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[26445] 魔法少女のどか☆マギカ
Name: G.J.◆bbb1f04e ID:48d188db
Date: 2011/04/03 00:07
これはとある喜劇の物語。



■Q&A
Q:ハッピーエンドは好きですか?
A:いいよね。ハッピーエンド。大好き。

Q:好きなロボットアニメは?
A:鋼鉄ジーグ。

Q:ダイの大冒険についてひとこと。
A:クロコダインのおっさんは強キャラだと思う。

Q:隣人部で一番好きなのは?
A:肉。



[26445] 【誕生編】-1-
Name: G.J.◆bbb1f04e ID:48d188db
Date: 2011/03/11 00:53
「ねぇ、ボクと契約して、『魔法少女』になってよ」

 ある晴れた休日の昼下がり。本屋に出かけた帰り道で、彼女──長谷川千雨の前にひょっこりと現れたその『生物』は、開口一番にそう言った。
 奇妙な生物だった。全体的には猫に似ている。けれども、ふさふさとした尻尾は猫のそれではなく、犬か、あるいは狐のようだ。また、その頭にある三角形の耳から、毛だかなんだかよく分からないものが、だらりと犬の耳のように垂れている。全体的には『かわいい』と表現してもいいくらいの“ぬいぐるみじみた”姿なのに、その“ぬいぐるみじみている”ことこそが不安を煽る。本当に生き物なのだろうか?
 実際、最初は誰かのイタズラを疑った。ラジコンか何かと思って、周囲を見回してみたりもした。そのくらいの技術のある人間は、ここ麻帆良では珍しくないからだ。
 しかし周りには誰もない。それでもイタズラの可能性は捨てきれないが、そこまでして自分がからかわれなければいけない理由は思いつかなかった。
 かすかに肩が上下しているところを見ると、やはりれっきとした生物なのだろう。もちろん人間以外に人語を操る生物など、千雨はこれまで見たことも聞いたこともなかったが。

「……」
「……」

 気味が悪いくらいに赤くて丸い目が、じっとこちらを見つめている。血の色をした落とし穴のように、意識が吸い込まれそうになる。こちらの言葉を、返事と待っているに違いなかった。
 白昼夢めいた光景に、乗り物酔いしたかのような悪寒がこみ上げる。動物的な本能が訴えかける。これ以上この場にいてはならない気がした。
 麻帆良に住んで千雨も長い。さんざん非常識なものは見てきたが、今回のコレは極めつけとも言えるだろう。
 よし、見なかったことにしよう。だからそう結論するのに、さほど時間は要らなかった。

「待ってくれないかな?」

 くるりと踵を返しかけたところで、謎の生物にもう一度呼び止められた。
 ふぅ、と千雨はため息をつく。手遅れだったか。
 イヤイヤながら仕方なく振り向き、まじまじと白い生き物を見つめる。微動だにしない赤い眼に、自分の顔が映り込んでいるのが見えた。

「……なんだよ、お前は?」
「ボクの名前はキュゥべえ。よろしくね、千雨」
「あ、ああ……」

 なにをどうよろしくすればいいのかまったくわからないが、とりあえず頷く。相手の真意も正体もわからないので、話を合わせるしかない。
 それよりも気になることがあった。この生物は、なぜ千雨の名前を知っていたのだろうか。

「なんで私の名前を?」
「君にはずっと目を付けていたからね。君のことならなんでも知っているよ、長谷川千雨」
「なっ……ストーカーかよ!?」
「失礼だなぁ。ほかにもっと言い方があるんじゃない?」
「ねーよ」

 じろりと冷めた目で睨むものの、キュゥべえが怯んだ様子はまったくなかった。

「まぁいいや。それで、どうなのかな?」
「どう……って?」
「最初に言ったことだよ。ボクと契約して、魔法少女になってくれないかなって」
「ずいぶんファンタジーでドリーミングかつメルヘンなお願いだな」

 そして動物と話す今の自分は、何も知らない他人が見たらメンヘルだ。

「それなら心配ないよ。ボクの姿は、普通の人には見えないからね」
「そうかそりゃ安心……って余計にマズいだろそれ! あと他人の心を読むんじゃねえ!」

 何よりも、自分が『普通の人ではない』と言わんばかりの口振りが気に入らなかった。

「実際、君は普通の人じゃないよ。君には素質があるんだ」
「だから心を読むなと……素質? どういうことだよ?」
「決まってるじゃないか。魔法少女になるための素質があるってことさ」
「そう言われてもなぁ」
「君ならば、願い次第できっとものすごい魔法少女になれるよ。僕にはね、それがわかる」
「私にはわからん」
「そうかい?」

 このキュゥべえと名乗った不思議生物は、あまり表情を変えない。もっとも、ぬいぐるみめいているとはいえ、見かけからして動物だ。犬は顔の表情筋が発達していないから表情がないと聞くし、そのクチなのだろう。

「しかし……今の私、動物と普通に話しちゃってるな。変な気分だ」
「適応力が高いね。それは素晴らしいことだと思う」
「褒められた気がしないぜ」
「褒めてるよ。そんな君だからこそ、立派な魔法少女になれるんだけどな」

 全然褒められていると思えない。むしろ恐怖さえ感じる。だいたい一方的に要求を突き付けてきたのだ。いいよなどと軽々に言えるはずがない。

「知るか。だいたい、いきなり現れて「魔法少女になってくれ」とか厚かましいにも程があるだろ。一方的にお願いするだけか? 見返りはないのかよ」
「あるよ」
「へ?」
「だから、あるってば。千雨がボクと契約してくれれば、そのときに願いを一つだけ叶えてあげる。なんでもいいよ、どんなことでも構わない。魔法少女になってくれるのならね」
「マジかよ……」

 にわかに信じられる話ではない。ないが──たぶん、このキュゥべえとやらは嘘は言っていないだろうと思った。仮に騙すのが目的なら、こんなにも荒唐無稽な嘘をつく必要などない。
 ならば結論はひとつだ。『魔法少女』とやらには、この破格の条件に見合うだけの労苦がある。そう考えるのが自然だろう。

「あのさ、そんないい条件を出すってことは、魔法少女になるってのは結構大変なことなんじゃないか?」
「そうかな? ボクは相応しいと思う対価をあげてるだけなんだけど……だってボクは君たちに、魔法少女になって魔女と戦ってほしいって頼むんだ。できるだけのことはしてあげて当然だよ」
「ま、まぁ確かに……って、今魔女と戦えって言わなかったか?」
「うん」

 キュゥべえは頷いた。相変わらず感情があまり出てこない顔だった。赤い目を覗き込んでも、心の内は読めない。むしろ引き込まれてしまいそうな、深い深い『赤』だった。

「戦えって言われてもな……だいたい魔女ってなんだ? 魔法少女とは違うのか?」
「魔法少女は希望の、魔女は呪いの象徴なんだ。そして魔女はね、人間の弱い心につけ込んで、その魂を奪ってしまう。そんな魔女と戦えるのは、魔法少女だけなんだよ」
「よく聞く話だなー」

 アニメとかで。

「要するにあれか、噛み砕いて言えば、バイト料払うから魔女退治しろってことか?」
「それで君が納得できるなら、それでいいと思う。言葉を替えても、本質は変わらないからね」
「なんだよ、ずいぶん適当だな」
「そう? ボクには君たち人間のそういう気持ちは、よくわからないんだけど。で、どうかな? ボクと契約してくれるかい?」
「うーん……」

 千雨だってまだ十代前半の少女だ。魔法少女アニメの一つや二つは見ている。『魔法少女ビブリオン』とかは、特にお気に入りだ。確かにそういう作品だと、魔法少女となることをあまり深刻に考えていた記憶はない。むしろ疑ってかかる自分のほうがおかしいのではないかと、少しばかり思えた。

「はぁ、おかしいなぁ。大抵の子は二つ返事なんだけど……」
「大抵って、お前他にもこんなことしてんのか?」
「まぁね」
「ふぅん……」

 子供の頃から“他人と見ているものが違う”という体験をしてきた彼女は、警戒心の強い性格に育った。だから孤立しがちになり、他人とのあいだに壁を作って生きてきた。それが彼女の処世術。ゆえに基本、他人の言葉は疑ってかかることにしていた。

「なぁ、それって私じゃないとダメなのか?」
「少なくとも、ボクのことが見える子じゃないと契約はできない。もっとも魔女は一人や二人じゃないからね。魔法少女になれるのならば、なってほしいと思う」
「あー、素質ってやつが絡むんだっけ」
「君ならきっとやれる。魔法少女になって、魔女と戦えるよ」
「おだてても何も出ねーぞ」

 この生物はどうにも口が上手い。話していて、そんなに悪い気分はしないのだ。彼自身の言うとおり、二つ返事で『魔法少女』になってしまう者が多いというのもわかる。
 それに多感な時期の子供ならば、魔法などという超常的な力を受け取るチャンスがあったら、話に乗ってしまう可能性は低くない。さらになんでも願いが叶うというのも魅力的だ。魔法少女になってから願いを叶えるのではなく、願いを叶えてから魔法少女になれることがいい。
 だが──そこが、そここそが千雨には美味すぎる話と思えて、どうにも今一歩踏み込むことが出来なかった。

「何よりもだ」
「うん?」
「そこまでして叶えたい『願い』っていうのが、今の私にはねーよ」

 公平に見て、千雨は恵まれた環境に生まれた子供だ。無論、富豪に生まれたクラスメートの雪広あやかなどとは比べるべくもないが、中流以上の家庭で生まれ育ち、夫婦仲も普通。家庭内暴力もなければ、生活苦に喘いだこともない。客観的には非の打ち所がないくらい『普通の女子中学生』だ。
 正確に言えば、一つだけある。千雨にも叶えたい願い、手に入れたいものが。だがそれは“キュゥべえには”絶対に叶えることができない。『魔法少女』になってしまったら、叶えることができない。だから口にはしなかった。

「まぁ、すぐに願いを……っていうのは、難しいかもしれないね」
「お?」

 存外に物分かりが良かった。拍子抜けだ。

「願いを叶えてあげられるのは一回だけだし、後悔しないよう簡単に飛びつきたくないっていう、千雨の言い分は分かったよ」
「なんか微妙に都合良く解釈されてる気もするが……ともかく今のところ、私は魔法少女になりたいとか思ってないんだ。悪いな、キュゥべえ」
「ううん、ボクのほうこそ。いろいろ勝手言っちゃって悪かったよ」

 ふるふると首を振るキュゥべえ。その仕草はずいぶんと愛らしいものだった。思わず抱きしめたくなる。別に悪いことをしたわけではないのに、きゅんと罪悪感で胸が締め付けられる思いだった。

「じゃあ、この話は今日はおしまい。そろそろ行こうか、千雨」
「へ? どこへだよ?」
「家に帰る途中だったんでしょ?」
「そりゃ帰るけど……ついてくる気かよ!?」
「もちろん。千雨の気が変わるまで、千雨が自分の願いに気付くまで、ボクはずっと待ってるよ」
「マジか……勘弁してくれよ」

 こんな図鑑にも載ってなさそうな生物を飼っていたら、あっという間に話題になって、麻帆良大の生物学科が飛んできそうだ。

「心配ないよ。さっき言わなかったっけ、ボクの姿は普通の人には見えないって」
「……あのさぁキュゥべえ、見えないのもそれはそれで問題だろ。この会話だって、独り言ぶつぶつ言ってるようなもんじゃねーか。傍から見たらキモいぞ、今の私」
「そうだね」
「否定しろよ!?」
『じゃあ、これならどう?』
「っ!?」

 突然、頭の中にキュゥべえの声が響いた。

「お、おい!?」
『頭の中で言葉を思い浮かべてみて』
『こ、こうか?』
『うん、そうそう』

 それはいわゆる念話──テレパシーというものだった。

『こ、これは……すごいな』
『ボクはこうやって、念話を中継することができるんだ。本来は魔法少女同士で、口に出せない会話するときの能力なんだけどね』
『へぇ……って、いやそうじゃなくてだな』

 いよいよもってファンタジー。
 これまでずっと敬遠し、信じていなかった『非常識』が日常になりそうな予感がひしひしとする。それはそれは不本意なことだったが。

『これ以上の立ち話もなんだしね。さあ、行こうか?』
『お前、さっきから私の話聞いてるようで聞いてないよな』
『うん? なんだい?』
『……なんでもないよ』

 するりと巻き付くように、千雨の肩へと駆け上るキュゥべえ。ここが自分の定位置だと言わんばかりのその姿に、千雨はこれ以上言葉を重ねるのは無意味と悟る。しばらくは彼に付き合わなくてはならないだろうと腹を決め、そして最後にひとつだけ大きく息を吐いた。
 
 
 
 
 キュゥべえが千雨の部屋に出入りするようになって、数日が経った。

「千雨ー、契約しようよー」
「お前ホントしつこいな!?」

 やる気なくゴロゴロとPCデスクの隅っこをのたうち回るキュゥべえを尻目に、千雨はいそいそと自分のブログやホームページの更新を行っていた。

「ところで何をしてるの、千雨?」
「趣味だよ、趣味」
「ふぅん」

 キュゥべえはおやつのバタークッキーを分けてもらいながら、大して興味がなさそうに相づちを打つ。気のない返事だが、謎の魔法生物である彼ならばネットやらパソコンやらに興味がなくても致し方ない。
 ほとんど四六時中千雨と行動を共にしているキュゥべえだが、かつて言ったとおり他人に存在を気付かれた様子はほとんどなかった。
 たまに珍しく教室へやってきた金髪幼女が怪訝そうな視線を向けてきたり、褐色の長身巫女がやけに目をしばたたかせていた気もするが、たぶん考えすぎだろう。人に言えない秘密を抱えて、自意識過剰になっているのかもしれない。

「魔法少女ね……」

 ふと思いついて、ブラウザの検索欄に『魔法少女』と入力する。

「何のつもりだい?」
「いや、ちょっと『魔法少女』について調べてみようかなって」
「ネットなんか見ても、漫画やアニメのそれが出てくるだけじゃない?」
「私もそうだとは思うんだけどな」

 たぶんトップで出てくるのは『リリカル○のは』とかそういうのだろう。あるいは「もしかして:魔砲少女」とか表示されるかもしれない。千雨の好きな『ビブリオン』はマイナー作品です。
 タン、とリズミカルにリターンキーを押して検索をかける。出てきたのは確かに予想通り、世の中に溢れる魔法少女ものアニメの名前ばかりだった。

(ま、こんなもんだよな……)

 このキュゥべえという生き物が現実に存在しているなら、少しばかりは現実の『魔法少女』のことでも拾えるかなと思ったが、案の定そんなことはなかった。

「彼女たちは基本、世の中には知られてはいけない存在だからね」
「だから私の心を読むな……って、そうなのか?」
「そりゃそうだよ。魔法少女の実在を知ったら、現代社会は大混乱さ」
「確かにな。知らないほうがいいことってやつか」
「そういうことだね」

 できれば私も知りたくなかったとは、今更なので口にしない。そのくらいにはもう諦めているし、この珍妙な生き物を受け入れてはいた。彼の言うとおり、案外自分の順応性は高いようだ。

「魔法少女に会ってみたいのかい?」
「うっ……」

 会ってみたくないと言えば嘘になる。興味はあるのだ。
 とはいえ日常とそれ以外を明確に区別しようとする千雨からすれば、本来その存在はその『日常』を侵す異物であるはず。会いたくないと自信を持って言えた、これまでは。
 だが知らなければ済むこととは、もはや言えない。千雨を見上げているキュゥべえの存在が、彼女に現実の本当の姿を見ろと突きつけてくる。目を逸らしてもそれこそ『現実』は変わらず、ただ一面のみを映し続けているだけに過ぎないということを知ってしまった。
 彼女はそんな過ちを、過ちにしたまま放っておけない──知っているのに知らないフリをすることができない。だからこそ『孤立』したのだが。

「……まぁ、な」

 しぶしぶ認めると、キュゥべえはかわいらしく目を細めた。微笑ましいものでも見るように。

「じゃあ、会いに行こうか?」
「会いに行こうかって……お前」
「言ってなかったっけ? この街にも魔法少女がいるって」
「初耳だ! なんでそういうことは先に……って、待てよ。魔法少女がいるってことは……?」
「そうだね。この街にも魔女がいる。そういうことになるね」
「マジかよ……」

 知らないあいだに日常に危機が忍び寄っていた。そのことに気づき、背筋が凍り付く。知らないまま殺されるのと、知って怯えて生きるのは、どちらが幸せなのだろうか。

「今は大きな反応もないし、怖がる必要はないよ。それに何かあっても、きっと『彼女』が守ってくれるさ」
「……感謝しなきゃいけないかな、そいつに」
「どうだろう? そういうことって、ボクから言うべきことじゃないからね」

 もっともな話だと苦笑する。心の持ちようなのだ、キュゥべえにたずねたところで意味はない。それは彼にもわかっているのだろう。小首を傾げた格好で千雨を見上げたまま、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。

「わかったよ、とりあえず会うだけ……あ、でもなぁ」

 それならばと立ち上がりかけた千雨の動きが止まった。

「どうしたんだい?」
「ああいや、その……」

 顔をあさってのほうに向けながら言葉を濁す。自分の人格的な欠点を口にするのは、誰だって気が進まないことだから。

「私って、人見知りするほうでさ」
「ああ……」
「……お前今笑っただろ?」
「笑ってないよ。うん、笑ってなんかないって」

 キュゥべえの表情は、基本的にあまり変わらない。だが時たま目を細めたり、感情らしきものを見せることはある。今もそうだった。
 それが無性に腹立たしい。だがキュゥべえは足下にいると蹴られるとでも思ったのか、さっさと部屋のドアを押し開けると、千雨を残してさっさと出て行ってしまった。

「ったく……都合の悪いことは誤魔化すんだよなぁ、アイツ」
 
 
 
