、シーヴァは凄まじい圧力を全身に感じた。彼は柔らかく膝を使いその圧力を上手く逃がしながら、ガビアルの一撃を捌く。

 上からの力と下からの力が拮抗する。ギチギチと刃がこすれる音が雪原に響く。

 この拮抗に先に焦れてきたのはガビアルのほうであった。自慢の怪力で押し切れないことに苛立っているのか、顔がゆがんでいく。一方シーヴァはどこまでも無表情で、そのくせ眼だけはどこまでも鋭い。それがさらにガビアルを苛立たせる。

 ガビアルの集中が、一瞬途切れる。その瞬間、シーヴァは膨大な魔力を愛剣に喰わせ、その威を解き放った。

「黒き風よ……!」

 黒い魔力の奔流が「災いの一枝(レヴァンテイン)」から放たれる。解き放たれた黒き風はその威を十分に発揮し、ガビアルの巨体を五、六メートル向こうに吹き飛ばした。

「これでよいのかな?」

 シーヴァはウルリックに問いかける。ウルリックはなにも言わない。代わりに吼えるようにして声を上げたのはガビアルであった。

「ふざけるな!!」

 全身に雪をつけながら、巨躯の戦士は吼える。その眼は怒りで血走っている。

「そんな卑怯な勝ち方、俺は認めぬぞ!」
「卑怯?」

 面白がるようにシーヴァは笑った。彼が何をさして“卑怯”と叫んでいるのか、彼は当然承知していたがあえて問いかける。

「なにが卑怯なのだ?」
「その剣だ!」

 雪を振り払いながらゼゼトの青年が立ち上がる。自分はその魔剣に負けたのであってお前に負けたわけではない。その魔剣が強いのであってお前が強いのではない。そんなことをガビアルは叫んだ。

「ふむ。ではこの『災いの一枝(レヴァンテイン)』、お前が使ってみるか?」

 そういってシーヴァは「災いの一枝(レヴァンテイン)」を彼の方に放った。その行動に三人のゼゼトの民は一様に驚いたが、最も驚いたのはガビアルだろう。自分の前に突き刺さった漆黒の魔剣を恐る恐る引き抜いた。

「・・・・・いい、のか?」

 彼の声には先ほどまでの勢いがない。明らかに戸惑っていた。シーヴァは、かまわん、と言って、自身はヴェートから剣を借りた。こちらは魔剣ではなくただの剣だ。

 剣を構えるシーヴァを見て、ガビアルはひとまず考えることを止めた。シーヴァがなぜこの魔剣を自分に使わせるのか、その腹のうちは分らない。

(だが殺してしまえば同じだ………)

 そのための最高の道具は、今ガビアルの手の内にある。その魔道具「災いの一枝(レヴァンテイン)」に彼が魔力を込めたその瞬間……。

「!?」

 突然視界が回った。貧血を起こしたかのように四肢に力が入らず、ガビアルは思わず膝をついた。

(終わったな………)

 膝をついて青い顔をしているガビアルをみて、ヴェートはそう断じた。シーヴァのあの魔剣「災いの一枝(レヴァンテイン)」は確かに強力な魔道具である。だがその力を発動するには膨大な魔力を喰わせる必要があるのだ。しかも一度魔力を込めると、あとは半強制的に魔力を吸い上げるという厄介な性質(ともすれば致命的な欠点)を持っている。そのため魔力量の少ないものや、量はあっても訓練を受けていないものが使おうとすると、全身の魔力を根こそぎ喰い尽くされ今のガビアルと同じ状態、いやともすれば死に至る危険さえある。あの魔剣「災いの一枝(レヴァンテイン)」を自在に操れる人間を、ヴェートは自身の上官以外知らない。

 冷や汗を流して荒く息をして動けないでいるガビアルに、シーヴァは剣を持ったまま近づいていく。

「お前は先ほどこう言ったな」

 自分はその魔剣に負けたのであってお前に負けたわけではない。その魔剣が強いのであってお前が強いのではない、と。

「ではその魔剣すら使えないでいるお前は何だ?」

 シーヴァの言葉に嘲笑が混じる。それを聞いたガビアルは血走った眼を彼に向けた。死よりも嘲笑と侮辱を、彼の誇りは許さない。

 歯を食いしばり、立ち上がる。漆黒の大剣を両手で構え、そしてガビアルは吼えた。

「オ、オオ、オオオオオオオオオ!!」

 ありったけの魔力をガビアルは「災いの一枝(レヴァンテイン)」に喰わせた。彼の魔力を喰い尽くし魔剣はその威をシーヴァに向かって発動する。放たれた黒き風はしかしまともに狙いをつけられてはおらず、そのほとんどはただ雪原をえぐり雪を巻き上げるだけで、シーヴァには届かなかった。

 舞い上がった雪が風に吹かれてどこかへ行き、シーヴァの姿が現れる。

「見事」

 短くゼゼトの青年を賞賛する彼の頬には、赤い線が一筋走っている。発動させることさえ難しい「災いの一枝(レヴァンテイン)」を使ってガビアルが放った黒き風は、確かにシーヴァに届いたのだ。

 だがそれをガビアルが見ることはなかった。ありったけの魔力を「災いの一枝(レヴァンテイン)」に喰わせた彼は、力尽きて今は雪原に倒れてしまっていた。死んだわけではない。気絶しているだけだ。

「さて、ウルリック殿。こういう結果になったが?」

 立っているシーヴァと、倒れてしまい少しも動かないガビアル。勝敗は明らかだった。それを見てエムゾー族の族長は満足そうに頷いた。

「シーヴァ・オズワルドよ、そなたを信用にたる誇り高き戦士と認めよう」





[27166] 乱世を往く! 第四話 工房と職人 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:51
素体にあわせて最適化された魔法陣や術式を「魔導回路」とよぶ。剣を魔剣にするためには、そこに魔導回路を刻み込まなければならない。これはこの世界の一般常識であり、魔道具製作についてなにも知らない子どもたちでさえ知っている。

 刻み込む作業は「刻印」と呼ばれるのだが、ではどのように「刻印する」のかといえば、細工用のナイフを用いてチマチマと、というわけではない。というより術式は複雑すぎて手作業では刻み込めない、といったほうが正しい。

 魔法陣は素体に対し、直接刻み込むのだ。

 魔法陣の基本は円である。その形が魔力を巡らせるのに最も適しているからだ。その円の外側にもう一つ同心円を描く。そしてその帯の部分に「刻印するための魔法陣」を描く。次にその二つの魔法陣の中心に刻印を施す素体を置く。剣であれば中心に突き立てるのが一般的だ。大きな素体の場合、三重の同心円を用意し、一番内側の円の中に素体を置くのが良いとされている。

 準備が整ったら、一番外側に描かれている「刻印するための魔法陣」を発動させると、後は自動的に魔導回路が刻印されていく。ちなみに「刻印するための魔法陣」というのは広く知られており、専門書を紐解けばすぐにその知識を得ることが可能だ。

「とまあ、これが一番基本的な刻印式工法だな」

 とは言え、刻印する魔導回路が一つだけということはほとんどない。

 例えば「炎を自在に操る」ためには、炎を「発生させる」回路と「操作する」回路の二つが必要になる。だが通常一つの魔道具に二つ以上の魔導回路を刻印することはしない。魔導回路が二つ以上あると、魔力を流したときにそれぞれが干渉しあい、最悪の場合暴走に至るからだ。

「そこで必要になるのが………」
「合成、ですね」
 ニーナが答えると、イストは、その通り、と言って説明を続ける。

 合成とは、呼んで字の如く「二つ以上の魔法陣を一つに合成すること」だ。ただし回路を一つに合成するのは理論段階ではなく、実際に回路を刻印する段階で、である。

 例えば三つの魔法陣を合成するとする。その場合、まず三つの魔法陣を個々に用意する。次に三つの魔法陣を大きな円の中に収める。最後に円の内側の空白部分に刻印するための魔法陣を書き込めば準備は完了。円の中心に素体を置き、刻印用の魔方陣を発動させればよい。

 準備は簡単だが実際の刻印作業は、魔法陣が一つのときと比べて格段に難しい。職人たちが言うとことの「バランスを取りながら」行う必要があるのだが、これがなかなか感覚的な作業で、例えばイストは「水が澱まないように流す感じ」というし、その師であるオーヴァ・ベルセリウスは「天秤をつりあわせる感じ」と言っている。そのためこの技術のコツを他人に教えるのはとても難しい。

 そういわれたニーナは腕を組んで、むむ、と唸った。

「なにかセオリーみたいのってないんですか」
「そうだな、一般に魔法陣を小さくすると刻印しやすくなると言われている」

 それゆえに魔道具職人たちは、図面と睨めっこしながら少しでも無駄を削ることに心血を注ぐ。

「イストと同じですね……」

 工房の二階に設けられた部屋に行けば、彼はいつも机に向かってペンを走らせているか、部屋に散乱した資料を読み漁っているかのどちらかであった。そうやって少しでも魔法陣を簡略化し、工房に下りてきては「光彩の杖」を使って試し、またさらに簡略化するという作業を繰り返していたのだ。ただいつも「無煙」を吹かしていたせいか、なぜか緊張しきらないのが常であった。

「ま、術式も固まってきたし、そろそろ刻印するかな」

 イストとしては何気なく呟いたセリフであろうが、ニーナは勢い良く反応した。読んでいた資料(とはいっても内容は理解できていないし、そもそもイストの講義を聴いていたため字面を眺めていただけであるが)から物凄い勢いで視線をイストに移す。

「見学していいですか!?」
「ん?別にいいよ」

 熱意溢れるニーナに、イストは「無煙」を吹かして資料を眺め、気のない返事をする。ニーナは手を叩いて喜んだ。そんな彼女の様子を、イストは面白そうに眺めていた。

**********

 工房におりて準備をしていると、なぜかガノスもその様子を見ていた。どうやらイストが刻印を施すと察したらしく、こちらもまた見学を申し出てきたのであった。

 イストが鞘から刀を抜くと、その刀身にはつい先日まではなかった古代文字(エンシェントスペル)が刻み込まれていた。

「闇より深き深遠の……?」

 刻まれた古代文字(エンシェントスペル)はそう読むことができる。どういう意味なのかとニーナが頭を捻っていると、イストがさっさとネタばらしをした。

「ただの飾りだよ」
 見た目も大切ってことさ、とイストは笑った。

 ニーナは知らないがことだが、この呪文(スペル)は初代アバサ・ロットであるロロイヤ・ロットが残したものだ。他の三つの呪文(スペル)も含め、あるいは深い意味があるのかもしれないが、それは今日までは伝わっていない。

 イストや彼の師であるオーヴァは、ロロイヤへの敬意も合わせ魔道具の装飾にこれらの呪文(スペル)を用いることがよくあった。

 さて、とイストは呟き集中を高めていく。右手には抜き身の刀を、左手には「光彩の杖」を持っている。集中が高まるにつれて彼の目からはあらゆる感情が剥がれ落ちていき、感情のない乾燥した、しかし何事にも動じない精神状態へと移行していく。

(刻印にもあの杖を使うのか………)
 予想していたこととはいえ、ガノスは唸った。

 通常刻印する魔法陣は地面に描くか、あるいはすでに描かれている紙か石版を使う。イストの仕事ぶりを脇から見て、彼が優秀な魔道具職人であることは十分に分っている。だから彼が刻印に「光彩の杖」を使うのも何か意味があるからなのだろうが、生憎とガノスには閃くものがない。

(さて、お手並み拝見………)
 好奇心がうずく。こんな感覚は久しぶりだ。

 イストは刀の切っ先を工房の石畳につけ固定した。そして「光彩の杖」魔力を込め、刻み付ける術式をイメージする。

 刀の刃を囲むようにして現れた魔法陣は三つ。

 一つ目は「強化」。刀身の強度を上げ、折れたり曲がったり、さらには刃毀れしたりするのを防ぐ術式だ。

 二つ目は「切断」。これは刃物の切れ味を鋭くするための術式だ。ちなみに槍などに施す術式で「貫通」というものがあるが、これは字面が違うだけで中身は「切断」とほぼ同じだ。

 そして三つ目が「干渉」。これは言葉で説明するのが難しい。相手の魔力に「干渉」しさまざまに邪魔をしたりするというものなのだが、如何せんイメージが漠然としすぎており、製作者のイストでさえこの刀は持ち手を選ぶだろうと思っている。しかしその一方で然るべき使い手にめぐり会えば、歴史に名を残す名刀になるだろうとも思っていた。

 三つの魔法陣の外側にさらにもう一つ円が描き出され、その内側の空白部分に刻印のための術式が描かれていく。

 刻印のための最終準備が整った。ここから先が本当の意味での勝負。失敗は許されない。仮に失敗したとすれば、一度溶かして成型しなおすほか刻印した術式をキャンセルする方法はない。そうなれば全てが水の泡だ。

 イストの集中がさらに高まる。凄まじい集中力は時間の感覚を歪ませる。今の彼は一秒でさえ一日の如くに感じ、また逆に一日さえ一秒の如くに感じるだろう。

 イストは「光彩の杖」を操作し、描いた術式をゆっくりと刀身に沿わせて動かしながら刻印を施していく。

(そんな方法があったのか………!!)

 目の前の光景に、ガノスは殴られたような衝撃を受けた。術式を動かしながら刻印を施す理由は分らない。そもそも「刻印作業は術式も素体も動かさずにおこなうもの」という既成概念があり、ガノスも含めて一般の職人はこのような技法は思いつかないだろう。

 魔法陣は切っ先の少し手前で止まり、そして消えた。イストは、ふぅ、と一息つき脱力した。作業時間はおよそ三十秒。しかしたったそれだけの時間だったにも関わらず、極度の緊張を強いられていたイストの顔には大粒の汗が幾つも浮かんでおり、また彼自身息が荒い。それでも大仕事を終えた彼の表情は晴々としていた。

「刻印用の魔法陣を動かしていたが、その理由を聞いても良いか」
 最後の保護処置をしているイストにガノスが疑問をぶつけた。

「素体と魔法陣の両方を固定したまま刻印を施すと、魔導回路は均一に刻まれず粗密ができてしまう」

 そうなると魔力の流れに少なからずムラができるのだ、とイストは言う。そこで魔法陣を動かしながら刻印することで、魔導回路の粗密を均一にするのだという。ただ素体のほうを動かそうとすると手ぶらで狂ってしまうので、「光彩の杖」で制御が可能な魔法陣のほうを動かしているそうだ。

「でもまあ、両方固定してやったほうが簡単なのも事実だ。最後の最後に失敗してたんじゃ、目も当てられない」

 保護処置の終わった刀、いや魔刀とでも言うべきか、ともかく今まさに完成した魔道具をイストは鞘に収めた。

「その魔道具、名前は決まっているんですか?」
 ニーナが尋ねると、イストは頭を振った。

「まだ決めてない。ま、そのうちな」

 後にこの魔道具はとある剣士の手に渡り、その剣士が名前をつけることになるのだが、それはまた別のお話である。




*********




「ニーナ」

 夕飯の後片付けも終わり、食堂でぼんやりしていたニーナにガノスは声をかけた。何かあったのだろうかと思い、ニーナは頬杖をついていた顔を父親のほうに向けた。

「お前、もうイスト君に弟子にしてくれと頼んだのか?」

 ――――ガタンッ!!

 ニーナは思いっきりテーブルに頭をぶつけた。

「え?ええ?え?ええっ?」
「なんだ、まだだったのか」

 早くしたほうがいいぞ、とガノスは椅子を引きニーナの正面の席に座った。

「お父さん!!」
「何だ?」

 あまりにも予想外の展開に狼狽し叫ぶニーナに対し、ガノスはどこまでも冷静だった。いや、ワタワタと取り乱す娘を見て楽しんでいるフシさえある。

「何だって……、いいの?」
「なりたいのだろ?お祖父ちゃんのような魔道具職人に」

 もちろん、なりたい。それがニーナの子どものころからの夢だ。そしてそのためにはイストの弟子にならなければならない。現状彼しかツテがないのだから。しかし彼の弟子になるということは、この家から離れるということだ。一人父を残していって、本当に大丈夫なのだろうか。

「なに、なんとするさ。それが男という生き物だ」
「でも…………」

 ガノスは不器用におどけてみせた。しかしニーナの心配は尽きない。現状ただでさえ零細で、微妙なバランスの上に「ドワーフの穴倉」の経営はある。自分が離れたことで一気に崩壊に向かってしまわないか、ニーナは心配だった。

「イスト君から受け取った八シク(金貨八枚)を元手に、新しい魔道具を作ってみようと思っておる」

 その新しい魔道具をイストが旅立つ春先までに完成させ、ニーナが安心してイストに付いて行けるようにする、というのがガノスの腹積もりだった。いつ完成するかは正確にはわからないが、そのメドだけは意地でもつける気でいる。

「なあ、ニーナ………」
「なに、お父さん?」

 ガノスの目が、ふと優しいものになる。

「『ドワーフの穴倉』は、好きか?」
「うん、好き。大好き」

 ニーナは即答した。その一瞬の迷いもない返答に、ガノスは微笑をもらした。

「そうか………。ならお前が帰ってくるまで、工房はワシが守っておく」

 新しい魔道具の製作を始めれば、これまでにも増してニーナを魔道具職人として育てることなどできなくなる。ならば娘が一人前の職人になって帰ってくるまでこの工房を守ること、それがガノスに出来る唯一にして最大の事のように思われた。

「本当に………、いい………の?」

 ニーナの声が震えている。だが彼女の目は輝いており、その震えが歓喜ゆえのものであることは誰が見ても明らかだった。

「ああ、もちろんだとも。だから早くイスト君に頼んでくるといい」

 きっと彼は断らないだろうから、とガノスが言い終えるより前に、ニーナは飛び上がり足をもつれさせながら駆け出していった。

 その後姿に、ガノスは一人独白を投げかける。

「巣立ち、か………」

**********

「弟子にしてください!!」
「いいよ」
「………はい………?」
「どうした。呆けた声出しやがって」

 ほとんどドアを蹴り破るようにしてイストの部屋に入り弟子入りを願い出たニーナは、頭を下げたその格好のままで固まってしまった。ガノスの言ったとおり、イストが驚くほど簡単に彼女の弟子入りを承諾したからだ。

「えっと……、いいん……です………か……?」
 体の硬直が未だに解けていないニーナは、上目遣いにイストを見た。

「うん、いいよ」

 機嫌よく「無煙」を吸い白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出しながら、イストはもう一度弟子入り承諾を伝える。

「しっかし、決意するまでに随分時間がかかったな~」

 時間は有効活用しなきゃいかんぜ、と「無煙」をクルクルと回してもてあそびながら、イストは偉そうにのたまった。

 その言葉で自分が魔道具職人になりたがっていることが、かなり早い段階からイストにバレていたことをニーナは知った。だとするならば現状を鑑みるに、ニーナが魔道具職人になるためにはイストの弟子になるしかない。その結論に至った瞬間から、イストは彼女が自分から言い出すのを待っていたのだろう。

 逆を言えば、自分で言い出さない限りは弟子にするつもりはなかった、ということだが。

 ――――徐々に、体の奥底から歓喜が湧き上がってくる。

「師匠!よろしくお願いします!!」
「あいよ」


 大陸暦一五六三年、にわかに歴史が動き出したこの年の暮れ、ニーナ・ミザリは魔道具職人イスト・ヴァーレの弟子となり、その夢への第一歩を踏み出すこととなる。

 しばらく後に師弟はこのときのとこを思い出してこんな会話をかわす。

「どうしてわたしを弟子にしようと思ったんですか?」
「そうさな。向いている、と思ったから、かな」
「向いている………?」
「そ。才能の有無はともかくとして、姿勢というか態度というか、まあそういうものが魔道具職人に向いていると思ったから、だな」


―第四話 完―





[27166] 乱世を往く! 幕間Ⅱ とある総督府の日常
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/04/17 14:56
 それほど厳密なくくりではないが、魔道具には属性が存在する。火・水・風・雷・土などといったものだ。一見して属性を当てはめるのが難しい魔道具もあるため、それほど重要視されてはいないが、性能を説明する上では大切なパラメータだ。

 さて上に記した五つの属性のうち、水と土は他の三つとは一線を画している。それは火・風・雷といったものがエネルギー体であるのに対し、水と土は物質であるからだ。魔道具を触媒として魔力をエネルギーや力場に変換することは容易だ。しかし、魔力を用いて物質を生み出す術は未だ確立されていない。

 それゆえ何がおこるかというと、水や土といった物質を操る魔道具の場合、対象となる物質の有無によってその性能は著しく異なってくる。

 土の魔道具はまだいい。船にでも乗らない限り足の下には大地が広がっており、土がなくて困るなどという事態はおよそありえない。

 だが、水の魔道具はそうはいかない。近くに川があるのでもない限り、十分な量の水を確保することは難しい。そのため水の魔道具を使う魔導士が戦場に赴く際、水の入った樽を抱えながら従軍するといった傍から見れば滑稽な様子が見られるわけだが、本人たちにしてみればいたって大真面目だ。それが有るか無いかで、自分の発揮できる実力が大きく変化してしまうのだから。

 こうして説明してみると、水の魔道具は火や雷の魔道具と比べ、使い勝手が悪いように思われるかもしれない。だがしかし、水の魔道具には大きなメリットがある。水さえ十分にあれば大きな効果を容易に得られるのだ。

 古来より優れた用兵家たちはこの性質をうまく用いて軍を進めてきた。

「水のある戦場は気をつけろ」
 とはこの世界ではよく言われてきた格言である。

 どれだけ容易に大きな効果が得られるのかといえば、魔道具を使い始めてから一年くらいの未熟者でも、巨大な水柱を作り出すくらいのことはやってのける。そう、今まさにリリーゼ・ラクラシアがそうしているように。

**********

 大陸暦一五六四年四月、モントルム領総督府の置かれた旧王都オルスク、そこにある城の堀から一本の水柱が音をたてて立ち上がった。朝日が昇りきっていない時間帯とはいえ、町には人影がある。しかし誰もこの光景を目の当たりにして、驚いたり取り乱したりはしていない。

「あら、昨日より高くなったかしら」

 などと暢気に感想を述べている婦人もいる。初めこそ総督府に質問が殺到したが、ここ二週間ほどですっかりと見慣れた光景になってしまった。城壁の上から見張りをしている兵士たちもまったく気にしていない。中にはこれを使って賭け事をしている者もいるとかいないとか。

 自分の朝の訓練がすっかりオルスクの名物になってしまったことを、しかし当のリリーゼはまったく気づいていなかった。

「うん。いい調子だ」

 あれだけの水柱を操ってみても、初めのころのように息切れするということはない。随分と扱いに慣れてきた証拠だろう。思えば操る水の量も多くなった気がする。複雑な水の動きもだんだんと制御できるようになってきて、このところのリリーゼの自主鍛錬は充実していた。

 手にした「水面の魔剣」はリリーゼの魔力を受け、その刀身に波紋のように揺らぐ光を輝かせている。最近気づいたことだが、この輝き自体が一種のバロメータになっており、その日の調子を測ることができるのだ。

(本当に綺麗な魔剣だ………)

 時々刻々と変化するその刀身の輝きは見ていて飽きることがない。暗いところでやれば、その輝きはより神秘的になり、見る人を惹き付ける。月のない晩に星明りの下でその輝きを眺めるのが、リリーゼの密かな楽しみとなっていた。

「まったく、本当にあの男は何者なんだろうな………」

 イスト・ヴァーレ。この「水面の魔剣」を作った流れの魔道具職人。魔剣から連想するようにその男を思い出した。リリーゼは魔導士としてはまだまだ未熟だが、それでもこの魔剣が“超”がつく一級品であることは用意に想像がつく。

「こんなに美しい魔剣を作れるような人間には見えないのだけど」

 それは偏見が過ぎるか、とリリーゼは頭を振った。とはいえその考えを否定できない自分もいる。

 これだけ優秀な腕を持ちながら、特定の工房には属さない流れの魔道具職人。本人の言葉を信じるならば遺跡巡りが趣味で、知識も豊富な様子だった。加えてクロノワ閣下の友人。

「滅茶苦茶な人間だな」

 思わず苦笑がもれる。彼に騙された記憶は苦々しいが、今となってはそれほどの怒りは感じない。聖銀(ミスリル)の製法は確かにヴェンツブルグの利益になったわけだし、そろそろあの事件に自分の中での決着をつけてもいいころだと思う。

「と、いけない。集中集中」

 意識を朝の訓練に引き戻す。この場にいない男の正体を勘ぐってみたところでどうしようもない。今の彼女にはきちんとした仕事があり、そのため時間は限られている。ならば密度の濃い訓練をしなければならない。

 目を閉じて「水面の魔剣」を正面に構える。流し込まれた魔力に反応して、魔剣の刀身に淡い光が揺らいだ。堀の水が今度は幾筋もの水柱になって立ち上がり、整然と動いたかと思えばバラバラに動いたりと、複雑な運動を繰り返す。

 オルクスの朝の名物は、日が昇りきるまで続く。


 ちなみに………、

「今日は私の勝ちですね」
「負けちゃいましたねぇ~。まあ、全体としてはまだ僕のほうが勝ってますけど」
「今までの負けの分も、そのうち返してもらいますよ」
「………お二人共、リリーゼ嬢の訓練で賭け事をするのはいかがかと………」

 賭けの結果に一喜一憂する総督とその主席秘書、そしてそんな二人に苦い顔をする女騎士がいたとか。


 モントルム領は、今日も平和だ。


***********


 リリーゼ・ラクラシアのモントルム総督府における役職は、総督クロノワの秘書である。とはいえ四人いるうちの下っ端で、書類をあちこちの部署へ持っていったり持ってきたりと、現時点ではデスクワークよりも肉体労働のほうが割合としては多い。その他にもクロノワにお茶を出したりしているのだが、彼の仕事を横から見たりフィリオをはじめとする先輩たちが色々なことを教えてくれるため、リリーゼの毎日は充実していた。

 今、彼女の目の前で主席秘書のフィリオが総督であるクロノワに、聖銀(ミスリル)の製法の件で最終報告をしていた。

「聖銀(ミスリル)の製法ですが、当初の思惑通り大陸中の工房に売却することができました。細かい数は報告書を上げてあるので、そちらを見てください」

 クロノワは報告書と思しき書類をめくりながらフィリオの報告を黙って聞いている。彼は終生、人の話しに口を挟むということをほとんどしなかった。

「………次にこの件での収入と支出についてですが、まあ細かい項目は報告書を参照してもらうとして、純利益だけでいいですよね」

 一から十まで説明するのが面倒くさいのか、フィリオは報告を大幅に端折った。クロノワもそれを咎めない。全てを聞いていては時間がないからだ。

「純利益はおよそ二四三万シク。総督府の取り分が全体の一割ですから、およそ二四万シクとなります」

 二四三万シクといえば独立都市ヴェンツブルグの年間予算の四倍近くだ。これでヴェンツブルグを発展させるために必要な資金に、ひとまずメドが立ったことになる。

「………最後に教会の動向ですが、内部でごたごたしているようですが、今のところこちらに横槍を入れてくる気配はありません。製法を買い取った工房にも圧力を掛けている様子はありませんし、こちらの思惑通りにいったと考えて良いのではないかと。報告は以上です」

 フィリオの報告を聞いて、クロノワは一つ頷いた。純利益二四三万シク、今のところ教会が何かしてくる気配はない。上々の結果だ。

「懸念があるとすれば、突然巨額の資金を手にしたヴェンツブルグに教会が疑いを抱く、といったところでしょうか」
「そうなったら『その資金は城に隠してあった財宝から総督府が出したものだ』とでも説明しましょう」

 クロノワが言った通り、この城の隠し部屋には財宝が隠されていた。ただ、その大部分は彼が凱旋する際に戦利品として持ち帰っている。

「それで総督府の取り分である二四万シクですが………」
「はい。かねてからの予定通り、帆船を購入します。まずは五隻程度でしょうか。じつは既に目星も付いていまして、船員を含め早ければ五月中には動かすことが出来ると思います」

 フィリオの報告にクロノワは満足そうに頷いた。
 その帆船は「種」だ。いずれ種は花を咲かせ、そして花は新たな種をつけるだろう。そうやって花が増えていき、世界中に種を落とすときクロノワの野望は成就する。

(この世界を小さくするための、これは第一歩)

 ひとまずは順調な滑り出しと言うべきだろう。

「とはいえ、利ザヤが出るまでどれくらいかかることやら………」

 クロノワがやろうとしていることは海上貿易だ。しかも世界規模の。商売である以上、利益が出なければ続けていくことはできない。しかし始めてすぐに黒字を確保できると考えるほど、クロノワは楽観的ではなかった。

「それでもよそが一から始めるよりは、断然有利な立場だと思いますよ」

 フィリオの言葉は正しいだろう。ヴェンツブルグのレニムスケート商会がいろいろと力を貸してくれる手筈になっているし、モントルム総督府ひいてはアルジャーク帝国という申し分ない後ろ盾がある。

「そうですね。通貨も統一されていて商売はやりやすい環境ですし、せいぜい頑張るとしましょう」
「はい。普通は異常なんですが、今は感謝ですね」

 フィリオのいう“異常”という単語が、リリーゼには引っ掛かった。それでつい口を挟んでしまった。

「あの、なにが“異常”なんですか?」

 クロノワとフィリオが揃って彼女のほうを向いた。ただ、彼らの目は優しい。それがリリーゼを安心させた。

「ではリリーゼ嬢のために、一つ講義をいたしましょう」

 恐れながらクロノワ閣下も必要な知識がおありか試させていただきます、とフィリオは大仰に一礼してみせた。大事になってしまったとリリーゼは焦ったが、クロノワを見ると、おや私もですか、と笑っていて楽しんでいるように思われた。

「さて、まずは硬貨についてです」

 右手の親指をピンと立ててフィリオが説明を始める。
 この時代、通常硬貨には貴金属が用いられている。しかし金貨にしろ銀貨にしろ、同量の素材と比べた場合、硬貨のほうがあるかに価値が高い。それはなぜか。

「その硬貨を発行している国が、その価値を補償しているからです」

 逆を言えば、既に存在していない国の硬貨や信用を失ってしまった国の硬貨は、通貨としての価値を失うことになる。

「では、そもそも国家はどうして通貨を発行すると思いますか」

 リリーゼ嬢どうぞ、とフィリオはリリーゼに話を振った。

「ええっと、お金があるほうが便利だから、ですか」
「二十点ですね。それならば他国の通貨を使ってもいいことになる」

 フィリオの採点は辛口だ。リリーゼはがっくりとうな垂れた。
 そんなリリーゼの様子を微笑ましく見守りながら、フィリオは説明を続ける。

「簡単に言えば、自国の経済を他国に牛耳られないようにするため、です」

 通貨の価値は、それを発行する国が決める。今まで使っていたお金の価値が、ある日突然十分の一になってしまったら、経済の混乱は避けられない。それに通貨を支配されるということは経済を支配されることと同義で、そんなことになれば国を則乗っ取られるのと同じだ。

「ですから、国家が複数あれば通貨も複数ある、というのが普通です」

 ゆえに、国が複数ありながら通貨が一つしかないこの大陸は異常なのだ。

「でもどうして通貨は一つになったんですか」
「大昔にこのエルヴィヨン大陸は一度、統一されたのは知っていますね」

 リリーゼに答えたのはクロノワだった。
 大陸の統一を成し遂げた国が断行した政策が、度量衡と通貨の統一だった。さまざまに反発を呼びながらも、かの国はついにそれを成し遂げる。

「そのときの度量衡と通貨が今も使われています。不思議なことにね」

 度量衡はともかくとして、存在しない国の通貨が価値を失わずに流通している。これは不思議な現象だ。

「理由はいくつか考えられます」

 統一国家が倒れた後の混乱期において、円滑な商取引を行うためにはそれまでの通貨を使ったほうが都合が良かった。新しい通貨が発行されても、商人の大部分が古い通貨を使いたがった。それまで通貨が統一されていたため、両替商がいなかったこと。

「きっと、さまざまな理由が絡み合っての現状でしょうね」
 クロノワがそう締めくくった。

「さて、そういうわけでこの大陸の通貨は今現在一つだけなわけですが、通貨政策で絶対にやってはいけないとされている“禁じ手”があります」

 さてなんでしょう、とフィリオが問題を出した。

「通貨の大量鋳造と純度の引き下げですね。もっともこれらは通貨が複数あっても当然のことですが」
「閣下ぁ~、リリーゼ嬢に答えさせなきゃ意味ないじゃないですか」

 ジト目で睨むフィリオに対し、これは失礼、とクロノワは肩をすくめてみせた。まったくもう、とため息をついてからフィリオは説明を続ける。

「先ほどお話したように、金貨というのは同量の金よりも価値があります。つまり金貨で金を買いその金で金貨を作れば、理論上必ず利ザヤが出ます」
「じゃあ、どうして“禁じ手”なんですか」

 必ず利益が出るなら、誰かやりそうなものだが。

「理由はいくつかあります」

 第一に大量の貴金属を買い占めようとすれば、当然市場での価格が上がり、その結果利ザヤは少なくなってしまうから。

 第二にお金を大量に作りすぎると金余りの状態になり、経済が混乱し損害のほうが大きくなってしまうから。

 第三にいきなり羽振りが良くなると、隣国から「戦争をするつもりでは?」と疑われてしまうから。

「このほかにも色々と理由はありますが、簡単に言ってしまえば、やりすぎてしまうとメリットよりデメリットのほうが大きくなってしまうんです」
 だからこれは禁じ手、まともな国なら手を出さないことです、とフィリオはいう。

「それじゃあ、純度の引き下げというのは?」

 例えば金貨二枚分の金で金貨三枚を作れれば、金貨一枚分の利ザヤができる。だが一枚一枚の金貨を比べると、使われている金の量は少なくなってしまう。

「こちらはもっと深刻ですね。通貨そのものの価値、ひいては信頼に問題が起こります」

 誰だって純度が低いと分っている硬貨は使いたくない。そんな粗悪品が多く出回ってしまえば、人々はお金というものを使わなくなり、経済は大混乱に陥るだろう。

「もっとも、その心配はほとんどありませんがね」
「どうしてですか?」
「純度を測定するための魔道具があるのですよ」

 答えたのはクロノワだった。
 純度を測定する魔道具は「真実の目」というのだが、この魔道具があるおかげでこの大陸の通貨は品質を一定に保つことが出来ている。仮にある国が純度の低い硬貨を作ったとしても、結局それは早い段階でバレテしまい、最終的には周りの国から商取引を拒否されるというハメになるだろう。

「ま、ズルしてもいい事なんてないってことですね」

 フィリオが綺麗にまとめて、講義は終わりとなったのだった。


***********



 ドタドタドタ!と騒がしい足音が、総督執務室の外の廊下から聞こえてくる。そんな騒がしい音が響いているにもかかわらず、室内の三人はしかし少しも取り乱してはいなかった。

「今日もまたアレですか」
「今日もまたアレですねぇ~」
「ストラトス執務補佐官もいい加減にすればいいのに………」

 クロノワ、フィリオ、リリーゼの三人が若干呆れ気味にしていると、執務室の扉が勢いよく開いた。

「こちらにストラトスが逃げてきていませんか!?」

 鬼の形相で入ってきたのは、女騎士のグレイス・キーアであった。よほど気が立っているのか、執務補佐官のことを呼び捨てにしている。

「いえ、来ていませんよ」
「失礼しました!」

 クロノワが穏やかに答えると、グレイスは来たときと同じくすごい勢いで去っていった。

「注意しなくていいんですか?閣下」

 リリーゼが控えめに尋ねた。グレイスのことではない。ストラトスのことだ。
 元モントルム駐在大使ストラトス・シュメイルは、モントルムという国家がなくなりアルジャーク帝国の一地方になったことで、駐在大使の任を解かれいわば失業(・・)していたのだが、モントルムにおけるその豊富な知識量を買われて今は総督府で執務補佐官の役職にあった。総督たるクロノワが直接採決する必要のない案件は、ほとんどが彼のところに集まるようになっている。

 ストラトスは優秀な人材ではあるのだが、如何せんなかなかやる気をみせようとはせず斜めに構えていたがる人物で、毎日のように自分の執務室から逃げ出してはグレイスを困らせているのだった。

「仕事が滞ったことはありませんし、問題はありませんよ」

 実際ストラトスが逃げ回ることでクロノワの仕事が増えたことはない。それにグレイスが城内の警備兵を動員してストラトスを捜索することで、警備兵の練度が上がっているという側面もある。それでも容易には捕獲されない彼には、ある種敬意さえ覚える。

「それにグレイスさんがあの形相で走り回っているおかげで、他の部署の方々は仕事をサボることもなく能率が上がっているとも聞きます。差し引きはむしろプラスですね」
「フィリオさんまで………」

 直属の上司たる主席秘書官まで容認論に回ってしまい、リリーゼはがっくりと肩を落とした。リリーゼとグレイスは同室で寝起きしているから、彼女の気苦労について色々と聞かされているのだろう。

 そもそもグレイスは騎士であり、ストラトスは文官である。仕事畑の違う二人がどのようにして出会ったのかといえば、とある事件がきっかけだったという。

 あるとき凶暴な犯罪者が城の地下牢に収監された。だがこの男が暴れまわって手がつけられず、取り調べも出来ない。どうしたものか、という話がグレイスのところまで来ており、彼女も頭を悩ませていたときにストラトスと出会ったのだ。

「どうしましたか?」

 ひょっこりと現れた彼は(今思えばこのときも仕事をサボってフラついていたのだろう)、難しい顔をしているグレイスから一通りの話を聞くと一つ頷き、何とかしてみましょう、と言ったそうだ。

 それから二・三日もすると、例の男は突然大人しくなり取調べにも応じるようになったという。驚いたグレイスはストラトスに「どんな魔道具を使ったのか」と聞いた。すると彼は笑ってこう答えたという。

「魔道具は使っていませんよ。食事から塩を抜いただけです」

 なるほど、確かに塩が不足すると力は出ない。そんな手があったのか、と感心するグレイスに彼はさらにこう言った。

「なまじ魔道具という便利なものが存在するから、人間は不可解な事象を見たときにすぐに魔道具のせいにします」
 それは思考の硬直ですよ、とストラトスは賢しい顔でのたまったのだった。

 例えば、あるときとある船乗りが風に向かって船を進めてみせた。帆船は帆に風を受けて進むものであるから、当然「風に向かって」走ることなど出来ない。だからそれを見た人々はまず「どんな魔道具を使ったのか」と尋ね、次に魔道具を使っていないことが判明すると人外の力を使ったとしてその船乗りを教会の弾劾裁判にかけてしまった。

 種明かしをすれば、風に対しジグザクに船を進めることで「風に向かって」走っていたのだが、結局それを実演して見せることで船乗りは裁判を乗り切った。人の思考がいかに硬直しやすいかを示す事例だろう。

「一般の人々はそれでいいかもしれませんが、人の上に立つ人間がそれでは困りますよ」

 そう言われてグレイスは大いに赤面したという。だが事が今に至れば彼女にだって言いたいことがある。

「なるほど柔軟な思考は必要かもしれないが、それも常識の範疇内での話。貴方の逃亡癖は常識を欠いている!」

 これは全面的にグレイスが正しいと言っていいだろう。しかしどれだけ正論を吼えてみたところでストラトスは逃げるし、逃げる以上グレイスは追わなければならない(いつのまにかそんな役回りになってしまった……)。

「あの二人はなかなか相性が良いと思いますよ」

 そのクロノワの言葉には賛成しかねるリリーゼであった。

**********

 時間は少し遡る。

 エムゾー族の族長ウルリックは海を見ていた。ロム・バオアは北限の島、二月といえば真冬の盛りだ。だが目の前の海は穏やかだった。波は少し高いが、それでも荒ぶる様子はない。

 その海に無数の戦船が浮かんでいる。大きさとしては様々にあるが、大別すれば種類は二つだろう。帆船とゼゼトの民の舟である。

「まさか、ここからこの海を見る日が来るとはな」
「シジュナの族長殿」

 ウルリックの隣に立ったのは、ゼゼトの民らしい巨躯の男だった。厳しい面構えで、立派な顎ひげを湛えている。

 今二人の族長が立っている場所はパルスブルグ要塞の船着場の近くで、眺めている海はロム・バオアとアルテンシア半島の間の海、バラバクア海峡であった。

「静かなる海。ゼゼトの民のもう一つの生命線」

 ウルリックの言葉にシジュナ族の族長は頷いた。
 ゼゼトの民はバラバクア海峡のことを「静かなる海」と呼んでいる。海流や季節風の影響なのか知らないが、この海は一年を通して穏やかでほとんど荒れることがない。ゼゼトの民は昔からこの海で漁をしてその恵を得てきた。

 しかしパルスブルグ要塞ができこの海の制海権を奪われてからは、満足に漁を行うことが出来なくなった。ゼゼトの民の食糧事情が悪化したのは、穀物を手に入れにくくなったこともあるが、同時にこの海で漁を行えなくなったことも一因だ。ゼゼトの族長たちがシーヴァの誘いに応じたのは、この海を取り戻したかったからでもある。

「大陸との行き来ができるようになれば、また自由に漁ができるようになるな」
 シジュナ族の族長は満足そうに頷いた。

「さて、それもシーヴァが約を守れば、だが」
「おぬしが見極めたのだ。信頼していいと思うが」

 形だけの紙切れなど意味はない、とウルリックは言ったが、後日シーヴァは書類を用意して届けさせている。

「紙切れに意味はないかもしれないが、用意しておくことで防げるイザコザもある」

 とシーヴァは言った。形が中身を守ることも確かにあるのだ。シーヴァが彼なりの方法で誠意を見せたといっていいだろう。

「そういえばおぬしの娘だが………」
「いやあ、お恥ずかしい限りだ」

 からかうような目を向けるシジュナ族の族長にウルリックは苦笑した。彼の娘であるメーヴェは今現在シーヴァに張り付いている。

「裏切ったときに殺すため」

 本人はそう言っていたが、ガビアルを倒したシーヴァに興味が湧いたというのが本音だろうと、父親であるウルリックは見当をつけている。

「それを許可したのはおぬしであろう?」
「押し切られただけのこと」

 ウルリックは苦笑いをしてシジュナの族長の追及をかわした。ウルリックとしてはシーヴァとゼゼトの民の間に橋渡しをする人間がいると便利だと思いメーヴェに許可を出したわけだが、思惑通りの働きをしてくれるか我が娘ながら不安なところがあった。

「なんにせよ戦いに勝たねばどうにもならん」

 そういってウルリックは至るべき戦いに意識を向けた。この戦いにもし負けるようなことがあれば、ゼゼトの民への締め付けはこれまで以上に厳しくなるだろう。そうなってしまえばもはや氏族としてこの土地で暮らしていくのは不可能かもしれない。

「あの男にはあの男なりの勝算があるはずだが………」
 シジュナの族長が顎ひげを撫でながら呟いた。

「それをここで言い合ってもどうしようもない」
 ウルリックがそういうと、確かにな、とシジュナの族長は応じた。

「お前が見極めたのだ。正直なところあの男は信じられんが、お前の目は信じている」

 結果から言えば、このときのゼゼトの民の選択は正しかった。そのことを証明する戦いは、もう目の前に迫っている。



[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:36
外なる敵は破壊をもたらし
内なる敵は腐敗をもたらす
さて、どちらがマシなのか
それが問題だ

**********

第五話 傾国の一撃

 カンタルクとポルトール。この二カ国が因縁の間柄であることは、既に何度か記した。ではその原因は何かといえば、それは“塩”であった。

 カンタルクとポルトールは、元々は一つの国であった。塩は海水から作るものであるから、その産地は当然海に面した南側、つまり今のポルトールの側であった。この塩が北側、つまりカンタルクにつくまでにかなり値上がりしてしまったのだ。

 理由は貴族たちが自分の領地を通る品物にかける通行税であった。一つの領地を通るたびに通行税を払わなければならないのだから、自然と品物の値段は上がっていく。しかも塩は生活必需品で、それがなければ人は生きていけない。高くても売れる、高くしても売れる、そういう有様であった。

 こういった場合、国が塩に対し課税を禁止すれば問題はそれで解決するはずであった。しかし貴族の力が強く、そういった話は握りつぶされるのが常であった。余談になるが、カンタルクとそしてポルトールで貴族の力が強いのは、この時代からの流れであるといっていい。

 民の困窮を見るに見かねて、ついに北側の貴族たちは兵を起こした。カンタルクの歴史ではそうなっている。確かにそういう側面もあるのだろうが、より生々しい内情を暴露するならば、塩の課税で富を蓄えていた南側の貴族たちへの嫉妬が大きいだろう。その富を奪うためにもっともらしい口実を考えたのだ。

 こうして内戦が勃発し、国は北と南の二つに分かたれた。カンタルク軍は一時期ポルトールの半分を切り取るまでに迫ったが、そこからポルトール軍が反撃。自国の領内から敵軍を駆逐した。そしてポルトールはカンタルクの侵略を防ぐために一つの魔道具を作ることとなる。

 魔道具「守護竜の門」

 それは厚さ十センチもある巨大な銅の城門で、カンタルクとの国境付近にあるブレントーダ砦に置かれた。二枚一組の城門で、左右の扉にはそれぞれ宝珠を握った竜が描かれている。この宝珠こそが魔道具の核であった。

 この魔道具の効果はいたって単純である。不可視の結界を発生させる。ただそれだけである。ただしその効果は絶大だ。記録によれば二十万の大軍を押しとどめたこともある。もはや戦術級、いや国境の要衝にあるのだから戦略級の魔道具といえるだろう。

 この魔道具「守護竜の門」には二つの核があるからその効果、つまり結界の展開の仕方も二つある。

 右側の扉に埋め込まれた「右竜の宝珠」は、宝珠を中心にして内側から外側に向け敵軍を押し戻すようにして結界を展開する。この結界によって押し戻されると当然隊列は乱れ、そこに砦から大量の矢が降り注ぎ大量の失血を強いるのだ。

 左側の扉に埋め込まれた「左竜の宝珠」は、発動されると特定の位置に結界を展開し、その内側と外側に敵軍を分断する。そして結界の内側に取り残され孤立無援となった敵軍を徹底的に叩くのだ。

 ただこの「守護竜の門」は使いやすい魔道具では、決してない。大量の魔力を消費するため発動には五十人以上の魔導士が必要だし、発動させても時間的な制約が付きまとう。だがその運用如何では絶大な効力を発揮することを、これまでポルトール軍は証明し続けてきたし、そしてこれからも証明し続けるだろう。ポルトール王国第一王子、シミオン・ポルトールはそう信じていた。

 彼は今甲冑を身につけ、ブレントーダ砦の城壁の上からカンタルクの方を眺めていた。眼下の青草が茂り始めた平原には、甲冑を身にまとった非友好的な一団が迫っている。掲げられた旗には翼を持つ獅子が描かれており、その一団がカンタルク軍であることを示している。

 総勢およそ十八万。軍を率いるのはかの大将軍、ウォーゲン・グリフォードであるという。

「先王の喪が明けた途端にこれか」
 浅慮なことだな、とシミオンは嗤った。

 先のカンタルク国王アウフ・ヘーベン・カンタルクは、冬の初めに病が悪化して息を引き取った。そして王座を継いだのが現国王ゲゼル・シャフト・カンタルクであった。彼は父の喪が明けるとすぐに、勅令を発しポルトールに宣戦布告をしたのだ。

「手始めに箔をつけておきたいのだろう」

 それがポルトール宮中の一致した意見で、シミオンもその通りだろうと考えていた。というか彼の人となりを知る者ならば、それ以外の解釈はないだろう。

「ゲゼル・シャフトよ、残念ながらお前が手にするのは屈辱と失笑だけだ」

 名誉と栄光は我が手にする、とシミオンは口にせず心の中で呟いた。彼の父である国王ザルゼス・ポルトールは今病床に臥せっており、その余命は幾ばくもないと思われている。父王の後を継ぐのは第一王子であるシミオンなのだが、王位継承の前にここで大きな戦果をあげれば、それこそ箔がつくというものだ。

 余談になるが、とある歴史家がこんな言葉を述べている。
「カンタルクとポルトール。この因縁の二カ国で同時期に国王が死病で病床に臥せっていたという事実は、まるで古い時代の終わりと新しい時代の到来を象徴しているかのようである」

 遠目にではあるがカンタルク軍のその堂々たる陣容を見て、しかしシミオンが恐怖を感じることは皆無であった。彼は己の勝利を信じて欠片も疑っていない。

 その自信には根拠がある。なぜならこれまで幾度もカンタルク軍はこのブレントーダ砦に対して攻撃を仕掛け、そしてただの一度も攻略に成功していないのだから。「守護竜の門」は常に敵軍を押しとどめ押し返し、ポルトール軍に勝利をもたらしてきた。

「歴史は繰り返される。此度も我々が勝利する」

 その確信はシミオンただ一人のものではない。この砦にいる兵士全てに共通した確信だった。勝利は約束されている。ゆえに兵士たちの士気は高かった。

 ただ勝利を確信しているとはいえ、シミオンは決して油断しているわけではなかった。その証拠にこの砦にいる軍の数はおよそ十万。仮に「守護竜の門」がなかったとしても堅牢を誇るこのブレントーダ砦を落とすことは、あるいは二倍の軍勢をそろえても難しいだろう。

「『守護竜の門』があり、敵軍は二倍に届かない。もはや勝ったも同然だ」

 しかし彼は思慮深かった、とは言えないだろう。過去幾つもの難攻不落を誇った砦や要塞が陥落している。ならばどうしてこのブレントーダ砦だけが例外でいられよう。

 そう、「歴史は繰り返される」。

 立ち止まっていたカンタルク軍がゆっくりと動き出す。

 後の歴史家たちが言うところの、「傾城の一撃」が今まさに放たれようとしていた。





***********




一人の青年が執務机に向かって書類と格闘していた。年の頃は二十代の半ばといったところか。赤銅色の髪と目をしている。彼の名はランスロー・フォン・ティルニア。ティルニア伯爵家の婿養子であった。

 余談ながら貴族にはその階級を示すミドルネーム「フォン」があるに対し、王族がミドルネームを用いることはほとんどない。国名を冠するその姓こそが、彼らの誇りであった。ちなみにカンタルクの王族のミドルネーム、例えばゲゼル・シャフト・カンタルクの「シャフト」は両親のうち王族でないほうの姓である。

 書類仕事でランスローの対応は三つに分かれる。一つ目はただサインをして判子を押すだけ。二つ目は注意点を書き添えて、サインをして判子を押す。三つ目は要再考。これにはサインはしないし判子も押さない。

 ランスローは休むことなく書類に目を通し、決済していく。その仕事は素早くも確実で、彼の取り決めは小気味よい。ティルニア伯爵家に婿養子に来てからおよそ五年。もはや彼を「青二才の押しかけ婿」と馬鹿にする者はいない。ランスロー自身としても領地を切り盛りし、領軍を組織する仕事にはやり甲斐を感じていた。

「これも父上のおかげ、か」
 ランスローは皮肉っぽく笑った。

 ここでいう「父上」とはティルニア伯爵ことミクロージュ・フォン・ティルニアのことではない。実の父であるコステア・フォン・アポストル公爵のことだ。ランスローは彼の三男坊で、本来ならば受け継ぐべき領地もなく、騎士として身を立てるか学者になるか、最悪なところで穀潰しになるかぐらいしか人生の選択肢はなかった。

「それが婿養子とはいえ領地を受け継ぐことができた。これを幸運と呼ばずして何と呼ぶのか」

 とはいえ彼の声音から皮肉の色が消えることはない。

 彼がティルニア伯爵家に婿に来ることになったその理由は、ごくごくありふれた政治的なものだった。

 ポルトールの王宮中では二つの派閥が互いに凌ぎを削りあっている。一つはエンドレ・フォン・ラディアント公爵を筆頭とする軍閥貴族の派閥で、この派閥は国の南部に勢力を持っている。そしてもう一つがランスローの父であるコステア・フォン・アポストル公爵を中心とした文民貴族の派閥で、こちらは国の北部に勢力を持っていた。

 事態を極大化してみればラディアント公とアポストル公の対立なわけだが、現在はアポストル公の側に軍配が上がっている。シミオン第一王子の妃であるミラベルが彼の妹だからだ。すでに第一子であるマルト・ポルトール王子(厳密には違うが面倒なので王子と称する)も生まれており、その地盤は磐石だ。ラディアント公は第二王子であるラザール王子を担いでいるが、第一位王位継承者の血縁者であるアポストル公とはどうしても一歩及ばないところがある。

 政治の主導権を握ったアポストル公が円滑な政を行うために打った手が、すなわち自身の三男ランスローのティルニア伯爵家への婿入りであった。

 ティルニア伯爵家は代々軍閥貴族であり、元々はラディアント公の派閥に属していた。しかし先々代の当主が大ポカをやらかしたおかげで、派閥内では肩身が狭くなり、また政治の中枢からも遠ざかっていた。領地を召し上げられた訳ではないので、経済的に困窮しているということはないが、ティルニア伯としてみれば面白いわけがない。領地に押し込められて無聊を囲っている、と感じても無理からぬことであろう。

「そこに目をつけたのが、我が父上アポストル公だったわけだ」

 アポストル公のような大貴族からの縁談話に、ティルニア伯は狂喜乱舞した。もとよりティルニア伯爵家は派閥内では肩身が狭くなっているし、他の軍閥貴族たちとも疎遠になっている。相手が敵対派閥の筆頭格とはいえ、表立って反対してくる者はいないであろう。なによりも伯爵家が再び表舞台に上がるためには、この話を受けるほかないように思われた。

 アポストル公の狙いは様々にある。

 ティルニア伯爵家は代々の軍閥貴族。疎遠になっているとはいえ、他の軍閥貴族たちとの良いパイプ役になるだろう。これによって派閥同士の摩擦が減り、円滑な政が行えるとこをアポストル公は期待していた。

 とはいえこの期待は外れてもよい。ティルニア伯を引き込めれば、その分だけラディアント公の派閥は弱体化し、自分の派閥は強力になる。それだけでも十分に意味のあることといえる。

 また婿にやるのは彼自身の三男である。であるならばティルニア伯爵家はもはや彼のものになったも同然ではないか。

「なんともまあ見事なまでの政略結婚じゃないか」

 こうして自分がティルニアの姓を名乗るに至る経緯を眺めてみると、ランスローとしてはどうしても皮肉な思いを禁じえなかった。

「別に恋愛結婚がしたかったわけじゃないが………」

 彼とてアポストル公爵家の端くれである。結婚に対しそんな甘い幻想を抱くはずもない。ただ実際の当事者であるはずの自分たちが、父たちにとっては完全に道具でしかないことがあまりにも滑稽なだけだ。

「まあいい」

 望んでもいない状況に置かれてしまうのは、万人に共通の悩みだろう。人は己の生まれを選べないのだから。

「私は幸運だ。そう思うことにしよう」

 細かい感情と事情は四捨五入してそう結論を下す。と、その時………。

 ――――コンコン。

 執務室の扉を誰かが控えめにノックした。

「失礼します、ランスロー様」

 少しよろしいでしょうか、といって部屋に入ってきたのは妙齢の女性だった。白いブラウスと青いスカートを着込み、プラチナブロンドの細毛を背中の半ば辺りまで伸ばして楚々とたたずんでいる。

(二つ目の幸運………)

 愛おしい人の姿を認め、ランスローは心の中でそう呟いた。

「?何かおっしゃいましたか、ランスロー様」
「いや、なんでもない。それよりどうした、カルティエ」

 女性の名はカルティエ・フォン・ティルニア。ミクロージュの一人娘にしてランスローの伴侶その人である。

「小耳に挟んだのですが、まもなくカンタルク軍との戦端が開かれる、というのは本当でしょうか」
 カルティエは心配そうにそう尋ねた。

 かりにカンタルクとの全面戦争になれば、軍閥貴族たるティルニア家も兵を出すことになるだろう。その時領軍を率いて陣頭に立つのはランスローだ。

 ティルニア伯爵家当主たるミクロージュはランスローが婿に来てからの五年間、王宮中での工作に日夜走り回っており、領地には年に数えるほどしか帰ってこない。その間領地の管理と領軍の訓練はもっぱらランスローが行っており、つまり有事の際にティルニア軍を率いることができるのは彼だけなのだ。

 そのことはカルティエも十分に理解していた。だからこそ、ともすれば夫が戦場に赴かなければならないこの状況が心配なのだろう。

「すでにシミオン王子がブレントーダ砦に向かわれた。私の出番はないさ」

 戦いが長引けばその限りではないが、そのことはあえて無視しランスローは妻を安心させた。

「だと、よいのですが………」

 カルティエはまだ心配そうだ。そんな彼女をランスローは優しく抱き寄せた。

「ブレントーダ砦には『守護竜の門』がある。きっと大丈夫だ」

 これまで幾度もカンタルク軍の侵攻を防いできた魔道具「守護竜の門」には、ひとつの言い伝えがある。それはこの魔道具が、かの伝説の魔道具職人アバサ・ロットの作だというものだ。考案者の名前が正確に残っていないという現状が、皮肉なことにこの言い伝えに信憑性を持たせ、国民の間に一種信仰じみた確信を生み出していた。

 ただランスロー自身は「守護竜の門」を過大評価してはいなかった。完全無欠で絶対無敵の魔道具など、彼は信じていない。

 しかし「守護竜の門」の名前はカルティエを安心させる効果はあったようだ。ようやく笑顔を見せてくれた彼女に、ランスローも安心する。

「今日は仕事も少ない。午後からは遠乗りでもしようか」

 ランスローがそういうと、カルティエの表情がパッと華やいだ。その清楚で可憐な外見に反して、実は彼女は活動的で屋敷の内よりは外を好む気性であった。

「素敵です。お弁当を用意しておきますわ」

 ランスローから身を離し、約束ですよ?と念を押してから、カルティエは足取りも軽く執務室を後にした。

 執務室で再び一人になったランスローは苦笑をもらす。思いがけず入れてしまったデートの予定。あれだけ喜んでくれたのだ。まさか反故にするわけにもいかない。

「さて、仕事仕事」

 約束を守るため、ランスローはいつもより多い書類の山に取り掛かるのであった。





[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:39
「あれがブレントーダ砦………」

 無意識のうちにアズリアは白銀の魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」に触れていた。

 その砦において最も目を引くのは、間違いなくその城門だ。左右に向かい合うように描かれた竜と、その竜がもつ巨大な宝珠は遠くからでも確認することができた。

「そうだ。そして我が国にとって文字通りの“鬼門”でもある」

 カンタルク軍を率いる大将軍ウォーゲン・グリフォードはほとんど唸るようにしてそう言った。カンタルクにおいて最も長い軍歴を誇る彼は、最も多くこの砦に挑み、そして同じ数だけの敗走を経験している。さらに言うならば、最も多くの戦友をこの地で失っているのも彼に他ならない。

「守護竜たちよ、今日こそはその宝珠、砕かせてもらうぞ」
 老将軍はそう静かに宣言した。

 カンタルクの貴族たちが好んで使うよう「忌々しい」とか「血に餓えた」とかいう枕詞を、ウォーゲンは使わなかった。戦争で血が流れるのは始まる前から分っていることで、自軍が流した血を敵のせいにするのは愚かなことだと彼は思っている。血を流したくなければ戦争などしなければよい。まして自分から仕掛けた戦争の責任を相手に押し付けるなど、言語道断である。

(そういう意味では、あの魔道具はよくできている)

 戦争をすれば必ず血は流れる。ならば自軍の損耗を最小限に抑えたいと願うのは、ヒトとして当然の性だろう。その果てに生み出されたのがあの魔道具「守護竜の門」であると考えれば、数限りなく煮え湯を飲まされてきたウォーゲンであっても、道具そのものを憎む境地にはなれなかった。むしろ敬意さえ覚える。

 とはいえ、今の彼はカンタルク軍の総司令官である。向かい合う二匹の守護竜が持つ宝珠を砕かないことには、カンタルク軍はまたもやこの地で大量の血を流すことになる。ポルトールが自国を守るために「守護竜の門」を作ったのであれば、ウォーゲンは配下の兵を生きて祖国に帰すためこれを砕かねばならない。

 そのための手段を、彼は用意している。

「アズリアよ、調子はどうじゃ」
 これが初陣となる自分の副官にウォーゲンは声をかけた。

「………やるべきことをやるまでです」

 その声からは緊張が窺える。だがそれだけだ。恐れはなく気負いも少ない、良い状態だといえる。こういう時、人はいい働きができるものだ。

「そうか。期待しておる」

 そう言ってウォーゲンは砦に視線を戻した。さて、と呟き大きく深呼吸をする。

「全軍前進。ただし近寄りすぎるなよ」

 ウォーゲンが手を掲げると、カンタルク軍がゆっくりと動き始める。アズリア・クリークの初陣が始まろうとしていた。


 カンタルク軍の動きに、シミオンは眉をひそめた。

「あやつら、あんなところで立ち止まってどうするつもりだ………?」

 動き出したかと思ったカンタルク軍は、砦の前の平原で再び足を止めている。あの位置では砦から矢を射掛けてもカンタルク軍には届かない。当然のことながらカンタルク軍の攻撃も届かない。あの場所でとまった敵軍の意図を、シミオンは図りかねた。

(こちらから軍を出し、おびき寄せてみるか………?)

 まさにシミオンがそう考えた瞬間のことであった。一筋の閃光が飛来し、右竜の宝珠を破壊したのは。

 後に言われるところの「傾城の一撃」。この一撃で戦いの趨勢が決まったといっていい。


 その一撃を放った途端、アズリアは言いようのない虚脱感に襲われた。まるで貧血でも起こしたかのように、体には力が入らず肺と喉は空気を求めて喘いだ。

(それでも………)

 それでも彼女の放った一撃は、絶大な効果を及ぼした。白銀の魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」とその専用の矢である「流れ星の欠片」は、所有者たるアズリアの魔力を喰い尽くしその威を存分に発揮したのだ。

 放たれた閃光は右竜の宝珠を打ち砕き、さらには厚さ十センチの銅の城門にこぶし大の穴を開けて貫通し、その内側に破壊を及ぼした。

 ――――オオオオオオオオオオオオオ!!!!!

 味方から、地を震わすかのような歓声が沸きあがった。古参の兵の中には、泣いている者さえいた。

 一番心に迫るものを感じているのは、最も長い軍歴を持つウォーゲンだろう。しかし彼がそれを表に出すことはなかった。一切の感情を感じさせない冷たい目で砦を睨みつけたまま、彼は自分の副官に命じた。

「アズリア、第二射急げ。奴らを立ち直らせてはいかん」
「………はいっ!!」

 大きな声を出し、自らを奮い立たせる。手にした白銀の魔弓に再び銀色の矢をつがえ魔力を込め、そして込められた魔力は「流れ星の欠片」へと収束していく。その間アズリアは全身から魔力をしぼり取られていく、その暴力的とさえ思える虚脱感に耐えていた。

(まだだ……!まだ、足りない………!)

 歯を食いしばり四肢になけなしの力を込めなんとか姿勢を維持する。

 その横で、ウォーゲンが眉をひそめた。左竜の宝珠が輝きを放ち、その守護結界が発動したのだ。その動きからはブレントーダ砦の焦りが感じられた。

 今までの例を考えれば、守護竜の結界は軍隊に対して用いられるものだ。なのに軍が動いていないにもかかわらず、砦は結界を発動させた。稼働時間には限界があるのだから、先に発動させては意味がない。消えるのを待ってから軍を動かせばよいのだから。

 とはいえこのタイミングで結界を発動させた砦側の思惑も理解できる。なんとかして右竜の宝珠を砕いた一撃を防ぎたいのだろう。

 結界が展開されたのはアズリアとて目にしている。しかし彼女は魔力を込めることを止めようとはしなかった。

(今更止められるか………!)

 かりに止めてしまえば込めた魔力は霧散し、後に残るのはこの耐え難い虚脱感だけである。さらに言うならば、ただでさえ一日に三発までしか打てない、その内の一発を無駄にすることになる。

「一日に使えるのは三本まで。それ以上使ったら命の保障はしない」

 この魔弓と矢をアズリアに与えたアバサ・ロットことイスト・ヴァーレの言葉だ。その言葉がまさしく正しいものであると、今彼女は実感していた。

 白銀の魔弓につがえられた矢が一際大きな輝きを放ったその瞬間………。

「!!」

 第二射が放たれた。放たれた二射目はすでに展開されていた結界を、まるで紙切れか何かの如くに突き破り、再び銅の城門にこぶし大の穴を開けた。

 ――――ピィキィィィィイイインンン………。

 戦場にまるで鈴の音のようなものが響いた。それが守護竜の結界の破られた音であることを理解するまでに、その場にいる人々は数瞬を要した。いまだかつてこの戦場において響き渡ったことのない音を彼らは耳にしたのだ。その音はポルトール軍には絶望を、カンタルク軍にはさらなる歓喜をもたらした。

 ――――オオオオオオオオオオオオオ!!!!!

 再び大地を揺るがして歓声が上がった。しかし最大の功労者であるはずのアズリアには、喜びに浸るほどの余裕はなかった。

(くっ、外した………)
 結界に当たったことで狙いがそれたのか、左流の宝珠は無事だ。

 体に力が入らなかった。四つん這いになっているが、それさえも辛い。いっそ完全に倒れてしまわないのが自分でも不思議だった。激しい運動をしたわけでもないのに、呼吸が乱れどれだけ空気を吸っても楽にならない。春先の、ともすれば汗ばむような陽気にも関わらず、全身が冷たく寒気がした。

「アズリア、大丈夫か!?」

 一人の男が慌てて駆け寄り、彼女の青白い顔を覗きこむ。彼の名はウィクリフ・フォン・ハバナ。ウォーゲンの副官の一人で、アズリアにしてみれば先輩に当たる。そのミドルネームが示すとおり彼は貴族の血筋だが、それを感じさせない気さくな人柄でアズリアも仕事を教えてもらったりと良くしてもらっていた。

「大将軍、これ以上は無理です!左竜の宝珠は明日にしてください!」

 アズリアの体を気遣い、ウィクリフがそう進言する。しかし………。

「………大丈夫……です……。できます……」

 ウォーゲンが何か言う前に、アズリアは立ち上がりそういった。そんな彼女をウィクリフは慌てた様子で制止する。

「無茶だ!止すんだ、アズリア!」
「左竜の宝珠は今砕かなければ意味がありません。それは先輩も承知しているはずです」
「だが………!!」

 かりに二つの宝珠が砕かれ、あの城門が魔道具「守護竜の門」として機能しなくなっても、銅の城門そのものは健在でありブレントーダ砦が強固な砦であることも変わらない。さらには十万近い兵が詰めているのだ。「守護竜の門」がなくなったからといって楽に落とせる砦では決してない。

「明日になれば敵の士気は回復します。落とすのであれば今しかありません」

 目の前で宝珠の一つが砕かれ、さらには結界そのものまでも破られて敵軍の士気はもはや最低にまで下がっている。今こそが、ブレントーダ砦を落とすための千載一遇の好機なのだ。そしてその好機をより確実なものにするためには、なんとしてももう一つの宝珠を砕かなければならない。

「アズリア」
「はい」

 ウォーゲンが青い顔をした自分の副官を見据える。

「存分にやれ」
「……はい!」

 ウォーゲンの言葉に背中を押され、アズリアは三度「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」を構えた。ウィクリフが何か言っているようだが、もはや聞くだけの余裕もない。力の入らない四肢で必死に踏ん張り、魔弓の弦を引き魔力を込めた。

「ぐぅ…………」

 凄まじい倦怠感が全身を襲う。いや、もはや倦怠感を通り越し痛い。全身をねじ切られるかのような錯覚に陥ってしまう。

 頭が痛い。吐き気がする。膝が笑い、平衡感覚さえなくなってきた。その全てに歯をくいしばって耐え、魔力を注ぎつづける。

 ――――血涙が、流れた。

「………アアアアァァァァアアァアアアアア!!」

 もはや空っぽのはずの魔力を、声を上げて無理やりしぼり出す。その瞬間、「流れ星の欠片」が一際大きな光を放つ。

 放たれた閃光はもはや遮るもののない空を駆け抜け、左竜の宝珠を正確に射抜いた。

 三度、大地を揺るがす歓声が上がった。

(やった…………)

 その歓声を意識の遠くで聞き、ささやかな満足を感じながらアズリアは意識を手放した。





************





「失礼します、クロノワ閣下。アルテンシア半島の情勢について、新しい情報が入りました」

 報告してもよろしいでしょうか、と主席秘書官のフィリオは尋ねた。彼はいつも温厚でその声からも常に余裕が感じられるのだが、このときは少々いつもとは違っていた。それだけで彼の持ってきた情報が、重大なものであることがリリーゼにも想像できた。

「聞かせてください」

 クロノワの声にも少し硬いものが混じる。手に持ったティーカップは、結局口をつけることなくそのまま受け皿に戻す。

 アルジャーク帝国モントルム領旧王都オルスクの本日の天気はまさに小春日和で、日差しが燦々と降り注ぐこの総督執務室を十分に暖めている。にもかかわらず、リリーゼは室内の温度が下がったかのような錯覚を覚えた。

 では、と前置きしてからフィリオが報告を始めた。

「結論から申し上げますと、シーヴァ・オズワルドがアルテンシア半島の北側を切り取りました。詳しい規模は分りませんが、恐らくはその版図九十州以上かと」

 その報告を聞いてリリーゼは殴られたような衝撃を受けた。クロノワも視線が鋭くなっている。

 アルテンシア同盟がロム・バオアに造った大要塞、パルスブルグ要塞の司令であるシーヴァ・オズワルドが同盟に対して反旗を翻した、という情報はすでにモントルム総督府でもつかんでいた。ただ彼が軍をもよおしたのはどんなに早くても今年の二月ごろだったはずだ。逆算するに二ヶ月たらずで九十州以上の版図を切り取ったことになる。

「速い。速すぎる」

 一度遠征を経験したことのあるクロノワはその速度の異常性を正しく理解している。加えてあのアルテンシア半島だ。

「一体幾つの城や砦を落としたことやら」

 アルテンシア同盟は領主たちの集合体だ。例えば一人の領主が三州ずつの領地を持っているとすると、九十州を切り取るには三十人の領主を相手にしなければならず、単純に考えれば最低でも三十個の城を落とさなければならない。実際には野戦で決着をつけた戦いもあるのだろうが、それにしてもたったの二ヶ月で成し遂げたというのであれば、驚愕を通り越して呆れるばかりだ。

「どうやら領主たちは領民に見放されたようです」

 フィリオの話によると、シーヴァが侵攻をしかけるのと時期を同じくして各地で民衆の決起が相次いだのだという。

「なるほど。アルテンシア同盟は腐っている、という話でしたからね」

 クロノワは一応の納得をみせた。

 アルテンシア半島における領主たちの腐敗ぶりはクロノワも知っている。そんな状態がいつまでも続くわけがないとは思っていたが、とうとう領民から三行半を突きつけられたというわけだ。

「外と内の両方から崩された、ということですね………」
 そういってリリーゼも、うんうんと頷いた。

「閣下、これからシーヴァはどう動くと思われますか」

 フィリオにそう問われ、クロノワは少し考え込んだ。

「そうですね………。単純にアルテンシア半島を手に入れたいのであれば、同盟に参加するのが最も手っ取り早いと思います」
「同盟に、ですか………?」
「そうです」

 アルテンシア同盟とはすなわち領主たちの集合体だ。同盟内において一人一人の領主たちのパワーバランスを考えた場合、それはその領主が保有している州の数そのものに比例することになる。今までは領主一人につき三~七州で平均化されていて突出した力を持つ者がいなかったため、同盟に参加している領主たちは皆平等でいられた。

「ですがそこに九十州以上の版図を持っているシーヴァが加わったらどうなるでしょう」

 当然、シーヴァが同盟内で最も力を持っていることになり、自然と彼が主導権を握るだろう。そうなれば名実共にアルテンシア半島の盟主になれる。

「ですが他の領主たちが参加を認めるでしょうか?」

 彼らにしてみればシーヴァは同盟に反旗を翻した裏切り者だ。その裏切り者を再び同盟の枠内に入れることをよしとする者がいるのか、リリーゼは懐疑的だった。

「残った領主たちにしてみればシーヴァが奪った版図なんて所詮人事ですからね。擦り寄って甘い汁を吸おうと考える者がいてもおかしくはありません」

 そんなものかと釈然としないものを感じながらも、リリーゼは一応納得した。だが、

「ですが今回シーヴァがその策をとるとは考えられませんね」
 フィリオは真っ向からクロノワの意見を否定した。

「今回シーヴァの侵攻がこの短期間にこれだけの成果を上げられたのは、領民の支持があったからです」

 そのシーヴァが同盟に参加すると言い出したら、領民たちはどう思うだろうか。
「『彼も他の領主と同じだ』。そう思うでしょうね」

 そうなれば今度はシーヴァ自身が領民から三行半を突きつけられることになる。

「住民が期待する『新たな支配者』であるためにも、シーヴァは同盟に参加するわけにはいかない」
 フィリオはそう断じた。

「というか閣下も分ってたんじゃないんですか?」

 面白そうに詰問するフィリオを、クロノワは肩をすくめてかわした。

「アルテンシア半島のことを、これ以上ここで考えても仕方がありません」

 半島とアルジャークはエルヴィヨン大陸の端と端だ。国境を接するほどに、シーヴァと凌ぎを削りあうことはないだろうとクロノワは考えていた。巨大市場としてのアルテンシア半島に興味はあるが、今はそれだけだ。

「情報は引き続き集めるようにしてください」
「分りました」

 そういってフィリオは頷いた。シーヴァ・オズワルドに関する話が一段落したところで、クロノワは意識を別の問題に向ける。

「さて、当面の問題はオムージュ領ですね………」

 そうクロノワがいうと、フィリオも苦い顔をした。

「そうですね……。まったく、レヴィナス様もなにを考えていらっしゃるのか」
「あの………、オムージュ領がどうかしたのですか?」

 一人話しについていけないリリーゼは、つい口を挟んでしまった。

「増税、です。いや、増税なんですけど………」

 歯切れの悪いフィリオの答えにリリーゼは首をかしげた。増税が実施されたのであれば、それは民衆にとって一大事だ。それが問題なのではないのだろうか。

「問題はその増税を過去にさかのぼって適用したことです」
 クロノワが苦い顔で補足した。

 例えば今まで三割だった税金が五割に増えたとする。つまり二割の増税だ。ここまではいい。増税は褒められたことではないが、普通の政策だからだ。だがこれを過去五年間にさかのぼって適用したとするとどうだろう。そうなれば民衆は十割、つまり年収分を追加して納めなければならなくなる。

「そんなの払えるわけがないじゃないですか!?」
 リリーゼが悲鳴にも似た声を上げた。

「ええ。払えるはずがありません」
「問題はそれだけではありません」

 フィリオがクロノワに劣らず苦い声で続ける。

「そもそも法律を過去にさかのぼって適用すること自体が禁じ手です」

 これこれの行為は、昨日は合法だったが今日からは違法で、お前は昨日これこれの行為をしたから有罪だ、といわれたらどうだろうか。そんな無茶苦茶な、と思われるだろう。しかしこれが「法律を過去にさかのぼって適用する」ということなのだ。

「そんなことをしたら、法を作る側の恣意的な感情で、特定の個人を合法的に陥れることができてしまいます」

 それでは独裁だ。もはや法治主義が成り立たない。アルジャーク帝国は確かに皇帝が絶大な権力を持っているが、それでも法によって体制を維持しているのだ。法治主義が成り立たなくなれば、帝国そのものが立ち行かなくなる。

「兄上がどこまでやるのかは分かりませんが、事と次第によっては皇帝陛下にお話しなければなりませんね」

 そんな事態にならないことを祈るばかりだ。

「ひとまずモントルム総督府として、不測の事態に備えておきましょう」
「分りました」

 クロノワの言葉にフィリオが頷く。直接の関係者ではないため、できることは少ないだろうが、それでも「備え有れば憂い無し」だ。難民などの受け入れ態勢を整えておくだけでも、混乱を抑えることができるだろう。

「そういえば閣下は五月の下旬ごろにオムージュ領に行かれるんですよね?」
「ええ。兄上とアーデルハイト姫の結婚式に招待されていますので」

 本来であれば帝都ケーヒンスブルグで行えばよいのだが、レヴィナスの強い希望によってオムージュの旧王都ベルーカで式を挙げることになった。

「気に入った建物でもあったのだろう」
 というのが目下一致した見解である。

「その時にレヴィナス様と直接お話されてはいかがでしょうか」
「さて、その機会があればよいのですが………」

 結婚式の招待状が送られてきたと言うことは、クロノワはレヴィナスの中で一定の評価を受けたということになる。ただそれでも下から数えたほうが断然速いくらいの順位だろうと、クロノワは思っていた。果たして自分が言ったところであの兄が聞くかどうか、不安なところがある。

「そこをなんとか。オムージュ領が混乱すればこのモントルム領も巻き込まれます」
「………努力はしてみます」

 クロノワは力なく答え、冷めた紅茶を啜るのであった。





[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:41
実の父であるコステア・フォン・アポストル公爵の名で送られてきた手紙の内容は、にわかには信じがたいものであった。

 ブレントーダ砦が落ちた。しかもシミオン王子が戦死されたという。

 その手紙を読んだとき、ランスローはさすがに内容を疑った。しかし手紙に押されている紋は、確かにアポストル公爵家のもので、その筆跡も父コステアのものだ。あの父親にユーモアのセンスがないとは言わないが、それにしてもこの状況でこんなウソをつく必要などどこにもない。それどころか危険でさえあるだろう。

「だとすれば………、まさか、本当に………?」

 ジワリ、と嫌な緊張が体を支配する。

 砦を落としたカンタルク軍の動向は?派閥のパワーバランスはどうなる?この国は一致して外敵に立ち向かえるのか?様々な懸念が頭の中を駆け巡る。

「くそっ!」

 一つ悪態をついて無理やり頭を切り替える。手紙を読み進むと、すぐに領軍を率いて王都アムネスティアに来るように、との指示があった。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。なんにせよ情報が少なすぎる。今この場で性急に判断を下さないほうがいい。全ては王都アムネスティアで父たちに会ってからだ。

 しかしこうなると国王であるザルゼス・ポルトール陛下が、病床に臥せっているとはいえ存命であることは不幸中の幸いであるように思われる。後継者を巡る派閥同士のイザコザも陛下の鶴の声によって解決する。

 ふう、と息をつき動揺をひとまず自身の体の中に押さえ込む。それからランスローは執務机の端っこに用意してある二つのベルのうち、片方を鳴らした。

「お呼びでしょうか、ランスロー様」

 すぐにティルニア家の執事であるテオドールが現れた。初老の男性で頭にはすでに半分以上白くなっているが、腰はまっすぐに伸びており声にも張りがある。

「テオドール、イエルガ将軍を呼んできてもらえるか」

 イエルガ・フォン・シーザスはティルニア軍の将軍である。大まかな指示はランスローが出しているが、実際に軍を動かしているのは彼だ。ミドルネームが示すとおり貴族であるが、彼の家系は治めるべき領地を持っていない。

「かしこまりました。すぐに」
「ああ、それとカルティエは今どうしている?」

 一礼して執務室を出ようとするテオドールに、ランスローは妻のことを聞いた。王都に行くことになればしばらく家を空けることになる。一声かけておいたほうがいいだろう。

(あまり気は進まないが………)

 観光に行くわけではないし、それどころか権力闘争の真っ只中に飛び込んでいくのだ。心配をかけるに決まっている。

「お嬢様でしたら庭にいらっしゃるはずです。お呼びしましょうか?」

 子どものころからカルティエのことを見守ってきた初老の執事は彼女のことを「お嬢様」と呼ぶ。カルティエ自身は止めるように言っているらしいのだが、現状改める気はないらしい。

「いや、いい。後でこちらから出向くことにする」
 承知しました、とテオドールはもう一度腰を折ってから部屋を出た。

 一人になったランスローは思考を巡らせていた。

(さて、どれほどの兵を連れて行くべきか………)

 父であるアポストル公の派閥は文官の貴族が中心である。それぞれが領地に軍を持っているとはいえ、生粋の軍閥貴族が集まっているラディアント公の派閥と比べればその戦力差は如何ともしがたい。アポストル公としてはランスローが連れて行く兵をアテにしたいところだろう。とすれば兵の数は多いほうが良いのだろうが………。

(あまりに多くの兵を連れて行ってラディアント公を刺激するのは良くないな)

 自分が原因で武力衝突が起きるなどという事態は、なんとしても避けなければならない。それに兵力をアテにされて権力闘争に巻き込まれなくない、というランスロー個人の願望もある。

(あと注意すべき点は………)

 時間であろう。のんびりと構えている時間は当然ない。可能な限り速やかに王都アムネスティアに向かわなければならない。

 さらに頭の中でグルグルと思考を巡らせていると、執務室の扉がノックされた。

「お呼びでしょうか、ランスロー様」

 視線を上げると、腰に剣をさした一人の男が立っていた。その眼光は鋭く、彼が生粋の武人であることを如実に物語っている。

「急に呼び出してすまない、イエルガ」

 ランスローが事情を説明すると、目の前の武人の表情は見る見るうちに険しいものへと変わっていった。

「ブレントーダ砦が落ち、しかもシミオン王子が戦死されたとは………、にわかには信じられませんな………」
「とはいえ父上がこのようなウソをつくとは考えられないし、事実なのだろう」

 そういうランスロー自身、やはり心のどこかでは信じ切れていない。それほどまでにポルトールの国民は「守護竜の門」を信頼していた。イエルガの困惑も当然であろう。

「父上から軍を率いて王都に来るよう要請を受けた」
 そう告げると、イエルガはひとまず困惑を自分の中に収めてくれた。

「数は二千。兵の選抜は貴方に一任するが、全て騎兵にするように。準備にどのくらい時間がかかる?」
「三日ほどあれば」
「二日で終わらせてほしい」
「了解しました」

 その後細かい内容を話し合ってから、イエルガは執務室を後にした。再び一人になったランスローは一つ息をつき、そして気を引き締め直す。

「さて、もう一仕事」

 どう考えても、これが一番大きな仕事のように思われるのだ。

 *********

「お仕事はもうよろしいのですか」

 庭に設けられた石造りの東屋にいたカルティエは、ランスローの姿を認め嬉しそうに微笑んだ。ランスローが勧められるままにカルティエの隣に座ると、彼女は手ずからお茶を淹れて差し出した。

(話したくないなぁ………)
 差し出されたお茶を飲みながら、ランスローは心の中で弱音を漏らした。

 とはいえ二日後には王都アムネスティアへ向けて出立しなければならない。ここで隠しておいたところで、バレてしまうのは時間の問題だ。ならば今のうちに自分の口からきちんと説明しておきたい。

「カルティエ、大切な話がある」
「大切なお話?何でしょうか?」

 カルティエはそういってティーカップを机の上に戻すと、ランスローのほうに体を向けた。

「ブレントーダ砦が落ちた。シミオン王子も戦死されたらしい」

 そう告げた瞬間、カルティエは大きく目を見開き、その顔から一切の表情が抜け落ちた。それから徐々に表情が険しくなっていき、口元を手で隠した。

「父上から軍を連れて王都に来るよう、手紙で指示を受けた。二日後には出立するつもりだ」
「………ではランスロー様は、カンタルク軍と戦われるのですか………?」

 カルティエはランスローに体を寄せながら、震える声で尋ねた。そんな妻をランスローは抱き寄せた。

「着いてすぐに戦いになることはないと思う」

 ポルトール軍がその全力を挙げてカンタルク軍に立ち向かうために兵を集めるのであれば、あの手紙はアポストル公の名前ではなく国王陛下の名前で署名がされていなければならない。そうでなかったということは、父であるアポストル公が期待しているのは派閥抗争における威圧力、ラディアント公に対抗するための武力のはずだ。

「この状況で内戦を起こすほど、父上もラディアント公も愚かではないさ」
 そう言ってみても、まだカルティエの表情は硬い。

「ですが、いずれは戦場に立たれることも………!」
「ああ、十分に有り得る」

 その可能性をランスローは否定しなかった。否定してみたところでカルティエが信じるはずもないし、なによりこの場限りのウソで妻を欺くようなことをランスローはしたくなかった。

 少しの間、沈黙が流れる。抱き寄せたカルティエの温かさが今は胸に痛い。

「………わたくしも、貴族の家柄。………覚悟は、できております」

 下から覗き込むようにカルティエが顔を上げる。その表情は幾分柔らかくなっていた。

「ですが、今夜は一人にしないでくださいね?」




************





目が覚めると、そこには味も素っ気もない天井があった。

(味や素っ気のある天井も嫌だけど………)

 背中から伝わる感触は、自分が寝ているのが硬い地面の上ではなく、普通のベッドであることを教えてくれた。

(ということは、ここはブレントーダ砦の中か…………)

 体を起こし、辺りを見渡す。アズリアが眠っていたのは、石造りの簡素な部屋だった。ベッドのほかにはタンスと小さな机しかない。ベッドの隣に置かれたその机の上に、白銀の魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」が矢筒と共に置かれている。どうやら捕虜になったという可能性は排除してよさそうだ。

(どうやらブレントーダ砦は落とせたらしい)

 そのことに歓喜よりもまず安堵を感じる。今回の遠征でアズリアに明確な役割があるとすれば、それは「守護竜の門」の宝珠を砕くことだ。宝珠を砕き、砦を制圧した以上、この遠征における彼女の仕事の八割は終わったといっていいだろう。後はウォーゲン大将軍の副官としていつもどおり仕事をこなせばよい。

(肩の荷が下りたな………)

 それゆえの安堵だ。

「それはそうと、わたしはどれくらい眠っていたんだ?」

 二つ目の宝珠を砕き、意識が遠のいたところまでは覚えている。そのまま気絶して、誰かがここまで運んでくれたのだろうが、一体どれほどの時間が経過したのか。

 窓の外を確認すると、既に日は傾き始め、空は夕方に向かっている。砦の攻略を始めたのが午前中の日の高いころだったから、眠っていた時間は四・五時間といったところだろうか。

「にしても、矢を三本使っただけでこの有様か。なんとも凶悪な魔道具だな」

 専用の矢である「流れ星の欠片」を「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」につがえて魔力を込めたときの、あの全身をねじ切られるかのような暴力的な感覚を思い出し、アズリアは思わず苦笑をもらした。以前試し撃ちをしたときからある程度覚悟はしていたが、いやはやそれ以上だった。

「一日に使えるのは三本まで。それ以上使ったら命の保障はしない」

 そう語ったイスト・ヴァーレの言葉は正しかったわけだが、もう少し安全な魔道具を作って欲しいと思うのは、決して我儘ではないはずだ。

「まあそれでも、感謝しなければなんだろうな………」

 白銀の魔弓の表面を指でなぞるようにして撫でる。この「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」はアズリアにとって間違いなく一番の宝物である。あるいは魔導士としての性かもしれないが、己の分身のように感じることさえあった。

 自分のこの魔弓をめぐり合わせてくれたこと。弟であるフロイトロースを歩けるようにしてくれたこと。イストには色々と感謝しなければならないと思うのだが、あの「無煙」を吹かしている姿を思い出すと素直に感謝する気になれないのもまた事実であった。

(しかもそのことに罪悪感を覚えないし………)

 その原因はもっぱらイストの側にあるだろう。と、アズリアがそんなことを考えていたその時。

 ――――コンコン。

 誰かが、部屋の扉をノックした。

「あ、はい。起きてます」

 扉を開けて入ってきたのは、ウィクリフ・フォン・ハバナであった。アズリアと同じくウォーゲン大将軍の副官で、先輩に当たる人物だ。

「気がついたか、アズリア」

 ベッドの上で身を起こしているアズリアの姿を認め、ウィクリフは安堵したように息を吐いた。が、すぐに眉間にしわを寄せて厳しい顔をつくる。

「まったく、いきなり倒れやがって。心配したんだぞ」
「すみません、先輩。反省しています」
「そうだ。心から反省しろ」

 腕を組み、ウィクリフは偉そうにのたまった。だがすぐに吹き出して自分で笑ってしまった。つられてアズリアも笑う。

「ま、体の調子もよさそうだし、なによりだ」
「ご心配をおかけしました」

 アズリアがもう一度謝ると、ウィクリフは気にするなと言わんばかりに手をひらひらと振った。

「にしても、とんでもない魔道具だな、その魔弓は」

 ウィクリフの視線が「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」に移る。軽いその口調とは裏腹に、彼の目は剣呑だった。

「たった三発ぶっ放しただけで三日も寝込むなんて、まともな魔道具じゃないな」

 まさか一発につき一日寝込むとかそんなんじゃないよな、と彼は軽口を叩いた。しかし、あいにくとアズリアは彼の軽口には付き合えなかった。

「………先輩。今、なんと?」
「いや、だからこいつはまともな魔道具じゃないって………」
「その前!その前に何て言いました!?」

 珍しく取り乱すアズリアを押さえるようにしながら、ウィクリフはその台詞を繰り返した。
「たった三発ぶっ放しただけで三日も寝込むなんて、って言ったんだが………」

 どうやら聞き間違いではなかったらしいその言葉に、アズリアは呆然とした。

「三日も……、寝込んで……いた………?」

 なんという失態だろう。砦を落とした後もろもろの雑事が山のようにあることは、これが初陣であるアズリアでも容易に想像できる。大将軍の副官という立場上、本来ならば忙しく働かなければならないその間中、自分はずっと呑気に寝ていたというのか。

「ま、まあ、気にするな。殺人的に忙しかったけど、お前が頑張ってくれなきゃ、そもそもこの砦落とせなかったんだから」

 すっかり小さくなってしまったアズリアに慌ててウィクリフはそう声をかけた。しかし「殺人的に忙しかった」と言われたアズリアはさらに小さくなってしまう。そんな後輩の様子を見てウィクリフも自分の失言を悟って顔を引きつらせ、かけるべき言葉を求めて目をさまよわせた。

「本当に……ご迷惑おかけしました………」
 消え入りそうな声でアズリアが謝る。

「ああ、うんまあ、なんだ、気にするな」

 うまい言葉が見つからず、結局ウィクリフは当たり障りのない言葉を選んだ。もちろんそんな言葉でアズリアを慰められるわけもなく、二人の間には沈黙が漂い部屋の空気は加速度的に重くなっていった。

「だ、だからそこでだな!ここ三日のことをかいつまんで説明してやろうと、こう思ったわけだ!」

 その空気を打ち破るようにしてウィクリフが声を上げた。ただ、半ばヤケクソ気味だったことは否めない。

「これも仕事のうちだ。ちゃんと聞くように!」

 アズリアの生真面目な性分を把握しているウィクリフは、「仕事」という言葉を使うことで彼女の気持ちを軽くした。それが功を奏したのか、部屋の空気が幾分マシになりウィクリフは胸をなで下ろす。

「ま、お茶でも飲みながらにしよう」
「………そうですね」

 ウィクリフの軽い調子の提案に、アズリアもつい微笑んでしまう。部屋の雰囲気が随分と明るくなったその時。

 ――――クゥゥ………。

「あ…………」

 遠慮のない腹の虫が、可愛らしく自己主張をする。三日間なにも食べていないのだから当然といえば当然だが、このタイミングはあんまりだ。

「お茶じゃなくてメシのほうがいいか」

 ウィクリフが努めて軽い調子でそういってくれたのは、はたして救いか追い討ちか。

「………はい………」

 真っ赤になったアズリアは頷くことしかできなかった。

**********

「それでは、ポルトールのシミオン王子を討ち取ったのですか」
「ああ、そうだ。まあ、あちらはあちらで箔を付けときたかったんだろうな」

 ウチの新国王陛下と同じ思惑だったってことさ、とウィクリフは軽い調子で言った。その遠慮のない物言いに、アズリアは思わず辺りを見渡してしまう。この時間、食堂に人気は少ないとはいえまったくの無人ではない。

「人に聞かれますよ………」

 小声で嗜めて見てもウィクリフは「かまうもんか」と意に介さない。今回従軍したカンタルク軍の兵士の中で、彼と意見を異にする者はアズリアを含めほとんどいないだろう。ただそれを公言するのはさすがにはばかられる。それを気にしないのはウォーゲンただ一人だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

「大将軍に似てきましたね………」
「朱に染まればなんとやら、ってやつさ」

 ニヤリ、とウィクリフは笑った。その表情は誇らしげだ。ウォーゲン・グリフォードは間違いなく尊敬に値する上官である。部下に対しては公正で、怒鳴りつけたり暴力を振るったりすることはまったくない。外からの、つまり貴族たちからの圧力に屈することはなく、平民出身の兵士たちからの信頼も厚かった。豪快で大雑把な性格が玉にキズのように思われることもあったが、完全無欠の無味無臭な性格よりよほど親しみやすいとアズリアは思っている。

 そんな大将軍に似てきたといわれて嫌な気分になるものは、この砦にいるカンタルク軍の中、特に一般の兵士の中には一人もいないだろう。

「それで、ポルトールからなにか接触はあったんですか?」

 最後のパンの一欠けらを口に放り込み、ナプキンで口元を拭ってからアズリアは気になっていたことを尋ねた。

「まだ何も。ただ大将軍は『ラザール王子の名前で和平交渉を申し込んでくるだろう』と仰っていた」
「ラザール王子………。確かポルトールの第二王子でしたね………」

 ポルトールの国王ザルゼス・ポルトールは病床にあり政を行えず第一王子たるシミオンが戦死した以上、第二王子のラザールが交渉の矢面に立つのは順当な配役だろう。シミオンにはマルト王子という子どもがいるが、こちらはあまりにも幼すぎる。

「大将軍はその交渉を受けるでしょうか………」
「受ける。だが、タダでは受けない」
「………どういうことですか………?」

 ウィクリフの言い回しが良く理解できず、アズリアは首をかしげた。交渉を受けるにあたって、何か「条件」を付けるということだろうか?だが交渉というのはその「条件」を話し合うものではないのだろうか。

「なに、ウォーゲン・グリフォードの老獪な一手というやつさ」

 ウィクリフはこの一手を「老獪な一手」と称したが、後の歴史家たちは彼とは異なる呼び名を与えている。

 すなわち、「傾国の一手」と。





[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:43
「ザルゼス陛下が崩御された………?」

 目の前が真っ暗になるのを、ランスローは自覚した。

**********

 カルティエに見送られたランスローは、騎兵ばかり二千を率いてポルトトール王都アムネスティアへと駆け上った。王都に着いた彼はイエルガに軍を預けて郊外に残し、自身は数騎の護衛を引き連れてまずはティルニア伯爵邸を目指したのである。

 そこで義父であるミクロージュと数ヶ月ぶりに再会したランスローは、挨拶もそこそこに今度は実の父であるアポストル公爵のもとへと向かったのであった。

 五年ぶりに再会した父は、随分と老け込んでしまったように見えた。ランスローと同じ色の髪の毛は細くなり、しわの数が増えている。体から溢れる“覇気”は五年前と変わっていないが、老いのせいかどこか狂気じみたものを感じてしまう。

「連れてきたのは騎兵ばかりを二千騎か………」

 自分の三男からあらかたの報告を受けたアポストル公は、不満そうな声を隠そうともせずにそう唸った。

「なるべく早くアムネスティアに来たほうが良いと思いまして。ただ準備はさせてありますので、呼び寄せることは可能ですが」

 権力闘争に巻き込まれたくない、という極めて個人的な理由はおくびも出さず、ランスローは涼しい顔で答えた。それが聞こえているのかいないのか、アポストル公は眉間にしわを寄せ、難しい顔で考え込んでいる。

「………どうかされましたか?」

 父であるアポストル公が“思慮を重ねている”様子はランスローとて何度も見ている。しかし今アポストル公は明らかに“悩んで”いる。父が悩む様子など見たことのなかったランスローは、その姿に不安を感じる。

(つまりそれほどまでに状況は切迫しているのか………?)

 彼のその予感は最悪の形で的中することとなる。

「お前はまだ知らないようだから教えておいてやろう」

 そういって視線を上げるアポストル公の眼には、やはり狂気が混じっている。そして彼はその重大な事実を告げたのだ。

「ザルゼス陛下が崩御された」

**********

「ザルゼス陛下が崩御された………?」

 目の前が真っ暗になるのを、ランスローは自覚した。

「シミオン殿下の戦死を聞かれ、心が折れたのだろう。病状が悪化し、そのままお亡くなりになられた」
「まさか、そんな………」

 無意識のうちにもれた自分の声でランスローは我に返った。あらゆる動揺と浮かんでは消える思考をひとまず全て自分の中に押し込め、最大の懸案事項を口にした。

「………それで………、王位継承について、何かご遺言は………?」

 ほとんど祈るような気持ちでランスローは父であるアポストル公に問いかけた。ラザール王子にしろマルト王子にしろ、ザルゼス陛下が自分の後継者を指名していれば、国を二分する問題を未然に防ぐことができる。しかし彼の期待は裏切られた。

「なにも。遺書が開封されたが、シミオン殿下を喪主に、としか書かれていなかった」

 家長の葬儀の際に喪主を務めるのは、その家を継ぎ家長となるものである。であるから、この場合「シミオンを喪主に」と言っているのは、「シミオンを次の王に」と言っているのと同義、ということになる。

 しかし、すでにシミオンが戦死している以上、そんな遺言書には何の意味もない。

 ランスローは愕然とする一方で、どこか納得するものを感じていた。それは父アポストル公から感じる狂気の、その理由だ。

(マルト王子を玉座に。それを諦められないということか…………)

 我がことではないにせよ、自嘲に似た想いがこみ上げてくる。あるいは、それはこれから起こるであろう権力闘争に巻き込まれたくないと思いながらも、すでに諦めてしまっている自分に対するものなのかもしれなかった。

「それで、陛下の葬儀の日程は?」
「詳しくは決まっていない。シミオン王子のご遺体が戻られてから合同でおこなわれる」

 略式だがな、とアポストル公は続けた。ブレントーダ砦をカンタルク軍に占拠された今の状況では、確かに大掛かりな式を催すことは困難だろう。事態を収束してから改めて正式な葬儀をおこなうのだろう。

「喪主はサントリア侯爵で、ということになっている」

 それを聞いてランスローは頷いた。サントリア侯爵という人選はこの状況下では容易に想像できたし、また納得もできるものであった。

 サントリア侯爵家は王家の外戚で、王家の外にあってその血筋を保全してきた。ただ政治的権力とは無縁で、代々ポルトール王国の歴史の編纂を家業としている。当然政治的には中立の立場で、それゆえに派閥抗争の調停役として声がかかることが度々あった。

「カンタルク軍への対応はいかがなさるおつもりですか」

 ザルゼス国王の葬儀の話が日と段落すると、ランスローは急を要することに話を変えた。途端にアポストル公の表情が苦々しく歪む。その様子を見てランスローはだいたいの事情を察した。すなわちアポストル公の思い通りにはならなかったのだろう、と。

「ラザール殿下を摂政に据え、和平交渉を申し込むことが決まった」

 妥当な決定であろう。アポストル公としてはマルト王子を交渉の矢面に立たせたかったはずだが、お飾りであることが明白である以上味方の士気にまで悪影響が及んでしまう。ラザール王子にしても、ラディアント公のお飾りであることに変わりはないのだが、少なくとも彼は成人男性であり体面を保つことはできるだろう。摂政にしたのは王位継承の問題を先延ばしにするためか。

 さらに野戦を挑むのではなく和平交渉を申し込むというが、こちらも少し考えればすぐに納得できる。カンタルク軍はポルトールの北側から南下してくるのであり、国の北側に勢力を持っているのはアポストル公を中心とする文官貴族の勢力だ。当然戦は苦手で、仮にカンタルク軍と同数の兵を集めたとしても抗しきれるのか、はなはだ疑問である。であるならば早期に和平交渉をまとめ損害を最小限にしたい、というふうに思考が傾いたのだろう。

 また南部に勢力を持つ軍閥貴族たちにしても、ライバルの土地を守るためにわざわざ兵を出し遠征するというのを嫌ったと考えられる。

「ふん!ラディアント公の考えることなど見え透いておるわ」
 アポストル公は苦々しく鼻をならした。

 ラディアント公の思惑としては、ラザール王子の名で早期に交渉をまとめ上げその功績をもって彼を至高の座つける、といったところだろう。

 事態がこのまま進めば、アポストル公にそれを阻む術はない。シミオン王子の義理の兄として権力の座に最も近かったはずが、最後の最後で大逆転負け。狂いたくもなるというものだ。ラディアント公もこの事態に狂っているだろう。ただしそのベクトルの方向は真逆のはずだが。

「何か………、何か手はないものか………」

 アポストル公が呻く。そんな父の様子をランスローは冷めた目で見ていた。彼としては今後の方針がきちんと決定し、派閥抗争に巻き込まれずに済みそうなのを歓迎する気持ちのほうが強い。

(どうかこのまま収束に向かって欲しい………)

 しかしそんなランスローの願いは、またもや打ち砕かれることになる。

「父上!!」

 そう叫んでアポストル公の執務室に飛び込んできたのは、アポストル公爵家の長男でランスローの兄でもある、ライシュ・フォン・アポストルであった。随分と急いで来たらしく肩で息をしているが、その表情からは明らかな喜色が窺える。

 兄のその顔を見て嫌な予感にとらわれたのは、どうやらランスロー一人だけのようであった。

「どうした!?なにがあった!?」
 アポストル公の声も、さきほどより幾分弾んでいる。

「先程、『共鳴の水鏡』でブレントーダ砦のカンタルク軍から通信が入りまして………」

 ライシュは一旦そこで息を整えた。そしてウォーゲン・グリフォードが打ってきた「傾国の一手」を明かしたのだ。

「交渉の相手役としてマルト王子を指名する、と!」






************





「解せないという顔じゃな、アズリアよ」

 からかうようなウォーゲンの声で、アズリアは我に返り顔を上げた。その視線の先には面白そうに微笑んでいるウォーゲンがいた。

「仕事も一段落着いた。なんぞ聞きたいことがあるなら言ってみるがよい」

 ウォーゲンの声は穏やかだった。部下があれこれとでしゃばったり疑問をさしはさんだりすることを嫌う者もいるが、彼はそういうタイプの上官ではない。むしろ話せる範囲内のことは全て話し、部下たちに明確な目的意識を持たせるのがウォーゲン流だった。それはアズリアも良く知っている。

「ではお聞きしたいのですが………、マルト王子を交渉の相手役に指名することには、どんな意味があるのでしょうか?」

 アズリアがそういうとウォーゲンは、ふむ、と呟いて顎の無精ひげを撫でた。

「まず、ポルトールという国の権力構図がどうなっているか、分るか?」
「たしか、貴族たちが二つの派閥に分かれてしのぎを削りあっているとか」

 アポストル公を中心とする文官貴族の派閥と、ラディアント公を中心とする軍閥貴族の派閥が対立していることは他国の、しかも大して政治に興味のないアズリアでも知っている。それほどに有名な話だ。

「そうじゃ。そしてアポストル公はシミオン王子を、ラディアント公はラザール王子をそれぞれ担いでおる」

 もっともシミオン王子は既に戦死しているので、アポストル公が今現在担ぎ上げているのは、シミオン王子の嫡子であるマルト王子だ。

「今回、摂政に就任し交渉を申し込んできたのはラザール王子じゃ。つまりラディアント公の派閥が現在優勢、ということじゃろう」
「そこまでは分ります。ですがそこでなぜ…………」

 なぜ、マルト王子の名前が出てくるのか。

「ラザール王子の名前で交渉を申し込んできたからと言って、実際にかの人がその席に着くことはないじゃろう」

 実際に交渉を取り仕切るのはラディアント公であるはずだ。つまりラザール王子の名前を使ったのは、王族という血筋を使って対外的な体面を保つためと、どちらの派閥に主導権があるのかをはっきりさせるためである。

「ラディアント公の思惑としては、交渉をまとめた功績を盾にラザール王子を王座に付ける、といったところじゃな」
「それでなおのことこちらからマルト王子を指名したとしても、相手にされないのではないのでしょうか?」

 それに相手に言われて交渉役を変えていては国家の面子に関わるだろう。「ポルトールの交渉役はカンタルクが決めるのか」と、まともな政治感覚を持っているものならば必ず反対する。

「さよう。普通ならば突っぱねられる」
 ウォーゲンもそれを認めた。

「ではなぜ………?」

 困惑顔のアズリアを見てウォーゲンはニヤリと笑った。

「さて、ここで問題になるのはアポストル公じゃ」

 これまでの派閥抗争で優位に立っていたのは、シミオン王子の義理の兄であるアポストル公だ。それが、シミオン王子が戦死したことで事態が急転する。あれよあれよ言う間にラザール王子が交渉の顔役になり、事態の主導権をラディアント公の派閥に持っていかれてしまった。

 国王の義理の兄として絶大な権力を手にするまで後一歩というところだったのに、最後の最後で大逆転負け。面白いはずがない。

「そんなときにマルト王子を交渉役に指名されたら、アポストル公はどう思うかのう?」
「どうって………、分りません」
「『カンタルクがマルト王子を次期国王として認めた』。そう主張することができると、こう考えるのではないかな」
「あ…………!」

 実際にカンタルクが国家としてマルト王子を次期国王として認めているのか、それ自体は実はどうでもいい。アポストル公にとって重要なのはそう解釈できる、ということなのだ。そうすればマルト王子を担ぐ派閥として、事態に関与する余地ができる。

 その先の思惑は、固有名詞を入れ替えればラディアント公とほぼ同じであろう。すなわち、
「交渉をまとめた功績を盾にマルト王子を王座に付ける」
 ということだ。

「ですが、それをラディアント公が認めるでしょうか………?」
「認めるわけがないじゃろうな」

 さも当然、といったふうにウォーゲンは答えた。こちらを試すような、それでいてからかうかのような彼の声音に、アズリアは困惑を深める。

「結局のところ、なにが目的なのですか?」
「結局のところ、内戦を起こさせるのが目的じゃ」

 ウォーゲンは悪戯を成功させたような、そんな楽しげな調子でそう言った。だが言われた内容は衝撃的だった。ウォーゲンは続ける。

「交渉をまとめた派閥、そこが次の王を決める。それを分っておるから、双方とも決して引くまい」

 そうなれば自然と対立は深刻化し激化していく。カンタルク軍の側からそれを煽ってやれればさらに良い。その果てにあるのは武力衝突、すなわち内戦だ。

「内戦が起これば、後はこちらのものじゃ」

 互いに潰しあうのを傍観し、残ったほうを叩いて漁夫の利を得るもよし。どちらか一方に肩入れして、新政権に対して影響力を持てるようにしてもよし。内戦を戦っている隙に国境際の土地を切り取ってもよし。無数の選択肢があると言えるだろう。

「ですが、そう思惑通りにいくでしょうか?」

 こちらの思惑通りにポルトールが踊ってくれる保障などどこにもない。アポストル公にしろラディアント公にしろ、政に関わっている以上この状況下で内戦を起こすことがどれだけ愚かしいことか、重々承知しているはずだ。

「さそいに乗ってこないならばそれでもよい」

 こちらは一言伝えただけで、失うものなど何もない。突っぱねられても普通の交渉を行うだけだ。

「ブレントーダ砦を落とした以上、国境際の五~十州を割譲させるのはそれほど難しくあるまい」

 もともとゲゼル・シャフト・カンタルクの虚栄心から始まった遠征だ。勝ったという体裁さえ整えば陛下も満足するだろう、とウォーゲンは考えていた。

 さらに言えば交渉自体は決裂してもいい。そうなれば改めて軍を進め、自らの手で土地を切り取ればよいのだから。

「深いお考えあってのことだったのですね………!」

 アズリアに尊敬の眼差しで見られ、ウォーゲンは年甲斐もなく恥ずかしそうにするのであった。

**********

「ふむ………」

 ポルトールへの遠征に向かっているウォーゲン・グリフォード大将軍から届いた、途中経過の報告書を読んだゲゼル・シャフト・カンタルクは不満そうな声を漏らした。

「大将軍はどういうつもりなのだ?」

 報告書には、ブレントーダ砦を落としシミオン王子を討ち取ったこと、その遺体は既に砦の明け渡しを条件に返還したこと、さらにポルトールとの和平交渉に入るつもりだ、ということが書かれていた。

 シミオン王子の遺体の返還など、どうでもよい。遺体や首をさらして敵の戦意を挫くという手もあったが、ゲゼル・シャフトは死体には興味がない。だが和平交渉は別だ。砦を落としたということは、今カンタルク軍の目の前に広がっているのは、阻むもののないポルトールの土地だ。なぜ切り取ろうとしないのか。

「こうも早期に交渉を始めるなど、ウォーゲンはなにを考えている?」

 ゲゼル・シャフトの視線が報告を持ってきたウォーゲンの副官である、モイジュ・フォン・ハルゲンドに止まった。そのミドルネームが示すとおり貴族の家柄で、そのせいかウォーゲンなどからは「硬い思考をする」と言われている。ただ一般的な話をすれば、彼の物の考え方は貴族としてはごくごく普通だし、まともであるとも言える。ウォーゲンの影響を受けているウィクリフなどのほうが、貴族の中にあっては異端的であると言えるだろう。

 モイジュは、「アポストル公とラディアント公の派閥対立を煽り、激化かつ深刻化させることで内乱を誘発する」というウォーゲンの策略を手短に説明した。

「わざわざラザール王子に摂政という肩書きを与えたことを考えますと、ポルトールの次期王位継承者は未だ正式には決まっていないものと思われます」

 モイジュの説明を聞いても、ゲゼル・シャフトは不満そうだった。

「大将軍も迂遠なことをする。もっと直接的に侵攻を図ればよいものを」
「この交渉において、カンタルクが損をすることはありえません。陛下が望まれるだけの成果が得られなければ、大将軍はすぐにでも兵を動かされるでしょう」

 ゲゼル・シャフトはまだ不満そうである。そこでモイジュはこの策略におけるウォーゲンの最大の狙いについて語った。

「大将軍がおっしゃるところによると『うまくいけばポルトールを属国化することができる』と………」
「なに?ポルトールを属国にとな」
「はっ」

 ゲゼル・シャフトの声の調子が変わった。
 仮にポルトールを完全に併合してしまえば、その国土や臣民について最終的に責任を被るのは国王たるゲゼル・シャフト・カンタルクである。

 しかし併合せずに属国としてしまえばどうか。その国土や臣民について責任を持つべきはポルトールの王であり、カンタルクの国王であるゲゼル・シャフトは完全に無責任でいられる。

 つまり責任を取ることなく、ポルトールからその富を存分に搾り取ることができるのだ。考えようによっては完全に併合してしまうよりも征服者側にとって都合がよく、また悪質であるとさえ言えるだろう。

「そうできれば確かに最上の結果よな」

 ゲゼル・シャフトの声が弾みだした。
 因縁の敵国を併合するのではなく属国とする。ポルトールの民は我が奴隷となり、ポルトールの王がこの自分の前に膝をつくのだ。そうなればどちらの国が格上であるか、一目瞭然ではないか。そしてこのゲゼル・シャフト・カンタルクは、国史上初めてポルトールという国を完全に屈服させるのだ。彼らには誇りある滅びすら与えない。

(言わなければ良かったか………?)

 ゲゼル・シャフトが己の虚栄心を際限なく肥大化させていく様子を見ながら、モイジュは己の判断の正否を決めかねていた。

 ゲゼル・シャフトの様子を見る限りウォーゲンの方針に許可が下りるのはまず間違いない。そういう意味では彼の判断は正しかったといえる。しかし「属国化うんぬん」は最大限うまくいった場合であって、そうならない可能性も十分にある。そうなった場合、ゲゼル・シャフトの期待に沿えなかった仕官や兵士たちが、断罪されるようなことにはなるまいか。そうなってしまえば彼の判断は間違っていたことになる。

「大将軍には、このままやるように伝えよ」

 興奮が窺える声で、ゲゼル・シャフトはそう勅命を下した。モイジュは短く返答すると、深く頭をたれた。

(こうなってしまっては、もはや私の手には負えぬ………)

 無責任かもしれないが、後はウォーゲン・グリフォード大将軍の手腕に期待するだけだ。

「ああ、それと………」

 苦い思考にはまりかけていたモイジュを、ゲゼル・シャフトの声が現実に引き戻した。その声は先程よりも幾分冷静になっている。

「大将軍の隷下にある軍のうち、歩兵五万を新兵と入れ替える」
「それは…………!!」

 言われた内容にモイジュは呆然とした。今回ウォーゲンが率いているのはカンタルク軍の中でも精鋭と呼ばれる兵士ばかりだ。それを新兵と入れ替えるという。訓練を始めて間もない新兵が、精鋭と同じ働きができるわけもないから、兵の数は同じでも実質的には戦力ダウンである。最前線の戦力を増やすどころか減らすとは、一体ゲゼル・シャフトはなにを考えているのか。

「交渉ごとがメインであれば、大将軍も暇であろう。新兵の鍛錬などして時間を潰すがよかろう」

「………承りました。そのようにお伝えいたします」

 まさか一副官の身分で国王に意見するわけにもいかない。モイジュは静かに頭をたれた。しかし彼の胸のうちには微かな安心が芽生えていた。

 派遣した軍が独立し牙を向くという事態は、為政者にとっては常に想定すべき悪夢である。ウォーゲンの当面の活動は交渉ごとであり、軍を直接動かすことは少ない。であるならば万が一ということも、とゲゼル・シャフトは考えたのだろう。大将軍に限ってそのようなことはありえないとカンタルクの軍人ならば誰もが知っているが、あえてやって見せることで将来同じような事態が起きたときに、前例をもってけん制することも思惑のうちなのだろう。このような判断ができる辺り、ただ虚栄心が強いだけの愚王ではない。

(思ったよりも冷静でおられるようだ………)

 このような冷静な判断が下せるということは、仮にポルトールを属国化できなかったとしても、そのことが理由で断罪を受けることはないだろう。モイジュはそう考えるのであった。





[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:45
 ポルトールの王都アムネスティアに程近い街道沿いの街パートーム。その街にある魔道具工房「ドワーフの穴倉」で、冬の間イストは魔道具製作に励んだ。

 風の上を滑るようにして空を駆ける「風渡りの靴」。直径が五十センチほどの戦輪と、それを自在に操るための腕輪をセットにした「戦場を駆ける者(ワルキューレ)」。そして未だに名前が決まっていないあの魔剣。

 イストは他にも様々な魔道具を作った。眼を見張るほど素晴らしいものからなぜ作ったのかよくわからないものまで、手当たりしだいに乱造したといっていい。

「よくそんなに次から次へと違う魔道具を考えられますね…………」

 図らずもこの街で弟子にしたニーナ・ミザリが、感嘆とも呆れともとれない声音でそういった。

「旅の中で理論は完成させておいて、後は作るだけにしてあるからな。この街で頭に捻って理論仕上げたのはあの魔剣だけだし」

 弟子になったとはいえ、ニーナは師匠であるイスト手ずから教えを受けているわけではなかった。弟子になったその日のうちに古代文字(エンシェントスペル)で書かれた古い三冊の本をわたされて、

「百回読み通せ」

 といわれたのだ。百回というのはさすがに冗談だろうが、出鼻に本を読んで自習しろと言われ、さすがにニーナも落胆を隠せなかった。

「人から与えられただけの知識に何の価値がある?自分で頭ひねって血肉に染込ませろ」

 イストの言葉は厳しい。それでも「解説ぐらいしてくれてもいいのに」と、ニーナが思ったのは当然のことだろう。

 とはいえ、ニーナはすぐに解説が基本的に不要であることを知った。手渡された三冊の本は、魔道具製作の知識と技術について基礎の基礎から解説しており、さらに平易な言葉で書かれているので、かつてイストの部屋で睨めっこしていた資料などと比べればはるかに理解しやすい内容であった。

 とはいえ書かれている内容の一から十まで、全て理解できているわけではもちろんない。解らない箇所は多々あり、そういったところはイストに聞いてみたのだが、

「とりあえず先に読み進んでみろ。自然と解るようになるから」

 と言って彼は取り合ってくれなかった。これに関してはさすがにニーナも半信半疑であったが、二度三度と読み返してみると、本当に理解できるようになっていて驚いた。恐らくだが知識が増えるにしたがって、知識が互いに補完しあい理解が及ぶようになったのだろう。それでも解らないところは、さすがに解説してもらったが。

 こうしてニーナはイストが「ドワーフの穴倉」を間借りしている期間、ひたすら渡された書物を読み漁り読みふけっていたわけだが、思えばこの間中弟子らしいことは何もしていなかった。例えばカイゼルとトレイズの師弟のように、世間一般的には弟子は師匠の作業を手伝ったり、様々な雑用を任されたりするものだが、イストはニーナにそういうことを一切言いつけなかった。

「あの………、何か手伝いましょうか………?」

 そう遠慮がちに申し出たニーナを、イストは「馬鹿野郎!」と叱り飛ばした。

「弟子は師匠を踏み台にしてのし上ればいいんだよ!」
「師匠…………!」
「まあそう簡単に踏み台になってやる気はないけどな」
「師匠…………」

 同じ台詞でもイントネーションが明らかに異なった、その理由は推して知るべし。とは言え、いろいろと残念な気分にさせられはしたが、イストは自分の言葉を決して曲げなかった。ニーナは彼の弟子であった間、「アレをやれ、コレをやれ」と頭ごなしに雑用を指示されることはついになかったのだから。

**********

 アルジャークなどと比べるとポルトールの春は早い。三月の半ばに差し掛かる少し前、日が十分に長くなり気候が安定してきたのを見計らったイストは、ガノスとニーナにそろそろ旅立つことを告げた。ニーナがイストに師事して、彼らか魔道具製作のイロハを教わるためには、彼女もまた共に旅立たねばならない。一度旅立ってしまえば再びここに帰ってくるのは、さて何年後になるのか今は予想すらつかない。

「今ならまだ止められるぞ」

 イストはそう言ったがニーナの心はもう決まっているし、ガノスもそれを受け入れている。とはいえ永遠ならざる別れを思い、気分が少なからず落ち込んでしまうのは仕方がないことであろう。

 ちなみに、ガノスが製作していた魔道具はまだ完成していないが、すでにそのメドは立っている。これでひとまず工房「ドワーフの穴倉」は大丈夫だろう。

「必ず、立派な魔道具職人になって帰ってきます…………!」

 固い決意を胸に、ニーナは故郷の街を旅立ったのである。

 さて、旅立つにあたり問題が一つあった。それは国境を越えるための身分証である。これをもっていないと国境の関所を越えられない。もっともこの問題はすぐに解決した。イストがニーナに魔導士ギルドの準ライセンスを取得させたからだ。

 準ライセンスとは正式なライセンスの一ランク下に位置づけられているもので、もともとは魔導士が弟子に持たせるものだ。これをもっていると身分証の代わりとなったり、魔道具が所持できたりするようになる。ただし、魔道具(特に武器)の所持に関しては正ライセンスを持っている者の監督が必要だが。

 正ライセンスの取得はリリーゼの場合のように試験を受けなければならないが、準ライセンスにはそのような試験はない。申請用紙に必要事項を記入して提出すれば、その日のうちにライセンスカードを発行してもらえる。ちなみに発行手数料はイストが出した。

「出世払いの三倍返しな」

 恐縮するニーナに、イストはそう気軽に告げた。それから彼女に一つ宿題を出す。

「仕事柄、ライセンスを持っていると便利なことが多いから、その内ちゃんと取るように」
「わたしに取れるでしょうか………?」

 自慢できることではないが、ぜんぜん自信がない。
 ニーナ・ミザリの戦闘能力は当然ながら皆無であし、また自分にそっち方面の才能があるとは到底思えない。そんな体たくらで正ライセンスなど取れるのだろうか。

「試験と言っても戦闘技術を見るものばかりじゃない。比較的簡単に取れる試験もあるから、今度教えてやるよ」

 ちなみに試験の中身は様々にあれど、発行されるライセンスは全て同じである。要はどれだけ魔道具を扱えるかを見る試験なのだ。

 イストが彼の最大の秘密、すなわち「アバサ・ロット」の二つ名をニーナに明かしたのは、旅立った日の夜のことであった。告げられた当初はさすがにニーナも半信半疑であったが、何もない空間に忽然と現れた石造りの扉と、その扉の先にあるアバサ・ロットの工房「狭間の庵」を見せられ、その非常識さに言葉を失った。

「な、何なんですか、コレは!?」

 目ん玉が飛び出るとか顎が外れるとか、そういう表現をありったけ集めたようなニーナの反応に、イストは満足そうに意地悪な笑みを浮かべるのであった。

 イストの個人工房である「狭間の庵」は、彼が常に肌身離さず付けている腕輪に固定された亜空間の中にある。この魔道具を作ったのは初代アバサ・ロットであるロロイヤ・ロットである。彼は空間拡張型や亜空間設置型の魔道具の製作に比類のない才能を示し、この分野に関していえば彼を越える才能は未だに現れていない。ロロイヤの遺した作品は多々あるが、その中でもこの「狭間の庵」は最高傑作であると、歴代のアバサ・ロットたちは意見を同じにしている。

 工房は地上二階建ての地下一階付きで、一階は作業場、二階は資料室、地下一階は物置となっている。

 まず一階の作業場に入ったニーナは、そこで再び目をひんむいて驚くこととなる。床面積は「ドワーフの穴倉」と同じくらいで、そこには魔道具製作に必要なあらゆる機器が備わっていた。これらの機器は歴代のアガサ・ロットたちが、

「あると便利だから」

 という理由で次から次へと作っていったもので、その結果例えば鉄鉱石などの原料さえあれば、一から魔道具が作れるようになっている。金属の精錬・成型・鍛錬、あるいは宝石の研磨や革製品の加工に織物の機械まで、本当になんでもある。

 世間一般から見れば明らかなオーバースペックで、「ドワーフの穴倉」という比較対象を見知っているニーナはその設備の異常な充実度を正しく理解できた。できてしまった。

「も、もう何でもアリですね………」

 驚けばいいのか呆れればいいのか分からない。そんな様子でニーナは呟いた。明らかに異常な設備をたった一人の魔道具職人のために用意する。それがアバサ・ロットという伝説の魔道具職人の一面であるとことを、幸か不幸かニーナはこのときまだ理解していなかった。

「こっちだ」

 イストはまずニーナを地下の物置に案内した。そこは物置と言う言葉から連想されるような散らかった場所ではなく、むしろ一見して整理されていることがわかった。結晶体などの細々とした素材はその種類ごとに棚に収められ、鉄や銅といったものも種類ごとに樽に入れて保管されていた。工具類もひと目で必要なものが見つかるようになっている。

 またここには完成した魔道具も保管されていると言う。少し見ただけでも、それとわかる魔剣や魔槍、鎧などが置かれていた。

「なんていうか………、これだけでもう一財産ですよね………」

 しかもその全てが、かのアバサ・ロットの作品なのだ。見る人が見れば卒倒してもおかしくない光景である。

「歴代のアバサ・ロットたちは自分の作品以外興味がないからな。しかも完成させてしまえば次の作品に興味は移る」

 その結果、しかるべき使い手にめぐり合えなかった作品たちはここに積み上げられ、日の目を見ることなくホコリを被っていると言うわけである。時の権力者たちが強力な魔道具を血眼になって探しているその裏で、歴代のアバサ・ロットたちは魔道具を作りっぱなしにして物置に放置していたのだ。武力をもって覇道を志す者たちが知ったら、悲鳴を上げて喚くか、呪いの言葉を吐くか、目の色を変えて狂うか、いずれにしても正気ではいられないだろう。もっとも、後でこの感想を聞いたイストは、

「そんな器の小さい連中が覇道を遂げられるものか」
 といって相手にしなかったが。

 さらに聞くところによれば、空間拡張型の魔道具を利用して保管しているため、今目に見える範囲のものでさえほんの一部であると言う。もし全ての魔道具が世に出ていたら一体幾つの伝説を作り上げたのだろうと、ニーナは呆れた。呆れて、次の瞬間には背筋が寒くなった。

 この時代、魔道具が伝説を作ると言うことは、大量の血が流れることと同義である。もしここに保管されている魔道具全てが世に出たら、一体どれだけの血を流し、どれほどの町や村を焼き払い、幾つの国を覆し、幾筋の涙を人に強要するのだろう。

 世界のパワーバランスの一端が、実はこんなところにあったのかと、ニーナは呆れればいいのか怖がればいいのか判断に迷った。しかも歴代のアバサ・ロットたちがこれらの魔道具を表に出さなかったのは単に、「興味がなかったから」だ。そんなごくごく個人的な感情を理由に力の暴発が防がれていることに、ニーナはうすら寒いものを感じずにはいられなかった。

「おーい、こっちこっち」

 世界を覆す力を保管している、現代のアバサ・ロットが手を振っている。その能天気な様子に、一抹の不安を感じずにはいられないニーナであった。

(大丈夫なのかな、この世界は…………?)

 とはいえ今の彼女の身分は「魔道具職人見習い」あるいは「アバサ・ロットの弟子」であって、いうまでもなく世界をどうこうなどできる筈もない。せいぜい師匠たるイストの良識を願うばかりだ。

「今行きます」

 小走りにイストのもとに駆け寄ると、彼はタンスから若葉色でフードつきのローブを取り出してニーナに渡した。色は少々くすんでしまっているが、十分に実用に耐えうるローブだ。羽織ってみるとサイズもちょうどいい。どうやらこのローブは女性用らしい。

「そっちを使うといいよ。オレのヤツはでかいだろうから」

 旅立ちにあたり、ニーナはイストからモスグリーンの外套を借りている。が、如何せん大きすぎて何かと都合が悪かった。

「女性のアバサ・ロットが使っていた品らしい。オレが貸してたやつと同じで魔道具だから、役に立つぞ」

 イストが使っている外套は「旅人の外套(エルロンマント)」という魔道具である。その能力は外套の内側の温度調節と防水、および風除けである。この外套を羽織っていれば季節が真夏であろうが真冬であろうが快適に過ごせるし、激しい雨に吹かれても体が濡れることはまずない。

「コレさえあれば雪原で野宿をすることになっても大丈夫!」
 というのが謳い文句らしい。ただしイストからは、

「狼に喰われるから止めておけ」

 と言われた。たしかに魔道具だけではどうしようもない限界というやつがある。ただ便利であることは間違いなく、なまじ服を何枚も用意するより「旅人の外套(エルロンマント)」を一枚持っていたほうがよほど役に立つと、歴代のアバサ・ロットたちも重宝したらしい。

 ニーナは礼を言ってからその若葉色のローブを受け取り、借りていたモスグリーンの外套をイストに返した。

「それと、ホイ、これ」

 次に手渡されたのは、イストが持っているのと同じ道具袋だった。魔道具「ロロイヤの道具袋」。空間拡張型の魔道具だ。確認してみたが中身は空っぽだった。

「オレが前に作ったヤツだ。必要になるから持っとけ」

 師匠にこういわれては断るわけにもいかない。ニーナは素直に道具袋を受け取った。ただ、聞いたところによれば「ロロイヤの道具袋」の容量は、小さな部屋ほどもあるらしく、本当にそんなに必要なものがあるのか、少々懐疑的であったことは否めない。

「さて次だ」

 次にイストが向かったのは二階の資料室だった。

「うわ…………」

 その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、ニーナは空気が変わったことに気づいた。部屋は古い紙のにおいで満ちていて図書館を連想させ、そのせいかひどく落ち着いた雰囲気が漂っている。

 二階は本棚で埋め尽くされていた。人が両手を広げたくらいの幅の通路が、本棚の間を縫うようにしてあるほかは、一面すべて本棚であった。

 以外なことに、製本された本は少ない。ここに保管されている資料のほとんどが紙の束をまとめただけのもので、糸で縫いとめてあればいい方だった。

「初代から数えておよそ千年。千年の間アバサ・ロットたちが蓄積してきた、知識と技術だ」

 もしオレにこの頭と腕より重いものがあるとすれば間違いなくコレだ、と語るイストの口調からは間違いなく誇りが感じられた。

「師匠が作った魔道具の資料もここに保管してあるんですか?」
「ああ、こっちにある」

 イストは本棚の二つを使って資料を保管していた。魔道具ごとにそれぞれの資料を紙袋に入れて戸棚に並べてある。ベージュ色の紙袋は二つの金具に紐を回して封をするタイプで、表には魔道具の名前が記されており、中に入っている資料がなんなのか一目でわかるようになっていた。天井にまで達する高さの本棚が既に一つは一杯になり、もう一つも半分以上紙袋で占領されており、イストのコレまでの遍歴を垣間見せている。

「すごい量ですね…………」

 未だ作品数ゼロのニーナとしては、そういうしかない。同時に師匠に劣らぬ職人になろうと、決意を新たにもした。

「まあ、オレのはいいから。それよりお前さんに必要なのはコッチだ」
 そういってイストはニーナに資料の束を渡した。

「それとコレとコレと、はいコレも」
「え?あ、ちょ、ちょっと………!」

 またたく間にニーナの手には資料が積み上げられていった。当然その資料は古代文字(エンシェントスペル)で書かれている。積み上げられた厚さは三十センチ程度はあるだろうか。結構重い。

「…………全部読むんですか?コレ…………」

 顔が引きつりそうになるのを堪えながら、ニーナはイストに聞いた。本を三冊渡されてひたすら読みまくっていた記憶は新しい。今度はこの資料を「百回読め」と言われるのだろうか。

「いや、必ずしも全部読む必要はない」

 イストが言うところによれば、これらの資料は全てとある一つの魔道具の資料らしい。この魔道具は練習用に作るのにとてもよく、イストをはじめ多くのアバサ・ロットたちが弟子時代にこれを作ったという。

「じゃあコレは全部同じ魔道具の資料なんですか?」
 何でこんなに大量にあるのか。

「一言でいえば“意地”だな」
「意地?」

 つまりは「人と同じレポートを作りたくない」というアバサ・ロットたちの意地だ。その結果、一つの基本的な魔道具について多角的な解析と解説がなされ、さらに非常に多彩なアイディアや発想が生まれたのだと言う。

「とりあえずその資料読んで、自分なりにレポートにまとめろ。で、それができたら実際に作ってみる。できた作品がダメだったら作り直し。合格だったら次の課題だ」

 この先、ニーナの修行は万事この調子であった。いきなり魔道具を作らせてもらえるとは思っていなかったニーナは目を輝かせる。

「分らないところがあったら、渡しといた本を見ろ。それでも分んなきゃ聞きに来い」
「はい。わかりました」

 それと最後に、といってイストはニーナを見た。その目はいつになく真剣だ。

「『決して妥協するな』。これが唯一のルールだ」
 忘れるなよ、とイストはいった。

 こうしてニーナは魔道具職人として、また一歩前に進んだのであった。







**********




「どういうおつもりですか!?父上!」

 ダンッ!と勢いよく執務机に両手を付き、身を乗り出すようにしてランスローは父であるコステア・フォン・アポストルに迫った。その声からは、怒りと焦りが感じられる。

「カンタルク軍の世迷言を真に受けて独自に交渉を行うなど………!父上はこの国を内戦で割るおつもりか!?」

 事の始まりはカンタルク軍の通達だった。

「和平交渉の相手としてマルト王子を指名する」

 この通達が来るより前に、ポルトールの宮中ではラザール王子を摂政とし、この事態の収束にあたるという対応が決定している。であるならばカンタルクとの和平交渉において顔役になるのは、当然ラザール王子であるべきである。いかにカンタルクがマルト王子を指名しようとも、それは突っぱねるべきなのだ。

 なのに、アポストル公はこの申し出を受け入れてしまった。

「これはカンタルクと言う国家が、マルト王子を次期王位継承者として認めたと言うことだ!」

 ウォーゲンが予想したようにアポストル公はそう主張し己の予測、いや願望を根拠に独自に交渉を開始した。当然、ラディアント公らには秘密裏に、である。

 この対応は三つの意味で間違っていると、ランスローは考えている。

 まず第一に相手国、ましてや敵国に要求されて交渉の顔役を変えていては、国家の体面を保てない。交渉役が決まっていない段階であるならばともかく、すでに決まっている交渉役を敵国にいわれて変えるなど、そんな馬鹿な話があるだろうか。それは自国が格下であると認めるようなものであり、将来に対して禍根を残すことになるだろう。

 ラザール王子を交渉の顔役にというのが曲りなりも国家の決定である。にもかかわらず一部の貴族がその決定を無視し独自に交渉をまとめてしまえば、「国家の意思を貴族の意思が超越する」という悪しき前例を残すことになってしまう。そうなれば国の体制そのものが揺らいでしまう。これが第二の理由だ。

 そして第三に、ランスローは現状これが最大の理由だと考えているが、事が露見するのは時間の問題であり、そうなれば間違いなく派閥抗争が激化する。アポストル公もラディアント公も決して引かないだろうから、行き着く先は内戦である。しかもすぐ横にはカンタルク軍という外敵まで抱えているのだ。もし内戦が起これば、将来に禍根や悪しき前例を残す前に、ポルトールと言う国そのものがなくなってしまう可能性が高い。

「どう考えても悪手です!それがお判りにならないのですか!?」
「これしかないのだ!!マルト王子を玉座に就けるには!!」

 アポストル公は片手で頭を抱えている。その指の隙間から、睨むようにして彼は自分の三男を見た。その目に狂気が宿っていることはもはや疑いもない。

「それに、お前、ラディアント公がカンタルク軍に申し出た交渉の中身を知っているか?」
「いえ。使者を立てた、ということは聞きましたが。父上はご存知なのですか」

 ラディアント公は交渉の内容をおおっぴらにはしていない。父はどうやってそれを知り得たのか。

「カンタルク軍のウォーゲン・グリフォード大将軍から使いが来た」
 曰く「ラザール摂政はこのような条件を提示してきたが、これはマルト王子もご承知のことか」

 向こうから交渉の相手役としてマルト王子を指名してきた以上、こうやって確認を取るのは当然にも思えたが、ランスローとしてはどうしても「余計なことをしてくれた」とおもってしまう。こんなことをすればアポストル公がますます調子に乗るのが目に見えているではないか。

「奴らはな、国境際の十州をカンタルク側に割譲するといったのだぞ!?」

 妥当な線だとランスローは思った。ブレントーダ砦を落とされた以上、もしこれからカンタルク軍と事を構えるならば野戦が主となるだろう。カンタルク軍がまず手をつけるのは国の北部、つまり文官貴族の勢力圏で、彼らだけで敵軍に抗しきれるとは到底思えない。そうなれば十州以上を切り取られてしまうのは目に見えている。

 ならば今のうちに先手を打っておこう、ということなのだろう。ラディアント公にしてみればライバル派閥の土地だし、もっと大盤振る舞いするかとも思ったがなかなかに良識的だ、とランスローは判断した。

「なにを馬鹿なことを言っている!?その中には我が公爵家の領地も一部含まれているのだぞ!?」
「父上………!!」

 貴方はこの期に及んでまだそんなことを、という言葉をランスローは飲み込んだ。唐突に理解できてしまったからだ。父が狂っているその理由を。

(なんのことはない。もとから狂っていたのだ…………)

 事態の進展にともない、狂い始めたのではない。隠していた狂気が、事態が悪化するに連れて表に出てきた。ただそれだけのことだった。

「………安心せよ、ランスロー」

 幾分落ち着いた声で、アポストル公は話し始めた。ただその口調はランスローに話し掛けているというよりは、まるで自分に言い聞かせているようである。

「カンタルク軍が交渉の相手役に指名してきたのは我々だ。条件そのものもラディアント公よりもいい。交渉はすぐにまとまる」
「………提示した条件を、教えてもらえますか?」

 嫌な予感がヒシヒシとする。

「国の南部から二十州を割譲する、と提示した。飛び地にはなるが、自前で塩を生産できるようになる。奴らにとってもいい話のはずだ」

 半ば以上予想通りの答えに、ランスローは頭痛を感じ始めた。南部はラディアント公の派閥の領地。これでは子どもの仕返しと同じだ。

(ラディアント公が認めるわけがない………)

 秘密裏に交渉をまとめるとこができても、ラディアント公がその結果を認めなければ、結局内戦が起こる。

 ――――内戦。

 その未来はどうしようもなく避けがたいのではないかと、ランストーは思い始めた。

**********

「これはどういうことだ!コステア卿!」

 ランスローがアポストル公と話をしてから数日後、王宮で緊急に催された会議の席でエンドレ・フォン・ラディアント公爵の怒号が響き渡った。彼は優れた騎士としても知られており、その怒号は聞いている人々の腹に響いた。

「ラザール王子を摂政とし事態の収束に当たると決めたはず!にもかかわらず独自の交渉を行うとは、一体どういう了見なのだ!」

 糾弾されたアポストル公は苦虫を数十匹まとめて噛み潰したかのような顔をした。彼が秘密裏に進めていた交渉をなぜラディアント公が知りえたかと言えば、当のカンタルク軍がわざわざ使いを立ててきたからだ。

 曰く「当方はマルト王子とこのような交渉を行っているが、ラザール摂政はご承知のことか」。

 これを聞いたラディアント公は激怒した。剣を手に暴れまわったと言っていい。けが人が出なかったのは彼が意図的にそうした結果ではなく、周りの人々が「君子危うきに近寄らず」の精神を発揮したからだ。手を付けられず放置されたとも言うが。おかげで彼の屋敷は、局地的暴風にさらされた様相を呈している。

 ウォーゲン・グリフォードがわざわざ使いを立てて交渉の進行状況を報告し、またその確認を求めてきたのは、一見して至極当然のことである。最終的に交渉結果を承認するのは摂政の地位にいるラザール王子のはずで、ならば彼に確認を取るのは当たり前のことである。しかしウォーゲン・グリフォードの取った行動に言いようのない悪意を感じているのは、ランスロー一人ではないはずだ。

「カンタルク側がマルト王子を指名してきたのだ!我々の行っている交渉こそが正当なものだ!」

 秘密の交渉を暴露してくれたウォーゲンと、立ちはだかり邪魔ばかりしてくれるラディアント公に、苦々しい思いを抱きながらアポストル公はそう主張した。

「そのような申し出突っぱねるべきであろうが!」

 言い訳がましいアポストル公の弁を、ラディアント公は一刀両断に断ち切った。

「いつからポルトールはカンタルクのいいなりに成り下がった!?」

 ラディアント公の言葉はどこまでも正論で正しい。しかしその根底にあるモノは道徳や正義などではなく、権力への渇望であることをアポストル公は嗅ぎとっている。それゆえにその言葉がいかに正論であろうとも、そこに説得力を感じることはない。

 アポストル公もラディアント公も、お互いここで勝った方が至高の権力を手にすると知っているため決して引かない。終止怒号と暴言をもって行われた会議は、結局平行線で終わった。

 ラディアント公を先頭に肩を怒らせて会議室を出ていく軍閥貴族の面々を見て、事態が最悪の結末に至ったことをランスローは知った。回りを見渡せば、同じ結論に至ったのか、表情を硬くしている者たちがちらほらと見受けられる。

 ただ彼らが心配しているのは、この国の行く末ではなく、自分たちの富と権力を守れるのか、ということだ。

(それが貴族の習性か…………)

 同じ貴族として、またその筆頭を親に持つ身として、ランスローはわが身を自嘲するしかなかった。

**********

「もはや一戦避けることあたわず!!」

 屋敷に集めた軍閥貴族の面々を前にしてラディアント公は声を張り上げた。使用人たちの必死の努力により局地的災害からの復興を超短期間で終え、なんとか派閥筆頭公爵邸の威厳を保ちえた屋敷には、いまピリピリと斬りつけるかのような戦場にも似た空気が漂っていた。

「これよりラザール王子をお連れして領地に下る。各々自分の領地で兵をまとめ、我が公爵家の旗の下に集え!」

 王都アムネスティアに至る街道上でラディアント公爵家の旗を目印に集結しろ、という意味だ。指示が幾分抽象的に過ぎると思われるが、何も問題はない。これだけ申し伝えておけば後は各自が自分で考えて行動するだろう。それを確信できるほど、特に行軍に関して練度は高い。

「国事を私物化しようとするコステアを排除し、未曾有の危機よりこの国を救わん!」

 ラディアント公の前に居並ぶ貴族の面々も「応!!」とおうじる。

「正義は我らにあり!!神々が正道をなされんことを!!」








[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:49
「あ、ししょー。おはようーざいます」

 寝起きの冴えない頭でニーナは師匠であるイストに挨拶をした。彼もまた寝起きらしく眠そうに欠伸をかみ殺している。

「ん~、おはよ~」
 窓から差し込む光は明るい。今日もいい天気になりそうだ。

「にしても、すごい寝癖だな………」

 そう言われ、元気よく飛び跳ねている髪の毛をニーナは慌てて手櫛で撫で付けた。が、当然のことながらその程度では収まってくれない。

「むぅ。というか師匠だって寝癖ひどいじゃないですか」
 ニーナの言うとおり、イストの頭もなかなかにひどい状態だ。

「ふ、あまいな」

 イストがそういった瞬間、彼の髪の毛は一瞬にして整えられた。いつもどおりの髪型で、そこには寝癖一つない。

「え?ええ?え~?」

 目の前で起こった現象が理解できず、ニーナは目を丸くして軽く混乱した。まったくイストと旅をしていると驚くことには事足りない。弟子のワタワタした様子を眺めて満足したイストは、得意げに種明かしをした。

「『形状記憶ジェル』っていう魔道具を使ったんだよ」

 聞くところによれば、「形状記憶ジェル」という魔道具は使い捨てタイプの魔道具で、形を整えジェルを塗り魔力を込めるとその形をジェルが記憶し、形が崩れてしまっても魔力を込めれば記憶した形を復元してくれるのだとか。整髪だけでなく、衣服に使うこともあると言う。

「おお~。便利そうですね~」

 ニーナは素直に感嘆の声を上げた。毎朝寝癖と格闘しなくて済むのは確かに素晴らしい。

「ちなみに効力は三日~四日くらい」
 意外と短いような。

「ずっと同じジェルを付けとくのも嫌だろ?」

 そういわれればニーナも頷くしかなかった。それからイストは彼女の何かを期待するかのような目に気づいた。

「欲しいか?」
「くれるんですか!?」
「自分で作れ」

 魔道具職人だろうが、と言われればニーナも頷くしかない。となれば「形状記憶ジェル」が手に入るのはもう少し先だろうか。なにしろ課題として出された魔道具は、まだレポートをまとめている最中だ。

「今晩にでも教えてやるよ」
「え、いいんですか!?」

 思いもしなかった話の展開にニーナは喜んだ。

「ああ。材料計って練金炉に入れて魔力込めながら混ぜるだけだから」

 そういってイストは堪えきれない欠伸を再びかみ殺すのであった。

**********

 ポルトールのパートームを旅立ったイストとニーナの師弟は進路を西にとっていた。ポルトールの西にはラトバニアという国がある。国土は七三州。そのさらに西にはジェノダイトという国があり、その国土は八一州である。

 これらの国々のすぐ北には教会の影響力がつよい「神聖四国」と呼ばれる国々があった。地理的に見ればこれらの四ヶ国が大陸の中心部に位置しており、またこれまでの歴史上でも主役となることが多かった。ただ早期に文明が発達したせいか、今の時代は衰退期に入っている感があり、その組織は教会を含め腐臭を放っていた。これまでは聖銀(ミスリル)がもたらす莫大な売却益がいわば「芳香剤」となってその腐臭を隠していたが、その製法が暴露されお金が入ってこなくなると、教会と神聖四国は「暴走」を始めることとなる。それがシーヴァ・オズワルドとクロノワ・アルジャークという、東西の雄を戦場で引き合わせることになるのだがそれはまだ先の話だ。

 ともあれイストとニーナの師弟の旅路である。彼らは今ラトバニアにいる。そしてこれからジェノダイトに向かおうとしていた。

 ラトバニアからジェノダイトに向かう道はいくつかあるが、彼らが選んだのは「エプティアナの森」を通過するルートであった。理由は至極単純で「移動距離が一番短いから」である。整備された街道を通ることもできるのだが、そうすると南に大きく迂回して沿岸沿いの街道を行くか、北に向かい一度第三国を経由していくしかない。距離的にも日数的にも最も短くて済むのがエプティアの森を突っ切るルートなのだ。

 エプティアの森は森であるから当然街道など整備されていない。だが、森の中は高低差が少なくほとんど平坦で、また方位磁針を狂わせるなどといった難所指定要素もない。極端な話、まっすぐ西に向かっていればそのうちジェノダイトに着く。唯一気をつける点があるとすればその広さであろうか。エプティアの森は一日で抜けることはまず不可能である。人の足で歩いて二日、ともすれば三日かかることもザラである。当然その間は野宿をすることになり、そのための準備が必要になるのだ。

「そんなローブを着て保存食を買い込んでいるところを見ると、お嬢ちゃん、エプティアの森を越えるつもりかい?」

 ニーナが買い込んだ食料品を道具袋にしまっていると、露店をやっているおばちゃんにそう聞かれた。

「はい、そうですよ。森を抜けてジェノダイトに向かうつもりです」

 今、ニーナは師匠であるイストと森越えに必要なものを分担して買い込んでいる。もっとも元々旅をしている身なので、食料などの消耗品を補充すればいいだけだ。

「大丈夫かい?あの森は悪霊が出るって言う噂があるんだけど…………」

 露店のおばちゃんの言うところによると、五・六年前あの森を越えようとしていた旅人が悪霊を見たらしい。

 曰く「それは月が隠れた晩のことだった。悪霊は二人とも黒いローブを着込んだ鉤鼻の老婆のような姿で、しわしわの手にさじをもって火にかけられた鍋をかき混ぜながら、『ケーッケッケッケッケッケ』とそれはそれは邪悪な笑い声を上げていた」らしい。驚いて逃げた後、数分後にもう一回確かめようと様子を見に行ったところ、今度はいきなり怪しげな霧が現れ、二人の老婆の姿は見えず、ただその邪悪な笑い声だけが木霊していた、という。

「ま、まさか………。た、ただの見間違いでしょう?」

 顔が引きつるのを自覚しながら、ニーナはそうであって欲しいという願いを込めてそういった。お化けだの悪霊だのは大の苦手だ。

「そうだといいんだけどねぇ………」

 実際、町の人々の大半はこの話を信じていない。最初の目撃証言のほかに見たと言う人がいないからだ。だが、最初の目撃者が三人組の旅人だったことが、この話しに妙な信憑性を与えている。

「み、見間違いの聞き間違いです………。そうに決まっています………!」

 日が高く春麗らかな陽気のこの時間、怪談話をするには雰囲気が足りない。露店のおばちゃんも「まあ、そういう話があるってだけだから」と笑って噂話を切り上げた。

 宿に戻ると、既にイストは買出しから戻ってきていた。彼のほうは虫除けの薬や、傷薬の類などを補充してきた。

「お、来たか」

 弟子の姿を認めると、イストは立ち上がった。既に宿のチェックアウトは済ませているらしい。

 イストは「少し食べてから行くか?」と聞いたが、まだお昼には早くお腹も空いていない。結局、町を出る前に露店で軽食を買い込み、それをお昼に食べることにして二人はエプティアの森へと向かったのであった。

*********

 夜の森は暗い。
 どれだけ空に月や星が輝いていても、生い茂る木の葉はその光を遮ってしまう。昼間であれば「薄暗い」程度で済むが、夜になると本当に真っ暗だった。早めに用意しておいた焚き火が、今は妙に頼もしい。

 ちなみに、熱や光を得るだけならば魔道具を使っても良いのだが、煙を出したほうが虫が寄ってこないということでこの夜は焚き火で、ということになった。

 時折物音がする木々の奥の闇を、ニーナは落ち着かない様子で警戒していた。昼間、森に入る前に露店のおばちゃんから聞いた、「悪霊うんぬん」の話を思い出してしまい、どうしても気になってしまうのだ。

 それを聞いたイストは面白そうに、かつ不敵に笑った。

「面白そうじゃないか、悪霊。出てきたらとっ捕まえて研究材料にしてやる」
 その物言いに、さすがにニーナも呆れた。

「どうやって捕まえる気なんですか、師匠」

 そうだな、とイストは「無煙」を吹かしながら考え込んだ。その様子は実に楽しそうで、ニーナは嫌な予感を覚える。

「乗り移ってきたところを精神力でねじ伏せて捕獲、ってのはどうだ?二体いるみたいだから、一体はお前の持ち分な」

「イヤァァァァァアアアアアアアア!!」
 ノリウツラレル。のりうつられる!?乗り移られる!!

「とまあ、楽しげな話は置いといて、だ」
「全然楽しくないですよお!?」

 ニーナの絶叫その他諸々を、恐らくは意図的に無視して、イストは話を強引に切り替えた。

「ほいこれ」
 軽い調子でイストは二つ折りにしたメモ用紙をニーナに手渡した。

「………なんですか、コレ」

 ニーナがちょっぴり涙の残る目でその紙を確認すると、なにやら素材の名前とその数量が記されている。

「朝言ったろ?『形状記憶ジェル』の作り方だよ」

 そういってイストは「ロロイヤの道具袋」から材料を取り出していく。さらに木箱に納められた天秤と分銅を出した。ちなみにこの天秤はかなり高価なもので、これだけで一シクするという。

 作り方の注意点を聞くと、材料を正確に計ることの他は特にないらしい。焚き火の明りだけだと暗いな、と思っていたらイストが師匠らしく「新月の月明かり」を用意してくれた。

 一つ一つ丁寧に素材を計りながら作業を進めていく。こうやって作業に没頭していると、「悪霊うんぬん」の話は忘れることができた。そんなニーナの様子をイストは「無煙」を吹かしながら楽しそうに眺めている。

 全ての材料を計り終え練金炉に入れたところで、ニーナの手が止まった。作り方が記されたメモ用紙を見ながら眉間にしわを寄せている。

「あの、師匠。この『一定量の魔力を込めながらかき混ぜる』ってどうやるんですか?」

 魔力の制御というヤツは往々にして感覚的で、多いか少ないかぐらいしか人間にはわからない。「一定量の魔力を持続的に流す」と言う作業は、あるいは熟練した職人ならばできるのかもしれないが、現状ニーナには無理だった。

「ああ、それにはこいつを使う」

 そういってイストが取り出したのは、スープやシチューなんかをかき混ぜるのに使いそうな木製の匙だった。柄の上のほうに小さい結晶体がついており、その匙が魔道具であることを主張している。

「魔道具『魔女の匙加減』。効果は魔力の整流作用」

 この魔道具は流せる魔力の上限が決まっており、それ以上は魔力を込めても霧散してしまうそうだ。上限は固定されており、別の一定量が必要になったときはそれ用にもう一つ作るしかないという。

「そしてもう一つ。コレだ」

 ニヤリ、と悪戯を思いついた悪餓鬼のような笑みを浮かべてイストが差し出したのは、黒いローブだった。おとぎ話か何かで、魔女が着込んでいそうな感じである。

「………なんですか、これは………?」
 ひしひしと感じる嫌な予感にニーナは頬を引きつらせた。

「こいつを着て『ケケケケケ』と邪悪な笑い声を上げながら作る」
「な、なんでそんな魔女の真似事なんてしなきゃならないんですか!?」

 そんなの恥ずかしすぎる。恥ずかしすぎて死ねそうだ。しかも使う匙も「魔女の匙加減」だし。狙っているとしか思えない。

「それがこの魔道具を作るときの流儀で作法だ!」

 イストは胸を張ってそう宣言した。なんでも匙で鍋をかき混ぜるならそれっぽい格好をしたほうが面白い、と言う理由らしい。

「だ、騙されませんよ?し、師匠はそんなことしなかったんでしょう?」
「いや?やったぞ」

 ニーナの期待をイストはあっさりと裏切った。

「五・六年前、ああ、ちょうどこの森だったな。師匠が思い出したみたいに『この魔道具を作ってみろ』っていいだしてさ」

 その時に作らされたのが『形状記憶ジェル』だったそうだ。そしてイストの師匠、オーヴァ・ベルセリウスは彼にその“流儀”を強要したと言う。

「そ、それでやったんですか………!?」
「やった。いや~もうノリノリだったね。挙句の果てに師匠と二人で『どっちがよりそれっぽくできるか?』って競っちゃてさ」

 二人とも黒のローブを着込み、さらには老婆に変装し、鉤鼻の付け鼻をつけ、「ケーッケッケッケッケッケ」とそれはそれは邪悪な笑い声を競うように上げたそうだ。

「それを誰かに見られたらしくってさ、そいつら悲鳴を上げて逃げちゃったよ」
「悪霊の正体は師匠たちですか!?」

 当時を思い出して愉快そうに笑うイストに、ニーナは頭痛を感じながら突っ込んだ。知りたくなかった新事実だ。

「で、戻ってきて邪魔されても迷惑だから『霧の迷宮(ミスト・ラビリンス)』をつかって勝負を続けたんだ」

 イストと師匠が使ったという魔道具「霧の迷宮(ミスト・ラビリンス)」は一種の結界で、放射状に魔力を放出して、他人を中心部に近づけないようにする効果があるらしい。その時に発生する“霧”は放出された魔力がそう見えるのであって、実際の水分からなる霧ではない。

 結局、勝負はオーヴァの勝ちだったらしい。イスト曰く「入れ歯を外したのが勝因」だったそうだ。

「年の功には勝てなかった」
 とイストは楽しげに笑った。

 聞かされたことの真相にニーナはあらゆる意味で衝撃を受けていた。怪談話の裏側にまさか自分の師匠が絡んでいるとは思わず、ニーナは安心すればいいのか怒ればいいのか、はたまた呆れればいいのか、それはそれは判断に迷う。あるいはこの先で見聞きする怪奇現象にイストが関わっているのではないかと思うと、まだ起きてもいないのに気が遠くなるニーナであった。

「さ、気を取り直してやってみよう」

 そういってイストはとてもいい笑顔を浮かべ、黒のローブと「魔女の匙加減」を持って迫ってくる。その清々しい笑顔の奥に言い様のない邪気を感じるのは、決して勘違いではないはずだ。渋っていると、

「他の変装道具も用意してやろうか~?」
 と物凄くありがたくない提案をしてくれたので、必死に辞退した。

「う、ううう…………」

 かつて師匠も通った道をまさか弟子の自分が嫌だともいえない。「誰も見ていないから。誰も見ていないから」と必死に自分に言い聞かせて、ニーナは黒のローブを羽織った。そいて「魔女の匙加減」を手に、魔力を込めながら練金炉の中身をかき混ぜていく。

「………ケ、ケケ…………ケケ、ケ………」
「もっと大きな声で!もっと禍々しく!」

 なにが悲しくて魔女の真似事などせにゃならんのか。羞恥心で一杯のニーナの胸のうちなどまったくお構いなしに、イストは実に楽しそうに煽る。

「ケケケ、ケッケッケケケ…………」
 ああ、何かが壊れていく………。

「もっと激しく!魔女になりきって!!」

 自分の格好とその場の雰囲気、そしてイストの言葉とハイテンションに煽られてニーナの健全な思考力は加速度的に低下していく。

(ああ、なんか練金炉の中身が毒薬に見えてきた………)

 毒薬の入った鍋を匙でかき混ぜる黒いローブを着た女。それはまさに魔女。そう、今まさにわたしは魔女!!

「ケーッケッケッケッケッケ、ヒーヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒ!!」
 何かが開放されていく。ああ、自由って素晴らしい…………。
 雰囲気に酔わされ、エクストリームにはまっていくニーナ。

「うわあ、やっちゃったよ…………」

 そんなニーナに対し、けしかけた張本人であるはずのイストは、いきなりテンションを下げて傍観者を気取るのであった。

「うわわぁぁぁぁああああんんん!ししょーのばかぁぁぁああああああ!!」


 ちなみに「形状記憶ジェル」はきちんと完成した。しかし、そのジェルを見るたびにニーナは羞恥心に打ちのめされ、しばらくは使うことができなかったと言う。

 彼女の弟子生活はまだまだ始まったばかりだ。





************







五月の下旬、季節は春から初夏へと移ろうとしている。肥沃なオムージュの大地には色とりどりの花が咲き乱れ、生命の奇跡を誇っていた。

 大陸暦一五六四年五月、アルジャーク帝国皇太子レヴィナス・アルジャークと旧オムージュ王国王女アーデルハイト姫との婚礼の儀はつつがなく執り行われたのだった。

 結婚式において重要なのは、儀式そのものよりもその後の披露宴である。オムージュ総督府のおかれた王宮は、クロノワが呆れるほど絢爛豪華に飾り付けられ、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚を招待客たちに与えていた。

 一つ意外なことがあったとすれば、それはレヴィナスの服装である。その衣服のセンスはいつもどおり神懸り的だが、華やかな披露宴の席のわりには幾分抑え気味であるように見える。とはいえその理由はクロノワにもすぐに分かった。アーデルハイト姫だ。こちらは目もくらむほど豪華に、しかし清楚さや上品さを失わないように着飾っている。こういった席では、主役は花嫁だ。花嫁が最も美しく着飾り、そして最も目立つのが作法であると言える。その辺りをレヴィナスもわきまえたのだろう。

「ご結婚おめでとうございます、兄上、アーデルハイト姫」

 結婚式の後に開かれた披露宴で、クロノワは腹違いの兄であるレヴィナスとその花嫁であるアーデルハイト姫に祝いの言葉を述べた。

「クロノワか。モントルムより遠路はるばるよく来てくれた」

 この麗人もこの宴を楽しんでいるらしく、浮かべる笑顔は快活で作り物には見えなかった。二言三言弟と言葉を交わしてから、レヴィナスは隣にいたもう一人の麗人をクロノワに紹介した。

「改めて紹介しておこう。こちらがこの度私の妃となったアーデルハイト姫だ」

 楚々と純白のドレスを身にまとったアーデルハイト姫が進み出る。元々周辺諸国に美姫として知られていただけあって、その姿は確かに美しい。そして彼女もまた一点の曇のない笑顔をクロノワに向けた。

「アーデルハイトと申します。クロノワ閣下のお名前はかねがねお聞きしておりました。これからもどうぞレヴィナス様を、ひいてはこの国を支えて差し上げてください」

「もったいないお言葉です」

 クロノワもまた笑顔を浮かべて応じる。ただ、彼の笑顔はどうしても業務用のものになってしまう。しかしそれに気づかれることはないだろう。初対面のアーデルハイトはもとより、レヴィナスとも彼は接点が薄い。

「ところで、兄上はコルグス殿の建築計画を引き継がれたそうですね」

 前オムージュ国王コルグスはアーデルハイトの実の父親であり、今となってはレヴィナスの義理の父にあたる。彼が二十年来肝いりで進めてきた建築計画を、レヴィナスが引き継ぎさらに加速させたことはクロノワも聞き及んでいた。というよりも増税の主たる目的がそれであった。

「ああ、コルグス殿に計画の監督をしていただき、完成を急がせている」

 レヴィナスの口調は熱を帯びており、この計画に対する彼の思い入れの深さを思わせた。

「さらに今、私独自の計画も練っているところだ」

 私はこのオムージュを大陸で最も壮麗な、それこそ天上の神々が住まう園のようにして見せるぞ、とレヴィナスは熱く語った。

 建築計画の話から増税の話しに持っていく、というのがクロノワの筋書きであったが、その目論みは次のレヴィナスの言葉であっさりと費えることになる。

「そういえば、クロノワよ。お前は海上貿易に手を出し始めたそうだな」
「え、ええ。そうです。兄上のお耳にも入っておりましたか」

 お恥ずかしい限りです、と恐縮してみせる一方、クロノワは内心で少し驚いていた。彼が海上貿易に手を出し始めたと言っても、その規模はまだまだ小さい。レヴィナスの耳に入るのはもう少し先だと思っていたが、なかなかどうして情報が伝わるのは速い。

「なに、そう謙遜することもあるまい。これから私の計画が進めば色々と要りようになってくる。その時は頼むぞ」
「承りました」
 クロノワとしてはそういっておくしかない。

「これはこれはモントルム総督殿。わらわよりも先にレヴィナスに挨拶するとは、殊勝なことですね」

 甲高い声と共に現れたのはレヴィナスの生母であり、クロノワにとっては悪意と迫害の急先鋒であった皇后である。こちらの装いは凄まじい。花嫁よりも目立たないようにするのが礼儀のはずなのだが、彼女は主役を食わんばかりに己を飾り立てていた。その姿は確かに美しいのだが、ゴテゴテといくつもの宝石を身にまとっているせいか上品さは感じられず、ともすれば下品にさえ思われた。

 皇后の言葉の裏に隠された十分すぎる量の毒には気づかない振りをして、クロノワは彼女に微笑を向ける。このあたり修行の集大成といえるだろう。

「皇后陛下におかれてはご健勝なご様子でなりよりです。この後ご挨拶に伺おうと思っていたのですが、ご足労をおかけして申し訳ありません」
「別に貴方と話をしに来たわけではありません」

 こうも露骨に言われては、クロノワとしても苦笑するしかない。これ以上藪をつついて蛇ならぬ鬼女を出す前に、彼は一礼してその場を離れることにした。

「レヴィナス、まずは結婚おめでとう。わらわの手で花嫁を見つけて上げられなかったことは残念だけど、皇帝陛下をはじめ、皆良縁だと喜んでいますよ」

 クロノワがその場から消えると、皇后は先程までとは打って変わった猫なで声でレヴィナスに話しかけた。

「ありがとうございます、母上」

 レヴィナスは完璧な笑顔で母親に応じた。しかしその笑顔はどこか作り物じみていると、隣で見ているアーデルハイトには思われた。

(レヴィナス様はお母上が苦手なのかしら…………?)

 さすがに嫌いであるとは彼女も思わない。だが皇后の息子への熱の上げようを見ると、それを疎ましく思っていたとしても不思議ではないように思えた。

 そんなことを考えているアーデルハイトのことは、皇后にとっては完全に意識のそとであった。花嫁には目もくれず、彼女は息子との会話に没頭していく。

「皇帝陛下から祝いの品を預かってきています。後で改めて渡しますね」

 意外に思われるかもしれないが、結婚式を含めこの披露宴にもレヴィナスの父たる皇帝ベルトロワ・アルジャークは出席していない。その理由は至極単純で、座るべき席がないからだ。

 結婚式や披露宴の主役は当然新郎新婦である。よって彼らが最も高い席次となる。ところが皇帝や国王と言った存在は、出席する以上は常に最も上座に座らなければならず、そのため結婚式などでは席がないのだ。

「近いうちにもう一度帝都ケーヒンスブルグに凱旋すると良いでしょう。きっと陛下が盛大な式典を開いてくださいますよ」

 かん高い皇后の声は少し離れた場所にいるクロノワの耳にも届いていた。皇后の声を聞きながらも彼が考えていたのはアーデルハイト姫のことであった。

(笑っておられた、か…………)

 彼女にとってアルジャーク帝国は祖国を滅ぼした仇敵である。しかもレヴィナスはオムージュ遠征軍の総大将で、いうなれば直接の仇である。そのような相手に彼女は恨みの気持ちの一つも持たないのであろうか。

(とはいえ笑って見せるしかないのも事実だが………)

 一切の感情を排除し政治的な利点だけを追求するならば、アーデルハイト姫にとってアルジャーク帝国の皇太子との婚姻は理想的な選択肢であるといえる。現在においては旧オムージュ王家の血統を守ることができ、将来においてはアルジャーク帝国の皇后の地位が約束されている。

 こうやって考えてみれば、一時の憎悪に身を任せるよりもレヴィナスを受け入れ婚姻を結んだほうが、遥かに政治的には賢明であると言える。

(何もしない彼女に不義を感じてしまうのは、私がそういうあり方を望んでいるからかも知れませんね…………)

 亡国の姫君が征服者を成敗し祖国を回復する。どこぞの三流小説の題材にでもなりそうな話で、我ながら庶民嗜好だとクロノワは苦笑してしまった。

**********

「すごいですね…………」

 もう何度目かも解らない感嘆のため息をリリーゼは漏らした。
 披露宴の会場として使われているこの王宮の大広間は、ため息が出るほど壮麗に飾り立てられている。リリーゼのような反応を示しているものは他にも多々見受けられた。

「これってレヴィナス皇太子が取り仕切ってやらせたんですよね?」
「ええ、そういう話でしたね」

 今リリーゼの隣にいるのは、彼女の直接の上官に当たるフィリオ・マルキスである。彼らはクロノワの随行員としてこの場にいた。

 本来、クロノワが連れて行くつもりだったのは主席秘書官であるフィリオだけだったのだが、

「華々しい席に野郎二人で行くなんて寂しすぎます!」

 とフィリオが駄々をこねたため、急きょリリーゼにも声がかかったと言うわけだ。ちなみにグレイスに声がかからなかったのは、彼女を連れて行くとストラトス・シュメイルが仕事をサボって総督府の業務が滞るのでは、という懸念があったからである。総督たるクロノワが仕事を空ける以上、そのしわ寄せをもっとも受けるのは執務補佐官たるストラトスで、そんな彼に仕事をサボらせるわけにはいかないのだ。今頃は椅子に縛り付けられて仕事をしていることだろう。

「これはこれは、美しいお嬢さんですな」

 そういいながら近づいてきた男の年の頃は、三十半ばから四十の始めと言ったところだろうか。フィリオとリリーゼはこの男性と直接の面識はない。だが、前々から名前は知っていたし、他の招待客が彼の名を呼んでいたので、名前と顔は既に一致していた。

「ゲゼル・シャフト・カンタルク陛下………!」

 彼の治める国であるカンタルクが、南の位置する因縁の隣国ポルトールと現在戦争中であることは、フィリオとリリーゼも知っている。カンタルクはオムージュ領と国境を接しているから、結婚式に彼を招待するのは礼儀だが、状況を鑑みるに代理の大使が来るであろうというのが大方の予想であった。しかし、その予想を裏切って本人がこの場に来ている。

(つまり戦局はそれほどまでにカンタルク有利、ということでしょうか………?)

 フィリオはゲゼル・シャフトがこの場にいることの意味を何とかして洞察しようとする。そんな彼には目もくれず、ゲゼル・シャフトはリリーゼに次々と背中がむず痒くなるような賞賛の言葉を浴びせていた。リリーゼとしてもどう対応したらいいのか分からず、曖昧に笑っているしかない。とはいえ嬉しいよりも恥ずかしい、というのが彼女の内心の感想であった。

「ところでお嬢さん。私と一緒にカンタルクに来るつもりはないかな?」

 三分ほどの間、途切れることなく賞賛の言葉をリリーゼに浴びせ続けたゲゼル・シャフトは、唐突にそう切り出した。

「それは…………!」

 さすがにリリーゼでもその言葉の意味するところは分る。すなわち、「自分の後宮に入るつもりはないか」と言うことである。

 この時代、女性にとって王者の後宮に入ることは、一つ究極の目的であるといえる。そこに入ってしまえば贅の限りを尽くした生活が保障され、寵を受けるようになれば一国の命運すら左右する立場を得ることになる。

 とはいえ、リリーゼはこの申し出になんら魅力を感じなかった。彼女が求めているのは豪勢な籠に入れられた小鳥の生き方ではない。大空を自由自在に飛び回る隼のような生き方をしたいのだ。もしかしたら彼女には鋭い爪も嘴もないのかもしれない。しかしそれでもリリーゼはすでに籠から一歩外に出てしまったのだ。果てしなく続く大空を知ってしまったら、もう籠の中へは戻れない。

 だがしかし、相手は一国の王である。その申し出はどこまで本気かは分らないが、感情と願望に任せて断ってしまうには相手が悪い。答えるにも答えられず、内心で冷や汗を流していると、ありがたいことに助けが入った。

「困りますね、ゲゼル・シャフト陛下」
「クロノワ閣下………!」

 にこやかな笑みを浮かべながら近づいてきたのは、クロノワ・アルジャークその人であった。クロノワはそのままリリーゼに近づくと、おもむろに彼女の腰に手を回して軽く引き寄せた。

「え…………!」

 突然のことにリリーゼはドギマギして顔を赤くする。そんな彼女のことを、恐らくは意図的に無視して、クロノワはゲゼル・シャフトへと視線を向けた。

「彼女は私の大切な部下です。いかに陛下といえど、お渡しするわけには参りません」
「これはこれは。なるほど………」

 ゲゼル・シャフトはクロノワの言葉など聞いていなかった。クロノワもまた言葉で拒否の意思を伝えようなどとは思っていない。

「俺の女に手を出すな」

 と、つまりはそういうことだ。親しげな二人の様子は明らかに“男女の仲”があることを示唆している。もちろんクロノワがそう誤解させているだけなのだが。

「私の申し出は野暮だったようですな」

 もともとあまり本気ではなかったのか、ゲゼル・シャフトはあっさりと引き下がった。それではこれで、と背を向けてまた別の女性に声をかけに行く彼の姿を見ながら、クロノワはため息をついた。

「まったく、ゲゼル・シャフト陛下も困った方ですね」

 好色家として知られている彼であったが、このような席で露骨に女性を口説くとはおもっても見なかった。

「なんにせよ助かりましたよ、閣下。あやうくまた総督府の男性比率が上がるところでした」
 冗談めかしながらも安堵の表情を浮かべるのはフィリオだ。

「あ、あの…………!」

 顔を真っ赤にしたリリーゼが声を上げた。クロノワが回した腕は彼女の腰を抱いており、いまだに二人の体は密着している。薄いドレスの生地を通して感じる熱が、リリーゼの鼓動を速くする。

「ああ、これは失礼」

 そう言ってクロノワはリリーゼを放した。こちらはどこまでも平然としており、焦った様子など微塵もない。顔を赤くして動揺しまくっているリリーゼとはどこまでも対照的で、それがさらに彼女を気恥ずかしくした。

「………かっかのばかぁ~………」
 男二人には聞こえないように、リリーゼは小さく不満を漏らした。

「それにしても…………」

 そんなリリーゼの様子を、恐らくは意図的に無視して、クロノワは披露宴の招待客を見渡した。

「聖職者の姿が目立ちますね…………」
 確かに、大広間にはロザリオを下げた聖職者の姿が多数見受けられる。

「アレですよ、閣下。今、オムージュの貴族のところには聖職者がよく転がり込んでいるそうですよ」

 一家に一人どころか二人三人という所もあるという。転がり込んだ先で何をしているかといえば、美食を貪り美酒をあおり美女と戯れていると聞く。

「うわ…………」
 羞恥心から回復したリリーゼが呆れた声を上げる。

「誤解のないように言っておきますが、彼らの生活スタイルは今に始まったものではありませんよ」

 貴族の下に転がり込んで遊び始めたわけではない。彼らはもともとそういう生活を送っていたのだ。

 聖銀(ミスリル)の売却益で教会が年間活動予算のおよそ三割を得ていた、という話は前にした。この三割、細かい事情を四捨五入し多少の独断と偏見を混ぜて断定するならば、豪遊費であった。教会という、国土と国民を持たない組織だからこそ、こういうありえないお金の使い方ができたのだ。

 聖銀(ミスリル)がもたらす潤沢な収入が、聖職者たちの一般にはありえないその豪遊の生活を可能としていたのだが、その製法がどこからか流出してしまい、それどころか短期間のうちに大陸中に広まってしまった。当然聖銀(ミスリル)の値は下がり、教会は年間活動予算のおよそ三割という巨額の収入を失った。

 しかし失った分は言ってしまえば遊ぶ金である。豪遊さえ止めてしまえば何の問題もない。ないはずであった。

「止められるわけがありませんよ。長い間そうやってきて、染み付いているのならなおのことです」

 そして豪遊費を失った聖職者たちが遊び続けるために取った行動が、「貴族の下に転がり込む」という選択だったわけだ。

 貴族の側にしてみても聖職者を庇護していると言うのは体面にいい。「司祭さまがご入用である」というのは増税をするのにもっともらしい理由に思える。

 なんとも欲にまみれた結びつきであるが、それだけに強固であるともいえる。皇太子の結婚式披露宴にまでしゃしゃり出てくるのだから、相当なものだろう。

「忙しくなりそうな予感がしますね………」

 ただでさえレヴィナスが建築計画の促進のために増税し、さらにはその増税分を過去にさかのぼって適用しているのだ。つまりオムージュ領の民は増税分と、過去の未納分を収めなければならない。さらにそこに聖職者の豪遊費まで負担させられては、とうてい払いきれるものではない。

「流民対策を考えておく必要がおりますね」
 フィリオもクロノワの予測を肯定した。

 ため息しか出ないほど壮麗に飾り付けられた大広間。しかしその裏で支えているのが民の血税だと思うと、その神々しさはどうしても翳って見えてしまうのだった。




[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:50
アルジャーク帝国皇太子レヴィナス・アルジャークと旧オムージュ王国王女アーデルハイト姫の婚礼が終わり少し経ったころ、ポルトールでも事態は急速に動き始めていた。

 ラディアント公をはじめとする軍閥貴族の面々が、王都アムネスティアからそれぞれの領地へと一斉に帰還を始めたということは、すぐにアポストル公ら文官貴族たちにも知れ渡った。

 この行動が意味するものはただ一つである。

 すなわち、ラディアント公が武力をもってアポストル公を排除することを決めた、ということだ。

 領地へと下るラディアント公らの背後を襲うという案もあったのだが、現状まともな戦力はランスローが連れてきた騎兵二千しかない。下手に手を出せば逆襲があるかも知れず、この戦力を自分たちの護衛から外すことに、文官貴族たちは消極的だった。

 ここに至り、ついに内戦は避けがたい現実のものとなったのである。

 歴史書を紐解けば、この時二人の公爵が掲げた大義名分を知ることができる。

 ラディアント公は、「国事を差し置いて私利私欲のために国を売らんとする逆賊コステアを討つ」といって自らの正当性を主張した。

 これに対しアポストル公は、「正当なる王統を守るために忠臣としてやむなく兵を起こす」と主張した。

 どちらの言い分が正しいかは内戦が終わった後に決まるだろう。正しいほうが勝つのではない。勝ったほうが正しいことになるのだ。

 内戦が避けられなくなったこの事態に際し、アポストル公も自身の派閥の貴族たちに、自分の領地に戻って兵を組織するよう命じた。当然ランスローも領地から残りの兵を連れてくるように言われたのだが、彼はそれを断った。

「ティルニア領から兵を動かしたところで所詮は孤軍。王都に着く前に袋叩きにあって全滅するのがオチです」

 ティルニア伯爵家はもともと軍閥貴族であるから、その領地は派閥の他の貴族とは異なり国の南部にある。当然回りは敵だらけで、領地から軍を出そうとすれば袋叩きにあうのは目に見えている。

「それよりも、領地に兵を残しておけば、ラディアント公もそれを警戒し兵を残さなければなりません」

 そうなれば王都近くで決戦する際のラディアント公の兵力を減らすことができる。むざむざと兵を全滅させるよりは、よほど賢い選択と言えるだろう。

「フン!」
 と不満そうに鼻をならしてアポストル公はランスローの言葉を受け入れた。

 ランスローは父であるアポストル公に先のように説明したのだが、彼個人の思惑は若干異なる。もし領地から兵を連れてきてしまえば、領地そのものが、ひいては妻のカルティエが無防備となってしまう。十分な戦力がいなければ領地の蹂躙は容易かつ迅速になされてしまい、そのときにカルティエがどのような目に遭うのかなど想像したくもない。彼女の身を守るためにも、残してきた領軍を動かしたくはなかった。

 とはいえやはり賭けの部分もある。領地に軍を残しておけばラディアント公はそれを警戒するだろう。警戒して押さえに兵を残していくくらいならよい。だが、後背の憂いを絶つために全力でティルニア領を落としにかかる可能性も十分にある。

(だがラディアント公の目的は父上のはずだ…………!)

 だからラディアント公は余計な道草などせず、真っ直ぐに王都アムネスティアを目指してくる可能性のほうが高い。高いが十割ではない。ゆえにランスローはやきもきさせられるのだ。

 さて、忘れてはならないのがカンタルク軍である。
 カンタルク軍はブレントーダ砦から動いていない。ただ交渉等で使者のやり取りはしているし、斥候の報告では砦近くのポルトール領内で連日五万人以上を動かす大規模な演習を行い、こちらを威圧してくれている。

 これから始まる内戦は、内戦であるからポルトールの勢力同士が戦うわけである。しかし現実問題としてカンタルク軍という第三勢力が存在している以上、これを無視することなどできない。しかも厄介なことに、この第三勢力が最も戦力を持っているのである。考えれば考えるほどこの状況で内戦を戦うことは無意味どころか有害でしかなく、ランスローの気分は加速度的に沈んでいく。

 しかしアポストル公の考えは違う。彼はこの状況だからこそ内戦を戦う意味があると思っていた。

 三つの勢力の戦力数を単純に比べてみると、アポストル公の派閥十万、ラディアント公の派閥十二万、カンタルク軍十八万となっている。ただアポストル公とラディアント公について言えば、これは最大限に動員できる人数であるから、今回の内戦で動くのは恐らく多くても半分程度だろう。時が最大の要であることも重々承知しているだろうし。

 さて、こうして比べてみるとアポストル公が如何に不利な状態かよくわかる。軍閥貴族を束ねるラディアント公に対して、第一に兵の数で及ばず、第二に兵の質で及ばず、第三に指揮官の質で及ばない。かろうじて兵と指揮官の質で並びうるとすれば、ランスローが鍛えてきたティルニア軍だけだろう。

 だからこそ、是が非でもカンタルク軍を引き込む必要があるのだ。
 今カンタルク軍は単純な戦力でも頭三つ分くらいはずば抜けている。さらに総司令官はかのウォーゲン・グリフォードである。指揮能力は申し分ないし、その隷下にいる兵は精鋭ぞろいだろう。

 単純な話、今回の内戦はカンタルク軍を味方にしなければ勝てない。ラディアント公もカンタルク軍を味方に引き込むべく画策していると思うが、彼の場合カンタルク軍は最悪敵対しなければそれでよく、アポストル公より状況は切迫していない。

「カンタルクはマルト王子に、我々に交渉を申し込んできたのだ。大丈夫、カンタルク軍は我々の味方だ………」

 アポストル公の憶測はある程度の説得力をもっている。しかし楽観が過ぎるようにランスローには思えた。

 カンタルク軍がどちらの味方をするかは、結局のところウォーゲン・グリフォードの胸一つである。勝敗を左右する要素が不確定要素であるとは、一体どんな神頼みの状態なのだろう?

(結局カンタルク軍の一人勝ちではないか…………!)

 内戦に干渉するにせよ、傍観するにせよ、はたまた独自行動をとるにせよ、一番美味しいところを持っていくのはカンタルク軍であるに間違いない。

(ええい、ままよ…………!)

 こうなってはランスローとしても個人の利益を追求するしかない。彼にとって最大の利益とはすなわちティルニア領を、ひいてはカルティエを守ることであり、そのためにはこの内戦、アポストル公に勝ってもらわねばならない。

(これ以上カンタルク軍について考えても仕方がない)

 カンタルク軍が最大の懸案事項であることは間違いないが、かといって打てる手も限られている。せいぜい援助をもとめる書状を出すくらいだ

(それよりも考えるべきは………)
 それよりも考えるべきは、派閥に属さない中立の勢力だろう。

 この場合魔導士部隊は考えなくとも良い。この部隊はブレントーダ砦で壊滅的被害を受け、現在再建の真最中だ。そもそもカンタルクと同じくここポルトールでも魔導士という劇薬は国家によって管理されており、アポストル公にしろラディアント公にしろ、手持ちの魔導士は少ない。精々護衛につけるのが精一杯だ。注意が必要なのは、王都近衛軍である。

 王都近衛軍はポルトールにおける最精鋭部隊であり、国王の直接の指揮下にある。兵力は三万で、王都アムネスティアに通じる三つの街道に置かれた関所の管理と、戦場における国王の護衛が主な任務である。

 この王都近衛軍は得がたいものを二つ持っている。

 一つは単純な戦力である。最精鋭部隊三万が丸ごと味方に加わってくれれば、カンタルク軍を当てにせずとも、おそらく戦力は拮抗できる。

 そしてもう一つが王都近衛軍の管理している関所である。関所と言うよりはちょっとした砦を想像してもらったほうが近い。この“砦”は王都を中心にして北、南西、東に配置されており、ラディアント公の軍が王都を目指す場合には南西の関所を通ると思われる。もしここに篭って戦うことができれば、戦力差を多少なりとも埋めることが可能だ。

 自前の戦力に不安があるアポストル公はこの二つを手に入れるべく、王都近衛軍を味方に引き込もうと様々に画策したのだが、すべて徒労に終わった。

「王都近衛軍は国王陛下の直属部隊。陛下を別にしては何者からも命令を受けはしない」

 王都近衛軍司令官エルトラド・フォン・ジッツェール伯爵はそう言って、アポストル公からの使者を追い返した。

「あの石頭め………!」
 その時のことを思い出してアポストル公は苦々しく呻き、机を拳で叩いた。

「…………エルトラド伯の説得ですが、私がやってみましょうか?」
「お前が………?」

 ランスローの申し出に、アポストル公は怪訝そうに眉をひそめた。彼はこれまで事態に積極的に関わろうとしてこなかったため、不審に感じている部分もあるのだろう。

「この戦いに負けて困るのは私も同じです」
 半ば投げやり気味にそういうと、アポストル公はひとまず納得した様子だった。

「ふん。このまま何もせずいるよりはいいだろう」
 少しばかり毒気の含まれた言葉に、ランスローは頭を下げた。

(さて、私は私のために少しでも勝率を上げるとするか…………)
 他の誰でもない自分のために。そしてひいては愛する妻のために。





***********





「今度は貴方ですか、ランスロー子爵」

 半ばうんざりした様子で、王都近衛軍司令官エルトラド・フォン・ジッツェール伯爵はランスローを迎えた。

「何度来られようとも、私の返答は変わりませんぞ」
「まあそう言わず、話だけでも聞いていただけませんか」

 そう言うと、エルトラドはランスローを執務室に迎え入れた。部屋のソファーに向かい合って座るやいなや、まず口を開いたのはエルトラド伯の方であった。

「ランスロー子爵、貴方は派閥抗争の中にあっても比較的まともであると聞いておる。ならば分っているはずだ。今この状況で内戦を戦うことの愚かしさが」

 私よりも先にお父上を、アポストル公を説得するのが先のはず、とエルトラド伯は説く。その言葉が正しいことはランスローも重々承知している。そして同じくらい無意味だと言うことも。

「………残念ですが、私が言ったところで父は聞かないでしょう」
「………でしたら、これ以上お話しすることは何もありませんな………」

 王都近衛軍は国王陛下の、ひいてはポルトール王国の剣。内戦などに使うべきものではないし、使うつもりもない。内戦が避けられないのであれば、むしろ積極的に温存しておかなければならない。そういってエルトラド伯は自分の決意を語った。

 王都近衛軍がそうであるように、エルトラド伯個人も派閥抗争に関しては中立を守ってきた。彼は中立貴族の中では力のある貴族で、それゆえに先王ザルゼス陛下からも頼りにされていたと聞く。そんな彼だからこそ、敬愛する主君の後継を争う内戦は見るに耐えないものなのだろう。

「お引取りを願いたい」

 硬い声に拒絶の意思を乗せてエルトラド伯は言った。だが、ランスローとしてはここで引き下がるわけにはいかない。この内戦がいかに馬鹿馬鹿しいものであろうとも、彼としては勝たねばならず、そのための努力をすると決めたのだから。

「確かに内戦に王都近衛軍を使うのは馬鹿げています。それは私も同じ考えです」
 ランスローがそういうと、予想していなかったのかエルトラド伯は眉をひそめた。

「ですが、相手がカンタルク軍であったらどうでしょう?」
「カンタルク軍、ですか………」

 アポストル公とラディアント公は二人ともカンタルク軍に助力を願い出ている。その内容は、若干は異なるかもしれないがおおよそ同じはずだ。しかしカンタルク軍がそのどちらか一方を必ず受け入れる、という保証はない。二人の公爵が内輪もめをしている間に、ポルトール国内で無法を働く可能性だって十分にある。

「王都近衛軍司令官殿には、アシュタドの門に近衛軍全軍を集め、カンタルク軍に対処していただきたい」

 アシュタドの門とは王都近衛軍が管理している三つの関所の一つで、北の街道に置かれている。ちなみに東の街道に置かれている関所はツェボルの門といい、南西の街道に置かれている関所はゼガンの門という。

 ちなみにこれは命令ではない。王都近衛軍司令官に命令できるのは国王唯一人である。しかし要請することならばできるし、国王不在の今、その要請を受け入れるかはエルトラド伯の胸一つである。

 ランスローの申し出を聞いたエルトラド伯は眉間に寄せたシワをさらに深くした。
 王都近衛軍は確かに精鋭ぞろいである。しかしその戦力は三万。カンタルク軍十八万に対処するにはどう考えても少なすぎる。それが解らないランスロー子爵ではあるまい。

 エルトラド伯はランスローの言葉をもう一度思い出し、その裏にある意図を探った。そして彼が出した結論は、

「…………ゼガンの門を明け渡せ、いや不法占拠を黙認しろ、ということですかな」

 その答えに、ランスローは満面の笑みを浮かべた。無論、業務用であったが。

 王都近衛軍がアシュタドの門に全軍を集めれば、当然残り二つの門は空になる。空になったその門を失敬させていただこうと、ランスローは考えたのだ。これならば欲しいものの一つは手に入る。

「この辺りが良い落とし処だと、そうは思われませんか?」
「いや、しかし………」

 渋るエルトラド伯に、ランスローは言葉を続けた。

「このまま王都近衛軍がゼガンの門に残っていれば、父は攻撃を仕掛けてでも門を奪うでしょう」
「………私を脅すおつもりか………!」

 だがその可能性が高いことはエルトラド伯も承知している。野戦をおこなうとなれば、アポストル公はラディアント公に及ばない。となれば篭るための拠点がどうしても必要になる。協力してもらえないのなら力ずくで、とそう考えるようになるだろう。

「それにゼガンの門に篭らないとすれば、王都に篭ることになります」

 そうすると今度は街道を北上してくるラディアント公が、王都近衛軍がアポストル公に味方していると考えて、門に攻撃を仕掛けるかもしれない。そうでなくとも王都攻略の拠点として門を欲するかもしれない。

「………門を開いておけば、そのようなことにはならないでしょう………」

 エルトラド伯の口調は弱い。そのことに同情を覚えながらもランスローはさらにたたみ掛ける。

「ですが、それでは王都アムネスティアが戦場になってしまいます」

 そうなれば王都近衛軍の存在価値はどこにあるのか。そう言うとエルトラド伯は苦々しく顔を歪ませた。

 部屋の中を、しばしの間沈黙が支配する。その沈黙は重く、エルトラド伯の心の葛藤の深さを思わせた。

 ランスローもまた何も言わない。言うべきことはすでに言った。後はエルトラド伯の出方次第だ。

「………分りました。王都近衛軍は全軍をアシュタドの門に集め、カンタルク軍に対処することにしましょう」

 ただし!とエルトラド伯は強い調子で続けた。

「王都近衛軍はツェボルの門とゼダンの門の管理権を放棄するわけではない。あくまでも一時的に空になるだけのことですぞ」

 貸すわけではない、状況ゆえに不法占拠を見逃すだけだ、ということだ。その建前がなければ、王都近衛軍がアポストル公に味方したと思われてしまう。ランスローの見積もりどおり、この辺りが最大の妥協点だろう。

「それで十分です、エルトラド伯。ご理解に感謝いたします」

 恭しくランスローは頭を下げた。これでラディアント公に対してなんとか五分々々の戦いをすることができるだろう。そんな彼にエルトラド伯は苦笑する。

「さて、何に対する感謝ですかな」
「それはもちろん、“カンタルク軍の押さえ役を買って出て下さったこと”に対して、ですよ」

 満面の笑みを浮かべてランスローはそういった。今度の笑顔は業務用ではなかった。

**********

「こうも上手くいくとは思わんかったな…………」

 机の上に並べられた二通の書状を前にして、ウォーゲン・グリフォードは苦笑をもらした。並べられた書状の差出人はアポストル公とラディアント公である。そしてその内容はまったくと言っていいほど同じで、つまるところが、

「自分たちに味方してくれ」

 ということであった。ただ二通の手紙には温度差がある。アポストル公の手紙からは必死さが窺えるのに対し、ラディアント公からの手紙は、敵対はしないで欲しいといった程度に抑えられていた。その温度差がそのまま二人の公爵の戦力差を表しているようで、ウォーゲンとしては苦笑するしかない。

「儂らが敵で侵略者であると、忘れておるのではないかな」

 国家の末期症状を示す言葉として、こんなものがある。
「派閥抗争は癌のようである。彼らは外の敵よりも内の味方を憎む」

 まさに今のアポストル公とラディアント公の状況に当てはまるだろう。カンタルク軍という外敵を抱えているこの状態だ。いくらカンタルク軍がブレントーダ砦から動かずいまだ領地に実質的な被害が出ていないとはいえ、そのような状況で内戦を戦うことを決意するなど、利害関係を超えた憎悪がなければ決断できるものではない。しかもその外敵と手を結ぼうとしているのだがから、もはや救いようがないと言っていい。

「さて、決戦(パーティー)の招待状をもらったのに出向かないのは無作法じゃろうな」

 ウォーゲンはニヤリと壮絶な笑みを浮かべてそういった。それを側で聞いていた三人の副官は一様に緊張で体を硬くした。

「………出陣、なされるのですね?」

 モイジュの口調は疑問ではなく確認だ。その言葉には隠しようのない熱がこもっている。彼もまた間違いなく戦士だ。

「ウィクリフ、ひよっこ共の様子はどうじゃ」
「十分実践に耐えうるかと。もちろん元々の精鋭の代わりにはなりませんが」

 ウィクリフの言葉にウォーゲンは頷いた。彼自身、新兵五万の調練を何度か視察し、その動きがさま(・・)になってきていることを確認している。

「二日で準備を整えよ。それが済み次第、出陣する」
「二日、ですか………?準備は一日もあれば可能ですが………」

 アズリアが怪訝そうにそう言った。もとより今は遠征中。兵士各員は大将軍の声がいつかかってもいいように常に準備をしている。余裕をもって見積もったとしても、準備に二日もかからない。

「主役は遅れて到着するものじゃ」

 その言葉で副官三人はウォーゲンの真意に気づいた。どちらに味方するにせよ、彼は二人の公爵を争わせ戦力を消耗させるつもりなのだ。

「それで、どちらに味方なさるおつもりなのですか?」
 ウィクリフが三人を代表する形で最大の懸案事項を尋ねた。

「そうじゃな、弱いほうに味方すれば大きな恩を売れるじゃろうが、強いほうに味方して確実に勝つというのも捨てがたい」

 両方まとめて叩き潰すのもいいのぅ、まるでレストランでメニューを選ぶかのような気楽さで、ウォーゲンは答えた。

「………つまり、まだ決めておられないと?」
「ま、道すがらゆるりと考えるとするかのぅ」

 悪戯めかしてウォーゲンはそういった。彼が本当にまだ決めていないのか、三人の副官は互いに目配せしつつ考えたが、老将の言葉や表情からその心中を察するには、彼らはまだまだケツが青い。




[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:52
アポストル公は派閥の軍を率いてゼガンの門に陣を張った。

 余談であるがここから先、アポストル公の派閥の軍を「アポストル軍」、ラディアント公の派閥の軍を「ラディアント軍」とそれぞれ呼称する。

 五日前の情報によると、カンタルク軍はゆっくりと南下しているらしい。今のところ略奪などの無法を働いている様子はないという。彼らにしてみれば、そんなことをしなくとも戦利品は約束されているようなものなのだろう。

(だとすれば我々は彼らに貢物を送る僕といったところか………)

 笑えない役回りだ、とランスローは苦笑した。しかも現状その役回りから逃れられそうにないのだからもっと笑えない。

 アポストル軍とラディアント軍の戦端はすでに開かれてしまった。
 ラディアント軍が街道に現れたのは、昨日の夕方のことであった。既に斥候を放ち状況を承知していたのか、ラディアント軍は躊躇なくゼガンの門に攻撃を仕掛けた。

 ランスローも連れてきた騎兵二千騎を率いて戦った。戦況は終止ラディアント軍有利であったが、街道を急いで駆け上ってきた疲れのせいか夜が来ると軍を引き、今は遠目でかろうじて見える程度の距離に陣を張っている。

 城壁の上からランスローが見下ろすと、昨日の戦いで死んだ兵士たちの遺体がそのまま捨て置かれている。完全武装の兵士や馬に踏まれたせいか、もはや人の形を保っていないもの多々見受けられた。

(いずれ必ず埋葬する)
 敵味方関係なく、とランスローは心に誓った。

 ラディアント軍の士気は高い。彼らにしてみればカンタルク軍が来ようが来なかろうが、ここを落とせば勝ちなのだ。いや、カンタルク軍が来て余計な横槍を入れられる前に落としてしまいたい、というのがラディアント公の胸のうちだろう。嫌でも気合が入る。

 加えて、ラディアント軍の陣頭にはラザール王子が立っている。実際に戦うことはないだろうが、それでも甲冑を身にまとって戦場に立ち命をかけて見せることで、敵兵の士気が上がっている。

 対照的に兵の士気がなかなか上がらないのがアポストル軍だった。このゼガンの門がなければ、とうに瓦解していてもおかしくない。アポストル公は、「カンタルク軍が必ずや援軍に来る!」と言って兵士たちを鼓舞しようとしていたが、多くのものは半信半疑、いや信じていない者のほうが多いだろう。昨日の今日、いや今この瞬間でさえ“因縁の敵国”であるカンタルクをそうそう信じられるものではない。当然だ。

 ランスロー自身の士気も上がりきらない。
 本来籠城とは援軍を期待して行うものだ。しかしこの場合、待ち望むべき“援軍”が本来侵略者であるはずのカンタルク軍であるというのは、どういう冗談だろう?しかも本当に援護に来てくれるか、それさえも分らないのだ。待ちに待ったカンタルク軍が敵として現れたとき、自分たちに残されているのは神々を呪う権利だけだ。

(いかんな、指揮官たるものが自分の士気に左右されていては………)

 昨日、ランスローが率いたのは直属の騎兵二千騎だけであったが、今日からは門の外で戦う前線部隊全ての指揮を任されることになっている。

 理由は至極単純なものが二つある。
 一つは彼以外にまともに指揮をとれる者がいないこと。そしてもう一つは部隊指揮官に相当する文官貴族たちが最前線に出ることを嫌がったからだ。

「無駄飯ばかり食う役立たず共が!飯を食わぬ分死人のほうが役に立つ!!」
 ランスローの腹心であるイエルガは、事情を知ると大声でそう罵った。

「無能者にウロチョロされることなく、かえってやり易い」

 そう言ってランスローは彼をなだめた。ランスローとしても心中はイエルガと同じだが、かといっておおっぴら同意するわけにもいかない。だが言葉に毒が混じるのはどうしようもなかった。

(私は聖人君子ではない。かまうものか…………!)

 もとより聖人君子であれば派閥抗争になど関わるまい。ならば自分は俗物で、俗物であるならその辺りが限界だろうと、彼は開き直るのであった。

「ここにおられましたか、ランスロー様」

 声のしたほうに視線を向けてみると、イエルガが城壁を登ってくるところであった。ランスローが前線部隊全てを預かるに際し、彼にはティルニア軍の騎兵二千とさらに歩兵四千を率いてもらうことになっていた。歩兵四千は弱兵の中でも精鋭と呼べそうなものを集めてある。その役回りは遊撃隊で、恥ずかしい話しだが劣勢に陥っている箇所をひたすら援護して回ってもらうことになっていた。

「悪いがかなり本気で期待している」

 アポストル軍は弱くて脆い。一箇所崩れたのを皮切りに全軍が崩壊しないか、ランスローは危惧していた。そうならぬようにイエルガに全てを押し付けようというのだ。おそらく今日の戦い、最も負担が大きいのは彼の部隊だろう。

「大変なのはランスロー様もご一緒でしょう?練度の低い兵を率いて戦わねばならないのですから」

 二人は顔を見合わせて苦笑した。まったく、敵の強さに頭を悩ませるなら本望だが、味方の弱さに苦慮するというのはどうにもやりきれない。

「………もうすぐ日が昇りますな………」

 イエルガが東の空を眺めながら言った。日の出が狼煙の代わりとなるだろう。恐らく今日は一日中戦うことになる。

「さて、いくとするか」
 戦場へ。まさか指揮官が遅れるわけにはいかない。

 生き残れるのか、勝てるのか、それは神々のみが知っている。ランスローはそう思うことにした。

**********

 分っていたことではあるが、アポストル軍は劣勢だった。後ろにゼガンの門があるから崩壊せずに戦っているような状態だ。あの門を使えるようにした自分を褒めてやりたいとランスローは思った。

 イエルガの率いている部隊だけは敵と互角以上に戦って見せている。しかし、劣勢に立たされている部隊を助けるべく戦場を駆けずり回っているせいか、思うような戦果を上げられないでいる。

(とはいえ、そのおかげで戦線を維持しているような状態だが)

 とはいえ劣勢であることは間違いない。このままではジリ貧である。遅かれ早かれこのゼガンの門は落ちるだろう。その前にカンタルク軍が、しかも味方としてきてくれなければ、ランスローは二度とカルティエの顔を見ることはできないであろう。

(なかなかに厳しい条件だ………!)

 ラディアント軍の騎兵隊が突撃を仕掛けてくる。それを認めたランスローは、短く舌打ちをするとすぐに指示を出した。

「槍兵隊密集しろ!腰を落として盾を構えろ!槍を突き立てて騎兵の足を止めるぞ!」

 アポストル軍の兵士たちは不慣れな様子ながらも、ランスローの指示にしたがって動く。ただランスローとしては命令しなければならないことの多さに苛立っていた。さっきの指示にしてもきちんと訓練されていれば、

「槍兵隊、騎兵の足を止めろ!」

 と言うだけでいいのに、具体的な行動まで指示しなければ兵はどう動いていいのか分からないのだ。今回はランスローの指示が早かったおかげか、騎兵の突撃を許す前に隊列を整えることができた。

 整然と突き出された槍の壁に、敵騎兵隊の足が一瞬止まる。そこに城壁から一斉に矢の雨が降り注ぐ。これもランスローの指示だ。

 弓兵のほとんどが城壁の上に配置されている。理由は至極単純で、高いところから射たほうが遠くまで届くから。その弓兵たちにランスローは騎兵を、特に足を止めた騎兵を優先的に狙うように指示を出していた。その理由も単純で、騎兵は的がでかくて当てやすいからである。

 降り注ぐ矢の雨が敵騎兵隊に出血を強いる。矢が刺さり暴れた馬から落とされ、さらには味方に踏まれる敵兵が見えた。

「前進!押し返せ!!」

 ランスローが指示を飛ばすと、そのまま槍を構え密集した歩兵たちが前進し、敵騎兵を押し返していく。本来ならこのまま反転攻勢に出たいのだが、所詮これは局地戦、全体としてはいいようにやられている。まさかこの部隊だけ突出させるわけにもいかず、追い払うだけになる。

「深追いはするな!すぐに次が来るぞ!」

 今しがた得た小さな勝利はすぐに忘れ去り、ランスローは指揮に没頭する。次の敵部隊が整然と隊列を組み迫ってくる様子を、彼は鋭い目で見据えた。

**********

「よく粘るな」

 それがラディアント公の印象だった。正直なところ文官派閥の脆弱な軍など一戦すれば軽く破れると思っていたのだが、なかなかどうしてよく粘る。アポストル軍がゼガンの門に籠もっていたことは可能性としては考えていたし、斥候を放っていたおかげで早期に知ることができたため、驚きはしなかった。しかし、敵前線部隊のあの粘りは想定外だ。敵ながら天晴れ、というべきだろう。

「ランスロー子爵が陣頭指揮をとっているとか」
「ティルニア家に婿入りしたアポストル公の三男坊か」

 彼の名前は知っていた。しかし、王都で政治工作に走り回っていたのは義父のティルニア伯爵だったし、正直なところラディアント公の辞書の彼の項目にはアポストル公爵家の三男坊としか書かれていなかった。

「ふん。婿入り先で無駄飯を食っていた訳ではないということか」

 どうやらランスロー子爵の項目は書き直さねばならないようだ。しかし、この先さらに書きかえる必要はあるまい。なぜなら彼はここで死ぬのだから。

「どれだけ個人の能力が高かろうとも、率いているのは所詮は弱兵。ゼガンの門が落ちるのも時間の問題よ」

 それはランスローも感じていることであったし、もしこの戦いを他の用兵家が観戦していれば同じ判断を下すだろう。

「とはいえそう時間をかけてもおれぬか」

 これがただの内戦であればそれでもいいかもしれない。しかし今回に限っていえば、カンタルク軍が横槍を入れてくる前に終わらせる必要がある。

「予備戦力を投入するぞ。これで終わりにする」

 戦局は最終局面へと転がっていく。

**********

 ラディアント軍の温存されていた予備戦力が動き出したことを、ランスローはすぐに察知した。あれの突入を許すわけにはいかない。許した時点で敗北が決まると言っていい。ラディアント公もここで決めるつもりなのだろう。

 ランスローはすぐに決断を下した。こちらも残っている戦力を全てつぎ込む。

「弓隊、敵突出部隊に矢を集中しろ!!」

 さらに城壁からの援護射撃を動き出した敵部隊に集中させる。今まで援護射撃の笠を被っていたところが劣勢になるだろうが、こちらが優先だ。

「隊列を密にしろ!押し込まれるなよ!!」

 猛烈な勢いで敵が迫ってくる。その突撃を援護する矢の豪雨と迎撃しようとする矢の豪雨が交錯する。

「防げ!!」

 ランスローが指示するまでもなく、兵たちは盾を重ねるようにして降り注ぐ矢を防ぐ。

「迎撃、用意!!」

 矢の豪雨が一段落すると、ランスローはすかさず指示を飛ばす。敵の勢いは若干弱くなっているようにも思うが、まだまだ勢いがある。

 ――――激突。

「持ちこたえろぉぉぉぉぉおおお!!!」

 ランスロー自身も馬上で槍を振るい群がる雑兵を払いのけながら、檄を飛ばす。被害を出しながら、一歩二歩とじりじり押されながらも兵士たちはよく堪えてくれた。

 敵の圧力がだんだんと弱くなり、力が拮抗したその瞬間、

「弓隊、援護!!押し返せ!!」

 ランスローの命令とほぼ同時に城壁から矢が射掛けられる。その援護を笠に押し込まれていたアポストル軍は敵軍を押し返し、押し戻していく。さらに勢いがなくなった敵軍の側面をイエルガの率いる部隊が絶妙のタイミングで突いてくれ、なんとか一回目は防ぐことができた。

 だが防いだだけだ。イエルガにしても他の援護に回らなければならず、効果的に追撃を仕掛けることができない。

(ここは防いで見せたが他がボロボロだ………!)

 やはりというか、援護射撃がなくなったことで劣勢に立たされている箇所が幾つもある。さらに見れば今しがた退けたばかりの敵部隊が、既に隊列を組みなおし再び突撃を試みようとしている。

(ここまでか…………!?)
 諦めが、ランスローの頭をよぎる。

 彼は振れば兵が出てくる魔法の壷など持っていない。よってあの突撃を防ぐには他からも兵を集めなければならない。だがそうすれば別の箇所を破られてしまう。一箇所破られれば、それで終わりだ。

(すまない、カルティエ………!)
 ランスローが死を覚悟したその瞬間、

 ――――戦場が、ざわめいた。

**********

「はっはっは、弱兵を率いてアレを防ぐか」

 街道から少し離れたところにある小高い岡の上に、戦況を眺めて豪快に笑う一人の老将がいた。老人の名はウォーゲン・グリフォード。言わずと知れたカンタルクの大将軍である。

 実際、先程ラディアント軍が仕掛けた突撃は勢いも凄まじく、ウォーゲンもこれで決まるかと思った。しかしその予想は裏切られ、アポストル軍はなんとかしのいで見せた。遠目に認められるアポストル軍の前線指揮官はまだ若く、それがますますウォーゲンを愉快にさせる。

「ですが次はないでしょう」

 同じく戦いを観戦していたウォーゲンの副官の一人、モイジュが冷静にそう判断を下した。一回目の突撃を防ぐだけで被害を出しすぎている。また援護射撃を集中したため他の場所が劣勢に陥り、下手をすれば戦線全体が崩壊しそうな状況だ。

「さよう。ここらが頃合じゃろう」
「では動きますか」
 もう一人の副官、ウィクリフが尋ねる。

「そうじゃな、兵たちも暇を持て余しておる頃じゃろうし、そろそろ動くとするかの」

 ウォーゲンは顔を巡らせて背後を窺う。岡の陰になり街道からは死角になっているそこには、整然と隊列を整えたカンタルク軍十五万が堂々たる軍容を誇っていた。ちなみに残りの三万はブレントーダ砦に残してある。

 アポストル軍とラディアント軍に対し、カンタルク軍はそのどちらの側面をもつけるような位置にいる。街道を大きく迂回したのだ。

 実を言えばカンタルク軍は夜明けの少し後には既にここに到着していた。だがすぐには手を出さず、機が熟すのを待っていたのだ。そして今まさに機は熟した。

 ウォーゲンが腕を上げる。たったそれだけの動作で場が一気に緊張した。

「全軍出撃」

 腕が、振り下ろされた。

**********

 ――――戦場が、ざわめいた。

 街道から少し離れたところにある小高い岡を埋め尽くすように、甲冑を着込んだ大軍が突如として現れたのだ。どうやらその岡の裏に隠れて機を窺っていたらしい。
 その一団が掲げえる旗には翼を持つ獅子が描かれている。

「………カンタルク軍………」
 その呟きは、さて誰のものか。

 カンタルク軍は一瞬の停滞の後、猛然と動き始めた。津波の如くに岡を下り、そして、ラディアント軍に襲い掛かったのであった。

 カンタルク軍がラディアント軍を打ち払っていく様子を、ランスローは半ば以上放心しながら見ていた。

 だんだんと頭に血が巡るにつれ、音がよみがえり、臭いがよみがえり、痛覚がよみがえる。体中の傷が、これは現実であると伝えている。ランスローの胸のうちにふつふつと湧き上がるのは、勝ったという歓喜ではなく、生き残ったという安堵だった。

 ふらつきそうになる体を、馬上から槍を地面に突き立てて堪える。

「命を拾いましたな………」
 こちらも死を覚悟していたらしいイエルガが馬を寄せてくる。

「お互いに、な」

 ランスローがそういうと、二人はふいに笑ってしまった。無性に酒が飲みたい気分だった。

「何をしている!カンタルク軍と共に敵を駆逐しろ!!」

 振り返ると城壁の上からアポストル公が声を上げていた。他の貴族たちの姿も見える。勝利を聞きつけてはい出してきたらしい。

「勝ちが決まったとたんに元気なことだ」

 今まで必死に戦線を支えてきたランスローとしては苦笑するしかない。夢心地からいきなり現実に戻された気分だが、おかげで体に力が戻ってくる。

「さて、もう一仕事、だな」
「御意」

 槍を引き抜く。ランスローは部隊を纏めると、カンタルク軍の後を追い戦場に駆け出して行ったのであった。





[27166] 乱世を往く! 第五話 傾国の一撃 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/05/04 11:53
戦場に突如として現れたカンタルク軍はラディアント軍の側面を強襲し、最初の一突きで戦線を崩壊させ、二突き目で敗走させた。

 その後は一方的な展開である。もはやただの集団に成り下がったラディアント軍をカンタルク軍は日が暮れるまで追撃し続けた。ちなみにランスローもアポストル軍を率いてその追撃に加わっていたのだが、付いて行くだけで精一杯だったと言うから、その勢いたるや凄まじいものである。

 この戦いでラディアント公は派閥に属する貴族の当主三分の一と旗頭にしていたラザール王子を失った。ラディアント公自身は逃げ延びたようだが、この一戦でポルトールの趨勢は決まってしまった。

 ラザール王子の戦死については、アポストル公も複雑そうだった。敵対派閥に担がれていたとは言え、彼もまた王族であることに変わりはない。生きている間はむしろ邪魔でしかなったはずだが、死んでしまうとやはり臣下としては思うところがあるらしい。後日、国葬を執り行うと発表した。

 その後の動きは、呆れるくらいに速かった。
 戦いの次の日には、略式ではあったがマルト王子の戴冠式が行われ、マルト・ポルトール国王陛下が誕生した。お飾りの王であることについては十人中十人の意見が一致しており、実質的にアポストル公がこの国の実権を握ったのである。

 戴冠式のすぐ後、新国王の名前で勅令を出させ、宰相位についたアポストル公はすぐさまラディアント公の討伐命令を出した。もちろん彼の派閥の軍だけでは対処しきれないのは目に見えているため、討伐軍の中核をなすのはカンタルク軍である。身内の問題を片付けるのに因縁の敵国の力を当てにしなければならないとは、なんと情けない体たらくであろうか。

 ランスローも一軍を任されてこの討伐軍に参加したのだが、なによりも彼を驚かせたのはカンタルク軍を率いるウォーゲン・グリフォードの掌握能力であった。彼の命令は末端の兵士に至るまでもれなく伝えられ、そして実行されていく。組織としての差を見せ付けられ、ランスローとしては唸るしかない。

 またウォーゲンは進軍するに際し、一般住民に対する一切の暴行と略奪を禁じた。彼にしてみればここポルトールは敵国でしかなく、しかもその敵国の政治闘争に巻き込まれて戦っているような状況なのに、である。

「流血は戦場にとどめておかねばならぬ」
 ウォーゲンがポツリともらしたその言葉は、ランスローに深い感銘をあたえた。

「困ったことになった」

 ウォーゲン・グリフォードはポルトールを内戦に放り込んでくれた張本人である。それなのにランスローは彼を尊敬し始めている。やれやれ困ったことだと、ランスローはさして困っていない声でぼやいてみせるのだった。

 ただウォーゲンにしてみれば、単純に道徳的人道的な理由で略奪や暴行を禁じたわけではない。彼の最大の目的はポルトールを属国にすることであるから、属国化して長期的に富を搾り取るためには、ここで短気を起こして略奪や暴行を行い住民のカンタルクへの感情を悪化させるのは良くない、とそういう思惑がある。

 カンタルクにしてもポルトールは因縁の敵国であり、ウォーゲン個人もこの国に何度となく煮え湯を飲まされているのだ。そういう打算がなければ、理性的に行動するのは難しいのかもしれない。

 ただカンタルクと同じくここポルトールでも貴族の力が強く、一般の平民たちの扱いがよくないこともウォーゲンは知っている。平民の出から叩き上げで将になった身としては、そんな彼らにある種の仲間意識を感じてしまうこともまた確かであった。

 討伐自体は、さしたる問題もなく簡単に進んだ。

 ラディアント公はあのゼガンの門の戦いで戦力を失っている。よって領地に戻って再起を図ろうとしたのだが、いかんせん討伐軍の動きが速すぎた。まともに兵を集める前に攻め込まれ自決した。他の軍閥貴族にしても似たようなもので、ここにおいて軍閥貴族の派閥は名実共に消滅し、ポルトールにおける貴族の数は主観的にも客観的にも半減したのであった。

 ティルニア領は無事であった。ラディアント公はティルニア領に残っていた戦力を警戒して押さえの兵を置いていたが、領地に攻め入ることはなかった。なるべく多くの戦力を王都に連れて行きたいと思ったのだろう。

 ランスローは領地と妻カルティエの無事を確認すると、何も言わずただ大きく息を吐き出した。彼は領地には戻らず、そのまま軍閥貴族の討伐を続けた。このときカルティエの顔を見に戻らなかった理由を、後に彼はこう語っている。

「貴族として言えば、ポルトールの問題をカンタルク軍に任せておくわけにはいかなかった。個人として言えば、人殺しの顔を彼女に見られたくなかった」

 ラディアント公の、軍閥貴族の討伐は、さしたる被害もなく終わり、ここにポルトールの内戦は終結したのである。

 戦いが終わったのであれば、次は戦功表彰をしなければならない。ありがたいことに分け与えるべき土地は山ほどある。無論、もともとラディアント公の派閥に属していた貴族たちの領地である。

 意外なことにカンタルク軍は土地を一欠けらも要求してこなかった。その代わりにウォーゲンが求めてきたのは以下のことであった。

 十五州分の租税を毎年貢としてカンタルクに収めること。塩の関税の九割引き下げ。今回の遠征費の全額負担。さらにカンタルクから監査団を派遣し、今後ポルトールの政は彼らと協議した上で行うこと。

 事実上の属国扱いであった。アポストル公もそれは重々分かっていたが、今まで散々力を借りてきた以上、嫌とも言えない。頬を引きつらせながら了承した。

 カンタルク軍の次は自分の派閥の貴族たちに恩賞を与えなければならない。もっとも自分の土地を与えるわけではないし、アポストル公も大盤振る舞いするつもりでいた。ただ、何かにつけて考えてから行動しなければならないのが政の世界である。

 今回の戦いで最大の功労者は間違いなくランスローである。彼がゼガンの門を使えるようにし、さらに前線指揮を執ったおかげでアポストル軍は劣勢ながらもカンタルク軍が来るまで持ちこたえられたのだ。もっともカンタルク軍は早めに到着し、機を窺っていたわけであるが。

 最大の功労者がランスロー、というかティルニア伯爵家であるからといって、あまりに大きな恩賞を与えると、今度は身内びいきのそしりを受けかねない。アポストル公爵家の取り分はまた別にあるのだから。

 そんな感情問題に配慮しつつ、アポストル公がティルニア伯爵家に与えた恩賞は、国の最南部の「沿岸地方一帯、ただし塩田を除く」であった。これを知ったときランスローは「そう来たか」と苦笑をもらしたものである。

 沿岸地方一帯は複数の州にまたがっており、その面積を合計すれば二州強といったところである。面積だけを考えれば広大であるが、この恩賞で貰い過ぎだと感じる貴族はほとんどいないであろう。

 ポルトールの第一の敵国は、仮想するまでもなくカンタルクであり、そのカンタルクは内陸国であるから当然陸軍しかない。そうなると自然にポルトールも陸軍に力を入れるようになり、その結果海軍、ひいては海辺の開発自体が軽視されるようになった。つまりポルトールの沿岸部は大して発展していないのだ。

 塩田の管理は他の貴族たちが行うようだし、これでは本当に広い土地をもらっただけである。ただ広いことは間違いし、言ってみればポルトールの海を手に入れたようなものである。その点ティルニア伯はともかくランスローに不満はなかった。

「軍閥貴族が溜め込んでいた財産も分配されて、ちょうど開発資金が手に入った。いっそゼロから始められてやり易いさ」

 ランスローはすでに新しい領地の開発計画を考え始めている。それは反面、国政に関わりたくないという彼の願望の裏返しでもあった。

**********

 八月の暮れ、全ての仕事を終えたランスローはティルニア領に凱旋した。カルティエは屋敷の前で夫を出迎えたが、ランスローは彼女の異変にすぐに気がついた。

 ――――お腹が、大きくなっている。

「………カルティエ………、まさか………!」
「はい、ランスロー様。身籠りました」

 数瞬の衝撃の後、ランスローはカルティエを優しく抱き寄せた。

「よくやった………。よくやってくれた………!」

 父親となる喜びは深く大きく、そして真剣なものであった。内戦を止められず、あまつさえその舞台で一役買った身として、ランスローは言い様のない罪悪感にかられることがある。そんなときに聞いたこの知らせは、まるで天が慰めてくれているかのように、ランスローは感じるのであった。



 大陸暦一五六四年。この年、ランスロー・フォン・ティルニアは二つの宝を手に入れる。その一つ、海岸部の新たな領地が、後にアルジャーク帝国皇帝クロノワ・アルジャークと彼を結びつけることになるのを、このとき歴史はまだ知らない。





[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:12

変わることが唯一の成長だとは思わない
しかし停滞し続けることで成長が望めないのもまた確か
まずは一歩を踏み出してみることだ
でなければそれが前進なのか後退なのか
それさえも判らないのだから

**********

第六話 そして二人は岐路に立ち

 ゴクリ、とニーナは生唾を飲み込んだ。

 強く握り締めた両手はじっとりと汗をかき、少々気持ちが悪い。普段であれば手を洗いたいところだ。しかし、生憎ニーナはそんなことを考える余裕がないほど、ガチガチに緊張していた。

 そんなニーナの目の前で、イストが一つの魔道具を査定している。手のひらに乗るくらいの大きさの筒型の魔道具で、万華鏡を想像してもらえば一番近いかもしれない。魔道具の名は「鷹の目(ホーク・アイ)」。倍率を任意に変えることのできる望遠鏡型の魔道具で、イストがニーナに作らせていた練習用の魔道具である。

 ニーナがこの試験(・・)を受けるのはこれで三回目である。「三度目の正直」となるのか、はたまた「二度あることは三度ある」の運命を辿るのか、彼女としては気が気ではない。

 課題の魔道具である「鷹の目(ホーク・アイ)」の基本的な構造は、普通の望遠鏡とほとんど同じだ。主筒の両端にガラスのレンズが着いている。ただこれだけでは像が逆さまに写ってしまうし、またピントを合わせることができない。普通の望遠鏡であれば、“正位レンズ”と呼ばれるもので像を元に戻し、筒の長さを調節してピントを合わせるのだが、これを術式で行ってしまおうというのが「鷹の目(ホーク・アイ)」である。

 エプティアナの森を越えジェノダイト国内を旅している途中でニーナは課題のレポートをまとめ終わり、ついに刻印の作業を生まれて始めて行ったのである。

 本来ならばレンズとして用いているガラスに刻印を行うのが最もスマートなのだろうが、生憎とガラスは魔道具素材といては劣悪で、ニーナは小さな合成石を選んで術式を刻み核として筒に取り付ける方法を選んだ。

(最初の出来はひどかった………)

 何しろ像は逆さになっているどころか斜めに傾いているし、倍率はほとんど変化せず、さらに像は白黒になってしまった。核になっている合成石を取り外したほうがまだマシ、という有様である。当然査定は不合格で、師匠であるイストには爆笑されてしまった。

(いっそ笑われてよかったくらいだけど………)

 あそこで優しく慰められていたら、情けなくて泣いていたかもしれない。
 失敗した原因は誰に言われずとも判っている。刻印だ。

 術式の刻印、特に複数の術式を合成しながら行う刻印は、職人たちが言うとことの「バランスを取りながら」行う必要があるのだが、これがなかなか感覚的な作業で、他人に説明するのが難しい。いや、説明する意味がない。この作業をどんな感覚で行うかは個人差が大きく、例えばイストは「水が澱まないように流す感じ」というし、その師であるオーヴァ・ベルセリウスは「天秤をつりあわせる感じ」と言っている。つまり説明してみたところで、同じ感覚で作業することなど出来ないのだ。

 はじめて刻印の作業を行うにあたり、ニーナは師匠であるイストに助言を求めた。求めたのだがイストには「こればっかりは一度やってみるしかない」と言われた。イストにしてみれば自分の感覚を説明してみたところで意味がないし、また妙な先入観を持ってやればかえって有害ですらあると考えたのだろう。

 かくしてニーナはなんの事前知識もなしに、そして緊張に体を硬くしてはじめての刻印作業に臨んだのだが、この作業の彼女の感じ方は、

「水がいっぱいに入ったコップを、零さないようにはこぶ感じ」

 だったという。もっともこの感じ方にしたって、作業が終わった後に冷静になって思い出したものである。刻印中は本当に手一杯でそこまで考える余裕がなかった。気がついたら終わっていて失敗した、そんな感じである。

 ちなみに失敗した一番最初の合成石は、自戒と記念の意味をこめてペンダントにし、今は首から下げている。

 今イストはニーナの作った「鷹の目(ホーク・アイ)」を接眼部から覗き込み、倍率と色彩を確かめている。倍率がどれ位あるかはもちろんだが、ものを見る魔道具である以上色彩が狂っていないかも重要になってくる。

「ふむ」

 査定が終わったのか、イストが一つ息をついた。それを聞いたニーナは両手を握り締め、なおいっそう緊張で体を硬くした。

「合格」

 その一言を聞いて勢いよく上げた頭に、放って返された「鷹の目(ホーク・アイ)」がぶつかる。痛いのを我慢してなんとかその筒状の魔道具を捕まえ、ぶつけた額を擦りながらニーナはイストのほうを見た。

「…………本当に?」
「じゃ不合格」
「え!?あ、いや………。ちょ、それは………!」

 合格の朗報があえなく幻と消え、ニーナは焦る。そのワタワタとした慌てっぷりを、イストはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて楽しんでいた。

「素直に喜べばいいんだよ」

 弟子が焦って慌てる様子を満足いくまで鑑賞した意地悪な師匠は、呆れたようにそういった。それでニーナも落ち着きを取り戻す。

「………師匠の場合、なにか裏があるんじゃないかって心配になるんですよ………」

 まだそう長い間、一緒に旅をしているわけではない。しかしその間にも、弟子という立場ゆえなのか、イジられたりからかわれたりすることがよくあった。この前のエプティアナの森で魔女の真似事をさせられたことなど、いい例だ。

 しかし、ニーナとてやられっ放しではない。ちゃんと学習しているのだ。

「そうかそうか、お前にそんなに無駄なことを考えてる暇があるとは知らなかったな。今後は修行に集中できるように、断腸の思いで不合格にしてやろう」

 ………功を奏しているとは言いがたいが。役者としてはまだまだイストのほうが一枚も二枚も上手であった。



*************




 エプティアの森を越えジェノダイトに入国したイストとニーナの師弟は、そのまま進路を西にとった。

 ジェノダイトの北には神聖四国が一国、「サンタ・ローゼン」がある。余談だが、神聖四国はそれぞれ国名に、「聖(サンタ)」の名を冠することを教会より許されている。この「聖(サンタ)」の名こそが神聖四国と教会の深い結びつきを内外に示すものであり、これによってこの四カ国は国力でも武力でもなく尊厳や敬意、簡単に言えばエルヴィヨン大陸中の信者から支持を得られると言う点で、他の国々と太い一線を画している。

「金銭や権利とかとは別の次元の話だからな。厄介だぞ、こういうのは」
 煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながらイストはそう評して見せたのだった。

 ジェノダイトには、このサンタ・ローゼンの国境付近に「トロテイア山地」がある。その麓にあるトロテイアの街に、今イストとニーナの師弟はいた。

 トロテイアの街は、その字面を眺めれば一目瞭然であるように、トロテイア山地からその名前を取っている。ジェノダイトにおいてこの街は国境付近のいわば「辺境の町」なのだが、トロテイア山地が教会の巡礼コースの一つとなっており、そのため多くの巡礼者が訪れにぎわいを見せていた。

 イストとニーナは魔導士ギルドの斡旋所にいた。斡旋所は別名「ギルド・ホーム」とも呼ばれ、ギルドのライセンスを持つ者に対し、ギルド・ホームに依頼された仕事を斡旋するのが主な業務である。ただ今日二人が斡旋所に来た目的は仕事を請け負い旅の資金を稼ぐことではない。大仰な言い方をすれば、情報収集をするためである。

 旅をする身であろうとも、いや旅をする身であればこそ情報は重要だ。例えばこれからいこうとしている国の情勢を知っておくだけでも、騒乱を避け身を守ることが出来る。もっともイストをはじめとする歴代のアバサ・ロットたちの場合、あえて混乱の渦中に飛び込むことが多々あるが。

「まあ、そう気を落とすな」

 張り出されている紙を見たり居合わせた人から話を聞いたりして、斡旋所で一通り情報を集め終えると、肩を落としているニーナにイストはそう声をかけた。今ニーナが知りたいのは故郷パートームの、ひいては父であるガノスのことだ。

 ポルトールとカンタルクの戦端が開かれたことは、ニーナも旅の中で聞いている。聞けばブレントーダ砦が落ち、シミオン第一王子が戦死したという。今のところ故郷であるパートームが戦火に巻き込まれたという話は聞かないが、祖国で待ってくれているただ一人の肉親の安否が、どうしても気になってしまう。比較的大きなこの街ならば、なにか情報が入っているかもしれないと期待していただけに、特に目新しい情報はなく空振りをくったニーナの落胆は大きい。

 ただ師であるイストはガノスの身の安全については楽観していた。

「ガノスさんは腕のいい職人だからな。最悪カンタルク軍に捕まったとしても、扱いは丁重だと思うぞ」

 腕のいい魔道具職人は一流の魔導士十人よりも価値がある。殺すなんてもってのほかだし、仕事が出来ないほどの傷を意図的に負わせるなどということも、まともな将であれば決してしない。それどころか可能な限りの好条件で味方に引き込み、魔道具を作らせようとするのが普通だ。だから工房はともかく、ガノス自身は五体満足でピンピンしているだろう、とイストは言った。

「はい………、そうだと、いいんですかど………」

 ニーナの言葉は弱い。師匠の言葉は正しいと理解はしているのだが、納得して受け入れることはなかなかできない。どれだけ頭で理解してみても、グルグルとしたこの気持ち悪い不安は消えてくれない。たぶん確実な情報にめぐり合うまでは、この不安は決して消えないだろう。

 それが分っているのか、イストはそれ以上何も言わなかった。孤児院の家族を皆殺しにされた経験を持つものとしては、今の彼女の不安は容易に想像できる。そして安っぽい慰めになんの意味もないことも。

「お茶をもらってくる。それを飲んで落ち着いたらいくとしますか」

 それだけ言うと、イストはさっさと行ってしまった。師匠の気遣いにニーナは感謝する。まったくあの師匠は普段の言動はとんでもないくせに、どうしてこういう気遣いができるのだろうか。

 しばらくしてイストはマグカップを二つ手にして戻ってきた。中に入っている紅茶は、蜂蜜でも入れたのかほんのりと甘い。今はその優しい甘さが心地よかった。甘い紅茶は体に染み渡り、変な力が抜けていく。

 紅茶を飲み終える頃になると、ニーナの不安も和らいだ。紅茶を飲んでなにか問題が解決したわけではないが、まあ、クッションが必要だった、ということだ。

「紅茶、おいしかったです」

 ごちそうさまでした、と呟きマグカップを机に置く。仕事の斡旋や依頼の受付をしているカウンターのほうから、多い声がしたのはその時であった。

「お願いします!何とかして見つけてください!」
「そう言われましても………」

 一人の学者風の男が、額をカウンターにこすり付けんばかりの勢いで、受付嬢に何かを懇願している。受付嬢のほうは若干引き気味だ。男の隣は腰に剣を挿した男がもう一人いる。がっちりとした体格で、もしかしたら護衛かもしれない。

「なんとか今日中に見つけないと遺跡の発掘計画に支障が出てしまう。お願いします、何とかしてください!!」
「………遺跡?」

 ピクリ、と“遺跡”という単語にイストが反応した。彼の趣味は遺跡巡りだ。

「ですが、古代文字(エンシェントスペル)の読める人物なんてそうそう………」
 いるわけがない、と受付嬢が言おうとしたそのとき、イストが話しに割り込んだ。

「いるよ」
 学者風の男とその護衛と思われる男そして受付嬢、三者六つの目がイストに集中した。

「読めるよ、古代文字(エンシェントスペル)」

 護衛風の男は感心したような驚いたような顔をしているし、受付嬢は厄介ごとから開放され喜んでいるように見える。そして学者風の男は、目を輝かせ歓喜を表現していた。

「君は………、本当に読めるのかい?古代文字(エンシェントスペル)が」
「ああ。だから詳しい話を聞かせてくれないか」

**********

「悪い、待たせたか」

 魔導士ギルドの斡旋所での一件があった次の日、トロテイアの街の北門前で考古学者とその護衛、シゼラ・ギダルティとジルド・レイドの二人組みを見つけると、イストは遅れたことを詫びた。

「いえ、我々もついさっき来たところですから」

 昨日は興奮してなかなか寝付けず今日も早く来てしまった、と話すシゼラに一同は苦笑する。四十近いおっさんのくせに妙に子どもっぽいところがある。

「じゃ、行きますか。途中までは巡礼道を通っていけばいいんだよな?」

 シゼラが頷くと、一行は歩き出した。考古学者で本来旅慣れしていないシゼラにペースをあわせているため、イストなどからすればのんびりと散歩をしているような感じだ。

 巡礼道は街の北門からトロテイア山地を通り、サンタ・ローゼンへと至る。シゼラたちが現在発掘を行っている遺跡は「ハーシェルド遺跡」といい、この巡礼道から外れて少し山地に分け入ったところにあるという。今からおよそ三五〇年ほど昔の遺跡なのだが、つい最近この遺跡の地下に新たな遺跡が見つかった。建築様式などが異なることから、もともとこの遺跡があった上にハーシェルド遺跡を造ったのではないかと、シゼラたちは考えていると言う。

 新たに見つかった遺跡(便宜上ハーシェルド地下遺跡と呼ぶ)は、建築様式などから考えると、どうやら千年近く昔の、しかも教会に関係する遺跡らしい。保存状態もほどほどに良く学者たちは喜んだのだが、すぐに一つの問題が出てきた。

「発掘された石版や、壁画なんかに使われている文字が全て古代文字(エンシェントスペル)なんですよ」
 昨日、ギルドの斡旋所で仕事の説明を求めたイストに対し、シゼラはそういった。

 千年前は古代文字(エンシェントスペル)が主流であったはずであるから、その文字が使われていることはなんら不自然ではない。が、古代文字(エンシェントスペル)は今現在まったくといっていいほど使われておらず、当然その解析ができる人間などそうはいない。

「それで昨日ギルド・ホームに頼みに行ったんですけど、即日中に見つけるのは難しいと言われて……。本当にイストさんたちがいてくれて助かりましたよ」

 古代文字(エンシェントスペル)が読める人と言うのは探せば見つかるであろう。しかし即日中というのは個人的な伝手でもない限りは無理だ。あの受付嬢も無理難題を吹っかけられてさぞかし迷惑したであろうと、イストは苦笑した。しかもシゼラはいたって本気で、しかも必死でさえあったから尚たちが悪い。

 しかし今回は幸運なことに、イストとニーナという古代文字(エンシェントスペル)が読める二人がその場に居合わせた。シゼラにとっても受付嬢にとっても、そして遺跡巡りが趣味のイストにとってもまことに幸運であったといえよう。師匠の趣味に付き合わされた弟子がどう思うっているかは分らないが。

 ちなみにニーナが持っているのは魔導士ギルドの準ライセンスであるが、これを持っている者はギルドの斡旋所が達成可能と判断した仕事のみ受けることができる。

 イストとニーナが請け負った仕事の内容は「遺跡の古代文字(エンシェントスペル)の解読」である。期間は一ヶ月で休みなし。報酬は一人3シク20ミル(金貨三枚と銀貨二十枚)で、三食付き。平均的な家庭の月収が3~5シクであることを考えると、高いのか安いのかは判断に迷う。ただイストが疑問に思ったのは別のことであった。

「随分金払いがいいな。気前のいいパトロンでもいるのか?」

 遺跡の発掘は学術的には価値があるが、そこから直接的に利益が出るかと言われれば多くの場合答えは「否」である。そのため国や貴族などは予算を出し渋り、発掘作業は少ないお金を切り詰め帳面と睨めっこしながら行うというのが普通である。しかしシゼラを金の使い方を見ていると、懐には幾分の余裕があるように見受けられた。

「ええ、ハーシェルド地下遺跡に興味を持ってくれた方がいまして、その方が資金を出して下さっているんです。ただ定期的に経過報告するように言われていて、昨日も斡旋所に行くついでに、その報告書を出してきたんですよ」
「てことは、そのパトロンはトロテイアの街にいるのか?」
「いえ、アルテンシア半島の方なので、届けてもらうんですよ」
「アルテンシア半島ねぇ……。どこの領主か豪商か知らないが、そんなことやってる暇あるのかねぇ………」

 アルテンシア半東は今、北西と南東で対極的な状態にある。シーヴァ・オズワルドが切り取った版図は安定を見せ始めているが、旧来の領主たちが治める領地では反乱が相次いでいると聞く。無論その混乱をシーヴァが見逃すわけもなく、当初の勢いはないものの彼は着実にその版図を増やしている。むしろ今のペースが常識的であるといったほうがいい。

「あ、ここで巡礼道を外れてこっちに行きます」

 さして高くもない山の中腹付近に来たとき、シゼラはそういって木々が生い茂る森を指差した。当然そこには道らしい道などない。しかも山地だけあって足元は斜面になっており、エプティアの森などと比べると歩きにくい。

「遺跡の近くは比較的平らなんですけどねぇ………」

 こればっかりは仕方がないとシゼラは苦笑した。この山道が一番堪えるのは、他ならぬ彼であろう。

「じゃあ、ジルドさん。よろしくお願いします」
「うむ」

 ジルドは短く返事をして、一行の先頭に立った。どうやらここからは彼が先導をするようだ。

「あの、一つ聞きたいんですけど………」
 ニーナが一番後ろから遠慮がちに声を上げた。

「ん?なんだい?」
「ジルドさんって魔導士ですよね」
「うむ。魔導士ギルドのライセンスを持っており、魔道具を所有していると言う意味ではその通りだ」

 ちなみにジルドが持っている魔道具は「不屈の魔剣」と呼ばれるものである。刻まれている術式は、魔剣の強度を上げ刃毀れなどを防ぐ「強化」と、切れ味を上げる「切断」である。「折れずに良く切れる」というのがうたい文句で、魔道具の中ではありふれた品物であり値段も安いが、それでも一般の剣と比べれば十倍以上の値段になる。

「それで、護衛の仕事を請け負ったんですよね………?」
「その通りだが………。どうかしたか?」

 ニーナが何を聞きたいのかいまいち分らず、ジルドも首を傾げる。

「なんで遺跡調査に護衛が必要なのかなって………」

 確かに「遺跡調査」と「護衛」と言う単語はなかなか結びつかない。あるいはハーシェルド地下遺跡には危険なトラップの類が仕掛けられているのだろうか。

「いや、警戒しているのは地竜のほうだ」
 答えたのはジルドだった。

「地竜!?竜ってあのおとぎ話の中の………?」
 火とか吐いたりするのだろうか?

「正式名称は『リザイアントオオトカゲ』。“地竜”は俗称だ」
 どうにも話しについていけていないニーナにイストが助け舟を出した。

 ――――リザイアントオオトカゲ。
 牛ほどの巨躯と鋭い牙そして爪を持つ、獰猛な肉食獣だ。その体は硬いうろこで三重に覆われ、普通の刃物では傷つけることさえできない。何より凶悪なのはその尾だ。体長ほどの長さのある尾の先は硬い鈍器のようになっている。リザイアントオオトカゲはこの尾を武器として使うのだが、その威力たるや凄まじく、馬の首を一撃でへし折ったという記録も残っている。

 当然のことながら普通の剣や槍などでは手を出すことができず、仮に討伐するとしたら魔導士が最低でも三人必要だと言われている。

「それじゃあ、ジルドさん一人で大丈夫なんですか………?」
「そうなんだけど、予算がね………」

 シゼラが決まり悪そうに頬をかいた。確かに地竜を討伐できるだけの戦力を雇うおうとしたら、決して安くない費用が掛かる。いくら金払いのいいパトロンがいるとはいえ、直接発掘調査に関係しない分野に予算をつぎ込むことはしたくなかったのだろう。もし雇っていれば、イストとニーナを雇う分の余裕はなかったかもしれない。

 一連の話を聞くと、ジルドは苦笑した。遠まわしにとはいえ「お前一人では不安だ」と言われたのだ。地竜に遭遇したことはないが、その獰猛さは聞き及んでいる。確信をこめて反論ができない以上、ジルドとしては苦笑するしかない。

「ああ!別にジルドさんの腕を信頼してないわけじゃないですよ!?」

 シゼラが慌ててフォローするが時すでに遅し、だろう。もっともジルドも大人でさして気にした様子でもなかったが。

「まあ、地竜の生息地域はトロテイア山地のもっと奥のほうだ。遺跡の近くまでやって来ることはほとんどないだろう」

 当のジルドにそう言われてしまい、シゼラはバツが悪そうに頬をかいた。やっぱりこの人は子どもっぽいところがある。

 ジルドは地竜対策に雇われたと言っていたが、山歩きの先導や大陸中に生息しているバロックベアなど、他の獣の対策もかねているのだろう。そういう意味では彼を雇ったのは正解であったといえるだろう。

(とはいえ………)

 とはいえ、地竜の住処に近づいていっていることは確かである。街にいたり巡礼道を歩いているよりも遭遇する確率は自然高くなる。

(どーすっかね、鉢合わせしたら………)

 現状、戦力として使えるのは護衛のジルドとイスト(自分)のみである。戦闘能力ゼロの弟子と考古学者は順当に除外される。「討伐には魔導士が最低でも三人必要」と言われている獰猛な野獣を狩るにはいささか心もとない。遺跡に到着すれば戦力は増えるのかもしれないが、不確定要素をアテにはできない。どうするか。

「ま、いっか」

 不確定要素をアテにしないというのであれば、そもそも確率が上がったとはいえ遭遇確率はまだ十分に低い地竜を警戒する必要はあるまい。

(鉢合わせしてから考えよう)

 そういうことに、なったらしい。





[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:14

 真っ先に異変に気がついたのは、先頭をいくジルド・レイドだった。

(静かすぎる……?)

 遺跡の発掘作業は騒音をともなうようなものではない。それでも人間が作業をする以上、そこには物音や話し声があってしかるべきだ。それが今は聞こえてこない。これまで何度か街に使いに行ったことがあったが、この距離でそれらしい音が何も聞こえてこないなんて事は一度もなかった。さらに意識をめぐらせてみれば、周りの森もひっそりと静まり返っている。

 ジルドの目が、スッと鋭くなる。

「おっさん、どうかしたか」

 ジルドの様子が変わったことに真っ先に気づいたのは、さすがというかイストだった。ジルドの様子に感化されたのか、彼のほうも周りを警戒するような素振りを見せている。このあたり、さすがに旅慣れしているといえるだろう。

「いや、静かすぎると思ってな。なにかあったのかもしれん」
「まさか地竜が………!?」

 シゼラが焦ったように声を上げる。仮に地竜に襲われれば、情熱はあっても腕力と戦闘能力がない発掘員たちはなす術がない。

「それは分らん。が、警戒しておいた方がいいだろう」

 冷静なジルドの言葉に一同は頷く。足音を立てないようにして遺跡に近づいていく。崩れた壁に沿うようにして移動し、遺跡内部の様子を窺っていく。

 そして、ソレはそこにいた。

「…………!」

 危うく悲鳴を上げそうになったニーナの口をイストの右手が塞いだ。さらに彼は左手の人差し指を唇に当てる。

「喋るな、静かに」

 という、万国に通じるジェスチャーだ。ニーナが頷くとイストは手を放し、さらに「姿勢を低くしろ」と身振りで指示する。それに従って崩れた壁の影に身を隠す。

 一息つき落ち着いてから改めて壁の影から様子を窺う。

「間違いないな。リザイアントオオトカゲ、地竜だ」

 ジルドが断定した。いや、はじめて見るニーナであってもそれ以外の回答など思いつかない。

 牛ほどの巨躯。鋭い爪と牙。全身を被ううろこはまるで金属のようで、太陽の光を反射し光っている。そして体長程もあるその長い尾。先っぽに着いた硬い鈍器のようなものは、その尾が立派な凶器であることを無言のうちに主張している。

 リザイアントオオトカゲ、地竜は用意しておいた食料を食らっているらしく、今はまだこちらに気づいた様子はない。

「血痕が見当たらない。発掘員はとりあえず無事なようだ」

 ジルドの言うとおり、テントの類は派手に倒されているが、血痕や死体を認めることはできない。最悪の事態にはまだ至っていないようだ。

「遺跡の中に逃げ込んだのかもしれないね」

 人影は見当たらないし、その可能性は高いだろう。発掘調査の仲間がともかく無事だとしり、シゼラは安堵の息をついた。

「とはいえそう楽観できる状況でもないな」
 イストが苦い口調で呟く。

「地竜、リザイアントオオトカゲは鼻が利く。あそこの食料を食い尽くした後、臭いを追って遺跡に入られた終わりだ」
「そんな………!あ、いや、でも食べ終わったら、そのまま立ち去ってくれるって事も………!」

 ほとんどすがる様にしてシゼラがその可能性を指摘する。

「それでもエサ場としてここを覚えられてしまえば同じこと。いや、その方がタチが悪いと言えるな」

 この遺跡をエサ場として認識されれば、地竜が頻繁にこの遺跡に来ることになる。その度に食料を食い荒らされていては、仕事にならない。いや、その前に危険すぎるということで発掘を撤収しなければならないだろう。

「殺す必要はない。だけど最低限、痛い思いをさせて追い払う必要があるな」

 イストがそう宣言した。しかしその口調はどうしようもなく苦い。やり切れるか、自信を持てない様子だ。

(赤唐辛子の粉末を使うか………?)

 以前、独立都市ヴェンツブルグの近くの森でバロックベアに襲われたときに使った赤唐辛子の粉末は、今もちゃんと用意してある。ただあの時は相手がバロックベアで、さらに暴れられても対処できる、倒せる自信があったから使ったのだ。

(今回の相手は地竜だぞ………?)

 追い払えず、かえって逆上し暴れまわるようなことになったら、対処しきれる自信がない。使うにはいささかリスクが高い。

「イスト、おぬしはどれくらい戦える?」

 イストが考えを巡らせているとジルドが声をかけて来た。彼の視線は鋭く地竜を睨みつけている。

「人並み以上だとは自負しているけどな」

 それを聞くとジルドは小さく頷いた。一瞬だけ視線をイストのほうに移したが、すぐに地竜のほうに戻す。

「得意な距離は?」
「………中・長距離、かな。接近戦はやりたくないね」

 少し考えてからイストは答えた。

「では援護を頼みたい」

 その言葉を聞いて、イストは嘆息した。どうやらこのおっさんは地竜と真正面から戦って退けるつもりらしい。

「おいおい戦うつもりかよ、おっさん」
「痛い思いをさせて追い払う必要があるといったのはおぬしであろう?」

 確かに言った。しかもついさっき。

「………この状況で四の五のいうつもりはないけどな。オレの本職は戦闘じゃないんだ。あんまり期待してくれるなよ」

 そうはいうものの、イストの本音としては「やりたくない」だ。古代文字(エンシェントスペル)で記録が残されている遺跡の調査というのは確かに興味がそそられる。が、遺跡巡りは所詮趣味だ。趣味に命はかけたくない。

 やるからには命懸け。地竜とはそういう相手だ。実際に戦ったことはないから正確には分らないが、やらずに済むならそれで済ませたい相手に違いない。
 しかし、今は戦わねばならない。

(逃げてるときに後ろから襲われたら全滅しそうだしな………)

 イストやジルドはあるいは無事に逃げられるかもしれない。しかしニーナとシゼラは確実に“アウト”だろう。

(“庵”から強力な魔道を見繕ってくるか………?)

 そう考え、しかしすぐに否定する。そんなことをやっている時間はない。第一、“庵”に保管されている魔道具の全てを把握しているわけではないのだ。使ってみて役立たずならまだしも、逆にピンチに陥っているようでは目も当てられない。

(その可能性を否定できないのがアバサ・ロットの怖さだよな………)
 脈々と続いてきた“変人”の歴史に思わず苦笑する。

「どうした?」
 怪訝に思ったのか、ジルドが声をかけてくる。

「いや、なんでもない」

 イストは頭を振って余計な考えを外に叩き出す。相手はリザイアントオオトカゲ。食物連鎖の頂点に君臨し、人など意にもかえさぬ野獣だ。集中を欠けばすぐにやられてしまうだろう。

「お前らは離れてろよ」
「うむ。それと風上には立たぬようにな」
 イストとジルドの言葉に、非戦闘員の二人は何度も頷く。

「じゃ、やりますか………!」

**********

 幾筋かの閃光が地竜の横腹に炸裂した。その閃光の元をたどればそこには「光彩の杖」で魔法陣を描いたイストがいる。

(ち、やっぱり浅いな………)

 イストの先制攻撃は地竜のうろこを数枚剥いだだけで終わった。同じところを何度も攻撃できればあるいは効果があるのかもしれないが、あいにくと地竜相手にそんなことをやってのける自信はない。

 地竜がギロリとイストを、食事の邪魔をする無礼者を睨む。イストはニヤリと笑うと、まだ展開してある魔法陣に再び魔力を込め、その顔面めがけて閃光を撃った。

 ――――ギャャァァアアアウウゥゥゥオオォオォオオ!!

 耳を劈(つんざ)くような獣の呼砲が響く。それは決して痛みの呼砲ではない。怒りの呼砲だ。

「おっさん!」
「うむ!」

 怒り狂った地竜がイストめがけて突進してくる前に、ジルドが素早く前に出て距離を縮める。まるで暴風のように振りまわれる地竜の腕と爪を滑らかな足捌きでかわしながらジルドは間合いを詰め、すれちがいざまに打ち抜きでその前足を斬りつける。

(斬った……!が、浅い。浅すぎる)

 ジルドの持つ魔剣「不屈の魔剣」は地竜の三重のうろこを切り裂きその下に刃を届かせたが、如何せん浅すぎる。薄っすらと浮かぶ赤い筋をなんとか認めることができる程度だ。目指す「痛い思い」には程遠い。

 地竜が捕食の目標をジルドに切り替える。喰いちぎろうとする鋭い牙のはえ揃った顎を後ろに飛びのいて逃れ、魔剣を正面に構える。と、その時………。

 「!!」

 ほとんど反射的に体を屈めたその頭の上を、鈍い風切り音を残し地竜の尾が通過していく。

(一度飛びのいたくらいでは地竜の間合いから逃れられんか………!)

 肌が粟立ち、緊張が内臓を締め付ける。殺るか殺られるか。野獣の戦いは全てが生存競争であり、こそに善悪など介在しない。そして、それゆえに凄まじい。

 爪を振り上げ追い討ちを仕掛けようとする地竜の腹部に、再び複数の閃光が炸裂し何枚かうろこが剥がれる。

(やっぱこの術式じゃほとんど効果がないな………)

 ダメージらしいダメージなど入っていないが、地竜はこの小うるさい攻撃を不快に思ったのか、ジルドへの攻撃をやめイストのほうに首を向ける。その間にジルドは体勢を立て直した。

 ジルドが魔剣を構えなおしているその間に、地竜はさっきから小うるさい攻撃を仕掛けてくる無礼者に向かって走り出した。

「ちっ!!」

 短く舌打ちをすると、イストは「光彩の杖」を構えた。閃光を撃ち込んでも止められないのは分りきっている。だから展開するのは防御用の魔法陣だ。かつてバロックベアの爪を防いで見せた魔法陣を三枚重ねて地竜の前に展開する。

 ――――ピキィィィィィイイイインンン………。

「おいおい………」

 鈴の音に似た音を立てて展開した魔法陣(正確には魔法陣が展開していた不可視の盾)のうち二枚が、まるで紙切れか何かのように切り裂かれた。残った最後の一枚に、イストはありったけの魔力を込めて、地竜の鋭い爪を防いだ。

 ――――グルゥゥウウァァァアアア!!

「ちっ!!」

 地竜が雄叫びを上げながら爪を再び振り上げる。それを見たイストは魔法陣を放棄し、転がるようにして突き出される地竜の爪をかわした。

(ヤバ………!)

 転がりながらイストは自分の失策に気づいた。転がっている間に追い討ちをかけられたら無事で済むかどうか。しかし地竜は追い討ちを仕掛けてこなかった。距離を取って体勢を立て直して見れば、ジルドがけん制してくれている。が、圧され気味だ。

「ヤロ………!」

 すかさず「光彩の杖」を構え、魔法陣を展開。閃光を地竜に叩き込む。今度はうろこが一枚も剥げなかった代わりに、地竜が体勢をくずした。その隙にジルドも一度距離を取る。

(こっちのほうがいいか………)

 先程の閃光はダメージを入れることではなく、体勢をくずすことを主眼においている。微々たるダメージを入れるよりも、こちらのほうが役に立ちそうだ。

「おっさん、どんな感じ?」
 注意深く地竜との間合いを取りながらイストはジルドに声をかける。

「硬い、速い、間合いが広い。厄介なことこの上ない」
 その言葉を聞いてイストは頷いた。やはり彼も攻めあぐねているようだ。

(おっさんにあの魔剣を渡すか………?)

 あの魔剣とは馴染みの鍛冶師であるレスカ・リーサルに刀身を作ってもらい、工房「ドワーフの穴倉」を間借りして完成させた、未だ名前のないあの魔剣である。仮に「強化」と「切断」の術式しか使わないとしても、「不屈の魔剣」などよりもはるかに上等な魔剣である。この場では良い戦力になるだろう。

(だけど、な………)

 アバサ・ロットが魔道具をタダで渡すのは、気に入った相手と認めた相手だけ。それがアバサ・ロット唯一のルールだ。破ったからといって、なにかペナルティがある訳ではない。だが、名を受け継いだものとしてこの一線を越えることは、イストのプライドが許さない。

「アバサ・ロットは、つまるところエゴイストだ。だからこそ自分のエゴの責任は自分でとらにゃならん」

 師であるオーヴァの言葉が頭をよぎる。
 ただジルド・レイドが優れた剣士であることは、今までの戦闘を見れば良く分る。地竜と一度ならず真正面からぶつかって無傷でいられる剣士など、そうはいない。

 地竜が動く。それにあわせてジルドも動いた。イストも魔法陣を展開し、彼を援護する。イストが閃光を叩き込み、地竜が体勢をくずしたところをジルドが斬りつける。一見すればイストとジルドが地竜を攻め立てている。が………。

「むう………」
「決定打が入らねぇ………」

 精神的に追い詰められているのは二人のほうである。地竜のほうは細かい傷を全身に負っているが、動きが鈍っているようには見受けられない。体力の限界は人間のほうが先に迎えるだろうか、このままではジリ貧である。

「くっ!!」

 風をひきちぎって地竜の尾がジルドを襲う。身をかがめてそれをかわし、再び身を起こすと、
「む!!」

 振り戻された尾が再びジルドを襲う。ジルドは吹き飛ばされながらも、尾の先についた鈍器を魔剣で受け止めた。

「おっさん!!」

 吹き飛ばされる瞬間、ジルドは自分から後ろに飛びのいている。だからほとんどダメージはない。だが………。

「魔剣が………!」

 地竜の一撃をまともに受け止めた「不屈の魔剣」は、その刀身が半ばから折れてしまっていた。折れてしまっては「不屈の魔剣」はもはや魔剣として、いやそもそも剣として用をなさない。それはこの場において、地竜に多少なりともダメージを負わせる手段がなくなったことを意味している。

 まさに絶体絶命。しかし………。

「おっさん………?」

 ――――ジルド・レイドは笑っていた。
 まるでこの戦いが楽しくて楽しくて仕方がないとでも言わんばかりに、ジルド・レイドは壮絶な笑みを浮かべていた。

 ――――それを見て、イスト・ヴァーレもまた、笑った。
 ああ、間違いない。こいつは“本物”だ。なにがどう“本物”なのか、そんなことは知ったこっちゃない。だがオレの、このオレの直感が告げている。このおっさんは“本物”だと!

 地竜が動く。
 腕を振り回し顎を開き、鋭い爪と牙でジルドを攻め立てていく。その全てをジルドは滑らかな足捌きでかわしていく。回避に意識を集中しているためか、その動きは今までよりも速い。

 ジルド・レイドは後ろに下がらなかった。魔剣を失いもはや攻撃手段がないにもかかわらず、彼はむしろ前に出て地竜との間合いを詰め懐に入り込もうとする。それを嫌ったのか、地竜のほうが後ろに下がった。

 飛びのいた地竜のわき腹に閃光が直撃し、その巨体を一瞬だけよろめかせる。その一瞬が全てであった。

「おっさん!!」

 イストは「ロロイヤの道具袋」から一本の刀を取り出し、ジルド・レイドに向かって投げた。それを見たジルドは反射的に折れた魔剣を投げ捨て、飛んできた刀の柄をつかんだ。鞘は投げつけられた勢いそのままに飛んでいき、白銀に輝く刀身があらわになる。ジルドはごく自然な動作でその刀を正面に構えた。

 ――――闇より深き深遠の

 そう古代文字(エンシェントスペル)が刻まれた刀身は優美なそりを持ち、その透明感のある片刃の波紋は乱れ乱刃。

「刻印した術式は三つだがとりあえず『強化』と『切断』だけ使ってくれ!!」
「うむ!」

 ジルド・レイドが前に出る。それに合わせるように地竜が尾を振るう。横から迫り来る鈍器を彼は前のめりにかわし、さらに間合いを詰める。そして………。

「ハァァァアアアアアア………ハッ!!」

 ジルドが頭上から振り下ろしたその一撃は、地竜のうろこと肉と骨を切り裂いてその尾を切断した。

 ――――グゥゥルゥゥギャァァアアアアア!!!

