「ねぇ、ボクと契約して、『魔法少女』になってよ」
ある晴れた休日の昼下がり。本屋に出かけた帰り道で、彼女──長谷川千雨の前にひょっこりと現れたその『生物』は、開口一番にそう言った。
奇妙な生物だった。全体的には猫に似ている。けれども、ふさふさとした尻尾は猫のそれではなく、犬か、あるいは狐のようだ。また、その頭にある三角形の耳から、毛だかなんだかよく分からないものが、だらりと犬の耳のように垂れている。全体的には『かわいい』と表現してもいいくらいの“ぬいぐるみじみた”姿なのに、その“ぬいぐるみじみている”ことこそが不安を煽る。本当に生き物なのだろうか?
実際、最初は誰かのイタズラを疑った。ラジコンか何かと思って、周囲を見回してみたりもした。そのくらいの技術のある人間は、ここ麻帆良では珍しくないからだ。
しかし周りには誰もない。それでもイタズラの可能性は捨てきれないが、そこまでして自分がからかわれなければいけない理由は思いつかなかった。
かすかに肩が上下しているところを見ると、やはりれっきとした生物なのだろう。もちろん人間以外に人語を操る生物など、千雨はこれまで見たことも聞いたこともなかったが。
「……」
「……」
気味が悪いくらいに赤くて丸い目が、じっとこちらを見つめている。血の色をした落とし穴のように、意識が吸い込まれそうになる。こちらの言葉を、返事と待っているに違いなかった。
白昼夢めいた光景に、乗り物酔いしたかのような悪寒がこみ上げる。動物的な本能が訴えかける。これ以上この場にいてはならない気がした。
麻帆良に住んで千雨も長い。さんざん非常識なものは見てきたが、今回のコレは極めつけとも言えるだろう。
よし、見なかったことにしよう。だからそう結論するのに、さほど時間は要らなかった。
「待ってくれないかな?」
くるりと踵を返しかけたところで、謎の生物にもう一度呼び止められた。
ふぅ、と千雨はため息をつく。手遅れだったか。
イヤイヤながら仕方なく振り向き、まじまじと白い生き物を見つめる。微動だにしない赤い眼に、自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
「……なんだよ、お前は?」
「ボクの名前はキュゥべえ。よろしくね、千雨」
「あ、ああ……」
なにをどうよろしくすればいいのかまったくわからないが、とりあえず頷く。相手の真意も正体もわからないので、話を合わせるしかない。
それよりも気になることがあった。この生物は、なぜ千雨の名前を知っていたのだろうか。
「なんで私の名前を?」
「君にはずっと目を付けていたからね。君のことならなんでも知っているよ、長谷川千雨」
「なっ……ストーカーかよ!?」
「失礼だなぁ。ほかにもっと言い方があるんじゃない?」
「ねーよ」
じろりと冷めた目で睨むものの、キュゥべえが怯んだ様子はまったくなかった。
「まぁいいや。それで、どうなのかな?」
「どう……って?」
「最初に言ったことだよ。ボクと契約して、魔法少女になってくれないかなって」
「ずいぶんファンタジーでドリーミングかつメルヘンなお願いだな」
そして動物と話す今の自分は、何も知らない他人が見たらメンヘルだ。
「それなら心配ないよ。ボクの姿は、普通の人には見えないからね」
「そうかそりゃ安心……って余計にマズいだろそれ! あと他人の心を読むんじゃねえ!」
何よりも、自分が『普通の人ではない』と言わんばかりの口振りが気に入らなかった。
「実際、君は普通の人じゃないよ。君には素質があるんだ」
「だから心を読むなと……素質? どういうことだよ?」
「決まってるじゃないか。魔法少女になるための素質があるってことさ」
「そう言われてもなぁ」
「君ならば、願い次第できっとものすごい魔法少女になれるよ。僕にはね、それがわかる」
「私にはわからん」
「そうかい?」
このキュゥべえと名乗った不思議生物は、あまり表情を変えない。もっとも、ぬいぐるみめいているとはいえ、見かけからして動物だ。犬は顔の表情筋が発達していないから表情がないと聞くし、そのクチなのだろう。
「しかし……今の私、動物と普通に話しちゃってるな。変な気分だ」
「適応力が高いね。それは素晴らしいことだと思う」
「褒められた気がしないぜ」
「褒めてるよ。そんな君だからこそ、立派な魔法少女になれるんだけどな」