 
 キュゥべえに追いついた千雨が連れてこられたのは、意外にも近い場所だった。

「寮の裏庭? こんなところで待ち合わせすんのか?」
「そうだよ。別に遠くまで出かける必要はないからね」
「ふぅん……」

 よくわからないが、キュゥべえがそれでいいと言うのならいいのだろうと、それ以上理由を正そうとしなかった。それよりも待っているこの時間のほうが落ち着かない。

「……やっぱ私、隠れてちゃダメか?」
「なに言ってるんだい。君のために来てもらうんだよ?」
「そりゃそうなんだけどさぁ……」

 考えてもみれば、会ってなにを話せばいいのだろう?
 いつも私たちを守ってくれてありがとう、これからもよろしくお願いします──なんて言うのは間抜けの極みだ、たぶん。
 そもそも千雨の口は不平や不満を言うのは得意だが、他人との円滑なコミュニケーションが取れるようにはできていない。口下手そのものというわけではないが、他人と面と向かって話すこと自体は苦手だった。

「あ、来たみたいだね」

 結局、考えがまとまるよりも早く、下草を踏み分ける音が聞こえた。

「あの、キュゥべえ……用事って、なにかな……?」
「え?」

 おずおずとたずねてきたのは、聞き覚えのある声だった。物静かで気弱そうで頼りない、だが優しい。そんな声だ。

「宮崎っ!?」
「ち、千雨さんっ!?」

 本屋こと宮崎のどか。そこに立っていたのは彼女に間違いなかった。
 誰かと考えるまでもない。クラスメートだ。本が好きで図書委員をやっているからあだ名が『本屋』。考えてみると彼女のパーソナルな部分を否定したひどい呼び方だ。実のところ本人もその呼び名は気に入ってないようだったが、無視して誰も彼もが『本屋』と呼んでいる。千雨はそう呼ばなかったが、それはあだ名で呼ぶほど親しくないというだけに過ぎない。

「なっ……どういうことだよっ!?」
「どういうことって言われても。言ったじゃないか、『魔法少女』に会わせてあげるって」
「じゃ、じゃあ……」
「そう。彼女──宮崎のどかは『魔法少女』だよ。君にとって、もっとも身近なね」

 思わず食ってかかった千雨をあしらいながら、こともなげに言うキュゥべえ。そして彼は真実、嘘などついていないのだろう。

「み、宮崎……お前、本当に……?」
「……」

 言葉では答えず、ただ彼女は黙って小さく頷いた。恥ずかしそうに頬を赤く染め、半ば顔を伏せながら。

「驚いた……としか言いようがないな」

 『魔法少女』の実在はもはや疑ってはいなかったが、こんな身近に、しかもクラスメートにいるなどとは、さすがに予想もしていなかった。

「いったい、どうして魔法少女に?」
「それはもちろん、彼女にも叶えたい『願い』があったからさ」

 答えたのはのどかではなく、キュゥべえだった。

「……確かにそうなんだろうけど」
「何かおかしいかい?」
「いや……別におかしくはないんだが」
「はっきりしないなぁ」

 幸せなバカども。千雨は自分のクラスメートのことを、そう思っていた。言葉によって人間を上に見る下に見るということではない。もっと純粋な『評価』だ。
 彼女たちは自分と違って現状に不満などなく、楽しく生きているのだろうと、奇跡がなければ叶えられない願いなど持っていないと、信じていた。
 しかし、現実は違った。少なくとも宮崎のどかという少女には、抗えない不安があり、現実を変えたくなるような悩みがあり、奇跡にすがるような理由があったのだ。
 自分が物事のほんの一面しか見ていなかったことを具体的な形で知らされ、どうにも恥ずかしくて仕方がない。まっすぐのどかを見ることさえ難しかった。

「あの、千雨さん? どうかしたんですか?」
「……ああ悪い、なんでもないんだ」
「な、ならいいんです、けど……あの、ちょっと聞きたいことがあって……」
「うん?」

 バツが悪そうにする千雨を少しばかりいぶかしんだが、やがて気を取り直したように千雨の顔を見つめるのどか。
 気弱だと思っていた彼女が、これほどしっかりと相手を見ながら話ができるだなんて、想像もしていなかった。えも言われぬ敗北感さえ覚える。

「キュゥべえと一緒にいるってことは、もしかして千雨さんも魔法少女なんですか?」
「千雨はまだ魔法少女じゃないよ。今のところ契約はしてないんだ」
「そうなんですか……」

 それを聞くと、のどかは少しだけ残念そうな──それでいて安心したような、複雑そうな表情を見せた。

「もしかして、私が魔法少女だったほうがよかったのか?」
「……いいえ、違います。そうじゃないんです……でも」
「そうだね、むしろ逆だよ千雨」
「逆?」

 キュゥべえは頷いた。

「魔法少女はよく縄張り争いをするんだ」
「縄張り争い? なんでだよ?」
「魔法少女は魔女を狩る。それは教えたよね? でも狩り場となる場所は無限じゃない。魔女の出やすい場所、出にくい場所、色々ある。だから狩り場は奪い合いになることが……結構あるんだよ」
「なるほどね。でも、獲物を取りあうってのがよくわかんねーな。協力して戦えばいいんじゃないのか?」
「そうもいかない事情があってね。のどか、見せてあげてよ」
「う、うん」

 言われるまま、のどかがすっと左手を差し出す。その中指に、見慣れない文字のかかれた指輪をはめているのがわかった。こういうアクセサリーを身につける習慣があるとは知らなかった──と感想を抱く間もなく、指輪が質量を無視して別の形へと姿を変える。
 それは掌に収まるほどの大きさをした、風変わりなオブジェだった。翡翠にも似た色をした水晶質で本体が、金ともプラチナともつかない見知らぬ金属で台座と枠が作られている。全体的には卵型──宝石で出来た、高価なイースターエッグに似ていた。もっともテレビで見たあれよりはずっとシンプルで、洗練されたデザインをしていたが。

「これは……?」
「『ソウルジェム』。魔法少女の力の源さ。魔法少女はこのソウルジェムの力を使って戦うんだ」
「へぇ……」

 よくある『変身アイテム』のようなものなんだな、と納得する。

「そしてもう一つ」
「千雨さん、こっちも……」

 キュゥべえにうながされたのどかがポケットから取り出したのは、だいたいゴルフボールほどの大きさをした丸いオブジェだった。彫刻の施された球状の金属フレームの上下から、長い針と飾り付きの尾が取り付けられている。丸っこくしたダーツの矢とか、装飾過多な釣り用の『浮子』を思い起こす形だった。
 しかし千雨は形そのものよりも、その中核部の中に閉じ込められているものが気になった。それは真っ黒い“もや”とか淀みのようなもので、どういう原理かはわからないが、このオブジェの中に閉じ込められているようだ。何かとてつもなく不吉で、見ているだけで不安さえ覚える。

「なんだ? なんか見てるだけで胃がムカムカしてくるんだが」
「そっちは『グリーフシード』と言ってね。魔女の卵だよ」
「シードって種じゃないか?」
「そうとも言うかもね。つまるところ魔女の元だと思ってくれればいい」
「はぁ……って、待てよ! 魔女の元だと!? なんでそんなもんを持ってるんだ!?」
「これは魔法少女にとって必要なものなんだ。ほら、ちょっとのどかのソウルジェムを見てごらん。少しだけ曇ってるだろう? これは魔女と戦って魔法を使うとね、こうなるんだ」
「なるほど」

 確かによく見ると、のどかのソウルジェムは、その中心にほんの少しだが黒くくすんだように濁っていた。ちょうどグリーフシードの中に納まっている“もや”のように。

「で、そこで出てくるのがグリーフシード。さ、のどか」
「う、うん」

 のどかがソウルジェムとグリーフシードを摘んで持つと、ソウルジェムからふわりと『濁り』が浮き上がり、グリーフシードへと移動していく。完全に移動しきると、ソウルジェムは綺麗に澄んだ碧色になった。

「おおお!」

 念話に続いてのファンタジックな光景に、思わず声を上げる。いや、念話はむしろ超能力っぽさもあるので、もしかしたらこれが初めて見た『魔法』らしい現象かもしれなかった。

「こんな風に溜まった濁りをね、グリーフシードに移すことでソウルジェムは元通り綺麗になるってわけさ」
「回復アイテムってところか。でもそれ、魔女の元なんだろ? 濁りとか移して大丈夫なのか?」
「今のどかが持っているのはまだ大丈夫だけどね、グリーフシードに濁りが溜まりすぎると危ない。そうなる前にボクが預かって、安全なところに保管するんだ。それもまた、ボクの大事な役目なのさ」

 そう言ったキュゥべえは、少しばかり得意げに見えた。



[26445] 【誕生編】-2-
Name: G.J.◆bbb1f04e ID:48d188db
Date: 2011/03/11 01:26
 そして翌日、六時限目。
 子供先生ことネギ・スプリングフィールドが担当する英語の授業を聞き流しながら、千雨は教室の前のほうに座るのどかの後頭部をぼんやりと見つめていた。

(魔法少女ねぇ)

 こうして後ろから見る姿は、今までと何も変わりない。ちょっと内気で鈍くさくてネギのことが好きな、ただの中学生だ。そうであるはずだった。しかしもう違う。自分たち以外が誰も知らない部分で変わってしまった。
 のどかの様子からして、自分が魔法少女であることは絶対の秘密だろう。当然だ。キュゥべえも言っていたが、魔法少女や魔女の実在について世間に知られるわけにはいかない。秘密の戦うヒロイン……魔法少女とはそういうものだと言える。

(とはいっても……ピンとはこないんだよな、はっきり言って)

 宮崎のどかという人物と戦いというものが結びつかない。荒事とはもっとも縁の遠い人種なのではなかろうか。
 図書館探検部という何かが全力で間違った“肉体派文系部活動”に所属している彼女だが、実際のところはやはり千雨と同じようにインドア派であるはずだ。しかも自覚できるほど攻撃性が高い自分と違って、のどかはいわゆる草食系の性格をしている。戦いという言葉からイメージできるものと、のどかの姿はどうしても重ならなかった。

『どうかしたのかい、千雨?』

 膝の上で丸くなっていたキュゥべえが顔を上げた。もちろんのどかを除いたクラスメートたちに姿は見えていないはずだし、この念話も聞こえていない。だが彼を見ながら会話するのはさすがに奇妙に思われるかもしれないと、千雨は一瞥だけすると黒板のほうへと視線を戻した。

『いや、大したこっちゃねーよ。宮崎と魔法少女ってのが、まだ実感として私の中で一本の線に繋がらないってだけでさ』
『ふぅん……気持ちの整理がつかないのかい?』
『そうなのかもな。お前と会ってから、今までの『当たり前』を覆されてばっかりだけど……今回のは極めつけだ。正直言って『魔法少女』ってのは、もっと私から遠いところにいるもんだと思ってたよ』
『そうなのかい? それはボクとしては認識が甘かったと言うしかないね』
『ああ、わかってるよ。魔女っているんだもんな、この現実に』

 先日に話を聞いて以来、千雨は心のどこかで常に怯え続けていた。千雨は魔女のことを知らない。魔法少女が倒すべきもの、魔法少女に倒されるものとしか知らない。どういうものか、どこから来て、どこへ行くものなのかを知らない。未知への不安が、彼女に恐れを生んでいた。

『魔女のことが怖いの、千雨?』
『……そうなんだろうな。だって倒さなきゃいけない存在なんだろ? 危険な相手だから、お前だって魔法少女として戦ってくれる奴を探してるんじゃないのか?』
『放っておけば、君たち人間に危害を加えることになるのはたしかだね』
『だろ?』

 それは予想できた言葉だ。だからきっと、誰かがやらねばならないことなのだろう。血を流してでも守りたいもののある者が、『魔法少女』と呼ばれる資格を持つのだ。千雨にはそう思えた。

(……私には、ないな)

 のどかに目を向ける。この内気なクラスメートにはそれがあった──それだけの差でしかないのに、彼女に人間として一歩も二歩も先に行かれてしまったような気がする。競争相手だと認識していたつもりはないが、自分が彼女に劣る者だと思えてならなかった。あるいはそんな風に考えてしまうことそのものが、彼女と自分の差なのかもしれなかったが。

『浮かない顔だね?』
『いや、別に』
『機嫌が悪そうだけど』
『……そう見えるか?』
『ボクにだってキミの顔を見て、どのような感情を抱いているかを推測するくらいはできるよ』
『ずっと思ってたけどキュゥべえ、お前って結構理屈っぽいよな』
『君たちの言葉で言うなら『性分』ってやつだね、きっと』
『魔法の使者のくせに』
『役割と個人の資質に、直接の因果関係はないと思うな』

 正論だ。適材適所という言葉はあるが、それはそうでないことが多いがゆえに生まれた言葉に違いない。
 その意味では、はなはだ不的確な相手のような気もしたが、聞きたいことがあったので彼にたずねてみることにした。現実問題として自分の抱える様々な疑問に答えられるのはキュゥべえしかいないのだ。

『なぁ、宮崎は……大丈夫なのか?』
『どういう意味だい?』
『危険はないのかってことだよ』
『魔法少女に危険があるのかと言われたら、ボクからはあるとしか答えられない。ゼロではないからね。心配かい、彼女のことが』
『そりゃあな。クラスメートだし……』

 利己的な人間であるという自覚はある。だがそれも人並みにという言葉が前に付くだろう。そして同じように『人並み』には、クラスメートを心配する気持ちも持ち合わせているつもりだった。

『……大丈夫、だから』
『宮崎!? あ、ああそうか。これって本来は魔法少女同士の会話のためにある能力なんだっけ』
『聞いてたのかい、のどか?』
『うん、ごめんなさい』

 盗み聞きのような形になったことを恥じているのだろう。のどかの声は実に申し訳なさそうな声色だった。

『いや、お前は別に悪くねーよ。こっちが忘れてただけだ。そ、それに……私の勝手な心配だし。宮崎がちゃんとやれてるなら、勝手なお節介になるし』

 他人の心配をすることに慣れていない、その気恥ずかしさを誤魔化すようにぶっきらぼうな言葉を口にする。

『……ううん。さっきの千雨さんの話、嬉しかった』
『え?』
『千雨さんが心配してくれたの、嬉しかった……だから』
『そ、そうか。ま、まぁなんだ、クラスメートだしな、うん』

 念話であることを差し引いても、のどかはつくづくはっきりと物を言うようになった。千雨が戸惑ってしまうほどに。
 やはり彼女は変わったと思う。そして同時に変われない自分の姿を鏡で突き付けられているようで、少しだけ胸の奥が痛んだ。
 
 
 
 
「……千雨。近くに魔女がいる」

 学校からの帰り道。キュゥべえからそんな言葉をかけられて、足がピタリと止まった。
 言葉の意味がわからないわけではもちろんない。その言葉の持つ深刻さのせいだ。思わず足を動かせなくなるほど、その言葉は重い。

「なっ……本当か!?」
「ボクが嘘をつくメリットは特に思い当たらないね」
「……まったくもってその通りだな」

 少し苛ついた。そんなことが聞きたいのではないのに。

「落ち着いてよ千雨、何も今すぐ魔女が出てくるってわけじゃない。でも近くにいるのは間違いないんだ。ほら、あの子を見て」

 キュゥべえに促されて道行く人に目を向ける。その後ろ姿に見覚えがあった。
 彼女もクラスメートの一人だ。どちらかと言えば影が薄い部類の──確か村上夏美という名前であったはず。
 我ながら薄情なことだとも思ったが、接点のないクラスメートの認識などそんなものだろう。千雨自身だってクラスの中では目立たないようにしているのだし、他の生徒から同じような認識を持たれていても不思議はない。むしろ間違いなくそういう印象だろう、むしろそうであってほしい。
 ともかく頼りない足取りで歩く夏美は、はたから見ても異常だった。道行く通行人の姿はないが、もしいれば誰かが声をかけ、通報でもしそうなくらいに。

「あいつは……!」
「知り合いかい?」
「ああ、クラスメートだよ、見たことないか?」
「記憶にはないね」
「あ、そう……で、なんであいつフラフラしてるんだ?」
「『魔女の口づけ』」
「魔女の口づけ? なんだそりゃ」
「魔女はターゲットになる人間に印をつけるんだ。狙った人を弱らせ、誘いだし、死に追いやるためにね。原因のわからない自殺や事件は、こうやって魔女に狙われたことが原因のことがよくある」
「死……!? なんでだよ!? あいつ、今日学校ではおかしくなんてなかったはずだぞ!?」
「だからこそだよ。理由もないのにおかしくなる。死にたくなったり、殺したくなったりする。それが魔女の呪いなんだ」
「マジかよ……」

 死──これまでの人生で一度も縁の無かった言葉が重くのしかかる。実感はできなくても、直感に訴えかけるものがあった。彼女から目を逸らしてはならないと。
 階段を登り、歩道橋を渡ろうとしている彼女を、千雨は慌てて追いかける。

「おい村上!」
「……」

 夏美は答えなかった。聞こえていないかのように、ただ歩道橋を真っ直ぐ歩き続ける。そして道の半ばほどに来てから、ようやく立ち止まった。

「お、おい……?」

 夏美の顔は、まるで熱病にでも冒されているかのようだった。彼女はどこも見ていない。ただ『何か』に導かれるまま、そこにあるだけで──まるで誘蛾灯に誘われる蛾のようでもあり、あるいは水に飛び込もうとする旅鼠のようでもあった。
 まずい。イヤな予感がした。いや違う、イヤな予感しかしなかった。
 ダラけていて走り慣れていない身体を叱咤して、歩道橋の上を疾走する。その手が夏美の服の袖にかかったのと、彼女が歩道橋の外に身を躍らせようとしたのはほぼ同時のことだった。