 初めて聞く地竜の悲鳴。己の最大の武器である尾を失った地竜は、耳を劈(つんざ)く悲鳴を残して森の中へと逃げ去っていった。

 地竜が逃げさった遺跡に、静寂が戻る。緊張が切れたイストは、堪えきれずその場にへたれ込んだ。呼吸が荒い。思い出したように汗が吹き出てくる。

「助かった、イスト」
「こっちの台詞だよ、おっさん」

 刀を鞘に納めたジルドが側によってくる。こちらは特に呼吸を乱した様子はない。まったく牽制しかしていない自分がこの有様なのに、地竜と真正面からやり合っていたジルドのほうが元気だとは。

「いい魔剣だな」
 そういってジルドは鞘に収めた魔剣をイストに差し出した。

「いいよ、その魔剣はおっさんにやる」

 しかし、イストはそういって差し出された魔剣を受け取ろうとはしなかった。このおっさん、ジルド・レイドは“本物”でクセの強いあの魔剣の力を十全に引き出してくれる。そのイストの直感は、いつの間にか確信に変わっていた。






[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:15

 時間は少し遡る。レヴィナスとアーデルハイト姫の婚礼が無事に終わり、ポルトールの内戦が武力衝突の様相を呈してきた六月の初め、アルジャーク帝国もまた動き出そうとしていた。

「一通り終わったか………」

 そういってアルジャーク帝国皇帝ベルトロワは手にした書類を机の上に投げ出した。それから軽く首を左右に曲げ、固まった筋肉をほぐしていく。

 アルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグにある宮殿の一室、そこにベルトロワはいた。そしてさらに三人、同じ室内にいる。

 アルジャーク帝国宰相、エルストハージ・メイスン。
 同外務大臣、ラシアート・シェルパ。
 同軍務大臣、ローデリッヒ・イラニール。

 皇帝を含めたこの四人が、名実ともにアルジャーク帝国を動かす首脳である。
 役職的にはもう一つ「国務大臣」というポストがあるのだが、今は宰相が兼務する形となっている。

 アルジャーク帝国のヒエラルキーを上から記すと、皇帝・宰相・三人の大臣、ということになる。そしてこの五人がそのままヒエラルキーの最上部を占有している。

 アルジャーク帝国において宰相という役職は、皇帝の代わりに政を行うのがその仕事だ。つまり細かい事情を四捨五入するならば、皇帝があまりに無能であったり政治に関心を示さなかった場合、宰相というポストが設けられて国を取り仕切るのだ。

 しかし、今の皇帝であるベルトロワは極めて有能で政治にも熱心である。ではなぜ宰相職を設けているのかといえば、一種の名誉職であった。いや、国務大臣の仕事を兼務させているのだから、まったくの名誉職というわけでもないが。

 ベルトロワ、ラシアート、そしてローデリッヒの三人が同年代であるのに対し、エルストハージは世代が一つ上である。年長者に敬意を示すのと、二人の大臣のまとめ役を期待して、ベルトロワはエルストハージに宰相職を与えたのだ。

 今彼ら四人は月に一度(不定期に回数は増えるが)の会議を行っていた。この会議でアルジャーク帝国の行く末の大筋が決まるといっていい。

「ああ、少し待って欲しい」
 その会議も終わり各々自分の執務室に戻ろうとする三人に、ベルトロワは声をかけた。

「実は遺書を書き直した。確認したうえでサインして欲しい」

 アルジャーク帝国の法は、皇帝の遺書について明確な基準を定めている。戦場で遺したなどの例外的な場合でもない限りこの基準を満たしていないと、その遺書は法的な根拠にはならず、意思確認の参考程度にしかみなされない。

 その基準について簡単に説明すると、以下のようになる。
 一つ、直筆であること。
 一つ、日付と署名、そして印が揃っていること。
 一つ、皇帝自身の署名と印のほかに、宰相と三人の大臣のうち二人の署名と印が連名で記されていること。
 一つ、未開封であること。
 一つ、遺書を開封するときには二通の遺書を同時に開封し、その内容に差異がない場合のみ有効とする。

 これ以外にも細かい規定が色々と設けられている。全ては遺書の偽造を避けるためだ。
 遺書を書き換えることは珍しいことではない。これまでにもベルトロワは何度か遺書を書き換えている。月日が流れれば状況が変わる。そうなれば遺すべき遺書の内容が変わってくるのは当然だ。

 エルストハージ、ラシアート、ローデリッヒの三人は用意された遺書を手にとり、その内容を確認していく。そして一様に目を見開いた。

「陛下………!これは………!」

 ローデリッヒが驚いた様子でベルトロワを見つめる。その反応を予測していたベルトロワはどこまでも冷静だ。

「あくまで現状では、だ。現状ではこれが最善だと判断した」
「………そう、ですな………。今はこれが最善でしょう………」

 どこか苦い調子で最年長のエルストハージがベルトロワに同意する。それをみた二人の大臣もまた皇帝の意見に同意した。

「では署名と印を頼む」

 用意された遺書は四枚で、すでにベルトロワの署名と印は記されていた。残りの三人はそれぞれ二通ずつ署名して印を押し、そして各自が一通ずつ保管することになる。当然、古いものは破棄される。

 署名を終え印が押された遺書は封筒に入れられ、さらに蝋で封がされる。蝋が固まると、三人はその遺書を大事そうに懐にしまいこんだ。

「そういえば南方遠征の件ですが、すでにレヴィナス殿下にお話になられたのですか?」
 軍務大臣のローデリッヒが思い出したようにそう尋ねた。

「いや、まだだ。これから『共鳴の水鏡』を使って話そうと思っている」
「法が揺らぎますゆえ、強制だけはされませんように」
 エルストハージの言葉にベルトロワも頷いた。

**********

「お待たせしました、父上」

 皇帝であるベルトロワから通信が入っていると知らされたレヴィナスは、急ぎ城の地下に設けられた「共鳴の水鏡」の下へ向かった。

「久しいな、レヴィナス。息災であったか」
「はっ、父上のおかげをもちまして」

 しばらく礼儀的な親子の会話が続く。本題を切り出したのはベルトロワのほうであった。

「実はこの度、南方遠征を行うことが決定した」
「………左様でございますか………!」

 遠征というのは国家における一大イベントである。レヴィナスは一瞬緊張で体を硬くしたが、すぐに自然体に戻る。

「それで総司令官にお前を、という話が出ているのだが、どうだ?」
「私、ですか。ですが私は………」

 アルジャーク帝国の法には「結婚して一年以内のものは兵役を免除される」というものがある。これは夫が子孫を残すことなく戦争で死ぬのを防ぐための法なのだが、この法は帝室にも適用される。つまりついこのあいだ結婚したばかりのレヴィナスは戦争へ行く必要がないのだ。いや、むしろ率先してこの法を遵守しなければならない。

 かりにレヴィナスが遠征軍の総司令官として戦場に赴けば、「皇帝が皇太子の免除の権利を放棄させた」という前例が残ることになる。そんな前例を残しておけば、後の時代皇帝の強権により法が有名無実化してしまうかもしれない。

「そうなのだが皇后が是非に、とな………」
「なるほど、母上が、ですか………」

 ベルトロワとレヴィナスの親子はそろって苦笑した。彼女としては愛すべき息子のために一つでも多くの箔を付けてやりたいのだろうが、こういう無理やりねじ込むようなやり方は迷惑でしかない。

「この件に関しては強制するつもりはない。断ってくれてもかまわん」

 皇帝が一度勅命を出してしまえば、何人たりともそれに逆らうことは許されない。だからこそわざわざ「共鳴の水鏡」を使い、非公式かつ事前に意思確認を行っているのだ。

「そうでしたら、やはり私は辞退すべきでしょう。悪しき前例を残すわけにはいきません」

(悪しき前例か。今のオムージュ領の税制が悪しき前例になるとは思わぬのか、レヴィナスよ………)

 レヴィナスがオムージュ領で増税を実施し、その増税分を過去にさかのぼって適用したことは、当然のことながらベルトロワの耳にも入っている。というよりもこれこそが、彼が貴書を書き換えた主な理由であった。

 心のうちの考えをおくびも表情に出さず、レヴィナスの答えにベルトロワは一つ頷き了承の意を伝えた。

「それでレヴィナスよ、そなたの後釜には誰を据えるべきであろうな?」
 試すような視線を、ベルトロワは自分の息子に向けた。

「………クロノワが適任かと存じます。無論、有能な前線司令官を付けて、ですが」

 数瞬のうちに思考を巡らせ、レヴィナスは答えた。その答えを聞くと、ベルトロワは面白そうに顎を撫でた。

「ほう、クロノワか………」
「はい。あれも父上の子。矢面に立たせれば兵たちの士気も上がるでしょうし、分りやすい象徴ともなります」

 まがりなりにも皇子の身分であるクロノワが陣頭に立てば、確かに兵士たちの士気は上がるだろう。さらに、遠征と言うのは戦場で戦うだけではない。もちろんそれが最も華々しく、また大仕事ではあるが、征服した版図を迅速に安定させることが求められる。前者は軍人の仕事で後者は文官の仕事である。つまり遠征軍の総司令官は両者を統率しなければならないのだが、この場合「皇子」という血筋は非常に分りやすい象徴つまりヒエラルキーとして作用し、軍人と文官という畑違いな両者の無用なイザコザを避けることができるのだ。

 皇后がレヴィナスを推した背景には無論そういう側面もある。

 またこの場でクロノワを推すことはレヴィナスにとっても実は利益がある。クロノワが遠征に成功すれば、他に推挙してくれる人間がいないであろう彼を推したレヴィナスの評価は上がるし、またクロノワに恩を売ることができる。逆に失敗したとすれば「皇子」としてのライバルが勝手につまずいてくれたことになり、レヴィナスの地位はさらに盤石なものになる。

「あい分った。ではその方向で調整を進める」

 皇帝のその言葉に、レヴィナスは頭を垂れる。だからこそベルトロワは知ることがなかった。その時、レヴィナスが安堵の表情を浮かべていたことを。

**********

 兄であるレヴィナスとアーデルハイト姫の婚礼から帰ってきたクロノワは、毎日を忙しく過ごしていた。そう、殺人的に忙しく。なにしろ帰ってきたとき、普段飄々とかまえているあの執務補佐官ストラトス・シュメイルが弱り果てていた、というのだからただ事ではない。

 総督府の仕事がいきなり忙しくなった主な理由は、やはりオムージュ領に起因するものであった。クロノワとフィリオは披露宴の式場で流民対策を講じる必要があると話していたが、対策を講じる前にオムージュ領から流民があふれてきてしまった。

 原因は言うまでもなく増税である。しかもただの増税ではない。増やした税率分を過去にさかのぼって適用している。

「一度に全て納めろ」
 という横暴はさすがにしていないようだが、庶民の生活が苦しくなることは想像に難くない。しかも税を納められない者は、建設作業で強制労働させられていると聞く。

 ただ、これだけであれば肥沃なオムージュの大地はその民を養えたかもしれない。しかしここに別の出費が重なった。貴族のもとに転がり込んだ僧職者たちの豪遊費である。彼らの遊ぶ金は貴族たちが出していたのだが、その貴族の収入はもとをたどれば庶民の血税である。豪遊費をまかなうために貴族たちは、至極当然のこととしてそのしわ寄せを庶民たちに求めたのである。

 普通の増税分と、過去の増税分と、そして僧職者たちの豪遊費。明らかな容量オーバーであり、払いきれないことは容易に想像できる。しかも払えなければ待っているのは厳しい強制労働である。逃げ出したくもなるものだ。

 またレヴィナスが建築計画へのテコ入れの資金源として、備蓄してあったオムージュの小麦を放出し始めたのも大きな一因である。放出された小麦は貿易拠点である独立都市ヴェンツブルグにも集まり、それを求めて商人たちもまた集まるようになった。また建物の装飾につかう貴金属や美術品をレヴィナスは集め、そういった商品を売ろうとする商人たちもヴェンツブルグに集まっている。

 加えて、ヴェンツブルグを発展させるためにクロノワが色々と打ってきた手が、ここにきて効果を表し始めたことも大きい。

 その結果、モントルム領はかつてないほどの賑わいを見せている。雇用も急増し、それを満たすための流民がいる。成長著しい代わりに仕事の増加率も著しく、書類の山ができるとはどういうことか、クロノワは身をもって思い知っていた。

「なぜ手は四本ないんだ!?」
 大真面目にそんなことを叫んだとか叫ばなかったとか。

 皇帝の勅命を伝える勅使が旧モントルム王都オルスクにある、総督府の置かれたボルフイスク城に来たのはそんな目の回るような忙しい日々のある日のことであった。

 勅命の内容は簡単にいえば「南方遠征の総司令官にクロノワ・アルジャークを任命する」というものだ。クロノワはこの勅命を粛々と拝命した。彼は事前に「共鳴の水鏡」で皇帝であるベルトロワから直接に「総司令官に内定した」という話を聞いており、勅命の内容に驚くことはない。

 今回の南方遠征のアルジャーク帝国が考えるシナリオを簡単に説明すれば、まずモントルムの南に位置しているカレナリア王国に宣戦布告しこれを征服する。次にさらにその南にあるテムサニス王国に宣戦布告し併合する、ということになる。

 一度に二カ国を切り取ろうというのだから強欲のそしりは免れまい。もっとも強欲でない遠征など存在しないが。

 ただ純粋に国力を比べてみれば不可能とはいえない。アルジャーク帝国の版図は去年の大併合により二二〇州となっている。これに対しカレナリア王国の版図は六三州でテムサニス王国は六六州である。二カ国合わせても一二九州であり、アルジャークには及ばない。しかもシナリオとしては二カ国同時にではなく、一国ずつ切り取るつもりなので成功率はさらに上がるだろう。もっともこれを機にカレナリアとテムサニスが同盟を結ぶことも十分に考えられるが。

 カレナリアを征服した後、間を空けずにテムサニスに宣戦布告するというのが今回の遠征の筋書きである。したがって征服後のカレナリアを安定させるためには、文官の随行員が必要になる。その文官の選定も帝都ケーヒンスブルグで進んでいると聞く。さらに今回はテムサニスも随行する文官たちが征服後の執政を担うそうだ。彼らは皇帝直属という身分になり、つまり併合後のカレナリアとテムサニスには総督を置くことなく、皇帝が直接に支配することになる。

 ただ両国の海軍についてはクロノワがその再編の裁量を任されていた。彼が海にいろいろと手を伸ばしているのをベルトロワが聞きつけたのだろう。

「まあ、まずは遠征を成功させることですね」

 獲ってもいない毛皮を数えて妄想の幅を広げるのは確かに楽しいが、重要なのはそれを実現させることである。総督執務室に集まった面々を前にして、クロノワは頭の中を現実へと引き戻した。

 執務室には総督府の主だった人物で、今回の遠征に関係する人々が集まっていた。総督であるクロノワ。その主席秘書たるフィリオ。執務補佐官のストラトス。モントルムの軍事一切を司っているアールヴェルツェ。そしてその幕僚である女騎士グレイス。おまけとしてお茶くみ係のリリーゼ。

 余談であるが、アールヴェルツェはモントルム総督府の正式な武官ではない。彼の身分は皇帝ベルトロワ直属の目付け役であり、その任命及び罷免権はモントルム総督たるクロノワにはない。その直属部隊である騎馬五千騎とともに、クロノワとしてはある意味最大限警戒しなければならない相手なのだが、如何せん彼以外にモントルムの軍事を司ることの出来る人物がいない。そのためクロノワは、目付け役に自身の武力の全てを預けるという、ヤケクソとも暴挙とも取れる選択をしたのである。

 ただ純粋な人間関係としては、アールヴェルツェはクロノワが冷遇されていた時代からの味方である。双方に強力な信頼関係があってこその選択だったのだろう。アールヴェルツェにしても、

「モントルムの兵をアルジャークの兵に負けない精鋭にしてみせる」
 と、日々調練に力を入れている。ひとまずは一万の歩兵を選んで、直属の騎馬隊との連携を叩き込んでいるらしい。

 ――――閑話休題。話を執務室に戻そう。

 遠征に関係してくる人材はアルジャーク帝国本国から供給されるが、モントルム総督府からも、特に今執務室に集まっている人々は遠征に関わってもらうことになる。

「今回の遠征で私は総司令官を務めることになりました。私が不在の間のモントルム領の切り盛りはストラトスにお願いします」

 皇帝の勅命について簡単に触れたあと、クロノワはそう言って留守にするモントルム領の一切をストラトスに任せた。いや押し付けた。クロノワとしては一種暴力的な量の仕事から、一時的にとはいえ逃げられることに安堵さえ感じている。それに対し、仕事量が少なく見積もっても倍増すると告げられたストラトスは大仰に嘆いて見せた。

「ああ、また仕事に撲殺される日々がはじまるのですね。知ってます?紙って重いんですよ?積み上げた書類が崩れてきたら、アレはもう鈍器ですよ鈍器。全身打撲で入院したいっていったら『病室でもお仕事してくださいね』って笑顔で宣告されましたし。このままだと棺桶の中にまで書類を詰め込まれそうで、私としては逃げるのが最善策かなぁ~と思ってみたり…………あ、ちょ、ま、イタ…………!」

 延々と続くストラトスの愚痴をグレイスが実力行使で黙らせる。そんな二人の様子を、恐らくは意図的に無視してクロノワは話を続ける。

「次にフィリオですが、他の秘書たちと一緒に補給の一切を担ってもらいます」

 今回の南方遠征でカレナリアと直接に国境を接しているのはモントルムであるから、補給物資は自然とモントルムに集まることになる。その補給物資を過不足なく前線に送るのがフィリオの仕事である。言うなれば遠征軍の命綱を任されたようなもので、さすがのフィリオにも緊張の色が見える。

「ヴェンツブルグのオルドナス執政官と協力しつつ事に当たってください」

 クロノワは海路での補給物資輸送も考えている。カレナリアだけならば陸路で補給線を伸ばしてもいいが、さらにその南に位置しているテムサニスまで陸路で運ぼうとすると、どうしても補給線は長く伸びてしまう。そこで船を使って補給物資を運ぶことを考えたのだ。直接テムサニスに輸送するか、征服したカレナリアの適当な港に集めそこからさらに陸路で運ぶのかそれはまだ分らないが、なんにせよ出発点として使える拠点はヴェンツブルグしかない。

 フィリオが了承すると、クロノワは次に視線をグレイスに移した。

「指示はフィリオが出すとして、実際に補給部隊を動かすのはグレイスにお願いしたい」

 クロノワがそういうと、グレイスは一瞬不満げに眉をひそめた。次の瞬間にはいつも通りの表情に戻っているが、クロノワはその一瞬を見逃さなかった。

「不満ですか?」

 詰問というよりは面白がるようにしてクロノワは尋ねる。彼女が戦場での功を求めていることをクロノワは知っている。

「いえ、決してそのような………」

 グレイスは少し慌てた様子で、クロノワの言葉を否定する。だが、それが彼女の本心でないことはクロノワも良く知っている。

「補給は今回の大遠征を成功させるための必要条件です」

 戦争の勝敗というヤツは、実は始まる前から決まっている。一度大きな遠征を経験したクロノワはそう考えるようになった。攻める場合は特にそうだ。綿密に勝つための準備を行い、勝てる状態にしてから事を起こす。それこそが戦略家として正しい姿だとクロノワは思っている。

 理想論だと分っている。けれども人の命がかかっている以上、いくらでも理想を追うべきだと思う。

 補給は勝つための大前提だ。ここが揺らいでは戦力で圧倒していようとも勝利を得ることはできない。現実問題として理想をそのまま実現することは不可能だが、少しでもそこに近づけなければならない。グレイス・キーアはそのための起用だ。

「フィリオは部隊の具体的な動かし方は分りませんから、彼の意図を汲んで部隊を動かせる人物が必要になります」

 それは恐らくグレイスでなくともできるだろう。しかしグレイスならば上手く(・・・)やれる、とクロノワは思っている。

「期待しています」
「………了解しました」

 そういって頷くグレイスの眼から不満の成分が少なくなっているのを見て、クロノワは内心で安堵の息をついた。フィリオとグレイス。この二人に任せておけば、補給は磐石だろう。

「総司令官は私ですが、実際に兵を動かすのはアールヴェルツェにお願いすることになります」
 最後にクロノワはアールヴェルツェに目を向けた。

 ちなみにアルジャークの至宝、アレクセイ・ガンドールはレヴィナスの目付け役として今はオムージュ領にいる。彼もまたオムージュ領の軍事一切を任されており、そのせいか今回の遠征には参加しない。

 アレクセイがオムージュ領の軍事一切を任された経緯を大雑把に説明すれば、レヴィナスが建築計画に全力を傾けるために雑事を彼に押し付けた、ということになる。無論、アレクセイ自身が非常に優秀だったこともその一因なのだが、レヴィナスにしてみれば「そんなことをやっている時間はない」というのが偽る必要のない本音であった。

 ともかくアレクセイ・ガンドールは今回の遠征には参加せず、よってアールヴェルツェ・ハーストレイトが遠征軍の実質的な指揮を執ることになる。彼がクロノワの下で軍を指揮するのはこれが二度目だ。

「兵の総数は二十万から三十万規模になるそうですが、編成等は全て将軍に一任します。急ぎ帝都に帰還し、準備を進めてください」
「御意」

 アールヴェルツェはただ一言だけ短く答えた。彼の頭の中では、すでに遠征軍の細かい編成や彼の手足となり軍を動かす部隊司令官の名前が連ねられているのだろう。

「ああ、それとアールヴェルツェ、直属の騎馬隊から五百騎ほど貸してもらえませんか」

 思い出したようにクロノワがそういった。アールヴェルツェは一瞬不審がるような表情をしたが、クロノワの様子を見てすぐにそれは苦笑へと転じた。

「なにか、悪巧みでも思いつかれましたかな?」
「ちょっとした悪戯ですよ。成功すればよし。失敗しても遠征に影響は出ませんよ」

 それを聞いてアールヴェルツェはさらに苦笑した。どうやら今回もなにやら面白いことを考えているようだ。

「分りました。幕僚の一人に五百騎を預けておきましょう。悪巧みはその者と」

 悪巧みの詳しい内容をアールヴェルツェは聞かなかった。無意味なことをするとは思えないし、クロノワが「失敗しても遠征に影響はでない」というのであれば、そうなのだろう。

 それに直属部隊騎馬五千騎全てを伴って帝都に帰還する必要はなく、そうなれば部下が暇を持て余すことになる。無駄飯を食わせるくらいなら働かせたほうが良かろう。そんな次元の低い思惑もあったりするのだった。





[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:18
「なぜレヴィナスではないのですか!?」

 女性の金切り声が、アルジャーク帝国皇帝の執務室に響いた。

「わらわは確かにあの子を遠征軍の総司令官に、と申し上げたはず!」

 なのになぜあの下賎な女の子がその役職につくのか、と皇后は執務机に手をつき唾を撒き散らしながら夫たる皇帝ベルトロワに迫った。

「そのレヴィナスがクロノワを自分の後釜に、と推したのだ」
「そのような言い訳を聞きたいのではありません!」

 ベルトロワが非公式にレヴィナスの意思確認を行い、その席でレヴィナスが遠征軍の総司令官としてクロノワを推したことは、もはや公然の秘密としてささやかれている。これはまったくの事実であるし、もとより知られて困ることでもないため、ベルトロワとしても情報統制をするつもりなどない。それどころかこの噂によってベルトロワの器の大きさとレヴィナスの見識の高さについてさらに評価が上がっており、皇帝も皇太子も大いに面目をほどこしたといっていい。

 面白くないのは、レヴィナスを推した皇后だけである。

「レヴィナスを総司令官に、と勅命をお出しになればよいではありませぬか!」

 アルジャーク帝国において皇帝の権威は絶対である。確かに勅命という鶴の一声が下れば、たとえ今からであってもレヴィナスを遠征軍総司令官に据えることは可能だ。可能だがベルトロワにその意思は、当然のことながら、ない。

「悪しき前例を残すわけにはいかぬ。これはレヴィナスも言ったことだぞ」

 アルジャークの法は「結婚して一年以内のものは兵役を免除される」と定めている。この法は帝室にも適用され、皇太子たるレヴィナスはむしろ率先してこの法を遵守しなければならない。

 にもかかわらずここで皇帝の勅命により皇太子を遠征軍総司令官にしてしまえば、「皇帝が皇太子の免除の権利を放棄させた」という前例が残ることになる。そんな前例を残しておけば、後の時代に皇帝の強権により法が有名無実と化してしまうかもしれない。

「皇帝と皇太子が法を守らずして誰が法を守るのか」

 この国は法によって治められているのだ。皇帝にのみ許された“超法規的処置”という伝家の宝刀はそうたやすく抜いてよいものではない。国を預かる者は法を揺るがすようなことをしてはならないのである。

(だからこそ「法を過去にさかのぼって適用する」ことは禁じ手なのだ)

 一瞬だけ、ベルトロワの思考がオムージュ領に、そしてレヴィナスに向く。だが彼はすぐに目の前の問題に意識を戻した。

 さらに喚きたてる皇后をなんとかなだめすかし、執務室からお引取りを願う。台風が去った執務室で、ベルトロワは一人苦笑を漏らすのであった。

 執務室を後にした皇后は、苦々しく苛立ちながら廊下を歩いていた。まったく、気に入らない。なぜあの下賎な女の子なのか。

(まさか陛下はレヴィナスではなくクロノワを………?)

 皇后のうちに生まれた疑念の種は、すぐさま彼女の心のうちに根を下ろし芽を出した。そして彼女はそこに推測の水を注ぐ。

(彼奴に箔を付けるため、と考えれば確かに筋が………)

 考えれば考えるほどに、彼女の苦々しさと苛立ちと腹立ちは強くなっていく。そしてそこにはいつの間にか焦燥が混じり始めていた。

「いいでしょう。ならばこちらにも考えがあります」

 ポツリと呟く。その言葉からは狂気の響きがした。

**********

 苦々しさと苛立ちと腹立ちと焦燥の具合ではこちらも負けてはいない。

 場所はカレナリア王国王都ベネティアナ、人物の名はエルネタード・カレナリア。カレナリア王国の国王である。彼の精神状態が劣悪になった原因は、ひとえに一つの噂のゆえである。

 曰く「アルジャーク帝国が近くカレナリアに出兵するらしい」

 この噂はここ一ヶ月ほどで国全体に広がり、今巷はこの話題で持ちきりであった。無論、悪い意味で。

 昨年、アルジャーク帝国はオムージュとモントルムを完全に併合し、その結果ここカレナリアはアルジャークと国境を接することになった。アルジャークの版図は二二〇州でカレナリア六三州の実に三倍以上である。しかもその兵は精強をもって大陸中にその名を知られている。

 突然強大な力を持つ隣国が誕生し、カレナリア王宮中は慌てに慌てた。主だったものを集めて対応を協議してみたところで、明確な方針は出てこない。結局「帝都ケーヒンスブルグに大使館を置き情報を収集する」ということだけが決り、軍備の増強や国境警備の強化などは見送られた。

 一見して温い対応だが、ある意味では仕方がない。カレナリアはアルジャーク兵の兵精強さを聞いてはいても実際に見たことがあるわけではない。それに彼らにとってアルジャークの遠征はあの大併合をもって終わったはずであったのだから。

 閑話休題。例の噂である。

 カレナリア政府は巷に噂が広がる前から同様の内容の報告を大使館から受けている。ただしその内容は、

「そういう話もあるらしい」

 といった程度のもので、いわば憶測の混じった噂と変わらない。この時点でのカレナリア政府の警戒度は低かった。

 それが最近になって大使館からの報告に現実味が出てきた。

 曰く「遠征軍総司令官はモントルム総督のクロノワ・アルジャークらしい」
 曰く「アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍が補佐につくらしい」
 曰く「兵の規模は二十万~三十万らしい」

 加えて「これは複数の筋からの信頼できる情報である」との旨が、報告書には書き添えられていた。

 巷に広がっているのがただの噂であれば、エルネタードの精神も劣悪な状態に陥ることはなかったであろう。しかしその噂はカレナリア政府がつかんでいる信頼できる情報と矛盾せず、そしてその情報が巷に普通に出回っているということは、すなわち宣戦布告が近いことを予感させた。

「どう考える?」

 キリキリと痛み出した胃に顔をしかめながら、エルネタードは目の前に居並ぶカレナリア王国の主だった者たちにそう切り出した。

「恐れながら」

 そういって一歩前に出たのは、カレナリア王国の将軍の一人、イグナーツ・プラダニトであった。

「アルジャークが宣戦布告をしてくるのは、もはや時間の問題であると考えます」

 大使館が比較的容易に情報つかめたことや噂が巷に広がっている理由は、アルジャークが意図的に情報を流しているからと考えるべきであり、その目的は当方を混乱させ戦う前から戦意を挫くことであると思われる。

 イグナーツ将軍はそう分析してみせ、そしてその分析は大筋において正しかった。確かにアルジャークは遠征に関する情報を意図的に流し、カレナリアの戦意を挫くことを意図していた。

 ただアルジャークにはもう一つの意図がある。それは「カレナリアを攻める」と声高に宣言してみせることで、もう一つの目的であるテムサニス王国への遠征をギリギリまで悟られないようにすることであった。

 イグナーツの言葉にその場がざわめいた。誰もが「まさか」とは思いつつも、否定できるだけの明確な論を持っていなかった。

「静かにせよ」

 エルネタードの言葉で静寂が戻る。彼はそのまま視線をイグナートに向けた。

「してイグナーツよ。そなたはどのような対応を取るべきであると考える?」
「一戦を避けることは叶わぬでしょう。なれば早急に兵を集め準備を整えるべきです」

 武人らしくイグナーツは主戦論を唱えた。敵が武力をもって侵略してくるというのであれば武力をもって対抗するほかない。武官であれば誰もが理解を示すであろう思想を、イグナーツもまた持っていた。

「少々、お待ちください」

 しかしこの世は武官だけで構成されているわけではない。その中には無論、イグナーツの考えに異議を唱えるものも存在するのだ。

「正式な宣戦布告もないのに、こちらが戦の準備をすればアルジャークを無用に刺激することにはなるまいか」
「その通りだ。それにこちらから動けば向こうに戦争の大義名分を与えることになる」
「そもそも戦争回避のための外交努力を行わないまま、ただ兵を整えるのは横暴というものでしょう」

 いわゆる文官勢力というヤツが、口々に反論を述べていく。彼らは別に武官たちに手柄を立てさせたくない、と思っているわけではない。たった一つの輝かしい武功が国家百年の計に勝るといわんばかりの風潮は、確かに彼らにとって面白いものではない。しかし、彼らは「戦争をすればお金が掛かり労働力が減りモノが壊れる」という歴然たる事実を知っているから反対するのである。

 ただイグナーツからすればいかにも迂遠である。すでに剣を研ぎ矢を揃えている敵を口先八丁で丸め込めるならば、この世に戦などありはしない。

「では方々にお聞きするが、この事態に際しどのような対応を取るべきと考えられる?」

 イグナーツと同じ武官の一人が、そういって文官たちの方に目を向けた。言葉は丁寧だが、音には若干の侮りが含まれている。

「当面は大使館を通じ戦争回避のための外交努力を行うべきでしょう。軍を動かすのは、実際に宣戦布告がなされてからでも遅くはないはず」

 侮りの口調にムッとした表情をしながらも、若い文官は滑らかにそう答えた。この場にいる以上は優秀なのだろうが、心のうちを顔に出す辺り、イグナーツから見てもまだまだ若い。

「それでは遅いのですよ。軍というのは命令を出してすぐに動けるのはごく一部です」

 例えば弓兵一万人に矢を五十本ずつ持たせれば、それだけで矢は五十万本必要になる。これを一日分として考え一週間戦うとすれば、さらに七倍の三五〇万本の矢が必要になる。装備はこれだけではないし、当然の話として食料が必要になる。常に臨戦態勢ですぐに動ける部隊などほんの一部である。

 カレナリアですぐに動かせる常備軍はおおよそ十万といったところであろうか。しかしそれにしたって国中全てあわせて、である。そもそも集結させること自体に時間がかかる。なによりも二十万とも三十万とも予測されるアルジャーク軍には、これだけでは足りないのが眼に見えている。

 要するに軍を動かすには、準備の段階で時間と金が必要なのだ。今回のように大軍を動かす必要がある場合は特にそうだ。

「それはアルジャーク軍とて同じであろう?」
「左様。ですからアルジャーク軍と同じく、今このときより準備を始めなければなりません」

 イグナーツが穏やかにそう切り返すと、文官は言葉に詰まった。その文官は、

「アルジャークは宣戦布告をしてから準備をするはずで、ならばこちらもそれにあわせれば問題はない」
 と考えていたが、イグナーツは

「アルジャークがこちらの都合に合わせてくれる保証はなく、宣戦布告がなされた時にはすでに準備が完了していると考えるべきだ」
 と主張したのである。

「加えて遠征軍の総司令官はクロノワ・アルジャークであると聞く。ならば宣戦布告と同時に国境が破られることも有り得るかと」

 ここでイグナーツが言う「宣戦布告と同時に国境を破る」という行為は、「国境付近に軍を待機させておき、あらかじめ決めておいた宣戦布告の時間に行動を開始する」ということではない。この場合であれば、カレナリアは事前に敵軍の襲来を高確率で予測できる。なにしろ国境付近に大軍が集結している。それを察知するのは比較的容易であろう。無論、対処できるかは別問題であるが。

 イグナーツが言っているのは「アルジャーク軍が不意をうって領内に侵入する可能性がある」ということである。
 イグナーツの言葉に会場がざわめいた。エルネタード国王がそれを制し、彼に説明を求める。

「前回クロノワは騎馬隊による先行を決行し、それにより大きな功績を挙げました」

 クロノワがどのようにしてモントルムを征服したかは、無論イグナーツも聞き及んでいる。騎馬隊の機動力を生かした先行作戦は、あの場合にしか使えないような奇策だが確かに上手くいった。ましてモントルム領とカレナリアの国境には、防波堤となるべき砦はないのだから。前回の成功に気を良くしたクロノワが、しかるべき改良を加え今回もその作戦を用いることは十分に考えられる。

「宣戦布告をされてから準備を整えるなどと悠長なことを言っていては、戦わずして降伏しなければならなくなるでしょう」

 イグナーツはそう締めくくった。準備は早ければ早いほど良い。彼はそう主張したのだ。

「だが、将軍の論は全て憶測であろう………?」
「左様、全ては憶測。しかし憶測なくして国家の展望を描けないのもまた事実」

 未来のことを語るときに大なり小なり憶測が混じるのは仕方がない。重要なのはその憶測が過去の事実に基づいているか、ということだ。基づいていればそれは“予測”となり、基づいていなければ“妄想”と呼ばれるのだ。さらにクロノワの名に付随する「策略家」としてのイメージがその“予測”の確率を上げていく。

 会場が沈黙した。弁論は出尽くしたようである。あとはエルネタード・カレナリア国王の采配を仰ぐのみである。

「大使館を通じ戦争回避のための努力を続けよ。軍部はいつ宣戦布告がなされても良いように準備を整えるように」

 ただし間違っても国境侵犯などしないように、とエルネタードは厳重に注意した。それではアルジャークに宣戦布告のための正当な理由をくれてやるようなものだ。

 こうして、落ち着くべき結論に落ち着いて御前会議は終わったのであった。

**********

 来るべきアルジャークとの決戦に備え、軍の準備を任されたイグナーツの基本姿勢は実に明快であった。

 数で敵を上回ること。これこそが戦略において最も重要であると、イグナーツは考えている。

 古来より曰く「大軍に兵法なし」

 敵を上回るだけの戦力を整え、遊軍をつくることなく真正面からぶつかる。一見すれば地味であるが、それだけに堅実で勝算も高いといえる。ぶつかった後は戦術レベルの世界になるが、国家という組織であれば一定水準以上の指揮官をそろえていることを期待できる。実際イグナーツの同僚たちは優れた武人だ。

 イグナーツの基本姿勢に則って、カレナリアの軍部は二五万の兵を集めた。いや、この時点では集めるメドを立てた。なにしろ本来畑違いである海兵を陸に上げてまで数をそろえたというのだから凄まじい。

 イグナーツの本音を言えばもっと集めたかった。だがしかし理想を実現するには様々な障害が立ち塞がるものだ。資金不足とか資金不足とか資金不足とか。それでも二五万集めるメドが立ったのだ。御の字というべきであろう。

 さて、兵の数についてはメドが立った。すでに指示は出してある。後は部下が上手くやるだろう。

 ちょうどそんなときであった。イグナーツのもとにとある報告がもたらされたのは。

「国境付近でアルジャークの斥候と思しき目撃証言が多数、か………」

 国境侵犯だの不法入国だのはこの際置いておこう。そちらは大使館にでも任せて置けばよい。問いただしてみたところでしらばっくれらるのがオチだろうが。

 提出された報告書を読み進めていくと、目撃証言は国境線全体から上がっている。これだけでもかなりの数が組織的に動いていることが予測された。

「果たしてその目的は………?」

 普通に考えるならば、開戦を控えての情報収集だろう。詳しい地形などの地理的な情報は多いほどいい。だがそれにしても探る範囲が広すぎる。

「行軍の基本的なルートはまだ決めていない、ということか………?」

 イグナーツはそう考え、しかし自分の考えに確信を抱けないでいた。
 今回アルジャークが動かすのは二十万とも三十万とも言われる大軍である。その大軍を動かすには、当然街道を、踏み固められた道を用いるのが最も良い。主要な街道はすでに地図に記載されており、それはアルジャークも持っている。なればこそ国境線全体という探査範囲は腑に落ちないものがある。

 報告書によると、斥候のほとんどは馬に乗った騎兵であるという。もとより騎兵はその機動力を生かし、斥候などの情報収集にも活躍する。ゆえにこれ自体はおかしいことではない。

「騎兵、か」

 イグナーツはポツリと呟き、報告書に目を走らせていく。今のところ衝突した事例や流血沙汰になったことはないようだ。アルジャーク側も恐らく気をつけているのだろう。そして報告書の最後には、次のような噂がまことしやかに囁かれている、という付記が載っていた。

 曰く「クロノワ・アルジャークはモントルム遠征で騎馬隊を先行させ大きな戦功を上げた。今回もそうするに違いない」

 その噂話はイグナーツの予測とピタリと一致していた。さらに報告書の内容とあわせ、彼の頭の中で思考の連鎖反応が起こった。

「国境付近に出没しているアルジャークの斥候は、先行する騎馬隊の侵入ルートを下見していたのか………!?」

 そう考えれば、筋は通る。クロノワの名にちらつく策略家としての影が、イグナーツの中で肥大化していく。

 思いもよらぬ場所から騎馬隊を侵入させこちらをかく乱する。あるいは適当な場所に戦線を張らせて本隊を導きいれる。領内に潜んでおいてこちらの補給線を脅かす。そんなシナリオがイグナーツの頭に浮かんでは消えていく。

「いずれにせよ………」

 いずれにせよ、早い段階でクロノワ・アルジャークの思惑に気づけたのは僥倖であった。要は先行してくるであろう騎馬隊が好き勝手に動くのを防げばよいのだ。それだけでアルジャークの、いやクロノワの戦略に狂いが生じる。

「そのためには………」

 そのためには、どうすればよいか。イグナーツは「対先行騎馬隊作戦」を急速に練り始めていった。

**********

 大陸暦一五六四年七月の半ば、ついにアルジャーク帝国はカレナリア王国に宣戦布告した。その口上は歴史書を紐解けば簡単に知ることができる。

 曰く「カレナリア王国は軍備を整え我がアルジャーク帝国を侵略せんしている。我が帝国は国土と臣民の安寧を守るためカレナリア王国へ出兵するものなり」

 明らかな言いがかりであるが、そもそも宣戦布告などというものはされる側にしてみれば、どのような内容であろうとも言いがかりであろう。特に今回のカレナリアのように国力で劣っている場合は。

 宣戦布告の報を受け、イグナーツを始めとするカレナリア軍部はすぐさま動いた。彼らの想定としては、宣戦布告からそう間を置くことなくアルジャークの騎馬隊が先行してカレナリア領内に侵入してくることになっている。それに対処するためには時が要であり、可能な限り速やかに部隊を展開する必要がある。

 イグナーツはかき集めた二五万の兵をまず三つの部隊に分けた。右翼、本陣、左翼である。次に本陣を街道上に、右翼をその右前方、左翼を左前方に配置した。両翼と本陣の間の距離は、馬を走らせて半日といったところであろうか。地図上でその配置を確認すれば国境に底辺を向けた二等辺三角形を描く。それぞれの戦力は両翼がそれぞれ六万五〇〇〇、本陣十二万である。各部隊には索敵を密にし、報告を欠かさないように厳命してある。

 仮にアルジャーク騎馬隊が街道以外の場所から国境を破っても、これにより早期に発見できるだろう。街道を駆け上ってくるならば本隊に突き当たる。

(これでアルジャークの騎馬隊の動きを制限できるはずだ…………)

 イグナーツは頷いた。そしてできることならば早期に敵騎馬隊を補足し、本隊と合流する前に叩いてしまいたい。そうすればクロノワの戦略を多少なりとも狂わせることができるし、また敵の絶対数を減らすこともできる。なにより緒戦に大勝できれば兵の士気は大きく上がるだろう。

「いつでも来るがよい」

 イグナーツは腕を組み、まだ見ぬアルジャークの騎兵隊に鋭い眼光を向けるのであった。





[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:19

 イグナーツは焦っていた。

(どうなっている………!?)

 すでに宣戦布告から二週間近くが経過しようとしている。にもかかわらず、いまだアルジャーク軍騎馬隊発見の報は入っていない。アルジャークの斥候らしき騎兵を遠目に見かけることはあれど、それ以上の集団を発見することはいまだどの隊も出来ていない。

(どうする………?早く次の手を考えねば………)

 ただ単にアルジャーク軍騎馬隊の発見が遅れているだけであれば、イグナーツもここまで焦ることはないであろう。しかし彼はもう一つ厄介な問題を抱え始めていた。

 ――――兵糧が、足りなくなってきている。

 決して兵站を疎かにしていたわけではない。しかし、なにしろ二五万の大軍を動員するのはカレナリア王国始まって以来初めてである。二五万人分の食料を確保し続けるには、この国は少しばかり能力が足りていない。なんとか量を減らしたりして食いつなぎ、その間に後方が必死に兵糧をかき集めてくれて今まさに輸送中というが、なんにせよこのままではジリ貧である。

 早く次の手を打たなければならない。
 なんにせよ動くのであれば三つに分けた部隊を集結させねばなるまい。ただ部隊を動かした途端にアルジャーク軍の騎馬隊が動くかもしれない。そう考えるとなかなか部隊を動かせない。そもそも兵糧が補給されるまでは大掛かりな動きは取れない。

 結局、何も出来ない。

 イグナーツは焦る。来るのがアルジャークの騎馬隊であれば十分に対応が可能である。と言うか、それに対応するための布陣である。

(だがもし………)

 だがもし来るのがアルジャーク軍の本隊であったら?もしそうであれば部隊を広く展開させているカレナリア軍は各個撃破の危険にさらされる。敵軍が街道を使い、なおかつ伝令と連動が最大限上手くいけば包囲殲滅作戦ができるかもしれないが、それは楽観が過ぎると言うものだろう。

 アルジャーク軍の騎馬隊なら早く来て欲しい。しかし本隊はまだ来ないで欲しい。イグナーツの心の内はなんともチグハグであった。

**********

「まさかこんなに上手くいくとは」

 成功したというのにクロノワはどこか呆れた声を上げた。
 何が成功したかと言えば、それはもちろんクロノワがアールヴェルツェから借りた騎馬五百騎を使ってしかけた悪戯である。

 悪戯の内容は実に単純だ。騎馬五百騎を使ってカレナリア国境付近の情報を徹底的に集めさせた。加えて「クロノワは今回の遠征も騎馬隊を先行させるに違いない」という噂を流した。

 情報収集は、文字通りの情報収集である。地図には載っていない地理情報など、集めうる限りの情報をクロノワは集めさせた。集められたこれらの情報は遠征の計画を練ったり、また実際に軍を動かすときにも大いに役に立った。

 さて、悪戯の大部分は噂である。上のような噂を流し、さらに国境付近で斥候を動かし噂の信憑性を高めた。つまり、「斥候は騎馬隊を先行させるために情報を集めているのだ」と勘違いさせたのだ。

「来もしない騎馬隊を気にしているのであれば、それは隙になります」

 クロノワが仕掛けたのは、いわば敵指揮官に対する心理戦である。前例を基にこちらの戦略をチラつかせ、対応を誤らせるのが目的だったのだ。

 この悪戯、失敗しても特に問題はない。
 集めた情報はそれだけで価値がある。敵が流言に踊らされなくとも、こちらが失うものなど何もない。いずれは大きな決戦をしなければならず、その時に少々有利になっていれば御の字。クロノワとしてはそう考えていた。

 しかし、イグナーツはこの噂を気にした。いや、クロノワの影を気にした、と言ったほうがいいかもしれない。そして彼はアルジャーク軍ではなく、アルジャーク軍の先行してくるであろう騎馬隊に対応するため布陣を組んでしまったのだ。

「殿下の悪戯が思いのほか上手くいったのは、こちらにしてみれば僥倖。この幸運を最大限活用すべきでしょう」

 アールヴェルツェはクロノワを「閣下」とではなく「殿下」と呼んだ。この場で遠征軍を率いているのはモントルム総督ではなくアルジャーク帝国第二皇子である、ということなのだろう。こういう生真面目なところはいかにも彼らしい。

「そうですね。敗因なくして勝因無し。敵の失策には最大限付け込みましょう」

 今のクロノワは遠征軍総司令官である。彼の双肩に遠征軍二一万五〇〇〇の命が掛かっている。敵兵の命まで気にしている余裕はない。それをすべきなのは敵の司令官のほうであろう。

「レイシェルとイトラは上手くやってくれるでしょうか」

 レイシェル・クルーディとイトラ・ヨクテエル。二人は共にアルジャーク軍の将軍で、今回の遠征でもそれぞれ部隊を率いている。二人ともまだ若いが現状でも十分に優秀だし将来有望であると、アールヴェルツェは二人の才をかっている。

 二人は今、それぞれ一万五〇〇〇の部隊を与えられカレナリア軍左翼と思しき部隊へ接近している。その任務はカレナリア軍を本隊が待ち受けるこの場所まで誘導することである。

 斥候の情報によると、補足したカレナリア軍の戦力は六万から七万。発見した位置や数から考えて街道の反対側に同程度の規模の部隊(右翼)がもう一つ展開しており、さらに街道上には本隊が陣取っているだろう、というのが遠征軍幕僚たちの一致した見解だ。正確な位置関係は分らないが、少なくとも目で見て見える範囲にはいないとの事だ。

 今回のクロノワの戦術を簡単に要約すると、「我全力を上げて敵分隊を叩く」と言う言葉にまとめることが出来る。わざわざ敵が戦力を分散させてくれたのだ。これに付け入らない手はない。

 ただ全軍で襲い掛かると、その笑い出したくなるような戦力さゆえに、戦わずに逃げられてしまう可能性もあるので、レイシェルとイトラの軍を餌にしておびき寄せようというわけだ。

(さて、少し緊張を高めておくとしますか………)

 また、あの血生臭い殺し合いが始まるのだ。

**********

 イグナーツ・プラダニトが焦っていたころ、彼の指揮下で左翼を任されているベニアム・エルドゥナスは苛立っていた。

「アルジャーク軍はまだ見つからんのか!?」

 ベニアム・エルドゥナスは猛将として知られるカレナリアの将軍である。彼が指揮を執れば軍勢の破壊力は二割増しになると言われているが、その反面感情的で気の短いところがある男だった。

 彼が苛立っている理由は、イグナーツが焦っている理由とほぼ同じである。敵は見つからない。食料は足りていない。動くに動けない。イグナーツとベニアムの二人の心情の差は、そのまま二人の性格の差異であろう。

 ベニアムは苛立たしげに腕を組み、貧乏ゆすりをしながら何かを睨みつけている。彼の気が短いことを知っている部下たちは、その視界に入らないようビクビクしながら動いていた。まだ被害者は出ていないが、それも時間の問題のように思われる。

 ベニアムの忍耐力が限界に差し掛かっていたそんなとき、その報告はもたらされた。

「アルジャーク軍を発見しました!」

 偵察に出ていた斥候が転がり込むようにしてベニアムの前に出てきた。その報告を聞くと、ベニアムは猛然と立ち上がった。

「どこだ!?」
「真っ直ぐこちらに向かってきています!その数は三万程度かと!」

 そこまで聞くと、ベニアムの興奮も少し収まった。そして彼はさらに詳しい情報を聞き出していく。

「敵軍の構成は?」

 もともとアルジャークの騎兵隊に対応するための布陣だが、すでに開戦から二週間近くが経過しており、騎馬隊だけを先行させている可能性は低いとベニアムは考えていた。

「歩兵も混じっています。恐らくは普通の軍の構成かと」

 一つ頷いてから、ベニアムは斥候を下がらせた。それから全軍に指示を出し臨戦態勢を整えさせる。さらにアルジャーク軍襲来の報を本陣に伝えるべく伝令を出す。その伝令には、敵軍の規模、構成などを必ず伝えるよう厳命しておく。

 一通り指示を出し終えてから、ベニアムは自身の甲冑を着込んでいく。
 血がわき立ち、心が躍る。

 これから始まるのは、どう言いつくろっても殺し合いでしかない。それを楽しむわけでは決してないが、待ち望んでいたこともまた確かなのだ。

(あるいは人としては不謹慎なのかもしれぬが………)

 ベニアムは武人でありこの国を守る剣だ。そしてその在り方に誇りを持っている。ならば自分を否定することなく、今に悲観することなく、将来に絶望することなく、己の職場である戦場に立ちたいと、ベニアムは思うのだ。

 馬にまたがり陣頭に立つ。彼が見据える先には、非友好的な一団が迫ってきている。

「全軍戦闘隊形を整えろ!」

 一方には遅すぎた戦端が今、開かれようとしている。

**********

 アルジャーク軍の戦い方は、なんともベニアムをイライラさせるものだった。

 まともに戦おうとしない。

 最初の一撃こそ苛烈を極め、「さすがはアルジャーク軍」とベニアムも唸ったのだが、それ以降は消極的な攻撃と撤退を繰り返すばかりで、まともに戦おうとしない。軽くいなされているかのような感覚に、頭に血が上っていく。

「腰抜けが!精強を誇る兵が泣いておるぞっ!」

 苛立ちを隠そうともせず、ベニアムは叫んだ。そしてその勢いのままに、二つに分かれているアルジャーク軍の一方に兵力を集中させる。だが絶妙のタイミングでもう一方に邪魔をされ逃してしまう。先程から万事この調子だ。

 二つの部隊を率いている二人の将は、疑うことなく有能な用兵家だ。兵の動かし方やそのタイミング、さらに隷下の兵士たちの士気を見ていればすぐに分かる。優れた用兵家と雌雄を決するのはベニアムとしても望むところなのに、肝心の敵がまともに組み合おうとしない。彼のイライラは募るばかりだ。

 ただベニアムは苛立つばかりではなく、焦ってもいた。戦闘が始まってからの様子を見るに、一手間違えれば敵は手の届かないところに逃れてしまうだろう。それではまずいのだ。敵に対して二倍以上の数を揃えているこの局地戦を何としてもモノにし、敵の絶対数を減らし意気を挫かねばならない。

「足を止めるな、前に出ろ!敵を逃すな!!」

 猛将ベニアムに指揮されたカレナリア軍の勢いは凄まじい。「彼が指揮を執れば軍の破壊力は二割増しになる」と言われるだけのことはある。カレナリア兵は半ば狂ったようにアルジャーク軍に襲い掛かっていく。

「まるで猪だな………」

 背中に感じる冷たいものを無視しながら、レイシェル・クルーディはそう呟いた。彼は若いながらも隙のない用兵家として知られており、アレクセイやアールヴェルツェといった年長で経験豊かな将軍たちからも高い評価を得ている。

 迫り来るカレナリア軍をレイシェルは猪と評したが、ただの猪ではあるまい。人を跳ね飛ばし木々をなぎ倒す、巨躯にして獰猛な猪だ。反面、ただ前に進むことしか知らぬ、という評価も含んでいる。

「凄まじい喰い付きだな」

 そう言って馬を寄せてきたのはレイシェルの同僚であるイトラ・ヨクテエルだった。陽気な男で、レイシェルと比べると用兵の精密さには欠ける。だが彼が指揮する部隊は逆境でも士気が下がらず、その逆境を幾度となくはね返してきた。

「単純に逃げても追って来るんじゃないのか?」

 レイシェルとイトラの任務は、現在交戦中のカレナリア軍をアルジャーク軍本隊が待ち構えている場所に誘導することである。二人は消極的な攻撃と撤退を繰り返してカレナリア軍をここまで誘き出してきたのだが、敵軍の様子を見るにこのまま全力で撤退しても追って来てくれそうである。

「いや、全力で撤退すれば敵がつけ上がる。このままいくべきだ」

 戦術的撤退とはいえ、背中を見せて逃げれば敵は調子に乗るだろう。それに攻撃の仕方から敵将はかなり苛立っていると見える。出来れば完全に理性を吹き飛ばしてから本隊とご対面させてやりたい。

「………ヒドいな、お前………」
「緒戦は派手に勝つに限る」

 真顔でそう言い切るレイシェルにイトラは呆れたように了解を伝えてから自分の部隊の指揮に戻った。イトラが指揮する部隊の士気は高い。将官はともかく、一般の兵士には精神的に辛い撤退戦であるにもかかわらず、だ。

(相変わらず、だな)
 士気が高い部隊が味方にいるのは頼もしい。

(この作戦は上手くいく)

 馬上で味方を鼓舞し指揮をとる、同僚にして友人の姿を認め、レイシェルはそう確信した。

**********

 逃げるアルジャーク軍を追うカレナリア軍、その将であるベニアム・エルドゥナスの理性はもはや完全に吹き飛んでいた。彼の指揮する軍はもはや一個の狂気と化し、そこには戦術や組織としての整然さといったものは見当たらない。兵士たちは集団の狂気に身を任せひたすら前進していく。本来それを統御すべきベニアムは、むしろ進んでその狂気を煽っていた。

 敵将の理性がはじけとんだことはイトラ・ヨクテエルの目から見ても明らかであった。なにしろ逃げるアルジャーク軍のほうが整然としているくらいである。ただその迫り来る圧力はさすがに凄まじく、下手な手を打てばすぐにでも喰いちぎられてしまう予感があった。

(そろそろ頃合か………)

 二重の意味で。そして自分よりも戦術眼が優れている友人もそのことに気づいているに違いない。

 敵の指揮官は感情的になりもはやその用兵に脅威を感じることはない。敵兵の勢いは確かに凄まじいが、言ってしまえばそれだけでなんら獣と変わらない。獣と言っても獰猛極まる野獣だが、怖気づくことさえなければ対処して見せる自信はある。

 そしてさらに、そろそろ本隊との合流地点だ。もう少しすれば数の上でも上回る事ができる。しかも圧倒的に。

 イトラがそう考えていた矢先のことであった。アルジャーク軍分隊を猛追するカレナリア軍の左側面からアルジャーク軍本隊が現れたのは。

 後で知った話だが、この時突如として現れたのは本隊の全軍ではなく、歩兵ばかりが五万程度だったと言う。もっともそう遠くない位置に残りも控えていたそうだが。

 その軍隊はあまりにも突然に現れた。なにしろもうすぐ合流できると知っていたイトラで、さえも思いもかけぬ場所から現れ驚いていた。あとでレイシェルに確認したところ、彼も驚いたと言う。見晴らしは良いが、何もない草原というわけでもない。よほど上手く隠れていたのだろう。

「さすがはアールヴェルツェ将軍。年季が違う」

 後に若造二人は酒を飲みながらそう唸ったそうな。才能ではなく年季のせいにしたのは、いずれは追いつきそして追い越して見せるという自負のゆえだろうか。

 アルジャーク軍の二人が驚いていたというのだから、カレナリア軍の驚愕はそれ以上であった。目の前の敵を追うべきか、それとも新たに現れた敵に対処すべきか。あるいは逃げるべきか。将たるベニアムは頭に血が上っていたところで意表をつかれ、すぐさま指示を出すことができない。結果、カレナリア軍はその場に立ち尽くしてしまった。

「反転攻勢!!この機を逃すなっ!!」

 その隙を逃すレイシェルとイトラではない。作戦上、最初の一撃以外まともな攻撃をしてこなかった二人の部隊は、今までの鬱憤を晴らすかのように猛然とカレナリア軍を攻め立てた。新たに現れた援軍とカレナリア軍の間には、まだ若干の距離があり接触には至っていない。敵を逃さぬためにも二人は苛烈な攻撃を仕掛けた。

 カレナリア軍は今まで敵を追い逃がさないことに集中するあまり、隊列は乱れもはや組織ではなくただの集団に成り下がってしまっている。加えて足を止めてしまったことで、唯一の脅威であった勢いもなくなっている。そんな敵軍をアルジャーク軍の二人の将軍は紙でも切り裂くが如くに蹂躙して行った。

 水平に放たれた矢が死者と負傷者を量産していく。馬上から振り下ろされる斧は兜ごと敵兵の頭を叩き割り、槍は喉を貫いて血に濡れる。イトラが敵兵を切り捨てれば、レイシェルも槍を一閃させて雑兵をなぎ払っていく。

 この時のベニアム将軍の対応について批判するのは酷であろう。確かに将軍は頭に血が上り細かな指示が出せる状態ではなかったが仮に冷静であったとしても、いや指揮官が誰であったとしても、アルジャーク軍が突撃してくる前に隊列を組みなおしこれを防ぐことは無理であったろう。それほどまでに二人の将軍は迅速に動き、アルジャーク軍の動きは速攻を極めた。

 今まで獲物でしかなかったはずのアルジャーク軍から反撃を受け、しかも新たに現れた敵援軍が左側面に襲い掛かられ、カレナリア軍は一気に恐慌状態に陥った。さらに敵援軍の後ろにはさらに十万以上のアルジャーク軍が控え、猛然とこちらに突進してくるのである。

 誰かが言った。「逃げよう」と。しかし………。

「貴様らぁぁあ!逃げるなっ!!逃げるヤツはワシが斬るっ!!」

 血走った目で剣を振り上げ、ベニアム将軍がそう大音声を張り上げた。カレナリア兵たちは知っている。自分たちの指揮官であるベニアム・エルドゥナス将軍ならば、本当にやりかねないことを知っている。そして微妙な判定の結果、指揮官への恐怖がアルジャーク軍への恐怖に勝った。忠誠心などではなくベニアムへの恐れのために、兵士たちはアルジャーク軍と戦っていた。

 結論から言えば、このベニアムの対応こそが致命的であった。
 カレナリア軍は隊列を組みな直して組織的な反撃を試みることができず、一人また一人と倒れ損害ばかりが大きくなっていく。ベニアム将軍が徹底抗戦でなく戦術的撤退を選択していたら、あるいは背後を襲われカレナリア軍左翼は半数以上を失ったかもしれない。しかし三万程度であろうとも本陣と合流し、さらにそこに右翼が加わればカレナリア軍は二一万五〇〇〇となり、アルジャーク軍と数の上では拮抗できる。しかしベニアム将軍が徹底抗戦を選択したがために彼が戦死するまで抵抗は続いた。そして彼が戦死したために組織的な撤退と本陣への合流をすることができず、結果としてカレナリア軍は牙六万五〇〇〇をほぼ丸ごと失ったのである。

 とはいえ全ては結果論である。なんら役に立つものではあるまい。

 ベニアム将軍は数騎を率い自ら敵軍へと突撃した。敵騎士から奪った槍を振り回し敵を撃殺しながらひたすら前に進んでいく。この戦いに勝つにはもはや大将を討ち取るほかないと彼は思っていた。

 悪鬼羅刹のごとくに敵兵をなぎ倒しながら進んでいくベニアムを仕留めたのは、一本の矢だった。首に矢が突き刺さった彼は落馬し絶命した。その矢を射た者の名を歴史書は伝えていない。

 ベニアムが戦死したことでカレナリア軍は一挙に崩壊へと向かった。ベニアム将軍配下の幕僚たちがなんとか兵をまとめようとするが、それもかなわない。結局、生き残ったカレナリア軍のほとんどが武器を放り出し甲冑を脱ぎ捨てて逃亡し、この戦いの幕は下りたのである。

**********

 カレナリア軍の崩壊を見届けたクロノワは、イトラとレイシェルの案内で敵陣が張ってあるところに来た。敵将が全員連れて行ったのか、はたまた残っていた者たちはこちらの軍勢を見て逃げたのか、陣の中は無人であった。日はすでに傾き、空は赤くなっている。今日はここで野営をすることになりそうだ。

 決して多くはないが残っていた物資は戦利品としていただくとして、その中でクロノワが最も喜んだのは、陣の最奥の大きな机の上に放置された一枚の地図であった。

「これは、カレナリア軍の配置図、ですな」

 地図上には三つに分かれたカレナリア軍がどこに配置されているかが記されていた。国境線に底辺を向けた二等辺三角形の、それぞれの頂点に軍が配置されていると思えば分りやすい。

 本陣は街道上に配置され、街道を挟んで左右に両翼が置かれている。両翼と本陣の間の距離は馬を走らせて半日、両翼間は一日といったところであろうか。

 この地図を見て、クロノワは思わず苦笑した。カレナリア軍の分隊と思しき一団がこの位置にいたことから、自分の悪戯が成功したことは分っていたが、こうして改めて見ると想像以上だ。

(文字通り、「ここまで上手くいくとは思わなかった」、ですね………)

 とはいえこの状況はアールヴェルツェに言われたとおり、アルジャーク軍にとっては僥倖である。せいぜい楽に勝たせてもらうとしよう。

「敵の残りはどれほどだと思いますか?」

 地図上で見るところの左翼は壊滅させた。残りは右翼と本陣である。どれほどの兵がカレナリア軍には残っているだろうか。

「そうですな、右翼の規模は左翼とほぼ同じでしょうから六~七万。本陣はその二倍を想定して十二~十四万と言ったところでしょうかな」

 腕を組み顎を撫でながらアールヴェルツェは答えた。合計すれば十八~二一万になる。いささか幅が大きいように思われるが、どうやら敵に数で上回られることはなさそうだ。

「左翼と我々が接触したことを、本陣は知っていると思いますか?」
 アールヴェルツェの答えに一つ頷き、次にクロノワはそう尋ねた。

「知っている、と考えて動いた方がよろしいかと」

 そう答えたのはレイシェルであった。仮にレイシェルとイトラの囮部隊を発見してからすぐに本陣に伝令を出したとすれば、そろそろ着く頃だろう。

「敵はどう動くでしょうか」

 候補としてはいくつかある。
 一つ、左翼の援護に向かう。右翼には伝令を出して、左翼の位置で合流させる。
 二つ、敵が三万程度であれば負けることはないと考えて、右翼と合流する。
 三つ、動かず、その場で右翼と合流する。

「我々にとって一番嫌なのは、右翼と合流されることですな」

 アールヴェルツェの言葉にその場にいた一同は頷いた。敵軍が合流してしまえば、各個撃破ができなくなる。敵の残りの全軍と真正面から戦って負けるとは思わないが、楽に確実に勝てるならばそうしたい。

「………ともかく、今日はここで野営しましょう。知らない土地で夜動き回るのはできれば避けたい。」

 そして明日以降はとりあえず地図上の敵本陣の位置へ向かうとする、とクロノワは言った。敵本陣が左翼の援護に動いているとすれば、途中で鉢合うだろう。動いていなければ、恐らく右翼と合流される前に叩ける。移動していても最低限街道を抑えることができ、優位には立てるだろう。

「分りました。その方向でいきましょう」

 そう言うとアールヴェルツェは微笑んだ。まるで正解を出した生徒を褒める教師のようだ。実際、クロノワと彼の関係はそんな感じだが。

「斥候を出しますか?」
 そう尋ねたのはイトラだ。

「ええ、お願いします。周りに敵が潜んでいてはゆっくり休めませんから」

 蹴散らしたカレナリア軍左翼の崩壊の様子からすると、近くに伏兵がいる可能性は低そうだが、警戒するに越したことはない。

(さて、戦局は動きました。貴方はどう動きます?)

 空を見上げれば、太陽はすでに沈んでいる。夜と昼の曖昧な境界を見上げ、クロノワはまだ見ぬ敵の主将に思いをはせた。

**********

 左翼がアルジャーク軍の先鋒と思しき一団と接触した、という報がカレナリア軍本陣にもたらされたのは日が傾いた夕方のことであった。聞けば敵の規模は三万程度で、その編成は通常の軍と変わらぬという。

(騎馬隊の先行ではなかったか………)

 一通り報告を聞いてから伝令を下がらせ、イグナーツは一人考えを巡らせる。ただ、騎馬隊ではなかったにしろ先行部隊が来たのだから予定通りともいえる。なんにせよいきなりアルジャーク軍本隊と鉢合わせしなかったのは僥倖だろう。

(さて、どう動く?)

 敵の規模は三万程度と言う話だから、左翼が負けることはあるまい。後ろに控えているであろう本隊がどの辺りにいるのかは気になるが、なんにしてもあのベニアムが率いる左翼がそう簡単に負けることはないだろう。

 イグナーツは知らない。この時点でベニアム・エルドゥナスがすでに戦死し、左翼が崩壊していることを、イグナーツは知らない。知らないまま、彼は思考を重ねていく。

(左翼を呼び戻すべきか………?)

 そう考え、しかしすぐに否定する。先鋒は問題なく退けられるだろうが、一戦して全滅させられるわけではないだろう。ならば押さえとして左翼があの位置に必要だ。ベニアムは嫌がるだろうが、防御に徹しさせて時間を稼いでもらうとする。

(右翼はどうする………?)

 敵が左翼のほうに現れたと言うことは、右翼のほうに敵が現れることはあるまい。ならば早急にどこかに合流させないと、右翼が丸ごと遊軍になってしまう。

(一番堅実なのは………)

 一番堅実なのは本陣と右翼をその中間地点で合流させ、左翼の援護にむかうことだろう。別々に左翼に向かわせると、右翼がアルジャーク軍本隊に捕まる可能性がある。

(しかし、な………)

 しかし、それはできない。散々せっついてようやく用意できた兵糧が、今まさに本陣のこの位置へと向かっているからだ。本陣がこの位置から動いてしまうと、補給物資を受け取ることができなくなってしまう。

 仕方なく本陣は動かさず、右翼に本陣と合流するよう伝令を出す。左翼との合流にかなりの日数を要してしまうが、仕方あるまい。ベニアムには敵本隊が現れたら、無理をせず引くように命令しておこう。

(さて、戦局は動いた。貴殿はどうするのかな)

 アルジャーク軍を率いるクロノワ・アルジャークにイグナーツは思いをはせた。ただ心中は苦い。自分の対応がどうして後手後手に回っているように思われてならないのだった。




[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:20

 千年の昔、エルヴィヨン大陸は大小さまざまな国々が入り乱れた戦国時代でした。

 戦いに疲れた人々は、神々に救いを求めました。

 大陸のほぼ中央にあるアナトテ山にある、とある教会の神殿にも多くの人々が救いを求めてやって来ました。

 神殿の門前にはパックスの街がありました

 神殿と、そして神殿に入りきれない人たちはパックスの街で、神々に乱世からの救いを求めて祈りました。

 そして、ついにその祈りは聞き入れられたのです

 人々の敬虔な祈りに心を動かされた神々は、神界の門を開きパックスの街とそこにいる人々を神界に、争いのない世界へと引き上げたのです。

 それから神々は神子を選んで世界樹の種はめた腕輪を与え、こう言われました。

 「あまりに多くの人が肉体の器をつけたまま神界の門をくぐることは良くない。神子が敬虔な人々の魂を伴ってその門をくぐる。一度にただ一人、神子だけがその門をくぐるのである。そしてその腕輪を受け継いだものが次の神子となる」

 世界樹の種が赤く光る頃、神子は御霊送りの祭壇で祈りをささげ、神界の門をくぐるのです。

 神界に引き上げられたパックスの街は、今は大きな湖になっています。

 その湖を望む御霊送りの祭壇は、今日も神界の門が開くのを待っているのです。

 ………「御霊送りの伝承」、カルバン・キャンベル記す。

**********

「賛成四、反対二、棄権一でこの議案は可決されました」

 議長役の枢機卿のその声が議場に響き渡ると、枢機卿の一人カリュージス・ヴァーカリーは深い深い嘆息のため息をついた。

 ポルトールの西にラトバニアという国があり、そのさらに西にジェノダイトと言う国がある、と言う話は前にした。そのジェノダイトの北にはサンタ・ローゼンが位置し、その東つまりラトバニアの北にはサンタ・エルガー、その北にはサンタ・シチリアナ、その西にサンタ・パルタニアがそれぞれ位置している。

 この「聖(サンタ)」の名を冠した四ヶ国こそ世に言う「神聖四国」である。この「聖(サンタ)」の名こそが神聖四国と教会の深い結びつきを内外に示すものであり、これによってこの四カ国は国力でも武力でもなく尊厳や敬意、簡単に言えばエルヴィヨン大陸中の信者から支持を得られると言う点で、他の国々と太い一線を画している。

 神聖四国はエルヴィヨン大陸のほぼ中央部に位置している。そのためか大陸における歴史の主役となることも多く文明の成熟も、たとえばアルテンシア半島やアルジャークなどと比べると早かったが、そのためか今は腐敗し腐臭を放ち始めてさえいた。

 そして、その腐敗と腐臭の源ともいうべき場所が、教会ひいてはその最高意思決定機関「枢密院」なのである。

 枢密院は本来教会の象徴たる「神子」の補弼機関なのだが、神子が組織運営に口を挟むことはまずないため、事実上の最高意思決定機関となっている。歴代の神子の中には枢密院の決定に異を唱えた人物もいたらしいが、当代の神子であるマリア・クラインがそれをすることは考えられない。そもそもかの人は組織運営などから意図的に身を引いている感がある。

 枢密院は七人の枢機卿から構成されている。議長役は持ち回りで、なったからと言って何か特権があるわけではない。強いて言うならば、議題を選べるとこだろうか。それにしても結局全て扱うことになるので、有って無いようなものだろう。

 さて、今回の議案は「アルテンシア半島への十字軍派遣について」である。その内容について簡単に説明するならば、神聖四国および周辺諸国に号令をかけて十字軍を組織し、アルテンシア半島に派遣するというものだ。その大義名分として掲げられた文句は、

「教会の教えを受け入れないアルテンシア半島の住民を改宗させ正道をなす」
 というもので、これは翻訳すると

「アルテンシア同盟が弱っているこの好機に半島を侵略し甘い汁を吸おう」
 となる。

(なんとも情けない………)
 カリュージスは頭を抱えて嘆息した。

 どれだけ大仰な大義名分を掲げようとも、やろうとしていることは強盗や盗賊となんら変わらない。しかもそれを宗教組織である教会が旗振りをして、率先してやろうとしているのだ。もはや救いようがないと言っていい。

(そもそもその理由からしてまともではない………!)

 アルテンシア半島での計画的強盗行為が画策された理由は、ひとえに遊ぶ金欲しさである。

 教会はこれまで年間の活動予算のおよそ三割を聖銀(ミスリル)の売却益でたたき出してきた。しかしあろうことかその聖銀(ミスリル)の製法がどこからともなく漏洩してしまったのだ。しかも気がついたときには大陸中の不特定多数の工房に製法がばら撒かれており、もはや手の付けられない状態であった。

 しかし、この状態でもまだ教会は優位にあったといっていい。

 いくら製法がばら撒かれたとはいえ、教会には今まで蓄積してきたノウハウと流通網がある。その二つを駆使すれば、たとえ聖銀(ミスリル)が下がったとしても市場で大きなシェアを独占し、大きな利益を上げることは十分に可能なはずであった。

 しかし、それも今となっては時すでに遅し、である。

 監査という名の魔女裁判と醜い責任の押し付け合いに、教会は時間を費やしすぎた。さらに言えば一部の者は、各々の工房の利ザヤをはねて「濡れ手に粟」を企んだりもしたが、如何せん範囲が大きすぎ上手くいかなかった。

 後に歴史家たちが分析するところの「過去の栄光にすがりつき現実を直視しなかった」がゆえに、教会は時間を浪費し自らその優位性を崩してしまった。しかも「教会の威光があれば高くとも売れる」と高をくくって値下げを行わなかった。もちろん他と比べて明らかに高い聖銀(ミスリル)が売れるはずもなく、教会は年間活動予算のおよそ三割を丸ごと失ったのである。

 しかしこの三割、言ってしまえば遊ぶ金である。清貧を旨とする教会の教えに立ち返り、豪遊を自重すればそれで問題はなかったのである。

 だが教会は、その僧職者たちはそうしようとはしなかった。

「お金がないから遊ぶのは我慢しよう」
 と考えるのでなく、

「お金がないなら他から奪えばいい」
 と彼らは考えたのである。

 考えただけではない。その考えはまたたく間に広がった。一介の僧職者のみならず枢機卿までもが、神聖四国の重臣たちに働きかけアルテンシア半島への十字軍の派遣を形にしていった。神聖四国にしても教会が旗振りをする遠征に乗っかれば、自然と多くの兵が集まり容易に征服ができるという思惑がある。まして今アルテンシア半島は混迷を極めており、まさに千載一遇の好機ではないか。

 教会も神聖四国も、そして同調してくるであろう周辺諸国も、誰も彼もがアルテンシア半島を狩場としてしか見ておらず、そこで他人の犠牲の上にわが世の春を謳歌することを心に決めていた。

(あるいは教会はもう駄目かも知れぬ………)

 個人の欲望に組織が振り回されているのである。まともな状態であるとは到底いえない。仮に十字軍の派遣が上手くいったとして、そこで得られる富は結局「一時的な収入」でしかない。いずれは尽きることが目に見えており、そうなったときに教会は再び流血を求めるのであろうか。

(話しにならぬ………)

 そうなれば教会はもはや盗賊となんら変わらない。他人の戦力を当てにした遠征がそう何度も成功するとは思えないから、最後に待っているのは敗北、それも「教会が旗振りをした十字軍の敗北」である。尊厳と信頼を失った教会に、国土と国民を持たない教会に何が残るのだろう。

(あるいはその敗北、今回訪れるかも知れぬな………)

 アルテンシア半島を征服していったその先に待っているのは、かの英雄シーヴァ・オズワルドその人である。そして彼が率いるのは追い詰められたアルテンシア半島の人々だ。欲望で結びついただけの烏合の衆が、さてどこまで拮抗できるか。

 はぁ、とカリュージスは三度嘆息のため息をついた。

「悩み多き昨今ですな、カリュージス卿」
「これはテオヌジオ卿」

 後ろからカリュージスに声を掛けてきた男の名はテオヌジオ・ベツァイ。年の頃は五十半ばだっただろうか。少々痩せすぎで頬がこけているせいか年齢よりも老けて見えた。彼もまた枢機卿の一人で、枢密院にあっては珍しい宗教家というのがカリュージスの評価だった。

「枢密院にもまともな枢機卿が残っていると分り、少し安心いたしました」

 さきの議決で反対票を入れたことを言っているのだろう。反対票を入れたのはカリュージスとこのテオヌジオの二人である。

「いえ、そのようなことは。それに議案は可決されてしまいました。否決できなければ指して意味はないかと」
「そう、そこです」

 テオヌジオの穏やかだった目が、若干鋭くなる。

「良し悪しは別として十字軍の派遣は大きな動き。それに便乗してよからぬ事を考える輩もいましょう。カリュージス卿におかれてはくれぐれも神子様に危害が及ぶことのなきように」

「それは無論のこと。我が職責にかけて必ず」

 カリュージスがそういうとテオヌジオは満足したように微笑んだ。
 カリュージス、というよりもヴァーカリー家は代々神殿と御霊送りの祭壇の警備を担当している。当然、神子の身辺警護もその職責の範疇内だ。そしてその家業が、カリュージスを若くして枢機卿の地位につけたともいえる。

「そういえば、知っておりますかな」

 今思い出した、と言った感じでテオヌジオは話題を変えた。なんでもジェノダイトとサンタ・ローゼンの国境付近、トロテイア山地の巡礼道を少しそれたところにあるハーシェルド遺跡の地下に新たな遺跡が発見されたという。

「その遺跡はどうやら千年近く昔の、しかも教会に関係する遺跡らしいのですよ」
「およそ千年前、ですか。御霊送りの神話が生まれたのも、ちょうどそのころと言う話でしたな」

 御霊送りの「神話」といったが、神話と言うには御霊送りの儀式はあまりにも現実味がありすぎる。なにしろ現在進行形で多くの人々から信じられており、ほんの十数年前にも行われている。そしてこの御霊送りの儀式こそが、教会の教義と信仰の基礎を成しているのである。

「カリュージス卿もご存知の通り御霊送りに関する伝承は、あるものは欠落しあるものは改ざんされ本来の形ではなくなっています」

 御霊送りの伝承は大陸中に広がっており、大きく分けても数種類、細かく分類すれば数十種類が存在している。それはある意味で仕方のないことだ。千年に及ぶ伝言ゲームの中で単語が欠落したり、悪意はないにせよ改ざんを受けることはかえって自然でさえある。大元である教会に原本が存在しないことも大きい。

「それで、そのハーシェルド地下遺跡になにか御霊送りに関する情報があれば、と期待しているのですよ」

 テオヌジオは嬉しそうにそういった。枢密院の中にあって敬虔な信仰というやつを持っているのは彼ぐらいなもので、そんな彼だからこそ信仰の基礎となる教義が正しくされるのはそれだけで嬉しいのだろう。

「我々としても何か援助をしたほうがいいかもしれません」

 遺跡の発掘調査への援助程度であればわざわざ枢密院に諮る必要もない。枢機卿たるテオヌジオ一人の裁量でできる。

「そうですな………」

 カリュージスは曖昧に返事をした。彼としてもその新たに見つかった地下遺跡とやらには興味がある。その興味はテオヌジオとはまた方向のものだが、それだけに切実で必死でさえある。

(探らせてみるか………)

 御霊送りと関係ないならばそれでよし、関係あるのであれば必要な手を打たねばなるまい。事実だの真実だのというヤツは、すでに起こったことであるから動かし難くそれゆえに厄介だ。明らかになっては困るものもあるから、なお性質が悪い。

(アレは、アレだけは明らかになっては困るのだ………!)

 そう、とても困るのだ。



***************




 朝露でしっとりと濡れたとある朝、二人の男が向かい合って立っている。一人の男はがっちりとした体つきをしており、一本の刀を正面に構えている。年の頃は三十の始めから半ばほどだろうか、手に持った刀には「闇より深き深遠の」と古代文字(エンシェントスペル)が刻まれている。

 もう一人は二十代の始めごろだろうか。整った目鼻立ちをして入るが、取り立てて美形というわけではない。だが悪戯っぽい光を放つその眼は、容姿以上に彼の存在に生気を与えていた。手には一本の杖を構えている。彼の身長より少し長いくらいの杖で、先端の歪曲した部分にはところどころ金属のコーティングがなされていた。

 ジルド・レイドとイスト・ヴァーレ。それが二人の男の名である。

 ニヤリ、とイストの口が意地悪げな笑みを作る。次の瞬間四つの魔法陣が現れ、そこから幾筋もの閃光が放たれジルドを襲う。狙いは大雑把、手数優先の攻撃だ。

 その閃光をジルドは滑らかな足捌きでかわし、あるいは手に持った刀で切り裂いていく。切り裂かれた閃光はまるで水しぶきのように散らばり、そして消えていく。

 二人の間の距離が詰まっていく。

「ヤロ…………!

 イストは攻撃用の魔法陣を消すと今度は防御用の、不可視の盾を作り出す魔法陣を二つ描く。二つの魔法陣の間は、ちょうど人が通り抜けられないくらいの幅になっている。

 ジルドは一瞬だけ足を止め、刀を真横に一閃してその魔法陣を、不可視の盾もろとも切り裂く。そして次の瞬間には、一歩を踏み出しさらに間合いを詰めようとし………、

「!!」

 後ろに飛びのいた。放たれた閃光が彼の足元を穿ったのだ。足を止めイストの方を見ると、先ほどの攻撃用の魔法陣が八つ宙に浮かんでいる。

 手数で押す。それがイストの基本方針のようだ。ニヤリ、とイストの口が再び意地悪げな笑みを作る。一斉射撃は近い。

(仕込みは十分。やってみるか………!)

 魔法陣が輝きを放ち、閃光が一斉に放たれようというまさにその瞬間。

「ふっ!!」
 ジルドは短く、しかし鋭く息を吐き刀を一閃し、その刃は空を切った。

「おいおい………」

 イストが驚愕の、しかしそれでいて面白がるような声を漏らす。彼が用意し今まさに一斉に発動しようとしていた魔法陣は一つ残らず切り裂かれて消えかかっており、もはや用をなさなくなっている。

 ジルドが間合いを詰める。

「ヤロ………!」

 魔法陣を展開していては間に合わない。ジルドの動きに合わせてイストは杖を下からすくい上げるようにして振るう。ジルドはそれを軽く身を捻ってかわし、イストはさらに杖を上から振り下ろす。ジルドは振り下ろされる杖に刀を沿え、そっとその軌道をずらしてやる。そしてそのまま刀の切っ先を突き出し、イストの喉もとに突きつけた。

「………参った」

 イストが負けを認めると、ジルドは切っ先を引いた。こうして今日の朝稽古もジルドの勝ち、イストの負けで終わるのであった。

**********

「あ~、くそ。負けた負けたまた負けた」

 悔しそうにイストはそうぼやいた。
 地竜、リザイアントオオトカゲを撃退したあの日以来、ジルドにそこそこ戦えると認識されてしまったイストは、毎朝彼の鍛錬につき合わされていた。その勝敗はジルドの全勝イストの全敗で推移しており、それは本日も覆らなかったようだ。

「これでも人並み以上には戦えると自負してたんだけどなぁ」

 プライドがズタボロだぜ、とイストは肩をすくめて嘆いた。ただ、ジルドの評価はどうも違うらしい。

「あの距離はワシに有利な距離だ。自分の土俵で負けるわけにはいかぬさ」

 イストの本来の戦い方は「距離を取って手数で押し込む」というものだ。しかも照準は大雑把でしかないから、そもそも相手を叩きのめすための戦い方ではなく、自分が安全に逃げるための戦い方なのだ。本人にしても戦闘ではなく魔道具製作のほうがメインの活動だし、正面からぶつかって戦うのが苦手なのは当然だ。

「それにあの魔剣を作ったのはイストだ。当然その長所も短所も把握しているはずで、やり込めようと思えばいくらでも方法は思いつくのではないのかな」

 師匠をコテンパンにやっつけてしまうジルドを、ごく素直に尊敬していたニーナに彼はそう言った。
 ジルドがイストを評価しているように、イストもまたジルドのことを評価している。

「手加減してくれているのに手も足も出ないなんて、あのおっさん本当に化け物だな」

 ジルドが手加減しているという師匠の言葉を、ニーナはすぐには信じられなかった。彼の動きは素人目にも滑らかで美しくさえあり、手加減をしている様子など微塵も感じられない。

「あれだけボロ負けしてるのに、オレはかすり傷ひとつ負ってない」
 それは明らかにジルドが手加減してくれているからだ、とイストは言った。

「それに、おっさん、手と頭には絶対に攻撃しないようにしてるし」

 イストが魔道具職人であることに配慮してくれているのだろう。そしてそういう配慮ができること自体、かなり余裕を持っていることの証拠である。

「ま、オレとしては自分の作品をふさわしい使い手に渡せて大満足だけどな」

 地竜を撃退したときにジルドに渡したあの魔剣は、今は彼を主としその腰間にある。当初ジルドは「優れた魔道具をタダで受け取るなどできない」と言って固辞したのだが、イストは半ば無理やりに魔剣を彼に押し付けたのである。それでもまだ納得の行かない顔をしているジルドに、イストは一つの条件を提示した。

「それじゃあこうしよう。その魔剣を使ってオレを心の底から驚かせてくれ」

 製作した本人でさえ想像できなかった力や使い方。それを見るのは魔道具職人にとってある意味最高の報酬なのだ、とイストはいった。

 ジルドはその条件を受けた。そしてイストの直感が正しかったことはすぐに証明された。
 あの魔剣に刻印されている術式は、「強化」・「切断」・「干渉」の三つである。強化と切断の術式はともかくとして干渉の術式は抽象的でイメージをつかみにくく、イストをして「癖が強い」と言わせている。

 その魔剣を、ジルドは驚くほどの短時間でモノにしていった。
 例えば今日の朝稽古でジルドはイストが放った閃光を切り裂いていた。これはもっと詳しく説明すると「閃光を構成している魔力に干渉してバラけさせた」ということになる。イストがジルドに確認したところ、イメージとしては「魔力の結合を断つような感じ」とのこと。

「すぐにそういうイメージを持てる辺り、やっぱり相性がいいな」
 自分の直感に偽りがなかったことを再確認して、イストは満足そうに頷いた。

「今日の最後のアレ、アレってどうやったんですか?」

 二人の朝稽古を観戦していたニーナが興味津々に眼を輝かせながら尋ねる。彼女はなかなか好奇心が強い。彼女の言う“最後のアレ”とは、イストが展開した八つの魔法陣をジルドが一振りで切り裂いて見せたアレだろう。

「ふむ、どう説明したものかな………」

 自分のやった事とはいえなかなか言葉にできないでいるジルドに、イストが助け舟を出した。

「あらかじめ拡散させて辺りに漂わせていた自分の魔力に干渉して、オレの魔法陣の術式を壊したんだろう」

 恐らく切り裂かれたような感じに見えたのは、「切る」っていうのがおっさんにとってイメージしやすいんだろうな、とイストは解説した。まあそんな感じだ、とジルドもイストの説明を肯定する。

「いやいや、アレには驚いたよ」

 そういってイストは賞賛してみせたが、ジルドは軽く笑うだけで真に受けた様子はなかった。

「ところでイスト、あの魔剣のことなのだが」
「ん、どうした?返品は受け付けないぞ?」

 まるで悪徳業者のようなイストの言葉に、ジルドも苦笑をもらす。無論、彼に魔剣を返品する意思は皆無だ。

「いや、そうではなく。そういえばまだ名前を聞いていなかった、と思ってな」
「…………しまった。忘れてた」

 そういえば刻印したときに「そのうち」と先送りして以来、すっかり忘れていた。間抜けな失態にイストも苦笑いを浮かべる。

「せっかくだし、おっさんが付けてみないか」

 今更考えるのが面倒なのか、イストは命名権を放棄してジルドに丸投げした。自分で名付けたほうが愛着は沸くのかもしれないが、責任逃れをした感は否めない。

「そうだな、では『光崩しの魔剣』というのはどうだ」
 顎を撫でながら少し考えて、ジルドはそう名づけた。

「いい名前じゃないか。それに魔道具の特徴も良くとらえている」

 教会では“光”と言う語を魔力の隠語として用いている。だから「光崩し」という言い回しは、干渉によって魔力を散したり術式を破壊したりできるあの魔剣の特徴を良くつかんでいるといえるだろう。

 ちなみにこの名前を思いついたのは、今発掘作業をしているハーシェルド地下遺跡が教会に関係していることも一因だろう。

「お~い、朝食の準備ができたぞ~」

 発掘メンバーの一人が三人を呼びに来た。手を振って返事をし、三人はキャンプのほうへ足を向けた。一人でさっさと行ってしまう師匠の背中を見ながら、ニーナは隣を歩くジルドに声をかける。

「そういえばジルドさん、さっき師匠が『驚いた』って言ってましたけど、それってもう条件はクリアって事ですか」
「いや、そうではないだろう」

 製作者であるイストは「光崩しの魔剣」にああいう使い方があることを予測していたはずで、「驚いた」というのは予想よりも早くその使い方にたどり着いたことを驚いているに過ぎない。少なくともジルドはそう思っている。

「それに、どう見ても心の底から驚いているようには見えなかった」

 あるいは「条件はクリアだ」とジルドが言い張れば、イストも承知するのかもしれない。だがそれではジルドの気がすまないのだ。必ずや驚愕させてみせると、自分でも呆れるくらい意地になっている。

「なんともハードルの高い条件を受けてしまったものだよ」

 そういってジルドは肩をすくめて見せた。だがそういう彼がとても楽しそうに見えるのは、きっとニーナだけではないはずだ。

 高いハードルとジルドは嘆いてみせていたが、言葉の端々からは「必ず達成してみせる」という気概が感じられる。イストにしても彼ならば驚かせてくれるという直感があったからこそ、あんな条件を提示したのだろう。

 きっとこの短い時間の中で、すでにお互いを認め合っているのだろう。

(いいな………、そういうの………)

 イストとジルドのような関係は、ニーナにとっては眩しくそして羨ましい。いつか自分も自分の作品を使ってくれる人と、そんな関係を築けるだろうか。

「頑張っと」

 そんな未来の日を夢見ながら、ニーナは今日も魔道具職人として知識を増やし技術を磨く。

 ………ただし、目下彼女の仕事は発掘調査のお手伝いであるが。





[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:24
「遺跡がぁぁぁぁぁすぅぅぅぅきだぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 本日の発掘作業開始を前に、シゼラ・ギダルティは恒例の雄叫びを上げた。周りの人たちは「やれやれ今日もか」といった感じで生温かく見守っている。ニーナもその一人であった。最初これを見たときはさすがに目を点にして唖然としたが、さすがに毎日やられると慣れてしまう。

(慣れって恐ろしい…………)

 いつから自分はこんなにも変人に慣らされてしまったのだろう。まあ元凶はおおよそ予想が付くが。ちなみにイストは、

「アレは魂の叫びだから、気にしちゃ駄目だぞ」
 と言って、当初からほとんど気にしなかった。さすが耐性が違う。

「さて、開始の合図もかかったことだし、お仕事始めますか」

 そういってイストは吹かしていた煙管型魔道具「無煙」を片付け、「光彩の杖」を手にして立ち上がった。現在発掘作業を行っているハーシェルド地下遺跡は、地下にあるため当然中は暗い。イストとニーナという古代文字(エンシェントスペル)の解読要員は別々に作業をすることが多く、ランタン型の魔道具である「新月の月明かり」はニーナが使うため、イストは「光彩の杖」を松明代わりに使っていた。

 純粋な照明用の魔道具である「新月の月明かり」は、一度魔力を注げば一定時間明りが持続する。しかし“描く”ことに重点を置いている「光彩の杖」は、魔力を込め続けなければ光を維持できない。大した量ではないとはいえ、一日中魔力を込め続けなければならなかったイストは、一日の作業の終わりには流石にヘロヘロになっていた。とはいえこれは最初の頃の話で、今は要領よくやっているのかかなり余力を残している。

 ただ「光彩の杖」を使うことにもメリットがある。光の強さや範囲をかなり自由に変えられるのだ。それに火を使うわけではないので、酸欠や大事な壁画やレリーフを焦がしてしまった、などという事態も避けられる。まあこれは「新月の月明かり」を使っても同じだが。

「あ、師匠。今日の昼食はバーベキューですから、忘れないでくださいね」
「ん。了解」

 普通昼食は各自が空いた時間に勝手に食べている。だが発掘隊では週に一度、昼食にバーベキューを催していた。これは基本休みなしである発掘作業の合間のレクレーションであると同時に、毎日同じ作業をしているがゆえに希薄になりがちな曜日感覚を整える狙いがある。

 まあ細かい狙いは別としても、みんなでワイワイガヤガヤ騒ぎながらご飯を食べるのはなかなか楽しいものだ。そしてご飯はすきっ腹に食べるのが一番おいしいと相場が決まっており、そのためにも午前中忙しく働かなければなるまい。

「んじゃ頑張って働きますかね」

 イストは楽しそうだった。というかもともと彼の趣味は遺跡巡りで、バーベキューなど関係なしに毎日楽しそうに発掘作業に勤しんでいる。

(いいですけど………、別にいいですけど………!)

 師匠の趣味につき合わされているニーナとしては少々納得のいかない部分もある。彼女がしたいのは魔道具職人としての修行であり、決して遺跡の発掘調査ではない。とはいえ元来真面目な性分のニーナ。不本意とはいえ受けてしまった仕事を、サボったり放り出したりなどできるはずもない。さらにいえば彼女、好奇心も強い。未知を掘り出す遺跡発掘は彼女の好奇心を刺激するらしく、なんだかんだ言いつつも結構楽しんでいるニーナであった。

**********

 ハーシェルド遺跡はトロテイア山地を通る巡礼道から外れて少し山地に分け入ったところにあり、今から三五〇年ほど昔に建てられた遺跡である。遺跡自体、当然のように荒れている。成長した木の根が石畳や壁を壊していたり、雨風による風化も見受けられる。人為的と見られる破壊痕は別としても、かなり痛んでいるといえるだろう。

 ならばその地下にあるハーシェルド地下遺跡がさらにひどい状態であることは、想像に難くない。伸びてきた木の根が壁を崩し、また道を塞いでいるなどということは良くあるし、そもそも土に埋もれてしまっている部分もある。障害物を撤去しながら行う発掘調査は思うようには進まなかった。

「障害物が残っているのは盗掘されていない証拠です。嬉しい悲鳴ってヤツですよ」

 シゼラが言っていた「状態のいい遺跡」というのはつまりそういうことらしい。頭の悪い盗掘者たちのせいで遺跡の一部が破壊されてしまえば、そこにあったであろう過去からのメッセージを受け取ることは不可能になってしまう。考古学者にとってそれはなによりも悔しいことらいし。イストにしても真新しい破壊痕が残る遺跡は幾つも見てきたため、その気持ちは理解できた。

 足元に注意しながら、地下遺跡をすすむ。石畳が崩れていたり、落下してきたであろう天井の一部が転がっていたりと、地下遺跡の足元は劣悪だ。足元に視線を落としながら進むイストは、幾つ目かの“それ”を見つけた。

「ここにもあったか、コレ」

 イストのいう“コレ”とは、円の中に古代文字(エンシェントスペル)が刻まれた、ただそれだけのものだ。円の内側,その円周に沿うようにして古代文字(エンシェントスペル)が彫られている。石畳自体が損傷しているため古代文字(エンシェントスペル)には欠落が見られるが残っている文字から察するに、この単語は“炎”という意味の古代文字(エンシェントスペル)であったはずだ。

(コレ、見れば見るほど魔法陣に似てるよな………)

 とはいえ、さすがにこの単純な図形が魔法陣であるとは思えない。だからイストはこれについて意見を求められたとき、「魔法陣を模したものだろう」と答えた。

(でも数が多いんだよな………)

 これが本当に魔法陣を模しただけのものであれば、実用的な意味はなんら無く、純粋に装飾としてここに彫られたことになる。だがそれにしては数が多いし、なにより装飾としては華やかさに欠ける。

「彫られた場所に意味がある、とか?」

 それはあるかもしれない、とイストは思った。特定の方角や家の造りのある部分に呪い的な意味を求める習慣は大陸中に存在する。地下遺跡の地図を作り、この“魔法陣モドキ”の位置を記入すれば何か分るかもしれない。

「まあいい。本職の学者さんに任せるとしよう」

 それ以上の考察はさっさと放棄してイストは足を進める。見れば照明が来ないために他のメンバーが足を止めてしまっている。軽く侘びを入れてから、一同はさらに奥を目指して行く。

「ここですね………」

 足を止めたのはとある部屋の前だ。どんな部屋なのかは分らない。なにしろこれから入って調べるのだ。だが、部屋の入り口は伸びてきた木の根によって塞がれ、人が入れるような隙間は無い。

「じゃ、イストさん、お願いします」

 そう言われて、イストは「ロロイヤの道具袋」から一本の大振りなナイフを取り出した。飾り気の無い刀身は漆黒で、しかし鏡のように輝いていた。

 魔道具「真夜中の切裂き魔(ミッドナイト・ジャック・ザ・リッパー)」。
 イストが弟子時代に作ったもので、もともとは辺りが暗くなると切れ味が増すナイフを作りたかったのだが、その頃は知識と技術と発想力が足りておらず、仕方が無いので明るいと切れ味が悪くなるナイフにした。「何がしたいのか良く分らん」とは師匠であるオーヴァ談。しかも「切断」の術式も刻印してあるため、もはや「魔力をこめると切れ味が増すナイフ」、つまり魔道具としてはごく一般的なものになってしまっている。ただ魔道具としてはともかくデザイン(素体も既製品だ)は気に入っているのか、こうしてちょくちょく使っていた。

 ナイフに魔力を込め木の根を切断し取り除いていく。人が通れるだけの空間を確保すると、イストはまず「光彩の杖」で部屋の中を照らし、様子を確認した。

「ふむ」

 中はやはり荒れていた。しかし足元に注意していればさして問題はないだろう。部屋の中には大きな柱が四本立っており、一番奥の壁には壁画が描かれていた。

「ん?これは、壁画じゃなくてレリーフかな?」

 近づいて照らしてみると、確かに壁に彫り込まれたレリーフであった。そこに色がぬられていたことで壁画にも見えたようだ。

「これは御霊送りの神話か………?」

 壁に描かれているのは、どうやら御霊送りの神話をモチーフにしたものらしい。大雑把に描写すれば、下部に祈りを捧げる人々、上部にそれを見下ろす神々、その真ん中に神界の門と思しきもの、といったところだろうか。さらに所々に古代文字(エンシェントスペル)で説明のようなものが付いている。

「え~と、なになに、あ~擦れてて読めないな………。『種』か……?『光』………?『入れよ』………?いや、『込めよ』………か。『園』への………『道』?門じゃなくて?あ~これ以上はよくわからん」

 文字の欠けた単語を推測しながら読んでいくのは大変である。それにこの内容、少しばかり気になるところがある。ほとんど思いつきだし、確証もなにも無いので口に出すことはしないが、だが………。

(もしそうだとしたら、ヤバくないですか、コレ)

 解釈次第だが、教会が主張する御霊送りの神話を否定することができる。まあ、一つの文でもその解釈は多岐に及ぶ。わざわざ不都合な解釈を教会が認めるとは思えない。まして本職の考古学者でもないイストが何を言ったところで、御霊送りの神話が揺らぐことなどありえまい。

「どうですか、イストさん。読めそうですか?」

 難しい顔で壁画と睨めっこしているイストに、発掘隊のメンバーの一人が声をかける。自分が感じた違和感や疑問は表に出さず、彼はただ肩をすくめた。

「いや、劣化がひどくて断片的にしか読めないな」
「そうですか………。まあ、予想の範囲内ですけどね」

 どうやらこの壁画のほかに四本の柱にも古代文字(エンシェントスペル)でなにか書かれているらしい。そちらの解読も頼まれたイストは、壁画を一瞥してから四本の柱の一本に近づいていった。

**********

 発掘作業は基本的に夕飯までである。つまり晩御飯を食べた後は次の朝まで各自の自由時間となる。魔道具職人(とはいってもまだ見習いであるが)であるその自由時間を利用して二つ目の課題のレポートを作成していた。

 師匠であるイストから出された二番目の課題は「光彩の指輪」という魔道具である。これは名前からわかるように、イストが使っている「光彩の杖」の指輪版である。実際はイストが「光彩の指輪」を杖にして作り直した、といったほうが正しいが。なぜわざわざそんなことをしたのかと聞くニーナに対し、イストはこう答えた。

「だって指輪じゃ振り回せないし、ぶん殴れないだろう?」

 いろいろと残念な回答で、聞かなきゃ良かったとニーナが思ったのも仕方がないことであろう。

 ちなみにニーナは後にこの魔道具を使って魔導士ギルドのライセンスを取得する。また、師匠であるイストがしているように、刻印作業もこの「光彩の指輪」を用いて行うようになる。随分と長い付き合いになる魔道具を、今作ろうとしているのだ。

「あ~、駄目だ」

 レポートをまとめているニーナと「新月の月明かり」を挟むようにして、座ってなにやらペンを走らせているイストがそんな声を上げる。

「どうしたんですか?」
「設計が上手くいかない」

 止めた止めた酒でも飲もうっと、と言ってイストは道具袋から酒の入った「魔法瓶」と杯を取り出す。

「どんな魔道具なんですか?それ」
「なんて言うかな………、灯台と専用のコンパスをセットにした魔道具、かな?」

 コンパスは北を指し示す道具だが、イストが今考えている魔道具はあらかじめ目印となる「灯台」を設置しておき、その「灯台」を指し示すコンパスをセットにしたものだ。

「つまり、目的地がどの方向にあるかが分るわけですね」
「まあ、そうだな。だけど使い方はそれだけじゃない」

 そう言ってイストは地図を取り出した。そこに描かれているのはエルヴィヨン大陸と、その南方に位置する島々だ。

「例えばこの辺りに灯台、つまり目印となる魔道具を設置しておく」

 イストが「光彩の杖」を使って地図上に一つ光点を置く。ちょうど今彼らがトロテイア山地の辺りだろうか。

「そしてコンパスが指し示す方角がこれ」

 地図上に置かれた光点から一本の線が伸ばされる。ちょうど極東の港、独立都市ヴェンツブルグを通るような感じだ。

「つまり、コンパスを持っている人間はこの線上のどこかにいるというわけだ」

 イストはそう言うものの、ニーナとしてはそれの何処が凄いのか良く分らない。ましてや今見ている地図は大陸の全体図で、そこに引かれた線上のどこかといわれても、それはなにも分からないことと同義ではないだろうか。

「じゃあ、こうしたらどうだ?」

 そう言ってイストはもう一つ光点を地図上に置いた。今度はアルジャークとオムージュの旧国境線近く、リガ砦の辺りだろうか。そしてそこからもう一本線を引く。その線の伸びていく先には………。

「あ………!」

 地図上に引かれた線が交点を作る。それはすなわちコンパスを持っている人間の位置が特定できたということだ。

「でもやっぱり大陸規模じゃあんまり意味がないですよ」

 陸上であれば通ってきた街道や近くにある街、森や山の位置から自分が何処にいるのかは大雑把には分る。それこそこんな魔道具など使う必要などないのではないか。

「陸上だとそうかもな。だけど………」

 二本の線が動き、交点を海上に持ってくる。そこでニーナは眼を見開いた。確かになにも目印となるものがない海上で、大雑把にでも現在位置が分るのはありがたいだろう。

「こいつは元々船に載せて使うことを想定してるんだ。だけど………」
 そこでイストは言葉を濁した。

「設計が上手くいかない、ですか………」
 その言葉をイストは苦笑いを浮かべて肯定した。

 問題になっているのは魔道具のサイズだ。通信用魔道具「共鳴の水鏡」をみれば分るように、二つの魔道具の間に距離があればあるほど、そのサイズは大きくなっていく。目印として固定しておく灯台は良いとしても、その方向を指し示すコンパスは小型化しなければ使い物にならないだろう。

「ちなみに今回の設計ではどれくらいの大きさになったんですか?」
「直径3メートル。ワースト記録は更新しなかった」

 最も小さいサイズでも、直径は1メートルを越える。しかもこれは設計段階のサイズだ。実際に作り始めたとき、さらに大きくなってしまうことは想像に難くない。せめて30~50センチくらいのサイズにしないと使い勝手が悪すぎる、とイストは言った。

「空間系の理論にも手ェ出してみないとかねぇ………」

 やりたくないな望み薄だな、とそんなことをぼやきながらイストは杯を傾ける。と、そこへ………。

「晩酌をご一緒してもよろしいかな?」

 つまみをのせたお皿を片手にジルドが近づいてきた。どうやらイストの酒が目当てらしい。持参したつまみは今日の午後、彼が街まで買出しに行ったときに買い込んできたものだろう。
 つまみをつつきながらイストから借りた杯を傾け、しばらく他愛もない話が続く。

「そういえばイスト、お主の趣味は遺跡巡りであったな。ここで何か面白いものでも見つけたか?」
「面白いもの、か。まあ、気になるものは二・三個あったけどな」

 イストがそういうと、ジルドは興味を持ったようだった。

「是非、聞きたいものだな」
「そうだな………」

 さて、どれから話したものか。




***************




「たぶん一番面白そうなのは、あの壁画だな」

 あの壁画、とは今日彼が見つけた御霊送りの神話について伝えるあの壁画のことだ。壁画に刻まれていた古代文字(エンシェントスペル)は擦れていて読めないものが多かったが、かろうじて読めたものからその内容を推測すると、恐らく次のようになる。

「世界樹の種に光を込めよ。されば園への道は開かれん」

 実際に使われている単語はもしかしたら違うのかもしれないが、大意はこれであっているはずだ。

「これのどこが面白いんですか?」

 多少趣は違うが、これも御霊送りの神話の一節だ。似たようなパターンは大陸中に存在しているだろうし、さして目新しいものではないはずだ。

「“光”ってのは教会用語で魔力を指す言葉だ。つまり『光を込めよ』って文は『魔力を込めよ』って意味になる」

 魔道具職人の観点からすれば、「魔力を込める」という行為は「魔道具を使う」ことと同義だ。この神話の場合、魔力を込める対象は世界樹の種であるから、すなわち世界樹の種は魔道具である、ということになる。

「御霊送りの神話では、世界樹の種は神々が神子に対して与えたもの、ということになっている」

 そのキーアイテムが実は人工の魔道具であったとすれば、今までの大前提が崩れることになる。

「極論を言えば、『神々が神界の門を開いて人々を迎え入れた』って話自体、なんらかの魔道具を使って人為的に行ったのではないか、って考えることができる。できてしまう」

 御霊送りは遠い過去に神々が行い、そして今なお現世に残された唯一の奇跡である、というのか教会の教えであり、そして信者たちの拠り所なのだ。それが丸っきりの大嘘であるとしたら、教会はその大義名分を失い急速に弱体化するだろう。つまりこの解釈は教会のアキレス腱であるといえる。

 しかもハーシェルド地下遺跡はおよそ千年前、御霊送りの神話が誕生した時期の遺跡である。そこから得られる情報は、御霊送りの真の姿に近い。つまりその分だけ信憑性が高くなる。

「でもそれって結局は師匠の個人的な意見ですよね?」

 そこはニーナの言うとおりである。これはイストの個人的な解釈、いやなんの根拠もない思いつきでしかない。それに彼の解釈が世に出たとしても、教会が自身に不利な解釈を認めるとは思えない。そもそも解釈の仕方さえ、複数あるのだ。

「神々からもたらされた世界樹の種という鍵を使うためには魔力が必要なのであり、“園”とは神界のこと、そこに通じる“道”とは神界の門のことである」

 教会が公式にそう発表してしまえば、多くの信者はそれを信じるだろう。そして教会が基本姿勢を変えない限り、その解釈が御霊送りの真の姿になる。

 そんなことは無論イストにも分っている。だからこの場での話しは、理屈をこねくり回して遊んでいるに過ぎない。いって見れば話していること全てが冗談だ。

「ふむ。仮に御霊送りが奇跡ではないとして、どんな魔道具があれば人為的に再現できると思う?」

 魔道具職人としても意見を聞きたいな、とジルドがつまみに手を伸ばしながらイストに声をかけた。イストが流れの魔道具職人であることはすでにジルドに教えてある。アバサ・ロットの名を受け継いでいることは教えていないが。

「そうだな、可能性としては空間型、それも亜空間設置型が最有力かな」

 煙管型魔道具「無煙」を燻らせ、白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出しながらイストは答えた。その姿からして緊張感がまるで足りない。

 亜空間設置型魔道具とは、その名の通り核となる部分に亜空間を創りだして固定し、その空間を利用する魔道具のことだ。例を挙げるならば、イストがクロノワに贈った「ロロイヤの腕輪」やアバサ・ロットの工房が隠されている「狭間の庵」がそれにあたる。

「ま、オレには無理だがね」

 これにはニーナが驚いた。なにしろイスト・ヴァーレはアバサ・ロットの名を継ぐ、間違いなく最高レベルの魔道具職人である。さらに彼が保有する情報量は他の工房の追随を許さない。もう一ついえば初代アバサ・ロットたるロロイヤ・ロットは亜空間設置型の魔道具の大家であり、この分野における彼を超える才能は歴代のアバサ・ロットの中にさえ現れていない。つまりロロイヤが遺した資料を保管しているイストはこの分野において誰よりもアドバンテージを持っているのだ。その彼が「無理だ」と断じた。

(それって少なくとも今現在、それができる職人は一人もいないってことじゃ………)
 そんなニーナの内心には気づかないまま、イストは「無煙」を吹かして話を続ける。

「神話では、神々はパックスの街ごと人々を神界に引き上げたことになっている」

 それを魔道具で再現するならば、最低でもパックスの街が入るほどの亜空間が必要ということになる。イストが設置することができる亜空間の大きさは最大でも小さな部屋一つ分で、言うまでもなく全然足りない。

「しかも倉庫代わりに使うとかそういうんじゃなくて、その亜空間の中だけで生活しようってんだろ?」

 それはすなわち完全な閉鎖型バイオスフィアを形成するということだ。最低でも食料生産が可能な環境を整え、空気と水の循環系を完備していなければならない。それは一個の世界を創造するということだ。どうやればいいのか見当もつかない。

「ではとりあえず空間だけ用意して、必要なものは外から補給するとしたらどうだ」
「それもだけでも難しいな。そもそも用意する空間が大きすぎる」

 イストが即答する。しかしジルドは納得がいかないようだ。

「だが亜空間の設計は出来るのだろう?理論上でも無理なのか?」
「恥ずかしながら無理だ」

 イストだけではなく歴代のアバサ・ロットたちにも無理であった。ロロイヤの理論は完璧すぎて、隙と無駄がなさすぎる。有体に言えば理論に発展と応用がきかない。彼らにできたのはロロイヤの遺した資料を理解し魔道具を再現するところまでで、別使用の魔道具を作ることができないのだ。任意にできる事といえば腕輪を指輪にするのが精々であろう。

(そもそも資料の残し方がおかしいんだけどな………)

 亜空間設置型や空間拡張型の魔道具を支える基礎理論を、そこに至る過程をロロイヤは遺していないのだ。少なくとも「狭間の庵」にはない。これはイストが弟子の時代に探し回って確認した。

 これがどのくらい異常なことかといえば、例えば足し算引き算をすっ飛ばして微積分の理論を発表するような、そんな感じである。

 無論、説明しようと思えばできる。
 ロロイヤがその基礎理論を確立した、あるいは知ったのは彼がアバサ・ロットを名乗る前で、その場所に資料を残してきたから「狭間の庵」にはない。そう考えることができる。というかそうでなければおかしい。

(そういえば、ロロイヤってどこで魔道具製作のイロハを学んだんだろうな………)
 それを調べたことはなかった。今度調べてみよう。

「どうかしたか?」

 ジルドがいきなり黙ったイストに怪訝そうに声をかけてくる。イストは自分がアバサ・ロットであることをまだジルドには教えていない。「なんでもない」と「無煙」を吹かして、心のうちの疑問を口にすることはなかった。

「あと、面白いっていうか不思議なものは、アレですよね。円の中に古代文字(エンシェントスペル)を彫り込んだ………」

 ニーナの言うアレとは“魔法陣モドキ”のことだろう。円の内側、その円周に沿うように古代文字(エンシェントスペル)が彫られており、その見かけは良く魔法陣に似ている。

「アレって何の意味があるんでしょうね………?」
 ニーナのその問いかけは、明確な答えを期待したものではなかった。

「本当に魔法陣だった、ということはないのかな」

 それはジルドの、素人ならではの荒唐無稽な思い付きだった。それは言った本人も十分に分っている。だからこれはほんの軽いジョークだろう。

「もしそうだとした、魔道具職人は全員廃業だな」

 それはそうだろう。「適当に円の内側に古代文字(エンシェントスペル)の単語並べてみたら魔法陣になってました」なんていわれたら、「今まで溜め込んだ知識は一体なんだったの!?」って話だ。まあ技術的には画期的かもしれないけど。

「まあ、謎って言えば、古代文字(エンシェントスペル)自体に一個謎があるけどな」

 つまみを口に放り込み、杯を傾けながらイストは軽い調子でそういった。その言葉にジルドとニーナが揃って驚いた様子を見せる。ジルドはともかく、古代文字(エンシェントスペル)を読めるニーナまで驚くとはちょっと意外だ。

「師匠、その謎って言うのは………?」
「じゃあニーナ、古代文字(エンシェントスペル)で“太陽”って単語はどう発音する?」

 その質問にニーナは固まった。「あれ?ん?あれ~?」と首を捻って考えるが、出てこない。その様子を見て、ジルドは“謎”の内容に検討が付いたようだった。

「古代文字(エンシェントスペル)には音がない。発音がまったく残っていないんだ」

 普通、言語というのは音が意味を持っている。つまりまず最初に音があって、その音を表す記号として文字が存在するのだ。これは文字をもたない言語が存在していることからも明らかである。書き記された書物の場合、読み手はそこに記されている文字から音を識別し、その音から意味を理解するのだ。

 これが言語というコミュニケーションシステムの基本的な構造といえるだろう。

「ところが古代文字(エンシェントスペル)という文字を使っていた言語には、その裏側にあるべき音がなにも残っていない。そう、まるで最初から存在していなかったみたいにな」

 これは本当に不思議なことだといえるだろう。なにしろ古代文字(エンシェントスペル)は一時期大陸中で使われていた。それは各地の遺跡に遺されている古代文字(エンシェントスペル)を見ればすぐに分かる。それなのにその言語の音がなにも残っていないのだ。文法や単語の変化形はともかくとしても、“太陽”や“月”、あるいは特定の花の名前など、簡単な単語や人物の名前としてつかえそうな単語の発音さえも残っていない。

「でも、使われなくなったんだから発音が残っていないのも当然なんじゃ………」
「あのなバカ弟子、オレたちは使っているだろうが」
「あ………!!」

 そう、これこそが最大の謎なのだ。誰も使っていないのならともかく、アバサ・ロットは千年の昔から古代文字(エンシェントスペル)を使い続けている。それは文法などもある程度は残っているということだ。それなのに単語の一つもその発音が伝わっていない。

「………なんででしょう?」
「知らん」

 ニーナの疑問をイストはばっさりと切って捨てた。こればっかりは本当に分らないのだ。見当さえつかない。

「では、お主たちのいう『古代文字(エンシェントスペル)の解読』とはどうやっておるのだ?」
「そうだな………」

 手順を説明すれば、「古代文字(エンシェントスペル)で書かれた字面を識別」し、「対応する常用文字(コモンスペル)の単語を思い浮かべて」、「その単語の音から意味を理解」する、となるだろうか。

「つまり声に出して読める、という訳ではないのか」
「その通りだ」

 幸いなことに古代文字(エンシェントスペル)の言語と常用文字(コモンスペル)の言語は文法が似通っており、歴代のアバサ・ロットたちは記録を残す分にはそれでも不自由はしてこなかった。古代文字(エンシェントスペル)の不自然さにニーナが言われるまで気づかなかったのもそれが一因だろう。

「なにか大きな秘密でも隠されていたりしてな」

 もしそうだったらとても面白そうだとイストは思う。なにしろその秘密とやらに一番近いのは、古代文字(エンシェントスペル)を使い続けている自分たちなのだから。




[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:26

 アルテンシア半島はその北西部と南東部で天国と地獄ほどの差を見せている。半島の北西部を治めているのはシーヴァ・オズワルド。南東部を支配しているのはアルテンシア同盟に参加している領主のうち残っている者。

 シーヴァ・オズワルドの元の肩書きはパルスブルグ要塞司令官及び要塞常備軍司令官である。いや、混乱のさなか解任動議は出ていないので今でもそうなのかもしれない。まあ、例え解任されていないとしても、もはや何の意味もない肩書きではあるが。

 彼はアルテンシア半島を支える同盟軍の将軍であった。それゆえアルテンシア同盟という彼の古巣から見れば、シーヴァは反逆者であり簒奪者であり強盗でしかない。しかし彼が切り取った版図に生活する半島の住民の意見は違う。彼らにとってシーヴァは救世主であり解放者であり改革者であった。

「私はなにも特別な支配をしているわけではない」

 彼の統治形態はどう言い繕っても専制君主制である。つまりこれまでの歴史の中でもなんら特異なものではなく、民主主義がもてはやされる時代においては独裁国家の批判を免れないものである。

 もちろんシーヴァは客観的に見ても愚かな主君などではなかったが、それでも彼が“救世主・解放者・改革者”として受け入れられたのは、つまるところそれまでの領主の支配が酷過ぎた、というただそれだけのことである。たどり着いた地点がゼロだとしても元がマイナスであれば、人々はそれを向上と受け取るのだ。

 無論、全ての領主が腐っていたわけではない。これまでにシーヴァが切り取った半島北西部には、良心的な領地運営を行っている領主が少なくとも五人いた。彼らは腐り果てた同盟に嫌気がさしていたし、また同時に危機感を抱いてもいた。彼らと事前に連絡を取り合いまた綿密に計画を練ることで、シーヴァたち解放軍(同盟側からみれば反乱軍)は二ヶ月で九〇州余りを切り取るという偉業を成し遂げたのである。言うまでもないことだが、この行軍において住民たちの熱狂的な協力は大きな力となった。

 シーヴァ率いる解放軍の戦術において特筆すべき点は、魔道具の運用法だろう。
 魔道具「とく速き射手(アルテミス)の弓」。シーヴァはこの魔道具をベルセリウスに依頼して三十張作ってもらった。ちなみにベルセリウスが「つまらない仕事」といったのは、同じ魔道具を三十個も作るのがつまらない、ということで「とく速き射手(アルテミス)の弓」がつまらない魔道具だったということではない。

 この魔道具は魔力を束ねて放つタイプで、放たれた閃光は途中で十発の光弾に解けて、広範囲に攻撃を仕掛けることができる。つまり三十張全てで同時に放てば、合計三〇〇発の光弾が敵陣に降り注ぐことになる。

 一つ一つの光弾の威力は、人の頭ほどの石が落ちてくるのと同じくらいだろうか。魔道具としては火力が小さいほうに類するだろう。しかし当たれば致命傷になるし、なによりも三〇〇発の光弾が一度に降り注ぐその光景は、威力以上に敵軍を震え上がらせた。なによりも恐怖は伝播する。腰の引けた同盟軍など、シーヴァの敵ではなかった。

 遠征の最初に協力を求めたゼゼトの民は、最も密度の濃かった最初の二ヶ月が過ぎると、族長たちが「義理は果たした」と判断し大半がロム・バオアへと帰っていった。シーヴァにしても彼らの力が欲しかったのは一定の勢力圏を確保するまでで、族長たちのその決定に異を唱えることはなかった。

 事前の約定通り、シーヴァはゼゼトの民にロム・バオアと半島の間の自由な渡航を認め、さらに戦いに参加した者には十分な恩賞を与えた。長い歴史的な背景や感情の問題もあるため、すぐにゼゼトの民と友好な関係を築くのは難しいかもしれない。しかし少しずつでも関係を改善していくことを約束し、族長たちとシーヴァは握手を交わすのであった。

 さて、大半のゼゼトの民がロム・バオアに帰っていったその一方で、トルドナ族の族長の息子であるガビアルやエムゾー族の族長ウルリックの娘メーヴェをはじめとする三十人ほどのゼゼトの民の若者はシーヴァのもとに残って戦うこと選択した。

「優れた戦士と共に戦えることは、我らにとって誇りだ」

 ガビアルはそういって残った者たちの胸の内を代弁した。ただ唯一の女性はそこまで素直になれないらしく、

「わ、わたしが残るのはヤツがゼゼトの民の敵になったときに殺すためだっ!」
 と言い張っていた。

 イストとニーナがハーシェルド地下遺跡で古代文字(エンシェントスペル)の解読作業に勤しんでいるころには、版図拡大に当初の疾風迅雷の勢いはなくなっていたが、それは常識的なペースに落ち着いたという意味で、遠征そのものはさしたる問題もなく順調に進んでいる。

 この時点でシーヴァが切り取ったのは、半島北西部の一二一州。アルテンシア半島の版図が二三七州であるから、ちょうど半分程度といったところであろう。そしてこの数字はこの先さらに増えるであろうことが容易に想像された。

 半島の南東部では領民たちの反乱が相次ぎ、シーヴァがその隙を突いて侵攻を仕掛けている、というのが傍目に見える構図だが事実は少々異なる。むしろシーヴァの侵攻に呼応するように、領民たちが反乱を起こしているのである。領民たちから三行半を突きつけられた領主たちは、外の敵に対応できないまま内側から崩れていき、もはや同盟そのものが風前の灯となっていた。

 シーヴァの最終的な目的は、アルテンシア同盟を瓦解させ半島を一つの統一国家としてまとめ上げることである。ゆえに彼の覇道は未だ道半ばであり、手中に収めた版図の内政は五人の領主たちに任せ、シーヴァ自身は戦場に立つことが多かった。とはいえ彼にしか判断できない事案も確かにあり、そういったものを含め様々な報告がシーヴァの元にはもたらされていた。

「これは、どうしたものか………」
 今シーヴァが目を通している書類も、そんな報告の一つである。

「どうかしましたか」

 副将であるヴェートが怪訝に思ったのか声をかけてくる。副将という立場からも分るように彼女は武人であり、一度戦場に立てば一軍を率いて獅子奮迅の働きをする。加えて最近ではこうして書類仕事の手伝いもしてくれており、文武両道な才女であることを証明していた。
 そんなヴェートにシーヴァは読んでいた報告書を見せる。

「これは………!」

 そこには「教会と神聖四国それにその周辺諸国が、アルテンシア半島への十字軍遠征を計画している」という報告が載せられていた。加えてかなり正確な報告が数字を交えてなされている。

 教会が旗振りをしている十字軍遠征の計画は、極秘裏に進められているわけではない。神聖四国のどこかの酒場にでも行けば、黙っていても噂話を聞くことはできるだろう。しかしシーヴァの勢力圏であるアルテンシア半島北西部と教会と神聖四国がある大陸中央部の間には、幾つかの国が横たわりさらには混乱を極める半島南東部が存在している。

 したがって待っているだけで大陸中央部の正確な情報が入ってくることは期待できないだろう。だからこの時点でシーヴァがこの報告を受け取っているということは、彼が大陸中央部にある程度の諜報網を持っていることを示している。
 それはともかく。目下の問題は十字軍遠征についてである。

「予想していなかったわけではないが、少し早いな」
「聖銀(ミスリル)の製法漏出が原因ではないかと」

 ヴェートの言葉にシーヴァは頷いた。
 半島が混乱をきたしているときに大陸から侵略者がやってきたことは過去にもある。だから十字軍遠征自体に驚くことはない。しかしもう少し話がこじれて時期が遅くなるのではないかと読んでいたのだが、思いのほか遠征の話が速くまとまった。

 軍というヤツは動かすだけで金が掛かる。そして言うまでもないことだが大規模になればなるほど、さらに金が掛かる。だから十分に潤っているはずの教会や神聖四国の中には、十字軍遠征に反対する者もいると踏んでいたのだが、どうやら聖銀(ミスリル)の製法漏出による被害は深刻らしい。

「遺跡の発掘は間に合いませんでしたね」

 ヴェートが別の資料を手にそう呟いた。教会という宗教組織と敵対する事態を、シーヴァはかなり早くから想定していた。そのため教会を口撃するための大義名分を色々と探していたのだが、最近見つかった教会に関係するというハーシェルド地下遺跡の発掘調査に資金を援助したのもその一環であった。

「そうだな………」

 ヴェートから受け取った報告書には、「古代文字(エンシェントスペル)の解読要員を見つけたので、これから本格的な発掘調査に入る」という内容が書かれている。かりに地下遺跡にシーヴァの求める大義名分が眠っているとしても、すでに十字軍遠征の計画が形になりつつあるのであれば、遠征が始まる前にそれを知るのは難しいだろう。

 まして教会が旗振りをしているのである。神聖四国はもちろんのこと周辺諸国も協力的だろうし、兵士も数を揃えやすいであろう。かなり速く準備が整うと想定しておいたほうがいい。

 ただ遠征が上手くいくかは別問題であろう。アルテンシア半島の入り口にはゼーデンブルグ要塞がある。この要塞は常時十万の兵を駐在させ大量の兵糧を抱え込んだ大要塞である。十字軍がいかに数を揃えようとも、この堅牢を誇る大要塞を落とすのは容易ではあるまい。そして攻城戦が長引けば基本的に寄せ集めの連合軍である十字軍には亀裂が入ると、シーヴァは予測していた。

 ただ懸念もある。集めた情報によると、ゼーデンブルグ要塞に駐在させている軍を出して、反乱軍を鎮圧しようという計画があるらしいのだ。この反乱軍というのはいうまでもなくシーヴァ率いる解放軍のことであり、このような計画を企てているということは、同盟に残っている領主たちがかなり切羽詰っていることを意味している。

 つまりこれは解放軍が有利であることの証拠なのだが、駐在軍が要塞を空ければ当然その防衛力は低下する。そこを十字軍に狙われればゼーデンブルグ要塞はたやすく陥落するだろう。自分たちの存在が侵略者どもを利することになってしまうのは、なんとも面白くない。

 さらにシーヴァの思考は加速する。

 アルテンシア同盟と十字軍が手を結ぶ可能性、である。その場合の共通の敵は言うまでもなくシーヴァ率いる解放軍ということになる。数こそ膨大になるだろうが、所詮は欲望にまみれた結びつき。烏合の衆でしかない軍に、シーヴァが恐怖を感じることはない。一度戦って勝たずとも手ごわいところをみせれば、自然と崩壊するだろう。

 そんなことを考えながら、シーヴァは報告書を斜め読みしていく。そして古代文字(エンシェントスペル)の解読要員の名前のところで、ふと目がとまった。

(イスト・ヴァーレとニーナ・ミザリ、か………)

 ニーナ・ミザリのほうは聞いたことがないが、イスト・ヴァーレのほうはどこかで聞いたことがあったような気がした。

(そういえばベルセリウス老も古代文字(エンシェントスペル)が読めると言っていたな)
 なにか関係があるのかもしれない。今度折に触れて尋ねてみよう。

(しかし、もしベルセリウス老の関係者であったとすれば………)

 あの老人の関係者だ。きっとこのイスト・ヴァーレという人物も、アクとクセの強い、いわゆる“変人”の類なのだろうと、シーヴァは苦笑するのであった。





**************





「女には女の戦場がある」
 それが、アルジャーク帝国皇后の持論だった。

 そこでは軍馬がいななくことはないけれど。そこでは矢が飛んでくることはないけれど。そこでは血にまみれる事はないかも知れないけれど。

 けれどもそれが戦いである以上、勝利の美酒に酔いしれることができるのは勝者だけなのだ。敗者に待ち受けるのは死であり、あるいは死以上に辛い恥辱や汚名に甘んじなければならない。

(そのような屈辱、わらわは決して認めぬ………!)

 故に彼女は武装する。

 鋼の鎧の代わりに絹のドレスを身にまとい。

 兜の代わりに化粧をほどこし髪を結い。

 剣の代わりに舌鋒を。

 盾の代わりに微笑を。

 戦術の代わりに話術を駆使し。

 彼女は己の戦場を駆け抜ける。狙う首はただ一つ。アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークの、その首である。

**********

 時間は少し遡る。クロノワがカレナリア軍との緒戦に臨もうとしていたまさにその頃、アルジャーク帝国皇后もまた彼女が望んだ戦いの、その緒戦へと臨もうとしていた。

「これは皇后陛下、ご機嫌麗しく………」

 客間のソファーから身を起こし、恭しく一礼した男の名はブラム・ターナー。彼の家は代々役人を輩出しており、彼自身もその例に漏れない。ただターナー家は別としてもブラム自身は小物で、以前から皇后とのコネを作るべく色々と稚拙に暗躍していたらしいが、彼のような小物が自分の役に立つとは思えず、彼女は相手にしていなかった。少なくとも今までは。

「呼びたててしまい、申し訳ありませんでしたね」

 内心では「小物」と侮りつつも、それは顔にはおくびも出さず皇后は優雅に微笑んで見せた。それを見てブラムはいよいよ恐縮する。

「いえ、そのようなことは!皇后陛下からのお招き、恐悦至極に存じます!」

 ブラムに席を勧めソファーに座らせ、皇后もテーブルを挟んで向かいの席に腰を下ろす。お茶を用意した侍女を客間から下がらせ、しばらく雑談に興じる。これも含めて挨拶だ。そしてブラムの緊張が解れてきたところを見計らって、皇后は本題に入っていく。

「実は、今日はターナー殿にお願いがあって、お呼び立てしたのですよ」
「わたくしに、ですか?さて、どのようなものでしょうか?」

 ブラムとしてはそう応じるしかない。彼の内心では期待と不安が渦巻いている。ここで皇后の「お願い」とやらを上手くかなえることができれば、念願かなって皇后との繋がりを持つことができる。しかし自分の手には負えない無理難題を吹っかけられれば、それはもう断るしかない。そうなれば皇后の心象は確実に悪くなり、自分の出世は遥か彼方へと遠ざかっていくだろう。そんな彼の心のうちを、皇后はほぼ正確に把握していた。

「実は、わらわは最近不眠に悩まされていまして………」
「そ、それは、御労しい………」

 ブラムは必死だった。皇后の言葉の端々から必死にその意図と、「お願い」の内容を推し量ろうとしている。それが表に現れてくるあたり、小物の小物たる所以だろう。多少なりとも交渉事を心得ている者ならば、余裕を持ってにこやかに微笑むくらい造作もないだろうに。

「それで、ターナー殿には睡眠薬を差し入れて貰いたいのですよ」

 そういうとブラムは怪訝な反応を示した。睡眠薬を手に入れることに限れば、なにも難しいことはない。皇后がそれを望んでいる以上、差し入れることにも問題はあるまい。しかし、睡眠薬が欲しいのであれば、まずは専属の医師団に相談し処方してもらうのが筋ではないのだろうか。それをわざわざブラムを呼び出して頼む、皇后の意図はどこにあるのか。

「医師団に相談などすれば、妙な噂が立ってしまいます」

 彼女のようにやんごとない立場の人間が不眠に悩まされるとすれば、その原因は十中八九心労であろう。医師団そのものは口が堅く信頼できるかもしれないが、皇后のような立場ともなればどこからともなくその近況は漏れていくものである。となればその心労のもとについて根も葉もない噂が飛び交うのは目に見えている。帝都に何千羽と生息しているおしゃべり雀たちにわざわざ娯楽の種を提供してやるのも癪だし、なにより「皇后が心労を抱えている」などという話は醜聞に属する類の噂だ。わざわざ表に出したい話ではないだろう。

「ですが薬である以上、むやみやたらと飲めばいいというものでは………」

 ブラムに医学や薬学の知識はないがそれぐらいのことは分る。自分が用意した睡眠薬が原因で皇后が体調を崩した、などという事態はなんとしても回避しなければならない。そなれば責任を取らされ、最悪首が飛ぶかもしれない。いろんな意味で。

「なにも文字通りの睡眠薬を用意して欲しいと言っているわけではないのですよ」

 小心者のブラムの、リスクを負いたくないという胸のうちは、皇后にとって手に取るように分りやすいものだった。小心者を安心させるように皇后はさらに優しげな微笑を浮かべる。声音を努めて穏やかにし、胸のうちの思惑は決して外に出さぬ。その様子は悪魔が獲物を追い詰めていくのに似ていた。

「そう例えば………、ハーブの中にはそのような作用があるものもある、と聞いています。そういったものを用意できませんか」

 それを聞いてブラムの表情は明るくなった。用意するものがハーブの類であれば話は変わってくる。背負うリスクはほとんどないだろうし、また達成も良いだろう。

「なるほど。そういうことでしたらこのブラム・ターナー、必ずやお役に立ってみせましょう」

 ブラムの声からは興奮が窺えた。最初に懸念していたような無理難題を押し付けられることはなく、「お願い」の内容も実に簡単なものだ。どうやら自分にも運が向いてきたようだと彼は内心でほくそ笑んだ。

 その様子を、皇后は微笑みの裏に隠した眼光鋭い目で観察していた。どうやらこちらの本当の意図には、この話し合いが皇帝暗殺のための下準備だとは、気づかれていないようだ。

 自分が皇帝暗殺を企てていることを、皇后は誰にも話していない。そしてまた気づかれるようなヘマなどしていないと自信を持ってもいた。

(決して気づかれるわけにはいかないのです………!)

 狙う首が皇帝以外のものであれば、そこまで神経質になる必要はないだろう。「陛下」という敬称が示すとおり、このアルジャーク帝国において彼女は皇帝と並び立つ唯一の人物であり、その影響力もそれ相応のものである。つまり皇帝以外の者であれば、それは彼女にとっては格下の人間であり、周りに使えている者にとってもその命は“軽い”く、暗殺を命じられれば葛藤はあれど最終的には奪えてしまうだろう。

 しかし皇帝は違う。皇帝はただ一人皇后と並び立ち、またその上に君臨することを許された存在だ。それに皇后の権力は皇帝によって保障されているといっていい。そのような上位者を弑することを「畏れ多い」と感じてしまう人間は多いだろう。そうなればどこから計画が漏れるか、分ったものではない。

 今の皇帝、ベルトロワ・アルジャークに反意を抱いている者はいるだろうが、そういう人物を抱き込むことも皇后には上手い考えとは思えなかった。そういう人間は大抵自分が冷遇されているから反意を抱いているのだ。

 暗殺計画はハイリターンであるかわりにハイリスクである。成功すれば新たな皇帝の下で目立った地位を得られるだろうが、仮に失敗すれば一族郎党皆殺しになる。そこ参加していた当人がどれほど残酷な殺され方をするかなど、考えるだけで背筋が凍るというものだ。ならば暗殺計画の密告という功績で妥協し、保身と少々の出世を望むという選択肢は十分にありえるだろう。

 ゆえに皇帝暗殺を企てていることは、何人にも気取られるわけにはいかない。暗殺計画は一人で考え、一人で準備し、一人で実行しなければならない。それが一番安全で確実であると、そう皇后は考えたのだ。

「できれば、他のハーブとブレンドした、ハーブティとして持ってきていただけると助かりますわ」

 そのほうが噂が立ちにくいだろうから、と皇后はブラムに説明した。ブラムはその説明になんら疑問を感じることはないようで、なるほどなるほどその通り、としきりに頷いている。

「わかりました。必ずや皇后陛下のご希望通りに」
「お願いしましたよ、ターナー殿」

 意気揚々と客間を出て行くブラムの背中を見送り、皇后は内心で一つ息をついた。無論表には出さないが。

 鈴を鳴らして侍女を呼び、冷めてしまったお茶をかえさせる。今彼女は一つのハードルを越えたことに、深い充足を感じていた。

(断られることはないと、分ってはいましたが………)

 それはそうだろう。皇后がブラムに頼んだのは「睡眠作用のあるハーブを、ブレンドしたハーブティとして持ってきて欲しい」ということで、なにも毒薬を持ってこいと命じたわけではない。しかも他ならぬ皇后の「お願い」だ。多少の野心を持っている人間ならば喰い付かないほうがおかしい。

 とはいえ交渉が成功したのはまた別の話だ。これで緒戦を勝ったことになる。この先も戦いは続くが、それでも一つ勝てたのだ。今はそれを喜びたい。

(わらわは勝つ………!勝ち続ける………!そしてあの子を、レヴィナスを必ずや皇帝にしてみせる………!)





[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち8
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:27

 ベニアム・エルドゥナス率いるカレナリア軍左翼を撃破したアルジャーク軍は、次にその矛先を街道上に陣取る本陣へと向けた。カレナリア軍の主将イグナーツ・プラダニトが率いる本陣の数は十二万。それに対しクロノワ率いるアルジャーク軍は、緒戦での戦死者や負傷者を除いてもまだ二一万を越える兵力を温存している。加えてクロノワは左翼の陣からカレナリア軍の配置図を入手していた。

 イグナーツは右翼との合流を急いでいたが、後方から兵糧が送られてくる関係上動くに動けない。右翼に伝令を出して、本陣の位置で合流するしかなかった。

 だが結局は間に合わなかった。
 右翼と合流する前にアルジャーク軍に強襲されたカレナリア軍本陣は、数で押され崩壊した。さらには本陣と合流するために近づいてきていた右翼もまた、立て続けに襲われ壊滅。こうしてアルジャーク軍は理想的な各個撃破を実現し、カレナリア軍二五万は消えてなくなったのであった。

「今回の戦いに勝因などありませんよ。ただ敗因があるだけです」

 クロノワの策略を賞賛する人々に、彼はそうそっけなく答えた。カレナリア軍の敗北で致命的だったのは、イグナーツがせっかく集めた戦力を分散させたことだ。実際アルジャーク軍は軍事的になんら突飛なことをしたわけではなく、その失策に最大限付け込んだだけである。

 イグナーツが戦力を分散させたのは、先行してくるであろうアルジャーク軍の騎兵隊を気にしたからである。いや、策略家としてのクロノワの影を気にした、といったほうがいいかもしれない。

 気にさせる、その種をまいたのはクロノワかもしれないが、それを己のうちで肥大化させていったのはイグナーツである。となればやはり彼の「深読みのしすぎ」こそがカレナリア軍の敗因であり、アルジャーク軍はその敗因を最大限利用したにすぎない。

 まさしく、「敗因なくして勝因なし」である。

 討ち取られたカレナリア軍主将イグナーツ・プラダニトは、劣勢の中でも良く戦っていた。兵を鼓舞してまとめ上げ、戦場の流れを見極めてよく戦った。局地戦とはいえ有利に立つ場面もあり、アールヴェルツェをはじめとするアルジャーク軍の将官たちを唸らせていた。

「優秀な将というのは、敵にもいるものなのだな」

 戦いの後の食事時、イトラと雑談していたレイシェルは、ふとそんなことを呟いた。彼らにとって優秀な将というのは、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールをはじめとする先達たちがまずそれに当たる。しかし身内に優秀なものが多くいると、それ以外が馬鹿に見えてくることがある。まるで敵には戦術も戦略も、なにも考えていないように思えてしまうのだ。

 だがそれは敵を侮っているだけであり、敵には敵の戦術があり戦略があり思惑があるのだ。若い二人は致命傷を負う前にそのことに気がついたのであった。

 しかしイグナーツがどれだけ頑張ろうとも全ては延命に過ぎぬ。むしろ彼が有能であったからこそ、延命に延命を繰り返すことができ、多くの兵士の命が失われることになった。結果論とはいえそう書くことができるのは、戦場の皮肉かもしれない。

 戦場で倒れたイグナーツは全身傷だらけであり、どれが致命傷か分らない有様であった。胴体から切り離した彼の首はカレナリア国王の下に届けられ、体はカレナリアの国旗に包まれて丁重に葬られたのであった。

 イグナーツ率いるカレナリア軍を完全に撃破したアルジャーク軍は、そこで二手に分かれた。クロノワはレイシェルに一軍を与えると、港や海軍拠点の制圧を命じたのだ。いうまでもなく、海路で補給物資を運んだ際の玄関口にするためである。もっともこちらは大した抵抗に遭うこともなく、じつに簡単に終わった。イグナーツは使える戦力をすべてかき集めて決戦に臨んでおり、逆に言えばそれ以外にまともな戦力は残っていなかったのである。

 制圧した港や海軍拠点をレイシェルは大過なく収めた。無用な流血を避け、また部下には暴行と略奪を硬く禁じ、民衆の敵愾心と恐怖を鎮める。その一方で妨害行為や混乱に乗じた犯罪などには、断固とした態度で臨んだ。

 彼は住民を必要以上に萎縮させることなく、また経済を停滞させることなく、補給の玄関口を整えていった。補給部隊を指揮しているグレイス・キーアやヴェンツブルグの執政官オルドナス・バスティエとの連携も見事で、この先アルジャーク軍がカレナリア国内で補給に窮することはまずないであろう。

 拠点を制圧したカレナリア海軍については、ひとまず全ての乗員を陸に挙げ武装を解除させた。仕官以上の者については拘束したが、それ以外の兵士たちは名前を登録した上で開放した。海軍はクロノワが直々に再編するということをレイシェルも知っており、これ以上は自分の分ではないと判断したのだ。

「流石はレイシェルだ。俺には真似できぬ」

 後にレイシェルの処置について聞き及んだイトラはそう言って友人を賞賛した。無論、彼の手腕はクロノワにとっても満足のいくものであった。

「海岸部はレイシェルに任せるとして、私たちはゆっくりと行きましょう」

 兵糧も十分にあることですし、とクロノワは笑った。イグナーツが後方部隊から受け取った補給物資は、今やすべてアルジャーク軍の手中に収まっている。カレナリアの血税を丸ごと横取りした形になるが、捨て置いて腐らせてしまうよりはよほどいい。

 クロノワ率いる本隊は街道上をカレナリア王都ベネティアナに向けてゆっくりと行軍した。これは示威行動であると同時に、送られてきたイグナーツの首を見たカレナリア政府から、なんらかの接触があるのでは思ったからだ。

 無論、なにも動きがなくてもかまわない。アルジャーク軍が王都ベネティアナに到着してしまえば彼らは嫌でも動かざるを得ず、その時対応がまとまらず混乱していれば、恐慌状態のまま降伏へと傾いていくだろう。

 なによりも、もはやカレナリアにまともな戦力は存在しない。南のテムサニスとの国境付近には、国境防衛のための砦である「ルトリア砦」がありそこにはある程度の兵が詰めていると思われるが、それを動かすとも思えない。動かしてしまえば南の国境ががら空きになるし、なによりも戦力の差がありすぎる。砦の戦力をおよそ一万と見積もっても彼我の戦力差はおよそ二十倍以上で、戦わせるだけ金と命の無駄である。

 そんなことはカレナリア政府も重々承知しているはずで、つまり王都ベネティアナに向かうまでの間に野戦を仕掛けられることはまずないといっていい。ならば悠然と構えて歩を進めればよい。

**********

 結局、カレナリア国王エルネタード・カレナリアは降伏を選択した。
 実際それ以外に選択肢などないだろう。カレナリア国内にアルジャーク軍に対抗できるだけの戦力はもはや存在しないのだ。ならば敵軍と事を構えるためにはよその国の軍をアテに知るしかない。

 南のテムサニスか西のオルレアンか。だが今更助けを求めたところで時間的に間に合わないであろう。となれば国を捨て亡命するしかない。

 しかしどちらに助けを求めたとしても、アルジャークに抗することができるとは思えない。アルジャーク帝国の版図は去年の大併合によって二二〇州となり、そしてこの度カレナリアを併合すればその版図は二八三州となる。テムサニスにしろオルレアンにしろ一国で対抗するのはまず不可能である。

 さらに言えば亡命を受け入れた国は、それを理由にアルジャークから侵攻を受けるだろう。あまりにリスクが高く、そもそも亡命を受け入れてもらえない可能性のほうが高い。国境を越えた途端に捕縛され、そのままアルジャーク軍に引き渡されたとあってはいい笑い者である。

 であるならば他者に運命を預けることなく、王者の誇りを保持して降伏を選んだほうが体面は良い。幸いなことにアルジャーク軍の総司令官はクロノワ・アルジャークである。彼はモントルム遠征の際に、降伏した王族を処刑することはなかった。降伏しても命が残るのであれば、それは最上の選択ではないだろうか。

 降伏を伝える使者が陣に到着したのは、アルジャーク軍が王都ベネティアナにあと一日程度のところまで迫ったときのことであった。カレナリア政府内でどのような駆け引きと水掛け論がなされ、何人が胃の痛い思いをしたのかなどクロノワの知ったことではないが、とにもかくにも王都への攻撃布陣を整える前に相手が降伏してくれたことにクロノワは胸をなで下ろした。

(まあ降伏勧告はするつもりでしたが………)

 純粋な軍事拠点への攻撃ならば否やはないが、人々が生活している都市への攻撃はクロノワの気分を重くさせる。率いているのが大軍である以上、どれだけ徹底しても戦場となる都市で略奪や婦女子への暴行が行われるのは目に見えており、それでは住民との間に軋轢が生じ占領後の統治に支障が出てしまう。

 いや、そんな頭でっかちな理由はどうでも良いのだ。ごくごく単純な感情的問題として、クロノワは略奪や暴行といった戦場での行為が大嫌いで、それを収めることができないであろう自分の無能さに腹が立って仕方がないのだ。

 軍規を犯した者を処刑し粛然とさせてみても、それはどこか自分の無能を棚上げした八つ当たりじみていて、さらにクロノワの気を重くさせた。

 余談になるが、純軍事的な観点から考えると略奪や暴行を禁じることに大したメリットはない。そういった行為を黙認していれば兵士たちの士気は自然と上がるし、傭兵を雇う際に大金を用意する必要がない。

「戦って勝手に奪え」
 と、つまりはそういうことだ。だから歴史的に見て、略奪や暴行を完全に禁じていた軍というのは少数である。

 しかし今回はエルネタードが早期に降伏を決意したため、王都ベネティアナが戦場になることはなかった。双方にとって幸運な事と言えるだろう。すでにエルネタードの名で勅命が発せられているのか、王都内に混乱は見られなかった。ただ住民の多くは都市の中を往くアルジャーク軍に不安そうな眼差しを向けている。侵略者を歓迎できるわけもなく、こればかりは仕方がないだろう。

 王都ベネティアナの王城に入ったクロノワの意識は、すでに次のテムサニスへの遠征に向いていた。占領したカレナリアの統治については、事前の予定通り連れてきた文官たちに任せればよい。略奪と暴行の禁止については、重ねて厳命していたが。

 やっておかなければならない幾つかの大きな仕事を片付けると、クロノワは王城の地下にある「共鳴の水鏡」のある部屋へと向かった。

「お待たせいたしました、クロノワ殿下」
「いえ、お気になさらずに」

 通信の相手はカレナリアの南の国境を守るルトリア砦の指揮官、ロフマニス・コルドムである。

「私がこの場にいることから分ると思いますが、エルネタード陛下は降伏を選択されました」
「承知しております。すでに話だけは聞いておりますので」

 ロフマニスの態度は堂々としていた。敗戦国の将であることに引け目を感じている様子はなく、その立ち振る舞いは自然で目には力があった。

「正式な勅書が届き次第、カレナリアの国旗を降ろし、門を開けるつもりです」
 その言葉からは己の職責に忠実であろうとするロフマニスの気位が窺えた。

「ロフマニス殿、カレナリアの国旗はまだ降ろさないでいただきたい」
 クロノワはごく自然にそういった。しかし言われたロフマニスは明らかに動揺を見せた。

「それは………、どういう、意味でしょうか………」

 カレナリアの国旗を降ろさないということは、アルジャーク軍と敵対するという意味である。それをクロノワが言い出すということは、つまりアルジャーク軍はどうあってもルトリア砦を攻撃するつもりなのか。降伏して砦を明け渡すといっているのに、アルジャーク軍はあえて戦って奪うというのか。
 砦の兵を預かる身としては看過できないことだ。

「少しばかり悪巧みに付き合ってもらおうと思いまして」

 ロフマニスの動揺にクロノワはもちろん気づいていたが、特に斟酌することもなく普通の調子で言葉を続ける。

「我が軍はこれからテムサニスへ遠征をします。詳しい日程はまだ決まっていませんが、近いうちに宣戦布告もなされるでしょう」

 そのクロノワの言葉にロフマニスは今度こそ言葉を詰まらせ息を呑んだ。クロノワは、いやアルジャーク帝国は今まさにカレナリア王国を切り取ったばかりではない。にもかかわらずその矛先をすぐさまテムサニスへと向けるのか。

 それを強欲というべきなのか、覇気と称するべきなのか、ロフマニスは判断を付けかねた。それに今彼が考えるべきはそのようなことではない。

「それでテムサニス遠征と我が砦がカレナリアの旗を降ろさないことに、どのような関係があるのでしょうか」

 彼が今気にかけるべきは、隣国の行く末やアルジャークのあり方などではない。彼が命を預かっている砦の部下たちのことだ。

「ルトリア砦が旗を降ろしていない状態でアルジャーク軍が南に進路をとれば、多くの人は『ルトリア砦攻略のための行軍だ』と判断するでしょう」

 それはそうだろう。繰り返しになるがカレナリアの国旗を降ろさないということは、それはつまりアルジャークに敵対するという意思表示である。カレナリアという国を平定し安定した統治を行うためには、そのような反乱分子を放って置くわけには行かない。

「つまりテムサニスは、アルジャーク軍が国境に迫って来ても警戒を示さない」

 まったくの無警戒、ということないだろう。偵察を活発にするぐらいことは、当然してくるはずだ。しかしそれ以上の事はしないだろうと、クロノワはふんでいた。

「なるほど。確かにテムサニスは軍を召集しており、いつでも動かせる状態ですからな」

 テムサニスはアルジャークがカレナリアに宣戦布告した辺りから軍を召集し始め、現在では十五万規模の軍が臨戦態勢で待機している。これはどこかを侵略するための軍ではなく、アルジャークのカレナリア遠征による火の粉が飛び火してきた場合、それに対処するための軍だ。

 この軍の初動が遅れれば、アルジャーク軍はテムサニス遠征において先手を取ることができる。

「我が軍がルトリア砦に接近したところで砦は降伏。ルトリア砦討伐軍はそのままテムサニス遠征軍に早代わり、というのがこちらのシナリオです」

 そこまで説明を聞くと、ロフマニスは納得したように頷いた。クロノワの言う“悪巧み”とは、降伏するタイミングを次の遠征に利用させてくれ、とつまりはそういうことだ。アルジャーク軍に、というよりはクロノワにルトリア砦を力ずくで攻略する意思がないことを知り、ロフマニスは安堵の息を漏らした。

「承知いたしました。遠くからでも良く見えるように、大きな白旗を用意しておきます」

 冗談をいう余裕も戻ってくる。クロノワも軽く微笑んで「それではよろしく」といい、通信を切った。

 しかし、クロノワの思惑は外れることになる。ルトリア砦がカレナリアの国旗を降ろさないことに真っ先に反応したのは、南のテムサニスだったのである。




****************




 テムサニス軍が北上していく。

 カレナリアの南の玄関口とも言うべきルトリア砦を通り抜けて、テムサニス軍十五万は北上していく。

 その様子を城壁から苦笑と共に見下ろす人物がいる。ルトリア砦の指揮官、ロフマニス・コルドムである。

「よろしいのですか。将来に汚名を残すかもしれませぬぞ」
「私が汚名を被って砦の兵たちが助かれば安いものだ」

 話しかけてきた副官に、彼は苦笑したままそう答えた。ロフマニスの眼下を往くテムサニス軍の先頭には国旗と共に王旗が翻っており、これが親征であることを無言のうちに物語っていた。つまりこの軍を率いているのは、テムサニス国王ジルモンド・テムサニスその人なのだ。

(やれやれ、妙なことになったな………)

 いや、“妙なこと”というほど事態は複雑ではないのだろう。しかしそれがロフマニスの正直な感想であった。

 時間は少し遡る。

**********

 事の発端は、ルトリア砦がカレナリアの旗を降ろさなかったことだ。
 カレナリアの旗を降ろさないということは、それはすなわちアルジャークと敵対する意思表示である。

 無論、ロフマニスにその意思はない。彼はどこまでいってもカレナリア王国と国王に仕える武将であり、エルネタードが降伏を決意した以上、それに従い剣を置くのが筋だと思っている。

 ではなぜ旗を降ろさなかったのかといえば、アルジャーク軍総司令官クロノワ・アルジャークが言うところの“悪巧み”に加担したからである。

 この悪巧みは、ひどく単純なものだ。作戦などと片意地を張るのも馬鹿らしい。クロノワもそれを承知して“悪巧み”という言葉を選んだのだろう。

 アルジャーク軍はテムサニスに侵攻する際、当然のことながら南に向かわなければならない。この時、ルトリア砦がカレナリアの旗を降ろしていなければ、南進する軍は砦の討伐軍だと多くの人は思うだろう。しかしアルジャーク軍が接近してきたところで砦は降伏し討伐軍は遠征軍に早代わり、というのがその内容である。

 先手を取るための小細工、というのがこの悪巧みに対するロフマニスの評価であった。成功すれば御の字。失敗しても問題が起こるとは思えず、悪巧みや悪戯の域を出るものではあるまい。

(あまり好きではないが………)

 ロフマニスの好みからすれば、こういった小細工は好きではない。自分が作戦指揮官であれば、このような手は使わないだろうと思う。しかし今の彼は敗者の地位にあり、クロノワは勝者の地位にいる。ならばその命令には従う義務があろう。好きでないが拒否反応を示すほどでもない。それに目下彼の最大の目的は、自分が預かっている砦の兵士たちに無駄な血を流させないことで、それと矛盾するわけでもない。短い時間でもそこまで考え、ロフマニスはクロノワに了承を伝えたのであった。

 こうしてロフマニスはクロノワの悪巧みに乗ったわけであるが、彼はその話を自身の幕僚たちのところまでで止めていた。その性質上、あまり多くの人間に知られるのは好ましくないと判断したからなのだが、砦の兵士たちは思いのほか敏感に反応した。

 今ルトリア砦に詰めている兵士の数は一万と少し。アルジャーク軍との決戦に向けてイグナーツが兵士をかき集めたことを考えれば、かなり多くの兵士が残っていると言えるだろう。しかし当然のことながら、たったこれっぽっちでアルジャーク軍と戦えるわけがない。砦に籠もっていたとしても同じである。そんなことは末端の一般兵に至るまで承知しており、それゆえにカレナリアの旗を降ろさないというロフマニスの行動は、彼らの目には自殺行為に思えた。

「いざとなれば私の首を差し出せばよい」

 今すぐに降伏するよう詰め寄る兵士たちに、ロフマニスはそういった。その言葉で指揮官には指揮官なりの考えがあることを知った兵士たちは引き下がったのであった。

 さて、このようにして砦の内部は納まったわけであるが、次の厄介事は砦の外、しかも南の方からやってきた。テムサニス国王ジルモンド・テムサニスの親書を携えた使者がやってきたのである。その内容を簡単に要約すると、次のようになる。

 曰く「ルトリア砦にいる兵士たちを、亡命者としてテムサニスに受け入れても良い」
 この親書を読んだとき、ロフマニスは生まれて初めて笑うのを堪える努力をした。

(なるほどテムサニスからはそう見えるのか………)

 テムサニスからすれば、カレナリアの旗を降ろさないルトリア砦は、玉砕覚悟でアルジャーク軍と戦う決意をしたように見えるのだろう。

 ここで勘違いしてはならないのは、受け入れを申し出たテムサニスの思惑である。彼らを受け入れれば、当然ルトリア砦もテムサニスのものになる。国境の砦をタダで手に入れられるのだ。これは大きなメリットだろう。

 加えてカレナリアは今混乱している。侵略者たちが我が物顔で闊歩するカレナリアを救世主として救い、ついでに十か二十州くらい切り取りたい。そして行軍をスムーズにするためには、ルトリア砦を味方に引き込むのが一番良い。そんな思惑もあった。

「少し考えさせてもらいたい」

 ロフマニスは使者にそう伝え、とりあえずのお引取りを願った。帰っていく使者を見送ったロフマニスはその足で「共鳴の水鏡」がある部屋へと向かい、王都ベネティアナにいるクロノワへと事の次第を連絡したのである。

「そう来ましたか………」

 話を聞いたクロノワは苦笑するようにそういった。彼にしてみれば意図せずして大きな獲物が食いついた、といったところだろう。

「連絡をいただけたのはありがたいですが、貴方はそれでよかったのですか?」

 ロフマニスからしてみればテムサニスと手を組むという選択もあったのだ。テムサニス軍を引き込み、なにも知らずに近づいてくるアルジャーク軍を強襲すれば、緒戦はまず間違いなく勝てるであろう。

「私はカレナリアの軍人です」

 その短い言葉に、ロフマニスはありったけの誇りと気位をこめた。彼のその言葉に、クロノワも満足したように頷いた。

「それで、貴方はどうするつもりですか」
「無論断ります。テムサニス軍が北上するのであれば、戦ってこれを防ぎます」

 ロフマニスが戦うのはアルジャークのためではない。カレナリアのためだ。この状況下でテムサニス軍がカレナリア領内に乱入してくれば、納まりかけてきた混乱に拍車がかかり、安定が遠のくことは目に見えている。

「かりに戦うとして、我々が間に合わなければ全滅ですよ」
「覚悟の上です」

 一瞬の逡巡もなくロフマニスは答えた。その答えを聞くと、クロノワは何かを思案するように顎を撫でて黙り込んだ。

「………汚名を被る覚悟はありますか?」

 より確実に、かつ被害を抑えてテムサニス軍を撃退する方法がある。しかしそのためにはテムサニス軍を騙す必要があるのだが、その騙し方は後の世から顰蹙(ひんしゅく)をかうかもしれない。そしてその騙す役回りはロフマニスなのだ。

「………詳しくお聞かせいただきたい」

 ジルモンド・テムサニスが軍を率いてルトリア砦を通過したのは、その五日後のことであった。

**********

 ジルモンド・テムサニスの新征は順調に進んでいた。不気味ではあるが、順調に進んでいた。

 なにしろそう表現するしかない。これまでに一度も戦端は開かれておらず、ただ歩を進めしかない。略奪の対象になりそうな町や村はいくつかあったが、住民の大部分は避難しているらしく特に若い娘や子どもは影もない。それに伴い物資も引き上げられているらしく、略奪するのも馬鹿馬鹿しい有様であった。

 結果、テムサニス軍はなにもせずただ前進するしかない。問題が起きているわけではなく順調であることは間違いないが、どこか仕組まれた策略の気配を感じそれが不気味でならない。

(どこで仕掛けてくる………?)

 策略を仕掛けているのがクロノワ・アルジャークであることはまず間違いない。となればどこかでアルジャーク軍の襲撃が必ずある。

(ままならぬ………!)

 これまでに見てきたカレナリア領内の様子は、ジルモンドの思惑がかなり外れたことを意味している。当初彼は混乱に乗じて事を運ぶ腹積もりあったが、整然とした避難の様子からは混乱は見受けられない。先手を取るつもりであったのに、その先手がいつまでたっても取れない。

 遠征そのものは順調である。しかし思惑を外されたジルモンドは、いい様のない不気味さを感じる。

 嵌められたのではないか?嵌められたのであれば、どのように?今自分はどんな状況下に置かれているのか?
 そんな彼の疑問の答えは後方からもたらされた。

 ―――――ルトリア砦が、門を閉じているという。

 それはつまりテムサニス軍の補給路が寸断されたことを意味していた。
「おのれ謀ったな!!」

 ジルモンドはすぐさま軍を取って返した。これはなにも謀られたことに対する、感情的な理由による行動というわけでもない。補給線が寸断されたということは、テムサニス軍にしてみれば生命線を切られたことと同じである。大半が避難しもぬけの殻となっている近くの村や町から略奪したとしても到底足りるまい。ゆえにすぐに対処しなければ軍が干上がってしまい、戦わずに敗北することになる。

 街道を南に進み、ルトリア砦の姿を認めたジルモンドはすぐさま総攻撃を命じた。砦にいる兵士の数は一万と少し。それに対しテムサニス軍は十五万である。恐らく一日とかからずに陥落するであろう。

 ルトリア砦にカレナリアの兵を残しておいたのは失策であったろう。ただ反面彼らがこのような大胆な行動に出るとは考えていなかったのだ。カレナリアはすでにアルジャークに併合され、彼らに帰る場所などないのだから。

 それに、そもそも兵の数が圧倒的に少なかったからこそ、カレナリアの兵を砦に残しておいたのだ。それはつまり敵に回られたとしても、簡単に叩き潰すことができる自信があったということである。失敗はしたが、まだ十分に挽回できる。

 テムサニス軍に攻撃を仕掛けられたルトリア砦は必死に抵抗した。だが、如何せん数が違いすぎる。このままならばそう時間はかからずに落ちる。敵味方を含め、その戦場にいる誰もが始まる前からそう思っていた。

 テムサニス軍有利の戦場の流れが一変したのは、攻撃開始からわずか約三十分後のことであった。
 堂々たる陣容を誇るアルジャーク軍が、テムサニス軍の背後に現れたのである。

 この時点でクロノワの策略が完成したといっていい。
 ルトリア砦はテムサニス軍を通過させてから、その門を閉じ敵の補給路を寸断する。略奪にあいそうな村や街はあらかじめ避難させておき、敵に物資を渡さないようにする。孤軍になったテムサニス軍が目指す場所はただ一つ、ルトリア砦である。この砦を攻略し補給路を再び繋げるのが、状況を打破する最善の方法であろう。幸い戦力差は歴然で、砦を落とすのにさしたる時間はかからない。

 ここまで読めればアルジャーク軍の行動は簡単である。テムサニス軍との距離に気を付けながらルトリア砦を目指せばよい。敵軍が砦に攻撃を仕掛けているその背後を取れば、チェックメイトである。

 ただこの策略には汚れ役が必要であった。ルトリア砦の指揮官、つまりロフマニスがこれに当たる。一度はテムサニスに味方しておきながら、後になって裏切るのだ。正々堂々とはとても言えまい。

 戦場での駆け引きにおいて相手を騙すことは良くあるが、今回の策略は「約束を破る」という類の騙しだ。それさえも良くあることなのかもしれないが、“卑怯”とか“低俗”とか、そういう評価は免れないように思える。
 クロノワの言う「汚名」とはそういうことであった。

 ただロフマニスとしてはなんら恥じるところはない。彼はカレナリアの軍人でありルトリア砦の指揮官であり、彼が守るべきはカレナリアの国民と砦の兵士たちである。クロノワの策略に乗るならばこの二つを高確率で守ることができ、その代償として自分が汚名を被るだけならば安いものだと、本気でそう思っていた。

 軍の最後尾というのは、得てして脆いものである。それは単純に背後という位置関係だけが原因なのではない。そもそも軍というのは前方に精鋭を後方には弱兵を配置する。特に一番最初に敵と接触する先鋒は、強ければ強いほど良い。後ろから襲われることに対する恐怖心は大きいだろうが、弱兵が精鋭に襲われるのだ、脆いのは当然だろう。

 テムサニス軍は崩れた。本来であればそのまま全面壊走となるのだろうが、悪いことに逃走すべき前方はルトリア砦がその行く手を阻んでいる。逃げるに逃げられず恐慌状態に陥った。

 一方ロフマニスはルトリア砦から打って出ることはせず、城壁の上からひたすら矢を射かけ続けた。なにしろ本来弓兵でない兵士にまで、弓を持たせて矢を射させていたというのだからその必死さが窺える。当然狙いなどでたらめで、敵軍の中に落ちればいい、といった程度のものだった。しかしその分矢の数は多く、テムサニス軍の恐慌状態に拍車をかけていった。

 逃げることもできなかったテムサニス軍は、結局ほとんどの者が武器を捨て投降した。投降のみが命を拾うほぼ唯一の選択だったのだ。その内、一人の男がクロノワの前に引き出されてきた。身につけている甲冑の装飾は豪華で、男の身分が高いことを証明している。さらにマントに施されている刺繍は、掲げられた王旗と同じ紋様であった。

「テムサニス国王、ジルモンド・テムサニス陛下とお見受けします」
「お、お前たちはカレナリアだけでは満足できないのかっ!!」

 左右の腕をアルジャーク兵に拘束されているジルモンドは、自由になる舌を必死に回転させた。

「ア、アルジャークは余の国を、テムサニスをも狙っているのであろう!?」

 余の目は誤魔化せぬぞ、とジルモンドは喚いた。彼の言葉には理論的根拠はまったくなく、その場の思いつきに等しいものであったが、偶然にも真実を言い当てていた。

「これ異なことをおっしゃる」

 クロノワはさも驚いたような声を上げて見せた。実際にテムサニス遠征を緻密に計画し、もう少しすれば宣戦布告していたであろうことはおくびも出さない。

「いつ我が軍が国境を破って貴国に侵入しましたか」

 ここはカレナリア領であり、つい先日アルジャークに併合された土地である。そこに侵入してきたのはお前たちで、つまり侵略者はお前たちのほうである、とクロノワは明快に断じた。

 その言葉を聞いてジルモンドはがっくりとうな垂れた。反論する余地がなかったからである。しかし後ほんの数日、彼らがカレナリア領に入るのが遅れていれば、侵略者と被侵略者の立場は逆転していたはずで、そのことを考えるとなんとも皮肉なものである。

 それはともかくとして、ジルモンド・テムサニスは高貴な捕虜としてアルジャーク軍に遇されることとなった。クロノワにしてみれば最高の手札を手に入れたことになり、テムサニス遠征が始まる前から圧倒的な優位を獲得したのである。

 ルトリア砦は引き続きロフマニスに任せることにした。ルトリア砦は国境の砦である。本来であれば彼を解任し、アルジャーク軍の中から適任者を選ぶのが筋なのだろうが、今回の一件でロフマニスは功績を挙げたし、また十分に信頼できる人物であるとクロノワは判断したのだ。自分の都合で汚名を被らせたロフマニスに対する、クロノワなりの配慮だったのかもしれない。

 投降してきたテムサニス兵は武装解除した上で、その周りをアルジャーク軍が囲っている。彼らの処遇は一度カレナリア王都ベネティアナに戻ってから決定するつもりである。解放するにしてもテムサニス政府との交渉があるし、その間はなんらかの強制労働に服させることになるだろう。ただあまりにも劣悪な環境で労働させることはしないよう、関係各所に指示を出しておかなければならないだろう、とクロノワは考えていた。

(これでテムサニス遠征の半分はすでに成りましたね………)

 テムサニスは十五万の軍勢を丸々失い、そのうえ国王ジルモンド・テムサニスを人質に取られているのである。この先、交渉で主権を譲渡させるのか、あるいは改めて軍を派遣するのか分らないが、そう高い壁はもう残っていないと見ていいだろう。

(計画が狂ってしまいましたねぇ………)

 クロノワは苦笑する。確かに計画は練り直さなければならないだろうが、それは「どこまで省略できるか」ということで、厄介な問題に頭を悩ませるわけではない。計画が狂ったとはいえ、事態は良い方向に転がったのであって、それは喜ぶべきことだろう。

 そう、予定は狂った。クロノワにとっては良いほうに。しかしこの狂いが悪いほうに転がっていった者もいるのである。

 アルジャーク帝国皇后、その人である。






[27166] 乱世を往く! 第六話 そして二人は岐路に立ち エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/07/07 19:28

 涼しい風が吹いている。
 北国であるアルジャーク帝国の冬は、早くまた長い。それはつまり夏が短くすぐに涼しくなるということだ。

 昼間はまだまだ温かくともすれば汗ばむような陽気だが、このごろは夜になれば肌寒い風が吹くようになってきた。

「デザートはいかがいたしますか、陛下」
「そうだな、では果物だけいただこうか」

 アルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグにある皇帝の住まう宮殿、その一角に設けられた皇后の私的な中庭で、帝国で最も高貴な夫婦が食事を楽しんでいた。言うまでもなく、皇帝と皇后の二人である。会場が皇后の私的な空間であることから分るように、皇后が皇帝を昼食に誘ったのである。

 何気ない食事の誘いのように思えるが、実はそれなりに意味がある。
 皇帝と皇后はこのところ不仲になっていた。原因は南方遠征軍総司令官の人選だ。皇后はレヴィナスを推したが、結局はクロノワがその役を拝命した。

 もちろんレヴィナスがこの件を断りクロノワを推し、そして皇帝がそれを了承したのは理由があってのことだが、皇后にしてみれば面白くない。皇帝の執務室に怒鳴り込んで喚き散したりもした。しかし決定は覆らずクロノワは今、総司令官として遠征軍を率いカレナリアにいる。

(ここら辺りが潮時、そういうことなのだろう)

 皇帝ベルトロワは妻の心情についてそう洞察する。
 彼女が皇帝の執務室に怒鳴り込んだことは、その日のうちに宮殿中に知れ渡っている。皇帝と皇后の仲が不穏になっている、などという噂は醜聞に属するし、なによりも事実であるからたちが悪い。

 つまりこの食事会は「もうこの件は終わりにしましょう」という、皇后からの終戦の意思表示なのだ。

 その胸の内の本当のところはどうか分らない。しかし表向きはこれで終わりであり、この先なにか文句を言うことはない、ということなのだろう。少なくともベルトロワはそう解釈した。

 二人は今大理石で作られた東屋にいる。柱にはつる草が巻きつき、天井は緑の葉で覆われ陽光を優しく遮っていた。

「そういえば最近、おいしいハーブティを手に入れましたの」

 デザートの果物も食べ終えちょうど食後のお茶が欲しくなったころ、皇后が見計らったようにそういった。なんでも最近愛飲しているという。

「そうか。では、是非いただきたいな」

 皇帝としてはそう答えるのが礼儀というものだろう。皇后は優雅に微笑むと、白磁器のティーポットに乾燥したハーブを入れお湯を注いだ。ハーブティはブレンドされたものらしく、何種類かの葉やベリーを認めることができる。

「どうぞ」

 皇后が二つのティーカップにお茶を注ぎ、その一つを皇帝に差し出した。お茶の色は薄い黄緑といったところだろうか。

「ふむ。清々しい、良い香りだな」

 程よく蒸されたのか、ティーカップからは鼻に抜けるような爽やかな良い香りがした。ベルトロワはまずその香りを楽しんだ。

 本来ベルトロワはもっと重厚で芳醇な香りのお茶やお酒を好む。臣下も彼の好みを良くわきまえていて、お茶を要求してもこういった類のティーカップを持ってくることはない。そのせいか、皇后が用意したティーカップは新鮮に感じられた。

 ティーカップに口をつける。毒見の必要はない。これは皇后が手ずから入れたお茶で、彼女が愛飲しているものだ。なによりも先に彼女が口をつけている。

 ハーブティは少しクセのある味だった。だが飲みにくいわけではない。クセの強い、薬っぽい味のする紅茶などもあるが、そういったものと比べれば断然飲みやすいだろう。

「もう一杯、いかがですか」
「そうだな、いただくとしよう」

 空になった皇帝のティーカップに皇后が二杯目のお茶を注ぎ、そのまま自分のティーカップにも二杯目を注ぐ。

 それから他愛もない話をした。
 どの時代いずれの国でも同じなのだろうが、話すのは女性で聞くのは男性だ。話題はころころと取りとめもなく変わっていく。宮中で囁かれている噂話から最近流行りのドレスまで、話の種は尽きることがない。

 ベルトロワはよき聞き役に徹していた。頷き相槌をうつ。時には質問をして話しを振ってやる。

 皇帝と皇后の二人ともが優れた話術を持っている。そんな二人の会話は、途切れることなくまるで流れるように続いていった。

「さて、そろそろおいとまするとしよう」

 そういってベルトロワはティーカップに残ったハーブティを飲み干し、立ち上がった。それを見た皇后は残念そうな表情を見せる。

「あら、もうそんな時間ですか?名残惜しいですわ」

 と言いつつも無理に引き止めるような事はしない。ベルトロワの一歩後ろについて、中庭の入り口まで彼を送っていく。

「そういえば今日の午後は何をなさいますの?」
 さも今思いついた、と言った感じで皇后が尋ねた。

「時間が空いたのでな、久しぶりに馬で遠乗りをしようかと思っている」
「左様でございますか………」

 それを聞いて皇后は内心でほくそ笑んだ。事前に調べたとおりである。
 皇帝の仕事は激務であるが、決して休みが無いわけではない。不定期にではあるが仕事の合間というものがあり、そういった時間を活用してベルトロワは馬で遠乗りをしたり、演劇や演奏会を楽しんだりしていた。

「落馬など、されませぬよう………」

 皇后のその言葉は心配と言うよりは挨拶に近いものだった。第一ベルトロワは乗馬の名手で、滅多なことでは落馬などしない。それゆえ彼は微笑をもって挨拶に代え、食事を楽しんだ中庭を後にしたのであった。


 そのおよそ一時間後、アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークは遠乗りの最中に落馬し、意識不明の重体に陥る。その同じ頃、皇后はと言えば午睡のまどろみの中にあったという。
 歴史の歯車の一つは壊れ、一つはずれ、そして一つは動き出した。


―第六話 完―




[27166] 乱世を往く! 番外編 約束
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:33
番外編 約束

「海、か………」

 独立都市ヴェンツブルグは極東に位置する貿易都市であり、この地方で有数の良港を保有している。当然、ここでは海は身近な存在だ。

 ヴェンツブルグに君臨する三つの名家を「三家」というが、その内の一つラクラシア家の屋敷に用意されたイストの部屋からも海を見ることができた。
 水平線が明るくなり、空が白んでくる。

「日の出、か………」

 屋敷を抜け出して港まで見に行こうか、と思いついたが止めておく。イストの部屋がわざわざラクラシア家に用意されたのは監視を含めてであり、それを考えれば警戒されるような行動は慎むべきであろう。もっとも聖銀(ミスリル)の製法の代金はまだ一銭も受け取っていないから、監視する必要などあってないようなものだ。製法にしたって実際に作ってみせるまでは眉唾物だろうし。

(それに朝飯の前だしな)
 腹が減っているから動きたくない。実はそれが一番大きな理由だ。

「そういえば、海から朝日が昇るのを見るのは、あの時以来か………」

 イストがまだ師匠であるオーヴァと旅をしていた頃、友人であるクロノワの姓がアルジャークではなくまだミュレットであった頃。自分と友人と師匠と三人で見た、あの朝日。世界は広いと、改めて感じたあの日。

「あの時にした約束は、まだ有効だよな………?」

**********

 バイエルト、という街がある。
 アルジャーク帝国の辺境に位置する街だ。辺境と言っても帝都ケーヒンスブルグから離れており、そのため政治的な喧騒からは遠いと言う意味であって、規模はそれなりに大きい。

 アルジャーク帝国は北国でありその冬は厳しいが、その大地は肥沃で夏になると奇跡のように命を育む。バイエルトの周囲も豊かな穀倉地帯であり、町の周りには麦畑が広がっていた。

 平和な街であり、ここ百年は戦火に巻き込まれたことがない。ただ昔の名残で古めかしい城壁が、市街地とその外に広がる麦畑の間を隔てている。

 季節は冬。収穫の終わった麦畑はすっかりと深い雪に覆われ、あたりは一面の銀世界となっていた。人が足を踏み入れることのない雪原には、ただ風だけが遊ぶように紋様を描いている。

 バイエルトの街の郊外に一組の母子が暮らしている。母の名前はネリア・ミュレット、息子の名前はクロノワ・ミュレットという。父親はいない。いや、生物学的にはきちんと存在しているのだろうが、少なくともクロノワは父親の顔も名前も知らなかった。

 父親について、クロノワはある程度の推測は持っている。
 母がこの街に来たのはおよそ十四年前。今のクロノワの年齢は十四歳であるから、どこか別の場所で自分の妊娠が発覚してから、この街に来たのだろう。母の親類がバイエルトの街にいるわけではないから、今住んでいる家と土地はここに来てから買ったことになる。借金をしたと言う話は聞かないし、つまりそれだけのお金を母は持っていたのだ。

 さらに今、ネリアとクロノワの親子は小さなハーブ農園を経営している。だが、そこでの収入など微々たるものだ。一般家庭の平均的な月収は3~5シク(金貨3~5枚)と言われている。二人だけの家庭であるから、収入はもうすこし少なくても大丈夫なのかもしれないが、それにしたって農園の売り上げだけで生活していけるとは思えない。にもかかわらず生活に困窮しているわけではない。ということは、その分の財産を持っていると言うことになる。

(てことは、つまりアレだ………)

 自分の妊娠が発覚した事で、母はかなりの額の手切れ金を渡されたのだろう。つまり自分の父親は相当額のお金を用意できる人間、ということになる。

(役人のお偉いさんか、金持ちの商人か………)

 クロノワは自分の父親についてそう当りをつけていた。無論、母であるネリアに聞いたたことはない。そんなことをすれば困らせるだけだと分っている。

(まあ、別にもう、どうでもいいけどさ………)

 顔も名前も知らない父親を憎んだことはある。一時期、それは激しく憎悪した。金持ちだったと確信した頃が、最も激しく憎んでいた。

 金があるってことはその分、力が、権力があるってことだ。それなのになぜ自分で手をつけて、子どもを身ごもらせた女を手切れ金だけで放り出す?お前にとっては遊びで責任を取ったつもりなのかもしれないけど、母さんには母さんの人生があるんだ。それを狂わせといて金だけで済ませようなんて、最低じゃないか!

 顔も名前も知らない相手に、恨み言やら呪いやら、吐き続けていた時期があった。が、今はどうでも良くなってしまった。

(疲れるんだよな………)
 顔も名前も知らない相手を憎み続けるのは。

 無論、“奴”を許したわけではない。憎み続けるのに疲れて、馬鹿馬鹿しくなっただけだ。ともかく金はあるんだから、それが尽きる前に自分が働いて母さんを支えてやればいい。今は、そう考えている。

「ご飯の準備は出来たわね。クロ、オーヴァさんとイストくんを呼んで来て」
「はい、母さん」

 ネリアは息子であるクロノワのことを「クロ」と呼んでいた。無論名前を縮めたものだ。ちなみにクロノワの髪の毛も目も黒ではない。

 この冬、クロノワの家には二人の客人がいた。
 オーヴァ・ベルセリウスとイスト・ヴァーレ。本人たちの自己申告を信じるならば、流れの魔道具職人であるという。こうして一般の家を間借りするのは彼らにとって珍しくないらしい。普通はきちんと宿代を払うらしいがネリアが求めたのは食費だけで、「ずいぶんと安上がりで助かったわい」とオーヴァは喜んでいた。
 ただネリアはもう一つオーヴァに条件を出していた。それは、

「春になったらクロノワに海を見せる」

 というものだ。ネリアは理由を言わなかったしオーヴァも聞かなかったしイストは口を挟まなかったから本当のところは分らないが、もしかしたら“海”という目的地はさほど重要ではなく、この街の近辺しか知らない自分に広い世界を少しでも見せてやりたいと言うネリアの親心かもしれない。

 バイエルトの街から海までは、徒歩でおよそ二週間といったところだろうか。往復で考えれば約一ヶ月必要になる。当然師弟と一緒に旅をするわけで、その間に旅慣れしていない自分がかける手間を考えればトントンかもしれない。もっともこの師弟が「面倒を見る」などという気の利いたことをするとも思えないけれど。

「自分のことは自分でやれ」
 と問答無用で突き放されそうだ。

 それはともかく。オーヴァとイストの師弟は外で雪かきをしているはずだ。昨晩も大雪が降ったらしく、家の周りにはかなりの量が積もっている。

 師弟の雪かきの仕方は非常に独特である。「光彩の指輪」という、光で空中に図形を描く魔道具を使うのだ。師匠であるオーヴァが使っているのは「光彩の槌」というらしいが、効果は同じだと言う。同じ効果なのになぜ槌の形にしたのか、と聞いたら、

「ぶん殴るならこの形じゃろう」
 と、残念な答えを頂戴した。というか描くための魔道具で殴るな、と言いたい。

 それもまたともかく。この「光彩の指輪」で熱を生む魔法陣を描きそれをつかって雪を融かす、というのがこの師弟の“雪かき”だった。そのため一般的な雪かきと比べて非常に楽であるし、また速く終わり除雪した雪の置き場に困ることもない。時間がたつと雪解け水が凍ってしまい、道が滑りやすくなるのが問題だが、そばの雪壁を崩して雪で覆ってやればそれも解決する。

 まだ雪かきの最中だろうかと思いながらクロノワが家の玄関を開けると、師弟が雪かきに励んで、

「これでどうじゃ!」
「甘い!まだまだぁ!」

 いなかった。雪合戦をしていた。どうして家の中まで声が聞こえなかったのかと思い、そういえば雪には防音効果があるという話をどこかで聞いたな、と半ば現実逃避気味に考える。

 目の前の雪合戦は、普通の雪合戦ではなかった。普通の雪合戦ならば魔法陣は使わないだろう。

 イストが「光彩の指輪」をはめた手を雪にかざし魔法陣を展開する。すると雪がひとりでに集まってきて、こぶし大の雪玉を作っていく。雪玉が十個くらいできるとイストは魔法陣を書き換え、出来上がった雪玉を宙に浮かべた。

「いぃぃぃっけぇぇぇぇ!!」

 魔法陣をさらに書き換え、イストは浮かべた雪玉を発射する。その速度は人が投げるよりも遥かに速い。

 イストの攻撃(?)をオーヴァは防御用の魔法陣を展開して防ぐ。というか雪合戦で防御用の魔法陣使うってどうよ?

 ああ魔道具職人が本気で雪合戦をするとこうなるのか、とクロノワは心の底から呆れた。とはいえ呆れてばかりもいられない。

「あの、そろそろ、ご飯………」

 目の前の光景に圧倒され、クロノワの声は小さい。聞こえるはずがないと本人は思ったのだが、どうやら地獄耳のオーヴァは聞き取ったようである。

「うむ!ではそろそろ終わらせるとするかのう!」

 そういってオーヴァは「光彩の槌」を雪に叩きつけ、魔法陣を展開する。すると一抱えはあろうかという巨大な雪玉が形成され宙に浮かび上がった。さらにオーヴァが魔法陣を書き換えると、その巨大な雪玉はみるみる圧縮されていきついにはこぶしくらいの大きさになってしまった。

「これで終いじゃ!」

 オーヴァが「ドン!」と言う音と共に雪玉を発射する。イストはすかさず魔法陣を展開し、それを防ごうとするが………。

「危な!」

 パリィィィン………、と鈴が鳴るような音を残しイストが張った不可視の盾が雪玉によって割られた。イストは転がって避けたので無傷だが、しかし雪玉であの盾を割るとは理不尽にして非常識な。

「おいクソ師匠!今の雪合戦の威力じゃない、ブホォォ!」

 非常識な雪玉の威力に文句を言っていたイストの顔面に、オーヴァが投じた雪玉(圧縮してないやつ)が直撃しはじけた。

「勝~利!」

 ハーハッハッハッハッハッハッ!!と楽しそうに笑うオーヴァ。イストは雪の上に胡座をかいてそれを不機嫌そうに眺めていた。

「遊びこそ全力で」
 いつか聞いた二人のモットーを思い出し、クロノワは苦笑するしかなかった。

**********

 昼食を食べ終えた後、クロノワとイストの二人はバイエルトの街の城壁の内側、つまり市街地に来ていた。ここも雪に覆われてはいるが、やはり生活している人の数が違う。城壁の外とは活気が段違いである。

 そもそも家のつくりが違う。城壁の外側は木造の一軒建ての住宅が多いのだが、バイエルトの市街地はレンガや石造りの集合住宅が多い。ただ土地柄どちらの住宅も防寒対策はしっかりとなされている。

「あのクソ師匠め………!」

 隣を歩くイストが忌々しそうにそうもらした。彼が根に持っているのは食事前の雪合戦のことだけではない、と知っているクロノワとしては苦笑するしかない。

「いい加減忘れれば?」

 とはいえ無理だろうな、とクロノワも思っている。オーヴァの弟子の扱いは、彼の目から見ても少々ひどい。

 ある時やはり雪合戦をしていたオーヴァは、大量の雪でイストを押しつぶし、そのまま埋めてしまった。雪に埋もれて見えなくなったイストはそのまま気絶したのか出てこない。にも関わらず、あろうことかオーヴァは弟子をそのまま放置したのだ。

 曰く「あやつが着とる外套は、雪原で野宿しても大丈夫なやつじゃから、まあ大丈夫じゃろ、たぶん」

 そしてちゃっかり弟子の分の食事もたいらげ、イストは一食抜きの憂き目に会ったのであった。

 またある時、イストがテーブルに足を乗せイスの前足を浮かせ後ろ足だけでバランスをとるという、お行儀の悪い格好でなにやら資料を読んでいた。食事をするテーブルに土足をのせているのだ。これには正直クロノワもいい気はしなかった。

 そこに近づいてきたオーヴァ。彼はお行儀が悪いイストを見て眉をひそめると、おもむろにイスの後ろ足を払ったのだ。当然イストはバランスを崩し、ガタン!と大きな物音を立てて床に頭をしたたか打ち付け、読んでいた資料は散乱した。クロノワは目の前の光景に唖然として言葉もない。

「痛ってぇぇぇぇ………!なにすんだこのクソ師匠っ!!」

 若干涙目になり、打ち付けた後頭部を擦りながらわめくイスト。が、そんな弟子の非難になど一向に耳を傾けずオーヴァはこういった。

「食卓に靴を履いたまま足を乗せるなっ!乗せるんなら靴、脱いでからにしろ!」

 おいおい注意点はそこだけなのか、とクロノワは思った。思っただけで口には出さない。彼の目の前では仲のいい師弟が売り言葉に買い言葉で会話を楽しんでいる。火の粉が飛んでくる前にクロノワはその場を退散した。

「クロノワもそう思うよな!?っていねーし!!」

 そんな絶叫を聞き流しながらクロノワは苦笑し、しかしイストに加勢しようとは露程にも思わなかった。二人がかりとはいえ、あのオーヴァに舌戦で勝てるとは思えなかったからだ。案の定イスト一人で勝てるわけもなく、孤軍奮闘虚しくいいように言いくるめられたらしい。

 無論イストとてやられっ放しではない。この前などは赤唐辛子の粉末を大量に混入した「激辛コーヒー」で一矢報いていた。

 ちなみにイストの「コーヒーシリーズ」はなかなかバラエティーに富んでいる。幾つか例を挙げるならば、ゲル状になるまで砂糖を入れた「激甘コーヒー」。塩を大量に入れたホイップクリームを上に乗せる「塩ウィンナー」。ミルクの代わりに豆乳を入れる「豆コーヒー」などがある。

 あとお湯の上に泡立てた牛乳を乗せる、もはやコーヒーですらない「なんちゃってカプチーノ」などもあるのだが、これはネリアが間違って飲んでしまい、「騙された」と悔しがっていた。そしてその日の夕食はなぜかイストだけおかずが一品少なかった。

 悪戯のためには手間を惜しまない師弟の攻防を安全圏から眺めていたクロノワはこう結論を下す。

「総じて仲のいい師弟だ」
 我ながら当を得た評価だと内心で大いに満足する。

「ニヤニヤしてどうした?」
「………なんでもない」

 イストがこちらの顔をのぞきこんでいるのに気づいて、クロノワは思考を現実に戻した。辺りを見渡せば随分と歩いたようで、目的地まで後少しとなっていた。

 大通りをはずれて路地に入っていく。目的地はバイエルトの街に乱立する集合住宅の一つ、レンガ造り五階建てアパートの三階の一室である。そこには「ロゼット爺さん」と呼ばれる一人の老人が住んでいる。

 彼は様々な分野に深い知識を持つ博識な老人で、街の知恵袋と言えるだろう。街の子供らに勉強を教えたりもしているのだが、その子供らに自分のことを「老師」と呼ばせて楽しんでいた。無類の本好きで、彼の家には個人にしては大量の蔵書があるのだが、買ったものと自分で書いたものが半々くらいだろうか。

 若い頃は講談師として世界中を旅して周り、各地方の逸話や寓話を集めたりしていたという。また日記の中でその地方の特産物や地理的な特徴、気候などについても詳細な記録を残していた。時折物好きな貴族の家などにやっかいになり、集めた話を聞かせる一方で日記の編纂などをして自分の蔵書を増やしていったのだという。

「ロッゼト爺さん、いる?」

 ノックもそこそこにクロノワとイストは室内に入っていく。部屋の中に入ると、沢山の本がおいてある場所特有のあの匂いがした。それだけで随分と雰囲気が変わる。

「おお、クロノワとイストか。良く来た」

 部屋の奥から一人の老紳士が現れた。頭は白いものが混じって灰色になり顔にもしわがきざまれているが、その目から理知的な光が失われることはなくまた腰も曲がってはいない。右目に引っ掛けたモノクルが良く似合っている。この部屋の主、ロッゼトである。自分のことは「老師」と呼ぶように、と茶目っ気をこめて注意してから、彼はクロノワとイストを部屋に招きいれた。

 図書館のないバイエルトの街において、大量の蔵書が保管してあるロッゼトの家は稀有にして貴重な知識の泉だ。クロノワはもとより最近ではイストもよく彼の家に入り浸ってはその蔵書を読み漁っていた。

 ロッゼトも若人たちが知識への探究心を持ってくれるのは嬉しいらしく、この二人組みの訪問を邪険に扱ったことは一度もない。もっともクロノワとイストは本を読むばかりではなく、主が執筆に没頭するあまり散乱しがちなロッゼトの部屋を掃除したり、簡単な食事を準備するなどして恩返しをしていた。

「しっかし、いつ来ても思うけど、すごい蔵書量だよな」

 よく個人でこれだけ集めたもんだ、とイストは呆れながら感心する。クロノワもそれはまったくの同意見だったが、それを口に出す段階はとうの昔に通り過ぎているのだ。

「結構古いものも多いし、どうやって集めたんだ、老師?」

 老師、と呼ばれて気分を良くしたのか、ロゼットは穏やかに微笑んだ。イストの疑問はもっともだろう。どう見たって個人が旅をしながら持ち運べる量ではない。そのことはクロノワも前から気にはなっていた。

 ロゼットは得意げに種明かしをする。
 旅をしていた頃、その途中でアバサ・ロットと出会ったことがあるという。求められるままに様々なことを話していたらどうやら気に入られたらしく、魔道具「ロロイヤの道具袋」をもらったのだそうだ。この魔道具のおかげで大量の資料を背負うことなく持ち運びできるようになり、結果として彼の蔵書の量は加速度的に増えていった。

「食う物も食わず本を買いあさったものだ」
 とロゼット爺さんは当時を思い返して笑った。

 伝説の魔道具職人アバサ・ロットの名前が出て来て、クロノワは驚いた。もちろんかの人のことは知っていたが、どこか別の世界のことのようで現実味があるとは言いがたいものだ。なのにまさかこんな近くに接点があったとは。

 イストも驚いているだろうと思って彼のほうを見ると、彼は「アバサ・ロットか………」と小さく呟いて何か考え込んでいた。

「弟子とか、一緒にいた?」
「いや、一人だったと思うが………、どうかしたかね?」

 イストは、なるほどね、と納得したように小さく呟きそれから、なんでもない、と言って話を切り上げた。クロノワも不思議には思ったが追及はなにもしなかった。今彼の家に間借りしているオーヴァ・ベルセリウスがアバサ・ロットその人であるとクロノワが知るのは、彼の姓がアルジャークになってからである。

 クロノワとイストの二人はロゼット老師に断ってから適当なイスに腰掛けると、目当ての本を開きその世界に没頭していく。ロゼットも二人が読書に集中し始めたのを見て満足そうに頷くと、自分の机に向かって執筆作業を再開した。

 外では一時は晴れた雪がまた降り出した。深々と降る雪は雑音を遮り静寂を連れてくる。バイエルトの冬はこうして深まっていく。

**********

 オーヴァとイストの師弟がクロノワを連れて旅立ったのは、バイエルトの周りの麦畑の雪が完全に溶けきってからのことだった。遠くに見える山々の頂はまだ雪に覆われているが、平原にはすでに緑の草が芽生え始めている。

 雪が溶けてなくなり春の足音が聞こえる季節とはいえ、やっぱり外はまだまだ寒い。一ヶ月程度とはいえ旅をするとなれば、その間は当然野宿が主になるだろう。温かいベッドが期待できるわけでもないし、であるならばもう少し気候が暖かくなってから旅立つのではとクロノワは思っていたが、聞くところによると師弟はもうむしろもっと早く旅立つ予定だったのだと言う。

(気を使ってくれたのかな………?)

 初めての旅に臨む自分に。それは嬉しいし申し訳なし、「心配してくれなくても大丈夫なのに」という強がりを言ってみたりしたくもなるのだが、どうせならもう少し気を使ってくれればいいのに、と思わなくもない。主に出発の時期を遅らせる方向で。

 とはいえクロノワは同伴させてもらう立場だ。それが、ネリアが出した冬の間宿泊するための条件だったとしても、依頼主のようにふんぞり返ることなど出来るわけがない。

 そもそもオーヴァとイストの師弟の旅は、自分のように一ヶ月限定のものではない。その行動範囲が大陸規模である彼らにしてみれば、今回のこの海への旅は余計な寄り道に属するもので、義理以上の理由は持っていないはずだ。ならば自分が彼らに合わせるのが作法と言うものであろう。

 とまあグダグダ考えては見たものの、要するに「野宿きつそうだなぁ」というのがクロノワの心配事であった。まだまだ寒いこの時期、野宿したら凍死するのではないかと真面目に心配していた。

 とはいえその心配は杞憂に終わった。当然と言えば当然である。なにしろオーヴァとイストの二人は旅慣れしており、初心者のクロノワが心配するような事案は最初から織り込み済みなのだから。

 旅立つにあたり、オーヴァは一つの魔道具をクロノワに貸した。師弟が身につけている外套と同じもので、「旅人の外套(エルロンマント)」という魔道具だ。その能力は外套の内側の温度調節と防水、および風除けである。この外套を羽織っていれば季節が真夏であろうが真冬であろうが快適に過ごせるし、激しい雨に吹かれても体が濡れることはまずない。

(随分軽装だとは思っていたけど、これがタネか………)

 思えばこの冬の間二人は常に、外だろうが家の中だろうがこの外套を身にまとっていた。室内はともかく外に出るときアレで大丈夫なのかと密かに心配していたのだが、実際にこの「旅人の外套(エルロンマント)」を羽織ってみればそんな心配は無用であったことがよくわかる。

(コレ、もっと早く教えてくれればよかったのに………)

 一枚薄い外套を羽織っただけなのに非常に暖かい。しかも風除けの効果もあるので、冷たい風に吹かれて体温を奪われることもない。冬の間、モコモコと着膨れていたことを思い出し、クロノワはちょっぴり恨めしく思うのだった。

 師弟との旅は、なんというか意外だった。意外に、まともだった。
 オーヴァとイストが家に泊まっていた間、二人の奇想天外にして荒唐無稽な奇行の数々で楽しませてもらったクロノワは、旅の空の下でもそれは変わらないのだろうなと思っていたのだが、師弟の旅はなかなかどうして普通で、クロノワとしては拍子抜けをくらってしまった。

「あんな乱痴気騒ぎ毎日やってたら先に進めないし」

 なるほどごもっとも。この師弟も旅が始まれば悪戯を仕掛けるより足を動かすことが優先らしい。

 旅のペースはゆっくりとしたものだった。当然クロノワに合わせたものだが、オーヴァとイストにしても冬の間に鈍った体をならしているらしい。毎日派手に動き回っていたと思うのだが、それとは別問題のようだ。

 歩を進めるのは基本的に明るい時間だけだ。そして暗くなる前に火を熾すなりして野宿の準備をする。暗くなってから動き回るのが面倒なのは、想像に難くない。なにより軽食が中心になる旅の中で、オーヴァとイストは夕飯は比較的しっかり作るので、それが楽しみになっていた。無論、手伝わされたが。

「やっぱり温かいものを食べると落ち着くなぁ」

 食後の紅茶を手のひらで温めながらクロノワはしみじみと呟いた。イストには、じじ臭い、と笑われたが。

 夕飯後は雑談の時間である。クロノワを交えたこの一ヶ月の旅の中で、最も多かった話題は「どんな魔道具が欲しいか」というものであった。

「そうだな、勝手に水が沸いて出てくるような魔道具があったら便利だと思うよ」

 クロノワの言葉には実感がこもっている。
 この時代、上下水道が設備されているのは一部の大都市に限られている。当然ネリア親子が住んでいるような郊外に、そのような便利な設備はない。日々の生活で使う水は井戸などから汲んでこなければならない。しかもそれを毎日しなければならないのだから、大変な仕事量である。

 ちなみに下水がない地域の汚物の処理に関しては、地面に埋めるという知恵が一般に広まっている。

「アレ、使えるんじゃないかな」

 イストの言う“アレ”とは「乾いた風(ミストラル)の壷」という魔道具である。室内除湿用の魔道具で、湿気を集めて水として壷の中に溜めていく魔道具だ。

「壷をもっと大きいやつにして、出力を上げればいけそうな気がするけど」
「あんまり強力だと、今度は乾燥しすぎるんじゃないの?」
「外に置けばいいじゃん」

 なるほど確かにその通りである。室内に強力な「乾いた風(ミストラル)の壷」を置けば乾燥し過ぎに注意しなければいけないだろうが、外に置けば除湿しきれるわけもないので水が溜まるだけである。溜まる水の量は季節によって変わってくるだろうが、霧が出たり地面が朝露に濡れるような季節であれば、雨が降らなくとも一晩外に置いておくだけで結構な量が集まりそうである。

「あ~、でも外に置くと、虫とか入りそうだな」

 外に置くのだ。温かくなれば虫が寄ってくるだろうし、それだけではなくホコリや砂などが混じることだってあるだろう。

「それでも使い道はあるよ」

 水を使うのはなにも料理だけではない。掃除や洗濯など、生活の様々な面で水は必要になる。飲み水や料理に使う水は井戸から汲んでくるにしても、それ以外に使う水をこの魔道具で確保できれば、日々の仕事量は随分と少なくなる。

「それにウチはハーブ農園をやってるから………」

 植物を育てている以上、どうしても水は必要になる。その規模が大きければもはや雨を待つしか手はないが、幸か不幸かネリアのハーブ農園は小規模で、水をやろうと思えばやれてしまう。雨水を溜めておいたりもしているのだが、それにしても常に必要量があるわけではなく、足りない分は井戸から汲んでこなければいけない。

「それが結構手間でね」

 水汲みは基本クロノワの仕事らしい。だからこそ「水が勝手に湧き出てくる魔道具」があったら便利だと思ったのだろう。

「にしても、こんな話してていいの?」

 言うまでもなくイストは流れの魔道具職人であるオーヴァの弟子だ。どこかの宿に泊まっていればその限りではないが、一日中歩き続けなければいけないような日は、修行する時間は主に夕食後に限られる。つまり今雑談しているこの時間だ。イストにはイストなりのやるべきことがあるのではないだろうか。

「いーの、いーの。たまに一般人から意見を聞くのも参考になるし」

 まったく師匠が奇天烈な変人だとなにが常識なのか分らなくなって困る、とイストはぼやいた。自分を一般人のくくりに入れなかったのは、自分も変人の類だと自覚しているからなのだろうか。

「まったく口の減らない弟子じゃ」

 オーヴァが呆れたように口を挟んだ。変人呼ばわりされたことへの自己弁護がないのは、やっぱり自覚があるからなのだろうか。

「拾ったときは………、こんな性格じゃったか」
「そう、オレのこの性格は先天的な………っておい!」

 そんな師弟の仲のいい会話に、クロノワは思わず笑ってしまう。

「それはそうと、さっき話していた『乾いた風(ミストラル)の壷』の改造計画じゃが………」

 オーヴァがその話に乗ってきたことにクロノワは少し驚く。彼は先ほどの話の間中、チビチビと酒を飲んでいたので、興味はないものと思っていた。

「つまらんな」

 ぶっきらぼうにオーヴァはそう言い放った。イストはその言わんとするところを理解できたのか眉をひそめているが、クロノワは目を丸くするばかりだ。魔道具に面白いもつまらないもないと思うのだが。

「もっと趣味に走った魔道具を作れ」

 効率だの実用的だの、そんなことばかり考えているとつまらん人間になるぞ、とオーヴァは偉そうに高説をたれた。

(なるほど、こういう師匠につくから常識が吹っ飛ぶのか………)
 妙なところにクロノワは納得した。その間もオーヴァの高説は続く。

「何事もやり過ぎるのが大切じゃ!」
「それは絶対ウソだ!」

 間髪いれずにツッコミが出来る辺り、クロノワはまだまだ毒されてはいない。

**********

 その日は、朝日が昇る随分前に起きた。
 辺りはまだ暗い。薄暗いのではなく、真っ暗である。家で暮らしているときはもちろんのこと、旅の間でさえこんなに早く起床するのは初めてである。

 こんなにも早く起床したのには、もちろん理由がある。
 海から昇る朝日を見るためである。

 オーヴァ、イスト、クロノワの三人が今野宿をしているのは「ララバト山」という山の麓である。この山を越えた向こうに、目的地である海が広がっている。ララバト山は高くもなければ急峻でもない、むしろそれと真逆のなだらかで登りやすい山である。子どもの足でも半日あれば越えることは可能だろう。が、山はやはり山であり、その頂に立たなければ海を臨むことはできない。

「ちょうどいいから明日は早く起きて、頂上から朝日を見よう」

 昨晩の夕飯時に、オーヴァはそう提案した。そのためにはかなり早い時間に起きなければならないことが目に見えており、当初はイストもクロノワも乗り気ではなかったのだが、「海から昇る朝日は一度も見たことがないじゃろう?アレは一度見ておいたほうがいい」と、オーヴァに説得されたのだ。いつもの、何かを企んでいる様子がなかったのも大きい。

 火を熾すこともせず、「新月の月明かり」の光だけを頼りに冷たい朝食を詰め込み、三人は頂上を目指して歩き始めた。ララバト山がなだらかで登りやすい山とはいえ、山道は当然のことながら舗装などされていない。クロノワはランタン型魔道具「新月の月明かり」で、イストは「光彩の指輪」で、オーヴァは「光彩の槌」でそれぞれ足元を照らしながら注意深く山を登っていく。

 旅をしている間中そうであったが、オーヴァとイストは足を動かしている間、話しをすることはほとんどない。クロノワも黙って二人の後についていく。

 暗く、そして静かな山の木々の中を進んでいく。
(ああ、現実じゃない………)

 旅の間、何度かお酒を飲んだことがある。見知らぬ、そして薄暗い夜明け前の山道を歩くクロノワは、酒精による酩酊とはまた別の現実からの乖離を感じた。見知らぬ山道だからなのか、それともまだまだ先が見通せないほどの暗さだからなのか、彼自身にも良く分らないがまるで異世界に迷い込んだかのような感覚を覚えたのだ。

 ふと、思う。
 ――――遠くへ、行きたい。
 それは心の奥底にあった、小さな願望。

 自分はなんと言うか、老成しているのだと思う。クロノワは自分の性格について、そんなふうに思うことがある。それはきっと父親がいないことや、そのために自分が母親であるネリアを支えなければいけないという義務感に起因するものだろう。自分が不幸だとは思わないし、不幸自慢をしたいとも思わない。けれどもそれは「クロノワ」という人間が背負い込んだ、捨てることの出来ない荷物なのだ。

 そういうものを、時たま非常に邪魔に感じることがある。あらゆるしがらみから切り離されて、ただの一個の人間に成りはてたいと思うことがあるのだ。

 そんなことは不可能だと、分っている。どこに行こうが住もうが、そこに人がいて人間関係が存在する以上、大なり小なりしがらみは生まれるものだ。それはきっとどうしようもなく面倒で、逃れ得ないものなのだろう。

 だから、というのは変かもしれない。しかしそれが正直な気持ちでもある。

「遠くへ、行きたい」
 と思うのだ。

 ネリアがこの旅を用意してくれたのは、あるいは息子のそんな心のうちに気づいていたからかもしれない。

 山頂が見えてきたときには、東の空はすでにたいぶ明るくなっていた。西の空には沈みかけの白い月がまだ浮かんでいるが、もう明りが要らないくらいには視界は良好だ。

「近いぞ、もうすぐじゃ」

 オーヴァがそう声をかけると、イストが頂上めがけて走り出した。クロノワは反射的にその後を追う。木々の間を走りぬけそれが途切れたその先に、その光景は広がっていた。

 ――――海が、輝いている。

 その光景は、なんというか、圧倒的だった。圧倒的な、現実だった。海から昇り世界を輝かせているその朝日は、クロノワがついさっきまで感じていた現実からの乖離するようなフワフワとした浮遊感を一瞬にして剥ぎ取り、圧倒的なリアリティーをもって彼にこう告げるのだ。

「ここが現実だ。ここは現実だ」と。

 朝日は昇り続け、世界に新しい一日の始まりを告げている。その様子を、クロノワは夢から覚めるように見続けた。

「広い、なぁ………」

 思わずそんな呟きがもれた。ララバト山の頂から見る海は広大で、遠くへと行けそうな気がしてくるのだ。

「まだまだ。世界はもっと広い」

 隣に並んだイストが言う。そうだろうか、と思い一瞬の後に、そうだったと納得する。目で見える範囲だけが世界だなんて、そんなのつまらなすぎる。

 ――――遠くへ行きたい、と思った。

 遠くへ行ってまだ見知らぬ世界をこの目で見たいと思った。しがらみから逃げたいとか捨てたいとか、そんな後ろ向きな考えはいつの間にか消え去っていた。

 そんなものはくだらない。今この瞬間ならばはっきりとそう言える。世界はこんなにも広くて圧倒的なのに、そんな後ろ向きにみみっちく生きるなんて真っ平だ。この世界は心躍るもので満ちているはずなのだから。

「いつか二人で旅をしないか」
 唐突に、イストがそんなことを言った。

「きっと楽しいと思うんだ」

 朝日を横顔に受けて、イストは笑う。そう出来れば、本当に楽しそうだと思う。あの海の向こうにたどり着いたときに、まだ見ぬ秘境に到達したときに、隣で一緒に笑って喜んでくれる友人がいれば、それはどんなにか素晴らしいことだろう。

「いいね。いつか一緒に世界を回ろう」

 約束だ、とクロノワはイストのほうに振り返った。
 それは他愛もない子どもの約束。けれども、いやだからこそ、とてもとても大切なもの。それをクロノワが実感するのは、もう少し先のことである。




[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:37
別れの数だけ強くなったと思っていた
でも違った
出会いの数だけ強くなっていた

**********

 第七話 夢を想えば

「陛下のご容態はいかがですか?」

 アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークの寝室に入ってきた皇后の姿を認めると、ベルトロワの侍従医たちは皆一様に腰を折った。皇后はそれを片手を上げて制し、ベッドに横たわる皇帝の下へ近づいていく。

「未だ、目を覚まされませんか?」
「はっ………、手は、尽くしているのですが………」

 およそ三日前、皇帝ベルトロワは馬で遠乗りを楽しんでいる最中に落馬し、その時に頭を強く打ったのか、以来意識不明の状態が続いている。ベッドの上に横たわるベルトロワの姿は、頭に巻いた白い包帯を除けばどこに異常はなく、すぐにでも起き上がってきそうに思える。だが彼はこの三日、一度も覚醒していない。

「あなた方は良くやってくれています。陛下がお目覚めにならないのは、あなた方のせいではないでしょう」
「恐縮にございます」

 皇后としては、今のこの状況は望んだものではない。彼女としては、ベルトロワには確実に死んでもらいたかった。しかし、修正不可能でもない。いや、結果としてはこのまま意識不明でいてくれたほうがいいかもしれない。

「しばらく、二人だけにしてください」

 皇后にそういわれ、侍従医たちは寝室から退室していく。パタリ、と扉を閉める音がしてから彼女はベルトロワのそばへと近寄り、彼の頬に手を添えた。

「まったく、体だけは丈夫な人ですこと」
 指先で、顎を撫でる。

「いつ死んでもかまいませんが、できればもう少しこのまま粘ってくれると嬉しいですわ」

 その間に自分はレヴィナスを摂政にする。全てはレヴィナスのため、そして自分の夢のためだ。

 以前アルジャーク帝国のヒエラルキーは上から、皇帝、宰相、そして三人の大臣、であるという話はした。では摂政という役職がどこに入るのかといえば、皇帝と宰相の間に入る。

 アルジャーク帝国において摂政という役職は、皇帝が存命中にその後継者が実権を得るための役職である。つまり摂政は、帝位を別とすればほとんど全ての権限を皇帝より与えられており、名実共に後継者のための位なのである。

 皇帝暗殺には失敗したが意識不明には追い込んだ皇后が、次の手として考えたのがレヴィナスをこの摂政位につけ、次期皇帝の座を安泰にすることであった。

 レヴィナスを摂政にすることは難しくあるまい。なぜなら彼は皇太子である。皇太子という称号は帝位継承位第一位を表しており、つまりこの時点でレヴィナスは後継者として将来を約束されていることになる。その彼が摂政位に付くことに、どんな異議があるというのか。

「もともとは、すぐさま皇帝にしてあげるつもりでしたけど………」

 しかしその目論見はベルトロワが一命を取りとめたことで崩れてしまった。しかし彼はいつ死んでもおかしくない状態で、ひとまず摂政位につけるのも悪くはあるまい。

 レヴィナスが摂政位に付けば「次の皇帝はレヴィナスである」と内外に公言したようなもので、いきなり皇帝になるよりは軋轢が少なくて済むだろう。もっともそのような軋轢など皇后の、いや皇太后の権力で握りつぶすつもりでいたが。

「クロノワなどに大きな顔をさせることなど、もうありませんわ」

 クロノワには皇帝危篤と即時帰還を求める使者が出ているはずだ。
 ちなみにこの使者は帝都ケーヒンスブルグから出されるのではない。おそらくカレナリアの王都ベネティアナから出るはずだ。

 クロノワがカレナリアを征服したことはすでにケーヒンスブルグでも知られている。だからまず宮殿の「共鳴の水鏡」を使ってモントルムの旧アルジャーク大使館まで連絡が行き、そこからモントルムのカレナリア大使館を経由してベネティアナまで知らせが行く。ややこしくて面倒くさい手順のように思えるが、帝都ケーヒンスブルグから早馬を飛ばすよりもよっぽど早い。

 クロノワは今、恐らくカレナリアの南、テムサニスの領内にいるだろう。知らせを聞いて慌てて戻ってくるだろうが、それでもかなりの時間がかかると見ていい。彼が帰ってくるその前に、レヴィナスを摂政にするというのが皇后の考えだった。

「レヴィナスが摂政になってしまえば彼奴など、どうとでもなる」

 邪魔ならば殺せばよい。目障りならば左遷すればよい。いずれにしても皇后はこれ以上クロノワに日を当ててやるつもりはなかった。日陰者は日陰者らしく隅でおとなしくしていればいい。でしゃばりさえしなければ生かしておいてやってもいいと、皇后は鷹揚に考えていた。

「ただ、誤算は………」

 誤算があったとすれば、むしろレヴィナスのほうだ。皇帝ベルトロワが意識不明になってからその日のうちに、皇后はレヴィナスを呼び戻すため「共鳴の水鏡」を使ってオムージュの旧王都ベルーカにある、オムージュ総督府にいるであろうレヴィナスと連絡をとろうとしたのだが、生憎と彼女の息子はそこにはいなかった。

「殿下は今、視察に出ておられます」

 総督補佐官と名乗った男はそう言った。なんでもオムージュ領各地で進められている建築計画の視察に行ったのだという。

 これは誤算だった。思わずその男を怒鳴りつけそうになったが、飲み込んで平静を保つ。そして「陛下が落馬され危篤であられる」と告げ、大至急レヴィナスに知らせるようにと命令する。

 総督補佐官は皇后の言葉を聞くと、青ざめて唇を振るわせた。政変の予感を感じたのだろう。

「す、すぐにお伝えいたしますっ!」

 慌てて一礼すると、あわただしく「共鳴の水鏡」がおかれている地下室から出て行った。レヴィナスがケーヒンスブルグに帰ってくるまで、何日かかるか現状では予想できない。一度ベルーカに戻ってきたときに連絡はくれるだろうが、そもそも何時ベルーカに戻れるかが未知数なのだ。

(彼奴より遅れる、ということはないと思うのだけれど………)

 クロノワが戻ってくる前に全てを終わらせ、口出しをする余地を残しておかない。これが皇后にとってはベストである。クロノワがいるのはテムサニスのはずだ。テムサニスのどの辺りにいるのかは分らないが、アルジャークとテムサニスは大陸の南北の端である。隣国(元だが)にいるレヴィナスが遅れることは考えにくい。

 しかし、もし遅れたら?
 遅れたところで皇太子であるレヴィナスの優位は揺るがない。揺るがないはずだ。

 しかし、しかししかししかし。

(不測の事態とは、いつの世も起きうるもの………)

 いざというときは、この手で皇帝を………。

「わらわに都合のいいときに死んでくださいまし、陛下」

 そうしたら、冷たくなっていくその瞬間くらいは、愛して差し上げますわ。
 魔性の笑みで、皇后は笑った。




*****************



テムサニス国王ジルモンド・テムサニスの率いる十五万の軍勢を撃破したクロノワは、ジルモンドその人と十二万以上の捕虜を得て一度カレナリアの旧王都ベネティアナに戻った。

 この時点でテムサニス遠征の半分は成ったようなものだ。ジルモンド・テムサニスの身柄がこちらにある以上、交渉にしろ軍を動かすにしろ、あらゆる面での主導権はアルジャーク側にある。

 さて腰をすえてテムサニスの攻略を、とクロノワは考えていたわけであるが、生憎と事態は彼が予想しえなかった方向へ転がっていく。

「皇帝陛下が落馬され、現在意識不明の重体です」

 ベネティアナに戻ってきたクロノワを出迎えたのは、そんな政変を予感させる知らせだったのである。

「これは、一度戻るしかないでしょうな………」

 今回の遠征の実質的な総指揮を執っているアールヴェルツェ・ハーストレイトは口惜しそうにそういった。それはそうだろう。現在アルジャーク軍は南方遠征のゴールが見える位置に来ており、これからその総仕上げをしようというところなのだ。なのにそれを放り出して帰還しなければならない。アールヴェルツェならずとも口惜しく思うのは当然だろう。

「ジルモンド陛下の身柄を押さえているのです。まったくの振り出しに戻るわけではありませんよ」

 最も口惜しい思いをしているであろうクロノワは、そういって部下たちをなだめた。それから指示を出してカレナリアに残す兵士を選ばせる。さらにテムサニスの征服後の統治を担当するはずだった文官たちを集めて、ひとまずはカレナリアで仕事をしてもらうことにした。これでカレナリアにおける文官の人員は二倍になり、混乱の起こる心配もなくなるだろう。

 数は少ないが、しかし重要な問題をいくつか片付け準備が整うと、クロノワはすぐさま出立した。

「進むのは街道上です。夜も出来る限り進みましょう」

 事態が事態だけに、可能な限り速く帝都ケーヒンスブルグに戻りたい。進むべき一本道がはっきりと分るならば、夜間に行軍しても迷子になるようなことはあるまい。

 それにしても、とクロノワは思う。

(まさか帰りの道筋をこんなに急ぐことになるとは………)

 つい先日カレナリア軍を各個撃破し王都ベネティアナに向かうときは、急ぐようなことはせずむしろ意図的にゆっくりと歩を進めたというのに。まさか遠征が終わってからの帰途で急ぐことになるとは。何が起こるかわからないものである。

**********

 皇后は苛立っていた。
 レヴィナスが帝都ケーヒンスブルグに帰還しないのだ。

 無論、視察に出ているというレヴィナスへの使いは、すでに総督府のほうから出されている。にもかかわらず、彼はいまだにオムージュ領旧王都ベルーカにさえ戻ってきていなかった。

 これは単純にレヴィナスの居所が分らず、彼を捕まえることが出来なかったから、ではない。実際、皇帝ベルトロワが落馬し意識不明の状態であるというしらせは、皇后から連絡があった日からおよそ五日後にはレヴィナスの元に届いていた。

 ではレヴィナスがなにをしていたのかといえば、彼はこの時客人と合っていたのである。

 オムージュ領の西に、ラキサニアという国がある。ラキサニアのさらに西は神聖四国である。版図は五二州。事実上神聖四国の属国で、教会の威光を笠に国体を保持しているような国だ。

 神聖四国が大陸の中心部にありそのため文明が早期に成熟した、という話は以前にした。そのためか神聖四国には画家や彫刻家など、優れた芸術家が多い。レヴィナスは今現在推し進めている建築計画の仕上げとして、また今後自分が立案する建築計画のために、神聖四国から優れた建築家や画家、彫刻家などを呼び寄せることを考えたのだが、そのパイプ役として目をつけたのがラキサニアであった。

 オムージュ領の北部の辺境、とは言っても旧王都ベルーカよりは国境に近いという意味だが、そこにオムージュの前国王にしてレヴィナスの義父であるコルグスが造らせていた避暑用の夏の宮殿がある。計画通りの完成をみているわけではないが、十分にレヴィナスの眼鏡にかなう壮麗な宮殿である。レヴィナスはそこでラキサニアの客人たちをもてなし、神聖四国に口を利いてくれるよう依頼していた。

 彼の元に「皇帝が落馬し意識不明の重体である」という知らせが舞い込んだのは、そんなときであった。本来ならばこの知らせを受け取ったらすぐにベルーカへ、そしてケーヒンスブルグへ帰還すべきであったろう。

 しかしレヴィナスは迷った。
 今彼がもてなしているのはラキサニアの客人たちである。ラキサニア自体はアルジャークから見れば格下の隣国に過ぎないが、そのすぐ後ろには教会と神聖四国が控えている。こちらの影響力は無視できない。しかも今回招いた客人たちの中には、ラキサニアの王族が混じっている。粗略には扱えなかった。

 さらにここを切り上げてベルーカに戻るとすれば、その理由を説明しなければならない。皇帝が意識不明であるなどという話は、今はまだアルジャーク帝国の外には漏れて欲しくない情報だろう。無論馬鹿正直に話すつもりなどないが、しかし皇太子である自分が客人を放り出してケーヒンスブルグに戻るとなれば、その理由はおおよそ予想がついてしまう。つまり皇帝か皇后になにかあった、ということだ。

 恐らく大使館などから情報はいっているのだろうが、ここで自分が動けば事の重要度が一気に跳ね上がってしまう。皇太子が急いで帰還するとなれば、皇帝か皇后の命に関わることだと公言しているようなものだ。

 迷った末、レヴィナスは残ることにした。なによりも格下相手に取り乱すところを見られるなど、彼の美意識が許さない。

 とはいえゆっくりとしていられないのも事実である。レヴィナスは部下に命じて予定を調整させ、予定よりも早く客人たちの相手を終えてベルーカに戻ることが出来るようにした。

 こうして彼は彼なりに早く戻るための努力をしていたのだが、皇后からすればあまりにも遅かった。

「まったく!あの子は何をしているのですっ!?」

 皇后にしては珍しく、レヴィナスに対して怒りを表した。もっともその怒りをぶつけるべき相手はいまだ帝都ケーヒンスブルグに帰還していない。皇后に仕える侍女たちも、彼女の怒りの理不尽なしわ寄せを恐れてその視界に入ろうとしない。結局、彼女の怒りはただ空回りするばかりであった。

 皇帝の容態は相変わらずである。相変わらず意識不明で、少しずつ悪くなっている。
 人間はモノを食べなければ生きていけない。そして意識不明の皇帝は食物を摂取するという、命をつなぐ上で不可欠なことを満足に行えないでいた。

 水分に関しては、なんとかなった。スプーンで水をすくって口元に持っていたところ、ちゃんと飲んでくれたのだ。これでひとまず脱水症状をおこす恐れはなくなった。

 ただ水だけでは明らかに栄養が足りない。固形物は食べられないため、侍従医たちは暖めた牛乳に蜂蜜を溶かし、それを冷ましてから水と同じ要領で皇帝に与えた。これによって皇帝ベルトロワは餓死をまぬがれたわけであるが、それでも意識のない彼は緩慢に死へと向かっている。

「もはやいつ死んでもおかしくない」

 それは口にすることさえ恐れ多いことだが、しかし宮殿内の人々にとっては自明の理となっていた。
 ベルトロワが生にしがみ付く様を、皇后は冷めた様子で見ていた。

「さっさと死ねばいいものを」
 と思う一方で、

「もう少し生きていてくれたほうが、都合がいい」
 とも思っている。

 本来ベルトロワは落馬したときに死ぬはずであった。少なくとも、それが皇后の書いたシナリオだった。ベルトロワが意識不明とはいえ生き残ったことは、彼女にとっては誤算であったが、心のどこかでほっとしたのも事実である。

 死んでない以上落馬は事故であって、暗殺ではない。実際は暗殺未遂なのだが、それに気づいている人間はいないだろう。みな意識不明の皇帝に気を取られ、事件のことなど忘れ始めている。

(あの人が勝手に死ぬだけ………。わらわが手を下すまでもない)

 ベルトロワがいつ死んだとしても、それはごく自然なことの成り行きで、それを暗殺されたと考える人間などいない。暗殺しようとした皇后のことが明らかになることなどないのだ。

(あと一手、あと一手なのです………!)

 あとはレヴィナスを摂政にし、皇帝の崩御を待って晴れて帝位に就ければよい。

 しかしここに来てまたしても誤算があった。レヴィナスの帝都ケーヒンスブルグへの帰還が遅れていることだ。いっそのこと本人不在のまま、ことを進めてしまおうとも思ったが、摂政位への任命は本人が帰ってくるまで待つことになるだろう。根回しは進めているが、やはり本人がいないと話が進まない。

(早く、早く帰ってくるのです、レヴィナス………!)

 そしてもう一つ誤算が。クロノワである。
 当初皇后は、クロノワはテムサニスでかの国の軍と交戦中であると見ていた。しかしその予測は大きく外れた。「皇帝が意識不明の重体に陥った」という知らせがカレナリアの王都ベネティアナにもたらされた時、クロノワはちょうどそのベネティアナに帰還する途中であったのだ。

 これが何を意味するか。それはつまりクロノワは皇后が想定したよりも早く、この帝都ケーヒンスブルグに帰還するということである。しかもカレナリアを平定し、テムサニス国王ジルモンド・テムサニスを捕虜にするという功績を手土産にして、だ。

(レヴィナスが彼奴に遅れたら………?)

 それでも問題はない。ないはずである。なぜならレヴィナスは皇太子であり、皇帝によって後継者として公認されているのだから。

 しかし、しかししかししかし………。

 もし皇帝が目を覚まして、その時その場にいないレヴィナスではなくクロノワを後継者に指名したら………?今回の功績を盾にクロノワを担ぎ上げる一派が現れたら………?そうでなくとも、レヴィナスが先手を取らなければこの先クロノワが大きな顔をすることになるかもしれない。

 そんなことは、認められない。そんな未来像は、彼女の夢の中には描かれていないのだ。

「万難を排しておく必要がありますね………」

 皇后の目は、狂気に染まっていた。

**********

 皇后の至上目的はレヴィナスを皇帝の座につけることである。その先、つまり自分が皇太后として権勢を振るうことなど、彼女はまったく望んでいない。言うまでもなく外戚、つまり自分の実家が政に口出しすることを許す気など、毛頭ない。

 皇后の望みは自分の息子であるレヴィナスが皇帝となり、その威光をあまねく帝国全土に広げることである。あの美しい子ならば自分自身にふさわしい素晴らしい国を作り上げるに違いないと、皇后は確信していた。それを一番近い場所で目撃すること。それが皇后の「夢」であった。

 そのためならば。あの子のためならば。身を挺して万難を排し、あらゆる災いから守ろう。あの子を支え、あの子の行くべき道を整えよう。たとえ最後の一人になろうとも、あの子の味方でいよう。おくるみに包まれたレヴィナスを抱いたときに、皇后はそう誓ったのだ。

(これは愛………。わらわは誰よりも深くあの子を愛している………!)

 あの子のためならば、皇帝であろうとも殺してみせよう。そうすれば遺書が開封され、そこには皇太子であるレヴィナスを喪主に、と書かれているに違いないのだから。

 ――――皇帝暗殺。

 それは決して人に知られてはいけない。知られたが最後、皇后であろうとも大罪人として断罪され、レヴィナスはその子どもとして帝位継承の争いで大きなハンデを背負うことになるだろう。

 皇帝を暗殺すること、それ自体は現状ならばそれほど難しくはない。ベルトロワの寝室に見舞いに行き、侍従医たちに席を外させてから首を絞めるなりすればいい。

 問題はその後である。皇后が退室した後、侍従医たちがすぐに戻ってくれば彼らが皇帝の異変に気づくだろう。そうなった時に真っ先に疑いを掛けられるのは、その直前までベルトロワと二人っきりでいた皇后その人である。

 そうなっては、まずい。ではどうすればいいか。答えは簡単である。皇帝が死んだ直後に侍従医たちが彼の遺体に近づかなければいい。そして、少なくとも死後数時間たってから皇帝が死んでいることに気づく。その時、特に外傷などがなければ自然と息を引き取ったと判断するだろう。

 そのためには、どうすればよいか。

(さて、そろそろ参りましょうか………)

 ハーブティを飲み干したティーカップを受け皿に戻し、皇后は立ち上がった。窓の外を見ればすでに日は沈み月が昇っている。良い頃合だろう。
 目指す行き先は皇帝の寝室。皇后は努めていつもより優雅に歩を進めていく。

 皇帝の寝室に入り、看病をしている侍従医たちを下がらせる。パタリ、と扉のしまる音がして、寝室は静寂に包まれた。ベルトロワが横たわるベッドの四隅を囲うように置かれた蝋燭が燃える音だけがしばし響く。

 誰も見てはいない。皇后は足音を立てぬようゆっくりと、しかし毅然と頭を上げベッドに横たわるベルトロワに近づいていく。

「貴方が悪いのですよ?」

 どこの馬の骨とも知れぬ下賎な女に子どもなど産ませるから。その子どもを呼び寄せなどするから。レヴィナスの代わりにその子どもを使おうとするから。

「どうせ、愛してもいなかったのでしょう?」

 ならば放っておけばよかったのだ。いかに皇室の血筋であろうとも、ベルトロワが認知しなければ意味などない。そうすればすべて丸く収まったというのに。ベルトロワがここで死ぬこともなかったのに。

「貴方の跡目は、レヴィナスが立派に継ぎますわぁ」

 ベルトロワの頬を撫でながら、皇后は彼の耳元で囁く。その手を枕の一つに伸ばす。そして羽毛の詰まったその柔らかい枕を、皇后はベルトロワの顔に押し付けた。

 手に力と体重を込める。
 抵抗はない。それが現実感を薄くする。まるで人形を相手にしているようだ。
 今自分はどんな顔をしている?
 笑っている?
 泣いている?
 悲しんでいる?
 悦んでいる?
 静かなはずの室内に、自分の鼓動の音がやたらと大きく響く。

 蝋燭の火に照らされた皇后の影が、壁に映っている。炎が揺れると、影も揺れた。その姿は人を襲う悪魔にも似ていた。

 時間の感覚が麻痺している。どれ位たった?一瞬のような気もするし、一時間こうしているような気もする。皇帝はもう死んだのか?それともまだ生きているのか?

 意を決し、腕から力を抜く。枕をどけて、ベルトロワの息と脈を確認する。

「………!」

 思わず、歓声が漏れそうになる。胸の奥から湧き上がるものは何だ?罪悪感?まさか。これはまぎれもない歓喜だ。

「ああ………!ようやく、死んでくださりましたね………」

 蕩けるような笑顔を浮かべ、皇后はベルトロワの遺体に頬擦りする。生きている間はもはやなにも感じない間柄だったが、死んでしまった今はこんなにも愛おしい。

 目蓋が重くなってくる。緊張が解けたことでハーブティの効果が一気に現れたのかもしれない。

 枕を元の位置に戻し、遺体が横たわるベッドにうつぶす。睡魔はすぐにやってきた。

「ああ、レヴィナス………」

 愛しの息子が至高の冠を頭に載せるその瞬間を思い描き、皇后は眠りに落ちた。

**********

 皇后が目を覚ますと、寝室の明りは消され、ただ月明かりのみが部屋の中を照らしていた。体を起こすと、毛布が肩から滑り落ちた。誰かが気を利かせてくれたのだろう。

 今は何時だろうか。夜半過ぎか、それとも未明近くか。いづれにしても、騒ぎが起きた様子はなかった。

(上手くいったようですね………)

 侍従医たちは皇帝のそばで突っ伏して眠る皇后に気を使うばかりで、ベルトロワが死んでいることには気づかなかったようだ。

 手を伸ばしてベルトロワの頬に触れる。彼の遺体はもう随分と冷たくなっていた。

 ――――死んでいる。

 死んだ。死んだ。死んだのだ!皇帝は死んだ!

 皇后の唇が魔性の笑みを作る。少しでも気を抜けば歓喜の声が漏れてしまいそうだ。いや、声を出すのはいい。だが今出すべき声は………。

 静まり返った宮殿に、皇后の金切り声が響き渡った。

 その夜、アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークは崩御した。歴史書によれば、その死因は落馬事故の後遺症であるとされている。




[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:41
アルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグの宮殿、その一室に三人の男が集まっている。宰相エルストハージ・メイスン、外務大臣ラシアート・シェルパ、軍務大臣ローデリッヒ・イラニールの三人である。

「さて、お二方。すでにご存知のことと思うが、つい先ほどベルトロワ皇帝陛下が崩御された」

 年長のエルストハージがまず口を開いた。ラシアートとローデリッヒの二人は頷いてそれに答える。もともと意識不明の状態が長く続いていたせいか、ここにいる三人とも皇帝の崩御についてはかなり冷静に受け止めている。敬愛する主君の死を悲しんでいないわけではないが、彼らの思考はすでに次のことに移っている。

「時間が時間であるため、陛下の遺書の開封は日が昇ってから、そうだな、朝食を食べた後くらいになる予定だ」
「あの、遺書ですか………」

 ラシアートが苦い顔をした。開封される遺書は、南方遠征が始まる少し前にベルトロワが書き直した、あの遺書だ。アルジャーク帝国でただ三人、ここにいる彼らだけがその内容を知っている。

「ご存知の通り、遺書は二通以上が同時に開封されなければ有効とはならぬ」

 それはアルジャークの法に規定されている皇帝の遺書に関する取り決めだ。そこには「遺書は同時に二通以上を開封し、その内容に差異がない場合のみ法的効力を持つ」とある。そのほかにも細かな規定が幾つもあり、それを満たしていない限り遺書は法的な効力を持たない。全ては遺書の偽造を防ぐためだ。

「明日、あ、いやもう今日か、今日開封する遺書は私と陛下が保管していたものを開けるとして、お二人はそれぞれが保管しておる遺書を持って、クロノワ殿下のところへ行ってもらいたい」

 エルストハージのその言葉に、ラシアートとローデリッヒの二人は困惑よりは納得の表情を浮かべた。苦渋の、という修飾語が必要になるかもしれないが。

「やはり、皇后陛下はお認めにならぬのだろうか………」
 呟くローデリッヒの声は苦い。

「さて。お認め下さるならばそれでよし。しかし、お認め下さらないのであれば………」

 それに備えて、打てる手を打っておかなければならない。それが皇帝ベルトロワから遺書を託された者たちの務めというものだろう。

「分りました。では、夜が明けたらすぐにでも………」
「――――何を悠長な」

 ラシアートの言葉を、エルストハージは鋭く遮った。その目は静かで穏やかだが、同時に硬い覚悟も秘めている。

「今この時にあって時間は何よりも貴重。夜が開ける前に、いや、準備が出来たのなら今すぐにでも出立するのだ」

 可能な限り早く、とエルストハージは二人を急かした。その様子を見て二人は、はたと気がついた。

 宰相エルストハージ・メイスンは死を覚悟している。
 皇后が皇帝の遺書を受け入れなかった場合、遺書を開封しその正当性を主張する彼の存在は皇后にとって目障りな存在だろう。そうなれば皇后はエルストハージを殺して排除するはずだ。いや、エルストハージだけではない。別の遺書を保管しているラシアートとローデリッヒをも殺そうとするだろう。

 そうなってしまえば皇帝ベルトロワ・アルジャークの意思は握りつぶされ、なかったことにされてしまう。そのような事態を避けるために、エルストハージは二人の大臣にクロノワの元に向かえと言っているのである。ケーヒンスブルグに残る自分が、最も危険な役回りであるにも関わらず、だ。

「分りました。必ずやクロノワ殿下に陛下の遺書をお渡しいたします」
「エルストハージ殿も、御武運を」

 二人の大臣の言葉にエルストハージは満足そうに頷く。それにしてもローデリッヒが使った「武運」という言葉。これほどこの場にふさわしい言葉はないだろう。エルストハージのみならず、これから三人が赴く場所はやはり戦場なのだから。

**********

「主立った方々は、すべてお集まりいただけたようですな」

 場所は謁見の間。日が随分と高くなった時分に、宰相は空の玉座の前に立ってそこに居並ぶ人々を一望した。今この場には帝都ケーヒンスブルグにいる、アルジャーク帝国の主立った人々が全て集まっている。

 ここにいない主立った者といえば、レヴィナスとクロノワの両皇子、そして彼らを支える将軍である、アレクセイ・ガンドールとアールヴェルツェ・ハーストレイトだろうか。

 クロノワとアールヴェルツェは南方遠征から急ぎ帰還している最中だろう。またレヴィナスも帰還が遅れており、それに合わせる形でアレクセイもこの場にいない。

 実はアレクセイ将軍は皇后から通信が入ったときにはオムージュの旧王都ベルーカに居り、彼だけでも帰還してはどうか、という話があった。しかし本人が「レヴィナス殿下を差し置いて自分だけケーヒンスブルグに戻るわけにはいかない」といってレヴィナスを待つことに決めたのだ。この選択が、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールの命運を決めたといっていい。

 さらに二人、この場にいるべき人間がいないことに、人々はすぐに気が付いた。一人がその疑問を口に出す。

「外務大臣のラシアート殿と軍務大臣のローデリッヒ殿がおられないようだが………?」
「急用がありましたので、お二人にはそちらに当たってもらっています」

 国の重鎮たる大臣が二人がかりで当たらねばならない急用とは一体何なのか、疑問に思った者もいたがそれを口に出す者はいなかった。

「それではこれよりベルトロワ皇帝陛下の遺書を開封したします」

 侍従長がベルトロワの執務室に保管されていた遺書を銀製のトレイにのせて運んでくる。エルストハージもまた、自身が保管していた遺書を懐から取り出す。

 エルストハージは二つの遺書を観衆に掲げて見せ、その二通の遺書にいまだしっかりと封がなされており未開封であることを示した。

 侍従長とエルストハージは遺書の封を破り、その中身を確かめ、二通の遺書に差異がないか確かめていく。その際、遺書の内容を知らなかった侍従長は、読んだ内容に驚いていたが、しかし声は出さなかった。

 遺書の内容に差異がないことが確認されると、エルストハージはその遺書を声に出して読み上げた。そこには………。

 ――――そこには、クロノワを喪主に、と書かれていた。

 この時代、家を継ぐものが当主の葬式において喪主を担当する、ということは以前にも述べた。つまりこれはベルトロワがクロノワを後継者として指名した、ということである。

「委細不備はございませぬ。よってこれが正式な陛下のご遺言となります」

 エルストハージが厳かに宣言する。だれも予想していなかったその内容に、観衆は皆呆然とし声を上げることもできない。

「これは陰謀ですっ!!」
 静寂を皇后の悲鳴が切り裂いた。

 余談になるが、ここでレヴィナスではなくクロノワを後継者に指名したベルトロワの胸のうちを少し考えてみたい。

 ベルトロワがクロノワを後継者に指名した理由は、ひとえに「レヴィナスに落ち度があったから」である。その落ち度とは、レヴィナスが「法を過去にさかのぼって適用する」という法治国家における“禁じ手”を使ったことだ。このときベルトロワはレヴィナスに決定的な減点をつけた。

 彼はきっとこう思ったことだろう。
「オムージュ総督領だけならばともかく、アルジャーク帝国全体で同じ事をされれば、国が立ち行かなくなる。それに一度禁じ手を使ってしまえば、二度三度と使いたくなる」

 ではなぜ、クロノワを喪主に指名する一方で、レヴィナスを皇太子位から廃さなかったのか。それはベルトロワ自身、自分がこんなに早く死ぬとは思っていなかったからだろう。自分が生きている間に、レヴィナスが皇帝としてふさわしい見識を持つことを願っていたのだ。

 今回開封された遺書は、あくまでも現状ではレヴィナスよりはクロノワのほうが皇帝にふさわしい、ということであって将来的に事態が変化すればまた書き換えるつもりだったのだろう。
 しかし事態が変わる前にベルトロワは死亡し、この遺書が開封されてしまったのだ。

 皇后の悲鳴を皮切りに、謁見の間が喧騒に包まれる。皆がみな自分の意見を叫び、収拾のつかない混乱が生まれていく。そのなかで意見に最も力があったのは、やはりというか皇后であった。

「宰相が陛下の遺書を書き換えたのですっ!!」

 皇后のその叫び声によって、謁見の間が再び静まり返る。誰もが、まさか、と思いつつ空の玉座の間に立つ宰相エルストハージ・メイスンを見つめた。彼が言葉を発するより速く、さらに皇后が叫び声を上げる。

「殺しなさい!!その大罪人を殺してしまいなさい!!」

 皇后が呼ばわると、槍を持った兵士たちが謁見の間になだれ込んでくる。その槍の切っ先が自分に向けられる様子を、エルストハージは穏やかに見つめていた。

**********

 その通知をクロノワが知ったのは、彼がモントルム領の南の砦、ブレンス砦に到着したときのことだった。

 曰く「宰相エルストハージ・メイスン、外務大臣ラシアート・シェルパおよび軍務大臣ローデリッヒ・イラニールの三人は共謀してベルトロワ皇帝陛下の遺書を書き換えた大罪人である。ラシアート及びローデリッヒの両名を見つけた場合は、即刻これを処刑せよ」

 これを知ったとき、アールヴェルツェは「ばかな………」と呻くようにして声をもらした。受けた衝撃は、クロノワよりも彼のほうが大きかった。

 この通知はクロノワとアールヴェルツェにとって二つの重要な知らせを持っていた。

 まず第一にこの中では「遺書」という言葉が使われている。つまりこれは皇帝ベルトロワが崩御したことを意味していた。二人は「皇帝が意識不明の重体である」という知らせしか聞いていなかったため、このとき初めてベルトロワの崩御を知ったことになる。

 次に「宰相と二人の大臣が皇帝の遺書を書き換えた」という内容である。この三人と面識が薄いクロノワはともかく、アールヴェルツェにとってこれはとても信じられない話であった。

「お三方とも真に国を想う忠臣。とてもそのようなことをするとは信じられませぬ」
 眉間にしわを寄せアールヴェルツェはそう呟いた。

「なんにせよ、情報が少ないですね………」
 クロノワは手を口元に沿え、考え込む。

 通知の内容から皇帝が崩御したことは押して知ることが出来る。しかし、正式な皇帝崩御の布告はまだ出ていないという。そのことが帝都ケーヒンスブルグにおける混乱を思わせる。

 さらに通知では「三人が共謀して」遺書を書き換えたはずなのに、即時処刑が命じられているのは二人の大臣だけである。つまり宰相エルストハージはすでに死んでいるか、捕まっている可能性が高い。

 ではいつ、死んだ、もしくは捕まったのか。

(恐らくは遺書を開封したとき、でしょうね………)

 開封された遺書が偽造されたものだったのか、あるいは本物だったのか、それはこの際置いておくとしても、遺書が開封されたこと自体はほぼ間違いない。その内容が明らかにならなければ、それが偽装されたかどうかなど分らないのだから。そしてこの状況から察するにその内容は、その場にいた誰かにとって都合の悪いものだったのだ。

(それは一体………?)

 宰相と二人の大臣、といことはないだろう。偽造したにしろそうでないにしろ、彼らは開封される遺書の内容を知っていたはずだ。偽造したのであれば、自分たちに都合の悪い内容を残しておくとは思えない。偽造していないのであれば、彼らが追われているこの状況に説明が付かない。都合が悪いと知っている遺書を開封し、その後で逃げるってどんな状況だ。

 遺書が偽造であると断定しても一定の信憑性があり、なおかつ宰相と二人の大臣を敵に回して追い立てることの出来る人物。

(皇后陛下か、レヴィナス兄上か………)

 二人の大臣が大罪人として追われている理由が、本当に遺書を偽造したからなのか、それとも皇后かレヴィナス、あるいはその両者の不興を買ったがゆえなのか、それは現状では分らない。

(ですがこの二人の不興を買う内容というと………)

 そこまで考えてクロノワは頭を振った。なんにせよ情報が少なすぎる。そもそも遺書が偽造であると判断した根拠さえも分らないのだ。推測だけを先に進めても仕方がないだろう。

「真っ直ぐケーヒンスブルグに向かうつもりでしたが、一度オルスクに寄りましょう」

 旧王都オルクスにはモントルム領の総督府がある。このブレンス砦よりは詳細な情報が集まっていると期待できる。

「殿下………。殿下はこの通知が本当であると思われますか」
「さて。どちらにしても乱暴な通知だとは思います」

 本当に遺書が三人によって偽造されたのか、それは現状では判断しかねる。しかし「見つけた場合は即刻処刑せよ」というのはなんとも乱暴である。真偽はともかくとしてもラシアートとローデリッヒの両名が、なにか大きな証言を持っていることは確かなのだ。それを即刻処刑せよというのは、何か後ろめたいことがあるのでは、と勘ぐりたくなる。

「そうですな………。普通ならば捕らえて話を聞きだすのが筋………」

 クロノワの言葉にアールヴェルツェは頷く。彼も二人から話を聞きたいと思っているのだろう。

「ストラトス執務補佐官の意見も聞きたいですね」

 そういってクロノワはアールヴェルツェを伴い、ブレンス砦の地下にある「共鳴の水鏡」がある部屋へ向かった。そこからオルスクの総督府に通信をつなぎ、ストラトスを呼び出してもらう。主席秘書官であるフィリオもいてくれればよかったのだが、生憎と今はオルスクにいないらしい。

 クロノワ、アールヴェルツェそしてストラトスの三人は、「共鳴の水鏡」を使った緊急の話し合いで、モントルム総督府としての方針を決めた。その方針とは、

「モントルム領内でラシアート及びローデリッヒの両名を発見した場合には、可能な限り捕縛すること」

 というものであった。ストラトスも今回の通知には不自然なものを感じていたらしく、この方針は案外簡単に決まった。北のダーヴェス砦にはストラトスのほうから連絡してもらうことになり、クロノワとアールヴェルツェの方は急ぎオルスクに向かうということで今後の予定が決まった。

 軍に指示を出しておくというアールヴェルツェと分かれ、クロノワは彼の背中を見送った。それにしても、とクロノワは思う。

(アールヴェルツェはショックを受けた様子でしたね………)

 忠臣と信じていた三人が大罪人として追われていること、そして主君たる皇帝ベルトロワが崩御したこと。その両方が理由なのだろうが、一方でわが身を振り返ってみれば、彼ほどショックを受けたわけではない。

(覚悟していた。それだけではないのでしょうね………)

 自分は薄情なのかもしれない。まして今回崩御したのは皇帝、つまり実の父である。子どもであれば、親の死目に会えなかったことをもっと悔やむべきではないだろうか。それなのにそういった感情がほとんど湧かないのだ。

(結局他人だった。そういうことでしょうか………?)

 その結論を受け入れたくはない。しかし心のどこかで納得してしまっている。それに母が死んだときほど悲しくないのは確実なのだ。

 そこまで考えてクロノワは頭を振った。これ以上はせん無きこと、と思ったのだろう。だが、他人事ではないはずなのにどこか傍観者の視点で物事を見ている自分を、否定することは出来なかった。

**********

 クロノワ率いるアルジャーク軍がモントルム領の旧王都オルスクに到着したとき、自体はすでに動き、そして彼の出番を待っていた。動きがあったのはモントルム領の北の砦、ダーヴェス砦である。なんとこの砦に大罪人として追われている、ラシアートとローデリッヒが投降してきたのである。

「つまり二人は私に会わせて欲しい、と言っているわけですね」
「はい。その通りです」

 ダーヴェス砦を預かっているウォルト・ガバリエリはクロノワの言葉に頷いた。二人が投降してきたときには、既に総督府のほうから「可能な限り捕縛せよ」という命令が出ていたので、ウォルトはそれに従い二人を殺すようなことはせずともかく二人を捕らえた。そして捕らえた以上、話を聞かねばならない。その席でラシアートとローデリッヒはこう言ったのだ。

「自分たちの処刑命令が出ていることは知っている。今更命を惜しむつもりはないが、その前にどうかクロノワ殿下にあわせて欲しい」

 ウォルトとしてはこの時点で自分の手には余ると判断した。なにしろ外務大臣と軍務大臣だった二人が皇子であるクロノワに会わせて欲しいというのだ。十中八九遺書がらみのことだろう。

 さらに二人を殺さずに捕らえるように命令を出したのはクロノワである。つまり彼自身、二人に用があるということだ。

「オルクスまで護送いたしましょうか」
「………いえ、私がそちらに向かいます」

 少し考えてからクロノワはそういった。ウォルトは一瞬怪訝そうな顔をしたが、なにも言わずに頷いた。

 クロノワが二人に会う場所としてオルクスではなくダーヴェス砦を選んだのは、二人の話の内容如何では軍を動かすことになると考えたからだ。事態の中心は帝都ケーヒンスブルグだろうから、わざわざ護送してもらうよりもクロノワが動いたほうが時間的なロスが少なくてすむ。

「さて、そういうことになりました。あとの万事は貴方にお任せします」

 少々意地悪な笑みを浮かべてクロノワはストラトスにそういった。やる気を見せたがらずすぐに仕事をサボるこの男だが、事態が事態だ。ブツブツと文句を言いながらも仕事はこなしてくれるだろう。普段給料分の仕事をしないこの男に大量の仕事を割り当ててやれるのは、少しばかりいい気分だ。

「残業手当その他諸々、後で請求しますので」

 ストラトスはぬけぬけとそう言った。自分にそれらの手当てを払うまでは死ぬなということで、彼らしいなんとも皮肉れた激励である。

 軍を率いてダーヴェス砦へ向けて街道をひた走る。おもえばこの街道はここ最近で何度も往復しているような気がする。

「モントルム遠征のときのことを思い出しますな」
「あの時は騎兵だけでしたけどね」

 騎兵のみを率いてダーヴェス砦へと向かうモントルム軍を奇襲した記憶は、今も鮮明だ。だが一方で遠い昔のことのように感じる部分もある。

(色々あった。そういうことですね)
 そしてこれから、そのなかでも最大級のモノが待ち受けているのだ。

 ダーヴェス砦に着いたクロノワは、アールヴェルツェをはじめとする主だったものを集め、すぐにラシアートとローデリッヒの二人と面会した。二人の服は汚れていたが、やせた様子もなく健康そうであった。

「私との面会を希望したようですが、どういったご用件でしょうか」

 クロノワがそう切り出すと、二人は懐からそれぞれ一通ずつ封筒を取り出した。言うまでもなく、皇帝ベルトロワの遺書である。後で聞いた話だが、ウォルトは二人を牢に入れるときにその持ち物を没収していたのだが、この遺書だけは自分の手に余ると判断し取り上げずにおいたらしい。

「我々がお預かりしたベルトロワ陛下の遺書を、ここで開封させていただきたい」

 クロノワは視線だけで先を促す。開封された遺書には、エルストハージが謁見の間で開封した遺書と同じように、クロノワを喪主に、と書かれていた。

「委細不備はございませぬ。これがベルトロワ陛下の最後の勅命となります」

 場が、一気に緊張する。ただその中で、クロノワは比較的自然体であった。

「お二人は陛下の遺書を書き換えた大罪人とされています。そのあなた方が開けた遺書を信じろと?」

 クロノワはラシアートとローデリッヒの二人に試すような目を向ける。だがアールヴェルツェが、二人が答える前に口を開いた。

「失礼。遺書を拝見させていただいてもよろしいですか」

 クロノワが頷くと、アールヴェルツェは二通の遺書を手にとって目を走らせていく。ただ読んでいるような感じではなかった。

「これは間違いなく陛下の御筆跡です」

 アールヴェルツェは確信をこめて断言する。
 これで遺書が本物である可能性が一気に跳ね上がった。遺書にはサインと印が揃っていなければならない。大臣といえども二人が、ベルトロワが生きている間にその印を使えたとは思えない。そしてベルトロワが自分の意思に反する遺書にサインをして印を押すことなどありえない。だからといってベルトロワが死んでから遺書を偽造したとすると、今度は筆跡が違っているはずである。

 筆跡と印。この二つが揃っているのは、本物だけである。

「殿下、いえ、陛下。これは天命ですぞ」

 アールヴェルツェは早くも「陛下」という敬称を使って、いまだに煮え切らない顔をしているクロノワに詰め寄った。

「ベルトロワ陛下重体の報をカレナリアで受け取れたこと。ラシアート殿とローデリッヒ殿のお二方とここで相見えられたこと。そして今この瞬間に陛下が十五万以上の軍勢を率いておられるとこ。全ては陛下が帝位に付くべしという天命にございます!」

 他の面々からも賛同の声が上がる。モントルム遠征、そして今回の南方遠征でクロノワの手腕を見てきた彼らにとって、クロノワはもはや日陰の第二皇子ではない。十分に魅力があり、そして命を懸けても惜しくないと思える主君になっているのだ。

 そしてクロノワを後継者に指名する皇帝の遺書である。これまで共に戦ってきたアールヴェルツェたちが、皇帝の座にクロノワを望むのは自然な成り行きであろう。

「………皇太子は兄上です。兄上が皇帝になるべきでは………?」
「皇帝陛下の法的効力を持ったご遺言は、勅命とみなされます。よっていかにレヴィナス殿下が皇太子であろうとも、陛下のご遺言が優先されます」

 ラシアートが整然と説明する。
 クロノワは目を閉じる。まさか皇帝の座が転がり込んでくるとは。レヴィナスが皇帝となり放逐されれば、晴れて全てを放り出しイストと旅でも出来るかと思っていたのに。

 しかし、日陰者の自分にここまで付いて来てくれた人々を裏切ることなど出来ない。彼らが自分に夢を見ているのなら、それをかなえる義務が自分にはあるのだろう。

「………分りました。成ってみましょう。………皇帝、とやらに」

 その場にいた一同が、一世に膝をつき頭をたれる。その様子をクロノワは苦笑しながら見ていた。

(これは本当に「世界を小さくする」しか、イストに合わせる顔がなくなってきましたね………)

 恐らくそれしか、あの約束を破った償いにはならないだろうから。




******************




――――帝位。

 クロノワがその至高の位を夢見たことが一度もない、といえばそれは嘘になるだろう。

 帝都ケーヒンスブルグの宮殿に来たばかりの、まだ味方のいない迫害と陰湿なイジメに満ちた日々にあっては、その玉座を夢見ることが多々あった。

「皇帝の力があれば、こんな苦しい思いをしなくていいのに」
 というわけである。

 とはいえそれはお伽噺の中の理想郷を想うような感覚で、現実の、生々しい欲望からは程遠いものであった。

 それにレヴィナスが皇帝となれば、クロノワは完全な邪魔者である。粛清される前に死んだことにでもして、地位と責任を放り出し子どものころに夢見たようにこの世界を旅して回ろうかと、そんなことを考えていた。出来ることならば友人であるイストと共に。あの日、海から昇る朝日を見ながらかわした約束は、クロノワにとって皇帝の座よりも魅力的なものだったのだ。

 それなのに、何の因果か帝位などというものが転がり込んできた。

(まったく、悪い冗談です)

 そう思わずにはいられない。まったく、望んでもいない人間のところに転がり込んでこなくてもいいだろうに。おかげで起きなくていい厄介ごとが起きてしまった。きっと運命の女神というヤツは娯楽に餓えた暇人に違いない。

 そんな、権力というものに執着しそれを欲してやまない連中が聞いたら呪い殺されそうな台詞は心の中にだけ留めておいて、表面上クロノワは淡々とした装いを崩さなかった。それはどうやら傍からみると「王者の風格」とやらに映るらしく、渋っていたクロノワが帝位を受け入れたと、アールヴェルツェや二人の大臣をはじめとする周りの人々は喜んでいた。

 クロノワ自身は皇帝の座など望んではいない。少なくとも積極的には。しかし、事がここに至れば彼が立ち止まっていても事態は動いていく。ならば少しでも自分に有利なように事態を動かすためには、能動的に、自分から動くしかない。事はクロノワ一人の問題ではない。彼と共にいて支えてくれる、十五万人以上の命が関わっている。

 クロノワの打った手は常識的なものであった。というよりそれしか打つ手がないと言える。つまり帝都ケーヒンスブルグを目指して軍を進める、ということである。

「なにも起こらずにケーヒンスブルグまで行けると思いますか?」
「………なにも起こらなかったとすれば、皇后はケーヒンスブルグにはいないでしょう。ですが………」

 少し考えてからローデリッヒはそう答えた。余談になるが、クロノワと共にいる人々は、もはや皇后に「陛下」という敬称を付けることを止めていた。

 皇后が帝都から動かなければ、向かってくるクロノワの軍に対してなんらかのリアクションをとるであろう。軍を差し向け進軍を阻むか、それとも使者を送りつけてくるか。

 一方で皇后がケーヒンスブルグを離れているのであれば、なんの置き土産をも残していかないというのは考えにくい。最悪の場合、宮殿や帝都の町並みに火をかけるぐらいのことはするかもしれない。

 つまり、なにも無い、ということはおよそ考えられない。必ず何かが起こる。その心構えでいなければならない、とローデリッヒは説いた。

 さて、帝都ケーヒンスブルグへ向けて軍を動かす一方、クロノワはラシアートに人馬三千の兵を護衛として与えて、アルジャーク帝国の有力者たちの説得に回ってもらった。その内容は、味方をしてくれ、というものではなく、敵対しないでくれ、というもので、これによって多くの者が様子見にまわるだろう、というのがラシアートをはじめとする頭脳労働班の見解であった。

 クロノワが馬にまたがる。目指すは帝都ケーヒンスブルグ。そして皇帝の玉座である。

**********

 皇帝ベルトロワの遺体は、火葬にされた。
 この時代、エルヴィヨン大陸の一般的な埋葬方法は土葬である。かといって火葬が野蛮視されているわけでもない。この時代、なんらかの理由で土葬が行えない場合には、火葬という手段が用いられた。

 遺体というものは、当然のことながら腐敗する。大貴族や王族、皇帝といった人々も、死して死体となればその運命を逃れることは出来ない。長らく放置して腐敗が進めば、死者にとっても生者にとっても面白くはあるまい。埋葬は可能な限り速やかに、というのが一般常識であった。

 しかし此度埋葬される遺体は、ただの遺体ではない。アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークの遺体である。略式であっても葬儀を行うとすれば喪主が必要になり、レヴィナス以外の者が喪主になるなど皇后には考えられないことであった。

 皇后が望む喪主、つまり次期皇帝はいうまでもなく自分の息子、レヴィナスである。しかし彼は今、オムージュ領のベルーカにいた。これは彼の帰還が遅れたから、ではなく皇后の指示であった。

 クロノワを喪主に指名するベルトロワの遺書が開封され、未開封の遺書を保管していると思われる二人の大臣の行方が分らないことが判明したとき、皇后はすぐさま戦火を予感した。しかも間の悪いことに、クロノワの下には南方遠征軍が丸々残っている。カレナリアに一兵も残さずに帰還することはないだろうが、それでも十万~十五万程度の軍勢が彼の配下にはいるだろう。

 これに対抗するためには、こちらも兵を集めなければならない。おりしも都合よく、レヴィナスからベルーカに到着したという連絡が「共鳴の水鏡」を通して入った。皇后は事情を説明し(といっても自分に都合のいいように歪めてだが)、レヴィナスに兵を集めさせることにしたのである。ベルーカにはアルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールもおり、彼に任せれば戦力はまず心配ないだろう。

 ところで葬儀と喪主の件である。
 レヴィナスは兵を集めているため、帝都ケーヒンスブルグに帰還するまでにはかなりの時間がかかるだろう。かといってそれまで葬儀を先送りにしては、ベルトロワの遺体はひどく腐敗し悪臭を放つようになってしまう。皇后としてもそれは遠慮したかった。

 そこで火葬、である。

 火葬すれば後に骨が残る。それを骨壷に収めて保管しておき、後で散骨なり納骨なりすればよい。そしてそれを行う者こそが後継者であると主張するのだ。
 実際、こういった「裏技」は歴史上何度も行われてきた。

 ベルトロワの遺骨が納められた骨壷を、皇后は両手で大事そうに抱える。遺書が当てにならなかった以上、もはやこれだけがレヴィナスを皇帝にする、その正当性を主張する術に思われた。

 さて、レヴィナスが早く軍を率いて帝都に帰還しないかと気を揉む一方で、皇后はクロノワのこともまた気にしなければならなかった。彼の動向を知らせる「共鳴の水鏡」を用いた通信は、ここのところぱったりと止んでいる。それはつまり、クロノワが二人の大臣と合流し皇帝の遺書を見たのだと皇后に予感させた。

 この時点で皇后はクロノワのことを「潜在的な敵」から「レヴィナスの帝位を狙う簒奪者」という認識に改め、その危険度を大幅に引き上げた。

(もっと早く処断しておくべきでしたね………)

 一抹の後悔が皇后の胸をよぎる。とはいえ帝都ケーヒンスブルグで事態が進行している間中、クロノワは遠くカレナリアにいたのだ。策謀を巡らしその命を狙うには、いささか距離がありすぎたし、また準備不足であった。

 クロノワが今どこにいるか、その正確な位置は分らない。しかし目指す場所は、はっきりとしている。すなわち、ここ帝都ケーヒンスブルグである。

(レヴィナスは間に合うでしょうか………)

 皇后は軍事に関してはまったくの素人である。十万規模の兵を集め、それを率いてベルーカからケーヒンスブルグに来るまで、どれだけの時間がかかるか皆目見当もつかない。そこで確実な安全策として、皇后が帝都を離れベルーカのレヴィナスのもとに身を寄せる、という案が出た。さらにそこで皇帝の遺骨を散骨なり納骨なりして、レヴィナスを正統な(・・・)皇帝にしてしまおうというわけだ。

 しかし、この案には皇后が拒否反応を示した。
 ケーヒンスブルグはアルジャーク帝国の帝都、つまりはその政治的中心である。それに対しベルーカは旧王都であり総督府が置かれているとは、いえもはや帝国の一都市に過ぎない。

「それはつまり都落ちではありませんか!」

 正統な(・・・)皇帝であるならば、その戴冠式は帝都ケーヒンスブルグで行うべきである。クロノワを恐れるようにして帝都を離れ、辺境の一都市、しかもつい最近まで他国の王都でしかなかったベルーカでアルジャーク帝国皇帝の戴冠式をおこなうなど、レヴィナスにはふさわしくない。あの子の栄光ある統治の最初に、そのような汚点を付けるわけにはいかないのだ。

 それは感情に流された言い分でしかなかったが、それゆえにその想いは頑強で、理論的な言い分では太刀打ちできなかった。

 しかし事態は皇后を帝都ケーヒンスブルグから追い立てる。クロノワ率いる約十五万の軍勢が帝都に近づいて来たのだ。

**********

 やはり、というか帝都ケーヒンスブルグにいたる街道上で事態は進行した。

「一軍が街道上に柵を築き、行く手を阻んでおります」

 偵察から戻ってきた斥候はそうクロノワに報告した。さらに聞けばその一軍の規模は五千程度らしい。

「罠がある、と思いますか」
「いえ、単純に兵の数を揃えられなかっただけだと思われます」

 アールヴェルツェはそう断じた。
 アルジャーク軍の精鋭のうち二十万近くは南方遠征によってクロノワの配下に組み込まれている。アルジャーク軍の全戦力(オムージュやモントルムの兵は除く)は四十万とも五十万とも言われるが、その半分近くがクロノワの隷下にいるのだ。

 さらに皇后側が兵を集め始めたのは、早くとも遺書が開封された後である。兵士の数がもともと少ないことも一因だろうが、時間的な余裕もなかったと思われる。

 そうした状況を総合的に判断し、アールヴェルツェは「兵を集め切れなかった」と判断を下したのだ。

「しかしそうなると、戦力差が絶望的であることは皇后も理解しているはず」

 なぜ使者をよこすなり交渉の動きを見せなかったのか、と幕僚の一人レイシェル・クルーディはいぶかしんだ。五千対十五万では勝負にならないことくらい、いくら軍事に疎い皇后でも解るだろうに。

「私相手に、下手に出たくなかったのでしょうね」

 自嘲気味にクロノワはそういった。皇后が彼への迫害とイジメの急先鋒であったことは、周知の事実である。そんな馬鹿な、と思う一方で、確かにそれならば、と納得してしまう部分もあった。

「この際、皇后の心理状態を慮る必要はないでしょう」

 軍務大臣ローデリッヒ・イラニールはそういって脱線した話題を元に戻した。
 かりにこの先皇后の側から接触があったとしても、レヴィナスを皇帝にと望む彼女らと我々が歩み寄って妥協点を探すことは不可能である。ならば全軍を持って街道を封鎖している部隊を突破し、勢いそのままに帝都を掌握すべし、とローデリッヒは主張した。他に案が出ないところをみると、皆同じようなことを考えていたようだ。

 最後に、クロノワが判断を下す。

「全軍に出撃命令を。目標は帝都ケーヒンスブルグ」

 その言葉を合図に、一同は立ち上がり敬礼をしてからそれぞれの部署に散っていく。街道を封鎖している部隊に対し、クロノワの軍が攻撃を仕掛けたのは、そのおよそ一時間後であった。

**********

 それは戦闘などというものではなかった。柵を築き街道を封鎖していたおよそ五千の部隊は戦う前から及び腰で、クロノワの軍と接触するとほぼ同時に壊走を開始した。

 なにしろ彼我の戦力差はおよそ三十倍である。よく逃げずに決戦のその場にいたと、むしろ褒めるべきであろう。

 壊走する敵部隊を、クロノワは追わなかった。今は敵味方に分かれているとはいえ、彼らも同じアルジャークの民である。無駄な血を流さずにこの内戦を終えられるのなら、それが一番だろう。

(そういえば、これは内戦でしたね………)

 今更のように、クロノワはその事実を確認した。例えばオルドナスのような教師から彼は歴史を習ってきたが、内戦というのは総じて愚かしい理由が多い、というのがクロノワの感想であった。その内戦を今自分が演じることになるとは。

(これは早急に終わらせなければいけませんね………!)