全然褒められていると思えない。むしろ恐怖さえ感じる。だいたい一方的に要求を突き付けてきたのだ。いいよなどと軽々に言えるはずがない。
「知るか。だいたい、いきなり現れて「魔法少女になってくれ」とか厚かましいにも程があるだろ。一方的にお願いするだけか? 見返りはないのかよ」
「あるよ」
「へ?」
「だから、あるってば。千雨がボクと契約してくれれば、そのときに願いを一つだけ叶えてあげる。なんでもいいよ、どんなことでも構わない。魔法少女になってくれるのならね」
「マジかよ……」
にわかに信じられる話ではない。ないが──たぶん、このキュゥべえとやらは嘘は言っていないだろうと思った。仮に騙すのが目的なら、こんなにも荒唐無稽な嘘をつく必要などない。
ならば結論はひとつだ。『魔法少女』とやらには、この破格の条件に見合うだけの労苦がある。そう考えるのが自然だろう。
「あのさ、そんないい条件を出すってことは、魔法少女になるってのは結構大変なことなんじゃないか?」
「そうかな? ボクは相応しいと思う対価をあげてるだけなんだけど……だってボクは君たちに、魔法少女になって魔女と戦ってほしいって頼むんだ。できるだけのことはしてあげて当然だよ」
「ま、まぁ確かに……って、今魔女と戦えって言わなかったか?」
「うん」
キュゥべえは頷いた。相変わらず感情があまり出てこない顔だった。赤い目を覗き込んでも、心の内は読めない。むしろ引き込まれてしまいそうな、深い深い『赤』だった。
「戦えって言われてもな……だいたい魔女ってなんだ? 魔法少女とは違うのか?」
「魔法少女は希望の、魔女は呪いの象徴なんだ。そして魔女はね、人間の弱い心につけ込んで、その魂を奪ってしまう。そんな魔女と戦えるのは、魔法少女だけなんだよ」
「よく聞く話だなー」
アニメとかで。
「要するにあれか、噛み砕いて言えば、バイト料払うから魔女退治しろってことか?」
「それで君が納得できるなら、それでいいと思う。言葉を替えても、本質は変わらないからね」
「なんだよ、ずいぶん適当だな」
「そう? ボクには君たち人間のそういう気持ちは、よくわからないんだけど。で、どうかな? ボクと契約してくれるかい?」
「うーん……」
千雨だってまだ十代前半の少女だ。魔法少女アニメの一つや二つは見ている。『魔法少女ビブリオン』とかは、特にお気に入りだ。確かにそういう作品だと、魔法少女となることをあまり深刻に考えていた記憶はない。むしろ疑ってかかる自分のほうがおかしいのではないかと、少しばかり思えた。
「はぁ、おかしいなぁ。大抵の子は二つ返事なんだけど……」
「大抵って、お前他にもこんなことしてんのか?」
「まぁね」
「ふぅん……」
子供の頃から“他人と見ているものが違う”という体験をしてきた彼女は、警戒心の強い性格に育った。だから孤立しがちになり、他人とのあいだに壁を作って生きてきた。それが彼女の処世術。ゆえに基本、他人の言葉は疑ってかかることにしていた。
「なぁ、それって私じゃないとダメなのか?」
「少なくとも、ボクのことが見える子じゃないと契約はできない。もっとも魔女は一人や二人じゃないからね。魔法少女になれるのならば、なってほしいと思う」
「あー、素質ってやつが絡むんだっけ」
「君ならきっとやれる。魔法少女になって、魔女と戦えるよ」
「おだてても何も出ねーぞ」
この生物はどうにも口が上手い。話していて、そんなに悪い気分はしないのだ。彼自身の言うとおり、二つ返事で『魔法少女』になってしまう者が多いというのもわかる。
それに多感な時期の子供ならば、魔法などという超常的な力を受け取るチャンスがあったら、話に乗ってしまう可能性は低くない。さらになんでも願いが叶うというのも魅力的だ。魔法少女になってから願いを叶えるのではなく、願いを叶えてから魔法少女になれることがいい。
だが──そこが、そここそが千雨には美味すぎる話と思えて、どうにも今一歩踏み込むことが出来なかった。
「何よりもだ」
「うん?」
「そこまでして叶えたい『願い』っていうのが、今の私にはねーよ」
公平に見て、千雨は恵まれた環境に生まれた子供だ。無論、富豪に生まれたクラスメートの雪広あやかなどとは比べるべくもないが、中流以上の家庭で生まれ育ち、夫婦仲も普通。家庭内暴力もなければ、生活苦に喘いだこともない。客観的には非の打ち所がないくらい『普通の女子中学生』だ。