「ぐうッ!?」

 千雨の華奢な両腕に、重力に引かれた夏美の全体重がかかる。すんでのところで間に合い、夏美は歩道橋からだらりとぶら下がる形になっていた。

「お、重い……!」

 それは普段ならば冗談交じりでしか使わないような言葉。特に年頃の少女に向かっては。だが冗談でないこの状況では、切実な意味を持った言葉となる。
 はっきり言えば千雨は非力だ。不健康で運動不足で不健全な引きこもりのインドア派女子中学生だ。そんな人間が、自分と同じくらいの体重のある相手を容易に支えられるか──? もちろん答えはNoだ。不可能である。
 そう、平均値以下の体力しか持たない千雨の身体は今、限界まで酷使されていた。辛うじてと言わんばかりに彼女の腕は小刻みに震え、歩道橋の欄干が食い込む肋骨がきしむような悲鳴を上げていた。

「か、肩が抜けそうだ……! 村上、村上ぃっ!!」

 呼びかけても何の反応もない。この脱力した感じは、意識を失っているとしか思えなかった。だからこそ余計に重い。今の彼女は人型の荷物でしかないのだ。
 こんなことなら身体を鍛えておくんだった。そう後悔してももう遅い。夏美を掴んだ手が痺れてきて、感覚がなくなりつつある。せめて手を握り替えしてくれればと思うのだが、それすらしない。夏美はまるで生きることを放棄しているかのようだった。
 だがそれでも、千雨に『見捨てる』という選択肢はない。当たり前だ。ここで諦めてしまったら、きっと一生後悔する。彼女のためだけでなく、自分自身のためにも見捨てることなどできるわけがない。

「くっ……そぉぉぉっ!」

 力がなくなりきる前に足を踏ん張り、渾身の力を込めて夏美を引き上げながら、後方へと勢いをつけて倒れ込む。荒っぽいが他に方法はなかったのだ。
 手が緩めば夏美は死ぬ。絶対に離すものかと力みながら、歩道橋へと倒れ込む千雨。一瞬遅れて、まるで重い荷物のように夏美の身体が彼女の上へとおぶさった。実に重い。だがそれこそは安堵の重さだった。

「や、やった……危なかったぁ……!!」
「大丈夫かい、千雨?」
「キュゥべえ!? どこ行ってたんだよ、手伝ってくれれば、もっと楽に……」
「あいにく、ボクは君よりもずっと非力だからね。役には立てなかったさ。それより、のどかに連絡を取っておいたよ。もうすぐ来てくれると思う」
「そ、そうか……」

 夏美を抱き起こしながら、大きく息をつく。まだ心臓は早鐘のように鳴っているし、腕の痺れも取れない。だが夏美から感じる体温は、自分がやり遂げたことを教えてくれる。得も言われぬ達成感があった。

「なぁキュゥべえ、こいつどうしちまったんだ? 『魔女の口づけ』ってのは……」
「誰の心の中にもある、潜在的な破滅願望を刺激されたんだ。衝動的な自殺を誘発するタイプの魔女だね」
「なんで、そんなことを……」
「それが魔女なんだよ、千雨。言ったろ、魔女は災いと呪いをまき散らす存在だって」
「……!」

 実感した。魔女がそういう存在であることを。このときこそ千雨は初めて実感できた。魔女は私の──私たちの敵だと。
 
 
 
 
 息せき切ってのどかがやってきたのは、それから十数分ほど経ってからのことだった。

「千雨さん、キュゥべえ!」
「来たね、のどか」
「村上さんは?」
「なんとか私が助けたよ。今は眠ってる」

 千雨はそう言いながら、バス停のベンチに寝かされている夏美を目で指した。いまだに彼女は目を覚まさない。もっとも寝苦しそうにしているというわけでもないので、単純にまだ眠っているだけなのだろう。
 もっとも、それで安心はできない。彼女の首筋には、魔女によって刻まれた『魔女の口づけ』がまだ残っている。魔女がいるかぎり、彼女に忍び寄る死の影は決して消えることがないのだ。

「村上は助かるのか?」
「今は小康状態だけど、魔女の口づけを受けた人間は衝動的な自殺を繰り返すようになる。近いうちに必ず死んでしまうだろうね。彼女を救いたいのなら、方法はたった一つだ」
「……魔女を倒せってことか」
「その通りだよ。わかってきたね、千雨」

 賛辞とは思えないキュゥべえの言葉を無視して、のどかに目を向ける。彼女はさきほどよりソウルジェムを取り出すと、それをかざしながら周囲の様子を探っていた。

「何やってんだ、宮崎?」
「魔女の気配を探してます……この近くにいるはずだから」
「そ、そうか、そうだったな」

 その事実を思い出して、身をこわばらせる。
 元はといえば、夏美がこんなことになったのも全ては魔女のせいなのだ。魔女に狙われている、いつ狙われているのかわからない。そんな未知への恐怖が心を縛る。
 ならばすがるものはただ一つ。“魔女の敵”である魔法少女だ。そして今ここには魔法少女──宮崎のどかがいる。だがこのときの千雨は彼女に頼ってしまってよいものかと、疑念を抱かざるを得なかった。
 もともとのどかはどこからどう見ても、頼りがいのあるタイプではない。むしろ頼りない雰囲気の持ち主だ。それどころか、守ってやらなくてはと思うことさえある。たぶんA組の生徒の誰に聞いても、返ってくる答えは同じになるだろう。軽んじられている──とまで言うと言葉としては大げさかもしれないが、事実としては間違っていない。宮崎のどかは軽んじられていたし、軽んじていた、千雨も。
 だが今はどうだ。『魔法少女』という肩書きが一つ増えただけで、頼りないと断じていた相手でありながら彼女に頼り、全てを任せてしまおうと思っている自分がいる。恥ずかしかった。何よりもそれを「自分は魔法少女ではないのだから当然だ」と割り切り、納得しようとしている自分の性根がイヤになった。

「……最低だ」
「はい?」
「いや、なんでもねーよ」

 無意識のうちに出てしまった声を、慌てて誤魔化す。こんな醜い気持ちを、他人に知られたくはない。何よりも、まともにのどかの顔が見れなかった。心配そうにまじまじと見つめられるのがいやで、話を逸らす。

「それより魔女は見つかったのか?」
「見つかりました。このすぐ近く、歩道橋の……あそこです」

 のどかが指差したところにあったのは弔花だった。小綺麗な、だが真新しい花束だ。何を意味しているのかは考えるまでもなくわかる。

「ああ、そういえば……」

 弔花を見て思いだした。この歩道橋が出来た謂われを。
 かつて一年ほど前、ここには横断歩道があった。交通量の多い道に似つかわしくない、死角が多く粗末で見通しの悪い横断歩道だ。そんな横断歩道で事故が起こらないわけがない。
 犠牲になったのは一人の母親だったと聞いた。「我が子を守って」という悲劇的で感動的な話であったから、少し話題になっていたことを覚えている。
 もしかしたらその人が犠牲になったのも、魔女のせいであったのかもしれない。そんな風に思える。なんでもかんでも魔女にこじつければいいというものでもないのだろうが。

「千雨さん、こっちを見てください」
「これは……なんだ? 魔法陣とか、そういうのか?」

 それはナデシコの花にも似た奇怪な紋様だった。インクのようなもので歩道橋の裏側に直接書かれている。見ているだけで得も言われぬ不快な気持ちになる紋様──千雨はその感覚に覚えがあった。

「グリーフシードと同じ感覚がする……?」
「これもまた、魔女が残した痕跡なんだ。ここは魔女の結界の入り口。この奥に魔女は潜んでいるんだ」
「この先に、魔女が……」
「そしてもう一つ」

 キュゥべえはそう言って眠っている夏美の側に行くと、彼女の後ろ髪をかき分ける。そこには大きさこそ目立たないほど小さいが、歩道橋にあるものと同じ紋様が刻まれていた。

「間違いない、同じ魔女だ」
「わかるのか?」
「この印は魔女ごとに違う形をしているからね。同じ形の印であれば、それは同じ魔女の支配下にあるってことさ」
「なるほど」

 要はパーソナルマークだと理解すればいいのだろう。

「さあ、出番だよのどか」
「うん……わかってる」

 キュゥべえの言葉に、のどかははっきりと頷いた。その表情には若干の緊張がありつつも、固い決意が見て取れる。千雨にとっては初めて見る表情だった。

「い、行くのか、もう? 準備とかいいのか?」
「魔女の結界は結構すぐに移動するんです。見つけること自体が大変だから……」
「このチャンスを逃すと、次はいつになるのかわからないんだ」
「そうなのか……」

 彼女たちがそう言うのならば、正しいのだろう。だが唯々諾々とうなずいて見送ることしかできない自分がなんとも歯がゆく、情けないものがあった。

「どうかしたのかい、千雨? まさか一緒に行きたいとか?」
「い、いや……私なんかがついてっても、何の役にも立たないだろう」
「それはそうだね」

 はっきり言われると多少はショックがある。なるべくそれを顔に出さないよう、押し隠して話を続ける。

「けど、それでも何かできることないかって思ってさ」
「ふぅん……」

 キュゥべえはのどかを見上げた。選択を委ねたのだろう。戦うのは彼女だ。どうするにしろ、決定権が彼女にあるのは当然だった。

「……千雨さんは、ここで待っていてください」
「え」
「必ず戻ってきますから、ここで待っててください。それで、村上さんと一緒に帰りましょう。だから……」
「宮崎……」

 一瞬、拒絶されたのかと思った。しかしすぐに、のどかの言わんとするところがわかった。
 きっと彼女も心細いのだろう。もしも千雨が魔法少女であったなら、すぐにでも同行を頼んだに違いないほど。だが千雨は魔法少女ではない。力を持たない一般人、キュゥべえと親しいだけの単なるクラスメートにすぎない。
 そんな千雨を危険な魔女の結界の中に連れて行くことはできない。心配する気持ちだけもらっておく。のどかはそういうつもりに違いなかった。
 
 
 
 
「行ってきます」
「気をつけろよ。私はそう言うことしかできないけど、ホントに気をつけてくれ。イヤだからな、クラスメートの葬式に出るのなんて」
「……はい!」

 そんな会話を交わして、キュゥべえを連れたのどかを見送ってから、はや三十分。
 日も暮れ始めたころ、千雨はベンチで寝かせた夏美の隣に座り、落ち着きなく爪を噛んでいた。結界の中の様子はまったくわからないのだから、不安にもなる。
 そもそもどれほど危険なのかということすらわからない。問いただすことすら恐くて、キュゥべえにたずねようとしなかった。
 ただ──自分が思っていたよりも、はるかにずっと危険な存在ではあるようだ。『魔女の口づけ』を受けただけの夏美が、あんなにもあっさりと死にそうになったのだ。魔女本体があれよりも甘いわけがない。

「……私は」

 やはり一人で行かせるべきではなかったのかもしれないと、千雨は後悔し始めていた。あの時点では確かに自分が一緒に行っても、役に立たなかったのは事実だ。ならばあそこで『役に立つように』なっていればよかったのではないか。そんな風に考えてしまう。
 自分がキュゥべえの言うことと真面目に向き合ってこなかったばかりに、みすみすチャンスを逃し、クラスメートを独り死地に送ることになってしまったのではないか。そんな後悔が胸を苛んでいた。
 自罰的すぎるのはわかっていたが、「待っていてほしい」と言ったのどかの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。もしもあれが最後の記憶になってしまえば、千雨は悔やんでも悔やみきれないだろう。
 そして本当にそうなったとき、自分がそれに「仕方がなかった」と言い訳をしている姿まで想像できるのだ。その想像がおそらく間違っていないことが何よりも悔しく、情けない。

「でも、な……無理だ。無理だよ、そんなの」

 嘲笑めいたものが口元に浮かぶ。
 そこで踏ん切りを付けて様々なハードルを飛び越えることができるほど、千雨は思いきりのいい人間ではなかった。

「ああ、くそっ! どうすりゃいんだよ……」

 世の中どうにもならないことはある。口癖のように常日頃思っていることだ。けれども、その言葉が意味するところを、本当に理解できたのは今が初めてだった。どうにもならない、どうにもできない。そういう無力感が何よりも辛い。しかしどうすることもできずに、ただ時間だけが過ぎていった。

「はぁ……お?」
「う……」

 何度目になるのか、数えるのも忘れたほどのため息をつく千雨。その横で、夏美が小さくうめき声を上げた。

「やっと目を覚ましたか……このまま目覚めないかと思ったぜ」
「ん……あれ? 長谷川……?」

 状況がわかってないのだろう。あくびなどしながら目をこする夏美の姿は、のんきなものだとしか言いようがない。もちろん彼女が悪いのではなく、むしろ被害者でしかないのだから、責めようなどなかったが。

「まだ調子悪いだろうから、大人しくしとけ。宮崎が戻ってきたら一緒に帰ろう」
「……うん? ああ、それはダメかも」
「なんでだよ、用事でもあるのか? でもお前先に帰らせるわけにもな。つか、今お前から目を離したらマズ……いッ!?」

 いきなり夏美に押し倒され、ベンチから転げ落ちた。何が起こったか理解できないうちに、彼女の両腕が襟元へと伸びてくる。息が詰まり、言葉を失った。何をされているのか、一瞬わからなかった。首がとにかく苦しくて、混乱と戸惑いだけが意識を埋め尽くす。殺されると思った。

(な、何を……!?)

 自分の首を絞める夏美の腕に手をかけるが、非力な千雨では引きはがすこともできない。おまけに上にのしかかられて、ろくに身動きすら取れなかった。

「ダメだよ長谷川。なんで邪魔したの。ねぇ、なんで?」
「じゃ、邪魔……?」
「なんで邪魔するの? 私は私らしくしたいだけなのに。だから私は……」

 夏美が何を言っているのかが理解できない。おそらくは彼女の中でそうなった過程はまとまっているのだろうが、所詮は狂人の理論に過ぎないははずだ。きっと聞いても納得できない。何よりもこの理不尽な状況では、理解も納得もありはしない。

「ぐ……ぎ……ああっ!!」

 身体を折り曲げ、夏美の首に両脚を引っかける。反対側からではスカートの中身が丸見えになっているはずだが、今この状況でそんなことを気にしていられる余裕もない。
 いかに千雨がただの少女とはいえ、腕の力と脚の力で比べれば、どちらが上かなど考えるまでもないことだった。背筋を使って背骨を反らせた夏美の後頭部を、力任せに地面へと叩きつける。手加減など出来なかった。

「あぐっ……ううっ!」
「げほっ、あ、ぐあ……!」

 後頭部を抱えて転げ回る夏美の横で、大きく咳き込む。空気が足りない。今ので身体中の酸素を使い切ってしまったような気さえした。

「む、村上ぃ! なにを……!?」
「逝かなきゃ……呼んでる、から……」
「村上!?」

 もはや千雨の言葉など目に入っていないかのようだった。夏美は後頭部を押さえながら立ち上がると、まるで夢遊病者のような足取りで、歩道橋へと歩いて行く。

「馬鹿! やめろ、止まれ! 村上! 止まるんだ!」
「逝か……ないと……!」

 なんとか止めようとしがみついた千雨を引き摺り、夏美は歩き続ける。もはやそこに千雨がいるということを、認識していないかのようだった。
 彼女の進む先にあるのは歩道橋。だが、昇ろうとしているのではない。目指しているのは土台となる柱──つまりは魔女の結界だった。
 そのことに気付いた千雨の顔色が変わる。だが全力で手足を突っ張り、彼女を引きとどめようとしても、夏美は止まろうとしない。

「おい、馬鹿よせ! よせって言ってるだろ、村上っ!」

 信じられないような力で引き摺られながら、千雨が叫ぶ。だがその叫びごと彼女の身体は、夏美と共に魔女の結界へと飛び込んでいた。



[26445] 【誕生編】-3-
Name: G.J.◆bbb1f04e ID:2afe12f1
Date: 2011/03/19 00:01
「くそっ、なんてことだよ……」

 どれほど時間が経ったのだろうか。千雨が我に返ったとき、夏美の姿はすでになかった。はぐれた──あるいは置いていかれたらしい。
 結界に飛び込んでから、その瞬間までの記憶がない。頭がずきずきと痛むから、もしかしたら殴られたのかもしれない。だがそんなことはどうでもよかった。今大事なことは「夏美がいなくなってしまった」ということだ。

「早く村上を見つけないと……取り返しのつかないことに」

 目覚めてからずっと脳内でシグナルが鳴っていた。ここは危険だと。立ち去るべきだと。自分がいるべき場所ではないと知らせていた。自分の内なる警鐘というものを、これほどまでにはっきりと意識したのは、これが初めてだった。
 それもこれも今の環境のせいに違いがない。心落ち着かせるために深呼吸をする。油臭い空気が肺の中に入ってきて、むせそうになった。

「……気色が悪いぜ」

 ぐるりと周囲を見渡す。まず感じたのは、そんな感想だった。
 初めて見る結界の中。印象としては最悪で最低で最劣、そしてサイケデリック──そうとしか表現のしようがない世界だった。色とりどりのカラフルな縦縞、横縞、そして渦巻模様。そういうものでびっしりと埋め尽くされた世界。よく見ればイーゼルや油缶、キャンバスや使いかけの絵筆、ダメになった絵の具のチューブ“らしきもの”が転がっているのがわかる。どれもこれもアトリエで使われる物ばかりだ。
 画家という人種に興味がないので具体例は出せないが、きっと狂ってしまった芸術家の深層心理を具現化でもしたら、こんな風景になるのだろうと思えた。

「魔女が絵でも描くってのか? まさかな……」

 はは、と乾いた笑みを浮かべる。
 今さらながら、自分が驚くほど魔女について知らないことに気付く。ただ言われるまま、感じるままに『敵』だと思っていた。どんな『敵』であるかなど、想いを馳せたこともなかった。脅えつつも、恐れつつも、なお魔女と戦うことなど自分とはきっと縁遠いことだと、それは『魔法少女』のやることだと思い込んで。
 そのくせ、その『魔法少女』に頼り切ることもよしとできないのだ。何もかもが中途半端でやるせない。みっともない。情けない。嘆かわしいことこの上ない。そんな自分に腹が立つ。