 クロノワは決意を新たにし、軍を率い帝都ケーヒンスブルグへと駆け上った。その彼の視界に、やがて不吉なものが見え始めた。

「煙………!!」

 遠目に見えてきた帝都から、煙が上がっている。まさか、とクロノワは思いつつ馬に軽く鞭をいれ速度を上げる。彼の周りにいる騎兵がそれに続いた。

 ケーヒンスブルグに近づいてみると、黒煙を巻き上げて燃え上がっているのは宮殿であった。まだ市街地への延焼は始まっていないらしく、それだけは不幸中の幸いといえるだろう。クロノワはすこしだけ胸をなで下ろした。

 しかし、すぐに怒りがこみ上げてくる。
 恐らく、ではなく十中八九、宮殿に火をかけたのは皇后であろう。帝都ケーヒンスブルグからレヴィナスのいるベルーカへ逃れるための時間稼ぎか、それとも戦略的意味をこめた嫌がらせなのか。

 大局的に物事を見ればそれらしい理由は幾つも思いつくが、しかしクロノワはいい様のない個人的な悪意を感じていた。宮殿に来たばかりの、まだ味方がいなかったあの頃、常日頃感じていたあの悪意だ。

 まるで、
「お前にはなにも渡さぬ」
 と皇后に言われているようである。

(そこまで……、そこまで私と母が憎いか………!)
 ギリ、とクロノワの奥歯が軋んだ。

「イトラ・ヨクテエル!」

 少し間が開いてしまった軍勢が追いついてくる。それを振り返ることもせず音だけで感知したクロノワは、一人の武将を呼んだ。

「ここに」

 名前を呼ばれた若い武将は、馬を下りてクロノワの前まで進み出、膝をついて頭をたれた。

「隷下の部隊を率いて皇后を追いなさい。ただしリガ砦を越えることはしないように」

 クロノワはそうイトラに命じた。市街地への延焼がまだ始まっていないところをみると、火の手が上がったのはついさっきであろう。であればその下手人はまだこの近くにいるはずである。しかし、その下手人が皇后本人であるとは限らない。彼女本人は何日も前に帝都を脱出しているかも知れず、そうなれば見つけ出すには時間がかかるだろう。

 ただクロノワは直感的に皇后がまだこの近くにいると感じていた。嫌いな相手の事ほど、良く分るものである。

「御意!」

 イトラは短く返事をすると、すぐさま行動を開始した。その背中を見送ったクロノワは、次の武将の名前を呼ぶ。

「レイシェル・クルーディ!」
「御前におります」

 すでに馬から下り控えていた彼は、一歩前に出て頭をたれた。

「貴方は住民の避難誘導を」
「御意」

 レイシェルもイトラと同じく短く答えるとすぐに行動を開始する。無駄な時間を浪費している暇はないと心得ているのだ。さらにクロノワは矢継ぎ早に指示を出していく。

「アールヴェルツェは残りの兵を率いて火を消してください。市街地への延焼はなんとしても阻止するように。後方部隊は怪我人の手当てを。ローデリッヒ殿は全体の監督をお願いします」

 皆、短く返事をするとすぐに散っていく。アールヴェルツェは軍を率いて帝都へ、宮殿へと急ぎ、ローデリッヒは本部とするべき陣を作らせる。周りが忙しく動き回る中で、クロノワは燃え盛る炎と巻き上がる黒煙を睨みつけていた。

**********

 結局宮殿は全て焼け落ち、今は石で造られていた部分だけがススにまみれて残っている。ただクロノワが最も警戒していた市街地への延焼はなんとかまぬがれた。一部取り崩した建物もあるようだが、それは必要な犠牲だったのだろう。

 火の手が上がる宮殿から持ち出せた物品や資料は、全体から見ればごく僅かであった。アールヴェルツェにしても優先するように言われていたのは延焼の阻止と消火活動であったし、また燃え盛る炎の中に部下を送り込んでまでなにかを回収するようなことはしたくなかったようだ。

 日はすでに傾き、東の空はすでに暗くなり始めている。クロノワは今本部として用意された陣のなかで、ローデリッヒと共に上がってくる様々な報告を聞いていた。とはいえ具体的な指示はほとんどローデリッヒが出しているため、クロノワは本当に聞いているだけである。

「陛下がそこに泰然と座っておられるだけで、兵士たちは安心いたします」

 そういわれては仕方がない。どうやらローデリッヒの新しい皇帝への教育はすでに始まっているらしい。何もしないでいることに罪悪感を覚えながらも、クロノワはそこにいつづけた。

「だいぶ落ち着いたようですね」

 報告に来る兵士が途切れた頃を見計らって、クロノワはローデリッヒに声をかけた。見ればレイシェルが非難させてきた帝都の住民たちも少しずつ帰宅を開始している。山場は過ぎたと見ていいだろう。

「しかしこれからが大変ですぞ」

 焼け落ちた宮殿は皇帝の生活空間であると同時に、アルジャーク帝国における政治の中心であったのだ。そこに保管されていた多くの資料が、今回灰になってしまった。水面下の政治的混乱は、この先かなり長く続くと覚悟したほうがいいだろう。

「遷都を考えたほうがいいかもしれませんね………」

 この先もケーヒンスブルグを帝都としてつかうためには、兎にも角にも宮殿を修復しなければいけないだろし、他から最低限必要な資料を取り寄せなければならない。しかしそれには膨大な費用と時間がかかる。また近年行われた遠征によって膨れ上がった国土の中では、地理的に見てもケーヒンスブルグは条件がいいとは言いがたい。この機会に遷都を行うのは、いい考えかもしれない。

「報告します!イトラ・ヨクテエル将軍が皇后を捕縛し、帰還いたしました!」

 火事とそれにともなう混乱が一段落し弛緩しはじめていたその場の空気が、その報告で一気に緊張した。ローデリッヒが視線をクロノワに向ける。その意味するところは明らかだ。クロノワは無言で頷き、了承を伝えた。

「皇后をここへ」

 ローデリッヒが重々しく命じると、二人の兵士に拘束された皇后がクロノワの前に引き出されてきた。

「放しなさい、無礼者!わらわを誰だと思っているのですっ!?」

 皇后は身をよじり拘束を解こうとしているが、屈強な兵士に両脇から固められては、自由を取り戻すことは出来そうにない。

 喚いていた皇后の目が、クロノワを捕らえる。その瞬間、彼女は動きをピタリと止め、口の両端を吊り上げて壮絶な笑みを浮かべた。拘束された、身動きも満足に出来ない状態にもかかわらずその笑みは間違いなく捕食者のそれで、見るものの背中に冷や汗を感じさせる。

「どこの馬の骨とも知れぬ、下賎な女の子どもが、分不相応な場所にいるものですね。やはり宮殿を焼いたのは正解でした。お前のような下劣な男が座っては至高の玉座が汚れるというもの。お前が座った椅子にレヴィナスも座るなど、考えただけでもゾッとするというものです」

 興奮してきたのか皇后はさらに舌を回転させる速度を上げ、侮辱と軽蔑の言葉を吐き出し続ける。その言葉はだんだんと支離滅裂になっていき、それにともない皇后の目は血走っていく。

 皇后の吐く言葉がもはや意味をなさなくなると、ローデリッヒはこれ以上は時間の無駄だと判断したようだ。やはり無言のままクロノワに視線を向け許可を求める。クロノワが頷くと、ローデリッヒは皇后を連れて行くように命令を出した。

「放しなさいっ!!」

 ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ皇后を拘束している兵士の力が緩んだ。その一瞬をついて皇后はついに拘束を逃れた。そして彼女は………。

「アァアアァアァアァアァァァ!!」

 髪の毛をまとめていた簪(かんざし)を抜き右逆手に握り振り上げると、それを突き立てんとクロノワに突進した。誰もが虚をつかれて立ち尽くし、反応が遅れた。

 しかしそのなかでクロノワは動いた。彼は腰に吊るした剣の柄に手をかけながら、突進してくる皇后に対しむしろ距離を詰めるように前にでた。

 ――――一閃。

 鞘から抜き放たれた剣は、皇后の体に斜めに走る赤い線を残した。
 皇后は「え?」と呆けたような声をもらし、次に赤い雫を口から流した。皇后の動きが止まる。そこへ………。

「・・、・・・!」

 何ごとかを小さく呟き、クロノワは剣をもう一振りして皇后に止めをさした。
 ドサリ、と音を立てて皇后の体が仰向けに倒れ、その周囲に血溜りが出来始める。その様子をクロノワは肩で息をしながら見ていた。

 ――――はじめて、人を殺した。

 高揚や達成感を覚えることはない。しかしその一方で不思議と罪悪感もなかった。人が死ぬところだけなら何度も見てきたが、それが原因かもしれない。人を一人この手で殺したというのに、頭の中は妙に白けていた。

 ただ斬ったときのあの感触は気持ちが悪かった。そしてなにより、皇后を斬ったときに自分がどんな顔をしていたのか、それが怖かった。

「陛下………」

 ローデリッヒが声をかけてくる。その時ようやく、クロノワは白くなるほど剣の柄を強く握り締めていた手から力を抜き、軽くふるって血を飛ばしてから鞘に戻した。

 目を閉じ、息を整える。次に目を開けたときには、表面上は平静に戻っていた。

「皇后の遺体は丁重に葬るように」

 クロノワのその指示にローデリッヒは少し眉をひそめたがすぐに頷いた。あるいはクロノワの自己満足だと思ったのかも知れないが、死体の処したかなど誰が損をするわけでもない些細な問題であろう。

「少し疲れました。後は任せても大丈夫ですね?」
「はっ、お任せください」

 ローデリッヒに合わせて周りの兵士たちも敬礼をする。彼らに一つ頷いてからクロノワは自分の天幕の中に入った。

 天幕の中の簡易寝台を背もたれにして座り込む。掲げて見た手には、皇后を斬ったときのあの感触が残って消えない。

「………やったよ、母さん。母さんの汚名を雪いだんだ………」

 そう呟いてみても、高揚も感動も、何も生まれはしなかった。





[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:43
教会の本拠地たる神殿がアナトテ山にあるという話は以前にした。ではそのアナトテ山がどこにあるのかといえば、神聖四国の国境線のちょうど中心、つまりこの四カ国の中心にこの山は位置していた。

 神聖四国は大陸のほぼ中央に位置している。つまり神聖四国の中心にあるアナトテ山は、このエルヴィヨン大陸のほぼ真ん中に位置しているのだ。このような地理的な条件が、今現在教会を蝕む傲慢で硬直した思想の一因になっているのかもしれない。

 それはともかくとして。この神殿に教会の核心とも言うべき人物がいる。教会を支える信仰の根拠にして現世に残された奇跡の体現者。

 ――――神子、マリア・クラインその人である。

「マリア様、これよりララ・ルーは視察巡礼に赴きます」

 栗色の髪の毛をした少女がマリアの前で頭をたれる。年の頃は十五、六だろうか。童顔のせいで幼く見えるので、本当はもう少し上かもしれない。彼女の名前はララ・ルー・クライン。神子マリア・クラインの養女にしてその後継者である。

 余談であるが彼女の名前「ララ・ルー」の「ルー」はミドルネームではない。「ララ・ルー」でファーストネームだ。彼女は生後間もない頃、孤児院の前に捨てられていた。名前などを教えるものは何もなく、孤児院の子どもたちが名前を考えたのだが、その時に最後まで残った候補が「ララ」と「ルー」であった。双方引くに引かず、それなら両方くっつけちゃえ、と子どもならでは強引さで彼女の名前は決定したのである。とはいえララ・ルー本人は自分の名前を大切にしていた。

「わたしのことを本当に想って付けてくれた名前です」

 閑話休題。話を戻そう。
 彼女がこれから出かける「視察巡礼」とは、簡単に言ってしまえば神子の代わりとして町々を視察することである。

 神子は大陸中の教会信者の信仰を一身に集める存在だ。それゆえ教会の光輝を高めるには、神子という存在を前面に押し出すのがもっとも効果的である。しかし神子は神殿から離れられない。いや、アナトテ山の麓にある、千年前神界に引き上げれらたパックスの街の代わりに造られた神殿の御前街程度ならば足を伸ばせるのだが、それ以上神殿から、いや御霊送りの祭壇から離れることは出来ないのだ。

 そのため、神子の名代としてその弟子や後継者が町々を巡り、信者をつなぎとめたり増やしたりするのだ。以前は神聖四国を越えてかなり遠くまで赴いていたのだが、ここ十年ほどは血生臭い話題も多くなり、視察巡礼は神聖四国内に限定されている。

 今回ララ・ルー・クラインが視察巡礼に赴くのは、神聖四国の西の端、サンタ・ローゼンとサンタ・パルタニアの辺境付近である。もっともこの辺りを巡って帰ってくるということなので、神聖四国の西部を巡ると考えたほうが正しいだろう。

「体に気をつけるのですよ」

 これまで精一杯の愛情を注いできた愛娘に、マリアは優しい眼差しを向けた。このようないわば公的な場では、ララ・ルーはマリアの養女として振舞うことはなく、その後継者として弟子のような立場をとる。だがプライベートでは少々おっちょこちょいで甘えたがりな娘だ。

 ララ・ルーはもう一度挨拶をしてから、神子の部屋を辞した。マリアはそれを相変わらずの優しい眼差しで見送る。しかし、そこにいい様のない罪悪感が混じっていることに、一体誰が気づいたであろうか。

**********

 当代の神子マリア・クラインは先代神子ヨハネスの弟子でありまた恋人であった。教会には神子の婚姻に関する明確な基準はない。しかしこれまでの風潮ゆえか、神子の婚姻はタブー視されている。だがその反面、処女性や童貞性を求められているわけではない。そのため恋人を作ることに関してはおおらかで、そのこと自体が何か問題になることはほとんどない。人物が問題になることはあるが。

 先代神子とマリアの関係は事実婚であったと考えればよい。当然のことの成り行きとして、やがてマリアは懐妊する。しかしその時期が悪かった。

 この時期、神子と枢密院は対立していた。

 以前説明したように、枢密院の位置づけは神子の補弼機関である。ゆえに本来の力関係から言えば、枢密院は神子に逆らえるわけがない。だがしかし教会の長い歴史の中で、枢密院はすでに最高意思決定機関としての事実上の立場を確立しており、神子はその決定に承認を出すだけの存在と成り果てていた。

 枢密院が良識的でその決定が信者たちや大陸の人々にとって益となるものであれば、神子も傀儡の立場を受け入れられたであろう。しかし枢密院が追求したのは富を集めることであり、そのため教会は腐敗しきっていたと言っていい。

 その状況を良しとせず、改革を志したのがマリアの恋人である先代の神子ヨハネスだ。彼は教会の宗旨である清貧に立ち返るよう説いた。さらに枢密院の決定に承認を出さないことさえあった。その結果、枢密院と神子の関係は加速度的に悪化していった。

 マリアの懐妊が発覚したのは、そんな時期であった。

 もはや建前の上だけとはいえ、枢密院にとって神子は目上の存在である。加えて神子の首はそう簡単にすげ替えることは出来ない。次の神子を指名できるのは神子だけであり、しかもその継承は神界の門をくぐった先で行われるのだ。神界の門をくぐりそして戻ってきたという事実のみが、神子を神子たらしめる最大の要因なのだ。枢密院が自分たちに都合のいい神子を用意したとしても、信者たちがそれを認めることはないだろう。

 つまり、神子がどれだけ目障りであろうとも、枢密院としてはこれを排除するわけにはいかないのだ。口惜しいことに監禁や軟禁もできない。建前上枢密院は神子の補弼機関でしかなく、その承認がなければ何を言ったところでそれが教会の意思となることはない。それに神子こそが信者の信仰の対象なのだ。これを表に出さなければ教会はもはや立ち行かないだろう。

 枢密院は神子に手出しできない。しかし、ヨハネスの弟子であり恋人であるマリアはそうではない。しかもその腹には神子の子どもがいるのだ。人質としてこれ以上の存在はいないだろう。

 無論、そんなことはヨハネスも承知していた。ゆえに彼はマリアを秘密裏に神殿から脱出させ、サンタ・ローゼンの辺境にある、信頼できる人物が管理していた町の教会に隠したのだ。

 この時、マリアは恋人から別れを告げられていた。

「権謀術策が渦巻くこの場のことは忘れ、どうか子どもと幸せになってほしい。それが私の幸せだ」

 それが恋人の嘘偽りのない本心であることはマリアにも分っていた。しかしただ一人で孤軍奮闘する恋人を忘れることなど、彼女にはできなかったのだ。それにいつまでもこの町の教会に隠れ続けていられるわけではないだろう。いずれは枢密院に見つかる。そうなれば母子共々捕まって神子への人質とされてしまう。

 戻ろう、とマリアは決めた。身重でさえなければできる事はそれなりにある。かりに人質になったとしても、身の処し方などいくらでもある。ならば戻ってヨハネスをそばで支えたいと、マリアはおもったのだ。

 生まれた子どもは女の子であった。オリヴィア、と名づけたその子が乳離れするとすぐ、マリアはオリヴィアをサンタ・ローゼンの辺境にある孤児院に預けた。誰にも見つからぬよう、まだ朝の薄暗いうちに古い寺院を利用した孤児院の門のところに子どもを置いたのだ。娘の名前を書いた紙と、恋人であるヨハネスとお揃いの蝶をあしらった腕輪だけをおくるみの中に入れて。

 正直な話、とても辛かった。胸が張り裂けるとはどういうことか、マリアはこの時身をもって実感した。手が震えて涙がこぼれた。声を上げて泣いてしまえばオリヴィアが起きてしまうし、孤児院の人が出てくるかもしれない。そう思って必死に声を抑えた。

 赤ん坊を入り口のところに置くと、すぐに走ってその場を去った。そうしなければもう泣き声を抑えられなかった。息が切れるまで走って孤児院から離れ、もう大丈夫と言うところまで来てから声を上げて泣いたのを良く覚えている。

(大丈夫、これは一生の別れじゃない………!必ず迎えに来るから………!!)

 マリアはそう自分に言い聞かせた。神殿に戻り事が落ち着いたら必ず迎えに来る。そうしていっぱい謝っていっぱい可愛がろう。一緒にいてあげられない時間は取り戻せないけれど、その寂しさを忘れるくらい楽しい思い出を作ろう。そう自分に言い聞かせて、彼女は鉛のような足を引きずって孤児院を後にしたのだ。

 あらかじめ決めていた通り、子どもは死産だったことにした。神殿に戻ってきたマリアを見て、ヨハネスはなにも言わなかった。何かい言いたそうな顔はしていたが、結局なにも言わずただ彼女を力いっぱい抱きしめた。この時ヨハネスが何を言いたかったかマリアには全て伝わっていた。なぜ帰ってきたのだと言う非難。その一方で帰ってきてくれて嬉しいと言う感謝。痛いほどに強く抱きしめられたその腕の中で、マリアは帰ってきてよかったと涙した。

 少し迷ったがオリヴィアのことはヨハネスにも伏せておき、ただ死産であったとだけ伝えた。余計な気を使わせてはいけないと思ったのだ。お揃いの蝶をあしらった腕輪は赤子の遺体と共に埋めたと話した。

 正直なところ、マリアはヨハネスが目指す改革に傾倒していたわけではない。マリアが傾倒していたのはヨハネスの志ではなく、ヨハネス本人である。改革の力になりたいと思ったのではない。ヨハネスの力になりたいと思ったのだ。多分だが、ヨハネス自身もそのことは薄々気づいていると思う。

 それからしばらくの間は忙しくも幸せな時間だった。恋人の、ヨハネスの目指す改革のために奔走する毎日。愛する人と、愛する人のために働けるのは本当に幸せだった。状況は芳しくなかったが、それでも充実していたと言い切れる。

 しかし、幸せな日々は唐突に終わりを告げた。神々より神子に与えられたという腕輪、その腕輪にはめ込まれた「世界樹の種」が赤い光を放ったのだ。それはすなわち、御霊送りの儀式を行う合図だった。

「時間切れ、か………」

 悔しさを滲ませるようにしてヨハネスは呟いた。そして目を閉じ、一つ大きく息をはいた。

 マリアのほうを振り返ったヨハネスは、笑っていた。少し困ったような顔をして笑っていた。遣り残したことへの悲壮感は感じられない。むしろ、憑き物が落ちたような顔だとマリアは思った。

(ヨハネス様に付いてきて良かった………)

 マリアは泣いた。どうしてだか分らないが、涙は止まらなかった。ヨハネスは少し呆れたように笑って抱きしめてくれた。

「神子の座を、君に継いでもらいたい」

 マリアを抱きしめたまま、ヨハネスはそういった。枢密院には話を通して、もう対立はしないと言って置く。だから君も改革からは手を引いて神子として穏やかに暮らして欲しい。ヨハネスは泣き続ける恋人にそう願った。

 それはヨハネスの最後の気遣いだったのだろう。彼はマリアが改革そのものにはあまり興味がないことに気づいていた。自分を支えてくれる彼女の存在は得がたいものだったが、いなくなってしまう自分を理由に枢密院と戦い続けるようなことはして欲しくはなかった。

「はい。全てはヨハネス様の御心のままに………」

 マリアは涙を拭って顔を上げた。彼女を覗き込むヨハネスは一瞬だけ泣きそうに顔を歪めたが、すぐに笑顔に戻りそっと恋人に口づけをするのであった。

 それから儀式が行われるまでの数日間は、本当に穏やかな日々だった。ヨハネスはすでに枢密院と話をつけており、彼らから無粋な横槍を入れられることもない。結果だけ見ればヨハネスはマリアのために改革を断念した形になるのだが、彼はそのことをなんら後悔していなかった。

「彼女が穏やかに暮らせるならば、それだけでいい」
 万感の思いをこめて、ヨハネスはそう言い切った。

 幸せで穏やかな日々はまたたく間に過ぎ、そして御霊送りの儀式当日。神子ヨハネスとその後継者マリアの二人は御霊送りの祭壇の上に立っていた。これから神子が神界の門を開け、神界へと引き上げられたパックスの街へと赴くのだ。

 マリアは興奮していた。それも当然だろう。彼女は敬虔な教会の信者なのだ。信者として彼女は神界に対して憧憬を抱いていたし、自分が死後そこに行くことを純粋に信じていた。それがヨハネスの改革にのめり込めなかった理由の一つなのだが、それはともかくとして死後に赴くはずだった場所に生きたまま行けるとは、なんという僥倖なのだろう。顔を輝かせ頬を上気させるマリアを、ヨハネスは痛ましそうに見ていた。

 大勢の信者が見守る中ヨハネスが腕を掲げると、「世界樹の種」が強い光を放つ。その光が収まると、二人の姿は祭壇の上にはなかった。信者の中から怒涛の如く歓声が沸きあがる。御霊送りが、現世に残された最後の奇跡が、ここに行われたのだ。

 神界の門の先でマリアが何を見たのか、ここでは語らない。機会があればいずれ語る事もあるだろう。しかしそこで彼女は知ったのだ。

 ――――どうしようもない、救いようのない真実というやつを。

 ヨハネスは全てを話した後、マリアに泣きながら謝った。
 こんなものを、こんなどうしようもない、救いようもないものを背負わせてしまってすまない。重すぎるものを背負わせてしまってすまない。とんでもない貧乏くじを引かせてしまってすまない。と。涙を流し謝り続け、そしてそのまま息を引き取った。

 マリアもまた、泣いた。
 だんだんと冷たくなっていく恋人の亡骸を抱きしめながら、声が枯れるまで泣いた。こんなにも泣いたのは、オリヴィアを孤児院に置いてきたとき以来だった。泣きながら、マリアは恋人から託されたものを背負う覚悟を決めた。ヨハネスの亡骸から「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を外し自分の左腕につけ、お揃いの蝶をあしらった腕輪を右腕につける。男性用の腕輪はマリアには少し大きい。

 涙を拭き立ち上がり、無理やり笑顔を作る。天上の楽園から帰ってきた者が悲嘆にくれていては話しにならない。この真実を背負い続けるには、笑顔を浮かべ続けなければならないのだ。そう自分に言い聞かせた。

 本当は神子の座に付いたら娘を、オリヴィアを呼び寄せるつもりだった。しかし、あの救いようのない真実を知った後では、それは躊躇われた。

 もしオリヴィアを呼び寄せれば、彼女は言うまでもなく神子の娘という立場になる。そうなれば次の神子になるのはほとんど彼女で決まったようなものだ。それはつまり、愛娘にあの救いようのない真実を背負わせると言うことだ。

(それは、それだけは出来ない………!私はどうなってもいいけれど、それだけは出来ない………!!)

 一ヶ月近く悩んだが、結局オリヴィアを呼び寄せることは断念した。娘にアレを背負わせないということは、他の誰かに背負わせることだということはマリアも重々承知していた。いずれは弟子を取り、その中から後継者を選ばねばなるまい。

(わたしは、ひどい女ですね………)

 娘を守るために、他の誰かを身代わりにしようというのだ。神々をも恐れぬ所業だ。もっとも神々などいないことを、マリアは嫌というほど思い知らされていたが。

 マリアはそれから慈善活動に力を入れた。決定に異議を唱えない代わりに枢密院から資金を用意してもらい、神殿の御前街に病院を創った。家を持たない路上生活者のために炊き出しを行い、夜露をしのげる場所を用意した。

 それが捨ててしまったオリヴィアへの償いになると思ったのだ。またそうやって慈善活動に打ち込むことで、愛娘への思いを多少なりとも和らげることが出来た。

 しかし彼女はまたしても絶望を経験することになる。

 愛娘を手元に置かない。その選択を後悔したのは、オリヴィアを生んでからおよそ十年後のことだった。ひょんなことで、風の噂を耳にしたのだ。

 曰く「サンタ・ローゼンの辺境にある孤児院が盗賊の襲撃を受けて全滅したらしい」

 まさか、と思った。
 湧き上がる嫌な予感から必死に目を逸らしつつ、彼女は伝手を頼って情報を集めた。そうやって集めた情報は、マリアを打ちのめした。

 盗賊に襲撃され全滅した孤児院とは、まさしく十年前マリアがオリヴィアを捨てた孤児院だったのだ。誰かにもらわれているかもしれない。そんな一縷の希望も、すぐに絶望へと変わった。

「あ、ああ、アア、う、うう、ううアアああアアああァァァアアアアああ!!!!」

 マリアは絶叫した。声が枯れ、血を吐くまで泣き続けた。三日三晩、一滴の水も喉を通らず、一睡もせずに泣き続けた。

「オリヴィア、オリヴィアァァァ………」

 手元に、置いておくべきだった。いや、そもそも神殿に戻ってくるべきではなかった。ああしていれば、こうしていれば。いくつもの後悔が頭の中を巡っていく。

 立ち直るまで、半年かかった。いや、“立ち直った”というのは嘘だ。マリアの心の喪失は大きすぎ、決して補うとこはできない。

「腐っていてもあの子はうかばれない」
 とか、
「出来ることを精一杯やるのが償いだ」
 とか、自分でも信じられないような、安っぽい激励で無理やり自分を奮い立たせただけだ。心の傷口からは、血が止まることなく流れている。その傷がふさがることは決してないだろう。

 ララ・ルーと出会ったのは、ちょうどそんなことだった。

 視察の名目を借りて神殿の御前街に出かけたときのこと、一人の浮浪児が彼女の前を横切った。
 後から聞いた話だが、彼女がお世話になっていた孤児院がつぶれて、この御前街まで流れてきたということだった。

 ひどい有様だった。着ているものは服というよりは布に穴をあけただけのもので、泥で汚れあちらこちらが擦り切れている。手足は細く、すりむいたのかところどころに赤いものが浮かんでいた。顔はすすで汚れ、その目には絶望しか映っていない。肩まで伸びた髪の毛が、かろうじてその子が女の子であることを主張していた。

 ふと思った。
 もしオリヴィアが生き延びていたら、同じような境遇で苦しんでいるのだろうか、と。

 気がついたら、抱きしめていた。ごめんね、ごめんね、とその女の子のむこうにいる娘に謝り続けた。

 マリアは分っていた。
 この子はオリヴィアではないと、分っていた。
 この子にオリヴィアを重ねていると、分っていた。
 この子はオリヴィアにはなれないと、分っていた。

 分っていても、もうどうしようもなかった。

 惚けたように大きく目を見開いてこちらを見上げる女の子を、優しく抱き上げる。手放すことなど、考えられなかった。

 この二日後、ララ・ルーは正式にクラインの姓を受け、マリアの養女となる。

**********

 ララ・ルーを養女にしてから、およそ十年。ありったけの愛情を注いできた。そのことを後悔しているはずもない。笑って怒って喜んで、親子として楽しい思い出を幾つも作った。

 正直な話、随分と救われた。

 オリヴィアを失い、紙一重の気力だけで生きていたあの頃に比べれば、かなり精神的にも身体的にも安定した。ララ・ルーが元気良く真っ直ぐに成長していくのを見守るのは、楽しくまた嬉しくもある。

 しかし、今でもオリヴィアを手放した、あの日のことを夢に見る。そんな時はどうしても考えてしまうことがある。

 まず愛情を注ぐべきだったのは、オリヴィアではなかったのか。
 楽しい思い出を作ってあげるべきだったのは、オリヴィアではなかったのか。
 成長を見守るべきなのは、オリヴィアではなかったのか。

 ――――ララ・ルーを、オリヴィアの身代わりにしているのではないか。

 マリアは精一杯ララ・ルーを愛してきた。そしてそれに応えてくれることが、本当に幸せだった。けれども彼女を愛すれば愛すほど、応えてもらって幸せになればなるほど、本当の娘であるオリヴィアへの罪悪感が強くなる。

 さらにマリアは神子である。そしてララ・ルーは神子の養女である以上、すでに事実上の後継者とみなされている。それはつまり、あの救いようのない真実をララ・ルーに背負わせるということだ。

(わたしは、そのためにあの子を育ててきたのでしょか………?)

 オリヴィアの身代わりとして。そう考えると、今度はララ・ルーへの罪悪感がわいてくる。

 オリヴィアへの罪悪感。そしてララ・ルーへの罪悪感。
 二人の娘への罪悪感。

(わたしは本当に、罪深い女です………)




[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:46
ビクリ、と身じろぎしてから、その人影は動き出した。体にかけていた外套を肩にかけなおし、イストは胡坐をかいて座った。ぼんやりと左右を見渡すと、彼に近くにさらに二人、横になって眠っている者たちがいる。彼の弟子であるニーナ・ミザリと、新たな旅の道連れジルド・レイドである。

 焦点が定まらない瞳でイストがぼんやりと見つめる先には、煌々と赤い光を放つ石がある。これは「マグマ石」という魔道具で光と熱を放つ。この魔道具が放つ光と熱の強さはモノによってまちまちだが今イストが見つめているものは、だいたい焚き火と同じくらいの熱と光を発している。

 焚き火と違い薪がはぜる音もせず静かに輝く「マグマ石」から少しはなれたところに、手のひらに乗るくらいの大きさの球体がおいてある。材質は水晶のようだが、その中には青い光がまるで液体のように対流している。魔道具「敵探査(エネミーサーチ)」。あらかじめ設定された条件に適合する物体が一定の範囲内に侵入すると警報が鳴り響く魔道具である。この魔道具のおかげで、三人は寝ずの番をたてることなく旅の夜を過ごせていた。

 不審者を近づけないということであれば、「霧の迷宮(ミスト・ラビリンス)」という魔道具を使ってもいいのだが、こちらは持続時間が短く一晩中は使えない。

 静かな夜だ。あの夜とは違って。

「また、赤い夢、か………」

 彼の記憶が始まる場所、古い寺院のようなものを利用した孤児院が盗賊たちに襲われた、あのときの赤い悪夢。あのときの記憶はひどく断片的で、しかしそのせいか一コマ一コマは強烈に焼きついている。

 轟々と燃え上がる炎。子どもを庇う大人の女性。年下の兄弟を庇う年上の子ども。コマが進むごとに、立っている人間に人数は減り血溜りに倒れこむ人数ばかりが増えていく。見開いたままの小さな瞳に、もはや生気はない。せめてあの目蓋を下ろしてやれば、穏やかな死顔になるのだろうか。

「埒もない………」

 お酒の入った「魔法瓶」を取り出し、その中の琥珀色の液体を一口あおる。

 あの事件はもう終わったのだ。盗賊団は壊滅し、復讐すべき仇などというものはもはやこの世に存在しない。

 過去には涙と花束を。時間は残酷なまでに平等で優しい。あの日の少年は、いまだに夢の中を彷徨っているのに。

「なんとかしなきゃかねぇ………」
 努めて他人事の調子で、イストは呟いた。

 赤い悪夢との付き合いはもう十年来になる。特に生活や精神面での支障はない。悪夢を見た夜はそれ以上眠れなくて、酒を飲むくらいしか出来なくなるが、言ってしまえばそれだけで、それ以上引きずることはなくなった。

 ただ、悪夢を見ることそれ自体が、精神的に問題があるといえなくもない。
 師匠であるオーヴァと旅をしていた頃、一人で旅をしていた頃、そしてニーナやジルドと旅をしている今、いずれの場合も関係なく悪夢に悩まされてきた。いや、本人は悩まされるほど問題視はしていないのかもしれない。長い付き合いの中で慣れてしまったといえなくもないが………。

(それは………、ないか………)

 慣れてしまったというよりは、諦めてしまったのだろう。イストはそう思った。慣れたのであれば悪夢を見て目が覚めた後、またすぐに眠ることが出来るはずだ。だがしかし、今自分はこうして酒を飲み日が昇るのを待っている。

「滑稽だな。滑稽だよ」

 ククク、と弱々しい自嘲の笑い声が漏れる。
 ああ、まったく滑稽だ。悪夢をさまよい続けるあの日の少年も。悪夢を乗り越えられそうにない自分も。酒に頼らなければそれを認められない自分も。全てが滑稽で無様で、笑うしかない。

「いいかげん、形だけでもケリ、付けとくかなぁ………」

 それで何かが解決するとは思わないけれど。それでも十年、あれから十年だ。いいかげん一つの区切りを付けておいてもいいだろう。

「行ってみますか、焼け跡に」

**********

 イストとニーナの師弟が引き受けた「ハーシェルド地下遺跡に遺された古代文字(エンシェントスペル)の解読」という仕事の期間は一ヶ月であったが、結局二人はもう一ヶ月ほどそこで発掘作業を手伝うことになった。

 理由は二つある。
 一つは、単純に古代文字(エンシェントスペル)の解読が終わらず、仕事の延長を依頼されたから。
 そしてもう一つは、新たに旅に加わることになったジルド・レイドの護衛の仕事が、もう一ヶ月分残っていたからである。

 ジルドが一緒に旅をしたいと申し出たとき、イストとニーナは少なからず驚いた。二人の師弟は流れとはいえ魔道具職人であり、腕っ節で渡り歩いてきたはずのジルドとは仕事が畑違いである。イストとニーナからしてみれば護衛として心強い存在ではあるが、ジルドのほうには理由が無いのではなかろうか。

「一緒にいなければ、驚かせることはできまい?」

 確かにそんな約束をした。「光崩しの魔剣」をジルドに贈った際、「その魔剣を使ってオレを心の底から驚かせてくれ」とイストが条件を出したのだ。

 とはいえこの条件、もとはと言えばジルドが魔剣を無料で受け取るとこを渋ったから出したのであって、イストとしては軽く考えていた。しかしジルドのほうはそうではないらしく、律儀にも条件をクリアするまでは一緒に旅をすると決めているらしい。

「おっさんも律儀というか固いというか」

 もとよりイストに断る理由はない。武人らしいその考え方に少し呆れながらも、イストは彼の申し出を了解した。

「師匠もジルドさんを見習ったほうがいいと思います」
 そうすればもう少しまともな人間になれるはずですから、とニーナは真顔でそういった。彼女としてもジルドの同行は歓迎すべきことだ。彼女は師匠であるイストがジルドから精神的感化を受け、真人間になることをわりと真面目に期待していた。逆にジルドがイストから影響を受ける可能性もあるのだが、どうやらそちらには気づいていないらしい。

 ちなみにイストがアバサ・ロットであることは、三人で旅をするようになって少ししてからジルドに教えた。旅の中で魔道具を作るには「狭間の庵」にある設備を使わなければならない。旅の同行者を仲間はずれにしては、満足に本業が行えないのだ。

 アバサ・ロットというのはもはや伝説と化している魔道具職人の名前だが、そんなビックネームを聞いてもジルドはさほど驚かなかった。

「あれだけの魔剣を作れる職人が、無名であるよりは説得力がある」

 照れくさかったのか、イストは煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かし、肩をすくめただけで何も言わなかった。

 ハーシェルド地下遺跡はジェノダイトと神聖四国の一つサンタ・ローゼンの国境近く、トロテイア山地の巡礼道を少し外れたところにある。発掘作業の手伝いという依頼を終えた三人は、報酬をもらうとそのまま巡礼道を通ってサンタ・ローゼンに入り、国境線に沿うようにして北西に進路をとった。

 地理的にほぼ大陸の真ん中に位置し、そのためか歴史の中にあって主役となることが多い神聖四国であるが、それでも辺境部は政治的な喧騒からは程遠く、のどかな雰囲気が漂っている。しかしこのごろは物騒な単語を良く耳にする。「十字軍」とか「遠征」とかいう単語である。

 神聖四国とその周辺諸国が兵を出し合って十字軍を組織しアルテンシア半島へ遠征するという話は、その始まりにおいてからさえ機密でもなんでもなく、かなり早い段階から噂という形で一般に広がっていた。それがどうやら、いよいよ本格的に動き出すらしい。集まった兵の数は三十万規模で、遠征の開始を今か今かと待ちわびているという。

 遠征の開始が少しばかりまごついている理由は、十字軍に対して神子の祝福を与えるかどうかで、枢密院が意見の調整に手間取っているからだという。神子の祝福が十字軍に与えられれば、遠征に参加する兵士たちの士気は大いに上がるだろう。しかしその一方で祝福が与えられてしまうと、遠征の中で行われるであろう略奪や暴行にまで、いわば「お墨付き」が与えられてしまうことになる。また万が一にも十字軍が敗北した場合、それは「神子が祝福した軍が負けた」という汚点を教会に残すことになる。

 とはいえ、「祝福は与えられるだろう」というのが大方の予想だ。勝てば官軍。勝ってしまえば略奪や暴行の事実などいくらでも揉み消せる。何も問題はない。負けるつもりで遠征を行う愚か者がどこにいるというのか。

「神子も信仰も、全ては戦争の道具というわけだ」

 煙管型魔道具「無煙」を吹かし白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出しながら、皮肉をこめてイストはそう評して見せたのだった。もっともそんなふうに気楽に批評していられるのも、彼らが傍観者だからだろう。十字軍も遠征も彼らにしてみれば他人事でしかなく、関わる予定もつもりもない。

 目下、彼らの目的地は「プーリアの村」である。
 プーリアはサンタ・ローゼンの辺境部に位置するのどかな村である。この村ではオリーブの栽培が盛んで、そこから得られるオリーブオイルを求め多くの商人たちがこの村を訪れる。そのためか、村の規模からは不釣合いな宿泊設備を持っていた。

 季節は収穫期のはじめごろ。オリーブの実は手摘みで収穫するため村にとっては忙しくなってくる時期だが、油を求めて買い付けにやってくる商人たちの姿はまだ少ない。今はまだ個人の行商人が中心のようだ。

 とはいえイストたちの、いや、イストの目的はオリーブオイルではない。プーリアの村の近くの小高い山には古い寺院を利用した孤児院があったのだが、十年ほど前に盗賊に襲撃されて以来、廃墟となっていという。いうまでもなくイストがオーヴァと出会う前にお世話になっていた孤児院の跡であり、そここそイストがこの村を訪れた理由であった。

 宿泊施設の大部屋(個室などという設備はないらしい)はまだスカスカで、なんとなく居心地の悪さを感じさせる。端っこの壁際に荷物をまとめ道具袋からクッションを取り出し、とりあえずの場所を確保するとようやく人心地ついた。

「夜には帰ると思うから」

 それだけ言うとイストは「無煙」を吹かしながら、さっさと外に出て行ってしまった。クッションの上に座り込み、少し前に買い込んだクッキーをパクついていたニーナは少しばかり呆けた様子でその背中を見送った。

「………この村って、なにかめぼしいものありましたっけ?」

 プーリアは本当にただの“村”だ。オリーブという特産品はあるが、それ以外で目立ったものは何もない。師匠であるイストが何を目的として外に出たのか、ニーナとしては見当がつかなかった。しかも夜までだと、時間的にも結構長い。

 もちろんイストはお世話になっていた孤児院の跡へと向かったのだが、彼は詳しい事情をニーナとジルドにはまだ教えていなかった。

「さてな。ワシらにはなくともイストにはあるのかもしれん」

 そういいながらジルドはティーセットを取り出し、お茶の用意をしていく。こういう時、火を使わない「マグマ石」は便利だ。

 それもそうか、とニーナは納得した。もとよりイストがどこで何をしようとも彼女がやることは変わらない。ニーナは今まとめている資料を取り出し、読み漁っていく。

 ハーシェルド地下遺跡の発掘作業を手伝う傍らにレポートをまとめていた「光彩の指輪」は、いまは彼女の指で輝いている。この魔道具は理論的な部分は比較的早くまとまったのだが、刻印を施した合成石をはめ込む指輪の台座(つまり魔道具の性能にはまったく関係のない部分)を作るのに手間取ってしまった。ただ、手がかかったせいか、なかなかお気に入りである。

(でもまあ、これで満足してるわけにはいかないし………)

 ニーナの夢は立派な魔道具職人になって実家の工房「ドワーフの穴倉」を継ぐことだ。その夢のためには、たった一つの魔道具で満足しているわけにはいかないのだ。

 ジルドが入れてくれた紅茶を受け取り、手に持った資料に目を走らせていく。何日ここに滞在するか分らないが、まとまった時間が取れるのならそろそろレポートを書き始めたい。

「ジルドさん………」
「ん?どうした」
「クッキー、それ以上食べられるとわたしの分が………」
「む………」

 勉強には糖分が必要なのだ。

**********

 道は随分と荒れていた。プーリアの村の近くにある小高い山、その山を少し登ったところにある廃墟がまだ寺院として利用されていた頃の名残らしい石畳は、あちらこちらにヒビが入り割れている。踏みつけるとぐらつくようなものもあり、石畳の上を行こうとすると、かえって歩きにくいくらいだった。

 さっきまで吸っていた煙管型禁煙用魔道具「無煙」はカートリッジが切れてしまったため、今は道具袋の中にしまってある。そのせいか口元が少し寂しい。まあ、カートリッジを交換すればいいだけなのだが。

「十年………。近づく人もいなければ当然か………」

 意外と冷静だ。イストは自分の状態を慮り、そう判断を下した。あの赤い悪夢を見るたびに酒に頼っているような有様だったから、現地を訪れれば涙の一つでも流すのかと思っていたが、今のところそういう感情がわきあがってくる様子はない。

「昼間だから、か………?」

 この場所で最も強烈に焼きついている場面は、言うまでもなくあの晩のこと、盗賊に襲われたあの日の夜のことだ。夜の暗闇と轟々と燃え盛る炎は脳裏に焼きつき離れないが、そのせいかまだ日の高いこの時分、ここは同じ場所なのにどこか別の場所のようにさえ思えた。

 歩きにくい石畳の上を歩いていく。しばらくすると、焼け落ちた廃墟が見えてきた。焼け落ちたとはいえ、まだ建物の様相は残っている。その姿を見て、そういえば石造りだったな、とイストは思った。

 視線を正面に戻すと、一人の人物が視界に入った。
 後姿だが女性だと分る。蜂蜜色の髪の毛を伸ばした彼女は、焼け落ちた廃墟の前で跪き祈りを捧げているようだ。

(さてどちら様だ………?)

 生憎と心当たりはない。場所が場所だけに孤児院の関係者かその辺りだろうと見当は付けたが、その関係者はあの夜の襲撃であらかた死んだはずである。

 まあ誰でもいいか、とそこで思いイストはそこで詮索をやめた。跪いている女性の隣に、ひと一人取り分くらいのスペースを開けて立つ。

「墓………?」

 土を盛り、その上に石を二つ乗せただけの簡単なものだが、これはお墓だろう。蜂蜜色の髪をした女性は、このお墓に祈りを捧げているらしい。見れば花も手向けてある。彼女が供えたのだろう。

「プーリアの村の人たちが作ってくれたようです。十年前、ここで盗賊に殺された子どもたちのために」

 祈りを捧げていた女性が立ち上がり、そう説明してくれた。どうやら兄弟たちの屍は葬ってもらえたらしい。そのことは素直に良かったと思えた。

 イストは道具袋から「魔法瓶」を取り出し、中の琥珀色の液体をそのお墓に注ぐ。辺りには芳醇な香りがたちこめた。本来であれば隣の女性のように花でも手向けるのが良いのだろうが、生憎と性に合わなかった。

 しばしの間、目を閉じ黙祷を捧げる。これで悪夢を含めたその他諸々の問題が解決するなどと期待しているはではないが、それでも一つの区切りにはなるだろう。いや、区切りにするためにここに来たのだ。

 閉じていた目を開ける。当然のことだが、何も変わってなどいない。馬鹿なことしているなぁ、と思ったが、そう気楽に考えていられる自分に少し安心したりもする。

「失礼ですが、こことはどういった関係でしょうか」

 目を開けたことで内向きの用件は終わったと判断したらしく、隣の女性が話しかけてきた。

 女性の顔立ちは整っているといえるだろう。蜂蜜色の髪の毛に青い瞳の目は良く映えている。だが容姿以上に目を引くのは、右の目を隠すように伸ばされた髪の毛だった。眼帯でもしているのか、髪の毛の下から黒い帯が伸びている。

「十年前の生き残りだ」

 あの時は死体を見るのが怖くて逃げ出しちまったからようやく墓参りが出来た、とイストは少し茶化すように、しかし間違いなく自嘲気味にそういった。

「十年前の………!?あの、お名前は………?」
「イストだ」

 イストは名前だけを名乗り、姓は名乗らなかった。孤児院にいた子どもたちには姓がなかったからだ。孤児院を巣立つ日に姓名を贈っていたらしい。

「イスト!?本当にイストなの!?」

 女性はそれまでのポーカーフェイスを崩して満面の笑みを浮かべる。その変わり身の速さにイストは少し苦笑をもらす。

「わたし、オリヴィアよ」

 覚えてる?とオリヴィアと名乗った女性は心配そうな表情をしてイストを覗き込んだ。イストが十年前の記憶を引っ張り出すと、その名前はすぐに出てきた。

「ああ、覚えてる。蝶々の腕輪を持っていた………」

 そう言うとオリヴィアは嬉しそうに笑顔を浮かべ手を叩いた。そして右腕を掲げて、蝶があしらわれている腕輪を見せる。

「昔はデカくてはめられなかったのにな」
「十年よ。子どもが大人になるには十分な時間だと思わない?」

 まったくその通りだと、イストは思った。十年経てば子どもは大人になる。少なくとも体だけは。赤い悪夢を見る度に酒で紛らわしている自分は、果たして大人になれているのだろうか。

 一つの区切りをつけようとしてここに来た。この思いがけない再会は、きっとその“区切り”を思いがけない形にしてしまうのだろう。その予感は、小さな痛みを伴った。




******************






「じゃあ、イストはそのお師匠さんに助けられて………」
「ああ、そのまま弟子入りした」

 イストとオリヴィアは、盗賊に襲撃されたあの日から今日までのことを、それぞれ簡単に報告しあっていた。

「じゃあ、『ヴァーレ』の姓はお師匠さんの?」
「いや、師匠の姓は『ベルセリウス』だ。名前はオーヴァ・ベルセリウス」

 とはいえ「ヴァーレ」の姓名をイストに与えたのはオーヴァである。つまりオーヴァは自分の姓名を弟子に与えなかったわけだが、後にその理由を人から尋ねられたとき、彼はこう答えたという。

「そんな気色悪い」

 それでイストが深い心の傷を負ったかといえば、そんなことは全然ない。むしろ当然だと言わんばかりにこう言い返したという。

「クソジジイと同じ姓名なんてゾッとするね。それじゃあオレまで変人みたいじゃないか」

 ニーナがその場にいれば「師匠は十分変人です!」力一杯宣言してくれただろうが、生憎とこの時二人はまだ出会っていなかった。

「………仲がいいのね、二人とも」

 オリヴィアは呆れたように苦笑する。イストは肩をすくめ、「それはそうと」といって少々強引に話題をそらした。

「そっちはどうだったんだ?」
「わたしの方も似たようなものよ」

 強引に話をそらしたことには何も触れず、オリヴィアは自分のことを話し始めた。
 盗賊に襲われたあの日の晩、オリヴィアはイストと同じように逃げ延びた。そして、当時個人の行商人だったオルギン・ノームに助けられ、その後彼の養女となった。オルギンは今現在商人としてそこそこ成功したが、自分の店を持つことはまだせず行商のキャラバン隊を率いているという。

「じゃあ、プーリアにはオリーブオイルを仕入れに?」
「ええ、そうよ」

 なんでも収穫期のはじめごろはそもそも油の生産量がまだ少ないので、大きな商会は仕入れを始めておらず比較的簡単に仕入れが出来る穴場の時期なのだという。

「まあ、仕入れる量が違うせいもあるんだけどね」

 キャラバン隊を組んでいるとはいえ、行商人と商会では商いの規模に雲泥の差がある。行商人の軽いフットワークが今回は幸いしたといえるだろう。

「じゃあ、オリヴィアも村の宿泊施設を使っているのか」
「いいえ、わたしたちのキャラバンは村の外れにいるわ」

 オリーブオイルを仕入れるかたわら、露店も開いているらしい。村の中では露店を開くスペースが取れなかったため、村の外れにキャンプを張ったようだ。

「良かったら見に来て」

 そういって露店の宣伝をするオリヴィアの顔は間違いなく商人のそれで、彼女のこの十年を少しだけだが垣間見せていた。

「それで、右目はどうかしたのか」

 そういった瞬間、オリヴィアは目を見開いて言葉を詰まらせた。数瞬の沈黙の後、苦い笑みを浮かべて頭を振った。

「ひどい人ね。聞かれたくない、触れられたくないと分っているのに、見てみぬ振りをしない」
「いつ聞かれるのかと、怯えつづけるよりはいいだろう?」

 イストがそう言うと、オリヴィアは諦めたようにため息をついた。そして右目を隠している髪の毛を手でどけて、その下の肌をさらした。

「あの夜、逃げるときに、ちょっとね」

 オリヴィアの顔の、右目とその周りには火傷のあとが残っていた。黒い大きい眼帯をして隠してはいるが、隠し切れない火傷のあとが眼帯の下からのぞいている。恐らくだが、右目の眼球も失っているだろう。

「まあ、火傷をするような所にいたから逃げ切れた、て部分もあるんだけどね」

 髪の毛をどけていた手をおろし、火傷のあとを隠す。それからオリヴィアは、視線をそらすように俯いた。

「………醜い、と思う………?」

 しぼり出すような、聞きたくないけれど聞かずにはいられないような、そんな声だった。視線を合わせたくないのか、あるいは顔を見られたくないのか、オリヴィアは俯いたままだ。

「外面の美醜にそれほど興味はないさ」

 考え込む一瞬の間を惜しんで、イストはそういった。

「………少しは、あるんだ?」
「そこは否定しない」
「否定してよ。ひどい人ね」

 呆れたように苦笑しながら、オリヴィアは顔を上げた。左目の端に溜まっている涙は、見てみぬ振りをすべきなのだろう。

「でもまあ、疲れないかとは思う」
「………疲れる?」

 意味が良く分らなかったのか、オリヴィアは小首をかしげる。その様子キョトンとしたがやけに幼くて、イストは笑いを堪えるのに少しばかりの努力を要した。

「隠したら隠し続けなきゃだろ?疲れないか?」
「………疲れるわ………」

 オリヴィアは顔をそむけて目を伏せた。しかし俯きはしなかった。

「でもそれ以上に怖いのよ」

 この火傷を見た人の反応が怖い。向けられる視線が怖い。そしてなにより自分の顔を見るときが一番怖い。視線を逸らし何かにおびえるように、オリヴィアはそう言った。

 イストはただ「そっか」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。それ以上言うべき言葉は持ち合わせていなかったし、また言うべきではないと思ったのだ。これはオリヴィアの問題であり、ついさっき再会したばかりの人間が軽々しく何か言うべきではないだろう。まして薄っぺらな慰めの言葉で解決できるような問題とも思えない。

「………イストは、なにかある?」
「今でもあの夜の悪夢を見る。見たあとは二度寝もできないから、朝が来るまで酒を飲んで誤魔化してる」

 オリヴィアもまた「そう」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。会話が途切れ、風が木の葉を揺らす音だけが耳に届く。

 ふと、思う。
 心の傷と体の傷は、どちらが重いのだろうか。

 イストが見る悪夢は、心の傷に分類されるだろう。オリヴィアの火傷は言うまでもなく体の傷だ。同じ夜に負ったこの二つに傷は、さてどちらが重いのだろう。

(体の傷に決まってる………)

 オリヴィアは女性で、しかもその傷があるのは顔だ。あの火傷が原因で、心にまで傷を負っているのは想像に難くない。

 なら、より重症なのは間違いなくオリヴィアのほうだ。
 ここまで考えて、ふと自分の思考に疑問がわく。

(なんでこんなこと考えるのかねぇ………)

 傷の程度など、比べてもしょうがないというのに。自分のほうが軽傷なんだから頑張らなくちゃ、とか自分より重傷でかわいそう、とかそんなふうに考えたいのだろうか。そんなふうにして自分を慰めたいのだろうか。

(ゾッとするね)

 本当にゾッとする。虫唾が走る、というやつだ。人が苦しんでいる傷の大小を比べて喜ぶだの不幸自慢をするだの、それは本当に下種な考え方だ。そんな思考はさっさと放棄するに限る。

「ところで、イストがプーリアに来たのはお墓参りだけが目的?」

 イストの脳内葛藤が一段落着いた頃、見計らったわけではないだろうがオリヴィアが話しかけてきた。見た限りの様子は、平静に戻っている。

「ああ、オレは別に行商をしているわけじゃないからな」

 今年の生産が始まったオリーブオイルを求めてプーリアの村に来たわけではない。孤児院の跡、つまりここに足を運んでいろいろと区切りをつけることだけが目的だった。油を買うにしても、個人で使う分量だけだろう。

「じゃあ今後の予定は?どこに行くとか、もう決めてあるの?」
「いや、特に何も」

 強いて言えばさらに西に行こうかと思っているが、明日になれば気分が変わっているかもしれない。また頭の別の部分では、大きな商会の仕入れが始まって騒がしくなるまで、この村にいるのもいいかもしれないなどとも思っている。
 つまりまったくの白紙状態、無計画な有様である。

「だったら、ウチのキャラバン隊の護衛をしない?」

 魔導士ライセンスはもってるんでしょ?とオリヴィアはイストの顔を覗き込んだ。
 聞くところによると、彼女らのキャラバン隊はこれから北西に進路をとるらしいのだが、北西の方角に進めばその先にあるのはアルテンシア半島である。これから十字軍遠征によって戦場になる半島に首を突っ込む気はさらさらないが、それにしても遠征の思わぬ影響でキャラバン隊に物騒な来客があるかもしれない。そこでできれば護衛を雇いたいと、オリヴィアの養父オルギンは考えているらしい。

「進路を東に修正すればいいだけじゃないのか?」
「混乱の中にこそ商機はあるものよ」

 大切なのはどこまで大丈夫なのかを見極めることよ、とオリヴィアは商人の顔で力説した。アバサ・ロットとして似たようなことを考えることもあるイストは、特に反論もできず肩をすくめるしかない。

「………それに、せっかく十年ぶりに再会したのにここでお別れなんて、寂しいわ」

 オリヴィアの目が少し潤む。

「………考えとくよ」

 肩をすくめたイストがそういうと、オリヴィアは「そう、ありがとう」言って、と断られる可能性をまったく考えていない笑顔を向けた。

「わたしはそろそろ行くけど、イストはどうするの?」
「もう少し黄昏ていく」
「………似合わないわよ?」
「知ってるよ」

 後でキャラバン隊に顔を出してね、と言ってからオリヴィアは孤児院の焼け跡をあとにした。それを見送ってから、イストは「無煙」を取り出し、雁首を取り外してカートリッジを交換してから口にくわえた。

 フウ、と白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す。

「それで?何のようだ?」

 誰にともなく、独り言のようにイストは呟いた。しかし反応があった。ガサガサと茂みゆれ、そこから出てきたのは………。

「我に気づいていたとは流石だにゃ。なんで分ったのかにゃ?」
「………お、おお、おおお」
「どうかしたかにゃ?」
「その渋い声と猫語尾のギャップが………」
「………猫が喋ったことに関しては驚いていないんだにゃ………」

 茂みを揺らして、その奥から現れたのは一匹の黒猫であった。全身の毛は黒だが、瞳の色は青だった。

「どうせ魔道具か何かだろう?その程度のことでいちいち驚いていられるか」

 イストが「無煙」を吹かしながらそういうと、黒猫は「フム」と頷いてからチョコンと座り込んだ。前足で顔を洗うその仕草は、どこからどう見ても本物の猫だ。

「で、話を戻すがなんで我に気づいたにゃ?」
「そりゃ、あれだけ魔力を放出してればイヤでも気づくさ」

 オリヴィアに名前を名乗った辺りから濃い魔力を感じてはいた。ただ、何もする気がなさそうだったので放って置いたのだが、まさかこんな珍客がいたとは。

「フム。当代のアバサ・ロットもなかなかやるようだにゃ」
「へえ、オレがアバサ・ロットだって知ってるのか」

 イストの目がスッと細くなり、警戒を示した。だが相変わらず「無煙」を吹かしているその口元には、面白がるような笑みが浮かんでいる。

「簡単な話しだにゃ。その腕輪『狭間の庵』を持っていれば、だいたいの想像は付くにゃ」
「コイツのことまで知ってるのか。とすると黒猫さんを作ったのは、歴代の誰かってことか?」

 イストが右腕につけた腕輪、「狭間の庵」を擦る。顔を洗い終わったのか、黒猫は前足をそろえてきちんと座った。その背中の後ろで、黒いシッポがゆらゆらと揺れている。

「改めて自己紹介をしておくにゃ。我の名はヴァイス。アバサ・ロットの名を継いだ魔道具職人、セシリアナ・ロックウェルの作り上げし魔道人形だにゃ」

 セシリアナ・ロックウェル。その名前は「狭間の庵」の二階に保管されている資料の中で見たことがある。たしか二〇〇年ほど昔の人物だったはずだ。しかし黒猫に「白(ヴァイス)」と名付け、あの渋い声と可愛らしい猫語尾のギャップである。どうやら彼女もアバサ・ロットの名にふさわしく性格のねじくれた変人だったようだ。

「ご丁寧にどーも。で、オレに何の用だ?」
「………オリヴィアを、なんとかして欲しいんだにゃ」

 ヴァイスと名乗った黒猫、もとい魔道人形は単刀直入にそういった。物事を婉曲的に伝える頭脳が無いのかもしれないが。

「なんでオリヴィアが出てくるんだ?」
「あの子が今のマスターだにゃ。マスターのために何か出来ることがあれば、したいと思うのが魔道人形の性にゃ」

 魔道人形に嘘をつかせることができるのかという技術的な問題はさておくとしても、イストはヴァイスの言葉から嘘は感じなかった。しかしイストが聞きたいのはそういうことではないのだ。

「じゃあ、なんでオリヴィアをマスターに選んだんだ?」
「………あの子は、セシリーに似ているにゃ」

 セシリー、というのはセシリアナ・ロックウェルの愛称だろう。「似ている」と呟いた黒猫の目は今この時間ではない、別のどこかを見ている。

(寂しかった………とか?)

 ヴァイスの製作者であるセシリアナ・ロックウェルがアバサ・ロットとして活動していたのは、保管されている資料の記された年号から計算して、およそ二〇〇年前である。この黒猫がいつ彼女の手から離れて行動をするようになったかは分らないが、それでも一五〇年以上は確実に経っているはずである。

 その間にヴァイスが何人のマスターを持ったのか、イストにそれを知る術はない。しかしその時間の中で、あるいは製作者でありまた最初のマスターであったはずのセシリアナを懐かしく思ったのではないか。

 目の前の黒猫さんは否定するかもしれない。だがイストは魔道具職人としてそう思いたがっている自分がいることを自覚した。

「『なんとかして欲しい』っていうのは顔の火傷のことか?」

 心のうちの想像はひとまず脇においておくとして、イストは話を進めることにした。オリヴィアのことで「なんとかして欲しい」というのであれば、顔の傷以外には見当がつかない。

「隠すことはできても、治すことはできないぞ」

 イストは魔道具職人である。火傷の傷跡を隠して気づかせないようにする、綺麗な素肌のように見せかける魔道具なら作れるだろう。しかし火傷を治療し、隠す必要そのものをなくすことはできない。それは医者の領分だ。

「で、隠すだけなら今と同じだ。意味が無いとは言わないが、『なんとかした』ってことにはならないんじゃないのか?」

 どれだけ精巧に隠してみても、それは決して治ったわけではない。隠したからには隠し続けなければならず、そしてオリヴィアは怯え続けるだろう。「醜い素顔が露になりはしないだろうか」と。

「ヒトの心の機微は我には分らないにゃ………。でもあの子は時々とても辛そうな顔をするんだにゃ」
 そんな顔は見たくないにゃ、とヴァイスは言った。

(それはとてもヒトらしい心の機微だと思うがね………)

 堪え切れなかった微笑を、イストは「無煙」を吸う事で誤魔化した。

「まあいい。やるだけやってみるさ」
「恩に着るにゃ」

 そういって黒猫の魔道人形は頭を下げた。そういう仕草はどうにも人間臭い。

「しっかし、良くできてるな」

 それはイストにとって魔道具職人としての最大級の賛辞だった。今の時代、イストは間違いなく最高レベルの魔道具職人である。そのイストの目から見ても、セシリアナの技術はすさまじいものがある。

「『持てる全ての技術を詰め込んだ』。セシリーはそう言っていたにゃ」
「じゃあ彼女の最高傑作だったわけだ」
「我もそう言ったことがあるにゃ。そうしたら………」

 そうしたら、セシリアナはこう言ったという。

『勝手自由に動き回って、あまつさえ口ごたえまでする。そんなのが最高傑作のわけがないでしょ。失敗作もいいところだわ』

 その、あまりにも“アバサ・ロット的”な物言いにイストは思わず噴き出した。脈々と続く変人の系譜、その一端を見た気がする。

「失敗作が勝手気ままに出歩いているのはいいのか?」
「それも聞いたことがあるにゃ」

 黒猫さんによればその時セシリアナは片目をつぶり、実に楽しそうにこう言ったという。

『厳重に猫被せといたから大丈夫よ』




[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:48
イストとの話が終わると、黒猫型の魔道人形ヴァイスは再び茂みの中に消えていった。マスターであるオリヴィアの元に戻るのだろうが、人間用の道を通るよりも獣道を用いたほうが、彼にとっては便利なのかもしれない。

「そういうところは流石猫だな」

 どうにも人間臭い話をする黒猫の背中を見送ったイストは、「無煙」を吹かしながらそう呟いた。

 一人になったイストは、焼け落ちた孤児院跡の廃墟をもう一度見上げる。反射的に脳裏に浮かび上がってくる記憶は、どうしてもあの夜のこと、悪夢のことだ。たが探せば確かに楽しい記憶もある。

 視線を下におろすと、プーリアの人々が作ってくれたというお墓が目に入る。そのお墓の前に供えられた花束とそれを持ってきた一人の女性。死んだはずだと思っていたもう一人の生き残り、オリヴィア。

 幼馴染と呼ぶには一緒にいた時間があまりにも短く感じるが、それでも同じ孤児院で一緒に暮らした家族だ。力になれる範囲なら、力になりたいとは思う。

「ま、やるだけやってみるさ」

 墓の下で眠る、十年前からもはや年をとることもない兄弟たちにそう告げる。生き残った、生き残ってしまった理由、「自分ならできる事」とやらがあるのなら、それをやってみるのもいいだろう。

 目をつぶる。意識の中に浮かぶのは、小さな兄弟の亡骸だ。その亡骸の脇にそっと膝をつき、開けっ放しになっている目蓋を閉じてやる。心なしか、穏やかな顔になった気がする。

 目を開けて、イストは苦笑した。全ては妄想だ。何も変わらない。何も起こらない。誰も救われもしない。

「まあいいさ。それでも一つの区切りだ」

 孤児院跡に背を向け、イストは歩き出す。一度立ち止まって振り返り、「また来るかな」と小さく呟いてから再び歩き出す。もう立ち止まることも振り返ることもしなかった。

 プーリアの村に戻ったイストは、そのままキャラバン隊のところへ行くことはせず、一度村の宿泊施設によってニーナとジルドの二人に今後の進路について相談した。

「ワシはそれでかまわぬ」
「わたしも大丈夫です」

 キャラバン隊の護衛の件を話すと、二人とも二つ返事で了承してくれた。そもそもニーナは弟子だしジルドは一緒に来ること自体が目的だから、イストの独断で決めてしまってもいいのだ。だが事前に一言相談しておくのが、一緒に旅をする仲間への礼儀というものだろう。

「でも師匠、わたし、戦えないんですけど………」
「大丈夫。もともと戦力には入れてないから。よかったな?無駄飯食い」

 心配そうにおずおずと手を上げたニーナを、イストはバッサリと切り捨てた。「無駄飯食い」と言われ頬を引きつらせるニーナの肩にジルドが手を置く。

「キャラバン隊なら雑用の仕事が多いだろう。そちらを手伝えば良いさ」
「そういうこと。ちゃんと仕事しろよ?じゃないと本当に無駄飯食いになるからな」

 最初からそういってくださいよぉ、と恨めしげに睨んでくる弟子を、恐らくは意図的に無視してイストは立ち上がった。キャラバン隊の隊長のところへ行って話を付けてくるという。

「うむ、承知した。ところで、夕食はどうする?」

 そういえばもうそんな時間である。

「あ~、適当に食べてくるわ。おっさん達も各自で食べてくれ」

 そう言ってからイストは宿泊施設を後にして、村はずれにいくつか露店を開いているキャラバン隊を目指した。キャラバン隊の規模は決して小さくない。日も暮れかかっているこの時間、露店はすべて閉じている。食事で村へ繰り出しているのか、人影も閑散としている。

「隊長さんいる?」

 煙管(こちらは本物だ)を吹かしていたキャラバン隊の隊員にそう聞くと、煙管で一台の馬車のほうを示し、「あっちにいる」と教えてくれた。軽く礼を言ってから、教えてもらった方向に歩いていく。馬車の裏側をのぞくと、一人の男が煌々と輝く「マグマ石」の前に座っていた。どうやらお茶を入れているらしい。

「あんたが隊長のオルギンさん?」
「そうだが、あんたは?」
「イスト・ヴァーレという。オリヴィアから護衛を探してるって聞いてな」

 そう言うとオルギンの顔に笑みが浮かんだ。厳しい面構えのわりにそうやって笑うと妙に愛嬌のある男だった。

「おお、オリヴィアが言っておった男か」

 どうやらオリヴィアが先に話をしておいてくれたららしい。オルギンは紅茶をもう一人分用意すると、イストに座るよう進めた。

「ふむ。では人数は三人だが戦えるのは二人、ということか」
「ああ、オレの本職は魔道具職人だからな」

 荒事にも人並み以上に対処してみせる自信はあるがそれはあくまでも“オマケ”だ、とイストは言った。

「その二人で、どのくらい戦える?」

 顎を左手で撫でながら、オルギンはそう尋ねた。やはり戦力を期待して雇う側としては、どれだけ実力があるか知りたいのだろう。

「一緒に旅をするようになってからまだ日が浅いからな………。ああ、でも二人で地竜の相手をしたことはあるぞ」
「地竜をか!?」

 地竜。正式名称リザイアントオオトカゲ。牛ほどの巨躯と鋭い牙そして爪を持つ、獰猛な肉食獣だ。その体は硬いうろこで三重に覆われ、普通の刃物では傷つけることさえできない。食物連鎖の頂点に君臨する、人間など意にもかえさぬ野獣である。

 仮に討伐するとしたら魔導士が最低でも三人、可能ならば五人以上で、と言われている凶暴な野獣をたった二人で相手にしたと聞いてオルギンは驚いた。その驚き方から察するに、彼は地竜について知っているだけでなく、もしかしたら実際に遭遇したことがあるのかもしれない。

「倒したのか!?」
「いや、尻尾ぶった切って追い払っただけ。しかもオレは牽制してただけで、ほとんどはジルドのおっさん、連れがやってくれたんだけどな」

 そういってイストは謙遜して見せたが、実際これは凄いことである。討伐には魔導士が最低でも三人必要といわれている地竜を二人で撃退したこと。そして地竜相手に牽制をし続けられたこと。これならば十分に必要な戦力を満たしてくれると、オルギンは判断した。

「ではあなた方に護衛の仕事を依頼したい。あとの一人は雑用を手伝ってもらうことになるが、それでいいか?」

 もとよりこちらが頼もうと思っていたことだ。尋ねるオルギンにイストは二つ返事で了承をかえした。

 護衛は二人だけでいいのか、と聞いたら、オルギン曰く「俺たちだって戦えないわけじゃない。ただ先頭を切ってくれる精鋭が欲しいだけだ」とのこと。

 次に二人は報酬の話に移る。

「まず聞きたいんだけど、三食はちゃんと付くよな?」

 イストの言葉にオルギンは頷いて肯定を示した。こういった商隊の護衛など、数日にわたってまるまる拘束されるような仕事の場合、食事は雇い主の側が用意するのが普通だ。その分が報酬からきっちり引かれている場合も少なくないが。

「じゃあ、オレと弟子は食事だけでいいや」

 あっさりとそういわれ、オルギンのほうが目を丸くした。これは「タダ働きでもいい」と言っているのと同じで、商人であるオルギンからすれば非常識紀極まりない申し出であろう。

「いや、しかしな………」
「いいって。どうせ本職じゃないんだから」

 イストは軽くそういった。オルギンは喜ぶかと思えば渋い顔をしている。きっと「労働には報酬を」という商人たちの大原則に反するのが嫌なのだろう。儲け優先かと思えば、なかなか誠実な商人である。

 もっともイストの側にもちゃんと理由はある。ニーナはもともと戦力外で雑用しかできないのだから、彼女の報酬は食費でトントンであろう。そしてイストは「護衛の仕事」よりも、ヴァイスに頼まれた「オリヴィアをなんとかする」のほうがメインだ。有事に手を抜くつもりはないが、彼からしてみれば「護衛の仕事」はキャラバン隊について行くための方便の感が否めない。

「ただジルドのおっさんはコッチが本職だからな。正規の報酬を払ってやってくれ」
「………分った。少し色を付けさせてもらおう」

 固いねぇ、とイストは茶化した。しかし商人は少し固いくらいが信用できるというのがイストの持論である。はじめて魔道具を店(もちろん非合法だが)に売りにいったときには、業突く張りな店主に安く買い叩かれたものである。もっともその店は後でオーヴァに潰されたらしいが。

(この人は信頼できるかな)

 少なくとも商人としては。イストは内心でそう評価を下した。

「ところで、夕飯はもう食べたか?」

 仕事の話が一段落着いた頃、オルギンはそう切り出した。イストが「まだだ」と答えると、どこに用意してあったのかサンドイッチや簡単なつまみが盛り付けられた大皿もって来た。

「随分と用意がいいな」
「需要を見越して品を仕入れるのが、いい商人の条件だからな」

 大皿にはどう見ても一人分には多すぎる量の料理が盛り付けられている。恐らくオルギンはオリヴィアからイストのことを聞いた後、夕方に彼が来ることを見越して買っておいたのだろう。
 オルギンはさらに酒瓶取り出し、杯を二つ用意した。

「一杯、付き合ってくれないか」
「喜んで」

**********

 大皿に盛られたサンドイッチとおつまみが半分ほどなくなった頃、オルギンは唐突にその話を切り出した。

「イスト、オリヴィアを嫁にもらってくれないか」
「ん?いいよ」

 至極あっさりと返され、オルギンのほうが焦った。焦りすぎて言葉が上手く出てこないのか、口をパクパクさせている。その様子をイストは“してやったり”の意地の悪い笑顔を浮かべて眺めていた。

「………な、ならぁん!!」
「どっちだよ」

 とても焦った様子で思わず立ち上がってしまったオルギンに、イストはニヤニヤと意地の悪い笑みを向ける。からかおうとして逆にからかわれてしまった事にようやく気がついたオルギンは、額の冷や汗を拭いながら腰を下ろした。

「花嫁衣裳は、やっぱ白かな」
「まだ言うか」

 自らまいた種とはいえ、その場面を想像してしまったオルギンは慌ててそれを頭の外にたたき出す。まったく心臓に悪い絵面だ。酔いが醒めてしまったではないか。

「まあ、冗談はさておき、だ」

 一つ咳払いをして話をそらす。イストが「おや、冗談だったのか」などと茶化してくるが断固無視する。

「俺はな、オリヴィアには幸せになってほしいんだ」
「まあ、その意見に反対する理由はないわな」

 嫁ネタでそれ以上オルギンをからかうことはせず、イストは杯を傾けながらそう言った。

「けどまあ、だったらオレとはくっつけない方がいいと思うよ。オレと一緒にいたら忘れられないだろうし、色々と思い出してしまうだろうからな」

 何を、についてイストははっきりとは言わなかったが、それでもオルギンには十分伝わったようだ。苦い顔をして、杯を両手で握り締めている。

「………少し、昔話に付き合ってくれないか」

 イストが「いいよ」と答えると、オルギンはぽつぽつと思い出すように話し始めた。

「個人で行商なんてやっているヤツは、ほとんどが将来自分の店を持つことを夢見ている」

 かく言うオルギンもそんな大多数の一人であったという。だが現実問題として自分の店を持つには先立つものがいる。言うまでもなく“資金”だ。

 土地や建物を買うにしろ借りるにしろ、まとまった額のお金が必要になることは想像に難くない。その上、商品を仕入れるための元手や、商売を始めるあたり必要になる税金等々など。商売に関してはまったくの素人であるイストは具体的な金額など思い浮かばないが、それでも個人で用意するにはなかなか大変な額であろう。

「あの頃の俺は、文字通り金稼ぎに必死になっていた」

 仕入れはなるべく安く。そして売るときはできるだけ高く。詐欺まがいのことをやったこともあるし、魔道具の抜け荷や密貿易、禁制品に手を出したこともあるという。

「頭の中は金勘定のことばかりでなぁ。どうやったら上手く稼げるか、そんなことばかり考えていた」

 そんな時、まだ新しい戦場跡に出くわしたという。当然のことながら、そこには死体と一緒に剣や槍、甲冑などが転がっていた。

「正直な話、金が転がっているようにしか見えなかった」

 夢中になって、拾ったという。なるべく質のいいものを選ぼうとして戦場をさまよった。兵士の死体が握り締めている武器を奪ったり、鎧を脱がしたりするようになるまでそう時間はかからなかった。

「あの時、俺はどんな顔をしていたんだろうな」

 そうやって集めた武器や甲冑は少し離れた街で売りさばき、結構な額の利益を出せたという。なにしろ元手はタダだ。売却益はまるまる収入となる。

「そりゃ嬉しかったさ。もう一回戦場跡に戻って集めてこようと思ったくらいだ」

 その矢先、葬儀の行列に出合った。聞く話によると、その若者は戦場での傷が元で亡くなったのだという。

「そうしたら、途端に怖くなってなぁ」

 自分が鎧を脱がせ武器を奪った兵士の中には、もしかしたらまだ生きていて助かった人がいるかもしれない。自分が夢中になって武器を拾っているその横で、呻き声を上げ助けてくれと叫んでいる人がいたかもしれない。

 あの戦場跡で自分は金を拾う代わりに何を捨ててきたのだろうか、と。そう考えたら、途端に怖くなったという。手に入れたお金がまるで呪われているかのように感じて、一晩で散財しつくした。

「やめようと思った」
 商人を。

 そんな頃だったという。オリヴィアと出会ったのは。

「最初は適当な人か施設に預けるつもりだったんだけど、妙に懐かれてな」

 結局、二人で旅をすることになった。当然、生活費も二人分必要になる。オルギンはその二人分の生活費を稼ぐために行商を続けた。

 二人が生活できて赤字にならなければいい。そう考えるようになったオルギンは、利ザヤが少なくてもリスクの低い商品を主に扱うようになった。仕入れのときも無理な値切りはせず、売るときも相手の足元を見るようなまねは止めた。金にならないと分っていても、何か頼まれれば出来る範囲で手を貸したしたりもした。

「そうしたら不思議と縁ができてな………」

 人との縁が。そしてせっかくできた縁を壊さないように、つまり信頼には信頼で返すようにしていたら、色々な人たちが少しずつ割のいい儲け話を持ってきてくれるようになったり、便宜を図ってくれるようになったりした。

「一度夢を捨てようと思った男が、今じゃキャラバン隊の隊長だ」

 穏やかに、しかし確固とした自負と自信をこめてオルギンは言った。それから長話で乾いた喉を潤すように杯に口をつけて煽った。

「大仰な言い方だが、ここまでこられたのはオリヴィアのおかげだと思っている」

 だからって言うのも変だがあの子には幸せになって欲しいし、してやりたいと思っている。そう言ってから、照れくさかったのかオルギンはもう一度杯を煽った。

「一つ聞いて良いか?」
「なんだ?」
「あんた、本当はもう自分の店を持つくらいのことは出来るんじゃないのか」

 イストがそういうと、杯を傾けていたオルギンの手がピタリと止まった。
 自分の店を持つのが夢だ、と先ほどオルギンは言っていた。商売関係のことはイストにはよく分らないが、これだけのキャラバン隊を率いているのだ。小さな店の一つぐらい、簡単に始められそうな気がした。

「………そうだな。伝手を頼れば店の一つくらい任せてもらえるだろう」

 実際過去にそういう話は何度かあったと言う。しかしオルギンはその話を断り、今も“行商人”を続けている。

「………なあイスト、お前さんはなんで旅を続けている?」

 唐突に、オルギンはそんなことを聞いてきた。

「そうだな………。改めて聞かれると難しいが、あえて言うなら『面白いものを見たいから』かな」

 アバサ・ロットだから、とか、一所に留まると自分の作る魔道具関連で厄介事が起きそうだから、とか色々とそれらしい理由はあるが、それが一番“イスト・ヴァーレらしい”理由だと思った。

「そうか。これは俺の勘でしかないが、恐らくオリヴィアはどこかに定住することを怖がっている」
「………それは、顔の火傷が原因?」
「………」

 オルギンは何も言わなかったが、その沈黙がなによりの肯定だった。そしてオルギンが自分の店を持たない理由、それは「オリヴィアが旅を望んでいるから」なのだろう。

「いい人だなぁ、あんた」

 なかば呆れ気味にイストはそういった。娘とはいえ血のつながっていないオリヴィアのために自分の夢を後回しにするとは。

「まあ俺のことはどうでもいい」
 問題はオリヴィアが旅を望んでいる理由だ、とオルギンは言った。

「お前さんみたいに少なくとも前向きな理由であれば俺も心配なんてしない。だけどあの子の理由は後ろ向きだ。いわば『逃げるため』に旅をしている」

 いつか追いつかれて潰されやしないかと心配なんだよ、とオルギンは杯を両手で包むようにして持ち眉間にシワを寄せながら言った。

「何とかしてやってくれないか」
「………十年間一緒にいたあんたに出来なかったことを、オレにやれと?」

 オルギンは何も言わなかった。無理なことを頼んでいるという自覚はあったのだろう。

「あの火傷のあとはもう治らない。だったら受け入れるしかない」
「その意見にはオレも賛成」

 それは正論で唯一の正解だろう。そうだ、正解など、たどり着くべき地点などもうすでに分っている。しかしそのことを気楽に指摘できるのは、結局のところイストやオルギンが他人だからだ。

「簡単に受け入れられるなら、そもそもあんなに苦しみはしない、か………」

 夜空を見上げ、呟くようにしてオルギンはそう言った。彼とて分かっている。オリヴィアがどんな答えを出すにしろ、その答えは彼女の中にしかない。ここで野郎二人が酒を飲みながら相談したところで、何にもなりはしないのだ。

 ふう、とオルギンは息を吐いた。それで気分を入れ替える。

「ところでイスト。お前さん、魔道具職人なんだよな?」
「流れの、だけどな」
「なにか売ってくれないか」

 魔道具を、ということだろう。すっかり商人の目になったオルギンに苦笑しながら、一つの魔道具を取り出した。手のひらサイズの筒型の魔道具「鷹の目(ホーク・アイ)」だ。イストはそれをオルギンに向かって放り投げる。

「望遠鏡の魔道具だな。懐かしくて久しぶりに作ってみたんだ」

 受け取った「鷹の目(ホーク・アイ)」を覗き込むオルギンが「ほう」ともらしているところを見ると、なかなかの好印象のようだ。

「それなら規制にも引っかからないだろう?」

 魔道具の商取引には様々な規制が付きまとう。特に武器などの魔道具はその規制が著しく厳しいが、その一方で危険性のないものは一般の商品と指して変わらない扱いだ。

「幾らだ?」
「タダ」

 気に入った相手にはタダで、って言うのがオレの流儀なんだ。そうイストが言うと、オルギンは商人の顔を崩して苦笑した。

「まるでアバサ・ロットみたいなことを言うんだな」
「本人だったらどうする?」

 意地悪な笑みを浮かべるイストに対して、オルギンは大真面目な顔でこう言った。

「専売契約を結ぶ」
「………あんたやっぱり骨の髄まで商人だよ」

 イストは呆れ気味にそう言って、杯を煽るのだった。





[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:50
クロノワは帝都ケーヒンスブルグを掌握した。掌握、と言ってもクロノワ本人の言葉を借りるならば、

「主のいない家に上がりこんだようなもの」

 であって、そこに至るまでの過程において混乱はほとんどなかった、と言っていい。宮殿が焼け落ちたあの火事は大きな混乱ではなかったのか、と言われればまさにその通りなのだが、つまり皇后に与する派の政治的な抵抗がなかった、と言う意味である。

「まあ、あるはずがないですけどね」

 そう、そのような抵抗などあるはずがない。なぜなら皇后はクロノワ自身の手によって切り捨てられているのだから。正式な葬儀は行われなかったが、彼女の死にざまとその遺体が埋葬されたことは帝都においては周知の事実であった。皇后が派閥のようなものを作っていたのか、それは分らないが盟主が死んだのだ、もしあったとしても瓦解するのにそう時間はかからないだろう。抵抗がなかったところを見ると、すでに瓦解しているのかもしれないが。

 火事に関連して重要な書類も灰となりそれに伴う混乱は収束しておらず、また収束にはかなりの時間がかかると予測されているが、それはこの際別勘定だろう。

「ひとまずは安泰、と言ったところでしょうか」

 この“ひとまず”が取れるか取れないか、それが目下最大の問題であろう。現在のアルジャーク帝国における権力争いの構造は極めて単純である。つまりクロノワ対レヴィナスの構図である。

 これは「第一皇子対第二皇子」、あるいは「正室の子ども対妾の子ども」などと言い換えることができる。なんともありきたりで安っぽい構図だとクロノワとしては苦笑するしかない。

「まったく、どこの三流小説でしょうね」

 対立の構図が単純である以上、やることも単純である。つまりレヴィナスを討つべく軍を進める、ただこの一点に尽きる。だがクロノワとその隷下にある十五万の軍勢は帝都ケーヒンスブルグで足止めをくっていた。理由は兵糧が足りなくなってきたからだ。

 カレナリアのベネティアナ、モントルム南端のブレンス砦、総督府のあるオルクス、モントルム北端のダーヴェス砦、そしてアルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグ。これがクロノワたちの通ってきた道筋である。

 南方遠征のために集められた物資のほとんどは輸送に船を使おうと考えていたため、そのための拠点である独立都市ヴェンツブルグに集まっている。少しずつ補給は受けてきたのだが、ヴェンツブルグに寄ることをしなかったため、ここに来て兵糧が底を突きはじめたのだ。

「兵糧が足りないまま動くのは下策もいいところです。ここは待ちの一手ですな」

 アールヴェルツェに言われるまでもなく、そんなことはクロノワも重々承知している。それにベネティアナからケーヒンスブルグまで、かなり急いで行軍してきたのだ。激しい戦闘はなかったとはいえ、兵士たちも疲れが溜まっている。補給物資が届くまでの時間は、良い休息になるだろう。

 しかし、下が休んでも上は休めないのは、巨大組織の宿命なのだろうか。焼け落ちた宮殿の変わりに大本営を置くべく丸ごと借り切った高級ホテルの一室に用意されたクロノワの執務室、その机の上に書類が次々と積み上げられていくのを見てクロノワは頬を引きつらせた。

(ストラトスが仕事をサボりたがる理由が分る気がしますね………)

 軍が動いていようが帝位継承争いの真っ只中だろうが、人々は変わらず日々の暮らしを営んでいるのだ。そしてそのためには国家と言う組織を回転させねばならない。問題が起こらずとも、日々仕事は発生する。加えて今は非常事態だ。仕事の量が増えていることは想像に難くなく、その仕事が決済できる人間すなわちクロノワのところに集まるのは至極当然のことだろう。

 こうしてクロノワが仕事に忙殺されている間、兵士たちのほとんどは休息していたわけであるが、それでも全員が、と言うわけではなかった。クロノワは配下の将軍であるイトラ・ヨクテエルに騎兵ばかり千ほど預けると、オムージュ領との境にあるリガ砦の様子を見に行かせた。もちろんリガ砦の旗色がまだ決まっていなければ、味方に引き込みたいという思惑がある。ちなみに彼の同僚であるレイシェル・クルーディはクロノワから書類仕事を押し付けられ、今は執務室にこもっている。

「駄目でした。リガ砦はレヴィナス殿下の側です」

 戻ってきたイトラは簡潔にそう報告した。それを聞いてクロノワの執務室に集まった幕僚たちの表情が固くなる。

「さすがはアレクセイ・ガントール、手回しが早い」

 軍務大臣ローデリッヒはレヴィナスではなくアルジャークの至宝と呼ばれる将軍の名前を挙げて、その素早い動きを褒めた。クロノワも彼の意見に賛成だ。レヴィナスの元で軍勢を集め、そして実際に動かしているのはアレクセイ・ガントールその人であろう。

「どう動くと思いますか」
「恐らくは短期決戦。数が揃い次第、リガ砦を越えて真っ直ぐここ帝都ケーヒンスブルグを目指してくるかと」

 クロノワは視線だけでアールヴェルツェに続きを促した。つまりそう考える根拠を言え、ということだ。

「オムージュには、十万単位の軍勢を長期間養うだけの兵糧がありません」

 オムージュ領の土地は肥沃な穀倉地帯である。それゆえアルジャーク帝国に併合されてからは、当然のことながら食料庫としての役割を期待されている。そのオムージュに兵糧がないとはどういうことなのか。

「今回の南方遠征のために用意した兵糧のほとんどは、オムージュ領から調達したものです」

 つまりオムージュ領に備蓄されていた食糧はモントルム領に移動してきていることになる。しかし、それだけで備蓄が尽きるものだろうか。

「それだけではないでしょう」

 口を開いたのはクロノワだ。

「遠征が始まる前から、オムージュ領からは大量の穀物が流出していました」

 レヴィナスが建築計画を加速させるための資金源として放出したのだ。資金源としての売却と遠征、この二つが重なった結果、オムージュ領には大軍を長期間維持するだけの兵糧はない、とアールヴェルツェは判断したのだ。

「アレクセイ将軍がリガ砦を味方に引き込んだのは、我々がそこに籠もることを恐れてです」

 リガ砦にクロノワの軍勢が入って籠城の構えを見せれば、その攻略には時間がかかるだろう。そしてレヴィナスはその時間をもたせるだけの兵糧を確保できない。

「兄上がリガ砦に籠城する可能性は?」
「下策です。ありえません」

 兵糧が足りないのに籠城を選ぶ馬鹿はいないだろう。それにレヴィナスが足を止めるのならば、その間にクロノワは実効支配を開始して皇帝としての既成事実を作ることができる。少なくともアレクセイ将軍がそんな下策を打つとは考えられない。

「兵糧を求めてモントルム領を襲う、というのは?」
「………それはあり得ます。しかしその場合はすぐさま軍を南に差し向ければいいだけです」

 アールヴェルツェの言葉にクロノワは頷いた。どのみちレヴィナスが最終的に目指すのはここ帝都ケーヒンスブルグである。ならばクロノワには相手の動きを見てから判断するだけの余裕がある。相手が動いたときにそれをすぐに感知できるよう、偵察と関係各所の連絡を密にするようにとクロノワは指示を出した。

(それにしても………)

 ここまでの話の流れに、クロノワとしてはやはり違和感を覚える。それはこの場で初めて感じたものではなく、ここ最近ずっと感じているものだ。

「………陛下、どうかなさいましたか?」

 クロノワの顔色の変化に気づき、水を向けたのはローデリッヒだ。クロノワは話そうか数瞬迷ったが、この機会に話してみることにした。

「なんというか、『現状兄上を討つ必要があるのか?』と思いまして」

 これまでの出来事は、レヴィナスを皇帝にするためとはいえ全て皇后が行ったことである。皇后が帝都で謀略を張り巡らせている間、レヴィナスはと言えば遠くオムージュ領にいた。

 つまり、これまでの皇后の行動にレヴィナスは一切関係していない。であればレヴィナスを討つべき理由とは一体何なのであろうか。

 もちろんレヴィナスがクロノワを皇帝として認めるとは考えられず、であるならば一戦交えなければならないことは明白である。しかしそのことがあまりにも明白であるために、その前にすべき何かを忘れているような気がするのである。

「いずれ近いうちにこちらからお話しようとは思っておりましたが、ご自分でお気づきになられましたか。流石ですな」

 出来の良い生徒を褒める教師のような表情でローデリッヒは頷いた。

「確かに現状レヴィナス殿下を討伐すべき大義名分はございませぬ」

 皇后が皇帝の遺書、つまり最後の勅命を無視しようとしたことに関連して、レヴィナスが共謀していたという証拠(実際共謀などしていなかったのだが)はどこにもない。また血縁関係における連帯責任、という手は使えない。アルジャーク帝国の法は連座の罪を規定していないのだ。

 リガ砦はオムージュ総督領の管轄ではないから、そのリガ砦を味方に引き込んだことが反逆の証だと言えなくもないが、今回は難しいだろう。レヴィナス側の主張としては、

「帝都ケーヒンスブルグにおける混乱の物理的影響がオムージュ領に及ぶのを防ぐため、リガ砦を一時的にアレクセイ・ガンドールの指揮下に置く」

 というものである。彼らの主張する「混乱の物理的影響」というやつが具体的にどういったものなのか定かではないが、アレクセイ将軍に与えられている権限ならば、リガ砦を一時的に指揮下に置くことは十分に可能であろう。しかも彼の後ろには皇太子たるレヴィナスがいるのだ。

「一度使者を立てるべきでしょうな」

 クロノワを皇帝として認めるよう促す使者である。そしてローデリッヒはその使者として自分が赴くつもりだと言った。確かに使者として彼は適任であろう。クロノワが帝位につくその根拠はベルトロワの遺書であり、彼は実際にその遺書に署名をし、その内の一通を保管していたのだから。また軍務大臣という重職にある者がクロノワを皇帝として認めている、そのことを示すことにもなる。

「兄上が兵を挙げるまで待ちませんか?」

 しかしその案にクロノワは乗り気ではなかった。レヴィナスがクロノワの帝位継承を認めるとは思えない。ならばそれを促すための使者の末路はただ一つ、死あるのみ、である。ローデリッヒの首が送り返されてくるその時の様子を想像して、クロノワは小さく身震いをした。

 ならばレヴィナスの挙兵を待てばよいのではないか。一ヶ月もしないうちにレヴィナスは帝位奪還のための兵を挙げるだろう。そうなれば反逆というこの上ない大義名分を手にすることが出来る。それまで待てばよいのではないか。わざわざ死ぬと分っている使者を立てる必要はない。

「それでは陛下が帝位に関し、何かやましいところがある、と公言しているようなものです」

 そうなればレヴィナスの軍の士気は上がり、クロノワの軍の士気は下がるだろう。そうでなくとも事の最初に汚点をつければ、その後の治世に禍根を残すことになる。つまり「彼は正統な皇帝ではない」と口撃する余地を敵に与えてしまうのだ。

「臣下を思いやり大切にするのは良いことです。しかし国という怪物はときに血を求めます。しかも一人の血を渋れば千人の血もって贖うことになる場合さえあります。命の計算をしなければならない、それが皇帝の責にございます」

 穏やかに、教師が生徒を教えるようにしてローデリッヒは説いた。あるいはこれが最後の「講義」になると思っているのかもしれない。

「………戴冠式の際には、ローデリッヒ殿に冠を載せていただきたい」

 クロノワの申し出にローデリッヒは目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。新たな皇帝の頭に冠を載せる。その名誉は一介の臣下には分不相応なものだ。しかし己の命を捨ててまでクロノワの帝位の正当性を確立しようとしてくれるローデリッヒに対し、クロノワとしてはこれくらいしか出来ることが思い浮かばないのだ。

「それはそれは。是非とも生きて帰って来なければなりませんな」

 厳しい教師であるはずのローデリッヒがこの申し出を受け入れたのは、生きて帰ってくることはできないと分っていたからだろう。

 ローデリッヒ・イラニールはこの二日後、オムージュ領のベルーカへ、レヴィナスのもとへ使者として旅立った。

 結局、彼がケーヒンスブルグへ戻ってくることはなかった。その首が送り返されてくることさえなかったのだ。クロノワを皇帝として認めるようローデリッヒから進言され激怒したレヴィナスは、彼をその場で切り捨て、その遺体を犬に食わせたという。

**********

 ローデリッヒがベルーカへ旅立ってからおよそ二週間後、補給部隊がケーヒンスブルグに到着した。その中には補給部隊を率いていた女騎士グレイス・キーアや、補給に関して全体の計画を立てていたフィリオ・マルキスもいた。

「リリーゼ嬢はご実家においてきました」

 リリーゼはフィリオの部下として独立都市ヴェンツブルグで仕事をしていたが、フィリオやグレイスがケーヒンスブルグに向けて出立する際、同行することはさせず実家であるラクラシア家に残してきたという。

 総督府のストラトスから現在の状況について一通りの説明を受け、「ケーヒンスブルグに補給物資を運んで欲しい」と言われたとき、フィリオはすぐさまクロノワとレヴィナスが帝位を賭けて戦う未来を予感した。

 クロノワの側が勝つのであれば、なにも問題はない。しかし、もし負けたらどうなるだろうか。少なくとも、クロノワに味方した者たちに明るい未来はあるまい。

 フィリオやグレイスにはその未来を受け入れる覚悟があり、また立場的にももはや引き返せないところにいる。フィリオはクロノワの側近だし、グレイスは彼がまだ日陰者であった時分から彼の味方であった。この帝位継承の争いに加わらなくとも、レヴィナスは彼らのことを「クロノワの味方」と判断し、その判断に基づいて扱うだろう。

 しかしリリーゼは違う。彼女に覚悟がないと言わない。しかし立場的に見れば、彼女はまだ引き返せる場所にいる。総督府で働いていたとはいえ、その身分は「秘書見習い」であり雑用係とほとんど変わらない。レヴィナスにしてみれば完全に意識の外の存在であろう。

 ならばこの帝位争いから離れ「ラクラシア家令嬢」という立場でいれば、万が一のときにも彼女に火の粉が降りかかることはないだろう。

 リリーゼはかなり渋ったが、フィリオの決意は固かった。ラクラシア家の当主でありリリーゼの父親に当たるディグス・ラクラシアに協力してもらい、屋敷になかば軟禁する形でおいてきたという。

「過保護ですねぇ」

 そういってクロノワは側近であり友人でもあるフィリオのことをからかった。この友人が部下であるリリーゼを可愛がっていたことは知っていたが、今回の対応を見るにもしかしたらそれ以上の感情を持っているのかもしれない。

「ええ、大切な部下ですから」

 そういってフィリオはにっこりと笑い、クロノワによるそれ以上の追及を封じた。まったく、政治的腹芸をこんなところで使わなくてもいいだろうに。

 こうして友人をからかいストレスを発散するというクロノワのかなり自分勝手な計画は頓挫したわけであるが、そんなことはさておいてもこの時期にフィリオが帝都ケーヒンスブルグに来てくれたことはクロノワにとってかなり大きな助けになった。

 彼らが持ってきてくれた補給物資のおかげで、兵糧不足は解消された。もちろん一年二年と戦い続けることはできないが、少なくとも十五万の軍勢を維持したまま冬を越すことは可能だ。

 またフィリオ・マルキスという優秀な人材そのものもクロノワにとって助けとなった。彼がいるだけで仕事の能率が段違いである。

 忌々しき白き塔をあらかた駆逐し終えた頃、見計らったわけではないだろうがレヴィナスが動いた。レヴィナス率いる軍勢がリガ砦を越えたという報告がもたらされたのは、フィリオたちがケーヒンスブルグに到着したおよそ十日後のことである。その軍勢の規模は、目算ではあるがおよそ二十万規模であるという。




****************




「自分が何を言っているか、本当に分っているのか?」

 レヴィナスの冷たい声が、謁見の間に響いた。
 アルジャーク帝国オムージュ領旧王都ベルーカ。総督府が置かれた城の謁見の間にある玉座にはかつてはコルグスがオムージュ王として座っていたが、今は総督であるレヴィナスがそこに座っている。今、謁見の間には主だった面々が揃っているが、軍部を取り仕切っているはずのアレクセイの姿がない。大方、軍の組織が忙しく、そちらを優先するようレヴィナスから命令されているのだろう。

 この場には主役が二人いる。
 その一人は、皇太子レヴィナス・アルジャーク。
 もう一人は、軍務大臣ローデリッヒ・イラニール。帝都ケーヒンスブルグにいるクロノワからの使者である。

「もう一度聞くぞ、軍務大臣。お前は自分が何を言っているか、本当に分っているのか?」
「もちろんでございます。殿下」

 ローデリッヒがそう答えると、レヴィナスの視線がスッと鋭くなった。しかし彼はそれを臆することなく受け止める。

「寝言は寝て言え。なぜ皇太子たるこの私が、クロノワごときが父の後を継いで皇帝になることを認めねばならん」

 レヴィナスの声は不満と苛立ちで構成されていた。ローデリッヒが使者として来た時点で話の内容には予想がついていたはずだ。彼の不満と苛立ちが素のものなのか、それとも演技なのか、ローデリッヒとしては判断がしかねた。だがどちらにしても、面白く思っているはずはあるまい。

「それがベルトロワ陛下のご遺言にございます」
「遺書はお前たちによって捏造されたものであると母上が主張された。そのようなものを信じられるか」
「アールヴェルツェ将軍が、ベルトロワ陛下の御筆跡であると確認してくださいました」

 それを聞くとレヴィナスは「ふん」と馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「アールヴェルツェはもともと愚弟の配下だ。ヤツのためなら黒をも白というだろうよ」

 レヴィナスにしてみれば自分を後継者として認めない遺書になど用はない。彼にしてみればそんなものは存在していないのと同じだ。それに事がここに至れば、もはや遺書にも皇太子という称号にも価値はない。

「ようは私とクロノワ、どちらがより皇帝にふさわしいか、だ」

 大仰に両手を広げ、芝居がかった口調でレヴィナスはそういった。その台詞の裏には、「自分以上に皇帝にふさわしい人間などいない」という自負がありありと感じ取れる。しかしローデリッヒに言わせれば、それは根拠のない自己過信だ。

 レヴィナスが絶対の自信を持っているのは自分の美しい容姿であり、彼はそれをもって自分を皇帝に最もふさわしい人間だと思っているようだが、あいにくと皇帝の職責に容姿はほとんど関係ない。無論、人前に立つ仕事である以上見目麗しい容姿であることにこしたことはないが、不細工で醜悪な顔つきであってもいっこうに構わない。つまり“容姿”というパラメータの重要度はその程度のものでしかない。

「皇帝にふさわしいのはクロノワ様のほうです」

 ローデリッヒがそういうとレヴィナスの芝居がかった雰囲気が一気に消滅し、代わりに険悪な空気がその場を支配した。

「………お前の滑舌が悪いのか、それとも私が聞き間違えたのか。聞こえるはずのない名前が聞こえたのだが?」
「ならばもう一度はっきりと申し上げます。皇帝の座にふさわしいのはクロノワ様です。例えベルトロワ陛下の遺書がなくとも」

 重くのしかかるような空気の中、ローデリッヒは雰囲気に飲まれることなく己の意見をはっきりと言った。

「………聞き捨てならないな」

 もはや不機嫌さを隠すこともせず、レヴィナスはローデリッヒを睨みつけた。彼は石の玉座からゆっくりと立ち上がると、ローデリッヒのほうへ向けて歩を進めた。その左手には装飾過多な鞘に収められた剣が握られている。

 二人はおよそ二歩分の距離を開けて向かい合った。謁見の間に集まった者たちの視線がそこに集まる。誰かが息を呑む音がした。

「私が、この私があの愚弟に劣ると、お前はそう言いたいのか?」
「………個人の優劣は大きな問題ではありません」

 実際、レヴィナス個人は優秀な人間であろう。しかし賢帝になるか愚帝になるか、それを決めるのは個人の才能や能力ではない。それがベルトロワと言う皇帝に仕え、宰相エルストハージや外務大臣ラシアートという有能な同僚と共に国を支えたローデリッヒの結論であった。

 もちろん優秀であればそれが一番良い。しかし歴史書を紐解けば、愚帝や愚王さらには生きた災厄と評価されているような人物の中にも知性に満ち才能に溢れた者はいる。いやむしろ“道を踏み外す”のは優秀な人間のほうが多いと歴史書は証明している。

 では何が重要なのか。
 人を見る目とものを聞く耳。それがローデリッヒの出した結論だった。

 皇帝には色々な人間が近づいてくる。真に国のことを考えている者もいれば、擦り寄って甘い汁を吸うことしか考えていない者もいるだろう。そのような人間を見極めるために、まずは「人を見る目」が必要である。

 また国という組織には様々な面がある。そして皇帝はその全ての面に通じていなければならない。しかし、現実問題として一人の人間にそれは不可能である。ならばそれぞれの面に通じた人間に意見を聞くしかない。最終的な判断は皇帝自身が下さなければならないが、それでもまずは「聞くこと」が重要なのだ。

 この“目”と“耳”さえ持っていれば、皇帝の役職は凡人であっても務まる。逆にこの二つを持っていなければ、どれほど優秀であってもいずれ必ず国に害悪をもたらす。それがローデリッヒの出した結論であった。

「クロノワ様の周りには国を想う者たちが集まり、またクロノワ様は彼らの意見に真摯に耳を傾けられる」

 もっともクロノワの周りに俗物が少ないのは、これまで彼が日陰者で取り入ってもうまみがなかったから、という理由もある。皇帝となれば今までとは比べ物にならない数の俗物たちが腹に一物を抱えて擦り寄ってくる。その時、クロノワの「人を見る目」の真価が問われるだろう。

 いまだ未知数の部分もあるが、ローデリッヒの目から見てクロノワは十分に及第点を越えている。ではレヴィナスはどうか。

「レヴィナス様、貴方は人の意見を聞き入れられますかな」

 ここで言う「意見を聞き入れる」とは、意見が対立し相手のほうが正しいと思えるときに自分が折れて相手の意見を採用する、ということだ。

「なぜそんなことをしなければならない」

 レヴィナスは、それを真っ向から拒否した。そして拒否することにいささかの疑問も抱いていないことが見て取れる。

 ローデリッヒが見るところ、レヴィナスは自分という存在に固執しすぎている。自分に自信がありすぎるために、自身の限界に無頓着なのだ。

「自分の考えはいつも正しい。自分のやることは全て上手くいく」

 彼にはそんな幻想を抱いている節がある。しかもその自信の根拠となっているのは自分の美貌なのだ。

 繰り返すが、レヴィナス個人は間違いなく優秀な人間である。しかし、ローデリッヒは個人の能力に重きを置いていなかった。

「人は必ず間違いを犯すのです」

 ローデリッヒが重きを置いているのは、組織の能力である。そして彼がその中で特に重要だと思っているのは、組織内部の個人が犯す間違いを訂正あるいは修正する能力である。組織の自浄作用、とでも言えばいいかもしれない。レヴィナスが作り上げた組織には、この能力がない。

 レヴィナスは総督となったときに「法を過去にさかのぼって適用する」という、法治国家における禁じ手を用いた。この責任を大きな括りの中で追及するとすれば、その所在は総督府にあると言える。つまり発案者が犯した間違いを組織の内部で修正できなかった、自浄作用が働かなかった、ということだ。

 次に組織、つまり総督府の内部について少し考えてみたい。

 まず、発案者がレヴィナスであった場合、彼を補佐すべき周りの人間はどうしたのか。上司であるレヴィナスに対し諫言をおこない、考えを改めるよう促しただろうか。

 促したのであれば、レヴィナスは彼らの言葉に耳を貸さなかったことになる。つまり彼は「ものを聞く耳」を持っていない。

 促さなかったのであればさらに深刻だ。レヴィナスの周りには国を想い諫言をおこなう人物がいないことになる。それはつまり彼に「人を見る目」がないことを意味している。

 また発案者が周りの人間であった場合、その人物は「レヴィナスが気に入りそうな案」を持ってきたことになる。それはつまり「取り入ろう」という意図があってのことだ。しかもそのためにタブーを犯しているのだ。その者は国に害悪をもたらす獅子身中の虫、何の役にも立たない無能者よりもタチが悪い。その案を採用した時点で、レヴィナスには「人を見る目」がないことになる。

 無論、組織とて間違いを犯す。それを構成している人間が間違いを犯すからだ。しかし今回オムージュ総督府が犯した間違いは、その許容範囲を超えている。そしてその最終的な責任は、総督たるレヴィナスに帰されるべきなのだ。

「………人は皆、間違いを犯すのです。そのことを認めようとせず、自分だけは例外だと勘違いしている子どもに、皇帝の座はふさわしくありません」
「黙れ………!」

 怨念さえこめてレヴィナスは低く唸った。彼の声には、もはや芝居がかった余裕は感じられない。しかしローデリッヒはかまわずに続ける。

「もう一度申し上げる。皇帝にふさわしいのはクロノワ様です」
「黙れっ!!」

「新たな皇帝の下でお働きになりなさい。それが貴方にとっても国にとっても最善の道です」
「黙れと言った!!」

 レヴィナスが叫ぶと同時に剣を鞘から抜き放った。謁見の間に鮮血が舞う。血溜りに倒れこみ呻き声をもらすローデリッヒに、レヴィナスは鞘を投げ捨て両逆手に持ち直した剣を突き刺す。

「うぅぅああああぁああぁああああああああ!!!!」

 何度も、何度も何度も何度も、レヴィナスは剣をローデリッヒの体に突き刺す。髪の毛を乱し一心不乱に剣を突き立てるその姿には、いつもの悠然とした態度は微塵も残っていない。返り血を浴びたその美貌は狂気を増し、見る者の足をすくませた。

「ハアハアハアハァハァ………」

 背中にいくつもの刺し傷を負いついには絶命したローデリッヒを、レヴィナスは肩で荒い息をしながら見下ろす。

「………ふ、ふふふ………ふは、はははぁあああはっはっはっはぁ!!」

 突然、レヴィナスが哄笑を上げた。左手で乱れた髪の毛をかきあげ、狂気に目を血走らせてレヴィナスは嗤う。

 カラン、と乾いた音が響いた。レヴィナスが持っていた剣を床に投げ捨てたのだ。笑いを収めたレヴィナスは、ゾッとするほど冷たい目でローデリッヒの死体を見下ろした。

「そいつの死体は犬にでも喰わせてしまえ」

 冷たくそう言い放つと、レヴィナスは身を翻し謁見の間から出て行った。後に残された人々はその場に漂うレヴィナスの狂気の残滓にあてられ、すぐには動くことができない。血の臭いが漂う謁見の間で、人々はまるで石像と化したかのように立ち尽くしていた。



[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:53
―――レヴィナス、動く。

 余談になるが、この先クロノワの軍勢のことを「クロノワ軍」、レヴィナスの軍勢のことを「レヴィナス軍」とそれぞれ呼称する。

 この報がもたらされたのは、フィリオたち補給部隊がケーヒンスブルグに到着してからおよそと十日後、ローデリッヒがベルーカに向けて旅立ってから三週間強経ってからのことだった。

 その報告に、クロノワは人知れず嘆息した。

 レヴィナスが軍を率いて動いているということは、ローデリッヒの説得は失敗したのであろう。そのことについて、どうこう思うことはない。もともと成功の見込みなど無いに等しく、対外的な正当性を証明するための使者だったのだから。

 しかしその首すら送り返されてこないとは。

(ローデリッヒには、よほど無残な死に方をさせてしまったようです………)

 生きている可能性は考えない。辛くなるだけだから。短い間ではあったが皇帝としての心構えを教えてくれた男に、クロノワは目をつぶり短く黙祷を捧げた。

 目を開けると、クロノワは無理やりに意識を斥候からの報告に向けた。目の前の問題から目をそらしていては、ローデリッヒに顔向けができない。

「規模は二十万強、ですか………」

 その数は呆れるやら感心するやら、だ。十万規模だとは思っていたが、まさかこれだけの時間で二十万もの数を集めてくるとは。兵の数において敵を上回ることは兵法の基本だが、随分と無茶をしたのではないだろうか。

「どうやって兵を集めたのでしょうか?」
「恐らく、半分近くは傭兵だと思います」

 オムージュの全戦力は三〇~三五万と言われている。だがこの全てを動員できるわけではないし、なによりも領土全体から集めなければならないのだからもっと時間がかかるはずである。おそらく大盤振る舞いしてお金をばら撒き傭兵をかき集めたのだろう、というのがアールヴェルツェの予測だった。

「短期決戦、ですな」

 十万規模と予測していた時でさえ、レヴィナスは軍勢を長期間養うだけの兵糧を確保できないとふんでいたのだ。二十万となれば軍を維持したまま新年を迎えることも難しいのではないだろうか。となればレヴィナスの、というよりアレクセイの思惑としては、数に物言わせて一戦し、そこで全ての決着を付けるつもりだろう。

「籠城したくなりますね」
 レイシェルがそういった。

 籠城して長期戦に持ち込めば、やがてレヴィナス軍は兵糧が尽きる。そうなれば軍勢の半分近くを占める庸兵の多くは愛想を尽かして逃走するだろう。そうでなくとも、軍勢を維持することはできなくなる。

 それにこれから冬本番である。レヴィナス軍を構成する兵士たちのほとんどは、オムージュかその周辺諸国の出身であると思われる。北国であるアルジャークの厳しい冬は、彼らには辛いだろう。

「籠城はしません」

 しかしクロノワはその案を却下した。籠城するとなれば籠もるのは帝都ケーヒンスブルグである。無論、ケーヒンスブルグは高い城壁によって囲まれているが、しかしここは戦いを目的として作られた要塞や城郭ではない。人々が生活する都市なのだ。

 それにレヴィナス軍の兵士たちはケーヒンスブルグの住民に、同国民としての愛情など持っていない。万が一、城壁が破られレヴィナス軍の侵入を許した場合、ほぼ確実に略奪や暴行が起こる。それはクロノワにとって最も望まないことだ。

 またこの戦いは内戦なのだ。勝つにしろ負けるにしろ、決着は迅速に、被害は最小限にしたい。ならば野戦で雌雄を決するのが一番いいだろう。

「今、敵軍はどの辺りにいると思いますか?」

 机の上に地図を広げる。
 リガ砦を見張っていた斥候がレヴィナスの軍勢を認めてから帝都ケーヒンスブルグに帰還するまで、昼夜を問わず馬を飛ばして三日かかったという。その三日間、レヴィナス軍は帝都に向けて進攻を進めているから………。

「恐らくは、この辺りかと」

 アールヴェルツェが地図に描かれた街道上に、チェスの駒を置いた。ちなみに黒の騎士(ナイト)だ。同じく地図上のリガ砦の位置には黒の砦(ルーク)が、ケーヒンスブルグには白の砦(ルーク)と騎士(ナイト)が置かれている。

「こちらが出陣するのにかかる時間は?」
「一日あれば」

 休息中とはいえ戦いが迫っていることを忘れている者などいない。本当はもっと早く全軍に臨戦態勢を整えさられるのだが、今回はまだ時間的に余裕がありそこまで急いでも仕方がない。

「ですから決戦の場はここになるかと」

 そういってアールヴェルツェが白と黒の騎士(ナイト)を動かし、地図上街道脇のある一点で向かい合わせた。そこは………。

「ギルマード平原………」
 イトラが呟いた。

 この予想はレヴィナス軍の方でもしているだろう。古来より戦場の選定というのは、敵味方の両軍において不思議と一致する。

「できれば、陛下はケーヒンスブルグに残っていてもらいたいのですが………」
 そういってアールヴェルツェは白の砦(ルーク)の隣に白の王(キング)をそっと置いた。

「いえ、私も一緒に行きます。兄上もご自分で軍を率いているのでしょう?」
 そういってクロノワは白の王(キング)と黒の王(キング)を、それぞれ同じ色の騎士(ナイト)のそばに置いた。

 確かに斥候の報告では、遠目にではあるがレヴィナス本人とアーデルハイト姫の姿が確認されている。自分の細君を戦場に同伴すると言うレヴィナスの行動が、彼の自信の大きさを表しているようだ。もっともクロノワの知るレヴィナスは、いつも自信にあふれていたが。

「一戦して破れても、陛下がご存命なら再起を図ることも………」
「いえ、この一戦で決着をつけます」

 それはつまり、負ければ死を選ぶ、ということだ。
 繰り返すがこの戦いは内戦だ。内戦を長く続けても得るものなど何も無く、ただ国力が磨り減っていくだけである。またアルジャーク帝国はここ最近で急速に国土を増した。泡のように膨れ上がった、といってもいい。それら新しい領地の足場固めさえ中途半端なこの状況で内戦が長引けば、泡は破裂し手痛いしっぺ返しをくらうだろう。

 それを避けるためにはただ一戦のみで雌雄を決するしかない。負けるつもりなど毛頭無いが、内戦の早期終結を志している以上、目の前に迫った戦いで負けた場合クロノワは自決する覚悟でいた。

(イストには………、怒られてしまいそうですね………)

 右手にはめている彼から貰った聖銀(ミスリル)製の指輪、魔道具「雷神の槌(トールハンマー)」を撫でながら、クロノワは友人の顔を思い浮かべ苦笑した。そういえばこの魔道具、いまだ実戦で使ったことがない。

「それに再起を図ることなど、不可能でしょう」

 仮にクロノワが帝都ケーヒンスブルグに残っていたとしても、主力が野戦で負けてしまえばそれで趨勢は決する。敗残兵をまとめてケーヒンスブルグに籠もってみても、敵軍を防ぎきるのは難しいだろう。

 ならば逃げ延びるしかないが、逃げ延びる先はモントルム領しかない。モントルム領の版図は三〇州で、アルジャーク本土とオムージュ領の合計一九〇州を手中に収めたレヴィナスには抗しきれまい。

 だがさらに南、併合したばかりのカレナリアに行けば、捕虜にしたテムサニス軍およそ十万がある。故国に戻すことを約束すれば、この戦力は使えるかもしれない。さらに同じく捕虜にしてあるテムサニス国王ジルモンドの命を盾に取れば、さらなる援軍を引き出すこともできるかもしれない。

 ここだけ考えれば、一戦して負けたとしても再起を図ることは十分可能なように思える。しかしこれは最大限上手くいったときの話だ。これまで日陰者であったクロノワに、しかも一戦して負けているクロノワに、最後まで力を貸してくれる奇特な人間が一体何人いるだろうか。身内に裏切られた者の末路は悲惨だ。もちろんアールヴェルツェたちは信頼しているし裏切られることなど考えてもいないが、しかし味方の全員が彼らのようであると楽観できるほどクロノワは世間知らずではなかった。

 さらに、より簡単で単純な理由として、クロノワにはそこまで泥仕合を演じるつもりは無かった。早期決着。勝つにしろ負けるにしろ、それが彼の最大の望みである。

「………分りました。では、勝ちましょう」

 クロノワの覚悟を感じ取ったのか、アールヴェルツェは折れた。

「ええ、勝ちましょう」

 窓の外を見れば、雪が舞い始めている。
 敵はレヴィナス・アルジャークと、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドール。これまでで最大の難敵が、クロノワの前に立ちはだかろうとしていた。

**********

 その日、ギルマード平原には雪が積もっていた。とは言っても薄く、である。もとよりこの国で生まれ育ち、そして訓練を積んできたクロノワ配下のアルジャーク兵がこの程度の雪を障害に感じることはない。

「もう少し降ってくれると、こちらに有利だったのですがね………」

 本陣でクロノワは一人でそうもらした。ここにはアールヴェルツェやイトラ、レイシェルといった主立った将軍たちはいない。彼らは自分の部隊を率いて、すでに隊列を整えている。

 レヴィナス軍の兵士たちにアルジャーク出身の者はほとんどいない。つまり彼らはクロノワ軍の精鋭たちと違い、雪原での戦闘訓練など受けていない。慣れない戦場に放り込まれればその力を十全発揮することはできないだろうが、今日のように薄く積もっているだけならばその影響は少ないと見るべきだろう。

 ただこの予測さえもアルジャーク人の視点から見たものだ。オムージュ人がこの雪をどう感じているか、それはクロノワにとっては埒外のことであった。

「天候は予測できても思い通りにはなりませんからね。こればかりはどうしようもありません」

 そうクロノワの独り言に反応したのは、本陣で彼を補佐している女騎士グレイス・キーアだった。彼女は先の南方遠征の際には、後方で後方部隊を実際に動かす仕事をしていた。その仕事は重要であり、グレイスも職責を全うしてくれていたが、彼女が本来望んでいたのは戦場での功績であった。久しぶりに感じる戦場の空気に、彼女の顔はまるで鋭利な剣のように引き締まっていた。

 クロノワとしてはグレイスのように意気込みを外に表現できずにいた。胃の辺りに違和感を覚える。痛いわけではない。締め付けられているわけでもない。しかし、無視できない違和感があるのだ。

 それはすなわち、緊張だろう。だがクロノワはその緊張を糧として意気込みを燃やし、それを外側に表現することが出来ずにいた。あるいは、もともとそういう性分なのかもしれない。彼にできることといえば、努めて普段どおりに振舞うことだけだ。

 そんな、決して自信にはつながらないような思考から逃れるようにして、クロノワは敵味方の布陣に視線を向けた。

 クロノワ軍の布陣は今までと同じである。つまり、主翼、両翼、そして本陣の四つに部隊を分けている。上空から俯瞰することができれば、横に広いひし形のそれぞれの頂点に部隊が配置されているように見えるだろう。数の配分としては、本陣一万五千、主翼五万五千、両翼それぞれ四万となっている。

 本陣はクロノワ、主翼はアールヴェルツェが率い、右翼はイトラとレイシェルが率いている。左翼は他に信頼の置ける将軍に任せていた。

 それに対しレヴィナス軍は軍を本陣と両翼の三つに分けている。部隊の配置としては、本陣を奥に引っ込め、両翼が突出している。凹字、あるいはU字といった感じ陣形だ。数の配分としては、本陣三万、両翼が八万五千ずつ、といったところか。

 敵軍は両翼だけでクロノワ軍を数の上では凌駕している。改めて数の不利を思い知らされた。

「普通ならば、同じか逆の布陣の仕方になると思うのですが………。どう思われますか」

 グレイスはそうクロノワに疑問を投げかけた。彼女の言いたいことはなんとなくだが分る。数の上では劣っているクロノワ軍のほうが、部隊を一つ多くしている、つまり兵力を分散しているのだ。悪くすれば確固撃破の危険がある。

 ただクロノワ軍の布陣は奇抜なものではなく、よくある王道的なものといえる。レヴィナス軍の布陣も奇抜なものでは決して無いのだが、数的に有利な状態でわざわざ部隊数を少なくするのは不思議に思えた。

「こちらの数を見誤ったのでしょうか?」
「いえ、それはないでしょう」

 あのアレクセイ・ガンドール将軍のことだ。事前に斥候を放ち、こちらの数を調べるくらいの事はしているはずである。

「むしろあの布陣は、あちらの内部事情によるところが大きいと思いますよ」

 レヴィナス軍の半分近くは傭兵である、とアールヴェルツェは予測したし、クロノワもその考えに賛成だ。つまり、部隊数を多くしても綿密な連携は取れない、とアレクセイは考えたのではないか。ならば数の上では勝っているのだから、分散させずに正面から数をぶつければよい。そうアルジャークの至宝は考えたのではないだろうか。

「『戦術は単純なほうが良い』。アレクセイ将軍はよくそうおっしゃっていました………」

『戦略は複雑でも良い。しかし戦術は単純なほうが良い。なぜなら戦術は万人が理解し、そして動かなければならないからだ。そして単純な戦術というのは、隙が少ない』

 これが、アルジャークの至宝と呼ばれる男の哲学であった。現在のアルジャーク軍のあり方はこの考えが基本になっているといってもいい。イトラやレイシェルといった若手の将軍はもちろん、アールヴェルツェのように比較的歳が近い将軍も影響を受けているのだから。

 そのアレクセイ・ガンドールと今こうして戦場で相対しているとは。

「なんで、こんなことになったんでしょうね………」

 そのグレイスの思いは、きっとこの場にいる全てのアルジャーク兵が共有していることだろう。

**********

(なぜ、このようなことになった………?)

 アレクセイ・ガンドールもまたその疑問を胸に抱いていた。レヴィナス軍を率いている彼の眼前に相対しているのはアルジャークの精鋭たち、つまりつい最近まで頼もしい味方であり部下であった者たちだ。

 アレクセイがレヴィナスの軍勢を組織し、そして指揮しているのは、ただひとえに彼がその時ベルーカにいたからに他ならない。アルジャークの至宝たる彼以上の適任者など、一体誰がいるというのか。無論、アレクセイも自分以上の適任者がいないことを自覚していた。

 だから、その仕事を引き受けた。
 しかし言ってみれば彼がその仕事を引き受けたのは、状況に流された結果であり、レヴィナスこそ次の皇帝としてふさわしいと考えていたわけではなかった。

 もちろんレヴィナスは皇太子である。皇太子という称号は帝位継承権第一位を表しており、その意味では彼が最も次の皇帝としてふさわしい。

 しかし軍務大臣ローデリッヒ・イラニールは第二皇子であるクロノワを次の皇帝として認めるよう、使者としてベルーカを訪れたらしい。あいにくとアレクセイ自身はその場にいなかったが、軍務大臣たる彼がクロノワを推すということは、ベルトロワが遺書の中でクロノワを後継者として指名した可能性が高い。

 もっともその遺書は宰相らによって偽造されたものであると皇后が宣言した。だがエルストハージたちがベルトロワの遺書を偽造したなどということは、アレクセイに信じられないことであった。さらに偽造であると判断した根拠が不明なのだ。そのことがアレクセイに一つの考えを抱かせ続けている。

「遺書の内容は皇后陛下にとって都合が悪く、それを認めたくないがために偽造であると言い張っているのではないか」

 全ては憶測である。しかしどうにも真実が見え隠れしているような気がしてならない。もしこの憶測の通りであれば、正当性はクロノワのほうにある。皇帝が残す遺書は勅命とみなされるからだ。

 しかし全ては憶測でしかない。確固たる事実のみを残そうとすれば、「皇太子はレヴィナスである」という事実だけが残る。

 だが、自分は全てのことを知っている、などという幻想をアレクセイは抱いていない。つまり彼が知らない事実がどこかにあるかもしれないのだ。

 アレクセイは、迷った。軍を組織し戦略戦術を練る一方で、レヴィナスとクロノワの一体どちらが正統な後継者なのか、悩み続けた。

 悩み続け、しかし答えは出なかった。答えが出ないまま、彼は今敵軍と相対している。

**********

 最初に動いたのは、クロノワ軍のほうであった。銅鑼の音が鳴り響き、主翼と両翼が静かに前進を開始する。それに合わせるように、レヴィナス軍の両翼も動いた。両軍とも本陣はまだ動いていない。

(さて、どう動きますかね………)

 両翼同士がぶつかる展開になるのはほぼ間違いない。ならば鍵になるのはアールヴェルツェが率いるクロノワ軍の主翼五万五千の動きだ。

 敵軍両翼の動きから察するに、アレクセイはまずこの主翼に狙いを定めたようだ。レヴィナス軍の両翼は真っ直ぐ進むクロノワ軍主翼に対して、斜め左右から襲い掛かるように進路をとる。

 それを見たアールヴェルツェは、進路を斜め右、つまり敵軍左翼に向けた。さらにクロノワ軍の両翼は、敵軍の両翼の側面をつくように進路を少しずつ調整していく。

 両軍の距離が少しずつ狭まっていき、銀色の矢の雨が双方から放たれ、また双方に落ちていく。

 ――――激突。

 まずぶつかったのはクロノワ軍の主翼とレヴィナス軍の左翼であった。さらにレ軍左翼に対してその側面にク軍右翼が突き刺さる。さらにレ軍右翼がク軍主翼に襲い掛かり、そのレ軍右翼をク軍左翼が押し戻そうとする。

 その様子をクロノワは冷静に観察していた。遠目にもかかわらず血しぶきが舞っているように見えるのは、薄く積もった雪のせいかもしれない。きっとあの戦場の雪は鮮血に染まっていることだろう。

 最初は押しつ押されつ、一進一退の攻防が続いた。だが徐々に戦況はレヴィナス軍優位へと傾いていった。その要因は………。

「魔導士部隊、ですか………」

 戦場のあちらこちらで爆発が起こり、閃光が光っている。魔導士が投入されると、戦闘の激しさはそれまでの比ではない。普通魔導士部隊というのは虎の子の切り札なのだが、遠目でも分る魔導士の数の多さがこの決戦が双方にとって後に引けない戦いであることを物語っている。

 クロノワはこの戦いにあるだけの魔導士戦力を投入している。それはレヴィナスも同じだろう。だが、レヴィナス軍にはオムージュの魔導士部隊以上の魔導士がいるように思われた。

「傭兵、ですか………」

 魔導士と言うのは欠員が出た場合それを埋めることが難しく、それが虎の子扱いされる一因となってきた。しかし庸兵の中には魔導士ライセンスを取得し、自前の魔道具を持っている者もいる。彼らのような戦力は雇う側から見れば使い捨てができる、実に使い勝手のいい魔導士戦力であった。

 今回、レヴィナス軍の半分近くは傭兵であるというのが、クロノワ軍上層部の見解である。それはつまり正規の魔導士部隊と同数かあるいはそれ以上の“在野の魔導士”がレ軍に参加していることを意味していた。

 ただ魔導士と言う存在は一般に我が強くて扱いにくい。在野の魔導士で傭兵などやっている者ともなればその傾向は一層顕著だと聞いたことがある。そんな荒くれ者どもをまとめ上げているアレクセイは流石であると言えるだろう。

「押されていますね………」

 クロノワの横でグレイスがそうもらした。平静を保ってはいるが、不安の色を隠しきれてはいない。

 現在の陣形はレヴィナス軍が凸字で、クロノワ軍が受け止める形になっている。しかしもともとの数が劣っているせいかク軍の陣形は半包囲のU字にはならず、不完全な半包囲(J字とでも言えばいいかもしれない)となっていた。

 クロノワ軍はじわりじわりと後退させられている。それは同じだけレヴィナス軍が前進してきていることを意味している。

 レヴィナス軍の攻撃はやはりクロノワ軍主翼に集中していた。最も戦力の多いここを喰いちぎって突破し、そのままク軍本陣を襲いクロノワの首を取る。それがアレクセイの思惑であろう。

 アールヴェルツェはアレクセイの猛攻に良く耐え、よく凌いでいるといえた。彼が主翼を率いていたからこそ、クロノワ軍はいまだ全面崩壊には至らず、押され気味とはいえ戦線を維持することができていた。

 しかし何ごとにも限界があり、そして終わりが訪れる。このまま戦況が進展すれば、いずれクロノワ軍は崩壊しレヴィナス軍の勝利で終わる。そうレヴィナスやアレクセイは思っていたし、クロノワやアールヴェルツェもそれを承知していた。

 そう、このまま何もしなければ。

「風が、出てきましたね………」

 確かに風が出てきた。そして雪が降り始める。風と雪。この二つが重なる現象を、人は吹雪と呼ぶ。風が強まり降雪が多くなるにつれて、吹雪は激しさを増していく。戦場の視界は一気に悪化し、クロノワのいるところからレヴィナスの本陣を視認することはできなくなってしまった。それはつまり、逆もまた同じ、ということである。

「そろそろ、動くとしましょう………!」

 クロノワがそう声をかけると、グレイスは一瞬緊張で体を硬くし、しかしすぐに全軍出撃準備の号令をかけた。

 一瞬にして、クロノワ軍本陣の臨戦態勢が整う。そんな兵士たちを心強く感じながら、クロノワは馬上から声をかける。

「これより我々は戦場を駆け抜け敵本陣を強襲する」

 その声は決して大きくなかった。しかも吹雪の風が耳元でうるさく鳴っている。しかし不思議とクロノワの声を聞き逃した者はいなかった。

「各自が日ごろの訓練の成果を発揮し、自分の務めを全うすることを期待する」

 そこまで言ってから、クロノワはふと表情を緩めた。

「誰が国を治めるのかなどということは、そこで暮らしている人々の生活に比べれば些細な問題です」

 このクロノワの発言は暴言に類するだろう。少なくともこれからその「国を治める誰か」を決める戦いに臨もうとする、兵士をその戦いに臨ませようとする者の言う台詞でない。グレイスが慌て、兵士たちがざわめく。クロノワは片手を上げてそれを制した。

「それでも私に賭けてみたいと思ってくれるなら!それでも私に夢を見てみたいと思ってくれるなら!」

 半瞬の、空白。

「どうか、私に力を貸してほしい」

 その声は、やはり大きなものではなかった。しかし本陣にいる全ての兵士たちの耳に、その言葉は届いた。

 一瞬の沈黙。その沈黙が見えざる斧となって空気を割る前に、大歓声が起こった。全ての兵士たちが手に持った武器を掲げ、歓声を上げてクロノワの言葉に答えた。

 クロノワは馬首をひるがえして戦場に向けた。彼の後ろからはいまだ歓声が響き鳴り止むことがない。

「全軍出撃!」

 一際大きな歓声が、それに答えた。

**********

 レヴィナスは本陣から戦況を眺めていた。始めこそ互角であったが、今は味方が押している。それを認めると、レヴィナスは満足そうに頷いた。

 風が、出てきた。加えて雪も降り始めている。この分では吹雪になりそうである。

「寒くはないか?」

 レヴィナスは自分の右に控えているアーデルハイトにそう声をかけた。彼女は厚手の防寒具を着込んでいたが、それでも慣れない吹雪は辛かろう。

「戦況は我がほう有利だが、終わるまでには今しばらく時間がかかるだろう。後ろに下がって休んでいてはどうだ」

 レヴィナスの声は穏やかで優しい。心からアーデルハイトを大切に思い、彼女の身を案じていることが分る、そんな声であった。

「いいえ、殿下。大丈夫ですわ」

 アーデルハイトもまた、そうやって気にかけてもらえるのが嬉しいのか、幸せそうな笑みを浮かべてそう応じた。

 レヴィナスとアーデルハイト。この二人の結婚は完全な政略結婚でしかなかったはずだが、これまでの夫婦仲はきわめて良好である。

 風と雪が強くなっている。吹雪は激しさを増し、さっきまではっきりと見えていた戦場は、今は白くかすんでいる。まるでこの本陣だけが戦場から切り離されてしまったかのようにレヴィナスは感じた。

 吹雪は肌を切りつけるかのように冷たい。しかしレヴィナスは内心に安心感を覚えていた。耳元でうるさく鳴り響いている風の音も、戦場から響く悲鳴と喧騒を遠ざけてくれる。目を閉じれば、そこはもはや戦場ではない。

 つまるところ、レヴィナスは戦場と言う場所が嫌いだった。決して怖いわけではない。そう自分に言い聞かせている。

(もう少しで終わる………)

 そうすれば、皇帝の椅子は正しくレヴィナスのものとなる。そう、レヴィナスが求めているのは皇帝の座のみである。それをあの愚弟が宰相や大臣たちと共謀し、不遜にも己がものにしようとしている。兄のものを弟が掠め取ろうなど、万死に値する。

 そして極めつけは、あのローデリッヒとの会見だ。あの愚か者はよりにもよって自分よりも愚弟のほうが皇帝にふさわしいとぬかしたのだ。今思えば、犬に食わせるにしても、生きながらにそうするべきであった。

「クロノワを捕らえ私の前に引きずり出せ」

 戦いが始まる前、レヴィナスはアレクセイにそう命じた。人が考え出した処刑法のなかで、最も残酷な仕方であの不届き者を始末するためだ。そして先ほどまでの戦況を見るに、その時は近いように思われた。

(早く………!早く早く早く!)

 そうやって何かをせき立てる自分の心を、レヴィナスは少し持て余している。自分はこんなにも性急で器の小さな男だっただろうか。否、断じて否である。

「どうかなされましたか………?」

 目を閉じたままのレヴィナスを怪訝に思ったのか、アーデルハイトが声をかけてくる。レヴィナスは目を開けると、彼女を安心させるように微笑んだ。

「案ずるな。大事無い」

 なんにせよ戦いはもうすぐ終わる。そして皇帝となれば戦場に出ることもなくなるだろう。

(美しき私に、戦場は似合わぬのだ………)
 その思いは、心の底からスッと出てきた。

 吹雪はいよいよ激しさを増している。視界は極端に悪くなっている。先ほどまでかろうじて見えていた戦況も、今は白いベールの先に隠れてしまっている。

 ふと、風の音のほかに、別の音が混じり始めた。それが何であるか確認する前に、レヴィナス軍本陣に一筋の閃光が突き刺さり、そして爆ぜた。

 ――――敵。
 その単語がすぐに頭に浮かんだ。

 誰が?どこから?どうして?
 まとまらない思考は単語で走り、混乱に拍車をかけていく。

 それらの疑問に一つも答えが出ないまま、再び閃光が突き刺さり爆ぜる。続けて千数百はあろうかという矢が雪に混じって飛来し降り注ぐ。

 この攻撃で、逆にレヴィナスの頭は冷えた。一瞬の混乱から立ち直ると、ともかく防ぐように指示を出す。それから一度陣の奥まで戻り、そこでアーデルハイトと別れ彼女をさらに後方に遅らせる。

 レヴィナスが白馬にまたがると、三度閃光が輝き爆音が響く。吹き飛ばされたのか、人が宙をまっている。レヴィナスの足が、震え始める。

 吹雪の中、白く濁った視界の向こうから、クロノワ軍が現れた。

**********

 レヴィナスは知りようもないことだが、彼の本陣に突き刺さった閃光は、イストがアズリアに贈った魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」が放つそれとまったく同じものであった。それもそのはずである。少し前にイストがクロノワに贈った魔道具は、この魔弓の簡易版なのだから。

 ――――「雷神の槌(トールハンマー)」。

 それが、イストがクロノワに贈った指輪型の魔道具の名前である。
 この魔道具の最大の特徴は、その使い勝手の良さにある。

 まず使用者は指輪に魔力を込める。するとまずは魔法陣が展開される。ちなみにこの魔法陣は、一度展開すれば魔力の供給を断ってもしばらく出っ放しである。魔法陣が展開したところでさらに指輪に魔力をこめると、展開された魔法陣に魔力が充填され閃光が放たれるのだ。

 技術的な話をするならば、指輪に刻印されている術式は「魔法陣を展開するための術式」である。つまり、刻印されている術式自体に攻撃能力はない。言ってみれば余計なステップを一つ踏んでいるのだ。しかしそのおかげで、指輪という小さくて装備が容易な形状で、人を吹き飛ばすような馬鹿げた威力を実現しているのである。

 アズリアが使っている魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」とは異なり、「雷神の槌(トールハンマー)」の射程と威力は固定である。その点、自由度は下がっていると言わざるを得ない。しかし逆を言えば射程と威力について考える必要がない。使用者はただ指輪に魔力を込めればよい。そうすれば、後は自動的に閃光の一撃が指輪を向ける先に放たれる。

 レヴィナス軍本陣の隊列には、「雷神の槌(トールハンマー)」の二度の攻撃により穴が開き、そしてその穴は続けて降り注いだ矢の雨によって広がっている。クロノワはすかさずそこに突撃をかける。準備が出来ていないのか、敵の抵抗は少なく脆い。浮き足立った敵兵を蹴散ら、敵陣をまるで紙切れか何かのように切り裂きながらクロノワ軍は進む。

 奇襲は成功した。

 行動を開始したクロノワ軍本陣は、まず味方の主翼と右翼の陰に隠れるようにして戦場を迂回し、敵本陣を目指した。

 この時、吹雪いていたことがクロノワにとって幸いした。彼の配下にいるアルジャーク兵はみは冬季行軍訓練を受けており、吹雪の中でも問題なく進軍し目的に至ることができる。しかしレヴィナス軍の兵士たちは違う。彼らにとって吹雪とは慣れない劣悪な環境であり、このような見通しの利かない中進軍してくる敵など、彼らにとっては完全に埒外であった。

 アレクセイは、この動きに気がつかなかった。本陣で全体の戦況を見守っていたのであれば、予測し対応策をとることができたかもしれないが、今彼は最前線で戦っているのである。吹雪の中、敵軍の影を別の部隊が移動していることに気づけなくとも、仕方がないであろう。

 さらにレヴィナス軍は両翼が前進したにもかかわらず本陣が動かずにいたため、双方の間に距離が出来てしまった。それはつまり、レ軍本陣が孤立したということを示していた。しかもこの吹雪である。優位な戦況に油断した部分もあるのだろうが、レ軍本陣は敵の襲来に直前まで気づかず、態勢を整える前に先制攻撃を許し戦いの主導権を握られてしまったのだった。

 クロノワは右手にはめた指輪「雷神の槌(トールハンマー)」に魔力を込め、閃光を放つ。至近で直撃を受けた敵兵が胴体に大穴をあけ、内臓を飛び散らして絶命する。貫通した閃光は、さらに何人かの敵兵を吹き飛ばした。

(すまない、イスト………!君がくれた魔道具で人を殺した………!)

 きっとあの友人は、そんなことを気にはしないだろう。しかし、クロノワは無性に謝りたかった。

 奥歯をかみ締めながら、クロノワは「雷神の槌(トールハンマー)」に魔力を込め続け、立て続けに閃光を放ち続ける。この連射性能こそが、「雷神の槌(トールハンマー)」の真髄であるといえた。

 「雷神の槌(トールハンマー)」の射程はそれほど広くはない。しかし槍を振るえば敵に当たるような状況ならば、そもそも射程に意味はない。加えて一撃で人を殺してなお余りある威力の閃光を連射できるのだ。そんなものを集団の中で使えばどうなるか。敵軍はもはやただ逃げ惑うことしかできずにいた。

 しかも一撃放つごとに轟音が響くのだ。その射程外にいるはずの兵士たちも、幾つもの轟音が鳴り響くのを聞き、さらに四肢をあらぬ方向に曲げた人間が宙をまうのを見て、戦わずして戦意を喪失させていった。

 この轟音とその光景にもっとも肝を冷やしたのが、レヴィナスであった。

 轟音が響くたびに腹に鈍い衝撃が走る。顔から血の気が引いて体温が下がり、歯が震えた。足が震えているのが分る。いや、足だけではない。全身が震えている。

 恐怖。そう、それは恐怖であった。
 閃光が一つ輝くたびに、自分の死が近づいて来る気がする。轟音が一つ響くたびに、心臓を鷲づかみされるような悪寒を覚える。

 ドサリ、とレヴィナスの前に死体が降ってきた。閃光の直撃を受けたのか四肢をあらぬ方向に曲げ、顔面がつぶれて眼孔から目玉が飛び出している。

 その死体に、レヴィナスは自分の未来を重ねてしまった。
 自分もこんな死にざまをさらすのか。こんな美しくない死に方をするのか。その様子を想像し、レヴィナスは激しい吐き気に口元を押さえた。

 そこにさらに轟音が響く。着弾地点は、かなり近い。
 限界だった。恐怖の、限界だった。

 レヴィナスは、逃げた。

 馬首をひるがえし、部下を見捨て、さらには妻であるアーデルハイトを置き去りにして、レヴィナスは戦場から逃げ出した。恥も外聞もかなぐり捨てて、迫りくる恐怖から彼は逃げた。

 レヴィナス軍を実質的に動かしていたのは、アレクセイ・ガンドールである。しかし総大将であり次の皇帝になろうという者が戦場から逃げ出し、兵の士気に影響を与えないはずがない。

 戦場に置き去りにされた兵士たちは、次々に武器を手放し降伏していった。

 趨勢は、いや勝敗は、決した。




[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 10:56
大陸暦1564年11月7日、ついに十字軍はアルテンシア半島に向けて進軍を開始した。本来であるならばもう少し早く進軍を開始できたのだが、枢密院内で「神子の祝福」をどうするかという問題について意見がまとまらず、この時期にまでずれ込んでしまった。ただ、十字軍は複数の国が兵を出し合っている連合軍である。その内部をまとめ上げるのに多少の時間が必要であったことも事実である。

 七人の枢機卿の中で、十字軍に対し神子の祝福を与えることに最後まで反対したのは、テオヌジオ・ベツァイただ一人であった。

「血生臭い戦争に神聖な神子の祝福を与えるなど、言語道断である!」

 そういってテオヌジオは最後まで抵抗した。ちなみに彼と同じく十字軍遠征に反対であったカリュージス・ヴァーカリーは決を棄権した。本心では反対していたのかもしれないが、教会が旗振りをしている遠征に神子の祝福が与えられないとなると、教会として格好がつかない部分があるのも事実なのだ。

 ただ、彼ら以外の五人の枢機卿の思惑はもっと生々しい。

 まず神子から祝福が与えられれば、十字軍兵士の士気は大きく上がるだろう。兵の士気というのは戦力に直結するから、遠征を成功させる上で神子の祝福はどうしてもほしいお墨付きであると言えた。

 また祝福が与えられれば、アルテンシア半島に至る道中、住民たちからの協力を得ることが容易になるだろう。“神子の祝福”を受けた軍であるというただその一点をもって、彼らは十字軍に最大限協力してくれるであろう。祝福を受けた十字軍に協力しないということは、そのまま教会への敵対を意味しているのだから。

 以上のように、神子の祝福は遠征を成功させ、また教会の威光を広めるためには、必須事項であるように思えた。そして十字軍遠征が成功すれば、教会だけでなく彼らの懐にも巨額の金が舞い込むのだ。

(そこまで上手くいけばよいが………)

 決議が強行され、枢密院の堕落を嘆くテオヌジオの隣で、カリュージスはそう嘆息した。ただ彼の嘆息の理由は、テオヌジオのように宗教的なものではなく、純粋に政治的な懸念によるものであった。

 神子の祝福が十字軍に与えられるということは、アルテンシア半島で行われるであろう十字軍による略奪や暴行にもお墨付きが与えられることになる。勝てばそれらの行為が問題になることはない。

 しかしもし負ければ?
 仮に十字軍が負けたとすれば、敵は彼らが行ったそれらの残虐な行為の責任と代償を求めるであろう。

 誰に対してか。
 教会に対し、そして究極的には神子に対してである。しかも十字軍をアルテンシア半島からたたき出した戦力を背後に控えさせて迫ってくるのだ。

 もしそんなことになれば、事態がどう転がろうとも教会の発言力は大きく低下する。そして自前の国土と臣民を持たない教会にとって、発言力の低下は組織の存亡そのものに関わる問題なのだ。

 十字軍遠征の失敗と共に、教会の組織事態が弱体化、あるいは崩壊さえする。そんな最悪のシナリオが、カリュージスの頭の中に居座っていた。

 無論、負けることを前提に遠征を計画する愚か者はいない。今回の十字軍遠征だってそれなりの勝算があってのことだ。

 今、アルテンシア半島は混乱の渦中にある。アルテンシア同盟とそれに反旗を翻したシーヴァ・オズワルドが、半島の覇権をかけて争っているのだ。これは同盟ができて以降初めての内輪もめであり、千載一遇のチャンスに思えた。

 これが純軍事的にみてどれほどの好機なのか、それはカリュージスには分らない。分らないが、各国が軍を出した、という事実はある。教会が旗振りをした以上、兵を出さないわけにはいかなかったという事情はあるだろうが、それにしても三二万の大軍である。専門家の目からみても大きな好機なのだろう、と慮ることはできる。

(両者まとめて叩き潰せるならば、だが)

 カリュージスがアルテンシア同盟に脅威を感じることはない。所詮は腐りきった組織。むしろ、よくぞ革新の種を残しておいた、と褒めるべきであろう。それはつまり組織の自浄作用がかろうじて働いていたということなのだから。もっとも今はその“自浄作用”が組織を殺そうとしているわけだが。

 問題はその革新の種、シーヴァ・オズワルドのほうである。

 彼と彼の軍は強い。決起から一年も経たないうちに半島の半分近くを切り取ってしまった。とくに最初の二、三ヶ月は異常な速度であった。その速度を軍隊という組織だけで実現することはほぼ不可能であるということは、軍事に疎いカリュージスでも容易に想像がつく。

 つまりは、住民たちの協力があったのだ。そう、熱狂的な協力が。
 住民たちは同盟や領主たちに三行半を突きつけただけではない。彼らはシーヴァ・オズワルドという革新の可能性を、ずっと待っていたのである。そして彼が物事を素早く行えるよう、積極的に協力していったのだ。

 今、シーヴァの周りには変革と新たな秩序を求める人々が集まっている。古く腐り果てた旧体制を淘汰し、新しい国を作ろうと邁進しているのである。彼らを支える想いは強く、彼らを突き動かすエネルギーは凄まじい。思い描いた夢を実現するために、彼らは己が命をかけている。

 大仰な言い方をすれば、アルテンシア半島では今まさに新たな歴史が生まれようとしている。古き時代の幕引きと新たな時代の幕開けを、人々は人力で行おうともがいているのである。

(こういう相手が、一番厄介だな)

 夢や理想を追いかける人間は強い。そしてそういった人々が集まって作る集団はもっと強い。いくつもの苦難を乗り越えてきたから自信があるし、新たな問題が立ち塞がっても気後れすることなくぶつかっていける。

 一言でいってしまえば、勢いがある。今シーヴァ・オズワルドが率いているのは、そういう集団であり組織であり国なのだ。

(翻って我が身を鑑みれば………)

 一方我が身、教会はどうか。腐りもはや腐臭さえ放っているではないか。失った聖銀(ミスリル)による収入、つまり遊ぶ金をまかなうために十字軍を派遣しようと言うのだ。無用な装飾を蹴り飛ばし要点だけを抽出して皮肉のスパイスを利かせれば、教会が強盗行為を主導している、ということになる。

 どう考えても、全うで健全な組織のすることではない。いや、歴史書を紐解いても、これほどの末期症状を見せた組織は他にないのではないだろうか。

 先ほど、アルテンシア同盟はかろうじて最後の自浄作用が働いた、とカリュージスは評した。それでは自浄作用さえ働かない教会は一体何なのであろう。

(負ける、か………)

 若く理想に燃え力にあふれたシーヴァの軍と欲望だけで結びつく十字軍。その勝敗は、やはり明らかなように思えてならないカリュージスであった。

**********

 話を十字軍の動きに戻そう。
 大陸暦1564年11月7日、七人の枢機卿の一人グラシアス・ボルカは興奮していた。彼の目の前には、総勢およそ三二万の十字軍兵士たちが整然と隊列を揃え居並んでいる。グラシアスは懐から七つの封がされた巻物を取り出してそれを開き、そこに記されている「神子の祝福」を高らかに読み上げ始めた。

 神子の祝福、といってもその内容は神子が考えたものではない。内容そのものは担当の者がそれらしい言葉を並べて作り上げた、当たり障りのない文章だ。文章そのものに意味はない。なければ体裁が整わないから用意した、といってしまえばその程度のものだ。

 内容としては、以下のようになる。
 曰く「アルテンシア半島の異教徒たちを、神々の祝福のもとに改宗させるべし」

 まさか本音をそのまま書き記し、「略奪と暴行に励むべし」などと書くわけにも行かないから、内容としては常識的なものであろう。

 ただ、繰り返すがその内容に意味はない。本当に意味があるのは巻物の最後に記された、神子マリア・クラインのサインと印、ただそれだけである。

 巻物を読み上げている最中も、グラシアスの興奮は冷めることがない。いや、むしろ気分は高揚していき、快感にも似た延髄の痺れを感じている。言い知れぬ万能感が、今彼を満たしていた。

 本来この役は神子であるマリア・クライン本人が行うのが一番良い。しかし彼女は神殿から、御霊送りの祭壇から離れることができない。ならばその代理としては、後継者と目されている養女のララ・ルー・クラインが最もふさわしい。しかし彼女は今、視察巡礼のたびの真っ最中である。

 今思えば、これはこうなる事を見越したマリアがララ・ルーを十字軍遠征に関わらせないために打った策であろう。神子マリアは枢密院の決定に決して異議を唱えないが、だからといって恭順しているわけでもないのだ。

(もっとも、私としては好都合であったわけだが………)

 巻物で隠され兵士たちからは見えない口元を、グラシアスはニヤリと歪ませた。
 教会の呼びかけに応じて集まった兵士の数は総勢およそ三二万。これだけの戦力があれば、アルテンシア半島の制圧など簡単なようにグラシアスには思われた。完全制圧までともすれば半年、いやさらに半分の三ヶ月もかからないかもしれない。

(ヴァーカリーの若造はシーヴァなどという野良犬を警戒しているらしいが、恐れるに足らぬわ………!)

 十字軍遠征は成功する。ここに集った兵士たちを見てグラシアスは確信を新たにした。そして十字軍に神子の代理として祝福を与えた者として、彼の名は歴史に刻まれるであろう。さらにここで目立っておけば、遠征終了後に懐に舞い込む金額は跳ね上がり、さらに枢密院での発言力も増す。

 祝福を読み終えたグラシアスは、その巻物を兵士たちに向かって掲げる。その瞬間、三二万の兵士たちが一斉に歓声を上げた。

 十字軍遠征の始まりである。

 余談であるが、後の数多くの歴史家たちが、この遠征に関し決定的な不備であると指摘する点がある。それは兵糧の不足である。十字軍には短期間のうちに三十万を越える兵が集まったが、逆に言えば短期間であったがために三二万の兵を養うだけの兵糧が確保できなかったのである。

 その点は、十字軍上層部も把握していた。そこで彼らが取り決めた、兵糧に関する方針を記した資料が後の世にも残っている。そこには、

「兵糧の不足分は、原則として現地調達を基本とする」

 とある。「現地調達」と言葉を選べば確かに聞こえは悪くない。しかし総勢三十万を越える侵略者に、住民たちが協力的な態度で食料を供給してくれるはずはない。すなわちここで言う「現地調達」とは「略奪」と同義である。

 ここから分ることは、十字軍にとって略奪を行うことは織り込み済みで確定事項だった、ということである。無論、略奪には暴行がつきものだ。つまり十字軍遠征とは計画の最初からアルテンシア半島の非戦闘員を、無辜の民を食いものにすることを目的としていたのである。

 十字軍が行く。目的地はアルテンシア半島。表向きには異教徒を改宗させるために。





*******************




大陸暦1564年12月9日、十字軍はついにゼーデンブルグ要塞に迫った。

 ――――ゼーデンブルグ要塞。

 その要塞はアルテンシア半島の付け根に建設され、いわば不埒な侵入者を防ぐための関所である。ただ“関所”というには、あまりに規模が大きい。ゼーデンブルグ要塞は常時十万の兵を駐在させ、大量の兵糧を抱え込んだ大要塞であった。

 だが十字軍がゼーデンブルグ要塞に迫った時、そこにいるはずの十万の駐在軍の姿はどこにもなかった。十字軍遠征が始まる少し前、アルテンシア同盟はシーヴァ・オズワルド討伐のためにゼーデンブルグ要塞の戦力を使うことを決め、十万の兵を要塞から動かしていたのである。

 十字軍遠征の話は、当然アルテンシア同盟の領主たちにも伝わっていた。にもかかわらずゼーデンブルグ要塞の兵を動かしたのは、ひとえにシーヴァに対する憎悪がはなはだ深刻であったからであろう。目の前の敵を憎みすぎたがために、背後の敵への対応を怠ったのである。

 その結果、十字軍が迫った時そこには五百ほどの兵士しかおらず、ゼーデンブルグ要塞はたった半日で陥落したのである。ちなみに要塞にいた兵士のほとんどは戦わずに逃げたため、流血をともなう戦闘はほとんどなかった。

 こうしてゼーデンブルグ要塞は初めての戦闘で、その役目を果たすことかなわず陥落したのであった。

 ちなみにシーヴァ・オズワルド討伐のために動いた同盟軍十万は、要塞が陥落する三日ほど前に反乱軍と野戦を行い破れている。この時点でアルテンシア同盟の軍事力が消滅したといっていい。

 さて、ゼーデンブルグ要塞を陥落させた十字軍は、そこから三つに軍を分けそれぞれ進軍した。これは軍事的な思惑にもと基づく行動ではない。三十万の大軍のまま行動していては、略奪する物品と戯れる女の数が減ってしまうではないか。これはなるべく多くのものを奪い多くの女を犯したいという、極めて下劣な欲望に基づく判断であった。

 ちなみにゼーデンブルグ要塞にはただの一兵も残さなかった。これまた理由は単純で、要塞に残っていてはいい思いをすることができないからである。

 暦は新年。一方にとっては喜ばしい、一方にとっては災厄としかいい様のない年明けとなった。

 彼らは己の欲望に忠実に行動し、アルテンシア半島の南東部半分で己が春を謳歌した。無論違う視点から見れば、そこを地獄に叩き落した、としか言いようがない。

 同盟軍といういわばアルテンシア半島の正規軍に当たる軍事力を失った領主たちは、自分たちの私兵だけで十字軍に対処しなければならなくなった。彼らが足並みを揃える時間があればよかったのだが、あいにくと十字軍はその時間を与えてはくれなかった。欲望に目を血走らせて襲い掛かってくる十字軍の前に、各地の領主たちは各個撃破されていったのである。

 なんとか連合軍を組むことができた三人の領主たちが十字軍に敗北したとき、アルテンシア同盟は事実上瓦解した。腐敗に憤り同盟打倒のために兵を挙げそして弱らせたのはシーヴァだが、同盟に止めをさしたのは十字軍であった。アルテンシア同盟結成の主たる目的が、大陸からの侵略に対抗するためだったことを考えると、皮肉な歴史の巡り会わせと言えるかもしれない。

 この遠征は十字軍の、というより教会の主張によれば“聖戦”であった。神々を敬わぬ異教徒たちを改宗させるための“聖戦”である。事実十字軍には百名ほどの聖職者と枢機卿の一人であるグラシアス・ボルカが同行している。

 しかし、アルテンシア半島に残された資料と教会や神聖四国に残された資料の双方を精査してみても、彼らが半島で布教活動を行い住民の改宗を促したという記録が残っていないのは一体どういうことであろう。

 ある歴史家は、こう述べている。
「“聖戦”という建前は、アルテンシア半島で行われる破壊活動や略奪、暴行などに対するいわば免罪符であった。仮にこの第一次十字軍遠征が成功していたら、“聖戦”という建前を用意できたことは、外交上の輝かしい勝利になったであろう」

 さて十字軍は快進撃を続け、半島の南東部で蹂躙の限りを尽くした。しかし、そこからさらに北西部へ進軍しようとした十字軍の前に立ちはだかったのが、シーヴァ・オズワルドその者であった。いや「立ちはだかった」という表現には少し語弊がある。なぜならシーヴァは守勢に回ったのではなく、攻勢に打って出たのだから。

 ある街が三つに分かれた十字軍の一つに蹂躙されている。絢爛豪華な城を中心とした城下町だ。この城を中心として地方一帯を治めていた領主一家は街の広場に引きずり出され、「神々の裁き」の名のもとに処刑された。

 それから始まったのは、住民たちの犠牲の上に成り立つ十字軍の酒池肉林の宴であった。兵士たちは家々に押し入っては略奪を繰り返し、女子どもを攫った。男の体に藁を巻きつけて火をつけ、絶叫しながら焼け死んでいくのを肴に酒を飲み肉を貪った。それを諌める立場のはずの聖職者たちは、むしろ兵士たちをあおり宴の中心となっているというのが常であった。

 そんな狂乱の宴を強制的に終わらせたのがシーヴァ・オズワルドであった。彼は歩兵四万騎兵二万、合計六万からなる非常に機動性の高い軍を組織すると、連戦連勝で驕っている十字軍を強襲したのである。

 ろくに見張りを立てることもせず狂乱の宴に興じていた十字軍はシーヴァ・オズワルドの襲来により、奪う者から奪われる者へと一瞬にして立場が逆転したのであった。

「殺せ!殺しつくせ!一兵として逃がすな!!」

 この時点ではまだこの街はシーヴァの勢力範囲外であったが、ここで殺され辱められ虐げられているのは彼と同じアルテンシア半島の同胞たちである。シーヴァの命令は苛烈で容赦がなく、また忠実に実行された。

 この時のシーヴァの作戦は周到であった。まず彼は直属の部隊として歩兵一万騎兵五千を選び、残りの四万五千の兵に街の四方の門のうち三方を固めさせた。そして四つ目の門から直属部隊を率いて中に攻め入ったのである。

 突然の強襲に震え上がった十字軍はろくな抵抗もせずに逃げていく。どこへ隠れてようとも、つい先ほどまで狩りの獲物か愛玩動物くらいにしか思っていなかった街の住民たちによって、兵士たちは発見され追い立てられていく。街から逃げ出した十字軍兵士たちは、そこに待ち構えていたシーヴァの軍によって次々に殺されていく。こうしてこの日だけで十字軍およそ十万の内七万近くが屍をさらす結果となったのである。

 逃げ遅れたらしい聖職者たちがシーヴァの前に引き出されてくる。卑しい笑みを浮かべた彼らは口々に助命を願った。その中で教会の権威をちらつかせ、「ここで助けてくれればお前の得になる」と臭わせることを忘れない。あまつさえ異教徒になにをしても大したことはないとまで言い出した。今彼らの目の前にいるシーヴァも、その“異教徒”であることを彼らは忘れていたのだろうか。

 醜い。

 シーヴァはそう思った。顔立ちの話ではない。その選民意識に凝り固まった思想が醜いのである。

 ガビアルやメーヴェといったゼゼトの民も同様に感じたらしく、壮絶に顔をしかめている。生理的な嫌悪すら感じている様子だ。

「黙れ………!」

 絶対零度の声音で、シーヴァは目の前の醜い豚どもの話を遮った。これ以上聞いていては耳が腐ると思ったのだ。

 最終宣告の如くに響いたシーヴァの言葉に顔を青くした聖職者たちは、今度は責任逃れの言葉をまくし立てた。全ては十字軍がやったことだ。自分たちは悪くない。婉曲の限りを尽くしてそう主張する聖職者の一人を、シーヴァが蹴り飛ばした。それを見た他の聖職者たちは舌を凍りつかせる。

「誰が喋っていいといった」

 聖職者たちが静かになるとシーヴァは部下に命令を出す。

「教会の教義には、『汝、殺すべからず』というものがあり、反した者は石打にされるという。この者たちは教会の聖職者だ。信じる教えに殉じさせてやれ!」

 もはや意味をなさない喚き声を上げながら連れて行かれる彼らを一瞥し、シーヴァはようやく溜飲を下げる思いだった。

 この小さな勝利一つでシーヴァは満足することはなかった。十字軍が三つの部隊に別れていることはシーヴァも把握している。あと二つ、叩き潰さねばならない敵が残っているのだ。十字軍全てをアルテンシア半島からたたき出さなければ、同胞たちに安寧は訪れない。

 シーヴァはすぐに行動を再開した。

 次の十字軍を見つけたのは夜半過ぎ、とある村でのことだった。今回も駆けつけるのが少し遅かったらしく、すでに略奪と狂乱の宴が始まっていた。城壁もない村だ。あちこちに焚かれたかがり火と大勢の人影は離れていても見て取れた。響く笑い声に悲鳴が混じっているのは、決して聞き間違いではないだろう。

 この村で十字軍が行ったことが歴史書に記録されている。周辺の村々をあらかた略奪し尽くし、この村で“祝勝会”を開いていたという。その中身は「蛮行」の一言に尽きるだろう。親と子どもを殺し合わせ、生き残ったほうは家族殺しの罪で処刑された。兵士たちは女に餓えており、女と見れば老婆であっても犯した。

 シーヴァの手の中で、馬の手綱がギシリと音を立てた。この強盗どもを見逃してやる理由を、彼は持ち合わせていない。

「なるべく音を立てるな」

 漆黒の甲冑で統一されたシーヴァ軍は、夜闇にまぎれて村に近づいていく。音を立てないようにしていたとはいえ、隠密行動と言うほどのものではない。にもかかわらず十字軍がシーヴァ軍の襲来に直前まで気がつかなかったのは、彼らが狂乱の宴に没頭しここが戦地であることを忘れていたからであろう。もっとも遠征の始めから十字軍はアルテンシア半島を都合の良い狩場程度にしか見ていなかったが。

「敵襲!」

 一番最初にシーヴァ軍の襲来を察知した男は、それだけ叫ぶと首を刎ね飛ばされ首から二種類の赤い液体を噴出させて絶命した。倒れた彼の体を踏み潰しながら、シーヴァ軍の人馬は村の中に突入していく。またたく間に、歓声をあげる側と悲鳴をあげる側が逆転する。それでもまだ村の娘に襲い掛かろうとする十字軍の兵士がいたこと考えると、人の欲望の深さを思わずにはいられない。

 シーヴァはその男を蹴り飛ばし少女の上からどけると、槍を突き刺し地面に縫い止めた。少女のほうを見ると、服は破り捨てられていてもはや用をなさず、何人の男の相手をさせられたのか分らないような有様であった。

 シーヴァはマントを取るとその少女にかけてやった。少女は怯えながらもマントで肌を隠し、シーヴァの顔を見上げた。

「家の中に隠れて毛布を被っていろ。日が昇るころには、全てが夢だったと思える」

 少女が頷くのを見て、シーヴァは身を翻した。ついさっきの自分に言葉。その言葉がただの慰めでしかないことを、シーヴァは良く知っている。しかし同時に、その言葉の通りになって欲しいと、そう思わずにはいられないのであった。

 男に突き刺したままになっていた槍を引き抜く。そしてシーヴァは声を張り上げた。

「斬れ。斬りまくれ。遠慮も容赦も要らぬぞ!」

 シーヴァの命令はここでも忠実に実行された。いや、彼の命令がなくともシーヴァ軍の兵士たちは十字軍を許しはしなかっただろう。彼らの目の前で殺され犯され虐げられているのは、同じアルテンシア半島の同胞たちなのだ。運命などというものを彼らが信じていたのかは分らないが、その歯車が一つ狂えば自分たちと家族が目の前の災厄を被っていたかもしれない。怒りと憎しみは敵を殺すことでしか晴らせはしない。

 この夜十字軍およそ十一万のうち、約六万がその屍をさらした。さらに二万人が捕虜となり、逃げおおせたのは三万人程度だけだったのである。

 捕まって捕虜となった二万人には、戦場で死んだ者たちよりもさらに過酷な運命がまっていた。シーヴァは彼らを略奪された村々の住民たちに引き渡したのである。

「そなた達の家と畑を焼いて父兄弟を殺し、母姉妹を辱めた者たちだ。そなた達には復讐する権利がある」

 この二万人が受けた復讐の中で最も残酷なものは「車裂き」であったという。それでも四割程度の者たちはそれぞれの村に農奴として連れて行かれ、命だけは助かった。さらにその内の半分程度は後に自由になってこの地に定住し、嫁を貰うなどして人並みの幸せを手に入れた。また千人ほどは後に祖国の土を踏むことができたという。

 兵士たちに休息を取らせる間に簡単な後始末をしていたシーヴァは、それが終わるとすぐに最後の十字軍を求め行動を再開した。一秒遅れればその分だけ略奪と暴行の被害は拡大し、半島の同胞たちの苦しみは増していく。のんびりしているわけにはいかないのである。

(私が休むのは全てが終わった後だ)

 シーヴァの最終的な目的はアルテンシア半島の統一である。統一を成し遂げ王として君臨しようと志すものが、己の臣民の苦境に何もせずただ座しているだけなど、どうして許されようか。

 とはいえ彼は闇雲に動き回ることはしない。情報を集め敵の位置を絞り込みそして特定していく。幸いなことに半島の住民は全てシーヴァの味方である。ただ彼らを安心させる要素となったのが「パルスブルグ要塞司令官及び要塞常備軍司令官」という、捨てたはずの役職名であったことはシーヴァとしても苦笑するしかない。

 住民たちの協力もあり、最後の十字軍は草原で発見することができた。ただ彼らがこれまでの道中で略奪と暴行の限りを尽くし、半島の住民たちを虐殺し辱めてきたことは間違いない。新たな犠牲を出す前に発見できたことは僥倖であるが、許してしまった犠牲を想うと、シーヴァの胸のうちにはやりきれない怒りが湧き上がってくる。

 シーヴァは後から後から湧き上がってくる怒りを抑えはしなかったが、かといって身を任せて理性を失うこともなかった。怒りを制御し糧とできるあたり、王者の器といえるだろう。

 十字軍がろくに斥候も放たずに進軍しており、彼らの行く先にとりあえず村や町がないことを確認したシーヴァは、少しの間軍を潜めさせ、通り過ぎようとした十字軍の背後を襲った。

 シーヴァは単騎で敵陣に乗り込み、これまでの戦いは市街地であったため被害を考えて使わなかった愛剣「災いの一枝(レヴァンテイン)」を手に、その威を存分に発揮させた。

 ――――「天より高き極光の」

 そう黄金色の古代文字(エンシェントスペル)で印字された漆黒の大剣は、一振りされるごとに黒き風によって雑兵たちを吹き飛ばしていく。敵陣の真っ只中で「災いの一枝(レヴァンテイン)」を振るい続けるシーヴァはいわば黒き暴風の中心であり、彼の周りでは黒き風が敵を切り裂き吹き飛ばし叩き潰していく。

 主将のこの活躍に友軍が活気つかないわけがない。シーヴァ軍は歓声をあげて敵軍になだれ込み、死を量産していった。

 シーヴァの次に激しく戦ったのはガビアルを筆頭とするゼゼトの民であろう。彼らはその巨躯と怪力をいかんなく発揮し、敵をその甲冑ごと叩き割っていく。彼らの巨躯は返り血で紅に染まっていった。

 日の高い頃から始まった戦闘は暗くなるまで続き、シーヴァは十字軍のなんとおよそ八割を屍に変えたのであった。

 流された血の量は凄まじく、その草原では一年経っても血の臭いが漂っていたという。無論、誇張だが。

 さて、こうしてシーヴァは三つに分かれた十字軍全てを叩き潰したわけだが、決して全滅させたわけではない。散り散りになったとはいえ、いまだ万単位の十字軍兵士たちが生き残っている。ただ悲しいかな、彼らを統御する人物がいなかった。

 全体としては万単位の残存勢力であっても、個々を見れば一人から数人の集団でしかない。もともと十分な兵糧を用意していなかった彼らは空腹を耐えながら、住民たちの自発的落ち武者狩りという復讐を逃れるべく、ゼーデンブルグ要塞を目指した。

 生きて振り出しに戻ってこられた十字軍兵士たちは、総勢で十万人に満たなかった。三分の二以上の戦死者を出すという屈辱的な結果をもって、十字軍遠征の失敗は動かぬものとなったのである。

 ゼーデンブルグ要塞の一室で、十字軍に同行していた枢機卿の一人、グラシアス・ボルカは恐怖に震えていた。はじめてこの要塞に入ったときには綺麗だった職服も、今は泥にまみれあちらこちらが擦り切れている。

 ほんの二十日ほど前までは美酒をあおり美女をはべらせて、見世物に興じていたのがまるで夢のようである。

(なぜだ………?なぜこうなった………?)

 十字軍が負けるなど、グラシアスにとってはありえないことであった。十字軍は教会が旗振りをして始めたのだ。負けることなどあってはならない。その戦力は三二万。戦場は混乱をきたしているアルテンシア半島。軍事的にみても負ける要素は見当たらない。

 しかしその総勢三二万を誇った十字軍は、今や無残に喰いちぎられその威光は見る影もない。ゼーデンブルグ要塞に逃げ帰ってこられた敗残兵たちも、残された少ない食料を巡って争っている。あまりに速い転落にグラシアスは焦燥し、またシーヴァの影に怯えていた。

(帰ろう………。そう、帰るのだ!)

 神聖四国の勢力圏まで引き返せれば、教会の威光のもと巻き返しを図ることができるはずだ。なによりもシーヴァ・オズワルドの手から逃れ、命を安全に守るにはそれしかないように思われた。

 しかしシーヴァ・オズワルドのほうには、彼らを逃がしてやる意思はなかった。ゼーデンブルグ要塞に十字軍の残党が集まっていることを察知した彼は、すぐさまその要塞を奪還すべく動き始めたのである。

「敵軍襲来!!」

 その声が要塞内に響き渡ると、ついにグラシアスの精神は限界を迎えた。白目をむいて気絶した彼は、シーヴァ軍によって拘束されるまで意識を取り戻すことはなかった。

 さて、シーヴァの動きである。兵糧の絶対量が足りておらずまた援軍のアテがない十字軍は、遅かれ早かれ撤退するしかなかった。シーヴァが十字軍の内部事情を知っていたかどうかは定かではないが、戦わずとも十字軍はそのうち撤退するであろう事は分っていたはずである。

 しかし、シーヴァはそれで良しとはしなかった。
 その理由が感情的なものだったのか、それとも理性的なものだったのか、はたまた世論的なものだったのか、歴史書は黙して語らぬ。シーヴァは十字軍が立てこもるゼーデンブルグ要塞に攻撃を仕掛けた。これが歴史上の事実である。

 ゼーデンブルグ要塞の本来の目的は、大陸側からの侵略者に対する防波堤である。よって半島の外側、つまり大陸側の城壁は高く堅固であるが、半島の内側の城壁はそれほどでもない。目算で二メートルといったところだろうか。城門も鉄製だが、表門ほどの威圧感はない。

 シーヴァは愛馬にまたがり愛剣「災いの一枝(レヴァンテイン)」を水平に構えると、単騎で要塞に向かって突撃した。数瞬遅れて、副将のヴェート・エフニートが全軍に突撃を命じる。ただ彼女の顔に焦りは見えない。それはこれがミスではなく、折込済みの行動であることを示唆していた。

 要塞の城壁の上には弓兵たちがいて弓を構えているのだが、当然彼らは突出しているシーヴァに対して矢を集中させた。

 矢が放たれる様子を視認してから、シーヴァは「災いの一枝(レヴァンテイン)」に魔力を食わせる。主の魔力を糧として「災いの一枝(レヴァンテイン)」は黒き風を発生させ、シーヴァはそれを自分と愛馬の周りに防壁として展開した。その黒き防壁は降り注ぐ矢を全てはじき返す。その様子に弓兵たちは愕然としたのか、放たれる矢の量が減る。しかしそんなことはシーヴァにはとって埒外であった。

 シーヴァは黒き風を纏ったまま、鉄の城門めがけて疾走する。そして速度を緩めることなく城門めがけて突撃し、あろうことかその鉄の城門を吹き飛ばしそのまま要塞内に飛び込んだのである。

 これは戦術的な効果よりも、パフォーマンスとしての効果のほうが大きかった。シーヴァのありえない特攻を見せ付けられた十字軍の兵士たちは、それだけでなけなしの戦意を喪失させ逃げることしか考えられなくなったのである。

 シーヴァに続き六万の軍勢もまた要塞内になだれ込んでいく。十字軍に抵抗するだけの気力は残っていなかった。彼らは我先にと要塞の外、アルテンシア半島の外へと逃げ出していく。シーヴァは彼らを追わなかった。

 こうして十字軍はシーヴァによって、ことごとくアルテンシア半島の外へとたたき出されたのである。大陸暦1565年2月21日、この日は第一次十字軍遠征の失敗が確定した日として歴史に刻まれている。

 ちなみにこのゼーデンブルグ要塞での戦いで、ただ一人捕虜になった者がいる。それは枢機卿グラシアス・ボルカその人であった。



[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば8
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 11:03
時間は少し遡る。
 季節は冬の真っ盛り。あと二週間もすれば新年を迎える。

「新年は商機よ!」

 力強く拳を握り、オリヴィアはそう力説した。なんでもお祝い気分で人々の財布の紐はゆるくなっており、さらに少々高くとも珍しいものが好まれるから、各地の特産品を売買している行商人にとって新年は絶好の商機なのだとか。

「仕入れたオリーブオイルって珍しいものじゃないよな?」
「そうだけど、一年を通して使うものだし、いつでもどこでも需要はあるわ」

 それに新年のご馳走には欠かせないものよ、とオリヴィアは解説した。またキャラバン隊の商品はなにもオリーブオイルだけではない。

 キャラバン隊を率いているオルギンは、儲け最優先の人物ではなかったが、それでも商人の性として売り上げは多いほうが嬉しい。そこで新年めがけて少し大きめの都市を目指し、キャラバン隊の進路をサンタ・ローゼンの西に位置する国、フーリギアに向けた。

 フーリギアの版図は四三州。小国であり、神聖四国と教会の威光を笠に、というよりほとんど属国の立場を受け入れることによって、国を維持していた。そのせいか、教会の信者が多い国でもある。

 オルギン率いるキャラバン隊が目指しているのは、フーリギアの中でもサンタ・ローゼンとの国境に近い、つまり国土の中では東側に位置しているベルラーシという都市だ。この都市は幾つかの巡礼道が交差する場所になっており、都市の中心には大きな教会が建てられている。

 この時期ならば、教会の本拠地であるアナトテ山には距離的に行けない人々が新年の御参りに来ているはずで、年初めの商売にはちょうどいいといえる。

「ここからなら、新年の一週間くらい前にはつけるんじゃないかしら」

 広げた地図を前にして、オリヴィアがそういった。その概算にイストも頷く。このキャラバン隊と一緒に行動してすでに一ヶ月以上。一日にどの程度の距離進めるのかは、もう感覚として分っている。

 キャラバン隊とのこれまでの旅路は、とりあえずは順調であった。“とりあえず”と付くのは、小さな問題は幾つも起こっているが、そのつどきちんと解決され大問題には至らなかったからである。

 イストとジルドの仕事、つまり護衛の領分に限定してみれば、これまで野盗崩れや狼の群れ、バロックベアなどに襲われた。ただオルギンも言っていた通りキャラバン隊のメンバーだって戦えないわけではない。魔道具を持っていた野盗崩れは荷が重かったかもしれないが、獣程度なら彼らだけでも問題はなかっただろう。

 無論、魔導士二人の、というより主にジルドの敵ではない。バロックベアの時などは、三百キロはあろうかという大物だったのだが、オルギンに言わせると「随分余裕があるように見えた」らしく、「なるべく傷を付けずに仕留めてくれ」と注文を受けた。

「毛皮が欲しい」

 ということらしい。もちろん商品として、だ。ついでに言えばバロックベアの爪もなかなかいい値段で売れる。襲われているのになんとも緊張感のないオルギンの注文に、イストは肩をすくめジルドは苦笑を浮かべたが、二人はその要望にこたえた。

 バロックベアは大きな爪を振り回すが、ジルドは一定の間合いを保ちながら全てそれをかわしていく。そして相手が噛み付こうとしてきたところで一気に間合いを詰め、大きく開いた口に「光崩しの魔剣」を突き刺し、そして貫通させた。バロックベアはそれでもすぐには絶命に至らず、その爪でジルドの体をかき裂こうとしたが、その爪が彼の体に届くことはなかった。イストが展開した防御用の魔法陣が、バロックベアの爪を防いでいたのだ。

 ジルドが刀を抜いて下がると、バロックベアは仰向けに倒れこみ、そして立ち上がることはなかった。ちなみにその日は熊鍋をおいしく頂いた。貴重なお肉を捨てていくなんてもったいないことはできないのだ。

 こうしてイストとジルドは護衛としての仕事をこなしていたのだが、もちろん毎日毎日何かに襲撃されることなどありはしない。何もない日はキャラバン隊とメンバーや弟子であるニーナなどと一緒に雑用をこなしたりしているのだが、それも終わってしまうと本格的に仕事がない。そんなときはこうしてオリヴィアとお茶を飲みながら話をするか、新しい魔道具のアイディアをまとめたりして、イストはこのごろの毎日を過ごしていた。

「十字軍遠征の情報は何かないか?」

 少し温くなってしまったお茶を啜りながら、イストはオリヴィアに尋ねる。これまで旅をしてきたからか(今も旅の真っ最中だが)、この手の情報はどうしても気になる。

「確かなことは分らないけれど、小耳に挟んだ情報をつなぎ合わせると、どうもゼーデンブルグ要塞が落ちたみたいね」

 オリヴィアのその言葉にイストは、へぇ、と呟いて小さな驚きを示した。
 ゼーデンブルグ要塞はアルテンシア半島の入り口を守る大要塞で、常時十万の兵を駐在させ、大量の兵糧を抱え込んでいる。

 余談になるが、何もない平時に十万の兵を常時駐在させておくのは、財政的にもかなりきついものがある。アルテンシア同盟にはさらにもう一つ、パルスブルグ要塞もあったから兵の数は倍の二十万である。

 同盟にしてみればこれらの戦力は正規軍に当たるわけで、半島の規模からすればむしろ少ないともいえる。だが、それぞれの領主たちが警備隊(ほとんど私兵だが)を抱えている状態で、さらに二十万の兵を常備しておくことに無駄を感じる者もいただろう。

 当然、同盟内部には軍縮をとなえる領主もいたはずで、にもかかわらず発足以来ずっと要塞駐在軍の数を減らさなかったという事実は、アルテンシア半島の民に植え付けられた恐怖がいかに深刻であったかを物語っている。

 閑話休題。話を元に戻そう。そのゼーデンブルグ要塞が落ちたという。

「十字軍側の被害は?」

 ゼーデンブルグ要塞は噂に聞こえた大要塞である。それを落としたとなれば、十字軍側にも相当な被害が出ているとイストは思ったのだが、オリヴィアの答えは意外なものだった。

「それが、十字軍に被害はほとんど出ていないらしいのよ」

 そんな馬鹿な、と言おうとしてイストはその言葉を飲み込んだ。別の可能性が頭をよぎったからである。

「シーヴァ・オズワルド、か………」

 シーヴァ・オズワルド率いる反乱軍討伐のために要塞の軍を動かした、と考えれば一応筋は通る。要塞駐在軍がまとめて神隠しにあっただとか、戦いもせずに逃げたなどと考えるよりはよほど説得力があるだろう。

「そうね………。詳しい情報は分らないからなんとも言えないけど、それが一番可能性が高いと思うわ」

 オリヴィアと推測が一致してイストは満足そうに頷いた。腕利きの商人とは情報の分析にも優れているもので、オリヴィアのそれもなかなかのものなのだ。

 オリヴィアも嬉しそうに微笑みながら膝の上にのせた黒猫、ヴァイスの背を撫でる。あれ以来、この黒猫が喋るところをイストは見ていない。もしかしたら、マスターと決めたオリヴィアにも内緒にしているのかもしれない。ちなみにヴァイスが「ニャー」と泣くときはあの渋い声ではなく、普通の可愛らしい猫の鳴き声だった。

 ピクリと耳を動かし目を開けたヴァイスが、オリヴィアの膝の上から飛び降り背伸びをする。それからそのままどこかへ向かって歩いていってしまった。

「相変わらず気まぐれね」

 ご自慢のシッポをゆらゆらと揺らしながら歩く黒猫の後姿を見ながら、オリヴィアは苦笑をもらした。ただ、置いていってしまうかも、といった心配はしていない様子だ。

「気まぐれは、猫にしてみれば美徳じゃないのか」
「それもそうね」

 そして、二人は少し笑った。
 それにしても、とイストは思う。猫の姿をしてはいるがヴァイスは本来猫ではなく、猫型の魔道人形、突き詰めて言えば魔道具である。にもかかわらず、イストでさえそれと言われなければ、本物の猫と勘違いしてしまいそうな精巧さである。

(アレか?厳重に被せられた猫のおかげか?)

 セシリアナ・ロックウェルの、歴代のアバサ・ロットの技術力の高さに、改めて脱帽するイストであった。

**********

 男女の笑い声にニーナが顔を上げてみると、そこには師匠であるイストとオリヴィア(本人から呼び捨てでいいといわれている)の姿があった。

 イストとオリヴィアの関係、そして過去に何があったのか、ニーナは簡単にだが話を聞いている。淡々と語る師匠の話を聞いて、なぜか泣いてしまったのを覚えている。今でも悪夢を見ると言われ、今まで気が付かなかった自分が情けなくなった。

「優しい子ね」

 そういって頭を撫でてくれたオリヴィアは、強い人だとニーナは思う。彼女の顔に残る火傷のあとのことは、話の流れの中で出てきた。自分のほうが辛いはずなのに、こうして慰めてくれる彼女はとても強いと思う。

 二人はまだ話しをしている。仲のいい様子だし、また楽しそうでもある。
 ニーナが思うに、二人はなかなかお似合いだと思う。

 かつて同じ孤児院にいて、盗賊の襲撃を生き残り、互いに死んだと思っていた二人が十年の月日を経て再会する。なかなかに運命を感じる物語ではないか。

 くっついちゃえばいいのに、とそこまで安直に考えているわけではない。が、変人の師匠はともかくとしても、オリヴィアはそろそろ幸せになっていい頃ではないだろうか。いや、なって欲しいとニーナは思っている。イストと一緒になることで彼女が幸せになれるならば、ニーナとしては暗躍することもやぶさかではない。

(ただ師匠にバレたらどんな目にあうか………)

 呆れられて怒られるくらいならまだいい。きっとあの師匠のことだから、こちらの暗躍を逆手にとってろくでもない仕返しをしてくれるに違いない。

「うん。修行に専念しよう」

 二人を恋人にすべく暗躍する計画は半瞬の迷いもなく切り捨て、ニーナは手元の資料に視線を落とした。もとよりこちらが“本業”だ。暗躍計画には心惹かれるが、本業をなおざりにしてはいけないだろう。

(別に師匠の報復が怖いわけではなく………)

 そんな言い訳がましいことを頭の隅で考えてから、ニーナは資料に目を通していく。プーリアの村で読んでいたものとは別の資料だ。あれはキャラバン隊が村を出発する前に、レポートをまとめ作品を完成させることができた。最後の査定も今回は一発合格で、ニーナは出発とほぼ同時に新しい課題を始めたのだった。

 ただ、少し問題があった。キャラバン隊と行動するようになって、移動の際には馬車に乗っているのだが、当然馬車は揺れる。そんな馬車に乗りながら資料を読んでいると、酔うのだ。

(アレは気持ち悪かった………)

 そんなニーナを見かねて、ではなくニーナがイストに泣きついて用意してもらった魔道具が「バランスクッション」である。この魔道具は中に空気が入っているような感じで、馬車がどれだけ揺れても、このクッションがすべてそれを吸収してくれ、座っている人間には振動が伝わらないのである。

(おかげで随分読めましたねぇ~)

 徒歩での旅ならば歩きながら読むことはできない。が、馬車に揺られている間中読めるならば、随分と時間が有効活用できる。三十センチはあった資料の山は、今の時点で半分くらい読破している。

 至って順調。ニーナは進み具合にそう自己評価をつけた。これは師匠であるイストからの悪戯が減ったおかげだ、とニーナは思っている。

 プーリアの村に居たとき、ニーナは「形状記憶ジェル」を入れておいたビンの中身が、イストによってオリーブオイルにすり替えられていることに気づかずにそのまま髪の毛につけてしまったことがある。そのせいで髪の毛がベタベタのツヤツヤになってしまった。まったく、あのバカ師匠は女の子の髪の毛を一体なんだと思っているのだ。

 師匠は「使う前に気づけよ」と言っていたが、それではまるで中身をよく見ず頭にかけたわたしが悪いみたいではないか。

 厳重に抗議した次の日、今度は良く確かめてから使ったのだが、今度は何の効果もないただのジェルにすり替えられていた。それを知らずに使ったのもだから、次の日寝癖を直そうと魔力をこめても全然直らない。そのうえ、意地になって魔力を込めているところを師匠に見られて爆笑された。

 それが、キャラバン隊と一緒に旅をするようになってから、一度も悪戯を仕掛けられていない!

「ああ、平穏って素晴らしい………!」

 この平穏がオリヴィアといるおかげなのだとしたら、やっぱりくっ付いちゃえばいいのに、と思ってしまうニーナであった。

**********

 ニーナの他にもう一人、イストとオリヴィアが楽しそうに談笑する様子を見ている人物がいた。

 彼の名はコンクリフト・クルクマス。キャラバン隊のメンバーからはクリフの愛称で呼ばれている。彼は楽しそうに笑うオリヴィアの表情を見ると、悔しそうに視線をそらしうつむいた。

 クリフはもともと農家の生まれだ。決して、楽な生活ではなかった。そしてそれ以上に、先の見えすぎる生活だった。土にまみれ、日照りと雨を心配する。土と空ばかりに気にして、そのうち自分が人間であることさえ忘れてしまいそうだった。いずれ嫁を貰い、そしてこのまま土にまみれて生き、そして死んでいく。そんな未来が、いやそんな未来しか思い描けなかった。

 絶望した。先の知れた自分の人生に。

 三年前、オルギンに頼み込んでキャラバン隊に加えてもらったのは、商人になって自分の店を持ちたいという夢があったから、ではない。実家を継いで農業を続け、先の知れた人生を歩くのが嫌だっただけだ。家は弟が継ぐだろう。

 そして出会ったのが、オリヴィアだった。
 一目惚れ、だった。

 蜂蜜色の髪の毛も、青い瞳も、別に珍しいものではない。けれども彼女のそれはやっぱり特別で、今でもその考えは変わらない。笑いかけてくれたその笑顔に見とれて、それを気取られるのが恥ずかしくて、邪険にしてしまったのを後悔している。右目を髪の毛で隠していたが、その頃は深くは考えておらず、気が付けばその下にあるであろう素顔を想像していた。

 最初に邪険にしてしまったせいか、オリヴィアとはなかなか会話ができなかった。いや、オリヴィアは話しかけてきてくれるのだが、どうしてもつっけんどんな対応になってしまう。そんな時、彼女は決まって苦笑を浮かべて離れていくのだ。その背中を見送りながら、話しかけてもらえて嬉しいのに邪険にしてしまったことに後悔する。そんなことの繰り返しだった。

(あそこで話しているのが、なんでオレじゃないんだよ………!)

 つい先ほどの光景、イストとかいう護衛とオリヴィアが楽しそうに話していた光景を思い出して、嫉妬する。

 イストは、ヤツはオリヴィアの右目のことを知っている。にもかかわらずああやって話ができる。自分は、そのことを知ってますます気まずくなってしまったというのに。

 オリヴィアの右目のこと、そこに広がる火傷のあとのことを知ってしまったのは、ほとんど偶然だった。彼女が顔を洗っているところに出くわしたのである。正直な話、オリヴィアしか見ていなかったから、タオルの上におかれた眼帯には気づかなかった。

 そしてオリヴィアが顔を上げ髪の毛をはらったその瞬間、クリフは右目とその周りに広がる醜い火傷のあとを見てしまったのである。

 それは衝撃的な光景だった。オリヴィアは綺麗な人である。そんな彼女の顔に残る火傷のあとは、その凄惨さがいっそう際立っているように見えた。

 オリヴィアに声をかけることもできず、かといってそれを見続ける勇気もなく、クリフはその場から逃げ出した。

 初めて見てしまったその素顔は、当然のことながら想像していたものとは違う。自分が何も知らず、勝手な幻想を抱いていただけだと思い知らされ愕然とした。

 ただ、それで恋が冷めてしまったのかといえば、そんなことはない。傷ついているはずだと思うと、支えてあげたいと思うようになった。

 もっと彼女のことを知らなければならないと思い、キャラバン隊のわりと初期からいるメンバーにそれとなく話を聞いてみた。そしたら、物凄い形相で睨まれた。

「興味本位で首突っ込んでいい話じゃねぇんだぞ!」

 それでも食い下がったら、今度は殴られた。

「聞きたいんなら嬢ちゃん本人から聞け。聞く覚悟もねぇ奴が首突っ込むんじゃねぇ!」

 まったくその通りだろう。しかし、かといって本人に聞くことなどできなかった。それができる勇気があるなら、あの時逃げ出しはしなかった。

 殴られた頬を擦りながら、すごすごと退散する。そして、そこで出会ってしまったのだ。オリヴィアと。

「どうしたの?」
「あ、いや、その………」

 クリフ本人はいつも通りに対応しているつもりだった。しかしいぶかしむオリヴィアの様子を見て、それが失敗していたことに気づく。

 そして、オリヴィアが何かに思い至ったのか目を見開く。そして、彼女の表情は強張っていった。

 バレた、と直感した。オリヴィアの右目の火傷痕を見てしまったことに気づかれた、と彼女の表情で分ってしまった。

 血の気が引く。何か言おうとするが、上手く言葉が出てこない。そのせいでさらに焦り、挙動不審になっていく。それを見たオリヴィアが確信を深めたのが分った。

 悪循環。

「ごめん。わたし、ちょっと用事思い出したから………!」

 そういって顔を俯かせ、オリヴィアは逃げるようにして足早に去っていく。それがいっそありがたかった。だけど、一瞬後には“ありがたい”なんて思ってしまった自分に嫌気がさす。

 なぜ何も言えなかったのか。なぜ手を伸ばさなかったのか。なぜ追いかけていかないのか。
 なぜ、なぜ、なぜ?

 それから、オリヴィアとはさらにぎこちなくなってしまった。簡単な事務連絡程度にしか、言葉も交わさない。

 それでもオリヴィアの夢をみる。だけど夢の中の彼女の顔は、想像していた、火傷痕のない顔だ。その夢を見るたび、自分はありのままのオリヴィアを受け入れられていないのだと、激しい自己嫌悪に陥る。

 嫌われてしまったかもしれない。
 そう思うと、自分から話しかけることもできない。謝ることもできず、オリヴィアのとの関係はいっこうに改善されないまま、初めて出会ってからもう三年が経ってしまった。

 オリーブオイルを仕入れるためプーリアの村に来たとき、キャラバン隊の隊長オルギンはそこで護衛二人と雑用を一人雇った。護衛の名前はイスト・ヴァーレとジルド・レイド。雑用の名前はニーナ・ミザリだという。

 二人の護衛の腕は確かだと思う。クリフも男手として武器を持って戦うことが何度かあったが、二人が前に出て戦ってくれると随分楽だし危険も減った。

 三人とも気のいい連中で、すぐにキャラバン隊とも馴染んだ。ただ三人、特にイストがオリヴィアと仲良くなったのは、クリフにとって大問題であった。しかもイストはクリフがつまずいた障害を、いとも簡単に乗り越えてしまったのだ。

 その時オリヴィアは、やはりあの時と同じ様に顔を洗っていた。イストはそこに近づいていき、彼女にタオルを手渡したのだ。そしてそのタオルを受け取ったとき、オリヴィアは笑顔だった。

 衝撃的だった。火傷痕のことをクリフに知られたときにはあんなにも動揺したというのに、イストには火傷痕そのものを見られても何も気にしていないのだ。そしてイストのほうも、彼女の顔に広がる火傷の痕を気にしている様子はない。まるでそんなものは何の問題でもないかのように、二人はごく普通にしていた。

(なんでアイツにはできて、俺にはできないんだよ………)

 差を思い知らされた気がした。自分の器の矮小さを思い知らされた気がした。
 イストはオリヴィアの幼馴染だという。つまり彼女の過去を知っている。自分だってソレさえ知っていれば、と思う一方で面と向かって聞く勇気はない。

 自分の臨む位置にいるイストの事が、憎らしくて羨ましくて妬ましい。そして遠くから眺めていることしかできない自分が、嫌いだった。

**********

 先ほどからこちらを見ていた男が、誰かに呼ばれたのかその場を去っていく。イストの視線に気づいてオリヴィアも同じほうを見た。

「クリフ、ね………」

 オリヴィアが少し悲しそうにその名前を呟く。聞けば火傷のあとをどこかで見られたらしい。

「見られたとしてもそれは私の不注意だろうし、何かあるわけじゃないわ。ただ、お互いぎごちなくなっちゃってね………」

 以来、距離が開いたままだという。

「嫌われちゃったかな………」

 その言葉は、クリフには届かなかった。





*******************




「あの、師匠、ちょっといいですか?」

 意を決したように、ニーナがイストに話しかけた。
 二人がいるのはガタガタと揺れる馬車の中である。この馬車の中には二人しかおらず、御者はジルドがやってくれているため、キャラバン隊のメンバーに話を聞かれることはない。

「ん?どした?」

 煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら、心ここにあらずといった感じでぼんやりとしていたイストは、弟子に呼ばれると視線を水平に戻した。

「ヴァイスのことなんですけど………」
「あの黒猫がどうかしたか」
「魔道人形、なんですよね………?」

 聞けば一人で資料を読んでいるときに話しかけられたという。「すっごい渋い声」と驚いたら、「………やっぱりアバサ・ロットの弟子だにゃ」と呆れられたとか。

「よかったな、変人認定だ」
「全然よくないですよぉ!?」

 わたしは一般人で常識人ですっ、と力一杯主張する弟子を、イストは「無煙」を吹かしながら、恐らくは意図的に無視し話を進める。

「それで?興味が湧いたってか?」
「あ、いや、その………、魔道人形じゃなくて、義足とか義手のほうに………」

 それで魔道人形「白(ヴァイス)」を参考にしたいらしい。しかしニーナは言いにくそうだった。現状彼女には課題が与えられており、それを放り出して新しい魔道具に現をぬかすのは、やはり良くないと自覚しているのかもしれない。が、新しいことに興味を持つのが悪いことだと、イストは思わない。

「製作者の名前はセシリアナ・ロックウェル。『白(ヴァイス)』だけじゃなくて別の魔道具の資料も残ってるだろから、今度資料室をあさってみろ」
「いいんですか!?」

 ニーナが目を輝かせる。今なら「三回まわってワン!」とか言われてもやりそうだ。

「いいよ。ただし作るのは課題が優先」

 課題は適当に出しているわけではない。弟子となった者が着実に知識と技術そして着眼点を増していけるように、その順番は歴代のアバサ・ロットたちによって少しずつ修正されながら今日まで受け継がれているのである。

 師匠のお墨付きが出て喜ぶニーナに苦笑してから、イストは再び「無煙」を吹かし、宙を眺める。

「あの………」
「ん?まだなんかあるのか?」
「いえ、さっきからずっとそうしてますけど………、悩み事ですか?」

 そう言われイストは悩んでいたのだろうかと考え、そして悩んでいたかもしれない、と結論を下した。とはいえ大きな問題ではない、と自分では思っている。だが言葉にして出せば考えもまとまるかもしれない。

「なんていうか、オリヴィアにやる魔道具のことでな………」
「思いつかないって事ですか?」
「いや、義眼にしようとは思ってる。けどな~」

 イストは魔道具職人である。よって火傷の痕を治すことはできない。だが火傷の痕を隠すような魔道具ならば作ることができる。それこそ綺麗な素肌と眼球があるように見せかける、そんな魔道具だって作れる。

 しかし、そんなものになんの価値がある?

 隠すだけなら今と同じである。隠したならば隠し続けなければならない。いくら精巧に隠し火傷などしなかったかのように見せかけても、それは隠しているだけ、見せかけているだけだ。出合う全ての人を騙せたとしても、自分は決して騙せない。オリヴィアはいつか醜い素顔がバレてしまうではないだろうかと、怯え続けるだろう。精巧に隠していた分、バレた時の周囲の反応は大きく、それだけ大きく彼女の心をえぐるだろう。

 そんな魔道具を贈ったところで意味はない。少なくともイスト・ヴァーレという魔道具職人はそう考えている。

 そうなると、作るべき魔道具は義眼くらいしか残っていない。つまり義眼という選択は、消去法の末に残ったものでしかないのだ。

「でもな~、普通に義眼作っても多分使ってくれないんだよ」

 義眼を使うということは、火傷の痕をさらすということである。火傷の痕を人に見られる。それはオリヴィアが最も恐れていることだ。どれだけ便利な魔道具であっても、そんな精神的苦痛を背負い込んでまで義眼を使うことはないだろう。

 だが贈った魔道具をまったく使ってもらえないのは、魔道具職人としては悲しいものがある。

 義眼を作っても使ってもらえない公算が大きく、だから言って他にいいアイディアが浮かぶわけでもない。さてどうしたものか、というのがイストの悩みであった。

「相手が必要としている物を作ってやれないのは、やっぱ魔道具職人としては悔しいよな………」

 誰にともなくイストは呟く。
 キャラバン隊がフーリギアのベルラーシに着いたのは、その二日後のことであった。

**********

 ベルラーシは予想通り大変な賑わいを見せていた。通りにごった返している旅行者のほとんどは、この都市の中心部にある教会で新年のお参りのために来た参拝客であり、その参拝客を目当てにした商人たちもこの都市を訪れている。かく言うオルギン率いるキャラバン隊も、そんな商人の一団のひとつだ。

 オルギンはまず街の広場で露店を開く許可を貰い、そこを街の中での商売の拠点にした。また街の外にはキャラバン隊の馬車をまとめておき、そこにも露店を開く。街の中はスペースが限られており、思うように商品を並べられないのだ。同じ事を考えているのか、幾つのも露店が待ちの外に出されており、お祭り騒ぎの様相を呈していた。もっとも新年の祝いはまごうことなくお祭りであるが。

 ただ馬車を都市の外に置くのは、露店を開くためではない。むしろ馬車を都市の外に置かねばならないからついでに露店も開く、というのが正しいかもしれない。

 今、ベルラーシには多くの参拝客が訪れている。当然、宿屋はどこもかしこも一杯で空きなどない。仮にあったとしても、街の中に馬車を何台もつないでおくのは、その分場所代も多く取られるしはっきり言って邪魔だ。ならば街の外においておくのが一番簡単でいい。何人か留守番役を決めなければならないが、それも持ち回りにすれば不公平にはならない。

 イストたち三人は、今回この留守番役を買って出た。今はまだ護衛として雇われている身分。この留守番役も仕事の範疇であろう。無論、留守番役は三人だけではないが、それでも街の宿屋に泊まれる人数が三人増えるわけで、柔らかいベッドが恋しいメンバーには福音だったようだ。

 ただイストには別の思惑もある。人目が少なくなれば、それだけアバサ・ロットの工房である「狭間の庵」にこもって魔道具を作りやすくなる。さすがに籠もりっぱなしというわけにはいかないだろうが、イストとニーナが交互に使う分には、それほど怪しまれずにすむだろう。

 新年が近づくにつれ、ベルラーシも熱気を帯びていく。お祭り気分にあてられた人々の財布の紐は予想通り緩くなっている様子で、帳簿を付けるオリヴィアもホクホク顔だ。彼女は今回留守番組なのだが、留守番役が必要なのは主に夜で、昼間は街の中に開いた露店の商品の補充や御用伺いに奔走していると言う。

「イスト今暇?暇よね?ちょっと手伝って」

 御用伺いから戻ってきたらしいオリヴィアは、馬車の陰で「無煙」を吹かしていた(決してサボっていたわけではない)イストをひっ捕まえ、強引に自分の仕事を手伝わせた。なんでも何軒かの食堂や宿屋からオリーブオイルの注文を受けてきたので、これから量り売りに行くのだという。

 小さめの馬車の荷台を空にし、量り升を用意する。あとはオリーブオイルの入った大樽を乗せればよいのだが、これは男の大人でさえも一人で持ち運びできるような代物ではない。当然、女性のオリヴィアでは動かすこともままならない。

「イスト、お願い」
「おいおい、一人でやれっていうのかよ」
「出来るでしょ?」

 あっさりとそう言われイストは肩をすくめた。確かにやってやれないことはない。それを見越してオリヴィアはイストを引きずってきたのだろう。その人選たるや見事である。

(人を使うのが上手いねぇ………)

 使われる側のイストとしては苦笑するしかない。
 苦笑しながらもイストは「光彩の杖」に魔力を込める。するとオリーブオイルの入った大樽の上に魔法陣が描かれ、大樽が宙に浮く。イストはさらに宙に浮いた大樽の下にも魔法陣を描き、大樽を安定させてから動かし、オリヴィアが用意した馬車の荷台に移動させた。

 物体を宙に浮かす術式は魔力の消費が激しく、長時間は使えない。しかし今回のように短時間ならば大きな問題はない。もっとも疲れるからやりたくないというのがイストの言い分である。

「男が泣き言いわない」

 そういってオリヴィアはイストの背中を叩き、馬車の御者席に座り手綱を取った。仕事は終わったとばかりに再び「無煙」を吹かそうとするイストに、オリヴィアは無情にも(イストの主観)宣言する。

「何やってるの?早く乗って」
「オレも行くのかよ………」
「護衛でしょ?可憐な乙女が暴徒に襲われないよう、しっかり肉体労働してね」
「………建前と本音が混じってるぞ」

 あら失礼、とオリヴィアは屈託なく笑った。こうやって笑ったり「可憐な乙女」と自己申告したりするあたり、なかなかいい性格をしている。

 イストは再び肩をすくめ、オリヴィアの隣に座った。最後の抵抗のつもりか、「無煙」は吹かしっぱなしだ。

 そんなイストの様子に、オリヴィアは本人に気づかれないよう小さく笑ってから、馬車を出した。

 そんな二人の様子を、クリフが悔しそうに見送っていた。

**********

「これで全部か」
「そうね。お疲れさま」

 全ての食堂や宿屋を回りオリーブオイルの量り売りを終えると、時刻はすでにお昼を大きく過ぎていた。参拝客が多いこの時期、料理に欠かせないオリーブオイルの需要は多いらしく、あらかじめ御用伺いで注文をとってきたところ以外からも声がかかる盛況ぶりであった。

 可憐な乙女が暴徒に襲われる、などということはもちろんなく商売は順調に進んだ。満タンだった大樽も、油はほとんどなくなり随分と軽くなっている。皮袋の中には銀貨がジャラジャラと詰まっており、オリヴィアも満足そうだ。

 そして一仕事終われば腹が減る。仕事を優先したため二人とも昼食は食べておらず、一度意識してしまうと空腹は声高に自己主張を繰り返す。

「どこかの店にでも入るか?」
「………馬車があるとお店には入りにくいわね。露店で買って済ませましょう」

 食堂に入るならば、一度街を出て馬車を置いてくる必要がある。だが今は二人ともそんな手間をかける気にはなれなかった。幸い露天の中には参拝客目当てに食べ物を売る店もある。軽く食べて空腹を満たそう、という話になった。

「じゃあ、オレが買ってくるから、教会前の広場で待っていてくれ」

 店に入るわけではないのだから、別に馬車で移動しながら食べてもいいのだが、一仕事終えた後だしできることなら落ち着いて食べたい。道路の真ん中に馬車を止めておくわけにもいかないから、二人は教会前の広場で食べることにした。

 オリヴィアは頷いて了承を伝えてから、銀貨を何枚か取り出しイストに渡した。どうやらこれは経費になるようだ。

 人ごみの中にまぎれていくイストを見送ってから、オリヴィアは広場を目指して馬車を出した。御者席に座っているオリヴィアは、いつもよりも視線が高い。普通に歩けばごった返す人々の頭か背中くらいしか見えないだろうが、今は道が広場にまで続いていることをしっかりと確認できた。

 広場に着くと、そこでも数多くの露店が開かれている。オリヴィアは他の商人たちの邪魔にならないよう、馬車を広場の隅っこに止めた。御者席からおりて、馬車を引いてくれていた馬の首を撫でながら、「ご苦労様」と声をかけてやる。すると馬のほうも嬉しそうにして、顔をオリヴィアのほうに摺り寄せてくるのだった。

 そうやって馬の首筋を撫でてやっていると、人々のざわめきがオリヴィアの耳に入った。視線を巡らせて原因を探ると、教会の門が開き中から一団が出てくるところであった。その集団の中心には一人の女性がおり、彼女がその集団の主要人物であることをうかがわせた。

「ララ・ルー・クライン様だ」

 そんな声が、オリヴィアの耳にも届く。
 ララ・ルー・クライン。確か、今の神子であるマリア・クラインの養女であり、後継者と目されている人物であったはずだ。視察巡礼の旅に出ているとは聞いていたが、ベルラーシで見かけるとは思っても見なかった。

 いや、良く考えればそれほど珍しいことでもないかもしれない。新年が近づくと、ここベルラーシに多くの参拝客が訪れることは彼女も知っているはずで、ならば視察巡礼の途中、新年めがけてこの都市を訪れても不思議はない。

 ララ・ルーを視線で追っていけば、参拝客らしい人々に笑顔で話しかけている。彼女の年齢は十七、八のはずだが、童顔のせいかもっと幼く見える。

(教会………。神子様、かぁ………)

 オリヴィアは教会に対してあまりいい印象を持っていない。それは、

「神様がいるならもっとマシな世界を作ってくれよ」
 という漠然とした不満ではなく、自身の体験に基づく不快感が原因であった。

 右手をまくると、そこには蝶をあしらった腕輪がある。孤児院にいた頃は、これを持っていればそのうちにお母さんが迎えに来てくれる、とそう思っていた。今はもう、そんな夢はみていない。

(これは過去。わたしの、過去)
 今はそう考えている。

「あの、少しよろしいでしょうか?」

 声をかけられ我に返ると、目の前にいたのはララ・ルー・クラインその人であった。

**********

 本来、ララ・ルー・クラインの視察巡礼の旅において、フーリギアのベルラーシを訪れる予定はなかった。計画では神聖四国の西部を巡る予定で、国境を越えるつもりはなかったのだ。

 だがララ・ルーが近くに来ていることを知った、ベルラーシで教会を管理している聖職者に「是非おいでください」と招待を受けたのだ。時期的に見て、新年のお参りをする参拝客に顔を見せてやって欲しい、ということなのだろう。

 予定してはいないことだったが、ベルラーシは神聖四国の境にも近く、また新年になると多くの参拝客がそこの教会にお参りをすることを知っていたララ・ルーは、予定を変更してこの都市に来たのである。

 教会を管理している聖職者の話によると、毎年この時期になるとベルラーシの人口はいつもの二倍以上に膨れ上がるという。実際街の多くの人で賑わっており、露店もたくさん開かれている。あとでこっそり出歩いてみよう、とララ・ルーが画策していた。

 だがその前にお仕事である。お仕事と言っても特別なことをするわけではない。精々参拝客と話をするくらいだ。とはいえ神子の後継者であるララ・ルーは、ただそこにいることに意味がある。神子の代理という彼女の立場は、それだけで教会の神秘性を体現しており、多くの参拝者は「ご尊顔を拝する」ことができれば満足なのである。

 この扱いに、ララ・ルーとしてはこそばゆいものを感じざるを得ない。彼らがありがたがっているのは神子であるマリア・クラインであり、自分はいわばその“影”にすぎないとわきまえているからだ。それでも敬愛する義母が、こうして人々に慕われているのを見るのは嬉しい。また同時に義母の評判を落とさぬよう、いっそう精進しようと思うのである。

 この日は午前中に一度教会前の広場に出て信者の方々とふれあい、遅めの昼食を食べて少し休憩してから、もう一度広場に顔を出した。ララ・ルーの周りは護衛の人たちが固めている。最初の頃は仰々しくて嫌だったけど、「大切な御身ですので」と色々な人に説得され、彼女は今では半分諦めていた。ただそのうち隙を見つけて出し抜き、一人歩きを楽しむつもりでいる。

 ララ・ルーが広場に顔を出すと、すぐに信者たちが寄ってくる。ララ・ルーは手を握ったりしながら、彼ら一人ひとりに声をかけていく。

 だからソレが目に入ったのは、本当に偶然だった。

 広場の隅に一台の馬車が止まっており、その馬車に一人の女性が寄りかかっていた。髪の毛は蜂蜜色で、あいにくと瞳の色は見えない。ただ髪の毛で右目の部分を隠しているのが特徴的だった。

 その女性が、右腕にはめた腕輪を眺めている。遠目に見ただけだが、それでもララ・ルーはその腕輪に見覚えがあった。

(あれは、お義母さまの………?)

 その女性がつけている腕輪は、マリアが持っている蝶をあしらった腕輪に良く似ていた。いや、似ているように見えた。

 マリアの腕輪について、そのいわれはララ・ルーも知っている。先代の神子でありマリアの恋人であったヨハネスとお揃いの腕輪であり、今彼女が持っているのはそのヨハネスの腕輪であるという。

 ではもともとマリアが持っていた腕輪は今どこにあるのか。それはごく自然に抱く疑問だろう。しかしララ・ルーは、その疑問を直接マリアに聞くことができずにいた。

 断片的な情報なら、噂話として彼女の耳にも入ってきている。マリアが実子を死産したときに一緒に墓に入れたとも聞くし、あるいは孤児院に預けたときに持たせた、とも聞いている。しかしどちらが正しいのか、あるいは両方とも間違っているのか、ララ・ルーは確かめることができなかった。

 実子。実の、子供。

 その言葉はララ・ルーの胸を締め付ける。もちろんララ・ルーは義母であるマリアのことが大好きだ。恩義を感じているし、いつか恩返しをしたいとも思っている。そして義母も自分のことを愛してくれていると、確信している。

 だけど、それでも。ララ・ルーが養女であるという、実の子ではないという事実は、消えはしない。

 その子はどうなったのか。生きているのか、それとも死んでしまったのか。生きているならどうしてマリアと一緒にいないのか。もしかして自分は………。

 自分は、その子の身代わりなのだろうか。

 養女であるという負い目。幸せであるという、マリアの実の子を差し置いて幸せになってしまったという、負い目。それはララ・ルーの心の中に小さな、しかし暗い影を落としている。

 だからララ・ルーは今まで「マリアの実の子供」に関する話題は避けてきた。しかしここベルラーシで、そこにつながるかもしれない腕輪を見つけてしまったのだ。

 勘違いで済ませることもできた。しかしララ・ルーは済ませなかった。マリアの持っている腕輪は彼女も見慣れている。遠くからでもそれと見分ける自信はあった。

 その、蝶をあしらった腕輪に良く似た腕輪を見つけたのだ。しかもはじめて。

 心臓の鼓動が早くなる。

 ララ・ルーはマリアの実子に対して負い目を感じている。つまり名前も知らないその子に負い目を感じるほど、気にしているのだ。

 足がその腕輪を持っている女性のほうに向く。なぜわざわざ近づいていくのだろう。今まで触れたくないと避けていたのに。

 考え事でもしているのか、随分近づいてもその女性は気づく様子がない。
 今なら引き返せる。

「あの、少しよろしいでしょうか?」

 声をかける。声をかけて、しまった。

**********

 感傷に浸っているところに突然ララ・ルー・クラインに声をかけられ、オリヴィアは一瞬だけだが放心した。だがその一瞬あとには万人受けする営業用の笑顔を作る。教会のことは好きになれないし、積極的に関わるつもりもない。しかしその感情をこの場で表に出すほど、オリヴィアは子供ではなかった。

「はい、何でしょうか」

 オリヴィアがそう応じると、ララ・ルーは一瞬戸惑うような素振りを見せてから言葉を続けた。

「わたしはララ・ルー・クラインといいます」
「存じております。オリヴィア・ノームといいます」
「素敵な腕輪ですね。少し見せていただいてもよろしいでしょうか?」
「え、ええ、かまいません」

 そういってオリヴィアは腕輪を外し、ララ・ルーに手渡した。ララ・ルーは受け取った
腕輪を一通り眺めると、一瞬気難しげな表情を浮かべたが、すぐにもとの笑顔に戻った。しかし彼女の胸のうちは表情ほど穏やかではない。

(これは確かにお義母さまと同じ………。でもだからと言って………)

 その腕輪には蝶をあしらった絵柄が掘り込まれていた。見慣れた、マリアの腕輪と同じ絵柄である。だからといってこのオリヴィアという女性と義母マリアになにかしらの関係があると決め付けるのは早計であろう。

「これは、どこでお求めになったのですか?」
「さて、それは………。物心付いたときから持っていましたが、自分で買ったものではないので………」

 嘘はついていない。しかし全ての事情を説明する気にはなれなかった。全てを説明しようと思えば自分が孤児で、その上生活していた孤児院が盗賊に襲われてほぼ全滅した、などということも言わなければいけないだろう。それを説明したときの人々の反応に、オリヴィアは大概飽きていた。

 そうですか、とララ・ルーは呟き腕輪をオリヴィアに返した。さらに何か言おうとしたとき、横から男の声が割り込んだ。

「悪い。待たせたか」
「イスト………」

 どこかほっとしたように、オリヴィアがその男の名を呼んだ。
 イスト、と呼ばれた男は整った目鼻立ちをしていたが、かといって取り立てて美形というわけでもなかった。だが、その目は強い力を秘めているようにララ・ルーには感じられ、それが容姿以上に彼の存在に生気を与えていた。食べ物でも買ってきたのか、いい匂いのする袋を抱えている。

「貴様、無礼であろう!」

 話しに割り込んできたそのイストという男に対し、護衛の一人が怒りの声を上げた。ただ彼にひるんだ様子はなく、オリヴィアに何ごとかと視線で問いかける。

「ララ・ルー・クライン様よ」
「ああ、なるほど………」

 イストは納得した様子を見せたが、かといって慌てることはなかった。それどころかこんなことを言い出した。

「一つ聞いてみたいことがあったんだけど、いいか?」

 言葉遣いを改めない彼に対し憤りの声を上げる護衛を制し、ララ・ルーは「いいですよ」と答えて先を促した。話を遮られたことに憤りは感じたが、それ以上にほっとする気持ちのほうが強かった。これ以上藪をつついては、蛇よりやっかいな何かが出てきそうな気がしていた。

(触れたいけど、触れたくない。矛盾していますね………)

 イストというこの男のおかげで、今回は触れなくてもいいほうに話が流れてしまった。そして一度流れてしまった話を蒸し返す気力は、ララ・ルーにはなかった。

 腕輪のことはとりあえず頭の片隅に追いやり、ララ・ルーはイストの問いかけのほうに意識を集中した。

「何の罪もない子供たちが盗賊に襲われ、そして殺された。なぜそんなことが起こる?」

 その問いかけにオリヴィアは息を呑んだ。必要最低限の、いやもしかしたら必要最低限未満の言葉だが、彼女はイストが何をいわんとしているのか分ったのだ。つまりあの夜の、孤児院が盗賊に襲われた夜の説明を求めているのだ。そしてその答えは、かつてオリヴィアが求めたものでもある。そして恐らくはイストも。

「それは神々が小さな天使たちをお求めになったのです。その子供たちは、今は神々の御許で幸せに暮らしていますよ」

 慣れた調子でララ・ルーはそう答え、目を閉じて冥福を祈った。この手の問いかけは過去に何度もされてきた。そしてそのたびにこう答え、相手はそれで満足してくれた。教会ではそう教えられていたし、実際彼女自身その教えを疑ったことはなかった。

「そうかい。それはよかった」

 イストのその言葉で、ララ・ルーは目を開けた。しかし、イストの目を見てララ・ルーは凍りつく。

「じゃ、そろそろ行くか」

 イストはそういって顔色を悪くしているオリヴィアを促し、馬車の御者席に乗せた。それから彼はララ・ルーに軽く一礼し、馬を引いてその場を後にした。

 二人が去ったあとも、ララ・ルーは凍り付いてしばらく動けなかった。

(なんで………?どうして………!?)

 つい先ほどのララ・ルーを見るイストの目。あの目は冷たい軽蔑の目だった。

**********

 オリーブオイルの量り売りに行ったオリヴィアとイストの二人が、キャラバン隊の本隊に戻ってきたのはお昼を大きく過ぎた頃のことだった。昼食は露店で買って済ませたらしく、馬車の荷台には空の袋がまとめられていた。

 帰ってきた二人の、というよりオリヴィアの異変に、クリフはすぐに気が付いた。いつも明るい彼女が、今は意気消沈したように肩を落としている。

 イストと喧嘩でもしたのかと思ったが、どうも様子が違う。むしろイストは気落ちしたオリヴィアを気遣う様子を見せ、今はお茶の用意をしていた。

 お茶を差し出したイストに、オリヴィアが微笑みかける。その光景を見て、クリフの胸は痛んだ。自分にはできないことをいとも自然にやってしまうイストのことが、憎らしくて羨ましくて、そして妬ましい。

 クリフの視線の先で、二人がお茶を飲んでいる。特に会話をしている様子はないが、二人の間には独特で穏やかな空気が流れていて、クリフはそんな二人の間に入ることはできなかった。

**********

 オリヴィアがララ・ルーと出会い、そしてイストが過去を問いかけたその日の晩、彼はキャラバン隊の馬車から少し離れたところに座り込み酒を飲んでいた。季節は冬の盛り。空に雲はなく、星は剣のように冷たい光を放ち、地上に残ったなけなしの熱を奪っていく。イストのそばには「マグマ石」が煌々と熱と光を放ち、極寒の世界に対抗していた。

「わたしにも一杯もらえるかしら」

 近づいてきた足音に目をやると、オリヴィアが立っていた。そして彼女は返事をもらう前にイストの隣に座り込んだ。

「寒くないのか?」

 イストは魔道具である「旅人の外套(エルロンマント)」を羽織っている。この外套は温度調節と雨・風除けをする魔道具だから、これを一枚羽織っていれば中は薄着でも随分と温かい。が、オリヴィアのほうはそうはいかないはずだ。

「大丈夫。一杯着込んできたから」

 そう答えるオリヴィアに、イストは杯をわたし「魔法瓶」に入れられたお酒をついでやる。

「あら、温かいお酒なんだ」

 杯に注がれたお酒が湯気を立てているのを見て、オリヴィアが少し驚く。このエルヴィヨン大陸にはお酒を暖めて飲む習慣はあまりないから、当然といえば当然だ。

「コッチで仕入れたスモモのお酒だ。買ったときに、この季節なら暖めて飲むといいって店員さんが教えてくれたんだ」
「………忙しくてもお酒の補給は欠かさないのね」

 たいして飲めないくせに、とオリヴィアが少し呆れたように言う。イストがお酒好きであることは、この二ヶ月近く一緒に旅をして彼女も知っている。同時に彼が“うわばみ”とか“ザル”などと称されるような、酒豪でないことも知っている。下戸というほど弱くはないのだが、飲んだら飲んだだけ酔うタチだ。一度酒好きの隊員の飲み比べに付き合って潰され、もどしたのも知っている。ちなみにオリヴィアは大体止める側だ。放っておくと商品にまで手を出すのだ、奴らは。

 オリヴィアは、それほどお酒は好きではない。甘い食中酒を嗜む程度だ。それが、この日の夜はアルコールを求めた。

 原因は分っている。昼間の、ララ・ルーのあの言葉だ。

「………悪かったな」
「なんでイストが謝るのよ」
「なんとなく、な………」

 会話はそこで途切れた。二人とも言葉は交わさず、ただ冬の星空を眺めながらスモモのお酒で体を温める。

「ねぇ」

 沈黙が気まずくなったわけではないだろうが、先に口を開いたのはオリヴィアのほうだった。視線は夜空のほうに向いている。

「あの質問、前にもしたことがあるの?」

 それは疑問というよりも確認だった。確証はないが確信はある。矛盾してはいるが、オリヴィアは疑っていない。

「ん?まあね。ていうか、そっちも?」
「………前に一度、ね」

 そして同じ答えを頂戴したのだという。きっと、教会の方でも良くされる質問で、答えがマニュアル化されているのだろう。

「アレはないよな………」
「そうね………」

 あれは何も知らない人間の慰め方だ。いや、慰めにすらなっていない。生き残ってしまった当事者にしてみれば、傷口に塩をすり込まれるのと同じだ。ああやってしたり顔の聖職者に慰められた(・・・・・)あと、イストは、そして恐らくはオリヴィアも、神々とやらを呪ったものである。

 そうやって二人が話していると、新たな足音が近づいてきた。そして足音の主は、躊躇いがちに二人に声をかけた。

「あの………!」
「………こんなところに一人できていいのか?」

 イストが呆れたように足音の主にそう声をかけた。足音の主は、ララ・ルー・クラインその人であった。昼間のような護衛はつけておらず、ただ一人でここまで、つまり街の外まで来たようである。

「抜け出してきました」

 そう答えるララ・ルーに、イストは「お転婆だねぇ」と呆れる。ただその言葉には若干の棘が含まれていた。

「それで、何のようだ?」

 イストにそう問われると、ララ・ルーは一瞬言いにくそうに目を伏せたが、すぐに意を決したように目を上げイストの視線を真っ直ぐ受け止めた。

「昼間、気分を害してしまったようでしたので………」
「わざわざ謝りに来たの?」

 オリヴィアも呆れ気味だ。しかしララ・ルーはそれを否定した。

「いえ、その理由を伺いに」

 その言葉を聞くと、イストは「へぇ」と小さく呟き目を鋭く細めた。酔っ払っているわけではないが、アルコールのせいか目が据わっている。

「同じような質問は、これまでも何度かされたことがあります。そして同じような答えを返してきました」

 今回と同じように。しかしその答えを聞いたイストは、目に蔑みを宿した。それを見て、傷つけてしまったと直感したという。もしかしたら、これまで質問に来た人たちも傷つけてしまっていたのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなった。

「教えて頂けませんか。何が、悪かったのでしょうか?」
「………あの時、自分がなんて答えたか覚えてるか?」

 杯を傾けながらイストはララ・ルーに問うた。ただ視線は彼女から外し、夜の寒空を見上げている。

 あの時、イストは次のように問い、そしてララ・ルーはこう答えた。
『何の罪もない子供たちが盗賊に襲われ、そして殺された。なぜそんなことが起こる?』
『それは神々が小さな天使たちをお求めになったのです。その子供たちは、今は神々の御許で幸せに暮らしていますよ』

「はい。覚えています。ですが………」

 その答えにまずいところがあったとは、どうしても思えないのだ。実際教会ではこう教えられてきたし、幸せになっているのだから慰めにもなると思うのだが。

 しかし、ララ・ルーのそんな主張は、イストの次の言葉で木っ端微塵に砕かれることになる。

「それじゃまるで神々が子供たちを殺したみたいじゃないか」

 イストの言葉はむしろ淡々としている。しかしララ・ルーは殴られたかのような衝撃を受けた。

 神々が小さな天使たちを求めた。それはつまり神々が子供たちの死を望んだ、子供たちを殺した、と解釈することができる。自分たちの都合で子供を殺して召し上げる。その行為に慈悲深さを感じる人はいないだろう。

「それは………!」

 ララ・ルーは反論しようとするが、言葉は出てこない。言葉をさがす彼女を無視して、イストは続ける。

「しかも盗賊に襲わせて、だ」

 恐怖、絶望、激痛。そんなものをありったけかき集めたかのような殺し方だ。神様ならもっとマシで楽な死に方をさせてやれよ、とイストは努めて独り言の調子で呟いた。そうしないと、罵声を浴びせてしまいそうなのだ。

「………っ」

 ララ・ルーはもはや何もいえなくなり、下唇を噛んで俯いた。オリヴィアは何も言わない。杯を両手で持ち、何かを考えているのか黙り込んでいる。イストはもう一度杯を傾けお酒を喉に流し込むと、視線をララ・ルーのほうに戻した。

「なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?」

 ララ・ルーを見つめるイストの瞳は、真っ直ぐで、また澄んでいた。この夜の星空のように。真っ直ぐではあるがその光は鋭く、澄んではいるが寒々としていて温かみはない。問うだけで、何も期待はしていない目だった。

 ララ・ルーは答えることができなかった。イストが再び夜空に視線を上げると、彼女は一つ頭を下げ、逃げるようにしてその場を去っていった。



[27166] 乱世を往く! 第七話 夢を想えば エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2011/10/01 11:06
結局、あの晩以降オリヴィアとイストがララ・ルーと顔を合わせることはなかった。年明けから一週間ほど経つと、「ララ・ルー・クラインの一団がベルラーシを離れて視察巡礼に戻った」という話が耳に入ったが、二人とも何も言わなかった。

 年が明けると、十字軍遠征に関する噂も良く耳にするようになった。その内容は十字軍の連戦戦勝を伝えるもので、お祭り気分の抜け切らない人々は天に杯を掲げその勝利を祝った。

 ただイストやオルギン、ジルドといった旅慣れた面々は、その噂の背後にある血生臭さを敏感に嗅ぎ取っていた。戦場における流血ではない。その外で起こる流血による、血生臭さである。

 十字軍の兵糧が最初から不足しており、その不足分は現地調達でまかなうのが基本方針であるということは、少し情報に詳しい者なら誰でも知っている。そんな十字軍がアルテンシア半島の各地で連戦連勝しているとなれば、行く先々で略奪を働いているということは容易に想像がつく。そして血の猛った男たちがただの略奪だけで済むわけがないことも、また同様である。

「これ以上西に向かうのは、止めたほうがいいかもしれんな」

 オルギンは混乱の中にこそ大きな商機が転がっている場合もあることは知っている。同時にリスクが大きいことも。彼は商人だが儲け最優先ではない。キャラバン隊のメンバーの安全を考えると、ここら辺りが潮時かもしれない。

「月が明けたら、進路を東にとる」

 オルギンはそう決断した。すでにここベルラーシで結構な儲けを出している。リスクを犯して利益を出さねばならないほど、状況はひっ迫してはいない。

「じゃあ、護衛も月明けで終わりだな」

 オルギンの決定を聞いたイストはそういった。ベルラーシはいくつかの巡礼道が交差する地点にある。当然ここからさらに東、つまり神聖四国へと巡礼道が伸びており、これを使えば比較的安全に東へと進路を取れる。もう護衛は必要ないであろう。

「結局、雑用の仕事のほうが多かったわね」

 月が明けたら護衛の仕事を解約する、つまりイストたちと別れると聞いたオリヴィアは嘆息するようにそういった。イストは同じ孤児院の仲間で、顔の火傷痕を気にしなくていい相手だ。変に気を張らなくていい相手が身近からいなくなってしまうのは、やはり寂しいのだろう。素直に寂しいといわない辺りは、彼女らしいが。

「それも含めて護衛の仕事さ」

 オリヴィアの表面だけの言葉に、イストもやはり表面だけの言葉で応じる。実際の別れまでにはもう少し時間があるし、なにより二人とも湿っぽい別れを演じるようなタチではなかった。

(義眼、早目に完成させておかないとだな………)

 「妖精の瞳」と名付けたオリヴィア用の義眼は、すでに八割がた完成しており、あとは術式の最終調整と刻印を施すだけである。今はニーナが「狭間の庵」を使っているが、術式の見直しは工房にこもらずともできる。明後日か、その次の日の夜くらいには完成させられそうだと、イストは頭の中で計画を立てるのであった。

**********

 アバサ・ロットの工房である「狭間の庵」は、腕輪に付けられた結晶体によって固定された亜空間の中にある。亜空間とは言っても、実空間の影響をまったく受けないわけではない。例えば、「狭間の庵」の中の明るさは、実空間の明るさ、つまり昼か夜かで随分と左右される。また、中の気温も同じであった。

 静まり返った工房の中で、イストはただ一人目を閉じて集中力を高めていた。時刻はすでに夜半過ぎ。工房の中も真っ暗で、足元に置いた「新月の月明かり」がなければ、自分の手さえも闇に熔けて判別することはできないだろう。この時間を選んだのは意図的に、だ。刻印は最も集中力を要する作業で、可能な限り静かな環境で行いたかった。

 そう、これから刻印を施し、魔道具「妖精の瞳」を完成させるのだ。

「さて、やるか」

 目を開けたイストは、机の上におかれた小さな木箱をあけ、そして小さく苦笑をもらした。そこに収められているのは一個の義眼、つまり「妖精の瞳」の素体だ。箱の中に義眼、というより目玉が一つ収められている様子は見方によっては猟奇的で、分っていても苦笑をもらしてしまうのがこのごろの常であった。

 義眼は複数の合成石を組み合わせて作ったもので、材質の差に由来する硬度の差に目をつぶれば、かなり正確に人間の眼球を模している。磨き上げられた合成石の表面は滑らかで、これらならば眼孔に入れても不快感はないはずだ。

(ガラスを使えればもっと楽だったんだけどな………)

 生憎とガラスは魔道具素材としては劣悪だ。「鷹の目(ホーク・アイ)」のように直接魔力を流さないような部分であれば使ってもよいのだが、義眼ではそうもいかない。

「さて」

 そう呟いてから、イストは左手に指輪をつける。「見えざる手(インビジブル・ハンド)」という魔道具で、手を使わずに物を浮かせ動かすことができる。イストがオリーブオイルの入った大樽を浮かせて移動させたときに使った術式は、この魔道具のものだ。

「ほいっと」

 イストが「見えざる手(インビジブル・ハンド)」に魔力を込める。すると義眼が宙に浮かび上がり、ちょうど彼の胸の位置の高さで静止した。この手の魔道具は消費魔力が大きいのだが、小さな義眼程度ならば負担は大きくはない。

 奇しくも、義眼の瞳がイストを見つめている。いや、ただの義眼に見つめることなどできないのだが、どうにもそんな気がした。

 義眼の瞳の色は深紅。この色と魔道具としての効果に、イストは自分なりのメッセージと皮肉、そしてほんの少しの優しさを込めたつもりだ。わざわざ口で説明する気はない。どう受け取るかはオリヴィア次第であろう。

「………」

 イストは無言でもう一度目をつぶり、最後の集中を行う。それからゆっくりと目を開き宙に浮かぶ深紅の義眼を見据えると、右手に持った「光彩の杖」に魔力を込めた。すると義眼を中心にして、半径一メートル程度の魔法陣が展開された。

 魔法陣に魔力を込め、刻印を開始する。さらにイストは「光彩の杖」を操作し、魔法陣を回転させる。軌跡が球を描くような回転の仕方だ。これによって刻印される術式の粗密がなくなり、魔力をスムーズに流すことができる。

 その場からまったく動いていないにもかかわらず、イストの額には汗が浮かび始める。背中が引きつるように感じ、全身の感覚が過敏になっているにもかかわらず、世界から切り離されたかのように余計な情報が遮断される。

 緊張はしている。しかし足は震えていない。ただ立っている感覚が曖昧だ。時間の流れもあやふやで、ほんの少ししか経っていないような気がするが、長時間こうしているような気もする。

 魔法陣はゆっくりと回転している。
 呼吸がうるさい。心臓の鼓動がうるさい。血液の流れる音がうるさい。
 気を散すな。没頭しろ。
 魔法陣の回転がさらにゆっくりになり、残光が尾を引いていく。

 時間があやふやになった世界の中で、魔法陣がついに一回転する。イストはそれを確認してから魔法陣を消した。

 大きく息をつく。あやふやだった時間の感覚が正常に戻り、心地よい達成感が体を包む。緊張が解けたことで体から熱が一気に噴き出し、汗が背中に流れた。

 椅子に座ってから「見えざる手(インビジブル・ハンド)」を操作し、宙に浮いたままになっている義眼「妖精の瞳」を左手に収める。ほんの数瞬、イストはその深紅の義眼を眺め、そしてなぜか自嘲するような苦笑を浮かべた。

(随分と偉そうなことをする………)

 この魔道具を作ったのは、オリヴィアに「あの夜のことを乗り越えて欲しい」とか「顔の火傷痕を受け入れて楽になって欲しい」とか、言い方は様々にあるだろうが、そういう気持ちがあったからだ。

 それに対し自分はどうなのだろうか。あの夜のことを乗り越え、あの赤い悪夢を克服できるのだろうか。そういう未来を思い描けずにいるヤツが、それがどれだけ難しいことか誰よりも良く知っているはずのヤツが、随分と偉そうなことを願っているものだ。

「まあいいさ。人の願いはいつだってエゴの塊だ」

 そんな皮肉げな文句を口走り、イストは自分の思考から逃れた。左手に持ったままになっていた「妖精の瞳」を木箱に戻し蓋をする。

(渡すときは、それっぽく包装しないとだな………)

 そんなことを考えながら、イストは「狭間の庵」を出て実空間に戻る。風が冷たい。工房の中の気温は実空間の気温に影響されるが、風を起こすような機能ない。風と一緒に運ばれてくる夜の臭いが、イストに現実を色濃く印象づける。

 「狭間の庵」の扉が消えると、イストはキャラバン隊の馬車のほうに向かって歩き出した。

「一杯飲むか」

 無性に酒が飲みたかった。

**********

 大陸暦1565年の一月も、あと残すところ一週間をきっている。月が開ければオルギン率いるキャラバン隊は、巡礼道を使って東へ向かう。つまりこれ以上の護衛は必要なく、イストたち三人はキャラバン隊と分かれることになる。

 当初はオルギンとイスト、そしてオリヴィアの間だけの話でしかなかったのだが、別れが近くなるとこの話はキャラバン隊の他のメンバーにも伝わり、少し早い別れの言葉をかけてくれる者もいた。特にジルドは若い連中に簡単な剣の手ほどきをしていた為か、その関係で別れを惜しむ人数は多かったし、女性が少ないキャラバン隊の中で“潤い”になっていたニーナなども同様であった。

「一番人気がないのはイストみたいよ?」

 オリヴィアは少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言い、幼馴染との別れを惜しんだ。互いに旅から旅への根無し草。一度別れれば次に会えるのは、さていつになるのか見当もつかない。

「金ばっかり追いかけていきおくれるなよ」

 あるいはもう一生会えないかもしれない。イストもオリヴィアもそれは十分に分っていた。分ってはいるが、湿っぽくなるのはどうにもガラではない。軽口をたたいて笑いあっているのが、どうやら二人にとっては最適の距離感らしい。

 さて、こうしてオリヴィアとイストの二人は別れを受け入れたわけであるが、二人が別れてしまうことに単純ならざる思いを持つ者もいた。コンクリフト・クルクマスである。

 クリフの一方的な認識によれば、イスト・ヴァーレという男は彼にとって恋敵であった。つまり本来ならば、いなくなれば嬉しいはずの相手なのだが、ここで素直に喜べないのがクリフという人間であった。

 クリフはオリヴィアのことが好きだ。三年前、一目見たその瞬間からその気持ちに変化はなく、また嘘偽りもないと断言できる。だがしかし自身の性格のせいか話しかけることもままならず、あまつさえ顔の火傷痕を盗み見てしまったがために、彼女との距離はさらに遠のいてしまった。

 そんな望まずして停滞してしまった関係の中現れたのがイスト・ヴァーレであった。オリヴィアの幼馴染で流れの魔道具職人であるという彼は、いとも簡単に彼女の隣に居場所をつくってしまった。それはクリフがこの三年間望み続け、そしてかなえることができなかったことだ。

 楽しそうに会話する二人を見ると、クリフはいつも胸が締め付けられるように感じる。オリヴィアの笑顔が、自分には向けられることがないという絶望。自分にはできないことを簡単にやってしまうイストへの、憎悪と羨望と嫉妬。そして見ていることしかできない自分への憤りと惨めさ。

(………だけど!だけどさ!)

 けれども、あんな風に屈託なく笑うオリヴィアを見たのは、初めてだった。

 イストたちが来る前、オリヴィアはいつもどこか陰のある笑い方をしていた。ふとした拍子に寂しげな表情を見せたり、独りになったときに疲れたようにため息をついたりすることがよくあった。

 それが、イストが来てからはそれが少なくなった。決して完全になくなったわけではないが、劇的に少なくなったのだ。見ようによっては、“はしゃいでいる”ようにも見えなくもない。

 雰囲気自体も随分と変わった気がする。以前はどこか余裕のない張り詰めた表情をすることがあったが、今は表情にも余裕がある。

 クリフの贔屓目かもしれないが、素敵になった、と思う。

 けれどもその変化を促したのは自分ではなくイストなわけで。それを思うとなんとも言えない惨めな、有り体に言ってしまえば負けたような気分になるのだ。

 負けた。そうつまりクリフはイストに「負けた」と感じているのだ。オリヴィアにふさわしいのは自分ではなくイストのほうだと、そう思っているのだ。

 そのイストがキャラバン隊を、オリヴィアのもとを去るという。

「なんでだよ!?なんで彼女を見捨てるんだ!?」

 気づいたら、クリフはイストの胸ぐらをつかんで叫んでいた。一瞬自分の行動に疑問を感じはしたが、後から後から湧いてくる言葉にその疑問は押し流されていった。

「あんたが来てからオリヴィアは随分変わったんだ。楽しそうだし幸せそうだし、良く笑うようにもなった。全部あんたが来てからだ。………悔しいけど、俺じゃあ何もできなかった。オリヴィアが好きなのはあんたなんだ。俺じゃあ無理なんだよ………。頼むから一緒にいてやってくれよ………」

 言っているうちに情けなくなってきたのか、クリフの声はだんだんと萎んでき、胸ぐらをつかみあげる力も弱くなっていく。

「オレが来る前は、楽しそうでなければ幸せそうでもないし笑いもしなかった、ってことか?」

「………そうじゃないけどさ。ときどき凄く辛そうにするんだ………。ひとりになったときとかに」

 このストーカーめ、と茶化したくなるのをグッと堪えてイストは問いを重ねる。

「なんで辛いのか分るか?」
「火傷の痕を見られたくないんだろ!?」

 それぐらい分っているさ!とクリフは少し苛立った調子で答えた。だがイストはその答えにイラっときた。

「お前は何も分ってない」

 その声は、思っていたよりもずっと冷たい声音だった。「ああ今オレはキレてるんだな」と頭の端っこで他人事のように考えながら、しかし口は勝手に言葉をつむいでいく。

「顔の火傷痕を見られたくない?んなこたガキでもわかる。なんで火傷痕を見られたくないのか、そこまで考えないのか?」
「それは………」

 クリフが言葉を詰まらせる。その様子に、イストは自分が苛立つのをはっきりと自覚した。自分の衝動を押さえることをせず、クリフの胸ぐらをつかみ上げる。

「醜いって思われるのが嫌だから、目を背けられるのが嫌だから、必死になって隠してるんだろうがっ!」

 隠して、隠し続けて疲れ果てて、それでも素顔をさらすことはできなくて。人の視線が怖い。醜いと思われるのが怖い。囁かれる言葉がすべて陰口に聞こえてしまう。街の中もそうだが、仲間であるはずのキャラバン隊のメンバーに対してさえも、そんなふうに感じてしまう。それがとても申し訳ない。

「オリヴィアがそういったのか………?」

 クリフが呆然とした様子で尋ねてくる。

「見ていて気づかなかったのか?今まで何を見てきたんだ?」

 イストの言葉は刺々しく、また冷たい。胸ぐらを放すと、クリフはその場に膝をついてうなだれた。悔しそうに奥歯を噛締め拳を握る。

「ああ、分らなかったよ………。だから、俺じゃあダメなんだ。頼むから一緒にいてやってくれよ。お願いだからさ………」

 話が元に戻ってしまい、イストは苦笑した。苦笑したら、少し苛立ちが消えた。

「オレとアイツの仲がいいように見えるとしたら、それはきっとオレ達が同じ傷を持っているからだ。傷の舐めあいをしているようなもんさ」

 その「同じ傷」というのは、イストとオリヴィアに共通する過去に由来するものなのだろう。オリヴィアの過去を知らないクリフは、そうとしか判断できなかった。

「今はまだいい。互いに気を使わない相手でいられる。だけどもう少し時間が経つと、今度は互いが疎ましくなってくる」

 「同じ傷」を持っているから。相手の「傷」が見えるということは、自分の「傷」も見えているということなのだ。向き合うだけの気力と勇気、そして解決するアテがないから今まで放置してきたというのに、そんなものを毎日まざまざと見せ付けられるのだ。そのうちお互いに顔を合わせるのも嫌になってしまうのではないだろうか。

 その上、どちらかがその傷を克服でもしたら、克服できないでいる方はなおさらいたたまれない。惨めな自分を嘆き、激しい自己嫌悪に陥るだろう。

「だからここらで別れるのがちょうどいいんだよ」
「だけど………っ!」

 クリフは納得できない様子だ。しかしイストは「無煙」を吹かしながらそんな彼を、恐らくは意図的に無視して、小さな包装された包みを渡した。大きさは手のひらに収まるくらいだ。

「それ、オレたちと別れたらオリヴィアに渡しといてくれ」
「………自分で渡せばいいじゃないか」

 そもそもイストがオリヴィアと別れること自体に賛成していないクリフは、苦々しい心のうちを隠そうともしない。が、その程度で怯むイストではなかった。

「お前さん、オリヴィアとまともに会話もできないんだろ?きっかけをくれてやるから、せいぜい有効利用しろよ?」

 あそこで顔を真っ赤にしてしまったのは一生の不覚だ、と後にクリフは語ったという。




*******************





あの戦い、ギルマード平原でのクロノワ軍とレヴィナス軍の戦いは、レヴィナスの戦場からの逃走をもってその勝敗が決した。

 本陣の崩壊に敗戦を悟ったアレクセイは一度軍を引き、戦闘行為を完全に停止させてから降伏を申し出た。

 本来ならば降伏を申し出てから順次戦闘行為を停止させていくのが普通なのだろうが、このときアレクセイはそうはしなかった。その際の見事な引き際から、彼が動転して冷静な判断が下せなかったということは考えにくい。

 アレクセイはその理由を語らずに自決したから本当のところは分らないが、あるいは降伏しても完全に戦闘が停止するまでの間に多量の血が流れることを憂慮したのではないだろうか、と言われている。特に命令系統がもはや機能しなくなっていたレヴィナス軍本陣は個人による無益な抵抗が続いており、仮に白旗を揚げたとしても距離が開いてしまっている本陣では無駄な血が多量に流れただろう。それをアレクセイは嫌ったのではないか。

 ことの真偽について、歴史書は黙して語らぬ。アレクセイ・ガンドールは白旗をあげる前に兵を引いた。それが史実である。

 さらにそれまで優勢であったにも関わらず兵を引いていくアレクセイの後を、アールヴェルツェは追わなかった。その理由について、彼は後にこう語っている。

「あの状況でアレクセイ将軍が引くということは、戦う理由がなくなったのだと、直感的に思った。無論、白旗をまだあげていなかった以上、追撃をかけるべきだったのかもしれないが、なんというか将軍が信頼してくれている気がしたのだ。その信頼を裏切りたくなかった」

 味方であったときには誰よりも頼りにされ、敵になっても尊敬された男。それがアレクセイ・ガンドールであった。

 本陣と合流したアレクセイは白旗を掲げさせ、降伏の意思を示した。それから単騎で進み出、後ろで座り込んでしまっている兵下を示して声を張り上げた。

「クロノワ殿下!戦場で相対したとはいえ、彼らもまたアルジャークの民!どうか寛大な処置をお願いしたい!」
「委細承知!武装解除が終わり次第、故郷に帰すことをお約束する!」

 この戦いは内戦である。つまり敵は同国民である。併合から日が浅く、アルジャーク人もオムージュ人も同じ国の民であるという意識はまだあまりないかもしれないが、これから国を安定させていく上で、この認識は非常に重要なものだ。

 あるいはこれがアレクセイのクロノワに対する、最初で最後の教えだったのかもしれない。クロノワの答えに彼は満足したように穏やかな笑みを浮かべた。

「将軍!貴方もです!戻ってきて力を貸していただけませんか!」

 あの時もう少しマシな言葉はなかったものか、と後にクロノワは悔やんだという。彼の言葉を聞いたアレクセイはもう一度穏やかに微笑み、それから愛剣を自分の首筋に当て自らの首を刎ねて自決した。

 それが彼なりの責任の取り方であったのだろう。偉大な将を惜しみすすり泣いたのは、勝ったはずのクロノワ軍の方であった。

「あの、陛下。将軍の遺体は………」

 言いにくそうにしているのはアールヴェルツェである。彼にとって、いやクロノワに従った全てのアルジャーク兵にとって、アレクセイはいまだに「アルジャークの至宝」であり、その遺体を捨て置くことなど考えられないことである。

 しかしその一方で、アレクセイは最後に敵となった。しかもベルトロワの遺言、つまり最後の勅命を無視してクロノワに相対した反逆者である。彼がどれほど事情を把握していたか、それを確認する手立てはもうないが、だからと言って軍を統率する者が「知りませんでした」で責任を逃れられるわけがない。その遺体は無残にさらし、見せしめにすることだって考えられる。

 「アルジャークの至宝」として尊敬する一方で、正統な皇帝に刃向かった反逆者。それが今のアレクセイ・ガンドールである。この辺りが、アールヴェルツェが言いよどまねばならない理由であろう。

「丁重に埋葬してください。特に葬儀を行うつもりはありませんが、最後の見送りをしたい者にはさせてやってください」

 クロノワのその言葉に、アールヴェルツェは深々と頭を下げた。
 この日の夕刻前、アレクセイ・ガンドールの“葬儀”が行われた。喪主はおらず、別れの言葉をかける者もいない。場所も荘厳な式場などではなく冷たい風が吹き荒ぶ雪原で、立派な墓や棺が用意されることもない。

 しかし、クロノワに従って彼と戦った全てのアルジャーク兵が、アレクセイ・ガンドールの最後を見送った。ある者は槍を掲げ、ある者は剣を捧げ、偉大な将を見送ったのである。

 この時の様子について、後の歴史書はこう描写している。
「勝者であるはずの兵士たちが泣いている。彼らは整然と隊列を組み、死者を見送った。見送られる死者は、先ほどまで敵であったはずの男だ。その男を見送るために、兵士たちは誰に命じられるでもなく最上位の敬礼を行った。槍を掲げ道を作り、剣を捧げて冥福を祈る。敵にこれほどの敬意を持って見送られた男は、アレクセイ・ガンドールの他にはいないだろう」

 さて、降伏したレヴィナス軍の兵士たちについてである。レヴィナスが逃走しアレクセイが自刎した今、金で雇われた傭兵を含め全ての兵士たちにもはや戦う気力は残っていなかった。また彼らはクロノワの「武装解除が終わり次第、故郷に帰すことを約束する」という宣言を聞いており、生きて故郷に帰れるならばここで戦う理由はもはやなく、消極的ではあるが従順な態度で武装解除に応じた。

 クロノワにとって意外であったのは、降伏した者たちの中にレヴィナスの妻であるアーデルハイト姫がいたことである。

 クロノワがアーデルハイト姫に会うのは結婚式以来これで二度目だが、彼女がここにいるということはレヴィナスに置いていかれたということである。両者にとって思いがけずまた不幸な形での再会であったわけだが、二人ともそれを表情に出すことはしなかった。クロノワの前に現れたアーデルハイトは落ち着いているというよりは淡々としていた。ただ以前に同じ状況になった皇后のように喚きたてることはせず、それがクロノワの好感を上げた。クロノワは貴婦人としての待遇を約束すると、彼女は何も言わずただ一礼のみを返すのだった。

 ギルマード平原における再編と戦後処理を終わらせると、クロノワはそのまま進路を西に取った。戦場から逃走したレヴィナスを追うためである。オムージュとの境にあるリガ砦にいるのではないかと思われたが、いざ砦についてみると門は開いており事を構える意図がないことを主張していた。

「どうやらレヴィナス殿下はいないようですな」

 アールヴェルツェはレヴィナスに対して「殿下」という敬称をつけたが、それ以外には敬語を用いなかった。レヴィナスは今や皇帝に反抗する反逆者であるから、本来ならば敬称や敬語を用いる必要はない。が、それでも彼はさきの皇帝ベルトロワの長子であり、アールヴェルツェなどにしてみれば呼び捨てにするのは心苦しい、ということなのだろう。クロノワはそう思っていた。

 もっともクロノワにしても、レヴィナスのことをまだ「兄上」と呼んでおり、人のことは言えないが。

 リガ砦にいた兵士たちについてだが、クロノワは彼らを断罪しようとは思わなかった。彼らにしてみれば、アレクセイ将軍に命じられれば従わざるを得ない部分が確かにあるからだ。ならばわざわざ内戦の傷を大きくする必要はない。

 さて、リガ砦に入ったクロノワはそのままオムージュ領の総督府がおかれているベルーカに行き、行政機能を掌握するつもりでいた。が、彼がリガ砦にいる間に、思いもしなかった知らせが舞い込んできた。

 レヴィナスが死んだという。討ち取ったのは、なんと数人の農民であるという。その知らせを聞いたとき、クロノワが感じたのは喜びではなくなぜか脱力であった。

 クロノワがベルーカを目指そうと思ったのは、オムージュ領の行政機能を掌握するためであったが、同時にそこを拠点としてレヴィナスを探すためでもあった。探し出し捕らえたならば、つぎは処刑しなければならない。そこまでしてはじめてクロノワの治世はスタートラインに立てるのである。極端なことをいえば、レヴィナスの首が落ちるのと同時に、クロノワの治世が始まる。

 つまりクロノワにとってレヴィナスは、いずれは死んでもらわねばならない相手であり、そのことについて覚悟はとっくの昔にできているはずであった。

(甘かった、ということでしょうか………)

 達成感も何もない、ただの倦怠感に全身を蝕まれながらクロノワはぼんやりとそう考えた。

 とはいえクロノワはそうやって脱力していられる立場ではない。レヴィナスを討ち取ったという農民たちとも会わねばなるまい。

「貴方たちですか?兄上を討ち取ったというのは」
「へ、へぇ!そうでございます」

 クロノワの前で地面に額をこすりつけて平伏している農民たちの数は五人。あるいはもっと大勢いるのかもしれないが、ともかくこの五人が代表なのだろう。

「兄上の遺体は?」

 クロノワが尋ねるとそばに控えていた兵士が「こちらに」と言って、白い布が被せられた担架を示した。その布をのけると、血にまみれたレヴィナスの遺体があらわれた。

 遺体の状態は悲惨だった。腐敗が進んでいるわけではない。全身が傷だらけなのだ。恐らくだが、なぶり殺しにされたのだろう。

 ただ、それもある意味では仕方がない。農民たちは槍や剣のような武器は持っていないだろう。武器代わりになる、例えば鉈や手斧を持っていたとしても、訓練を受けていない素人がそれで人間を、しかも抵抗する人間を殺すのは手間だろう。結果として一つでは致命傷とならない傷ばかりが増え、遺体は傷だらけの悲惨な状態になる。

 クロノワは開きっぱなしになっているレヴィナスの目を閉じてやる。死顔が少し穏やかになったと思うのは、彼の自己満足だろうか。

 クロノワはレヴィナスを殺さなければならなかったし、また遠からず殺すことになったであろう。つまり農民たちがレヴィナスを殺してくれたことは、彼にとって本来は喜ばしいことであるはずだった。が、そういった感情は一切湧いてこない。変わりに胸にあるモノは怒りにも似ていた。

 兄レヴィナスはクロノワの目から見ても美しい麗人である。クロノワの知っているレヴィナスは、いつも自信にあふれて堂々としそして輝いていた。

 それにレヴィナスはクロノワを積極的に迫害したことはない。彼の母親である皇后はクロノワに対するイジメと悪意の急先鋒であったが、レヴィナス自身はそれに加わったことがない。レヴィナスにしてみればクロノワなど眼中になく、ごく自然に無視していただけなのだろうが、当時まだ日陰者であったクロノワにとってはそれだけでも十分にありがたいことであった。

(もう少しふさわしい死に様はなかったのでしょうか………?)

 殺そうとしていた相手にそんなことを思うのは自己満足に過ぎないと、クロノワは知っている。知っているが、感情や思考というものはなんとも御しがたい。自然とその矛先はレヴィナスを討ち取ったという農民たちに向いていく。

「あ、あの!!」

 クロノワの胸のうちに黒いのもが生まれ始めたとき、それまで平伏していた農民の一人が頭を上げた。「無礼者!」と怒鳴る兵士を制し、クロノワはその農民に声をかけた。

「どうかしましたか?」

 クロノワの声は少しばかり冷たい。その声に農民は怯えたように身をすくませたが、伊を決し顔を上げた。その目が思いがけず強い光は放っていることに、クロノワは内心で驚く。

「オムージュを、お願いしますっ!!」

 その短いが強い言葉で、クロノワはなんとなくだが理解してしまった。
 レヴィナスがオムージュ領の総督になってから、領内の生活は一気に苦しくなった。増税したことや、それを過去にさかのぼって適用したこと、また貴族たちのもとに転がり込んだ聖職者たちの豪遊費を負担させられたことなどが主な原因だが、他にも色々と要因はあるだろう。

 モントルム領の総督であったクロノワは、自分の領内になだれ込んでくるオムージュからの流民が激増したことで、その生活がいかに苦しいのか想像できる。また十五になる年まで一般市民として暮らしていた彼は、その厳しさについて実感もできるのだ。

(兄上は、恨まれていたのですね………)

 そしてその責任は、最終的に全て総督であったレヴィナスのものなのだ。民草にとって為政者の容姿が麗しいかなど、どうでもいい問題だろう。それにふさわしい死に様など、さらにどうでもいい問題である。もちろん恨んでいたからなぶり殺しにしたわけではないだろうが、

「こいつが生きていたら、自分たちに未来はない」

 と、それくらいのことは考えていたかもしれない。それほどまでに彼らも追い詰められていたのだ。

「はい。任されました」

 努めて穏やかな声音で、クロノワはそう応じた。胸の中にある黒いものはなくなってはいないが、それは表に出すべきではないと考えられるようになっていた。目の端に涙を浮かべた農民が再び頭を垂れると、クロノワはそばにいた兵士に命令を出した。

「彼らには金貨で一万枚を与えてください」

 それから平伏している農民たちに視線を移し、

「分配は貴方たちに任せます。いいですね?」
 と聞いた。彼らの返事を聞いてから、クロノワはその場を後にした。

 次にクロノワが向かったのはリガ砦内の一室、アーデルハイトが軟禁されている部屋であった。彼女の部屋の前には、護衛と監視をかねた兵士が二人控えている。

 クロノワは部屋の扉をノックし、返事を待ってから中に入る。アーデルハイトは窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めていた。クロノワが部屋に入っても視線を動かそうとはしない。クロノワはその無礼を咎めはしない。ただ、単刀直入に用件を切り出した。

「兄上のご遺体が届けられました」

 その話を聞いたとき、アーデルハイトの表情には一切の変化がなかった。首を軽く回して顔をクロノワから隠した。

「お会いになられますか?」
「………結構です。光を失ったあの方に、会いたくはありません」

 アーデルハイトは、声だけを聞けば平静だった。そしてクロノワには回り込んでその表情を確認するだけの勇気はなかった。見えていないことを承知で一礼してから、彼女の部屋を出た。

 アーデルハイトが自決したという報告がクロノワのもとにもたらされたのは、それからおよそ三十分後のことであった。髪を止めていた簪(かんざし)で喉を突いたのだという。

(まさか後を追うとは………)

 このタイミングでの自決は、それ以外には考えられない。人払いをして一人になったクロノワは、虚脱感にさいなまれながら天上を見上げた。

(愛していた、愛し合っていた、のでしょうか………?)

 レヴィナスとアーデルハイトの結婚は第三者的に見れば政略結婚であったし、クロノワもそう思っていた。だが当人たちの関係は、あるいはアーデルハイトの見方はそうではなかったのかもしれない。

「それにしても………、みんな死んでしまいましたね………」

 母もベルトロワも皇后のレヴィナスもアーデルハイトも、家族と呼べそうな人はみんな死んでしまった。無論、母を除けば彼らとの間に家族らしい情があったわけではないが、それでも縁者が皆死んだという事実はここにある。

「『玉座は孤独なり』か………」

 さして独創的でもない歴史書の一節を思い出す。さて、玉座に座ると孤独になるのか、玉座に座るために孤独になるのか。

「無性に、君に会いたいよ。イスト」

**********

 コンクリフト・クルクマスがイストから託された品物をオリヴィアに手渡せたのは、彼らがベルラーシを発ってから三日後のことであった。できればイストたちと別れたあとすぐにでも手渡したかったのだが、タイミングと気力の折り合いが付かず、ずるずると時間だけが過ぎてしまった。

 さすがにこれ以上間を空けるのはまずい、と危機感を感じたクリフは、なけなしの気力を振り絞ってオリヴィアに話しかけたのである。

「あの、これイストから『オリヴィアに渡してくれ』って預かったんだけど………」
「イストから?なんで自分で渡さないのよ、あいつは」
「さ、さあ。そこは聞かなかったから………」

 まさか会話を始めるきっかけにしろ、といわれたなどと言えるわけもなくクリフは言葉を濁した。

 クリフから綺麗に包装された手のひら大の包みを受け取ると、オリヴィアはすぐに中身を確認した。その中に入っていたのは………。

「義眼………?いや、でも………」

 このとき、クリフは初めて中身を知った。木箱の中に収められていたのは、深紅の瞳を持った義眼であった。だがオリヴィアの瞳の色は青だ。瞳の色が違っていては、義眼として役に立たないのではないだろうか。

「まったく、意地悪な人ね」

 クリフが疑問に頭を捻っている隣で、オリヴィアは手を口元に沿えて苦笑していた。

「でも、優しい人」

 一緒に入っていた紙に、その義眼の詳細について書かれていた。
 義眼の名は「妖精の瞳」。なんでも人の感情の揺らぎを可視化する魔道具らしい。つまり人が隠す内心の嘘や動揺を見抜けるということだ。普段の生活では使い道はあまりなさそうだが、商談の場では重宝しそうな魔道具である。

 だが義眼である以上、使うためには顔の火傷痕をさらさなければならない。眼帯を外すだけではない。恐らくは前髪もどかさなければいけない。つまりこの魔道具はオリヴィアが火傷痕をさらすことを前提にしているのだ。

「疲れるくらいなら、もう隠さなくたっていいじゃないか」

 そう言われた気分である。なんとも意地悪なメッセージの伝え方だ。今までは顔を見られる恐怖のほうが勝っていた。しかし同時に早く楽になりたいという気持ちも確かにあったのだ。この魔道具はそのきっかけを与えてくれる。

 ただその与え方が優しい言葉などではなく、商人にとって重要な実利を全面に押し出したやり方なのだ。乱暴で意地悪。それがオリヴィアの評価だ。あの幼馴染はもう少し女の子の扱い方を学んだほうがいい。

 そしてあの瞳の色である。義眼の瞳の色は深紅。繰り返すがオリヴィアの眼の色は青である。左右の瞳の色が違っていれば、それは珍妙な光景だろう。いらぬトラブルの原因になることも考えられるから、普段は隠しておくのが得策だろう。

 義眼を隠すのなら眼帯がよい。そうやって眼帯で義眼を隠せば、なぜか火傷痕も隠れてしまう。そう、あくまでも結果論的に。眼帯の大きさは好みのものを選べばよい。大きいのを選んだっていいではないか。

「火傷を隠すのではない、義眼を隠すのだ」

 なんとも言い訳じみていて遠まわしで皮肉れた優しさだ。隠すなといいたいのか、それとも隠せといいたいのか。しかしその両方を両立できるようになっている。

「そうね………。これも一つの区切りなのかしら」

 まさかこの義眼一つで全ての問題が解決するとは、イストだって思ってはいまい。だからこの義眼は彼が与えてくれた一つの区切りでありきっかけだ。

 立ち直るだの歩き始めるだの傷を癒すだの、それらしい言葉は数多い。しかしその主体は全てオリヴィアだ。厳しいかもしれないが、自分から動かなければ状況は何も変わらない。あるいはイストは、そう言いたかったのかもしれない。

(そしてきっと、自分にもそう言い聞かせているんでしょうね………)

 きっとイストは義眼を作りながら自分のことも考えていたに違いない。オリヴィアにトラウマから抜け出して欲しいと願う彼は、自分自身だってトラウマから、あの赤い悪夢から抜け出したいともがいているはずなのだから。

(わたしは先にいくわ。早くしないと、置いていっちゃうわよ?)