正確に言えば、一つだけある。千雨にも叶えたい願い、手に入れたいものが。だがそれは“キュゥべえには”絶対に叶えることができない。『魔法少女』になってしまったら、叶えることができない。だから口にはしなかった。
「まぁ、すぐに願いを……っていうのは、難しいかもしれないね」
「お?」
存外に物分かりが良かった。拍子抜けだ。
「願いを叶えてあげられるのは一回だけだし、後悔しないよう簡単に飛びつきたくないっていう、千雨の言い分は分かったよ」
「なんか微妙に都合良く解釈されてる気もするが……ともかく今のところ、私は魔法少女になりたいとか思ってないんだ。悪いな、キュゥべえ」
「ううん、ボクのほうこそ。いろいろ勝手言っちゃって悪かったよ」
ふるふると首を振るキュゥべえ。その仕草はずいぶんと愛らしいものだった。思わず抱きしめたくなる。別に悪いことをしたわけではないのに、きゅんと罪悪感で胸が締め付けられる思いだった。
「じゃあ、この話は今日はおしまい。そろそろ行こうか、千雨」
「へ? どこへだよ?」
「家に帰る途中だったんでしょ?」
「そりゃ帰るけど……ついてくる気かよ!?」
「もちろん。千雨の気が変わるまで、千雨が自分の願いに気付くまで、ボクはずっと待ってるよ」
「マジか……勘弁してくれよ」
こんな図鑑にも載ってなさそうな生物を飼っていたら、あっという間に話題になって、麻帆良大の生物学科が飛んできそうだ。
「心配ないよ。さっき言わなかったっけ、ボクの姿は普通の人には見えないって」
「……あのさぁキュゥべえ、見えないのもそれはそれで問題だろ。この会話だって、独り言ぶつぶつ言ってるようなもんじゃねーか。傍から見たらキモいぞ、今の私」
「そうだね」
「否定しろよ!?」
『じゃあ、これならどう?』
「っ!?」
突然、頭の中にキュゥべえの声が響いた。
「お、おい!?」
『頭の中で言葉を思い浮かべてみて』
『こ、こうか?』
『うん、そうそう』
それはいわゆる念話──テレパシーというものだった。
『こ、これは……すごいな』
『ボクはこうやって、念話を中継することができるんだ。本来は魔法少女同士で、口に出せない会話するときの能力なんだけどね』
『へぇ……って、いやそうじゃなくてだな』
いよいよもってファンタジー。
これまでずっと敬遠し、信じていなかった『非常識』が日常になりそうな予感がひしひしとする。それはそれは不本意なことだったが。
『これ以上の立ち話もなんだしね。さあ、行こうか?』
『お前、さっきから私の話聞いてるようで聞いてないよな』
『うん? なんだい?』
『……なんでもないよ』
するりと巻き付くように、千雨の肩へと駆け上るキュゥべえ。ここが自分の定位置だと言わんばかりのその姿に、千雨はこれ以上言葉を重ねるのは無意味と悟る。しばらくは彼に付き合わなくてはならないだろうと腹を決め、そして最後にひとつだけ大きく息を吐いた。
キュゥべえが千雨の部屋に出入りするようになって、数日が経った。
「千雨ー、契約しようよー」
「お前ホントしつこいな!?」
やる気なくゴロゴロとPCデスクの隅っこをのたうち回るキュゥべえを尻目に、千雨はいそいそと自分のブログやホームページの更新を行っていた。
「ところで何をしてるの、千雨?」
「趣味だよ、趣味」
「ふぅん」
キュゥべえはおやつのバタークッキーを分けてもらいながら、大して興味がなさそうに相づちを打つ。気のない返事だが、謎の魔法生物である彼ならばネットやらパソコンやらに興味がなくても致し方ない。
ほとんど四六時中千雨と行動を共にしているキュゥべえだが、かつて言ったとおり他人に存在を気付かれた様子はほとんどなかった。
たまに珍しく教室へやってきた金髪幼女が怪訝そうな視線を向けてきたり、褐色の長身巫女がやけに目をしばたたかせていた気もするが、たぶん考えすぎだろう。人に言えない秘密を抱えて、自意識過剰になっているのかもしれない。
「魔法少女ね……」
ふと思いついて、ブラウザの検索欄に『魔法少女』と入力する。
「何のつもりだい?」
「いや、ちょっと『魔法少女』について調べてみようかなって」
「ネットなんか見ても、漫画やアニメのそれが出てくるだけじゃない?」
「私もそうだとは思うんだけどな」
たぶんトップで出てくるのは『リリカル○のは』とかそういうのだろう。あるいは「もしかして:魔砲少女」とか表示されるかもしれない。千雨の好きな『ビブリオン』はマイナー作品です。