「……でも、行くしかないか」

 足下に転がっていた大きめのペインティングナイフを拾い上げる。武器になるかすら怪しい頼りなさだが、それでも素手よりはマシに思えた。

「よし……」

 道自体は迷路となっているわけではなく、比較的単純な構造だった。どこまでも続きそうな真っ直ぐな道。だがサイケな模様に彩られているせいか、あるいは単なる油酔いか。だんだんと気分が悪くなってくる。だが立ち止まって休もうと思えるほど、千雨はこの空間に適応しているわけではない。
 歩くたびに潰れる絵の具のチューブが足下を汚す。だがいちいち気にしていられるほどの余裕はもうなかった。粘性の水音を引き摺りながら、千雨は結界の奥へと目指して歩き続ける。

「くそっ。どこまで行けばいいんだよ、これ」

 歩いているうちに時間の感覚がなくなってくる。
 目覚めた場所で動かないほうが良かったのかと、少しばかり後悔していた。だがあの周囲に出口らしきものは見当たらなかった。行くも待つもきっと同じことを考える羽目になったろう。

「目がチカチカしてきた。映像ドラッグみてーだな、まるで。これ以上見続けるとヤバいんじゃねーか? でも目をつぶって歩くわけにもなぁ……」

 色使いそのものが、人間の生理的嫌悪感を誘発するような組み合わせになっているのだろう。ただ歩いているだけで、どんどん気分が悪くなっていく。そういう心理的疲労に加え、絵具の溶剤である油の臭いと距離による単純な肉体的疲労によって、加速度的に千雨の心身を蝕んでいく。ただそこにあるだけで、自分という存在が削り取られていくかのようだ。

「村上も見つからねーし、どうしたらいいんだよ……いいやダメだダメだ、諦めるな弱気になるな私」

 頭を振って、浮かんだ弱い考えを振り切る。
 疲労が溜まってきたのだろう。限界が近いのが自分でもわかった。弱音も吐こうというものだ。だがここで膝を屈したら負けだと、そんなちっぽけなプライドにすがって、身体を奮い立たせる。疲れ果てた身体に鞭打って、千雨はなおも結界の中を歩き続けた。
 やがて少し開けた場所に出た。デッサン用の石膏像がずらりと並んだ不気味な部屋だった。石膏像が目の部分だけがことごとく抉られている。まるで像に“見られる”ことを拒否したかのような、異質で異様な悪意をそこに感じた。こんなところにいる者が、まともな精神状態であるはずがない。底知れぬ恐怖が千雨の身体を侵食していく。『自分』が壊されていくのがわかった。本当に、本当におかしくなりそうだ。
 部屋の真ん中には、一脚のイーゼルに載せられた絵が置かれていた。千雨に絵画の素養がないからか、理解しがたい絵だった。まず一見して赤黒い絵の具が塗りたくってあるようにしか見えない。微妙に濃淡をつけてあるようだが、それが絵画的に何を意味しているのかはわからない。だが、なんとなくそこに込められた情念だけは理解できた気がした。
 これは『怨念』だ。吐き気がするような暗い情熱が込められているのだ。他人を呪い自分を呪い世界を呪う陰鬱な妄執が、筆運び一つ一つによってこの絵に込められている。絵の素人であるからこそ、隠しようもないその『怨念』を、敏感に感じ取ることができたのかもしれない。

「この絵、長く見てないほうがいいな……」

 気持ちが悪い。純粋にそう思った。これは見る者を狂気に誘う絵だ。死を描き、死を呼び込む芸術だ。きっと夏美もどこかで、この魔女の作り出した『狂気』を浴びてしまったのだろう。『魔女のくちづけ』というのは、きっとこうした『狂気』を被害者に植え付けるものなのだ。だからあんな風になってしまった──そんな想像が頭をよぎった。

「いつまでもここにいるわけにいかねーな。やっぱり村上、探さないと」

 踵を返し立ち去ろうとしたそのとき、べちゃりと何かが千雨の頬を汚した。手でにぬぐってみると、すぐに正体がわかる。これは絵具だ。キャンバスに塗り付けられたものと同じ、赤い絵具。溶剤のツンとした臭いと、わずかに混ざった鉄錆のような臭いが気になる。
 だが今はそれを確かめるどころではなかった。絵に使われていた絵具が上から降ってきたのだ。それはつまり──。

「……ッ!!」

 天井を見上げる。
 魔女は“そこ”にいた。
 
 
 
 
「うわあぁぁぁっ!?」

 絵から離れるように飛び退くと、魔女が“降って”きた。いや、これが『魔女』かどうか、本当のところはわからない。だがこの禍々しさは、生まれてこの方一度も出会ったことのないものだ。怖気がくるほどの生理的嫌悪感。この世界に『こんなもの』が存在していていいのかとさえ思った。
 外見を飾らずに表現するなら、それは人間の何倍もの大きさのある『塊』だ。魔女という言葉の響きからはまったく想像もできない姿だった。だがこの嫌悪感はグリーフシードや結界から感じたのと同一のものだ。本能こそが『魔女である』と千雨に教えていた。

「グロい……なんなんだよ、こいつ!」

 後ろに距離を取りながら、『魔女』へと目を向ける。
 全体的には溶けかけたナメクジのような姿だった。しかし触角はなく、腹の部分に大きな三つ目がぎょろりと開いて睨め付けている。その周囲には三本の腕が生えていた。人間のものとは違う、蚯蚓のようにも見える異形の腕。その先端に生えた爪で器用に絵筆やペインティングナイフ、スクレパーらしきものを握っていた。

「本当に絵描きなんだな……」

 この狂った絵を描く狂ったバケモノに感情なんてものがあるのかは想像もつかないが、仮にあるのだとしたら、今は怒っているに違いなかった。創作活動の邪魔をしたのだ。気難しい芸術家がヘソを曲げるなんて、よくある話だ。
 魔女は三つの目で千雨を睨みつけながら、じりじりと地面に身体を擦りつけるようにして近づいてくる。ぶちゃぶちゃと潰れた絵具のチューブが混ざり合い、魔女の身体を色とりどりに染めて汚す。

「わ、悪かったよ。私は人を探してただけなんだ。あんたの邪魔をする気なんてなかった……って言っても、聞いてくれるわけはないよな」

 とりあえず耳らしきものはどこにもついていない。そもそも、既存の生物学が当てはまる存在なのかも怪しい。異形とはこういうことかと、思い知らされるデザインだ。コミュニケーションを取れる気がまったくしない。正直言ってあまり直視すらしていたくない。
 どうする、どうする。頭の中で考えがぐるぐる回るが、それはループするばかりで結論は出ない。どうすべきなのか、どうしたらいいのか、取っかかりすらない。焦りばかりが募る。
 じんわりと汗で濡れた下着が、ブラウスが気持ち悪い。帰ったらシャワーを浴びよう。熱いお湯を浴びて、何もかも忘れてしまおう。

「……って忘れちゃダメだ! 村上、村上を探さないと!」

 危うく彼女を見捨てるところだった。心がかなり折れかけているのがわかる。今の千雨を動かしているのは、なけなしの責任感。それが尽きてしまうのは、もう遠くないことだと自分でもわかった。
 せめてこの場を切り抜けねばならない。キュゥべえに言われるまでもなく、こんなものは人間の敵でしかないと心の底から思う。だが残念ながら、千雨には戦う術などない。こんな粗末なペインティングナイフ一本では、あの巨体に傷をつけることすら不可能だろう。
 今この瞬間だけは「魔法少女になっておけばよかった」と心の底から思った。いや、あるいは逆かもしれない。こんなものと戦い続けなくてはならないのならば、やはり魔法少女にならなかったのは正解だった。
 しかしそれもこれも、すべては生き延びてからの話だ。魔女と出会ってから、急速に“死の影”が自分に忍び寄っているのを感じる。魔女が自分を殺そうとしているのが、三つ目からあふれ出る殺意がはっきりわかる。
 アトリエに入ったからとか、そういうのはきっかけではあっても結局理由ではないのだ。こいつは憎めれば、恨めれば、呪えれば、それがなんだって構わないに違いない。自分だけの理屈で呪いと災いをまき散らし、人間が死ねばそれで満たされる存在なのだ。

「殺されて……たまるかよ」

 唇を噛みながら、折れそうになる心を奮い立たせるように呟く。自己暗示だ。

「こんなところで、私……はっ!?」

 突然、魔女の腕の一本が伸びた。これまでの緩慢な動作とは打って変わった、俊敏な動き。わけもわからないまま横に飛んだから避けることができたが、一瞬でも躊躇していれば捕まっていただろう。いや、あのナイフで貫かれ“抉られていた”かもしれない。
 魔女の腕はぶらぶらと、千雨を挑発するかのように揺れている。あるいは獲物を定めているのかもしれない。避けられた、ならば次はどこを抉ってやろう。そんな風にも見えた。
 恐くなった。バケモノに捕まり、肉を抉られて死ぬなんて考えたこともなかった。想像を絶する自分の死に様が頭に浮かび、身体の芯から震えが来る。きっと石膏像と同じように、まずは目を抉られるのだろう。手足を千切られるのかもしれない。内臓だって引きずり出されるだろう。赤い血が滝のように流れるに違いない。
 ふと気がついた。さっき魔女に気付いたとき、顔についた絵具から感じた鉄錆の臭い。あれはきっと血だったのだ。血と絵具と油を混ぜて、この魔女はキャンバスに塗りたくっていたのだ。それに何の意味があるのかはわからない。魔女にしかわからない。だが──“ああ”はなりたくないと、心底思った。

「……ちくしょう。ふざけろよ、ちくしょう!」

 吠えることしかできない。あれが誰の血であるかとか、考えたくもない。最悪の想像さえもよぎる。だがそれだけは考えてはいけないのだ。諦めたくなるから。
 意識を集中させる。逃げる。逃げよう。逃げなくてはならない。隙を見つけて、この場から消えるべきだ。
 心が五体に指令を送る。疲労と恐怖で震える四肢に鞭打ち、千雨は地面を踏みしめた。
 あの腕にさえ捕まらなければなんとかなる。身体の動作そのものは緩慢だ。走って逃げればきっと追いつけない。腕だ。腕さえ気をつければ……。

「ッ!?」

 目にも止まらぬ早さというのは、こういうことを言うのだろう。
 気づいた時には、身体がぶっ飛んでいた。魔女の腕で薙ぎ払われたのだ。鞭のようにしなり、丸太のように頑丈な腕を叩き付けられた。全身の骨が軋む。一本や二本は折れたかもしれない。
 千雨はボロクズのようにあっけなく宙を舞い、そして壁まで吹き飛ばされる。身体が動かなかった。立った一撃で、立ち上がる気力を根こそぎ奪われた。

「がはっ……はやすぎ……る」

 さっきの一撃は単なる様子見だったらしい。それを見切れなかったからこのザマなのかと、乾いた笑いしか出なかった。恐怖でカラカラに乾いた口が切れて、鉄錆の臭いが広がる。自分がこれからあの『絵具』にされると思うと、血の味すらも泣きたくなるくらいに忌々しかった。
 するすると魔女の腕が千雨の身体に巻き付く。そのままクレーンのように吊り上げると、真ん中の目のまん前にぶら下げた。
 ここから自分はどう殺されるのか。いくつかパターンは想像できたが、どうでもよかった。これから死ぬという逃げられない運命だけ知っていればいいと思った。

「けど……な。そうやすやすと死んでやるか、よ」

 手の握っていたペインティングナイフがぎらりと光る。叩き付けられたとき、奇跡的に手放さなかったそれを、千雨は思いきり魔女の瞳に突き立てた。吹き出した異常な量の返り血がまるで襲いかかるように千雨の全身を染め上げ、聞くに耐えない悲鳴が魔女のアトリエいっぱいに響く。

「ざまぁ、みろ」

 拘束を解かれた千雨は、そのままどさりと崩れ落ちた。無様に地面に這いつくばりながらも満足げな笑みを浮かべる。やってやったと、人間をなめるなと、魔女を嘲弄していた。
 きっと魔女は激怒するだろう。自分をバラバラに引き裂いて、すり潰して、粉々にして殺すだろう。そんな死に方はもちろんイヤだ。しかし何せずやすやすと殺されるのもイヤだった。どうせ死ぬなら一矢報いてからだ。それだけの気持ちで、ナイフを突き刺したのだ。
 のたうち回っていた魔女がこちらを向く。だくだくとナイフの刺さった目から赤い液体を垂れ流していた。しかし、あんなものに『血の涙』なんて綺麗な言葉を使いたくはなかった。あれは『汁』だ。魔女の汚らしい体液だ。それ以上でもそれ以下でもない。

「ざまぁ……みろ……」

 今、最後の勇気を使い果たした気がした。あとはもう、恐いだけだ。恐怖という名の毒が身体に回る前に意識を失ってしまえば、苦しまずに逝けるはずだ。
 千雨はもう一度さっきと同じ言葉を吐き捨てると、ついに意識を手放した──いや、手放そうとした。その声を聞くまでは。

「千雨さんーッ!!」
「……みや、ざき……?」
 
 
 
 
 まず打ち込まれたのは、方形のクリスタルだった。ロケット弾のように飛来したそれが、魔女の巨体を軽々と吹き飛ばす。ただの一撃で壁に叩き付けられ、魔女は無様にずり落ちる。溶けかけたナメクジが潰れたカエルになり、ぴくぴくと無様に震えていた。

「千雨さんだけでも間に合って良かった! キュゥべえ、彼女をお願い!」
「わかった」

 倒れた千雨のところにキュゥべえが駆け寄る。のどかは魔女の前に立ちはだかり、彼と千雨を守るように武器を構えた。
 それは多分ペンデュラムなのだろう。鎖のついたペンデュラム、形としてはそうに違いない。ただ常軌を逸した大きさであるだけで。クリスタルのような素材の方形の振り子は、大きさにして三十センチ近くもある。それに繋がる鎖だって相応の太さだ。いわばペンデュラムの形をした鎖分銅。のどかが手にしていたのはそういう武器だった。
 衣装も違う。今ののどかは、麻帆良学園の制服を着ていなかった。およそ市販されてなさそうな、コスプレめいたフード付きのコートを羽織っている。その胸元は『ソウルジェム』の色と似た、翡翠色のブローチで飾られていた。
 可愛らしい──そう言っても過言ではない姿だ。しかしこの姿こそが『魔法少女』としての宮崎のどかの衣装。戦うための正装だった。

「いきます!」

 魔女はのどかを敵だと認めたようだ。出会い頭にキツイのを一発叩き込まれているのだ、無理もない。地面を這いながら、威嚇するように三本の腕を広げる。
 だがのどかはまったく意に介した様子を見せなかった。ペンデュラムを構え、それを叩き込む隙をうかがっていた。

「大丈夫かい、千雨?」
「あ、ああ……なんとかな」
「ずいぶん恐い思いをしたみたいだけど、もう大丈夫だよ」
「ち、違ぇよ!」

 安堵のあまり、じわりと涙さえ滲んでいた。そんな顔をキュゥべえに見られるのが恥ずかしくて、慌ててぬぐう。こんな情けない姿を人目にさらしたくない。

「別に恥じることはないと思うんだけどなぁ」
「私の気持ちの問題だ」

 すんと鼻を鳴らしたその顔は、憮然としたものに戻っている。いつもの『長谷川千雨』を少しばかり取り戻しつつあった。

「宮崎、やけに戦い慣れしてるように見えるな……恐くないのか、あいつ……?」
「無理しないほうがいいよ、千雨。まだ痛むだろう?」
「いや、でも……宮崎のほうが……」
「彼女なら平気さ。あの程度の相手に負けるとは思わない」

 キュゥべえの言葉からは、信頼しているという情のようなものは感じられない。ただ決まり切った事実を報告するような、そんな事務的なニュアンスが感じられた。
 事実、のどかの戦いぶりに不安は見当たらない。先ほど千雨が一瞬で吹き飛ばされた魔女の腕による攻撃もやすやすとかいくぐり、ペンデュラムを撃ち込んでいる。圧倒的──そう言うべき強さだった。

「す、すげぇ」
「あの魔女と相性がいいみたいだね、のどかは」
「どういうことだ?」
「彼女の能力とあの魔女の欠点が、上手く噛み合っているってことだよ。弱点を突いているといってもいいかな。もちろんその逆のケースもあるし、そういうとき魔法少女はずいぶん苦戦を強いられるんだけどね」
「今回はツイてたってことか」
「そういう考え方でいいんじゃないかな」

 キュゥべえの言うことだ、きっと間違っていないだろう。ならば安心しても良さそうだ。のどかは負けない、きっと。

「そうか、よかった……」
「そんなに心配だったのかい?」
「……当たり前だろ。魔女に捕まったとき、本気で死ぬかと思ったんだ。自分の命が助かったからって、それで宮崎が危険になってちゃ何の意味もない」
「そんなに心配なら、ボクと契約して一緒に戦ってあげればいいのに」
「そ、それは……」

 痛いところを突く。確かに正論なのだ。千雨は結局のところ足手まといで、安全なところから心配だと口で言っているだけにすぎない。内心が伴わないということではないが、立場そのものの違いはいかんともしがたい。
 だからといって「じゃあ契約するよ」と言えるほど千雨は思い切りがいいわけではないし、切羽詰まってもいない。そう、まだ千雨は追い詰められていないのだ。のどかが有利だと聞いて一番安堵したのは、自分の中の『その』部分に違いない。それを思うと、人として忸怩たるものはやはりあった。

「もっとも君の願いは君だけのものだからね。ボクからそれ以上のことは言えない」
「そういう言い方は……やめろよな」

 心底、キュゥべえは千雨を責める気などないのだろう。だが突き放したような諦めたようなこの物言いこそが、彼女にとっては余計に辛い。かといって彼がこういうときに「そんなことはないよ」と優しくささやいてくれるような相手ではないことも、いい加減理解しつつあった。
 理性主義とでも言うべきか。キュゥべえの言葉は理路整然として、言い訳をさせてくれる余地がない。それなりに彼のことを気に入っている千雨だが、そういう部分に関してはどうしても慣れることができなかった。