 解放への道のりはまだ遠い。恐怖が勝る時だってあるだろう。けれども一歩を踏み出した先にある景色は、今とは違うものだと信じたい。



 オリヴィア・ノームは次の日、火傷痕を隠していた前髪を切った。動揺したのはむしろキャラバン隊のメンバーで、彼女自身は慌てる彼らを眺め苦笑していたという。ちなみに髪の毛を切った後のオリヴィアの第一声は、
「軽くなった」
 だったそうな。


―第七話 完―




[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:33
     器を作るときには
形よりも大きさに注意すべきだ
大きくしすぎて穴が開いては
目も当てられない

**********

 第八話 王者の器

 大陸暦1564年の暮れから大陸暦1565年の年明けにかけて、エルヴィヨン大陸は激動したと言っていい。

 この頃版図を急速に拡大させたアルジャーク帝国においては、皇帝ベルトロワの死とそれに伴う後継者問題が内戦にまで発達し、ついにクロノワ・アルジャークただ一人が残った。

 またアルテンシア半島においては、年の暮れ以前から続いていたシーヴァ・オズワルド率いる反乱軍の勢力拡大と、十字軍による遠征が重なり多大な流血がなされた。そして第一次十字軍遠征の失敗によってアルテンシア半島がシーヴァによって統一されたのもこの頃である。

 クロノワとシーヴァ。アルジャークとアルテンシア。この先、大陸の中央部で出会うこの二つの勢力が地盤を磐石なものにし、勢いが付き始めたのがこの頃であるわけだがそのせいかこの時期、他の国のことは忘れられがちである。

 特にこの先クロノワにとって非常に重要な貿易港となるカルフィスクを有しているテムサニスにおいても、この時期には政変があった。この政変はアルジャークの勢力拡大にも関わってくるから、その意味で非常に重要である。

 時は大陸暦1564年。テムサニス国王ジルモンド・テムサニスがアルジャーク領となったカレナリアに親征しそこで捕虜となってしまい、そして事態が膠着したところから物語を始めるとしよう。

**********

 テムサニス国王ジルモンドが隣国|(であった)カレナリアにおいてアルジャーク軍の捕虜となった、という報はすぐにテムサニス王宮にも届いた。当然、王宮内は騒然としたが、その一方で混乱することはなかった。状況は確かに危機的だが、やることは決まっているからだ。

 捕虜になったということは、ジルモンドが今すぐに殺される可能性は低いということだ。となればこの先は彼の身柄(と一緒に捕虜になっている十万以上の兵士たち)をかけての交渉が待っているはずで、騒然とした空気が一応収まると王宮内はそちらに向けて意識を集中し始めた。

 が、それなのに、アルジャーク側にまったく動きがない。

 ジルモンドを捕虜としその身柄を押さえたのはアルジャークである。ならば、そのアルジャーク側から、

「返して欲しければこれこれを差し出せ」

 と通達が来るはずである。それなのにその通達が待てども待てども来ない。その不気味な沈黙に、テムサニスの王宮内には言い様のない不安が渦巻き始めていた。

 とはいえ、判明してしまえばその理由はひどく単純なものであった。つまりアルジャーク国内における政変と、そこから発展した内戦である。

 たしかにカレナリアには優秀な文官たちが残り政治をまわしており、そのおかげで大きな混乱は起きていない。しかしそんな彼らからしてもジルモンド・テムサニスという一国の王は、扱いに困る、手に余る存在なのだ。

 加えて彼らは「テムサニス全てを併合する」という当初の計画を知っている。まさかそんな大それた交渉を自分たちだけで行うわけには行かないし、さりとて中途半端な対価で返してやるわけにもいかない。

 そもそもジルモンドの身柄は、遠征軍の総司令官であったクロノワの直接の管轄であろう。その時点で彼らの好き勝手にはできない。彼らにできることは、テムサニスからの探りをいなしながらカレナリアを大過なく収めることだけである。

 が、それでは収まりが付かないのがテムサニスである。テムサニスは現在、国王不在という異常事態だ。今はまだ大きな問題は起こっていないが、この状況が長く続けばそれこそ政変から内戦へと発展していくかもしれない。

 そもそも現状はこの異常事態を解消すべく人々が協力しているからこそ、大きな混乱が起きていないのだ。異常事態を異常と感じなくなったら、一時の緊張が解けてしまったら、事態は最悪の方向に転がっていくに違いない。

 いや、あるいはその綻びは、もうすでにできてしまったのかもしれない。

「今一度カレナリアに出兵すべきです!」

 会議の席でそう声を張り上げたのは、テムサニス王国第二王子ゼノス・テムサニスであった。彼の瞳には野心の色がちらついている。

「アルジャーク帝国は政変の混乱の中にあります。遠征軍の大部分は北へと引き返し、今カレナリアは手薄。この千載一遇の好機を逃すことが、はたしてテムサニスの国益に繋がりましょうか!?」

 ゼノスの論は一定の説得力を持っている。隙を見つければそこに食らい付くのが乱世の習い。政変や内戦など、そのような隙を見せるほうが悪いのだ。

「ゼノス、カレナリアには父上が捕らえられているのだよ?」

 やんちゃな弟を宥めるように穏やかに発言したのは、ゼノスの腹違いの兄にしてこの国の第一王子フェレンス・テムサニスであった。弟に比べれば線が細く、内向的といわれそうな人である。

「今カレナリアに出兵すれば、アルジャークは間違いなく父上の首に刃を当ててこちらを脅迫してくるだろう。そうなれば軍は撤退せざるを得ない。最悪の場合、まとめて捕虜にされる事だって考えられる」

「カレナリア領内に進攻し、戦略的優位を築いてから交渉を行えばよいのです。受身の待ちの姿勢では払わなくてもよい代償まで払うことになってしまいます!」

「それは楽観が過ぎるよ。僕たちに計画と見通しがあるように、彼らにだってそれがあるのだから」

 兄弟の視線が空中でこすれ不可視の火花が散る。一方の視線は挑戦的で、他方の視線はそれをかわすことなく受け止めている。

「………いずれにせよ、アルジャークの内紛はいまだに泥沼というほどの混乱は見せていません。今我々が介入すれば、共通の敵を与えてしまうことになる。ここはしばらく様子見に徹するのが得策かと」

 会議を見守っていた有力貴族の一人であるルーウェン公爵がそう発言する。出兵は時期尚早だと思っていた一部の貴族たちは、その発言に口々に賛同した。

「父上が行っていた政務は僕が代行する。それでしばらく混乱は起きないはずだ。アルジャークの政変については、情報収集を密にして注視していくとしよう」

 結局、フェレンスのその発言がそのまま会議の結論になった。つまりは現状維持ということだ。

 第一王子にして次の国王と目されているフェレンスがジルモンドの政務を代行するというのは、ある意味では当たり前のことだ。また隣国の政変について神経を尖らせ情報を集めるもの、これまた当たり前のことである。

「無難なところに落ち着いた」

 それが会議出席者の大半の意見だろう。

(リスクを負いたくないだけではないか………!)

 ゼノスは心の中でそう吐き捨てた。下手に動けば、ともすれば国王ジルモンドの死の責任を取らされるかもしれない。ここにいた連中のほとんどはそれを嫌っており、その最たる例が兄のフェレンスだ。少なくともゼノスはそう思っている。

「捕らわれの王など、見捨てればよいのだ」

 口に出したことはない。しかしそれがゼノスの考えだった。ジルモンドを助けようとする限りあらゆる主導権は敵側にあり、こちらはいいように動きを制限される。

 ならばいっそ見捨ててしまえばよい。

 慢心し隙を見せたその喉仏に喰らいつけばよいのだ。ジルモンドは殺され、その首が送られてくるかもしれない。が、それがどうしたというのだ。その死を兵の戦意向上ために利用するまでだ。

(なんだ、いっそ死んでくれたほうが役に立つじゃないか)

 一人残った会議室で、ゼノスは暗い笑い声をもらした。

**********

「お疲れですか………?」

 心配そうなその声で、宙を見つめていたフェレンスは視線を正面に戻した。手ずから紅茶をいれ、こちらを心配そうに見つめている女性と目が合う。

 イセリア・テムサニス。

 フェレンスの妻だ。ルーウェン公爵の娘で、客観的立場から見れば政略結婚なのだが、二人の間にある実情はもっと暖かで心休まるものだ。幼い頃から婚約が決まっており、お互いに顔を見知っていたというのも大きな要因だろう。

 フェレンスの贔屓目かもしれないが、イセリアは美人だ。国を挙げての盛大な結婚式が行われたのは互いに十代の時で、その頃の彼女は「可憐」という言葉がなによりも良く似合う少女だったが、二十歳を過ぎた今は女性としての成熟も備え、そばにいれば心地よい安心感に包まれる。

 どう考えても、凡庸な自分にはもったいない女性だ。フェレンスとしてはそう思う。

「どうかされましたか?」
「いや、政務の代行がなかなかの激務で、ね………」

 まさか考えていたことをそのまま口にできるはずもなく、フェレンスは罪のない嘘をついた。いや、まったくの嘘ではない。政務の代行は本当に激務なのだから。

「お疲れの原因は本当にそれだけですか?」
「どういうことだい?」
「………今日の会議で、激しくやり合われた、と聞いておりますが………」

 眉間に可愛らしくシワを寄せ、言葉を濁しながらイセリアは紅茶に口をつけた。誰と、とは彼女は言わなかったが、言いたいことは大体分る。

「ゼノスだって、ちゃんとこの国のことを考えているよ」
「………あの方は、………苦手です………」

 まさか「嫌いです」というわけにもいかず、イセリアは言葉を選んだ。拗ねたように紅茶を啜るイセリアに、フェレンスは苦笑するしかない。

 フェレンスとイセリアが幼馴染(世間一般のそれとは大分事情が異なるけれど)だが、それと同じようにゼノスとイセリアも幼い頃から互いを見知っている。ただフェレンスの母である王妃エルセベートがゼノスのことを快く思っていなかったから、二人の接点は薄い。その辺りが、イセリアがゼノスに苦手意識(・・・・)を持つ原因だろう。

(仲良くして欲しいものだけど)

 フェレンスの妻であるイセリアは、ゼノスにとっては義理の姉にあたる。この先、王室の家族として関わる機会も増えるはずで、色々と仲良くして欲しいというのがフェレンスの望みだった。

「ところでフェレンス様」
「ん?どうしたんだい?」

 考え事をしているうちに、さっきまで正面にいたはずのイセリアはなぜかフェレンスの隣に移動してきて、ストンと腰を下ろした。

「陛下の政務を代行なさることも大切なお仕事ですが、王太子としてはお世継ぎを作ることも大切ではありませんか?」

 突然の言葉にフェレンスは目を丸くしてイセリアを見つめてしまった。彼女のほうもやはり恥ずかしいのか頬に朱がさしている。そのことに気づくと、フェレンスは声を上げて笑ってしまった。さらに顔を赤くしてむくれるイセリアは妙に子供っぽい。

 ひとしきり笑い終えると、フェレンスは妻を腕の中で抱きすくめた。

「お手柔らかに」

 側室を持つことなど、フェレンスには考えられない。あるいは彼が王座についていれば、テムサニス史上で一番の愛妻家として名前を遺していたかも知れぬ。

 そう、王座についていれば。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:36
 蝋燭に照らされた薄暗い部屋の中に、三人分の人影が揺れている。三人は大理石で作られたテーブルを囲むようにして座っており、手にはそれぞれ赤ワインが注がれたグラスを握っている。そしてテーブルの上には飲みかけのボトルと、何種類かのつまみを載せた大皿が用意されていた。

「カベルネス侯爵、首尾はどうなっている?」

 上座に座ったゼノスが口を開いた。赤ワインで少々酔っている感はあるが、言葉使いはしっかりとしており頭も明晰なままだ。

「は、すでに城の兵士たちのほとんどはこちらの手の者に代えてあります。いつでも決行できます」

 ただ、と言いよどんでカベルネス侯はさらに言葉を続ける。

「フェレンス殿下の警備はルーウェン公が直々にやっているらしく、さすがに厳重です。公爵は近く領地に戻るという話もあるので、それを待てばフェレンス殿下の警備にこちらの手の者を食い込ませることも可能かと思います」

 カベルネス候の言葉に一つ頷くと、ゼノスはもう一人の男のほうに視線を向けた。

「ウスベヌ伯爵、貴族たちへの根回しは?」
「ルーウェン公爵の派閥には手をつけておりませんが、それ以外の者たちには。ただ確実に協力してくれる者となると………」

 ウスベヌ伯は少し言いよどんだ。ルーウェン公はフェレンスの妻であるイセリアの父であるから、彼を含めその派閥の貴族たちは最初から敵という認識だ。味方に引き込むなら彼ら以外の貴族たちになるのだが、色のいい返事はなかなかもらえないらしい。

「第一段階が成功すればこちらに傾く者たちも出てくる。それでも様子見を決め込むなら………」
「殿下………」
「わかっている。様子見を決め込む連中は放っておけというのだろう?」

 カベルネス候の低い叱責の声に、ゼノスは少し不機嫌な声を返した。
 これからこの国には激震が走る。もっと生々しい言い方をすれば、内戦が起こる。いや、起こすのだ。ゼノスたちが。

 急速に進展していく事態の中で自分の立ち位置を決められず、「とりあえず趨勢が決するまで様子見」などと安易なほうに流される無能者どもなど、いるだけ有害としかゼノスには思えない。

「その無能者が富みと力を持っていることも事実。今は敵にならないだけで御の字としなければなりません」
「ふん。親から継いだだけものを誇って我がもの顔か」

 ゼノスは吐き捨てた。彼は何もかもが不満だった。自分の現状も、国の現状も、時代の流れに鈍感な貴族たちも、自分の上に兄がいることも、そして兄のそばにあの人が立っていることも、全てが不満で彼を苛立たせる。普段は理性で抑えているが、赤ワインのせいで今宵は少し箍が外れてしまったようだ。

「ならば殿下はご自分の力で王座を手に入れられればよいのです」
「言われるまでもない」
「左様、王座についてしまえば後は殿下の胸一つ………」

 ウスベヌ伯の追従も今は気にならない。赤ワインの入ったグラスを蝋燭の火にかざす。赤いその液体はまるで血のようにも見える。グラスに残ったそれを、ゼノスは一息で飲み干した。

「クロノワ・アルジャークにできて、この俺にできぬ道理はない」

**********

 ゼノスの母の名はマルシェナという。血筋だけは貴族の血統だが、いわゆる下級貴族とか田舎貴族とかいわれる家柄で、貧しくはないが決して裕福ともいえない生活をしていたと聞いている。

 マルシェナの人生が一変したのは、彼女が侍女として王宮に上がったときのことだった。ひょんなことから彼女はジルモンドの御手つきとなり、そして懐妊が発覚するとそのまま後宮に入った。

 一般的な話になるが、一国の後宮というのは一見すれば華やかな場所だが、その実情は権力闘争の中心地である。後ろ盾、つまり実家に大した力がないマルシェナはそこでは弱者の地位に甘んじなければならなかった。もっとも彼女のほかに後宮にいたのは王妃であるエルセベートだけだったのだが、それだけに強者による弱者の虐げは一方的で集中的なものだった。

 結局、マルシェナはゼノスが七歳のときに病死した。「心労により免疫力が低下していた」という言葉の意味をゼノスが理解できたのは随分後になってのことだったが、しかし彼の考えは変わらなかった。

「母は後宮という環境に、ひいては王妃エルセベートに殺されたのだ」

 七歳のとき、子共ながらにゼノスはそう考え、そして今に至るまで修正の必要を感じていない。

 ゼノス自身も悪意にさらされる幼少期をすごした、といっていい。細かい話は省略すれば、つい最近まで日陰者だったのだ。

 そう、クロノワ・アルジャークのように。

 クロノワの名前を聞くようになったのはつい最近だ。アルジャークがオムージュとモントルムの二カ国を同時に併合したとき、皇太子でありオムージュ領の総督に任命されたレヴィナスのおまけのようにその名前が語られていた。

 詳しく調べれば、クロノワは首尾よくモントルムを征服し、そしてモントルム領の総督になったという。そしてさらに最近では、カレナリアを征服した遠征軍の総司令官も彼であった。

 日陰者が、一躍国を支える柱となったのだ。彼は今、帝位をかけてレヴィナスと争っているらしいが、ゼノスはクロノワの勝利を疑っていない。いや、願っている、と言ったほうが正確かもしれない。

「這いつくばって辛酸をなめ、どん底から這い上がってきたものは強い。血筋だけで与えられた地位に甘んじているようなものに負けるものか」

 そう、ゼノス自身を含めて。頭角を現すのはクロノワのほうが早かったが、才能そのものが彼に劣っているとは思わない。クロノワにできた、できるならば、ゼノスにだってできるはずだ。

「殿下」
「カベルネス候か。首尾は?」
「万事整っております」
「そうか。では、始めるとしよう」

 そう言ってゼノスは立ち上がった。それから腰間に下げた剣を確認する。武術の心得などない貴族どもが好んで持つような装飾過多のナマクラではなく、実戦で使うことを、人を殺すことを主眼に作られた一級品だ。国内でも有数の剣の使い手であるカベルネス候も同じように実戦向きの剣を持っている。

「そういえばウスベヌ伯はどうした?」

 城の廊下をフェレンスの執務室目指して歩きながら、ゼノスはもう一人の協力者のことを聞いた。

「屋敷で次の用意をしているかと」
「そうか。ではカベルネス候は城が片付き次第、ウスベヌ伯と合流してそちらの指揮をとってくれ」

 ウスベヌ伯には兵を動かす心得などない。城のほうは以前から手回しをしてあり、掌握にそれほどの手間はかからないだろうから、城の外で起こすゴタゴタはカベルネス候に指揮を執ってもらったほうがいい。

 カベルネス候が了解の返事を返すと、ちょうどフェレンスの執務室の扉が見えてきた。扉の前に立っている二人の警備兵は、ゼノスとカベルネス候の二人を認めると表情を固くした。この二人はカベルネス候の手の者で、これから何が起こるか知っているのだ。

「兄上にお話がある。取次ぎを」

 ゼノスが形式通りに取次ぎを求めると、警備兵の一人がフェレンスにソレを伝えに行き、そしてすぐに入室の許可がなされた。扉を開けて中に入ると、大きな執務机に向かってフェレンスが書類と格闘していた。

「ゼノスにカベルネス候。今日はどうしたんだい?」

 フェレンスは書類仕事を中断してペンを置き、穏やかな眼差しを弟に向けた。その微笑からは心身の充足が感じられ、それがゼノスの神経を逆なでする。
「兄上、今日は折り入ってお話しがあってまいりました。この国の行く末に関する話です」
「それは興味深いね。是非、聞かせて欲しい」

 ゼノスはすぐには話し始めず、まずは室内を進みフェレンスのもとへと近づいていった。しかし近づきすぎはしない。執務机から二歩ほど離れた場所で立ち止まる。その気になれば一息で机の上に飛び乗ることができる距離だ。

「私が思うに、この国は眠っているのです。そう、惰眠を貪っている」
「面白いことを言うね。どういうことかな」

 弟の少々過激な発言に苦笑しながらも、フェレンスは話の続きを促した。そしてゼノスは促されるままに言葉を続ける。

「アルジャーク帝国の急速な版図拡大。カンタルクのポルトールへの進攻とその事実上の属国化。アルテンシア半島の混乱と教会による十字軍遠征。ほかにもあちらこちらで軍が動き、国同士が雌雄を決している。今は激動の時代なのです、兄上。それなのにこの国はそのことをいっこうに認識しようとしない」
「ふむ。それで君はどうしたいのかな」

 机の上に肘を立てて指を組みながら、フェレンスが問いかける。その問いに、ゼノスの目が妖しく光った。

「私はこの国を目覚めさせたいのです。そしてそのために………」

 その瞬間、ゼノスは腰間の剣を抜きながら執務室の床を蹴り、フェレンスの前の執務机の上に飛び乗った。机の上に積まれていた書類が散乱し、その向こうに驚愕を貼り付けたフェレンスの顔が見え隠れする。

「兄上、貴方には死んでいただきたい」

 抜き放った剣を、ゼノスはフェレンスのみぞおちの辺りに突き刺した。フェレンスが血を吐き、衣服に赤いシミが浮かび始める。

「ゼ、ノ……ス?」

 ゼノスは剣を抜くと、そのまま今度は真横に一閃した。斬られた椅子の背もたれと共に、フェレンスの首が宙を飛ぶ。その首が床に落ちるのと、頭を失った首から血が噴出するのとは、さてどちらが早かったのか。

 力と首を失ったフェレンスの体が崩れ落ちると、ゼノスは執務机の上で立ち上がり血を払い飛ばしてから剣を鞘に収めた。

 机から下り顔に付いた返り血を拭うと、ゼノスは床に転がったフェレンスの首のもとへ向かった。冷たい目でその首を見下ろし、おもむろに髪の毛をつかんで持ち上げる。

「行くぞ。次は王妃エルセベートだ」
「御意」

 少し離れたところで全てを見守っていたカベルネス候は顔色を変えることなく頷いた。賽は投げられた。この場に留まっていても事態は優位には進まない。

 ゼノスとカベルネス候が廊下を進むと、少しずつ兵士が合流していき、ついには五十人近い集団になった。そんな完全武装の集団が城内を闊歩しているだけでも異常事態だというのに、その先頭を行くゼノスは衣服を返り血で汚し手にはフェレンスの生首をぶら下げているのである。悲鳴と混乱が城内を満たした。

 腹違いの兄であるフェレンスを手にかけたゼノスが次に向かったのは、宣言どおり王妃エルセベートが住まう一画だった。

 侍女たちが悲鳴をあげて逃げ惑う中をゼノスたちは突き進む。そして行き着いた最も豪勢な部屋の中に、王妃エルセベートはいた。周りには殺気立った数人の護衛がいるが、明らかに戦力不足である。彼女自身は悠然とソファーに腰掛けているように見えるが、その顔は青白く唇には血の気がない。

「恐ろしいことを考えつかれましたな、王妃陛下」

 エルセベートの姿を認めると、ゼノスは芝居がかった口調でまずそういった。彼女は何が起きたのか大体はすでに把握していたが、それでも思いもよらぬ言葉を投げつけられ一瞬絶句した。が、すぐに猛然と言い返す。

「なっ………!恐ろしいことを考えているのは貴方のほうでしょう!わたくしが一体何をしたというのです!?」
「兄上を玉座につけんと画策された」

 その言葉にエルセベートは再び絶句した。フェレンスを王座につけようと画策する?そんなことになんの意味があるというのか。彼は第一王子だ。つまり彼が王座に付くことはすでに確定している。この上どんな陰謀を巡らせる必要があるというのか。

「恐ろしいことですな。今この時期に兄上を玉座につければ、人質としての価値がなくなった国王陛下はアルジャークによって見せしめとして処刑されてしまう。まあ、貴女にとってはそれさえも折込済みだったのでしょうが」
「そ、それは貴方が考えていることでしょう!?」

 確かに名詞、つまりフェレンスの部分をゼノスに入れ替えれば、大まかとはいえ今回のクーデターの核心をつけるだろう。喚きたてるエルセベートの言葉をゼノスは無視し、自分の描くストーリーを進めた。

「おかげで私は兄上を殺さなければならなかった」

 大仰に嘆いてみせ、ゼノスはフェレンスの生首をエルセベートに向けて放った。息子の生首を抱きかかえた彼女は、それが何であるかを認識するとかん高い悲鳴をあげてその生首を投げ捨てた。

 恐怖と焦燥を隠しきれなくなったエルセベートは、ソファーから立ち上がりゼノスに背中を見せて逃げようとした。だがゼノスはそれを見逃しはしない。鞘から剣を走らせ、逃げるエルセベートの背中を斜めに斬り裂いた。

 床に倒れ、しかし這ってでも逃げようとする彼女の背中に、ゼノスはさらに剣を突き刺す。エルセベートは一瞬体を硬直させ、そして絶命した。

 ゼノスはエルセベートが死んだことを確認してから剣を鞘に戻した。周りを見渡せば、彼女の護衛はいつの間にか片付けられている。カベルネス候の仕事だろう。

「さて、これで後はイセリアだけか」
「すでに別部隊を向かわせております」

 フェレンスの妻であるイセリアは殺さずに生かして捕らえる予定だ。フェレンスとの間に子供がいるならば母子共に殺さねばならなかっただろうが、ゼノスにとって幸いなことまだ子供は生まれていない。

「ルーウェン公爵が王都にいれば、このような手間をかけずに済んだのですが………」

 この後、カベルネス候はウスベヌ伯と合流して部隊を率い、ルーウェン公の派閥の貴族たちを粛清することになっている。この時にルーウェン公本人も一緒に殺してしまえれば一番良かったのだが、彼は今自分の領地に戻っている。もっとも彼が王都を離れたおかげでフェレンスの護衛が緩くなり、計画の決行が容易になったという側面もある。

 ルーウェン公がフェレンスとエルセベートを殺したゼノスを認めるわけがないから、彼とは互いに軍をもって雌雄を決しなければならない。イセリアはその時に人質として使うのだ。

「どのみち内戦は起こる。ならばルーウェン公という分りやすい親玉がいるほうが、やりやすいのではないか」

 当たり障りのないことを言っておく。この場で何を言ったところで状況は変わらないのだから。

「では私はウスベヌ伯のところへ………」
「ああ、宜しく頼む」
「殿下はこれからどうされますか」

 殺すべき人物は殺し、捕らえるべき人物は捕らえた。敵対派閥の貴族たちの掃討に参加しないのであれば、することはもうない。

「そうだな。挨拶でもしてくるか、イセリアに」

 そして手に入れるのだ。国も、権力も、女も。
 ゼノスの顔が欲望に歪んだ。




**********************





 イセリアと初めて出会ったのがいつのことだったのか、ゼノスははっきりとは覚えていない。ただ記憶の海を探れば、全てが曖昧な景色の中にまだ幼いイセリアの姿をはっきりと思い出すことができる。

 一目惚れ、ではなかったと思う。一目惚れをするには、出会ったときゼノス自身まだ幼すぎた。愛だの恋だの、単語と知るのはもう少し先で、実感として知るのはさらに先のことだった。

 気が付いたら好きになっていた、としか言いようがない。男心をくすぐるあの可憐な容姿。白く細い手足。鳥のさえずりのように美しい声。その全てに惹かれた。イセリアが視界に入れば、背景の全てが色あせただ彼女だけが輝いて見えた。

 しかしゼノスが自分の気持ちに気づいた時、同時にその恋が決して実ることはないと分ってしまった。なぜならイセリアは兄であるフェレンスの婚約者だったのだから。また王妃であるエルセベートがなにかに感づいたのか、ゼノスがイセリアに近づくことを露骨に嫌うようになり、彼がイセリアと話をする機会は急速に減っていった。

 兄のフェレンスは軟弱な男である。少なくともゼノスはそう思っている。身体的な精強さに関してもそうだが、なによりもその思考が軟弱なのだ。

 ゼノスの独断と偏見だが、フェレンスの基本的な思考はいわゆる「事なかれ主義」で、今の激動の時代にはそぐわない。いや、そぐわないどことか有害ですらある、とゼノスは考えていた。

 心身ともに王者としてもイセリアの夫としてもふさわしくない男。それがゼノスのフェレンスに対する評価だった。

 しかし現実はどうか。フェレンスは第一王子として第一位の王位継承権を持っており、イセリアとはすでに夫婦の関係になっている。

 ゼノスは自分がフェレンスに劣っているとは思わぬ。むしろ優れていると自負している。にもかかわらずフェレンスは王座とイセリアと、この二つを苦労することもなく手に入れたのだ。その生まれながらの血筋によって!

 あるいはフェレンスとイセリアが不仲であれば、ゼノスも溜飲を下げることができたのかもしれない。しかし噂に聞こえてくる二人の仲は極めて良好で、それがゼノスの心をかきむしった。

 花街に女を買いに行くたび、気づけばイセリアに似た女ばかりを指名していた。だがそんな偽者を抱いても満足はできない。虚しさが募るだけだ。フェレンスは温かい閨房の中で本物のイセリアと睦みあっているというのに。

「なぜだ!?」

 とゼノスは叫びたかった。なぜ俺ではない。王座を受け継ぐのも、イセリアを手に入れるのも、なぜ俺ではなくあの軟弱な兄なのだ。生まれが全てを決める。フェレンスが世襲で全てを手に入れるならば、それならば俺は………。

 奪って、手に入れるしかないではないか。

 それは野心という名の怪物のささやきだ。その怪物の身動きを封じているのは理性の鎖だが、その鎖はいつ千切れるかも分らぬ脆いものだ。

 ゼノスは機会を窺い続けた。そんな最中、クロノワ・アルジャークの名前を聞いたのだ。
 彼の名前と置かれていた境遇を聞き、ゼノスは一つの感想を抱いた。

「自分と似ている」

 先に生まれた兄が全てを手に入れ、その母に虐げられ、自分の才能とは別のところに起因する理由によって日陰者にあまんじなければならない。クロノワ・アルジャークがおかれていた環境はゼノスのそれと良く似ていた。

 そんな彼がついに大きな手柄を立てた。いや、世間一般では彼の兄であるレヴィナスの影に隠れてあまり評価されていないが、それでも日陰者には考えられない功績を立て、それに見合う地位を手に入れたのだ。

 先を越されてしまった、と思わないでもない。しかし福音でもある。

「クロノワ・アルジャークにできて、この俺にできぬ道理はない」

 才でクロノワに劣るとは思わぬ。同じ日陰者であったクロノワにできたならば、ゼノスにだってできるはずである。

 何の因果か、ゼノスがのし上がる絶好のチャンスはクロノワ・アルジャークによってもたらされた。カレナリアに親征したジルモンドを彼が捕らえてしまったのだ。時を同じくしてアルジャーク帝国国内では政変が起こり、クロノワは遠征軍の大部分を率いて北へと戻った。

 テムサニスに残ったのは、国王不在という非常事態だけである。しかしこの非常事態こそが、ゼノスには千載一遇の機会に思えた。

 国王ジルモンドはカレナリアで囚われの身だ。後は兄であり第一王子のフェレンスと王妃エルセベートさえ消してしまえば、ゼノスと王座を隔てるものは何もない。

 さらに都合のいいことにカベルネス候とウスベヌ伯という味方も見つけた。ただゼノスはこの二人を心の底から信頼しているわけではない。カベルネス候はルーウェン公のライバルで、この機会にフェレンスを担ぐ彼に対抗すべくゼノスに味方しているのだろうし、ウスベヌ伯はもっと生々しい利益の計算に基づいてゼノスに味方しているはずだ。極端な言い方をすれば二人とも当座の目的が一致しているから味方してくれているだけで、この先どうなるかは分らない。

 彼らには彼らの思惑があり、そのためにゼノスが持つ唯一の価値あるもの、つまり王家の血を利用しようとしているのだろうが、ゼノスにはゼノスの思惑がありそのために彼らを利用しているのだからお互いさまであろう。

 奪え。奪ってしまえ。早く早く早く………。

 野心という名の怪物は囁き続ける。水面下での駆け引きと準備はすでに終わっている。後は王手(チェック)をかけるだけ。

「玉座と、イセリアをこの手に」

 理性の鎖が、はじけた。

**********

 腹違いの兄を殺し、義理の母を殺した。彼らの返り血を浴び、しかし後悔の念は一切ない。むしろここ十年来感じたことのない充足をゼノスは覚えていた。

(思いのほか上手くいったな………)

 あるいはフェレンスとエルセベートのどちらか一方は取り逃がしてしまうかもしれぬと覚悟もしていたのだが、結果は知ってのとおりである。

(ここから先は私事、かも知れぬな)

 だからといってそれが重要ではない、ということはゼノスにとってありえない。公人も私人もただ等しく彼自身である。

 今回のクーデターの表の目的、つまりゼノスがカベルネス候やウスベヌ伯と共有している目的は王座の、ひいてはこの国の実権の奪取である。が、ゼノスにはもう一つ裏の目的とも言うべきものがあった。それは、

「イセリアも手に入れること」
 である。

 イセリアを手に入れることは、ゼノスにとっては必須事項であった。玉座に座りその傍らに彼女をはべらせることができて初めて、ゼノスは己の野心を満足させることが出来るのである。

 公にあっては一国の王としてこの激動の時代を制し、私にあっては恋し焦がれた女と閨房を暖める。それは男子にとって一つの理想形だ。そしてゼノスはその理想を妥協する気はなかった。

 だからこそルーウェン公が領地に帰るまで計画の決行を待ったのだ。カベルネス候が言ったとおり、フェレンスの警護はルーウェン公が直々に担当しており、その警備は厳重であった。そこで公爵が領地に帰るまで決行を送らせ、フェレンスの警備に隙を作ってからクーデターを実行した。

 確実にフェレンスとエルセベートの両者を亡き者にしておきたいカベルネス候とウスベヌ伯もそれを支持した。この後内戦が起こることはほぼ確実で、ならばゼノスのほかに正当性を主張しうるこの二人は確実に殺しておきたかったのだ。しかしゼノスにはもう一つ別の思惑もあった。

 仮にルーウェン公が王都にいる状態で、つまりフェレンスの警備が厳重な状態でクーデターを決行しても、彼を殺すことはできたであろう。エルセベートは取り逃がしたかも知れぬ。しかしフェレンスを殺すことは十分に可能であった。

 が、ゼノスはそうはしなかった。ルーウェン公が王都にいれば、当然彼の命も狙うことになる。彼が死んでしまえば、彼の娘であるイセリアは人質としての価値を失うことになる。もちろんルーウェン公には他にも子供や血縁者がいるから、彼らに対する人質として使うこともできる。しかしフェレンスの妻というイセリアの立場は、ただそれだけでカベルネス候やウスベヌ伯に警戒を抱かせるに足るものなのだ。

 ルーウェン公という巨魁がいるからこそ、イセリアの人質としての価値は大きくそして重くなるのである。国内を掌握していない現状でルーウェン公が死んでしまえば、イセリアも殺しておくべきだという意見は強くなるだろう。

 だからゼノスはルーウェン公が領地に帰るまで計画の決行を待った。イセリアに人質という価値を持たせるために。イセリアを手に入れるために。

 ゼノスはイセリアとフェレンスが暮らしている一画に足を踏み入れた。彼がここに足を運ぶのはこれが始めてである。

 その一画はすでに制圧が完了しているのか、静まり返っていた。ところどころに立っている兵士たちも、返り血で汚れた衣服をまとうゼノスがここにいることには何も言わず、かえって敬礼をよこしてくる。

 歩を進めていくと、他よりも大きな扉を持つ部屋が見えてきた。その前には二人の兵士が立っている。どうやらあの部屋にイセリアがいるようだ。ゼノスが無言でその部屋に近づくと、兵士たちが扉を開けた。

「ゼノス………!貴方は………!」

 ゼノスが部屋に入ってくると、イセリアは憎悪に満ちた目で彼を睨み付けた。その突き刺すかのような視線に、ゼノスは勝者にのみ許される余裕に満ちた冷笑で応じた。

 部屋の中にいた兵たちを下がらせる。部屋の扉が閉まると、その閉ざされた空間の中にゼノスとイセリアの二人だけが残された。

「兄上なら死にましたよ。私が殺しました」
「………!」

 その言葉を聞いた瞬間、イセリアの目は大きく見開かれた。そして徐々に顔から血の気が引いていき、口元に添えられて手が震え始めた。返り血で汚れたゼノスの衣服を見たときからその結末は頭の片隅にあったのだろうが、面と向かって、しかも殺した張本人から聞かされればその衝撃はいかほどであろうか。イセリアの目から大粒の涙が零れ落ちた。しかしそれでもイセリアは俯かなかった。

「なぜ………こんなことを………!」

 涙を流しながらも、イセリアの目に宿る憎悪の光に衰えはない。いや、むしろより強くなったといえる。彼女は射殺さんばかりに睨みつけるが、しかしゼノスが怯むことはなく、むしろ彼は喉の奥を鳴らして笑った。

「なぜ?俺が望むものを手に入れるには、こうするしかなかったからだ」

 イセリアの顎を右手でつかみ、その反抗的な目をむしろ挑むようにして覗き込みゼノスは獰猛な笑みを浮かべた。慇懃な言葉遣いはもはや止め、日陰者の第二王子という望まぬ仮面を自分の手で叩き割る。

 イセリアとゼノスは互いに息がかかりそうな距離で睨み合った。先に視線をそらしたのはイセリアのほうだった。

「放しなさい!汚らわしい!」

 ゼノスの手を払いのけ、部屋の奥、隣室に通じる扉のほうへ逃れる。しかし隣室へ逃げ込むことはせず、胸の前で手を組んでゼノスを睨みつけた。

「思っていた以上に気が強いな。ますます気に入った」

 その言葉に、イセリアは今までとは別の種類の身の危険を感じた。憎い仇でしかなかったゼノスが男であること、そして自分が女であることを思い出したのだ。

 イセリアの憎悪に、恐怖が混じる。そして自覚してしまった恐怖は、あっという間に広がり彼女の体温を下げた。

 手が震え、膝が笑う。イセリアの目から憎悪が駆逐され、変わりに恐怖が彼女を縛るのを見て、ゼノスは獰猛に笑った。

「わ、わたしはフェレンス様の妻ですっ!あ、貴方の思い通りになんてなりません!」
「ではその強情をいつまで張り続けられるか、体に聞いてみるとしよう」

 今度こそ背中に冷たいものを感じ、イセリアは扉を開けて隣室に逃げ込んだ。逃げ込んだのは普段彼女がフェレンスと夜を共にしていた寝室である。窓には分厚い遮光のカーテンが付けられており、昼間だというのに室内は薄暗い。

 イセリアは必死に逃げたが、しかし突然腕をつかまれて寝台の上に投げ飛ばされた。投げ飛ばした張本人、ゼノスが嫌な笑みを顔に貼り付けて近づいてくるのを見て、イセリアは寝台の上で後ずさる。手じかにあった枕を、思わず抱きしめる。

(フェレンス様………!)

 抱きしめた枕から、フェレンスの香りがした。その香りが恐怖に支配されたイセリアの思考を、一部とはいえ解放する。

(そうよ、ここは………!)

 この寝台は、イセリアとフェレンスが愛を育んできた場所だ。その大切な場所を、ゼノスに汚されるというのか。

(それくらいな、いっそ………!)

 ゼノスの手がイセリアを寝台の上に押し倒す。倒れた彼女の上にゼノスはまたがり、乱暴にその衣服を破きその白い肌をむき出しにした。

(貴方なんかの思い通りにはならない!)

 イセリアは心の中で叫び、そして………。
 そして、舌を噛み切った。

**********

 破いた服の下から、イセリアの控えめな双丘がこぼれ出る。この双丘にはじめて触れたのが自分ではなくフェレンスであるということに殺意に近い憎悪を覚えるが、その本人はすでに自分が殺したことを思い出すとすぐに沈静化した。

 イセリアは相変わらずこちらを睨みつけてくる。その反抗的な目に、ゼノスは嗜虐心をくすぐられる。

 ふと、イセリアが目をつぶった。観念したのかと思ったが、その一瞬後に様子がおかしいことに気づく。

 イセリアの口から、赤いものが一筋流れ落ち、枕に赤いしみを作った。

「なっ!?」

 驚いたゼノスは後ろに飛びのいた。自由になったはずのイセリアは、しかし肌を隠すことも起き上がって彼を睨み付けることもしない。否、できない、といったほうが正しいだろう。

「なぜだ!?」

 ゼノスは叫ぶ。勝者となれば全てを手に入れられるのではなかったのか。なぜそこまでして自分を拒むのか。自分よりも兄のほうがいいというのか。

「なぜだ!?」

 手に入れたかったもの、手に入れるはずだったものは、彼の手から零れ落ちそして砕けてしまった。もう手に入れることはできない。永遠に。

 なぜならばイセリアは舌を噛み切って死んでしまったのだから。

**********

 その日、テムサニスの王都ヴァンナークでクーデターが決行された。クーデターの首謀者は第二王子ゼノス・テムサニスで、国内の有力貴族であるカベルネス候やウスベヌ伯といった者たちが協力していた。

 ゼノスはまず兄であるフェレンスとその妻イセリア、そして義理の母である王妃エルセベートを殺害し、血筋の上での政敵を排除した。

 城内を制圧したゼノスは、次に王都ヴァンナークにいるルーウェン公の派閥の貴族たちを襲撃し、当主に限れば全て殺害した。こうしてクーデターの第一段階はほぼ完全に成功し、ゼノスを担ぐ一派は王都ヴァンナークを掌握したのであった。

 クーデターの次の日、ゼノスは略式ではあるが戴冠式を行い、テムサニスの国王を名乗った。ただカレナリアの地で捕まっているとはいえジルモンドはいまだ健在で、彼はいまだ退位を表明してはいない。この時のテムサニスの状況を、後の歴史書の言葉を借りて言い表せば、

「一つの国に王二人」

 となる。ただ先ほども述べたとおり、その内の一人は異国の地で捕囚の身分であり、一つしかない玉座に座るのは、やはりただ一人の王であった。

 さて、ゼノスは玉座に座ったわけであるが、それは国内を掌握した、という意味ではなかった。王都ヴァンナークで起こったことを知ると、ルーウェン公はすぐさま自身の派閥を率いてゼノスに反旗を翻した。

 彼にしてみれば娘であるイセリアと、彼女が嫁いだフェレンスを殺されたのだ。黙っていることなどできはしない。それにルーウェン公が何もしなくても、ゼノスは彼を討伐しようとするだろう。ならば兵を挙げ迎え撃つしか、ルーウェン公が生き残る術はない。

 とはいえ相手は王族である。王族に向かって兵を挙げるというのは、貴族にとっては体裁が悪い。そして体裁が悪いということは、兵の士気が上がりにくいということを意味していた。敵が王族を旗頭として掲げるならば、こちらも王族の一人を旗頭とするのが最もよい。だが、それはもはや叶わぬ。

 苦肉の策として掲げた口上は次のようなものであった。

「ジルモンド陛下が崩御も退位もしておられない以上、第二王子ゼノスの戴冠は不当であり簒奪にあたる。正統な国王陛下がお戻りになられるまで国を守るのが、臣下たる者の努めである」

 主張していることの中身は正当なのだろうが、捕囚の身に甘んじている国王を引っ張り出さねばならないとは、情けない体たらくである。ルーウェン公としても本来であれば、フェレンスを旗頭にして戦い勝った後は第一王子の義父として国政に影響力を強める、というのが最善のシナリオであったろうに。

 さて、ゼノスの方はルーウェン公が兵を挙げるのを悠長に待ってはいなかった。ルーウェン公が兵を挙げることなど最初から織り込み済みで、彼の出方を伺う必要などない。王都ヴァンナークを掌握したのであれば、次にやるべきは最大の敵であるルーウェン公の討伐である。

 クーデターを起こす前、ゼノスはカレナリアへの再度の出兵を主張していた。そして彼に同調するカベルネス候やウスベヌ伯といった貴族たちは、その名目で兵をすでに用意していた。

 こうしてカレナリア出兵のための軍はルーウェン公爵討伐のための軍に早変わりし、その矛先を国内へと向けたのである。その数、およそ五五〇〇〇。

 ルーウェン公の領地へ向かうにあたり、ゼノスは城に保管されていた王旗を持ち出した。かつてカレナリアに進攻したジルモンドが掲げていた王旗まったく同じそれであり、予備として保管されていたものである。

「王のいる所に王旗あり」

 というのが原則であるから、王旗を掲げることにより、ゼノスは自分が正統な王であることを国内に宣伝しようとしたのである。

 ルーウェン公もまた同じ派閥の貴族たちと協力して兵を集めた。その数およそ三万。別の名目でとはいえ早い段階で兵を集めてあり、後は動かすだけだったゼノスの側と同じ数をそれえるのはやはり難しい。むしろこの短期間によくぞ三万も集めたと評価すべきであろう。

 余談であるが、この先ゼノスの軍を新王軍。ルーウェン公爵の軍を公爵軍とそれぞれ呼称する。

 新王軍と公爵軍の戦端が開かれたのは、ルーウェン公の領地内にあるカートルム平原でのことだった。

 結果から言えば新王軍の勝利だった。数の差以上に、指揮官の士気が勝敗を分けた戦いになった。

 新王軍の総司令官は当然のことながらゼノスである。彼は国内を平定し、名実共にテムサニスの王になろうというのだから、彼自身の士気は高い。

 カベルネス候やウスベヌ伯といった貴族たちも同様である。これまで国内で最有力の貴族といえば、やはり第一王子に娘を嫁がせていたルーウェン公であった。だがこの戦いに勝てばその構図を一変させることができる。権力と富を追い求めるのが貴族の習性なのだろうが、その本能に身を任せた彼らの士気も高かった。

 対して士気が上がりきらないのがルーウェン公である。彼はこの戦いに勝った後の国のあり方と、その中での自分の立ち位置を想像できなかったのである。フェレンスとイセリアが生きていた時は、王の外戚として権力を振るうという目標があった。それは目新しい手法ではまったくないがそれだけに確実で、彼に確固たる権力を約束していた。しかしその両者を失ってしまったルーウェン公は、同時に未来に対する想像力までも失ってしまったようであった。

「自分がこの国を盗る」

 この状況下でそう意気込むことができない辺り、彼の器の限界だったのかもしれない。なんにせよ確かなことは、ルーウェン公はこの戦いの後の権力構造を描ききれていなかったということである。

 公爵軍に参加しているほかの貴族たちも同じような状況であった。確かにルーウェン公は彼らの派閥の盟主であり、最有力者である。しかし彼は王族ではない。彼は貴族でしかなく、その意味では自分たちと同じ立場なのだ。

「この戦いに勝った後、ルーウェン公は王として振舞うつもりではなかろうか」

 そんな疑念が彼らの心の中に渦巻いていた。それはルーウェン公が戦いの後の権力構造を描ききれていなかったことも関係していたのだろう。

 もし彼らが生粋の武官であったなら、戦いの後のことは取り敢えず置いておき、勝つことに意識を集中できたかもしれない。しかし彼らの多くは文官肌であった。彼らにとって戦いは道具でしかなく、重要なのはその後のことなのだ。戦場が命のやり取りをする場所だということさえ、忘れてしまっていた者もいたのかもしれない。

 ともかく一方の指揮官の士気は高く他方は低い、という構図になった。そして指揮官の士気というのは兵士たちの士気に直結する。誰だって迷いを見せる指揮官の下では戦いたくないのだから。

 新王軍はさんざんに公爵軍を喰いちぎり敗走させた。ルーウェン公もこの戦いで戦死している。

 そして戦いの後に始まったのは、地味だが重要な戦後処理、ではなく勝者により粛清と略奪であった。

 ゼノスは敵になったルーウェン公の派閥の貴族たちを許しはしなかった。最初の一戦で趨勢を決すると、そのまま軍を進め敵対した貴族たちの領地に乗りこみ、そして潰していった。ご丁寧に一家ずつ、である。

 潰した家に妙齢の令嬢がいると、ゼノスはその令嬢を閨房に放り込んだ。いや、令嬢の寝室に乗り込んだ、と言ったほうが正しいだろう。イセリアを失った喪失を埋めようとしていたのかもしれない。

 相手をさんざんに辱めて犯した後、ゼノスの胸に湧き上がってくるのは、しかし憎しみであった。なまじイセリアを重ねて抱いているから、どうしても彼女の死に様を思い出してしまうのである。

 自分のものにならずに死を選んだイセリア。そして偽者を抱かねばならない自分。憎悪と嫌悪が入り混じり、ゼノスは寝台の上で肌を上気させ気を失っている令嬢の首に手をかけた。

 そんなことが何度も続いた。新王軍は王の精神状態がいまだ不安定で、その不安定さは軍規の緩みに直結し、各地で略奪が行われた。

 新王軍が今いる場所はルーウェン公の派閥の貴族たちの領地である。つまり他人の土地であり、敵の土地である。貴族という生き物は元来、自分の土地以外はどうでもいいようで彼らはそこにあった富を根こそぎ奪っていった。

 内戦は終わった。しかし新秩序はいまだ築かれず、むしろ混迷が深まっている。なにしろ勝者が自らの手で混乱を助長しているのである。それは言い繕うことのできない、大きな隙であった。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:39
リガ砦で新年を迎えたクロノワは、帝都ケーヒンスブルグには戻らずにそのまま西に進み、オムージュ領の総督府が置かれているベルーカを目指した。

 かつてレヴィナスが治めていたオムージュ領の行政機能を掌握するため、そしてアレクセイに約束した通り捕虜にしたレヴィナス軍の兵士たちを故郷に帰すためであった。

 捕虜たちを順次解放しながらオムージュ領を進むクロノワは、それと同時に土地の荒れ具合も観察していたのだが、それは想像以上であった。季節は冬であるから大地に緑が少ないのは仕方がない。しかし耕作を放棄したと思しき農地がかなりの面積ある。暮らしている人々も痩せており、顔には生気がない。

「オムージュを、お願いしますっ!!」

 リガ砦でレヴィナスを討ち取った農民たちに懇願された言葉がよみがえる。その言葉は誇張でもなんでもなく、彼らは、オムージュはギリギリのところまで追い詰められていたのだ。これらから成さねばならない仕事の重さを思い、クロノワは身を引き締めた。

 それにしても、とクロノワは思う。
 それにしても悪政の代償はなんと大きいのだろう。レヴィナスがオムージュ領の総督として治めた時間は一年程度である。レヴィナスが打った手が悪すぎたという理由もある。彼に起因する以外の理由もあったろう。しかしその一年でオムージュはここまで追い詰められてしまったのだ。

 為政者が打つ手を間違えてしまったときの影響と代償の大きさに、クロノワは一種の恐怖さえ感じた。ただそれはその責任を背負っていく覚悟の裏返しでもある。

 ベルーカの総督府に入ったクロノワは、すぐさま改革に取り掛かった。税制を帝国のそれにあわせ、レヴィナスが行っていた「増税分を過去にさかのぼって適用する」という禁じ手を停止する。さらに土地を捨てて難民とならざるを得なかったオムージュの民が戻ってこられるように、「半年以内に土地に戻れば、未納分の税金は免除する」という布告を出した。これによって国外に逃れていた人々が帰ってくることができ、穀物の生産量も元に戻るはずである。

 さらにクロノワは、オムージュがアルジャークに併合された際、レヴィナスが土地を安堵した貴族たちを処断した。住民たちに対する略奪じみた租税の取立てが、その理由であった。盗賊を探すという名目で、実際に私兵を率いて自分の領地内の村を襲い略奪を行った貴族がいたというのだから救いようがない。

 聖銀(ミスリル)の製法が流出したことで豪遊費を失った聖職者たちが、オムージュの貴族たちのところに数多く転がり込んでいることをクロノワは知っていた。そしてその聖職者たちがそこで何をしていたのかも。彼らはそれまでの生活を改めようとはせず、転がり込んだ貴族たちのもとで美食を貪り美酒をあおり美女をはべらせて楽しんでいたのである。

 そのための費用は転がり込んださきの貴族が負担していたわけであるが、ではその貴族の収入源はといえば領地に住んでいる住民たちの血税である。しかも貴族たちは、聖職者たちの豪遊費分だけを追加で徴収していたわけではない。「司祭さまがご入用である」という、教会の信者であれば逆らい難い大義名分を掲げて必要分以上の取立てを行い、私腹を肥やしていたのである。

 増税とその過去への適用を行いオムージュの民の生活を圧迫したのはレヴィナスであるが、そこにさらに取立てを行い止めをさしたのはこのような貴族たちであった。

 そのような連中にクロノワは容赦しなかった。断罪すべきものを断罪し、家を取り潰し財産と領地を没収した。遺された者には一応路頭に迷わぬように、慎ましく暮らせば一世代くらいは働かなくても生きていけるくらいの金銭は残してやったが、浪費に慣れた彼らがそれを使い切った以降のことは知らぬ。

(恨まれるでしょうね………)

 執行書類にサインをしながら、クロノワは苦く笑った。が、恨まれてもやらねばならない。今この時期に行動しなければ、オムージュの民の信任は得られない。レヴィナスによって痛めつけられた彼らを可能な限り速やかに回復しなければ、これから始まるクロノワの治世に影を落とすことになるだろう。

 ただアルジャーク皇帝クロノワとしては、別の思惑もある。元来、アルジャーク帝国に貴族という階級は存在しない。そのような体制の中で統治を行う皇帝にとって、皇帝と臣民の間に割り込んで権利ばかりを主張する旧オムージュ貴族の生き残りは邪魔なのである。だからこの件にかこつけて、一気に排除してしまいたいという思惑があった。

 さて、そうやってアルジャーク併合後にも残っていた旧オムージュ貴族のほとんど全てが取り潰されたわけであるが、そこに転がり込んでいた聖職者たちにはクロノワは手を出さなかった。ただ庇護してくれていた貴族がいなくなったわけであるから、彼らにしてみれば突然外に放り出されたような感覚であったろう。

 そのような聖職者たちの多くは、貴族の代わりとして今度はクロノワに援助を求めた。しかしクロノワは手を出さなかった。そう、いい意味でも悪い意味でも。有り体に言ってしまえば、その申し出を突っぱねたわけである。当然、聖職者たちのクロノワの心象は悪くなった。

 これは憶測の話しになるが、仮に十字軍によるアルテンシア半島への遠征が成功し教会の低下しなければ、教会とアルジャークの関係はこの件がきっかけで冷え込んだかもしれない。下手を打てば敵視さえされていただろう。

 しかし第一次十字軍遠征は失敗した。それにより教会の力はそがれ、この程度の些事に力を割けなくなったのである。しかもその力と発言力を大きく低下させた教会は、シーヴァに対抗するためアルジャークに助力を求めねばならなくなる。

 将来的として戦場で出会うクロノワを、この時期に間接的にとはいえシーヴァが助けていたことは歴史の数奇さを感じさせる。

 レヴィナスが推し進めていた建築計画については、大幅にその規模を小さくした。計画段階でまだ着工していないものについては全て凍結したのだが、ほとんどの建物はコルグスがオムージュ王であったときから計画が進められており、すでに八割以上完成しているものが多い。

 見栄えが悪くなるくらいなら途中で放り出してもいいのだが、その事業に関わりそこから収入を得ている人々も確かにおり、計画を全面凍結してしまえばそれらの人々の生活に影響を及ぼすだろう。計画とそこに関わる人の数が多すぎたのだ。そこでクロノワは、縮小はするが計画自体は存続させ、それらの人々の雇用と生活を守ったのだ。

 ただレヴィナスから任されて計画全体の監督を行っていたコルグスは流石に罷免した。クロノワとしては彼自身に思うところはない。しかし、アーデルハイトの父でありレヴィナスの義父にあたる彼に、このまま計画を委ねておくわけにはいかないのである。ちなみにもともとはコルグスが打ち立てたこの一連の建築計画は、この先八年後に一通りの完成をみる。自分の手を離れたとはいえ計画の完遂を見ることができた彼は、あるいは幸せだったのかもしれない。

 それにしても、とクロノワは思う。

(兄上は、皇室に生まれるべきではなかったのかもしれませんね………)

 恐らくコルグスもそうなのだろうが、レヴィナスは美の追求者であり、その本質は芸術家、しかも天才肌のそれであろう。こういった人種は目標に対して一途であり、悪く言えばそれしか目に入らない。目標達成のためには骨身を惜しまず努力を払う。

 レヴィナスの場合、オムージュ領総督となったことで努力できる幅が広がりすぎたのだ。それが彼にとってもオムージュの民にとっても不幸な結果となった。

 もしレヴィナスが皇太子でもなんでもなければ、彼は限られた環境ながらも心いくまで自分の望む美しさを探求し、そしてそれに見合う評価と満足を得られただろう。クロノワはそう思わずにはいられなかった。

 さて、オムージュでいわばレヴィナスの後始末を終えたクロノワは、次にモントルム領オルクスに向かい、そこで遷都を宣言した。

「ケーヒンスブルグの宮殿は焼け落ち、もはや政には耐えない。また最近拡大した版図の中では、ケーヒンスブルグは北より過ぎる。そこで、国土の中で比較的中心に位置し、治安状態のよいオルクスを新たに帝都とすることが妥当であると考える」

 大まかに要点を抜き出せばこれが遷都の理由である。さらに良港を有する独立都市ヴェンツブルグが近くにあったのも、オルクスを帝都に選んだ理由であろう。これからクロノワが「世界を小さくする」ために、海は決して外すことのできない重要なファクターなのだから。

 遷都を宣言したクロノワは、次に略式ではあったが戴冠式を行い正式にアルジャーク帝国の皇帝に即位した。略式などではなく各国の要人なども招いて盛大に式典を催すべきだという意見もあったが、やるべき仕事が山済みの中、時間と金のかかる“盛大な式典”とやらを開く気にクロノワはなれなかったのだ。

 戴冠式において、クロノワは自分の手で冠を頭に載せた。

「戴冠式の際には、ローデリッヒ殿に冠を載せていただきたい」

 そうお願いしていた軍務大臣ローデリッヒの死に様は、すでにクロノワも聞き及んでいる。新しい皇帝の頭に冠を載せるという栄誉を、クロノワが他の誰にも与えなかったことでローデリッヒの名前は長く歴史に残ることになった。いわば最後の餞をやった形になるのだが、そんな小難しい解釈を抜きにしても、クロノワにしてみればもっと感情的な部分でローデリッヒ以外にその役をやらせる気にはなれなかったのだ。

 皇帝の座についた後は、次に国政を行うための布陣を決めればならない。宰相で国務大臣を兼務していたエルストハージ・メイスンと軍務大臣であったローデリッヒ・イラニールはクロノワが皇帝になるまでの政変によって命を落としており、現在はそのポストが空いている。早急に、少なくとも三大臣の顔ぶれを決定しなければ、国を回すことはできない。

 ローデリッヒにはアーバルクという名の息子がいた。クロノワはローデリッヒの働きに報いるために、その息子に父と同じ軍務大臣の地位を提示したのだが、アーバルクはこれを固辞した。

「軍務大臣の職責は実績のない者には重過ぎるもので、まして恩賞として誰かに与えるものではありません。大変光栄ではありますが、今私がその地位に就けば陛下の治世に悪しき前例を与えることになりましょう。それに、父も今の私では役者不足だと言うことでしょう」

 どうかふさわしい方をお就けくださいとアーバルクはいい、そしてクロノワもそれを受け入れた。

「しかしそうなると………、困りましたね………」

 クロノワは一人愚痴る。
 モントルム総督時代にその補佐官を務めてくれたストラトス・シュメイルや首席秘書官であったフィリオ・マーキスをはじめとして、クロノワの周りには若く優秀な人材が多い。彼らは信頼に足る人物ではあるが、若いということは反面経験が浅いことを意味しており、彼らを三大臣のような国家の要職に抜擢するには一抹の不安が残る。

 悩んだ末、クロノワは問題を丸投げした。だれに丸投げしたかと言えば、外務大臣であったラシアート・シェルパである。

 クロノワはラシアートを宰相に任じると、彼に三大臣の職責を全て兼務させた。しかしながら、いかにラシアートが有能であろうとも一人で三大臣の職責を全うすることなどできるわけがない。そこでクロノワは彼の下にストラトスやフィリオ、アーバルクといった有能な若手を数多く配置しラシアートが彼らに仕事を割り振れるようにした。

 ラシアートに将来国を背負う若手の育成と監督をお願いしたのである。一面、かつてエルストハージが宰相として二人の大臣をまとめていたのと似ている。この体制は後に「ラシアート塾」と呼ばれ、彼が宰相職を退いた後も続き優秀な官僚を数多く輩出した。

 人事の大枠も決まり、オルクスが帝都として機能し始めたころ、リリーゼ・ラクラシアが独立都市ヴェンツブルグから戻ってきた。

 リリーゼはクロノワが帝位に付くまでの一連の政変の間、ずっとヴェンツブルグにいた。それは彼女が自発的に望んだことではなく、フィリオとラクラシア家当主で父でもあるディグスが共謀して彼女を半ば家に軟禁する形で止めたからであった。

 当然、リリーゼとしては不満である。せっかく仕事にもなれ充実した生活を送っていたのに、大事なときに置いてきぼりをくらったのだから。

 そんな不満と悔しさで一杯のリリーゼに声をかけて仕事を手伝わせたのが、アルジャーク帝国から派遣された九人目の執政官、オルドナス・バスティエであった。

 聖銀(ミスリル)の売却益におけるモントルム総督府の取り分は一割であった。クロノワは総督であった頃にそのお金で五隻の帆船を買い、そして実際に運用させていた。実際に何をさせていたかというと、実験的な交易と種々の情報収集である。

 ただクロノワは多忙であった。南方遠征軍の総司令官としてカレナリアに赴き、そしてそのまま政変に巻き込まれていった。この間、五隻の帆船の運用とそこからもたらされる情報の整理を行っていたのが、オルドナス・バスティエその人なのである。

 厳密に言えば、これはヴェンツブルグの執政院の仕事ではない。クロノワがやり始めたことなのだから、モントルム総督府の仕事であろう。そこでオルドナスは総督府職員の身分を持つリリーゼに仕事を手伝ってもらったのである。

 クロノワが皇帝となり、モントルム総督府という組織がなくなったこの節目に、オルドナスはまとめておいた情報を報告するため、仕事を手伝ってもらっていたリリーゼに使いをお願いしたのである。

 帝都となったオルクスへ向かうリリーゼの心境は複雑であった。大事なときに遠ざけられてしまったことへの不満や怒り、またあそこで仕事ができるという期待と喜び、そして忘れられていたらどうしようという不安。様々な感情を抱きながら、彼女は皇帝の居城となったボルフイスク城へ向かったのである。

 リリーゼは皇帝となったクロノワに直接謁見を申し込む、という無謀は流石にしなかった。彼女はまず以前に直接の上司であったフィリオに取り次いでもらい、オルドナスから預かった報告書を見せたのである。

「お久しぶりです、リリーゼ」

 そういってフィリオは前と少しも変わらない笑顔をリリーゼに向けた。また一緒に仕事を頑張りましょうといわれ、忘れられてはいなかったとリリーゼは安堵した。

 安堵すると、次は不満が顔を出してくる。父であるディグスと共謀してリリーゼを屋敷に軟禁してくれたのは、他でもないこの男なのだ。意思の力を総動員して表情筋を制御し、緩みそうになる頬を引き締めて精一杯“ツン”とした表情をして彼女は顔をそらした。フィリオが笑っていたところをみると、上手くはいっていなかったようだが。

「それじゃあ、報告書を見せてもらいますね」

 そういうとフィリオは顔を引き締め、分厚い報告書を手に取り読み始めた。そのスピードは恐ろしく速い。たぶん全てを読んでいるわけではなく、重要と思える点を抜き出して読んでいるのだろう。

「こういうのを『渡りに船』と言うんでしょうかね………」

 報告書を読み終えたフィリオは驚いたような、それでいて呆れたような声でそう呟いた。それからリリーゼのほうに真剣な目を向けてくる。

「これからこの報告書を陛下にお見せしようと思うのですが、リリーゼも一緒に来てくれますか」
「………わたしがお会いしても大丈夫でしょうか………?」

 二つ返事で承諾することができず、リリーゼは少し俯いた。クロノワに最後に会ったとき、彼はまだモントルム領の総督であった。それが今や大国アルジャークの皇帝である。もはやはるか彼方の存在と言っていい。少し面識が有るだけの自分が、フィリオと一緒とはいえいきなり押しかけていいものだろうか。

「あの方はお変わりありませんよ。変わったのは肩書きだけです」

 フィリオのその言葉に背中を押されて、リリーゼは持ってきた報告書を持ってクロノワの執務室へと向かった。

「お久しぶりです、リリーゼ」

 部屋に入ってきた客人に懐かしい顔を認めたクロノワは、そう言って変わらない笑顔をリリーゼに向けた。その笑顔を見てリリーゼの緊張もようやく解ける。皇帝になってもクロノワは本当に変わっていなかった。

 フィリオがかい摘んで用件を説明し、リリーゼに報告書を渡すように促す。彼女から書類を受け取ったクロノワは、さっそくそれに目を通し始めた。

 読み進めるにつれて、クロノワの顔がだんだんと真剣な表情になっていく。所々質問を受けたが、オルドナスと一緒に報告書をまとめたリリーゼはそれに十分答えることができた。

「フィリオ、どう思いますか?」
「例の計画を一段階進めるのに足るかと」

 フィリオの答えにクロノワは一つ頷く。それから彼はリリーゼのほうに視線を向けた。

「念のために聞いておきますが、リリーゼは再びこちらで働く、ということでいいのですよね?」
「はい、お願いします」

 正直なところ、クロノワとフィリオの話には付いていけていない。しかし、それでもリリーゼはクロノワの問いに一瞬の迷いもなく答えた。

「分りました。では、以前と同じようにフィリオの下についてください」

 期待しています、とクロノワはリリーゼに柔らかい眼差しを向けた。
 こうしてリリーゼ・ラクラシアは彼女の望む舞台に再び戻ってきたのである。





************************




「それでフィリオさん、『例の計画』って何なんですか?」

 クロノワの執務室から退室し、少し歩いたところでリリーゼは前を行く男に問いかけた。話の流れから自分がその「例の計画」とやらに携わることになるのは分ったのだが、肝心の中身をまだ聞いていない。

 振り返ったフィリオは、そういえばまだ話していませんでしたね、とバツが悪そうに頬をかいて苦笑した。

「まあ、立ち話もなんですし、話は部屋に着いてからにしましょう」

 フィリオの執務室に戻ると、かつて総督府でやっていたようにお茶を入れるために部屋の隅に用意されていたティーセットのほうに向かった。その様子を見て、フィリオはなぜか苦笑している。

 礼を言ってからリリーゼの淹れてくれたお茶を啜って喉を潤し、さて、と前置きしてからフィリオは話し始めた。

「リリーゼは“シラクサ”という名前に聞き覚えはありませんか」
「あります。確か大陸の南にある島の名前ですよね」

 リリーゼがその名前を知っているのは当然のことだ。なぜならオルドナスと共にまとめた報告書の中にその名前が出てきたのだから。

「正確には港の名前です。もっとも最近では地域名としても使われていますけど」

 エルヴィヨン大陸の南、というよりも大陸の南東に位置するテムサニスの南、といったほうが正確だろう。そこにローシャン島とヘイロン島という二つの島がある。ちなみにローシャン島の方が大きい。“シラクサ”は厳密に言えばそのローシャン島の北側に位置する港街の名前だ。この島から大陸に来る船はこのシラクサ港から来るためか、“シラクサ”という名前はこの二つの島をまとめた地域の名前としても知られている。

「今私がやっている仕事は、このシラクサをアルジャーク側に引き込むための準備です」

 クロノワの野望、それは「世界を縮める」こと。では具体的にどう「縮める」のかといえば海運事業、つまり海上貿易によってである。

 世界を自由に旅することはもはやできない。ならば世界中に船を走らせて人とモノと情報の流れを加速させる。それが、クロノワがイストに約束した「世界を縮める」ということであった。

 シラクサはそのための海上拠点である。シラクサと大陸間の交易は、現在のところ決して盛んではなく、いわば海上に新規参入するクロノワにとって都合が良かったのだ。

「ただ、どういう形にするのか、それはまだ決まっていません」

 併合してアルジャーク帝国に組み込むのか、はたまた独立都市ヴェンツブルグのように宗主権を認めさせた上で自治に任せるのか、あるいは通商条約的なものを結ぶのか、それはまだ決まっていない。しかしリリーゼが持ってきてくれた報告書のおかげで、必要としていた情報が随分と揃った。

「近いうちに現地視察もできるかも知れませんね」

 その時には恐らくリリーゼも同行することになるだろう。

「これから忙しくなります。お茶くみをしている暇はなくなりますよ?」

 茶化すようなフィリオの言葉に、リリーゼは期待を膨らませるのだった。

**********

「さて、シラクサのほうはフィリオに任せておけばいいとして………」

 来客が去り再びひとりになった室内でクロノワは独り言をもらした。そのまま立ち上がり、壁にかけてある地図のところへ向かう。その地図にはエルヴィヨン大陸とその南に位置する島々が記されている。かなり精巧なもので、もともとモントルムの国宝であったものの模造品(レプリカ)だ。地図において重要なのは現物の真贋ではなく、そこに記されている情報なので模造品(レプリカ)でも何も問題はない。むしろ変な気を使わなくていいので、使い勝手はこちらのほうがいいだろう。ちなみに本物は宝物庫に厳重に保管してある。

 とん、と地図上のシラクサの位置にクロノワは指を置いた。そこから曲線を描きながら指を独立都市ヴェンツブルグまで動かす。

「やはりヴェンツブルグは遠い」

 地図から離した手を、今度は顎のところへ持っていく。クロノワが考えごとをするときのクセだ。

「やはりカルフィスクが欲しいですね」

 クロノワの視線が、地図上テムサニスの南端にそそがれる。
 カルフィスクは大陸東部においては最大の貿易港だ。大陸の中心部、つまりこれまで文明の中心であった神聖四国から距離があるため規模としては十指にはもれるだろうが、その地形だけを見れば大陸でも五指に入るほど理想的な地理条件を満たしている。

 ヴェンツブルグはヴェンツブルグで得がたい条件を満たしている。第一に不凍港の北限であり、また新帝都オルクスに最も近い港がヴェンツブルグだ。しかしこことシラクサを直接結ぶのは机上の空論であろう。

「そういえばカレナリアはどうなっているのでしょう?」

 遷都や戴冠などでゴタゴタしていたとはいえ、宰相のラシアートに任せっきりにして報告を聞いていない。

「少し話を聞いておきますか」

 そういってクロノワは足取りも軽く執務室を後にする。どうやらこの新皇帝には臣下を呼びつけるという発想がないらしい。

「お呼びたていただければこちらから伺いましたものを」

 突然執務室に現れた若い主君を、ラシアートは苦笑気味に迎えた。「よいですか?皇帝たる者………」とお小言が始まりそうなのを察したクロノワは、彼にしては珍しく人の言葉を遮って用件を切り出した。

「今、カレナリアはどうなっていますか?」
「………カルフィスク、ですか。確かにシラクサから直接ヴェンツブルグでは距離が有りますからな。船乗りの心理としても、陸地が見えれば港に入りたいでしょうし」

 流石はラシアートである。たった一言でクロノワの考えていることをほとんど全て洞察して見せた。もともとシラクサに関する計画はクロノワの肝いりとはいえ形式上は宰相ラシアートの管轄であり、彼がフィリオに割り振って仕事を任せるという形になっている。フィリオのほうから順次報告を受けていたのだろう。

「カレナリアのほうは残してきた文官たちが上手くやっているようです。大過なしとのことでしたので、宰相権限で当面の現状維持を命じておいたのですが………」

 どうやら近頃の激務のせいで報告を忘れていたらしい。とはいえついさっきまで忘れていたクロノワも人のことは言えない。

「いえ、ラシアートがそれで問題なしと判断したのであれば、それでいいのです」

 ラシアートは優れた政治家であり、くぐり抜けてきた修羅場と積み上げてきた実績の数と質において、クロノワのような若造は及びもつかない。ストラトスやアーバルクにとってそうであるように、ラシアートはクロノワにとっても教師のような存在なのだ。

「また頭の上がらない人が増えてしまいました」

 冗談めかしながらクロノワはそうボヤいたことがある。とはいえそれは若造の宿命であろう。

「とはいえ問題はカレナリアではなくテムサニスのほうですな」
「ええ、カレナリアで特に問題が起こっていないというのなら、テムサニスの情報を集めてもらいたいのですが」

 テムサニス国王ジルモンドが捕囚の身となってから、意図しなかったこととは言え随分と時間がたってしまっている。国王不在のテムサニスでなんらかの政変が起こっている可能性は低くない。少なくともジルモンドの身柄に関して、テムサニス側から何らかのアプローチが行われているはずだ。

「後で私のほうから情報収集を命じておきましょう」
「お願いします」
「報告はどうしましょうか。私のほうで一度情報を集約してからお伝えすることもできますが………」
「いえ、私も直接聞くことにします」

 報告は「共鳴の水鏡」を使って行われることになるだろう。あの魔道具は双方向通信が可能だから、不明な点があれば質問をすることもできる。

「その時はラシアートも同席してください」

 百戦錬磨の政治家である彼の意見は貴重だ。特に今回は、事と次第によっては軍を動かすこともありえる。判断を下す責任から逃れるつもりは毛頭ないが、助言者は多いほうがいい。

「承知しました」

 ラシアートもすぐに承諾した。宰相と三大臣を兼務している身としては、隣国の近況は是非とも知っておきたい重要な情報であろう。

「アールヴェルツェ将軍にも話をしておいたほうがいいかもしれませんな」

 アールヴェルツェは今、戦死したアレクセイ将軍の変わりにアルジャーク軍全軍の再編を行っている。

「そうですね。海軍の再編状況も聞いておきたい」

 陸軍に限って言えば、アールヴェルツェに任せておけば何も問題はない。しかし海軍は完全に畑違いで、流石の彼も苦労しているという話を聞いていた。

 それも仕方がない。もともとアルジャークには海軍という組織はなかったのだから。これまで海戦(と呼べそうな戦い)も国史上数えるほどしかなく、その際には陸軍の兵士を船に乗せて戦っていたという。そもそも地理的にみても大規模な港を造ることができる地形はアルジャークには存在しておらず、造ったとしても冬の間は凍りついてしまう。海に目が行かなくとも仕方がないであろう。

 しかしこれからは違う。アルジャーク帝国はすでにヴェンツブルグと以南にあるカレナリアの港を全て手に入れている。これらの港は不凍港であり、つまり一年と通して使うことができる。アルジャーク帝国はこれまでとは比べ物にならない海上権益を手に入れたのであり、それを守るために海軍はどうしても必要なのだ。

 ましてクロノワはこれから海上に進出しようというのである。海軍力の整備は必須であるといえた。

(まあアールヴェルツェには頑張ってもらいましょう)

 仮にテムサニスを併合するという話になれば、当然かの国の海軍も再編しなければならない。そうなれば彼の仕事はさらに増えるであろう。そのことを承知しつつ、クロノワは無責任なエールを送るのであった。

「それと別の件なのですが………」

 カレナリアとテムサニスの話が一段落すると、ラシアートは別の案件を持ち出した。どれもこれも重要な案件だ。いやこの時期、重要な案件しかないといってもいい。

 版図拡大にともなう「共鳴の水鏡」の通信網の再整備。法制度の統一と必要箇所の改正。各地でばらばらになっている税率を一本化し、全ての国民が公正な裁判を受けられるようにしなければならない。

 特に役人と軍の仕官の登用制度の改革は今すぐにでも着手しなければならない。

 アルジャーク帝国の気風は実力主義である。名家名門と呼ばれるものは確かに存在するが、かといって国の中枢がすべてそこの出身者で独占されているわけではない。実際歴代の三大臣の中では、貧しいながらも苦学しその地位に上りつめた人のほうが多い。現在の宰相であるラシアートもそんな苦労人の一人である。

 アルジャーク帝国において役人や軍の仕官になるには、そのための試験に合格しなければならない。試験は目指すべき位に応じていろいろと種類があるわけだが、全てに共通している点として、受験資格に一切の縛りがない。性別・年齢・出身地などが原因で、試験が受けられないということはがまずないのだ。

 その結果アルジャークにおいては学問が盛んになった。あちらこちらで私塾や学校が開かれ、国としてもそれをバックアップするための制度が整えられている。またこうして根付いた「学ぶこと」への意識は、政治や軍事だけに留まらずさまざまな分野において結実しているのである。

 国としても有能な人材を数多く確保できるし、加えて他の分野の発展はそのまま国の発展にも直結している。アルジャークを強国たらしめている一つの要因であろう。

 だがオムージュやモントルム、カレナリアといった新しく併合された国においては、多くの場合そうではない。それらの国では政治や軍事に関わり、また動かすことができるのは貴族と呼ばれる一部の特権階級だけであり、教育を受ける特権は彼らに限定されるのが普通であった。一般の庶民は親から簡単な読み書きと計算を教わるだけで、学校に通うことはほとんどない。そもそも庶民が教育を受けるための制度がまったくないのが現状である。

 無論、アルジャークとて全ての国民が十分な教育を受けられているわけではない。しかし国民の教育に対する認識の高さはこの時代大陸でもトップクラスで、立身出世を目指す志の高さがこの国の根底を支えていた。そしてその意識を支えているのは、間違いなく国の教育と仕官登用のための制度であった。

 クロノワはこの制度を広大になった版図全体に広げるつもりでいる。成果が現れるのは五年先か十年先か、それは分らない。しかしやらねばならないとクロノワは決意していた。

「征服者が被征服民に対して無責任であっていいはずがない」

 それは民に対する責任でもあるし、歴史に対する責任でもある。簡単に言ってしまえば、クロノワはそこで暮らしている人々に対して何かを残したいのだ。アルジャーク帝国が崩壊し、治める国の名前が変わってもそこに根付いて残るような何かを。

「少なくともこの時期に併合したのがアルジャーク帝国であってよかった」

 そう言ってもらえるような何かを。そして教育とそれに対する意識は、その「何か」足りえるのではないだろうかと思ったのだ。人の生まれは不平等だ。しかしせめてつかむことのできるチャンスは平等であると一人一人が考えられるような、そんな気風と理念を残してみたいのだ。

 もちろん実施すべき政策はこれだけではない。他にも重要な案件が山のようにある。そのなかで優先順位を定め、そして人材と予算を割り振っていかなければならない。しかしこれはやる価値のある仕事だろう。国としても広く有能な人材を集めることができるし、学問が盛んになればこの国はさらに発展していける。

(これも一つ、私の野望かもしれませんね………)

 クロノワとしての野望が「世界を縮める」ことだとすれば、教育と仕官登用制度の改革は皇帝としての野望になるかもしれない。そんなことを頭の片隅で考えながら、クロノワはラシアートと案件を詰めていくのだった。

*********

 カレナリアからの連絡が入ったのは、ラシアートと話をしてから三日後のことであった。報告すべき事柄をこの短時間で調べ上げることはできないであろうから、あらかじめカレナリア側で情報を収集していたことが窺える。どうやら仕事をサボっていたわけではなさそうだと、クロノワは満足した。

「端的に申し上げると、テムサニスは今混乱の最中にあります」
「それは内戦状態、ということでしょうか」
「いえ、そうではないのですが………」

 「共鳴の水鏡」の向こう側で、文官が言いよどむ。その様子は言いづらいことがあるというよりは、適切な言葉を探している風だった。

「では、ことの最初から説明してくれ」

 一緒に話を聞いていたラシアートがそう助け舟を出すと、その文官はほっとした様子を見せ「分りました」と答えてから説明を始めた。

「クロノワ陛下が本国にお戻りになってから、捕虜にしたジルモンド陛下の身柄のことでテムサニス側からたびたび接触がありました」

 とはいえ自分たちだけでそんな大それた交渉を行うわけにもいかないから、のらりくらりと返事をはぐらかしておいたという。

「それがあるとき、接触が止みました。不審に思い調べてみたところ、第二王子のゼノス殿下が第一王子のフェレンス殿下と王妃エルセベート陛下を殺害し、クーデターを起こしていました」

 そしてゼノスは即位を宣言し、そのままルーウェン公爵との内戦に突入した。ちなみにアルジャーク帝国はジルモンドこそがテムサニス王だという立場なので、ゼノスの即位は認めないという方針でいくことになる。

「では、今はその内戦が継続中、ということか」
「いえ、ルーウェン公爵は最初の戦いで戦死しており、公爵の派閥の貴族たちも多数戦死しております」

 つまり、ゼノスに反抗する勢力は現在テムサニスには存在しない。では混乱の原因は何か。

「ゼノス殿下が、敵対した貴族の領地を襲っているのです」
「なんと愚かな………!」

 ラシアートが非難の声を漏らした。わざわざ「領地を襲っている」というふうに言葉を選んだのだから、敵対貴族の粛清以上の事がそこで行われていると考えていいだろう。

 クーデターを起こして肉親を排除し内戦に勝利したゼノスは、今やテムサニス国内における最有力者である。アルジャーク帝国はまだ認めてはいないが、名実共に王になったといっていい。それなのに王となったはずの彼は、治めるべき土地と民を自らの手で虐げ、新たな秩序を作り上げるという責任を果たそうとしない。そんなゼノスに対して、クロノワも個人としては憤りを感じる。

「好機、でしょうね………」

 だが今は皇帝として判断を下す。混乱が広がり、新秩序がいまだ築かれていない今の状態は、派兵を行いテムサニスを完全に併合してしまう好機といえる。

「ご苦労様でした。引き続きテムサニスの情報を集めてください」

 報告を行っていた文官が「共鳴の水鏡」の向こう側で頭を下げるのを認めてから、クロノワはラシアートをともないその部屋を出た。

「軍を動かすおつもりですか」

 廊下を歩いていると、ラシアートがそう尋ねた。

「ええ、そのつもりです。あなたはどう思いますか?」
「………テムサニスは隣国です。こちらがどう動くとしても、かの国の動向と無関係ではいられません」

 ラシアートは少し言葉を濁した。アルジャークにおいても新体制はいまだ本格的には動き出していない。今は国内を固めるのに徹する時期だと彼は思っている。ましてや前皇帝ベルトロワの時代から遠征が相次ぎ、ラシアートなどからすれば少しやりすぎに感じていた。しかしだからといって対岸の火事を放っておけば、いつこちらに飛び火してくるかも分らない。現に土地を捨てたテムサニスの民の一部は難民となって国境を越え、カレナリアに逃れてきている。これは放置しては置けない問題である。

 軍を動かすことに積極的に反対する気はないが、かといって諸手を挙げて賛成もできない。それが、宰相ラシアートが言葉を濁さねばならない理由であろう。

 ただ皇帝であるクロノワがやる気である以上、軍は動かすことになるのだろう。ラシアートも積極的に反対する理由がない以上、この方針を支持することになる。

「なんにせよ、もう一度アールヴェルツェ将軍に話をしておいたほうがよろしいでしょう」

 ラシアートの言葉にクロノワも頷く。アールヴェルツェには「軍を動かす事態になるかもしれない」という話をすでにしてある。しかし今日の報告を聞いて、ほぼ確実に軍を動かすことになった。ならばアールヴェルツェにはそのための準備をしておいてもらわねばならない。

 クロノワはそのままアールヴェルツェのところへ足を伸ばすことにした。またお小言をもらいそうな気もするが、最近は執務室にこもりっぱなしでどうにも運動不足なのだ。

「少し意外ですな」

 近々軍を動かすことになる、という話を伝えるとアールヴェルツェはそうもらした。

「陛下は内政を重視されると思っておりましたので」

 即位早々遠征を行うことになるとは、思っていなかったという。

「欲しいものがありますから」

 クロノワがそう答えると、アールヴェルツェは「ほう」と呟き軽く目を見張った。以前は軽々しくそのようなことを言うことはなかった。いや、できなかった、といったほうが正しいだろう。よくよく観察してみれば、クロノワの表情は以前よりも柔らかい。仕事は激務のはずだが、どこか余裕が感じられる。

(解放された、ということか)

 日陰者の第二皇子という立場、そして降りかかる悪意と中傷と迫害から。精神的な余裕が表情にも表れているのだろう。追い詰められていた頃のクロノワを知っているアールヴェルツェとしては、感慨深いものがある。

「ところで陛下、もしやと思いますが、今回も親征されるおつもりですか」
「ええ、そのつもりですが」

 クロノワは当然といわんばかりに答えたが、それを聞いたアールヴェルツェは途端に眉間にシワを寄せ、これみよがしに盛大なため息をついた。その否定的な反応に、クロノワは思わずたじろぐ。

「な、なんですか………」
「陛下、それだけはお止めください。今陛下の御身にもしもの事があればこの国はどうなります?今は国にとっても御身にとっても大切な時期。親征はご自重ください。よろしいですね?」
「そんな、大げさですよ………」
「よろしいですね!?」

 アールヴェルツェの剣幕に、クロノワは思わず頷いてしまう。言質を取って満足したらしいアールヴェルツェは晴れやかな表情だが、それとは対照的にクロノワは疲れたような、それでいて恨めしいような、そんな顔をしている。

 どうにも頭の上がらない人間が多い新皇帝であった。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:42
「お久しぶりです。ジルモンド陛下」
「そうですな、クロノワ殿下。………いえ、もはや“陛下”とお呼びすべきでしょうか」

 通信用魔道具「共鳴の水鏡」の向こう側に映るその男は、以前に会ったときよりも幾分やつれたようにも見えた。クロノワとジルモンドがこうして言葉を交わすのは、カレナリアで顔を合わせて以来のことである。二人の関係に大きな変化はないが、その二人を取り巻く世界においては、変化は常に起こっている。

「お国の様子はすでにお聞きになられましたか」
「………昨日、窺いました」

 ジルモンドの声は苦い。それも当たり前だろう。自分が異国の地で捕囚の身となっている間に、祖国では妻と長男夫婦が殺害され次男が王位を簒奪したのだから。しかもその新王は各地で自国を略奪している。これまで積み上げてきたものが、一気に崩れたようなものである。

 ジルモンドは、少なくとも暴君ではなかった。それどころか内政における彼の評判は高い。自らの国を痛めつけそこから搾取を繰り返したとしても、長期的に見れば得るものはなにもないとわきまえていたのである。国民を愛し労わる、というほどに力を注いでいたわけではないが、土地が荒れることのないよう治水を行い、穀物の生産量が増えるように開墾を奨励した。

 民が安定した生活を送れるということは、国にしてみれば安定した税収が入るということである。為政者の思惑は生々しいが、民にしてみれば平穏な生活を送れさえすればそれでよいのだ。

 が、それをゼノスが全て無駄にしてしまった、と言っていい。各地を襲い略奪を繰り返しているゼノスは、ジルモンドが築き上げてきた国の基盤を破壊してしまったのだ。まったく、積み上げるのには長い年月がかかるが、壊すのは一瞬である。

 ジルモンド個人としても、状況は最悪と言っていい。ゼノスが名実共にテムサニスの最有力者になり王を自認したということは、ジルモンドに国王としての価値が無くなったことを意味している。

 これまではテムサニス国王であったがゆえに、一応の身の安全は保障されていた。無論、人質として使うためである。だが今の彼に人質としての価値は存在していない。

 帰る国を失い、さらに生かされておくための理由も失いもはやいつ殺されてもおかしくはない。それが今のジルモンドの状況である。

 さらに彼と一緒に捕虜になった、十万以上のテムサニス兵にとっても状況は良くない。国王であったジルモンドでさえ見捨てられたのである。ゼノスが彼らを気にかけてくれる保障など、どこにもない。もちろん見捨てられたと決まったわけではないだろうが、それは希望よりは願望に近い気がする。

「このままにしておくおつもりですか?」
「捕らわれのこの身に、一体何ができましょう?」

 ジルモンドとて、できることならば今すぐに国に戻りたい。「馬鹿なことは止めろ」とゼノスを一喝してやりたいのだ。だが捕らわれのこの身には気をもむ以外、なにも許されてはいない。

「近く、アルジャーク帝国はテムサニスに軍を差し向けることになります」
「それは………!」

 クロノワの言葉にジルモンドは焦ったような声を漏らした。ほとんど実態を失っているとはいえ、彼はテムサニスの王である。面と向かって自分の国を侵略するといわれては、動揺を隠し切ることはできなかったようだ。様々な事態や可能性が彼の脳裏に浮かんでは消えていく。だがしかし、ジルモンドの思考はクロノワの次の言葉で一瞬にして停止することになる。

「協力していただけませんか」
「………は?」

 今、この若い皇帝はなんといった?

「これから行うテムサニス遠征に、陛下のご協力を賜りたい」

 そういってクロノワは満面の笑みを浮かべた。しかしジルモンドはその笑顔が業務用であることをすぐに直感する。そしてその直感が、彼の思考を再起動させた。

「………どういう、ことでしょうか」
「言葉通りの意味です。カレナリアで捕虜になっているテムサニス軍を率いて、遠征に参加していただきたい。ご協力いただければ、王都ヴァンナークを中心に五州を差し上げるつもりです」

 クロノワの言葉にジルモンドは、動揺はしなかった。代わりに彼の内側に沸きあがるのは怒気であった。

「一国の王を傭兵扱いし、あまつさえ我が子を討てと申されるか!」
「その通りです」

 クロノワは業務用の笑みを消し、ジルモンドの怒りの眼差しを真正面から受け止めた。はっきりと肯定の返事を返され、むしろジルモンドのほうがたじろぐ。その光景は、そのまま二人の力関係を表しているようであった。

 客観的にみれば、この申し出はジルモンドにとって利のある話である。

 この状況でゼノスがテムサニス王の称号を名乗るということは、彼がジルモンドを見捨てたとみてまず間違いない。新テムサニス王が旧テムサニス王のためにアルジャークと交渉を行うことはまずありえず、そうなればジルモンドは祖国に戻ることもかなわず、このまま死ぬまで捕囚の身分である。しかもその捕囚の身分すら危ういもので、この先状況が変化すればいつ殺されてもおかしくはない。ほとんど身から出た錆とはいえ、辛い状況であろう。

 しかし遠征に協力すれば祖国に戻ることができ、しかもわずか五州とはいえ自分の手元に残る。今状況下で考えれば、むしろ僥倖であるとさえ言える。

 無論、クロノワにはクロノワの思惑があろう。国を荒らしている新王ゼノスをテムサニスの民が快く思っているはずがなく、そこに内政では評価が高かったジルモンドが現れれば民は遠征軍を歓迎するだろう。侵略者ではなく解放者として受け入れてもらえるのだ。その上ジルモンドが王旗を掲げて先頭に立てば、新王軍の兵士たちは戸惑いその士気は下がるだろう。

 しかしジルモンドが協力しなければしないで、アルジャークには単独でも遠征を成し遂げるだけの力がある。アルジャークの版図は今や二八三州。テムサニスの版図は六六州であるから、その国力差は四倍以上である。ましてテムサニスは今混乱の最中にあり、大きな隙を見せていると言っていい。

「もし協力はしない、と言ったらどうなさいますか………?」
「その時はアルジャークだけで遠征を行うことになります」

 クロノワの返答は予想通りのものであった。アルジャーク単独でも遠征を決行できるのだから、遠征協力の打診はむしろクロノワの譲歩であるともいえる。そのことを承知しているジルモンドは苦慮の色を浮かべた。

 先ほど彼は「我が子を討てと言うのか」と吼えた。しかしその我が子であるところのゼノスは簒奪者である。そう考えれば、ゼノスを討つことに否やはない。王位や帝位に関して肉親が争うという事例は歴史書の中に数多く記録されており、そのことを知っているジルモンドは息子を討つことにそれほどの忌諱は感じない。

「誰かがやらねばならぬのなら、私がやる」

 ジルモンドの心情を言葉にして表現すれば、これが一番近いであろう。実態を失ったとはいえ彼はテムサニスの王である。王としては国と民に対して責任があり、父親としては子供に対して責任がある。その責任を果たした上で手元に五州が残るのであれば、それはやはり僥倖というべきだろう。

 では何が彼の決断を妨げているのかといえば、それは“矜持”であった。

 繰り返しになるが、今の彼は捕囚の身である。戦いに敗れ最大限の屈辱を味わっているといっていい。より具体的に言えば軟禁されている身の上で、軍を指揮して国を取り戻すどころか自身の自由さえままならない。

 そんな彼にクロノワは協力を要請し、あまつさえ報酬さえ出すという。

 そもそも捕虜にしたテムサニス軍の力を使いたいなら、ジルモンドを人質にして言うことを聞かせればいいのだ。そうすれば五州を支払うまでもなくテムサニスは丸ごとアルジャークのものになる。いや、それ以前にテムサニス軍を使う必要性さえ希薄だ。アルジャークには単独でも遠征を成功させるだけの力があるのだから。

 だから、今回の申し出はクロノワの一方的な譲歩、いやもはや善意とさえ言っていい。情けをかけられた、と言い換えることもできるだろう。そしてそれを受けるということは、ジルモンドにしてみればクロノワに縋ることを意味している。

 一国の王が、隣国の皇帝に縋るのである。それはもはや膝を屈することと同義だ。受けたが最後、ジルモンドはもはやクロノワと対等の関係にはなれないであろう。

 国を追われた王が隣国の皇帝に助けを求めるのであれば、まだ面子は保てる。その協力に対して対価を支払う側であるからだ。しかし今回は報酬を支払うのもクロノワの方である。

 もはや面子も何もあったものではない。

 ジルモンドの王としての矜持はクロノワの提案を必死になって拒否している。膝を屈し誇りを捨てたったの五州だ。それでいいのかと問いかけてくる。

 一方で頭の別の部分にある打算はこう囁く。こままでは全てを失い無念のうちに死ぬことになる。ここで協力して五州を得ることと矜持を貫き身ひとつで果てること。後の歴史家たちは、どちらの選択を愚かとするだろうか。

 ジルモンドの中で天秤が揺れている。その天秤が徐々に傾いていくのを、クロノワは何も言わずに見ていた。

**********

「これで良かったのでしょうか………」

 ジルモンドは結局、クロノワの申し出を受け入れることになった。その結果を聞いたラシアートは、少し不安げな表情を見せた。

「確かにジルモンド陛下が陣頭に立たれれば、単独でやるよりも遠征は早期に終結できるでしょうが………」

 代わりに帝国内に自治領という一種の治外法権が存在することになる。自治によって治めているといえば独立都市ヴェンツブルグもそうだが、五州分の領地と一都市では規模と影響力が段違いである。

 ここ最近で急激に版図を拡大させたアルジャーク帝国は、今脱皮の時期にあるといえる。脱皮を終え、国家としての成熟を深めてから自治領が生まれるのであれば、ラシアートも不安に思うことはない。

 しかし今は国の体制を急ぎ整えている最中である。混乱の五歩ほど手前にいるこの状況で国史史上初めての自治領ができれば、事態は自分の能力を超えるのではないかとラシアートは懸念していた。

 時間はかかるかもしれないが、遠征自体はアルジャーク軍単独でもやり遂げることができる。ならばわざわざジルモンドを担ぎ出す必要はなかったのではないだろうか。

「領土拡大が最大の目的ではありませんから」

 クロノワの最大の目的は、大陸東部で最大の貿易港カルフィスクを手に入れることである。カルフィスクは港であるから当然海、しかも南側の海に面している。つまりアルジャークがカルフィスクを手に入れるためには、テムサニスの国を南北に横断しなければならず、それは完全な併合を意味していた。

 極端なことを言えば、クロノワはカルフィスクを手に入れるついでにテムサニスも併合するつもりなのである。いや、テムサニスを併合しなければカルフィスクが手に入らないから遠征をする、といったほうが正確かもしれない。

 しかし、そうやって手に入れたカルフィスクが灰燼に帰した瓦礫の山では、なんの意味もない。クロノワが欲しいのはカルフィスクという港であって、カルフィスクという名前を持った土地ではないのだ。

 戦いが長引けば、それだけテムサニスの国土は荒廃する。町々は焼かれ、農地は荒れるだろう。最南部にあるカルフィスクは主戦場からは遠いが、影響をまぬがれるという保証はない。クロノワにはその港を焼く気など毛頭ないが、ゼノスはどうか判断が付かない。まともな為政者ならば自国の町を焼くなどという愚行は決してしないと信頼できるが、少なくとも今現在ゼノスがやっていることはまともではない。

 短期決着が望ましい。クロノワの頭がそう結論をはじき出すまで、そう時間はかからなかった。

 ではどうやって短期決着を実現させるのか。そこでクロノワが目をつけたのが、テムサニス国王ジルモンドであったのだ。

 ジルモンドが王旗を掲げてテムサニスに帰還すれば、ゼノスとしては捨て置けまい。ゼノスにとって彼は自分の王位を脅かす最大の敵だ。必ず排除しようと動く。

 またゼノスが前線に出てくる可能性も高くなる。
 テムサニスの王旗を掲げる手にと相対せば、新王軍の兵士たちが戸惑うのは目に見えている。その混乱と士気の低下を防ぐためには、ゼノス自身が王旗を掲げて前線に出てくるしかない。

「我の掲げる王旗こそ正当なり」
 と主張するしかないのだ。

 そしてゼノスが前線に出てきさえすれば、彼を討ち取ることも容易になるだろう。そしてゼノスさえ討ち取ればこの戦いは終わる。クロノワの望む短期決着である。

 簡単に言えば、クロノワはゼノスを誘き出すためにジルモンドという“餌”を用意したのである。

「まあ、短期決着は私としても望むものですが………」

 どの道、クロノワとジルモンドの間で話がついた以上、この件は確定事項である。泥沼化による戦費拡大を避けられるならば、それでよしとしてもいいだろう。

「どうかしましたか」
「いえ、何でもありません」

 そう言いつつもラシアートは苦笑を浮かべている。それは教師が生徒に向けるような苦笑であった。

(変わられたな………)

 以前のクロノワは自分の欲望を表に出すことなど決してなかった。悪く言えば、ここまで能動的に動くことはなかった。

(とりあえずは良い変化だな………)

 無私無欲の世捨て人に、国は動かせぬ。欲をもつ身だからこそ理想を目指すのだ、とラシアートは思っている。

 しかしやっかいなのはその欲望の制御が利かなくなったときだ。制御できない欲望は、それを抱く者と彼に連なる全てのものを破滅に叩き込むだろう。

(そうさせないために、私たちがいる)

 自分の仕える若き主君は、諫言を受け入れるだけの器を持っている。ラシアートはその評価に、訂正の必要を感じていない。





*******************





 テムサニス遠征のためにクロノワが動かしたアルジャーク軍は九万であった。この中には補給を担う後方部隊などは含まれていない。

 この九万の軍勢を大雑把に分けると、三人の将軍が三万ずつ率いている。その三人の将軍とは、レイシェル・クルーディ、イトラ・ヨクテエル、カルヴァン・クグニスの三人である。この三人は皆同年代で、将来のアルジャーク軍を率いていくであろう俊英たちである。

 最近の遠征の際には必ず軍を率いていたアールヴェルツェは、今回帝都オルクスに残っている。今頃は紙の束を相手に奮戦していることであろう。

 今回動かしたこの九万の内、ジルモンド王率いるテムサニス軍と共にテムサニスに赴くのはレイシェルとイトラが率いる六万で、カルヴァン率いる残りの三万はカレナリアのベネティアナで留守居役となり、援軍が必要になった場合真っ先に駆けつけることになる。

 またカルヴァンはある重要な書類をベネティアナまで運ぶ任務を任されていた。その書類はクロノワとジルモンドが今回の遠征に関して合意した、いわば「契約書」とも言うべき書類である。

 書類は同じものが二通用意されており、どちらにもすでにクロノワのサインと印が入っており、後はジルモンドのそれを入れれば契約書は効力をもつ。

 書類の一通はジルモンドが保管するが、もう一通はクロノワが持つことになる。

 ベネティアナにはベルトロワ危篤のほうを受けたクロノワが北に戻る際に残していった南方遠征軍五万が駐留しているが、この部隊は長らく異国に駐留していたことを考慮し、カルヴァンの部隊が到着し次第故郷に帰還することになっている。そのため、この部隊は今回の遠征には参加しない。

 そこで、この帰還部隊の指揮官がその一通をクロノワのところまで持ってくる手筈になっていた。

 さて、アルジャーク軍はとりあえず六万の兵を出したわけであるが、ジルモンド率いるテムサニス軍は総勢でおよそ十二万となった。彼らはカレナリアで捕虜になっていたわけだが、クロノワの命令もあってかその扱いは人間味のあるもので、栄養不良や暴力によって衰弱している者はほとんどいなかった。さらにクロノワがジルモンドとの間で合意に至った時点で彼らは捕虜ではなく同盟軍という扱いになり、アルジャーク軍が到着するまでの間、十分に英気を養うことができた。

 長らく離れていた祖国に帰れるとあってか、彼らの士気は高い。またクロノワはテムサニス軍の兵士たちにも報酬を与えることを約束し、また特別に手柄を立てた者にはそれに応じた恩賞を与えることも確約した。

 二つの国の兵たちを対等に扱う、とクロノワは表明したのである。将来のことを見越していたのかは定かではないが、これによって少なくともテムサニス軍の一般の兵士たちのうけは良くなった。

 遠征軍の総数は十八万であり、その内訳はアルジャーク軍六万、テムサニス軍十二万である。余談になるが、この先この軍のことは遠征軍とは呼ばず、連合軍と称することにする。

 内訳から分るとおり、連合軍の三分の二はテムサニス軍が占めている。テムサニス軍を率いるのは国王のジルモンドでありクロノワは今回新征しないから、アルジャーク軍のほうが少し遠慮したともいえる。

 ただ、連合軍内部における発言力は、この内訳に比例しない。

 こういった場合、普通であればより多くの兵を出した国が連合軍の主導権を持つことになる。しかし今回の遠征に関して言えば、その主導権はジルモンド側ではなくクロノワの方にあった。

 考えてみれば当然のことである。確かにテムサニス軍は十二万の戦力を持っているが、兵士の数が揃えば戦争ができるわけではない。その十二万人の兵士たちを支える後方支援部隊が、より広く言えば軍隊を支えるための国力が必要なのである。

 つい最近まで捕虜になっていたテムサニス軍には、それがまったく存在しない。戦力はあるがそれを持続させるための地力がない、といってもいい。そしてその地力の部分を、彼らはアルジャークにまったく依存しているのである。

 さらにジルモンドには、自軍の兵士たちに報酬を約束することができない。彼が今もっているのは国王の称号だけで、それに付随するはずの富と権力の全てをゼノスに奪われているのだから。

 誰だって、無報酬で命を賭けたくはない。

 したがって報酬と恩賞を約束するのもアルジャーク側、ということになる。加えてジルモンド自身、クロノワに報酬を約束してもらっている身である。

 後方支援と兵士の報酬、その二つをアルジャークに依存しているテムサニス軍は、国軍というよりは傭兵と言ったほうが、その実情を正しく表現できるかもしれない。そして傭兵の立場が雇い主よりも低くなるのは、当然のことである。

 今まさに行われている軍議は、その力関係を如実に表しているようであった。

**********

 アルジャーク帝国皇帝クロノワの名でテムサニスに対して宣戦布告が行われた後、カレナリア領とテムサニスの境を越えた連合軍は、街道上を王都ヴァンナークに向かって進んだ。

 この連合軍は三つの旗を掲げている。一つはアルジャークの国旗、もう一つはテムサニスの国旗、そして軍の先頭を行くジルモンドの傍には王旗が掲げられている。

 連合軍は街道上を特に急ぐこともなく進んでいる。その目的は宣伝である。つまりテムサニスの国民に対して、
「ジルモンド国王は健在である」
 とアピールしているのである。

 そのおかげか、これまでの住民たちの反応は協力的で、連合軍は順調に歩を進めることができていた。時には住民たちが食料を差し入れてくれることもあり、それを見たイトラなどは、
「ジルモンド王は国民に慕われておられるのだな」
 と感心したのだが、彼の同僚であるレイシェルに言わせれば、
「ゼノス殿下のやりようがひどいだけだ」
 ということになる。

 どちらの意見が正しいにせよこれまでの行程を見れば、「ジルモンドを先頭に立てることでテムサニス国民の協力を得る」というクロノワの狙いは当たったといえるだろう。

 さて、ジルモンドの傍に翻る王旗を見たのは、なにもその周辺の住民たちだけではなった。国境付近を監視していた新王軍の斥候たちもその旗を確認し、ゼノスに報告を持ち帰っていた。

 父であり先(・)王のジルモンドが帰還したことを知ったゼノスはすぐさま行動を開始した。一つの玉座に二人の王はいらぬ。ジルモンドを排し一つしかない玉座に座るただ一人の王となるため、ゼノスは軍を率いて街道を北上した。

 この新王軍の動きを、連合軍もすぐに察知した。各地に放っていた斥候が新王軍の動向を伝えると、すぐさま軍議が催された。

 軍議の出席者は十八名である。しかし机の上におかれた地図を囲むようにして席についているのは、その内の七人だけであった。

 イトラ・ヨクテエルとレイシェル・クルーディというアルジャークの両将軍。テムサニス国王ジルモンド。そしてテムサニス軍の将軍が四名である。他の十一人はそれぞれの上官の後ろに立って控えている。

 数の上ではテムサニス側のほうが多い。しかし主導権を握っているのはアルジャーク側の二人であった。

「それでは本作戦について説明させていただきます」

 そう言ってから立ち上がったのはレイシェルであった。彼は地図の上に白と黒の駒を置き、白の駒についてはそれを三つに分けた。

 白の駒は味方を表しており、三つの集団はそれぞれ主翼、右翼、左翼を表している。主翼を構成しているのはテムサニス軍十二万で、両翼はアルジャーク軍が三万ずつである。

 一方、黒の駒は敵である新王軍を表している。斥候の報告によれば、その数はおよそ十二、三万。詳しい陣形は把握していないので、黒の駒については一纏めにしてある。

 余談になるが、こうして地図上で駒を動かし各部隊の動きをシミュレートするやり方を最初に始めたのは、かのアレクセイ・ガンドールであった。それまでは地図上に書き込んで動きを再現していたのだが、駒を使うとその理解度が格段に上がったという。また、万が一地図を奪われても、そこには何も書き込まれていないので、作戦が露見することも避けられる。

 レイシェルの作戦を一言で要約すれば、
「街道の左右にあらかじめ兵を伏せておき、そこに敵を誘い込んで挟撃する」
 というものであった。

 言うのは簡単だが、この作戦はなかなか難しい。敵の進路を予測して部隊を伏せておくわけだが、敵がこちらの思うように動いてくれる保証はなく、ともすれば左右に分けた軍を各個撃破される危険が付きまとう。

 そこでレイシェルはゼノスが確実に食いつく餌を用意した。その餌の名前は、ジルモンド・テムサニスという。彼とその王旗を見れば、ゼノスは必ずや喰いついてくる。

「主翼はこのまま街道上を南下。敵軍と接触した後、来た道を引き返して両翼が伏せている地点まで敵を誘導してください」

 そういいながらレイシェルは地図上の駒を動かしていく。
 これならば敵の進路の予測は容易である。敵軍は撤退する主翼を追ってくるから、相手の進路をこちらで決めてやることができる。さらに、実際には街道上を撤退するわけだから、両翼も待ち伏せがしやすく、後ろを取られるなどという間抜けな事態も避けられるだろう。

「敵を十分にひきつけた所で両翼が左右から挟撃。この時点で主翼も攻勢に転じてください」

 地図上では白の駒が黒の駒を半包囲している。両側面を強襲されれば敵軍は混乱する。ここまでくれば、後は煮るなり焼くなり好きにできるといっていい。ここでは半包囲にとどめておいたが、上手くいけば完全に包囲してしまうことも、あるいは可能かもしれないとレイシェルは考えていた。

「いかがでしょうか」

 説明を終えたレイシェルは一同を見渡した。すぐに発言をもとめる者はおらず、議場は沈黙した。そしてその沈黙は一秒ごとに重さを増していく。

「………主翼の………」

 その沈黙を破り、重い口を開いたのはテムサニス軍の将軍の中で最年長である、ギルニア・フォン・フーキスだった。彼は一度言葉を切り、視線をレイシェルのほうに向けてからさらに続けた。

「………主翼の負担が大きすぎるのではないか」
「ですがこれが最善の配役であることは、ご理解いただけるかと」

 レイシェルは何も、負担の大きな役回りを恣意的にテムサニス軍に押し付けたわけではない。敵の数が十二、三万であるというならば、単独で拮抗できるのは主翼だけである。主翼が競って牽制していればこそ、比較的数の少ない両翼が自由に動けるのである。それにジルモンドのいない部隊が動いたとしても、囮としては役者不足であろう。

「しかし、な………」

 発言したギルニアは納得のいかない様子で腕を組み、そして再び沈黙した。論理的な反論が出ないところを見ると、彼もこれが最善の配役であると理解はしているのだろう。しかし納得し切れていない。その証拠に、彼の目には疑心暗鬼の色がある。いや、彼だけではない。ジルモンドをはじめ、テムサニス側の人間全てがその色を浮かべていた。

 アルジャークの人間で、それに真っ先に気づいたのはイトラであった。そして彼はすぐにその理由にも思い至る。

「レイシェル、その囮役は俺たちでやろう」

 議場の思い雰囲気を吹き飛ばすように、イトラはそう言った。ジルモンドやテムサニス軍の将軍たちは虚をつかれたように顔を上げ、レイシェルは怪訝な表情を浮かべる。

「イトラ………」
「俺たちなら撤退戦の経験もある。上手くやれるさ」

 言うまでもなく、カレナリア遠征の際にベニアム・エルドゥナス率いる部隊を相手にしたときのことである。あの時は倍近い敵を相手に撤退戦を演じたが、今回も両翼合わせて六万に対し敵軍は十二、三万であるから、同じような状況といえる。

 確かに経験と実績があることは無視できない。レイシェルは一瞬考え込んだが、しかしすぐに否定の言葉を口にする。

「駄目だ。王旗がなければゼノス殿下は喰いついてこない」

 王旗、とレイシェルは言葉を選んだが、要はジルモンドのことである。彼がいればこそゼノスは全力で囮を追ってくると予測できるのだ。

 それにアルジャーク軍六万のみが単独で街道を南下していれば、敵にすればそれは分隊に見えるだろう。そうなれば本隊つまり主翼の動向を気にして、撤退する両翼を追ってこないことも考えられる。

「ですから、ジルモンド陛下には我々と一緒に来ていただきます」

 イトラは視線をレイシェルからジルモンドに移しこともなさげにそう言った。その言葉に反応したのはレイシェルでもジルモンドでもなく、ギルニアを始めとするテムサニス軍の将軍たちであった。

「馬鹿な!」
「駄目だ!そんな策は認められない!」

 ジルモンドがテムサニス軍を離れアルジャーク軍と行動する。それは彼らにとって主君を人質に取られるようなものである。過剰な反応もするというものだ。しかしそのことを十分に承知しているはずのジルモンドの反応は違った。

「………よかろう」
「陛下!?」

 まさか本人が了承を示すとは思ってもみなかったテムサニス軍の将軍たちは、皆焦ったような声を漏らし一様に主君を仰ぎ見た。彼らはそれだけはやめるよう促したが、ジルモンドの決意は固い。

「レイシェル殿もそれでよろしいな?」
「………分りました」

 話の流れ上、了解するしかない。その後、各部隊の配置や動きを再確認して軍議はお開きとなった。

「イトラ、さっきのアレは何だ」

 自陣に向かって歩き、周りに人がいなくなったところでレイシェルはイトラに先ほどの真意を問いただした。囮役を買って出た彼の真意を、である。

 自分の主張した通りの配役にならなかったことに、レイシェルは怒りを抱いてはいない。ただイトラのあの発言の意図を図りかねているだけである。レイシェルはこの同僚が優秀であることを知っており、そんな彼が意味もなくあんな発言をするとは考えられない。

「あちらさんは俺たちを疑っていたのさ」
「疑う………?ああ、そういうことか」

 アルジャーク軍は新王軍とテムサニス軍を戦わせてお互いを消耗させ、両軍が疲弊したところをまとめて叩き潰し、漁夫の利を得るつもりではないのか。ジルモンドやテムサニス軍の将軍たちはそう考えたのである。

 レイシェルが一言でそこにたどり着けたのには訳がある。彼自身、その策についても考えていたからだ。

 実際、それが一番アルジャークにとって利のある勝ち方なのだ。ゼノスとジルモンドが戦場で互いに倒れてくれれば、テムサニスの国は丸ごとアルジャークのものとなる。ジルモンドにわざわざ五州をくれてやる必要もない。

 が、レイシェルはその策を放棄した。いかにアルジャーク軍が精強を誇るとはいえ、六万だけでは数が足りない。それに皇帝であるクロノワはそのような勝ち方は好まないであろう。

「よく気づいたな」

 作戦を練るに当たってレイシェルはイトラにも相談している。だがその策については話していない。話す前に放棄したからだ。策について知らなかったイトラが、あの重い空気の理由に真っ先に気づいたことにレイシェルは素直に感心した。

「たまたまだよ」

 そういってイトラは謙遜するが、レイシェルはそうは思わなかった。自分の見落としていたものをこの同僚は見ていた、そういうことなのだろう。

(理論にばかり気を取られ人を見ていなかった。そういうことか)

 まだまだアレクセイ将軍やアールヴェルツェ将軍の高みには届かぬ。そう思い身を引き締めるレイシェルであった。

**********

「これはノルワント子爵、ようこそ我が陣へ」

 そういってウスベヌ伯は夜分に訪れた客人を歓迎した。

 ゼノス率いる新王軍は北の国境を破って現れた連合軍を撃退するため、街道上を北上している。敵軍との接触にはまだ二日以上かかると予測されており、それぞれの陣はまだ緊張した空気に包まれてはいない。

 もともとウスベヌ伯やノルワント子は武家貴族ではなく、つまり軍事には疎く普通ならば戦場には出てこない。しかし王であるゼノスが自ら戦場に赴くとあっては、臣下としては軍を率いて供をせざるを得なかったのだ。

 ノルワント子が持参した土産である白ワインを飲みながら、二人の貴族はしばらくの間当たり障りのない談笑を続けた。だがそのような中身のない話しをするために、ノルワント子はウスベヌ伯を訪ねてきたわけではなかった。頃合を見計らって、低く潜めた声でこう尋ねた。

「最近のゼノス陛下のご様子について、どう思われますかな」

 アルジャークから宣戦布告が行われると、ゼノスはすぐさま自分に味方した貴族たちに命じて軍を整えさせた。敵対した貴族たちについては、すでに存分に痛めつけて粛清してあり後顧の憂いはない。さながら新たな獲物を求める貪欲な狼のように、ゼノスは牙を研いでいたのである。

 しかし、実際に侵略軍が国境を侵してテムサニスに侵入してきたとき、そこに翻っていたのはなんとテムサニスの国旗とその王旗であった。

 無論、アルジャークの国旗もたなびいている。しかし全軍のおよそ三分の二はテムサニス軍であろうというのが、国境を監視させていた斥候からの情報であった。

 現れたテムサニス軍は、年が変わる前にカレナリアに進攻しそのまま捕虜になってしまった軍であろうと推察された。が、新王軍にとって最大の問題はそこではない。

「王旗は王と共にあり」

 侵略軍の先頭には王旗が確認されている。それはつまり、ゼノスが見捨てたはずの先(・)王ジルモンドが祖国に帰還したことを意味していた。

「やることは変わらぬ。いや、むしろ簡単になった。ジルモンドを討ち取る。ただそれだけだ」

 報告を聞いたゼノスはそう言い放った。確かにジルモンドを討ち取れば旗頭を失った反乱軍(ジルモンド率いるテムサニス軍のことをゼノスはそう呼んだ)は瓦解するであろう。仮に組織を保てたとしても、一度国境を越えて撤退し、態勢と兵の士気を整えねばなるまい。アルジャーク軍単独では遠征の完遂は難しく、やはり撤退することになるだろう。

 ジルモンドを討ち取れば、少なくとも一度は敵軍を国外に退けることができる。それが分っていながら軍議に出席した貴族や将たちの顔色は優れなかった。

 彼らにしてみれば、後ろめたさがある。

 敵は、つい最近まで主君として仰いでいた方なのである。仕えていた時間はゼノスに対するそれよりも圧倒的に長い。ゼノスに付くことを選択した時点でジルモンドのことは見捨てたも同じなのだが、それでも見捨てた相手が目の前に立っていると、どうしても後ろめたさが先にたつ。

「何を今更」

 そんな臣下たちに、ゼノスは冷笑を向けた。本当に「何を今更」、である。ゼノスは彼らが自分に味方した理由を、権力闘争のパワーバランスを計算した結果であることを理解している。有り体に言ってしまえば、忠義や忠誠などではなく、利を計算した結果なのである。ジルモンドに対する忠義や忠誠などといったものは、むしろルーウェン公たちのほうが持っていたのではないだろうか。

 ジルモンドの帰還を待つよりもここでゼノスに付いたほうが自分たちにとって利がある。そう判断したからこそ、彼らはゼノスに味方したのだ。そしてその選択はジルモンドを切り捨て裏切るものであると、十分に理解していたはずである。

 無論、誤算はあった。国から見捨てられたジルモンドが、まさか軍を率いて帰還してくるなどゼノス自身思っていなかったはずである。

「降伏してみたところでジルモンドが貴様らを許すはずもない。万が一許したとしても、クロノワがそれを認めるわけがない。皇帝である彼にとって貴族という存在は邪魔でしかないからな」

 命と財産を守りたければ戦って勝つしかない。軍議で冷ややかにそう宣言したゼノスの姿を、ウスベヌ伯は思い出した。

「おっしゃることは正しいのだろうが………」

 その時、ゼノスの目には鋭い光が宿っていた。鋭すぎるその光は、紙一重の狂気を宿している。

 またゼノス自身の雰囲気は、なんと言うか不安定であった。
 有無を言わさぬほどの圧力と存在感を見せ付けることもあれば、そこにいることも忘れてしまうほどに存在が希薄になることもあった。

 ゼノスの言動に、今のところ問題はないように見える。指示は的確だし理にかなっている。だから貴族たちも彼に従っているのである。しかしこの頃のゼノス本人を見ていると、それでも不安を感じずにはいられなかった。

 ただその不安は、かなり利己的な不安であるといわざるを得ない。ウスベヌ伯やノルワント子が最も心配しているのは、この戦にゼノスが負けたときに自分たちの命と地位と財産が脅かされることだ。敵対した貴族たちの領地を略奪したことで、彼らの懐はかなり暖かくなっているし、新たな領地を得ることもほぼ確実だ。一戦して負け、それらが全てふいになるのは、やはり惜しい。

 その不安に拍車をかけているのは、新王軍と連合軍の戦力差だ。単純に数を比べた場合、連合軍のほうが多い。しかも精強を誇るアルジャーク軍がいるのである。これまでアルジャークとテムサニスは大陸東部の北と南の端であったため、両軍の戦端が開かれたことはここ百年ほどない。しかしその勇猛果敢な戦いぶりはテムサニスまで届いている。

「同数の戦力で戦えば恐らく負ける」

 テムサニスの王宮内では、そう言われてきた。その評価は、無論ウスベヌ伯やノルワント子も知っている。そのアルジャーク軍が、今敵として目の前に迫っているのである。

(負ける、か………)

 少なくとも、確実に勝てるとは思えない。ゼノスが負けたとき、さて自分たちはどうすべきであろうか。共に敗北を甘んじて受け入れ、何もかもを失わなければならないのだろうか。それが嫌だというのであれば………。

「頃合を見て降伏するか、いやあるいは………」

 その先は言葉を濁す。軽々しく口にする言葉ではない。風はどこにでもふいており、その風が言葉を人の耳まで運ぶのだから。

 それに、音にしなかったはずのその言葉は、しっかりとノルワント子には伝わっていた。彼は固い表情をしたまま、一つ頷いた。

 ゼノスの言うとおり、ただ降伏するだけではジルモンドやクロノワは自分たちを許さないだろう。しかし、もし手土産があれば?

 暗い笑みを浮かべた二人の貴族がともに杯を傾ける。杯からは、陰謀の匂いがした。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:44
「その日、二本の王旗は相対し………」

 アルジャーク・テムサニス連合軍とゼノス率いる新王軍の戦いについて記録したある歴史書は、冒頭部分をそんな言葉で始めている。ただそこにいる当事者にしてみれば、「相対し」という言葉から連想されるより発見時のお互いの距離はもっと開いていた。

「確かに王旗、だな」

 魔道具ではない、ただの望遠鏡を目から離す。自分が掲げているのとまったく同じ(いや、少しくたびれているだろうか)王旗をこちらに向かってくる敵軍にも認め、ゼノスは呆れたような苦笑をもらした。ジルモンドに対してではない。この状況に対してだ。同じ国の王旗が敵味方に分かれて覇権を争うなど、一体誰が想像しえたであろうか。

(人の想像力など、当てにならん)

 苦い思いと共に、ゼノスは心の中で呟いた。自分にもう少し想像力があれば、イセリアに死なれることなく彼女を手に入れることができたのだろうか。

「しかし共に掲げられているあの旗はテムサニスの国旗ではありませんな。恐らくは………」

 隣で同じように望遠鏡を覗いていたカベルネス侯爵の言葉にゼノスも無言で頷く。あの旗は恐らくアルジャークの国旗であろう。深紅の下地に漆黒の一角獣(ユニコーン)が描かれている。

「先行部隊、でしょうか………」

 言葉は疑問系であったが、カベルネス侯は内心でそれを確信していた。今目の前に迫ってきている部隊の数はおよそ六万。つまりアルジャーク軍全てである。ならばその後ろに反乱軍が本隊として控えている、と考えるべきであろう。

「しかし、なぜアルジャーク軍と共に………?」

 ジルモンドの王旗の隣にたなびくアルジャークの旗。しかし、本来であればそこにあるべきはテムサニスの旗である。なぜジルモンドは反乱軍ではなくアルジャーク軍と共にいるのか。

「まともに考えるなら“宣伝”だろうな」

 つまり「ジルモンド・テムサニスは健在である」ということと「アルジャーク軍は味方である」という、二つのことを宣伝しているのではないだろうか。

「まあ、相手の目的がなんであれやることは変わらん」
「御意。あそこに王旗が翻っているのであれば、我々にとってはむしろ僥倖。二倍近い戦力差がある内に敵の大将を討ち取ってしまいましょう」

 敵の大将とは、言うまでもなくジルモンドのことである。余談になるが、このごろの新王軍ではジルモンドを名前で呼ぶのを避ける風潮があった。呼び捨てにするにはどうにも後ろめたい。しかしまさか「陛下」という敬称をつけるわけにもいかない。結果、「敵の大将」という表現に落ち着いたのだ。

 ゼノスはその辺りの事情を察していたが特に何も言わず、酷薄な笑みと冷たい一瞥をくれるだけだった。

「全軍前進。本隊と合流される前に決着をつけるぞ」

 その時、二人の王は相対し。

**********

 ウスベヌ伯爵やノルワント子爵は、元来カベルネス侯爵のように武術や軍の指揮には秀でていない。というよりまったくの素人であるといったほうが正しい。それゆえ彼らの部隊は最後尾に置かれていた。

 本来、最後尾には後ろからの襲撃を警戒して精鋭の部隊を置くだが、今回は後方からの襲撃はないだろうということで、精鋭部隊は全て前方に配置されている。

 別に彼らが望んでその布陣を言い出したわけではない。普通、最後尾というのは手柄を立てることが難しいため敬遠される。しかしこの布陣は彼らにとっては都合のいいものであった。

(しかしまだ動くべきときではないな………)

 ウスベヌ伯は心の中でそう判断した。恐らくノルワント子も同じように判断しているだろう。

 現れた敵軍はアルジャーク軍のみがおよそ六万。数の上ではこちらのおよそ半分で、しかもなぜか王旗が混じっているという。

(ともすれば勝てるかも知れぬ)

 ウスベヌ伯は軍事に疎い。だがそれでも敵に対して二倍の戦力を持つ新王軍が、現状圧倒的に有利であることは分る。

(何もせずに勝てるのであれば、それが最も良いが………)

 勝ち戦で戦功を立てられないのは、少し悔しい。しかしもともと武家貴族ではないウスベヌ伯にとって、最も重要なのは戦場での功績ではなく勝ち組に入ることであった。

(見極めることだ………)

 戦場の趨勢を。その決断は一度しかできないのだから。

**********

(これほどとは………!)
 ジルモンドは瞠目した。

 彼は今アルジャーク軍六万の中に、ただ護衛を百騎ほど連れて加わっている。その役目はいわゆる“餌”あるいは“囮”である。

 新王軍の猛攻を見る限り、彼の“餌”としての役割は十分に成功したといえる。ただ彼が今驚いているのは、新王軍の猛攻の激しさについてではない。その猛攻を防ぎ整然と後退を続けるアルジャーク軍、ひいてはそれを指揮する二人の若い将軍の手腕に、ジルモンドは瞠目しているのである。

 突出と後退を繰り返す。言ってしまえばそれだけのことだ。しかし時々刻々と変化していく戦況を見極め、最善のタイミングと選択で指揮し続けることがどれだけ困難か。しかも敵は二倍近いのである。一手間違えば状況は危機的な方向に転がっていくだろう。その重圧を撥ね退けあれだけの指揮をするとは、もはや脱帽である。

 また二人の将の指揮と同じぐらいジルモンドを驚かせていたのは、アルジャーク軍の兵士一人ひとりの士気の高さである。

 指揮官はともかくとしても、一般の兵士たちにとって撤退戦は辛い。どれだけ上手くやっても「有利だ、勝っている」という実感が得られないからだ。攻めるのは相手で退くのは自分。戦況とは別のところで、やはり精神的には辛い。

 しかし、今ジルモンドが見ているアルジャーク兵には、その“辛さ”が見られない。これがもしテムサニス軍であったなら同じ結果は望むべくもない、というのが正当な見立てであろう。

「アルジャークの兵は精強を誇る」

 そう言われていた言葉の本当の意味を、ジルモンドは今まさに理解していた。将の質と兵の質。その双方において、テムサニス軍はアルジャーク軍に及ばない。

 後退していたはずのアルジャーク軍が突出し新王軍を押し戻していく。凄まじい圧力で攻勢に打って出たアルジャーク軍は、しかしレイシェルの号令一つで素早くまた整然と撤退を再開する。その際に数千の矢を射掛けて敵の隊列を乱し足止めするのを忘れない。両軍の間には、またたくまに空白地帯が出来上がった。

 馬上にいるジルモンドはその分視点が高く、つまり周りの状況が良く分る。そして空白地帯が出来上がったことで、新王軍の前線の様子を見て取ることができた。

 首筋を矢が貫通し絶命して倒れている兵士がいる。いや、あるいは彼は幸運だったのかもしれない。そのすぐ横には顔面に矢が突き刺さり、しかし致命傷にはなりえず痛みに苦しむ別の兵士がいた。

 それを見るジルモンドの心中は穏やかではない。実態を失ったとはいえ、ジルモンドはテムサニスの国王であり本人もそのつもりでいる。つまりあそこで絶命しまた苦しんでいる兵士は、彼の臣民なのである。

 新王軍が一瞬足を止めた隙に、アルジャーク軍は一気に距離を開ける。慌てたように追いかけてくる敵軍に、そのつど手痛いカウンターを食らわせて寄せ付けない。

 思うように進まぬ戦況に焦れてきたのか、新王軍の指揮が荒くなってきた。ジルモンドを討ち取るという目的にのみ固執し、周りの状況が見えなくなってきたのだ。

(頃合か………)

 レイシェルは周りの地形を確認する。この辺りに二つに分けたテムサニス軍が街道を挟む形で待機しているはずである。

 レイシェルはこれまでと同じように前線部隊を突出させ、敵の足を止めて押し込む。そして敵の隊列が乱れたところですかさず後退させる。ただし、多少陣形が崩れてもいいので全力で後退させた。これまでは見せなかった本気の後退に、新王軍はやり込められながらも勢いづきその背中を追おとした。しかし彼らがその一歩を踏み出す前に、万を超えようかという数の矢が両側面に向かって飛来した。さらにその矢を傘に、左右からテムサニス軍が新王軍の側面を目掛けて突撃する。

 餌に釣られた獲物が罠にかかるのを今か今かと待っていたテムサニス軍十二万が、一挙に戦場に流れ込んだのである。

 まったく予想していなかった方向からの攻撃に、新王軍は浮き足立ち混乱した。そこへさきほどまでは撤退を続けていたアルジャーク軍が突撃し、その混乱に拍車をかけていく。

 二倍の戦力で敵を追っていた新王軍は、今やその数的優位を失い半包囲されるという危機的な状況に追い込まれたのであった。

(祖国に攻め込むとは、こういうことか………)

 一人また一人と倒れていく新王軍の兵士たちを見ながら、表情にも出さずジルモンドは心の中で自分をあざ笑った。戦争をすれば人が死ぬ。それは避けようのない、あまりにも当然過ぎることだ。ジルモンドとてこれまで大小あわせれば両手両足の指の数では足りぬほどの戦を経験してきている。そこでは味方が倒れ、敵が死んでいった。しかしこの戦場は違う。味方が倒れ、そして味方が死んでいく。

(見ておるか、ゼノスよ。これが我らのしでかしたことの結末よ………)

 ジルモンドがカレナリアで捕囚の身になどならなければ、ゼノスがその機に乗じて簒奪など企てなければ、この戦場でテムサニス人同士が殺しあうことなどなかった。

 王位を簒奪したゼノスを許すつもりはない。しかしこの戦の責任をゼノス一人に背負わせる気にもなれはしなかった。

 連合軍の半包囲陣形が確たるものとなり戦いの趨勢が決した頃、両軍にとって予測しえぬことが起こった。新王軍の最後尾に位置していたウスベヌ伯爵とノルワント子爵が、突然味方に矢を射かけ始めたのである。

 間をおかず、王旗を掲げるジルモンドのもとに二人の貴族から「内通する」旨を伝える密使が到着した。だが、それを聞いてもジルモンドは不快げに眉をひそめるだけであった。

「無視せよ!」

 ジルモンドは二人の貴族についてそう命令を下した。その判断は彼の独断であったが、そばにいたイトラとレイシェルの両将軍は何も言わずにその判断を支持した。戦場での裏切りはこの二人にはなんら感銘を与えない。まして趨勢が決してから裏切り勝ち馬に乗ろうとするその性根は、まさに唾棄すべきものであった。

 ジルモンドの命令もあり連合軍は内通した二人の貴族をまったく無視して戦闘を続けたが、彼らの裏切りはやはり戦況に変化をもたらしていた。ウスベヌ伯爵とノルワント子爵が裏切ったことでそれまで半包囲であったものが完全な包囲陣形に変わり、新王軍は文字通り逃げ道を失ったのである。

 上手くいけば可能かもしれないと考えていた完全な包囲陣形が思わぬ形で実現し、レイシェルとしては苦笑する思いである。だからといって内通を申し出た二人のテムサニス貴族に対して感謝することなどありえなかったが。

 誰の目にも、もはや勝敗は明らかであった。ならば早期にこの戦いを終結させ、両軍の損害をこれ以上拡大させないことが勝者の責任であるようにイトラには思われた。

「行くのか?」

 同僚が覚悟を決めたのを雰囲気だけで察し、レイシェルはそう声をかけた。

「ああ、終わらせてくる」

 レイシェルのほうには顔を向けず、ただ新王軍の只中に翻る王旗のみを見据えてイトラは答えた。彼がまとう気配は、触れれば切れそうなほどに鋭い。

「これよりっ!イトラ・ヨクテエルは戦場を駆け抜け敵大将の首を狙う!我が旗に続け!!」

 高らかにそう宣言すると、イトラ率いる三万のアルジャーク軍は敵軍の中にある王旗をめがけ、鋭いキリのように敵陣に突き刺さっていった。レイシェルもそれを絶妙に援護し、イトラの部隊は易々と敵陣を切り裂いていく。

 猛進を続けるイトラの前に一人の男が立ち塞がった。ゼノスの傍らで新王軍の指揮をとっていたカベルネス侯爵である。

「我が名はレイグイット・フォン・カベルネス!ゼノス陛下の傍にあって軍を統率する者なり!そこにおられるはアルジャーク軍の将軍とお見受けする。一騎討ちを所望!」
「イトラ・ヨクテエル、その一騎討ちお受けする!」

 イトラがそう答えると、カベルネス候は笑った。その決断のあまりの清々しさに、感謝を込めて笑った。

 イトラにしてみればここで一騎討ちを演じるメリットはほとんどない。本来一騎討ちというのは味方の士気を上げるためのデモンストレーションであって(勝てばの話だが)、戦いの趨勢がすでに決している今連合軍の士気をさらに上げる必要はないのだ。

 しかし、イトラは一騎討ちを受けた。それはひとえにレイグイット・フォン・カベルネスという武人に敬意を表したが故であった。

 イトラは敵兵を貫きしかしそのせいで抜けなくなった槍を捨て、代わりに腰の剣を抜いた。カベルネス候もまた剣を抜きそれに答える。

 一瞬のにらみ合いの後、二人の騎士は互いに向かって馬を走らせる。左手で手綱を操り、右手に剣を振るう。

 ――――ギィィイイィインンン!

 二人の騎士が交差した位置で剣が鳴りあい火花が散る。速度の乗った強力なその一撃は、しかし互いに傷を負わせることもなく、ただ二人の実力が拮抗していることだけを証明して終わった。

 すれ違った二人はすぐさま馬首を巡らし好敵手を求めて肉薄する。今度はすれ違いざまの一撃ではなく、互いに馬を寄せて鞍をぶつけ合い、激しく剣を鳴り合わせて戦う。二匹の馬もまた、背に乗せた主に呼応するかのように激しく嘶いている。

 二人の騎士は円を描くように馬を操りながら剣を振るい続ける。イトラが突き出した剣はレイグイットのそれによって軌道を逸らされただ空を突く。レイグイットが横なぎに剣を振るえば、イトラはそれをはじき返す刃で敵の首筋を狙う。互いに一歩も退かず、一進一退の攻防が続いた。

 何十合か討ち合った後、弾かれたカベルネス候の剣がイトラの馬の首筋にめり込んだ。激しい斬りあいで刃毀れしていた剣は、すぐに抜くことができない。致命傷を受けた馬は激しく身を震わせ、背中に乗っていたイトラをふるい落とし、そしてカベルネス候の手から剣を奪った。

 馬から落ちたイトラは、しかしただでは落ちなかった。落ちる瞬間手に持っていた剣をカベルネス侯めがけて投げつけたのである。思いがけないイトラの反撃を、彼は身をよじってかわしたが勢いあまって彼自身もまた落馬してしまう。

 結果的に二人とも馬と武器を失ったが、その後の行動もまた同じであった。二人はすぐさま手近にあった武器に手を伸ばし、そして再びお互いに相対したのである。手にした獲物はカベルネス侯が剣、イトラは槍であった。

「推して参る!」

 剣を構えたカベルネス侯が前に出る。イトラは槍を突き出すがカベルネス侯はそれをかわし、しかも槍を引くのにあわせてスルスルと前に出てイトラの懐に入ろうとする。

(上手い………!)

 敵ながらその動きにイトラは瞠目する。これまでは国が離れていたせいで名前を聞くことはなかったが、このレイグイット・フォン・カベルネスという男はかなりの使い手である。

 イトラとてただ懐に入られるのを見ているつもりはない。槍をクルリと回転させ、石突でわき腹を狙う。それをかわすために相手の足が止まったところで、一旦後ろに飛びのいて距離を取る。

 槍の真ん中辺りを持ち、今度はイトラから距離をつめる。

 槍の真髄とは“突き”ではない。その長さを生かした縦横無尽にして連続性の高い攻撃こそ槍の真髄であるとイトラは思っている。そのモットーのもと磨き上げた技で、イトラはカベルネス侯を追い詰める。

 上から刃が襲い掛かってきたかと思えば、今度は下から石突が跳ね上がる。ときに払いときに突き、イトラは休むことなく攻め続ける。対するカベルネス侯は防戦一方である。しかしいまだに有効な一撃をもらっていないことが、彼の力量を証明していた。

(肉を切らせねば骨は断てぬか!)

 カベルネス侯は覚悟を決める。左から襲い掛かってくる一撃を選んで、前に出る。

「グゥ………!」

 槍の一撃はカベルネス侯の右のわき腹に直撃する。しかし鎧を着込んでいるため、致命傷にはならないし、恐らく骨も折れてはいない。左足を踏ん張って体勢を崩すことなく持ちこたえ、剣を振るう。

 イトラは下がらなかった。いや、むしろ彼は前に出た。槍の間合いから剣の間合いに詰めてきたカベルネス候のさらに懐へ、剣の間合いから無手の間合いへと距離を詰める。

 左手でカベルネス候の剣を持つ右手を払いのけ、槍を手放した右手を顔面めがけて振り抜く。

 体重を十分に乗せた一撃が、カベルネス候を吹き飛ばす。仰向けに倒れた彼はすぐに立ち上がろうとするがそれはかなわなかった。手放した槍を素早く拾い上げたイトラが、彼の右腕を踏みつけ動きを封じていたからだ。

「覚悟っ!!」

 イトラは槍を逆さにし刃を好敵手に向ける。それを見たカベルネス候はただ穏やかに一笑し、その刃を受け入れた。

 そばを離れたカベルネス候とアルジャークの将軍が一騎打ちを演じる様子を、ゼノスは馬上から眺めていた。そしてその結末に、一つ嘆息を漏らす。

「ここまで、か………」

 カベルネス侯は死んだ。敵軍に包囲され、その上指揮の要であったカベルネス侯を失っては、もはや起死回生の策はない。かくなる上は、自刎するのみ。

「クロノワ・アルジャーク。貴方に直接引導を渡して欲しかったと思うのは、我儘なのだろうな………」

 剣を抜き、首筋に添える。そして何のためらいもなく、ゼノスは自分の首を刎ねた。新王軍が王旗を降ろし代わりに白旗を掲げたのは、そのすぐ後のことだった。

**********

 掲げられた白旗を見た新王軍の兵士たちは、次々と武器を捨て降伏の意思を示した。完全に包囲されている状況でなければ逃走を図るなりしたのだろうが、今はそれも難しい。結局、武器を捨て降参することが、命を長らえる唯一の選択であった。

「大手柄だな」

 戻ってきたイトラをレイシェルはそういって迎えた。彼がレイグイット・フォン・カベルネスという貴族を討ち取ったという話は、すでにレイシェルのもとまで届いている。その名前をジルモンドに確認したところ、テムサニスの有力な貴族で、軍事と武芸に秀でた家柄だという。新王軍の主要人物だったことは間違いなく、彼を討ち取ったイトラは大手柄を立てたことになる。

「大したことじゃない。むしろ、お前のほうが功績は大きいだろう?」

 イトラは別に嫌味を言っているわけではない。倍近い敵を相手に撤退戦を演じきることができたのは、やはりレイシェルの冷静な指揮によるところが大きい。それは、華々しさはなくむしろ地味ですらあるが、今回の作戦において最も重要な部分である。それを完遂して見せたレイシェルの功績は大きい。

 イトラのような手柄の立て方は確かに華々しくて目立つ。しかし将であるならば、その功績の立て方はレイシェルのようであるべきだと、イトラは思っていた。

 そしてクロノワやアールヴェルツェも、その辺りのことはきちんと評価してくれるだろう。それが分っているから、レイシェルにイトラを妬むような雰囲気はない。

 アルジャークの若い将軍二人が互いの功績を称えあっていると、先ほどの戦いで内通を申し出たウスベヌ伯爵とノルワント子爵がジルモンドに謁見を申し込んでいる旨が報告された。

 二人の将軍の笑みが消え、目は鋭く光った。

「どう思う?」
「いい気はしないな。俺個人としては、だが」

 ゼノスを裏切った二人の貴族に対して、である。何はともあれ、その二人がジルモンドに謁見するのであれば、イトラとレイシェルもその場にいたほうがいいであろう。イトラとレイシェルは、この連合軍にあってアルジャークの利益を主張する役目もあるのだから。ジルモンドが勝手に大きな恩賞を与えるとも思えないが、どういう対応をするかは二人とも興味があった。

 二人がジルモンドのところに着くと、すでにギルニア・フォン・フーキスをはじめとするテムサニス軍の将軍も何人か控えていた。アルジャークの二人の将軍が揃ったところで、ジルモンドがウスベヌ伯爵とノルワント子爵を連れてこさせた。

 二人の表情は明るい。なにか大きな恩賞がもらえるものと思い込んでいる様子だ。しかしそんな二人にジルモンドが投げつけた言葉は冷ややかで剣の鋭さを持っていた。

「うれしそうだな。主君を、それも二度も裏切ったことがそんなにも自慢か」

 二人の貴族の笑顔が凍りつく。自分の尺度でしか人をはかれない彼らは、ジルモンドの思わぬ反応に意味もなく口を開閉させた。勝ち組になれて上気していた顔色が、だんだんと青ざめていく。

 一度はゼノスの戴冠を認めてジルモンドを裏切り、そして先ほどは劣勢と見るやゼノスを裏切った。こうも軽々しく、しかも戦場で主君を裏切るような臣下を信頼することなどできるはずがない。そういう輩は、旗色が悪くなればまた裏切ると容易に想像できる。そういう意味では、劣勢ながらも最後までゼノスに味方した他の貴族たちのほうが、よほど信頼できる。

「報奨が欲しいか、貴様ら」

 吐き捨てるようにそう言うと、ジルモンドは右に控えているテムサニスの将軍たちのほうを見てギルニア将軍の名前を呼んだ。

「この裏切り者たちの首を刎ね、営門に晒せ!」

 御意、と短く答えると彼はすぐに動いた。腰間の剣を抜き、歳に似合わずすばやく一閃させてウスベヌ伯の首を刎ねた。

 ウスベヌ伯が首を失いそこから血が吹き上がるのを見て、ノルワント子は「わ、わっわわ」と意味をなさない言葉を漏らす。凶刃を下げて近づいてくるギルニアから少しでも離れようと尻餅をつきながらあとずさるが、ほんの十数秒命を長らえることしかできなかった。ギルニアに命じられたテムサニスの兵士たちが槍で彼を滅多刺しにしたのである。

「ぐ……は………」

 口から血を吐きながらノルワント子爵が呻く。そしてそのまま絶命した。
 二人が絶命したのを見て取ったジルモンドは、アルジャークの二人の将軍に向き直った。

「見苦しいところをお見せした」
「いえ、適切なご判断かと」

 独断と偏見が混じっていることは否定できないが、イトラとレイシェルもこの手の裏切り者には嫌悪感を覚える。ジルモンドの判断に異を唱えるつもりはなかった。

 この二人、ウスベヌ伯爵とノルワント子爵を最後に死者の列に加えることで、新王軍と連合軍の戦いは終わった。ついにジルモンドはテムサニスへの帰還を果たしたのである。クロノワは約定通り彼に王都ヴァンナークを中心にして五州を与え、また連合軍の兵士たち全てに報奨を与えた。

 そしてついに、クロノワはカルフィスクを手に入れたのである。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:46
「暑いですねぇ~。まさに南の島って感じです」
「本当ですね………。日差しも強いし」

 北国のアルジャークなどと比べれば遥かに強いその日差しは、ただそれだけでここが異国であることを印象付ける。ここはシラクサ。より広く言えば、シラクサという港があるローシャン島である。

 アルジャークがテムサニスに宣戦布告した頃、フィリオもまた動いていた。リリーゼが戻ってきた頃から予定していたシラクサの現地視察の計画を、ついに実行したのである。ただフィリオには視察だけして戻るつもりはなかった。ヴェンツブルグからここまで、船旅で二十日以上かかっている。気楽に行ったり来たりできる場所ではない以上、今回の視察でこの地域の代表を務めているロン一族に、ある程度話を通してしまいたいと考えていた。話とは、無論シラクサをアルジャークの勢力圏に引き込むための話である。

 余談になるが、「シラクサ」という言葉の定義をこの際だから広げておきたいと思う。シラクサとは本来、ローシャン島の北部に位置する港町の名前である。しかしこの先の時代、シラクサと大陸の間で船の行き来が盛んになると、「シラクサ」という名前はローシャン島とヘイロン島の二つの島をまとめた、この地方の名称としても使われるようになる。よってこの先「シラクサ」という名前は、こちらの意味でも使うことになる。どちらの意味で使っているかは、申し訳ないが文脈から判断していただきたい。

 さて、今回の視察であるが、フィリオとリリーゼの二人だけというわけではない。彼らの他に後六人、総勢で八名の視察団となっている。

 フィリオはまず、視察団を引き連れてシラクサの高台に居を構えているロン一族のもとへ、挨拶へ行くことにした。

 一族、といっても「ロン」の姓名を名乗っているのは、ただ一家族のみである。というより、そもそもシラクサには姓名を名乗る習慣がない。ここに住んでいるシラクサ人とも言うべき人々は、ただ名前だけを名乗るのである。

 ではなぜ、ロン一族がその姓名を名乗っているのかといえば、大陸の習慣に合わせたが故であった。

 大陸とシラクサの間で交易が始まった頃、シラクサの人間は姓名をもっていないという理由で野蛮だの未開だの、そんなレッテルを貼られることがあった。それが特に顕著であったのが、いわゆる「上に立つ人間」の間で、だった。

 政治的に下に見られた、といえば分りやすいだろうか。

 そこで少なくとも対等な立場と認識してもらえるように、当時シラクサの代表格であった人物が「ロン」の姓名を名乗るようになったのだ。ちなみに「ロン」という言葉は「王」や「長」を意味するシラクサの古い言葉だ。だからシラクサの人間にとってそれは、姓名というよりは代表を示す称号としての意味合いのほうが強い。

 何はともあれ、これからその“ロン”のところに挨拶に行くのである。

(いきなり出向くのは無礼と思われるかもしれませんね………)

 本来であれば、事前に使者を送り挨拶に伺う日時を決めておくのが筋であろう。しかしシラクサはアルジャークから遠すぎる。まして船旅である。風や波の状態で日程などいくらでも変わってくる。

 結局、いきなりお訪ねするほかない。

(ま、そのあたりは諦めてもらいましょう)

 嫌な見方をすれば、アルジャークにとってシラクサは格下の相手である。多少の無礼は許容してもらうとする。交渉の席で礼を失するつもりは毛頭無いが。

 シラクサの街を一望できる高台に造られたロン家の家は、これまで街中で見かけた家に比べれば確かに大きい。三階建てで、周りは兵と垣根で囲まれている。しかし、大陸で見る貴族の屋敷などと比べると、どうしても見劣りがする。

 当然といえば当然である。ロン一家はシラクサの住民から取り立てた税で生活しているわけではないのだから。

 シラクサにも税金は存在する。人が街や国という集団を形成して生活するために、それはどうしても必要だからだ。

 集められた税金は、ロン(当主のこと)が最終的にその再分配について決定する。つまりロン家はいくらでも税金を懐にねじ込める立場な訳だが、この質素な家のたたずまいを見る限りでは、そのような不正は行っていないように見受けられた。実際、ロンは税金の再分配についてその詳細な明細書を毎年公表しており、街の商人と職人でつくる商工会などがそれをチェックしている。

 ロンに選ばれた家系は、その当時代表格であっただけである。その家系が今もロンの名を名乗っているのは、いわば当時からの流れであって正当な根拠には欠ける。にもかかわらずこの一家が今もロンの名前を名乗っていられるのは、ひとえにこの清廉潔白さがシラクサの人々から評価されているからである。

 ちなみにロン一家の収入源であるが、この家はローシャン島の大地主であり、それを小作人に貸すことで収入を得ている。そういう意味では名家に違いない。

「止まれ!何者だ!?」

 家の前の門には二人の門番が立っている。見慣れない異国人の集団に彼らは警戒をあらわにし、手に持った昆をフィリオたちに向けた。

 フィリオが彼らの警戒を煽らない位置で立ち止まると、他の視察団のメンバーもそれに習う。それからフィリオは優雅に一礼し、簡潔に用件を述べた。

「私はフィリオ・マーキス。アルジャーク帝国より使者としてまいりました。どうかガマラヤ・ロンにお取次ぎを願いたい」

**********

 フィリオたちが通されたのは一階にある応接室であった。今室内には八人いるが、狭苦しさは感じない。壁際に飾られた調度品の数々はもちろんシラクサのもので、はじめて見るフィリオにはその良し悪しは判別できない。ただ素人目にも品のいい品物が飾られているように思えた。

「おや、これは………」

 フィリオの目が、飾られていた調度品の一つにとまる。

「ガラス細工ですね………。綺麗………」

 側に来たリリーゼも簡単の声を漏らす。実際見事な作品だ。南国らしく鮮やかな色彩の鳥で、色の違う薄くて細かいパーツを幾つも組み合わせて作られている。見るからに繊細そうで、下手に触れば壊れてしまいそうである。

 シラクサはガラスの生産で有名である。その歴史は古く、大陸でガラスの製法が発見されるよりも前から、ガラス製品を作り大陸と交易を行い莫大な利益を上げてきたという。現在では大陸でもガラスの生産は行われており、輸送に費用が掛かる分シラクサのガラスはどうしても割高になってしまい、結果として大陸との交易はかなり廃れてしまった。

「見事でしょう。それは街の工房で造られたものなのですよ」

 ガラス細工を観賞していると、部屋の入り口の方から声がした。振り返ってみると、一人の壮年の男が立っている。ロン家の当主、ガマラヤ・ロンである。恰幅が良く顔は角ばっているが、優しい目元のおかげで威圧感は感じない。

「ガラスは宝石などとは違ってそれ自体を生産できますからな。枯渇する心配のない、息の長い産業になります」
「反面、どこででも生産できるため競争が激しい」

 フィリオの切り返しにガマラヤは「これは手厳しい」と苦笑した。しかし気分を害した様子はなかった。

「改めまして。ロン家当主、ガマラヤ・ロンです」
「ご丁寧に。フィリオ・マーキスと申します」

 ガマラヤに促されてフィリオたち視察団のメンバーはそれぞれ手近な席に着いた。雑談を交えつつ簡単な挨拶を交わした後、フィリオは持参した贈り物をガマラヤに渡した。

 バロックベアの毛皮、鮮やかな染料で染められたシルクの反物、中でも紫の布は最高級品だ。その他にも緻密な装飾の施された宝剣、大粒の宝石がはめ込まれた金細工や銀細工などがある。どれもこれも一級品である。

「さて………」

 持参した贈り物を一通り説明し終えると、フィリオは表情を改めた。今日は贈り物を渡すためだけに来たわけではないのだ。フィリオの雰囲気から何かを察したのか、ガマラヤも真剣な表情を見せる。

「今日お伺いしたのは、アルジャーク帝国とシラクサの未来についてお話したいと思ったからです」
「なるほど……。アルジャーク帝国とシラクサの望む未来が同じであれば、そのお話は歓迎すべきでしょうな」

 両者の視線が一瞬擦れる。しかし擦れて火花が散る前にフィリオの方が視線を外した。彼は外した視線をそのまま視察団の一人に向けて目配せする。目配せされたメンバーは一通の書類を取り出し、ガマラヤに差し出した。

「そこに大まかではありますが、我々の望む未来について記してあります。一度目を通してご検討いただけませんか」
「………分りました。拝見させていただきます」

 ガマラヤのその返事を聞くと、フィリオは満足したように微笑んだ。「今日はこれで失礼します」と言って立ち上がった彼を、ガマラヤは呼び止めた。

「宿はすでにお決まりですかな」
「いえ、これから探すつもりですが」
「でしたら我々がご用意しましょう」

 よい宿があるので是非そちらに、とガマラヤは勧めた。連絡を付けやすくしたい、という意図だろうとフィリオは察した。面子の部分もあるのだろうが、ガマラヤの表情を見ると好意の成分のほうが多いように思える。それならば、とフィリオはその好意をありがたく頂戴しておくことにした。

 案内を命じた部下たちに連れられて出て行く視察団を見送ってから、ガマラヤはさっそくフィリオが置いていった書類に目を通し始めた。

 一度読み、二度読み、そしてもう一度目を通す。
 バサリ、と書類を机の上に投げ出し、ガマラヤは難しい顔をして考え込んだ。

 書類に記されていたアルジャークの望む未来は、総括して考えればシラクサの望むそれとほぼ一致する。受け入れがたい点やより詳細な説明を必要とする箇所は多々あるが、それは今後の交渉の中ですり合わせていけばよい。

 とはいえ、一人で考えて結論を出すのは危険だ。シラクサに住む全ての人々に関係する件なのだから、様々な立場の人から意見を聞いておく必要があるだろう。まずさしあたっては………。

「ハルバナを呼んでくれ」

 古くからロン家に仕えてくれている大陸で言うところの“執事”に、ガマラヤはそう命じた。

 シラクサには商人や職人の意見をまとめて調整する、「商工会」という組織がある。シラクサの商人や職人のほとんどがこの組織に属しており、そのため商工会はシラクサの経済に大きな影響力を持っていた。

 その商工会の長老が、ハルバナという老人なのだ。

 部屋から出て行く執事を見送ると、ガマラヤは大きく息をついた。シラクサの歴史、その中で変革の時期が来たことを、ガマラヤは悟ったのだ。

**********

 案内された宿はいわゆる“宿屋”ではなく、迎賓館であった。整えられた中庭は大陸のそれとは違った風情があり、異国情緒を楽しませてくれる。迎賓館には十分な部屋数があり、視察団のメンバーにはそれぞれ一人部屋があてがわれた。

 荷物の整理が終わったところで、メンバーは大広間に集まった。これからの予定を話し合うためだ。

「とは言っても、シラクサ側から連絡がない限りは、我々としてはやることがありませんね」

 メンバーの一人が苦笑するように言う。実際、視察団内部での交渉のための準備はすでに終わっている。現状ではやることがない。

「では情報収集をしましょう」
「情報収集、ですか?」

 フィリオの提案に、怪訝な反応が返ってくる。

「本格的な交渉の前に、シラクサの経済の実態を把握しておくのもいいでしょう」

 そのために商店や港、工房などをめぐり情報を集めるのだという。当然、そんなやり方で機密に類する情報が手に入るはずもなく、ようは観光半分に聞き込みをするということだろう。そのことを理解したメンバーたちは揃って苦笑を漏らした。

「あ、お土産代を経費で落としちゃ駄目ですよ?」
「そんなことをするのはフィリオさんだけです!」

 リリーゼのそのツッコミに、本人以外のメンバーは深く頷くのであった。

**********

「なるほどの、これは………」

 ガマラヤから手渡された書類をハルバナは机の上に戻した。そこに書かれていたのは、フィリオが言うところの「アルジャーク帝国が望む未来」であった。

「ロンのおっしゃるとおり、大筋としてはシラクサに益のある話でしょうな。商工会としても、まず損をすることはないと思いますぞ」

 アルジャーク帝国が望む未来。それはシラクサを拠点として、海上交易を拡大させることだ。これはシラクサと大陸の間だけの話ではない。シラクサのさらに南にはリーオンネ諸島があり、さらに西にはサルミネア諸島がある。こういった島々と交易を行う拠点として、アルジャーク帝国はシラクサを使いたいと思っているのだ。

 もっともサルミネア諸島に関しては、シラクサよりもそこから北にある大陸有数の貿易港ルミティアスのほうが近い。シラクサ―サルミネア諸島間で交易が発達するかは未知数だ。

「では、商工会は今回の話、大筋賛成ということでいいのだな?」
「そうなりますな。この先、税率などを交渉する際には、相談していただければありがたく思いますがの」

 ハルバナが、というよりも商工会が今回の話に乗り気なのは当然であろう。シラクサが海上交易の拠点となれば、真っ先にその恩恵にあずかるのは商人たちだ。莫大な利益を期待できるだろう。

「とはいえ、ロンとしてはここに書かれていることを全て飲むわけにはいかないですじゃろ?」
「当然だ。アルジャークの影響力を、少なくとも政治的には排除したい」

 アルジャーク帝国がシラクサの政にまで口を出してきては、甘い果実、つまり交易で手にした莫大な利益は全てアルジャークに持っていかれてしまう。それでは意味がない。

「しかし、依存したほうがいい部分もあると思いますぞ」
「………どういうことだ?」
「甘い蜜に誘われてくるのは美しい蝶だけではない、ということですかの」

 シラクサが海上交易の拠点として発達し、多くの船が富を抱えてやってくるようになれば、必ずや招かれざる客も現れる。

 すなわち、海賊である。

「海賊対策には、海軍力が必要じゃ。シラクサだけで対処するには、ちと荷が重いかと思いますがのぅ」

 現在シラクサには軍隊と呼べそうな組織は存在しない。アルジャーク帝国の影響力を排除したいというのであれば、海賊対策も自前でやらねばならず、それには膨大な資金と時間と手間がかかることが容易に想像される。またそうやって作り上げた海軍を維持していくのは、シラクサにとって負担が大きいだろう。

 そこでアルジャーク帝国の力を使え、とハルバナは言う。

「しかしな、力を貸してもらっておいて口を出すな、というのは無理だろう」
「そこはほれ、ロンの手腕の見せ所、というやつじゃろう?」

 さりげなく無茶な注文をする老人にガマラヤは苦笑する。
「さて、どうしたものかな………」

 鋭い目で窓の外を眺めるガマラヤの目に、しかし風景は映っていなかった。





**********************





 次の日、視察団のメンバーは起きた順に朝食を食べ、おもいおもいにシラクサの街へと繰り出していった。久しぶりに地面の上の揺れないベッドで眠ったせいか、いつもよりも寝坊してしまったリリーゼも、朝食を食べ終え身支度を整えてから街へと足を向けた。今日は楽しい観光、もとい情報収集である。

 リリーゼが歩いている通りは、それなりに活気に溢れていた。しかしその一方で、そこにいる人々の特徴は皆一緒である。すなわち、黒い髪の毛の黒い瞳、そしてシラクサ独特の衣装。つまり今彼女の目に映っているのは、すべてシラクサの住民である。

(少し、異様だな………)

 独立都市ヴェンツブルグという交易の街で育ったリリーゼはそう感じた。シラクサの街はこの地域で唯一の貿易港のはずである。それなのになぜこうも外の人間がすくないのだろうか。ここは目抜き通りではないが、それなりの数の店がある。大きな商談を行うような店ではないのかもしれないが、貿易港にもかかわらず商店に異国人が見当たらないというのは異様な光景に思われた。少なくともヴェンツブルグではありえない。

(大陸との交易が廃れてきているというのは本当のようだな………)

 確かにそれなりの活気はある。しかしそれは貿易港としての、あの一種混沌とした人種の坩堝のような活気ではない。

(港の、船着場のほうに行けばもっと活気があるかもしれないが………)

 船着場は、いわばシラクサの玄関口だ。この通りよりも活気を期待できるだろう。後で足を伸ばしてみようと思いつつ通りを歩くリリーゼの目に、一見の小さな店が映った。

「ガラス工房『紫雲』直売店」

 看板にはそう書かれている。窓辺の陳列棚には、色とりどりのガラス製品が置かれている。アクセサリーなどの細工品に加えて、カップやランプのかさなど実用的なものも置かれている。

 興味を引かれて店内に入る。中に入ると、不思議な音色の音楽が流れていた。まるで悠々と流れる大河を連想させる、そんな演奏だ。

 店の奥に目をやると、一人の女性がカウンターの奥で楽器を弾いている。弓を左右に動かしているから、恐らく弦楽器の類だろう。

「あら、いらっしゃい」

 来客に気づいた女性が演奏の手を止めて微笑む。立ち上がろうとする彼女を、リリーゼは制した。かわりに一つ質問をしてみる。

「その楽器は………?」
「ああ、これ?『胡弓』っていうシラクサの楽器よ。聞くのは初めてかしら?」
「うむ。不思議な、だけど落ち着く音色だ」
「そう?気に入ってくれたのなら、嬉しいわ」

 胡弓を弾いていた女性は翡翠(ヒスイ)と名乗った。リリーゼも自分の名前を名乗る。
 ヒスイは典型的なシラクサの女性だ。瞳の色は黒で、長く伸ばした黒い髪の毛を背中に流している。肌は白く、磨かれた漆のように輝く髪の毛とのコントラストが印象的だ。顔にかかる髪の毛を払う仕草が、くやしいほど様になっている。

「商品を見せてもらってもいいだろうか?」
「ええ、ごゆっくりどうぞ」

 リリーゼが店内を見始めると、ヒスイは胡弓を演奏し始め、店内は再び胡弓の音色に包まれた。ゆっくりと流れる川のようなその演奏は、異国情緒にあふれながらもどこか懐かしさを感じる。

 リリーゼは店内の商品を眺めながら、内心で胸をなで下ろしていた。今店内にいる客は彼女一人だ。もしかしたらヒスイはぴったりと張り付いて熱心なセールストークを聞かせてくれるのではないかと思ったのだが、胡弓を弾く彼女からはそんな意思は感じられない。落ち着いて買い物ができそうだった。

 商品を眺めるリリーゼの目が、ある棚のところでとまった。そこに置いてあったのはカップの一種である。ただ随分と小さくて可愛らしい。

「ヒスイ殿、これはいったい………?」

 リリーゼの声がいぶかしげに途切れる。声をかけられたヒスイが胡弓の演奏をとめて笑っていたからだ。何か変なことを言っただろうか?

「ご、ごめんなさい。『ヒスイ殿』なんて言われたの、初めてだから可笑しくって………」

 笑いを堪えながら(上手くいってはいなかったが)ヒスイは自分のことは呼び捨てでいいと告げ、再び胡弓を弾き始めた。

「ああ………、それではヒスイ、これは一体何に使うのだ?」
「それは『お猪口』ね」

 シラクサ酒、というお米の地酒を飲むときに使うのだという。どうやらお酒を飲まないリリーゼには縁のない品物のようだ。

「むう……。綺麗だし可愛いと思ったのだが………」
「お土産にするなら、アクセサリーのほうがいいと思うわよ」

 残念そうにお猪口を棚に戻すリリーゼに、ヒスイが胡弓を弾きながらアドバイスした。が、アクセサリーといわれたリリーゼはなんともいえない顔をした。

「どうしたの?」
「いや、どういうアクセサリーが自分に似合うのか、良く分らなくてな………」

 お洒落に興味がなかったわけではない。ただそういう方面の話は、母であるアリアのほうが熱心で、リリーゼは母親に任せてしまうことが多かった。

「もしよければ、一緒に選んでもらえないだろうか?」

 いいわよ、と気さくに答えたヒスイは、胡弓を座っていた椅子の背もたれに立てかけて立ち上がった。顔に浮かべた微笑は、やんちゃな妹を見守る姉の微笑みに似ている。

「どんな種類のが欲しいとか、希望はある?例えば腕輪とかブローチとか………」
「………すぐには思いつかないな………」

 そう広くはない店内のちょうど真ん中辺りに、アクセサリーを置いた棚がある。そこには様々な種類の色鮮やかなアクセサリーが飾られていて、どれも綺麗だとはリリーゼも思う。しかし、その中から何が欲しいかといわれると、すぐに答えることはできなかった。

「う~ん、そう言われてしまうと、選ぶのも大変ね………」

 そう言いつつも商品を選ぶヒスイの目は真剣だ。ともすると、いや確実に当事者であるはずのリリーゼよりも真剣だ。

「あ!それじゃ、これなんてどうかしら?」

 ヒスイが選んだのは髪飾りだった。髪の毛に止める部分は金属製だが、そこに青い花のガラス細工があしらわれている。

「これなら、リリーゼの綺麗な髪の毛に良く似合うと思うわ」

 そう言ってヒスイはその髪飾りをリリーゼの髪に挿し、鏡を見せた。彼女の見立てどおり、青い花のガラス細工はリリーゼの金髪に良く映える。

「うん、思った通り!良く似合うわ」

 満足したようにヒスイは頷く。リリーゼとしても似合うと言われ、まんざらでもない様子だ。値段も手ごろだったので、この髪飾りを買うことにした。

「それにしても………」

 商品を包むヒスイに、リリーゼは店に入ってから疑問に思っていたことを聞いてみた。

「随分と客が少ないようだが、いつもこうなのか?」

 実際、今店内に客はリリーゼ一人しかいない。彼女が店内を見ている間に新たな客が来ることはなかったし、彼女が来る前に客がいた様子もない。

「ええ、大体いつもこんな感じよ」

 特に気にした風でもなく、ヒスイは答える。その言葉と表情からは、悲壮な様子は感じられない。

「………大丈夫なのか?」

 客が来なければ物は売れず、物が売れなければ収入には結びつかない。生活していけるのだろうか。

「大丈夫よ。うちは直売店だから」

 なんでもヒスイの家はガラス工房を営んでいるらしく、この店はその直売店だという。そういえば店の看板にも「ガラス工房『紫雲』直売店」とあった。

「工房で作った製品はそれぞれのお店に卸していて、収入はそっちがメインよ。このお店も、奥と二階は倉庫になっているの」

 はいどうぞ、といってヒスイは包装の終わった髪飾りをリリーゼに渡す。リリーゼも財布から代金を取り出してヒスイに渡した。つり銭を計算しながら、ヒスイは「でもまあ」と思い出したように呟いた。

「工房の仕事は、減っているかもしれないわね………」

 ガラス工房「紫雲」で働いている職人の数は、建物の大きさに比べれば少ないという。それはつまり昔はもっと大勢の職人がいて、仕事もその分多かったということだ。

「もっとも、それはわたしが生まれる前の話だけどね」

 少し暗くなった空気を吹き飛ばすように、ヒスイは片目をつぶって笑った。そんな彼女の様子を見ていると、リリーゼの表情も自然に綻んだ。

「リリーゼ、シラクサはいいところよ。ぜひ、楽しんでね」

 南の島の、空は高い。

**********

 ガマラヤからアルジャークの視察団に会談の申し入れがあったのは、フィリオたちがシラクサについてから三日後の夜のことであった。次の日の午前から、本格的な交渉に入りたいという話が伝えられ視察団もそれを了承した。

「どうなると、思いますか?」

 久しぶりに視察団のメンバー全員がそろった夕食の席で、リリーゼはそう問いかけた。あまりにも漠然とした問いであったが、その分答えるほうも大まかに答えることができた。

「多分、真っ向から反対することはないと思うよ」

 そう答えたのは、視察団でも最年長のメンバーだ。ちなみにフィリオの年齢は視察団の平均よりも下である。

「海上交易の拠点になるという話は、シラクサにとっては願ってもない話だ。そこから拒否するということは絶対にありえない」

 その意見にはリリーゼも、というより視察団全員が賛成だ。

 髪飾りを買った後、リリーゼは港まで足を伸ばした。シラクサの港は、設備の面だけを見ればヴェンツブルグなどと比べても遜色がない。しかしそこに停泊している船は少なく、設備が立派な分閑散とした雰囲気が強かった。

 落ち目である、といえば分りやすいかもしれない。

 しかしアルジャーク帝国が主導する海上交易の拠点となれれば、状況は一変する。シラクサを訪れる船の数は段違いに増加し、ともすれば今の設備でも手狭に感じるくらいになるだろう。そして莫大な富が生まれるだろう。

「基本的には賛成。これはもう間違いない。ではどこが交渉の一番の論点になるか、といえば………」
「シラクサの主権のあり方、でしょうね」

 アルジャークとシラクサの力関係は歴然だ。しかしだからといってその力に物言わせて利益を横から掠め取られては、シラクサとしては面白くないだろう。その一方で拠点となっているシラクサにばかり富が集まっていては、今度はアルジャークの方が面白くない。どこまでアルジャークの関与、つまり影響力を認めるか、それが一番の論点になるだろう、というのがフィリオの予測だった。

「なんにせよ相手の出方次第ですよ」

 そう言ってフィリオは紅茶を啜った。その言葉に視察団のメンバーは頷き、あらゆるケースを想定して明日の交渉に向けて準備をするのであった。

**********

 次の日、交渉のためにロン家の屋敷を訪れた視察団一行が通されたのは、最初と同じ応接室であった。ただ、あの時と違い室内にはすでに複数人の人影があった。フィリオの姿を認めたガマラヤは立ち上がり、簡単な挨拶をしてから彼らを紹介していく。商工会の長老を始めとする、シラクサの有力者たちであった。

 一通りの紹介が終わると、お互い向かい合うようにして全員が席に着く。まず最初に口火を切ったのは、ガマラヤであった。

「まずこの度のアルジャーク帝国からの申し入れですが、シラクサ側としても歓迎すべきものと考えております」

 基本的には賛成するというガマラヤの発言。昨日の夜の予測と同じだ。

「それはこちらとしても何よりです。では、お渡しした書類の内容は大筋合意、ということでよろしいでしょうか?」
「いえ、それは少し待っていただきたい」

 ガマラヤは苦笑気味にそう言ってフィリオをとどめた。それはそうだろう。彼に手渡した書類に書いてある内容は、アルジャーク帝国の利益を最大限に追求した内容になっている。シラクサ側がそのまま飲むなどありえない。

「ふむ、ではどうしましょうか」
「まず、シラクサの主権についてだが、これは完全な形で保障していただきたい」

 シラクサの主権。やはりそれが最大の焦点になるようだ。フィリオが浮かべる微笑に表面上変化はない。しかし視線と雰囲気が鋭くなった。

「書類の中にも『シラクサには自治を認める』と明記しておいたはずですが」
「いかにも。そして『アルジャーク帝国の宗主権を認めるならば』という但し書きもありましたな」

 アルジャーク帝国の宗主権を認める。それはすなわち、合法的な「天の声」を認めるということだ。

「ヴェンツブルグも帝国の宗主権の下にあります。シラクサだけ例外的な扱いにしているわけではありません」
「失礼ながら、ヴェンツブルグとシラクサでは条件が異なりますでな」

 口を挟んだのは、商工会の長老ハルバナだった。彼の言う通りヴェンツブルグとシラクサでは、特に地理的な条件が異なる。ヴェンツブルグが陸続きなのになのに対して、シラクサは海を隔てた彼方にある。

「シラクサにはシラクサの文化があり歴史があり価値観がある。現地のことは現地の住民に任せてもらうのが一番じゃと思いますがのう」

 陸続きであるということは、文化や歴史や価値観といったものを共有しているということだ。簡単に言えば、ヴェンツブルグの場合、帝国の一部であるという認識が双方にある。

 しかし、シラクサにはその共有項がない。シラクサはあくまでも海の向こうの“異国”でしかなく、その結果宗主権を盾に体のいい植民地扱いをされるのではないか、とガマラヤたちは危惧しているのだ。

 そうなれば待っているのは搾取だ。どれだけ海上交易が盛んになろうとも、その恩恵がシラクサにもたらされることはない。それどころか、今もっているささやかな富さえも搾り取られてしまうだろう。

 そのような未来を、黙って受け入れるわけには行かない。主権の確保は、そのためにどうしても必要なのだ。

「クロノワ陛下はそのようなことはされません」
「クロノワ陛下はそうでしょう。しかし後の方々はどうでしょうか?」

 未来のことを持ち出され、フィリオは苦笑した。未来はいつだって不確かで見通すことなど出来はしない。まして次の皇帝はまだ生まれてすらいないのだ。

 無論、主権を確保したからといって、アルジャーク帝国とシラクサが対等な関係になれるはずがない。地力、つまり国力の部分で差がありすぎるからだ。しかし建前の上だけでも平等な条約を結び、理不尽な“要請”を拒否する根拠を持ちたい。それがシラクサ側の切実な言い分だろう。

 そのことはフィリオも理解している。しかし宗主権はアルジャーク帝国にとっても簡単には譲れない一線だ。

 アルジャーク帝国がシラクサの内政に関与する正当な理由をもたなければ、シラクサには「帝国以外の国と組む」という選択肢が存在することになる。もしそんなことになれば、アルジャーク帝国は成果だけを横取りされた大間抜けになってしまう。そうでなくとも、よその国がシラクサにちょっかいかけてくることは大いにありえる。他の国の影響力を可能な限り排除するためにも、宗主権の確保は外せない条件であった。

 そもそも、この「宗主権」からして譲歩した結果なのだ。

 アルジャーク帝国にとって最も後腐れのない選択は、シラクサを完全に併合してしまうことである。しかしラシアートと相談し諸々の事情を考慮した結果、「宗主権を認めさせる」というのが最も現実的な線だと判断したのだ。

「ただ、一方で助力をお願いしたい分野もあります」

 海賊対策です、とガマラヤはいう。

「アルジャーク帝国には、一個艦隊をシラクサに駐屯させて海賊対策を行うことをお願いしたい」

 それはフィリオにとっても、いや視察団のメンバー誰もが予想していなかった提案だった。

 アルジャークが宗主権に拘るのは、ひとえにシラクサにおける権益を確保し、他国に手を出させないためだ。逆を言えば、それさえ達成できれば宗主権に拘る理由はない。

 ガマラヤは「海賊対策」と言葉を選んだが、今重要なのは「シラクサにアルジャークの一個艦隊を駐屯させる」という点だ。シラクサにアルジャークの戦力が駐在していれば、他国に対してよい牽制となるだろう。つまり権益を確保し、他国の政治的な影響力を排除できる。

 シラクサにしても身を守るための戦力を確保できるし、何よりも軍事的な分野で依存する代わりに政治的な分野では自立を保てる。

「艦隊の費用の一部は、シラクサにも負担をお願いすることになりますが………」
「承知しています」

 結構です、とフィリオは頷いた。細かい数字については、これからさらに詰めることになるだろう。

「では、艦隊の拠点となる母港ですが………」

 話し合いは夜遅くまで続き、その日だけでは終わらなかった。タフな、しかしやりがいのある交渉になりそうだ。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:51
 時間は少し遡る。

 十字軍討伐にむけて本格的に軍を動かす前、シーヴァは新たに作られたベルセリウスの工房を訪れた。

 今更になるが、この二人は主従の関係ではない。

 シーヴァにとってベルセリウスは、
「優れた魔道具を供給してくれる、得がたい協力者」
 であり、逆にベルセリウスにとってのシーヴァは、
「儂の魔道具を使いこなすための道具」
 である。別に片方の評価が悪いわけではない。片方の性格が悪いだけだ。

 繰り返すがこの二人の関係は主従ではない。いうなればもっと個人的な協力関係、二人だけの同盟とでも言えばいいかもしれない。ゆえにベルセリウスがシーヴァにへりくだることはないし、シーヴァがそれを咎めることもなかった。

「ベルセリウス老、少しよろしいか」
「ん?シーヴァか。面倒ごとならよそに行け」

 ベルセリウスはシーヴァを一瞥すると、それで興味を失ったようですぐに作業に戻った。シーヴァもそれで気を悪くした様子はなく、手ごろな椅子を見つけると勝手に座った。

「老公に一つ頼みたいことがある」
「断る」
「イスト・ヴァーレという流れの魔道具職人を探し出して連れてきてもらいたい」
「断るといっておろう」
「供に騎士を何人か付けるので、諜報員との連絡は彼らに任せておけばいい」
「………お主も大概強引じゃな………」

 呆れたように嘆息しながらもベルセリウスは作業の手を止めないし、シーヴァの顔を見ようともしない。無礼極まりない対応ではあるが、シーヴァのほうも慣れたもので、勝手に茶を入れて啜っている。

「しかし、イスト・ヴァーレか………」

 懐かしい名じゃ、とベルセリウスは笑った。ただその笑い方は、弱者をなぶる強者を連想させる。

「お知り合いか?」
「まあ、の。それで奴は何をやらかしたのじゃ?」
「老公はハーシェルド地下遺跡をご存知か」
「知らん」

 でしょうな、とシーヴァは笑った。ベルセリウスが自分の興味分野以外に無関心なのは周知だから、これは予想どおりだ。

 ポルトールの西にはラトバニアという国があり、そのさらに西にジェノダイトという国がある。そしてこのジェノダイトの北にあるのが、神聖四国が一国サンタ・ローゼンである。

 ハーシェルド地下遺跡は、このジェノダイトとサンタ・ローゼンの国境近くにある。その様式などから推察するに千年近く昔の、しかも教会に関係する遺跡のようだ、ということが今までに報告されている。

 この遺跡をシゼラ・ギダルティという考古学者が発掘調査していたのだが、その調査をパトロンとして支援していたのが実はシーヴァであった。彼は教会勢力との武力衝突を早い段階から想定しており、その際に口撃する、つまり教会の正統性に疑問を起こさせるための材料を探していたのである。

 実際にはその材料を手にする前に十字軍遠征が始まってしまったのだが、遠征がこの一回で終わるという保障はなく、むしろ第二次十字軍遠征が行われるであろうことをシーヴァは直感していた。

 そこでハーシェルド地下遺跡である。

「シゼラには資金を援助する代わりに、定期的に報告書を送らせていた」

 それがある日突然、その報告書が来なくなったという。不審に思ったシーヴァは各地に潜ませておいた諜報員に命じて、ハーシェルド地下遺跡とその発掘調査隊について調べさせた。

「結果はすぐに来た。『調査隊は全滅。遺跡は全壊』だったそうだ」
「そりゃ、不自然じゃな」

 興味を持ったのか、ベルセリウスが視線をよこす。

 夜盗にでも襲われたのだろう、というのが近くの町の住民の意見だったが、諜報員もシーヴァもすぐに違和感を覚えた。

 夜盗に襲われたということは、その目的は物取りのはずである。そうであるならば、遺跡を破壊する必要はない。ではなぜ遺跡は破壊されたのか。

「そこに見られては、知られてはまずいものがあった。ということじゃろうな」

 誰にとってか。間違いなく教会にとってである。つまりシーヴァが探していた“教会の正統性を揺るがす何か”がそこにあった可能性がある。

「それで例のイスト・ヴァーレだが、一時期|古代文字《エンシェントスペル》の解読要員として、弟子と一緒に発掘調査に参加していたらしい」

 イストと弟子のニーナの二人は、調査隊が何者かに襲撃されて全滅する前に仕事を終えて旅立っている。つまりハーシェルド地下遺跡の、シーヴァが欲する情報を持っている可能性があるのは、現状ではその二人だけなのだ。

「イストに興味を持つ理由は分かった。が、なぜ儂にやらせる?」
「お知り合いなのだろう?」

 ベルセリウスも元は流れの魔道具職人で、古代文字(エンシェントスペル)を読むことができる。あるいは何かの接点を持っているのではないかと思ったのが、今回その予想が的中した形である。

「………まあよい」

 少しばかり意地悪く笑うシーヴァを無視して、ベルセリウスは立ち上がった。そして作業台の上を片付けて黒の外套を羽織る。手に持つのは、杖ではなく金属製の槌だ。

「久しぶりに、バカ弟子の顔を見てくるとするか」

 そういって先代アバサ・ロット、オーヴァ・ベルセリウスは笑った。

**********

 二月に入ってオルギン率いるキャラバン隊がフーリギアのベルラーシを離れ、幼馴染であるオリヴィアと別れた後もイストたち三人はまだベルラーシにいた。

 理由はひどく単純だ。曰く「柔らかいベッドで眠りたい」。

 キャラバン隊がベルラーシにいた一ヶ月と少しの間、イスト、ニーナ、ジルドの三人は都市の外に停めた馬車の留守番役として居残り、結果としてその間は街を近くにして野宿も同然であった。

「このまま宿屋に泊まらず旅を再開するのか」

 そう考えると三人ともテンションが上がらず、とりあえず宿屋でゆっくりしよう、という結論に達したのだった。

 ベルラーシの街は新年のお祭り騒ぎから脱し、かなり落ち着きを取り戻していた。外からやって来た参拝客もそれぞれ帰路につき、街の人口密度は随分と下がっている。通りに溢れていた露店も姿を消し、街は日常の装いに戻り始めていた。一時期はどこも満室だった宿屋も開き部屋が増えており、三人はそれぞれ個室を取ることができた。

「それじゃあ、とりあえず一週間ってことで」

 一時期に比べれば随分と閑散とした宿屋の食堂で昼食を食べながら話し合った結果、三人は一週間程度ベルラーシの街で休息を取ることになった。イストはこの先アルテンシア半島を目指すつもりでいたのだが、十字軍遠征がこの先どう推移していくのか、それを見極めたいと思ったのだ。

 もっともベルラーシの街と半島は随分と距離が離れている。伝わってくる情報は最新のものではないだろうし、また改ざんや誇張、伝え間違いなどもあるだろうから正確とは言い難い。大まかな概略しか分らないと割り切っておく必要があり、つまるところ情報収集の重要度はさほど高くない。

「シーヴァが有利か、それとも十字軍が有利か。その程度のことが分かればいいよ」

 イストはそう言って呑気に禁煙用魔道具「無煙」を吹かした。結局のところのんびりしたいだけ、というのが弟子であるニーナの見立てだ。

 ちなみにイストはアルテンシア同盟が生き残る未来を想定していない。十字軍に潰されるか、シーヴァと十字軍の戦いに巻き込まれて潰れるか、そのどちらかだろうと予想していた。実際にアルテンシア同盟は十字軍によって崩壊させられたわけだが、この時期少々の情報通ならば皆同じ未来を予想しえたであろう。

 それはともかくとして。三人はとりあえず一週間ベルラーシの街に留まることにしたわけだが、それぞれの行動は個人主義で協調性に欠けていた。

 最も規則正しい生活を送っていたのは、ジルドだろう。毎朝、まだ暗いうちに起きては街の外に出て朝稽古をしていた。宿で朝食を取ってからは街に繰り出すことが多く、日雇いの仕事などを見つけては精力的に動いているらしい。

「もっとゆっくりしていればいいのに」

 イストなどはそう言って呆れたが、本人曰く「やることがないなら動いていたい性分」らしい。目的もなくダラダラと時間を過ごすのが苦痛なのだろう。

 ニーナは部屋にこもっていることが多い。この前の試験(・・)で駄目出しを喰らった魔道具の作り直しをしているのだ。資料や魔法陣と睨めっこしながらどうすればより効率化できるか、頭を悩ませていることだろう。

 その合間を縫いながら、「狭間の庵」の資料室からあさってきたセシリアナ・ロックウェルのレポートも読んでいる。

 セシリアナは歴代アバサ・ロットの一人で、オリヴィアが連れていた黒猫の魔道人形「白(ヴァイス)」の製作者である。「白(ヴァイス)」からも分るように彼女は魔道人形の製作において優れた才を発揮し、その技術は二〇〇年たった今の時代でも他の追随を許さない

 ニーナが興味を持っているのは魔道人形ではなく、義手や義足といった分野である。こういったものは機械的な仕掛けを含む魔道具であり、特に関節部の機構などについてニーナはセシリアナのレポートを参照していた。

 もっとも「作るのは課題が優先」と師匠であるイストに釘を刺されており、今はまだ参考になると思った部分をまとめているだけだ。そもそも難しすぎて作るところまで理解が及ばない。

 こうしてニーナは早く一人前の魔道具職人になるべく日々修行に励んでいるのだが、時に頭の中が湯立つというか、許容範囲を越えるというか、そういう事態が起こる。

「………もう、無理、です………」

 なかばゾンビと化しつつ息抜きのために街へと繰り出していく彼女の後姿を、その場に居合わせた者たちは驚愕と戦慄と呆れの眼差しで見送るのだった。

「まだまだ甘い」

 師匠は偉そうにそうのたまう。イストの見るところ、ニーナはやる気はあるがそれが空回りしているところがある。気負いすぎれば思考は硬直しやすく、いいアイディアは生まれない。弟子の思考を柔軟にするためにも何かイタズラを仕掛けてやろうか、とイストは楽しそうに笑う。

「師匠が楽しみたいだけじゃないですか!?」

 弟子の心の叫びは順当に無視された。

 柔軟な思考の持ち主である当のイストは、弟子をからかって遊んでいるだけではなかった。また新たな魔道具を開発すべくアイディアを探していたのである。「無煙」を吹かしながら。

 彼の場合、机に向かって頭を悩ませていればアイディアを閃く、ということはほとんどない。彼が机に向かうのは、アイディアを閃いた後である。机の上でアイディアに肉付けを行ない一つの理論に仕立てていくのである。

「閃きは直感だよ。もっとも、直感は知識と経験の上に成り立つものだけど」

 それが、イスト・ヴァーレという魔道具職人のモットーであった。

 それはともかくとして。魔道具のアイディアすらない段階で、イストが部屋にこもっていることはほとんどない。大抵の場合、彼は街中をぶらつきながらアイディアを考える。じっとしているよりは動いていた方が閃きやすいのだ。

「おや、キャラバン隊に置いて行かれたのかい?」

 特に目的地もなく通りを歩いていると、食堂の女将さんにそう声をかけられた。そこは少し前にオリヴィアとオリーブ油を売りに行った食堂で、どうやら顔を覚えていてくれたらしい。

「違うよ。あの時は雇われていただけ」
「あらまあ、それじゃあクビになっちゃったの?」

 これにはイストも苦笑するしかない。護衛の必要がなくなっただけなのだが、確かにクビになったという見方もできる。

「そんなとこ」
「大変だねぇ………。今度ウチにおいでよ。安くするから」

 機会があったら、とだけ答えイストはその食堂の前を通り過ぎた。通り過ぎようとした。

「まあそう言うな。ちょうど昼時じゃし、少し付き合え、バカ弟子が」

 その声はイストの良く知る、(悪い意味で)忘れようとしても忘れられない声だった。





********************





 二人の男が食堂のカウンターに並んで座っている。二人は傍目にも歳が離れていることが明らかで、年齢だけならば祖父と孫の関係が一番近いだろう。もっとも、実際の関係は師弟だ。二人とも色違いだが同じデザインの外套を羽織っており、老人の傍らには金属製の槌が立てかけられている。

 店の中から響いた声が師匠(オーヴァ)のものであると気づいた瞬間、イストは全速力で逃走を試みたが、師匠(オーヴァ)の展開した魔法陣によってあえなく捕獲。首根っこつかまれ、引きずられるようにして店の中につれてこられたのである。

「それで?ここで何してんだよ」
「飯を食っておる」

 見て分らんか、とオーヴァ・ベルセリウスは目の前に置かれた料理を示した。白い湯気を立てるビーフシチュー、ドレッシングをかけた温野菜のサラダ、そしてバターを塗ったパンが二つ。なかなかに見事な料理である。

「いや、そうじゃなくて………」
「はい、お待ちどう様」

 ぬけぬけと答えをはぐらかす師匠に頭を抱えるイストの前に、カウンターの向こう側から食堂の女将さんが料理を渡す。三種類のホットサンドとコーンポタージュ。こちらも美味しそうである。

 目の前に置かれた料理とコッチを無視して食事を続けるオーヴァを見比べ、どちらを優先すべきかをイストは考える。一秒にも満たない時間で天秤は料理に傾き、イストも隣に座る師匠を無視して食事を開始した。呼び止めたのはオーヴァの方だし、用があるならあっちから話しかけてくるだろう。

 しばらくの間、師弟は何も言わずに食べ続ける。

「………弟子を取ったらしいの」
「ん?ああ、まあね」

 ちぎったパンをビーフシチューに浸して口に放り込みながら呟くオーヴァに、イストの方もホットサンドにかぶりつきながら答える。まったく、どこで知ったのやら。

「腕輪を渡すつもりか?」

 オーヴァの言う“腕輪”とは、アバサ・ロットの工房「狭間の庵」のことだ。これを渡すということは、つまりアバサ・ロットの名を継がせることを意味している。

「さあ?知らね」

 現状では本当に何も考えていない。弟子であるニーナがアバサ・ロットの名に相応しい腕を持つようになり、なおかつ本人が望むのならば継がせてもいいとは思っている。しかし、ニーナの目標は父親の工房である「ドワーフの穴倉」を継ぐことのはずで、彼女が自分のほうからアバサ・ロットを継ぎたいと言うことはないだろう。

「ま、腕輪の持ち主はお前じゃ。好きにすればよい」

 それはイストがオーヴァからアバサ・ロットの名を継いだ日にも言われたことだ。ほこりを被っている魔道具を売り払うも良し。保管してある資料を世に出しても良し。受け継いだ一切については好きにすればいいと言われたのだ。ただし、アバサ・ロットの名を名乗る場合には決して魔道具を金で売るな、と釘を刺されてもいる。

 それっきり二人は食事に専念して何も喋らない。何も喋らないが、お互いにそれを気まずく思っている雰囲気はなく、二人は黙々と料理を胃袋に収めていった。

「………おぬしに会いたがっている者がいる」

 料理を全て平らげお茶を啜りながら余韻に浸っているとき、ようやくオーヴァが本題を切り出した。

「オレが弟子を取ったっていう情報はソイツから?」
「まあ、そんなところじゃ」

 それを聞いてイストは顔をしかめた。ということはその人物はイストについて情報を集めたことになる。つまりはそれだけの組織力を持っているということだ。何が目的か知らないが、組織を率いる人間が自分に用があるとなると、あまりいい予感はしなかった。

「物騒な話じゃないよな?」

 イストは軽く首を捻って、食堂の隅の席に座っている四人組に視線をやった。四人はそれぞれ腰に剣を下げている。武器を持っていること自体は珍しいことではないが、彼らは玄人、しかもどこかで正規の訓練を受けた騎士であろうとイストは直感した。そしてそんな連中がこの場にいるということは、オーヴァとなんらかの関係があるのだろう。

(護衛兼連絡員、ってところか?)

 断るならば力ずく、などという話にならなければいいがと思いつつも、師匠(オーヴァ)が出張ってきている以上結局自分の意思は無視されるんだろうな、とイストは諦めの境地に達しうなだれた。

 そんなイストの様子を、オーヴァは(恐らくは意図的に)無視する。

「ハーシェルド地下遺跡は知っておるじゃろう?」
「ん?ああ、一時期発掘を手伝った」
「会いたがっておるのは、その発掘に資金を出しておったパトロンじゃ」

 それを聞き、イストの目に興味の色が出てくる。発掘を行なっていた考古学者のシゼラ・ギダルティは、「パトロンはアルテンシア半島の方」と言っていた。その時はどこかの領主の一人かと思っていたが、この時期に旅をしている自分を探し出せるほどの広範な情報網を持っているアルテンシア半島の有力者といえば、一人しか思いつかない。

「なんでまた?」

 わざわざハーシェルド地下遺跡の名前を出したのだから、今回の用件は遺跡がらみであろう。それならば一時的に古代文字(エンシェントスペル)の解読をしていたイストではなく、発掘を取り仕切っていたシゼラのところに話をもって行く方がよいのではないだろうか。

「『調査隊は全滅。遺跡は全壊』、だそうじゃ」
「そりゃまた物騒なことで」

 軽い調子で話しながらも、イストの視線は鋭い。

「………犯人は?」
「さて、巷は夜盗の仕業だと思っているらしいがのう………」

 オーヴァが言葉を濁す。ここでこれ以上は話したくないということだ。この都市ベルラーシは、そしてフーリギアの国そのものが教会の勢力内。滅多な話はしたくないのだろう。しかしそのオーヴァの態度が、イストの確信を深めた。

「行きたくないって言ったら?」
「そうか行く気になったか」
「………だよな。そうなるよな………」

 予想通りの展開にイストはうな垂れる。こうして次の目的地はアルテンシア半島に決定したのであった。

**********

 イスト・ヴァーレ、ニーナ・ミザリそしてジルド・レイドの三人は、オーヴァ・ベルセリウスと四人の騎士と共にアルテンシア半島を目指してベルラーシを旅立った。合計人数は八人で、しかもオーヴァたちは馬車一台に馬四頭を連れており、随分な大所帯になったといえる。

 イストたち三人は、だいたいは馬車に乗って移動した。が、馬車の中は荷物で溢れており、乗り心地がいいとは言い難い。だが、それもある意味では仕方がない。旅をするとなれば食料や調理道具をはじめ様々なものが必要になる。また今の冬の時期には野宿のための装備が必要であろう。誰もが空間拡張型や亜空間設置型の魔道具を持っているわけではないのである。

 もっともオーヴァは持っているはずなのだが、今回は使わなかった様子だ。あるいは別行動をすることもあったのかもしれない。

 ベルラーシを旅立って四日。一行は街道沿いの見晴らしのよい平原で野宿をしていた。用意してあったテントを張り、すでにそれぞれ休んでいる。

 幾つか張られたテントの中心に、煌々と光を放つマグマ石が置かれている。そしてその傍らに一つの人影があった。寝ずの番をしているイストである。

 三人だけで旅をしていたときは、寝ずの番をする必要などなかった。「敵探査(エネミーサーチ)」という魔道具を使い、害獣や不審者が近づいてくれば警報が鳴るようにしてあったからだ。しかし、今回「敵探査(エネミーサーチ)」は使えない。連れている馬に反応してしまうのだ。

(要改良、と………)

 今までイストは馬を連れて旅をしたことがない。空間拡張型魔道具「ロロイヤの道具袋」のおかげで、馬を必要とするほど荷物に苦慮するということがないのだ。だから「敵探査(エネミーサーチ)」もそれにあわせて作ったのだが、今回のようなことがあるならば改良したほうがいいかもしれない。

 欠伸をしながら、イストはそんなことを考える。まったく、「必要は発明の母」とはよい言ったものである。

「師匠………」
「ん?まだ寝てなかったのか?」
「なんか、寝付けなくって………」

 そう言いつつ馬車から顔を出したのは、イストの弟子であるニーナだった。彼女とジルドには、オーヴァたちと一緒にアルテンシア半島に向かう理由についてすでに説明してある。

 その際、ハーシェルド地下遺跡の発掘調査隊が全滅したことも伝えてある。ニーナにしてみれば、シゼラ・ギダルティをはじめ二ヶ月近く一緒に働いた人たちが死んだ、と言われたのである。昼間はいつもどおりに振舞っているように見えたが、やはりまだショックが抜け切っていないようだ。

「さ湯でよければ飲むか?」
「………もらいます」

 イストはマグマ石の上に掛けてあったやかんから、マグカップにお湯を注いでにーなに渡した。彼女は受け取ったカップを両手で暖めるように持ち、マグマ石のそばに腰を下ろした。

 一口、お湯を飲む。

「あったかい………」

 どこかホッとしたように、ニーナの表情が少し緩んだ。しかし、すぐに俯きつらそうに声を絞り出す。

「………みんな、いい人たちでした………」
「………そうだな」
「………みんな、優しくて好くしてくれて………」
「………そうだったな」
「なのに、なんで………!」

 とうとう、ニーナは喉を詰まらせながら泣き出した。握り締めたローブにはシワができ、そこに涙の粒が幾つも落ちる。

 イストは何も言わない。抱きしめることもしなければ、慰めの言葉を掛けることもしない。かといってどうすべきか迷っているわけでもない。ただ何もせず、そこにいることを選んだのだ。

「………すみません、なんか、泣いちゃって………」

 少し落ち着いたニーナが、鼻を啜りながら顔を上げる。なんとかして涙を堪えようとしているが、頬にできた筋には月の光が反射し続けている。

「いいさ、泣いてやれ。『聖歌の代わりに慟哭を。かくて死者は眠りけり』だ」

 イストがニーナも知っている教会の箴言を口にする。仰々しく聖歌を歌うよりも、本当に悲しいのなら声を上げて泣き悲しめばいい。それが何よりの弔いになる。そんな意味だったはずだ。

 ニーナの目の端に溜まる涙の量が多くなる。ついにニーナは声を上げて泣き出した。湧き上がる悲しみの全てを、泣き声と涙にして夜空と大地に帰していく。彼らの死を悲しんでいる人間が一人、確かにここにいるのだと残ることのない、しかしなくなることのない時間に刻む。

 一日にも半日にも、一時間にも半時間にも満たないほんのわずかな時間、その時間の間彼女は確かに彼らの死を悼み嘆き惜しみ、泣き声を上げて涙を流したのだ。

「………ほらよ」

 ようやく落ち着いてきた頃、イストはタオルをニーナに投げて渡してやる。彼女はもう声を上げて泣くことはなかったが、いまだ止めどなく涙を流す目をタオルに押し付けて隠した。

「………師匠は悲しくないんですか………?」

 二ヶ月近く一緒にいた人たちが夜盗に殺されたっていうのに、とニーナは涙声で聞いた。彼女には一通りの説明はしたがまだ今回の裏の事情、つまり教会が関与している可能性が高いということはまだ教えていなかった。

 とはいえそれは、今は些末なことであろう。

「………残念だとは思うが、悲しくはないな」

 イストは正直に答えた。魔道具を売り歩いたり気に入った相手に渡したりしていれば、なんらかのトラブルに巻き込まれるなんてことはよくある。その中で知り合いが怪我をしたり死んだりということは少なからずある。イスト自身、人を殺したことだってあるのだ。長年旅をして、そういう感情が麻痺している部分もあるのだろう。

「きっとどこか壊れてるのさ」

 おどけるように、しかし自嘲気味にイストは笑った。

「………わたしも、そうなった方がいいんでしょうか………?」
「まさか」

 心配そうに問う弟子に、イストは即答した。当たり前のことを当たり前に感じる。それは魔道具職人以前に人間としての問題だ。そんな根っこの部分を無理やりゆがめる必要などない。もっとも勝手に歪んでいくのを止める気はないが。

「それとも、そんなふうになりたいのか?」
「………なりたく、ありません………」
「なら、これから先も泣き続けろ」

 これから先、同じようなことがあるたびに涙を流せばいい。そうやって泣くことができるならば、きっと大丈夫だろう。

「………はい」

 ようやくニーナの表情が少し明るくなる。それを見たイストは、ホッとしつつも頭の冷たい部分では別のことを考えていた。

(やっぱりこいつはアバサ・ロットには向かないな………)

 アバサ・ロットとして大陸中を巡れば、人の醜い部分をいやでも目にすることになる。いや、それどころか自ら好んでそんな部分に首を突っ込むようなまねをするのだ。だからアバサ・ロットになるには、黒くて醜い人間の負の面を見たときに「快なり」と笑い飛ばせるような歪んだ精神構造をしていなければならない。少なくともイストはそう思っている。目の前の状況を冷たく客観的に、まるで舞台でも見ているかのように眺められないのであれば、アバサ・ロットになどならないほうがいい。

 歴代のアバサ・ロットが変人ばかりなのは恐らくそのせいだろう。アバサ・ロットとしての活動は誰かに強制されたものではない。変人のように図太くて歪んだ精神でなければ、続けようなどと思えないのだ。

(ま、別にどうでもいいけど)

 ニーナを弟子にしたのは、彼女がアバサ・ロットに向いていると思ったからではなく、魔道具職人に向いていると思ったからだ。それにイスト自身、まだ後継者を心配しなければいけないような年齢でもない。のんびりやればよかろう。

「ところで師匠、オーヴァさんのことなんですけど」
「………師匠がどうかしたか?」

 泣きはらした真っ赤な目を好奇心の色に染めながら、ニーナはイストの方に視線を向けた。逆にイストは逃げるように目をそらす。

「いえ、たいしたことはないんですけど」

 師匠(イスト)のこういう反応は新鮮だ。ニーナはここぞとばかりにいつもやられている分をやり返そうとする。が、しかし………。

「なんだ、師匠にも教えを請いたいってのか?」
「い!?」
「まあ確かにオレでは力不足かもしれないなぁ。お前のそのやる気に免じて、どれ今からでも師匠に………」
「ごめんなさいなんでもないです師匠はいい師匠です!?」

 腰を浮かせるイストを、ニーナは外套の端っこを掴んで必死に止める。イストでさえやり込めてしまう変人(オーヴァ)にモノを教わるなど、考えただけでも気絶ものだ。一人前の魔道具職人になる前に廃人になる自信がある。

 先ほどとは別の理由で涙目になる弟子を見て満足したらしいイストは、禁煙用煙管型魔道具「無煙」を取り出して吸い白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出した。

「ま、師匠がシーヴァのところにいるって聞いたときは驚いたけどな」

 オーヴァの護衛に付いた四人の騎士がシーヴァの直属部隊所属だったこともあり、その辺の事情はすでに説明してニーナやジルドも知っている。

「そうですか?」

 イストの言い分にニーナは首を傾げる。先代のアバサ・ロットであれば魔道具職人としての腕は超一級のはずで、そのような職人であれば権力者たちはこぞって囲い込みたがるはずである。

 例えるならば、腕のいい魔道具職人というのは、金の卵を産む魔獣のようなものである。好き勝手をされて強力な魔道具が一般に出回れば、あちらこちらで被害が出ることは容易に想像できる。魔道具という金の卵は欲しいが、無理に取り上げようとすれば手痛いしっぺ返しを食うだろう。

 ではどうすればよいのか。檻に閉じ込め、しかし可能な限り宥めすかして機嫌を取るのだ。

 権力を持てば持つほど、人は優秀な魔道具職人を囲い込みそして管理しようとする。それは欲望に起因することもあれば、治安維持の一環であったりもする。いずれにせよ権力者たちは腕のいい魔道具職人を法律や規制という檻の中に閉じ込めようとするのだ。

 しかしその一方でその檻の中は豪勢に飾り付けられている。何不自由ない生活、大きな工房をはじめとする働きやすい環境、そして職人としての名誉。腕が良ければよいほど、その待遇は破格のものになっていく。権力者たちはそうやって、魔道具職人たちを押さえつけるのではなく宥めすかすのだ。

 アバサ・ロットという特殊な例はともかくとして、それが世の中の常識である。ならばアバサ・ロットの名をイストに譲ったオーヴァが、シーヴァという覇王のもとにいるのはむしろ当然ではないだろうか。ましてや名を譲った直後の彼は工房を持っていなかったはずなのだから。

「甘い。あの無礼厚顔を地で行く師匠だぞ?王だの貴族だの、そんな連中とそりが合うと思うか?」
「大変そうですね………」

 衝突している場面がたやすく想像できる。しまもやり込められているのは王侯貴族のほうだ。そのうち嫌気が差して雲隠れするオーヴァの様子まで克明に想像できてしまう。苦労してるんだろうなぁ、とニーナはまだ見ぬシーヴァ・オズワルドに思わず親近感を抱いてしまった。

「それにしても、なんでシーヴァ・オズワルドだったんでしょうか?」

 シーヴァに不足があるとは思わない。しかし話を聞く分には、オーヴァがシーヴァのもとに腰を落ち着けたのは、彼がまだアルテンシア半島のさらに北西にあるロム・バオアにいた頃だ。その頃であれば、彼以上の有力者など沢山いたであろうに。

「多分、師匠は自分が造った魔道具で世界とか歴史とか、そういうものが変わるところを見たくなったんだ。シーヴァはそのための、言葉は悪いが『道具』なんだろな」

 なぜシーヴァを選んだのか。それはあの食堂でイストもオーヴァに聞いていた。

『シーヴァの、アレを使いこなして見せたぞ』

 アレ、と言われてイストが思いつくのは一つしかなかった。

 ――――「災いの一枝《レヴァンテイン》」

 オーヴァが作り上げた漆黒の魔剣で、シーヴァの愛剣でもある。イストが知っているのはまだ術式を練り上げている段階だったが、その術式と使う予定の素材を聞いて、果たして使いこなせる人間がいるのかどうかと疑問に思ったことを覚えている。

 その魔剣を、シーヴァは使いこなしたという。

「その時確信したんだろうな。『コイツならば』って」

 信頼にたる確証はなにもない。しいて言うならば直感である。ただし、アバサ・ロットとして三〇年以上大陸を渡り歩いてきた者の直感である。そしてその直感が正しかったことは、今のアルテンシア半島を見れば良く分るというものだ。

「そういえば、お前にアバサ・ロットの名前の由来って話したっけ?」
「いいえ聞いてないです」

 ニーナはブンブンと音がしそうなくらい勢い良く首を振った。何かあるだろうとは思っていたが、なかなか機会がなくて聞けなかったのだ。

「初代のアバサ・ロットの名前がロロイヤ・ロットだってことは前に話したよな?」

 だからアバサ・ロットの「ロット」はロロイヤの姓名そのものである。では「アバサ」のほうはどうなのか。

「『愛(ア)すべき馬(バ)鹿どもに捧(サ)ぐ』」
「………はい?」
「いやだから『愛(ア)すべき馬(バ)鹿どもに捧(サ)ぐ』だって。そこから音節ごとに一文字ずつ取って『アバサ』」
「………え?え?ええぇぇぇぇえええ!?」

 イタズラを成功させた悪餓鬼のように、イストはニヤニヤと意地悪く笑う。もっとそれらしいエピソードでもあるのかと思っていたニーナは顔を引きつらせている。

「ほんと、ネーミングセンスの欠片もないテキトーな付け方だよな」

 イストも苦笑し嘆息する。

「だけど、これはロロイヤの意地の表れでもある」

 ロロイヤは天才的な腕を持つ魔道具職人で、特に空間拡張型や亜空間設置型の魔道具製造に秀でていた。イストやニーナも使っているが、この種の魔道具は恐ろしく便利だ。それはロロイヤの時代も同じで、それゆえ彼は彼の魔道具を手に入れようとする人々にしつこく付きまとわれたという。

「それで『愛(ア)すべき馬(バ)鹿どもに捧(サ)ぐ』、ですか………」

 ニーナの声音は微妙だ。呆れが半分以上だが、職人の端くれとして共感できる部分も確かにある。

「そ。そしてその系譜たるアバサ・ロットは、名前からして『気に入った相手にしか魔道具を譲らない』と宣言しているわけだ」

 そしてそれが歴代のアバサ・ロットたちが旅を続けた理由でもある。一所に留まり続ければ問題が起きやすいという事情もあるが、それよりも旅をして各地を回ったほうが気に入った人間を見つけやすいという理由のほうが大きい。

「オレはそういうあり方が気に入っている。『コイツにはこんな魔道具が合う』って考えながら作るのは楽しいしな」

 例えば、イストはクロノワに「雷神の槌《トールハンマー》」という魔道具を渡した。しかし、この時点ではその魔道具のもとになった魔弓「夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」もまだイストの手元にあった。
 魔道具としての性能を比べれば、威力や射程を制御できる「夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」のほうが高性能であるといえる。しかしクロノワは魔導士ではないし、戦場においては軍を統率する立場である。

 そのような彼が「夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」を持っていても役には立たない、とは言わない。しかしより扱いが簡単な「|雷神の槌《トールハンマー》」の方が役に立つ、とイストは考えたのだ。

 しかし、イストが考えるのはここまでである。もちろん魔道具の性能を十全に引き出して、思っても見なかった力を引き出して驚かせてくれれば嬉しく思う。しかし彼の場合はそこまでなのだ。魔道具を渡した人間がそれを使ってなにを成し遂げたのか、その部分にイストは大概無頓着であった。

「オレはそれでいいと思ってる。オレは魔道具職人だ。その範疇から出ようとは思わない」

 イストは「無煙」を吸い白い煙(水蒸気と主張している)を吐き出す。それから、「だけど」と続けた。

「だけど、師匠はその先を見たくなったんだろうな………」

 それが良いとか悪いとか、イストは何も言わなかった。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 10:57
 イストを捕獲した(被捕縛者の主観)オーヴァ一行がアルテンシア半島の入り口であるゼーデンブルグ要塞を視界に捉えたのは、大陸暦1565年2月18日のことであった。本来であればもう少し早くここまで来られたのだが、半島の各地で十字軍が敗退しているせいか各地が少なからず混乱しており、また意識的に情報を集めながら来たため時間がかかってしまったのだ。

 アルテンシア半島から十字軍を駆逐せんと奮戦しているのは、間違いなくシーヴァ・オズワルドである。しかしその彼もまだ最後の仕上げであるゼーデンブルグ要塞の奪還はなしていないようで、遠目で確認したその要塞には十字をあしらった教会の旗がたなびいていた。

「要塞はいまだ十字軍が占拠、か………」

 一行はゼーデンブルグ要塞を一望できる小高い丘の上に馬車を止めテントを張った。少人数のこの一行だけならば、夜闇にでもまぎれて要塞の脇をすり抜けて半島内に入ることも出来るのだろうが、騎士たちが次のように主張したのだ。

「陛下は必ずや近いうちにゼーデンブルグ要塞奪還のために動かれる」

 だから下手に動かず要塞の近くで待っていれば、シーヴァのほうからこちらに向かってくる、というのだ。

 余談になるが、シーヴァはこの時点ではまだ「アルテンシア統一王国」の設立を宣言しておらず、よって彼はまだ国王ではなかった。しかし騎士たちが「陛下」の尊称を使ったということは、すでに王者としての実態を備えていたということであろう。

 実際、シーヴァに味方した五人の領主たちは彼の臣下であり、領主を臣下とするシーヴァは正しく王であると言える。

 閑話休題。話を元に戻そう。

 四人の騎士たちは要塞の近くでシーヴァを待つことを主張したが、その意見にイストは懐疑的であった。

 ゼーデンブルグ要塞にいる十字軍は目算で十万程度であろうか。元々の総勢が三二万であったことを考えると、実に三分の一以下である。シーヴァに相当手ひどくやられたことが、容易に想像できた。

 その想像を肯定するかのように、要塞内は遠目でもはっきり分るほどに活気がなく、全体的に焦燥しきっている。ひるがえる旗も、汚れや破れが目立ちどこか弱々しくて頼りない。

「放っておいても撤退するんじゃないのか?」

 十字軍が撤退し要塞が空になれば、奪還のためにわざわざシーヴァが動くことはあるまい。
 しかし騎士たちはイストの意見を否定した。オーヴァまでもが苦笑を浮かべている。

「陛下ならば必ず動かれる」
「ま、ヤツなら自分の手で決着をつけるじゃろうな」

 オーヴァにまでそういわれては、イストとしてはもう黙るしかない。それにイストはシーヴァの人となりを知らない。それを知っている五人が口を揃えて「来る」というのであれば、来るのであろう。来る前に十字軍が撤退したのなら、その時に動けばいいだけの話だし。

 そして2月21日、ゼーデンブルグ要塞に一団の軍勢が迫った。言うまでもなく、シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍である。

「ホントに来たよ………。働き者だねぇ」

 呆れたように笑いながら、イストは「光彩の杖」に魔力を込める。するとアルテンシア軍の様子が拡大された。展開した魔法陣によって空気の密度を操作し、擬似的なレンズを作り出したのだ。

 アルテンシア軍は要塞から弓を射ても矢が届かないだけの距離を保ち一旦停止した。シーヴァが率いているこの軍勢は、要塞に立てこもっている十字軍とはまったく正反対の様相を示している。つまり、士気が高く自信に溢れていることが遠目にも良く分り、翻る旗は力強くて頼もしい。

「む、動くぞ」

 オーヴァの言葉が早いか、アルテンシア軍から騎士が一騎駆け出していく。少し遅れて軍全体も動き出す。

「師匠」
「うむ」

 オーヴァもまた「光彩の槌」に魔力を込め、イストと同じ魔法陣を展開する。そうやって作った空気のレンズが追うのは、一騎駆けをする騎士である。

 その騎士は漆黒の鎧に身を包み、しかし兜は被っていなかった。無造作に伸ばした黒い髪の毛が、風に煽られて暴れている。眼光鋭く前を見据え、口元には獰猛な笑みを浮かべていた。

 そして何よりも目を引くのは、その騎士が水平に構えた漆黒の大剣である。イストたちが見守る中、その大剣は主である騎士の魔力を糧として黒き風を発生させた。

「あれが『災いの一枝《レヴァンテイン》』か………」

 イストが実物を見るのは、これがはじめてである。しかしその術式や使用された素材については知っており、あの騎士のように使いこなしてみせるには膨大な魔力が必要であることも容易に想像できた。

 つまり、「災いの一枝《レヴァンテイン》」を使いこなすあの騎士こそ、シーヴァ・オズワルドその人なのだろう。

 シーヴァは発生させた黒き風を、まるで障壁のように自分と馬の周りに展開する。要塞の城壁の上にいる十字軍の弓兵たちは彼に矢を集中させるが、黒き障壁は雨粒を弾き飛ばすかの如くにそれらの矢を寄せ付けない。

 黒き風を纏ったシーヴァは、降り注ぐ矢の雨を意にかえすこともなく戦場を駆け抜ける。

「まるで黒き稲妻のようだな………」

 感嘆したようにジルドが呟く。そしてその“稲妻”という評価に恥じることなく、シーヴァは城門めがけて疾駆し、そして速度を緩めることなくそのまま突撃し鋼の城門を突き破って要塞内に踊りこんだ。

「おいおい………」

 呆れとも驚愕ともとれない呟きをイストが漏らす。しかしその横顔を見たニーナは顔を強張らせた。

 イストの両目は大きく見開かれており、その口元は喜悦に歪んでいる。喜んでいる表情のはずなのに、見る者の背中にうすら寒いものを感じさせずにはおかない。

「取るなよ。アレは儂のモノじゃ」
「分ってるよ」

 オーヴァに釘を刺され、イストは口を尖らせながらその歪んだ笑みを引っ込めた。それから横目でジルドのほうを見ると、固い表情と剣のように鋭い眼差しで戦場を、いやシーヴァを睨みつけている。

(おっさんも思うところ有り、か………)

 楽しくなりそうじゃないか、とイストは内心でほくそ笑んだ。そうこうしているうちにアルテンシア軍の兵士たちは次々とゼーデンブルグ要塞の中に侵入していく。ある者はシーヴァがこじ開けた城門をくぐり、ある者は城壁を乗り越えて要塞の内側に乗り込んでいく。

 それに対し十字軍はもはや逃げの一手だ。彼らの中にあったはずの戦いを求める意思は霧散し、恐怖に塗りつぶされた思考はただ要塞の外に、つまりはアルテンシア半島の外に逃れることを希求する。まるで猟犬に追いたてられる兎のように、十字軍は半島からたたき出されたのであった。

「さて、では行くか」

 一方的な戦いが一段落したのを見計らって、オーヴァが腰を上げた。戦場を見下ろしていた小高い丘から降りて、一行はゼーデンブルグ要塞へと向かう。

 要塞には表門ではなく裏門、つまりシーヴァたちが攻めた側から入った。要塞の外の大地には大量の矢が突き刺さっており、また城壁の上では戦死した十字軍兵士の死体がいまだとめどなく血を流している。

 そんな、戦いのあとの生々しい様相を見たニーナは顔を青くし目には涙を溜め、何かを堪えるように口元を手で覆った。殺されたばかりの死体が転がる戦場跡に来たことなど、彼女はこれが初めてであろう。

「ニーナ、馬車の中に入っていてはどうだ?」

 ニーナの様子に気がついたジルドはそう勧める。彼女は迷うような素振りを見せたが、師匠であるイストから「いいから入ってろ」と言われ、青白い顔で一つ頷いてから馬車の中に身を隠した。

「やはりニーナには辛いようだな、ここは」
「本来、魔道具職人は戦場とは縁がないからな」

 要塞の外で穴を掘り遺体の埋葬を行っている兵士たちを横目で窺いながら、イストとジルドは言葉を交わす。魔道具職人のクセに真新しい戦場跡で整然としていられるイストやオーヴァの方こそ異常なのである。

 シーヴァが壊した城門の前には、二人の兵士が見張りとして立っていた。最初は明らかに警戒の目を向けてきた彼らも、四人の騎士の一人が懐から取り出した証書を見せると態度を一転させ一行を要塞の中に通した。

「報告して指示を仰いでくるので、しばらくお待ちを」

 邪魔にならないところに馬車と馬を停めると、騎士のうちの二人がそう言って建物の中に入っていった。

 手持ち無沙汰になったイストは、馬車の車輪に背中を預けて「無煙」を取り出し吹かす。白い煙(水蒸気だ)を吐き出しながら周りを見渡せば、アルテンシア軍の兵士たちが忙しく動き回っている。

 イストの見るところ、そうやって働いている兵士たちの表情は皆明るい。勝ち戦の後なのだから表情が明るいのは当たり前なのだろうが、その奥には充実した誇りが見え隠れしている。

(「自分たちは今国を造っている」。そういう自負があるんだろうな)

 しかし「歴史を造っている」という自負を持っているのはこの要塞内においてただ一人、シーヴァ・オズワルドだけであろう。その意識の差が、そのまま器の差であるともいえる。彼は正しく「王の器」を持っているのだ。

「『儂のモノだから取るな』か………」

 変人に気に入られて大変だな、とイストは自分のことを棚上げしてシーヴァに同情した。表面上、だが。

「師匠………」

 イストが「無煙」を吹かしていると、さっき引っ込んだばかりのニーナが馬車から出てきた。顔はまだ青白いが、幾分落ち着いたようである。

「もういいのか?」
「はい………。馬車の中で膝を抱えていても、仕方がないですから」

 イストが寄りかかっている馬車の前を、死体を載せた荷台が通り過ぎていく。シーヴァは敵味方関係なく全ての戦死者を埋葬するようにと命じたらしいが、敵兵の死体の扱いはやはりぞんざいになる。イストが横目で弟子を窺うと、眉間にシワを寄せて目をそらしていた。

 そこへ、報告へ向かった騎士たちが戻ってきた。

「陛下は、今はまだお忙しい。すまないが謁見は明日の昼以降になりそうだ」
「ん、了解」

 イストは特に文句は言わなかった。要塞を奪還した後に地味で煩雑だが重要な事後処理が待ち受けていることは、軍事に関してはまったくのド素人であるイストでも容易に想像がつく。

「ただ、相部屋しか用意できなかったんだが………」

 言いにくそうにして騎士がニーナとジルドのほうに視線を向ける。ゼーデンブルグ要塞は常時十万の軍勢を駐在させていた大要塞である。当然、それだけの兵が生活するための部屋も揃っていたはずだ。加えて今回シーヴァが率いている軍勢の数は十万以下で、にもかかわらず相部屋しか確保できなかったということは、勝ち戦の興奮の裏側にある少しばかりの混乱を思わせた。

「ワシはそれでもかまわぬ」
「わたしも大丈夫です」

 二人の言葉に騎士はほっとした様子を見せる。もう少し落ち着いたら個室を用意でいると思います、と告げてから彼はオーヴァのほうに視線を向けた。

「ベルセリウス老には個室を用意してありますので」
「ん?儂も相部屋でよいぞ」
「来んな。こっちからお断りだ」

 まるでハエでも追い払うかのようにしてイストが「しっし」と手を振るう。ずいぶんとひどい言い様だが、オーヴァのほうもこの程度の暴言で傷つくようなまともな精神はしていない。

「そうか。では心置きなく一人部屋を満喫させてもらうとしよう」

 そんな師弟の仲のいい会話に苦笑しながら、一行は建物の中に入って行った。

**********

 次の日、昼食を食べてから部屋に戻り、特にすることもないので「無煙」を吹かしながらゴロゴロしていたイストの所に、一緒に旅をした騎士の一人がやってきた。旅の間は身に着けていなかった鎧を纏っており、その姿は立派に騎士である。

「本当に騎士だったんだな………」

 そんなイストのわりと失礼な呟きも苦笑するだけで済ませてしまう。だてにオーヴァの随行員として選ばれたわけではないらしい。

「謁見の手筈が整ったから、呼びに来た」
「ん、了解。師匠は?」
「すでに陛下のところに」

 服装について尋ねると「そのままでいい」と言われたので特に着替えることはせず、三人は連れ立って騎士の後についていく。

「師匠、『無煙』を吸っちゃダメですからね」
「え~」

 弟子の忠告に嫌そうな声を漏らす師匠。それでも弟子は健気に「ぜっっったいにダメですからね!」といい続け、目的の部屋につくまでに師匠から言質を取るという偉業を成し遂げた。

「む、来たおったか」

 案内されたのは、少し大き目の会議室のような部屋であった。家具は大きなテーブルと椅子が数脚あるだけで、まさに必要最低限のものしかおいていない。南向きに窓が付いているおかげか、室内は明るい。

「師匠だけか?」

 部屋の中で椅子に腰掛けていたのはイストの師匠であるオーヴァだけである。シーヴァの方はまだ来ていないようだ。

「まあ、そのうち来るじゃろう」

 そう言われてイストは肩をすくめた。相手は忙しい身の上。暇人が待つのは道理であろう。

 オーヴァと騎士を含めて室内には五人いたが、特に誰も喋らなかった。オーヴァは椅子に座ったままなにやら本を読んでいる。ジルドは椅子に座らずに立ったまま壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じていた。騎士は入り口の近くに手を後ろで組んで立っている。イストもまた椅子には座らず、窓の近くの壁に寄りかかり外を眺めていた。

「あの、師匠………」

 少し心配そうな顔をしたニーナが、小声で話しかけてくる。

「ん?どうした」
「シーヴァ……陛下が聞きたいことって、ハーシェルド地下遺跡のことなんですよね?」

 今までは呼び捨てにしてきたのだが、さすがにここでそれはまずいと思ったのかニーナは“陛下”の敬称をつける。

「そういう話だったな」

 オーヴァや騎士たちから受けた説明では、ハーシェルド地下遺跡の発掘中に見つけたものについて話を聞きたい、ということであった。

「今更ですけど、そんな重要なことありましたっけ?」

 その遺跡の壁画に描かれていたのは、大部分が「御霊送りの神話」に関するものであった。現在伝わっている神話と比べると所々異なっている部分があったが、それにしても結局は解釈の問題でしかないように思える。

 無論、ハーシェルド地下遺跡は学術的に見れば貴重な遺跡であった。それは一緒に発掘調査を行った、シゼラ・ギダルティをはじめとする学者たちの様子を見ていたから分る。しかしだからといってそこに、シーヴァ・オズワルドが求めるような情報があったようには思えないのだ。

「ま、それこそ“解釈の問題”ってやつだな」

 重要なのはイストやニーナがその情報に対してどのような解釈を行うかではない。シーヴァがそれを聞いてどのように解釈し、そして判断を下すか、だ。さらに言うならば、シーヴァにとってどのような解釈が可能か、ということが重要なのだ。彼は政治家であって、間違っても学術的な事実を探求しているわけではないのだ。

「………タチの悪い言いがかりみたいですね………」
 ニーナが表情を引きつらせる。

「神話を政治や戦争に利用しようと思えば大体そうなるさ」

 むしろ捏造や改ざんに手を出していない以上、シーヴァはまだましな部類といえるだろう。あくまでも“現在は”だが。

「手厳しい意見だな」

 聞きなれない声が部屋の中に響き、新たな人物が部屋の中に入ってくる。入り口の近くに立っていた騎士が、胸に拳を当てて敬礼する。

 室内に入ってきた人影は四つ。そのうちの二人は明らかに雰囲気が違い、ゼゼトの民であろうと推測された。

 その四人の中でイストが知っている顔は唯一つ。長身痩躯で、黒い髪の毛を無造作に伸ばした男。その眼光は昨日見たのよりは幾分穏やかだがしかし十分に鋭く、獰猛な笑みを浮かべていた口元に今は呆れたような苦笑を浮かべていた。

 漆黒の魔剣「災いの一枝《レヴァンテイン》」を手に一騎駆けを敢行した、シーヴァ・オズワルドその人である。

「我がシーヴァ・オズワルドだ。お前がイスト・ヴァーレ、ということでいいのだな?」

 シーヴァの鋭い視線がイストを捕らえる。余談になるが、十字軍を駆逐しアルテンシア半島全体を勢力圏にしたこの頃から、彼は「我」という一人称を使い始めた。「王者に相応しい威厳を、演出でもいいから持て」と誰かに言われたらしい。

「そうなるな。ま、よろしく」

 ニーナであればすくみ上がってしまいそうな眼光に睨まれても、イストはその飄々とした空気を変えない。あらかじめ釘を刺していなかったら、「無煙」でも吹かしていそうな雰囲気である。

 そんなイストの無礼な態度に、シーヴァの横に控えていた女性仕官が眉をひそめるが、結局何も言わなかった。きっとオーヴァの弟子ということで諦めたのだろう。

 一通りの自己紹介が終わると、それぞれが席に着く。真っ先に口火を切ったのはシーヴァであった。

「迂遠な物言いは好きではないのでな、単刀直入にこちらの用件を言おう。すでにベルセリウス老から聞いていると思うが、ハーシェルド地下遺跡でお前が見たものについて話を聞きたい」
「タダでか?」
「貴様!」

 さすがにこの物言いには我慢できなかったようで、ヴェートと紹介された女性が腰を浮かせる。しかしすぐにシーヴァがそれを制した。

「何が望みだ?」

 しぶしぶ席に戻るヴェートを視界の端に捕らえながら、イストもまたシーヴァを真正面から見返す。

「そうだな、このおっさんと戦ってみてもらおうか」

 そう言ってイストが指を向けたのは、ジルド・レイドである。

「イスト………」

 しかし、水を向けられたジルドは困惑した様子を見せた。事前にそんな話は一切しなかったのだから当然だろう。

「仕合ってみたいんだろ?かのシーヴァ・オズワルドと」

 昨日、シーヴァの奮戦を見物する彼の横顔から、イストはそのことを確信していた。そしてジルドとシーヴァがぶつかれば、面白いことになるという直感がある。

「ふむ………」

 ジルドが腕を組む。「やりたい」とは言わなかったが、その姿からイストは肯定の意思を感じた。そしてそれはシーヴァも同じだったらしい。

「それで?勝てばよいのか?」
「いや?勝敗には拘らないよ。面白いものを見せてくれればそれでいい」

 ジルドはともかく、シーヴァ側の三人、ヴェートとガビアルとメーヴェも特に何も言わない。それだけシーヴァの実力を信じているのだろう。

「魔道具の使用は?」
「もちろんアリで」
「………死ぬかも知れぬぞ」

 シーヴァの使う魔道具とは、すなわち「災いの一枝《レヴァンテイン》」のことだ。昨日の戦いを見る限り、彼の言葉は決して誇張や自己陶酔の類ではない。

「かまわぬ」

 答えたのはイストではなくジルドだった。愛刀「光崩しの魔剣」を握る彼の手には力が込められている。

「たとえどのような結果に終わろうとも双方遺恨なし。それでよい」

 堂々とジルドは言ってのけた。その言葉に絶句したのはシーヴァの後ろにいる三人である。

「ともすれば自分のほうこそシーヴァを斬ることになるかも知れない」

 ジルドは言外にそういったのである。
 その言葉を聞いてシーヴァが笑う。それは昨日見せた、あの獰猛な笑みだった。





************************





「その魔剣を使ってオレを心の底から驚かせてくれ」

 かつてイストはジルドに「光崩しの魔剣」を渡す際に、そういう条件をつけた。もっともこれはジルドを納得させるための方便のようなもで、仮にジルドがこれを達成できなかったとしても、イストとしては魔剣の代金を求めるようなまねはしないと決めている。

 もともと、無理のある話なのだ。

 製作した本人でさえ想像できなかった力や使い方。それを見ることは魔道具職人にとってある意味最高の報酬なのだ、とその時イストはいった。

 しかし、それはどれだけ困難なことだろうか。

 イストは魔剣を製作した職人である。その心臓部にしてブラックボックスたる術式理論をゼロから設計したのである。言い換えれば、その魔道具に何が出来て何は出来ないのか、その全てを把握しているのである。

 そんな彼を「心の底から驚かせろ」という。

 それはつまり、「思ってもみなかったことをやってみせる」ということだ。しかし、少しばかり意表をついて見せても、「心の底から驚かせた」ことにはなるまい。それはすぐに解析されて、ただの現象になる。まったく理解不能で不可思議なことをして見せなければいけないのだ。

 イスト自身、ジルドがこの条件を達成できるとは思っていない。けれどもその一方で彼ならば、とも期待してもいるのだ。

 今、そのジルドがイストの作った「光崩しの魔剣」を構えている。彼に相対しているのはシーヴァで、その手にはオーヴァが作った「災いの一枝《レヴァンテイン》」がある。

 ジルドとシーヴァ。「光崩しの魔剣」と「災いの一枝《レヴァンテイン》」。この二人と二つの魔道具がぶつかり合えばきっと面白いことになる。その直感はもはや確信に近かった。

(さあ、見せてくれ。オレの想像を超えるものを………)

**********

 シーヴァ・オズワルドとジルド・レイド。この二人の仕合の場所として選ばれたのは、ゼーデンブルグ要塞の第二練兵場だった。ここは百人規模の部隊がその連携を訓練する場所で、足元には石畳が敷かれている。二人の仕合の場所としては申し分ない。

 今、シーヴァとジルドは練兵場のほぼ中央で、向かい合いようにして立っている。他のメンバーはといえば、見物するには少し離れすぎた位置に立っている。無論、シーヴァが使う「災いの一枝《レヴァンテイン》」を警戒してのことだ。

 シーヴァの「災いの一枝《レヴァンテイン》」とジルドの「光崩しの魔剣」。なんら似た所の無いその二振りの魔剣には、しかし大きな類似点が一つだけある。

 ――――天より高き極光の。
 ――――闇より深き深遠の。

 いずれの魔剣も刀身に似たような古代文字(エンシェントスペル)が刻み込まれている。その文言はロロイヤ・ロットが遺したものであり、そしてそれが刻印されているということは、その魔道具の作り手がアバサ・ロットの系譜に名を連ねる者であることの何よりの証拠であった。

「ベルセリウス老、合図を頼む」
「うむ。ではコインが地面に落ちたら開始じゃ」

 そう言ってオーヴァは懐から銀貨を取り出し、それを親指ではじいた。「ピィィィィンンン」という澄んだ金属音が練兵場に響き、その数瞬後に今度は「キィィィィンンン」というかん高い金属音が響いた。仕合開始の合図だ。

 仕合開始の合図が響いても、向かい合う二人は微動だにしなかった。しかし二人を取り巻く空気は確実に変わっている。のしかかるように重苦しく、そして切付けるように鋭い、極度の緊張感をはらんだ空気だ。

 お互いに頭の中で無数の斬撃を仮想し、攻め立てあるいは防ぎ、動かないままに仕合を進めていく。傍から見れば向かい合っているようにしか見えないが、本人たちはまるでチェスでもさすかのように頭の中で戦いを繰り広げる。奇妙なことに、二人はお互いが同じものを仮想していることを直感していた。

「来ないのか?」

 構えをゆっくりと変化させながら、シーヴァが問う「災いの一枝《レヴァンテイン》」の動きに合わせるようにして「光崩しの魔剣」を動かし決して隙は見せていないが、その言葉はジルドに確かに変化をもたらした。

 彼は、笑ったのだ。

「………推して参る!」

 地面を蹴ってジルドが前に出る。その踏み込みは速く、離れたところで見物しているギャラリーも目で追いきれない。

 三段突き。

 刀の切っ先が三つ見える。それはジルドが繰り出した突きが神速であるからにほかならない。その突きを、シーヴァは頭を小さく振って全てかわす。そして若干体勢を崩しながらも「災いの一枝《レヴァンテイン》」を一振りした。ジルドはそれを左に軽くステップしてかわす。

「………完全にはかわしきれなかったか」

 刀の切っ先に触れたシーヴァの髪の毛が数本、風に飛ばされて宙を舞う。そのシーヴァの呟きを聞いたジルドの口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。

 一閃。

 狙い済ましてシーヴァの首を襲う「光崩しの魔剣」は、しかし「災いの一枝《レヴァンテイン》」によって防がれた。しかしジルドはそれだけでは止まらない。

 突き、薙ぎ、切り上げ、払い、振り下ろす。

 緩急をつけながらもその動きは一般人にはあまりにも速く、目で追うことなど出来はしない。「光崩しの魔剣」が描く銀色の軌跡は、一瞬送れて観客の網膜を焼いた。

 そのジルドの猛攻をシーヴァはその場から動かずに防いでいた。ジルドの動きはシーヴァから見ても速く、その点に関しては相手が自分を上回っていることを認めざるを得ない。同じように動いていては後手に回るだろう。そこで動きは最小限にし、動き回る相手を見失わないように常に視界に納めながらその攻撃を凌いでいく。

 いや、凌ぐだけではない。攻撃に移れるときは躊躇なく大剣を振るっている。それも苦し紛れの攻撃などではない。並みの兵士ならば防いだ剣とその先の鎧までまとめて叩き切れそうな一撃である。

 ジルドは雷のように鋭く、シーヴァは嵐のように激しく。二人は一瞬ごとに攻守を入れ替え、激しい剣舞を踊る。それにともない、練兵場には金属同士がぶつかりそして擦れる音が絶え間なく響いた。

 しばらくして、その剣戟の音が止んだ。二人は一旦距離を取って足を止める。二人の吐く息は白く、そして荒い。

「………終わった、んでしょうか?」

 息を呑んで二人の仕合に魅入っていたニーナが、恐る恐るといったふうに声を出す。

「まさか。これからが本番だよ」

 向かい合う二人を凝視したまま、イストが答える。二人ともまだ愛剣を魔道具として使っていない。つまり今までの剣舞は全て準備運動だ。

「………体は温まったか?」
「十分に」

 イストの答えを裏付けるかのように、シーヴァとジルドが短い言葉を交わす。そしてほぼ同時に獰猛な笑みを浮かべると、それぞれ愛剣に魔力を込め始めた。

「では………」

 シーヴァが漆黒の大剣「災いの一枝《レヴァンテイン》」を振りかぶる。

「本気で行かせてもらおう」

 刀身が霞むほどの勢いで、シーヴァが「災いの一枝《レヴァンテイン》」を振り下ろす。それと同時に大量の魔力を喰わせて漆黒の風を生み出しジルドを襲わせる。

 これでまで無敵の威力を誇り、相手が魔導士だろうが軍隊だろうが吹き飛ばしてきたその一撃は、しかしジルドに届くことはなかった。ジルドが一閃した「光崩しの魔剣」がその漆黒の一撃を切り裂き霧散させたのだ。

「は………?」

 目の前で起きたことが理解できないのか、いつもは冷静沈着なヴェートが呆けたような声を漏らす。ガビアルとメーヴェもまた目を大きく見開き、驚愕を全身で表現していた。

 彼らは今まで「災いの一枝《レヴァンテイン》」の一撃をたびたび目にしてきた。そしてその度に黒き風は敵を吹き飛ばしシーヴァに勝利をもたらしてきた。彼らはその一撃に、ある種信仰にも似た確信を抱いていたのである。

 それが目の前でやすやすと無効化されてしまった。

「なかなか、面白い魔道具を作ったようじゃのう?」

 オーヴァがからかうような視線を弟子に向ける。自分の作った魔道具の一撃が弟子の作った魔道具には通用しなかったというのに、ショックを受けた様子はない。その自信の根拠は、シーヴァの表情だろう。

 シーヴァは笑っていた。獰猛な、もはやそれだけで殺気を感じるほど獰猛な笑みを浮かべている。それを見て、ジルドもまた応じるように獰猛な笑みを浮かべた。

 彼らの内に湧き上がる感情、それは恐怖と歓喜だ。

「………猛獣が二匹、檻の中に入っているようなもんだな………」

 暴力的に荒れ狂う二人の殺気に、イストが頬を引きつらせる。ニーナなどは目の端に涙を浮かべ、イストの外套をつかんでその背中に隠れるようにしている。

 もはや猛獣などという表現でも生ぬるい。鬼と修羅、二匹の化け物が戦っているかのようである。

 シーヴァが動く。再び「災いの一枝《レヴァンテイン》」に大量の魔力を喰わせ黒き風を呼ぶ。薄く、しかし広範囲に。薄く、とは言っても当たれば無事ではすまない。しかも広範囲に展開された黒き風はジルドに逃げ道を与えない。

 その状況下で、ジルドは前に出た。そして「光崩しの魔剣」で展開された黒き風の一部を切り裂き、その包囲網を突破する。

「ぬうっ!」

 それを予測していたかのように、シーヴァが渾身の一撃を振るう。それを何とか受け止めたジルドは、しかし体を浮かせた。

「黒き風よ!」

 横に振り払った「災いの一枝《レヴァンテイン》」を、運動に逆らわないように円を描きながら振り回し、切っ先を宙に浮くジルドに向けて黒き風の一撃を放つ。ジルドは刀を正面に構えてその黒き一撃を防ぐが、さらに後方へと押し飛ばされてしまう。

 ようやく地に足をつけたジルドに、さらに漆黒の風が襲い掛かる。とっさに「光崩しの魔剣」で切り払うが、ジルドの体勢が崩れた。そこへシーヴァが仕掛ける。

 シーヴァの一撃は重く、そして激しい。体勢が崩れたままシーヴァの猛攻にさらされたジルドは思うように回避できず、刀で大剣を防ぐことでしのいでいた。しかし重いその一撃を受けるごとに、彼の体勢はさらに少しずつ崩されていく。

 たまらず、後ろに下がって間合いを取る。しかしジルドが間合いを取ろうとすれば、シーヴァはそこに漆黒の風を撃ち込み攻撃の手を緩めない。

「おっさんの足が止まったな………」

 速度ならばジルドのほうに分がある。それは最初の“準備運動”を見ていれば分る。しかし今ジルドは足を止めてほとんど動いていない。否、動けないのだ。

 ジルドがやっている「『光崩しの魔剣』で漆黒の風を切り裂き無効化する」という行為は、より技術的に説明すれば「『干渉』の術式で漆黒の風を構成している魔力に干渉し霧散させる」ということになる。

 言葉で言うのは簡単だが、これには相当な集中力が求められる。「干渉」の術式自体が扱いにくいものであるのに加え、漆黒の風を構成する魔力の量は桁外れに多いからだ。むしろ相性が良いジルドだからこそ出来る、といったほうがいいだろう。

 だからジルドが黒き風を切り裂くときには、どうしても一瞬足が止まってしまう。シーヴァはその一瞬を見逃さない。攻めて攻めて攻め続け、ジルドを防戦一方に押し込めて彼に足という利点を使う隙を与えない。

 つまりシーヴァは「災いの一枝《レヴァンテイン》」の一撃がジルドにはとどかないことを知るや、その一撃をいわば「足止め」に使い始めたのである。

 今まで必殺の一撃だったものを足止めに使う。その発想の柔軟さは、驚異的ですらある。彼はつまらぬ矜持で自分の選択肢を縛るようなまねはしないのであろう。

 暴風の如き激しさをもって、漆黒の大剣がジルドに襲い掛かる。それを一つ受けるごとに彼の体勢は崩され、腕には強い衝撃が残る。しかしジルドとて押し込められているままではない。

 一撃の一つを選んで、受けると見せて「光崩しの魔剣」の刀身の上を滑らせて流す。シーヴァの攻撃がわずかに乱れ、そして生まれたほんの小さな間隙を縫い、ジルドは強引に攻めに転じる。

 ほとんど苦し紛れのその攻撃は、シーヴァにたやすく回避される。しかしその攻撃を起点にしてジルドは一気に速度を上げた。

 ジルドの姿が霞む。速い、しかし緩急をつけたその動きは見る者の目に残像を生み惑わす。暴風から逃れたジルドを、シーヴァは再び捉えることが出来ない。

「くっ」

 たちまちシーヴァが守勢に回った。しかも全ての攻撃を凌ぎ切れているわけではない。彼の顔には一つ二つ赤い筋が浮かび始め、鎧には無数の傷が残されていく。

(埒が明かぬ!)

 シーヴァが「災いの一枝《レヴァンテイン》」を石畳に突き刺し、その威を発する。放たれた黒き風は石畳を粉砕し幾つもの礫を飛ばす。爆心地に近いシーヴァはそれをまともに受けた。ほとんど自爆である。それに対しジルドは飛んでくる礫をかわしほとんど無傷である。しかしそれはシーヴァにとっては織り込み済みのこと。

「そこぉぉおお!!」

 予想通りの方向からジルドの攻撃が来る。先ほどの黒き風はワザとむらを作り、ジルドの次の攻撃を誘導したのである。

 礫があたった額から血を流しながらシーヴァは「災いの一枝《レヴァンテイン》」に魔力を喰わせる。しかしその威を解き放ちはしない。溜め込み、漆黒の大剣に黒き風を纏わせた。それを突っ込でくるジルドに向けて振るう。

 黒き風を纏わせたその一撃は、とうてい受け止められるものではない。ジルドは咄嗟に身をかがめてやり過ごす。しかし………。

「はぁぁぁ!!」

 シーヴァが咆哮を吐く。その瞬間、漆黒の刀身に溜め込まれていた黒き風が解き放たれた。至近で放たれる黒き風は身をかがめるジルドの頭上から襲い掛かり、そして彼を弾き飛ばした。

「これを防ぐか。流石だな」

 弾き飛ばされ、しかしすぐに起き上がったジルドを見てシーヴァが感嘆の声を漏らす。

 黒き風が解き放たれたあの瞬間、ジルドはとっさに「光崩しの魔剣」を構えて黒き風を防いでいた。しかし完全に防ぎきることは出来なかったらしく、弾き飛ばされてしまった。長旅にも耐えうるよう丈夫に作られていた衣服はおよそ右半分が千切れ飛び、皮膚は裂けてあちらこちらから血が流れている。しかしその一方で致命傷は見受けられない。今の攻防、優勢はシーヴァだが、褒めるべきはジルドであろう。

 ジルドが刀を構える。むき出しになった肌からは白い湯気が立ち上り、彼の発する覇気が増す。そしてシーヴァもそれに答える。

(とんでもないことをやらせてしまったか………?)

 イストの脳裏にそんな言葉が浮かぶ。足が震えているのは錯覚ではあるまい。しかし後悔は感じない。湧き上がってくるものは歓喜だ。足は震え背中には冷や汗が流れている。しかし彼の口元に浮かぶのは喜悦の笑みだ。

 シーヴァが再び「災いの一枝《レヴァンテイン》」に黒き風を纏わせる。これは攻防一体だ。相手の攻撃を防ぐその時にさえ、同時に攻めることが出来る。

 それを確認したジルドは、しかし地を蹴って前に出る。

「馬鹿だなぁ………、おっさん。逃げ回っていれば勝てるのに」

 イストの言葉に嘲笑の色はなく、むしろ温かい。彼はこういう馬鹿がたまらなく好きなのだ。

 黒き風を刀身に纏わせる。それはつまり、黒き風を放ち続けるということだ。当然のことながら、一撃放つのとは比べ物にならない量の魔力を消耗する。いかにシーヴァの魔力量が膨大であろうとも、そう長くもつものではない。

 だからこそ、ジルド・レイドは前に出た。

 逃げ回ってシーヴァの魔力が尽きるのを待てば、確かに確実に勝てるだろう。しかしそんな勝利を得て何を誇るというのか。

 いや、「シーヴァ・オズワルドに勝った」という事実は、ただそれだけで栄誉あるものだ。シーヴァも自分の敗北を否定するような醜いまねはしないだろう。

(しかしっ!この身はそれでなんの満足を得る!?)

 満足など、到底得られはしない。残るのは虚しさと後悔と、恥にしかならぬ栄誉だけである。

 ジルドはシーヴァに向かって猛然と突き進む。シーヴァはゆっくりと「災いの一枝《レヴァンテイン》」を振り上げ、ジルドの動きに合わせてそれを振り下ろした。ジルドも「光崩しの魔剣」に魔力を込めて迎え撃つ。

 本来ならば漆黒の風によって折れてしまうはずの銀色の刀身は、しかし漆黒の刀身と凌ぎを削っている。「災いの一枝《レヴァンテイン》」が纏う黒き風を、「光崩しの魔剣」が無効化しているのである。

「うううぅぅうぉぉぉぉおおおおおお!!!!」
「はははぁぁはぁぁぁぁああああああ!!!!」

 シーヴァが「災いの一枝《レヴァンテイン》」にさらなる魔力を喰わせ、それを迎え撃つようにジルドも「光崩しの魔剣」に魔力を練りこむ。

 無効化はまぬがれたが前に進むことの出来ない黒き風は後ろに流れてシーヴァの周りに漆黒の翼を形作り、「光崩しの魔剣」からはあふれ出した魔力が白い光となってあたりに満ちる。

「くっ!洒落なんねぇな!!」

 その余波だけで、イストを始めとする見物客は吹き飛ばされそうである。イストとオーヴァの二人が防御用の魔法陣を展開した。

 鍔迫り合いを続ける二人の周りに暴風が吹荒れている。石畳が砕かれ、あるいはめくれて宙を舞った。

 変化は、突然起こった。

 ――――天より高き極光の。
 ――――闇より深き深遠の。

 凌ぎを削りあう「災いの一枝《レヴァンテイン》」と「光崩しの魔剣」。その二振りの魔剣の刀身に刻印されたその古代文字(エンシェントスペル)が輝きを放ち始めたのである。

 黒き暴風を放っていた「災いの一枝《レヴァンテイン》」は一転して白き極光を放ち始め、代わりに白い光を溢れさせていた「光崩しの魔剣」が深遠なる闇を発生させる。

「なんだっ!?」

 イストが叫ぶ。その顔は、やはり喜悦で歪んでいる。

 その叫び声に呼応したわけではないだろうが、鍔迫りを続ける二振りの魔剣のその接点を中心に、今度は空間が歪み始めた。今までは全てを排斥し吹き飛ばしていた暴風は一転してその風向きを変え、今度は全てを中心へと引き寄せ始める。

 シーヴァとジルドの二人は、自分たちの周りで起こっている現象に無論気づいていた。しかしそれでも二人は、自分の愛剣に魔力を込め続けた。周りの異常事態がどうでもいいと思えるほどに、目の前の好敵手との戦いに没頭していたのである。

 二人が込める魔力の量に比例して、空間の歪みが大きくなっていく。そして………。

「くう!?」
「ぬう!?」

 空間の歪みがはじけた。「ギイィィィイインンン!」という耳障りな金属音を残してジルドとシーヴァも吹き飛ばされる。二人が鍔迫り合いをしていた場所は、地面がえぐられすり鉢状のクレーターが出来上がっていた。

「剣が………」

 ニーナが呆けたように呟く。「災いの一枝《レヴァンテイン》」も「光崩しの魔剣」も、柄だけを残して刀身は砕け散っている。折れたわけではない。粉々に砕け散ったのだ。

 いつも間にやら集まっていた見物客の間にも、ざわめきが起きはじめる。しかしそのざわめきはイストの耳には入らなかった。

(何が………、起きた?)

 なぜ?原因は?どうして?

 分らない。分らない分らない分らない。理解不能だ。あまりのことに思考が止まる。こんなことは一体何時ぶりだ?

「は、はは、ははははは………」

 しかし湧き上がってくるものがある。

 それは驚愕だ。
 それは歓喜だ。
 それは渇望だ。

 衝動のままにイストは叫ぶ。

「確かにコイツは思っても見なかったぜ!!」



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器8
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 11:02
 結局、シーヴァとジルドの仕合は引き分けで終わった。両者とも武器を失ってしまったのだ。仕方がない。

 それに二人ともこの仕合には大いに満足していた。

「久方ぶりに魂が吼えた」
「まことに、心躍る戦いであった」

 そんなふうにして、二人は仕合の感想を述べた。決着がつかず、引き分けで終わったことを残念に思っている様子もなく、二人とも純粋な充足のみを浮かべていた。

 仕合を終えた後、一同が向かった先は医務室であった。ジルドもシーヴァも、致命傷ではまったく無いのだが傷を負っており、その手当てに向かったのだ。

 医務室に入ればそこの主は医者である。さすがのシーヴァ・オズワルドも患者の立場になってしまうと医師に逆らうのは難しい。要塞の医務室の主である初老の女医は、「簡単でいい」という彼の主張を「はいはい」と軽く流し、礫がぶつかって切れた額に厳重に包帯を巻きつけるのであった。

 傷の手当が終わると、一同は最初の会議室に戻った。ちなみに衣服が駄目になってしまったジルドは、新しいものを用意してもらえることになったのでそれを受け取りに行っており、今は席を外している。

「さて、聞かせてもらおうか、イスト・ヴァーレ。ハーシェルド地下遺跡に何があったのかを」

 そういえばそういう話であった。忘れていたわけではないが、ジルドとシーヴァの仕合の結末があまりにも衝撃的過ぎたせいでなかなか意識がそちらに戻らなかった。

「ハーシェルド地下遺跡に残されていた壁画、そこに描かれていたのはほとんどが『御霊送りの神話』に関するものだった」

 イストは、未だ仕合の興奮冷めやまぬ様子ではあったが、表面上は落ち着いてそう話し始めた。

「んで、そのなかにこんなものがあった」

 曰く「世界樹の種に光を込めよ。されば園への道は開かれん」

 実際には擦れていて読めない古代文字(エンシェントスペル)もあったため細かい単語などは異なるかもしれないが、大意はこれであっているはずである。

 一見すればこれも今の時代に伝わっている「御霊送りの神話」と大差は無い。使用されている単語は少し異なるかもしれないが、それでも教会の解釈の範疇に収めようと思えば十分に収まる。

「………『光を込めよ』か」
「ご名答」

 すぐさまそこに気がつくシーヴァは流石であるといえよう。

 ここで言う「光」とは教会の隠語で、魔力を意味している。つまり「光を込めよ」という部分は「魔力を込めよ」と解釈できる。

 魔道具職人の観点からすれば、「魔力を込める」という行為は「魔道具を使う」ことと同義だ。この神話の場合、魔力を込める対象は「世界樹の種」であるから、すなわち「世界樹の種」は魔道具である、と考えることが出来る。

「『御霊送りの神話』において、『世界樹の種』は神々が神子に対して与えたもの、ということになっていたな………」

 そう呟いてシーヴァは顎を手で撫でた。それを見ながらイストは言葉を続ける。

「『世界樹の種』というキーアイテムが実は人工の魔道具であったとすれば、今までの大前提が崩れることになる」

 極論を言えば、「神々が神界の門を開いて人々を迎え入れた」って話自体、なんらかの魔道具を使って人為的に行ったのではないか、と考えることさえ出来てしまう。

 御霊送りは遠い過去に神々が行い、そして今なお現世に残された唯一の奇跡である、というのか教会の教えであり、そして信者たちの拠り所なのだ。それが丸っきりの大嘘であるとしたら、教会はその大義名分を失い急速に弱体化するだろう。つまりこの解釈は教会のアキレス腱であるといえる。

 しかもハーシェルド地下遺跡はおよそ千年前、御霊送りの神話が誕生した時期の遺跡である。そこから得られる情報は、神話の真の姿に近いといえる。つまりその分だけ信憑性が高くなる。

「これは、言ってしまえば解釈の問題だ」

 例えば、これを根拠にイストが「『御霊送りの神話』は嘘っぱちだ」と主張してみても、教会はそれを認めることは決して無いだろう。それに、先ほども述べたとおり、ハーシェルド地下遺跡で見つけた壁画の内容は、今の時代に教会が主張している解釈の範疇に収めえるものなのだ。

「神々からもたらされた『世界樹の種』という鍵を使うためには魔力が必要なのであり、“園”とは神界のこと、そこに通じる“道”とは神界の門のことである」

 教会が公式にそう発表してしまえば、多くの信者はそれを支持するだろう。そして教会が基本姿勢を変えない限り、その解釈が御霊送りの真の姿になる。

 しかし、それはなんの影響力も無い個人がそう主張した場合だ。シーヴァ・オズワルドという一国の王が(この時点ではまだ王ではないが)そう主張したらどうなるか。その主張は、世の中に対して一定の説得力を持つであろう。

 無論、教会は認めまい。しかしこの場合、教会を教義の上で屈服させる必要などない。ようは「教会の教えには嘘がある」と口撃するだけの口実になればいいのだ。

 その口実さえあれば、血縁でもなく土地でもなく利害関係でもなく、信仰という一種特別な結びつきによってつながっている教会の信者たちを、そこから引き離すことが出来るかもしれない。

 そこまで上手くいかずとも、教会に対して兵を上げ、また敵ではなく味方を納得させるための大義名分にはなるだろう。

「ま、どう解釈しどう使うかはあんたの好きにすればいいさ」

 オレには関係ないし、と一通り説明し終わったイストは最後にそう言い放った。無責任なように聞こえるが、実際彼にはどうしようもない。シーヴァ・オズワルドという世界に対して一定の発言力と影響力がある人間だからこそ、その主張するところを人々は聞くのである。

「………仮に、御霊送りが人の手によって行われたものだとして、どうすればそれを証明できる?」
「さあ?祭壇か、それこそ『世界樹の種』をはめ込んだ腕輪あたりがキーアイテムだろうから、そのへんを破壊すれば何か起こるんじゃないのか」

 完全な当てずっぽうでイストが答える。この話に関しては推測に推測を重ねているわけで、確かに言えることなど何もない。だがその推測に基づいて行動することは出来る。

 話を聞き終わったシーヴァは、何かを思案するかのように顎を撫でた。今回の件に関し、彼が持っている情報が今イストから聞いたものだけということはありえない。情報網を駆使して事前に様々な情報を集めているはずで、それらと今回の話をあわせて今後の方針を決めて行くことになるのだろう。

「なるほど。助かった」

 簡単に例を述べるとシーヴァは「話は変わるが」と言って眼の輝きを変えた。それは良からぬ事(イスト主観)を企む者の目で、ろくでもないことを思いついたときのオーヴァのそれに良く似ていた。

「お前は流れの魔道具職人であったな。なにか面白い魔道具はないか?」

 オーヴァの弟子であったこと、またジルドが先ほどの仕合で使っていた「光崩しの魔剣」を見たことでイストが優秀な魔道具職人であると確信したらしい。

 厚かましい奴だな、と苦笑しながらもイストは「ロロイヤの道具袋」から一本の矢を取り出した。本来鏃があるはずの部分には、鹿の角を加工して作った幾つもの穴が開いている笛のようなものが突いている。

「魔道具『風笛(トウル・ノヴォ)』」

 本来の風笛(トウル・ノヴォ)それ自体は魔道具ではない。鏃の変わりに笛をつけたその矢は弓で放たれると、けたたましくも不気味な、笑い声に似た音を立てて飛んでいく。暗い森の中のような雰囲気のある場所で使えば、まるで魔女に呪われたかのように感じ、ともすれば気を失う者もいるだろう。

 今回イストが取り出したのは、その風笛(トウル・ノヴォ)に刻印を施し魔道具化したものだ。魔力を込めて放つと、風笛(トウル・ノヴォ)本来の音に混じって人間の耳には聞こえない超音波を発し、動物の平衡感覚を麻痺させるのだ。

 よって魔道具「風笛(トウル・ノヴォ)」の音を聞いた者は、ほとんど全て目が回るような感覚を覚えて地面に倒れ、そしてすぐには起き上がることが出来ない。

「個人相手に使ってもいいけど、軍隊相手に使ったらもっと面白いと思うぞ」

 「風笛(トウル・ノヴォ)」を打ち込まれた一帯の人馬全てが倒れていくだろう。その光景は想像しただけでも壮観だ。

 ふむ、と頷きシーヴァは渡された「風笛(トウル・ノヴォ)」を手の中で回して玩ぶ。それからおもむろに顔を上げ、思いのほか強い視線をイストに向けた。

「ではこれを五百本頼む」
「ごひゃ………!?」

 あまりに予想外の注文にイストが絶句する。シーヴァはそんなイストに意地悪な笑みを向け、「最低でもそれぐらいないと軍事的な運用にはたえられない」とのたまう。

「そっちの都合なんて知るかよ!?」
「材料はこちらで用意しよう」
「おい、人の話を………!」
「カッカッカ!諦めい、バカ弟子!」

 弟子(イスト)の苦境に爆笑する師匠(オーヴァ)。しかし彼の馬鹿笑いはすぐに凍りつくことになる。

「なに、ベルセリウス老も手伝ってくださる」
「は………?ちょ、待てシーヴァ!なんで儂が………!」
「では宜しく頼む」

 楽しそうに笑いながらシーヴァが部屋を出て行く。共の三人はなんともいえない表情をしているイストとオーヴァの師弟に、呆れとも同情とも似つかない視線を向けながら主の後を追うのだった。

**********

 ジルドとシーヴァの仕合が行われた三日後、シーヴァ・オズワルドはゼーデンブルグ要塞を出立した。目指すのは半島のほぼ中央に位置し、あらかじめ王都として決めていた「ガルネシア」という街である。

 要塞には一万の兵を残してある。十字軍の脅威が去ったにもかかわらず一万の兵を残したことに「過剰だ」という評価をする者もいるが、アルテンシア同盟の時代もともとゼーデンブルグ要塞には常時十万の兵を駐留させていたのだ。それに比べればずっと少ないといえるだろう。

 シーヴァとて、恐らくはこの要塞に十万規模の兵を駐留させたかったであろう。この時点ですでに彼が第二次十字軍遠征を予感していたのであればなおのことだ。

 しかし、彼は要塞に一万のみを残した。いや、一万しか残せなかった、というべきだろう。それはつまりシーヴァの実情、より大きく言えばアルテンシア半島の実情がそれを許さなかった、ということだ。

 アルテンシア半島は荒廃しきっているといっていい。長らく続いた同盟体制の中で領主たちによって血税を搾り取られ、そしてつい最近の十字軍遠征によって止めをさされた。

 本当に、今急ぐべきは復興であり、それ以外のところにさく余力など無いのである。そのことをシーヴァは良くわきまえていた。

「我、シーヴァ・オズワルドはここにアルテンシア統一王国の設立を宣言する。アルテンシア同盟を廃し、そこに参加していた全ての領地をアルテンシア統一王国の名の下に再編する。また我はその初代国王となり、愛すべき我が祖国に復興と繁栄を約束する」

 大陸暦1565年3月14日、大理石でもなければ優美な彫刻が施されているわけでもない、ただの木で作られた即席の演台の上、シーヴァは高らかに宣言した。

 繰り返しになるが、彼がアルテンシア統一王国の設立を宣言し、その王都に定めたのはガルネシアという街であった。しかしこの時のガルネシアは先の戦乱に巻き込まれて焼き払われ、水の確保にも苦労するような場所であった。近くにある「ガルネシア城」という城は無事であったが、こちらも戦乱に巻き込まれて補修が必要であるし、なによりもこの城はアルテンシア同盟成立以前に戦のために作られた城で、王者の居城としての優雅さや壮麗さにはまるで縁が無かった。

 反乱の際に彼に協力してくれた五人の領主の一人であり、公爵位を与えられたアベリアヌ公から「王都はガルネシアに」と勧められたとき、当初はシーヴァもこれに難色を示した。

「王都としての機能を求めるならば相応しい都市は他にもある。なぜ、ガルネシアなのだ?」
「今、するべきは早急に力を整えることでしょうか。それとも先を見据えた復興でしょうか」

 逆にそう問いかけられるや、シーヴァはすぐにガルネシアを王都に定めたのである。後に彼はこう語っている。

「実情に合わぬ富や力を持とうとすれば、それは搾取になる。逆に復興を優先し国が豊かになれば、富や力といったものは自然と集まってくるものだ」

 アルテンシア統一王国の設立を宣言したシーヴァは、同じ演説の中でその国の体制について定めた。それをこの場で発表することができたということは、かなり前もって新たな国の体制について練っていたということを示している。シーヴァが全てを考えたわけではないだろうが、彼が主導したことは間違いなくそれが出来るあたり、やはり彼はただの武人ではあるまい。それは彼が単純に不満を原動力に反乱を起こしたわけではなく、その先に築くべき国家の姿をかなり早い段階から思い描いていたことの証拠なのだから。

 まずは反乱の際に彼に協力してくれた五人の領主についでである。シーヴァは彼らに統一王国の公爵位を授け、彼らの領地を安堵し、さらに新たな領地を授けた。この五人の公爵について名前を挙げておこう。

 アベリアヌ公、ガーベラント公、ウェンディス公、リオネス公、イルシスク公の五人である。ちなみにこの中ではアベリアヌ公が最年長になり、シーヴァより年下なのはリオネス公だけであった。

 この時、シーヴァは抜け目の無い用心を発揮している。それら五人の公爵たちの領地が、決して隣り合わせにならないようにしたのである。そのために飛び地となる領地も出てきたのだが、シーヴァは譲らなかった。

 とはいえ飛び地であっても平時であれば何も困ることは無い。名代、あるいは代官を派遣して治めさせ、税を取り立てればいいのである。本当に困るのは領地をまたいで軍を動かすとき、それも国王の認可を得ないでそうするときである。つまりこれは公爵たちが反乱を志したときにたやすく連携させないための予防線なのだ。

 アルテンシア半島の版図は全部で二三七州。その内、シーヴァが五人の公爵に与えたのは、全部で四七州である。では残りの一九〇州はというと、シーヴァはこれを全て王の直轄領とした。

 アルテンシア半島はこれまで伝統的に大勢の領主たちが乱立する状態であった。多様性がある、と言葉を選べば聞こえは良いが、その反面いわば数多くの“小国”が入り乱れている状態であり、同盟成立以前にはそれが原因となって半島全体が戦火に焼かれていた。

 同盟成立以後も、この形態による弊害はあった。互いの領地には不可侵というのが同盟の大前提であったから、複数の領地を貫く大街道というものは存在していない。これまで計画は何度も持ち上がったが、その都度領主たちの利害の折り合いがつかず先送りにされてきたのだ。

 また領地境にあったために、開発どころか調査さえも進んでいない山や山地が多くある。これらには各種鉱山も含まれていると期待されており、同盟はこれらの財源をいわば眠らせたままにしていたのである。

 シーヴァは統一王国の初代国王としてこの国を復興し、そしてその先の繁栄へと導かねばならない。少なくともシーヴァはその責を己に課していた。

 彼が思うに今この国に必要なのは強い王である。強い王が強力なリーダーシップを発揮して、この国を区切ることなく一つの塊として発展させていかなければならない。そのためには民と王の間に入り込み、世襲の領地と権利を主張する貴族というものは彼にとって邪魔でしかない。この点、アルジャーク帝国皇帝クロノワに似ているといえる。

 協力してくれた五人の公爵たちが世襲の領地を持つことに否やはない。彼らにしてみればそれは当然の権利であろう。よってシーヴァは公爵のみ領地を持つことを認め、その世襲を許した。

 しかし、彼ら以外の貴族が世襲の領地を持つことをシーヴァは認めなかった。このことについて彼は一切の例外を認めず、これまで自分に従ってきてくれた配下の将たちにも領地は与えなかったというのだから徹底している。

 ただこの方針はおおよそ歓迎された。多数の領主たちが乱立することによってもたらされた弊害を半島の人々は良く知っており、シーヴァの方針は改革の象徴として受け入れられたのである。

 しかし、一九〇州を王の直轄地としたからといっても、シーヴァ一人でその全ての面倒を見ることはまず不可能である。そこでシーヴァは爵位を与えた者をそれぞれの州に派遣してそこを治めさせた。爵位を持っている以上彼らの身分は貴族なのだろうが、領地は持たずその任命及び罷免の権利は王にある。しかもその爵位さえ一代のもので、子供に受け継がせることは出来ない。だから「貴族」というよりも、「中央から派遣された役人」といったほうがその中身を良く表しているといえるだろう。

 アルテンシア統一王国には貴族がいるために封建制に思われがちだが、実際のところは強力な中央集権型の国家だったのである。

 ガルネシアの朽ち果てた街の中、即席で作られた演台の上からアルテンシア統一王国の設立と国家の体制の大枠について説明し終えたシーヴァはガルネシア城に入り、今はその廊下を歩いていた。先ほど宣言した内容は早馬によって各地に伝えられる。最初から全てが上手くいくとは思わないが、それでも今日この日に統一王国は生まれ、そして歩き出すのである。

「ベルセリウス老………」

 廊下を歩いていたシーヴァは、一人の老人が窓から外を眺めているのを見つけた。あそこからはたしか王都に定めたガルネシアの街が見えたはずである。

「何もない。王都と呼ぶにはあまりにも寂しい光景じゃな」
「………ガルネシアはアルテンシア半島の縮図。今は半島全体が荒廃している」

 もっとも、その中でも特にひどい場所を選んで王都にした、というところは否定できないが。

「しかし、それでも私はこの国を復興させる。そしてその先に導いてみせる」

 未だ使い慣れない“我”という一人称の代わりに、“私”という単語を使っていることに気づいたのは、その場にいたベルセリウス老だけであった。





********************





 さて、シーヴァ・オズワルドはガルネシアに移ったが、イスト・ヴァーレと彼の弟子であるニーナ・ミザリ、そして彼と壮絶な仕合を演じたジルド・レイドもまた一緒にガルネシアに来ていた。

「『風笛(トウル・ノヴォ)』を五百本作らないとだろうが」

 そうイストは不機嫌そうに説明した。「あ~嫌だ嫌だ」とぼやいて見せたが、これが本心であるかは怪しい。本当にやりたくないのであれば彼の性格上、夜逃げしてでもその仕事はやろうとしない。つまり「嫌だけどやってもいい」と思わせるだけの魅力が、シーヴァ・オズワルドにはあったということだろう。

「おっさんはどうする?」

 シーヴァと一緒にガルネシアに行くと伝えた後、イストはジルドにそう尋ねた。

「その魔剣を使ってオレを心の底から驚かせてくれ」

 イストとジルドの間で交わされたこの契約は、先の仕合で十分に果たされている。その結果ジルドは「光崩しの魔剣」を失ってしまったが、これ以上彼がイストに付き合う理由も無かった。

「もう一本おぬしの作った魔剣が欲しい、というのは我儘なのだろうな………」

 言いにくそうにジルドは言葉を濁した。彼はイストがアバサ・ロットの名を継ぐ魔道具職人であることを知っている。である以上、イストがジルドに金で魔道具を売ることは決してない。イストに「魔剣が一本欲しい」ということは、「タダで一本よこせ」と言っているようなもので、流石にそれは躊躇われた。

 しかしその一方で、ジルドはあの「光崩しの魔剣」ほど自分に合う魔道具はこの先見つからない、と直感している。どんな魔剣を持ったとしても、必ずや「光崩しの魔剣」と比べてしまい不満に感じるだろう。それはある意味、禁断症状にさえ似ている。一度最上級のものに慣れてしまえば、それ以下のもので満足できるはずが無いのだ。

 もし「光崩しの魔剣」以上にジルドと相性のよい魔道具を作れるとしたらそれはこの世でただ一人、イスト・ヴァーレだけであろう。そう、シーヴァ・オズワルドに「災いの一枝《レヴァンテイン》」以上の魔道具を作ってやれるのがオーヴァ・ベルセリウスだけであるように。

 しかし、そんなジルドの葛藤を、イストはあっさりと飛び越えた。

「ん?別にいいぞ。おっさんになら何本でも作ってやる」

 アバサ・ロットは気に入った相手にしか魔道具を渡さない。しかし気に入った相手のためならば驚くほど簡単に魔道具を作ってしまうし、渡してしまうのだ。

「ただ、同じ魔道具を作る気はないからな。新たに術式を考えて素体も相応のものを揃えるとなると、時間がかかる」

 下手をしたら一年以上、とイストは自分の見立てを語った。しかしジルドはそれでもいいと即答した。「光崩しの魔剣」以上の魔剣が手に入るのであれば、どれだけ待とうとも苦にはならない。一期一会の出会いと思えば、一年など短い。まだ見ぬ愛剣を想い、ジルドはまるで子供のような興奮を覚えるのだった。

 そのようなわけでジルドはもうしばらくイストと行動を共にすることになったのだが、ガルネシアに着いた彼はシーヴァに乞われる形で兵士たちの剣術指南役になった。シーヴァにしても彼ほどの剣士を遊ばせておくのは甚だしい損失だと思ったのだろう。

 ジルドに教えを乞う立場になった兵士たちも彼を歓迎した。彼らの中にはジルドとシーヴァの仕合を見ていた者もおり、ジルドが優れた剣士であることを十分に理解していたのである。ガルネシア城の練兵場からは、今日も威勢のいい声が聞こえてくる。

 ジルドが今使っているのは、ただの鋼の剣である。業物には違いないが、これは魔剣でもなんでもない。

「下手に魔剣を使うよりも、この方がわりきりがつく」

 しかし何もないというのもつまらないだろうと言ってイストが彼に渡したのが、以前彼が工房「ドワーフの穴倉」を間借りしていたときに作った魔道具「風渡りの靴」である。これは風の上を滑るようにして移動できる魔道具で、ジルドの持ち味である速度と移動術の幅を大いに広げてくれるであろう。

 ニーナがやることはどこに行っても変わらない。すなわち、課題のレポートをまとめ魔道具を作る。そして、その合間を縫って自分の研究を進める。すべては早く一人前の魔道具職人になるためである。ある意味、三人の中で最も行動の指針がぶれないといえるだろう。

 だが、心境の変化は少しあったと思う。きっかけは、やはりジルドとシーヴァの仕合である。

 あの仕合、ぶつかり合った人間も尋常ではなかったが、それと同じくらい魔道具も尋常ではなかった。

「あれくらい凄い魔道具を作れるようになりたい」

 目標というにはあまりにも大雑把で果てしない気もするが、その思いは彼女をまた一歩前に進ませるだろう。

 さて、イストである。彼がシーヴァとともにガルネシアに来た理由は「『風笛(トウル・ノヴォ)』を五百本作ること」である。少なくとも表向きは。しかしガルネシアに着いた彼は、その仕事にすぐに取り掛かることはしなかった。

 材料が無いのだ。そしてその材料をシーヴァが用意するといった以上、イストは意地でも働かないつもりでいた。

 材料がそろうまでの間、イストは「無煙」を吹かしながらゴロゴロするばかりで何もしていなかった。しかし、それは表向きそう見えるだけで、彼の目は鋭く天上を見据えている。いや、見ているという感覚さえ、今の彼には無いだろう。彼の体の中で忙しく動き回っている部分はただ一つ、頭脳であった。

 今、イストの頭の中ではジルドとシーヴァの仕合、それも最後に二つの魔剣に刻まれた古代文字(エンシェントスペル)が光を放ち空間が歪んだあの場面が、何度も何度も繰り返し再生されている。

 一体何が起こったのか?
 なぜ、起こったのか?
 どのようにして、起こったのか?