タン、とリズミカルにリターンキーを押して検索をかける。出てきたのは確かに予想通り、世の中に溢れる魔法少女ものアニメの名前ばかりだった。
(ま、こんなもんだよな……)
このキュゥべえという生き物が現実に存在しているなら、少しばかりは現実の『魔法少女』のことでも拾えるかなと思ったが、案の定そんなことはなかった。
「彼女たちは基本、世の中には知られてはいけない存在だからね」
「だから私の心を読むな……って、そうなのか?」
「そりゃそうだよ。魔法少女の実在を知ったら、現代社会は大混乱さ」
「確かにな。知らないほうがいいことってやつか」
「そういうことだね」
できれば私も知りたくなかったとは、今更なので口にしない。そのくらいにはもう諦めているし、この珍妙な生き物を受け入れてはいた。彼の言うとおり、案外自分の順応性は高いようだ。
「魔法少女に会ってみたいのかい?」
「うっ……」
会ってみたくないと言えば嘘になる。興味はあるのだ。
とはいえ日常とそれ以外を明確に区別しようとする千雨からすれば、本来その存在はその『日常』を侵す異物であるはず。会いたくないと自信を持って言えた、これまでは。
だが知らなければ済むこととは、もはや言えない。千雨を見上げているキュゥべえの存在が、彼女に現実の本当の姿を見ろと突きつけてくる。目を逸らしてもそれこそ『現実』は変わらず、ただ一面のみを映し続けているだけに過ぎないということを知ってしまった。
彼女はそんな過ちを、過ちにしたまま放っておけない──知っているのに知らないフリをすることができない。だからこそ『孤立』したのだが。
「……まぁ、な」
しぶしぶ認めると、キュゥべえはかわいらしく目を細めた。微笑ましいものでも見るように。
「じゃあ、会いに行こうか?」
「会いに行こうかって……お前」
「言ってなかったっけ? この街にも魔法少女がいるって」
「初耳だ! なんでそういうことは先に……って、待てよ。魔法少女がいるってことは……?」
「そうだね。この街にも魔女がいる。そういうことになるね」
「マジかよ……」
知らないあいだに日常に危機が忍び寄っていた。そのことに気づき、背筋が凍り付く。知らないまま殺されるのと、知って怯えて生きるのは、どちらが幸せなのだろうか。
「今は大きな反応もないし、怖がる必要はないよ。それに何かあっても、きっと『彼女』が守ってくれるさ」
「……感謝しなきゃいけないかな、そいつに」
「どうだろう? そういうことって、ボクから言うべきことじゃないからね」
もっともな話だと苦笑する。心の持ちようなのだ、キュゥべえにたずねたところで意味はない。それは彼にもわかっているのだろう。小首を傾げた格好で千雨を見上げたまま、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。
「わかったよ、とりあえず会うだけ……あ、でもなぁ」
それならばと立ち上がりかけた千雨の動きが止まった。
「どうしたんだい?」
「ああいや、その……」
顔をあさってのほうに向けながら言葉を濁す。自分の人格的な欠点を口にするのは、誰だって気が進まないことだから。
「私って、人見知りするほうでさ」
「ああ……」
「……お前今笑っただろ?」
「笑ってないよ。うん、笑ってなんかないって」
キュゥべえの表情は、基本的にあまり変わらない。だが時たま目を細めたり、感情らしきものを見せることはある。今もそうだった。
それが無性に腹立たしい。だがキュゥべえは足下にいると蹴られるとでも思ったのか、さっさと部屋のドアを押し開けると、千雨を残してさっさと出て行ってしまった。
「ったく……都合の悪いことは誤魔化すんだよなぁ、アイツ」
キュゥべえに追いついた千雨が連れてこられたのは、意外にも近い場所だった。
「寮の裏庭? こんなところで待ち合わせすんのか?」
「そうだよ。別に遠くまで出かける必要はないからね」
「ふぅん……」
よくわからないが、キュゥべえがそれでいいと言うのならいいのだろうと、それ以上理由を正そうとしなかった。それよりも待っているこの時間のほうが落ち着かない。
「……やっぱ私、隠れてちゃダメか?」
「なに言ってるんだい。君のために来てもらうんだよ?」
「そりゃそうなんだけどさぁ……」
考えてもみれば、会ってなにを話せばいいのだろう?