「どっちにしろ、ほら。もうすぐカタがつきそうだ。案外早かったね」

 キュゥべえがあごでのどかを指す。
 戦いは一方的なまま終わろうとしていた。ペンデュラムの鎖で雁字搦めに縛られた魔女がもがくものの、身動きが取れないようだ。

「トドメ……!」

 のどかが一声かけると、ペンデュラムが強い光を放つ。そして次の瞬間、閃光と炎熱を放ち大爆発を起こした。少し離れたところにいた千雨さえ、伏せなければ耐えられないほどの爆発。直撃した魔女はひとたまりもないに違いない。事実、『魔女だったもの』は五体を飛び散らせ、その身からほとばしらせた青と黄色の体液で部屋を汚した。
 焦げたような異臭のする部屋の真ん中で、ようやく人心地がついたのか、のどかは小さく息を吐く。勝利を確信したのだろう。

「……ふぅ」
「宮崎!」
「あっ……大丈夫ですか? 怪我とかは……?」
「大丈夫、お前のおかげだ! お前のおかげだよ、ありがとう! ホントに……!」
「……間に合ってよかったです」
「ホントに、ホントに死ぬかと思った。来てくれなかったら……う、うう……」

 緊張の糸が切れて、じわりとこみ上げてくるものがあった。
 今にして思えば、魔女によく立ち向かえたものだ。あの恐怖を思い出しただけで、全身の血の気が引いて、凍えるくらいに体温が下がる気がした。涙腺が緩み、こぼれる涙を止められない。本当に……本当に怖かったのだ。
 誰かに支えてもらわないと倒れてしまいそうで、千雨はまるで子供が母親にそうするように、のどかの小さな身体にしがみついていた。

「ち、千雨さん! 大丈夫です、私はいます。いますから……」
「ひぐっ……で、でもさ……私、怖くて……お前が来てくれて、本当に……」

 嗚咽を漏らしながらのどかにすがりつき、何度も何度も礼を言う千雨。気持ちはのどかにもわかるのだろう。優しい目をしたまま、ただ落ち着くまで千雨の好きにさせていた。
 
 
 
 
「ところでのどか、さっきの魔女はグリーフシードを落としたのかい?」

 キュゥべえがそうたずねると、千雨を抱き締めたままのどかは黙って首を振る。

「そうか。やはりトドメを刺し損ねたみたいだね」
「うん……結界が消えないし、爆発に紛れて逃げられたんだと思う……」
「ま、まだ終わってないのか!?」

 ようやく泣き止んだ千雨が、それを聞いて顔を引きつらせた。

「ごめんなさい……私のツメが甘かったから」
「い、いや宮崎を責めたりしないけどさ、でも……」

 大丈夫なのかと不安げな表情を浮かべる千雨の手を、そっとのどかが取る。その目には決意があり、慈しみがあった。

「大丈夫です。千雨さんだけは私が必ず守りますから。もう魔女には指一本触れさせません! 千雨さんだけでも、絶対に……!」
「あ、ああ……あり、がとう……」

 胸が温かくなるような、力強い言葉。だがほんの少しだけ気になった。こんな言葉を、自分だけ受けていいのだろうかと。そもそも自分は何のためにこの場にいるのかと。
 魔女と対峙したショックからようやく落ち着いてきて、そのことを思い出す。何より大事だったはずのそれを忘れていた自分に、どうしようもなく腹が立った。

「千雨さん?」
「宮崎! 村上だ! 村上がいなくなったんだ! ここにいるはずなんだよ!」

 自分だけが助かっても意味がない。それにようやく思い当たる。自分だってもちろん探した。だが魔女と出くわして、自分の身さえ守りきれなかった。己の無力が身に染みる。だからこそ、のどかに頼るしかなかった。恥も外聞もなく。

「……ち、千雨さん、ちょっと痛い……です」
「あ、悪い!」

 ばつが悪そうにのどかを離すと、ようやく少し落ち着いたのだろう。だがその表情からはまだ、狼狽は消えていなかった。

「宮崎、村上を助けないと。力を貸してくれ!」
「む、村上さんは……」

 千雨の懇願に、のどかは色よい返事を返すことはなかった。曖昧な言葉を口にしてからは何も言わず、ただ辛そうに顔を背ける。まるで何かを知っているかのように。

「お、おい……なんだよ、それ……」
「……」
「宮崎……まさか……!」

 それが意味するところがわかってしまった。わかりたくないのに、わかってしまった。またしてものどかにすがりつき、問いかける。抱えきれない感情が溢れ出し、千雨の顔は今にもぐしゃぐしゃになってしまいそうだった。

「う、嘘だろ!? 嘘だよな宮崎!? 嘘って言ってくれよ!!」
「千雨。ボクたちが見つけたとき、村上夏美──だっけ? 彼女はもう……」
「そん……な」

 答えられないのどかの代わりにキュゥべえが言った。
 それを聞いた千雨が、彼の顔を見ながらがっくりと膝から崩れ落ちる。無理もなかった。後悔が胸をよぎる。無力感と罪悪感で押し潰されそうだった。

「私のせいだ。私がもっとしっかり……あいつを、あいつをちゃんと止めてれば!」

 床に爪を立てながら、絞り出すような声で口にしたのは後悔の言葉。悔やむに悔やみきれない。不意を突かれたとか、混乱していたとか、言い訳は幾らでもできる。だがそのときベストを尽くしたのかと言われればノーだ。いくらでも『もっと上手くやれたはずなのに』という後悔が、後から後から湧いてくる。

「なんで私だけ……のうのうと宮崎に助けられて……!」
「千雨、キミは単に幸運だったにすぎないんだ。普通の人間が結界に侵入すると、魔女の使い魔に捕まってそのまま……ってケースがほとんどだからね。村上夏美が残念なことになったのは自明の理だよ。キミが悪いわけじゃない」
「だ、だからって……」

 それは慰めにはならなかった。そんなに冷酷に割り切ることができるほど、千雨の精神は成熟し、達観したものではない。キュゥべえの言うことは正論ではあったけれども、頷くことはできなかった。
 魔女の結界に立ち入らせなければよかったのなら、あのとき殴り倒してでも彼女を止めるべきだったのだ。それをしなかった自分の愚かさに絶望する。

「宮崎が私を置いていった意味を、もっと真剣に考えるべきだったんだ! 私はバカだ、私が村上を……死なせてしまったも同じじゃないか……!」
「千雨さん……」

 かけるべき言葉が見つからないのだろう。のどかは心配そうに千雨の名前を呼ぶ以上のことができなかった。

「千雨、悲しむのは後でもできるんだ。今はこれからのことを考えてくれないかな。キミにもしものことがあったら、のどかの戦いも彼女の犠牲も無駄になる。それだけはしちゃいけないのは……わかるよね?」
「う……あ、ああ……そう、だな……」

 もはや千雨にはうなだれたまま、キュゥべえの言葉に同意するほかはなかった。
 夏美の死という重荷が、ずしりと彼女の痩躯にのしかかっている。もう何も自分で考える気がしない。自分が何かをすれば、のどかまで死なせてしまうような気さえして、流されるままでいるしかなかった。

「わかってくれたみたいだね。さあのどか、魔女を追うとしようか」
「え、でも千雨さんを先に安全なところに帰したほうが……」
「ここまで追い詰めてるんだ、魔女を倒すほうが早いよ。それに……キミは今の千雨から、目を離すつもりなのかい?」
「……それは」
「できないよね? だったら連れて行くしかないだろ?」
「う、うん……」

 のどかとしても、今の千雨を一人にすることは不安なのだろう。下手をすれば『魔女のくちづけ』を受けかねないほどに憔悴している彼女を残して行くことはできない。結局のどかもまた、キュゥべえの言葉に従うほかはなかった。
 
 
 
 
 魔女の結界というものは一種の異空間だ。魔女が作り出した心象風景の具現化と言ってもいい。もっとも世の中に呪いしか吐き出さない魔女の『心象』であるのだから、それが常人の見るに堪えうるようなものではもちろんないのだが。

「大丈夫ですか、千雨さん……?」
「ああ……」

 頷きはするものの、明らかに千雨の顔色は悪かった。夏美の死がショックだったことももちろんある。そのこと自体は千雨の心に深い傷痕を残していたし、おそらくは一生消えない傷となって苛み続けるだろう。
 しかし今はもっと直接的に千雨の精神は疲労していた。長時間この奇怪な世界にいたことが、彼女の精神に大きなダメージを与えている。見ているだけで不安になってくる景色がずっと続いているのだ。体調を崩してもおかしいことは何もない。
 それに先ほど浴びた魔女の血の臭いも、まるで空気に溶け込む毒のように彼女を蝕んでいる。心身両面での千雨の疲弊は、もはや隠しようもないほどだった。

(……宮崎は強いよな)

 ちらりと先導するのどかに目を向ける。むろん疲労はあるのだろうが、気丈にもそれを自分に見せまいとしていた。そうやって取り繕う余裕があるというだけで、今の千雨からしてみれば、自分とは違うと思えるのだ。
 少し前まで感じていた『芯の弱さ』というものを、今の彼女は微塵も感じることができない。あんな風に変われたらと、憧れさえ感じていた。

(私も『魔法少女』になれば……あいつみたいになれるのかな……)

 それは切実な願いとなりつつあった。罪悪感から逃げるためだったかもしれない。しかし彼女の思考の、そして心の多くをそれが占めるようになっていたのは事実だった。
 ちらりと、のどかの足下を歩くキュゥべえに目を向ける。彼に願えば、自分は魔法少女になれるはずだ。彼は自分の準備はいつでも出来ていると言っていた。あとは自分の決断次第だ。
 だがはたして、彼に何を望めばいいのだろう。たった一つしか叶わない望みだ。もはやそれを自分のためなどに使う気は毛頭ないが──やはり妥当なのは、夏美に対する償いに使うべきだろうか。願えば……きっと夏美は甦る。

(たぶん、私はそうしなきゃいけないんだろうな。けど……)

 悩みを反芻するうちに、だんだんと冷静になってきた。熱に浮かされたような考えから、少しだけ距離を取ることができるようになる。だが冷静になったぶんだけ、自分に都合のいいことを考えるようになった自分がイヤになる。
 震える手を隠すように固く握りしめる。そう、結局千雨はまだ怖かったのだ。魔法少女になって魔女と戦うということが。村上夏美を死に追いやったという負い目。それを超えるほどの恐怖を味わった。眼前に迫った死を感じた。気を抜くと、自分にまとわりつくような『死の臭い』を思い出してしまう。それを乗り越えて戦えるとは到底思えない。
 千雨は自分のことなど何一つ信じていなかったし、信じようともしなかった。彼女は無力であったし、その無力さゆえに夏美を死なせたという事実が、彼女から自信というものを根こそぎ奪っていた。
 だからこそ今の彼女は『魔法少女』という存在に対し間違いなく憧憬を抱いている。だが同時に、自分などが『魔法少女』になったところで何も変わらないとも思っていた。
 でも、きっと、それすらも言い訳で──結局のところ、千雨はただ怖いだけなのだ。
 もっと馬鹿ならばよかった。それならばたぶん、こんなにも恐れることはなかったろうから。もっと薄情であればよかった。それならばたぶん、こんなにも卑屈になることはなかったから。

「どうかしたの千雨? ボクのことを見てたみたいだけど」
「……い、いや別に、何でもねーよ。ちょっと見てただけだ」

 足を止め、くるりとキュゥべえが振り向く。表情のない赤い瞳が、じっと千雨を見つめていた。心の奥を見透かされた気がして息苦しくなる。思わず目を背けてしまった。

「そうかい? ならボクじゃなくて、周りを見るようにしたほうがいい。ここはまだ魔女の結界の中なんだ。何が起こるかわからないからね」
「……わかってるよ」

 咎めるようなキュゥべえの言葉が、とても空虚なものに感じる。嘘をついても考えていたことはわかっているぞと、そう言われているように思えた。普段から千雨の考えていることを見透かしている彼のことだ、今だってその心理を読むくらいはお手の物だろう。

「のどか、千雨の顔色が悪い。少し休憩しようか、警戒は怠らないでね」
「ん……わかった。大丈夫ですか、千雨さん?」
「い、いや……少し、気分が悪いだけだから、別に休まなくても……っ!?」

 さっきまで考えていたことのせいで、のどかの顔をまともに見ることができない。彼女からも思わず目を逸らしてしまう。だがただそれだけの動きをしただけで、かくんと膝から力が抜けてしまった。

「痛っ……」
「やっぱり休んだ方がいいよ?」
「う……わ、わかった」

 千雨は立ち上がるのを諦めて、そのまま壁に背中を預ける。確かに疲労はもう限界だった。

「結界が消えていない以上、どこかに魔女は潜んでるはずなんだ。力が弱くなりすぎて探知できないほどだけど、魔女のほうもこのままじゃじり貧だ。絶対どこかでキミたちを襲ってくると思うんだけどね」
「キュゥべえ、やっぱり一度戻った方が……」
「グリーフシードに余裕があるなら、それでもいいかもしれない。だけど、あと一回使えるか使えないかだろう? もうだいぶ魔力を消耗しているよね、のどか」
「う、うん……」
「一回出直すのは、総合的に見てリスクが高いと思う。キミがそれでいいのなら、これ以上ボクは反対しないけどね」

 諭すような口振りで言うキュゥべえに、のどかは反論する言葉を持っていないようだった。何か言いかけたまま口を噤み、ただ申し訳なさそうに千雨に視線を向ける。そんな風に謝られてしまうのは、かえって辛かった。

「……いいよ。少し休めば、大丈夫だと思う。だから気にしないでくれ」
「すみません、千雨さん……」
「いいって」

 大丈夫だと言葉を重ねたところで信じてもらえるはずがないのはわかっていたが、今はこう言うほかはない。のどかの気遣いに報いるためには、これでも足りないのだが。

「……悪いな、足引っ張っちゃって」
「そんなことは……」
「ないと否定はできないね。状況を考えるならキミは村上夏美を見殺しにしてでも、ここに来るべきではなかったと思う」

 何も言わないのどかの代わりに、キュゥべえがそう答える。言葉はいつものように淡々としていたが、辛辣なものだった。

「……あのときは、そんなに頭は回らなかった」
「だろうね。キミは魔女の危険性だけを恐れて、魔女がどんな存在であろうか知ろうとしていなかったから」
「キュゥべえ、そんな言い方は……」
「千雨が魔女についてもっと知っていれば、結界に立ち入るようなことだけはしなかったはず。そうだよね、千雨?」

 中途半端に知っていたからこそ、『魔女』にさえ出会わなければと考えて、無茶をしたきらいはある。そういう意味では確かに知識が足りなかったと言えるだろう。

「もしもキミがここにいなければ、のどかも一人を救うことに集中できたと思う。その場合もしかしたら、村上夏美が生きのびる可能性はゼロじゃなかったかもしれない」
「……やめろ」

 千雨は顔を覆いながら俯く。その口から漏れたのは、呪詛のような懇願の言葉だった。

「頼む、やめてくれ……もう……頼むから……!」
「それ以上は……! キュゥべえ、千雨さんを……」
「……ごめんね。ボクは千雨にわかってほしかっただけなんだ」

 何をわかれというのか。考えるまでもない、魔女に──そして魔法少女に関わるということがどういうことなのか、認識しなおせということなのだろう。そして自分の甘さによって犠牲になった者がいたことを忘れるな──そんな風に言いたいに違いない。

「私は……どうしたら……」

 キュゥべえが突き付けてきたのは、まぎれもなく千雨の罪だ。それを償わなくてはいけないと思う。当然だ。だがそれに自分の命を賭けられるかと言えば答えは否というしかなく、そんなあさましい自分の人間性に絶望すら感じていた。
 そんな姿を見ていることに、いたたまれなくなったのだろう。のどかは静かに千雨のそばに寄り添うと、優しくその手を取った。その温もりに、わずかばかりの安らぎを感じる。

「千雨さん」
「……?」
「千雨さんが何に苦しんでいるのか、私にもだいたいわかります。わかってるつもりです、けど……」

 のどかは慎重に言葉を選びながら、しっかりと千雨の目を見据える。

「安易な選択は……しないほうがいいと思う……」
「安易な選択っていうのは……なんだよ?」
「……村上さんを生き返らせることを願って、キュゥべえと契約すること……かな」
「っ!」

 わずかに息を呑んだ。
 見透かされていたことは、それほど驚くべきことではない。むしろ誰が見たって、今自分がそれを考えていたことは明白だった。しかしそれを『安易な選択』だと断ぜられると、まるで彼女の命を軽く見られている気がして納得できなかった。

「なんでそれが安易なんだよ! なんでダメなんだよ!?」
「それは、だって……千雨さんは村上さんの“ため”を想っているわけじゃないから。自分の失敗を帳消しにしようとしているだけだから。違う……かな?」
「……そ、それは」

 図星だった。言い訳のしようもなく。極端に言えば、村上夏美という人間はどうでもいいのだ。村上夏美を死なせたという事実をなかったことにしたい。それが千雨の本音であることは明白だ。俗物──自分の性根がその程度であることは、彼女自身が一番よくわかっていた。

「人のためってウソをついて、自分の願いを叶えようとするのは……きっとどっちも不幸になる。きっと……辛いことになる」
「でも、でもな宮崎。私には……他に方法が……ないじゃないか……!」

 この苦しみから逃れる方法。そして死んだ夏美に償う方法。只人である千雨は、どちらも持ち得ない。だから『魔法少女』に、キュゥべえにすがるしかない。
 ほかに方法でもあるのか。そう詰め寄らんばかりの千雨に、のどかはあっさりとこう言った。