 まったく未知の現象を目の前にして、疑問は尽きることが無い。そして疑問を疑問のままにしておけないのが、イスト・ヴァーレという人間の性であった。答えが出る出ないは別として、考えずにはいられないのだ。

 そして今、彼は考え続けている。彼の頭の中では幾つもの事実が検証され、それに基づいて仮説が立てられ、その根拠と反論証拠が戦っている。数々の仮説が立てられては倒れていき、そしてその残骸の上に立てばまた新たな可能性に手が届くようになる。

 ベッドでゴロゴロしていたかと思えば突然起き上がって紙にペンを走らせ、猛然とペンを走らせていたかと思えばいきなり手が止まってまたベッドに戻る。そんなことの繰り返しである。

「あ~、分らん………」

 乱暴に書きなぐったメモを見比べながら、イストが唸る。「風笛(トウル・ノヴォ)」の材料が揃ったと連絡があるまで、イストはそうやって考え続けた。

**********

 ガルネシア城の一画に設けられた簡易工房で、オーヴァとイストの師弟が“下準備”の作業に勤しんでいる。「風笛(トウル・ノヴォ)」の本体にあたる鹿の角から作られた幾つもの穴の開いた笛の部分、そこの魔力の流れ方を一つずつ整えているのである。

 以前イストが「光崩しの魔剣」を作ったときには一切のムラがなくなるまで下準備を行ったが、今回はそこまで丁寧には行わない。オーヴァもイストも大雑把にしか下準備を行わなかった。

 これは別に、手を抜いているわけではない。回収が不可能ではないとはいえ、「風笛(トウル・ノヴォ)」は使い捨てにすることを前提にして作られた魔道具である。そのような場合にはそもそも下準備そのものを行わないのが普通で、大雑把にとはいえ下準備を行うこの師弟は、譲れない一線を他の職人よりも高い位置に持っていると言えた。

 師弟は黙々と作業を続ける。ただ、二人の頭の中は目の前の作業にではなく、別のことに向いていた。言うまでもなく、ジルドとシーヴァの仕合で見た、あの空間の歪みについてである。

「………師匠はどう思う?」
「………はっきりしているのは原因だけじゃな」
「古代文字(エンシェントスペル)、か………」
「うむ」

 というよりも、それ以外の原因は考えられない。あの時、二つの魔剣に刻まれた古代文字(エンシェントスペル)が光を放ち、それから空間が歪んだ。ならば空間が歪んだ原因は刻まれた古代文字(エンシェントスペル)にある、と考えるのは自然なことだろう。

 もっとも、疑問は何も解決していない。一定の意味を持っているとはいえ、二つの魔剣の刀身に刻まれていたのは文字の羅列である。魔法陣ですらないそれが、なぜあのような現象を引き起こしえたのか。

「………魔法陣がなぜ円形か、覚えておるか?」
「それがもっとも効率のいい形状だからだろう?」
「そうだ。それがあまりにも当然で、当たり前すぎて儂らは時として根本を見失う。そこに至るまでの積み重ねとセオリーを無視してしまう」
「………つまり、効率を無視すれば魔法陣の形状は円形でなくともかまわない、と?」

 うむ、とオーヴァは頷いた。ただ、その視線は鹿の角から作った笛に向いており、作業する手を止めることもない。

「つまり師匠は、あの古代文字(エンシェントスペル)で書かれた言葉は魔法陣を形成している、とこう考えているわけか?」
「それ以外説明がつかん」
「あの言葉はロロイヤが遺したものだから、何かあると勘ぐりたくなるのは分るけど………」

 ――――天より高き極光の。
 ――――闇より深き深遠の。

 そしてさらにもう二つ。

 ――――果てより遠き空漠の
 ――――環より廻りし悠久の

 これらの四つの言葉は全て初代アバサ・ロットであるロロイヤ・ロットが遺したものである。遺された背景やそこに至る過程の一切が不明で、ただ言葉だけを歴代のアバサ・ロットたちは受け継ぎ、そして敬意を込めて時に装飾として使ってきた。

 天才的な魔道具職人であったロロイヤが残した言葉。ただそれだけで何か特別なものではないか、と思いたくなるオーヴァの気持ちはイストも良く分る。実際彼も、いや歴代のアバサ・ロットならば誰でも、これらの言葉には秘密があるのでは、と一度は考える。

「それで、その秘密に心当たりは?」
「まったくない」

 堂々とオーヴァは言い放った。その言葉を聞いてイストは大げさに肩を落として見せるが、半分以上は演技だ。

「発想の転換が必要じゃな」
「発想の転換ねぇ………」
「うむ。例えばこれらの四つの言葉、とりあえず“四つの法《フォース・ロウ》”とでも呼ぶか、この“四つの法《フォース・ロウ》”が特別なわけではない、と考えてみる」

 四つの言葉“四つの法《フォース・ロウ》”は特別ではない。では、何が特別なのか。

 ――――材質。
 魔剣は二本ともありふれた素材を使っている。何も特別なところはない。

 ――――術式。
 刻印した「干渉」の術式は会心の出来だとは思うが、常識の範疇内だ。何よりも空間に作用するような効果は無い。以前に見せてもらった「災いの一枝(レヴァンテイン)」の術式(オーヴァは「暴風」と呼んでいた)も同様だ。

 ――――使い手。
 人間が原因であんな現象起きてたまるか。

 ――――製作者。
 特別だ。だが、今回はハズレだろう。

 他に特別になりうるものといえば………。

「………古代文字(エンシェントスペル)」
「ふむ。言葉が特別なわけではなく、それを構成している文字が特別、というわけか」

 面白い発想じゃな、とオーヴァは笛の具合を確かめながら言った。さらに彼は「その発想をもとに仮説を立ててみろ」と弟子をせっつく。

「『古代文字(エンシェントスペル)は古代の術式研究の果てに生まれた文字である』、とか?」
「お前、その仮説を以前にも立てたことがあるな」

 考える間もなく仮説を立てた弟子を見て、オーヴァがそう指摘する。イストもすぐにそれを肯定した。

 彼がこの仮説を思いついたのは、ハーシェルド地下遺跡にあったあの“魔法陣もどき”について考えていたときである。

 あの“魔法陣もどき”は、「古代文字(エンシェントスペル)を使った単語を描かれた円の内側に沿うようにして書く」というものであった。つまり円と古代文字(エンシェントスペル)だけで構成された、本当に簡単な作りの“魔法陣もどき”な訳である。

「なるほどの。で、そう考えることの根拠は?」

 イストから背景を聞き出したオーヴァは話を進める。その間も作業する手は止めない。

「謎が一個解決する」

 イストの言う「謎」とは、「なぜ古代文字(エンシェントスペル)を使っていたであろう言語の音が、現在一つも残っていないのか」という謎である。

「古代文字(エンシェントスペル)はもともと文字ではなくそれ自体が術式だった、と考えてみる」

 ある術式を試してみたところ、炎が現れた。だからその術式を描いていた文様に「炎」という意味が与えられた。そうやって発現した効果をもとに、術式に意味を与えていったのが古代文字(エンシェントスペル)のもとなのではないだろうか。

「つまり、意味に対して文字を当てはめたのが古代文字(エンシェントスペル)だった、というわけだ」

 普通、言語は音が意味を持っている。そして文字とはその音を表すための記号だ。しかし古代文字(エンシェントスペル)の場合は、音ではなく意味を表す文字だった、とイストは仮定したのである。

 音が残っていないのも当然である。いや、厳密に言えば残っている。今、この時代に使われている言語、その別の表記の仕方が古代文字(エンシェントスペル)だったのである。もっとも、時間の経過とともに言語形態そのものが変化していることは否めないが。

「で、古代文字(エンシェントスペル)が文字としての体系を備えるようになってくると、今度は術式研究以外の部分でも使われるようになった」

 それが各地の遺跡などに古代文字(エンシェントスペル)が残されている理由であろう。

「だけどやっぱり使いにくい」

 それはそうだろう。音と記号がかみ合っていないのだから。そこで人々は言語の音を表す記号を作った。それが今現在使われている常用文字(コモンスペル)、あるいはその基になった文字であろう。

「少し待て。仮に古代文字(エンシェントスペル)がそうやって生まれたとして、どうやって術式の研究を行ったのじゃ?」

 記録の積み重ねなしに研究は行えない。そのためにはどうしても文字が必要になる。

「古代文字(エンシェントスペル)以前にも文字はあった」

 イストの言うとおり、古代文字(エンシェントスペル)よりも古い文字は存在する。象形文字や甲骨文字などといったものである。そういった文字を使えば記録の蓄積は可能である。そのことを指摘すると、オーヴァも「うむ」と唸って一応納得した。

 イストは仮説を続ける。

 古代文字(エンシェントスペル)が文字として完成した後も、当然のことながら術式研究は続く。開発される術式はより高性能かつ効率的なっていき、それにともない複雑化していく。そして古代文字(エンシェントスペル)で意味を書くだけではもはや役に立たなくなった。

「そして、術式はだんだんと今の形に近づいていき、それにともない古代文字(エンシェントスペル)は廃れていった」

 言語を記述する文字としても、古代文字(エンシェントスペル)より使い勝手の良い常用文字(コモンスペル)が使われるようになり、古代文字(エンシェントスペル)は歴史の中に埋もれていった。

 これが、イストの考えた仮説である。

「で、お前それを確かめたのか?」
「確かめた。でも何も起きなかった」

 実はこの仮説、簡単に確かめる方法がある。あの“魔法陣もどき”を再現して、そこに魔力を流せばいいのだ。最初にこの仮説を思いついたとき、イストは当然これを行って検証したのだが、何も起こりはしなかった。

「流した魔力の量は?」
「普通だと思うけど?」
「術式として効率が悪いのかもしれん」

 今の形に近づくことで効率が良くなったというのであれば、逆に言えば古代文字(エンシェントスペル)を使うタイプは効率で劣る、ということになる。ならば発動させるためにより多くの魔力が必要になるのは必然である。

「なるほど………。じゃあ早速」

 言うが速いか、イストはそばに立てかけてあった「光彩の杖」に手を伸ばす。彼はその愛用の魔道具を使ってもう一度“魔法陣もどき”を再現し、そして少しずつ魔力を込めていった。

「今、多分普通の量」

 宙に浮かぶ“魔法陣もどき”に変化は無い。ここまでは予想通りだ。イストはさらに込める魔力の量を増やしていく。

 普通の量のおよそ二倍に達しても変化は無く、イストはさらに魔力を込めていく。そして込める魔力の量がおよそ三倍に達したとき………。

「おいおい………、マジかよ………」
「ふむ、まさか本当に術式であったとはな………」

 驚愕と呆れが入り混じった声を漏らすイストとオーヴァの視線の先で、空中に浮かぶ“魔法陣もどき”の中心に小さな炎がともっている。イストがさらに魔力の量を多くすると、それに比例するように炎も大きくなっていく。そのことを確認してから、イストは“魔法陣もどき”を消した。

「………古代文字(エンシェントスペル)は本当に特別なものだったんだな」
「お前の仮説が全てあっているという保障はないが、少なくとも術式を構成する力はある、ということになるのう」

 イストとオーヴァの言葉は、平静を装っていたが興奮を隠しきれてはいない。二人とも子供のように目を輝かせている。ただその口元には獲物を狙う肉食獣のような笑みが浮かんでおり、結果として純粋さや純朴さといった子供らしさとはかけ離れた雰囲気になっている。

「つまり、刀身に刻んでおいたあの古代文字(エンシェントスペル)は、やっぱり魔法陣を形成していたってわけか」
「そうなるの」
「でもなんで今まで発動しなかったんだ?」

 魔法陣は大きく二種類に分けられる。意識的に発動させるものと、魔力を込めれば発動するものだ。

 例えば硬度を上げる「強化」の術式は、魔力を込めれば勝手に発動する。それに対し「干渉」の術式は意識して使わなければ発動しない。

 あの仕合の時点で、製作者はもちろん使い手であるジルドとシーヴァも、刀身の古代文字(エンシェントスペル)が魔法陣を構成しているなど、考えてもいない。つまりあの術式は意識して使ったわけではなく、であるならば魔力さえ込めれば発動するタイプのはずだ。しかし、刀身に魔力を込めること自体は今まで何度もやってきたはずで、その時に発動しなかったのはなぜなのか。

「単純に魔力量が足りなかったからじゃろうな」

 古代文字(エンシェントスペル)で構成した魔法陣の効率が悪いということは、今さっき確認したばかりである。しかも刀身に刻んであったのは円形ではなく直線の魔法陣で、さらに効率が悪くなっていることが容易に想像できた。

「それを発動させるなんて、二人ともどんな魔力量してるんだよ………」
「さあの。これはただの勘じゃが、お前の二十~三十、下手をしたら五十倍くらいはあるのではないか」
「化け物だな………」

 イストが呆れたような声を漏らす。しかしその声には、そんな化け物を見つけ出した自分の目を誇るような色がある。そしてそれはオーヴァも同じなのだろう。

「で、話を戻すけど“四つの法《フォース・ロウ》”が術式を構成している。これはもうほとんど間違いない。で、問題はそれがどんな効果なのかってことだけど、師匠はなんか予測立つ?」
「なにも。もとより調べれば分ることじゃ。余計な先入観は持たぬほうがいい」

 それもそうか、とイストは頷いた。術式だと分っていれば、解析のしようはいくらでもある。

「そういや話は変わるんだけどさ………」
「なんじゃ?」
「ロロイヤが魔道具製作のイロハを学んだのってどこか分る?」

 この機会に前々から疑問に思っていた、しかし今の今まで放置していたことを聞いてみる。

「確か………、パックスの街だったはずじゃ」

 当時そこには大規模な総合学術研究院があり、術式の研究も行っていたという。

「それじゃあ“四つの法《フォース・ロウ》”もそこで?」
「恐らくな」

 それならば「狭間の庵」に“四つの法《フォース・ロウ》”に至るまでの過程や空間系魔道具の理論が残っていないことも説明がつく。

「………て、ちょっと待て。パックスの街というのは確か………」

「『御霊送りの神話』の中で、神界に引き上げられた街じゃな」

 そしてそこは現在巨大な湖になっており、そのすぐそばに教会の総本山である神殿がある。

「なにやら、因縁めいたものを感じるの………」



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器9
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 11:04
 ゲゼル・シャフト・カンタルクは乱世の王である。少なくとも、本人はそのつもりでいる。

 今のところ、彼の業績は輝かしい。

 これまでカンタルク軍に何度も煮え湯を飲ませてきたブレントーダ砦を攻略し、そこに住まう二匹の守護竜を粉砕した。さらにポルトールの内乱に乗じて、いや積極的に内乱を煽ってかの国を事実上の属国とした。

 因縁の敵国であるポルトールを完全に屈服させた王はカンタルク史上ゲゼル・シャフト以外にはおらず、ただこの一点をもってしても彼の名は歴史に残るであろう。

 この際、「守護竜の門」を破壊してブレントーダ砦を攻略したのも、ポルトールの内乱を煽り結果としてかの国の国力を半減させ屈辱的な条件を飲ませたのも、全ては大将軍たるウォーゲン・グリフォードの手腕である、と指摘するのはナンセンスである。

 彼がカンタルクという国に属している以上、その業績はすべてこの時代その国の王であるゲゼル・シャフトのものなのだから。

 ここまでは、いい。が、ここ最近のエルヴィヨン大陸には、ゲゼル・シャフト・カンタルクにとって無視しえぬ大きな動きがある。

 クロノワ・アルジャークとシーヴァ・オズワルド。東のアルジャーク帝国と西のアルテンシア。

 二人の英雄に率いられたこの二つの国は、ここ最近で急速に勢力を拡大させている。特にアルジャーク帝国はカンタルクと近く、いやオムージュを併合したアルジャークはすでにカンタルクと国境を接しており、あらゆる意味で無視することの出来ない存在になっていた。

 当然、カンタルクの王たるゲゼル・シャフトもアルジャークとその皇帝クロノワを意識するようになっていた。

 現在、アルジャーク帝国はカンタルクに対して、少なくとも表面上は友好的な態度を保っている。しかしカンタルクの王宮内では帝国を危険視する声も多い。つまり、

「将来的には矛をこちらに向けるのではないか」

 と心配しているのである。この危機感を共有しない者は、今のカンタルクの王宮内にはいないだろう。

 しかし、同じ危機感を共有しているとはいえ、その対応は大きく二つに分かれている。

「こちらも国力と戦力を増強し、アルジャーク帝国に対抗すべきだ」
 と唱える派と、

「アルジャーク帝国と敵対してもなんら国益にはならぬ。それよりも友好的な態度を取っている今のうちに積極的に協力体制を築き、争わないですむ道を模索すべきである」
 と主張する派である。

 主戦論と非戦論、と言ってしまえばあまりにもありきたりでつまらない表現になってしまうが、まあよくある意見の対立と思えばよい。どちらかが一方的に正しく、どちらかが一方的に間違っている、ということはない。両論どちらも聞くべき部分がある。そう考えるべきだろう。

 しかしこの意見の対立は王宮を二分するには至らなかった。なぜなら国王たるゲゼル・シャフト・カンタルクが主戦論に傾いていたからである。

 だが、彼の心のうちは他の者とは微妙に異なる。

 彼らが共有した危機感、言い換えるならば恐怖をもとに主戦論を唱えるのに対し、ゲゼル・シャフトがそれを唱えるのは野心に起因していた。

「クロノワ・アルジャークが、シーヴァ・オズワルドがどれほどのものか。この余とて、いや余こそが乱世の覇者である」

 そんな自負が、彼のうちにはある。

 余談になるが、シーヴァ・オズワルドは王になるに際して「我」という一人称を選んだが、ゲゼル・シャフトは「余」という一人称を選んでいた。この辺り、二人の感性の違いであろうか。

 それはともかくとして。動機の差はあれど、王が主戦論に傾いているのだ。自然、話はそちらの方向でまとまり動いて行くことになる。そしてその末の結果が、今一つの形になろうとしている。

 それが、オルレアン遠征である。

 オルレアンは西の国境をカンタルクやポルトールと接し、北の国境は旧オムージュ(現在はアルジャーク)、東の国境はカレナリアとテムサニスに接している。国土は五二州で、縦に細長い国であった。

 現在カンタルクでは軍部が総力を挙げてオルレアン遠征に向けて準備を行っている。それは大将軍たるウォーゲン・グリフォードも同じで、ということは彼の副官であるアズリア・クリークも遠征に向けた準備に追われていた。

「大将軍は今回の遠征、どのように思われますか?」

 書類の束を胸元に抱えながら、アズリアはウォーゲンに尋ねた。彼は部下が質問してきても決して嫌な顔をしない。

「遠征を行うことを前提に考えれば、正しい選択じゃろうな」

 オムージュ領に出兵してアルジャーク帝国に喧嘩を売るには早すぎる。北のラキサニスやポルトールの西に位置するラトバニアといった国はほとんど神聖四国の属国のような立場で、遠征の対象とすれば神聖四国と教会が黙ってはいるまい。カンタルクは神聖四国の一国であるサンタ・シチリアナとも国境を接しているが、ここに遠征を仕掛けるのは愚の骨頂であろう。

 となれば、消去法のすえに最後に残るのは東のオルレアンしかない。

 カンタルクの版図は六三州。ただしポルトールを属国としているので、かの国の版図六七州も計算に含めることが出来るだろう。合計すれば一三〇州になる。単純に考えれば、オルレアンと比べて三倍近い国力を持っていることになる。

「政治的に考えても軍事的に考えても手ごろな相手。その評価は間違ってはおらぬと思うぞ」

 そう言いつつも、ウォーゲンの言葉にはどこか棘があるようにアズリアは感じた。

「大将軍は、今回の遠征には反対ですか………?」
「………今回の遠征は陛下が決定されたことじゃ。である以上、軍人である儂はそのために己の職責を全うするのみじゃ」

 ウォーゲンは言葉を濁して直接の答えを避けた。言葉を濁したこと自体、彼が今回の遠征に心のうちでは賛成し切れていないことの証拠だ。しかしウォーゲンの言うとおり国王たるゲゼル・シャフトが決定を下した以上、大将軍たる彼にはそれに従う義務がある。この時点で一人だけ反対するわけにもいくまい。

 今、カンタルクは国を挙げて遠征に向かって突き進んでいる。軍はまだ動かしてはいないし宣戦布告もまだしていないが、外交交渉の席などではかなり高圧的な要求をしているとも聞く。

 オルレアン遠征はまだ始まってはいない。しかし、もはや確定した未来として歴史に予定されている。ウォーゲンはそう感じていた。そして恐らくはオルレアンの人間たちも同じことを感じているのだろう。

(ならば、祖国にとって輝かしい未来にしたいものじゃな)

 ウォーゲンはそう願う。そして恐らくはオルレアンの人間たちも同じことを願っているのだろう。

**********

 カンタルクで遠征の準備が着々と進められていたとき、その対象であるオルレアンにおいてもその気配は感じ取ることが出来ていた。そしてその気配に気づいた以上は何なしらの決定を下さねばならないものだ。

「まず決めるべきはカンタルクの提案を受けるか否か、か………」

 オルレアン国王、エラウド・オルレアンは会議室に居並ぶ国の重臣たちを前に、まずそうきり出した。

 カンタルクの提案というものを簡単に要約すれば、
「カンタルク・ポルトール・オルレアンの三国で同盟を結び、近年急速に勢力を拡大させているアルジャーク帝国に対抗する」
 というものである。

「素案だけ見れば、その内容は共感できる部分も多いのですが………」

 そういって言葉を濁し、眉をひそめたのはこの国の宰相であるカストール・フォン・オルデン侯爵である。彼の言うとおり、カンタルクの使者がおいていった素案だけを見れば、この話はそう悪いものではない。

 アルジャーク帝国はオムージュ・カレナリア・テムサニスというオルレアンに国境を接していた三カ国をすでに併合してしまっている。つまりオルレアンは国境線の半分以上をアルジャークと接しているわけで、いつどこから攻め込まれるのかと戦々恐々とした空気が王宮内に漂っていた。

 現在アルジャーク帝国の版図は三四九州という広大なものである。仮に戦端が開かれた場合、到底オルレアン一国で対抗することなど出来ない。

 そこで、三国同盟である。

 カンタルク・ポルトール・オルレアンの三国の版図を合わせれば一八二州となり、勝てないまでも負けない戦いをすることは可能だろう。

 加えて西方、つまり神聖四国を中心とした教会勢力の混乱がある。十字軍遠征がどうやら失敗したらしいという情報はすでにオルレアンにも届いている。この先教会勢力がどうなっていくかは分らないが、仮に混乱をきたした場合、その影響は確実にカンタルクやポルトール、さらにその東のオルレアンにも波及してくるだろう。

 そうなった時、一国で対処することは難しい。だが三国同盟という一つの勢力圏が確立していれば、その影響も最小限に抑えることが出来るのではないだろうか。少なくとも一国で事に当たるよりもマシな結果が得られるであろう。

「そう、悪い話ではない。三カ国の発言力が同じならば、だが」

 アルテンシア同盟においてもそうであったがこういった同盟の場合、その内部での発言力はそれぞれが保有する力に比例する。簡単に言えば国の版図に比例する、ということだ。

 三カ国の版図は、カンタルクが六三州、ポルトールが六七州、そしてオルレアンが五二州である。おおよそ力は拮抗しているといえ、普通ならば同盟内での発言力も等しくなるはずである。

 そう、普通ならば。

 残念なことに三カ国の内の二つ、つまりカンタルクとポルトールの関係は普通ではない。ポルトールは今や事実上カンタルクの属国であり、それはカンタルクが一三〇州分の発言力を持っていることに等しい。

 つまり三国同盟が成立した場合、カンタルクは事実上の盟主になる。そうなれば、オルレアンは対アルジャーク帝国の防波堤として無理難題を押し付けられ、使い捨てにされるのが目に見えている。

「カンタルクの交渉のやり方を見ていますと、是が非でも三国同盟を成立させたい、という意思は感じられません」

 カンタルクとの交渉の責任者がそう発言する。相手方の交渉役の態度は横柄で誠意というものが欠けている。同盟の成立よりはこちらを怒らせることを目的にしているようだ。

 カンタルクにとってこの同盟の提案は遠征の準備のための時間稼ぎと、宣戦布告のための材料集めに過ぎないのだろう。よしんばオルレアン側が屈し、屈辱的な条件を飲ませることが出来れば御の字、程度にしか思っていない。

「………仮にカンタルクと事を構えることになったとして、我が軍は勝てるのかね?」

 老年の文官がテーブルの向こう側に座る武官たちに問いかける。その問いに答えたのは、オルレアンでも屈指の名将と名高いブッシェル・フォン・ギーレス伯爵だった。

「カンタルクだけならばやりようはありますが………」

 仮に戦端が開かれたとして、実際に動くのはカンタルク軍だけであろうとブッシェルは考えていた。先の内乱の影響でポルトールの力、特に軍事力に限って言えば半分以下に減退しており、そのポルトールが遠征にしゃしゃり出てくることはないだろう。しかしその予測があるにもかかわらず、彼の言葉は苦い。

「アルジャークか………」
「御意」

 エラウドの言葉をブッシェルは肯定した。

 仮にカンタルク軍を退けられたとして、しかしそのためにオルレアン軍が疲弊しきっていれば、その隙をアルジャークが見逃すとは思えない。いや、それ以前に西でカンタルクと戦っている間に東からアルジャークに攻め込まれれば、その時点で終わりである。つまりオルレアンが主権国家としてこれまでどおり存続していくためには、カンタルクを退けなおかつアルジャークに手出しさせないという、神がかり的な綱渡りを成功させる必要があるのである。

「………カンタルク主導を承知で同盟に参加する、という手もありますが………」

 文官の一人が思わずそういってしまうほど、この条件は厳しい。第一隙を見せなくてもアルジャークとの国力差は歴然なのだ。この綱渡りが成功する確率はほぼゼロと言っていいだろう。

 同盟に参加することでアルジャーク帝国に対する防波堤扱いされたとしても、それはある面しかたがないとも言える。なにしろそういう位置関係なのだ。国の位置に文句をつけても始まらない。

 また神聖四国で混乱が生じたときには、今度はカンタルクがその混乱に対する防波堤になる。そういう意味では対等であるとも言えるだろう。

「有事の際に協力を惜しまないでくれるならば、か………」

 しかし、交渉に臨む今のカンタルクの態度を見るにそれは難しいように思えた。結局のところカンタルクが欲しいのは対等な同盟国ではなく、自由にこき使える属国か新たに併合した領土なのだ。

 対等な関係でカンタルクと手を結ぶことは出来ない。そのことが再確認されると、会議室には重苦しい沈黙が広がった。

「宰相に聞きたいのだが………」

 その沈黙に押しつぶされることなく声を出したのは、国王のエラウドだった。

「現状、我が国にとって最も良い結果とは、なんであろうか」

 エラウドに問われ、カストールは考え込む。ひとまず現実不可能でもよい。オルレアンにとって最善の結果、それは………。

「………アルジャークと対等の同盟を結べるならば、それが最善です」

 言いはしたものの、会議室の空気は軽くならない。「そんなことは無理だ」とこの場にいる全ての人間が理解しているからである。

 現在、アルジャーク側からはなんの接触もない。かの国がオルレアンに対してどのような思惑を持っているかは定かではないが、少なくとも格下相手にわざわざ平等な同盟を結ぶ必要などない。

 カンタルクがオルレアンを狙うこの状況下では、もはやこれまでどおりの独立を保つことは難しい。さりとて対等な同盟を結んでくれそうな隣国もない。

 なかなかに絶望的な状況だといえるだろう。

「………仮に手を結ぶとして、カンタルクとアルジャーク、どちらがましかな」
「それはアルジャークでしょう」

 思いがけず宰相のカストールが即答したことに、エラウドは驚いた。

 確かにアルジャークの方が国力はある。しかしオルレアンから見れば、それは自国を安く見積もられるということだ。商売ではないが、売り込むのであればより必要としてくれるところ、より高く買ってくれるところへ売り込むのが筋ではないだろうか。この場合、オルレアンの力をより必要としているのは、カンタルクのほうのはずだ。

「さきのアルジャークによるテムサニス遠征は、皆様ご存知のことと思います」

 カストールの言葉に、一同は頷く。隣国が侵略を受けて無関心でいられる国などない。当然オルレアンもこの時にはいつもより情報収集を密にして状況の推移を見守っていた。そのため事の始めから終わりまで、かなり詳細な情報を持っていた。

「あの遠征の際、アルジャークは連合軍を組織しました。恐らく、いえ確実に単独でも遠征を成し遂げるだけの力があるにもかかわらず、です」

 捕虜にしていたテムサニス軍と連合しジルモンドを担ぎ出すことによって、確かに遠征は普通では考えられないくらい早期に決着し、しかもその後の混乱も小さい。しかしその代償としてクロノワはジルモンドに五州を与えることになり、領土内に一種特別な自治領が出来てしまった。

 今、その良し悪しを論じる必要はない。ここで重要なのは、
「クロノワは五州を与えてでも早期決着にこだわった」
 ということである。

「つまりアルジャークには、いえ皇帝クロノワ・アルジャークには単純な領土拡大とは別の目的がある、と考えるべきです」

 その目的が何なのか、今はまだ分らない。しかし、クロノワが領土拡大にこだわらないというのであれば、同盟を締結した際に何州か割譲させられる、という事態は避けられるのではないだろうか。

「しかし、不利な条件を飲まされることに変わりはないのでは………?」

 領土拡大以外の目的があるというのであれば、その分野でアルジャークは自分に有利な条件を押し付けてくるだろう。ならばオルレアンの立場が不利であることに、結局変わりはない。

「何とかして共犯者になりたいところだな」

 エラウドが呟く。弱者と強者という関係ではなく、一緒になんらかの目的を達成する共犯者の関係。

「………出来るかもしれません」
「まことか?カストールよ」
「はい。カンタルクが上手く踊ってくれれば、ですが」

 この時代、攻守の関係などたやすく入れ替わる。カンタルクは肉食獣を自認しているだろう。しかしオルレアンは食われるだけの草食動物ではない。オルレアンにとて、牙はあるのだ。





**********************





 テムサニス遠征が成功しその後の事後処理も滞りなく行われている、という報告を帝都オルクスにあるボルフイスク城の執務室で聞いたクロノワは一つ安堵の息を吐いた。

 捕らわれのジルモンドを見捨てテムサニス王位を簒奪したゼノスは、報告によれば自刎して果て旗頭を失った新王軍は降伏したという。ジルモンドが王旗を掲げているおかげか大きな混乱もなく各地の平定は進み、ゼノスが各地を略奪していた頃に比べれば随分と安定したといえる。

 ゼノスに味方した貴族たちの処分は最初からジルモンドに任せるつもりで、そのことはクロノワが彼とかわした“契約書”にも明記されている。恐らくはこれがジルモンドにとってテムサニス国王としての最後の仕事になるであろう。彼の決定に口出しをする気は毛頭無いが、どんなに軽くても「お家取り潰し」の処分が下るはずで、先の内乱も合わせればテムサニスの貴族はこれでほとんど絶滅することになる。アルジャーク帝国としては申し分ない結果といえるだろう。

 これらの報告を聞き、さらに宰相であるラシアートや腹心の将軍であるアールヴェルツェなどとも相談した結果、クロノワはテムサニスを視察することにした。これにはテムサニスの主権がもはやアルジャークにあることを内外に示す狙いがある。

「この機会にカルフィスクも見ておきたいですね」

 クロノワにはそんな思惑もある。テムサニスの南端にあるその貿易港は、これからクロノワが拡大させる海上貿易の重要な拠点になるはずで、そこを視察することには十分に意味があるだろう。

 そのような訳で、テムサニスに赴くにあたりクロノワは海路を選んだ。ヴェンツブルグから出航してカルフィスクに入り、そこから陸路でテムサニスの王都ヴァンナークに向かう予定である。

「カレナリアの様子も見ておきたかったのですが………」

 カレナリアでなにか問題が起こっているという報告は無い。しかし、ベルトロワの時代に遠征軍を率いて併合し、その後ケーヒンスブルグに急きょ戻り、レヴィナスとの内戦を経て皇帝となり、その間まったくのノータッチでさすがに無責任な気がしていたのだ。が、海路で直接カルフィスクに向かうというのであれば、カレナリアは素通りどころかその地を踏むことも無い。

「カレナリアは帰りによることにしましょう」

 行きがあれば当然帰りもある。帰りはレイシェルやイトラの軍勢と共に陸路を行き、その際にカレナリアの視察を行えばよかろう。

 この時代、皇帝や国王といった身分のものが地方を視察しようと思えば、その一団はたいへんな大所帯となる。彼らは視察の間も執務をおこなわなければならず、いわば国家の中枢が丸ごと移動するような形になるからだ。

 しかし、クロノワの視察団はそのようなものではなかった。総勢はわずか二百名。彼の皇帝という身分を考えれば、呆れるほど小規模である。

 理由はいくつかある。

 最大の理由はクロノワが視察を行っている間、彼の代わりに執務を取り仕切ることの出来る人物が帝都にいる、ということであろう。言うまでもなくその人物とは宰相ラシアートのことである。彼のおかげで「国の中枢が丸ごと移動する」という事態を避け、クロノワは随分と身軽に動き回ることが出来るのである。

 加えて、クロノワは陸路ではなく海路を行く。当然船に乗っての旅となり、船の大きさや数によって人数は制限される。今回はクロノワが乗る大型船と中型の護衛船が三隻の予定である。ちなみに船の乗員は二百名の中には含まれていない。

 また、通信用魔道具「共鳴の水鏡」を用いて連絡を送っておくことにより、クロノワが到着するカルフィスクにあらかじめ迎えと護衛の軍を配備しておくことが可能で、このため海上の護衛は最小限でいいであろうと判断されたのだ。

 クロノワ自身が「大仰なのは嫌だ」と言ってごねた、ということは歴史書には残されていない。

 慣れない、というよりもまったく初めての船旅で、クロノワはものの見事に撃沈した。有り体に言えば船酔いに苦しんだのである。海に目を向け、この先海上貿易によって国を大きく発展させる彼だが、「初めて船に乗ったときは散々だった」と晩年笑いながら語ったという。

 テムサニスのカルフィスクでクロノワを出迎えたのはイトラ・ヨクテエルであった。今テムサニスにいるアルジャーク軍の将は彼とレイシェルだけだからどちらかが出迎えに来るとは思っていたが、どうやら外に出て動き回るのはイトラの仕事らしい。

「思っていたよりも活気がありますね」

 つい最近大きな戦があり、しかも併合されたばかりだ。経済活動も下火になっているのではないかと思っていたが、カルフィスクには人と物が集まり活気に溢れていた。

「戦場になったのは国の北部ですし、この辺りは影響が少なかったのではないかと………」

 イトラの言葉にクロノワも頷く。なにはともあれ、カルフィスクが貿易港として十分に機能していることは彼にとっては嬉しい誤算であった。これならばシラクサとの貿易も早い段階で始められるだろう。

(まあ、それはフィリオの結果待ちですがね………)

 カルフィスクの街を一通り見て回ると、クロノワはイトラと共にヴァンナークを目指した。ヴァンナークを中心とした五州はジルモンドに与えられた“自治領”であり、皇帝であれど強権を盾においそれと手出しをするわけにはいかない。テムサニスの併合からさほど時間がたっていないこの時期に、皇帝であるクロノワがそこに足を踏み入れるのは色々と誤解や緊張を招きそうであるが、これまでこの国の政の中心はヴァンナークだったのだ。当然、重要な書類類はすべてそこに集約されており、また行政機能もここを中心にしている。テムサニスの領内が安定するまでは、アルジャーク軍はここに留まることになるだろう。

「ヴァンナークの機能をどこか別の都市に移したほうがいいかもしれませんね」

 ヴァンナークはこの先、ジルモンドが治める自治領の中心都市となるだろう。ならばテムサニ領を治めるために必要な機能をどこかに移す必要がある。

「後でラシアートと相談することにしましょう」

 ヴァンナークの城でジルモンドと会見をした後、クロノワは正式にテムサニスのアルジャークへの併合を宣言した。征服地で堂々と併合を宣言するというは、歴史上でもなかなか例が無い。

 クロノワの宣言に歓声をあげて答えたのは、ほとんどがアルジャークの兵士たちだった。それはそうだろう。その他はついこの間までテムサニスの国民だった人たちだ。ただの平民たちにしてみれば「税金を納める相手が変わった」くらいにしか変化はないはずだが、今まで自分たちが住んでいた国がなくなるというのは、いい気はしないだろう。

(頑張らなければいけませんね………)

 クロノワは心の中で決意を新たにする。

「少なくともこの時期、この国を併合したのがアルジャークでよかった」

 そう言ってもらえるように。国を発展させ、そして豊かにしていこう。生まれの不平等はなくせないだろうが、それでも立身出世のチャンスは平等になるような、そんな国にしよう。きっとそれが征服者の責任だろうから。

 テムサニスには視察に来たはずであったが、ヴァンナークで併合を宣言してからというもの、クロノワの仕事はもっぱらその併合の事後処理であった。

 近年、アルジャーク帝国は急速にその版図を拡大させた。それ自体は(帝国にとっては)喜ばしいことで偉業として誇るべきなのだろうが、反面大量の書類仕事を発生させている。より分りやすく言えば、人手が足りないのだ。

「書類の山を見ているとこう………、燃やしたくなりますよね?」

 クロノワがうつろな目でそんなことを口走るくらいには激務だ。

「せっかく視察にかこつけて仕事をラシアートに押し付けてきたというのに………」

 ぶつぶつとそんな裏事情をつぶやくクロノワ。そんな彼のもとに一つの報告がもたらされる。それは、テムサニスの隣国オルレアンの国王、エラウド・オルレアンから「共鳴の水鏡」を用いた秘密裏の通信が入った、というものであった。

「失礼、お待たせしました」
「いえ、突然のお呼び立て、こちらこそ失礼いたしました」

 通信用の魔道具である「共鳴の水鏡」は、通常地下に安置されることが多い。現在クロノワが用いているそれもその例に漏れず、蝋燭が設置されてはいるが室内は薄暗い。そのせいか宙に浮かぶエラウドの像もどこかぼやけているように見えた。

「それで、今日はどういったご用件でしょうか。秘密裏の通信とは、あまり穏やかな様子ではありませんが………」
「実は、陛下に一つお願いがありまして、今日の場を設けさせていただきました」
「願い、ですか………」

 クロノワの声に乱れは無い。が、彼の頭のうちでは幾つもの可能性が浮かんでは消えていく。体は適度に緊張し、彼の目つきは若干鋭くなった。

 この場の話し合いは非公式のものである。ここで話し合われたことが表に出ることは恐らく無い。しかし一国の王が一国の皇帝に願いがあるという。非公式である以上、それは突っぱねてもかまわないし、相手もそれは覚悟しているだろう。しかし、だからといって事の重大さが薄れるわけではない。

「実は、オルレアンに対して宣戦布告をして欲しいのです」

**********

 併合したばかりのテムサニスを視察していた時期、クロノワはさらに隣国のオルレアンに対して圧力を掛け始めた。

 いきなり宣戦布告をするような真似はしなかったが貿易や関税、港の優先的使用権などかなり一方的で不平等な内容の条約を締結するよう迫ったのである。

 アルジャークがオルレアンと貿易などに関する条約を結ぶこと自体は突飛なことではない。

 アルジャークはこれまでオルレアンとは国境を接していなかった。接していたのはオムージュやカレナリア、テムサニスといった国々でこれらの国は独自に、というよりもバラバラにオルレアンと通商条約を結んでいた。

 これら三カ国は最近まとめてアルジャークに併合されてしまったが、アルジャークとオルレアンの間に通商条約が無かったため、それらの地域とオルレアンの間の貿易はこれまで古い通商条約に基づいて行われていた。

 それを一本化しようというのである。しかしそのためにアルジャーク側が提示した条件は、先ほども述べたとおりあからさまに不平等なものであった。

 これに対しオルレアンは態度を鮮明にせず、返答を先延ばしして時間を稼ぎ状況が変化するのを待とうとした。

 しかし、クロノワ・アルジャークはそれを許さなかった。腹心中の腹心であるアールヴェルツェ・ハーストレイト将軍に命じて、軍を整えさせ南下を命じたのである。将軍がやってくる前に返答しなければ、そして提示した条件を飲まなければ、そのまま宣戦布告するという構えであった。

 この時、アールヴェルツェ将軍が動かしたのは総勢で六万の軍であった。ただし、このうち半分の三万はいわゆる補給部隊であり、実際に戦力として想定しているのは三万だけであった。

 これに加えて、クロノワは虎の子の魔導士部隊を連れてくるよう、彼に命令している。このことを、クロノワが本気であった証拠と見ている歴史家は多い。

 これだけでは少ないような気もするが、しかしアルジャーク軍の戦力はこれだけではない。カレナリアのベネティアナにはテムサニス遠征の際に動かしたカルヴァン・クグニス将軍率いる三万の部隊が無傷でいる。またテムサニスのヴァンナークにはイトラ・ヨクテエル将軍とレイシェル・クルーディ将軍の両部隊も控えている。先の遠征による死傷者を除いたとしても、合計で十一万以上の軍勢を誇っている。加えて、動かそうと思えばジルモンドが率いていた旧テムサニス軍を動員することも可能で、そうなれば二十万を超える大軍も用意することが可能だった。

 オルレアンのほうも慌てふためいているだけではない。宣戦布告回避と条約の内容で譲歩を引き出すべく外交手段を駆使しながら、その一方で兵を集め戦端が開かれてしまうその事態に備えた。

 その様子を、獰猛な笑みを浮かべながら眺めていたのがカンタルクである。アルジャークがオルレアンに圧力を掛け始めたこの頃、逆にカンタルクはオルレアンと距離を取り始めた。その代わり国境付近ではカンタルク軍の斥候の動きが活発化した。それはカンタルク軍がもうすぐで動き出すことを予感させる。そのタイミングは、はたしていつになるのであろうか。

**********

 カレナリアのベネティアナに着いたアールヴェルツェはその晩、カルヴァンを晩酌に誘った。談笑しながら赤ワインを一本空けて酔いが回ってきた頃、アールヴェルツェは唐突にこう言った。

「アレクセイ将軍を殺した、私やクロノワ陛下を恨んでいるか?」
「将軍、それは………」

 カルヴァンが困ったように笑う。ただ、その目は笑っていなかった。

「酒の席だ。表沙汰にしようとは思わぬし、本気にもせぬ」

 だから腹のうちに溜め込んだものを吐き出してしまえ、とアールヴェルツェは言外にそう言った。途端、カルヴァンのまとう空気が変わった。

「………師父は!」

 吐き出すようにして、カルヴァンは叫んだ。「師父」というその言葉のとおり、彼にとってアレクセイ・ガンドールは正しく師であり父であった。

 しかし、カルヴァンは最初からアレクセイのことを敬愛していたわけではない。むしろかなり長い間、彼はアレクセイのことを恨み憎んでいたし、少し成長して語彙が増えてからは「無能者」と罵っていた。

 理由は、彼の父であるバルト・クグニスがアレクセイの指揮する部隊で戦い、戦死したからである。

 誤解の無いよう記しておくが、バルトが戦死した戦いにおけるアレクセイの部隊指揮には、なんらまずいところは無かった。味方の損害は最小限にし、逆に敵には最大限の損害を与えた。

 しかし、戦死者の家族にそのような頭でっかちな理論が受け入れられるわけも無い。むしろ家族の流した血の上に戦功を積み上げているようにすら見えるだろう。

 少なくとも幼い頃に父親を失ったカルヴァン少年はそうだった。アレクセイが世間でどれだけ賞賛されようとも彼はその評価を頑として受け入れず、父を戦死させたというただその一点をもってアレクセイを無能者と罵った。

 そうやっていつしか軍人そのものを嫌うようになっていたカルヴァンだが、しかし彼が入ったのは士官学校であった。理由は単純だ。「金が無かった」からである。

 アルジャーク帝国においては、戦死者の家族に対し相当額の見舞金が国から支給される。クグニス家もその見舞金を受け取っており、金銭的に困窮していたわけではないが、間違っても裕福とはいえない。

 アルジャーク帝国では国民の学習意欲が高い、という話は前にした。しかしだからといって国民の全てが望む教育を受けられるわけではない。情熱の前にはいつだって経済が立ちはだかる。高い教育を受けようと思えば、それだけ金がかかるのだ。

 そこでカルヴァンが目をつけたのが士官学校であった。この学校は国が助成金を出しており、卒業後一定年数軍役に着くことを条件に、安い学費で高度な教育を受けることが出来のである。

 士官学校に入ったカルヴァンは精力的に勉強した。しかし彼に軍人として身を立てる気は毛頭無い。ではなぜかというと、成績上位者には奨学金が出るのだ。学費が安いとはいえ、必要な金は学費だけではない。貧乏学生であるカルヴァンにこの奨学金はありがたかった。

 動機がいささか不純であるとはいえ、カルヴァンは学業に打ち込んだ。彼の頭も、どうやらその情熱に応えうるだけの作りをしていたらしく、カルヴァンは卒業まで成績上位者(奨学金給付者)名簿の中に名前を連ね続けた。

 カルヴァンが初めてアレクセイと言葉を交わしたのも士官学校だった。

 カルヴァンが入学してから二年目の初夏のある休日、彼は士官学校の図書館で本を読んでいた。周りには同じように本を読んでいる学生が大勢いたが、カルヴァンは彼らとは異なっていた。大多数の学生たちが軍人の卵らしく戦略や戦術の本を読んでいるのに対し、彼は歴史書を読んでいたのである。

「なぜ君は歴史書を読んでいるんだい?」

 そうカルヴァンに話しかけたのが、実はアレクセイ・ガンドールであった。彼はずっと国境の近くで部隊を率いていたのだが、その働きが評価されて一軍を任されることになり、帝都ケーヒンスブルグに呼び戻されていたのだ。

 少し空いた時間を利用して、アレクセイにとっても母校である士官学校を見学していたところ、一人だけ歴史書を読んでいる学生を発見し興味半分に声を掛けたのだ。

 カルヴァンは話しかけてきた声の主を一瞥し、それが大人であることを確認すると、この学校の教師だろうと当たりをつけそれ以上の詮索はしなかった。視線を本に戻し、つまらなそうにこう答えた。

「軍人になるつもりが無いからです」
「軍人になるつもりが無いのなら、なぜ士官学校に?」

 男が面白そうに問いを重ねる。カルヴァンは一瞬目つきを鋭くし、それから口元に嘲笑の笑みを浮かべた。まるで、自分の身を切るような笑い方だった。

「父が無能な指揮官の下で戦い戦死したので、金が無いんですよ」
「その無能な指揮官の名前は?」
「アレクセイ・ガンドール」

 むしろ淡々と、当時すでに名将と言われていた男の名をカルヴァンは口にした。

「なぜ、無能だと?」
「自分の策で死んだ部下のことを忘れてる奴は、みんな無能だ」

 吐き捨てるようにしてそういったカルヴァンはそのまま席を立ち、そばに立っていた男に顔も見ないまま一礼してその場を去った。

 こうして二人は互いに名前も名乗らないまま別れた。これが、カルヴァンとアレクセイの最初の邂逅であった。

 二度目の邂逅は、カルヴァンが士官学校を卒業してから一年後のことであった。卒業後、部隊に配属された彼は、やる気がない割にはそこそこの功績を挙げ、それが評価されて配置換えとなった。

 そして新たな転属先がアレクセイ・ガンドール将軍の副官だったのである。

(まさか、あの男がアレクセイだったとはな………)

 初めて上官としてのアレクセイに会ったとき、カルヴァンは内心の動揺を顔に出さないよう多大な努力をしなければいけなかった。かつて「アレクセイ・ガンドールは無能だ」と吐き捨てたその相手こそ、まさか本人だったとは。

(では、なぜ俺を副官に………?)

 人事を担当する部署が勝手に割り振った結果の偶然なのか、それともアレクセイ本人がカルヴァンを副官にと望んだのか。だとすればなぜ自分に暴言を吐いた相手を副官にしたのか。

(部下にして嫌がらせでもするつもりか………?)

 そうだとしてもカルヴァンは一向にかまわない。それこそアレクセイが無能者であるという何よりの証拠になるからだ。

 しかし、カルヴァンの偏見に満ちた憶測は外れた。一ヶ月たっても二ヶ月たっても、アレクセイは上司の権力を傘に着てカルヴァンに迫害を加えるような真似は一切しなかったのだ。それどころか彼は考えうる限り最高の上司であったといっていい。

(いっそ自己申告してやろうか………?)

 自分が暴言を吐いたことをアレクセイは忘れているのではないか。そう思ったカルヴァンはあの時「無能者と罵ったのは目の前のこの自分である」と自己申告することも考えた。憎い相手が目の前にいれば報復したくなるのが人間というものであろうから。

(しかしだからといって………)

 しかしだからといって、アレクセイの能力を否定できるわけではない。こうしてそばで仕事をしていれば自分の憶測か外れたこと、そして彼が有能な上司であることをカルヴァンは認めざるを得ない。いくら「アレクセイは無能者である」という偏見を持っていても、いや、そういう偏見を持っていて評価が辛くなっているからこそ、アレクセイが際立って優秀であることを認めざるを得ないのだ。

(なんなのだ………!)

 無能であって欲しい者は、実は極めて優秀。粗暴で横暴であって欲しい上司は、実際には温厚で人の出来たよい上司。カルヴァンが独断と偏見によって作り上げていたアレクセイ像は、実物を前にすると音を立てて崩れてしまった。

 客観的にみれば誰もが羨むはずの職場で、カルヴァンは悶々とした日々を送っていた。そんな彼に変化が訪れたのは、あの日と同じ初夏のある日のことであった。

 アレクセイの執務室の片隅には、表題の書かれていない本が何冊かまとめて置いてある。すっかり紙が黄ばんでしまって年代を感じさせるものからまだ新しいものまで、結構な分量がある。

 ちょうど執務室に一人しかいなかったカルヴァンは、前々から気になっていたその本を手にとって開いてみた。

「これは………?」

 その本の内容は不思議なものだった。いや、内容というほど中身のある物ではない。戦役の名前と、その下に人の名前がずらりと列記されているだけなのだ。筆跡はアレクセイの物で、彼が自分でこれを書いたということは推測できたが、その目的はカルヴァンにはさっぱり分らなかった。

 首をかしげながらも、カルヴァンは幾つかの本をパラパラとめくっていく。そしてある所で目がとまった。そこには、彼の父が戦死した戦役の名前が記されていた。

(まさか………!)

 カルヴァンの心臓が激しく脈打つ。「そんなわけはない」と内心で激しく否定しながらも、「そうであって欲しい」と心のどこかが囁いている。思考が停止した頭の中に鼓動の音だけがうるさく響くのを聞きながら、カルヴァンはそこに記されている名前を一つずつ目で追っていった。そして………、

 ――――バルト・クグニス。

「あ………」

 声が漏れた拍子に、涙も一緒に零れ落ちカルヴァンの頬を伝った。そこに記されていたのは、確かに戦死した彼の父の名前であった。

「つまり、これは………」

 つまりアレクセイはこの本に戦役とそこで戦死した部下の名前を記録していたのである。しかも時間を割き、自分の手でそれを行っていたのだ。

 黄ばんでしまった紙や本から香る古書独特のにおいは、十年単位の時間の流れを感じさせる。「自分の策で死んだ部下のことを忘れてる奴は、みんな無能だ」とカルヴァンに罵られてからやり始めたわけではあるまい。ずっと昔から、恐らくは初めて部下を死なせてしまった日から、アレクセイはこの作業を続けて来たのだ。

「――――いつか謝らなければいけないと、そう思っていた」

 その声に驚き入り口のほうに振り返れば、そこにはアレクセイ・ガンドールその人が立っていた。そしてあろうことか彼は部下に対して深々と頭を下げたのである。

「君のお父さんを生かして帰すことが出来ず、本当に申し訳なかった」

 カルヴァン・クグニスがアレクセイ・ガンドールのことを「師父」と呼んで慕うようになるまで、そう時間はかからなかった。

「………アレクセイ・ガンドールは、ベルトロワ陛下のご遺言を無視した大罪人です」

 赤ワインを飲み干したグラスを両手に包みながら、カルヴァンは声を絞り出した。

「にもかかわらず、師父の最後の誇りを守っていただけたこと、どれだけ感謝してもしきれません」

 その言葉と裏腹に、カルヴァンの表情は辛そうだ。彼は身を切るようにして言葉をつむいでいた。

「しかし!それでも!それでも私は………!」

 カルヴァンの頬を涙がつたう。それを隠すように、彼は俯いた。

「それでも私は………、二人目の父を、失ったのです………!」

 喉を詰まらせ声を押し殺すようにして、カルヴァンは泣き続けた。

(今宵は雨、か………)

 アールヴェルツェが窓の外を眺める。その視線の先には、月が煌々と光を放っていた。



[27166] 乱世を往く! 第八話 王者の器10
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 11:08
 アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍がカレナリアのベネティアナにいたカルヴァン・クグニス将軍を引き連れてヴァンナークに到着し、その時点で通商条約案に対する返答が無かったことを確認したクロノワ・アルジャークは、ついにオルレアンに対して宣戦布告をした。

 この時の遠征は親征であり、クロノワが動かした軍は総勢で十四万であった。この十四万を大雑把に分類すると、十万がアルジャーク軍で四万が旧テムサニス軍である。

 アルジャーク軍十万は、四人の将によって率いられている。アールヴェルツェの直属部隊が三万で、さらに彼が全軍の実質的な指揮をとっていた。さらにカルヴァンが三万を率い、テムサニス遠征で功績を挙げたイトラとレイシェルの二人はそれぞれ二万を率いて戦列に加わった。

 テムサニス領のヴァンナークには後方部隊や予備部隊が六万以上控えており、まさに万全の体制といえた。

 この力の入れ具合だけをみれば、クロノワ・アルジャークが本気で遠征を行い武力によってオルレアンを征服しようとしていた、と考えることもできる。しかしこの遠征の顛末を知っている後世の者からしてみれば、それは怪しいと言わざるを得ない。なんというか、この遠征には詐術の臭いがするのだ。

 この、後世の歴史家たちが感じる違和感について、順を追って説明していきたいと思う。

 アルジャーク帝国から宣戦布告を受けたオルレアンは、すぐさま命令を出して軍を催した。総勢およそ十二万。このうち十万が敵遠征軍と雌雄を決するべく、東の国境線に向かった。

 事態が思わぬ方向に動いたのは、この後である。カンタルクが突如としてオルレアンに宣戦布告。カンタルク軍が西の国境を越えてオルレアン領内に侵入し、国境の砦であるルードレン砦を占拠したのである。このルードレン砦を攻略したカンタルク軍先遣部隊はおよそ五万であり、この部隊を率いていたのはマルヴェス・フォン・ソルロバという若い将軍であった。

 余談になるが、ルードレン砦は国境の砦だが、国境を守る砦ではない。この砦は小規模なもので、三百名程度しかそこにはいない。よってこの砦のおもな役目は国境線の監視であり、マルヴェス率いるカンタルク軍が迫ったときには、そこにいた兵士たちはさっさと逃げたので両軍ともまったく損害は無かった。

 ルードレン砦を占領したマルヴェスはそこで本隊の到着を待った。このカンタルク軍の本隊の先頭を行くのは、ゲゼル・シャフト・カンタルクその人であり、つまりこちらも親征であった。東から侵入したアルジャーク軍にはクロノワ・アルジャークがいるから、もしかしたらゲゼル・シャフトは彼のことを意識していたのかもしれない。

 カンタルクの、というよりもゲゼル・シャフトの腹のうちは極めて分りやすい。つまりオルレアンがアルジャークと戦っている隙に、その地をいくらか切り取ってしまおうということである。

 オルレアンとアルジャークが正面きって戦えばアルジャークが勝つに決まっている。その時、指をくわえて見ているだけではオルレアン一国を丸ごとアルジャークに取られてしまう。この機会に三国同盟を成立させるという選択肢もあるが、それではアルジャークと事を構えることになってしまう。それは時期尚早、というのがゲゼル・シャフトの考えだった。

 ならばオルレアンとアルジャークが凌ぎを削りあっている間に悠々と事を運ぶのが一番よい。やっていることは強盗か火事場の泥棒と変わらないのだが、おこなう主体が国家になると立派な戦略になりえる。

 およそ七万の兵を率いてルードレン砦に入ったゲゼル・シャフトは、目の前に広がるオルレアンの大地を見て嗜虐的な胸の高鳴りを覚えた。阻むものが何もないこの大地をさてどれほど切り取ってやろうか、と頭の中で皮算用は進む。乱世の王としてこの時代で輝き歴史に名を残すのだという自負が、今の彼のうちには確かにあった。

 しかしこの時すでに、事態は彼の想像を超えたところで推移していた。

 カンタルクが宣戦布告しルードレン砦を落としたことを知ると、オルレアンはすぐさまアルジャークに降伏したのである。

 使者が携えていたオルレアン国王エラウドの親書をクロノワは一読する。そこにはアルジャーク帝国に降伏する旨と、カンタルク軍を駆逐するための援軍の申し入れが記されていた。

「了解しました。その旨したためた新書を用意しますので、エラウド陛下にお渡ししてください」

 クロノワがそういった瞬間、「オルレアンとアルジャークが争い、その隙にカンタルクが暗躍する」という構図は消えてなくなった。代わりに浮かび上がってきたのは、「オルレアン-アルジャーク連合対カンタルク」という新たな極彩色の構図であった。

 この辺りが、後の歴史家たちが詐術の臭いを感じる第一の原因であろう。決断と事態の進展が早すぎるのだ。

 オルレアンにしてみればアルジャークとカンタルクの二カ国を同時に相手にするなど、まず不可能である。ならば、どちらかにさっさと降伏して共同でもう一方に対処した方が最終的な傷は浅い、と考えることに不思議は無い。

 問題は「なぜアルジャークを選んだのか」である。

 カンタルクとアルジャークを比較すれば、アルジャークの方が“安全な選択”であるといえるだろう。しかし、だからこそカンタルクの方が高く売り込める、ともいえる。それにカンタルクが提案していた三国同盟の枠組みを使えば、わざわざ降伏する必要もないかもしれない。

 にもかかわらず、オルレアンは頭を下げる相手としてアルジャークを選んだ。しかも即決と言っていいほどの早さでそれを決めたのである。

 さらに不思議な点がもう一つある。

 確かにエラウドの親書には降伏する旨と援軍の要請について記されていた。しかし肝心の降伏の条件について、ほとんど何も記されていないのである。

 これを無条件降伏と見るのは、あまりに善意に過ぎるだろう。それはクロノワも重々承知していたはずである。それにもかかわらず、クロノワもまた即決で了解の返事を返した。アールヴェルツェを始めとする周りにいた者たちが、それについて何も言わなかったこともまた不思議である。

 以上の点を踏まえて、こんな説を唱える歴史家がいる。

 曰く「オルレアンとアルジャークは、一連の流れについてあらかじめ密約を交わしていたのではないか」

 オルレアンはカンタルクからかなり圧力を掛けられていた。その圧力から逃れカンタルクの影響力を排除するために、アルジャーク帝国と芝居を打ったのではないか。そんなふうに考える歴史家は少なからずいる。

 この説を証明する証拠はまだ見つかっていない。しかしここまでの流れと、そしてこの遠征の結末を知ると、そう疑いたくなるのも分るだろう。

 閑話休題。なにはともあれ、オルレアンの大地は激動している。今はその動きを注視するとしよう。

 エラウドの親書を受け取り、即席ではあるがオルレアン軍との共同戦線を成立させた遠征軍は、旧テムサニス軍四万を国境付近に残して補給線を確保させると、純粋なアルジャーク軍十万のみでさらに西へ向かった。目指すはカンタルク軍が居座るルードレン砦、ではなくその少し東を流れる大河キュイブールであった。

 キュイブール川は長大な大河である。オムージュにある三千メートル級の山を水源に持ち、川幅は最大で二百メートル近くある。水量も豊富で、多くの支流や合流する河川を持ち、その水で大地を潤いしていた。

 実際の国境線はともかくとして、オルレアン人の心理的な西の国境といえばこのキュイブールであった。実際、カンタルクとの国境の一部とポルトールとのほとんどはこのキュイブールである。

 キュイブール川の水量は豊富だ。深いところでは人の背丈をはるかに越えた水深を持っている。当然この川を歩いて渡るのは、通常不可能である。しかし、この時期はちょうど川の水量が少なくなる時期であった。

「ですが、徒歩で渡るのは不可能でしょう」

 川の様子を見てきたイトラ・ヨクテエルが軍議でそう報告する。水量が少なくなっているとはいえ、キュイブールはもともとの水量が多いのだ。

「ですが、水量が半分になれば渡れるのでは?」

 そう発言したのはカルヴァン・クグニスであった。イトラは少し考え込んでから、「それならば恐らくは」と答えた。

「しかし、カンタルク軍はわざわざそのような真似をするでしょうか?」

 これはレイシェル・クルーディである。キュイブール川の対岸にはすでにアルジャーク軍が展開している。それを認めながらカンタルク軍はわざわざ川の水量を減らすための工事を行うだろうか。

「まさか。我々が減らしてやるのですよ。カンタルク軍のために」

 カルヴァンは面白そうな笑みを浮かべてそういった。軍議の席についている者たちは皆不可解そうな顔をするが、彼が説明を始めると次第にその表情は真剣なものになっていった。

「いかがでしょうか、陛下」

 最後にアールヴェルツェがクロノワにそう問いかける。アールヴェルツェが特に反論しなかったということは、カルヴァンの策は彼の中で及第点に達しているのだろう。そしてクロノワもまた、その策に欠陥を見つけることは無かった。

「その策でいくことにしましょう。細かい指示はアールヴェルツェが出してください」
「「「「御意」」」」

 歴史上稀に見る完勝への策は、こうして採用された。

**********

 アールヴェルツェはイトラとレイシェル、それに魔導士部隊に命じて、キュイブール川の上流で川幅が狭くなっている部分に堤を築くように命じた。今、土属性の魔道具を持つ者たちが中心となって土嚢を作っている。イトラとレイシェルの隷下にあるのは四万で、一人が一つずつ土嚢を作ることになっていた。

 その作業の様子をリリーゼ・ラクラシアが手持ち無沙汰に眺めている。周りが忙しく働いているときに自分だけ何もしないというのは、どうにも彼女の性分にあわなかった。いや、落ち着かない理由は恐らくはそれだけではないのだろうが。

「少し落ち着きなさいな。わたしたちの仕事はこの後よ」

 そわそわとした様子を見せるリリーゼに、彼女と同じ水属性の魔道具を愛用する女性の魔導士が声を掛けた。彼女はこれまでの旅路の間、なにかとリリーゼの世話を焼いてくれている。変人が多い魔導士部隊においては、稀有な人材といえるだろう。その女性魔導士の言葉にリリーゼは頷くが、やはり居心地の悪さは消えない。

 なぜここにリリーゼ・ラクラシアがいるのか、少し説明しなければなるまい。

 シラクサでの協議が終わった後、視察団はシラクサ側の代表者をつれて船でヴェンツブルグに向かった。宰相のラシアートやシラクサ側の代表者を交えて、話し合ってきた内容について最後の調整をするためである。この最後の調整が済み、そのあと皇帝たるクロノワの承認を得ればシラクサとの通商条約は発効することになる。

 この時ラシアートは帝都オルクスにいたが、クロノワはテムサニス視察のために帝都にはいなかった。そこで最終調整が終わると、フィリオたちは再びヴェンツブルグから船に乗って今度はカルフィスクを目指した。クロノワとシラクサの代表による調印を行い、通商条約を発効させるためである。この時、リリーゼもまた同行していた。

 折しもこの時、クロノワはオルレアン遠征に向けて動いていた。フィリオやラシアートが条約の最終調整を行っている間にもアールヴェルツェは兵を揃えて遠征の準備をしており、フィリオとリリーゼがヴェンツブルグから出航したころにはすでにテムサニスに向けて出立していた。

 ただ船のほうが足が速かったのか、テムサニスのヴァンナークに着いたのはフィリオたちのほうが早かった。

 すでに「共鳴の水鏡」を駆使して連絡を受けていたクロノワは、フィリオがヴァンナークにやって来ても驚きはしなかった。それどころかあらかじめ準備を進めており、到着後わずか一日で通商条約の調印式が開かれ、クロノワとシラクサ代表による調印が行われたのであった。

 こうして「シラクサとの間に通商条約を成立させる」という大仕事を終えたフィリオを待っていたのは、テムサニス併合の事後処理とオルレアン遠征への準備という激務であった。帝都オルクスに帰ってしばらくゆっくり、などという彼の甘い計画は音を立てて瓦解していったのである。

 当然、リリーゼもこの激務を手伝うことになった。後に彼女はこの時のことを、
「忙しかったけど、モントルム総督府で働いていたときのようで楽しかった」
 と振り返っている。

 そうこうしているうちに、アールヴェルツェがヴァンナークに到着し、本格的にオルレアン遠征が動き出す。今回は必ず親征すると決めていたクロノワは、残りの膨大な書類仕事をフィリオに押し付けて馬上の人となった。

 この時、リリーゼが「水面の魔剣」という優れた魔道具を持っており、またその訓練を欠かしていないことを思い出したクロノワは、彼女を遠征軍の魔導士部隊に誘ったのである。あるいはこの時すでに、彼は今回の遠征で水を使った作戦があると予見していたのかもしれない。

 ちなみにフィリオは、
「優秀な部下と職場の潤いを同時に持っていかれた」
 と大仰に嘆いていた。

 そのようなわけでリリーゼ・ラクラシアは今、アルジャーク軍魔導士部隊の一人としてキュイブール川のほとりにいる。彼女が落ち着かないのは、これが初めての戦場であるという事情も無関係ではあるまい。

 戦場とはいえ、実際に敵兵と相対し殺し合いを演じることは無い、とクロノワや魔導士部隊の部隊長からは言われている。当てにされているのは「水面の魔剣」という強力な水属性の魔道具であり、その扱いに慣れた魔導士だ。作戦の概要を説明されたリリーゼも、そのことは理解している。

 が、頭で理解していても体はそう簡単にいうことを聞いてはくれない。

(ああ、もう………、落ち着かない………!)

 どうにも落ち着かない。しかしやることもない。立ち上がってはウロウロと歩き回り、そしてまた座る。座っても体を揺らしてソワソワしている。

 そんなリリーゼの様子を、世話好きな女性魔導士は呆れつつも温かく見守っていた。

**********

 大将軍ウォーゲン・グリフォードを伴い、およそ七万の軍勢を率いてルードレン砦に入ったゲゼル・シャフト・カンタルクは、そこでマルヴェス・フォン・ソルロバ率いる先遣部隊五万と合流し、カンタルク軍の総勢はおよそ十二万となった。

 その軍勢を率いて、ゲゼル・シャフトは意気揚々と東進を開始した。オルレアン軍の主力は東から侵入したアルジャーク軍に対処するべく動いているはずで、抵抗を受けたとしてもカンタルク軍の進軍を阻むほどの部隊はこの近くには無いはずであった。しかしキュイブール川に近づいたとき、その対岸にたなびく旗はオルレアンのものではなかったのである。

 深紅の下地に漆黒の一角獣(ユニコーン)。それはアルジャークの旗であった。その軍勢はおよそ六~七万といったところか。

「なぜ………、ここにアルジャーク軍が………」

 ゲゼル・シャフトの呟きには、二つの意味がある。

 一つは距離的な意味である。アルジャーク軍は東の国境から、そしてカンタルク軍は西の国境からオルレアンに侵入した。東西の端から入ったもの同士がこんなにも早く出会うものだろうか。

 しかしゲゼル・シャフトはオルレアンの地理的な特徴を失念していたというべきだろう。すなわち、南北に細長いその国の形である。南北に細長いということは、逆に言えば東西に短い。他の国ならばいざ知らず、オルレアンに限れば東西の踏破にそう時間はかからない。

 二つ目は戦略的な意味合いである。そしてこちらが主たる心情であったろう。

 アルジャークはオルレアンに宣戦布告したのではなかったのか。なぜこんなところでカンタルク軍に対して戦闘陣形を取っているのか。戦うべき相手が違うのではないか。

「ウォーゲンよ、どう思う?」

 そういってゲゼル・シャフトは大将軍に意見を求めた。ウォーゲンは太い指で顎を撫でながら少し考えてから、こう答えた。

「なぜアルジャーク軍がここにいるのか、それについては分りかねます。ですが、陛下がアルジャークとことを構えるつもりが無いのでしたら、その旨を伝えるべきかと」

 ちょうどクロノワ陛下も親征されていると聞きます、とウォーゲンは付け加えた。

 それを聞くと、ゲゼル・シャフトの顔色が変わった。彼はもともと虚栄心や名誉欲が強い。そんな彼にとって、クロノワ・アルジャークが直接率いる軍を撃破する、という軍事的偉業とそれに伴う栄誉は喉から手が出るほどほしいものだった。

 見ればアルジャーク軍の数は六~七万。十二万を誇るカンタルク軍は、圧倒的な数的優位にあるといえる。それにここで勝ってアルジャーク軍を撤退させれば、オルレアンは丸ごとカンタルクのものとなる。それは現状で最も大きな軍事的成功であり、また富国強兵をなすための手っ取り早い手段ではないだろうか。

 とはいえ、ゲゼル・シャフトはすぐさまアルジャーク軍に攻撃を仕掛けるような真似はしなかった。ともかく使者を立てた。幸いなことにキュイブール川の水量は多くない。使者は馬に乗って川を渡った。

 カンタルク軍は知らなかったが、川の水が少なくなっているのはアルジャーク軍の仕業であった。イトラとレイシェルの部隊が作った土嚢四万個を使い、上流で川の水をせき止めているのである。無論完全には程遠い。あちらこちらから水が漏れているし、放っておけば一日程度で溶けて決壊するだろう。しかし一日程度とはいえ、キュイブール川の水量を半減させることに成功していた。もしかしたら、上流の支流ではいきなり水量が増えて驚いているかもしれない。

 ゲゼル・シャフトは使者にこう問わせた。
 曰く「我が国が宣戦布告をしたのはオルレアンである。なにゆえアルジャーク帝国が我が方に軍を向けるのか」

 それに対する答えはこうであった。
 曰く「すでにオルレアンはアルジャークに降伏し、貴軍に対する共同戦線の申し出がなされている。我が国はこれを受理しており、すなわちオルレアンに対する宣戦布告は我が国に対するそれと同義である。このままルードレン砦を返還して国に戻るのであればよし。しかしなお軍を進めるというのであれば、我が軍がお相手いたす」

 その返答を聞いて、ゲゼル・シャフトは唸った。オルレアンがアルジャークに降伏することは織り込み済みだ。しかし、こうも早い時期に降伏するとは思っていなかった。というよりも、オルレアンはカンタルクが宣戦布告した後すぐに、それこそ一戦する前にアルジャークに降伏したとしか思えない。

「オルレアンの腰抜けどもが………」

 自分の予定が狂ってしまったことに、ゲゼル・シャフトは苛立つ。

「陛下、進言いたします」

 馬上で爪を噛むゲゼル・シャフトの前に進み出たのは、先遣部隊を率い、今は先鋒を務めるマルヴェス・フォン・ソルロバであった。

 曰く。
 オルレアンが戦う前に降伏したのであれば、アルジャーク軍は無傷のはずである。にもかかわらず目の前にいるのは六,七万で、これは少なすぎる。思うにアルジャーク軍は足の速い兵のみでここまで来たのであって、時間を置けば敵兵力はさらに増大する。ならば数で勝っている今のうちにこれを退け、戦略的優位を築いておくべきである。

「ふむ………」

 マルヴェスの言うことは正しいようにゲゼル・シャフトには聞こえた。特に時間を置けば敵兵力はさらに増大する、というのは確実であろう。アルジャーク軍がどれだけの余力を残しているかそれは定かではないが、少なくともオルレアン軍は丸ごと残っているはずなのだ。

 この二軍が連合して立ちはだかれば、カンタルク軍は劣勢に追い込まれるだろう。勝つためにはそれぞれを確固撃破するのが望ましく、アルジャーク軍しかいない今はまさにその好機ではないだろうか。

 ゲゼル・シャフトは改めてアルジャーク軍の陣形を見た。

 アルジャーク軍は、軍を大きく二つに分けている。同じ規模の部隊を、縦に二つ並べた形だ。一つの部隊につき、およそ三万といったところか。手前、つまりキュイブール川に近いほうの部隊は両翼がある。いや、“両翼”と呼ぶにはあまりにも小規模だろう。目算であるが片方二,三千といったところで、“翼”というよりはどこからか部隊を借りてきたように見える。

(変則的、いや、急きょ編成した、といったところか………)

 ゲゼル・シャフトはそれをアルジャーク軍の焦りと判断し、その判断が彼の心を決めた。

「マルヴェスに命じる。五万の兵を率いてキュイブール川を渡り、敵先鋒部隊を撃破せよ」

 ゲゼル・シャフトの攻撃命令に、マルヴェスは喜色を浮かべて頭を下げた。

「大将軍、なにか言うことがあるか」
「………水のある戦場じゃ。決して油断せぬよう」

 ――――水のある戦場には気をつけろ。

 これは古来より言われてきたことで、軍を率いる用兵家たちには常識とされることだ。マルヴェスは表向き神妙に聞いていたが、内心では「何を今更」とせせら笑っていた。貴族でもないウォーゲンが大将軍の地位にいることが、彼は気に食わないのである。

 マルヴェスが自分の部隊に戻ると、戦況を見るためにゲゼル・シャフトも馬を進めて前に出た。もしアルジャーク軍が先鋒のみならず後ろの部隊も動かすのであれば、カンタルク軍も本隊を動かすつもりである。

 一人残ったウォーゲンのそばに、副官のアズリアが馬を寄せる。その手には相変わらず銀色の魔弓があった。

「………大丈夫でしょうか?」

 アズリアはアルジャーク軍の布陣に不気味なものを感じている。それを上手く言葉には出来ないが、一つだけ明確な疑問がある。アルジャーク軍の動き方が、これまでと明らかに違うのだ。

 用兵の基本は「遊軍をつくらないこと」、そして「数で相手を上回ること」である。これは作戦を立案する者の一般常識と言ってもいい。

 しかし今回、アルジャーク軍は遊軍を作り数的劣勢に陥りながらも、戦場をここに定めた。少なくともオルレアン軍と合流すれば数的劣勢を挽回できるのに、である。

 アルジャーク軍は何か企んでいるのではないか。アズリアが抱いているその疑問を、上官であるウォーゲンが抱いていないはずがない。

「分らぬ。我々も油断せぬことだ」

 ウォーゲンの言葉にアズリアは頷き、白銀の魔弓「|夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」を強く握り締めた。

 自分の部隊に戻り馬にまたがったマルヴェスは興奮していた。彼は先遣部隊として宣戦布告の後すぐにオルレアン領内に侵入しルードレン砦を制圧したが、それはいわば空き家に上がりこんだようなもので、戦功を上げたとは言い難い。

(しかしアルジャーク軍を撃破してみればどうだ?)

 精強と名高いアルジャーク軍である。それを撃破したとなれば、彼の勇名は全土に轟くのではないだろうか。その様子を想像して、マルヴェスは武者震いした。

(そうなればあの老いぼれを蹴落として大将軍になることも夢ではあるまい)

 キュイブール川の対岸に整然と陣を構えるアルジャーク軍。それはマルヴェスの目にはもはや戦功のための生贄にしか映らなかった。





***********************





 カンタルク軍が動いた。動いた部隊の数は、目算ではあるがおよそ五万。翼を持つ獅子を描いた旗が揺れカンタルク軍が前進するが、しかしその動きは遅い。

 ウォーゲンに言われたからではないだろうが、マルヴェスはやはりキュイブール川を警戒していた。アルジャーク軍が罠を仕掛けているとしたら、あの川の中に違いない。そう考えると、川に入るのは躊躇われる。

「川はアルジャーク軍に渡らせればよい」

 マルヴェスはそう考えた。すでにわずかではあるが前進して交戦の意思を明示して見せた。「我が軍がお相手いたす」と大見得を切った以上、敵軍は動かないわけには行くまい。敵が川を渡りきったところで戦えばよいのだ。

 カンタルク軍が動き、しかしキュイブール川を渡る気配が無いのを見ると、カルヴァンは先陣を切って川に入り敵軍を目指した。彼が指揮するおよそ三万の軍勢がその後を追う。ただ、カルヴァンの部隊の両脇に控えていたそれぞれ三千の部隊は動いていない。この部隊は全て歩兵で構成されており、長槍と盾を持った兵士が一千、弓兵二千で、この部隊が二つあり、合計で六千となっている。

 カルヴァンは川の中を進み、ついには対岸に達した。アルジャーク軍が次々と岸に上がってくるのを認めて、マルヴェスは攻撃を命じた。カンタルク軍の動きが加速する。両軍は戦意をみなぎらせて間の距離を瞬く間に詰めていく。

 マルヴェスは敵軍の側面を突くことはせず、最短距離である真正面からぶつかった。数の優位を全面にだして押し込めるつもりであった。

 ついに両軍が激突する。当初アルジャーク軍のほうが勢いで勝り、カンタルク軍はそれを受け止めるために停止とわずかな後退を余儀なくされたが、数的優位を生かしてすぐに踏みとどまって戦況を五分に戻した。

 カルヴァンは自分の周りを精強と名高いアルジャーク兵の中でもさらに選りすぐりの精鋭たちで固めている。自軍の足が止まったことを認めると、カルヴァンは自分の周りを固めているそれらの兵士たちに、
「驚け、怯えろ」
 と命令した。

 たちまち、深紅の下地に漆黒の一角獣(ユニコーン)を描いたアルジャークの旗数十本が一斉に乱れた。それは見ている者に分りやすくアルジャーク軍の劣勢を印象付ける。そしてその印象を最も強く受けたのは、相対するカンタルク軍を率いるマルヴェスだった。

 趨勢の天秤は徐々にカンタルク軍に傾いていく。アルジャーク軍は隊列を乱されて防戦一方となり、少しずつキュイブール川の中に押し戻されていった。

「精強を誇るといえどこの程度か!」

 カンタルク軍を率いるマルヴェスは興奮のままに吼えた。アルジャーク軍の精強さはエルヴィヨン大陸中、特にその東半分では良く知られている。ただ、カンタルクはアルジャークとこの戦いを除けばおよそ百年間は交戦したことが無く、ただ噂話としてその精強さを知っているだけだ。

 噂話というのは尾ひれがつきやすい。そのことはマルヴェスも承知している。最近はアルジャークの遠征活動が盛んだったため武勇の噂は彼も良く耳にしていたが、五割は差っ引いて聞くようにしていた。

 が、こうして実際に相対してみると、どうやら五割では足りなかったようである。目の前のアルジャーク軍は、マルヴェスが思っていたよりも随分と脆く弱い。川の中に押し戻されたアルジャーク軍はすでに対岸に向かって退き始めており、そのせいでカンタルク軍との間に距離が開き始めている。

「逃がすな!追え!!」

 優勢に立ったことで気を良くしたマルヴェスは、自分の指揮する全部隊を使ってアルジャーク軍に追撃を仕掛る。優勢と信じて疑わないカンタルク軍の兵士たちは次々と川の中に入ってアルジャーク軍を追う。しかし川の中では淵をさけて移動しなければいけないため、自然と隊列が横に広がっていく。そのせいで追撃の圧力は弱まり、効果的な攻撃はできていない。

 それでもカンタルク軍優勢は変わらない。ついにアルジャーク軍はキュイブール川から追い出され、全軍が川岸に上がってしまった。それでもカンタルク軍の勢いは止まらず、その先頭は川を横断して岸に上がり、さらに敵軍を追い回す。

「苦戦しておりますな」

 戦況を後ろから眺めながら、アールヴェルツェが呟く。しかしその口調からは焦りは感じられず、むしろ苦笑しているかのようだった。

「ええ、カルヴァンは上手い」

 味方が劣勢であるはずの戦況にもかかわらず、クロノワの声にも焦りは感じられない。それもそうだろう。全ては織り込み済みの行動だ。良く見てみれば、追われているはずのアルジャーク軍にほとんど戦死者が出ていないのが分る。

 そして、カンタルク軍が半分近く岸に上がりその最後尾がキュイブール川の真ん中辺りに来たところで、ついにカルヴァンは動いた。手に持っていた槍を天に向かって突き上げたのである。

「狼煙を上げろ!」

 その合図を認めたアールヴェルツェが鋭く命令を発する。赤い狼煙が、空に向かって立ち上った。

**********

 赤い煙が一筋、空に向かって昇っていく。その合図を見た瞬間、キュイブール川の上流で待機していた魔導士部隊に緊張がさざなみのように広がった。いやそれを見た瞬間に緊張を感じたのは、もしかしたらリリーゼだけだったのかもしれない。

 なんにせよ、その合図を確認したことである種覚悟が決まったのは確かだ。先ほどまでの落ち着かない居心地の悪さは消えてなくなり、背中に鋼の支柱が差し込まれたかのように背筋が伸びた。

「いい顔ね」

 ずっとそばにいてくれた世話好きな女性魔導士がそう言ってくれる。その言葉にリリーゼは無言で頷き、鞘に収めてある「水面の魔剣」を抜いた。その魔剣の刀身は相変わらず美しい。魔力を込めることで波紋が広がるような輝きを見せるその刀身は、今は主の心を表現するかのように美しくも力強い光を放っていた。

 あらかじめ定められていた所定の位置につく。リリーゼは一つ大きく息を吐くと意識を集中して研ぎ澄まし、「水面の魔剣」に徐々に魔力を込めていく。彼女の周りでは、同じように魔道具に魔力を込める魔導士が数多く見受けられた。

 川辺に立っている魔導士の手には、リリーゼと同じ水属性の魔道具がある。急造した堤防の辺りには土属性の魔道具を持つ者たちが多く集まっている。

「銅鑼三回目に合わせろ!!」

 イトラ・ヨクテエル将軍の声が響く。将軍の横には銅鑼を構えた兵士が立っていた。

 ――――ドガラァァアアアンン!!

 低くて鈍い金属音が響く。リリーゼは目をつぶりその銅鑼の音に全神経を集中させ、それと同時に「水面の魔剣」に込める魔力を増やしていく。

 ――――ドガラァァアアアンン!!

 二度目の銅鑼の音が響く。「水面の魔剣」に全力で魔力を込める。魔剣が強い光を放っているのか、目を閉じているはずなのに視界が蒼く輝いている。リリーゼはそのままキュイブールの水に意識を向け、可能な限り多くの水を掌握していく。そして………。

 ――――ドガラァァアアアンン!!

 そして三度目の銅鑼の音。その音が響いた瞬間、リリーゼは目を見開いた。

「いいいぃぃぃぃっけぇぇぇぇぇ!!!」

 その瞬間、複数のことが同時に起こった。まず土属性の魔道具を持っている魔導士達が中心になって、土嚢を積み上げて作られた堤防を決壊させた。そして水属性魔道具を持っている魔導士達がその堤防によって溜められていた水を、魔道具の力を使って一気に下流に流したのである。

 水属性の魔道具は水が無ければ役に立たない代わりに、水さえあれば大きな効果を比較的容易に得られる。これこそが「水がある戦場には気をつけろ」と古来より言わしめてきた理由である。

 今、リリーゼの目の前にはキュイブール川が満々と水を湛えている。彼女は手にした「水面の魔剣」に全力で魔力を込めながら、なるべく多くの水を下流へ下流へと流す。流された水は崩された土嚢の土を巻き込み、濁流となって川を猛然と下り始めた。

「つっ!」

 そして限界が訪れる。もうこれ以上魔力を込め続けることができなくなり、リリーゼは水を操ることをやめた。魔力の供給が途切れた魔剣はその輝きを弱め、リリーゼ本人も体を折り曲げて肩で息をしている。

 しかし、それに見合う成果は挙げた。先ほどまで満々と水を湛えていたキュイブール川は、今は劇的に水量を減らしている。徒歩で歩いて渡ることは出来なくもないだろうが、しかし随分と危険なように思えた。それにこうしている間も、減った水量は徐々に回復している。

「お疲れさま」

 こちらはまだ余裕を残している女性魔導士がリリーゼの肩に手を置く。その一言でリリーゼの中に達成感が生まれ、そしてそれは徐々に体中に広がっていく。自然と、笑顔になる。

「はい、お疲れさまでした」

 これで魔導士部隊の仕事は終わりだ。よほど戦況が不利になれば、今度は前線での仕事があるのかもしれないが、この作戦が上手くいけばそのようなことはあるまい。

「後は将軍たちに任せましょう」

 そういう女性魔導士の視線の先では対岸でイトラとレイシェルの両将軍が出撃の準備を整えている。

 戦局は最終局面へと転がっていく。

**********

 アルジャーク軍の本陣と思しき場所から赤い狼煙が上がったとき、ウォーゲンは背中に氷刃を差し込まれたかのような錯覚を覚えた。殴られたわけでもないのに、内臓が重く痛みさえ訴えている。その全てを無視して、ウォーゲンは叫んだ。

「早く川から出ろ!!」

 今から引き返しても間に合わない。ならば先鋒部隊全てを一秒でも早く対岸に上げてしまうしかない。そのためならば隊列が乱れてしまってもいい。しかし、その命令が実現されることは無かった。

 ――――ドドドドドド………!

 低い地響きが戦場にこだまする。その地響きは徐々に大きくなっていく。その音に負けないよう、ウォーゲンは馬を走らせて前に出て声の限り川から出るように叫んだ。

 しかし、彼の努力は報われなかった。キュイブール川の上流から濁流が凄まじい勢いで流れてきて、川を渡りきれずにいたマルヴェス率いるカンタルク軍先鋒部隊のおよそ後方半分を流し去ったのである。

 つい先ほどまでそこにいた仲間が濁流に飲まれて流されるのを見て唖然としているカンタルク軍を尻目に、アルジャーク軍は素早く反転して敵軍を川辺に追い詰めていく。さらにこれまで動いていなかった二つの部隊も動いてその包囲を堅固なものにする。たちまち、カンタルク軍は川辺に半包囲された。

 半包囲と言っても後ろは水かさが一気に増したキュイブール川である。事実上、退路は断たれている。カンタルク軍を半包囲したアルジャーク軍は近矢を射、また遠矢を射、射すくめつつその包囲網を狭めていく。

 マルヴェスは必死に戦線を維持しようとしたが、このときすでに事態は彼の統率力を超えていた。周りにいる数百名を別にすれば、もはや誰も彼の命令を聞いてはいなかった。この時指揮していたのはウォーゲンであれば、と考えるのは後世の歴史家の悪い癖なのかもしれない。

 カンタルク軍の多くの兵が浮き足立ち逃げようとした。敵兵がいない場所は後ろしかない。その後ろとは水かさの増したキュイブール川であり、とてもではないが徒歩で渡れる状態ではない。川に最も近い位置にいたカンタルク軍の兵士たちは川に入ることを躊躇ったが、後ろからやってくる味方に押され、押し倒され、踏みつけられてへい死するものが続出した。川の中に突き落とされて溺死した者も多い。

 そうやって味方の死体を踏みつけて川に入ろうとした者のうちいくらかは、後ろからアルジャークの弓兵に射られて川の中で倒れ流されていく。攻撃をまぬがれて川に入った者たちも、その多くは流され溺死した。運よく対岸まで泳ぎきることが出来たのは、本当に少数だった。

 実際アルジャーク軍に殺された兵士よりも、踏まれてへい死した兵士や川で溺れた兵士のほうが多かった。

 マルヴェスの最後はひどくあっけない。乗っていた馬に矢が当たり振り落とされたマルヴェスは立ち上がる前に槍で滅多ざしにされて死んだ。

**********

 ゲゼル・シャフト・カンタルクは、目の前で起きていることが現実だと認められずにいた。

 つい先ほどまで優勢だったのだ。川を渡ってきたアルジャーク軍を、先鋒部隊は逆に押し返し対岸まで攻め立てた。圧倒的優勢だった、といえるだろう。

 しかし、あの濁流が全てを一転させた。先鋒部隊のおよそ半分を流し去ったあの濁流は、同時にカンタルク軍の勝利も流し去ってしまった。

 渡ることのできない川辺に押し込まれた後は、一方的な展開だった。ゲゼル・シャフトが放心している間にも、カンタルク軍の兵士たちは次々に倒れていく。敵軍から逃れるために川に飛び込んだ者たちのうち、果たしてどれだけ生き残れたであろうか。

 気がつけば、カンタルク軍先鋒は壊滅していた。いや、“壊滅”という言葉ですら生ぬるい。“全滅” してしまった、というべきであろう。少なくとも対岸でアルジャーク軍と交戦しているカンタルク兵はもはや一人もいない。

 五万の兵が、消えていなくなったのである。

 対岸で武器を掲げて歓声をあげるアルジャーク軍を、ゲゼル・シャフトは血の気の引いた青白い顔で呆然と眺めた。目に入るもの、耳に入ってくるもの全てが希薄で、現実感が薄い。まるで夢(間違いなく悪夢であろうが)を見ているようだった。

「アルジャーク軍襲来!!」

 悲鳴にも似たその報告で、ゲゼル・シャフトはここがまだ戦場であることを思い知らされた。

 しかし、アルジャーク軍はどこから来るというのか。キュイブール川は増水してとてもではないが渡れるものではない。

 その答えはすぐに現れた。キュイブール川の上流から、アルジャークの旗を掲げる軍勢が猛然と近づいてきたのである。

 その軍勢を見た瞬間、ゲゼル・シャフトは馬首を翻して走り出した。

「陛下!」
「ふ、防げ!」

 途中、声を掛けてきたウォーゲンに短くそう命じ、ゲゼル・シャフトはルードレン砦に向かって遁走した。およそ一万の兵が、軍旗と隊列を乱しながらその後に従う。

「浮き足立つな!!」

 戦場に取り残され動揺する兵士たちを、ウォーゲンは一喝した。ざわついていた兵士たちが、その一言で静かになる。

「急いで逃げれば敵も急いで追う。隊列を整えて隙を見せるな。それからゆっくりと引くのじゃ」

 ウォーゲンはそういって浮き足立ち混乱していた兵士たちに明確な指示を与えた。その指示に従うことで、カンタルク軍およそ六万は統率を取り戻していく。

 その様子は、急襲したアルジャーク軍からも見えていた。

「混乱に乗ずるつもりだったが、アテが外れたな」
「ああ。ウォーゲン・グリフォード大将軍だな。優れた将というのは、どの国にも一人はいるものらしい」

 二万ずつ、合計四万の兵を率いるイトラとレイシェルの二人は、馬を疾駆させながら馬上でそう言葉を交わした。

 カンタルク軍に隙は見当たらず、態勢を立て直された以上急襲は失敗したといえる。このまま数に劣る状態で攻めかかっても、守りに入ったカンタルク軍を効果的に攻撃することはできず、むしろ跳ね返されてこちらの損害が増えるばかりであろう。そうなればせっかくの完勝に水をさすことになる。

 実際、二人はじりじりと後退するカンタルク軍に追撃を加えることはしなかった。それは当初の予定が崩れたからでもあったが、恐らくはそれ以上にウォーゲン・グリフォードへの敬意を表した結果だろう。

 一方、ゲゼル・シャフトは馬を走らせルードレン砦に逃げ込んだが、その砦が彼に安心感を与えることは無かった。

 ルードレン砦は小さな砦だ。それは国境を守るための拠点ではなく、見張るための砦であり、いうなれば物見小屋でしかない。オルレアン人の心理的な国境線はキュイブール川であり、国防もこの川を中心にして考えられている。そのためこの砦は堅牢な城壁など備えていないのである。

「我が身を守るためにはカンタルクに帰るしかない」

 ゲゼル・シャフトがその結論に達するのに、そう時間はかからなかった。しかし後ろからはアルジャーク軍が迫ってくる。彼らに対してなんの備えもしないで背中を見せることに、ゲゼル・シャフトはいい様のない恐怖を感じた。

「五千の兵を率いてルードレン砦に残りアルジャーク軍を防げ」

 六万の軍勢と共に砦に帰還したウォーゲン・グリフォード大将軍にゲゼル・シャフトはそう命じた。殿、それも生き残れる可能性が極めて低い「死に残り」であることは誰の目にも明らかであった。顔を青くして絶句する副官たちを尻目に、しかしウォーゲンはその命令を淡々と承諾した。

「閣下………」
「勅命には従わねばならぬ。それが軍人というものじゃ」

 国家の“武”を体現する軍人たちが王の命令に従わなくなれば、ただそれだけで国は崩壊する。ましてやウォーゲンは大将軍である。彼は戦場にいる全ての兵士たちの規範とならねばならない存在であった。

「モイジュよ」
「ここに」

 ウォーゲンの副官の一人であり、名前を呼ばれたモイジュ・フォン・ハルゲンドは一歩前に進み出た。

「お主はゲゼル・シャフト陛下の御側に控え、陛下をお助けせよ」
「それは………!」

 それはこの砦を離れて生き残れ、と言われたに等しい。しかしここで喜色を浮かべられるほど、モイジュは恥知らずにはなれなかった。

「私もここに!」
「命令じゃ!」

 残る、とモイジュがいう前にウォーゲンが一喝した。それから彼は厳しい相好を崩してモイジュの肩に手を置いた。

「話は儂の方で通しておく。期待しておるぞ」
「………微力を、尽くさせていただきます………」

 その答えに、ウォーゲンは満足したように頷いた。

 その夜、夜陰に紛れるようにしてゲゼル・シャフトはルードレン砦を発ち、その進路を西に取った。彼に従うのは六万五千のカンタルク軍だ。当初十二万を誇っていた軍勢の半分程度しかいないことになる。惨敗して逃げ帰った、と言っていいだろう。夜陰に紛れて進まなければいけない惨めさが、ゲゼル・シャフトの誇りを傷つける。

 さらに追い討ちを掛けるように次々と兵が夜陰の向こうへ逃げていった。勝手に故郷を帰ってしまったのである。夜ごとに隊列を離れて逃げ出す兵の数は増え、最終的に六万五千の兵のうち、カンタルク王都フレイスブルグまでゲゼル・シャフトに従ったのはたったの三万のみであった。自国民にまで見限られたようなもので、惨めを通り越して哀れですらあった。

 明かりも付けずに夜陰に紛れていくゲゼル・シャフトと軍勢を見送ったウォーゲンは、後ろに控えている二人の副官に、
「すまんな」
 と短く謝った。

「閣下とご一緒ならば、地獄の底までもお供いたします」
「もとより、カンタルクで私の居場所は閣下の御側しかありません」

 ウィクリフ・フォン・ハバナとアズリア・クリークの二人は悲壮感を微塵も見せずにそういった。

 士気が高いのはこの二人だけではない。砦に死に残った五千の兵全てが、悲壮感を見せずむしろ誇りすら感じているようであった。

「大将軍と共に死のう」

 兵士たちは口々にそう言い合っていた。その刹那的な感情が良いものなのかはさておき、死に残ったこの五千の兵士たちの士気の高さは、ゲゼル・シャフトと共に砦を離れた兵士たちの士気の低さと対照的であった。

 次の日の正午前、ついにアルジャーク軍はルードレン砦に迫った。その砦にまだカンタルク軍がいることを知ると、クロノワはすぐさま攻撃を命じた。

「我が方有利、ですな」
「そうですね」

 クロノワは昨日のキュイブール川での戦いと同じように後ろから戦況を見守っている。ただ彼の護衛をしているのは、アールヴェルツェではなくカルヴァンだった。アールヴェルツェはイトラとレイシェルの二人の将を従え、合計で七万の兵を率いて今ルードレン砦に猛攻を仕掛けている。

 戦況は終始アルジャーク軍優位だが、カレナリア軍に目を引くものが一つだけあった。断続的に砦から放たれる、魔道具と思しき強力な一撃である。

「確かに強力ですが、あまり意味は無いでしょう」

 大軍を相手にするには魔道具の数が、あるいはその攻撃範囲が足りない。当たって一人二人死ぬだけならば普通の弓矢と大差は無く、これではただ目立つだけの攻撃である、とカルヴァンは冷静に判断を下した。

 彼のその判断は正しいのだろう。その一撃は一射ごとに轟音と土煙を立てているが、趨勢の傾きを止めることは出来ていない。

 しかし、クロノワの感想は少し違う。

(似ている………)

 彼はそう思っていた。何と似ているかといえば、彼が友人であるイストからもらった魔道具である「雷神の槌《トール・ハンマー》」の一撃に良く似ているのである。

 あの時彼は「雷神の槌《トール・ハンマー》」について、「ある魔道具の簡易版だ」と言っていた。その基になった魔道具を持っているものが、あの砦にいるのだろうか。

「味方が砦の内部に侵入したようです」

 カルヴァンのその言葉で、クロノワは意識を目の前の戦場に引き戻した。見れば砦から放たれる矢がめっきり減っている。もうしばらくすれば完全にやむだろう。強力なあの一撃も、すでに放たれなくなっていた。

「私たちも行くとしましょう」

 砦から放たれる矢が完全にやんだのを見計らってクロノワは前進を命じた。ルードレン砦に近づくと、その門のところにアールヴェルツェがいた。どうやらここで内部の制圧状況について報告を聞き、随時指示を出しているようだ。

「陛下」

 クロノワに気づいたアールヴェルツェが馬を寄せてくる。

「状況はどうですか?」
「小一時間もあれば完全に制圧できると思います。ただ、居残った敵兵たちの士気が予想外に高く、局地的には攻めあぐねている部分もあるようです」

 アールヴェルツェの言葉にクロノワは頷いた。カンタルク軍の士気が思いのほか高いことは、先ほどまでの観戦でも良く分る。よほど兵に慕われている将が殿として残ったのだろう。

「捕らえさせますか?」

 その将を、ということだろう。確かに話をしてみたい気はするが、追い詰められた手負いの獣を捕らえるというのは難しい。

「いえ、無理に捕らえる必要はありません」

 首を振りながらクロノワはそう答えた。自軍の兵士たちに損害を出してまで捕らえたいとは思わない。アールヴェルツェは頷き特に命令を出すことはしなかったが、それから少しして思いがけない報告がもたらされた。

「報告します!敵将ウォーゲン・グリフォードを捕らえました!」

 その報告はクロノワに二重の驚きをもたらした。まず敵将を捕らえられたということ、そしてその敵将がかの大将軍ウォーゲン・グリフォードであったことだ。思いがけず名将の名前が出たが、アールヴェルツェはどこか納得したような様子を見せていた。

「それで、大将軍はいまどこに?」

 聞けば、浅からぬ傷を負ったウォーゲンは、アルジャーク軍が確保した一室でその傷の手当てを受けているという。

 報告に来たその兵士に案内をさせ、十数人ほどの護衛を引き連れたクロノワはウォーゲンのもとに向かった。

 部屋の中に入ると、ウォーゲンはまだ手当ての途中であった。随分と深手を負ったらしく、巻かれた白い包帯にすでに血が滲み始めている。クロノワに気づいた彼は、手当ての途中にも関わらず椅子から立ち上がり、床に膝をつき頭をたれた。

「クロノワ・アルジャーク陛下とお見受けします」
「はい。確かに私がクロノワです」

 それを聞くと、ウォーゲンはなお一層深く頭をたれた。彼がさらに何か言う前に、クロノワが口を開いた。

「砦内のカンタルク兵たちに降伏を呼びかけてはもらえませんか?」
「………すでに降伏はやむなきこと。ですがこの戦の責任は全てこのウォーゲンにありまする。事はこの首一つで収め、どうか降伏した兵たちには寛大なご処置を………!」

 自分の首で降伏した兵たちを救おうというのである。もしかしたらこれを見越して、彼は自害しなかったのかもしれない。ウォーゲンのその言葉には力があり、それでいて配下の兵士たちへの愛情に溢れている。どことなくアレクセイに近いものを、クロノワは感じた。

「武器を捨て降伏した兵士全ての命を保障します。もちろん貴方も」

 死ぬに及ばず、とクロノワは言ったのである。最後の一言は、もしかしたらアレクセイを死なせてしまった後悔が言わせたのかもしれない。

 クロノワはウォーゲンを立たせるともとの椅子に座らせ、手当ての続きを受けさせた。それから兵士たちに彼を丁重に扱うよう命じてから、その部屋を出た。

 部屋を出ると、クロノワは「ウォーゲン・グリフォード大将軍は降伏した」と砦のあちこちで呼ばわらせた。同時に大将軍は生きていること、投降する全てのものの命を保障することを告げる。この呼びかけは効果的で、砦のあちこちに立てこもっていたカンタルク兵たちは次々に投降した。

 戦況も収束へ向かい一安心と思っていたクロノワの目に、一人の敵女性仕官が連れて行かれるのが映った。まだ若く、クロノワと同じくらいの年齢だろうか。両腕を拘束されているにもかかわらず黒くて長い髪を乱して抵抗を続けており、目は敵意と憎悪で燃えているように見えた。

「何ごとですか?」
「殺せ!」

 クロノワのことをアルジャーク軍の将官と勘違いしたのか、連れて来られた女性仕官はそう吼えた。

「どうやら、魔導士のようでして………」

 恐らく、あの強力な一撃を放っていたのは彼女だったのだろう。兵の一人が彼女が使っていたという、魔弓と思しき白銀の弓をクロノワに見せた。

「これは………!」

 その弓を見たとき、思わず驚きの声が漏れた。クロノワはその魔弓に既視感があったのだ。いや、既視感というのはおかしい。クロノワがこの白銀の魔弓を見るのは間違いなく初めてだからだ。だがクロノワは間違いなくこの魔弓を知っている。より正確には、この魔道具を作った職人を知っている。

「ああ、まったく。君は本当に………」

 ここにはいない友人が得意げに笑う様子を想像し、クロノワは楽しげな苦笑を浮かべる。どうも“縁”というやつは奇妙なところで繋がっているらしい。

 面白そうに笑うクロノワに、事情がつかめていない兵士たちは怪訝な表情を見せる。拘束されている女性仕官も、毒気を抜かれてしまった様子だ。

「お名前をお聞きしても?」
「………アズリア・クリークだ」

 思いのほか素直に答えてくれて、クロノワは満足そうに頷いた。

「ではアズリアさん、実はウォーゲン大将軍が負傷されて看病が必要です。お願いしてもいいですか?」

 その言葉を聞くと、アズリアの表情が明るくなった。ウォーゲンが生きていることは叫ばせていたのだが、もしかしたら信じていなかったのかもしれない。

「………分りました」
「では、彼女を案内してあげてください」

 アズリアの腕をつかんで拘束している兵士たちにそう命じる。兵士たちは真意を量りかねる様子であったが、それでも「かしこまりました」とクロノワに応じ、アズリアの拘束を解いた。

「ああ、それと」

 二歩ほど歩いたところで、何かを思い出したようにクロノワは振り返ってアズリアのほうを見た。

「この魔弓は私が預かっておきます。いずれ、お返しできる日が来るのを待っていますよ」

 そう笑いかけられて、アズリアは本当にわけが分らないといった顔をした。そんな彼女の表情を見て、クロノワはやはり面白そうに笑う。

 なんとなく、いい気分だった。



[27166] 乱世を往く! 第八話 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/14 11:10
ルードレン砦の攻防戦において、ウォーゲン・グリフォード大将軍率いるカンタルク軍は奮戦した、と言っていい。砦に居残った五千の兵のうち生き残って捕虜となったのはおよそ三千であり、残りは全て戦死した。驚異的な事実として、その砦から逃げ出した兵士は一人もいなかったのである。

 生き残った三千のうち、そのほとんど全てが負傷者であった。無傷のものは百数十名ほどしかおらず、カンタルク軍の奮戦が窺える。オルレアン遠征全体として惨敗を喫したカンタルク軍であったが、最後に汚名を雪いだといえるだろう。

 さて、話は戦いの後の戦後処理に移る。

 アルジャークによるオルレアン遠征には詐術の臭いがする、と以前書いた。その理由については、ルードレン砦の戦いのあとの各国、つまりアルジャークとオルレアンそしてカンタルクの動きについて大まかにでも見てもらえれば分ってもらえると思う。

 ルードレン砦の戦いのあと、アルジャークはすぐさまカンタルクと講和条約を結ぶ方向で動いた。賠償金の額やルードレン砦で捕虜にしたカンタルク兵たちの身柄の引き渡し条件など、大雑把ではあるが内容をまとめて素案を作成し、アールヴェルツェがサインをした。クロノワの名前を使わなかったのは、これはあくまでも条約の叩き台という位置づけであったからだろう。

 余談になるが、ここでアルジャークが講和条約を主導するのは、少し不思議である。カンタルクが直接宣戦布告をしたのはオルレアンであり、アルジャークはその同盟国、いわば“代理人”として戦ったにすぎない。もっともオルレアンはアルジャークに“降伏”しており、オルレアンの権利はアルジャークの権利、と言えなくもない。実際問題としてオルレアンは一戦もしていないわけだし。

 話を元に戻す。作成された素案をカンタルク王都フレイスブルグにいるゲゼル・シャフトのもとに持っていく使者として選ばれたのは、ウォーゲンの副官であるウィクリフ・フォン・ハバナであった。そのほかに十名ほど、共の者が選ばれた。

 本来ならば、この使者にはアルジャークの人間が選ばれるべきであったろう。にもかかわらずカンタルクの人間を選んだのは、もしかしたらゲゼル・シャフトに危機感を持たせるためだったのかもしれない。返事が遅れればすぐにでもカンタルク領内に侵攻する、という無言の脅しを掛けたと考えられる。

 一方でアルジャークの方から条件を提示したということは譲歩でもある。カンタルクにしてみれば講和のための条件を、優位なはずのアルジャークから提示してもらったことになる。素案をそのまま飲むかは別として、交渉はかなり楽になると見ていい。

 さて、ウィクリフらを送り出した後、クロノワは捕虜にしたカンタルク兵を連れてルードレン砦から軍を引き上げ、キュイブール川を渡った先にあるオルゴット砦に入った。こちらは堅牢な要塞であり、オルレアン東国境の第二防衛線の要である。アルジャーク軍と入れ替わるようにしてオルレアン軍およそ十万が到着し、国境線近くに展開した。備えであると同時に脅しだ。

 ただし、レイシェルは二万の兵と共にルードレン砦に残った。これは戦力を当てにしてのことではなく、カンタルクとの交渉の主導権をアルジャークが握るためであった。実際、レイシェルにはカンタルクの使者が持ってきた書簡の中身を改め、それをクロノワに届けるか、あるいはつき返すかを判断する権限が与えられていた。事実上交渉の全権を任されていた、と言っていい。

 さて、その交渉である。レイシェルがカンタルクの使者が持ってきた書簡に目を通すと、たちまち彼の眉が跳ね上がった。

「いかがですかな」

 そう問いかける使者の言葉を無視して、レイシェルはその書簡に書かれた、いや書かれていないことの意味を推察しようとする。

(つまりは、そういうことか………!)

 ある結論に達したレイシェルが抱いたのは、いい様のない嫌悪感であった。しかし彼の責として判断は冷静に下さねばならない。結局レイシェルは、カンタルクの使者たちをオルゴット砦に通すことにした。

 オルゴット砦でカンタルク側の返答を知ったクロノワもまた、レイシェルが感じたのと同じ嫌悪感を覚えた。

 書簡に書かれている内容は、おおよそアルジャーク側が通達した素案に沿ったものと言っていい。ただ一点、捕虜の引渡しに関する条件がごっそり削除されている以外は。

(ゲゼル・シャフト陛下は、捕虜になった兵士たちを見捨てたのか………)

 そう判断するしかない。しかしそうなると気になることがある。

「こちらの書簡を届けてもらったウィクリフ殿らは如何しておられるだろうか」

 悪い予感を覚えつつ、クロノワは使者たちに問うた。

「陛下は彼らを処刑された」

 事実であった。カンタルク王都フレイスブルグに彼らが到着し、そのことがゲゼル・シャフトに伝わると、彼はすぐさまウィクリフらを捕らえさせたのである。彼らが預かってきた書簡はなんとか高官の手に渡り、そこからゲゼル・シャフトのもとへとたどり着いたが、ウィクリフらの状況が好転することはなかった。結局、フレイスブルグに到着してから三日後、彼らは処刑された。

 罪状は不敬罪とされているが、彼らがフレイスブルグに到着してから拘束されるまでの間に、不敬を犯すような暇があったとは思えない。

「ゲゼル・シャフトの腹いせか八つ当たりであろう」
 というのが、後世の歴史家たちのおおよその見解である。

 遠征に失敗したこと、王都フレイスブルグに帰還するまでの間に兵の半分以上が逃げてしまったこと、その一方でウォーゲンと共に居残った兵士たちは一人も逃げなかったこと、そして自分がクロノワ・アルジャークに及ばなかったこと。その他にも数多くの要因が彼の心をかきむしったのだろう。

 実際、この頃からゲゼル・シャフトは乱れ始める。昼間から酒を飲んで泥酔し、女と戯れるようになった。気に入らないことがあればすぐに剣を抜いて暴れ周り、臣下が諫言しようものならその場で手討ちにすることさえあった。

 閑話休題。話を元に戻そう。

 使者の態度や話から、ゲゼル・シャフトに捕虜を取り戻す気が皆無であることを悟ったクロノワは、カンタルク側の講和条件を飲んだ。捕虜に関すること以外は素案に沿った内容であり、一度提示した以上文句を言うのもはばかられたのだ。

 カンタルクとの間に締結された講和条約の中身を一言で要約すると、
「カンタルクは賠償金として一億シク(金貨一億枚)を支払う」
 となる。

 これはカンタルクの国家予算からすれば、およそ五分の一から四分の一に相当する金額だ。莫大な金額ではあるが、しかし同時に払えない額でもない。それにカンタルクにはポルトールという別の財布もあることだし。

 そのほかに戦費の全額負担という項目もあったが、それ以上のこと、つまり領土の割譲や長期的な賠償金の支払いを求めなかったことが、カンタルクに素早い決断を促したものと思われる。

 カンタルクの使者たちは務めを果たせて満足した様子で帰っていったが、一方で不穏な雰囲気となったのが捕虜になったカンタルク兵たちであった。

 自分たちが王であるゲゼル・シャフトからどうも見捨てられたらしいという話は、すぐさま彼らの中に広がった。講和条約がまとまればすぐにでも祖国に帰れると思っていた彼らは絶望の底に叩き落されたといっていい。

 その絶望は刹那的な行動に直結し、あわや暴動が起こる事態となった。兵を落ち着かせることが出来るはずのウォーゲンが、怪我で寝台から動けなかったことも原因の一つだろう。

 しかし、その暴動は未然に防がれた。クロノワがそれらの捕虜たちをアルジャーク国民として受け入れることを確約したからである。少し先の話になるが、捕虜となった兵たちはオムージュ領のカンタルクとの国境近くで生活することとなった。彼らのうちの半分ほどは、後に祖国に戻ることが出来たようである。

 さて、次にオルレアンとの交渉である。

 最初にアルジャークがオルレアンに締結を迫った通商条約はかなり不平等なものであった、という話は以前にもした。しかし、降伏したはずのオルレアンとアルジャークが結んだ条約は、なぜか至極公平な内容となっていた。関税の引き下げなど、アルジャークに対する優遇措置はいくつか盛り込まれているが、それはオルレアン側にも適用される場合が多く、「友好国に対する配慮」の範疇に十分収まるものであった。

 つまりオルレアンとアルジャークは対等な同盟を締結した、と解釈していい。国力に差がある以上完全に対等ではないだろうが、少なくともこの時点でオルレアンは何も失わなかったのである。

 ただ何も失わなかった反面、オルレアンは何も得なかった。カンタルクの賠償金一億シクは丸ごとアルジャークの懐に入ることになっており、オルレアンの取り分は銅銭一枚もなかった。まあ、実際に戦ってはいないから当然といえば当然だが。

 今回の戦いの総括を簡単にまとめると、アルジャークは賠償金と友好国を手に入れ、オルレアンは独立主権を失わずに友好国を手に入れ、カンタルクが一人負けした、といったところであろうか。オルレアンにとって最も良い終わり方をしているといえ、その辺りがアルジャークとの密約を疑われる最大の原因なのだろう。

**********

 さて、ウォーゲン・グリフォードの死について書かねばならない。

 ルードレン砦の攻防戦において深手を負ったウォーゲンは、アズリアの看病も虚しく日に日に衰弱していった。それでも講和条約が結ばれ終戦を見届けるまでは死ねないと気力を振り絞っていたのだが、そんな中ゲゼル・シャフトが捕虜を見捨てたという話が彼の耳にも入った。

「噂は、まことであろうか………?」

 見舞いに訪れたクロノワにウォーゲンは噂の真偽を問うた。すっかり弱々しくなってしまった彼の姿に痛々しいものを覚えながらも、クロノワはその場しのぎの慰めに嘘を付くことはしなかった。

「事実です。カンタルク側は捕虜について一言も触れてきませんでした。ウィクリフ殿も処刑されたとか」

 クロノワがそう答えると、ウォーゲンは横になったまま目をつぶり悔しそうに顔をゆがめて「なんと愚かな………」と呟いた。その後ろではアズリアが目を見開いて絶句している。

「………クロノワ陛下………!」

 ウォーゲンは痛みに堪えながら必死に手を伸ばして身を起こした。アズリアが静止するも聞かず、結局彼女はウォーゲンの背中を支えた。

「このようなことを頼める立場ではないことは重々承知しております。しかし、それでも、どうか………!」

 ウォーゲンの声は擦れており張りもない。しかしそれを上回る彼の必死さが、言葉に精気と力強さを与えていた。

「どうか兵士たちのこと、よろしくお願い致します………!」
「はい。委細承知しました。どうぞご心配なく」

 クロノワはウォーゲンの手を握りそう答えた。その言葉に誠意の響きを感じたウォーゲンは、安心したように微笑むと再び横になった。クロノワが捕虜たちをアルジャークの国民として迎え入れるという決定をしたのは、もしかしたらウォーゲンに対するはなむけだったのかもしれない。

 その晩、カンタルクの名将は静かに逝った。全ての仕事をやり終えたかのような、穏やかな死顔であったという。

 彼の遺体は、オルゴット砦の一角に埋葬された。彼の懐に忍ばせてあった古い遺書には、
「墓は要らず、名も要らず。ただ我の槍か剣を突きたてよ」
 と書かれており、それにしたがって彼が最後まで使っていた愛用の無骨な剣が一本、突き立てられた。

 ウォーゲンの埋葬の際、クロノワは捕虜たちが参列することを許した。参列したカンタルク兵たちは皆一様に泣き崩れ、偉大な大将軍の死を悼んだのである。

 埋葬も終わり、カンタルク兵たちが引き上げてもアズリアは一人その場に残っていた。昔、母親に教わった花冠を作っていたのである。作り方を覚えているか不安だったが、ひとたび始めると体は勝手に動いてくれた。その花冠を地面に突き立てられた剣に掛け、アズリアは跪いて黙祷を捧げた。

 その隣に一人の男が立ち、彼女と同じように黙祷を捧げる。クロノワ・アルジャークであった。

「………大将軍のこと、ありがとうございました」
「いえ、当然のことをしたまでです。大将軍は兵の方々に慕われていたのですね………」
「はい、とても………」

 しばらく二人の間に沈黙が下りる。それを先に破ったのはクロノワのほうだった。

「これから、どうされるおつもりですか?」
「………わかりません」

 そういってアズリアは首を振った。もはやカンタルクに帰ることはできない。いや仮に帰れたとしても、ウォーゲンがいないカンタルクに彼女の居場所は無いだろう。

「もしよろしければ、アルジャークの海軍に来ませんか?」

 アルジャーク帝国は自国の海上権益を守るために、これから海軍を整備しなければならない。アズリアが持っていたあの白銀の魔弓は対艦戦でこそ真価を発揮するとクロノワは考え、魔導士部隊ではなく海軍に誘ったのである。

「………なぜ、そこまでわたしにしてくださるのですか?」

 あの魔弓が対艦戦で真価を発揮するというのであれば、わざわざアズリアを海軍に誘う必要はない。魔弓をだれか他の魔導士に持たせればいいのだ。そもそもクロノワは最初からアズリアに甘い部分があった。それは一体なぜなのか。

「あの魔弓を作ったのは、イスト・ヴァーレという流れの魔道具職人ではありませんか?」
「………!」

 思いがけない名前が出たことに、アズリアは絶句して目を見開く。そんな彼女を見て、クロノワは「ああ、やっぱり」と面白そうに笑った。

「私は別に自分の目や貴女を信頼しているわけではありません。ただ、貴女にあの魔弓を渡した友人のことを信頼している。ただそれだけです」


 その生涯が一遍の詩となる者を英雄と呼ぶ。アズリア・クリークの生涯が一遍の詩となるかはさておき、彼女のこれまでの人生が激動続きであったことは間違いない。そして恐らくはこれからも。あるいは、それはアバサ・ロットから魔道具をわたされた者の宿命なのかもしれない。シラクサに向かう船の中で、アズリアはふとそう思った。

―第八話 完―



[27166] 乱世を往く! 幕間Ⅲ 南の島に着くまでに
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/01/28 11:07
 幕間 南の島に着くまでに


「南の島に行こうぜ!南の島に!」

 イスト・ヴァーレがそんなことをいい出したのは、ちょうど大陸の極東でアルジャーク軍がテムサニス遠征を終えた頃であった。

 アルテンシア統一王国王都ガルネシアでシーヴァ・オズワルドのために魔道具「風笛(トウル・ノヴォ)」を五百本作り上げた後も、イストは旅立つことなくそこにとどまり続けた。シーヴァとジルドの仕合で思いがけず発動した“四つの法(フォース・ロウ)”の解析と研究のためだ。

 ――――闇より深き深遠の
 ――――天より高き極光の
 ――――果てより遠き空漠の
 ――――環より廻りし悠久の

 この古代文字(エンシェントスペル)でつづられた四つの呪文のことを、オーヴァとイストの師弟はとりあえず“四つの法(フォース・ロウ)”と呼んでいるのだが、解析を進めるにつれてこれらの呪文が一般的な術式とは一線を画すことに二人は気づきはじめた。

 一つ一つが術式を構成していることは確かなのだが、それ以外にこれら四つが関係しあってなにか大きなものを表しているようなのだ。一般的な術式よりももっと根源的で、大きな何かを。

 もっとも、今はその“大きなもの”とやらが何なのかは分らない。イストもオーヴァも、今は四つの呪文の関係性よりも個々の呪文の解析と応用を優先しているからだ。それはあの仕合で愛剣を失ってしまったジルドとシーヴァに、新たな魔剣を用意するために他ならない。

 彼らが失ってしまった魔道具については詳細なレポートが保管してある。同じ魔剣を作ることはたやすいだろう。しかし“四つの法(フォース・ロウ)”という新たな可能性が目の前にあるのに以前と同じもので妥協することなど、イストとオーヴァにしてみれば魔道具職人のプライドが許さなかった。

「前のを圧倒的に上回る魔剣を作ってみせる」

 二人とも言葉にしてそんなことを言いはしない。しかし一切の妥協を許さない二人の職人の姿勢は、なによりも雄弁にその決意を周りの人間に告げていた。

「精進しなくてはな」

 ジルドは嬉しそうにそう言っていた。恐らくはシーヴァも同じようなことを思っているのだろう。

 しかし、ニーナの感じていることは少し違う。彼女だって職人だ。使う側と作る側の感じ方が違うのは当然だろう。

 ニーナが感じているのは憧憬と一抹の悔しさだ。

 普段はイタズラ好きで本当に迷惑かけられっぱなしの困った師匠だが、こと魔道具製作に関してはニーナなど及びもつかない高みにいる。そんなイストが、ニーナと旅をするようになってから今までで最も高レベルな魔道具の作成を行っているのである。

 その様子を側で眺めていると、どうしようもない憧れを感じるのだ。一つ一つの発想、着眼点、引き出しの多さ。どれをとってもニーナは及ばない。追いかける背中はどうしようなく遠いが、それゆえ早く追いついて肩を並べたいと思ってしまうのだ。

 しかしその一方で悔しさも感じる。イストは相談するとき、ニーナではなくオーヴァにするのだ。頭では分っている。未熟者の自分よりも職人として同じかそれ以上の高みにいるオーヴァのほうがイストの相談相手としてふさわしい事ぐらい、誰に言われずとも分っている。分っているが、それでも悔しいのだ。二人の話に入っていけず、ただ憧れることしかできないことがとても悔しいのだ。

「今は少しずつ階段を上ることだ」

 ニーナの様子に気づいたジルドは、そういって彼女を慰めた。その言葉に励まされてニーナは修行に邁進した。やれる事があるうちは、落ち込んでいる暇など無い。

 そんな弟子の様子を見て師匠であるイストが満足そうに「無煙」を吹かしていたのかはわからないが、ともかく“四つの法(フォース・ロウ)”のうちの一つの解析と新たな魔剣の術式が、最近ある程度完成したのだ。

 そこで、冒頭の台詞である。

「素体になる刀も取りに行かないとだし、そこから足を伸ばして南の島に行こうぜ」

 どうやらまた旅の虫が騒ぎだしたらしい。ニーナはそう思った。もとよりニーナやジルドに目的地などない。イストが行くというのであれば、ついていくまでだ。

 旅立つ三人の後姿をガルネシア城から見下ろす人影がある。シーヴァと、今は一軍を預かる身となったヴェート・エフニートだ。

「………行かせてしまってよろしいのですか」

 イスト・ヴァーレは優れた魔道具職人だ。現在アルテンシア統一王国は有能な人材を幅広く求めており、その中でも彼は喉から手が出るほどに欲しい人材のはず。それを引き止めもせずに行かせてしまった良かったのだろうか。

「依頼した仕事は果たしてもらった」

 魔道具「風笛(トウル・ノヴォ)」を五百本作ってもらったことだ。これだけで十分だとシーヴァは考えていた。ヴェートが不満げな顔を見せると、シーヴァは「それに………」と言って微笑した。

「それに彼がここに残るということは、ベルセリウス老がもう一人増えるようなものだぞ。扱いきれるのか?」
「………早急に立ち去ってもらうとしましょう」

 ヴェートは苦い顔をして前言を撤回した。オーヴァ一人でさえ持て余しているのだ。そこに同格のトラブルメーカーがもう一人加わったら、冗談抜きでガルネシア城が大混乱に陥る。建国間もないこの時期に中枢が混乱したら、アルテンシア半島の惨状たるや悲惨なものになるだろう。たかだか一人の魔道具職人と国家の命運を天秤にかけるわけにはいかないのだ。

「それがよかろうな」

 随分と小さくなった三人の人影を見送る。さて、次に会うときは敵か味方かそれとも傍観者か。読みきれないその未来に、しかしシーヴァの心は浮き立つのだった。

**********

 ガルネシアを旅立っておよそ二ヶ月。イスト一行はルティスにたどり着いていた。ルティスはエルヴィヨン大陸の南西の端に位置する貿易港だ。その規模は恐らく大陸でも三指に入る。

 本来「ルティス」という名称は、沖合およそ三百メートルにある「ルティス島」のことを指す。それがこの島と陸地側の街を合わせて“ルティス”と呼ばれるようになったのは、恐らく外から来た船舶のほとんどがルティス島のほうに停泊し、その島がいわば玄関口のような役割を果たしてきたからだろう。

 ちなみにルティスの富裕層のほとんどがこの島に居を構えており、島全体として絢爛で華やかな雰囲気がある。ルティスという言葉に付随する絢爛豪華なイメージは、この島に由来するものだと考えていい。

 実際、
「世界の富はルティスに集まる」
 とまで言われており、その繁栄は輝かしいものである。

 なぜルティスはこのように繁栄できたのか。その理由はおよそ百二十年前から続く教会との蜜月である。

 およそ百二十年前、ルティスはオークトランドという国の端っこに存在する一貿易港でしかなかった。それが、商館(コントール)の長たる総館長(コントール・マスター)の娘が海であるモノを見つけたことで状況が大きく動くことになる。

 そのあるモノとは、大粒の真珠である。

 この時代、真珠の養殖技術などまだ無い。だから鉱脈が存在せず、まったくの偶然でしか手に入らない真珠は、あらゆる宝石の中で最も貴重なものだった。

 そして時の総館長(コントール・マスター)はその真珠を教会に差し出したのである。このほかにも様々な宝石や貴重な工芸品など数多くの品物を寄付したらしいが、その中で最も貴重だったのは、間違いなくこの真珠である。

 そしてこの時から教会とルティスの蜜月が始まった。教会の後ろ盾を得たルティスはオークトランドから半ば独立した貿易港となり、教会と強く結びついて彼らが求める品物を揃え供給することで貿易港としての地位を不動のものにした。

 そしてこの百二十年間、教会はずっとルティスの一番の上客である。その代わりルティスは毎年協会に多額の寄付を行い、またそれと同額かそれ以上の金を枢機卿たちに送っている。正しく金で結びついた関係といえるだろう。

 ちなみに、ルティスから教会の総本山であるアナトテ山に物資を輸送するには、必ずオークトランドの領内を通るため、オークトランドも間接的にルティスの恩恵に与っているといえる。

 それはともかくイストたちがやって来たのはルティス島のほうだ。ここで東に向かう船を捜すのである。

「見つかりませんでしたね………」

 少し気落ちした様子で、ニーナがそういう。小一時間ばかり港で船を探してみたのだが、なかなか条件に合う船は見つからなかった。

 いや、東に向かう船ならあるのだ。しかし彼らの目的地はオルレアンのナプレス、つまりレスカ・リーサルの工房「ヴィンテージ」だ。オルレアンといえば極東の一歩手前で、ここルティスから直接そこまで行く船はなかなか見つからなかった。

 見つからないまま小腹が空いてきたので、とりあえず適当な食堂で昼食を食べようということになり、今三人は席ついていた。

「ま、急ぐことは無いさ。直接オルレアンまでいけるのが一番いいけど、別に途中まででもいいんだし」

 気楽な様子でイストがそう言う。最悪歩いていけばいいのであり、それを考えれば途中までも船に乗れれば儲け物だ、とイストは考えていた。

「それよりおっさん、さっきから考え込んでいるみたいだけど、何ごと?」

 深刻な様子ではないにしろ、ジルドは先ほど港を見てきてから何かを考えている様子だった。

「いや………、少し寂れたように思えてな」
「おっさんは前にもここに来たことがあんのか?」
「うむ、五,六年前になるか………」

 その頃と比べると、港に停泊している船の数が減ったように思えるという。

「気のせいじゃないよ。実際、ここ最近船の数がめっきり減った」

 注文しておいたお任せランチを三人分お盆に載せて、食堂の女将さんが会話に加わってくる。

「それでこんなに空いてるのか」

 イストが見渡す食堂の中は空席が目立つ。彼らの他に客はどこかの制服を着た一人しかいない。

「いや、それは時間がずれているから」

 苦笑してイストの冗談を軽く流しながら、女将さんはランチがのったプレートをそれぞれの前においていく。

「ま、船が減ってお客の数が減ったのは確かだけどね………」
「理由に心当たりは?」

 ジルドが女将さんに尋ねる。

「さてねえ………。そういえばアルジャークがシラクサと交易を始めるって聞いたから、そっちに船が流れているのかもねえ………」

 女将さんはそう呟きランチを手早く並べ終えると、「ごゆっくり」と言い残してカウンターの向こうに戻っていった。

「どう、思いますか?」

 アルジャークとシラクサが交易を拡大させるという話は、すでにイストたちも聞いている。そしてつい最近、通商条約的なるものも発効したと聞く。

「影響が無いわけじゃないだろうが、多分外れだろうな」

 仮にそのせいだとしたら、影響が大きすぎるし、また現れるのが早すぎる。ルティスが寂れ始めたのはもっと別の理由だろう。

「教会の弱体化、か………」
「だぶんそっち」

 ジルドの言葉にイストも頷く。

 聖銀(ミスリル)の製法流出とその後の一連の不手際により、教会は年間の活動予算のおよそ三割を丸ごと失った。加えて最近では教会が旗振りを行い、神聖四国やその周辺諸国までも巻き込んで行ったアルテンシア半島への十字軍遠征も失敗した。

 つまり今の教会はかつてないほどに弱体化しているのだ。発言力、そして経済力の面でも、だ。

 ルティスの経済に直接的な影響を及ばしているのは金銭的な問題のほうだろう。聖銀(ミスリル)の製法を失ったことで教会は“遊ぶ金”を失った。そしてその“遊ぶ金”の大部分がルティスに流れてこの貿易港を潤していたことは客観的な事実である。つまり極論を言えば、その金こそがルティスを一大貿易港たらしめていた源泉なのである。

「だけどどっかの誰かが聖銀(ミスリル)の製法を暴露しちゃったからな~」

 源泉が枯れた川は、干上がるしかない。加えて十字軍遠征の失敗も教会財政の悪化に拍車をかけている。

「もしかして聖銀(ミスリル)の製法を暴露したのって師匠じゃないですよね?」

 ランチを食べながら、ニーナが「嫌なことを思いつた」といわんばかりにイストに尋ねる。

「そうだ、と言ったらどうする?」
「………師匠ならやりかねないと納得します」
「信頼していただけてなによりだ」

 してません諦めるだけです、と渋い顔をする弟子を笑い、イストはスープを啜った。コンソメ風味の優しい味だ。

「この先どうなると思う?」

 パンに鶏肉のソテーを挟めて食べながら、ジルドが尋ねる。

「ルティス?それとも教会?」
「両方、だな」

 そうだな、とスプーンを行儀悪く回しながらイストは呟き、少しの間考え込んだ。

「ルティスは………、少なくとも今のままなら教会次第だろうな」

 教会が崩壊すればルティスもそれに巻き込まれて廃れていくだろう。逆に教会が息を吹き返せばルティスも繁栄を取り戻すだろう。

「で、肝心の教会だけど………、落ち目だな」

 まあこれはオレの独断と偏見だけど、とイストは付け加えた。しかしその独断と偏見は今日の多くの人々が共有しているだろう。

 聖銀(ミスリル)の製法が流出したことで経済力が弱まり、自らが旗振りした十字軍遠征が失敗したことで今度は発言力も低下している。加えて十字軍遠征の失敗は神聖四国を始めとする教会勢力全体にダメージを与えており、それは教会の基盤そのものが揺らいでいることを示している。

「教会はでかくなり過ぎたんだ。しかも中身が伴っていない」

 イストの言う中身とは、恐らく国土や国民、あるいは商売などのことを言うのだろう。教会は宗教組織であり、したがってその組織に生産性など無い。あるいはその“中身のなさ”が拡大を容易にしたのかもしれないが、しかし今は中身が無いゆえに自立することさえも難しくなってきている。

「泡みたいなもんさ。針を刺せばパンッと割れる」

 イストは皮肉を利かせてそう言った。

 彼の話を総括すれば、
「教会はこの先弱体化し、その教会を一番の上客にしていたルティスも一緒に寂れていく」
 ということになる。

「ルティスは寂れていく、か………」
「このまま教会に依存し続ければそうなるだろうな」

 もしかしたらジルドは、ここルティスになにか思い入れがあるのかもしれない。彼の言葉にはルティスがすたれていくことへの寂しさが窺える。

「………ルティスが寂れたままにならないためには、どうすれば良いのだろうな………?」

 昼食を食べ終え女将さんが持ってきてくれた紅茶を飲んでいると、ジルドがそんなことを呟いた。

「そうだな………、アルジャークと手を組むっていうのはどうだ?」

 今、クロノワは恐らく三つ目の海上拠点を探している。そしてルティスはカルフィスク・シラクサに次ぐアルジャークの三つ目の海上拠点として最適だ、とイストは言う。

「どういうことですか?」
「兵法の考え方に、『敵の拠点を落とす場合、三つ目にどこを落とすかが重要だ』というものがある」

 一つ目と二つ目の拠点を結ぶ延長線上の拠点を落としてもそれは線にしかならず、どこか一点を切られてしまうとそこから先は補給線が途絶えることになる。だから三つ目の拠点は面を作るようにして選ぶのが良い、とされている。

 イストは地図を取り出しカルフィスクとシラクサ、そしてルティスの位置に「光彩の杖」で光玉を置いた。そして三つの光玉を結び三角形を作る。その三角形の面積は、目算ではあるが大陸の三分の一以上あるだろう。

「つまり、ルティスを三つ目の海上拠点にすれば、この三角形の内側がアルジャークの海における勢力圏になるわけだ」

 もっとも、陸上とは違い海上には土地とそれに付随する生産活動がない。陸上でいうような勢力圏が築けるかは不透明だ、とイストは分析して見せた。

「………いや、陸上と違い組織を簡略化できるからこそ、より強固な勢力圏となる可能性もある」
「なるほど。それは思い至らなかった」

 ジルドの指摘にイストは素直に頷いた。

 まあ勢力圏うんぬんはともかくとしても、海上交易を拡大させようと目論むクロノワにとって、そのための拠点は多いほうがいい。ならば貿易港として大陸でも三指に入るこのルティスに目をつけるのは当然のことだろう。

「しかしアルジャークが対等に相手をするかな」
「しないだろうな」

 どれだけ規模が大きくともルティスは一貿易港にすぎない。そんなところと今や大陸の東に覇をとなえる大国となったアルジャークが対等な関係を結ぶわけがない。したがって手を結ぶためには、ほとんど身売りする覚悟が必要になる。

「商館(コントール)は嫌がるであろうな」

 教会の後ろ盾があったおかげとはいえ、ルティスはこれまで独立と自治を守ってきた。いずれの国にも属していないことが商売をやり易くしてきたという側面は確かにあり、それが崩れることを商館(コントール)が嫌がるのは目に見えている。

 一定の自治権を守った上でアルジャークと手を結べるような、そんな都合のよい策はないのだろうか。

「ないこともない」

 イストがそう言うと、ジルドは「ほう」と面白そうに呟いた。

「今の総館長(コントール・マスター)には令嬢がいただろう?たしか………」

 名をマリアンヌという。今年で十五歳であったはずだ。なんでもルティスの至宝と謳われるほどの美貌だとか。

「そのマリアンヌ嬢をクロノワに嫁がせればいい。正室は無理でも側室ならいけるんじゃないのか」

 そうすれば総館長(コントール・マスター)は皇帝の外戚となり、ルティスはアルジャーク帝国内でも特殊な位置づけになる。完全な自治権を得ることは難しくとも、例えばヴェンツブルグと同じような立場を得ることは可能なはずだ。

 と、イストがそこまで話すと、店の奥に座っていた客が紅茶を飲み干してあわただしく立ち上がった。

「女将、勘定を頼む」

 急いだ様子で勘定を済ませると、彼は足早に食堂を出て行った。

「………今の男、制服着てたろ?」
「ああ。………ということは商館(コントール)の職員か………」

 ルティスにはさまざまな商家や商会が存在するが、そのなかでも職員に制服を支給しているのは商館(コントール)だけだったはずだ。

「イスト、今の話、もしやわざと聞かせたな?」
「さあ?どうだか」

 イストはすっ呆けたが、その口元には面白そうな笑みが浮かんでいる。それを見たジルドとニーナは疑惑を確信に変えた。

 恐らく商館(コントール)のほうでも、今の教会とルティスの状況が良くないということは認識しているのだろう。それを打開するために、商館(コントール)の上のほうでは頭を捻っているはずである。あの男がどの辺りの役職なのかは分らないが、ここで聞いた話を自分の案として上司に話すぐらいはやりそうである。

「でも師匠が言ったみたいに上手くいきますか?」
「さあな。いかない公算のほうが大きいんじゃないのか」

 ルティスがアルジャークに接近する、という線はあるにしても、マリアンヌ嬢をクロノワに嫁がせる、という案は現実味が薄いように思える。側室であっても「格が低い」と突っぱねられる可能性はあるし、それ以前にクロノワが側室を設けることを嫌がるかもしれない。

「そんな無責任な」
「金貰って献策してるわけじゃないんだから、無責任ぐらいでちょうどいいんだよ」

 イストはそれこそ無責任に言い放った。

「さて、オレたちもそろそろ行くか。船探さないとな」

 勘定を済ませて食堂を後にすると、イストたちはもう一度港へ向かった。

 この先、確かにアルジャークとルティスは互いに接近することになる。だが、その話はまた別の時、機会があれば語ることにしよう。





***********************





 ルティスから海路でラトバニアまで着たイスト一行は、そこから沿岸伝いに徒歩で移動して東のポルトールに入った。

「親父さんとこに寄っていくか?」

 ニーナの故郷はポルトールのパートームという街である。そこでは彼女の父親であるガノス・ミザリが魔道具工房「ドワーフの穴倉」を営んでいる。

「いえ、お父さんに会うのは、一人前の魔道具職人になってからです」

 ニーナはそういって故郷に帰ることはしなかった。何もかもが中途半端な今のままでは、とてもではないが故郷に帰る気にはなれなかった。

 さて、彼らが今いるのはポルトールのサンサニアという港町である。この辺り、というよりもポルトールの沿岸地方一帯は先の内乱以降ティルニア伯爵家の領地となっており、この港町で伯爵家の娘婿であるランスロー・フォン・ティルニア子爵が新たな領地の運営を行っていた。

**********

 内戦後のランスローは充実した生活を送っているといえる。内戦の後処理が終わると、ランスローはすぐに妻であるカルティエを連れて新たな領地、つまり沿岸地方に移り住んだ。新領地はこれまでの領地から見ると飛び地であり、移らなければ運営がしにくかったのだ。

 無論、ただ税を取り立てるだけならば代官を派遣すればよい。しかしランスローはそうはせず、そこに移り住み腰をすえてその新領地の運営をすることにしたのだ。

 理由はいくつかある。

 ポルトールという国にとって、海岸部は辺境である。それはただ単に政治的中心部と距離が離れている、というだけのことではない。基本的に開発と発展が遅れた、正真正銘の田舎なのだ。

 無論、海岸沿いには塩田が幾つも存在し、その周辺はある程度ましである。しかし塩田は他の貴族たちが管理しており、ランスローの管轄外である。

 つまりティルニア伯爵家が新たに手にした領地は「辺境のただ広いだけの何もない土地」というのが一般的な見方であった。

 ランスローもこの意見に反論は無い。しかし開発が遅れているということは、言い換えればランスローの手腕如何でいくらでも発展させていくことが出来る、ということでもある。それは彼にとって、とてもやりがいのある仕事に思えた。

 しかし彼のその考えは、一方で国政のゴタゴタに巻き込まれたくないという極めて個人的な願望の裏返しでもあった。

 ランスローはティルニア伯爵家の婿養子であり、彼の実の父は今や宰相になったアポストル公爵である。さきの内乱で彼と対立していたラディアント公爵が死んだ今、彼は国内最有力者となっていた。

 アポストル公爵家の三男として幼い頃から派閥抗争や王宮内の権力争いを見てきたランスローはもはやそういった世界にうんざりしており、新たな領地を貰ったこの機会に辺境に引きこもる腹積もりでいた。

 しかし、言ってしまえばこれはランスローの個人的な願望に過ぎない。彼としても、妻のカルティエをそれに巻き込むことは躊躇われた。ランスローが中央の政争に嫌気が差して距離を取りたいと思っていても、政治に直接関与していないカルティエが辺境に赴くことを嫌がるかもしれない。まして彼女は身重であった。慣れない土地が母体にどのような影響を与えるのか、医者ではないランスローには分りかねたが、少なくともよい方向には出ないように思える。

「残ったほうが良いのではないか?」

 そう言うランスローに、しかしカルティエは毅然と首を横に振った。

「ランスロー様の居られる場所が、わたくしの居場所です」

 珍しく頑固にカルティエは言い張った。さきの内戦の折、戦場を駆け回るランスローをひたすら待つことしか出来なかった彼女の辛さが、彼が離れていくことをどうしても許さなかったのかもしれない。

 ランスローは困ったような苦笑を浮かべた。自分のわがままに妻を巻き込んでしまったという罪悪感はあるが、それ以上に彼女が「ついて行く」と言ってくれたことへの喜びのほうが大きい。

 ランスローは優しくカルティエを抱きしめると、その耳元でただ一言「ありがとう」とだけ呟いた。カルティエが抱き返してくる。それで全て伝わったと確信した。

 さて、新領地運営のためにランスローが拠点として選んだのは、「サンサニア」という港町であった。気候が穏やかなこの港町には、その景観が気に入ったのか丘の上にとある貴族が立てた別荘がある。ランスローはそこを当面の本拠地とした。

 サンサニアの港町は、田舎が多い沿岸部においては比較的発展しているといえる。それは近くに塩田があったり、また細々とではあるが交易を行なっていたりするからだ。

 ともかく新たな領地に移り住むに当たって、そこにある程度の環境が整っていたことはランスローを安心させた。無論、カルティエのことを考えて、である。

 困難ではあるがやりがいのある仕事に取り組み、傍らには愛おしい人がいて支えてくれる。つい最近では大望の第一子も生まれた。女の子で、「ユリアナ」と名付けた。

 公私及び心身全てにおいて、この頃のランスローは充実している。しかし彼のタチゆえか、辺境に引きこもっていようともポルトールという国の行く末について考えずにはいられなかった。

 ただ、考えてはみても辺境にいる彼に出来ることは少ない。そのことを自覚しているために、国の将来を思う時、彼の胸のうちには自嘲の念がある。

 しかし、考えずにはいられない。なぜなら、今が最大のチャンスなのだ。

(今しか………、今しかないのだ………!)

 執務室として使っている一室で、駒の並べられたチェス盤を前にランスローは内心でそう唸った。時刻は夜半過ぎ。部屋の中には小さなランプが一つあり、弱々しく輝いて闇に抵抗しチェス盤を照らしていた。開け放った窓からは月明かりが差し込み、部屋の中を蒼白く照らしている。

 彼の手元には、赤ワインの入ったグラスがある。このワインは最近この沿岸部で見つけた特産品だ。葡萄の木が海からの潮風に吹かれて育つせいか独特の風味がある。また製法のためなのか淡く炭酸が入っており、飲み口が至極軽い。

 このワインを一口飲んだ瞬間、「売れる」とランスローは確信した。今はティルニア伯爵家の名前を最大限に活用して販路を拡大している。ブドウがなければワインは造れないため今すぐに増産できるわけではないが、将来のことを考えてブドウ畑を拡大したりもしている。

 ふと、風が吹きカーテンが揺れた。

「チャンスは今しかない。どうするんだ?」

 その声は窓の外から聞こえた。ランスローが視線をそちらに向けると、男が一人、バルコニーの手すりに腰掛けていた。月明かりの下では、その容貌は良く見えないが長い杖を一本持っていた。

「何者だ?」

 警戒を込め、問う。いやこの男が何者であっても、不審者であることには変わりない。人を呼ぶべきかとランスローが逡巡したその一瞬、バルコニーに現れた男は彼にとって無視し得ない言葉を発した。

「ポルトールがカンタルクの属国という立場から抜け出すチャンスは、今しかない」

 そう言われた瞬間、ランスローの思考は一瞬ではあるが停止した。それは、今まさに彼が考えていたことだったのだ。

「チェスでもしながら、話だけも聞いてみないか?」
「………いいだろう。聞かせてもらおうか」

 んじゃ失礼して、と言って男はバルコニーから室内に入ってきた。チェス盤を挟んでランスローの向かいに座るが、やはり顔はぼんやりとしか見えない。しかし、なぜかランスローはもっと明りをつけようとは思わなかった。

 男は、イスト・ヴァーレと名乗った。

(まあ、偽名だろうがな………)

 この場で本名を名乗るとしたら、よほどの馬鹿か、よほどの阿呆か、よほどの大物か。ランスローの見立てでは、目の前の男はそのいずれでもないように見えた。

 イストと名乗った男はおもむろに煙管を取り出すと、口にくわえて吹かしだした。すぐに火皿から白い煙が立ち上り始める。

「タバコは遠慮してもらいたい」

 カルティエがタバコの臭いを好まないため、ティルニア伯爵家では全面禁煙となっている。

「ん?ああ、こいつは『無煙』といって禁煙用の魔道具だ。本物のタバコじゃないから大丈夫だよ」

 煙も水蒸気だし、とイストは笑った。本物ではなくとも目の前で煙管を吹かされるのはランスローにとって気持ちのいいものではない。ただイストの言うとおり、タバコのあの臭いは少しもしない。

(まあ、これくらいは我慢してもよいか………)

 チェスが始まる。先攻はイストだ。彼は黒の歩兵(ポール)を二マス動かした。

 しばらくの間、二人は黙々とチェスを指した。カツン、カツン、と駒が盤を叩く音だけが部屋の中に響く。

(嫌な指し口だ………)

 チェスを指しながら、ランスローはそう思った。イストの指し方は一見して隙が多い。しかし良く見るとその隙は全て罠なのだ。迂闊に手を出そうものなら、あっという間に形勢は不利になってしまうだろう。その罠を避けるようにして、ランスローは慎重に白の駒を動かしていく。

 ランスローにはそういう指し方の一つ一つが、このイストとかいう男の人格を表しているように思えてならない。チェスの指し口だけで全てを判断できるわけではないが、いずれにしても油断のならない男だろう。

「ポルトールの今の状況は………、良くないな」

 左手で白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す「無煙」を玩びながら、おもむろにイストは口を開いてそういった。

「そのとおりだ」

 ランスローもイストの言葉を否定しない。実際、今のポルトールの状況は良くない。いや、それどころかここ五十年ほどで最悪と言ってもいい。

 全ての原因は先の内乱だ。

 あの内乱ではポルトール人同士が殺し合い、結果国力を損なった。もっともダメージが大きいのは軍事力だ。軍閥貴族の多くが滅んだことで、ポルトールは有能な指揮官を数多く失った。要を失った扇は開かない。今のポルトール軍はどれだけ精兵をそろえようとも満足に戦わせることが出来ないのだ。

 さらに内戦の後、ポルトールは因縁の敵国であるカンタルクに毎年十五州分の租税を年貢として納めることになり、さらにカンタルクの監査団によって内政にまで口出しをされることになった。これは事実上の属国扱いである。

「一度属国の立場に甘んじてしまえば、自力でその首輪を外すことは難しい」

 軍事力を増強しようとすれば、監査団に知られて横槍を入れられるだろう。いや、それ以前に毎年十五州分の租税を納めることになっている。ポルトールの版図は六七州。つまり国家収入のおよそ四分の一を毎年持っていかれるのだ。これでは国を富ませて力を蓄えることは難しい。

 加えてつい最近では、アルジャークへの賠償金の一部をポルトールは負担させられている。この調子でこの先も金をせびられては、もはや国は痩せる一方だ。

「そうだ。だからこそ属国という立場から抜け出すには、今しかない」

 カンタルクは今、先のオルレアン遠征失敗によって国力が弱まっている。それはポルトールとカンタルクの差が縮まったという意味でもある。そしてここが重要なのだが、この先二国間の国力差は開くことはあっても縮まることはないであろう。

 ゆえに、今が最大のチャンスなのである。今行動を起こさなければ、少なくともランスローが生きている間は属国の地位に甘んじ続けなければならない。彼のその思いは、もはや確信に近かった。

「今のカンタルク相手なら、ポルトールは勝てるのか?」
「無理だな」

 煙管を吹かしながら問うイストに、ランスローは即答した。仮に十万の兵を揃えたとしても、彼らを統率する部隊指揮官が絶対的に足りない。今軍を動かしても、それは烏合の衆にしかなりえないのだ。

 加えて、カンタルクとの国境を守っていたブレントーダ砦は、今はカンタルクの砦になっている。「守護竜の門」こそなくなったが、それでもこの砦は堅牢で、内戦以前のポルトール軍をもってしても攻略には一苦労するであろう。

 以上の二つを考え合わせれば、今カンタルクに対して戦端を開いても勝てる可能性は限りなくゼロに近い、と言わざるを得ない。

 では、カンタルクの属国でなくなるには、どうすれば良いのか?

「アルジャーク帝国と同盟を結ぶ。これしかあるまい」

 それがランスローの出した結論だった。

 アルジャークがポルトールとの同盟に乗り気ならば、カンタルクが横槍を入れて邪魔をしてくることはないだろう。カンタルクはアルジャークに負けたばかりで、再び喧嘩を売るような真似はしたくないはずだ。売っても負けるのが目に見えている。

 そして同盟さえ結んでしまえば、後はアルジャークの軍事力を当てにしてカンタルクを牽制することができる。そうすればもはや毎年十五州分の租税を年貢として貢ぐ必要も、また監査団に内政干渉されることもなくなる。

 晴れて、カンタルクの属国という立場から解放されるのである。

「問題は、どうやってアルジャークを乗り気にさせるか、だな」
「うむ………」

 イストが「無煙」を吹かしながら黒の騎士(ナイト)を動かし、白の僧正(ビショップ)を盤上から除く。ランスローは少し考えてからその黒の騎士(ナイト)を白の城(ルーク)で取る。

 アルジャークにとってポルトールは「敗戦国の子分」という位置づけで、そのような相手とまともな同盟を締結してくれるとは思えない。

「一応、オルレアンと同盟を結ぶっていう選択肢もあるけど?」
「下策だな」

 ランスローはそう切り捨てた。ポルトールがオルレアンに接近すれば、必ずやカンタルクが横槍を入れてくる。そうなれば同盟を結ぶとしても三国同盟の枠組みになってしまい、結局カンタルクが主導権を握り、ポルトールは属国から抜け出すことは出来ない。

 それに、オルレアンはつい最近アルジャークと友好的な関係になったばかりだ。それを蹴ってまでポルトールやカンタルクに接近することは考えられない。

 西のラトバニアという選択肢もあるが、かの国は神聖四国の十字軍遠征失敗による混乱を受けて情勢が不安定になってきている。心強い同盟相手とはいえないし、ともすれば神聖四国の混乱に巻き込まれる可能性もある。

 となれば、やはりアルジャークしかない。

「対等な同盟を結ぼうとしても相手にしてもらえないのは目に見えている。ならば、何かを差し出すしかない」

 何を差し出すか。結局のところ、これが最大にして唯一の問題点だ。

 例えばオルレアン。この隣国は近頃、アルジャークと通商条約を締結した。この条約に軍事的な内容は含まれていないが、友好国となった以上有事の際にはアルジャークはオルレアンに味方するだろう。

 それはともかくとして。オルレアンとアルジャークが締結した通商条約はかなり公平な内容であった。しかし、オルレアンはなんの対価もなしにこの条約の締結にこぎ付けたわけではない。

 オルレアンはカンタルクとの和平交渉と、それに伴う賠償金の全てをアルジャークに譲っている。実際にカンタルクと戦い退けたのはアルジャークなのだから当然といえば当然なのだが、少なくとも交渉を行う権利は直接宣戦布告を受けたオルレアンにあるはずなのだ。

 言ってみれば、オルレアンはその権利をアルジャークに譲ることで、通商条約での譲歩を引き出したのだ。ならばポルトールもそれに相当する何かを差し出さなければ、アルジャークと同盟を締結することは難しい。

 直接国境線を接していない以上、国土を割譲することは出来ない。アルジャークにしてもそれは迷惑だろう。

 ならば金だろうか。カンタルクの賠償金に倣って一億シク支払えばアルジャークも乗り気になってくれるかもしれない。しかし現実問題として今一億シクを用意するのは難しい。今のポルトールの国庫は空っぽだ。用意するとしたら貴族たちに声をかけて捻出してもらうことになるだろうが、彼らは身銭を切ることは嫌がるだろう。

 となれば同盟の条件面で妥協するしかない。カンタルクに毎年治めることになっている十五州分の租税をアルジャークに差し出すという選択肢もあるが、これは今無理をして一億シクを用意することよりも分が悪い。同盟を結ぶ意味が薄れてしまう。

 結局、八方塞がりなのだ。その上、アルジャークがポルトールに求めるものが分らない。それが分らないことには、交渉で主導権を握ることなど出来ない。

「なに、そう難しいことでもない。ヒントは色々と転がっているさ」

 イストは軽い調子でそういい、黒の城(ルーク)を白の陣地に入れた。

「まずは、そうだな。なぜアルジャークはカンタルクに国土の割譲を要求しなかったと思う?」

 イストの問いかけは、ランスローも気にしていたことだった。キュイブール川の戦いでカンタルク軍を退け、ルードレン砦を奪還したアルジャーク軍はその時点で圧倒的優位にあった。にもかかわらずアルジャーク軍はカンタルク領内に攻め入ることをせず、講和条約を結んだ。

 その講和条約も、ただ賠償金を得ただけでカンタルクの国土は一片たりとも要求しなかった。あれだけの優位にあったにもかかわらず、である。

「つまりアルジャーク、というよりクロノワはカンタルクの国土には興味が無かったことになる。なぜだろうな?」

 カンタルクを神聖四国の混乱に対する防波堤にしたかったのではないか。ランスローはそう思ったが、すぐに自分の考えを否定した。完全に併合するならばともかく、オムージュ領に接した部分を十州程度割譲させたくらいでは、神聖四国の影響は小さいと見るべきだ。

「オルレアンとの通商条約を早く締結したかったから、か………?」

 そして恐らくは、戦争を早期に終結させ、経済活動を早く安定させたかったからでもある。

「さて次の質問だ。アルジャークの経済における主眼は、今どこに向いている?」
「………海、海だ」

 アルジャークはシラクサとの間にも通商条約を結び、交易を本格化させようとしている。さらにカルフィスクを手に入れたことで、海上交易を行う環境はさらに整った。

「オルレアンとの通商条約でも、海上貿易に関する部分では随分と譲歩させたらしいな」
「ああ、そのとおりだ」

 港の優先的な使用権などだ。もっともこれらの措置は不平等というほど不利なものではなくオルレアンにとっても利があるもので、友好国への特別の配慮というべきものだ。

「アルジャークは、いやクロノワは海上に勢力を拡大させたがっている。となれば何を差し出せばいいのか、決まったようなものだろう?」
「ポルトールの海における利権、あるいは権利、か………」

 極端に言えばポルトールの海をアルジャークにくれてやればいいのである。ポルトールは海岸部が発達していない、つまりこれまで海にほとんど目を向けてこなかった。その海をくれてやったとしても、国内からの反発はほとんどないであろう。

 またポルトールの海岸部はすべてティルニア伯爵家が、つまりランスローが管理している。これならばほとんどランスローの一存で全てを決めることができる。

「お前さんにとってもいい話なんじゃないのか、これは」
「そうだな………」

 ランスローが独自に海上交易を始めることは難しい。他にもやることが沢山あるからだ。しかしアルジャークの海上貿易圏にポルトールも含まれるようになれば、商船は自然に集まってくるようになるだろう。後は商人を集めるための特産物があればなお良い。

「さて、詰み(チェック・メイト)だ。結論も出たようだし、いい頃合だな」

 盤上では黒の僧正(ビショップ)が白の王(キング)に王手(チェック)をかけている。逃げ道は黒の城(ルーク)と女王(クイーン)によってふさがれている。

 詰んでしまった盤をランスローは睨みつける。しかし彼の目にチェスの駒はもはや映ってはいなかった。

「お前の目的は何だ?」

 盤上を睨みつけたままランスローがイストに問う。しかしいつまでたっても答えは返ってこない。不審に思い目を上げると、向かいのソファーにはもはや誰も座ってはいなかった。バルコニーに視線をやっても、人影は見当たらない。現れたときと同じく唐突に、イスト・ヴァーレは姿を消したのだった。

「ふう………」

 体の力を抜き、ランスローはソファーの背もたれに体を預けた。それからグラスに残っていたワインを飲み干す。

「………海。海、か………」

 小さなその呟きは、月明かりに溶けていった。

**********

 アルジャークとカンタルクの講和条約が成立してから少しして、ランスロー・フォン・ティルニアはアルジャークに接近し始めた。その目的はポルトールをカンタルクの属国という立場から解放することである。

 とはいえ、彼は一人でことを運ぶことはしなかった。まず、叔母であり王太后のミラベル・ポルトールに話をし、彼女を通して父である宰相アポストル公爵に協力を仰いだ。直接父親に話を持っていかなかったところに、ランスローの彼に対する屈折した気持ちが窺える。

 まあ、それはともかくとして。アルジャークとの同盟はカンタルクの監査団には極秘で進められた。ランスロー一人では難しかったかもしれないが、やはり宰相であるアポストル公の協力が得られたことが大きい。

 さらに幸運だったことは、ポルトールが同盟に向けて動き出したときに、クロノワ・アルジャークがまだカレナリアのヴァンナークにいたことである。これにより二国間の打ち合わせにかかる時間が大幅に短縮された。

 アルジャークとポルトールの同盟は、最初の打ち合わせからおよそ一ヶ月で締結された。ポルトールはもともと望んでいたものだし、アルジャークにとっても損のないものだったからだ。

 同盟の締結はカレナリアのヴァンナークで極秘裏に行われた。無論、カンタルクにこの同盟を嗅ぎ付けられないようにするためである。ポルトール側の大使はランスロー子爵であり、国王マルト・ポルトールの名前が入った全権委任状がわたされていた。もっともこれを用意したのは宰相アポストル公だったのだが、ともかくこの同盟の締結がポルトールという国家の意思であることを保障したのだ。

 この同盟の締結により、アルジャークは今後百年にわたってポルトールの海を自由に使えるようになった。ポルトール領海の自由な航行や港の優先的な使用、さらに将来的にはアルジャーク海軍を駐留させることも可能であった。

 ほとんどポルトールの海をアルジャークに差し出したようなものである。とはいえ、少し先の話になるが、このことでポルトール国内の貴族からの反発はまったくなかった。彼らは海というものをまったく軽視していたし、海に面する土地は全てティルニア伯爵家の領地となっていたからだ。

 さて、同盟は締結された。次はそのことをカンタルクに知らしめ、ポルトールから手を引かせなければならない。

 クロノワ・アルジャークはカルヴァン・クグニス将軍に命じて、二千の兵を率いてランスローと共にポルトールの王都アムネスティアへ赴くように命じた。

 カルヴァン将軍はその命令に従い海路でポルトールのサンサニアへ向かい、そこから街道をゆっくりと北上して王都アムネスティアへ向かった。サンサニアにはあらかじめ案内役として王都近衛軍の一部隊が来ており、街道を進むそれらの軍勢の先頭にはアルジャークの旗とポルトールの旗が共に翻っていた。これにより両国は同盟の締結を内外に示したのである。

 大いに慌てたのは王都アムネスティアにいたカンタルクの監査団である。彼らにとってこの同盟はまさに青天の霹靂であった。彼らは混乱している間にポルトールの兵によって捕らえられ、一つの屋敷に軟禁された。これはアポルトル公から要請を受けた王都近衛軍司令官エルトラド・フォン・ジッツェールの仕事である。

 監査団の軟禁からおよそ五日後、ついにアルジャーク軍が王都アムネスティアに入った。この時アムネスティアの人々はこのアルジャーク軍を熱狂的に歓迎した。歓迎の指示自体はアポルトル公によって出されていたのだが、その指示を上回る熱狂ぶりであった。

 つまり、ポルトールの国民にとってカンタルクは未だに“因縁の敵国”だったのだ。その敵国の属国に甘んじなければならないことは、国民の大多数にとっても屈辱であり、その屈辱から解放してくれるアルジャーク軍は正しく救世主であった。

 一通りの歓待を受けた後、カルヴァンは軟禁されているカンタルクの監査団と面会した。殺されるのではないかと青白い顔をしている彼らに、カルヴァンは簡潔にこう言った。

「我がアルジャーク帝国とポルトール王国は同盟を締結した。この先、アルジャーク帝国は我が同盟国になされる悪意ある干渉を一切容認しない。よって方々は速やかにカンタルクに戻られるがよかろう。この先、カンタルクには理性的な対応を期待する」

 これはポルトールが毎年治めることになっていた年貢の支払いと内政干渉の拒否の表明であった。この宣言がなされた瞬間、ポルトールはカンタルクの属国という立場から解放された、といっていい。

 監査団が逃げ帰ってきたカンタルクは、しかし動かなかった。いや、動けなかったといったほうが正しい。

 今兵を催してポルトールに攻め入れば確実にアルジャークが動くだろう。それどころかオルレアンまで動くかもしれない。そうなればカンタルクは一度に三国を相手にしなければならなくなる。とてもではないが勝ち目はない。カンタルクは属国を失うのを歯軋りして見ているしかなかった。

 少し将来の話になる。この先アルジャークの海上貿易の拡大に伴って、ポルトールも急速な経済成長を遂げることになる。その恩恵を最も受けたのはポルトールの海岸部を独占しているティルニア伯爵家であり、ランスローの手腕もあって伯爵家は国内でも有数の経済力を持つ貴族になった。さらにランスローが伯爵家を継いだ時には侯爵へと爵位が引き上げられ、こうしてティルニア家は名実共に大貴族となったのである。

 またアポストル公爵が病により宰相位を辞さなければならなくなったとき、次に宰相位についた(押し付けられた?)のは、なんと当時まだ子爵であったランスローであった。これは彼が持つアルジャークとの太いパイプを期待してのことであり、彼が宰相であった期間は両国にとって最大の蜜月であったと後の歴史家たちは評価している。

 国政に関わることを嫌い辺境に引きこもろうとした彼が、しかし宰相という国家の重臣となって王佐の才を発揮したというのは、なんとも奇妙な話だといえる。

「煙管を吹かした不審者に騙されたんだ」

 自分の領地の自慢の特産品であるワインを飲みながら、彼はそんなふうに愚痴を零したという。

 さて、ここから先は少し余談になる。カンタルクの話である。

 この先、カンタルクはあらゆる面で弱体化していくといっていい。その責任はまず国王であったゲゼル・シャフト・カンタルクにあるのだろうし、また当時の世界情勢も原因になるのだろう。

 とある歴史家がこんなことを書いている。

 曰く、
「かつてカンタルクはウォーゲン・グリフォード大将軍の『傾国の一手』と呼ばれる謀略によってポルトールの内戦を煽り、ついにはかの国を属国とした。その内戦の結果としてティルニア伯爵家は海岸部の全ての土地、つまりポルトールの海を手に入れ、それが後にかの国とアルジャークを結びつけることになった。

 アルジャークと同盟を結んだポルトールは、急速な経済発展を遂げることとなる。一方でカンタルクは落ちぶれていき、“因縁の敵国”同士の力関係が逆転して今は久しい。はたして『傾国の一手』が傾けたのは、どちらの国であったのだろうか………」





*************************





 イスト一行はポルトールの海岸部を西から東へ横断し、ついにオルレアンに入った。イストにとってはおよそ二年ぶりのオルレアンである。

「ところでイスト、太刀を依頼したのはどんな工房なのだ?」

 ふとジルドがそんなことを聞いた。オルレアンのナプレスにある工房だと以前に話しておいたが、それ以外のことは教えていなかった。

「工房の名前は『ヴィンテージ』。オレの友達で、『レスカ』っていう腕のいい鍛造の職人がやってる」
「ほう………」
「へぇ………」

 ジルドとニーナが驚いたような声を漏らす。ジルドはイストが「腕のいい職人」と称したレスカに興味を持ったようだ。彼はイストの素体に要求するレベルが高いことや、以前に使っていた「光崩しの魔剣」が刀剣としても優れていたことを知っている。期待が高まっている様子だ。

 ただ、ニーナが食いついたのは別の部分だった。

「友達、いたんですね………、師匠」
「よし。次の試験は不合格だ」
「ええ!?なんですかその横暴!」
「うるせ。師匠の人格ナチュラルに否定しやがって」

 しみじみと驚いていたニーナはイストの言葉によって、焦り、落ち込み、と忙しく表情を変化させる。がっくりとうなだれる弟子を、師匠であるイストは禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら(恐らく意図的に)無視した。

 ちなみに、ニーナの次の試験は本当に不合格にされた。

**********

 カツーン、カツーン、と金属を打って鍛える音が、刈り入れが終わり少し寂しくなった麦畑の中に響く。オルレアンのナプレス。この地域は農業が盛んで、収穫期には豊かな大地の実りを求めて多くの商人がこの都市を訪れる。ただ収穫期を過ぎたこの時期に活気は見られず、どこか老成したような雰囲気を人々に感じさせる。

 ナプレスの市街地と農地の境目くらいのところに、一見の工房がある。工房の名前は「ヴィンテージ」。元々はブドウの収穫年号やいわゆる「当たり年」を表す言葉なのだが、その派生として一級品や名品を表す言葉としても用いられている。

「いい物しか作らない」
 という、工房主であるレスカ・リーサルのこだわりと誇りが表された名前だ。鋳造の技術が発達したこの時代にあって、鍛造での仕事にこだわる彼に相応しい名前と言えるだろう。

 さして大きくもない石造りの工房からは、カツーン、カツーン、という金属音が絶え間なく響き、煙突からは白い煙が吐き出されている。

「仕事中、か」
「そうみたいだな」

 そう判断すると、イストたち三人は工房には入らず、工房のすぐ近くに建っている民家のほうに足を向けた。

 入り口の扉をノックすると、すぐに若い女性の声で返事があり扉が開けられた。

「まあ!イストさんでしたか。お久しぶりです」

 この扉を開けたエプロン姿の女性が、レスカの妻であるルーシェ・リーサルである。思わぬ懐かしい来客に、彼女の表情がパッと華やぐ。

「ん。お久し、ルーシェさん」
「今回はお連れさんもいらっしゃるんですね」

 イストの後ろにいるジルドとニーナに気がついたルーシェが二笑いかけと、二人は簡単に自己紹介をした。

「さ、立ち話もなんですから中へ」

 そういってルーシェは三人を家の中に招き入れた。客人に椅子を勧めると、彼女は「すぐにお茶を出しますね」と言って用意を始めた。

(雰囲気が変わったな………)

 お茶の用意をするルーシェの後姿を見ながら、イストはそんなことを感じた。その最大の理由は、お茶の用意をしながらも彼女が片手に抱いて離さない一人の赤子であろう。

 二年前に会った彼女は、新婚だったせいもあるのだろうがどこかまだ女の子で、母性というものに欠けていた。しかし、こうして赤ん坊を抱く姿は当たり前の話だが母親そのものだ。

「どうかしましたか?」

 イストの視線に気づいたのか、ルーシェがイストのほうに振り返る。

「駄目ですよ、師匠。人の奥さんに手を出したら」
「………お前とは一度真剣かつ一方的に話し合う必要があるみたいだな?」
「一方的ってなんですか!?」

 イストは圧力を感じる笑顔で弟子をやり込めてから、視線を苦笑しているルーシェのほうに戻した。

「いや、泣かない子供だと思ってね」
「ああ、この子ですか」

 子供のことが話題になったのが嬉しいのかルーシェは柔らかく微笑んだ。お盆の上にお茶の用意を整えて片手で持ち、イストたちが囲んでいるテーブルの上に置く。

「あ、わたしがやります」
「そう?ありがとうね」

 ニーナがティーポットに手を伸ばすと、ルーシェは礼を言ってから椅子に座り赤ん坊を両手で抱きなおした。

 赤ん坊の名前は「ジロム」。今年で一歳になるという。

「この音を聞いても、全然泣かないんですよ」

 工房が近くにあるため、レスカが金属を鍛える音が家の中にも響いている。普通の赤ん坊であれば、泣き出しているかもしれない。

「やっぱり鍛冶師の息子で、孫なんですね」

 ついでに言えばひ孫でもある。少なくとも三代目のレスカまでは鉄を鍛えて飯を食っており、ジロムが鍛冶師になれば四代目だ。こうして考えてみると、リサール家は由緒正しき鍛冶師の家系である。

「イストさんもそろそろ身を固められてはいかがですか?」

 ルーシェがそんなことを言い出す。冗談かとも思ったが、その目はわりと本気だ。

「旅から旅への根無し草に付き合ってくれそうな相手は、なかなかいないよ」

 イストはそういって肩をすくめた。ちなみにニーナは「師匠と結婚するなんて相手の女性がかわいそうです」と思っていたが、賢明にも口には出さなかった。きちんと学習しているのである。

「そういえばお二人はイストさんとはどういう関係なんですか?」

 ルーシェが興味の色を浮かべてジルドとニーナを見た。

「わたしは師匠の弟子です」
「まあ!お弟子さんでしたか」

 てっきり恋人かと思いました、ルーシェが微笑む。ニーナはお茶を噴き出しそうになったが、何とか堪える。

「ち、違いますよ!」

 なんとか紅茶を飲み下したニーナが両手と首を激しく振って否定する。

「フラれちゃいましたよ?」

 ルーシェがイストに悪戯っぽい視線を向けるが、彼は肩をすくめただけでそれ以上は反応を示さなかった。それを見てルーシェは残念そうな表情を浮かべる。まったく、昔は他人の色恋沙汰にまで顔を赤くしていたというのに。

「それで、ジルドさんは?」
「うむ。ワシはイストの客、ということになるのかな」
「ああ、おっさんには魔剣を一本作ってやるって約束したんだ」
「ではレスカさんに依頼したのは………」
「そ、そのための素体」

 イストの言葉にルーシェは納得したように頷いた。それからしばらく他愛もない話をしていると、玄関が開き工房主であるレスカが家の中に入ってきた。

「ん?来ていたのか」
「ついさっき、な」

 家の中に風来坊な友人の顔を見つけてもレスカはあまり驚かなかった。手紙で刀を一本依頼されたときから、いずれ近いうちに来るものと思っていたのだろう。

「あ、そうそう。土産だ」

 そういってイストは道具袋から赤ワインを三本取り出した。ポルトールの港町であるサンサニアで買ったものである。イストは「魔道具じゃなくて悪いな」と頭をかいていたが、レスカは「来るたびに魔道具を持ってくるほうが異常だ」と呆れていた。ここで「そうか?」と首を捻るあたり、やはりイストの感覚は一般常識とかけ離れている。

「しかしサンサニアか。あの辺りには塩以外にめぼしい特産品はなかったはずだが………」
「なんでも新しい領主が特産品にすべく頑張ってるんだと」

 オレも飲んでみたけど美味かったぞ、とイストは言った。彼はサンサニアの宿でジルドと一本空けている。

 レスカが椅子に座ると、初めて会うニーナとジルドが再び簡単な自己紹介をする。

「すると、依頼の刀はジルドさんが使うんだな?」
「そうなる」

 イストがそう答えると、レスカは腕を組み少し考え込んだ。

「………依頼の品はもう出来ている。表で少し振るってみてもらえるか?」
「かまわないが………」

 ジルドが怪訝な様子で答えると、レスカはすぐに奥の部屋から布に巻かれた刀を一本持って来た。ジルドはそれを受け取ると、家の外に出て刀を鞘から抜いた。

「相変わらず見事だな」

 軽くそって優美な曲線を描く刀身は、鏡のように磨かれ太陽の光を反射して輝いている。刀身に浮かぶ刃紋は以前と同じく乱れ乱刃。刃は豪快ながらも、美しい透明感を持っている。間違いなく第一級の大業物だ。

「腕を上げたんじゃないのか?」
「当然だ。かといって満足したわけではないが」

 次はもっと良い物を。そういう向上心をレスカは忘れない。技術に対して貪欲である、と言ってもいい。そして彼のそういう姿勢こそが、イストが彼を鍛冶師として信頼する最大の理由だ。

 一同が見守る前で、ジルドが刀を振るい始める。その動きは流れるようで、見るものに舞を連想させた。旅の中で見慣れているはずのニーナも、思わず目を奪われる。

 おもむろにレスカが薪を放った。ジルドは動きを止めることなくその薪を捕捉し、手に持った刀を神速で一閃させた。二瞬ほど遅れて、二つになった薪が地面に落ちる。

「音が、しなかった………」

 それはつまり、ジルドの技量が極めて優れている証拠だ。

「ありがとう。もういい」

 そういってレスカが刀を振るい続けるジルドを止めた。

「あんたはもう少し長いほうが得手だな」
「そうなのか?」
「うむ、欲を言えば、な。だが、これでも不便は感じないが………」

 ジルドはそういったが、レスカは満足しなかった。
「駄目だ。使い手が目の前にいるのに最高のものを渡さないなんて、俺のプライドが許さない」

 そういってレスカはほとんど睨みつけるかのような強い視線をジルドに向けた。

「せっかくだし、作ってもらえば?」

 逡巡するジルドにイストは軽い調子で声をかけた。ジルドは悪いと思っているかもしれないが、分野は違えど同じ職人であるイストからしてみれば、これはレスカの側のわがままだ。それに刀の代金はきちんと(イストが)支払うのだからジルドが気にすることなど何もない。

「だがそうなると、この刀は無駄になってしまうのではないか?」

 ジルドが鞘に収めた刀を掲げて見せる。せっかく作り上げた、それも超一級品の名刀を無駄にしてしまうのは忍びない。

「心配ない。実は街の魔道具工房から刀を一本依頼されている。そちらにまわす」

 レスカは事もなさげにそういった。

「………では、お願いするとしよう」

 しばしの逡巡の後、ジルドはそう決断した。レスカは一つ頷くと、今度はイストの方を向いた。

「この機会だ。お前のほうでも何か要望があれば聞くぞ」
「そうだな………。魔剣にするわけだし、魔力導電率がなるべく高いほうがいいな」
「そうなると素材を代えることになるな………。それで長さを伸ばすとなると、折れやすくなるかもしれん」
「切れ味のほうは術式で何とかなるから、まずは折れないことを第一に作ったらどうだ?」
「そうだな………」

 レスカは少しの間腕を組んで考え込んでいたが、すぐに「あとで考えるか」と思考を切り替え、ジルドのほうに向き直った。

「じゃあ、ジルドさん、何本かサンプルを持ってくるから、振ってみて一番シックリくるものを選んでくれ」

 レスカに手伝わされるイストも含めて、男三人が忙しく動き始める。その様子を見ていたルーシェは優しげな微笑を浮かべた。

「さて!今のうちにご飯を作っちゃいましょう。メニューは何にしようかしら………。お土産の赤ワインに合うものがいいわよね………」
「あ、お手伝いします」

 そういって女性二人(抱かれたジロムもいるが)は家の中に入っていく。しばらくして、家の煙突からは白い煙が立ち上り始めた。

 結局男三人は日が暮れるまで外にいた。ただその甲斐あってか、作るべき刀の構想は固まったようだ。家の中のテーブルには幾つもご馳走が並べられており、腹をすかせた男たちの食欲を刺激した。

「悪いが三・四日時間を貰うことになる」

 食事の途中、土産のワインを飲みながらレスカがそういった。街の魔道具工房に刀を卸したり、新しい刀の素材を集めたりするのに少々時間がかかるという。

「かまわないよ。その間にオレも刻印する術式の最終調整を済ませるから」

 どうやらしばらくこの街に滞在することになりそうだ。頑張って作った料理を食べながら、ニーナはそう思った。

**********

 五日後、ついにジルドの刀が完成した。以前のものよりも少々長く、その分豪壮なイメージを見る者に与える。体格のいいジルドに良く似合っていた。

 値段は三五シク(金貨三五枚)。平均的な過程の月収が三~五シクということを考えると、もはや年収である。

 この値段を聞いたときニーナなどはお茶を噴き出しそうになっていたが、イストは「至極妥当な値段」だという。

「魔道具用の素材はそれだけでも値が張るからな。加えてこの業物だ。金で買えるなら安いものだよ」

 即金で金貨三五枚積み上げながら、イストはそういった。
 さらにイストはその日のうちにこの刀の下準備を済ませ、次の日には刻印を施した。

「大きい………」

 イストが展開した刻印用の魔法陣を見て、ニーナは圧倒されたように声を漏らした。普通、刻印用の魔法陣は小さけば小さいほど刻印しやすくなるといわれている。だから魔法陣が大きいということは、それだけ刻印しにくく、また術式が複雑であるということになる。それはつまり、魔道具としてはかなり高性能であることを予感させた。

 刻印に費やす時間は、客観的に見ればほんの数十秒である。しかしいつもイストは何十年にも感じる。しかも今回の仕事はここ数年では一番大きな仕事である。

 刻印を終えると、イストの全身から汗が噴き出す。イストは立っているのもおぼつかないような様子で、椅子に座り込むとしばらくは荒く息をするばかりであった。だがその顔は満足と充足で溢れている。彼のその表情が、仕事が成功したことを何よりも雄弁に語っていた。

 イストは完成した魔剣に、
「万象の太刀」
 と名付けた。

 この太刀の刀身には「光崩しの魔剣」にならって古代文字(エンシェントスペル)で言葉が刻まれた。無論、術式としての効果がないことを確かめてからである。

 刻まれたのは、
 ――――森羅に通ず
 という言葉である。

 この魔剣を持つのは、もちろんアバサ・ロットが認めた使い手、ジルド・レイドである。

 イストが作り上げジルドが振るう魔剣「万象の太刀」がどのような力を持っているか、それはまた別の機会に語ることにしよう。



[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島 プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 10:40
     人を変えられるのは
人との出会いだけだという
ならば人との別れには
どんな意味があるのだろう
再び出会うために別れるのだ

**********

第九話 硝子の島


 大陸暦1565年。この年の前後にかけてアルジャーク帝国はカレナリアとテムサニスという二カ国を併合した。そしてこの時期、歴史上に突如として「アルジャーク海軍」なるものが出現するのである。

 作られた艦隊は二つ。カルフィスクを母港とする第一艦隊。そしてシラクサに配置された第二艦隊、またの名をシラクサ艦隊である。

 規模が大きいのは第一艦隊である。しかし精鋭を集め、いわば即戦力の実戦部隊として作られたのはシラクサ艦隊のほうであった。

 シラクサ艦隊の役目を一言で要約すれば、
「シラクサにおけるアルジャークの権益を守る」
 ということになる。

 海上での勢力拡大を狙うアルジャークにとって、シラクサはまさに海上戦略における要衝であり最前線であった。ここを守り、そして海上におけるアルジャークの足場を固めるためにシラクサ艦隊は作られたのである。

 これらアルジャーク海軍の実態は、しかしお粗末なものであった。船舶から船員、仕官に至るまで、ほとんどその全てが旧カレナリア及び旧テムサニス両海軍を再編した軍隊だったのである。

 しかし、これはある意味仕方がない。

 この年から十年、いや二十年歴史を遡ってもそこにアルジャーク海軍などというものは存在せず、この時期にゼロから作り上げたものなのだから。

 一般の水兵や海兵だけでも、揺れる船の上で戦わせたり艤装の操作を覚えさせるには、専門の訓練を積ませなければならない。まして士官や航海士となれば、その人材はアルジャークには皆無であったといっていい。

 しかしだからと言って、旧カレナリア及び旧テムサニス両海軍を再編しただけの部隊では、その統制や忠誠に対して不安が残るのは間違いない。有り体に言えば一個艦隊が丸ごと反旗を翻してしまうかもしれない。特に、大陸から遠く離れたシラクサに駐留する第二艦隊に対してこの心配が大きかった。

 この時期にシラクサ艦隊が本国に対して反旗を翻せば、アルジャークが、いやクロノワが推し進める海上戦略に十年、あるいはそれ以上の遅れが出てしまうことはまず間違いない。いや、それどころか計画が致命的なダメージを被ることさえ考えられた。

 このような最悪の事態を回避するべく、シラクサ艦隊提督としていわば敵地に単身放り込まれたのが、エルカノ・オークリッドという男である。

 このエルカノを艦隊の提督としてクロノワに推薦したのは、海軍の再編を任されていたアールヴェルツェ・ハーストレイトである。

 エルカノを推薦した際にクロノワから「彼はどのような人物なのですか」と聞かれ、少し考え込んでからアールヴェルツェはこう答えたという。

「不思議な男です」

 実際、不思議な男であった。まず間違っても切れ者や策士といったタイプではない。かといって直情的で豪快な性格でもない。

「彼は、なんと言うのかな。大きな人だよ」

 こうエルカノのことを評したのは、彼と親交があったアレクセイ・ガンドールである。確かにエルカノは大柄な人物ではあったが、アレクセイが「大きい」といったのはむしろ彼の人間としての器のほうだろう。

 言ってみればエルカノ・オークリッドという人物は、「大いなる虚無」であった。ただし陰性の虚無ではない。陽性の虚無である。彼がただそこにいるだけで、人々はなぜか清々しさを感じるのである。

 逆境に追い込まれても悲観するということせず、かといって根拠がないほどに楽天家というわけでもない。

「私は運がいい人間だからね」
 というのが彼の口癖であった。

 まあエルカノという人間の分析はほどほどでよい。ともかくこのエルカノがシラクサ艦隊の提督となったのである。しかしながら彼はアルジャーク人であり、当然のことながら操船や航海術、艦隊運動や海上戦術などについてはまったくの素人である。どう考えても彼を補佐する人物が必要であった。

 エバン・ライザック、という人物をエルカノは選んだ。

 エバン・ライザックはもともとカレナリアの子爵家に連なる家柄で、貴族の身分を証明する「フォン」のミドルネームを持っていた。しかしカレナリアがアルジャークに併合され貴族という身分が有名無実の存在となったとき、彼は自ら「フォン」のミドルネームを捨てた。

 その理由を問われる度に彼は、
「縋りつくほど立派な名ではない」
 と言って切り捨てたという。

 実際、貴族とは言っても辺境の貧乏貴族でしかなかった彼にとって、血筋と生まれによって将来のほとんどが決まってしまうカレナリアの社会は窮屈でしかなかった。彼の血筋と生まれは彼の才能を生かしきることが出来ておらず、その点実力主義の風潮が強いアルジャークは彼にとって理想的な新天地であるといえた。

 実際、彼はシラクサ艦隊の言葉通り全てを取り仕切ることになる。

 ここが、エルカノの人使いの妙であった。エルカノはエバン・ライザックという優秀な部下を見つけると、後は彼がやりやすい環境を作ることに専念し、仕事自体はエバンに全て任せたのである。

「とりあえずやりたい様にやりなさい。責任は私が取ります」

 エルカノはそういって提督の印さえエバンに渡していたというのだから、その信頼の度合いが分る。

 エルカノ・オークリッドとエバン・ライザックの二人の間には、こんな逸話が残されている。

 エバンは自分を抜擢したエルカノが、一度船に乗ればなんの役にも立たない素人であることを知っていた。

「面倒だが提督教育をせねばならん」

 そう考えたエバンは三百ページほどのレポートを作成し、「読んでおいてください」と言ってエルカノに渡した。

 数日後、エバンがエルカノにレポートを読んだか確認するとエルカノは、「いいえ」といった。

 さらに数日後、エバンがもう一度確認するとやはりエルカノは、やはり「いいえ」という。

 さすがに眉毛を跳ね上げた部下を、エルカノは椅子に座ったまま穏やかに見上げてこういったと言う。

「私が海軍のことを分るようになると、皆さんお困りになるのではないかな。私は海軍のことが分らない。皆さんは分る。皆さんが決めたことを、私が承認する。それでいいではありませんか」

 一見すれば無責任な言葉だが、用はそれだけエバンのことを信頼していたということであろう。この二人は万事この調子で、それは後にエルカノが海軍全体を監督する立場になっても変わらなかった。

 ちなみにエバンが作成したレポートは、後にエルカノ(立案はもちろんエバンだ)が海軍士官学校を作った時にその教本として使われた。

 エルカノ・オークリッドとエバン・ライザック。この二人がアルジャーク海軍の基礎を作り上げ、帝国を陸上だけでなく海上においても覇をとなえる強国たらしめたと言っていい。

 この二人が始めてコンビを組んで仕事を始めたのがシラクサ艦隊であったわけだが、前述したようにこの艦隊の構成員のほとんどはカレナリア人とテムサニス人であった。両国とも併合された以上全員等しくアルジャーク人なのだが、そういう意識はこの頃まだ希薄である。よってアルジャーク人はエルカノ・オークリッドただ一人であった。

 さて、このシラクサ艦隊にはカレナリア人でもなくテムサニス人でもなくましてやアルジャーク人でもない、なぜかカンタルク人が一人いた。そのカンタルク人の名をアズリア・クリークという。

 さきのオルレアンのルードレン砦の戦いの際に捕虜になったカンタルク軍の仕官で、カンタルクの国王であるゲゼル・シャフトに見捨てられたために祖国に戻れなくなった彼女は、クロノワに誘われアルジャーク海軍に籍を置くようになったのである。

 配属先が第二艦隊、つまりシラクサ駐留艦隊であることを知ったとき、アズリアは「飛ばされたか」と苦く笑ったものだが、実際に勤務を始めてみるとそんな考えはすぐに吹き飛んだ。

 雰囲気が違うのである。左遷先につかわれるような、辺境の寄せ集め部隊では決してない。選りすぐりの精鋭のみが集められた艦隊であることを、アズリアはすぐに理解した。

 アズリアが乗っている船は「カティ・サーク」という。船舶の種類や艤装についてはまだまだ勉強不足の彼女だが、この船に関しては純粋に「美しい船だ」と感心した。

「いい目をしてるじゃねえか」

 仲間の水兵や海兵たちは口々にそういった。あるいはこの感想のおかげで、アズリアは彼らに受け入れてもらえたのかもしれない。

 軍隊という組織の中において女性は珍しい。それは万国共通で、シラクサ艦隊においても同じことが言える。しかしアズリアはカティ・サーク内で紅一点というわけではなかった。艦内の厨房を預かる料理人、ジーラ・スヴェンがいたからである。

 髪の毛はショートカットで性格はカラリとしており、成人男性と比べても明らかに大きな背丈をしている。三十の半ばは過ぎているはずなのだが、本人は一貫して「年齢不詳」で通していた。

「三十を過ぎたら女は年をとらないのさ」
 というのが彼女の持論である。ちなみに「既婚者で子持ち」という噂がある。

 料理の腕は一流で、胃袋の握る立場上、艦内の男どもはジーラに頭が上がらない。そんな彼女がアズリアのことを大いに気に入っており、まるで娘か妹のように可愛がっていた。それもまたアズリアが比較的早い段階で船に馴染むことが出来た要因かもしれない。

 さて海軍、それも艦隊に所属している以上、主な活動の場は海の上である。しかしだからと言って一年中海の上にいるわけではない。加えてシラクサ艦隊には純軍事的な役割だけでなく、政治的な役割も求められている。極端なことを言ってしまえば、この艦隊はただその場にいるということが最も重要な任務であった。

 だから、というわけではないのだろうが、艦隊の半分は常に母港で投錨している。そしてアズリアの乗るカティ・サークも今はそんな船影の中にあった。

 シラクサ艦隊の母港があるのは、シラクサの二つある島、つまりローシャン島とヘイロン島のうち、小さいほうであるヘイロン島である。母港、と言っても今はまだ建設中であり、桟橋も簡単なものしかない。そのため多くの船舶は沖のほうで投錨していた。

 陸上の設備は急ピッチで建造されており、多くの水兵や海兵が土木作業に駆りだされていた。ただ兵舎などは後回しにされており、そのため兵士たちは一日の作業を終えるとそれぞれ自分の船に戻って休むのであった。

 そんな中、真っ先に完成したのが艦隊の頭脳とも言うべき「司令棟」である。余談になるがこの司令棟は仮のものであり後に新造される。それはともかく、アズリアは今この司令棟に設けられた提督エルカノの執務室に呼び出されていた。

「アズリア・クリークです」

 どうぞ、という返事が聞こえてから、アズリアは執務室の中に入った。さして広くもないその室内にいたのは、エルカノ一人であった。

「訓練のほうはどうですか?」

 アズリアに席を勧めると、エルカノはまずそう切り出した。

「皆さんに良くしていただいています」

 彼女は今、航海士としての訓練を積んでいる。今までとはまったく畑違いの分野でアズリアも悪戦苦闘していたが、もともとが優秀だしまた根気もある。着実に知識と技術を増やしていた。将来的には、海軍士官としての訓練も受けることになるかもしれない。

 ちなみに魔導士としての訓練は、専ら自主練である。このシラクサ艦隊に魔導士はアズリア一人だけで、指導してくれる先達などいないのである。

 もっとも、
「お前の場合、射て敵艦に当たればそれでいい」
 などとエバン・ライザックが言うとおり、アズリアの魔導士としての役割は単純である。そのため自主練も射撃訓練がメインであった。

「実は君向きの案件があります」
「わたし向き、ですか………?」
「はい。『紫雲』というガラス工房を知っていますか?」

 初耳であった。とはいえアズリアがシラクサに来てからまだ日が浅い。有名処というわけでもないし、知らないのも当然といえる。

「実は先日、そこの親方さんから魔道具素材について相談を受けまして」

 相談を受けたとはいえ、エルカノ自身魔道具職人でもなければ魔導士でもない。それは相手も重々承知しており、実はエルカノに用があるわけではなかった。

「艦隊に一人、魔導士がおられるとうかがいました」

 つまり用があるのはアズリア、というわけである。

「一度話がしたいとの事だったので、時間があるときにでも尋ねてみてください」

「わたしは魔導士であって、素材のほうは詳しくはないのですが………」
「先方は『それでもいい』と」

 なんでも相手は随分と切羽詰った様子だったそうだ。いや、別に誰かと競っているわけではないのだろうが、用は行き詰ってしまい突破口を必死で探しているのだろう。

「………わかりました。お役に立てるかは分りませんが、次の休みにでも行ってみたいと思います」
「ではそのように」





************************




「あ、師匠!島が見えてきましたよ!」

 青く澄み渡った空の下、南の海を走る帆船の船首に立つニーナがそう声を上げた。彼女が指差す水平線の先には、確かに島影が見えている。

 オルレアンのナプレスで依頼していた刀を受け取り「万象の太刀」を完成させた後、イストたち一行はさらに東に足を伸ばし、アルジャーク領となったテムサニスの南端に位置する貿易港カルフィスクからシラクサへ向かう船に乗った。二十日ばかりの船旅をへて、今ようやくシラクサが見えてきたのである。

 より正確に言うならば、ローシャン島とヘイロン島が見えてきた、というべきだろう。ちなみに大きいほうがローシャン島で、小さいほうがヘイロン島である。「シラクサ」とは本来ローシャン島の北に位置する港の名前である。ただ、ここが大陸に対する玄関口の役割を渡しているせいか、この地域一帯が「シラクサ」という名称で知られるようになっている。

「シラクサはガラス工芸が有名だな。あと、『シラクサ酒』っていう美味い酒がある」

 ちなみにこの「シラクサ酒」という名称も大陸向けのものであり、地元の人はただの「酒」としか言わない。

「師匠はお酒のことばっかりですね………」

 真っ先に酒のことを話題にしたイストに、ニーナは呆れた。その上イストは「酒豪」とか「うわばみ」といえるほどに酒に強いわけではない。飲めば飲んだだけ酔う質で、かつてオリヴィアと一緒に旅をしたときには、キャラバン隊のメンバーに潰されて吐いたこともあった。

「いいんだよ。うまいものはうまい。なあ、おっさん」
「うむ。楽しみだな」

 ジルドも良く酒を飲む。「酒豪」というべきはむしろ彼のほうで、イストが潰されても彼は顔を赤くすらしていなかった。「酒のストックが切れるのが早くて困る」とイストは大仰に嘆いていたが、酒飲みの友が出来たことはまんざらでもない様子だ。なお、ジルドは一人でちびちびやるタイプだ。

「ところでおっさん、ここまで来て今更だけどさ、なんで一緒に来たんだ?」

 シーヴァ・オズワルドとの仕合で「光崩しの魔剣」を贈ったときの約束はすでに果たされている。もっともその仕合で「光崩しの魔剣」は砕けてしまったのだが、その代わりとすべき「万象の太刀」はすでに完成し今はジルドの腰間にある。ジルドがイストたちと一緒にいるべき理由は、もうないはずであった。

「『万象の太刀』の対価を払わねばならないだろう?」
「そりゃ、あの仕合だけで十分だよ。それくらい驚かせてもらった」

 このやり取りは、実は船に乗る前にもやっている。

 別にイストはジルドが一緒に来ることを嫌がっているわけではない。むしろ心強いと歓迎している。

 しかし、彼ほどの腕前ならば仕官の口など沢山あるだろうし、また宮仕えをする気がなくとも大事をなすだけの才覚は十分にあるだろう。イストの、いやアバサ・ロットの直感がそれを保障している。

 そんな彼が世の中のゴタゴタに表向きには関わる気のない自分の隣にいることを、イストは少なからず不思議に思うのだ。

「ふむ、実は最近、ワシも気になっていることがあってな」
「それは?」
「イストよ、“四つの法《フォース・ロウ》”は教会と関係しているのではないか?」

 ジルドがそういった瞬間、イストは彼にしては珍しく目を見開いて驚きをあらわにした。

「驚いたな………。なんでそう思うんだ?」
「大陸がゴタゴタしているこの時期に、わざわざシラクサに行こうとお主が言い出したから、かな」

 ジルドはイストがアバサ・ロットであることを知っている。アバサ・ロットは世の中のゴタゴタに表向き関わることはしないが、眼鏡にかなう人物がいないかとその動きを注意深く観察しているのだ。また気に入った人物がいれば、たとえ戦場の最中であろうとも魔道具を渡しに行き、その魔道具によって状況が一変するということが多々あった。

 つまり世の中のゴタゴタというのは、アバサ・ロットにとっては品定めをする絶好の機会であり、にもかかわらずイストがそこから遠ざかるということにジルドは引っ掛かるものを感じたのだ。

「やれやれ………、おっさんは鋭いな………」
「それじゃあ、本当に“四つの法《フォース・ロウ》”は教会と関係しているんですか!?」

 そんなことは露ほどにも考えていなかったニーナが詰め寄る。

「シラクサに着くまでまだ時間があるし、話しておくか」

 そういってイストは煙管型禁煙用魔道具「無煙」を取り出し、口にくわえて吹かした。「フウ」と白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出してから、彼はおもむろに話し出した。

「まずは“四つの法《フォース・ロウ》”について、だな」

 アルテンシア半島のガルネシアにいた時、イストは“四つの法《フォース・ロウ》”の一つについて解析を進めていた。“四つの法《フォース・ロウ》”の一つ一つが何かしらの術式を構成していることはもはや明白であったが、解析を進めるうちにイストと彼の師匠であるオーヴァは、古代文字(エンシェントスペル)によって綴られたこれら四つの文言が相互に関係しあってなにか「大きなもの」を表していることに気づくようになった。

「すべてを解析したわけじゃないからこれは憶測でしかないけど、オレは空間系の理論じゃないと思っている」

 それはつまり初代のアバサ・ロットであるロロイヤ・ロットが得意とした、空間拡張系や亜空間設置型の魔道具を作るための理論だ。アバサ・ロットの工房が収められた「狭間の庵」をはじめとするこれらの魔道具については、作品自体のレポートは残されているがそこに至るまでの基礎理論が何も残っていない。イストはその基礎理論にあたる部分の集大成こそが、“四つの法《フォース・ロウ》”なのではないかと考えたのだ。

 奇しくも“四つの法《フォース・ロウ》”を残したのは他ならぬロロイヤ・ロットであり、それが彼の仮説に妙な信憑性を与えている。

「仮にそうだとして、それがどう教会と関係してるんですか?」

 教会は宗教組織である。今は肥大化して政治的な発言力さえも有するようになっているが、その組織の専門はやはり宗教のはずだ。それが魔道具の、しかも今の世では恐らくアバサ・ロット以外作ることの出来ない空間系魔道具の基礎理論とどう関係しているというのか。

「ハーシェルド地下遺跡の発掘を手伝っていたとき、『御霊送り』の神話の話になったのを覚えているか?」

 あの時、
「仮に神話が人の手で起こしただとして、どういう魔道具を使えば可能か」
 という話をした。

 そしてその時イストは、
「空間系の魔道具が一番有力かな」
 と答えた。

 もっともその時はイストもそのような魔道具を作れるとは思えなかった。なぜなら「狭間の庵」の資料室に残されているのは魔道具として完成した理論だけで、そこにさらに手を加えて発展応用させることが出来ないからだ。

 しかし、“四つの法《フォース・ロウ》”が基礎理論であれば話は違ってくる。

 設置すべき亜空間のパラメータを任意で設定できるならば、「パックスの街を神界に引き上げた」という神話を人の手で行うことも不可能ではなくなる。

「だけど“四つの法《フォース・ロウ》”を完成させたのはロロイヤなんですよね?どうして教会がそれを知ってるんですか?」

「ロロイヤがこれを完成させたのは、恐らくパックスの街だ」

 パックスの街が神界に引き上げられる前、そこには大規模な総合学術研究院があり、そこでは術式の研究も行っていた。ロロイヤが“|四つの法《フォース・ロウ》”を完成させたのは、恐らくは彼がそこに在学していた期間中であり、その成果を研究院にも残していったとすれば、教会が“四つの法《フォース・ロウ》”について知りえた可能性は十分にある。

「つまり『教会は“四つの法《フォース・ロウ》”を用いて亜空間設置型の魔道具を作り、その亜空間内にパックスの街を丸ごと収めることで神話を捏造した』というのがお主の仮説か」
「そうなる」

 仮にこれが真実だとすれば、教会としては是が非でも隠し通さなければいけないであろう。『御霊送り』は神話でなければならず、神々がこの世に残した最後の奇跡でなければならない。そうでなければ信者を繫ぎ止めておくための信仰の基礎が瓦解することになり、それはすなわち教会という宗教組織の瓦解を意味している。

「危険思想の持ち主として教会に狙われるのを避けたかったか、あるいはあのままシーヴァのもとにいて『仮説の証明』を手伝わされるのが嫌だったのか、そんなところか」

 イストがいきなり「南の島に行こう!」と言い出した理由を、ジルドはそんなふうに表現した。そしてイストは苦笑しながらもそれを否定しない。

「全ては仮説だよ。どこが正しくてどこが間違っているか、それはこれから確かめる」

 それに寒いアルテンシア半島に嫌気が差して温かい南の島に行きたくなったのが最大の理由だ、とイストはふんぞり返った。それをみたジルドとニーナが呆れたように苦笑を漏らす。そんな二人の様子を見てイストは満足げな笑みを浮かべた。

「それに仮説どおりだとしたら、分んないことが二つある」

 教会の主張するところによれば、生きたまま神界の門をくぐることができるのは、神子とその後継者だけである。しかし魔道具という仕掛けがあるのであれば、技術的にはそのような制限を設ける必要はないはずだ。さまざまな思惑や事情はあるにせよ、もっと門戸を広げておいたほうが色々と利用しやすいはず。

「『御霊送り』が人の手によるものだとしたら、わざわざそんな制限を設ける理由が分らない。別の言い方をすれば、なぜ神話という形にしたのか分らない」
「ふむ。もう一つは?」

 教会が空間系の術式の基礎理論を持っているとしたら、なぜその理論を使って魔道具を作ることをしないのか。空間系の魔道具は非常に便利であり、それを作って販売すればかつて聖銀(ミスリル)で得ていたのと同じかあるいはそれ以上の利益を稼ぐことが出来るだろう。なぜそれをしないのか分からない。

「あと、仮説どおりだとしたら、面白くない確定事項がある」
「………それは?」
「亜空間設置型の魔道具は、設置した亜空間を維持するために常時魔力を消費する」

 そしてその魔力量は設置した亜空間の大きさに比例するという。イストが身につけている「狭間の庵」程度の大きさであれば何も問題はないが、街を丸ごと一つ収めるような巨大な亜空間であれば話は違ってくる。

「魔力っていうのは生命力と同義だ」

 そのような巨大な亜空間を維持するために魔力を消費し続けるということは、すなわち命を削ることに等しい。

「千年、千年だ。千年間それを承知で続けてきたのだとしたら、教会の闇は深いぞ」

 イストが吐きだした白い煙(水蒸気らしいが)は風にさらわれてすぐに消えていく。心地よいはずのその風に吹かれても、今聞いた話への嫌悪感はなかなか消えてくれず、ニーナは無意識にお腹の辺りをそっと撫でた。

**********

「お役に立てず、申し訳ない」

 そう言ってアズリアは中年の男に頭を下げた。男の名はセロンという。ガラス工房「紫雲」の工房主で、エルカノが「親方」と言っていた男である。

 エルカノから話を聞いた次の休日、アズリアは早速「紫雲」に向かいセロンの相談事について話を聞いてみたのだが、結局彼女のにわか知識では彼の役には立たなかった。

 ただ当然といえば当然である。アズリアは魔道具を使う側の魔導士であり、作るための知識には疎い。そんな彼女にまで白羽の矢を立てなければいけないほど、セロンたちは行き詰っていたのである。

「いえ、こちらの都合です。お気になさらずに」

 セロンのほうも最初から過大な期待はしていなかったのだろう。とり立ててショックを受けた様子はない。ただ、次にどうすればいいのか皆目見当がつかず、その点については悩んでいた。

 セロンと話をしていた「紫雲」を後にしたアズリアは、少し迷ってから繁華街のほうに足を向けた。何もせずに帰ろうかとも思ったのだが、今日がせっかくの休日であることを思い出し、少し羽を伸ばそうと思ったのだ。それにシラクサに来てから休みは今日が初めてで、街の雰囲気を感じておきたかった。

 人通りの多い繁華街を、ガラス越しに店の中を眺めながらアズリアは歩く。シラクサがガラスの生産地だということはアズリアも以前から知っていたが、そのことを証明するかのように商店の窓という窓にガラスがはめ込まれている。

 しかもそのガラスが皆大きいのだ。たとえばカンタルクの王都フレイスブルグなどでは大きな商店や商会しか使えないような大きな窓ガラスを、ここシラクサではごく普通の商店でも使用している。そのせいなのか通りは華やかで開放的な雰囲気だった。

 商店はやはりガラス製品を扱った店が多い。しかしその他にも、例えば米から作られたシラクサ酒を扱っている店があったり、地元の人たちは今でも日常的に着ている民族衣装を売っている店があったりする。シラクサではごく普通の風景なのだろが、ここに来てまだ日が浅いアズリアには異国情緒が強く感じられた。

 石が敷かれた、港に通じる道をアズリアは歩く。その道を歩いているのはシラクサの人たちだけではない。アズリアのように大陸から来た人たちも、まばらながらその道を歩いている。今日初めて街に繰り出したアズリアは知りようがないが、これでも大陸から訪れる人々の数は増えたのである。そしてこの先さらに増えることを、地元の人々は期待していたしまた確信もしていた。

 大陸から来ている人たちを見分けるのは、至極簡単である。なにしろ服装が違う。シラクサの人が日常的に着ている民族衣装は、ロングコートに似た筒型の長衣を帯で締め、袴を履くスタイルだ。だからアズリアにとっていわゆる“普通の服”を着ている人たちが、大陸からの客人であるとすぐに分る。

 だからその三人組も、大陸から着たのだということがアズリアにはすぐに分かった。そして思わず眉をしかめてしまったのは、恐らく顔を知っているその人物にあまりいい思い出がないからだろう。

「む………」
「ん?ああ………、奇遇だな。こんな所で会うなんて」

 煙管を吹かすその姿は、相変わらず憎らしいほどに飄々としている。こうしてアズリア・クリークとイスト・ヴァーレはいっこうに劇的でない再会を果たしたのだった。

**********

「少し話をしないか」
 そう誘ったのは、アズリアのほうだった。

 大陸で言うところの「カフェ」に入った四人は通り出された席に座り、席代替わりに飲み物を注文した。初顔合わせの三人が簡単な自己紹介を済ませると、飲み物が運ばれてきた。それに口をつけて喉を潤すと、アズリアはまずイストに視線を向けた。

「それで、なぜお前はここにいる?」
「おいおい、オレはもともと旅から旅への根無し草だぜ?どこにいようとも不思議はないだろう?」
「ここに来た目的を聞いたのだがな………。まあいい」

 もとより火の粉が自分に降りかからない限りは、アズリアはイストのたくらみに関わる気はない。それでも「くれぐれも妙な騒ぎを起こすなよ」と釘を刺すことは忘れなかったが。

「オレはともかく、お前さんはなんでシラクサに?」

 今度はイストがアズリアに聞く。根無し草の自分はともかくカンタルクにいたはずのアズリアがここにいるなんて、なにかよほど大きな変化があったとしか思えない。

「どこから話したものか………」

 アズリアは腕くみをして少し考え込んだが、結局事情を知らない二人に配慮してことの最初から話すことにした。それはつまりイストとの出会いからである。

 話を続けるうちにジルドは面白がるような笑みを浮かべ、ニーナは呆れたようなため息を漏らし師匠であるイストに非難の視線を向けた。

「うちの師匠がご迷惑をおかけしました………」
「いや、実際弟のフロイトは歩けるようになったわけだし、魔弓も貰ったからな。その点は………」

 感謝している、といいかけたアズリアだが、イストの面白がるような視線に気づいて言葉を切った。

「その点は?」
「………なんでもない」

 どうにもこの男には素直に礼を言う気になれないアズリアである。しかもそのことに罪悪感を覚えない。その原因は専ら相手側にある、というのが彼女の主張だ。

「それよりも、クロノワに会ったんだな」
「ああ。海軍にお誘いを頂いた。まさかお前と陛下が友人同士だとは思わなかったぞ」

 今の時代、クロノワという名前で陛下という敬称をつけるべき人物は一人しかいない。すなわちアルジャーク帝国皇帝クロノワ・アルジャークである。イストの意外すぎる人脈に、ニーナのみならずジルドまでが目を丸くしている。

「どこで知り合ったのだ?」
「クロノワが十五までは帝室と関係なく過ごしていたことは知ってるよな」

 その頃、つまり彼の姓名がアルジャークではなくまだミュレットであったときに知り合ったのだ、とイストは説明した。

「宝物庫に盗みに入って捕まった、とかじゃないんですね………」

 安心しました、とニーナは心の底から安堵したように息を吐いた。そんな弟子をイストは心外そうに軽く睨む。

「馬鹿だな。オレが盗みに入って捕まるわけがないだろう」
「入ったことはあるんですか!?」

 ニーナはこの世の終わりが来たかのような顔をするが、イストが素知らぬ顔で「いやないが」が否定すると、脱力してテーブルに突っ伏した。

「………苦労しているのだな」
「………はい、とてもぉ………」

 頬をテーブルに押し付けて脱力するニーナの肩をアズリアが軽く叩いて慰める。元凶であるところのイストはその様子を、恐らくは意図的に、「無煙」を吹かしながら無視した。

「それで?こんな馬鹿話をするために呼び止めたわけじゃないんだろ?」

 イストがそう促すと、アズリアのほうも表情を改めた。

「ああ、実はつい先ほど魔道具素材のことで相談を受けてな………」

 セロンを始めとするガラス工房「紫雲」の面々が取り組む、ガラスの魔道具素材の話をアズリアはイストにした。

「へぇ………」

 話を聞いたイストは、面白がるような、しかし少々物騒な声でそう呟いた。見れば目も少し細くなり鋭くなっている。

「面白いこと考える奴がいるな」
「生憎わたしでは力不足だったがな」

 というよりも畑違いだったといったほうがいいだろう。アズリアは純粋な魔導士、つまり魔道具を使う側だ。実の父であるビスマルクのもとにいたころ、魔道卿になるための教育の中で魔道具素材についても少々勉強したが、それにしたって素材そのものよりもそれに関係する経済的な分野が主だった。

「お前なら相談に乗れることもあるんじゃないのか、と思ってな」
「オレは素材屋じゃないんだがな………」
「だがわたしよりは適任だろう?」

 そういわれるとイストは肩をすくめた。確かに魔道具職人であるイストならば、アズリアよりも魔道具素材について詳しいだろう。まあ、畑違いであることは変わりないが。

「無理にとは言わないが、気が向いたら足を向けてみてくれ」
「あいよ」
「それともう一つ………、『流れ星の欠片』のことなんだが………」

 言いにくそうにして、アズリアは申し訳なさそうな顔をした。

「………製法を、もう一度教えてもらえないか?」

 彼女が言う「流れ星の欠片」とは、イストが贈った魔弓「夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」につがえる専用の矢のことだ。ちなみに魔道具である。

 その製法は「夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」を贈った際一緒に渡したはずなのだが、その製法が書かれた紙はカンタルクの王都フレイスブルグの私室に置きっぱなしだという。

「オルレアンで捕虜になって、そのままシラクサに来たからな………」

 今更カンタルクに戻ることも出来ないし、そうなると製法を回収することもできない。「流れ星の欠片」はまだストックがあるが、基本使い捨ての魔道具であるため、今ある分を使い切ってしまったらそれで終わりになってしまう。

 アズリアは普通の魔道具職人にとって魔道具の製法がどれほど大切かを十分に知っている。それゆえそれを寄越せというのは流石に気まずいらしい。

 しかし魔道具職人ではあるが普通ではないイストは、そんな心配をあっさりと飛び越える。

「ん、いいぞ。あとで海軍のお前さん宛てに送っとく」
「い、いいのか?」

 あまりに軽い返事で、アズリアのほうが戸惑う。しかしイストが頷くのを確認すると、すぐに表情が明るくなった。

「そうか………。か………」

「『か?』」

 イストが面白そうにアズリアの顔を覗きこむ。

「………なんでもない」

 アズリアはバツが悪そうに顔をそらした。やはり礼だけは素直にいえなかった。

 ――――ちなみに。

 後日、アズリアの元に
「アズリア様へ、愛を込めて」
 と書かれた手紙が届く。

 差出人の書かれていないその不気味な封筒を開けると、中には「流れ星の欠片」の製法が入っていた。声を立てて笑うイストを思い浮かべ、アズリアは思わずその製法を握りつぶしてしまった。

 さらにその封筒のことが海軍の中で噂になってしまい、アズリアはしばらくの間同僚たちから「男ができたのか」とか「ファンができたのか」などとからかわれることになる。

 素直に感謝しなくて正解だった、とアズリアは思った。




[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 10:44
「しっかし、ガラスの魔道具素材か………」

 アズリアが去ったカフェの席で、飲み物を啜りながら苦笑するようにイストはそう言った。

「難しいのか?」
「ああ、難しい。これまでそれこそ星の数ほどの職人たちが挑戦し、そして一つとして実用化には至らなかった」

 その言い回しにジルドは引っ掛かるものを感じた。しかしその疑問を口にする前にイストが席を立つ。

「しかもその話がオレのところに来るとはね………」

 これが巡り合わせって奴なのかね、と妙に感慨深げにイストは語る。

「行くんですか?そのガラス工房に」
「ああ。受け継いだ宿題を片付けにな」

 別にほっといてもいいんだけどこの機会だし、とイストは軽い調子で言った。その言葉の意味するところを、ジルドやニーナは察しきれない。ただ、何かしらの方策やアテを彼が持っていることはなんとなく分った。

 会計を済ませるついでにガラス工房「紫雲」の場所を聞く。どうやら少し離れたところにあるらしい。街の見物でもしながらのんびり行くさ、とイストは「無煙」を吹かしながら呑気にそう言った。

**********

「ここか………」

 ――――ガラス工房「紫雲」

 そう書かれた看板は教えてもらったとおり郊外にあった。さすがに大陸から来た人間でこんなところまで足を伸ばす物好きは彼ら以外にはいないようで、周りにいるシラクサの人々は意外そうな視線を向けてくる。ただ排他的な視線ではないので、居心地の悪さは感じない。この辺りはシラクサの土地柄だろうか。

「失礼、セロンさん居る?」

 開け放たれた入り口の敷居の前で、イストは工房の中にそう声をかけた。すぐに一人の中年の男が出てくる。

「私がセロンだが、何のようだ?」
「オレはイスト・ヴァーレ。流れの魔道具職人をやっている。アズリアから話を聞いた、と言えば用件は分るだろう?」

 それを聞くとセロンは表情を変化させ明るい笑顔を見せた。すぐに三人を工房の奥に設けられた小さな応接室に通す。ジルドとニーナを簡単に紹介すると、イストはすぐに本題に入った。

「さてと。ガラス製の魔道具素材だったか」
「うむ。恥ずかしい話、やろうと思ったはいいがなにをどうすればいいのかさっぱり分らん」

 知恵を貸してくれ、とセロンは頭を下げた。

「ここは普通のガラス工房だよな?そもそも、なんで魔道具素材に手を出そうと思ったんだ?」

 普通、魔道具素材を合成するのは「素材屋」とか「錬金術師」と呼ばれる専門の職人たちだ。そこにはやはり知識や技術といったノウハウがあり、そしてそれに加えて蓄積されてきた経験というものが必要になる。そういったものを何も持っていない普通のガラス工房である「紫雲」が、なぜ魔道具素材に手を出そうと思ったのか。

「今、シラクサはアルジャークと通商条約を結んだことで少しずつ景気が良くなってきている」

 そしてこの先さらに景気は良くなるであろうと予測されている。それに伴ってシラクサのガラス製品も売り上げが伸び、「紫雲」もそれなりの利潤を出しているという。

「だけどシラクサは基本的に中継地点であって、生産や消費の場所ではない」

 シラクサの南にはリーオンネ諸島があり、そして西にはサルミネア諸島がある。アルジャークはこういった島々との交易の拠点としてシラクサに目をつけたのである。

 大陸から来る船にはシラクサからさらに南や西に向かう船のための食料が積まれているし、また大陸に向かう船にはシラクサの外から集めた珍品が満載されている。シラクサで生産されそして輸出されるものは、全体から見ればごくわずかだ。

 シラクサは所詮、中継地点でしかない。モノは大陸とシラクサのさらに先にある島々との間でやり取りされているのであって、シラクサはその商取引の場となっているだけなのだ。そして重要なこととして、何もしなければこの構図はこの先ずっと変わらない。

「もちろん、それが悪いといっているわけじゃない。だけどそれで潤うのは商人たちだけ。私らガラス職人は蚊帳の外だ」

 その上、シラクサには立地の不利がある。シラクサで作ったガラス製品をよそに持って行って売るには、船で長距離の輸送をおこなわなければならない。そうなれば当然、輸送費がかかる。輸送費分高くなる以上、消費地かあるいはその近くでガラスが生産されたら、価格面ではまず勝負にならない。

「ならばシラクサにしかないガラス製品を作ることが必要。そう考えた」

 そして思いついたのがガラスの魔道具素材だ。以前にそれが実用化できれば莫大な利益になる、という話を聞いたのを思い出したのだ。

「なるほどね」

 イストはそういって頷いた。セロンがガラスの魔道具素材を志す理由は、悪く言ってしまえば利己的だ。経済が発展していくこの時期に自分も利益を上げたいという思惑が根っこにある。しかし人間の営みとは、元来そういうものではないだろうか。

 他人のための利他的な行動というのは美しい。それは間違いない。しかしそれだけではこの世界が回りきらないものまた確かだ。人の欲望というのは諸問題の根源であると同時に、発展の原動力でもあるのだから。そもそも精神的な満足それ自体を報酬と考えれば、他の人に与える利他的な行動も結局は自分のためであると考えられる。まあ、これは無粋な言葉遊びになるのだろうが。

 盛大にずれかかった思考を、イストは目の前の話に引き戻す。

「それで、どこまで進んでいるんだ?」
「それが恥ずかしい話、やると息巻いたのはいいが何から手をつければいいのか、それさえも分からなくてな………」

 決まりが悪そうにセロンが頭をかく。

「素材関係の知識がある人は………っているわけないか」
「うむ。一人もいない」

 そんな人物がいるならば、わざわざ畑違いのアズリアのところにまで話が来ることなどなかったであろう。

「つまり何も分らないってことか………」

 どっから説明したもんかな、とイストは「無煙」を吹かしながら考える。フゥ、と白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出し、煙管を器用にクルクルと回す。

「まずは、『なぜガラスの魔道具素材があれば便利なのか』だな。ニーナ、説明してみ」
「わ、わたしですか?」

 いきなり話を振られたニーナは少し驚いた様子を見せたが、すぐに「わかりました」と言って説明を始めた。

「ガラスの魔道具素材、わたし達や素材屋の人たちは『魔ガラス』と呼んでいるんですが、これは合成石の代替として期待されています」

 合成石というのは、魔道具の核として用いられる人工の結晶体のことだ。これ自体そもそも天然の結晶、つまり宝石の代替として作られたものだが、やはり問題点は存在する。

「最大の問題点はその形状、別の言い方をすれば加工のし難さです」

 合成石の形状というのは、基本的に加工された宝石を思い浮かべてもらえればそれでいい。そしてそれ以外にはないといってもいい。合成石というのはその性質上非常に脆い。有り体に言ってしまえば薄く加工するということが出来ないのである。

 その点、ガラスは非常に加工がしやすい。技術的な要素はあるのだろうが、それ自体で様々な形状を作り上げることが出来る。それはつまり、作れる魔道具の幅が広がるということだ。これが魔ガラスの実用化が期待される最大の理由である。

 また価格面でも期待されている。天然の宝石は言うに及ばず、合成石もガラスに比べれば高い。廉価な魔ガラスを合成石の代わりに出来れば、魔道具の値段は下がると予測されている。もっとも魔道具市場は常に需要過多であり、そのため素材費を安く抑えたからといって値段が下がるとはいい難い面がある。

「なるほど………。だが、それならなぜガラスは魔道具素材として使われてこなかったんだ?」
「ほれ、弟子。説明説明」

 師匠(イスト)に急かされたニーナは「はいはい」と応じてから説明を再開する。

「なぜガラスは魔道具素材として使われてこなかったのか?その理由はガラスの魔力伝導率にあります」

 魔力伝導率とは、物質の魔力の流れやすさを表すパラメータだ。この係数が大きいほど魔力が流れやすいことを意味する。水の伝導率を1.0に定め基準としているが、魔道具職人たちは鉄の伝導率である0.98を目安にすることが多い。

「普通、魔力を流すための素材の伝導率は1.5以上。これをわたしたちは『導体』と呼んでいます」

 ただ職人たちの感覚としては鉄が最低ラインだ。つまり1.5に届かない素材でも魔道具に使うことは良くある。ちなみに上限は4.0とされている。これ以上だと魔力が流れすぎて危険なのだ。

 余談になるが近頃製法が流出した聖銀(ミスリル)の伝導率は2.7。かなり使い勝手のいい伝導率で、その上|聖銀(ミスリル)は銀をベースにしているので加工も容易だ。さらに加えるならば貴金属としての美しさも備えている。これが、値段が高くとも多くの職人たちが聖銀(ミスリル)を好んで用いてきた理由だろう。

「それに対して平均的なガラスの伝導率は0.4。これではガラスを魔道具素材として使おうとする職人は現れません」

 なにしろ鉄の伝導率が0.98なのだ。ガラスを使うくらいなら鉄を使ったほうがいい、ということになってしまう。

 もちろんガラスをパーツや飾りとして使っている魔道具はある。しかしそれは言ってしまえばなくてもかまわないもので、魔道具を作るために必須とは言いがたい。つまり魔力を流すための素材、つまり導体としては決して使われえないのだ。

「………って、こんなところでいいですか、師匠」
「八十点。不導体の説明が抜けてる」
「あ………」

 ほれ早く説明する、とイストが急かすとニーナは慌てて説明を付け加えた。

「不導体、あるいは絶縁体とも言いますが、これは魔力を流さない物質のことです」

 魔道具というのは単純に魔力が流れればそれでいいわけではない。きちんと意図したところに意図したように流れてくれなければいけない。

 そこで必要になるのが『不導体』と呼ばれる物質だ。例えば魔力を流すべき導体を不導体で包んでやることで、魔力の漏れを防ぐことができる。ちなみに、普通魔道具素材といった場合には、導体と不導体の両方を含む。

「不導体として使われる物質の伝導率は通常0.1以下。先ほども述べた通りガラスの伝導率は0.4ですから、不導体としては大きすぎます」

 つまり、ガラスの伝導率は導体としてみれば小さすぎるし、不導体としてみれば大きすぎる。この伝導率の中途半端さこそが、ガラスが魔道具素材として使われない理由であった。

「つまり魔道具素材のガラスを売り出すには、その伝導率を1.5以上にするか、あるいは0.1以下にする必要がある、ということか………」

 ニーナの説明を聞き終わったセロンは腕を組んでそう言った。

「そうなるな。ただし、不導体として売り出しても恐らく売れない」

 ガラスの魔道具素材が期待されているのは、先ほども説明したとおり合成石、つまり導体の代替としてである。不導体としてならば、使おうと思う職人はそれほど多くないだろう。

「………伝導率1.0付近、というのはダメだろうか?」

 導体の伝導率は1.5以上という話は先ほどしたが、しかしそれに満たない鉄も魔道具職人たちは良く用いる。ならば鉄の伝導率0.98をクリアすれば、かろうじて魔道具素材として売り出せるのではないだろうか。

「どうだろうな。魔道具素材と銘打ってあれば、買う側は1.5以上を期待しているだろうから、なにかと問題があるんじゃないのか」

 なんにしても目標は高く設定しておいたほうがいいだろう、とイストは軽く言った。その高い目標に取り組まなければならないセロンは苦笑していたが。

「さて、ここからが本題だな」

 つまりガラスを魔道具素材として売り出すには、魔力伝道率を上げなければならない。ではどうやって伝導率を上げればいいのか。

「どうすればいいのだ?」
「どうすればいいと思う?」

 面白そうにイストは逆に問いかける。その様子と、今までに聞いた話からジルドはある結論に至った。

「――――イスト、その『魔ガラス』というものは、すでに存在しているな?」

 今まで黙っていたジルドが口を開いたことと、そしてその内容に驚き、人々の視線が彼に集まる。

「なんでそう思う?」

 絶句し上手く言葉が出てこないニーナとセロンをよそに、イストはいつもと変わらない様子で「無煙」を吹かしながらジルドに問いかける。その顔には面白そうな笑みが浮かんでいた。

「お主は『実用化できたら』という言葉を使っていた。あとは何か知っていそうな顔をしていたから、かな」
「やれやれ………。おっさんは本当に鋭いな………」
「師匠!それじゃあ………!」
「ああ、魔ガラスはすでにこの世に存在している」

 こともなさげにイストはそういった。ニーナは浮かしかけた腰をソファーに戻し、驚いたようなそれでいて呆れたかのようなため息を漏らす。ニーナはそれで済んだが、済まないのがセロンのほうだ。

「待ってくれ!一体どういう………」

 あまりの衝撃に、上手く言葉がまとまらない。それも無理はないだろう。これから開発に取り組み、主力商品としようと考えていたものがすでに存在しているとなれば、「紫雲」の経営戦略をもう一度考え直さなければならない。もっとも、まだ完全に手付かずの状態らしいからダメージはないはずなのだが。

 なんにせよ、セロンにとっては想定外の事態であろう。しかしイストは余裕を崩さず、セロンを宥めた。

「落ち着きなよ。魔ガラスは確かに存在しているけど、商品として売り出しているところはまだないはずだから」

 立ち上がり、二人の真ん中にテーブルがなければ今にもつかみ掛かりそうになっていたセロンが、イストのその言葉で冷静さを取り戻す。彼が腰を下ろすのを待ってから、イストは言葉を続けた。

「さて、何から聞きたい?」
「………魔ガラスがすでに存在している、というのは本当なのか?」
「本当。ていうか想定してなかった?」

 魔ガラスは商品化できれば売れることはほぼ間違いない魔道具素材である。優れた魔道具素材の製法を独占できれば莫大な利益が得られるということは、例えば教会の聖銀(ミスリル)などが証明している。教会が聖銀(ミスリル)で得ていた利益は年間活動予算のおよそ三割に相当し、それは小国の国家予算にも相当する額であった。それが丸ごとなくなってしまい、教会の懐事情は火の車なのだがそれはともかくとして。そのようなわけで魔ガラスは昔から多くの素材屋、つまり錬金術師たちによって研究されてきており、その結果として一定の成果は上がっている。

「………その魔ガラスは、どのようなものなのだ?」

 苦い顔をして腕を組み、セロンはさらにイストに問いかける。まずは可能な限り情報を得なければならない。

「細かく砕いて粉末にした合成石を、溶かしたガラスに混ぜたものだ。発想としては単純だな」

 伝導率が低いのであれば、伝導率が高い物質を混ぜて底上げしてやればいい。つまりはそういうことである。

 例えば伝導率が0.4のガラスと、同じ量で伝導率が3.0の合成石があったとする。この合成石を粉末にし溶かしたガラスに混ぜれば、出来上がった魔ガラスの伝導率は1.7となる。導体の伝導率は1.5以上だからこれならば十分に通用する、はずであった。

「それは………、ガラスとしては脆かったのではないか?」
「さすが専門家だな」

 セロンの言葉をイストは肯定する。彼の言うとおり、こうして出来上がった魔ガラスは脆すぎて実用には耐えられなかったのである。

「実用化に至らなかった理由は他にもある」

 最大の理由はその伝導率であろうか。1.7ならば確かに導体として通用する。しかし、混ぜた合成石の伝導率は3.0である。ならばこちらを使ったほうがいい、と考える職人は多かった。

 さらにはその量が問題になった。例えば(必要があるかは別問題として)魔ガラスでグラスを作ったとしよう。先ほどの例に則れば、そのグラスのおよそ半分は合成石を使用しなければ成らない。合成石はガラスよりも値が張るから、そうなればコストが跳ね上がるのは目に見えている。ならばガラスは普通のものを用いて、合成石を核として用いたほうがよい。そういうことになってしまう。

「解決策は二つだ」

 一つ、単純に伝導率の高いガラスを開発すること。
 一つ、伝導率が極めて高い合成石を開発すること。

 前者に説明の必要はないだろう。伝導率の高いガラスを作ることが出来れば、それが最も良い。

 後者も発想としては単純だ。合成石を多量に混ぜることでガラスが脆くなりまたコストが上がるというのであれば、その量を少なくしてやればいいのである。そのためには、単純に伝導率が極めて高い合成石があればいい。

「………その二つも、すでに研究が進んでいるのか?」
「前者については、研究はされている。ただ成果が上がっているとは聞かないな。後者のほうはやってない」

 ガラス自体の伝導率を上げる研究はされてはいる。しかしつぎ込んだ時間と資金に見合うだけの成果は未だに上がっていない。そのため利益を上げなければならない工房などでは避けられる傾向があり、今では研究機関で細々とやっているくらいだろう。

 一方で合成石の伝導率を大幅に上げる研究はほとんどされていない。「伝導率が極めて高い」ということは、つまり4.0以上を意味している。しかもガラスの強度を保つためには混ぜる合成石の量は少ないほど良く、そのためには伝導率8.0以上が望ましいとされる。

「合成石の伝導率を上げる方法としては、結晶の純度を上げるのが一般的だ」

 しかし、どれだけ純度を上げたとしても、叩きだせる伝導率の最高値は今現在で4.6。とてもではないが8.0には届かない。しかも純度を上げればその分値段も上がる。実用化には程遠いといわざるを得ない。

「今は色々な種類を試しつつ、伝導率の高い物質を探している、ってところだな」

 ただ、伝導率8.0というのは錬金術師たちの間でも夢物語扱いで、その高みをまともに目指している者はほとんどいない。だからこそイストは「研究はされていない」といったのである。

「むむむ………」

 イストから一通りの説明を聞いたセロンは、腕を組んでうなった。「紫雲」はガラス工房だ。当然、合成石に関するノウハウなど何もなく、となれば魔ガラスの開発のための指針としては、ガラス自体の伝導率を上げることになるだろう。

 しかしその開発が成功するのかと言われれば、可能性は低いと言わざるを得ない。なにしろ世界中の錬金術師たちが、長い年月と膨大な資金を投じてもさしたる成果を挙げてこられなかった分野だ。完全に畑違いのセロンたちがいきなり挑戦して、なにかしらの成果を得られるとは思えない。

「何とかならんものかな………」

 セロンは唸る。現状、魔ガラスの開発をすると息巻いては見たものの、実際のところまったくの手付かずである。だからこの時点で開発を断念したとしても、損するものは何もない。

 しかしだからと言って、このまま従来どおりにガラス加工の技術を磨いていっても、将来はそれほど明るくない。

 先ほども述べたとおり、シラクサのガラス産業には立地の不利がある。輸出する際には必ずや多額の輸送費がかかり、それはそのまま小売価格の上昇に直結する。

 いい物を作れば必ず売れる、というのは嘘である。多少品質が劣るとしても一般大衆に受け入れられるのは値段の安いほうだろう。ガラスのような工芸品ならば、その傾向はより強くなる。

 つまりシラクサのガラス工房が生き残るためには、シラクサにしかないガラス製品を作る必要があるのだ。そのためにセロンが目をつけたのが魔道具素材、つまり魔ガラスだったわけだが、どうやら彼が思っていた以上に壁は高いらしい。

「何とかしてやろうか?」
「出来るのか!?」

 イストの言葉に、セロンがはじかれたように頭を上げる。しかしジルドとニーナは彼ほどには驚いていない。ここに来る前にイストの思わせぶりな言葉を聞いていたからだ。むしろ彼らにしてみれば、ここから先が本題であろう。

 そしてイストにとっても。彼はもったいぶって時間をかけるような話し方はしなかった。

「さっき、二つの解決策について話したよな?その内の一つ、『伝導率が極めて高い合成石』というのは、実はもうこの世にあるんだ」
「………は?」

 セロンが呆けたような声を漏らす。それはそうだろう。なにしろ先ほどイスト自身が「夢物語だ」と言っていたではないか。

 それに「伝導率が極めて高い合成石」がすでにこの世に存在しているのであれば、魔ガラスが未だに実用化されていないのはどうしてなのか。

 様々な疑問がセロンの頭の中で渦巻き、彼の思考は停止する。そんなセロンの様子を、恐らくは意図的に無視して、イストはその名称を口にした。

「その合成石を『共振結晶体』という」





*************************




――――共振結晶体。

 その名前が出たとき、セロンのみならずニーナまでもが不可解そうな表情を浮かべた。それも当然だろう。共振結晶体という名前を聞いてその中身を正確に思い浮かべることができる人間は、イストを別にすれば彼の師匠であるオーヴァ・ベルセリウスくらいのもので、つまり一般にはまったく知られていない。

「………どういったものなのだ?その、共振結晶体というのは」
「読んで字の如くさ。『共振現象を利用した結晶体』だ」

 そういわれても分らないだろうと知りつつ、イストはそう説明した。なにしろ「共振現象」の中身を知っているのは、世界広しといえどもやはりイストとオーヴァくらいのものであろう。

 ある特定の二種類の合成石を粉末にして混ぜ合わせると、伝導率が飛びぬけて高くなる特定の割合をもつことがある。これがイストのいう「共振現象」である。

 これはイストが見つけた現象ではない。今からだいたい二百年くらい前のアバサ・ロットが遊んでいたら発見してしまった現象だ。興味をそそられ少しばかり研究したらしいが、もともとアバサ・ロットは魔道具職人である。錬金術師の真似事はすぐに飽きてしまい、こうして共振結晶体に関するレポートは未完成のままお蔵入りしてしまった。

 とはいえレポートは「狭間の庵」の資料室に残っている。以前、イストは資料室をあさっていたときにこのレポートを見つけ、読むだけ読んではいたのである。

 そのレポートを読んですぐに、この共振結晶体を使えば魔ガラスを実用化できるのではないか、とイストは考えた。考えたが、実行には移さなかった。

 この当時イストはまだ見習いとはいえ、魔道具職人の端くれである。共振現象を発見したアバサ・ロットと同じように、素材関連の事柄に興味はそそられなかった。そちらに時間を割くくらいなら、新しい魔道具を作りたかったのだ。

(作りたい魔道具に必要になってからでいいか………)

 イストはそう考え、魔ガラスの実用化は先延ばしとなった。聞いたことはないが、恐らくは彼の師匠であるオーヴァも同じようなことを考えていたのであろう。

 そして結局実用化されることなく、現在に至るわけである。今現在も必死になって魔ガラスの開発を行っている研究者や錬金術師たちが聞いたら呪い殺されそうな話だが、事実なのだからしょうがない。

 ただこういった話を、イストはセロンにしなかった。彼が今聞きたいのはこういうことではあるまい。

「記録に残っている共振結晶体の伝導率は7.6。理想とされる8.0には届かないが、まあ今のところはこれでも十分じゃないのか」

 ちなみに、この伝導率7.6の共振結晶体、実は魔道具の核として使用された。作ったのはもちろん共鳴現象を発見したアバサ・ロットで、
「多分暴走するだろうなぁ」
 と思いつつも悪ふざけのノリで作り上げた。

 果たして予想通りに魔道具は暴走した。魔導士がとある城の練兵場で魔道具を使おうとして魔力を込めた瞬間のことである。本人はほんの少しだけ魔力を込めたつもりだったのに、その魔道具は魔導士の魔力を致死的なレベルで根こそぎ食い尽くし、結果その魔力量に耐え切れず爆発した。そして城の分厚い城壁に大穴をあけたという。

 作った本人は安全圏からそれを見物して爆笑。一部始終を日記に記録し、最後に「楽しかった」と書き添えた。

 明らかに悪ふざけの域を超えた犯罪、いやもはやテロ行為だが、アバサ・ロットという人種のはた迷惑な一面を的確に表している事件と言えるだろう。

 それはともかくとして。

 ジルドとニーナは「紫雲」に来る前のイストの思わせぶりな言葉から、ある程度この流れが予想できていた。だから驚いてはいるが、心のどこかで「ああやっぱり」と思っていたりもする。しかしセロンは違った。

「それじゃあ………!」

 イストの話を聞いたセロンが目を輝かせる。

「ああ、この共振結晶体を使えば、恐らく魔ガラスを実用化できる」

 イストの言葉を聞いたセロンは、体を震わせる。その理由は、後からあとから湧き上がってくる歓喜だ。勢い良くテーブルに手をつき、セロンは身を乗り出した。

「是非、その共振結晶体を使わせて欲しい!」
「条件がある」

 セロンの喜び方に苦笑しながら、イストはそういった。セロンはその言葉で少し冷静さを取り戻したが、それでも顔には喜色がありありと浮かんでいる。

「何でも言ってくれ。可能な限り善処する」
「まず共振結晶体だけど、実物はないからこれから合成することになる」

 その実験ために多数の合成石が必要になる。そこに掛かる費用は必要経費として「紫雲」に出してもらいたい、とイストは言った。

「それは当然だな。ただし、領収書は取ってきてくれよ?」

 水増し請求されてはたまったものではないからね、セロンは冗談めかして釘を刺した。イストも苦笑しながらそれに応じる。ただ彼の場合、金銭にこだわる性質ではないからあまり心配はないだろう。しかしそれゆえに金に糸目をつけず、研究費がかさんでしまう可能性はあるが。

 もっとも、現時点ではセロンがそんなことを知る由もない。

「他に、必要な機材などはあるか?」
「いや、合成石さえ用意してもらえれば、あとは自前の設備がある」

 もちろん亜空間内におさめられたアバサ・ロットの工房「狭間の庵」にある設備のことである。ただセロンはそのことを知らない。流れの魔道具職人と名乗ったイストがどこに専門的な設備を持っているのか疑問に思ったが、本人が大丈夫と言っているのだから大丈夫なのだろうと思い、それ以上は考えなかった。

「ああ、でもそうだな。『水盤計』は用意しておいたほうがいいな」

 イストのいう「水盤計」とは、魔力伝導率を測定するための魔道具だ。一般的に伝導率を測定する際にはこの魔道具が用いられる。水盤に水を張りそこに測定するサンプルを沈めて魔力を込めると、針が動いてサンプルの伝導率を指示するのだ。

 この魔道具は「水と比べてどれくらい魔力が流れやすいか、または流れにくいか」を調べるもので、そのため水の伝導率が1.0と定められているのだ。

「オレは自前のを持ってるけど、この工房にはないだろう?魔道具素材に手を出すなら、持っておいたほうがいい」

 珍しいものでもないから商会に注文すれば簡単に手に入る、とイストは言った。確かに魔ガラスを開発しても、その伝導率を測定していなければ商品として売り出すことは出来ない。セロンもすぐに頷き「用意しておく」と答えた。

「それで、実験の結果が出るまで、どのくらいかかる?」
「多めに見積もっても、一ヶ月あれば大丈夫だろう」
「………随分早いな」

 そういってセロンは少し不審そうな反応を見せたが、イストは笑ってこう答えた。

「大まかな資料は残っているしな。それに使えそうな共振結晶体を合成するだけで、仕組みを解明するわけじゃない。ま、時間がかかりそうなら、その時ちゃんと言うよ」

 イストのその説明にセロンは一応の納得を見せた。

「それで、報酬の話だが………」

 喜色を抑えて目に若干の鋭さを加え、セロンは最大の懸案について切り出した。ここでイストが求める報酬額や条件によって、今後の魔ガラス開発の進展が左右されると言っても過言ではない。

「報酬は三人分の衣食住の保障。以上」
「………は?」

 イストが要求した“報酬”にセロンは絶句した。高いのではない。その逆で、「何か裏があるのではないか」と疑ってしまうほどに破格過ぎるのだ。

 魔ガラスが実用化されればその市場規模はかつての聖銀(ミスリル)にも匹敵するであろう、と言われている。つまり小国の国家予算並みの金が動くのだ。セロンはそのことを知らないだろうが、イストは知っている。にもかかわらず報酬が「三人分の衣食住の保障」では安すぎる。もはや無料と言ってもいいくらいだ。

「さっきも言ったけど、共振結晶体を準備するだけなら一ヶ月もあれば多分大丈夫だ。だけどオレはそのためにシラクサに来たわけじゃない」

 イストはもともと、シラクサで“四つの法《フォース・ロウ》”の全体像を解明するつもりでいた。それ自体は別にシラクサでなくとも出来るのだが、ようはこちらが彼の目的であり、共振結晶体の合成はいわば余計なことであった。

「それで共振結晶体を合成した後も、衣食住を保障して欲しい。それが俺の求める報酬だ」

 だいたい半年くらいかな、とイストは期間を告げた。

「………本当にそれでいいのか………?」

 半年間、三人分の衣食住を保障する。それでもはっきりと破格過ぎる。セロンはどうにも納得できないような表情を見せたが、イストは笑いながら「いいよ」と答え、さらにこう付け加えた。

「オレは魔道具職人だからな。金は魔道具作って稼ぐよ。それに共振現象を発見したのはオレじゃない。他人の功績で金を稼ぐのは、オレの趣味じゃない」

 イストのその言葉は、気取って言ってる風ではなかった。イストはごく自然のこととしてそう考えているのだ。

「………その“他人の功績”を使って、私たちは大もうけしようとしているのだが?」
「いいんじゃないのか。それはそれで」

 使える素材が増えるのはオレとしても嬉しいし、とイストは「無煙」を吹かしながら笑った。それに対しセロンの表情は苦いままだ。報酬の不平等さに納得しかねているのだろう。

「私は………、君と公平な関係でいたいんだ………」

 その言葉にイストは苦笑した。自分に利がある話なのにそれで納得しないなんて「馬鹿だなぁ」と思う。しかしそういう人間こそイストは好きだし信頼するのだ。

「これはオレのわがままだよ。セロンさんが気にすることじゃない」

 だから誰に憚ることもなく目の前のチャンスを拾えばいい。イストはそういった。

「………わかった。シラクサにいる限り、君たちの衣食住はこのセロンが責任を持って保障する」
「ん、よろしく」

 話は、決まった。

**********

 翡翠(ヒスイ)は四人家族である。両親の名前はセロンとシャロン。そして三つ下の弟である紫翠(シスイ)がいる。ちなみに「翡翠」と「紫翠」の字は、今は使われなくなって久しいシラクサの古い言葉だと言う。

 父親であるセロンはガラス工房の「紫雲」を経営している。なかなか古い歴史を持つ工房で、最盛期にはかなりの儲けを出していたと聞く。

 そのおかげなのか、ヒスイの家は随分と広い。その広い家に、最近セロンが三人の客人を連れてきた。なんでも工房で行う新しいガラス(魔ガラスというそうだ)の開発を手伝ってもらうのだと言う。

 客人の名前はそれぞれ、イスト・ヴァーレ、ジルド・レイド、ニーナ・ミザリという。姓名を持つことからわかるように、三人とも大陸からの客人だ。

 もっとも、実際に開発を手伝うのはイストだけだ。弟子であるはずのニーナでさえ、「自分の勉強してろ」と追い払われて手伝わせてもらえていない。完全に畑違いのジルドともなれば、手伝わせてもらえない以前に出来ることが皆無であった。

「衣食住はセロンさんが用意してくれるけど、遊ぶ金は自分で稼いでくれよ」

 冗談交じりにイストからそういわれたジルドは、セロン宅の朝の手伝いを済ませると決まって街へ繰り出し日雇いの仕事で汗を流している。

「美味い酒を飲むためには、適当な労働が不可欠だ」

 夕食の席で晩酌を楽しみながら、ジルドはそんなふうに持論を語った。聞き様によっては「酒を飲むために働いている」と取れなくもないが、働かずに酒ばかり飲んでいるような連中とは図太い一線を画している。それに彼が酒目的で働いているわけではないことは、イストやニーナが良く知っている。

 ニーナのほうは、家にいることが多い。そのせいかよく家の仕事を手伝っていた。最初は客人ということでシャロンやヒスイも遠慮していたのだが、師匠であるイストが「こき使ってくれていいぞ」と言ってからは二人に混じって家事を手伝っている。

「働けごく潰し」

 などと、イストは楽しそうにニーナに発破をかけている。そんな師匠に迷惑そうな顔をしながらも、ニーナは良く働いていた。

 ヒスイとしてもニーナの働きはありがたかった。彼女の家は大きく、掃除だけでも一仕事である。いつもは母と二人で家事をしているのだが、それが三人になると随分と時間が短縮され楽だった。

 ジルドなどもそうだがイストも手のかからない客で、それどころか男手が必要なときには積極的に手伝ってくれる。だから「見知らぬ客人が家にいる」という感覚はすぐになくなり、まるで気の置けない友人を家に泊めているように感じるようになった。

 イストもジルドもお酒が好きで、セロンとよく晩酌を楽しんでいる。二人とも地酒のシラクサ酒を気に入ったらしく、イストなどは自分用のお猪口まで買ってきて用意していた。もちろん「紫雲」で作られたガラス製のお猪口である。

 ちなみにシスイは母のシャロンに似たのかお酒が飲めない。むしろヒスイのほうがお酒には強い。もっとも宴会などの機会でもない限りは飲まないが。

 こうしてシラクサでも生活を十分に楽しんでいるイストであったが、無論仕事も忘れてはいない。セロンとの話が決まったその日のうちに、彼は「狭間の庵」の資料室から共振結晶体に関するレポートを持ってきて読み返していた。

 ヒスイもそのレポートを後ろから覗き込んでみたのだが、見たこともない文字で書かれており、まったく読むことができなかった。

「古代文字(エンシェントスペル)っていうんだ。こっちでは使われなかったのかな」

 シラクサにも古い建物や記録は残っているが、その中でこの古代文字(エンシェントスペル)が使われているという話は聞いたことがない。むしろ、「翡翠」や「紫翠」といったシラクサ独特の文字が使われている。大昔に大陸で使われた古代文字(エンシェントスペル)は、すでに独自の文字体系を持っていたシラクサでは使われなかったのだろう。イストはそんなふうに分析した。

 ちなみに今のシラクサで使われているのは、大陸と同じ常用文字(コモンスペル)である。大陸との交流が盛んになるにつれて文字を統一したほうが便利だったのだろう、という話をヒスイも聞いたことがある。

 それはともかくとして。

 数日かけてレポートの内容を頭に叩き込んだイストは、いよいよ実際に共振結晶体の合成を行うことにした。

「合成石を扱ってる店を教えて欲しいんだけど」

 ある日、朝食の席でイストはそういった。

 ちなみにシラクサの食事は、「箸」と呼ばれる道具を使って食べる。二本の棒を使って食べ物をはさみ口へと運ぶのだが、これがなかなか難しい。大陸式、つまりナイフ・フォーク・スプーンなどと比べると、指の動きが非常に複雑なのだ。

「………あ………」

 ポロリ、とニーナの箸から野菜の煮つけが零れ落ち、開けた口が空振りする。しっかりと器を持っていたおかげで煮つけをテーブルに落とすことはなかったが、自分の口を逃れて器に戻った煮つけをニーナは恨めしげに睨んだ。それから箸を野菜に突き刺し、今度こそ口に運ぶ。ちなみにシラクサの食事は、素材の味を生かしたシンプルなものが多い。

「お前、まだ箸を満足に使えないのか」
「うう………。師匠だって最初は使えなかったくせにぃ………」

 セロンの家での最初の食事の際、イストもまたニーナと同じような醜態をさらしたていた。しかし次の日には、その醜態が嘘のような巧みな箸さばきを見せたのだ。目を丸くして驚くニーナにイストは、
「徹夜で特訓した」
 とこともなさげに言い、周囲を呆れつつも感心させたものである。ちなみにジルドは経験があるのか最初から上手に箸を使えていた。

「それで、合成石を扱っている店だったね………」

 盛大に逸れた話を、苦笑しながらセロンが引き戻す。

「ああ、そろそろ共振結晶体の実験を始めようかと思ってね」

 実験、と言ってもそう大したことをするわけではない。様々な合成石の組み合わせと比率を試しそのデータをまとめ、どの共振結晶体が最も魔ガラスに適しているかを判断するのだ。

 もっとも、実際に判断を下すのは工房主のセロンになるだろう。イストがまとめたデータをもとに、コストや伝導率、あるいは共振結晶体を混ぜた際にガラスにどのような変化があるかも鑑みて、最終的な判断を下すことになる。

 まあ、なんにしても共振結晶体を作るための合成石がないことには始まらない。イストは「狭間の庵」にかなりの数の合成石を保管しているが、今回それを使うつもりはない。別に惜しむつもりはないが、彼なりに考えあってのことだった。

「合成石もシラクサで生産しているヤツがいいよな?」
「………ああ、そうだな。そうしてもらえると助かる」

 セロンは自分の目的を「シラクサにしかないガラス製品を作ること」と言った。であるならば開発している魔ガラスの原材料は、全てシラクサで用意できることが望ましい。仮に外からの素材が必要不可欠であれば、その素材の価格が引き上げられたり輸出が停止されたとき、魔ガラスの生産に致命的な打撃を被ることになってしまう。

 このような腹のうちを、イストはセロンから聞いたことはない。聞いたことはないが、きっと同じようなことを考えていると思っていた。そしてその憶測は、セロンの表情を見る限り当たっていたのだろう。

「ヒスイ、イスト君を案内してあげてくれ。店を開けるのはそれからでいい」
「わかったわ」

 ヒスイが父親の頼みを了解する。今日もシラクサの空は青い。外を出歩くのはきっと気持ちいいだろう。ヒスイはそう思った。




[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 10:47
「またのおこしを」

 店主の声を背中に、イストとヒスイは繁華街の外れにある宝石店を後にした。合成石はそれ自体が装飾品としても使われるので、魔道具素材の専門店でなくとも宝石店に行けば大体扱っている。しかしイストはこの店では合成石を一つも買ってはいなかった。

「アテが外れたね………」
「ある意味当然だけどな」

 確かにこの宝石店でも合成石は扱っていたし、その中にはシラクサの工房で作られたものもあった。しかしその原材料までは把握していなかったのだ。代わりに仕入先の工房を教えてもらったので、二人はこれからそちらに向かうことになる。

 夏も過ぎ去り、大陸の北のほうではすでに雪が積もっているような季節だが、南の島であるシラクサでは燦々と太陽が輝いている。その上、今日は特に暑いようにヒスイは感じた。薄っすらと汗が滲むのを感じながら隣に視線を向けると、そこには涼しげに歩くイストの姿がある。

 イストの姿は少しばかり珍妙だ。彼が着ているのは、シラクサの人々が日常的に来ている筒型の長衣で、それをコートのように羽織って腰帯で止めている。それだけ見れば特におかしなところはない。ただシラクサではさらに袴を履くのが一般的だが、イストの場合その長衣の下に着ているのが肌着を含めていわゆる大陸の服なのだ。ヒスイの家に泊まるようになってからまだ数日しかたっていないが、イストはこのシラクサの長衣が気に入ったのか、最近ではこのスタイルで通している。

「面白い着こなし方ね」

 最初にイストのその格好を見たとき、ヒスイはやはり違和感や可笑しさを覚えた。しかも、似合わないわけではないのだ。それどころかその格好が妙にイストに似合っていて、それがまた面白かったのを覚えている。

 シラクサの長衣とその下に着ている大陸の服も合わないわけではない。長衣の下に着ているものはイストの好みもあるのかシンプルなもので、言ってしまえば何にでもあう服だ。加えてイストが堂々としているため、なんだかその着こなしの仕方が普通で当然のことのようにも思えてくるから不思議だ。

「いいわよね………、それ」

 自分の隣を涼しげに歩くイストを、ヒスイが少しうらやましげに見上げる。

 今着ている長衣は彼が自分で買ってきたものなのだが、なんと魔道具化してあり気温の調節が出来る。ヒスイも一度借りて着てみたのだが、驚くほどに涼しく、まるで夜の涼しい空気を昼間に持ってきたようだった。

 なんでも「旅人の外套(エルロンマント)」という、イストたちが日常的に使っていた魔道具と同じ術式を刻印したという。ただ、効率はそれほどよくはないといっていた。

「本来なら布地を織る前の糸の状態か、それが無理なら裁断する前の生地の段階で刻印するのが一番いい」

 イストはそういっていたが、ヒスイには良くわからなかった。そばで聞いていた彼の弟子であるニーナは頷いていたが。

 難しい話はわからなくても、今イストが着ている長衣があれば、暑いシラクサの夏に大変重宝することは簡単に想像がつく。来るべき次の夏に備え、ヒスイはこっそりとイストの長衣を狙っていた。

「これじゃあ、サイズが合わないだろう?」
「む………」

 イストがからかうようにそう言うと、ヒスイは少し顔をしかめた。

 シラクサでは男女の服装に大きな差はない。筒型の長衣を帯で締め、足には袴を履く。これが一般的なスタイルだ。そのためシラクサの人々は布地の染色や組み合わせ、袖口の大きさや飾り、あるいは刺繍を施したり帯の巻き方や種類に変化をつけてお洒落を楽しむのだ。

 しかしだからといって、全ての衣服が同じ大きさであるはずがない。背丈の異なるイストとヒスイでは、当然着ている服の基本的なデザインは同じでもサイズが異なる。仮に今イストが着ている長衣をヒスイ用に仕立て直すとしたら、丈と袖の長さを短くし肩幅を狭めて、とかなり大掛かりな作業が必要になる。

「私はそれでも別に………」

 諦めきれない様子でヒスイはそういった。これでも彼女は裁縫が得意である。仕立て直すぐらい、時間はかかるかもしれないがやろうと思えばいくらでも出来る。

「ていうか、そんな大胆に改造したら魔道具としては使い物にならないよ」
「え?そうなの?」

 まったく考えていなかったことを指摘されてヒスイは目を丸くした。

「そ。核を用意してそっちに刻印してあるなら大丈夫だけど、これは直接刻印したからな」

 糸がほつれたくらいならともかく、切って縫ってなんてしたら確実にアウト、とイストは言う。

「そっか。残念」

 努めて軽い口調でそういい、ヒスイは肩をすくめた。ただ、未練があることはその顔を見れば一目瞭然である。随分と幼く見えるその表情に、思わずイストの頬が緩む。

「なによ?」
「いやなにも」

 軽くねめつけてくるヒスイからイストは視線を逸らし、笑いをかみ殺すために煙管型禁煙用魔道具「無煙」を取り出して吹かした。

「そんなに欲しいなら、今度作ってやろうか?」
「いいの!?」

 白い煙(水蒸気だが)を吐き出しながらイストが言った言葉に、ヒスイの表情がパッと明るくなる。

「ああ。刻印するだけなら別にいいよ。時間もそんなにかからないし」

 ただ素体、つまり刻印する服だけは自分で用意してくれよ、とイストは言った。

「ん。わかった。了解。近いうちに用意するわ」

 嬉しそうにニコニコしながらヒスイはそう応じた。ちなみに、後日イストはヒスイから服を用意したから魔道具にして欲しいと頼まれたのだが、用意された長衣を見て頬を引きつらせた。なんと五着も用意してあったのだ。

「着替えは必要でしょ?」

 こともなさげにヒスイはそう言い、にっこりと笑顔を浮かべた。その笑顔になぜか薄ら寒いものを感じたのは、イストの気のせいではないはずである。そしてその様子を見ていたニーナが、ヒスイに尊敬の眼差しを向けていたとかいなかったとか。

 結局ヒスイの笑顔におされたイストは五着全てに面倒くさがりながらも刻印を施した。ヒスイは終始ご満悦だったとか。

 それはともかくとして。

「煙草が好きなの?」

 紹介してもらった工房を目指し通りをのんびりと歩いていると、ヒスイが唐突にそんなことをいいだした。彼女の視線はイストが吹かす「無煙」に向いている。

「いや、コイツは禁煙用の魔道具で『無煙』っていう。煙草じゃないよ」

 煙も水蒸気だしな、とイストは笑った。確かに煙草独特のあの臭いは、イストが持つ煙管からはしてこない。

「禁煙してるの?」
「いや?前に依頼されてな。気に入ったから自分でも使ってるんだ」

 口元が寂しいときがあってなとイストが言うと、ヒスイは「ふうん」と頷いてから、「おじいちゃんも同じようなこと言っていたわね」と小さく呟いた。

 吸ってみるか、とイストが「無煙」を差し出すと、ヒスイは手を振って遠慮した。ちなみにシラクサにおいてタバコを吸う女性は、その筋の女性だけである。まっとうな一般女性であるヒスイは、煙草を吸いたいと思ったこともないだろう。

「それにしても煙管だなんて、珍しいわね」
「そうか?シラクサではむしろ一般的だと思うけど」

 確かにシラクサではタバコを吸う際には煙管を用いるのが一般的だ。しかしそれはあくまでもシラクサでの話で、大陸ではパイプや葉巻が一般的だ。

 イストが「無煙」を作ったのは大陸だから、そちらの習慣に合わせるならば形状はパイプにすべきで、そこをわざわざ煙管にしたところをヒスイは珍しいと言ったのだ。

「イストってもしかして、家族にシラクサの縁者がいるの?」
「なんでそう思う?」
「煙管の事もそうだけど、目も髪の毛も黒いし………」

 どことなくシラクサに通じるものを感じる。ただヒスイの歯切れは悪いし、イストも苦笑している。

「煙管にしたのは完全にオレの趣味だし、黒目黒髪は大陸にだってたくさんいるぞ」

 イストにそう指摘されると、ヒスイは「そうよね………」と呟いた。もともとたいした根拠があって言い出したことではないのだ。

「ま、オレにシラクサの血が流れているかなんて、もう調べようはないけどな」
「どういうこと?」
「オレは孤児だからな」

 自分が孤児院に捨てられそのため実の親については何も知らないこと。その孤児院自体が盗賊に襲われて壊滅し今はもうないこと。逃げ延びたところを師匠であるオーヴァに拾われて、それ以来旅を続けていること。イストは自分のことを淡々と、まるで他人事のように語った。

「………ごめんなさい」
「なんで謝る?オレが勝手に話しただけだ」
「でも……、辛いことを思い出させてしまったから………」

 だからごめんなさい、とヒスイは歩きながら少しだけ頭を下げた。だが謝られるとイストのほうが苦笑してしまう。別に湿っぽくするために自分の過去を話したわけではないのだが。

「いいって。それよりもさ………」

 努めて明るく、そして気にしていない風に振る舞い、イストは話題を変えた。少々強引で急ではあったが、イストの意図をすぐに察したヒスイはその話題に乗った。変に湿っぽくなってしまった空気はすぐに明るくなり、気分も軽く二人は目的の工房へと向かったのであった。

**********

 宝石店で紹介してもらった合成石を作っている工房は、「紫雲」と同じく郊外にあった。というより、工房のような無骨で華のない施設を繁華街のど真ん中に作っても顰蹙(ひんしゅく)を買うだけだろう。

「失礼ね。ウチはちゃんと華のある商品を作ってます」

 いかにも心外そうな顔でヒスイはそう言う。しかし自分で言っておいて可笑しかったのか、すぐに噴き出して笑ってしまった。無論、「華がない」というのは工房で作られる作品のことではなく、工房の外見そのもののことである。

「さて。この工房はウチみたいにちゃんと華のある商品を作っているのかしら?」
「どうかな。期待しないほうがいいと思うが」
「あらどうして?ここは合成石を作ってるんでしょ?合成石は綺麗じゃない」
「あれはカッティングして磨いてあるから綺麗なんだ。出来上がったばかりの合成石はそんなに綺麗じゃないよ」

 天然の宝石と同じだよ、とイストは「無煙」を吹かしながら言った。ヒスイは気づかなかったが、その言いぶりは明らかに自分で合成石を作ったことがあることを示唆している。無論、「狭間の庵」にある専用の設備を使って作ったのだが、本職の錬金術師でもないイストがそんなものまで持っているのである。歴代のアバサ・ロットたちは本当にでたらめかつ節操なく設備を揃えたものである。

「ああ、でもカッティングもこの工房でしていれば華のある商品を拝めるかもな」

 そんなことを話しながら、二人は工房の門を叩いた。応対に出てきた人に紹介してもらった宝石店の名前とここへ来た用件を話すと、すぐに奥へ通される。どうやらこの工房も「紫雲」と同じく、奥に応接室を用意してあるらしい。

 通された応接室でしばらく待っていると、親方を名乗る壮年の男性がやってきた。一見すればどこにでもいそうな外見だが、その手を見れば彼が熟練の職人であることはすぐにわかる。

「あんた達か。ウチの合成石を見たいというのは」
「そ。ただ、原材料がすべてシラクサで揃うものがいいんだ」
「面白い注文だな」

 そんな注文をつけてきたヤツは初めてだ、と言いながら親方は作っている商品の品目を持ってきて、さらにそこに印をつけていく。それからその品目をイストに見せた。

「そこに印をつけたやつが、シラクサで採れる原材料のみで作っている合成石だ」
「結構多いな」

 品目表にざっと目を通したかぎり、ここで扱っている合成石の種類はおよそ十。その内の七つに印がつけられている。

「他所から原材料を仕入れるとなると、船をつかわにゃならん。そうなると、どうしても高く付くからな」

 シラクサは周りを海に囲まれ孤立している。そのため外から安定的に物資を持ち込むことが難しい。価格が高くなるのも問題だが、仮に仕入れが途絶えたときに商品を作れなくなるのが一番の問題だ。安定して商品を作り続けるには、シラクサにあるものを使うしかない。

「なるほどね」

 そう答えてからイストは品目表から目を離し、親方のほうを見た。

「これ、原材料名に使ってるか、教えてもらえない?」
「駄目だ」
「配合比率や作業手順がわからなきゃ同じ物なんて作れないだろ」
「それでも駄目だ」

 親方は頑なに拒否する。しかしそれも当然であろう。イストが同じものを作らないとしても、同業のライバルが原材料を知ればある程度の配合比率や作業手順について予測はついてしまう。手の内を知られては競争を生き残れないのは、どの業界も一緒である。

 無論、イストとてそのことは知っている。だから肩をすくめると、それ以上頼み込むことはしなかった。

「この七つを十個ずつくれ。それぞれ種類が分るようにしてもらえると助かる。あと、領収書が欲しい」
「まいど」

 親方は応接室から声をかけて人を呼び、商品を持ってくるように言いつける。それが終わると親方は「ところで………」と話を切り出した。

「同じ合成石を十個ずつ買い込むとは………、なにか面白いことでもはじめるのか?」
「ん?まあね」
「………儲け話なら、一枚噛ませてもらいたいんだがな」

 流石に商売人である。なかなかいい嗅覚をしている、とイストは苦笑した。

「さて、ね。オレも雇われ人だからな。そういう話はコッチとしてくれ」

 そういってイストはヒスイのほうを指差す。突然話を振られたヒスイは困惑顔だ。

「ちょっと、私にそんな話を振らないでよ」
「かといってオレが進めていい話でもないだろう?」
「それはそうだけど………」

 ヒスイは確かに工房主であるセロンの娘だが、かといって工房の仕事に携わっているわけではない。直営店を任されてはいるが、その役割も完全な店番で、工房も含めた経営方針はすべてセロンが決定している。

「シスイならある程度話も分ると思うんだけど………」

 ヒスイの三つ下の弟である紫翠(シスイ)は、父親の背中を追ってガラス職人になるべく工房で修行している。経営や魔ガラスの開発にどの程度関わっているかは分らないが、少なくとも完全に門外漢であるヒスイよりは適任のはずである。

 結局、イストとヒスイの二人では踏み込んだ話はできず、ガラス工房「紫雲」の名前だけ伝えて二人はこの工房を後にしたのであった。





*********************





セロンの家は代々ガラス工房を営んできた。今の彼の家の生活水準は平均的なシラクサの家庭とだいたい一緒だが、何代か前には大陸との交易で一財産を作り上げそれなりの生活をしていたとも聞く。

 そのおかげで、彼の家は生活水準のわりには大きい。どのくらい大きいかと言えば、家族四人に加えて客人を三人泊められるくらいには部屋数がある。さらに言えば部屋数があるだけではない。池のある大きな庭がセロンの家にはあった。

 もっとも、「広すぎるのも考えものだ」というのがヒスイの意見である。広すぎて掃除が間に合わないし、古い家だからあちこち修繕も必要である。広い庭の手入れには多くの時間がかかり、結婚している暇もない。まあこれは自業自得のような気もするが。

 それはともかくとして。

 朝早く、日が上る前の朝露の湿度が心地よい時間に、その広い庭で二人の男が向かい合っている。イスト・ヴァーレとジルド・レイドである。シラクサに来てからもジルドは朝の鍛錬を欠かすことはなく、彼以外適当な人物もいないということでイストは毎朝ジルドにつき合わされていた。ちなみにこれまでの対戦成績はジルドの全勝、イストの全敗である。

 ジルドは鞘から刀を抜き正面に構える。古代文字(エンシェントスペル)が刻まれた銀色の刀身が、明けきらない朝の静謐な空気の中で青白く輝いた。豪壮なその長刀は、体格に恵まれたジルドに良く似合っている。

 魔剣「万象の太刀」

 シーヴァ・オズワルドとの仕合で砕けてしまった「光崩しの魔剣」の代わりに、最近イストが作り上げたジルドの新しい愛刀である。

 ジルドに相対するイストの手には、彼の身長よりも少し長いくらいの杖が握られている。その杖の先端部は歪曲していて、ところどころに金属のコーティングがなされている。イストが愛用している魔道具「光彩の杖」である。

 ジルドが太刀を構えたのを見ると、イストは杖に魔力を込め空中に魔法陣を描いた。その数、全部で十二。攻撃用と防御用を六つずつである。

 魔法陣の展開を確認したジルドは、腰をわずかに落とし四肢に力を込める。両者の間に緊張が溢れ、鋭い視線が擦れて不可視の火花を散した。

 イストがわずかに口元を歪ませ、攻撃用の魔法陣魔力を込める。それが合図となった。一斉に発射された光線は全てジルドに向かって殺到するが、それが彼に触れることはなかった。ジルドが「万象の太刀」を一閃すると、光線は全て形を失って散乱し、ただ彼の周りで淡く輝きそして消えた。

 光が全て消える一瞬前、ジルドは地面を蹴って前に出た。イストもそれを迎え撃つべく、でたらめに光線を乱射してジルドの行く手を阻む。

 イストの攻撃のほとんどは地面に当たっている。しかしその結果、土がえぐられたりとすることは少しも無い。これまでの対戦の経験上、自分の攻撃がジルドには当たらないことを悟ったイストは、威力度外視の低出力で魔力を節約する方向に切り替えたのだ。つまり、今彼が放っている光線には物理的破壊力というものが皆無なのである。仮に当たったとしても、指でつつかれた程度の痛みも感じることはあるまい。

 イストが乱射する光線を、ジルドは「万象の太刀」で無効化することなく、縦横無尽に動き回って回避していく。ときには空中で体を捻ったり方向を変えたりして、まさに三次元機動で攻撃を回避していく。

 ジルドは乱舞する光線を全て紙一重でかわしていく。次に彼が足をつけたのは、なんと庭に設けられた池の水面であった。

 わずかな波紋のみつくって、ジルドは水面を滑る。イストは池に向かって光線を乱射するが、ジルドはなめらかに水面を滑ってそれを全てかわしていく。水面に当たった光線が反射して、池は黄金色に輝いた。

 ジルドのありえない動きには、無論理由がある。
 魔道具「風渡りの靴」

 かつてイストがニーナの父が営む工房「ドワーフの穴倉」を間借りしていた時に作った魔道具である。これは風の上を滑るようにして移動できる魔道具で、イストはこれをアルテンシア半島にいたときにジルドにわたしていたのである。

 この魔道具を自分のものにしたジルドは、もともとの神速に加えて圧倒的な機動手段と機動空間を手に入れ、その動きはもはや人の域を超えている。この余人が決して真似することのできない機動性は、優れた剣術と共に今や彼の大きな武器となっていた。

 その機動性を駆使して、ジルドはイストとの距離を瞬く間に縮めていく。イストもただそれを見ているだけではない。火力(当たっても傷一つ付かない火力だが)を集中して迎え撃ち、さらにあらかじめ展開しておいた防御用の魔法陣を移動させてジルドの進路を塞ぐ。しかし………

「ハァ!!」

 気合のこもった声とともにジルドが「万象の太刀」を一閃させると、放たれた光線と展開されていた魔法陣が全て一瞬のうちに斬りかされた。

 あらかじめ拡散させておいた自分の魔力に干渉して、相手の魔力を散して攻撃を阻害する。「光崩しの魔剣」を使っていた頃から得意とし、ジルド自身が「霞斬り」と名付けた刀術である。

 イストが用意していた策を全て潰したジルドは、一気に間合いを詰めようとして四肢に力を込め、しかし反射的に横に飛びのいた。一瞬前まで彼がいた空間を、渦を巻いた圧縮空気の砲弾が大気を引き千切りながら飛んでいく。イストのほうに視線を向けると、新たな魔法陣が三つ、すでに展開されていた。

「展開のスピードが速くなったではないか」
「いつまでも同じ展開でやられるのはシャクだからな!」

 イストは展開した魔法陣にさらに魔力を込め、圧縮空気の砲弾を次々に打ち出していく。ジルドはそれを「万象の太刀」で切り裂くことはせず、「風渡りの靴」を駆使してかわしていく。かわされた空気の砲弾はそのまま風に溶けていくか、あるいは地面に当たって草を揺らした。やはり威力は意図的に低く設定してある。

「やはり厄介だな、これは」

 イストが撃ち出す空気の砲弾は「万象の太刀」では無効化することは出来ない。なぜならそれを構成しているのは純粋な空気だからだ。魔法陣で空気を圧縮し、指向性を持たせて打ち出しているのだ。魔力を含まない純粋な空気に対して、「万象の太刀」は干渉することが出来ない。

「不可視のこの攻撃をあっさりと回避しているアンタが言っても説得力がない」

 圧縮空気の砲弾は当然のことながら目には見えない。しかしジルドはまるでそれが見えるかのようにたやすく回避していく。

「そうか?魔法陣の向いている方向と風の流れにさせ気をつけていれば、それほど難しくはないぞ。連続性と速度は光線のほうが上だしな」

 凡人に天才の感覚が分らないように、天才も凡人の感覚は分らないものなのだろう。戦闘に関しては凡人を自認するイストはため息をついた。そうしている間にもイストは空気の砲弾を撃ち出し続け、ジルドはそれを軽々と回避していく。

「とはいえそろそろ朝食の時間だな。終わりにするぞ」

 そういってジルドは足に力を入れて飛び上がり、「風渡りの靴」に魔力を込めて、イストが撃ちだした圧縮空気の砲弾を足場にしてさらに前に出た。

「はあ!?」
「ふむ。うまくいったようだな」

 ジルドが履いている「風渡りの靴」は、風の上を滑るようにして移動するための魔道具である。つまり空気を足場に出来るのだ。この魔道具を作ったのはイストだから、彼自身そのことは承知している。しかし元来不可視で、しかも襲い掛かってくる空気の砲弾を足場にするという発想は彼の中にはなかった。

 空気の砲弾を足場にして、ジルドは瞬く間に間合いを詰める。そしてそのままイストの頭上を飛び越えて彼の背後に着地した。

「にゃろ!」

 慌ててイストは体を捻りそのまま「光彩の杖」を振りぬこうとするが、ジルドのほうが圧倒的に速い。イストが体を半分ほど捻ったところで「万象の太刀」の切っ先が下から突きつけられ、イストは降参したのであった。

 対戦成績は、今日もジルドの全勝、イストの全敗で推移する。

**********

「相変わらず凄いわねぇ………」

 感嘆とも呆れともとれる声で、翡翠(ヒスイ)は呟いた。

 ヒスイの部屋には、庭に面した窓がある。彼女はその窓からジルドとイストの朝の鍛錬を見ているのだが、その派手さにはもはやため息しか出てこない。

 光の線で描かれた魔法陣が幾重にも展開し、そこから放たれる閃光が幾筋も重なって乱舞する様はまさに圧巻である。仮に時間帯が夜であったなら、さぞかし幻想的であったろう。

 しかしそれ以上にヒスイの目を奪ったのはジルドの動きである。彼の動きは非常に滑らかで、まるで舞いでも見ているかのような錯覚を覚える。その上、宙や水面を翔るその移動術はすでに人の域を超えており、刀を振るうその姿は戦神にも思えた。

 ちなみにイストは稽古の間ほとんど動いていない。それも仕方がないだろう。仮に動き回ってジルドと戦ってみても、稽古の時間が短くなるだけで、長くなることはない。素人のヒスイがそう断言できてしまうほどに、ジルドの動きは常軌を逸している。

 ヒスイが見守る先で、ジルドがイストの背後に回り、低い位置から刀の切っ先を突きつけている。一瞬の静止と沈黙の後、二人はゆっくりと離れて力を抜いた。

 ジルドは満足そうな顔をしているが、イストは不満げで悔しそうな顔をしている。きっとジルドが勝ってイストが負けたのだろう。イストはアレで負けず嫌いな性格みたいだから、毎日毎日負け続けるのはシャクであろう。ただド素人のヒスイの目から見ても、イストがジルドに勝つ術があるようには思えなかった。

「あれだけ動けたら楽しいだろうなぁ………」

 鳥のように空を飛んでみたい、という様な子供っぽい空想を抱いているわけではないが、ジルドのように風に乗って空を駆け回れたさぞかし気持ちがいいだろう。さっきは水面を滑ってもいたから、もしかしたら海の上を散歩したりもできるかもしれない。

「今度、ねだってみようかしら?」

 ジルドの人間離れした動きには、無論理由がある。彼が足に履いている靴は「風渡りの靴」という魔道具で、これのおかげであの空を滑るような動きが可能なのだという。あの魔道具を作ったのがイストであるという話はすでに聞いている。頼めばもう一つぐらい作ってもらえないだろうか。

「最近、運動不足なのよね………」

 店番を任されている直営店までの往復はもちろん歩きだし、家事だって結構な重労働なのだが、逆を言えばそれ以外に体を動かすことはあまりない。

(二の腕と太ももが………!)