いつも私たちを守ってくれてありがとう、これからもよろしくお願いします──なんて言うのは間抜けの極みだ、たぶん。
そもそも千雨の口は不平や不満を言うのは得意だが、他人との円滑なコミュニケーションが取れるようにはできていない。口下手そのものというわけではないが、他人と面と向かって話すこと自体は苦手だった。
「あ、来たみたいだね」
結局、考えがまとまるよりも早く、下草を踏み分ける音が聞こえた。
「あの、キュゥべえ……用事って、なにかな……?」
「え?」
おずおずとたずねてきたのは、聞き覚えのある声だった。物静かで気弱そうで頼りない、だが優しい。そんな声だ。
「宮崎っ!?」
「ち、千雨さんっ!?」
本屋こと宮崎のどか。そこに立っていたのは彼女に間違いなかった。
誰かと考えるまでもない。クラスメートだ。本が好きで図書委員をやっているからあだ名が『本屋』。考えてみると彼女のパーソナルな部分を否定したひどい呼び方だ。実のところ本人もその呼び名は気に入ってないようだったが、無視して誰も彼もが『本屋』と呼んでいる。千雨はそう呼ばなかったが、それはあだ名で呼ぶほど親しくないというだけに過ぎない。
「なっ……どういうことだよっ!?」
「どういうことって言われても。言ったじゃないか、『魔法少女』に会わせてあげるって」
「じゃ、じゃあ……」
「そう。彼女──宮崎のどかは『魔法少女』だよ。君にとって、もっとも身近なね」
思わず食ってかかった千雨をあしらいながら、こともなげに言うキュゥべえ。そして彼は真実、嘘などついていないのだろう。
「み、宮崎……お前、本当に……?」
「……」
言葉では答えず、ただ彼女は黙って小さく頷いた。恥ずかしそうに頬を赤く染め、半ば顔を伏せながら。
「驚いた……としか言いようがないな」
『魔法少女』の実在はもはや疑ってはいなかったが、こんな身近に、しかもクラスメートにいるなどとは、さすがに予想もしていなかった。
「いったい、どうして魔法少女に?」
「それはもちろん、彼女にも叶えたい『願い』があったからさ」
答えたのはのどかではなく、キュゥべえだった。
「……確かにそうなんだろうけど」
「何かおかしいかい?」
「いや……別におかしくはないんだが」
「はっきりしないなぁ」
幸せなバカども。千雨は自分のクラスメートのことを、そう思っていた。言葉によって人間を上に見る下に見るということではない。もっと純粋な『評価』だ。
彼女たちは自分と違って現状に不満などなく、楽しく生きているのだろうと、奇跡がなければ叶えられない願いなど持っていないと、信じていた。
しかし、現実は違った。少なくとも宮崎のどかという少女には、抗えない不安があり、現実を変えたくなるような悩みがあり、奇跡にすがるような理由があったのだ。
自分が物事のほんの一面しか見ていなかったことを具体的な形で知らされ、どうにも恥ずかしくて仕方がない。まっすぐのどかを見ることさえ難しかった。
「あの、千雨さん? どうかしたんですか?」
「……ああ悪い、なんでもないんだ」
「な、ならいいんです、けど……あの、ちょっと聞きたいことがあって……」
「うん?」
バツが悪そうにする千雨を少しばかりいぶかしんだが、やがて気を取り直したように千雨の顔を見つめるのどか。
気弱だと思っていた彼女が、これほどしっかりと相手を見ながら話ができるだなんて、想像もしていなかった。えも言われぬ敗北感さえ覚える。
「キュゥべえと一緒にいるってことは、もしかして千雨さんも魔法少女なんですか?」
「千雨はまだ魔法少女じゃないよ。今のところ契約はしてないんだ」
「そうなんですか……」
それを聞くと、のどかは少しだけ残念そうな──それでいて安心したような、複雑そうな表情を見せた。
「もしかして、私が魔法少女だったほうがよかったのか?」
「……いいえ、違います。そうじゃないんです……でも」
「そうだね、むしろ逆だよ千雨」