「うん……方法なんてないと思う」
「だったら!」
「でも、私がいます」

 のどかは哀しみを押し隠したような表情で、小さく頷く。ほんの少し前までは、決して他人と合わせようとしなかったその両目で、まっすぐ千雨を見つめながら。

「二人で……辛さと悲しさを分かち合いませんか? 村上さんを助けられなかったのは、私も一緒だから。この罪に重さがあるのなら、半分は私が……背負うべきものだと思うから。半分こにすれば……耐えられませんか?」
「み、宮崎……!」

 彼女の言葉には一片も偽りはなく、同情もなく、ただ純粋に自分と千雨が等しい罪人と認めて、その上で罪を分かち合おうという『決意』があった。

「なん……で」

 千雨は震えていた。
 のどかの示した無償の好意。しかし抱いたのは感謝ではなく完全なる敗北感。
 今それをただ静かに受け止めるには、あまりにも彼女は追い詰められていて──はっきり言えば、嫉妬さえ感じていた。

「なんでお前は、そこまで……そこまで言えるんだよ! お前は“だから”魔法少女なのか!? そうじゃなきゃ、なれないのかよっ!?」
「ち、千雨さん? 落ち着いて……」
「だって、だって……なんでお前ばっかり……そんなに……ッ、変わったんだよ! お前、そんなこと言える奴じゃなかった! 絶対に違ってた! そうだろ!?」
「それは……」

 あまりと言えばあまりな千雨の言葉だが、のどかにも自覚はあるのだろう。気まずそうにしながら顔を伏せる。

「なんでお前は『魔法少女』なんてやれるんだよ!?」
「私は……キュゥべえから『勇気』をもらったから……」
「ゆう……き……?」

 それはひどく曖昧な言葉で、一瞬からかわれているのかとさえ思った。だがそれを受けて、すぐにキュゥべえがこう続ける。

「そうさ。のどかボクと契約するとき、臆病な自分を変えたい、勇気をもって前に進めるようになりたい。そんな風に願ったんだよ」
「それが……宮崎の願い……?」

 こくりとのどかが頷く。肯定という意味だろう。

「だから安心していいよ、千雨。別にのどかが特別だったわけじゃない。のどかは“そう”なりたいと望んだから、そういう自分になっただけさ。君だって望めば……」
「け、けど、それって……」

 洗脳みたいなもんじゃないのか、と言いかけて口をつぐむ。
 自分などが、のどかの望んだ願いにケチをつける権利などない。変わることを望んだから、彼女は変われたのだ。それも望むこともできない自分とは比較しようもない。

「でも、私は……私はやっぱり……」

 言葉を最後まで言い切ることなく、膝と頭を抱え込むよう俯く。
 どうにも思考が前向きにならない。常に後ろ向き、破滅へ向かう想像しかできなくなっている。やはり相当、自分も『魔女』にやられているらしい。あるいはそう自覚できるだけ、千雨はまだ冷静であったのかも知れない。そしてだからこそ、自分の変調が結界のせいだと納得していた。してしまった。
 しかし──。

「んうっ!?」

 ずしり、と急に身体が重くなった。正確に言うと着ている麻帆良女子中の制服が。そしてそこに染み付いて赤い液体が、急に質量を増したかのように彼女の身体に“のしかかる”。赤い液体はまるで千雨の葛藤と絶望を吸い込んだようにその面積を増し、白かったブラウスを真っ赤に染め上げると、まるで別の生き物のように──否、別の生き物として動き始める。

「ち、千雨さん!?」
「これは……のどか、千雨から離れるんだ! 魔女は、魔女が……千雨のっ!」

 珍しく切羽詰まったような声をあげるキュゥべえ。だがそれもほんの一呼吸だけ遅い。
 事態の急変に気付いたのどかがペンデュラムを取り出すのと、千雨の制服から伸びた『魔女』の爪が彼女のブローチを叩き割ったのは、ほぼ同時のことだった。



[26445] 【誕生編】-4-
Name: G.J.◆bbb1f04e ID:359c2834
Date: 2011/03/28 13:44
 あれからどのくらい経ったろうか。女子寮にある自分の部屋に戻ってきた千雨は、床に跪いたまま嗚咽を漏らし続けている。
 二人部屋を一人で使っている彼女だが、今部屋にいるのは千雨一人ではない。普段ならば千雨が睡眠を取ることになる部屋のベッド。そこに宮崎のどかが寝かされていた。
 あの時──千雨の制服に潜んでいた『魔女』がのどかに襲いかかった瞬間、のどかは自らの武器であるペンデュラムを着火していた。咄嗟のことであったが、弱っていた魔女にはそれで十分だった。爆発は千雨の制服ごと魔女を粉々に吹き飛ばし、トドメを刺すことに成功したのだ。
 しかしブローチを砕かれたのどかは、魔女が滅びたのと同時に倒れ伏す。揺すっても呼びかけても、目覚めることはなかった。千雨は彼女を背負うと、消えてゆく魔女の結界から脱出し、自分の部屋へ辿り着いたのだ。

「宮崎……」

 横たわった彼女を見つめる千雨の顔は、電気も付けず月明かりだけが差し込む部屋の中でも、はっきりとわかるほどに青ざめていた。
 もう何回、こうして彼女に呼びかけただろう。しかし、のどかはぴくりとも動かない。寝返りはおろか、指一本動かすことさえない。それどころか肌は冷え切って氷のようだったし、心臓の脈打つ鼓動もまったく聞こえなかった。一般的な言葉で言えば、つまるところ──のどかは『死んで』いた。

「のどかは魔女と相討ちになったんだ」
「キュゥべえ!」

 部屋の隅から、じわりと染み出すようにキュゥべえが姿を現す。何一ついつもと変わらないそのたたずまいが、ひたすらに悪魔じみて見えた。

「どういうことだよ……なんで宮崎が死ぬんだよ! 傷なんかどこにもないんだぞ! こんな綺麗な顔してるのに、なんで……ッ!!」
「当たり所が悪かったのさ。魔女の攻撃を受けたときのね」
「当たり所?」

 ふぅ、とわざとらしくため息をつくキュゥベエ。あまり言いたくなさそうな態度だった。しかし聞かないわけにはいかない。じっと彼の顔を見ることで、話の先をうながす。

「……のどかはソウルジェムを壊されてしまったんだ。変身したのどかの胸元にブローチがあったよね? あれはのどかのソウルジェムが変化したものなんだよ」
「それが何で!? 何でそんなもの壊されたぐらいで宮崎が死ぬんだ!?」
「言ったろ? ソウルジェムは『魔法少女』の力の源だって。それは『魔法少女』の全て、あるいはそのものと言い換えてもいい」
「なっ……なんでっ、そんなっ、あんなちっぽけな宝石が……」

 掌に乗る程度のちっぽけな宝石。その名前はなんであったか、なんと呼んでいたか。千雨の脳裏にある一つの想像が思い浮かぶ。

「ソウルジェム……魂の、宝石……っ! まさかっ!?」
「正解だよ。やっぱりキミは理解が早い。できればこの事を知らないうちに、ボクと契約してほしかったな」
「でも、魂なんて……!」
「ない、と言うのかい? 今さらだね。認められないのかな? でも、キミは現実に見てるだろう? そこに寝ているのどかの“抜け殻”をさ」
「ぬ、抜け殻って……そんな言い方すんじゃねぇよ!」
「事実だからね。ボクと契約して『魔法少女』になるっていうのは、そういうことなんだ。ボクはキミたちの願いを叶えて魂を取り出し、それをソウルジェムにする。『魔法少女』になったキミたちは、ソウルジェムで元の身体──つまりは“抜け殻”を動かす。魔法少女の本体は、いわばソウルジェムなんだよ」
「そんなの聞いてねぇぞ……! 宮崎は、宮崎は知ってたのか、そのこと!?」
「知らないよ。聞かれなかったからね」
「て、てめぇっ!」

 激昂し、掴みかかろうとする千雨の腕をかいくぐると、ちょこんと窓枠に座るキュゥべえ。らんらんと光る両目だけが、影の中で不気味に目立つ。

「やれやれ。落ち着いてよ、千雨。なんで怒るんだい?」
「当たり前だろう! そんなのもう、人間じゃないじゃねぇかッ!!」
「……? 理解できないな、キミたちのそういう態度は」

 心底わからない、といった様子でキュゥべえは首を傾げる。千雨はこのとき初めて、自分は何かとてつもなく恐ろしい存在に関わってしまったのではないかと、心底恐怖を感じた。

「あのさ、千雨」
「……なんだよ?」
「キミはもしかして、『魔法少女』が脆弱な生身のまま魔女と戦ってるって思ったのかい?」
「え? そ、それは……その、魔法の力とかで強化してるのか、と……」
「そう、強化しているのさ。魂を壊れやすい肉体から分離して、拡散しないように別の器を与える。残った身体は魔力を通せば人間を超えた力を発揮する強力な武器へと変わる。常人ならば致命傷となるようなダメージを受けても魔法で直り、簡単に死ぬこともない。戦いではソウルジェムさえ守ればいいんだ。魔女と戦う上で、こんなにいいことはないじゃないか」
「な……な……」
「まったく、キミたち人間はこの話をすると、みんな同じ顔をする。ボクとしてはキミたちが魔女に負けないようにって気遣ってるつもりなんだけど……まったくわけがわからないよ」

 彼にそういう感情があるのかはわからなかったが、キュゥべえの言葉はどこか呆れているような雰囲気があった。
 無論千雨にしてみれば呆れるのはこっちで、二の句が告げなかったのだが。

「お前……は!」
「そんな顔で睨まれても困るよ。契約は契約だからね、多少説明を省略はしてるけど。ボクは約束どおり願いを叶えたんだ、だったらキミたちにも約束どおり『魔法少女』になってもらう。どこにもおかしいところはないよね?」
「おかしいところ……だらけだろうが!」
「そうかな? 魂の実在もわかっていなかったキミたちが、少しくらいその在処が変わったからって、何も不都合ないと思うんだけど。『魔法少女』として戦う上では、メリットのほうが多いわけだしね」
「メリットとかデメリットじゃねぇだろ、こういうのは!?」
「……じゃあキミはどうするんだい? どうしたいんだい、千雨?」
「えっ……」

 キュゥべえは小首を傾げたまま、千雨の顔を覗き込む。

「それを知ったキミは……ボクと契約しないのかい? 『魔法少女』になってくれないのかな?」
「あ、当たり……」

 当たり前だろう、そう言いかけて躊躇する。視界の隅に死んだのどかの姿がちらりと映った。見ていられない。眠るように穏やかなその死に顔が、かえって恐かった。

「ねぇ千雨。“キミはそれでいいのかい”? 今のキミに……『願いごと』はないの?」
「私の……『願い』なんて……」

 そんなものはもう一つしかありえない。だがきっと、それをのどかは望まない。千雨に失望するだろう。最後に交わした言葉は、きっとそういう意味だったのだから。だからこそ、千雨は『願い』を口にすることをためらった。ほかにも理由はあったかもしれないが、のどかの言葉が千雨を思いとどまらせていたのは事実だった。

「……千雨、わかってるとは思うけど、その抜け殻はいつまでもここには置いておけないよ? もうのどかの魂は失われてしまったからね。取り戻すことはできない。“それ”はもう単なる蛋白質の塊だ。放っておけばいずれ腐るよ?」

 憎々しい。それをただ事実であるとしか認識してない口振りが、何よりも憎々しい。
 いつものように『そこ』に在るだけなのに、この白い悪魔は吐き気がするほど挑発的で……そして何よりも、彼はそうあろうとしているわけではなく、ただ書類でも読み上げるかのように淡々と“そうである”ということが、何よりも憎らしい。
 それに悔しいが、キュゥべえの言うことを無視はできなかった。現実問題としてここにはのどかの遺体があるのだ。いつまでも置いておくことはできない。千雨は何の力もないただの小娘に過ぎないのだ。死体の隠匿などできるはずがなかった。

「ぐっ……! な、なんとかならないのかよ!? 宮崎はこのままなのか!?」
「そう言われても……無理なものは無理だよ。のどかの魂は失われたんだ、ボクにはどうすることもできない。代わりの魂でもあればともかくさ」
「か、代わりの魂!?」
「そう。言ったろ、『魔法少女』の身体はソウルジェムが動かしてるんだ。なら代わりになる物があれば、動くようになるかもしれない。あくまで可能性の話だから、それ以上のことは言えないけどね」

 これはまさしく『悪魔の誘い』だと思った。キュゥべえは今の千雨が何を望み、何を願っているのか理解している。その上で千雨にあえて自分自身から話を切り出させようとしている。安易な『奇跡』をちらつかせて、その思考を恣意的に導こうとしている。そうに違いなかった。しかし今、彼の提案に抗いがたい魅力を感じている自分がいる。

(宮崎……私は……!)

 千雨の顔が苦悶に歪む。心当たりに、魂の“あて”に気付いた。だがそれは容易に口にできるようなことではなく──次に口を開くまで、ずいぶんと間があった。
 しかしそれでも、最後に彼女は決断する。悲痛な覚悟を抱きながら。

「だ、だったら……だったら私の魂を使えよ! 私のせいで宮崎が死んだんだ! あいつはこんなことで死んじゃいけなかったんだ! 私を守ったから、あいつは……!」
「確かに、そういう考え方はできるだろうね。キミがいなければ……キミが魔女に襲われて、その服に魔女を潜ませていなければ……のどかは死なずに済んだかもしれない。もちろん、それとは無関係に死んでいた可能性はあるけど」

 キュゥべえの言葉は容赦がなかった。ズタボロになった千雨の心に容赦なく追い打ちをかける。だがそれも彼女にとっては、ただの後押しぐらいにしかならなかった。彼女はもう、すでに『自分自身』を諦めつつあったから。

「わかってるよ! だから私は、私が……あいつに償うしか……ないじゃないか……! 私の魂で代わりになるなら、それで……ッ!!」
「……いいのかい、君はそれで?」
「よくねぇよ! だけど、しょうがないだろっ!? じゃあなんてあいつに詫びればいいんだよ、私はぁっ!?」

 いいわけがない。いいわけがないのだ。しかしもう限界だった。罪の意識に押し潰されて、気が狂いそうだった。耐えることなどできない。のどかの死とは、それほどまでに重すぎるものだった。背負えない──だから逃げ道はたった一つ。千雨はその残っていた逃げ道にすがっただけにすぎない。自分が正気でなくなっていることさえわかっていて、彼女はそれでもそこにすがるしかなかったのだ。

「……わかったよ。そこまで言うなら、君の願いを叶えてあげる」
「ほ、本当か!?」
「もちろん。さぁ、契約しよう。千雨、今こそキミの魂を……ボクの元に」

 誓うようにそう口にすると、床に映るキュゥべえの影が禍々しく広がる。
 千雨は背筋が凍り付くような感覚を覚えた。異形を前にした者が例外なく感じる爪痛い感覚。目の前の『化け物』から感じているものは、まぎれもなく『恐怖』だった。
 あの時と似ている。魔女に襲われ、死を感じたあの時と。

(……ああ、そうか)

 不意に理解した。キュゥべえが触手のように伸ばした耳をその胸に受け入れながら、直感的にわかった。
 自分は今、この瞬間に『死ぬ』のだと。魂を抜き取られ、身体が生命を持たないただの“塊”となって、『人間』としての長谷川千雨はここで終わってしまうのだと。どうしようもないほどにそれが理解できてしまって──それが悔しくて、哀しくて、恐ろしくて──瞳の端から、一筋涙がこぼれ落ちる。
 だがそれもただの憐憫だ。自分は『魔法少女』になって、そして死ぬ。その魂をのどかのために使うのだ。生きていられるはずがない。魔女と戦わずに、生まれてすぐ死ぬ魔法少女。無知と無力で何人も死なせてしまった、卑怯な愚か者には相応しい末路だろう。
 死が近づいているのに、不思議と両親のことは思い出さなかった。なぜだろうか──もしかすると魂を抜かれたとき、もう『人間』ではなくなってしまったからかもしれない。そんなふうに思った。
 そう、人間として生まれた『長谷川千雨』は今、魔法少女として死ぬのだ。
 
 
 
 
 猛烈な頭痛と吐き気のせいで、目が覚めた。
 寝汗で全身はびっしょりと濡れていて、張り付く下着と制服のブラウスが気持ち悪い。身体全体にどろどろした油をぶちまけたられたような感じがした。

「ええと……私、どうしたんだっけ……?」

 辺りを見回しながら、掠れたような声で呟く。わかったのは、ここが自分の部屋であるということだけだった。
 記憶が混濁している。何があったのか思い出せない。いや、何かあったのはわかるが、それを順序立てて理解できない。まるで全てのできごとが一緒くたに起きたようで、時系列というものがまるで把握できなかった。

「なんで生きてるんだろう、私……?」

 死が迫ってきたのは覚えている。ついさっきまで、恐ろしくて冷たい『死』が、すぐ身近にあったのは間違いない。それなのに、どうして今自分が生きているのかわからなかった。一瞬、ここが地獄なのではないかと疑ったくらいだ──もちろん、嘘吐きで卑怯者の自分が天国になど行けるとは思っていない。その可能性は最初から考えなかった。

「くそっ、気持ち悪ぃ……」

 寝ていたベッドの上からずり落ちて、床に転がる。身体が鉛のように重たい。悪い夢でも見ていた後のようだった。
 だが、夢ではない。ずっと握りしめていた手を開くと、そこにはかつて見たことのある『ちっぽけな宝石』があった。色は赤紫色。少しアメジストに似ている。

「ソウルジェム……!」

 かつてのどかが生きていた頃、ソウルジェムを見せてもらったことを思い出した。彼女のそれは翡翠色だ。これとは色が違う。つまりこれはのどかのものではなく、千雨自身のものに違いなかった。
 この身がヒトでなくなり、『魔法少女』という名前の魔女と戦うための道具となった証。今はもう、呪われた宝石にしか見えない。そしてこれこそが『自分自身』だと、あの白い悪魔は言った。
 人間を捨て、“こんなもの”に成り果てた代わりに得られたのは、たった一つ限りの願い。それを思い出す。なんのために、自分はこうなったのであったかと。

「そ、そうだ……宮崎は!? 宮崎はどうしたんだ!?」

 急に大声を出したせいか、喉が痛い。張り上げた声がいつもと違ったものに聞こえたが、他にやるべきことがあった。
 四つん這いになって、暗がりの中でのどかの姿を探す。自分の願いは叶えられたのか。それだけが気がかりだった。

「宮崎、宮崎っ! どこだ、どこだ……よっ!?」

 ごつりと手の先にぶつかった感覚があった。ふらつき、頭からつんのめりそうになるのをなんとかこらえる。床に何か重たいものが転がっていたようだ。
 まさかと思い、慌てて抱き上げる。氷のような冷たさを持ったそれは、間違いなく人間の形をしていた。

(まさか、まさか……!)