 最近、気になっている。二の腕をさすってみると妙に柔らかい。前はもっと固かったと思うのだが………。

 運動しなければとは思うのだが、闇雲に動き回るのもなんだか虚しい。かといって日々の生活の中では、これ以上激しい運動をすることはたぶんないだろう。「風渡りの靴」はいいきっかけになるのではないだろうか。

 いや、きっかけなどなくともそろそろ運動しなければまずい、気がする。

「………とぉ」

 控えめな掛け声とともに、寝台の上に飛び乗る。柔らかい寝具の上は床の上に比べれば不安定で、それがなんとなく風に乗って雲の上に立ったように思わせる。

 腕を広げ、さっき見たジルドの動きを真似て、寝具の上を撫でるようにして足を動かす。なんだか気分が乗ってきてその場で一回転してみたりして、狭い寝台の上を動き回る。風に乗るのはこんな感じなのだろうか。

「………何してんだ?お前」

 呆れたようなその声に、思わず飛び跳ねて寝台から落ちてしまう。慌てて起き上がり部屋の入り口を見ると、呆れ顔のイストが笑いをかみ殺していた。

「ななな、なになになに………!」
「朝食ができたから呼びに来た」
「いいい、いついついつ………!」
「お前が深刻な顔して二の腕を擦ってる辺りから」

 それではほとんど全てではないか。ヒスイは顔が真っ赤になるのを自覚して俯き、それでもまだ恥ずかしくイストに背を向けた。

「なにか………、言いたいことは?」
「ちなみに贅肉は腹回りから付くらしいぞ」

 それはつまりどういう意味なのか。それを問う前にヒスイのお腹が控えめだが無遠慮に自己主張をする。

「クッ………!」

 堪えきれなくなったのか、とうとうイストが噴き出す。

「しねぇぇぇぇええええええ!!!!」

 羞恥心で顔を真っ赤にして、目じりに涙を溜めたヒスイが大声で叫ぶ。そして部屋にあるモノを手当たり次第イストに投げつける。

「ちょ……!まて!それはヤバイって!!」

 逃げるイストめがけてヒスイが物を投げ続ける。二人の追いかけっこは、騒ぎを聞きつけたシャロンに一喝されるまで続くのであった。

**********

 結局、二人の追いかけっこはシャロン仲裁のもと、イストが「風渡りの靴」をヒスイに作ることで決着した。

 この件に関するメンバーの反応は次の通りである。

 ジルド、セロン、紫翠(シスイ)のイストを除いた男性陣は賢明にも沈黙と非干渉を保った。実際のところ火の粉が降りかかるのが嫌だったのだろうが、ともかくこの件には関わろうとしなかったわけだ。

 一方、ニーナは積極的にヒスイを援護しイストを追い詰めた。恐らく詳しい事情はわかっていなかったと思われるが「師匠(イスト)とヒスイならば、何かしでかすのはイストのほうだろう」という独断と偏見にもとづき、容赦なくイストを口撃したのである。師匠を師匠と思わないその苛烈さは、日ごろの“教育”の賜物であろうか。もっともイストのほうがまだまだ上手で、やり返されたうえにやり込められていたが。

 シャロンは控えめにイストを援護していたが、仲裁している以上どちらかに肩入れしすぎることも出来ず、立場的にはおおむね中立であった。

 当事者二人の反応は対照的であった。ヒスイが一時の激怒が過ぎ恥ずかしそうに俯いているのに対して、イストは面白いものが見れたと笑い反省の欠片すら見せない。もっともその“面白いもの”の中身を話そうとはしなかったが。

 代わりにイストはこんなことを問いかけた。

「『風渡りの靴』、欲しいのか?」

 そういわれてヒスイはさらに赤くなって顔を俯かせた。つまり自分が何をやっていて何がしたいのか、イストには完全にバレてしまったということだ。

 とはいえチャンスであることは確かである。俯かせた顔は耳まで真っ赤に茹で上がり湯気が上がりそうで、とてもではないがイストの顔を見ることなどできず膝の上で握り締めた手ばかり見ていたが、それでもヒスイはわずかに頷きその魔道具が欲しいことを肯定した。

 それを見たイストが大笑いしながら「了解了解」と言う。笑われたヒスイはさらに顔を俯かせた。ニーナがイストを怒鳴っているが、彼はどこ吹く風である。

「それはそうと、イスト」

 話が一段落着いた頃、それまで傍観を決め込んでいたジルドが口を開いた。

「実は仕事でな、大陸のほうに行くことになった」

 アルジャーク海軍では現在、貿易の振興策として大陸とシラクサの間を行き来する商船の先導と護衛を行っている。何隻かの商船で船団をつくり、その先頭と最後尾に海軍の艦が付くのだ。

 これは海賊対策であると同時に、船団をつくりまた航海に熟練した海軍が先導することで安全性を高める目的があった。

 それはともかくとして。護衛をする海軍が臨時の戦闘員を募集しており、ジルドはそれに応募したのだという。

「期間はどれくらい?」
「さて、三ヶ月から四ヶ月程度、といっていたが………」

 航海は天候に大きく左右される。正確にどのくらい、と予測するのは難しい。もしかしたら四ヶ月以上かかるかもしれないし、逆に三ヶ月もかからないかもしれない。なにはともあれ、ジルドは長期間シラクサを離れることになる。

「いつ出航?」
「天気さえよければ明後日にも」

 急な気もするがジルドはシラクサでなにかやっているわけでもない。彼が明後日からここを離れたとして、なにか仕事が滞るようなことはないだろう。

「ん、了解」

 イストが軽い調子で答える。もとより共振結晶体の合成実験や“|四つの法《フォース・ロウ》”の解析でシラクサにはしばらく留まることになる。どれ位かかるかは分らないが、それでもジルドが行って帰ってくるくらいの時間は必要になるだろう。

 その日と次の日、ジルドがシャロンとヒスイからやたらと力仕事を頼まれていたのは、きっと余談に類するのだろう。

**********

「さて、と」

 朝食の後、部屋で準備を整えたイストはそう呟いて気を引き締めた。

 机の上には天秤や乳鉢、匙などが用意してある。買ってきた合成石はその日のうちに砕いて粉末にして、今は種類ごとにビンに入れてラベルを貼ってある。

 これから共振結晶体の合成実験を始めるのだ。

 とはいってもやることは地味である。まず共振現象を起こす配合比率を調べ、それをもとに結晶体を合成するのだ。今日はとりあえず配合比率だけ調べて、後日「狭間の庵」で合成するつもりだ。

「じゃ、やりますか」

 気負いなくそういってから、イストは懐から片眼鏡(モノクル)を取り出しそれを右目に装着した。この片眼鏡(モノクル)は「鑑定士の片眼鏡(モノクル)」という魔道具で、魔力の流れを可視化する「目利きのルーペ」という魔道具を改造したものだ。“目利き”と“鑑定士”で言葉を変えたのは、たぶんイストがそういう気分だったのだろう。

 まず一種類目の粉末を天秤で一定量はかり乳鉢に入れる。乳鉢を通して魔力を込めると、右目に装着した「鑑定士の片眼鏡(モノクル)」の効果で、青白い魔力の流れが見えた。

 それを確認してから、イストは二種類目の粉末も同じ量だけはかり、今度は乳鉢ではなく乳皿に移した。ここから匙ですくって乳鉢にいれ、そして最後に全体の重さを量って、二種類目の粉末をどれだけ入れたかを割り出すのだ。ちなみに乳鉢の重さはあらかじめ計測してある。

 さて、と呟いてからイストは匙で二種類目の粉末をすくい、乳鉢のところまで持ってきて、そこで動きが止まった。

「………腕がもう一本欲しいな………」

 決まり悪そうにイストは呟く。

 匙ですくった粉末は一度に全部入れるのではなく、指で“とんとん”と軽く叩いて少量ずつ入れ魔力の流れ方の変化、つまり伝導率の変化を見るのだが、右手には匙を持っているし、左手は乳鉢に添えて魔力を注いでいる。匙を指で軽く叩いてやるには、腕がもう一本必要だった。

 当然、イストは三本目の腕など持っていない。仕方がないので、最新の注意を払いながら乳鉢のふちを匙で軽く叩くようにして二種類目の粉末を少しずつ混ぜていく。

 少し入れてはよく混ぜて魔力の流れに変化がないかを観察し、また少し混ぜて観察する。地味で派手さなど皆無だが、細心の注意と集中力を要する作業だ。

「この組み合わせでは駄目だったか」

 乳皿に取った二種類目の粉末を全て乳鉢に入れ、つまり二種類の合成石の粉末を一対一になるまで混ぜ合わせてその伝導率に目立った変化がないことを確認すると、イストはそう呟いた。そしてその結果をノートに記録する。

 乳鉢の中身を用意しておいた小瓶の中に移し変え、さらに良く拭く。それからもう一度同じ粉末を同じ量だけはかる。ただし乳鉢と乳皿の中身は先ほどとは逆だ。

 そしてまた同じようにして匙で乳皿から粉末をすくい、少しずつ乳鉢に入れていく。延々と同じことの繰り返しだ。面倒だがしかしこれをしないことには何も始まらない、基礎的で重要な作業なのだ。

 少なくとも、イストはそう思っている。




[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 10:51
ジルドが請け負った仕事は海軍が依頼したもので、その内容は「臨時の戦闘要員の募集」というものだ。この場合、戦う相手は商船を襲う海賊ということになる。

 実はこの依頼、今回に限っていえば相当に人気がなかった。その主たる理由は報酬額が変動するからだ。

 戦闘要員とはいえ、そもそも海賊が襲ってくるかそれ自体が不確実だ。襲撃があれば戦闘要員としての仕事が発生し、報酬の額もそれに応じて加算される。しかし襲撃がなければ当然戦闘は起こらず、仕事は船の雑用だけで報酬も最低金額しかもらえない。そもそも襲撃させない、つまり抑止力として海軍が護衛するという側面もあるのだ。

 さらにいえば拘束期間が長い。ジルドの場合、往復で拘束期間は三~四ヶ月。天候次第では、さらに伸びる可能性もある。加えて船旅である。目的地であるカルフィスクに着かない限りは、途中で契約を解除して船を下りるということも出来ない。

 そのような事情もあり、今回の依頼を請け負ったのはジルドを含めて三人だけであった。しかもジルド以外の二人は片道のみで、ようは大陸に戻るための足代わりに請け負っただけであった。ただ人数が少ないことはさほど問題にはならない。海軍はもともと戦うための組織だ。そういう意味では、戦闘要員は始めから足りている。

 ジルドたちが乗っているのは、船団の最後尾を行く海軍の艦だ。先頭を行く海軍の艦は船団を先導することが役目であり、仮に海賊の襲撃があった場合、ジルドたちが乗っている最後尾の艦がまず矢面に立って防ぐことになる。

 今回、船団の最後尾に付くことになった船は「カティ・サーク」。その船には白銀の魔弓「|夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」を持つ魔導士、アズリア・クリークもまた乗っていた。彼女にとっては最初の長期間にわたる海上の任務である。またこの航海中に、天測など航海士としての実地訓練も受けることになっている。

「でも、ジルドさんがこの仕事を請けるなんて、少し以外でした」

 ジルド相手には敬語で話すことにしたらしいアズリアがそういう。イストの扱い方との差は、そのまま二人の人格の差だろう。

「どうしてだ?」
「普通、この手の依頼は片道だけって方が多いですから」

 往復となると、この手の仕事は戦闘が起こらない限りは、拘束期間が長いわりに稼ぎが悪い。しかし、片道だけとなると少し事情が変わってくる。目的地(今回の場合は大陸)が一緒であれば、船賃を払うどころか少ないながらも報酬を貰ってそこまで行けるのだ。その上、三食を依頼主(海軍)が補償してくれるとなれば、まさに「渡りに船」である。もっとも、今回はその“船”を捜していたのは、二人だけだったわけだが。

「ジルドさんは、シラクサに戻るんですよね?」
「うむ。イストたちを待たせているからな」
「………ジルドさんはなぜあの男に付き合っているんですか?」

 アズリアの言う“あの男”というのは間違いなくイストのことであろう。彼女がイストにあまりいい感情を持っていないことはジルドも知っている。今もまた、なるべく冷静に話そうとしているのだろうが、恐らくは無意識のうちに眉間にシワがよっている。

(随分と嫌われたようだぞ?イスト………)

 ジルドは心の中でそう苦笑を漏らす。ジルドの目からすると、イストはアズリアに対して意識的に悪役(ヒール)を演じているように見える。きっと、からかいがいのある相手と認識されているのだろう。

「………ジルドさんの腕なら、仕官の口はいくらでもあると思います。なのになんで、わざわざあの男に付き合うのですか?」

 シラクサに向かう船の中でイストにされたのと同じ質問を聞かれたジルドは軽く笑い、そしてこう答えた。

「我が身の栄達には興味がない、といえば嘘になる。だが、あやつと一緒にいればきっと面白いことが起こる。今はそちらのほうが楽しみだ」

 アルジャーク帝国と教会勢力、そしてアルテンシア王国。エルヴィヨン大陸はこの三つの勢力を中心にして激動している。

 ジルドは出航前にイストから「帰ってきたら大陸の様子を聞かせてくれ」と頼まれている。つまり大陸の情勢変化について、情報を集めてきてくれということだろう。今はシラクサに引きこもっているが、イストもやはり大陸の情勢変化について無関心ではいられない。

 さらに、もっとも重要なこととして、イストはこの三つの勢力とかかわりがある。

 アルジャーク帝国の皇帝クロノワ・アルジャークとは友人同士だと言うし、アルテンシア王国を建国したシーヴァ・オズワルドとも面識がある。さらに今イストが解析を進めている“|四つの法《フォース・ロウ》”は、教会となんらかの関係があると見られている。

 そしてイストのあの性格である。全てのピースが揃ったあかつきには、必ずや何か“大それたこと”をする。ジルドはそう確信していた。

 その、“大それたこと”が何なのか、ジルドは分らないし予想も付かない。しかし、普通に仕官して宮仕えをするだけでは、決して手が届かないような何かをイストは見せてくれるだろう。

「過大評価のような気がしますけど………」

 アズリアはそういうが、必ずしも過大評価というわけではあるまい。イストはアバサ・ロットの名を受け継ぐ魔道具職人である。優れた魔道具が歴史を左右した事例は、歴史書を紐解けばいくらでも見つかる。その内の幾つがアバサ・ロットの作品によるものなのかは不明だが、いずれにしても優れた魔道具職人であり組織というしがらみとは無縁の立場にいるイストは、やろうと思えば歴史を変えてしまうことも可能だ。

 そして彼はアバサ・ロットと共に世界最高レベルの技術知識を受け継いでいる。それはつまり、工房を開くとか、個人として何か始めればすぐにでも成功できるだけの下地を持っているということである。

「まあ、あの性格だ。余人が思い描くような歴史の黒幕や、サクセスストーリーをまっとうするとは思えんがね」

 ジルドは苦笑気味にそういった。なんにしてもイストが優れた能力と知識を持っていることは疑いの余地がない。それはジルドが持っているそれとは別分野のものであり、だからこそ自分では見ることのできないような世界を、イストが見せてくれるのではないかと彼は期待しているのだ。

「あの男から魔道具を貰ったら、まともな生活には戻れませんよ?多分、ですけど」

 アズリアはすこし冗談めかしてそういった。アバサ・ロットから魔道具を貰った人間の人生は、きっと波乱に満ちている。それは彼女がシラクサに来るときに船の中でふと思ったことだ。それが最近では真理を言い当てたような気もし始めている。

「すでに手遅れだ」

 そういってジルドは鞘に収まった「万象の太刀」を見せて笑った。この太刀は「光崩しの魔剣」に変わるジルドの新たな愛刀だ。この太刀と共になら、波乱の人生も悪くない。ジルドはそんなふうに思った。

**********

 シラクサを出航して十二日目。この日は良く晴れていたが、海のうねりが大きく、また西風が強かった。船団は北へ向かっているから、進行方向に対して左側から風が吹いていることになる。

 それを見つけたのは、最後尾を行く軍艦のマストに登り周囲を警戒している水兵だった。西、つまり風上からそれは現れた。

 水平線上に浮かぶ船影は小さく、望遠鏡を使ってもはっきりとは見えない。しかし追い風を受けたそれらの船影は徐々に大きくなり、ついに望遠鏡のレンズにその全貌をさらけ出した。そのメインマストの頂点には、髑髏の旗が掲げられている。それを確認した水兵は声を張り上げた。

「九時の方向!海賊船を確認!!船影七!!」

 その声が響いた瞬間、軍艦の空気が一気に緊張した。普段は何もしない艦長が次々に指示を出していく。

「信号旗を上げろ!盾と弓を用意!各員戦闘配置!!」

 人の背丈を越える巨大な盾が左舷に並べられていく。この盾は、ようは壁の代わりで、これをもって動き回ることは想定していない。

 並べられた盾の後ろに、弓と矢筒を持った水兵たちが並ぶ。アズリアも白銀の魔弓を手に、その列に加わった。

 弓を持った水兵の後ろには鎧を着込み、槍を手にした海兵が待機している。ジルドは太刀を腰にさしてアズリアの近くに待機した。

「海賊たちが船団を組んでいるということは、これは計画的な襲撃か………」
「そうだと思います。この航海の予定は特に秘密にしていたわけではないので、奴らがどこから知っても不思議はないのですが………」

 シラクサから大陸のカルフィスクへ向かうとなればその航路は限定される。だから海賊たちは知りえた予定をもとに航路上で待ち伏せしていたのだろう。

 ただ普段は単体で行動している海賊船が、七隻も集まって船団を作っているのは少なからず驚きである。シラクサにアルジャークの第二艦隊がおかれたことで、海賊への締め付けが厳しくなったことも関係しているのだろう。

「張り帆を増やせ!速度を上げろ!」

 カティ・サーク号はもともと足の速い船である。総帆を張っていては、速力よりも積載量を優先して設計してある貨物船など置き去りにしてしまう。ましてこの船団の商船は荷物を満載しているのだ。足はさらに遅くなる。加えて船団で船足をそろえるには、もっとも遅い船に合わせるしかない。必然的に船足の速いカティ・サークは総ての帆を張るこはせず、幾つかの帆を畳んで船足をそろえていた。

 艦長の号令がかかると、畳まれていた白い帆が張られて風を受けた。舵を左にきり、海賊の船団と商船の船団の間に割り込むように進路を取る。襲われた船団のほうは、むしろ右寄りに舵をきりなるべく海賊船から離れようとする。

(先頭の軍艦は援護には来ないか………)

 船の動きを目で追っていたジルドは、心の中でそう呟いた。しかしそれは当然のことである。先導をしているその軍艦が役目を放棄してこちらに援護に来れば、この非常事態に船団は統率者を失うことになる。そなれば事態は混乱し、それこそ海賊たちを利することになるだろう。

 そうこうしているうちに、海賊船が肉眼でもはっきりと見えるようになってきた。その数七隻。それぞれ微妙に異なる髑髏の旗を掲げている。

「アズリア!狙えるか!?」

 艦長の声が飛ぶ。海賊の船団とカティ・サークの間の距離は、普通に弓を射ても届かない。しかしアズリアの持つ「|夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」ならば、この距離でも敵船団を狙い撃てる。

「やってみます!!」

 アズリアの前で大きな盾を構えていた兵士が退き場所を空ける。海上の大きなうねりのせいで揺れる船の上で、アズリアは足に力を入れて踏ん張り白銀の魔弓を引いた。込められた魔力は収束して光の矢をつくり、その矢は張りつめた弦が奏でる甲高い音と共に放たれた。

 放たれた光の矢は、しかし敵船に当たることなく海に突き刺さり大きなしぶきを上げた。アズリアが立て続けに放つ二射目、三射目も同じ結果となる。船の上の海賊たちはもしかしたら思いがけない攻撃に動揺しているのかもしれないが、船自体はそのような動揺とは無関係にこちらへ接近してくる。

「どうしたのだ?」
「波が………高い。せめて足場が安定していれば………」

 攻撃を外したアズリアは悔しそうにそう呟いた。単純に目標物が動くだけならば、それを射抜くことはそう難しいことではない。まして相手は船舶である。その巨体に当てるだけならば、弓術を極める必要などない。

 しかし今の状況ではアズリアの足場までが大きく揺れ動くのである。自分が動き、また距離があるこの状況下では、目標を射抜くのはなかなか難しい。

 無論、船の上での射撃訓練は積んでいる。しかし、ここまで波が高い状況はアズリアにとっては初めてで、経験不足が露呈した形となる。

「もう少し距離が縮まれば………」

 当てることは出来るだろう。しかし確実に当たる距離まで接近を許せば、海賊たちは商船に食らい付くだろう。向こうは七隻でこちらは一隻。その上、敵は追い風に乗ってやってくるから船足が早い。対処しきれないことは眼に見えているし、恐らくは負ける。

 勝つためには、一方的に攻撃できる今のうちに敵船を沈めておく必要がある。こちらに一方的に船を沈めるだけの戦力と手段があることを知れば、海賊たちは必ずや動揺し隙が生まれる。その隙をついて彼らの手の届かないところへ逃れる。それしかないように思えた。

「アズリア!帆を狙え!」

 唇を噛むアズリアにカティ・サークの艦長が指示を飛ばす。大きく広げてある帆ならば、当てるのは簡単だ。しかも風を受けている以上、一度穴が開けばそこから帆は裂ける。そうなればうまく風を受けることはできなくなる。

「しかしそれでは!」

 船を沈めることは出来ない。

「帆が破れれば船足が落ちる!そうすれば船団も逃げ切れるかもしれないし、そうでなくとも時間差が生まれれば各個に対処できる」

 さらにマストに当たって折れてくれでもすれば儲け物である。それに船乗りというのは帆を破られるのを嫌うものだ。船が沈む危険がなくとも、帆が破られるとなれば恐らく相手の動きは乱れる。

「分りました!」

 アズリアは再び「|夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」を構え、光の矢を放つ。放たれた閃光は海賊船の大きな横帆を貫いた。アズリアは立て続けに白銀の魔弓を引き閃光を放ち、放ったのと同じ数だけ海賊船の帆に穴を開けた。穴が開いた帆はそこから裂けてしまい、集中的に狙った三隻ほどが目に見えて船足を落とした。

「くっ………!」

 しかしそれでもアズリアの表情はさえない。マストを折ることはできていないし、無傷の海賊船四隻が随分と接近してきている。この全てにカティ・サーク一隻で対処することはまず無理だ。交戦状態に入れば、恐らく半分は取り逃がして船団のほうに向かわれてしまう。また帆を破られた三隻も、逃げることなくまだこちらに向かってきている。

「さて、ではワシも仕事をするとするか」

 そういってジルドはおもむろに前に出て、身を海に投げた。その行動に船の中からは悲鳴があがる。だがその悲鳴はすぐに驚愕の声に変わった。

 ジルドは、海の上を滑るようにして移動していたのである。無論、魔道具「風渡りの靴」の能力だ。彼は大きくうねる海面をいとも簡単に進み、そして大きな波を利用して飛び上がり一隻の海賊船の船首に着地した。

「な、何者だ!?」

 ありえない方法で突然にやってきた侵入者に、海賊たちも動揺を隠せない。ただし敵であることは確実なので、それぞれ武器を持って身構えている。

「ワシの名はジルド・レイド。仕事なのでな、うぬらを斬る」

 ジルドはそういって堂々と一歩二歩と前に出る。その様子に気圧されたように、海賊たちはじりじりと後ろに下がった。

(コイツ………、只者じゃねぇ………!)

 海賊たちの誰もがそう感じた。ジルドの雰囲気、風格、眼光、その全てに海賊たちは圧倒されている。

 ドン、とジルドは船首の一段高くなったところから甲板に下りた。「万象の太刀」はまだ鞘に収まった状態で彼の左手にあり、その様子は一見して隙だらけだ。しかし海賊たちはまだ攻撃を仕掛けられずにいる。

 ジルドの右手が、太刀の柄を握る。たったそれだけの仕草でその場の緊張は極限まで高まった。たった一つ些細なきっかけがあれば、緊張は破裂し血みどろの戦闘が開始されるだろう。

 ジルドが口の端をわずかに歪ませる。その次の瞬間、「万象の太刀」が神速できらめき鞘から解き放たれた。

 ジルドが振りぬいた「万象の太刀」はただ空気のみを切り裂き、血に濡れることはなかった。しかし、「ボコン!」という鈍い音と共に、四人ほどの海賊が吹き飛ばされて宙をまった。

(ふむ。切り裂くことは出来なかったか………)

 鍛錬が必要だな、とジルドは一人心の中でごちる。恐らく吹き飛ばされた海賊たちは、まるで昆のような長い棒で殴られたかのように感じただろう。

 ――――森羅に通ず。
 古代文字(エンシェントスペル)でそう刻まれた、銀色の刀身が太陽の光を浴びて輝く。

 海賊たちはジルドが何をしたのかは分らなかった。しかしこの男が何かをした、ということだけははっきりと分った。

「あぁぁあああぁぁあああぁぁあああぁぁぁあ!!!!」

 一人が発した奇声がきっかけとなり、海賊たちはジルドに向かって殺到した。目には殺意よりは恐怖が浮かんでいる。

「この怖いやつを排除したい」

 彼らの心のうちを言葉で表現すれば、たぶんこうなるであろう。しかしその願望はジルドには届かなかった。

 同時に襲い掛かってきた三人の海賊のうち、ジルドから見て右側にいた男を斜めに切り上げ、さらに左手に持った鞘で真ん中の男のみぞおちを突いて悶絶させる。

 二人がほぼ同時に崩れ落ち道が開くと、ジルドは一気に加速した。短剣を振りかぶった男の腕を切り飛ばし、その返り血を浴びるより早く駆け抜ける。後ろから襲い掛かってきた男は、振り返りもせずにただ鞘を後ろに突き出して撃退した。槍で突かれれば軽くいなして軌道を変え反対方向から攻撃してきた海賊に突き刺し、仲間を指してしまって動揺しているその顔を鞘で殴り飛ばす。

 海賊たちの攻撃が一瞬途切れたその隙に、ジルドは再び駆け出しメインマストを一瞬で横切りそこに銀色の斬線を残した。

 ――――ギ、ギギィィィギギギィィ………!

 耳障りな音を立てながらメインマストがロープなどの艤装を巻き込みながら倒れる。ジルドは船のことは良く分らないが、メインマストが一本折れた状態でまともに航海が出来るとは思えない。

「この野郎!」

 マストを折られたことで恐怖に怒気が混じった海賊たちがジルドを取り囲んで一斉に襲い掛かる。しかしジルドはその場から動かず、太刀を逆手に持ち直すとそのまま勢い良く鞘に収めた。

 ――――チィィィン!

 澄んだ金属音が鳴り響く。その音を聞いた瞬間、海賊たちの視界が回転した。足を滑らせて転んだかのように彼らは甲板に倒れこみ、立ち上がろうとしても体を直立させることが出来なくなっていた。

 後にジルド自身が「鍔鳴り」と名付ける、「万象の太刀」を用いた刀術である。効果としては、人には聞こえない超音波を発して平衡感覚を麻痺させる魔道具、「風笛(トウル・ノヴォ)」に似ている。

 ジルドの新しい愛刀である「万象の太刀」の能力は、「魔力に干渉すること」である。しかしそれだけでは、以前に彼が使っていた「光崩しの魔剣」と同じである。同じ魔道具をわざわざイストが作るはずもなく、「万象の太刀」は「光崩しの魔剣」を超える能力を持っていた。

 無論、「光崩しの魔剣」と同じく「魔力に干渉してこれを散す」ことも当然できる。それに加えて「万象の太刀」は「自分の魔力に干渉して物理現象を引き起こす」ことができるのである。

 ヒントは、ジルドがイストとの稽古でよく使っていた「霞斬り」である。これはあらかじめ拡散させておいた自分の魔力に干渉して、相手の魔力を散して攻撃を阻害するものだが、これは自分の魔力ならばより簡単に干渉できることを示していた。

 さらにイスト自身の戦闘術も参考になっている。イストは「光彩の杖」で魔法陣を描き種々様々な効果を得ている。つまり「魔法陣を描く」という余計なステップを一つ挟むことで、一つの魔道具としてはありえないバリエーションを実現しているのである。

 この「魔法陣を描く」というステップを、「魔力に干渉する」ことで置き換えられないだろうか。イストはそう考えたのである。

 現状でも「自分の魔力を拡散させそれに干渉する」ことは出来ている。あとは干渉した魔力になんらかの方向性や形を与えてやればいい。そしてそれを可能にしたのが、ほかでもない“四つの法《フォース・ロウ》”であったのだ。

 このように言葉で説明してみれば、なるほど簡単で誰でも出来そうな気がする。しかしそれは絵のかき方さえ教われば誰でも優れた芸術作品を描ける、と言っているのと同じである。

 イストがやっているように魔法陣を描きそこに魔力を込めるというのであれば、練習次第では誰でもできるようになるだろう。これは例えるならば、定規などの道具を使って図形を描くことに似ている。

 しかしジルドがやって見せたように方向性や型を持たないただの魔力に干渉し、望みどおりの現象を引き起こすことは想像を絶するほどに難しい。絵を描くだけならば誰にでも出来るように、真似事ならば誰にでも出来るだろう。しかし、この「万象の太刀」という魔道具を使いこなすには、人並みはずれた実力と天性のセンスが必要なのである。

 この「万象の太刀」は極めて扱いづらい魔道具と言わざるを得ない。しかしひとたび使いこなせば、直感的かつ感覚的にあらゆる現象、まさに万象を操ることが出来るようになるのだ。理論的には炎や雷などのはっきりとした物理現象を引き起こすことも可能である。それはつまり千の魔道具を持つことに匹敵し、使い手によっては勝ることさえ可能であろう。

 万象を操り、森羅に通ず。それが「万象の太刀」だ。

 ジルドは海賊たちが倒れこむのを確認すると、その次の瞬間には二隻目の海賊船に向かって身を海に躍らせていた。足に履いた「風渡りの靴」に魔力を込め、再び海面をすべるようにして接近していく。

 当たり前だが、二隻の船の間の距離は先程よりもずっと短い。ジルドに目をつけられた海賊船からは、ひっきりなしに矢が飛んでくる。たった一人を狙うにしてはやりすぎに思えるほどの数の矢であったが、それだけジルドを警戒し恐れていることの裏返しでもあった。

 そうやって放たれた大量の矢は、しかし一本としてジルドの体に刺さることはなかった。ジルドは大きな波を利用して一気に飛び上がることで矢を回避し、そのまま空中を滑るようにして滑空距離を伸ばし海賊船の甲板の細い淵に着地した。

「あっ!」

 弓を構えていた海賊たちがジルドのありえない動きに驚きの声を上げる。着地は一瞬。足場を得たジルドは、四肢に力を込めてメインマストに向かって跳躍した。そしてその跳躍の最中、太刀の柄に右手を添えて抜打ちを放つ。

 神速できらめいた銀色の刀身は、しかし大気を切り裂いただけで何物にも触れはしなかった。だがメインマストには斬線が一筋斜めに刻み付けられている。そしてやはり一隻目と同じように、ギシギシと耳障りな音を立てながら周りの艤装を巻き込み倒れた。

(ふむ。目標を絞れば比較的簡単だな………)

 周囲に拡散させた自分の魔力に干渉し、刃を形成して飛ばす。最初に複数の海賊を吹き飛ばしたときは数が多くて刃になりきらなかったが、形成する刃が一つだけであれば比較的簡単に放つことが出来た。

 一つ頷き次なる獲物を探すと、残りの五隻の船はすでに転進してジルドのいる海賊船から離れようとしている。帆を見ればうまく風を受けることが出来ずにばたついている。それが海賊たちの動揺を如実に現しているように思えた。

 生身の人間が単身で海を駆け抜け敵船に乗り込み、あまつさえメインマストを一刀両断するなど、海賊たちの常識では考えられないことだ。しかしそのありえないことは現実におき、しかも二隻が航行不能に陥っている。

 襲うはずの側が、いつの間にか襲われている。その立場の逆転もあり、海賊たちはすでに恐慌状態に陥っていた。カティ・サークの任務は船団の護衛であり、これらの海賊船を全て沈める必要はない。

「あの船団を襲うことさえしなければ、これ以上何かしようとは思わん」

 帆が破られた船もあるとはいえ、いまだ五隻の海賊船が健在である。これだけあれば航行不能になった船の海賊たちも収容できるだろう。

「が、まだ諦めんというのであれば仕方がない。全て沈めるまでよ」

 不敵に笑いそう脅しをかけてからジルドは船から飛び降り、ジルドは海の上を滑ってカティ・サークへ戻った。戻る最中に海賊船の動きを確認したが、船団を襲おうという意思は感じられなかった。

「すごい!すごいですよ!ジルドさん!!」

 カティ・サークの甲板に着地すると、顔見知りになった兵士たちが興奮した様子で出迎えてくれた。一時は七対一という絶望的な戦いを覚悟しただけに、喜びもひとしおである。

「貴様ら!まだ安全圏に離脱したわけではないぞ!」

 艦長の激が飛び、兵士たちは慌てて持ち場に戻る。しかし海賊船はこれ以上近づく様子は見せなかった。結局マストに登った見張りが、目視で海賊船の船団を確認できなくなってから戦闘配置は解除された。

 こうしてアズリアにとって海上での初めての実戦は、ジルドがほとんど全てを片付ける形で幕を下ろしたのである。



[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 10:51
 カティ・サーク号から降りてカルフィスクの港に降り立ったジルドは、一瞬寒さで身を震わせた。季節は冬。いくら大陸の南に位置する貿易港とはいえ、シラクサに比べればやはり寒い。

 外気は寒いが、ジルドの懐は暖かい。船を下りる前に片道分の報酬を貰ったのだが、海賊船を撃退したこともあって、随分とボーナスをつけてくれた。

「さて、情報収集をせねばならんな」

 そう呟き、ジルドは酒場に足を向けた。

 情報収集はイストから頼まれたことである。けれどもここカルフィスクにおいて、大陸中の詳しい情報を知りうる伝手などジルドにはない。それは頼んだイストも承知していることで、つまりは噂話などおおまかな情勢の変化を知りたいということでしかない。

 であるならば、やはり多くの人が集まる酒場が最適であろう。そして酒場に行くのであれば酒を飲まねばなるまい。船に乗っている間は酔って海に落ちるといけないので飲ませてもらえず餓えているとか、そんなことは決してない。

 いいわけじみたことを考えながらも、ジルドの足は軽い。シラクサに行く前に三人で入った酒場を見つけるとそこに入った。

 店内は以前に来たときと同じく喧騒に溢れていた。騒がしくも不快ではなく、ジルドもこういう雰囲気は嫌いではない。

 一人なので、カウンター席に座った。麦酒(ビール)とつまみを注文し、それが出来るまでの間、なんとなしに店内の喧騒に耳を傾ける。そうしていると、一人で旅をしていた頃を思い出した。

(ひどく昔のことのように思えるな。それほど時間はたっていないはずなのだが………)

 それほどイストたちと三人で旅をしていた時間は刺激に満ちていた。その最たるものはあのシーヴァ・オズワルドとの仕合であろう。彼の剣腕は以前から聞き及んでいたし、彼がアルテンシア同盟に反旗を翻してからはその頻度は多くなった。

「一度仕合ってみたいものだ」

 そう思ってはいたが、半ば諦めてもいた。自分の剣腕がシーヴァに劣るとは思わない。しかし相手はアルテンシア王国の建国者にして初代国王にまでなった人物である。一介の剣士でしかない自分に、彼と真正面から相まみえる機会など来ないと思っていた。

 それが、来た。

『そうだな、このおっさんと戦ってみてもらおうか』

 イストのその言葉に、全身の血液が一瞬で沸騰したかのような錯覚を感じたことを、今でもはっきりと覚えている。困惑したような声を出してしまったのは、事前に聞いていなかったからよりも自分の体の反応に驚いたからだ。

『仕合ってみたいんだろう?かのシーヴァ・オズワルドと』

 その言葉に、大仰な言い方だが宿命を感じた。そしてシーヴァと戦うことが宿命ならば、イストとの出会いは運命だったのだろう。

 実際イストと出会わなければ、本気のシーヴァと戦うことは出来なかったとジルドは思っている。

 魔道具「|災いの一枝《レヴァンテイン》」

 あの漆黒の大剣を構えるシーヴァの姿を思い出すだけで、今でも胃が締め付けられるような恐怖を感じ鳥肌が立つ。イストからもらった「光崩しの魔剣」がなければ、あの黒き風を防ぐことは出来なかっただろう。

 結局あの時の仕合は双方が得物を失い引き分けで終わった。それはそれで一応の満足は得られたのだが、次こそは勝って見せるとジルドは心の奥底で意気込んでいた。

 無意識のうちに太刀の柄に触れる。あの仕合で失った「光崩しの魔剣」の代わりに、イストが作り上げた新たな愛刀「万象の太刀」。これがあれば以前を越える戦いが出来るだろう。それをイストとジルドは確信していた。

 もっとも、それはオーヴァとシーヴァも同じだろう。イストの師であるオーヴァ・ベルセリウスは必ずや「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を超える新たな魔剣を用意するだろうし、シーヴァはそれを使いこなしてみせるだろう。

(イストと旅をしていれば、もう一度必ずシーヴァと戦うことができる)

 誰にも言ったことはない。イストはもしかしたら気づいているかもしれないが、ジルドが明言したことはない。しかしそれこそがイストと旅を続ける最大の理由だった。

 シーヴァともう一度相まみえる。それを想像すると血が沸き、魂が震える。

「はい、おまちどう」

 酒場の店主がジルドの前に麦酒(ビール)とつまみを置く。そこでジルドは自分の思考を打ち切った。

「随分とおっかない顔してたが、どうしたね」
「そうか?」
「ああ、おっかない顔して笑ってたぞ」

 店主にそう指摘され、ジルドは顎を撫でた。それから「すこし考え事をしていただけだ」と言って誤魔化した。

「それよりも、シラクサから来たばかりなのだが、こちらでは何かあったか?」
「そうだねぇ………。そういやアルテンシア半島のほうで………」

 店主の話を聞きながら、ジルドは麦酒(ビール)を飲む。久しぶりの酒が喉にしみた。

**********

 時間は随分と遡る。

 シーヴァ・オズワルドがゼーデンブルグ要塞からアルテンシア統一王国の首都に定めたガルネシアに向けて出立したとき、彼はまたある人物に教会の枢密院へ当てた書状を持たせて要塞から出立させていた。

 ある人物とは、第一次十字軍遠征に従軍していたグラシアス・ボルカ枢機卿である。彼はシーヴァがゼーデンブルグ要塞を奪還したときに捕虜になっていたのだが、枢密院へ書状を届けることを条件に開放されたのである。ただし一人で行かせるわけではもちろんない。護衛と監視をかねて、十人ほどの騎士をつけた。

 ただ、こうして生きて教会の総本山であるアナトテ山に帰ることが、グラシアスにとって幸せなことだったのかは疑問である。敗戦して逃げ帰ってきた十字軍の生き残りの中に彼の姿がなかったとき、枢密院は彼を死んだものとし遠征失敗のあらゆる責任を負わせて除籍処分にしていたのである。

 実際、十字軍に従軍した時点でグラシアスは枢密院を代表しており、遠征を主導する立場に立っていたことは間違いない。しかし七人いる枢機卿のうち、遠征に反対したテオヌジオ・ベツァイとカリュージス・ヴァーカリー以外の五人は遠征に賛成の票を投じており、それに付随するはずの責任をすべてグラシアスに擦り付けるのはいかにも切り捨ての感が強い。

 経緯はどうあれグラシアスはアナトテ山に帰ってきたわけだが、帰って来た後の彼について述べている文献は少ない。いずれにせよ彼がこの先、歴史の表舞台に立つことがなかったことだけは確かである。

 それはともかくとして。

 グラシアスが枢密院に届けたシーヴァ・オズワルドからの書状の内容を要約すると、
「十字軍の無法によりアルテンシア半島は多大な被害を被った。これに対し、アルテンシア統一王国は枢密院の謝罪と賠償金十億シク(金貨十億枚)を要求する」
 となる。

 賠償金の額はともかくとしても、「枢密院の謝罪」の部分にシーヴァの手加減を感じることができる。

 十字軍には“神子の祝福”が与えられていた。それがどれだけ形式的なものであったとしても、与えた祝福について神子が無責任でいられるわけがない。よって、本来ならば謝罪の要求は神子マリア・クラインにされるべきであった。

 しかし、仮に神子が謝罪要求を受け入れて統一王国に頭を下げ教会の非を認めたらどうなるか。それは教会という組織そのものが統一王国に膝を屈することを意味している。そうなれば教会の権威は地に落ち、世界に対する影響力は激減するだろう。さらには教会組織そのものが崩壊する可能性だって十分にある。

 教会の立場からすれば、どう考えても受け入れるわけにはいかない。そのことはシーヴァも承知していた。

 そこでシーヴァが用意した落としどころが「枢密院の謝罪」なのである。

 本来、神子の補弼機関であったはずの枢密院が現在事実上の最高意思決定機関になっていることは周知の事実である。さらに十字軍遠征も枢密院の決定にもとづき旗振りが行われた。

 よって、十字軍遠征に責任があるのは神子ではなく枢密院である、と言えなくもない。この際、十字軍には“神子の祝福”が与えられていたとか、神子は枢密院の上にいるのだから枢密院にしでかしたことは神子の責任である、といった論は口にしないのが作法である。

 実際、枢密院が全ての責任を被り謝罪を行えば、少なくとも神子の権威、すなわち教会の権威は守ることが出来る。代わりに七人の枢機卿の首は全てすげ替えることになるのだろうが、教会組織そのものがなくなることに比べれば随分と小さな傷で済む。

 少なくともシーヴァ・オズワルドはそう考えた。しかしその考え方は、残念ながら枢密院では少数意見だった。

「このような恐喝に屈すれば教会の権威は地に落ちる!そのようなことはあってはならない!」

 枢密院の会議の席で拳を振り上げそう熱弁を振るうのは、グラシアス・ボルカの代わりに新たな枢機卿として選ばれたルシアス・カントであった。大きく身振りをして熱気を煽るようなその話し方からは、“扇動家”という言葉が連想される。

(地に落ちるのは教会ではなく枢密院の権威だが………)

 ルシアスの言葉の置き換え、もしくは問題の置き換えを心の中で指摘したのはカリュージス・ヴァーカリーである。

 カリュージス個人としては、統一王国の要求を呑むこともやぶさかではない。無論、そうなれば教会と神聖四国の財政はさらに悪化し、彼自身も枢機卿としての地位を失うことになるだろうが、十字軍の歴史的な敗北に対する代償と考えればむしろ安いともいえるだろう。なによりも教会と神子の権威は守られる。それさえあれば教会の建て直しは十分に可能だ。

 ならば、わざわざシーヴァが用意してくれた落としどころだ、それに乗っかるのもそう悪い話ではない。と、カリュージスは思っている。

「神界の門を守護せし我らは俗世の暴力に屈してはならない!敬虔な信者たる方々もそう思われるであろう!?」

 敬虔な信者、という言葉にカリュージスの眉が不快げに動いた。テオヌジオを別にすれば枢密院に敬虔な信者などいない、というのがカリュージスの見解だ。彼自身、自分は宗教家というよりも政治家であると考えている。

「しかしルシアス卿、仮に要求をはねつけるとして、その後どうするのかね?」

 枢機卿の一人がそう発言する。その流れにカリュージスは作為的な、予定調和ともいえそうなものを感じた。

 ニヤリ、ルシアスが口の端を吊り上げる。

「今一度十字軍を結成し、アルテンシアの異教徒どもに正義の鉄槌を下すのです!」

 その言葉に、カリュージスは深々とため息をついた。

 ルシアス・カントはグラシアス・ボルカの後任として枢機卿になった人物である。そしてグラシアスが、どのような経緯があったにせよ、十字軍遠征失敗の責任をとって枢密院を去ったのであれば、その後任となるべきは本来ならば非戦派の人物でなければならない。

 しかし、ルシアス・カントは主戦派であった。

 枢機卿の選定には、つねに神聖四国の政治的な思惑がついてまわる。だから主戦派のルシアスが枢機卿になったという事実は、教会や神聖四国の内部にもう一度十字軍遠征をやりたい、あるいはやって欲しいと思っている勢力があり、しかもその勢力はかなりの力をもっていることを示唆している。

 つまり、今回の十字軍遠征で得をした人間もいるということだ。

 第一次十字軍遠征は全体で見れば大赤字である。しかしそれでも莫大な金が動いたことに変わりはなく、一部の商会や彼らと結託した貴族などは莫大な利益を懐にねじ込んだと聞く。そういった連中からしてみれば、十字軍遠征は是非もう一度やってもらいたいイベントであるに違いない。

 そしてそうした勢力の後押しを受けて枢機卿になったのがルシアス・カントなのだ。カリュージスやテオヌジオなども、何とかして非戦派の人物を枢機卿にしようと奔走したのだが、全て徒労に終わってしまった。

 だいいち、再び十字軍を結成したとして勝てるのか。敵はシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍。しかも今回はゼーデンブルグという大要塞に籠って十字軍を待ち受けることだろう。そんな相手に勝てるのだろうか。

 不可能ではないのだろうが、相当に難しい。少なくとも十字軍を巨大な寄せ集めではなく、強固な組織として編成しなければ不可能である。それがカリュージスの出した結論だった。

 しかし、十字軍というのは兵を出す国によって思惑が異なる。積極的に参加したいと思っている国もあれば、嫌々ながら兵を出している国もあるだろう。いや、場合によっては国の内部でさえ意見が分かれて思惑が違っているのだ。そんな十字軍を強力な軍隊として編成することは、いかなる名将でも不可能であろう。

「………今は神聖四国をはじめ各国が疲弊している。今この時期に十字軍を再び結成するのは時期尚早と思うが」

 勝つことはほとんど不可能に近いと結論しながらも、カリュージスは再び十字軍遠征を行うこと自体には反対しなかった。反対しても勝てないと分っているからである。代わりに統一王国の要求と十字軍遠征を切り離し、すこし冷却期間を置こうと考えたのである。幸いなことに次の議長役はテオヌジオだ。主戦派が多数を占める枢密院において、彼が十字軍遠征を議題にあげるとは思えないので、ここで結論を出さずに置けばしばらく時間が稼げる。その間に結論がうやむやになってしまえばなおいい。

「なにを悠長なことを言っているのです、カリュージス卿!今こうしている間にも異教徒どもの魔の手が、神子のお膝元たるここ聖地アナトテ山に伸びてくるかもしれないというのに!」

 それはないだろう、とカリュージスは思った。今シーヴァ・オズワルドが優先すべきはアルテンシア半島の復興であり、それを差し置いてまで軍を引き連れて大陸中央部に進出してくることなどありえない。もしその気があったのであれば、十字軍を半島からたたき出したとき、その後を追ってきているはずである。

「それに再び十字軍を集結させることをしないというのであれば、あの不当な要求に対して、カリュージス卿はどのように返答すべきと考えておられるのですか?」
「不当と思うのであれば無視すればよい」

 馬鹿な、という声が複数あがった。言葉による要求を無視すれば、次に待っているのは軍事行動による強制であるというのはこの時代の常識である。

 しかしカリュージスは言う。
「シーヴァ・オズワルドがこの要求を本気で飲ませたいと思っているのであれば、少なくとも神聖四国の国境まで軍を進めてきているはずである。確かに要求を無視すればシーヴァは軍を動かすかもしれないが、十字軍を集結させるのはその前兆を確認してからでも遅くはないはずだ。逆にこちらから動けば統一王国を刺激することにもなりかねず、軽率な行動は控えるべきである」

 しかしルシアスはカリュージスの言を鼻で笑った。

「今この時に枢密院が沈黙すれば、やはり教会の威光は地に落ちるでしょう。信者の弱った信仰を強めるためには、『不当な要求には断固として屈しない』という強力なメッセージを一致してうちだす必要があるのです!」

 ルシアスの言葉を翻訳するならば、
「信者を教会につなぎ止めておくために十字軍遠征をもう一度行う必要がある」
 ということになる。

 第一次十字軍遠征が失敗したあと、教会から距離を取り始めた信者がいるのは事実である。露骨なことを言えば寄付金の額が減り始めている。

 自前の国土と国民を持たない教会にとって、信者からの寄付金は文字通り生命線である。それが減り始めたことに危機感を抱くというのはカリュージスも分るが、それを十字軍遠征のための理由にするというのは、いくらなんでも飛躍が過ぎるように思える。

「信者の信仰を強めることが目的ならば、なにも十字軍遠征でなくともよいのではありませんか」

 ルシアスに煽られ興奮していた枢機卿たちを宥めるように穏やかに言葉をつむいだのはテオヌジオだった。彼の一声で枢密院の空気が幾分沈静化する。

(流石だな………)

 カリュージスはそう思った。テオヌジオは枢密院では唯一と言っていい敬虔な信徒である。しかし敬虔なだけの信徒が、術策権謀あふれる枢密院に席を連ねることなど出来るはずもない。

 卓越した政治的手腕をも兼ね備えた敬虔な信徒。それがテオヌジオ・ベツァイという男なのである。その手腕はカリュージスをはじめとする他の枢機卿たちも一目置いている。教会の正義を真っ直ぐに主張する彼の存在を少々煩わしく思う者もいるだろう。しかし彼の場合、その私心のなさこそが最大の武器なのだ。

「テオヌジオ卿におかれては、なにか別の方策がおありか?」
「ございます」

 テオヌジオがそう答えると、ルシアスは「ほう」と驚いて見せた。ただし、その様子はすこし芝居じみている。

「ぜひ、お聞かせ願いたい」
「御霊送りの儀式を執り行うのです」

 テオヌジオの言葉に対する枢密院の反応は二つに分かれた。ある者は失笑したが、ある者は感心したように思案を重ねている。

「皆様もご存知の通り、御霊送りは現世に残された最後の奇跡にして教会の教えの基盤にございます」

 もし今、御霊送りの儀式を行うことが出来れば、それは教会が神々の恩寵を失っていないことの何よりの証拠となる。それは信者たちの信仰を大いに強めるであろう。テオヌジオはそう主張した。

「しかし、御霊送りの儀式は『世界樹の種』が赤き光を放ってから、というのが古よりの慣例です」

 テオヌジオの案に反対意見を述べたのはカリュージスだった。十字軍遠征の議題に対して、これまでは協力して反対していた二人の思わぬ対立に枢密院には「おや?」というような空気が流れる。

「しかし、今はまさに教会の危機。この危機を脱するためならば、神々もお許しになるのでは?」
「危機なればこそ、古よりの伝統をないがしろにすべきではありませぬ」

 カリュージスの言葉にルシアスを始めとする他の枢機卿たちも同意する。カリュージスが反対にまわった時点でテオヌジオは孤立無援になっている。形勢が不利なのを見ると、すぐに彼は主張を取り下げた。

 ただ同じく反対したにしても、カリュージスと他の枢機卿たちとでは思惑が異なる。

 御霊送りの儀式を行うことを今この場で決めてしまえば、それを主導するのは間違いなく発案者のテオヌジオになる。そうなるとそこで生まれるはずの莫大な額の金は、全てテオヌジオの管理下におかれ他の枢機卿たちは手が出しにくくなってしまう。それでは面白くない。

 余談になるが、これまで御霊送りの儀式は形式上とはいえ、神子の主導で行われるのが慣例であった。それは主導権争いをする枢機卿たちが互いに牽制しあうことで何も決められないという事態が起こったからだ。今回のテオヌジオに対する反対も、同じような事情がある。

 一方でカリュージスの思惑である。彼にしてみれば枢密院さえも知らない、御霊送りの裏に隠されたあの救いようのない真実が明るみに出ることはなんとしても避けなければならない。

 少し時期を早めて儀式を行っただけで、あの真実が暴かれるなどということはないだろう。それに、あの真実を知っているはずの神子が、今この時期に儀式を行うことを認めるわけもない。加えて枢機卿たちの駆け引きもある。そう考えれば、カリュージスが矢面に立って反対する必要はなかったのかもしれない。

(しかし、万難は排さねばならん………!)

 間違っても、あの救いようのない真実を知られるわけにはいかない。知られれば今の教会組織は間違いなく瓦解するのだから。

 しかし、やはりカリュージスは矢面に立つべきではなかったのかもしれない。彼がまっさきにテオヌジオに反対したことで、なし崩し的に「もう一度十字軍遠征を行う」という案だけが残ってしまった。

 カリュージスが主張したように無視するという選択肢もあるはずなのだが、枢密院の空気がそうなってしまったのである。そしてカリュージスとテオヌジオを除く五人の枢機卿たちは、積極的にその空気に乗ろうとしている。

 こうなってはいかにテオヌジオが反対しカリュージスが結論を先延ばししようとしても無駄である。

 こうして枢密院は神聖四国やその周辺国に呼びかけ、再度十字軍を結成してアルテンシア統一王国を討伐することを決定したのである。




[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 10:55
 枢密院で第二次十字軍遠征が決定されたとはいえ、教会に単独でその遠征を行うだけの戦力は存在しない。よって、神聖四国やその周辺国に対して十字軍に参加するよう、派兵を求めていくことになる。

 そして派兵を求める教会からの書状は、東の大国アルジャーク帝国にも届けられていた。

「しかし、本当によろしかったのですか?」
「なにがですか?アールヴェルツェ」

 アルジャーク帝国帝都オルスク。かつてはモントルム王国の王城として用いられ、その後モントルム総督府が置かれ、そして今では帝国の中枢となったボルフイスク城の皇帝執務室には、まさにその中枢を担うべき三人の人物が集まっていた。

 皇帝クロノワ・アルジャーク。宰相ラシアート・シェルパ。そして実質的にアルジャークの全軍を取り仕切っている将軍アールヴェルツェ・ハーストレイトである。

「いえ、第二次十字軍遠征への参加要請を本当に断ってしまってよかったのかと………」
「かまいませんよ。教会の勇み足に付き合う必要はありません」

 シーヴァがゼーデンブルグ要塞を押さえている以上、純軍事的に見て第二次十字軍遠征は第一次遠征よりもはるかに困難なものとなるだろう。その上、十字軍の戦力や軍隊としての機能性を第一次遠征のときよりも強化できるのかといえば、おそらくは不可能であろう。有り体に言ってしまえば勝ち目がない、とクロノワは見ている。

 またアルテンシア統一王国とアルジャーク帝国は、それぞれエルヴィヨン大陸の西の端と東の端である。兵を引き連れて遠征するだけで、すでに「歴史的事業」といえるだろう。それを成し遂げるには大変な労力と資金が必要になる。クロノワが乗り気でないのはそのためだ。

「ですが教会との関係に悪影響が………」
「大丈夫ですよ。どうせ教会も本気で要請してきたわけではないでしょうから」

 教会が本気でアルジャークの戦力をあてにしているのであれば、枢機卿の一人を送り込むくらいのことはするはずである。それをしないということは、教会もアルジャークをそれほどアテにしているわけではないのだろう。

「もしかすると、参加して欲しくないのかもしれませんな」

 笑いを含んだ声でそういうのはラシアートである。もしアルジャークが派兵すれば、十字軍の主力は当然アルジャーク軍になる。というより主力になるように調整する。そうなれば第二次十字軍遠征の主導権はアルジャーク帝国にあるようなもので、それでは旗振り役の教会や神聖四国は面白くないだろう。

「ただこの先、教会が本気で泣きついてくるようなことがあれば、兵を出さざるを得なくなるかもしれませんな………」

 一転して真面目な表情でラシアートはそういった。第二次十字軍遠征が上手くいけば、教会と神聖四国がアルジャークを頼ることなどないだろう。つまり教会が本気で泣きついてくるとすれば、それは遠征が失敗し、その上でアルジャークの戦力が必要になった場合である。

「それはつまり………」

 それはつまり、シーヴァ・オズワルドが軍勢を率い教会の総本山であるアナトテ山を目指す場合である。

「どうしても、兵を出さなければいけないでしょうかねぇ………」
「どうしても、兵を出さなければいけないでしょうなぁ………」

 そう言ってから、クロノワとラシアートは互いに苦笑を漏らした。

 この場合、西の果てであるアルテンシア半島まで兵を送り込む必要はない。しかしアナトテ山、つまり大陸の中央部くらいまでは行かなければいけない。しかも、ほとんどアルジャーク軍単独でアルテンシア軍を相手にすることになるのだろうから、最低でも十万単位の軍を引き連れていくことになる。それにはやはり莫大な金と労力が必要になり、それゆえクロノワとしてはとても気が進まない。

 その上、これは教会の尻拭いである。聖銀(ミスリル)の製法が暴露されたことで失った遊ぶ金を補填するために十字軍遠征を画策し、それが失敗したがために今度はアルジャークを頼ろうというのだ。それを思うとなけなしのやる気さえなくなってしまう。

 とはいえ、ラシアートの言うとおり教会が本気で泣きついてきたら力を貸さないわけにはいかないだろう。

 確かに昨今教会の発言力は今までにないくらいに弱くなっている。しかし幸いにも(いやこの場合は悪いのかもしれないが)極東において教会への評価はまだ高い。それゆえ神子の署名が入った要請を断ったとなれば、帝国内の信者たちの反感を買うだろう。最近急速に版図を拡大したアルジャークにとって、それは是非とも避けたい事態だ。最悪、国が割れる危険性さえある。

「………アールヴェルツェ」
「はい。何でしょうか」
「大陸の中央部でアルテンシア軍とぶつかることを想定し、部隊の編成や移動手段、補給経路などを考えておいてください」

 嫌そうな顔をしながら、クロノワは腹心の将軍に指示を出す。そんな主君の様子に笑いをかみ殺しながらアールヴェルツェはその指示を了解した。

「ラシアートは教会と神聖四国からなにが搾り取れるか、考えておいてください」
「了解しました。アルジャークの力、せいぜい高く売りつけてやりましょう」

 仮にアルテンシア軍とぶつかってこれを撃退したとしても、そこからアルジャークが得るものは何もない。しかしただでアルジャークを傭兵扱いできるとおもってもらっては困る。軍を動かすならばそれに見合うだけの見返りが必要であろう。そして、教会と神聖四国がそれを用意するのが筋というものだ。

「ところで陛下」
「………なんでしょうか」

 話が一段落ついたところで、ラシアートがクロノワに話しかける。その声音の変わりようから嫌な予感を覚えたクロノワは少し及び腰だ。

「そろそろ妃を迎えられてはいかがかと………」

 現在、アルジャーク帝国の帝室には皇帝たるクロノワ一人しかいない。帝室の流れをくむ家柄はいくつかあるが、ベルトロワの血をひいているのはクロノワ一人である。つまりクロノワが何かの理由で死んでしまえば、帝室は跡絶えることになる。

 無論、その時は遠縁の血筋から誰かを皇帝に選ぶことになるのだろう。しかし、生まれ変わったともいえるほどに帝国が急速に版図を拡大させたこの時期に、クロノワの直系以外の人物が皇帝になれば、その支配の正統性を認めない勢力が現れ内乱が起こる可能性が高い。

 そうならないためにも早く妃を迎えて世継ぎを作り、帝室を安泰にすることが重要である、とラシアートは説く。

「もう少し問題を片付けて、内政が安定してからでもいいと思いますが………」
「問題などというものはいつ何時であっても起こり、絶えることがありません」

 問題を片付けてからなどと言っていては死ぬまでその時はやってきませんぞ、とラシアートは迫った。年長者の正論にクロノワも押され気味である。さらにそこにアールヴェルツェが追撃をかける。

「それに問題というのであれば、そもそも陛下がご結婚なされていないことこそが最大の問題でしょう」
「おお、アールヴェルツェ殿の言う通り。陛下には是非ともこの問題を片付けていただきたい」

 さあさあご決断を、と迫る年長者二人に押されながらも、クロノワは何とか二人を宥めた。

「今はまだ時期尚早ですよ。少なくとも教会と神聖四国の行く末を見定めるまでは、この手札は切るべきではない」

 この時代、国王や皇帝の婚姻はそれ自体が政治であり駆け引きだ。アルジャークの帝室は一夫多妻を認めているから、一度妃を迎えれば側室を持てないということはない。しかし一番最初の婚姻には、やはり大きな意味がある。

 さらにこの時期、エルヴィヨン大陸の中央から西ではパワーバランスの再編が行われようとしている。言うまでもなく、アルテンシア統一王国と教会背力の対立だ。第二次十字軍遠征がどのような結果になるのか、またその後に事態はどのように推移するのか。事の次第によって大陸のパワーバランスは大きく変わることになるだろう。

 アルジャーク帝国皇帝の婚姻という手札を切るのは、その流れを見極めてからだ。クロノワは自分の考えをそう説明した。

「なるほど。陛下の言われることにも一理ありますな」
「分っていただけて何よりです」
「では早急に候補者選びを始めましょう」
「え゛………」

 その話の流れに、クロノワは安堵の笑みを凍りつかせた。

「事態の趨勢が決まってから候補者を選んでいては、機を逸するかも知れませんからな」

 あらゆる可能性を想定し広範に花嫁候補を選んでおきますからな、とラシアートは快活に笑った。

 すでに教会と神聖四国が第二次十字軍遠征に向けて動いている以上、この先事態は急速に進展していく。それをなんの準備もせず座して見ているだけでは、手札を切る最適の生地を逃してしまう。だから今のうちから花嫁候補を探しておく必要がある。ラシアートはそういった。

(つまり、今から嫁探しをするということではありませんか………!)

 まんまとはめられた、とクロノワは内心で苦虫を噛み潰した。とはいえ話の流れ的にはもう詰んでいる。

「お手柔らかに………」
「ええ、万全の準備を整えておきますぞ」

 ラシアートが力強く請け負う。どうやらこの件に関しては、クロノワの意見は尊重されないらしい。

(こうなったら第二次遠征が長引くことを願うしかありませんね………)

 がんばれ、とクロノワは心の中で無責任にエールを送る。さて、がんばる必要があるのはアルテンシア軍か、それとも十字軍か。

**********

 大陸暦1565年2月21日にシーヴァ・オズワルドはゼーデンブルグ要塞を奪還し、この日、第一次十字軍遠征の失敗が確定した。そしてシーヴァが要塞から統一王国の王都に定めたガルネシアへ移るとき、グラシアス・ボルカが書状を教会の枢密院に届けるべく出立したのだが、彼がアナトテ山に到着したのが3月の暮れのことであった。

 グラシアスが届けた書状の内容が吟味され、そして枢密院において第二次十字軍遠征を行うことが決定されたのが5月の始めである。ただし、教会に単独で遠征を行うほどの戦力はない。よって神聖四国を始めとする国々に派兵の要請をし、十字軍の旗の下に兵を集めなければならなかった。

 記録によれば、二一万三〇〇〇の兵が集まったとされている。この数だけを見れば、相当に大規模である。しかし、第一次遠征の際には三十万を超える兵が集まったことを考えると、この数に不満を覚える人間は少なからずいた。

 これは、ただ単に派兵する各国が第一次遠征の失敗で疲弊していたからだけではない。その失敗のせいで教会の威光に陰りが生じ始めたことの確たる証拠である、と判断した人間は多い。

 それはともかくとして。この二一万三〇〇〇の兵が集められ十字軍が結成され、アルテンシア統一王国に対して宣戦布告がなされたのは、8月の頭のことであった。つまり枢密院で決定がなされてから、実際に事が起こるまで三ヶ月近くかかったことになる。

 この時間については、色々と意見が分かれるかもしれない。仮にアルジャーク帝国が単独で遠征を行うとして、その準備に三ヶ月もかかるなどということはまずないだろう。しかし十字軍はいわば各国が兵を出し合う連合軍である。派兵要請のための交渉や調整など、単独で遠征を行うよりもはるかに煩雑で時間がかかることは想像に難くない。

 なんにせよ第二次遠征の準備のために三ヶ月という時間がかかったことは動かしようのない事実である。そしてその時間は全ての人の上に平等に流れる。

 アルテンシア半島を統一し、統一王国の建国者にして初代国王になったシーヴァ・オズワルドは、教会勢力が第二次十字軍遠征に向けて準備を進めていることを察知していた。これは統一王国の大陸中央部における諜報能力が優れていたためというよりも、第二次遠征に向けた教会の動きがあまりにもおおっぴらであったためであろう。各国との交渉や調整のために動き回る必要があるとはいえ、教会という組織は秘密裏に動くことがどうにも苦手らしい。

 アルテンシア半島が再び十字軍の脅威にさらされていることを知ったシーヴァはすぐさま行動を開始した。

 神聖四国での諜報活動を密にし、第二次遠征の準備の進行状況を刻一刻と報告させた。余談になるが、遠征の準備の推移を知りたい場合、教会や神聖四国が残した資料よりも統一王国の間者が送った報告書のほうが詳しいくらいである。

 また各地で兵に準備をさせておき、一度命令が下れば一ヶ月以内に半島の全域からゼーデンブルグ要塞に到着できるようにさせた。同時に武器や食料などの物資も集め、着々と十字軍との決戦に備えたのである。

 ただこれらの備えを行うことは決して楽ではなかった。教会や神聖四国など第一次十字軍遠征に参加した各国の財政状況が悪化しているのと同じように、アルテンシア統一王国の財政状況も良くはない。いや、ともすれば教会勢力よりも金欠であった。

 長らく続いたアルテンシア同盟時代の悪政。そして第一次十字軍遠征で被った被害。建国してまだ半年にも満たないような国が、そのような深刻な荒廃から復興できているはずもない。

 しかしそれでもアルテンシア半島の人々はシーヴァに協力的であった。建国されたばかりのアルテンシア統一王国は彼らにとって、新たな時代の幕開けの象徴であり希望であった。まだ芽吹いたばかりのそれを、十字軍などという侵略者に踏みにじられるわけにはいかなかった。

 8月3日、第一次遠征のときと同じように、神子の祝福が読み上げられると十字軍はアルテンシア半島に向けて進軍を開始した。

 シーヴァが動いたのは、それよりもおよそ二週間前のことであった。いよいよ第二次十字軍遠征が始まることを察知したシーヴァは、各地に早馬を飛ばして準備させていた兵を集めさせゼーデンブルグ要塞に集結させた。そして彼自身もまた二万の兵を率いて要塞へと向かったのである。

 ゼーデンブルグ要塞に集まったアルテンシア兵の数はおよそ十五万。ゼーデンブルグ要塞にとっては二度目の、そしてその本領を初めて発揮する戦いが始まろうとしている。

**********

 十字軍によるゼーデンブルグ要塞の攻略は長引いていた。というよりも、攻めあぐねていた、と言ったほうが正しい。

 その理由は攻守双方に存在するだろう。

 まずゼーデンブルグ要塞自体が難攻不落の大要塞である。城壁の上を始めとする要塞の各地点に、据え置き型の機械弓が等間隔で設置されている。これは兵士二人組みで使うものなのだが、事前準備を要するものの一度に十本の矢を飛ばすことが出来き、つまり兵士一人で弓兵五人分の働きをすることが出来るのだ。

 城壁は高いだけではない。建築技術の粋を結集して造られたそれは、地面に対して垂直ではなく緩やかな曲線を描いている。これにより長梯子を掛けられたとしても、その先端が城壁の上に直接届くことはない。そこに降り立つためには梯子から飛ばなければならず、そのために一瞬でもまごつけばそれは決定的な隙となるのだ。

 その他にも投石器や弩、さらには味方の部隊を出し入れするためのからくりなど、この要塞には防衛のためのあらゆる技術が惜しげもなく使われている。

 またそれらの設備を使うアルテンシア軍の兵士たちの士気も高い。この要塞が突破されれば第一次十字軍遠征時の悪夢が再現されてしまう、ということを彼らは十分すぎるほどに知っていた。

 アルテンシア半島の全てを背負い、そして守っているのだという自負と誇りが彼らにはあった。さらにここには彼らの敬愛する王、シーヴァ・オズワルドがいる。彼の存在は苦しい籠城戦のなかで、兵士たちの心の支えになっていた。

 それに対して士気が上がりきらないのが十字軍のほうであった。

 十字軍に参加している各国にはそれぞれに思惑がある、という話は以前にした。簡単に言ってしまえば、攻略に積極的な軍と消極的な軍が混在しているのである。そのため連携が上手くいかず、要塞を長時間にわたって攻め立てるということができない。また攻撃を仕掛けても厚みに欠けるため、簡単にはじき返されてしまう。

 その上、攻城兵器が不足している。

 十字軍は当初この要塞をまったく軽視していた。第一次遠征の際に半日とかからずに落としてしまったことがその理由である。

「ゼーデンブルグ要塞など、大きなだけの張りぼてである!」
「たとえ十万の兵がそこにいようとも、三日もあれば攻略できるであろう」

 アルテンシア半島に向かう道中、十字軍内ではそんな話がさも確定事項であるかのように話されていた。そもそも準備の段階からこの要塞を軽視しており、第一次遠征であまり使われることのなかった攻城兵器は最初から数が少なかった。

 が、実際はどうであったか。

 ゼーデンブルグ要塞は十字軍二一万三〇〇〇を見事に押し返した。準備してきた攻城兵器の数が少ない十字軍は攻め手に欠き、結果として味方の損害ばかりが増えていく。なけなしの攻城兵器は要塞から出撃してきたアルテンシア軍によって優先的に破壊され、ますます手が出せなくなった。

 強力な火力を誇る魔導士部隊がいれば攻城兵器の代わりになったのだろうが、あいにくそれらの部隊は第一次遠征時に壊滅状態に追いやられ、今は再建の真っ最中である。攻城兵器も魔導士部隊もなく、十字軍はどうにも攻めあぐねた。

 無論、新たな攻城兵器を大急ぎで造らせているが、造るよりも壊すほうが圧倒的に速い。次第に要塞に攻撃を仕掛ける頻度そのものが少なくなっていき、十字軍内では厭戦の雰囲気が漂い始めていた。

 その厭戦気分に拍車を掛けていたのが物資の不足であった。

 十字軍が要塞の攻略を始めてすでに三ヶ月以上経過して11月の終わりにさしかかっている。夏は過ぎ去り秋も終わり、季節はすでに冬である。冬季装備を準備してこなかった十字軍では体調を崩す者が続出し、さらには凍死者も出始めていた。これまた大急ぎで冬季装備を後方から送らせているのだが、いかんせん数が足りず全ての兵士にはいきわたらない。さらに用意できた装備の配分方法について、国によって差別があるとして内部から不満が噴出していた。

 また食料も足りなくなってきていた。十字軍の当初の目論見としては、ゼーデンブルグ要塞は早々に攻略し、半島内で再び略奪に勤しむつもりであった。またしても食料は現地調達が基本だったのである。

 だから要塞を攻めあぐねる十字軍の食料はすぐに底をついた。食料の調達に時間をかけるわけには行かず、十字軍の首脳部は戦場となっている、つまり統一王国と国境を接しているシャトワールやブリュッゼといった国々に対して食料の供出を命じた。こういった小国にとって二十万を超える軍に食料を供給することは大変な負担であった。

 しかも教会や神聖四国の権威を振りかざして、である。このような横暴さは信者のみならず、国家そのものに教会勢力に対する不信感を抱かせた。

 一方、ゼーデンブルグ要塞に籠るアルテンシア軍はどうであったか。

 アルテンシア半島は大陸から北西に向かって延びている。つまりもともと冬は厳しく、兵士たちは寒さに強い。それに要塞内の暖かい部屋に入ってしまえば、装備の不備はある程度補えた。

 食料もまた十分にあった。要塞の後ろ、つまり半島全てがいってみれば補給基地である。ちょうど小麦の収穫も終わり、豊富な食料が次々に要塞内へ運び込まれた。さらに収穫期が終わったことでさらなる援軍も到着した。

 攻めれば攻めるほど十字軍はやせ細って弱っていき、逆にアルテンシア軍は力を増していく。そういう有様である。しかしそれでも十字軍が撤退しないのには理由があった。

 シーヴァ・オズワルドが出てこないのである。

 漆黒の大剣「災いの一枝《レヴァンテイン》」を操るシーヴァは、十字軍の兵士たちに悪魔か魔王の如くに恐れられている。第一次遠征に参加し彼の武威を実際に見ている者も、ただ人から聞いただけの者も皆等しくその恐怖を共有していた。

 しかし、ゼーデンブルグ要塞の攻略が始まってから三ヶ月以上経つが、シーヴァがその漆黒の大剣を手に出撃してきたことはない。要塞に彼がいることは間違いないようなのだが、なぜか出てこないのだ。

「十字軍を恐れて出てこないのだ」
「病を患い、戦える状態ではないのだ」
「要塞にいるのは影武者で、本物は王都ガルネシアで執務を取っているのだ」
「愛用の『災いの一枝《レヴァンテイン》』を失い、戦うことを躊躇しているのだ」

 さまざまな憶測が囁かれたが、どれもこれも噂の域を出ない。しかし今まで一度もシーヴァが攻撃を仕掛けてこなかったことは歴然たる事実である。

「詳しくは分らないが、出撃できない何か訳があるのだろう」

 全ての憶測は最終的にはその辺りに落ち着いた。なんにせよ最大の障害と思われるシーヴァが出てこないのであれば、十字軍の勝率は上がる。それが、十字軍がずるずると要塞の攻略を続けている理由であった。

 生憎とシーヴァは十字軍を恐れていたわけではないし、病を患っていたわけでもない。そして影武者に代理をさせてガルネシアに引きこもっているわけでもない。「災いの一枝《レヴァンテイン》」を失ったことは事実だが、それによって戦うことを躊躇しているわけでもない。彼が戦場に出ない理由は、ひとえに部下によって引き止められているからであった。

「今にも飛び出して行きたそうな顔をしておられますな」
「………ガーベラント公か」

 十字軍の陣は城壁の上からかろうじて見える。それを睨みつけていたシーヴァに声を掛けたのは、彼の同盟に対する反乱に計画段階から協力していた五人の公爵の一人、ガーベラント公であった。優れた武人でもある彼は自ら軍を率いて要塞に馳せ参じ、今はシーヴァの幕僚長として得がたい働きをしていた。

「敵の士気は低い。一挙に攻勢をかければ敵陣を崩壊させることも可能だ」
「そしてその先頭には、陛下が立たれるおつもりですな?」
「当然だ」

 一瞬の迷い無くシーヴァは答えた。彼にとって「災いの一枝《レヴァンテイン》」は道具であった。確かに最高の道具であり失ってしまったことは大きな痛手だが、しかし無くなったとたんに何もできなくなるほどシーヴァ・オズワルドはひ弱な男ではない。

「陛下はそうでございましょう。しかし兵たちは違います」

 敵もそして味方も、とガーベラント公は穏やかに言った「災いの一枝《レヴァンテイン》」などなくとも、シーヴァは優れた将である。しかし戦場に立った彼がその漆黒の大剣を手にしていなければ、敵の士気は上がるだろうし、もしかすれば味方の士気は下がるかもしれない。

「どちらにしろこのまま戦を続けた場合、苦しいのは十字軍のほうです」

 ならば有利な方がわざわざリスクを犯す必要はない、とガーベラント公は説いた。その話はすでに何度も聞かされているため、シーヴァは少し不満そうに苦笑した。

「状況が変われば出る。その時は止めるな」
「陛下が出なければならぬような状況には、決してしませぬ」

 しかしその三日後に状況は変わった。ただし二人が話していたような、つまりアルテンシア軍が不利になるような状況の変化ではない。

 オーヴァ・ベルセリウスが、完成した新たな魔剣を携えゼーデンブルグ要塞を訪れたのである。

「待ちかねたぞ、ベルセリウス老」
「これが『災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》』じゃ。使いこなして見せい」

 不敵に笑い、ベルセリウスはその新たな魔剣をシーヴァに手渡した。形は以前と同じく漆黒の大剣で、基本的なデザインに大きな差異はない。ただ一点、刀身に印字されれている黄金色の古代文字(エンシェントスペル)で綴られた言葉だけが違っている。

 ――――万騎を凌ぐ。

 そう綴られているのだとベルセリウスから聞いたとき、シーヴァは壮絶な笑みを浮かべた。

 ベルセリウスから「災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の能力について簡単に説明を聞くと、シーヴァはすぐさま精鋭十万を集め出撃の命令を下した。

「いきなり実戦でお使いになるおつもりですか?」
「ベルセリウス老。この魔剣、『災いの一枝《レヴァンテイン》』と同じことはできるのだろう?」
「当然じゃ」

 ならば何も問題はない。最悪、新たな能力は使わなければよいのである。ガーベラント公も、もはや反対しなかった。

 そして大陸暦1565年11月30日の正午過ぎ。ついにシーヴァ・オズワルドは十万の兵を率いて要塞から打って出た。それに呼応するかのように、十字軍もすぐさま戦闘隊形を整える。

 十字軍の陣形にとりあえず隙が見当たらないことを確認したシーヴァは、ひとまず全軍に停止を命令した。それからただ一騎で前に進み出る。

 シーヴァは悠然と馬を進めた。眼前に居並ぶ十字軍の兵士たちの顔には、あからさまな恐怖に顔を青くしている。それを見ると、シーヴァは嘲笑の笑みを浮かべた。

「どうした。ただ一人を恐れるか」

 シーヴァの声は大きくは無かったが、不思議と遠くまで聞こえた。その挑発で張りつめていた緊張の意図が切れる。恐怖を振り払うかのように鬨の声を上げると、十字軍は一斉にただ一人、シーヴァ・オズワルドめがけて突撃した。

 土ぼこりをあげながら迫り来る十字軍の軍勢を目の前にしても、シーヴァの落ち着いた態度は変わらない。彼は悠然と「災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を掲げ、その新たな愛剣に魔力を喰わせた。

 シーヴァがその漆黒の大剣に魔力を喰わせても、いつものような黒き風は起こらなかった。代わりに、その黒き風を圧縮したかのような漆黒の球体が五つほど宙に浮かんでいる。

「黒き魔弾、とでも名付けてみようか」

 シーヴァは不敵に笑い、漆黒の大剣を軽く振り下ろした。その動きに合わせて、五つの黒き魔弾が十字軍に向けて打ち出される。そして軍勢の真っ只中に着弾した黒き魔弾は、爆裂した。

 まさに“爆裂”としか言いようのない光景であった。黒き魔弾のなかに押し込められて固定されていた黒き風は、着弾と同時に一挙に開放され“爆裂”したのである。

 今までシーヴァが使っていた「災いの一枝《レヴァンテイン》」では、黒き風は魔力を込め続けなければ維持できなかった。しかしベルセリウスは“四つの法《フォース・ロウ》”を解析することで、発生させた黒き風を固定する術を見出したのである。ちなみにどれだけの量を圧縮できるかはシーヴァの力量にかかっている。

 固定された黒き風、つまり爆裂するまえの黒き魔弾に攻撃力はない。触ってみても、風が物凄い勢いで渦を巻いているくらいにしか感じないだろう。しかし一度開放されれば、それは全てをなぎ倒し粉砕する暴風となる。

 その威力たるや「災いの一枝《レヴァンテイン》」を大きく上回る。これまでの黒き風は1の魔力に対して1の威力であった。しかし「災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」は黒き風を固定し溜めておくことができる。言ってみれば、黒き魔弾とは1の魔力を足し合わせて5や6にしてから撃ち出すものなのである。

 さらに攻撃範囲も劇的に広がった。これまでは「災いの一枝《レヴァンテイン》」の仕様上、使い手を中心に半径五メートル程度が攻撃範囲の限界であった。しかし黒き魔弾の射程は、だいたい普通の弓矢と同じくらいある。しかも一つ一つの魔弾が爆裂したときの効果範囲が、およそ半径五メートルである。つまり魔弾一つにつき直径十メートルのクレータが出来る、と考えてもらえればいい。立派に攻城兵器としても使える威力と攻撃範囲である。

(ふむ………。形状はイメージで操作が可能。固定と開放の加減ができるようになれば魔弾以外にも選択肢が広がるな)

 そんなことを考えながら、シーヴァは黒き魔弾を十字軍に撃ち込んでいく。吹荒れる黒き風と砂塵。人が吹き飛ばされて宙を舞うという非現実的な光景を目の前にして、なけなしの戦意はすぐに折れ十字軍の兵士たちは顔を青白くして後ずさった。

 一方、アルテンシア軍は地を揺らさんばかりに歓声をあげる。そして膨れ上がった戦意そのままに足のとまった十字軍に向かって突撃し攻撃を開始した。

(ヴェートよ、少し早すぎるぞ………)

 突撃を命令したはずの将軍の顔を思い浮かべ、シーヴァは内心で苦笑を漏らした。もう少しこの新たな魔剣の性能を試したかったのだが、まさか動き出した軍勢を停めるわけにもいかない。それに戦術的に見て、このタイミングで仕掛けたヴェートの判断は当然のことである。

(今は十字軍の駆逐に集中するか………)

 意識を切り替えたシーヴァは、馬の腹を軽く蹴って駆け出した。すぐに彼の周りを騎士たちが固める。

「追い立てろ!不埒な強盗どもに情けは無用だ!」

 シーヴァが声を上げると、兵士たちもそれに答える。結局、アルテンシア軍は日が暮れるまで十字軍を散々に追い回した。

 大陸暦1565年11月30日。この日は第二次十字軍遠征が失敗した日付として歴史に刻まれることとなった。




[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 11:00
 結局、イストが見つけた共振結晶体の組み合わせは三種類だった。魔力伝導率や組み合わせる合成石の比率その他もろもろをレポートにまとめ、それと一緒にサンプルをセロンに提出したイストは、それで当初契約した仕事を全て果たしたことになる。後はコストや、実際に魔ガラスにしたときの影響などを考慮してセロンが判断を下すだろう。

 イストの仕事は終わったが、だからといってセロンたちが開発する魔ガラスのことについてまったく関わらないわけではない。一度関わった身としては進捗情況は気になるし、相談されればそれに乗るのもやぶさかではない。今もまた、彼の部屋にセロンが相談事を持ってきていた。

 曰く「魔ガラスの開発で、ガラス職人としてできることが何かないか」

「レポートに何か不備か不満でもあった?」
「いや、そういうわけじゃないんだが………」

 セロンが少し言いにくそうに苦笑する。それを見てなんとなく事情を察したイストは、肩をすくめるとそれ以上突っ込んで聞こうとはしなかった。

「確認するけど、あんたが言う『何か』ってのは共振結晶体をどれだけ入れるとか、そういうことじゃないんだよな?」
「ああ、そうだ」

 つまり、イストが行ったのとは別方向からのアプローチができないか、ということだ。もちろん共振結晶体を混ぜる方法で魔ガラスを作るのがメインになるのだろうが、この際だから色々と情報を蓄積しておこうと思ったのかもしれない。

「確か、シラクサのガラスの原材料は砂と海藻灰、それに石灰だったよな?」
「ああ。もちろんそれだけではないが」

 その三種類を決まった分量で混ぜれば綺麗なガラスができるというような、簡単な話ではない。さらに売り物にするために、そこに鉄や銅などを少量入れることで色をつけたりしている。ちなみにガラスの原材料として使う砂は「珪砂」と呼ばれるもので、石英の粒を多く含んでいる。

「シラクサ近海で採れる海藻は何種ある?」
「種類だけなら幾つもあるが、ガラスの原材料として安定的に手に入るのは三種類くらいか」
「じゃあ、その三種類の海藻灰で、いろいろと組み合わせや比率を変えてサンプルを作ってみたらどうだ?」

 そしてそのサンプルの魔力伝導率を測定し情報を蓄積していくのだ。つまり伝導率の高いガラスを作ろうということである。ちなみに砂と石灰はシラクサで調達できるものが一種類しかないので代えようがない。

「もちろん、砂と石灰、それに海藻灰の総量は固定。それとなるべくこの三種類以外に余計なものは入れないほうがいい」

 条件を同じにしておかなければ、データを比べることができないからこれは絶対だ。

「それでは、そのまま売り物にすることはできないな………」

 セロンは苦笑した。職人としての経験上、イストの言うような方法でガラスを作っても売り物にはならないと直感的にわかる。

「無駄だと思うならやらなければいい」

 少し突き放したようにイストは言った。もとより自分の仕事は終わっている。相談程度ならいくらでも乗るが、最終的にどうするかを決めるのはセロンで、それは自分が手を出すものじゃないと割り切っている。

「いや、やる。こういうことは今のうちにやって置いた方がいいだろうしな」

 参考になったと言って、セロンは椅子代わりに腰掛けていた寝台から立ち上がった。

「おっと、資料を踏まないでくれよ」
「………踏まないで欲しければ少しくらい整理したらどうだ」

 セロンは苦笑しながら部屋を見渡す。イストの部屋はあちらこちらに資料が散乱し、「足の踏み場もない」という言葉を正しく体現していた。ただ、自分も行き来するからなのか、部屋の入り口と机の間だけはある程度整理されていて道(・)ができている。

「どこになにがあるのか、ちゃんと把握してるから大丈夫だよ」

 イストは煙管型の魔道具「無煙」を吹かしながら笑った。そういう問題ではないとセロンは言おうとしたが、言っても無駄だと思い直しため息を吐くだけで結局何も言わなかった。正しい判断だといえるだろう。

 代わりに、彼の視線はイストが吹かす「無煙」に向く。

「煙草のわりには臭いがしないが、それも魔道具なのか?」
「まあね。禁煙用魔道具の『無煙』だ」
「ほう。じゃあ、煙草の葉っぱは使っていないのか」
「そ。ちなみに煙は水蒸気」
「………一本、売ってくれないか?」

 煙草は吸わないがちょっと格好つけてみたくてな、とセロンは少し恥ずかしそうに笑った。

「あいよ。今度用意しとく」

 軽い調子でイストは答えた。こうして「無煙」愛好家は増殖していく。紫煙の代わりに水蒸気を燻らせて。

**********

(こんなモノ作って一体何になるって言うんだ………!)

 出来上がったガラスのサンプルを目の前にして、紫翠(シスイ)は奥歯を噛締めて拳を強く握った。そのサンプルはくすんでしまっており、とてもではないが売り物にはならない。いや、こうなることは始めから分っていた。だからこれは別にシスイの失敗ではない。

 ただ、失敗することが分っているのになぜこんなことをしなければならないのか、それがシスイには分らない。分らないから、シスイは今自分がやっていることに意味を見出せず苛立っていた。

(親父もなんでこんなことを俺にやらせるんだ………!?)

 ことの始まりは三日ほど前に遡る。

 イストから共振結晶体のレポートとサンプルを受け取った後、ガラス工房「紫雲」の職人たちはにわかに興奮した。いよいよ魔ガラスという新しい商品を作り始めるのだと、胸が高鳴ったものである。

 しかしその矢先、シスイは父親で工房主のセロンから別の仕事を言い渡される。それが今やっている「海藻灰の種類と配合比率を変えながらサンプルを作り、一つずつ伝導率を調べろ」という仕事である。

 その仕事を言い渡されたとき、シスイはすぐに「なんでそんなことを」とセロンに尋ねた。

 伝導率を調べるということは、これは魔ガラス開発のための仕事だろう。しかし、そのためにはすでに共振結晶体という切り札があるではないか。共振結晶体についてのレポートがイストから提出された以上、あとはどれをどのくらい使うかを決めてやれば、それでもう商品化できるはずである。

 なのになぜ、今この段階になってガラスのサンプルなど作らなければいけないのか。その当然の疑問を、シスイはセロンにぶつけた。しかしセロンは「自分で考えろ」というばかりにで、シスイの疑問に答えようとはしない。

 そうやって、分らないまま作り続けたサンプルはすでに二十個を超えている。言われたとおり一つずつ伝導率を測定し記録を残していく。単調で、実りのない作業だ。

 工房の他の職人たちが魔ガラスの商品化に向けて嬉々と仕事をする中、シスイだけは目的の分らない、いや無駄としか思えない作業を繰り返す。嫌々行う作業は彼のうちにストレスを蓄積していき、そしてそれは怒りへと変換されていく。その矛先が向くのは、イストであった。

 父であるセロンは優れたガラス職人である。そのセロンがシスイに無駄な仕事をさせるはずがない。しかし今彼がやらされている仕事は明らかに無駄である。ならばその仕事をさせるようにセロンを唆したのはイストだ。

 魔ガラスに関しては何も知らない素人である父や自分に無駄なことをさせて、奴は影で笑っているに違いない。

 そう考えたら、全身の血液が沸騰した。シスイは勢いよく立ち上がると、肩を怒らせて自分の家へと向かった。家の中ですれ違った母のシャロンが「どうしたの?」と声を掛けてくるが、事情を説明している暇はない。代わりにイストの居場所を聞くと、居間で休憩中だという。

 シスイ本人はなるべく冷静であるように心がけていた。しかし傍から見れば彼の形相は険しかったし、やはり肩を怒らせるようにして廊下進んでいく。

「頭イタ………。知恵熱出そ………」

 耳に入るイストの脱力しきった声が妙に癇に障る。テーブルに額をつけて突っ伏すその姿に、シスイは怒りにどす黒いものが混じるのを感じた。

「どういうつもりだ………!?」
「ん~?なにが?」

 こちらの怒りをはぐらかすかのような間延びした言葉に、ついにシスイの怒りが爆発する。

「あんな無駄なサンプル作らせて、どういうつもりだって聞いてんだよっ!!」

 テーブルを叩きつけシスイは怒鳴った。彼の剣幕にさすがにイストも頭を起こしたが、それでもはっきりと迷惑そうな顔をしており、それがまたシスイの怒りを逆なでする。

「ちょっと、シスイ、やめなさい!」
「姉さんは黙っててくれ!!」

 台所でお茶を用意していた翡翠(ヒスイ)が、騒ぎを聞きつけて居間にやってくる。一方的に怒っているように見える弟を止めようとするが、あいにくとシスイの怒りは収まらない。

「でかい声だすなよ………、頭に響くんだ」
「貴様っ!!」

 顔をしかめながらヒスイが持ってきたお茶を啜るイスト。こちらを挑発しているとしか思えないその言動に、シスイは頭の血管がまとめて何本か切れる音を聞いた気がした。しかし、シスイが再び何か言う前にイストが迷惑そうに口を開いた。

「サンプル作る理由ならセロンさんに聞けよ」
「サンプル作るように親父に指示したのはあんただろう!?」
「相談はされた。作ってみれば、とも言った。だけど作ると決めたのはセロンさんだ」

 お茶を啜りながら、イストは淡々と事実を羅列した。しかしその言葉がいかに事実であっても、シスイにしてみれば責任逃れの言い訳にしか聞こえなかった。

「やっぱりあんたが言い出したんじゃないかっ!だったらあんたがやれよ!!」
「阿呆。オレがやったんじゃ意味ないだろうが」

 その、いかにも全て分っている風な物言いが気に入らない。「お前は未熟だ」と面と言われているようで、腸が煮えくり返る。「自分で考えろ」とセロンに言われたその答えを、イストは分っているとでも言うのだろうか。

「何なんだよ!?いったい!!」

 不満と苛立ちと怒りがまぜこぜになり、シスイは叫んだ。

「シスイ!」

 シスイが感情のままにまくし立てるより早く、強制力のある声が彼を抑えた。父でありそして師でもあるセロンの声だった。どうやら突然工房を抜け出して家に帰ってしまったシスイを追いかけてきたらしい。

「一体どうしたんだ?」

 そう問いかけられたシスイは、上手く言葉がまとまらないのか、苛立った様子でセロンから視線をそらした。その息子の反応に、セロンは今度はもう一人の当事者であるイストのほうに目を向ける。

「サンプル作る理由が分らなくてイライラしてるんだとさ」

 イストの言葉に嘘はない。嘘はないが、言葉や配慮も足りていないように感じたのは、きっとヒスイの思い違いでない。

「自分で考えろ、といったのだがな………」

 呆れたようにセロンが頭をかく。それが気に入らなかったのか、シスイは乱暴に椅子に座ると不貞腐れたように頬杖をついた。

「説明してやれば?」
「………説明してやってくれないか、イスト君」

 頼む、とセロンは軽く頭を下げた。イストとしてはお門違いのような気もしたが、セロンにはセロンの考えがあるのだろうと思い、軽く肩をすくめて了承した。

「いいか?『紫雲』が魔ガラスを売り出して、そのあと市場を独占していられるのは、恐らく十年が限界だ」

 イストのその言葉に、不貞腐れていたシスイが反応する。しかしイストは反応したシスイのことは、恐らくは意図的に無視してセロンのほうに話を振った。

「ちなみにセロンさんは何年くらいだと思う?」
「五年。早ければ三年以内にライバルが現れると考えている」
「おや以外。オレより厳しい予想」

 さも当然、といった調子でイストとセロンは言葉を交わす。しかしシスイはその話の内容を当然とは思えなかった。

「ちょっと待ってくれ!一体なんの話を………!」

 たまらずシスイは二人の話にわって入った。魔ガラスは商品化するのは、工房「紫雲」が世界で初めてだ。つまりその技術や知識は「紫雲」が独占しているといっていい。それなのに早ければ三年以内にライバルが現れるとは、一体どういうことなのか。

「魔ガラスを売り出せば、そりゃ売れるだろう。大もうけだ。だけど売れれば売れるだけ真似をするところは増える。当然の話だな」
「そんな簡単に作れるもんじゃないだろう!?」

 魔ガラスは大陸中で何十年、いや何百年と研究されてきて、それでもめぼしい成果が上がっていないのではなかったのか。そう説明したのは、他ならぬイストではないか。

「知識だの技術だのいったところで、そのほとんどは共振結晶体だ」

 そして共振結晶体の基本的な作り方は、種類の異なる合成石を一定の割合で混ぜるだけで、つまり理論立った知識というよりはただの思いつきに類する。

「今この瞬間に、どこで誰が思いついたって不思議じゃない」

 他の工房が共振結晶体の製法を発見すれば、その瞬間からライバルが現れるといってもいい。

「だけど、今まで誰も思いつかなかったじゃないか!」
「完成品が世に出て、しかもそれが売れるとなればみんなその秘密を探ろうと躍起になるさ」

 その秘密を探るための努力が内向きであれば、つまり自力での研究開発であれば何も文句はないし、イストの言うとおり十年かあるいはそれ以上かかるかもしれない。しかし、まず間違いなく外向きの努力、つまり工房「紫雲」を探ろうとするものが出てくる。

 教会が聖銀(ミスリル)の製法を秘匿していたように、巨大で力のある組織ならば共振結晶体の秘密を数十年単位で守ることができるかもしれない。しかし「紫雲」の規模でそれを期待するのは無理だろう。遅かれ早かれ情報は漏れる。

「それに情報が漏れなかったとしても、オレが他所で共振結晶体の秘密をバラしたらどうする?」

 つまりどういう経路にせよ、いずれ情報は漏れる。そのつもりでいなければならない。そしてライバルとなる工房や商品が現れれば、それから始まるのは果てのない価格競争だ。そしてその競争において、品質が同じであれば「紫雲」に勝機はない。

「輸送に、金がかかるから………」
「その通りだ」

 シラクサは大陸という消費地から離れた南の島である。物資の輸送には船と時間が必要になり、その分の輸送費が余計にかかる。大陸の消費地のすぐ近くの工房で魔ガラスが生産されれば、価格面ではまず太刀打ちできない。この構造は現在のガラス製品とまったく同じだ。

「対策は二つ。品質を上げるか、コストを下げるか」

 そしてその二つを同時に達成すためにどうしても必要になるのが、伝導率の高い普通のガラスなのだ。

 ガラス自体の伝導率が高ければ、同じ量の共振結晶体でも出来上がる魔ガラスの伝導率は高くなる。つまり品質を上げることができる。

 また同じ伝導率でいいのであれば、混ぜる共振結晶体の量が少なくて済むので、コストを下げることができる。またガラスとして加工もしやすくなるだろう。

 他にも、大量生産して価格を下げるという手もあるのだが、魔道具の生産量自体が多くないので、大量生産に見合う需要は期待できない。それに「紫雲」の経営規模では、大幅にコストを下げるほどの大量生産は難しいだろう。

「でもどうすればガラスの伝導率上げられるかなんて、『紫雲』にはノウハウがない。だから海藻灰の比率変えてサンプル作って記録つけて、やれるところから手つけて情報量を増やしていくんだよ」

 やれることがある内はまだいい、とイストは言った。そのうちやれることも無くなってなにをどうすればいいのか分らなくなる。そうやって壁にぶつかったときに頼れるのは、それまで積み上げてきた経験と知識だ。サンプル作りはその二つを積み上げる第一歩なのである。

「だったらあんたがやったって同じじゃないか!」

 そう喚くシスイを、イストは馬鹿にしたように鼻で笑う。

「阿呆。オレがやったんじゃ意味がないと、何回言えば分る」

 壁にぶつかったとき、頼りになるのは経験と知識だ。しかし、それは自分で積み上げてきたものでなければ意味がない。結論に至るまでの過程全てをひっくるめて経験と知識なのだ。

 そしてさらに重要なこととして、イストは「紫雲」で働いているわけではない。遅くとも一年以内にはシラクサを離れて旅から旅への生活に戻るだろう。もしサンプル作りをイストが担当していれば、彼がシラクサを離れるときにそこで得られた経験やノウハウは全て失われることになる。

「でもだからってなんで俺が………!」
「んな簡単なことも分らないのか、この二流が」
「なに!?」

 二流といわれ顔を真っ赤にして怒るシスイを、イストは恐らくは意図的に無視しセロンのほうに視線をやる。彼がわずかに頷くのを確認すると、イストはシスイに鋭い視線を戻した。

「お前は将来、工房を継ぐことになる。そしてお前が工房を経営する時代には、魔ガラスの価格競争が本格化しているだろう。その競争を生き残るために今のうちから経験を積ませて、お前がきちんと工房の中心になれるようにしようと、そう思ったんじゃないのか、セロンさんは」

 イストにそういわれたシスイは、冷や水を浴びせられたかのように静かになり、脱力して椅子に腰を下ろした。さっきまで真っ赤だった顔が、今は少し青くなっている。ここで止めておけばいいのに、イストはさらに言葉を投げつける。

「大方、教えてもらった技術修めて、それで一流になった気でいたんだろ?典型的な二流だな。受け継いだ技術の上に何かを残せて、はじめて一流になれるんだ」
「………だまれ………」
「しかも、せっかくセロンさんが一流になるチャンスをくれたのにそれさえも分らないとは、もう二流未満の三流だな」
「黙れよ!!少なくともガラス加工のことで、俺よりも技術のない奴にとやかく言われる筋合いはないっ!!」

 ボロクソに言われた挙句、二流から三流に格下げされたシスイはたまらずに叫んだ。ついさっきまで青かった顔は、怒りのために再び赤くなっている。ころころと顔色の変わる奴だ、と内心で苦笑しながらイストはさらにシスイを挑発する。

「お、言ったな?じゃあ、お前なんぞ及びもつかないガラス加工の技術を見せてやるよ」

 ちょうど面白いアイディアもあるし吼え面かかせてやんよ、とイストは挑発的な笑みを浮かべて高らかに宣言する。高笑いするイストを見て、また何か良からぬことを企んでいるんだろうなぁ、とヒスイはそう思った。





***********************





「お前なんぞ及びもつかないガラス加工の技術を見せてやるよ」

 高笑いしながら、イストは紫翠(シスイ)に対してそう宣言した。ただ、イストは魔道具職人でありガラス職人ではない。だから彼の言う「ガラス加工の技術」とは魔道具を用いたものであり、その魔道具をイストはつくることになる。シスイを挑発したその日から、イストは魔道具の製作に取り掛かった。

 共振結晶体のレポートを提出した後、イストは個々の“四つの法《フォース・ロウ》”の解読と四つの術式の相互関係性の解明に全力を挙げていた。しかし、個々の解読はともかくとしてもその関係性を探るのは難航していた。イスト曰く「頭がゆだる」ほどに煮詰まっていたところに降って湧いたのが今回の騒動である。

 行き詰っていたイストは「息抜きを兼ねて」と言い訳してこれに飛び乗った。そして嬉々としながら、いやともすれば少し暴走気味に魔道具の作成に取り掛かったのである。彼の頭脳はそれにストップをかけることなく、むしろ積極的に同調して思いつきのアイディアを論理立った術式にしていく。シスイほどではないにしろ、イストとて成果の上がらない作業に嫌気が差し始めていたのだ。自重する気などなかった。

「ガラス欲しいんだけど、いい?」

 軽い調子でそう言いながらイストが工房「紫雲」にやってきたのは、彼がシスイとやりあってから四日後のことであった。共振結晶体のこともあり何度か工房に出入りしているイストは、すでに「紫雲」の職人たちとは顔見知りである。すぐに何人かの職人が気づいて、中に入ってこいと手招きした。

「何やら面白いことをやってるらしいな」

 工房の職人たちはイストがシスイにけしかけた勝負(?)のことはもちろん知っている。もしもイストがガラス職人であったならば彼の言葉に少なからず反感を覚えたのだろうが、彼は魔道具職人である。今は彼が言うところの、自分たちが「及びもつかない」技術というのがどんなものなのか、それに対する興味のほうが強かった。

 職人としての、そういう器量の大きい態度はイストも嫌いではない。自分の技術を馬鹿にされて腹を立てない職人はいないだろうが、それでも相手の技術に興味を持つのは大切だろう。そういう職人は、きっと年齢なんて関係なく成長できる。少なくともイスト・ヴァーレという職人はそう思っている。

「まあね。近いうちに驚かせてやれると思うよ」

 少し冗談めかしてそう言う。それを聞いた「紫雲」の職人は「期待している」といいながらイストの背中をバンバンと叩き大笑いした。

「それで、どんなガラスが欲しいんだ?」
「透明な板状のガラスってある?」
「大きさは?」
「手のひら二つ分くらい」

 できれば二つもらえると嬉しい、とイストがいうとその職人は「少し待ってろ」と言って工房の奥へ探しに行った。手持ち無沙汰になったイストが工房内を見渡していると、隅で黙々と仕事をしているシスイを見つけた。

 イストにボロクソに言われたあの日以来、シスイは文句を言わずにサンプル作りを続けている。あの時以降、イストとシスイはお互いに言葉を交わしていない。どちらかというとシスイが一方的にイストを避けているような状況で、シャロンや翡翠(ヒスイ)がたしなめているらしいが今のところ状況は改善していない。もっともイストの図太い神経はその程度のことでは傷つかず、むしろ弟子であるニーナのほうが胃の痛い思いをしていた。

 ただ、イストという人間の存在は気に入らないが、イストの言葉には少し考えるところがあったらしく、こうして黙々とサンプルを作っているわけである。

(目の色変えちゃってまぁ………)

 内心でイストは生温かく笑った。どういう経緯にしろサンプルを作る目的が分ったのだ。自分で気づけなかった不甲斐なさの克服も兼ねて、シスイはサンプルを作りそのデータをまとめる作業に没頭していた。

 ただ、シスイの歩む道のりは長く険しいだろう。例えば三種類の海藻灰のうち二種類を用い、その比率を十段階で区切って変えていったとして、作るサンプルの数は五四個にもなる(10:0の比率は除外してある)。

 これがさらに三種類の海藻灰全てを用い、その比率を変えていくとなるとちょっとすぐには計算できないくらいの数になる。

 しかもそれで終わりではないのだ。こうして魔力伝導率が高くなる配合比率を見つけたら、今度はさらに比率を細かくして詳細なデータを取っていくことになるだろう。そしてそれが終わったならば伝導率を上げるための、また別の方法を考えなければならない。きっとガラス職人としての歩みを止めるその時まで、シスイは頭を悩ませ続けていくのだろう。

 その上、伝導率の高いガラスの開発というのは、それこそ何百年にもわたって研究者たちが取り組んできて、それでも目立った成果の出ていない分野だ。共振結晶体があるから、伝導率を1.5以上にする必要はないが、それでも沢山の難題が待ち構えていると容易に想像がつく。

 職人たちはこういう果てのない階段を上り続ける。それはなにもガラス職人に限った話ではない。イストやオーヴァも分野は違えどやはり果ての無い高みを目指して階段を昇っている。ニーナもその階段を上り始めた。刀鍛冶のレスカだって、日々腕を上げようともがいている。

(ま、がんばれ)

 心の中で無責任にエールを送る。他人の成長に責任を持てる人間など誰もいない。動くのはいつだって本人だ。

 シスイの意思とはまったく関係のないところで一段落つけたちょうどその時、職人の一人がイストのところに布に包まったガラスの板を二枚持ってきた。縦二十センチ、横三十センチ、厚さは一センチくらいだろうか。布から出してみると透明度も問題ない。

「ん、ありがと。いくら?」
「バ~カ、金なんかいらねぇよ」

 その代わり面白いものを期待してるぞ、とその職人は豪快に笑いイストの背中を強く叩いた。わりと痛かった。

**********

 イストがガラスの板を「紫雲」に求めに来た日から二日後、彼はまたふらりと工房にやってきた。気負いや興奮は無く、いつもと同じ調子だ。

「“面白いもの”、出来たぞ」

 そういってイストは小包を掲げて見せた。「紫雲」の職人たちは仕事の手を止めてイストのところに集まり始める。それを止める人間はいない。何しろ工房主であるセロンが一番楽しそうにしている。事の発端を作ったシスイも、集団の一番外側にいた。

 イストから小包を受け取る。どうやら布を巻かれているのはガラスの板のようだ。イストがそれを求めたことは、セロンも工房の職人から聞いている。

(さて、お手並み拝見………)

 布の中から、それを取り出す。それを見た瞬間、セロンは自分の目を疑った。数瞬それを見続けて、それが目の錯覚ではないことが分ると今度は驚愕がこみ上げてくる。彼の持ついかなる技術や知識をもってしても、どうやってそれを作り上げたのかさっぱり分らないのだ。

 それはガラスの板だった。ガラスの板に、白い線で港の風景が描かれている。ここまではいい。問題は、絵が描かれている位置だ。

 その絵は、なんとガラスの中に描かれていた。

 ガラスの表面ではない。ちょうどガラスの板の真ん中にその絵は描かれているのである。もしかしたら二枚のガラスの板を重ねているのではと思い側面を見るが、そのような痕跡は見当たらない。つまりイストは、なんらかの方法でガラスの板の内部、つまり直接には手で触れられない場所に、しかし直接加工を施したのだ。

(一体、どうやって………)

 少し呆然としながら、セロンは港の風景が描かれたガラス板を他の職人たちに手渡す。すると、すぐさま彼らの間にどよめきが起こった。

 未知の技術に職人たちは興奮する。イストは普通のガラス職人が「及びもつかない」技術を見せてやると豪語していたが、たしかにガラスの内部に直接加工を施すことなどここにいるガラス職人たちには不可能だ。一体どうやれば可能なのか、職人たちはアイディアを出し合うが有効そうなものは出ない。

「イスト君、そろそろ種明かしをしてくれないか?」

 職人たちが興奮気味に意見を交わす様子を、得意げにニヤニヤしながら見ていたイストにセロンが苦笑気味にそういう。

「おやおや、もう降参か?」
「ああ、さっぱり分らん」

 芝居がかった仕草でセロンは両手をあげた。もちろん何かしらの魔道具を使ったのだろう、ということは分る。とはいえどういう原理で、なにをどうすればこんな加工ができるのか、さっぱり見当がつかない。

「こいつを使ったのさ」

 そういってイストが取り出したのは、一本の万年筆だった。ちなみにシラクサでは毛を束ねた筆が主流で、万年筆を使う人間はそう多くない。

 イストが取り出した万年筆は軸胴部が光沢のある黒で、凝った細工の彫られたペン先は銀色に輝いている。合成石と思われる小さな石が軸胴部に取り付けられていて、その万年筆が魔道具であることを無言のうちに主張していた。

 ――――魔道具「蜃気楼の筆」

 それがこの魔道具の名前だとイストは言った。ガラスの内部に直接加工を施すための、見えはするが触れることのできない絵を描くための魔道具だ。

「それで、この魔道具をどう使うんだ?」
「少し魔力を込めてみろ」

 言われたとおり魔力を込めてみると、工房の床に小さな赤いシミが一つできた。万年筆を動かすと、そのシミも動く。

「見た目では分らないけど、今その魔道具からは二種類の光ができている」

 波長が異なる二種類の光である。まず基本となる一つ目の光を利用してガラス板の厚さを測定する。次に、ガラス板の厚さの半分のところ、つまりガラス板の真ん中で二つの光波が重なり合って強めあうように、二つ目の光の波長を調整する。すると、強められた一点において光波の力が強くなり、そのエネルギーがガラスに傷を付けるのである。その傷が白い点として、連続していれば白い線として見えるのだ。

「とは言っても、使い方としては魔力を込めながら普通の万年筆と同じように使うだけなんだけどな」

 説明を聞いても理解できているかどうか怪しい職人たちに、イストは笑いながらそういった。そして彼らにとってはそちらが重用だったようだ。

「な、なあ!使ってみていいか!?」

 すでにガラスの板も用意してあり、準備のいいことである。「どうぞどうぞ」とイストが許可を出すと、職人たちは我先にとガラス板にためし描きをしていく。

「思ったよりも引っ掛からずに描けるな………」

 ためし描きをしていた職人の一人が感心したようにそう漏らす。「蜃気楼の筆」のペン先は聖銀(ミスリル)製だ。実際にインクを通すわけではないので、実際の万年筆よりもペン先は丸く、そして滑らかに仕上げてある。

「思い通りには描けるが、自動で絵を描けるわけじゃないんだな」
「そ。絵は使う人間の腕次第」
「あの港の絵はイストが自分で描いたのか?」
「いや、人に頼んで描いてもらった」

 オレに絵心を期待するな、と言いながらイストが偉そうにふんぞり返ると、職人たちの間に笑いが起こった。

「………違う………」

 職人たちの笑い声が響き渡る工房内で、ポツリと呟かれたはずのその言葉はしかし妙にはっきりと聞こえた。イストを含めた職人たちの視線が、自然と呟いた本人であるシスイのほうへ向かう。

「なにが違うって言うんだ?」

 ニヤニヤと面白そうに笑いながら、イストはシスイに問いかける。その挑発的な視線を避けるように、シスイは顔を俯かせた。

「………こんなの、ガラス加工の技術じゃない」

 たしかに「蜃気楼の筆」は魔道具としては優れているのかもしれない。けれどもガラス加工の分野で優れているとは認めたくない。現に「蜃気楼の筆」さえあれば、誰だって同じことができるではないか。

「ガラス加工ってのはもっとこう、ガラス自体を変形させて色々な形を作ったり、そういうのを言うんであって、これは違うと思う………」

 最後のほうは尻すぼみになりながら、シスイはそう主張した。イストのほうは相変わらず面白そうに笑っているが、その目つきが若干鋭くなっている。

「だから?だから自分は技術力で負けてない?だから自分は間違ってない?だから自分は正しい?」

 小馬鹿にしたような口調でイストは矢継ぎ早に言葉を浴びせる。シスイが何も言い返せないのを見ると、ふとイストは目つきを緩め苦笑した。

「さもしいプライドだなぁ」
「………くっ!」

 逃げるようにしてシスイは自分の作業に戻っていった。それを合図にしたかのように、職人たちも自分の仕事に戻っていった。何人かの職人はイストに「面白かったぞ」と声をかけていく。

「………憎まれ役をやらせてしまって、すまなかった」

 職人たちが解散し周りに誰もいなくなると、セロンがポツリとそういった。彼の視線の先ではシスイが一心不乱にサンプルを作っている。

「これであいつは職人としてもっと大きくなれる」
「オレは魔道具を作っただけ。面白かったから満足してるよ」

 イストは肩をすくめてそう言った。実際、今回のことはイストの側からしてみればただの息抜きだ。だたその“息抜き”からシスイが何かを感じ取るのは勝手で、それを糧に職人として成長したというのであれば、それは全て彼自身の手柄だろう。

「それはそうと、イスト君。あの万年筆型の魔道具のことだが………」

 セロンの声の調子が少し変わる。加えて目つきも子供を見守るものから商人のそれに早や変わりしている。

「ん?気に入ったんならやるよ。どうせオレが持ってても使わないし」

 セロンにしてみればあの魔道具「蜃気楼の筆」は欲しかろう。この魔道具が一本あれば、魔ガラスとはまた違う新しい商品が作れるのだ。板状だから船で輸出した際に割れてしまうことも少ないだろうし、「蜃気楼の筆」がなければ同じものは作れない。イストがこの魔道具をばら撒かない限りは市場を独占できる。そしてなによりもこれは売れるとセロンの工房主としての直感が告げている。

「そうか。では後五、六本同じものを頼む」
「………やっぱりアンタはヒスイの父親だよ」

 堂々と無茶な要求をするセロンに、イストは呆れたように肩をすくめる。ただ、その口元は楽しそうに笑っていた。

**********

 音は、無い。無音の世界で、ただ炎だけがまるで生き物のように蠢いている。視線を下に向けると、小さな骸が幾つも転がっている。ほんの数時間前までは元気に走り回っていたというのに、あの子達が起き上がって遊び、泣いて笑うことはこの先もはや無い。

 赤い、赤い炎。赤い、悪夢。

 何か終われるようにして暗い森の中へ走りこむ。逃げなければ、逃げなければ逃げなければ。その気持ちだけが肥大化し恐怖を煽る。

 森の中を走っていると、何かに足を取られ視界が回転した。体を起こし周りを見渡すと、小さな兄弟たちの骸が転がっている。

 ――――ヒッ!

 漏らしたはずの声は、しかし耳には届かない。そのことに違和感を覚えるよりも前に、体は勝手に後ずさり血を流すその小さな体から離れようとする。小さな瞳に移る自分は、怯えた情けない顔をしていた。

 赤い血を一筋流している小さな口が、わずかに動く。

 ――――助けて。
 そう、言いたかったのだろうか。

 思わず手を伸ばしたその矢先、小さな瞳から命の光が消えていく。

 ――――絶叫。

 声の限りに叫ぶ。しかし音は聞こえない。喉が痛くなるほどに叫んでも、やはりこの世界に音は響かない。

 そこで、目が覚めた。

 体が熱い。まるで激しい運動をした後のようである。着ているものは汗を吸ったのか少し湿っぽくなっており、背中にもつめたい汗を感じる。

 体を起こす。月が出ているのか、部屋の中は妙に青白い。そこでようやくイストは、自分が呼吸を乱し肩で息をしていることに気がついた。

「悪夢、か………」

 油断したな、とそう思った。ここ最近見ていなかったものだから、油断していた。昼間、工房「紫雲」で新しい魔道具の「蜃気楼の筆」を披露し、みんなの反応がよかったからすこし調子に乗っていたのかもしれない。頭を振って少し自嘲気味に笑うと、ようやく気分が落ち着いてきた。

 とはいえ、寝なおそうという気にはならない。

「酒でも飲むか………」

 いつものことだ。悪夢を見た夜は、酒を飲みながら朝日が昇るのを待つしかない。朝が来れば、またいつもの日常が始まる。あの日の少年は朝露と一緒に消えて、魔道具職人の自分に戻れる。

 だから、仕方がないのだろう。

(あの時、逃げていなければ………)

 そう考えてしまうのは。もっと別の未来があったんじゃないのか、そう考えてしまうのは。

「埒もない」

 分っている。そんなことは分っているのだ。分っているのに考えてしまう。だからなおのこと鬱になる。

「ああ、もう………」

 早く酒を飲もう。酒を飲んで誤魔化そう。きっと美味い酒ではないのだろうけれど。

**********

 庭に面した縁側で、柱にもたれかかりながらシラクサ酒を喉に流し込む。月明かりに照らされた庭は幻想的で、昼間とはまた違った趣を見せている。

(少し、明るすぎる………)

 お猪口に注いだシラクサ酒を飲み干しながら、イストは心の中で愚痴る。明るい光は何もかも暴いていくかのようで鬱陶しい。情けない自分を闇の中に隠しておきたいと思うのは我侭だろうか。

(どうでもいい………)

 酔いがまわってきた。鈍くなった頭は余計な思考を放棄し、イストはただぼんやりと庭を眺める。静かな夜だが、かすかな音は絶えない。それが、妙に優しく感じた。

「どうしたの?こんな時間に」

 どれだけ庭を眺めていたのだろうか。声のしたほうを見ると、寝巻き姿のヒスイがいた。月の光に照らされたからなのか、真っ直ぐに伸びた綺麗な黒い髪の毛に星が散っているように見える。肌はさらに白さを増したようで、黒い髪の毛とのコントラストがひどく印象的だ。

 情けないところを見られたな、と思い苦笑する。それでもどうにかしようという気にならない。体は脱力しているし、心は脱力させている。そこに力を入れようという気にはならなかった。

「なにか、あったの?」

 うつろに笑うだけで答えようとしてないイストを心配そうに見つめながら、ヒスイが言葉をかけてくる。そういえば、誰かに心配されたのはいつぶりだろうか。

(ああ、現実じゃない………)

 酒が入っているせいもあるのだろう。ひどく現実感が希薄だ。その希薄な現実に、むしろイストは積極的に思考を堕とした。

(現実じゃないなら、話してもいいよな………?)

 そんな甘い思考が、濁った頭をよぎる。

「イスト?」
「ああ、悪い。少し嫌な夢を見てな………」

 そう言ってから「しまった」と思った。しかしその一方で「どうでもいい」とも思っている。

「………嫌な、夢?」
「そ。オレが孤児院の出身で、そこが盗賊に襲われたってことは話したよな………?」

 話の流れに身を任せる。頭は鈍いくせに言葉は妙にはっきりとしており、それがなんだか可笑しかった。

「その時の夢をな、何度も見るんだ………」

 もう十年以上の付き合いだよ、とイストは笑った。笑ったつもりだったが、うまく笑えていたのか自信がない。ヒスイは静かに腰を下ろすと、何も言わず話を聞いてくれる。

「夢自体は、別にいいんだ」

 夢を見ることは、自分の思い通りにはならない。確かに見ていい気はしないが、自分ではどうしようないことで悩んでいても、それこそ仕方がない。

「たださ、見た後にどうしようないこと考えて、そんで鬱になって酒に逃げて………」

 そこまで言ったイストはヒスイから視線を逸らし、空になっていたお猪口にシラクサ酒を注ぐ。そしてそれを口元に運び、一気に飲み干す。

「なんとか、なんないもんかねぇ………」

 お猪口を唇からはなし、ため息混じりにそういう。言ってから、愚痴ってしまったな、と心の中で悔やむ。すまない、と謝ろうとしたらそれより早くヒスイが口を開いた。

「………仕方ないものは、仕方ないよ」

 どうしようないこと考えるのも、鬱になるのもお酒に逃げちゃうのも、みんな仕方がない。ヒスイは柔らかい口調でそういった。

「だからね。できること、しましょ?」
「………例えば?」
「例えば………、そう、お月見とか」

 お月見、と言われて流石にイストも目を丸くした。その反応が嬉しかったのか、ヒスイは軽く手を叩いて微笑んだ。

「だって、こんなに月が綺麗なのよ?」

 イストは、笑った。額に手を当て、喉の奥を鳴らすようにして笑った。

「新月だったらどうすんだよ?」
「あら新月だっていいじゃない。きっと星が綺麗よ」

 ヒスイのその、妙に自信たっぷりな言葉に、イストはまた笑った。

 なんとなく、分ったのだ。ヒスイは自分を慰めようとしているわけではない。ただ悪夢を見たというその事実に、新しい意味を与えようとしている。これまでイストが思いもしなかったような意味を、だ。

「悪夢を乗り越えられなくたっていいじゃない」

 そう、言われた気がする。

「………一杯、付き合ってくれないか?」

 空になったお猪口をヒスイに差し出す。ヒスイがそれを受け取ると、イストはそこになみなみとシラクサ酒を注いだ。注がれたお酒を、ヒスイは一口で飲み干した。

「お注ぎしますね」

 空になったお猪口をヒスイから受け取ると、今度は彼女がシラクサ酒を注いでくれる。イストもまた、それを一口で飲み干した。

「………美味いなぁ」

 自然と、そう思えた。悪夢を見た夜に酒を飲んで、美味いと思えたのは初めてかもしれない。

「美人に注いでもらうと美味しいでしょ?」
「ああ、まったくだ」

 得意げに笑うヒスイに、イストは苦笑気味に答える。それから視線を空に移す。そこには見事な満月が浮かんでいた。

「………いい夜だ………」

 ポツリと呟く。気づくとヒスイが胡弓を奏でていた。悠々とした川の流れのような胡弓の音を聞きながら、お猪口にシラクサ酒を注ぐ。酒の水面に月を浮かべ、それを一息で飲み干す。

「いい夜だ、本当に」

 悪夢を克服したわけではない。きっとこの先も悪夢を見て跳ね起きる夜があるのだろう。だけどそのたびにこの夜のことを思い出すのだ。それはたぶん、とても幸せなことではないだろうか。



[27166] 乱世を往く! 第九話 硝子の島 エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:97f78ab0
Date: 2012/03/31 11:02
 その夜、珍しく翡翠(ヒスイ)は真夜中に目が覚めた。寝なおそうと思い目をつぶるが、妙に頭がさえて眠ることができない。諦めて目を開けると、月明かりのせいか部屋の中は青白い光に照らされて結構明るい。

「綺麗な月………」

 部屋の窓から空を眺めると、見事な満月が浮かんでいる。かすかに聞こえる虫や風の音が、この夜に優しさを添えているように感じた。

「水でも飲もう………」

 寝台からおり、台所へ向かう。水瓶から柄杓で水をすくい飲むと、ほてった体が少し冷えたように感じ心地よい。

 ヒスイがそのまま部屋に戻り今度こそ寝なおそうかと思った矢先、彼女はふと庭に面した縁側に人の気配を感じた。

(こんな時間に………。誰かしら?)

 そっと、縁側をのぞく。そこにいたのは、意外にもイストだった。柱にもたれかかってぼんやりと庭を眺めながら、時々思い出したようにお酒を飲んでいる。

「どうしたの?こんな時間に」

 声をかけると、イストはこちらを向き苦笑した。いや、本人は苦笑しているつもりなのだろうが、ヒスイにはそうは見えなかった。

(まるで、なにか困ったような、ううん、泣くのを堪えているような………)

 そんな顔だ、とヒスイは思った。イストがこんな顔をしているところを見るのは、はじめてだった。

「なにか、あったの?」

 思わず、そう聞く。聞いてから「しまった」と思った。誰にだって触れられたくない、踏み込まれたくない場所がある。そこに、無遠慮に手を突っ込んでしまった気がした。謝ろうかとも思ったが、そこでイストの表情が少し変わっていることに気づく。

「イスト?」
「ああ、悪い。少し嫌な夢を見てな………」

 酔っているのだろうが、イストの言葉は明瞭だった。それが逆に、酔いきれていないのだとヒスイに教える。

「………嫌な、夢?」
「そ。オレが孤児院の出身で、そこが盗賊に襲われたってことは話したよな………?」

 確かに聞いた。あれは確か合成石を買いに、宝石店から紹介してもらった工房を目指していたときのことだ。

「その時の夢をな、何度も見るんだ………」

 もう十年以上の付き合いだよ、とイストは笑った。いや、本人は笑ったつもりなのだろうが、うまく笑えてはいない。本当に、泣くのを堪えているようにしか見えなかった。

 ヒスイが静かに腰を下ろすと、イストはぽつぽつと話し始めた。

「夢自体は、別にいいんだ」

 夢を見ることは、自分の思い通りにはならない。確かに見ていい気はしないが、自分ではどうしようないことで悩んでいても、それこそ仕方がない。淡々とイストはそう語った。それが逆に痛々しくヒスイには感じられた。

「たださ、見た後にどうしようないこと考えて、そんで鬱になって酒に逃げて………」

 そこまで言うとイストはヒスイから視線を逸らし、空になっていたお猪口にシラクサ酒を注ぐ。そしてそれを口元に運び、一気に飲み干した。その姿は、妙に疲れ果てているように感じた。

「なんとか、なんないもんかねぇ………」

 どうしようもないではないか。イストの話を聞いて、ヒスイはまずそう思った。嫌な悪夢を見たのだ。後悔があって当然だ。悔いがあって当然だ。どうしようもないことを、どうにかできなかったのかと考えるのだって当然ではないか。気分が沈んでいるのだから鬱になったって仕方がないし、そんな気分のときにお酒が飲みたくなるのも当たり前だ。

「………仕方ないものは、仕方ないよ」

 考えるより先に、言葉が出ていた。

 どうしようないこと考えるのも、鬱になるのもお酒に逃げちゃうのも、みんな仕方がない。無責任で偉そうな言葉だと思いながら、しかしそれでも言葉は自然と湧き上がってくる。

「だからね。できること、しましょ?」
「………例えば?」

 そういわれ、一瞬言葉に詰まった。自分はイストにどうして欲しいのか。そしてなにをしてあげたいのか。

「例えば………、そう、お月見とか」

 そんな言葉が出てきたとき、流石に自分を疑った。なにを言っているのだと自分を罵倒したくなる。

 ヒスイは内心で自己嫌悪にさいなまれていたが、イストのほうを見ると彼は突拍子もない彼女に意見に驚いたのか目を丸くしている。

(ああ、そうか。イストはきっと………)

 イストはきっと、こんなことを考えたことはなかったのだろう。悪夢を見るたびに鬱になり酒に逃げる自分を嫌悪し、それを乗り越えられない自分をあざ笑ってきたのだろう。

(だけどそれは………)

 だけどそれは、仕方のないことだとヒスイは思う。悪夢に苦しんだことのない自分が偉そうなことを言う権利はないのかもしれないが、それでもヒスイはイストにこう言いたかった。

「悪夢を乗り越えられなくたっていいじゃない」

 そう、言いたかったのだ。

「だって、こんなに月が綺麗なのよ?」

 ヒスイがそういうと、イストは笑った。額に手を当て、喉の奥を鳴らすようにして笑った。希薄だった彼の存在がだんだんと現実感を増してくる。それが嬉しくて、ヒスイも笑った。

「新月だったどうすんだよ?」
「あら新月だっていいじゃない。きっと星が綺麗よ」

 自信たっぷりにそういう。虚勢で半ばヤケクソ気味だが、その言葉に嘘はない。ヒスイの言葉にイストはまた笑った。

「………一杯、付き合ってくれないか?」

 ひとしきり笑い終えると、イストは空になったお猪口をヒスイに差し出した。彼女がそれを受け取ると、イストはそこになみなみとシラクサ酒を注ぐ。お猪口を慎ましく両手で持つと、ヒスイは一口でそのお酒を飲み干した。

「お注ぎしますね」

 空になったお猪口をイストに返し、今度は彼にお酒を注ぐ。イストもまた、それを一口で飲み干した。

「………美味いなぁ」

 イストはしみじみとそういった。先ほどまでの疲れ果てた感じはもうしない。

「美人に注いでもらうと美味しいでしょ?」
「ああ、まったくだ」

 言葉でじゃれあう。それからイストは空に視線を移し、「いい夜だ」とポツリと呟いた。それを聞いてから、ヒスイは静かに立ち上がる。たしか縁側の隣の部屋に胡弓が置いてあったはずだ。

 月を眺め続けているイストの隣で、ゆっくりと胡弓を奏でる。いつもよりも朗々と。いつもよりも丁寧に。そして、いつもよりも優しく。

「いい夜だ、本当に」

 イストのその言葉が嬉しかった。

**********

 ジルドが商船団の護衛の仕事を終え大陸から帰ってきたのは、年が明けて二月になってからのことだった。帰ってきたジルドから大陸の様子、つまり教会勢力の行ったアルテンシア半島への第二次十字軍遠征とその結末について聞いたイストは、シラクサを離れて大陸へ帰ることに決めた。

「“四つの法《フォース・ロウ》”の解析も一通り形になった。もうシラクサでやるべきことはないな」

 だから大陸へ戻る、とイストは言う。

(帰る………。イストが、大陸に帰っちゃう………)

 それは決まっていたことのはずだった。もとよりイストは旅から旅への根無し草。彼にとってシラクサは旅の途中で訪れた一地方に過ぎない。居心地がよかったのとやろうと思っていたことがあったため長居したが、ずっとシラクサに居続けようという気持ちはもともとイストの中にはない。

 そんなことはヒスイにも初めから分っていた。分っていたはずなのに、いきなり別れを目の前に突きつけられると心に衝撃が走った。そして自分が動揺しているということを自覚すると、また動揺した。

 思えば、彼らが家に来てから色々なことがあった。

 一番影響を受けたのは、本人は否定するだろうけれど多分|紫翠(シスイ)だろう。ヒスイの目から見てそれまでの彼は、なんというかすこし傲慢だったと思う。いや、傲慢というのは言葉が違うかもしれない。ただ、彼の持っている誇りが、それを持つのは少し早いんじゃないのかな、と思うことがあった。

 実際、素人のヒスイの目から見ても才能はあると思う。小さい頃から工房に出入りしていたシスイは、同じ年頃の子供たちが玩具で遊ぶようにしてガラス加工の技術を覚えていった。

 決してセロンがそれを強制していたわけではない。シスイは自分から望み、そして楽しみながらその技術を吸収していったのだ。

 ヒスイに不恰好なガラスの指輪を作ってくれたのは、シスイが十歳のときだった。もう指に入らなくなってしまったその指輪は、今でも大切にしまってある。時々取り出してシスイをからかうのがヒスイの密かな楽しみだ。

 そうやって早いうちから職人としての道を歩み始めていたシスイに、セロンが教えることがなくなるのもまた早かった。そうやってセロンから全てを教わり、自分の作品が店頭に並ぶようになると、シスイは「自分はもう一人前だ」と思うようになった。

 実際、一人前と考えてもいいのだろう。ガラス職人として、人前に出しても恥ずかしくない作品を作れるようになったのだ。一つの区切りとして、一定の段階に至ったことは確かである。

 ただ父であるセロンと比べると、どうしても何かが足りないと思ってしまう。漠然としたその“何か”が少し分った気がしたのは、セロンがガラスを魔道具素材として売り出すという方針を打ち出したときに、シスイが少し不満げな顔をしたときだ。

 シスイは、自分の技術に誇りや自信がありすぎる。いい物を作れば必ず売れると妄信的に信じているように感じるのだ。

 だが、ヒスイに言わせればそれは幻想である。いい物を作っても必ずしも売れるわけではないということは、工房の直営店の店番をしているヒスイのほうが良く知っている。どれだけ素晴らしい傑作であっても、いつまでも売れ残っていたりするのだ。

 その点、工房を経営しているセロンはそのことを良くわきまえている。だからこそ魔道具素材という新たな分野に挑戦しようと思ったのだろう。

(それが二人の差、ね………)

 そう考えるとすんなりと納得できた。けれど分ったとはいえ、そのことをシスイに話すことはできなかった。

 弟であるシスイは聞き分けのない人間ではない。姉であるヒスイのひいき目も混じっているのかもしれないが、素直でいい子だと思う。けれどもガラス職人としてのプライドが高い。その分野に関して自分が何を言っても聞かないだろう。

「さもしいプライドだなぁ」

 そんなシスイにイストが言った言葉がこれである。シスイがやっていたサンプル作りに端を発した一連の出来事とその顛末はヒスイも聞いている。というよりもイストがシスイを挑発したその場にヒスイもいた。

「いかにもイストがやりそうなことね………」

 呆れながらそう思ったものである。なにを言ってもあの場の流れは止められなかったと分っているが、しかし仮に止められたとしてもヒスイは止めなかっただろう。分野は違えども同じ職人として、シスイがもう一回り成長するためのきっかけをイストが与えてくれるのではないか。そう思ったのだ。

 そして、確かにイストはきっかけをシスイに与えたのだと思う。近頃、シスイは地元の商会を通して魔道具素材関連の本を買い漁り勉強している。分らないところはイストに聞いたりしているようだ。イストのほうも「畑違いなんだけど」といいながら答えられる範囲で答えている。

 またイストが近いうちに大陸に戻ることを聞くと、ガラスの魔力伝導率を上げるためのアイディアを尋ねていた。いくつか教えてもらったようで、今度試してみると話していた。

 確かにシスイは変わった。少し前までの彼なら、イストを頼るような真似はしなかっただろう。彼のプライドがそれを許さなかったはずだ。最近、目の色が変わってきたことにヒスイも気づいている。

 変わったのは、なにもシスイだけではない。いや、外からの視線で眺めてみれば、セロンが経営している工房「紫雲」のほうが大きく変わったように見えるだろう。

 イストが教えてくれた共振結晶体のおかげで、工房「紫雲」は魔ガラスの開発に短期間で成功した。少しずつではあるが魔ガラスは市場に出始めており、その評価はこれから決まるだろう。ただ手ごたえとしては上々である。

(そして私も変わっちゃったのね………)

 そのことをヒスイは淡い、淡い痛みとともに自覚した。そしてその痛みの名前を無視できるほど、ヒスイは鈍感にはなれなかった。

 その痛みの名前は、きっと「恋」というのだろう。

(そっか………。私、イストのこと好きになっちゃったんだ………)

 いつ好きになったのか、と問われてもはっきりとは分らない。一つ屋根の下で暮らすうちに、いつの間にか惹かれていったのだろう。

(あ、でもたぶん、あの時………)

 あの時。泣きそうなイストの顔を見た、あの時。ヒスイの中でイストの存在が大きくなったのはあの月夜のことかもしれない。

 傍若無人で誰に対しても物怖じしないイスト。その彼の中に潜む傷と闇を、ほんの少しだろうけれども垣間見てしまったあの夜。

 救ってあげると手を差し出したわけではない。癒してあげると思い上がったわけではない。支えてあげるとおせっかいを焼いたわけでもない。

 ただ、自分で自分を傷つけるようなことはして欲しくなかった。今思えば、それが恋に落ちた証だったのかもしれない。

(でもこの想いは伝えられない。伝えてはいけない)

 ヒスイにとって、これは初恋ではない。彼女はもう、恋に恋するような乙女チックな少女ではないのだ。

 イストは近いうちに大陸に帰り、旅から旅への生活に戻る。そしてヒスイには、シラクサでの生活を捨てて彼の後を追うという無謀を冒すことはできそうにない。

「終わりはないな。旅それ自体が目的だから」

 かつて「いつまで旅を続けるの?」と聞いたヒスイに、イストはそう答えた。終わりとアテのない旅に付き合えるほど、自分は強くないとヒスイは知っている。だから、その上で自分の想いを告白するということは、イストにシラクサに残ってくれと頼むことを意味している。

(困って、くれるかしら………?)

 その場面を想像する。「ごめん無理」とバッサリ切り捨てられてしまった。妄想の中でさえうまくいかないことに苦笑する。それでもイストのことを想えば、胸が痛くも温かくなる。

(惚れた弱み、ね………)

 触れれば痛いと分っている。けれども触れずにはいられない、甘美で廃退的な恋の痛み。その痛みを、ヒスイはまるで宝物のように撫で続けた。

**********

 イストたちがシラクサから出航する日が二日後に迫った。実際に船が出るかは天候次第だが、おそらく予定通りに船を出せるだろうというと船乗りたちは予想している。

 その日、セロンは自宅の庭でイストたちの送別会を開いた。庭にテーブルを出してご馳走を並べ、工房の職人たちや近所の人々も招いてささやかながら宴を催したのだ。

 送別会は盛況だった。まだ日が高い時間帯だったが、特別な日ということでお酒も振舞われている。シャロンやヒスイが腕を振るい、ニーナも手伝った料理の数々は好評で、ともすれば足りなくなってしまうかもしれない。

 ヒスイはまた送別会の席で胡弓を弾いたりもした。普段は一人で弾くことが多いのだが、聞いてくれる人が沢山いるところで弾くのも楽しい。なにより、彼女の演奏があると宴の席が上品になる。

 送別会でちょっとした異変が起こったのは、宴が始まってから一時間ほど経ったときのことだった。空が突然曇り始めたのである。

「お~い、雨が降るぞ。料理を家の中に入れろ」

 通り雨である。短時間のうちに激しく降るのが特徴で、シラクサではたびたび起こる。みんなで協力して庭に出していたテーブルや料理をあわただしく家の中に入れると、間一髪のタイミングで激しい雨が降り始めた。

「あ~あ、タイミングが悪いな」

 工房で働く職人の一人がぼやく。とはいえその言葉は存外明るく、予定外のハプニングを楽しんでいるようにも感じられた。突然雨に降られることはシラクサでは良くあるし、何より宴は家の中でも十分に楽しめる。

 さて飲みなおすかといって部屋に入っていく人々を尻目に、音を立てながら降る雨をヒスイは眺めていた。降り続く雨は、どこか哀愁をさそう。

 寂しいのだろうか、とヒスイは思った。いや、寂しいわけではない。では悲しいのだろうか。いや、悲しいわけでもない。

 ただただ、空虚で空漠だ。突然空っぽになってしまったように思える心の奥で、ただ恋の痛みだけが声高に自己主張をしている。

「イスト、踊ろう」
「はい?」

 酔っているのか、イストが間抜けな声を出す。かまわず彼の手を取ってヒスイは雨の降る庭に飛び出した。

 イストを振り回すようにしてヒスイは踊る。イストも最初は驚いていたようだったが、それでも苦笑しながらヒスイに合わせて踊ってくれた。

 雨に濡れながら二人は踊る。ヒスイは思う。今自分は泣いているのだろうか、それとも笑っているのだろうか。泣いていてもイストは気づかないだろう。涙は雨に混じってしまうから。

 空っぽの心を雨で満たそうとして、ヒスイは雨に濡れ続けた。その奥底にある恋心を沈めてしまうために。


 二日後、予定通りイストたちは大陸に向けて出航した。もう一度会うことは恐らくないのだろう。見送る笑顔の下で、ヒスイはそう覚悟している。けれども二人は再び出合うことになるのだが、それはまた別のお話。

 ―第九話 完―



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ プロローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:37
吟遊詩人よ謡え
英雄たちが
乱世を往く

**********

第十話 神話、堕つ

 イスト、ニーナ、ジルドの三人はシラクサからカルフィスクの港に戻ってくると、その日は港街で一泊し次の日から西に向けて出立した。

 今三人がいるのは、カルフィスクから西に向かって伸びる街道のすぐ脇である。日が暮れ夕食も食べ終わった彼らは、眠るまでの時間で少し話をしていた。

「“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”?」

 聞きなれない言葉にニーナが首を捻る。そんな彼女の首筋を、まだ冷たい春の夜風が撫でた。途端、ニーナは身を震わせて背中を丸める。日に日に温かくなる季節とはいえ、夜はまだ寒い。その上、少し前まで温かいシラクサにいたのだ。余計に寒さが身にしみた。魔道具のローブを羽織り、「マグマ石」が光と熱を煌々と放ってはいるがどこかまだ寒く感じてしまう。ニーナは手のひらを暖めていたお湯を体に流し込んだ。

「“|四つの法《フォース・ロウ》”のことだ」

 イストの言う“|四つの法《フォース・ロウ》”とは、初代アバサ・ロットであるロロイヤ・ロットが残した、古代文字(エンシェントスペル)で綴られた四つの言葉のことだ。

 闇より深き深遠の
 天より高き極光の
 果てより遠き空漠の
 環より廻りし悠久の

 これらの四つの言葉は古代文字(エンシェントスペル)で綴られた時、それぞれが術式としての意味を持つ。そしてさらに、互いが相互に関係しあってなにか大きなものを表しているのではないかとイストは考え、シラクサにいた間にゆだるほどに頭を使いその関係性を解明しようと頑張っていたのである。

「その解析が一区切りついてな。だいたいの関係性が見えてきたから、もう少し相応しい名前を、と思って付けてみた」

 それが“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”だという。ずいぶんと大仰な名前をつけたものだが、イストは無意味にそのような名前をつけたりはしないだろう。ならば彼なりにそれが相応しいと思えるだけの理由があったのだ。

「それで結局、“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”とはなんだったのだ?」
「空間系の術式理論」

 ま、予想通りだな、と言ってジルドの問いに答えたイストは「無煙」を吹かし白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出した。とはいえ、その理論の高度さと難解さは彼にとっても予想外だったと言わなければなるまい。

 イストがかつて見立てたように、“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”は亜空間設置型や空間拡張型の魔道具を作るために必要な術式理論の、その集大成であった。空間系の魔道具の術式は、全てこの四つの術式を変形したり任意のパラメータを設定したりして、変形し発展させていったものである。

 ただし、それがあれば万事解決、というわけではない。まずそれらの古代文字(エンシェントスペル)で綴られた言葉を数式も含めて記述し、共通する定数を見つけ、それぞれの項の意味を考え、その上で全体として矛盾がないように系統立てて説明していかなければならない。

 また式や定数の意味を説明し、さらにそこに至るまでの基礎的な知識も全て説明しようとした結果、イストはシラクサにいる間におよそ一五〇ページに及ぶレポートと仕上げることになった。魔道具の根幹を成すこれだけ長大で複雑な理論が、四つの言葉に集約できてしまうというのは、イストにとっても驚愕の事実である。

 無論、イストはこのレポートを書くに際して、ロロイヤが残した資料を片っ端からあさった。あれらの四つの言葉が空間系の術式理論であるという前提があったおかげか、今までは無関係と思っていた資料の中にもそれらしいものがいくつかあった。発見したそれら断片的な情報をつなぎ合わせ、あるいは不足分を自分で埋めながらイストはレポートを作成して言ったのである。

 ただ自分がまとめたレポートは、ロロイヤが千年前にすでに完成させているものであり、そう考えるとそこはかとない疲労感に襲われる。ロロイヤとしては“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”さえ残しておけばそれで十分と思ったのかもしれないが、どうせなら結論だけでなくそこに至るまでの過程も残しておいて欲しかったと愚痴ってみてもバチは当たるまい。

 いや、そもそもロロイヤはアバサ・ロットの祖である。彼の性格がねじくれ曲がっていたことは想像に難くなく、むしろ後代の人間に苦労させるべく、わざと残しておかなかった可能性のほうが高いかもしれない。そう考えるとイストは、千年をかけた壮大な嫌がらせにまんまと引っ掛かってしまったことになる。

「おのれロロイヤ!」

 ゆだった頭に響く頭痛を堪えながら、イストはそう叫んだとか。

 ロロイヤの悪戯を恨めしく思う一方で、しかしイストは彼に感服してもいた。イストは“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”を用いて作られた完成品の魔道具についてよく知っている。そしてなまじよく知っているからこそ、その理論を解き明かして術式を組み立て魔道具として完成させることがどれだけ才能とセンスを必要とするかが分かってしまう。

「脱帽だよ。奴は本当の天才だ。しかも自分の才能を自覚して、それを引き出して伸ばすための努力を惜しまなかった。逆立ちしたって勝てる気がしないね」

 少なくとも才能とセンスの点では。しかし魔道具職人としての実力はその二つだけで決まってしまうわけではない。最も重要なのは蓄積された知識と技術だ、とイストは思っている。

 アバサ・ロットが他の魔道具職人たちと比べて優れているのはそこである。

 歴代のアバサ・ロットたちは確かに全員が優れた職人であった。しかしだからと言って、全員がずば抜けた才能を持つ天才であったかといえばそうではない。それにも関わらずこれまで世界最高の水準を維持してこられたのはなぜか。

 それは代々蓄積されてきた知識と技術が圧倒的に優れていたからである。そしてそれらの知識や技術を習得することで、彼らは優れた職人となることができたのである。

 無論、歴代のアバサ・ロットのなかには天才と呼ぶに相応しい、傑出した才能を持つ者も多い。彼らはすでにあったものを発展させてさらなる知識と技術を積み上げ、アバサ・ロットの名をさらなる高みに引き上げてきた。そして後代に名を継ぐ者たちのために偉大な遺産を遺してくれたのだ。

 その全て、千年分をイストは受け継いでいる。言ってみれば、ロロイヤとは下地が平等ではない。才能が及ばないからとあっさり負けを認めるわけにはいかないのだ。

 才能が足りないならば、受け継いできた知識と技術を総動員してそれを補うまでである。そうやってまた新たな高みに手を伸ばすのだ。自分の仕事はそのうち過去のものとなり、先人たちが遺したもののなかに埋没していくだろう。それでいいとイストは思っている。そうやって自分たちが積み上げたものの上に誰かが立ち、そしてまた遥かなる高みに手を伸ばすのだ。

 まあ、それはそれでいいとして。閑話休題。話を元に戻すとしよう。

 かつてイストが“|四つの法《フォース・ロウ》”と呼んでいたものは、空間系の理論であった。ただしそれは亜空間を設置したり、特定の閉空間を拡張したりするためだけのものではない。いや、むしろそれらは副次的な産物と言ったほうがいいだろう。

 つまり“|四つの法《フォース・ロウ》”とはこの実空間を記述し説明するための理論だったのである。まさにこの世界の根源たる部分を説明しているといっていい。だからこそイストはあの四つの言葉に、改めて“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”という名前をつけたのである。

「世界の根本をなす、そうなって当然で、そうならなければおかしいもの」

 ゆえに、“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”。世界の真理とも言うべきそれがたった四つの言葉でまとめることができ、それをたった一五〇ページ程度のレポートで説明できるというのは一種驚愕である。世界とはかくも単純で美しいものなのかと、イストは悟りを開いたような気分になったものだ。

「それで“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”を解析してなにが分った?何かをするつもりで大陸に帰ってきたのだろう?」

 ジルドの言葉にイストは苦笑した。イストが覚えた感動を、“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”について詳しく知らない人間に説明するのは難しい。

「教会の御霊送りの神話だが、仮にあれが空間系の魔道具を使って人為的に行ったものだとすれば、ほぼ確実に失敗している」

 教会はその失敗を隠すために神話を捏造し、千年間儀式を行い続けてきたことになる。イストはそう言った。

「なぜ、失敗していると言い切れる?」
「そうだな………。ニーナ、なんでだと思う?」

 突然話を振られたニーナは、しかしそれまでの話を注意深く聞いていたおかげで慌てることもなく、少し考えてから口を開いた。

「えっと………、“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”はただ空間を用意するだけだから、ですか………?」
「おお、鋭い。正解」

 正直な話、“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”の中身についてほとんど何も知らないニーナが正解を言い当てるとは思っていなかったイストである。

 まあ、それはそれとして。ニーナの言った通り“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”を用いてできることはただ何もない空間を用意するだけ。御霊送りの神話の場合は亜空間なのだろうが、用意したその亜空間の中には何もない。

「今はパックスの街が入っているのではないか?」

 ジルドがそう言う。確かに神話では、パックスの街が丸ごと神界に引き上げられたことになっている。実際、今ではパックスの街があったところは湖になっており、そこにあった土地や建物は亜空間の中に納まっていると考えられる。

 しかしイストは首を振る。

「例え土地と建物があったとしても、それだけでは亜空間の中で生活することはできない」

 水を始めとする循環系を整備しなければ、その中で生活し続けることはできない。そしてそれらの循環系を“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”は用意することができない。用意するためには、また別の“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”が必要になるだろう。

「必要なものは随時外から補給するつもりだったんだろうな、本当は」
「今もそうしているかも知れんぞ?」
「それはない」

 イストは言い切った。もしパックスの街を亜空間に収めそこで生活することに成功しているなら、神話を捏造して「死後でなければそこには入れない」などという制約を設ける必要はない。達成可能な条件、例えば幾ら以上の献金など、条件を定めてそれを達成すれば入れることにすれば、もっと利用しやすいはずだ。

 また仮に成功していれば、頻繁に亜空間の内部に補給物資を届ける必要がある。御霊送りの神話を守ろうとすれば、その補給は秘密裏に行わなければならないが、それが千年という長期間にわたれば必ずや噂が立つはずである。だが旅の中でそれらしい噂は聞いたことがない。そういった現在の状況を総合的に考えた結果、御霊送りは失敗しているとイストは断定した。

「ま、御霊送りの儀式が魔道具を用いた人為的なものであれば、の話だけどな」

 神話が捏造などではなく、御霊送りは教会が主張するように本当に現世に残された最後の奇跡である可能性もまだある。そうであった場合、ただの人間であるイストには手が出せないだろう。

「で、御霊送りの儀式が人為的なものであれば、お主はどうするのだ?」

 ジルドが面白そうに聞く。イストもまた「無煙」を吹かしながら面白そうに笑う。

「まあ、つまり端的に言って、だ………」

 そこまで言うと、途端にイストの笑みが物騒なものに変わる。なにか獲物を見つけたかのような、好奇心に狂気が混じったかのような笑みをイストは浮かべる。

「パックスの街を、落とそうと思う」



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ1
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:39
 ――――ゴホッゴホッゴホッ!!

 激しい咳が収まると、口の中に鉄の味が広がった。口元を押さえていた手のひらを見ると、赤いものがベットリとついている。

「………」

 マリア・クライン、教会の象徴たる神子はそれを無表情に眺めると、その血を拭うこともせず左手の袖をまくる。その腕につけた腕輪、その腕輪にはめ込まれた「世界樹の種」が赤い光を放っている。

「そう………、もう、時間切れなのね………」

 暗い部屋の中でそう呟き、マリアは自嘲気味に小さく笑った。文字通り「時間切れ」だ。血がつながっていないとはいえ可愛い愛娘であるララ・ルーには、もう少し年相応の娘らしい生活をさせてやりたかったが、マリアに残された時間はもはやそう長くはない。そして彼女がいなくなれば、ララ・ルーが次の神子にならねばならない。

「結局、私はいい母親にはなれなかった………」

 自分の我侭が原因で実の娘であるオリヴィアを失い、そして今またもう一人の娘であるララ・ルーにあの救いようのない事実を負わせようとしている。

 マリアは目を閉じて苦悶した。しかしどれだけ苦しかろうとも時は待ってはくれない。差し迫った時間はマリアに決断を要求し、そして彼女がもつ選択肢は一つしかない。選ばないという選択肢は、彼女にはないのだ。

「ひどい女ですね、私は………」

 全ての苦悩と後悔を自らのうちに納める。手と口の端から流れた血を手拭で拭い、心に鉄の鎧を着込んで平静の表情をつくってからマリアは口を開いた。

「ララ・ルー、いますか?」
「お呼びになりましたか?お母様」

 声をかけると、隣の部屋で待機していたララ・ルーがすぐに顔を出した。ララ・ルーは一週間ほど前から体調を崩しているマリアの看護を精力的に行ってくれているのだが、その優しささえも今の彼女には痛々しい。自分に看病される価値などないことは、マリア自身が一番良く知っているのだから。

 だがその一切の感情を封じてマリアは微笑んだ。そう、微笑まなければならない。なぜならこれは喜ばしいことなのだから。

「枢密院に召集をかけてください」

 そういうと、ララ・ルーは少し不思議そうな顔をした。形式的には確かに神子が教会の最高権力者であり、枢密院はその補弼機関である。だから神子であるマリアが枢密院に召集を命じても可笑しいところはない。

 しかし、マリアを含めここ五百年程の間神子たちが枢密院の傀儡となっていることは周知の事実である。実際、マリアも枢密院に召集を命じるのはこれが初めてで、そして最後になるであろう。

「『世界樹の種』が赤い光を放ちました」

 そういってからマリアは左腕をまくり、腕輪とそこにはめ込まれた「世界樹の種」をララ・ルーに見せる。それを見たララ・ルーは歓喜と驚きの表情を浮かべた。

「おめでとうございます、お母様!」

 目をつぶって胸の前で手を組み「神々よ、感謝します」と祈りを捧げる愛娘を、マリアは哀れむように見つめる。神子たる彼女は、しかし皮肉なことにこの世に神々などいないことを誰よりも良く知っていた。

 ララ・ルーが目を開けるよりはやく、マリアは哀れみの眼差しを消した。そして内心の全てを押し殺し柔らかく微笑む。

「神界の門を開き、御霊送りの儀式を行いましょう」

**********

 御霊送りの儀式が行われるというニュースは、教会にとって久しぶりの明るい話題であった。なにしろ第一次十字軍遠征に続き、第二次遠征までも失敗したのである。このまま教会は落ちぶれていくのではないだろうか。あるいはシーヴァ・オズワルド率いる異教徒どもに滅ぼされてしまうのではないか。そんな暗い未来予想図が展開されていたところへ、御霊送りという現世に残された最後の奇跡が行われることになったのである。

「神々はまだ教会を、我らを見放してはいなかった!」

 そんな歓喜の声が、アナトテ山にある教会の本部たる神殿のあちこちで聞かれた。神殿内に立ち込めていた重く暗い雰囲気を払拭するべく、人々は儀式の準備に邁進した。

 さて、一方の神子である。

 御霊送りの儀式を執り行うことを宣言できるのは神子だけであるが、その準備自体は枢密院が中心になって行なうため神子の仕事はほとんどない。さして煩雑でもない手順の確認を済ませてしまうと、マリアとしては本格的にやることがない。彼女の体調は依然として優れず、そうなると自然とベッドの上で過ごすことが多くなった。

 しかし、マリアとしては逆にそれがありがたかった。体調が優れなければ、それは人を遠ざける理由になる。儀式が行われるまでの間の最後の時間を、愛娘と親子水入らずで過ごすには都合がよかった。

 ララ・ルーはかいがいしくマリアの世話を焼いた。こうしていると、昔自分が熱を出して寝込んだときにマリアが看病してくれたことを思い出す。

(立場が逆になってしまいました………)

 そう思うと、知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。

「どうかしましたか、ララ・ルー?」
「いえ、昔、よくこうしてお母様に看病してもらったことを思い出しまして」

 そういうと、マリアも当時を思い出したのか口元に手を当てて上品に笑った。ここ最近は体調不良で臥せっているとはいえ、今日は調子がいいようだ。

「小さいときは、あなたは体が弱くてしょっちゅう熱を出していたわね………。その上、甘えんぼさんだったからここぞとばかりに甘えて。『お母様、今日は一緒におねんねして?』って」
「お、お母様!!」

「お風呂が嫌いで、服も着ないで神殿中を逃げ回って、挙句に迷子になって大泣きしたこともあったわね。そんなあなたが今ではのぼせるまでお風呂に入っているんだから。いいかげんにしなきゃダメよ?」
「や、止めてください!昔のことですよぉ~」

 ララ・ルーが顔を真っ赤にして慌てた様子で声を上げる。手をわたわたと振ってしどろもどろになりながら必死に弁解する姿がまた可愛らしい。元々ララ・ルーは童顔だったが、そうしているとさらに幼く見える。マリアが笑うとララ・ルーはむくれてしまい、ツンと顔をそむけてリンゴの皮をむき始めた。こうやって娘をからかって楽しむのは母親の特権だろう。

(親馬鹿ですね、私は………)

 そっと微笑を漏らす。愛娘のむくれた様子さえも可愛らしい。そのことにある種誇りさえ感じてしまうのだから重傷だろう。それを自覚しつつも、マリアは今更治そうとは思わなかった。

「ララ・ルー………」

 いまだむくれた様子の愛娘を、マリアは後ろから優しく抱きしめた。ララ・ルーがそれに気づいてナイフを扱う手を止めると、マリアはさらに強く抱きしめた。

「愛しているわ、ララ。たとえこの世界のすべてが偽りの虚構だとしても、それだけは本当よ」

 ララ・ルーの顔がだんだんと緩んでいく。本人は必死に不機嫌なすまし顔を作ろうとしているのだが、表情筋は彼女の意思よりも感情のほうを優先しているようだ。緩んだ愛娘の頬を、マリアはプニプニと突く。

「愛してるわ。ホントの本当に」

 ララ・ルーの顔を胸にうずめるようにして抱きしめ、マリアはもう一度ささやいた。胸に感じる温かさが愛おしい。

「お母様………?」

 知らず知らずのうちにマリアは涙を流していた。目元を指で拭ってみても、涙は後から後から流れ出てきて止まることがない。

「泣かないでください、お母様。わたしはお母様のような立派な神子になって、きっと神界の門をくぐって会いに行きますから」

 私は立派な神子ではなかった。マリアはそう言おうとしたが、涙で喉がつまり声にはならなかった。また、仕方がないこととはいえ、ララ・ルーの勘違いが痛々しい。

 ララ・ルーは神界の門をくぐったマリアが、その先で幸せに暮らすのだと信じて疑っていない。しかしマリアはといえば、それが今生の別れになることを知っていた。そう、かつて彼女が恋人であった先代の神子、ヨハネスとの別れを迎えたように。

「待っているわ、神界の門の向こう側で」

 そう、言いたかった。だがいえなかった。待っていることなどできない。だから待っているといえば嘘になってしまう。永遠に暴かれないならばそれでもいいが、一度神界の門をくぐってしまえばその嘘は簡単にバレてしまう。そしてなによりも、マリアはこれ以上ララ・ルーに嘘をつきたくなかった。

「ありがとう。ありがとう、ララ・ルー………」

 結局、涙で擦れた声でそう言うことしかできなかった。

**********

「御霊送りの儀式、ですか………」

 教会が御霊送りの儀式を執り行うという知らせは、東の大国アルジャーク帝国にも届いている。そして今、その皇帝たるクロノワ・アルジャークの手元には、教会から儀式への正式な招待状が届けられていた。

「しかもまさかこのタイミングで、とは………」
「ええ、もし神々がいるとすれば、事態を引っ掻き回して遊んでいるようにしか思えませんな」

 そう言葉を交わしたクロノワとラシアートは揃って苦笑を漏らした。延命のためだとすれば、少しばかり手を打つのが遅い。それが二人の正直な感想だった。

 二度のアルテンシア半島への十字軍遠征とその大敗によって、教会と神聖四国、そしてその影響下にある国々は危機的な水準で疲弊している。

 国家であれば、これから先内政に力を注げば立ち直ることができるかもしれない。ただし、そのためには長い時間と大幅な改革が必要であり、成功すれば歴史に残る偉大な事業になるだろう。一方で失敗すればその国は崩壊して国史に幕を下ろすか、あるいは没落して失敗国家となるか。いずれにしても明るい未来は望めまい。

 ただ国家という組織ならば、まだ頑張ってみることはできる。しかし教会という宗教組織は崩壊への下り坂を転がり始めている、というのがクロノワの見方だ。そして教会には、その坂を登るだけの体力は残されていないだろう。

 特に第二次遠征のとき、シャトワールやブリュッゼといった小国に対して兵糧などの物資を供出させたのが、しかも教会の権威を振りかざして強制的にそうしたのが致命的だ。そういった負担は国を支える平民たち、つまり教会の信者たちの負担増に直結する。そしてそれは教会への反感につながり、結果として教会は熱心な信者を失い自身の力を弱めてしまったのだ。

 ならばだらだらと延命に権力と資金をつぎ込むよりも、さっさと崩壊なり解体なりしてしまったほうがいい。そしてシーヴァ・オズワルドという英雄が率いるアルテンシア統一王国が行動を起こすのであれば、それは比較的短時間のうちに行われるであろう、とクロノワは見ていた。

「なんにせよ関わる価値なし」

 それがクロノワの教会に対する基本姿勢であるといっていい。いや、価値なしどころか有害ですらあると彼は思っていた。

 それなのに、ここへ来て御霊送りの儀式である。

 御霊送りの儀式は、教会の主張するところによれば、現世に残された最後の奇跡である。その儀式が執り行われれば、確かに教会の光輝は増し信者と寄付の額は増えるかもしれない。しかし、儀式が性質的に定期的に行えるものではない以上、それは一時的な延命に過ぎない。

 しかもその延命さえも遅きに逸していると言わざるを得ない。その儀式を、例えば第一次遠征が失敗して時点で行うことができ、さらに第二次遠征をしなかったならば、教会は組織としてこの先百年くらいは生き延びることができたかもしれない。

 だが実際は、第二次遠征が失敗した後のこのタイミングである。衰退した教会再興の夢を人々に見させてその奮闘を楽しむかのような、そんな神々の趣味の悪い悪戯にも思えてしまう。

「まあ、神々の趣味の悪さは今に始まったことではないので横においておきましょう。目下の問題はこの招待状ですぞ、陛下」
「そうですね………」

 簡単に言ってしまえば、教会とどの程度のお付き合いをするかという問題である。クロノワとしては先の見えた教会と、あまり深くは付き合いたくない。しかしだからと言って招待を安易に無視できない程度の力は、落ち目とはいえ今の教会にもある。ならば敬しはするが遠ざけておきたいところである。

「まず確認しておきますが、陛下ご自身が行かれるつもりは………」
「ありませんよ。当然じゃないですか」

 皇帝であるクロノワが自ら儀式に出席するということは、それはアルジャーク帝国が教会に対して最大限友好的な姿勢をとることを意味している。しかしながらクロノワにその気はない。

「では私が行きましょうか」
「今、ラシアートに抜けられると内政が滞ります」

 ラシアートは宰相位にありその上国務、外務、軍務という三大臣の職責を兼務している。無論、彼の下にはストラトスやフィリオ、アーバルクをはじめとする有能な若手が揃っている。しかし権限はラシアートに集中しているわけで、彼がいなくなれば帝国の中枢が機能不全を起こすことは用意に想像できた。

「………三大臣だけでも、早く顔ぶれを決めなければなりませんな」

 ラシアートは少し苦い表情を見せてそう呟いた。たった一人の人間がいなくなっただけで機能不全を起こす組織はやはり健全とはいえない。今の状況は仕方がないこととはいえ、可能な限り早期に解消すべき、とラシアートは考えていた。

「そちらは貴方にお任せします、ラシアート」

 それはともかくとして、今は誰を御霊送りの儀式に出席させるか、である。教会に反感を抱かせることなく、さりとて必要以上に深い仲にならずに済むような、そんな人選をしなければならない。

 しばらく話し合った結果、クロノワとラシアートはストラトス・シュメイルを大使として儀式に出席させることとした。

 ストラトスは早いうちから頭角を現し、アルジャークの大使としてモントルムに派遣されるなど外交の第一線で活躍してきた。その分野においては同僚の中でも頭一つ抜けている、というのがラシアートの評価である。将来的には外務大臣の職責に耐えうる人材としてラシアートも期待していた。

「今からですと、オムージュ領からラキサニアとサンタ・シチリアナを通ってアナトテ山に行くことになりますね」
「それが最短ルートですから、そうなるでしょうな」

 御霊送りの儀式の準備はすでに始まっている。儀式に遅れたなどという間抜けなことにならないためにも、移動は最短ルートを行くのがベストであろう。

「どうかしましたか?」
「いえ、この機会ですからポルトールとオルレアンの視察もしてきてもらおうかと思いまして」

 その二カ国は、最近アルジャークと同盟や通商条約を結んだ友好国である。両国はクロノワが力を入れる海上貿易の分野でも重要なパートナーであり、その関係を発展させより強固なものにするためにも、早いうちに使節団なり視察団なりだそうと思っていたのである。

「それは儀式に出席した帰りでもいいでしょう」

 行きだと南に大回りをすることになるし、なによりも儀式が気になって十分な時間が取れない。ラシアートがそういうとクロノワも同意した。

「具体的な予定と計画はこちらで立てておきますので、陛下はストラトスに持っていかせる教会への親書を用意しておいてください」
「分りました。せいぜい美辞麗句を駆使して中身のない文章を仕立てておきましょう」

 アルジャーク帝国とクロノワに教会と深く関わるつもりはない。しかし神聖四国をはじめとする、十字軍遠征に参加した国々はそうはいくまい。恐らくは国威発揚をかねて今回の儀式に臨んでくる。その温度差が、そのままそれぞれの国の置かれた状況を暗示しているようにクロノワには思えた。




******************





 ストラトス・シュメイルを大使とするアルジャークの使節団二十名ほどが、アナトテ山の麓に広がる神殿の御前街に到着したのは三日前のことである。

 御霊送りの儀式はクロノワのもとに招待状が届いた時点ですでに準備が始まっており、儀式に間に合うよう急がなければならなかったため行きはかなり強行日程であった。

 文官のストラトスは馬術に優れているわけではなく、最初の一週間ほどは筋肉痛に悩まされた。ただ護衛として同行した女騎士グレイス・キーアによるスパルタな猛特訓のおかげか、サンタ・シチリアナに入った頃からは自分でも馬術の向上を感じることができ、それは一つ収穫かもしれない。

「何か私に恨みでもあるんですか!?」
「なにを言うのです、ストラトス大使。儀式に遅れるようなことがあれば、アルジャークと陛下の顔に泥を塗ることになるのですよ?そんなことになれば大使の将来は真っ暗です。私は大使の将来のために、こうして馬術をお教えしているのです。日ごろの恨み!とか思っているわけないじゃないですか」

 ストラトスの悲鳴はグレイスの鉄壁の笑顔に跳ね返されて空に消えた。ただ、これがきっかけになって、この後ストラトスが仕事をサボる際に馬を使うようになったのはグレイスとしても誤算であった。まったく、転んでもただでは起きない男である。

 さて、頑張ったかいあってか、ストラトスたちは儀式が催されるちょうど一週間前に御前街につくことができた。つまり四日後に御霊送りの儀式が執り行われることになる。

 ただその四日間をだらだらと自堕落に過ごせるかといえば、無論そのようなわけはない。儀式に出席するのは神聖四国を始めとする各国の要人たちである。そのような者たちが集まる以上、その場ではいやおなしに政治的な思惑が交錯することとなる。早い話が腹の探りあいである。それは儀式の前から始まっているのだ。

 ストラトスたちは御前街に着くとアルジャークの使節団が用いるに相応しいと思えるホテルの一画を貸しきり、次々と訪れる来客に対応していた。また神殿に出向いて枢機卿と会ってみたり、各国の要人たちとの会合に出席してみたりとなかなか忙しい。

 ストラトス個人の思いとしては、そんなもの全て放り出してのんびりしていたい、というのが正直なところである。彼はクロノワやラシアートが、教会との結びつきを強めるつもりのないことを察知している。生来の怠け癖を差し引いても、これではこの場での外交行脚に力が入らないのも無理はない。

 しかし上司であるラシアートからの指示は、
「各国の要人たちと積極的に会談し、大陸中央部における情勢を判断すべし」

 である。要は「しっかり働け」と釘を刺されているのだ。だから働く、といえばいかにも役人根性丸出しだが、そういうふうにでも考えて自分に発破をかけなければストラトスのやる気は瞬く間に墜落してしまう。もっとも発破をかけてみても地面すれすれの低空飛行ではあるが。

「………であるからして、我が国としては、貴国と友好な関係を築きたいと熱望しているわけでして………」

 なにしろこんな手合いばかりである。卑屈な笑みに脂汗を浮かべて舌を回転させる男を表面上はにこやかに、しかし内心では冷めた目でストラトスは見ていた。自分よりも年上の男がヘコヘコと下手に出る姿は、哀れとか滑稽なのを通り越して気色悪い。

(まあ、分っていたことだが………)

 そう、この展開は前もって予想されていたことである。二度の十字軍遠征失敗により、教会勢力の国々は力が弱まり権威を失墜させてしまった。それに対してアルジャークは個々最近で急速に力を増して空前の版図を治めるようになり、その勢いは止まるところを知らない。窮地に立った国々が国家の存亡をかけて(というのは言い過ぎかもしれないが)アルジャークに接触し接近し、支援を引き出そうとしているのである。

「貴国のお気持ち、アルジャークとしても嬉しく思います。一度本国に持ち帰り、検討してみたいと思います」

 そういってストラトスはペラペラとよく喋る目の前の男を黙らせた。事実上の会談終了と支援拒否の表明である。

「そ、そうですか………。よろしく、お願いします………」

 スゴスゴと退散する男の背中を冷たく見送り、部屋の扉が閉められるとストラトスはうんざりした様子でため息をついた。御前街についてからこのようなやり取りを、もう何回やったか分からない。

「これでは、私はまるで悪役だな………」

 ストラトスとしても支援の要請を断ることに一抹の罪悪感を覚えないでもない。しかし国境を接しているわけでもない国を一方的に支援してやるつもりもない。貿易などの類であればまだ聞くべきところはあるだろうに、そういった話題を持ち出す者はほとんどいないのだ。

 事前の準備をしていないとか、権限を委任されていないとか、言い分は色々とあるだろう。しかしストラトスとしては、そのような言い訳を聞く耳は持っていない。事前の準備などなくてもある程度の話ならできるだろうし、そのある程度の内容について内々で事後承諾を取れないような人物ならばそもそも話を聞く価値はない。

「ご苦労様でした、大使。午前の来客は今の方で最後です」

 人手が足りないこともあり、秘書代わりに働いてくれていたグレイスがそう告げる。それを聞くとストラトスはもう一度ため息をついて、肩を回して固まった筋肉をほぐした。一日中馬を走らせるのも大変だが、一日中こうして会談を続けるのもなかなか重労働である。

「しかも中身がない」
 ストラトスはそう呟き、グレイスとそろって苦笑した。

 昼食後、つかの間の休息を取っていたストラトスのもとに、思わぬ知らせが舞い込んできた。

「アヌベリアス陛下が?」

 神聖四国が一つサンタ・シチリアナの国王、アヌベリアス・サンタ・シチリアナが会談を申し込んできたのである。彼とストラトスは、実はサンタ・シチリアナの王都で一度会っている。ただその時は双方の都合が合わず、小一時間ばかりお茶を飲みながら談笑をしただけで終わってしまった。

 だからこの機会にもう一度話がしたい、ということらしい。ちなみにこのような場合、どれほど格下の国であろうと相手が王族であるならば、一文官でしかないストラトスのほうから出向くのが礼儀である。現実の力関係は別として。

「伺わせて頂く、とお返事してくれ」

 これ幸いとストラトスはこの話に飛び乗った。そしてこれを理由に午後の面会は全て断るように指示を出す。卑屈な笑みに脂汗を浮かべた男どものせずに済むと思うと、ストラトスの気持ちは少し軽くなるのだった。

**********

 アナトテ山の麓に広がる神殿の御前街は、かなり大規模な都市である。どれほどの規模かといえば、一国の王都にも匹敵する。通りには石畳が敷かれているし、ストラトスたちが泊まっているような高級ホテルを始めとする各種の設備も揃っている。

 さらに今は儀式が近いため、それを一目見ようと信者たちが詰め掛けてきている。大通にはそれらの人々を目当てにした露店も立ち並び、御前街はいつもよりも活気に溢れている、とホテルの支配人も言っていた。

 その御前街のなかに、ひときわ広い敷地を誇る建物が四つある。教会から「聖(サンタ)」の名を冠することを許された神聖四国が有する、それぞれの迎賓館である。この御前街に迎賓館を持っているということが、教会と神聖四国の結びつきの深さを内外に示すものとなっている。

 ちなみにそれらの屋敷の敷地内は治外法権となっており、そこにおいてはそれぞれの国の国法が適用される。そういう意味においては、「教会の領地に設けられた大使館」と考えておくのが一番近いかもしれない。

 今、ストラトスが馬に揺られながら向かっているのはサンタ・シチリアナの迎賓館である。国王であるアヌベリアス・サンタ・シチリアナから招待されてのことだった。

「前回は十分な時間が取れず失礼をしたため、その埋め合わせをかねて」

 というのが招待の大まかな理由であったが、それを鵜呑みにできるほどストラトスは純朴でも子供でもない。別に悪意ある陰謀を腹に抱えているわけではないだろうが、ただ茶飲み話をするために呼んだわけではあるまい。

(教会の凋落に合わせて、神聖四国も衰退している、か………)

 これまで神聖四国は教会との親密な結びつきを前面に押し出し、その威光を最大限利用することで他の国々とは図太い一線を画してきた。その象徴こそが教会から贈られた「聖(サンタ)」の名なのだが、贈った側の権威が現在大暴落している。

 当然のこととしてそれにともない、今まで神聖四国が持っていた特異性もその意味がなくなってきている。加えてその四国は二度行われたアルテンシア半島への十字軍遠征にも参加しているから、その失敗によって国力が著しく低下している。

 であれば、考えることは他の国々と同じであろう。

「国体を護持するためにも、東の大国たるアルジャーク帝国からなんらかの支援を引き出したい」

 その思惑はあまりにも見え透いている。

(さて、どうしたものか)

 馬に揺られながらストラトスは考える。これまで彼はアルジャークに対する支援の要請をほとんど断っている。それはその要請があまりにも一方的で、子供が「助けてくれ」と叫んでいるようにしか聞こえなかったからだ。外交は慈善活動ではない。

 しかし相手がサンタ・シチリアナとなれば話は変わってくる。国力が低下し国家として衰退しているとはいえ、その名前の価値はいまだに高い。格式がある、といえば分りやすいだろうか。

 またサンタ・シチリアナは神聖四国の一国として大陸の中央部に強い影響力を持っている。クロノワが大陸中央部にも影響力を拡大したいと思っているのであれば、サンタ・シチリアナは同盟国としてこれ以上ない相手であろう。

 またサンタ・シチリアナを助けたとなれば、大陸中央部におけるアルジャークのイメージアップにも繋がる。中央部ではアルジャークに対して、「辺境の野蛮な国」と偏見を抱いている人々も少なくないのだ。こうした偏見を改善できれば、例えば貿易などするにしても、円滑なお付き合いの下地を作ることができるだろう。

「なんにしても向こうの出方次第、か………」

 求めるのはサンタ・シチリアナで、アルジャークは求められる側だ。手札を最初に切るべきはアヌベリアスのほうであろう。ストラトスにはその手札を吟味してから対応を考えるだけの余裕がある。

「結果がどうなるにせよ、実りある会談なってほしいものだ」

 ここ最近、不毛な会談ばかりしていたストラトスは苦笑しつつもわりと切実にそう願った。

 そうこうしているうちに、ストラトスと彼の付き添いであるグレイスはサンタ・シチリアナの迎賓館に到着した。馬から降りて門番に名前を告げると、すぐに中に通される。案内された応接室でくつろいでいると、すぐにアヌベリアスがやってきた。

 香りのよい紅茶を楽しみながら、まずは他愛もない話で談笑する。一杯目のお茶を飲み終えたあたりで、アヌベリアスがこんなことを言った。

「ところでストラトス大使は、クロノワ殿がモントルム領の総督であられた頃からのお付き合いとか。大使の目から見て、クロノワ殿はどのような方かな?」
「私の目から陛下を見て、でうすか。そうですね………」

 笑顔の下でわりと腹黒いことを考えている人、というのがストラトスの正直なクロノワの人物評価だ。とはいえ、本人はともかくそれをアヌベリアスにそのまま告げるのは流石にまずいだろう。

「陛下は、常に未来を見ておられるような気がします」
「ほう、未来を?」
「はい」

 多くの人間は現在の積み重ねの上に未来があると考える。しかしクロノワは未来のために今があるのだ、と考えているのではないだろうか。

「望む未来のために今なにをすべきか。陛下が決定を下す際には、まずそう考えているように思います」

 とはいえ、別の言い方をすればそれは足元、つまり現実を見ていないとも言える。クロノワ一人ならばそれで転んでしまうことがあるかもしれないが、そこは国家という組織、宰相のラシアートをはじめとして今を見据えるべき人材は揃っている。ストラトスを含めそういう人々がクロノワの脇をしっかりと固めていれば、未来を見据えて今につまずくという事態は避けられる。

「クロノワ殿はまだ妃を迎えられていないが、それも未来を見据えてのことだろうか?」
「恐らくは」

 そういいつつも、ストラトスはクロノワが結婚を渋る理由について少し心当たりがある。多分だが、クロノワは側室や愛妾を置きたくないのだ。

 クロノワの出生は、いまや大陸中で知られている。クロノワの母であるネリア・ミュレットが前の皇帝であるベルトロワのお手つきとなり、そして彼が生まれた。自身の出生について、クロノワは自分のことをことさら不幸だと思ってはいないだろう。しかし自分という存在がいらぬ争いの種になってきたことは自覚している。その最たるものは、兄であるレヴィナスと帝位をかけて争ったあの戦いであろう。

 世継ぎをもうけるためにも、いずれ正妃を迎えなければならない。しかし正妃を迎えれば、次は「側室を」という話になるだろう。王や皇帝の子供が多いことは外交上優位に働く場合もあるが、内政の観点で考えれば問題の火種ともなりうる。

 自身の経験やそういった歴史上の事例を考えると、婚姻の話はもう少し先延ばしにしておきたいというのがクロノワの腹のうちではなかろうか、とストラトスは見ている。無論、その辺りはラシアートも勘付いているのだろうが、彼としては主君の後ろ向きな心情はこの際無視することにしたらしい。

「先延ばしにするデメリットのほうが大きい」
 といつだったか漏らしていた。

 それはともかくとして。アヌベリアスがクロノワの婚姻の話を持ち出してきたことで、ストラトスにはこの先の話の展開が少し見えてきた。

「大使は我が娘、シルヴィアのことをご存知だろうか」
「はい。姫のお噂はかねがね。なんでも弓術に秀で馬を巧みに操られるとか」

 実は、ストラトスはつい最近シルヴィアの名前を耳にしている。クロノワの正妃候補として名前が上がっていたのだ。

 シルヴィア・サンタ・シチリアナ。歳は今年で十七だったはずだ。王族や貴族の女性は十四、五で嫁ぐことも珍しくなく、十七であれば嫁いだ先で子供の一人や二人産んでいてもおかしくはない。

「もともと、国内の有力貴族の嫡子と婚約させていたのだが、その者が第一次十字軍遠征のときに戦死してな………」

 アヌベリアスの声が少し暗くなる。ストラトスは沈痛に「お悔やみ申し上げます」と言ったが、半分以上は儀礼的なものだ。その婚約者殿に会ったこともないのであれば、悲しみの感情が湧いてくるはずもない。

「そのせいか、第二次遠征の時には自分が指揮を執るといって聞かなくてな………。思いとどまらせるのに苦労した」
「それは………。噂に違わぬ勇敢な姫君ですね」

 そういってストラトスとアヌベリアスの二人は苦笑した。とはいえ、十字軍遠征に行かなかったからこそ苦笑で済んでいるのである。

 たしかにシルヴィアは一般的な「お姫さま」の枠組みには納まらない。彼女が陣頭に立てば十字軍の士気は上がっただろう。

 しかし、その程度でかの英雄シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍を破ることができるのかと言われれば、ストラトスははっきり無理だと断ずる。彼は武人ではないが、それでも疑問の余地はない。

 シーヴァとシルヴィアでは、格が違う。ストラトスはそのどちらとも直接あったことはないが、だからこそ公平に判断を下すことができる。温室育ちのシルヴィアと叩き上げで国王にまで成り上がったシーヴァでは勝負になるはずもない。

 仮にシルヴィアが第二次遠征に参加していたならば、彼女の婚約者と同様に戦死していた可能性が高い。それを分っていたからこそ、アヌベリアスは頑として娘を戦場に赴かせなかったのだ。

 閑話休題。アヌベリアスはそういう話をしたいわけではなかった。

「そのシルヴィアだが、私としてはクロノワ殿に妃としてさしあげたいと思っている」

**********

 ストラトスとその付き添いがサンタ・シチリアナの迎賓館を辞して帰路についたのは、すでに日は傾き空が赤く染まった時分のことだった。

「どうするおつもりですか、大使?」

 馬に揺られながら泊まっているホテルに帰る道すがら、付き添いのグレイスが躊躇いがちに後ろから聞いてくる。

「どうもこうも、早馬を出して本国にこの件を伝える以外、我々にできることはないな」

 娘であるシルヴィア姫をクロノワの妃に、というアヌベリアスの申し出はストラトスの裁量でどうこうできる問題ではない。本国に伝え、クロノワとラシアートの判断を仰ぐことになるだろう。近いうちにサンタ・シチリアナのほうからも、アルジャークに対して正式な使者を立てるはずだ。

 この婚姻に関するサンタ・シチリアナの思惑は見え透いている。つまりアルジャークと姻戚関係を結ぶことでその支援を引き出し、国体を護持したいのだ。

 ストラトスとしては、この申し出に嫌悪を感じることはない。この種の外交は昔からよくあることだ。一方的に「支援してくれ」と我儘を言われるよりも、よほど好感を持てるというものだ。

(まあ、私個人の好き嫌いはいいとして………)

 アルジャークにとって、この婚姻にはどのようなメリットがあるか。

 まず、サンタ・シチリアナと姻戚関係になれば、アルジャークが大陸の中央部に進出する足がかりになるだろう。それは別に領地の拡大だけを意味しているわけではなく、貿易範囲の拡大という視点でも大きな意味がある。

 それにアルジャークは支援をする側だ。サンタ・シチリアナ、ひいては神聖四国や大陸中央部において、その発言力は無視できないものとなるだろう。

 またラキサニアもアルジャークよりになびくことだろう。

 サンタ・シチリアナとアルジャークの間に位置するその国は、これまで神聖四国の子分のような位置づけであった。しかしその両国が自国の頭を飛び越えて手を結んだとなれば、ラキサニアとしては左右から無言の圧力をかけられるようなもので、国を維持するためにも向こうから尻尾を振ってくるだろう。そうなればアルジャークはタダで事実上の属国を手に入れることができる。

 逆にデメリットはなんだろうか。

 サンタ・シチリアナと姻戚関係を結べば、アルジャークは教会勢力とこれまで以上に強いつながりを持つことになる。教会の衰退に巻き込まれる可能性は無視できるほどに低くはないだろう。

 またそこまでいかずとも、サンタ・シチリアナを通して間接的に教会を支援しなければならなくなることも考えられる。多額の寄付を要求されることは目に見えており、その支出をクロノワやラシアートが嫌がる可能性は十分にある。

 なにしろ今の教会は穴の開いた器だ。どれだけ注ごうとも水がたまることはない。

(ま、私が今ここであれこれ考えても仕方がないんですけどねぇ………)

 ストラトスがこの場ですぐに思いつくようなことだ。ラシアートが見落とすとは思えない。本国に向けて早馬を出してしまえば、この件に関してストラトスのやることはとりあえず終わりだ。

 御霊送りの儀式が終われば、当初の予定通りポルトールとオルレアンを視察してから帝都に戻ることになる。というよりクロノワの腹のうちとしては、そちらのほうがメインではないだろうか。

(捻くれていますからね、我らが陛下は………)

 ストラトスはそっと苦笑した。クロノワが、考えすぎて自分の思考に疲れてしまう性格であることをストラトスは知っている。最悪の事態を想定することは大切だが、彼の主君の場合、後ろ向きに考えることが多いようにストラトスには思えた。

 そういえばシルヴィア姫は真っ直ぐな気性と聞く。二人が結婚すれば姫が陛下の根暗な根性を矯正してくれるのでは、などとわりと失礼なことをストラトスは考えているのであった。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ2
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:41
「ふむ………」

 御霊送りの儀式が行われる会場、そこに用意された自分たちアルジャークの使節団の席を見て、ストラトスは小さく頷いた。

(そう悪い席ではないな………)

 最も良い席はさすがに神聖四国の面々が独占している。先日招待されたアヌベリアスもそこにいる。

 次によい席には、教会勢力下の国々の王族たちが座っている。ストラトスたちの席はその次だ。

 アルジャーク帝国と教会はこれまで繋がりが薄い。加えてストラトスは皇族でもないただの一文官でしかなく、その上個人的に教会とパイプがあるわけでもない。

 それにも関わらず三番目によい席が与えられたということは、はっきりと破格の扱いだ。それだけ教会がアルジャークを重視しているということだろう。

(しかしだからといって何かあるわけではないが………)

 教会とは距離を置く。それが現状でのアルジャークのスタンスだ。教会が本格的に泣きついてくるまでは、アルジャークの方から手を出すことはまずない。

 ストラトスは無言で足を組む。その視線の先にあるのは、御霊送りの祭壇だ。儀式はまだ始まっていないが、湖をのぞむ会場に詰め掛けた人々がその開始を今か今かと待ちわびている。

 ストラトスは一つ頷くと、思考を切り替えた。これから行われるのは御霊送りの儀式、教会の主張するところによれば現世に残された最後の奇跡である。ストラトス自身としては胡散臭い眉唾物だと思っていたのだが、それでも目の前で見られるのであれば興味深いことに変わりはない。

 ならば小難しい政治や思惑の話は少し忘れて、この儀式を楽しませてもらうことにしよう。ストラトスがそう思った矢先、楽士隊のラッパが鳴り響き喧騒に包まれていた会場が数瞬で静かになった。

 会場が静かになると、祭壇とは別に設けられた壇上に一人の男が登った。枢機卿の一人であるテオヌジオ・ベツァイである。

 演壇に立ったテオヌジオは、教会の教義や御霊送りの神話について三十分ほど話をした。そして彼と入れ替わって別の枢機卿が壇上に立ち、そしてまた話を始めた。ただし今度の話は、およそ儀式とは関係のない、生々しい政治の話であった。

 全ての枢機卿が話し終え、そしてその次に神聖四国の重臣たちが国王に代わって挨拶を述べ終わったのは、開始から三時間以上が経過してからのことだった。

(ようやく終わったか………)

 最後の挨拶が終わると、ストラトスはまわりに気づかれぬようそっとため息をついた。彼はほとんどすべて右から左に聞き流していたが、それでも中身のない話を長時間聞き続けるのは疲れるものだ。

 こういう場は権威を誇示するために用いられることが多いが、今回はその典型であろう。しかしストラトスにしてみればことさら誇示しなければならないことが、逆にその権威の失墜を如実に表しているように思えた。

(さっさと終われ………)

 うんざりし始めたストラトスがそう願っていると、ようやくこの儀式の主賓があらわれた。

 神子マリア・クラインとその後継者であるララ・ルー・クラインである。

 割れんばかりの拍手と楽士隊の演奏によって迎えられた二人は、先ほどまで中身のない演説が行われていた壇上へ上がる。そしてマリアがそっと手を上げると、鳴り響いていた拍手がピタリと止んだ。

 神子マリア・クラインの話は、やはり当たり障りのないものだった。しかし解釈次第によっては、アルテンシア統一王国とシーヴァ・オズワルドを非難しているともとれる箇所が幾つもある。

 マリアが読み上げている原稿は、彼女自身が作成したものではあるまい。枢機卿の一人か、あるいは枢密院の意向を受けた人物が書いたのだろう。そこには教会こそが至上でありそれに楯突くなどけしからん、という態度がありありと表れている。

(恐らくは意図的にそうしているのだろうが………)

 意図せず、無意識のうちにそういう文章を作っているとすれば、それは教会全体がその傲慢な精神で凝り固まっていることを示している。

(しかし、なんと言うか………。統一王国も大変だな………)

 ストラトスはそっと苦笑をもらした。一方的に攻められてそれを撃退したら、今度はけしからんと非難される。統一王国にしてみれば、たまったものではなかろう。宗教組織というのは、往々にして自らの価値観以外は認めないものらしい。

「今後とも、エルヴィヨン大陸の人々の上に、神々の恩寵がありますように」

 神子の演説はそんな言葉で終わった。しかしストラトスは知っている。恩寵を願うその同じ口で教会は戦争と流血に祝福を与え、虐殺と略奪に免罪符を与えてきたことを。その事実を知る者からすればどんな言葉を並べられても、それは嘘で塗り固めた薄っぺらなものにしか聞こえなかった。

 マリアが演壇から降りると、ララ・ルーもそれについていく。どうやら彼女のほうは、演説はまだしないらしい。彼女が話をするのは、神界の門の向こう側で神子となりこちらに戻ってきてからだ。

 神子が演壇から真っ直ぐに御霊送りの祭壇へ向かう。聴衆は一様に立ち上がり、ある者は敬礼して、またある者は手を組んで祈りを捧げながらそれを見送った。

 誰一人として喋らず、緊張が漂う。ストラトスは周りの空気に影響されるような可愛げのある精神構造はしていないのだが、そんな彼であってもこの雰囲気に当てられて心臓の鼓動が大きくなったように感じられた。

 静寂の中、ついにマリアとララ・ルーが祭壇の上に立つ。祭壇の上に立ったマリアはしばらくの間、眼下に広がる湖を眺めていた。

(ヨハネス様、貴方はあの時、なにを考えていらっしゃったのですか………?)

 先代の神子であり、そして恋人でもあったヨハネス。最後に此処に立ったとき、彼はなにを考えていたのだろう。

 マリアがふと視線を横にやると、ララ・ルーと目があった。彼女はあの時のマリアと同じように期待に目を輝かせている。

 やりきれない後悔と罪悪感が、マリアの胸のうちで荒れ狂う。

(きっと貴方も、こんな思いを抱かれたのですね………)

 ララ・ルーの視線から逃れるようにして、マリアは視線を観客に向けた。居並ぶ人々の視線が全て、今マリアに集中している。それを感じながらマリアは優雅に一礼する。そしてそれから左手につけた神子の証である腕輪を掲げ、そこで赤い光を放っている「世界樹の種」に魔力を込めた。

 その瞬間、祭壇から光が溢れマリアとララ・ルーの姿をかき消した。その光が消えると、祭壇の上にもう二人の姿はなかった。

 一瞬の静寂の後、雷鳴にも似た喝采が湧き上がる。現世に残された最後の奇跡、御霊送りが今ここになされたのである。

 そして、これが歴史上最後の御霊送りの儀式であった。

**********

 神界の門の向こう側には、神々の住まう桃源郷があるという。その話をララ・ルーが初めて聞いたのは、はたして何時のことだったろうか。ララ・ルーは神殿では色々な人に可愛がってもらって育ったから、たくさんの人からその話をしてもらった覚えがある。

 ただ、不思議と母親であるマリアからその話をしてもらったことはない。いや、ねだればしてくれたのだが、マリアのほうがその話を選んでするということはなかった。

 今思えば、本当に不思議なことだ。

 マリアは神界の門の向こう側へと渡り、神々の住まう桃源郷を見てきた大陸でただ一人の人間のはずである。自分がそこで見聞きしたことを、愛娘であるララ・ルーにさえも話さないというのは、マリアを知る人間にしてみれば不思議なことであった。

 ただ、幼かったせいもあるのだろうが、ララ・ルーは不思議には思わなかった。いや、気にかけなかった、と言ったほうがいいだろう。とはいえ子供にそこまでの機微を要求するのも酷な話であろう。

 子供であったララ・ルーは、ごく純粋にその桃源郷に思いをはせていた。そらは青くて光に満ちており、野は色とりどりの花で埋めつくされて、きっと甘い香りがするのだろう。輝く沢山の宝石が沈んでいる湖。神々の住まう荘厳な神殿。きっと何もかもが想像できないくらいに素晴らしい場所なのだろうと、そう思っていた。

 だと、言うのに………。

「なに、これ………」

 目の前の光景に、ララ・ルーは言葉を失った。神界の門の向こう側には引き上げられたパックスの街があるはずだった。しかし、これは決して街などではない。

 眼前に広がっているのは、一面の廃墟だ。しかもただ建物が崩れて廃墟になった、というふうには見えない。まるで壊れたのは建物ではなく大地そのもののような、大地が引き裂かれたとき一緒に建物も壊れたかのような、そんなふうに見えた。

 空を見上げると、そこにあったもの異様な光景だ。空は、黒い。暗いとかそういうレベルではなく、ただただインクをぶちまけたかのよう黒い。そのくせ、この空間内が暗くて何も見えないということはなく、むしろ曇の日程度には光がある。ただ、その光がどこから発せられているのか、さっぱり分らないが。

 幼い頃からララ・ルーが思い描いてきた桃源郷は、そこにはなかった。木々は枯れ果て命のみずみずしさは欠片も存在しない。腐った生ゴミを放置したような悪臭が当たり一面に漂っていて、鼻に痛い。神々の住まう桃源郷というよりは、人も住まぬ魔境と呼んだほうが相応しい光景だ。

「お母様………、これは、一体………」

 どういうことですか、と続けようとして結局その言葉が形になることはなかった。振り返ったその先で、マリアは崩れた壁に手をついて体を支え、もう片一方の手で口元を押さえている。彼女の口元からは、赤いものが滴り落ちていた。

「お母様!!」
「近づいては駄目よ、ララ。血が付いてしまうわ」

 思わず駆け寄ろうとしたララ・ルーをマリアは制した。それから適当な瓦礫に腰を下ろし、周りを見渡した。

「変わっていないわね………、ここは………」

 感慨深げに、マリアは呟いた。そしておもむろに視線をララ・ルーのほうに向ける。マリアのその強い光を宿した視線に、ララ・ルーは思わず息を呑んだ。

「色々と聞きたいことは沢山あると思います。でも、まずは私の話を聞いて」

 ちゃんと全部説明するわ、とマリアは弱々しい笑みを浮かべた。ララ・ルーが強張った顔で頷くのを見ると、マリアは語り始めた。

「全ての始まりは、ロロイヤ・ロットという一人の学生が書いた、卒業論文でした」

 千年前、パックスの街には総合学術研究院があり、そこには当時大陸で最先端の知識と技術、そして頭脳が集まっていた。当時すでにかなりの勢力を持っていた教会がパトロンとなることで、その研究院には大陸中から人材が集まったという。

 当然そこでは魔道具やその術式理論に関する研究も行われており、また将来の技術者を育成するという観点から学生の教育も行われていた。

 素人、というのは存外馬鹿にできないものだ。その分野に関する通説や常識を良く知らないから、突拍子もないことや的外れなことを良く言う。しかし、素人が停滞した状況に風穴を開けてブレイクスルーを起こすことは、ままある。また完全な素人でなくとも、科学者が専門分野以外に手を出して、そこから新たなアイディアを得るということは良くある。

 ロロイヤ・ロットが魔道具術式理論の分野で素人であったかは、議論が分かれるところだろう。なんにせよ、彼がずば抜けた天才であったことは疑いようがない。

 なにしろただの学生が、その在学中にまったく新しい理論体系を確立して見せたのである。その集大成こそが、彼が卒業する際に提出した「空間構築論」であった。

 最初、研究院の教授たちはこの論文を本気にはしなかった。ロロイヤのペーパーテストの成績は芳しいものではなかったし、普段の生活でも奇行が目立つ生徒だったからだ。

 まともな食事は三日に一回で、それ以外は菓子をつまむだけ。部屋は本と資料で埋め尽くされて足の踏み場もない。気に入らない人間には徹底的に近づこうとせず、仮に向こうから近づいてくるならば遠慮の欠片もない暴言を浴びせた。

 かといって友人がいなかったわけでない。ロロイヤにも気の置けない友人というのは確かにいて、彼らに対しては自分の作った魔道具をタダで譲ったりもしていた。ただ、そういう行動が魔道具目当てでロロイヤに近づく人間を増やし、彼の奇行と人間嫌いに拍車をかけていったという面がある。

 まあそれはともかくとして。最初、ロロイヤの「空間構築論」は変わり者の学生が描いた夢物語だと思われていた。しかし卒業論文であるからには、読んで内容を評価しなければならない。そして読み進めるうちに、その論文に対する評価は瞬く間に変わっていったのである。

 そこで論じられていることには矛盾がなく、またその内容に理論の飛躍は見られない。しかしそれでも「どうやら正しいらしい」という結論しか出なかった。そこに書かれていた理論はあまりにも斬新で、教授たちの理解を超えていたのである。

 仕方なく、教授たちはロロイヤ自身にその論文を説明させることにした。ロロイヤは面倒臭そうにしながら淡々とその論文を説明したという。

 それを聞く教授たちはまさに顔色を失っていた。彼らは、この短期間にまったく新しい理論体系が生まれたことに唖然とし、それを成し遂げたのが一介の学生であることに呆然とし、そして自分たちがそれを理解できないことに愕然とした。

 研究院はロロイヤに対して卒業後もここに残って研究を続けるようにしつこく勧誘したが、彼はそれをすべて一蹴した。実際、卒業証書を手にした後、わずか十二時間でロロイヤの足取りは跡絶えている。早い話が逃げたのである。この後、歴史の中でロロイヤの名前が聞かれることはない。その代わり、この時期から“アバサ・ロット”という伝説の魔道具職人が現れることになる。

「こうして、研究院には彼の書いた論文『空間構築論』だけが残されたのです」

 ロロイヤが卒業した後、研究院では彼の残した「空間構築論」が研究の一大テーマとなった。一介の生徒がすでに完成させた理論を改めて研究するというのも変な話だが、実際そうなったのだから仕方がない。そしてその論文の存在は、研究院のパトロンである教会にも知られることとなる。

 当然のことであるが、教会は宗教組織である。よって物理的な真理の探究や技術の開発といったことにはあまり興味を示さない。彼らの興味の主眼は「どうすれば教会をもっと強大にできるか」である。

 そしてそのための道具として目をつけたのが、ロロイヤの「空間構築論」であった。その論文の内容を一言で要約すれば、
「いかにして空間は存在しているか」
 となる。そしてそこから発展させていけば、仮想的な空間を人工的に作り上げることも可能である、と記述されていた。

 小難しい理論は蹴り飛ばしその結論だけを理解した教会は、とある壮大な計画をぶっ立てる。

「それこそが、『人造神界計画』」

 ――――人造神界計画。

 簡単に言ってしまえば、「限られた人間しか入れない、特別な空間を作ろう」という計画である。人工的に桃源郷を作ろうとした、と言い換えてもいい。

 この時代、大陸のあちこちで戦禍が巻き起こっていた。教会のお膝元であるパックスの街は比較的安全だったが、それ以外の地域に住む人々は、比喩でもなんでもなく何時自分たちが戦争に巻き込まれるのか、と怯えていた。またすでに巻き込まれている人々は何時この苦しみから解放されるのか、と絶望の底で泣いていた。

 教会が「人造神界計画」を打ち出したのは、そのような人々を哀れに思い救いたいと思ったから、では決してない。特権階級だけが住むことのできる桃源郷を作り出し、それをエサにして大陸中の富豪や貴族たちから多額の寄付をせしめる。それこそが真の目的であった。

 実際、この時代において桃源郷という言葉の持つ魔力は抗いがたいものがあった。度重なる戦火のせいで土地や国だけでなく、人心までもが荒んでいた。

 心穏やかに生を全うできる、美しい場所。争いのない、静かで平穏な場所。

 一言で言ってしまえば、それは救いだ。人々は救いを求めていた。仮にどこか力のある大国が「人造神界計画」を打ち出したとしても、人々はそこに救いを求めはしなかっただろう。教会という俗世からは離れている(ように見える)宗教組織がその計画を打ち出したからこそ、人々はそこに救いを求めたのだ。

 準備が進められる中で、この計画は「神々の力を用いた奇跡である」ということになった。あからさまに魔道具を用いていると公言するよりも、人知の及ばない奇跡であるということにして置いた方が、教会の権威が増すのではないかと考えられたのだ。

 そしてその“設定”を浸透させるために、それらしい神話が捏造された。これが今の世に語り継がれる、「御霊送りの神話」の原型である。

 もっとも、その神話は実際の計画をそれらしい言葉で表現したもので、まったくの嘘とは言い切れない。ただ、ばれない嘘というのは何割かの事実を混ぜておくものだし、聞き手を意図的に誤解させようとしていたという点ではやはり嘘だろう。

 捏造された神話が流布されるその裏で、「人造神界計画」を実現させるための技術的な開発が進められた。ロロイヤの残した「空間構築論」の解析と理解に学者たちは三年の月日を要し、その理論を利用して亜空間設置型の魔道具を実際に作り上げるまでにさらに五年を要した。

 サンプルが作られて実験と検証が繰り返された。「空間構築論」を解析した時点で、その論文の範囲内では巨大な亜空間を用意することしかできない、ということはわかっていた。まあ、必要なものはその都度外から補給してやればいいか、と結論が出たとき誰かがこんなことを言い出した。

「その亜空間の中に、街を一つ収めようじゃないか」

 それは必須の条件のように思えた。その中で生活していくには、基盤となる大地がどうしても必要になるように思えたのだ。

 なにしろ桃源郷を謳っているのである。なに不自由ない生活ができたとして、その中に潤いがなければ人はそこを桃源郷とは感じはしまい。美しい植物が必要だし、愛らしい小動物もいるだろう。そうなればやはり、全ての基盤となる大地が必要になる。

 亜空間の中に収める街は、パックスの街に決定した。それも当然の流れである。教会が自由にできる街はその当時そこしかなかったのだから。

 パックスの街をどうやって丸ごと亜空間の中に収めるかが検討された。試行錯誤の末どうにかそのメドが立つと、教会はついに「人造神界計画」の発動を決定したのである。

 ロロイヤが総合学術研究院を卒業してから、およそ十五年後のことであった。




************************





 ――――人造神界計画。
 それが、御霊送りの本来の姿であるとマリアは言った。

 ロロイヤ・ロットという学生が残した「空間構築論」。その論文を基にして巨大な亜空間を作り上げてそこに街を丸ごと一つ収め、そしてそこを限られた人間だけがすむことのできる桃源郷にするという計画である。

 途方もない計画である。そもそもそんなことが可能なのか、という気がする。しかし、ロロイヤがその論文を完成させてからおよそ十五年後にすべての準備は整った、とマリアは言っていた。

「それで………、どう、なったんですか………?」
「計画は失敗したわ」

 見ての通りよと自虐的に笑い、マリアは周りの風景を示した。たしかにここは桃源郷とはかけ離れた場所で、そもそも人の気配がない。

 ただし、計画が失敗したのは、技術的な部分に欠陥があったからではない。技術的な部分だけ見れば、当初想定していたレベルには十分に達していた。巨大な亜空間を用意することはできたし、そこにパックスの街を丸ごと収めることもできたのだ。

 ではどこで失敗したのか。それはパックスの街を亜空間内に収めた、その後である。

 端的に言えば、落ちたのだ。

 亜空間とは、閉空間である。つまり限られた縦・横・奥行きしかない。そして亜空間内の特性は、その亜空間を固定してある実空間の特性から影響を受ける。簡単にいえば、上下の感覚がある実空間に固定してあれば、亜空間内でも上下が存在するのだ。

 さて、上下の感覚が存在する閉空間内で、突如として物体が空中に出現した場合、その物体はどのような運動をするだろうか。答えは至極簡単で、落下運動をする。そこに大小の差別はなく、あらゆる物体において同じことが言える。

 つまり何が起こったのかといえば、亜空間内に収容されたパックスの街は、一瞬の浮遊の後に落下運動を開始し、そのまま空間の底に叩きつけられたのである。

 そこから先は悲惨だ。叩きつけられた衝撃で大地は割れて砕けた。地震、などという生ぬるい言葉で表現しきれるような災害ではない。下から上へと突き抜けた激しい衝撃は、亀裂という形で大地を走りそのままを引き裂いた。

 大地が引き裂かれて砕かれ、その上に立っている建物が無事で済むわけがない。突き抜けた衝撃で真っ二つになるもの。建物自体が飛び上がって叩きつけられ粉々になったもの。崩落に巻き込まれて大地の底に消えていったもの。無事で済んだ建物は一つとしてなかった。

「さらに致命的だったのは、そこに多くの人々がいたことです」

 そう、パックスの街を亜空間の中に収める際に、その町は無人ではなかったのだ。それどころかそこには二千人規模の人々がいたのである。

 安全という観点で考えれば、その最後の実験は街を無人にして行うべきであったろう。しかし教会はそれをよしとはしなかった。

 一言で言ってしまえば、“見栄”の問題である。パックスの街が「神界」に「引き上げられる」その時を、その場で体験する人間がいたほうが見栄えがよい。実験と計画の失敗を露ほども考えていなかった教会は、その街に大陸中から選りすぐった信者をおいておくことを躊躇わなかったのである。

「結果として、それが実験の失敗を計画の失敗に直結させてしまったのです」

 人が死んでおらずただ街だけが壊れたのであれば、それを隠して街を再建することもあるいは可能であったろう。いや、そもそも桃源郷を作る予定だったのだから、その一環としてパックスの街を更地に戻したのだと、だからこれは想定どおりで失敗などではないと、主張することもできたかもしれない。

 が、実際のところその時パックスの街にいたおよそ二千人の人々は全滅した。そしてそれが、教会の言い訳を封じてしまったのである。

「教会に残された道は一つでした」

 つまり計画、いや御霊送りの儀式は予定通りに成功した、と言い張るしかない。しかしこのままでは、「自分もそこに入りたい」と言い出す人間が現れることは目に見えている。そこで捏造して流布しておいた神話を少しずつ改ざんして、「死後、魂の形でなければそこには入れない」とした。

 その一方で、教会は「人造神界計画」に関係するものを全て処分した。当然、ロロイヤの残した「空間構築論」も廃棄された。その論文に秘められた可能性は絶大なものであり、それを利用すれば今までにない魔道具が作れることはすでに分っていた。しかし、そこから計画の失敗が漏洩するかもしれない。そう考えた教会は自らの体面と計画失敗の隠蔽を最優先したのである。

 しかもなお悪いことに、この計画は神話の再現、つまり人智の及ばない奇跡という設定になっている。それが失敗したとなれば、神々が教会を見放した、と多くの人々は判断するだろう。そうなれば教会は終わりだ。

 だからこそ、計画の失敗はなんとしても隠蔽し、儀式は成功したと言い張らなければならなかったのである。

「そして、呪われた職責を担う生贄として、“神子”という地位が設けられたのです」

 現在大陸中で知られている御霊送りの神話によれば、神界の門を肉体を付けたままくぐれるのは神子とその後継者のみであるとなっている。しかし、そもそも“神子”という位は本来の「人造神界計画」では規定されておらず、計画が失敗したためそれを隠す目的で設けられたものである。

 では、なぜ“神子”が必要になったのか。

「設定した亜空間を保持するには、魔力が必要なのです」

 亜空間というのは、本来あるべき空間を歪めることで存在している。世界の復元力はその歪みを直す方向に働くから、亜空間を維持するには魔力を供給し続けなければならない。仮に魔力の供給が途絶えた場合、亜空間は消えてなくなりそこに収められていたパックスの街が実空間に帰ってくることになる。

 それはつまり、失敗の漏洩だ。それだけはなんとしても阻止しなければならない。そこでこの秘密を背負い、亜空間維持のために魔力を供給し続ける“生贄”として“神子”が作られたのである。

「でも、生贄って………」

 その言葉のニュアンスは悲観的過ぎるのではないだろうか、とララ・ルーは思った。確かに背負わされた秘密はあまりにも重いが、しかしやることは魔力を供給するだけではないか。

「………知っていると思いますが、魔力というのは生命力と同義です」

 魔力の過剰消費が原因で命を落とした魔導士はたくさんいる。つまり魔力の使いすぎは命に関わるのだ。

 そして、街一つを収める巨大な亜空間を維持し続けることは、命に関わるだけの魔力を必要とした。早い話が、寿命が縮むのである。

「寿命が、縮むって………」
「………『人造神界計画』のために作られた魔道具は二つ」

 絶句するララ・ルーを少しばかり無視する形で、マリアは説明を続けた。用意された二つの魔道具とは、「世界樹の種」と御霊送りの「祭壇」である。

 亜空間を固定するための基点であり、また出入りを行うためのいわば門としての役割を果たしているのが、「祭壇」である。

 そして、実際に亜空間を構築しまた維持しているのが「世界樹の種」である。またこの魔道具は亜空間内にはいるための鍵の役割も果たしている。

 ちなみに、神子が神殿の周囲から離れられないのは、「世界樹の種」そのものが亜空間を固定しているわけではないので、「祭壇」から離れすぎると亜空間維持のための魔力を供給できなくなるためだ。

「『世界樹の種』は、それを装着している人間から強制的に魔力を吸い上げて亜空間を維持しています」

 強制的、というのは技術的に考えれば少し語弊がある。亜空間維持のためには一日中、もちろん寝ている間も魔力を込め続けなければならない。つまり意識的にやり続けることは不可能で、その機能を自動化することはどうしても必要なのだ。

 まあ、もっともそのせいで寿命が削られていくのだから“強制的”と考えるのも当たり前である。

「しかし、人間の魔力というのは無限ではありません」

 そういってマリアは自分の腕につけた「世界樹の種」を見せた。それは赤い光を煌々と放っている。ここに来るまでは神聖に思えたその光が、今は恐ろしくて禍々しいもののようにララ・ルーには思えた。

「装着者の魔力、つまり命が尽きかけると、『世界樹の種』はこうして赤い光を放ちそれを教えるのです」

 魔力、つまり命が尽きかけている。それはつまり装着者の死が近いということだ。装着者が死んでしまえば魔力が供給されなくなり、亜空間が維持できなくなる。亜空間が崩壊すれば儀式の失敗が世に露呈してしまう。そうなれば教会は終わりだ。

 それを回避するのは簡単だ。「世界樹の種」を別の生命力溢れる人間に渡し、その者が魔力を供給し続ければいい。

 しかし、「世界樹の種」に魔力を供給し亜空間を維持する人間が何も知らなくては困る。だからこそ神子の後継はここで、崩落したパックスの街で行われそこですべての真実が次の神子に教えられるのである。

「つまり、今教会で行われている御霊送りの儀式には複数の目的があるのですよ」

 表の目的は、現世に残された最後の奇跡として教会の正当性を主張し、信者たちをつなぎとめること。

 裏の目的は、「人造神界計画」とその計画にまつわる一連の真実を次の神子に継承すること。

 そして真の目的は、真実を知った次の神子に「世界樹の種」を渡し、亜空間を維持してこの秘密を命の続く限り守らせること。

「それが、神子の使命なのです」
「神子、の使命………」

 いや、使命という言葉を使うのは卑怯だ、とマリアは思った。それではまるで、この秘密を守ることが世界を守ることに繋がっているようではないか。もちろんそんなことはなく、教会が守りたいのは自己の体面だけだ。“使命”という言葉を使わなければならないほど、この秘密は高尚でもなければ高潔でもない。

 そう思いながら、マリアは左手につけた「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を外し、それをララ・ルーのほうに差し出した。差し出されたララ・ルーは怯えたように胸の前で腕を組んでその腕輪を見つめていたが、やがて意を決したようにそれに手を伸ばした。

「嫌なら、いいのよ………?」

 手を伸ばすララ・ルーに、マリアは穏やかにそう言った。その言葉は、マリア自身が先代の神子であったヨハネスに言われたものでもある。

「誰も、君にこの務めを強制することはできない。もちろん私もだ」

 ヨハネスはマリアに対してそう言った。もしかしたら、ヨハネスはマリアが拒否することを望んでいたのかもしれない。そう思うのは、今まさにこの瞬間にマリア自身、愛娘が次の神子になることを拒否してくれれば、と願っているからだ。

「隠されたままで終わる秘密はありません。こうして教会が必死に隠しているこの秘密も、いずれは白日の下に曝されるでしょう。結局、早いか遅いかの問題でしかないのです。そして遅くなればなるほど、それだけ敬虔な信者の方々を騙すことにもなります」

 それはきっととても罪深いことです、とマリアは言った。教会でもっとも聖なる者であるはずの神子は、実は最も罪深い存在なのではないか。マリアはその考えを、否定できずにいる。

「………一つだけ、教えてください」
「なにかしら?ララ」

 ――――お母様はなぜ、その腕輪を受け取られたのですか?

 ララ・ルーにそう尋ねられると、マリアは小さく苦笑した。

「ヨハネス様の誇りを守りたかった。それだけよ」

 マリア自身、敬虔な信者ではあった。しかし、御霊送りの真実を知ってしまえば、もはや教会と神々を信じることはできなかった。それも当然だろう。信じていたもの全てに裏切られたのだから。

(そして今、ララ・ルーもまた………)

 自分を含め、信じてきたもの全てに裏切られた。教会の全ては嘘っぱちだと、目の前に突きつけられてしまった。あまつさえ、その嘘を守るために神子の座につき、自分の命を削れと言われている。

 その困惑と絶望は、マリアも良く分る。彼女自身、ここでヨハネスから全てを明かされたときにそれを感じたのだから。

 しかしヨハネスは違った。この救いようのない真実を知って、彼もまた同じように信じてきたものに裏切られ、困惑と絶望を味わったに違いないのに、それでもヨハネスは教会を見限らなかった。でなければどうして、枢密院を敵に回してまで教会の改革など志すだろうか。

 ヨハネスはきっと、まだ教会に価値を見出していたのだ。奇跡とされ、教会の拠り所とも思えた御霊送りは嘘だったが、それ以外にも教会の教えには大切なことがたくさんある。それをもっと大事にすればいい、とヨハネスは考えたのではないだろうか。

 結果だけ見れば、ヨハネスは改革を途中で断念せざるを得なかった。彼が価値を見出した教会の教えは、蔑ろにされているのが現状である。しかしこの先、ヨハネスの志を継ぎ、その後に従う者たちが現れるかもしれない。彼らが現れるための下地を残しておくこと、それがヨハネスの誇りを守ることに繋がるのでないだろうか。

 マリアが神子の座に着くと決めたのはそのためだ。彼女にしてみれば、教会などどうでもよかった。しかしヨハネスが価値を見出し守ったものを、マリアが壊すわけにはいかなかったのだ。

「それが、私が神子になった理由よ」

 初めてその思いを言葉にしたマリアは、話し終えると小さく息を吐いた。まるで遺言を残したかのような気分で、憑き物が落ちたかのように心は晴れ晴れとしている。ララ・ルーのほうを見ると、先ほどまでの怯えた様子がなくなっている。

「お母様、わたしはお母様の後を継いで神子になります」

 固い決意を瞳に込めて、ララ・ルーはそう宣言した。それを聞いたマリアは小さく苦笑を漏らす。

「理由を、聞いてもいいかしら?」
「わたしはお母様の娘です。だったら、ヨハネス様の娘でもあります」

 ララ・ルーはそこで一旦言葉を切り、それから微笑んだ。柔らかいだけではなく強い意思を秘めた微笑で、マリアは一瞬その微笑に引き込まれた。

「お母様とお父様が、わたしの両親が守ったものを、娘のわたしが放り出すわけにはいきません」

 ララ・ルーは、本当に誇らしげにそういった。それを聞いたマリアの頬に、涙が一筋流れ落ちる。

「………どうしようもない子ね」

 こぼれる涙を拭いもせず、マリアはそういった。苦笑しながら、しかしそれ以上に嬉しそうに微笑みながら。

「だけど、あなたが娘であったことを、誇りに思うわ」

 そういってマリアは、改めて「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪をララ・ルーに差し出した。ララ・ルーは躊躇うことなくその腕輪に手を伸ばしそれを受け取る。彼女がその腕輪をマリアと同じように左手にはめると、「世界樹の種」が放っていた赤い光は消えた。十分な魔力が供給されている証拠である。

「その腕輪をした瞬間から、あなたが次の神子です」
「はい、お母様」

 決意を胸に頷くララ・ルーを見て、マリアも満足そうに頷いた。

「………さあ、そろそろ戻りなさい」

 マリアの言う「戻る」、とは亜空間の外に出るということだ。そして同時にそれはマリアをここに置き去りにするということでもある。

「どうせ私はもうすぐ死にます。気に病むことありませんよ」
「でも、そんな………!」

 言い募ろうとするララ・ルーに、マリアは優しく言い聞かせる。

「私が目の前で死ねば、きっとあなたは泣いてしまうわ。けれどそれでは駄目なの。あなたは神々の住まう天上の園から帰ってくるのよ?そのあなたがなき悲しんでいては、ここの秘密は守れないわ」

 マリアは愛娘を胸に抱きしめた。細い体だ。こんな小さな体に、随分と重い秘密を背負わせてしまった。そのことに絶望にも近い罪悪感を覚えるが、マリアはそれを胸の奥に硬く封印する。

(絶望も後悔も、後でいい………)

 今すべきこと、それは………。

「笑って。ララ・ルー」
「お母様………」
「お願いよ、最後に見るのは、あなたの素敵な笑顔にしたいの」

 だから笑って、とマリアは願った。それが自分のための心遣いだとララ・ルーも分っている。

 だから、彼女は笑った。後から後から流れてくる涙は全て無視して、精一杯の笑顔を見せたのだ。

 それを見て、マリアも笑った。ララ・ルーと同じように涙を流しながら、優しげで穏やかな笑みを浮かべた。

 ひとしきりの抱擁を終えると、二人は離れた。

「さようならは言いません。また、会いましょう、お母様。神々の住まう、天上の園で」
「ええ、待っているわ、ララ・ルー。私の愛おしい娘」

 最後の言葉を交わすと、ララ・ルーは亜空間の外へと帰っていった。少しずつ掻き消えていく愛娘の背中に手を伸ばしたくなるの堪え、マリアはそれを見送った。

 ララ・ルーが外へと帰ると、マリアは崩落したパックスの街で一人になった。胸に封印していた後悔と絶望がこみ上げてくる。しかし心はそれだけに染まりはしなかった。小さいが、とても温かいものが心の中に確かにある。それを感じると、マリアはとても幸せな気分になれた。

 ――――その瞬間。

「ゴホッゴホッゴホッ!!!」

 マリアは口元を押さえて激しく咳き込む。口の中には生温かい鉄の味が広がり、手で受け止め切れなかった血がとめどなく足元へ流れ落ちた。今までで最も激しい喀血である。

「ヨハネス様、今、御許へ………」

 自分の死期がすぐそこまでやってきたことを悟ったマリアは、その場で仰向けに倒れた。一度倒れこんでしまうと、もう起き上がるだけの力はない。服越しに背中で感じる大地は冷たい。まるで墓場のようだ、とマリアは思った。

「いえ、“のよう”ではなく、墓場なのでしょうね、ここは………」

 パックスの街の崩落に巻き込まれた人々の、そして千年間秘密を守り続けてきた神子たちの墓場なのだ、ここは。

 生きているのはマリアしか居らず、その彼女も今まさに死のうとしている。そのはずの、この墓場に………。

「おやおや、こんなところで昼寝かい?あいにくと子守唄には自信がないんだ。勘弁してくれよ?」

 笑いを含んだ、若い男の声が響いた。




[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ3
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:44
 突然響いたその言葉に、マリアは自分の耳を疑った。死にかけてついに耳までおかしくなっただろうか。しかし徐々に近づいてくる足音が、その言葉が幻聴でないことを教えている。

 いや、言葉やその意味などどうでもいい。なぜ今この場所で自分以外の声がする?ララ・ルーが行ってしまったこの場所で、自分しかいないはずのこの場所で。

 もう体に力が入らないマリアは、それでも必死に首だけ動かして声のしたほうに視線を向けた。そこにいたのは、聞こえた声のとおり若い男だった。自分の身の丈よりも長い杖を持ち、大陸では珍しい煙管を吹かしている。

 何よりも印象的だったのが、彼の目だ。そこには強い好奇心の光が宿っている。それが彼の容姿以上に、彼という存在に精気を与えていた。

 ただ、その目は場違いなようにマリアには思えた。多くの死者が眠る墓所を、興味本位で無遠慮に調べまわるかのような、そんなふうに感じたのだ。

「貴方は………、一体………!」
「誰だと想う?」
「ふざけ、ないで………!」

 マリアはそのはぐらかすかのような答えに、はっきりと怒りを覚えた。ただ男のほうはマリアが怒ったことが意外だったのか、「ふざけてるつもりは無いんだけどな」と苦笑している。

「アバサ・ロットだ」
「………え?」

 告げられたその名があまりにも意外すぎて、思わずマリアは声を漏らした。彼女のその反応に満足したのか、アバサ・ロットと名乗った男は煙管を吸い白い煙を吐き出しながら上機嫌に笑う。

「お察しの通り本名じゃないけどな。神子たるアンタには、こっちの名前のほうがいいだろう?」
「どうして………、アバサ・ロットがここに………?」
「“アバサ・ロット”とはロロイヤ・ロットの系譜に連なる者が名乗る、一種の称号だ。まあ、系譜といっても血筋ではなく技術の、だけどな」

 ちなみにロロイヤ本人が初代のアバサ・ロットだ、と男はこともなさげに告げる。それを聞くと、マリアはこみ上げてくるか細い笑いを堪えることができなかった。

「教会があらゆる記録から抹消しようとした計画の一端が、まさかそんな形で世界に残っていたなんて………」

 アバサ・ロットがロロイヤの系譜に連なる者であるならば、当然彼が残した「空間構築論」のことも知っているだろう。その論文が手元にあるならば、御霊送りの真の姿に気づけたとしてもおかしくはない。千年の間、教会が守り続けてきた秘密がこんなにも簡単に露見してしまうなんて、いやともすればもっと前に露見していたかもしれないなんて、もう笑う以外にない。

「いやいや、ロロイヤは結論こそ残してくれていたが、論文そのものは残してくれなかった」

 おかげで苦労したよ、と男は大仰に嘆いて見せた。それから「オレより前に、この秘密に気づいたアバサ・ロットはいないと思うぞ」と付け加えた。しかしマリアにしてみれば、それこそどうでもいいことである。今、こうして秘密は露見してしまったのだから。

「それで………、こんな場所に………、何の用があるのです?」
「いや?この場所自体に用はないよ。ここに入ること、入れることを確認するのが目的だから」

 ま、入ったついでにあちこち見て回っては来たけどね、と男は笑った。その無遠慮で無思慮な態度にマリアは反感を覚えるが、その感情を表に出すだけの力はもはや彼女に残されていなかった。

「そのおかげで、随分と面白いものを見つけたぞ」
「そう………ですか………」

 男にそっけなく言葉を返し、マリアは視線を亜空間の不気味な空に向けた。そんな彼女のつれない反応も気にせず、男はこんなことを言った。

「これは憶測だが、オレやアンタ、そしてさっき事実を知ったララ・ルー・クライン以外にも、御霊送りの真実を知っている人間が恐らくいる」
「なっ………!」

 衝撃的なその言葉に、マリアは絶句する。もはや力の入らない体を必死に叱咤してかろうじて頭を起こし、睨むようにして男のほうを見た。

「一体………、誰、が………!?」
「カリュージス・ヴァーカリー枢機卿」

 むしろ面白がるようにして、男はその名を口にした。

「カリュージス卿が………?どう、して………?」

 自分の利益を優先させる枢密院の中では随分とまともな枢機卿、というのがマリアのカリュージスに対する評価である。味方にはならないが敵になることもなく、特定の議案に限れば協力したこともある。宗教家というよりは政治家や官僚と言ったほうが彼の本質を表している気がするが、なんにせよ彼が教会という組織を守り存続させることに力を注いできたのは疑いようがない。

 しかしそんな彼が、教会のアキレス腱たる御霊送りの真実を知っているという。

「勘違いするなよ。知っている“かも”だ。流石に確認はしていない」
「でも………、そう考えるからには、一応、理由があるのでしょう………?」

 聞かせてもらえませんか、とマリアが頼むと、男は白い煙を吐き出す煙管をクルクルと玩びながら満足そうに笑い、手ごろな瓦礫に腰を下ろした。それから煙管を吸い、白い煙を「フウ」と吐き出してからおもむろに話し始める。

「亜空間の底に叩きつけられてパックスの街が崩落したとき、そこにいた全ての人間が死んだわけではない」

 完全に無傷、という者はさすがにいなかったかもしれないが、すぐに動くことが可能な程度に五体満足であった幸運な人間はそれなりにいた。

「さて、そうやって生き残り、とりあえず動ける人間はその後どう行動すると思う?」
「外に出て、助けを呼ぶか………、動けない、人を助けるか………」
「ま、そのどちらかだろうな」

 さて、問題は外へ助けを呼びに行った方だ、と男は煙管を玩びながら楽しそうに解説する。なにがそんなに楽しいのか、死にかけのマリアにはさっぱり理解できない。

「助けを求めてきたそれらの人たちを、教会は口封じのために全員殺した」

 亜空間の中から出てきたそれらの人たちから話を聞くことで、教会は計画の失敗を知ったのだろう。確かに衝撃は大きかったろうが、問題はその後だ。パックスの街の崩落から逃れてきた人たちの求めに応じ、救出部隊を派遣するとことは、すなわち計画失敗の露見を意味する。それが教会の権威を大失墜させるということは、衝撃を受けた当時の教会上層部の頭でもすぐに分ることであった。

 だから教会の上層部は、それら崩落した街から逃れてきた人々を殺した。すべてはそれら生き証人の口を封じ、計画の失敗をひた隠すためである。

「でも、それは………、全てあなたの、憶測でしょう………?」

 内心では教会のやりそうなことだと思いながらも、マリアはそう弱々しい口調でそう言った。

「あっちの崩れた壁に書いてあったんだ」

 マリアの言ったとおり、崩落した街でひとまず動ける人々が取った行動は二つだった。外に出て助けを呼ぶか、動けない人を助けるか。外に出た人々は殺されてしまったが、教会はその死体を最も廃棄に適していると思われる場所、すなわち亜空間の内部に捨てたのである。さらに彼らは、亜空間の中に残っていた人々も殺し尽くさんとした。

 その中でかろうじて生き残り、その時の様子を壁に血文字で記録した者がいたのである。さらに血文字ではそのうち消えてしまうと不安だったのか、その上から刃物のようなもので文字を刻みつけてあった。

 アバサ・ロットと名乗った男が見つけた“面白いもの”とはそれであるという。

「………なんと言うことを………。誰か………、生き残った人は、居なかったのですか」
「殺されずに生き残った人はいただろうな。だけどその人が亜空間の外に出られたかは怪しい」

 どうして、と聞こうとしてマリアはその言葉を飲み込んだ。この空間の出入りの基点となっているのは御霊送りの祭壇だ。そこを見張られていては、安全に外に出ることは出来ない。出た途端に見つかり、殺されてしまうだろう。かといって亜空間のなかに留まっていても、緩慢な死を迎えるだけである。

 生き残った人間は居ない。それがマリアの出した結論である。

「さて、ここから先はオレの推測だ」

 絶句するマリアを、恐らくは意図的に無視して、煙管を吹かし白い煙を吐きながら男は話を続ける。

「当時、神殿の警護を担当していたのは、教会の創立にも関わった名門イングバス家」

 つまり、“口封じ”はこのイングバス家の主導で行われた、と考えることができる。主導していなかったとしても、関与しているのは確実だろう。

「イングバス家はそのおよそ二百年後に跡取りが途絶えて自然消滅する。イングバス家のあとを継いでその後神殿の警備を担当したのが姻戚関係にあったレイスフォール家だ」

 しかもイングバス家の最後の当主直々のご指名だ、男は言った。その話自体は、教会では良く知られた話でマリアも知っている。だから特に驚くことはない。

「さて、レイスフォール家も跡取りが途絶えて自然消滅することになる。んで、そのあと警備の任務を引き継いだのが、現在のヴァーカリー家」

 ちなみにヴァーカリー家はレイスフォール家の分家だ。つまり名前こそ変わっているが、この千年間神殿の警備を担当してきたのは、イングバス家の血筋なのである。

「一子相伝なのかは知らないが、当主から次の当主へと御霊送りの秘密が受け継がれてきた、って言うのはなかなか面白い推測だろ?」

 そういって男は笑ったが、マリアとしては笑えなかった。確かにこの話は彼の自己申告どおりすべて憶測で、なんら確たる証拠はない。しかし、そういう仮説を前提にしてカリュージスの言動を振り返ってみると、確かに御霊送りの秘密を知っているのでは、と思わせるものがいくつかある。

 その最たるものは第一次十字軍遠征が失敗した後、テオヌジオ・ベツァイ枢機卿の「御霊送りの儀式を実施する」という提案に反対したことだろう。

 マリアの見るところ、カリュージス・ヴァーカリーという枢機卿は宗教家らしく慣例や伝統を重んじる、というところがまったくない。必要でありまた有効であると思えれば、それらを飛び越えることを躊躇うような人間ではないのだ。

 しかし、そんな彼がテオヌジオの提案に対しては、「伝統を重んじるべきだ」として真っ先に反対したのだ。

 では、第二次遠征が失敗したこのタイミングで儀式を行うほうがよかったのか、といわれれば答えは「否」だろう。このタイミングで行うよりは第一次遠征が失敗した直後か、あるいは遠征を行う前に儀式を執り行うことができれば、それが最も効果的であったはずである。

 カリュージスという冷徹な政治家が、そのことに考えていなかったはずがない。にもかかわらず、彼はこれまで一度も「御霊送りの儀式を実施する」という提案をしたことがなく、あまつさえテオヌジオが言い出した際には真っ先に反対した。

 無論、慣例を無視して儀式を行うことを枢密院が決定すれば、神子であるマリアは頑強に抵抗せざるを得なかったであろう。しかし実際のところは、カリュージスが反対することでその案は潰された。

 カリュージスが御霊送りの秘密を知らないとすれば、これは少々おかしい。明らかに効果的と思える策を彼が実施しない理由が思いつかないのだ。神子たるマリアが反対したとしても、ララ・ルーの身の危険をにおわせて儀式の実施を強要するくらいのことは、彼ならば平気でするだろう。そうなればマリアとしては折れて従うしかない。カリュージスならばそこまで読めているはずである。

 しかし、もしもカリュージスが御霊送りの秘密を知っているのとすれば?