「逆?」
キュゥべえは頷いた。
「魔法少女はよく縄張り争いをするんだ」
「縄張り争い? なんでだよ?」
「魔法少女は魔女を狩る。それは教えたよね? でも狩り場となる場所は無限じゃない。魔女の出やすい場所、出にくい場所、色々ある。だから狩り場は奪い合いになることが……結構あるんだよ」
「なるほどね。でも、獲物を取りあうってのがよくわかんねーな。協力して戦えばいいんじゃないのか?」
「そうもいかない事情があってね。のどか、見せてあげてよ」
「う、うん」
言われるまま、のどかがすっと左手を差し出す。その中指に、見慣れない文字のかかれた指輪をはめているのがわかった。こういうアクセサリーを身につける習慣があるとは知らなかった──と感想を抱く間もなく、指輪が質量を無視して別の形へと姿を変える。
それは掌に収まるほどの大きさをした、風変わりなオブジェだった。翡翠にも似た色をした水晶質で本体が、金ともプラチナともつかない見知らぬ金属で台座と枠が作られている。全体的には卵型──宝石で出来た、高価なイースターエッグに似ていた。もっともテレビで見たあれよりはずっとシンプルで、洗練されたデザインをしていたが。
「これは……?」
「『ソウルジェム』。魔法少女の力の源さ。魔法少女はこのソウルジェムの力を使って戦うんだ」
「へぇ……」
よくある『変身アイテム』のようなものなんだな、と納得する。
「そしてもう一つ」
「千雨さん、こっちも……」
キュゥべえにうながされたのどかがポケットから取り出したのは、だいたいゴルフボールほどの大きさをした丸いオブジェだった。彫刻の施された球状の金属フレームの上下から、長い針と飾り付きの尾が取り付けられている。丸っこくしたダーツの矢とか、装飾過多な釣り用の『浮子』を思い起こす形だった。
しかし千雨は形そのものよりも、その中核部の中に閉じ込められているものが気になった。それは真っ黒い“もや”とか淀みのようなもので、どういう原理かはわからないが、このオブジェの中に閉じ込められているようだ。何かとてつもなく不吉で、見ているだけで不安さえ覚える。
「なんだ? なんか見てるだけで胃がムカムカしてくるんだが」
「そっちは『グリーフシード』と言ってね。魔女の卵だよ」
「シードって種じゃないか?」
「そうとも言うかもね。つまるところ魔女の元だと思ってくれればいい」
「はぁ……って、待てよ! 魔女の元だと!? なんでそんなもんを持ってるんだ!?」
「これは魔法少女にとって必要なものなんだ。ほら、ちょっとのどかのソウルジェムを見てごらん。少しだけ曇ってるだろう? これは魔女と戦って魔法を使うとね、こうなるんだ」
「なるほど」
確かによく見ると、のどかのソウルジェムは、その中心にほんの少しだが黒くくすんだように濁っていた。ちょうどグリーフシードの中に納まっている“もや”のように。
「で、そこで出てくるのがグリーフシード。さ、のどか」
「う、うん」
のどかがソウルジェムとグリーフシードを摘んで持つと、ソウルジェムからふわりと『濁り』が浮き上がり、グリーフシードへと移動していく。完全に移動しきると、ソウルジェムは綺麗に澄んだ碧色になった。
「おおお!」
念話に続いてのファンタジックな光景に、思わず声を上げる。いや、念話はむしろ超能力っぽさもあるので、もしかしたらこれが初めて見た『魔法』らしい現象かもしれなかった。
「こんな風に溜まった濁りをね、グリーフシードに移すことでソウルジェムは元通り綺麗になるってわけさ」
「回復アイテムってところか。でもそれ、魔女の元なんだろ? 濁りとか移して大丈夫なのか?」
「今のどかが持っているのはまだ大丈夫だけどね、グリーフシードに濁りが溜まりすぎると危ない。そうなる前にボクが預かって、安全なところに保管するんだ。それもまた、ボクの大事な役目なのさ」
そう言ったキュゥべえは、少しばかり得意げに見えた。