 焦燥が募る。自分が生きているのだ。失敗したのかと、願いは果たされなかったのかと、心の中に影が満ちる。握りしめていたソウルジェムの中に黒い淀みが少しだけ広がった。しかし今の彼女は、そんなことに気付いていられる余裕など全くない。
 電気も点けていない部屋だから、抱き上げた遺体の顔がよくわからない。明かりを点けようと舌打ちしながら腰を上げたその時……ちょうど雲間から月明かりが差した。
 金色の光が部屋に差し込み、自分と遺体を照らし出す。ぼうっと幽鬼のように青白い肌をした遺体の顔は、自分の──『長谷川千雨』の顔だった。

「ひ……!?」

 思わず“彼女”を取り落とす。
 どうして『自分』が死んでいるのか。いや、どうして『自分の死体』がここにあるのか。わけがわからない。
 そもそも彼女が『長谷川千雨』であるのなら、それを抱き上げ、そして今見下ろしている『自分』は果たして誰なのか? 
 理解できなかった。意識と記憶が混濁して、視界が狂気めいて歪んでいく。自分は誰で、ここはどこで、今はいつで、何がどうしたのか。何もかもがわからなくなっていく。
 気持ち悪い。頭が割れそうなほどに痛む。理解してはならないことを、知識が勝手に結論を出そうとしている。意志が拒絶し、理性が知らせようとする。頭の中がバラバラになりそうだった。

「なんだよ、これぇ……なんなんだよぉ……!?」
「ああ、目が覚めたかい?」

 さあっと風でカーテンがたなびく。その陰から現れたのはキュゥべえだった。ふわりと音もなく窓から降りると、そのままベッドへと飛び上がり、千雨の顔を観察するように遠慮なく見つめる。

「……まだ気分が悪いようだね。深呼吸でもして、少し落ち着いたほうがいいよ」
「キュゥべえ! おい! 教えろ! なんだ、これは!? なにがどうなってんだよ!?」
「落ち着くんだ。まだその身体に慣れていないんだからね」
「何を……言ってるんだ……?」
「姿見があるだろう? 見てみるといい、説明するよりそのほうが早い」
「くッ……」

 そんなことにも気が回らなかった。地面を這うようにしながら、自分の姿を姿見に映す。
 そこにあったのは見慣れた自分の身体ではなく──前髪の隙間から、泥のように濁った目で鏡を睨みつけている『宮崎のどか』の姿だった。

「なっ……!?」

 絶句した。見間違いではなかった。自分が手を上げれば、鏡の中ののどかも手を上げる。表情は引きつっていて動かせなかったが、やけに疲れ果てた目だけは、同じように思うがままに動いた。今のどかの身体を動かしているのは間違いなく『自分』だ。
 ならばこの『自分』は一体誰だ? 宮崎のどかであるのか? 答えはNOだ。そんなわけがない。自分がのどかではないという確信がある。なぜなら、自分はのどかのためを願って、人間を捨てたのだから。

「こっ……これ……はっ! どういうっ、どういうっ!?」

 騙されたと思った。声にならないほどの怒りが胸を焦がす。今この場で、目の前にいる白い悪魔を八つ裂きにしてやりたかった。

「何か問題でもあるのかい?」
「……なんでだ、どうして! 私が! 宮崎になってるんだよッ!?」
「もちろん、それをキミが願ったからさ。『自分の魂をのどかの魂の代わりにして欲しい』って」
「こ……こんな結果を、私が望んだと思うかよッ!? 何の意味もないだろうッ!!」

 あの時、自分は死んでもいいとさえ思っていた。いや、死ぬべきだと思っていた。それが罰であり、そして逃避であったはずだ。そう、千雨は自分の死によって、全てを清算するつもりでいた。しかしこの有様だ──絶望を通り越した地獄の業火のような怒りだけが、彼女の心を焼き尽くそうとしていた。

「それはボクに言われても困る。ただ、もう願いは果たされたよ。キミの魂を得たことでその亡骸は甦った。今のキミは、誰が見ても否定のしようがないくらいに『宮崎のどか』だ」
「てめぇは、てめぇはどこまでっ……!!」

 怒りのあまり、目まいがしそうだった。指が白くなるほど拳を握りしめると、食い込んだ爪が掌の皮膚を破って血が流れる。その痛みさえ感じないほどの怒りだ。

「こうなるのが……お前にはわかってたのか?」
「まさか。前例がない願いだったからね、予測はつかなかったよ。でも間違いなく、これもまた『魔法少女』の起こした奇跡さ。失われた魂の代わりなんて、普通は見つからないわけだし」
「だけどあいつの魂が戻らなかったら、何の意味もない……!」
「確かにほかの『願い方』はあったかもしれないけど、願ったのはキミだ。ボクじゃない」
「……くっ」
「だいたい、あのときボクは念を押して確認したよ? それでいいのかいってね。でも、キミはそれを肯定した。決意は固そうだったから、ボクもそれ以上言うのはやめたんだ」
「そんな……!」

 力が抜けたように、床にへたり込む。別にもうキュゥべえに善意など微塵も期待もしていなかったが、事実を事実として伝えられただけで、どうしようもない世界の悪意に打ちのめされたような気さえした。

「私が悪いのか……!? 私がもっと利口なら……あいつは甦っていたのか!?」
「ボクとしてはこれ以上、キミが責められる必要はないと思うけどね。のどかはあのとき、魔女の結界の中で死んだ。本当ならあのまま結界と共に、その身体も消滅するはずだった。たまたまキミが亡骸を背負って逃げたから、現実世界に戻って来れただけに過ぎない。それにね、キミが単純に彼女の復活を願ったところで上手くいったとも思えないよ。あの時の結界は消えてしまった。誰も知らないどこかへと。ソウルジェムも一緒にだ。だから仮に復活していたとしても、その在処は『誰も知らないどこか』だったと思うよ」
「……つまり?」
「どっちにしろ、のどかのソウルジェムを取り戻すのは無理だったんじゃないかな?」
「なん……だと……!」

 世界が終わったような絶望感を感じる。足下から何もかもが崩れ去り、無重力の闇の中に放り出されたような無力感が包まれて、ただひたすらに哀しかった。
 だが不思議なことに、涙だけは流れなかった。あのとき、『長谷川千雨』としての最後の一瞬に流したものが最後であったかのように、一滴も流れない。心が渇いてしまったかのようだ。人間ではないから、涙を流さないのかもしれない──きっとそうなのだ。自分はもう魔女と戦う道具になったから涙を流さないのだ。
 だが、だからこそ辛くて、哀しい。

「なんでっ……こんなっ……なんでっ!? これからどうすりゃいいんだよ……!」
「何を言ってるんだい? 決まってるじゃないか。君は『魔法少女』になったんだよ? やるべきことは決まってるはずだ。かつての『のどか』みたいにね」

 たぶん、それは事実なのだろう。しかしそれでも今、このタイミングでそんな言葉を口にするキュゥべえに愕然とする。確信した、こいつはまぎれもなく悪魔だと。こちらの事情などおかまいなしだ。ただ『代価』のみを求め、それを突き付けてくる存在なのだ。
 もはや視界に入れておくことすら苦痛になった。千雨は彼から目を逸らすと、吐き捨てるように、喉の奥から短く言葉を絞り出す。

「宮崎……ごめん……!」

 それは心の底から響かせるような怨嗟の声。そして呪いにまみれた苦悶の言葉。
 手にしていたソウルジェムの中で、黒い淀みがまた少し広がる。だが千雨はそのことに気付いた様子すら見せず、ただ『自分』の亡骸を前にして絶望を噛み締める。もう、ここから一歩だって彼女は進むことはできないのだ。『長谷川千雨』はここで終わり。終わってしまった。
 ならば今はなんだ? この宮崎のどかに“取り憑いた”ような、この自分は何なのだ。

「……私はもう、『人間』じゃない」
「そうだね。キミは『魔法少女』だ」
「魔法少女、か……」

 キュゥべえの言葉には一切のブレがない。決定的に断定する。
 その言葉を、ついに千雨は受け入れた。そして──この日この時この瞬間を境に、長谷川千雨という『人間』であった存在は、この地球上から存在しなくなる。残ったのは『魔法少女』という名前の、魔女を殺すための装置だった。



[26445] 【混迷編】-1-
Name: G.J.◆bbb1f04e ID:4b7cbdad
Date: 2011/04/03 09:33
 雨が降っていた。
 重く冷たい夜の雨が身体に絡み付き、容赦なく体温を奪う。
 黒いぼろきれのようなものをかぶった少女は、そんな雨の中をもう三十分も走り続けていた。およそ尋常な速さではない。まともに測れば世界記録など問題にならないほどの速さ。あたかも超人のように、彼女はただ走り続ける。
 背後から、夜闇を切り裂くようなライトの明かりが何本も差していた。激しい雨音に混じって、幾人もの足音が彼女を追いかけていた。
 彼女は逃亡者だった。居場所はどこにもなく、常に人目から隠れ続けなければならない。そういう立場の存在だ。
 彼らは追っ手だった。少女を捕らえようとする者たち。もちろん捕まるわけにはいかない。だから逃げる、だから走る。

「こっちに来たぞ! ライトを当てろ!」

 少女の行く手に、突然幾人かの人影が現れる。逃走ルートを読んで配置されていた、伏兵のようだ。
 小賢しい、邪魔だ。そう言わんばかりに少女の口元がいびつに曲がる。彼女は向けられたライトのまぶしさに目を細めながら、嘲笑のようなものを浮かべた。だがそれだけだった。その速さは少しも緩むことなく、まるで真っ直ぐぶつかりでもするかのように、ただ走り続ける。

「なッ……抵抗する気か! 大人しくしろ、キミも生徒だろう!? 悪いようには……」

 伏兵として潜んでいた男たち眼前で、突然少女の姿がかき消える。瞬きしたその瞬間にだ。タチの悪い妖怪にでも出会ったかのような出来事に、男たちは思わず周囲を見回す。だがそれでも少女の姿は見つからない。消え失せた。

「ど、どこへ消えたッ!?」
「……後ろだっ!」

 いつの間にか、少女の姿は彼らの後方にあった。男たちを抜き去った彼女は一瞥すらすることなく、なおも走り続ける。
 追いつかれる気などまるでしなかった。あんな『間抜け』に捕まるような自分ではないと、確信を持って言える。
 事実その通りになった。
 さらに四半刻ほど走っただろうか、彼女はついに追跡を振り切っていた。ねぐらに使っている地下道の一角に転がり込み、ようやく一息つく。濡れた身体が気持ち悪い。とりあえず、雨具の代わりに頭にかぶっていたものを脱ぎ去った。

「ふぅ……」

 ぼろきれの下から現れたのは、目が隠れるほどの長い前髪を持つ中学生ほどの少女──『宮崎のどか』という名を持つ人物の顔だった。
 だが今の彼女を、のどかを知る人間が見たら間違いなく驚き、嘆くだろう。彼女の表情はそれほどまでに荒んでいた。これが中学生の少女が作る表情かと、そう思えるほどに。まるで地獄の底を見てきたかのようだ。別人にすら思える。
 否。事実、彼女は別人だった。見かけ──身体は間違いなく『宮崎のどか』のものではあってもそこに宿る精神、あるいは『魂』はまったく別物だ。
 のどかの身体を動かしているもの。それはかつて『長谷川千雨』と呼ばれていた者の魂だ。だが長谷川千雨という人間はもうどこにもいない。今は『宮崎のどか』が長谷川千雨の身体であり、『宮崎のどか』は長谷川千雨の全てだった。

「……これで、ストックは三つか」

 ポケットをまさぐり、のどか──いや、千雨は掌に乗せたものを見つめる。それは『グリーフシード』と呼ばれる、ピンポン球ほどの大きさをしたオブジェだ。それが三個ある。どれも彼女が『魔女』を狩り、集めたものだった。
 千雨は『魔女を狩る者』だ。『魔法少女』と呼ばれている。かつてキュゥべえという謎の存在と契約した千雨はその際に元の身体を失って、この『宮崎のどか』の身体となった。
 身体が変わってしまったこと自体も千雨にとっては痛恨だったが、失ったものはそれだけではない。彼女は長谷川千雨としての社会的基盤だけでなく、宮崎のどかとしてのそれも、同時に失ったのだ。
 彼女がこんな古びた地下道に潜んでいるのには理由がある。
 彼女は追われていた。さっきの男たちのように、組織的な存在にだ。相手の正体は千雨もよくわかっていない。
 部屋に『死体』を残して来たのだ。追われるならば警察だとばかり思っていた。しかし出で立ちから見て、さっきの彼らが警察でないのは明らかだった。
 もっとも友好的だとは思えない以上、うかつに接近する気にはなれない。
 それに何より、幾度も捕らえようとしていることから、自分が相手にどう思われているかはわかる。
 彼らは千雨を敵だと思っているのだろう。あるいは犯罪者か。そう思われる心当たりもあった。容疑は結局『長谷川千雨殺害』だ。そうに違いない。
 無論、今の彼女が『長谷川千雨』という人間を殺した『事実』などない。長谷川千雨の身体は確かに死んでいたが、それはキュゥべえとの契約の結果にすぎない。不本意ではあったが、彼女の主観的にはかつての身体を『捨てた』ということになる。
 だがそんな事情、そんな与太話を話て通じる相手がいるなど、千雨には信じられなかった。だから逃げたのだ、誰にも話せない事実を抱えて。そして実際に追われ始めたとき、選択は正解だったと思えた。
 座して捕らえられるわけにはいかなかった。素直に全て話したところで、家族も友達も教師も警察も医者も弁護士も裁判官も、誰一人だって信じるはずがない。もしもいるとすれば、それは自分と同じ『魔法少女』だけのはずだった。
 あいにくとまだ他の『魔法少女』と会ったことはない。だが、自分のテリトリーであるこの麻帆良を狙って戦いを仕掛けてくる『魔法少女』がいないとは限らない。魔法少女同士の縄張り争いはよくあることだと、キュゥべえも言っていた。そのうち出会う機会もあるだろう。

「いつまで続くんだ、こんなこと……」

 床に座り込みながら頭上を仰ぐ。湿気で湿った天井から垂れた水が顔を濡らしたが、拭う気すら起こらなかった。
 魔法少女は魔女を狩る。そんな風に教えられたから、彼女は魔女を狩っている。あの日以来、未来になんの希望も抱けなくなったが、魔女を狩っているときだけは不安を忘れることができた。
 幸いなことに『魔女狩り』としての才能もあった。おそらくは……身体の元の持ち主よりも。魔法少女としての力が、きっと『のどか』より『千雨』のほうが強いのだろう。
 だからなのか、千雨の持つ『ソウルジェム』は淀みやすい──誰かと比較したわけではないが、そんな気がする。これが全て黒く染まりきったとき、何が起こるのかキュゥべえは教えてくれなかった。それを尋ねてしまうと何かが終わってしまう気がして、面と向かっても質問を口に出来ない。だからただ“黒くしなければいい”と自分に言い聞かせて、グリーフシードを集めるために魔女を殺した。

「狩る獲物に困らないことだけは……マシだと思うべきか」

 口にする台詞も、ずいぶん殺伐としたものになった。かつてののどかも、そして千雨もこんな言葉を使うような人生は歩んでいなかった。
 口調こそ変わらないが、何を喋っても『千雨』ではない別人の声が聞こえてくるのにも、もう慣れた。それに『自分自身』であるがゆえに、聞こえてくる声色が『のどか』とは別に聞こえてくるのは幸いだった。もしも自分の声が千雨の知る『のどか』そのものであるならば、とうに気が狂っていただろう。自分で自分を苛んでいるような、救いのないことになっていたに違いない。
 もっとも、狂ってしまったほうがラクだったのかもしれない。出口の無い迷路を彷徨うようなこの一週間。そしてこの先一ヶ月、一年とそんな日が続くのだろう。光なんてどこにもない、どろどろに溶けて濁った闇に沈められているような日々は、確実に千雨の正気を削り取っていた。自らの死を望むほどに。

「死んじゃおうかな……でも、死ぬのはイヤだよな……」

 皮肉げに口元を歪める。言葉の通りだった。
 一週間前から何度も死を望み、試してみた。しかしできなかった。千雨は『のどかのために』というお題目がなければ、自分で自分の命を絶つことすらできなかったのだ。なんど試しても同じ、傷つくたびに命惜しさに魔法を使い、傷を癒してしまった。
 結局のところ、グリーフシードを集めているのも同じ感情だ。穢れきったソウルジェム──『魂』の先にある破滅が恐いから、場当たり的にそれを防ごうとしているだけに過ぎない。
 彼女は命という私利私欲のためだけに魔女を狩っている。だから死んだ『のどか』とは大違いだと、自嘲するほかはないのだ。彼女と同じ姿をしていながら、『長谷川千雨』をせせら嗤うのだ。