 もし知っているのであれば、彼が反対したことも頷ける。なにしろそのタイミングで儀式を行った場合、命が尽きかけていないマリアが外に出てくるかもしれない。神界の門の向こう側へと行ったマリアが神殿の近くで見つかった、などということになったら一大事である。

 また慣例を無視したことで秘密が露見する可能性についても考えたことであろう。カリュージスが御霊送りの秘密を知っているとすれば、どんなに低くとも露見の可能性を否定できない以上、慣例を無視しようなどとは思わないはずである。

 しかし、とマリアは考える。

 仮にカリュージスが御霊送りの秘密を知っていたとして、これまでの言動を見れば彼がその秘密を守ろうとしていることは明らかである。ならばその一点においてカリュージスはララ・ルーのことを守ってくれるだろう。今のマリアにとってはそちらのほうが重要である。

 そう考えると、肩の力が抜けた。どのみち死にかけの自分にできることなど何もない。ならば自分に都合のよい妄想を抱いて逝くのもいいだろう。

「聞かせてくれて、ありがとう………ございます………。後悔ばかりの………、人生でしたが………、最期に少しだけ………、いいことがありました………」
「そうかい。それは何より」

 煙管を吹かしながら楽しそうに笑う男に弱々しい微笑を向け、マリアはそれから右手を不気味な空に向かって伸ばした。袖がまくれて、身につけた腕輪があらわになる。恋人であったヨハネスとお揃いで作った、蝶をあしらった腕輪である。

 この腕輪を見ると、どうしてももう一人の娘のことを思いだす。後悔ばかりの人生の中で、一番大きくて最も多い後悔はやはりオリヴィアに関することだ。

 右腕につけた腕輪は、マリアには少し大きい。これはヨハネスのものだからだ。マリアのものはオリヴィアを孤児院に預ける時、一緒におくるみに入れてきた。朝日もまだ昇らない時間、最後に見た乳離れしたばかりのあの子の顔が、今も頭から離れない。

「………オリヴィア………」

 結局あの子は死んでしまった。いや、自分のエゴで殺したようなものだとマリアは思っている。自分が神殿に戻るためにオリヴィアを孤児院に預け、自分が神子になり御霊送りの秘密を背負わせたくなかったがために彼女を呼び寄せることをせず、その結果孤児院は盗賊に襲われあの子は死んでしまった。

 無数の後悔が心を切り刻む。この痛みの中、届かぬ懺悔をしながら死んでいくのが自分には相応しい。

「オリヴィア、ねぇ………」

 思いかげず男がその名前を呟いた。声のしたほうに目を向けると、霞んできた視界の中で男が意地の悪い笑みを浮かべていた。

「実はオレの幼馴染で、その腕輪と良く似たものを持っていて、オリヴィアという名前のやつがいる」

 年の頃はオレと同じくらいでオレと同じ孤児院にいたんだ、と男は言った。

「も、もしや………!」

 孤児院にいて、“オリヴィア”という名前で、マリアがしているのに良く似た腕輪を持っていて。もしかしてその人物は………。

「ま、その孤児院は盗賊に襲われて崩壊しちまったけどな」
「!!」

 それを聞くと、マリアは目を見開いた。そこまで条件が一致しているということは、その“オリヴィア”という女性はもしかしてマリアの娘のオリヴィアではないだろうか。

「そ、その方は………、生きて、いらっしゃいますか………!」
「ああ、生きているよ。逃げ延びたところを行商人に助けられて、今は行商のキャラバン隊の一員として、世界中を回ってる」

 その瞬間、マリアは自分の心臓が一瞬止まったような気がした。それから心臓が“トクン”と一つ大きな音を立てて動き始め、その鼓動にあわせて男の言葉が体に染み込んでくる。

 この男は今確かに、「生きている」といった。オリヴィアは生きている、といったのだ。

「あ、ああ………!!神々よ、感謝します………!」

 御霊送りの秘密を知ってから、マリアは居るかも分からない神々に祈ることや、ましてや感謝することもなくなっていた。しかし今は、今だけは全てを差し引いても感謝と歓喜の気持ちで一杯だった。

 もちろん、状況証拠がぴったりと当てはまっているだけで、男の言う“オリヴィア”がマリアの実の娘である、という保障はどこにもない。しかし、生きている、生きているかもしれない、と思えるだけで今のマリアには十分だった。

 後悔と呵責で傷だらけになった心が、温かい何かで満たされそして癒されていく。視界がぼやけて霞んでしまうのは、きっと涙が溜まっているからだ。それを拭う力はもうないけれど、それでもマリアは微笑むことができた。

 温かい、幸せな気持ちだ。何もかもから開放され、心が軽くなる。安心したせいか、目蓋が重くなってきた。少し眠い。もう何も心配することはない。そう思うと眠気に抵抗することはできなかった。

 ゆっくり、ゆっくりと目蓋が降りていく。たっぷりと時間をかけてマリアは目蓋を完全に閉じ、そして眠りについた。もう目覚めることのない、永遠の眠りに。

「…………」

 マリアの目蓋がゆっくりと閉じていく様子を、男、イスト・ヴァーレは「無煙」を吹かしながら静かに見守っていた。

 イストとしても自分が知っている“オリヴィア”と、マリアの娘のオリヴィアが同一人物であると確信しているわけではない。可能性は高い、とは思っているが、そこから先のことはもはや確かめようがない。

 ただ、確かめようがないのであれば、自分に都合がよいことを信じてもいいではないか、とも思っている。実際、マリアはそうやって満足して死んで逝った。

 イストの視線の先には、目じりに涙の筋をつけ幸せそうに微笑むマリアの死顔がある。ああいう死顔ができるのならば、全てが嘘であったとしてもそれには意味があるのではないだろうか。

 一瞬、マリアの遺髪を切り取ってオリヴィアに届けてやろうか、と思った。しかしイストは首を振ってその考えを捨てる。「母親かもしれない人の遺髪だ」といって届けても、オリヴィアは困るだけだろう。もしかしたらマリアはそれを望んでいたのかもしれないが、イストは死人の希望よりは生きている幼馴染の都合を優先させた。しかしそれにしても彼のエゴだが。

「エゴの塊さ。優しさなんて」

 そう呟き、イストは瓦礫から立ち上がる。そして道具袋から「魔法瓶」を取り出し、中の酒をマリアの遺体に振り掛ける。周りは相変わらずひどい臭いだが、それでも芳醇な香りがイストの鼻をくすぐる。それを確認してから、イストは歩き出した。そして最後にもう一度だけ振り返る。

「いい夢を。マリア・クライン」

 そんな言葉を残すと、イストはもはや振り返ることなくその場を歩き去った。





***********************





 ニーナ・ミザリは読んでいた資料から目を離すと、落ち着かない様子で茂みの向こう側に視線をやった。そこに何かがあるわけではない。ただ、自分の勉強に集中できないだけだ。

 ニーナたちがキャンプを張っているのは、かつてパックスの街があったとされる湖のほとりに広がる、森の中に少し入ったところだ。ここからは見えないが湖を挟んだ対岸には神殿があり、今は御霊送りの儀式の真っ最中だろう。

「イストなら、もうすぐ帰ってくるのではないか」
「ええ、そうだと、思うんですけど………」

 二人分の紅茶を入れたジルドが、ティーカップをニーナに差し出す。ちなみに煙を出して見つかると悪いので火は使わず、「マグマ石」でお湯を沸かしている。

 差し出されたティーカップを受け取ったニーナは、そのまま紅茶を啜る。甘い香りとは裏腹にすっきりとした味わいだ。どうやらニーナの好みに合わせて淹れてくれたらしい。その紅茶を飲んで一つ息をつくと、少し気分が落ち着いた。

「師匠は、本当にやるつもりなんでしょうか………?」

 ――――パックスの街を、落とそうと思う。

 ニーナの師匠であるイスト・ヴァーレは、まるでとびきりの悪戯を思いついた子供のような顔でそう言った。それを聞いたとき、ニーナは思わず悲鳴を上げてしまったものである。

「さて。やるといった以上やろうとするだろうな、イストならば」

 どこか他人事のような口調でジルドは言う。ニーナは思わず非難の目を向けるが、ジルドは肩をすくめて苦笑するだけだ。とはいえジルドを責めてもどうにもならない。パックスの街を落とそうとしているのは、イストであってジルドではないのだから。

 それはニーナも分っているから、ジルドに向けられた視線はすぐに力を失い彼女はため息をついた。とはいえ、ニーナが今回の計画に反対なのは変わらない。

 パックスの街が落ちればどうなるか、ニーナに詳細な予測は立てられない。だけど、きっと大きな混乱が起こる。そして混乱は戦禍に直結し、沢山の人が死ぬだろう。そしてニーナなどよりよほど世界を知っているイストは、そういったことを十全承知しているに違いない。

「………お遊びにしては、度が過ぎますよ………」

 その上、ニーナの見るところイストに政治的、宗教的、もしくは哲学的な動機は一切ない。イストがパックスの街を落とそうと思ったのは「できるから」であり、そして「面白そうだから」である。

 もちろん、何か深い理由があれば賛成する、ということはない。どんな理由があるにせよ、多くの人が苦しむようなことはするべきではない、とニーナは思っている。しかしイストにとってはそんなことは完全に埒外だし、ジルドも積極的に反対する様子はない。そんな二人に挟まれて、ニーナはまるで自分が間違っているかのような錯覚に陥る。

「気に入らないなら帰れ」

 言い募るニーナに対して、イストはそう言い放った。修行を終えない中途半端なこの状態で家に帰っても、実家の工房「ドワーフの穴倉」を継いで魔道具職人として活躍することなどできないだろう。

 それに、ニーナが興味を持っている義手や義足の研究もまだまだ全然形になっていない。歴代のアバサ・ロットの一人、セシリアナ・ロックウェルが残した魔道人形の資料は難解を極め、おそらくはまだ一割も理解しきれていない。

 またセシリアナが作った魔道人形はほとんどが動物を模したものだったが、ニーナが作ろうとしていうるのは人間の義手や義足である。セシリアナとまったく同じものを作ればいいわけではなく、彼女が遺したものをもとに独自の魔道具を設計することになる。それにどれだけの時間がかかるのか、現時点では予想もつかない。

 つまりニーナが自分の夢をかなえるには、今はまだイストの弟子でいる必要がある。苦渋の思いでその場は引き下がったのだが、なんだか自分の都合を優先してしまったようで心苦しい。その日以来、ニーナはまるで悪魔と契約した咎人のような気分を味わい続けているのである。

(まあ、師匠は悪魔みたいな人ですけど………)

 そんなふうに思わないとやってられないのである。

「ほい、ただいまっと」

 そんな軽い言葉とともに、若い男がキャンプにやってきて適当に腰を下ろした。ニーナの師匠であるイスト・ヴァーレ、パックスの街を落とそうとしている張本人である。イストは未だに苦い顔をしているニーナのことを、恐らくは意図的に無視してジルドに紅茶をねだった。

「それで、どうだった?」
「ん、ちゃんと入れた。やっぱり“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”はすごいよ」

 本来、パックスの街を収めている亜空間には鍵、つまり「世界樹の種」がなければ入ることはできない。しかしイストは“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”を利用してその亜空間のパラメータともいうべきものを解析したのである。

「もともと、ロロイヤが書いた『空間構築論』は空間のあり方について記述するためのもの。解析自体は簡単だったよ」

 そしてその結果をもとに、亜空間に干渉することができる術式を組み、亜空間の側面に対していわば抜け道を作ることでその内部へと侵入したのである。

「その、『空間構築論』というのは何だ?」
「ロロイヤが書いた空間系理論をまとめた論文らしいよ。アッチで神子サマが教えてくれた」

 イストはおどける様にしてそう答えた。実際のところ、マリアとララ・ルーの話を盗み聞きしただけなのだが、そのあたりのことをイストは気にしない。

「中に入れるか確かめるだけで良かったんだけどな。思わぬ収穫だよ」

 やっぱりこの日にして良かったな、とイストは笑う。彼が御霊送りの儀式が行われるこの日にこの亜空間に侵入したのは、狙ってのことである。もっとも、それらしい理由などない。それこそ「面白そう」だったからだ。

 御霊送りの儀式を見守り神界の門の向こう側を夢見る人々を尻目に、天上の園へと踏み込みその真実を暴く。イストの好きそうなお遊びだ。それに加えて秘密を守ろうとしてきた教会を出し抜くという楽しみもある。

「ま、なんにせよこれで御霊送りの儀式に種も仕掛けもあることが分った」

 これでパックスの街を落とせる、とイストは壮絶な笑みを浮かべた。もしも御霊送りの神話すべて事実で、儀式が本当に現世に残された最後の奇跡だとすれば、ただの人間であるイストには手を出す術がない。

 しかし幸か不幸か、御霊送りの儀式は魔道具という種と、亜空間という仕掛けを用いた一種のトリックであった。それがどれだけ大事業であろうともそれが人間の仕事である以上、ただの人間であるイストにも手が出せる。

「核になっているのは『世界樹の種』。あれを破壊すれば亜空間は消失し街は落ちる」

 メドはついた。あとは実行に移すだけ。

「………本当に、やるんですか?」

 イストの壮絶な笑みに若干押されながら、ニーナは尋ねた。もしかしたら御霊送りは本当に奇跡で、イストには手の出せないものかもしれない。そんな淡い期待も抱いていたのだが、どうやら彼女の願いどおりにはならなかったようだ。

「やる」

 イストの答えは短い。それだけに、誰に何を言われようとも止めるつもりはないことがひしひしと伝わってくる。しかしそれでもニーナは言わずにはいられなかった。

「パックスの街を落とせば、きっとたくさんの人が苦しむことになります!それぐらいのこと、師匠のほうが良く分ってるでしょう!?」
「だから?」
「だから?って………!きっと混乱が起きます!戦争だって起こるかもしれない。そうなったらたくさんの人が死ぬんですよ!?」

 確かにニーナだって、教会がひた隠してきた御霊送りの真実に憤りを覚えないわけではない。しかしだからといって多くに人が苦しみ、ましてや死ぬかもしれないと分っているのに、その秘密を暴くことが正しいとはどうしても思えない。

「正しいことである必要はない」
「………っ!」

 飄々とはぐらかしていたイストが、突然鋭い視線をニーナに向ける。その視線に押されて、なおも言い募ろうとしていたニーナは言葉を飲み込まなければならなかった。ニーナが黙ったのを確認し、「いいか?」と前置きしてからイストは話し始める。

「秘密のまま終わる秘密はない」

 秘密というものはいつか必ず暴かれる。暴かれなかったとすれば、それは秘めておく必要さえもなかったものである。

 だから御霊送りの秘密も、いずれかならず暴かれることになる。今イストによって暴かれるのか、それとも百年後に別の要因によって暴かれるのか。それはつまるところ早いか遅いかの違いでしかない。

「………だから今やるっていうんですか?」
「それに、だ」

 ニーナの質問には直接答えず、イストは言葉を続ける。
 もし教会が最盛期の力を保持しているのであれば、御霊送りの秘密を百年の単位で隠すことができるかもしれない。しかし今の教会は二度の十字軍遠征失敗によって大きく力を失い、衰退とその先の滅亡に向かって転がり落ちている真っ最中である。しかもその坂道を再び登るだけの体力は、もはや残されてはいない。

 教会の衰退は、今までその勢力下にあった神聖四国を始めとする国々にも影響を及ぼすだろう。教会の威光によってひとまずまとまっていたその勢力圏は分裂し、そして再編という名の戦争が行われることになる。

 その戦争に、西のアルテンシア統一王国や東のアルジャーク帝国が関与してくるかは分らない。しかしいっそ、そういった強大な国が関与してくれたほうが、戦争は早期に終結できるかもしれない。教会の影響下にあった国々は二度の遠征失敗によって国力が弱まっており、そのため決定力を欠いた泥沼の戦争が延々と続く可能性だってあるのだ。

「つまりこのまま何もしなくても、混乱と戦争はほぼ確定済みってわけだ」

 それだけではない。教会は己の衰退をなんとか食い止めるようとするだろう。しかし国家ではない、自前の生産能力を持たない教会はやれることに限界がある。教義の厳格化にしろ寄付集めにしろ、やることは極端で過剰になる。

「全財産を教会に寄付せよ」
 とか、
「自身を奴隷として教会に捧げよ」
 とか、とんでもないことを言い出しそうである。

 しかもなお悪いことに、教会が言い出せば従わざるを得ない信者もいるだろう。教会は自分の衰退と滅亡に多くの信者を巻き込むことになる。

 教会が衰退の果てに崩壊し、神子の後継者がいなくなれば、亜空間は魔力の供給を受けることができなくなり、結果中に収められているパックスの街は落ちる。行き着く結果が同じならば、早い段階で教会を潰しておいたほうが、結果として苦しむ人の数は少なくて済む。

「………それが、パックスの街を落とす理由ですか………?」

 うわべだけ見れば、イストの言葉は正しそうにも聞こえる。しかし、ニーナはいいようのない不快感を覚えていた。まるで百人を殺した殺人鬼から「一万人死ぬよりはいいだろう」と言われたかのような、理不尽でやりどころのない不快感だ。

 しかし顔をしかめるニーナに対して、イストは肩をすくめて笑った。

「そういう考え方もあるってこと。オレ個人に限って言えば『面白そうだから』って言ったろ?」
「師匠!」
「嫌なら帰れ。そういったはずだ」
「………!」

 睨み付けたわけでもなく、怒鳴りつけて脅したわけでもない。ただいつもの調子でそう言ってイストはニーナを黙らせた。

「それで、いつ実行に移すつもりだ?」

 俯いてしまったニーナを横目に見て苦笑しながら、ジルドはイストに尋ねた。しかしそれに対するイストの答えは、少し意外なものだった。

「ん~、しばらくは様子見、かな………」
「そうなのか?すぐに動くものと思っていたが………」
「多分だけど、これから教会が大きな動きに出ると思うから」

 というより、大きな動きに出るなら御霊送りの儀式が終わったばかりのこのタイミングしかない、というべきだろう。儀式が行われたことで、教会は一時的にとはいえ力を盛り返している。露骨な言い方をすれば、懐に入り込む寄付の額が多くなっている。

 しかしそれはあくまでも一時的な増加に過ぎない。一ヶ月も経てば寄付の額、つまり収入は儀式を行う前の水準に逆戻りするだろう。そして、これがもっとも重要なことなのだが、この先収入が減ることはあっても増えることはない。

 だからこそ、大規模な行動を起こすとすれば今しかないのだ。資金的にも少々の余裕があり、さらには御霊送りという“奇跡の再現”を見せ付けることで精神的優位に立っている今この時しか、教会が歴史の主導権を握ることはできない。

「で、だ。“大規模な行動”なんて勿体ぶった言い方してみたが、教会にできるソレなんて一つしかない」
「………第三次十字軍遠征、か」

 標的は言うまでもなくアルテンシア統一王国であろう。二度も煮え湯を飲まされた因縁の怨敵を今度こそ屈服させることができれば、確かに教会の権威は回復しその威光はあまねく大陸全土に及ぶかもしれない。

 ちなみに統一王国に何か仕掛けるのであれば、経済封鎖、つまり半島に対してモノと金の出入りを禁じるという手もあるが、これは下策だろう。二度の遠征失敗により大陸中央部の各国は財政が悪化している。経済封鎖などすれば、相手が降参する前に自分たちが窒息してしまう。

 それに最近では、交易の分野でもアルジャーク帝国が急速に勢力を拡大している。下手に教会勢力が半島から手を引けば、アルジャークが喜び勇んでその隙間に入ってくるだろう。それは統一王国のみならず、どのような相手の場合においても同じことが言える。

 それに経済封鎖はいかにも地味で、派手好みの教会の趣味には合わないだろう。趣味に合わず実利もないとなれば、やはりやることは第三次十字軍遠征しかない。

「勝てるのか?」
「勝てるわけがない」

 イストはそう言い切った。そしてジルドのほうもその答えに異論はないらしい。寄付金が増えたと言っても、その出所はこれまで十字軍遠征に直接関わってこなかった東方の国々とそこに住む信者たちだ。

 つまり大陸中央部の国々の逼迫した状況は何も変わっていない。神聖四国を中心とする教会勢力の国々は、第一次及び第二次遠征の失敗による国力の低下から未だに回復できてはいないのだ。

 二度の遠征にかかった戦費のかげで国庫は空だ。備蓄していた食糧や物資も遠征のために使い失われた。そのため国内ではモノが不足し、物価が上昇しているとも聞く。

 なによりも人的被害とそれに伴う生産力の低下がひどい。戦争にかり出されるのは働き盛りの男たちで、彼らがいなくなればありとあらゆる生産活動が滞る。しかも失われたのが人材である以上それは一朝一夕で回復できるものではなく、その傷が完全に癒えるのは、さて五年先か十年先か。

 また人的被害は、戦力の低下にも直結する。各国は二度の遠征失敗により多くの精鋭を失っている。仮に同じ数を揃えられたとしても、戦力は決して同じにはならない。訓練の足りない新兵や体力のない老兵では、精鋭と同じ働きはできないのだ。

 そもそも、勝率がもっとも高かったのは第一次遠征なのだ。腐ったアルテンシア同盟がいまだに幅を利かせており、それに対抗するシーヴァと半島を二分していた。ゼーデンブルグという大要塞を易々と突破できた十字軍は、歴史上稀に見る戦略的優位にいたのである。

 しかし彼らがしようとしていたのは戦争ではなく、ただの狩りであった。より多くのものを奪い、より多くの美食を喰らい、そしてより多くの女を犯す。彼らの頭の中にはソレしかなかったのである。征服後に半島を支配するのだという意識すらあったかどうか疑わしい。仮に支配したとしても、そこで行われるのは一方的な弾圧と差別、そして搾取であったろう。

 まあ仮定の話はいい。十字軍はその全員が涎を垂らして獲物にかぶりつくことしか考えていなかったわけだが、その結果は周知の通りだ。彼らはシーヴァに敗北した。軍を三つに分けた十字軍はシーヴァと三度戦い、そして三度叩きのめされた。遠征軍の三分の二以上が帰らず、二十万人近い戦死者を出すという歴史的大敗北を喫したのである。

 この敗北により、教会勢力は多くの精鋭を失い戦力を大幅に低下させることになる。第二次遠征は、数だけはそろえたがその中身は第一次遠征に遠く及ばない。その上アルテンシア軍がゼーデンブルグ要塞に籠って戦っていては勝てるはずもない。ならば第三次遠征など、言わずもがなである。

「まあ、十字軍が勝とうが負けようが、お主にしてみればどちらでもいいのだろう、イスト?」
「まあね」

 イストとしては、おそらくアルテンシア軍が勝つだろうと思っている。しかし万が一のことが起きて十字軍が勝ってしまっても、それはそれでいい。イストが願っているのは歴史が大きく動くこと、それだけである。

「世紀の一大イベントだ。それに相応しい舞台があるとは思わないか?」

 悪戯を企む子供のようにイストは笑う。教会が遠征に失敗して青息吐息になっているところでパックスの街を落として止めをさすのもいい。あるいは戦いが始まる前にやって、十字軍が空中分解する様子を眺めるのも面白そうだ。ありえないとは思うが、三度目の正直でようやく勝利をつかみ狂喜乱舞しているところで街を落として、すべてを台無しにしてやるもの楽しそうだ。

 イストのたくらみに教会が気づいていない以上、彼はイベントを起こすタイミングを自由に決めることができる。しかし、歴史がイストに用意した舞台は、この時点で彼が思いもよらないようなものであった。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ4
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:46
「もはやこれが最後の機会なのです!」

 枢密院の議場で、ルシアス・カント枢機卿は髪を乱し目を血走らせてそう熱弁を振るったという。アルテンシア半島へ十字軍を送り込む、つまり第三次十字軍遠征を行う最後のチャンスである、とルシアスは声を張り上げる。

「改めて指摘されるまでもない」

 その場にいた他の枢機卿たちはそう思ったであろう。仮に第三次十字軍遠征を行うとして、恐らくは今が実行可能な最後の時点であるということは、教会の事情に多少でも明るい者なら誰でも達しえる結論である。

 少し余談になるが、第三次遠征を議題として枢密院に提出するという、いわばその遠征の口火を切る役回りをルシアスが演じたことについて少し考えてみたい。

 ルシアス・カントは枢機卿となってからまだ日が浅い。グラシアス・ボルカ前枢機卿は第一次遠征失敗の責任を押し付けられる形で枢密院を去ったのだが、彼はその後釜として枢機卿の席につくことになったのである。

 ルシアスはもともと「第二次遠征を行うべし」というのが持論の人物であったが、そんな彼が第一次遠征で大敗した後に枢機卿になれたのは、その遠征で利益を得たごく一部の人間の熱烈な支援があったからに他ならない。そんな彼の最初の大仕事が、第二次遠征の唱道であったのは至極当然のことであろう。

 しかし十字軍はまたしてもシーヴァ・オズワルドによって敗北し、第二次遠征は失敗した。そしてその敗戦の責任を押し付けられるのは、大声でそれを唱道したルシアス・カント枢機卿、となるはずであった。

 しかしルシアスが責任を取って枢密院を去るより早く、教会にとって重大な出来事が起こったのである。それが御霊送りの儀式である。

 その儀式の準備のため、ルシアスはしばしの間敗戦の責任を問われることから逃れた。そして各国の要人が神殿の御前街に集まっているのを利用し、第三次十字軍遠征のための根回しを進めていたのである。

 そして儀式が終わった後、最初の枢密院の会議でルシアスは第三次遠征を提唱する。彼にしてみれば、それは起死回生をかける一手であった。しかしいかにルシアスがそれを提唱してみたところで他の枢機卿たちが反対であれば、そもそも議題として取り上げられることすらない。

 つまり、第三次遠征のための根回しに奔走していたのは、なにもルシアスだけではなかったのだ。テオヌジオ・ベツァイとカリュージス・ヴァーカリーを除く全ての枢機卿が、各国要人の説諭の奔走していたのである。むしろルシアスは敗戦の責任をうやむやにする代償として、彼らから口火を切る役を押し付けられたというべきであろう。

「御霊送りの儀式が執り行われれば、教会の権威は回復するでしょう。そして儀式が成功すれば、それは死後の安寧を保障するものとなります。死すれども神々の住まう園へとたどり着けるのであれば、兵士たちは喜んで殉教するでしょう。そうすればシーヴァ・オズワルドなど恐るるに足りません」

 この時、彼らが各国の要人に説いた説諭をまとめれば、このようなものになる。この説諭が各国要人を動かした、と考えるのは少々甘いだろう。各国を第三次遠征に参加させた最大の要因は、教会勢力の結束力の乱れに起因する疑念である。

 これまで十字軍の矛先は常にアルテンシア半島であった。腐敗と混乱の最中にあったその半島は、絶好の獲物であるように思えたからだ。しかし今やそこはシーヴァ・オズワルドという英雄によって統一され、一つの強大な国家となった。純軍事的に見て勝ち目の薄い相手であり、実際すでに二度も大敗を喫している。

「わざわざ手ごわい相手に喧嘩を吹っかける必要などないではないか」

 そう考えるのは、むしろ当然のことであろう。しかしそうなれば第三次遠征の矛先はどこに向くのか。

「遠征に参加しない、教会に対して非協力的な国を標的とするのではないか」

 決して口には出さないが、そんな疑念が各国に渦巻いていた。仮に十字軍の矛先が自国に向いてしまった場合、抗しえる国など一つとして存在しない。どの国も皆平等に国力を低下させており、たとえ神聖四国であろうとも一度踏み込まれれば簡単に国内の蹂躙を許してしまうだろう。そうなれば残されたなけなしの富と物資は全て奪い去られ、後に残るのは荒涼とした大地だけである。

 積極的に参加したいわけではない。しかし、参加しなければ自国が危険に曝されるかも知れない。そう考えると、多くの国は消極的にとはいえ第三次遠征に参加せざるを得ないのである。

 加えてアルテンシア統一王国に対する恐れがある。統一王国は二三七州の版図を誇る大国である。さらにその大国を率いているのは、英雄シーヴァ・オズワルドである。

 もしもシーヴァが大陸中央部へと侵攻してきた場合、一国だけでこれに対抗できる国は存在せず、戦うならば十字軍を結成するしかない。しかしここで第三次遠征に参加しなければ、いざというときに十字軍に参加させてもらえず、あるいは結成してもらえず見殺しにされる可能性がある。

 全ては可能性の話だ。しかし自分たちが思いつく以上、他の誰かが同じ事を考えていてもおかしくはない。第三次遠征に参加しなかったがために、十字軍にあるいはアルテンシア軍に狙われることはなんとしても避けなければならなかったのである。

 消極的な打算により、各国の思惑は一致し三度目となる十字軍は結成された。次はその矛先を向ける場所を決めなければならない。

 身内に造反者が出なかった以上、そこを目標に定めることはできない。となれば教会の影響力が弱い場所を標的にしなければならない。

 東は駄目だ。東に向かって進めば、アルジャーク帝国に出くわすことになる。アルジャークまで敵に回すことになれば、教会は統一王国とあわせて東西の雄をまとめて相手にしなければならなくなる。そうなれば教会の命運は風前の灯だ。

 それに東で戦っている最中に、西から統一王国が攻めてくるかもしれない。シーヴァが動かない理由は思い浮かばないが、動く理由ならばいやというほど思いつく。だが後方の備えをしておくだけの余力は、もはや教会勢力には残されていない。無防備な背中を襲われれば一巻の終わりである。

 であれば背中は襲われる心配のない東に向けておかなければならない。そうなると矛の向く先は西になる。

 もちろん、西方には統一王国以外の、教会と関係の薄い国はある。しかしそのような国を標的にした場合、標的にされた国はまず間違いなく統一王国に助けを求めるだろう。統一王国が出てくるのであれば、最初に攻撃を仕掛けた国の分、最終的な敵の戦力は増えることになる。

 だが最初から統一王国だけを標的にしておけば、わざわざ十字軍とことを構えたがる国はないであろう。つまり統一王国だけを相手にするのが最も敵が少ない、ということになる。ちょうど良く因縁もあり、宣戦布告の正義には事欠かない。もっともその正義とやらは完全に教会の主観であり、統一王国にしてみればただの言いがかりかそれ以下のやっかみに過ぎないのだが。

 こうして第三次遠征の行き先もまたアルテンシア半島に決定された。ただ、これまでの過程において、「果たして勝てるのか」という議論がなされたのかはなはだ疑問である。というよりなされなかった、というのが歴史家たちの一般的な見方だ。とある歴史家が、この時期の教会と各国について、著書の中で次のように記している。

「第三次遠征における教会の目的は、一言でいえば『行動を起こすこと』そのものだったように思える。権威を発揚し、教会はいまだに絶大な権勢と影響力を誇っているということを、大陸中に知らしめることが目的だったように思えるのだ。

 逆の見方をすれば、知らしめなければならないほどに教会の権威は地に落ち、その影響力は弱まっていたということである。実際この時期に教会勢力下にあった各国の要人たちが日記などで吐露しているように、それらの国々が第三次遠征に参加したのは攻撃あるいは排斥の口実を教会に与えないためである。さらには教会といかにして手を切るかを模索している国さえもあった。

 子供っぽい表現になるが、第三次遠征とは教会が目立ちたいがために始めたことであり、その勝敗は最初から度外視されていた。いや、勝てるという前提で、つまり自分にとって都合のよい結果になると夢想して教会は遠征に邁進していったのである。

 ただその遠征に参加し、実際に兵を出す国々の反応は極めて消極的であった。アルテンシア半島へは二度十字軍が派遣され、そして二度大敗を喫している。今まで勝てなかった相手に、戦力がまるで回復していない十字軍が今回三度目の戦いを挑んで勝利を得られるというのは、はっきり言って夢物語の域を出ない。狂信的に旗を振る教会に比べそれらの国々は比較的冷静で、それゆえに悲劇的だった。勝てないと分りきっている戦いに、しかしそれでも兵を送り出さなければならないのだから」

 思惑や熱意に多大な差はあれど、こして十字軍は三度目の結成に向けて動き始めた。しかし第三次十字軍遠征が開始され、この軍がアルテンシア半島に向けて進軍を開始することはなかった。

 十字軍が動くよりも早く、アルテンシア統一王国が、シーヴァ・オズワルドが動いたのである。

**********

「もはや見るに堪えず」
 居並ぶ群臣を前にして、シーヴァはそう切り出した。

 教会が第三次遠征を行うことを決定し十字軍を集結し始めた、という情報はすでにシーヴァのもとにもたらされている。これは統一王国の大陸中央部における諜報能力が優れていたからではなく、教会が物事を秘密裏に運ぶ当ことをしなかった、もしくはできなかったからだ。

 そのせいか、シーヴァは第三次遠征が決定されるまでの一連の流れをかなり詳細に把握していた。教会の思惑や各国のおかれた立場、そしてなぜ統一王国に矛先が向けられたのか。その全てを、把握していたといっていい。

 ――――見るに堪えない。

 シーヴァのこの言葉は、一連の流れに対する彼の感想だ。自らの虚栄心を暴走させもはやまともな判断が出来ていない教会。その教会との関係を断つに断てず一緒に滅亡に巻き込まれていく各国。まともな政治感覚を持っているのかと疑いたくなる。

 いや、教会とその勢力下にある国々がどうなろうともシーヴァの知ったことではない。むしろそれらの国々は二度にわたりアルテンシア半島に対して侵略を行った、怨敵とも言うべき相手である。彼らが内輪でもめて自滅していく分には、シーヴァとしても関わる気はなかった。

 しかし、その余波とも言うべき第三次十字軍遠征の矛先が統一王国に向くというのであれば話は別である。

 神殿の御前街や神聖四国などに潜ませた斥候からの情報によれば、遠征に参加する各国の士気は低い。加えてゼーデンブルグ要塞がある。第三次遠征軍をはね返し追い返すだけならば、何も問題はない。

 しかし、もしも教会が第四次、第五次の遠征を計画したら?

 むざむざと惨敗を喫するようなことは恐らくない。少なくともシーヴァ・オズワルドという英雄が健在なうちは。またこれらの遠征が短期間のうちに、つまり十字軍の戦力が回復する前に行われれば、統一王国の勝率はさらに上がると見ていい。

 しかし、アルテンシア統一王国はまだ建国したばかりの若い国だ。軍を動かすというのは、それだけで大変に金がかかる。復興に力を注がなければならない統一王国は金が幾らあっても足りず、そんな中でたびたび遠征を仕掛けられては内政に十分な力を注ぐことができない。

 まあ小難しい話は抜きにして、早い話シーヴァは教会の稚拙な陰謀に飽きたのである。この先ずっと教会からちょっかいをかけられるくらいならば、自分が健在なうちに叩き潰して後の憂いを断っておこうと考えたのだ。

「軍を催し、教会を討つ」

 そうと決めたならばシーヴァの行動は速い。十字軍の集結には時間がかかっているようだが、わざわざそれが完了するのを待ってやる理由もない。シーヴァは全国に勅命を下し、統一王国の建国以来初めてとなる遠征軍を組織させた。

 その数、およそ八万。これに加えて補給などを担う後方部隊やいざというときに援軍として駆けつける予備部隊などがいて、これら全てをあわせれば全体の規模は十二万程度といったところだろうか。そして遠征軍の目指すのは、教会の総本山であるアナトテ山である。

 ただ、例えばアルジャーク帝国などが遠征のたびに実際に戦闘を行う部隊だけで十万以上の、時には二十万近い軍勢を動員していたことを考えると、今回の遠征軍は規模が小さい。しかし、現在の統一王国にとっては、これが精一杯の規模である。国としてまだまだ未熟な統一王国では、これ以上の規模を長期間にわたって維持することはできないと判断したのである。

 第二次十字軍遠征の時にはアルテンシア軍は十五万の兵を動員したが、それはゼーデンブルグ要塞に籠って戦えたからであり、同じ規模の軍勢をアナトテ山まで連れて行くことは無理だった。それほどまでに遠征とは困難で金のかかるものなのだ。

 だがその軍の兵士たちは素晴らしい。皆、二度にわたって十字軍と戦い、そして勝利を収めてきた精鋭たちである。さらに、総勢五千のゼゼトの民の戦士たちが遠征軍に加わっている。巨人といわれるほどの巨躯とそれにふさわしい怪力を誇る彼らは、遠征軍の中にあって間違いなく最強の戦士たちだ。

 そして彼らを率いるのは、言うまでもなく建国の英雄シーヴァ・オズワルドである。彼の手には漆黒の大剣「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」が握られている。威風堂々と軍勢の前を進む彼に、アルテンシア軍の兵士たちは信仰にも似た信頼を持っている。

 そしてそれはゼゼトの戦士たちも同じである。上に立つのがシーヴァだからこそ、未だに確執を抱える二つの集団が協力し合えるのである。余談になるが、アルテンシア半島を統一したのがシーヴァでなければ、ゼゼトの民と友好な関係は築けなかったか、あるいは築くのに百年以上の時間がかかっていたであろうとさえ言われている。まさに彼は歴史が求めた英雄だったのだ。

 さらにアベリアヌ公、ガーベラント公、ウェンディス公、リオネス公、イルシスク公という革命の当初からシーヴァに協力していた五人の公爵も、それぞれの軍を遠征軍に加えている。実際には国内に残り内政や補給を監督する公爵もいるので、五人全員が遠征軍とともにアナトテ山を目指すわけではない。しかしアルテンシア統一王国がその総力を挙げてこの遠征を戦うつもりであることに、もはや疑問の余地はない。

「教会はこれまでに二度、この半島に略奪軍を差し向けてきた」

 大陸暦1566年7月16日、ゼーデンブルグ要塞に集まった遠征軍を前に、シーヴァは出陣前の演説を行った。兵士たちの士気は高く、自分たちの正義を信じている。いい状態だ、とシーヴァは心の中で思った。自らが率いる軍に頼もしさを感じる。

「そして今また、教会は三度目の略奪を計画している。もはや教会が張り巡らす陰謀を黙って見ていることはできない!」

 シーヴァが声を張り上げると兵士たちの中から、「そうだ!」とか「教会を許すな!」といった声が上がる。

「祖国を、そしてそこに秘められた希望と可能性を守るため、アルテンシア統一王国は教会とそれに組する国々全てに対して宣戦を布告する!」

 シーヴァが高らかに宣言すると、兵士たちは割れんばかりの歓声をあげた。こして教会勢力とシーヴァの三度目の戦いは、攻守と戦場を入れ替えて行われることになったのである。

**********

「いやいや、まったくをもって予想外だよ」

 楽しそうに、それでいて嬉しそうにイストは笑った。彼は自分の予想を超える出来事が起こったのが楽しくて嬉しくて仕方がないのだ。

 教会が動くとは思っていたし、その動き方が第三次十字軍遠征だったのも予想通りだ。ただシーヴァが動くとは思わなかった。いや、第三次遠征の標的がまたしてもアルテンシア半島である以上、彼がそれにあわせて動くのは分っていたことだ。ただシーヴァが半島を出て、あまつさえアナトテ山を目指すなど思っても見なかった。

「それで、この先どうなると見る?」
「さっぱり分らん」

 ジルドの問いに対して、イストはあっけらかんとそう答えた。シーヴァの遠征はあっさりと終わるような気もするし、逆に泥沼にはまり込むとしても不思議ではない。

「ま、一番焦ってるのは教会と神聖四国だろうけどな」

 なにしろ歴史が大きく動くことを望み、その願望を予測に混ぜることをいとわないイストにとってさえ、今回の事態は想定外だったのである。攻めることしか考えていなかった教会と神聖四国は大慌てだろう。イストは笑っているが、彼らは悲鳴でも上げているに違いない。

「それにしても、シーヴァはどういう形で決着を付ける気なのだろうな?」
「あ、それはわたしも気になります」

 ジルドとニーナの疑問は、教会が国家ではなく宗教組織であるが故のものだ。

 例えば相手が国家であるならば、戦争を決着させる形というものには幾つかのパターンがある。それは賠償金や領地の割譲であったり、あるいは完全な併合や属国化という選択肢もあるだろう。人質を取ったり今後の不可侵を誓わせるという手もある。

 では教会が相手であればどうだろうか。教会には割譲できる領土はないから、賠償金を請求することになるのだろう。または教会の非を認め、金輪際統一王国に手を出さないという誓約書にサインさせることもできる。

 しかし、それでは教会という組織が残ることになる。シーヴァがどこまでやる気なのかは分らない。しかし彼に一度会ったことのあるイストとしては、シーヴァならば徹底的に叩き潰そうとするだろうな、と思っている。ジルドとニーナも、その意見には賛成していた。

「しっかし、教会を完全に叩き潰すとなると、パックスの街を落とす以外になにか方法なんてあるのか?」

 教会の教義、信者を集めるための正当性は御霊送りの神話に依存している。パックスの街を落とすことでそれが全て嘘であったことを証明すれば、教会を叩き潰すことはできるだろう。

 しかし、シーヴァがその選択肢を知っているとは思えない。たしかにシーヴァのもとにはオーヴァ・ベルセリウスという“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”の一端に触れた人間がいる。しかし彼がその結果から逆算して、イストと同じように「空間構築論」にたどり着いているとは思えない。

 なぜならば、イストは「空間構築論」にたどりつくためにロロイヤが「狭間の庵」に残した資料を片っ端からあさっている。しかしオーヴァはその資料を見ることができない。イストに比べれば、どうしても解析に時間がかかってしまう。

 イストは、現時点においてオーヴァの解析はまだ終わっていない、と見ている。これは勘というよりも、同じ解析をした人間としての推測だ。彼自身ロロイヤの残した資料がなければ、いまだに頭を悩ませて唸っていた自信がある。オーヴァにしてもある程度の予測は立っているのかもしれないが、確証のないものにシーヴァが頼るとも思えない。

 では、シーヴァはどうやって教会を叩き潰すのだろうか。いや、シーヴァが本当に教会を叩き潰すことを目的にしているのか、それさえも今ははっきりとしていない。だからこれはどうしても仮にの話になるのだが、シーヴァはどうやってそれを達成するつもりなのだろうか。

「見当もつかない」

 イストは正直にそういった。これが国であれば話は簡単だ。政治の中枢を掌握し、国土を実効支配すればよい。法を変えて税を納めさせ、その代わりに国民を庇護すれば以前の政府にとって変わることは可能だ。いやそれ以前に、国を治める資格を持つ者(多くの場合、王族と呼ばれる者たち)を皆殺しにすれば、それだけで国を潰したことになる。

 しかし、教会は何度も言うとおり宗教組織である。そもそも宗教組織はどうなれば潰されたことになるのだろうか。神殿を制圧し神子や枢機卿を殺害すれば、大きく力をそぐことはできるだろう。しかしその教えを信じる信者たちがいれば、それだけで教会という組織はまだ存続していることになるのではないだろうか。

 実際問題として、宗教組織を人力で潰すことが可能なのか。無論、イストのように教会のアキレス腱を知っていれば可能だ。しかしそれを知らないシーヴァに可能なのか。最後の決め手を運に任せるかのような、そんな不確実な手でシーヴァが動くのだろうか。

「まあいい。この問題で悩むべきはシーヴァだ」

 そういってイストは考えるのをやめた。煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かして白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出すと、彼は目を細めて表情を真剣なものにする。途端、彼の雰囲気が変わり、そばにいたジルドとニーは息を呑んだ。

「だけどまあ、このタイミングでシーヴァが動いたとなると、オレも流れをしっかりと見極めないとだな………」

 いつパックスの街を落とすのがもっともインパクトがあるか。それを見誤るわけにはいかない。見誤ったが最後、一切合切を遠征のために利用され、おいしいところは全部シーヴァに持っていかれるだろう。そうなればイストはただの道化(ピエロ)だ。オーヴァは爆笑するだろうし、イストに道化(ピエロ)を演じる趣味はない。

 歴史を創るだの、名前を残すだの、そんなことにイストの興味はない。しかし世紀の一大イベントを起こすのであれば、それに相応しい舞台を見誤りたくはない。十全にすべてを揃えてこそ、やりきったという達成感を味わえるのだ。

(それに………)

 それに、パックスの街を落とすことは、当初イストが想定していたよりも大きな意味を持つことになるかもしれない。

 シーヴァ率いるアルテンシア軍がアナトテ山の目前まで迫ってくれば、教会は必ずやアルジャーク帝国に、クロノワに援軍を求めるだろう。そして恐らく、クロノワはそれを断れない。

 アルジャーク軍がアルテンシア軍に簡単に負けてしまうとは思わない。しかし、完全に退けることも難しいだろう。下手をすれば東西の雄がぶつかることで、戦況が泥沼化してしまうことも考えられる。

 イストとしては、それで困ることは何もない。しかし海上交易の発展に力を注ぎたいクロノワは困るだろう。そしてクロノワが困るのであれば、イストとしてもそういう事態は避けたい。パックスの街を教会の権威もろとも地に叩き落すことが、あるいはそのための鍵になるかもしれないのだ。

 ゆえにイストは見誤るわけにはいかない。自分が手にしたジョーカーを切るタイミングを。自分が楽しむため、そして友人が困らないようにするために。

(さあて、面白くなってきたねぇ………)

 喉の奥を鳴らすようにしてイストは笑う。シーヴァが動いたことで難易度は格段に上がったといえる。しかしそれさえも面白いとイストは思っていた。ギリギリの緊張感。心臓の鼓動が大きくなるたびに頭が冴えていくかのような、あの感覚。

(さあ、どう動く?)

 シーヴァ、クロノワ、教会、そして歴史。それらの流れがどうなるのか、イストは見守る。静かに、しかし隙の無い鋭い視線で。自分の一手で、自分が望む展開を得るために。





*******************





「父上!お話がございます!」

 神聖四国の一国、サンタ・シチリアナの王城の一室の扉が勢い良く開けられた。その部屋はサンタ・シチリアナの国王アヌベリアス・サンタ・シチリアナの執務室である。彼はすぐには頭を上げずサインをして印を押した書類を侍従にわたし、少し冷めてしまった紅茶を一口飲んでから開け放たれた扉のほうに視線を向けた。そこにいたのは、思ったとおりの人物であった。

「シルヴィアか。何のようだ」

 シルヴィア・サンタ・シチリアナ。アヌベリアスの長女で、今年で十七歳になる。王族や貴族の姫は十四・五で嫁ぐことも珍しくなく、十七ともなれば嫁いだ先で子供の一人や二人産んでいてもおかしくはない。行き遅れといわれるような年齢ではまだないが、そろそろ婚約を決めなければ、と父親のアヌベリアスは思っていた。

(いや、婚約はしていたのだがな………)

 シルヴィアはもともと、王家とも遠い姻戚関係にある公爵家の嫡子との婚約していた。政治の世界にありがちな政略結婚であり、当人たちの意思や好みとはまったく関係のないところで決められた話であったが、二人ともそれほど忌避してはいなかった。小さいときから決められていたことで、そうなるのが当然と感じていたのだろう。

 しかし、その婚約者殿が第一次十字軍遠征の時に戦死してしまった。当然、シルヴィアの婚約は解消になり、今年挙げるはずであった式は取りやめになってしまった。

「統一王国が、シーヴァ・オズワルドが軍を率いアナトテ山を目指していると言うのは本当でございますか」

 ちっ、と舌打ちしたくなるのを眉間にシワを寄せることでアヌベリアスは堪えた。いずれ耳に入ることとはいえ、もう少し手を回し外堀を埋めてからにしたかった。

「………事実だ」

 とはいえ嘘をつくわけにもいかない。苦い表情のままアヌベリアスはそう答えた。

「シャトワールとブリュッゼは戦わずして降伏したとか」
「………そこまで知っているのか」

 シルヴィアの得ている情報は事実であった。半島の付け根辺りに位置し、アルテンシア統一王国と直接国境を接しているこの二カ国は、宣戦布告がなされアルテンシア軍が国土に足を踏み入れた直後に戦わずして降伏したのだ。

 シャトワールとブリュッゼが降伏した第一の理由は、単純にアルテンシア軍と戦って勝てる見込みが無かったからだ。この二カ国は二度の十字軍遠征、特に第二次遠征のさいに物資を強制的に供出させられたことによる疲弊がひどく、とてもではないがシーヴァと正面切って戦うだけの戦力を集めるのは無理であった。戦えないのであれば、降伏するしかないではないか。

 しかしシャトワールとブリュッゼが降伏した理由はそれだけではない。より大局的な理由として、彼らは教会と手を切りたかったのである。

 第二次遠征のさいの物資の強制的な供出は、これらの国家とその国民の双方に教会に対する反感を抱かせた。その上、第三次遠征を行なおうというだ。その時にも金とモノをせびられるのは目に見えている。このままでは教会に食いつぶされてしまう、という危機感が国内に漂っていた。

 それを避けるには教会と手を切らなければならない。しかし下手にその勢力下から逃れようとすれば、今度は自分たちが十字軍の餌食になってしまう。そうならないためには、教会勢力に匹敵するかそれ以上の庇護者が必要になる。

 シャトワールとブリュッゼが選んだその庇護者こそ、アルテンシア統一王国でありシーヴァ・オズワルドであったのだ。

「異教徒に、しかも戦わずして降伏するとは何たることか!」

 そういう非難の声は確かにあったが、実はそれほど大きくは無い。シャトワールとブリュッゼの信者たちは教会のせいで生活が厳しくなったことで、はっきりと反感を抱いている。それに彼ら自身、信仰まで捨てたという意識は無い。国も国民に対し、「アナトテ山にいて無茶な要求ばかりしてくる枢密院を見限ったのだ」と説明している。

 シーヴァも信仰を捨てろとは要求せず、その分野に関しては口出ししなかった。つまり敵は教会の教義や信者たちではなく、その信者を戦いに向かわせる枢密院、あるいは神子であるという立場を明確にしたのだ。

 この二カ国の選択は正しかったと言えるだろう。シーヴァは降伏したそれらの二カ国に対して領土と主権を安堵することを保障し、そのうえ友好国として遇することにしたのである。はっきり言って破格の対応でだ。

 さて、今度は教会の側からこの二カ国の降伏について、少し考えてみたい。今回の件は、教会にしてみれば身内から造反者が出たということになる。つまりそれだけ教会の威光に陰りが生じ、勢力全体としても力が低下し結束が乱れてきているということだ。

 しかし事態はそれだけに留まらない。シーヴァ率いるアルテンシア軍はさらに東へ東へと進んできている。そしてなにより、降伏したシャトワールとブリュッゼの扱いが破格であったことが問題だ。降伏しても失うものが無い、あるいは少ないというのであれば、シャトワールとブリュッゼに続く造反者が出ることは十分に考えられる。

 降伏したその二カ国の内部から、その判断に対する非難があまり出なかった、と言う話はつい先ほどした。それに加えて、表向き教会よりの立場を取っている国々からも、そういう非難の声は多くは上がらなかった。それはまるで降伏するタイミングを見計らっているかのようにも見える。

 つまり、教会勢力は楔を打ち込まれてしまったのだ。教会は、次は誰が造反するのかと疑心暗鬼に捕らわれている。そして疑われていると知れば、そのまま統一王国の側になびく国も出てくるだろう。打ち込まれた楔は確実に亀裂を生じさせ、教会勢力は分裂しようとしている。

「それで、我がサンタ・シチリアナはいかように動くおつもりですか?」
「知れたこと。十字軍に参加しアルテンシア軍と雌雄を決する」

 アヌベリアスはそう言い切った。「聖(サンタ)」の名を冠する国家してそれ以外の選択肢などありえない。神聖四国の一国としてサンタ・シチリアナは最後まで教会の味方となり、その勢力の分裂を防ぐために尽力しなければならないのだ。

「父上………」
「ならん」
「………まだ何も言っておりませぬが」
「言わずともわかる」

 父親にそういわれてしまったシルヴィアは、どこか拗ねたような顔をする。王族として教育された彼女は普段から大人びているが、そういう顔だけは歳相応だった。しかしその顔はすぐに消して、シルヴィアは両手を机につくと父親に迫る。

「でしたら話は早い。わたしをサンタ・シチリアナ軍の総司令官にしていただきたい」

 サンタ・シチリアナの王女たるシルヴィアが十字軍に参加するということは、そのまま十字軍全体を率いることにも繋がる。しかし、アヌベリアスの答えは否定的だった。

「ならんと言った」
「ですが………!」
「それよりも、お前はアルジャークに行け」

 シルヴィアの次の婚約相手としてアヌベリアスが考えているのは、最近急速に版図を拡大したアルジャーク帝国の皇帝クロノワ・アルジャークである。神殿の御前街で会談したストラトス大使にその旨を伝えたから、そちらから話は伝わっているだろう。またこちらからも正式な使者を立てたが、いまだ正式な婚約には至っていない。どうにも返事をはぐらかされている、というのが現状だ。

(流れを見極めたいのか、あるいは見限られたのか………)

 どちらにしても、今はまだ動きたくないというのがアルジャークとクロノワの意思だろう。しかしサンタ・シチリアナとしては、いや教会勢力としては今動いてもらわなければ困るのだ。

 そこでアルジャークを引っ張り出すためにアヌベリアスが考えた手が、娘のシルヴィアを送りつけることだ。

 分りやすく言えば人質である。人質を差し出し、サンタ・シチリアナひいては教会勢力に対するアルジャークの影響力を保障することで、アルテンシア軍に対抗するための武力を貸してもらおうと言うのである。

 サンタ・シチリアナの王女シルヴィアが人質にいくのだ。人質であったとしても、彼女ならばアルジャークも粗略には扱うまい。さらに正式な婚約はしていないとはいえ、彼女はクロノワの妃候補である。その彼女をアルジャークに送り込むことで他の候補たちを牽制し、婚約話を先に進めてしまおうというアヌベリアスの思惑もある。

 将来的に正式にクロノワとの婚約がまとまり同盟関係が結ばれれば、人質を出したサンタ・シチリアナは、しかしアルジャークに“恭順”するのではなく“協力”して国を立て直して行くことができるだろう。

 アヌベリアスとしては今回の戦争のみならず、その後のことも見越してこの策が最善であると判断した。しかしシルヴィアの意見はどうも違ったようだ。

「それは承服いたしかねます」
「なに………?」

 アヌベリアスの眉が不快げにピクリと動く。父の視線をシルヴィアは真っ直ぐに受け止めた。

 シルヴィアは自分の身可愛さに人質に行くことを拒むような姫ではない。王女としての自分に求められることならば、政略結婚だろうが人質だろうが全て受け入れよう。しかしそれは国のためになるならば、だ。

「我が国が単独でアルジャークに接近すれば、他の三国はこう思うでしょう。『サンタ・シチリアナは自分だけが助かるつもりなのではないか』と」

 他の三国、とは無論サンタ・シチリアナ以外の神聖四国のことである。アルジャークと同盟を結ぶことでサンタ・シチリアナは今回のアルテンシア軍の侵攻に傍観を決め込むのではないか。自分が人質に行けば、他の三国がそういう疑念を持つとシルヴィアは指摘した。

 アルテンシア軍の目的があくまでも教会である以上、アルジャークの後ろ盾がある状態で傍観を決め込めば、シーヴァとてそう簡単に手は出してこないだろう。しかもサンタ・シチリアナはアナトテ山よりも東に位置している。アルテンシア軍にしてみれば、神殿を落とすためにどうしても戦わなければならない相手、というわけでもない。

「そのような疑念をもたれれば、神聖四国は割れてしまいましょう」

 そうなれば十字軍を結成できるかも危うい。シルヴィアはそういった。それだけならばまだ良い。疑念が排斥へとつながり、サンタ・シチリアナは裏切り者として十字軍の標的にされてしまうかもしれない。そして、そうなったときにアルジャークが助けてくれる可能性は、現状では低いと言わざるを得ない。

 無論、アヌベリアスに教会を見捨てるような意思はない。教会の権威が失墜すれば、「聖(サンタ)」の名を冠していることで今まで得ていた特権的地位を失うことになる。それはアヌベリアスにとっても、望む未来ではなかった。

 ちっ、とアヌベリアスは舌打ちを漏らした。これまで神聖四国は平等であった。平等であったがゆえに神聖四国という枠組みの中で共存して来られた、とも言える。しかし同時に平等であるがゆえに足並みが乱れたり、どこか一国が突出したりするのを嫌う傾向がある。今はそれが裏目に出ているようにアヌベリアスには思えた。

 しかしシルヴィアが言うような神聖四国が割れてしまう事態は、なんとしても避けなければならない。それは教会勢力存続のためには必須の事項だ。

「………分った。お前をアルジャークにやるのはひとまず保留にしておこう」

 アヌベリアスはそう判断を下した。そして、嬉しそうに微笑むシルヴィアが「では」と言うよりも前に、「だが」と言葉を続ける。

「それとお前が戦場に出ることは別問題だ。大人しくしておれ」

 反論は許さぬ、と言う思いを込めてアヌベリアスはシルヴィアに視線を向ける。しかし彼女は臆することなくその視線に対峙した。

「十字軍が寄せ集めのままでは、アルテンシア軍には決して勝てませぬ。国軍という枠を超えて十字軍を一つにまとめるには、神聖四国の王族の誰かが先頭に立って導くほかありませぬ」

 シルヴィアの言うことには確かに一理ある。神聖四国の王族から誰かが立てば、それは十字軍を一つにまとめるためのこの上ない象徴になるだろう。

「それは男の仕事だ、シルヴィアよ。それとも四国のうちに誰一人として男の王族がいないがために、女の身であるお前がやらねばならぬとでも言うのか」
「それは………」

 シルヴィアは言葉に詰まった。これまでの歴史の中で女性が戦場に出た例は、無いわけではない。しかしそれはあくまでも例外で、多くの場合無視され先例とはみなされない。戦場に立つのは男の仕事。やはりそれが常識的な価値観だ。

 団結のための象徴、と言う意味では女という性別はデメリットにはならない。甲冑を纏った姫というのは見栄えがするし、実務を取り仕切る人材が揃っていれば問題はない。

 しかし十字軍となると、少々話が異なる。当然のことながら十字軍にはサンタ・シチリアナ以外からも軍が参加している。サンタ・シチリアナの将兵たちは、自国の王女であるシルヴィアを粗略に扱うことは無いだろう。しかしそれ以外の軍ではそうもいくまい。早い話が、女性であるがゆえに嘗められるのだ。何か目立った武功でもあれば違ってくるのだろうが、あいにくとそんなものはない。

 シルヴィアは決して愚昧な姫君ではない。しかしだからこそ自分が十字軍をまとめることは恐らくできない、と分かってしまう。

「分ったならば大人しくしておれ」
「………承知しました」

 不承不承といった感じで、ついにシルヴィアは折れた。その様子にアヌベリアスはそっと忍び笑いを漏らす。

「暇ならば、この機会に花嫁修業でもしたらどうだ?クロノワ殿は淑やかな女性が好みと聞くぞ」

 無論これはアヌベリアスの冗談で、そのような話は聞いたことが無い。

「それでしたら心配はご無用」
「ほう?分厚い猫の皮はすでに用意してあるか」
「いえ。わたくし如きじゃじゃ馬を御しきれぬ方が、東方の覇者になれるはずもございませんので」

 いけしゃあしゃあとシルヴィアは言った。あまりに堂々とした娘の言葉に、アヌベリアスも苦笑を漏らす。

「まったく、口の減らぬ娘だ」

**********

「………報告は以上です」
「ご苦労。下がれ」

 報告を終えた部下が一礼して下がるのを見送ると、シーヴァは一人になった部屋の中で窓際に立ち、そこから見える城下町を眺めた。

 アルテンシア統一王国建国以来初めてとなる遠征が始まり、シーヴァがゼーデンブルグ要塞を出立してから今日で十二日目。アルテンシア軍はブリュッゼの王都で三日ほどの足止めをくっていた。

 とはいっても、何か問題が起きたわけではない。むしろ遠征としては幸先が良い。シャトワールとブリュッゼ。統一王国とも国境を接しているこの二カ国が、早々に降伏を申し入れてきたのである。

 この二カ国が戦わずして降伏してきた理由や背景というものを、シーヴァは正確に見抜いている。それを踏まえたうえで、彼はこの二カ国を統一王国の友好国として遇し、将来的には同盟を結ぶことも考えていた。

 これは、はっきりと破格の扱いであると言える。思惑や理由はどうあれ、シャトワールとブリュッゼは二度の十字軍遠征に協力している。つまり統一王国にしてみれば、因縁の怨敵ともいえる。普通そのような相手が降伏してくれば、屈辱的な要求をしたくなるものだが、シーヴァはそれを全て腹の中に収め表には出さなかった。

 無論、シーヴァにとて思惑はある。先例を作っておくことで、これから戦う敵が降伏しやすい環境を整えておく。この遠征において、それは大きな意味を持ってくるだろう。ともすれば教会勢力を分裂させることも可能かもしれない。

 だがしかし、シーヴァは遥か先をも見据えている。アルテンシア半島が十字軍に狙われたのは、そこが混乱していたこともあるが、それ以前の問題としてそこが大陸中央部とは異なる宗教や文化を持っていたためだ。人間は自分のとは異なる価値観を排除することを躊躇わない。しかもその際には、普通では考えられない蛮行さえも正当化されてしまうのだ。

 だからこそシーヴァはシャトワールとブリュッゼを完全に併合するのではなく、主権を保障し友好国として扱ったのだ。似ているとはいえ微妙に異なる文化を持つ国を無理に従わせようとすれば、必ずや軋轢を生む。それは将来、必ずや戦乱を巻き起こす火種となるだろう。

 それに加え、シーヴァは半島の入り口を友好国で固めておきたいと考えたのだ。それらの友好国を間に置くことで、大陸との接触を緩やかに行おうと考えたのだ。それに半島の入り口に統一王国の友好国があれば、シーヴァが半島から出てまで版図の拡大を目指してはいない、ということを各国に伝えることもできる。

「まあ、そう全てが上手くいくことなどないだろうが………」

 問題が起こらず全てが上手くいく、と夢想できるほどシーヴァは子供ではない。問題は必ず起こる。それを一つ一つ片付けていくことで、国同士の関係は成熟していくものなのだろう。

「先のことをこれ以上考えても仕方があるまい。今は遠征のことだ」

 そう呟き、シーヴァは頭を切り替える。友好国として遇することを決めたとはいえ、降伏したばかりのシャトワールとブリュッゼを放任しておくわけにもいかない。補給線が通る以上、少なくともこの遠征の間中は監視役の人間を置いておく必要がある。そこでシーヴァが選んだ人物が、五公爵の一人でもあるイルシスク公であった。

(これで遠征軍についてこられるのは二人だけか。少ないがまあ、仕方がない)

 最年長であるアベリアヌ公は王都ガルネシアでシーヴァの代わりに内政を取り仕切っている。ゼーデンブルグ要塞で補給や予備部隊といった、後方部隊の全てを預かっているのはウェンディス公である。ここでイルシスク公が抜ければ、シーヴァと共に行けるのはガーベラント公とリオネス公の二人だけである。

 言うまでもないことだが、アルテンシア統一王国の歴史は浅い。そのせいか人材不足が否めない。シーヴァはもともとアルテンシア同盟の将軍だったから、武官についてはそれなりの数と質を維持することができている。しかしその反面文官が不足しており、今回のように内外を問わず国単位の物事を監督できる人材となると、五公爵ぐらいしかいないのが現状だ。そこがシーヴァの数少ない弱点と言えるかもしれない。

「人材も育てねばならぬな………」

 復興とその先の発展へと進むにつれ、仕事と問題は山ほど出てくるだろう。それを遅滞なく片付けていくためには、どうしても人材を集めてさらに育てることが必要だ。どれだけ有能で力があろうとも、一人の人間にできることなど限られている。

「そのためにも………」

 そのためにもこの遠征に長々と時間をかけて、労力と資金を無駄遣いするわけにはいかない。短期間のうちに「教会を無力化する」という目的を達成しなければならない。

 しかし、どうやって教会を無力化するのか。

「神子をアルテンシア半島へと連れて帰る」
 それがシーヴァの出した結論であった。

 ようは、神子と教会を切り離そうと言うのである。神子がいなくなれば、教会は信仰の対象としてその正当性を失う。そうなれば信者たちは教会から離れていくだろう。

 偽者の神子を仕立て上げることは出来ない。なぜなら、「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪が無ければ、御霊送りの儀式を行うことが出来ないからだ。そのような“神子”を信者たちは神子とは認めないだろう。

「神子を奪還すべし」

 と言う声が上がり、そのために十字軍が結成されるかもしれないが、そこに軍を出す各国が疲弊している現在であればさほどの脅威にはなるまい。さりとて戦力が回復するまで待っていては、教会の権威はその間に失墜してしまう。

 それにアルテンシア半島がまずいのであれば、これまで教会の勢力下にあり、宗教や文化が同じであるシャトワールかブリュッゼに置いておくという選択肢もある。そもそもシーヴァに宗教を弾圧しようという気は無い。統一王国に敵対的な教会が、信者全体に対する影響力を失えばそれでいいのである。

 無論、これは今現在シーヴァが思い描いている、遠征の終着点の一つに過ぎない。最も良いと思ってはいるが、かといってこれに固執する必要もない。重要なのは、アルテンシア半島が再び狙われるような憂いを後に残さないことである。

「それが最も難しい」

 まったく、ただ敵を叩き潰すだけでよいのならどんなにか楽だろう。そう思いシーヴァはそっと苦笑を漏らした。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ5
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:50
 シャトワールとブリュッゼを下したアルテンシア軍は、さらに東へと進む。その歩みは決して遅くはないが、シーヴァが起こしたアルテンシア同盟に対する革命の初期にあったような疾風怒濤の勢いもない。遠征軍は整然と進み、威風堂々としたその軍威を見せ付ける。

 今のところ、アルテンシア軍は十字軍や独自に動く各国の軍などからの襲撃を受けてはいない。意見がまとまらず動けない、というわけではあるまい。逆に意見の統一がなされ、アルテンシア軍を迎え撃つ場所がすでに決まっているからこそ、先走って攻撃を仕掛けてくる部隊がいないのだろう。

(危機的状況は思惑を飛び越えて人々を協力させる、か………)

 立場は逆になったが、そういう意味ではかつてのアルテンシア同盟が成立した状況に似ていると言える。十字軍はこれまで、各国の状況や思惑が異なるために意見が統一されず、仲間内で足を引っ張り合うような状態が見られた。しかしシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍という圧倒的な侵略者(・・・)を前にして、ともかくは手を取り合い全力で協力し合うことができるようになったらしい。

(さて、どこで迎え撃つつもりなのか………)

 心の中でそう問いかけつつも、シーヴァはすでに自分の中に答えを持っている。フーリギアにあるベルベッド城。十字軍はその城に集結し、アルテンシア軍に対して決戦を挑んでくるだろう、とシーヴァは予測している。

 フーリギアはブリュッゼとサンタ・ローゼンの間にある国で、その版図は四三州。小国であり、神聖四国と教会の威光を笠に、というよりほとんど属国の立場を受け入れることによって、これまで国を維持していた。熱心な信者が多く、教会と神聖四国からすれば使い勝手のいい子分、といったところだろうか。

 そんなフーリギアの中央からすこし西よりのところにあるのがベルベッド城だ。交通の要衝に置かれた城であり、完全に敵と戦うことを想定した造りとなっている。それもそのはずで、まだアルテンシア同盟が健全な組織だった頃、半島から出て西進する同盟軍を迎え撃つ目的で作られた城だった。役割としてはゼーデンブルグ要塞に似ていると言える。もっとも、規模は二段階程度劣っているといわざるを得ないが。

 結局、同盟が遠征軍を催して半島から打って出ることはなかったが、こうしてシーヴァが軍を率いその城を攻略することになりそうである。ゼーデンブルグ要塞で十字軍を撃退したことといい、どうもアルテンシア同盟がやるはずだったことをシーヴァが肩代わりしているような気もする。もっともそれは彼にとって望むところだろう。シーヴァの根底にあるのは、やはり同盟が掲げた理想なのだから。

 それはともかくとして。ベルベッド城でまずは十字軍と一戦交えることになるだろうと予測しているのは、なにもシーヴァだけではない。ガーベラント公とリオネス公、それに腹心とも言える女将軍ヴェート・エフニートも同意見だった。

 古来より戦場の選定と言うのは、敵味方の予測が驚くほどの高確率で一致する。もっとも大軍を指揮して動かしやすい場所や、戦略的に価値のある要衝といったふうに条件付けをしていけばおのずと選択肢は限られてくるのだろう。

「さて、十字軍はどう戦うつもりなのか」

 馬に揺られながらシーヴァは考える。ベルベッド城を拠点にして野戦を挑んでくるのか、それとも城に籠って守りを固めて戦うのか。あるいは城を拠点にして奇襲や挟撃を狙うのか。

 敵がどのようなカードを切ろうとも恐れることはない。シーヴァはごく自然にそう思っていた。しかしだからと言って敵を侮っているわけではない。進軍の速度を上げすぎないのもそのためだ。疲れきっているところを襲撃されれば、どれだけの精兵を率いていようとも敗北は濃厚だ。ゆえに常に余力が残るようにしておかなければならない。

 さらにシーヴァは本隊とは別に斥候のための部隊を組織し、常に周辺の状況を探らせていた。加えてこれまで大陸中央部で諜報活動をしていた人員をも連動させることで、彼はかなり広範な地域の情勢を馬上にいて知ることができていたのである。

 鋭く前を見据えて進むシーヴァのもとに十字軍発見の報がもたらされたのは、彼がブリュッゼを出立してから五日後のことであった。

**********

 シーヴァの読みどおり、十字軍はベルベッド城に集結していた。その数およそ十二万。十分に大軍であり、実際各国とも出し惜しみをしたわけではない。しかし教会の人間で、この数に不満を覚えるものは少なからずいた。

 第一次十字軍遠征の際には、三十万を超える大軍が集結した。第二次遠征の際にも二十万を超えていた。それが今回はわずかに十二万である。

 客観的な事実として、回を重ねるごとに十字軍の戦力は十万ずつ減っている。それがそのまま教会の衰退を表しているようで、教会の上のほうにいる人間ほど頭と胃の痛い思いをしていた。

 ただ、雰囲気は今までで一番良いかもしれない。欲望丸出しだった第一次遠征や足並みが揃っていなかった第二次遠征とは異なり、今回は祖国を侵略者から守るという単純明快で誰もが納得する理由がある。その大義名分は国や思惑の違いを超えて兵士たちを団結させていた。

 さらに今回、総司令官として十字軍を率いるのは、神聖四国の一つサンタ・ローゼンの第一王子であるラウスフェルド・サンタ・ローゼンであった。神聖四国の王族が十字軍を率いるのはこれが初めてで、それだけ情勢が悪いことの裏返しなのだが、それでも兵士たちは沸き立ちその士気の高さは間違いなく過去最高であった。

 それに、これは皮肉なことなのだろうが、規模が小さくなったことで全体の統率が取れるようになっていた。これまでのようにサボったり怠けたりする兵士は見られない。一人ひとりの意識が高く、命令が末端にまで行き届いている証拠だ。

 加えて、十字軍の兵たちの士気をさらに上げている要素がある。それは斥候によってもたらされたアルテンシア軍に関する情報である。それによると、どうも敵は攻城兵器を持ってきていないようだ、とのことであった。

 第二次遠征の際に、攻城兵器が足りずゼーデンブルグ要塞を攻めあぐねたことは、十字軍の中でも記憶に新しい。ゆえに攻城兵器を持たないシーヴァはベルベッド城を攻めあぐねるだろう、ということは簡単に予測できた。

 加えてアルテンシア軍は八万。守り手のほうが攻め手よりも数が多いのだ。一般的に敵の防衛拠点を落とそうする場合、敵に対して二倍から三倍の戦力が必要になるといわれている。それを考えればアルテンシア軍は明らかに戦力不足だった。

「なんでもかんでも力押しで何とかなると思ったのか。愚かなことよ」
「左様。シーヴァ・オズワルドは勝利に慢心し、さしたる準備もせず今回の遠征に踏み切ったと見える」
「奴らはこのベルベッド城を落とせず、疲れ果てて退却することになるじゃろう。その背中を襲うときが楽しみじゃ」

 斥候がもたらした情報をもとに行われた戦況予測は終始十字軍に有利であり、指揮官たちは大いに胸をなで下ろした。さらにその予測は一般の兵士たちにも知れ渡り、十字軍の士気はさらに上がった。

「異教徒どもが神聖なる我らの祖国を踏み荒らすことを、神々はお許しにならなかったのだ」
「強欲な異教徒どもに神々の裁きを!」

 三度目の対決で、ようやく勝機が見えてきたのである。話をする十字軍兵士たちの表情は明るい。

 ゼーデンブルグという大要塞には及ばないが、ベルベッド城は十分に堅牢な城砦である。しかも数は十字軍のほうが多いのである。野戦では分が悪いかもしれないが、城に籠ってしまえば十字軍のほうが圧倒的に有利であることは誰の目にも明らかであった。

 つまり、
「アルテンシア軍、恐れるに足らず!」
 という十字軍内の雰囲気には一応の根拠があった。

 しかし、その根拠には穴があったと言わなければならない。彼らは見落としていたのである。シーヴァ・オズワルドが操る漆黒の大剣「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」のことを。

 古来より、たった一つの強力な魔道具が戦況を左右してしまった例は、少ないとはいえ確かに存在する。シーヴァの持つ漆黒の大剣がその類の魔道具であることを、十字軍はいやというほど思い知らされていたはずである。それが意識的であったのかあるいは無意識であったのかは分らないが、なんにせよ「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」という強力な魔道具を排除して考えていたことは迂闊だった、と言わざるを得ない。

 もっとも、シーヴァがその魔道具を攻城兵器の代わりとして用いたことは無く、そこに関しては未知数だった、という面もあるのだろう。あるいは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」について考えてはいたが、兵の士気を上げるためにあえて黙っていた、という可能性もある。それが正しい選択だったのかは、また別の問題になるが。

 まあ、内部にどのような思惑があったにせよ、ベルベッド城に籠って防戦に徹する以外の選択肢は十字軍になかった。兵と兵がまともにぶつかり合う野戦では、兵の質で大きく劣る十字軍は勝ち目が薄い。兵の数でどれだけ上回っていようとも、だ。羊を千匹集めたとしても、一頭の獅子には敵わないのである。

 また奇襲をかけるのも難しい。兵士たちの訓練が足りていないからだ。例えば夜間行軍したり、気づかれないように敵に接近したりするにはそれ相応の訓練が必要になる。しかし二度の遠征失敗により精兵の多くを失った十字軍には、それら必要な訓練を受けた兵士が絶対的に足りていない。

 加えて指揮官の数も足りておらず、結局全軍をひとまとめにしてベルベッド城に立て籠もるのが最も確実な戦術であり、その方向で準備は進められた。

「いつでも来るがいい。返り討ちにしてくれる」

 総司令官のラウスフェルドが豪語する。そう言えるほどに、十字軍は出来る限りの準備を万端に整えていた。

「人事は尽くした。後は天命を待つのみ」

 十字軍は、いやともすれば教会勢力全体がそういう心境であった。しかしそうなると、もしこの戦いで十字軍が敗北した場合は教会の滅亡こそが天命であることになるのだが、彼らは果たしてそれを理解していたのであろうか。多少の想像が許されていい。

**********

 アルテンシア軍の先頭を行くシーヴァがベルベッド城とそこに翻る教会の旗を視界に収めたのは、十字軍発見の報が彼のもとにもたらされてからさらに三日後のことであった。

 その三日の間にシーヴァはさらに詳細な情報を集めさせていた。ベルベッド城で待ち構えている十字軍の数、およそ十二万。ただしその多くは訓練の足りない新兵と体力のない老兵である。また総司令官としてサンタ・ローゼンの第一王子ラウスフェルド・サンタ・ローゼンがいることも掴んだ。

「ついに神聖四国から王族が出てきましたな」

 ラウスフェルドの名を聞くと、ガーベラント公は少し意外そうな顔をして顎を撫でた。確かに彼ならば十字軍の兵士たちを団結させる象徴としては申し分ないだろう。兵の数と質に不安が残る以上、士気を上げるためにも神聖四国の王族を担ぎ出すのが効果的であるということはガーベラント公にも分っている。

 しかしその一方で神聖四国の王族を担ぎ出さなければならないほど、十字軍にとっては分が悪いと言うことでもある。そのような分の悪い戦いに温室育ちの王族がはたして出てくるのか、とガーベラント公は少なからずいぶかしんでいたのだ。

 まあ、結果としてラウスフェルドは戦場に出てきたのだから、もしかしたら彼は結構な傑物かもしれない。もっとも、さんざんぐずった挙句に尻を蹴り飛ばされてきただけかもしれないが。

「それで、ラウスフェルド総司令官殿はこちらに野戦を仕掛ける胆力をはたしてお持ちかな」

 多少皮肉のスパイスを利かせてそういったのは、ガーベラント公と同じく五公爵の一人であるリオネス公であった。年長で優れた武人でもあるガーベラント公などと比べると線が細く一見して軽薄にも見えてしまうが、ユーモアのセンスがあり頭の回転は非常に速い。五公爵の中では最も早くに同盟に見切りをつけてシーヴァに協力しており、その先見性には卓越したものがある。

 無論、リオネス公は十字軍が野戦を仕掛けてくることはないと確信している。少なくとも真正面からは。それは総司令官であるラウスフェルドの胆力の問題と言うよりは、むしろ十字軍の兵士の練度の問題である。

 十字軍を構成している兵のほとんどは新兵と老兵だ。それに対してアルテンシア軍は精鋭の中でも選りすぐりの兵を集めてきた。数で劣っているからと言って、そう簡単に押し切られることはない。

「二倍程度までなら、問題なく勝てる」

 アルテンシア軍の内部ではそういわれていた。決して敵を侮り楽観しているわけではない。経験と知識にもと基づく推測である。さらに「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を操るシーヴァ・オズワルドがいるのである。もしかしたら三倍近い数が相手でも問題ないかもしれない。

 もっとも、敵もそれは承知しているはずで、だからこそリオネス公は野戦で真正面からぶつかることはないと考えているのである。

 仮に十字軍がベルベッド城から出てくるとすれば、それは奇襲を仕掛けるためであろう。どれだけ精強であろうとも、油断しきっているところを襲われれば敗北は必至である。しかしシーヴァに気の緩みは無い。彼は斥候の数を増やして周辺をくまなく探らせ、警戒を強めて行軍した。

 結果として奇襲を受けることなく、アルテンシア軍はベルベッド城に迫った。堅牢な城壁を持つその城には、教会の旗が数多くたなびいている。

「想定通り、といったところですね」

 シーヴァの左隣でリオネス公が楽しそうにそういう。彼の口元は笑っているが、しかし目が笑っていない。

 ベルベッド城の城門は固く閉じられアルテンシア軍を拒んでいる。二枚扉の城門は木製だが、その後ろには鉄でできた格子の鎧戸も下ろされていることだろう。城壁の上には沢山の兵士たちの姿が見える。

 しかし、城から出て城門の前に展開されている部隊はない。十字軍は全て城内にいるようだ。

 アルテンシア軍が攻城兵器を持っていないことは、十字軍にしてみれば僥倖であったろう。単純にベルベッド城の防衛が楽になるだけではない。攻城兵器を破壊するための部隊を城の外に展開し、局地的とはいえ野戦を戦う必要がなくなったのだ。十字軍にしてみれば、これはありがたいことであったろう。

 もっとも、それはアルテンシア軍にとって始めから想定していたことだ。

「それで陛下、すぐに仕掛けますか?」

 リオネス公がシーヴァに問う。日は高く、ちょうど正午といった時間だろうか。まだまだ日の長い季節だから、日暮れまではだいぶ時間がある。

「ガーベラント公、兵たちの様子は?」
「急いだわけではありませんからな、余力は十分に残っているでしょう。あとは陛下次第、でしょうなあ」

 試すように、そして面白がるようにガーベラント公はシーヴァを見た。シーヴァは視線を正面に戻し、ベルベッド城の城壁を鋭く観察する。それから彼は馬の腹を軽く蹴ると、ただ一騎で悠然と前へ進み出た。

 迫ってきたアルテンシア軍が少し遠い位置で停止する。城壁の上からとはいえ、弓を射てもあそこまでは届かないだろう。そしてそこからただ一騎のみがベルベッド城に向かって歩を進めてくる様子を、城壁の上にいる十字軍の兵士たちは緊張して見ていた。

 ゆっくりと近づいてくるその騎士は、黒で統一された鎧を身にまとっている。遠目だが、一般の騎士が装備している鎧と大差はないように見えた。ただ冑はかぶっておらず、無造作に伸ばした髪の毛が風にもてあそばれてなびいている。

 そして何よりも目を引いたのは、その騎士が背中に背負っている大剣だ。鞘に納まっているため刀身は見えないが、アルテンシア軍の騎士で大剣を持っている人間となると、皆心当たりは一人しかいなかった。

「シーヴァ・オズワルド………」

 誰かがポツリともらしたその呟きが、十字軍の中に広がっていく。シーヴァの名が囁かれると兵士たちの緊張はさらに高まり、彼らは落ち着かない様子で武器を握りなおしたり唇を湿らせたりした。

 城壁の上で弓を構える兵士たちに、攻撃の指示はまだない。いかなシーヴァ・オズワルドとはいえ、ただ一騎のみでこのベルベッド城に攻撃を仕掛けるような無謀な真似はしないだろう、とその城にいる十字軍の誰もが思っていた。

「恐らくは何かしらの接触があるはず」

 城門の真上、他の城壁と比べて一段高くなったところからシーヴァが進み出てくるのを見ていた総司令官たるラウスフェルドはそう思っていたし、他の十字軍の参謀たちも同じように考えていた。

 彼らが予想していたのは、言葉による接触であったのだろう。戦いの前の宣誓かあるいは勧告か、そのようなものをシーヴァはするのでは、と彼らは考えていた。

 両軍の大将同士が戦いに先立って言葉を交わす。そういう儀礼的な手順は、たとえば吟遊詩人が謳う物語の中ではよくある。

 教会は形式美を重要視しているがその傾向は十字軍にもあるらしく、ラウスフェルドなどはまるで役者のように胸をそらして気取り、シーヴァの言葉を待っていた。彼にとってはそれが予定調和的に取るべき行動であり、常識的な対応であった。だからこそ敵の大将がただ一騎で前に出てくるという、因縁の怨敵を討ち取る絶好の機会であるにもかかわらず攻撃を命じていないのだ。

 しかしシーヴァがした接触のしかたは、彼らが考えていたのよりもはるかに非友好的で、そして非常識だった。彼は背負った大剣を抜くと、その切っ先を空へと向けた。

 その様子を、ラウスフェルドを始めとする十字軍の兵士たちは、半ば呆然としながら見つめていた。

「レヴァン、テイン………」

 誰かがポツリと呟いた。しかし、あいにくとその認識は古い。シーヴァが今手にしている漆黒の大剣の名は「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」。魔道具職人オーヴァ・ベルセリウスが作り上げた、「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を超える魔剣である。

 漆黒の刀身に印字された黄金の文字が、陽光を浴びて輝いている。その文字が古代文字(エンシェントスペル)であることは見ている者全てが理解したが、あいにくとそれを読むことができた人間はいなかった。

 ――――万騎を凌ぐ。

 そこにはそう記されていたのである。それを読むことはできなかったとはいえ、彼らはその意味を間もなく身をもって知ることになる。

 漆黒の大剣を掲げたシーヴァは、一瞬だけ不敵に笑うとその魔剣に魔力を喰わせる。すると彼の周囲に風が巻き始め、さらに魔剣の周りに五つの黒い球体が表れて浮かんだ。十字軍が攻撃を仕掛けてくる様子は、まだない。

 シーヴァが魔剣に魔力を込めるのを、ラウスフェルドはただ唖然としながら見つめていた。思い描いていた予定調和があっけなく崩れてしまった今、一時的とはいえ彼の思考は停止してしまっている。

 今、シーヴァがしていることは見えている。彼が何をしようとしているのかも分る。だがその情報が行動へと繋がらない。シーヴァが放つ威圧感にのまれ、ラウスフェルドはただそこに立って見ていることしかできなかった。

 シーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を通して黒き魔弾へと魔力を注ぎ続ける。城壁の上から矢を射掛けられることも覚悟していたし、そうなったらなったで対処法も考えていたのだが、幸運なことに彼を邪魔するものは誰もいなかった。アルテンシア軍は言うに及ばず、十字軍にもなんら動きは見られない。まさにシーヴァの独壇場だ。

(楽ではあるが、興醒めでもあるな………)

 内心でシーヴァはごちる。とはいえ激戦や手ごわい相手を求めるのは、彼のエゴだろう。シーヴァに心酔しているアルテンシア軍の兵士たちでさえ、楽に勝てるならそれが一番いいと思っているに違いない。もちろんシーヴァだって、王あるいは指揮官としてなら同じように考えている。

(それでも心のどこかで強敵を求めるのは、あるいは私の業かも知れぬ………)

 ジルド・レイド。「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を砕きシーヴァと互角に戦って見せた、あの男。心踊り魂が吼えた、あの仕合。この先ああいう戦いにめぐり合うことは、果たしてできるのだろうか。

 それを望むのは、アルテンシア軍を率いるものとして間違っている。だがこのまま西進を続ければあるいは、とも思ってしまう。

(そのためにも、まずはこの城を落とす)

 この遠征が順調に行き問題なく終わるのであれば、それは国王として非常に望ましいことである。しかし仮に強敵が立ち塞がるのでことがあれば、それはシーヴァ個人として嬉しいことだ。

 つまりどちらに転んでも良い。そう結論付けると、シーヴァは改めてベルベッド城の城門と城壁に鋭い視線を向けた。黒き魔弾には、すでに十分な量の魔力を喰わせている。あとはこれを叩き込むだけである。

 無造作に、シーヴァは漆黒の大剣を振り下ろした。それに呼応して、宙に浮かんでいた五つの黒き魔弾が一斉に打ち出される。

 城門に一つ。そしてその左右に二つずつ。着弾した黒き魔弾は封じ込められていた黒き風を撒き散らして爆裂し、その威を存分に発揮した。

 アルテンシア軍が攻城兵器を用意してこなかった理由がこれである。いや、彼らは攻城兵器をきちんと用意していた、といったほうがいいだろう。シーヴァ・オズワルドが操る魔道具「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」。それこそが、アルテンシア軍が用意した最強の攻城兵器だったのである。

 その時、ベルベッド城の城壁はまるで巨大な地震に襲われたかのように激震した。激しい振動はそこに立っていた兵士たちを振り落とす。立っていられた兵士は一人もいなかった。

 城門の上にいたラウスフェルドもまた、立っていることができずに倒れこんでしまった。振動が収まってから何とか立ち上がり、城壁の様子を見て彼は絶句する。

 先ほどの一撃で城門が吹き飛ばされている。木製の二枚扉だけではない。その後ろにあった鉄製の鎧戸までもひしゃげてしまい、もはや敵軍の侵入を防ぐ能力を失っていた。万が一のことを考えて、城門の後ろに待機させていた部隊にも被害が出ているだろう。大きく口を開けた城門は、アルテンシア軍を招いているようにさえ見えた。

 被害は城門だけではない。打ち込まれた魔弾によって城壁は左右に二箇所ずつ大きくえぐられた場所ができている。貫通にはまだ至っていないが、さらに何発も魔弾を打ち込まれれば、城壁自体が崩れてしまう。

 ラウスフェルドは恐る恐る城壁からその向こう、シーヴァ・オズワルドのほうへ向ける。その視線の先で、シーヴァは再び黒き魔弾を宙に浮かべてそこに魔力を注いでいた。

「あ……、ああ………、あ、ああ、ああ………」

 それを見たラウスフェルドは腰を抜かせて尻餅をつくと、そのまま目頭に涙を浮かべて後ずさった。そして大声でこう喚いた。

「こ、殺せ!!は、早くアイツを殺すんだ!!」

 しかし彼の命令に従いシーヴァに矢を射掛ける兵士は一人もいなかった。皆、シーヴァの攻撃の、その理不尽な威力を前にして恐怖で身がすくんでいるのである。

 そこに再び黒き魔弾が打ち込まれる。先ほどとは違い、一箇所に集中して打ち込まれた魔弾は、ついに城壁の一部を破壊し城砦内部への通り道をこじ開けたのだ。

 それを見て頷いたシーヴァは、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を振り上げそして振り下ろす。それを確認したガーベラント公は声を張り上げた。

「全軍突撃!!」

 アルテンシア軍の兵士たちは鬨の声をあげてベルベッド城に突進していく。彼らの士気はすでに最高潮に達している。彼らを阻むはずだった城壁はシーヴァに破壊されてもはや用をなさない。

 アルテンシア軍が動いたことを確認したシーヴァは、自身もまた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を構えてベルベッド城に向けて駆け出した。黒き風をまとい、十字軍の雑兵を文字通り撥ね飛ばしながら猛進する。さらにその後ろから、破壊された城門や城壁を通ってアルテンシア軍の兵士たちが次々に城内に侵入していく。

 そこから先は、もう一方的な展開だった。

 一度乱戦になってしまえば、アルテンシア軍の兵士のほうが圧倒的に強い。その上、士気が違った。士気が最高潮に達しているアルテンシア軍に対し、十字軍は城壁とともに戦う意思さえもシーヴァによって砕かれてしまったようだ。

 一人、また一人と逃げ惑う十字軍の兵士たちが倒れていく。ゼゼトの巨兵たちは鉈をそのまま巨大化したかのような大剣を振り回して敵兵を真っ二つにしていく。一振りで三人の敵兵を吹き飛ばす者さえいた。返り血を浴びて不敵に笑うそれらの巨兵たちは、味方にとってはまことに心強く、敵にとっては脱糞するほどの恐怖であった。

 そもそも十字軍はベルベッド城の堅牢な城壁を頼りにアルテンシア軍と戦うつもりだったのだ。攻撃を防いで防いで防ぎきり、敵が疲弊して撤退するのを待つという戦術だった。それなのに頼りの城壁があっけなく破壊されてしまった。勝利の大前提が崩れ去ってしまっては、戦うための意思を維持することさえ難しい。城壁が崩れた時、十字軍の勝利も一緒に崩れてしまったといえる。

 結局、十字軍はそのまま本格的な壊走に移った。兵士たちは無秩序にバラバラの方向へと逃げ去っていく。その先頭に立って逃げていくのは、なんと総司令官たるラウスフェルドだ。まるで死人のように顔を青白くして逃げていく彼が感じているのは、屈辱でも怒りでもなく、ただ圧倒的で暴力的な恐怖だ。

「一秒でも早く、一歩でも遠く、あのシーヴァ・オズワルドから遠ざかりたい」

 その原始的な願望が、ラウスフェルドの体を何とか動かしていた。震える膝は鐙(あぶみ)の上に彼の体を支えることができず、ラウスフェルドは馬の首にしがみ付いてベルベッド城から遠ざかっていくのであった。





*********************





「ベルベッド城において十字軍はアルテンシア軍と戦い、そして惨敗した」

 その知らせは瞬く間に広がり、そして教会勢力の国々を激震させた。この敗北がそのまま教会勢力の敗北であるかのような、そんな気さえしていただろう。それほどまでに彼らはベルベッド城がアルテンシア軍を押しとどめ、そしてはね返すことを期待していたのである。

 さらに詳細な報告が続く。

「ベルベッド城の城壁はシーヴァによって破壊された」
「十字軍の戦死者は少ない。しかし壊走した際にそのまま逃げてしまった兵士が多数いるため、現在戦力として数えることができるのは五万程度」
「対してアルテンシア軍の損傷は軽微と思われる」
「総司令官ラウスフェルドが遁走。十字軍は現在、総司令官が不在」

 加えて兵糧と物資の不足が深刻だった。ベルベッド城での籠城は長期にわたることが予想されていたため、集められた兵糧や物資のほとんどはそこに運び入れられていた。しかし見込みは外れてベルベッド城はわずか半日足らずで陥落してしまった。十字軍の兵士たちは逃げることに精一杯で、そこにあった兵糧と物資のほとんどは持ち出すことも処分してしまうこともできなかった。結果としてそのほぼ全てがアルテンシア軍の手に落ちたことになる。

 なによりも、「敗北した」という事実そのものが重大だった。

 教会勢力はいわば「命運を賭けて」ベルベッド城での籠城戦を戦うつもりでいた。「人事を尽くした」と言えるほどに準備を整え、「後は天命を待つのみ」という心境でいたのである。

 それなのにベルベッド城はあっけなく陥落してしまった。この敗北を「戦局の一面における敗北」と捉えることができず、アルテンシア軍と戦う意思そのものを挫かれてしまった国さえあるかもしれない。

 話は意思や士気だけに留まらない。当初から十字軍は野戦では勝ち目が薄い、ということを認めていた。だからこそベルベッド城に籠城し、守戦に徹してアルテンシア軍が根負けして撤退するのを待つつもりだったのである。

 しかしこの戦いで敗北したことで、籠城して守りを固めたとしてもアルテンシア軍には勝てない、ということが分ってしまった。

 野戦では勝てず、さりとて籠城しても勝てない。それはつまり、十字軍はどうやってもアルテンシア軍には勝てないと宣告されたようなものである。

 戦う意思は挫かれ、実際問題としてアルテンシア軍には勝てそうにもない。ならば早い段階で教会に見切りをつけ降伏したほうがいいのではないか。そうと考えるのはある意味当然の流れであった。

 ここへ来て、シーヴァが教会勢力に打ち込んだ楔が効果を発しようとしている。

 シーヴァは真っ先に降伏してきたシャトワールとブリュッゼをかなり好意的に扱った。そこにはもちろん打算や思惑が多量に混じっていたが、それでもその二カ国の扱いがきわめて良かったことに変わりはない。

 もしもシーヴァがシャトワールとブリュッゼに対して極悪非道の限りを尽くしていたのであれば、教会勢力の各国も降伏することなど考えず最後まで抵抗の構えを見せるだろう。しかし戦うよりも失うものが少なくて済むのなら、降伏という選択肢は選びやすいものになる。

 さらにアルテンシア軍はすぐそこまで来ているのだ。これまで教会勢力の足並みが図らずも揃っていた理由の一つは、
「造反した国が十字軍の標的にされるのではないか」
 という恐れがあったためだ。しかし、今であれば十字軍のほうはアルテンシア軍を気にしているはずだから、造反したという理由で攻め込まれることは恐らくない。仮に攻め込まれたとしても、アルテンシア軍が援護してくれるだろう。

 ただ、ベルベッド城の敗戦の後、各国がこぞってアルテンシア軍に降伏したかといえばそうではなかった。言うまでもないことだが、降伏した相手をどう扱うかはシーヴァ・オズワルドの一存で決まる。つまり好意的に扱ってもらえるかどうか。シャトワールとブリュッゼの例を見る限り可能性は高いだろうが保証は無い。二度十字軍遠征を行いさらに三度目の遠征を画策していた教会勢力に対して、シーヴァがいい感情を抱いていないということは容易に想像でき、なかなか踏ん切りがつかないというのが実際のところだった。

 敵と味方。その両方を探りながら生き残りを模索する。教会勢力下にあった各国はそういう状況であった。

 子分のそういう空気を感じ取って大いに焦っているのが教会である。これまで教会は各国に数多くいる信者たちと潤沢な資金を盾に、それらの子分に対して絶大な影響力を誇っていた。

「言うことを聞かなければ、信者たちが反乱を起こすぞ」
 と、大げさに言えばそういう脅しをかけていたのである。

 しかしその絶大な影響力も、最近ではすっかりと翳ってしまった。そして影響力の低下はそのまま教会勢力の団結力の低下に直結する。今の教会はどこが裏切るのか、あるいは裏切ろうとしているのか、とすっかり疑心暗鬼になってしまっている。疑われていると知れば、そのまま降伏になびく国も出てくるだろう。つまり教会は、楔によって生じたひび割れを、自らの手で大きくしているようなものだった。

 一方シーヴァである。彼は教会勢力内部のゴタゴタに興味は無い。ベルベッド城という拠点とそこにあった大量の兵糧を手に入れたアルテンシア軍は、その三日後に東への進軍を再開した。

 本来ならば、三日もベルベッド城に留まるつもりはなかった。そこに残されていた大量の物資の確認のために一日程度だけ留まるつもりだったのだが、その間にフーリギアの王都から降伏を伝える使者が来たのだ。

 フーリギアはベルベッド城の攻防戦に強い関心を持っていた。その勝敗がそのまま国の命運を左右すると言っても過言ではないのだから当然だ。そこで斥候を出して攻防戦を監視させていたのだ。

 ベルベッド城の攻防戦は半日もかからずにアルテンシア軍の勝利で終わった。十字軍の壊走とラウスフェルドの遁走を確認した斥候たちは、その結果をすぐさま王都にいるフーリギア王へと伝えた。

 ベルベッド城の陥落と十字軍の敗走を知ったフーリギア王は、すでに夜半過ぎであったにもかかわらず全ての重臣を招集し緊急会議を開いた。朝日が昇るころまで続けられたその会議でアルテンシア軍に降伏することが決定され、すぐさまベルベッド城にいるシーヴァに対して使者が送られた。

 フーリギア側の使者として選ばれたのはハウクエーゼン伯爵である。未明から夜明けにかけて行われた会議に出席し、そのまま使者として馬を飛ばしベルベッド城にやってきた彼の目元には大きな隈があったと言う。

 停戦する旨をしたためたフーリギア王の親書を確認すると、シーヴァはハウクエーゼン伯と降伏条件についての大まかな条項について話し合った。シャトワールとブリュッゼと同じように主権と領土を安堵するという内容であり、ハウクエーゼン伯は大いに胸をなで下ろし、そのまま極度の疲労のため倒れこんでしまった。

 ただ、「戦う前に降伏した国」と「戦いに負けてから降伏した国」を同じように扱うのは不公平ではないか、という意見も出された。ベルベッド城に籠城していた十字軍にはフーリギアも軍を派遣していたからだ。そこでアルテンシア軍の遠征費の一部負担、ということで折り合いがつけられた。国土の割譲や長期的な賠償が盛り込まれなかったのは、やはり破格と言っていい。

 そして後の細かい調整と正式な調印をリオネス公に任せ、シーヴァはベルベッド城を発ったのである。二千の兵をベルベッド城に残し、残りの七万八千を率いての西進再開であった。

 この時、シーヴァはブリュッゼにいるイルシスク公とゼーデンブルグ要塞にいるウェンディス公にそれぞれ使者を送り命令を伝えている。

 イルシスク公に対しては、降伏の正式な調印後をリオネス公から引き継ぎ、シャトワール・ブリュッゼ両国と共にフーリギアの監督もするように命令を出した。

 ウェンディス公に対しては、ゼーデンブルグ要塞にいる予備部隊の中からベルベッド城に詰める兵を送るように命令した。さらにリオネス公には予備部隊が到着し次第、城に残した二千の兵を率いて本隊に合流するよう命令してある。

 ちなみにベルベッド城に入った兵たちの仕事は、城の防衛、物資の管理、そしてシーヴァが破壊した城壁の応急的修理、であった。

 そしてついにシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍は、教会勢力の中枢とも言うべき神聖四国へと侵入したのである。

**********

「父上、お話があります!」
「………シルヴィアか、何のようだ?」

 そう言いつつも、アヌベリアスには娘の考えることなど手に取るように分っている。そのせいか、彼の声は少し苦い。

「ベルベッド城が落ち、ラウスフェルド殿は遁走されたとか」
「………そうだ」

 教えた覚えのないことをシルヴィアが知っていることに、アヌベリアスは小さく舌打ちした。ベルベッド城の陥落と十字軍の敗退についてはすでに広く知れ渡っている。事が事だけに伝わるのが早いのは分るが、それにしても早すぎる気がする。まるで誰かが意図的に広めているようにさえ思えた。

(いや、これは被害妄想か………)

 意図的に情報を広めているとしたら、それはアルテンシア軍の仕業だろう。アルテンシア軍の諜報員が神聖四国内に紛れ込んでいるのは、ほぼ間違いないのだろう。しかし自分たちに都合の悪い事柄をすべて敵の仕業にして片付けてしまうのは、戦時にありがちな思考の停止であるようにアヌベリアスには思えた。

 なんにしても統制が弱まっている、という事実は否定できない。つまりそれだけ教会勢力の力が弱まってきている、ということだ。一般の民衆にさえ広く知れ渡ったベルベッド城の陥落と十字軍の敗退の知らせは動揺と混乱を生じさせ、それは厭戦気分を高める結果となっている。

「アルジャークの方はどうなっていますか」
「交渉を継続中だ」

 交渉とは言うまでもなく派兵の交渉のことだ。アルテンシア軍に対抗できそうなのはもはやアルジャーク軍しかない。逆を言えばアルジャーク軍を引っ張り出さない限り教会の滅亡はほぼ確実で、まさに命運をかけた交渉の真っ最中であった。

「つまり、今はまだアルジャーク軍は動かない、ということですね」

 しかし交渉の進行状況は思わしくなく、未だアルジャーク軍の派兵は決まっていない。もともと教会や神聖四国は格上の立場から命令することにしか慣れておらず、同等かあるいはそれ以上の相手と交渉するのはほとんど初めてであると言っていい。そのため交渉役の人間は不慣れでまた稚拙であり、なかなか望むような合意が得られないのだ。

 それでも、交渉の最初はまだ余裕があった。ベルベッド城がアルテンシア軍を防ぐと期待されていたからだ。戦況で優位に立てれば、あるいは優位に立てるという見込みがあれば、それはアルジャークとの交渉においても有利に働く。

 しかしベルベッド城があっさりと陥落してしまったために事情が変わってしまった。この先、十字軍がアルテンシア軍に勝てる見込みはほとんどない。教会勢力が、いや教会と神聖四国が生き残るためには、なんとしてもアルジャーク軍に動いてもらわなければならなくなったのだ。今頃、交渉役を押し付けられたルシアス・カント枢機卿はなりふり構わず相手にすがり付いていることだろう。もっとも、そのせいで足元を見られているのかもしれないが。

 それはともかくとして。アヌベリアスにしても交渉の進行状況になど興味は無い。重要なのはその成否だ。そしてアルジャーク軍を未だに引っ張り出せないということは、交渉は失敗続きである、と見ていい。

「ラウスフェルド殿の後任は決ったのでしょうか?」
「………まだだ」

 シルヴィアは淡々と事実を確認していく。そしてそれはアヌベリアスにとって、少しずつ外堀を埋めていかれることに等しいものだった。

 ベルベッド城から遁走したラウスフェルドは、もう|使い物にならない《・・・・・・・・》。シーヴァへの恐怖をトラウマとして刷り込まれてしまった彼は、自室から出てこないそうだ。

 そのため、新たな総司令官を決めなければならない。新たな総司令官もやはり神聖四国の王族かその血筋にある者が望ましいが、なり手がいないのが現状だった。

 理由はいろいろある。

 まず、能力的になり手がいない。つまり戦術に通じ軍を指揮できる人材がそもそもあまりいないのである。とはいえ、総司令官に神聖四国の王族を求める最大の理由は、兵士たちの団結の象徴にするためなので、能力が足りていないのは決定的な理由にはならないだろう。

 だから一番大きい理由は、十字軍にもはや勝ち目が無いことだろう。負けるのが決まっている、あるいは敗北が濃厚な軍の指揮など誰もやりたがらない。当然である。

 さらに国内の混乱がある。教会勢力の国々では、第一次十字軍遠征以来負けが続いているためなのか、国家の権威が揺らぎ国内で混乱が見られるようになっていた。それは犯罪の増加であったり、不穏分子の活動が活発になったりと、いろいろな形で現れている。そしてそれは神聖四国においても同じであった。そのため国内の引き締めに信頼できる人材が必要になり、十字軍の必要にまで手が回らないのが現状だった。

「父上、ここはやはりわたくしが………」
「駄目だ。お前が戦場に立つ必要はない」

 アヌベリアスは娘の言葉を遮った。シルヴィアは現在、国内での役職は持っていない。そして自ら望んで十字軍の総司令官になりたいという。彼女の指揮能力がどれほどのものか、それはまだ未知数でおそらくはたいしたことはないのだろうが、それは補佐する人間がいれば解決する問題でもある。

 確かにシルヴィア・サンタ・シチリアナはラウスフェルドの後任としてそれなりに適した人物であろう。それはアヌベリアスも承知している。承知した上で、それでも彼は娘を敗北が濃厚な戦場になどやりたくは無かった。

 戦場で戦うのは、男の仕事だ。今の時代、歴史を動かしそして作っているのは、ほとんどが男性である。国を興し、戦場で戦い、政を行う。その全てが、男性の主導で行われている。自分の才覚を存分に発揮する場が、男性には開かれているのだ。

 それに対し、女性の個人的な人格や能力が必要とされることなど、ほとんど無い。彼女たちに求められているのは多くの場合、血筋や家柄、そして財産などだ。一個の人格としての尊厳が無視されていると言ってもいい。

「綺麗な人形。最高のトロフィー」

 今の時代の女性、特に上流階級と呼ばれるな女性たちは究極的にはそういう風に見られているのではないか、とアヌベリアスは思う。

 そしてだからこそ、女性が戦場に出て行く必要などないのだ。そこでしのぎを削り血を流して歴史の趨勢を奪い合っているのは、男たちである。望む未来を力ずくで手に入れようとしている以上、その結果が敗北であるのなら受け入れなければならない。それが己の才覚で歴史に名を残そうとする男の責任であり覚悟なのだ。

 しかし女性にそのような責任と覚悟は求められていない。安穏とした箱庭に押し込められる代わりに、その箱庭の中で平穏を享受する権利が彼女たちには与えられているのである。

 戦場に立つのは男の仕事、いや責任である。女であるシルヴィアがそれを肩代わりする必要ない。彼女には別の仕事があるのだから。

「それよりも、やはりお前はアルジャークに行け」

 無論、人質として、そして将来的には皇帝クロノワの妃として、である。アヌベリアスはシルヴィアを送ることで、停滞しているアルジャークとの交渉にテコ入れをしようと考えたのだ。ベルベッド城を落とされて切羽詰っているこの状況なら、他の三国も「自分だけ助かるつもりではないのか」などと言いがかりを付けてくることもないだろう。

「私がアルジャークに赴いたとして、果たして間に合うでしょうか」
「どういう意味だ?」
「これはわたくしの勘ですが、おそらくシーヴァ・オズワルドは神聖四国内にかなりの数の諜報員を潜ませているはず」

 これまでシーヴァは進軍の速度をかなり抑えていた。そのおかげで教会と神聖四国は今の今まで生きながらえてこられた、とも言える。また周辺の村や町の人々は十分な余裕を持って避難することが出来ている。

 ただ、それがシーヴァの目的でないことは明らかだ。彼は遠征の難しさをよく知っており、兵士たちが常に余力を残せるようにしているのだ。

 しかし、シルヴィアはそれだけが理由ではないと見ている。シーヴァはアルテンシア軍が十字軍を撃破し進軍していく様子を、教会勢力の国々に見せ付けているのだ。そうやって恐怖を煽るのと同時に降伏になびく時間を与え、教会勢力を分裂させようとしている、というのがシルヴィアの見立てだ。

 しかしここでシルヴィアがアルジャークに行くことになれば、どうだろうか。サンタ・シチリアナ内にもアルテンシア軍の諜報員は潜り込んでいる。彼らはすぐにそれを察知してシーヴァに伝えるだろう。

 このタイミングで神聖四国の姫がアルジャークに赴く理由など、一つしかない。すなわちアルジャーク軍への派兵要請。シルヴィアはそのための人質である。

 シーヴァ・オズワルドであれば、その程度のことはすぐに見抜くであろう。そして見抜いた後、これまでどおり速度を抑えた遠征を続けてくれる保証は無い。

「アルジャーク軍が来る前にアナトテ山を落とす」

 そう決断し、まるでアルテンシア同盟に対する革命初期のような疾風怒涛の勢いで進撃を開始するかもしれないのだ。そうなったとき、アルテンシア軍を止められる戦力は、もはや教会勢力には残されていない。

「しかしそれは全てお前の憶測であろう?」

 アヌベリアスの言うとおりこれらはすべてシルヴィアの憶測であり、なんら確証のあるものではない。当る可能性もあれば、外れる可能性もある。その程度のものでしかないのだ。

 シルヴィアの言うとおりサンタ・シチリアナにもアルテンシア軍の諜報員は紛れ込んでいるだろう。どの程度の諜報活動をしているのかは分らないが、それはアヌベリアスも感じ取っている。しかしだからと言って、彼らに気づかれずにシルヴィアをアルジャークに送る方法が無いわけではないのだ。

「しかし、それでも時間が足りるかは疑問です」

 シルヴィアがアルジャークに行くまでの時間。そしてアルジャークが軍を組織し、その軍が極東から大陸中央部まで来るのにかかる時間。それだけの時間が果たして教会勢力に残されているだろうか。

 父と娘の視線が擦れる。ため息をつき先に視線を外したのはアヌベリアスの方だった。

「なぜそうまでして戦場に出たがる?先ほども言った通り、お前が戦場に立つ必要はないのだ」
「必要はないかもしれません。ですが、理由はあります」

 わたくしは祖国を愛しています、とシルヴィアは言った。

「女の身でありながら戦場に立つ理由は、それで十分ではありませんか」

 もちろん打算や思惑は色々とある。しかし結局のところそれは想いを正当化するための理論武装に過ぎない。

「愛する祖国を守りたい」
 それがシルヴィアの根っこにある想いである。

 アルテンシア統一王国が一方的に悪であるとは思わない。二度も十字軍遠征を仕掛けさらには三度目を画策した教会勢力にも大きな非がある。しかしだからといって、それは祖国が蹂躙されるのを許す理由にはならない。ましてや自分だけがアルジャークに逃れるなど、言語道断である。

「わたくしはこのサンタ・シチリアナに育てられて、いえ、生かされてきました。ならばこの命、祖国を守るために使いとうございます」
「………アルジャークに行くことも、祖国を守ることに繋がるのだぞ?」

 もはや無駄と知りつつ、アヌベリアスは説得を続けた。

「確かにその通りでしょう。ですが、自分の手で祖国を守りたいのです」

 仮に祖国が滅ぶのならば、この身もまた共に。シルヴィアはそう言って自分の覚悟を述べた。

 シルヴィアとて自分が戦場に立てばシーヴァに勝てる、などとは思っていない。恐らく、いや確実に負けるであろう。しかし勝てないことを前提にすれば、時間を稼ぐような戦い方はできるはずである。

 ルシアス枢機卿がアルジャークの協力を取り付けるまで時間を稼ぐ。それがシルヴィアの目的だった。

「………まったく。今ほどお前が男であれば、と思ったことはないぞ」

 椅子の背もたれに体を預け、苦笑を漏らしながらアヌベリアスはそういった。

「女の身なればこそできることもありましょう。たとえそれが戦場であっても」
「そう願いたいものだ」

 そういってひとしきり苦笑すると、アヌベリアスは背もたれから体を起こして立ち上がり、国王としての顔をシルヴィアに向けた。部屋の雰囲気が一気に厳粛なものへと変わった。

「シルヴィアよ」
「はっ」

 国王アヌベリアス・サンタ・シチリアナの呼びかけに、シルヴィアは片膝をついて臣下の礼を取り答えた。

「汝に命ずる。シチリアナ軍を率いて十字軍に合流し、アルテンシア軍の侵攻を防ぐのだ」
「御意」
「………シルヴィア」

 頭を下げる娘にアヌベリアスは再び声を掛けた。その声は王ではなく父親としてのもので、それを聞き取ったシルヴィアも臣下の礼をといて立ち上がる。

「教会と神聖四国を頼む」
「はい。お任せください、父上」

 こうしてまた歴史という舞台の上に役者が上がる。果たして彼女が演じるのは喜劇かそれとも悲劇か。




[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ6
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:53
「では条件面はこれで合意と言うことで………」
「はい………、大丈夫です………。これでお願いします」

 片や満足感を漂わせる張りのある声。片や疲れきったかすれた声。対照的な声が部屋に響いた。

「それではこちらの書類にサインを」

 アルジャーク帝国宰相ラシアート・シェルパに促されるまま、教会の交渉役であるルシアス・カント枢機卿は渡された条約締結の書類にサインする。さらに両者はお互いの書類を交換して、もう一度サインをする。こうして二通の書類に二人のサインがそろい、正式に条約が締結されたのである。

 東の大国アルジャークと教会が条約を締結したのだ。本来であれば盛大な式典でも開くべきなのだろうが、今回に限って言えばそのようなことをしている時間はない。アルテンシア軍はすでに神聖四国の一つサンタ・ローゼンの国内に侵入しており、目指すアナトテ山まで距離はもうそれほど残されていない。アルテンシア軍の侵攻を防ぐため、アルジャーク軍の派兵は一刻を争うのである。

 そう、「アルテンシア軍に対抗するためアルジャーク軍を担ぎ出す」。それこそが、ルシアスが結んだこの条約の目的であった。

「そ、それで、援軍は………!」

 ラシアートに縋り付くようにしてルシアスは尋ねる。条約の締結が目的なのではない。アルジャーク軍がアルテンシア軍を撃退して初めて、教会は生き延びることができるのである。つまりアルテンシア軍がアナトテ山を制圧してからアルジャーク軍が到着するようなことになれば、この条約にはほとんど何も意味がないことになってしまう。

「可能な限り速やかに」

 心休まらない交渉を重ね心労で疲れ果てたルシアスの肩に手を置いて、ラシアートは言い聞かせるようにそういった。

「左様、ですか………」

 ルシアスとしては納得できる答えではない。しかし軍をどのように動かすかはすべてアルジャークが自身の裁量で決めるべきことで、教会の枢機卿であるルシアスが口を挟むことはできない。ラシアートがそういうのであれば、それを受け入れるしかない。

「くれぐれも、よろしくお願いします………」
「はい、全力を尽くすことをお約束します」

 少し休ませていただきます、と言ってあてがわれた客室に引き上げていくルシアスの背中を、ラシアートは苦笑気味に見送った。

(ずいぶん衰弱しておられるな………)

 その責任はアルジャーク側の交渉役であったラシアートにあるだろう。ラシアートが必死の懇願とも言えるルシアスの要請をことごとくかわし続けてきたせいで、彼は加速度的にやつれていってしまったのである。

(未熟者の相手をするのは、楽なことは楽なのですが、少々心が痛みますね………)

 苦笑しながらラシアートは廊下を歩く。彼の小脇には、先ほどラシアートとルシアスが署名した書類がある。彼が向かっているのは、皇帝であるクロノワの執務室だ。そして恐らくはアールヴェルツェもそこにいるはずである。

「陛下、ラシアートです」
「どうぞ」

 部屋の前を守っている兵に軽く手を上げてから部屋の扉をノックすると、すぐに答えが返ってきた。兵が扉を開けてくれ、ラシアートは室内に入った。

「ルシアス枢機卿との交渉は?」
「今さっきまとまりました。ベルベッド城が落ちたと言う知らせがよほど利いたのでしょうね。こちらの要求をほぼ丸呑みさせることができました」

 教会とアルジャークの交渉は、当初条件面での折り合いがなかなかつかなかった。金欠でできるだけ安くしておきたい教会に対し、援軍をだして傭兵扱いされるのならなるべく高く売りつけたいアルジャーク。両者の溝はなかなか埋まらなかった。

 状況が動いたのは通信用の魔道具である「共鳴の水鏡」を用いた連絡により、ベルベッド城陥落の知らせが届いた時である。

「ベルベッド城に籠城してアルテンシア軍を防ぐ。そしてその間にアルジャークを動かし援軍を出させることができればなおいい」

 それが今回のアルテンシア軍の侵攻における十字軍の基本的な方針であることは当然ルシアスも知っているし、アルジャーク側も「それ以外には無いだろう」と見ている。

 それなのにベルベッド城がこうも簡単に落ちてしまった。それはつまり、なんとしてもアルジャーク軍を引っ張り出さない限り、もはや教会の生き残る道はないことを意味していた。結果、ルシアスはアルジャーク側の要求を丸呑みしてでも、早期に援軍を出してもらえるように決断したのである。いや、正確には「させられた」と言ったほうが正しいのだが。

「宰相殿も人が悪い」
「いえいえ。できるだけ高く売りつけてやれ、というのが陛下のご命令でしたからな」
「おや、私のせいですか?」

 アールヴェルツェ、ラシアート、クロノワ。アルジャーク帝国を率いる三人は揃って苦笑した。

「とはいえこうも簡単にベルベッド城が落ちたのは、こちらとしても想定外ですな………」
「左様。これでアルテンシア軍とは、ほとんどサシで戦わなければならなくなりました」

 ラシアートは決して、ベルベッド城が落ちるまで交渉を引き延ばしていたわけではない。最終的には援軍を出すことがほとんど決まっていたから、防衛の拠点としてベルベッド城は健在なほうがいいに決まっている。ただ長引けばそれだけ十字軍は苦しくなり、そうすれば交渉がアルジャークに有利になると踏んでいたに過ぎない。

「まあ、なんにせよアルテンシア軍とは野戦で雌雄を決することになったでしょうから、それほど問題はありませんよ」

 クロノワは気楽にそういった。確かにベルベッド城が健在だったとしても、アルジャーク軍までそこに立て籠もることはなかったであろう。十字軍と合流し打って出るか、あるいは奇襲を狙って側面か背後を突くか。なんにしてもアルジャーク軍は野戦を挑むことになる。

「でもまあ、遅れて間抜けを曝すのは、遠慮したいところですね」

 クロノワは静かにそう呟いた。さんざん交渉を引き延ばした挙句、援軍をつれて到着したとき、すでに教会が崩壊していたらそれは確かに間抜けであろう。

 ただ、クロノワ個人としてはそれでもいいと思っていた。そうなったらさっさと逃げ帰るのみである。後世の歴史家からは「間抜け」のレッテルを貼られるだろうが、アルテンシア軍との正面衝突を避けられるのならそれでもいい。

 しかしどのような思惑があるにせよ、教会との条約はすでに締結されたのだ。援軍を出す代わりに多大な見返りを貰うことを約束したのである。ならばそのために全力を尽くすのが筋と言うものだろう。

 クロノワの口元には先ほどまでと同じく気楽そうな笑みがあるが、目は笑っていない。彼の鋭い視線が空気を引き締める。主君の雰囲気が変わったことを察し、アールヴェルツェとラシアートも表情を改めた。

「アールヴェルツェ、軍の準備は?」
「すでに整えてございます。主力部隊はすでにオムージュ領のラキサニア国境近くにて待機しております。我が軍がラキサニアを通過する許可もすでに取っており、あとは我々が合流すればすぐにでも動けます」
「後方部隊は?」
「万事抜かりなく」
「兵站については神聖四国も最大限協力してくれることになっています。普通に補給線を伸ばすよりは楽に済むでしょう」

 アールヴェルツェとラシアートの言葉にクロノワも頷く。

「………本当に、親征なさるのですか?」

 少し心配そうにアールヴェルツェはクロノワに尋ねた。彼の懸念はクロノワにも分かる。今回の遠征は今までのものとはわけが違う。敵はかの英雄シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍である。これまでで最も危険な相手であると断言できる。

 さらに、現在アルジャークの帝室はクロノワ一人である。万が一彼が戦死でもしたらアルジャーク帝国は内部分裂を起こしてしまう。危険な戦場には出ず、安全なところで待っていてほしいというアールヴェルツェの気持ちはクロノワにもよく理解できた。

「ええ、そのつもりです」

 しかしそれでもクロノワの決意は翻らない。彼は今回どうしても親征すると決めていた。
 それらしい理由はいくつかあげることができる。しかしそのような理論武装とは違った区別の部分で、クロノワは今回は親征しなければならないと感じていた。

 一言で言えば、直感である。この戦いは何かが起こる。そしてその何かが起こったとき、シーヴァ・オズワルドと同格であるこのクロノワ・アルジャークがそこに居なければいけないような気がしたのだ。

 とはいえ、クロノワに未来を見通す力などない。だからただの予感に過ぎないこの直感は誰にも話してはいない。ありきたりな理論武装でゴリ押しして、アールヴェルツェとラシアートの二人に親征を納得させたのだ。

 アールヴェルツェが不承不承ながらも引き下がったのを見て、それからクロノワはラシアートのほうを向いた。

「後のことはラシアートに任せますので」
「は、お任せください」

 後のこと、というのはもちろんクロノワが国を空ける間の内政のことだ。しかしクロノワがラシアートに任せたのはそれだけではない。

 アルジャーク帝国は今回教会に援軍をだす対価として、教会が大陸の中央部に作り上げた物流網の使用権を獲得している。これはこの先、アルジャーク帝国が交易の分野で勢力を拡大していくのに大いに役立つと期待されていた。

 そしてその物流網の基点となっているのが、エルヴィヨン大陸南西の端に位置する貿易港、ルティスである。

 ルティスは大陸でも間違いなく三本の指に入る大きな貿易港である。実際、
「世界の富はルティスに集まる」
 とさえ言われており、その繁栄ぶりには輝かしいものがある。ルティスがそれほどまでに繁栄できた最大の理由が教会との蜜月にあることは、周知の事実だ。

 ルティスはもともとオークランドの一都市でしかなかった。しかし教会と強く結びつくことで半ば独立し、そして貿易港としても地位を不動のものにしていった。立ち位置としては独立都市ヴェンツブルグに似ていると言える。

 ただ、ヴェンツブルグが現在はアルジャーク帝国によって自治権を保障されているのに対し、ルティスの自治権を保障しているのは教会である。つまり教会はルティスを押さえることによって大陸中央部における物流を支配していた、と言っていい。

 そこへアルジャークはこのたび進出しようと言うのである。しかもラシアートがまとめた条約の中身は「使用権」などという生易しいものではない。実質的にこれまで教会が築き上げてきた物流網の乗っ取りに等しいもので、この先ルティスはアルジャークのもの、と言っても過言ではない。

「可能な限り早く、フィリオをルティスにやるつもりです。」

 フィリオ・マーキスはシラクサとの通商条約をまとめた人物で、現在アルジャークで海上交易の分野に最も通じている人材の一人である。一緒に机を並べて勉学にはげんたこともあるクロノワにとって、彼は数少ない同年代の友人であり信頼できる腹心だ。

「ルティスさえ掌握してしまえば、あとはどうとでもなります。フィリオには頑張ってもらいましょう」

 ラシアートの言葉にクロノワも頷く。実際問題として、教会がどれほど|もつ《・・》のかは怪しいものがある。アルテンシア軍を退けたとしても、それで教会が持ち直すのかと言われれば答えは否だろう。遅かれ早かれ教会は組織としての呈を保つことができなくなって崩壊する。クロノワやラシアートはそう見ている。そうなったとき、貰った大陸中央部の物流網が使えなくなっては困るのだ。

 そこで重要になってくるのが、物流網の基点となっている貿易港ルティスである。仮に物流網が使えなくなったとしても、そこさえ抑えていれば新たな物流網を築くことは容易である。

 それにクロノワが特に力を入れているのは海上の交易であり、ルティスはそのための得がたい拠点でもある。ルティスをアルジャークのものにできるだけでも、今回援軍を出す価値があるかもしれない。

 クロノワは一つ頷いた。後のことはラシアートに任せておけば何も問題はない。今時分が集中すべきはアルテンシア軍との、ひいてはシーヴァ・オズワルドとの戦いのほうである。

「では行くとしましょう、アールヴェルツェ。戦場へ」
「………御意」

 まだなにか言いたそうではあったが、それは飲み込んだのだろう。アールヴェルツェは頭を下げた。彼はクロノワとは長い付き合いである。クロノワの決意が固く、なにを言っても無駄だと分ったのだろう。

「陛下の御身はこの帝国にとって何よりも大切なもの。なにがあっても生きてご帰還してください」
「ええ、分っています」

 ラシアートの言葉にクロノワも頷く。仮にアルテンシア軍に負けて敗走したとしても、皇帝たるクロノワさえ生き残っていればアルジャーク帝国は安泰である。大国としての、また極東の覇者としての地位を失うことはない。

 しかし、逆に勝ったとしてもクロノワが戦死するような事態になれば、帝国は内部分裂してしまうだろう。そうなれば全てを失うといっても過言ではいない。つまりクロノワの生き死には、戦場での勝敗よりはるかに重要なことなのだ。

「アールヴェルツェ将軍も陛下のこと、くれぐれも宜しく頼みましたぞ」
「この命に代えましても」

 ラシアートの頼みに、アールヴェルツェも胸に拳を当てて答える。それで多少は安心したのか、ラシアートの表情が少し柔らかくなった。

 そのおよそ二時間後、アルジャーク帝国帝都オルクスのボルフイスク城から五百騎ほどの軍勢が出立した。それらの軍勢は土煙を上げながら進路を西へと取る。目指すは教会の総本山たるアナトテ山。

 舞台に役者が揃おうとしていた。

**********

 教会とアルジャーク帝国の間に条約が締結されたちょうどその頃、サンタ・シチリアナの王女シルヴィアは三千のシチリアナ軍を率いてアナトテ山の近くまで後退してきた十字軍に合流した。十字軍の総司令官は未だにラウスフェルドの後任が決まっておらず、参謀長が一時的に全軍の指揮権を預かっていた。

 十字軍に合流したシルヴィアは、しかし総司令官になることはできなかった。アヌベリアスが危惧し、そしてシルヴィア自身も覚悟していた通り、女性であるがゆえになめられたのだ。

 シルヴィアを総司令官にしなかった十字軍は、その上総司令官の不在を理由に動こうともしない。そのような十字軍にシルヴィアはさっさと見切りをつけてシチリアナ軍を率いて独自行動を開始した。本来ならば許されないのだろうが、こういう時、神聖四国の王女という肩書きはなかなか便利である。

 ただ、やはり印象は良くない。

「ふん。軍略を知らぬ小娘が、五千にも満たぬ寡兵を率いてなにができるというのか」

 十字軍の上の方、特に年寄り連中がこの手の陰口を叩いていることはシルヴィアも承知している。しかしながら彼女に言わせれば、

「これまで大軍を率いながらも、三度にわたり敗北した者どもが何を言っても負け惜しみにしか聞こえぬ」

 ということらしい。どうやら毒舌のやり合いではシルヴィアの方に分があったようだ。

 さて、ふがいない十字軍に見切りをつけ独自行動を開始したシチリアナ軍は、南西の方向へ向かいアルテンシア軍を求めた。

「アルテンシア軍の様子はどうじゃ?」

 アルテンシア軍の歩みは遅い。しかしゆっくりでありながらも、確実に前進してきている。サンタ・ローゼン国内の砦や城を一つずつ、まるで見せ付けるかのように落としながらアナトテ山へと向かっているのである。

 いや、見せ付けるかのように、ではない。見せ付けているのだ。

 アルテンシア軍の城砦の落とし方は、ひどく単純である。ベルベッド城の場合と同じように、シーヴァが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を用いて城壁か城門を破壊し、そこから全軍が流れ込み敵の拠点を制圧するのである。

 ベルベッド城の場合と異なっているのは、シーヴァは落とした城砦を拠点として用いることはせず、完全に破壊しつくしているところだろう。

 これは示威行動である、とシルヴィアは見ている。つまり圧倒的な力を見せ付けることで、教会勢力下にある国々を威嚇しているのである。

「これ以上教会に協力するのなら容赦せんぞ」
 とつまりはそういうことであろう。

 それに加え、わざと速度を落としてゆっくりと行軍することにより、シーヴァは各国に教会と手を切る時間を与えている。アナトテ山を制圧する前に、可能な限り教会の勢力をそいでおきたいのだろう。

 このシーヴァの目論見は現在かなり成功していると言っていい。今では神聖四国だけが教会の味方をしているような状態だ。十字軍が動こうとしないのは、アルテンシア軍に野戦を仕掛けるのを躊躇っているのもあるが、各国からの兵の補充が思うように行かず数が足りていないのが大きい。

「どんなに小さくてもいい。まずは勝利を拾うことじゃ」

 シルヴィアはそう考えている。十字軍はシーヴァにこれまで負け続けている。その上、一度として勝てたためしがない。そのせいで十字軍の兵士たちは、「アルテンシア軍には何をしても勝てない」と最初から諦めている節がある。

 だからこそどんなに小さくても些細でもいいので勝利を拾い、「勝てるのだ」ということを証明しなければならない。勝てると思えれば兵の士気は上がるだろうし、また兵を出し渋っている各国もまた教会に味方をしてくれるかもしれない。

 そしてなによりも、無敵のアルテンシア軍に土をつけたとなれば、シルヴィアは大きな武功を手にすることになる。その武功さえあれば、頭の固い十字軍の仕官どもを黙らせて総司令官になることができるだろう。なれなかったとしても、確実に十字軍内におけるシルヴィアの発言力は増す。

 アルテンシア軍を足止めしアルジャーク軍がやってくるまでの時間を稼ぐには、どうしても十字軍の力が必要である。そのためにも、早く十字軍を動かせる立場にならなければならないのだ。

 急く心を抑えてシルヴィアは手ごろな相手を求めて軍を進める。そんな彼女の前にまさしく手ごろと思える敵が現れたのは、シチリアナ軍が独自行動を開始してから四日後のことであった。

 四方に放っていた斥候が持ち帰った情報によると、アルテンシア軍の分隊を発見したと言う。その数、およそ千。シチリアナ軍の三分の一程度だ。

「ちょうどよい規模の敵じゃな」

 シルヴィアは目を輝かせた。敵の戦力が千程度ならば、勝つことはそう難しくはあるまい。なにしろシチリアナ軍は三千の兵を有しているのである。

 ただ逆を言えば、同じ数であれば恐らく勝てないということでもある。それほどまでに兵の質が違うのである。そういう意味では、見つけた敵部隊が千程度であったことはまさしくシチリアナ軍にとっては僥倖であったと言える。

 ちなみにこの部隊を率いていたのはガーベラント公であった。彼はシーヴァの率いる本隊から分かれ、先行するかたちでサンタ・ローゼンの地を進んでいたのだが、その時シルヴィア率いるシチリアナ軍とかち合ったのである。

 当然、ガーベラント公はシチリアナ軍の接近を察知していたし、その戦力が自分の部隊の三倍近いことも知っていた。

 敵部隊の接近に際し、ガーベラント公は迷った。

 今、自分の部隊は本隊よりも先行しているが、それは戦略的に考えてこの先どうしても必要というわけではない。まして敵の戦力は、数だけ見ればこちらの三倍近い。ならば戦う前に撤退して本隊に合流したほうが良いのではないか。

 しかし、アルテンシア軍は現在のところ連戦連勝で、非常に士気が高い。ここで戦わずに後退したとなれば、連勝に水を差すことになりかねない。また、十字軍ははっきりと弱い。三倍の敵と言えど、撃破は十分に可能なようにも思える。

 あれこれと考えているうちに、ガーベラント公率いるアルテンシア軍はシルヴィア率いるシチリアナ軍に接近してしまった。彼は決して優柔不断な武将ではない。この場合、アルテンシア軍分隊の存在を知ってから神速果断に行動したシルヴィアとシチリアナ軍を褒めるべきであろう。

 なにはともあれ、互いを視認できるほど近づいてしまっては、いきなり背中を見せて後退するのは危険である。ガーベラント公は慌てることなく、すぐさま全軍に戦闘隊形をとるように命じた。

 ガーベラント公は勝つ気でいた。隙を見て撤退する、などということは考えていない。十字軍は弱い。それはこれまで戦ってきた中で十分に分っている。たとえ兵の数で劣っていようとも、十分に勝機はあると計算していた。

 しかし実際に戦闘が始まってみると、ガーベラント公は考えを改めなければならなくなった。別にアルテンシア軍が劣勢になったわけではない。現状でも五分五分、いやそれよりも多少優位に立っているだろう。

 しかし、シチリアナ軍は今までの十字軍のように簡単に崩れてはくれない。確かに兵は弱いのだが、士気の高さがそれを補っている。その点だけ見ればシチリアナ軍はアルテンシア軍を凌駕していると言っても過言ではない。そのせいで戦況では優位なはずなのに、精神的にはなんだか追い詰められているかのような、そんなチグハグな感覚さえ覚えてしまう。

(指揮官が変わったのか………?)

 ガーベラント公はそう思った。指揮を見る限り、戦術面においてはまだまだ未熟な指揮官であろう。しかし兵に命を捨てさせる、捨ててもいいと思わせる指揮官だ。シーヴァ・オズワルドという英雄を間近で見てきたガーベラント公は、そういう将が一番危険であることを良く知っている。

(退くか)

 ガーベラント公はそう決断した。最後まで戦えば、勝つことはできるだろう。しかしここでの勝利は、戦略的に考えてあまり意味がない。ならば無意味に兵を失う前に後退するべきであろう。

 ガーベラント公はまず、自分の周りに精鋭を集めた。それからその精鋭部隊を率いて突出して敵を押し戻し、その隙に後ろの兵から順に後退させていく。そしてそれを数度繰り返して全軍を後退させ、シチリアナ軍との距離が開くと一気に撤退を開始した。

 シチリアナ軍はその後を追わなかった。いや、追えなかった、と言ったほうが正しい。整然と後退していくアルテンシア軍に隙はなく、うかつに手を出せば手痛い反撃をくらうことが容易に想像できた。

 また戦場に横たわる死体は、アルテンシア兵よりもシチリアナ兵のほうが多い。あのまま戦っていれば恐らく最後には負けていたであろうということは、シルヴィアにも良く分っていた。

(それでも勝ちは勝ちじゃ)

 たとえそれが譲られたものだったとしても。兵たちの歓声を聞きながらシルヴィアはそう思った。

 勝てるのに退いたということは、先ほどのアルテンシア軍の指揮官はこの場での戦いに意味を見出さなかったのだろう。確かにアルテンシア軍にとってはそうかもしれない。しかしシチリアナ軍、ひいては十字軍にとってこの拾った勝利には大きな意味がある。

 敵にしてみればすぐにでも取り返せる負けだろう。いや、むしろ戦略的には撤退したほうが良かったとさえ考えているかも知れない。しかし十字軍にとっては幸運のすえに拾った得がたい勝利なのだ。

(せいぜい利用させてもらうかの、シーヴァ・オズワルドよ)

 シルヴィア自身のため、ひいては教会と神聖四国のために。

 シルヴィアが十字軍を率いても、おそらくアルテンシア軍には勝てないであろう。それは今日の戦闘からも分ってしまう。見せ付けられた、と言ってもいい。しかし、シルヴィアの目的は勝つことではない。アルジャーク軍が到着するまで時間を稼ぐだけならば、やりようはある。

 後に“聖女”と呼ばれる少女の戦いが、始まった。





*******************





「申し訳ございません」

 ガーベラント公は主君であるシーヴァ・オズワルドの前で片膝をついて頭をたれた。彼が謝罪しているのは、シチリアナ軍との遭遇戦において撤退してきたことについてだ。無論、ガーベラント公にはそれなりの理由があって撤退したのだが、それでも形式上アルテンシア軍が敗北した、という事実は動かない。彼はそれを謝罪しているのだ。

「かまわぬ。公の判断は適切であった」

 しかし、シーヴァはそれを咎める狭量な王ではない。鷹揚に頷くと彼はガーベラント公を立たせて席に着かせた。この話はもう終わった、という意思表示である。

 実際、ガーベラント公がそう判断したように、あの場での戦いに戦略的な価値はない。そうである以上、無意味に兵に損害を出す前に撤退したガーベラント公の判断はシーヴァにとっても好ましいものであった。仮にシチリアナ軍が本隊の前に立ちはだかったとしても、三千程度であればこれを破ることは造作もない。もっとも、敵もそのような無謀な真似はしないだろうが。

 それよりもシーヴァとしてはガーベラント公が話した、シチリアナ兵の士気の高さのほうが気になっていた。シチリアナ軍が単独で仕掛けてきたことといい、十字軍内部で何かしらの変化が起こっているのかもしれない。

「ガーベラント公、敵部隊の指揮官はどのような人物であった?」
「は。兵の動かし方を見る限りでは、指揮官としてはまだまだ未熟でしょう」

 ただ兵士たちの士気が高かったということは、それだけ慕われているということで、そういう意味ではやっかいな相手であるともいえる。ガーベラント公はそう分析した。

「それと、遠目に見ただけですのでなんとも言えませんが………」
「まだ何かあるのか?」
「は。敵の指揮官は、どうも女であったように見えました」

 ほう、とシーヴァは面白そうな声をもらした。サンタ・シチリアナに女性の将軍がいただろうかと記憶を探ってみるが、なかなか出てこない。

「もしや、王女のシルヴィア姫ではありませんか?」

 そういったのは、シーヴァの腹心の女将軍であるヴェート・エフニートである。女性の指揮官だったと聞いて、彼女も興味が出てきたのかもしれない。

「どのような人物だ、そのシルヴィア姫とやらは」
「確か今年で十七だったはず。聞いた話では弓と馬術に秀でているとか」

 なるほど、とシーヴァは頷いた。たしかに自国の王族、しかも王女が先頭に立っているとなればシチリアナ軍の士気が高いのは当然と言える。

「………如何なさいますか」
「どうもせぬ」

 シーヴァがこともなさげにそういうと、そこにいた一同は皆一様に呆けたような顔をした。

「弓と馬術に秀でている戦士ならば、我が軍にも多くいる。何も恐れることはあるまい」

 シーヴァの言葉に、その場にいた一同は納得したように頷いた。指揮官として優れているわけではないことは、ガーベラント公の話から分る。もしかしたらその才能はあるのかもしれないが、それが開花するまで待ってやる義理はない。

 そしてなによりも、アルテンシア軍を率いるのはシーヴァ・オズワルドである。シルヴィアが十字軍内でどのような位置にいるのかは分らないが、仮に全軍を率いる立場であったとしても、彼女はシーヴァには遠く及ばない。

 損傷が軽微とはいえ、今回の遠征で初めての敗北に多少浮き足立っていた人々に、冷静さが戻ってくる。この瞬間、アルテンシア軍に対するシチリアナ軍の今回の勝利の意味は完全に消えたといえる。

 しかし、十字軍内部における今回の勝利の意味は、アルテンシア軍が、いやシーヴァが考えていたよりもはるかに大きなものだったのである。

**********

 アルテンシア軍の分隊との戦いに辛くも勝利を収めたシルヴィアは、その余韻に浸る間もなく十字軍の駐屯地へと取って返した。

 シチリアナ軍が再び合流したときには、十字軍の士官たちはすでにシルヴィアが収めた勝利について知っていた。どうやら独自に斥候を放ち、戦況を監視していたらしい。

 あまりいい気はしないとはいえ、これはシルヴィアにとっても都合のよいことであった。たとえ彼女が「アルテンシア軍に勝利を収めた」と主張したとして、それが実際に事実であるにもかかわらず、頭の固い十字軍の士官たちはあるいは信じようとしなかったかもしれない。しかし自分たちが放った斥候による情報であれば、彼らも信じざるを得ないだろう。

 実際、士官たちのシルヴィアに対する態度は明らかに丁重になっていた。ようやくか、と内心で舌打ちしつつもシルヴィアはそれを表には出さず、美辞麗句を並べて彼女を称える士官たちにこう言った。

「すぐに主だった面々を集めていただきたい。お話があります」

 彼女の要望どおり十字軍の主だった人々が大きなテントの中に集められた。そこで真っ先にシルヴィアは口を開く。彼女が話をしても、侮るような雰囲気は生まれない。たった一度の、それも譲られた勝利が、シルヴィア・サンタ・シチリアナに対する評価を一変させてしまったのである。

「まず、十字軍の現在の戦力を教えていただきたい」
「七万と少し。神聖四国以外に兵を出す国がないのだ………」

 参謀長が苦々しくそう言う。ちなみに十字軍内部の序列では、まだ彼のほうが立場が上なので、敬語を使われなくてもシルヴィアは気にしない。

(ついに十万を切ったか………)

 シルヴィアは内心で盛大に顔をしかめた。アルテンシア軍の戦力はおよそ八万。ついに数的優位さえ失ってしまったことになる。これでどこを見渡しても十字軍がアルテンシア軍に勝てそうな要素がなくなってしまった。一応「地の利」というものがあるが、それは攻め込まれていることの裏返しでもある。

「十字軍の戦略目的は?」
「それはもちろん、敵軍を打ち破りシーヴァ・オズワルドの首を上げること………」
「本当にそれが可能であると思っておられるのですか?」

 シルヴィアの鋭し視線を受けて、参謀長は黙ってしまった。ベルベッド城が落とされ戦力の回復もままならないこの状況で、アルテンシア軍を破りさらにシーヴァの首を取ることなど不可能であると、その場にいる誰もが分っていた。

「では、シルヴィア姫にはどのような策がおありなのか、お聞かせいただきたい」

 参謀の一人が少し気色ばんでシルヴィアに尋ねた。シーヴァには勝てない、と言われプライドが傷ついたのかもしれない。そんな参謀の態度に影響されることなく、シルヴィアは静かに口を開いた。

「まず、戦略の主眼を変える必要があります」

 これまで十字軍は、アルテンシア軍を撃退し教会の勢力圏から追い出すことを目的としていた。しかし初戦で大敗し拠点と戦力を失ってしまったため、この目的はほとんど達成不可能になってしまった。

 そこでシルヴィアは新たな目的として、援軍、すなわちアルジャーク軍が到着するまでの時間を稼ぐことを提案した。しかし、その場にいた仕官や参謀たちは、最初その案に否定的であった。

「何時来るのか、いやそもそも本当に来てくれるのかも分らない援軍をアテにして戦うと言うのか」
「左様。時間を稼ぐのであれば、確実に援軍が来るという保障が欲しい」
「それに、アルジャーク軍であればアルテンシア軍に確実に勝てる、というわけでもあるまい」

 次々に反対意見を口にする参謀たちを見て、シルヴィアは腹の中に怒りを感じた。

(ぬるい………!ぬるすぎる!)

 現状に対する認識が。それを何とかしようという決意が。そのためには命を賭けなければならないという覚悟が。その全てが甘く、薄弱で、そしてぬるい。彼らのそのなっていない心構えのせいで、一体何人の兵士たちを死なせてきたのか。

「かつて勝利が約束されていた戦争があったとでもおっしゃるのか」

 シルヴィアの怒りは声音に滲んだ。小娘と侮っていたはずの彼女の声に押されるようにして、士官たちは口をつぐむ。

「勝利が確実と思われていた側が敗北した例は、歴史上に数多くあります」

 ゆえに絶対などというものはこの世に存在しない。とくに戦争においては。そこで保障や確証を与えることなど、誰にもできないのだ。

「それに、保障を欲しがっていられるような状況なのですか?今の十字軍は」

 そうではないはずだ。自力でアルテンシア軍を追い払うことができそうにない以上、他者の力を借りるしかない。そしてアルテンシア軍に対抗できるのは、大陸広しと言えどもはやアルジャーク軍しか残されていないのだ。

「教会もアルジャークに援軍の要請をされている。今はアルジャーク軍が動くと信じて時間を稼ぐほかありませぬ。ほかに策があると言うのであれば、教えていただきたい」

 シルヴィアの言葉に、その場にいた一同は黙ってしまった。不確実だ、といって反対するのは簡単だ。しかし反対するなら対案を出さなければならない。そして有効と思える案がなかったからこそ、十字軍は今まで動くことができなかったのだ。

「………アルジャーク軍が動かなかった、あるいは動いたとしても間に合わなかった場合は、どうなるのかね?」
「滅ぶだけです。教会も、神聖四国も」

 参謀長の問いかけに、シルヴィアは突き放したように答えた。援軍が来なければ十字軍は負ける、と彼女は断言したのである。無論、先ほど彼女が言ったとおり、戦場に絶対はない。しかし十字軍がアルテンシア軍に勝てる可能性は、万に一つ、いや億に一つくらいなものであろう。天変地異が重なってようやく勝てる、と言ったレベルだ。

「………どう時間をかせぐのか聞かせてもらいたい、シルヴィア姫」

 重苦しい空気の中、参謀長が口を開いた。絶望にも似た雰囲気の中、しかしシルヴィアはそれに侵されることなく凛とした声を響かせる。

「敵の補給線を断ちます」

 シルヴィアは簡潔に答えた。寡兵が大軍を相手にする場合、とるべき戦術は大きく分けて二つ。敵の大将首を取るか、敵の補給線を寸断するか。そういう意味では、シルヴィアの提案は常識的であった。

「具体的には?」
「まず四万程度の兵を残し、のこりを三千から五千の部隊に分けます。そしてそれらの部隊には単独で動いてもらい、敵軍の注意をひきつけます」

 無理だ、と言う声が上がった。仮に三万の兵を五千ずつに分けたとすると、六つの部隊が出来上がる。当然、部隊指揮官も六人必要になる。しかし、十字軍には単独行動の指揮が取れるような者は、ほとんど残されていないのだ。

「別に戦う必要はないのです。敵軍に十字軍のそういう部隊が幾つも動き回っている、という印象を与えることができれば」

 見つかったらすぐに逃げればよい、とシルヴィアは言った。実際に戦わなくて良いのであれば、指揮はそれほど難しくはないだろう。

「そして、それらの部隊に混じった精鋭部隊が敵軍の背後に回りこみ、敵の補給部隊を強襲するのです」

 つまり、陽動に紛れさせて精鋭部隊をアルテンシア軍の後ろに回りこませようというのである。同じような規模の部隊が周りで無意味に蠢動していれば、明確な目的を持っている精鋭部隊も同じように見えてくる。地の利は十字軍のほうにあるのだから、敵が油断してくれれば後ろに回りこむのはそう難しいことではあるまい。

「補給が続かなくなれば、いかに精強な兵といえども後退するほかありませぬ」

 そして後退してくれれば、その分時間がかせげる。後退にあわせて追撃をかけられれば一番良いのだが、そんなことをすれば手痛いしっぺ返しを喰らって崩壊させられるのは十字軍のほうであろう。

「アルテンシア軍はどう動くと思う?」
「複数の部隊が周囲で蠢動するのを気にしてなんらかの対応に出てくれれば、その分時間がかせげます。逆に無視してこれまでどおり侵攻するのであれば、背後に回りやすくなります」

 最も困るのは蠢動している部隊を全て各個撃破されることだが、こちらから積極的に攻撃を仕掛けない限り、アルテンシア軍はゆっくりとアナトテ山を目指すだけだろう。

 つまりシーヴァには自信があるのだ。なにをされても対応できると自信が。その自信は実力と実績に裏打ちされており、実際十字軍がどんなちょっかいを出したとしてもはね返されるのがおちだろう。

 しかし、シーヴァ・オズワルドといえど体が二つあるわけではない。遠く離れた場所での襲撃に対応できるわけではないのだ。どれだけ自信があろうとも、彼の手の届く範囲は決まっている。彼の自信に根拠はあるだろうが、兵士たちの自信に彼ほどの根拠はあるまい。シルヴィアの狙いはそこだった。

「後退するとはいっても、ベルベッド城までであろうな………」
「その通りかと」

 参謀長は難しい顔をして腕を組んだ。ベルベッド城を攻略したアルテンシア軍は、そこを自分たちの拠点として使っている。またベルベッド城には十字軍が持ち込んだ大量の物資がそのまま残っていたはずで、アルテンシア軍にしてみれば城まで後退できれば補給には事欠かない。

 またベルベッド城があるのはサンタ・ローゼンの隣の国であるフーリギアである。つまりそう遠くまで撤退してくれるわけではない。またアルテンシア軍が撤退した後、サンタ・ローゼンの国境付近に防衛線を引けるわけでもない。そのために必要な拠点はほとんど全てシーヴァによって破壊されているからだ。

 ようするに、補給線を断って一度アルテンシア軍を後退させたとしても、再侵攻を防ぐ有効な手段はないのである。時間がたてば今と同じ状況になることは目に見えており、本当に時間稼ぎの意味しかない。

(いや、ともすれば時間稼ぎすらできないかも知れぬ………)

 シルヴィアは心の中だけでそう思った。
 補給が続かなくなれば、アルテンシア軍はベルベッド城までとはいえ後退する。それは間違いないだろう。しかしその後、これまでと同じペースで侵攻してくる、という保障はそれこそどこにもない。

 補給線を断たれ、いわば“してやられた”シーヴァが本気になる可能性は十分にある。そうなった時、アルテンシア軍の進軍速度はこれまでとは桁違いになるだろう。攻略すべき敵拠点がないこともあわせて考えれば、これまでの三から四倍、ともすれば五倍以上になってもおかしくはない。

 その場合、はたしてアルジャーク軍は間に合うのか。

(保障など求めている場合ではない、と啖呵を切ったのは誰じゃ!)

 情けない、とシルヴィアは心の中だけでかぶりを振って自分を叱った。なんにしても一度後退させればその分時間がかせげるのは間違いないのだ。その間にアルジャーク軍が来ることに賭ける以外、教会と神聖四国が生き残る道はない。

 シルヴィアは自分の懸念をここで口にはしなかった。話してみたところでどうにもならないからだ。アルテンシア軍の動き方は、結局シーヴァ・オズワルドにしか決められない。ならばわざわざ自分で反対意見を出して自滅するような真似をしても仕方がない。そんなことをするためにシルヴィアは戦場に出てきたわけではないのだ。

「敵軍が撤退しなかった場合はどうする?」

 ふと、参謀の一人がそんなことを言い出した。

「シルヴィア姫の作戦は、補給線を断たれた敵軍はベルベッド城まで撤退する、という前提で成り立っている」

 しかしアルテンシア軍が撤退せず、全力でアナトテ山を目指し始めたらどうなるのか。戦力を分けている十字軍は敵を満足にとどめることができず、アナトテ山は簡単にシーヴァの手に落ちてしまうだろう。

 そうでなくとも、周りの村や町を略奪することで兵糧を確保するかもしれない。そうなった場合、当初予定していたような時間はかせげないだろう。

「それは今この瞬間にも可能性のあることです」

 シルヴィアは反論する。アルテンシア軍が圧倒的優位にある以上、アルテンシア軍のほうが選択肢が多いのは当然のことである。十字軍にできるのは、敵が撤退する可能性の高そうな作戦を選ぶことだけだ。

「この策は他のどんな作戦よりその可能性が高いと、自負しております」

 それにシーヴァはこれまで兵士たちに対して一切の略奪を禁じてきた。これまでに降伏したシャトワールやブリュッゼ、フーリギアにおいてもアルテンシア兵の素行は良かったと聞き及んでいる。

 シーヴァの戦場におけるモラルは相当高い。たとえば第一次遠征時の十字軍など比較にならぬほどに。である以上、シーヴァは補給線が切れればベルベッド城まで戻るだろう。その程度の手間を彼は厭うまい。妙な話だが、シルヴィアはシーヴァがそれだけの器を持っていると信じている。

 シルヴィアがそういうと、反対意見を述べた参謀も黙った。彼にしてもシルヴィアの策を超える対案は持ち合わせていないのだろう。真の批判とは相手の欠点をあげつらうことではない。欠点を指摘した上で相手を上回ることなのだ。

「他に対案のある者は?」

 参謀長が居並ぶ面々の顔を見渡す。対案は出てこなかった。この瞬間、シルヴィアの作戦にしたがって援軍を待つことが決定した。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ7
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:56
「敵部隊、視界から消えます」

 遮蔽物の陰に隠れていく十字軍の部隊を見送りながら、シーヴァはその報告を聞いていた。

「追撃をかけますかな、陛下」
「不要だ」

 ガーベラント公の問いにシーヴァは短く答える。ただし、全軍の警戒を緩めたりはしない。ないとは思うが、先ほどの部隊が奇襲をかけてくるかもしれないからだ。

「ここ三日で、すでに七回目の遭遇。多いですな」
「偵察に放った斥候が発見したものも含めれば、全部で十回目の遭遇です。ガーベラント公」

 シーヴァの脇に控えたリオネス公がそういった。遭遇する敵部隊の規模は三千から多くても五千程度。攻撃を仕掛けてくることはなく、姿を見せるとそのまま逃げていくのが常である。

 しかしながらこうも頻発しているのだから、間違っても偶然などではあるまい。アルテンシア軍の周りに十字軍の複数の部隊が蠢動しているのは確実だ。恐らくだが、十字軍の総司令官が変わったのだろう。

 問題は、その意図である。

「どう見る、リオネス公」
「………本隊の後ろに回りこみ、補給線を切るのが狙いかと」

 シーヴァに視線を向けられたリオネス公は顎に手を当ててしばらく考え込み、それからそう答えた。

 つまり、寄っては離れていくこれらの部隊は全て囮で、それらの部隊に紛れた本命がアルテンシア軍の背後に回ろうとしているのだろう、とリオネス公は考えた。

「ガーベラント公はどう思う?」
「リオネス公と同意見でございます」

 ふむ、とシーヴァは頷いた。真正面から戦って勝てないのであれば、敵補給線を叩いて撤退させる。それは極めて常識的な兵法だ。ならば逆算的に考えて、これらの十字軍の部隊は囮である、というリオネス公の推測には筋が通っている。

「ヴェートはいるか?」
「ここに」

 呼ばれたのはアルテンシア軍の女将軍、ヴェート・エフニートだった。彼女は器用に馬を寄せてシーヴァのもとにやってくる。

「五千の兵を率いて補給部隊の護衛に回れ」
「御意」

 胸に拳を当てて一礼し短く答えると、ヴェートはすぐに馬を返して離れていく。

「五千で足りますかな」

 ガーベラント公がポツリとそう呟いた。

「囮の中に紛れさせるのであれば、本命とて規模は同じ程度にしているはずだ」

 ならば敵本命部隊の数は、多くても五千。ヴェートに任せるのだ。兵の数が同じであれば、まず問題なく対処してくれるだろう。

「複数の部隊が合流し、それから仕掛けてくるかもしれません」
「それはないな」

 リオネス公の指摘をシーヴァは気楽に笑って否定した。

「そんな複雑な軍事行動ができるのであれば、補給部隊よりも本隊に一撃離脱の奇襲を繰り返してくる」

 アルテンシア軍は現在、フーリギアにあるベルベッド城を拠点として用いている。補給部隊が叩かれたとしても、ベルベッド城まで戻れば補給はいくらでも可能である。つまりアルテンシア軍を撤退させることが目的であれば、補給線を叩くだけでは少々弱い。どうしても本隊にある程度の損害を与える必要があるのだ。

「それに補給部隊を襲うのであれば、規模よりも速度が肝要。わざわざ合流に時間を割いたりはしないだろう」

 むしろ気がかりな点があるとすれば、それは「ヴェートが間に合うのか」という点であろう。十字軍の部隊と遭遇するようになってからすでに三日も経っている。当然、その間にも敵の本命部隊は味方の補給部隊に迫っていると考えるべきであり、ヴェートが無事に合流できるのか少々心配ではある。

(埒もない)

 そう思ってシーヴァは頭を軽く振った。

 今回のアルテンシア軍の遠征は、ここまであまりにも上手く行き過ぎている。それ自体は歓迎すべきことなのだろうが、上手くいっているがゆえに小さな失敗さえも気にしすぎてしまっているフシがある。完璧にやろうとして気持ちが急いている、と言えばいいのかもしれない。

(すでに手は打った。仮に間に合わなかったとしても取り戻せない失敗ではない)

 そう考え、シーヴァは意識して姿勢を正した。王たるものは常に泰然としていなければならない。特にシーヴァ・オズワルドの場合は。

 アルテンシア統一王国は、いうまでもなく建国したての若い国だ。それは、国家としてはまだまだ未熟で脆い部分を多く抱えている、という意味でもある。実際、現在の統一王国はシーヴァ・オズワルドという英雄がいるからこそ一つにまとまっている、といっても過言ではない。

 ゆえに国と人民を導くシーヴァは、常に泰然とし何が起こっても動じてはいけない。彼が不安を表に出せば、国そのものが動揺してしまう。だからこそ背中にどれほど冷や汗をかいていようとも、それを悟られてはいけないのだ。

 数秒だけ目を閉じる。そしてその間に、さまざまなものを背負いなおす。

「行くぞ」

 目を開けたシーヴァに、揺らぎは微塵もなかった。

**********

 作戦が決まり部隊の編成が終わると、シルヴィアはすぐに行動を開始した。彼女が指揮する部隊は五千の兵をようしている。大きなくくりで見れば十字軍なのだが、その内訳を見るとシチリアナ軍三千、ローゼン軍二千となっていた。

 シチリアナ軍はもともとシルヴィアの直轄のようなものだから、彼女と一緒に来るのは当然だ。そしてサンタ・ローゼンの領内を動き回るためには土地勘のあるローゼン軍もいた方がいい、ということでこういう構成になったのだ。

「同規模の部隊を複数、アルテンシア軍の周りで蠢動させ、それに紛れた本命が敵補給部隊を強襲する」

 それが今回の作戦である。そしてシルヴィアが率いているのは、その敵補給部隊を強襲するための本命部隊であった。

 移動を開始したシルヴィアの部隊は、実は一度アルテンシア軍と遭遇している。もちろん攻撃を仕掛けるような無謀な真似はせず、すぐさま遁走したのだがその際彼女は南東に向かって逃げた。

 敵にこちらの意図を悟らせないためだ。そのせいで随分と大回りをすることになったが、そのおかげで最初の遭遇以来、敵の部隊と鉢合わせしたことはない。ここまでは順調に進んでいる、と言っていいだろう。

「今はこの辺りじゃな………」

 草原の草の上に広げた地図を見下ろし、適当に拾った細い木の枝でその地図上の一点を指し示す。時刻はすでに夕暮れ。沈みかけの太陽が空を赤く照らしている。

 シルヴィアの率いる部隊が今いる場所は、サンタ・ローゼンの南の国境付近である。これから国境線に沿って西に向かい、フーリギアとの国境付近を目指すことになる。そしてフーリギアからサンタ・ローゼンへと続く街道を進んでいるであろう、アルテンシア軍の補給部隊を強襲するのだ。

(シーヴァはもう動いたのじゃろうか………)

 できればまだ動かないで欲しい。シルヴィアはそう願った。

 恐らく、いやほぼ間違いなくシーヴァ・オズワルドはシルヴィアの策を看破してくるだろう。この状況下で十字軍が狙えるのは補給線の寸断だけであることは、多少頭の切れる用兵家であればだれでも達しえる結論だ。

 問題は、何時気づくのか、である。

 幾つの部隊が蠢動しており、そのうちのどれが本命なのか分らない以上、闇雲に動き回ってそれらの小うるさい部隊を全て叩き潰すことなど、シーヴァはするまい。そんなことをするより、補給部隊に護衛をつけたほうがはるかに効率的だ。

 つまり、シーヴァがシルヴィアの狙いを見破るのが早ければ早いほど、それだけ早く補給部隊に護衛がつくことになる。

 数百程度の戦力であれば、数に物言わせて押し切ることも可能だろう。しかし三千以上の部隊が護衛についていたら、よほど上手く奇襲をかけない限り補給部隊は潰せまい。それどころか、逆にこちらが叩き潰されてしまうかもしれない。

(ここから先は時間とも戦わねばならぬな………)

 本当であれば、夜の間も可能な限り進みたい。それができれば時間は気にしなくても良くなるだろう。しかし実際問題としてそれは不可能であった。

 兵たちの体力が持たないのだ。シルヴィアの部隊は奇襲を仕掛けるための本命である。よって十字軍のなかでも兵士たちの質はいいほうだ。

 しかしそれでも、精鋭と呼ぶには程遠い。訓練の不足は明らかで、日の出から移動を続けていれば夕暮れにはもう動けなくなってしまう。とてもではないが、これ以上行軍するのは無理だった。

(私自身、この有様じゃ………)

 シルヴィアは自虐的に笑う。

 体力が続かないのは何も兵士たちだけではない。指揮官であるシルヴィアもまた、一日の行軍を終える頃にはクタクタに疲れ果ててしまい、動けなくなっていた。

(自分の足で歩いているわけでもないのに、情けない………)

 指揮官であるシルヴィアは当然馬に乗って移動している。そのため自分の足で歩いている兵士たちに比べれば、はるかに楽であることは明らかだ。にもかかわらず同じように動けなくなってしまうとは、一体どういうことなのか。

 とはいえ、それは仕方のないことでもある。

 シルヴィアは王女なのだ。王城で大切に育てられてきた、剣よりも花が似合う姫君なのである。当然、軍に入って訓練を受けたことなど一度もない。ましてや女の身。男に比べて体力で劣っているのは当たり前である。

 野宿だって初めてだ。一日の行軍で疲れ果てていなければ、固い地面の上で眠ることなどできなかっただろう。お風呂に入るどころか、水浴びをすることさえ満足にできない。分ってはいたことだが、あらゆることが今までの生活とは違う。

 しかしシルヴィアは決して不満や文句を口に出すことはしなかった。部隊の皆が同じ状況にいるのだ。まして自分は望んでここにいて、さらに指揮官として優遇さえされている。その上で泣き言や不満を口にするなど、言語道断である。姫として、王女として扱われたいのであれば、戦場ではなくアルジャークに行けばよかったのだ。

 無論、辛いことは辛い。それは否定しない。しかしそれを超える使命感が彼女を支えていた。

「シルヴィア姫、お食事をお持ちしました」

 シチリアナ軍の参謀の一人が、椀に入ったスープとパンを持ってくる。温かい食事を食べると、すこし活力が戻ってくるように感じた。

「のう、夜も移動できぬか?」

 無理と知りつつ、つい尋ねてしまう。気が急いているのだろう。未熟なところを見せてしまった、と内心で少し後悔する。

「今は殿下のお体のほうが大切です」

 シルヴィアが倒れでもすれば、敵と戦うどころの話ではなくなる。どのような形ではあってもアルテンシア軍に唯一勝利を収めたシルヴィアの名前は、彼女が自分で思っているよりもはるかに大きくそして重いのである。

「今はご自愛ください」

 慇懃に頭を下げる参謀を、シルヴィアは少し呆れた顔で見ていた。回りくどい言い方をしているが、彼が言いたいことは至極単純なことである。

「………そんなにひどい顔をしているか、私は」
「早くお休みになられたほうがよろしいかと」

 つまりそういうことである。「疲れているのだからさっさと休め。敵と遭遇したときに役立たずでは困る」とそう言いたいのである。この目の前の男は。

「大きなお世話じゃ!」

 ついつい大きな声を出してしまう。してやったりな顔をしている参謀の態度が気に喰わない。自分がまだまだ子供だとからかわれているような気分だった。

 王族として戦場に立つ以上、子供だからという理由で許されることは何一つない。シルヴィアはそれを無自覚のうちにわきまえて自分を縛っている。それは覚悟の表れである反面、大きくて慣れないストレスとして彼女に圧し掛かっていた。

 そんな状態の中で、こうして軽くからかってくれる相手がどれだけ大切で必要としていたのか、シルヴィアが気づくのは随分と先のことである。

**********

「ようやく見つけたぞ………!」

 戦いに先立つ熱く燃えるような感覚とそして同じくらいの安堵を感じながら、シルヴィアはその報告を聞いた。シルヴィアの部隊はようやく、目的であるアルテンシア軍の補給部隊を捕捉したのである。

 しかし、ここで喜んでばかりもいられない。事態はすでに一刻を争うところまで来ている。シーヴァが補給部隊の護衛に差し向けたと思しき部隊が、街道上を近づいてきているのである。

 その数、およそ五千。数だけ見れば同じだが、構成している兵の質には雲泥の差がある。つまりまともに戦えば負ける相手である。

 しかし、今回の目的は敵補給部隊への強襲である。わざわざ合流してもいない護衛の部隊に攻撃を仕掛ける必要はない。ぐずぐずしてはいられないが、まだ運に見放されたわけではなさそうだ

「できれば物資を奪いたかったところじゃが、諦めるしかあるまいな」

 十字軍の物資の不足は深刻である。それを解消するためにも、敵補給部隊が運んでいる物資は奪取したかったのだが仕方があるまい。余計な欲を出して戦闘を察知して駆けつけてきた護衛部隊と鉢合わせでもしたら、この千載一遇の好機を無駄にしてしまうことになる。ここは最低限、敵の物資を始末できればそれでよしとすべきだろう。

「全軍に火矢と油、それに種火を用意させるのじゃ」
「御意」

 それらの用意が整えられる間、シルヴィアは目をつぶって心を落ち着かせていく。当たり前だが、戦いは慣れないしそれ以上に怖い。しかしそこから逃げることは決してしない。シルヴィアがここで逃げれば、それは教会と神聖四国、つまり祖国の滅亡に直結する。それを防ぐために彼女は今ここにいるのだから。

「用意、整いました」
「よし、では行くぞ」

 シルヴィアは全軍に前進を指示する。駆け出したい気持ちを抑えて早足程度の速さで進む。いざ敵に襲い掛かるときに疲れ果てていては話にならないからだ。

(早く早く早く………!)

 分ってはいても、急く心はどうしようもない。ましてや護衛部隊と合流される前に叩かなければならないと言う時間的な制約まであるのだ。

 シルヴィアは何度も駆け出しそうになったが、そのたびに左右にいる者に止められる。そんなことを繰り返しながら、ついにシルヴィアの部隊は敵の補給部隊を捕らえた。

「全軍突撃!!」

 言うが早いか、シルヴィアは馬の腹を蹴って駆け出した。半瞬遅れて全軍がその後に続く。幸いにも敵の護衛部隊はまだ肉眼で見える範囲にはいない。

「狙いは敵が運んでいる物資じゃ!雑兵など捨て置け!」

 シルヴィアの部隊は敵補給部隊の側面を突く形で強襲した。敵の総数は二百から三百と言ったところか。この程度ならば数に物言わせて押し切ることも十分に可能だ。

「殿下!」
「種火!」

 追いついてきた護衛にシルヴィアは短く単語で命令する。護衛が差し出した種火で矢に火をつけると、その火矢を弓につがえて構える。馬を走らせているのだから、当然揺れて狙いはつけにくい。

(的は大きい。外すものか………!)

 飛距離をかせぐため、水平ではなく放物線を描くようにして火矢を放つ。放たれた火矢は綺麗な孤を描き、馬車の荷台においてあった麻袋に突き刺さった。

 それを合図にしたように、シルヴィアの後ろから次々と火矢が放たれる。見た限り人的な被害はほとんどでていない。しかし食料の詰まった麻袋や樽、またそれらを運んでいる馬車そのものに火矢が突き刺さり、そこから火が燃え広がっている。

 補給部隊の兵士たちは迷った。突撃してくる敵と戦うのか、それとも火を消すのか、あるいは無事な馬車を逃がせばよいのか。そうやって迷っているうちに敵部隊の接近と突入を許してしまった。

 突入を果たしたシルヴィア率いる五千の部隊は、混乱してバラバラに動くアルテンシア兵には目もくれず、馬車や物資に油をかけて次々に火をつけていく。立ち上る黒煙はアルテンシア兵に劣勢を印象付け、混乱に拍車をかける。

 意外な敵の脆さに、シルヴィアは少し拍子抜けした。しかしすぐに頭を切り替える。敵が混乱し組織的な抵抗をしてこないのであれば、それは彼女にとっては僥倖である。その間に可能な限り物資を始末してしまわなければならない。

 しかし、幸運は何時までもは続かない。

「殿下!街道上を敵部隊が西から接近中!」

 その報告に、シルヴィアは思わず舌打ちをもらした。恐らく黒煙が上がっているのを見つけて駆けつけてきたのだろう。もう少し時間をかけて処分したかったが仕方がない。護衛部隊が合流すれば敵の混乱は納まってしまうだろう。そして今度はこちらが劣勢に立たされることになる。

「全軍撤退じゃ!」

 舌打ちをしながら声を張り上げると、シルヴィアは真っ先に駆け出した。向かうのは北。煙が流れていく風下だ。煙に紛れて姿をくらまそうと言うのである。

 シルヴィアに導かれるようにして、彼女の部隊の兵士たちはその場から遁走する。隊列を乱し無秩序とも思える格好で、そのかわり全速力でシルヴィアの部隊はその場を離れていく。疲れているはずなのだが、それを超える興奮が兵士たちの顔に喜色を浮かばせている。敵に追撃されることはなかった。

(やられた………!)

 燃え上がる炎と黒煙、そしてその黒煙に紛れて逃げていく十字軍の見ながら、ヴェートは苦虫をかみ殺したような顔をした。奥歯を強く噛締め、力いっぱいに革の手綱を握り締める。

 今回の彼女の任務は補給部隊の護衛である。つまり、補給部隊が強襲されることは、当然想定しておくべきことであったのだ。

 いや、彼女はその事態をきちんと想定していたし、また油断があったわけでもない。単純に敵のほうが一足早かった。ただ、それだけである。

(しかしだからと言って!)

 しかしだからと言って、任務失敗の事実が軽くなるわけではない。せめて敵部隊だけでも叩こうと思うが、襲撃者たちはすでに煙に紛れて遁走を開始している。今から追っても間に合わないだろう。

(なんということだ………!)

 歯軋りしたいのを必死に押さえ、ヴェートは冷静さを保つ。敵が逃げたからと言って彼女の仕事が終わったわけではないのだ。

「早く火を消せ!まだ火の手が上がっていない馬車を避難させろ!」

 矢継ぎ早に指示を出し、少しでも損害を広げないようにする。とはいえ物資の七割以上は焼かれてしまった。アルテンシア軍は補給のため、一度ベルベッド城まで戻らなければならなくなるだろう。

(いや、食料を得るだけなら周りの村や町を略奪すればいいのだが………)

 ヴェートの主君たるシーヴァ・オズワルドはそのような真似はするまい。彼は高潔な人間で民衆が虐げられることを何よりも嫌う。だからこそ彼はアルテンシア同盟に反旗を翻したのだ。そんなシーヴァが、たとえ敵国の民であってもそこから略奪するようなことは決してない、とヴェートは確信している。

(敵も、それを分った上での今回の作戦だな………!)

 そう考えると本当に腹が立った。主君の善意につけ込まれたような、恩を仇で返されたような、そんな感じがしてならない。

(まあいい)

 ヴェートは怒りを押し殺して平静を保つ。ここで一度撤退しても、アルテンシア軍の戦略的優位は変わらない。

 防衛に使えそうな敵の拠点は、すでにほとんど破壊してある。仮に残っていたとしてもシーヴァが操る「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の前では意味をなさない。またアルテンシア軍が撤退している間に、十字軍の兵士たちの練度が飛躍的に上がってアルテンシア兵と拮抗してくる、ということもないだろう。

 補給物資もベルベッド城に戻れば十字軍が残して行ったものがまだ大量にある。それに統一王国本土からの補給も続く。

 ここでの敗北は戦局全体の逆転には結びつかない。結局のところ、時間稼ぎにしかならない。そう思えば、ヴェートとしても余裕を持つことができた。

「隊列を整えろ。本隊と合流する」

 してやられた苦々しさは消えない。次にまみえることがあればこうも簡単に勝たせてはやらぬぞ、とヴェートは心に誓う。

(そういえば、あの部隊を指揮していたのはシルヴィア姫だったのだろうか………?)

 温室育ちの素人と侮っていたが、もしそうだとすればなかなかの傑物かもしれない。特にこちらを確認してからすぐに煙に紛れて遁走した、その決断の速さは賞賛に値する。もしかしたらここに至る一連の策を考えたのも彼女かもしれない。

 女でありながら軍に身をおくことの大変さは、ヴェートも良く知っている。ましてやシルヴィアは正規の訓練を受けずにこの作戦の指揮を執っているはずだ。それがどれだけ大変なことなのか、ヴェートには良く分る。

「負けたくはない、な………」

 同じ女として。そしてそれ以上に、シルヴィアよりも長く戦場に立っている先達として。
 十字軍の部隊が逃げていった方向を見るヴェートの目は、少しだけ優しかった。





*******************





「してやられたな」

 十字軍の部隊が補給部隊を強襲した件について、ヴェートから一連の報告を聞き終えたシーヴァは、苦笑しながらもどこか面白がるようにそういった。

「処分は如何ほどにも………」

 任務を遂行できなかったヴェートは頭を下げ、シーヴァの裁定を待つ。

「今回の件で将軍に落ち度はない。敵のほうが一足早かっただけだ」
「ですが………」
「よい。将軍が間に合わなかったのであれば、誰を向かわせても同じであったろう」

 非があるとすれば敵の思惑を素早く見抜けなかった我のほうだ、とシーヴァは言った。それからヴェートを立たせて席につかせると、今度はガーベラント公が立ち上がって頭を下げた。

「申し訳ありません」
「なぜガーベラント公が謝る?」

 今回の件で、彼には何も謝るようなことはない。

「私が撤退したことが、敵に勢いを与えてしまったのでしょう。あの場は留まって敵を退けるべきでした」

 申し訳ありませんでした、とガーベラント公は改めて頭を下げる。自らの責任を回避しようとはしない彼の姿勢はシーヴァにとっても好ましいものだが、今回は気負いすぎていると言うべきだろう。

「あの時の公の判断は適切であったと、我はそういったはずだ」
「ですが………」
「くどい」

 少し言葉と視線に力を込める。不必要な責任論を持ち出して時間を浪費することは、シーヴァにとって望ましいことではない。まして今ここでガーベラント公を罰すれば、部下たちは萎縮して失敗を恐れ自分たちでは何も決断できなくなってしまうだろう。そうして硬直してしまった組織に未来はないとシーヴァは知っている。

 もう一度頭を下げたガーベラント公が席についたのを確認して、シーヴァは一つ頷く。居並ぶ家臣たちの顔ぶれを一通り眺めてから、彼は軍議をはじめた。

「さて、これからどうするかだが………。リオネス公、このまま進んだとして次の補給までもつか?」
「難しいかと」

 補給部隊が強襲されたとはいえ、運んでいた物資の全てが灰になったわけではない。全体の三割未満とはいえ、ヴェートは物資を回収し本隊まで運んできている。それだけあれば、ここからアナトテ山に直行しそこを制圧することは可能だろう。

 しかしアナトテ山を落とせばそれで万事解決、というほどシーヴァはこの遠征を楽観視してはいない。十字軍相手に戦い続けるのか、あるいは教会や神聖四国との交渉が待っているのか、どちらにせよある程度の期間そこに留まる必要が出てくるだろう。そうなった時、今の手持ちの食料だけでは次の補給までもたない、というのがリオネス公の見立てだった。

「現地調達、という手もありますが………」

 参謀の一人が遠慮がちにそういう。それはすなわち略奪を行うということだ。住民に差し出させるということもできるだろうが、それにしたって力で脅すのだから略奪と大差はないだろう。

「現地調達はせぬ」

 しかしシーヴァはそう言い切った。略奪しながら軍を進めることなど、彼にしてみれば虫唾が走るほどに不快なことである。それはつまり、兵站の不備を内外に宣伝しているようなものだからだ。

「この軍の指揮官は無能である」

 と自分で、しかも嬉々として宣言しているようなものである。それはシーヴァにとって耐え難い屈辱であった。

 そしてなによりもっと感情的な部分で、シーヴァは略奪という行為を嫌悪していた。それは彼の生来の性質(たち)なのだろうが、それが一層強くなったのは第一次十字軍遠征の時に侵略者どもが行った略奪行為を目の当たりにしてからだ。

「おぞましい。人とはここまで堕ちるものなのか」

 シーヴァはそう思ったし、そういう人の性に恐怖を覚えたりもした。それは自分がそこへ堕ちていくことへの恐怖であり、また自分が指揮する軍がそこへ堕ちていったときに撒き散らす災厄への恐怖でもある。

「決して十字軍と同じところへは堕ちぬ」

 それが今回の遠征において、シーヴァが自らに誓った誓約であった。あらゆる面において、シーヴァは十字軍を上回ろうと決意していたのである。

「そうなると、一度ベルベッド城まで引くしかありませんな」

 シーヴァの答えを予測していたガーベラント公が顎を撫でながらそういう。ベルベッド城までなら、手持ちの兵糧だけでも多分持つだろう。大規模な戦闘は起こらないだろうから、なんなら切り詰めてもいい。どのみちベルベッド城に着けば腹いっぱい喰えるのだから。

「明日の夜明けとともにベルベッド城に向けて撤退する」

 シーヴァはそう決断した。軍議の席にどこか残念そうな空気が流れる。実際、アルテンシア軍は教会と神聖四国を追い詰めていたのだ。後は喉もとに剣を突きつけて降伏を迫るか、あるいはそのまま首を刎ね飛ばしてしまえばいいだけだったのに、それを目前にしての撤退である。不満というか残念に思うのは当然であろう。

「ベルベッド城で補給を済ませたあと、もう一度アナトテ山を目指すとしよう」

 そう言ってシーヴァは笑った。家臣たちも良く知る恐ろしくも頼もしい、あの獰猛な笑みだ。

「ただし、今度は全力で、な」

 シーヴァのその宣言を聞いた瞬間、その場にいた一同は鋼の支柱を背中に差し込まれたかのように背筋を伸ばした。一瞬漂いかけた軽い失望の雰囲気が吹き飛ばされ、ピリピリとした、しかし心地のよい緊張感がその場を支配する。彼らが感じているのは恐怖ではない。畏怖だ。

(教会の命運も尽きたか………)

 シーヴァとの付き合いが長い者ほど、そう確信するのだった。

**********

 アルテンシア軍の補給部隊を強襲し、彼らが運んでいた物資のほとんど(全てでないのが心残りだが)を燃やしたシルヴィアは、十字軍の本隊と合流すべく動いていた。

 ただし、随分ゆっくりと。

 もちろん距離を取ってだが、街道を監視しながら引き返したのだ。それはベルベッド城へと引き上げるアルテンシア軍を確認するためであった。

 はたしてアルテンシア軍は来た。街道を西へと、つまりアナトテ山と反対のほうへ向かっていく。この瞬間、シルヴィアは自分の策が成功したことを知ったのである。

「上手くいきましたな、殿下」

 アルテンシア軍が撤退していく様子を、シルヴィアと同じように草原に腹ばいになり望遠鏡で覗いている参謀の一人がそういう。彼らとシルヴィアのもう数十メートル後ろには茂みがあり、その向こうでは部隊が指揮官を待ちながら休憩している。

 無事に作戦を成功させたシルヴィアは歓喜と、それと同じくらいの安堵を感じていた。立ち上がってはしゃぎたいのを抑え、それでも口元はどうしようもなくにやけさせながら、シルヴィアは望遠鏡を覗きこむ。

 望遠鏡を通して見る視界の中では、アルテンシア軍の兵士一人ひとりの顔を識別することはできない。ただ人影ははっきりと見ることができ、アルテンシア軍の中に体格が明らかに異なる一団が混じっていることは簡単に見てとれた。

「まるで巨人じゃな………」
「恐らくは、あれがゼゼトの民なのでしょう」

 ゼゼトの民とは、アルテンシア半島のさらに北西に位置する極寒の島、ロム・バオアに住まう原住民族である。神聖四国、つまり大陸の中央部の人々からすればアルテンシア半島でさえ辺境なのに、さらにその向こうにあるロム・バオアともなればもう世界の果てと言っても過言ではない。

「世界の果てから来た巨人たちが、神聖な大地を踏み荒らしている」

 シルヴィアと一緒になって望遠鏡を覗いている参謀たちの中には、そんなふうに感じて憤慨している者もいた。しかしシルヴィアが感じているのは全く別のことであった。

「やはり傑物じゃな………、シーヴァ・オズワルドは」

 シルヴィアは幼い頃より姫君らしくなくお花やお茶、あるいはダンスなどよりも歴史学や地理学、さらには政治のほうに興味を持ち知識を取り入れてきた。だから彼女は、アルテンシア半島とロム・バオアの間にある確執についてある程度のことを知っている。

 つい最近までほとんど交流のなかった半島とロム・バオアの間で、交易などが始まったのはつい最近のことである。実際にどれほどの被害が出ていたのかは分らないが、長年の確執というのはそう簡単に解消されるものではない。

 しかしシルヴィアが覗く望遠鏡の先で、ロム・バオアの兵士たちは自信に溢れているように見えた。なかにはアルテンシア兵と談笑している者も見受けられる。強制的に戦いに駆りだされたかのような、卑屈で疲れきった雰囲気は微塵も感じられない。それぞれが今この場にいることを誇りに思っているかのようであった。

「半島を統一したのがシーヴァでなければ、ああはなるまいよ」

 シルヴィアの内心で踊りまわっていた歓喜が、だんだんと静まっていく。代わりに沸きあがってくるのは一種の憧憬だ。人の上に立つものとして斯くありたい、という憧れである。

 しかし同時に危機感も覚える。そういう英雄が今、敵として十字軍とシルヴィアの前に立ちはだかっているのである。

(個人で一騎当千の力を持っており、さらに将としても非凡。まったく、とんでもない相手じゃな………)

 そのことを改めて確認したシルヴィアは視界をそこから動かす。次に望遠鏡に映ったのは一人の騎士だった。

 ゼゼトの民とは別の意味で、その騎士は周りの兵士たちとは異なっていた。明らかに体の線が細く華奢である。おそらくは女性であろう。

「アルテンシア軍には、女の将官がおるのか………?」
「それはおそらく、ヴェート・エフニート将軍でしょう」

 シーヴァがまだアルテンシア同盟の将であった頃から、その副将として働いていた将軍であるという。アルテンシア軍の中では最古参の部類に入り、その分シーヴァの信頼も厚いと聞く。

 シルヴィアは知る由もないが、彼女たちが強襲した補給部隊の援護として派遣され、そして一足間に合わなかったあの部隊を指揮していたのが、まさにヴェート・エフニート将軍その人であった。

「そうか………。ヴェート将軍、というのか………」

 シルヴィアの声に、先ほどとは少し違った憧れの色が混じる。軍人として生活することがどれだけ大変なのかは、彼女自身ここ最近の作戦行動で身にしみて分っている。それにしたって本来の訓練などに比べればぬるいものなのだろうに、シルヴィアはすでに心身ともにへばる寸前である。

 ヴェートはシーヴァの部下として、ロム・バオアにいた事さえあるという。そんな彼女が歩んできた人生の密度は、ここ数日のシルヴィアなど比較にならないほどに濃いのだろう。

 そんな人生の中、挫けることなくついには将軍にまで上り詰めたヴェートに、シルヴィアは純粋に尊敬の念を抱く。望遠鏡で覗く彼女の姿も貫禄というか落ち着きがあり、一つ一つの所作に自信が満ちているように見えた。

 自分とは大違いじゃな、とシルヴィアは苦笑した。今の彼女は五千の兵を率いる指揮官で、その地位は軍隊という組織の中において随分と高いといえる。しかし彼女がその地位に就けた最大にして唯一の理由は、シルヴィアがサンタ・シチリアナの王女だったからだ。ヴェートとは違い、シルヴィアはその地位を実力で得たわけではないのだ。

 その点について言い訳をするつもりはない。あの情勢の中、実力を身につけ実績を積み上げる時間などなかった。そして何よりも必要とされていたのが、神聖四国の王族という身分と血筋だったのだから。

 しかしそれらの諸事情は、実力と実績の不足を補ってはくれない。そのせいでシルヴィアは自分の命令があっているのかどうにも確信が持てない、という事態を何度も経験することになった。

 指揮官は泰然とし不安を表に出してはならない。それは分っているのだが、フワフワとした不安定さはなくならない。ここ最近だけで何回自分の未熟さを思い知らされたことか、数える気にもならなかった。

(ヴェート将軍はきっと、そのような段階は通り越しているのじゃろうな………)

 そう考えると、軽く嫉妬したりもする。シルヴィアは苦笑すると頭を振り、その考えを振り払った。

 しかしながら、アルテンシア軍はなんと強大なのであろう。その兵は精強。その将は有能。それに相対する十字軍はといえば、その兵は脆弱にして将はシルヴィアを含め無能だ。そう考えれば補給部隊への強襲が上手くいったことさえ奇跡に思えてくる。

(アルジャーク軍はまだ動かんのかの………?)

 早く動いてくれないと、本当に教会と神聖四国は滅んでしまう。奇跡などそう何度も起こるものではないのだから。

 望遠鏡で覗く視界の中で、ヴェートに一人の騎士が近づいてくる。無造作に伸ばした髪が風に吹かれ、少し鬱陶しそうである。しかし何よりもシルヴィアの目を引いたのは、その騎士が背負った大剣である。

 アルテンシア軍の中で背中に負うほどの大剣を持つ者は一人しかいない。そしてその騎士に対するヴェートの態度も、シルヴィアの憶測が正しいことを暗示している。

「あれが、シーヴァ・オズワルド、か………」

 知らず声が漏れた。当たり前だが、シルヴィアがシーヴァの姿を見たのはこれが初めてである。向こうからこちらの姿は見えないと分ってはいるが、それでも体は緊張し手のひらには湿り気を感じた。

 なにやら話を続けるシーヴァとヴェートを、シルヴィアは注視する。そのうちふとシーヴァが首を動かし、その鋭い視線がシルヴィアの瞳を捕らえた。

「………っ!!」

 思わず望遠鏡から目を離して頭を上げる。シルヴィアの心臓は激しく脈打ち、背中には冷や汗を感じる。

(落ち着くのじゃ………!この距離で見えるはずがない)

 なにしろ望遠鏡を使っても顔ははっきりと見えないのである。肉眼のシーヴァが、こうして腹ばいになっているシルヴィアを見つけられるわけがない。さきほど見られたと感じたのも気のせいだろう。

 呼吸を整え、心臓の鼓動が落ち着いてからもう一度望遠鏡を覗く。話を終えたらしいシーヴァとヴェートが連れ立って移動していく。当たり前だが、こちらに気づいた様子はない。

 しかしそれでも。シルヴィアはあの瞬間にはっきりと見てしまったのである。こちらを見抜く、シーヴァの鋭い目を。たとえ幻であったとしても、それはシルヴィアの脳裏に焼きつき離れることがない。

「………アルテンシア軍が通過し次第、こちらも移動を再開する」

 固い声でシルヴィアはそう言った。強襲を成功させ、一時的とはいえアルテンシア軍を撤退に追い込んだのは確かだ。しかしそれを喜ぶだけの余裕は、もはやシルヴィアに残されてはいなかった。

**********

「聖女様だ!」
「聖女様がお戻りになられた!」
「聖女様、万歳!」
「万歳!」

 教会の総本山たるアナトテ山。その麓にある御前街のすぐ近くに布陣している十字軍本隊のもとに合流したシルヴィアは、聞きなれない単語が飛び交う熱狂的な雰囲気に出迎えられた。

(聖女………?一体誰のことじゃ)

 お戻りになられた、と言っているのだからシルヴィアの部隊にその聖女様はおられるのだろうが、しかし彼女の部隊には他に女性はいなかったはずである。そしてシルヴィア自身も「聖女」などという称号をもらった覚えはない。では兵士たちは一体誰を指して聖女と呼んでいるのだろうか。

 熱狂的な空気の中、首を傾げながら進むシルヴィアは視線の先に参謀長を見つける。見慣れない顔は混じっていないし、また立ち位置からしてもあの中では参謀長が最も位が高い。つまりまだ総司令官は決まっていないのだろう。

(悠長なことじゃ………)

 呆れながらもシルヴィアはそれを顔には出さず、作戦の成功を報告するため馬から降りて参謀長のところへと向かった。

 左右には大勢の兵士たちが集まり「聖女様、万歳!」と騒ぎ立てている。正面には参謀長をはじめ十字軍の主だった幕僚が全て揃っている。ではその中心にいるのは一体誰なのか。

「このたびのご帰還、心よりお喜び申し上げます。聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナ様」

 仰々しい挨拶とともに、参謀長と幕僚たちは片膝をついて頭を垂れる。この瞬間、シルヴィアは自分がいつの間にか聖女に祭り上げられてしまったことを知ったのである。

 アルテンシア軍が、撤退した。それも神聖四国から撤退したのだ。

 アナトテ山まで後一歩というところまで迫りながら、シーヴァは軍を引き返しベルベッド城まで撤退したのである。それはシルヴィアの率いる部隊が補給部隊を強襲したせいで兵站が続かなくなり、補給ためにベルベッド城まで戻る必要があったからだ。

 まあ、理由や経緯はこの際どうでもよい。重要なのはアルテンシア軍が神聖四国の外へ撤退して言ったという事実だけである。

 日に日に近づいてくるアルテンシア軍に戦々恐々としていた神子様(というのは建前で枢密院の枢機卿たち)は、脅威が遠ざかって行ったことに大層お喜びらしい。これが一時的な撤退に過ぎず、アルテンシア軍は再び襲来するであろう、ということはおそらく頭にないのだろう。

 それで喜んだ神子は、作戦を立案者し自らも部隊を指揮して戦ったシルヴィアに聖女の称号を与え、さらに彼女を十字軍の総司令官に任命した、というのがここまでの流れらしい。

「後日、神殿で正式に叙任式が執り行われます」

 突然の話で呆然としているシルヴィアに、参謀長がそう告げる。この瞬間、シルヴィアは自分の人生がもはや自分の手の届かないところへいってしまったことを悟ったのだった。

**********

 その場にいる全ての人の視線が、二人の少女に向けられている。一人はゆったりとした職服に身をまとってたたずんでいる。もう一人は銀色に輝く鎧と純白のマントを身につけ、職服を着た少女の前で跪いている。

 シルヴィアが十字軍本隊に合流してから三日後、今まさに神殿前の広場で彼女の叙任式が行われた。

 つい先日神子の座に付いたばかりのララ・ルー・クラインが、まだ慣れない様子で直々に詔を読み上げてシルヴィアの功績を称え、そして彼女に聖女の称号を与えさらに十字軍の総司令官に任命すると宣言する。

「魔王シーヴァ・オズワルドの魔の手より、必ずや御身をお救いいたします」

 その瞬間、広場を埋め尽くす兵士たちから、地鳴りのような歓声が沸きあがった。「その歓声は神殿さえも震わせているかのようであった」とある歴史書は記録している。

「聖女様、万歳!」

 熱狂的な空気の中、銀色に輝く鎧と純白のマントを身につけたシルヴィアは、王女らしく済ました顔で神子ララ・ルーの前に跪いている。そんな彼女の頭にララ・ルーはオリーブの冠を乗せた。

 聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナが誕生した瞬間である。

 シルヴィアが立ち上がると、兵士たちの歓声がさらに大きくなる。マントを翻して兵士たちに向き直ったシルヴィアが手を上げると、その歓声が一瞬で静かになった。

「勇敢なる十字軍兵士諸君!今、この神聖なるアナトテ山が蛮夷の魔王によって脅かされている。神々に祝福された神殿と神子の御身が魔王の手に落ちることなど、あってはならない!

 戦おう、兵士諸君!私が、この私が諸君に勝利を約束する。教会と神子のために戦う我らに神々の祝福を!神聖なるこの地を汚さんとする魔王に正義の鉄槌を!たとえ戦いの中で我が身が果てようとも、神界へと召された我が魂は諸君らを導くだろう!!」

 その瞬間沸き起こった歓声はアナトテ山さえも震えさせているかのようであった、とある歴史書は記録している。

 その後シルヴィアは白馬にまたがってアナトテ山をおり、御前街の大通りを行進した。広場に入りきらなかった群集に誕生した聖女をお披露目するためだ。

 管楽器が鳴り響き、花吹雪が大通りに舞う。誰も彼もが聖女の誕生を祝福していた。誰も彼もが、聖女が魔王を打ち倒してくれると信じていた。無邪気に、いや妄信的に、そう信じていたのである。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ8
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 09:59
 片膝をついて跪いたシルヴィアの目には、神子ララ・ルー・クラインのつま先しか映っていない。今はシルヴィアの叙任式の真っ最中で、ララ・ルーが不慣れな様子で彼女の功績を称える詔を読み上げていた。

(聞いてきて背中が痒くなる………)

 シルヴィアがこれまでに経験した戦場はたったの二つである。詔はその二回の戦いにおける彼女の活躍を、あらん限りの美辞麗句を駆使して褒め称えている。群集から顔が見えないのをいいことに、シルヴィアは苦笑を隠そうともしていなかった。

 詔の中身自体は枢機卿の誰かが書いたものだと聞く。装飾に富んだ文章は確かに美しい。しかしそれは詩文的な美しさだ。そういったものに興味を示してこなかったシルヴィアにしてみれば、文章にするほどの功績がないために美辞麗句を駆使して埋め合わせをしているようにしか思えなかった。

(ならば聖女になど祭り上げなければよいものを………)

 シルヴィアを聖女にするという教会の決定が、多分にして打算的なものであることを彼女自身は良く理解していた。

 戦略的な価値はともかくとして、シルヴィアはこれまで負け続けてきたアルテンシア軍に二度も勝って見せた。教会や神聖四国の人々からしてみれば、彼女は救世主の如くにも思える存在だろう。そんな彼女にさらに「聖女」の称号を与えて求心力を高め、十字軍の戦力回復を図ろうという考えはあまりにも見え透いている。また「聖女」という称号は兵士たちの士気を高め、戦場で命を捨てて戦わせるのに大いに役立つだろう。

 さらに戦場の外においても、「聖女」の名が持つ効力は大きい。

 聖女という神秘的な存在がいれば、民衆は進んで十字軍に協力して多くのものを寄付してくれるだろう。露骨な言い方をすれば、十字軍が抱える物資不足という問題を解決するのに大いに役立つ。

 加えて、アルテンシア軍の猛進に圧されて教会と距離を取り始めた国々においても、教会の信者たちは「聖女様に協力すべし」と立ち上がる。その流れは国としても無視できまい。国内の騒乱を鎮めるためにも、それらの国々は教会の傘下に戻らざるを得なくなるのだ。そうなれば教会は過去の栄光を取り戻すことができる、とそんなふうに思っているのかもしれない。

(なんとも幸せな夢じゃ………)

 教会の、いや枢密院の思惑をほぼ正確に推測したシルヴィアは、呆れたように心の中で嘆息した。仮に枢密院の思惑通りになったとしても、それは結局一時的な熱狂に過ぎない。そして時間が経てば熱狂は冷めるものだ。聖女などというものは所詮幻想でしかなく、それで全てが解決することなどありえない。

 また実際問題としてアルテンシア軍に勝てるのか、という問題もある。答えは明白である。たとえシルヴィアが聖女となり十字軍を率いたとしても、シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍には勝てない。

(当たり前じゃ。現実は寓話のようにはいかぬ)

 劣勢に陥った国に救国の聖女が現れ見事に敵国を撃退する。いかにも吟遊詩人が好みそうな寓話である。もしかしたら教会の信者たちはそんな寓話が実現することを無邪気に信じているのかもしれない。

 彼らはそれでもよい。しかしどうにも枢機卿たちまで同じことを信じているような気がしてならない。それはつまり教会の舵取りをすべき者たちが思考を放棄してしまったということだ。

(教会はすでに内部崩壊を起こしておるのかもしれぬな………)

 ララ・ルーが詔を読み終わり、シルヴィアに聖女の称号を与えさらに十字軍の総司令官に任命すると宣言する。一瞬の沈黙の後、シルヴィアは事前に決められている台詞を口にした。

「魔王シーヴァ・オズワルドの魔の手より、必ずや御身をお救いいたします」

 魔王!ついにシーヴァは魔王になってしまった。

 しかしシーヴァは魔王と呼ばれるようなことをこれまでしてきたであろうか。町や村を襲って戯れに人々を殺害し、ありとあらゆるものを略奪し、女を陵辱して泣かせてきたのは、むしろ十字軍のほうではなかっただろうか。

 正義の定義は立場によっていくらでも変わる。教会が正義を主張し続けるのであればそれに敵対するアルテンシア軍は確かに悪であり、それを率いるシーヴァは魔王とも呼ぶべき存在だろう。しかし後世の歴史家たちは、はたしてシーヴァのことを「魔王」と評するだろうか。

 シルヴィアの内心の苦さを無視するように、広場を埋め尽くした兵士たちは「聖女様、万歳!」と大声で歓声をあげる。内心の苦々しさを押し殺して必死に澄ました顔をつくるシルヴィアの頭に、ララ・ルーがオリーブの冠を乗せる。

 この瞬間、シルヴィア・サンタ・シチリアナは聖女になった。彼女にできるのは、与えられた「聖女」という役を演じることだけである。

 シルヴィアが立ち上がると、兵士たちの歓声がさらに大きくなる。マントを翻して兵士たちに向き直ったシルヴィアが手を上げると、その歓声が一瞬で静かになった。

 その場の全ての視線がシルヴィアに集中していた。兵士たちは目を輝かせて彼女を見つめている。この全てを背負わなければならないのかと思うと、膝が笑って足元がおぼつかなくなった。

 しかし、この場で倒れるわけにはいかない。なぜならシルヴィアは聖女なのだから。

「勇敢なる十字軍兵士諸君!今、この神聖なるアナトテ山が蛮夷の魔王によって脅かされている。神々に祝福された神殿と神子の御身が魔王の手に落ちることなど、あってはならない!

 戦おう、兵士諸君!私が、この私が諸君に勝利を約束する。教会と神子のために戦う我らに神々の祝福を!神聖なるこの地を汚さんとする魔王に正義の鉄槌を!たとえ戦いの中で我が身が果てようとも、神界へと召された我が魂は諸君らを導くだろう!!」

 言った。言ってしまった。

 この言葉もやはり、考えたのは枢機卿の一人だ。しかしこの場で語ったのがシルヴィアである以上、これはもはや彼女の言葉になってしまった。もう撤回することはできない。もう、後には引けないのだ。

(覚悟していたこととはいえ、他人に決められてしまうのはなんとも不快じゃ………)

 負け惜しみのように、シルヴィアは心の中で呟く。

 おそらく自分はアルテンシア軍との戦いの中で死ぬだろう。いや、死ぬまで戦うことになるだろう。それ自体は覚悟していたことだ。しかしその覚悟をこういう形で利用というか、強要されるのはたまらなく不快だった。

 その上、教会はシルヴィアの死さえも利用しようとしているのである。戦場で果てた聖女シルヴィアは物言わぬ便利な象徴として、信者を戦場に送るために使われるだろう。シルヴィアはそんなことを望んで戦場に立ったわけではないのに。

 その後、シルヴィアは用意された白馬にまたがって御前街の大通りを行進した。管楽器が演奏され花吹雪が舞う。

 そのパレードの間中、シルヴィアは微笑み続けた。
 微笑むしか、なかった。

**********

「聖女!聖女ときたか!」

 シルヴィア・サンタ・シチリアナに聖女の称号が与えられたという話を聞いたとき、イスト・ヴァーレは腹を抱えて爆笑した。

 御霊送りの儀式が奇跡などではなく、パックスの街を落とすことが可能であることを確認した後、イストら一行はアナトテ山と御前街を離れてフーリギアまで赴きベルベッド城を遠くから監視していた。

 別にその城砦に興味があったわけではない。ここでシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍が十字軍とぶつかると予想してのことである。

 その予想は当った。ただ、流石にベルベッド城が半日足らずで落ちるとは思っていなかったが。

 その後、イストたちは付かず離れずの距離を保ちながらアルテンシア軍の動向を監視し斥候の真似事を続けた。戦況を左右する力を持っているは、十字軍ではなくアルテンシア軍だからだ。パックスの街を落とす最上のタイミングを見極めるため、イストはアルテンシア軍に張り付いた。

 そこから先は、なんと言うか衝撃的だった。サンタ・ローゼンの領内に侵入したシーヴァは、城砦を手当たり次第に破壊して行ったのである。

 しかもまともな仕方で攻略したわけではない。漆黒の魔剣「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の威力に物言わせて片っ端から破壊していくのである。

「昔の名将たちに謝って来い」

 思わずそう突っ込んでしまったイストである。戦術とかセオリーとか、そういうものを一切無視したそのやり方にニーナは呆然としていたし、イストもあきれ果てていた。ただジルドだけは随分と物騒な笑みを浮かべていたが。

 ただ逆の見方をすれば、戦術を無視しえるだけの力があるということである。その力を持っているのは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」であり、またその規格外な魔道具を操るシーヴァ・オズワルドその人なのだろう。

 さて、順調にアナトテ山に向けて進軍していたアルテンシア軍であったが、あと少しというところで撤退し始めてしまった。不審に思い少し調べてみたところ、どうやら十字軍の別働隊に補給部隊をやられたらしい。

「食料なんて現地調達すればいいのにな」

 古来より多くの軍隊が、兵糧が足りなくなった時には現地調達してそれを補ってきた。しかしシーヴァはそれをよしとはせず、ベルベッド城まで戻って補給するという。

「潔癖だねぇ………」

 呆れたように笑いながら、イストはそう言った。だがシーヴァがそういう人間だからこそ、イストは彼のことを気に入っているのだし、オーヴァも彼に「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を与えたのだろう。

 それはともかくとして。ベルベッド城に戻るアルテンシア軍を、イストは追いかけなかった。アナトテ山からは遠ざかるのだから、追いかけてみたところで何か面白いことは起こらないだろうと思われたからだ。

「それよりも御前街に行ってみよう」

 おそらく十字軍のほうでも動きがあったはずだ、とイストは言う。これまで十字軍はアルテンシア軍を撃退する、あるいはシーヴァ・オズワルドを討ち取ることに固執してきた。しかし補給部隊の強襲に時間稼ぎ以上の意味はない。いくら無能とはいえ十字軍の幕僚たちもそれは分っているはずで、であるならば戦略の主眼を変えさせる何かが内部であったと考えるのが自然だ。

 そうしてアナトテ山の御前街にやってきたとき、イストたちはシルヴィアの活躍と彼女に聖女の称号が与えられたことを知ったのである。

「どう見る、イスト」
「ただの生贄だろう?聖女なんてさ」

 ジルドの問いに、イストは彼らしく毒のある言葉で答えた。

「シルヴィア・サンタ・シチリアナを聖女にしてみたところで、両軍の戦力差はどうにもならないでしょ」

 聖女シルヴィアを旗印として立てることは、十字軍にとって戦力や物資の回復など多方面においてメリットがある。さらに聖女が陣頭に立つとなれば、兵士たちの士気も上がるだろう。

 しかし言ってしまえばそれだけである。それだけでは十字軍とアルテンシア軍の戦力差は埋まらない。それに聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナは英雄シーヴァ・オズワルドの対抗馬として、どう考えても格が足りていない。

「それでもシルヴィアは戦わなければならない。聖女だからな」

 毒のある口調でイストはそういった。彼の言うとおり、聖女になってしまったシルヴィアは戦い続けなければならない。アルテンシア軍を撃退するか、あるいは戦場で果てるその日まで。

 そして必死になって戦う彼女を、教会はとことん利用するだろう。去っていった信者たちを呼び戻し、各国への影響力を再び強め、そして減ってしまった寄付金を増やすために。ありとあらゆる責任を聖女に押し付け、自分たちは甘い汁を吸おうというのである。

「きっと死んでからも利用されるんだろうな」

 というより、死んでからのほうが利用されるだろう。死者は文句を言わないし、不祥事も起こさない。美談や逸話はいくらでも捏造できるし、さらに重要なこととしてその幻想が打ち壊されることはない。なぜなら本人はもう死んでいるのだから。

「まさに生贄、だろ?」

 そういってイストは教会と聖女を嘲笑った。ただそこには怒りも含まれているように弟子のニーナには思えた。

「しかしそう上手くいくのか?」
「アルジャーク軍次第じゃないのか」

 ジルドの問いにイストはそう答えた。アルジャーク軍が間に合えば援軍を得た十字軍はアルテンシア軍を撃退し、教会は聖女を利用し続けることが出来るかもしれない。しかし間に合わなければ、教会は聖女とともに滅ぶことになるだろう。

「あ、いやでもオレがパックスの街を落とせばどの道教会は滅ぶだろうから、そんなに関係ないのかな………?」

 とはいえ、イストはまだどのタイミングで街を落とすのかは決めていない。舞台が盛り上がってさえいれば、アナトテ山がアルテンシア軍に占拠された後でもいいと思っていた。

「ふむ。大陸の歴史はアルテンシアとアルジャーク、シーヴァ・オズワルドとクロノワ・アルジャークによって決められる、か」

 ジルドは感慨深げにそう呟いた。大陸の中央部が衰退していき、逆に西の果てと東の果てが栄えてくる。それはある意味、当然の流れだったのかもしれない。

「だけど、クロノワは来るんでしょうか?」

 クロノワがアナトテ山まで来るとすれば、それはすなわち親征である。それが大変なことであるのはニーナにも分る。

「来るさ。アイツは必ず来る」

 しかしイストははっきりとそういい切った。根拠などない。しいて言うならば勘である。アバサ・ロットとしての、そしてクロノワの友としての勘だ。

(さっさと来い、クロノワ。じゃないと、世紀の一大イベントに間に合わないぜ?)

 どこにいるのか分らない友人に、イストはそう語りかけるのだった。

**********

「助かりました、ファウゼン伯爵。ご協力に感謝します」
「いえいえ。クロノワ陛下をお助けできたのであれば、望外の喜びでございます」

 そういって恰幅の良い壮年の男、ファウゼン伯爵は笑った。その笑みは儀礼上のものではなく、安堵とそして言葉通りの歓喜から来るものであった。

 オムージュ領の西の国境近くで十字軍の援護に向かう遠征軍の本隊と合流したクロノワたちは、そのまま進路を西に取りアナトテ山に向かうべく、現在は隣国ラキサニアの地を進んでいた。事前に許可を得ていたためラキサニアとの間に問題が起こることもなく、アルジャーク軍は順調に行軍していた。

 さて、行軍の中でクロノワはできるだけラキサニア国内の街に立ち寄るようにしていた。その第一の目的は食料の確保である。もちろん食料は足りているが、軍隊の飯というのは基本的に保存が利くもの重視で味は良くない。そこで、士気の維持もかねて兵士たちにうまいものを食わせてやろうとクロノワは思ったのだ。国から通達が出ているのか、住民や貴族たちも総じて協力的である。

 とはいえアルジャーク軍は本隊だけで総勢九万の大軍である。当然、立ち寄るのはそれだけの人数に食料を供給できる街になる。今回アルジャーク軍が立ち寄ったのもファウゼン伯爵領の中心となっている都市で、伯爵の屋敷もここにあった。

「それで、今回供給していただいた食料の代金ですが………」
「それについては、こちらに明細をご用意してあります」

 ファウゼン伯はあらかじめ用意しておいた明細の書類を、銀のトレイに載せて持ってこさせる。それを受け取ったクロノワは最後の合計金額だけ確認すると、さらにその書類を後ろに控えている女騎士グレイス・キーアに渡して確認させる。

 アルジャークの大使として御霊送りの儀式に参加したストラトスは、御前街でサンタ・シチリアナの国王アヌベリアスと会談を行ったのだが、その席で彼が娘のシルヴィアをクロノワの妃にしたいという話が出た。その話を本国に報告する際、内容が内容であるとしてストラトスはその会談に同席したグレイスを使者として選んだのだ。

 ちなみにこの人選について使節団内部では、
「厳しいお目付け役の監視から逃れるため」
 というのがもっぱらの定説だ。

 余談だが、彼女は現在皇帝の身辺警護を担当する近衛騎士団の騎士団長として、全軍がから選りすぐった精鋭二百名を率いている。

 本来、アルジャークとラキサニアの力関係からいけば、食料を無料で供出させることも可能である。そうでなくとも今回のような事情であれば、その費用は教会に負担させても良かったはずだ。まあ、金欠の教会が素直に支払うとは思えないが。

 しかしクロノワはそうはせず、自分たちでその費用を支払うことにした。これはファウゼン伯ら実際に食料を用意することになるラキサニアの貴族たちにとってありがたいことであった。ほとんど原価で利益は全くでないが、全て無料で供出させられたときの大赤字に比べればはるかにましだからだ。そしてその大赤字を最終的に押し付けられるはずだった住民たちにとっても、大変にありがたいことであったろう。

 無論、クロノワにも思惑がある。それはラキサニアの王族や貴族と面識を得てパイプを作ること。さらに彼らとラキサニアの民衆にアルジャークに対する好印象を残すことである。

 この先、教会と神聖四国の影響力は激減する、とクロノワは見ている。シーヴァによって教会が滅ぼされればもちろんだし、逆にアルテンシア軍を撃退できたとしても、周辺諸国に対する影響力はかなり弱まっているだろう。

 そうなればラキサニアは強力な庇護者を失うことになる。その時、小国ラキサニアが庇護を求めるべき相手はアルジャークしかない。それを見越しアルジャークの印象を好くしておこうというのが、街に立ち寄る第二の理由であった。

 つまりクロノワはラキサニスに対し、
「物分りのよい親分」
 であろうとしたのだ。そうすれば「親分」であるところのアルジャークは、
「使い勝手のいい子分」
 を手に入れることができるのだ。

 グレイスが明細の数字を確認している間、クロノワはファウゼン伯爵と歓談を続けていた。行軍中となるとどうしても入ってくる情報量が少なくなる。こういった歓談のなかで必要な情報、特に戦況の様子などを聞きだすことも、こうして街に立ち寄る理由の一つである。

「そういえば、クロノワ陛下はすでにご存知ですかな?十字軍に聖女が誕生した、という話は」
「聖女、ですか」

 聖女の名はシルヴィア・サンタ・シチリアナ。アルテンシア軍を神聖四国から追い払った功績を称えられ、聖女の称号を授与されたという。

 ただ、詳しく聞けば補給部隊をシルヴィアの部隊が強襲し、補給が続かなくなったアルテンシア軍は撤退した、とのこと。ベルベッド城に大量の物資がある以上アルテンシア軍の再襲来はほぼ確実で、つまり完全に撃退したわけではない。

(貧乏くじを押し付けられた、ということですか。かわいそうに………)

 聖女うんぬんの話を聞いてクロノワの最初の感想がこれであった。これでシルヴィアは戦場から逃れられなくなった。アルジャーク軍が間に合わなければ、まず間違いなく戦死することだろう。

(急いだほうがいいんでしょうけどね………)

 聖女シルヴィアを戦死させたくないのであれば、急がなければならない。だが彼女が生き残ったとして、それがアルジャーク軍にとって利となるかは微妙だ。「聖女」などという訳の分らないものに、主導権を握られアルジャーク軍がいいように使われてはたまったものではない。

(ま、その辺りは私の力量次第なんでしょうけど………)

 ファウゼン伯と談笑しながら、クロノワは心の中でそんなことを考える。

「そういえばシルヴィア様は陛下のお妃候補として名前が挙がっておられるとか」

 確かにそんな話があった。御霊送りの儀式に出席したストラトスからその旨を伝えるためにグレイスが来たし、その直後にはサンタ・シチリアナからも正式な使者が来た。アルテンシア軍の襲来により話は停滞しているが、この戦いが終われば良かれ悪かれ話を前に進めなければならない。

(しかしそうなると………)

 仮にシルヴィアを皇后に迎えるとして、その時の彼女は聖女である。必然的にアルジャークと教会の関係は深くならざるを得ない。しかしクロノワにとってそれは望ましいことではない。かといって「聖女」を袖にするとなると、それ相応の理由が必要になる。例えば「聖女」とつりあうほかの相手がいるとか。

(そんな都合のいい相手がそうそういるわけでもなく………)

 なんだか勝ったとしてもうまみがないような気がしてきましたねぇ、とクロノワは内心でごちる。

「陛下とシルヴィア様がご結婚なされれば、それは大変に喜ばしいことですなぁ」

 ファウゼン伯の言葉にクロノワは曖昧に笑って言葉を濁す。ちょうどその時、グレイスが金額の確認を終えた。

 グレイスから明細を受け取ったクロノワは、最後にもう一度合計金額を確認してからサインを入れる。そしてかつてイストから貰った「ロロイヤの腕輪」に魔力を込めて、そこに収納しておいた金貨を取り出す。

「クロノワ陛下は便利な魔道具をお持ちですなぁ」
「ええ。以前、友人から貰ったものです」

 そういってクロノワは屈託なく笑った。「ロロイヤの腕輪」は亜空間設置型の魔道具で、小さな部屋一つ分くらいの空間の中に物を収納しておくことが出来る。そう多くのものを入れておくことはできないわけだが、それでも非常に便利な魔道具だ。

 支払いを終えたクロノワは席から立ち上がる。ファウゼン伯から晩餐と宿泊を勧められるが、クロノワは「兵に野宿をさせておいて自分だけ優雅に過ごすわけにはいかない」と言って断った。これまで同じように誘いを断ってきたことを知っているのか、ファウゼン伯もそれ以上は誘ってこなかった。

 馬に揺られながらグレイスと連れだって街の外、アルジャーク軍の宿営に向かう。数日振りの上手い食事に、兵士たちも喜んでいる様子だ。

(聖女、聖女ねぇ………)

 そんな兵士たちを視界の端に納めながら、クロノワは振って湧いた「聖女」という新たな要素を、さてどうしたものかと考えるのだった。





*********************





 シルヴィア・サンタ・シチリアナに聖女の称号が授与された、という情報をアルテンシア軍が得たのはベルベッド城に到着してからのことだった。

「だとすると、あの襲撃部隊を指揮していたのはやはりシルヴィア姫か………」

 そう呟いたのはヴェート・エフニート将軍だった。補給部隊の護衛に向かうも一足遅く、煙に紛れて遁走していく敵部隊の姿は今でもはっきり覚えている。あの時も「もしかしたら」と思っていたが、どうやらその勘は当っていたらしい。

「そのシルヴィア姫が聖女、か」

 何を大げさな、とも思うがこうして実際にベルベッド城まで後退してきているのだ。敵の思い通りになってしまったことは否めない。

(あと一日、いや数時間早く後方部隊と合流できていれば………!)

 今日のような展開にはなっていなかっただろう。そう思うと、どうしても悔いが残る。そしてそれは、シルヴィア姫に初めての勝利を献上してしまったガーベラント公も同じであろう。

 二回の敗北とベルベッド城までの後退。このなかでアルテンシア軍が失ったものはそう多くはない。人的損害は軽微だし、物資の損失も取り返しのつかない量ではない。手ごろな拠点を確保し、敵の拠点はあらかた破壊してある。戦略的に見て、アルテンシア軍の優位は揺らいでいないのだ。

 しかし教会と十字軍の受け止め方は違う。どれだけ小さくとも勝利は勝利。再襲来するのだとしても、敵軍を神聖四国の外に追い出したことは事実。それを前面に出して強調し、戦力的な不利を隠そうとしている。

 虚構に縋り付いて大騒ぎしているようにも見えるが、その大騒ぎの度合いが半端ではない。教会という、国家とは異なる一種神秘的な権威がそれを主導しているせいで、根拠が貧弱でも信者たちはそれを疑わない。停止した思考と集団心理のおかげで、馬鹿騒ぎは目下拡大中だ。

 まあ、敵陣営の人間がどれだけ騒ごうがかまわない。それより問題なのは、その騒ぎが大きすぎるせいなのか、「聖女」が実像よりも大きく見えてしまうことだ。現に将軍であるヴェートでさえ、「聖女」の名を前にして身構えてしまう。一般の兵士たちの動揺はまだ表には出ていないが、それでも各自が焦りのようなものを感じていることだろう。

 そんな中、変わらずに泰然としているのはシーヴァ・オズワルドただ一人である。

「いつの間にか魔王になってしまったな」

 聖女にまつわる一連の話を聞いた後、シーヴァは面白そうに笑いながらそういった。さらに主君を魔王呼ばわりされて憤る臣下たちを、彼はこういって宥めた。

「魔王なれば魑魅魍魎のほうから我を避けていくだろう。我が軍に災厄は降りかからぬと教会が保障してくれたようなものだ」

 以来、シーヴァに聖女を気にした様子はないし、彼のほうからその話題を振ってくることもない。淡々と再進攻に向けた準備を行っている。

 実際のところ、兵士たちに表立った動揺が見られないのは、シーヴァのこの泰然とした態度によるところが大きい。兵士たちの中には、

「陛下が気にされないのであれば、そういうことだ」
 などと自分に言い聞かせて落ち着こうとしているものもいた。

 まあ、それはともかくとして。ベルベッド城に戻ったアルテンシア軍は、十分な休息を取り万全の準備を整えてから進攻を再開した。ただし今度は見せ付けるような、意図して速度を落とした進軍ではない。もちろん兵が疲れ果てて戦闘に支障が出るほどの速度は出さないが、それでもシーヴァが「全力で」と宣言していたように、疾風と呼ぶに相応しい速さであった。

 もっとも、最古参の兵士たちによると、
「革命の初期に比べればまだまだぬるい」
 ということらしい。

 遮るものも敵対する軍勢もいない国境を破り、アルテンシア軍はサンタ・ローゼンに再び侵入する。シーヴァが破壊しつくした、もとは砦であった廃墟の脇を通り抜け鉄(くろがね)の軍勢は疾駆する。

 目指すはアナトテ山。

「そこで決着をつける」
 シーヴァはそう決めていた。

**********

 ――――アルテンシア軍、動く。

 その報告がもたらされた時、十字軍の幕僚たちは殴られたわけでもないのに腹に衝撃を感じた。

(ついに来たか………)

 慌てふためく幕僚たちの中、最も落ち着いていたのは十字軍の総司令官にして聖女たるシルヴィアだった。しかしこれは彼女の胆力が特別に優れていたためではない。幕僚たちが、ベルベッド城まで後退したアルテンシア軍がそのまま撤退してくれるのはでは、という淡い願望を抱いていたのに対し、シルヴィアは必ず再襲来すると覚悟していた。彼女と幕僚たちの差は、そのまま心構えの差であるといっていい。

 実際、こうして早い段階でアルテンシア軍の動きを察知できたのもシルヴィアの備えがあればこそだった。彼女は斥候を出してベルベッド城を監視させていたのである。また国境近くに伝書鳩を用意しておくことで、かなり速く情報の伝達がなされた。

(アルジャーク軍は、間に合わなかったか………)

 アルテンシア軍が再び動き出すまでの間にアルジャーク軍が到着するというのが、シルヴィアが思い描く最上のシナリオであった。しかし今現在、アルジャーク軍はまだ十字軍と合流してはいない。つまり十字軍は単独で、迫り来るアルテンシア軍を迎え撃たねばならないのだ。

(まあ、まだアルジャーク軍が間に合わぬ、と決まったわけではないが………)

 聞くところによれば、随分と近くまでは来ているらしい。もしかすると、ラキサニアを抜けてすでにサンタ・シチリアナに入っているかもしれない。アルテンシア軍との決戦までに合流してくれれば、シルヴィアの作戦は成功したことになる。

(結局アルジャーク軍頼みというのが、情けないかぎりじゃがの………)

 聖女だのなんだの言われたところで、精兵が湧いてでてくる魔法の壷などシルヴィアは持っていない。肩書きばかりが大きくなって中身が伴っていないのが、今のシルヴィアと十字軍の実態であった。

「まあ、嘆いてばかりいても仕方がない」

 幕僚たちに冷静さが戻ってきた頃合を見計らって、シルヴィアはそういった。今はアルジャーク軍が来ると信じて戦うほかない。

「参謀長、営塁の建設はどうなっておる?」

 アルテンシア軍がベルベッド城に撤退していった間、シルヴィアは何もしていなかったわけではない。御前街から街道を西に三十キロほど行った地点に最終防衛線とも言うべき拠点を築かせていたのである。

 実は、防衛用の拠点を築くのとはべつに、街道を駆け上ってくるアルテンシア軍に対して奇襲を仕掛ける、という案も出ていた。ただこの案は、十字軍に実行能力がないために採用されることはなかった。実際、未熟なシルヴィアでは十万近い軍勢をシーヴァに気づかれないように移動させることなど出来ない。途中で発見されて逆に奇襲を受けるかもしれないと思うと、その案は採用できなかったのである。

 そのため街道に上にアルテンシア軍を向け打つための防衛拠点を造ることになったのだが、この短期間で出来ることなど限られている。柵を立ててその前に壕を掘り、さらに土嚢や石を積み上げて防塞を作った。いかにも急造な拠点であり、当然のことながら立派な城壁などない。もっとも、立派な城壁があってもシーヴァに破壊されて終わりだろうが。

「すでに計画の八割ほどは完成しております」

 参謀長の答えにシルヴィアは頷いた。それだけ完成していれば、時間稼ぎぐらいは出来るかもしれない。

「兵士たちに準備を整えさせるのじゃ。一時間後に出る」

 シルヴィアの言葉を合図に、出陣を伝える号令が鳴り響く。厳しい戦いになる。それは十字軍の全員が分っていた。しかしそれを最も重く受け止めていたのは、聖女シルヴィアであった。

**********

「なかなか立派な拠点を築いたものだな」

 馬上から望遠鏡を覗きこみ街道を塞ぐ形で造られた十字軍の営塁を見て、シーヴァはそう呟いた。敵拠点の存在自体は斥候の報告によって知っていたが、こうして実際に見てみると、短期間で作られた割にはなかなかいい規模である。

「人数に物言わせて急造したのでしょう」

 ヴェートの言葉にシーヴァも頷く。繊細で精密な作業があるために熟練の職人が必要になるわけでもない。十字軍の戦力のうち数万を投入して、もしかしたらさらに周辺からも人手を集めて造り上げたのだろう。こういう時、聖女という存在は便利だ。

「ですがそこに籠っているのは所詮弱兵。今日中に片が付くでしょう」

 ガーベラント公が冷たく言い放つ。斥候の情報によれば現在の十字軍の戦力は十万弱。聖女効果もあってか、数的優位は回復したことになる。しかし言ってしまえばそれだけで、兵の質は下がり続けている。

 目の前の敵拠点には壕があり、柵があり、防塞がある。しかしそれだけではアルテンシア軍の侵入を完全に防ぐことなど出来るわけがない。そして一度侵入してしまえば、その後の趨勢はアルテンシア軍に傾く。

「時間も惜しい。いくぞ」
「はっ!」

 アルジャーク軍が援軍としてアナトテ山に向かってきている、という情報はシーヴァも得ている。ことさら恐れるつもりはないが、十字軍などよりはるかに手ごわい相手であることは間違いなく、できることなら戦いたくない相手ではある。

(到着するより前に神殿を制圧してしまえば、アルジャーク軍が戦う意味はなくなる)

 そんなことを考えながら、シーヴァは全軍に前進を命じた。アルテンシア軍が近づくと、すかさず柵の向こう側から万に届くかという数の矢が一斉に放たれる。それを見たシーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を食わせ、威力の低い漆黒の魔弾を幾つも打ち出しそれらの矢を叩き落していく。主君の活躍に兵士たちは歓声をあげた。

 十字軍に呼応するようにアルテンシア軍からも矢が放たれるが、柵があるため思うほどの効果はでない。こういう場合、矢の射掛け合いではやはり防御側に分がある。今アルテンシア軍の被害が少なく済んでいるのは、ひとえにシーヴァのおかげだ。

 弓矢が飛び交うその下をシーヴァは馬を駆って敵陣に接近していく。そして柵を射程に捉えると魔弾を撃ち出して、その柵を後ろの弓兵ごと吹き飛ばす。柵の前には深い壕が掘られているが、シーヴァは馬を止めない。そのまま馬を疾駆させ、巧みな手綱さばきで壕を飛び越え敵陣に突入した。

 主君の後ろに続いて、アルテンシア軍の騎兵部隊が次々と壕を飛び越え敵陣に突入していく。彼らは何も言われずともそこからさらに左右に別れ、柵のすぐ近くにいる敵兵を駆逐し味方の突入を援護する。

 まだ柵の外側にいるアルテンシア軍の歩兵たちが、壕に丸太を二本まとめた即席の橋をかけ、柵をよじ登って陣内に突入していく。さらにゼゼトの戦士たちがその怪力をいかんなく発揮して柵を引っこ抜きそれを壕に橋として架けると、兵士たちは歓声をあげながら敵陣に突入して行った。

 柵の内側には、土嚢や石を積み上げて造られた防塞が幾つも並んでいる。そして二つの防塞の間には、その隙間を生めるようにして柵が立てられていた。いわば第二防衛線である。そこから十字軍の兵士たちが出てきて、次々に壕を乗り越えて侵入してくるアルテンシア兵に襲い掛かる。たちまち乱戦になった。

「なるほど。考えたな」

 馬上から戦況を俯瞰しつつ、シーヴァはそう呟いた。敵味方が入り乱れて乱戦になってしまえば、おいそれと「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」は使えない。その魔道具は強力すぎて、味方を巻き込んでしまうからだ。防塞に籠らずあえて打って出てきたのは、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を封じるためと見てよさそうだ。

「着眼点は間違っていない。だが………」

 だがこの場合、襲い掛かったほうより襲われた方が強力であった。当初こそ数の差と援護射撃のおかげで十字軍は優位に立っていたが、突入してくるアルテンシア兵の数が増えるにつれ、趨勢の天秤はあっけなくアルテンシア軍のほうに傾いていった。

 ただ、戦いにくいのは事実だ。柵や防塞が邪魔で騎兵が思うように動けない。実際、シーヴァと共に突入した騎兵部隊は、主君の周りを囲うようにして待機している。また防塞に籠っている敵兵ももちろんいて、アルテンシア軍はその防御を一撃で突き崩すことはず、優勢ながらも粘り強く戦うしかない。

 今のところ、突入した後のシーヴァは黙って戦況を見守っているだけだ。しかし有能なアルテンシア軍の部隊指揮官たちは、言われずとも何をすべきかを理解しそして行動している。

 アルテンシアの兵士たちは盾を構えて矢を防ぎながら柵へと近づき、格子状の隙間からやりを突き入れて後ろの敵を串刺しにしていく。さらに防塞を乗り越えてその内側に侵入し、そこにいる十字軍兵士を蹴散す。

 アルテンシア兵の接近を許した十字軍の弓兵たちは悲惨だった。矢をつがえるよりも速く槍で顔面を強打され、地面に倒れたところを別の兵士に突き殺される。弓を捨てて剣を抜くものもいたが、彼らは接近戦の訓練など受けていない。たちまち斬り捨てられて死体をさらした。

 防衛線を突破したアルテンシア兵たちは、主君のために道を作る。邪魔な柵を撤去して騎兵が通れるように道を明ける。それを確認したシーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を背中に戻して槍を受け取り、無言で馬の腹を蹴って駆け出した。周りを固めていた騎兵部隊がそれに続く。

 まとわり付く雑兵を槍で払いのけ、横たわる死骸を馬のひずめで踏みつけながらシーヴァは突き進む。そうするとすぐにまた柵が横一列に立てられているのが見えた。ただ、後退する味方に配慮したのか、その柵の前に最初の場合のような壕が掘られてはいない。

(無用心だな。利用させてもらうぞ!)

 シーヴァは槍を逆手に持ちかえると、そのまま投擲する。柵の格子状の隙間をすり抜けたその槍は、柵の後ろにいた一人の兵士の顔面を貫通し、さらにその後ろにいた兵士までも仕留めた。

 それを見た十字軍の兵士たちに動揺が走る。その一瞬の隙を見逃さず、シーヴァは加速して柵に肉薄した。

 背中に手をやり「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を引き抜く。そのまま魔力を喰わせて、シーヴァは黒き風を呼んだ。

 黒き風の直撃を受けた柵と、その後ろにいた敵兵が吹き飛ぶ。さらにシーヴァは壕がないのをいいことに、黒き風を巻き起こしながら柵に向かって並走し、柵と兵士たちをなぎ倒していく。あっという間に防衛線は破られ、巨大な口が開いた。

 シーヴァが力技でこじ開けたその突破口を、すぐさまアルテンシア軍の一軍が隊列を整えて駆け抜けていく。その先頭にガーベラント公の姿を認めたシーヴァは、一瞬だけ頬を緩めた。

(乱戦のなか兵をまとめて、間髪入れずに突破口を駆け抜けるか。さすがだな)

 ガーベラント公が率いているのは、全部で一万弱の戦力だ。ただこれは先鋒とも言うべき部隊で、少し遅れてアルテンシアの全軍がこれを追いかけていくだろう。

 ガーベラント公を見送ったシーヴァは、合流して先陣を駆けたい気持ちを押さえ、周りにいる騎馬隊を指揮して残った敵を駆逐していく。飛び出した部隊の後ろを襲われないようにするためだ。馬を駆って駆け巡ると、十字軍の兵士たちは瞬く間に散らされてそのまま逃げていった。

 敵の多くは歩兵だ。騎兵隊ならばこれを追って殲滅することもたやすい。しかしシーヴァは逃げていく兵をことさら追おうとは思わなかった。今重要なのは敵軍を殲滅することではなく、ここを素早く突破することだからだ。

 遁走した敵兵が聖女シルヴィアの下に合流して、再びアルテンシア軍の前に立ち塞がるかもしれないが、大規模な防衛拠点をここ以外にも用意しているとは思えない。純粋な野戦ならば、十字軍を破ることは赤子の手を捻るようにたやすい。

 柵を取り除けあるいは防塞を乗り越えて、乱戦を制したアルテンシア兵がぞくぞくと集まってくる。それらの兵を素早くまとめ隊列を整えさせると、シーヴァはガーベラント公を追って駆け出した。

 さてシーヴァがこじ開けた突破口のその向こうには、十字軍の本隊と思しき一軍がいた。その数、およそ三万。そしてそこには聖女シルヴィアがいる。

 ガーベラント公は思わずほくそ笑んだ。彼はかつて一千の兵でシルヴィア率いる三千の兵と戦ったことがある。彼はその時そこでの戦闘に意味を見出さず撤退したが、あろうことかそれが聖女シルヴィア誕生のきっかけになってしまった。

(今度は退かぬぞ………!)

 ガーベラント公は好戦的に笑う。今彼が率いているのは一万弱の兵だ。それに対し敵は三万。規模は十倍近くになったが、奇しくもあの時と同じく三倍の敵を相手にすることになる。

「聖女を捕らえるぞ!それでこの戦いは終いだ!」

 ガーベラント公は声を張り上げてそう指示を出す。下手に聖女を殺せば、教会は喜んでその死を利用するだろう。しかし捕らえることが出来れば、その影響力を封殺し同時に敵の意気を挫くことができる。そうすればこの先、十字軍がアルテンシア軍の前に立ち塞がることなどなくなるだろう。

「突撃!!」

 あの時とは違い明確な戦意をたぎらせて、ガーベラント公は突撃を命じた。

**********

(早い………!早すぎる!)

 最後の防衛線が黒い暴風によって吹き飛ばされ、さらにアルテンシア軍の一軍がそこから飛び出してきたのを見たとき、シルヴィアは氷刃を差し込まれたかのような寒気を感じた。

 急造とはいえ、防衛線は三重になっていた。それがこうも容易く喰いちぎられるとは。十字軍の弱さだけでは説明できない速さである。

(結局、なにもかも無駄だったわけじゃ………)

 シルヴィアは自嘲気味に心の中で呟いた。

 祖国を守りたいと思い、戦場に立った。有効と思える作戦を考えて実行し、そして一定の効果を上げもした。

 その結果、聖女に祭り上げられたのは不本意ではあったが、それでもその肩書きの力はシルヴィアが祖国を守るために有用でもあった。信者たちの協力も得られたし、十字軍の戦力も回復できた。国の異なる兵士たちを鼓舞し協力させるのに、確かに「聖女」という肩書きは便利だった。

 だが、その結末はどうか。

 聖女として、また十字軍総司令官として、全ての力を注ぎ込んで準備してきた三重の防衛線はアルテンシア軍にあっけなく食い破られてしまった。戦力として残っているのは、シルヴィアが自ら率いているこの本隊のみである。

 その本隊に、アルテンシア軍が襲い掛かろうと迫ってきている。数はおよそ一万弱でこちらの三分の一程度。しかし総合的な戦力では向こうのほうが上だろう。しかもシルヴィアがこれまで直面したことのない戦意と殺気をたぎらせ、猛然と近づいてくる。その圧力たるやすさまじく、シルヴィアはまるで見えない手に体を押さえつけられたかのように感じた。

 血の気が引いていくのがわかった。背中に寒気を感じ、唇と手足が震える。逃げられるものならば、逃げたかった。

「………全軍、戦闘用意」

 しかし、シルヴィアに逃げるという選択は許されていない。なぜなら彼女は聖女なのだから。「教会のために命を賭せ」と命じられているのだ。明確な言葉によってではない。人々から向けられる態度と期待によって、シルヴィアはこの短い間にそれこそ数え切れないくらい、命じられてきたのだ。

 シルヴィアと同じくらい顔を青くした兵士たちが、しかしそれでも逃げ出さず命令にしたがって戦闘隊形を整えていく。

(彼らはなぜ逃げないのだろうか………)

 兵士たちの様子を眺めらながら、シルヴィアは回りきらない頭でそんなことを考える。聖女のために命を賭けようと決めているのだろうか。あるいは聖女ならばこの逆境をはね返し奇跡的な勝利を収められると信じているのだろうか。それとも聖女と共に戦って死ねば、天上の世界へいけると信じているのだろうか。

『勘弁してくれ!』

 シルヴィアはそう叫びたかった。命を賭けるほどの価値がないことぐらい、シルヴィア自身が一番良く知っている。ここから逆転する秘策など、自分には考え出せない。天上の世界に連れて行くことなど、自分には出来ない。

 聖女とは結局、シルヴィア・サンタ・シチリアナという一人の小娘でしかないのだ。つい最近まで一兵卒さえ率いたことのない小娘なのだ。歴史や地理は好きだったが、戦術を専門に学んだことなどない。弓と馬術に秀でてはいても、本格的な軍事訓練など受けたこともない。

 戦争などとは程遠い世界にいた、一人の少女なのだ。

 肩書きが変わったからといって、中身が変わるわけではない。いや、そもそも肩書きとは中身がそれに相応しくなってから与えられるはずのものだ。しかしシルヴィアはそういうものをすっ飛ばして聖女になってしまった。「聖女」の肩書きはシルヴィアを置き去りにして肥大化し、もはや一個の人格となりおおせてしまっている。

「暴れ馬の背に括り付けられてしまったようなのものじゃ」

 珍しく一人になれたとき、シルヴィアはそんなふうに漏らしたことがある。独り歩きを、いや暴走を始めた「聖女」の肩書きは、多くの人を自らの幻想に巻き込んでいる。そしてその幻想は、ついに現実さえも動かしてしまった。

 しかし、幻想は幻想でしかない。避けようのない現実、変えられない現実を目の前に突きつけられたとき、人は痛みとともに思い知らされるのだ。
「ああ、はかない夢だった」
 と。

 そして今、その現実が目の前に迫ってきている。アルテンシア軍という名の現実が。

 十字軍の戦闘隊形が整う。盾を並べて槍を突き出し、拒絶の意志を表明する。弓兵部隊は弓矢を引き絞り、攻撃の合図を待っている。

(すまない。そして、ありがとう)

 そんな兵士たちの姿を見て、シルヴィアは心の中で謝りそして感謝した。結局、幻想にしかなれなかったことへの謝罪。それでも自分に付き合ってくれることへの感謝。ごちゃ混ぜになった頭の中で、最後に残ったのはこの二つだった。

「放てぇぇぇぇええええ!!!」

 十字軍から矢が放たれる。ほぼ同時にアルテンシア軍からも矢が放たれ、銀色の二つの流れは空中で交差し、そしてお互いに降り注いだ。

 敵も味方も、降り注ぐ矢に射抜かれて一人また一人と倒れていく。しかし十字軍が一人倒れるごとに戦意を喪失していくのに対し、アルテンシア軍はむしろ戦意をたぎらせていく。放たれる矢がだんだんと水平になっていき、そして両軍はついに激突した。
 
 十字軍が示す拒絶の意志をはねのけてアルテンシア軍は進む。振り下ろされたメイスは兜ごと頭をかち割り、馬に倒された兵は起き上がるより前に槍で刺し殺される。抗戦の意志を失った十字軍の兵士は武器を捨て盾を両手で構えて必死に耐えるが、ほんの数十秒だけしか寿命を延ばすことはかなわない。

 濁流が大地を削りながら進むように、アルテンシア軍は十字軍の戦力を削り取りながら前進する。数の少ないアルテンシア軍が、三倍近い数の十字軍を押し込めて後退させていくのである。

 趨勢は完全にアルテンシア軍に傾いている。しかしそれでも十字軍の兵士たちは逃げなかった。圧倒的劣勢の中、何が彼らを支えているのか。

(考えるまでもないことじゃ………!)

 彼らを支えているのも、それは幻想だ。「聖女」という名の幻想。なんら確たるもののないその幻想を支えに、彼らはこの戦場に踏みとどまっている。あやふやで世界を変える力など何もない「聖女」。その幻想が兵たちを駆り立てて戦場に立たせ、そしてその血を飲み干している。

「もういい!逃げよ!」

 そう叫びたいのを、シルヴィアはずっと堪えている。「聖女」のせいで、自分のせいで兵士たちが死んでいく。それは戦場においてごく普通のことなのかもしれないが、彼らには逃げるという選択肢があったはずなのだ。それを奪ったのは、「聖女」という幻想だ。死ぬのはその幻想だけで十分だ。

(私が、私が死ねば………!)

 兵たちは幻想から解放され、逃げられる。押しつぶされそうなストレスの中、そんな刹那的な考えが頭をよぎる。それは毒。人を酔わせて殺す、甘美な毒だ。普段のシルヴィアならば見向きもしなかったはずだ。しかし圧倒的に不利な戦場という極限状態が、彼女から正常な思考を奪っている。悪魔の甘い囁きにシルヴィアが身をゆだねようとした、まさにその時。

「シルヴィア様!」

 脇に控えていた参謀の一人が、声を張り上げた。意外なことに、喜色が浮かんでいる。しかしシルヴィアはその事に気づいていない。

「邪魔をしないでくれ………」
 とシルヴィアがそういう前に、参謀は満面の笑みでそれを指差した。

 アルテンシア軍とは逆の方向から迫り来る、騎兵の一団。彼らが掲げているのは、深紅の下地に漆黒の一角獣が描かれた旗。

「アルジャーク………軍………」

 それは天が、聖女ではないただ一人の少女のために与えた、奇跡。




[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ9
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:02
「十字軍を捕捉!アルテンシア軍と交戦中の模様!」
「このまま全速力で前進します!」

 報告に答えてクロノワは声を張り上げる。遠目ではあるが、見たところ十字軍の形勢はかなり不利だ。普通であれば総崩れしていてもおかしくはない。それでも持ちこたえているところを見ると、「聖女」の名前は思いのほか役に立っているらしい。

(間一髪で間に合った、といった感じですね………。とはいえウカウカしていては本当に手遅れになってしまいそうです)

 急がなければ、とクロノワは気を引き締める。それからふと横を見ると、アールヴェルツェが含み笑いを浮かべていた。

「どうしたのです?」
「いやあ、こうして陛下と騎馬隊を率いて先駆けするのは二度目だなと思いましてな」

 そういわれ、クロノワは「ああ」と納得する。アールヴェルツェのいう一度目とは、クロノワがまだ日陰者の第二皇子であった頃、モントルム遠征の際に行った騎兵による先行攻撃のことであろう。

 あの時と同じく、クロノワは騎兵のみを率いてこの戦場へと駆けつけてきた。奇しくも数も三万と同じである。

 アルジャーク軍がサンタ・シチリアナに入った際、クロノワはベルベッド城まで撤退したアルテンシア軍に動きがあったことを知らされた。同時に十字軍もこれを迎え撃つために出陣したと聞く。

「このままでは間に合わない」

 クロノワはそう直感した。アールヴェルツェに確認してみたところ、彼の同意見であるという。

 アルジャーク軍の戦力は、歩兵六万と騎兵三万の合計で九万である。対するアルテンシア軍はこれまで戦力の損耗はほとんどないはずで、おそらくは八万弱。わずかながらアルジャーク軍のほうが一万程度数が多いとはいえ、ほとんど互角と考えておいたほうがいいだろう。

「数的優位を確実にするためにも、十字軍の戦力はなるべく回収したい」

 それがアールヴェルツェの意見であり、またクロノワもそれに同意した。しかしこのままの歩兵のペースに合わせて進んでいては、アルテンシア軍と十字軍の決戦には間に合わない。そこでアールヴェルツェが提案したのが、モントルム遠征のときと同じ騎馬隊を先行させるという案であった。

 十字軍を助けてしまってよいのか、という葛藤はクロノワの中にまだ残っている。十字軍を助けるということは、必然的にアルテンシア軍と争うということであり、下手をすれば争い続けるということである。

 しかしシーヴァがアナトテ山の神殿を占拠してしまえば、アルジャーク軍がこれと戦う理由はほとんどない。シーヴァの戦いはその後も続くのかもしれないが、権威と影響力を失った教会など助ける価値はないからだ。

 わざわざ親征しながらも間に合わなかったクロノワは、後世の歴史家たちから「間抜け」と呼ばれるかもしれない。しかし、クロノワに死後の汚名まで気にしている余裕はない。アルジャークという国の行く末にとって、どんな選択をするべきなのか。それを考えるだけで手一杯である。

 ただ、今の段階で答えらしきものは出ている。

「ひとまず間に合わせるために全力を尽くそう。そして間に合ったのであれば、勝つために全力を尽くす。もしも間に合わなければ、その時は潔く引き返そう」

 いかにも場当たり的ではあるが、すでに軍を動かしているのだ。これ以外にはないような気がする。一応「わざと行軍を遅らせる」という選択肢もあるが、いくらなんでもそれはあざとすぎる気がするのだ。

 はたしてアルジャーク軍は間に合った。かなりギリギリなタイミングではあったが、それでも十字軍が崩壊し神殿が占拠されるよりも前に、アルジャーク軍は戦場に到着したのだ。

「アルテンシア軍の戦闘に一撃を加え、そのまま十字軍を回収しつつ撤退します!」

 クロノワの指示に、アルジャークの騎士たちは力強い返事を返す。その返事を聞きながら、クロノワはかつてイストから貰った聖銀(ミスリル)製の指輪を撫でた。

 アルジャークの騎馬隊の登場と接近に、十字軍と交戦中であるアルテンシア軍も当然気づいていた。アルジャーク軍が十字軍の援軍として接近しつつあることは、もちろんガーベラント公も知っている。よって、彼はすぐさまアルジャークの騎馬隊を敵と断定し、その攻撃に対処すべく兵を動かした。

 アルジャーク軍の突撃を防がんと、アルテンシア軍の精鋭たちが防波堤を作り始める。盾を並べて壁を作り、そこから長槍を突き出す。さらにその後ろでは、弓兵たちが弓を引き絞っている。乗っている馬の分だけ的が大きい騎兵にとって、距離が開いた状態での弓兵は天敵といえる。

「動揺が少ない。流石ですね」
「左様ですな。あの部隊を率いているのは良将です」

 隊形を整えていくアルテンシア軍を見ながら、クロノワとアールヴェルツェは言葉を交わす。よどみのないその動きは、兵士たちの練度が高いことを物語っている。しかも三倍近い十字軍と戦いながらである。将兵ともに、アルテンシア軍はアルジャーク軍にも匹敵する、大陸でも最高レベルの軍隊であろう。

 しかしそれゆえに、どうしても数が最後の決め手となる。アルテンシア軍は一万弱。後ろに七万以上の味方が控えているとはいえ、突出しすぎたために合流にはもう少しかかる。対するアルジャークは三万。十字軍はこの際除外するとしても、十分に押し切ることが可能な数の差である。

 そして、さらに。

「私が穴を穿ちます。後は手はず通りに」
「御意」

 クロノワとアールヴェルツェが話している間にも、騎馬隊は疾駆しアルテンシア軍との距離を縮めていく。そしてついに騎馬隊が弓兵の射程に入り、矢が一斉に放たれようとしたまさにその時。

 閃光が、走った。

 盾を構えて防御隊形を取っているアルテンシア軍に、一筋の閃光が突き刺さりそして穴を穿った。盾を構え槍を突き出していたはずの兵士は吹き飛ばされ、手足を奇妙な方向に曲げ血まみれになって地面に叩きつけられる。

 さらに同じ閃光が、二発三発と連続してアルジャークの騎馬隊の先頭から放たれる。そこにいるのは、他でもない皇帝クロノワ・アルジャークである。

 魔道具「|雷神の槌《トール・ハンマー》」

 それが、この閃光を放つ魔道具の名前である。形状は聖銀(ミスリル)製の指輪で、幅が広く細かい透かしの細工が施されている。

 この魔道具について特筆すべき点は、その使い勝手の良さだ。基本的に対象に指輪を向けて魔力を込めればそれで一撃が放たれる。威力と射程が固定されている代わりに、細々とした操作をする必要がないのだ。

 さらに、魔力を込め続ける限り連射が可能。当れば人が吹き飛ぶような威力の閃光を立て続けに放てるのだ。シーヴァの持つ「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」とはまた別の意味で反則的な魔道具といえるだろう。

 立て続けに放たれた「|雷神の槌《トール・ハンマー》」の閃光によってアルテンシア軍の隊列には幾つものほころびが出来ていた。思いがけない攻撃に動揺したのか、それとも弓兵たちにも被害が出たのか、矢がアルジャーク軍に降り注ぐことはなかった。

「突撃!」

 間髪いれずにアールヴェルツェが命令する。その命令を待っていたかのごとくに、騎兵たちは加速する。そして十字軍とアルテンシア軍を分断するように、両軍の境目めがけて突撃した。

 突撃したアルジャークの騎兵隊は、クロノワの指示通り一撃離脱でそのまま駆け抜けていく。大きく孤を描き、アルテンシア軍を削り取るかのようにえぐりながら騎兵たちは駆け抜けていく。

「アルジャーク軍に続け!後退する!」

 シルヴィアは声を張り上げた。アルジャーク軍が間に入ってくれたおかけで、十字軍はアルテンシア軍の猛攻から逃れることが出来た。さらにアルジャーク軍が壁になってくれているおかげで、一時的ではあるが安全圏ができあがっている。

 この千載一遇の好機を逃すわけにはいかない。アルジャーク軍は動きを見る限り、一撃を加えそのまま戦場を離脱するつもりのようで、一緒に離脱できれば命を拾うことが出来るだろう。

 シルヴィアの指示が早いか、十字軍の兵士たちはアルジャーク軍の後を追いかけて撤退を開始した。騎馬隊に遅れぬよう、皆必死に走っている。当然、隊列はばらばらで無秩序な遁走ではあったが、アルジャーク軍の影にいるおかげでアルテンシア軍の攻撃を受けることはなかった。

 そのまま戦場から遠ざかる。アルジャーク軍があの一撃でどれだけの被害を与えたのかは分らないが、アルテンシア軍の追撃はなかった。日が暮れるまで撤退を続け、すっかり暗くなってしまってから十字軍はようやく足を止めた。シルヴィアが指示を出したわけではない。ただ単純に兵たちが疲れ果てて倒れこむようにして足を止めたのだ。いや、もともと疲れ果ててはいたが、敵への恐怖が勝り夜になるまでどうしても足を止められなかったのだ。

 それを見て、十字軍の後方を殿のようにして守っていたアルジャーク軍も足を止める。こちらはまだまだ余裕がありそうだ。それは馬に乗っていたせいもあるのだろうが、それ以上に単純な地力の差が大きいようにシルヴィアには思えた。

(大陸最強の名は伊達ではない、という事じゃな………)

 精鋭強兵を誇る国は大陸に数あれど、そのなかでもアルジャークの騎馬隊は最強の呼び声が高い。その実力の一端をシルヴィアは見た気がした。つい先ほどまでの撤退にしても、十字軍はまるで無秩序に逃げていたが、アルジャーク軍は移動しつつも整然と隊列を整えて後ろに回り、常に後方を警戒しながらシルヴィアたちを守ってくれていた。アルテンシア軍が追ってこなかったのも、アルジャーク軍を警戒したからに違いあるまい。

 シルヴィアがアルジャーク軍のほうを眺めていると、そこから数騎がこちらに向かって来た。まだ若い男とその隣にいる壮年の将を中心にして、周りには護衛と思しき騎士が数名いる。

「あなたが、聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナですか」
「そうですが、あなたは………?」
「ああ、失礼。私はクロノワ・アルジャークといいます」

 その名を聞いた瞬間、シルヴィアは大きく目を見開いた。クロノワ・アルジャーク。それはつい最近聞いたことのある名前だ。

「アルジャークの………、皇帝……陛下………?」
「そう呼ばれることもありますね」

 悪戯を成功させた子供のようにクロノワは笑った。

 この戦いはアルジャーク帝国にとっては、直接国益に結びつくものではない。にもかかわらず皇帝が直々に親征してくるとは。そのうえ、それがともすれば自分が嫁ぐかもしれない相手だとは。そんな相手が危機一髪のところで駆けつけてきてくれるとは。

 運命など信じているわけではない。しかしこの時ばかりはシルヴィアは呆れつつもしみじみこう思ったという。

「運命とは、数奇なものじゃ………」

**********

「あれがアルジャーク軍か………」

 遠ざかっていくアルジャーク軍の背中を見送りながら、シーヴァはそう呟く。突然現れガーベラント公の部隊に一撃を加えたアルジャーク軍は、そのまま十字軍を回収して撤退していった。

 むざむざと逃がしてしまった、とシーヴァは軽くした打ちする。アルテンシア軍の本隊が駆けつけるよりも前に、アルジャーク軍は戦場を離脱してしまった。斥候からの情報によればアルジャーク軍の戦力はおよそ九万。アルテンシア軍よりも一万ほど多い。相手の数的優位を潰すためにも、あの分隊に損害を与えておきたかった。

 ただそう考える一方で、仕方がなかったという割り切りも済んでいる。一度乱戦になり乱れてしまった隊列を整えるのに思いのほか時間がかかった。また十字軍の兵士たちは思いのほか粘ったようで、乱戦の収束そのものにも時間がかかってしまった。

 そしてなにより、アルジャーク軍の動きが素晴らしかった。一撃を加えアルテンシア軍と十字軍を分断した後は、余計な欲は出さずにそのまま撤退。さらに逃げるのに精一杯な十字軍の後ろを守り、アルテンシア軍の追撃に備えていた。シーヴァが追撃を仕掛けようと思わなかったのは本隊の再編に手間取ったのもそうだが、殿をおこなうアルジャーク軍の隊列に一分の隙もなかったからだ。

「申し訳ありません。聖女を逃しました」

 十字軍の本隊と戦っていたガーベラント公が馬を寄せてくる。口では聖女のことを詫びているが、頭の中がアルジャーク軍のことで一杯なのは一目瞭然だった。

「かまわぬ。むしろ公はアルジャークの攻撃をよく防いだ」

 正確にはまだ分らないが、先ほどのアルジャーク軍の攻撃によってアルテンシア軍は数百名に及ぶ死傷者を出している。しかしガーベラント公の部隊に対してアルジャークの戦力が三倍近かったことを考えれば、この被害は軽微といえた。ただ、アルジャークのほうも十字軍の回収を最優先にしていたようで、そのおかげで被害が拡大しなかったとも言える。

「流石はアルジャーク、といったところか」

 とはいえ、これまでで最大の損害を出したことに変わりはない。アルテンシア軍がこの遠征で最初に十字軍と戦ったベルベッド城の攻城戦よりも大きな被害を、たった一度の接触で被ったのだ。噂に聞こえたアルジャークの力は、決して誇張ではなかった。

「しかしまさかこの戦場にアルジャーク軍が間に合うとは思いませんでした」

 ガーベラント公の言葉にシーヴァも頷く。アルジャーク軍がすでにサンタ・シチリアナに入っていることは、潜ませている諜報員からの情報ですでに知ってはいた。しかし常識的に考えて、歩兵に速度を合わせた行軍ではこの決戦には間に合わない、というのがシーヴァの計算だった。

「まさか、騎兵のみが先行して来るとはな………」

 しかし歩兵を含まない騎馬隊が先行するとなれば、話は違ってくる。人と馬では機動力に雲泥の差があるのだ。

 ただ、反面リスクも大きい。第一に戦力を分断するのだから各個撃破の危険が付きまとう。さらに騎兵は的が大きいから遠くにいる時点で発見されてしまえば、弓兵の良い的である。また効率的に奇襲を仕掛けるためにはどうしても土地勘が必要になる。

 騎兵の機動力を駆使して思わぬところから奇襲を仕掛けるのは、古来より多くの名将たちが用いてきた策ではある。しかし逆を言えば、名将しか用いることができなかった奇策でもあるのだ。

 アルジャーク軍を率いているのは間違いなく名将である。しかしそれだけに土地勘のないこの地で騎兵隊を先行させることの危険性はわきまえているはずで、だからこそアルジャークの騎馬隊がこの戦場に現れたことはシーヴァにとっても衝撃だった。

「それだけ本気、ということか………?」

 アルジャーク軍が十字軍の援軍として接近してきているという情報を得たとき、シーヴァはアルジャークの思惑を図りかねた。援軍を出すということは教会を助けるということだが、聖銀(ミスリル)という資金源を失いさらに最近では信者たちの支持さえも失い始めた教会を助けてアルジャークになんの得があるのだろうか。

 教会を助けることで大陸中央部への影響力を強めることが目的なのかもしれないが、今のアルジャークの勢いであれば将来的にそこへ進出していくことは難しくない。教会の凋落にあわせて、権力構造の隙間に割り込んでいくことだってできるはずだ。

 自分であれば見捨てる、というのがシーヴァの感想だった。もちろん統一王国とアルジャークではさまざまな条件が異なるから、クロノワが彼とは別の結論を出したとしてもなんら不思議はない。しかし打算的に考えれば考えるほど、アルジャークが教会を本気で助ける必要などどこにもないのだ。

「援軍を出す、という格好が必要だったのかもしれませんね」

 そう意見を述べたのはリオネス公だった。彼の言うとおり国内事情や外交関係のために援軍を出さざるを得なくなった、ということは十分に考えられた。

 教会はお膝元である大陸中央部では信者離れに悩まされているが、そこから距離がある大陸東部ではまだ熱心な信者も多いと聴く。ここ最近で版図を急激に拡大させたアルジャーク帝国は、統一王国と同じく国内の基盤がまだ磐石になっていない。それら熱心な信者たちが帝国への不満を募らせ、その不満が併合された国の旧権力者階級と結びつけば、それは立派に内戦の火種となる。あるいはその辺りを警戒したのかもしれない。

 と、まあそういうふうに考えればアルジャークが援軍を出した理由については納得できる。しかし援軍を出すことと本気で戦うことは別問題だ。極端な話、わざと行軍を遅らせて「間に合いませんでした」と開き直ってもいいのだ。

 そうしてアルテンシア軍が教会を滅ぼしたあと、アルジャーク軍は無傷のまま撤退すればよいのだ。これならば国内の不満や批判を抑えることができ、その上無意味に国力を損なうこともない。そして大陸中央部の権力構造に生じた巨大な空白に割り込んでいけば、アルジャークは文字通り大陸を席巻する超大国になれる。それにアルテンシア軍と正面切って戦い、戦局が泥沼化するのはアルジャークとて望んではいないはずだ。

 この辺りのシナリオはクロノワ・アルジャークも思い描いていたはずで、彼が打算を優先させる人間ならば、アルジャークの騎馬隊はこの戦場には現れなかったはずだ。しかし現実に騎馬隊は戦場に現れ、そして十字軍を助けた。それはつまりクロノワが本気でアルテンシア軍と戦うことを決めたのだ、とシーヴァは解釈した。

「打算よりも感情を優先させたのか………?だとすれば青いな」

 アルジャークとてタダで傭兵扱いされたわけではあるまい。貰うものはすでに貰っているはずだ。しかし常識的に行軍して間に合わなかったとすれば、それは正当な理由になりうる。その責任は早期にアルジャークを動かせなかった教会側にあるのだ。

 にもかかわらずアルジャーク軍が十字軍を助けたのは、それが皇帝クロノワの意志だったからだろう。その選択にメリットが見当たらない以上、打算よりも感情を優先させたとしか思えない。援軍を出しながらも間に合わなかったとして、後世の歴史家たちから「間抜け」のレッテルを貼られることを嫌ったのかもしれない。

 無論、シーヴァとて打算よりも感情を優先させることはある。食料の現地調達をしなかったことなどはその代表的な例だ。しかしシーヴァにしてみればそれは人として踏み越えてはいけない一線であり、打算や感情うんぬんの話ではなく良心の問題である。

(クロノワ・アルジャーク。思ったほどの器ではないのかも知れぬな………)

 そう考えてから、「しかし」とシーヴァは思い直す。

 当たり前のことだが、神ならざる人の身ですべてを見通すことなど出来はしない。アルジャークにはシーヴァの知らない事情があるのかもしれない。ここでクロノワの評価を下方修正するのは簡単だが、それが慢心やおごりに繋がるようでは本末転倒である。

「まあなんにしても、これでアルジャーク軍とぶつかるのはほぼ確実になったわけだ」
「御意」

 先ほど見た騎馬隊の戦いや動きから分るように、アルジャーク軍の練度は十字軍などとはまさしく桁が違う。これまでのように軽く勝てる相手ではない。

「最後の最後に、とんでもない難敵が出てきたものだな」

 シーヴァはそうぼやいて見せた。しかしガーベラント公の見間違い出なければ、彼の顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。

 シーヴァ・オズワルドはその性質(さが)として強敵を求める。

 シーヴァはこれまで十字軍を相手に苦戦することなく遠征を勧めてきた。一度、敵の策によりベルベッド城まで戻らなければならなくなったが、その例外を除けばここまで何の問題もなかった、と言っていい。

 それはアルテンシア統一王国の国王としては大変に喜ばしいことである。しかしシーヴァ・オズワルド個人としてはどうしようもない物足りなさを感じていた。

 それが、最後の最後にアルジャーク軍という最大の難敵が現れることになった。

 戦わずに済めばいいとは思っていたし、またそうなるように軍を動かしたつもりだ。しかし、いざこうして戦うことになると、シーヴァは己の心が浮き立つのを感じた。

(不謹慎なのだろうが………)

 それでも強敵と戦えることは嬉しい、楽しみだ。そうそう、強敵といえば自分と唯一互角以上に戦えた剣士ジルド・レイド。彼は今どこにいるのだろうか。

(まさかとは思うが、戦場であいまみえることがあるならば………)

 とてもとても、楽しみだ。

**********

「まさかこのタイミングでアルジャーク軍が現れるとはね」

 シーヴァが撤退するアルジャーク軍の背中を眺めていたとき、戦いを見物していたイスト・ヴァーレもまた同じ背中を眺めていた。御前街にいた彼は、十字軍が動いたことを察知してその後についてきたのだ。

「まさに間一髪。奇跡的なタイミングだな」

 もう一時間、いや三十分遅れていれば十字軍は崩壊していたであろう。アルジャーク軍が現れたあの瞬間、歴史が一つ書き変わったといってもいい。まったく、運命の女神がいるとすれば、今回はよほど気合を入れてシナリオを書いたらしい。

 そしてなにより、あの戦いは重要なことをイストに教えてくれた。

「クロノワも、きちんと親征して来たみたいだしな」
「どうしてクロノワがあの騎馬隊にいたと分るのだ?」

 イストたちはかなり距離を取って戦いを見物していたから、全体の動きは見えても個人の判別などつかないはずである。

「アルジャークの騎馬隊が突撃するまえに、何発か閃光が放たれただろう?」
「ああ。なかなか面白い魔道具を持っている、と思ったが………」
「あの魔道具はオレがクロノワにやったものだ」

 だからイストはクロノワがあの騎馬隊を率いていたと分ったのである。

「本当に親征してきたんですね………」

 ニーナが呆れたような声をもらす。アルジャークの本国から遠く離れたこの地まで、クロノワがわざわざ親征するのか彼女は懐疑的だったが、どうやらイストの予感があたったらしい。

「ま、なんにしても、だ」

 舞台に役者が揃ってきたじゃないか、とイストは禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら危険な笑みを浮かべてそういった。

 シーヴァ・オズワルド。シルヴィア・サンタ・シチリアナ。そしてクロノワ・アルジャーク。

 東西の雄が相対し、そこに教会の聖女が加わるのだ。間違いなく歴史に残る大舞台になるだろう。そしてそれはイストが求める舞台でもある。

「じゃ、クロノワのところに行くぞ」
「アナトテ山ではなく、か………?」

 パックスの街を落とすのであれば、アナトテ山に行かなければならない。アルジャーク軍を率いるクロノワのところに行って、イストは何をしようというのだろうか。

「準備だよ、下準備」

 ただ街を落とすだけではつまらない。どうせなら最大限の効果を狙いたい。そしてそのためにはクロノワの力が必要だ。火皿から白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す「無煙」をもてあそびながら、イストはそういった。

「ま、アイツにとってもメリットのあることだから、話は簡単だと思うよ」

 イストは気楽にそういった。

 イストがクロノワに何を頼むつもりなのか、ニーナには分らない。だけど師匠のことだからきっと自分の趣味優先のことなんだろうな、と彼女は思うのだった。





*******************





「神殿も静かになりましたね………」

 枢密院を構成する枢機卿の一人、テオヌジオ・ベツァイは沈痛な面持ちでそう呟いた。アナトテ山にある教会の神殿。これまでは参拝者も含め大勢の人々で賑わっていたはずのこの場所は、今は閑散としていて人の気配がしない。

 原因は言うまでもなく、アルテンシア軍の再襲来だ。

 聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナの活躍により、一度は神聖四国の外へ撤退したアルテンシア軍であったが、つい最近サンタ・ローゼンへと再び侵入し、ここアナトテ山を目指して猛進してきている。

 これを迎え撃つべく、十字軍は造営を進めていた防衛拠点にてアルテンシア軍に対して決戦を挑んだ。しかし結果は惨敗。三重にめぐらせていた防衛線はアルテンシア軍に突破されてしまった。

 ただ暗い話題だけではない。十字軍皆ことごとく討ち死にかと思われたその時、奇跡的にもアルジャークの騎馬隊が戦場に駆けつけたのである。アルジャーク軍は聖女シルヴィアが率いていた十字軍本隊を回収しそのまま撤退した。

 用意しておいた防衛拠点が簡単に突破されてしまったとはいえ、シルヴィアは見事にアルジャーク軍が到着するまでの時間を稼ぎきったのである。

 さて、十字軍とアルジャークの騎馬隊は後退を続けてアナトテ山の麓近くまで退いた。その日の夕方近くにはアルジャーク軍の歩兵部隊およそ六万も無事に合流し、これでアルジャーク軍は全軍が揃ったことになる。

 アルジャーク軍の到着と聖女シルヴィアの健在は、これまでアルテンシア軍に圧倒され続けてきた教会陣営にとって待ちに待った喜ばしい知らせであった。この知らせを聞きつけたのか、先の戦いで敗走した十字軍の兵士たちも聖女の下に集まり始め、十字軍は五万程度まで戦力を回復させることが出来た。

 アルジャーク軍と十字軍をあわせた戦力は、およそ十四万。もちろんアルジャーク軍と十字軍では兵士の練度に差がありすぎるから、この数をそのまま戦力に換算して数えることは出来ない。アルジャーク軍九万が主力になるのだろうが、それでも最低限アルテンシア軍八万弱に対して、数の上での優位は手に入れたことになる。

 まあ、なんにしても反撃の準備は整ったのだ。本来ならば喜ぶべきことなのだが、先ほども述べたとおり神殿の中は閑散としていて人気がない。

 ただ、ある意味それは当然のことでもある。神殿の近くが戦場になるというのであれば、参拝者の足が遠のくのも当たり前である。

 またアルテンシア軍が目指しているのはこの神殿なのだから、ここで働いている女性などは早いうちから避難してもらっている。これは御前街にも同じことが言えた。シーヴァ・オズワルドがこれまで無辜の民に狼藉を働いたという話は聞かないが、しかしだからといって迫り来る敵軍を前に、泰然と腰をすえていられる者などそう多くはないのである。

 そしてそれは、教会の中枢とも言える枢密院を構成する枢機卿たちにも、同じことが言えた。

「アルジャーク軍が間に合い聖女を救出したということは、神々はまだ我々を見捨ててはいないということ。にもかかわらず枢機卿の職責にある者がそれを放り出して逃げるとは………」

 全く嘆かわしいことです、とテオヌジオは嘆息した。

 アルジャーク軍が到着した際、枢機卿の何人かは、
「早く打って出てアルテンシア軍を追い払ってくれ」
 と泣きついたようだが、この辺りの地形に明るくないことを理由に断られた。アルジャーク軍はアナトテ山近くの草原を決戦の場として定め、演習などをして兵を慣らしながらアルテンシア軍を待つという。

 それはすなわちアルテンシア軍がアナトテ山のすぐ近くまで、神殿の喉もと近くまで迫ってくることを意味している。その事に恐怖した枢機卿たちは我先にと神殿から逃げて行ったのである。またアルジャークへ交渉に赴いたルシアス・カント枢機卿もまだ戻ってきていない。恐らくだが、アルテンシア軍が完全に撤退するまでは神殿に戻る気はないのだろう。

 現在、神殿に残っている枢機卿は、テオヌジオとカリュージス・ヴァーカリーの二人である。さらに神子ララ・ルー・クラインも避難の諫言を頑として聞き入れずに居残っている。そしてこの「神子さえも神殿に残った」事実が、逃げ出した枢機卿たちに対するテオヌジオの怒りと失望を大きくしていた。

「テオヌジオ卿、失礼します」

 同僚のふがいなさを嘆くテオヌジオの執務室に、鎧を着込んだ数人の男が入ってくる。神殿衛士と呼ばれる、神殿内の警備を担当している者たちだ。

 神殿で働いていた多くの人が今は避難している。神子を置いて逃げていった彼らの信仰の弱さをテオヌジオは嘆いていた。逆を言えば、今神殿に残っているのは篤信の信者たちだけである。

「どうかしましたか?」
「例の計画ですが、賛同者が五十名ほどになりました」

 そのご報告に、と真ん中に立った壮年の衛士が頭を下げた。彼は長年の間衛士をして神殿を守ってきた人物で、その温厚な人柄から部下たちからも慕われている。

「それは素晴らしいことですね」
「はい。それで、カリュージス卿のことですが………」

 自分と同じく神殿に残った枢機卿であるカリュージスに、テオヌジオはひとかたならぬ尊敬と感謝の念を抱いている。そんな彼にも自分の計画に是非とも賛同してもらいたいと、テオヌジオは思っていた。

「カリュージス卿には、私から直接お話をしようと思っています」

 問題はそのタイミングですね、とテオヌジオは少し困ったように笑った。彼のその笑みはまるで無垢な子供のように純粋だった。

 テオヌジオの見たところ、カリュージスには固い信念がある。彼がその信念を翻すことは決してないだろう。だからカリュージスに計画のことを話す際には、くどくどとした説得は意味をなさない。内容を説明し、それが彼の信念に合致するか反していなければ、カリュージスは賛同してくれるだろう。

 しかしもし信念に反しているとすれば、どれだけ説得しようともカリュージスが計画に賛同してくれることはない。それどころか全力を挙げて計画を阻止しようとするだろう。彼にはそれだけの力がある。

 カリュージスは元々、神殿内の警備を監督する立場にいる。神殿にいる衛士は全て彼の部下ということになるし、そのうち三分の一は彼の子飼いといっても過言ではない。特に神子の警備など、教会の中枢はほとんど全てカリュージス子飼いの衛士によって守られていた。

 衛士たちの多くも逃げ出してしまった現在においても、カリュージス子飼いの衛士たちは全員神殿に留まっており、主への忠誠の高さが窺えた。

 この「主」というのが神子ではなくカリュージスである、というのがテオヌジオにとっては少しばかり不満であった。

 まあ、それはともかくとして。現在神殿に残っている衛士たちの中で、カリュージスの子飼いは実にその四分の三を占めている。つまりカリュージスがその気になれば、テオヌジオの一味を制圧することなど容易いのだ。

「カリュージス卿に話をするのは、計画を実行に移す直前、あるいは実行に移してからでもいいでしょう」

 賛成も反対も、カリュージスならば即決であろうとテオヌジオは思っている。ならばここは秘密裏にことを進め、計画を破綻させるようなリスクは犯すべきではない。

「分りました。ではカリュージス卿に近い衛士たちには………」
「ええ、計画のことは伏せておいてください」

 彼らに計画のことを話せば、間違いなくカリュージスの知るところとなる。それに彼らの態度はカリュージス次第だ。個別に全員を説得する必要などない。

「それで、その………、神子さまは………?」
「………一度お話しましたが、良いお返事はいただけませんでした」
「そんな………!」

 テオヌジオと話している壮年の衛士が悲痛な声を上げる。彼の後ろにいる若い衛士たちにも動揺が生まれた。テオヌジオの計画には、神子の協力が不可欠だ。その協力が得られないとなると、随分と荒っぽい手段に訴えるしかなくなる。

「もちろんご協力いただけるよう、誠心誠意努力するつもりです」

 ですがそれでも神子さまのご協力が得られないのであれば、とテオヌジオは静かに続けた。穏やかなそのたたずまいは、彼の決意と覚悟が固いことを示している。

「その時は、私が罪を背負いましょう」

 穏やかな、しかし確固とした声でテオヌジオはそういった。目の前にいる衛士たちを見つめる彼の目は、どこまでも優しげだ。

 アルテンシア軍が迫り来るこの状況下、テオヌジオだって少なからぬ恐怖を感じている。ならばこの衛士たちや計画に賛同してくれた人々だって、やはり彼と同じかそれ以上の恐怖を感じているに違いない。

 それでも彼らは残ってくれた。それでも彼らは教会を見捨てなかった。それはテオヌジオにとって何よりも嬉しいことだった。

「彼らを救いたい。いや、彼らは救われるべきだ」

 テオヌジオはそう思っている。そしてそのための計画だ。

「ともすれば、神々は私を断罪なさるかもしれません。ですがあなた方のことは受け入れてくださるでしょう」

 神子の協力が得られなければ、テオヌジオは大罪を犯すことになる。いや、そもそも彼の計画自体が大罪かもしれない。しかし神殿に残った篤信の信者たちを救うには、これしかないとテオヌジオは考えている。

「テオヌジオ卿………」
「もはや現世に救いはありません」

 救いのある場所。それは………。
 ――――神界の門の、向こう側。

**********

「さて、どうしましょうかね………。本当に………」

 困ったように苦笑いしながらクロノワは頬をかいた。いや、今のクロノワは割と本気で困っていた。

「どうするも何も、アルテンシア軍と雌雄を決する以外にないのではありませんか」

 そう発言したのはアルジャーク軍の若き将軍、レイシェル・クルーディだ。彼のほかにも、アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍を筆頭に、イトラ・ヨクテエル将軍、カルヴァン・クグニス将軍もこの場に集まっていた。

 アルジャーク軍の主要人物全てがとあるテントに集まっていた。十字軍の将たちを交えた作戦会議の前に、アルジャーク軍としての方針を決めるために今彼らはこうして集まっているのである。

 アルジャーク軍としての方針とはいっても、アルテンシア軍と戦う上で主力となるのは彼らのだから、ここで決まった方針がそのまま連合軍の方針になるといっても過言ではない。またそうならないとしても、会議の主導権を聖女に、ひいては教会に奪われないようにするためにも、ここでアルジャーク軍の方針を固めておかなければならないのだ。

「まあ、そうなんですけどね………」

 だというのに、その方針を決定すべきクロノワの態度がどうにも煮え切らない。理由は簡単だ。何のために戦うのか、また何を目指して戦うのか。それを描ききれないのだ。

 教会がアルジャーク軍に求めていることはただ一つ。「アルテンシア軍を追い払うこと」である。ただ、どこまで追い払えばいいのか、それが曖昧だ。

 例えばアルテンシア軍をサンタ・ローゼンの外、つまり神聖四国の外へ追い払ったとする。この場合、アルテンシア軍はベルベッド城まで後退するだろう。これで万事解決、アルテンシア軍の脅威は取り払われた、と教会は思うだろうか。

 思うわけがない。それどころか三度目の襲来を心配して、ベルベッド城を攻略するようアルジャーク軍に求めるだろう。

 さて、ここで考えるべきは国際情勢だ。ベルベッド城があるのはサンタ・ローゼンの隣国フーリギアである。この国はベルベッド城が落ちた際にアルテンシア統一王国に降伏し、さらにはほとんど同盟国のような関係になっている。教会や神聖四国からしてみれば裏切り者と言ってもいい。

 そのフーリギアにアルジャーク軍が、いや十字軍の援軍が攻め込むことになれば相手は当然恐怖を抱くだろう。どれだけ「アルテンシア軍が標的である」とクロノワが主張しても、フーリギアはそれを信じるまい。

「アルテンシア軍がやられれば、次は自分たちだ」
 と誰でもそう思う。教会と神聖四国が裏切りものであるフーリギアを許すことはありえない。アルテンシア軍が後退すれば、たとえアルジャーク軍がやらずとも十字軍がこの国を蹂躙する。見せしめと富を奪うために。

 そうなればフーリギアは国を挙げてアルテンシア軍を援護するだろう。軍を組織しアルテンシア軍に合流することさえするかもしれない。

 またフーリギアより先に降伏したシャトワールとブリュッゼにとっても他人事ではない。フーリギアの次は自分たちが標的にされるのだから。やはり軍を組織し、援軍を出すぐらいのことはやってもおかしくはない。そうなればアルジャークは四ヶ国を相手に戦わなければならなくなる。

 当然のこととして、激しい抵抗が予想される。アルジャーク帝国の国益に直接寄与しないのに、そのような激しい戦いに挑まなければならないのかと考えると、クロノワのやる気は加速度的に減衰していく。

 その上、アルテンシア軍をベルベッド城から撤退させたら、調子に乗った教会はそのまま半島に攻め込んで統一王国を制圧して来い、とか言いそうである。アルジャークの国益にはまったく寄与しないというのに。

「もちろんそこまで教会のために働くつもりはありませんが………」

 しかしそういう要請があるのは確実だろう。これを波風立てずに断るのはなかなか難しい。最も良いのはそういう要請をさせないことだが、そのためには次の一戦でアルテンシア軍に甚大な被害を与え遠征を断念させ半島に引き返させるしかない。

 相手がアルテンシア軍でなければアルジャーク軍が出張る必要もないだろう。それでもフーリギアなどは十字軍によって蹂躙されるのだろうが。

「そうなったらなったで、またアルテンシア軍が出てくるかもしれませんけど」

 同盟国が蹂躙されるのをシーヴァは許さないだろう。なんだか思考が混乱してきたクロノワは軽く頭を振った。

「次の一戦に我々が勝てば戦局が泥沼化する可能性が高い。なんともまあやる気が出ませんね」
「言葉が過ぎるぞ、イトラ」

 レイシェルが同僚を嗜める。しかしイトラの言葉は現状を適切に表現していた。次の戦いにアルジャーク軍が勝てば、恐らく戦局は泥沼化してしまう。少なくとも、アルテンシア軍が勝った場合よりはその可能性が高い。

「では、わざと負けますか」

 そういったのはカルヴァンだった。本来武人とは負けることを嫌がるものだが、彼は目先の勝利よりも国益を優先するようアレクセイから教えられてきた。戦局が泥沼化してもアルジャークの国益には結びつかない。ならばわざと負けてでも、この戦争をさっさと終結させるべき。カルヴァンはそう考えたのだ。

「それでもいいんですけどね………」

 やはりクロノワの態度は煮え切らない。彼としても、わざと負けてさっさと本国まで撤退してしまうのはアリだと思っている。問題はシーヴァ・オズワルドが強すぎる、ということだ。

「陛下を戦場で危険にさらすような策は取るべきではない」

 アールヴェルツェが重々しくそう発言した。もちろん戦場に完全な安全圏などないが、それでも負けるつもりで戦えばアルテンシア軍の牙がクロノワに届く可能性が高くなってしまう。

 クロノワの死は、アルジャークにとって最大の損害になる。それだけはなんとしても避けなえればならない。

 一同は、腕を組んで黙り込んだ。

(結局………)

 結局、最初にレイシェルが言ったとおり全力を挙げてアルテンシア軍と戦う以外の選択肢などないようだ。負けたのであればそのまま逃げ帰ればよい。勝ってしまったら、その時はそのときだ。その後どうするかは勝ってから考えれば良い。クロノワがそう判断を下そうとした、まさにその時………。

「勝ってもうまみがないとは、やっかいな戦争に手ェ出したもんだな、クロノワ」

 ここにいるはずのない、そしてクロノワにとって忘れようのない声が響いたのだった。

 ローブを目深にかぶった三人の不審者。彼らは突然に現れた。まるで最初からそこにいたのに、だれも気づかなかったかのように。

「何者だ!?貴様!!」
「近衛兵!何をしている!」

 突然の不審者に将軍たちは立ち上がってクロノワの前を固め、さらに警備をしているはずの近衛兵を大声で呼ぶ。なぜ今まで気づかなかったのか。どうやってここまで侵入したのか。

「まかり間違えば陛下が暗殺されていたかもしれない」

 全く同じことを四人の将軍は考えていた。怒りと自責と疑問が彼らの中で渦を巻くが、その全てを押しのけ四人の将軍は不審者の挙動に細心の注意を払う。

 怪しげな魔道具を持っていることは間違いない。アルジャーク軍の陣の最奥まで来た理由は、要人の暗殺かそれとも情報の奪取か。いずれにしてもそれは秘密裏に行うべきでその能力もあるだろうに、ここで自分たちに姿を見せたということは、それだけ自信があることの裏返しだろうか。

 駆けつけた警備の兵士たちが三人の不審者を取り囲み槍を突きつける。もはや逃げ場はない。それなのに、ローブを目深にかぶっているせいなのか不審者たちに動揺は見られない。

 殺せ、とアールヴェルツェが命じるよりも早く。

「まったく、君はいつも突然に現れる」

 クロノワの、緊張感を感じさせない呆れた声が響いた。それを聞いて不審者の一人が笑ったようにイトラには見えた。

「久しぶりだな、クロノワ」

 不審者が目深にかぶったローブを取る。現れたのは若い男の顔だった。

「久しぶりだね、イスト」

 クロノワとイスト。こうして二人はモントルム以来の再会を果たしたのだった。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ10
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:05
 イスト・ヴァーレ、ジルド・レイド、ニーナ・ミザリ。アルジャークの陣の最奥に突然現れた三人の不審者はそれぞれそう名乗った。

「彼は私の友人です」

 クロノワがそういって四人の将軍と兵士たちを宥め、その場はなんとか落ち着いた。それでも不審者たちに対する警戒をあらわにする面々に、イストは気軽な調子でこういったのだ。

「教会と縁を切れるかもしれないぞ」

 その言葉を聞いた瞬間、将軍たちの顔に警戒とは別のものが浮かんだ。教会と縁を切るための正当な理由があれば、アルジャーク軍は堂々と本国へ撤退することができる。ここまでの遠征が丸ごと無駄だったことになるかもしれないが、それでもアルテンシア軍を相手に泥沼の戦争を戦うよりはよほどましだ。

「どうだ、話だけでも聞いてみないか」

 イストと名乗った男が、悪戯っぽく笑う。将軍たちは忌々しげに舌打ちしたが、聞かないという選択肢はないようだ。

「興味深いね。是非聞かせて欲しい」

 将軍たちの様子を面白そうに眺めながら、クロノワがそういった。四人の将軍たちはいまだにイストを睨みつけているが、しかし反対の声は上がらなかった。

 クロノワの指示によって、席が新たに三つ設けられる。ただ警戒が解かれたわけではない。ジルドが腰にさしていた「万象の太刀」とイストが持っていた「光彩の杖」は没収され、今彼らは丸腰である。さらに周りには警備の兵が居並び、三人が少しでも不審な挙動を見せればすぐにでも鎮圧できる態勢になっていた。

 物々しい雰囲気の中、ニーナは居心地が悪そうに身じろぎした。師匠であるイストがアルジャーク皇帝クロノワと友人同士であるというのは本当だったらしく、兵士たちに囲まれはしたが殺されはしなかった。それどころかこうして席が用意され、不審者であるはずのイストの話をクロノワとアルジャークの将軍たちが聞くという。

 しかしながら状況は少しも良くなっていない。少なくともニーナにとっては。将軍たちは相変わらず忌々しそうにこちらを見ているし、周りを取り囲んだ兵士たちも何かあればすぐさま不審者を誅殺すべく殺気をたぎらせているように感じる。こうもあからさまに敵意をぶつけられるのは、彼女の人生の中で始めてだ。「視線だけで人が殺せる」とはよく言ったもので、刺々しい視線のなか針のむしろに座らされたニーナは、この上罵詈雑言を浴びせられれば本当に死んでしまいそうな心境だった。

(師匠~!!)

 恨みがましい目で彼女の前に座るイストを見る。彼女がこんな殺人的に雰囲気の悪い場所に連れてこられたのは、すべてこの男のせいである。かくなる上は師匠がこれ以上反感を買わないように話を進めてくれることを願うばかりである。

「お茶も出ないのか」

 緊張感の欠片もないイストのその言葉に、アルジャークの将軍たちと兵士たちが色めき立ち、ニーナは胃が締め付けられて顔から血の気が引くのを感じた。しかし彼らが爆発する前に、クロノワが呆れながらこういった。

「この雰囲気の中で飲んでもおいしくないと思うよ?」

 クロノワの意見にニーナは激しく同意した。この状況下ではたとえ水の一滴であっても彼女の体は受け付けてくれないだろう。

「それはそうと、どうやってここまで?」

 少しだけ眼差しを真剣なものにして、クロノワはイストに問い掛けた。ここはアルジャーク軍の陣の、しかもその最奥である。そう簡単に侵入できる場所では決してない。

「魔道具を使った」

 こともなさげにイストはそう言った。彼の言う魔道具とは、おそらく彼らが目深にかぶっていたあのローブのことだろう。どんな能力を持っているのかイストは語らなかったが、その力の一端はクロノワも先ほど目にしている。

「世の中には出さないでくれよ、危ないから」

 暗殺を生業にしている者が手に入れたら、大喜びしそうな品である。悪用しようと思えば、いくらでも出来るだろう。というより、悪用するためにあるような魔道具だとクロノワは感じた。

「売らないよ。オレが作ったものじゃないし」

 ということはあの魔道具を作ったのは歴代のアバサ・ロットの誰か、ということだ。もっともそれが通じたのは、ジルドとニーナそれにクロノワだけだったが。

「頼むよ。ああ、それと売りたくなったらウチに持ってきて。高値で買い取るから」

 イストの言質が取れたことでクロノワは安心した。彼に売るつもりがないというのであれば、そうなのであろう。だから最後の言葉はクロノワなりの冗談であり、それが分っているイストは肩をすくめて苦笑しただけで何も言わなかった。

「さて、と。それじゃあ本題に入るけど………」

 クロノワが居住いを正す。視線も若干鋭くなり、先ほどまでの会話で少し緩んでいた空気が引き締められる。この辺り流石に皇帝だな、とイストは内心でそう思った。

「どうやって教会との縁を切る?」

 それはクロノワ自身もこれまで考えてきたことだ。力を失った今の教会は、アルジャークにとって重荷でしかない。貰うものは貰ったとはいえ、今回のこの遠征だって国益には直接結びつかない。あまつさえ戦局が泥沼化するようなことがあれば、アルジャークは多大な損失を被ることになる。クロノワとしてはそうなる前に軍を撤収し、本国に帰ってしまいたい。

 しかし教会はそれをよしとはするまい。教会はもはや統一王国とシーヴァが存在している限り安心できないのだ。脅迫まがいのことをしてでもアルジャーク軍を止めアルテンシア軍と戦わせようとするだろう。

 無論、クロノワとアルジャークにはそこまで付き合ってやる義理も意思もない。しかし教会はそうは思ってくれないだろう。となれば軍を撤収させるためにそれ相応の理由が必要になる。つまり教会と縁を切るための理由だ。

 アルジャークに非があるような理由は好ましくない。それはつまり教会に対して貸しを作ることに繋がる。教会が生き残ってしまったら、この先また無理難題を吹っかけられることになってしまう。

 また神殿がアルテンシア軍に占拠され教会の威光が地に落ちた場合、信者たちの目にはアルジャークが見捨てたがゆえにそうなったと映るだろう。当然国内の信者たちは帝国に不満を募らせ、それは内戦の火種へと成長していく。

 これが教会という宗教組織のやっかいなところだ。例えばアルジャーク帝国の国民であれば、国の利益になることであれば喜び、損失になることであれば憤る。それが普通だ。

 しかし教会の場合はそうではない。教会は特定の領土を持たない代わりに、その信者が大陸中にいる。少ないとはいえアルテンシア半島、さらには海の向こうのシラクサにさえいるのだ。

 そしてその信者たちにとって、特に敬虔な信者たちにとって、教会の地位は祖国よりも上なのである。彼らは祖国が損害を被ろうとも教会を支持する。教会が不利益を被ろうものなら、祖国であろうとも彼らは裏切るだろう。この信者たちからの絶対的な支持こそが、教会の絶大な影響力の根源なのだ。

 もっとも、今の教会に最盛期ほどの威光はない。絶大な影響力も今は陰りが見えている。シャトワールやブリュッゼ、それにフーリギアといった国々が統一王国よりになったのがその良い例だろう。国民が、より正確には国内の信者たちが、教会と距離を置く選択をしてもそれを支持してくれるだろうと判断しての決定なのだ。信者たちの中で教会の地位が下がっている、と言ってもいい。

 しかしアルジャーク、つまり大陸極東部においてはまた事情が異なる。第一次及び第二次十字軍遠征に関係してこなかったこの地域において、教会の影響力は無視できない程度にはまだまだ強い。

 加えてアルジャーク帝国の事情もある。ここ最近、アルジャーク帝国はオムージュ、モントルム、テムサニス、カレナリアという四カ国を一挙に併合した。国内は一応のまとまりを見せているが磐石とは言いがたく、特に国民の国家への帰属意識は低い。極端な話、悪政を行っていないから消極的に帝国の支配を受け入れている、といった感じだ。

 帝国への不満がたまれば、それは容易く内戦に結びつく。そして教会への裏切り、少なくとも信者たちがそう解釈しうる行動は、彼らにその“不満”を抱かせるだろう。こういう側面から見れば大国であるはずのアルジャークの立ち位置は、ともすればフーリギアなどの小国よりも微妙であるといっていい。

 だからこそ、アルジャークが軍を撤収するにはそれ相応の理由が必要になってくる。それもできることなら教会の側に非があるような、アルジャークが「裏切られた」と主張できるような、そんな理由があればそれが最も良い。そういう理由があれば国内の信者たちも「しかたがない」と納得してくれるだろうし、アルジャークは後腐れなく教会と縁を切ることができる。

 しかし、それは相当に難しい。

「教会は、言ってみればそれ自体が『正義』」

 教会という組織を構成している人間個人の善悪はともかくとして、教会の教えは単純で分りやすく、それゆえに万人が「正義」と認めうるものだ。裏でどれだけ汚い事をしていようとも、それは個人の過ちであり教会の主要目的ではないといわれてしまう。そして「正義」を前面に押し出されればそこに非を見つけることは出来ない。

 つまり教会はつねに「自分が正義である」と主張できる立場にあるのだ。であれば教会に相対するものは必然的に「悪」になってしまう。これほど分りやすく民衆受けする構図はないだろう。人々は熱狂的に「正義」であるところの教会を支持し、「悪」である敵対者を非難する。

 教会に非があると主張するということは、「正義」であるはずの教会を「悪」であると論破しなければならない、ということだ。そしてそのためにはどうしても確たる証拠が必要になる。

 まあ、そのような都合のよい証拠がそうそう転がっているはずもなく、だからこそクロノワは頭を悩ませていたのだが………。

「御霊送りの神話が捏造されたもので、まったくの嘘だとしたらどうだ?」

 イストがちょっとした悪戯を提案するかのようにそう言った。

 御霊送りの神話は教会の教えの根幹を成している部分だ。

「敬虔な信者は死後、神界の門を通って神々の住まう天上の園へ導かれる」

 教会の信者たちはこの教えを固く信じ、また貧しい生活の中の希望として暮らしている。極端なことを言えば、死後に天上の園へ行きたいから敬虔な信者をやっている、といっても過言ではない。

 この教えが全くの嘘であったとすれば、信者たちは教会に対して憤怒し、アルジャーク軍が軍を撤収したとしてもそのことに不満を抱くことはないだろう。

「我々がそう主張したとして、一体誰がそれを信じる?」

 呆れたようにそういったのはレイシェルだった。他の将軍たちも彼に同意するように頷いている。

 確かにアルジャークが「御霊送りの神話は嘘である」と声高に主張したとしても、多くの信者たちは「何を馬鹿なことを」と相手にもしないだろう。何しろこの神話は「御霊送りの儀式」という、現世に残された最後の奇跡によってその真実さが実証されている。おりしもその儀式はつい最近行われたばかりで、この状況ではアルジャークにどれだけの力があろうとも人々がその主張を信じることはないだろう。

「それなら心配は要らない。パックスの街を落とすから」

 イストは何気ない口調でそういったが、ジルドとニーナ以外の面々は皆なんともいえない顔をしている。音は理解できたのだが、意味が理解できなかったような、そんな顔である。

「………何を、落とすって?」

 その場にいる全員の気持ちを代弁する形で、クロノワがイストに問い掛ける。その頬が微妙に引きつっているのは決して見間違いではあるまい。

「パックスの街を、だ。神界の門の向こう側に引き上げられたはずの街が突然コッチに落ちてくれば、神話が嘘だったと主張するには十分だろう?」

 クロノワは唸るようにして押し黙った。確かにイストの言うとおりパックスの街が落ちてくれば、神話が嘘であると主張するには十分だ。

 しかし、はたしてそれは実行可能なのだろうか。神話というのは人間の手が届かないから「神話」なのだ。今まで神話だと思っていたものにケチをつけてちょっかいを出すなど、クロノワたちの思考の範疇を超えていた。

「………どうやって、落とすというのだ?」

 なんとも言いがたい沈黙の中、最も早く回復したのは最年長のアールヴェルツェだった。彼はほとんど呻くようにしてイストに尋ねた。

「『世界樹の種』を砕く。恐らくはあれが魔道具の核だろうからな」
「………魔道具?」
「そ。原理的にはソイツと同じ魔道具だ」

 そういってイストが指差したのは、クロノワの腕についている魔道具「ロロイヤの腕輪」だ。この魔道具は用意した亜空間の中にさまざまなものを収納しておける、非常に便利なものだ。

 つまりイストは、
「御霊送りの神話は、用意した巨大な亜空間の中にパックスの街を収めただけだ」
 と言いたかったわけだが、それがきちんとクロノワたちに伝わったかは怪しい。ただ魔道具という小道具がでてきたことで、話が少し理解しやすくなったようだ。

「………真偽の程はともかく、話は、まあ一応分った。でも、君がこんなところまで来た理由は?」

 話が一区切りついたところで、クロノワがそう尋ねた。

 パックスの街を落とす。それは出来るのか出来ないのかそれさえも定かではないようなことだが、ここまでのイストの話を聞く限りできるのであれば彼一人でも実行は十分に可能だろう。しかしだからこそ、イストがアルジャークの陣の最奥にまでやってきて、この話し合いの場を設けた目的が分らない。

「確かに街を落とすだけなら、オレ一人でもできる」

 というよりも他人にやらせるつもりなどない。こんな面白そうなことを他人にやられてしまうなんてイストの趣味に反する。

「じゃあ、一体我々に何を求めている?」
「街が落ちた後、教会を徹底的に叩いて息の根を止めてもらいたい」

 パックスの街が落ちれば、教会の影響力は激減しその威光は地に堕ちるだろう。しかしもしかしたら教会は生き残ってしまうかもしれない。その可能性は絶対にないとは言い切れないのだ。

 御霊送りの神話という絶対の拠り所を失った教会が、それでもなおゾンビの如くに生き続ける。それはイストの望む結末ではない。そんな中途半端な結末など、イストは求めてはいないのだ。

 パックスの街が落ちたならば、教会は滅亡しなければならない。おもにイストの自己満足のために。

 そしてそのためには、街が落ちた後に教会を徹底的に批判する必要がある。教会を完膚なきまでに叩き潰すべく、「嘘だった、過ちだった、騙された、裏切られた」と大規模に批判を展開し、なおかつその批判を民衆に受け入れさせなければならない。

 しかしそれをするのにイスト一人では限界がある。それは規模の問題でもあるし、彼の発言の信憑性の問題でもある。

 そこでアルジャーク帝国皇帝、クロノワ・アルジャークの出番というわけである。クロノワならば批判を広範囲に展開することが出来るし、また民衆もアルジャーク帝国皇帝の言葉ならば信じるだろう。

 そうやって批判を繰り返して嘘吐きのレッテルを貼り付け、教会が持っていた影響力と発言力をそぎ落とすのである。教会が手足をもがれてもはや何も出来ないほどに弱体化すれば、イストとしてもおおよそ満足できる結末ではある。御霊送りの儀式がもはや行えなくなる以上、教会が息を吹き返すこともないだろうし。

「なるほどね。君は自己満足のために我々を利用し、我々は教会を悪役に仕立て上げて叩くことで縁を切ることができる」

 悪い話ではないね、とクロノワは言った。イストの話が全て本当であれば、アルジャークが動くのはパックスの街が落ちてからになる。落ちる前に批判を展開すれば教会と真正面から対立することになるのだろうが、「街が落ちた」という事実はそれ自体が教会が嘘をついていたことの証拠になる。確たる証拠があれば批判は真実味を増し、人々はアルジャークの主張を信じてくれるだろう。

 逆にイストの話が全て嘘であったとすれば、パックスの街は落ちないのだから教会を批判する必要もない。つまり現状のままなんら変わることはないのだ。

 つまりアルジャークが動くかどうかは、状況を見極めてから決めることができる。状態が悪化する心配がないのであれば、イストの案に乗ってみるのも一つの手である。

「お前の言うとおり街を落とすことができるとして、だ………」

 胡散臭そうな態度を隠そうともせず、イストに鋭い視線をぶつけたのはイトラであった。彼が、いやこの場にいるイストら以外の全員がこの話を信じ切れていないのは当たり前だろう。しかしだからと言って「馬鹿馬鹿しい」と切り捨てるには、教会と縁を切れるかもしれないというこの話は魅力的過ぎる。それほどアルジャークは今後の展開に行き詰っているのだ。

 話を聞く限り今のところアルジャークにとって失うものは何もない。ならばもう少し聞いてやろう、というのが彼らの気持ちだった。

「一体いつ、街を落とすつもりだ?」
「アルジャーク軍とアルテンシア軍が戦っている、その決戦の最中に」

 芝居がかった口調でイストはそう答える。

「………我々に道化を演じろというのか」

 押し殺した声でカルヴァンが唸った。彼が不快に思うのも当然だろう。教会と縁を切れるならばアルテンシア軍と戦う必要はない。戦いが始まる前に街を落とせば無益な戦死者を出さずに済むのに、イストはあえて決戦の最中にそれをやるという。

「いやなら自分たちでやればいい」

 そんなことできるわけがない。仮にこの話が嘘だった場合、「世界樹の種」を破壊したアルジャークは教会を完全に敵に回すことになる。それで教会との縁は切れるだろうが、国内では信者たちが蜂起して内戦状態に陥り帝国は分裂する。そのようなリスクを犯すわけには行かない。パックスの街はあくまでもアルジャークとは無関係のところで落ちなければならないのだ。

「汚れ役を引き受けてやろうというんだ。タイミングくらいはこちらの好きにさせてもらう」

 それに、とイストは内心で笑う。舞台の幕が上がる前に仕掛けを動かす馬鹿はいない。仕掛けはやはりその相応しいときに動かすべきだ。最高の仕掛けには最高の舞台を。この点に関して、イストに譲る気は全くない。

 将軍たちは忌々しげにイストを睨みつけるが、反対意見は出なかった。もともとアルテンシア軍と一戦するつもりでここまで来たのだ。そういう意味では予定通りであるとさえ言える。

 それにアルテンシア軍と戦う前に街が落ちれば、アルジャーク軍の関与を疑う者が必ずでてくる。人々がどこまでその話を信じるかはともかくとして、そういう噂が立つのは防げないだろう。アルジャークにとってそれは好ましい事態ではない。しかしアルテンシア軍との交戦中に街が崩落すれば、そのことにアルジャークはまったくの無関係であると主張するのは容易い。

「街が落ちれば大きな異変が起きる。それを合図に軍を退けばいい」

 そうすれば、戦死者の数は勝つにしろ負けるにしろ、当初想定していたよりも随分と少なくて済むはずだ。

「アルテンシア軍が退かなかったらどうする?」

 腕を組みながらアールヴェルツェがそういった。相手が退かなければアルジャーク軍とて退くわけには行かない。

「そんなもん知るか、と言いたいが、まあ、メッセンジャーくらいはこちらで用意しよう」

 と言うわけでおっさんよろしく、といってイストはジルドのほうに視線を向けた。

「ワシか?」
「そ、よろしく。で、伝えること伝えたら、そのままぶった斬っちゃっていいから」

 イストは気楽に言ったが、実はこれは重大なことである。アルテンシア軍を退かせる権限を持っているのは言うまでもなくシーヴァ・オズワルドである。だから「これから大きな異変が起こる。それを合図にアルジャーク軍は退くからアルテンシア軍も退いてほしい」という話は、当然シーヴァに伝えることになる。

 そのシーヴァを、あろうことかイストは「斬っちゃっていい」と言ったのである。あのシーヴァを!

 もちろんシーヴァが死んだところでアルジャーク軍にはなんら影響はない。それどころかシーヴァが死ねばアルテンシア軍は退くだろうから、好都合であるとさえいえる。しかし根本的な問題として、シーヴァ・オズワルドはそう簡単に切り伏せられるような相手ではない。それどころか、彼一人を殺すために十字軍は万の軍勢をつぎ込んできた、といっても過言ではないのだ。

 そんな相手を、ただ一人で斬れという。しかも「斬っちゃっていいから」などという軽い言葉で許可するというのは、その場にいるアルジャーク軍の面々にとって衝撃的なことだった。

「ほう………?」

 できるわけがない。何を馬鹿な。そんな声が上がることは、しかしなかった。突然ジルドの気配が変わり、彼の体から噴き出る覇気がその場を一瞬にして支配したからだ。物理的な圧力さえ感じるその空気に圧されて、誰一人として口を開くことが出来ない。

「もう一度やり合いたかったんだろう?あのシーヴァ・オズワルドと」
「………本当に、斬ってしまっても良いのだな?」
「ああ。そのための『万象の太刀』だ。思う存分にやればいい」
「よかろう」

 そう言ってジルドが頷くと、抜き身の刃を喉もとに突きつけられるかのような気配が霧散する。誰かがついたため息は、間違いなく安堵のものであったはずだ。

「………本当に、伝えられるのか?」

 少し青い顔をしながらもそう尋ねたのはレイシェルだった。今さっき体験した気配だけでこのジルドという男が只者ではないのは明らかだが、彼としてはその実力を実際に目にしたことはない。レイシェルの本能は納得していたが、理性のほうを納得させることはできていなかった。

「不安があるならアルジャーク軍のほうからも密使を出せばいい」

 イストにそういわれレイシェルも押し黙る。そのまま数十秒、その場に沈黙が流れた。

「………どう思いますか、アールヴェルツェ」

 その沈黙を意見が出尽くした証拠と判断したクロノワは、ここまでの総括として信頼する腹心に意見を求めた。

「アルテンシア軍と一戦構えるのは、予定通りでありそのことに否やはありません。その戦いの最中に異変が起これば、その程度に応じて対処することになるでしょう。大きな異変であれば軍を退くこともありえます。そして異変と教会が関係しているのであれば、説明を求め責任を追及することになるでしょう」

 注意深く言葉を選びながらアールヴェルツェはそういった。言質を取られるような真似はしない。すべてはパックスの街の崩落という大異変が起きてからの話だ、というスタンスを崩すことはない。街が落ちる前にアルジャーク軍がイストに協力することはない。

『全てはお前が動いてからだ』

 そういう意志を込めて、アールヴェルツェは鋭い視線をイストに向けた。その視線をイストは真正面から受け止め、そして面白そうに笑った。アールヴェルツェの言葉はイストにとって満点解答に近い。

「お前が動くまでは我々も動かない。お前が動いたら、それに応じてこちらも対応する」

 イストはアールヴェルツェの言葉をそう解釈したし、それでおおよそ間違ってはいない。ということは、イストはパックスの街を落とすのを邪魔される心配がなく、また落とした後の後始末はアルジャークがやってくれる、ということである。

「イスト、それでいいかい?」
「ああ、それでいい。よろしく頼む」

 クロノワが最終確認をし、イストが頷く。この瞬間アルジャーク軍とイスト・ヴァーレ個人の間に密約が結ばれた。書面はおろか口約束さえなされていない密約だが、両者はたしかに約を交え未来の展望を共有したのだ。

「ああ、それと。これはオレの個人的なお願いになるんだけど………」

 席を立ち上がったイストが何かを思い出したようにそういった。

「コイツを預かってくれないか」

 そういってイストが指差したのは、弟子であるニーナだった。「特に歓待する必要もないし、後方の安全圏に置いといてくれればそれでいい」とイストは続けた。

「師匠!?」

 驚いたように声を上げたのはニーナだ。彼女としてはパックスの街を落とすのに付き合わされると思っていたのに、思わぬ展開になった。

「お前はオレの弟子だ。魔道具職人としてのオレの、な」

 だから関係のない趣味にまで付き合う必要はない、とイストは言った。言われたニーナは少し悔しそうに俯き、数瞬沈黙してから「………はい」と答えた。

「じゃ、よろしく頼むわ」
「ああ。彼女の安全は保障するよ」

 イストとクロノワ。二人は最後にかわした言葉はそれだけだった。イストとジルドの二人は預けていた武器を返してもらうと、再びローブを目深にかぶってその場を後にした。

 ちなみに。クロノワが後で確認したところ、二人がアルジャークの陣を離れるところを目撃した兵士は一人としていなかった。

「唐突に現れ唐突に消える。まったく、本当に君らしいよ」

 クロノワのその呟きは、風に溶けて誰にも聴かれることはなかった。





******************





 ラムナール大河、とよばれる川がある。ポルトール西の国境の一部としても用いられているその川は、大陸の中央部サンタ・シチリアナの北部に源を持つ。つまりポルトールは東西をキュイブール川とラムナール大河という二つの大川に挟まれており、その豊富な水によってこの国の農業は栄えてきた。

 まあ、それはともかくとして。以前ポルトールは沿岸地方の開発に力を入れてこなかった、という話をした。その原因の一つとして、ポルトール人の目線が南の海ではなく、東西の大川に向いていたことが上げられる。彼らにとって交易とは、国の東西にあるそれらの川を上り下りして行うものだったのである。

 つまり何が言いたいのかというと、ポルトール人にとってその川を行き来するのはお手の物なのである。そしてその技能は交易だけではなく、補給物資の運搬と言う軍事行動にも発揮された。

 ラムナール大河はサンタ・シチリアナの北部にその源を発している。この大河には多くの支流が流れ込んでいるのだが、その内の一つでかなり大きな支流がアナトテ山の近くを流れている。その支流にあるアナトテ山に最も近い船着場に、今ポルトールの船が十数隻連なっていた。十字軍とアルジャーク軍のために補給物資を運んできたポルトール軍の船団である。

「ランスロー様、十字軍から受け取りの部隊が到着しました」
「了解した。挨拶に行くとするか」

 そしてこの船団を率いているのが、ポルトールの宰相であるアポストル公爵の三男でティルニア伯爵家に婿養子にいった、ランスロー・フォン・ティルニア子爵であった。彼は腹心の部下であるイエルガ・フォン・シーザスと共に補給部隊を率いてポルトールからはるばるやってきたのである。

「そういえばイエルガ、アルジャーク軍の様子は分るか?」

 歩きながらランスローは部下にそう聞いた。巷で話題になっているのは聖女シルヴィアのことだが、そちらには興味がなさそうである。

 今回ポルトールが補給部隊だけとは言え援軍を出すことに決めたのは、ひとえにアルジャーク軍のためであった。つまりポルトールとしては教会のためではなく、アルジャーク帝国のためにランスローらを派遣したのである。

 アルジャーク軍の軍事的な成功の、その尻馬に乗りたいわけではない。そうであるならば実際に戦闘を行う部隊を派遣しなければならないが、今のポルトールにそれは無理である。

 だから今回のこの補給部隊の派遣は、軍事的な判断というよりは政治的な判断に基づくものであった。露骨なことをいえば、アルジャークへの点数稼ぎである。アルジャーク帝国はもはや東の盟主とも言うべき大国であり、その大国と良好な関係を築くことは、そのままポルトールの国益に直結する。

「アルジャーク軍に最大限協力すべし」

 というのが、ランスローが父アポストル公爵より与えられた命令である。だから彼が十字軍よりもアルジャーク軍の動向を気にするのは、ある意味当然といえた。

「聞くところによれば、戦場と定めた平原で演習を繰り返して兵を慣れさせ、そこでアルテンシア軍を迎え撃つ腹積もりとか」

 なるほど納得する一方で、ランスローは残念にも感じた。つまりアルジャーク軍は今現在手が離せない状況で、ここまで物資を受け取りに来る余力はない。無論、邪魔をするつもりはないが、ここまで来て挨拶もしないというのはかえって失礼だろう。

「クロノワ陛下が親征なされていると聞く。一度ご挨拶に伺うべきだろうな」
「では、物資を受け取りに来た十字軍の部隊に同行なさいますか」

 そうしよう、とランスローはイエルガに返事を返す。十字軍などもはや彼の眼中にはない。ランスローにとって重要なのはアルジャーク軍であり、さらにいえばアルジャーク軍が疲弊しないことである。

 アルジャーク帝国は現在、海上交易に力を入れ始めている。そしてポルトールの海は現在アルジャークのものだ。つまりアルジャークの海上交易が拡大すればするほど、ポルトールもその恩恵を受け沿岸地方を発展させていくことが出来るのだ。

 そして、ポルトールの沿岸地方はすべてティルニア伯爵家の領地であり、つまりはランスローの管理下にある。彼にしてみれば、本来自分がやるべき交易の発達をアルジャークが勝手にやってくれるようなものである。

 しかしこの戦争が泥沼化しアルジャークに海上交易を拡大させていく余力がなくなれば、当然のことながらポルトールがその恩恵を受けることもなくなる。いや、こう言おう。ランスローがその恩恵を受けることもなくなる、と。

 ランスローがこの戦争に対して取っている立ち居地はひどく自己中心的である。彼にしてみればアルジャークが勝とうが負けようが、それ自体はどちらでもいいのである。戦局が泥沼化し、アルジャークの主眼が海上交易からこの戦場に移るような事態にならなければそれでいいのだ。

 欲を言えば、大陸中央部におけるアルジャークの影響力が強まればさらに良い。大陸の中央部に船で物資を運ぼうとすれば、ランスローたちが今まさにやっているようにラムナール大河を遡るしかない。ポルトールは、いやティルニア伯爵家の新たな領地は、そのための良い玄関口になるだろう。つまり新たな需要が生まれることに繋がる。

 なんでもかんでもアルジャーク頼りなことに、情けなさを感じることもある。しかしランスローがどれだけ「一人でやる」と息巻いてみたところで、アルジャークは大国としてそこにあるわけで、どうやっても無関係などではいられない。

 ランスローの仕事は伯爵家の新たな領地、つまりポルトールの沿岸地方を発展させることだ。その場所が貿易の拠点としてアルジャークに求められているというのであれば、その利点を生かすのは正しい選択といえる。

(なにしろ、本当になにもないド田舎だからな………)

 ランスローの代だけで例えば王都並みに発展させるためには、アルジャークという強力なパートナーがどうしても必要になる。アルジャークとの関係を強固にしておきたいというのはポルトールという国家全体の思惑なのだろうが、ランスローの場合はより個人的かつ切実にその力を必要としていた。

(早めに終わらせてもらいたいものだな。こんな戦争は)

 かなり自己本位な台詞を心の中で呟く。しかし彼のこの気持ちは父であるアポストル公も同じだろう。この戦争の行く末は、ポルトールにも関係してくる。当事者ではないから間接的になのだろうが、しかしその影響は大きい。戦争自体から得るものは何もないのだから、早く終わって欲しいと思うのは当然だ。

 歩きながら考え込んでいたら、船着場の外れに来ていた。ランスローの視線の先では補給物資の受け渡しが行われている。そこに近づいて十字軍の部隊の隊長に挨拶をし、聖女シルヴィアと皇帝クロノワに挨拶するため同行したい旨を告げると、すぐに了承の返事が帰ってきた。

(まあ、聖女はついでだが)

 とはいえ挨拶しないわけにもいかないだろう。聖女の名声は今や一国の王をも凌いでいる。本命はクロノワだが、しかし聖女を疎かにするわけにもいかないのだ。

(そういえば………)

 とランスローは思った。直接クロノワと会うのは、テムサニスのヴァンナークで同盟を締結したとき以来である。あの時結んだ同盟がこれからのポルトールを形作っていくといっても過言ではあるまい。

(さて、今度の面会ではどんなことが起こるのか………)

 国の行く末を左右するようなことがそう何度も起こってたまるかと思いつつも、心のどこかで何かが起こることを期待しているランスローであった。

**********

「………どうかしたか、ニーナ殿。ボーっとしていたようじゃが………」
「っ!申し訳ありません!シルヴィア様」

 知らぬ間に手を止め考え込んでしまっていたらしいニーナは、覗き込むようにして視界に入ってきたシルヴィアの声で我に返りあわてて頭を下げた。

「そんなに畏まらないで欲しい。そなたはクロノワ陛下の客人。むしろ私のほうが敬わなければならないかも知れぬ相手じゃ」

 冗談めかしたシルヴィアの言葉に、ニーナはますます小さくなって頭を下げた。今彼女がいるのは十字軍の陣内、それも聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナのテントである。

 師匠であるイスト・ヴァーレと共にアルジャーク軍の陣内に侵入し、そのままクロノワ・アルジャークのもとに残ったニーナがなぜこのようなところにいるのかと言うと、それはクロノワから聖女シルヴィアの世話係を頼まれたからだ。

「アルジャーク軍もそうなのですが、十字軍にも女性はほとんどいない状態でして。聖女の身の回りの世話をする人がいないのですよ」

 男の将官であれば男の従卒でも問題はないのだろうが、あいにくとシルヴィアは女性だ。着替えなどを含む身の回りの世話を、まさか男にさせるわけにもいかない。今更、と言う気もするがシルヴィアの王女と言う身分を考えれば、これまでの状態のほうが異常であったともいえる。アルジャーク軍にはグレイス・キーアという女騎士がいるが、彼女は近衛騎士団の騎士団長としてクロノワの身辺警護に当らねばならない。

 そこで特に仕事があるわけでもないニーナにお鉢が回ってきた、と言うわけだ。とはいえこれは表向きの理由だ。クロノワはともかく、アルジャークの将軍たちの腹のうちとしては、得体の知れない不審者を皇帝の身辺から遠ざけるべく「聖女の世話係に」と言い出したのであろう。

 それに形式上とはいえニーナはクロノワの客人と言うことになっている。その建前がある限り十字軍も彼女を粗野には扱えず安全は保障されているといえる。まさに“敬して遠ざけた”というわけだ。

 その辺りの事情をニーナがどれほど理解しているかは定かではない。クロノワの言葉通りのことしか理解していなかったはずだが、それは彼女に後ろめたいことがないことの証拠でもある。

 まあ、お偉いさん方の思惑などニーナにとっては埒外である。目下彼女にとって重大なこと、それは目の前にいるのが聖女シルヴィアであるということだ。

 お姫さまである。王女さまである。高貴な方である。やんごとなき方である。ついでにいえば、いやむしろ今となってはこちらのほうがメインなのだろうが、教会の認めた聖女様である。

 つまりシルヴィア・サンタ・シチリアナとは、ニーナ・ミザリにとって正しく雲の上の人なのである。そんな人から「私のほうが敬わなければならない」なんていわれ、いやもちろんシルヴィアの冗談だとは分っているけれど、ニーナはどう対応すればいいのか分からなくなる。

 イスト・ヴァーレという希代の変人と一緒に旅をしてきたニーナは、他人よりも濃い人生経験をしてきたといえる。しかしニーナはその性質(たち)としてイストのように図太くはなれない。普通とはちょっと言いがたいこれまでの彼女の人生経験は、しかしこの状況に対して答えを出すことを放棄してしまっていた。

 結局、小さくなって謝るしかない。「ああ、小市民だな」と頭の片隅で思うが、そう思えることに少し安心してしまう。

「それで、どうしたのじゃ?」

 分が小市民であることを再確認してそこはかとなく安心していたニーナに、シルヴィアが面白がるような笑みを見える。その目が、どことなく獲物を狙っているように見えたのは、きっとニーナの勘違いだろう。

「いえ、ちょっと考え事を………」

 ニーナはすこし言葉を濁した。とはいえ「なんでもないです」と言ってもシルヴィアは信じてくれなかっただろう。ほんの数日の付き合いとはいえ、ニーナはシルヴィアのそういう気性をよく思い知らされて、もとい、学んでいた。

「なにを考えておったのじゃ?」

 予定調和的にシルヴィアはそう尋ねた。しかし尋ねられたほうのニーナは、少し困ったように曖昧に笑った。

 ニーナが考えていたこと、それは「なぜ師匠は自分を連れて行かなかったのか」ということである。しかしその事について詳しく話そうとすれば、イストがパックスの街を落とそうとしていると、そしてアルジャーク軍がそれを黙認していることも話さなければならなくなる。

(ちょっと前までなら、話したかもしれないけど………)

 しかし状況は随分と変わった。ニーナは街が落ちることで混乱が起きることを危惧しこれまで反対してきた。しかし後始末をアルジャーク軍がやってくれるというのであれば、彼女が危惧するような混乱は恐らく起こらないだろう。

 またアルジャーク軍が撤収し、戦局が泥沼化することを避けられるなら、むしろ落としてしまったほうがいいのでは、と最近では思い始めている。なんだかイストに洗脳されてしまった気がしないでもないが、沢山の人が死ぬような未来を避けられるならそれが一番いい、というのがニーナの考えだ。

 とはいえ、ここまできて何も話さない、と言うわけにもいかない。ニーナは慎重に言葉を選んで口を開く。

「なんだか、力不足だっていわれちゃったような気がして………」

 大まかにとはいえ状況を説明してしまえば、街が落ちた後にシルヴィアがアルジャーク軍のことを疑ってしまうかもしれない。さすがにそれはまずいだろうと思ったニーナは、仕方がないので自分のことだけ話すことにした。

「わたしが未熟だっていうのは分っているんです」

 イストがニーナを連れて行かなかった理由は、おそらく「足手まといになるから」だろう。「オレの趣味にまで付き合う必要はない」と言っていたのは、嘘ではないのだろうが本音でもあるまい。

 ついていったところで手伝えることなどないだろう。それどころ足を引っ張ってしまうに決まっている。それはニーナ自身分ってはいるのだが………。

「だけど面と向かっていわれると、ちょっと傷つくというか………」
「………それは、とても責任ある態度じゃと、私は思う」

 どこか遠くを見つめながら、シルヴィアはそういった。情熱や誠意、覚悟だけではどうしても超えられない壁というのは、この世に確かに存在する。それを見極めて押し止めてくれる人は、それだけ自分のことを大切に思ってくれている人ではないだろうか。

 シルヴィアは、聖女と言う分不相応な役柄を押し付けられてしまった少女はそう思う。誰かが「彼女には無理だ」とそういってくれていれば、自分はもう少し軽い足取りで戦場に迎えたのではないだろうかと思ってしまう。

「そう、でしょうか………」

 シルヴィアはイストのことを知らないから、多分に美化しているように思える。だけど知らないからこそ、先入観にとらわれず真意を見抜くということもあるかもしれない。

 結局、言葉というのは受け止め方なのだ。好意的に受け取ればすべて箴言に聞こえるし、受け手に悪意があればすべて嫌味や中傷に聞こえる。そう考えると、言葉と言うのは話し手のものではなく、むしろ聞き手のものなのかもしれない。

(まあ、師匠はアレな人だから、変な先入観を持たないほうが難しい気がするけど………)

 それでも、イストはイストなりにニーナの安全のことを考えていてくれたのかもしれない。そう思うと、ニーナの心は軽くなりまた温かくもなった。

「それはそうと、ニーナ殿」

 ニーナの中で答えが出たのを見計らい、シルヴィアは話題を変える。

「ニーナ殿にはこうして世話になったし、なにか礼をしたいと思うのじゃがなにがよい?」

 あいにく今は大したものを持ち合わせておらぬのじゃが、とシルヴィアは少し困ったように笑った。

「そ、そんな!もったいないことです!」

 そういってニーナは恐縮するが、シルヴィアはかまわずに思案をめぐらせる。そしてなにか思いついたのか、はたと手を打った。

「そうじゃ。これはどうじゃ」

 そういってシルヴィアが取り出したのは、銀の髪留めだった。さすがに王族の持ち物らしく、繊細で美しい花柄の細工がなされている。シルヴィアの綺麗な髪の毛にさぞや映えていただろう。

「昔、父上から頂いたものなのじゃが、冑をかぶるようになってからは使う機会も減ってな」

 よければニーナ殿に貰ってもらいたいと言って、シルヴィアはその髪留めをニーナの手に握らせた。

「そんな!頂けません!」
「いいのじゃ。貰ってくれ」

 穏やかな、穏やか過ぎる笑みを浮かべるシルヴィアに、ニーナは何も言えなくなった。手の中にある髪留めの感触が、なぜか彼女を不安にさせる。

(まさか、これは………)

 形見分けのつもりなのだろうか。

 不吉な考えがニーナの頭をよぎる。けれどもそれを口に出して問い尋ねることは、彼女には出来なかった。口に出してしまえばそれが現実になってしまうような、そんな気がしたのだ。

「なぜ、こんなに良くしてくれるんですか………?」

 代わりにそんなことを口にしていた。ニーナが「しまった」と思っていると、少し困ったような顔したシルヴィアが、ニーナの耳元に口を寄せた。

 ――――それは、貴女が一度もわたしのことを「聖女」とは呼ばなかったからじゃ。

 ニーナ以外には聞こえないよう小さな声でシルヴィアは囁いた。それから顔を離し、やはり少し困ったように笑った。

「秘密じゃぞ?」

 微笑みながら片目をつぶり、冗談めかしながら念を押す。確かにこれは秘密にしなければならないことだった。なにしろ、聖女本人が「聖女と呼ばれたくない」と言ったようなものである。知れ渡れば、十字軍の士気に関わる。

 しかしそんなことよりも。

 ニーナの脳裏には先ほどのシルヴィアの表情が焼きついて離れない。短い付き合いでも分ってしまったのだ。

 あれが彼女本来の表情なのだ、と。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ11
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:06
 神殿の中は、静まり返っている。ほんのつい最近、御霊送りの儀式の準備をしていた頃はうるさいほどに賑やかだったのに、今はそれが嘘だったかのように閑散としている。

 例えばこれが学校などで、長期休暇のために学生の多くが帰省したためであるならば、この静けさからは安らぎや、あるいは達成感のようなものを感じることができたかもしれない。

 しかし実際のところ、神殿が閑散として静まり返っているのは、迫り来るアルテンシア軍とシーヴァ・オズワルドに恐れをなし、多くの人が逃げ出した結果である。そのような状況であるから、神殿に残った少数の人々がどこか落ち着かない、漠然とした不安を抱えているのは当然と言えた。

 それは神殿に残った二人の枢機卿の一人、カリュージス・ヴァーカリーにも同じことが言える。彼がその漠然とした不安を表に出すことはなかったが、腹の中になにかモヤモヤしたものが渦をまいているような、そんな不快感をこの頃感じている。

 カリュージスが神殿に残ったのは、ひとえに教会を守るためであった。アルジャーク軍が間一髪間に合ったことで、神殿がアルテンシア軍によって占拠されてしまう事態はひとまず避けることができた。しかしその可能性が完全になくなったわけではなく、アルジャーク軍が敗退すればやはり神殿はアルテンシア軍の手に落ちることになる。

 そうなったらその後は自分の仕事だ、とカリュージスは思っている。恐らくはシーヴァ・オズワルドとのタフで困難な交渉が待っている。

 教会と神子を守ること。それがヴァーカリー家の務めである。そしてヴァーカリー家の現在の当主はカリュージスだ。ならばカリュージスは教会を、そして神子を守らなければならない。

(しかし、何のために守るのか………)

 神殿を占拠したシーヴァは、アルテンシア軍の戦力を背景に教会を無力化すべく手を打ってくるだろう。シーヴァがどのような手を打ってくるのか、色々カリュージスなりに考えて対応策を検討してはいる。しかし、どうあがいても教会の発言力が地に落ちるのは避けようがない。

 教会という組織に力がなくなれば、教会が今まで隠してきた御霊送りの真実も遠からず露呈することになるだろう。ヴァーカリー家はそれを隠し通すために、これまで教会と神子を守り続けてきたと言っても過言ではないのに。

 何もかも無駄になる。カリュージスにはその予感がある。ならば何のために自分を奮い立たせなければならないのか。

 のしかかる不安のせいか、あるいは慣れない状況からくる緊張のせいか、自分の思考が悲観的になっているのをカリュージスは自覚した。しかし自覚したからといって、事態が好転する要素がほとんどないのだ。楽天的に考えようとしても、カリュージスの中にいる冷徹な政治家はすぐさまそれを否定してしまう。今の彼は、教会を守ることに意義を見出せないでいた。

「カリュージス卿、テオヌジオです。少しよろしいでしょうか」

 そんな時、ノックの音がカリュージスの執務室に響いた。来客は彼のほかに神殿に残ったもう一人の枢機卿、テオヌジオ・ベツァイらしい。彼を室内に招き入れて席を進めると、カリュージスは向かい合うようにしてソファーに座った。

「今日は、カリュージス卿に少しご相談がありまして………」

 紅茶を用意してからカリュージスが座ると、テオヌジオは余計な前置きはせずに話を始めた。

「聖女様の護衛として、カリュージス卿子飼いの衛士を幾人か派遣していただきたいのです」

 護衛としてであれば、ただ単に数を送ればよいという話ではない。やはり組織として動くことができる部隊でなければ意味がない。そして今神殿に残っているそういう部隊は、カリュージスの子飼いの部隊だけである。

「今更護衛を送っても、意味はないように思いますが………」

 それはカリュージスの言うとおりであろう。すでに聖女の護衛は十字軍の中から、ともすればアルジャーク軍の中からも選ばれているはずで、今更神殿の衛士を派遣したところで役に立つとは思えない。

 しかし、テオヌジオは身を乗り出し真剣な声でこういった。

「カリュージス卿、これは道義的な責任なのです」

 枢密院は、いや教会はシルヴィア・サンタ・シチリアナに「聖女」という役柄を押し付けた。それはさまざまな思惑が重なった結果で、ある面仕方がなかったとも言える。しかしどんな思惑や事情があったにせよ、「聖女」という称号を与えたという事実は揺るがない。ならば教会は「聖女」に対し、それ相応の敬意を示さなければならない。それが道義的な責任というものである。

「道義的な責任、ですか………」

 テオヌジオ卿の言いそうな言葉だ。カリュージスはそう思った。しかし嫌味を感じさせる言葉ではない。むしろ、いつのことからか忘れていた清々しさを感じた。

(損得勘定や思惑、事情だけで割り切ってはいけないものが、この世にはあるということか………)

 それは、本来人間が持っているべきもの。それを持っているがゆえに、人は動物とは異なっていられるのかもしれない。

「………分りました。衛士を二十人、いえ三十人ほど見繕って聖女様の護衛として派遣しましょう」
「ありがとうございます、カリュージス卿」

 笑みを浮かべたテオヌジオが頭を下げる。それから彼は、用意された紅茶にようやく手をつけた。

 それから二言三言言葉を交わした後、テオヌジオはカリュージスの執務室を辞した。再び一人になった部屋の中、カリュージスはソファーの背もたれに身を預ける。

「道義的な責任、か………」

 つい先ほど聞いたテオヌジオの言葉を思い出す。「教会には聖女に対して道義的な責任がある」と彼は言った。

「ならばヴァーカリー家も、教会と神子に対し道義的な責任を負っているのかもしれぬ」

 ヴァーカリー家は御霊送りの真実をこれまで守り続けてきた。それはつまり、これまで何人もの神子を見殺しにしてきた、とも言える。カリュージスが、ヴァーカリー家が直接手を下してきたわけではないが、秘密を知りながらもそれを秘匿し犠牲を黙認してきたことは事実だ。

 その事に関し、ヴァーカリー家には道義的な責任がある。

 その考えは、カリュージスの中に抵抗なく収まった。なぜ神殿に残り教会と神子を守らなければならないのか。それは御霊送りの真実を知りながら、これまで犠牲を黙認してきた家の人間として道義的な責任があるからである。

 胸の中のわだかまりが一つ解け、カリュージスは決意を胸に立ち上がった。真実が暴かれ教会が万人から非難されるその日にも、自分だけは教会と神子の味方でいよう。そして自分が全てを背負い、自分の代で全てに決着を付けよう。

(割に合わない仕事だ………)

 カリュージスは苦笑した。しかし彼の表情に悲壮さは微塵もない。むしろこれまでにない清々しさがあった。

 テオヌジオ卿のおかげだ、とカリュージスは思う。彼は宗教家らしく迷える子羊に導きを与えたのだ。

 ――――しかし、カリュージスは知らない。

 テオヌジオは「聖女に対する道義的な責任を果たすため、衛士を護衛として派遣して欲しい」と言った。その言葉に嘘はない。嘘がなかったからこそ彼の言葉はカリュージスの心に響いた、ともいえる。

 しかし、それが全てではない。テオヌジオには「裏の目的」とでも言うべきものがあったのだ。

(これで、神殿の警備は手薄になりますね………)

 ただでさえ神殿に残っている衛士は少ない。その上さらに三十名もの衛士を派遣すれば、神殿の警備はもはやザルといってもいい。さらに居なくなるのはカリュージス子飼いの衛士たちで、テオヌジオにしてみれば労せずして邪魔者を排除できたとさえいえる。

(計画も実行しやすくなります………)

 救いのための計画だ。なんとしても成功させたい。そのためには少々の汚れ仕事も必要だろう。拙い計画だと自覚してはいるが、それでもここまで順調に進んでいるのは、神々も計画の成功を望んでいるからではないだろうか。

「ああ、楽しみです。とても………」

 神界の門が開く、その時が。

**********

 ――――アルテンシア軍、接近ス。

 早朝、その知らせを受けたとき、シルヴィアは一瞬困ったような顔を見せてから、すぐに表情を引き締めた。一人の少女から十字軍を率いる聖女へと、彼女は自分の存在を置き換える。その変化が、ニーナには痛々しく思えてならない。

 唯一の救いは、シルヴィアの表情に若干の余裕が見受けられることだろう。目の前に迫った戦いは絶望的ではない。アルジャーク軍九万がいる。これまでほど易々と打ち払われはしないだろう。

「ここも騒がしくなる。ニーナ殿は、アルジャークの陣に戻られるがよかろう」

 そういってシルヴィアはニーナに優しい目を向けた。ニーナの肩に乗せたシルヴィアの手が震えている。

「シルヴィア様………」

 緊張しないはずがない。恐ろしくないはずがない。震える手がシルヴィアの心の中を無言のうちに語っている。

「ご武運を、お祈りしています」

 震えるシルヴィアの手を両手に包み、ニーナはそういった。途端、目頭と鼻の奥が熱くなる。こぼれそうになる涙を、ニーナは必死に堪えた。

「感謝する、ニーナ殿。また必ず会おうぞ」

 その言葉を残し、シルヴィアはテントから出て行った。一人残ったニーナも、目頭にたまった涙を拭くとすぐに外に出る。テントから出ると、シルヴィアがキビキビと兵士たちに指示を出していた。その顔は完全に聖女のものである。

『貴女が一度もわたしのことを「聖女」とは呼ばなかったからじゃ』

 銀の髪留めを貰ったとき、シルヴィアはニーナの耳元でそう囁いた。シルヴィア自身、聖女の名前が重くともすれば煩わしくさえあると吐露したのである。だからニーナと二人だけで居る時間は、彼女が「聖女」ではなく「シルヴィア」でいられる時間だったのだろう。

「そんなつもり、なかったんだけどな………」

 ポツリと、ニーナは呟いた。ニーナがシルヴィアのことを「聖女」と呼ばなかったのは、師匠であるイストが「ただの生贄だろう?聖女なんてさ」と身も蓋もないことを言っていたからである。つまり彼女自身、この状況下で持ち出された「聖女」という単語にあまりいい感情を抱いていなかったのだ。

 だからニーナが「聖女」という単語を使わなかったのは、彼女の側からしてみれば自己満足というか我儘にも似たものでしかない。シルヴィアを救いたいとか、助けたいとか、そういう気持ちは全くなかったのだ。

 それなのに。シルヴィアはそのことを喜んでくれた。そしてそれが、逆にシルヴィアにとって「聖女」の名前がどれほど重いのかを、ニーナに教えることにもなった。そして彼女はその名を一生背負い続けなければならないのだ。

「街が、落ちるのに………」

 イストがやると言う以上、パックスの街は落ちるだろう。その時、聖女シルヴィアの身に何が起こることになるのだろう。

「ニーナさん、シルヴィア姫の様子はどうでしたか?」

 気がつくとニーナは十字軍の陣を出て、隣にあるアルジャーク軍の陣の外れに来ていた。そんな彼女を見つけたクロノワが声をかけてきたのだ。

「陛下………!よろしいのですか?」

 アルテンシア軍が接近し慌しいのはアルジャーク軍も一緒だろう。そんな中、皇帝たるクロノワがこんな場所で自分と話し込んでいて良いのだろうか。しかし心配するニーナにクロノワはこう答えた。

「優秀な部下が揃っていますから」

 それは末端の兵士も含めて、と言う意味である。アルジャーク軍の精兵たちは、一度クロノワが号令をかければ後は自分たちで準備を整えてくれるし、細かい指示等は四人の将軍たちが出す。だからクロノワは号令さえかけてしまえば、準備が整うまでは結構暇なのである。

「それより、シルヴィア姫の様子はどうでしたか?」
「………気丈に振舞っておられました」

 繰り返された問いに、ニーナはそう答えた。指示を出すシルヴィアの姿は、まるで大きすぎる服を必死に着こなそうとする子供のようにニーナには思えた。そして、それさえも他人には悟られないよう、シルヴィアは二重の仮面をつけているのだ。息苦しいしその二つの仮面に、シルヴィアはいずれ絞め殺されてしまうのではないか、とニーナは心配していた。

「なるほど、そうですか………」

 ニーナの話を聞いたクロノワは、そう呟いて顎を撫でた。そのまま、何か考えているのか彼は黙り込んだ。

「あの………、陛下」

 畏れ多い、と感じながらもニーナはクロノワに声をかけた。どうしても気になることがあるのだ。そしてそれに答えられるのは、恐らくアルジャーク帝国皇帝のクロノワしかいない。

「ん、何ですか?」
「パックスの街が落ちたら、その後、シルヴィア様はどうなってしまうのでしょうか………?」

 一緒に居たのは本当に短い時間だ。先入観とひいき目もあるだろう。そもそもシルヴィアが良くしてくれたのは、ニーナがクロノワの客人という身分だったことが大きいことくらい彼女自身も分っている。

 それでも、聞かずにはいられなかった。必死になって「聖女」の役を演じるシルヴィアの行く末を決めてしまうだけの力をクロノワは持っているのだから。

「そうですね………。街が落ちれば後ろ盾である教会は力を失うわけですから、『聖女』の称号は有名無実のものになるでしょうね」

 クロノワは顎に手を添え、少し考え込んでからそう答えた。しかしそれだけでは済むまい。教会にとって「聖女」は現在、神子と並ぶかそれ以上の象徴的存在である。御霊送りの真実が暴かれたとき、欺かれていたことへの信者たちの憤怒が「聖女」に向かうのは、想像に難くない。

「今度は『魔女』呼ばわりされるかもしれませんねぇ………」
「そんな………!」

 クロノワの予測にニーナは言葉を失う。「聖女」から「魔女」への転落。教会は己の滅亡に、一体何人の人々を巻き込むというのか。

「何とかしたいですか?」

 クロノワはニーナに問い掛ける。彼の今の顔は、間違いなく皇帝のそれだ。街が落ちた後、アルジャーク軍がどういう評価を与えるかによってシルヴィアの運命は決まる。そして皇帝たるクロノワにはシルヴィアの運命を左右するだけの力があるし、彼自身それを自覚している。しかしニーナは臆することなく真正面からクロノワの目を見た。

「シルヴィア様は、報われていい人だと思います」

 なるほど、とクロノワは表情を緩めて微笑を作った。

「ニーナさんがそういうなら、そうしましょうか」
「………え………?」

 あまりにあっさりとしたクロノワの答えに、ニーナは一瞬呆ける。そしてだんだんとクロノワの言葉の意味が分ってくるにつれて胸が熱くなってくる。

「ありがとうございます!!」

 勢い良くニーナは頭を下げた。そんな彼女にクロノワは柔らかく笑いかけると、「それじゃ」と残してその場を離れた。

「そうそう」

 二、三歩行ったところで何か思い出したようにクロノワが振り返った。どうしたのだろうかと思うニーナに、クロノワは悪戯を思いついたような顔をしてこういった。

「さっきの物言い、イストにそっくりでしたよ?」

 それだけいうと、今度こそクロノワは陣のほうに戻っていった。残されたニーナはクロノワの言葉に頭を抱える。

「似てきた………。師匠に似てきた………」

 絶望的に身悶えるニーナであった。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ12
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:09
 太陽が一番高くなるころ、ついに両軍は相対した。西側からやってくるのがシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍。その数、およそ八万。

 それに対し、アナトテ山を後方に置き東側で迎え撃つのは十字軍とアルジャーク軍の連合軍。その数、およそ十四万。ただし、精兵とよべるのはアルジャーク軍の九万だけであるが。

 アルテンシア軍は、主翼と両翼の三つに分かれている。主翼三万、両翼がそれぞれ二万五千ずつである。主翼を率いているのは当然シーヴァ・オズワルドであり、リオネス公がその補佐についていた。左翼を率いるのはヴェート・エフニート将軍であり、また右翼を率いているのはガーベラント公だ。

 まさに磐石の布陣である。「質実剛健」の言葉を体現し、アルテンシア軍は街道をアナトテ山にむけて進む。シーヴァは数で勝る連合軍に対し、一切の小細工なく真正面から戦いを挑んだのである。

 数で劣るとはいえ、強敵と呼ぶべきはアルジャーク軍九万のみで、それを考えれば実質的な戦力はほぼ互角ともいえる。なによりも内部に問題をほとんど抱えていないというのが、このアルテンシア軍の最大の強みであると言えるかもしれない。

 一方、アルジャーク軍もまた主翼と両翼を作り、その後ろに本陣を置いていた。さらに付け加えるならばそのさらに後ろ、アナトテ山よりも西の地点には補給物資の集積拠点があり、そこにはランスロー子爵率いるポルトール軍数百名がいる。ちなみにニーナが待機しているのもここだ。まあ、もとよりこのポルトール軍が戦闘に参加することはないが。

 さて、主翼と両翼の戦力は奇しくもアルテンシア軍と同じであり、兵は全てアルジャーク兵である。主翼を率いるのはアールヴェルツェ・ハーストレイト将軍。右翼を率いるのはイトラ・ヨクテエル将軍で、左翼を率いているのはレイシェル・クルーディ将軍だ。

 さてここまでは戦力、兵の練度、指揮官の能力いずれをとっても互角といえる。ゆえに本来ならば、本陣六万の戦力を余計に保有している連合軍のほうが圧倒的に有利であると言える。

 連合軍の本陣は、アルジャーク軍一万、十字軍五万から成っている。この混合軍の指揮を執るのは、連合軍の総司令官でもあるクロノワ・アルジャークである。カルヴァン・クグニス将軍がその補佐につき、実質的な指揮を執ることになっていた。

 普通であればこの本陣六万は戦場の趨勢を決定付け勝利を引き寄せる切り札になりえるのだが、この混合軍は内部に幾つかの問題を抱えていた。

 第一に、兵の練度に差がありすぎる。兵個人の能力はもちろんのこと、連携や命令に対する即応性など、あらゆる面でアルジャーク軍と十字軍では隔絶しすぎていた。これでは共に戦うどころか、足手まといになりかねない。

 役に立たない、信頼できない味方と言うのは、ある意味で強力な敵よりもやっかいな存在である。だからこそアールヴェルツェは主翼と両翼をアルジャーク軍だけで構成し、十字軍はまとめて本陣に置くことにしたのだ。ただしそのせいで本陣が動く際には十字軍にあわせなければならなくなり、その動きは随分と制限されてしまうだろう。

 また命令系統にも若干の不安がある。クロノワが本陣を直接率いることに異論は出なかったのだが、十字軍の総司令官である聖女シルヴィアの指揮権をどこまで認めるかで、少し話がこじれた。

「十字軍五万は聖女様が指揮するべきだ」
 という意見が十字軍の参謀たちから出たのだ。彼らにしてみれば戦いの主役はあくまでも自分たちで、アルジャーク軍は援軍であるという意識が抜けないのだろう。

 聖女シルヴィアはあくまでも象徴的存在だ。彼女に大軍を指揮する能力はない。ゆえに実質的な指揮は十字軍の参謀たちが執ることになる。彼らにしてみれば、自分たちの自由に動かせる戦力を手元に残しておきたいという気持ちがあったのだろう。

 しかしクロノワはこの意見を却下した。彼らの思惑はあまりにも見え透いていたし、またそれが名誉欲や自己顕示欲、ギトギトとした功名心に起因していることも明らかだったからだ。

 クロノワは十字軍五万を自分の補佐でもあるカルヴァンの指揮下に置いた。少なくともアルジャーク軍の邪魔だけはさせるな、というのがその意図であった。また彼であるならば本陣のアルジャーク軍一万と十字軍を上手く連動させることが出来るのでは、という期待も込められている。

 クロノワとアールヴェルツェにしてみれば、アルジャーク軍と十字軍、つまり連合軍全体を完全に掌握するためにもこの采配は譲れない。しかし十字軍内部にはこれを快く思っていない人間も居るだろう。土壇場でそれがどう響いてくるのか、やはり若干の不安が残る。

 ちなみにカルヴァンは任された十字軍のあまり練度の低さに驚き、すぐさま再編と訓練に取り掛かった。参謀を含めた十字軍の兵士たちには「一年分を一日で叩き込むかのような」激烈な訓練が課され、阿鼻魔境の地獄絵図が繰り広げられたとか。

 ベルベッド城の攻防戦にも参加していたとある十字軍兵士は、
「『|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》』を構えたシーヴァ・オズワルドよりも、訓練中のカルヴァン将軍のほうが恐ろしかった」
 と後日漏らしたそうな。

 まあそれはともかくとして。これらの布陣を考えたのはアールヴェルツェなのだが彼の思惑としては、本陣は動かさないつもりだったのだろう。九万のうち一万をクロノワの護衛として残し、アルテンシア軍とは互角の戦力でぶつかる。十字軍は邪魔にならないよう後ろにおいておき、いざという時にはクロノワの盾代わりになってくれれば御の字、と思っていたのかもしれない。

 完全に意識の統一がなされているアルテンシア軍に対し、連合軍は完全な一枚岩になりきれてはいなかった。ただそれは二つの軍隊が連合を組む上で、仕方のないことであるとも言える。

 お互いの内部事情がどうあれ、決戦のときは刻一刻と近づいてきている。これが歴史的な決戦になることは、その場にいる者ならば末端の兵士であっても理解していた。確かにこの戦いは歴史的な決戦になった。ただし、その場にいる誰もが予想しなかった形で。その結末をこの時点で正確に思い描けていたのは、この戦場にはいないただ一人だけであった。

**********

 接近してきたアルテンシア軍は、連合軍の人影を目視できる距離まで近づくとそこで一度停止した。そして連合軍もまた、アルテンシア軍に近づこうとはしない。お互いがお互いの出方を窺い、また値踏みするかのように相手の陣形を観察していたからだ。

「見事だな」

 アルテンシア軍を率いるシーヴァ・オズワルドはただ一言そういった。彼は自分の認めた強敵に対して賛辞を惜しまない男であったが、これはそのなかでも最上級の褒め言葉であった。

「そうですね」

 主君たるシーヴァの言葉にリオネス公も頷く。彼はガーベラント公とはことなり軍勢の指揮に秀でているわけではないが、それでもこれまでの戦いの中で幾度となく敵味方の陣形を観察してきたのだ。連合軍の陣形がこれまで戦ってきた十字軍のそれと比べて、はるかに優れており見事であることは分った。

「布陣と構成はほぼ同じ。いえ、本隊が後ろに控えている分、敵のほうが有利でしょうか」

 そう言うリオネス公の言葉には、若干の緊張が浮かんでいる。ただし恐怖で身をすくませるような、後ろ向きの緊張ではない。集中力は研ぎ澄まされ、四肢には力が満ちている。そしてそれは、アルテンシア軍全体に同じことが言えた。

(いい状態だな)

 自分が率いる軍勢に、シーヴァは頼もしさを覚えた。こういう状態にあるとき、人は良い働きが出来るものなのである。

「さて、いつまでもにらみ合っていても仕方がないな」
「御意」

 シーヴァがこうして軍勢を停止させていたのは、敵軍を観察するほかに接触があるかもしれないと思ったからだ。しかし連合軍の側から使者が来る様子はない。そしてアルテンシア軍のほうから使者を送るつもりは、シーヴァにはなかった。

(交渉や取引でどうにかなる段階は、もはや過ぎているのだ)

 シーヴァはそう思う。二度行われたアルテンシア半島への十字軍遠征。そして三度目の画策。この先ずっと脅かされ続けるのかと思えば、統一王国としては教会を屈服させて無力化し、国民の安全を守るほかない。

 仮にこの場で連合軍側から講和の使者が来たとしても、シーヴァは教会にとって屈辱的な条件を取り下げることは出来ないし、また教会がそれを飲むこともないだろう。

 結局、一戦交えて雌雄を決する以外、道はないのである。

(世はまさに乱世………)

 そして軍勢をもって意を通すのが、乱世の習いであろう。

(さて、往くとしよう)

 シーヴァは短く目をつぶり、息を吐き出す。そして息を吸い込みながら目を開け、鋭い視線を眼前の敵軍に向けた。

「全軍、攻撃開始」

 シーヴァの命令は伝令の兵を通して瞬く間に全軍に伝えられていく。そしてアルテンシア軍は動き始めた。

 事前の予定通り、まず動いたのはアルテンシア軍の両翼だった。主翼はまだ動かず、元の位置で静止している。

 アルテンシア軍両翼の動きに呼応するかのよう、連合軍の両翼もまた行動を開始する。そして、両翼と距離が開くことを嫌ったのか、連合軍の主翼もまた数瞬遅れて前進をはじめた。

「本陣は動かぬか………」

 望遠鏡(ちなみに魔道具だ)を覗き込みながら、シーヴァはそう呟いた。戦術的な思惑があって動かないのか、はたまた動けないだけなのか。

「恐らくは動けないのでしょう」

 リオネス公はそう断じた。先ほど観察したとおり、連合軍の主翼と両翼の陣形は見事で兵士と将官の質は非常に高いことが窺える。それはつまり、主翼と両翼はアルジャーク軍のみで構成されており、十字軍が混じっていないことを意味している。となれば十字軍はまとめて本陣に回されている、と考えるべきだ。

「まあ、我でもそうするが」

 アルジャーク軍と十字軍では実力差がありすぎる。一緒に動かして連動させようとすれば、かえって足手まといになりかねない。

 邪魔だけはしてくれるな、というアルジャーク軍の意図を正確に察し、シーヴァとリオネス公は揃って苦笑をもらした。

「さて、我々も前に出るぞ」

 連合軍の両翼はヴェートとガーベラント公がそれぞれ抑えてくれる。本陣の主力は弱兵がメインの十字軍で、これを退けることは容易い。ならば目の前に迫り来る敵主翼を突破できれば、この決戦の趨勢を決することが出来る。

(分りやすくてよいな………)

 果たすべき目標が簡潔なのはいいことだ。余計なことを考えず全力を尽くすことが出来る。そう思いながらシーヴァは主翼に前進の指示を出した。

 動くのを遅らせたせいか、アルテンシア軍の主翼は両翼よりも後ろに位置している。両軍の両翼はすでに交戦状態に入っており、一進一退の攻防を繰り広げていた。そしてその二つの戦場の真ん中をアルジャーク軍の主翼がアルテンシア軍の主翼に向かって接近していく。それぞれが動いたタイミングの問題で、全体として見ればアルジャーク軍が凸形でアルテンシア軍が凹形という状態になった。

 やがて両軍の主翼も激突する。その様子をシーヴァは注意深く観察していた。定石どおりのぶつかり方で、実力は両軍拮抗している。敵軍の主翼を率いているのはよほど優秀な将軍であると見えた。

 ただ、シーヴァが最も気にしているのは、そこではない。

「魔導士部隊はいないようだな」

 シーヴァが言うとおり魔導士戦につきものの派手な火炎弾や爆音が響くことはない。前回の戦いでガーベラント公の部隊に穴を穿った魔導士がいるはずだが、その魔導士は主翼にはいないらしい。恐らくだが本陣にいるのだろう。

 強力な火力を誇る魔導士部隊を一般の部隊で相手取ることは難しい。敵に魔導士部隊がいるならば自分が真っ先に潰さねばならないと思っていただけに、これはシーヴァにとって僥倖だった。

 アルテンシア軍に魔導士部隊はまだないのだ。アルテンシア同盟時代、同盟軍のなかにも魔導士部隊はなかった。同盟時代は各領主たちがそれぞれ個人的に魔導士を雇っているという状態だったのだ。

 それが、同盟が崩壊したことで、領主たちに雇われていた魔導士たちは一時的にフリーになってしまっている。もちろん統一王国も国として彼らを再び雇用し魔導士部隊を編成しているのだが、如何せん建国以来まだ日が浅く動かせる状態にはなっていなかった。また、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」という強力な魔道具と、それを操るシーヴァ・オズワルドという絶対的魔導士がいたため、部隊の編成を急ぐ必要がなかったという理由もある。

 一方でアルジャーク軍である。アルジャーク帝国もまた、最近急速に版図を拡大したため、併合した国々が持っていた魔導士部隊の再編が間に合っていない、という事情がある。しかし帝国が元々持っていた魔導士部隊はいつでも動かすことが可能なはずで、つまり今回は意図的に連れてこなかったことになる。

 今回の編成を考えたのはアールヴェルツェ将軍なのだが、彼がなぜ魔導士部隊を置いてきたのかといえば、それは保険のためであった。

 アールヴェルツェが想定した事態。それはアルジャーク軍が大敗して、クロノワが少数の護衛のみで本国へ逃げ帰らなければならない、というものであった。この場合、アルジャーク軍の主要な将軍たちは全て討ち死にしているか、生きていたとしてもクロノワを守るための十分な戦力が手元にない、というのがアールヴェルツェの想定である。

 アルテンシア軍がクロノワの後を追わないのであれば、特に問題はない。シーヴァの目的は教会であり、またアナトテ山の神殿だ。アルテンシア軍が敗走するクロノワの後を追う可能性は低いといえる。

 しかし万が一そのような事態になった場合、クロノワの安全を守りアルテンシア軍を撃退することが可能なのは魔導士部隊だけである。ゆえにアールヴェルツェは切り札とも言うべき魔導士部隊をオムージュ西の国境付近に残すことで保険をかけたのだ。

 アールヴェルツェのそうした思惑はシーヴァにとっては埒外だ。彼にとって重要なのは敵軍に魔導士部隊がいない、というただ一点である。

 シーヴァは背中に背負った「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を引き抜くと、その魔剣に魔力を喰わせながら馬を駆って前線に向かって疾駆する。魔弾を四つ浮かせて魔力を注ぎ、敵軍が射程に入ったところで味方を巻き込まぬよう敵陣の少し奥を目指して打ち出す。

 これが十字軍相手ならば、着弾し爆裂した魔弾は多数の兵を吹き飛ばして隊列を乱し、またその様子をみた兵士たちは戦意を喪失させるはずであった。

 しかしアルジャーク軍はそのような醜態は曝さない。兵士たちは素早く着弾点を見極めると、そこから散って被害を最小限に収めた。そして暴風が収まると素早く隊列を整え、何事もなかったかのように戦闘を再開する。

「ははは、そう来るか」

 知らず、シーヴァの口から笑い声がもれた。当たり前の話だが、これまでこのような仕方で魔弾を防いだ、いやいなして見せた軍勢は見たことがない。恐らくだが、十字軍から念入りに情報を聞き出し、それをもとに演習を繰り返したのだろう。

「が、その場しのぎの対処法に過ぎん。いつまで持つかな」

 不敵に笑い、シーヴァは再び「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を喰わせて魔弾を生み出す。しかし魔力を込めているその最中に、千数百本の矢が彼がいる地点めがけて飛来する。それを見たシーヴァは一瞬眉をひそめたが、すぐにそれらの矢に向けて魔弾を放ちその攻撃を防いだ。

「直接相対するのはこれが初めてだというのに、良くぞここまでやるものだ」

 攻撃を防いだというのに、シーヴァの声は苦い。今の攻撃は防いだのではなく、防がされたのだ。先の戦いでシーヴァがどのように飛来する矢を防いだか、アルジャーク軍は知っているに違いない。

 魔弾自体を無力化する手段はない。ならば別の標的を攻撃させることで無効化すればよい。それが敵将の考えであろう。

 シーヴァがそう考えている最中にもまた第二波の矢が千数百本、彼がいる場所めがけて飛来してくる。同じようにして魔弾を打ち出してこれを防ぎ、それからシーヴァは舌打ちをもらした。

(埒が明かぬ………)

 魔弾を放つことでシーヴァの位置は丸分かりである。魔弾を放つこと自体は馬を走らせながらでもできるが、今それをやろうとすれば味方の隊列を乱しかねない。

(となれば………!)

 第三波の矢がまたしても千数百本飛来する。シーヴァはそれを防がなかった。敵陣に向けて駆け出したのである。

(魔弾を打ち出すだけが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の能ではないぞ!)

 馬を駆りながら漆黒の大剣に魔力を喰わせる。込められた魔力に反応して、刀身の周りに黒い風が渦を巻き始める。シーヴァは前線に躍り出ると十分に魔力を喰わせた魔剣を振り上げ、そして振り下ろすと同時に黒き風を解き放った。

 魔弾とは違い、黒き風は比較的敵に近い位置から放たれ、また効果が及ぶ範囲もそれなりに広い。その上、放たれたその瞬間から破壊力をもっており、かわすことは非常に難しいといえる。

 アルジャークの兵士たちは、まるで真っ黒な濁流が突然目の前に現れたかのように感じただろう。その黒き風が兵士たちを飲み込むその寸前。

「な………!?」
「ほう………?」

 アルジャーク兵とシーヴァの口から、ほぼ同時に言葉が漏れる。アルジャーク軍の一画を飲み込もうとしていた黒き風が、まるで雨雲が一瞬にして晴れたかのようにして切り裂かれ霧散したのである。

 アルジャーク兵たちが見たのはそれをなした人物の後姿で、シーヴァが見たのは鋭い眼光と口元に浮かべた獰猛な笑みだった。

「まさか、ここでお主が現れるとはな。ジルド・レイド」

 白銀に輝く長刀を構えた剣士、ジルド・レイド。シーヴァが知る限り自分に比肩し得る唯一の強敵が、目の前にいた。





******************





「イストからの伝言だ」

 抜き身の長刀を手にし全身から闘志をたぎらせながらも、ジルドはいきなり切りかかることはせずにまずはそう切り出した。

「ほう?聞かせてもらおうか」

 イストの名前にシーヴァが反応する。今は決戦の最中。本来ならば長々と話を聞いている余裕などないが、イストからの伝言であれば事情は異なる。

 イスト・ヴァーレは「御霊送りの神話には裏があるかもしれない」と言っていた男である。その彼がこの決戦の最中に、恐らくは最も信頼しているであろうジルド・レイドを伝言役として寄越したのだ。この戦い、ひいては統一王国と教会の関係に無関係であろうはずがない。いやがおうでも興味をそそられた。

「『戦いの最中に異変が起こる。どう対応するかはそちらの勝手だが、一度退いて原因を調べることを勧める』。以上だ」
「その異変とやらはイストが起こすのか?」
「『世紀のイベントには最高の舞台を』だそうだ」

 なるほど、シーヴァは苦笑した。いかにもイストの、ベルセリウス老の弟子の言いそうなことである。「最高の舞台」とはこの決戦のことであろう。血を流し命のやり取りをするこの戦場を“舞台”呼ばわりするのは不謹慎なのだろうが、不思議とシーヴァがその事に怒りを覚えることはなかった。

「なるほど。覚えておこう」

 そう答えるだけにシーヴァは止めた。“異変”とやらがどの程度のものなのかはっきりと分らないからだ。大きなものであれば軍を退くことも考えなければいけないが、些細なものであれば戦い続けることになるだろう。そもそも対応はこちらに任せるといっているのだ。確約を得ることなど、最初から求めてはいないはずだ。

「さて、ここからはワシの用事だ………」

 そう呟いたジルドは長刀を両手で正面に構え、少し腰を落として臨戦状態を作る。抑えられていた闘志はもはや何の遠慮もなく解き放たれ、シーヴァの皮膚をピリピリと焼いた。彼は獲物を前にした獅子のように、獰猛な笑みを浮かべている。

(いや、獅子は獲物を前にして笑うまい)

 獲物を、戦いを前に笑うのは、鬼か修羅の所業だろう。そしてシーヴァは自分がジルドと同じ笑みを浮かべていることを自覚した。

「存分に、付き合ってもらうぞ………!」

 ゆっくりと振り上げられた長刀が、残像が尾を引く神速で振り下ろされる。間合いは明らかに遠く、刃はシーヴァに届いていない。しかし、鮮血が舞った。

 大量の血を吹き上げ、馬が悲しげな鳴き声をあげながら倒れる。ジルドの放った斬撃により首筋を切り裂かれたのだ。倒れる馬の下敷きにならぬよう、シーヴァは素早く宙に身を躍らせ何とか二本足で着地する。

「ちぃぃ!」

 着地したシーヴァは舌打ちをしながら漆黒の大剣を下から振り上げ、振り下ろされる長刀の刃を迎え撃つ。間合いを詰めたジルドが、着地のタイミングを狙って仕掛けてきたのだ。

 着地で体勢が崩れ無茶な姿勢で刃を受け止めたせいか、だんだんとシーヴァのほうが押し込められていく。それでも彼は四肢に力を込め、全身のバネを使って下から突き上げて一瞬だけジルドを浮かせ、そして後方に押し戻した。

 押し戻されたジルドは、あろうことか地に足がつく前にまるで風に乗るようにして再び間合いを詰めてくる。そして今度は鍔迫り合いを演じることなく、縦横無尽に動き回り全方位からシーヴァに襲い掛かる。

 ジルドの動きは速すぎた。正面からの攻撃を防いだかと思えば、次の瞬間には後ろに回りこんでいる。神速の攻撃すべてに対処することは不可能で、シーヴァの鎧には斬撃痕が一瞬ごとに増えていく。ただシーヴァもさるもので、致命傷はもちろん動きに支障がでるような傷は一つも負っていない。

「リオネス公に伝令!指揮権を一時預ける!」

 嵐のような攻撃に身を曝しながらも、シーヴァは声を上げてそう命令を出した。ジルド・レイドは自分を狙ってくる。彼を避け兵士たちに足止めさせるのも選択肢の一つだが、それでもジルドは自分を追ってくるだろう。逃げ回っていてはどのみち指揮など取れないし、そのような無様をさらすなどシーヴァの矜持が許さない。

 そしてなによりも、この戦いを途中で放り出すことなどシーヴァには出来そうにない。迫り来る凶刃が彼の背筋を寒くする。全身の肌があわ立っているくせに、全ての感覚が極限まで研ぎ澄まされ体がいつもより軽い。間違いなく恐怖を感じているのだが、顔だけはなぜか笑っていた。

「ハアアアァァァアァアアア!」

 シーヴァは漆黒の大剣に魔力を喰わせた。そのまま体を一回転させて黒き風で全方位をなぎ払い、ジルドの動きを牽制する。ジルドは「万象の太刀」の能力を使って黒き風の魔力に干渉しこれを切り裂いて霧散させるが、そのために一瞬だけ足が止まり攻撃に間隙ができる。その隙を見逃さず、シーヴァは黒き風を纏わせた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を振り上げ足を止めたジルドに襲い掛かった。

 黒き風を纏わせた一撃を防ぐには、シーヴァの魔力に干渉し霧散させ続けなければならない。しかしそのためには高い集中力を必要とし、足を止めなければならなくなる。

 それを嫌ったのか、ジルドはシーヴァの一撃を受けることはせず後方に跳んでかわそうとした。しかし、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の刃がジルドの胸の高さまで振り下ろされた瞬間、シーヴァは纏わせていた黒き風を解き放ちジルドを襲わせる。その攻撃をジルドは「万象の太刀」を使って防いだが、勢いまでは殺せず吹き飛ばされてしまう。

 ジルドはその勢いに逆らわず、体が浮いたらそのまま風に乗るようにして宙を駆け、シーヴァから距離を取った。アルテンシア軍からジルドめがけて矢が放たれるが、速すぎる彼を捉えることはできない。

(あの動き、やはり魔道具か………!)

 というよりそれ以外にあるまい。魔道具の力なくして翼のない人間が空中を移動することなどできないのだから。

(やっかいな………)

 恐らくはイスト・ヴァーレの作であろう。ジルドの神速の動きが、あの魔道具によってさらに極みに至っている。

「奴に手を出すな!隊列が乱れるぞ!」

 今戦っている主たる相手はアルジャーク軍である。ジルドに動きに翻弄され、隊列を乱したところをアルジャーク軍に狙われては本末転倒だ。それにジルドの狙いは自分のはず。周りが余計な手出しをしなければ自分に釘付けにしておくのは容易、とシーヴァは判断した。

 ただそうするとシーヴァは自分で軍勢の指揮をとれなくなる。リオネス公がアルジャーク軍の将相手にどこまでやれるか、一抹の不安が残る。

「ちっ!」

 距離を取ったジルドが、再びシーヴァに接近してくる。すかさず黒き風を放つが難なくかわされてしまう。が、それは織り込み済み。いかにジルドが神速を誇るといえど、回避する方向を限定しておくことで、その動きを御することはある程度可能だ。

 予測どおりの方向に回避したジルドに向け、シーヴァはあらかじめ用意しておいた極小の魔弾を連続して放つ。この魔弾は黒き風を圧縮して威力を上げるのではなく、むしろ細分化して数を確保していた。威力が小さい変わりに魔力量の少なく、そのためチャージにかかる時間が短くて済む。「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」だからこそできる芸当、といえるだろう。

 極小の魔弾を立て続けに放ちながらジルドを牽制し、さらにシーヴァはその間に本命の魔弾を用意する。本命に十分な魔力を込めると、シーヴァは用意していた極小の魔弾全てを使ってジルドの逃げ道を塞ぎ、地に足をつけて動きを止めたジルドめがけて本命の魔弾を打ち込んだ。

 放たれた魔弾全てが炸裂する、まさにその瞬間。

「ハアァ!」

 裂帛の呼砲と共に「万象の太刀」が振り抜かれ、全ての魔弾が切り裂かれて爆裂することなく霧散した。

 ――――霞切り。

 ジルド自身がそう名付けた、「万象の太刀」を用いた剣技である。その技の冴えにシーヴァも感嘆の声をもらした。シーヴァはもちろんだが、ジルドもあのガルネシアでの仕合の後、さらに研鑽を積んだらしい。

 太刀を構えなおしたジルドとシーヴァの視線がぶつかり合う。互いに視線は鋭いが、しかしそこには憎悪はおろか疎ましさや煩わしさもない。その目が表すものは歓喜。その口元に浮かべた笑みが意味するものは戦意。

 二人は同時に強敵を求めて前に出た。吹き上がり撒き散らされる魔力は、それだけで物理的破壊力を持った暴風だ。二人の男がその中心で剣戟を演じる。

 憎いからではない。邪魔だからでもない。いや、それどころか感謝さえしていた。自分が全力を尽くせる相手に。

 結局のところ、二人は強すぎたのだ。これまで二人は共通する不満を抱えていたに違いない。

 まず、武器がない。二人の腕についてこられる武器がないのだ。それでも、シーヴァはオーヴァ・ベルセリウスから「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を、ジルドはイスト・ヴァーレから「光崩しの魔剣」を与えられ武器に対する不満はなくなった。

 しかし今度は全力を尽くせるだけの相手がいなくなってしまった。手に入れた相棒と鍛え上げた力を存分に振るえないことは、彼らにとって呪いにも思えたかもしれない。

 そんな中、シーヴァとジルドは出会い、そして立ち合った。全力を出し、それでもなお倒れない相手。自分を脅かすほどの強敵。最初の立ち合いで二人は共に武器を失ったが、それを差し引いておな余りある充足を彼らは感じていた。

 そして今、二人は「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」と「万象の太刀」という新たな武器を手に、二度目の相対の最中にいる。渇きを癒すかのようにして、二人は戦いに没頭していく。出会えた幸運に、感謝しながら。

**********

「おお、凄いな、こりゃ」

 アナトテ山の中腹、戦場を向いた斜面でイストは「光彩の杖」を操り空気のレンズを作って戦況を覗いていた。今彼が覗いているのは、シーヴァとジルドの戦いだ。

 彼らの最初の仕合は、武器が壊れたことで中途半端な結果に終わってしまった。そのおかげでイストとしては“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”への手がかりを得ることが出来たのだが、それとは別の問題として、自分の作った魔道具が仕合の中で使い手の意思に反して壊れてしまったのは、職人として少し悔しい結果だった。

 今、ジルドの手には新たに造り上げた魔道具「万象の太刀」が握られている。この太刀ならばジルドの全力に耐えられると自負する魔道具だ。その魔道具を、自分が認めた使い手が思う存分に振るうのを見るのは、やはり職人として嬉しい。

(それに………)

 それに、相対しているシーヴァが持つ「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」はイストの師であるオーヴァの作品だ。つまりこの仕合はイストとオーヴァの師弟対決でもあるわけで、そういう意味でもどこか感慨深いものがある。

(オレも成長できてるってわけだ………)

 かつてイストとオーヴァの間には隔絶した差があった。それは経験の差であり、知識の差であり、つまりは技術の差だった。オーヴァに拾われたときイストはまだ子供だったから、その差は今のイストとニーナの差よりもさらに大きかった。

 イストにとって、オーヴァの存在は絶対的だった。アバサ・ロットの称号を譲られ、一人前と認めてもらいはした。いつか越えてやると意気込みながらも、それでもどこかで無理だろうなと諦めている部分があった。

 それが今、互角のところまで上り詰めたのである。昔、弟子になりたての頃、月よりも遠くに思えた場所に到達したのだ。

「なんのまだまだ」

 無意識のうちにイストはそう呟き、そして苦笑した。師匠の言いそうなことだ、と思ったのである。

「さて、勝負の行方に心惹かれはするが、オレもそろそろ行くとしよう」

 禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら、イストは腰を上げる。どちらが勝つのか、どのような形の決着になるのか、もちろん気になる。ジルドに勝ってほしいとは思っているが、その反面彼が負けて死んでしまったとしても、それはそれでいいと思っている。

 イストとしては、あの二人の戦いが後々の語り草になってくれればそれでよいのだ。自分が魔道具を与えて人物が大事を成す。それがアバサ・ロットとしてのイストの願いだ。そして二人の戦いを見ていれば、その願いは十分に果たされたといえるだろう。

 最後にもう一度、イストは二人の戦いを遠目に眺める。二人の動きはよく見えないが、二人の周囲に強風が吹荒れていることは分る。まったく、尋常ではない二人だ。

「じゃ、あの二人並みに尋常じゃないことをしに行きますか」

 呑気な口調でそう呟く。だが、イストの口元にはシーヴァやジルドと同じ獰猛な笑みが浮かんでいた。

**********

(今頃、外では戦が始まっているのでしょうか………)

 神殿の最奥、神子の住まう一画、そのなかでもプライベートな私室に神子ララ・ルー・クラインはいた。母であり先代の神子でもあったマリアがかつて座っていた椅子に、今は彼女が座っている。

 テーブルの上に置かれた紅茶に手を伸ばすが、結局口はつけず受け皿に戻す。ならばと今度は隣に用意された大好きな菓子類に手を伸ばすが、やはりどれをつまむこともなく、結局ララ・ルーは手を膝の上に戻した。今は、どんなものも体がうけつけてくれそうにない。

「ああ、もう………」

 ララ・ルーはテーブルの上に突っ伏してだべる。いつもであれば世話係の侍女たちからお小言が飛んできそうだが、あいにく彼女たちはいない。決戦が始まる前に全員避難させた。

「最後まで御側に!」
 とほとんどの侍女たちが言ってくれたが、あいにくと「神子」がそこまで尽くされるべき存在ではないことを、ララ・ルーは知ってしまっている。むしろ神子のために神殿に残った彼女たちが、何かしらの悲劇に巻き込まれてはそれこそ申し訳ない。

 泣いて残ると言い張るものもいたが、丁寧に説得を重ね最後には全員分ってくれた。そのせいで自分のことはすべて自分でしなければならないが、ララ・ルーにとってそれはつい最近まで当たり前のことで苦にはならない。周りに人の気配を感じられないこの静けさは寂しいが、しかしそんなことで自分の行く末に誰かを巻き込んではいけない。

「死ぬのは、自分ひとりでいい」

 口に出したことはない。しかしララ・ルーは内心でその覚悟を固めていた。自分が死ねば、魔力の供給を断たれた亜空間は存在を維持できなくなり、パックスの街が落ちることになる。それで教会は終わりだ。いざとなれば自分の死を持って教会の歴史に終止符を打ち、この戦いを終わらせるつもりだ。

 体を起こし、左腕にはめた腕輪を撫でる。その腕輪にはめられた「世界樹の種」は、今も鈍い光沢を放っている。

 これが、この「世界樹の種」こそが教会そのものだ、とも言えるだろう。「世界樹の種」と御霊送りの神話に隠された秘密を守るため、教会と神子は存在している。いっそ今この瞬間に全てを暴露してしまえば、戦争も何もかも終わり新たな時代が幕を開けるのではないだろうか。

 その新たな時代にララ・ルーの居場所はないのだろうけれど、いつまでも秘密を隠し続けることなど不可能なのだ。ならば多くの命が救えるかもしれないこのタイミングで決断することは正しいことではないだろうか。

(それでもわたしは………)

 教会を滅ぼすことに、抵抗がある。この教会は母であるマリアが守ろうとしたものだ。どれだけ汚れていたとしても、それは変わらない。その教会を、子供である自分が滅ぼしてしまうことにはやはり抵抗がある。

(お母様は、きっと気にしないといってくださるのでしょうけれど………)

 いや、教会を滅ぼすことに抵抗があるのではない。御霊送りの秘密が暴かれてしまえば、教会の評判は地に落ちる。その存在そのものが人々の悪意と敵意に曝され、これまでの全てが否定的な評価に書き換えられていくだろう。

 ララ・ルーにとっては、自分のことなどどうでも良い。しかし先代の神子の、母マリアの誇りと名誉を傷つけ、彼女が成し遂げた功績に泥を塗りつけてしまうのが最も恐ろしくて申し訳ないのだ。

「身勝手、ですね………」

 本当に身勝手なことだとララ・ルーは思った。自分が死者を守っているがために、今外では軍勢がぶつかり合い多くの血が流されているのだ。どうしようもないあの真実を隠すためにこの戦いを避けることができなかったのだと知れたとき、人々はどんな断罪の言葉を口にするのだろうか。

『それじゃまるで神々が子供たちを殺したみたいじゃないか』

 不意に、イストという人物から言われた言葉が耳に響いた。彼の物言いに習えば、神々がこの戦いを望み、流血を欲したことになる。

 しかし、ララ・ルーは教会が教える神々など、本当は存在しないことを知っている。少なくとも、教会は神々の祝福など受けていない。ならば戦いを望み流血を欲したのは一体誰なのか。

 ララ・ルーは頭を振った。考えることが柄にもなく哲学的になりすぎている。観念的なことを論じる段階は、すでに過ぎているのだ。誰か一人が責任を取って終わるほど、この戦争は簡単でもなければ単純でもなくなってしまった。しかしそう分ってはいても、彼女の頭は考えることを止めてはくれない。

『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』

 かつて問い掛けられた言葉が、今も頭を離れない。死に対する理由。問い掛けられたあの日からずっと、考え続けているが答えは出ない。それが求められているのは、この戦いも同じだというのに。

 ――――コンコン。

 不意に、ノックの音が部屋に響いた。その音で妙な思考を断ち切れたことにララ・ルーは少し安心する。しかし、扉の向こうにいるであろう人物の顔を想像して、さっきまでとは別の意味で億劫そうにため息をついた。

 ――――コンコン。

 二度目のノックが響く。できるならば居ないことにしたいがそうもいくまい。仕方なく入室を許可すると、入ってきたのは思ったとおりの人物だった。

「失礼いたします。神子様」
「テオヌジオ卿………」

 テオヌジオ・ベツァイ枢機卿。ここ最近、何度もララ・ルーの元を訪れてくる客人である。用件はいつも同じで、それゆえララ・ルーもいつも同じ拒否の返答を返す。それでもめげずにこうしてやってくるのだから、内心では辟易もしているララ・ルーである。

 まあそれはともかくとして。枢機卿たる人物を立たせたまま話をするわけにもいかない。テオヌジオに席を進め、さらにお茶を入れて彼の前におき、さらに自分用にもう一杯用意する。

 ララ・ルーが席につき、お茶を一口飲んで喉を湿らせてから、テオヌジオは迂遠な言い方をせず率直に用件を言った。

「………もう一度、考え直してはいただけませんか」

 やはりその話か、とララ・ルーは思った。口元が歪みそうになるのを、ティーカップに口をつけることで隠す。そうやって数秒時間を稼ぎ、その間に神子としての心構えを持ち直す。

「何度来ていただいてもわたしの答えは同じです、テオヌジオ卿。『世界樹の種』が赤い光を放っていない今、神界の門を開くことは出来ません」

 神界の門を開き、神殿に残った敬虔な信者たちを神々の住まう天上の園に導いて欲しい。それが、テオヌジオが最近ララ・ルーに求め続けていることであった。

「彼らは救われるべき人々です、神子様」

 自分の頼みごとが拒否されても、テオヌジオの態度と口調は変わらず穏やかであった。しかし同時に彼の目に光る、強い意思の光もまた変わってはいない。

「それはもちろんその通りでしょう。ですが、救われるべき敬虔な方々は大陸中におられます。神殿に残ってくださったからと言って、彼らだけを特別扱いしてよいものでしょうか?」

 それに、もしそうやって神界の門を開き彼らを迎え入れることが神々のご意志であるならば、「世界樹の種」が赤い光を放っているはずである。そうでないということは、テオヌジオ卿の求めていることは神々のご意志ではない、とララ・ルーは説いた。

 詭弁である。「世界樹の種」が放つ赤い光にそのような意味はない。秘密を隠すため嘘を塗り重ねることに、ララ・ルーは罪悪感を覚えた。しかしだからといって神界の門を開きテオヌジオの願いをかなえるわけにはいかない。そんなことをしてみたところで、救われる人など誰もいないのだ。

「枢密院をご覧ください、神子様。私とカリュージス卿のほかは、誰も神殿には残っておりません。そんな中でも彼らは残ってくれたのです。他の誰にもまして、彼らは救われるべきではないでしょうか」
「救いは神々が与えるもの。人の身でそれを成すなど、おこがましいことです」

 その言葉を言ってから、ララ・ルーは内心で盛大に顔をしかめた。神々などいはしない。では、一体誰が救いを与えてくれるというのか。

「………どうしても、聞き入れてはくださいませんか」
「残念ですが………」

 そうですか、とテオヌジオは頭を振った。それを見てララ・ルーは内心でほっとする。今までの例からすれば、テオヌジオはこれで退席する。

「本当に、残念です」

 しかし、そういって立ち上がるテオヌジオの気配は、明らかにいつもとは異なっていた。彼の尋常ならざる気配に圧されるようにして、ララ・ルーも席から立ち上がる。

「どうしようというのです、テオヌジオ卿。そんなものを取り出して………」

 テオヌジオが懐から取り出したものを見て、ララ・ルーの顔が強張る。彼が取り出したのは「ミセリコルデ」。戦場で重傷を負った騎士を苦しませないよう止めを刺すための短剣で、別名「慈悲の剣」とも呼ばれている。

 その短剣について、ララ・ルーはおろかテオヌジオさえも詳しいことは何も知らなかったであろう。もとよりこの場において重要なことはただ一つ。それが短剣であり、人の命を奪い得るものだということだ。

「早まったことはお止めなさい、テオヌジオ卿」

 後ずさりながらララ・ルーがそういうと、テオヌジオは悲しそうに頭を振った。

「もはや、時間がないのですよ、神子様」

 言い終わるが早いか、テオヌジオは意外な素早さを見せてララ・ルーの眼前に迫った。そして彼が右手に握った短剣が低い位置から突き出される。

 次の瞬間、ララ・ルーは腹部に灼熱を感じた。「刺された」と理解するより前に、血を吐いて崩れ落ちる。受身も取れずに床に倒れこむが、不思議と痛くはない。お腹に感じる痛みが、全てを凌駕していた。

「……テ、テオ、ヌジ、オ、きょ……う……」
「罪深いことだとは、分っています………」

 血を吐き出して声を上げるララ・ルーを見つめながら、悲しみを滲ませた声でテオヌジオがそう呟く。彼の右手に短剣は握られていない。ララ・ルーの腹に突き刺さったままになっている。

「ですが、神子様の協力が得られないのであれば、もはやこれしかないのです」

 テオヌジオは沈痛な声でそう語る。しかし彼の声に後悔はいささかも感じられない。言葉を選ばなければ、「罪を犯してまでも人を救う」という行為に彼は酔っていた。

「全ての罪は、私が背負いましょう………」

 そう呟くとテオヌジオはララ・ルーの傍らにしゃがみこみ、彼女の左腕から「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を外した。

「おお!これは………!」

 腕輪を手にしたテオヌジオが歓声をあげる。ララ・ルーが渾身の力を振り絞って視線を上げると、彼が手にした腕輪、そこにはめ込まれた「世界樹の種」が煌々と赤い光を放っていた。

「これはまさに神々が私の信仰と誠意を祝福してくださった証!」

 神々が神界の門を開いて信者たちを救うようにと私に命じているのです!とテオヌジオは喜びの声を上げた。

(ちがう………、それは………!)

 赤い光、それは「世界樹の種」に亜空間を維持するための十分な魔力が供給されていないことを示す警告だ。しかしララ・ルーの口は血を吐き出すばかりで、言葉をつむぐことが出来ない。それに、今のテオヌジオに何を言っても無駄であろう。

「早く彼らにも教えてあげなければ!」

 全身で歓喜を表現しながらテオヌジオが神子の私室を出て行く。もはや彼の目には血を流すララ・ルーの姿は映っていない。

 テオヌジオが出て行ってしまうと、部屋は痛いほどの沈黙に包まれた。床に力なく横たわるララ・ルーの耳に入るのは、やたらと大きな自分の心臓の鼓動だけである。一つ鼓動が響くたびに、短剣が刺さったままのお腹から血が流れ出ていくのが分る。死が這い寄って来る気配をララ・ルーは感じた。

(お母様………、今、御側に………)

 不思議と、死への恐怖は感じない。また看取ってくれる人がいないことも寂しいとは思わない。母マリアも、一人で寂しく死んだはずだから。

 ゆっくりと目を閉じる。床が冷たいのか、それとも自分が冷たくなっているのか、それももう良く分らない。

 コツコツコツ、と足音がする。幻聴だろう。それとも死神の足音だろうか。

「随分と、予想外の展開になってるじゃないか」

 その声に驚いてララ・ルーは目を開けた。かすんでしまった視界の中、それでもかつて出会った人物の姿を認める。はっきりとは分らないが、その顔は苦笑しているように見えた。

「イ、スト、さん………?」
「おや、覚えていたか」

 意外だな、とイストは呟いた。だがララ・ルーからすれば忘れられるわけがなかった。あの日からずっと、あの問い掛けの答えを探してきたのである。

「お伝え、したいことが………、あります……」
「ああ、聞こう。いや、聞かせてくれ」

 そういってイストは片膝をついてララ・ルーを抱き起こす。

「あなた、から、言われた………問い、かけを、ずっと………考えて、きました……」
『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』

 その問い掛けへの答えは結局出せなかった。けれども考え続け、その中で感じたことはある。それを伝えなければならない。

「子供、たちが………。死ななければ、いけなかった理由は、私には………、分りませんでした」

 それでもその子供たちがあなたと一緒に笑い、泣き、怒り、喜んだことは決して無意味でも無価値でもないと思います。死んでしまったことに意味はなくても、生きていたことにはきっと意味があると思います。

 息が絶え絶えになりながらも、ララ・ルーは必死に言葉をつむいだ。自分のこの死に意味はなくとも、自分が遺すこの言葉にはきっと意味があると信じて。

「そうだといいな。そう考えれば、救われた気分にもなる」

 少し困ったように笑いながら、イストはそういった。どう見ても助けが必要なのはこの少女だろうに、ララ・ルーはイストのために言葉を遺した。

「………はい………!」

 いや、それでも彼女は救われたのかもしれない。最期に涙を流し、ララ・ルーは満面の笑みを浮かべた。そして彼女の体から力が抜け、冷たい顔がイストの腕にもたれかかる。

(まさか神子を二代続けて見取ることになるとはね………。しかも親子だ………)

 まったく奇妙な縁だな、と苦笑しながらイストはララ・ルーの亡骸を横たえる。ともすれば自分が殺していたかもしれない相手だと思えば、数奇というかなんと言うか、ともかく苦笑するしかない。やはり運命の女神は相当な暇人で悪趣味だ。

 ララ・ルーの髪を整え、腕を組ませる。その遺体で目を引くのは、やはり腹部に刺さったままになっている短剣、ミセリコルデだ。

(果たしてそれは慈悲だったのか………?)

 埒もない、と呟いてイストはその短剣を引き抜き、ティーカップが出しっぱなしになっているテーブルの上に置く。

「あいにくと葬送の花は用意してこなかった。代わりと言ってはなんだが、墓標を用意しよう」

 気に入ってくれるかは分らんがね、とイストは呟く。最後に短く黙祷を捧げると、イストはその部屋を後にした。

 神子にふさわしい墓標。それは、すなわち――――。




[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ12
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:12
 太陽が一番高くなるころ、ついに両軍は相対した。西側からやってくるのがシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍。その数、およそ八万。

 それに対し、アナトテ山を後方に置き東側で迎え撃つのは十字軍とアルジャーク軍の連合軍。その数、およそ十四万。ただし、精兵とよべるのはアルジャーク軍の九万だけであるが。

 アルテンシア軍は、主翼と両翼の三つに分かれている。主翼三万、両翼がそれぞれ二万五千ずつである。主翼を率いているのは当然シーヴァ・オズワルドであり、リオネス公がその補佐についていた。左翼を率いるのはヴェート・エフニート将軍であり、また右翼を率いているのはガーベラント公だ。

 まさに磐石の布陣である。「質実剛健」の言葉を体現し、アルテンシア軍は街道をアナトテ山にむけて進む。シーヴァは数で勝る連合軍に対し、一切の小細工なく真正面から戦いを挑んだのである。

 数で劣るとはいえ、強敵と呼ぶべきはアルジャーク軍九万のみで、それを考えれば実質的な戦力はほぼ互角ともいえる。なによりも内部に問題をほとんど抱えていないというのが、このアルテンシア軍の最大の強みであると言えるかもしれない。

 一方、アルジャーク軍もまた主翼と両翼を作り、その後ろに本陣を置いていた。さらに付け加えるならばそのさらに後ろ、アナトテ山よりも西の地点には補給物資の集積拠点があり、そこにはランスロー子爵率いるポルトール軍数百名がいる。ちなみにニーナが待機しているのもここだ。まあ、もとよりこのポルトール軍が戦闘に参加することはないが。

 さて、主翼と両翼の戦力は奇しくもアルテンシア軍と同じであり、兵は全てアルジャーク兵である。主翼を率いるのはアールヴェルツェ・ハーストレイト将軍。右翼を率いるのはイトラ・ヨクテエル将軍で、左翼を率いているのはレイシェル・クルーディ将軍だ。

 さてここまでは戦力、兵の練度、指揮官の能力いずれをとっても互角といえる。ゆえに本来ならば、本陣六万の戦力を余計に保有している連合軍のほうが圧倒的に有利であると言える。

 連合軍の本陣は、アルジャーク軍一万、十字軍五万から成っている。この混合軍の指揮を執るのは、連合軍の総司令官でもあるクロノワ・アルジャークである。カルヴァン・クグニス将軍がその補佐につき、実質的な指揮を執ることになっていた。

 普通であればこの本陣六万は戦場の趨勢を決定付け勝利を引き寄せる切り札になりえるのだが、この混合軍は内部に幾つかの問題を抱えていた。

 第一に、兵の練度に差がありすぎる。兵個人の能力はもちろんのこと、連携や命令に対する即応性など、あらゆる面でアルジャーク軍と十字軍では隔絶しすぎていた。これでは共に戦うどころか、足手まといになりかねない。

 役に立たない、信頼できない味方と言うのは、ある意味で強力な敵よりもやっかいな存在である。だからこそアールヴェルツェは主翼と両翼をアルジャーク軍だけで構成し、十字軍はまとめて本陣に置くことにしたのだ。ただしそのせいで本陣が動く際には十字軍にあわせなければならなくなり、その動きは随分と制限されてしまうだろう。

 また命令系統にも若干の不安がある。クロノワが本陣を直接率いることに異論は出なかったのだが、十字軍の総司令官である聖女シルヴィアの指揮権をどこまで認めるかで、少し話がこじれた。

「十字軍五万は聖女様が指揮するべきだ」
 という意見が十字軍の参謀たちから出たのだ。彼らにしてみれば戦いの主役はあくまでも自分たちで、アルジャーク軍は援軍であるという意識が抜けないのだろう。

 聖女シルヴィアはあくまでも象徴的存在だ。彼女に大軍を指揮する能力はない。ゆえに実質的な指揮は十字軍の参謀たちが執ることになる。彼らにしてみれば、自分たちの自由に動かせる戦力を手元に残しておきたいという気持ちがあったのだろう。

 しかしクロノワはこの意見を却下した。彼らの思惑はあまりにも見え透いていたし、またそれが名誉欲や自己顕示欲、ギトギトとした功名心に起因していることも明らかだったからだ。

 クロノワは十字軍五万を自分の補佐でもあるカルヴァンの指揮下に置いた。少なくともアルジャーク軍の邪魔だけはさせるな、というのがその意図であった。また彼であるならば本陣のアルジャーク軍一万と十字軍を上手く連動させることが出来るのでは、という期待も込められている。

 クロノワとアールヴェルツェにしてみれば、アルジャーク軍と十字軍、つまり連合軍全体を完全に掌握するためにもこの采配は譲れない。しかし十字軍内部にはこれを快く思っていない人間も居るだろう。土壇場でそれがどう響いてくるのか、やはり若干の不安が残る。

 ちなみにカルヴァンは任された十字軍のあまり練度の低さに驚き、すぐさま再編と訓練に取り掛かった。参謀を含めた十字軍の兵士たちには「一年分を一日で叩き込むかのような」激烈な訓練が課され、阿鼻魔境の地獄絵図が繰り広げられたとか。

 ベルベッド城の攻防戦にも参加していたとある十字軍兵士は、
「『|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》』を構えたシーヴァ・オズワルドよりも、訓練中のカルヴァン将軍のほうが恐ろしかった」
 と後日漏らしたそうな。

 まあそれはともかくとして。これらの布陣を考えたのはアールヴェルツェなのだが彼の思惑としては、本陣は動かさないつもりだったのだろう。九万のうち一万をクロノワの護衛として残し、アルテンシア軍とは互角の戦力でぶつかる。十字軍は邪魔にならないよう後ろにおいておき、いざという時にはクロノワの盾代わりになってくれれば御の字、と思っていたのかもしれない。

 完全に意識の統一がなされているアルテンシア軍に対し、連合軍は完全な一枚岩になりきれてはいなかった。ただそれは二つの軍隊が連合を組む上で、仕方のないことであるとも言える。

 お互いの内部事情がどうあれ、決戦のときは刻一刻と近づいてきている。これが歴史的な決戦になることは、その場にいる者ならば末端の兵士であっても理解していた。確かにこの戦いは歴史的な決戦になった。ただし、その場にいる誰もが予想しなかった形で。その結末をこの時点で正確に思い描けていたのは、この戦場にはいないただ一人だけであった。

**********

 接近してきたアルテンシア軍は、連合軍の人影を目視できる距離まで近づくとそこで一度停止した。そして連合軍もまた、アルテンシア軍に近づこうとはしない。お互いがお互いの出方を窺い、また値踏みするかのように相手の陣形を観察していたからだ。

「見事だな」

 アルテンシア軍を率いるシーヴァ・オズワルドはただ一言そういった。彼は自分の認めた強敵に対して賛辞を惜しまない男であったが、これはそのなかでも最上級の褒め言葉であった。

「そうですね」

 主君たるシーヴァの言葉にリオネス公も頷く。彼はガーベラント公とはことなり軍勢の指揮に秀でているわけではないが、それでもこれまでの戦いの中で幾度となく敵味方の陣形を観察してきたのだ。連合軍の陣形がこれまで戦ってきた十字軍のそれと比べて、はるかに優れており見事であることは分った。

「布陣と構成はほぼ同じ。いえ、本隊が後ろに控えている分、敵のほうが有利でしょうか」

 そう言うリオネス公の言葉には、若干の緊張が浮かんでいる。ただし恐怖で身をすくませるような、後ろ向きの緊張ではない。集中力は研ぎ澄まされ、四肢には力が満ちている。そしてそれは、アルテンシア軍全体に同じことが言えた。

(いい状態だな)

 自分が率いる軍勢に、シーヴァは頼もしさを覚えた。こういう状態にあるとき、人は良い働きが出来るものなのである。

「さて、いつまでもにらみ合っていても仕方がないな」
「御意」

 シーヴァがこうして軍勢を停止させていたのは、敵軍を観察するほかに接触があるかもしれないと思ったからだ。しかし連合軍の側から使者が来る様子はない。そしてアルテンシア軍のほうから使者を送るつもりは、シーヴァにはなかった。

(交渉や取引でどうにかなる段階は、もはや過ぎているのだ)

 シーヴァはそう思う。二度行われたアルテンシア半島への十字軍遠征。そして三度目の画策。この先ずっと脅かされ続けるのかと思えば、統一王国としては教会を屈服させて無力化し、国民の安全を守るほかない。

 仮にこの場で連合軍側から講和の使者が来たとしても、シーヴァは教会にとって屈辱的な条件を取り下げることは出来ないし、また教会がそれを飲むこともないだろう。

 結局、一戦交えて雌雄を決する以外、道はないのである。

(世はまさに乱世………)

 そして軍勢をもって意を通すのが、乱世の習いであろう。

(さて、往くとしよう)

 シーヴァは短く目をつぶり、息を吐き出す。そして息を吸い込みながら目を開け、鋭い視線を眼前の敵軍に向けた。

「全軍、攻撃開始」

 シーヴァの命令は伝令の兵を通して瞬く間に全軍に伝えられていく。そしてアルテンシア軍は動き始めた。

 事前の予定通り、まず動いたのはアルテンシア軍の両翼だった。主翼はまだ動かず、元の位置で静止している。

 アルテンシア軍両翼の動きに呼応するかのよう、連合軍の両翼もまた行動を開始する。そして、両翼と距離が開くことを嫌ったのか、連合軍の主翼もまた数瞬遅れて前進をはじめた。

「本陣は動かぬか………」

 望遠鏡(ちなみに魔道具だ)を覗き込みながら、シーヴァはそう呟いた。戦術的な思惑があって動かないのか、はたまた動けないだけなのか。

「恐らくは動けないのでしょう」

 リオネス公はそう断じた。先ほど観察したとおり、連合軍の主翼と両翼の陣形は見事で兵士と将官の質は非常に高いことが窺える。それはつまり、主翼と両翼はアルジャーク軍のみで構成されており、十字軍が混じっていないことを意味している。となれば十字軍はまとめて本陣に回されている、と考えるべきだ。

「まあ、我でもそうするが」

 アルジャーク軍と十字軍では実力差がありすぎる。一緒に動かして連動させようとすれば、かえって足手まといになりかねない。

 邪魔だけはしてくれるな、というアルジャーク軍の意図を正確に察し、シーヴァとリオネス公は揃って苦笑をもらした。

「さて、我々も前に出るぞ」

 連合軍の両翼はヴェートとガーベラント公がそれぞれ抑えてくれる。本陣の主力は弱兵がメインの十字軍で、これを退けることは容易い。ならば目の前に迫り来る敵主翼を突破できれば、この決戦の趨勢を決することが出来る。

(分りやすくてよいな………)

 果たすべき目標が簡潔なのはいいことだ。余計なことを考えず全力を尽くすことが出来る。そう思いながらシーヴァは主翼に前進の指示を出した。

 動くのを遅らせたせいか、アルテンシア軍の主翼は両翼よりも後ろに位置している。両軍の両翼はすでに交戦状態に入っており、一進一退の攻防を繰り広げていた。そしてその二つの戦場の真ん中をアルジャーク軍の主翼がアルテンシア軍の主翼に向かって接近していく。それぞれが動いたタイミングの問題で、全体として見ればアルジャーク軍が凸形でアルテンシア軍が凹形という状態になった。

 やがて両軍の主翼も激突する。その様子をシーヴァは注意深く観察していた。定石どおりのぶつかり方で、実力は両軍拮抗している。敵軍の主翼を率いているのはよほど優秀な将軍であると見えた。

 ただ、シーヴァが最も気にしているのは、そこではない。

「魔導士部隊はいないようだな」

 シーヴァが言うとおり魔導士戦につきものの派手な火炎弾や爆音が響くことはない。前回の戦いでガーベラント公の部隊に穴を穿った魔導士がいるはずだが、その魔導士は主翼にはいないらしい。恐らくだが本陣にいるのだろう。

 強力な火力を誇る魔導士部隊を一般の部隊で相手取ることは難しい。敵に魔導士部隊がいるならば自分が真っ先に潰さねばならないと思っていただけに、これはシーヴァにとって僥倖だった。

 アルテンシア軍に魔導士部隊はまだないのだ。アルテンシア同盟時代、同盟軍のなかにも魔導士部隊はなかった。同盟時代は各領主たちがそれぞれ個人的に魔導士を雇っているという状態だったのだ。

 それが、同盟が崩壊したことで、領主たちに雇われていた魔導士たちは一時的にフリーになってしまっている。もちろん統一王国も国として彼らを再び雇用し魔導士部隊を編成しているのだが、如何せん建国以来まだ日が浅く動かせる状態にはなっていなかった。また、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」という強力な魔道具と、それを操るシーヴァ・オズワルドという絶対的魔導士がいたため、部隊の編成を急ぐ必要がなかったという理由もある。

 一方でアルジャーク軍である。アルジャーク帝国もまた、最近急速に版図を拡大したため、併合した国々が持っていた魔導士部隊の再編が間に合っていない、という事情がある。しかし帝国が元々持っていた魔導士部隊はいつでも動かすことが可能なはずで、つまり今回は意図的に連れてこなかったことになる。

 今回の編成を考えたのはアールヴェルツェ将軍なのだが、彼がなぜ魔導士部隊を置いてきたのかといえば、それは保険のためであった。

 アールヴェルツェが想定した事態。それはアルジャーク軍が大敗して、クロノワが少数の護衛のみで本国へ逃げ帰らなければならない、というものであった。この場合、アルジャーク軍の主要な将軍たちは全て討ち死にしているか、生きていたとしてもクロノワを守るための十分な戦力が手元にない、というのがアールヴェルツェの想定である。

 アルテンシア軍がクロノワの後を追わないのであれば、特に問題はない。シーヴァの目的は教会であり、またアナトテ山の神殿だ。アルテンシア軍が敗走するクロノワの後を追う可能性は低いといえる。

 しかし万が一そのような事態になった場合、クロノワの安全を守りアルテンシア軍を撃退することが可能なのは魔導士部隊だけである。ゆえにアールヴェルツェは切り札とも言うべき魔導士部隊をオムージュ西の国境付近に残すことで保険をかけたのだ。

 アールヴェルツェのそうした思惑はシーヴァにとっては埒外だ。彼にとって重要なのは敵軍に魔導士部隊がいない、というただ一点である。

 シーヴァは背中に背負った「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を引き抜くと、その魔剣に魔力を喰わせながら馬を駆って前線に向かって疾駆する。魔弾を四つ浮かせて魔力を注ぎ、敵軍が射程に入ったところで味方を巻き込まぬよう敵陣の少し奥を目指して打ち出す。

 これが十字軍相手ならば、着弾し爆裂した魔弾は多数の兵を吹き飛ばして隊列を乱し、またその様子をみた兵士たちは戦意を喪失させるはずであった。

 しかしアルジャーク軍はそのような醜態は曝さない。兵士たちは素早く着弾点を見極めると、そこから散って被害を最小限に収めた。そして暴風が収まると素早く隊列を整え、何事もなかったかのように戦闘を再開する。

「ははは、そう来るか」

 知らず、シーヴァの口から笑い声がもれた。当たり前の話だが、これまでこのような仕方で魔弾を防いだ、いやいなして見せた軍勢は見たことがない。恐らくだが、十字軍から念入りに情報を聞き出し、それをもとに演習を繰り返したのだろう。

「が、その場しのぎの対処法に過ぎん。いつまで持つかな」

 不敵に笑い、シーヴァは再び「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を喰わせて魔弾を生み出す。しかし魔力を込めているその最中に、千数百本の矢が彼がいる地点めがけて飛来する。それを見たシーヴァは一瞬眉をひそめたが、すぐにそれらの矢に向けて魔弾を放ちその攻撃を防いだ。

「直接相対するのはこれが初めてだというのに、良くぞここまでやるものだ」

 攻撃を防いだというのに、シーヴァの声は苦い。今の攻撃は防いだのではなく、防がされたのだ。先の戦いでシーヴァがどのように飛来する矢を防いだか、アルジャーク軍は知っているに違いない。

 魔弾自体を無力化する手段はない。ならば別の標的を攻撃させることで無効化すればよい。それが敵将の考えであろう。

 シーヴァがそう考えている最中にもまた第二波の矢が千数百本、彼がいる場所めがけて飛来してくる。同じようにして魔弾を打ち出してこれを防ぎ、それからシーヴァは舌打ちをもらした。

(埒が明かぬ………)

 魔弾を放つことでシーヴァの位置は丸分かりである。魔弾を放つこと自体は馬を走らせながらでもできるが、今それをやろうとすれば味方の隊列を乱しかねない。

(となれば………!)

 第三波の矢がまたしても千数百本飛来する。シーヴァはそれを防がなかった。敵陣に向けて駆け出したのである。

(魔弾を打ち出すだけが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の能ではないぞ!)

 馬を駆りながら漆黒の大剣に魔力を喰わせる。込められた魔力に反応して、刀身の周りに黒い風が渦を巻き始める。シーヴァは前線に躍り出ると十分に魔力を喰わせた魔剣を振り上げ、そして振り下ろすと同時に黒き風を解き放った。

 魔弾とは違い、黒き風は比較的敵に近い位置から放たれ、また効果が及ぶ範囲もそれなりに広い。その上、放たれたその瞬間から破壊力をもっており、かわすことは非常に難しいといえる。

 アルジャークの兵士たちは、まるで真っ黒な濁流が突然目の前に現れたかのように感じただろう。その黒き風が兵士たちを飲み込むその寸前。

「な………!?」
「ほう………?」

 アルジャーク兵とシーヴァの口から、ほぼ同時に言葉が漏れる。アルジャーク軍の一画を飲み込もうとしていた黒き風が、まるで雨雲が一瞬にして晴れたかのようにして切り裂かれ霧散したのである。

 アルジャーク兵たちが見たのはそれをなした人物の後姿で、シーヴァが見たのは鋭い眼光と口元に浮かべた獰猛な笑みだった。

「まさか、ここでお主が現れるとはな。ジルド・レイド」

 白銀に輝く長刀を構えた剣士、ジルド・レイド。シーヴァが知る限り自分に比肩し得る唯一の強敵が、目の前にいた。





******************





「イストからの伝言だ」

 抜き身の長刀を手にし全身から闘志をたぎらせながらも、ジルドはいきなり切りかかることはせずにまずはそう切り出した。

「ほう?聞かせてもらおうか」

 イストの名前にシーヴァが反応する。今は決戦の最中。本来ならば長々と話を聞いている余裕などないが、イストからの伝言であれば事情は異なる。

 イスト・ヴァーレは「御霊送りの神話には裏があるかもしれない」と言っていた男である。その彼がこの決戦の最中に、恐らくは最も信頼しているであろうジルド・レイドを伝言役として寄越したのだ。この戦い、ひいては統一王国と教会の関係に無関係であろうはずがない。いやがおうでも興味をそそられた。

「『戦いの最中に異変が起こる。どう対応するかはそちらの勝手だが、一度退いて原因を調べることを勧める』。以上だ」
「その異変とやらはイストが起こすのか?」
「『世紀のイベントには最高の舞台を』だそうだ」

 なるほど、シーヴァは苦笑した。いかにもイストの、ベルセリウス老の弟子の言いそうなことである。「最高の舞台」とはこの決戦のことであろう。血を流し命のやり取りをするこの戦場を“舞台”呼ばわりするのは不謹慎なのだろうが、不思議とシーヴァがその事に怒りを覚えることはなかった。

「なるほど。覚えておこう」

 そう答えるだけにシーヴァは止めた。“異変”とやらがどの程度のものなのかはっきりと分らないからだ。大きなものであれば軍を退くことも考えなければいけないが、些細なものであれば戦い続けることになるだろう。そもそも対応はこちらに任せるといっているのだ。確約を得ることなど、最初から求めてはいないはずだ。

「さて、ここからはワシの用事だ………」

 そう呟いたジルドは長刀を両手で正面に構え、少し腰を落として臨戦状態を作る。抑えられていた闘志はもはや何の遠慮もなく解き放たれ、シーヴァの皮膚をピリピリと焼いた。彼は獲物を前にした獅子のように、獰猛な笑みを浮かべている。

(いや、獅子は獲物を前にして笑うまい)

 獲物を、戦いを前に笑うのは、鬼か修羅の所業だろう。そしてシーヴァは自分がジルドと同じ笑みを浮かべていることを自覚した。

「存分に、付き合ってもらうぞ………!」

 ゆっくりと振り上げられた長刀が、残像が尾を引く神速で振り下ろされる。間合いは明らかに遠く、刃はシーヴァに届いていない。しかし、鮮血が舞った。

 大量の血を吹き上げ、馬が悲しげな鳴き声をあげながら倒れる。ジルドの放った斬撃により首筋を切り裂かれたのだ。倒れる馬の下敷きにならぬよう、シーヴァは素早く宙に身を躍らせ何とか二本足で着地する。

「ちぃぃ!」

 着地したシーヴァは舌打ちをしながら漆黒の大剣を下から振り上げ、振り下ろされる長刀の刃を迎え撃つ。間合いを詰めたジルドが、着地のタイミングを狙って仕掛けてきたのだ。

 着地で体勢が崩れ無茶な姿勢で刃を受け止めたせいか、だんだんとシーヴァのほうが押し込められていく。それでも彼は四肢に力を込め、全身のバネを使って下から突き上げて一瞬だけジルドを浮かせ、そして後方に押し戻した。

 押し戻されたジルドは、あろうことか地に足がつく前にまるで風に乗るようにして再び間合いを詰めてくる。そして今度は鍔迫り合いを演じることなく、縦横無尽に動き回り全方位からシーヴァに襲い掛かる。

 ジルドの動きは速すぎた。正面からの攻撃を防いだかと思えば、次の瞬間には後ろに回りこんでいる。神速の攻撃すべてに対処することは不可能で、シーヴァの鎧には斬撃痕が一瞬ごとに増えていく。ただシーヴァもさるもので、致命傷はもちろん動きに支障がでるような傷は一つも負っていない。

「リオネス公に伝令!指揮権を一時預ける!」

 嵐のような攻撃に身を曝しながらも、シーヴァは声を上げてそう命令を出した。ジルド・レイドは自分を狙ってくる。彼を避け兵士たちに足止めさせるのも選択肢の一つだが、それでもジルドは自分を追ってくるだろう。逃げ回っていてはどのみち指揮など取れないし、そのような無様をさらすなどシーヴァの矜持が許さない。

 そしてなによりも、この戦いを途中で放り出すことなどシーヴァには出来そうにない。迫り来る凶刃が彼の背筋を寒くする。全身の肌があわ立っているくせに、全ての感覚が極限まで研ぎ澄まされ体がいつもより軽い。間違いなく恐怖を感じているのだが、顔だけはなぜか笑っていた。

「ハアアアァァァアァアアア!」

 シーヴァは漆黒の大剣に魔力を喰わせた。そのまま体を一回転させて黒き風で全方位をなぎ払い、ジルドの動きを牽制する。ジルドは「万象の太刀」の能力を使って黒き風の魔力に干渉しこれを切り裂いて霧散させるが、そのために一瞬だけ足が止まり攻撃に間隙ができる。その隙を見逃さず、シーヴァは黒き風を纏わせた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を振り上げ足を止めたジルドに襲い掛かった。

 黒き風を纏わせた一撃を防ぐには、シーヴァの魔力に干渉し霧散させ続けなければならない。しかしそのためには高い集中力を必要とし、足を止めなければならなくなる。

 それを嫌ったのか、ジルドはシーヴァの一撃を受けることはせず後方に跳んでかわそうとした。しかし、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の刃がジルドの胸の高さまで振り下ろされた瞬間、シーヴァは纏わせていた黒き風を解き放ちジルドを襲わせる。その攻撃をジルドは「万象の太刀」を使って防いだが、勢いまでは殺せず吹き飛ばされてしまう。

 ジルドはその勢いに逆らわず、体が浮いたらそのまま風に乗るようにして宙を駆け、シーヴァから距離を取った。アルテンシア軍からジルドめがけて矢が放たれるが、速すぎる彼を捉えることはできない。

(あの動き、やはり魔道具か………!)

 というよりそれ以外にあるまい。魔道具の力なくして翼のない人間が空中を移動することなどできないのだから。

(やっかいな………)

 恐らくはイスト・ヴァーレの作であろう。ジルドの神速の動きが、あの魔道具によってさらに極みに至っている。

「奴に手を出すな!隊列が乱れるぞ!」

 今戦っている主たる相手はアルジャーク軍である。ジルドに動きに翻弄され、隊列を乱したところをアルジャーク軍に狙われては本末転倒だ。それにジルドの狙いは自分のはず。周りが余計な手出しをしなければ自分に釘付けにしておくのは容易、とシーヴァは判断した。

 ただそうするとシーヴァは自分で軍勢の指揮をとれなくなる。リオネス公がアルジャーク軍の将相手にどこまでやれるか、一抹の不安が残る。

「ちっ!」

 距離を取ったジルドが、再びシーヴァに接近してくる。すかさず黒き風を放つが難なくかわされてしまう。が、それは織り込み済み。いかにジルドが神速を誇るといえど、回避する方向を限定しておくことで、その動きを御することはある程度可能だ。

 予測どおりの方向に回避したジルドに向け、シーヴァはあらかじめ用意しておいた極小の魔弾を連続して放つ。この魔弾は黒き風を圧縮して威力を上げるのではなく、むしろ細分化して数を確保していた。威力が小さい変わりに魔力量の少なく、そのためチャージにかかる時間が短くて済む。「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」だからこそできる芸当、といえるだろう。

 極小の魔弾を立て続けに放ちながらジルドを牽制し、さらにシーヴァはその間に本命の魔弾を用意する。本命に十分な魔力を込めると、シーヴァは用意していた極小の魔弾全てを使ってジルドの逃げ道を塞ぎ、地に足をつけて動きを止めたジルドめがけて本命の魔弾を打ち込んだ。

 放たれた魔弾全てが炸裂する、まさにその瞬間。

「ハアァ!」

 裂帛の呼砲と共に「万象の太刀」が振り抜かれ、全ての魔弾が切り裂かれて爆裂することなく霧散した。

 ――――霞切り。

 ジルド自身がそう名付けた、「万象の太刀」を用いた剣技である。その技の冴えにシーヴァも感嘆の声をもらした。シーヴァはもちろんだが、ジルドもあのガルネシアでの仕合の後、さらに研鑽を積んだらしい。

 太刀を構えなおしたジルドとシーヴァの視線がぶつかり合う。互いに視線は鋭いが、しかしそこには憎悪はおろか疎ましさや煩わしさもない。その目が表すものは歓喜。その口元に浮かべた笑みが意味するものは戦意。

 二人は同時に強敵を求めて前に出た。吹き上がり撒き散らされる魔力は、それだけで物理的破壊力を持った暴風だ。二人の男がその中心で剣戟を演じる。

 憎いからではない。邪魔だからでもない。いや、それどころか感謝さえしていた。自分が全力を尽くせる相手に。

 結局のところ、二人は強すぎたのだ。これまで二人は共通する不満を抱えていたに違いない。

 まず、武器がない。二人の腕についてこられる武器がないのだ。それでも、シーヴァはオーヴァ・ベルセリウスから「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を、ジルドはイスト・ヴァーレから「光崩しの魔剣」を与えられ武器に対する不満はなくなった。

 しかし今度は全力を尽くせるだけの相手がいなくなってしまった。手に入れた相棒と鍛え上げた力を存分に振るえないことは、彼らにとって呪いにも思えたかもしれない。

 そんな中、シーヴァとジルドは出会い、そして立ち合った。全力を出し、それでもなお倒れない相手。自分を脅かすほどの強敵。最初の立ち合いで二人は共に武器を失ったが、それを差し引いておな余りある充足を彼らは感じていた。

 そして今、二人は「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」と「万象の太刀」という新たな武器を手に、二度目の相対の最中にいる。渇きを癒すかのようにして、二人は戦いに没頭していく。出会えた幸運に、感謝しながら。

**********

「おお、凄いな、こりゃ」

 アナトテ山の中腹、戦場を向いた斜面でイストは「光彩の杖」を操り空気のレンズを作って戦況を覗いていた。今彼が覗いているのは、シーヴァとジルドの戦いだ。

 彼らの最初の仕合は、武器が壊れたことで中途半端な結果に終わってしまった。そのおかげでイストとしては“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”への手がかりを得ることが出来たのだが、それとは別の問題として、自分の作った魔道具が仕合の中で使い手の意思に反して壊れてしまったのは、職人として少し悔しい結果だった。

 今、ジルドの手には新たに造り上げた魔道具「万象の太刀」が握られている。この太刀ならばジルドの全力に耐えられると自負する魔道具だ。その魔道具を、自分が認めた使い手が思う存分に振るうのを見るのは、やはり職人として嬉しい。

(それに………)

 それに、相対しているシーヴァが持つ「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」はイストの師であるオーヴァの作品だ。つまりこの仕合はイストとオーヴァの師弟対決でもあるわけで、そういう意味でもどこか感慨深いものがある。

(オレも成長できてるってわけだ………)

 かつてイストとオーヴァの間には隔絶した差があった。それは経験の差であり、知識の差であり、つまりは技術の差だった。オーヴァに拾われたときイストはまだ子供だったから、その差は今のイストとニーナの差よりもさらに大きかった。

 イストにとって、オーヴァの存在は絶対的だった。アバサ・ロットの称号を譲られ、一人前と認めてもらいはした。いつか越えてやると意気込みながらも、それでもどこかで無理だろうなと諦めている部分があった。

 それが今、互角のところまで上り詰めたのである。昔、弟子になりたての頃、月よりも遠くに思えた場所に到達したのだ。

「なんのまだまだ」

 無意識のうちにイストはそう呟き、そして苦笑した。師匠の言いそうなことだ、と思ったのである。

「さて、勝負の行方に心惹かれはするが、オレもそろそろ行くとしよう」

 禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら、イストは腰を上げる。どちらが勝つのか、どのような形の決着になるのか、もちろん気になる。ジルドに勝ってほしいとは思っているが、その反面彼が負けて死んでしまったとしても、それはそれでいいと思っている。

 イストとしては、あの二人の戦いが後々の語り草になってくれればそれでよいのだ。自分が魔道具を与えて人物が大事を成す。それがアバサ・ロットとしてのイストの願いだ。そして二人の戦いを見ていれば、その願いは十分に果たされたといえるだろう。

 最後にもう一度、イストは二人の戦いを遠目に眺める。二人の動きはよく見えないが、二人の周囲に強風が吹荒れていることは分る。まったく、尋常ではない二人だ。

「じゃ、あの二人並みに尋常じゃないことをしに行きますか」

 呑気な口調でそう呟く。だが、イストの口元にはシーヴァやジルドと同じ獰猛な笑みが浮かんでいた。

**********

(今頃、外では戦が始まっているのでしょうか………)

 神殿の最奥、神子の住まう一画、そのなかでもプライベートな私室に神子ララ・ルー・クラインはいた。母であり先代の神子でもあったマリアがかつて座っていた椅子に、今は彼女が座っている。

 テーブルの上に置かれた紅茶に手を伸ばすが、結局口はつけず受け皿に戻す。ならばと今度は隣に用意された大好きな菓子類に手を伸ばすが、やはりどれをつまむこともなく、結局ララ・ルーは手を膝の上に戻した。今は、どんなものも体がうけつけてくれそうにない。

「ああ、もう………」

 ララ・ルーはテーブルの上に突っ伏してだべる。いつもであれば世話係の侍女たちからお小言が飛んできそうだが、あいにく彼女たちはいない。決戦が始まる前に全員避難させた。

「最後まで御側に!」
 とほとんどの侍女たちが言ってくれたが、あいにくと「神子」がそこまで尽くされるべき存在ではないことを、ララ・ルーは知ってしまっている。むしろ神子のために神殿に残った彼女たちが、何かしらの悲劇に巻き込まれてはそれこそ申し訳ない。

 泣いて残ると言い張るものもいたが、丁寧に説得を重ね最後には全員分ってくれた。そのせいで自分のことはすべて自分でしなければならないが、ララ・ルーにとってそれはつい最近まで当たり前のことで苦にはならない。周りに人の気配を感じられないこの静けさは寂しいが、しかしそんなことで自分の行く末に誰かを巻き込んではいけない。

「死ぬのは、自分ひとりでいい」

 口に出したことはない。しかしララ・ルーは内心でその覚悟を固めていた。自分が死ねば、魔力の供給を断たれた亜空間は存在を維持できなくなり、パックスの街が落ちることになる。それで教会は終わりだ。いざとなれば自分の死を持って教会の歴史に終止符を打ち、この戦いを終わらせるつもりだ。

 体を起こし、左腕にはめた腕輪を撫でる。その腕輪にはめられた「世界樹の種」は、今も鈍い光沢を放っている。

 これが、この「世界樹の種」こそが教会そのものだ、とも言えるだろう。「世界樹の種」と御霊送りの神話に隠された秘密を守るため、教会と神子は存在している。いっそ今この瞬間に全てを暴露してしまえば、戦争も何もかも終わり新たな時代が幕を開けるのではないだろうか。

 その新たな時代にララ・ルーの居場所はないのだろうけれど、いつまでも秘密を隠し続けることなど不可能なのだ。ならば多くの命が救えるかもしれないこのタイミングで決断することは正しいことではないだろうか。

(それでもわたしは………)

 教会を滅ぼすことに、抵抗がある。この教会は母であるマリアが守ろうとしたものだ。どれだけ汚れていたとしても、それは変わらない。その教会を、子供である自分が滅ぼしてしまうことにはやはり抵抗がある。

(お母様は、きっと気にしないといってくださるのでしょうけれど………)

 いや、教会を滅ぼすことに抵抗があるのではない。御霊送りの秘密が暴かれてしまえば、教会の評判は地に落ちる。その存在そのものが人々の悪意と敵意に曝され、これまでの全てが否定的な評価に書き換えられていくだろう。

 ララ・ルーにとっては、自分のことなどどうでも良い。しかし先代の神子の、母マリアの誇りと名誉を傷つけ、彼女が成し遂げた功績に泥を塗りつけてしまうのが最も恐ろしくて申し訳ないのだ。

「身勝手、ですね………」

 本当に身勝手なことだとララ・ルーは思った。自分が死者を守っているがために、今外では軍勢がぶつかり合い多くの血が流されているのだ。どうしようもないあの真実を隠すためにこの戦いを避けることができなかったのだと知れたとき、人々はどんな断罪の言葉を口にするのだろうか。

『それじゃまるで神々が子供たちを殺したみたいじゃないか』

 不意に、イストという人物から言われた言葉が耳に響いた。彼の物言いに習えば、神々がこの戦いを望み、流血を欲したことになる。

 しかし、ララ・ルーは教会が教える神々など、本当は存在しないことを知っている。少なくとも、教会は神々の祝福など受けていない。ならば戦いを望み流血を欲したのは一体誰なのか。

 ララ・ルーは頭を振った。考えることが柄にもなく哲学的になりすぎている。観念的なことを論じる段階は、すでに過ぎているのだ。誰か一人が責任を取って終わるほど、この戦争は簡単でもなければ単純でもなくなってしまった。しかしそう分ってはいても、彼女の頭は考えることを止めてはくれない。

『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』

 かつて問い掛けられた言葉が、今も頭を離れない。死に対する理由。問い掛けられたあの日からずっと、考え続けているが答えは出ない。それが求められているのは、この戦いも同じだというのに。

 ――――コンコン。

 不意に、ノックの音が部屋に響いた。その音で妙な思考を断ち切れたことにララ・ルーは少し安心する。しかし、扉の向こうにいるであろう人物の顔を想像して、さっきまでとは別の意味で億劫そうにため息をついた。

 ――――コンコン。

 二度目のノックが響く。できるならば居ないことにしたいがそうもいくまい。仕方なく入室を許可すると、入ってきたのは思ったとおりの人物だった。

「失礼いたします。神子様」
「テオヌジオ卿………」

 テオヌジオ・ベツァイ枢機卿。ここ最近、何度もララ・ルーの元を訪れてくる客人である。用件はいつも同じで、それゆえララ・ルーもいつも同じ拒否の返答を返す。それでもめげずにこうしてやってくるのだから、内心では辟易もしているララ・ルーである。

 まあそれはともかくとして。枢機卿たる人物を立たせたまま話をするわけにもいかない。テオヌジオに席を進め、さらにお茶を入れて彼の前におき、さらに自分用にもう一杯用意する。

 ララ・ルーが席につき、お茶を一口飲んで喉を湿らせてから、テオヌジオは迂遠な言い方をせず率直に用件を言った。

「………もう一度、考え直してはいただけませんか」

 やはりその話か、とララ・ルーは思った。口元が歪みそうになるのを、ティーカップに口をつけることで隠す。そうやって数秒時間を稼ぎ、その間に神子としての心構えを持ち直す。

「何度来ていただいてもわたしの答えは同じです、テオヌジオ卿。『世界樹の種』が赤い光を放っていない今、神界の門を開くことは出来ません」

 神界の門を開き、神殿に残った敬虔な信者たちを神々の住まう天上の園に導いて欲しい。それが、テオヌジオが最近ララ・ルーに求め続けていることであった。

「彼らは救われるべき人々です、神子様」

 自分の頼みごとが拒否されても、テオヌジオの態度と口調は変わらず穏やかであった。しかし同時に彼の目に光る、強い意思の光もまた変わってはいない。

「それはもちろんその通りでしょう。ですが、救われるべき敬虔な方々は大陸中におられます。神殿に残ってくださったからと言って、彼らだけを特別扱いしてよいものでしょうか?」

 それに、もしそうやって神界の門を開き彼らを迎え入れることが神々のご意志であるならば、「世界樹の種」が赤い光を放っているはずである。そうでないということは、テオヌジオ卿の求めていることは神々のご意志ではない、とララ・ルーは説いた。

 詭弁である。「世界樹の種」が放つ赤い光にそのような意味はない。秘密を隠すため嘘を塗り重ねることに、ララ・ルーは罪悪感を覚えた。しかしだからといって神界の門を開きテオヌジオの願いをかなえるわけにはいかない。そんなことをしてみたところで、救われる人など誰もいないのだ。

「枢密院をご覧ください、神子様。私とカリュージス卿のほかは、誰も神殿には残っておりません。そんな中でも彼らは残ってくれたのです。他の誰にもまして、彼らは救われるべきではないでしょうか」
「救いは神々が与えるもの。人の身でそれを成すなど、おこがましいことです」

 その言葉を言ってから、ララ・ルーは内心で盛大に顔をしかめた。神々などいはしない。では、一体誰が救いを与えてくれるというのか。

「………どうしても、聞き入れてはくださいませんか」
「残念ですが………」

 そうですか、とテオヌジオは頭を振った。それを見てララ・ルーは内心でほっとする。今までの例からすれば、テオヌジオはこれで退席する。

「本当に、残念です」

 しかし、そういって立ち上がるテオヌジオの気配は、明らかにいつもとは異なっていた。彼の尋常ならざる気配に圧されるようにして、ララ・ルーも席から立ち上がる。

「どうしようというのです、テオヌジオ卿。そんなものを取り出して………」

 テオヌジオが懐から取り出したものを見て、ララ・ルーの顔が強張る。彼が取り出したのは「ミセリコルデ」。戦場で重傷を負った騎士を苦しませないよう止めを刺すための短剣で、別名「慈悲の剣」とも呼ばれている。

 その短剣について、ララ・ルーはおろかテオヌジオさえも詳しいことは何も知らなかったであろう。もとよりこの場において重要なことはただ一つ。それが短剣であり、人の命を奪い得るものだということだ。

「早まったことはお止めなさい、テオヌジオ卿」

 後ずさりながらララ・ルーがそういうと、テオヌジオは悲しそうに頭を振った。

「もはや、時間がないのですよ、神子様」

 言い終わるが早いか、テオヌジオは意外な素早さを見せてララ・ルーの眼前に迫った。そして彼が右手に握った短剣が低い位置から突き出される。

 次の瞬間、ララ・ルーは腹部に灼熱を感じた。「刺された」と理解するより前に、血を吐いて崩れ落ちる。受身も取れずに床に倒れこむが、不思議と痛くはない。お腹に感じる痛みが、全てを凌駕していた。

「……テ、テオ、ヌジ、オ、きょ……う……」
「罪深いことだとは、分っています………」

 血を吐き出して声を上げるララ・ルーを見つめながら、悲しみを滲ませた声でテオヌジオがそう呟く。彼の右手に短剣は握られていない。ララ・ルーの腹に突き刺さったままになっている。

「ですが、神子様の協力が得られないのであれば、もはやこれしかないのです」

 テオヌジオは沈痛な声でそう語る。しかし彼の声に後悔はいささかも感じられない。言葉を選ばなければ、「罪を犯してまでも人を救う」という行為に彼は酔っていた。

「全ての罪は、私が背負いましょう………」

 そう呟くとテオヌジオはララ・ルーの傍らにしゃがみこみ、彼女の左腕から「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を外した。

「おお!これは………!」

 腕輪を手にしたテオヌジオが歓声をあげる。ララ・ルーが渾身の力を振り絞って視線を上げると、彼が手にした腕輪、そこにはめ込まれた「世界樹の種」が煌々と赤い光を放っていた。

「これはまさに神々が私の信仰と誠意を祝福してくださった証!」

 神々が神界の門を開いて信者たちを救うようにと私に命じているのです!とテオヌジオは喜びの声を上げた。

(ちがう………、それは………!)

 赤い光、それは「世界樹の種」に亜空間を維持するための十分な魔力が供給されていないことを示す警告だ。しかしララ・ルーの口は血を吐き出すばかりで、言葉をつむぐことが出来ない。それに、今のテオヌジオに何を言っても無駄であろう。

「早く彼らにも教えてあげなければ!」

 全身で歓喜を表現しながらテオヌジオが神子の私室を出て行く。もはや彼の目には血を流すララ・ルーの姿は映っていない。

 テオヌジオが出て行ってしまうと、部屋は痛いほどの沈黙に包まれた。床に力なく横たわるララ・ルーの耳に入るのは、やたらと大きな自分の心臓の鼓動だけである。一つ鼓動が響くたびに、短剣が刺さったままのお腹から血が流れ出ていくのが分る。死が這い寄って来る気配をララ・ルーは感じた。

(お母様………、今、御側に………)

 不思議と、死への恐怖は感じない。また看取ってくれる人がいないことも寂しいとは思わない。母マリアも、一人で寂しく死んだはずだから。

 ゆっくりと目を閉じる。床が冷たいのか、それとも自分が冷たくなっているのか、それももう良く分らない。

 コツコツコツ、と足音がする。幻聴だろう。それとも死神の足音だろうか。

「随分と、予想外の展開になってるじゃないか」

 その声に驚いてララ・ルーは目を開けた。かすんでしまった視界の中、それでもかつて出会った人物の姿を認める。はっきりとは分らないが、その顔は苦笑しているように見えた。

「イ、スト、さん………?」
「おや、覚えていたか」

 意外だな、とイストは呟いた。だがララ・ルーからすれば忘れられるわけがなかった。あの日からずっと、あの問い掛けの答えを探してきたのである。

「お伝え、したいことが………、あります……」
「ああ、聞こう。いや、聞かせてくれ」

 そういってイストは片膝をついてララ・ルーを抱き起こす。

「あなた、から、言われた………問い、かけを、ずっと………考えて、きました……」
『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』

 その問い掛けへの答えは結局出せなかった。けれども考え続け、その中で感じたことはある。それを伝えなければならない。

「子供、たちが………。死ななければ、いけなかった理由は、私には………、分りませんでした」

 それでもその子供たちがあなたと一緒に笑い、泣き、怒り、喜んだことは決して無意味でも無価値でもないと思います。死んでしまったことに意味はなくても、生きていたことにはきっと意味があると思います。

 息が絶え絶えになりながらも、ララ・ルーは必死に言葉をつむいだ。自分のこの死に意味はなくとも、自分が遺すこの言葉にはきっと意味があると信じて。

「そうだといいな。そう考えれば、救われた気分にもなる」

 少し困ったように笑いながら、イストはそういった。どう見ても助けが必要なのはこの少女だろうに、ララ・ルーはイストのために言葉を遺した。

「………はい………!」

 いや、それでも彼女は救われたのかもしれない。最期に涙を流し、ララ・ルーは満面の笑みを浮かべた。そして彼女の体から力が抜け、冷たい顔がイストの腕にもたれかかる。

(まさか神子を二代続けて見取ることになるとはね………。しかも親子だ………)

 まったく奇妙な縁だな、と苦笑しながらイストはララ・ルーの亡骸を横たえる。ともすれば自分が殺していたかもしれない相手だと思えば、数奇というかなんと言うか、ともかく苦笑するしかない。やはり運命の女神は相当な暇人で悪趣味だ。

 ララ・ルーの髪を整え、腕を組ませる。その遺体で目を引くのは、やはり腹部に刺さったままになっている短剣、ミセリコルデだ。

(果たしてそれは慈悲だったのか………?)

 埒もない、と呟いてイストはその短剣を引き抜き、ティーカップが出しっぱなしになっているテーブルの上に置く。

「あいにくと葬送の花は用意してこなかった。代わりと言ってはなんだが、墓標を用意しよう」

 気に入ってくれるかは分らんがね、とイストは呟く。最後に短く黙祷を捧げると、イストはその部屋を後にした。

 神子にふさわしい墓標。それは、すなわち――――。





*******************





(まずいですね………)

 戦況を眺めながら、リオネス公は内心で冷や汗をかいていた。はっきり言って、状況は良くない。

 両翼同士の戦いは拮抗している。ヴェート・エフニート将軍率いる左翼は、連合軍(とはいっても純アルジャーク軍だが)の右翼と交戦している。ヴェート将軍が優秀なことはリオネス公も知っているが、敵右翼を率いる将も彼女に劣らぬ名将であるようで、双方一進一退の激しい戦いを繰り広げている。何よりも双方とも兵の士気が高い。おそらくこの戦場で最も兵士の士気が高いのはここであろう。

 一方、アルテンシア軍の右翼を率い、連合軍の左翼と交戦しているのはガーベラント公だ。こちらは左翼に比べると随分静かな戦場だった。しかし、それは決して緩いという意味ではない。むしろこの戦場の空気は指で触れれば切れてしまいそうなほど張りつめている。

 ガーベラント公と敵将はまるでチェスを指すかのように兵を動かしていく。相手の動き方からその思惑を推測し、それに応じて部隊を動かす。決して派手さはないが、見るものが見れば唸り声を上げずにはいられない素早さと正確さである。そしてどちらかが悪手を打った瞬間にこの均衡は崩れ、戦場の趨勢は一気に決するであろう予感を二人の将は共有していた。

 アルテンシア軍と連合軍の両翼同士の戦いは拮抗しており、悪く言えばこう着状態に陥っている。そんななか今まさに趨勢の天秤が傾きつつあるのは主翼同士の戦いだ。そしてこの戦いは、そのままこの決戦の趨勢さえも決しようとしていた。

 現在アルテンシア軍主翼の指揮を執っているのはリオネス公である。しかし、彼はもともとシーヴァの補佐役であり、ヴェート将軍やガーベラント公のように用兵に秀でているわけではない。

 連合軍の主翼を率いているのはアルジャーク軍のアールヴェルツェ将軍なのだが、百戦錬磨の名将の相手をするのにリオネス公では力不足であった。時々刻々と押し込められていく戦況を見ながら、彼は内心で焦りを募らせていく。

 戦闘を開始する前、シーヴァは「敵主翼を破れば、それでこの決戦の趨勢は決する」と考えていた。もちろん彼は自分が敵主翼を突破することでこの決戦の趨勢を決定付けようとしていたのだが、思いもよらぬ要素がここで加わることになる。

 それが、今シーヴァと死闘を演じている剣士、ジルド・レイドである。リオネス公自身もガルネシアの古城で何度か彼の姿を見かけている。まさか戦場で、しかも敵味方として再開するなど、あの時は思いもしなかったが。

 彼が登場したことで、シーヴァとアルテンシア軍の予定は大幅に狂ってしまった。シーヴァがジルドとの決闘に没頭することで、主翼の指揮をとることができなくなってしまったのである。

(どうする………?部隊を割いて陛下の援護に回すか………?)

 そう考えては見たものの、それが現実的ではないことはリオネス公にも分っていた。連合軍主翼の猛攻を受けているこの状況で、シーヴァの援護に避ける戦力はない。それにアルテンシア軍がシーヴァの援護に部隊を回せば、連合軍とてジルドの援護に部隊を回すだろう。あちらにしてみればジルドがシーヴァを釘付けにしている現状こそが最大の好機なのだから。

 それに、シーヴァが自由に動けるということは、ジルドも自由に動けるということだ。あのシーヴァ・オズワルドと互角に戦える剣士が自由に動き回ったとして、アルテンシア軍にどれほどの被害が出るか想像も付かない。もちろん使っている魔道具の差があるから単純にシーヴァ相当として考えることはできないが、動き回られて厄介な相手であることは確かだ。

 そもそも二人の周りに兵を近づけること自体が困難なように思われる。二人の周りには放出された魔力が強風の如くに渦を巻いており、何人をも近づけさせぬ領域ができあがってしまっているのだ。

(しかしこのまま陛下が指揮に戻られなければ………!)

 アルテンシア軍主翼は、連合軍主翼に敗れることになる。そして両翼同士の戦いが膠着している以上、その勝敗がそのままこの決戦の勝敗に直結する。

 リオネス公は奥歯を噛締める。自分が醜態を曝すだけならば別にかまわない。しかしそれが原因でこの遠征が失敗に終わるようなことになれば死んでも死にきれない。その上、ここで負ければ教会が再び西へ手を伸ばしてくるかもしれないというのに。

(どうする………!?)

 考えろ、とリオネス公は自分に命じる。しかしながら彼はもともと策士であり軍師だ。つまり通常、彼の仕事の大半は決戦が始まる前に終わっている。実際に兵を指揮して作戦を実行するのは、本来ならばまた別の人間の仕事なのだ。

 だが現状はそのようないい訳を許してはくれない。シーヴァが動けない以上、アルテンシア軍主翼の指揮を執ることができるのはリオネス公しかいないのだから。

「リオネス公、我らが行こう」

 焦りを募らせるリオネス公に声を掛けたのは、ゼゼトの戦士ガビアルだった。彼が率いるゼゼトの戦士五千はシーヴァ直属の部隊として主翼に編入されている。ただ、現在シーヴァがジルドによって足止めをくっているため、今までのところこの部隊は待機状態が続いていた。

 いや、シーヴァから指揮権を預けられていることを考えれば、ゼゼトの戦士五千を動かす権限は、今はリオネス公にあると言える。しかし権限などよりももっと根本的な部分、つまり感情や器量の問題でリオネス公はこの部隊を動かすことを躊躇っていた。

 つまりリオネス公は、
「陛下でなければ、ゼゼトの戦士たちを使いこなすことはできない」
 と、そう考えていたのである。

 その考え自体は間違ったものではない。実際、ゼゼトの戦士たちはシーヴァ以外の大陸人から頭ごなしに命令されたとしても、そんなものは頑として聞き入れないであろう。そしてそのようなことが続けばアルテンシア軍は内部に不和を抱えてしまい、この遠征自体が失敗してしまう可能性さえある。そうでなくとも、せっかく改善され始めた統一王国とロム・バオアの関係が再びこじれてしまうだろう。

 遠征軍幕僚の一人として、なにより統一王国を支える五人の公爵の一人として、リオネス公はそのような危険を犯すわけにはいかなかったのである。

 しかし、ガビアルのほうから「自分たちが行く」と言ってくれれば、話は違ってくる。それであれば「使いこなせないかも」などと心配をする必要もない。

 恐らくだが、ガビアルのほうも自分たちが扱いにくい存在であることを自覚していたのだろう。それで自分から動くと言うことで、彼らなりに「信」を見せたのではないだろうか。

 少なくとも、リオネス公はそう感じた。そして相手が「信」を見せたのであれば、自分のもまた「信」を見せなければならない。

 リオネス公は馬から降りるとガビアルの正面に立った。ゼゼトの民である彼はリオネス公よりも頭一つ分ほど大きく、肩幅にいたっては二倍以上もあるように見える。敵であれば、本当に恐ろしい巨人兵だ。リオネス公など拳の一振りで殺されてしまうだろう。しかし、今目の前にいる彼は敵ではなく、心強い味方だ。

「よろしくお願いします、ガビアル殿」

 そういってリオネス公は右手を差し出す。ガビアルは一瞬とまどったような顔を見せ、そのあと照れくさかったのか厳しい笑みを見せて差し出された右手を握った。

(そういえばガビアル殿と、いやゼゼトの民とこうして握手するのは初めてだな………)

 壁を作り遠ざけていたのは自分のほうかと思いリオネス公は反省した。そして恐らく、その思いはガビアルのほうも同じなのだろう。

 握手を終えて手を離すと、途端にガビアルの顔つきが戦士のものになる。

「では、行ってくる」
「ええ、お願いします」

 一度仲間たちの下へ戻るガビアルの背中を見送ると、リオネス公は再び馬にまたがり戦場を見渡す。戦況は依然アルテンシア軍不利。しかし先ほどまでの焦りは、もはや彼の中にはなかった。

「ゼゼトの戦士たちが前線に出る!押し返すぞ!!」

 おお!と周りの兵士たちが答える。そんな彼らに、リオネス公は頼もしさを覚えた。

**********

(あの男の言葉は、決して誇張ではなかったか………)

 アールヴェルツェのいう「あの男」とは、先日アルジャーク軍の陣内に侵入してきた不審者のイスト・ヴァーレのことだ。彼は一緒にいたジルド・レイドという剣士に、敵主将シーヴァ・オズワルドを「斬っちゃっていい」と話していた。あの時はジルドが発する凄まじい覇気に圧されて何もいえなかったが、一度冷静になればそれはどう考えても不可能なように思えた。

 まあ、仮にジルドがシーヴァにあっさりと破れ死んでしまったとしてもアルジャーク軍には何の影響もない。もとより自分たちだけでアルテンシア軍を何とかするつもりでここまで来たのだ。邪魔にならなければそれでよい。多少なりともシーヴァの足止めをしてくれれば御の字。アールヴェルツェはその程度に考えていた。

 しかし、アールヴェルツェの予想は外れた。今まさにジルド・レイドは戦場のど真ん中でシーヴァ・オズワルドと死闘を演じている。それもアールヴェルツェが考えていたのよりもはるかに高い次元の戦闘だ。その戦いは速すぎて目で追うことができない。武人としては軽く嫉妬さえ覚えてしまう。

(いずれにしても、シーヴァが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を自由に振るえぬこの状況は好機………!)

 加えてシーヴァの代わりに指揮を執っている敵将は、用兵家として二流。アールヴェルツェの指揮する連合軍主翼(純アルジャーク軍だが)は敵主翼に対して優位に立つことができている。

 始めに見せ付けられた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の力は想像以上だった。それだけにジルドがシーヴァを抑えてくれている間になんとしても戦場の趨勢を決めてしまいたい。それがアールヴェルツェの思いだった。

 とはいえ、そうなにもかも上手くはいかないのが戦場という場所である。敵軍より今まで温存されていたと思しき歩兵部隊およそ五千があらわれ、猛然とこちらへ突進を開始したのである。

 新たに現れた歩兵部隊。彼らがただの歩兵であれば、そう警戒する必要などない。しかし彼らはただの歩兵ではなかった。全員が巨躯を誇るゼゼトの民なのだ。その威圧感と迫力たるや、一万の兵に勝るとも劣らない。

「まさに巨兵だな………。あれがゼゼトの戦士たちか」

 戦場に雄叫びを響かせながら突進してくるゼゼトの戦士たちを見て、さすがのアールヴェルツェも背中に冷たいものを感じる。だがこの程度のことで彼の指揮能力が奪われることはない。

「接近させるな!弓矢を集中させろ!」

 アールヴェルツェの命令にしたがって数千本の矢が突っ込んでくる巨兵めがけて放たれる。しかしゼゼトの戦士たちは盾で頭部を守りながら速度を落とさずに向かってくる。中には防ぎきれずに矢が首筋に刺さって倒れる者もいたが、彼らは一切の躊躇や動揺を見せずに突っ込んでくる。

 弓矢の雨を防いだゼゼトの戦士たちは、勢いそのままに敵へと襲い掛かる。鉈のような大剣を振り回し鎧ごと敵兵をほふっていく。槍を突き出されればそれを素手でつかみ、そしてそのまま放り投げて道をこじ開ける。彼らの太い腕や脚には何本も矢が突き刺さっているのだが、そんなものは彼らにとって蚊に刺された程度にしか感じていないのだろう。敵兵の血霞を巻き上げながら、ゼゼトの戦士たちは前進していく。

(ちっ………!厄介な………!)

 アールヴェルツェは舌打ちをもらす。ゼゼトの戦士たちの戦闘能力は、その見かけどおり凄まじい。しかしそれだけならば対処の仕方はいくらでもある。ましてここにいるのはアルジャークの精兵たちだ。巨躯や怪力、見慣れない武器などで腰が引けるような者たちではない。

 ゼゼトの戦士の厄介なところ、それは怯まないことだ。まるで恐怖という感情がごっそり抜け落ちているかのようである。自らが傷つくことを恐れず、また味方が倒れればその死体を踏み台にして彼らは向かってくる。

 そしてさらに厄介なのは、彼らのそうした獅子奮迅の戦いぶりが、アルテンシア軍主翼全体を奮い立たせ士気を高めることである。つまり一部の部隊の働きが、全体の戦闘力を底上げすることに繋がるのである。

(さて、どうするか………)

 無論、このまま好き勝手にやらせておくわけにはいかない。かといって彼らに対処しようとして兵を集めて手薄な場所を作ってしまえば、士気が高くなった敵軍にそこを突かれかねない。そうなれば戦場の流れが逆転してしまうことになりかねない。

(となれば………)

 敵が温存していた部隊を出してきたように、こちらも温存しておいた部隊で対応するしかない。そして現在、連合軍主翼において自由に動かせる待機中の部隊は、アールヴェルツェの直属部隊しかない。

「あの巨兵どもは私の直属部隊で抑える!各員奮起せよ!これで趨勢を決めるぞ!」

 おお!と味方から声が上がる。頼もしいその反応に一つ頷いてから、アールヴェルツェは馬の腹を蹴って駆け出した。

 アールヴェルツェの直属部隊は騎兵ばかりが三千。数の上ではゼゼトの戦士たちに劣るが、歩兵の一人と騎兵の一騎は異なる。定石どおり騎兵一騎につき歩兵三人と計算することは出来ないかもしれないが、互角かそれ以上の戦いは可能だとアールヴェルツェは踏んでいた。

 そしてなによりも………。

「行くぞ!!日ごろの訓練の成果を存分に発揮せよ!」
「「「「は!!」」」」

 この騎兵たちはアールヴェルツェ子飼いの部隊だ。彼直々に厳しい訓練を施した、アルジャーク軍の中でも最精鋭と呼ぶに相応しい部隊である。個人の能力、部隊としての連携、そしてクロノワとアールヴェルツェへの忠誠心。そのどれもが最高水準であると言って間違いない。

「弓隊、援護!!」

 アールヴェルツェの命令に呼応して千数百本の矢が騎兵隊の頭上を飛び越えゼゼトの戦士たちに降り注ぐ。それを防ぐために攻撃が手薄になった瞬間、アールヴェルツェは直属部隊を敵部隊に突撃させる。

 アールヴェルツェ直属部隊の働きはめざましい。敵の進行方向に対して斜めから突撃した彼らは一撃を加えた後、数百程度の部隊に分かれて縦横無尽に駆け巡り、敵部隊を翻弄し切り裂き分断していく。

 怪力を誇るゼゼトの戦士たちに、力勝負を挑んでも勝ち目はない。そこでアールヴェルツェは騎兵の機動力を存分に発揮して彼らをかく乱していった。決して足を止めず、すれ違いざまに攻撃を仕掛ける。致命傷を与えることにはこだわらず、ただ相手の足を止め、できることならば地面に倒れさせ、この部隊を無力化していく。

 アールヴェルツェの主要目的はこの部隊に壊滅的被害を与えることではない。この部隊をかく乱して無力化し、ゼゼトの戦士たちが思うように戦えないようにすることで、この戦場の流れを相手に渡さないことが、彼の目的だった。ここさえ抑えておけば、全体としては連合軍有利なのだ。このままであれば、押し切ってしまうのはそう難しいことではない。そして全体の趨勢が決まってしまえば、一部の部隊がどれだけ頑張ったところで意味はない。

 しかし、被害を与えることが目的ではないとはいえ、攻撃を仕掛けているのは大陸最強と名高いアルジャークの騎兵隊、しかもその最精鋭部隊である。末端の一兵士に至るまで意識の統一がなされ、その連携行動たるやもはや芸術の域である。

 それに対しゼゼトの戦士たちは個人の能力は凄まじいが、集団での戦闘については経験が浅い。極端なことを言えば真正面から突撃していくことしか出来ない。ただその攻撃力は絶大で、彼らの突撃に耐えられる部隊など十字軍には存在しなかったから、これまではそれでも問題なかったのだ。

 しかし連合軍(の主力たるアルジャーク軍)は違う。たとえ個人の能力で及ばないとしても、それを補って余りあるだけの連携能力を有しているのだ。そしてその最高峰たるアールヴェルツェの直属部隊の前に、ガビアル率いるゼゼトの戦士たちはいい様に翻弄されていた。

 ゼゼトの戦士たちは迫り来る騎兵を恐れてはいない。それどころかタイミングを合わせて反撃しようと待ち構えている。騎兵相手に動き回っても勝負にはならないから、盾を構えて腰を落とし、すれ違うその一瞬に斬りつけるのだ。

 だが、それができている戦士はほとんどいない。振り上げた大剣は先頭の騎兵によって打ち払われ、体勢を崩したところを後続の騎兵によって喉もとを槍で一突きにされる。致命傷をまぬがれたとしても劣勢は変わらない。次々に襲い掛かる騎兵たちによって地面に倒され、そこを馬に踏みつけられてへい死する者たちが続出した。

(ち、厄介な………)

 しかし、アールヴェルツェの内心は苦い。劣勢ながらもゼゼトの戦士たちは未だに抵抗を続け、その戦いぶりがアルテンシア軍全体を鼓舞しているからだ。

 これだけいいようにやられれば、普通の部隊であれば撤退する。それが無秩序な敗走なのか、それとも戦術的な撤退なのかはさておき、ともかく一度下がるというのが常識的な行動である。

 しかしゼゼトの戦士たちは下がらない。隣で同胞が倒れようとも、そんなことは気にもかけず戦い続けている。幾つもの傷を負い全身を紅に染め上げながらも好戦的に笑うその姿は、アールヴェルツェでさえうすら寒いものを感じずにはいられない。

 かつて、アールヴェルツェはアレクセイ・ガンドールにこう尋ねたことがある。

「最も優秀な兵士とは、どのような兵士だろうか」

 それに対しアレクセイはこう答えた。

「逆境にあっても踏みとどまり粘り強く戦うことができる兵士。それが最も優秀な兵士である」

 目立つことを好む兵は、一騎打ちなど戦場の華とも言うべき局面においては無双の力を発揮するだろう。しかし戦場において輝かしいのはほんの一部で、それ以外は辛くて厳しい局面ばかりである。そのような兵は逆境に陥れば驚くほど脆い。そんな兵は幾らいても戦力になどならない。

 それよりも、逆境にあっても命令を遵守し踏みとどまれる兵は貴重である。そのような兵士がいればこそ、劣勢を撥ね返して最後に勝利を掴むことができるのだ。それに逆境で力を発揮できる兵は、優勢なときにはさらなる力を発揮してくれる。

(アレクセイ殿がこの場におられれば、彼らこそ最も優秀な兵士たちである、とそう言われたかも知れぬな………)

 かつて共に切磋琢磨した男のことを、アールヴェルツェは少しだけ思った。

 それはともかくとしても、ゼゼトの戦士たちのなんと屈強なことか。彼らは自分たちの命を塵あくた程にも気にかけていない。ほんの一瞬でも隙を見せれば状況をひっくり返されてしまうだろう。

「攻撃の手を緩めるな!」

 馬を走らせながらアールヴェルツェは檄を飛ばす。その様子を射抜くように見据える一人の男がいた。ゼゼトの戦士、ガビアルである。

 満身創痍。今の彼の姿を形容するとしたら、この言葉しかないであろう。腕と脚には矢が突き刺さり、全身の傷から血が流れ出ている。それでも彼は力強く大地を踏みしめ、その目は抗戦の意志を失ってはいない。

 とはいえ、このままでは負けることも承知している。

 死ぬこと自体はそれほど惜しくはない。シーヴァ・オズワルドという最強の戦士と戦場を駆け抜けその果てに死ねるというのであれば、それはゼゼトの戦士にとってむしろ僥倖である。

(だが何もできずにただ死ぬわけにはいかん!!)

 死ぬならば同胞(はらから)のために。それがゼゼトの戦士たちの教えだ。そしてガビアルにとって同胞とはもはやゼゼトの民だけではない。この戦場にいるアルテンシア軍の戦友たち全てが、彼にとっては同胞というべき存在であった。

 そして彼は見つける。将と思しき男が指示を出しているのを。彼こそ自分たちを翻弄し圧倒していく敵騎兵隊の指揮官であろう。

「その首、もらったぁぁぁぁあああああ!!!」

 絶叫と共に、ガビアルは右手に持っていた大剣を投げつけた。振りぬいた腕から舞い上がった血しぶきが、彼の視界を淡く紅に染め上げる。

 アールヴェルツェは突然投げつけられた大剣を紙一重のところでかわしたが、その代償として落馬してしまう。

「ぐっ!」

 地面に叩きつけられたアールヴェルツェの体は悲鳴をあげる。また彼が率いていた騎兵たちは急に止まることができず、アールヴェルツェは孤立してしまう。

 馬から落ちた敵将が孤立したのを、ガビアルは見逃さなかった。彼は盾を投げ捨てると近くに落ちていた武器を両手に拾う。右手にはゼゼトの戦士が用いる大剣を、左手には普通のサイズの剣を。両の手に二つの剣を持ち、ガビアルは敵将に迫る。

「アアァァァアアアアァアアアアア!!!」

 ガビアルはまず左手を振りぬいた。重く激しいその斬撃を、アールヴェルツェは腰を落として姿勢を低くし、槍を両手で持って受け止める。

 一瞬の拮抗の後、アールヴェルツェのほうがだんだんと押し込められていく。ついに彼が片膝をついたとき、ガビアルは凶暴な笑みを浮かべて右手を振り上げた。

「将軍!!」

 しかしガビアルが右手に持つ大剣がアールヴェルツェを襲うことはなかった。一度通り過ぎていってしまった騎兵たちが舞い戻ってきたのである。

 先頭を行く騎兵が、今まさに振り下ろされたガビアルの大剣を受け止め、そして勢いそのままに弾き飛ばす。そして後続の騎兵が彼の喉もとに狙い済ました一撃を放った。

 自分の喉もとめがけて迫りくる穂先を、ガビアルはあろうことか得物を失った右の手で迎え撃った。彼は穂先の根元をつかむと、手のひらに刃が食い込むのを気にもせずにそれを振るい、槍を持っていた兵士を馬ごと強引に払いのける。思わぬ反撃に、騎兵隊はそれ以上ガビアルに攻撃することができなくなった。

 しかし、この援護のおかげでアールヴェルツェを抑え込むガビアルの力が弱まった。彼は全身の筋肉を駆使してガビアルを押し戻し、さらに腹に蹴りを入れて一瞬だけ相手の体勢を崩す。

「舐めるな!!若造がぁああ!!」

 アールヴェルツェが槍を突き出すのと、ガビアルが左手に持った剣を振るったのはほぼ同時。防御をかなぐり捨てた互いの一撃は、そのまま互いの命を奪う致命傷となる。

 アールヴェルツェが突き出した槍はガビアルの喉もとを貫いている。ガビアルが振るった剣の刃はアールヴェルツェの右肩を砕きそのまま心臓にまで達していた。

 先に絶命し倒れたのはガビアルだった。槍を引き抜いたアールヴェルツェは、そのまま穂先を天に掲げる。

「アルジャーク帝国と陛下に、栄光あれぇぇぇぇぇぇ!!!」

 それが、彼の最後の言葉になった。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ13
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:17
 ――――アールヴェルツェ将軍、戦死。

 その知らせが本陣にもたらされた時、クロノワは目立った反応は見せなかった。むしろ彼の横に控えていた近衛騎士団騎士団長グレイス・キーアやカルヴァン・クグニス将軍を始め、回りの兵士たちのほうが顔色をなくし動揺を見せている。

 そんな中、クロノワは数瞬だけ目を瞑った。そして目を開けると腰を上げ、そしてこう言った。

「行きましょう。主翼を掌握しなければ」

 アールヴェルツェが戦死したせいか、先ほどまで優勢だったはずの連合軍主翼が徐々に押され始めている。今は悲しみに暮れているべき時ではない。一刻も早く主翼の指揮系統を立て直さなければならず、そしてそれができるのはクロノワだけなのだ。

 カルヴァンに任せることはできない。彼には十字軍の指揮を任せているし、なによりも主翼の各部隊を指揮しているのはアールヴェルツェの部下たちだ。指揮系統上、カルヴァンには彼らに対する命令権がない。

 仮に、戦死したのがイトラかレイシェルであった場合、アールヴェルツェは左翼または右翼をすぐさま自分の指揮下に再編することができる。彼には本陣以外の部隊全てに対する命令権が与えられているからだ。しかし、主翼への命令権者はアールヴェルツェとクロノワだけである。

 無論、非常事態であることはアールヴェルツェの部下たちも承知しているだろう。また総司令官であるクロノワの命令という根拠があれば、カルヴァンが彼らに命令することにも一応筋が通る。

 ただ、それでも命令を徹底するのに多少なりとも時間がかかるだろう。今は時こそが要である。手っ取り早く主翼を掌握するには、もともと総司令官として全軍に対する命令権を持っているクロノワが出向くのが最も良い。

「私は直属の一万を率いて先行、主翼と合流してこれを掌握します。カルヴァンは十字軍を率いて主翼の援護を」

 戦局次第では私の補佐についてもらうかもしれませんから、そのつもりで。クロノワはそう命令を出した。それはつまり、カルヴァンが主翼と十字軍の両方の実質的な指揮を執ることになるかもしれない、ということだ。

「御意!」

 カルヴァンは片膝をつき鋭く答える。いざとなれば彼が全軍の実質的な指揮を執らなければならなくなるのだが、その事に対し彼は気負いはあれど不安はないように見えた。流石はアレクセイの一番弟子と呼ばれた男である。

「さて、行きましょう。急がなくては」

 クロノワが歩き始めると、その斜め後ろにグレイスがつき従う。彼女の仕事はただ一つ、クロノワの命を守ることである。

「グレイス殿、陛下のことくれぐれもよろしく」
「は。この命に代えましても」

 カルヴァンから念を押されたグレイスは、そう自分の決意を述べた。アールヴェルツェが何よりも気にかけていたのがクロノワの命だ。それをこのような辺境(・・)で散すわけにはいかない。

 クロノワは自分の馬にまたがると、何も言わずその腹を蹴って疾駆を開始した。連合軍本陣六万のうちアルジャーク軍一万が、それを合図にして彼の後につき従う。

 クロノワは馬を全速力で疾駆させる。そのせいで歩兵との距離が開いてしまうがかまわない。拮抗している両翼はもちろん、主翼も押され気味になっているとはいえ裏に回られているわけではないからだ。

 ほとんど単騎で駆け出したクロノワに、すぐさまグレイスを始めとする騎兵たちが追いつく。そして流れるようにして彼の周りを固める。クロノワのすぐ横につけたのは、やはりグレイスだった。

「陛下、あまりお一人で飛び出されぬよう………」

 諫言を口にするグレイスの様子は、すでにいつもと同じだ。アールヴェルツェの死については、今は心の奥底に封印しているのだろう。

 グレイスらしいお小言に、クロノワは一瞬だけ苦笑をもらす。しかしすぐに真剣な表情に戻り、馬を走らせることに集中する。そして主翼に合流すると、彼は声を張り上げた。

「これより!主翼の指揮はこのクロノワ・アルジャークが執る!」

 すぐに数人の男たちがクロノワのもとに集まってくる。クロノワも見知った者たちで、たしかアールヴェルツェの参謀たちのはずだ。彼らは悲壮な色を瞳に浮かべ、鎧の上から右手の拳で胸をたたいた。アールヴェルツェが戦死したことで最も悔しい思いをしているのは彼らであろう。

「乱れた隊列を整え、戦線を修復しなさい!アールヴェルツェが命を懸けてくれたこの戦、決して負け戦にしてはいけません!」
「「「「御意!!」」」」

 クロノワの言葉に参謀たちが力強く答える。そして彼らの瞳に決意がたぎり始めたのを見て、クロノワは内心で深く頷いた。大丈夫、まだ彼らの心は折れていない。ならば自分の役目はさらに士気を高め、その士気に明確な方向性を与えてやることだ。

「この戦いに疑問を持つ者も、この中にはいるかもしれません」

 クロノワはあえてそう言った。この戦いがアルジャーク帝国の国益に直接結びつかないことは、すこし考えれば分ることである。ましてアールヴェルツェの下にいた参謀たちならば百も承知していることであろう。

 極端な言い方をすれば、この戦いはアルジャークにとって得をするためのものではなく、損をしないためのものなのだ。しかし、クロノワはそのことを指摘しようとは思わなかった。それは戦場の外の思惑である。今ここで、戦場の真っ只中で戦っている兵士たちにとって、それは意味のある言葉ではない。

 代わりに、クロノワはこういった。

「ですがそれは今ここで無様を見せていい理由にはなりません!」

 あまりにひどい戦いを見せれば、アルジャーク帝国は大陸中の人々から笑いものにされるだろう。

「所詮は辺境の蛮族」
「大陸最強などと、聞いて呆れる」
「田舎者は大人しく土にまみれていればよかったのだ」

 敗者への罵詈雑言に事欠いた例は歴史上存在しない。

 大陸の中央部にアルジャークが進出するのは、これが始めてだ。だからこの戦いは、いわば「アルジャーク帝国ここにあり」と大陸中に知らしめるための舞台なのだ。それはだれも意図しなかったことではあるが、歴史的な観点からことを眺めればそう言わざるを得ない。である以上、ここで悪評を被るようなことになれば、その評価はこの先ずっとアルジャーク帝国について回ることになる。

「アルジャーク帝国?ああ、アルテンシア軍に無様に負けた、あの………」

 実情はともかく、一般の人々の間にはそういう印象が末永く残ることになるのだ。それはこれから世界をまたに駆けて海上交易を展開しようとするクロノワにとって、望ましいことではない。

 そしてなによりもここで無様に負ければ、戦死したアールヴェルツェはこの先ずっと嘲笑の的になり続けるだろう。

「アルジャークの兵は精強にして屈強。一度動けば目的を達し得ないことなどないのだと、この戦いをもって大陸中に知らしめなさい!それがアールヴェルツェへの最大のはなむけです!!」

 クロノワがそう声を張り上げると、その声が届いた兵士たちは地鳴りのような鬨の声をあげる。この瞬間、連合軍主翼は完全に息を吹き返した。強引ささえ感じさせる勢いで前に出て敵の勢いを押し止め、逆流しかけた戦場の流れを押し返していく。

 その勢いに便乗する形で、カルヴァン率いる十字軍五万がアルテンシア軍主翼の右側面に回りこみ牽制する。兵の質はともかく、数だけ見ればこの部隊がこの戦場で最も多いのだ。決して無視しえる存在ではない。

 十字軍のこの動きに、アルテンシア軍の左翼を率いるヴェート・エフニート将軍も当然気がついていた。しかし連合軍右翼と激戦を繰り広げている彼女に、十字軍の側面か背後を突かせるために割ける部隊はない。そのため、アルテンシア軍主翼はほとんど単独で二方向の敵と戦わなければならなくなった。

 彼らにとってまず注意すべきは、正面から猛攻を加えてくる連合軍主翼(純アルジャーク軍だが)である。どうやら敵将を討ち取ったらしいく、一時は士気が下がり指揮に乱れが出ていた。しかし、後ろにいたはずの本陣が合流した途端に彼らは息を吹き返し、これまで以上の破壊力を見せ付けてくれている。

 そして右側面に回りこんだ連合軍本陣のうちの十字軍五万。こちらの動きはどうにもいやらしい。

 積極的に攻撃を仕掛けてくるわけではない。いや、むしろ攻撃に関しては消極的といってもいい。しかし常に部隊を動かしてアルテンシア軍主翼の隙をうかがい、チクチクと指揮を執っているリオネス公の神経を刺激する。

 しかもわざわざ対処できるように動くのだ。おかげでリオネス公は、十字軍が動くことで戦列に隙を見つけそこを修復する、という妙な作業を先ほどから延々くり返す羽目になっている。

(ええい!鬱陶しい!)

 隙がなくなれば十字軍は無理に戦おうとせず後退する。しかしその後を追うことはできない。そちらに兵を割けば、正面から猛攻を加える敵主翼に対処できなくなるからだ。そして敵主翼との戦いに集中しようとすると、ふたたび隙を突くようにして十字軍が動くのである。

(このままでは押し込められる………!)

 リオネス公は焦った。この危機を打開できるのはただ一人、シーヴァ・オズワルドだけである。しかし彼は未だにジルド・レイドによって釘付けにされ身動きが取れない。

(この際、犠牲は覚悟の上で部隊を差し向け、陛下に動いていただくしか………!)

 リオネス公がそう決断を下そうとした、まさにその瞬間。
 地面が波打ち、衝撃が突き上げた。

**********

 その世界は、恐ろしく静かだった。

 しかし、それは決して音がしない、という意味ではない。むしろどんな些細な音でさえも今のジルドが聞き逃すことはない。

 わずかな呼吸音。靴が草原を踏みしめる音。剣の柄を握りなおす音。

 戦場で鳴り響く怒号は、ジルドの耳には届かない。無意識のうちに邪魔な情報を遮断しているのだ。今彼が神経を研ぎ澄ませて収集しているのは、普段であれば気にも留めないような小さな音だ。

 いや、小さな音だから気にかけているわけではない。問題なのはその音を立てている存在、すなわちシーヴァ・オズワルドだ。

 静かだった世界に音が戻ってくる。アレは極限の集中力がなす一種のトランス状態なのだろう。なろうと思ってなれる状態ではないが、この戦いの中、ジルドはすでに何度もその状態を経験していた。

 互いに得物を正面に構え慎重に間合いを計る。二人とも肩で息をしてはいるが、乱れているというほど荒いものではない。なによりも二人の顔に浮かぶのは疲労とは程遠いものだ。

 恐怖と歓喜。

 その二つの感情を混ぜこぜにすれば、今のジルドとシーヴァが浮かべているような表情になるのかもしれない。

 死ぬかもしれない。恐ろしい。それは生物として正常な反応だ。しかしそれでも足は前に出る。血がわき立ち肉体には力が満ちている。充足を感じる一方で飢えを覚える。

 もっと、もっと、もっと。この渇きを癒し飢えを満たしてくれ。

 刹那的、といわれれば反論はできない。ただこの一瞬こそが全てで、この先のことなど考えていないのだから。

 ジルドが獰猛な笑みを浮かべると、シーヴァもまたそれに答えるように同質の笑みを見せる。それを合図にしたように二人は同時に地面を蹴って前にでて間合いを詰める。
 シーヴァが上段から振り下ろした一撃を、ジルドは姿勢を低くしわずかに左に避けてかわす。そこから太刀を突き出して反撃しようとするが、その瞬間に嫌な感覚を覚えとっさに太刀の軌道を修正。魔力を込めながら漆黒の大剣に刃を立てる。

 銀色の太刀と漆黒の大剣が触れるがはやいか、大剣の周りに黒き風が渦を巻く。そしてほとんど同時にジルドは「万象の太刀」の能力を使いその攻撃を散す。黒き風の効果範囲は結構広かったらしく、突きを入れていれば今頃体を削り取られていたであろう。

 シーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を喰わせて黒き風を発生させ続け、そしてジルドもまた「万象の太刀」に魔力を込めてそれを散し続ける。散された魔力、そして二人のせめぎ合う魔力は暴風となって渦を巻き彼らを戦場から隔離する。

 魔道具の力が拮抗している以上、あとは単純な腕力の勝負になる。この勝負で分があるのはシーヴァだ。彼はゼゼトの民にも劣らない腕力を誇っている。鍔迫り合いの天秤はすぐにシーヴァに傾いた。

 しかしそのことでジルドは焦らない。もとより腕力の勝負ではシーヴァに勝てないことなど百も承知だからだ。だからシーヴァがさらに力を込める瞬間を見計らって自分から後方に飛ぶ。

 体が宙に浮いた瞬間、ジルドは足に履いた魔道具「風渡りの靴」に魔力を込め、周囲に渦を巻いている風に乗る。そのまま上空へと駆け上がり、そして素振りをするかのように何度か太刀を振るう。

「ちっ………!」

 ジルドが太刀を振るうたび、一瞬送れて不可視の斬撃がシーヴァを襲う。その斬撃をシーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を振るって払いのける。

 襲い来る斬撃は鋭い。試してみる気はないが、直接受ければ鎧を着ていようとも深手はまぬがれないだろう。ただ攻撃は直線的で、ジルドが振るう太刀の向きを見ていれば、払いのけるのはそう難しくはない。それにジルドとてこのような小細工でシーヴァにダメージを負わせられるとは思っていないだろう。

(とはいえ、このまま続けられても鬱陶しいな………)

 襲い来る斬撃を払いのけながらシーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を込めて、小さな魔弾を幾つも用意しそれ打ち出していく。しかしそれらの魔弾は直接ジルドを狙うものではない。

 狙っているのは彼の足元、のそのすぐ下。爆発した魔弾は直接ジルドにダメージを与えることはないが、爆発に起因する突風が彼を押し上げる。

「ぬっ!?」

 突然、足元が盛り上がったかのように感じ、ジルドは体勢を崩した。そのまま地面に墜落することなく宙を駆け続けられたのは、ひとえに彼の力量ゆえだろう。

 ジルドが足に履く「風渡りの靴」は、風の上を滑るようにして駆けることができる魔道具である。しかしこの魔道具は決して自由自在に空を駆け巡ることを可能にするものではない。その性質上、風向きや風速などによって多少なりとも制約を受ける。その上、風とは目には見えないものだ。それに乗る、といわれても多くの人はピンとこないだろうし、またそう簡単にこなせるようなことでもない。

「分ってはいたが、おっさんは大概異常だな」
「失礼だな。ワシほど正常な人間は少ないと自負しておるぞ」

 イストとジルドの間でそんな冗談が交わされたとか、かわされなかったとか。

 まあそれはともかくとして。「風渡りの靴」の名前は知らなかっただろうが、その空を駆けるための魔道具についてシーヴァはこの戦闘中にその特性について大まかにではあるが把握し始めていた。

「どうにも風から影響を受けるか、あるいは利用しているものらしい」

 そこまで検討が付けば、あとはその推測を試してみるだけである。風を利用しているのであれば、突発的な突風が起これば必ずやその影響を受ける。そう考えたシーヴァは小さな魔弾を爆発させることで突風を起こしたのである。

 結果として、シーヴァの考えは当っていた。爆風に煽られたジルドは、しかし爆風以上の影響を受けて体勢を崩した。彼にとってどれほどの衝撃だったのかは分らないが、少なくともシーヴァにとってジルドの行動を阻害する手段を得られたことは大きい。

 ここまでの二人の仕合は、鍔迫り合いをするほど接近すればシーヴァに分があったが、そういう状況になるたびにジルドは今のように空を駆けて距離を取って体勢を整え、そして彼の神速をいかして攻撃を仕掛けてくるのだった。

 シーヴァは移動を補助するタイプの魔道具は持っていない。ゆえにジルドの動きに合わせて戦うことは不可能だ。行動範囲に絶対的な優位がある以上、ジルドのほうには常に“距離を取る”という選択肢が存在するのだ。

 ちなみに魔弾を使えば遠距離からでも攻撃はできる。ただ魔弾を撃っても難なく切り裂かれてしまうため有効とは言いがたい。

 それだけに、相手の優位性をすこしでも崩せるのは大きい。小細工だと承知しているが、こういう小細工が一番癇に障るのだとシーヴァは理解している。逆上し冷静さを失ってくれれば御の字と思ってはいるが、さすがにそこまで上手くはいかないだろう。

 体勢を崩したジルドめがけて、シーヴァは魔弾を打ち込む。当れば必殺の威力だが、爆裂する前にジルドはそれを太刀で切り裂いた。しかしそのせいなのか、彼の体は宙に浮かぶことを止め地面に落下する。

 トン、と膝をうまく使い重さを感じさせず実に軽やかにジルドは着地した。シーヴァとしてはその瞬間を狙って攻撃を仕掛けられれば良かったのだが、あいにくと距離が開きすぎている。

 二人の間に距離が開いても、そこに兵士たちが流れ込んでくることはなかった。敵味方問わず、全ての兵たちが理解しているのだ。

「この戦いを邪魔してはいけない。割って入ってはいけない。いや、そもそも邪魔することも割って入ることもできはしない」

 連合軍としては下手に手出しをしてシーヴァが自由に動けるようになることは避けたい。そしてアルテンシア軍としては割ってはいることでシーヴァが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を自由に使えなくなることは避けたい。そんなふうに両者の思惑は重なっていた。

 いや、そんな思惑よりも、「近づかずに済むのなら近づきたくない」というのが両者の戦いを間近でみている兵士たちの素直なところだった。割り込めばボロ雑巾のごとくに殺される。彼らは直感的にそれを悟っていたのだ。

 その結果として、戦場のど真ん中、両軍がぶつかる激戦区にぽっかりと空白地帯が出来上がる、という奇妙な構図が出来上がっている。

 ジルドとシーヴァはそれぞれ得物を構えじりじりと間合いを詰めていく。そして互いに一息で跳びかかれる距離になると、ピタリと足を止めて向き合った。

 お互いに構えを少しずつ変化させながら相手の出方を伺う。その上、二人とも全身から膨大な量の魔力を無造作に放出し、それがせめぎあって周囲に強風が吹荒れる。

 二人の動きが止まる。シーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を両手で上段に構え、ジルドは「万象の太刀」を、刃を寝かせてやや後ろに引く形で構える。

 二人の視線が擦れ、同時にためを作る。激しい戦いが再開されようとした、まさにその瞬間。

 地面が波打ち、衝撃が突き上げた。

**********

 ――――テオヌジオ・ベツァイ枢機卿に不穏な動きあり。

 神殿に設けられた自身の執務室でその報告を聞いたとき、居残ったもう一人の枢機卿であるカリュージス・ヴァーカリーは自分の耳を疑った。

(テオヌジオ卿がこのタイミングで何をするというのだ………!?)

 神殿の外、アナトテ山の東ではアルテンシア軍と連合軍の決戦が行われている。勝敗はともかくその決戦が終わるまでは、自分もテオヌジオもできることなど何もない。少なくともカリュージスはそう思っていた。

「どういうことだ?テオヌジオ卿が何をしているというのだ!?」

 聞けばテオヌジオが三十人ほどの集団を引き連れて神殿内を闊歩しているという。破壊や放火といった行動はしていないため、カリュージス子飼いの衛士たちは困惑しつつも拘束などはしていないとのことだ。ただ、あてもなく彷徨っているわけではなく、明確な目的地があるように思える。

「恐らくですが、御霊送りの祭壇に向かっているのかと………」
「なに………?」

 部下の言葉を聞いたカリュージスは眉をひそめる。このタイミングでそんなところへ向かい、いったい何をしようというのか。

「それと……、はっきりとした報告ではないのですが………」
「なんだ?話せ」
「テオヌジオ卿が神子の腕輪を持っていた、という話が………」

 それを聴いた瞬間、カリュージスは背中に氷刃を刺し込まれたかのように感じた。“神子の腕輪”とは、「世界樹の種」がはめ込まれた、代々の神子に受け継がれるあの腕輪のことであろう。テオヌジオがそれを持ち、そして御霊送りの祭壇に向かっている。それが意味するところは、すなわち………。

「衛士を集められるだけ集めて祭壇に向かわせろ!テオヌジオ卿を祭壇に近づけさせてはならん!」

 怒鳴りつけるようにしてカリュージスは命令を出す。命令された衛士は「わ、わかりました!」と返事をして彼の執務室を飛び出していった。

 命令を出したカリュージスも執務室で安穏としていられるわけではない。聖女の護衛として神殿から衛士を派遣したため、集められる数にはおのずと限界がある。少ない数で五十人規模の集団を制圧するには、指揮官としてカリュージス自身が出向かなければならない。

 部屋の隅においてある一振りの剣をカリュージスは身に帯びる。細身の剣で、軽いがその分折れやすく実戦には向かない。もっとも、実戦向きの剣を用意したところで、カリュージスがそれを使いこなせるかはまた別の問題だが。

 剣を持ち、見つけた衛士たちと合流しながらカリュージスは急ぎ足で御霊送りの祭壇に向かう。

 早足になっているとはいえ外から見る分には、カリュージスは冷静そのものであった。しかし彼は内心で大いに焦っていたし、彼の頭の中は「なぜ?」という疑問で埋め尽くされていた。

(なぜ、テオヌジオ卿はこのような暴挙に出たのか?)

 テオヌジオ・ベツァイは穏やかで篤信の信者でもある枢機卿だ。自分のことしか考えていない枢機卿が多い中、彼は神子と教会をいつも最優先に考えていた。少々理想を追いがちな面もあるが、為政者や宗教家が理想を持つのは悪いことではあるまい。

 カリュージスも、テオヌジオと何度も協力し案件を通したことがある。またその逆に反対したこともされたこともある。どのような場合であっても常に一本筋の通った理由があり、彼なりの信念を感じることができた。損得勘定で考えがぶれる他の枢機卿たちとは違い、彼との話し合いにはやりがいを感じたものである。

 テオヌジオ・ベツァイという人物を、カリュージスはある面尊敬していたのである。教会という宗教組織の中にあって、カリュージスは自分が政治家でしかないことを自覚している。その中枢にいながら、いや中枢にいるためなのか、宗教家になることはついにできなかった。

 しかしテオヌジオは徹頭徹尾、宗教家であった。私利私欲のために自分の地位を利用することなど、彼にとっては考えられないことであったろうし、また回りの人間もそれを認めていた。枢密院の中にあって彼は自分の信念を曲げず、高潔であり続けた。そういうテオヌジオのあり方に、カリュージスはある種尊敬の念を抱いていたのである。

『道義的責任』
 という言葉をテオヌジオは使った。いかにも彼が使いそうな言葉だと、カリュージスは思っている。それは思惑や損得勘定を超えたところにある“理由”であり“動機”だ。そして政治家でしかないカリュージスにはたどり着けなかった言葉でもある。そこへ導いてくれたテオヌジオに対し、彼は恩義に似たものさえ感じていた。

 だからこそそれだけに、テオヌジオがこの時このような仕方で行動を起こしたことは、カリュージスにとって非常に衝撃的なことだった。

(なぜ、テオヌジオ卿はこのような暴挙に出たのか?)

 同じ疑問が頭の中で繰り返される。答えは出ない。出ないまま、カリュージスはパックス湖を見下ろす御霊送りの祭壇が置かれた広場に到着した。御霊送りの儀式を行うのもこの広場であり、そのため随分と広いつくりになっている。その広場に人影はまだまばらだ。急いだおかげかなのか、あるいはテオヌジオが寄り道をしたのか、そこにはカリュージス子飼いの衛士たち他はまだ誰もいない。

(間に合ったか………)

 その事にカリュージスはひとまず胸をなで下ろす。もしも御霊送りの神話の裏に隠された真実が明るみに出れば、今行われているアルテンシア軍と連合軍の決戦の勝敗など関係なく教会は一挙に崩壊し歴史から消え去ることになる。

 アルテンシア軍が勝つようならば、それが運命であったと受け入れよう。しかし勝敗が決していないこの時点で、教会がそれも内部から崩壊に向かうようなことはなんとしても止めなければならない。

(教会を守ると、そう決めたのだ………)

 それがテオヌジオから教えられた、「道義的責任」というものなのだから。しかしそれを果たすために、教えてくれたテオヌジオを止めなければならないとは、一体どういう皮肉なのだろうか。

 やがて、テオヌジオと共に五十人ほどの集団が広場に現れる。カリュージスの姿を認めると、テオヌジオは穏やかに微笑んだ。

「ああ、カリュージス卿、こちらにおられたのですか。お部屋のほうにはおられなかったのでどうしたのかと思っていましたが、ちょうど良かった」

 実はお話したいことがあったのです、とテオヌジオは言った。

「伺いましょう」

 話とやらの内容について、カリュージスはおおよその予想は付いている。しかし彼は自分の予想が間違っていることに一縷の望みをかけてテオヌジオに続きを促した。

「実はこれから、神界の門を開こうと思うのです」

 テオヌジオがそういった瞬間、カリュージスは自分の予想が当ってしまったことを悟った。彼は目を閉じ、全神経を動員して表情筋を制御する。そうしなければ、苦虫を噛み潰したような顔になってしまいそうだった。

「もはや現世に救いはありません。ならば神界の門の向こう側、神々の住まう天上の園に救いを願うのは当然のことでしょう。敬虔な信者の方々を救うためには、もうこれしかないのです」

 テオヌジオの声音に憂いが混じる。だがカリュージスの内心はさらに憂鬱だった。神界の門の向こう側に救いなどないことを、彼は知っているのだから。

 なんとしても彼に神界の門を開かせるわけには行かない。その決意を胸にカリュージスは目を開いた。

「………死後、魂となって神子によってそこへ導かれるのが正しき道筋であり手順、そして神々の御意志です。それを無視しては、救いなど得られるはずもございますまい」

 御霊送りの秘密を暴露するわけにもいかない。だからカリュージスはテオヌジオの信じる教会の教義を全面に出して説得を試みた。しかしその一方で、その説得が無駄に終わることを彼は予期していた。

「いいえ、カリュージス卿。これこそが神々の御意志なのです」

 テオヌジオは満面の笑みを浮かべてそういった。カリュージスにとってその答えは予想外のものである。怪訝な顔をするカリュージスに対し、テオヌジオは神子の腕輪を掲げて見せる。その腕輪にはめ込まれた「世界樹の種」は、煌々と赤い光を放っていた。

「それは………!」
「これが神々の御意志なのです、カリュージス卿」

 貴方も是非ご協力していただけませんか、とテオヌジオは柔和な笑みを浮かべてカリュージスに手を差し出す。そんな彼を、カリュージスはにらみつけた。

「神子様は、いかがなされた?」
「………残念ながら、神子様にはご賛同いただけませんでした」
「………!」

 カリュージスは目を見開いた。神子ララ・ルー・クラインはテオヌジオの計画に賛同しなかった。しかしその腕輪は今テオヌジオの手の中にある。それが意味するところはつまり………。

「神子様を弑たのか!?テオヌジオ卿!!」

 テオヌジオは首を振るだけで何も言わない。それがカリュージスに自分の推測が正しいことを教えた。

「………テオヌジオ卿、いやテオヌジオ・ベツァイとその一味は神子様に危害を加えた可能性があります。即刻全員を拘束しなさい」

 カリュージスの言葉でその場が一気に緊張する。カリュージス子飼いの衛士たちが武器を構えて前に出、それをみたテオヌジオ側の衛士たちもまた武器を手に前に出る。

「カリュージス卿、どうしてもご協力いただけませんか?」

 残念そうなテオヌジオの声が響く。それをカリュージスは無視した。

「………行け。抵抗するものは殺してかまわん」

 カリュージスの言葉をきっかけに、その場が動き出す。悲鳴と怒号が飛び交い、金属同士がぶつかったり擦れたりする音が騒がしく響く中、カリュージスとテオヌジオだけが互いに向かい合い動かずにいる。ただその表情は対照的だ。カリュージスが鋭く相手を睨んでいるのに対し、テオヌジオはただ穏やかに微笑み続けている。

 数秒間、一方的に睨んだ後カリュージスは剣を鞘から抜きその切っ先をテオヌジオに向けた。

「その腕輪をこちらへ」

 拒否するならば実力行使もいとわない。カリュージスのその覚悟を承知しているはずなのに、しかしテオヌジオは無言で首を横に振るとそのまま静かに祭壇に向かって歩き始めた。

「テオヌジオ卿!なぜだ!?」

 ゆっくりと、しかし真っ直ぐに向かってくるテオヌジオに向かって、カリュージスは剣を振り上げて迫る。相手を間合いに捕らえたカリュージスは剣を振り下ろし、しかし途中で右腕が何かにぶつかり剣を落としてしまう。

「かっ………は………!」
「救われたかった。そして救いたかった。ただ、それだけのことです」

 気がついたときには、テオヌジオの顔がカリュージスの耳元にあった。テオヌジオが持つ短剣が、カリュージスの腹部に突き刺さっている。

 カリュージスが剣を振り下ろすその瞬間、意外な素早さを見せたテオヌジオは間合いを詰めて彼に抱きつくような形で短剣を腹に刺したのである。振り下ろそうとした右腕はテオヌジオの左肩によって阻まれていた。

「せめて貴方の魂も、私が神界の門の向こう側に連れて行きましょう」

 テオヌジオが体をずらしてカリュージスから離れると、彼は力なくそのまま地面に倒れこんだ。その様子をテオヌジオは左肩をおさえながら静かに眺めている。血を流しながらも死に切れないカリュージスが下から血走った目で睨みつけるが、それに応えるテオヌジオはあくまでも穏やかだ。

 やがてテオヌジオのほうが視線を外した。彼はカリュージスに向けていた視線を御霊送りの祭壇のほうに向け、そしてそちらに向かって歩を進める。

「ま………!」

 カリュージスは「待て」と言おうとしたが、しかしその言葉が形になることはなかった。地面に這い蹲りながらもカリュージスは必死に手を伸ばすが、その手はただ空を掴むばかりである。

 やがてテオヌジオは祭壇の上に立つ。

「さあ、皆さん。共に参りましょう。神界の門の向こう側、神々の住まう天上の園に」

 テオヌジオは満面の笑みでそういい、「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を天に向けて掲げた。彼がそれに魔力を込めようとしたまさにその瞬間。

「かぁ………は………」

 無数の閃光がテオヌジオの体を貫き、そして彼の命を奪った。

 閃光に撃ち抜かれたテオヌジオの体が崩れ落ちるより早く、彼が掲げていた腕輪が下に落ちて祭壇にぶつかり、そのまま血を流して倒れているカリュージスのほうに転がってくる。それを掴もうとしてカリュージスは必死に手を伸ばし、しかしその直前に別の手がその腕輪を拾い上げた。

「悪いがコイツはオレのものだ」

 テオヌジオを殺害し腕輪を奪ったその人物、イスト・ヴァーレはそういって不敵に笑った。彼が腕輪を手にした途端、そこにはめ込まれた「世界樹の種」は赤い光を放たなくなる。

「そんな………!」

 テオヌジオに賛同していた人々はその様子を見て悲嘆にくれる。テオヌジオが死んでしまったことを悲しんでいるわけではない。「世界樹の種」の赤い光がなりを潜めたということは、彼らにとっては「神々が自分たちを受け入れるのを拒否した」ということだ。希望を失った彼らは次々に座り込み、騒がしかった広場は途端に静かになる。

 テオヌジオの一味が抵抗をやめたことで、カリュージス子飼いの衛士たちはやることがなくなってしまい困惑気味に互いに視線を交わした。数人がカリュージスのもとに駆け寄るが、そのほかは何をすればよいのか分らずに立ち尽くしている。

 そういった一切を無視して、イストは御霊送りの祭壇に足を向ける。それを見た衛士の何人かが彼を止めようとして駆け寄るが、ある者は閃光に撃ち抜かれ、ある者は突然現れた魔法陣に弾き飛ばされてイストに近づくことができない。

 そしてついに、イストは祭壇の上に立つ。そして眼下で水を湛えているパックス湖を最後の見納めとばかりにしばしの間眺めた。数秒して飽きたのか、煙管型禁煙用魔道具「無煙」を取り出して吹かす。

「やれやれ、感傷にふけるのは性に合わない」

 湖を見ながらイストは苦笑をもらす。ずっと、ずっと待っていたのだ。この瞬間を。シーヴァが挙兵したことで随分と延期してしまったこの瞬間を。もう一秒だって待つ気にはなれない。

「さあて、楽しもうじゃないか。神話が堕ちる瞬間だ」

 狂気じみた笑みを浮かべ、イストは腕輪を投げ上げる。そして素早く「光彩の杖」を構えて魔法陣を展開し、無数の閃光を放った。放たれた閃光は腕輪に突き刺さりそれを破壊していく。

 そしてついに、一つの閃光が「世界樹の種」を貫き破砕した。

 ――――その瞬間、空が歪んだ。

 空は渦を巻くようにして歪んでいく。いや、実際に空が歪んでいるわけではない。目の前の空間が歪んでいるのだ。「世界樹の種」という核を失った亜空間が、断末魔の悲鳴をあげながら消滅しているのである。

 そして、空間の歪みは唐突に修正される。たるんでいた糸が勢いよく張り伸ばされるようにして、その歪みは、亜空間はなくなったのだ。

 しかし亜空間が消え去ったからと言ってその中に入っていたものまで消えてなくなるわけではない。亜空間がなくなれば、そこに収められていたものは実空間に戻ってくる。

「壮観だな………」

 歪みが消え去った空。そこに浮かぶ巨大な岩塊、パックスの街の成れの果てを見て、イストは恍惚とした様子でそう言葉を漏らした。

 ついに、御霊送りの神話が堕ちたのである。

 一瞬の停滞の後、宙に浮かぶ巨大な岩塊は下のパックス湖めがけて自由落下を開始する。落下の衝撃は、湖によって緩和されているとはいえ、地面を伝わり巨大な地震を発生させた。大質量の落下物は巨大な水柱を造り上げて湖から水を溢れさる。そしてその水しぶきは、高台にある神殿をも飲み込んでいった。

「最高だ!最高じゃないかぁぁ!!!」

 襲い来る濁流を前にしても、イストの顔から喜悦の色が消えることはない。狂ったように笑い声を上げながら、彼はそのまま濁流に飲まれていった。





********************





 突然の地震によって、アルテンシア軍と連合軍の決戦は強制的に中断されていた。何しろ激しい揺れだ。立っていることもままならないのであれば、戦うことなどできるはずもない。バランスを崩して倒れたり馬から振り落とされたりする者が続出したが、その反面ここは平原で崩れて上から落ちてくるようなものは何もない。この地震によってけが人は出てだろうが、死者は出ていないはずだ。

 中断させられたのは、なにも軍勢同士の戦いだけではない。戦場のど真ん中で死闘を繰り広げていたシーヴァ・オズワルドとジルド・レイドも、この地震によって仕合を一時中断していた。

「イスト………?」

 異変があったと思しきアナトテ山のほうを見て、ジルドが呟く。この地震はパックスの街が落ちたことによるものと見てまず間違いないだろう。なんらかの異変が起こるとは聞いていたが、この規模の地震は流石に予想外だ。街を落とした張本人であるイストは無事だろうか。

「これはイストの仕業か?」

 ジルドの呟きが聞こえたらしく、シーヴァがそう尋ねる。彼にしてもここまで大きな異変が起こるとは思っていなかったのだろう。

「残念ではあるが、この勝負預けるぞ」

 一時軍を退き何が起こったのかを調べなければならん、とシーヴァは言った。

「承知した」

 そういって、ジルドは「万象の太刀」を鞘に戻した。勝敗がつかなかったのはシーヴァと同じく残念ではあるが、今はそれよりもイストの安否のほうが気にかかる。

「いずれ、また」
「ああ、いずれまた」

 短くそれだけ言い交わすと、シーヴァは身を翻してアルテンシア軍のほうへ向かっていき、ジルドは「風渡りの靴」の力を駆使してアナトテ山へと向かうのであった。

 アナトテ山はひどい有様だった。あちこちで土砂崩れが起き、木々がなぎ倒されている。山道は気や大きな石、ぬかるんだ土砂によって塞がれており、普通であれば歩くことさえ困難であろう。

 そんな悪路を、しかしジルドは飛ぶようにして駆けていく。いや、実際彼の足はぬかるんだ地面に対して少しだけ浮いている。「風渡りの靴」の力を駆使して、ジルドは風の上を滑るようにして駆けていく。

 今のジルドにとって、道に散乱する木々や大きな石は障害物になりえない。それどころかちょうどいい足場だといわんばかりに、時折そこに足を着いて彼は神殿のほうへと向かっていく。

 神殿は、壊滅していた。もとより地震や鉄砲水を想定した設計などしていなかったのだろう。すべてが崩れ去り、潰れていた。積み上げられていたのであろう、四角い大きな石材があちらこちらに散乱している。

「イスト!どこだ!!」

 人の気配が感じられない被災現場でジルドは声を張り上げる。彼の内心では焦りばかりが募っていた。

 こんな事態になるなど、考えてもいなかった。いや、パックスの街が落ちることでどんな現象が起きるのか、そもそもジルドは真面目に考えたことはなかった。イストのことだからちゃんと考えているのだろうと思っていたし、なによりもシーヴァとの再戦のほうが気になっていた。

(イストがニーナを預けたのは、このせいか………!)

 その時点で気づいても良かったはずなのだ。今のこの状態を予見していてそれでも止めないイストもだか、自分の興味にばかり意識が向いていた自分にも、ジルドは腹の立つ思いだった。

「イスト!どこだ!!」

 再度、ジルドは声を上げる。

 後になって思えば、その声が聞こえていたわけではないのだろう。しかしジルドの声に応じるかのようなタイミングで光球が一つ、宙に浮かび上がった。駆け寄ると、その光球の下にイストがいた。

「ああ、おっさん。ナイスタイミング………」

 杖も流さちまってな。コイツがあってよかった、とイストは指にはめた指輪を見せる。おそらくその指輪で光球を出したのだろう。

 イストの声は流石に弱々しい。ただ口元には微妙ながらも笑みが見られた。しかしジルドはそんなものを見てはいなかった。彼が見ていたもの、それは瓦礫に挟まれ押しつぶされたイストの左足。

「イスト、左足だが………」
「ああ、ぶった切ってくれ」

 まるで大根か何かのように、イストはあっさりとそういった。始めから覚悟していたのだろう。足を片方失うことへの忌避は感じられなかった。

 ジルドは小さく「すまん」と謝ってから腰の佩いた「万象の太刀」を抜き、そしてイストの左足を膝の上辺りから切断する。

「………!!」

 足を切られた瞬間、イストは大きく体をのけぞらせたが、それでも悲鳴はあげなかった。歯をくいしばって痛みに耐えている。

 血を払った太刀を鞘に戻すと、ジルドは上着を脱いで二つに裂いた。そして一つでイストの傷口を被い、一つで傷口の上をきつく縛って止血する。本来であれば、ワインかオリーブオイルなどで傷口を消毒できればいいのだが、あいにくとそのような気の利いたものは持ち合わせていない。ともかく今は、きちんとした治療のできるところへ早く連れて行かなければならない。

 ジルドはイストを背中に負うと、再び「風渡りの靴」に魔力を込めて走り始める。ただし、背中のイストに負担をかけないよう速度は抑えながら。

「なあ、おっさん。これからどうしようか………?」

 ジルドの背中でイストが弱々しい声でそんなことを言う。普通に考えれば「これから」とは「左足を失ったこれからの生活」ということになるのだろうが、あいにくと今ジルドの背中にいる人物は普通ではない。だからジルドは、こう応じた。

「どう、とは?」
「アレを超える驚きには、この先もうあえないと思うんだ………」

 イストのいう“アレ”とは、パックスの街が堕ちたときの、その一部始終であろう。かつて彼は旅の目的を聞かれた際に「面白いものを見るため」と答えたことがあるが、足を一本失ったこの状況でそっちの心配をするとは、やはり変人というしかないであろう。その事を再確認し、ジルドは苦笑した。

「では、自分で作るしかないな」
「はい………?」
「お主は、魔道具職人なのだろう?」

 その言葉を聞いてイストが苦笑する気配をジルドは感じた。どうやらこの答えで間違っていなかったらしい。

「そうだな………。オレは、魔道具職人だ………」

 小さくそれだけ呟くと、イストは意識を手放した。

 次にイストが目を覚ましたのは、見慣れないテントの中、簡易ベッドの上だった。テントの外からは騒がしい空気が伝わってくる。おそらくアルジャーク軍の陣内だろう。イストは血が足りなくて動きが鈍い頭でそう当たりをつけた。

 イストは体を起こそうとするが、しかし体に力が入らない。仕方なく、そのまま横になっていることにした。

 目を閉じると、パックスの街を落としたときの一部始終が浮かび上がってくる。あまりに強烈であったためか、一瞬一瞬が絵画のように切り取られてイストの脳裏に焼きついている。

 砕け散る「世界樹の種」。歪む空。現れそして落下する街。揺れ動く大地。巻き上がる水のしぶき。迫り来る濁流。

 その全てが、鮮明に焼き付いている。死を迎えるその直前まで、決して色あせないと断言できるほどに。

「最高だ………!いや本当に」

 青白い顔をした怪我人は恍惚の表情を浮かべる。少しばかり危ない表情だ。しかしそれはすぐに消えて苦笑に変わった。

「アレを超える驚きか………」

 まいったね、といわんばかりにイストは右手を額に乗せた。しかし口元にはすでに不敵な笑みが浮かんでいる。

「いいね、面白そうだ」

 どんな魔道具を作ればいいのか、今はまったく思いつきもしない。そもそも「自分が驚くような魔道具を自分で作る」こと自体、理論的に考えて無理があるような気がする。だがそれでもイストはやる気でいた。

「じゃないと、これから先退屈で仕方がない」

 イストはそういった。左足を失った以上、これまでと同じように旅から旅への生活を続けることはできないだろう。自然、これからは腰をすえて魔道具を作る時間が増えることになる。ならば目標は壮大なほうがいい。簡単に達成できてはつまらないから。

 そこまで考えると、テントの入り口に人の気配がした。そちらに視線を向けると、ジルドとニーナが入ってくるところだった。

「師匠!!」

 イストが目を覚ましていることに気づいたニーナが、枕元に駆け寄ってくる。しかし俯くばかりで何も言わない。責めればいいのか心配すればいいのか、はたまた悲しめばいいのか、彼女の中で整理がついていないのだろう。

「なんだ、泣いてるのか?」
「………泣いてません」

 そういうニーナの目じりには涙がいっぱいにたまっている。そんな弟子の強がりにイストは苦笑をもらした。

「随分と元気そうだな」

 ニーナの後ろからジルドが呆れたような声をよこす。イストは視線だけニーナからそちらに移してそれに応じた。

「いやいや、力が入らなくて起き上がることもできやしない」

 横になったままでイストは大仰に嘆いて見せる。やっていて自分でおかしくなったのか途中で噴き出し、そのせいで傷が痛んだのか顔をしかめた。

「ま、それはともかく、だ」

 助かったよ、おっさん。ありがとう、とイストはジルドに礼を言った。ジルドにしてみればイストの事情も、クロノワの事情も、シーヴァの事情も、知ったことではない。異変も何もかも無視して、シーヴァと決着をつけても良かったのだ。

 しかしそれを後回しにしても、ジルドはイストを助けに来てくれた。そしてジルドが来てくれなければイストは死んでいただろう。

「少しは借りを返せたか?」
「ああ、完済だよ」

 むしろ借りができたくらいだ、とイストは笑った。

「そうか、良い債権になりそうだな」

 そういってジルドも笑った。それからすぐに笑みを収めると、ジルドは少しばかり真剣な顔をイストに向けた。

「さて、これからのことだが………」

 そう前置きしてからジルドは話し始めた。クロノワにイストの怪我のことを伝え今後のことを相談した結果、ポルトールから補給物資を運んできたランスロー子爵を頼って彼の領地で養生させてもらっては、ということになったらしい。当然のことながら、ランスローにはクロノワからも口ぞえしてくれるとのことだ。

「御前街で治療できればいいのだがな………」

 残念ながらパックスの街が落ちたことによる地震で御前街も被害を受けている。濁流に飲まれることはなかったようだが、それでも多くの建物が倒壊しており、それに伴って怪我人も多く出ている。早い話、イスト一人に時間をかけていられるような状態ではなかった。

「それにこの先、混乱も予想される」

 これからクロノワは「御霊送りの神話は嘘で捏造されたものだった」と、教会を攻撃し始める。それによって教会の権威は喪失するだろうし、また地震による混乱とあいまって大規模な暴動が起こるかもしれないと予想されていた。そしてその暴動が神聖四国全体に広がる、というのが今のところ最悪の予想である。そのような状況の下に大怪我をしたイストを置いておきたくない、とクロノワは思ったのだ。

「どうやってポルトールまで行くんだ?」
「ポルトールの補給物資を運んできた船団がある。それに乗せてもらう」

 それを聞いてイストは頭の中に世界地図を広げた。ラムナール大河に流れ込むかなり大きな支流が、たしかアナトテ山の近くを流れていたはずである。それを思い出して、イストは「ああ、なるほど」と納得した。

「まかせるよ。どの道、満足に動けやしない」
「分った。では、手配はこちらでしておこう」

 そういうと、ジルドは身を翻してテントから出て行った。中には横になったイストと、俯いたままのニーナが残る。

「………師匠は、これからどうするんですか………?」

 しばらくの沈黙の後、ニーナはそう尋ねた。

「どうするもなにも、魔道具を作るさ」

 オレは魔道具職人だからな、とイストは答えた。それを聞いて、ニーナがようやく顔を上げた。目じりにいっぱいの涙をため、そして呆れたような笑みを浮かべながら。

**********

 パックスの街が堕ちてからのことを、語らねばなるまい。

 街が落ち、そしてそれに伴って大きな地震が起きた。パックス湖からあふれ出た濁流は幸いにも戦場には押し寄せてこず、この人為的大異変によるアルテンシア軍と連合軍の死傷者はごく少数にとどまった。

 突然起こった大地震によって、両軍の戦闘は一時的に中断された。そして揺れが収まった後、戦闘が再開されるよりも早くシーヴァ・オズワルドとクロノワ・アルジャークは全軍に一時撤退を命じたのである。

 軍を退いたシーヴァとクロノワは、それぞれ独自に“地震の原因”を調べ始めた。そもそも地震に原因があると考えること自体、この時代ではかなり特異であり彼らが裏の事情を知っていることを暗示していたが、幸いにもそれを口に出す人間はいなかった。(気づいた人間はいたと思われる)

 さて、アルテンシア軍と連合軍(いやほとんどアルジャーク軍だが)のうち、先に調査結果を公表したのは連合軍のほうだった。地震発生からわずか二日後のことである。

 その調査結果によれば先ごろの巨大地震の原因は、
「パックス湖に大量の土砂と岩塊が落下したため」
 であった。

 さらに調査結果は続けて述べる。
「パックス湖の周辺に地震による以外の地形的変化を認められない以上、これら大量の土砂と岩塊は突然に湖の中、あるいはその上空に現れたとしか考えられない。常識的に考えてそのようなことはまずありえないが、しかし実際にパックス湖は大量の土砂と岩塊によって埋まってしまっている。そう、まるで最初そこは更地であったかのように」

 ここまでであれば、多くの人々はこの調査結果を真に受けることなどなかったであろう。しかし連合軍の、いやこう言おう、アルジャーク軍の調査結果はさらにこう続けている。

「方法論はともかくとして、これら大量の土砂と岩塊がどこから来たのかについて説明しなければならない。我が軍の調査の結果、これらの土砂と岩塊の中には明らかに人工物と思われる石材や木材が混じっていることが判明した。概算ではあるがその総量は、街一つ分程度はあると思われる。

 少し話が逸れるがおよそ千年前、確かにここには街があった。御霊送りの神話において神界に引き上げられたとされるパックスの街である。結論から言えば、パックス湖に落下したこれら大量の土砂と岩塊は、パックスの街、あるいは街であったもの、というのが我が軍の目するところである」

 ところどころに強引な理論が見られるのは気のせいではないだろう。というよりこの調査結果、最初から結論有りきで論が展開されているのだ。そしてついに、調査結果はアルジャーク軍の主張の肝へと至る。

「神界に引き上げられたパックスの街が現世に堕ちてくるなど、あってはならないことである。しかし現にパックスの街は落ちてしまった。そこから得るべき結論は一つである。『そもそもパックスの街は神界に引き上げられてなどいなかった』」

 アルジャーク軍がまとめた調査結果の中で、「教会が神話を捏造し信者たちを騙していた」と直接的に主張する箇所はない。しかしそれはこの調査結果を斜め読みすれば誰でも達しえる結論であった。

 さらにアルジャーク軍が調査結果を公表した三日後、ほぼ同じ内容のことをアルテンシア軍も発表する。これはつまり、クロノワ・アルジャークとシーヴァ・オズワルドという、東西の大国の国家元首が「教会が神話を捏造し信者たちを騙していた」と認めた、ということである。

 さらに十字軍に配慮する必要のないシーヴァは、こんなことさえ言っている。

「さきの地震ではその揺れに加えパックス湖からあふれ出た濁流による被害も無視できないものがある。この濁流が仮に戦場を襲っていたとすれば、アルテンシア及び連合の両軍は甚大な被害を被ったであろう」

 つまり教会がアルテンシア軍を撃退するために、味方に被害が出ることもいとわず街を落として地震と濁流を発生させた、というのである。すくなともそういう憶測が成り立つのは事実であった。

 このほかにも色々な憶測が流れた。「神々の怒り」とか、「アルテンシア軍の決戦兵器」とか、「アバサ・ロットの悪戯」とか、実に様々である。とはいえかなり早い段階で一つの説が確定事項として語られるようになる。それは、
「御霊送りの神話は嘘だった」
 というものである。

 まあ、実際に御霊送りの神話は捏造されたもので、その証拠としてパックスの街が堕ちたのだから人々はあまり抵抗なくこの説を受け入れた。

 実のところこれはアルジャーク軍とアルテンシア軍による情報操作の賜物だった。つまり徹底的にそういう噂を流したのである。

 まあ、それはともかくとして。神話が嘘であったとすれば、神界の存在さえも眉唾物になる。神界が存在しないのであれば、死後に魂となってそこへ行き救いを得るという話もすべてでたらめということになる。人々がその結論に達しえるのに、そう時間はかからなかった。

 本来ならば、アルジャーク軍はここで動いても良かった。教会を批判してその正当性を否定し、「これ以上協力する理由はない」といって軍を本国に撤退させても良かったのだ。仮にそうしたとしても、教会に裏切られた信者たちはそのことに不満を抱きはしなかっただろう。

 しかし、クロノワは動かなかった。彼は沈黙を守り、ひたすら事態の推移を見守り続けたのである。そして不思議なことに、アルテンシア軍を率いるシーヴァもまた目立った動きを起こさずにいた。

 余談になるが、クロノワとシーヴァが動かなかった理由について考えてみたい。

 まずはシーヴァだが、彼の場合、立ち位置として教会の敵対者であり侵略者である。その彼が積極的に教会を批判し始めれば、敬虔な信者であった者たちの中から教会を擁護する一派が現れることも考えられる。その一派がどれほどの勢力になるか定かではないが、自分が動くことで教会が息を吹き返す可能性についてシーヴァは考えていたのかもしれない。

 もとより教会の威光は地に堕ちている。放っておけば遠からずその影響力はなくなるのは目に見えていた。またパックスの街が落ちたことで、「教会を無力化する」というシーヴァの目的はほぼ達成させたと言っていい。いつでも動けることを考えれば、リスクを犯す必要はないと考えたのだろう。

 次にクロノワである。彼の場合、その立ち位置はシーヴァとは異なり裏切られた側である。そしてなによりも教会と後腐れなく縁を切るためにも、教会を悪役に仕立て上げて叩く必要があった。

 しかしクロノワがそれをしなかった理由は、十字軍がすぐ傍にいたためではないだろうか、と言われている。アルジャーク軍が教会に対して敵対的な言動を取り始めれば、当然十字軍との関係は険悪なものになるだろう。

 戦えば、およそ確実にアルジャーク軍が勝っただろう。しかし勝てるからと言って戦わなければならない理由にはならない。それが無意味な戦いならばなおのことだ。それにここは本国から遠くはなれた教会勢力のど真ん中である。周りの全てが敵になる可能性を考えれば、やはりうかつにことを構えるべきではない。

 どの道、このままであれば教会は滅亡する。しなかったとしても、その影響力と利用価値はなくなるだろう。そうなれば自然と縁は切れる。クロノワとしても、やはり急いで動く必要はなかったのだろう。

 アルジャーク軍は動かない。アルテンシア軍も動かない。巨大な二つの陣営が積極的に動こうとしないなか、ついに世論が燃え上がった。

 簡単に言えば暴動である。御前街にいた聖職者たちが暴徒に襲われて殺害されるという事件が多発したのである。そしてこの暴動と混乱は神聖四国全体に広がっていくことになる。教会の本拠地たる神殿が崩壊したこと、また説明責任を負っているはずの神子や枢機卿が誰も表に出てこなかったことが、この暴動と混乱に拍車をかけることになった。

 これを見てシーヴァは教会の権威が喪失したと判断した。そして遠征の目的は完全に達せられたと考え、軍をベルベッド城まで撤退させたのである。そしてそこでまたしばらく事態の推移を見守ることにした。「混乱した情勢の中、同盟国になったフーリギアを保護する目的もあった」というのが、歴史家たちの一般的な見解である。なにはともあれ、この時点でシーヴァの遠征が終わった、と言っていいだろう。

 一方クロノワはアルテンシア軍が撤退したのを見ると、十字軍を解散させた。敵がいなくなったのであれば、これ以上十字軍を維持しておく理由はない。また教会の直属部隊とも言うべき十字軍は、民衆から見れば憎悪を向ける格好の対象である。とばっちりを受けてはたまらない、と思ったのだろう。そして十字軍を解散させると、アルジャーク軍は聖女シルヴィアを伴って彼女の祖国であるサンタ・シチリアナに向かい、そしてしばらくの間そこに留まった。

 アルジャーク軍が、というよりクロノワがやって来た頃から、サンタ・シチリアナの教会に対する態度は変化する。これまでは暴徒を鎮圧することで混乱を防いでいたのだが、この時期から暴徒の襲撃対象である聖職者たちを保護(拘束)することで、混乱を未然に防ぐようになった。さらに彼らが蓄えていた財産は押収されて国庫に入れられ、その分一時的に税率を引き下げることで国民にその富が返還された。

 この措置はサンタ・シチリアナの国民からかなり好意的に受け入れられた。彼らが許せなかったのは、自分たちを騙し裏切っていた教会と聖職者たちが、それに対する報いを受けることなく、あまつさえ国に取り入って特権を維持し続けることであった。しかし国が彼らに対して厳しい対応を取り、さらに一時的とはいえ税が安くなるのであれば、溜飲も下がるというものである。

 ちなみに保護(拘束)された聖職者たちは騒ぎが収束した後、結構な額の支度金を渡されて解放された。さすがに殺してしまうのは目ざめが悪かったのだろう。なんにせよかなり温情的な措置と言っていい。まあ、当の聖職者たちがどう思っていたかは分らないが。

 こうした一連の措置のおかげでサンタ・シチリアナは他の三国に比べ、かなり早期に混乱を収束させた。そしてそれは王家の名声を高めることに繋がる。

 サンタ・シチリアナの王家は、危うい立場であった。なぜなら王女シルヴィアが「聖女」として戦っていたからだ。いわば教会の「顔」と言うべき存在を身内に抱えているわけで、非難の矛先が向きやすくなるのは当然だろう。

 しかし一連の措置を通じて王家が国民の信頼を勝ち得るにつれ、王家に対する“同情論”とも言うべきものが、巷に流布されるようになる。

 曰く、
「神聖四国という枠組みの中にあって、サンタ・シチリアナは教会に追従しなければいけない立場であった。もし刃向かおうものなら、この国は他の三国によって蹂躙されていたであろう」

 さらにこう続く。
「シルヴィア姫は確かに聖女として教会のために戦った。しかし姫は教会のためだけに戦ったのだろうか。姫は父王に対してこう言ったという。『わたくしは祖国を愛しております。この命、祖国を守るために使いとうございます』と」

 そしてこう結論付けた。
「シルヴィア姫は決して教会のためだけに戦ったのではない。いや、それ以上に祖国サンタ・シチリアナを守るべく、着慣れぬ甲冑を身に纏い戦場に立たれたのである」

 そして最後にこう問い掛ける。
「シルヴィア姫が我々を騙していたのだろうか。シルヴィア姫が我々を裏切ったのだろうか。聖女の呼び名に相応しくないことを、なにかシルヴィア姫はしたのだろうか」

 かなり作為的な“美談”ではあるが、その反面嘘は一片たりとも混じっていない。それゆえにもこの“美談”が広がるのは早かった。ちなみにアルジャーク軍がこの“美談”を広めるのに関わった、という記録は残っていない。

「救国の聖女シルヴィア様、万歳!」

 もとより国民感情としては、自分たちのお姫さまが「魔女」と蔑まれるよりは、「聖女」と称えられたほうが嬉しいものだ。サンタ・シチリアナの民衆は声を上げてシルヴィアを称えた。たとえ教会が悪であったとしても、シルヴィアが祖国を守るべく戦ったことに変わりはない。侵略者シーヴァ・オズワルドの魔の手から国を守った彼女を、サンタ・シチリアナの国民は声の限りに称え誇りとしたのである。

 機は熟した。クロノワはそう思ったのかもしれない。

 アルジャーク帝国皇帝クロノワは、サンタ・シチリアナ王国国王アヌベリアスに対して、王女シルヴィアを妃として帝国に迎えたい旨を伝えたのである。そしてそれに伴い、「シチリアナ王国」と同盟を結びたいと持ちかけた。

 シチリアナ王国。この名称には極めて大きな意味があった。これまで名乗っていた「聖(サンタ)」の称号は、つまり教会との蜜月を象徴するものであった。この称号があればこそ、神聖四国は他の国々と図太い一線を画し、そして教会は神聖四国を介することで政治的な影響力を行使していたのである。

 つまり「聖(サンタ)」の名を捨てることは、そのまま教会との関係を断つことを意味していた。しかも神聖四国の一国たるサンタ・シチリアナがその決定をするのである。それは教会という組織があらゆる力を失ったことを世間に知らしめるものであった。

 アヌベリアスはすぐさまクロノワの申し出を受け入れた。「シチリアナ王国」は衰弱しており、復興のためにはアルジャークの力がどうしても必要だったからだ。

 後日、アヌベリアスは国民に対して大々的な発表を行った。シルヴィアとクロノワの婚約。それに伴うアルジャーク帝国との同盟。そして国名を「シチリアナ王国」とすること。その全てが好意的に受け入れられた。この瞬間、教会は息の根を止められた、と言っていいだろう。

 そしてまた、クロノワの戦いもこの時点でようやく終わった、というべきだろう。

 教会は滅亡し、このさき煩わされることはない。庇護者を失った貿易港ルティスは、思惑通りにこちらの傘下に加わるだろう。アルジャーク軍の勇戦は帝国の名声を大いに高めた。懸念していた戦局の泥沼化は回避された。美しい妃を得て、さらに大陸中央部に太いパイプを作った。

 上々の、上々の結果である。

 だが失ったものも大きい。クロノワの腹心の将軍、アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍が戦死したのである。

 余談だが、クロノワは本国に帰還した後、アールヴェルツェの墓碑にただ一言「我が亜父」と刻んだ。本当ならば「我が父」と刻みたかったのかもしれない。だがクロノワの父は先帝のベルトロワだ。さすがに先帝を差し置いてアールヴェルツェを「父」と呼ぶわけにはいかなかったのだろう。

「アールヴェルツェ、全てあなたのおかげです」

 静かな部屋の中、クロノワは赤ワインを一本あけた。部屋の中にいるのは彼一人だが、用意したグラスは二つ。クロノワはそこになみなみと赤ワインを注ぎ、一つはテーブルの上におき、そして一つを掲げてから飲み干した。一筋の涙を、流しながら。



[27166] 乱世を行く! 第十話 神話堕つ エピローグ
Name: 新月 乙夜◆00adcea3 ID:965edf0e
Date: 2012/08/11 10:19
 ポルトールの港町サンサニア。その港町を見下ろす小高い岡の上に立つランスロー子爵の屋敷の一室で、イストは浅い眠りから目を覚ました。のろのろと体を起こし、ベッドの隣におかれた水差しからコップに水を注ぎ喉を湿らせる。

「暇だ………」

 とはいえ何かしようという気にもならない。少し前まで傷が原因と思われる高熱に苦しみ、こうしている今も熱が下がりきっていないのだ。

「起きたのか、イスト」
「ああ、ついさっきね」

 部屋に入ってきたのはジルドだった。手には簡単な食事を乗せたトレイを持っている。どうやら昼食を持ってきてくれたらしい。

「ニーナはどうしてる?」
「相変わらず、だな」

 そっか、とイストは呟いた。この屋敷に来てからニーナは魔道具の研究に没頭している。イストから与えられた課題ではない。個人的に興味を持っていた義肢の魔道具について、である。

「わたしが師匠を歩けるようにしてあげるんですっ!」

 今にも泣きそうな顔でニーナはそう意気込んだ。意気込むというよりも気負っているようにイストには思えた。今ではイストだけでなくニーナにまで世話が必要な状態になっている。まったく、無駄に肩に力を入れて気負ってみても頭は働かないというのに、困った弟子である。

「頃合を見て、優しく落とすか飲み物に睡眠薬を混入するなりして休ませてやってくれ」
「………了解した。適当に息抜きして休むように言っておこう」

 よろしく~、とイストは手を振る。その様子を見て、ジルドは苦笑を浮かべるのであった。

 イストに昼食を届けたジルドは、その足で今度はニーナの部屋に向かう。部屋にいるはずなのだが、ノックをしても返事がない。仕方がないので一言断ってからジルドは部屋の扉を開けた。

 中を覗くと、ニーナが机に向かっていた。頭を抱えてなにやらブツブツと呟いている。どうやら随分と行き詰まっているらしい。

「ニーナ」

 名前を呼んでみるが反応はない。ジルドはため息を一つ漏らすと、部屋の中に入りそのままニーナの傍らに近づき、今度は肩に手を置きながら名前を呼んだ。

「あ!ああ、ジルドさん………」

 ジルドに全く気づいていなかったニーナはビクッ!と体を一瞬震わせ、それからジルドの姿を認めて力を抜いた。

「少し根をつめすぎではないか?」
「ええ、まあ………。でも、はやく形にしたいですし………」

 ニーナの視線が机の上に戻る。そこには何枚もの紙に数式やら術式やらが殴り書きされていた。専門的なことはジルドには分らないが、順調とは言いがたいことはなんとなく分った。

 息抜きをしたらどうだ、と言おうとしてジルドはその言葉を飲み込んだ。そういう言い方ではニーナは言うことを聞かないだろう。まったく、頑固なところは師弟揃ってそっくりである。

 だから、ジルドは代わりにこういう言い方をした。

「イストのために、少し果物でも買ってきてくれないか」

 そういうと、ニーナは少し困ったような笑みを浮かべた。名残惜しそうに机の上を眺めてからため息を一つつき、諦めたように苦笑してから「それじゃあ買ってきます」と返事をした。

 サンサニアの港町は活気に溢れていた。新たな領主であるランスロー子爵が交易に力を入れており、アルジャークの協力もあって少しずつではあるが成果が現れ始めているのである。通りで客を呼ぶ露天には珍しい物品も並べられており、店を冷やかすニーナの顔も自然と綻んだ。

「あら!もしかしてニーナ?」

 突然、名前を呼ばれた。驚いて顔を上げて声の主を探すと、そこには特徴的なシラクサの民族衣装を身に纏う、思いがけない女性がいた。

「翡翠(ヒスイ)、さん………」

 こんなところで逢えるなんてすごい偶然ね、と思いがけない再会にヒスイは手を叩いて喜んだ。

「イストはどうしてるの?」

 ヒスイにイストの事を聞かれ、ニーナは不意に目頭が熱くなるのを感じた。どうして、と思う間もなく込みあがってくるものを、ニーナはもう抑えることができなかった。

「ど、どうしたのよ!?」

 ニーナが突然泣き出してしまい、ヒスイは慌てた。なにか悪いことをしただろうかと思うが、彼女とは今さっき再会したばかりで心当たりなどあろうはずもない。仕方なく、ヒスイはニーナを道の端に連れて行き、そこで優しく抱きしめて彼女が泣き止むのを待つのであった。

「それで、どうかしたの?」

 ニーナが落ち着いたのを見計らって、ヒスイはそう尋ねた。いくらなんでもいきなり泣き出すなど、尋常ではない。さては師匠であるイストが何かしたのかと思い、事と次第によっては鉄拳制裁を加えてやろうと心の中で握りこぶしを作った。

「実は………」

 目を真っ赤に腫らしたニーナが事情を説明し始める。それを聞くにつれて、ヒスイの顔はみるみるうちに強張っていくのであった。

**********

 ぼんやりとした頭で、イストは天井を眺めていた。ジルドが持ってきてくれた昼食を食べ終えてしまうと、本格的にやることがない。

「暇だ………」

 とはいえ頭が働かないのでは、おちおち魔道具の研究も出来やしない。かといって寝ようと思ってもついさっきまで寝ていたものだからまったく眠くならない。

「ええい、くそう………」

 何もしないでいると、左足の大怪我が自己主張を始める。最近では痛みも引いてきたのだが完全とはいいがたい。心臓の鼓動にあわせて脈打つように傷が痛むのは、なんとも言いがたく不快で憔悴させられる。

「酒が飲みたい。酒が」

 飲まずにやってられるか、といささかヤケクソ気味にイストは呟く。と、ちょうどその時、ドタバタと誰かが廊下を走る気配がした。はて誰だろうか、と思っていると部屋の扉が勢いよく開け放たれ、転がり込むようにして人影が中に入ってくる。

「ヒスイ………?」

 部屋に入ってきた人物の顔を見て、さすがにイストも驚いたような顔をした。肩で息をし髪を乱したヒスイは、顔を上げるとイストのことをキッと睨みつける。目じりに今にも流れ落ちそうな涙をためて。

「バカッ!なんて無茶してるのよ!!」

 そしてヒスイはイストのもとに歩み寄ると、彼が言い訳を口にするより速く彼の頬をムンギュと抓り上げた。

「ヒヒャイ、ヒヒャイ」

 イストが抗議の声を上げるもヒスイは抓る力を弱めない。涙をたたえた目でイストを睨みつけている。ヒスイが何を求めているのか察したイストは内心で苦笑すると、素直にその言葉を口にした。

「ごめんなひゃい」

 イストが謝ると、ヒスイは「よろしい」と言って彼の頬から手を離し目元の涙を拭って微笑んだ。

「それはそうと、なんでサンサニアに?」

 ベッドの傍の椅子にヒスイが腰掛けてから、イストは彼女にそう尋ねた。南国シラクサの人間であるヒスイが、何用で大陸に来たのだろうか。

「営業よ」

 ヒスイは簡潔にそう応えた。なんでも魔ガラスの販路を拡大するために、大陸側の商会にも営業をかけることにしたのだという。最初は弟の紫翠(シスイ)と共にカルフィスクの商会に足を運んで終わりにする予定だったのだが、サンサニアが将来有望という話を聞いてこちらにも足を伸ばしたのだという。

「町でニーナと逢って、そしたらイストが大怪我したって聞いて………」

 呆れたような、怒ったような口調でヒスイはこれまでの経緯を話した。何に呆れそして怒っているのか重々承知しているはずのイストは、軽く肩をすくめてヒスイの責めるような視線をやり過ごした。

 はあ、とことさら大げさにヒスイはため息をついて見せた。その程度でイストの鉄面皮を突き破ることはできないと知っていたが。

 体調や傷の具合について、ヒスイはイストに尋ねた。それによれば、大怪我ではあるが処置が適切だったおかげで化膿することもなく、経過は今のところ順調だという。もっとも、当分は絶対安静を言いつけられているそうだが。

「………これから、どうするの?」

 一通り尋ね終わった後、ヒスイはそう尋ねた。片足を失っては、これまでと同じく旅を続けることなどできまい。

「どうするもなにも、魔道具を作るさ」

 オレは魔道具職人だからな、とイストは答えた。

「具体的には?」
「そうだな………」

 どこかの工房に雇ってもらうか、それとも自分の工房を開くか。なにしろイストは腕のいい魔道具職人だ。引く手は数多だろう。それにいざとなれば、クロノワを頼るという手もある。

「ま、あんまりアイツには頼りたくないけどね」

 あれでなかなか腹黒だから一度頼ったら死ぬまでこき使われちまう、とイストは冗談めかして言った。

「………どうして………」

 イストがこれからどうするのか。それはイストが自分の判断で決めるべきことだ。しかしヒスイは不満だった。

「どうして、ウチを頼ってくれないの………?」
「いやだって、迷惑かけることになるし………」
「迷惑なんかじゃないわ!」

 思わず、ヒスイは叫んだ。ヒスイの家と工房「紫雲」は、イストに返し切れないほどの借りがある。少なくともヒスイはそう思っている。いや、シスイもセロンもシャロンも工房の職人たちも、みんなそう思っているに違いない。イストが困っているなら力になりたいと、みんな思っているのだ。なのに肝心のイストは自分たちを頼ってくれない。それがどうしようもなく不満で、悲しかった。

「こんなときぐらい、ウチを頼ってよ。わたしを、頼りにしてよ………」

 俯いて涙を流しながら、ヒスイは懇願する。

(反則だろう、こりゃ………)

 イストは内心で天を仰いだ。全く反則だ、本当に。ここまで言われたら、嫌とはいえないではないか。

「ん、じゃあ、まあ、世話になるよ………」

 彼にしては歯切れ悪く、イストはそういった。

「うん!任せて!」

 対照的にヒスイは満面の笑みで請け負う。

(反則だ、本当に………)

 その笑みを見て、イストはもう一度天を仰ぐのだった。

 こうしてイストがシラクサに行くことは決まった。とはいえまだまだ彼の容態は長旅に耐えうるものではない。少なくとも傷が完全にふさがるまでは安静にしていろ、と医者からも言いつけられている。

 ヒスイはイストの看病のためサンサニアに残ることにした。シスイに事情を説明し両親への言付けを頼む。そして嬉々としてイストの世話を焼くのだった。

「酒が飲みたい」
「だめよ。大怪我してるんだから我慢しなさい」
「痛み止めだよ」
「だめですー」
「薬代わりにホットワインでいいから………」
「だ・め・で・すっ!」
「………はい」

 世話を焼くのだった。

**********

 イストが鈍く光る鋼の義足を左足に装着し、その具合を確かめている。その義足は魔道具であり、作り上げた職人の名はニーナ・ミザリという。

 彼女が師匠であるイストに作品を見せるのは久しぶりだ。ただ胃の痛くなるような緊張感は、最後の課題を見せた二年前となんら変わらない。

 パックスの街が落ち、イストが左足を失ってから三年がたった。

 左足の怪我の容態が安定したのを見計らい、ヒスイの招きに応じる形でイストはシラクサへと向かうことにした。魔道具職人としての修行がまだ終わっていないニーナはそれについて行くことにしたのだが、ジルドとはそこで別れることになった。彼はこの先もまだ旅を続けるのだという。

「では、またな」
「ああ、また」

 素っ気ないほどジルドとイストの別れは簡単だった。互いに必要以上に干渉しないその乾いた関係は、ニーナなどから見れば少し寂しく思うのだが、本人たちにはそれが最適な距離だったのだろう。

 シラクサについたイストとニーナは、セロン宅に世話になることになった。ただ、以前とは異なりイストがこの先ずっとここに腰を落ち着けることになる、というのを誰もが予感していた。

 イストはせっせと魔道具を作った。そりゃもう、見ている人間が呆れるくらいのハイペースで作りまくった。幸いなことにシラクサには魔道具工房は一つもなく、彼の乱作を疎ましく思う人間はいなかった。むしろシラクサの人々はイストの作る魔道具が商人たちを呼び込むとして歓迎した。

 そうやって資金を溜めたイストは、セロンの伝手などを頼りながらついに自分の工房を開いた。名前は魔道具工房「へのへのもへじ」。思わず脱力してしまう珍妙な名前だが、それゆえ一度聞けば決して忘れまい。

 名前が珍妙で主が変人でも、「へのへのもへじ」で作られる作品は素晴らしい。すぐさま評判になりその名前は大陸中に広がった。工房の滑り出しとしては大成功といえるだろう。

 イストの私生活についても、少し書いておこう。シラクサで生活するようになってからおよそ半年後、イストはヒスイと結婚に至った。一年後には大望の第一子(女の子だ)を授かった。現在は第二子がヒスイのお腹の中にいる。

 この結婚を最も喜んだのはヒスイの両親であるセロンとシャロンだが、次に喜んでいたのはニーナだった。

「これでもう師匠のオモチャにされずにすみます!」

 斜め上の喜び方をする彼女がこの先どんな目にあったのか、まあこの場では語らずとも良かろう。

 そんなニーナではあるが、彼女はシラクサに来てからも目標に向かいブレることなく修行に励んだ。二年前に最後の課題を片付けてからは、自分の研究テーマである「魔道具製の義肢」を作り上げるべく研究に励んだ。

 そしてついに満足のいく義足を作り上げ、今まさに師匠にして使用者でもあるイストがその具合を確かめているのである。

「………駄目だな。やはり生身の足に比べると違和感がある」

 ゴチン、とニーナはテーブルに頭を打ち付けた。「そんなぁ~」と情けない声を上げる弟子に、イストは面白がるような笑みを向けた。

「でもまあ、普通の義足に比べれば格段に歩きやすい」

 たいしたもんだよ、とイストは苦笑気味にニーナに告げた。

「それじゃあ!」

 満面の笑みを浮かべてニーナは勢いよく立ち上がった。テーブルにぶつけた額が赤くなっているのはご愛嬌だ。

「合格だ」

 イストがそう告げた瞬間、ニーナは歓声をあげた。この瞬間、彼女の職人修行が終わったといっていい。

「ニーナ」

 イストは喜びに打ち震える弟子に声をかけ、ひとまず椅子に座らせる。

「お前はもう一人前だ」

 だから、といってイストは右腕につけていた腕輪「狭間の庵」を外してニーナのほうに差し出した。

「もし受け継ぐ気があるのなら、コイツをやろう」

 イストが差し出す「狭間の庵」はただの腕輪ではない。そこに固定された亜空間の中には歴代のアバサ・ロットたちが使っていた工房と、彼らが残した膨大な資料が収められている。つまりこの腕輪を受け継ぐということは、アバサ・ロットの名を受け継ぐということなのだ。

 差し出された腕輪をニーナはしばらくの間呆然と眺めていたが、意を決して首を横に振った。

「わたしの夢は、お父さんの工房『ドワーフの穴倉』を継ぐことです。アバサ・ロットの名は受け継げません」

 穏やかな笑みを浮かべながら、しかし毅然と彼女はそういった。そんな弟子を見てイストも満足そうに頷き腕輪を腕に戻した。

「代わりと言ってはなんだが、コレをやろう」

 そういってイストが取り出したのは、漆塗りの光沢が美しい木箱だった。促されるままに開けてみると、中には細工用のナイフが大小十五本も収められている。全て聖銀(ミスリル)製で美しい装飾が施されており、そして当然魔道具だ。

「頑張れよ。そして超えて見せろ、このオレを」
「師匠………!」
「まあ、そう簡単に越えさせてやる気なんてないけどな」
「師匠………」

 最後まで変わらない師弟であった。

 故郷に戻ったニーナは工房「ドワーフの穴倉」で魔道具の義肢を作り始める。魔道具というのは基本的に需要過多で作れば売れるものだが、その中でも「義肢」というのは全く新しい分野で、しかも人々からは切実に必要とされるものであった。そのため「ドワーフの穴倉」とニーナ・ミザリの名前は、すぐに大陸中に知れ渡ることになる。

 ただ分野が限定されているため、シラクサの「へのへのもへじ」には一歩劣る、というのが巷の評価だ。それを聞くたび、しかしニーナは嬉しそうに笑ったという。

「いつか絶対超えてやります」

 海の向こうを見据え、ニーナは口癖のようにそう言うのだった。



***************


最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

「なろう」のほうにあとがきと人物一覧を上げてあります。
よろしければそちらもどうぞ。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
5.0883390903473