「……お前のようにはなれないよ、宮崎」

 ごろりと地下道に横になる。氷のように冷え込んだコンクリートの床だが、贅沢は言ってられない。『敵』に見つからずにいることだけでもありがたいのだ。
 『敵』はなぜかこの地下道の奥までは入ってこない。理由はわからないが、そのことだけは経験上知っていた。ここならば快眠とまではいかないが、疲労をそぎ落とすことができる程度には、身体を休めることができるのだ。
 だが、今日だけは違った。
 横になっていた千雨が、静かに目を開く。遠くから響いてくるのは足音。隠す気は感じられないし、急いでもいない。だれか迷い込んできたのかとも思うが、ここは千雨ですら『能力』を使わなければ脱出が難しい奥の奥だ。そう簡単に迷い込む者がいるとは思えない。
 千雨は身体を起こすと、ぼろきれの裾をはためかせて腕を突き出す。暗闇の中にぼうっと掌から青い炎がわき上がった。超常現象と言っていいだろう。千雨がその炎を掴むと、やがてそれは一つの『形』となって実体化する。
 炎の中から生み出されたのは、長柄の武器だった。彼女の身の丈をはるかに超える、長大な鎌。死神が持つかのような鎌がそこにあった。
 魔女を殺し、敵を倒し、戦いを重ねてすっかり身体の一部のように馴染んだ大鎌を構えて、足音に耳を澄ませる。
 もうだいぶ近くまで来ている。遠くにランプの灯のような、ぼんやりとした明かりが見えた。向こうも千雨に気付いているのは気配でわかる。だがその歩みは急ぎもせず遅れもせず、変わらない。まるで最初からいることがわかっていて、迎えに来たかのようにさえ思えた。

「止まれ。誰だ?」
「……やれやれ、探したネ。こんな奥に隠れてるとは思わなかたヨ」

 現れた人影は、まさしく千雨の予想を裏切ることのない台詞を口にする。陽気にニヤついたその表情に、千雨は見覚えがある。
 彼女の名前は超鈴音。かつてクラスメートとして、共に机を並べていた少女だった。
 
 
 
 
 地上で雨が降っているせいだろう。超に連れて来られたのは、やけにじめじめとした地下室だった。
 広さはかなりある。学校の教室と同じくらいだろうか。がらんとした空間だが、寝具など必要最低限の生活用品だけは置かれている。

「ここは?」
「ワタシのアジトのひとつヨ。学園地下のあちこちに、こういう空間を用意してるネ」
「ふぅん……それで私をこんなところに連れてきて、一体何のつもりだ?」
「何、“あんなこと”になってアナタもさぞやお困りだろうと思ってナ。クラスメートのよしみで手を差し伸べに来たヨ」

 その言葉を素直に信じて有り難がれるほど、今の千雨は素直でもなければ余裕もなかった。
 確かに渡りに船だ、冷たいコンクリートの上で寝なくて済むのは助かる。
 しかし今のコスプレ同然の格好──あまつさえ武器まで携えている──の自分を見て全く動じていないというのは、あまりにも不自然過ぎる。何か腹に一物あると考えるのは当然だった。

「何の話だ? いや……何を知ってんだ?」
「おおまかなところは、というくらいかナ。心情心理のたぐいはもちろんわからないが、そこだって想像することはできるヨ?」
「思わせぶりだな。けど、それは何も答えてないのと同じだぜ」
「信じられないカ? 今のアナタの心理状態ではムリもないことだがナ、『魔法少女』の“千雨”サン?」
「な……ッ!? お前ッ、本当に私のことをッ!?」

 驚きと同時に、防衛本能が身体を突き動かした。
 人間だった頃からは想像もできないほどの身のこなしで、横薙ぎに大鎌を振り抜く。だがその切っ先はぴったりと超の首筋三ミリ手前で止まっていた。

「……なんで避けなかった?」
「フェイクだとわかってたからナ。いきなり私を斬り殺すほどには、アナタは野蛮じゃないだロ?」
「どうかな。私がちょっとこれを動かせば、てめぇの首はすっ飛ぶぞ?」
「それが出来るほど非情なら、アナタは“そのザマ”になってなかったヨ。ムリはしないほうがいいネ」
「ち……」

 見透かされていると感じた。素直に敗北を認めて鎌を降ろす。同時に戦闘装束への変身も解き、元から着ていた麻帆良学園の制服姿に戻った。

「ようやく話を聞いてくれる気になたカ」
「まぁな……どうやらお前は私の知らないコトまで知ってそうだ。何かするのは、それを聞いてからだな」
「それで結構ネ」

 うんうんと頷くと、部屋に置かれていたパイプ椅子へと超は腰かける。千雨も勧められるまま、側にある別の椅子へと座った。

「とりあえず……大変だったようだナ」
「……大変なんてもんじゃねーよ。何もかもなくしちまった」
「心中、お察しするヨ」
「つまんねー同情ならいらねーよ、キリキリ話せ。超、なんであんた私のコト知ってるんだ? 私が宮崎じゃないことを、そして私が長谷川千雨であることを」
「……」

 超は少しだけ逡巡するように視線を泳がせると、表情を引き締める。まるでこれから言うことに嘘はないと、宣言しているかのように。

「ワタシはナ、千雨さん。自分の『ある目的』を果たすために、アナタの……いや、『魔法少女』の協力を必要としているネ」
「協力? どういうことだ?」
「ワタシは強い魔法少女を探している。本屋も候補の一人だったヨ。だから悪いとは思ったが、彼女が魔法少女であると知ったときから、偵察メカを使って監視していタ。私が頼むに足る者かどうかとネ」
「そうか、それで私のことも」
「そのとおり。だが、全てを把握できているワケじゃないヨ。どうしてもわからないことや、手遅れなことはあった。たとえば……村上サンのこととかナ」
「くっ……」

 千雨を責める言葉ではない。だが、村上夏美の名前を聞くだけで千雨の心は重くなる。深刻なトラウマとなっていた。
 それでものどかに対する負い目ほどではないのは、死に目に自分が関わらなかったからだろう。彼女は千雨の手を振り切り、千雨の目の届かないところで死んだ。それが千雨にとっては後ろ向きな救いとなっていた。

「彼女のことは残念だったガ……もう救うことはできないだろうナ。本屋についてもそうヨ。早めに気持ちを切り替えることをオススメするネ」
「それができれば、苦労は……」
「……おっと、失礼」
「いや、いい。私の問題だ。それより村上と宮崎……それと私のことは、クラスではどうなってるんだ? 失踪扱いか? それとも葬式でもやったのか?」
「いいや、違うヨ」

 超はかぶりを振った。言葉にはどこか呆れたような雰囲気がある。もっとも、それは千雨に向けられているわけではないようだった。
 遠くを見ているようだ。あたかもここにいない敵を見据えているかのように。

「アナタと本屋、そして村上サンの三人は『病気治療』のため長期入院中……だそうネ」
「なっ……!?」
「信じられないかもしれないガ、事実だからナ。はっきりとした目的はわからない……どうやら学校側は、アナタたち三人の『死』を当面は隠蔽したいようだネ」
「なんで、そんな……隠蔽とかって、たかが学校だぞ!? 悪の秘密結社じゃないんだ、隠蔽とかできるわけが……」
「ところが、その『たかが学校』ではないんだヨ。この麻帆良学園は……いや、この麻帆良という都市は、かナ?」
「なんだと?」

 思いも寄らぬ言葉だった。

「千雨サン、アナタは『魔法少女』だガ……『奇跡』を体現する存在は、別にアナタだけではないヨ」
「どういう意味だ? ほかの『魔法少女』のことを言ってるのか?」
「いいや。『魔法少女』と別系統の『常識を超えた存在』がいるという話だネ。彼らは自らを『魔法使い』と呼んでいるヨ」
「……『魔法使い』だと?」
「この麻帆良はその魔法使いたちによって作られた魔法都市。異常だとは思わなかったカ? あの世界樹を初めとする、非常識な物、人、出来事の数々を。それらは全部『魔法使い』の関わっているがために生まれたものネ」
「……そんなことはありえ──ないと言っちまうのは、さすがに愚かってものか」
「理解が早くて助かるヨ」

 ここでわざわざ超が嘘をつく意味はない。
 それに千雨もかつて人間だった頃、さんざんそうした非常識を目にしている。その度に、自分の中にある『常識』とのギャップに苦しんだものだ。むしろ話を聞いたことで、ようやくその『ギャップ』が解消できた気さえした。

「しかし妙だな。そんな存在がいるなら、魔女みたいな『敵』は退治されるんじゃないのか? 魔法少女の出番がなくなるぜ。私にとっちゃ死活問題になりかねん」
「そこは単純に力不足のようだナ。彼らは魔女の存在を把握していないみたいネ。結界を見つけても理解できないがために手を出せず、逆に魔女から口づけを受けて憑き殺されてるみたいだナ。どうも『変死』として処理されてるようだガ」
「そいつはツイてる、と言っちゃいけねーか。あ、いや待てよ? もしかして……」

 千雨の表情が苦々しく変化する。

「なぁ超、ひょっとして私を追っているのは……?」
「ご明察だナ。魔法使いの組織だヨ。『関東魔法協会』というのだガ、アナタが『長谷川千雨』の『変死』に関わってると見立ててるようネ」
「やっぱりか……」

 面倒くさいのは、関わっているかと言われればイエスとしか答えようのないことだ。だが『魔法少女』や『魔女』のなんたるかもわからない相手に、極めて特殊な自分の事情を説明したところで、受け入れてもらえるとは今だって思えない。

「どうしたらいいんだ……八方塞がりじゃねーか、私?」
「当たり前ネ。『魔法少女』なんかになった時点でデッドエンドが決まってるヨ。その先には何もない。そういうものだガ?」
「……もう少し優しい言葉が欲しいところだな」
「慰めても現実は変わらないヨ」
「その通りだけに腹が立つよ……つーか、なんでお前そんなに『魔法少女』に詳しいんだ? そもそも『魔法少女』についてどこで知ったんだ?」
「うん? そんなの簡単な話ネ」

 まだ気付いてなかったのか、とばかりに超は右手を見せる。そこには輝く銀色の指輪がはめられていた。

「もちろん、私も『魔法少女』だからに決まってるヨ」
 
 
 
 
「今麻帆良にいる、“現役”の魔法少女は私と千雨さんの二人だけのハズよ」
「現役って言い方がそこはかとなくイヤだな……いつか現役じゃなくなるみたいで」
「人間並みの寿命をまっとうした魔法少女は存在しないナ」
「……覚悟しちゃ、いるさ」

 愉快な話ではないし、ショックも大きい。それでも納得するしかない。

「そういやお前、魔法少女を探してるって言ってたな。アテでもあるのか? 誰が魔法少女なのか──いや、誰が魔法少女になるのかなんて、いくらお前でも予測できないだろ?」
「もちろんそれは不可能ネ。だが”なってしまった”者を見つけることは不可能じゃないヨ。アナタみたいにナ」
「方法があるのか?」
「魔法少女は『魔女』を探索するとき、ソウルジェムを使うだロ? あの要領で、ちょっと応用してやれば魔法少女も見つけることができるネ。アナタは反応が『飛ぶ』から少し手こずったガ」
「なるほどね……」

 納得したフリをして、妙に強調された『飛ぶ』ということについてはノーコメントを貫く。まったく信用していないわけではないが、手の内を完全にさらけ出す気もない。
 同じ『魔法少女』であるという同族意識のせいで、ずいぶんとガードが甘くなったのは確かだったが。

「そいで、魔法少女を探してどうしようってんだ。自分で言うのもなんだが……魔女を殺すためくらいにしか、役に立たないぞ?」
「……私に、殺したい魔女がいるのだとしたら?」

 超が切り込んできた。
 千雨の顔色をうかがうように、じっと目を見つめている。真剣な表情だ。冗談を言っているわけではないのだとわかる。

「それならわからない話でもねーな。そいつを倒すのに力を貸せと?」
「ぶっちゃけて言えばそうネ」
「私にメリットは?」
「当面の衣食住の安定した提供。なんなら魔法使いのほうを上手く誤魔化すのも、ついでに請け負うヨ」
「……話が上手すぎる。都合の悪いことを隠してないか?」
「インキュベーターみたいにカ?」

 そんな名前を挙げて、にいっと笑う超。聞き慣れない名前だったが、どこか生理的な嫌悪感を感じる名前だ。
 
「なんだ、それ?」
「アナタたちが『キュゥべえ』と呼んでるアイツのことだナ」
「なっ……あいつそんな名前だったのか!?」
「知らなかったカ?」
「ずっと『キュゥべえ』って名前だとばかり……だって、そう名乗ったしな」
「親しみやすい名前も武器のうち。それがあいつの手ネ」

 とにかく相手の心の隙を見つけるのが病的に上手い、というのがキュゥべえ──インキュベーターに対する超の評価だった。
 思い当たる節がある。運命のあの時、まさに自分の致命的なところを突かれた気は確かにしていた。

「アナタもそのクチだろ、千雨サン?」
「……悔しいけど、否定できないな」
「アイツには気を許さないほうがイイと思うネ」
「やけに警戒してるな」
「何、ワタシにもイロイロあるネ。探られると厄介なこともある。見つかるような下手な隠し方はしないけどナ」

 キュゥべえという生き物はどこにでも現れる。まるで最初からその場所にいたかのように。
 無論この部屋に現れても不思議はないのだが、今回は姿を見せなかった。どこぞでまた新しいの魔法少女でも勧誘しているのかもしれない。

「でも、隠し事をしているのは否定しねーと」
「否定したほうがうさん臭いだロ?」
「まぁな」

 それは確かにそうだ。

「まぁいいさ。確かに条件としては悪くない。けどな、相手の強さがわからないんじゃ、首を縦には振れねーよ。そうだろ? 鉄砲玉みたいに使い潰されちゃたまんねーぞ」
「ふむ。一理あるナ……」

 超はしばし考え込む。リスクとリターンを計算しているのだろう。どこまで情報を明かすか──そんなことを決めているに違いない。

「そんなに悩むようなコトか?」
「かなり悩むネ。重大事ヨ。明かせば、アナタが尻尾巻いて逃げてしまうかも知れないからナ」
「……おい、冗談だろ?」
「冗談ならどれほどよかったカ。ワタシ一人ではどうにもならないから、ほかの『魔法少女』の力を借りることを考えてるネ」
「それほどの相手なのか?」
「それほどの相手ヨ」

 超が嘘をついている素振りはない。あるいはついていたとしても、この少女ならばそれを完璧に隠してしまうだろう。考えるだけ無駄というものだ。
 それに「説明したら千雨が逃げる」とまで言っているくらいだ。これ以上何を隠すというのか。

「そこまでヤバい相手じゃ、逃げたくならないと言えば嘘になるな」
「正直ネ。でもきっと逃げても無駄だナ」
「なんでだ?」
「簡単ヨ。その『魔女』が現れたら、みんな死ぬからナ」
「みんな……死ぬ?」
「そう。何もかも死ぬネ。魔法少女も、人間も、動物も──そしてこの星も」

 大げさすぎると思った。だがこれまで、一度だって彼女は物事を誇張して話をしていない。彼女がそうなるというのなら、それは間違いなくそうなるのだろう。
 確実な未来予測。そういったシロモノだとしか思えない。

「でも……それほどの奴がいるなんて、信じられない。地球が滅ぶレベル? そんなのあり得ないだろ。魔女がだぞ、魔女がそんな……!」
「わかったヨ。そこまで言うなら、コレを見せるしかないネ」

 超は懐から一枚の古びた写真を取り出すと、近くにあったテーブルの上に置いた。

「これは?」
「これが『未来』ヨ、千雨サン」
「未来……? どういうコトだ?」
「未来は未来だヨ。必ず来る『未来』が、この写真に写っているネ」
「……わけがわからねーよ。よしんば何か写ってるとしても、合成じゃないって保証は?」
「アナタを騙すだけなら、こんな与太話めいたモノを語る必要なんてないネ。もっとそれらしい嘘をでっちあげるヨ。それに……ワタシだって『魔法少女』なんだガ? 一つや二つの『奇跡』を見せることぐらいは出来るネ」
「……お前の力で写真に『未来』を写したっていうのか?」

 超は何も答えない。それ以上は写真を見て判断しろというのだろう。
 正直気後れする。ここまで超が警告したのだ。伊達や酔狂の類でもったいぶったわけではないはず。

「ただ、これを見せるからには、腹を決めてもらうヨ。めくったらワタシに付き合ってもらう。反論は許さないネ」
「めくらなければ交渉決裂ってわけか……」

 ごくりと唾を飲み込む。
 超の言っていることが真実であれば、めくってもめくらなくても結果は同じということになる。いや、めくった場合は好転する可能性はある──が、めくらなければ全てはここで終わってしまう。ただ滅ぶのみだ。

「……命の使い所を決めろって言ってるんだな、お前はつまり」
「どうせお互い長くはない生命だガ……同じ死ぬにしても、何かを為して死ぬほうがマシだとは思わないカ?」
「まったく……救いのない誘い文句だな、そいつは」

 千雨はそう言いながら、写真を手にしてひっくり返した。
 写っていたのは、とてつもなく巨大な枯れ木。対象物がないので分かりにくいが、枝振りからしておそらくは──おそらくはそう、麻帆良の世界樹と同じくらいの大きさがある。
 そしてその背後には世界樹が小さく見えるほど、さらに大きな『魔女』らしき影が天を貫くがごとくにそびえていた。
 写真を持つ千雨の手が震える。その魔女のたたずまいに、畏怖すら覚えた。写真からすらわかる、その圧倒的なまでの存在感に。

「こ、これは……これも……魔女なのか!? 冗談だろ? おい、冗談だろ!?」
「残念だが、冗談ではないナ」
「そんな……こんなものが、本当に現れるのか!?」
「それは救済の魔女、『Kriemhild Gretchen』。来るべき『未来』に、この惑星を滅ぼす魔女だヨ」


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